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セイユウ記念
セイユウ記念(セイユウきねん)は中央競馬と地方競馬で行われていた競馬の競走である。 中央競馬のサラブレッド系重賞競走である農林省賞典セントライト記念(1957年)での優勝など1956年から1959年にかけて49戦26勝(うちサラ戦24戦5勝)の成績をおさめたアングロアラブの名馬・セイユウの名を残す競走として始められた。 当初は中央競馬の重賞競走で、前年まで施行されていた春の読売カップを引き継ぐ形で1974年に創設された。創設当初は中山競馬場の芝2000メートルで行われたが、開催場・距離の度重なる変遷を経た末、中央競馬がアングロアラブ系の競走を廃止することになり、同競走も1995年の開催をもって廃止された。 しかし、同馬の偉業を引き続き称えるため、中央競馬のセイユウ記念を引き継ぐ形でセイユウ賞として東日本地区の各地方競馬場持ち回りの交流重賞に生まれ変わった。異なる主催者に競走が移行するという珍しい例であり、賞金の一部を中央競馬が拠出していた。また、冠競走のひとつとはいえ、冠名の方で親しまれている稀な例でもあった。同様の競走にタマツバキ記念も存在した。 2000年の佐賀競馬場での開催以降全日本セイユウ賞として、出走対象が東日本限定から全国に拡大。しかし地方競馬でもアングロアラブの減少に伴い、2004年の金沢競馬場での競走を最後に廃止された。 他にセイユウの名を冠した競走として、2004年7月、JRAゴールデンジュビリーキャンペーンの名馬メモリアル競走の一つとして「セイユウメモリアル」が福島競馬場芝2000mで施行されカノン(牡4歳・蛯名正義騎乗)が優勝した。この競走はサラブレッド系の中央1000万下特別であった。
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セイユウ記念(セイユウきねん)は中央競馬と地方競馬で行われていた競馬の競走である。
{{出典の明記|date=2014年11月19日 (水) 06:09 (UTC)}} '''セイユウ記念'''(セイユウきねん)は[[中央競馬]]と[[地方競馬]]で行われていた[[競馬]]の[[競馬の競走|競走]]である。 == 概要 == [[中央競馬]]の[[サラブレッド]]系[[重賞]]競走である農林省賞典[[セントライト記念]]([[1957年]])での優勝など[[1956年]]から[[1959年]]にかけて49戦26勝(うちサラ戦24戦5勝)の成績をおさめた[[アングロアラブ]]の名馬・[[セイユウ]]の名を残す競走として始められた。 当初は[[中央競馬]]の[[重賞]]競走で、前年まで施行されていた春の[[読売カップ]]を引き継ぐ形で[[1974年]]に創設された。創設当初は[[中山競馬場]]の[[芝]]2000[[メートル]]で行われたが、開催場・距離の度重なる変遷を経た末、中央競馬がアングロアラブ系の競走を廃止することになり、同競走も[[1995年]]の開催をもって廃止された。 しかし、同馬の偉業を引き続き称えるため、中央競馬のセイユウ記念を引き継ぐ形でセイユウ賞として東日本地区の各地方競馬場持ち回りの交流重賞に生まれ変わった。異なる主催者に競走が移行するという珍しい例であり、賞金の一部を中央競馬が拠出していた。また、[[冠]]競走のひとつとはいえ、冠名の方で親しまれている稀な例でもあった。同様の競走に[[タマツバキ記念]]も存在した。 [[2000年]]の[[佐賀競馬場]]での開催以降全日本セイユウ賞として、出走対象が東日本限定から全国に拡大。しかし地方競馬でもアングロアラブの減少に伴い、[[2004年]]の[[金沢競馬場]]での競走を最後に廃止された。 他にセイユウの名を冠した競走として、2004年7月、[[JRAゴールデンジュビリーキャンペーン]]の名馬メモリアル競走の一つとして「セイユウメモリアル」が[[福島競馬場]]芝2000mで施行されカノン(牡4歳・[[蛯名正義]]騎乗)が優勝した。この競走は[[サラブレッド]]系の中央1000万下特別であった。 == 歴代優勝馬 == === 中央競馬 === {| class="wikitable" !回数!!年月日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師 |- ||第1回||[[1974年]][[6月16日]]||[[中山競馬場|中山]]||芝2000m||スカイシーダー||牡3||2:05.5||[[柴田政見]]||[[柴田不二男]] |- ||第2回||[[1975年]][[6月15日]]||中山||芝2000m||トクノハルオー||牡3||2:06.0||[[柴田政人]]||[[石栗龍雄]] |- ||第3回||[[1976年]][[6月20日]]||中山||芝2000m||カズマ||牡3||2:06.4||[[嶋田功]]||見上恒芳 |- ||第4回||[[1977年]][[6月19日]]||中山||芝2000m||アームシシリアン||牡3||2:09.3||[[岡部幸雄]]||[[鈴木清 (競馬)|鈴木清]] |- ||第5回||[[1978年]][[6月18日]]||中山||芝2000m||タカノトクユウ||牝3||2:05.3||[[増沢末夫]]||森安弘昭 |- ||第6回||[[1979年]][[7月1日]]||[[福島競馬場|福島]]||芝2000m||パークボーイ||牡3||2:09.6||中島敏文||藤本晋 |- ||第7回||[[1980年]][[6月29日]]||福島||芝2000m||ギンザン||牡3||2:08.2||[[坂井千明]]||山崎彰義 |- ||第8回||[[1981年]][[6月28日]]||福島||芝2000m||ユーショウマンナ||牡3||2:09.9||古小路重男||[[夏村辰男]] |- ||第9回||[[1982年]][[7月4日]]||福島||芝2000m||アズマスカレー||牝3||2:04.8||[[小島太]]||高木嘉夫 |- ||第10回||[[1983年]][[7月17日]]||[[新潟競馬場|新潟]]||芝1600m||ダイドルマン||牝5||1:37.4||[[増沢末夫]]||[[小林稔 (競馬)|小林稔]] |- ||第11回||[[1984年]][[7月22日]]||新潟||芝1600m||ウルフケイアイ||牡3||1:36.3||小島太||元石正雄 |- ||第12回||[[1985年]][[7月21日]]||新潟||芝1600m||ウルフケイアイ||牡4||1:36.0||小島太||元石正雄 |- ||第13回||[[1986年]][[7月13日]]||[[札幌競馬場|札幌]]||ダ1800m||ミトモスイセイ||牡4||1:51.9||[[郷原洋行]]||尾形盛次 |- ||第14回||[[1987年]][[7月19日]]||札幌||ダ1800m||ワクセイ||牡4||1:55.4||玉井智光||[[宮沢今朝太郎]] |- ||第15回||[[1988年]]7月17日||札幌||ダ1800m||[[アキヒロホマレ]]||牡3||1:54.1||柴田政人||[[坪憲章]] |- ||第16回||[[1989年]][[7月16日]]||[[函館競馬場|函館]]||ダ1700m||ショウブラッキー||牡3||1:49.2||[[細川英二]]||新関力 |- ||第17回||[[1990年]][[7月15日]]||札幌||ダ1700m||トキノリバティー||牡3||1:45.8||[[横山典弘]]||[[古賀史生]] |- ||第18回||[[1991年]][[7月14日]]||札幌||ダ1700m||ヒロタイム||牝5||1:49.2||[[蓑田早人]]||鈴木勝美 |- ||第19回||[[1992年]]7月19日||札幌||ダ1700m||ヒロタイム||牝6||1:45.6||柴田政人||鈴木勝美 |- ||第20回||[[1993年]][[7月18日]]||札幌||ダ1700m||[[シゲルホームラン]]||牡3||1:48.0||[[藤田伸二]]||[[梅内忍]] |- ||第21回||[[1994年]][[9月18日]]||函館||ダ1700m||[[シゲルホームラン]]||牡4||1:50.7||[[千田輝彦]]||梅内忍 |- ||第22回||[[1995年]]7月22日||札幌||ダ1700m||[[シゲルホームラン]]||牡5||1:47.2||千田輝彦||梅内忍 |} *優勝馬の[[馬齢]]は[[2000年]]以前も現表記を用いる。 === 地方競馬 === {| class="wikitable" !年月日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!所属!!騎手!!調教師 |- ||[[1996年]][[9月16日]]||[[新潟競馬場|新潟]]||ダ1800m||ジョセツローゼン||牡4||[[岩手県競馬組合|岩手]]||[[菅原勲]]||佐藤敏彦 |- ||[[1997年]][[10月26日]]||[[上山競馬場|上山]]||ダ1800m||エルデンライデン||牡7||岩手||菅原勲||千葉博 |- ||[[1998年]][[11月3日]]||[[盛岡競馬場|盛岡]]||ダ1800m||ホーエチャンピオン||牡3||[[ホッカイドウ競馬|北海道]]||坂下秀樹||原孝明 |- ||[[2000年]][[3月5日]]||[[佐賀競馬場|佐賀]]||ダ2400m||アキフジクラウン||牡5||[[福山競馬場|福山]]||[[岡田祥嗣]]||吉井英隆 |- ||[[2001年]][[1月30日]]||[[荒尾競馬場|荒尾]]||ダ2150m||[[メグミダイオー]]||牡6||[[荒尾競馬場|荒尾]]||吉井浩和||平山良一 |- ||[[2001年]][[6月24日]]||[[金沢競馬場|金沢]]||ダ2100m||[[ワシュウジョージ]]||牡5||[[兵庫県競馬組合|兵庫]]||[[小牧太]]||[[曾和直榮]] |- ||[[2002年]][[7月2日]]||金沢||ダ2100m||マリンレオ||牡6||[[愛知県競馬組合|愛知]]||宇都英樹||戸澤肇 |- ||[[2003年]][[8月4日]]||金沢||ダ2100m||マリンレオ||牡7||愛知||山田崇史||戸澤肇 |- ||[[2004年]][[8月15日]]||金沢||ダ2100m||[[スイグン]]||牡4||福山||[[片桐正雪]]||千同武治 |} * 地方競馬の会計年度(4月から翌年3月)の関係で[[1999年]]は施行なし。2001年は2回施行。 * 競走名:1996年~1998年 セイユウ賞、2000年 全日本セイユウ賞第10回アラブ大賞典(佐賀)、2001年1月 全日本セイユウ賞第11回アラブ大賞典(荒尾)、2001年6月~2004年 セイユウ記念第14回~第17回アラブグランプリ * 出走条件:1996年 3~4歳限定、1997年~1998年 3歳以上、2000年 4歳以上、2001年 4歳以上、2002年~2004年 3歳以上 * 優勝馬の[[馬齢]]は[[2000年]]以前も現表記を用いる。 == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=中央競馬全重賞競走成績集 【障害・廃止競走編】|publisher=日本中央競馬会 |year=2006|pages=1043-1070|ref=中央競馬全重賞競走成績集|chapter=セイユウ記念}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == *[[セイユウ]] *[[タマツバキ記念]] *[[JRAゴールデンジュビリーキャンペーン]] {{DEFAULTSORT:せいゆうきねん}} [[Category:中央競馬の競走]] [[Category:地方競馬の競走]] [[Category:廃止された競馬の競走]]
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ただいま勤務中
『ただいま勤務中』(ただいまきんむちゅう)は、辻灯子による日本の4コマ漫画作品。辻灯子の代表作であり、初の連載・単行本化作品。『まんがタイムジャンボ』(芳文社刊)に1999年6月号から2003年10月号まで連載された。単行本は全3巻。あとがきによると、辻灯子の都合で全3巻になったとのこと。 女性交通警備員を主人公としたドタバタコメディである。 なお、作者は当作を含めてこれまで『ただいま○○中』という似通った名称の作品を3作発表しているが、作中の世界観はそれぞれ全く別であり、他の作品の登場人物が描かれるような互換性は無い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『ただいま勤務中』(ただいまきんむちゅう)は、辻灯子による日本の4コマ漫画作品。辻灯子の代表作であり、初の連載・単行本化作品。『まんがタイムジャンボ』(芳文社刊)に1999年6月号から2003年10月号まで連載された。単行本は全3巻。あとがきによると、辻灯子の都合で全3巻になったとのこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "女性交通警備員を主人公としたドタバタコメディである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、作者は当作を含めてこれまで『ただいま○○中』という似通った名称の作品を3作発表しているが、作中の世界観はそれぞれ全く別であり、他の作品の登場人物が描かれるような互換性は無い。", "title": null } ]
『ただいま勤務中』(ただいまきんむちゅう)は、辻灯子による日本の4コマ漫画作品。辻灯子の代表作であり、初の連載・単行本化作品。『まんがタイムジャンボ』(芳文社刊)に1999年6月号から2003年10月号まで連載された。単行本は全3巻。あとがきによると、辻灯子の都合で全3巻になったとのこと。 女性交通警備員を主人公としたドタバタコメディである。 なお、作者は当作を含めてこれまで『ただいま○○中』という似通った名称の作品を3作発表しているが、作中の世界観はそれぞれ全く別であり、他の作品の登場人物が描かれるような互換性は無い。
『'''ただいま勤務中'''』(ただいまきんむちゅう)は、[[辻灯子]]による[[日本]]の[[4コマ漫画]]作品。辻灯子の代表作であり、初の連載・単行本化作品。『[[まんがタイムジャンボ]]』([[芳文社]]刊)に[[1999年]]6月号から[[2003年]]10月号まで連載された。単行本は全3巻。あとがきによると、辻灯子の都合で全3巻になったとのこと。 女性[[交通警備|交通警備員]]を主人公としたドタバタ[[コメディ]]である。 なお、作者は当作を含めてこれまで『'''ただいま○○中'''』という似通った名称の作品を3作発表しているが、作中の世界観はそれぞれ全く別であり、他の作品の登場人物が描かれるような互換性は無い。 == 登場人物 == ;春日陽子(かすが ようこ) :本編の主人公。20歳。人並み以上の頑張り屋だが、その意気込みが空回りすることも多い。身長が低いため、家出中の中学生に間違われることもしばしばである。夏休みに自動車教習所に通って運転免許を取得したため、免許証の写真は本人曰く「薄着でお色気大作戦」。しかし同僚の彩と冴子に「路線が違う」と冷笑されるほど色気がない。恋愛ごとは鈍感。父(芳雄)と母(萠子)、弟(芳人)と同居している。下戸。 ;父・芳雄 :何よりも娘を溺愛している。45歳。息子はどうでもいいらしい。 ;母・萠子 :全くのマイペース。40歳。娘にお見合いを勧めているが、陽子が出て行って空いた部屋を自分の趣味の部屋にしたいらしい。 ;弟・芳人 :高校生で受験生。17歳。姉よりもファッションや化粧にうるさい。食品の[[賞味期限]]に敏感。友人達に「姉ちゃんとそのダチでの合コン」を迫られているが、彼女たちの実情を知っているので今一つ乗り気でない。通称「春日弟」。結構モテるらしく、姉に隠れて彼女を家に呼んだりもしている模様(ただし、うち一人には偽の電話番号を掴まされている)。 ;ミロ :陽子が現場で拾った猫。そのまま春日家で飼われることになった。よく陽子を引っ掻く。萠子には溺愛されている。作者が付けた名前はシロだったが、編集者の誤植によりミロになった。 ;夏木彩(なつき あや) :陽子の同僚。20歳。威勢と面倒見がよい。外見同様に金遣いも派手らしく、常に貧乏で電気を止められることもある。ゲームが趣味らしく、よく徹夜をしている。<!-- 不確実な情報:愛車はなぜか高額な[[三菱自動車工業|三菱]]の[[三菱・ランサーエボリューション|ランエボ]]。-->陽子については「顔は十人並みの1ミリ上」と、褒めているのか貶しているのか判らない評価をしている。最終電車が出た後のホームで見捨てられたり、介抱してくれた同僚をひっぱたいたりと、酒で失敗することが多い。<!-- 不確実な情報:※夏木彩の愛車については特徴的なリア‐スポイラーから「ランエボだ」という一方、一部の車好きから(1)2ドア・[[クーペ]](2)水平に区切った[[尾灯|テール‐ライト]](3)[[ナンバープレート|ライセンス‐プレート]]の取附位置(4)給油口の場所などで「スポイラーをいじった(三菱のライバルともいえる[[富士重工業|スバル]]の)[[スバル・インプレッサ|インプレッサ・クーペWRX STi(GC型)]]」との意見もあることも附記しておく(“なぜ、STi(現[[スバルテクニカインターナショナル|STI]])バージョン車に手を入れるのか”という疑問は残るが……)。-->初期設定は彼氏持ちであったが、やがて別れた。その後デートや合コンはちょくちょくしているが、特定の恋人はいない模様。武藤にも気がある。三人(陽子・彩・冴子)の中では、唯一の喫煙者。 ;冬月冴子(ふゆつき さえこ) :陽子の同僚。28歳。クールなリアリスト。唯一の彼氏持ちだが、塾講師の彼とはすれ違いが多く倦怠期らしい。最年長らしく保護者のように振る舞うが、自身が騒動の元になることもある。極度の近視で、コンタクトを使用しているが、牛乳瓶の底のようなメガネを使用することもある。陽子・彩との年齢差が気になるらしく「成人式はいつやったか?」との問いには「ハタチの時にしたわよ」と言い張ってごまかす。 ;秋田ほのか(あきた ほのか) :陽子の同僚。[[天然ボケ]]の罪のない発言で陽子らを惑わせた。初登場時には既婚者で、最後の登場では妊娠していた(神社で買ってきたお守りが安産祈願だったことから判明)。「冬月バスター」とも呼ばれる。 ;梶(かじ) :陽子達の直属の上司(隊長)。30歳。手当の関係で現場の方が良かったのだが、「生贄」として隊長職に就かされたとの噂もある。個性溢れる部下に囲まれて、苦労が絶えない中間管理職。新婚の奥さんも元警備士。 ;武藤(むとう) :陽子達の同じ会社の上司(隊長)。イケメン。仕事のチェックも厳しいやり手だが、意外にお茶目なところも持ち合わせている。左手の中指にプラチナリングをしている(婚約相手がいる?)。 == 書誌情報 == * 単行本 - 芳文社より「まんがタイムコミックス」として刊行されている。 # 第1巻(2002年5月15日発行)ISBN 4-8322-6251-3 # 第2巻(2003年1月23日発行)ISBN 4-8322-6277-7 # 第3巻(2004年1月22日発行)ISBN 4-8322-6318-8 {{DEFAULTSORT:たたいまきんむちゆう}} [[Category:漫画作品 た|たいまきんむちゆう]] [[Category:1999年の漫画]] [[Category:まんがタイムの4コマ漫画作品]] {{Manga-stub}}
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湘南電気鉄道
湘南電気鉄道(しょうなんでんきてつどう)は、大正末期に設立され、昭和初期に営業していた日本の電気鉄道会社。社名に「湘南」を含むが、運行エリアは相模湾沿岸のいわゆる湘南地域ではなく、横浜から三浦半島地域への輸送を行っていた。 京浜急行電鉄の前身となった鉄道事業者の一つである。バス事業も行っており、京浜急行電鉄直営を経て京浜急行バスへ受け継がれている。 湘南電気鉄道は、1917年(大正6年)に免許申請が出され、1925年(大正14年)に会社が設立された。1930年(昭和5年)4月に黄金町 - 浦賀間、金沢八景 - 湘南逗子間で営業運転を開始した。翌1931年12月には黄金町 - 日ノ出町間が開業し、京浜電気鉄道と連絡、横浜駅への乗り入れを果した。さらに1933年4月には品川 - 浦賀間で京浜電気鉄道と相互に直通運転を開始した。しかし横須賀線の延伸による競合などにより合理化を迫られ、1941年11月に資本関係があった京浜電気鉄道、湘南半島自動車との三社合併を行い、湘南電気鉄道は解散した。合併後の京浜電鉄が現在の京急の前身となった。 開業当時は湘南電車と通称された。この元祖『湘南電車』の通称は、合併による湘南電気鉄道の社名消滅及び太平洋戦争(大東亜戦争)終了後の1950年の国鉄による東海道本線長距離電車列車の愛称である「湘南電車」の登場・普及に伴い、歴史的呼称になった。 鉄道院副総裁や南満洲鉄道総裁を歴任した野村龍太郎を中心に、横浜から南へ伸びて三浦半島を一周する電気鉄道敷設が計画され、1917年(大正6年)に免許申請が出された。 当初の計画は三浦半島を一周する本線および三崎と鎌倉に伸びる2つの支線で、免許も取得した。三浦半島一周路線の東半分と三崎への支線の一部が現在の本線・久里浜線に(当初の計画は浦賀から三浦方面へ延びるものであったが、現在の久里浜線はその手前で分岐している)、北側の一部が逗子線となった。なお、三浦半島一周路線の西半分と鎌倉への支線の免許は、後年の京急時代に失効している。 「湘南電気鉄道」の「湘南」とは大正時代の会社設立当時、路線予定地であった逗子や葉山などが「湘南」と呼称されていたことによるもの。「湘南」という呼称は、幕末から明治にかけて大磯から相模川西側の相模湾沿岸部を指したが、大正期には東側の逗子、葉山まで広がっていった。 1923年に免許が下りたものの、関東大震災で建設中の路線崩壊などの被害を受け、打撃を受けた湘南電気鉄道設立準備会社は開通前に倒産の危機に見舞われた。その際に資金援助(出資)したのが京浜電気鉄道(当時、高輪 - 神奈川間)で、出資の条件に京浜と湘南電鉄の相互乗り入れを決め、1925年(大正14年)に会社設立にこぎつけ、1930年(昭和5年)黄金町-浦賀間と金沢八景-湘南逗子間の一挙全線開通に至った。 会社設立時には、本線は桜木町-浦賀の計画だったが、開通時には桜木町駅への延伸と、日ノ出町へ延伸して京浜と連絡という二つの可能性が残されていた。黄金町-横浜間は「関東大震災で被災した横浜駅を移設中であり、今の京急横浜駅付近は貨物線用地で手前に仮駅とし寸断されていたことや現行路線の建設を行うもトンネル工事に時間がかかったため、黄金町駅を暫定ターミナルとした。また黄金町からは、1930年7月から直通運転を開始する翌年12月までは、京浜が免許取得した連絡バスで横浜-黄金町間の連絡を行い、湘南電鉄もほぼ同区間でバスを、しかもそれは当時としては珍しく、ワンマン運転をしていたという。 1931年の日ノ出町延伸後は、京浜と一体として運用され、現在の京急の原型がここに誕生した。軌間は京浜との直通運転のため、当初計画の3フィート6インチ(狭軌、1,067mm)から変更して標準軌が採用された(1926年(大正15年)9月認可)。京浜は東京電車鉄道(後の東京市電)との相互乗り入れのため1904年(明治37年)に軌間を標準軌から4フィート6インチ(馬車軌間、1,372mm)に改軌しており、1925年(大正14年)3月からは高輪 - 北品川間の線路を東京市電と共用していた。しかし地方鉄道法により湘南電鉄全線と京浜の横浜-日ノ出町間がこの軌間を認められなかったため、京浜側が1933年(昭和8年)4月の品川 - 浦賀間直通運転に合わせて標準軌に戻した。 架線電圧も湘南電鉄が1500Vに対し、京浜が600Vと差があった。1936年には急行運転区間を品川 - 上大岡間に拡大するのに伴い、黄金町 - 上大岡間の電圧が600Vに下げられたが、大東急時代の1945年(昭和20年)12月(横浜 - 上大岡間)と1947年(昭和22年)12月(品川 - 横浜間)に1500Vに昇圧している。 湘南電鉄では開発にも力を入れ、沿線の中小バス事業者を買収してバス路線網を確立するとともに(後述)、浦賀から竹岡までの航路を開設し、東京湾横断の船舶事業も行っていた。 湘南電気鉄道と直通することを選択し、都心乗り入れを断念した京浜電気鉄道は、1936年に湘南電気鉄道と共に東京地下鉄道(現在の東京メトロ銀座線浅草駅 - 新橋駅間を建設・運営)と合弁する協定を結び、翌1937年に京浜地下鉄道を設立。東京地下鉄道から新橋 - 品川の未成線を譲受し、湘南電気鉄道・京浜電気鉄道・京浜地下鉄道・東京地下鉄道の相互乗り入れによる浦賀 - 浅草の直通運転を計画した。集電装置はパンタグラフと集電靴のハイブリッド方式を予定していた。 しかしこの合弁に先立ち、東京地下鉄道は東京高速鉄道(現在の東京メトロ銀座線新橋駅 - 渋谷駅間を建設・運営)との相互乗り入れによる直通運転の契約を結んでいた。京浜地下鉄道と結ぶことで約束を反故にしようとした東京地下鉄道に対し、東京高速鉄道側は猛反発し、東京地下鉄道の筆頭株主となっていた京浜電気鉄道の株式を買い集めた。 1939年に京浜電気鉄道・湘南電気鉄道の代表者であった望月軍四郎が持株を東京高速鉄道に譲渡したことで、京浜電気鉄道・湘南電気鉄道は東京高速鉄道の傘下に入った。実際に京浜電気鉄道・湘南電気鉄道の経営に乗り出したのは東京高速鉄道の代表者であった五島慶太であった。このため、五島の本拠地ともいえる東京横浜電鉄が京浜電気鉄道・湘南電気鉄道の実質的な親会社となった。 1941年11月1日に経営合理化のため、湘南電気鉄道は京浜電気鉄道に合併された。 同年11月25日に五島慶太が京浜電気鉄道の社長に就任。翌1942年8月には京浜電気鉄道は、小田急電鉄とともに東京横浜電鉄に合併されて東京急行電鉄となり、いわゆる「大東急」を構成する一社となった。 湘南電気鉄道では、沿線開発の一環としてバス事業にも力を入れ、直営の他傍系の湘南半島自動車を通じて沿線のバス会社をことごとく買収し、沿線のバス路線網を確立した。 1941年(昭和16年)の京浜電気鉄道への合併時には、湘南電気鉄道の以下の営業所が引き継がれた。 湘南電気鉄道の日ノ出町駅付近 - 井土ヶ谷駅付近の敷設にあたっては、それ以前に計画され中止された、鉄道省の京浜線予定線の敷地が転用されている。この予定線は、桜木町駅から大岡川沿いを走り、井土ヶ谷駅から現在の東戸塚駅付近に抜ける中距離電車が計画されていたもので、1926年(大正15年)4月に廃止となり、湘南電鉄が敷地を譲り受けた。それは今も桜木町駅から路地に挟まれた複線分の敷地が続き、日ノ出町駅付近で京急の高架線が合流するのが確認できる。 桜木町を経由し、横浜新駅で京浜電気鉄道との接続が計画されたが、桜木町 - 横浜間の免許は不許可となった。黄金町 - 桜木町間は免許を受け、大株主でもあった東京横浜電鉄も湘南電気鉄道と桜木町での連絡を要望したが、建設費調達の実現性がなかったことから、日ノ出町駅で京浜電気鉄道と接続することとなった。 後にも東京横浜電鉄は湘南電気鉄道との相互乗り入れを行おうとした。東京横浜電鉄による経営参加が始まった1939年に、東京横浜電鉄は将来の直通乗り入れを見込み、長軸を組み込んだ標準軌間対応の台車を備えたモハ1000形を導入した。また1941年9月に東京横浜電鉄は桜木町 - 日ノ出町に連絡線を敷設する免許申請を行った。将来は軌間を統一して相互乗り入れを行うべく、上記京浜線予定線の敷地を利用して東横線を延伸するものだが、戦時下という時勢柄、鉄道省の反応が良くなく「連絡線を設けるなら東横線横浜 - 京浜線平沼を建設した方が投資効果がある」との見解から、結局大東急成立後の1944年11月に運輸通信省から申請書が返送されている。 すべて電車。
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湘南電気鉄道(しょうなんでんきてつどう)は、大正末期に設立され、昭和初期に営業していた日本の電気鉄道会社。社名に「湘南」を含むが、運行エリアは相模湾沿岸のいわゆる湘南地域ではなく、横浜から三浦半島地域への輸送を行っていた。 京浜急行電鉄の前身となった鉄道事業者の一つである。バス事業も行っており、京浜急行電鉄直営を経て京浜急行バスへ受け継がれている。
{{基礎情報 会社 |社名 = 湘南電気鉄道 |ロゴ = [[File:Shonan Electric Railway logomark.svg|150px]] |種類 = [[株式会社]] |国籍 = {{JPN}} |本社所在地 = [[神奈川県]][[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]黄金町2丁目12<ref name="NDLDC1184221"/> |設立 = [[1925年]](大正14年)12月27日<ref name="NDLDC1184221"/> |業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]] |事業内容 = 旅客鉄道事業、バス事業、旅館 他<ref name="NDLDC1184221"/> |代表者 = 取締役会長 [[脇道誉]]<ref name="NDLDC1184221"/> |資本金 = 11,350,000円(払込額)<ref name="NDLDC1184221"/> |発行済株式総数 = 227,000株(内優先株12,000)<ref name="NDLDC1144706">[{{NDLDC|1144706/201}} 『株式会社年鑑. 昭15年版』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> |主要株主= *[[京浜電気鉄道]] 70,384株 *[[東京横浜電鉄]] 24,003株 *[[京浜湘南証券]] 10,176株 *[[大倉組]] 9,600株 *[[東京交通企業]] 6,580株 *[[池袋乗合自動車]] 3,870株 (1939年9月現在)<ref name="NDLDC1144706"/> |特記事項 = 1940年(昭和15年)11月1日現在<ref name="NDLDC1184221">[{{NDLDC|1184221/34}} 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和15年11月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}} '''湘南電気鉄道'''(しょうなんでんきてつどう)は、[[大正]]末期に設立され、[[昭和]]初期に営業していた[[日本]]の[[電気鉄道]]会社。社名に「湘南」を含むが、運行エリアは[[相模湾]]沿岸のいわゆる[[湘南]]地域ではなく、[[横浜市|横浜]]から[[三浦半島]]地域への輸送を行っていた。 [[京浜急行電鉄]]の前身となった[[鉄道事業者]]の一つである。[[バス (交通機関)|バス]]事業も行っており、京浜急行電鉄直営を経て[[京浜急行バス]]へ受け継がれている。 == 概要 == 湘南電気鉄道は、[[1917年]](大正6年)に免許申請が出され、[[1925年]](大正14年)に会社が設立された。[[1930年]](昭和5年)4月に[[黄金町駅|黄金町]] - [[浦賀駅|浦賀]]間、[[金沢八景駅|金沢八景]] - [[逗子・葉山駅|湘南逗子]]間で営業運転を開始した。翌[[1931年]]12月には黄金町 - [[日ノ出町駅|日ノ出町]]間が開業し、[[京浜電気鉄道]]と連絡、[[横浜駅]]への乗り入れを果した。さらに[[1933年]]4月には[[品川駅|品川]] - 浦賀間で京浜電気鉄道と相互に直通運転を開始した。しかし[[横須賀線]]の延伸による競合などにより合理化を迫られ<ref>『京浜電気鉄道沿革史』京浜急行電鉄 1949年 p.141</ref>、[[1941年]]11月に資本関係があった京浜電気鉄道、湘南半島自動車との三社合併を行い、湘南電気鉄道は解散した。合併後の京浜電鉄が現在の京急の前身となった。 開業当時は'''湘南電車'''と通称された。この元祖『湘南電車』の通称は、合併による湘南電気鉄道の社名消滅及び[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])終了後の[[1950年]]の[[日本国有鉄道|国鉄]]による[[東海道本線]]長距離電車列車の愛称である「[[湘南電車]]」の登場・普及に伴い、歴史的呼称になった。 == 沿革 == {{出典の明記| date = 2021年2月| section = 1}} === 三浦半島の鉄道敷設計画 === [[鉄道省#鉄道院|鉄道院]]副総裁や[[南満洲鉄道]]総裁を歴任した[[野村龍太郎]]を中心に、横浜から南へ伸びて[[三浦半島]]を一周する[[電気鉄道]]敷設が計画され、[[1917年]](大正6年)に免許申請が出された<ref>『京浜電気鉄道沿革史』京浜急行電鉄 1949年 p.101</ref>。 当初の計画は三浦半島を一周する本線および三崎と鎌倉に伸びる2つの支線で、免許も取得した。三浦半島一周路線の東半分と三崎への支線の一部が現在の[[京急本線|本線]]・[[京急久里浜線|久里浜線]]に(当初の計画は浦賀から三浦方面へ延びるものであったが、現在の久里浜線はその手前で分岐している)、北側の一部が[[京急逗子線|逗子線]]となった。なお、三浦半島一周路線の西半分と鎌倉への支線の免許は、後年の京急時代に失効している。 「湘南電気鉄道」の「湘南」とは大正時代の会社設立当時、路線予定地であった[[逗子市|逗子]]や[[葉山町|葉山]]などが「[[湘南]]」と呼称されていたことによるもの。「湘南」という呼称は、[[幕末]]から明治にかけて[[大磯町|大磯]]から[[相模川]]西側の[[相模湾]]沿岸部を指したが、大正期には東側の逗子、[[葉山町|葉山]]まで広がっていった。 === 京浜電気鉄道の出資により路線開通 === [[1923年]]に免許が下りたものの、[[関東大震災]]で建設中の路線崩壊などの被害を受け、打撃を受けた湘南電気鉄道設立準備会社は開通前に倒産の危機に見舞われた。その際に資金援助([[出資]])したのが'''京浜電気鉄道'''(当時、[[高輪駅|高輪]] - [[神奈川駅|神奈川]]間)で、出資の条件に京浜と湘南電鉄の相互乗り入れを決め、[[1925年]](大正14年)に会社設立にこぎつけ、[[1930年]](昭和5年)黄金町-浦賀間と金沢八景-湘南逗子間の一挙全線開通に至った。 会社設立時には、本線は[[桜木町駅|桜木町]]-[[浦賀駅|浦賀]]の計画だったが、開通時には桜木町駅への延伸と、[[日ノ出町駅|日ノ出町]]へ延伸して京浜と連絡という二つの可能性が残されていた<ref name="名前なし-1">『横浜市史 II 第一巻(下)』1996年 p.145</ref>。黄金町-横浜間は「関東大震災で被災した[[横浜駅]]を移設中であり、今の京急横浜駅付近は[[貨物線]]用地で手前に仮駅とし寸断されていたことや現行路線の建設を行うもトンネル工事に時間がかかったため、黄金町駅を暫定ターミナルとした。また黄金町からは、1930年7月から[[直通運転]]を開始する翌年12月までは、京浜が免許取得した[[バス代行|連絡バス]]で横浜-黄金町間の連絡を行い<ref name="名前なし-2">『京浜電気鉄道沿革史』京浜急行電鉄 1949年 p.80</ref>、湘南電鉄もほぼ同区間でバスを、しかもそれは当時としては珍しく、[[ワンマン運転]]をしていたという<ref>電気車研究会発行「鉄道ピクトリアル」1998年7月臨時増刊号(通巻656号)141ページ</ref>。 1931年の日ノ出町延伸後は、京浜と一体として運用され、現在の京急の原型がここに誕生した。[[軌間]]は京浜との直通運転のため、当初計画の[[3フィート6インチ軌間|3フィート6インチ]]([[狭軌]]、1,067mm)から変更して[[標準軌]]が採用された(1926年(大正15年)9月認可)<ref>『京浜電気鉄道沿革史』京浜急行電鉄 1949年 p.116</ref>。京浜は[[東京電車鉄道]](後の[[東京都電車|東京市電]])との相互乗り入れのため1904年(明治37年)に軌間を標準軌から[[4フィート6インチ軌間|4フィート6インチ]](馬車軌間、1,372mm)に[[改軌]]しており、1925年(大正14年)3月からは高輪 - 北品川間の線路を東京市電と共用していた<ref>吉村光夫『京浜急行今昔物語』多摩川新聞社 1995年 p.24, p.45</ref>。しかし[[地方鉄道法]]により湘南電鉄全線と京浜の横浜-日ノ出町間がこの軌間を認められなかったため<ref name="名前なし-2"/>、京浜側が1933年(昭和8年)4月の品川 - 浦賀間直通運転に合わせて標準軌に戻した。 [[架線]][[電圧]]も湘南電鉄が1500Vに対し、京浜が600Vと差があった<ref>吉村光夫『京浜急行今昔物語』多摩川新聞社 1995年 pp.49-51</ref>。1936年には[[急行列車|急行運転]]区間を品川 - [[上大岡駅|上大岡]]間に拡大するのに伴い、黄金町 - 上大岡間の電圧が600Vに下げられたが<ref>吉村光夫『京浜急行今昔物語』多摩川新聞社 1995年 p.58</ref>、[[大東急]]時代の1945年(昭和20年)12月(横浜 - 上大岡間)と1947年(昭和22年)12月([[品川駅|品川]] - 横浜間)に1500Vに昇圧している<ref>[http://www.keikyu.co.jp/corporate/history/his/his-2.shtml 歩み1912-1947 ] - 写真で見る京急100年の歩み</ref>。 湘南電鉄では開発にも力を入れ、沿線の中小バス事業者を買収してバス路線網を確立するとともに(後述)、浦賀から[[竹岡駅|竹岡]]までの[[航路]]を開設し、[[東京湾]]横断の[[船|船舶]]事業も行っていた。 === 地下鉄乗り入れ計画の頓挫と五島慶太による買収 === 湘南電気鉄道と直通することを選択し、都心乗り入れを断念した京浜電気鉄道は、1936年に湘南電気鉄道と共に[[東京地下鉄道]](現在の[[東京メトロ銀座線]][[浅草駅]] - [[新橋駅]]間を建設・運営)と[[合弁事業|合弁]]する協定を結び、翌1937年に[[京浜地下鉄道]]を設立。東京地下鉄道から[[新橋駅|新橋]] - 品川の[[未成線]]を譲受し、湘南電気鉄道・京浜電気鉄道・京浜地下鉄道・東京地下鉄道の相互乗り入れによる浦賀 - [[浅草駅|浅草]]の[[直通運転]]を計画した。[[集電装置]]は[[パンタグラフ]]と[[集電靴]]の[[ハイブリッド]]方式を予定していた。 しかしこの合弁に先立ち、東京地下鉄道は[[東京高速鉄道]](現在の[[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ銀座線|銀座線]]新橋駅 - [[渋谷駅]]間を建設・運営)との相互乗り入れによる直通運転の契約を結んでいた。京浜地下鉄道と結ぶことで約束を反故にしようとした東京地下鉄道に対し、東京高速鉄道側は猛反発し、東京地下鉄道の筆頭株主となっていた京浜電気鉄道の株式を買い集めた。 [[1939年]]に京浜電気鉄道・湘南電気鉄道の代表者であった[[望月軍四郎]]が持株を東京高速鉄道に譲渡したことで、京浜電気鉄道・湘南電気鉄道は東京高速鉄道の傘下に入った。実際に京浜電気鉄道・湘南電気鉄道の経営に乗り出したのは東京高速鉄道の代表者であった[[五島慶太]]であった。このため、五島の本拠地ともいえる[[東京横浜電鉄]]が京浜電気鉄道・湘南電気鉄道の実質的な[[親会社]]となった。 === 京浜電気鉄道への合併と大東急入り === [[1941年]]11月1日に[[リストラ|経営合理化]]のため、湘南電気鉄道は京浜電気鉄道に合併された。 同年11月25日に五島慶太が京浜電気鉄道の社長に就任。翌[[1942年]]8月には京浜電気鉄道は、[[小田急電鉄]]とともに東京横浜電鉄に合併されて[[東京急行電鉄]]となり、いわゆる「[[大東急]]」を構成する一社となった。 === 年表 === * [[1917年]](大正6年)9月 会社設立発起人会が発足。 * [[1923年]](大正12年)8月27日 - 鉄道免許状下付(横浜市(南太田町)- 横須賀市 - 浦賀町 - 長井村 - 逗子町 - 六浦荘村間、長井村 - 三崎町間、逗子町 - 鎌倉町間、計45哩60鎖、動力電気、軌間1067mm)<ref>[{{NDLDC|2955484/7}} 「鉄道免許状下付」『官報』1923年10月8日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1925年]](大正14年)12月27日 湘南電気鉄道株式会社設立。京浜電気鉄道からの経営参加を得る。 * [[1927年]](昭和2年)11月15日 - 鉄道免許状下付(六浦荘村-鎌倉町間、6哩、動力電気、軌間1435mm)<ref>[{{NDLDC|2956729/9}} 「鉄道免許状下付」『官報』1927年11月19日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * 1927年(昭和2年)12月26日 - 鉄道免許状下付(桜木町-日ノ出町間、0哩38鎖、日出町-南太田間、1哩、動力電気、軌間1435mm) <ref>[{{NDLDC|2956767/7}} 「鉄道免許状下付」『官報』1928年1月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1930年]](昭和5年)[[4月1日]] 黄金町駅 - 浦賀駅間、および金沢八景駅 - 湘南逗子駅の路線を標準軌で開業<ref>[{{NDLDC|2957446/11}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1930年4月8日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1931年]](昭和6年)12月26日 - 京浜電気鉄道が横浜駅 - 日ノ出町駅 - 分界点間、湘南電気鉄道が分界点 - 黄金町駅間をそれぞれ延伸<ref>[{{NDLDC|2957976/8}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1932年1月12日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。横浜から野毛山をトンネルで抜け標準軌で敷設された京浜電気鉄道延長線と接続され、相互[[直通運転]]開始(横浜 - 浦賀)<ref name="s2">[https://www.city.yokohama.lg.jp/isogo/shokai/rekishi/nenpyo1.html 磯子区歴史年表 昭和2年~20年] 磯子区総務部区政推進課</ref>。 * [[1933年]](昭和8年)1月25日 - 鉄道免許失効(鎌倉八幡 - 材木座間、2.35km、1927年11月15日免許)<ref>[{{NDLDC|2958293/10}} 「鉄道免許失効」『官報』1933年1月28日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * 1933年(昭和8年)4月1日 京浜電気鉄道既設線の改軌が完成し、[[品川駅]] - 浦賀駅の直通運転開始<ref name="s2"/>。 * [[1934年]](昭和9年)9月13日 - 鉄道起業廃止許可(京浜電気鉄道線路接続点 - 桜木町間、0.91km、1927年12月26日免許)<ref>[{{NDLDC|2958790/8}} 「鉄道起業廃止許可」『官報』1934年9月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1935年]](昭和10年)9月19日 - 鉄道一部起業廃止許可(逗子町-鎌倉町間、4.67km、1923年8月27日免許)<ref>[{{NDLDC|2959098/10}} 「鉄道一部起業廃止許可」『官報』1935年9月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1941年]](昭和16年)11月 京浜電気鉄道と合併。 * [[1942年]](昭和17年)8月 東京横浜電鉄が[[小田急電鉄]]とともに京浜電気鉄道を合併し、[[東京急行電鉄]](いわゆる[[大東急]])と改称。 *: →以後の歴史は[[京浜急行電鉄]]の歴史を参照。 == 湘南電気鉄道のバス事業 == 湘南電気鉄道では、沿線開発の一環としてバス事業にも力を入れ、直営の他傍系の'''湘南半島自動車'''を通じて沿線のバス会社をことごとく買収し、沿線のバス路線網を確立した。 {{Main|京浜急行バス#湘南電気鉄道のバス事業|京浜急行バス#湘南半島自動車|京浜急行バス#沿革}} 1941年(昭和16年)の京浜電気鉄道への合併時には、湘南電気鉄道の以下の営業所が引き継がれた。 * 湘南電気鉄道:横浜、田浦、平坂、衣笠、堀之内、浦賀 * 湘南半島自動車:逗子、三崎、鎌倉、大船 {{Main|京浜急行バス#営業所の変遷|京浜急行バス逗子営業所#沿革|京浜急行バス三崎営業所#京浜一元化への道}} == 鉄道路線 == 湘南電気鉄道の[[日ノ出町駅]]付近 - [[井土ヶ谷駅]]付近の敷設にあたっては、それ以前に計画され中止された、[[鉄道省]]の[[京浜東北線|京浜線]]予定線の敷地が転用されている。この予定線は、桜木町駅から[[大岡川 (神奈川県)|大岡川]]沿いを走り、[[井土ヶ谷駅]]から現在の[[東戸塚駅]]付近に抜ける[[中距離電車]]が計画されていたもので、1926年(大正15年)4月に廃止となり、湘南電鉄が敷地を譲り受けた。それは今も桜木町駅から路地に挟まれた複線分の敷地が続き、日ノ出町駅付近で京急の高架線が合流するのが確認できる<ref>[[電気車研究会]]発行「[[鉄道ピクトリアル]]」1998年7月臨時増刊号(通巻656号)131ページ</ref>。 桜木町を経由し、横浜新駅で京浜電気鉄道との接続が計画されたが、桜木町 - 横浜間の免許は不許可となった。黄金町 - 桜木町間は免許を受け、大株主でもあった[[東京横浜電鉄]]も湘南電気鉄道と桜木町での連絡を要望したが、建設費調達の実現性がなかったことから、日ノ出町駅で京浜電気鉄道と接続することとなった<ref>『京浜電気鉄道沿革史』京浜急行電鉄 1949年 pp119-120.</ref><ref name="名前なし-1"/><ref>[http://www1.c3-net.ne.jp/hamachan/tetudou-yokohama-4-2.htm 横浜と鉄道(4)]に詳しい経緯がある。</ref>。 後にも東京横浜電鉄は湘南電気鉄道との相互乗り入れを行おうとした。東京横浜電鉄による経営参加が始まった1939年に、東京横浜電鉄は将来の直通乗り入れを見込み、長軸を組み込んだ標準軌間対応の台車を備えた[[東急デハ3450形電車#デハ3500形|モハ1000形]]を導入した。また1941年9月に東京横浜電鉄は桜木町 - 日ノ出町に連絡線を敷設する免許申請を行った。将来は軌間を統一して相互乗り入れを行うべく、上記京浜線予定線の敷地を利用して[[東急東横線|東横線]]を延伸するものだが、戦時下という時勢柄、鉄道省の反応が良くなく「連絡線を設けるなら東横線横浜 - [[京急本線|京浜線]]平沼を建設した方が投資効果がある」との見解から、結局大東急成立後の1944年11月に[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]から申請書が返送されている。 === 駅一覧 === *[[1937年]](昭和12年)10月1日現在<ref name="ndl1207554">[{{NDLDC|1207554/179}} 『鉄道停車場一覧. 昭和12年10月1日現在』、309-311頁](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 *全駅[[神奈川県]]に所在<ref name="ndl1207554"/>。 {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size:90%;" rules="all" |+style="text-align:left;"|(日ノ出町 - )京浜電気境界点 - 浦賀間<ref name="ndl1207554"/> |- !駅名 !style="width: 2.5em;"|駅間<br />キロ !style="width: 2.5em;"|営業<br />キロ ! 接続路線 !colspan="2"|所在地 |- |style="text-align: left;"| ([[日ノ出町駅]]) |style="text-align: center;"| - |style="text-align: right;"| -0.2 |style="text-align: left;"|[[京浜電気鉄道]]:[[京急本線|本線]]<br />[[横浜市交通局|横浜市電気局]]([[横浜市電]]):日の出町線・長者町線(日の出町一丁目電停) |rowspan="12" style="width:1em;"|[[横浜市|{{縦書き|横   浜   市}}]] |rowspan="7" style="text-align: left;" | [[中区 (横浜市)|中区]] |- |style="text-align: left;"| 京浜電気境界点 |style="text-align: center;"| - |style="text-align: right;"| 0.0 |style="text-align: left;"|京浜電気鉄道終点/湘南電気鉄道起点 |- |style="text-align: left;"| [[黄金町駅]] |style="text-align: right;"| 0.6 |style="text-align: right;"| 0.6 |style="text-align: left;"| 横浜市電気局(横浜市電):日の出町線・久保山線(初音町電停) |- |style="text-align: left;"| [[南太田駅]] |style="text-align: right;"| 0.9 |style="text-align: right;"| 1.5 |&nbsp; |- |style="text-align: left;"| [[井土ヶ谷駅]] |style="text-align: right;"| 1.2 |style="text-align: right;"| 2.7 |&nbsp; |- |style="text-align: left;"| 弘明寺駅 |style="text-align: right;"| 1.3 |style="text-align: right;"| 4.0 |&nbsp; |- |style="text-align: left;"| [[上大岡駅]] |style="text-align: right;"| 1.8 |style="text-align: right;"| 5.8 |&nbsp; |- |style="text-align: left;"| [[屏風浦駅]] |style="text-align: right;"| 2.2 |style="text-align: right;"| 8.0 |&nbsp; |rowspan="5" style="text-align: left;" | [[磯子区]] |- |style="text-align: left;"| [[杉田駅 (神奈川県)|杉田駅]] |style="text-align: right;"| 1.4 |style="text-align: right;"| 9.4 |&nbsp; |- |style="text-align: left;"| [[京急富岡駅|湘南富岡駅]] |style="text-align: right;"| 2.3 |style="text-align: right;"| 11.7 |&nbsp; |- |style="text-align: left;"| [[金沢文庫駅]] |style="text-align: right;"| 2.8 |style="text-align: right;"| 14.5 |&nbsp; |- |style="text-align: left;"| [[金沢八景駅]] |style="text-align: right;"| 1.4 |style="text-align: right;"| 15.9 |style="text-align: left;"| 湘南電気鉄道 |- |style="text-align: left;"| [[追浜駅]] |style="text-align: right;"| 1.9 |style="text-align: right;"| 17.8 |&nbsp; |colspan="2" rowspan="8" style="text-align: left;" | [[横須賀市]] |- |style="text-align: left;"| [[京急田浦駅|湘南田浦駅]] |style="text-align: right;"| 1.7 |style="text-align: right;"| 19.5 |&nbsp; |- |style="text-align: left;"| [[安針塚駅|軍需部前駅]] |style="text-align: right;"| 1.6 |style="text-align: right;"| 21.1 |&nbsp; |- |style="text-align: left;"| [[逸見駅]] |style="text-align: right;"| 2.1 |style="text-align: right;"| 23.2 |&nbsp; |- |style="text-align: left;"| [[汐入駅|横須賀軍港駅]] |style="text-align: right;"| 1.0 |style="text-align: right;"| 24.2 |&nbsp; |- |style="text-align: left;"| [[横須賀中央駅]] |style="text-align: right;"| 0.7 |style="text-align: right;"| 24.9 |&nbsp; |- |style="text-align: left;"| [[県立大学駅|横須賀公郷駅]] |style="text-align: right;"| 1.2 |style="text-align: right;"| 26.1 |&nbsp; |- |style="text-align: left;"| [[堀ノ内駅|横須賀堀内駅]] |style="text-align: right;"| 1.1 |style="text-align: right;"| 27.2 |&nbsp; |- |style="text-align: left;"| [[京急大津駅|湘南大津駅]] |style="text-align: right;"| 0.9 |style="text-align: right;"| 28.1 |&nbsp; |rowspan="3" style="width:1em;"|[[三浦郡|{{縦書き|三浦郡}}]] |rowspan="3" style="text-align: left;" | [[浦賀町]] |- |style="text-align: left;"| [[馬堀海岸駅]] |style="text-align: right;"| 1.1 |style="text-align: right;"| 29.2 |&nbsp; |- |style="text-align: left;"| [[浦賀駅]] |style="text-align: right;"| 1.3 |style="text-align: right;"| 30.5 |&nbsp; |} {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size:90%;" rules="all" |+style="text-align:left;"|金沢八景 - 湘南逗子間<ref name="ndl1207554"/><ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介(監修) |title=[[日本鉄道旅行地図帳]] |publisher=[[新潮社]] |volume=4 関東2 |year=2008 |isbn=978-4-10-790022-7 |page=36}}</ref> |- ! colspan="2" | 駅名 !style="width: 2.5em;"|駅間<br />キロ !style="width: 2.5em;"|営業<br />キロ ! 接続路線 ! 所在地 |- |colspan="2" style="text-align: left;"| 金沢八景駅 |style="text-align: center;"| - |style="text-align: right;"| 0.0 |style="text-align: left;"|湘南電気鉄道 |style="text-align: left;"|横浜市磯子区 |- |colspan="2" style="text-align: left;"| [[神武寺駅]] |style="text-align: right;"| 3.8 |style="text-align: right;"| 3.8 |&nbsp; |rowspan="3" style="text-align: left;" | 三浦郡[[逗子町]] |- |rowspan="2" style="text-align: left;"| [[湘南逗子駅]] |style="text-align: left;"| 沼間口乗降場 |style="text-align: right;"| 1.9 |style="text-align: right;"| 5.7 |style="text-align: left;"|鉄道省:[[横須賀線]]([[逗子駅]]) |- |style="text-align: left;"| 葉山口乗降場 |style="text-align: right;"| 0.4 |style="text-align: right;"| 6.1 |&nbsp; |} == 輸送・収支実績 == {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:100%;" |- !年度 !乗客(人) !営業収入(円) !営業費(円) !益金(円) !その他益金(円) !その他損金(円) !支払利子(円) !政府補助金(円) |- |1930||3,429,397||526,496||294,685||231,811||土地評価益金19,533||雑損6,230||369,134||57,109 |- |1931||4,705,878||665,035||426,619||238,416||自動車其他17,782||雑損122||542,373||96,323 |- |1932||7,175,133||772,829||502,843||269,986||自動車土地建物32,929||雑損1,387||586,162||106,898 |- |1933||8,638,474||872,397||536,879||335,518||減資差益金634,807||自動車1,086<br>償却金82,671||533,479||105,517 |- |1934||9,353,222||896,529||585,230||311,299||||自動車2,719||496,436||102,893 |- |1935||10,559,294||1,010,525||574,545||435,980||減資差益金152,862||自動車5,114<br>雑損償却金115,543||471,691||144,299 |- |1936||11,673,115||1,067,319||580,913||486,406||自動車178,316||償却金34,812||430,168||142,410 |- |1937||15,388,782||1,237,859||719,063||518,796||自動車船舶9,252<br>退職準備繰入260,307||雑損償却金30,418||405,184||134,574 |- |1939||25,669,325|||||||||||||| |- |1941||39,073,970|||||||||||||| |- |} *鉄道統計資料、鉄道統計各年度版 == 車両 == [[ファイル:Keikyu-de1.JPG|right|thumb|湘南電気鉄道開業当初の姿に復元され[[京急ファインテック]]久里浜事業所に保存されているデ1]] すべて電車。 * [[湘南電気鉄道デ1形電車|デ1形(1 - 25)]] - 旅客用 * [[湘南電気鉄道デ1形電車|デ26形(26 - 31)]] - 旅客用 * [[湘南電気鉄道デト101形電車|デト101形(101・102)]] - 貨物用 == 施設 == * 瀬戸変電所、[[回転変流器]](交流側277.5V直流側750V)直流側の出力1000kW、常用2、予備2、製造所[[ゼネラル・エレクトリック|GE]] **[{{NDLDC|1140223/256}} 『管内電気事業要覧。 第11回』](国立国会図書館デジタルコレクション) == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == *『京浜急行八十年史』1980年 == 外部リンク == * [http://www.keikyu.co.jp/corporate/history/his/his-2-1.shtml 要塞地帯の注意を示す車内ポスター]{{リンク切れ|date=2021年12月}} - 湘南電気鉄道の開業区間と予定線が描かれている {{Rail-stub}} {{DEFAULTSORT:しようなんてんきてつとう}} [[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]] [[Category:神奈川県の交通史]] [[Category:京急グループの歴史]] [[Category:かつて存在した神奈川県の企業]] [[Category:1941年の合併と買収]]
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2023-04-20T07:54:54Z
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[ "Template:Main", "Template:縦書き", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:リンク切れ", "Template:Rail-stub", "Template:基礎情報 会社", "Template:出典の明記" ]
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12,320
西大井駅
西大井駅(にしおおいえき)は、東京都品川区西大井一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。 乗り入れている路線は、線路名称上は東海道本線の支線であり「品鶴線」の通称を持つ(詳細は路線記事および鉄道路線の名称参照)が、旅客案内上は横須賀線の電車、湘南新宿ラインの列車(宇都宮線 - 横須賀線直通列車のみ)、相鉄線直通列車が停車し、東海道線の列車は当駅を経由せず、旅客案内では「東海道(本)線」や「品鶴線」とは案内されていない。なお、特定都区市内制度における「東京都区内」に属し、横須賀線、湘南新宿ライン、相鉄線直通列車では当駅が東京都区内の南限となる。 また当駅には、各路線ごとに駅番号が与えられている。 相対式ホーム2面2線を有する高架駅で、東海道新幹線高架の真下にある。 山手貨物線への連絡線の分岐点(蛇窪信号場)の南側に位置している。 武蔵小杉駅方面から品川駅方面(横須賀線)と大崎駅方面(湘南新宿ライン、相鉄線直通列車)に二分される分岐駅となっているため、乗換駅として案内される。なお、当駅 - 大崎駅間は実際の経路に関わらず品川駅経由で運賃・料金が計算されるが、当駅から大崎駅経由で山手線品川方面に乗車しても、品川 - 大崎 - 品川間の運賃などは発生せず、西大井 - 品川( - 田町方面)の扱いで乗車できる。 業務委託駅(JR東日本ステーションサービス委託)。みどりの窓口は、指定席券売機設置に伴い営業を終了した。 (出典:JR東日本:駅構内図) 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は15,932人である。近年は15000人台で推移していたが、COVID-19の影響もあり、2020年度・2021年度の乗車人員は若干下がったものの、2022年度は2019年度並みの水準に戻っている。 近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。 駅周辺は西大井広場公園やジェイタワー西大井・コアスターレ西大井ショッピングセンターがあるほか、大井町駅・下神明駅・中延駅の各路線に囲まれた立地にあり、利便性に優れた閑静な住宅街である。駅の東側の大部分を占めているニコン大井製作所は、2017年時点で解体後の計画・方向性については未定である。 大井町駅までは徒歩20分ほどである。
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西大井駅(にしおおいえき)は、東京都品川区西大井一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。
{{出典の明記|date=2012年1月|ソートキー=駅}} {{駅情報 |駅名 = 西大井駅 |よみがな = にしおおい |ローマ字 = Nishi-&#332;i |社色 = green |画像 = JR Nishiooi sta 001.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 駅舎(2010年2月) |地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|36|6.5|N|139|43|18.5|E}}}} |所在地 = [[東京都]][[品川区]][[西大井]]一丁目3-2 |座標 = {{coord|35|36|6.5|N|139|43|18.5|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |電報略号 = ニイ |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |乗入路線数 = 3 |所属路線1 = {{color|#0067c0|■}}[[横須賀・総武快速線|横須賀線]]{{Refnest|group="*"|name="linename"|いずれも線路名称上は[[東海道本線]]([[品鶴線]])。}} |駅番号1 = {{駅番号r|JO|16|#0067c0|1}} |前の駅1 = JO 17 [[品川駅|品川]] |駅間A1 = 3.6 |駅間B1 = 6.4 |次の駅1 = [[武蔵小杉駅|武蔵小杉]]{{Refnest|group="*"|name="branch"|この間に[[東日本旅客鉄道首都圏本部|首都圏本部]]と[[東日本旅客鉄道横浜支社|横浜支社]]の[[JR支社境|境界]]あり(当駅から品川・大崎寄りは首都圏本部管内)。}}JO 15 |キロ程1 = 3.6&nbsp;km([[品川駅|品川]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から10.4 |起点駅1 = |所属路線2 = {{color|#f68b1e|■}}{{color|#0067c0|■}}[[湘南新宿ライン]]([[宇都宮線]]直通)<ref group="*" name="linename" />{{Refnest|group="*"|[[高崎線]] - [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]系統は通過。}}<br />{{color|#0066ff|■}}[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通]]<br />{{color|#00ac9a|■}}[[埼京線|埼京線直通]]<ref group="*" name="linename" /> |駅番号2 = {{駅番号r|JS|16|#e21f26|1}} |前の駅2 = JS 17{{Refnest|group="*"|運賃計算上は品川駅経由。}}[[大崎駅|大崎]] |駅間A2 = 5.6 |駅間B2 = 6.4 |次の駅2 = 武蔵小杉<ref group="*" name="branch" /> JS 15 |キロ程2 = |起点駅2 = |開業年月日 = [[1986年]]([[昭和]]61年)[[4月2日]] |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面2線 |乗車人員 = 15,932 |統計年度 = 2022年 |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="jess_service" /> * [[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[特定都区市内|東京都区内]]駅}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} '''西大井駅'''(にしおおいえき)は、[[東京都]][[品川区]][[西大井]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である。 <!--ここまでの記述のしかたについては[[Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 鉄道/駅/営業案内路線名と異なる表記について]]で議論中です。--> == 乗り入れ路線 == 乗り入れている路線は、線路名称上は[[東海道本線]]の支線であり「[[品鶴線]]」の通称を持つ(詳細は路線記事および[[鉄道路線の名称]]参照)が、旅客案内上は[[横須賀・総武快速線|横須賀線]]の電車、[[湘南新宿ライン]]の列車([[宇都宮線]] - 横須賀線直通列車のみ)、[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]が停車し、[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]の列車は当駅を経由せず、旅客案内では「東海道(本)線」や「品鶴線」とは案内されていない。なお、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」に属し、横須賀線、湘南新宿ライン、相鉄線直通列車では当駅が東京都区内の南限となる。 また当駅には、各路線ごとに駅番号が与えられている。 * [[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 横須賀線:東海道本線([[品鶴線]]経由)を経て、下り列車は大船駅より線路名称上の[[横須賀線]]を走る。上り列車は多くの列車が東京駅を経由し、総武快速線へ直通する。 - [[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]「'''JO 16'''」 * [[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン:東海道本線(品鶴線経由)を経て、当駅まで横須賀線と同一の線路を使用し、[[新宿駅]]経由で宇都宮線へ直通する。 - 駅番号「'''JS 16'''」 * [[File:Sotetsu line symbol.svg|15px|SO]] 相鉄線直通列車:東海道本線(品鶴線経由)を経て、海老名方面行き列車は[[東海道貨物線]]に入り[[相鉄新横浜線]]・[[相鉄本線]]へ直通運転する。新宿方面行きは [[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] [[埼京線]]直通と案内され、湘南新宿ラインと同じ経路を走る。 - 駅番号「'''JS 16'''」 == 歴史 == * [[1929年]]([[昭和]]4年):品鶴線開設。 * [[1969年]](昭和44年):[[日本国有鉄道]](国鉄)が品川区に対して、品鶴線旅客化案を提示。 * [[1972年]](昭和47年):[[東京都第2区 (中選挙区)|東京都第2区]]選出[[国会議員#概要|衆議院議員]](5人、超党派)らが、西大井駅設置等の品鶴線旅客化5条件を[[運輸省]]および国鉄に申し入れ。 * [[1973年]](昭和48年):品川区は国鉄に、国鉄負担による駅建設、[[開かずの踏切]]対策、騒音対策(旧3条件)を提示し、3条件が実現されない限り品鶴線旅客化に反対する旨を申し入れ。 * [[1975年]](昭和50年):国鉄が品川区に、地元負担による駅建設案を提示。品川区議会が地元負担による駅建設等(新3条件)を可決<ref group="注釈">新3条件は「地元負担による駅建設」、「『道路と鉄道の交差に関する建設省 ・ 日本国有鉄道協定』に基づく踏切の立体交差化」、「国鉄負担による軌道改良工事」。</ref>。品川区と国鉄が覚書を締結<ref>{{Cite news |title=「新横須賀線」“発車”にメド 新駅設置など条件に 品川区と国鉄合意 |newspaper=読売新聞 朝刊 |date=1976-03-03 |author= |page=20}}</ref>。 * [[1978年]](昭和53年):駅建設費に品川区の公金投入を違法とする「新横須賀線西大井駅建設費支出禁止住民訴訟」提起。 * [[1980年]](昭和55年) ** [[2月12日]]:品川区議会が10月開業反対決議。 ** [[6月10日]]:住民訴訟で原告勝訴(品川区の公金支出差止)判決<ref>{{Cite news |title=新駅の自治体負担は違法 東京地裁判決 公金支出差し止め 新横須賀線西大井駅 |newspaper=読売新聞 夕刊|date=1980-06-10 |author= |page=1}}</ref>。 ** [[10月1日]]:国鉄は品鶴線旅客化(SM分離)を実施。 * [[1984年]](昭和59年):[[第三セクター]]による駅建設開始<ref>{{Cite news |title=新横須賀線西大井駅 第3セクター方式で着工へ 住民の悲願やっと実る|newspaper=読売新聞 朝刊 |date=1984-05-13 |author= |page=18}}</ref>。 * [[1986年]](昭和61年)[[4月2日]]:'''西大井駅'''開業(旅客営業のみ)<ref>{{Cite news |title=「西大井駅」きょう開業 横須賀線 品川-新川崎間 60年越しの悲願実る |newspaper=読売新聞 朝刊 |date=1986-04-02 |author= |page=18}}</ref>。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[7月20日]]:[[自動改札機]]を設置し、使用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1992-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '92年版 |chapter=JR年表 |page=181 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-113-9}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年) ** [[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 ** [[12月1日]]:湘南新宿ライン運行開始。 * [[2007年]](平成19年) ** [[2月19日]]:指定席券売機設置。 ** [[3月12日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了。 * [[2019年]]([[令和]]元年)[[11月30日]]:[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]が運行開始し、停車駅となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190906_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2019年11月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-09-06|accessdate=2019-11-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190906152613/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190906_ho01.pdf|archivedate=2019-09-06}}</ref>。平日朝の新宿方面行きで、当駅で初めて[[女性専用車両|女性専用車]]が設定される。 == 駅構造 == [[相対式ホーム]]2面2線を有する[[高架駅]]で、[[東海道新幹線]][[高架橋|高架]]の真下にある。 [[山手線|山手貨物線]]への[[連絡線]]の分岐点([[蛇窪信号場]])の南側に位置している。 [[武蔵小杉駅]]方面から[[品川駅]]方面([[横須賀線]])と[[大崎駅]]方面([[湘南新宿ライン]]、[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]])に二分される分岐駅となっているため、[[乗換駅]]として案内される。なお、当駅 - 大崎駅間は実際の経路に関わらず品川駅経由で運賃・料金が計算されるが、当駅から大崎駅経由で山手線品川方面に<!-- (取扱い上)Uターン -->乗車しても、品川 - 大崎 - 品川間の運賃などは発生せず、西大井 - 品川( - 田町方面)の扱いで乗車できる。 [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]([[JR東日本ステーションサービス]]委託)<ref name="jess_service">{{Cite web|和書|url=https://www.je-ss.co.jp/pdf/jess_service_area.pdf|archiveurl=|title=事業エリアマップ|archivedate=|accessdate=2021-09-15|publisher=JR東日本ステーションサービス|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。[[みどりの窓口]]は、[[指定席券売機]]設置に伴い営業を終了した。 === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !rowspan="2"|1 |[[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 横須賀線 |rowspan="2" style="text-align:center"|下り |[[横浜駅|横浜]]・[[逗子駅|逗子]]・[[久里浜駅|久里浜]]方面 |- |[[File:Sotetsu line symbol.svg|15px|SO]] 相鉄線直通 |[[羽沢横浜国大駅|羽沢横浜国大]]・[[海老名駅|海老名]]方面 |- !rowspan="3"|2 |[[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀・総武線(快速)]] |rowspan="2" style="text-align:center"|上り |[[品川駅|品川]]・[[東京駅|東京]]・[[千葉駅|千葉]]・[[成田駅|成田]]方面 |- |[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線直通 |[[新宿駅|新宿]]・[[武蔵浦和駅|武蔵浦和]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面 |- |[[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン |style="text-align:center"|北行 |新宿・大宮・[[宇都宮駅|宇都宮]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1149.html JR東日本:駅構内図]) <gallery> JR Nishi-Oi Station Gates (20210418).jpg|改札口(2021年4月) JR Nishi-Oi Station Platform (20210418).jpg|ホーム(2021年4月) Above Bl - Hinkaku line & Tokaido Shinkansen 5.jpg|ホーム上に新幹線高架橋がある </gallery> == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''15,932人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。近年は15000人台で推移していたが、[[COVID-19]]の影響もあり、2020年度・2021年度の乗車人員は若干下がったものの、2022年度は2019年度並みの水準に戻っている。 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。 <!--東京都統計年鑑、品川区統計書を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/kuseizyoho/kuseizyoho-siryo/kuseizyoho-siryo-toukei/index.html 品川区の統計] - 品川区</ref> !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1986年(昭和61年) |<ref group="備考">1986年4月2日開業。開業日から翌年3月31日までの計364日間を集計したデータ。</ref>5,017 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(昭和61年)]</ref> |- |1987年(昭和62年) |6,612 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(昭和62年)]</ref> |- |1988年(昭和63年) |7,745 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(昭和63年)]</ref> |- |1989年(平成元年) |8,616 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成元年)]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |9,485 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |10,085 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |10,748 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |10,888 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |10,844 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |10,831 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |10,995 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |10,914 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) |10,677 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |10,470 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>10,420 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>10,640 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>11,174 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>11,692 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>12,406 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>13,116 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>13,715 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>14,035 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>14,143 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>14,064 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - 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(旧[[目黒川信号場]]) - (旧[[蛇窪信号場]]) - '''西大井駅 (JO 16)''' - [[武蔵小杉駅]] (JO 15) : [[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン・[[File:Sotetsu line symbol.svg|15px|SO]] 相鉄線直通列車(北行のみ [[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線直通と案内) :: {{Color|#0099ff|■}}特別快速・{{Color|#f68b1e|■}}快速(いずれも東海道・高崎線直通系統) ::: '''通過'''(ダイヤが乱れた場合は快速が臨時停車を行う場合がある) :: {{Color|#18a629|■}}普通(宇都宮線・横須賀線直通系統)・{{Color|#00ac9a|■}}各駅停車(相鉄線直通列車) ::: [[大崎駅]] (JS 17) - (旧蛇窪信号場) - '''西大井駅 (JS 16)''' - 武蔵小杉駅 (JS 15) :※旧目黒川信号場・旧蛇窪信号場はともに大崎駅の構内扱い。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist}} ===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ===== {{Reflist|group="広報"}} === 利用状況 === ; JRの1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; JRの統計データ {{Reflist|group="統計"}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 関連項目 == {{Commonscat|Nishi-Ōi Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[南びわ湖駅]] - 当駅と同様に、駅建設費の自治体負担が訴訟になった事例。 == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1149|name=西大井}} {{総武快速線・横須賀線}} {{湘南新宿ライン_(宇都宮線・横須賀線)}} {{埼京線|mode=1}} {{DEFAULTSORT:にしおおい}} [[Category:品川区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 に|しおおい]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:横須賀・総武快速線]] [[Category:1986年開業の鉄道駅]] [[Category:大井 (品川区)]]
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東戸塚駅
東戸塚駅(ひがしとつかえき)は、神奈川県横浜市戸塚区品濃町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。 地域住民からの要望を受けて新設された請願駅であり、横須賀線のいわゆる「SM分離」に際して、新川崎駅とともに開業した。 乗入路線は、線路名称上は東海道本線である(詳細は路線記事及び「鉄道路線の名称」を参照)が、当駅には横須賀線専用線路上にのみ旅客ホームがあり、同線路を走行する横須賀線電車及び湘南新宿ラインの宇都宮線 - 横須賀線直通列車のみが停車し、東海道線列車は停車せず、旅客案内では「東海道(本)線」とは案内されていない。湘南新宿ラインの東海道線 - 高崎線系統は全列車が快速運転のため通過する。 当駅には、各路線ごとに駅番号が付与されている。 このほか、東海道本線の本線と横浜羽沢駅経由の東海道本線支線との分岐駅になっている。この支線は、当駅以西で旅客線と並行して小田原駅まで延びる貨物列車専用線と繋がっており、併せて東海道貨物線と呼ばれている。ただし当駅の貨物線上には停車場が存在せず、列車はすべて通過する。 また、JRの特定都区市内制度における「横浜市内」に属する。 当駅は地元住民の1世紀を越える請願運動の末に、新一開発興業社長の福原政二郎が中心となって設置された請願駅である。大正期に「武蔵駅」として一旦開業が決まったが、関東大震災により頓挫。戦後、地元住民による10万人超の署名運動が行政を動かし、官民一体となった運動が結実して開業した。1980年代に開業した比較的新しい駅であるが、1990年代後半からは駅前再開発事業が行われ、百貨店やショッピングモール等の商業施設が相次いで開業し、駅周辺では1990年代から2000年代にかけて計5棟の高層マンションが建設され、市内では横浜みなとみらい21地区に次ぐ供給量になっている。現在ではマンションなどの建設も進み住宅街としても発展している。 JR東日本ステーションサービスが駅管理を受託している戸塚駅管理の業務委託駅。島式ホーム1面2線を有する地上駅で、橋上駅舎を有している。エスカレーターは上下双方が設置されているが、平日・休日とも午後5:30以降は2つ共上り専用となり、ホームに降りるにはエレベーターか階段を利用しなければならない。 ホームの東側に東海道線、西側に東海道貨物線の線路が通っているが、ホームは設置されていない。 ダイヤ乱れ時は当駅に東海道線や東海道線 - 高崎線系統の湘南新宿ライン(快速・特別快速)が停車することがある。 (出典:JR東日本:駅構内図) 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は48,916人である。JR東日本全体ではさいたま新都心駅に次いで第84位。横須賀線の単独駅(東京ー久里浜間)では最多。接続路線のある鎌倉駅より利用者数が多い。 近年の1日平均乗車人員推移は下記の通り。 長らく大船軒が駅弁を担当していたが、2020年1月15日に撤退。現在は隣接店舗にて崎陽軒が駅弁を販売している。主な駅弁は下記の通り。 2017年現在、東戸塚という町名は存在せず、駅東口周辺は品濃町、西口周辺は川上町という町名である。 近年は駅前再開発により、商業施設や住宅地の充実で大きく発展している。東口では駅前再開発が進み、駅舎3Fからペデストリアンデッキで再開発ビルオーロラシティや複数の高層マンションと結ばれている。 西口には、駅前再開発でモレラ東戸塚が建設された。東口ほど大規模ではないが、商業施設やマンション等住宅街を中心に近年発展している。横浜カントリークラブや戸塚カントリー倶楽部といったゴルフ場が比較的近く、バスターミナルから送迎バスが運行されている。 駅から少し離れると、農地や果樹園、草原や小さな山々(谷戸)等、未開発の田園風景が残り、開業が比較的新しい駅の典型的な特徴がある。特に、駅の保土ケ谷寄りから品濃トンネルの間には肥田牧場がある。 横浜市営地下鉄グリーンラインの停車駅になり、日吉、中山、二俣川、上大岡、根岸方面に接続する計画がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東戸塚駅(ひがしとつかえき)は、神奈川県横浜市戸塚区品濃町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "地域住民からの要望を受けて新設された請願駅であり、横須賀線のいわゆる「SM分離」に際して、新川崎駅とともに開業した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "乗入路線は、線路名称上は東海道本線である(詳細は路線記事及び「鉄道路線の名称」を参照)が、当駅には横須賀線専用線路上にのみ旅客ホームがあり、同線路を走行する横須賀線電車及び湘南新宿ラインの宇都宮線 - 横須賀線直通列車のみが停車し、東海道線列車は停車せず、旅客案内では「東海道(本)線」とは案内されていない。湘南新宿ラインの東海道線 - 高崎線系統は全列車が快速運転のため通過する。", "title": "乗入路線" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "当駅には、各路線ごとに駅番号が付与されている。", "title": "乗入路線" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "このほか、東海道本線の本線と横浜羽沢駅経由の東海道本線支線との分岐駅になっている。この支線は、当駅以西で旅客線と並行して小田原駅まで延びる貨物列車専用線と繋がっており、併せて東海道貨物線と呼ばれている。ただし当駅の貨物線上には停車場が存在せず、列車はすべて通過する。", "title": "乗入路線" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、JRの特定都区市内制度における「横浜市内」に属する。", "title": "乗入路線" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "当駅は地元住民の1世紀を越える請願運動の末に、新一開発興業社長の福原政二郎が中心となって設置された請願駅である。大正期に「武蔵駅」として一旦開業が決まったが、関東大震災により頓挫。戦後、地元住民による10万人超の署名運動が行政を動かし、官民一体となった運動が結実して開業した。1980年代に開業した比較的新しい駅であるが、1990年代後半からは駅前再開発事業が行われ、百貨店やショッピングモール等の商業施設が相次いで開業し、駅周辺では1990年代から2000年代にかけて計5棟の高層マンションが建設され、市内では横浜みなとみらい21地区に次ぐ供給量になっている。現在ではマンションなどの建設も進み住宅街としても発展している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "JR東日本ステーションサービスが駅管理を受託している戸塚駅管理の業務委託駅。島式ホーム1面2線を有する地上駅で、橋上駅舎を有している。エスカレーターは上下双方が設置されているが、平日・休日とも午後5:30以降は2つ共上り専用となり、ホームに降りるにはエレベーターか階段を利用しなければならない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ホームの東側に東海道線、西側に東海道貨物線の線路が通っているが、ホームは設置されていない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ダイヤ乱れ時は当駅に東海道線や東海道線 - 高崎線系統の湘南新宿ライン(快速・特別快速)が停車することがある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は48,916人である。JR東日本全体ではさいたま新都心駅に次いで第84位。横須賀線の単独駅(東京ー久里浜間)では最多。接続路線のある鎌倉駅より利用者数が多い。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗車人員推移は下記の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "長らく大船軒が駅弁を担当していたが、2020年1月15日に撤退。現在は隣接店舗にて崎陽軒が駅弁を販売している。主な駅弁は下記の通り。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2017年現在、東戸塚という町名は存在せず、駅東口周辺は品濃町、西口周辺は川上町という町名である。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "近年は駅前再開発により、商業施設や住宅地の充実で大きく発展している。東口では駅前再開発が進み、駅舎3Fからペデストリアンデッキで再開発ビルオーロラシティや複数の高層マンションと結ばれている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "西口には、駅前再開発でモレラ東戸塚が建設された。東口ほど大規模ではないが、商業施設やマンション等住宅街を中心に近年発展している。横浜カントリークラブや戸塚カントリー倶楽部といったゴルフ場が比較的近く、バスターミナルから送迎バスが運行されている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "駅から少し離れると、農地や果樹園、草原や小さな山々(谷戸)等、未開発の田園風景が残り、開業が比較的新しい駅の典型的な特徴がある。特に、駅の保土ケ谷寄りから品濃トンネルの間には肥田牧場がある。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "横浜市営地下鉄グリーンラインの停車駅になり、日吉、中山、二俣川、上大岡、根岸方面に接続する計画がある。", "title": "今後の予定" } ]
東戸塚駅(ひがしとつかえき)は、神奈川県横浜市戸塚区品濃町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。 地域住民からの要望を受けて新設された請願駅であり、横須賀線のいわゆる「SM分離」に際して、新川崎駅とともに開業した。
{{駅情報 |社色 = #008000 |駅名 = 東戸塚駅 |画像 = JREast-Higashi-Totsuka Station-East Exit-2004.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 東口(2004年11月) |地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|25|49.7|N|139|33|24.3|E}}}} |よみがな = ひがしとつか |ローマ字 = Higashi-Totsuka |所在地 = [[横浜市]][[戸塚区]][[品濃町]]692 |座標 = {{coord|35|25|49.7|N|139|33|24.3|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |電報略号 = ツカ |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{color|#0067c0|■}}[[横須賀・総武快速線|横須賀線]]<br />{{Color|#f68b1e|■}}{{color|#0067c0|■}}[[湘南新宿ライン]]([[宇都宮線]]直通){{Refnest|group="*"|[[高崎線]] - [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]系統は通過。}}<br />(いずれも線路名称上は[[東海道本線]]) |前の駅1 = JO 12・JS 12 [[保土ケ谷駅|保土ケ谷]] |駅間A1 = 4.9 |駅間B1 = 4.2 |次の駅1 = [[戸塚駅|戸塚]] JO 10・JS 10 |駅番号1 = {{駅番号r|JO|11|#0067c0|1}}<br />{{駅番号r|JS|11|#e21f26|1}} |キロ程1 = 36.7&nbsp;km([[東京駅|東京]]起点)<br />東京から[[品鶴線]]経由で39.6 |起点駅1 = |所属路線2 = 東海道本線貨物支線<br />([[東海道貨物線]]) |隣の駅2 = |前の駅2 = [[横浜羽沢駅|(貨)横浜羽沢]] |駅間A2 = 7.2 |駅間B2 = |次の駅2 = |キロ程2 = 16.0&nbsp;km([[鶴見駅|鶴見]]起点)<br />[[東京貨物ターミナル駅|東京(タ)]]から34.2&nbsp;km<br />[[浜松町駅|浜松町]]から41.3 |起点駅2 = |開業年月日 = [[1980年]]([[昭和]]55年)[[10月1日]] |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 1面2線 |乗車人員 = 48,916 |統計年度 = [[2022年]] |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="名前なし-1">[https://www.je-ss.co.jp/pdf/jess_service_area.pdf 事業エリアマップ] - JR東日本ステーションサービス.2021年9月14日閲覧</ref><ref name="outsourcing"/> * [[みどりの窓口]] 有<!-- ←除去する場合は、営業終了日時(2024年1月24日19:00)経過後 --> <!-- * [[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]設置駅<ref name="StationCd=1292_231225" /> --><!-- ←反映する場合は、導入開始日時(2024年1月25日4:40)経過後 --> * [[画像:JR area HAMA.png|15px|浜]] [[特定都区市内|横浜市内]]駅}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} [[画像:JREast-Higashi-Totsuka Station-West Exit-2004.jpg|thumb|西口(2004年11月)]] '''東戸塚駅'''(ひがしとつかえき)は、[[神奈川県]][[横浜市]][[戸塚区]][[品濃町]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である。 地域住民からの要望を受けて新設された[[請願駅]]であり、[[横須賀線]]のいわゆる「[[横須賀・総武快速線#SM分離|SM分離]]」に際して、[[新川崎駅]]とともに開業した<ref name="yomi_1">{{Cite news|title=新川崎-東戸塚 新設二駅の開業式|newspaper=[[読売新聞]]|publisher=[[読売新聞社]]|date=1980-09-30|page=10 夕刊}}</ref>。 == 乗入路線 == 乗入路線は、線路名称上は[[東海道本線]]である(詳細は路線記事及び「[[鉄道路線の名称]]」を参照)が、当駅には[[横須賀・総武快速線|横須賀線]]専用線路上にのみ旅客ホームがあり、同線路を走行する横須賀線電車及び[[湘南新宿ライン]]の[[宇都宮線]] - 横須賀線直通列車のみが停車し、[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]列車は停車せず、旅客案内では「東海道(本)線」とは案内されていない。湘南新宿ラインの[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]] - [[高崎線]]系統は全列車が快速運転のため通過する<ref group="注釈">ただし、人身事故等の影響でダイヤ乱れや列車運休があった場合、当駅に臨時停車する場合もある。また東海道線も同様に当駅に臨時停車することがあるが、この場合は横浜 - 戸塚間で横須賀線の線路を使用する。</ref>。 当駅には、各路線ごとに[[駅ナンバリング|駅番号]]が付与されている。 * [[画像:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 横須賀線:東海道本線([[品鶴線]]経由)を経て、下り列車は大船駅より線路名称上の[[横須賀線]]を走る。上り列車は多くの列車が東京駅を経由し、総武快速線へ直通する。 - [[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]「'''JO 11'''」 * [[画像:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン:東海道本線(品鶴線経由)を経て、[[西大井駅]]まで横須賀線と同一の線路を使用し、[[新宿駅]]経由で宇都宮線へ直通する。 - 駅番号「'''JS 11'''」 このほか、東海道本線の本線と[[横浜羽沢駅]]経由の東海道本線支線との分岐駅になっている。この支線は、当駅以西で旅客線と並行して[[小田原駅]]まで延びる[[貨物列車]]専用線と繋がっており、併せて[[東海道貨物線]]と呼ばれている。ただし当駅の貨物線上には停車場が存在せず、列車はすべて通過する。 また、JRの[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|横浜市内]]」に属する。 == 歴史 == 当駅は地元住民の1世紀を越える[[請願]]運動の末に、新一開発興業社長の福原政二郎が中心となって設置された[[請願駅]]である<ref>{{Cite web|和書|title=東海道線がJR東戸塚駅に停車する可能性は? - はまれぽ.com 神奈川県の地域情報サイト|url=http://hamarepo.com/story.php?story_id=1418|website=はまれぽ.com|accessdate=2019-07-17}}</ref>。[[大正]]期に「武蔵駅」として一旦開業が決まったが、[[関東大震災]]により頓挫<ref name="yomi_1" />。戦後、地元住民による10万人超の[[署名運動]]が行政を動かし、官民一体となった運動が結実して開業した<ref name=labo>[http://www.higashi-totsuka-cc.com/laboratory.html 東戸塚駅開業までのあゆみ] 東戸塚街づくり開発委員会 公式サイト、2019年11月13日閲覧。</ref>。[[1980年代]]に開業した比較的新しい駅であるが、[[1990年代]]後半からは[[都市再開発|駅前再開発]]事業が行われ、[[百貨店]]や[[ショッピングモール]]等の[[商業施設]]が相次いで開業し、駅周辺では[[1990年代]]から[[2000年代]]にかけて計5棟の[[高層マンション]]が建設され、市内では[[横浜みなとみらい21]]地区に次ぐ供給量になっている。現在では[[マンション]]などの建設も進み[[住宅街]]としても発展している。 * 地域の歴史については、[[東戸塚#歴史]]、[[戸塚駅#歴史]]、[[戸塚区#歴史]]も参照。 * 横須賀線の歴史と「SM分離」については、[[横須賀・総武快速線#歴史]]、[[横須賀線#歴史]]も参照。 * 東海道線の歴史については、[[東海道本線#歴史]]、[[東海道線_(JR東日本)#東海道線東京口普通列車の沿革]]も参照。 === 年表 === {{See also|東戸塚#歴史}} * [[1887年]]([[明治]]20年)[[7月11日]]:[[JNR|国鉄]][[東海道本線]][[横浜駅|横浜]] - [[国府津駅|国府津]]間が延伸開業、[[戸塚駅]]が開業<ref name=labo />。 * [[1923年]]([[大正]]12年):ほぼ現在の東戸塚駅の場所に「武蔵駅」設置が決定するが、同年[[9月1日]]の関東大震災で計画頓挫<ref name=labo />。 * [[1939年]](昭和14年):新駅設置を求める住民運動が起こる<ref name=labo />。その後、終戦直後に再び運動開始<ref name=labo />。 * [[1965年]](昭和40年):地元住民有志により「東戸塚駅(仮称)設置促進委員会」が結成される<ref name=labo />。新駅設置を求める[[署名運動]]開始。1万5千人超の署名を集め、横浜[[市長]]・[[市議会]]議長に[[陳情]]<ref name=labo />。 * [[1967年]](昭和42年)[[7月]]:[[国鉄総裁]]に対し新駅設置を陳情<ref name=labo />。 * [[1969年]](昭和44年)[[11月]]:横浜市長(当時)[[飛鳥田一雄]]、陳情に対し新駅設置促進を回答<ref name=labo />。 * [[1970年]](昭和45年)[[8月]]:[[国鉄]]本社に対し新駅設置を陳情<ref name=labo />。 * [[1972年]](昭和47年) ** 8月:新駅設置を求める住民大会を[[KIホールディングス|小糸工業]](戸塚区前田町)で開催。署名は10万5千人に達する。官民一体の運動開始<ref name=labo />。 ** 9月:[[神奈川県知事]](当時)[[津田文吾]]、国鉄総裁に対し新駅設置を要望<ref name=labo />。 * [[1973年]](昭和48年):駅設置促進期成同盟を結成。新駅設置について横浜市と協議開始<ref name=labo />。 * [[1974年]](昭和49年):国鉄[[東海道貨物線|横浜新貨物線]]の[[土地収用]]について[[建設大臣]]より事業認定<ref name=labo />。 : 地元住民が以降、横浜新貨物線の早期開業を求め、国鉄と自治体(横浜市、神奈川県および県議会議長、神奈川県[[収用委員会]])へ陳情を続ける<ref name=labo />。 * [[1977年]](昭和52年):期成同盟、横浜市都市計画局と新駅設置についての覚書を締結<ref name=labo />。 : 新駅は[[請願駅]]として設置されることになり、横浜市長・福原政二郎・期成同盟会長の3者で協定書を締結。駅設置のための費用と用地は地元負担とする<ref name=labo />。 * [[1979年]](昭和54年)[[2月]]:新駅設置工事開始、起工式が行われる<ref name=labo />。 * [[1980年]](昭和55年) ** [[8月27日]]:駅名を「'''東戸塚駅'''」に決定する<ref>{{Cite news|title=「新川崎」と「東戸塚」 国鉄横須賀線の新駅|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=[[毎日新聞社]]|date=1980-08-28|page=22 朝刊}}</ref>。 ** [[9月30日]]:東戸塚駅開業記念式典が開催される<ref name=labo />。 ** [[10月1日]]:東戸塚駅開業<ref name=labo />。東海道本線・横須賀線電車の別線化による分離運転(SM分離)開始と同時に開業<ref name="yomi_1"></ref>。旅客営業のみ。 *: 同日、横須賀線では[[新川崎駅]]も開業している<ref name="yomi_1" />。 * [[1982年]](昭和58年):西口駅前広場が供用開始。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる。鶴見駅から横浜羽沢駅を経由する支線の終点が、戸塚駅から東戸塚駅に変更される。 * [[1993年]]([[平成]]5年)[[10月22日]]:[[自動改札機]]を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。 * [[1998年]](平成10年)[[3月]]:駅前[[再開発事業]]により、西口に[[東戸塚西口プラザ]]が開業。[[キーテナント]]は[[生活協同組合コープかながわ|コープかながわ]]。 * [[1999年]](平成11年)[[10月7日]]:駅前再開発事業により、東口に[[オーロラシティ]]が開業。キーテナントは[[西武百貨店]]東戸塚店(現在は[[西武の店舗一覧#東戸塚S.C.|西武東戸塚S.C.]])、[[ダイエー]]東戸塚店([[2016年]]に[[イオン (店舗ブランド)|イオン]]へ業態転換<ref>{{Cite web|和書|date=2016-2-10|url=http://toshoken.com/news/5459|title=ダイエー「旗艦店級」28店舗、3月1日からイオンに転換|publisher=都市商業研究所|accessdate=2017-01-12}}</ref>、現在はイオンスタイル東戸塚)。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[交通系ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる。 * [[2003年]](平成15年)[[10月20日]]:東戸塚駅乗入関連のバス路線が再編される。 * [[2009年]](平成21年):西口にモレラ東戸塚<ref>[https://www.malera-higashitotsuka.com/ モレラ東戸塚]</ref>が開業。キーテナントは[[東急ストア]]。 * [[2019年]]([[令和]]元年)[[7月1日]]:[[業務委託駅]]化<ref name="outsourcing">{{Cite web|和書|url=http://www.jreu-yokohama1.jp/library/5b8fc5fcb8e028f93a2e85f2/5c5c03ba2590a9bb7896f3c6.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200728154445/http://www.jreu-yokohama1.jp/library/5b8fc5fcb8e028f93a2e85f2/5c5c03ba2590a9bb7896f3c6.pdf|title=新たな営業施策の提案を受けました!|archivedate=2020-07-28|date=2019-02-07|accessdate=2020-07-28|publisher=[[JR東労組]]横浜地本|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 * [[2024年]](令和6年) ** [[1月24日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了(予定)<ref name="StationCd=1292_231225">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1292|title=駅の情報(東戸塚駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-12-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231225082040/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1292|archivedate=2023-12-25}}</ref>。 ** [[1月25日]]:[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]を導入(予定)<ref name="StationCd=1292_231225" />。 == 駅構造 == [[JR東日本ステーションサービス]]が駅管理を受託している[[戸塚駅]]管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="名前なし-1"/><ref name="outsourcing"/>。[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。エスカレーターは上下双方が設置されているが、平日・休日とも午後5:30以降は2つ共上り専用となり、ホームに降りるにはエレベーターか階段を利用しなければならない。 ホームの東側に東海道線、西側に[[東海道貨物線]]の線路が通っているが、ホームは設置されていない。 ダイヤ乱れ時は当駅に[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]や東海道線 - 高崎線系統の[[湘南新宿ライン]](快速・特別快速)が停車することがある。 === のりば === <!--方面表記および路線については、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠--> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !rowspan="2"|1 |[[画像:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀・総武線(快速)]] |style="text-align:center"|上り |[[横浜駅|横浜]]・[[品川駅|品川]]・[[東京駅|東京]]・[[千葉駅|千葉]]方面 |- |[[画像:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン |style="text-align:center"|北行 |[[渋谷駅|渋谷]]・[[新宿駅|新宿]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面 |- !2 |[[画像:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 横須賀線 |style="text-align:center"|下り |[[大船駅|大船]]・[[鎌倉駅|鎌倉]]・[[横須賀駅|横須賀]]・[[久里浜駅|久里浜]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1292.html JR東日本:駅構内図]) <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> 東戸塚駅下り側.jpg|戸塚側、天王山橋から撮影 右)東海道線 中央)横須賀線 左)貨物線が走る。駅奥の丘陵地に[[清水谷戸トンネル]]がある。 JRE Higashi-Totsuka-STA Gate.jpg|改札口(2023年1月) JRE Higashi-Totsuka-STA Platform1-2.jpg|ホーム(2023年1月) JR Higashi-Totsuka Station-name signboard.jpg|ホーム上の駅名標。新字体の「塚」が使われる。(2019年6月) HigashiTotsuka-2.JPG|橋上駅舎上の駅名標。旧字体の「&#xFA10;」が使われる。(2011年5月) </gallery> === 駅構内設備 === {{columns-list|2| * [[みどりの窓口]]<!-- ←除去する場合は、営業終了日時(2024年1月24日19:00)経過後 -->、[[指定席券売機]]<!--、[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]<ref name="StationCd=1292_231225" /> --><!-- ←反映する場合は、導入開始日時(2024年1月25日4:40)経過後 --> * [[NewDays]] ミニ 東戸塚1号店 - 改札外、改札を出てすぐ左手 * NewDays KIOSK 東戸塚駅西口店 - 改札外、西口出口付近 * [[日本レストランエンタプライズ|いろり庵きらく]] - 改札外 * [[バーガーキング (日本)|バーガーキング]]東戸塚店 - 東口出口傍 * [[銀座コージーコーナー]] - 改札外 * [[あきんどスシロー|スシロー To Go]] JR東戸塚駅店 - 改札外 * [[BECK'S COFFEE SHOP]] - 改札外 * [[横浜市]]行政サービスコーナー - 駅舎1階 |}} == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''48,916人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。JR東日本全体では[[さいたま新都心駅]]に次いで第84位。横須賀線の単独駅(東京ー久里浜間)では最多。接続路線のある鎌倉駅より利用者数が多い。 近年の1日平均'''乗車'''人員推移は下記の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/tokei-chosa/portal/tokeisho/09.html 横浜市統計書] - 横浜市</ref> !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1991年(平成3年) |38,541 | |- |1992年(平成4年) |40,644 | |- |1993年(平成5年) |42,414 | |- |1994年(平成6年) |43,354 | |- |1995年(平成7年) |44,175 |<ref group="統計">[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/1128766_3967261_misc.pdf#search=%27%E7%B7%9A%E5%8C%BA%E5%88%A5%E9%A7%85%E5%88%A5%E4%B9%97%E8%BB%8A%E4%BA%BA%E5%93%A1%EF%BC%881%E6%97%A5%E5%B9%B3%E5%9D%87%EF%BC%89%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB%27 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移] - 17ページ</ref> |- |1996年(平成8年) |45,330 | |- |1997年(平成9年) |45,269 | |- |1998年(平成10年) |45,756 |<ref group="*">平成12年 - 220ページ</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>48,063 |<ref group="*" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 平成13年]}} - 222ページ</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>49,094 |<ref group="*" name="toukei2001" /> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>50,197 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 平成14年]}} - 220ページ</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>51,298 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 平成15年]}} - 220ページ</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>52,179 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 平成16年]}} - 220ページ</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>53,122 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 平成17年]}} - 222ページ</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>54,213 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 平成18年]}} - 222ページ</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>55,906 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 平成19年]}} - 224ページ</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>57,047 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 平成20年]}} - 228ページ</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>57,523 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 平成21年]}} - 238ページ</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>57,818 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 平成22年]}} - 236ページ</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>57,754 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 平成23年]}} - 236ページ</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>57,520 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 平成24年]}} - 232ページ</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>57,808 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 平成25年]}} - 234ページ</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>58,487 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 平成26年]}} - 236ページ</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>57,613 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20160609_001_15.pdf 平成27年]}} - 236ページ</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>58,172 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 平成28年]}} - 244ページ</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>58,400 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20180614094521if_/http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成29年]}} - 236ページ</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>58,780 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20190702120542if_/http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成30年]}} - 220ページ</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>59,329 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/15.pdf 平成31年]}} - 220ページ</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>58,888 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/202015.pdf 令和2年]}} - 220ページ</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>44,389 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>45,942 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/ 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>48,916 | |} == 駅弁 == 長らく[[大船軒]]が[[駅弁]]を担当していたが、2020年1月15日に撤退。現在は隣接店舗にて[[崎陽軒]]が駅弁を販売している。主な駅弁は下記の通り<ref>{{Cite web|和書|url=https://kiyoken.com/shop/higashitotsuka.html |title=崎陽軒>店舗のご案内>神奈川県>JR東戸塚駅店 |accessdate=2022-03-11 |publisher=https://kiyoken.com/}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=227-228}}</ref>。 {{Div col||20em}} * 幕の内弁当 * 横濱中華弁当 * かながわ味わい弁当(季節により内容が変わる:春・初夏・夏・秋・冬) * [[シウマイ弁当]] * しょうが焼弁当 * おべんとう(季節により内容が変わる春・初夏・夏・秋・冬) * 横濱チャーハン * お赤飯弁当 * 炒飯弁当 * 横濱ピラフ {{Div col end}} == 駅周辺 == {{see also|東戸塚}} 2017年現在、[[東戸塚]]という[[町名]]は存在せず、駅東口周辺は[[品濃町]]、西口周辺は[[川上町 (横浜市)|川上町]]という町名である。 近年は[[都市再開発|駅前再開発]]により、商業施設や住宅地の充実で大きく発展している。東口では駅前再開発が進み、駅舎3Fから[[ペデストリアンデッキ]]で再開発ビル[[オーロラシティ]]や複数の高層マンションと結ばれている。 西口には、駅前再開発で[[モレラ東戸塚]]が建設された。東口ほど大規模ではないが、商業施設やマンション等住宅街を中心に近年発展している。[[横浜カントリークラブ]]や[[戸塚カントリー倶楽部]]といった[[ゴルフ場]]が比較的近く、バスターミナルから送迎バスが運行されている。 駅から少し離れると、[[農地]]や[[果樹園]]、草原や小さな山々([[谷戸]])等、未開発の田園風景が残り、開業が比較的新しい駅の典型的な特徴がある。特に、駅の保土ケ谷寄りから品濃トンネルの間には[[肥田牧場]]がある。 === 駅東口 === [[画像:Ouroramorl.JPG|thumb|オーロラシティ]] * [[オーロラシティ]] ** [[西武の店舗一覧#東戸塚S.C.|西武東戸塚S.C]] ** オーロラモール ** オーロラモールアネックス ** [[イオン (店舗ブランド)|イオンスタイル東戸塚]] * [[コナカ]]本社・東戸塚総本店 === 駅西口 === {{columns-list|2| * モレラ東戸塚 ** [[東急ストア]] ** [[ハックドラッグ]] * [[東戸塚西口プラザ]] ** [[大創産業|ダイソー]] ** [[ノジマ]] ** [[生活協同組合コープかながわ]] ** [[西松屋]] ** [[しまむら]] * [[Olympicグループ|Olympicおりーぶ東戸塚店]] ** [[ブックオフコーポレーション|ブックオフスーパーバザー]] |}} <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Higashitotsukanishiguchiplaza.JPG|東戸塚西口プラザ OSCおりーぶ.JPG|Olympicおりーぶ東戸塚店 </gallery> === 金融機関 === * [[三井住友銀行]]東戸塚支店 * [[横浜銀行]]東戸塚支店 * [[みずほ銀行]]東戸塚支店 * [[横浜信用金庫]]東戸塚支店 === 運動施設 === * 戸塚カントリー倶楽部 * [[横浜カントリークラブ]] * [[横浜FC LEOCトレーニングセンター]]([[横浜FC]]練習場) === 学校 === {{columns-list|2| * 横浜市立川上北小学校 * 横浜市立川上小学校 * 横浜市立品濃小学校 * 横浜市立東品濃小学校 * 横浜市立平戸小学校 * [[横浜市立名瀬中学校]] * 横浜市立平戸中学校 * [[学校法人岩崎学園|岩崎学園]] ** [[横浜リハビリテーション専門学校]] ** [[横浜保育福祉専門学校]] |}} === 旧跡・神社仏閣 === * 旧[[東海道]] ** 品濃[[一里塚]] ** [[境木地蔵]] ** 旧[[権太坂]] * [[白旗神社]]([[白旗神社#白旗神社(横浜市戸塚区品濃)|品濃白旗神社]]、[[白旗神社#白旗神社(横浜市戸塚区平戸)|平戸白旗神社]]) * 北天院 * [[清水谷戸トンネル]](日本最古の現役鉄道トンネル) <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Shimizuyado.jpg|清水谷戸トンネル 境木地蔵.JPG|境木地蔵 白旗神社(品濃町).JPG|品濃白旗神社 </gallery> === 行政 === * [[横浜市]]東戸塚駅行政サービスコーナー * 横浜西年金事務所 === 企業 === * [[小糸製作所]]・[[コイト電工]]本社 * [[エフエム戸塚]] * [[グラフテック]]本社 * [[有隣堂]]営業本部 * [[日本交通横浜]]本社営業所 * [[第一生命東戸塚教育センター新館]] === その他 === [[画像:品濃中央公園.JPG|thumb|品濃中央公園]] * 品濃中央公園 * 神奈川県営川上[[団地]] * [[環状2号線 (横浜市)|環状2号線(横浜市道17号)]] * [[横浜新道]] [[川上インターチェンジ]]・[[今井インターチェンジ (神奈川県)|今井インターチェンジ]] * 東戸塚記念病院 == バス路線 == <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> [[File:東戸塚駅西口バスターミナル.jpg|thumb|西口バスターミナル(2004年11月)]] {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !colspan="4"|駅前・東口 |- !1 |style="text-align:center;"|[[横浜市営バス]] |{{Unbulleted list|[[横浜市営バス保土ケ谷営業所#210・374系統|'''210''']]:[[横浜市立境木中学校|境木中学校前]]方面(循環含む)|[[横浜市営バス保土ケ谷営業所#214系統|'''214''']]:グリーンタウン入口・境木中学校方面(循環)|[[横浜市営バス保土ケ谷営業所#260系統|'''260''']]:平和台折返場|'''374''':町内会館入口 / 平戸幼稚園}} |&nbsp; |- !2 |rowspan="5" style="text-align:center;"|[[神奈川中央交通]] |{{Unbulleted list|[[神奈川中央交通舞岡営業所#東戸塚駅東口 - 緑園都市駅・弥生台駅方面|'''東10''']]:[[緑園都市駅]]|'''東23''':[[弥生台駅]]}} |&nbsp; |- !3 |{{Unbulleted list|[[神奈川中央交通舞岡営業所#戸塚駅東口 - 秋葉 - 緑園都市駅・東戸塚駅方面|'''戸33''']]:[[戸塚駅]]東口|[[神奈川中央交通舞岡営業所#東戸塚駅 - 舞岡方面|'''東02''']]:[[神奈川中央交通舞岡営業所|舞岡]]|[[神奈川中央交通舞岡営業所#東戸塚駅東口 - 川上団地方面|'''東04''']]:川上団地}} |&nbsp; |- !4 |{{Unbulleted list|[[神奈川中央交通舞岡営業所#東戸塚駅東口 - 保土ケ谷駅 - 横浜駅方面|'''横17''']]:[[横浜駅]]西口|[[神奈川中央交通舞岡営業所#東戸塚駅東口 - 井土ヶ谷方面|'''東01''']]:井土ヶ谷下町|[[神奈川中央交通舞岡営業所#東戸塚駅東口 - 平戸団地方面|'''東03''']]:平戸団地|'''東06''':県庁入口|'''東08''':横浜パークタウン|'''東21''':水道道|'''205''':[[保土ケ谷駅]]東口}} |{{Unbulleted list|「東06」は平日朝のみ運行|「東21」「205」は平日・土曜朝のみ運行}} |- !5 |{{Unbulleted list|[[神奈川中央交通舞岡営業所#東戸塚駅東口 - 京急ニュータウン方面|'''東12''']]:[[京急ニュータウン]]|[[神奈川中央交通舞岡営業所#上大岡駅 - 南高校 - 平戸 - 東戸塚駅方面|'''上202'''・'''203''']]:[[上大岡駅]]|'''206''':東戸塚駅東口}} |「206」は平日日中のみ運行 |- !6 |{{Unbulleted list|[[神奈川中央交通舞岡営業所#東戸塚駅東口 - 平戸方面(ミニバス)|'''東50''']]:[[上永谷駅]]|'''東55''':東戸塚駅東口}} |&nbsp; |- !colspan="4"|西口 |- !rowspan="2"|1 |style="text-align:center;"|神奈川中央交通 |[[神奈川中央交通舞岡営業所#東戸塚駅西口 - 新戸塚病院前循環|'''東16''']]:公園前商店街入口 / 東戸塚駅西口 |公園前商店街入口行きは平日夜1本のみ運行 |- |rowspan="2" style="text-align:center;"|[[相鉄バス]] |{{Unbulleted list|[[相鉄バス#浜17・浜18系統|'''浜17''']]:東戸塚駅西口|'''浜18''':[[星川インターチェンジ|星川ランプ]]}} |「浜18」は夜間のみ運行 |- !2 |[[相鉄バス#旭1・旭2・旭6系統|'''旭6''']]:市沢小学校 / 左近山第一 / 左近山第五 / [[二俣川駅]]南口 |&nbsp; |} == 今後の予定 == [[横浜市営地下鉄グリーンライン]]の停車駅になり、日吉、中山、二俣川、上大岡、根岸方面に接続する計画がある<ref>{{Cite web|和書 |author = 国土交通省鉄道局 |date = 2000-01-27 |url = https://www.mlit.go.jp/tetudo/toshitetu/03_10.html |title = 運輸政策審議会答申図(三大都市圏) |format = PDF |work = [[運輸政策審議会答申第18号]] |pages = 運輸政策審議会答申図(三大都市圏) |publisher = [[国土交通省]] |accessdate = 2011-02-19 }}</ref>。 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 横須賀線(東京駅 - 大船駅間は東海道本線) ::: [[保土ケ谷駅]] (JO 12) - '''東戸塚駅 (JO 11)''' - [[戸塚駅]] (JO 10) : [[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン :: {{Color|#0099ff|■}}特別快速・{{Color|#f68b1e|■}}快速(いずれも高崎線 - 東海道本線直通) :::; 通過 (異常時には臨時停車の場合あり) :: {{Color|#18a629|■}}普通(横須賀線 - 宇都宮線直通) ::: 保土ケ谷駅 (JS 12) - '''東戸塚駅 (JS 11)''' - 戸塚駅 (JS 10) : 東海道貨物線 ::: [[横浜羽沢駅]] - ('''東戸塚駅''') - [[大船駅]] ::: ※書類上は当駅が貨物支線の終点。当駅より大船方は旅客線と並行する貨物線を走行する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist}} === 利用状況 === ; JR東日本の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の統計データ {{Reflist|group="統計"}} ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 神奈川県県勢要覧 {{Reflist|group="*"|22em}} == 関連項目 == {{Commonscat|Higashi-Totsuka Station|東戸塚駅}} {{Commonscat|Higashi Totsuka|東戸塚}} * [[横須賀・総武快速線#SM分離]] * [[東海道貨物線]] * [[東戸塚]] * [[請願駅]] * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1292|name=東戸塚}} {{総武快速線・横須賀線}} {{湘南新宿ライン}} {{東海道貨物線}} {{DEFAULTSORT:ひかしとつか}} [[Category:横浜市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 ひ|かしとつか]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:1980年開業の鉄道駅]] [[Category:横須賀・総武快速線]] [[Category:戸塚区の交通|ひかしとつかえき]] [[Category:戸塚区の建築物|ひかしとつかえき]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%88%B8%E5%A1%9A%E9%A7%85
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東京大賞典
東京大賞典(とうきょうだいしょうてん)は、特別区競馬組合が大井競馬場で施行する地方競馬の重賞競走である。格付けはGI。競馬番組表では「農林水産大臣賞典(国際交流) 東京大賞典」と表記される。 副賞は農林水産大臣賞、特別区競馬組合管理者賞、日本中央競馬会理事長賞、地方競馬全国協会理事長賞、日本馬主協会連合会長奨励賞、東京都馬主会理事長賞、日本地方競馬馬主振興協会会長賞(2022年)。 大井競馬はもとより、日本のダート競馬の1年を締め括る総決算レースである。 1955年に「秋の鞍(あきのくら)」の名称で創設され、春の鞍(のちの東京ダービー)・春の特別(のちのアラブダービー)・秋の特別(のちの全日本アラブ大賞典)とともに大井競馬場の四大競走として位置付けられた。第1回はダート2600mで施行され、1着賞金は100万円であった。その後、競走名は1964年に現名称となり、施行距離は幾度かの変遷を経て、1998年からはダート2000mで定着。南関東公営競馬では1978年に新設された帝王賞と共に、サラブレッド系古馬の2大競走としても位置づけられている。 開催時期は1964年から12月下旬で定着。1999年からは開催日も12月29日で固定され、南関東公営競馬のみならず日本競馬の1年を締め括る競走として定着した。 1995年より中央・地方全国交流競走に指定され、日本中央競馬会(JRA)および他地区地方競馬所属馬も出走可能になった。1997年には統一GI(南関東G1)に格付け、2011年からは外国馬も出走可能な国際競走に指定され、あわせて地方競馬で施行する競走としては初めての国際GIに格付けされた(後述)。 現名称となった1964年は、有馬記念を模したグランプリ競走として、ファン投票で出走馬を選出した。 2019年には売り上げがKEIRINグランプリを上回る56億627万5800円に達し、1レースの売り上げとしては中央競馬を除く公営競技(地方競馬・競輪・競艇・オートレース)で最大規模の競走に成長した。2020年、2021年とも売り上げ記録を更新し2021年は69億5320万8900円となった。ただし、2022年は対前年比でダウンし62億7471万1900円(前年比90.2%)に留まった。 特別区競馬組合は2010年10月18日に、本競走を2011年から国際競走として施行すること、および日本グレード格付け管理委員会から国際GIの格付を受けたことを発表した。国際GIに格付けされた競走は、地方競馬として初めてとなる。 2011年現在の規定では、ジャパンカップダート(現:チャンピオンズカップ)に予備登録した外国調教馬は東京大賞典にも自動的に予備登録され、輸送費及び帰国時の渡航費用などは外国馬関係者の自己負担としていた。ただし、ジャパンカップダートと本競走に連続で出走する場合に限り、帰国時の輸送費や渡航費を特別区競馬組合が負担するとしていた。 以下の内容は、2023年のもの。 選定後に所属変更した馬は出走できない(南関東地区所属馬は除く)。 地方競馬所属馬は、同年に行われる下表の競走で所定の成績をあげた馬に優先出走権が付与される。 浦和記念で他地区地方競馬所属馬が優先出走権を得た場合、南関東所属馬の出走枠を減らすことが定められている。 1着1億円、2着3500万円、3着2000万円、4着1000万円、5着500万円、着外手当30万円。 1着賞金1億円は地方競馬で開催される重賞ではJBCクラシックと並んで最高額。 生産牧場賞は150万円。 すべて大井競馬場ダートコースで施行。 優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。 競走名は第1回から第9回まで「秋の鞍」、第10回以降は「東京大賞典」。 第68回終了時点 当レースは2019年からフジテレビ・BSフジで放送されているが、当日に行われる他の競走も含め青嶋達也が一貫して実況を担当している。
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東京大賞典(とうきょうだいしょうてん)は、特別区競馬組合が大井競馬場で施行する地方競馬の重賞競走である。格付けはGI。競馬番組表では「農林水産大臣賞典(国際交流) 東京大賞典」と表記される。 副賞は農林水産大臣賞、特別区競馬組合管理者賞、日本中央競馬会理事長賞、地方競馬全国協会理事長賞、日本馬主協会連合会長奨励賞、東京都馬主会理事長賞、日本地方競馬馬主振興協会会長賞(2022年)。
{{競馬の競走 |馬場 = ダート |競走名 = 東京大賞典<br>Tokyo Daishoten<ref name="ICSC"/> |画像 = [[ファイル:The 56th Tokyo Daishoten 20101229.jpg|300px]] |画像説明 = 第56回東京大賞典 |開催国 = {{Flagicon|JPN}}[[日本の競馬|日本]] |主催者 = [[特別区競馬組合]]([[南関東公営競馬|南関東公営]]) |創設 = 1955年10月16日 |競馬場 = [[大井競馬場]] |年次 = 2023 |距離 = 2000[[メートル|m]] |格付け = {{GI}} |1着賞金 = 1億円 |賞金総額 = <!-- 着外手当(着外賞金)があるので一応空欄に --> |条件 = [[サラブレッド]]系3歳以上選定馬([[国際競走|国際交流]]) |負担重量 = {{Nowrap|定量(3歳56[[キログラム|kg]]、4歳以上57kg<br/>[[牝馬]]2kg減、南半球産3歳2kg減}} |出典 = <ref name="bangumi">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.tokyocitykeiba.com/race/wp-content/uploads/sites/3/2023/12/kettei_r05_15-1.pdf|title=令和5年度第15回大井競馬競走番組表(決定)|website=東京シティ競馬 : TOKYO CITY KEIBA|accessdate=2023-12-28}}</ref> }} [[ファイル:Tokyo Grand Prix 2005.jpg|230px|thumb|第51回東京大賞典(2005年12月29日)ゴール前直線の様子]] [[ファイル:Blue Concord 20061229R.jpg|thumb|第52回東京大賞典(2006年12月29日 [[ブルーコンコルド]]優勝)]] [[ファイル:The 55th Tokyo Daishoten 20091229.jpg|230px|thumb|第55回東京大賞典(2009年12月29日 [[サクセスブロッケン]]優勝)]] [[ファイル:Tokyo Daishoten 20141229 lei.JPG|230px|thumb|2014年に[[ホッコータルマエ]]が勝利した時の優勝レイ]] '''東京大賞典'''(とうきょうだいしょうてん)は、[[特別区競馬組合]]が[[大井競馬場]]で施行する[[地方競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]である。格付けは[[G1 (競馬)|GI]]。競馬番組表では「'''[[農林水産大臣賞典]](国際交流) 東京大賞典'''」と表記される<ref name="bangumi"/>。 副賞は[[農林水産大臣]]賞、特別区競馬組合管理者賞、[[日本中央競馬会]]理事長賞、[[地方競馬全国協会]]理事長賞、[[日本馬主協会連合会]]長奨励賞、東京都馬主会理事長賞、日本地方競馬馬主振興協会会長賞(2022年)<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.nagoyakeiba.com/info/race/file/138e2cd8ca537e30a76132614eb884212e49f5af.pdf|title=大井競馬出走馬一覧表 令和5年度特別区競馬組合営第15回大井競馬第4日12月29日(金)|website=名古屋けいばオフィシャルサイト|accessdate=2023-12-28}}</ref>。 == 概要 == [[大井競馬]]はもとより、[[日本]]の[[ダート]]競馬の[[1年]]を締め括る総決算レースである<ref>[http://nar.netkeiba.com/?pid=special&id=0051 レースガイド(東京大賞典)] - netkeiba.com、2014年12月27日閲覧</ref><ref>[https://www.keiba.go.jp/old_topics/2014/1225.html 今年最後のGI競走 東京大賞典GI枠順確定] - 地方競馬全国協会、2014年12月27日閲覧</ref>。 [[1955年]]に「'''秋の鞍'''(あきのくら)」の名称で創設<ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/data/history/#history-tab02 TCKヒストリー(50's 大井競馬 誕生)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141214171431/http://www.tokyocitykeiba.com/data/history/ |date=2014年12月14日 }} - 特別区競馬組合、2014年12月12日閲覧</ref>され、春の鞍(のちの[[東京ダービー (競馬)|東京ダービー]])・春の特別(のちの[[アラブダービー]])・秋の特別(のちの[[全日本アラブ大賞典]])とともに大井競馬場の四大競走として位置付けられた<ref>啓衆社『競週地方競馬』1955年3月号。</ref>。第1回はダート2600mで施行され、1着賞金は100万円であった{{Refnest|group="注"|同年の中央競馬では東京優駿の1着賞金200万円<ref>[https://www.jra.go.jp/datafile/seiseki/g1/derby/result/derby1955.html 第22回東京優駿競走 競走成績] - 日本中央競馬会、2014年6月19日閲覧</ref>が最高額で、次いで天皇賞などの150万円<ref>[https://www.jra.go.jp/datafile/seiseki/g1/akiten/result/akiten1955.html 第32回天皇賞 競走成績] - [[日本中央競馬会]]、2014年6月19日閲覧</ref>となっていた。}}。その後、競走名は1964年に現名称となり、施行距離は幾度かの変遷を経て、1998年からはダート2000mで定着。[[南関東公営競馬]]では1978年に新設された[[帝王賞]]と共に、[[サラブレッド]]系古馬の2大競走としても位置づけられている。 開催時期は1964年から12月下旬で定着。1999年からは開催日も[[12月29日]]で固定され、[[南関東公営競馬]]のみならず[[日本競馬]]の1年を締め括る競走として定着した<ref>[https://www.keiba.go.jp/furlong/2012/highlight/1229-01.html web Furlong 2012(レースハイライト:第58回東京大賞典)] - 地方競馬全国協会、2014年12月12日閲覧</ref>。 1995年より中央・地方全国交流競走に指定<ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/data/history/#history-tab06 TCKヒストリー(90's 新しい競馬の幕開け)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141214171431/http://www.tokyocitykeiba.com/data/history/ |date=2014年12月14日 }} - 特別区競馬組合、2014年12月12日閲覧</ref>され、[[日本中央競馬会]](JRA)および他地区地方競馬所属馬も出走可能になった。1997年には統一GI(南関東G1)に格付け、2011年からは外国馬も出走可能な[[国際競走]]に指定され、あわせて地方競馬で施行する競走としては初めての国際GIに格付けされた(後述)。 現名称となった1964年は、[[有馬記念]]を模したグランプリ競走{{Refnest|group="注"|同年の同競走については、新聞・雑誌で実際に「グランプリ」の呼称が用いられた<ref>啓衆社『競週地方競馬』1965年1〜2月号</ref><ref>日刊スポーツ社『日刊スポーツ(東京)』1964年12月30日付</ref>。}}として、ファン投票で出走馬を選出した。 2019年には売り上げが[[KEIRINグランプリ]]を上回る56億627万5800円に達し<ref>https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2019/12/30/kiji/20191229s00004049385000c.html</ref>、1レースの売り上げとしては[[中央競馬]]を除く公営競技(地方競馬・競輪・競艇・オートレース)で最大規模の競走に成長した。2020年、2021年とも売り上げ記録を更新し2021年は69億5320万8900円となった<ref>{{cite news |url= https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=181838 |title=【東京大賞典】60億円超、地方競馬1レースの売上レコードを6年連続で更新! |newspaper=netkeiba.com |publisher=ネットドリーマーズ |date=2020-12-29 |accessdate=2021-01-03 }}</ref><ref>{{cite news |url= https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=198077&rf=related_info |title=【東京大賞典】地方競馬史上初!1開催日あたりの売得金が100億円突破 |newspaper=netkeiba.com |publisher=ネットドリーマーズ |date=2021-12-30 |accessdate=2022-01-02 }}</ref>。ただし、2022年は対前年比でダウンし62億7471万1900円(前年比90.2%)に留まった<ref>{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/keiba/news/202212290000910.html |title=東京大賞典の売り上げは前年比90・2%、開催当日全体では2年連続100億円突破 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2022-12-29 |accessdate=2023-01-19 }}</ref>。 === 国際GI格付の取得 === 特別区競馬組合は2010年10月18日に、本競走を2011年から国際競走として施行すること、および[[日本グレード格付け管理委員会]]から国際GIの格付を受けたことを発表した<ref>{{Cite press release|和書|title=東京大賞典競走の国際競走化及び国際GI格付け取得について|publisher=特別区競馬組合|date=2010-10-18|url=https://www.tokyocitykeiba.com/news/1642/|accessdate=2022-01-11}}</ref>。国際GIに格付けされた競走は、地方競馬として初めてとなる<ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/data/history/#history-tab08 TCKヒストリー(10's 大井競馬のさらなる発展へ)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141214171431/http://www.tokyocitykeiba.com/data/history/ |date=2014年12月14日 }} - 特別区競馬組合、2014年12月12日閲覧</ref>。 2011年現在の規定では、ジャパンカップダート(現:[[チャンピオンズカップ (中央競馬)|チャンピオンズカップ]])に予備登録した外国調教馬は東京大賞典にも自動的に予備登録され、輸送費及び帰国時の渡航費用などは外国馬関係者の自己負担としていた。ただし、ジャパンカップダートと本競走に連続で出走する場合に限り、帰国時の輸送費や渡航費を特別区競馬組合が負担するとしていた<ref name=NAR20110808>[https://www.keiba.go.jp/furlong/2011/closeup_data/110808.html 地方競馬初の国際交流競走 サンタアニタトロフィー] - 地方競馬公式サイト「[[ハロン (雑誌)|Webハロン]]」 2011年[[8月8日]]、2022年5月6日閲覧</ref>。 === 競走条件 === 以下の内容は、2023年<ref name="bangumi" />のもの。 ;出走資格 :[[サラブレッド]]系3歳以上選定馬(出走可能頭数:最大16頭) :* 外国馬の出走がない場合の中央競馬所属馬の出走枠は7頭。 ;負担重量 :定量(3歳56kg、4歳以上57kg、[[牝馬]]2kg減、南半球産3歳馬2kg減) 選定後に所属変更した馬は出走できない(南関東地区所属馬は除く)。 ==== 優先出走権 ==== 地方競馬所属馬は、同年に行われる下表の競走で所定の成績をあげた馬に優先出走権が付与される<ref name="bangumi" />。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !競走名!!格!!競馬場!!距離!!必要な着順 |- |[[浦和記念]]||JpnII||[[浦和競馬場]]||ダート2000m||1・2着馬 |- |[[勝島王冠]]||南関東SII||[[大井競馬場]]||ダート1800m||1着馬 |} 浦和記念で他地区地方競馬所属馬が優先出走権を得た場合、南関東所属馬の出走枠を減らすことが定められている。 === 賞金等(2023年) === 1着1億円、2着3500万円、3着2000万円、4着1000万円、5着500万円<ref name="bangumi" />、着外手当30万円<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.tokyocitykeiba.com/race/wp-content/uploads/sites/3/2023/03/keiba_bangumi_2023.pdf#page=30|title=令和5年度大井競馬番組|publisher=特別区競馬組合|accessdate=2023-12-28|page=28}}</ref>。 1着賞金1億円は地方競馬で開催される重賞ではJBCクラシックと並んで最高額。 生産牧場賞は150万円<ref name="bangumi" />。 == 歴史 == === 年表 === * 1955年 - 4歳以上の競走馬による重賞競走「'''秋の鞍'''」の名称で創設、大井競馬場・ダート2600mで第1回が施行された。 * 1956年 - 施行月を11月に変更。 * 1962年 - 施行距離をダート3000mに変更。 * 1964年 ** 名称を「'''東京大賞典'''」に変更。 ** 施行月を12月に変更。 * 1972年 - 前年に施行予定だった第17回を、[[馬インフルエンザ]]の影響により3月に順延して開催。 * 1976年 - 1着賞金が3500万円に増額。 * 1980年 - 1着賞金が3800万円に増額。 * 1984年 - 1着賞金が3500万円に減額。 * 1985年 - 1着賞金が3400万円に減額。 * 1987年 - 地方競馬では初となる[[前日発売]]が実施される<ref>『[[ハロン (雑誌)|地方競馬]]』1988年2月号、p.3</ref>。 * 1988年 - 1着賞金が4000万円に増額。 * 1989年 ** 1着賞金が4500万円に増額。 ** 施行距離をダート2800mに変更。 * 1990年 - 1着賞金が5200万円に増額。 * 1991年 - 1着賞金が6000万円に増額。 * 1992年 - 1着賞金が6800万円に増額。 * 1994年 - 1着賞金が6500万円に減額。 * 1995年 ** 1着賞金が8000万円に増額。 ** 中央・地方全国交流競走に指定。 * 1997年 ** 1着賞金が8100万円に増額。 ** ダート競走格付け委員会によりGI(統一GI)<ref group="注">当時の格付表記は、国内限定の独自グレード扱い。</ref>に格付けされる。 * 1998年 ** 施行距離をダート2000mに変更。 ** 負担重量が1kg増加。 * 1999年 ** 1着賞金が8000万円に減額。 ** 同年より、施行日が「12月29日」となる。 * 2001年 - [[馬齢]]表記を国際基準へ変更したのに伴い、競走条件を「3歳以上」に変更。 * 2002年 - 売得金額が24億3706万2000円を記録し、1レースの売上としては地方競馬史上最高となった。当日の入場者数も59210人を記録。 * 2003年 ** 6歳以上の負担重量が4・5歳と同じく牡馬・騸馬56kg、牝馬54kgから牡馬・騸馬57kg、牝馬55kgに変更。 ** 中央競馬の施設で[[投票券 (公営競技)|勝馬投票券]]を発売。 * 2005年 - [[アジュディミツオー]]が史上初の連覇達成。 * 2007年 ** 日本のパートI国昇格に伴い、格付表記をJpnIに変更。同時に南関東グレードは併記しないこととなった。 ** 売得金額が25億20万7900円を記録し、1レースの売上としては地方競馬史上最高となった。当日の入場者数も39000人を記録。 * 2010年 - JRA所属馬の出走枠を5頭から6頭に、南関東所属馬の出走枠を8頭から7頭にそれぞれ変更。 * 2011年 ** 1着賞金が7000万円に減額。 ** [[国際競走]]に変更され、外国馬が8頭まで出走可能となる<ref name=NAR20110808 />。 ** 格付表記をGI(国際格付)に変更<ref name=NAR20110808 />。 ** 当年より[[東京スカパラダイスオーケストラ]]作曲の国際GI専用(実質的に本競走専用)の[[ファンファーレ (競馬)|ファンファーレ]]が使用される。 ** [[スマートファルコン]]が史上2頭目の連覇達成。 * 2013年 - 売得金額が26億824万5900円を記録し、1レースの売上としては地方競馬史上最高となった。当日の入場者数も41410人を記録。 * 2014年 ** 初の外国調教馬として、ソイフェットが出走(16頭中16着)<ref>[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/TodayRaceInfo/RaceMarkTable?k_raceDate=2014%2f12%2f29&k_raceNo=10&k_babaCode=20 競走成績(第60回東京大賞典)] - 地方競馬全国協会、2019年12月24日閲覧</ref>。 ** [[ホッコータルマエ]]が史上3頭目の連覇達成。 * 2015年 ** 1着賞金が8000万円に増額。 ** 売得金額が27億4963万900円を記録し、1レースの売上としては地方競馬史上最高となった。当日の入場者数も34076人を記録。 * 2016年 ** 外国馬が出走しない場合の中央競馬所属馬の出走枠が1頭増えて7頭となる<ref>{{Cite news|url=http://race.sanspo.com/keiba/news/20151206/etc15120609270001-n1.html|title=地方競馬の交流重賞で中央馬の出走枠が拡大|newspaper=サンケイスポーツ|date=2015-12-06|accessdate=2016-12-27}}</ref>。 ** 売得金額が37億3269万5200円を記録し、前年の記録を塗り変えて地方競馬史上最高となった。当日の入場者数も34601人を記録。 * 2017年 - 売得金額が42億7307万1200円を記録し、前年の記録を塗り変えて地方競馬史上最高となった。当日の入場者数も35221人を記録。 * 2018年 - 売得金額が46億3240万4400円を記録し、前年の記録を塗り変えて地方競馬史上最高となった。当日の入場者数も39330人を記録。 * 2019年 ** 当年よりテレビ生中継を[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[BSフジ]]で実施<ref>[https://www.tokyocitykeiba.com/news/45200/ 令和元年を締めくくるBIGレース「東京大賞典(GⅠ)」12月29日(日)フジテレビで初の生中継が決定!(BSフジでも同時放送)],東京シティ競馬,2019年11月18日</ref>。 ** 売得金額が56億627万5800円を記録し、前年の記録を塗り変えて地方競馬史上最高となった。また、初めて同年の[[KEIRINグランプリ]](52億1579万6700円)の売り上げを上回った。当日の入場者数も47614人を記録。 ** [[オメガパフューム]]が史上4頭目の連覇達成。 * 2020年 ** 売得金額が60億7444万7400円を記録し、前年の記録を塗り変えて地方競馬史上最高となった。 ** オメガパフュームが史上初の3連覇。日本国内における、国際G1の同一タイトル3連覇は史上初(中央競馬含む)。 * 2021年 ** 当年よりフジテレビ、BSフジに加えてJRAの[[G1 (競馬)|G1]]が開催される競馬場を放送エリアに持つ[[フジニュースネットワーク|FNN]]系列の[[東海テレビ放送|東海テレビ]]、[[関西テレビ放送|関西テレビ(カンテレ)]]でもテレビ生中継を実施<ref>[https://www.tokyocitykeiba.com/news/53359/ 今年は放送地域を拡大!「東京大賞典(GⅠ)」12月29日(水)フジテレビ他2局・BSフジで生中継!],東京シティ競馬,2021年11月26日</ref>。 ** オメガパフュームが史上初の4連覇。ダート国際G1の同一タイトル4連覇は世界初。 ** 売得金額が69億5320万8900円を記録し、前年の記録を塗り変えて地方競馬史上最高となった。また、1日の売得金額も104億4805万4290円を記録し、地方競馬としては初めて1開催日の売得金額が100億円を超えた。 * 2022年 ** 1着賞金が1億円に増額。持ち回りの[[JBCクラシック]]を除き、地方競馬単独開催の重賞として史上最高額となる<ref>[https://www.nankankeiba.com/grace_list/2022.do 重賞競走日程 2022年4月~2023年3月] - 南関東4競馬場公式ウェブサイト、2022年3月4日閲覧</ref>。 ** 当年よりフジテレビ系の生中継において、フジテレビ、BSフジ、東海テレビ、関西テレビに加え[[北海道文化放送]]にもネット<ref>[https://www.tokyocitykeiba.com/news/57890/ 12月29日(木)は今年最後のGⅠレース「東京大賞典」!フジテレビ他3局およびBSフジでの生中継が決定!] 東京シティ競馬、2022年11月30日</ref>。これによりJRAのG2レースが開催される競馬場を放送エリアに持つフジ系列局で放送されることとなった。 * 2023年 - 3歳の負担重量が牡馬・騸馬56kg、牝馬54kgに変更。 == 歴代優勝馬 == すべて大井競馬場ダートコースで施行。 優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。 競走名は第1回から第9回まで「秋の鞍」<ref>{{PDFLink|[http://www.tokyocitykeiba.com/grade_race/2014/20141229/alacarte.pdf 東京大賞典(GI)アラカルト(過去全59回の分析)]}} - 特別区競馬組合、2014年12月15日閲覧</ref>、第10回以降は「東京大賞典」。 {| class="wikitable" !回数!!施行日!!距離!!優勝馬!!style="white-space:nowrap"|性齢!!style="white-space:nowrap"|所属!!タイム!!優勝騎手!!style="white-space:nowrap"|管理調教師!!馬主 |- |style="text-align:center"|第1回||style="white-space:nowrap"|1955年10月16日||2600m||[[アサヒロ|ミスアサヒロ]]||牝5||[[大井競馬場|大井]]||style="white-space:nowrap"|2:47 3/5||安藤徳男||安藤徳男||手塚栄一 |- |style="text-align:center"|第2回||1956年11月1日||2600m||ケンチカラ||牡4||大井||2:48 0/5||[[小筆昌]]||伊藤正美||青野保 |- |style="text-align:center"|第3回||1957年11月1日||2600m||[[イチカントー]]||牡4||大井||2:48 4/5||藤田安弘||[[小暮嘉久]]||北沢元男 |- |style="text-align:center"|第4回||1958年11月1日||2600m||[[ダイニコトブキ]]||牡3||[[船橋競馬場|船橋]]||2:49 2/5||[[須田茂]]||[[出川己代造]]||出川日出 |- |style="text-align:center"|第5回||1959年11月5日||2600m||ダンサー||牡5||大井||2:48.2||武智一夫||三坂博||加藤久枝 |- |style="text-align:center"|第6回||1960年11月1日||2600m||[[オンスロート (競走馬)|オンスロート]]||牡3||大井||2:50.1||[[赤間清松]]||田中九兵衛||三輪野憲治 |- |style="text-align:center"|第7回||1961年11月15日||2600m||サキミドリ||牡3||大井||2:47.7||[[松浦備]]||小暮嘉久||北沢元男 |- |style="text-align:center"|第8回||1962年11月15日||3000m||ダイサンコトブキ||牡5||船橋||3:16.0||宮下哲朗||出川己代造||出川日出 |- |style="text-align:center"|第9回||1963年11月7日||3000m||シンニツケイ||牡3||大井||3:13.3||小筆昌||須田明雄||金井セイ |- |style="text-align:center; white-space:nowrap"|第10回||1964年12月30日||3000m||[[オリオンホース]]||牡4||[[川崎競馬場|川崎]]||3:12.0||style="white-space:nowrap"|[[佐々木竹見]]||谷口源吾||鈴木晴 |- |style="text-align:center"|第11回||1965年12月27日||3000m||オーシヤチ||牡5||大井||3:12.1||赤間清松||[[栗田金吾]]||大久保常吉 |- |style="text-align:center"|第12回||1966年12月20日||3000m||[[ゴウカイ|ゴウカイオー]]||牡7||大井||3:17.6||松浦備||小暮嘉久||伊藤由五郎 |- |style="text-align:center"|第13回||1967年12月19日||3000m||ヒガシジヨオー||牝4||川崎||3:13.5||竹島春三||青野四郎||坂本清五郎 |- |style="text-align:center"|第14回||1968年12月24日||3000m||アシヤフジ||牡4||大井||3:10.7||赤間清松||小暮嘉久||伊藤英夫 |- |style="text-align:center"|第15回||1969年12月26日||3000m||[[ヤシマナシヨナル]]||牡5||大井||3:12.7||[[福永二三雄]]||中野要||藤観興業(有) |- |style="text-align:center"|第16回||1970年12月28日||3000m||ダイニヘルスオー||牡3||大井||3:13.4||出藤篤||山下春茂||東京都競馬(株) |- |style="text-align:center"|第17回||1972年3月13日||3000m||フジプリンス||牡4||船橋||3:14.6||角田次男||出川己代造||フジホース(株) |- |style="text-align:center"|第18回||1972年12月26日||3000m||フリユーフアスト||牡3||船橋||3:10.0||渥美忠男||木村和男||平野昭一 |- |style="text-align:center"|第19回||1973年12月24日||3000m||ヒデムサシ<ref group="注">第31回[[皐月賞]]の3着馬(優勝馬は[[ヒカルイマイ]])で、中央競馬での登録馬名はヒデチカラ。</ref>||牡5||大井||3:15.7||辻野豊||小暮嘉久||伊藤英夫 |- |style="text-align:center"|第20回||1974年12月22日||3000m||トドロキムサシ||牡3||大井||3:11.9||岡部盛雄||岡部猛||町田圭三 |- |style="text-align:center"|第21回||1975年12月21日||3000m||スピードパーシア||牡4||船橋||3:11.8||佐々木竹見||及川六郎||佐藤興業(株) |- |style="text-align:center"|第22回||1976年12月20日||3000m||フアインポート||牡3||川崎||3:08.6||竹島春三||[[井上宥藏]]||佐野行男 |- |style="text-align:center"|第23回||1977年12月22日||3000m||トドロキヒリユウ||牡3||大井||3:14.8||岡部正道||岡部猛||町田圭三 |- |style="text-align:center"|第24回||1978年12月21日||3000m||[[ハツシバオー]]||牡3||大井||3:11.5||[[宮浦正行]]||大山末治||佐久間有寿 |- |style="text-align:center"|第25回||1979年12月17日||3000m||エビチカラ||牡6||大井||3:11.7||山田秀太郎||武森辰己||海老沼重雄 |- |style="text-align:center"|第26回||1980年12月25日||3000m||[[トウケイホープ]]||牡4||大井||3:12.7||秋吉和美||大山末治||高橋文男 |- |style="text-align:center"|第27回||1981年12月24日||3000m||アズマキング||牡4||大井||3:14.9||岡部盛雄||岡部猛||(有)上山ビル |- |style="text-align:center"|第28回||1982年12月23日||3000m||トラストホーク||牡4||大井||3:16.0||[[高橋三郎 (競馬)|高橋三郎]]||武智一夫||菅波滿 |- |style="text-align:center"|第29回||1983年12月22日||3000m||[[サンオーイ]]||牡3||大井||3:13.7||高橋三郎||秋谷元次||酒巻仁五郎 |- |style="text-align:center"|第30回||1984年12月25日||3000m||[[テツノカチドキ]]||牡4||大井||3:13.3||[[本間茂 (騎手)|本間茂]]||大山末治||(株)勝俣工務店 |- |style="text-align:center"|第31回||1985年12月28日||3000m||スズユウ||牡7||大井||3:14.3||石川綱夫||朝倉文四郎||鈴木榮治 |- |style="text-align:center"|第32回||1986年12月23日||3000m||[[カウンテスアップ]]||牡5||大井||3:17.5||[[的場文男]]||赤間清松||佐橋五十雄 |- |style="text-align:center"|第33回||1987年12月23日||3000m||テツノカチドキ||牡7||大井||3:15.8||佐々木竹見||大山末治||(株)勝俣工務店 |- |style="text-align:center"|第34回||1988年12月29日||3000m||[[イナリワン]]||牡4||大井||3:17.3||宮浦正行||福永二三雄||保手濱忠弘 |- |style="text-align:center"|第35回||1989年12月29日||2800m||[[ロジータ]]||牝3||川崎||3:04.3||野崎武司||福島幸三郎||加藤富保 |- |style="text-align:center"|第36回||1990年12月13日||2800m||[[ダイコウガルダン]]||牡5||大井||3:02.2||[[早田秀治]]||高岩隆||[[熊久保勅夫]] |- |style="text-align:center"|第37回||1991年12月24日||2800m||ボールドフエイス||牡3||大井||2:59.1||[[堀千亜樹]]||飯野貞次||増田陽一 |- |style="text-align:center"|第38回||1992年12月29日||2800m||ドラールオウカン||牝4||大井||3:02.3||堀千亜樹||赤間清松||布施光章 |- |style="text-align:center"|第39回||1993年12月29日||2800m||ホワイトシルバー||牝5||大井||3:00.4||荒山勝徳||荒山徳一||若狭五郎 |- |style="text-align:center"|第40回||1994年12月23日||2800m||[[ドルフィンボーイ]]||牡3||川崎||3:00.6||[[山崎尋美]]||佐々木國廣||芹澤精一 |- |style="text-align:center"|第41回||1995年12月21日||2800m||[[アドマイヤボサツ]]||牡5||[[日本中央競馬会|JRA]]||3:01.7||[[芹沢純一]]||[[橋田満]]||[[近藤利一]] |- |style="text-align:center"|第42回||1996年12月29日||2800m||[[キョウトシチー]]||牡5||JRA||3:01.2||[[松永幹夫]]||[[中尾謙太郎]]||(株)[[友駿ホースクラブ]] |- |style="text-align:center"|第43回||1997年12月28日||2800m||[[トーヨーシアトル]]||牡4||JRA||3:00.4||[[松永昌博]]||[[松永善晴]]||(有)トーヨークラブ |- |style="text-align:center"|第44回||1998年12月23日||2000m||[[アブクマポーロ]]||牡6||船橋||2:05.4||[[石崎隆之]]||[[出川克己]]||(株)デルマークラブ |- |style="text-align:center"|第45回||1999年12月29日||2000m||[[ワールドクリーク]]||牡4||JRA||2:04.9||[[加藤和宏 (JRA)|加藤和宏]]||[[新井仁]]||[[松岡正雄|インターナショナルホース]](株) |- |style="text-align:center"|第46回||2000年12月29日||2000m||[[ファストフレンド]]||牝6||JRA||2:04.9||[[蛯名正義]]||[[高市圭二]]||竹﨑大晃 |- |style="text-align:center"|第47回||2001年12月29日||2000m||[[トーホウエンペラー]]||牡5||[[岩手県競馬組合|岩手]]||2:05.2||[[菅原勲]]||[[千葉四美]]||東豊物産(株) |- |style="text-align:center"|第48回||2002年12月29日||2000m||[[ゴールドアリュール]]||牡3||JRA||2:05.6||[[武豊]]||[[池江泰郎]]||(有)[[社台レースホース]] |- |style="text-align:center"|第49回||2003年12月29日||2000m||[[スターキングマン]]||牡4||JRA||2:03.7||武豊||[[森秀行]]||(有)ゴールドレーシング |- |style="text-align:center"|第50回||2004年12月29日||2000m||[[アジュディミツオー]]||牡3||船橋||2:02.6||[[内田博幸]]||[[川島正行]]||織戸眞男 |- |style="text-align:center"|第51回||2005年12月29日||2000m||アジュディミツオー||牡4||船橋||2:03.1||内田博幸||川島正行||織戸眞男 |- |style="text-align:center"|第52回||2006年12月29日||2000m||[[ブルーコンコルド]]||牡6||JRA||2:03.5||[[幸英明]]||[[服部利之]]||(株)[[荻伏レーシング・クラブ]] |- |style="text-align:center"|第53回||2007年12月29日||2000m||[[ヴァーミリアン]]||牡5||JRA||2:03.2||武豊||[[石坂正]]||(有)[[サンデーレーシング]] |- |style="text-align:center"|第54回||2008年12月29日||2000m||[[カネヒキリ]]||牡6||JRA||2:04.5||[[クリストフ・ルメール|C.ルメール]]||[[角居勝彦]]||[[金子真人ホールディングス]](株) |- |style="text-align:center"|第55回||2009年12月29日||2000m||[[サクセスブロッケン]]||牡4||JRA||2:05.9||内田博幸||[[藤原英昭]]||[[高嶋哲]] |- |style="text-align:center"|第56回||2010年12月29日||2000m||[[スマートファルコン]]||牡5||JRA||2:00.4||武豊||[[小崎憲]]||大川徹 |- |style="text-align:center"|第57回||2011年12月29日||2000m||スマートファルコン||牡6||JRA||2:01.8||武豊||小崎憲||大川徹 |- |style="text-align:center"|第58回||2012年12月29日||2000m||[[ローマンレジェンド]]||牡4||JRA||2:05.9||[[岩田康誠]]||藤原英昭||[[太田美實]] |- |style="text-align:center"|第59回||2013年12月29日||2000m||[[ホッコータルマエ]]||牡4||JRA||2:06.6||幸英明||[[西浦勝一]]||[[矢部幸一]] |- |style="text-align:center"|第60回||2014年12月29日||2000m||ホッコータルマエ||牡5||JRA||2:03.0||幸英明||西浦勝一||[[矢部道晃]] |- |style="text-align:center"|第61回||2015年12月29日||2000m||[[サウンドトゥルー]]||[[せん馬|セ]]5||JRA||2:03.0||[[大野拓弥]]||[[高木登 (競馬)|高木登]]||[[山田弘 (馬主)|山田弘]] |- |style="text-align:center"|第62回||2016年12月29日||2000m||[[アポロケンタッキー]]||牡4||JRA||2:05.8||内田博幸||[[山内研二]]||[[アポロサラブレッドクラブ]] |- |style="text-align:center"|第63回||2017年12月29日||2000m||[[コパノリッキー]]||牡7||JRA||2:04.2||[[田辺裕信]]||[[村山明 (競馬)|村山明]]||[[小林祥晃]] |- |style="text-align:center"|第64回||2018年12月29日||2000m||[[オメガパフューム]]||牡3||JRA||2:05.9||[[ミルコ・デムーロ|M.デムーロ]]||[[安田翔伍]]||[[原禮子]] |- |style="text-align:center"|第65回||2019年12月29日||2000m||オメガパフューム||牡4||JRA||2:04.9||M.デムーロ||安田翔伍||原禮子 |- |style="text-align:center"|第66回||2020年12月29日||2000m||オメガパフューム||牡5||JRA||2:06.9||M.デムーロ||安田翔伍||原禮子 |- |style="text-align:center"|第67回||2021年12月29日||2000m||オメガパフューム||牡6||JRA||2:04.1||M.デムーロ||安田翔伍||原禮子 |- |style="text-align:center"|第68回||2022年12月29日||2000m||[[ウシュバテソーロ]]||牡5||JRA||2:05.0||[[横山和生]]||高木登||[[了徳寺健二ホールディングス]](株) |- |style="text-align:center"|第69回||2023年12月29日||2000m||ウシュバテソーロ||牡6||JRA||2:07.3||[[川田将雅]]||高木登||了徳寺健二ホールディングス(株) |} == 東京大賞典の記録 == * 最多優勝馬 - 4勝 ** オメガパフューム(第64-67回) * 最多優勝騎手 - 5勝 ** 武豊(第48回・第49回・第53回・第56回・第57回)<ref>最長記録はミルコ・デムーロの4連覇(第64-67回)</ref> * 最多勝調教師 - 5勝 ** 小暮嘉久(第3回・第7回・第12回・第14回・第19回)<ref>最長記録は安田翔伍の4連覇(第64-67回)</ref> 第68回終了時点<ref name="kiroku">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.tokyocitykeiba.com/data/wp-content/uploads/sites/5/2023/12/cf1dfdd8778f9db00e1360f8da0519b8.pdf|title=■東京大賞典(GI)アラカルト(過去全 68 回の分析)|website=東京シティ競馬 : TOKYO CITY KEIBA|accessdate=2023-12-28}}</ref> * レースレコード - 2:00.4(2010年スマートファルコン) * 2勝以上 - テツノカチドキ(1984・1987年)、 アジュディミツオー(2004・2005年)、スマートファルコン(2010・2011年)、ホッコータルマエ(2013・2014年)、オメガパフューム(2018〜2021年)、ウシュバテソーロ(2022・2023年)<ref name="kiroku"/> == 外国調教馬の成績 == {{Main|海外調教馬による日本への遠征#東京大賞典}} == その他 == 当レースは2019年からフジテレビ・BSフジで放送されているが、当日に行われる他の競走も含め[[青嶋達也]]が一貫して実況を担当している。 == 他に日本で行われるダートの国際GI競走 == * [[フェブラリーステークス]]([[東京競馬場]]) * [[チャンピオンズカップ (中央競馬)|チャンピオンズカップ]]([[中京競馬場]]) == 競馬以外の公営競技における「1年を締め括る競走」 == * [[賞金女王決定戦競走]] - [[競艇]] * [[KEIRINグランプリ]] - [[競輪]] * [[スーパースター王座決定戦]] - [[オートレース]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 参考文献 === === 注釈 === <references group="注"/> === 出典 === {{Reflist|refs= <!--概要--> * <ref name="ICSC">[http://www.tjcis.com/pdf/icsc15/ICSC-partI_Japan.pdf 2015 International Cataloguing Standards Book Japan]2015年12月07日閲覧。</ref> }} ==== 各回競走結果の出典 ==== * [https://www.nankankeiba.com/win_uma/39.do 東京大賞典競走優勝馬] - 南関東競馬公式サイト * [https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2650&k_babaCode=20 東京大賞典 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会 * netkeiba.comより*1991年以降 ** {{Netkeiba-raceresult|1991|44122409}}、{{Netkeiba-raceresult|1992|44122909}}、{{Netkeiba-raceresult|1993|44122909}}、{{Netkeiba-raceresult|1994|44122309}}、{{Netkeiba-raceresult|1995|44122109}}、{{Netkeiba-raceresult|1996|44122909}}、{{Netkeiba-raceresult|1997|44122810}}、{{Netkeiba-raceresult|1998|44122309}}、{{Netkeiba-raceresult|1999|44122909}}、{{Netkeiba-raceresult|2000|44122909}}、{{Netkeiba-raceresult|2001|44122909}}、{{Netkeiba-raceresult|2002|44122909}}、{{Netkeiba-raceresult|2003|44122909}}、{{Netkeiba-raceresult|2004|44122909}}、{{Netkeiba-raceresult|2005|44122910}}、{{Netkeiba-raceresult|2006|44122910}}、{{Netkeiba-raceresult|2007|44122910}}、{{Netkeiba-raceresult|2008|44122910}}、{{Netkeiba-raceresult|2009|44122910}}、{{Netkeiba-raceresult|2010|44122910}}、{{Netkeiba-raceresult|2011|44122910}}、{{Netkeiba-raceresult|2012|44122910}}、{{Netkeiba-raceresult|2013|44122910}}、{{Netkeiba-raceresult|2014|44122910}}、{{Netkeiba-raceresult|2015|44122910}}、{{Netkeiba-raceresult|2016|44122910}}、{{Netkeiba-raceresult|2017|44122910}}、{{Netkeiba-raceresult|2018|44122910}}、{{Netkeiba-raceresult|2019|44122910}}、{{Netkeiba-raceresult|2020|44122910}}、{{Netkeiba-raceresult|2021|44122909}}、{{Netkeiba-raceresult|2022|44122909}}、{{Netkeiba-raceresult|2023|44122909}} == 外部リンク == {{Wikinews|東京大賞典2014年60回目はホッコータルマエが制し最優秀ダートホースとして認められる。幸騎手と西浦調教師は更なる高みを目指す。|date = 2015年1月12日}} * [http://www.tokyocitykeiba.com/race/grade_race/2023-12-29/ TCK公式サイト「レースと日程」]より(2023年版) ** [http://www.tokyocitykeiba.com/special_page/daishoten_2014 TCK公式サイト 外国陣営向け説明ページ] * [http://japanracing.jp/_info/2012graded/graded39.html JRA英語版公式サイト レース結果ページ](2012年版) * [https://www.keiba.go.jp/dirtgraderace/2023/1229_tokyodaishoten/racecard.html 東京大賞典|ダートグレード競走特設サイト] - 地方競馬全国協会 {{ダートグレード競走}} {{南関東公営競馬の重賞競走}} {{デフォルトソート:とうきようたいしようてん}} [[Category:農林水産大臣賞典]] [[Category:地方競馬の競走]] [[Category:大井競馬場の競走]]
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ウルトラマンナイス
ウルトラマンナイスは、『ウルトラマンティガ』再放送枠(1999年10月 - 2000年9月)内でバンダイのウルトラマン関連商品コマーシャルフィルム(インフォマーシャル)として放送された玩具販促用の連作ミニドラマと、その主人公であるウルトラマンの名称である。全20話。 「ウルトラマンナイスの正体は家族を守るパパ、その家族はそろってご町内を守るGOKAZOKU隊」という、CMのターゲット層を意識した設定。ストーリーも一貫して明るい内容であった(限られた時間枠で、さらに商品をアピールする目的のため、テンポ良く必ず明るい結末に帰結する)。 ほとんどのアクションは、グリーンバックによる実景合成による処理となっている。 本編の映像ソフト化は行われず、再編集したVHSビデオ「ナ・ナ・ナ・ナ・ナイスな大図鑑」がバンダイビジュアルから発売された。2022年4月よりTSUBURAYA IMAGINATIONにて本編の配信が行われている。 左右非対称のデザイン(斜めに流れるような胸の赤い模様、左胸に付いたカラータイマー)や、出身地「TOY1番星()」など、独特の設定のウルトラマンである。背面の銀色のラインは「N」を象っている。右胸の弓状の白い模様は某企業のロゴに酷似していたことから変更となったものが決定稿となった。マスクはティガの改造で基本的な形状は同じだが、盛ったり削ったりしている。トサカは普通の赤だが、分割ラインの前面はメタリックレッドにしている。二期ではメタリックレッドだった部分が青になって電飾が仕込まれ、耳下部分にある分割ラインの下部部分が透明パーツになって発光する想定だった。掛け声は「ナァーッ」「ナッ」など。 コミカルな人情味のあるキャラクターで親しみやすく、一連のCM(全20話)が終了した後も、国内各地のショーで他のウルトラマンたちと共に出演。ショーではウルトラマンゼアスと共に、ウルトラマンナイスAndゼアスというコンビを組んで、ウルトラマン漫才を展開する。一見すると非常にコミカルなキャラクターだがストーリーによっては頼もしくヒーローらしい面を見せることもある(レイビーク星人が召喚したダークメフィスト(カナン星人の人形が実体化した偽物)に動揺するウルトラマンネクサスを叱責するなど)。 能力的には、従来シリーズのウルトラマンたちより低い。身長・体重および能力値の数字はすべて「39(サンキュー=THANK YOU)」で統一されている。 胸の前で親指を立てる仕草(サムズアップ)が決めポーズ。戦いに勝った時は、GOKAZOKU隊のメンバーから「ナーイス!」と同じポーズでエールを送られることが多い。 幻の右フックを新たな必殺技として開発中との設定もある。 『大怪獣バトルRR』の怪獣カードによれば戦い方はウルトラマンティガの記録から学んだと記述されている。 夢星一家6人で構成された防衛チーム。自宅の居間そのものが司令室になっており、怪獣出現感知と同時にちゃぶ台や壁からレーダーなどの設備が現れる。 本編では、怪獣から逃げる住民や未来の友達など一部を除き、GOKAZOKU隊以外の人間は登場しない。 劇中の地図では、GOKAZOKU隊の基地は東京都世田谷区経堂5丁目付近にあるとされている。 『空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマンティガ/ウルトラマンダイナ/ウルトラマンガイア』では別名の前半をひらがなで表記している。 参照:FCティガ/ダイナ/ガイア 2001, p. 78 参照:FCティガ/ダイナ/ガイア 2001, p. 78、平成ウルトラビデオ全集 2002, p. 114, 「超オマケ!ウルトラマンナイスCMリスト」、画報 下巻 2003, p. 157, 「ウルトラマンナイスCMリスト」 『ニコニコ動画』のニコニコ生放送で配信されたウルトラマンナイスとマグマ星人をメインにした動画配信企画、当初はエイプリルフール企画の1つでしかなかったが、好評を得てたびたび復活することとなる。また東京ドームシティで行われる年末年始イベント『お正月だよ!ウルトラマン全員集合!!』では毎年、「ウルトラマンナイスAndゼアス」として漫才が開催されている。
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ウルトラマンナイスは、『ウルトラマンティガ』再放送枠内でバンダイのウルトラマン関連商品コマーシャルフィルム(インフォマーシャル)として放送された玩具販促用の連作ミニドラマと、その主人公であるウルトラマンの名称である。全20話。
{{半保護}} {{Pathnav|ウルトラシリーズ|frame=1}} '''ウルトラマンナイス'''は、『[[ウルトラマンティガ]]』再放送枠([[1999年]]10月 - [[2000年]]9月)内で[[バンダイ]]の[[ウルトラシリーズ|ウルトラマン]]関連商品コマーシャルフィルム([[インフォマーシャル]])として放送された玩具販促用の連作ミニドラマと、その主人公であるウルトラマンの名称である{{Refnest|group="出典"|{{R|FCTDG36|画報下|全怪獣図鑑|UPM vol.1430|UPM vol.3734}}}}。全20話。 == 概要 == 「ウルトラマンナイスの正体は家族を守るパパ、その家族はそろってご町内を守るGOKAZOKU隊」という、CMのターゲット層を意識した設定。ストーリーも一貫して明るい内容であった(限られた時間枠で、さらに商品をアピールする目的のため、テンポ良く必ず明るい結末に帰結する)。 ほとんどのアクションは、グリーンバックによる実景合成による処理となっている{{R|UPM vol.1430}}。 本編の映像ソフト化は行われず、再編集した[[VHS]]ビデオ「ナ・ナ・ナ・ナ・ナイスな大図鑑」が[[バンダイビジュアル]]から発売された。[[2022年]]4月よりTSUBURAYA IMAGINATIONにて本編の配信が行われている<ref>[https://imagination.m-78.jp/planet/44Km44Or44OI44Op44Oe44Oz44OK44Kk44K5 ウルトラマンナイス | ウルトラサブスク]</ref>。 == ウルトラマンナイス == {{キャラスペック |名称=ウルトラマンナイス |年齢=1万390歳{{R|全怪獣図鑑}} |身長=39{{nbsp}}[[メートル|m]]{{Refnest|group="出典"|name="NYSE"|{{R|FCTDG36|TVMAGA|画報下|全怪獣図鑑|UPM vol.1430}}}} |体重=3万9千{{nbsp}}[[トン|t]]{{R|group="出典"|NYSE}} |飛行速度=[[マッハ数|マッハ]]3.9{{Refnest|group="出典"|{{R|FCTDG36|TVMAGA|画報下}}}} |走行速度=時速390{{nbsp}}[[キロメートル|km]]{{R|TVMAGA|画報下}} |地中速度=時速39{{nbsp}}km{{R|画報下}} |ジャンプ力=390{{nbsp}}m{{R|TVMAGA|画報下}} |握力=3900{{nbsp}}t{{R|画報下}} }} 左右非対称のデザイン(斜めに流れるような胸の赤い模様、左胸に付いた[[カラータイマー]])や、出身地「{{読み仮名|TOY1番星|とーいいちばんぼし}}」など、独特の設定のウルトラマンである。背面の銀色のラインは「N」を象っている{{R|TVMAGA|デザイン画集243}}。右胸の弓状の白い模様は某企業のロゴに酷似していたことから変更となったものが決定稿となった{{R|デザイン画集243}}。マスクはティガの改造で基本的な形状は同じだが、盛ったり削ったりしている{{R|デザイン画集243}}。トサカは普通の赤だが、分割ラインの前面はメタリックレッドにしている{{R|デザイン画集243}}。二期ではメタリックレッドだった部分が青になって電飾が仕込まれ、耳下部分にある分割ラインの下部部分が透明パーツになって発光する想定だった{{R|デザイン画集243}}。掛け声は「ナァーッ」「ナッ」など。 コミカルな人情味のあるキャラクターで親しみやすく、一連のCM(全20話)が終了した後も、国内各地のショーで[[ウルトラマン一覧|他のウルトラマンたち]]と共に出演。ショーでは[[ウルトラマンゼアス]]と共に、ウルトラマンナイスAndゼアスというコンビを組んで、ウルトラマン漫才を展開する。一見すると非常にコミカルなキャラクターだがストーリーによっては頼もしくヒーローらしい面を見せることもある([[ウルトラマンティガの登場怪獣#誘拐宇宙人 レイビーク星人|レイビーク星人]]が召喚した[[ULTRA N PROJECT#ダークメフィスト|ダークメフィスト]]([[ウルトラセブンの登場怪獣#オーロラ怪人 カナン星人|カナン星人]]の人形が実体化した偽物)に動揺する[[ウルトラマンネクサス]]を叱責するなど)。 * また販促キャラクターとして位置づけされており、円谷プロの公式グッズ店「[[円谷ジャングル]]」で'''名誉店長'''を務めている他、[[Goo#動画・音楽配信|goo]]の動画サービスでは[[ババルウ星人]]を相手にDJをしている。毎年開催されているウルトラマンフェスティバルでもショーの前説を務めているなど、作品自体は映像ソフト化されていないが、子供たちの認知度は高いとされる{{R|全怪獣図鑑}}。 * 菓子を食べて変身するというのは、衛生面をはじめ子供への安全性の配慮から絶対に通らないが、『ポパイ』のほうれん草の缶詰や『海底少年マリン』のオキシガムなど、超能力の発動条件が食べ物になっている作品は少なくないため、子供向け作品として「何かを食べて能力を得る」というプロセスは、絶対楽しいと確信していたことから断行された{{R|UPM vol.3734}}。 === 能力など === ; 通常技 :; パパパンチ{{R|FCTDG36|必殺技SG225}} :: パワーを活かしたパンチを浴びせる。「捕らえられた未来」「ナイスが最高!!」編ではザゴン星人にダメージを与えた。 :; パパパパパンチ{{R|必殺技SG225}} :: 「ナナナナナナナナッ!」の掛け声とともに、左右の拳から超スピードで繰り出す連続パンチ。「ハマリ過ぎにご用心」編でモモザゴンに背後から殴打され、危機におちいったときに放った起死回生の技で、夢星未来の呼びかけとともに、モモザゴンの胸に何度も叩き込むことで撃破した。 :; キキキック{{R|FCTDG36|必殺技SG225}} :: パワーを活かした回し蹴りを放つ。「ウルトラマンナイスだってかっこいい!!」編でモモザゴンを倒した。また、「ピクニックに行こう!!」編でブルブルザゴンを倒したが、その後、足を痛めている。「じゃまするなっ」「新怪獣登場」編ではタブザゴンに破られた。「捕らえられた未来」「ナイスが最高!!」編ではザゴン星人にダメージを与えた。 :; パパパット{{R|FCTDG36|必殺技SG225}} :: 敵を掴んでパワーを活かした頭突きを食らわす。「お呼びじゃないね!!」編でザゴン星人を倒した。「ヒコーキが欲しい…」編でブルブルザゴンにキキキックを食らわした直後に使用し、倒した。 :; チョチョチョップ{{R|必殺技SG225}} :: パワーを活かしたチョップを決める。「未来の正夢」編でザゴン星人を倒した。 :; ジャジャジャンプ{{R|必殺技SG225}} :: 空高く大ジャンプする。ミレニアムキックを出すために使用する。 :; アタタック{{R|必殺技SG225}} :: 跳躍したのち、全身で相手にボディアタックを浴びせる力業で、ブルブルザゴンを転倒させた。また、タブザゴンには右肩から体当たりを浴びせているが、体を包む硬質の耳に阻まれて通用しなかった。 ; 必殺技 :; ベリーナイス光線{{R|FCTDG36|必殺技SG225}} :: 体内エネルギーをスパークさせて、全身のパワーを集めた両腕{{Sfn|必殺わざ超百科(3)|2001|p=54}}{{Sfn|完全超百科|2004|p=107}}を身体の中心でクロスさせ、「ナッ!」の掛け声とともに首を傾げると発射される必殺光線。タブザゴンには効かない。 :; ミレニアムキック{{R|必殺技SG225}} :: 大きくジャンプして、急降下しながら放つキック。「出た!」編でタブザゴンの鼻にパパパンチを食らわした直後に使用し、倒した。「未来、迷う」編ではタブザゴンにダメージを与えた(この回では「キキキック」と呼ばれている)。 :; ミレニアムショット{{R|FCTDG36|必殺技SG225|UPM vol.1430}} :: 右手の人差し指と中指をカラータイマーの上に置いてから前に突き出し、指先から連射する破壊光弾{{Sfn|完全超百科|2004|p=107}}。「それにひきかえ…」「新怪獣登場」編でタブザゴンの弱点である鼻を攻撃して倒した。「ナイスが最高!!」編でモモザゴンを倒した。 :; ミレニアムクロス{{R|FCTDG36|必殺技SG225}} :: 気力によって強化され{{Sfn|必殺わざ超百科(3)|2001|p=54}}{{Sfn|完全超百科|2004|p=107}}、修行の末に編み出した、ナイスの最強必殺光線。両腕を一回転させ、両腕を身体の前でクロスさせて放つ。ベリーナイス光線との違いは首を傾げる必要が無いこととクロスの手が前後逆ということ{{R|FCTDG36}}。タブザゴンも倒せる。 :; スペシウム光線 :: 『新世紀ウルトラマン伝説』で登場ウルトラマン全員が放った光線。ウルトラ戦士はスペシウム光線を会得してからそれぞれの技に発展させているとされる。 能力的には、[[ウルトラシリーズ|従来シリーズ]]のウルトラマンたちより低い。身長・体重および能力値の数字はすべて「'''39'''(サンキュー=THANK YOU)」で統一されている{{R|画報下}}。 胸の前で親指を立てる仕草([[サムズアップ]])が決めポーズ。戦いに勝った時は、GOKAZOKU隊のメンバーから「ナーイス!」と同じポーズでエールを送られることが多い。 幻の右フックを新たな必殺技として開発中との設定もある{{R|TVMAGA}}。 『[[大怪獣バトル ULTRA MONSTERS|大怪獣バトルRR]]』の怪獣カードによれば戦い方は[[ウルトラマンティガ#ウルトラマンティガ|ウルトラマンティガ]]の記録から学んだと記述されている。 == GOKAZOKU隊 == 夢星一家6人で構成された防衛チーム{{R|UPM vol.1430}}。自宅の居間そのものが司令室になっており{{R|UPM vol.1430}}{{Sfn|HMC|2021|p=10|loc=「平成の世を守ったその他の偉大なる防衛組織その(1) 『ウルトラマンナイス』より GOKAZOKU隊」}}、怪獣出現感知と同時に[[ちゃぶ台]]や壁からレーダーなどの設備が現れる。 本編では、怪獣から逃げる住民や未来の友達など一部を除き、GOKAZOKU隊以外の人間は登場しない。 劇中の地図では、GOKAZOKU隊の基地は東京都世田谷区経堂5丁目付近にあるとされている。 ; {{読み仮名|夢星 銀河|ゆめぼし ぎんが}} : 一家の大黒柱で、未来とコスモの父親。その正体はウルトラマンナイス。35歳。[[婿養子]]{{R|UPM vol.1430}}。 : 平時は保育園で[[保育士]]として働く温厚な性格の良き父親だが{{R|UPM vol.1430}}、怪獣が出現すると腕時計型通信機(GOKAZOKU隊制式装備)を模した変身アイテム'''ナイスドリーマー'''{{R|FCTDG36|UPM vol.1430}}{{efn|プロップは、「パワータイム」の改造{{R|UPM vol.3734}}。}}の中に入ったチョコボール(シークレット・チョコと呼ばれる。){{efn|映画『[[ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY]]』パンフレットでは、ドリームスターと記載される。}}を食べてナイスに変身する。 : ヘキサジェット1号機に搭乗。[[ウルトラマンティガ]]に憧れているらしい。 ; {{読み仮名|夢星 語|ゆめぼし かたる}} : アキミの父親で、未来とコスモの祖父。GOKAZOKU隊の隊長を務める。60歳。婿養子。 : ヘキサジェット6号機に搭乗。銀河がナイスであることを知っている。 :* 演じた[[黒部進]]は、初代『[[ウルトラマン]]』のハヤタ・シン隊員役。 ; {{読み仮名|夢星 キク|ゆめぼし キク}} : アキミの母親で、未来とコスモの祖母。54歳。 : ヘキサジェット5号機に搭乗。語同様、銀河がナイスであることを知っている。 :* 演じた[[桜井浩子]]は、初代『ウルトラマン』のフジ・アキコ隊員役。 ; {{読み仮名|夢星 アキミ|ゆめぼし アキミ}} : 銀河の妻で、未来とコスモの母親、語とキクの娘。33歳。ヘキサジェット4号機に搭乗。 ; {{読み仮名|夢星 コスモ|ゆめぼし コスモ}} : 銀河とアキミの長女。10歳。ヘキサジェット2号機に搭乗。 ; {{読み仮名|夢星 未来|ゆめぼし みらい}} : 銀河とアキミの長男。7歳。ヘキサジェット3号機に搭乗。 : ウルトラマンが大好きで、オモチャや関連グッズを多数所有している。姉であるコスモのことは「コスモ」と呼び捨てである。 === 装備・戦力 === ; GOKAZOKU隊スーツ{{R|UPM vol.1430}} : 黄色で隊員全員が出動時やヘキサジェット搭乗時に着用する制服。着用者を敵の攻撃から守る防御性能に優れている{{R|UPM vol.1430}}{{Sfn|マガジンVOL.2|2021|p=39|loc=「スーパーメカニック大全 地上戦力・隊員装備編」}}。 :* デザインはプレックスが担当{{R|UPM vol.2830}}。[[ウルトラマン#科学特捜隊|科学特捜隊]]のイメージが取り入れられている{{R|UPM vol.2830}}。 ; スターメット{{R|UPM vol.1430}} : スーツ同様黄色の透明バイザーが付いた専用ヘルメット。 :* 造形物はバイク用ヘルメットを改造したもの{{R|TVMAGA}}。 ; ドリームタイム{{R|UPM vol.1430}} : 赤いカラーのGOKAZOKU隊専用の高性能通信機の機能を併せ持つ[[腕時計]]。 ; ナイススターガン{{R|UPM vol.1430}} : 赤と黒のカラーリングのGOKAZOKU隊専用銃。内部のエネルギーカートリッジを銃身を折って交換することが可能。 ; ヘキサジェット{{R|UPM vol.1430}} : 6機の戦闘機。劇中では後期制作分で語の乗る6号機しか登場していない。初期は戦闘機を保有していなかったが念願叶って登場。合体戦闘機'''ヘキサウイング'''になる。 == 登場怪獣 == 『空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマンティガ/ウルトラマンダイナ/ウルトラマンガイア』では別名の前半をひらがなで表記している{{Sfn|FCティガ/ダイナ/ガイア|2001|pp=80、109}}。 :{{キャラスペック |名称=ザゴン星人 |英字表記=ALIEN ZAGON{{R|FCTDG|画報下}} |別名=猛毒宇宙人 |身長=ミクロ - 44{{nbsp}}m{{Refnest|group="出典"|name="KAIJU"|{{R|FCTDG|画報下|全怪獣図鑑|UPM vol.1430}}}} |体重=0 - 4万4千{{nbsp}}t{{R|group="出典"|KAIJU}} |出身地=ザゴン星系第3惑星ザゴン星{{Refnest|group="出典"|name="出身地"|{{R|FCTDG|画報下|全怪獣図鑑}}}} }} ; {{Anchors|猛毒宇宙人 ザゴン星人}}猛毒宇宙人 ザゴン星人 : いつもナイスに戦いを挑んでくる宇宙人。地球征服を目的としている。戦力は分身と腕から出す怪光線。「捕らえられた未来」編では変身能力で銀河に化けた。 : 設定では耳から猛毒のザゴン菌を出すとされているが、劇中未使用。 :* デザイン画は、『ティガ』のころに描いていた怪獣をベースに、細部を変更し、派手なカラーリングにしている{{R|デザイン画集243}}{{Sfn|デザイン画集TDG編|2022|p=119|loc=「『ウルトラマンティガ』」}}。 :* 映画『[[新世紀2003ウルトラマン伝説 THE KING'S JUBILEE]]』では[[ウルトラマンキング]]の誕生日を怪獣たちと共に祝福する。 :{{Clear}} :{{キャラスペック |名称=モモザゴン |英字表記=MOMO-ZAGON{{R|FCTDG|画報下}} |別名=食いしん坊怪獣 |身長=50{{nbsp}}m{{R|group="出典"|KAIJU}} |体重=5万{{nbsp}}t{{R|group="出典"|KAIJU}} |出身地=ザゴン星系第8惑星モモザ星{{R|group="出典"|出身地}} }} ; {{Anchors|食いしん坊怪獣 モモザゴン}}食いしん坊怪獣 モモザゴン : 耳から怪音波を発射する。肩書きと名前通り体色は桃色で大食漢。張り手攻撃が得意。ザゴン星人やブルブルザゴンとコンビを組んで戦うこともある。 :* 顔はサイン看板や信号機のようなものにしている{{R|デザイン画集243}}。 :{{Clear}} :{{キャラスペック |名称=ブルブルザゴン |英字表記=BURUBURU-ZAGON{{R|FCTDG|画報下}} |別名=暴れん坊怪獣 |身長=55{{nbsp}}m{{R|group="出典"|KAIJU}} |体重=5万5千{{nbsp}}t{{R|group="出典"|KAIJU}} |出身地=ザゴン星系第12惑星ブルザ星{{R|group="出典"|出身地}}{{efn|『空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマンティガ/ウルトラマンダイナ/ウルトラマンガイア』では「ブルブル星」と記述している{{R|FCTDG}}。}} }} ; {{Anchors|暴れん坊怪獣 ブルブルザゴン}}暴れん坊怪獣 ブルブルザゴン : 手が付けられない怪力の持ち主で、尻尾が武器の青い怪獣。猫のような声で鳴く。口から青い火の玉を吐く。 :* 可愛らしい顔にして、ひざと胸に渦巻きを入れている{{R|デザイン画集243}}。 :* 『ウルトラマンフェスティバル2011』ライブステージ第2部では、怪獣軍団の1体として登場。 :{{Clear}} :{{キャラスペック |名称=タブザゴン |英字表記={{Plainlist| * TABU-ZAGON{{R|FCTDG}} * TABZAGON{{R|画報下}} }} |別名=怒りん坊怪獣 |身長=37{{nbsp}}m{{R|group="出典"|KAIJU}} |体重=8万8千{{nbsp}}t{{R|group="出典"|KAIJU}} |出身地=ザゴン星系第5惑星タブザ星{{R|FCTDG|全怪獣図鑑}}{{efn|『ウルトラマン画報 下巻』では「不明」と記述している{{R|画報下}}。}} }} ; {{Anchors|怒りん坊怪獣 タブザゴン}}怒りん坊怪獣 タブザゴン : ブタのような姿の怪獣。鼻から笑気ガスを噴出し、硬い耳を閉じて身を守る(第二の顔と呼ばれる状態)。耳を閉じた時はベリーナイス光線を弾き返し、開いている時は左の耳で吸収し右の耳から跳ね返す。口から火炎と怪光線を吐く。鼻の穴を攻撃されると弱い。怪力で、体当たり攻撃が得意。チラシの中に出入りする能力も持つ。 :* 特徴付けるために耳の開閉を入れている{{R|デザイン画集243}}。未使用であるが、3種類の顔のパターンが描かれている{{R|デザイン画集243}}。 == 出演者 == * 夢星銀河:[[宮坂ひろし]] * 夢星語:[[黒部進]] * 夢星キク:[[桜井浩子]] * 夢星アキミ:[[矢代朝子]] * 夢星コスモ:[[石田比奈子]] * 夢星未来:津本恵輔 * ナレーション:伊藤啓太 * ザゴン星人の声:[[円谷昌弘]] * ウルトラマンナイス:[[岡野弘之]] * 怪獣:[[三宅敏夫]] == スタッフ == 参照:{{Harvnb|FCティガ/ダイナ/ガイア|2001|p=78}} * プロデューサー:円谷昌弘 * 監督:伊藤啓太 * 助監督:田村浩太郎、富田卓 * カメラマン:[[高橋義仁]] * VE:岡田昌宏 * 美術デザイナー:[[井口昭彦]](GAM) * ヘアメイク:伊藤聖子(前期)、樋沼弥生(後期)、岡部まり(共通) * キャラクターデザイン:丸山浩 * 造型:開米プロダクション * 広告主:バンダイ * 制作広告会社:アサツーディ・ケイ、読売広告社 * 制作会社:円谷プロダクション == 主題歌 == ; 「ウルトラマンナイス」 : 作詞:[[里乃塚玲央]] / 作曲:[[小杉保夫]] / 編曲:[[MANTA]] / 歌:[[Project DMM]] : 当初は[[エアーズ (音楽出版会社)|エアーズ]]から[[8センチCD|8cmシングル]]として発売されていたが、エアーズの解散に伴う権利の譲渡によって[[2000年]]に[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]から[[マキシシングル]]として再発売された。その際に、[[器楽曲|インストゥルメンタル]]版(楽器で演奏された主旋律をオリジナルカラオケに被せたもの)が追加収録されている。 : Project DMMのデビュー曲。メンバー交替に伴い、[[2004年]]に新バージョンがレコーディングされた。 == 放映リスト == 参照:{{Harvnb|FCティガ/ダイナ/ガイア|2001|p=78}}、{{Harvnb|平成ウルトラビデオ全集|2002|p=114|loc=「超オマケ!ウルトラマンナイスCMリスト」}}、{{Harvnb|画報 下巻|2003|p=157|loc=「ウルトラマンナイスCMリスト」}} {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size:smaller;" |- !サブタイトル!!紹介商品!!登場怪獣 |- !colspan="3"|前期(1999年夏撮影) |- |「お呼びじゃないねっ」編||ウルトラ怪獣シリーズ||rowspan=2|ザゴン星人 |- |「ウルトラマンナイスの秘密…」編||ウルトラマン 京本コレクション |- |「口は災いの…」編||ウルトラヒーローシリーズ||モモザゴン |- |「ヒコーキが欲しい…」編||ウルトラマンティガ ガッツマシンシリーズ||ブルブルザゴン |- |「まちがえた!!」編||ウルトラマンナイス ナ・ナ・ナ・ナ・ナイスなGOKAZOKU隊セット||モモザゴン |- |「ベリーナイス光線発射!!」編||ウルトラマンティガGUTS隊員スーツ||ブルブルザゴン |- |「ウルトラマンナイスだってかっこいい!!」編||ウルトラマンティガ・ダイナ・ガイア 変身スーツシリーズ||モモザゴン |- |「春物登場!!」編||ウルトラマンティガ変身スーツ・GUTS隊員スーツ 春物||ザゴン星人 |- |「ピクニックに行こう!!」編||キャラのり ウルトラマン||ブルブルザゴン |- |「ハマリ過ぎにご用心…」編||ウルトラマンHGシリーズ||モモザゴン |- !colspan="3"|後期(2000年冬撮影) |- |「出たっ!!」編||ウルトラマンナイス変身スーツ・GOKAZOKU隊 隊員スーツ||rowspan=2|タブザゴン |- |「未来、迷う」編||ウルトラマンティガ変身スーツ・GUTS隊員スーツ・ティガDX隊員スーツ |- |「寝坊して…」編||ウルトラマンティガ・ダイナ・ガイア 半袖シャツパジャマ||ブルブルザゴン |- |「それにひきかえ…」編||キャンディトイ ハイパーウルトラマン2||rowspan=2|タブザゴン |- |「じゃまするなっ!!」編||ウルトラマンHGシリーズ |- |「捕らえられた未来」編||ウルトラマンティガ スパークレンス・ブラックスパークレンス||ザゴン星人 |- |「新怪獣登場」編||ウルトラマン ポピニカシリーズ||タブザゴン |- |「未来の正夢」編||ウルトラヒーロー・怪獣シリーズ||ザゴン星人 |- |「パパ、くたびれる」編||ウルトラマン くたキャラシリーズ||モモザゴン<br />ブルブルザゴン |- |「ナイスが最高!!」編||格闘サウンド ウルトラマンティガVSティガダーク||モモザゴン<br />ザゴン星人 |} == ウルトラマンナイスの部屋 == 『[[ニコニコ動画]]』のニコニコ生放送で配信されたウルトラマンナイスと[[マグマ星人]]をメインにした動画配信企画、当初は[[エイプリルフール]]企画の1つでしかなかったが、好評を得てたびたび復活することとなる。また[[東京ドームシティ]]で行われる年末年始イベント『お正月だよ!ウルトラマン全員集合!!』では毎年、「ウルトラマンナイスAndゼアス」として漫才が開催されている{{R|必殺技SG82}}。 * 2010年4月1日限定で[[ニコニコ動画]]の配信動画と生放送動画で『'''シュワシュワ動画 ナイスの部屋'''』が配信。コメンテーターとしてマグマ星人と共に出演。ゲスト出演は[[ウルトラマン80]]と『[[大魔神カノン]]』巫崎カノン役の[[里久鳴祐果]]。2010年9月24日リリーズの『ウルトラマン80 DVD30周年メモリアルBOX II』特典映像として編集映像が収録されている。 * 2010年12月15日に『[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国]]』公開記念として、再びマグマ星人と共に『'''宣伝部長ウルトラマンナイスの部屋'''』チャンネル生放送を配信。ゲストは[[ウルトラマンゼロ]]と、曲を歌った[[Voyager (音楽ユニット)|voyager]]。 * 2011年7月8日には、ウルトラマンシリーズ誕生45周年の記念イヤーの放送として『'''ウルトラマンナイスの部屋 in 2011 夏'''』の生放送を配信。ナイスとマグマ星人のコンビのほか、ゲストに[[桜井浩子]]と[[宮台真司]]、[[品田冬樹]]、[[カネゴン]]が出演。 * [[よみうりランド]]『ウルトラQ怪獣ワールド』で[[徹子の部屋]]風のセットでナイスとマグマ星人によるトークショー『'''ウルトラマンナイスの部屋ショー'''』を開催。2012年2月4日はゲストに風邪気味のウルトラマンゼロが出演。3月3日はウルトラマンサーガが出演。4月1日は[[ウルトラマンUSA#ウルトラウーマンベス|ウルトラウーマンベス]]、マグマ星人妹が出演。5月13日はカネゴン、ガラモン、ゴメス、ケムール人のほか、ウルトラマンも出演。 * 2013年10月19日に[[東京ドームシティ]] ラクーアガーデンステージで開催された『ウルトラ秋の大作戦!〜まるごと1日ウルトラマン〜』内でトークショー『'''ウルトラマンナイスの部屋 in ラクーアガーデンステージ'''』を開催。 * 『ウルトラマンフェスティバル2014』連動企画としてプロサッカー選手のコラボレーションの2014年3月30日に『'''ウルトラマンナイスの部屋(アウェー)vs [[横浜F・マリノス]](ホーム)'''』をニコニコ生放送、ゲストは[[富澤清太郎]]選手。また2014年8月12、13、15日に『ウルトラマンフェスティバル2014』内の光の国ウルトラ放送局M78で『'''ウルトラマンナイスの部屋スペシャル 地球の放送局・[[TBSテレビ|TBS]]から看板女子アナを呼んでみました!'''』を放送、それぞれの日にTBSアナウンサー、[[江藤愛]]、[[枡田絵理奈]]、[[佐藤渚]]がゲスト出演。 * 2014年10月11日開催の『ウルトラ秋の大作戦 〜まるごと1日ウルトラマン〜』でナイスとマグマ星人がナビゲーターとして登場し、トークショー『'''ウルトラ秋の大作戦 ウルトラマンナイスの部屋'''』を実施。司会はMCガールズのまりえお姉さん&るなお姉さんに、ゲストはレイ([[南翔太]])。 == その他の登場作品 == ; 『[[新世紀ウルトラマン伝説]]』 : 他のウルトラ戦士と共に天空魔と戦った。コンビ相手になることが多いゼアスと共に負傷し、二人でウルトラの母のマザー光線の治療を受けた。 ; 『[[新世紀2003ウルトラマン伝説 THE KING'S JUBILEE]]』 : ウルトラマンキングの誕生日を他のウルトラ戦士と共に祝福する。 ; 『[[ウルトラエッグ]]』 : [[ウルトラエッグ#登場キャラクター|Dr.エッグ]]の正体がナイスではないかと噂されているが<ref>{{Cite book|和書|title =[[ウルトラマンギンガS]][[超全集]] |series=[[てれびくん]]デラックス 愛蔵版 |date = 2015-02-03 |publisher = [[小学館]] |page=72 |isbn = 978-4-09-105148-6 }}</ref>、本人は頑なにそれを否定している。関連書籍『ウルトラエッグ超変形ファイル』<ref>主婦と生活社 2013年4月19日発売 ISBN 978-4391143584</ref>ではウルトラマンゼロに「おまえどう見たってウルトラマンナイスじゃねえか」とツッコまれている。『円谷プロ全怪獣図鑑』でもウルトラマンナイスのページでDr.エッグが紹介されている{{R|全怪獣図鑑}}。 ; 『[[ウルトラギャラクシーファイト#『ウルトラギャラクシーファイト 運命の衝突』|ウルトラギャラクシーファイト 運命の衝突]]』 : オリジナルキャストの[[宮坂ひろし]]が声を担当<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/471646|title=「ウルトラギャラクシーファイト」にウルトラフォース参戦、PVや声優発表|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-03-29|accessdate=2022-03-29}}</ref>。 : [[ウルトラマンゼアス#ウルトラマンゼアス|ウルトラマンゼアス]]と[[ウルトラマンボーイのウルころ#ウルトラマンボーイ|ウルトラマンボーイ]]と共にウルトラコロセウムで特訓する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="FCTDG36">{{Harvnb|FCティガ/ダイナ/ガイア|2001|p=36|loc=「ウルトラマンナイス」}}</ref> <ref name="FCTDG">{{Harvnb|FCティガ/ダイナ/ガイア|2001|p=80|loc=「劇場用映画(含むウルトラマンナイス)怪獣リスト」}}</ref> <ref name="画報下">{{Harvnb|画報 下巻|2003|pp=156-157|loc=「ウルトラマンナイス」}}</ref> <ref name="全怪獣図鑑">{{Harvnb|円谷プロ全怪獣図鑑|2013|p=281|loc=「ウルトラマンナイス」}}</ref> <ref name="TVMAGA">{{Harvnb|平成ウルトラビデオ全集|2002|p=74|loc=「+α特別オマケ ウルトラマンナイス」}}</ref> <ref name="必殺技SG82">{{Harvnb|必殺技SG|2014|pp=82-83|loc=「ウルトラマンナイス」}}</ref> <ref name="必殺技SG225">{{Harvnb|必殺技SG|2014|pp=225-226|loc=「ウルトラヒーロー主要必殺技リスト」}}</ref> <ref name="デザイン画集243">{{Harvnb|デザイン画集|2018|pp=243-244|loc=「丸山浩デザイン解説 ウルトラマンナイス」}}</ref> <ref name="UPM vol.1430">{{Harvnb|UPM vol.14|2021|pp=30-31|loc=「ウルトラ特別企画vol.14 ウルトラマンナイス」}}</ref> <ref name="UPM vol.2830">{{Harvnb|UPM vol.28|2021|p=30|loc=「ウルトラ特別企画vol.28 ウルトラの特徴!?ユニフォーム考 その2」}}</ref> <ref name="UPM vol.3734">{{Harvnb|UPM vol.37|2022|p=34|loc=「円谷AGEの眼 「真面目に不真面目」 野中 剛」}}</ref> }} === 出典(リンク) === {{Reflist|group="出典"|2}} == 参考文献 == * [[テレビマガジン]]デラックス([[講談社]]) ** {{Cite book|和書|date=2001-04-20|title=決定版 ウルトラ戦士必殺わざ超百科(3)|publisher=講談社|isbn=4-06-304462-9|ref={{SfnRef|必殺わざ超百科(3)|2001}}}} ** {{Cite book|和書|date=2004-06-25|title=決定版 全ウルトラマン完全超百科|publisher=講談社|isbn=4-06-304499-8|ref={{SfnRef|完全超百科|2004}}}} * {{Cite book|和書|date=2001-07-20|title=空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマンティガ / ウルトラマンダイナ / ウルトラマンガイア|series=[[ファンタスティックコレクション]]|publisher=[[朝日ソノラマ]]|isbn=4-257-03624-9|ref={{SfnRef|FCティガ/ダイナ/ガイア|2001}} }} * {{Cite book|和書|title=テレビマガジン特別編集 平成ウルトラビデオ全集|publisher=講談社|date=2002-06-25|isbn=978-4-06-178427-7|ref={{SfnRef|平成ウルトラビデオ全集|2002}}}} * {{Cite book|和書|date=2003-05-09|title=ウルトラマン画報|volume=下巻|publisher=[[竹書房]]|isbn=4-8124-0999-3|ref={{SfnRef|画報 下巻|2003}}}} * {{Cite book|和書|author=大石真司|coauthors=江口水基・島崎淳・間宮尚彦|others=円谷プロダクション監修|date=2013-03-11|title=円谷プロ全怪獣図鑑|publisher=小学館|isbn=978-4-09-682074-2|ref={{SfnRef|円谷プロ全怪獣図鑑|2013}} }} * {{Cite book|和書|author=繁原稔弘|title=ウルトラヒーロー必殺技スーパーガイド1966-2014|date=2014-03-30|publisher=メディアックス|series=メディアックスMOOK437|isbn=978-4-86201-467-2|ref={{SfnRef|必殺技SG|2014}}}} * {{Cite book|和書|date=2018-11-22|title=丸山浩ウルトラデザイン画集|publisher=[[洋泉社]]|isbn=978-4-8003-1596-0|ref={{SfnRef|デザイン画集|2018}}}} * 講談社シリーズMOOK ウルトラ特撮 PERFECT MOOK(講談社) ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2021-01-25|title =ウルトラ特撮 PERFECT MOOK|volume=vol.14|volume-title=ウルトラマンガイア|publisher = 講談社|series=講談社シリーズMOOK|isbn = 978-4-06-520936-3|ref = {{SfnRef|UPM vol.14|2021}}}} ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2021-08-24|title =ウルトラ特撮 PERFECT MOOK|volume=vol.28|volume-title=ウルトラマンコスモス|publisher = 講談社|series=講談社シリーズMOOK|isbn = 978-4-06-520962-2|ref = {{SfnRef|UPM vol.28|2021}}}} ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2022-01-11|title =ウルトラ特撮 PERFECT MOOK|volume=vol.37|volume-title=ウルトラマンゼアス/ウルトラマンUSA|publisher = 講談社|series=講談社シリーズMOOK|isbn = 978-4-06-521064-2|ref = {{SfnRef|UPM vol.37|2022}}}} * {{Cite book|和書|date=2021-04-30|title=平成ウルトラマン メカクロニクル|publisher=ぴあ株式会社|series=ぴあMOOK|isbn=978-4-8356-4288-8|ref={{SfnRef|HMC|2021}}}} * {{Cite book|和書|date=2021-05-24|title=テレビマガジン特別編集 ウルトラ特撮マガジン VOL.2|publisher=講談社|series=講談社MOOK|isbn=978-4-06-523014-5|ref={{SfnRef|マガジンVOL.2|2021}}}} * {{Cite book|和書|author=丸山浩|authorlink=丸山浩 (デザイナー)|date = 2022-07-27|title = 丸山浩ウルトラデザイン画集 光の記憶 ウルトラマンティガ・ダイナ・ガイア編|publisher=ホビージャパン|isbn=978-4-7986-2876-9|ref={{SfnRef|デザイン画集TDG編|2022}}}} == 関連項目 == * [[ウルトラシリーズ]] * [[ウルトラマン一覧]] * [[ウルトラ怪獣一覧]] * [[ウルトラシリーズ登場兵器一覧]] == 外部リンク == * [http://m-78.jp/ TSUBURAYA STATION WEB] {{ウルトラシリーズ}} {{DEFAULTSORT:うるとらまんないす}} [[Category:ウルトラシリーズ|ないす]] [[Category:CMキャラクター]]
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チョッパ制御
チョッパ制御(チョッパせいぎょ)とは、電流のON-OFFを繰り返すことによって直流または交流の電源から、実効値として任意の電圧や電流(一般的には直流、交流の場合も含まれる)を擬似的に作り出す電源回路の制御方式である。「チョッパ」(chopper) とは英語で「切り刻むもの」の意であり、電流(電圧)を切り刻んでいるかのように制御している意味である。主に電車の主電動機の制御や直流安定化電源(ACアダプタ)等に用いられる。入力電圧より下げる制御を「降圧チョッパ」、スイッチング時に発生するスパイク電流を用いて入力電圧より上げる制御を「昇圧チョッパ」と呼ぶ。 とも言う。 任意の電力を取り出す際に、抵抗制御やシリーズレギュレータでは、余分な電力を「熱」として捨てているのに対し、チョッパ制御では制御素子で電流を高速でON-OFFし、必要な電力だけを取り出すため、熱によるエネルギーの損失が少ない。制御素子にはサイリスタやパワートランジスタなどを用いる。 ON-OFFを繰り返すことからノイズが発生するため、安定化電源等では2次側にノイズフィルタを用いることが多い。 一般的なチョッパ制御回路では、出力電圧・電流などに応じてON時間とOFF時間の割合(デューティ比)を変化させ、負荷が変動しても安定した出力を得られるようになっている。 電子回路においては回路が複雑になるが、直流出力の製品では必要な部品を殆どワンパッケージ化したDC-DCコンバータや、スイッチング素子やチョークコイルなど数点の部品を追加するだけでチョッパ制御回路が実現できるICが発売されている。商用電源-直流出力の製品においてはスイッチングACアダプタなどとして、従来のトランス式電源回路を置き換えている。 ただしオーディオ・ビジュアル家電においては、スイッチングによるノイズを嫌って、あえて従来のトランスやシリーズレギュレータ等を用いた電源回路が採用される事がある。 鉄道車両においては、加速時には降圧チョッパとして動作させ、速度に応じてON時間とOFF時間の割合(デューティ比)を増加させて平均電圧を上げていく。減速時は主回路を切替えた後に昇圧チョッパとして動作させ、回路の電圧を架線電圧より高めることで主電動機が発生させた電力を架線に流し、回生ブレーキを実現する。速度が落ちると主電動機から発生する電圧も低くなるため、やはりデューティ比を上げて常に架線電圧以上の電圧を確保する。このとき、架線電圧を大幅に上回ってしまわないよう、抵抗器や専用の降圧チョッパ(ブレーキチョッパ)を挿入してから架線に戻すこともある。装置によっては、雨などによって加速中に空転が発生した場合に、それを検知してデューティ比を一時的に下げて粘着性能を確保する機能も搭載されている。また、電圧を断続的に変化させ、それに応じた電流を直流電動機に流しているので、主電動機の性能上できるだけ直流に近い電流を流することが望ましいため、リアクトルと呼ばれるコイルを主電動機と直列に接続するほか、主電動機にフライホイールダイオードを逆並列に接続して、無加圧時(チョッパのOFFの時間)において、循環電流をリアクトルを介して主電動機との間に流すことにより、直流に近い電流としている。 1968年、千代田線の営団6000系電車(一次試作車。電機子チョッパ制御)で初めて使われた。 国鉄201系電車で採用された電機子チョッパ制御は最も電流の大きい回路で使用されることから装置が大型、高価、誘導障害対策が必要なため量産採用されたのはかなり珍しい部類である。特に営団01系電車で採用された4象限チョッパ装置ではパワーブロックが2組必要でVVVFインバータ制御と大差無い機器構成のため、多くが増備の段階でVVVF方式に設計変更されているが、京都市交通局10系電車や東京都交通局10-000形電車のようにそのまま増備された例もある。ブラシのある直流モーターを使用するため、VVVF方式で使う各種交流モーターに比べて省メンテナンス性で劣る。そのため近年新車としてチョッパ制御を採用された車両は皆無に等しい。また、VVVFインバータ制御の車両において、列車密度が低い線区で回生ブレーキを使用すると、電動機が発生させた電力が架線に流れず回生失効を起こす場合があるため、抵抗器を介した発電ブレーキ回路を構成してチョッパ制御を行うブレーキチョッパシステムを搭載している車両もある。 鉄道車両用装置はどの回路をスイッチングするかによってそれぞれ名称が異なる。詳しくは関連項目を参照されたい。
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チョッパ制御(チョッパせいぎょ)とは、電流のON-OFFを繰り返すことによって直流または交流の電源から、実効値として任意の電圧や電流(一般的には直流、交流の場合も含まれる)を擬似的に作り出す電源回路の制御方式である。「チョッパ」(chopper) とは英語で「切り刻むもの」の意であり、電流(電圧)を切り刻んでいるかのように制御している意味である。主に電車の主電動機の制御や直流安定化電源(ACアダプタ)等に用いられる。入力電圧より下げる制御を「降圧チョッパ」、スイッチング時に発生するスパイク電流を用いて入力電圧より上げる制御を「昇圧チョッパ」と呼ぶ。 とも言う。
[[ファイル:Chopper jp 02.gif|thumb|240px|チョッパ制御概念図]] '''チョッパ制御'''(チョッパせいぎょ)とは、[[電流]]のON-OFFを繰り返すことによって[[直流]]または[[交流]]の[[電源]]から、実効値として任意の[[電圧]]や電流(一般的には直流、交流の場合も含まれる)を擬似的に作り出す[[電源回路]]の制御方式である。「チョッパ」(chopper) とは英語で「切り刻むもの」の意であり、電流(電圧)を切り刻んでいるかのように制御している意味である。主に[[電車]]の主[[電動機]]の制御や直流安定化電源(ACアダプタ)等に用いられる。入力電圧より下げる制御を「降圧チョッパ」、スイッチング時に発生するスパイク電流を用いて入力電圧より上げる制御を「昇圧チョッパ」と呼ぶ。 ; [[スイッチング電源|スイッチング]] : 直流入力直流出力の場合 ; [[整流器]](コンバータ・順変換器) : 交流入力直流出力の場合 ; 交流チョッパ : 交流入力交流出力の場合 とも言う。 == 概要 == 任意の電力を取り出す際に、[[抵抗制御]]や[[シリーズレギュレータ]]では、余分な電力を「熱」として捨てているのに対し、チョッパ制御では制御素子で電流を高速でON-OFFし、必要な電力だけを取り出すため、熱によるエネルギーの損失が少ない。制御素子には[[サイリスタ]]やパワー[[トランジスタ]]などを用いる。 ON-OFFを繰り返すことから[[ノイズ]]が発生するため、安定化電源等では2次側に[[ノイズフィルタ]]を用いることが多い。 一般的なチョッパ制御回路では、出力電圧・電流などに応じてON時間とOFF時間の割合([[デューティ比]])を変化させ、負荷が変動しても安定した出力を得られるようになっている。 電子回路においては回路が複雑になるが、直流出力の製品では必要な部品を殆どワンパッケージ化したDC-DCコンバータや、スイッチング素子やチョークコイルなど数点の部品を追加するだけでチョッパ制御回路が実現できるICが発売されている。商用電源-直流出力の製品においてはスイッチングACアダプタなどとして、従来のトランス式電源回路を置き換えている。 ただしオーディオ・ビジュアル家電においては、スイッチングによるノイズを嫌って、あえて従来のトランスやシリーズレギュレータ等を用いた電源回路が採用される事がある。 == 鉄道車両におけるチョッパ制御 == [[鉄道車両]]においては、加速時には降圧チョッパとして動作させ、速度に応じてON時間とOFF時間の割合([[デューティ比]])を増加させて平均電圧を上げていく。減速時は主回路を切替えた後に昇圧チョッパとして動作させ、回路の電圧を[[架線]]電圧より高めることで[[主電動機]]が発生させた電力を架線に流し、[[回生ブレーキ]]を実現する。速度が落ちると主電動機から発生する電圧も低くなるため、やはりデューティ比を上げて常に架線電圧以上の電圧を確保する。このとき、架線電圧を大幅に上回ってしまわないよう、[[抵抗器]]や専用の降圧チョッパ(ブレーキチョッパ)を挿入してから架線に戻すこともある。装置によっては、雨などによって加速中に[[空転]]が発生した場合に、それを検知してデューティ比を一時的に下げて[[粘着式鉄道|粘着]]性能を確保する機能も搭載されている。また、電圧を断続的に変化させ、それに応じた電流を直流電動機に流しているので、主電動機の性能上できるだけ直流に近い電流を流することが望ましいため、[[リアクトル]]と呼ばれるコイルを主電動機と直列に接続するほか、主電動機に[[ダイオード#還流ダイオード|フライホイールダイオード]]を逆並列に接続して、無加圧時(チョッパのOFFの時間)において、循環電流をリアクトルを介して主電動機との間に流すことにより、直流に近い電流としている<ref>伊藤一夫 鉄道メカニズム図鑑 P187</ref>。 [[1968年]]、[[東京メトロ千代田線|千代田線]]の[[営団6000系電車]](一次試作車。[[電機子チョッパ制御]])で初めて使われた。 [[国鉄201系電車]]で採用された電機子チョッパ制御は最も電流の大きい回路で使用されることから装置が大型、高価、[[誘導障害]]対策が必要なため量産採用されたのはかなり珍しい部類である。特に[[営団01系電車]]で採用された4象限チョッパ装置ではパワーブロックが2組必要でVVVFインバータ制御と大差無い機器構成のため、多くが増備の段階で[[可変電圧可変周波数制御|VVVF方式]]に設計変更されているが、[[京都市交通局10系電車]]や[[東京都交通局10-000形電車]]のようにそのまま増備された例もある。ブラシのある直流モーターを使用するため、VVVF方式で使う各種交流モーターに比べて省メンテナンス性で劣る。そのため近年新車としてチョッパ制御を採用された車両は皆無に等しい。また、VVVFインバータ制御の車両において、列車密度が低い線区で回生ブレーキを使用すると、電動機が発生させた電力が架線に流れず回生失効を起こす場合があるため、抵抗器を介した発電ブレーキ回路を構成してチョッパ制御を行うブレーキチョッパシステムを搭載している車両もある。 鉄道車両用装置はどの回路をスイッチングするかによってそれぞれ名称が異なる。詳しくは関連項目を参照されたい。 {{main|電機子チョッパ制御}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== <references /> == 関連項目 == * [[直巻整流子電動機]](直流電動機)の[[界磁添加励磁制御]]・[[電機子チョッパ制御]](主回路チョッパ制御) * [[複巻整流子電動機]](直流電動機)の[[界磁位相制御]]・[[界磁チョッパ制御]] * [[分巻整流子電動機]](直流電動機)の[[電機子チョッパ制御|高周波分巻チョッパ制御]] * [[インバータ]](逆変換): 直流入力交流出力の場合 *[[パルス幅変調|PWM]] {{DEFAULTSORT:ちよつはせいきよ}} [[Category:電気回路]] [[Category:鉄道車両の制御方式]]
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鍵盤
鍵盤(けんばん)は、英語の"keyboard"の訳として生まれた漢語。押し込むなどして機械に情報を入力するキーと呼ばれる部品が取り付けられた盤のこと。
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鍵盤(けんばん)は、英語の"keyboard"の訳として生まれた漢語。押し込むなどして機械に情報を入力するキーと呼ばれる部品が取り付けられた盤のこと。
'''鍵盤'''(けんばん)は、英語の"keyboard"の訳として生まれた[[漢語]]。押し込むなどして機械に情報を入力する[[キー]]と呼ばれる部品が取り付けられた盤のこと。 == 鍵盤 == * [[鍵盤 (楽器)]] - [[楽器]]の演奏機構の一つ。[[鍵盤楽器]]の操作部。 * [[鍵盤 (入力装置)]] - [[タイプライター]]や[[テレタイプ端末]]や[[コンピュータ]]などの操作部。 == 鍵盤が取り付けられた機器 == * [[鍵盤楽器]] - 鍵盤をそなえた楽器。[[ピアノ]]、[[オルガン]]、[[チェンバロ]]など。 == 鍵盤に類似する形状のもの == * [[鍵盤打楽器]] - ピアノの鍵盤のように並べた音板をそなえた楽器。グロッケン、マリンバ、ビブラフォンなど。 == 関連項目 == {{Wiktionary|鍵盤}} * [[キーボード (曖昧さ回避)]] ** [[キーボード (楽器)]] ** [[キーボード (コンピュータ)]] * [[ノートナンバー]] {{Aimai}} {{デフォルトソート:けんはん}}
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岡野玲子
岡野 玲子(おかの れいこ、1960年6月24日 - )は、日本の漫画家。茨城県古河市出身。 夫は手塚治虫の実子でヴィジュアリスト(映像作家)の手塚眞。 東洋美術学校を卒業後、1982年『エスタープリーズ』でデビュー。代表作に『ファンシィダンス』(小学館漫画賞受賞)や夢枕獏原作の『陰陽師』(手塚治虫文化賞受賞)や『陰陽師 玉手匣』。他の作品に『妖魅変成夜話』『コーリン グ』ほか。作品は繊細な筆致で描かれたファンタジーが多く、時に独特のユーモアも混じる。作画にはコピートーンを多用しており、オリジナルのトーンを作りながら作品を制作している。サム・ペキンパーの映画『ワイルドバンチ』の銃撃シーンに感銘を受けたことが漫画家を目指すきっかけになったという。 雅楽をはじめとして音楽にも造詣が深く、漫画『陰陽師』のイメージアルバム(ブライアン・イーノ、伶楽舎)や文化勲章受章者の芝祐靖氏も演奏で参加している雅楽アルバム『喜瑞』(東儀 兼彦、日本伝統文化振興財団、ビクター)をプロデュースしている。2011年3月11日東日本大震災後は、宮城県石巻市雄勝町に伝わる「雄勝法印神楽」の復興支援活動に参加。2015年に完全復興している。 紙面では、画業35周年記念企画として新装版で復刻した『両国花錦闘士』上下巻と2010年より隔月刊『メロディ』誌(白泉社)に連載された『陰陽師 玉手匣』完結の第7巻が現在好評発売中。『陰陽師』と『陰陽師 玉手匣』、『ファンシイダンス』が白泉社より電子書籍にて配信中。 イメージアルバム以外にも、橋本一子のアルバム『ファンタスマゴリア―幻覚者たち』(2000年)のプロデュースを手がけている。
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岡野 玲子は、日本の漫画家。茨城県古河市出身。 夫は手塚治虫の実子でヴィジュアリスト(映像作家)の手塚眞。
'''岡野 玲子'''(おかの れいこ、[[1960年]][[6月24日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[茨城県]][[古河市]]出身。 夫は[[手塚治虫]]の実子でヴィジュアリスト(映像作家)の[[手塚眞]]。 == 経歴 == [[東洋美術学校]]を卒業後、1982年『エスタープリーズ』でデビューした。代表作に『ファンシィダンス』(小学館漫画賞受賞)や夢枕獏原作の『陰陽師』(手塚治虫文化賞受賞)や『陰陽師 玉手匣』が挙げられる。他の作品としては『妖魅変成夜話』『コーリン グ』など。 作品は繊細な筆致で描かれたファンタジーが多く、時に独特のユーモアも混じる。作画には[[スクリーントーン#種類|コピートーン]]を多用しており、オリジナルの[[スクリーントーン|トーン]]を作りながら作品を制作している。[[サム・ペキンパー]]の映画『[[ワイルドバンチ (映画)|ワイルドバンチ]]』の銃撃シーンに感銘を受けたことが漫画家を目指すきっかけになったという。 雅楽をはじめとして音楽にも造詣が深いとされ、漫画『陰陽師』のイメージアルバム(ブライアン・イーノ、伶楽舎)や文化勲章受章者の芝祐靖氏も演奏で参加している雅楽アルバム『喜瑞』(東儀 兼彦、日本伝統文化振興財団、ビクター)をプロデュースした。2011年3月11日東日本大震災後は、宮城県石巻市雄勝町に伝わる「雄勝法印神楽」の復興支援活動に参加した。同神楽は、2015年に完全復興している。 画業35周年記念企画として新装版で復刻した『両国花錦闘士』上下巻と、2010年より隔月刊『メロディ』誌(白泉社)に連載された『陰陽師 玉手匣』の完結の第7巻が発売された。『陰陽師』と『陰陽師 玉手匣』、『ファンシイダンス』が白泉社より電子書籍にて配信された。 == 受賞 == * [[1989年]] - 第34回[[小学館漫画賞]](『ファンシィダンス』) * [[2001年]] - 第5回[[手塚治虫文化賞]]マンガ大賞(『[[陰陽師 (漫画)|陰陽師]]』) * [[2006年]] - 第37回[[星雲賞]]コミック部門受賞(『陰陽師』) == 作品リスト == === 連載作品 === *消え去りしもの-Missing Link-(1984年-1985年、[[grape fruit|ペーパームーンコミック<新書館>]] ) *:魔術師の世界を舞台にしたファンタジー作品。 *ディアーヌ・ド・ロゼの陰謀(1986年-1987年、[[grape fruit|ペーパームーンコミック<新書館>]] ) *:17世紀ヨーロッパの貴族を題材にしたドタバタ劇。 *[[ファンシィダンス]](1984年-1990年、[[プチフラワー]] <小学館>) *:禅寺の跡取り息子を主人公に、ファッションや恋愛を交えたコメディ作品。[[周防正行]]監督、[[本木雅弘]]主演で1989年に映画化された。 *両国花錦闘士(りょうごくおしゃれりきし) (1989年-1990年、[[ビッグコミックスピリッツ|ビッグコミックスピリッツ<小学館>]]) *:若手力士と女性実業家との恋愛を描いた作品。 *コーリング(1991年-1993年、[[コミックトム|コミックトム<潮出版社>]]) *:[[パトリシア・A・マキリップ]]のファンタジー『妖女サイベルの呼び声』を漫画化したもの。 *[[陰陽師 (漫画)|陰陽師]](1993年-2005年、[[コミックバーズ|コミックバーガー]]<スコラ>、[[月刊メロディ]]<白泉社>) *:[[安倍晴明]]を主人公にした[[夢枕獏]]の同名小説を漫画化。全13巻、3800ページの長編作品。後半からは完全に岡野の創作となっている。 *妖魅変成夜話(ようみへんじょうやわ)(1995年-1996年、PANJA<扶桑社> /1999年-2007年、月刊百科<平凡社>) *:[[唐]]の仙界を舞台にしたコミカルな作品。筆による作画がなされている。 *イナンナ(2007年-2010年 、[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]<講談社>) *:天界から降り立った女神、イナンナを主人公に、[[ベリーダンス]]に題材をとった作品。 *[[陰陽師 玉手匣]](2011年-2017年、[[MELODY (雑誌)|メロディ<白泉社>]]) *:『陰陽師』の新シリーズ。安倍晴明の妻・真葛が所持する小箱に収められた書物を読み上げる形で物語が展開。 === 作品その他 === * 妙技の報酬 (2000年、小学館、プチフラワービッグコミックス 2000/11/20) *妖女サイベルの呼び声 -カバー書下ろし(2009年、早川書房) === イメージアルバム === * MACOTO TEZKA PRESENTS REIKO OKANO'S 雲遊歌舞 ファンシイダンス(1988年) *:1990年まで小学館『プチフラワー』に連載された作品『ファンシイダンス』。連載中の1988年にリリースされた手塚眞がプロデュースしたイメージアルバム。 *:参加アーチストは、伊武雅刀、サエキけんぞう、バカボン鈴木、鈴木さえ子、沖山優司、BAnaNA、鴻上尚史、OTO、成田忍、土屋昌巳、仙波清彦赤城忠治、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、Phonogenix、中沢新一、橋本一子、清田益章・森本レオ。 * コーリング 第1巻初版本の付録(1991年) *:第1巻の初版本にのみ8cmCDのイメージ音楽集が封入された。[[橋本一子]]によるピアノソロ曲を収録。 * music for 陰陽師(2000年) *:岡野自身のプロデュース。[[ブライアン・イーノ]]の[[アンビエント・ミュージック]]、[[伶楽舎]]の[[雅楽]]というアプローチの異なる2種類の音楽で構成。 === その他 === * 喜瑞 東儀兼彦/三方楽家の伝承 -CD(2002年) *:雅楽の基本となる三つの管楽器、笙・篳篥・笛の3人の現代雅楽界を代表する名人による極めつけの演奏を収録。 *:岡野玲子が、平安の雅の世界をコーディネイトした雅楽のCD。 * 芝祐靖の音楽 復元正倉院楽器のための 敦煌琵琶譜による音楽 -CD(2011年) *:笛の名手であり、雅楽の古楽曲の復興に力を注いでおられる芝祐靖先生と雅楽演奏グループ・伶楽舎がリリースしたCD。 *:岡野玲子が、ブックレットに「仙人の見せる夢幻の世界」と題する解説とイラストを寄稿。 イメージアルバム以外にも、橋本一子のアルバム『ファンタスマゴリア―幻覚者たち』(2000年)のプロデュースを手がけている。 === 画集 === * 『画集 陰陽師』 ([[白泉社]] [[2002年]][[3月10日]]発売) ISBN 4-592-73190-5 == 参考文献 == * ティム・リーマン著『マンガマスター 12人の日本のマンガ職人たち』美術出版社、[[2005年]] * 仲宇佐さゆり(聞き手):「岡野玲子(漫画家)・手塚眞(ヴィジュアリスト)夫妻」、「平成 夫婦善哉」第189回、週刊朝日、[[2017年]][[10月20日]]号、頁50ー53。 == 外部リンク == * [http://www.najanaja.co.jp/index.html OGDOAD](公式ウェブサイト) * [https://web.archive.org/web/20001018034722/http://www.najanaja.co.jp/index.html 旧ホームページ] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おかの れいこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:手塚眞|+]] [[Category:手塚家|れいこ]] [[Category:茨城県出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]] {{Manga-artist-stub}}
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中山大障害
中山大障害(なかやまだいしょうがい)は、日本中央競馬会(JRA)が中山競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(J・GI)である。競馬番組表での名称は「農林水産省賞典 中山大障害(のうりんすいさんしょうしょうてん なかやまだいしょうがい)」と表記している。 春に施行される中山グランドジャンプとともに、大竹柵障害や大生垣障害を飛越する中山競馬場の襷コース(大障害コース)が用いられる(後述)。 正賞は農林水産大臣賞、日本馬主協会連合会会長賞。 1934年に、当時中山競馬倶楽部の理事長だった肥田金一郎が東京優駿(日本ダービー)に匹敵する中山競馬場の名物競走とすることを目的として創設した障害競走で、日本で最も難度の高い障害競走とされている。第1回は「大障害特別」の名称で行われ、1935年から春と秋の年2回施行するようになった。競走名はその後度重なる変更を経て、1948年秋より「中山大障害」の名称で定着している。施行距離は創設時に4100mとされ、幾度かの変遷を経たのち1972年秋より再び4100mに戻され、現在に至る。 1935年以来、長らく春と秋に年2回施行していたが、1999年に障害競走が改革されグレード制を導入した際、春の競走を廃止のうえ新たに「中山グランドジャンプ」が創設され、本競走と中山グランドジャンプが最高位となる「J・GI」に格付け。あわせて負担重量も別定から定量に変更され、以後は秋季に年1回の施行となった。事故防止のため1972年に障害の規模を多少縮小したものの、現在も「華の大障害」「暮れの中山の名物レース」などと呼ばれ親しまれている。 1957年から4歳(現3歳)馬の出走が秋のみ認められるようになり、外国産馬は1989年から春、1993年から秋にそれぞれ出走可能になった。2011年からは国際競走となり、外国馬も出走可能になった。 また、競馬における障害競走の総決算として位置づけられているほか、年度により(12月28日が日曜日である場合。年度によっては12月28日が月曜に当たる12月27日が日曜日と重なる場合も含む)、平地の2歳GI「ホープフルステークス」との同日並列開催(過去例:2020年)となる場合がある。 以下の内容は、2023年(第146回)現在のもの。 出走資格:サラ系障害3歳以上(出走可能頭数:最大16頭) 負担重量:定量(3歳61kg、4歳以上63kg、牝馬2kg減) 出馬投票を行った馬のうち優先出走権のある外国馬から割り当て、JRA所属馬は「通算収得賞金」+「過去1年の収得賞金」+「過去2年のJ・GI競走における収得賞金」が多い順に割り当てる。 2023年の1着賞金は6600万円で、以下2着2600万円、3着1700万円、4着990万円、5着660万円。 中山競馬場の障害コース・大障害コース(後述)を周回し、最後の直線は芝コースを使用。全体の距離は4100m。 第3コーナーからスタートし、まず順回りで4分の3周。向正面から大障害コースに入り大竹柵を飛越。その後は逆回りとなり、第4コーナーから第3コーナーを通って再び大障害コースに入り大生垣を飛越。再び順回りに戻り、第4コーナーからダートコースを横切って芝コースへ進入。最後の直線には障害がない。 7つの障害を11回飛越し、6回の坂路(谷。「バンケット」とも呼ばれる)昇降がある。飛越のテクニックはもちろん、大竹柵と大生垣では高さに加え距離も飛ばなければクリアできず、スタミナや精神力が試されるJRA障害の最高峰コースとされている。 創設時は障害を10回飛越し、6回の坂路(谷。「バンケット」とも呼ばれる)昇降のほかに大土塁(通称「赤レンガ」。高さ1.4m・幅2.2m)と大竹柵(高さ1.6m)と生垣(高さ1.5m・幅2.7m)があった。 中山競馬場の襷コースは「大障害コース」とも呼ばれ、本競走と中山グランドジャンプでのみ使用される。大障害コースには、大竹柵と大生垣が設置されている。 中山競馬場の第6号障害。スタートから5番目に飛越する障害で、高さ160cm・幅205cm・竹柵部分の高さは140cmとなっている。1980年代はこの障害で転倒・落馬をする馬が非常に多く、1981年春より1985年秋まで出走馬延べ80頭のうち19頭が転倒・落馬を引き起こした。その後、竹柵をしまりが緩くかき分けやすいものに変更したことに伴い、大幅に易化。2003年から2012年までの出走馬140頭のうち、ここで落馬した馬はわずか1頭にまで激減した。 中山競馬場の第7号障害。スタートから7番目に飛越する障害で、高さ160cm・幅240cm・生垣の高さ140cm。大障害創設当初より20cm高くなっている。大竹柵から見て逆周りをしてもう1回、襷に戻ってくるという仕組み。かつては大土塁(おおどるい)と呼ばれたが、旧大生垣が廃止された後にこちらを「大生垣」と呼ぶようになった。前面土塁部分に赤レンガ模様のデザインが施されており、「赤レンガ」という通称も用いられる。以前より競走中止となることは少ないが、ときおり有力馬の落馬を引き起こしている。また、大竹柵の難易度低下に伴って近年では中止率が逆転している。 中山競馬倶楽部の肥田金一郎が1932年に創設された東京優駿競走に匹敵する競走を中山競馬場でも開催したいと考え、イギリスのグランドナショナルにならった障害競走を創設するため、同年に障害コースの整備を開始。1934年8月27日に「大障碍特別競走」を創設する旨を各倶楽部に通知した。 それは距離4100m、高さ160cmの大竹柵、高さ140cm・幅220cmの大土塁、高さ150cm・幅270cmの大生垣の三大障害を含め計10回の障害飛越、加えて高低差4メートルを超える坂路を6回昇降するというものであり、ほとんどが中距離で障害も120センチメートル以下の競走しかなかった当時としては非常に過酷なものであった。 競馬関係者からは軍馬の改良の必要性などから長距離を耐え抜く有能な実役馬を選定できるという賛成意見もあったが、将来種牡馬となる良血馬、高額馬の出走が望めない少頭数となり競走興味が薄れるなどの理由で時期尚早とする反対意見が圧倒的となった。しかし肥田は断固として施行を主張。12月5日に大障碍特別競走を行うことを決定した。1着賞金は1万円であり、これは東京優駿競走と並び当時最高の賞金額を誇るレースであった。 1999年の障害競走の改革にあたっては、春の大障害を「中山スプリングジャンプ」、秋の大障害を「中山グランドジャンプ」とする計画であったが、競馬サークルの内外から「伝統のレース名は残すべき」という声が上がり、また春の競走を国際招待レースとする計画が立ち上がったため、春は「中山グランドジャンプ」として新設、秋は従来通り「中山大障害」の名称で施行することとなった。 2020年より、発走前のファンファーレ生演奏を実施。 優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記としている。 競走名は第1回が「大障碍特別」、第3回・第5回・第7回、第20回が「農林省賞典障碍」、第9回・第11回・第13回・第15回・第17回が「中山農林省賞典障碍」、第19回が「中山農商省賞典障碍」。 前述の通り、1935年から1998年までは年2回施行され、春の競走も行われていた。 施行コース・距離は秋と同様だったが、春のみ4歳馬(2001年以降の表記に基づけば3歳馬)は出走が認められていなかった。 優勝馬の馬齢は、現行表記としている。 競走名は第2回が「中山大障碍特別」、第4回・第6回・第8回・第21回が「農林省賞典障碍」、第10回・第12回・第14回・第16回・第18回が「中山農林省賞典障碍」、第100回が「東京大障害」。 1944年春は中山競馬場が閉鎖されたため、東京競馬場で能力検定競走「農商省賞典障碍」として施行された。
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中山大障害(なかやまだいしょうがい)は、日本中央競馬会(JRA)が中山競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(J・GI)である。競馬番組表での名称は「農林水産省賞典 中山大障害」と表記している。 春に施行される中山グランドジャンプとともに、大竹柵障害や大生垣障害を飛越する中山競馬場の襷コース(大障害コース)が用いられる(後述)。 正賞は農林水産大臣賞、日本馬主協会連合会会長賞。
{{競馬の競走 |馬場 = 障害 |競走名 = 中山大障害<br>{{Lang|en|Nakayama Daishogai}} |画像 = [[File:Oju Chosan Nakayama Daishogai 2021(IMG1).jpg|300px]] |画像説明 = 第144回中山大障害 |開催国 = {{JPN}} |主催者 = [[日本中央競馬会]] |競馬場 = [[中山競馬場]] |創設 = 1934年12月5日 |年次 = 2023 |格付け = J・GI |1着賞金 = 6600万円 |賞金総額 = |距離 = 芝4100m |条件 = [[サラブレッド|サラ]]系障害3歳以上(国際) |負担重量 = {{Nowrap|定量(3歳61kg、4歳以上63kg、牝馬2kg減)}} |出典 =<ref name="bangumi_2023nakayama5" /><ref name="jusyo_kanto" /> }} [[ファイル:Hida kinichirou.jpg|中山大障害の創設者・肥田金一郎|thumb|250px]] '''中山大障害'''(なかやまだいしょうがい)は、[[日本中央競馬会]](JRA)が[[中山競馬場]]で施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け#サラブレッド系種の平地競走以外の格付け|J・GI]])である。競馬番組表での名称は「'''[[農林水産大臣賞典|農林水産省賞典]] 中山大障害'''(のうりんすいさんしょうしょうてん なかやまだいしょうがい)」と表記している<ref name="bangumi_2023nakayama5" />。 春に施行される[[中山グランドジャンプ]]とともに、大竹柵障害や大生垣障害を飛越する中山競馬場の襷コース(大障害コース)が用いられる(後述)。 正賞は[[農林水産大臣]]賞、[[日本馬主協会連合会]]会長賞<ref name="bangumi_2023nakayama5" />。 == 概要 == [[ファイル:Kinten.jpg|thumb|第1回大障害特別優勝馬・キンテンと轡を取る肥田金一郎|250px]] 1934年に、当時[[中山競馬倶楽部]]の理事長だった[[肥田金一郎]]が[[東京優駿]](日本ダービー)に匹敵する中山競馬場の名物競走とすることを目的として創設した[[障害競走]]<ref name="JRA注目" />で、日本で最も難度の高い障害競走とされている<ref name="JRA注目" />。第1回は「大障害特別」の名称で行われ、1935年から春と秋の年2回施行するようになった<ref name="JRA注目" />。競走名はその後度重なる変更を経て、1948年秋より「中山大障害」の名称で定着している<ref name="JRA注目" />。施行距離は創設時に4100mとされ、幾度かの変遷を経たのち1972年秋より再び4100mに戻され、現在に至る<ref name="JRA注目" />。 1935年以来、長らく春と秋に年2回施行していたが、1999年に障害競走が改革され[[グレード制]]を導入した際、春の競走を廃止のうえ新たに「[[中山グランドジャンプ]]」が創設され、本競走と中山グランドジャンプが最高位となる「J・GI」に格付け。あわせて負担重量も別定から定量に変更され、以後は秋季に年1回の施行となった<ref name="JRA注目" />。事故防止のため1972年に障害の規模を多少縮小<ref name="JRA注目" />したものの、現在も「華の大障害<ref name="JRA注目" />」「暮れの中山の名物レース<ref name="JRA分析" />」などと呼ばれ親しまれている。 1957年から4歳(現3歳)馬の出走が秋のみ認められるようになり、[[外国産馬]]は1989年から春、1993年から秋にそれぞれ出走可能になった<ref name="JRA注目" />。2011年からは[[国際競走]]となり、[[外国馬]]も出走可能になった<ref name="JRA注目" />。 また、競馬における障害競走の総決算として位置づけられているほか、年度により([[12月28日]]が日曜日である場合。年度によっては12月28日が月曜に当たる[[12月27日]]が日曜日と重なる場合も含む)、平地の2歳GI「[[ホープフルステークス (中央競馬)|ホープフルステークス]]」との同日並列開催(過去例:[[2020年]])となる場合がある。 === 競走条件 === 以下の内容は、2023年(第146回)現在<ref name="bangumi_2023nakayama5" /><ref name="jusyo_kanto" />のもの。 出走資格:[[サラブレッド|サラ系]]障害3歳以上(出走可能頭数:最大16頭) * JRA所属馬 * 外国調教馬(8頭まで、優先出走) 負担重量:定量(3歳61kg、4歳以上63kg、牝馬2kg減) * 第1回 - 第121回は別定<ref name="JRA注目" />。 出馬投票を行った馬のうち優先出走権のある外国馬から割り当て、JRA所属馬は「通算収得賞金」+「過去1年の収得賞金」+「過去2年のJ・GI競走における収得賞金」が多い順に割り当てる。 === 賞金 === 2023年の1着賞金は6600万円で、以下2着2600万円、3着1700万円、4着990万円、5着660万円<ref name="bangumi_2023nakayama5" /><ref name="jusyo_kanto" />。 === コース === [[ファイル:Nakayama Racecourse1940.jpg|thumb|right|250px|初期の走路図]] 中山競馬場の障害コース・大障害コース(後述)を周回し、最後の直線は芝コースを使用。全体の距離は4100m<ref name="JRAコース紹介" />。 第3コーナーからスタートし、まず順回りで4分の3周。向正面から大障害コースに入り大竹柵を飛越。その後は逆回りとなり、第4コーナーから第3コーナーを通って再び大障害コースに入り大生垣を飛越。再び順回りに戻り、第4コーナーからダートコースを横切って芝コースへ進入。最後の直線には障害がない。 7つの障害を11回飛越し、6回の坂路(谷。「バンケット」とも呼ばれる)昇降がある。飛越のテクニックはもちろん、大竹柵と大生垣では高さに加え距離も飛ばなければクリアできず、スタミナや精神力が試されるJRA障害の最高峰コースとされている<ref name="JRAコース紹介" />。 {{See also|中山競馬場#障害コース}} 創設時は障害を10回飛越し、6回の坂路(谷。「バンケット」とも呼ばれる)昇降のほかに大土塁(通称「赤レンガ」。高さ1.4m・幅2.2m)と大竹柵(高さ1.6m)と生垣(高さ1.5m・幅2.7m)があった<ref name="JRA注目" />。 ==== 大障害 ==== 中山競馬場の襷コースは「大障害コース」とも呼ばれ、本競走と中山グランドジャンプでのみ使用される<ref name="JRAコース紹介" />。大障害コースには、大竹柵と大生垣が設置されている。 ===== 大竹柵 ===== 中山競馬場の第6号障害<ref name="course_nakayama" />。スタートから5番目に飛越する障害で、高さ160cm・幅205cm・竹柵部分の高さは140cmとなっている<ref name="course_nakayama" />。1980年代はこの障害で転倒・[[落馬]]をする馬が非常に多く、1981年春より1985年秋まで出走馬延べ80頭のうち19頭が転倒・落馬を引き起こした<ref group="注">再騎乗および転倒した他馬に触れたものも含む。</ref>。その後、竹柵をしまりが緩くかき分けやすいものに変更したことに伴い、大幅に易化。2003年から2012年までの出走馬140頭のうち、ここで落馬した馬はわずか1頭にまで激減した。 ===== 大生垣 ===== 中山競馬場の第7号障害<ref name="course_nakayama" />。スタートから7番目に飛越する障害で、高さ160cm・幅240cm・生垣の高さ140cm<ref name="course_nakayama" />。大障害創設当初より20cm高くなっている。大竹柵から見て逆周りをしてもう1回、襷に戻ってくるという仕組み。かつては大土塁(おおどるい)と呼ばれたが、旧大生垣が廃止された後にこちらを「大生垣」と呼ぶようになった。前面土塁部分に赤レンガ模様のデザインが施されており、「赤レンガ」という通称も用いられる。以前より競走中止となることは少ないが、ときおり有力馬の落馬を引き起こしている。また、大竹柵の難易度低下に伴って近年では中止率が逆転している。 <gallery> ファイル:1934daisyogaitokubetsu.jpg|大竹柵障害を飛越するレツドサンド(右)とキンテン(1934年大障碍特別) ファイル:Grand Brush.1938.jpg|1938年の大竹柵 ファイル:Grand Hedge.1938.jpg|1938年の大土塁 ファイル:Grand Brush005.JPG|2007年の大竹柵 ファイル:Grand Hedge004.JPG|2007年の大生垣 </gallery> == 歴史 == {{出典の明記|section=1|date=2014年11月25日}} [[中山競馬倶楽部]]の[[肥田金一郎]]が1932年に創設された[[東京優駿]]競走に匹敵する競走を[[中山競馬場]]でも開催したいと考え、イギリスの[[グランドナショナル]]にならった障害競走を創設するため、同年に障害コースの整備を開始。1934年8月27日に「'''大障碍特別競走'''」を創設する旨を各倶楽部に通知した。 それは距離4100m<ref name="JRA注目" />、高さ160cmの大竹柵<ref name="JRA注目" />、高さ140cm・幅220cmの大土塁<ref name="JRA注目" />、高さ150cm・幅270cmの大生垣<ref name="JRA注目" />の三大障害を含め計10回の障害飛越、加えて高低差4メートルを超える坂路を6回昇降する<ref name="JRA注目" />というものであり、ほとんどが中距離で障害も120センチメートル以下の競走しかなかった当時としては非常に過酷なものであった。 競馬関係者からは軍馬の改良の必要性などから長距離を耐え抜く有能な実役馬を選定できるという賛成意見もあったが、将来種牡馬となる良血馬、高額馬の出走が望めない少頭数となり競走興味が薄れるなどの理由で時期尚早とする反対意見が圧倒的となった。しかし肥田は断固として施行を主張。12月5日に大障碍特別競走を行うことを決定した。1着賞金は1万円であり、これは東京優駿競走と並び当時最高の賞金額を誇るレースであった。 1999年の障害競走の改革にあたっては、春の大障害を「中山スプリングジャンプ」、秋の大障害を「中山グランドジャンプ」とする計画であったが、競馬サークルの内外から「伝統のレース名は残すべき」という声が上がり、また春の競走を国際招待レースとする計画が立ち上がったため、春は「中山グランドジャンプ」として新設、秋は従来通り「中山大障害」の名称で施行することとなった。 2020年より、発走前のファンファーレ生演奏を実施。 === 年表 === * 1934年 - 「'''大障碍特別競走'''」の名称で別定戦として創設<ref name="JRA注目" />。出走4頭中3頭が完走した。 * 1935年 ** この年より年2回施行される(1947年と1956年を除く)<ref name="JRA注目" />。 ** 名称を「'''農林省賞典障碍'''」に変更<ref name="JRA注目" />。 * 1938年 - 名称を「'''中山農林省賞典障碍'''」に変更<ref name="JRA注目" />。 * 1943年 - 名称を「'''中山農商省賞典障碍'''」に変更<ref name="JRA注目" />。 * 1947年 - 名称を「'''農林省賞典障碍'''」に変更<ref name="JRA注目" />。 * 1948年 - 名称を「'''中山大障碍'''」に変更<ref name="JRA注目" />。 * 1950年 - この年のみ過去の優勝馬が出走不可となる。 * 1954年 - 名称を「'''農林省賞典 中山大障碍'''」に変更<ref name="JRA注目" />。 * 1957年 - 4歳馬が出走可能になる。 * 1970年 - 名称を「'''農林省賞典 中山大障害'''」に変更<ref name="JRA注目" />。 * 1971年 - [[馬インフルエンザ]]蔓延の影響で開催中止。 * 1972年 - 向正面障害専用コース新設に伴い、距離が4100mに短縮される。 * 1978年 - 名称を「'''農林水産省賞典 中山大障害'''」に変更<ref name="JRA注目" />。 * 1993年 - 混合競走に指定され、外国産馬が出走可能になる。 * 1999年 ** グレード制導入によりJ・GIに格付け<ref name="JRA注目" />。 ** 年1回施行となり、以後は秋季のみとなる<ref name="JRA注目" />。 ** 負担重量を定量に変更<ref name="JRA注目" />。 * 2001年 - [[馬齢]]表示の国際基準への変更に伴い、競走条件を「3歳以上」に変更。 * 2003年 - 積雪のため中止、2004年1月に延期。 * 2011年 - [[国際競走]]に変更され、外国調教馬が8頭まで出走可能となる。 === 歴代優勝馬 === 優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記としている。 競走名は第1回が「大障碍特別」、第3回・第5回・第7回、第20回が「農林省賞典障碍」、第9回・第11回・第13回・第15回・第17回が「中山農林省賞典障碍」、第19回が「中山農商省賞典障碍」<ref name="JRA注目" />。 {| class="wikitable" !回数!!施行日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主 |- |{{Center|第1回}}||1934年12月5日||中山||4100m||[[キンテン]]||牡5||5:21 1/5||[[稲葉幸夫]]||[[稲葉秀男]]||[[肥田金一郎]] |- |{{Center|第3回}}||1935年10月20日||中山||4100m||[[オーシス]]||牡4||5:02 2/5||佐藤修||[[杉浦照]]||石川義明 |- |{{Center|第5回}}||1936年10月18日||中山||4100m||トーナメント||牡4||4:57 1/5||[[中野吉太郎]]||[[杉浦照]]||石川義明 |- |{{Center|第7回}}||1937年10月17日||中山||4100m||[[キンテキ]]||牡4||5:01 0/5||[[古賀嘉蔵]]||[[尾形景造]]||高井治兵衛 |- |{{Center|第9回}}||1938年11月27日||中山||4100m||リードアン||牝4||5:06 0/5||稲葉幸夫||[[藤本冨良]]||[[大川義雄]] |- |{{Center|第11回}}||1939年12月3日||中山||4100m||シヤインモア||牝4||4:55 1/5||[[内藤潔]]||尾形景造||[[土田荘助]] |- |{{Center|第13回}}||1940年12月8日||中山||4100m||スタミナ||牝5||4:59 0/5||[[岩下密政]]||[[田村仁三郎]]||豊島美王麿 |- |{{Center|第15回}}||1941年12月7日||中山||4100m||[[ゼーアドラー (競走馬)|ゼーアドラー]]||牡5||4:55 0/5||古賀嘉蔵||尾形景造||片山哲雄 |- |{{Center|第17回}}||1942年11月29日||中山||4240m||バイエル||牝4||5:08 3/5||[[富田竹次郎]]||[[布施季三]]||高橋錬逸 |- |{{Center|第19回}}||1943年11月28日||中山||4240m||カミワカ||牡5||5:05 1/5||[[岩下密政]]||[[田村仁三郎]]||豊島美王麿 |- |{{Center|第20回}}||1947年12月14日||中山||3350m||ニユージヤパン||牡4||4:07 3/5||[[小桧山悦雄]]||鈴木信太郎||豊島美王麿 |- |{{Center|第22回}}||1948年11月3日||中山||4100m||ブルーホマレ||牡4||4:47 0/5||[[吉野勇]]||[[大久保房松]]||久保邦造 |- |{{Center|第24回}}||1949年12月4日||中山||4100m||ブランドライト||牡5||4:58 3/5||[[坂内光雄]]||[[尾形藤吉]]||川内安忠 |- |{{Center|第26回}}||1950年12月7日||中山||4100m||アシガラヤマ||牡4||4:54 1/5||吉野勇||[[平井寅雄]]||川島政子 |- |{{Center|第28回}}||1951年12月16日||中山||4100m||ミツタヱ||牝5||4:51 0/5||[[渡辺正人 (競馬)|渡辺正人]]||[[東原玉造]]||河野信一 |- |{{Center|第30回}}||1952年12月21日||中山||4100m||[[サチヒカリ]]||牡4||4:50 3/5||[[坂本栄三郎]]||[[小西喜蔵]]||石原利貞 |- |{{Center|第32回}}||1953年11月1日||中山||4100m||モモタロウ||牡5||4:49 4/5||[[野平幸雄]]||[[田中和一郎]]||[[舟橋聖一]] |- |{{Center|第34回}}||1954年11月3日||中山||4100m||アラワシ||牡4||4:54 1/5||[[伊藤英治]]||[[望月与一郎]]||高橋なつ |- |{{Center|第36回}}||1955年11月3日||中山||4100m||[[シマユキ]]||牡5||4:47 1/5||[[飯塚好次]]||[[松山吉三郎]]||小野仁助 |- |{{Center|第37回}}||1956年11月18日||中山||4100m||ハクレイ||牝4||4:54 4/5||[[目時重男]]||尾形藤吉||西博 |- |{{Center|第39回}}||1957年10月20日||中山||4100m||[[ヤマカブト]]||牝5||4:46 1/5||坂本栄三郎||小西喜蔵||山之内喜代子 |- |{{Center|第41回}}||1958年10月12日||中山||4100m||ケニイモア||牝5||4:44 4/5||目時重男||[[武輔彦]]||ジョー・エス |- |{{Center|第43回}}||1959年10月11日||中山||4100m||ハルボー||牡4||4:43.8||[[本田昌雄]]||[[田中朋次郎]]||加藤春雄 |- |{{Center|第45回}}||1960年10月9日||中山||4100m||ロールメリー||牝5||4:46.9||[[古賀一隆]]||古賀嘉蔵||豊島美王麿 |- |{{Center|第47回}}||1961年10月15日||中山||4100m||トサキング||牡4||4:48.4||[[瀬戸口勉]]||[[上田武司 (競馬)|上田武司]]||[[上田清次郎]] |- |{{Center|第49回}}||1962年10月7日||中山||4100m||ライトリア||牡6||4:43.1||[[坂内光雄]]||[[藤本冨良]]||伊藤久雄 |- |{{Center|第51回}}||1963年10月20日||中山||4100m||フジノオー||牡4||4:46.9||[[横山富雄]]||[[橋本輝雄]]||藤井一雄 |- |{{Center|第53回}}||1964年10月11日||中山||4100m||フジノオー||牡5||4:49.7||横山富雄||橋本輝雄||藤井一雄 |- |{{Center|第55回}}||1965年10月17日||中山||4200m||ミスハツクモ||牝5||4:54.4||[[前田禎]]||[[鈴木清 (競馬)|鈴木清]]||勝又豊次郎 |- |{{Center|第57回}}||1966年12月4日||中山||4200m||ホウラン||牝4||4:56.1||[[金井国男]]||[[稲葉秀男]]||河野通 |- |{{Center|第59回}}||1967年12月3日||中山||4200m||ヤマニンダイヤ||牡5||4:48.1||[[鶴留明雄]]||[[諏訪佐市]]||[[土井宏二]] |- |{{Center|第61回}}||1968年12月29日||中山||4200m||タジマオーザ||牡3||4:56.6||[[津田昭 (競馬)|津田昭]]||[[佐藤勝美]]||(株)田島牧場 |- |{{Center|第63回}}||1969年12月28日||中山||4200m||マウントブゼン||牝4||4:55.1||[[山田広士]]||[[野平省三]]||山田福太郎 |- |{{Center|第65回}}||1970年12月27日||中山||4200m||リクオー||牡4||4:58.4||[[千田能照]]||[[勝又忠]]||矢沢註二 |- |{{Center|第67回}}||1971年12月25日||中山||4200m||colspan="6" style="text-align:center"|開催中止 |- |{{Center|第69回}}||1972年12月24日||中山||4100m||マスヒロ||牝4||5:02.8||[[成島正規]]||[[阿部正太郎]]||増山栄一 |- |{{Center|第71回}}||1973年12月23日||中山||4100m||クリユタカ||牡5||4:44.7||[[法理弘]]||阿部正太郎||[[栗林友二]] |- |{{Center|第73回}}||1974年12月22日||中山||4100m||グランドマーチス||牡5||4:40.2||[[寺井千万基]]||[[伊藤修司]]||大久保興産(株) |- |{{Center|第75回}}||1975年12月21日||中山||4100m||グランドマーチス||牡6||4:42.5||法理弘||伊藤修司||大久保興産(株) |- |{{Center|第77回}}||1976年12月26日||中山||4100m||サクラオンリー||牡8||4:45.1||[[平井雄二]]||[[久保田彦之]]||(株)[[さくらコマース]] |- |{{Center|第79回}}||1977年12月25日||中山||4100m||バローネターフ||牡5||4:39.7||[[三浦春美]]||[[矢野進]]||(有)[[ターフ・スポート]] |- |{{Center|第81回}}||1978年12月24日||中山||4100m||バローネターフ||牡6||4:43.6||[[小柳由春]]||矢野進||(有)ターフ・スポート |- |{{Center|第83回}}||1979年12月23日||中山||4100m||バローネターフ||牡7||4:43.7||[[根本康広]]||矢野進||(有)ターフ・スポート |- |{{Center|第85回}}||1980年12月20日||中山||4100m||カチウマタロー||牡5||4:49.4||[[田中剛]]||[[柄崎義信]]||島崎竜五郎 |- |{{Center|第87回}}||1981年12月19日||中山||4100m||テキサスワイポン||牡7||4:42.1||[[今岡正]]||[[二分久男]]||[[渡辺孝男 (実業家)|渡辺孝男]] |- |{{Center|第89回}}||1982年12月25日||中山||4100m||キングスポイント||牡5||4:42.6||[[小島貞博]]||[[小川佐助]]||[[高田久成]] |- |{{Center|第91回}}||1983年12月24日||中山||4100m||オキノサキガケ||牡5||4:41.9||[[星野忍]]||[[佐藤林次郎]]||沖崎エイ、沖崎藤吉郎 |- |{{Center|第93回}}||1984年12月22日||中山||4100m||メジロアンタレス||牡5||4:39.1||[[牧之瀬幸夫]]||[[大久保洋吉]]||[[メジロ商事]](株) |- |{{Center|第95回}}||1985年12月21日||中山||4100m||[[オンワードボルガ]]||牡4||4:46.9||田中剛||[[二本柳俊夫]]||[[樫山純三]] |- |{{Center|第97回}}||1986年12月20日||中山||4100m||[[ハッピールイス]]||牡4||4:45.6||[[中竹和也]]||[[吉田三郎 (競馬)|吉田三郎]]||[[ノースヒルズ|マエコウファーム]](有) |- |{{Center|第99回}}||1987年12月26日||中山||4100m||シノンシンボリ||牡8||4:39.4||牧之瀬幸夫||[[大和田稔]]||[[和田共弘]] |- |{{Center|第101回}}||1988年12月24日||中山||4100m||[[ヤマニンアピール]]||騸5||4:39.0||[[岡冨俊一]]||[[中村均]]||土井宏二 |- |{{Center|第103回}}||1989年12月23日||中山||4100m||[[メジロマスキット]]||牝4||4:39.0||[[臼井武]]||[[尾形充弘]]||(有)[[メジロ牧場]] |- |{{Center|第105回}}||1990年12月22日||中山||4100m||[[ワカタイショウ]]||牡5||4:38.9||星野忍||[[嶋田功]]||[[渡辺喜八郎]] |- |{{Center|第107回}}||1991年12月21日||中山||4100m||[[シンボリモントルー]]||牡6||4:37.2||成田均||[[田中和夫 (競馬)|田中和夫]]||[[シンボリ牧場]] |- |{{Center|第109回}}||1992年12月26日||中山||4100m||シンボリクリエンス||牡7||4:38.3||[[大江原哲]]||[[境征勝]]||シンボリ牧場 |- |{{Center|第111回}}||1993年12月25日||中山||4100m||ブロードマインド||牡5||4:42.0||牧之瀬幸夫||矢野進||吉田照哉 |- |{{Center|第113回}}||1994年12月17日||中山||4100m||[[ローズムーン]]||牝5||4:40.6||[[五十嵐久]]||[[田村駿仁]]||(株)大東牧場 |- |{{Center|第115回}}||1995年12月16日||中山||4100m||[[フジノスラッガー]]||牡5||4:44.9||臼井武||[[和田正道]]||中村寛俊 |- |{{Center|第117回}}||1996年12月14日||中山||4100m||ポレール||牡5||4:44.0||星野忍||[[岩元市三]]||林進 |- |{{Center|第119回}}||1997年12月13日||中山||4100m||[[ケイティタイガー]]||牡8||4:45.5||[[嘉堂信雄]]||[[吉岡八郎]]||瀧本和義 |- |{{Center|第121回}}||1998年12月19日||中山||4100m||[[ビクトリーアップ]]||騸5||4:44.1||[[横山義行]]||[[吉永正人]]||(有)池ばた |- |{{Center|第122回}}||1999年12月18日||中山||4100m||[[ゴッドスピード (競走馬)|ゴッドスピード]]||牡5||4:42.6||[[西谷誠]]||[[瀬戸口勉]]||坪野谷和平 |- |{{Center|第123回}}||2000年12月23日||中山||4100m||[[ランドパワー (競走馬)|ランドパワー]]||牡5||4:40.7||[[金折知則]]||[[福島勝]]||木村善一 |- |{{Center|第124回}}||2001年12月22日||中山||4100m||[[ユウフヨウホウ]]||牡4||4:44.1||[[今村康成]]||[[松元茂樹]]||(株)アイテツ |- |{{Center|第125回}}||2002年12月21日||中山||4100m||[[ギルデッドエージ]]||牡5||4:51.6||R.ロケット||松元茂樹||(有)[[ノースヒルズ|ノースヒルズマネジメント]] |- |{{Center|第126回}}||2004年{{0}}1月10日||中山||4100m||[[ブランディス (競走馬)|ブランディス]]||騸7||4:40.9||[[大江原隆]]||[[藤原辰雄]]||(有)[[サンデーレーシング]] |- |{{Center|第127回}}||2004年12月25日||中山||4100m||[[メルシータカオー]]||騸5||4:37.6||[[出津孝一]]||[[武宏平]]||[[永井康郎]] |- |{{Center|第128回}}||2005年12月24日||中山||4100m||[[テイエムドラゴン]]||牡3||4:39.9||[[白浜雄造]]||[[小島貞博]]||[[竹園正繼]] |- |{{Center|第129回}}||2006年12月23日||中山||4100m||[[マルカラスカル]]||牡4||4:41.0||西谷誠||瀬戸口勉||[[河長産業]](株) |- |{{Center|第130回}}||2007年12月22日||中山||4100m||[[メルシーエイタイム]]||牡5||4:39.7||[[横山義行]]||武宏平||永井康郎 |- |{{Center|第131回}}||2008年12月27日||中山||4100m||[[キングジョイ]]||牡6||4:45.0||[[高田潤]]||[[増本豊]]||[[松岡隆雄]] |- |{{Center|第132回}}||2009年12月26日||中山||4100m||キングジョイ||牡7||4:41.7||西谷誠||増本豊||松岡隆雄 |- |{{Center|第133回}}||2010年12月25日||中山||4100m||[[バシケーン]]||牡5||4:46.1||[[蓑島靖典]]||[[高橋義博]]||石橋英郎 |- |{{Center|第134回}}||2011年12月24日||中山||4100m||[[マジェスティバイオ]]||牡4||4:44.2||[[山本康志]]||[[田中剛]]||バイオ(株) |- |{{Center|第135回}}||2012年12月22日||中山||4100m||[[マーベラスカイザー]]||牡4||4:48.8||[[熊沢重文]]||[[柴田政見]]||笹原貞生 |- |{{Center|第136回}}||2013年12月21日||中山||4100m||[[アポロマーベリック]]||牡4||4:45.8||[[五十嵐雄祐]]||[[堀井雅広]]||[[アポロサラブレッドクラブ]] |- |{{Center|第137回}}||2014年12月20日||中山||4100m||[[レッドキングダム]]||牡5||4:41.0||[[北沢伸也]]||[[松永幹夫]]||(株)[[東京ホースレーシング]] |- |{{Center|第138回}}||2015年12月26日||中山||4100m||[[アップトゥデイト]]||牡5||4:37.9||[[林満明]]||[[佐々木晶三]]||今西和雄 |- |{{Center|第139回}}||2016年12月23日||中山||4100m||[[オジュウチョウサン]]||牡5||4:45.6||[[石神深一]]||[[和田正一郎]]||(株)[[長山尚義|チョウサン]] |- |{{Center|第140回}}||2017年12月23日||中山||4100m||オジュウチョウサン||牡6|| <span style="color:darkred"> R4:36.1 </span>||石神深一||和田正一郎||(株)チョウサン |- |{{Center|第141回}}||2018年12月22日||中山||4100m||[[ニホンピロバロン]]||牡8||4:40.8||石神深一||[[田所秀孝]]||[[小林百太郎]] |- |{{Center|第142回}}||2019年12月21日||中山||4100m||[[シングンマイケル]]||騸5||4:38.9||[[金子光希]]||[[高市圭二]]||[[伊坂重憲]] |- |{{Center|第143回}}||2020年12月26日||中山||4100m||[[メイショウダッサイ]]||牡7||4:40.7||[[森一馬 (競馬)|森一馬]]||[[飯田祐史]]||[[松本好雄]] |- |{{Center|第144回}}||2021年12月25日||中山||4100m||オジュウチョウサン||牡10||4:46.6||石神深一||和田正一郎||(株)チョウサン |- |{{Center|第145回}}||2022年12月24日||中山||4100m||[[ニシノデイジー]]||牡6||4:45.9||五十嵐雄祐||[[高木登 (競馬)|高木登]]||[[西山茂行]] |- |{{Center|第146回}}||2023年12月23日||中山||4100m||[[マイネルグロン]]||牡5||4:37.9||石神深一||[[青木孝文]]||(株)[[サラブレッドクラブ・ラフィアン]] |} == 中山大障害の記録 == * レースレコード - 4分36秒1(2017年・オジュウチョウサン) ** 優勝タイム最遅記録 - 5分21秒 1/5(1934年・キンテン)<ref>GⅠ昇格後は4分51秒6(2002年・ギルデッドエージ)</ref> * 最年長優勝馬 - 10歳(1989年春・キョウエイウオリア、2021年・オジュウチョウサン) ** 最年少優勝馬 - 3歳(1968年・タジマオーザ、2005年・テイエムドラゴン) * 最多優勝馬 - 5回(1977年春秋・1978年秋・1979年春秋・バローネターフ) ** 秋2勝以上 - フジノオー(1963・1964年)、グランドマーチス(1974・1975年)、バローネターフ(1977〜1979年)、キングジョイ(2008・2009年)、オジュウチョウサン(2016・2017・2021年) * 最多優勝騎手 - 7回(1980年春・1983年春秋・1989年春・1990年秋・1996年春秋・星野忍) ** 秋最多優勝騎手 - 5回(2016〜2018・2021年・2023年・石神深一) * 最多優勝調教師 - 8回(1937年秋・1938年春・1939年秋・1940年春・1941年秋・1949年秋・1956年秋・1966年春・尾形藤吉) ** 秋最多優勝調教師 - 5回(1937・1939・1941・1949・1959年・尾形藤吉) == 中山大障害(春) == {{競馬の競走 |馬場 = 障害 |競走名 = 中山大障害(春) |画像 = |画像説明 = |開催国 = {{JPN}} |主催者 = [[日本中央競馬会]] |競馬場 = [[中山競馬場]] |創設 = 1935年4月7日 |年次 = 1998 |格付け = 重賞 |1着賞金 = |賞金総額 = |距離 = 芝4100m |条件 = [[サラブレッド|サラ]]系障害5歳以上 |負担重量 = }} 前述の通り、1935年から1998年までは年2回施行され、春の競走も行われていた。 施行コース・距離は秋と同様だったが、春のみ4歳馬(2001年以降の表記に基づけば3歳馬)は出走が認められていなかった。 === 年表 === * 1935年 ** 年2回施行となり、春の競走を開始。 ** 名称を「'''中山大障碍特別'''」に変更。 * 1948年 - 過去の優勝馬が出走可能となる。 * 1951年 - 過去の優勝馬の斤量は2kg増となる。 * 1953年 - [[日本放送協会]](NHK)が[[テレビジョン|テレビ]]で中継。日本初のテレビ競馬中継となった。 * 1966年 - 中山大障碍1勝ごとに2kg増に変更される<ref group="注">当初はふたたび過去の優勝馬の出走を禁止することを発表していたが、撤回された。</ref>。 * 1969年 - 出走馬ロイタンの実質的な[[馬主]]が出走馬バスターに禁止薬物の[[カフェイン]]を含む[[抹茶]]を摂取させようと企み、バスターが[[出馬投票#出走取消・競走除外|出走取消]]に追い込まれる事件が起こった([[バスター事件]])。 * 1972年 ** 流行性の馬インフルエンザの影響により6月に順延開催。 ** 中山大障害優勝馬は2kg増。および収得賞金による斤量規定が廃止される。 ** 出走馬[[ダテハクタカ]]が装鞍所から[[パドック]]に向かう通路で<ref>「本命馬に目つぶし 劇薬をかけられて出走除外」『朝日新聞』昭和47年6月5日.3面</ref>、何者かに濃硫酸をかけられ右目を負傷、[[出馬投票|競走除外]]となる事件が発生([[ダテハクタカ#ダテハクタカ事件]])。 * 1976年 - 再び中山大障害1勝ごとに2kg増に変更される。 * 1988年 - 中山競馬場の改修工事により[[東京競馬場]]で行われたため、名称を「'''東京大障害'''」として施行された。東京大障害は過去に使用されたことがない距離4000mで施行され、第3コーナーから逆回りで1周したあとに襷コースに入り第2コーナーから順回りで直線に向かった。障害飛越数は17。 * 1989年 - 混合競走に指定。 * 1999年 - 廃止。[[中山グランドジャンプ]]を新設の上、J・GIに格付けされる。 === 中山大障害(春)歴代優勝馬 === 優勝馬の馬齢は、現行表記としている。 競走名は第2回が「中山大障碍特別」、第4回・第6回・第8回・第21回が「農林省賞典障碍」、第10回・第12回・第14回・第16回・第18回が「中山農林省賞典障碍」、第100回が「東京大障害」。 {| class="wikitable" !回数!!施行日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主 |- |{{Center|第2回}}||1935年4月7日||中山||4100m||[[イサハヤ]]||牡6||5:09 4/5||秋山辰治||[[川崎敬次郎]]||[[真藤慎太郎]] |- |{{Center|第4回}}||1936年4月5日||中山||4100m||[[ジユピターユートピア]]||牡5||5:01 4/5||中口儀一郎||[[大久保房松]]||小林国威 |- |{{Center|第6回}}||1937年4月4日||中山||4100m||フソウ||牡4||4:57 1/5||平井寅雄||[[稲葉秀男]]||中村勝五郎 |- |{{Center|第8回}}||1938年4月10日||中山||4100m||トクタカ||牡5||4:59 0/5||内藤潔||[[尾形藤吉|尾形景造]]||山中清兵衛 |- |{{Center|第10回}}||1939年4月9日||中山||4100m||[[コクオー]]||牝5||5:03 4/5||松永光雄||[[土田順三]]||村上菊松 |- |{{Center|第12回}}||1940年4月19日||中山||4100m||キヨクジツ||牡6||4:55 4/5||古賀嘉蔵||尾形景造||高杉晋 |- |{{Center|第14回}}||1941年4月20日||中山||4100m||ライハルオン||牝6||4:53 1/5||中野才一||[[佐藤重治]]||伊藤盛治 |- |{{Center|第16回}}||1942年4月26日||中山||4240m||ホウカツピータ||牡5||5:07 2/5||[[本田昌雄]]||[[稗田虎伊]]||経塚彌三 |- |{{Center|第18回}}||1943年5月2日||中山||4240m||モトクマ||牡5||5:03 4/5||平井稔||[[稲葉幸夫]]||門井鍋四郎 |- |{{Center|第21回}}||1948年4月3日||中山||3350m||フクレイ||牡5||4:08 1/5||田畑志郎||古賀嘉蔵||西博 |- |{{Center|第23回}}||1949年5月1日||中山||4100m||カミカゼ||牡4||4:50 3/5||[[高松三太]]||[[柏谷富衛]]||小野ムメ |- |{{Center|第25回}}||1950年5月5日||中山||4100m||エイシヤイン||牡6||5:00 2/5||小森園正義||[[久保田彦之]]||伊藤市平 |- |{{Center|第27回}}||1951年5月20日||中山||4100m||ツキヤス||牝4||4:43 4/5||[[古山良司]]||[[上村大治郎]]||高須銀次郎 |- |{{Center|第29回}}||1952年6月8日||中山||4100m||[[カツシロ]]||牡4||4:44 4/5||[[富田六郎]]||[[見上恒芳]]||松村政雄 |- |{{Center|第31回}}||1953年6月28日||中山||4100m||[[ハクオー]]||牡4||4:45 3/5||[[斉藤義美]]||[[松元正雄]]||西村光之助 |- |{{Center|第33回}}||1954年6月20日||中山||4100m||ギンザクラ||牡4||4:50 3/5||富田六郎||見上恒芳||鈴江チヨ |- |{{Center|第35回}}||1955年6月26日||中山||4100m||キタノイヅミ||牡4||4:43 1/5||[[伊藤竹男|勝尾竹男]]||[[久保田金造]]||田中留治 |- |{{Center|第38回}}||1957年6月30日||中山||4100m||クロシオ||牡4||4.52 0/5||[[長池辰三]]||[[大久保末吉]]||渡辺美弥子 |- |{{Center|第40回}}||1958年6月29日||中山||4100m||[[ケニイモア]]||牝5||4:47 0/5||[[目時重男]]||[[武輔彦]]||ジョー・エス |- |{{Center|第42回}}||1959年6月28日||中山||4100m||[[オータジマ]]||牡4||4:43 0/5||[[高屋次郎]]||古賀嘉蔵||田島将光 |- |{{Center|第44回}}||1960年6月26日||中山||4100m||ロールメリー||牝5||4:49.5||[[古賀一隆]]||古賀嘉蔵||豊島美王麿 |- |{{Center|第46回}}||1961年4月23日||中山||4100m||クニハヤ||牡6||4:45.0||[[加賀武見]]||[[阿部正太郎]]||日下邦雄 |- |{{Center|第48回}}||1962年4月22日||中山||4100m||フエニツクス||牡5||4:54.2||[[田村駿仁]]||[[二本柳俊夫]]||河野魁 |- |{{Center|第50回}}||1963年6月23日||中山||4100m||ゴールデンオーザ||牡4||4:46.2||[[関口薫]]||[[中村広]]||川俣トシエ |- |{{Center|第52回}}||1964年3月15日||中山||4100m||[[フジノオー]]||牡5||4:45.5||[[横山富雄]]||[[橋本輝雄]]||藤井一雄 |- |{{Center|第54回}}||1965年4月11日||中山||4100m||フジノオー||牡6||4:49.2||横山富雄||橋本輝雄||藤井一雄 |- |{{Center|第56回}}||1966年4月24日||中山||4200m||アドミラル||牡4||5:04.0||[[小泉明東]]||[[尾形藤吉]]||[[永田雅一]] |- |{{Center|第58回}}||1967年6月11日||中山||4200m||クニハヤヒメ||牝4||4:52.1||[[関口健太郎]]||[[阿部正太郎]]||日下邦雄 |- |{{Center|第60回}}||1968年4月7日||中山||4200m||フジノホマレ||牡8||4:53.4||横山富雄||橋本輝雄||藤井一雄 |- |{{Center|第62回}}||1969年6月29日||中山||4200m||ホンマルシロー||牡4||4:58.9||[[千田能照]]||[[勝又忠]]||原田享 |- |{{Center|第64回}}||1970年4月5日||中山||4200m||ハセタカラ||牡4||4:50.9||[[法理弘]]||阿部正太郎||長南鶴雄 |- |{{Center|第66回}}||1971年5月5日||中山||4200m||ナスノセイラン||牝5||4:48.6||[[金井国男]]||[[稲葉秀男]]||[[那須野牧場]] |- |{{Center|第68回}}||1972年6月4日||中山||4200m||ナスノセイラン||牝6||4:53.0||[[柴崎勇]]||稲葉秀男||那須野牧場 |- |{{Center|第70回}}||1973年4月8日||中山||4100m||ナスノヒエン||牡5||4:45.1||金井国男||稲葉秀男||那須野牧場 |- |{{Center|第72回}}||1974年4月7日||中山||4100m||[[グランドマーチス]]||牡5||4:48.4||[[寺井千万基]]||[[伊藤修司]]||大久保興産(株) |- |{{Center|第74回}}||1975年4月6日||中山||4100m||グランドマーチス||牡6||4:40.3||寺井千万基||伊藤修司||大久保興産(株) |- |{{Center|第76回}}||1976年4月11日||中山||4100m||エリモイーグル||牡5||4:38.9||[[渡辺修一]]||大久保末吉||井上芳春 |- |{{Center|第78回}}||1977年4月10日||中山||4100m||[[バローネターフ]]||牡5||4:44.3||[[三浦春美]]||[[矢野進]]||[[ターフ・スポート|(有)ターフ・スポート]] |- |{{Center|第80回}}||1978年4月9日||中山||4100m||ファンドリナイロ||牡6||4:42.1||[[広松孝司]]||[[須貝彦三]]||水戸富雄 |- |{{Center|第82回}}||1979年4月8日||中山||4100m||バローネターフ||牡7||4:38.5||[[根本康広]]||矢野進||(有)ターフ・スポート |- |{{Center|第84回}}||1980年4月6日||中山||4100m||オキノサコン||牡6||4:49.5||[[星野忍]]||[[八木沢勝美]]||沖崎エイ、沖崎藤吉郎 |- |{{Center|第86回}}||1981年4月5日||中山||4100m||ナカミショウグン||牡5||4:47.4||[[根本康広]]||八木沢勝美||中村美俊 |- |{{Center|第88回}}||1982年4月11日||中山||4100m||[[キングスポイント]]||牡5||4:44.1||[[小島貞博]]||[[小川佐助]]||[[高田久成]] |- |{{Center|第90回}}||1983年4月10日||中山||4100m||[[オキノサキガケ]]||牡5||4:41.8||星野忍||[[佐藤林次郎]]||沖崎エイ、沖崎藤吉郎 |- |{{Center|第92回}}||1984年4月8日||中山||4100m||メジロジュピター||牡6||4:41.9||[[池添兼雄]]||[[大久保洋吉]]||メジロ商事(株) |- |{{Center|第94回}}||1985年4月7日||中山||4100m||[[ブルーフラール]]||牝5||4:43.1||[[成田均]]||[[大久保勝之]]||栗林英雄 |- |{{Center|第96回}}||1986年4月6日||中山||4100m||[[ライバコウハク]]||牡7||4:44.9||[[大江原哲]]||[[松元正雄]]||坂本盛正、上水清氏 |- |{{Center|第98回}}||1987年4月12日||中山||4100m||[[メジロアンタレス]]||牡8||4:44.2||成田均||大久保洋吉||メジロ商事(株) |- |{{Center|第100回}}||1988年4月10日||東京||4000m||メジロアイガー||牡5||4:34.6||[[臼井武]]||[[尾形充弘]]||[[メジロ牧場|(有)メジロ牧場]] |- |{{Center|第102回}}||1989年4月9日||中山||4100m||[[キョウエイウオリア]]||牡10||4:46.8||星野忍||[[中村均]]||[[松岡正雄]] |- |{{Center|第104回}}||1990年4月7日||中山||4100m||[[パンフレット (競走馬)|パンフレット]]||牡5||4:39.5||[[嘉堂信雄]]||[[田中良平 (競馬)|田中良平]]||[[小田切有一]] |- |{{Center|第106回}}||1991年4月6日||中山||4100m||[[シンコウアンクレー]]||牡5||4:38.1||[[田中剛]]||[[二本柳俊一]]||[[安田修 (実業家)|安田修]] |- |{{Center|第108回}}||1992年4月11日||中山||4100m||[[シンボリクリエンス]]||牡7||4:41.7||大江原哲||[[境征勝]]||[[シンボリ牧場]] |- |{{Center|第110回}}||1993年4月10日||中山||4100m||メジログッテン||牡6||4:38.5||[[押田年郎]]||[[大久保正陽]]||(有)メジロ牧場 |- |{{Center|第112回}}||1994年4月9日||中山||4100m||[[ブロードマインド]]||牡6||4:40.7||[[牧之瀬幸夫]]||矢野進||[[吉田照哉]] |- |{{Center|第114回}}||1995年4月8日||中山||4100m||ダイカツストーム||牡5||4:44.1||[[中竹和也]]||[[中村好夫]]||志賀泰吉 |- |{{Center|第116回}}||1996年4月6日||中山||4100m||[[ポレール]]||牡5||4:41.2||星野忍||[[岩元市三]]||林進 |- |{{Center|第118回}}||1997年4月12日||中山||4100m||ポレール||牡6||4:43.1||[[出津孝一]]||岩元市三||林進 |- |{{Center|第120回}}||1998年4月18日||中山||4100m||[[ノーザンレインボー]]||牡8||4:46.2||[[田中剛]]||[[鈴木康弘 (競馬)|鈴木康弘]]||吉田照哉 |} == (参考)農商省賞典障碍 == 1944年春は中山競馬場が閉鎖されたため、東京競馬場で[[能力検定競走]]「農商省賞典障碍」として施行された<ref name="優駿" />。 {| class="wikitable" !施行日!!優勝馬!!性齢!!タイム!!優勝騎手 |- |1944年6月11日||イマカゼ||牝5||5:03 0/5||石澤秀二 |} == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} === 参考文献 === * {{Cite book|和書|title=中央競馬全重賞競走成績集【障害・廃止重賞編】|chapter=農林水産省賞典中山大障害(J・GI)|publisher=日本中央競馬会|page=23-170|year=2006|ref=中央競馬全重賞競走成績集}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="bangumi_2023nakayama5">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.jra.go.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/nakayama5.pdf|title=令和5年第5回中山競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年7月30日}}</ref> <ref name="jusyo_kanto">{{Cite web|和書|url=https://www.jra.go.jp/keiba/program/2023/pdf/jusyo_kanto.pdf#page=45|title=重賞競走一覧(レース別・関東)|page=45|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年7月30日}}</ref> <ref name="JRA注目">{{Cite web|和書|url=http://www.jra.go.jp/keiba/thisweek/2015/1226_1/playback.html |title=今週の注目レース(第138回中山大障害:プレイバック)|publisher=日本中央競馬会|archiveurl=https://archive.is/aHhBX |archivedate=2015年12月22日|accessdate=2020年12月8日}}</ref> <ref name="JRA分析">{{Cite web|和書|url=http://www.jra.go.jp/keiba/thisweek/2015/1226_1/index.html |title=今週の注目レース(第138回中山大障害:データ分析)|publisher=日本中央競馬会|archiveurl=https://archive.is/zhW0C |archivedate=2015年12月22日|accessdate=2020年12月8日}}</ref> <ref name="JRAコース紹介">{{Cite web|和書|url=http://www.jra.go.jp/keiba/thisweek/2015/1226_1/course.html |title=今週の注目レース(第138回中山大障害:コース紹介)|publisher=日本中央競馬会|archiveurl=https://archive.is/L6Cdi |archivedate=2015年12月22日|accessdate=2020年12月8日}}</ref> <ref name="course_nakayama">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/facilities/race/nakayama/course.html |title=中山競馬場(コース紹介)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2020年12月8日}}</ref> <ref name="優駿">『優駿』1944年7月、p24</ref> }} ==== 各回競走結果の出典 ==== * 第1回 - 第128回:『[[#中央競馬全重賞競走成績集|中央競馬全重賞競走成績集【障害・廃止重賞編】]]』(一部昭和29年競馬統計P136〜143含) * JRA年度別全成績 ** (2023年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2023/2023-5nakayama7.pdf#page=5 |title=第5回 中山競馬 第7日|page=5|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年12月25日}}(索引番号: 33082) ** (2022年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2022/2022-5nakayama7.pdf#page=5 |title=第5回 中山競馬 第7日|page=5|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}(索引番号: 33082) ** (2021年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2021/2021-5nakayama7.pdf#page=5 |title=第5回 中山競馬 第7日|page=5|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}(索引番号: 33082) ** (2020年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2020/2020-5nakayama7.pdf#page=5 |title=第5回 中山競馬 第7日|page=5|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}(索引番号: 33082) ** (2019年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2019/2019-5nakayama7.pdf#page=5 |title=第5回 中山競馬 第7日|page=5|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2019年12月22日}}(索引番号: 33082) ** (2018年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2018/2018-5nakayama7.pdf#page=5 |title=第5回 中山競馬 第7日|page=5|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2019年12月22日}}(索引番号: 33082) ** (2017年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2017/2017-5nakayama7.pdf#page=5 |title=第5回 中山競馬 第7日|page=5|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2017年12月24日}}(索引番号: 33082) ** (2015年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2015/2015-5nakayama7.pdf#page=5 |title=第5回 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{{Netkeiba-raceresult|1984|06030610}}、{{Netkeiba-raceresult|1986|06030610}}、{{Netkeiba-raceresult|1987|06030609}}、{{Netkeiba-raceresult|1989|06030609}}、{{Netkeiba-raceresult|1990|06030510}}、{{Netkeiba-raceresult|1991|06030510}}、{{Netkeiba-raceresult|1992|06030510}}、{{Netkeiba-raceresult|1993|06030510}}、{{Netkeiba-raceresult|1994|06030509}}、{{Netkeiba-raceresult|1995|06030509}}、{{Netkeiba-raceresult|1996|06020509}}、{{Netkeiba-raceresult|1997|06030709}}、{{Netkeiba-raceresult|1998|06030709}} ** 東京大障害 *** {{Netkeiba-raceresult|1988|05030609}} ** 中山大障害(秋) *** 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[[Category:農林水産大臣賞典]] [[Category:中央競馬の競走]] [[Category:中山競馬場の競走]] [[Category:障害競走]]
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12,335
YMO (曖昧さ回避)
YMO(ワイ・エム・オー)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "YMO(ワイ・エム・オー)", "title": null } ]
YMO(ワイ・エム・オー)
'''YMO'''(ワイ・エム・オー) ; グループ・団体名称 :* [[イエロー・マジック・オーケストラ]] - 日本の音楽グループ。 :** [[YMO (アルバム)]] - イエロー・マジック・オーケストラが[[2011年]]に発表したベスト・アルバム。 :* 株式会社Y・M・O - 株式会社[[尾木プロ THE NEXT]]の旧社名。日本の芸能事務所。 :* [[落語家]]の[[桂文枝 (6代目)|桂文枝]]が中心に結成されたコーラスグループYMO「よしもと・もっさい・おっさんたち」の略。 ; その他 :*[[カナダ]]の[[オンタリオ州]][[ムースニー]]にある地方空港、[[ムースニー空港]]を表す[[IATA]][[航空コード]]。 {{aimai}} [[Category:頭字語]]
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12,336
駅伝競走
駅伝競走(えきでんきょうそう、英: Road relay)は、数人が長距離(長いものでは数百キロ)をリレー形式で走り、そのタイム(時間)を競う陸上競技である。一般的に「駅伝」と略されている。 駅伝競走の各走者は競技用の「たすき(襷)」を身に着けた状態でスタートし、「中継所」またはゴールまでの定められた区間を走り、中継所では前の区間の走者から次の区間の走者に「たすき渡し(タスキリレー)」を行ない、チームとしてのゴールを目指す。公道使用上の制限等の条件により、途中の中継所においてレース先頭からの一定以上遅れたチームでは、前の区間の走者が中継所に到達する前に次の区間の走者が「予備のたすき」を持ち「繰り上げスタート」を余儀なくされる場合もある。この場合でも、前の区間の走者が中継所に到達すれば、繰り上げ後の時間を加算することでチームとしての記録は成立する。チームのいずれかの走者が区間を完走しない場合には、チームとしての記録は不成立となり棄権扱い(記録なし)となる。 各走者が走る距離、総距離、区間数、性別等の組み合わせは大会によって様々であるが、ワールドアスレティックス(世界陸連)が定める国際レースの基準では男女別にフルマラソンと同じ42.195kmを6区間(5 km、10 km、5 km、10 km、5 km、7.195 km)で走る。 世界陸連では、駅伝の国際名称を"Road relay"としているが、近年までは日本でしか行われていない競技であった為、"Ekiden"と呼んだり、説明的に"Marathon relay"と呼ばれることがある。ただし近年では海外でもハワイ・グアム・ベルギー・ニュージーランド・オーストラリア・カナダ・シンガポールなどで駅伝大会が行われている。 競技としての最初の駅伝は、東京奠都50周年記念として讀賣新聞社会部長・土岐善麿の発案で同社が主催し 1917年4月27日に行われた「東海道駅伝徒歩競走」とされる。関西組と関東組に分かれ京都の三条大橋を午後2時に出発し、東京の上野不忍池(しのばずのいけ)までの23区間、約508kmを昼夜問わず走り抜けるもので、先着の関東組がゴールに到着したのは翌々日の午前11時34分であった。この時の関東組のアンカーは金栗四三である。三条大橋と不忍池のほとりにはそれぞれ「駅伝発祥の地」の碑が現存する。 「東海道駅伝徒歩競走」の開催にあたり、当時の大日本体育協会副会長および神宮皇學館館長・武田千代三郎が競技名を「駅伝」と名づけた。当時縄文時代における東海道五十三次における伝馬制からヒントを得たと言われている。駅伝という言葉自体は、日本書紀にも記載されているほど古いものである。首都と地方の間の道路網に30里(約16km)毎に置かれた中継所のことを「駅」といい、ここに宿泊施設や人、馬を配置していた。駅に朝廷の使者が到着すると、次の駅まで乗り継ぎの馬を用意する仕組みが整っており、この制度を「駅制と伝馬制」あるいは「駅伝貢進」といった。 ここでは日本国内で行われ、なおかつ全国もしくは地域ブロックでテレビ・ラジオ中継されている大会を挙げる(カッコ内はその大会の総距離)。学校管理下で行われる当該競走は課外活動が中心になって参加選手生徒の任意参加で行われており、文部科学省策定の学習指導要領に当該種目の記載は無いが、保護者を含めて熱心に取り組む自治体や学校も多い。 ここでは過去に日本国内で行われ、なおかつ全国もしくは地域ブロックでテレビ・ラジオ中継されていた大会を挙げる。カッコ内はその大会の総距離。 年によって多少前後することがある。 42.195kmを6区間で走る国際陸上競技連盟公認ルールでの記録は下記の通り。 1956年12月11日、箱根大学駅伝に出場予定だった専修大学走者が試走中に交通事故死。 2011年9月29日、小学6年生の女児が学校課外活動の駅伝練習中に倒れ、心停止により死亡。
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駅伝競走は、数人が長距離(長いものでは数百キロ)をリレー形式で走り、そのタイム(時間)を競う陸上競技である。一般的に「駅伝」と略されている。
[[File:Flickr - machu. - 2009 INTERNATIONAL CHIBA EKIDEN (国際千葉駅伝 2009) 3rd Leg2.jpg|thumb|right|300px|第21回[[国際千葉駅伝]]]] [[File:Flickr - mrhayata - Runner.jpg|thumb|right|300px|[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]] 第83回 [[2007年]]]] '''駅伝競走'''(えきでんきょうそう、{{Lang-en-short|Road relay}})は、数人が長距離(長いものでは数百キロ)を[[リレー走|リレー]]形式で走り、そのタイム(時間)を競う[[陸上競技]]である。一般的に「'''駅伝'''」と略されている。 == 概要 == 駅伝競走の各走者は競技用の「[[たすき]](襷)」を身に着けた状態でスタートし、「中継所」またはゴールまでの定められた区間を走り、中継所では前の区間の走者から次の区間の走者に「たすき渡し(タスキリレー)」を行ない、チームとしてのゴールを目指す。[[公道]]使用上の制限等の条件により、途中の中継所においてレース先頭からの一定以上遅れたチームでは、前の区間の走者が中継所に到達する前に次の区間の走者が「予備のたすき」を持ち「繰り上げスタート」を余儀なくされる場合もある。この場合でも、前の区間の走者が中継所に到達すれば、繰り上げ後の時間を加算することでチームとしての記録は成立する。チームのいずれかの走者が区間を完走しない場合には、チームとしての記録は不成立となり棄権扱い(記録なし)となる。 各走者が走る距離、総距離、区間数、性別等の組み合わせは大会によって様々であるが、[[ワールドアスレティックス]](世界陸連)が定める国際レースの基準では男女別にフル[[マラソン]]と同じ42.195[[キロメートル|km]]を6区間(5 km、10 km、5 km、10 km、5 km、7.195 km)で走る。 世界陸連では、駅伝の国際名称を'''"Road relay"'''としているが、近年までは[[日本]]でしか行われていない競技であった為、'''"Ekiden"'''と呼んだり、説明的に"'''Marathon relay'''"と呼ばれることがある。ただし近年では海外でも[[ハワイ]]・[[グアム]]・[[ベルギー]]・[[ニュージーランド]]・[[オーストラリア]]・[[カナダ]]・[[シンガポール]]などで駅伝大会が行われている。 == 歴史 == [[画像:駅伝の碑.jpg|thumb|right|200px|京都・[[三条大橋]]・駅伝発祥の地の碑]] 競技としての最初の駅伝は、[[東京奠都]]50周年記念として[[讀賣新聞]]社会部長・[[土岐善麿]]の発案で同社が主催し<ref>費用がかかりすぎて土岐は引責退社した。</ref> [[1917年]][[4月27日]]に行われた「東海道駅伝徒歩競走」とされる<ref>『冬陽のように人を恋う』 三枝昮之 日本経済新聞 2014年2月1日朝刊 36面文化</ref>。関西組と関東組に分かれ[[京都市|京都]]の[[三条大橋]]を午後2時に出発し、[[東京都|東京]]の[[上野]][[不忍池]](しのばずのいけ)までの23区間、約508[[キロメートル|km]]を昼夜問わず走り抜けるもので、先着の関東組がゴールに到着したのは翌々日の午前11時34分であった。この時の関東組のアンカーは[[金栗四三]]である。[[三条大橋]]と[[不忍池]]のほとりにはそれぞれ「駅伝発祥の地」の碑が現存する。 「東海道駅伝徒歩競走」の開催にあたり、当時の[[大日本体育協会]]副会長および[[皇學館大学|神宮皇學館]]館長・[[武田千代三郎]]が競技名を「駅伝」と名づけた。当時[[縄文時代]]における[[東海道五十三次]]における[[伝馬]]制からヒントを得たと言われている。駅伝という言葉自体は、[[日本書紀]]にも記載されているほど古いものである。首都と地方の間の道路網に30[[里 (尺貫法)|里]](約16km)毎に置かれた中継所のことを「[[駅家|駅]]」といい、ここに宿泊施設や人、馬を配置していた。駅に[[朝廷 (日本)|朝廷]]の使者が到着すると、次の駅まで乗り継ぎの馬を用意する仕組みが整っており、この制度を「駅制と伝馬制」あるいは「駅伝貢進」といった。 == 日本で開催・施行される駅伝競走大会 == ここでは日本国内で行われ、なおかつ全国もしくは地域ブロックでテレビ・ラジオ中継されている大会を挙げる(カッコ内はその大会の総距離)。<!--小中高の-->学校管理下で行われる当該競走は<!--学習指導要領無記載のため-->課外活動が中心になって参加選手生徒の任意参加で行われており、文部科学省策定の学習指導要領に当該種目の記載は無いが、保護者を含めて熱心に取り組む自治体や学校も多い。 === 男女混合 === *[[全国招待大学対校男女混合駅伝競走大会|全国招待大学対校男女混合駅伝]](6区間/20&nbsp;km/男女各3区間:開催地 [[大阪府]]) *[[全国車いす駅伝競走大会]](都道府県対抗、5区間/21.3&nbsp;km/選手編成は男女問わず:開催地 [[京都府]]) === 男子 === ==== 実業団駅伝 ==== *全国大会 **[[全日本実業団対抗駅伝競走大会]](ニューイヤー駅伝。7区間/100.0&nbsp;km:開催地 [[群馬県]]) *地方大会 **[[東日本実業団対抗駅伝競走大会]](7区間/77.5&nbsp;km:開催地 [[埼玉県]]) **[[中部・北陸実業団対抗駅伝競走大会]](7区間/83.6&nbsp;km:開催地 [[愛知県]]) **[[関西実業団対抗駅伝競走大会]](7区間/80.45&nbsp;km:開催地 [[和歌山県]]) **[[中国実業団対抗駅伝競走大会]](7区間/82.8&nbsp;km:開催地 [[広島県]]) **[[九州実業団対抗毎日駅伝大会]](7区間/78.8&nbsp;km:開催地 [[福岡県]]) ==== 大学駅伝 ==== *全国大会 **[[全日本大学駅伝対校選手権大会]](全日本大学駅伝。8区間/106.8&nbsp;km:開催地 愛知県・[[三重県]]) **[[出雲全日本大学選抜駅伝競走]](出雲駅伝。6区間/45.1&nbsp;km:開催地 [[島根県]]) *地方大会 **[[東京箱根間往復大学駅伝競走]](箱根駅伝。往路 5区間/107.5&nbsp;km・復路 5区間/109.6&nbsp;km・総合計 10区間/217.1&nbsp;km:開催地 [[東京都]]・[[神奈川県]]) **[[東海学生駅伝対校選手権大会]](7区間/63.5km:開催地 愛知県) **[[関西学生対校駅伝競走大会]](丹後大学駅伝。8区間/81.3&nbsp;km:開催地 京都府) **[[中国四国学生駅伝]](6区間/53.5km:開催地 山口県) **[[九州学生駅伝対校選手権大会]](7区間/56.3&nbsp;km:開催地 [[長崎県]]) ==== 高校駅伝 ==== *[[全国高等学校駅伝競走大会]](7区間/42.195&nbsp;km:開催地 京都府) ==== 中学校駅伝 ==== *[[全国中学校駅伝大会]](6区間/18&nbsp;km:開催地 [[滋賀県]]) ==== 都道府県対抗駅伝 ==== *全国大会 **[[天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会]](ひろしま男子駅伝。7区間/48.0&nbsp;km:開催地 広島県) ==== ジャンルなし ==== *[[富士登山駅伝]](11区間/46.97&nbsp;km:開催地 [[静岡県]]) *[[十和田八幡平駅伝競走全国大会]](5区間/73.8&nbsp;km:開催地 [[秋田県]]) *[[全国男鹿駅伝競走大会]](7区間/64.7&nbsp;km:開催地 [[秋田県]]) === 女子 === ==== 実業団駅伝 ==== *全国大会 **[[全日本実業団対抗女子駅伝競走大会]](クイーンズ駅伝。6区間/42.195&nbsp;km:開催地 [[宮城県]]) **[[全日本実業団対抗女子駅伝競走大会予選会]](プリンセス駅伝。6区間/42.195&nbsp;km:開催地 [[福岡県]]) ==== 大学駅伝・女子の部 ==== *全国大会 **[[全日本大学女子駅伝対校選手権大会]](杜の都駅伝。6区間/38.1&nbsp;km:開催地 宮城県) **[[全日本大学女子選抜駅伝競走大会]](富士山女子駅伝。7区間/43.4&nbsp;km:開催地 静岡県) ==== 高校駅伝 ==== *全国高等学校駅伝競走大会(5区間/21.0975&nbsp;km:開催地 京都府) ==== 中学校駅伝 ==== *全国中学校駅伝大会(5区間/12&nbsp;km:開催地 山口県) ==== 都道府県対抗駅伝 ==== *全国大会 **[[皇后盃全国都道府県対抗女子駅伝競走大会]](9区間/42.195&nbsp;km:開催地 京都府)   *地方大会 **[[東日本女子駅伝]](9区間/42.195&nbsp;km:開催地 [[福島県]]) ==== ジャンルなし ==== *[[選抜女子駅伝北九州大会]](一般5区間・高校6区間/32.8&nbsp;km:開催地 [[北九州市]]) == 過去に日本で開催・施行されていた駅伝競走大会 == ここでは過去に日本国内で行われ、なおかつ全国もしくは地域ブロックでテレビ・ラジオ中継されていた大会を挙げる。カッコ内はその大会の総距離。 === 男女混合 === ==== 国際駅伝 ==== *[[国際千葉駅伝]](第19-26回、6区間/42.195&nbsp;km:開催地 [[千葉県]][[千葉市]]) ==== 都道府県対抗駅伝 ==== *地方大会 **[[環日本海新潟駅伝]] === 男子 === ==== 国際駅伝 ==== *国際千葉駅伝(第1-18回、6区間/42.195&nbsp;km:開催地 [[千葉県]][[千葉市]]) ==== 都道府県対抗駅伝 ==== *地方大会 **[[東日本縦断駅伝]] **[[九州一周駅伝]] ==== ジャンルなし ==== *[[名岐駅伝]] *[[中国駅伝]] *[[朝日駅伝]] *[[中国山口駅伝]](7区間/84.4&nbsp;km:開催地 [[山口県]]) === 女子 === ==== 国際駅伝 ==== *[[横浜国際女子駅伝]](6区間/42.195&nbsp;km:開催地 [[神奈川県]][[横浜市]] [[1983年]]〜[[2009年]]) *国際千葉駅伝(第1-18回、6区間/42.195&nbsp;km:開催地 [[千葉県]][[千葉市]]) ==== 実業団駅伝 ==== *[[東日本実業団対抗女子駅伝]](6区間/42.195&nbsp;km:開催地 埼玉県) *[[実業団女子駅伝中日本大会]](6区間/42.195&nbsp;km:開催地 岐阜県) *[[淡路島女子駅伝競走大会]](6区間/42.195&nbsp;km:開催地 兵庫県) *[[実業団女子駅伝西日本大会]](6区間/42.195&nbsp;km:開催地 福岡県) *[[九州実業団対抗女子駅伝競走大会]] ==== 大学駅伝 ==== *[[日光いろは坂女子駅伝大会]](6区間/23.4&nbsp;km:開催地 [[栃木県]]) ==== ジャンルなし ==== *[[FUKUIスーパーレディス駅伝]] == 日程表 == 年によって多少前後することがある。 {| class="wikitable" !colspan="2"|時期!!駅伝大会!!マラソン大会 |- !rowspan="2"|10月!!第2月曜日<br />([[体育の日]]) |出雲全日本大学選抜駅伝競走|| |- !最終日曜日 |全日本大学女子駅伝対校選手権大会|| |- !rowspan="4"|11月!!第1日曜日 |全日本大学駅伝対校選手権大会|| |- !11月3日<br/>([[文化の日]]) |東日本実業団対抗駅伝競走大会|| |- !第2日曜日 |東日本女子駅伝|| |- !第4日曜日 |関西学生対校駅伝競走大会<br/>全日本実業団対抗女子駅伝大会|| |- !rowspan="4"|12月!!第1土曜日 |九州学生駅伝対校選手権大会<br/>(男女別大会)|| |- !第1日曜日 |||[[防府読売マラソン]]<br />[[福岡国際マラソン]] |- !第4日曜日 |全国高等学校駅伝競走大会<br />(午前:女子、午後:男子)|| |- !12月30日 |全日本大学女子選抜駅伝競走大会|| |- !rowspan="5"|1月!!1月1日<br />([[元日]]) |全日本実業団対抗駅伝大会|| |- !1月2・3日 |東京箱根間往復大学駅伝競走|| |- !第2日曜日 |全国都道府県対抗女子駅伝競走大会|| |- !第3日曜日 |全国都道府県対抗男子駅伝競走大会|| |- !第4日曜日 |||[[大阪国際女子マラソン]] |- !rowspan="4"|2月!!第1日曜日 |||[[別府大分毎日マラソン]] |- !第2日曜日 | ||[[延岡西日本マラソン]] |- !第3日曜日 |全国招待大学対校男女混合駅伝競走大会 ||[[青梅マラソン]] |- !第4日曜日 |||[[大阪マラソン]] |- !rowspan="2"|3月!!第1日曜日 |||[[東京マラソン]] |- !第2日曜日 |||[[マラソンフェスティバル ナゴヤ・愛知|名古屋ウィメンズマラソン]] |} == 記録 == 42.195kmを6区間で走る国際陸上競技連盟公認ルールでの記録は下記の通り。 === 男子世界記録 === *[[ケニア]]代表 1時間57分06秒 (2005年11月23日 [[国際千葉駅伝]]) === 男子日本記録 === *日本代表 1時間58分58秒 (2005年11月23日 国際千葉駅伝。メンバーは[[佐藤敦之]]、細川道隆、[[松宮隆行]]、[[佐藤悠基]]、瀬戸智弘、家谷和男、大坪隆誠) :この記録は同時にアジア記録でもある。 === 女子世界記録 === *[[中華人民共和国|中国]]代表 2時間11分41秒 ([[1998年]][[2月28日]] 北京国際女子駅伝) === 女子日本記録 === *日本代表 2時間16分13秒 (1998年2月28日 北京国際女子駅伝。メンバーは[[渋井陽子]]、藤川亜希、里村桂、[[大南敬美]]、下司則子、[[大南博美]]) === 男女混合世界記録 === *ケニアチーム 2時間4分40秒([[2011年]]11月23日 国際千葉駅伝) === 男女混合日本記録 === *日本代表 2時間4分59秒 (同大会。メンバーは[[上野裕一郎]]・[[西原加純]]・[[竹澤健介]]・[[小林祐梨子]]・[[鎧坂哲哉]]・[[新谷仁美]]) == 死亡事故 == <!--※主に学校管理下--> 1956年12月11日、箱根大学駅伝に出場予定だった専修大学走者が試走中に交通事故死<ref>[https://gendai.media/articles/-/47239?imp=0 箱根駅伝のタブー「試走問題」にモノ申す! あの悲劇を繰り返すな] 現代ビジネス 2016年1月3日</ref>。 2011年9月29日、小学6年生の女児が学校課外活動の駅伝練習中に倒れ、心停止により死亡。 {{main2|[[さいたま市立日進小学校#事故|事故詳細]]を}} ;類似事故事例 {{main2|[[強歩大会#事故|類似事故事例]]を}} == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *[https://www.city.saitama.jp/003/002/013/002/p019665_d/fil/asuka.pdf 「体育活動時等における事故対応テキスト~ASUKAモデル~」] さいたま市教育委員会 平成24年9月30日 *[http://www.mars.dti.ne.jp/~takefuku/e_index.html ekiden時評][https://web.archive.org/web/20030210220304/http://www.mars.dti.ne.jp/~takefuku/link.htm] {{駅伝競走}} {{陸上競技}} {{スポーツ一覧}} {{チームスポーツ}} {{Normdaten}} [[Category:駅伝|*]] [[Category:日本のスポーツ|えきてん]] [[Category:陸上競技種目|えきてん]]
2003-07-30T13:06:12Z
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ニジンスキー (競走馬)
ニジンスキー(Nijinsky II、1967年 - 1992年)は、カナダで生まれ、アイルランドで調教された競走馬である。 1969年には5戦無敗でヨーロッパの優れた2歳馬として活躍し、翌1970年には35年ぶりとなるイギリスクラシック三冠を達成した。これ以降現在まで三冠馬は誕生していない。 馬名は、ロシアのバレエダンサーであるヴァーツラフ・ニジンスキーに由来する。 ニジンスキーは1967年2月21日にカナダのウインドフィールズファームで生まれた。生産者はエドワード・プランケット・テイラー。ニジンスキーの父はそのテイラーが生産した後の大種牡馬ノーザンダンサーで、ニジンスキーは2世代目の産駒となる。小型馬が多いノーザンダンサー産駒にもかかわらず、ニジンスキーは体高(キ甲=首と背の境から足元まで)が170cmを軽く超える大型馬であった。母のフレーミングペイジもテイラーの生産馬で、カナダのダービーにあたるクイーンズプレートを勝ち、アメリカのケンタッキーオークスでも2着に入った実績を残していた。 テイラーは生産馬を売りに出し、売れ残ったもののみ自ら所有していたことで知られる。ニジンスキーは1968年の夏に6万カナダドルで売りに出され、購入を申し込む者が3人現れた。 3人の間で入札が行われた結果、8万4000カナダドルで宝石商のチャールズ・W・エンゲルハード・ジュニアが購入することになった。 ニジンスキーがエンゲルハードに購入されるきっかけとなったのは、アイルランドの調教師ヴィンセント・オブライエンの目にとまったことにある。オブライエンはエンゲルハードに頼まれてリボーの産駒を見にウインドフィールズファームを訪れていたのだが、目当てのリボー産駒よりもニジンスキーに目を奪われた。 ニジンスキーはオブライエンのバリードイル厩舎に入厩し、アイルランドで競走生活を送ることになった。 ニジンスキーは、最初の4戦をアイルランドのカラ競馬場で走った。 1969年7月、6ハロン(約1207メートル)のアーンメイドンステークス(en)でデビューした。人気は約1.4倍で、リーアム・ウォード(Liam Ward)騎手を背に2着のエヴリデー(Everyday)に半馬身をつけて勝利した。 2戦目は6ハロンのレイルウェイステークス(en)で、デシース(Decies)を降して勝った。3戦目は6ハロン63ヤード(約1265メートル)のアングルシーステークス(en)で、2着のエヴリデーに3馬身をつけて優勝した。4戦目のベレスフォードステークス(en)では、デシースに4分の3馬身差まで詰め寄られたが勝利した。デシースは後にナショナルステークス(en)を勝ち、翌年にはアイリッシュ2000ギニーを勝った。 この時点でアイルランドの2歳チャンピオンを決定的にしたニジンスキーは、10月にイギリスの2歳チャンピオン決定戦となるデューハーストステークスに遠征した。新たにレスター・ピゴット騎手が手綱を取り、未勝利馬のリコールド相手に3馬身差で優勝した。この年の成績を5戦全勝としたニジンスキーはアイルランドとイギリスの両国で2歳チャンピオンとなった。これ以降もアイルランドのレースではウォード、それ以外の国のレースではピゴットがニジンスキーに騎乗した。 翌1970年4月4日、ニジンスキーはカラ競馬場のグラッドネスステークス(Gladness Stakes)で復帰した。このレースでは初めて古馬と対戦することになり、馬場状態も悪かったが、2着のディープラン(前年のアイリッシュセントレジャー2着馬)に5馬身の着差をつけて優勝。続いて同月29日にイギリスクラシック三冠第1戦の2000ギニーステークスに出走。後方から追い込みイエローゴッドに並ぶと、イエローゴッドとの競り合いの末に最後は突き放し、2馬身半の着差をつけて優勝した。 6月3日に行われたダービーステークス(エプソムダービー)では、ニジンスキーは1番人気に支持されたものの、単勝オッズは生涯で最も高い2.4倍となった。1マイル半(約2423メートル)のダービーは、ニジンスキーにとっては距離が長すぎるのではないかと懸念された。父のノーザンダンサーは12ハロンで行われたベルモントステークスで3着に敗れていたし、母のフレーミングペイジも1マイル半のレースに勝ったことがなかった。後方から一気に追い込む2000ギニーの勝ちかたは、短距離馬の印象を与えた。 最大のライバルはフランスのジル(Gyr)とみられた。ジルはシーバードの産駒で、フランスで既にダリュー賞やオカール賞といった中長距離の重賞を勝っていた。このほか、リュパン賞の勝ち馬スティンティノやオブザーヴァーゴールドカップ優勝馬のアプルーヴァル(Approval)がこれに続いた。 大型馬のジルはスタートでゲートに頭をぶつけてしまった。ニジンスキーは有力馬たちのマークに遭い、他の馬に取り囲まれた。残り400メートルほどの地点で、ジルが抜けだして先頭に立った。しかし、ピゴット騎手は最後の直線に入るまで追い出すのを待っていた。ニジンスキーはものの数完歩でジルを一気にかわし、2馬身半差をつけて優勝した。優勝タイムは(当時)マームードに次ぐダービー史上2番目に速いタイムであった。2着にはジル、3着にはスティンティノが入った。 その後アイルランドに戻り、6月27日のアイリッシュダービーに出走した。めぼしい相手はダービー5着のメドウヴィル(Meadowville)程度しかおらず、メドウヴィルに3馬身の着差をつけて優勝した。 アスコット競馬場で7月25日に行われるキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスは初の古馬との対戦になった。同世代の3歳馬はニジンスキーとの対戦を避けて出走しなかった。前年のエプソムダービー優勝馬ブレイクニー、前年のワシントンDCインターナショナル優勝馬のカラバス(Karabas)などと対戦することになった。とはいえ、ブレイクニーはダービー優勝後は低迷していたし、カラバスも不振続きで、メンバーはニジンスキーを除くとイギリスのチャンピオン決定戦に相応しいメンバーではなかった。ニジンスキーは後方からゆっくり進み、残り200メートルに達する前に一気に先行馬をまとめてかわした。ピゴット騎手は、残り50メートルの時点で後方を確認して手綱を緩める余裕があった。2着には2馬身差でブレイクニーが入った。 無敗のままイギリスダービー、アイルランドダービー、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの3つのレースを制したのはニジンスキーが初めてだった。ニジンスキーにはクレイボーンファームのブル・ハンコックの主導のもと当時の史上最高価格である544万ドル(1株17万ドル×32株)のシンジケートが組まれ、翌1971年の春からアメリカ合衆国ケンタッキー州にあるクレイボーンファームに種牡馬として繋養されることが決まった。 また、ニジンスキーの秋の目標は凱旋門賞で、さらにその結果次第ではアメリカのマンノウォーステークスに遠征すると発表された。ところが、夏の間に重い真菌性皮膚炎を患い、片脇腹の毛がすべて抜けてしまった。このため、秋へ向けての調教に遅れが生じた。陣営は生卵やスタウト(酒の一種)をニジンスキーに与えて体力の回復を待った。 10月上旬の凱旋門賞を目指すニジンスキー陣営では、夏の間のトラブルでスケジュールに狂いが生じてしまった。9月上旬になってようやく一応の出走態勢が整ったものの、凱旋門賞に挑む前の手頃なステップレースが見当たらなかった。陣営は、負担重量が手頃で、これといった強敵もいない9月中旬のセントレジャーステークスに出ることにした。セントレジャーステークスは、イギリスのクラシック三冠の三戦目にあたる。しかし、1935年のバーラム以来三冠達成馬は出ておらず、オブライエン調教師が管理した1968年の二冠馬サーアイヴァーは凱旋門賞を目指すためセントレジャーに出なかった。オブライエン調教師は乗り気ではなかったが、馬主のエンゲルハードがドンカスター競馬場からの出走要請に「アメリカ人らしい愛想のよさで」応えたといわれている。 レースでは2着メドウヴィルに1馬身の着差をつけて勝利を収め、結果的にバーラム以来35年ぶり史上15頭目のイギリスクラシック三冠馬となった。無敗での達成はオーモンド、アイシングラス、バーラム以来史上4頭目の快挙だった。長距離のセントレジャーステークス(約2937メートル)を勝ったことで、ニジンスキーのスタミナを不安視する声もほとんど聞かれなくなった。しかし、ニジンスキーはレース後、体重が29ポンドも減ってしまっていた。 10月4日、ニジンスキーはフランスのロンシャン競馬場で行われる凱旋門賞に出走し、単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持された。ニジンスキーの状態に対して若干の不安を申し立てる者もいないわけではなかったが、アイルランドでの主戦であるウォード騎手が「もしニジンスキーが負けるようなことがあったら、裸でアイルランドまで歩いて帰ってやるよ」と豪語したように、大多数はニジンスキーが12戦全勝で凱旋門賞を制すると信じて疑わなかった。 相手の筆頭は8.5倍のジルで、ニジンスキーとは対照的に、ダービーの後は7月末のサンクルー大賞典を勝って、ゆっくり休みをとって挑んできた。3番人気は9.75倍のイタリア馬オルティスで、イタリア大賞(en)でデシースを5馬身差で破り、更にいくつものレースを圧勝してイタリアでは「第二のリボー」と呼ばれていた。4番人気(20倍)のササフラはフランスだけで走っていた馬で、フランスダービーの優勝馬である。ササフラは仕上がり不足のロワイヤルオーク賞で本命になったが、不利を受けて2位になり、結果的に1位の馬が降着になって繰り上がり優勝したのだが、この印象が悪く、凱旋門賞では人気を落としていた。 レース前のパドックではカメラマンと大観衆に取り囲まれて、ジルが激しく入れ込んで発汗し、何度も後ろ脚を跳ねあげていた。ニジンスキーも同じように発汗して、ダービーやキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを勝った時ほど状態は良くないように見えた。 スタートすると、有力馬のペースメイカーが飛び出し、ササフラ、オルティスらがこれに続いた。ジルは抑えられていたが、折り合いを欠いていた。ニジンスキーはいつものように後方10番手に控えていた。坂の頂上を過ぎたあたりでオルティスが先頭に立ったが、直線に向くと追走が苦しくなった。ニジンスキーは進出を始めたが、まだ先頭から10馬身後方だった。残り400メートルでササフラが先頭に立ったが、ニジンスキーはようやく外に行き場を見つけたところで、まだ8馬身遅れていた。残り200メートルのところでニジンスキーはようやくいつもの伸び脚を発揮し、他馬を抜いてササフラの後ろまで追い込んできた。ササフラに並んだのは残り100メートルで、あと90メートルの地点でやっと首ひとつだけササフラを抜いて先頭に出た。しかしその直後、ピゴットがニジンスキーに鞭を入れたところ、それまで鞭で叩かれた経験のなかったニジンスキーが驚いて左によれてしまった。残り20メートルでササフラが差し返したところでゴールとなった。写真判定となったが、ニジンスキーはアタマ差の2着に敗れた。馬場状態は理想的な状態ではなかったが、従来のレコードに1秒差に迫る早いタイムでの決着だった。 ニジンスキーはアメリカ遠征をキャンセルして13日後のチャンピオンステークスに出走した。ニジンスキーの引退レースを見ようと2万人の大観衆が押し寄せたが、その結果ニジンスキーは動揺してひどく発汗し、極度に神経質になっていた。ニジンスキーは残り200メートルで2番手まで上がったが、そこから伸びずにロレンザッチオ(Lorenzaccio)の2着に敗れた。ニジンスキーはこれを最後に13戦11勝で引退した。 凱旋門賞の直後から、ニジンスキーの敗戦理由がとりざたされた。 種牡馬となったニジンスキーはノーザンダンサーの後継種牡馬として父同様一大血統勢力を構築した。ニジンスキーは父ノーザンダンサーの146頭よりも多い155頭のステークスウイナーを輩出した。1986年にはシャーラスタニ等の活躍で英愛リーディングサイアーになり、北米でもファーディナンド等を輩出したことによって2位になる活躍を見せた。北米ではリーディングサイアーを獲得することはなかったが、リーディングサイアー10位以内に10回ランクインした。 産駒には、ラムタラやゴールデンフリース、シャーラスタニといったエプソムダービー優勝馬をはじめ、ケンタッキーダービー、ブリーダーズカップ・クラシックを制したファーディナンド、種牡馬として活躍したジョッケクルブ賞優勝馬カーリアンやグリーンダンサーがいる。また、アメリカの三冠馬シアトルスルーの半弟で、1985年にキーンランド1歳馬セールで史上最高額となる1310万ドルで取引された馬(後のシアトルダンサーII)もニジンスキー産駒である。日本へはマルゼンスキーの活躍以降に多くのニジンスキーの産駒や子孫が輸入された(直系子孫についてはニジンスキー系を参照のこと)。 ニジンスキーは1984年に蹄葉炎を患っていたが1992年4月15日、蹄葉炎の症状が悪化した上に急性リンパ節炎を発症して立ち上がれなくなり、翌日安楽死の処置がとられた。遺体はクレイボーンファームの敷地内に埋葬された。死後、残された産駒であるラムタラがニジンスキーの成し得なかったヨーロッパ三大レース(ダービーステークス、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、凱旋門賞)制覇を無敗で達成している。 2歳時(1969年)には5戦無敗の戦績で、優れた2歳馬とみなされた。3歳時(1970年)にはイギリスクラシック三冠を達成、これ以降、2021年の時点ではイギリスクラシック三冠馬は登場していない。 アイルランドの生物学者P・G・マッケンナは、調教師ヴィンセント・オブライエンの伝記記事のなかで「多くの人がニジンスキーを20世紀で最も偉大な競走馬とみなしている」と述べた。 半姉フルール(父ヴィクトリアパーク)は現役時代に3勝し、母としてエプソムダービーなどを勝ったザミンストレルを産んだ。全弟ミンスキーはアイルランドの2歳チャンピオンとなった。後に日本に種牡馬として輸入されている。
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"p", "text": "ニジンスキーがエンゲルハードに購入されるきっかけとなったのは、アイルランドの調教師ヴィンセント・オブライエンの目にとまったことにある。オブライエンはエンゲルハードに頼まれてリボーの産駒を見にウインドフィールズファームを訪れていたのだが、目当てのリボー産駒よりもニジンスキーに目を奪われた。", "title": "誕生" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ニジンスキーはオブライエンのバリードイル厩舎に入厩し、アイルランドで競走生活を送ることになった。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ニジンスキーは、最初の4戦をアイルランドのカラ競馬場で走った。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1969年7月、6ハロン(約1207メートル)のアーンメイドンステークス(en)でデビューした。人気は約1.4倍で、リーアム・ウォード(Liam Ward)騎手を背に2着のエヴリデー(Everyday)に半馬身をつけて勝利した。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2戦目は6ハロンのレイルウェイステークス(en)で、デシース(Decies)を降して勝った。3戦目は6ハロン63ヤード(約1265メートル)のアングルシーステークス(en)で、2着のエヴリデーに3馬身をつけて優勝した。4戦目のベレスフォードステークス(en)では、デシースに4分の3馬身差まで詰め寄られたが勝利した。デシースは後にナショナルステークス(en)を勝ち、翌年にはアイリッシュ2000ギニーを勝った。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この時点でアイルランドの2歳チャンピオンを決定的にしたニジンスキーは、10月にイギリスの2歳チャンピオン決定戦となるデューハーストステークスに遠征した。新たにレスター・ピゴット騎手が手綱を取り、未勝利馬のリコールド相手に3馬身差で優勝した。この年の成績を5戦全勝としたニジンスキーはアイルランドとイギリスの両国で2歳チャンピオンとなった。これ以降もアイルランドのレースではウォード、それ以外の国のレースではピゴットがニジンスキーに騎乗した。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "翌1970年4月4日、ニジンスキーはカラ競馬場のグラッドネスステークス(Gladness Stakes)で復帰した。このレースでは初めて古馬と対戦することになり、馬場状態も悪かったが、2着のディープラン(前年のアイリッシュセントレジャー2着馬)に5馬身の着差をつけて優勝。続いて同月29日にイギリスクラシック三冠第1戦の2000ギニーステークスに出走。後方から追い込みイエローゴッドに並ぶと、イエローゴッドとの競り合いの末に最後は突き放し、2馬身半の着差をつけて優勝した。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "6月3日に行われたダービーステークス(エプソムダービー)では、ニジンスキーは1番人気に支持されたものの、単勝オッズは生涯で最も高い2.4倍となった。1マイル半(約2423メートル)のダービーは、ニジンスキーにとっては距離が長すぎるのではないかと懸念された。父のノーザンダンサーは12ハロンで行われたベルモントステークスで3着に敗れていたし、母のフレーミングペイジも1マイル半のレースに勝ったことがなかった。後方から一気に追い込む2000ギニーの勝ちかたは、短距離馬の印象を与えた。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "最大のライバルはフランスのジル(Gyr)とみられた。ジルはシーバードの産駒で、フランスで既にダリュー賞やオカール賞といった中長距離の重賞を勝っていた。このほか、リュパン賞の勝ち馬スティンティノやオブザーヴァーゴールドカップ優勝馬のアプルーヴァル(Approval)がこれに続いた。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "大型馬のジルはスタートでゲートに頭をぶつけてしまった。ニジンスキーは有力馬たちのマークに遭い、他の馬に取り囲まれた。残り400メートルほどの地点で、ジルが抜けだして先頭に立った。しかし、ピゴット騎手は最後の直線に入るまで追い出すのを待っていた。ニジンスキーはものの数完歩でジルを一気にかわし、2馬身半差をつけて優勝した。優勝タイムは(当時)マームードに次ぐダービー史上2番目に速いタイムであった。2着にはジル、3着にはスティンティノが入った。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その後アイルランドに戻り、6月27日のアイリッシュダービーに出走した。めぼしい相手はダービー5着のメドウヴィル(Meadowville)程度しかおらず、メドウヴィルに3馬身の着差をつけて優勝した。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "アスコット競馬場で7月25日に行われるキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスは初の古馬との対戦になった。同世代の3歳馬はニジンスキーとの対戦を避けて出走しなかった。前年のエプソムダービー優勝馬ブレイクニー、前年のワシントンDCインターナショナル優勝馬のカラバス(Karabas)などと対戦することになった。とはいえ、ブレイクニーはダービー優勝後は低迷していたし、カラバスも不振続きで、メンバーはニジンスキーを除くとイギリスのチャンピオン決定戦に相応しいメンバーではなかった。ニジンスキーは後方からゆっくり進み、残り200メートルに達する前に一気に先行馬をまとめてかわした。ピゴット騎手は、残り50メートルの時点で後方を確認して手綱を緩める余裕があった。2着には2馬身差でブレイクニーが入った。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "無敗のままイギリスダービー、アイルランドダービー、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの3つのレースを制したのはニジンスキーが初めてだった。ニジンスキーにはクレイボーンファームのブル・ハンコックの主導のもと当時の史上最高価格である544万ドル(1株17万ドル×32株)のシンジケートが組まれ、翌1971年の春からアメリカ合衆国ケンタッキー州にあるクレイボーンファームに種牡馬として繋養されることが決まった。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、ニジンスキーの秋の目標は凱旋門賞で、さらにその結果次第ではアメリカのマンノウォーステークスに遠征すると発表された。ところが、夏の間に重い真菌性皮膚炎を患い、片脇腹の毛がすべて抜けてしまった。このため、秋へ向けての調教に遅れが生じた。陣営は生卵やスタウト(酒の一種)をニジンスキーに与えて体力の回復を待った。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "10月上旬の凱旋門賞を目指すニジンスキー陣営では、夏の間のトラブルでスケジュールに狂いが生じてしまった。9月上旬になってようやく一応の出走態勢が整ったものの、凱旋門賞に挑む前の手頃なステップレースが見当たらなかった。陣営は、負担重量が手頃で、これといった強敵もいない9月中旬のセントレジャーステークスに出ることにした。セントレジャーステークスは、イギリスのクラシック三冠の三戦目にあたる。しかし、1935年のバーラム以来三冠達成馬は出ておらず、オブライエン調教師が管理した1968年の二冠馬サーアイヴァーは凱旋門賞を目指すためセントレジャーに出なかった。オブライエン調教師は乗り気ではなかったが、馬主のエンゲルハードがドンカスター競馬場からの出走要請に「アメリカ人らしい愛想のよさで」応えたといわれている。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "レースでは2着メドウヴィルに1馬身の着差をつけて勝利を収め、結果的にバーラム以来35年ぶり史上15頭目のイギリスクラシック三冠馬となった。無敗での達成はオーモンド、アイシングラス、バーラム以来史上4頭目の快挙だった。長距離のセントレジャーステークス(約2937メートル)を勝ったことで、ニジンスキーのスタミナを不安視する声もほとんど聞かれなくなった。しかし、ニジンスキーはレース後、体重が29ポンドも減ってしまっていた。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "10月4日、ニジンスキーはフランスのロンシャン競馬場で行われる凱旋門賞に出走し、単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持された。ニジンスキーの状態に対して若干の不安を申し立てる者もいないわけではなかったが、アイルランドでの主戦であるウォード騎手が「もしニジンスキーが負けるようなことがあったら、裸でアイルランドまで歩いて帰ってやるよ」と豪語したように、大多数はニジンスキーが12戦全勝で凱旋門賞を制すると信じて疑わなかった。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "相手の筆頭は8.5倍のジルで、ニジンスキーとは対照的に、ダービーの後は7月末のサンクルー大賞典を勝って、ゆっくり休みをとって挑んできた。3番人気は9.75倍のイタリア馬オルティスで、イタリア大賞(en)でデシースを5馬身差で破り、更にいくつものレースを圧勝してイタリアでは「第二のリボー」と呼ばれていた。4番人気(20倍)のササフラはフランスだけで走っていた馬で、フランスダービーの優勝馬である。ササフラは仕上がり不足のロワイヤルオーク賞で本命になったが、不利を受けて2位になり、結果的に1位の馬が降着になって繰り上がり優勝したのだが、この印象が悪く、凱旋門賞では人気を落としていた。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "レース前のパドックではカメラマンと大観衆に取り囲まれて、ジルが激しく入れ込んで発汗し、何度も後ろ脚を跳ねあげていた。ニジンスキーも同じように発汗して、ダービーやキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを勝った時ほど状態は良くないように見えた。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "スタートすると、有力馬のペースメイカーが飛び出し、ササフラ、オルティスらがこれに続いた。ジルは抑えられていたが、折り合いを欠いていた。ニジンスキーはいつものように後方10番手に控えていた。坂の頂上を過ぎたあたりでオルティスが先頭に立ったが、直線に向くと追走が苦しくなった。ニジンスキーは進出を始めたが、まだ先頭から10馬身後方だった。残り400メートルでササフラが先頭に立ったが、ニジンスキーはようやく外に行き場を見つけたところで、まだ8馬身遅れていた。残り200メートルのところでニジンスキーはようやくいつもの伸び脚を発揮し、他馬を抜いてササフラの後ろまで追い込んできた。ササフラに並んだのは残り100メートルで、あと90メートルの地点でやっと首ひとつだけササフラを抜いて先頭に出た。しかしその直後、ピゴットがニジンスキーに鞭を入れたところ、それまで鞭で叩かれた経験のなかったニジンスキーが驚いて左によれてしまった。残り20メートルでササフラが差し返したところでゴールとなった。写真判定となったが、ニジンスキーはアタマ差の2着に敗れた。馬場状態は理想的な状態ではなかったが、従来のレコードに1秒差に迫る早いタイムでの決着だった。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ニジンスキーはアメリカ遠征をキャンセルして13日後のチャンピオンステークスに出走した。ニジンスキーの引退レースを見ようと2万人の大観衆が押し寄せたが、その結果ニジンスキーは動揺してひどく発汗し、極度に神経質になっていた。ニジンスキーは残り200メートルで2番手まで上がったが、そこから伸びずにロレンザッチオ(Lorenzaccio)の2着に敗れた。ニジンスキーはこれを最後に13戦11勝で引退した。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "凱旋門賞の直後から、ニジンスキーの敗戦理由がとりざたされた。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "種牡馬となったニジンスキーはノーザンダンサーの後継種牡馬として父同様一大血統勢力を構築した。ニジンスキーは父ノーザンダンサーの146頭よりも多い155頭のステークスウイナーを輩出した。1986年にはシャーラスタニ等の活躍で英愛リーディングサイアーになり、北米でもファーディナンド等を輩出したことによって2位になる活躍を見せた。北米ではリーディングサイアーを獲得することはなかったが、リーディングサイアー10位以内に10回ランクインした。", "title": "種牡馬時代" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "産駒には、ラムタラやゴールデンフリース、シャーラスタニといったエプソムダービー優勝馬をはじめ、ケンタッキーダービー、ブリーダーズカップ・クラシックを制したファーディナンド、種牡馬として活躍したジョッケクルブ賞優勝馬カーリアンやグリーンダンサーがいる。また、アメリカの三冠馬シアトルスルーの半弟で、1985年にキーンランド1歳馬セールで史上最高額となる1310万ドルで取引された馬(後のシアトルダンサーII)もニジンスキー産駒である。日本へはマルゼンスキーの活躍以降に多くのニジンスキーの産駒や子孫が輸入された(直系子孫についてはニジンスキー系を参照のこと)。", "title": "種牡馬時代" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ニジンスキーは1984年に蹄葉炎を患っていたが1992年4月15日、蹄葉炎の症状が悪化した上に急性リンパ節炎を発症して立ち上がれなくなり、翌日安楽死の処置がとられた。遺体はクレイボーンファームの敷地内に埋葬された。死後、残された産駒であるラムタラがニジンスキーの成し得なかったヨーロッパ三大レース(ダービーステークス、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、凱旋門賞)制覇を無敗で達成している。", "title": "種牡馬時代" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2歳時(1969年)には5戦無敗の戦績で、優れた2歳馬とみなされた。3歳時(1970年)にはイギリスクラシック三冠を達成、これ以降、2021年の時点ではイギリスクラシック三冠馬は登場していない。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "アイルランドの生物学者P・G・マッケンナは、調教師ヴィンセント・オブライエンの伝記記事のなかで「多くの人がニジンスキーを20世紀で最も偉大な競走馬とみなしている」と述べた。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "半姉フルール(父ヴィクトリアパーク)は現役時代に3勝し、母としてエプソムダービーなどを勝ったザミンストレルを産んだ。全弟ミンスキーはアイルランドの2歳チャンピオンとなった。後に日本に種牡馬として輸入されている。", "title": "血統" } ]
ニジンスキーは、カナダで生まれ、アイルランドで調教された競走馬である。 1969年には5戦無敗でヨーロッパの優れた2歳馬として活躍し、翌1970年には35年ぶりとなるイギリスクラシック三冠を達成した。これ以降現在まで三冠馬は誕生していない。 馬名は、ロシアのバレエダンサーであるヴァーツラフ・ニジンスキーに由来する。
{{競走馬 |名 = ニジンスキー |画 = [[ファイル:NijinskyII.jpg|230px]] |説 = [[アイリッシュダービー]](1970年6月27日) |性 = [[牡馬|牡]] |色 = [[鹿毛]] |種 = [[サラブレッド]] |生 = [[1967年]][[2月21日]] |死 = {{死亡年月日と没馬齢|p=0|1967|2|21|1992|4|15}} |父 = [[ノーザンダンサー|Northern Dancer]] |母 = [[フレーミングページ|Flaming Page]] |母父 = [[ブルページ|Bull Page]] |産 = [[エドワード・プランケット・テイラー|Edward P.Taylor]] |国 = {{CAN}} |主 = [[チャールズ・W・エンゲルハード・ジュニア|Charles W. Engelhard, Jr.]] |調 = [[ヴィンセント・オブライエン|Vincent O'Brien]]([[アイルランド]]) |績 = 13戦11勝 |金 = 246,132ポンド+480,000フラン }} '''ニジンスキー'''('''Nijinsky II'''<ref group="注釈">種牡馬入りの際、すでにアメリカでは同名の種牡馬がいたためNijinsky IIと「'''II'''」が付けられた。またインドにも同名の競走馬として、1967年のインドダービー・インドセントレジャー勝ち馬Nijinskyがいた。</ref>、[[1967年]] - [[1992年]])は、[[カナダ]]で生まれ、[[アイルランド]]で[[調教]]された[[競走馬]]である。 1969年には5戦無敗でヨーロッパの優れた2歳馬として活躍し、翌1970年には35年ぶりとなる[[イギリスクラシック三冠]]を達成した。これ以降現在まで三冠馬は誕生していない<ref name="Daily Telegraph 2018">“Why Nijinsky rules supreme as the greatest champion”. Daily Telegraph, 2 June 2018.</ref>。 馬名は、[[ロシア]]のバレエダンサーである[[ヴァーツラフ・ニジンスキー]]に由来する。 == 誕生 == ニジンスキーは[[1967年]][[2月21日]]にカナダの[[ウインドフィールズファーム]]で生まれた。生産者は[[エドワード・プランケット・テイラー]]。ニジンスキーの父はそのテイラーが生産した後の大[[種牡馬]]ノーザンダンサーで、ニジンスキーは2世代目の[[産駒]]となる。小型馬が多いノーザンダンサー産駒にもかかわらず、ニジンスキーは体高(キ甲=首と背の境から足元まで)が170cmを軽く超える大型馬であった。母のフレーミングペイジもテイラーの生産馬で、カナダの[[ダービーステークス|ダービー]]にあたる[[クイーンズプレート]]を勝ち、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ケンタッキーオークス]]でも2着に入った実績を残していた。 テイラーは生産馬を売りに出し、売れ残ったもののみ自ら所有していたことで知られる。ニジンスキーは[[1968年]]の夏に6万[[カナダドル]]で売りに出され、購入を申し込む者が3人現れた。 3人の間で入札が行われた結果、8万4000カナダドルで宝石商の[[チャールズ・W・エンゲルハード・ジュニア]]が購入することになった。 ニジンスキーがエンゲルハードに購入されるきっかけとなったのは、アイルランドの[[調教師]][[ヴィンセント・オブライエン]]の目にとまったことにある。オブライエンはエンゲルハードに頼まれて[[リボー]]の産駒<ref group="注釈">エンゲルハードはリボーに魅せられて馬主となり、リボッコ・リベロ兄弟(共に[[アイリッシュダービー]]、[[セントレジャーステークス]]。共に後年日本に輸入)を初めとして毎年リボーの仔を持つのが慣例となっていた。この年も見所のあるリボー産駒を探していた。</ref>を見にウインドフィールズファームを訪れていたのだが、目当てのリボー産駒よりもニジンスキーに目を奪われた。 == 競走馬時代 == ニジンスキーはオブライエンのバリードイル厩舎に入厩し、アイルランドで競走生活を送ることになった。 ===1969年(2歳時)=== ニジンスキーは、最初の4戦をアイルランドの[[カラ競馬場]]で走った。 [[1969年]]7月、6[[ハロン (単位)|ハロン]](約1207メートル)のアーンメイドンステークス([[:en:Maiden race|en]])でデビューした。人気は約1.4倍で、リーアム・ウォード(Liam Ward)騎手を背に2着のエヴリデー(Everyday)に半馬身をつけて勝利した<ref>山野(1997)p.223</ref>。 2戦目は6ハロンの[[レイルウェイステークス (アイルランド)|レイルウェイステークス]]([[:en:Railway Stakes (Ireland)|en]])で、デシース(Decies)を降して勝った。3戦目は6ハロン63ヤード(約1265メートル)のアングルシーステークス([[:en:Anglesey Stakes|en]])で、2着のエヴリデーに3馬身をつけて優勝した<ref>『凱旋門賞の歴史』第三巻p113</ref>。4戦目のベレスフォードステークス([[:en:Beresford Stakes|en]])では、デシースに4分の3馬身差まで詰め寄られたが勝利した。デシースは後にナショナルステークス([[:en:Vincent O'Brien Stakes|en]])を勝ち、翌年には[[アイリッシュ2000ギニー]]を勝った。 この時点でアイルランドの2歳チャンピオンを決定的にしたニジンスキーは、10月に[[イギリス]]の2歳チャンピオン決定戦となる[[デューハーストステークス]]に遠征した。新たに[[レスター・ピゴット]]騎手が手綱を取り、未勝利馬のリコールド相手に3馬身差で優勝した。この年の成績を5戦全勝としたニジンスキーはアイルランドとイギリスの両国で2歳チャンピオンとなった。これ以降もアイルランドのレースではウォード、それ以外の国のレースではピゴットがニジンスキーに騎乗した。 ===1970年(3歳時)=== ====2000ギニーステークス優勝==== 翌[[1970年]][[4月4日]]、ニジンスキーはカラ競馬場のグラッドネスステークス([[:en:Gladness Stakes|Gladness Stakes]])で復帰した。このレースでは初めて[[馬齢|古馬]]と対戦することになり、馬場状態も悪かったが、2着のディープラン(前年の[[アイリッシュセントレジャー]]2着馬)に5馬身の[[着差 (競馬)|着差]]をつけて優勝。続いて同月29日に[[イギリスクラシック三冠]]第1戦の[[2000ギニーステークス]]に出走。後方から追い込み[[イエローゴッド]]に並ぶと、イエローゴッドとの競り合いの末に最後は突き放し、2馬身半の着差をつけて優勝した<ref name="名前なし-1">山野(1997)p.225</ref>。 ====ダービーステークス優勝==== [[6月3日]]に行われた[[ダービーステークス]](エプソムダービー)では、ニジンスキーは1番人気に支持されたものの、単勝[[オッズ]]は生涯で最も高い2.4倍となった。1マイル半(約2423メートル)のダービーは、ニジンスキーにとっては距離が長すぎるのではないかと懸念された。父のノーザンダンサーは12[[ハロン (単位)|ハロン]]で行われた[[ベルモントステークス]]で3着に敗れていたし、母のフレーミングペイジも1マイル半のレースに勝ったことがなかった<ref>『凱旋門賞の歴史』p114</ref>。後方から一気に追い込む2000ギニーの勝ちかたは、短距離馬の印象を与えた。 最大のライバルはフランスのジル(Gyr)とみられた<ref>『新・世界の名馬』p277</ref>。ジルは[[シーバード]]の産駒で、フランスで既にダリュー賞や[[オカール賞]]といった中長距離の重賞を勝っていた<ref>『凱旋門賞の歴史』p115</ref>。このほか、[[リュパン賞]]の勝ち馬[[スティンティノ]]や[[レーシングポストトロフィー|オブザーヴァーゴールドカップ]]優勝馬のアプルーヴァル(Approval)がこれに続いた。 大型馬のジルはスタートでゲートに頭をぶつけてしまった。ニジンスキーは有力馬たちのマークに遭い、他の馬に取り囲まれた。残り400メートルほどの地点で、ジルが抜けだして先頭に立った。しかし、ピゴット騎手は最後の直線に入るまで追い出すのを待っていた。ニジンスキーはものの数[[完歩]]でジルを一気にかわし、2馬身半差をつけて優勝した<ref name="名前なし-1"/>。優勝タイムは(当時)[[マームード]]に次ぐダービー史上2番目に速いタイムであった。2着にはジル、3着にはスティンティノが入った<ref>『凱旋門賞の歴史』第三巻p115</ref>。 その後アイルランドに戻り、[[6月27日]]の[[アイリッシュダービー]]に出走した。めぼしい相手はダービー5着のメドウヴィル(Meadowville)程度しかおらず、メドウヴィルに3馬身の着差をつけて優勝した。 ====キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス優勝==== [[アスコット競馬場]]で[[7月25日]]に行われる[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]は初の古馬との対戦になった。同世代の3歳馬はニジンスキーとの対戦を避けて出走しなかった。前年のエプソムダービー優勝馬[[ブレイクニー]]、前年の[[ワシントンDCインターナショナル]]優勝馬のカラバス(Karabas)などと対戦することになった。とはいえ、ブレイクニーはダービー優勝後は低迷していたし、カラバスも不振続きで、メンバーはニジンスキーを除くとイギリスのチャンピオン決定戦に相応しいメンバーではなかった<ref name="名前なし-2">『凱旋門賞の歴史』第三巻p115-116</ref>。ニジンスキーは後方からゆっくり進み、残り200メートルに達する前に一気に先行馬をまとめてかわした。ピゴット騎手は、残り50メートルの時点で後方を確認して手綱を緩める余裕があった。2着には2馬身差でブレイクニーが入った<ref name="名前なし-2"/>。 ====夏==== 無敗のままイギリスダービー、アイルランドダービー、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの3つのレースを制したのはニジンスキーが初めてだった。ニジンスキーには[[クレイボーンファーム]]の[[アーサー・ボイド・ハンコック2世|ブル・ハンコック]]の主導のもと当時の史上最高価格である544万ドル(1株17万ドル×32株)の[[種牡馬#シンジケート|シンジケート]]<ref group="注釈">[[ヴェイグリーノーブル]]の500万ドルの記録を更新。後に[[セクレタリアト]]のシンジケート(608万ドル)が更新。</ref>が組まれ、翌[[1971年]]の春から[[アメリカ合衆国]][[ケンタッキー州]]にある[[クレイボーンファーム]]に[[種牡馬]]として繋養されることが決まった<ref>『新・世界の名馬』p278-279</ref>。 また、ニジンスキーの秋の目標は[[凱旋門賞]]で、さらにその結果次第ではアメリカの[[マンノウォーステークス]]に遠征すると発表された<ref>『新・世界の名馬』p279</ref>。ところが、夏の間に重い[[白癬|真菌性皮膚炎]]を患い、片脇腹の毛がすべて抜けてしまった。このため、秋へ向けての調教に遅れが生じた<ref name="名前なし-3">『凱旋門賞の歴史』第三巻p116</ref>。陣営は生卵や[[スタウト]](酒の一種)をニジンスキーに与えて体力の回復を待った。 ====セントレジャーステークス優勝==== 10月上旬の凱旋門賞を目指すニジンスキー陣営では、夏の間のトラブルでスケジュールに狂いが生じてしまった。9月上旬になってようやく一応の出走態勢が整ったものの、凱旋門賞に挑む前の手頃なステップレースが見当たらなかった。陣営は、負担重量が手頃で、これといった強敵もいない9月中旬の[[セントレジャー|セントレジャーステークス]]に出ることにした<ref name="名前なし-3"/>。セントレジャーステークスは、イギリスの[[イギリスクラシック三冠|クラシック三冠]]の三戦目にあたる。しかし、[[1935年]]の[[バーラム (競走馬)|バーラム]]以来三冠達成馬は出ておらず、オブライエン調教師が管理した1968年の二冠馬[[サーアイヴァー]]は凱旋門賞を目指すためセントレジャーに出なかった<ref group="注釈">1967年の二冠馬ロイヤルパレス([[:en:Royal Palace (horse)|en]])はセントレジャーステークスでの三冠達成を目指していたが、直前に怪我をして出走できなかった。</ref>。オブライエン調教師は乗り気ではなかったが、馬主のエンゲルハードが[[ドンカスター競馬場]]からの出走要請に「アメリカ人らしい愛想のよさで」応えたといわれている<ref>『新・世界の名馬』p279-280</ref>。 レースでは2着メドウヴィルに1馬身の着差をつけて勝利を収め、結果的に[[バーラム (競走馬)|バーラム]]以来35年ぶり史上15頭目の[[イギリスクラシック三冠]]馬となった。無敗での達成は[[オーモンド]]、[[アイシングラス (競走馬)|アイシングラス]]、バーラム以来史上4頭目の快挙だった。長距離のセントレジャーステークス(約2937メートル)を勝ったことで、ニジンスキーのスタミナを不安視する声もほとんど聞かれなくなった<ref>『凱旋門賞の歴史』第三巻p116-117</ref>。しかし、ニジンスキーはレース後、体重が29[[ポンド (質量)|ポンド]]も減ってしまっていた<ref name="名前なし-4">『凱旋門賞の歴史』第三巻p125</ref>。 ====凱旋門賞==== [[10月4日]]、ニジンスキーはフランスの[[パリロンシャン競馬場|ロンシャン競馬場]]で行われる[[凱旋門賞]]に出走し、単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持された。ニジンスキーの状態に対して若干の不安を申し立てる者もいないわけではなかったが、アイルランドでの主戦であるウォード騎手が「もしニジンスキーが負けるようなことがあったら、裸でアイルランドまで歩いて帰ってやるよ」と豪語したように、大多数はニジンスキーが12戦全勝で凱旋門賞を制すると信じて疑わなかった<ref name="名前なし-5">『凱旋門賞の歴史』第三巻p122</ref>。 {{Quotation|[[オマル・シャリーフ|オマー・シャリフ]]、ケヴィン・マクロリー両氏がニジンスキーにいくら賭けるか話し合っている姿も目撃された。その金額から察するに、ふたりはニジンスキーが負ける確率は、自分たちが[[アポロ計画]]に参加する確率と同じくらいだとみているようだった。|『凱旋門賞の歴史』第三巻p122 より}} 相手の筆頭は8.5倍のジルで、ニジンスキーとは対照的に、ダービーの後は7月末の[[サンクルー大賞|サンクルー大賞典]]を勝って、ゆっくり休みをとって挑んできた。3番人気は9.75倍のイタリア馬オルティスで、イタリア大賞([[:en:Gran Premio d'Italia|en]])でデシースを5馬身差で破り、更にいくつものレースを圧勝してイタリアでは「第二のリボー」と呼ばれていた<ref>『凱旋門賞の歴史』p117-118</ref>。4番人気(20倍)の[[ササフラ]]はフランスだけで走っていた馬で、[[ジョッケクルブ賞|フランスダービー]]の優勝馬である。ササフラは仕上がり不足の[[ロワイヤルオーク賞]]で本命になったが、不利を受けて2位になり、結果的に1位の馬が降着になって繰り上がり優勝したのだが、この印象が悪く、凱旋門賞では人気を落としていた。 レース前のパドックではカメラマンと大観衆に取り囲まれて、ジルが激しく入れ込んで発汗し、何度も後ろ脚を跳ねあげていた。ニジンスキーも同じように発汗して、ダービーやキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを勝った時ほど状態は良くないように見えた<ref>『凱旋門賞の歴史』p123</ref>。 スタートすると、有力馬の[[ペースメーカー (陸上競技)#その他|ペースメイカー]]が飛び出し、ササフラ、オルティスらがこれに続いた。ジルは抑えられていたが、折り合いを欠いていた。ニジンスキーはいつものように後方10番手に控えていた。坂の頂上を過ぎたあたりでオルティスが先頭に立ったが、直線に向くと追走が苦しくなった。ニジンスキーは進出を始めたが、まだ先頭から10馬身後方だった。残り400メートルでササフラが先頭に立ったが、ニジンスキーはようやく外に行き場を見つけたところで、まだ8馬身遅れていた。残り200メートルのところでニジンスキーはようやくいつもの伸び脚を発揮し、他馬を抜いてササフラの後ろまで追い込んできた。ササフラに並んだのは残り100メートルで、あと90メートルの地点でやっと首ひとつだけササフラを抜いて先頭に出た。しかしその直後、ピゴットがニジンスキーに鞭を入れたところ、それまで鞭で叩かれた経験のなかった<ref>『新・世界の名馬』p282-283</ref>ニジンスキーが驚いて左によれてしまった。残り20メートルでササフラが差し返したところでゴールとなった。写真判定となったが、ニジンスキーはアタマ差の2着に敗れた。馬場状態は理想的な状態ではなかったが、従来のレコードに1秒差に迫る早いタイムでの決着だった<ref>『凱旋門賞の歴史』p126</ref>。 ====引退==== ニジンスキーはアメリカ遠征をキャンセルして13日後の[[チャンピオンステークス]]に出走した。ニジンスキーの引退レースを見ようと2万人の大観衆が押し寄せたが、その結果ニジンスキーは動揺してひどく発汗し、極度に神経質になっていた<ref>『凱旋門賞の歴史』p127</ref>。ニジンスキーは残り200メートルで2番手まで上がったが、そこから伸びずに[[ロレンザッチオ]](Lorenzaccio)の2着に敗れた。ニジンスキーはこれを最後に13戦11勝で引退した。 ====凱旋門賞の敗因==== 凱旋門賞の直後から、ニジンスキーの敗戦理由がとりざたされた。 *ピゴットの騎乗ミス ::珍しく鞭を入れたこと、前半過度に抑え、仕掛けが遅かったという非難が行われた<ref name="名前なし-6">『新・世界の名馬』p281</ref><ref name="名前なし-4"/>。 ::馬主のエンゲルハードや『凱旋門賞の歴史』は、ピゴットの騎乗はやむを得ないもので、非難をするべきではないと述べた<ref name="名前なし-6"/><ref name="名前なし-4"/>。 *体調不良 ::ピゴット騎手はレース直後、ニジンスキーは本調子になかったと述べた<ref name="名前なし-4"/>。 ::『凱旋門賞の歴史』では、春シーズンに対戦したジルやブレイクニーとの差が以前より開いたことを挙げ、体調不良説を否定している<ref name="名前なし-4"/>。 *過酷なスケジュール ::ササフラの調教師であるフランソワ・マテは、春から休みなく使われてきたニジンスキーの状態に疑問を投げかけた<ref name="名前なし-5"/>。 ::『凱旋門賞の歴史』では、半年近く休養をとらなかったことを敗因の一つとしている。 *夏の皮膚炎の影響 ::『凱旋門賞の歴史』は、皮膚炎の影響とそれによる調整の遅れを敗因の一つとしている。 *スタミナ不足 ::『凱旋門賞の歴史』は、ニジンスキーのスタミナ不足を主因としている。これによると、ロンシャン競馬場の2400メートルは、エプソム競馬場(ダービー)やアスコット競馬場(キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス)に比べて、明らかにスタミナを必要とするコースである。他の競馬場では後方に控えてスタミナを温存し、直線だけで勝負をするスタイルが通用するが、絶え間なく登り坂が続くロンシャン競馬場では追走するだけでもスタミナを消耗するため、ササフラのような本物のステイヤーに屈したのだと主張している<ref>『凱旋門賞の歴史』p116-117、p125-126</ref>。 *セントレジャー出走 ::馬主のエンゲルハードは、長距離戦のセントレジャーに出走させたことでニジンスキーが消耗し、万全の状態で出走できなかったことが敗因であると述べた<ref>『新・世界の名馬』p280-283</ref>。 *ピークを過ぎたという説 ::『新・世界の名馬』によると、凱旋門賞の時点で既にピークを過ぎているという意見が「支配的であった」<ref name="名前なし-6"/>。 === 競走成績 === {|class=wikitable border="1" style="text-align:center; font-size: 90%" !出走日!!競馬場!!競走名!!着順!!距離!!タイム!!着差!!騎手!!1着(2着)馬 |- |1969.{{0}}7.12 |カラ |アーンS |{{color|darkred|1着}} |芝6[[ハロン (単位)|f]] |1:14.60 |1/2馬身 |L.ウォード | (Everyday) |- |{{0}}8.16 |カラ |レイルウェイS |{{color|darkred|1着}} |芝6f |1:16.90 |5馬身 |L.ウォード | (Decies) |- |{{0}}8.30 |カラ |アングルシーS |{{color|darkred|1着}} |芝6f |1:17.30 |3馬身 |L.ウォード | (Everyday) |- |{{0}}9.27 |カラ |ベレスフォードS |{{color|darkred|1着}} |芝8f |1:42.60 |3/4馬身 |L.ウォード | (Decies) |- |10.17 |ニューマーケット |デューハーストS |{{color|darkred|1着}} |芝7f |1:29.90 |3馬身 |L.ピゴット || (Recalled) |- |1970.{{0}}4.{{0}}4 |カラ |グラッドネスS |{{color|darkred|1着}} |芝7f |1:27.60 |5馬身 |L.ウォード | (Deep Run) |- |{{0}}4.29 |ニューマーケット |[[2000ギニー]] |{{color|darkred|1着}} |芝8f |1:41.54 |2 1/2馬身 |L.ピゴット | ([[イエローゴッド|Yellow God]]) |- |{{0}}6.{{0}}3 |エプソム |[[ダービーステークス|ダービー]] |{{color|darkred|1着}} |芝12f |2:34.68 |2 1/2馬身 |L.ピゴット | (Gyr) |- |{{0}}6.27 |カラ |[[アイリッシュダービー]] |{{color|darkred|1着}} |芝12f |2:33.60 |3馬身 |L.ウォード | (Meadowville) |- |{{0}}7.25 |アスコット |[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス|KGVI&QES]] |{{color|darkred|1着}} |芝12f |2:36.16 |2馬身 |L.ピゴット | ([[ブレイクニー|Blakeney]]) |- |{{0}}9.12 |ドンカスター |[[セントレジャーステークス|セントレジャー]] |{{color|darkred|1着}} |芝14f127[[ヤード (単位)|y]] |3:06.40 |1馬身 |L.ピゴット | (Meadowville) |- |10.{{0}}4 |ロンシャン |[[凱旋門賞]] |{{color|darkblue|2着}} |芝2400m |2:29.70 |アタマ |L.ピゴット |[[ササフラ|Sassafras]] |- |10.17 |ニューマーケット |[[チャンピオンステークス|チャンピオンS]] |{{color|darkblue|2着}} |芝10f |2:05.80 |1 1/2身 |L.ピゴット |[[ロレンザッチオ|Lorenzaccio]] |} == 種牡馬時代 == 種牡馬となったニジンスキーはノーザンダンサーの後継種牡馬として父同様一大血統勢力を構築した。ニジンスキーは父ノーザンダンサーの146頭よりも多い155頭のステークスウイナーを輩出した。[[1986年]]には[[シャーラスタニ]]等の活躍で英愛[[リーディングサイアー]]になり、北米でも[[ファーディナンド (競走馬)|ファーディナンド]]等を輩出したことによって2位になる活躍を見せた。北米ではリーディングサイアーを獲得することはなかったが、リーディングサイアー10位以内に10回ランクインした。 産駒には、[[ラムタラ]]やゴールデンフリース、シャーラスタニといったエプソムダービー優勝馬をはじめ、[[ケンタッキーダービー]]、[[ブリーダーズカップ・クラシック]]を制したファーディナンド、種牡馬として活躍したジョッケクルブ賞優勝馬[[カーリアン]]やグリーンダンサーがいる。また、アメリカの三冠馬[[シアトルスルー]]の半弟で、[[1985年]]にキーンランド1歳馬セールで史上最高額となる1310万ドルで取引された馬(後の[[シアトルダンサー|シアトルダンサーII]])もニジンスキー産駒である。日本へは[[マルゼンスキー]]の活躍以降に多くのニジンスキーの産駒や子孫が輸入された(直系子孫については[[ニジンスキー系]]を参照のこと)。 ニジンスキーは[[1984年]]に[[蹄葉炎]]を患っていたが[[1992年]][[4月15日]]、蹄葉炎の症状が悪化した上に急性リンパ節炎を発症して立ち上がれなくなり、翌日[[予後不良 (競馬)|安楽死]]の処置がとられた。遺体はクレイボーンファームの敷地内に埋葬された。死後、残された産駒であるラムタラがニジンスキーの成し得なかったヨーロッパ三大レース(ダービーステークス、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、凱旋門賞)制覇を無敗で達成している。 === 主な産駒 === * 1972年産 ** [[グリーンダンサー]] Green Dancer([[プールデッセデプーラン]]、1991年仏リーディングサイアー) ** コーカサス Caucasus(アイリッシュセントレジャー) ** クワイエットフリング Quiet Fling([[コロネーションカップ]]) * 1974年産 ** [[マルゼンスキー]]([[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]) *1975年産 ** * [[イルドブルボン]](キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス) ** [[ヤマニンスキー]]([[ヤエノムテキ]]、[[ライトカラー]]の父) * 1976年産 ** ニニスキ Niniski(アイリッシュセントレジャー、[[ロワイヤルオーク賞]]) *1 978年産 ** キングズレイク Kings Lake(アイリッシュ2000ギニー、[[サセックスステークス]]、[[アイリッシュチャンピオンステークス|ジョーマクグラス記念ステークス]]) * 1979年産 ** ゴールデンフリース Golden Fleece(ダービー) * 1980年産 ** [[カーリアン]] Caerleon([[ジョッケクルブ賞]]、[[1988年]]・[[1991年]]英愛リーディングサイアー) ** * [[ラシアンルーブル]]([[イソノルーブル]]の父) * 1981年産 ** * [[ナグルスキー]]([[ナリタハヤブサ]]、[[ホクトベガ]]の父) * 1982年産 ** シャディード Shadeed(2000ギニー) * 1983年産 ** * [[ファーディナンド (競走馬)|ファーディナンド]](ケンタッキーダービー、ブリーダーズカップ・クラシック) ** * [[シャーラスタニ]](ダービー、アイリッシュダービー) ** ダンスオブライフ Dance of Life([[マンノウォーステークス]]) ** * [[ダンシングキイ]]([[ダンスパートナー]]、[[ダンスインザダーク]]、[[ダンスインザムード]]の母) * 1984年産 ** * [[シアトルダンサー|シアトルダンサー II]]([[パリ大賞]]2着、[[タイキフォーチュン]]の父) ** * [[グランドオペラ (競走馬)|グランドオペラ]]([[メイセイオペラ]]の父) * 1985年産 ** ダンシングスプリー Dancing Spree([[ブリーダーズカップ・スプリント]]) * 1987年産 ** * [[ロイヤルアカデミー|ロイヤルアカデミー II]]([[ブリーダーズカップ・マイル]]、[[ジュライカップ]]) ** スカイクラシック Sky Classic([[ジョーハーシュ・ターフクラシックステークス|ターフクラシック招待ステークス]]、[[カナディアンインターナショナルステークス|ロスマンズインターナショナルステークス]]、[[ブリーダーズカップ・ターフ]]2着) * 1988年産 ** マシャーラー Mashaallah(アイリッシュセントレジャー、[[バーデン大賞]]、[[ミラノ大賞典]]) * 1992年産 ** * [[ラムタラ]](ダービー、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス、凱旋門賞) === 主な母父にあたる競走馬 === * [[ヘヴンリープライズ]] Heavenly Prize([[フリゼットステークス|フリゼットS]]、[[テストステークス|テストS]]、[[アラバマステークス|アラバマS]]、[[ガゼルハンデキャップ|ガゼルH]]、[[ベルデイムステークス|ベルデイムS]]、[[ブリーダーズカップ・ディスタフ]]、[[アップルブロッサムハンデキャップ|アップルブロッサムH]]、[[オグデンフィップスステークス|オグデンフィップスH]]、[[ゴーフォーワンドハンデキャップ|ゴーフォーワンドH]]、[[パーソナルエンスンハンデキャップ|パーソナルエンスンH]]) : ※ * は日本に輸入された馬。 == 表彰 == *1970年にニジンスキー陣営を表彰して[[英国放送協会|BBC]]により「BBC Sports Personality of the Year Team Award」が贈られた。 *[[1976年]]には[[カナダ競馬名誉の殿堂]]入りを果たす。 *[[2000年]]にはイギリスの新聞[[ザ・サン]]の「Horse of the Millennium」に選ばれる。 *カナダの[[ウッドバイン競馬場]]とアイルランドの[[レパーズタウン競馬場]]にはニジンスキーの名を冠した競走(ニジンスキーステークス)が設立されている。 *[[ブリティッシュ・チャンピオンズシリーズ名誉の殿堂]]にも入っている。 == 評価 == 2歳時(1969年)には5戦無敗の戦績で、優れた2歳馬とみなされた。3歳時(1970年)にはイギリスクラシック三冠を達成、これ以降、2021年<!--情報源は2018年のものだが-->の時点ではイギリスクラシック三冠馬は登場していない<ref name="Daily Telegraph 2018">“Why Nijinsky rules supreme as the greatest champion”. Daily Telegraph, 2 June 2018.</ref>。 アイルランドの生物学者[[:en:Gerry McKenna|P・G・マッケンナ]]は、調教師[[ヴィンセント・オブライエン]]の伝記記事のなかで「多くの人がニジンスキーを20世紀で最も偉大な競走馬とみなしている」と述べた<ref>{{cite journal|last=McKenna|first=P. G.|date=1 January 2015|title=Vincent O'Brien Biography|url=https://www.researchgate.net/publication/301342731|via=ResearchGate}}</ref>。 == 逸話 == ; 気性 :ニジンスキーは気性が悪く、機嫌が悪くなると後ろ立ちをし、馬房から出ないこともあったという。このような気性のニジンスキーをピゴットは「炎のような馬」と形容している。同時に、「それほど気性が激しいからこそ走る」とも評している。 ; ロモラ・ニジンスキー夫人 :エプソムダービーの時に、ヴァーツラフ・ニジンスキーの未亡人であるロモラ・ニジンスキーがエンゲルハードによって招待されていた。自分の亡くなった夫にちなんで名づけられたニジンスキーに彼女はレースごとに大金を賭けていたという。<ref group="注釈">ロモラがダービー勝利の光景を実見して涙したという逸話が語られることがあるが、当時の新聞記事には勝利に立ち会うことができなかったと記されている。</ref><ref>"Nijinsky's Widow Misses Race" New York Times, June 4, 1970. [https://web.archive.org/web/20210223100713/https://www.nytimes.com/1970/06/04/archives/nijinskys-widow-misses-race.html 電子化された記事のアーカイブ](2023年12月6日閲覧)</ref>。 ; ゴルゴ13 :エプソムダービーのニジンスキーは[[さいとう・たかを]]の漫画「[[ゴルゴ13]]」の題材になっている。 == 血統 == === 血統表 === {{競走馬血統表 |name = ニジンスキー (Nijinsky II) |inf = ([[ノーザンダンサー系]] / [[ファラリス (競走馬)|Phalaris]]5×5=6.25%、[[セレーネ (競走馬)|Selene]]5×5=6.25%) |f = [[ノーザンダンサー|Northern Dancer]]<br/>1961 鹿 |m = [[フレーミングページ|Flaming Page]]<br/>1959 鹿 |ff = [[ニアークティック|Nearctic]]<br/>1954 黒鹿 |fm = [[ナタルマ|Natalma]]<br/>1957 鹿 |mf = [[ブルペイジ|Bull Page]]<br/>1947 鹿 |mm = Flaring Top<br/>1947 栗 |fff = [[ネアルコ|Nearco]] |ffm = [[レディアンジェラ|Lady Angela]] |fmf = [[ネイティヴダンサー|Native Dancer]] |fmm = [[アルマームード|Almahmoud]] |mff = [[ブルリー|Bull Lea]] |mfm = Our Page |mmf = [[メノウ (競走馬)|Menow]] |mmm = Flaming Top |ffff = [[ファロス (競走馬)|Pharos]] |fffm = Nogara |ffmf = [[ハイペリオン (競走馬)|Hyperion]] |ffmm = Sister Sarah |fmff = [[ポリネシアン (競走馬)|Polynesian]] |fmfm = Geisha |fmmf = [[マームード|Mahmoud]] |fmmm = Arbitrator |mfff = [[ブルドッグ (競走馬)|Bull Dog]] |mffm = Rose Leaves |mfmf = [[ブルーラークスパー|Blue Larkspur]] |mfmm = Occult |mmff = [[ファラモンド|Pharamond]] |mmfm = Alcibiades |mmmf = [[オマハ (競走馬)|Omaha]] |mmmm = Firetop [[ファミリーナンバー|F-No.]][[8号族|8-f]] }} === 近親馬 === [[競走馬の血統#兄弟・姉妹の関係|半姉]]フルール(父ヴィクトリアパーク)は現役時代に3勝し、母としてエプソムダービーなどを勝った[[ザミンストレル]]を産んだ。全弟ミンスキーはアイルランドの2歳チャンピオンとなった。後に[[日本]]に種牡馬として輸入されている。 == 脚注 == === 参考文献 === * {{Cite book|和書 |author = 原田俊治 |year = 1993 |title = 新・世界の名馬 |publisher = サラブレッド血統センター |isbn = 4-87900-032-9 |ref = 原田(1993) }} * {{Cite book|和書 |author = 山野浩一 |year = 1997 |title = 伝説の名馬 Part 4 |publisher = 中央競馬ピーアール・センター |isbn = 4-924426-55-5 |ref = 山野(1997) }} * {{Cite book|和書 |author = A・フィッツジェラルド 草野純・訳 |year = 1997 |title = 凱旋門賞の歴史 1965-1982(第三巻) |publisher =競馬国際交流協会 |isbn = |ref = }} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * {{競走馬成績|netkeiba=000a000dfe|jbis=0000333996|racingpost=301667/nijinsky}} {{タイムフォーム年度代表馬}} {{エプソムダービー勝利馬}} {{イギリスクラシック三冠馬}} {{キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス勝ち馬}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:にしんすきい}} [[Category:1967年生 (競走馬)|愛にしんすきい]] [[Category:1992年没]] [[Category:サラブレッド]] [[Category:カナダ生産の競走馬]] [[Category:アイルランド調教の競走馬]] [[Category:競馬殿堂]] [[Category:アメリカ合衆国供用種牡馬]] [[Category:安楽死された競走馬]] [[Category:ヴァーツラフ・ニジンスキー]]
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マルゼンスキー
マルゼンスキー(1974年5月19日 - 1997年8月21日)は日本の競走馬、種牡馬。 イギリスクラシック三冠馬のニジンスキーを父に持つアメリカからの持込馬として1976年に中央競馬でデビュー。同年の3歳王者戦・朝日杯3歳ステークスを大差でレコード勝ちするなど連戦連勝を続けたが、当時持込馬は多くの競走で出走制限が課されていたことで翌年のクラシック三冠競走には出走できなかった。その後無敗(8戦8勝)のまま1977年末に故障で引退。1970年代に起きた外国車ブームの中で「スーパーカー」の異名を冠された。種牡馬となってからは1988年の東京優駿(日本ダービー)優勝馬サクラチヨノオーなど中央競馬で4頭のGI優勝馬を輩出し、1990年にJRA顕彰馬に選出された。 1973年秋、北海道胆振支庁の軽種馬農協青年部がアメリカへの研修旅行を計画したが、直前になってひとり欠員が出て予算に狂いが生じるおそれが出たことから、青年部は牛の仲買人でありパスポートを保持していてすぐに参加が可能であった橋本善吉に同行を依頼した。橋本は少年時代に馬の牧場で10年働いた経験があったが、馬主としてばんえい競馬の名馬・マルゼンストロングホースを購買し競馬の世界に進出したばかりだった。かねて競走馬生産にも着手したいと考えていたことから、橋本はこれを好機と捉えて参加を決定。日程の中に希望者のみのオプションとして組まれていたキーンランドセールに参加した際、調教師の本郷重彦とも知り合った。 橋本と本郷はセール会場において、アメリカの殿堂馬・バックパサーを父に、14勝を挙げたクィルを母にもつ繁殖牝馬シルに目をつける。両者ともその馬体の良さを高く評価し、本郷は「こんなに皮膚のいい馬には生まれてはじめてお目にかかった。小柄だけどバランスがいいし、これは良い馬だ」と感嘆した。橋本は「お尻の部分が発達したクサビ型の体型をした繁殖牛は、必ずいい仔を出して成功していた。この見方が馬に通ずるかどうかはわからないが、人間でも、例え小柄でも骨盤が発達している女性は、いい子を産む。母親として優秀な体型というものは、すべての動物に共通するものだと思う」という自身の勘を信じ、セールに同行していた妻の慶子に対して、「見ろよ、あの繁殖牝馬(シル)はお前の若い時にそっくりだ」と囁いた。 しかし、橋本は通訳を兼ねてついて回っていた馬専門の商社マンから、シルの母系が優秀であり、さらにイギリスの三冠馬、ニジンスキーの子を受胎していたことで高額が予想されていることを告げられると「動物と接してきたキャリア」を侮辱された気持ちとなった橋本は「胸ぐらをつかんでブン殴ってやりたい気持ち」を抑えると同時に購買意欲も激しく駆り立てられ、本郷の強い勧めもあり競りに参加した。フランスの調教師と競り合った末、このセールで3番目の高額であった30万ドル(約9000万円。当時)という価格で落札に成功した。橋本は25万ドルでいったところで躊躇し、妻に「やめようか」と問いかけたが、それに対して「欲しいんでしょう?なら買いなさいよ」とけしかけられたことで競りを下りなかったという。尚、シルの競りには社台グループの総帥、吉田善哉も参加していたが、25万ドルの手前で競りから下りていた。また、シルには落札価格の9000万円に加えて手数料、保険、輸送料、関税などがかかり、総額が日本に到着したときには当時としては破格の金額である1億2000万円がかかった。橋本は、現地の酪農業界誌から「有名な日本のウシ屋の橋本氏が、とてつもなく高額なウマを買った。どうやら気が違ったようだ」と紹介されていたという。 のち日本へ輸送されたシルは、1974年5月19日、牡馬を出産。橋本は自身の屋号「丸善」からとって牡馬ならば「マルゼンスキー」、牝馬ならば「ミスマルゼン」と名前を考えており、前者に決まった。報せを受けて東京から馬の検分にきた本郷は、第一声で「外向だなあ」と口にした。前脚が膝下から外に曲がっており、正面からみるとA字になるような形を「外向肢勢」といい、マルゼンスキーはそれに該当したのである。しかし全体としては好馬体をもっており、橋本も本郷もその点では高評価を下した。往年の名騎手であった田中康三も本郷の息子・一彦に「あれは走る」と話していたという。また、前述のとおり橋本と同じ競りに参加し、25万ドルの手前で降りていた吉田善哉が、息子の勝己(後のノーザンファーム代表)を伴い「庭を見せてもらいにきた」と口実をつけて、マルゼンスキーを見に来ていたという。 産後10日目から橋本は新聞と雑誌に広告を出して一株300万円を40口・総額1億2000万円のシンジケート会員を募集し、1カ月で満口となった。しかしそれからおよそ2カ月後、ニジンスキーの初年度産駒として評判が高かったニジンスキースターがデビュー戦で12着と敗れたことで会員の離脱が相次ぎ、最終的にシンジケートには8人しか残らなかった。また、「外向」は成長につれて度を増していき、やがて「脚曲がり」と陰口を叩く者が出るほどひどいものとなった。変形の脚部は強い調教に耐えられない可能性が高く、これを見た少なくない者が「良い馬だが、競走馬には仕上がらないだろう」という見解を述べた。そうした一方で、馬術部出身で育成調教を担当していた橋本の息子は、「この馬は跳びも大きいけど、伸びた後脚を戻すのがものすごく速い」と感嘆していたという。 母馬が日本国外で種牡馬と交配され、仔馬を日本で産んだ場合、その仔を「持込馬(もちこみば)」と呼ぶ。マルゼンスキー以前には、日本ダービー優勝のヒカルメイジ、それぞれ天皇賞(春)優勝のハクズイコウ、タイテエムといった持込の八大競走優勝馬がいたが、1971年の貿易自由化に伴い国内生産者への保護政策が実施され、持込馬は外国産馬同様の存在として有馬記念を除く八大競走への出走権を失った。八大競走だけでなく、1976年から77年にかけては、出自を問わず出走可能な「混合競走」は全体の11.7%しか組まれていなかった。1984年から持込馬は国産馬と同様の地位を回復しており、マルゼンスキーは狭間の時代に産まれた持込馬であった。 ライターの阿部珠樹は、持込馬としてのマルゼンスキーについて1995年と2002年にそれぞれ次のように論じている。 1976年7月、マルゼンスキーは東京競馬場の本郷厩舎へ入る。脚部不安のため強い調教は掛けられなかったが、10月9日に迎えた新馬戦では中野渡清一を鞍上に迎え、当日は1番人気の支持を受ける。このレースではマルゼンスキーと同じ持込馬で、当時のレートで2億2000万円近い価格で落札されたタイプキャストを母に持つタイプアイバー(父サーアイヴァー)も出走し、シルの落札価格と輸入費の総額の1億2000万円と合計した「3億5000万円の共演」として注目を集めた。競馬評論家の大川慶次郎によると、当日は2頭の母の競走実績の差からタイプアイバーの方が期待が高く、マルゼンスキーの前評判は低かったというが、スタートが切られるとマルゼンスキーはすぐに先頭を奪い、そのまま後続に大差(10馬身以上)、タイム差では2秒差をつけて初戦勝利を挙げた。ただし、中野渡によると調教の様子から「セーブしたせいもあるけど、それほど走るとは思わなかった。新馬戦も、ボチボチ勝てるかな、ぐらいの感じだった」という。中野渡は新馬戦で騎乗した時の印象について、「4歳の時のタケシバオーに乗っていたこともあるんだけど、それともちょっと違っていたね」と回顧している。続く条件戦も2着に9馬身差をつけて連勝。いずれも他馬とのスピードの違いに任せて逃げきるという内容であった。 11月21日の府中3歳ステークスでは、北海道3歳ステークスの勝利馬・ヒシスピードと対戦。5頭立ての少頭数で、単勝オッズはマルゼンスキー1.1倍、ヒシスピード6.7倍であった。マルゼンスキーの能力に心酔していた中野渡は、「相手が迫ってくるのを待ってスパートを掛ければいい」とみて悠長なレース運びをしていたが、最後の直線半ばでヒシスピードが一気に並びかけ、慌てて追いだした中野渡マルゼンスキーとヒシスピードの激しい競り合いとなった。両馬並んで入線して写真判定となり、結果はマルゼンスキーがハナ差先着していた。 中野渡はこのレースについて「あれは僕の騎乗ミスです。どう乗っても勝てるんなら、楽に勝とうと思って馬をちょっと抑えたんです。そうしたら機嫌を損ねて折り合いを欠いてしまった」と語り、「マルゼンスキーは調教でもレースでもビッシリ追ったことのない馬だったので、並ばれて追い出すと馬も面食らってしまった。でも、俺の方が馬以上に慌てた。自分の油断で負けたら、次は乗せてもらえないだろう。降ろされたらどうしようと、そればかり考えていた」と述懐している。レース後に中野渡は本郷からひどく怒られ、橋本は乗り替わりを示唆する発言もしたが、橋本は後に同じ本郷厩舎のミスターケイ(3着)との適度な差での1・2着独占を狙い、橋本から中野渡に「あまり離すな」と指示していたのだといい、「負けたら主犯は俺だものね。あのときばかりは、びっしょりと冷や汗をかいた」と回顧している。 12月12日、関東の3歳王者戦・朝日杯3歳ステークスに出走。前走の苦戦を教訓に、調教では初めて一杯に追われ、競走前の本郷から中野渡への指示も「壊れてもいいから行ってみろ。責任は俺が持つ」と全力を出しきることを要求するものだった。マルゼンスキーは常の通りスタートから先頭を奪うと、直線ではヒシスピードを突き放し、同馬に13馬身、2.2秒差をつけて勝利した。走破タイム1分34秒4はコーネルランサーの記録を0.2秒更新する3歳レコードであり、1990年の朝日杯でアメリカ産馬のリンドシェーバーに更新されるまで14年間保持された。中野渡は競走後のインタビューで「馬の上に跨っていただけ。3コーナー過ぎからは、後ろの馬の足音も聞こえなかった」と語った。ヒシスピードに騎乗していた小島太は「ありゃあバケモンだな」と語り、「正直なところ、これで当分(マルゼンスキーと)顔を合わせることもないので、ほっとした気分です」と心情を吐露している。ただし、ヒシスピードの1分36秒6も当時としては水準的なタイムであった。当年の出走はこれで終え、4戦4勝の成績で最優秀3歳牡馬に選出された。 朝日杯のあと、橋本はマルゼンスキーについて再びシンジケートを組織する。すでに能力を見せたこともあり、一株500万円を50口、総額2億5000万円という価格に設定されたが、すぐに満口となった。このとき最初のシンジケートから離脱した会員の再申し込みもあったが、橋本はこれを全て拒絶した。シンジケートの方針により、マルゼンスキーは最大目標を年末の有馬記念に置き、1978年以降は国外へ遠征するという長期計画が組まれた。 4歳となった1977年はきさらぎ賞を目標とし、その前に中京競馬場のオープン競走に登録したが、マルゼンスキーが出走するという話が伝わると回避馬が続出し、規定頭数に達せず一時は競走不成立の見通しが立った。本郷はせめてファンの前でデモンストレーションを見せようと、朝日杯の優勝レイを中京に持ち込んでいたが、関西の調教師・服部正利が管理下から2頭を出走させて競走を成立させた。服部は中野渡に対して「俺のところの馬を出したんだから、タイムオーバーになるような大差は勘弁してくれ」と話したという。この競走は2着に2馬身半差で勝利した。 マルゼンスキーはこのあと膝を骨折し、3カ月の休養をとる。5月に復帰し、オープン戦で2着に7馬身差を付けて勝利するが、持込馬という出自から日本ダービーへの出走権はなかった。ダービーの当週、中野渡は「日本ダービーに出させてほしい。枠順は大外でいい。他の馬の邪魔は一切しない。賞金もいらない。この馬の能力を確かめるだけでいい」と話したとされる。橋本は裁判も検討していたが、本郷が難色を示したほか、様々な事情も重なりダービー出走は断念された。橋本のもとには「なぜ簡単に諦めるのか」、「なぜ訴えないのか」といったファンからの手紙が何通も届いていたという。これを受けて、JRAは持ち込み馬が「重賞レースに出走できる制限枠を、11レースから78レースに拡大する」等の緩和政策を打ち出した。ところが、これに対して競走馬の生産者団体である日本軽種馬協会が猛反発し、結局緩和策は全面白紙撤回され、翌1978年も従来通りとなってしまった。マルゼンスキーがダービーに出られなかったという問題は、主催者である日本中央競馬会の広報誌『優駿』上でも議論された。以下はその一部である。 6月26日、マルゼンスキーは「残念ダービー」とも称されていた日本短波賞に出走。このレースの前に東京のオープン競走に出走することが予定されていたが、登録馬が4頭しか揃わなかったため不成立となっていた。当日はその姿を見ようと中山競馬場には8万人近い観衆が集まった。この競走にはダービートライアル・NHK杯の勝ち馬であるプレストウコウも出走していたが、マルゼンスキーの単勝オッズは終始1.0倍を示し続けた。スタートが切られるとマルゼンスキーはあっさりと先頭を奪い、最初のコーナーですでに2番手に6~7馬身の差を付けて逃げを打った。しかし第3コーナーから最終コーナーにかけて突然首を高く上げて失速し、2番手からスパートをかけたインタースペンサーに並ばれる。この様子に観衆は大きくどよめいたが、しかし中野渡が肩に鞭を入れると再加速し、直線では独走状態となって2着プレストウコウに7馬身差を付けて勝利した。中野渡は失速の理由について「あの日は馬場が悪かった。それで、大事に馬場のいい外めを選んで乗っていた。そこにインタースペンサーが一気に来て、馬の方がフワッとした気持ちになってしまった」と述べている。なお、2着プレストウコウは秋にセントライト記念、京都新聞杯と連勝の後、クラシック三冠最終戦・菊花賞に優勝している。 のちにマルゼンスキーは北海道に入る。札幌で一戦、函館で一戦し、秋にどこかでもう一戦のあと有馬記念へ、という計画であった。緒戦、札幌での短距離ステークスには、当時最強馬と目されていたトウショウボーイも出走を予定していた。しかし中野渡は「他の出走できるレースがたくさんあるトウショウボーイを傷つける必要はない」とみて、トウショウボーイは絶対に出走してこないと踏んでいたという。中野渡の予想通りトウショウボーイは出走を回避し、短距離ステークスは競走成立下限の5頭立てとなったが、他の相手にもヒシスピード、ヤマブキオーといった一線級のオープン馬がいた。 レースではマルゼンスキーに先んじて牝馬ヨシオカザンが先頭を奪い、マルゼンスキーははじめて2番手を進むことになった。砂が深く敷かれた当時の札幌ダートにあって、前半600メートルのラップタイムは33秒2という異常なハイペースとなったが、マルゼンスキーは苦もなくこれを追走し、中野渡は鞍上で「あの馬にマルゼンスキーを種付けしたら面白い仔ができるかもしれない」などと考えていたという。マルゼンスキーは中野渡が鞭を抜くことなくヨシオカザンをかわしていき、ゴールではヒシスピードに10馬身差をつけて8連勝を遂げた。1分10秒1はレコードタイムだったが、中野渡は「びっしり追っていれば、1分9秒台が出せた」と述べている。 しかし、短距離ステークスの頃のマルゼンスキーの脚部は不穏な状態で、関西の重鎮・武田文吾は「この馬はよくこの脚で持っているな」と話したという。短距離ステークスののち、橋本は函館の巴賞、秋の京都大賞典を経て有馬記念へ向かうプランを公表する。この公表では橋本はさらに、「5歳の春先にオープンを使って日本記録の12連勝を達成し、フランスに渡って環境になじませ、秋は凱旋門賞、ワシントンDCインターナショナルを目標。中野渡に同行してもらう」と発言していた。 マルゼンスキーは函館に移動したが、調教中に中野渡の代役を務めた騎手が御しきれずに埒に衝突し、これが影響して屈腱炎を発症。予定していた巴賞と京都大賞典は使えず、一旦橋本牧場に放牧に出され10月初旬に帰厩し、一時はダービー卿チャレンジトロフィーを使うプランも模索され最終調教まで行われたが、納得がいかない点があったことから断念し、有馬記念へは直行することになる。 有馬記念のファン投票では、後年「TTG」と並び称されるテンポイント、トウショウボーイ、グリーングラスに次ぐ第4位に選出。この3頭らとの対戦に期待が寄せられていたが、12月15日に行われた最終調教において屈腱炎が再発する。この最終調教では落馬負傷で戦線離脱中の中野渡に代わって加賀武見が騎乗しており、調教時計自体は一番時計を出していたものの直線で異常を感じていたという。なお、加賀は前年のダービーの数日前に中野渡に対して「1回でいいんだ。調教で乗せてくれないか」と頼んでいたが、この時は即座に断られたという。症状はごく軽く、獣医師は出走可能との診断を下していたが、橋本が患部に手を当てようとする脚を上げる仕草をすることから、痛がっていると判断、また本郷も「万が一レースで故障したら元も子もない」との考えで、出走を回避させることになった。 前述の通り屈腱炎の症状は軽いものだったが、マルゼンスキーには宝塚記念と有馬記念以外に出走できる目標レースがなかったことから、種牡馬とするため引退が決まった。通算8戦8勝、2着につけた合計着差は61馬身におよんだ。1978年1月15日に東京競馬場で引退式が行われ、スタンドには「さようならマルゼンスキー。語り継ごうおまえの強さを。讃えよう君の闘志を」との横断幕が掲げられた。日本短波賞時の2番のゼッケンをつけ、負傷の身をおして式に参加し騎乗した中野渡を背にしたマルゼンスキーは、馬場を半周ののち4コーナーから疾走して最後の走りを披露した。挨拶に立った橋本は「この馬は持込馬という宿命にあって、クラシックレースに出られなかったのは非常に残念ですけど、この鬱憤は子供たちで必ず晴らします。クラシックを獲れるような馬を生産してファンの皆様に応えるべく頑張りますから、よろしく応援してください」と語り、拍手喝采を送られた。 マルゼンスキーは橋本善吉が経営する北海道門別町のトヨサトスタリオンセンターで種牡馬となった。1970年代以降、欧米ではノーザンダンサーの子供たちが猛烈な勢いで大競走を制していき、血統地図を急速に塗り替えつつあった。ニジンスキーを経て祖父にノーザンダンサーを持つマルゼンスキーは日本においてその血統の優秀さを示した最初の馬であり、それだけに種牡馬としての生産界からの注目度・期待度は非常に高いものだった。マルゼンスキーはその期待に違わず、自身のスピードと瞬発力、そして試されることがなかったスタミナを産駒に伝え(吉沢譲治)、初年度産駒からは菊花賞をレコード勝ちしたホリスキーを送り出し、以後宝塚記念優勝のスズカコバン、朝日杯3歳ステークスと日本ダービーを優勝したサクラチヨノオー、菊花賞に優勝したレオダーバンといったGI優勝馬を輩出した。その種牡馬実績が評価され、1990年にはJRA顕彰馬に選出された。 種牡馬ランキング最高成績は1988年の2位(中央3位)。さらに特筆されるのはブルードメアサイアー(母の父)としての実績である。GI競走4勝を挙げたスペシャルウィークを筆頭に、9頭のGIおよびJpnI優勝馬が輩出されており、ランキングでは2位を10回記録。「マルゼンスキー牝馬」は生産者の間で引っ張りだこの存在となり、1996年時点で、北海道日高地方には約170頭が繋養されていたといわれる。これは当時トウショウボーイ牝馬の210頭に次ぐ数字であった。牡馬の後継ではホリスキー、スズカコバン、そして重賞2勝のサクラトウコウらが種牡馬としても健闘した。 1995年に高齢のため種牡馬シンジケートが解散したが、その後も種牡馬としての人気は高く、1997年には70頭への種付けを行っていた。しかし同年8月21日午前4時ごろ、翌年の種付けシーズンに向けた体作りのための軽い運動の最中に突然いなないて倒れ、そのまま死亡した。23歳(旧表記24歳)没。死因は心臓麻痺であった。マルゼンスキーを溺愛していた橋本は自身の次男として弔い、3日後の8月24日、橋本牧場において告別式が行われ、多数の生産者や競馬関係者が参列した。その遺骸は当時まだ健在であった母・シルにも見送られたのち、柩に収められた状態で牧場内に埋葬された。 日本競馬史における最強馬との評がある1頭である。日本中央競馬会の機関広報誌『優駿』が創刊50周年を記念して競馬関係者に行った「最強馬」アンケートではシンボリルドルフ、シンザン、タケシバオー、タニノチカラに次ぐ5位となった。1985年に『優駿』読者を対象に行われたものでは6位。ただしこれは5位まで複数記名できる方式で、1位票の数ではシンボリルドルフとシンザンに次ぐ3位であった。 中野渡清一は1991年には「今でも自分はあの馬が日本一強いと思う」、「7つか8つの力で勝っていた」、1999年には「自分が乗ったからというのではなく、日本の最強馬と確信している」、「スピードがケタ違いで勝負根性もあった。ダービーに出ていたら楽勝したと思う」とそれぞれ述べている。ライターの阿部珠樹によると、自身が行った取材で中野渡は「ダービーに出たら、途中で水を飲んでも勝てた」と豪語したことがあったという。本郷一彦によれば、重彦は脚部不安のため思いきった調教ができないことを惜しみ「記録に残っているのは能力の何分の一だ」と吐き捨てるように言ったことがあるという。中野渡はマルゼンスキーに騎乗していた際の心境について「スピードが出すぎてレース中に壊れるんじゃないかという不安」が常に頭の隅にあったといい、「スタートは普通だけど加速してからのスピードが素晴らしく、重心が低いから加速するとスーッと沈むようになる。車なら最高級のベンツっていう感じでしたが、慣れないうちは正直、怖かったですよ」と述べている。 対戦した関係者や競馬評論家からも高い評価を受けている。小島太は「とにかく、あの馬は計り知れない強さがあった。No.1じゃないの」と評し、当時調教師であった野平祐二は「道悪で走ったときの跳ね上げる泥の高さというのが、もう並の高さじゃない。コーナーワークのときなんか、他の馬の3倍ぐらいバーンと跳ね上がる。(中略)コーナーワークであれだけ力を入れて走ると、たいがいは直線で止まってしまうものだが、あの馬は最後までスピードが落ちなかった」と述懐し、「もうちょっと長く、せめて5歳まで走ってほしかった。あの馬のもつ全能力をこの目で見たかった」と惜しんだ。小島太はヒシスピードに騎乗していた日本短波賞でのマルゼンスキーについて、「ダートだから前の馬の蹴った砂が飛んでくるんだが、マルゼンスキーは他の馬と全然違っていた。顔に当たると痛い、砂の塊が飛んで来るんだ。あんな馬はいない。掻き込みがぜんぜん違っていたんだね」と述べている。生産者の川上悦夫は「スピードが桁違い。そして、スタミナが桁違い。日本でいちばん強い馬がマルゼンスキーだったと信じて疑わない」と述べている。 競馬史研究家の山本一生はその競走能力を「トキノミノル、ナリタブライアンに比べても優るとも劣らず」と評し、競馬評論家の大川慶次郎や大島輝久は、当時もし持込馬が内国産馬と同じ扱いを受けていれば、傑出した成績を残したであろうと述べている。ライターの栗山求はマルゼンスキーの競走能力の高さについて、前述のマルゼンスキーが日本で走ることになった経緯を用いて、「日本の実業団バスケットチームに迷い込んだマイケル・ジョーダンのようなもの」と表現し、他馬との実力差があまりにも開きすぎていたためにライバルと呼べるような馬が日本には存在せず、唯一ライバルと呼べたのは一度も対戦することのなかった同期のアメリカ三冠馬シアトルスルーだと述べている。 対戦の可能性があった1歳上のトウショウボーイ、テンポイント(いずれもJRA顕彰馬)とは「もしも対戦していたら」という仮定がしばしば語られるが、中野渡と橋本善吉はいずれも、「負けなかった」「勝っていた」と主張しており、小島太は上記2頭にグリーングラスを加えた「TTG」との比較を問われ、「そのあたりとは比べものにならない。(中略)どこから見ても、同じ時代の馬とは一段も二段も抜けていた」と評している。栗山求によると現役時代にマルゼンスキーとかかわっていたというある人物と話をした際に、その人物は「トウショウボーイやテンポイントなんてメじゃない。目一杯に仕上げれば、シンボリルドルフとやったってたぶん勝っていたはずだよ」と、確信に満ちた口調と真剣な目をして話したという。一方、トウショウボーイの管理調教師・保田隆芳は「マルゼンスキーとやっても、おそらく負けなかったんじゃないか」と述べている。上述の座談会「正論とミーハー論と」の中でも、トウショウボーイとマルゼンスキーの対戦を期待する会話が交わされていたが、この中では山野浩一が「もし、あの2頭が現在絶好調だとしたら、有馬記念まで待つことなく、その絶好調のときにどこかで対戦する機会がなくちゃおかしい。有馬記念まで無事にいってくれるかどうかが一番心配だもの」と発言していた。『優駿』が2004年に識者へアンケートをとった「年代別代表馬」において、マルゼンスキーは1970年代でテンポイント、トウショウボーイに次ぐ3位となっている。 父・ニジンスキーは「20世紀を代表する名馬の1頭」とも評されたが、マルゼンスキーはニジンスキーに非常に似ていたとされ、アメリカからニジンスキーの関係者がやってきた時「ニジンスキーによく似ている。違うのは外向肢勢だけ」と話した関係者がいたという。ニジンスキーを実見したことがある宮原高尚も「マルゼンスキーは父親そっくりの体型」と述べている。ニジンスキーは世界各国で一流馬を輩出したが、日本の競馬界ではマルゼンスキーがその最良の産駒だったのではないかとみる者もいる。イギリスの競馬ジャーナリスト、レズリー・サンプソンは著書『ニジンスキー』の中でマルゼンスキーも代表産駒の1頭として紹介し、「もしマルゼンスキーが日本で走らなかったならば、いったいどれだけの成績をあげられたかは想像するしかないだろう。おそらくチャンピオンとなっていたはずだし、J.O.トビンにとってもシアトルスルーにとっても、きっと難敵だったに違いない」と記している。 同時代においては、日本最大の牧場・社台ファームが擁したノーザンテーストがリーディングサイアーの地位を占めていたが、橋本は種牡馬マルゼンスキーはノーザンテーストよりも上であると信じ、彼我の差は相手をする繁殖牝馬の質の差だとみて「俺にもっと金があったら、ノーザンテーストなんか叩きのめしてやるのに」と口にしていたという。ただし橋本はシルに一度ノーザンテーストを交配しており、このときは受胎に至らなかった。また、サクラトウコウを用いて天皇賞(秋)優勝馬ネーハイシーザーを生産した大道数美も「ノーザンテーストよりマルゼンスキーの方が数段上」だとしている。他方、大川慶次郎は脚部不安の産駒が多かったことを指摘し、「いい仔は出したけれど、平均値をとるとどうかなという思いがある」と述べている。 マルゼンスキーはブルードメアサイアーとしてもノーザンテーストに首位を阻まれ続けたが、血統評論家の吉沢譲治は「ノーザンテーストの血を引く繁殖牝馬を数多く擁する社台ファームが、サンデーサイレンス、トニービンといった一流種牡馬を惜し気もなく配合するのに対して、マルゼンスキーの血を引く繁殖牝馬を擁するのは北海道日高の中小牧場が中心で、配合種牡馬の質は全体にそれよりも落ちる。それでいて、この好成績は立派というほかはない」と評している。なお、2000年に日本馬主協会連合会が馬主を対象に行ったアンケートによる「好きな牝系の血統は」という設問で、「(母父)マルゼンスキー(系)」は「(母父)ノーザンテースト(系)」、「(母父)ノーザンダンサー(系)」に次ぐ3位となっている。 雑誌『Sports Graphic Number』1999年10月号が競馬関係者を対象に行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」では票数3票で第6位であった。日本中央競馬会が2000年に行ったファン投票による名馬選定企画「20世紀の名馬大投票」では、32位に選出。『優駿』が独自に選出した「20世紀のベストホース100」にも名を連ねた。また、2010年に『優駿』通巻800号記念として行われたファン投票企画「未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち - THE GREATEST HORSES 100」では22位、2015年に行われた「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」では37位となった。 地方競馬重賞勝利馬
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"橋本と本郷はセール会場において、アメリカの殿堂馬・バックパサーを父に、14勝を挙げたクィルを母にもつ繁殖牝馬シルに目をつける。両者ともその馬体の良さを高く評価し、本郷は「こんなに皮膚のいい馬には生まれてはじめてお目にかかった。小柄だけどバランスがいいし、これは良い馬だ」と感嘆した。橋本は「お尻の部分が発達したクサビ型の体型をした繁殖牛は、必ずいい仔を出して成功していた。この見方が馬に通ずるかどうかはわからないが、人間でも、例え小柄でも骨盤が発達している女性は、いい子を産む。母親として優秀な体型というものは、すべての動物に共通するものだと思う」という自身の勘を信じ、セールに同行していた妻の慶子に対して、「見ろよ、あの繁殖牝馬(シル)はお前の若い時にそっくりだ」と囁いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "しかし、橋本は通訳を兼ねてついて回っていた馬専門の商社マンから、シルの母系が優秀であり、さらにイギリスの三冠馬、ニジンスキーの子を受胎していたことで高額が予想されていることを告げられると「動物と接してきたキャリア」を侮辱された気持ちとなった橋本は「胸ぐらをつかんでブン殴ってやりたい気持ち」を抑えると同時に購買意欲も激しく駆り立てられ、本郷の強い勧めもあり競りに参加した。フランスの調教師と競り合った末、このセールで3番目の高額であった30万ドル(約9000万円。当時)という価格で落札に成功した。橋本は25万ドルでいったところで躊躇し、妻に「やめようか」と問いかけたが、それに対して「欲しいんでしょう?なら買いなさいよ」とけしかけられたことで競りを下りなかったという。尚、シルの競りには社台グループの総帥、吉田善哉も参加していたが、25万ドルの手前で競りから下りていた。また、シルには落札価格の9000万円に加えて手数料、保険、輸送料、関税などがかかり、総額が日本に到着したときには当時としては破格の金額である1億2000万円がかかった。橋本は、現地の酪農業界誌から「有名な日本のウシ屋の橋本氏が、とてつもなく高額なウマを買った。どうやら気が違ったようだ」と紹介されていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "のち日本へ輸送されたシルは、1974年5月19日、牡馬を出産。橋本は自身の屋号「丸善」からとって牡馬ならば「マルゼンスキー」、牝馬ならば「ミスマルゼン」と名前を考えており、前者に決まった。報せを受けて東京から馬の検分にきた本郷は、第一声で「外向だなあ」と口にした。前脚が膝下から外に曲がっており、正面からみるとA字になるような形を「外向肢勢」といい、マルゼンスキーはそれに該当したのである。しかし全体としては好馬体をもっており、橋本も本郷もその点では高評価を下した。往年の名騎手であった田中康三も本郷の息子・一彦に「あれは走る」と話していたという。また、前述のとおり橋本と同じ競りに参加し、25万ドルの手前で降りていた吉田善哉が、息子の勝己(後のノーザンファーム代表)を伴い「庭を見せてもらいにきた」と口実をつけて、マルゼンスキーを見に来ていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "産後10日目から橋本は新聞と雑誌に広告を出して一株300万円を40口・総額1億2000万円のシンジケート会員を募集し、1カ月で満口となった。しかしそれからおよそ2カ月後、ニジンスキーの初年度産駒として評判が高かったニジンスキースターがデビュー戦で12着と敗れたことで会員の離脱が相次ぎ、最終的にシンジケートには8人しか残らなかった。また、「外向」は成長につれて度を増していき、やがて「脚曲がり」と陰口を叩く者が出るほどひどいものとなった。変形の脚部は強い調教に耐えられない可能性が高く、これを見た少なくない者が「良い馬だが、競走馬には仕上がらないだろう」という見解を述べた。そうした一方で、馬術部出身で育成調教を担当していた橋本の息子は、「この馬は跳びも大きいけど、伸びた後脚を戻すのがものすごく速い」と感嘆していたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "母馬が日本国外で種牡馬と交配され、仔馬を日本で産んだ場合、その仔を「持込馬(もちこみば)」と呼ぶ。マルゼンスキー以前には、日本ダービー優勝のヒカルメイジ、それぞれ天皇賞(春)優勝のハクズイコウ、タイテエムといった持込の八大競走優勝馬がいたが、1971年の貿易自由化に伴い国内生産者への保護政策が実施され、持込馬は外国産馬同様の存在として有馬記念を除く八大競走への出走権を失った。八大競走だけでなく、1976年から77年にかけては、出自を問わず出走可能な「混合競走」は全体の11.7%しか組まれていなかった。1984年から持込馬は国産馬と同様の地位を回復しており、マルゼンスキーは狭間の時代に産まれた持込馬であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ライターの阿部珠樹は、持込馬としてのマルゼンスキーについて1995年と2002年にそれぞれ次のように論じている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1976年7月、マルゼンスキーは東京競馬場の本郷厩舎へ入る。脚部不安のため強い調教は掛けられなかったが、10月9日に迎えた新馬戦では中野渡清一を鞍上に迎え、当日は1番人気の支持を受ける。このレースではマルゼンスキーと同じ持込馬で、当時のレートで2億2000万円近い価格で落札されたタイプキャストを母に持つタイプアイバー(父サーアイヴァー)も出走し、シルの落札価格と輸入費の総額の1億2000万円と合計した「3億5000万円の共演」として注目を集めた。競馬評論家の大川慶次郎によると、当日は2頭の母の競走実績の差からタイプアイバーの方が期待が高く、マルゼンスキーの前評判は低かったというが、スタートが切られるとマルゼンスキーはすぐに先頭を奪い、そのまま後続に大差(10馬身以上)、タイム差では2秒差をつけて初戦勝利を挙げた。ただし、中野渡によると調教の様子から「セーブしたせいもあるけど、それほど走るとは思わなかった。新馬戦も、ボチボチ勝てるかな、ぐらいの感じだった」という。中野渡は新馬戦で騎乗した時の印象について、「4歳の時のタケシバオーに乗っていたこともあるんだけど、それともちょっと違っていたね」と回顧している。続く条件戦も2着に9馬身差をつけて連勝。いずれも他馬とのスピードの違いに任せて逃げきるという内容であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "11月21日の府中3歳ステークスでは、北海道3歳ステークスの勝利馬・ヒシスピードと対戦。5頭立ての少頭数で、単勝オッズはマルゼンスキー1.1倍、ヒシスピード6.7倍であった。マルゼンスキーの能力に心酔していた中野渡は、「相手が迫ってくるのを待ってスパートを掛ければいい」とみて悠長なレース運びをしていたが、最後の直線半ばでヒシスピードが一気に並びかけ、慌てて追いだした中野渡マルゼンスキーとヒシスピードの激しい競り合いとなった。両馬並んで入線して写真判定となり、結果はマルゼンスキーがハナ差先着していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "中野渡はこのレースについて「あれは僕の騎乗ミスです。どう乗っても勝てるんなら、楽に勝とうと思って馬をちょっと抑えたんです。そうしたら機嫌を損ねて折り合いを欠いてしまった」と語り、「マルゼンスキーは調教でもレースでもビッシリ追ったことのない馬だったので、並ばれて追い出すと馬も面食らってしまった。でも、俺の方が馬以上に慌てた。自分の油断で負けたら、次は乗せてもらえないだろう。降ろされたらどうしようと、そればかり考えていた」と述懐している。レース後に中野渡は本郷からひどく怒られ、橋本は乗り替わりを示唆する発言もしたが、橋本は後に同じ本郷厩舎のミスターケイ(3着)との適度な差での1・2着独占を狙い、橋本から中野渡に「あまり離すな」と指示していたのだといい、「負けたら主犯は俺だものね。あのときばかりは、びっしょりと冷や汗をかいた」と回顧している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "12月12日、関東の3歳王者戦・朝日杯3歳ステークスに出走。前走の苦戦を教訓に、調教では初めて一杯に追われ、競走前の本郷から中野渡への指示も「壊れてもいいから行ってみろ。責任は俺が持つ」と全力を出しきることを要求するものだった。マルゼンスキーは常の通りスタートから先頭を奪うと、直線ではヒシスピードを突き放し、同馬に13馬身、2.2秒差をつけて勝利した。走破タイム1分34秒4はコーネルランサーの記録を0.2秒更新する3歳レコードであり、1990年の朝日杯でアメリカ産馬のリンドシェーバーに更新されるまで14年間保持された。中野渡は競走後のインタビューで「馬の上に跨っていただけ。3コーナー過ぎからは、後ろの馬の足音も聞こえなかった」と語った。ヒシスピードに騎乗していた小島太は「ありゃあバケモンだな」と語り、「正直なところ、これで当分(マルゼンスキーと)顔を合わせることもないので、ほっとした気分です」と心情を吐露している。ただし、ヒシスピードの1分36秒6も当時としては水準的なタイムであった。当年の出走はこれで終え、4戦4勝の成績で最優秀3歳牡馬に選出された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "朝日杯のあと、橋本はマルゼンスキーについて再びシンジケートを組織する。すでに能力を見せたこともあり、一株500万円を50口、総額2億5000万円という価格に設定されたが、すぐに満口となった。このとき最初のシンジケートから離脱した会員の再申し込みもあったが、橋本はこれを全て拒絶した。シンジケートの方針により、マルゼンスキーは最大目標を年末の有馬記念に置き、1978年以降は国外へ遠征するという長期計画が組まれた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "4歳となった1977年はきさらぎ賞を目標とし、その前に中京競馬場のオープン競走に登録したが、マルゼンスキーが出走するという話が伝わると回避馬が続出し、規定頭数に達せず一時は競走不成立の見通しが立った。本郷はせめてファンの前でデモンストレーションを見せようと、朝日杯の優勝レイを中京に持ち込んでいたが、関西の調教師・服部正利が管理下から2頭を出走させて競走を成立させた。服部は中野渡に対して「俺のところの馬を出したんだから、タイムオーバーになるような大差は勘弁してくれ」と話したという。この競走は2着に2馬身半差で勝利した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "マルゼンスキーはこのあと膝を骨折し、3カ月の休養をとる。5月に復帰し、オープン戦で2着に7馬身差を付けて勝利するが、持込馬という出自から日本ダービーへの出走権はなかった。ダービーの当週、中野渡は「日本ダービーに出させてほしい。枠順は大外でいい。他の馬の邪魔は一切しない。賞金もいらない。この馬の能力を確かめるだけでいい」と話したとされる。橋本は裁判も検討していたが、本郷が難色を示したほか、様々な事情も重なりダービー出走は断念された。橋本のもとには「なぜ簡単に諦めるのか」、「なぜ訴えないのか」といったファンからの手紙が何通も届いていたという。これを受けて、JRAは持ち込み馬が「重賞レースに出走できる制限枠を、11レースから78レースに拡大する」等の緩和政策を打ち出した。ところが、これに対して競走馬の生産者団体である日本軽種馬協会が猛反発し、結局緩和策は全面白紙撤回され、翌1978年も従来通りとなってしまった。マルゼンスキーがダービーに出られなかったという問題は、主催者である日本中央競馬会の広報誌『優駿』上でも議論された。以下はその一部である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "6月26日、マルゼンスキーは「残念ダービー」とも称されていた日本短波賞に出走。このレースの前に東京のオープン競走に出走することが予定されていたが、登録馬が4頭しか揃わなかったため不成立となっていた。当日はその姿を見ようと中山競馬場には8万人近い観衆が集まった。この競走にはダービートライアル・NHK杯の勝ち馬であるプレストウコウも出走していたが、マルゼンスキーの単勝オッズは終始1.0倍を示し続けた。スタートが切られるとマルゼンスキーはあっさりと先頭を奪い、最初のコーナーですでに2番手に6~7馬身の差を付けて逃げを打った。しかし第3コーナーから最終コーナーにかけて突然首を高く上げて失速し、2番手からスパートをかけたインタースペンサーに並ばれる。この様子に観衆は大きくどよめいたが、しかし中野渡が肩に鞭を入れると再加速し、直線では独走状態となって2着プレストウコウに7馬身差を付けて勝利した。中野渡は失速の理由について「あの日は馬場が悪かった。それで、大事に馬場のいい外めを選んで乗っていた。そこにインタースペンサーが一気に来て、馬の方がフワッとした気持ちになってしまった」と述べている。なお、2着プレストウコウは秋にセントライト記念、京都新聞杯と連勝の後、クラシック三冠最終戦・菊花賞に優勝している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "のちにマルゼンスキーは北海道に入る。札幌で一戦、函館で一戦し、秋にどこかでもう一戦のあと有馬記念へ、という計画であった。緒戦、札幌での短距離ステークスには、当時最強馬と目されていたトウショウボーイも出走を予定していた。しかし中野渡は「他の出走できるレースがたくさんあるトウショウボーイを傷つける必要はない」とみて、トウショウボーイは絶対に出走してこないと踏んでいたという。中野渡の予想通りトウショウボーイは出走を回避し、短距離ステークスは競走成立下限の5頭立てとなったが、他の相手にもヒシスピード、ヤマブキオーといった一線級のオープン馬がいた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "レースではマルゼンスキーに先んじて牝馬ヨシオカザンが先頭を奪い、マルゼンスキーははじめて2番手を進むことになった。砂が深く敷かれた当時の札幌ダートにあって、前半600メートルのラップタイムは33秒2という異常なハイペースとなったが、マルゼンスキーは苦もなくこれを追走し、中野渡は鞍上で「あの馬にマルゼンスキーを種付けしたら面白い仔ができるかもしれない」などと考えていたという。マルゼンスキーは中野渡が鞭を抜くことなくヨシオカザンをかわしていき、ゴールではヒシスピードに10馬身差をつけて8連勝を遂げた。1分10秒1はレコードタイムだったが、中野渡は「びっしり追っていれば、1分9秒台が出せた」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "しかし、短距離ステークスの頃のマルゼンスキーの脚部は不穏な状態で、関西の重鎮・武田文吾は「この馬はよくこの脚で持っているな」と話したという。短距離ステークスののち、橋本は函館の巴賞、秋の京都大賞典を経て有馬記念へ向かうプランを公表する。この公表では橋本はさらに、「5歳の春先にオープンを使って日本記録の12連勝を達成し、フランスに渡って環境になじませ、秋は凱旋門賞、ワシントンDCインターナショナルを目標。中野渡に同行してもらう」と発言していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "マルゼンスキーは函館に移動したが、調教中に中野渡の代役を務めた騎手が御しきれずに埒に衝突し、これが影響して屈腱炎を発症。予定していた巴賞と京都大賞典は使えず、一旦橋本牧場に放牧に出され10月初旬に帰厩し、一時はダービー卿チャレンジトロフィーを使うプランも模索され最終調教まで行われたが、納得がいかない点があったことから断念し、有馬記念へは直行することになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "有馬記念のファン投票では、後年「TTG」と並び称されるテンポイント、トウショウボーイ、グリーングラスに次ぐ第4位に選出。この3頭らとの対戦に期待が寄せられていたが、12月15日に行われた最終調教において屈腱炎が再発する。この最終調教では落馬負傷で戦線離脱中の中野渡に代わって加賀武見が騎乗しており、調教時計自体は一番時計を出していたものの直線で異常を感じていたという。なお、加賀は前年のダービーの数日前に中野渡に対して「1回でいいんだ。調教で乗せてくれないか」と頼んでいたが、この時は即座に断られたという。症状はごく軽く、獣医師は出走可能との診断を下していたが、橋本が患部に手を当てようとする脚を上げる仕草をすることから、痛がっていると判断、また本郷も「万が一レースで故障したら元も子もない」との考えで、出走を回避させることになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "前述の通り屈腱炎の症状は軽いものだったが、マルゼンスキーには宝塚記念と有馬記念以外に出走できる目標レースがなかったことから、種牡馬とするため引退が決まった。通算8戦8勝、2着につけた合計着差は61馬身におよんだ。1978年1月15日に東京競馬場で引退式が行われ、スタンドには「さようならマルゼンスキー。語り継ごうおまえの強さを。讃えよう君の闘志を」との横断幕が掲げられた。日本短波賞時の2番のゼッケンをつけ、負傷の身をおして式に参加し騎乗した中野渡を背にしたマルゼンスキーは、馬場を半周ののち4コーナーから疾走して最後の走りを披露した。挨拶に立った橋本は「この馬は持込馬という宿命にあって、クラシックレースに出られなかったのは非常に残念ですけど、この鬱憤は子供たちで必ず晴らします。クラシックを獲れるような馬を生産してファンの皆様に応えるべく頑張りますから、よろしく応援してください」と語り、拍手喝采を送られた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "マルゼンスキーは橋本善吉が経営する北海道門別町のトヨサトスタリオンセンターで種牡馬となった。1970年代以降、欧米ではノーザンダンサーの子供たちが猛烈な勢いで大競走を制していき、血統地図を急速に塗り替えつつあった。ニジンスキーを経て祖父にノーザンダンサーを持つマルゼンスキーは日本においてその血統の優秀さを示した最初の馬であり、それだけに種牡馬としての生産界からの注目度・期待度は非常に高いものだった。マルゼンスキーはその期待に違わず、自身のスピードと瞬発力、そして試されることがなかったスタミナを産駒に伝え(吉沢譲治)、初年度産駒からは菊花賞をレコード勝ちしたホリスキーを送り出し、以後宝塚記念優勝のスズカコバン、朝日杯3歳ステークスと日本ダービーを優勝したサクラチヨノオー、菊花賞に優勝したレオダーバンといったGI優勝馬を輩出した。その種牡馬実績が評価され、1990年にはJRA顕彰馬に選出された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "種牡馬ランキング最高成績は1988年の2位(中央3位)。さらに特筆されるのはブルードメアサイアー(母の父)としての実績である。GI競走4勝を挙げたスペシャルウィークを筆頭に、9頭のGIおよびJpnI優勝馬が輩出されており、ランキングでは2位を10回記録。「マルゼンスキー牝馬」は生産者の間で引っ張りだこの存在となり、1996年時点で、北海道日高地方には約170頭が繋養されていたといわれる。これは当時トウショウボーイ牝馬の210頭に次ぐ数字であった。牡馬の後継ではホリスキー、スズカコバン、そして重賞2勝のサクラトウコウらが種牡馬としても健闘した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1995年に高齢のため種牡馬シンジケートが解散したが、その後も種牡馬としての人気は高く、1997年には70頭への種付けを行っていた。しかし同年8月21日午前4時ごろ、翌年の種付けシーズンに向けた体作りのための軽い運動の最中に突然いなないて倒れ、そのまま死亡した。23歳(旧表記24歳)没。死因は心臓麻痺であった。マルゼンスキーを溺愛していた橋本は自身の次男として弔い、3日後の8月24日、橋本牧場において告別式が行われ、多数の生産者や競馬関係者が参列した。その遺骸は当時まだ健在であった母・シルにも見送られたのち、柩に収められた状態で牧場内に埋葬された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本競馬史における最強馬との評がある1頭である。日本中央競馬会の機関広報誌『優駿』が創刊50周年を記念して競馬関係者に行った「最強馬」アンケートではシンボリルドルフ、シンザン、タケシバオー、タニノチカラに次ぐ5位となった。1985年に『優駿』読者を対象に行われたものでは6位。ただしこれは5位まで複数記名できる方式で、1位票の数ではシンボリルドルフとシンザンに次ぐ3位であった。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "中野渡清一は1991年には「今でも自分はあの馬が日本一強いと思う」、「7つか8つの力で勝っていた」、1999年には「自分が乗ったからというのではなく、日本の最強馬と確信している」、「スピードがケタ違いで勝負根性もあった。ダービーに出ていたら楽勝したと思う」とそれぞれ述べている。ライターの阿部珠樹によると、自身が行った取材で中野渡は「ダービーに出たら、途中で水を飲んでも勝てた」と豪語したことがあったという。本郷一彦によれば、重彦は脚部不安のため思いきった調教ができないことを惜しみ「記録に残っているのは能力の何分の一だ」と吐き捨てるように言ったことがあるという。中野渡はマルゼンスキーに騎乗していた際の心境について「スピードが出すぎてレース中に壊れるんじゃないかという不安」が常に頭の隅にあったといい、「スタートは普通だけど加速してからのスピードが素晴らしく、重心が低いから加速するとスーッと沈むようになる。車なら最高級のベンツっていう感じでしたが、慣れないうちは正直、怖かったですよ」と述べている。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "対戦した関係者や競馬評論家からも高い評価を受けている。小島太は「とにかく、あの馬は計り知れない強さがあった。No.1じゃないの」と評し、当時調教師であった野平祐二は「道悪で走ったときの跳ね上げる泥の高さというのが、もう並の高さじゃない。コーナーワークのときなんか、他の馬の3倍ぐらいバーンと跳ね上がる。(中略)コーナーワークであれだけ力を入れて走ると、たいがいは直線で止まってしまうものだが、あの馬は最後までスピードが落ちなかった」と述懐し、「もうちょっと長く、せめて5歳まで走ってほしかった。あの馬のもつ全能力をこの目で見たかった」と惜しんだ。小島太はヒシスピードに騎乗していた日本短波賞でのマルゼンスキーについて、「ダートだから前の馬の蹴った砂が飛んでくるんだが、マルゼンスキーは他の馬と全然違っていた。顔に当たると痛い、砂の塊が飛んで来るんだ。あんな馬はいない。掻き込みがぜんぜん違っていたんだね」と述べている。生産者の川上悦夫は「スピードが桁違い。そして、スタミナが桁違い。日本でいちばん強い馬がマルゼンスキーだったと信じて疑わない」と述べている。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "競馬史研究家の山本一生はその競走能力を「トキノミノル、ナリタブライアンに比べても優るとも劣らず」と評し、競馬評論家の大川慶次郎や大島輝久は、当時もし持込馬が内国産馬と同じ扱いを受けていれば、傑出した成績を残したであろうと述べている。ライターの栗山求はマルゼンスキーの競走能力の高さについて、前述のマルゼンスキーが日本で走ることになった経緯を用いて、「日本の実業団バスケットチームに迷い込んだマイケル・ジョーダンのようなもの」と表現し、他馬との実力差があまりにも開きすぎていたためにライバルと呼べるような馬が日本には存在せず、唯一ライバルと呼べたのは一度も対戦することのなかった同期のアメリカ三冠馬シアトルスルーだと述べている。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "対戦の可能性があった1歳上のトウショウボーイ、テンポイント(いずれもJRA顕彰馬)とは「もしも対戦していたら」という仮定がしばしば語られるが、中野渡と橋本善吉はいずれも、「負けなかった」「勝っていた」と主張しており、小島太は上記2頭にグリーングラスを加えた「TTG」との比較を問われ、「そのあたりとは比べものにならない。(中略)どこから見ても、同じ時代の馬とは一段も二段も抜けていた」と評している。栗山求によると現役時代にマルゼンスキーとかかわっていたというある人物と話をした際に、その人物は「トウショウボーイやテンポイントなんてメじゃない。目一杯に仕上げれば、シンボリルドルフとやったってたぶん勝っていたはずだよ」と、確信に満ちた口調と真剣な目をして話したという。一方、トウショウボーイの管理調教師・保田隆芳は「マルゼンスキーとやっても、おそらく負けなかったんじゃないか」と述べている。上述の座談会「正論とミーハー論と」の中でも、トウショウボーイとマルゼンスキーの対戦を期待する会話が交わされていたが、この中では山野浩一が「もし、あの2頭が現在絶好調だとしたら、有馬記念まで待つことなく、その絶好調のときにどこかで対戦する機会がなくちゃおかしい。有馬記念まで無事にいってくれるかどうかが一番心配だもの」と発言していた。『優駿』が2004年に識者へアンケートをとった「年代別代表馬」において、マルゼンスキーは1970年代でテンポイント、トウショウボーイに次ぐ3位となっている。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "父・ニジンスキーは「20世紀を代表する名馬の1頭」とも評されたが、マルゼンスキーはニジンスキーに非常に似ていたとされ、アメリカからニジンスキーの関係者がやってきた時「ニジンスキーによく似ている。違うのは外向肢勢だけ」と話した関係者がいたという。ニジンスキーを実見したことがある宮原高尚も「マルゼンスキーは父親そっくりの体型」と述べている。ニジンスキーは世界各国で一流馬を輩出したが、日本の競馬界ではマルゼンスキーがその最良の産駒だったのではないかとみる者もいる。イギリスの競馬ジャーナリスト、レズリー・サンプソンは著書『ニジンスキー』の中でマルゼンスキーも代表産駒の1頭として紹介し、「もしマルゼンスキーが日本で走らなかったならば、いったいどれだけの成績をあげられたかは想像するしかないだろう。おそらくチャンピオンとなっていたはずだし、J.O.トビンにとってもシアトルスルーにとっても、きっと難敵だったに違いない」と記している。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "同時代においては、日本最大の牧場・社台ファームが擁したノーザンテーストがリーディングサイアーの地位を占めていたが、橋本は種牡馬マルゼンスキーはノーザンテーストよりも上であると信じ、彼我の差は相手をする繁殖牝馬の質の差だとみて「俺にもっと金があったら、ノーザンテーストなんか叩きのめしてやるのに」と口にしていたという。ただし橋本はシルに一度ノーザンテーストを交配しており、このときは受胎に至らなかった。また、サクラトウコウを用いて天皇賞(秋)優勝馬ネーハイシーザーを生産した大道数美も「ノーザンテーストよりマルゼンスキーの方が数段上」だとしている。他方、大川慶次郎は脚部不安の産駒が多かったことを指摘し、「いい仔は出したけれど、平均値をとるとどうかなという思いがある」と述べている。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "マルゼンスキーはブルードメアサイアーとしてもノーザンテーストに首位を阻まれ続けたが、血統評論家の吉沢譲治は「ノーザンテーストの血を引く繁殖牝馬を数多く擁する社台ファームが、サンデーサイレンス、トニービンといった一流種牡馬を惜し気もなく配合するのに対して、マルゼンスキーの血を引く繁殖牝馬を擁するのは北海道日高の中小牧場が中心で、配合種牡馬の質は全体にそれよりも落ちる。それでいて、この好成績は立派というほかはない」と評している。なお、2000年に日本馬主協会連合会が馬主を対象に行ったアンケートによる「好きな牝系の血統は」という設問で、「(母父)マルゼンスキー(系)」は「(母父)ノーザンテースト(系)」、「(母父)ノーザンダンサー(系)」に次ぐ3位となっている。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "雑誌『Sports Graphic Number』1999年10月号が競馬関係者を対象に行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」では票数3票で第6位であった。日本中央競馬会が2000年に行ったファン投票による名馬選定企画「20世紀の名馬大投票」では、32位に選出。『優駿』が独自に選出した「20世紀のベストホース100」にも名を連ねた。また、2010年に『優駿』通巻800号記念として行われたファン投票企画「未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち - THE GREATEST HORSES 100」では22位、2015年に行われた「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」では37位となった。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "地方競馬重賞勝利馬", "title": "種牡馬成績" } ]
マルゼンスキーは日本の競走馬、種牡馬。 イギリスクラシック三冠馬のニジンスキーを父に持つアメリカからの持込馬として1976年に中央競馬でデビュー。同年の3歳王者戦・朝日杯3歳ステークスを大差でレコード勝ちするなど連戦連勝を続けたが、当時持込馬は多くの競走で出走制限が課されていたことで翌年のクラシック三冠競走には出走できなかった。その後無敗(8戦8勝)のまま1977年末に故障で引退。1970年代に起きた外国車ブームの中で「スーパーカー」の異名を冠された。種牡馬となってからは1988年の東京優駿(日本ダービー)優勝馬サクラチヨノオーなど中央競馬で4頭のGI優勝馬を輩出し、1990年にJRA顕彰馬に選出された。 馬齢は2000年以前に使用された旧表記に統一する。
{{競走馬 |名 = マルゼンスキー |画 = no |説 = |性 = [[牡馬|牡]] |色 = [[鹿毛]] |種 = [[サラブレッド]] |生 = [[1974年]][[5月19日]] |死 = [[1997年]][[8月21日]]<br />(23歳没・旧24歳) |父 = [[ニジンスキー (競走馬)|Nijinsky]] |母 = シル |母父 = [[バックパサー|Buckpasser]] |産 = 橋本牧場 |国 = {{JPN}}([[北海道]][[早来町]]) |主 = 橋本善吉 |調 = 本郷重彦([[東京競馬場|東京]]) |厩 = 石川漁一 |冠 = [[JRA賞最優秀2歳牡馬|優駿賞最優秀3歳牡馬]](1976年)<br />[[JRA顕彰馬]](1990年選出) |績 = 8戦8勝 |金 = 7660万1000円 |鞍 = [[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]](1976年)<br />[[ラジオNIKKEI賞|日本短波賞]](1977年) }} '''マルゼンスキー'''([[1974年]][[5月19日]] - [[1997年]][[8月21日]])は[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]。 [[イギリスクラシック三冠|イギリスクラシック三冠馬]]の[[ニジンスキー (競走馬)|ニジンスキー]]を父に持つ[[アメリカ合衆国|アメリカ]]からの[[持込馬]]として1976年に[[中央競馬]]でデビュー。同年の3歳王者戦・[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]を大差でレコード勝ちするなど連戦連勝を続けたが、当時持込馬は多くの競走で出走制限が課されていたことで翌年の[[中央競馬クラシック三冠|クラシック三冠]]競走には出走できなかった。その後無敗(8戦8勝)のまま1977年末に故障で引退。1970年代に起きた外国車ブームの中で「[[スーパーカー]]」の異名を冠された<ref name="yushun201503" />。[[種牡馬]]となってからは1988年の[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]優勝馬[[サクラチヨノオー]]など中央競馬で4頭のGI優勝馬を輩出し、1990年に[[JRA顕彰馬]]に選出された。 * 馬齢は2000年以前に使用された旧表記<ref group="注">現表記マイナス1歳。[[馬齢]]表記は2001年に改められた。(詳細は[[馬齢]]を参照のこと)</ref>に統一する。 == 生涯 == === 出生までの経緯 === 1973年秋、[[北海道]][[胆振支庁]]の[[軽種馬]]農協青年部がアメリカへの研修旅行を計画したが、直前になってひとり欠員が出て予算に狂いが生じるおそれが出たことから、青年部は牛の仲買人でありパスポートを保持していてすぐに参加が可能であった橋本善吉<ref group="注">スピードスケートおよび自転車競技のオリンピック日本代表選手、のちに国会議員を務める[[橋本聖子]]の父。</ref>に同行を依頼した<ref name="number340">『Sports Graphic Number』340号、pp.58-64</ref>。橋本は少年時代に馬の牧場で10年働いた経験があったが<ref name="yushun9711">『優駿』1997年11月号、pp.111-114</ref>、馬主として[[ばんえい競馬]]の名馬・マルゼンストロングホースを購買し競馬の世界に進出したばかりだった<ref name="meiba98" />。かねて競走馬生産にも着手したいと考えていたことから、橋本はこれを好機と捉えて参加を決定。日程の中に希望者のみのオプションとして組まれていた[[キーンランド競馬場#キーンランド・セール|キーンランドセール]]に参加した際、調教師の本郷重彦とも知り合った<ref name="yushun9711" />。 橋本と本郷はセール会場において、[[アメリカ競馬名誉の殿堂博物館|アメリカの殿堂馬]]・[[バックパサー]]を父に、14勝を挙げたクィルを母にもつ繁殖牝馬シルに目をつける。両者ともその馬体の良さを高く評価し、本郷は「こんなに皮膚のいい馬には生まれてはじめてお目にかかった。小柄だけどバランスがいいし、これは良い馬だ」と感嘆した<ref name="yushun9711" />。橋本は「お尻の部分が発達したクサビ型の体型をした繁殖牛は、必ずいい仔を出して成功していた。この見方が馬に通ずるかどうかはわからないが、人間でも、例え小柄でも骨盤が発達している女性は、いい子を産む。母親として優秀な体型というものは、すべての動物に共通するものだと思う」という自身の勘を信じ、セールに同行していた妻の慶子に対して、「見ろよ、あの繁殖牝馬(シル)はお前の若い時にそっくりだ」と囁いた<ref name="number340"/>。 しかし、橋本は通訳を兼ねてついて回っていた馬専門の商社マンから、シルの母系が優秀であり、さらに[[イギリスクラシック三冠|イギリスの三冠馬]]、[[ニジンスキー (競走馬)|ニジンスキー]]の子を受胎していたことで高額が予想されていることを告げられると「動物と接してきたキャリア」を侮辱された気持ちとなった橋本は「胸ぐらをつかんでブン殴ってやりたい気持ち」を抑えると同時に購買意欲も激しく駆り立てられ<ref name="number340"/>、本郷の強い勧めもあり競りに参加した<ref name="yushun9711" />。フランスの調教師と競り合った末、このセールで3番目の高額であった30万ドル(約9000万円。当時)という価格で落札に成功した<ref name="yushun9711" />。橋本は25万ドルでいったところで躊躇し、妻に「やめようか」と問いかけたが、それに対して「欲しいんでしょう?なら買いなさいよ」とけしかけられたことで競りを下りなかったという<ref name="number340"/>。尚、シルの競りには[[社台グループ]]の総帥、[[吉田善哉]]も参加していたが、25万ドルの手前で競りから下りていた<ref name="number340"/><ref name="yushun9711"/>。また、シルには落札価格の9000万円に加えて手数料、保険、輸送料、関税などがかかり、総額が日本に到着したときには当時としては破格の金額である1億2000万円がかかった<ref name="number340"/>。橋本は、現地の酪農業界誌から「有名な日本のウシ屋の橋本氏が、とてつもなく高額なウマを買った。どうやら気が違ったようだ」と紹介されていたという<ref name="yushun9711" />。 === 生い立ち === のち日本へ輸送されたシルは、1974年5月19日、牡馬を出産。橋本は自身の[[屋号]]「丸善」からとって牡馬ならば「マルゼンスキー」、牝馬ならば「ミスマルゼン」と名前を考えており、前者に決まった<ref name="yushun9711" />。報せを受けて東京から馬の検分にきた本郷は、第一声で「外向だなあ」と口にした<ref name="yushun9712">『優駿』1997年12月号、pp.111-114</ref>。前脚が膝下から外に曲がっており、正面からみるとA字になるような形を「外向肢勢」といい、マルゼンスキーはそれに該当したのである<ref name="yushun9508">『優駿』1995年8月号、pp.88-91</ref>。しかし全体としては好馬体をもっており、橋本も本郷もその点では高評価を下した<ref name="yushun9712" />。往年の名騎手であった[[田中康三]]も本郷の息子・一彦に「あれは走る」と話していたという<ref name="hon">『調教師の本II』pp.332-337</ref>。また、前述のとおり橋本と同じ競りに参加し、25万ドルの手前で降りていた吉田善哉が、息子の[[吉田勝己|勝己]](後の[[ノーザンファーム]]代表)を伴い「庭を見せてもらいにきた」と口実をつけて、マルゼンスキーを見に来ていたという<ref name="yushun9711" />。 産後10日目から橋本は新聞と雑誌に広告を出して一株300万円を40口・総額1億2000万円の[[シンジケート]]会員を募集し<ref name="number340"/>、1カ月で満口となった<ref name="yushun9711" />。しかしそれからおよそ2カ月後、ニジンスキーの初年度産駒として評判が高かったニジンスキースターがデビュー戦で12着と敗れたことで会員の離脱が相次ぎ、最終的にシンジケートには8人しか残らなかった<ref name="yushun9711" />。また、「外向」は成長につれて度を増していき、やがて「脚曲がり」と陰口を叩く者が出るほどひどいものとなった<ref name="yushun9712" />。変形の脚部は強い調教に耐えられない可能性が高く、これを見た少なくない者が「良い馬だが、競走馬には仕上がらないだろう」という見解を述べた<ref name="yushun9508" />。そうした一方で、馬術部出身で育成調教を担当していた橋本の息子は、「この馬は跳びも大きいけど、伸びた後脚を戻すのがものすごく速い」と感嘆していたという<ref name="meiba98">『競馬名馬&名勝負読本'98』pp.40-45</ref>。 ==== 「持込馬」とは ==== 母馬が日本国外で種牡馬と交配され、仔馬を日本で産んだ場合、その仔を「'''持込馬'''(もちこみば)」と呼ぶ<ref name="fujino" />。マルゼンスキー以前には、日本ダービー優勝の[[ヒカルメイジ]]、それぞれ[[天皇賞(春)]]優勝の[[ハクズイコウ]]、[[タイテエム]]といった持込の[[八大競走]]優勝馬がいたが、1971年の貿易自由化に伴い国内生産者への保護政策が実施され、持込馬は[[外国産馬]]同様の存在として[[有馬記念]]を除く八大競走への出走権を失った<ref name="fujino">藤野(1990)pp.61-65</ref>。八大競走だけでなく、1976年から77年にかけては、出自を問わず出走可能な「混合競走」は全体の11.7%しか組まれていなかった<ref name="yushun9508" />。1984年から持込馬は国産馬と同様の地位を回復しており<ref name="meiba98" />、マルゼンスキーは狭間の時代に産まれた持込馬であった。 ライターの阿部珠樹は、持込馬としてのマルゼンスキーについて1995年と2002年にそれぞれ次のように論じている。 {{Quotation|「ニジンスキーの持込馬」。この看板が、どれほど輝かしいものだったかを、いま想像するのはむずかしい。[[ケンタッキーダービー]]馬の仔も、[[ダービーステークス|エプソムダービー]]馬の仔も、ほかの馬に混じって日常的にレースに登場してくる現在と違い、マルゼンスキーが競馬場に現れたころは、持込馬、外国産馬の評価は驚くほど高かった。「持込の名血」という言葉があったほどである。持込というだけで希少価値を期待されたのに、マルゼンスキーはその中でも極めつけとも言うべき文字通りの名血だった<ref name="yushun9508" />。}} {{Quotation|今でこそ日本馬が海外のレースで活躍するのは珍しくなくなったし、種牡馬の水準も世界一などと言われているが、マルゼンスキーが生まれたころ、世界は遠かった。日本馬の実力は世界の主要国に比べてはるかに下だったし、血統も劣っていた。その時、父ニジンスキー、母の父バックパサーというマルゼンスキーの血統は途方もないものに思われた。市販車のレースに[[フォーミュラ1カー|F1マシン]]が1台参加するようなものとでもいえばいいのだろうか<ref name="英雄神話" />。}} === 戦績 === ==== 3歳時(1976年) ==== 1976年7月、マルゼンスキーは[[東京競馬場]]の本郷厩舎へ入る<ref name="yushun9712" />。脚部不安のため強い調教は掛けられなかったが、10月9日に迎えた新馬戦では[[中野渡清一]]を鞍上に迎え、当日は1番人気の支持を受ける<ref name="yushun9508" />。このレースではマルゼンスキーと同じ持込馬で、当時のレートで2億2000万円近い価格で落札された[[タイプキャスト]]を母に持つタイプアイバー(父[[サーアイヴァー]])も出走し、シルの落札価格と輸入費の総額の1億2000万円と合計した「3億5000万円の共演」として注目を集めた<ref name="sarabure200012">『サラブレ』2000年12月号、pp.135-141</ref>。競馬評論家の[[大川慶次郎]]によると、当日は2頭の母の競走実績の差からタイプアイバーの方が期待が高く、マルゼンスキーの前評判は低かったというが<ref>大川(1997)pp.114-115</ref>、スタートが切られるとマルゼンスキーはすぐに先頭を奪い、そのまま後続に大差(10馬身以上)、タイム差では2秒差をつけて初戦勝利を挙げた<ref name="yushun9508" />。ただし、中野渡によると調教の様子から「セーブしたせいもあるけど、それほど走るとは思わなかった。新馬戦も、ボチボチ勝てるかな、ぐらいの感じだった」という<ref name="yushun9508" />。中野渡は新馬戦で騎乗した時の印象について、「4歳の時の[[タケシバオー]]に乗っていたこともあるんだけど、それともちょっと違っていたね」と回顧している<ref name="sarabure200012" />。続く条件戦も2着に9馬身差をつけて連勝<ref name="meiba98" />。いずれも他馬とのスピードの違いに任せて逃げきるという内容であった<ref name="yushun9508" />。 11月21日の[[東京スポーツ杯2歳ステークス|府中3歳ステークス]]<ref group="注">当時は特別競走(1996年より重賞に格上げ)。</ref>では、[[札幌2歳ステークス|北海道3歳ステークス]]の勝利馬・[[ヒシスピード]]と対戦。5頭立ての少頭数で、単勝オッズはマルゼンスキー1.1倍、ヒシスピード6.7倍であった<ref name="fujino" />。マルゼンスキーの能力に心酔していた中野渡は、「相手が迫ってくるのを待ってスパートを掛ければいい」とみて悠長なレース運びをしていたが、最後の直線半ばでヒシスピードが一気に並びかけ、慌てて追いだした中野渡マルゼンスキーとヒシスピードの激しい競り合いとなった<ref name="yushun9508" />。両馬並んで入線して写真判定となり、結果はマルゼンスキーがハナ差先着していた<ref name="fujino" />。 中野渡はこのレースについて「あれは僕の騎乗ミスです。どう乗っても勝てるんなら、楽に勝とうと思って馬をちょっと抑えたんです。そうしたら機嫌を損ねて折り合いを欠いてしまった」と語り<ref name="number340"/>、「マルゼンスキーは調教でもレースでもビッシリ追ったことのない馬だったので、並ばれて追い出すと馬も面食らってしまった。でも、俺の方が馬以上に慌てた。自分の油断で負けたら、次は乗せてもらえないだろう。降ろされたらどうしようと、そればかり考えていた」と述懐している<ref name="yushun9508" />。レース後に中野渡は本郷からひどく怒られ、橋本は乗り替わりを示唆する発言もしたが<ref name="sarabure200012" />、橋本は後に同じ本郷厩舎のミスターケイ(3着)との適度な差での1・2着独占を狙い、橋本から中野渡に「あまり離すな」と指示していたのだといい、「負けたら主犯は俺だものね。あのときばかりは、びっしょりと冷や汗をかいた」と回顧している<ref name="yushun9712" />。 12月12日、関東の3歳王者戦・朝日杯3歳ステークスに出走。前走の苦戦を教訓に、調教では初めて一杯に追われ、競走前の本郷から中野渡への指示も「壊れてもいいから行ってみろ。責任は俺が持つ」と全力を出しきることを要求するものだった<ref name="yushun9508" /><ref name="sarabure200012" />。マルゼンスキーは常の通りスタートから先頭を奪うと、直線ではヒシスピードを突き放し、同馬に13馬身、2.2秒差をつけて勝利した。走破タイム1分34秒4は[[コーネルランサー]]の記録を0.2秒更新する3歳レコードであり<ref name="fujino" />、1990年の朝日杯でアメリカ産馬の[[リンドシェーバー]]に更新されるまで14年間保持された<ref>『優駿』1991年2月号、pp.146-147</ref>。中野渡は競走後のインタビューで「馬の上に跨っていただけ。3コーナー過ぎからは、後ろの馬の足音も聞こえなかった」と語った<ref name="yushun7702">『優駿』1977年2月号、p.96</ref>。ヒシスピードに騎乗していた[[小島太]]は「ありゃあバケモンだな」と語り<ref name="yushun9712" />、「正直なところ、これで当分(マルゼンスキーと)顔を合わせることもないので、ほっとした気分です」と心情を吐露している<ref name="sarabure200012"/>。ただし、ヒシスピードの1分36秒6も当時としては水準的なタイムであった<ref name="yushun7702" />。当年の出走はこれで終え、4戦4勝の成績で[[JRA賞最優秀2歳牡馬|最優秀3歳牡馬]]に選出された<ref>『優駿』1977年2月号、p.74</ref>。 ==== 4歳時(1977年) ==== 朝日杯のあと、橋本はマルゼンスキーについて再びシンジケートを組織する。すでに能力を見せたこともあり、一株500万円を50口、総額2億5000万円という価格に設定されたが、すぐに満口となった<ref name="yushun9712" />。このとき最初のシンジケートから離脱した会員の再申し込みもあったが、橋本はこれを全て拒絶した<ref name="yushun9712" />。シンジケートの方針により、マルゼンスキーは最大目標を年末の有馬記念に置き、1978年以降は国外へ遠征するという長期計画が組まれた<ref name="fujino" />。 4歳となった1977年は[[きさらぎ賞]]を目標とし、その前に[[中京競馬場]]のオープン競走に登録したが、マルゼンスキーが出走するという話が伝わると回避馬が続出し、規定頭数に達せず一時は競走不成立の見通しが立った<ref name="sarabure200012" />。本郷はせめてファンの前でデモンストレーションを見せようと、朝日杯の[[優勝レイ]]を中京に持ち込んでいたが<ref name="sarabure200012" />、関西の調教師・[[服部正利]]が管理下から2頭を出走させて競走を成立させた<ref name="yushun9508" />。服部は中野渡に対して「俺のところの馬を出したんだから、[[タイムオーバー (競馬)|タイムオーバー]]になるような大差は勘弁してくれ」と話したという<ref name="yushun9508" /><ref name="sarabure200012" /><ref group="注">勝ち馬から一定以上のタイム差をつけられた馬には出走停止処分が科せられる規則があり、これをタイムオーバーと呼ぶ。</ref>。この競走は2着に2馬身半差で勝利した<ref name="yushun9508" />。 マルゼンスキーはこのあと膝を骨折し、3カ月の休養をとる<ref name="hon" />。5月に復帰し、オープン戦で2着に7馬身差を付けて勝利するが、持込馬という出自から日本ダービーへの出走権はなかった<ref name="sarabure200012"/>。ダービーの当週<ref name="yushun9508" />、中野渡は「日本ダービーに出させてほしい。枠順は大外でいい。他の馬の邪魔は一切しない。賞金もいらない。この馬の能力を確かめるだけでいい」と話したとされる<ref name="number340"/><ref name="fujino" /><ref name="sarabure200012"/>。橋本は裁判も検討していたが、本郷が難色を示したほか、様々な事情も重なりダービー出走は断念された<ref name="meiba98" />。橋本のもとには「なぜ簡単に諦めるのか」、「なぜ訴えないのか」といったファンからの手紙が何通も届いていたという<ref name="meiba98" />。これを受けて、[[日本中央競馬会|JRA]]は持ち込み馬が「重賞レースに出走できる制限枠を、11レースから78レースに拡大する」等の緩和政策を打ち出した。ところが、これに対して競走馬の生産者団体である[[日本軽種馬協会]]が猛反発し、結局緩和策は全面白紙撤回され、翌1978年も従来通りとなってしまった<ref name="number340"/>。マルゼンスキーがダービーに出られなかったという問題は、主催者である日本中央競馬会の広報誌『[[優駿]]』上でも議論された<ref>『優駿』1977年9月号 座談会「正論とミーハー論と」</ref>。以下はその一部である。 {{Quotation|'''[[古山高麗雄]]''' 春の問題で残念だったのはマルゼンスキーが、ダービーに出られなかったことです。内国産馬の保護が大事なのは分かるけどああいう形でして欲しくなかった。これは後半の問題にもつながって行くことだけれど、ああいう番組の作り方や規則の作り方は、ファンとしては非常に不満でした。<br />'''[[山野浩一]]''' ぼくはダービーは内国産馬に限った方がいいと考えている。つまりクラシックレースというのは世界的に見ても、一種の生産レースという意味があって、生産するときにレースが始まるという考え方だ。だから最初から外国で種付けされた馬を買ってくるということは、生産するという最初の部分や意味が除外されている。そういう馬を含めないで生産の段階から調教までを含めた一番の馬を決めようというのが、ダービーとかクラシックにはあるんだ。<br />'''古山''' そういう山野さんの理想論じゃなくて。<br />'''[[志摩直人]]''' つまり、あんなに強い馬が日本にいるのに、なぜダービーに出られないのかという、素朴な疑問がファンにはあるんです。<br />'''山野''' 例えばイタリアはダービーは内国産馬に限っているけど、そのあとにちゃんとグラン・プレミオ・イタリアという、外国産馬も出られる四歳のチャンピオン・レースが設けられている。内国産馬に限る以上はそういう備えをしなければいけないし、現在日本にそういうものがないということは、重要な問題だと思う。<br />'''[[本田靖春]]''' 私は今日の座談会にお集まりの方の中では、最も[[ミーハー]]的なファンに近いというかそのものというか、そういう自覚症状ですので、調査してみるまでもなく、山野さんのおっしゃった生産からレースが始まるとか、そういうことは知らないわけです。ただ単純に走らせてみたらどっちが強いかという興味が根強くあると思う。ですから大方のファン、圧倒的多数はマルゼンスキーが差別を受けて、あっちのレース、こっちのレースと拾って歩いたり、札幌の短距離Sでは不成立になったらいけないというので、ちゃんと相棒のお馬ちゃん連れてってると聞く。そういう状況はやっぱり満足してないんじゃないでしょうか。競馬なんですから、どっちが速いか走らせてみればいいし。|『優駿』1977年9月号 座談会「正論とミーハー論と」}} 6月26日、マルゼンスキーは「残念ダービー」とも称されていた[[ラジオNIKKEI賞|日本短波賞]]に出走。このレースの前に東京のオープン競走に出走することが予定されていたが、登録馬が4頭しか揃わなかったため不成立となっていた<ref name="sarabure200012" />。当日はその姿を見ようと[[中山競馬場]]には8万人近い観衆が集まった<ref name="yushun7708">『優駿』1977年8月号、pp.85-86</ref>。この競走にはダービートライアル・[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]の勝ち馬である[[プレストウコウ]]も出走していたが、マルゼンスキーの単勝オッズは終始1.0倍を示し続けた<ref name="yushun7708" />。スタートが切られるとマルゼンスキーはあっさりと先頭を奪い、最初のコーナーですでに2番手に6~7馬身の差を付けて逃げを打った<ref name="yushun7708" />。しかし第3コーナーから最終コーナーにかけて突然首を高く上げて失速し、2番手からスパートをかけたインタースペンサーに並ばれる<ref name="yushun7708" />。この様子に観衆は大きくどよめいたが、しかし中野渡が肩に鞭を入れると再加速し、直線では独走状態となって2着プレストウコウに7馬身差を付けて勝利した<ref name="yushun7708" />。中野渡は失速の理由について「あの日は馬場が悪かった。それで、大事に馬場のいい外めを選んで乗っていた。そこにインタースペンサーが一気に来て、馬の方がフワッとした気持ちになってしまった」と述べている<ref name="yushun9509">『優駿』1995年9月号、pp.88-91</ref>。なお、2着プレストウコウは秋にセントライト記念、京都新聞杯と連勝の後、クラシック三冠最終戦・[[菊花賞]]に優勝している<ref name="fujino" />。 のちにマルゼンスキーは北海道に入る。[[札幌競馬場|札幌]]で一戦、[[函館競馬場|函館]]で一戦し、秋にどこかでもう一戦のあと有馬記念へ、という計画であった<ref name="yushun9509" />。緒戦、札幌での短距離ステークスには、当時最強馬と目されていた[[トウショウボーイ]]も出走を予定していた。しかし中野渡は「他の出走できるレースがたくさんあるトウショウボーイを傷つける必要はない」とみて、トウショウボーイは絶対に出走してこないと踏んでいたという<ref name="yushun9509" />。中野渡の予想通りトウショウボーイは出走を回避し、短距離ステークスは競走成立下限の5頭立てとなったが、他の相手にもヒシスピード、[[ヤマブキオー]]といった一線級のオープン馬がいた<ref name="yushun9509" />。 レースではマルゼンスキーに先んじて牝馬ヨシオカザンが先頭を奪い、マルゼンスキーははじめて2番手を進むことになった。砂が深く敷かれた当時の札幌ダートにあって、前半600メートルのラップタイムは33秒2という異常なハイペースとなったが、マルゼンスキーは苦もなくこれを追走し、中野渡は鞍上で「あの馬にマルゼンスキーを種付けしたら面白い仔ができるかもしれない」などと考えていたという<ref name="yushun9509" />{{#tag:ref|実際にヨシオカザンとの間にはダイナエンブレムという産駒がいたが、1984 - 1985年にかけて8戦2勝(2着3回)に終わっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000145878/ |title=ダイナエンブレム |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2023年6月2日 |date=}}</ref>。|group="注"}}。マルゼンスキーは中野渡が鞭を抜くことなくヨシオカザンをかわしていき、ゴールではヒシスピードに10馬身差をつけて8連勝を遂げた<ref name="yushun9509" />。1分10秒1はレコードタイムだったが、中野渡は「びっしり追っていれば、1分9秒台が出せた」と述べている<ref name="yushun9509" /><ref group="注">なお、トウショウボーイは、前述の日本短波賞の同日に行われた、3歳馬も出走可能な混合レースである[[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]]に出走している。</ref>。 しかし、短距離ステークスの頃のマルゼンスキーの脚部は不穏な状態で、関西の重鎮・[[武田文吾]]は「この馬はよくこの脚で持っているな」と話したという<ref name="hon" />。短距離ステークスののち、橋本は函館の巴賞、秋の[[京都大賞典]]を経て有馬記念へ向かうプランを公表する<ref name="yushun9409">『優駿』1994年9月号、pp.77-81</ref>。この公表では橋本はさらに、「5歳の春先にオープンを使って日本記録の12連勝を達成し、フランスに渡って環境になじませ、秋は[[凱旋門賞]]、[[ワシントンDCインターナショナル]]を目標。中野渡に同行してもらう」と発言していた<ref name="yushun9409"/>。 マルゼンスキーは函館に移動したが、調教中に中野渡の代役を務めた騎手が御しきれずに埒に衝突し、これが影響して[[屈腱炎]]を発症<ref name="yushun9712" /><ref name="yushun9409"/>。予定していた巴賞と京都大賞典は使えず、一旦橋本牧場に放牧に出され10月初旬に帰厩し、一時は[[ダービー卿チャレンジトロフィー]]を使うプランも模索され最終調教まで行われたが、納得がいかない点があったことから断念し、有馬記念へは直行することになる<ref name="yushun9409"/>。 有馬記念のファン投票では、後年「[[TTG]]」と並び称される[[テンポイント]]、トウショウボーイ、[[グリーングラス]]に次ぐ第4位に選出<ref name="yushun9409"/><ref>『優駿』2011年1月号、p.34</ref>。この3頭らとの対戦に期待が寄せられていたが、12月15日に行われた最終調教において屈腱炎が再発する<ref name="yushun9409"/>。この最終調教では落馬負傷で戦線離脱中の中野渡に代わって[[加賀武見]]が騎乗しており、調教時計自体は一番時計を出していたものの直線で異常を感じていたという<ref name="yushun9409"/>。なお、加賀は前年のダービーの数日前に中野渡に対して「1回でいいんだ。調教で乗せてくれないか」と頼んでいたが、この時は即座に断られたという<ref name="sarabure200012" />。症状はごく軽く、獣医師は出走可能との診断を下していたが、橋本が患部に手を当てようとする脚を上げる仕草をすることから、痛がっていると判断<ref name="meiba98" />、また本郷も「万が一レースで故障したら元も子もない」との考えで<ref name="hon" />、出走を回避させることになった<ref name="yushun9509" />。 前述の通り屈腱炎の症状は軽いものだったが、マルゼンスキーには[[宝塚記念]]と有馬記念以外に出走できる目標レースがなかったことから、種牡馬とするため引退が決まった<ref name="meiba98" />。通算8戦8勝、2着につけた合計着差は61馬身におよんだ<ref name="101tou">『サラブレッド101頭の死に方(2)』pp.138-140</ref><ref>『Sports Graphic Number PLUS』p.89</ref>。1978年1月15日に東京競馬場で引退式が行われ、スタンドには「さようならマルゼンスキー。語り継ごうおまえの強さを。讃えよう君の闘志を」との横断幕が掲げられた<ref name="yushun9409"/><ref name="101tou" />。日本短波賞時の2番のゼッケンをつけ、負傷の身をおして式に参加し騎乗した中野渡を背にしたマルゼンスキーは、馬場を半周ののち4コーナーから疾走して最後の走りを披露した<ref name="yushun9409"/>。挨拶に立った橋本は「この馬は持込馬という宿命にあって、クラシックレースに出られなかったのは非常に残念ですけど、この鬱憤は子供たちで必ず晴らします。クラシックを獲れるような馬を生産してファンの皆様に応えるべく頑張りますから、よろしく応援してください」と語り、拍手喝采を送られた<ref name="meiba98" />。 === 種牡馬時代 === マルゼンスキーは橋本善吉が経営する北海道[[門別町]]のトヨサトスタリオンセンターで種牡馬となった<ref name="sarabure200012"/>。1970年代以降、欧米では[[ノーザンダンサー]]の子供たちが猛烈な勢いで大競走を制していき、血統地図を急速に塗り替えつつあった<ref>吉沢(1997)pp.128-129</ref>。ニジンスキーを経て祖父にノーザンダンサーを持つマルゼンスキーは日本においてその血統の優秀さを示した最初の馬であり<ref name="yushun8709">『優駿』1987年9月号、pp.12-13</ref><ref name="yoshizawa">吉沢(1997)pp.137-140</ref>、それだけに種牡馬としての生産界からの注目度・期待度は非常に高いものだった<ref name="yushun8709" />。マルゼンスキーはその期待に違わず、自身のスピードと瞬発力、そして試されることがなかったスタミナを産駒に伝え(吉沢譲治<ref name="number340"/>)、初年度産駒からは菊花賞をレコード勝ちした[[ホリスキー]]を送り出し、以後[[宝塚記念]]優勝の[[スズカコバン]]、朝日杯3歳ステークスと日本ダービーを優勝した[[サクラチヨノオー]]、菊花賞に優勝した[[レオダーバン]]といったGI優勝馬を輩出した<ref name="number340"/>。その種牡馬実績が評価され<ref name="okawa">大川(1997)pp.116-117</ref>、1990年にはJRA顕彰馬に選出された<ref>『優駿』1990年11月号、p.167</ref>。 種牡馬ランキング最高成績は1988年の2位(中央3位)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000069360/sire/record/ |title=マルゼンスキー 種牡馬情報:種牡馬成績 |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月08日 |date=}}</ref>。さらに特筆されるのは[[ブルードメアサイアー]](母の父)としての実績である<ref name="yoshizawa" />。GI競走4勝を挙げた[[スペシャルウィーク]]を筆頭に、9頭のGIおよびJpnI優勝馬が輩出されており、ランキングでは2位を10回記録<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000069360/sire/bms/ |title=マルゼンスキー 種牡馬情報:BMS成績 |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月08日 |date=}}</ref>。「マルゼンスキー牝馬」は生産者の間で引っ張りだこの存在となり、1996年時点で、北海道日高地方には約170頭が繋養されていたといわれる。これは当時トウショウボーイ牝馬の210頭に次ぐ数字であった<ref name="maeiba">『季刊名馬』1996年夏号、p.13</ref>。牡馬の後継ではホリスキー、スズカコバン、そして重賞2勝の[[サクラトウコウ]]らが種牡馬としても健闘した<ref name="yoshizawa" />。 1995年に高齢のため種牡馬シンジケートが解散したが<ref name="maeiba" />、その後も種牡馬としての人気は高く、1997年には70頭への種付けを行っていた<ref name="101tou2">『サラブレッド101頭の死に方(2)』pp.129-130</ref>。しかし同年8月21日午前4時ごろ、翌年の種付けシーズンに向けた体作りのための軽い運動の最中に突然いなないて倒れ、そのまま死亡した<ref name="101tou2" />。23歳(旧表記24歳)没。死因は心臓麻痺であった<ref name="101tou2" />。マルゼンスキーを溺愛していた橋本は自身の次男として弔い<ref name="meiba98" />、3日後の8月24日、橋本牧場において告別式が行われ、多数の生産者や競馬関係者が参列した<ref name="101tou" />。その遺骸は当時まだ健在であった母・シルにも見送られたのち、柩に収められた状態で牧場内に埋葬された<ref name="101tou" />。 == 競走成績 == {|style="font-size: 90%; text-align: center; border-collapse: collapse;; white-space:nowrap" |- !colspan="3"|競走日!!競馬場!!競走名!!距離(馬場)!!頭<br />数!!馬<br />番!!オッズ!!人気!!着順!!タイム!!着差!!騎手!!斤量<br />[kg]!!体重<br />[kg]!!1着馬(2着馬) |- | [[1976年|1976.]] | 10. | {{0}}9 | [[中山競馬場|中山]] | [[新馬|3歳新馬]] | 芝1200m(良) | 8 | 1 | 1.7 | 1人 | {{color|darkred|1着}} | {{0}}1:11.0 | 大差 | [[中野渡清一]] | 52 | 496 | (オリオンダーダ) |- | | 10. | 30 | 中山 | いちょう特別 | 芝1200m(良) | 9 | 1 | 1.3 | 1人 | {{color|darkred|1着}} | {{0}}1:10.5 | 9馬身 | 中野渡清一 | 52 | 502 | (シャダイエッセイ) |- | | 11. | 21 | [[東京競馬場|東京]] | [[東京スポーツ杯2歳ステークス|府中3歳S]] | 芝1600m(重) | 5 | 3 | 1.4 | 1人 | {{color|darkred|1着}} | {{0}}1:37.9 | ハナ | 中野渡清一 | 54 | 504 | ([[ヒシスピード]]) |- | | 12. | 12 | 中山 | [[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳S]] | 芝1600m(良) | 6 | 6 | 1.7 | 1人 | {{color|darkred|1着}} | {{color|darkred|R1:34.4}} | 大差 | 中野渡清一 | 54 | 498 | (ヒシスピード) |- | [[1977年|1977.]] | {{0}}1. | 22 | [[中京競馬場|中京]] | 4歳オープン | 芝1600m(良) | 5 | 2 | 1.3 | 1人 | {{color|darkred|1着}} | {{0}}1:36.4 | 2 1/2馬身 | 中野渡清一 | 57 | 508 | (ジョークィック) |- | | {{0}}5. | {{0}}7 | 東京 | 4歳オープン | 芝1600m(良) | 5 | 2 | 1.6 | 1人 | {{color|darkred|1着}} | {{0}}1:36.3 | 7馬身 | 中野渡清一 | 57 | 520 | (ロングイチー) |- | | {{0}}6. | 26 | 中山 | [[ラジオNIKKEI賞|日本短波賞]] | 芝1800m(不) | 7 | 2 | 1.2 | 1人 | {{color|darkred|1着}} | {{0}}1:51.4 | 7馬身 | 中野渡清一 | 58 | 506 | ([[プレストウコウ]]) |- | | {{0}}7. | 24 | [[札幌競馬場|札幌]] | 短距離S | ダ1200m(良) | 5 | 4 | 1.6 | 1人 | {{color|darkred|1着}} | {{color|darkred|R1:10.1}} | 10馬身 | 中野渡清一 | 54 | 512 | (ヒシスピード) |} * タイム欄の{{color|darkred|R}}はレコード勝ちを示す。 == 特徴・評価 == === 競走馬として === ==== 競走能力への評価 ==== 日本競馬史における最強馬との評がある1頭である。日本中央競馬会の機関広報誌『[[優駿]]』が創刊50周年を記念して競馬関係者に行った「最強馬」アンケートでは[[シンボリルドルフ]]、[[シンザン]]、[[タケシバオー]]、[[タニノチカラ]]に次ぐ5位となった<ref name="turf1">『優駿増刊号TURF』p.13</ref>。1985年に『優駿』読者を対象に行われたものでは6位。ただしこれは5位まで複数記名できる方式で、1位票の数ではシンボリルドルフとシンザンに次ぐ3位であった<ref>『優駿』1985年9月号、p.131</ref>。 中野渡清一は1991年には「今でも自分はあの馬が日本一強いと思う<ref name="turf1" />」、「7つか8つの力で勝っていた<ref name="turf1" />」、1999年には「自分が乗ったからというのではなく、日本の最強馬と確信している<ref name="Number PLUS-18">『Sports Graphic Number PLUS』p.18</ref>」、「スピードがケタ違いで勝負根性もあった。ダービーに出ていたら楽勝したと思う<ref name="Number PLUS-22">『Sports Graphic Number PLUS』p.22</ref>」とそれぞれ述べている。ライターの阿部珠樹によると、自身が行った取材で中野渡は「ダービーに出たら、途中で水を飲んでも勝てた」と豪語したことがあったという<ref name="英雄神話">『英雄神話 Dramatic SPORTS Vol.20』pp.22-25</ref>。本郷一彦によれば、重彦は脚部不安のため思いきった調教ができないことを惜しみ「記録に残っているのは能力の何分の一だ」と吐き捨てるように言ったことがあるという<ref name="hon" />。中野渡はマルゼンスキーに騎乗していた際の心境について「スピードが出すぎてレース中に壊れるんじゃないかという不安」が常に頭の隅にあったといい、「スタートは普通だけど加速してからのスピードが素晴らしく、重心が低いから加速するとスーッと沈むようになる。車なら最高級の[[メルセデス・ベンツ|ベンツ]]っていう感じでしたが、慣れないうちは正直、怖かったですよ」と述べている<ref name="number340"/>。 対戦した関係者や競馬評論家からも高い評価を受けている。[[小島太]]は「とにかく、あの馬は計り知れない強さがあった。No.1じゃないの」と評し<ref name="turf1" />、当時調教師であった[[野平祐二]]は「道悪で走ったときの跳ね上げる泥の高さというのが、もう並の高さじゃない。コーナーワークのときなんか、他の馬の3倍ぐらいバーンと跳ね上がる。<small>''(中略)''</small>コーナーワークであれだけ力を入れて走ると、たいがいは直線で止まってしまうものだが、あの馬は最後までスピードが落ちなかった」と述懐し、「もうちょっと長く、せめて5歳まで走ってほしかった。あの馬のもつ全能力をこの目で見たかった」と惜しんだ<ref name="turf2">『優駿増刊号TURF』p.19</ref>。小島太はヒシスピードに騎乗していた日本短波賞でのマルゼンスキーについて、「ダートだから前の馬の蹴った砂が飛んでくるんだが、マルゼンスキーは他の馬と全然違っていた。顔に当たると痛い、砂の塊が飛んで来るんだ。あんな馬はいない。掻き込みがぜんぜん違っていたんだね」と述べている<ref name="英雄神話"/>。生産者の[[川上悦夫]]は「スピードが桁違い。そして、スタミナが桁違い。日本でいちばん強い馬がマルゼンスキーだったと信じて疑わない」と述べている<ref>『競馬名勝負読本3』p.88</ref>。 競馬史研究家の[[山本一生]]はその競走能力を「[[トキノミノル]]、[[ナリタブライアン]]に比べても優るとも劣らず」と評し<ref>山本(2005)p.147</ref>、競馬評論家の[[大川慶次郎]]や大島輝久は、当時もし持込馬が内国産馬と同じ扱いを受けていれば、傑出した成績を残したであろうと述べている<ref name="okawa" /><ref name="turf2" />。ライターの栗山求はマルゼンスキーの競走能力の高さについて、前述のマルゼンスキーが日本で走ることになった経緯を用いて、「日本の[[日本実業団バスケットボール連盟|実業団バスケットチーム]]に迷い込んだ[[マイケル・ジョーダン]]のようなもの」と表現し、他馬との実力差があまりにも開きすぎていたためにライバルと呼べるような馬が日本には存在せず、唯一ライバルと呼べたのは一度も対戦することのなかった同期の[[アメリカクラシック三冠|アメリカ三冠馬]][[シアトルスルー]]だと述べている<ref name="kuriyama">『競馬ライバル読本』pp.172-173</ref>。 ==== マルゼンスキーとTTG ==== 対戦の可能性があった1歳上の[[トウショウボーイ]]、[[テンポイント]](いずれもJRA顕彰馬)とは「もしも対戦していたら」という仮定がしばしば語られるが、中野渡と橋本善吉はいずれも、「負けなかった」「勝っていた」と主張しており<ref name="yushun9712" /><ref name="turf1" />、小島太は上記2頭に[[グリーングラス]]を加えた「[[TTG]]」との比較を問われ、「そのあたりとは比べものにならない。<small>''(中略)''</small>どこから見ても、同じ時代の馬とは一段も二段も抜けていた」と評している<ref name="yushun9509" />。栗山求によると現役時代にマルゼンスキーとかかわっていたというある人物と話をした際に、その人物は「トウショウボーイやテンポイントなんてメじゃない。目一杯に仕上げれば、シンボリルドルフとやったってたぶん勝っていたはずだよ」と、確信に満ちた口調と真剣な目をして話したという<ref name="kuriyama"/>。一方、トウショウボーイの管理調教師・[[保田隆芳]]は「マルゼンスキーとやっても、おそらく負けなかったんじゃないか」と述べている<ref>『優駿増刊号TURF』p.31</ref>。上述の座談会「正論とミーハー論と」の中でも、トウショウボーイとマルゼンスキーの対戦を期待する会話が交わされていたが、この中では山野浩一が「もし、あの2頭が現在絶好調だとしたら、有馬記念まで待つことなく、その絶好調のときにどこかで対戦する機会がなくちゃおかしい。有馬記念まで無事にいってくれるかどうかが一番心配だもの」と発言していた<ref>『優駿』1977年9月号、p.16</ref>。『優駿』が2004年に識者へアンケートをとった「年代別代表馬」において、マルゼンスキーは1970年代でテンポイント、トウショウボーイに次ぐ3位となっている<ref>『優駿』2004年3月号、p.18</ref>。 ==== ニジンスキーの代表産駒? ==== 父・ニジンスキーは「20世紀を代表する名馬の1頭」とも評されたが<ref name="yushun8709" />、マルゼンスキーはニジンスキーに非常に似ていたとされ、アメリカからニジンスキーの関係者がやってきた時「ニジンスキーによく似ている。違うのは外向肢勢だけ」と話した関係者がいたという<ref name="yushun7702" />。ニジンスキーを実見したことがある宮原高尚も「マルゼンスキーは父親そっくりの体型」と述べている<ref name="turf2" />。ニジンスキーは世界各国で一流馬を輩出したが、日本の競馬界ではマルゼンスキーがその最良の産駒だったのではないかとみる者もいる<ref name="yushun1008">『優駿』2010年8月号、p.46</ref>。イギリスの競馬ジャーナリスト、レズリー・サンプソンは著書『ニジンスキー』の中でマルゼンスキーも代表産駒の1頭として紹介し、「もしマルゼンスキーが日本で走らなかったならば、いったいどれだけの成績をあげられたかは想像するしかないだろう。おそらくチャンピオンとなっていたはずだし、[[:en:J. O. Tobin|J.O.トビン]]にとってもシアトルスルーにとっても、きっと難敵だったに違いない」と記している<ref>山本(2005)p.148</ref>。 === 種牡馬として === 同時代においては、日本最大の牧場・社台ファームが擁した[[ノーザンテースト]]がリーディングサイアーの地位を占めていたが、橋本は種牡馬マルゼンスキーはノーザンテーストよりも上であると信じ、彼我の差は相手をする繁殖牝馬の質の差だとみて「俺にもっと金があったら、ノーザンテーストなんか叩きのめしてやるのに」と口にしていたという<ref name="yushun9712" />。ただし橋本はシルに一度ノーザンテーストを交配しており、このときは受胎に至らなかった<ref name="meiba98" />。また、サクラトウコウを用いて[[天皇賞(秋)]]優勝馬[[ネーハイシーザー]]を生産した大道数美も「ノーザンテーストよりマルゼンスキーの方が数段上」だとしている<ref>『優駿』1995年2月号、p.34</ref>。他方、大川慶次郎は脚部不安の産駒が多かったことを指摘し、「いい仔は出したけれど、平均値をとるとどうかなという思いがある」と述べている<ref name="okawa" />。 マルゼンスキーは[[ブルードメアサイアー]]としてもノーザンテーストに首位を阻まれ続けたが、血統評論家の[[吉沢譲治]]は「ノーザンテーストの血を引く繁殖牝馬を数多く擁する社台ファームが、[[サンデーサイレンス]]、[[トニービン]]といった一流種牡馬を惜し気もなく配合するのに対して、マルゼンスキーの血を引く繁殖牝馬を擁するのは北海道日高の中小牧場が中心で、配合種牡馬の質は全体にそれよりも落ちる。それでいて、この好成績は立派というほかはない」と評している<ref name="yoshizawa" />。なお、2000年に[[日本馬主協会連合会]]が馬主を対象に行ったアンケートによる「好きな牝系の血統は」という設問で、「(母父)マルゼンスキー(系)」は「(母父)ノーザンテースト(系)」、「(母父)ノーザンダンサー(系)」に次ぐ3位となっている<ref>『日本馬主協会連合会40年史』p.197</ref>。 === その他投票などにおける評価 === 雑誌『[[Sports Graphic Number]]』1999年10月号が競馬関係者を対象に行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」では票数3票で第6位であった<ref name="Number PLUS-18"/>{{#tag:ref|投票したのは中野渡清一、[[山内研二]]、[[東信二]]<ref name="Number PLUS-18"/>。中野渡は自身が手がけた競走馬の内の最強馬としてもマルゼンスキーを挙げている<ref name="Number PLUS-22"/>。|group="注"}}。日本中央競馬会が2000年に行ったファン投票による名馬選定企画「[[Dream Horses 2000|20世紀の名馬大投票]]」では、32位に選出<ref>『優駿』2000年10月号、p.31</ref>。『優駿』が独自に選出した「20世紀のベストホース100」にも名を連ねた<ref>『優駿』2000年11月号、p.21</ref>。また、2010年に『優駿』通巻800号記念として行われたファン投票企画「未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち - THE GREATEST HORSES 100」では22位<ref name="yushun1008" />、2015年に行われた「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」では37位となった<ref name="yushun201503">『優駿』2015年3月号、p.57</ref>。 == 種牡馬成績 == === 年度別成績 === ;サラブレッド系総合成績 {|class="wikitable" style="text-align:right" !rowspan="2"|年!!colspan="2"|出走!!colspan="2"|勝利!!rowspan="2"|順位!!rowspan="2"|[[アーニングインデックス|AEI]]!!rowspan="2"|収得賞金 |- !頭数!!回数!!頭数!!回数 |- ||1981年||16||53||11||14||211||1.35||7421万0200円 |- ||1982年||52||320||31||58||53||1.90||3億4686万3700円 |- ||1983年||65||453||36||68||17||2.18||4億9401万7800円 |- ||1984年||98||544||59||101||5||2.11||7億1350万0800円 |- ||1985年||114||692||64||122||5||2.19||8億5181万5400円 |- ||1986年||110||768||66||113||5||2.22||8億4757万3000円 |- ||1987年||123||757||69||133||10||1.59||7億3536万6400円 |- ||1988年||130||775||75||136||2||2.26||11億8407万0400円 |- ||1989年||141||792||68||117||6||1.87||11億3374万7000円 |- ||1990年||133||760||65||108||6||1.82||10億8457万8200円 |- ||1991年||132||758||68||126||4||2.29||14億0604万2800円 |- ||1992年||103||670||57||97||13||1.79||8億6547万9000円 |- ||1993年||114||758||57||105||16||1.77||8億9389万8000円 |- ||1994年||113||713||45||78||25||1.45||6億7909万2500円 |- ||1995年||109||700||46||70||29||1.18||5億2426万4000円 |- ||1996年||92||610||44||72||19||1.87||7億1498万4000円 |- ||1997年||98||685||45||67||36||1.40||5億7885万7500円 |- ||1998年||87||558||39||68||72||0.94||3億5057万6000円 |- ||1999年||89||593||37||75||74||0.94||3億5616万2500円 |- ||2000年||92||597||38||81||87||0.72||3億0240万1700円 |- ||2001年||76||656||37||92||111||0.68||2億1053万1000円 |- ||2002年||48||404||20||46||157||0.69||1億2801万4000円 |- ||2003年||24||218||7||13||257||0.33||3012万8000円 |- ||2004年||11||103||3||4||375||0.09||383万9000円 |- ||2005年||4||38||2||10||435||0.31||449万5000円 |- ||2006年||2||21||2||5||529||0.42||319万2000円 |- ||2007年||1||19||0||0||743||0.01||3万4000円 |} === 産駒 === ;GI級競走優勝馬 *1979年産 **[[ホリスキー]](1982年'''菊花賞'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000115064/ |title=ホリスキー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) *1980年産 **[[スズカコバン]](1983年[[神戸新聞杯]] 1984年[[京都大賞典]] 1985年'''宝塚記念''' 1986年京都大賞典<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000129264/ |title=スズカコバン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) *1985年産 **[[サクラチヨノオー]](1987年'''朝日杯3歳ステークス''' 1988年'''東京優駿'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000176226/ |title=サクラチヨノオー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) *1988年産 **[[レオダーバン]](1991年'''菊花賞'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000214308/ |title=レオダーバン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) ;その他重賞競走優勝馬 *1980年産 **[[ニシノスキー]](1982年朝日杯3歳ステークス<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000126696/ |title=ニシノスキー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) **プロメイド(1984年[[カブトヤマ記念]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000127149/ |title=プロメイド |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) *1981年産 **[[サクラトウコウ]](1983年[[函館2歳ステークス|函館3歳ステークス]] 1986年[[七夕賞]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000138397/ |title=サクラトウコウ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) *1982年産 **ケイファイヤー(1985年[[クイーンステークス]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000150282/ |title=ケイファイヤー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) **ブラックスキー(1985年[[福島記念]] 1986年[[新潟記念]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000149022/ |title=ブラックスキー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) *1985年産 **グリンモリー(1987年[[新潟2歳ステークス|新潟3歳ステークス]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000179186/ |title=グリンモリー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) **インターアニマート(1989年[[中京記念]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000177313/ |title=インターアニマート |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) *1986年産 **[[カリブソング]](1990年[[フェブラリーステークス|フェブラリーハンデキャップ]] 1991年[[中山金杯|日刊スポーツ賞金杯]]、[[目黒記念]] 1994年''[[第6回ブリーダーズゴールドカップ|ブリーダーズゴールドカップ]]''<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000188236/ |title=カリブソング |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) **バリエンテー(1991年[[京成杯オータムハンデキャップ|京王杯オータムハンデキャップ]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000188344/ |title=バリエンテー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) *1987年産 **ダイイチオイシ(1989年[[函館2歳ステークス|函館3歳ステークス]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000200840/ |title=ダイイチオイシ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) *1988年産 **ネーハイビクトリー(1993年[[中日新聞杯]]) *1989年産 **ユートジェーン(1991年新潟3歳ステークス<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000224487/ |title=ユートジェーン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) *1990年産 **ダイカツストーム(1995年[[中山大障害|中山大障害・春]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000234948/ |title=ダイカツストーム |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) **クラウンシチー(1996年京王杯オータムハンデキャップ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000233795/ |title=クラウンシチー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) *1991年産 **[[サクラエイコウオー]](1994年[[弥生賞]] 1996年七夕賞<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000243714/ |title=サクラエイコウオー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) *1998年産 **[[タシロスプリング]](2000年[[ファンタジーステークス]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000328579/ |title=タシロスプリング |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) '''地方競馬重賞勝利馬''' *1979年産 **マッドマックス(1985・1986年[[瑞穂賞]]・[[岩見沢競馬場|岩見沢]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000115064/ |title=マツドマツクス |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) *1980年産 **オサイチミカド(1985年[[百万石賞]]・[[金沢競馬場|金沢]]、[[白山大賞典]]・金沢 1986年開設記念・[[高崎競馬場|高崎]] 1988年白山大賞典・金沢<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000126680/ |title=オサイチミカド |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) **マルゼンスター(1985年[[東京盃]]・[[大井競馬場|大井]] 1986年[[東海ゴールドカップ]]・[[笠松競馬場|笠松]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000129866/ |title=マルゼンスター |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) *1983年産 **エンゼルスキー(1986年こまくさ賞・[[上山競馬場|上山]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000159503/ |title=エンゼルスキー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) *1985年産 **アエロプラーヌ(1988年[[東京王冠賞]]・大井、[[ダービーグランプリ]]・[[水沢競馬場|水沢]] 1989年[[川崎記念]]・[[川崎競馬場|川崎]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000178459/ |title=アエロプラーヌ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) **ベストンウイン(1991年[[ステイヤーズカップ]]・[[旭川競馬場|旭川]]、金盃・岩見沢<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000180743/ |title=ベストンウイン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) *1987年産 **マスコットキング(1989年[[ハイセイコー記念|青雲賞]]・大井<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000201076/ |title=マスコットキング |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) *1990年産 **ノイズレスウイナー(1996年さつき賞・上山、おしどり賞・上山、みちのく賞・上山 1997年酒田まつり賞・上山<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000236478/ |title=ノイズレスウイナー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) *1997年産 **リードスキー(1999年[[エーデルワイス賞]]・札幌<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000319121/ |title=リードスキー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月10日 |date=}}</ref>) === ブルードメアサイアー産駒=== ;GI級競走優勝馬 *1989年産 **[[ライスシャワー]](1992年'''[[菊花賞]]''' 1993年[[日経賞]]、[[天皇賞(春)|'''天皇賞・春''']] 1995年天皇賞・春)- 父[[リアルシャダイ]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000224986/ |title=ライスシャワー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月11日 |date=}}</ref> *1990年産 **[[スエヒロジョウオー]](1992年[[阪神ジュベナイルフィリーズ|'''阪神3歳牝馬ステークス''']])- 父[[トウショウペガサス]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000231337/ |title=スエヒロジョウオー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月11日 |date=}}</ref> **[[ウイニングチケット]](1993年[[弥生賞ディープインパクト記念|弥生賞]]、'''東京優駿'''、[[京都新聞杯]])- 父[[トニービン]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000230809/ |title=ウイニングチケット |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月11日 |date=}}</ref> * 1994年産 ** [[メジロブライト]](1996年[[ホープフルステークス (中央競馬)|ラジオたんぱ杯3歳ステークス]] 1997年[[共同通信杯|共同通信杯4歳ステークス]]、[[ステイヤーズステークス]] 1998年[[アメリカジョッキークラブカップ]]、[[阪神大賞典]]、'''天皇賞・春''' 1999年[[日経新春杯]])- 父[[メジロライアン]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000286650/ |title=メジロブライト |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月11日 |date=}}</ref> *1995年産 **[[スペシャルウィーク]](1998年[[きさらぎ賞]]、弥生賞、'''東京優駿'''、京都新聞杯 1999年アメリカジョッキークラブカップ、阪神大賞典、'''天皇賞・春'''、'''[[天皇賞(秋)|天皇賞・秋]]'''、'''[[ジャパンカップ]]''')- 父[[サンデーサイレンス]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000293624/ |title=スペシャルウィーク |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月11日 |date=}}</ref> *1996年産 **[[プリモディーネ]](1998年[[ファンタジーステークス]] 1999年'''[[桜花賞]]''')- 父[[アフリート]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000303071/ |title=プリモディーネ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月11日 |date=}}</ref> *1998年産 **[[メジロベイリー]](2000年[[朝日杯フューチュリティステークス|'''朝日杯3歳ステークス''']])- 父サンデーサイレンス<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000324876/ |title=メジロベイリー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月11日 |date=}}</ref> **[[ムガムチュウ]](2000年[[北海道2歳優駿|北海道3歳優駿]] 2001年'''[[ダービーグランプリ]]''')- 父[[ティンバーカントリー]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000329158/ |title=ムガムチュウ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月11日 |date=}}</ref> * 1999年産 ** [[メルシータカオー]](2004年'''[[中山大障害]]''')- 父[[サクラユタカオー]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000618105/ |title=メルシータカオー |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月11日 |date=}}</ref> * 2002年産 ** [[テイエムドラゴン]](2005年[[京都ハイジャンプ]]、'''中山大障害''' 2006年[[阪神スプリングジャンプ]]、京都ハイジャンプ)-父[[アドマイヤベガ]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000732901/ |title=テイエムドラゴン |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月11日 |date=}}</ref>) **[[ボンネビルレコード]](2005年[[黒潮盃]]、[[東京記念]] 2006年[[サンタアニタトロフィー]] 2007年[[金盃]]、'''[[帝王賞]]''' 2008年'''[[かしわ記念]]'''、[[日本テレビ盃]])- 父[[アサティス]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000738617/ |title=ボンネビルレコード |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年7月11日 |date=}}</ref> ;その他重賞競走優勝馬 *1986年産 **[[オラトリオ (日本の競走馬)|オラトリオ]](1990年[[京成杯オータムハンデキャップ|京王杯オータムハンデキャップ]])- 父カジュン *1988年産 **[[メイショウホムラ]](1993年[[フェブラリーハンデキャップ]])- 父[[ブレイヴェストローマン]] *1989年産 **[[チアズアトム]](1994年フェブラリーステークス)- 父[[トウショウボーイ]] *1990年産 **[[ワコーチカコ]](1994年[[エプソムカップ]]、[[函館記念]] 1995年[[金杯(西)]]、[[京都記念]])- 父[[リヴリア]] **[[マイヨジョンヌ]](1996年・1997年[[新潟大賞典]] 1996年[[福島記念]])- 父[[ジェイドロバリー]] *1991年産 **[[オースミマックス]](1997年[[小倉大賞典]])- 父サクラユタカオー *1992年産 **[[ユウキビバーチェ]](1995年[[チューリップ賞]])- 父トニービン *1993年産 **[[ロイヤルタッチ]](1995年ラジオたんぱ杯3歳ステークス、きさらぎ賞)- 父サンデーサイレンス **[[サクラスピードオー]](1996年[[京成杯]]、共同通信杯4歳ステークス)- 父[[サクラホクトオー]] *1994年産 **[[シンプウライデン]](1996年[[中京盃]]、[[ゴールドウィング賞]]、[[ジュニアグランプリ (笠松競馬)|ジュニアグランプリ]] 1997年[[スプリングカップ (名古屋競馬)|スプリングカップ]]、[[駿蹄賞]]、[[東海ダービー|名古屋優駿]] 1998年[[東海ゴールドカップ]] 1999年[[トリトン争覇|マイル争覇]])- 父[[ワカオライデン]] **[[トミケンライデン]](1997年[[全日本サラブレッドカップ]])- 父ワカオライデン **[[テイエムトッキュー]](1999年[[カブトヤマ記念]])- 父[[タマモクロス]] **[[オースミジェット]](1999年・2000年[[平安ステークス]]、[[名古屋大賞典]]、[[マーキュリーカップ]] 1999年[[アンタレスステークス]])- 父ジェイドロバリー *1996年産 **[[ヤマノリアル]](2003年[[TCK女王盃]]、[[マリーンカップ]])- 父リアルシャダイ *1997年産 **[[ニホンピロスワン]](2000年[[ローズステークス]])- 父[[パラダイスクリーク]] **[[エリモブライアン]](2001年ステイヤーズステークス)- 父[[ブライアンズタイム]] *1998年産 **[[ウインラディウス]](2004年[[京王杯スプリングカップ]] 2005年[[東京新聞杯]]、[[富士ステークス]])- 父サンデーサイレンス *1999年産 **[[メガスターダム]](2001年ラジオたんぱ杯2歳ステークス、2005年[[中京記念]]) - 父[[ニホンピロウイナー]] **[[ディーエスサンダー]](2003年マーキュリーカップ)- 父[[タヤスツヨシ]] *2000年産 **[[サクラプレジデント]](2002年[[札幌2歳ステークス]] 2003年[[札幌記念]] 2004年[[中山記念]])- 父サンデーサイレンス **[[フジサイレンス]](2006年東京新聞杯)- 父[[フジキセキ]] *2001年産 **[[モエレエスポワール]](2003年[[札幌2歳ステークス]])- 父マジックマイルズ **[[ディアチャンス]](2007年[[マーメイドステークス]])- 父[[タイキシャトル]] *2003年産 **[[デンシャミチ]](2005年[[京王杯2歳ステークス]])- 父[[サクラバクシンオー]] **[[キングトップガン]](2011年[[目黒記念]]、函館記念)- 父[[マヤノトップガン]] **[[エムエスワールド]](2012年京都ハイジャンプ、[[小倉サマージャンプ]])- 父[[ステイゴールド (競走馬)|ステイゴールド]] *2005年産 **[[タケミカヅチ (競走馬)|タケミカヅチ]](2009年[[ダービー卿チャレンジトロフィー]])- 父[[ゴールドアリュール]] *2010年産 **[[ソルテ]](2016年[[さきたま杯]])- 父[[タイムパラドックス (競走馬)|タイムパラドックス]] *2011年産 **[[アズマシャトル]](2015年[[小倉記念]])- 父[[ゼンノロブロイ]] **[[トウケイタイガー]](2017年[[かきつばた記念]])- 父タイムパラドックス ;地方競馬重賞勝利馬 *1989年産 **ヤマニンロード(1991年[[平和賞 (船橋競馬)|平和賞]]、[[全日本2歳優駿|全日本3歳優駿]] 1992年[[ゴールドカップ (浦和競馬)|ゴールドカップ]])- 父ヤマニン **[[ツキノイチバン]](1994年金盃、[[アフター5スター賞]])- 父[[ミルジョージ]] **ヤマジュンオー(1994年かしわ記念 1998年開設70周年記念)- 父ヤマニンスペキュラ *1990年産 **[[ブルーファミリー]](1992年[[青雲賞]] 1993年[[東京王冠賞]]、[[羽田盃]]、[[京浜盃]]、黒潮盃、1994年[[東京シティ盃]])- 父テューター **エビスライトオー(1993年[[サラブレッド大賞典 (金沢競馬)|サラブレッド大賞典]] 1994年[[金沢スプリングカップ|スプリングカップ]]、JTB賞、[[百万石賞]]、[[中日杯 (金沢競馬)|中日杯]] 1995年[[MRO金賞]]、百万石賞、[[北國王冠]])- 父パーフライト **ガンガディーン(1994年[[報知オールスターカップ]]、東京記念)- 父[[アンバーシャダイ]] **メジロモネ(1999年東国賞)- 父[[モガミ]] *1991年産 **ベストファーザー(1994年[[北斗盃]])- 父[[シリウスシンボリ]] *1992年産 **ヒカリルーファス(1994年全日本3歳優駿 1995年[[ニューイヤーカップ]]、羽田盃 1996年東京シティ盃、かしわ記念)- 父ノーリュート **ミナミノジャック(1998年金盃)- 父トニービン *1993年産 **レイカランマン(1996年[[北関東ダービー (競馬)|北関東ダービー]] 1997年尊氏賞)- 父ペルセポリスII **マッケンリーダー(1999年[[珊瑚冠賞]])- 父[[ウインザーノット (競走馬)|ウインザーノット]] **ブラックトルネード(2000年中津記念)- 父ウィニングスマイル **スリーパーク(2000年豊栄記念、三条記念)- 父[[パークリージェント]] *1994年産 **グランプリクン(1997年ニューイヤーカップ、埼玉新聞杯 1998年金盃)- 父テューター **ダイワトニービン(1998年東国賞 2001年東国賞 2002年新春杯)- 父トニービン **チェイスチェイス(1999年[[東北サラブレッド大賞典]] 2001年[[道営記念]] 2002年[[赤レンガ記念]] 2003年赤レンガ記念)- 父スリルショー **ナショナルスパイ(2000年[[埼玉新聞杯]])- 父ブライアンズタイム *1995年産 **サンクスメモリー(2001年尊氏賞 2003年東国賞)- 父[[カコイーシーズ]] *1996年産 **ラッシュスルー(1999年[[岐阜金賞]] 2000年[[スプリング争覇]])- 父テンパレートシル **マルケイゲイン(1999年[[東北優駿]]、[[不来方賞]])- 父ダミスター **グレイトセンター(1999年すみれ賞)- 父アンバーシャダイ **[[ベルモントアクター]](2002年[[船橋記念]]、サンタアニタトロフィー 2003年[[マイルグランプリ]])- 父[[モガンボ (競走馬)|モガンボ]] **シルバーサーベル(2003年[[エトワール賞]] 2004年エトワール賞 2005年エトワール賞、[[星雲賞 (競馬のレース)|星雲賞]])- 父アフリート *1998年産 **マスターワーク(2000年[[サラ・プリンセス特別]])- 父ワカオライデン **パワフルダンサー(2003年[[とちぎ大賞典]] 2004年八汐賞、宇都宮記念)- 父グルームダンサー *1999年産 **トウショウゼウス(2001年かもしか賞 2002年春蘭特別、[[北関東皐月賞]]、奥利根特別 2003年尊氏賞、カネユタカオー記念、穂の香賞、宇都宮記念、とちぎスプリンターズ天馬杯 2004年織姫賞)- 父サンゼウス **ディーエスアロー(2002年[[華月賞]])- 父カコイーシーズ *2000年 **ウィンシュール(2002年[[イノセントカップ]])- 父[[シャンハイ (競走馬)|シャンハイ]] **ジョイフルハヤテ(2003年黒潮盃)- 父シャンハイ **サンデーバニヤン(2004年[[大井記念]])- 父[[マーベラスサンデー]] *2001年産 **ノーススポット(2003年[[ジュニアクラウン]] 2004年[[新緑賞]])- 父[[タイトスポット]] **トミケンウイナー(2003年[[ジュニアグランプリ (岩手競馬)|ジュニアグランプリ]] 2004年[[ブルーバードカップ]])- 父マジックマイルズ **フラワーサークル(2004年[[春霞賞]])- 父サクラバクシンオー **シャンハイジャンプ(2004年北斗盃、[[王冠賞]])- 父シャンハイ **トレオウオブキング(2005年[[OROカップ]])- 父[[スターオブコジーン]] *2002年産 **ダンシングスキー(2005年[[飛燕賞]]、[[九州ダービー栄城賞]])- 父[[デュラブ]] **グレートステージ(2005年[[兵庫ダービー|園田ダービー]]、[[菊水賞]]、[[摂津盃]])- 父[[スキャン (競走馬)|スキャン]] **メイプルエイト(2006年金盃)- 父カコイーシーズ == 血統表 == {{競走馬血統表 |name = マルゼンスキー |f = [[ニジンスキー (競走馬)|Nijinsky]]<br />1967 鹿毛 |m = *シル<br />Shill<br />1970 鹿毛 |ff = [[ノーザンダンサー|Northern Dancer]]<br />1961 鹿毛 |fm = [[フレーミングページ|Flaming Page]]<br />1959 鹿毛 |mf = [[バックパサー|Buckpasser]]<br />1963 鹿毛 |mm = [[クイル|Quill]]<br />1956 栗毛 |fff = [[ニアークティック|Nearctic]] |ffm = [[ナタルマ|Natalma]] |fmf = [[ブルページ|Bull Page]] |fmm = Flaring Top |mff = [[トムフール|Tom Fool]] |mfm = [[ブサンダ|Busanda]] |mmf = [[プリンスキロ|Princequillo]] |mmm = Quick Touch |ffff = [[ネアルコ|Nearco]] |fffm = [[レディアンジェラ|Lady Angela]] |ffmf = [[ネイティヴダンサー|Native Dancer]] |ffmm = [[アルマームード|Almahmoud]] |fmff = [[ブルリー|Bull Lea]] |fmfm = Our Page |fmmf = '''[[メノウ (競走馬)|Menow]]''' |fmmm = Flaming Top |mfff = '''Menow''' |mffm = Gaga |mfmf = [[ウォーアドミラル|War Admiral]] |mfmm = Businesslike |mmff = [[プリンスローズ|Prince Rose]] |mmfm = Cosquilla |mmmf = [[カウントフリート|Count Fleet]] |mmmm = Alms [[ファミリーナンバー|F-No]].[[5号族|5-g]] |ref1 = [http://www.jbis.or.jp/horse/0000069360/pedigree/ JBISサーチ マルゼンスキー 5代血統表]2015年7月11日閲覧。 |mlin = [[ニジンスキー系]] |ref2 = [http://db.netkeiba.com/horse/ped/000a0003bd/ netkeiba.com マルゼンスキー 5代血統表]2015年7月11日閲覧。 |flin = [[5号族]] |FN = 5-g |ref3 = [http://www.jbis.or.jp/horse/0000069360/pedigree/ JBISサーチ マルゼンスキー 5代血統表]2015年7月11日閲覧。 |inbr = [[メノウ (競走馬)|Menow]] 4×4、[[ブルドッグ (競走馬)|BullDog]] 5×5、[[ブルーラークスパー|Blue Larkspur]] 5×5 |ref4 = |}} === 近親 === #出典:平出貴昭『覚えておきたい日本の牝系100』 #出典資料にある三親等馬までのブラックタイプ(重賞勝利馬)のみ記載する。 *祖母:Quill([[エイコーンステークス]]、[[マザーグースステークス]]、[[メイトロンステークス (アメリカ合衆国)|メイトロンステークス]]、デラウェアステークス) *叔父:Caucasus([[アイリッシュセントレジャー]]、[[サンルイレイステークス]]、サンセットハンデキャップ) *叔母:Last Feather(ムシドラステークス) *従兄:Run the Gantlet([[マンノウォーステークス]]、[[ユナイテッドネイションズハンデキャップ]]) *従妹:Air Distingue(オマール賞) *従妹:Eastern Dawn(オマール賞) == 関連項目 == * [[ヤマニンスキー]] - 父ニジンスキー、母の父バックパサーという血統から、マルゼンスキーの代用としても重用された種牡馬。 * [[無敗馬一覧]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == '''書籍''' *藤野広一郎『名馬物語』([[中央競馬ピーアール・センター]]、1990年)ISBN 492442627X *中央競馬ピーアール・センター編『調教師の本(2)』(中央競馬ピーアール・センター、1991年) *大川慶次郎『大川慶次郎殿堂馬を語る』(ゼスト、1997年)ISBN 4916090527 *大川慶次郎ほか『サラブレッド101頭の死に方(2)』([[アスペクト (企業)|アスペクト]]、1997年)ISBN 4893668757 *[[吉沢譲治]]『競馬の血統学 - サラブレッドの進化と限界』([[NHK出版|日本放送出版協会]]、1997年)ISBN 4140803509 **文庫版あり(NHKライブラリー、2001年)ISBN 4140841419 *[[日本馬主協会連合会]](編)『日本馬主協会連合会40年史』(日本馬主協会連合会、2001年) *[[山本一生]]『増補・競馬学への招待』([[平凡社]]、2005年)ISBN 4582765378 *平出貴昭『覚えておきたい日本の牝系100』(スタンダードマガジン、2014年)ISBN 4908960003 '''雑誌・ムック特集記事''' *『[[優駿]]』1977年9月号([[日本中央競馬会]]、1977年) **「座談会・正論とミーハー論と」 *『優駿』1987年9月号(日本中央競馬会、1987年) **「わかりやすい血統学パートI 世界の名馬・血の流れ - ネアルコから流れてきた日本の二大父系」 *『[[Sports Graphic Number]]』340号([[文藝春秋]]、1994年) **吉沢譲治「もうひとつの最強馬伝説。無冠の名馬マルゼンスキーとその時代。」 *『優駿』1994年8月号・9月号(日本中央競馬会、1994年) **横尾一彦「サラブレッド・ヒーロー列伝 - やっぱり、ダービーを走らせたかった マルゼンスキー(1・2)」 *『優駿』1995年8月号・9月号(日本中央競馬会、1995年) **阿部珠樹「サラブレッド・ヒーロー列伝 レース編 - マルゼンスキーの謎 - 戦いの場を失くした最強馬(上・下)」 *『優駿』1997年11月号・12月号(日本中央競馬会、1997年) **藤野広一郎「マルゼンスキーに憑かれた男 - 『波瀾万丈』の愛馬行進曲(上・下)」 *『創刊50周年記念 優駿増刊号TURF』(日本中央競馬会、1991年) **「新聞記者、競馬人、著名人への大アンケート」 **「座談会・史上最強馬は?」 *『季刊名馬』1996年夏号(緑書房、1996年) **吉野美樹春「万能性の魔法 マルゼンスキーの血をめぐって」 * 『[[サラブレ]]』2000年12月号([[エンターブレイン]]、2000年) ** 江面弘也「名馬物語45 ~マルゼンスキー~」 *『競馬ライバル読本 名勝負を生んだ"黄金対決"の数々』([[宝島社]]、1997年)ISBN 4796693114 **栗山求「日米"伝説の馬"決戦 マルゼンスキーvsシアトルスルー マルゼンスキーのライバルは伝説の米三冠馬だった!」 *『競馬名馬&名勝負読本'98』(宝島社、1998年)ISBN 4796693696 **内池久貴「追悼インタビュー/生産者・橋本善吉さんに聞く『マルゼンスキーは私の息子でした』」 *『Sports Graphic Number PLUS - 20世紀スポーツ最強伝説(4)競馬 黄金の蹄跡』(文藝春秋、1999年)ISBN 4160081088 **野村英俊・片山良三「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬。」 **高見沢秀「名馬列伝『圧勝』。」 *『英雄神話 Dramatic SPORTS Vol.20 忘れえぬ名馬たち 夢とロマンを乗せ風になった駿馬の記憶』([[徳間書店]]、2002年)ISBN 4197101678 **阿部珠樹「-Nothing but Victory- 永遠の謎 無敗の名馬 マルゼンスキー」 == 外部リンク == * {{競走馬成績|netkeiba=000a0003bd|jbis=0000069360}} * {{競走馬のふるさと案内所|0000069360|マルゼンスキー}} * [https://www.jra.go.jp/gallery/dendo/horse19.html マルゼンスキー:競馬の殿堂 JRA] {{日本中央競馬会・顕彰馬}} {{JRA賞最優秀2歳牡馬|優駿賞最優秀3歳牡馬}} {{朝日杯フューチュリティステークス勝ち馬|朝日杯3歳ステークス}} {{デフォルトソート:まるせんすきい}} [[Category:1974年生 (競走馬)|日まるせんすきい]] [[Category:1997年没]] [[Category:サラブレッド]] [[Category:日本生産の競走馬]] [[Category:日本調教の競走馬]] [[Category:競馬殿堂]] [[Category:日本供用種牡馬]]
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FIFAワールドカップトロフィー
FIFAワールドカップトロフィー(フィファ ワールドカップトロフィー)は、FIFAワールドカップの優勝国・地域に贈られるトロフィーである。 FIFAワールドカップトロフィーは、種類としては2種類、物としては三代ある。 最初のトロフィーはFIFAワールドカップを企画した当時のFIFA会長ジュール・リメが寄贈したため、その名を冠しジュール・リメ・トロフィーと呼ばれる。 製作は、フランスの彫刻家であるアベル・ラフレール(英語版)が行った。純銀製に金メッキで、高さ35センチメートル、重さは3800グラムあり、勝利の女神ニケが十角形のカップを支える形をしている。1970年にブラジルが3回目の優勝を果たし、その偉業を称えてブラジルに永久に渡されることになった。しかし現在ブラジルで保管されているトロフィーはレプリカである(後述)。 2015年1月、破損したために取り替えられたオリジナルの台座(第1回から第4回までの大会優勝国の銘が貼られている。盗まれて行方不明になっているのは第5回大会から使用され始めた2代目)がFIFA地下倉庫で偶然に発見された。この部品は2016年にチューリヒに作られた「FIFAワールド・フットボール・ミュージアム」で公開されている。 第二次世界大戦中、カップは1938年の第3回大会で優勝したイタリアのローマに保管されていた。1943年にイタリアが降伏すると、ローマを占領したナチスが金採取の目的で捜索した。しかし、盗難の危機を察知したイタリアチーム関係者が自宅のベッドの下に靴の箱に入れて命懸けで隠し、難を免れた。 最初の盗難は1966年、イングランド大会の前に行っていた展示期間中のことだった。盗難の直後にイングランドサッカー協会に金銭を要求する脅迫状が届き、警察のおとり捜査によって港湾労働者の男が逮捕された。しかしこの男は別の男に500ポンドで雇われて受け渡しを頼まれただけだと主張し、カップは見つからなかった。しかし数日後、ロンドン郊外のある一般住宅のピクルスという子犬が、自宅の庭で新聞紙に包まれたトロフィーを発見し、事なきを得た。この子犬は一躍ヒーローとなり、1年分のペットフードが贈られたり、映画に出演したりするなどしたという。 2度目の盗難は、ブラジルに永久譲渡された後の1983年に起きた。当時のブラジルは政治・経済の混乱期で犯罪が多発していたうえに、ブラジルサッカー連盟のドアには鍵がかけられておらず、警備員も一人しかいなかった。しばらくして容疑者が逮捕された(元ブラジルサッカー連盟職員のセルジオ・ペレイラという銀行員と、この銀行員に窃盗を依頼したとされる無職一般人の男2名)。 しかし、必死の捜査にもかかわらずトロフィーそのものは現在も見つかっていない。公式には現在も捜査中というが、イタリア人の富豪がカップほしさに購入したという説や、アルゼンチン人の妬みによる犯行という説まである。そのため、現在ブラジルに保管されているのはレプリカとなっている。 ブラジルへ永久譲渡された後、新しいトロフィーのデザインが一般公募され、この最優秀デザインを元にイタリアの彫刻家であるシルビオ・ガザニガが再デザインし、ミラノの工房にあるGDEベルトーニ社によって作られた。GDEベルトーニ社はUEFAチャンピオンズリーグ、UEFAヨーロッパリーグ、UEFAスーパーカップなどの優勝カップも手掛けている。 ピッチをイメージしたマラカイト装飾入りの18金でできており、高さ36cm(14インチ)、重さ4970g(11ポンド)と、初代のトロフィーより大きく重い。「シュートを決め、『やったぞ!』と両手拳を突き上げ、走って自陣に戻って来る選手」2人が背中合わせで地球を支えているデザイン。このトロフィーは1974年の西ドイツ大会から使用されるようになったが、2002年の日本・韓国大会までにおいては、次回大会までの4年間を優勝国・地域が保管し、次回大会の開会式の時に返却した後にレプリカが授与された。 2005年、アジア大陸と陸続きとなっていた日本列島がきちんと独立した島になるようにデザインがわずかに修正された。18金製で高さも36センチメートルから36.8センチメートル、重さが4,970グラムから6,175グラムへと、さらに大きく重くなった。この3代目トロフィーは2006年のドイツ大会から使用されるようになったが、ジュール・リメ杯が盗まれ行方不明となった教訓から表彰式直後にFIFAが回収・保管することとなり、優勝国のサッカー協会には金メッキの真鍮製のレプリカが贈られるようになった。 ドイツ大会に先駆け、トロフィーは2006年1月から4月にかけて世界28箇国の31箇所を順に巡る形式で「コカ・コーラFIFAワールドカップTMトロフィーツアー」と題し、撮影許可の一般公開が行われた。 2009年9月にエジプト・カイロをスタートし、2010年5月4日に2010 FIFAワールドカップが開催される南アフリカに到着するまで、世界86か国・13万4017kmを巡る。トロフィーを直接触れることができるのは、その大会の優勝国のチーム以外では、トロフィーツアーを訪れる国家元首(大統領、首相、国王など。日本の場合なら内閣総理大臣、天皇・皇后)のみ。一般公開もされるが、前述の人物以外は直接手を触れることができず、特殊なガラスケースに入れられて展示された。 第3回トロフィーツアーは、2013年9月にブラジル・リオ・デ・ジャネイロを皮切りとして、9か月間で89か国・地域を訪れる。今回は中南米大陸(ラテンアメリカ)の39か国・地域を巡行するほか、これまでトロフィーツアーを行わなかった50か国・地域も新たに訪れるとしている。 第4回トロフィーツアーは、2017年9月にロシア国内を巡回し、2018年1月からイギリス・ロンドンで出発式が開催され、50か国以上を巡る。 第5回トロフィーツアーは2022年5月から実施されており、予選を通過した31か国、開催国のカタールを含む世界51か国をめぐる。出発地はカタールに近いアラブ首長国連邦のドバイにあるコカ・コーラ・アリーナでスタートした。日本での公開は、一般公募により2000組4000人のペアを招待し、日本コカ・コーラ本部がある渋谷区で8月27日に開催。 2010年7月、コロンビア・ボゴタの空港でトロフィーのレプリカに擬装したコカイン塊が発見され、摘発された。 塩を振るモーションで有名なトルコのシェフのヌスレット・ギョクチェ(愛称: 塩振りおじさん)が、2022 FIFAワールドカップの決勝の試合後行われた閉会式の後に、無許可でピッチに侵入し、優勝国のアルゼンチンの選手と自撮りしたり、更にはFIFAワールドカップトロフィーに触れたりした。このトロフィーに触れる行為は国際サッカー連盟 (FIFA) の規則で「FIFAワールドカップトロフィーに触れられることができる人物は、FIFAワールドカップ優勝国の選手と国家元首のみ」と定められているため禁止行為にあたる。この塩振りおじさんは国際サッカー連盟により処分されることとなった。
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FIFAワールドカップトロフィーは、FIFAワールドカップの優勝国・地域に贈られるトロフィーである。
{{Infobox Award |name = FIFA World Cup Trophy |image=Finale wereldkampioenschap voetbal 1974 in Munchen, West Duitsland tegen Nederla, Bestanddeelnr 927-3080.jpg |year= 1930(ジュール・リメ杯)<br>1974(FIFAワールドカップトロフィー) |presenter = [[国際サッカー連盟]] |holder= {{fb|ARG}} |description = [[FIFAワールドカップ]]優勝チーム |website= }} '''FIFAワールドカップトロフィー'''(フィファ ワールドカップトロフィー)は、[[FIFAワールドカップ]]の優勝国・地域に贈られる[[トロフィー]]である。 == トロフィーの歴史 == FIFAワールドカップトロフィーは、種類としては2種類、物としては三代ある。 === 1st デザイン (ジュール・リメ杯)=== [[File:Jules Rimet trophy replica.jpg|thumb|ジュール・リメ杯]] 最初のトロフィーはFIFAワールドカップを企画した当時の[[国際サッカー連盟|FIFA]]会長[[ジュール・リメ]]が寄贈したため、その名を冠し'''ジュール・リメ・トロフィー'''と呼ばれる。 製作は、[[フランス]]の[[彫刻家]]である{{仮リンク|アベル・ラフレール|en|Abel Lafleur}}が行った<ref>{{Cite web|url=http://www.vivasoccer.net/archives/1966-1969/1966_3_1.htm|title=ワールド・カップ物語|work=[[牛木素吉郎]]&ビバ!サッカー研究会 公式サイト|date=1966.3|accessdate=2013.5.8}}</ref>。純[[銀]]製に[[金メッキ]]<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/soccer/100611/scr1006111934046-n1.htm 「【W杯のツボ】初代はいずこへ? 奇々怪々のカップ」] MSN産経ニュース [[2010年]][[6月11日]]</ref>で、高さ35[[センチメートル]]、重さは3800[[グラム]]あり、勝利の女神[[ニケ]]が十角形のカップを支える形をしている。[[1970年]]に[[ブラジル]]が3回目の優勝を果たし、その偉業を称えてブラジルに永久に渡されることになった。しかし現在ブラジルで保管されているトロフィーはレプリカである(後述)。 [[2015年]]1月、破損したために取り替えられたオリジナルの台座(第1回から第4回までの大会優勝国の銘が貼られている。盗まれて行方不明になっているのは第5回大会から使用され始めた2代目)がFIFA地下倉庫で偶然に発見された。この部品は2016年にチューリヒに作られた「FIFAワールド・フットボール・ミュージアム」で公開されている<ref>[http://www.soccer-king.jp/news/world/wc/20150114/271144.html 盗まれた初代W杯トロフィー…FIFA本部地下でオリジナルの台座が発見] サッカーキング2015年1月14日</ref>。 === 盗難 === [[第二次世界大戦]]中、カップは[[1938年]]の[[1938 FIFAワールドカップ|第3回大会]]で優勝した[[イタリア]]のローマに保管されていた。[[1943年]]にイタリアが降伏すると、ローマを占領した[[ナチス・ドイツ|ナチス]]が金採取の目的で捜索した。しかし、盗難の危機を察知したイタリアチーム関係者が自宅のベッドの下に靴の箱に入れて命懸けで隠し、難を免れた<ref name="Argentina">[[イタリア]]・[[アルゼンチン]]共同制作「初代トロフィーの数奇な運命〜ワールドカップ物語〜」([[NHK BS1]] [[2011年]][[6月9日]]・[[2013年]][[6月29日]]放送)</ref>。 最初の盗難は[[1966年]]、[[1966 FIFAワールドカップ|イングランド大会]]の前に行っていた展示期間中のことだった。盗難の直後に[[フットボール・アソシエーション|イングランドサッカー協会]]に金銭を要求する脅迫状が届き、警察のおとり捜査によって港湾労働者の男が逮捕された。しかしこの男は別の男に500ポンドで雇われて受け渡しを頼まれただけだと主張し、カップは見つからなかった。しかし数日後、ロンドン郊外のある一般住宅のピクルスという子犬が、自宅の庭で新聞紙に包まれたトロフィーを発見し、事なきを得た。この子犬は一躍ヒーローとなり、1年分のペットフードが贈られたり、映画に出演したりするなどしたという<ref name="Argentina"/>。 2度目の盗難は、ブラジルに永久譲渡された後の[[1983年]]に起きた。当時のブラジルは政治・経済の混乱期で犯罪が多発していたうえに、[[ブラジルサッカー連盟]]のドアには鍵がかけられておらず、警備員も一人しかいなかった。しばらくして容疑者が逮捕された(元ブラジルサッカー連盟職員のセルジオ・ペレイラという銀行員と、この銀行員に窃盗を依頼したとされる無職一般人の男2名)。 しかし、必死の捜査にもかかわらずトロフィーそのものは現在も見つかっていない。公式には現在も捜査中というが、イタリア人の富豪がカップほしさに購入したという説や、[[アルゼンチン人]]の妬みによる犯行という説まである<ref name="Argentina"/>。そのため、現在ブラジルに保管されているのは[[レプリカ]]となっている<ref name="sportsnavi">[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/wcup/06germany/column/200602/at00008100.html FIFAワールドカップトロフィーが日本に上陸 川淵キャプテン「今回は遠りょします」 !?]スポーツナビ 2006年02月24日</ref>。 === 2nd デザイン === ブラジルへ永久譲渡された後、新しいトロフィーのデザインが一般公募され、この最優秀デザインを元に[[イタリア]]の彫刻家である[[シルビオ・ガザニガ]]が再デザインし、[[ミラノ]]の工房にあるGDEベルトーニ社によって作られた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.vivasoccer.net/archives/1973-1975/1974_3_wm74_1.htm|title=本大会の組合せ決まる!前景気盛りあがるワールドカップ!!|work=牛木素吉郎&ビバ!サッカー研究会|date=1974.3|accessdate=2013.8.31}}</ref>。GDEベルトーニ社はUEFAチャンピオンズリーグ、UEFAヨーロッパリーグ、UEFAスーパーカップなどの優勝カップも手掛けている<ref>{{Cite web|和書|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/855826 |title=W杯トロフィー「門外不出の製造過程」を特別に撮った…4代目女性社長いわく「情熱が工房の隅々にまで息づいています」 |access-date=2022-12-20}}</ref>。 ピッチをイメージした[[マラカイト]]装飾入りの[[18金]]でできており、高さ36[[センチメートル|cm]](14[[インチ]])、重さ4970[[グラム|g]](11[[ポンド (質量)|ポンド]])と、初代のトロフィーより大きく重い。「[[シュート (サッカー)|シュート]]を決め、『やったぞ!』と両手拳を突き上げ、走って自陣に戻って来る選手」2人が背中合わせで地球を支えているデザイン。このトロフィーは[[1974年]]の[[1974 FIFAワールドカップ|西ドイツ大会]]から使用されるようになったが、[[2002年]]の[[2002 FIFAワールドカップ|日本・韓国大会]]までにおいては、次回大会までの4年間を優勝国・地域が保管し、次回大会の開会式の時に返却した後にレプリカが授与された。 === デザインの改良 === [[2005年]]、[[アジア大陸]]と陸続きとなっていた[[日本列島]]がきちんと独立した島になるようにデザインがわずかに修正された。[[18金]]製で高さも36センチメートルから36.8センチメートル、重さが4,970グラムから6,175グラムへと<ref name="sportsnavi" />、さらに大きく重くなった。この3代目トロフィーは[[2006年]]の[[2006 FIFAワールドカップ|ドイツ大会]]から使用されるようになったが、ジュール・リメ杯が盗まれ行方不明となった教訓から表彰式直後にFIFAが回収・保管することとなり、優勝国のサッカー協会には金メッキの真鍮製のレプリカが贈られるようになった。 === 画像ギャラリー === <gallery widths="330px" heights="380px"> |ジュール・リメ・トロフィー(レプリカ) File:FIFA World Cup Trophy (Jules Rimet Trophy) at National Football Museum, Manchester 02.jpg </gallery> == FIFAワールドカップトロフィーツアー == === 第1回・[[2006年]]([[ドイツ]]大会) === ドイツ大会に先駆け、トロフィーは2006年[[1月]]から[[4月]]にかけて世界28箇国の31箇所を順に巡る形式で「[[コカ・コーラ]]FIFAワールドカップ™トロフィーツアー」と題し、撮影許可の一般公開が行われた。 === 第2回・[[2010年]]([[南アフリカ]]大会) === [[2009年]][[9月]]に[[エジプト]]・[[カイロ]]をスタートし、2010年[[5月4日]]に[[2010 FIFAワールドカップ]]が開催される南アフリカに到着するまで、世界86か国・13万4017kmを巡る。トロフィーを直接触れることができるのは、その大会の優勝国のチーム以外では、トロフィーツアーを訪れる[[国家元首]]([[大統領]]、[[首相]]、[[国王]]など。[[日本]]の場合なら[[内閣総理大臣]]、[[天皇]]・[[皇后]])のみ。一般公開もされるが、前述の人物以外は直接手を触れることができず、特殊なガラスケースに入れられて展示された<ref>以上の出典 [[FIFAフットボール・ムンディアル]]([[GAORA]]・[[毎日放送]] [[2010年]]1月放送)</ref>。 === 第3回・[[2014年]]([[ブラジル]]大会) === 第3回トロフィーツアーは、[[2013年]][[9月]]にブラジル・[[リオ・デ・ジャネイロ]]を皮切りとして、9か月間で89か国・地域を訪れる。今回は中南米大陸(ラテンアメリカ)の39か国・地域を巡行するほか、これまでトロフィーツアーを行わなかった50か国・地域も新たに訪れるとしている<ref>[http://www.bloomberg.co.jp/article/2013-09-17/aB1nWgQs_UPE.html コカ・コーラとFIFAが世界最大のFIFAワールドカップ・トロフィーツアーをリオデジャネイロからスタート](ブルームバーグ 2013年9月17日 2014年2月6日閲覧)</ref>。 === 第4回・[[2018年]]([[ロシア]]大会) === 第4回トロフィーツアーは、[[2017年]][[9月]]にロシア国内を巡回し、2018年1月からイギリス・ロンドンで出発式が開催され、50か国以上を巡る。 === 第5回・[[2022年]]([[カタール]]大会)=== 第5回トロフィーツアーは[[2022年]][[5月]]から実施されており、予選を通過した31か国、開催国のカタールを含む世界51か国をめぐる。出発地はカタールに近い[[アラブ首長国連邦]]の[[ドバイ]]にある[[コカ・コーラ・アリーナ]]でスタートした<ref>[https://www.fifa.com/fifaplus/ja/articles/fifa-world-cup-tm-trophy-tour-by-coca-cola-kicks-off-global-journey-in-dubai-ja FIFA ワールドカップのトロフィー世界ツアーがドバイからスタート](FIFA.com)</ref>。[[日本]]での公開は、一般公募により2000組4000人のペアを招待し、[[日本コカ・コーラ]]本部がある[[渋谷区]]で8月27日に開催<ref>[https://c.cocacola.co.jp/app/trophy2022/ FIFAワールドカップオリジナルトロフィーが間近で見れるチャンス!]</ref>。 == 事件 == === コカイン偽トロフィー事件 === {{節スタブ}}[[2010年]][[7月]]、[[コロンビア]]・[[ボゴタ]]の[[空港]]でトロフィーのレプリカに擬装した[[コカイン]]塊が発見され、摘発された<ref>[https://web.archive.org/web/20100707010820/http://www.yomiuri.co.jp/wcup/2010/news/etc/news/20100705-OYT1T00472.htm 「コカインで作った!W杯トロフィー、空港で押収」] [[読売新聞]] 2010年7月5日付け</ref>。 === 塩振りおじさんによる接触事件 === 塩を振るモーションで有名な[[トルコ]]の[[シェフ]]の[[塩振りおじさん|ヌスレット・ギョクチェ]](愛称: 塩振りおじさん)が、[[2022 FIFAワールドカップ]]の[[2022 FIFAワールドカップ・決勝|決勝]]の試合後行われた閉会式の後に、無許可でピッチに侵入し、優勝国の[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]の選手と自撮りしたり、更にはFIFAワールドカップトロフィーに触れたりした。このトロフィーに触れる行為は[[国際サッカー連盟]] (FIFA) の規則で「FIFAワールドカップトロフィーに触れられることができる人物は、[[FIFAワールドカップ]]優勝国の選手と国家元首のみ」と定められているため禁止行為にあたる。この塩振りおじさんは国際サッカー連盟により処分されることとなった<ref>{{Cite web|和書|title=独特な“塩振り”フォームで有名なシェフ、禁止されているW杯トロフィーへの接触などでFIFAが処分へ…会長の数少ないフォローからも外される |url=https://news.livedoor.com/article/detail/23426726/ |website=ライブドアニュース |access-date=2022-12-23 |language=ja}}</ref>。 == 授与国 == === ジュール・リメ・トロフィー === * {{URUf}} - 1930,1950 * {{ITAf}} - 1934,1938 * {{FRGf}} - 1954 * {{BRAf}} - 1958,1962,1970 * {{ENGf}} - 1966 === FIFAワールドカップトロフィー === * {{GERf}}<ref group="注">[[1974年]]と[[1990年]]は[[西ドイツ]]として。</ref> - 1974,1990,2014 * {{ARGf}} - 1978,1986,2022 * {{ITAf}} - 1982,2006 * {{BRAf}} - 1994,2002 * {{FRAf}} - 1998,2018 * {{ESPf}} - 2010 === 合計 === {| class="wikitable" !授与国!!ジュール・リメ・トロフィー!!FIFAワールドカップトロフィー!!合計 |- |{{BRAf}}||3||rowspan="2"|2||5 |- |{{ITAf}}||2||rowspan="2"|4 |- |{{GERf}}||1<ref group="注">西ドイツとして。</ref>||3<ref group="注">内、2回は西ドイツとして。</ref> |- |{{ARGf}}||0||3||3 |- |{{URUf}}||2||0|| rowspan="2" |2 |- |{{FRAf}}||0 |2 |- |{{ENGf}}||1||0 | rowspan="2" |1 |- |{{ESPf}} |0 |1 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat|FIFA World Cup trophy}} * {{PDFlink|[http://www.fifa.com/mm/document/fifafacts/r&a-awards/52/01/04/fs-399_09a_comp-trophies.pdf FIFA Trophies]}} * [http://www.gdebertoni.com/ GDEベルトーニ] {{FIFAワールドカップ}} {{国際サッカー連盟}} {{デフォルトソート:ふいふあわあるとかつふとろふい}} [[Category:トロフィー|FIFAわあるとかつふ]] [[Category:FIFAワールドカップ|とろふい]]
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パンダ金貨
パンダ金貨(パンダきんか、熊猫金幣)は、中国造幣公司より発行されている地金型金貨。1982年から毎年発行されている。 金の純度は99.9パーセント以上。1トロイオンス、1/2トロイオンス、1/4トロイオンス、1/10トロイオンス、1/20トロイオンスの5種がある。 表面にはジャイアントパンダ、裏面には北京天壇が描かれている。 表面のパンダは毎年デザインが変わり、発行年によっては 収集家によって高額で取引される。このため、パンダ金貨は 地金型金貨と収集型金貨の性質を併せ持つと言われている。ただし、保証純度は.999であるため地金商での買い取り金額は一般的に低い。また(発行数などの問題で)流動性が低い、地金市場での信頼性は若干劣ると言われる。 直径が70ミリのパンダ金貨は12オンスで、額面は1000元。 1トロイオンスは31.1gなので、373.2gである。
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フェレット
フェレット(英:ferret, white footed ferret)は、イタチ科に属する肉食性の哺乳小動物である。 ヨーロッパケナガイタチもしくはステップケナガイタチから家畜化されたもので、古くからヨーロッパで飼育され、現在は世界中で飼われている。狩猟、実験、毛皮採取、愛玩用に用いられる。体長は、成体で35 - 50cmほど。メスの方が小さい傾向にある。視力はあまり良くないが嗅覚と聴覚は発達している。また動体視力はある程度優れており、動くものに対して反応を示す。毛色は様々である。犬歯が発達しており、歯の本数は上下で34本である。内訳は上顎が前歯6本、犬歯2本、小さな奥歯6本、大きな奥歯2本、下顎が前歯6本、犬歯2本、小さな奥歯8本、大きな奥歯2本である。体温は38 °Cで人間より高い、また体温調整機能が未発達なため、40 °Cを超えやすい。交尾はオスがメスを激しく背後から噛みながら行われる。交尾の際は外敵による捕食の危険が多いため、噛む刺激でメスの排卵を促し、受精を確実なものとするためと言われている。妊娠期間は42日ほどで、赤ん坊は平均体重が10 gほど、8匹ほど産まれる。離乳期間は35日ほどである。寿命は約6 - 12年。 かつて狩りに使われるフェレットは獲物と見分けやすいように、アルビノが多く使われた。そのためフェレットが日本に紹介される際にフェレットの別名であるフィッチ(fitch)が「白イタチ」と訳されるようになった。実際に日本で動物実験で使われるフェレットはアルビノなどの白い毛皮を持つ個体が多かった。博物学者であり二名法を定着させたリンネもフェレットのことを白イタチと記述している。フェレットが野生のヨーロッパケナガイタチと異なり、白色か薄い黄色であるので「白イタチ」と呼ばれるというのは誤解である。 フェレットは野生のヨーロッパケナガイタチMustela putoriusもしくはステップケナガイタチ M. eversmanniを家畜化、改良したものとされているが、詳細は不明であり、3000年ほど前から飼育されていたと考えられている。学名(ラテン語)の「Mustela putorius furo」は「イタチ・悪臭・泥棒」の意味であり、furo(泥棒)はFerretの語源である。 アリストテレスは「動物誌」の中で「イタチ」と「野生イタチ」を分けて記述しており、「イタチ」は今でいう人間が飼育しているフェレット、“野生イタチ”は野生のケナガイタチを指しているのだと考えられている。 ギリシアの歴史家ストラボンはその著書の中でフェレットはアフリカからスペインに移入されたと記している(しかしヨーロッパケナガイタチもステップケナガイタチももともとアフリカには生息していない)。 学名 M. p. furo は、ヨーロッパケナガイタチの亜種の扱いである。M. putorius の亜種とせず、M. furo とされる場合もある。 その昔、ヨーロッパにおいて、フェレットは狩りに珍重されていた。フェレットがウサギや齧歯類などの獲物を巣穴から追い出し、それを猟師が狩るという方法で、今でもイギリスやオーストラリアでは続いている。また、ネコと同様、ネズミ退治にも利用された。ミンクなどの毛皮の代用品としても利用された。 フェレットは狭い管の掃除にも用いられた。フェレットの習性を利用して紐を2点の管に通して、それからブラシを通して管の中を掃除するという方法である。電気が普及すると、フェレットに電線やケーブルに繋いだ紐を繋ぎ、狭いところの配線を手伝わせていた。1908年のロンドンオリンピックでもフェレットは上記の工事に大活躍をした。 現在は、アメリカ合衆国・カナダ・ニュージーランド等に、ペット等としてのフェレットを繁殖させる大規模なファームがあり、出身ファームごとに「マーシャル」、「パスバレー」、「カナディアン」、「ミスティック」、「サウスランド」、「マウンテンビュー」などと、ファームの名称が冠されて販売されている。ただし、犬・猫のように明確な品種の差があるわけではなく、基本的には全て同様のフェレットであるが、ファームにより体格・性格・毛色等の傾向に一定の差があり、それぞれにファンがついている。 近年では新たなファームが出現と消滅を繰り返している状況で、一時アジア、オセアニア圏の新興ファームが日本向けに生体を輸出したこともあった。現在では中華人民共和国で繁殖された個体もペットとして輸入、販売されている。 コンパニオンアニマルとしての繁殖、飼育以外に、実験動物としてもフェレットは世界中で広く飼育されている。 日本において本格的にペットとして認知され始めたのは1993年春、米国人のマイケル・E・コールマンが臭腺除去、避妊手術を施したマーシャルフェレットを輸入して日本に紹介を始めた頃と言われている。当初ペット流通業者の扱いは少なくペットショップミヤザワが取り扱いを主に行っていた。マイケル・E・コールマンは国際フェレット協会を設立し、フェレットの普及に努めた。獣医師の野村潤一郎もその活動に参加し、飼育書を執筆したり、テレビ番組「笑っていいとも!」に出演するなどして紹介を行った。その活動が実り1995年頃から一般的にも広く知られるようになった。国際フェレット協会は公的な機関ではなく、半ば動物輸入会社の性格を持つものであり、両氏の活動はマーシャルフェレットの宣伝活動でもあった。そのため現在でも日本ではマーシャルフェレットが1番のブランドとなっている。 フェレットの行動は、まるで成長しない子猫のようであり、一生活発で好奇心が強い。しかしフェレットは、一般的にネコよりも人間に懐き、飼い主との遊びを好む。 トイレのしつけや簡単な芸を覚えさせることも可能で、YouTubeなどの動画投稿サイトでは飼い主がフェレットに芸をさせている様子を撮影した動画が多数公開されている。 普段の鳴き声はあまり大きくなく、機嫌が良い時は「クックックッ」、機嫌が悪い時は「シャーッ」と鳴く程度である。また幼少の頃兄弟から引き離されるとさみしさのため「ブェ、ブェ」というベビ泣きと呼ばれる泣き声もあげる。いずれも小さな音であり、鳴き声によって隣家や隣室に迷惑をかけることはほとんどない。ただし、非常に驚いた時などは「キャン!」と犬が吠える程の大声で鳴くことが稀にある。 家畜用に品種改良されてきたため飼い主から離れたフェレットが自然界で生き延びることができる可能性は非常に低いと考えられている。また、ペットのフェレットは、発情期に体臭が非常に強くなったり、凶暴になることを嫌う飼い主が多いため、大手供給社のペットは去勢・避妊されている。このような理由から、逃げ出したフェレットが野生化して増え、群れを形成するという心配はないと考えられている。 前述したように、一般的にフェレットには犬・猫における犬種・猫種のようなものはなく、主に出身ファーム、披毛のカラー・パターンなどで分類される。品種差で分類される例外的なフェレットとしては、北欧で突然変異的に発生した披毛が極端に長くなる個体の遺伝的性質を、選択的な繁殖によって人為的に固定した「アンゴラフェレット」が挙げられる。この種類のフェレットは、その体格、骨格、性質などの面で他の一般的なフェレットと異なる点が多いと言われる。 特に目立つ差異としては、前述したように披毛が非常に長くなること(ただし個体差があり、非常に長い披毛を持つものから、一般的なフェレットと変わらないものまでいる)、鼻の形が独特で、鼻腔内や鼻の表面にも短い毛が生えていること(こちらも個体差があり、一般的なフェレットと変わらないものもいる)等が挙げられる。また、性格がきつく、攻撃的で懐きにくい個体も多いと言われている。 なお、北米や日本で開催されるフェレットショーにおいては、アンゴラフェレットは一般的なフェレットとは異なるものとされ、原則として出場できない。ただしアンゴラの人気が高く、飼育頭数の多い日本においては、特例的にアンゴラフェレットに特化したクラスが設けられており、このクラスにのみ出場することができる。なお、ヨーロッパなどで開催されているフェレットショーはこれらとは全く異なる基準で行われているため、出場制限のない場合もある。 フェレットは壁の穴や戸棚、電化製品の裏側に好んで入り込む。そのため、ファンや配線が露出していないか、暖房の排管がないか、危険な物が落ちていないか、などに留意する。また、落ちているものを運んだり噛んだりする。フェレットにとっての適温は、一般的には15°Cから22°Cと言われている(多少の個体差有り)。目安としては、フェレットの体感温度は実気温+7°C。 汗腺が全くない(生まれた直後は肉球にのみあるが、生後数日で消失)ので夏の暑さにとても弱く、室温が28°Cを越えると熱中症になる危険がある。冬でもよく晴れた日に窓際にケージを長時間置いて熱中症になったというケースがある。フェレットについてあまり知識のないままインターネットなどを通じてフェレットを譲り受けてしまい、届いてみるとまだ避妊、去勢、肛門腺(所謂「臭腺」)除去の手術がされておらず、予想外の臭いや発情行動に不快感をもち、処分してしまうケースもある。 上記の通り、元来がイタチ科であるフェレットの肛門脇には肛門腺があり、外敵に襲われた時や興奮した際などにスカンクのように非常に臭い液を飛ばす。「イタチの最後っ屁」とも呼ばれる自己防衛行動である。前述のしっかりと管理された大手メーカー・ファームにより繁殖されたものであれば、除去済み生体がショップで販売されているが、個人のブリーダーや繁殖元が不明のものだと、除去手術されていない場合もある。また、除去手術がされてあっても、きちんと抜糸されていない場合や、少数ながら除去手術に失敗している場合もある。 上記のような未手術のフェレットは、動物としてのフェレット本来の姿を保っているものとして一部の愛好家によって好まれるが、発情時の行動や体調の問題(フェレットの病気を参照)、肛門腺分泌物や体臭による強い臭気などの問題もあり、一般的なペットとは言いがたい面もある。 アメリカの例であるが、一家が寝ている夜間に生後約6ヶ月のペットのフェレットが約4ヶ月の乳児の指7本を食いちぎったニュースがあった。乳幼児のいる家庭では注意が必要である。 また、咬まれる事でフェレットが保有している病原体が原因となる感染症に罹患する恐れがあり、2002年に蜂窩織炎を発症し2019年に死亡した事例が報道された。 狂犬病ウイルスを保有している可能性が否定出来ない場合は、咬まれた後に狂犬病を発症しないために狂犬病ワクチンの接種を行う事がある。
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フェレットは、イタチ科に属する肉食性の哺乳小動物である。
{{Otheruses|動物|その他|フェレット (曖昧さ回避)}} {{出典の明記|date=2013年5月31日 (金) 06:03 (UTC)}} {{生物分類表 |省略 = 哺乳綱 |名称 = フェレット |画像=[[ファイル:Furets_albinos_champagne_et_zibeline_sable.jpg|250px|フェレット]] |目 = [[食肉目]] [[w:Carnivora|Carnivora]] |亜目 = [[イヌ型亜目]] [[w:Caniformia|Caniformia]] |科 = [[イタチ科]] [[w:Mustelidae|Mustelidae]] |属 = [[イタチ属]] ''[[w:Weasel|Mustela]]'' |種 = [[ヨーロッパケナガイタチ]]<br>''M. putorius'' |亜種 = '''フェレット''' ''M. p. furo'' |学名 = ''Mustela putorius furo'' [[カール・フォン・リンネ|Linnaeus]], [[1758年|1758]] |和名 = フェレット |英名 = [[w:Ferret|Ferret]] }} '''フェレット'''(英:ferret, white footed ferret)は、[[イタチ科]]に属する[[肉食動物|肉食性]]の[[哺乳類|哺乳]]小動物である。 == 概要 == [[ヨーロッパケナガイタチ]]もしくはステップケナガイタチから[[家畜]]化されたもので、古くから[[ヨーロッパ]]で飼育され、現在は世界中で飼われている。[[狩猟]]、[[実験動物|実験]]、[[毛皮]]採取、愛玩用に用いられる。体長は、成体で35 - 50[[センチメートル|cm]]ほど。メスの方が小さい傾向にある。[[視力]]はあまり良くないが[[嗅覚]]と[[聴覚]]は発達している。また[[動体視力]]はある程度優れており、動くものに対して反応を示す。毛色は様々である。[[犬歯]]が発達しており、歯の本数は上下で34本である。内訳は上顎が前歯6本、犬歯2本、小さな奥歯6本、大きな奥歯2本、下顎が前歯6本、犬歯2本、小さな奥歯8本、大きな奥歯2本である。[[体温]]は38 ℃で人間より高い、また体温調整機能が未発達なため、40 ℃を超えやすい。[[交尾]]はオスがメスを激しく背後から噛みながら行われる。交尾の際は外敵による[[捕食]]の危険が多いため、噛む刺激でメスの[[排卵]]を促し、[[受精]]を確実なものとするためと言われている。[[妊娠]]期間は42日ほどで、赤ん坊は平均体重が10 gほど、8匹ほど産まれる。[[離乳]]期間は35日ほどである。[[寿命]]は約6 - 12年。 かつて狩りに使われるフェレットは獲物と見分けやすいように、[[アルビノ]]が多く使われた。そのためフェレットが日本に紹介される際にフェレットの別名である'''フィッチ'''(fitch)が「白イタチ」と訳されるようになった。実際に日本で動物実験で使われるフェレットはアルビノなどの白い毛皮を持つ個体が多かった。[[博物学]]者であり[[二名法]]を定着させた[[カール・フォン・リンネ|リンネ]]もフェレットのことを白イタチと記述している。フェレットが[[野生動物|野生]]のヨーロッパケナガイタチと異なり、白色か薄い黄色であるので「白イタチ」と呼ばれるというのは誤解である。 == 歴史 == フェレットは野生のヨーロッパケナガイタチ''Mustela putorius''もしくはステップケナガイタチ'' M. eversmanni''を家畜化、改良したものとされているが、詳細は不明であり、3000年ほど前から飼育されていたと考えられている。学名(ラテン語)の「Mustela putorius furo」は「イタチ・悪臭・泥棒」の意味であり、furo(泥棒)はFerretの語源である。 [[アリストテレス]]は「[[動物誌 (アリストテレス)|動物誌]]」の中で「イタチ」と「野生イタチ」を分けて記述しており、「イタチ」は今でいう人間が飼育しているフェレット、“野生イタチ”は野生のケナガイタチを指しているのだと考えられている。 ギリシアの歴史家[[ストラボン]]はその著書の中でフェレットはアフリカからスペインに移入されたと記している(しかしヨーロッパケナガイタチもステップケナガイタチももともとアフリカには生息していない)。 学名 ''M. p. furo'' は、ヨーロッパケナガイタチの亜種の扱いである。''M. putorius'' の亜種とせず、''M. furo'' とされる場合もある。 その昔、ヨーロッパにおいて、フェレットは狩りに珍重されていた。フェレットが[[ウサギ]]や[[齧歯目|齧歯類]]などの獲物を巣穴から追い出し、それを猟師が狩るという方法で、今でも[[イギリス]]や[[オーストラリア]]では続いている。また、[[ネコ]]と同様、ネズミ退治にも利用された。ミンクなどの毛皮の代用品としても利用された。 フェレットは狭い[[管]]の[[掃除]]にも用いられた。フェレットの習性を利用して紐を2点の管に通して、それから[[ブラシ]]を通して管の中を掃除するという方法である。[[電気]]が普及すると、フェレットに[[電線]]や[[ケーブル]]に繋いだ[[紐]]を繋ぎ、狭いところの[[配線]]を手伝わせていた。[[1908年]]の[[ロンドンオリンピック (1908年)|ロンドンオリンピック]]でもフェレットは上記の工事に大活躍をした。 現在は、[[アメリカ合衆国]]・[[カナダ]]・[[ニュージーランド]]等に、[[ペット]]等としてのフェレットを繁殖させる大規模なファームがあり、出身ファームごとに「マーシャル」、「パスバレー」、「カナディアン」、「ミスティック」、「サウスランド」、「マウンテンビュー」などと、ファームの名称が冠されて販売されている。ただし、犬・猫のように明確な品種の差があるわけではなく、基本的には全て同様のフェレットであるが、ファームにより体格・性格・毛色等の傾向に一定の差があり、それぞれにファンがついている。 近年では新たなファームが出現と消滅を繰り返している状況で、一時[[アジア]]、[[オセアニア]]圏の新興ファームが日本向けに生体を輸出したこともあった。現在では[[中華人民共和国]]で繁殖された個体もペットとして輸入、販売されている。 [[ペット#コンパニオンアニマル|コンパニオンアニマル]]としての繁殖、飼育以外に、[[実験動物]]としてもフェレットは世界中で広く飼育されている。 == ペットとしてのフェレット == 日本において本格的にペットとして認知され始めたのは[[1993年]]春、米国人のマイケル・E・コールマンが臭腺除去、避妊手術を施したマーシャルフェレットを輸入して日本に紹介を始めた頃と言われている。当初ペット流通業者の扱いは少なくペットショップミヤザワが取り扱いを主に行っていた。マイケル・E・コールマンは国際フェレット協会を設立し、フェレットの普及に努めた。獣医師の野村潤一郎もその活動に参加し、飼育書を執筆したり、テレビ番組「[[笑っていいとも!]]」に出演するなどして紹介を行った。その活動が実り1995年頃から一般的にも広く知られるようになった。国際フェレット協会は公的な機関ではなく、半ば動物輸入会社の性格を持つものであり、両氏の活動はマーシャルフェレットの宣伝活動でもあった。そのため現在でも日本ではマーシャルフェレットが1番のブランドとなっている。 フェレットの行動は、まるで成長しない子猫のようであり、一生活発で好奇心が強い。しかしフェレットは、一般的にネコよりも[[人間]]に懐き、飼い主との遊びを好む。 トイレのしつけや簡単な芸を覚えさせることも可能で、[[YouTube]]などの動画投稿サイトでは飼い主がフェレットに芸をさせている様子を撮影した動画が多数公開されている。 普段の鳴き声はあまり大きくなく、機嫌が良い時は「クックックッ」、機嫌が悪い時は「シャーッ」と鳴く程度である。また幼少の頃兄弟から引き離されるとさみしさのため「ブェ、ブェ」というベビ泣きと呼ばれる泣き声もあげる。いずれも小さな音であり、鳴き声によって隣家や隣室に迷惑をかけることはほとんどない。ただし、非常に驚いた時などは「キャン!」と犬が吠える程の大声で鳴くことが稀にある。 家畜用に品種改良されてきたため飼い主から離れたフェレットが自然界で生き延びることができる可能性は非常に低いと考えられている。また、ペットのフェレットは、発情期に体臭が非常に強くなったり、凶暴になることを嫌う飼い主が多いため、大手供給社のペットは[[去勢]]・[[避妊]]されている。このような理由から、逃げ出したフェレットが野生化して増え、群れを形成するという心配はないと考えられている。 == アンゴラフェレットについて == [[image:Angora_Ferret_Ranko.JPG|180px|thumb|アンゴラフェレット]] 前述したように、一般的にフェレットには犬・猫における犬種・猫種のようなものはなく、主に出身ファーム、披毛のカラー・パターンなどで分類される。品種差で分類される例外的なフェレットとしては、北欧で突然変異的に発生した披毛が極端に長くなる個体の遺伝的性質を、選択的な繁殖によって人為的に固定した「アンゴラフェレット」が挙げられる。この種類のフェレットは、その体格、骨格、性質などの面で他の一般的なフェレットと異なる点が多いと言われる。 特に目立つ差異としては、前述したように披毛が非常に長くなること(ただし個体差があり、非常に長い披毛を持つものから、一般的なフェレットと変わらないものまでいる)、鼻の形が独特で、鼻腔内や鼻の表面にも短い毛が生えていること(こちらも個体差があり、一般的なフェレットと変わらないものもいる)等が挙げられる。また、性格がきつく、攻撃的で懐きにくい個体も多いと言われている。 なお、北米や日本で開催されるフェレットショーにおいては、アンゴラフェレットは一般的なフェレットとは異なるものとされ、原則として出場できない。ただしアンゴラの人気が高く、飼育頭数の多い日本においては、特例的にアンゴラフェレットに特化したクラスが設けられており、このクラスにのみ出場することができる。なお、ヨーロッパなどで開催されているフェレットショーはこれらとは全く異なる基準で行われているため、出場制限のない場合もある。 == 飼う際の注意 == フェレットは壁の穴や戸棚、電化製品の裏側に好んで入り込む。そのため、ファンや配線が露出していないか、暖房の排管がないか、危険な物が落ちていないか、などに留意する。また、落ちているものを運んだり噛んだりする。フェレットにとっての適温は、一般的には15℃から22℃と言われている(多少の個体差有り)。目安としては、フェレットの体感温度は実気温+7℃。 汗腺が全くない(生まれた直後は肉球にのみあるが、生後数日で消失)ので夏の暑さにとても弱く、室温が28℃を越えると[[熱中症]]になる危険がある。冬でもよく晴れた日に窓際にケージを長時間置いて熱中症になったというケースがある。フェレットについてあまり知識のないままインターネットなどを通じてフェレットを譲り受けてしまい、届いてみるとまだ避妊、去勢、肛門腺(所謂「臭腺」)除去の手術がされておらず、予想外の臭いや発情行動に不快感をもち、処分してしまうケースもある。 上記の通り、元来がイタチ科であるフェレットの肛門脇には[[肛門腺]]があり、外敵に襲われた時や興奮した際などに[[スカンク]]のように非常に臭い液を飛ばす。「イタチの最後っ屁」とも呼ばれる自己防衛行動である。前述のしっかりと管理された大手メーカー・ファームにより繁殖されたものであれば、除去済み生体がショップで販売されているが、個人のブリーダーや繁殖元が不明のものだと、除去手術されていない場合もある。また、除去手術がされてあっても、きちんと抜糸されていない場合や、少数ながら除去手術に失敗している場合もある。 上記のような未手術のフェレットは、動物としてのフェレット本来の姿を保っているものとして一部の愛好家によって好まれるが、発情時の行動や体調の問題(フェレットの病気を参照)、肛門腺分泌物や体臭による強い臭気などの問題もあり、一般的なペットとは言いがたい面もある。 === 咬傷症 === アメリカの例であるが、一家が寝ている夜間に生後約6ヶ月のペットのフェレットが約4ヶ月の乳児の指7本を食いちぎったニュースがあった<ref>{{Cite news |url=http://www.cnn.co.jp/usa/30001488.html |title=ペットのフェレット、乳児の指7本食いちぎる |newspaper=CNN.co.jp |publisher=Cable News Network |date=2011-01-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110115042618/http://www.cnn.co.jp/usa/30001488.html |archivedate=2011年1月15日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。乳幼児のいる家庭では注意が必要である。 また、咬まれる事でフェレットが保有している病原体が原因となる感染症に罹患する恐れがあり、2002年に[[蜂窩織炎]]を発症し2019年に死亡した事例が報道された<ref>[https://mainichi.jp/articles/20191106/k00/00m/040/304000c フェレットにかまれ感染症で死亡の警官 公務災害と認定 大分県警] 毎日新聞2019年11月6日</ref>{{要検証|date=2019年11月|title=事例は野良化した個体がキャリアになったものであって、ペットとしての飼育の注意点に示すものとして適切か?}}。 === 狂犬病 === [[狂犬病ウイルス]]を保有している可能性が否定出来ない場合は、咬まれた後に[[狂犬病]]を発症しないために狂犬病ワクチンの接種を行う事がある<ref>高山直秀, 「[https://doi.org/10.11150/kansenshogakuzasshi1970.78.274 狂犬病を疑われたフェレットに咬まれて狂犬病曝露後発病予防を行った1例]」『感染症学雑誌』 78巻 3号 2004年 p.274-276, {{doi|10.11150/kansenshogakuzasshi1970.78.274}}。</ref>。 == フェレットの病気 == ; 中毒を起こしたり、病気の原因となる食物 : [[チョコレート]]、[[タマネギ]]、[[コーヒー]]、[[茶]]など。 : チョコレートの場合、原料のカカオ由来の[[アルカロイド]]である[[テオブロミン]]の覚醒効果が原因で中毒を起こす。 : これは、テオブロミンを体内で代謝する能力が低いため、一旦フェレットがテオブロミンを含む食物を摂取すると、長時間にわたって高濃度のまま体内に留まるためである。チョコレートをうっかり1枚食べさせてしまい、死んでしまったという症例もある。 : タマネギなどのネギ類の場合、含有するアリルプロピルジスルフィドなどの[[硫化物]]が[[ヘモグロビン]]を変性させることにより、[[赤血球]]を破壊し、溶血性貧血を発症させる。一般に[[タマネギ中毒]]と呼ばれるが、タマネギ以外にも長ネギ、[[ニンニク]]、[[ニラ]]などの[[ネギ属]]に属する野菜の摂取によっても発症する可能性がある。ネギ類に含まれる[[スルフィド]]類の多くは水溶性であり、加熱しても分解されないため、直接原因となるネギ類を食べさせなくても、そのエキスを含む食品を摂取するだけで発症する可能性がある。 : 緑茶、コーヒー、紅茶などに含まれる[[カフェイン]]は、テオブロミンに似た構造を持ち、同様の覚醒効果を持つため。カフェインとテオブロミンは共通の骨格を持ち、カフェインの1位の[[メチル基]]が外れたものがテオブロミンである。詳細は[[カフェイン]] および [[テオブロミン]]の項を参照の事。 : その他の人間が口にする食品や飲料などについても、フェレットにとっては塩分や糖分などが過剰となる可能性が高い。このためこのような物を日常から摂取していると、人間で言うところの生活習慣病に近い病気に罹りやすくなることが考えられる。 == フェレットに関する法規制など == ; 日本 : 現在のところ、国内でフェレットの販売、流通、飼育、繁殖を制限する法律等は無い。 : ただし、北海道では、2001年10月に施行された「[https://web.archive.org/web/20080309165724/http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/skn/aigo/jyourei.htm 北海道動物の愛護及び管理に関する条例]」第2条第3号に基づき、[http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/skn/aigo/kisokuhonbun.htm 施行規則]においてフェレットが「特定移入動物」に指定され、「飼い主が特定移入動物の飼養を開始したときは、その開始の日から30日以内に、規則で定めるところにより、その旨を知事に届け出なければならない。飼養を休止し、又は廃止したときも、同様とする」とされている。 <!--== フェレットが登場する作品 == === 小説 === *[[フェレット物語]]シリーズ([[リチャード・バック]])新潮社 *[[いたずらフェレットは容疑者]] [[ペット探偵2]] ランダムハウス講談社(2007年8月2日) ISBN 978-4270101131 *[[虚航船団]]([[筒井康隆]]、1984年) - 文具船の乗員が攻撃を加える鼬の惑星の住人についての記述に「フェレット」の言及がある。 なお、作中この惑星は「凶暴なイタチ十種」の住む流刑地として描かれているが、フェレットそのもの、あるいはその性質についての描写はほぼ皆無である。 *古惑仔(チンピラ) 徳間書店(2000年7月)ISBN 4198612048 *短編小説「鼬」に登場。 === 映画 === *「[[ライラの冒険 黄金の羅針盤]]」 *「[[キンダガートン・コップ]]」 *「[[ドリトル先生|ドクタードリトル]]」 *「[[ハンナ・モンタナ/ザ・ムービー]]」 *「[[ロード・オブ・ザ・リング]]」 *「[[ウィンターズ・ボーン]]」 === 漫画・アニメ === *「[[オコジョさん]]」 *「[[ロミオの青い空]]」 *「[[ぎゃるかん]]」 *「[[ぽぽたん]]」 *「[[魔法少女リリカルなのは]]」 *「[[苺ましまろ]]」 *「[[藍より青し]]」 *「[[魔法先生ネギま!]]」 *「[[無限のリヴァイアス]]」 *「[[超重神グラヴィオン]]」 *「[[プラネテス]]」 *「[[フレッシュプリキュア!]]」 *「[[ナイトウィザード]]The ANIMATION」 *「[[Rio RainbowGate!]]」 === ゲーム === *「[[ONE 〜輝く季節へ〜]]」 === キャラクターなど === * [[nimoca]]([[西日本鉄道]]の[[ICカード]]式[[乗車券]]) === 絵画 === *「[[白貂を抱く貴婦人]]」([[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]画)--> == フェレットを使った作品・キャラクター == === 作品・商品 === *[[魔法少女リリカルなのはシリーズ]] - ユーノ・スクライア(フェレットモード)。 *[[フレッシュプリキュア]] *[[nimoca]] - フェレットのキャラクターが描写されている。 *[[ハリーポッター]] - 字幕ではイタチと書いてあるが、英語でフェレットと言っている。 *[[苺ましまろ]] *[[Rio RainbowGate!]] *[[ナイトウィザード The Animation]] *[[うちのメイドがウザすぎる!]] *[[あにトレ!EX]] *[[あにトレ!EX|あにトレ!XX 〜ひとつ屋根の下で~]] *[[藍より青し]] *[[アウトブレイク 感染拡大 Epidemie]] *[[しあわせソウのオコジョさん]] - フェレットのタッチンが登場する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} {{commons|Mustela putorius}} {{wikispecies|Mustela putorius furo}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふえれつと}} [[Category:ペット]] [[Category:イタチ科]] [[Category:日本の外来種]] [[Category:モデル生物]]
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頑丈人間スパルタカス
『頑丈人間スパルタカス』(がんじょうにんげんスパルタカス)は、『月刊少年キャプテン』に1993年より連載された、安永航一郎によるギャグ漫画。全4巻。 掲載ギリギリのネタを持ち味とする安永航一郎が、廃刊寸前の危機にあった『月刊少年キャプテン』に連載した作品である。当時の安永は主に小学館系列の雑誌で活動していたが、『海底人類アンチョビー』の内容に関して編集部からクレームをつけられ、その反動もあって思いついたら即ネタを実践し、面白ければなんでもアリに描いた。随所に作者の過去作品のキャラクターが登場している。 政府の「とある機関」に体の頑丈さを買われた主人公・六条ひとまは、ケベックからやって来たカナダ人のツーバイ・フォウと共に国際親善団体「アナボリック・アカデミー」の不透明な実態を探るべく潜入するが、生来の頭の悪さが災いしてすっかり当初の目的を忘れてしまう。 実力至上主義かつ階級闘争の激しいアナボリック・アカデミーに適応。ジャージ争奪をかけ、数々の変態スポーツ愛好家と熱くバカバカしい闘いを繰り広げる。 アナボリック・アカデミーの幹部。顔出しはマズいため、ほぼ全員がイニシャルの入った白覆面をつけている。
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『頑丈人間スパルタカス』(がんじょうにんげんスパルタカス)は、『月刊少年キャプテン』に1993年より連載された、安永航一郎によるギャグ漫画。全4巻。
{{出典の明記|date=2014-04-18}} {{Infobox animanga/Header |タイトル=頑丈人間スパルタカス |画像= |サイズ= |説明= |ジャンル=[[ギャグ漫画]] }} {{Infobox animanga/Manga |タイトル= |作者=[[安永航一郎]] |作画= |出版社=[[徳間書店]] |他出版社= |掲載誌=[[月刊少年キャプテン]] |レーベル= |発行日= |発売日= |開始号= |終了号= |開始日= |終了日= |発表期間= |巻数=全4巻 |話数= |その他= |インターネット= }} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト= |ウィキポータル= }} 『'''頑丈人間スパルタカス'''』(がんじょうにんげんスパルタカス)は、『[[月刊少年キャプテン]]』に[[1993年]]より連載された、[[安永航一郎]]による[[ギャグ漫画]]。全4巻。 == 概要 == 掲載ギリギリのネタを持ち味とする[[安永航一郎]]が、廃刊寸前の危機にあった『月刊少年キャプテン』に連載した作品である。当時の安永は主に[[小学館]]系列の雑誌で活動していたが、『[[海底人類アンチョビー]]』の内容に関して編集部からクレームをつけられ、その反動もあって思いついたら即ネタを実践し、面白ければなんでもアリに描いた。随所に作者の過去作品のキャラクターが登場している。 == あらすじ == 政府の「とある機関」に体の頑丈さを買われた主人公・'''六条ひとま'''は、ケベックからやって来たカナダ人の'''ツーバイ・フォウ'''と共に国際親善団体「アナボリック・アカデミー」の不透明な実態を探るべく潜入するが、生来の頭の悪さが災いしてすっかり当初の目的を忘れてしまう。 実力至上主義かつ階級闘争の激しいアナボリック・アカデミーに適応。ジャージ争奪をかけ、数々の変態スポーツ愛好家と熱くバカバカしい闘いを繰り広げる。 == 登場人物 == === 主要人物 === ; 六条ひとま(ろくじょう ひとま) : この作品の主人公。元々はただ体の丈夫な女子高生だったが、地下鉄に轢かれても死なない丈夫さを買われて「とある機関」にスカウトされ、阿蘇の「アナボリック・アカデミー」に送り込まれた。豪快な性格と超人的な体力、運動神経を持っているのだが、ほとんどのスポーツのルールを覚えられないなど、頭は非常に弱い。「心眼」(読んで字のごとく眼の付いた心臓)を出すことができる。豪華な食事に釣られてブレイザー(後述)を倒し、アナボリック・アカデミーの最高ランクである金[[ジャージ]]を手に入れた。相方のフォウは脱ぎっぷりが良いがひとまは人並みの羞恥心を持ち合わせている。極めつけの恩知らずで、劇中で受けた恩はことごとく仇で返している。逆にリンボー3姉妹から恩を仇で返された。 ; ツーバイ・フォウ : カナダ出身の[[IOC]]エージェント。別名「ケベックの銀狐」と呼ばれているらしい。ひとまに勝るとも劣らない身体能力を持ってはいるものの、頭は悪い。風呂好きでよく脱ぎ、小川でシャンプーまで持ち出すエセ自然愛好家。お色気要員で劇中では[[ストリーキング]]や、人前で放尿するなど羞恥心は欠片も見当たらない。ただし、ブレイザーに手込めにされそうになったときは狼狽のあまりパニックを起こす。 === ユニバーサル・ブラザーズ === アナボリック・アカデミーの幹部。顔出しはマズいため、ほぼ全員がイニシャルの入った白覆面をつけている。 ; 理事長 / 力動山(りきどうざん) : アナボリック・アカデミー理事長。「R」と描かれたマスクを被っている。豪快で大雑把極まりない性格であり、その強さも強靱さもすでに人間の領域にない。人の話を全く聞かず超マイペース。その上、物覚えが非常に悪く、Oからは瞬間の連続だけで人生を送っていると評されている。心臓が止まっても気合で生きることができる。ひとまとの壮絶な戦いの末に負けを認め、阿蘇山の噴火により壊滅したアカデミーと共に溶岩に巻き込まれるが、それでも死んではいないらしく、事実上不死身。 ; O / 汪定春(おう さだはる) : 「O」と描かれたマスクを被っている。アナボリックのナンバー2だが、中間管理職の色が濃い苦労人。理事長の腹心だが余計なツッコミが原因で常に怪我が絶えない。組織を揺るがしかねず、理事長と結託したら誰にも止められないひとまの存在に脅威を覚え、アナボリックから追い出そうとセコイ策略を巡らせるがいつも失敗。理事長の命令で成績低迷するポークス監督に就任したためアナボリックを去ることになり、最後にひとまたちと決着を付けるため鍋をエサに洞窟におびき出そうとするが、頭の悪いひとまに途中で目的を忘れられてしまう。洞窟で迷子になっていたが、生還後はポークスに行かなかったことを理事長に咎められて殴られた。 ; 理事長代理Rブラック : 理事長不在の間にアナボリックの治安を守っていた理事長の直弟子で小太りの黒人。洗脳によりトレーニングを強制し、諸本も洗脳してしまうが、ひとまに逆洗脳される。本名はポポン・ブラジル。 ; その他の幹部 : 「W」と書かれたマスクを被る元力士や「N」と書かれたマスクを被る元女性テニスプレーヤー、「M」と書かれたマスクを被る元プロボクサーなど。内輪もめの際に互いの素性を暴露するやり取りが多く、折角のマスクが役に立っていない。 === アナボリック・アカデミー関係者 === ; マッキンリィ飢村(マッキンリィうえむら) : アナボリックの山岳スペシャリスト。ひとまとフォウが初めて出会ったアナボリックの人間。理事長自らがスカウトしたユニバーサルメンバーの有力候補だったが、ひとまの正に恩を仇で返す行為によりジャージレスとなり、人里はなれた山で野生生活をしている。その後の様子などは追々語られ、後にひとまに心眼を授けた。 ; ヨットマン突塚(ヨットマンとつか) : アナボリック治安管理部「せえらあ戦士」代表兼ヨット部代表。自慢のスパルタ指導でひとまとフォウを亡き者にしようとしたが失敗。ジャージレスとなり、親友の飢村とサバイバル生活をしている。かなりのドSでひとまに心眼を授けた際などには、岩を投げつけるなどの無茶苦茶な訓練を課している。 ; せえらあ戦士 : 突塚の部下。[[カルデラ湖]]での敗戦後は餓村、戸塚と共に野生生活を送っている。 ; ブレイザー : 金ジャージのエリート。元は素行不良で近所の中学生3人を騙して妊娠させるなどの悪行を重ねていたが、更生のためにアナボリックにやってくる。[[フェンシング]]の剣を銃に改造した「シュート・フェンシング」でひとまを返り討ちにした。また巨大な[[ペニス]]を剣の代わりに使う「ヌード・フェンシング」を考案。フォウを手込めにしようとする。ひとまに敗れた後、改心して青ジャージからの再スタートとなったが、便所ホッケーチームの2人に闇討ちされる。 ; ハミルトン : ブレイザーの弟。兄の暴虐を止めるためにアナボリックにやってきたが、結局は似た者兄弟でブレイザーと共に「ヌード・フェンシング」の普及に努めている。ハミルトンは兄より数センチ長い。 ; 便所ホッケーチーム : 学校のトイレ清掃の時に考え付かれたアイスホッケー風の遊び「便所ホッケー」を正式競技にしようと目論む2人組。ひとまとフォウに対決を挑み優勢に試合を運ぶが、偶然トイレにいた理事長に殴り飛ばされ負ける。実はOの手下。後に[[サッカー]]チームを解雇されたゴールキーパーの蜆丸も加わり3人組となった。 ; デスパレス蜆丸(しじみまる) : サッカー対決で登場したアナボリックサッカーチームの[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]。手のサイズが足のサイズよりも大きい怪人。中東のチャラビアからのオファーで代表の座をかけてひとまと戦うが「[[ペナルティーキック]]と称する跳び蹴り」を食らうなど散々な目に遭う。劇中でひとまに勝ったことがある数少ない一人だが、その後数回の登場でも悲惨そのものの扱いとなる。 ; パーディング : Oの手下である女性便所赤貧[[フィギュアスケーター]]。腹黒く尻軽。上司のOからはセクハラされており、ヌードグラビアをオカズにされるなどしている。準レギュラーとして度々登場。登場する度にひとまたちに不幸をもたらすせいで「ダミアン」(ホラー映画『[[オーメン]]』の主人公)というあだ名を付けられる。失神している間にフォウにパンツを強奪されたりと散々な扱いを受ける。 ; 水道部主将 : 水の上で闘う武道「水道」を考案。しかし足の裏の脂で[[アメンボ]]のように浮かんで闘うというくだらない武道のため部員は彼一人。物理上ありえない展開により自滅した。後にOの手下となって再戦に挑んだが「ダミアンミサイル」(力任せにパーディングを投げてぶつける)によりあっさり撃沈した。 ; 鼻乃皮・鼻乃形 : まわしが力士の弱点という発想のもと、まわしを締めずに闘う相撲「まわしレス相撲」を考案して広めようとした力士。一応前貼りをしている。競技の見た目は単なるデブの[[同性愛者]]。後にヌードフェンシングとの異種格闘戦も行うがこれ以上なく下品な絵柄となっており、たまたま通りかかった理事長にブレイザー兄弟ともども倒された。 ; ドクター・グリコ : アナボリックの誇る迷医。エラの張った顔が特徴。「飛ぶ鳥を落とす(元気な鳥も再起不能になるという意味)医師」と称される。無茶苦茶な診断をする上、風邪の診断にキャベジンを処方するなどヤブ医者を通り越しており、恐れられている。 ; ブラックヂョーブ : ドクター・グリコの宿命のライバル。訳あってグリコの尻の皮膚を顔に移植したため、縫い傷がある。だが、こちらは本物の名医(ただし、治療方法は中国拳法、心霊手術などを取り入れた胡散臭いもの)でグリコの助手であるへの子からも猛烈に慕われている。 ; リンボー3姉妹 : シャーミン、カビラ、アネットの三姉妹。三人揃って「サンリンボー」を自称するが、[[三隣亡]]の語呂もあって縁起が悪いとされ、他のスポーツ選手たちからは疫病神呼ばわりされている。[[リンボーダンス]]をスポーツとして普及させるため、はるばる海を渡ってやってきたが極貧に喘いでいる。珍しく同情を見せたひとまをコキ使って道具集めをさせた後、夜通しリンボーで辺り一面を火の海にした。炎を見ると[[トランス状態]]になる。 ; せえらあ戦士S(スーパー) : ヨットマン突塚の失踪により解散したと思われていたせえらあ戦士の残党である2人組。それぞれ胃潰瘍と偏頭痛持ち。諸般の事情により水着で入浴する。温泉卓球でひとまとフォウを倒そうとするが、卓球自体は非常に下手。空振りなどもあってほぼ自滅した。仲間に「愛ちゃん」がいる。後にOの手下になった。 ; ザ・プレゼンター : いわゆる[[サンタクロース]]。しかしアナボリック・メンバーなので異常に強い。薄着で対決に挑み凍死しかけたひとまに情けをかけ、温熱装備つきの赤ジャージを貸したが、恩を仇で返された。暑さに弱く冬以外は冷蔵庫で生活している。 === その他 === ; アドニオン諸本 / 諸本完次(もろもと かんじ) : 体育ピース党党首で内閣総理大臣。アナボリックを潰すため諸本レオという偽名でアナボリックに潜入。実は理事長の元弟子。理事長がかつて語った理想の実現のために努力を重ねており、理事長を党首に迎えるべくアナボリックにやってきたが事実どころか存在そのものがすっかり忘れられていた。おまけに世間に疎いひとまたちからは「誰?」などと言われ、散々な扱われよう。理事長に勝負を挑むがあっさり返り討ちにされて山奥に放り出された。その後、餓村たちに身ぐるみを剥がされ、股間に葉っぱという悲惨ないでたちでひとまと理事長の戦いを見届けた。 ; ウッドメイド・ログハウス : 通称ログ。フォウの元恋人で、アナボリックから脱出して身を潜めている(その割にはアナボリック・アカデミーのすぐ近くに住んでいる)。アカデミーの近辺でフォウと再会したが、脱出のショックでハゲたため振られた。特技はポルトガル人のモノマネと死んだフリ。「カナディアン背面キック」「カナディアン金玉チョップ」「カナディアンジャーマンスープレックス」などの大技を持っており、後に誤解から諸本と戦ったが返り討ちにされた。 ; やまひさ : ひとまの同級生で同レベルのバカ。地下鉄で背後からどつかれたひとまの身代わりに電車に轢かれ、意識不明の重体となる。 ; 中屋敷 : 「とある機関」に所属する公務員。ひとまの適性を調べるために地下鉄ホームで背後から押すなど危険極まりない行為を行う。身代わりとなったやまひさの負傷で社会的に孤立したひとまを頑丈人間としてアナボリックアカデミーに送り込んだ人物。美男子だが強引かつ豪快で人格破綻者。 ; ホトトギス神秘教 : 阿蘇に道場を構え[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]を安く売る宗教団体。 {{Manga-stub}} {{DEFAULTSORT:かんしようにんけんすはるたかす}} [[Category:安永航一郎の漫画作品]] [[Category:漫画作品 か|んしようにんけんすはるたかす]] [[Category:月刊少年キャプテン]] [[Category:1993年の漫画]] [[Category:学園漫画]] [[Category:ギャグ漫画]]
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最澄
最澄(さいちょう、766年〈天平神護2年〉もしくは767年〈神護景雲元年〉 - 822年〈弘仁13年〉)は、平安時代初期の日本の仏教僧。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師(でんぎょうだいし)として広く知られる。近江国(現在の滋賀県)滋賀郡古市郷(現:大津市)もしくは生源寺(現:大津市坂本)の地に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。唐に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて日本における天台宗を開いた。 最澄の生まれについての記録は、最澄没後に記された伝記類によるものと、存命当時の公文書類によるものの2つがあり、若干の齟齬がある。 最澄の父は『叡山大師伝』は三津首百枝(みつのおびとももえ)と記し、宝亀11年(780年)の『国府牒』によれば父(戸主)は三津首浄足(きよあし)で、身分は正八位下、副知事のような地位であったとされる。本貫は、『国府牒』は近江国滋賀郡古市郷と伝えるが、天台宗の伝承によると大津市坂本の生源寺の生まれであったとされる。三津首について天台宗が最澄を讃える『伝教大師和讃』や『叡山大師伝』では後漢皇帝の子孫、登万貴王の末裔としている。最澄の母は10世紀成立の『伝教大師由緒』は藤原鷹取の娘で藤子とし、『青蓮院門跡系譜』は応神天皇9世の孫とするが、いずれも後世の言い伝えで史実性は不明である。『叡山大師伝』は両親は子に恵まれなかったが比叡山の神宮で祈請したところ最澄を身籠ったと記す。 最澄の生まれ年にも2説ある。『叡山大師伝』などが伝える没年齢によると神護景雲元年(767年)生まれであるが、『国府牒』『度牒』『戒牒』といった最澄が官僧になる際の公文書によると天平神護2年(766年)生まれである。この2説について専門家の意見は統一を見ていないが、戸籍上は766年生まれであったが、最澄自身が767年と考えていたという説もある。 『国府牒』などによれば、最澄の幼名は広野(ひろの)。伝記には幼い頃に小学という初等教育機関で「陰陽、医方、工巧などを修める」など非凡な才を見せ、7歳の頃に仏道を志すと伝える。 『国府牒』は近江国分寺僧に欠員ができたので広野を得度させるよう指示した公文書である。これによればこの頃の広野は『法華経』『最勝王経』『薬師経』『金剛般若経』などを読むと記される。当時の例にもれず、広野も優婆塞として3年ほど国分寺で雑用や奉仕をしつつ経典を学んでいたと考えられる。宝亀11年(780年)11月12日に、広野は近江国分寺にて得度を受け沙弥となり最澄と名付けられる。それ以降、近江国師の行表に師事するが、のちに最澄は行表から禅宗を教えられたとしたうえで、教えについて「心を一乗に帰すべきこと」と『内証仏法相承血脈譜』に記しており、師の教えがその後に最澄の求める仏教のあり方を方向づけたと思われる。つづいて延暦4年(785年)4月6日に東大寺戒壇院で具足戒を受けて比丘となる。 ここまで官僧として順調に歩を進めた最澄だが、具足戒を受けてほどない延暦4年(785年)7月中旬に比叡山に籠る。『僧尼令』には「禅行修道あって、心に静寂を願い、俗に交わらず、山居を求めて服餌せんと欲すれば、三綱連署せよ」とあり、最澄もこのような公的な手続きを踏んで入山したと考えられる。『叡山大師伝』によれば、まず比叡山麓の神宮禅院で懺悔の行を修め、つづいて『願文』を著したとされる。 この願文から最澄は自らも大乗経典に出る菩薩のようになることを志していることが分かる。『叡山大師伝』はこの願文を読んだ内供奉の寿興と最澄が固い交わりを結んだとする。 『叡山大師伝』によると、延暦7年(788年)に比叡山に小堂を建て自刻の薬師像を安置した。場所は現在の根本中堂の位置とされ、後に一乗止観院と称する。そこに籠った最澄は『法華経』の研究を重ね「智顗の教学にふれて、天台の法門を得たい」と思い至る。そしてあるとき天台法門の所在を知る人に邂逅し、鑑真が将来した経典を写しとることができたとされる。 延暦10年(791年)12月28日に最澄は修行入位という僧位を授かる。のちに伝燈位を授かる最澄だが、修行位を授かった事は当時の最澄の評価の一面と考えられる。『天台霞標』によれば延暦16年(797年)12月10日に内供奉の欠員を補うためにこれに任ぜられた。内供奉は宮中の内道場で読師などを行う僧で10名が定員。欠員ある場合は清行の者で補い、任期は生涯であった。前述のように寿興と交流があったことから最澄が推薦されたと考えられる。 延暦16年(797年)に最澄は比叡山に一切経を揃える写経事業を発願する。弟子たちに写経をさせたほか、助力を請うため南都諸寺に願文を送っている。この呼びかけに答えたのが大安寺の聞寂や東国の道忠である。延暦寺浄土院に2巻のみ現存する『華厳要義問答』は延暦18年に行福という僧が写経したと記されるが、この時の経典とされている。なお道忠の門弟には円澄、円仁が居る。延暦17年(798年)10月に法華十講の法会を行う。これは最澄が法華三部経の講義を行ったとされ毎年行われた。さらに延暦20年(801年)11月24日には南都各宗の高僧に呼びかけ法華十講を催している。 最澄が比叡山に籠った理由は定かではないが、入山後も官僧としての務めを果たし南都各宗とも交流を持っていることは明らかであり、「既存の仏教に嫌気がさし」などの後ろ向きな理由ではなかったと考えられる。 延暦21年(802年)に和気弘世が氏寺の高尾山寺催した天台法門の講会で、最澄も招かれ講師を務める。この講会について『叡山大師伝』は一乗仏教興隆の為と記している。また『伝述一心戒文』などには桓武天皇の意思によって催されたと記されるが、史実性は疑わしい。しかしこの法会の事を聞いた桓武天皇が天台一乗興隆を発願し、同年9月7日に弘世を詔問し、弘世は最澄に相談したとされる。 この時代、仏教宗派は南都六宗に限られていた。特に法相宗と三論宗に多くの学生が集まり、延暦21年正月(802年)の太政官符に「三論、法相、彼此角争」とあるように両宗が衝突していた。こうした抗争を収束させたい朝廷は新しい仏教界の秩序作りを目指す仏教政策を取る事となり、結果として天台宗の開宗が後押しされたと考えられる。 『叡山大師伝』によれば、桓武天皇の詔問を受けた弘世は最澄に相談し、唐の天台山国清寺への還学生と留学生各1名を派遣の必要性を訴える上表文を記す。 論宗とは『中論』に基づく三論宗と『成唯識論』に基づく法相宗を指し、天台宗は釈尊の説いた経に基づく経宗であると主張している。この上表により円基と妙澄の唐への派遣が決まったものの、9月12日になると天皇は最澄本人が入唐するよう勅した。翌日最澄は「天朝の命に答えん」と返答し還学生となり、さらに10月20日に義真を訳語僧として同行することを願い出て許されている。この際に入唐費用として金銀数百両が与えられたが、遣唐大使が200両、副使が150両であった事と比べ非常に大きな額であったことが分かる。 延暦23年(804年)7月6日に最澄ら遣唐使は肥前国松浦郡田浦から出港。最澄が乗船した第2船は9月1日に明州鄮県に到着した。病にかかっていた最澄はしばらく休養し、9月15日に天台山へ出発し、9月26日に台州に到着する。刺史の陸淳に面会した最澄は、講演会に訪れていた天台山修禅寺の道邃を紹介される。『叡山大師伝』によれば、道邃は最澄の求めに応じて写経の手筈を整えた。貞元20年(延暦23年・804年)10月には最澄は天台山に登る。『伝法偈』によれば10月7日に仏隴寺で行満に出会い、経典82巻と印信(弟子が授かる書状)を授かる。同年12月7日に沙弥であった義真は天台山国清寺にて翰を戒師として具足戒を受ける。翌貞元21年(延暦24年・805年)3月2日に最澄と義真は道邃から菩薩戒を受けるが、これが最澄と天台法華の教旨による大乗戒との出会いとなった。天台山における求法の成果は『伝教大師将来台州録』によれば書物120部345巻に及んだ。またこの明州滞在の間に禅林寺で牛頭禅、国清寺で密教を学んだほか、国清寺に一堂を建立している。 同年3月上旬、最澄一行は明州に戻る。同年1月に崩じた徳宗の一件を日本に伝える為に遣唐使の帰国が決まったためと思われる。遣唐使船が順風を待つ間に最澄は越州の龍興寺を目指す。『叡山大師伝』によればこの越州行きは「真言を求めるため」とするが、『顕戒論』には「明州の刺史の勧めによって」と記されている。4月8日頃に明州を出発して4月18日には峯山道場で順暁から灌頂を受けるという慌ただしい日程であった。『内証仏法相承血脈譜』や『顕戒論』によれば、この灌頂は金剛界・胎蔵界両部であったと記されている。また『伝教大師将来越州録』によれば、これにより書物102部115巻と密教供養道具5点を入手したとされる。この後の5月5日までに明州へ再び戻った最澄は、開元寺法華院の霊光などから密教儀軌を得るなどし、5月18日に明州から帰国の途に立った。 延暦24年(805年)6月5日に対馬に着いた最澄は直ちに上京する。『叡山大師伝』によると、最澄が将来した天台法門は勅命により7通の書写が命じられ、三論宗や法相宗に学ばせた。この経典は弘仁6年(815年)に嵯峨天皇による題を書き付けて完成したとされる。一方で最澄がもたらした密教も歓迎される。繰り返し密教の灌頂や祈祷などが行われたことが伝記に記されているが、これらは桓武天皇が病に伏せていた事と関係があると考えられる。 延暦25年(806年)正月3日に最澄は年分度者に天台法華宗を加える改正を上奏する。 これ以前の年分度者は三論宗と法相宗のみに認められていたが、最澄の提案は天台法華宗を含む5宗を加えるものであった。上奏文からは天台法華宗を公認させる意味以上に、新しい仏教界の秩序を作ろうとする意図がうかがえる。この上奏は直ちに僧綱に意見が求められ僧綱も同意し、1月26日の太政官符により制定された。官符には年分度者の学業や任用など具体的な規定を含んでいることが特徴で、天台法華宗には『大日経』を読ませる遮那業(密教)と『摩訶止観』を読ませる止観業(天台)、各一名が割り当てられた。しかしこの時点での公認はあくまで奈良仏教の僧綱の下で認められたものであった。『天台法華宗年分得度学生名帳』によると、この制度によって天台法華宗では、弘仁9年(818年)までに24名が得度を受けた。しかし比叡山を去った者が14名おり、そのうち法相宗が奪った者6名と記録されている。この事について最澄は「天台学生は小儀にとらわれて京に馳散する。まさに円道を絶せんとす」と『顕戒論』に記し、危機感を露わにしている。 前述のように唐から戻った最澄が伝えた密教は歓迎される。『叡山大師伝』は桓武天皇の喜びを「真言の秘教等は未だ此の土に伝るを得ず。しかるに最澄はこの道を得、まことに国師たり」と伝える。最澄が唐から戻った翌大同元年(806年)に長安で密教を学んだ空海も帰朝する。まもなく最澄は空海に密教の習学を申し出ているが、その理由は天台法華宗の年分度者に遮那業(密教)1名が割り当てられていた事と関連があると考えられる。 『伝教大師消息』に記された書簡によると、最澄は弟子を空海の下に送り、借用した経典を写すといったことを、大同4年(809年)から弘仁7年(816年)頃まで繰り返した。 弘仁3年(812年)10月27日には乙訓寺にいた空海を最澄が訪ねた。この際に空海は最澄に伝法することを決めたという。神護寺に残る『灌頂記』によれば、最澄は11月15日に金剛界灌頂を、12月14日に胎蔵界灌頂を空海から受けた。しかしこの頃の最澄の手紙をみると灌頂を受ける日について混乱が見られる。この点について最澄は灌頂が金剛界と胎蔵界の両部が独立して一対になっているということを知らなかったという説がある。のちに最澄は越州で学んだ密教について両部の灌頂を受けたと『顕戒論』などに記しているが、おそらく最澄が学んだ密教は両部を合わせた亜流派であり、空海が長安で学び伝えた法門と比べて劣っている事に最澄も気が付いていたと考えられる。 灌頂を受けた最澄は空海の弟子となったことを意味する。後に円澄が空海に宛てた書簡によれば、空海は最澄に大法儀軌を受ける為には3年間留まるように伝えていたが果たせなかったとある。空海の下での修行は、既に一宗の責任者となっていた最澄には叶わぬ事であり、最澄もまた空海に宛てた書簡に訪問できない事への詫びを繰り返し記している。なお最澄が『理趣釈経』の借用を求めた事に対して、空海が「理趣は論じて心から心へ伝えるもので、未入壇の者には真言を伝えない」と断ったことが二人を分かつことになったとする説があるが、この根拠となった書簡にある「澄法師」は最澄ではなく円澄とする説もある。しかしその真偽は別としても、空海の下で最澄が修業できなかった事が両者を疎遠にした根本の理由であったと考えられる。もうひとつ両者に異なる点は真言と天台の位置づけである。最澄は天台と真言は一致しており、同じ一乗であるとしている。一方で空海は天台を真言より低い教えと見ている。この教理の相違も両者を分かつ理由と考えられる。 さらに両者の間に泰範の去就問題がある。元々、泰範は天台宗以外の僧であったが、比叡山に入って密教を学んでいたと考えられる。優秀な弟子であったようで、弘仁3年(812年)5月8日付けの最澄の遺書には泰範を惣別当(比叡山の管理責任者)に指名している。しかし直後の6月29日に泰範は暇を請うて比叡山から降りる。その書簡を読んだ最澄は返信を送るが、そこから最澄の驚きと泰範が最澄の弟子から戒を破った事で批判を受けていたことが分かる。その後も最澄は泰範を慰留したようで、最澄と泰範は共に胎蔵界灌頂を受けている。しかし泰範は比叡山には戻らず、空海の元に身を寄せた。弘仁7年に最澄が泰範に宛てた書簡には深刻な自己反省と泰範への期待が表明されている。しかしその書簡への返信は空海の代筆によるもので「真言の教えが天台よりも優れる」と記されている。泰範は空海の十大弟子に数えられている。 最澄は天台法華宗を広めるために六所宝塔を建立する計画を立てる。六所宝塔とは『比叡山僧塔院等之記』に記される全国6箇所に法華経一千部を安置するための宝塔である。『叡山大師伝』によると、最澄は弘仁5年(814年)春に宇佐八幡と香春神宮寺に参詣し、入唐の無事に感謝し妙法蓮華経等を奉納。続いて弘仁8年(817年)春に東国へ向かう。この旅では最澄が無名の頃に写経に助力した道忠の弟子らの寺々を訪問する。同年3月6日には大慈寺にて円仁と徳円に菩薩戒を授け、5月15日には緑野寺にて円澄と広智に両部灌頂を授けている。またこの際にも法華大乗経二千部を写して宝塔に安置したと記されている。六所宝塔が全て完成するのは最澄の没後である。 天台法華宗が広がりをみせると法相宗を中心に批判が集まるようになる。研究者によると論争の発端は最澄が弘仁4年(813年)に著した『依憑天台義集』などとされる。弘仁5年正月の御斎会にて嵯峨天皇の希望で殿上にて最澄と南都僧の対論が行われた。弘仁6年8月には大安寺にて最澄が天台を講じ、南都僧らと大論争を行う。この際の主題はいわゆる三一権実論争である。『叡山大師伝』によると南都僧らは攻撃的な姿勢で議論に臨んだとある。 続いて弘仁8年(817年)2月に東国に赴いていた最澄は、恵日寺の法相宗の僧徳一が著した『仏性抄』への反論として『照権実鏡』を著す。これ以降、二人の論争は最澄の死去前年の弘仁12年(821年)に至るまで続けられた。なお最澄の著作の大半は徳一との論争に関連するものである。二人の論争は2つの主題に分けることができ、一つは天台・法相の教学の違いについてである。その中に修業についての論争があるが、最澄は「徳一の示す修行は正法の時代(釈迦の時代)のもので、末法に近い時代に実践することはできない」とユニークな批判をする。この思想が後述する大乗戒壇設立に繋がる。いま一つは三一現実論争であるが、これは「天台の一乗」と「法相の三乗」のどちらが権実(仮と真実)の思想であるかをめぐる論争で、これに用いられた喩えが火宅の喩(三車火宅)である。 最澄の弟子で朝廷との交渉役であった光定が著した『伝述一心戒文』によれば、弘仁9年(818年)に最澄は天台法華宗を広めるために大乗寺を建て、光定に一乗の号を名乗らせると告げた。光定はこの事を藤原冬嗣を通じて天皇に上奏するが、南都の僧の反対にあって叶わなかった。『叡山大師伝』によると、同年3月に最澄が「今後声聞の利益を受けず、永く小乗の威儀にそむくべし」とし、具足戒を破棄したと記される。 続いて最澄は『山家学生式』などを著し、天台法華宗の僧育成制度について朝廷に裁可を要請する。 この中で最澄は大乗戒のみによる受戒と十二年籠山行など革新的な受戒制度と育成制度を提唱する。弘仁10年3月15日に『天台法華宗年分度者回小向大式』が提出されると、嵯峨天皇は「真理に叶ったものであれば取り計らうように、真理に叶わなければ取り計らってはならない」と返答。この件を玄蕃寮長官の真苑雑物は僧綱の護命へ告げ、護命は南都七大寺に意見を求めたうえで、最澄の主張には道理がないとして反対の意を上奏した。この上奏文は天皇の勅により10月27日に最澄に渡された。これに対し最澄は翌弘仁11年(821年)2月29日に『顕戒論』と『内証仏法相承血脈譜』を内裏に提出して反論。さらに弘仁12年3月に『顕戒論縁起』を朝廷に提出する。しかし最澄の提言は生前に叶う事は無かった。 天台宗独自の制度樹立を図った最澄の意図についてはいくつか考えられる。第一は護国である。奈良時代の仏教は東大寺や国分寺の建立に見られるように護国を期待されていたが、災害や疫病は絶えなかった。最澄はその原因を小乗戒(具足戒)を受けた僧に求め、これを大乗僧の純粋培養によって克服しようとした。第二は時代である。釈迦が入滅して2000年近い年月が経って末法が近い世で悟りに至るには、長く時間のかかる方法ではなく大きく真っすぐな道によらなくてはならないとした。この二点を解決するために戒律制度の改革を提唱した。 鑑真が日本にもたらした戒律制度は唐の天台宗を含めて諸国の標準となっていたもので、僧になるためには具足戒を三師七証を前に受戒せねばならず、また菩薩戒は具足戒を受けた僧が補助的に受ける、あるいは在家信者が受ける戒としていた。それに対し最澄は梵網経菩薩戒のみで僧になれるとし、あわせて受戒も釈迦仏、文殊師利菩薩、弥勒菩薩を三師とし、一切の仏を証師としたうえで一人の伝戒師が居ればよく、伝戒師が居なければ自誓受戒でもよいとした。また在家と出家は姿(剃髪と袈裟)で区別できるとする。このような大胆な戒律制度は日本独自の大乗仏教を育み、のちに延暦寺から輩出される鎌倉新仏教の礎となった。 最澄が意図した第三は比叡山から僧の流出を防ぐことである。前述のように天台法華宗で受戒した僧が法相宗に度々奪われていた。第四は天台教団の独立である。南都六宗は僧綱を頂点とした管理機関を持ち、天台法華宗の年分度者であっても東大寺で受戒していた。また僧は治部省に属する玄蕃寮が掌握していた。この二点を克服する手立てが比叡山上での受戒と、続く12年に渡る籠山などであった。 天台法華宗に年分度者が与えられてから10年間で受戒した20名のうち、比叡山に住するものは僅か6名であった。これは南都の寺に所属する僧が天台法華宗の割り当てを利用して受戒していたことも原因の一つと考えられる。最澄は得度を受けてから受戒を経てその後の修学にいたるまで比叡山内で完結させることで、多くの天台僧を育成することを図ったと考えられる。それまでも籠山修行をする僧は居たが、これを制度化したのは最澄が初めてである。また籠山を終え学問修行共に満足であった者には、最高の僧位である大法師位を与えて欲しいと訴えている。最澄が大法師位を授かったのはこの後の事で、非常に高い要求であったことがわかる。さらに大乗戒を受けた僧については僧籍を治部省に移さず民部省に置いたままとしたうえで、受戒にあたって発給される度縁については具足戒と同様に官印を捺してもらうとしている。また官の派遣により俗別当(僧でない管理者)を置くことや他宗からの入門規定、あるいは官費の給付不要や破戒僧の処罰などを明文化している。これらは天台法華宗が既存の仏教政策から離脱し、太政官の直下に置かれて独自の管理組織を構築することを意図していると考えられる。 最澄は弘仁13年(822年)2月14日に伝燈大法師位を授かる。この頃には体調を崩していたようで、桓武天皇の国忌である3月17日に光定は「最澄法師重病を受く。命緒幾ばくならず。伝戒を許されざれば先帝の御願成就せず。」と、戒壇設立の勅許を催促している。 6月4日の辰の刻に入滅。廟所は比叡山東塔の浄土院。 最澄の死を受けて藤原冬嗣、良峰安世、伴国通らが『山修山学の表』を天皇に奏請し、死後7日後に大乗戒壇の設立と天台僧育成制度の樹立について勅許が下りた。弘仁14年(823年)2月26日には、勅により一乗止観院を延暦寺と改称。同年3月17日に最初の得度が行われ、ついで4月14日に光定らが受戒した。同年10月17日に嵯峨天皇は『澄上人を哭す』の詩を賜う。 貞観8年(866年)7月12日に伝教大師の諡号が勅諡された。円仁の慈覚大師と共に日本史上の初の大師号である。 天台宗では開祖として現代に至るまで尊崇されており、2021年(令和3年)6月4日に延暦寺で、入寂後1200年の大遠忌法要が執り行われた。 中国天台宗は6世紀に隋の智顗が開いた宗派であり、のちに日本に伝来した南都仏教よりも歴史が古い。最澄は自身が受け継いだ教えについて『内証仏法相承血脈譜』に、達磨大師付法・天台法華宗・天台円教菩薩戒・胎蔵金剛界両曼荼羅・雑曼荼羅の5つを挙げている。5つの教えのうち天台法華宗のみに「宗」が付いている事について、伊吹敦は「受け継いだ思想的伝統を血脈と称し、それらを統合して新たに樹立した自らの思想的立場を宗と呼んだ」としたうえで、「中国天台宗とは異なる日本独自の天台宗が成立した」と評価している。 また新川哲雄は南都六宗における宗派を「経典や論書の理解に関する枢要な教義及びそれを学ぶ「学派」を意味する」としたうえで、最澄の開宗によって「ある立場の教義を同じく尊崇する人々の一団を「宗」とし、さらにその一宗団の中で教義をめぐる解釈の違いなどから立場を異にする分派が生じた時に「派」とみる新しい宗派意識の原型が生まれた」と評価している。 前述のように、天台法華宗には止観業(天台)と遮那業(密教)の各1名の年分度者が認められた。これは最澄が顕(天台教学)と密(密教学)の合同を最終の理想としていた為と考えられる。 止観業とは智顗が著した『摩訶止観』に由来する。『摩訶止観』は仏道修行の基礎的な規範を記したもので、実践と修行の立場から法華経を解釈したものとされる。最澄は『勧奨天台宗年分学生式』に「止観業は四種三昧を修習せしめ(後略)」と記すように、『摩訶止観』に記される実践行である四種三昧の実践を重視していた。そして実践の場として最澄は四種三昧堂の建立を図ったが、この堂は『弘仁九年比叡山寺僧院之記』に一乗止観院に続いて記されていることから延暦寺伽藍構想においても重要視されていたことが分かる。 東塔の半行半坐三味堂(法華三昧堂)は最澄が弘仁3年(812年)に建立したとされるが、常坐一行三昧堂(文殊楼)、常行三昧堂、非行非坐三味堂(随自意堂)は最澄の没後に完成する。のちの天台宗では法華堂は座禅道場として重視され、常行堂は浄土信仰の素地となった。しかし、それ以外の三昧堂はさほど重視されることがなかったと考えられる。 一方の遮那業は『摩訶毘盧遮那神変加持経業』に由来する。最澄が唐から伝えた密教は不十分なもので空海に助力を請うたが、教義の完成を果たせなかった。のちに天台密教は円仁と円珍の入唐により研究が盛んになり、安然によって完成され、その後100年あまりは天台密教が隆盛する。その一方で、円仁は空海の顕密二教判(密教が顕教より優れるとする説)を一部取り込み、最澄が掲げた顕密両学(円密一致)は崩れていく。止観業が見直されるのは延暦寺中興の祖とされる良源が現れる10世紀中頃となる。 一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)とは、衆生はみな生まれながらにして仏となりうる素質(仏性)をもつということである。その根本となる一切皆成(一切衆生が成仏できる)は涅槃経に説かれるものであり、法相宗を含む南都仏教もこれを承認していたが、その解釈(仏性論)について最澄と法相宗は激しい論争(徳一との三一権実諍論)を行った。 徳一は一切皆成を認めつつ「仏性を顕かにするための行を成しえる因(行仏性)を持たない衆生がいる」とする五性各別説を支持する。この法相宗の立場について最澄は小乗義が含まれていると批判し、五性の別なく悉皆成仏できると説いた。その上で「修行の困難さから成仏できるのは釈迦のような特別な存在」とする一般的な仏教観を否定し、「一切衆生悉有仏性を信じ利他行に励み成仏の道を進む者こそが菩薩」とし大乗の立場を明確にした。 前述のように、最澄は菩薩戒の受戒で比丘になれるとする大乗戒壇の設立に尽力し、日本独自の戒律制度が成立した。一方でこれにより、鑑真が日本に伝来した「具足戒での受戒で比丘となれる」とする東アジアの基準に当てはまらない比丘が生まれる事となる。後に明全が入宋した際には、比叡山の大乗戒壇で受戒していたにもかかわらず、東大寺戒壇で受戒した戒牒を作成している。また現在の日本仏教は戒律を軽視しているとされるが、沖本克己はその大きな転換点の一つとして最澄の大乗戒壇の設立を挙げている。 書における師承は明らかでないが、延暦23年(804年)に入唐し、帰朝に当って王羲之の十七帖、王献之、欧陽詢、褚遂良などの筆跡や法帖類を持ち帰った。その書風は空海の変幻自在なのに比べて、楷書と呼ばれるものに近い。真跡として現存するものには次のようなものがある。 『天台法華宗年分縁起』(てんだいほっけしゅうねんぶんえんぎ)は、天台法華宗の年分度者および大乗戒壇設立に関わる文書を蒐集した書。延暦寺蔵。国宝。収録されているのは以下の6通。 『久隔帖』(きゅうかくじょう)は、弘仁4年(813年)11月25日付で書いた尺牘(書状)で、「久隔清音」の句で始まるのでこの名がある。宛名は「高雄範闍梨」とあり、これは高雄山寺に派遣した最澄の弟子の泰範であるが、実質は空海宛である。心が筆端まで行き届き、墨気清澄・品格高邁で、さながら王羲之の『集字聖教序』を肉筆化したような響きを放つ。大きさは、29.2cm×55.2cm。奈良国立博物館蔵。国宝。文化財指定名称は「伝教大師筆尺牘」。 久隔清音馳 恋無極 傳承安和且慰下情 大阿闍梨所示五八詩序中有一百廿禮仏 并方圓圖 并註義等名 今奉和詩未知其礼仏圖者 伏乞 令聞 阿闍梨 其所撰圖義並其大意等 告施其和詩者怱難作 著筆之文難改後 代惟示其委曲 必造和詩奉上 座下 謹附貞聡仏子奉状和南 弘仁四年十一月廿五日小法弟最澄状上 高雄範闍梨法前 (以下省略) 文面は、「大阿闍梨(空海)の示された五八の詩(『中寿感興詩』)の序に、『一百二十礼仏』『方円図』『註義』という書名がある。その詩の韻に和して返礼の詩を作って差し上げたいが、私は『礼仏図』なるものをまだ知らない。どうかこの旨を阿闍梨(空海)に伝えられ、『方円図』『註義』とその大意とをお知らせいただきたい。(以下省略)」という趣旨の内容である。 『越州将来目録』(えっしゅうしょうらいもくろく)は、最澄が唐から持ち帰った書物等の目録。102部115巻の書物と密教法具が記される。巻尾には越州長官の鄭審則の自筆印可条と州の官印のほか、遣唐大使葛野麿らの連署や遣唐使印もあり、当時の公文書の史料としても貴重。延暦寺蔵、国宝。文化財登録名称は「弘法大師請来目録」。 『羯磨金剛目録』(かつまこんごうもくろく)は、唐から持ち帰った品々を経蔵に永納した際の総目録。原本はほぼ失われてしまい、残った十数行を繋ぎ合わせた断簡。元は『御教蔵宝物聖教等目録』といったが、現在は文頭にある羯磨金剛に因んで呼ばれる。文書の全面に「比叡寺印」が捺されており、当時の正式寺号が分かる史料。延暦寺蔵、国宝。 『空海将来目録』(くうかいしょうらいもくろく)は、空海が唐から持ち帰った聖教典籍の総目録を、最澄が書写したもの。元来は延暦寺にあったものが、ある時期に『風信帖』と共に東寺に譲られたものと考えられている。東寺蔵、国宝。文化財指定名称は「弘法大師請来目録」。 最澄が詠んだ和歌が9首伝わっている。 この歌について正岡子規は「いとめでたき歌にて候。長句の用ゐ方など古今未曾有にて、これを詠みたる人もさすがなれど、この歌を勅撰集に加へたる勇気も称するに足るべくと存候(『九たび歌詠みに与ふる書』)」と賞賛している。 伝教大師童形像は、生源寺(滋賀県大津市)、延暦寺(滋賀県大津市)、雙林寺(京都府京都市)、三千院(京都市)、松尾寺(大阪府和泉市)、能福寺(兵庫県神戸市)、普光寺(兵庫県加西市)、長法寺(岡山県津山市)、天王院(神奈川県横浜市)、立石寺(山形県山形市)など天台宗の寺院に設置されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "最澄(さいちょう、766年〈天平神護2年〉もしくは767年〈神護景雲元年〉 - 822年〈弘仁13年〉)は、平安時代初期の日本の仏教僧。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師(でんぎょうだいし)として広く知られる。近江国(現在の滋賀県)滋賀郡古市郷(現:大津市)もしくは生源寺(現:大津市坂本)の地に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。唐に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて日本における天台宗を開いた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "最澄の生まれについての記録は、最澄没後に記された伝記類によるものと、存命当時の公文書類によるものの2つがあり、若干の齟齬がある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "最澄の父は『叡山大師伝』は三津首百枝(みつのおびとももえ)と記し、宝亀11年(780年)の『国府牒』によれば父(戸主)は三津首浄足(きよあし)で、身分は正八位下、副知事のような地位であったとされる。本貫は、『国府牒』は近江国滋賀郡古市郷と伝えるが、天台宗の伝承によると大津市坂本の生源寺の生まれであったとされる。三津首について天台宗が最澄を讃える『伝教大師和讃』や『叡山大師伝』では後漢皇帝の子孫、登万貴王の末裔としている。最澄の母は10世紀成立の『伝教大師由緒』は藤原鷹取の娘で藤子とし、『青蓮院門跡系譜』は応神天皇9世の孫とするが、いずれも後世の言い伝えで史実性は不明である。『叡山大師伝』は両親は子に恵まれなかったが比叡山の神宮で祈請したところ最澄を身籠ったと記す。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "最澄の生まれ年にも2説ある。『叡山大師伝』などが伝える没年齢によると神護景雲元年(767年)生まれであるが、『国府牒』『度牒』『戒牒』といった最澄が官僧になる際の公文書によると天平神護2年(766年)生まれである。この2説について専門家の意見は統一を見ていないが、戸籍上は766年生まれであったが、最澄自身が767年と考えていたという説もある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "『国府牒』などによれば、最澄の幼名は広野(ひろの)。伝記には幼い頃に小学という初等教育機関で「陰陽、医方、工巧などを修める」など非凡な才を見せ、7歳の頃に仏道を志すと伝える。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『国府牒』は近江国分寺僧に欠員ができたので広野を得度させるよう指示した公文書である。これによればこの頃の広野は『法華経』『最勝王経』『薬師経』『金剛般若経』などを読むと記される。当時の例にもれず、広野も優婆塞として3年ほど国分寺で雑用や奉仕をしつつ経典を学んでいたと考えられる。宝亀11年(780年)11月12日に、広野は近江国分寺にて得度を受け沙弥となり最澄と名付けられる。それ以降、近江国師の行表に師事するが、のちに最澄は行表から禅宗を教えられたとしたうえで、教えについて「心を一乗に帰すべきこと」と『内証仏法相承血脈譜』に記しており、師の教えがその後に最澄の求める仏教のあり方を方向づけたと思われる。つづいて延暦4年(785年)4月6日に東大寺戒壇院で具足戒を受けて比丘となる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ここまで官僧として順調に歩を進めた最澄だが、具足戒を受けてほどない延暦4年(785年)7月中旬に比叡山に籠る。『僧尼令』には「禅行修道あって、心に静寂を願い、俗に交わらず、山居を求めて服餌せんと欲すれば、三綱連署せよ」とあり、最澄もこのような公的な手続きを踏んで入山したと考えられる。『叡山大師伝』によれば、まず比叡山麓の神宮禅院で懺悔の行を修め、つづいて『願文』を著したとされる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "この願文から最澄は自らも大乗経典に出る菩薩のようになることを志していることが分かる。『叡山大師伝』はこの願文を読んだ内供奉の寿興と最澄が固い交わりを結んだとする。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "『叡山大師伝』によると、延暦7年(788年)に比叡山に小堂を建て自刻の薬師像を安置した。場所は現在の根本中堂の位置とされ、後に一乗止観院と称する。そこに籠った最澄は『法華経』の研究を重ね「智顗の教学にふれて、天台の法門を得たい」と思い至る。そしてあるとき天台法門の所在を知る人に邂逅し、鑑真が将来した経典を写しとることができたとされる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "延暦10年(791年)12月28日に最澄は修行入位という僧位を授かる。のちに伝燈位を授かる最澄だが、修行位を授かった事は当時の最澄の評価の一面と考えられる。『天台霞標』によれば延暦16年(797年)12月10日に内供奉の欠員を補うためにこれに任ぜられた。内供奉は宮中の内道場で読師などを行う僧で10名が定員。欠員ある場合は清行の者で補い、任期は生涯であった。前述のように寿興と交流があったことから最澄が推薦されたと考えられる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "延暦16年(797年)に最澄は比叡山に一切経を揃える写経事業を発願する。弟子たちに写経をさせたほか、助力を請うため南都諸寺に願文を送っている。この呼びかけに答えたのが大安寺の聞寂や東国の道忠である。延暦寺浄土院に2巻のみ現存する『華厳要義問答』は延暦18年に行福という僧が写経したと記されるが、この時の経典とされている。なお道忠の門弟には円澄、円仁が居る。延暦17年(798年)10月に法華十講の法会を行う。これは最澄が法華三部経の講義を行ったとされ毎年行われた。さらに延暦20年(801年)11月24日には南都各宗の高僧に呼びかけ法華十講を催している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "最澄が比叡山に籠った理由は定かではないが、入山後も官僧としての務めを果たし南都各宗とも交流を持っていることは明らかであり、「既存の仏教に嫌気がさし」などの後ろ向きな理由ではなかったと考えられる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "延暦21年(802年)に和気弘世が氏寺の高尾山寺催した天台法門の講会で、最澄も招かれ講師を務める。この講会について『叡山大師伝』は一乗仏教興隆の為と記している。また『伝述一心戒文』などには桓武天皇の意思によって催されたと記されるが、史実性は疑わしい。しかしこの法会の事を聞いた桓武天皇が天台一乗興隆を発願し、同年9月7日に弘世を詔問し、弘世は最澄に相談したとされる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "この時代、仏教宗派は南都六宗に限られていた。特に法相宗と三論宗に多くの学生が集まり、延暦21年正月(802年)の太政官符に「三論、法相、彼此角争」とあるように両宗が衝突していた。こうした抗争を収束させたい朝廷は新しい仏教界の秩序作りを目指す仏教政策を取る事となり、結果として天台宗の開宗が後押しされたと考えられる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "『叡山大師伝』によれば、桓武天皇の詔問を受けた弘世は最澄に相談し、唐の天台山国清寺への還学生と留学生各1名を派遣の必要性を訴える上表文を記す。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "論宗とは『中論』に基づく三論宗と『成唯識論』に基づく法相宗を指し、天台宗は釈尊の説いた経に基づく経宗であると主張している。この上表により円基と妙澄の唐への派遣が決まったものの、9月12日になると天皇は最澄本人が入唐するよう勅した。翌日最澄は「天朝の命に答えん」と返答し還学生となり、さらに10月20日に義真を訳語僧として同行することを願い出て許されている。この際に入唐費用として金銀数百両が与えられたが、遣唐大使が200両、副使が150両であった事と比べ非常に大きな額であったことが分かる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "延暦23年(804年)7月6日に最澄ら遣唐使は肥前国松浦郡田浦から出港。最澄が乗船した第2船は9月1日に明州鄮県に到着した。病にかかっていた最澄はしばらく休養し、9月15日に天台山へ出発し、9月26日に台州に到着する。刺史の陸淳に面会した最澄は、講演会に訪れていた天台山修禅寺の道邃を紹介される。『叡山大師伝』によれば、道邃は最澄の求めに応じて写経の手筈を整えた。貞元20年(延暦23年・804年)10月には最澄は天台山に登る。『伝法偈』によれば10月7日に仏隴寺で行満に出会い、経典82巻と印信(弟子が授かる書状)を授かる。同年12月7日に沙弥であった義真は天台山国清寺にて翰を戒師として具足戒を受ける。翌貞元21年(延暦24年・805年)3月2日に最澄と義真は道邃から菩薩戒を受けるが、これが最澄と天台法華の教旨による大乗戒との出会いとなった。天台山における求法の成果は『伝教大師将来台州録』によれば書物120部345巻に及んだ。またこの明州滞在の間に禅林寺で牛頭禅、国清寺で密教を学んだほか、国清寺に一堂を建立している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "同年3月上旬、最澄一行は明州に戻る。同年1月に崩じた徳宗の一件を日本に伝える為に遣唐使の帰国が決まったためと思われる。遣唐使船が順風を待つ間に最澄は越州の龍興寺を目指す。『叡山大師伝』によればこの越州行きは「真言を求めるため」とするが、『顕戒論』には「明州の刺史の勧めによって」と記されている。4月8日頃に明州を出発して4月18日には峯山道場で順暁から灌頂を受けるという慌ただしい日程であった。『内証仏法相承血脈譜』や『顕戒論』によれば、この灌頂は金剛界・胎蔵界両部であったと記されている。また『伝教大師将来越州録』によれば、これにより書物102部115巻と密教供養道具5点を入手したとされる。この後の5月5日までに明州へ再び戻った最澄は、開元寺法華院の霊光などから密教儀軌を得るなどし、5月18日に明州から帰国の途に立った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "延暦24年(805年)6月5日に対馬に着いた最澄は直ちに上京する。『叡山大師伝』によると、最澄が将来した天台法門は勅命により7通の書写が命じられ、三論宗や法相宗に学ばせた。この経典は弘仁6年(815年)に嵯峨天皇による題を書き付けて完成したとされる。一方で最澄がもたらした密教も歓迎される。繰り返し密教の灌頂や祈祷などが行われたことが伝記に記されているが、これらは桓武天皇が病に伏せていた事と関係があると考えられる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "延暦25年(806年)正月3日に最澄は年分度者に天台法華宗を加える改正を上奏する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "これ以前の年分度者は三論宗と法相宗のみに認められていたが、最澄の提案は天台法華宗を含む5宗を加えるものであった。上奏文からは天台法華宗を公認させる意味以上に、新しい仏教界の秩序を作ろうとする意図がうかがえる。この上奏は直ちに僧綱に意見が求められ僧綱も同意し、1月26日の太政官符により制定された。官符には年分度者の学業や任用など具体的な規定を含んでいることが特徴で、天台法華宗には『大日経』を読ませる遮那業(密教)と『摩訶止観』を読ませる止観業(天台)、各一名が割り当てられた。しかしこの時点での公認はあくまで奈良仏教の僧綱の下で認められたものであった。『天台法華宗年分得度学生名帳』によると、この制度によって天台法華宗では、弘仁9年(818年)までに24名が得度を受けた。しかし比叡山を去った者が14名おり、そのうち法相宗が奪った者6名と記録されている。この事について最澄は「天台学生は小儀にとらわれて京に馳散する。まさに円道を絶せんとす」と『顕戒論』に記し、危機感を露わにしている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "前述のように唐から戻った最澄が伝えた密教は歓迎される。『叡山大師伝』は桓武天皇の喜びを「真言の秘教等は未だ此の土に伝るを得ず。しかるに最澄はこの道を得、まことに国師たり」と伝える。最澄が唐から戻った翌大同元年(806年)に長安で密教を学んだ空海も帰朝する。まもなく最澄は空海に密教の習学を申し出ているが、その理由は天台法華宗の年分度者に遮那業(密教)1名が割り当てられていた事と関連があると考えられる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "『伝教大師消息』に記された書簡によると、最澄は弟子を空海の下に送り、借用した経典を写すといったことを、大同4年(809年)から弘仁7年(816年)頃まで繰り返した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "弘仁3年(812年)10月27日には乙訓寺にいた空海を最澄が訪ねた。この際に空海は最澄に伝法することを決めたという。神護寺に残る『灌頂記』によれば、最澄は11月15日に金剛界灌頂を、12月14日に胎蔵界灌頂を空海から受けた。しかしこの頃の最澄の手紙をみると灌頂を受ける日について混乱が見られる。この点について最澄は灌頂が金剛界と胎蔵界の両部が独立して一対になっているということを知らなかったという説がある。のちに最澄は越州で学んだ密教について両部の灌頂を受けたと『顕戒論』などに記しているが、おそらく最澄が学んだ密教は両部を合わせた亜流派であり、空海が長安で学び伝えた法門と比べて劣っている事に最澄も気が付いていたと考えられる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "灌頂を受けた最澄は空海の弟子となったことを意味する。後に円澄が空海に宛てた書簡によれば、空海は最澄に大法儀軌を受ける為には3年間留まるように伝えていたが果たせなかったとある。空海の下での修行は、既に一宗の責任者となっていた最澄には叶わぬ事であり、最澄もまた空海に宛てた書簡に訪問できない事への詫びを繰り返し記している。なお最澄が『理趣釈経』の借用を求めた事に対して、空海が「理趣は論じて心から心へ伝えるもので、未入壇の者には真言を伝えない」と断ったことが二人を分かつことになったとする説があるが、この根拠となった書簡にある「澄法師」は最澄ではなく円澄とする説もある。しかしその真偽は別としても、空海の下で最澄が修業できなかった事が両者を疎遠にした根本の理由であったと考えられる。もうひとつ両者に異なる点は真言と天台の位置づけである。最澄は天台と真言は一致しており、同じ一乗であるとしている。一方で空海は天台を真言より低い教えと見ている。この教理の相違も両者を分かつ理由と考えられる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "さらに両者の間に泰範の去就問題がある。元々、泰範は天台宗以外の僧であったが、比叡山に入って密教を学んでいたと考えられる。優秀な弟子であったようで、弘仁3年(812年)5月8日付けの最澄の遺書には泰範を惣別当(比叡山の管理責任者)に指名している。しかし直後の6月29日に泰範は暇を請うて比叡山から降りる。その書簡を読んだ最澄は返信を送るが、そこから最澄の驚きと泰範が最澄の弟子から戒を破った事で批判を受けていたことが分かる。その後も最澄は泰範を慰留したようで、最澄と泰範は共に胎蔵界灌頂を受けている。しかし泰範は比叡山には戻らず、空海の元に身を寄せた。弘仁7年に最澄が泰範に宛てた書簡には深刻な自己反省と泰範への期待が表明されている。しかしその書簡への返信は空海の代筆によるもので「真言の教えが天台よりも優れる」と記されている。泰範は空海の十大弟子に数えられている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "最澄は天台法華宗を広めるために六所宝塔を建立する計画を立てる。六所宝塔とは『比叡山僧塔院等之記』に記される全国6箇所に法華経一千部を安置するための宝塔である。『叡山大師伝』によると、最澄は弘仁5年(814年)春に宇佐八幡と香春神宮寺に参詣し、入唐の無事に感謝し妙法蓮華経等を奉納。続いて弘仁8年(817年)春に東国へ向かう。この旅では最澄が無名の頃に写経に助力した道忠の弟子らの寺々を訪問する。同年3月6日には大慈寺にて円仁と徳円に菩薩戒を授け、5月15日には緑野寺にて円澄と広智に両部灌頂を授けている。またこの際にも法華大乗経二千部を写して宝塔に安置したと記されている。六所宝塔が全て完成するのは最澄の没後である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "天台法華宗が広がりをみせると法相宗を中心に批判が集まるようになる。研究者によると論争の発端は最澄が弘仁4年(813年)に著した『依憑天台義集』などとされる。弘仁5年正月の御斎会にて嵯峨天皇の希望で殿上にて最澄と南都僧の対論が行われた。弘仁6年8月には大安寺にて最澄が天台を講じ、南都僧らと大論争を行う。この際の主題はいわゆる三一権実論争である。『叡山大師伝』によると南都僧らは攻撃的な姿勢で議論に臨んだとある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "続いて弘仁8年(817年)2月に東国に赴いていた最澄は、恵日寺の法相宗の僧徳一が著した『仏性抄』への反論として『照権実鏡』を著す。これ以降、二人の論争は最澄の死去前年の弘仁12年(821年)に至るまで続けられた。なお最澄の著作の大半は徳一との論争に関連するものである。二人の論争は2つの主題に分けることができ、一つは天台・法相の教学の違いについてである。その中に修業についての論争があるが、最澄は「徳一の示す修行は正法の時代(釈迦の時代)のもので、末法に近い時代に実践することはできない」とユニークな批判をする。この思想が後述する大乗戒壇設立に繋がる。いま一つは三一現実論争であるが、これは「天台の一乗」と「法相の三乗」のどちらが権実(仮と真実)の思想であるかをめぐる論争で、これに用いられた喩えが火宅の喩(三車火宅)である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "最澄の弟子で朝廷との交渉役であった光定が著した『伝述一心戒文』によれば、弘仁9年(818年)に最澄は天台法華宗を広めるために大乗寺を建て、光定に一乗の号を名乗らせると告げた。光定はこの事を藤原冬嗣を通じて天皇に上奏するが、南都の僧の反対にあって叶わなかった。『叡山大師伝』によると、同年3月に最澄が「今後声聞の利益を受けず、永く小乗の威儀にそむくべし」とし、具足戒を破棄したと記される。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "続いて最澄は『山家学生式』などを著し、天台法華宗の僧育成制度について朝廷に裁可を要請する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "この中で最澄は大乗戒のみによる受戒と十二年籠山行など革新的な受戒制度と育成制度を提唱する。弘仁10年3月15日に『天台法華宗年分度者回小向大式』が提出されると、嵯峨天皇は「真理に叶ったものであれば取り計らうように、真理に叶わなければ取り計らってはならない」と返答。この件を玄蕃寮長官の真苑雑物は僧綱の護命へ告げ、護命は南都七大寺に意見を求めたうえで、最澄の主張には道理がないとして反対の意を上奏した。この上奏文は天皇の勅により10月27日に最澄に渡された。これに対し最澄は翌弘仁11年(821年)2月29日に『顕戒論』と『内証仏法相承血脈譜』を内裏に提出して反論。さらに弘仁12年3月に『顕戒論縁起』を朝廷に提出する。しかし最澄の提言は生前に叶う事は無かった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "天台宗独自の制度樹立を図った最澄の意図についてはいくつか考えられる。第一は護国である。奈良時代の仏教は東大寺や国分寺の建立に見られるように護国を期待されていたが、災害や疫病は絶えなかった。最澄はその原因を小乗戒(具足戒)を受けた僧に求め、これを大乗僧の純粋培養によって克服しようとした。第二は時代である。釈迦が入滅して2000年近い年月が経って末法が近い世で悟りに至るには、長く時間のかかる方法ではなく大きく真っすぐな道によらなくてはならないとした。この二点を解決するために戒律制度の改革を提唱した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "鑑真が日本にもたらした戒律制度は唐の天台宗を含めて諸国の標準となっていたもので、僧になるためには具足戒を三師七証を前に受戒せねばならず、また菩薩戒は具足戒を受けた僧が補助的に受ける、あるいは在家信者が受ける戒としていた。それに対し最澄は梵網経菩薩戒のみで僧になれるとし、あわせて受戒も釈迦仏、文殊師利菩薩、弥勒菩薩を三師とし、一切の仏を証師としたうえで一人の伝戒師が居ればよく、伝戒師が居なければ自誓受戒でもよいとした。また在家と出家は姿(剃髪と袈裟)で区別できるとする。このような大胆な戒律制度は日本独自の大乗仏教を育み、のちに延暦寺から輩出される鎌倉新仏教の礎となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "最澄が意図した第三は比叡山から僧の流出を防ぐことである。前述のように天台法華宗で受戒した僧が法相宗に度々奪われていた。第四は天台教団の独立である。南都六宗は僧綱を頂点とした管理機関を持ち、天台法華宗の年分度者であっても東大寺で受戒していた。また僧は治部省に属する玄蕃寮が掌握していた。この二点を克服する手立てが比叡山上での受戒と、続く12年に渡る籠山などであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "天台法華宗に年分度者が与えられてから10年間で受戒した20名のうち、比叡山に住するものは僅か6名であった。これは南都の寺に所属する僧が天台法華宗の割り当てを利用して受戒していたことも原因の一つと考えられる。最澄は得度を受けてから受戒を経てその後の修学にいたるまで比叡山内で完結させることで、多くの天台僧を育成することを図ったと考えられる。それまでも籠山修行をする僧は居たが、これを制度化したのは最澄が初めてである。また籠山を終え学問修行共に満足であった者には、最高の僧位である大法師位を与えて欲しいと訴えている。最澄が大法師位を授かったのはこの後の事で、非常に高い要求であったことがわかる。さらに大乗戒を受けた僧については僧籍を治部省に移さず民部省に置いたままとしたうえで、受戒にあたって発給される度縁については具足戒と同様に官印を捺してもらうとしている。また官の派遣により俗別当(僧でない管理者)を置くことや他宗からの入門規定、あるいは官費の給付不要や破戒僧の処罰などを明文化している。これらは天台法華宗が既存の仏教政策から離脱し、太政官の直下に置かれて独自の管理組織を構築することを意図していると考えられる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "最澄は弘仁13年(822年)2月14日に伝燈大法師位を授かる。この頃には体調を崩していたようで、桓武天皇の国忌である3月17日に光定は「最澄法師重病を受く。命緒幾ばくならず。伝戒を許されざれば先帝の御願成就せず。」と、戒壇設立の勅許を催促している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "6月4日の辰の刻に入滅。廟所は比叡山東塔の浄土院。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "最澄の死を受けて藤原冬嗣、良峰安世、伴国通らが『山修山学の表』を天皇に奏請し、死後7日後に大乗戒壇の設立と天台僧育成制度の樹立について勅許が下りた。弘仁14年(823年)2月26日には、勅により一乗止観院を延暦寺と改称。同年3月17日に最初の得度が行われ、ついで4月14日に光定らが受戒した。同年10月17日に嵯峨天皇は『澄上人を哭す』の詩を賜う。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "貞観8年(866年)7月12日に伝教大師の諡号が勅諡された。円仁の慈覚大師と共に日本史上の初の大師号である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "天台宗では開祖として現代に至るまで尊崇されており、2021年(令和3年)6月4日に延暦寺で、入寂後1200年の大遠忌法要が執り行われた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "中国天台宗は6世紀に隋の智顗が開いた宗派であり、のちに日本に伝来した南都仏教よりも歴史が古い。最澄は自身が受け継いだ教えについて『内証仏法相承血脈譜』に、達磨大師付法・天台法華宗・天台円教菩薩戒・胎蔵金剛界両曼荼羅・雑曼荼羅の5つを挙げている。5つの教えのうち天台法華宗のみに「宗」が付いている事について、伊吹敦は「受け継いだ思想的伝統を血脈と称し、それらを統合して新たに樹立した自らの思想的立場を宗と呼んだ」としたうえで、「中国天台宗とは異なる日本独自の天台宗が成立した」と評価している。", "title": "事績と評価" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また新川哲雄は南都六宗における宗派を「経典や論書の理解に関する枢要な教義及びそれを学ぶ「学派」を意味する」としたうえで、最澄の開宗によって「ある立場の教義を同じく尊崇する人々の一団を「宗」とし、さらにその一宗団の中で教義をめぐる解釈の違いなどから立場を異にする分派が生じた時に「派」とみる新しい宗派意識の原型が生まれた」と評価している。", "title": "事績と評価" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "前述のように、天台法華宗には止観業(天台)と遮那業(密教)の各1名の年分度者が認められた。これは最澄が顕(天台教学)と密(密教学)の合同を最終の理想としていた為と考えられる。", "title": "事績と評価" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "止観業とは智顗が著した『摩訶止観』に由来する。『摩訶止観』は仏道修行の基礎的な規範を記したもので、実践と修行の立場から法華経を解釈したものとされる。最澄は『勧奨天台宗年分学生式』に「止観業は四種三昧を修習せしめ(後略)」と記すように、『摩訶止観』に記される実践行である四種三昧の実践を重視していた。そして実践の場として最澄は四種三昧堂の建立を図ったが、この堂は『弘仁九年比叡山寺僧院之記』に一乗止観院に続いて記されていることから延暦寺伽藍構想においても重要視されていたことが分かる。", "title": "事績と評価" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "東塔の半行半坐三味堂(法華三昧堂)は最澄が弘仁3年(812年)に建立したとされるが、常坐一行三昧堂(文殊楼)、常行三昧堂、非行非坐三味堂(随自意堂)は最澄の没後に完成する。のちの天台宗では法華堂は座禅道場として重視され、常行堂は浄土信仰の素地となった。しかし、それ以外の三昧堂はさほど重視されることがなかったと考えられる。", "title": "事績と評価" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "一方の遮那業は『摩訶毘盧遮那神変加持経業』に由来する。最澄が唐から伝えた密教は不十分なもので空海に助力を請うたが、教義の完成を果たせなかった。のちに天台密教は円仁と円珍の入唐により研究が盛んになり、安然によって完成され、その後100年あまりは天台密教が隆盛する。その一方で、円仁は空海の顕密二教判(密教が顕教より優れるとする説)を一部取り込み、最澄が掲げた顕密両学(円密一致)は崩れていく。止観業が見直されるのは延暦寺中興の祖とされる良源が現れる10世紀中頃となる。", "title": "事績と評価" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)とは、衆生はみな生まれながらにして仏となりうる素質(仏性)をもつということである。その根本となる一切皆成(一切衆生が成仏できる)は涅槃経に説かれるものであり、法相宗を含む南都仏教もこれを承認していたが、その解釈(仏性論)について最澄と法相宗は激しい論争(徳一との三一権実諍論)を行った。", "title": "事績と評価" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "徳一は一切皆成を認めつつ「仏性を顕かにするための行を成しえる因(行仏性)を持たない衆生がいる」とする五性各別説を支持する。この法相宗の立場について最澄は小乗義が含まれていると批判し、五性の別なく悉皆成仏できると説いた。その上で「修行の困難さから成仏できるのは釈迦のような特別な存在」とする一般的な仏教観を否定し、「一切衆生悉有仏性を信じ利他行に励み成仏の道を進む者こそが菩薩」とし大乗の立場を明確にした。", "title": "事績と評価" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "前述のように、最澄は菩薩戒の受戒で比丘になれるとする大乗戒壇の設立に尽力し、日本独自の戒律制度が成立した。一方でこれにより、鑑真が日本に伝来した「具足戒での受戒で比丘となれる」とする東アジアの基準に当てはまらない比丘が生まれる事となる。後に明全が入宋した際には、比叡山の大乗戒壇で受戒していたにもかかわらず、東大寺戒壇で受戒した戒牒を作成している。また現在の日本仏教は戒律を軽視しているとされるが、沖本克己はその大きな転換点の一つとして最澄の大乗戒壇の設立を挙げている。", "title": "事績と評価" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "書における師承は明らかでないが、延暦23年(804年)に入唐し、帰朝に当って王羲之の十七帖、王献之、欧陽詢、褚遂良などの筆跡や法帖類を持ち帰った。その書風は空海の変幻自在なのに比べて、楷書と呼ばれるものに近い。真跡として現存するものには次のようなものがある。", "title": "書" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "『天台法華宗年分縁起』(てんだいほっけしゅうねんぶんえんぎ)は、天台法華宗の年分度者および大乗戒壇設立に関わる文書を蒐集した書。延暦寺蔵。国宝。収録されているのは以下の6通。", "title": "書" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "『久隔帖』(きゅうかくじょう)は、弘仁4年(813年)11月25日付で書いた尺牘(書状)で、「久隔清音」の句で始まるのでこの名がある。宛名は「高雄範闍梨」とあり、これは高雄山寺に派遣した最澄の弟子の泰範であるが、実質は空海宛である。心が筆端まで行き届き、墨気清澄・品格高邁で、さながら王羲之の『集字聖教序』を肉筆化したような響きを放つ。大きさは、29.2cm×55.2cm。奈良国立博物館蔵。国宝。文化財指定名称は「伝教大師筆尺牘」。", "title": "書" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "久隔清音馳 恋無極 傳承安和且慰下情 大阿闍梨所示五八詩序中有一百廿禮仏 并方圓圖 并註義等名 今奉和詩未知其礼仏圖者 伏乞 令聞 阿闍梨 其所撰圖義並其大意等 告施其和詩者怱難作 著筆之文難改後 代惟示其委曲 必造和詩奉上 座下 謹附貞聡仏子奉状和南 弘仁四年十一月廿五日小法弟最澄状上 高雄範闍梨法前 (以下省略)", "title": "書" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "文面は、「大阿闍梨(空海)の示された五八の詩(『中寿感興詩』)の序に、『一百二十礼仏』『方円図』『註義』という書名がある。その詩の韻に和して返礼の詩を作って差し上げたいが、私は『礼仏図』なるものをまだ知らない。どうかこの旨を阿闍梨(空海)に伝えられ、『方円図』『註義』とその大意とをお知らせいただきたい。(以下省略)」という趣旨の内容である。", "title": "書" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "『越州将来目録』(えっしゅうしょうらいもくろく)は、最澄が唐から持ち帰った書物等の目録。102部115巻の書物と密教法具が記される。巻尾には越州長官の鄭審則の自筆印可条と州の官印のほか、遣唐大使葛野麿らの連署や遣唐使印もあり、当時の公文書の史料としても貴重。延暦寺蔵、国宝。文化財登録名称は「弘法大師請来目録」。", "title": "書" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "『羯磨金剛目録』(かつまこんごうもくろく)は、唐から持ち帰った品々を経蔵に永納した際の総目録。原本はほぼ失われてしまい、残った十数行を繋ぎ合わせた断簡。元は『御教蔵宝物聖教等目録』といったが、現在は文頭にある羯磨金剛に因んで呼ばれる。文書の全面に「比叡寺印」が捺されており、当時の正式寺号が分かる史料。延暦寺蔵、国宝。", "title": "書" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "『空海将来目録』(くうかいしょうらいもくろく)は、空海が唐から持ち帰った聖教典籍の総目録を、最澄が書写したもの。元来は延暦寺にあったものが、ある時期に『風信帖』と共に東寺に譲られたものと考えられている。東寺蔵、国宝。文化財指定名称は「弘法大師請来目録」。", "title": "書" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "最澄が詠んだ和歌が9首伝わっている。", "title": "和歌" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "この歌について正岡子規は「いとめでたき歌にて候。長句の用ゐ方など古今未曾有にて、これを詠みたる人もさすがなれど、この歌を勅撰集に加へたる勇気も称するに足るべくと存候(『九たび歌詠みに与ふる書』)」と賞賛している。", "title": "和歌" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "伝教大師童形像は、生源寺(滋賀県大津市)、延暦寺(滋賀県大津市)、雙林寺(京都府京都市)、三千院(京都市)、松尾寺(大阪府和泉市)、能福寺(兵庫県神戸市)、普光寺(兵庫県加西市)、長法寺(岡山県津山市)、天王院(神奈川県横浜市)、立石寺(山形県山形市)など天台宗の寺院に設置されている。", "title": "伝教大師童形像" } ]
最澄は、平安時代初期の日本の仏教僧。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師(でんぎょうだいし)として広く知られる。近江国(現在の滋賀県)滋賀郡古市郷もしくは生源寺の地に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。唐に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて日本における天台宗を開いた。
{{Infobox Buddhist |名前=最澄 |生没年=[[神護景雲]]元年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]<ref name="syussei">なお、最澄自身の撰とされる『内証仏法相承血脈譜』では、13歳で弟子入りし、宝亀11年11月10日作成の「近江国府牒」に“三津首広野年拾五”との記述があり、天平神護2年出生説を採る学者もいる。</ref> - [[弘仁]]13年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]([[旧暦]])<br/><small>([[767年]][[9月15日]] - [[822年]][[6月26日]]〈[[ユリウス暦|新暦]]〉)</small> |法名=最澄 |法号=福聚金剛(ふくじゅこんごう) |諡号=伝教(傳敎)[[大師 (僧)|大師]] |尊称= |生地=[[近江国]][[滋賀郡]]古市郷(現:[[滋賀県]][[大津市]])もしくは[[坂本 (大津市)|坂本]] |没地=中道院([[比叡山]]) |画像=[[ファイル:最澄像 一乗寺蔵 平安時代.jpg|250px]] |説明文=最澄像([[国宝]])、[[平安時代]]([[11世紀]])、[[一乗寺]]蔵 |宗派=天台宗 |寺院=[[延暦寺根本中堂|一乗止観院(現:根本中堂)]] |師=[[道邃]]、[[行満]]、[[翛然]]、[[順暁]] |弟子=[[義真]]、[[円仁]]ほか |著作= |廟= }} '''最澄'''(さいちょう、[[766年]]〈[[天平神護]]2年〉<ref name="syussei"/>もしくは[[767年]]〈[[神護景雲]]元年〉 - [[822年]]〈[[弘仁]]13年〉)は、[[平安時代]]初期の[[日本]]の[[仏教]]僧<ref>"The Sutra of the Sixth Patriarch." Dumoulin, Heinrich. ''Zen Buddhism: A History, India and China''. New York: World Wisdom, 2005, p128. </ref>{{refnest|name="nipponica_saichou"|塩入良道、[https://kotobank.jp/word/%E6%9C%80%E6%BE%84-68072#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「最澄」 -日本大百科全書(ニッポニカ) ]、小学館。}}。[[天台宗#日本の天台宗|日本の天台宗]]の開祖であり、'''伝教大師'''(でんぎょうだいし)として広く知られる<ref group="注釈">最澄に対する称名は「南無宗祖根本伝教大師福聚金剛」である。</ref>。[[近江国]](現在の[[滋賀県]])[[滋賀郡]]古市郷(現:[[大津市]])もしくは[[生源寺]](現:大津市[[坂本 (大津市)|坂本]])の地に生れ、[[俗名]]は三津首広野(みつのおびとひろの)。[[唐]]に渡って仏教を学び、帰国後、[[比叡山]][[延暦寺]]を建てて[[日本]]における天台宗を開いた<ref>書家101 p.118</ref>。 == 生涯 == === 生まれ === [[ファイル:Dengyo-saicho.JPG|thumb|right|150px|最澄像([[能福寺]])]] 最澄の生まれについての記録は、最澄没後に記された伝記類によるものと、存命当時の公文書類によるものの2つがあり、若干の齟齬がある{{sfn|田村晃祐|1988|p=1-7}}。 最澄の父は『叡山大師伝』は[[三津百枝|三津首百枝]](みつのおびとももえ)と記し{{sfn|木内堯央|2020|p=28-30}}、[[宝亀]]11年(780年)の『国府牒』によれば父(戸主)は三津首浄足(きよあし)で、身分は[[正八位]]下、副知事のような地位であったとされる{{sfn|木内堯央|2020|p=26-28}}{{Refnest|group="注釈"|「百枝」は浄足の音をとった「巨枝」を誤ったもので、同一人物とする説もある{{sfn|木内堯央|2020|p=28-30}}。また最澄の父が戸主であったとは限らない為、浄足は父ではないとする説もある{{sfn|田村晃祐|1988|p=1-7}}。}}。[[本貫]]は、『国府牒』は[[近江国]]滋賀郡古市郷と伝えるが{{sfn|木内堯央|2020|p=26-28}}{{Refnest|group="注釈"|古市郷について『大日本地名辞典』では[[大津市]]粟津と考証されている{{sfn|木内堯央|2020|p=26-28}}。}}、天台宗の伝承によると大津市[[坂本 (大津市)|坂本]]の[[生源寺]]の生まれであったとされる{{sfn|田村晃祐|1988|p=1-7}}。[[三津氏|三津首]]について[[天台宗]]が最澄を讃える『伝教大師和讃』や『叡山大師伝』では[[後漢]]皇帝の子孫、[[登万貴王]]の末裔としている{{Refnest|group="注釈"|『[[新撰姓氏録]]』には近江には志賀忌寸や志賀穴大村主といった帰化漢人が早くから居住していたことがわかる{{sfn|木内堯央|2020|p=26-28}}。また三津首の記述はないものの可能性は否定できないとされる{{sfn|田村晃祐|1988|p=1-7}}。}}{{sfn|木内堯央|2020|p=26-28}}。最澄の母は10世紀成立の『伝教大師由緒』は[[藤原鷹取]]の娘で藤子とし、『青蓮院門跡系譜』は[[応神天皇]]9世の孫とするが、いずれも後世の言い伝えで史実性は不明である。『叡山大師伝』は両親は子に恵まれなかったが[[比叡山]]の神宮で祈請したところ最澄を身籠ったと記す{{sfn|木内堯央|2020|p=28-30}}。 最澄の生まれ年にも2説ある。『叡山大師伝』などが伝える没年齢によると神護景雲元年(767年)生まれであるが、『国府牒』『度牒』『戒牒』といった最澄が官僧になる際の公文書によると天平神護2年(766年)生まれである{{sfn|木内堯央|2020|p=28-30}}。この2説について専門家の意見は統一を見ていないが、戸籍上は766年生まれであったが、最澄自身が767年と考えていたという説もある{{sfn|田村晃祐|1988|p=1-7}}。 『国府牒』などによれば、最澄の[[幼名]]は広野(ひろの)。伝記には幼い頃に小学という初等教育機関で「[[陰陽道|陰陽]]、医方、工巧などを修める」など非凡な才を見せ、7歳の頃に仏道を志すと伝える{{sfn|木内堯央|2020|p=30-31}}。 === 出家 === 『国府牒』は[[近江国分寺]]僧に欠員ができたので広野を[[得度]]させるよう指示した公文書である。これによればこの頃の広野は『[[法華経]]』『[[金光明経|最勝王経]]』『[[薬師瑠璃光如来本願功徳経|薬師経]]』『[[金剛般若経]]』などを読むと記される{{sfn|木内堯央|2020|p=32-34}}。当時の例にもれず、広野も[[在家|優婆塞]]として3年ほど国分寺で雑用や奉仕をしつつ経典を学んでいたと考えられる{{sfn|木内堯央|2020|p=32-34}}。宝亀11年(780年)11月12日に、広野は近江国分寺にて得度を受け[[僧#沙弥・沙弥尼|沙弥]]となり最澄と名付けられる。それ以降、近江国師の行表に師事するが{{sfn|木内堯央|2020|p=34-36}}、のちに最澄は行表から[[禅宗]]を教えられたとしたうえで、教えについて「心を[[一乗]]に帰すべきこと」と『内証仏法相承血脈譜』に記しており、師の教えがその後に最澄の求める仏教のあり方を方向づけたと思われる{{sfn|木内堯央|2020|p=42-43}}{{sfn|木内堯央|2020|p=57-58}}{{sfn|田村晃祐|1988|p=7-19}}。つづいて[[延暦]]4年(785年)4月6日に[[東大寺#伽藍|東大寺戒壇院]]で具足戒を受けて比丘となる{{sfn|木内堯央|2020|p=13-16}}{{sfn|木内堯央|2020|p=48-51}}。 === 比叡入山 === ここまで官僧として順調に歩を進めた最澄だが、具足戒を受けてほどない延暦4年(785年)7月中旬に比叡山に籠る{{sfn|木内堯央|2020|p=44-46}}。『[[僧尼令]]』には「禅行修道あって、心に静寂を願い、俗に交わらず、山居を求めて服餌せんと欲すれば、三綱連署せよ」とあり、最澄もこのような公的な手続きを踏んで入山したと考えられる{{sfn|田村晃祐|1988|p=23-25}}。『叡山大師伝』によれば、まず比叡山麓の神宮禅院で懺悔の行を修め、つづいて『願文』を著したとされる{{sfn|木内堯央|2020|p=48-51}}。 {{Quotation|(前略)伏して願わくば、解脱の味、一人飲まず、安楽の果、独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく、妙味を服せん。(後略)|最澄|『願文』{{sfn|木内堯央|2020|p=51-54}}}}この願文から最澄は自らも[[大乗仏教|大乗]]経典に出る[[菩薩]]のようになることを志していることが分かる{{sfn|木内堯央|2020|p=51-54}}。『叡山大師伝』はこの願文を読んだ[[内供奉十禅師|内供奉]]の寿興と最澄が固い交わりを結んだとする{{sfn|田村晃祐|1988|p=30-33}}。 『叡山大師伝』によると、延暦7年(788年)に比叡山に小堂を建て自刻の[[薬師如来|薬師]]像を安置した{{sfn|田村晃祐|1988|p=264}}。場所は現在の[[延暦寺根本中堂|根本中堂]]の位置とされ、後に一乗止観院と称する{{sfn|田村晃祐|1988|p=7-19}}。そこに籠った最澄は『法華経』の研究を重ね「[[智顗]]の教学にふれて、天台の法門を得たい」と思い至る。そしてあるとき天台法門の所在を知る人に邂逅し、[[鑑真]]が将来した経典を写しとることができたとされる{{sfn|木内堯央|2020|p=59-61}}{{Refnest|group="注釈"|この鑑真将来の経典について[[伴国道]]は東大寺所蔵のものと伝えている{{sfn|田村晃祐|1988|p=30-33}}。}}。 延暦10年(791年)12月28日に最澄は修行入位という[[僧位]]を授かる。のちに伝燈位を授かる最澄だが、修行位を授かった事は当時の最澄の評価の一面と考えられる{{sfn|田村晃祐|1988|p=33-38}}。『天台霞標』によれば延暦16年(797年)12月10日に内供奉の欠員を補うためにこれに任ぜられた。内供奉は[[宮中]]の内道場で読師などを行う僧で10名が定員。欠員ある場合は清行の者で補い、任期は生涯であった。前述のように寿興と交流があったことから最澄が推薦されたと考えられる{{sfn|田村晃祐|1988|p=33-38}}。 延暦16年(797年)に最澄は比叡山に一切経を揃える[[写経]]事業を発願する。弟子たちに写経をさせたほか、助力を請うため[[南都六宗|南都諸寺]]に願文を送っている{{sfn|木内堯央|2020|p=61-64}}。この呼びかけに答えたのが[[大安寺]]の聞寂や[[東国]]の[[道忠]]である。延暦寺浄土院に2巻のみ現存する『華厳要義問答』は延暦18年に行福という僧が写経したと記されるが、この時の経典とされている{{sfn|田村晃祐|1988|p=33-38}}。なお道忠の門弟には[[円澄]]、[[円仁]]が居る{{sfn|木内堯央|2020|p=61-64}}{{sfn|田村晃祐|1988|p=42-52}}。延暦17年(798年)10月に法華十講の法会を行う。これは最澄が法華三部経の講義を行ったとされ毎年行われた{{sfn|田村晃祐|1988|p=53-59}}。さらに延暦20年(801年)11月24日には南都各宗の高僧に呼びかけ法華十講を催している{{sfn|木内堯央|2020|p=61-64}}。 最澄が比叡山に籠った理由は定かではないが、入山後も官僧としての務めを果たし南都各宗とも交流を持っていることは明らかであり、「既存の仏教に嫌気がさし」などの後ろ向きな理由ではなかったと考えられる{{sfn|木内堯央|2020|p=46-48}}。 === 高尾講会 === 延暦21年(802年)に[[和気広世|和気弘世]]が[[氏寺]]の[[神護寺#高雄山寺|高尾山寺]]催した天台法門の講会で、最澄も招かれ講師を務める{{Refnest|group="注釈"|この法会に召集された高僧は、前年に最澄が行った法華十講の講師10人が含まれている。また最澄への招請状から弘世は最澄に帰依していたことがわかる{{sfn|田村晃祐|1988|p=53-59}}。}}。この講会について『叡山大師伝』は一乗仏教興隆の為と記している。また『伝述一心戒文』などには[[桓武天皇]]の意思によって催されたと記されるが、史実性は疑わしい{{sfn|田村晃祐|1988|p=53-59}}。しかしこの法会の事を聞いた桓武天皇が天台一乗興隆を発願し、同年9月7日に弘世を詔問し、弘世は最澄に相談したとされる{{sfn|田村晃祐|1988|p=53-59}}{{sfn|木内堯央|2020|p=69-71}}。 この時代、仏教宗派は[[南都六宗]]に限られていた。特に[[法相宗]]と[[三論宗]]に多くの学生が集まり、延暦21年正月(802年)の[[太政官符]]に「三論、法相、彼此角争」とあるように両宗が衝突していた。こうした抗争を収束させたい朝廷は新しい仏教界の秩序作りを目指す仏教政策を取る事となり、結果として天台宗の開宗が後押しされたと考えられる{{sfn|木内堯央|2020|p=67-69}}。 === 入唐求法 === [[File:Dengyō-daishi nittōchō.jpg|thumb|『伝教大師入唐牒』のうち明州牒(延暦寺蔵・国宝)]] [[File:Catalogue of imported items.jpg|thumb|『伝教大師請来目録(越州録)』(延暦寺蔵・最澄直筆・国宝)]] [[File:Guoqingsi004r.jpg|thumb|right|最澄大師得法を記した碑文([[天台山国清寺]])]] 『叡山大師伝』によれば、桓武天皇の詔問を受けた弘世は最澄に相談し、唐の[[天台山国清寺]]への還学生と留学生{{Refnest|group="注釈"|還学生(げんがくしょう)は1年程度で戻る短期滞在の学生。対して留学生(るがくしょう)は20年ほどの長期滞在をする学生}}各1名を派遣の必要性を訴える上表文を記す{{sfn|田村晃祐|1988|p=66-74}}。 {{Quotation|(前略)天台独り、論宗を斥けて特に経宗に立つ。論は此れ経の末、経は此れ論の本なり。(中略)<br>伏して願わくは我が聖皇の御代に円宗の妙義を唐朝に学ばしめ、法華の宝車を日本に運らしめん。(後略)|和気弘世|『上表文』{{sfn|田村晃祐|1988|p=66-74}}}} 論宗とは『[[中論]]』に基づく三論宗と『[[成唯識論]]』に基づく法相宗を指し、天台宗は[[釈尊]]の説いた経に基づく経宗であると主張している。この上表により円基と妙澄の唐への派遣が決まったものの、9月12日になると天皇は最澄本人が入唐するよう勅した。翌日最澄は「天朝の命に答えん」と返答し還学生となり、さらに10月20日に[[義真]]を訳語僧として同行することを願い出て許されている{{sfn|木内堯央|2020|p=69-71}}{{sfn|田村晃祐|1988|p=66-74}}{{Refnest|group="注釈"|妙澄は後に最澄と[[空海]]の書簡に名が見えるが入唐はしていないと考えられる。円基については不明{{sfn|田村晃祐|1988|p=66-74}}。}}。この際に入唐費用として金銀数百両が与えられたが、遣唐大使が200両、副使が150両であった事と比べ非常に大きな額であったことが分かる{{sfn|田村晃祐|1988|p=66-74}}。 延暦23年(804年)7月6日に最澄ら[[遣唐使]]は[[肥前国]][[松浦郡]]田浦から出港。最澄が乗船した第2船は9月1日に[[明州]][[鄮県]]に到着した。病にかかっていた最澄はしばらく休養し、9月15日に天台山へ出発し{{sfn|木内堯央|2020|p=72-73}}、9月26日に[[台州 (浙江省)|台州]]に到着する。[[刺史]]の陸淳に面会した最澄は、講演会に訪れていた天台山修禅寺の[[道邃]]を紹介される。『叡山大師伝』によれば、道邃は最澄の求めに応じて写経の手筈を整えた。[[貞元 (唐)|貞元]]20年(延暦23年・804年)10月には最澄は天台山に登る。『伝法偈』によれば10月7日に仏隴寺で[[行満]]に出会い、経典82巻と印信(弟子が授かる書状)を授かる。同年12月7日に沙弥であった義真は[[天台山国清寺]]にて翰を戒師として具足戒を受ける。翌貞元21年(延暦24年・805年)3月2日に最澄と義真は道邃から[[菩薩戒]]を受けるが、これが最澄と天台法華の教旨による大乗戒との出会いとなった。天台山における求法の成果は『伝教大師将来台州録』によれば書物120部345巻に及んだ{{sfn|木内堯央|2020|p=73-76}}{{sfn|田村晃祐|1988|p=74-88}}。またこの明州滞在の間に禅林寺で[[牛頭宗|牛頭禅]]、国清寺で[[密教]]を学んだほか、国清寺に一堂を建立している{{sfn|田村晃祐|1988|p=74-88}}。 同年3月上旬、最澄一行は明州に戻る。同年1月に崩じた[[徳宗 (唐)|徳宗]]の一件を日本に伝える為に遣唐使の帰国が決まったためと思われる。遣唐使船が順風を待つ間に最澄は[[越州 (浙江省)|越州]]の龍興寺を目指す{{sfn|木内堯央|2020|p=76-78}}。『叡山大師伝』によればこの越州行きは「真言を求めるため」とするが、『顕戒論』には「明州の刺史の勧めによって」と記されている{{sfn|田村晃祐|1988|p=89-94}}。4月8日頃に明州を出発して4月18日には峯山道場で[[順暁]]から[[灌頂]]を受けるという慌ただしい日程であった{{sfn|木内堯央|2020|p=76-78}}。『内証仏法相承血脈譜』や『顕戒論』によれば、この灌頂は[[両界曼荼羅|金剛界・胎蔵界両部]]であったと記されている{{sfn|田村晃祐|1988|p=89-94}}。また『伝教大師将来越州録』によれば、これにより書物102部115巻と密教供養道具5点を入手したとされる。この後の5月5日までに明州へ再び戻った最澄は、開元寺法華院の霊光などから密教儀軌を得るなどし、5月18日に明州から帰国の途に立った{{sfn|木内堯央|2020|p=76-78}}。 === 天台法華宗 === 延暦24年(805年)6月5日に[[対馬]]に着いた最澄は直ちに上京する。『叡山大師伝』によると、最澄が将来した天台法門は[[勅命]]により7通の書写が命じられ、三論宗や法相宗に学ばせた。この経典は弘仁6年(815年)に[[嵯峨天皇]]による題を書き付けて完成したとされる{{sfn|木内堯央|2020|p=85-87}}{{sfn|田村晃祐|1988|p=95-97}}。一方で最澄がもたらした密教も歓迎される。繰り返し密教の灌頂や祈祷などが行われたことが伝記に記されているが、これらは桓武天皇が病に伏せていた事と関係があると考えられる{{sfn|木内堯央|2020|p=85-87}}。 延暦25年(806年)正月3日に最澄は[[年分度者]]に天台法華宗を加える改正を上奏する。 {{Quotation|一目の羅(あみ)は鳥を得ることあたわず。一両の宗なんぞ普く汲むに足らん|最澄|『上奏文』{{sfn|木内堯央|2020|p=87-90}}}} これ以前の年分度者は三論宗と法相宗のみに認められていたが、最澄の提案は天台法華宗を含む5宗{{Refnest|group="注釈"|詳細な割り当ては、[[華厳宗]]2名、天台法華宗2名、[[律宗]]2名、三論宗3名(小乗[[成実宗]]を含む)、法相宗3名(小乗[[倶舎宗]]を含む)である{{sfn|木内堯央|2020|p=87-90}}。}}を加えるものであった。上奏文からは天台法華宗を公認させる意味以上に、新しい仏教界の秩序を作ろうとする意図がうかがえる{{sfn|木内堯央|2020|p=87-90}}。この上奏は直ちに[[僧綱]]に意見が求められ僧綱も同意し、1月26日の太政官符により制定された{{Refnest|group="注釈"|天台宗はこの日をもって開宗としている。}}。官符には年分度者の学業や任用など具体的な規定を含んでいることが特徴で、天台法華宗には『[[大毘盧遮那成仏神変加持経|大日経]]』を読ませる遮那業(密教)と『[[摩訶止観]]』を読ませる止観業(天台)、各一名が割り当てられた。しかしこの時点での公認はあくまで奈良仏教の僧綱の下で認められたものであった{{sfn|田村晃祐|1988|p=101-107}}。『天台法華宗年分得度学生名帳』によると、この制度によって天台法華宗では、[[弘仁]]9年(818年)までに24名が得度を受けた。しかし比叡山を去った者が14名おり、そのうち法相宗が奪った者6名と記録されている。この事について最澄は「天台学生は小儀にとらわれて京に馳散する。まさに円道を絶せんとす」と『顕戒論』に記し、危機感を露わにしている{{sfn|田村晃祐|1988|p=108-112}}。 === 空海との関係 === [[File:Name List of Abhiseka.jpg|thumb|『灌頂歴名』には最澄と泰範の名が見える([[神護寺]]蔵、空海直筆の[[国宝]])]] [[#天台法華宗|前述]]のように唐から戻った最澄が伝えた密教は歓迎される。『叡山大師伝』は桓武天皇の喜びを「真言の秘教等は未だ此の土に伝るを得ず。しかるに最澄はこの道を得、まことに国師たり」と伝える{{sfn|田村晃祐|1988|p=113-118}}。最澄が唐から戻った翌[[大同 (日本)|大同]]元年(806年)に[[長安]]で密教を学んだ[[空海]]も帰朝する{{sfn|田村晃祐|1988|p=118-131}}。まもなく最澄は空海に密教の習学を申し出ているが{{sfn|木内堯央|2020|p=90-93}}、その理由は天台法華宗の年分度者に遮那業(密教)1名が割り当てられていた事と関連があると考えられる{{sfn|木内堯央|2020|p=90-93}}{{sfn|田村晃祐|1988|p=113-118}}。 {{Quotation|ただ遮那の宗、天台と融通す。(中略)法華、金光明は先帝の御願。また一乗の旨、真言とことなることなし。伏して乞う、遮那の機を求めて、年年あい計りて伝通せしめん。|最澄|大同3年8月19日に空海に宛てた手紙{{sfn|木内堯央|2020|p=90-93}}}} 『伝教大師消息』に記された書簡によると、最澄は弟子を空海の下に送り、借用した経典を写すといったことを、[[大同 (日本)|大同]]4年(809年)から[[弘仁]]7年(816年)頃まで繰り返した{{sfn|田村晃祐|1988|p=118-131}}。 弘仁3年(812年)10月27日には[[乙訓寺]]にいた空海を最澄が訪ねた。この際に空海は最澄に伝法することを決めたという{{sfn|田村晃祐|1988|p=118-131}}。[[神護寺]]に残る『灌頂記』によれば、最澄は11月15日に金剛界灌頂を、12月14日に胎蔵界灌頂を空海から受けた。しかしこの頃の最澄の手紙をみると灌頂を受ける日について混乱が見られる。この点について最澄は灌頂が金剛界と胎蔵界の両部が独立して一対になっているということを知らなかったという説がある{{sfn|木内堯央|2020|p=90-93}}。のちに最澄は越州で学んだ密教について両部の灌頂を受けたと『顕戒論』などに記しているが、おそらく最澄が学んだ密教は両部を合わせた亜流派であり、空海が[[長安]]で学び伝えた法門と比べて劣っている事に最澄も気が付いていたと考えられる{{sfn|木内堯央|2020|p=82-84}}{{sfn|渡辺凱一|1995|p=151-154}}。 灌頂を受けた最澄は空海の弟子となったことを意味する。後に[[円澄]]が空海に宛てた書簡によれば、空海は最澄に大法儀軌を受ける為には3年間留まるように伝えていたが果たせなかったとある。空海の下での修行は、既に一宗の責任者となっていた最澄には叶わぬ事であり、最澄もまた空海に宛てた書簡に訪問できない事への詫びを繰り返し記している{{sfn|田村晃祐|1988|p=118-131}}。なお最澄が『[[理趣経|理趣釈経]]』の借用を求めた事に対して、空海が「理趣は論じて心から心へ伝えるもので、未入壇の者には真言を伝えない」と断ったことが二人を分かつことになったとする説があるが、この根拠となった書簡にある「澄法師」は最澄ではなく円澄とする説もある。しかしその真偽は別としても、空海の下で最澄が修業できなかった事が両者を疎遠にした根本の理由であったと考えられる{{sfn|田村晃祐|1988|p=118-131}}。もうひとつ両者に異なる点は真言と天台の位置づけである。最澄は天台と真言は一致しており、同じ[[一乗]]であるとしている。一方で空海は天台を真言より低い教えと見ている。この教理の相違も両者を分かつ理由と考えられる{{sfn|田村晃祐|1988|p=139-145}}。 さらに両者の間に[[泰範]]の去就問題がある。元々、泰範は天台宗以外の僧であったが、比叡山に入って密教を学んでいたと考えられる。優秀な弟子であったようで、弘仁3年(812年)5月8日付けの最澄の遺書には泰範を惣[[別当]](比叡山の管理責任者)に指名している。しかし直後の6月29日に泰範は暇を請うて比叡山から降りる。その書簡を読んだ最澄は返信を送るが、そこから最澄の驚きと泰範が最澄の弟子から戒を破った事で批判を受けていたことが分かる。その後も最澄は泰範を慰留したようで、最澄と泰範は共に胎蔵界灌頂を受けている。しかし泰範は比叡山には戻らず、空海の元に身を寄せた。弘仁7年に最澄が泰範に宛てた書簡には深刻な自己反省と泰範への期待が表明されている。しかしその書簡への返信は空海の代筆によるもので「真言の教えが天台よりも優れる」と記されている。泰範は空海の[[空海#十大弟子|十大弟子]]に数えられている{{sfn|田村晃祐|1988|p=132-138}}。 === 六所宝塔 === [[File:Enryakuji Toto01n3200.jpg|thumb|延暦寺法華総持院東塔]] 最澄は天台法華宗を広めるために六所宝塔を建立する計画を立てる。六所宝塔とは『比叡山僧塔院等之記』に記される全国6箇所{{Refnest|group="注釈"|比叡山に総と中、その他に東西南北に各一か所である。安中山城宝塔院([[延暦寺#東塔|比叡山東塔]])、安国近江宝塔院([[延暦寺#西塔|比叡山西塔]])、安東上野宝塔院([[上野国]][[緑野郡]]、浄法寺)、安南豊前宝塔院([[豊前国]][[宇佐郡]]、[[宇佐神宮|宇佐弥勒寺]])、安西筑前宝塔院([[筑前国]][[太宰府]]、[[竈門神社|竈門山寺]])、安北下野宝塔院([[下野国]][[都賀郡]]、[[大慈寺 (栃木市)|大慈寺]] ){{sfn|田村晃祐|1988|p=154-157}}{{sfn|天台宗|2009|p=1}}。}}に法華経一千部を安置するための[[宝塔]]である{{sfn|田村晃祐|1988|p=154-157}}。『叡山大師伝』によると、最澄は弘仁5年(814年)春に[[宇佐神宮|宇佐八幡]]と香春神宮寺に参詣し、入唐の無事に感謝し妙法蓮華経等を奉納{{sfn|田村晃祐|1988|p=157-159}}。続いて弘仁8年(817年)春に東国へ向かう。この旅では最澄が無名の頃に写経に助力した道忠の弟子らの寺々を訪問する。同年3月6日には大慈寺にて[[円仁]]と徳円に菩薩戒を授け、5月15日には緑野寺にて[[円澄]]と広智に両部灌頂を授けている{{sfn|田村晃祐|1988|p=150-154}}。またこの際にも法華大乗経二千部を写して宝塔に安置したと記されている{{sfn|田村晃祐|1988|p=154-157}}。六所宝塔が全て完成するのは最澄の没後である{{sfn|天台宗|2009|p=1}}。 === 天台法華宗批判と徳一 === {{seealso|三一権実諍論}} 天台法華宗が広がりをみせると法相宗を中心に批判が集まるようになる。研究者によると論争の発端は最澄が弘仁4年(813年)に著した『依憑天台義集』などとされる{{sfn|木内堯央|2020|p=106-108}}。弘仁5年正月の御斎会にて嵯峨天皇の希望で殿上にて最澄と南都僧の対論が行われた。弘仁6年8月には大安寺にて最澄が天台を講じ、南都僧らと大論争を行う。この際の主題はいわゆる[[三一権実諍論|三一権実論争]]である{{sfn|木内堯央|2020|p=108-110}}{{sfn|田村晃祐|1988|p=150-154}}。『叡山大師伝』によると南都僧らは攻撃的な姿勢で議論に臨んだとある{{sfn|木内堯央|2020|p=108-109}}。 続いて弘仁8年(817年)2月に東国に赴いていた最澄は、[[恵日寺 (福島県磐梯町)|恵日寺]]の法相宗の僧[[徳一]]が著した『仏性抄』への反論として『照権実鏡』を著す。これ以降、二人の論争は最澄の死去前年の弘仁12年(821年)に至るまで続けられた{{sfn|田村晃祐|1988|p=161-183}}。なお最澄の著作の大半は徳一との論争に関連するものである{{sfn|田村晃祐|1988|p=158-161}}。二人の論争は2つの主題に分けることができ、一つは天台・法相の教学の違いについてである。その中に修業についての論争があるが、最澄は「徳一の示す修行は正法の時代(釈迦の時代)のもので、[[末法]]に近い時代に実践することはできない」とユニークな批判をする。この思想が後述する大乗戒壇設立に繋がる{{sfn|田村晃祐|1988|p=183-189}}。いま一つは三一現実論争であるが、これは「天台の一乗」と「法相の三乗」のどちらが権実(仮と真実)の思想であるかをめぐる論争で、これに用いられた喩えが[[法華七喩|火宅の喩]](三車火宅)である{{sfn|田村晃祐|1988|p=183-189}}。 === 大乗戒壇の設立 === [[File:Enryakuji Kaidanin01n3200.jpg|thumb|延暦寺戒壇院(重要文化財)]] [[File:Kōjōkaichō.jpg|thumb|『光定戒牒』(延暦寺蔵、嵯峨天皇[[宸翰]]、国宝)]] 最澄の弟子で朝廷との交渉役であった[[光定 (僧)|光定]]が著した『伝述一心戒文』によれば、弘仁9年(818年)に最澄は天台法華宗を広めるために大乗寺を建て、光定に一乗の号を名乗らせると告げた。光定はこの事を[[藤原冬嗣]]を通じて天皇に上奏するが、南都の僧の反対にあって叶わなかった。『叡山大師伝』によると、同年3月に最澄が「今後声聞の利益を受けず、永く小乗の威儀にそむくべし」とし、具足戒を破棄したと記される{{Refnest|group="注釈"|具足戒は僧侶となるために守るべき規範である。[[戒]]を棄てる事は僧の資格を棄てる事と同義であるが、朝廷や南都の僧綱がそのように扱った様子はない{{sfn|田村晃祐|1988|p=190-195}}。}}{{sfn|田村晃祐|1988|p=190-195}}。 続いて最澄は『[[山家学生式]]{{Refnest|group="注釈"|『天台法華宗年分学生式(六条式)』(弘仁9年5月13日)、『勧奨天台宗年分学生式(八条式)』(弘仁9年8月)、『天台法華宗年分度者回小向大式(四条式)』(弘仁10年3月15日)の3部からなる書。}}』などを著し、天台法華宗の僧育成制度について朝廷に裁可を要請する{{sfn|田村晃祐|1988|p=195-206}}{{sfn|田村晃祐|1988|p=206-214}}{{sfn|田村晃祐|1988|p=215-222}}。 {{Quotation|国宝とは何か。道心(悟りを求める心)を持つ人を名付けて国宝という。ゆえに古来の哲人は「径1寸の珠10枚は国宝ではない。世の一隅を照らす人が国宝である」と言う{{Refnest|group="注釈"|この文面について天台宗では「照于一隅」(一隅を照らす)と解釈する。一方で[[薗田香融]]は[[田斉|斉]]の[[威王 (斉)|威王]]の「国宝とは国の一隅を守れば他国が侵入できず、将となれば千里を照らす者である」の故事を引いたもので、正しくは「照千一隅」(一隅を守り千里を照らす)とする説を唱えている。ここでは天台宗の解釈に従う{{sfn|田村晃祐|1988|p=195-206}}。}}。|最澄|『天台法華宗年分学生式』{{sfn|田村晃祐|1988|p=195-206}}}} この中で最澄は[[大乗戒]]{{Refnest|group="注釈"|[[菩薩戒]]。天台宗は[[梵網経 (大乗仏教)|梵網経]]に基づく菩薩戒を[[円頓戒]]とよぶ。}}のみによる受戒と[[十二年籠山行]]など革新的な受戒制度と育成制度を提唱する{{sfn|田村晃祐|1988|p=195-206}}{{sfn|田村晃祐|1988|p=206-214}}{{sfn|田村晃祐|1988|p=215-222}}。弘仁10年3月15日に『天台法華宗年分度者回小向大式』が提出されると、[[嵯峨天皇]]は「真理に叶ったものであれば取り計らうように、真理に叶わなければ取り計らってはならない」と返答。この件を[[玄蕃寮]]長官の[[真苑雑物]]は僧綱の[[護命]]へ告げ、護命は[[南都七大寺]]に意見を求めたうえで、最澄の主張には道理がないとして反対の意を上奏した{{sfn|田村晃祐|1988|p=222-232}}。この上奏文は天皇の勅により10月27日に最澄に渡された。これに対し最澄は翌弘仁11年(821年)2月29日に『顕戒論』と『内証仏法相承血脈譜』を内裏に提出して反論。さらに弘仁12年3月に『顕戒論縁起』を朝廷に提出する{{sfn|田村晃祐|1988|p=232-240}}。しかし最澄の提言は生前に叶う事は無かった{{sfn|田村晃祐|1988|p=252-257}}。 天台宗独自の制度樹立を図った最澄の意図についてはいくつか考えられる。第一は護国である。奈良時代の仏教は[[東大寺]]や[[国分寺]]の建立に見られるように護国を期待されていたが、災害や疫病は絶えなかった。最澄はその原因を小乗戒(具足戒)を受けた僧に求め、これを大乗僧の純粋培養によって克服しようとした{{sfn|木内堯央|2020|p=101-104}}{{sfn|田村晃祐|1988|p=240-244}}。第二は時代である。釈迦が入滅して2000年近い年月が経って末法が近い世で悟りに至るには、長く時間のかかる方法ではなく大きく真っすぐな道によらなくてはならないとした。この二点を解決するために[[戒律]]制度の改革を提唱した{{sfn|田村晃祐|1988|p=240-244}}。 [[鑑真]]が日本にもたらした戒律制度は唐の天台宗を含めて諸国の標準となっていたもので、僧になるためには具足戒{{Refnest|group="注釈"|正式な僧になるための戒。比丘250戒、比丘尼348戒{{sfn|田村晃祐|1988|p=215-222}}。}}を三師七証{{Refnest|group="注釈"|戒を授ける直接の責任者である戒和尚、戒場で白四羯磨(びゃくしこんま)の作法を受け持つ羯磨師、威儀作法を教える教授師の三師と、7人の立ち会いの僧の事{{sfn|田村晃祐|1988|p=215-222}}。}}を前に受戒せねばならず、また菩薩戒は具足戒を受けた僧が補助的に受ける、あるいは在家信者が受ける戒としていた{{sfn|上原雅文|1999|p=60-61}}。それに対し最澄は梵網経菩薩戒{{Refnest|group="注釈"|梵網経に説かれる十重四十八軽戒。}}のみで僧になれるとし{{sfn|上原雅文|1999|p=60-61}}、あわせて受戒も[[釈迦如来|釈迦仏]]、[[文殊菩薩|文殊師利菩薩]]、[[弥勒菩薩]]を三師とし、一切の仏を証師としたうえで一人の伝戒師が居ればよく、伝戒師が居なければ自誓受戒でもよいとした{{sfn|木内堯央|2020|p=101-104}}{{sfn|田村晃祐|1988|p=215-222}}。また在家と出家は姿(剃髪と袈裟)で区別できるとする{{sfn|田村晃祐|1988|p=240-244}}。このような大胆な戒律制度は日本独自の[[大乗仏教]]を育み、のちに延暦寺から輩出される[[鎌倉仏教|鎌倉新仏教]]の礎となった{{sfn|木内堯央|2020|p=108-110}}。 最澄が意図した第三は比叡山から僧の流出を防ぐことである。[[#天台法華宗|前述]]のように天台法華宗で受戒した僧が法相宗に度々奪われていた{{sfn|田村晃祐|1988|p=240-244}}。第四は天台教団の独立である。南都六宗は僧綱を頂点とした管理機関を持ち、天台法華宗の年分度者であっても東大寺で受戒していた。また僧は[[治部省]]に属する玄蕃寮が掌握していた{{sfn|田村晃祐|1988|p=240-244}}。この二点を克服する手立てが比叡山上での受戒と、続く12年に渡る籠山などであった{{sfn|田村晃祐|1988|p=240-244}}。 天台法華宗に年分度者が与えられてから10年間で受戒した20名のうち、比叡山に住するものは僅か6名であった。これは南都の寺に所属する僧が天台法華宗の割り当てを利用して受戒していたことも原因の一つと考えられる。最澄は得度を受けてから受戒を経てその後の修学にいたるまで比叡山内で完結させることで、多くの天台僧を育成することを図ったと考えられる{{sfn|田村晃祐|1988|p=108-112}}{{sfn|田村晃祐|1988|p=240-244}}。それまでも籠山修行をする僧は居たが、これを制度化したのは最澄が初めてである{{sfn|上原雅文|1999|p=60-61}}。また籠山を終え学問修行共に満足であった者には、最高の[[僧位]]である大法師位を与えて欲しいと訴えている。最澄が大法師位を授かったのはこの後の事で、非常に高い要求であったことがわかる{{sfn|田村晃祐|1988|p=206-214}}。さらに大乗戒を受けた僧については僧籍を治部省に移さず[[民部省]]に置いたままとしたうえで、受戒にあたって発給される[[度牒|度縁]]については具足戒と同様に官印を捺してもらうとしている。また官の派遣により俗別当(僧でない管理者)を置くことや他宗からの入門規定、あるいは官費の給付不要や破戒僧の処罰などを明文化している。これらは天台法華宗が既存の仏教政策から離脱し、太政官の直下に置かれて独自の管理組織を構築することを意図していると考えられる{{sfn|木内堯央|2020|p=95-98}}{{sfn|木内堯央|2020|p=98-100}}{{sfn|田村晃祐|1988|p=240-244}}{{sfn|古田榮作|1999|p=68-69}}。 === 入滅と没後 === [[File:Trip to Kyoto (5253800200).jpg|thumb|延暦寺浄土院拝殿(重要文化財)]] [[ファイル:Koku Saitcho shounin.jpg|thumb|right|150px|哭澄上人詩([[嵯峨天皇]][[宸翰]])(部分)]] 最澄は弘仁13年(822年)2月14日に伝燈大法師位を授かる{{sfn|田村晃祐|1988|p=245-252}}。この頃には体調を崩していたようで、桓武天皇の[[国忌]]である3月17日に光定は「最澄法師重病を受く。命緒幾ばくならず。伝戒を許されざれば先帝の御願成就せず。」と、戒壇設立の勅許を催促している{{sfn|木内堯央|2020|p=111-113}}。 6月4日の辰の刻に[[入滅]]。廟所は比叡山東塔の浄土院{{sfn|田村晃祐|1988|p=245-252}}。 {{Quotation|毎日諸大経を長講して、慇懃精進に法をして久住せしめよ。国家を利せんが為、群生を度せんが為なり。努めよ、努めよ。(中略)年月灌頂の時節護摩し、仏法を紹隆して以って国恩に答えよ。|最澄|遺言{{sfn|田村晃祐|1988|p=245-252}}}} 最澄の死を受けて藤原冬嗣、[[良岑安世|良峰安世]]、伴国通らが『山修山学の表』を天皇に奏請し、死後7日後に大乗戒壇の設立と天台僧育成制度の樹立について勅許が下りた{{Refnest|group="注釈"|この最澄の最期は『叡山大師伝』を根拠としているが、[[佐伯有清]]や張堂興昭は後年の脚色である可能性を指摘している。それによれば『[[類聚国史]]』に入滅前日である6月3日に勅許が降りたことが記されており、最澄はこれを聞いてから入滅した事になる{{sfn|張堂興昭|2018|p=28-33}}。}}。弘仁14年(823年)2月26日には、勅により一乗止観院を延暦寺と改称。同年3月17日に最初の得度が行われ、ついで4月14日に光定らが受戒した{{sfn|田村晃祐|1988|p=252-257}}。同年10月17日に嵯峨天皇は『澄上人を哭す』の詩を賜う{{sfn|田村晃祐|1988|p=245-252}}。 貞観8年(866年)7月12日に伝教大師の[[諡|諡号]]が勅諡された。[[円仁]]の慈覚大師と共に日本史上の初の[[大師 (僧)|大師]]号である{{sfn|田村晃祐|1988|p=245-252}}。 天台宗では開祖として現代に至るまで尊崇されており、2021年([[令和]]3年)6月4日に延暦寺で、入寂後1200年の大遠忌[[法要]]が執り行われた<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASP646H1QP64PTJB00R.html 「延暦寺で1200年大遠忌法要、最澄の遺徳しのぶ」][[朝日新聞デジタル]](2021年6月4日配信)同日閲覧</ref>。 == 事績と評価 == === 日本天台宗の開宗 === 中国[[天台宗]]は6世紀に[[隋]]の[[智顗]]が開いた宗派であり、のちに日本に伝来した南都仏教よりも歴史が古い。最澄は自身が受け継いだ教えについて『内証仏法相承血脈譜』に、[[達磨]]大師付法・天台法華宗・天台円教菩薩戒・胎蔵金剛界両曼荼羅・雑曼荼羅の5つを挙げている。5つの教えのうち天台法華宗のみに「宗」が付いている事について、[[伊吹敦]]は「受け継いだ思想的伝統を血脈と称し、それらを統合して新たに樹立した自らの思想的立場を宗と呼んだ」としたうえで、「中国天台宗とは異なる日本独自の天台宗が成立した」と評価している{{sfn|伊吹敦|2017|p=70-71}}{{Refnest|group="注釈"|現代の天台宗ではこれを「四宗相承」(四宗とは円・密・禅・戒のこと)と称するが、この言葉は近世に敬光が唱えた「四宗脈譜」が元で、近代に一般化した{{sfn|伊吹敦|2017|p=74-76}}。}}。 また[[新川哲雄]]は南都六宗における宗派を「経典や論書の理解に関する枢要な教義及びそれを学ぶ「学派」を意味する」としたうえで、最澄の開宗によって「ある立場の教義を同じく尊崇する人々の一団を「宗」とし、さらにその一宗団の中で教義をめぐる解釈の違いなどから立場を異にする分派が生じた時に「派」とみる新しい宗派意識の原型が生まれた」と評価している{{sfn|新川哲雄|2008|p=429}}{{sfn|新川哲雄|2008|p=433-438}}。 === 顕密両学 === [[#天台法華宗|前述]]のように、天台法華宗には止観業(天台)と遮那業(密教)の各1名の年分度者が認められた。これは最澄が顕(天台教学)と密(密教学)の合同を最終の理想としていた為と考えられる{{sfn|景山春樹|1975|p=80-81}}{{sfn|景山春樹|1975|p=85-86}}。 止観業とは[[智顗]]が著した『摩訶止観』に由来する{{sfn|景山春樹|1975|p=80-81}}。『摩訶止観』は仏道修行の基礎的な規範を記したもので、実践と修行の立場から法華経を解釈したものとされる。最澄は『勧奨天台宗年分学生式』に「止観業は四種三昧を修習せしめ(後略)」と記すように、『摩訶止観』に記される実践行である四種三昧{{Refnest|group="注釈"|四種とは常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧を指す{{sfn|清水擴|2004|p=88-89}}。}}の実践を重視していた。そして実践の場として最澄は四種三昧堂の建立を図ったが、この堂は『弘仁九年比叡山寺僧院之記』に一乗止観院に続いて記されていることから延暦寺伽藍構想においても重要視されていたことが分かる{{sfn|清水擴|2004|p=88-89}}。 {{Quotation|四三昧院とは円観を学する者の住する所の院なり。文殊般若経に依りて常坐一行三昧院を建立し、[[般舟三昧経]]に依りて常行仏立三味院を建立し、法華経等に依りて半行半坐三昧院を建立し、大品経等に依りて非行非坐三味院を建立す。(中略)明らかに知りぬ、四三昧院とは行者の居する所なり。春秋は常行、冬夏は常坐、行者の楽欲に随いて、まさに半行半坐を修し、また非行非坐を修すべし。|最澄|『顕戒論』{{sfn|清水擴|2004|p=88-89}}}} 東塔の半行半坐三味堂(法華三昧堂)は最澄が弘仁3年(812年)に建立したとされるが、常坐一行三昧堂(文殊楼)、常行三昧堂、非行非坐三味堂(随自意堂)は最澄の没後に完成する{{sfn|清水擴|2004|p=89-94}}。のちの天台宗では法華堂は[[坐禅|座禅]]道場として重視され、常行堂は[[浄土教|浄土信仰]]の素地となった{{sfn|景山春樹|1975|p=73-74}}。しかし、それ以外の三昧堂はさほど重視されることがなかったと考えられる{{sfn|清水擴|2004|p=89-94}}{{Refnest|group="注釈"|現存する三昧堂は西塔の法華堂・常行堂(にない堂)のみである{{sfn|清水擴|2004|p=89-94}}。}}。 一方の遮那業は『摩訶毘盧遮那神変加持経業』に由来する。最澄が唐から伝えた密教は不十分なもので空海に助力を請うたが、教義の完成を果たせなかった。のちに[[台密|天台密教]]は[[円仁]]と[[円珍]]の入唐により研究が盛んになり、[[安然]]によって完成され{{sfn|景山春樹|1975|p=81-82}}、その後100年あまりは天台密教が隆盛する{{sfn|景山春樹|1975|p=80-81}}。その一方で、円仁は空海の顕密二教判(密教が顕教より優れるとする説)を一部取り込み、最澄が掲げた顕密両学(円密一致)は崩れていく{{sfn|木内堯央|1980|p=746}}。止観業が見直されるのは延暦寺中興の祖とされる[[良源]]が現れる10世紀中頃となる{{sfn|景山春樹|1975|p=80-81}}{{sfn|景山春樹・村山修一|1970|p=65-68}}。 === 一切衆生悉有仏性 === 一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)とは、衆生はみな生まれながらにして仏となりうる素質([[仏性]])をもつということである{{sfn|新纂浄土宗大辞典: 一切衆生悉有仏性}}。その根本となる一切皆成(一切衆生が成仏できる)は[[大般涅槃経|涅槃経]]に説かれるものであり、法相宗を含む南都仏教もこれを承認していたが、その解釈(仏性論)について最澄と法相宗は激しい論争(徳一との[[三一権実諍論]])を行った{{sfn|新川哲雄|2008|p=438-442}}。 徳一は一切皆成を認めつつ「仏性を顕かにするための行を成しえる因(行仏性)を持たない衆生がいる」とする五性各別説{{Refnest|group="注釈"|五性とは声聞種性・独覚種性・菩薩種性・不定種性・無性有情の事{{sfn|新纂浄土宗大辞典: 五姓各別}}。}}を支持する。この法相宗の立場について最澄は小乗義が含まれていると批判し、五性の別なく悉皆成仏できると説いた。その上で「修行の困難さから成仏できるのは釈迦のような特別な存在」とする一般的な仏教観を否定し、「一切衆生悉有仏性を信じ利他行に励み成仏の道を進む者こそが菩薩」とし大乗の立場を明確にした{{sfn|新川哲雄|2008|p=438-442}}。 === 大乗戒壇 === [[#大乗戒壇の設立|前述]]のように、最澄は菩薩戒の受戒で比丘になれるとする大乗戒壇の設立に尽力し、日本独自の戒律制度が成立した。一方でこれにより、[[鑑真]]が日本に伝来した「具足戒での受戒で比丘となれる」とする東アジアの基準に当てはまらない比丘が生まれる事となる。後に[[明全]]が入宋した際には、比叡山の大乗戒壇で受戒していたにもかかわらず、東大寺戒壇で受戒した戒牒を作成している{{sfn|松尾剛次|2006|p=14-22}}。また現在の日本仏教は戒律を軽視しているとされるが、沖本克己はその大きな転換点の一つとして最澄の大乗戒壇の設立を挙げている{{sfn|沖本克己|2006|p=152-155}}。 == 書 == [[書道|書]]における師承は明らかでないが、延暦23年(804年)に入唐し、帰朝に当って[[王羲之]]の[[王羲之#十七帖|十七帖]]、[[王献之]]、[[欧陽詢]]、[[褚遂良]]などの筆跡や[[法帖]]類を持ち帰った{{sfn|景山春樹|1975|p=63-67}}。その書風は空海の変幻自在なのに比べて、楷書と呼ばれるものに近い。真跡として現存するものには次のようなものがある。 === 天台法華宗年分縁起 === 『天台法華宗年分縁起』(てんだいほっけしゅうねんぶんえんぎ)は、天台法華宗の年分度者および大乗戒壇設立に関わる文書を蒐集した書。延暦寺蔵。国宝。収録されているのは以下の6通{{sfn|塩入亮忠|1937|p=461-464}}。 *『請続将絶諸宗更加法華宗表』- 天台法華宗に年分度者2名を認めるよう上奏した書の控え。延暦25年1月3日{{sfn|塩入亮忠|1937|p=461-464}}{{sfn|景山春樹|1975|p=58-59}}。 *『賀内裏所問定諸宗年分一十二人表』- 朝廷からの諮問に対して南都の僧綱が天台法華宗に年分度者2名を許可すべきと上奏した書の写し。延暦25年1月5日{{sfn|塩入亮忠|1937|p=461-464}}{{sfn|景山春樹|1975|p=58-59}}。 *『更加法華宗年分二人定諸宗度者数官符』- 天台法華宗に年分度者2名が認められた旨を支持する公文書の写し。延暦25年1月26日{{sfn|塩入亮忠|1937|p=461-464}}{{sfn|景山春樹|1975|p=58-59}}。 *『天台法華宗年分得度学生名帳』- 大同2年(807年)から弘仁9年(818年)までの12年間に延暦寺で学んだ年分得度学生の名簿と、さらに弘仁10年分の2名を加筆した書。弘仁10年{{sfn|塩入亮忠|1937|p=461-464}}{{sfn|景山春樹|1975|p=59-61}}。 *『請先帝御願天台年分得度者随法華経為菩薩出家表』- 大乗戒壇設立を願い出た書。弘仁9年5月21日{{sfn|塩入亮忠|1937|p=461-464}}{{sfn|木内堯央|1978|p=8-9}}。 *『天台法華宗年分学生式』- 大乗戒壇設立にあたり僧がまもる規律などを記した書。通称、六条式。弘仁9年5月13日{{sfn|塩入亮忠|1937|p=461-464}}{{sfn|景山春樹|1975|p=61-63}}。 === 久隔帖 === 『久隔帖』(きゅうかくじょう)は、弘仁4年(813年)11月25日付で書いた[[尺牘]](書状)で、「久隔清音」の句で始まるのでこの名がある。宛名は「高雄範闍梨」とあり、これは[[神護寺|高雄山寺]]に派遣した最澄の弟子の[[泰範]]であるが、実質は空海宛である<ref name="miyasaka">[[宮坂宥勝]]「風信帖と久隔帖」(「空海の風信帖」『墨』P.16 - 20)</ref>。心が筆端まで行き届き、墨気清澄・品格高邁で、さながら王羲之の『[[集字聖教序]]』を肉筆化したような響きを放つ<ref>寺山旦中「弘法の展開と最も澄んだ書」(「空海の風信帖」『墨』P.54)</ref>。大きさは、29.2cm×55.2cm。[[奈良国立博物館]]蔵。[[国宝]]。文化財指定名称は「伝教大師筆尺牘」<ref name="miyasaka"/>。 [[File:Dengyo-daishi sekitoku.jpg|right|400px|『久隔帖』最澄筆]] {{quotation| 久隔清音馳<br/> 恋無極<br/> 傳承安和且慰下情<br/> 大[[阿闍梨]]所示五八詩序中有一百廿禮仏<br/> 并方圓圖<br/> 并註義等名<br/> 今奉和詩未知其礼仏圖者<br/> 伏乞<br/> 令聞 阿闍梨<br/> 其所撰圖義並其大意等<br/> 告施其和詩者怱難作<br/> 著筆之文難改後<br/> 代惟示其委曲<br/> 必造和詩奉上 座下<br/> 謹附貞聡仏子奉状和南<br/> 弘仁四年十一月廿五日小法弟最澄状上<br/> 高雄範闍梨法前<br/> (以下省略) |『久隔帖』<ref name="miyasaka"/>}} 文面は、「大阿闍梨(空海)の示された五八の詩(『中寿感興詩』)の序に、『一百二十礼仏』『方円図』『註義』という書名がある。その詩の韻に和して返礼の詩を作って差し上げたいが、私は『礼仏図』なるものをまだ知らない。どうかこの旨を阿闍梨(空海)に伝えられ、『方円図』『註義』とその大意とをお知らせいただきたい。(以下省略)」という趣旨の内容である<ref name="miyasaka"/>。 === 越州将来目録 === 『越州将来目録』(えっしゅうしょうらいもくろく)は、最澄が唐から持ち帰った書物等の目録。102部115巻の書物と密教法具が記される。巻尾には越州長官の鄭審則の自筆印可条と州の官印のほか、遣唐大使葛野麿らの連署や遣唐使印もあり、当時の公文書の史料としても貴重。延暦寺蔵、国宝。文化財登録名称は「弘法大師請来目録」{{sfn|景山春樹|1975|p=57}}。 === 羯磨金剛目録 === 『羯磨金剛目録』(かつまこんごうもくろく)は、唐から持ち帰った品々を経蔵に永納した際の総目録。原本はほぼ失われてしまい、残った十数行を繋ぎ合わせた断簡。元は『御教蔵宝物聖教等目録』といったが、現在は文頭にある羯磨金剛に因んで呼ばれる。文書の全面に「比叡寺印」が捺されており、当時の正式寺号が分かる史料。延暦寺蔵、国宝{{sfn|景山春樹|1975|p=63-67}}。 === 空海将来目録 === 『空海将来目録』(くうかいしょうらいもくろく)は、空海が唐から持ち帰った聖教典籍の総目録を、最澄が書写したもの。元来は延暦寺にあったものが、ある時期に『[[風信帖]]』と共に[[東寺]]に譲られたものと考えられている。東寺蔵、国宝。文化財指定名称は「弘法大師請来目録」{{sfn|景山春樹|1975|p=63-67}}。 == 和歌 == 最澄が詠んだ[[和歌]]が9首伝わっている。 {{Quotation|比叡山中道建立の時<br>阿耨多羅三藐三菩提の仏たち我立杣に冥加あらせ給へ|『[[新古今和歌集]]』{{sfn|田村晃祐|1988|p=245-252}}}} この歌について[[正岡子規]]は「いとめでたき歌にて候。長句の用ゐ方など古今未曾有にて、これを詠みたる人もさすがなれど、この歌を勅撰集に加へたる勇気も称するに足るべくと存候(『九たび歌詠みに与ふる書』)」と賞賛している{{sfn|平野多恵|2014|p=21}}。 {{Quotation|法華二十八品歌の中に<br><方便品><br>三の川ひとつの海となる時は舎利弗のみそまつ渡りける<br><法師品><br>この法をもし一こともとく人はよもの仏のつかひならすや<br><分別功徳品><br>我命なかしとききてよろこへる人はさなから仏とそなる|『[[新続古今和歌集]]』{{sfn|田村晃祐|1988|p=245-252}}}} {{Quotation|比叡山の中堂に始て常燈ともしてかけ給へける時<br>あきらけく後の仏の御世まても光つたへよ法のともし火|『[[新拾遺和歌集]]』{{sfn|田村晃祐|1988|p=245-252}}}} {{Quotation|末代の衆生のねかひをよめる<br>末の世のいのりもとむる其事のしるしなきこそしるしなりけれ|『和論語』{{sfn|田村晃祐|1988|p=245-252}}}} {{Quotation|比叡山をよめる<br>おのつからすめは持戒の此山はまことなるかな依身より依所|『和論語』{{sfn|田村晃祐|1988|p=245-252}}}} {{Quotation|みかとの御為に経のかき給ひし奥に<br>となへても君をのみまたいのりけれは幾代ふるとてたえしと所思ふ<br>となへてもきみをのみまたいのりけれはいくよふるともたへしとそ思ふ|『和論語』{{sfn|田村晃祐|1988|p=245-252}}}} == 伝教大師童形像 == 伝教大師童形像は、[[生源寺]]([[滋賀県]][[大津市]])、[[延暦寺]](滋賀県[[大津市]])、[[雙林寺 (京都市)|雙林寺]]([[京都府]][[京都市]])、[[三千院]](京都市)、[[松尾寺 (和泉市)|松尾寺]]([[大阪府]][[和泉市]])、[[能福寺]]([[兵庫県]][[神戸市]])、[[普光寺]](兵庫県[[加西市]])、長法寺([[岡山県]][[津山市]])、天王院([[神奈川県]][[横浜市]])、[[立石寺]]([[山形県]][[山形市]])など天台宗の寺院に設置されている。<!--唐代の風俗については学術的な古文書が乏しく、風俗の裏付けとなる確たるものがないとされる。ツインテールなどの近代の中国風俗は、西洋や日本文化の影響もみえることから、根拠に乏しいのではないか→その髪型は[[唐]]代女子の垂練髻<ref>百度百科‐唐代髪型‐垂練髻 [http://baike.baidu.com/view/4770761.htm]</ref>を結い、装束は[[唐]]の宮中に仕える女子の[[漢服]]<ref>[[大紀元]]‐悠遊漢服之美‐5唐朝‐圖4兩鬢滿是金翠花鈿及插上金步搖的唐貴婦 [http://www.epochtimes.com/b5/9/8/14/n2624222p.htm]</ref>を着ている。--> == 伝記研究 == *塩入良道編『最澄 日本名僧論集〈2〉』([[吉川弘文館]]、1982年) *[[大久保良峻]]編『山家の大師 最澄 日本の名僧〈3〉』(吉川弘文館、2004年) *[[平川彰]]『最澄 天に応える 高僧伝〈3〉』([[集英社]]、1985年) *[[佐伯有清]]『伝教大師伝の研究』(吉川弘文館〈日本史学研究叢書〉、1992年) *佐伯有清『最澄とその門流』(吉川弘文館、1993年) *佐伯有清『若き日の最澄とその時代』(吉川弘文館、1994年) *佐伯有清『最澄と空海 交友の軌跡』(吉川弘文館、1998年) *[[立川武蔵]]『最澄と空海 [[日本仏教]]思想の誕生』([[講談社]]選書メチエ、1998年/[[角川ソフィア文庫]]、2016年) *[[高木訷元|高木訷(シン)元]]編著『空海と最澄の手紙』([[法蔵館]]、1999年、新版2015年) *大久保良峻『伝教大師 最澄』(法藏館、2021年) * {{Cite book|和書|author=師茂樹|authorlink=|chapter=|title=最澄と徳一: 仏教史上最大の対決|publisher=[[岩波書店]]|series=岩波新書|year=2021-10|pages=|isbn=9784004318996|id={{全国書誌番号|23618177}}}} ;主な現代語訳 *『現代語訳 最澄全集』大竹晋訳注、[[国書刊行会]](全4巻)、2021年 *『現代語訳 顕戒論』前川健一訳注、「東哲叢書 仏典現代語訳シリーズ」[[東洋哲学研究所]]、2021年 *『最澄 円仁 大乗仏典 中国・日本篇17』[[木内堯央]]訳注、[[中央公論新社|中央公論社]]、1990年 - 『願文』『学生式』『顕戒論』 *『日本の仏典1 最澄』田村晃祐訳注、[[筑摩書房]]、1987年 - 『山家学生式』『顕戒論』ほか  === 文学作品 === *『[[上山春平]]著作集 第8巻 空海と最澄』([[法蔵館]]、1995年) *[[永井路子]]『雲と風と 伝教大師最澄の生涯』([[中公文庫]]、1990年、改版2021年)- 小説 *[[栗田勇]]『最澄』(全3巻:[[新潮社]]、1998年)- 小説 *[[梅原猛]]『最澄と空海 日本人の心のふるさと』([[小学館文庫]]、2005年)- 評伝 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"|2}} === 出典 === <!-- 文献参照ページ --> {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|author=新川哲雄|year=1989|title=最澄における仏性理解|journal=日本思想史学|volume=21|publisher=日本思想史学会 |ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=新川哲雄|year=2008|title=最澄における宗派意識の確立-一向大乗寺構想の検討から|journal=東洋文化研究|volume=10|publisher=[[学習院大学]]東洋文化研究所 |ref=harv}} * [[石川九楊]]・加藤堆繋『書家101』([[新書館]]、新版2007年(初版2004年))ISBN 978-4-403-25074-3 * {{Cite journal|和書|author=伊吹敦|year=2017|title=日本天台における「四宗相承」の成立|journal=印度學佛教學研究|volume=66巻1号|publisher=日本印度学仏教学会 |doi=10.4259/ibk.66.1_70|ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=上原雅文 |title=「山家学生式」創出の思想的根拠:最澄の提示した"速成的方法" |journal=国士館哲学 |ISSN=13432389 |publisher=国士舘大学哲学会 |date=1999-03 |volume=3 |pages=60-77 |naid=120005957484 |url=http://id.nii.ac.jp/1410/00006460/ |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=景山春樹|authorlink=景山春樹 |year=1975 |title=比叡山 日本仏教の原型とその展開 |publisher=[[角川書店]]|series=[[角川選書]]|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=景山春樹・村山修一|year=1970|title=比叡山-その宗教と歴史|publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]]|series=[[NHKブックス]]|volume=113|isbn=978-4-642-06593-1|ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=[[木内堯央]]|year=1980|title=慈覚大師円仁の修道論|journal=印度學佛教學研究|volume=28巻2号|publisher=日本印度学仏教学会 |doi=10.4259/ibk.28.745|ref=harv}} * {{Cite journal |和書 |author=木内堯央 |title=伝教大師と安楽行 |journal=印度學佛教學研究 |volume=27 |publisher=日本印度学仏教学会 |year=1978 |date=1978|doi=10.4259/ibk.27.6 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=木内堯央 |year=2020 |title=最澄と天台教団 |publisher=[[講談社]]|series=[[講談社学術文庫]]|isbn=978-4-06-519000-5 |ref=harv}} * [[木村卜堂]] 『[[日本と中国の書史]]』([[日本書作家協会]]、1971年) * {{Cite book|和書|author=京都国立博物館|author2=東京国立博物館|date=2005-10-08|title=最澄と天台の国宝|year=2005|publisher=[[読売新聞社]]|ref=harv|id={{全国書誌番号|21040706}} }} * {{Cite book|和書|author=塩入亮忠 |year=1937 |title=伝教大師 |publisher=伝教大師奉讃会 |ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=清水擴|year=2004|title=初期延暦寺における四種三昧堂|journal=建築史学|volume=42|publisher=建築史学会|doi=10.24574/jsahj.42.0_88|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=田村晃祐 |year=1988 |title=最澄 |publisher=吉川弘文館|series=[[人物叢書]] 新装版|isbn=4-642-05119-8 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=天台宗 |year=2009 |chapter=宝満山と宇佐神宮に「宝塔」を建立 |title=天台ジャーナル |issue=81 |publisher=天台宗出版室 |url=http://www.tendai.or.jp/journal/kiji.php?nid=85 |ref=harv}} * {{Cite journal |和書 |author=平野多恵 |title=釈教歌の方法と文体 |journal=日本文学 |volume=第63巻7号 |publisher=日本文学協会 |year=2014 |date=2014 |doi=10.20620/nihonbungaku.63.7_21|ref=harv}} * 仁忠(最澄の高弟)『叡山大師伝』(伝教大師全集 第5巻所収、世界聖典刊行協会、復刻版1975年) * {{Cite journal|和書|author=古田榮作 |title=「山家学生式」について |journal=大手前女子大学論集 |ISSN=0285-9785 |publisher=大手前女子大学 |date=1999-02 |volume=33 |pages=061-089 |naid=120006354852 |url=http://id.nii.ac.jp/1160/00001609/ |ref=harv}} * {{Cite book|和書|year=2006|title= 思想の身体|volume= 戒の巻|editor=松尾剛次|publisher=春秋社|ISBN=4-393-33258-X|ref=harv}} ** {{Cite book|和書|author=松尾剛次|title=<戒>と日本仏教-破戒と持戒のはざまで|ref={{SfnRef|松尾剛次|2006}}}} ** {{Cite book|和書|author=沖本克己|title=<戒>の現代的意味-仏教にみる|ref={{SfnRef|沖本克己|2006}}}} * [[森田悌]]『日本古代の政治と宗教』([[雄山閣出版]]、1997年) * {{Cite book|和書|author=渡辺凱一 |year=1995 |title=最澄-天台仏教の思想- |publisher=[[近代文藝社]]|isbn=4-7733-4214-5 |ref=harv}} * 「空海の風信帖」(『[[墨 (書道雑誌)|墨]]』芸術新聞社、1993年9月) * {{Cite journal|和書|author=張堂興昭|year=2018|title=大乗戒勅許と最澄の最期をめぐる定説への疑義-『叡山大師伝』を中心に|journal=印度學佛教學研究|volume=67巻1号|publisher=日本印度学仏教学会 |doi=10.4259/ibk.67.1_28|ref=harv}} * “web版新纂浄土宗大辞典”. [[浄土宗]]. ** {{Cite web|和書|url=http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%80%E5%88%87%E8%A1%86%E7%94%9F%E6%82%89%E6%9C%89%E4%BB%8F%E6%80%A7 |title=一切衆生悉有仏性 |accessdate=2021-07-12|ref={{sfnref|新纂浄土宗大辞典: 一切衆生悉有仏性}}}} ** {{Cite web|和書|url=http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E5%A7%93%E5%90%84%E5%88%A5 |title=五姓各別 |accessdate=2021-07-12|ref={{sfnref|新纂浄土宗大辞典: 五姓各別}}}} == 関連項目 == *[[日本の書道史]] *[[風信帖]] *[[円仁]] *[[来迎院 (京都市左京区)]] - 円仁の開創。『伝教大師度縁案並僧綱牒』(国宝)。 *[[円珍]] *[[円載]] *[[安然]] *[[空海]] *[[比叡山]] *[[延暦寺]] *[[国昌寺 (大津市)]] *[[仏教]] *[[日本の仏教]] == 外部リンク == *[https://www.tendai.or.jp/rekishi/sou-hito.php 宗祖伝教大師最澄] 天台宗公式ホームページ {{密教2}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:さいちよう}} [[Category:最澄|*]] [[Category:8世紀日本の僧]] [[Category:9世紀日本の僧]] [[Category:天台宗|*さいちよう]] [[Category:天台宗の僧|*さいちよう]] [[Category:平安時代の僧]] [[Category:日本の能書家]] [[Category:近江国の人物]] [[Category:遣唐使]] [[Category:767年生]] [[Category:822年没]] [[Category:仏教宗派の開祖]]
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因縁
因縁(いんねん)とは、サンスクリット語の Nidana に由来し「原因、動機づけ、機会」といった意味合いである。この語はni (降下、内化)と da (束縛, dana)による熟語である。リグ・ヴェーダにおいては節10.114.2に登場し、また節 6.32.6 においては、馬などを別のものに繋げておくロープやバンドを指している(絆と同様の意味)。 また仏教において因(梵: hetu)と縁(梵: pratyaya)のこと。縁因ともいう。狭義には、結果(果)を生じさせる内的な直接の原因を因(内因)といい、外からそれを助ける間接の原因を縁(外縁)というが、広義では、その両方を合わせて因とも縁ともいう。 一切の存在は、因縁によって生じ、因縁によって滅する。因縁によって生滅するという道理を因縁生滅の理といい、因縁によって生じることを因縁生、縁生、縁成、縁起などという。因縁によって生滅する一切の法はそのまま空なる存在であるという道理を因縁即空の理という。パーリ仏典では相応部因縁篇(Nidana-vagga)などで語られる。一切の現象は原因によって現れる、すなわち「偶然」「突然」「神による創造」などは否定される。 初期の仏教では因(hetu)も縁(pratyaya)も、ともに原因を意味する言葉であり、後に区分が生じて因を原因、縁を条件、とみなした。 仏教では、修行による成仏を前提としており、 に対してきびしい批判を行った(六師外道)。 龍樹は、『中論』観因縁品で、無自性空の立場からこれらの外部の説と、説一切有部の四縁六因説を批判し、四諦品で因縁によって生じる諸法は空であり、条件が変われば、変化すると説いている。 仏教用語でない語義としては、次の3つがある。(1)きっかけ、動機、しかるべき理由。(2)由来、来歴。(3)ゆかり、関係、縁。
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因縁(いんねん)とは、サンスクリット語の Nidana に由来し「原因、動機づけ、機会」といった意味合いである。この語はni (降下、内化)と daによる熟語である。リグ・ヴェーダにおいては節10.114.2に登場し、また節 6.32.6 においては、馬などを別のものに繋げておくロープやバンドを指している(絆と同様の意味)。 また仏教において因と縁のこと。縁因ともいう。狭義には、結果(果)を生じさせる内的な直接の原因を因(内因)といい、外からそれを助ける間接の原因を縁(外縁)というが、広義では、その両方を合わせて因とも縁ともいう。
{{Otheruses|主に仏教用語の「因縁」|仏教用語でない語義|#日常語}} [[File:Dominoeffect.png|thumb|right|ドミノ倒し。仏教では「AによってBが生ずる」と[[因果性]]を説く([[縁起]])<ref name="maru">{{Cite |和書|title=ブッダの旅 |series=岩波新書 |publisher=岩波書店|date=2007-04-20 |author=丸山勇 |pages=189-192 |isbn=978-4004310723}}</ref>]] '''因縁'''(いんねん)とは、サンスクリット語の Nidana に由来し「原因、動機づけ、機会」といった意味合いである<ref>{{cite book|author1=Robert E. Buswell Jr. |author2=Donald S. Lopez Jr. |title=The Princeton Dictionary of Buddhism |url=https://books.google.com/books?id=DXN2AAAAQBAJ |year=2013|publisher=Princeton University Press |isbn=978-1-4008-4805-8 |pages=583 }}</ref>。この語は''ni'' (降下、内化)と ''da'' (束縛, ''dana'')による熟語である<ref name="DavidsStede1921p358">{{cite book|author1=Thomas William Rhys Davids |author2=William Stede |title=Pali-English Dictionary |url=https://books.google.com/books?id=0Guw2CnxiucC |year=1921 |publisher=Motilal Banarsidass |isbn=978-81-208-1144-7 |page=358' }}</ref>。[[リグ・ヴェーダ]]においては節10.114.2<ref>[https://sa.wikisource.org/wiki/ऋग्वेद:_सूक्तं_१०.११४ Rigveda 10.114], Wikisource, Quote: तिस्रो देष्ट्राय निरृतीरुपासते दीर्घश्रुतो वि हि जानन्ति वह्नयः । तासां नि चिक्युः कवयो '''निदानं''' परेषु या गुह्येषु व्रतेषु ॥२॥</ref>に登場し、また節 6.32.6 においては、馬などを別のものに繋げておくロープやバンドを指している<ref name="mmwp486">{{cite book|author=Monier Monier-Williams|title=A Sanskrit-English Dictionary|url=https://books.google.com/books?id=_3NWAAAAcAAJ|year=1872|publisher=Oxford University Press|page=486}}</ref>([[絆]]と同様の意味)。 また[[仏教]]において'''因'''({{lang-sa-short|hetu}})と'''縁'''({{lang-sa-short|pratyaya}})のこと<ref name="総合仏教大辞典70">[[#sb 1988|総合仏教大辞典編集委員会・1988年]] 70頁。</ref><ref>{{要追加記述範囲|中村元(監修)『新・佛教辞典』 誠信書房|date=2017-06-15|title=出版年、ページ番号を要追加記述。}}</ref>。'''縁因'''ともいう<ref name="k136">{{Cite book |和書 |author=中村元 |authorlink=中村元 (哲学者) |coauthors= |others= |date=2001-06 |title=広説仏教語大辞典 |edition= |publisher=東京書籍 |volume=上巻 |page=136 |isbn=}}</ref>。狭義には、[[結果]](果)を生じさせる内的な直接の[[原因]]を因(内因)といい、外からそれを助ける間接の原因を縁(外縁)というが、広義では、その両方を合わせて因とも縁ともいう<ref name="総合仏教大辞典70" /><ref name="総合仏教大辞典64">[[#sb 1988|総合仏教大辞典編集委員会・1988年]] 64-65頁。</ref>。 == 仏教における因縁 == {{See also|縁起|因果|業}} 一切の[[存在]]は、因縁によって生じ、因縁によって滅する<ref name="総合仏教大辞典70" />。因縁によって生滅するという道理を'''因縁生滅の理'''といい、因縁によって生じることを'''因縁生'''、'''縁生'''、'''縁成'''、'''[[縁起]]'''などという<ref name="総合仏教大辞典70" />。因縁によって生滅する一切の[[法 (仏教)|法]]はそのまま[[空 (仏教)|空]]なる存在であるという道理を'''因縁即空の理'''という<ref name="総合仏教大辞典70" />。[[パーリ仏典]]では[[相応部]][[因縁篇]](Nidana-vagga)などで語られる。一切の[[サンカーラ|現象]]は原因によって現れる、すなわち「偶然」「突然」「神による創造」などは否定される<ref>{{Cite |和書|title=無我の見方 (「私」から自由になる生き方) |author=[[アルボムッレ・スマナサーラ]] |date=2012 |isbn=978-4905425069 |publisher=サンガ |at=Kindle版,chapt.3 }}</ref>。 初期の仏教では因(hetu)も縁(pratyaya)も、ともに原因を意味する言葉であり、後に区分が生じて因を原因、縁を条件、とみなした{{要出典|date=2017年7月26日 (水) 08:02 (UTC)|title=}}。 {{PaliCanonSamanaViews}} 仏教では、修行による成仏を前提としており、 *宿作因説 - 因や果を固定したり、創造神の力を因としたり、外在的・宿命的な力を因とする説 *無因有果説 - 因なく最初から果があったとする[[宿命論]]的な主張 *無因縁説 - 原因は有り得ないという説 に対してきびしい批判を行った([[六師外道]]){{要出典|date=2017年7月26日 (水) 08:02 (UTC)|title=}}。 [[龍樹]]は、『[[中論]]』観因縁品で、[[無自性]][[空 (仏教)|空]]の立場からこれらの外部の説と、[[説一切有部]]の四縁六因説を批判し、四諦品で因縁によって生じる[[諸法]]は空であり、条件が変われば、変化すると説いている{{要出典|date=2017年7月26日 (水) 08:02 (UTC)|title=}}。 {{節スタブ}} {{-}} == 日常語 == 仏教用語でない語義としては、次の3つがある<ref name="広辞苑185">{{Cite book |和書 |author=新村出(編) |authorlink= |coauthors= |others= |date=1986-10 |title=広辞苑 |edition=第三版 |publisher=岩波書店 |volume= |page=185 |isbn=}}</ref>。(1)きっかけ、動機、しかるべき理由。(2)由来、来歴。(3)ゆかり、関係、縁。 === 慣用句 === {{出典の明記|date=2017年7月26日 (水) 08:02 (UTC)|section=1}} ;因縁をつける :主に無法者が用いる「言いがかりをつける」こと。まったく無関係のものに関係性を理由づけて、みずからの主張を述べ立てること。 ;因縁話(いんねんばなし) :前世の因縁を説く物語。近い話であった場合には、いきさつが複雑に絡み合った場合に用いる。 ;因縁尽(いんねんずく) :逃れられない条件が重なっていること。 ;因縁物(いんねんぶつ) :人の念が宿り、悪影響を及ぼす魂が入っているというもの。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{notelist}}--> === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Anchors|sb 1988}}総合仏教大辞典編集委員会(編)、1988、『総合仏教大辞典』 法蔵館、1988年1月。 == 関連項目 == * [[因果]] * [[十二因縁]] * [[無常]] * [[苦 (仏教)]] * [[無我]] {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:いんねん}} [[Category:仏教用語]]
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ばんえい記念
ばんえい記念(ばんえいきねん)は、帯広市が帯広競馬場で開催するばんえい競馬の重賞競走(BG1)である。農林水産大臣より寄贈賞の提供を受けており、名称は「農林水産大臣賞典 ばんえい記念(のうりんすいさんだいじんしょうてん ばんえいきねん)」と表記される。 毎年度のばんえい最強馬を決定すると共に、開催年度の締めくくりを飾る重賞競走。1968年に創設され、現存するばんえい競馬の重賞競走では最も歴史が長い。なお、これ以前にも開催年度末に同様の競走は行われていたが、記録が残っていないことなどの理由から本競走には含めていない。 2003年度より制定された「ばんえいグレード」ではBG1に格付けされており、馬はもとより騎手や調教師にとっても本競走を制することが最大の目標とされる。また、「NARグランプリばんえい最優秀馬」にも本競走の優勝馬が多く選ばれ、選定上重要な要素となっている。 創設から1997年度(1998年)までは「農林水産大臣賞典(のうりんすいさんだいじんしょうてん。「大臣賞」と略されることもある)」の名称で施行していた。長年使用していた名残から、以後も「大臣賞」の表現が時折使われることがある。旧名称で施行していた時期は回次を表示しておらず、1998年度(1999年)より現名称に改称した際、初めて「(創設時から通算して)第31回」と表示された(記事内では「各回競走結果の出典」に基き、1998年までの競走にも回次を表記している)。改称後も引き続き農林水産大臣賞典は提供される。なお2015年度(2016年)は不祥事の発生により農林水産大臣賞を返上した。 1987年までは帯広のほか北見・旭川・岩見沢の各競馬場が持ち回りで施行していたが、1988年以降は帯広に固定された。 施行時期は当初10月-11月で定着していたが開催日程の延長に伴い順次延期され、1994年度から年明けの1月に開催、1998年度(1999年)からは2月開催に変更された後、2005年度(2006年)からは通年開催の実施に伴い3月の開催となった。 広域場外発売も通常より拡大されたり、全国発売される場合がある。なお、発売箇所については主催者発表などで確認のこと。 以下の内容は、2020年度(2021年)のもの。 2021年度(2022年)の1着賞金は1000万円で、以下2着400万円、3着300万円、4着200万円、5着100万円。 1着賞金は回を重ねるに連れ増額され、第22回以降は1000万円だったが、第35回以降減少に転じ、第45回(2013年)では300万円にまで削減された(ばんえい競馬へ寄せられた寄付金をもとに、賞金とは別に1着馬に対して200万円の特別報奨金が設定された)。第46回(2014年)は優勝賞金が再び500万円に戻され、第47回(2015年)では800万円に増額。そして第49回(2017年)は優勝賞金が再び1000万円に戻された。 ばんえい競馬の中でも特殊な競走条件で行われることから、2003年から2006年まで4連覇したスーパーペガサス、2007年から2009年まで3連覇したトモエパワーなど同一馬による複数回優勝の例が多い。牝馬の優勝馬はダイニミハル(1974年・1976年)とキヨヒメ(1979年・1981年・1982年)の2頭のみで、特に最高1000kgで行われるようになった1977年以降ではキヨヒメのみ。高齢馬が強く、優勝馬の平均馬齢は第39回(2007年)までで8.28歳。第46回(2014年)終了時現在で4歳(旧5歳)馬の優勝はなく、5歳(旧6歳)馬が優勝したのも第2回・第12回・第21回・第22回の4度のみ。 優勝タイムも3分を切ることは少なく、多くの場合は3分-4分以上かかるほか、長い場合は優勝タイムが5分を超えることもあり、日本の公営競技では優勝タイムが長くかかる競走のひとつである。最高重量1000kgで行われるようになった1977年以降、優勝タイムが3分未満だったのは6回(1979年・1980年・1992年・2012年・2021年・2022年)しかない。優勝タイムが5分を超えたケースは1977年以降だけでみると3回、1976年以前も含めれば6回ある。2007年度(2008年)の優勝タイムは5分35秒8で、最高重量1000kgで行われるようになった1977年以降では最も遅い。また、スタートから最下位の馬が入線するまで(レース全体)の所要時間も大半が5分以上かかっており、近年は7分を超えるケースが多いほか、さらに長い場合は10分前後かかることもある。このためレース全体の所要時間としては全公営競技を通じて最長となり、重賞の勝ち馬であっても完走すら難しく、文字通りの過酷な競走である。通常の競走ではどの馬も概ね第1障害を難なく通過するが、このばんえい記念では第1障害ですら通過に手間取る馬がみられることもある。全馬が入線するまで見届けようとする観客も多くおり、最後の馬が入線した際には場内から拍手が起こることもある。このような特殊性から、実況アナウンサーの大滝翔は本競走を「世界一長い1ハロン戦」と称している。 発走前に演奏するファンファーレは、帯広単独開催となった2007年度(2008年)より陸上自衛隊第5音楽隊(帯広駐屯地)による生演奏が通例となっている(2011年は東日本大震災の救援活動のため前年の音声を使用)。このばんえい記念では、現在のばんえい重賞競走用ファンファーレとリニューアル前の旧重賞ファンファーレを併用し、旧ファンファーレ→現ファンファーレの順に2曲続けての生演奏を行っている。2019年は現ファンファーレのみ演奏されたが、2020年以降は再び旧ファンファーレ→現ファンファーレで生演奏された。 2020年は、新型コロナウイルス感染予防のために無観客レースとなった。 レースで使用されるゼッケンは、2017年までは他重賞と同様ビニールゼッケンが使用されていたが、2018年からは本競走にて特別仕様として回次・レース名・馬名が入ったフェルト製ゼッケンが採用された(後にBG1競走においても採用)。 前述の通り、1998年までは正式な回次がなかったため、検索の便宜上第1回-第30回までの回次を※印つきで表示している。 競走名は※第30回まで「農林水産大臣賞典」、第31回より「ばんえい記念」。 優勝馬の馬齢は2000年まで旧表記、2001年以降は現表記。 競走条件は1969年まで甲級、1973年までA級、1974年は6歳以上オープン、1975年から1993年は4歳以上オープン。 2013年度(2014年)終了時までにおける騎手別の優勝回数は金山明彦が6勝で歴代最多。現役騎手では藤野俊一の5勝が最多となっている。
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ばんえい記念(ばんえいきねん)は、帯広市が帯広競馬場で開催するばんえい競馬の重賞競走(BG1)である。農林水産大臣より寄贈賞の提供を受けており、名称は「農林水産大臣賞典 ばんえい記念」と表記される。
{{競馬の競走 |馬場 = ばんえい |競走名 = ばんえい記念 |画像 = [[File:ばんえい記念のゴール10m前(2016年3月20日).JPG|300px]] |画像説明 = 第48回ばんえい記念<br />フジダイビクトリー(6番)がニュータカラコマ(4番)をゴール10m前で差す |開催国 = {{JPN}} |主催者 = 帯広市 |競馬場 = [[帯広競馬場]] |創設 = 1968年8月3日 |年次 = 2022 |距離 = 200[[メートル|m]] |格付け = BG1 |1着賞金 = 1000万円<ref name="NAR成績">[http://www2.keiba.go.jp/KeibaWeb/TodayRaceInfo/DebaTable?k_raceDate=2018%2f03%2f25&k_raceNo=9&k_babaCode=3 レース成績表(第50回 ばんえい記念4歳以上オープン定量)] - 地方競馬全国協会、2018年3月30日閲覧</ref> |条件 = 4歳以上選抜 |負担重量 = 定量(4・5歳990[[キログラム|kg]]、6歳以上1000kg、[[牝馬]]20kg減) }} '''ばんえい記念'''(ばんえいきねん)は、[[帯広市]]が[[帯広競馬場]]で開催する[[ばんえい競走|ばんえい競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]](BG1)である。[[農林水産大臣]]より寄贈賞の提供を受けており、名称は「'''[[農林水産大臣賞典]] ばんえい記念'''(のうりんすいさんだいじんしょうてん ばんえいきねん)」と表記される。 == 概要 == [[File:第46回ばんえい記念表彰式 インフィニティー号.JPG|thumb|第46回(2014年)優勝馬・インフィニティーの表彰式]] 毎年度のばんえい最強馬を決定すると共に、開催年度の締めくくりを飾る重賞競走。1968年に創設され、現存するばんえい競馬の重賞競走では最も歴史が長い。なお、これ以前にも開催年度末に同様の競走は行われていたが、記録が残っていないことなどの理由から本競走には含めていない<ref name="arekore1" />。 2003年度より制定された「ばんえいグレード」ではBG1に格付けされており、馬はもとより騎手や調教師にとっても本競走を制することが最大の目標とされる。また、「[[NARグランプリばんえい最優秀馬]]」にも本競走の優勝馬が多く選ばれ、選定上重要な要素となっている<ref group="注">NARグランプリの選定は暦年基準で行われているため、選考の要素となるのは前年度(当年)の競走。</ref>。 創設から1997年度(1998年)<ref group="注">年度と実施年が異なるのは、ばんえい競馬の開催年度が4月から翌年3月までのため。</ref>までは「'''[[農林水産大臣賞典]]'''(のうりんすいさんだいじんしょうてん。「大臣賞」と略されることもある)」の名称で施行していた。長年使用していた名残から、以後も「大臣賞」の表現が時折使われることがある<ref name="banei-kinen-2015" />。旧名称で施行していた時期は回次を表示しておらず、1998年度(1999年)より現名称に改称した際、初めて「(創設時から通算して)第31回」と表示された(記事内では「[[#各回競走結果の出典|各回競走結果の出典]]」に基き、1998年までの競走にも回次を表記している)。改称後も引き続き農林水産大臣賞典は提供される。なお2015年度(2016年)は不祥事の発生により農林水産大臣賞を返上した<ref>[http://www.hbc.co.jp/news/hbc-newsi.html ばんえい競馬 「農水大臣賞」返上] - 北海道放送、2015年12月21日閲覧</ref><ref>[http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0214406.html ばんえい農林水産大臣賞、帯広市が返上へ 本年度の2レース] - 北海道新聞、2015年12月21日閲覧</ref>。 1987年までは帯広のほか[[北見競馬場|北見]]・[[旭川競馬場|旭川]]・[[岩見沢競馬場|岩見沢]]の各競馬場が持ち回りで施行していたが、1988年以降は帯広に固定された。 施行時期は当初10月-11月で定着していたが開催日程の延長に伴い順次延期され、1994年度から年明けの1月に開催<ref group="注">このため、1994年は暦年上空白となった。</ref>、1998年度(1999年)からは2月開催に変更された後、2005年度(2006年)からは通年開催<ref group="注">ただし、3月の閉幕から4月の新年度開幕までは半月-1ヶ月程度の休催期間がある。</ref>の実施に伴い3月の開催となった。 広域場外発売も通常より拡大されたり、全国発売される場合がある。なお、発売箇所については主催者発表などで確認のこと。 === 競走条件 === [[ファイル:2010 obihiro daijin.jpg|200px|thumb|カネサブラックとニシキダイジンによるゴール前の競り合い(第42回)]] 以下の内容は、2020年度(2021年)のもの<ref name="番組2020年度" />。 *出走資格:4歳以上選抜 ** 4歳以上でB4以上に格付けされている馬から、出走希望を受け付けて編成。 ** 希望頭数が10頭を超えた場合は、希望馬から通算収得賞金順に編成。 ** 出走希望馬が10頭に満たない場合は、通算収得賞金順に補充して編成する場合がある。 *[[負担重量|ばんえい重量]]:定量(1000kg。5歳以下10kg減、牝馬20kg減) ** ばんえい競馬の全競走を通じて、最高重量が設定されている。 === 賞金 === 2021年度(2022年)の1着賞金は1000万円で、以下2着400万円、3着300万円、4着200万円、5着100万円<ref name="NAR出走">[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/TodayRaceInfo/DebaTable?k_raceDate=2021%2f03%2f21&k_babaCode=3&k_raceNo=9 レース出走表(第53回 ばんえい記念4歳以上オープン定量)] - 地方競馬全国協会</ref>。 ==== 1着賞金の変遷 ==== * 第1回:20万円<ref name="arekore2" /> * 第2回・第3回:不明 * 第4回:100万円<ref name="輓曳No.2" /> * 第5回:120万円<ref name="輓曳No.3" /> * 第6回:150万円<ref name="歴代優勝馬" /> * 第7回:300万円<ref name="歴代優勝馬" /> * 第8回:400万円<ref name="歴代優勝馬" /> * 第9回 - 第11回:500万円<ref name="歴代優勝馬" /> * 第12回:600万円<ref name="歴代優勝馬" /> * 第13回 - 第15回:650万円<ref name="歴代優勝馬" /> * 第16回 - 第21回:700万円<ref name="歴代優勝馬" /> * 第22回 - 第35回:1000万円<ref name="歴代優勝馬" /> * 第36回 - 第39回:700万円<ref name="歴代優勝馬" /> * 第40回 - 第44回:500万円<ref name="歴代優勝馬" /> * 第45回:300万円<ref name="歴代優勝馬" /> * 第46回:500万円<ref name="歴代優勝馬" /> * 第47回:800万円<ref name="歴代優勝馬" /> * 第48回:900万円<ref name="歴代優勝馬" /> * 第49回 -:1000万円<ref name="歴代優勝馬" /> 1着賞金は回を重ねるに連れ増額され、第22回以降は1000万円だったが、第35回以降減少に転じ、第45回(2013年)では300万円にまで削減された(ばんえい競馬へ寄せられた寄付金をもとに、賞金とは別に1着馬に対して200万円の特別報奨金が設定された<ref name="劇場20121222" />)<ref name="劇場20120407" />。第46回(2014年)は優勝賞金が再び500万円に戻され<ref name="web-furlong-2013" />、第47回(2015年)では800万円に増額<ref name="NAR出走表2015" />。そして第49回(2017年)は優勝賞金が再び1000万円に戻された<ref name="NAR出走" />。 === 特色 === [[File:2013 Banei-Kinen Kanesa Black.jpg|thumb|先頭で第2障害を越えるカネサブラック(2013年)]] ばんえい競馬の中でも特殊な競走条件で行われることから、2003年から2006年まで4連覇した[[スーパーペガサス]]、2007年から2009年まで3連覇した[[トモエパワー]]など同一馬による複数回優勝の例が多い。牝馬の優勝馬はダイニミハル(1974年・1976年)とキヨヒメ(1979年・1981年・1982年)の2頭のみで、特に最高1000kgで行われるようになった1977年以降ではキヨヒメのみ<ref name="banei-kinen-2015" />。高齢馬が強く、優勝馬の平均馬齢は第39回(2007年)までで8.28歳<ref name="viva" />。第46回(2014年)終了時現在で4歳(旧5歳)馬の優勝はなく、5歳(旧6歳)馬が優勝したのも第2回・第12回・第21回・第22回の4度のみ。 [[ファイル:ばんえい記念の第2障害でうずくまるフクドリ(2016年3月20日).JPG|left|150px|thumb|第2障害でうずくまるフクドリ(第48回)]] 優勝タイムも3分を切ることは少なく、多くの場合は3分-4分以上かかるほか、長い場合は優勝タイムが5分を超えることもあり、日本の[[公営競技]]では優勝タイムが長くかかる競走のひとつである<ref name="banei-kinen-2015" /><ref group="注">ばんえい競馬を除いた日本の競馬では、「[[中山グランドジャンプ]]」の優勝タイムが最も長い(4分50秒-5分程度)。平地競走に限れば「[[ステイヤーズステークス]]」が最長(3分45秒-50秒程度)。他の公営競技では競輪の[[競輪の競走格付け|GI競走]]決勝や「[[KEIRINグランプリ]]」が4分30秒前後、[[オートレース]]のSG競走優勝戦が3分弱。[[競艇]]はレースの格にかかわらず、概ね2分以内で決着する。</ref>。最高重量1000kgで行われるようになった1977年以降、優勝タイムが3分未満だったのは6回(1979年・1980年・1992年・2012年・2021年・2022年)しかない。優勝タイムが5分を超えたケースは1977年以降だけでみると3回、1976年以前も含めれば6回ある。2007年度(2008年)の優勝タイムは5分35秒8で、最高重量1000kgで行われるようになった1977年以降では最も遅い<ref group="注">1976年以前の記録を含めると、1969年(正式な回次はないが、第2回にあたる)の優勝タイム(6分10秒6)が最も遅い。このときのばんえい重量は1100kgであった。</ref>。また、スタートから最下位の馬が入線するまで(レース全体)の所要時間も大半が5分以上かかっており<ref group="注">1998年以降で、最下位入線馬のタイムが5分を下回ったのは2004年(クシロキンショウ・4分48秒1)・2012年(トモエパワー・4分7秒5)・2021年(ソウクンボーイ・3分20秒8)・2022年(キンツルモリウチ・4分37秒9)の4回。</ref>、近年は7分を超えるケースが多いほか、さらに長い場合は10分前後かかることもある{{refnest|group="注"|第47回(2015年)は、最下位馬のタイムが13分27秒6であった<ref name="obihiro_20150322" />。なお、ばんえい競馬の重賞では、3着入線から3分以内(またはスタートから10分以内)に入線できなかった馬は[[タイムオーバー (競馬)|時間失格]]となるため、通常はそこで競走を終了するが、ばんえい記念においては、(故障等により競走中止となった馬を除いて)全馬入線するまで競走を中断しない。}}。このためレース全体の所要時間としては全公営競技を通じて最長となり、重賞の勝ち馬であっても完走すら難しく、文字通りの過酷な競走である。通常の競走ではどの馬も概ね第1障害を難なく通過するが、このばんえい記念では第1障害ですら通過に手間取る馬がみられることもある。全馬が入線するまで見届けようとする観客も多くおり、最後の馬が入線した際には場内から拍手が起こることもある<ref name="web-furlong-2013" /><ref name="kachimai20090330" />。このような特殊性から、実況アナウンサーの[[大滝翔]]は本競走を「'''世界一長い1[[ハロン (単位)|ハロン]]戦'''」と称している<ref>[https://www.keiba.go.jp/furlong/2022/20220320_01/ 第54回ばんえい記念] 地方競馬全国協会・2022年3月22日・2022年9月14日閲覧</ref>。 [[ファイル:ばんえい記念の本馬場入場と演奏隊(2016年3月20日).JPG|150px|thumb|本馬場入場で演奏隊が生演奏を行っている風景(第48回)]] 発走前に演奏する[[ファンファーレ (競馬)|ファンファーレ]]は、帯広単独開催となった2007年度(2008年)より[[陸上自衛隊]][[音楽隊 (陸上自衛隊)#第5音楽隊|第5音楽隊]]([[帯広駐屯地]])による生演奏が通例となっている<ref name="higawari" /><ref name="event" />(2011年は東日本大震災の救援活動のため前年の音声を使用)。このばんえい記念では、現在のばんえい重賞競走用ファンファーレとリニューアル前の旧重賞ファンファーレを併用し、旧ファンファーレ→現ファンファーレの順に2曲続けての生演奏を行っている<ref name="oddspark" />。2019年は現ファンファーレのみ演奏されたが、2020年以降は再び旧ファンファーレ→現ファンファーレで生演奏された。 2020年は、新型コロナウイルス感染予防のために無観客レースとなった。 レースで使用されるゼッケンは、2017年までは他重賞と同様ビニールゼッケンが使用されていたが、2018年からは本競走にて特別仕様として回次・レース名・馬名が入ったフェルト製ゼッケンが採用された(後にBG1競走においても採用)。 == 歴代優勝馬 == 前述の通り、1998年までは正式な回次がなかったため、検索の便宜上第1回-第30回までの回次を※印つきで表示している。 競走名は※第30回まで「農林水産大臣賞典」、第31回より「ばんえい記念」。 優勝馬の馬齢は2000年まで旧表記、2001年以降は現表記。 競走条件は1969年まで甲級、1973年までA級、1974年は6歳以上オープン、1975年から1993年は4歳以上オープン。 <!--不明な個所をご存知の方は加筆願います--> {| class="wikitable" !回数!!施行日!!開催地!!天候!!馬場<br />水分!!優勝馬!!性齢!!ばんえい<br />重量!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師 |- |{{Center|※第1回}}||1968年8月3日||[[岩見沢競馬場|岩見沢]]||晴||稍重||トーホクイチ||騸8||850||5:07.3||遠藤久夫||遠藤久夫 |- |{{Center|※第2回}}||1969年10月19日||[[旭川競馬場|旭川]]||晴||軽||ハルトカチ||騸6||1100||6:10.6||中西関松||中西関松 |- |{{Center|※第3回}}||1970年11月1日||岩見沢||曇||軽||ハルトカチ||騸7||900||3:48.9||中西関松||中西関松 |- |{{Center|※第4回}}||1971年10月10日||旭川||晴||軽||シヤリイチ||騸10||850||5:50.0||平田正一||平田正一 |- |{{Center|※第5回}}||1972年11月3日||岩見沢||晴||軽||シヤリイチ||騸11||850||3:47.5||山田勇作||山田勇作 |- |{{Center|※第6回}}||1973年9月2日||旭川||曇||軽||カツタロー||騸7||700||2:35.2||[[金山明彦]]||野々宮重樹 |- |{{Center|※第7回}}||1974年11月3日||岩見沢||曇||6.0%||ダイニミハル||牝9||740||2:26.9||木村卓司||木村与惣治 |- |{{Center|※第8回}}||1975年11月9日||[[帯広競馬場|帯広]]||雨||6.5%||トクヨオーザ||騸8||760||2:29.7||山田勇作||山田勇作 |- |{{Center|※第9回}}||1976年10月24日||旭川||曇||3.0%||ダイニミハル||牝11||640||4:02.3||木村卓司||木村与惣治 |- |{{Center|※第10回}}||1977年11月13日||帯広||晴||2.5%||ニジヨウホウ||騸10||1000||4:12.0||木村卓司||木村与惣治 |- |{{Center|※第11回}}||1978年11月12日||[[北見競馬場|北見]]||晴||1.3%||ハクリユウ||牡7||1000||4:08.3||大友榮司||嘉見次夫 |- |{{Center|※第12回}}||1979年10月21日||旭川||晴||6.5%||キヨヒメ||牝6||990||2:36.8||山田勇作||林正男 |- |{{Center|※第13回}}||1980年11月9日||岩見沢||雪||3.1%||ダイケツ||牡7||1000||2:43.2||金山明彦||林正男 |- |{{Center|※第14回}}||1981年11月15日||帯広||雨||3.4%||キヨヒメ||牝8||990||4:16.8||水上勲||林正男 |- |{{Center|※第15回}}||1982年11月21日||北見||曇||1.5%||キヨヒメ||牝9||990||5:09.6||水上勲||林正男 |- |{{Center|※第16回}}||1983年10月23日||旭川||曇||3.3%||[[キンタロー]]||牡7||1000||3:40.2||[[尾ケ瀬富雄]]||谷内二三松 |- |{{Center|※第17回}}||1984年10月28日||岩見沢||曇||7.0%||ハイスピード||牡7||1000||3:07.6||工藤正男||松井浩 |- |{{Center|※第18回}}||1985年11月24日||帯広||晴||5.3%||キンタロー||牡9||1000||3:53.7||尾ケ瀬富雄||谷内二三松 |- |{{Center|※第19回}}||1986年12月7日||北見||曇||2.4%||キンタロー||牡10||1000||3:43.4||金山明彦||尾ケ瀬富雄 |- |{{Center|※第20回}}||1987年10月25日||旭川||曇||1.9%||ハクマサヒカリ||牡10||920||4:15.2||[[皆川公二]]||前原芳郎 |- |{{Center|※第21回}}||1988年11月27日||帯広||雨||7.4%||ニユーフロンテヤ||牡6||1000||3:20.4||[[久田守]]||前原芳郎 |- |{{Center|※第22回}}||1989年12月10日||帯広||晴||2.5%||イエヤス||牡6||1000||5:32.2||[[西弘美 (競馬)|西弘美]]||(東川)山本幸一<ref group="注">[[同姓同名]]の[[調教師]]が2名いたため出身地で区別した。「東川」は[[東川町]]、「上フ」は[[上富良野町]]。</ref> |- |{{Center|※第23回}}||1990年12月24日||帯広||曇||2.3%||[[タカラフジ]]||牡10||1000||4:37.3||久田守||小北定一 |- |{{Center|※第24回}}||1991年12月15日||帯広||晴||2.0%||[[ヒカルテンリユウ]]||牡9||1000||4:42.5||金山明彦||大友栄司 |- |{{Center|※第25回}}||1992年12月23日||帯広||晴||7.0%||テンシヨウリ||牡9||1000||2:59.1||[[藤本匠]]||田上忠夫 |- |{{Center|※第26回}}||1993年12月23日||帯広||曇||3.0%||[[マルゼンバージ]]||牡8||1000||3:31.7||金山明彦||大友栄司 |- |{{Center|※第27回}}||1995年1月15日||帯広||晴||3.0%||フクイチ||牡7||1000||4:02.6||[[西康幸]]||晴披孝治 |- |{{Center|※第28回}}||1996年1月28日||帯広||晴||2.7%||マルゼンバージ||牡10||1000||4:33.1||金山明彦||大友栄司 |- |{{Center|※第29回}}||1997年1月26日||帯広||晴||2.5%||フクイチ||牡9||1000||4:36.9||西弘美||山田勇作 |- |{{Center|※第30回}}||1998年1月25日||帯広||晴||4.7%||フクイチ||牡10||1000||3:29.9||西弘美||山田勇作 |- |{{Center|第31回}}||1999年2月7日||帯広||曇||2.4%||シマヅショウリキ||牡8||1000||3:59.2||[[藤野俊一]]||水上勲 |- |{{Center|第32回}}||2000年2月6日||帯広||曇||1.8%||シマヅショウリキ||牡9||1000||3:58.8||藤野俊一||水上勲 |- |{{Center|第33回}}||2001年2月18日||帯広||晴||0.9%||サカノタイソン||牡7||1000||3:42.3||[[大河原和雄]]||西邑春夫 |- |{{Center|第34回}}||2002年2月17日||帯広||曇||2.4%||サカノタイソン||牡8||1000||4:16.4||藤本匠||西邑春夫 |- |{{Center|第35回}}||2003年2月16日||帯広||曇||2.2%||[[スーパーペガサス]]||牡7||1000||4:19.8||[[岩本利春]]||大友栄人 |- |{{Center|第36回}}||2004年2月22日||帯広||雪||6.9%||スーパーペガサス||牡8||1000||3:07.8||岩本利春||大友栄人 |- |{{Center|第37回}}||2005年2月20日||帯広||小雪||9.2%||スーパーペガサス||牡9||1000||3:15.3||藤野俊一||大友栄人 |- |{{Center|第38回}}||2006年3月26日||帯広||晴||4.6%||スーパーペガサス||牡10||1000||4:36.1||藤野俊一||大友栄人 |- |{{Center|[[第39回ばんえい記念|第39回]]}}||2007年3月25日||帯広||晴||4.4%||[[トモエパワー]]||牡7||1000||4:50.6||坂本東一||松井浩文 |- |{{Center|第40回}}||2008年3月23日||帯広||晴||0.6%||トモエパワー||牡8||1000||5:35.8||西弘美||松井浩文 |- |{{Center|第41回}}||2009年3月29日||帯広||晴||2.3%||トモエパワー||牡9||1000||4:50.8||西弘美||松井浩文 |- |{{Center|第42回}}||2010年3月28日||帯広||晴||4.6%||ニシキダイジン||牡9||1000||4:24.8||藤野俊一||金田勇 |- |{{Center|第43回}}||2011年3月27日||帯広||晴||0.9%||[[カネサブラック]]||牡9||1000||4:07.7||[[松田道明]]||松井浩文 |- |{{Center|第44回}}||2012年3月25日||帯広||曇||5.1%||ニシキダイジン||牡11||1000||2:34.0||[[鈴木恵介]]||[[村上慎一]] |- |{{Center|第45回}}||2013年3月24日||帯広||晴||1.8%||カネサブラック||牡11||1000||3:43.1||松田道明||松井浩文 |- |{{Center|第46回}}||2014年3月23日||帯広||晴||2.7%||インフィニティー||牡8||1000||4:13.2||浅田達矢||金田勇 |- |{{Center|第47回}}||2015年3月22日||帯広||曇||2.4%||キタノタイショウ||牡9||1000||3:49.9||大河原和雄||服部義幸 |- |{{Center|第48回}}||2016年3月20日||帯広||晴||1.7%||フジダイビクトリー||牡8||1000||3:41.5||松田道明||金山明彦 |- |{{Center|第49回}}||2017年3月20日||帯広||晴||0.6%||[[オレノココロ]]||牡7||1000||4:07.6||鈴木恵介||槻舘重人 |- |{{Center|第50回}}||2018年3月25日||帯広||晴||0.9%||オレノココロ||牡8||1000||3:59.3||鈴木恵介||槻舘重人 |- |{{Center|第51回}}||2019年3月24日||帯広||晴||1.2%||センゴクエース||牡7||1000||3:35.0||工藤篤||槻舘重人 |- |{{Center|第52回}}||2020年3月21日||帯広||晴||1.4%||オレノココロ||牡10||1000||4:16.0||鈴木恵介||槻舘重人 |- |{{Center|第53回}}||2021年3月21日||帯広||小雨||2.7%||[[ホクショウマサル]]||牡10||1000||2:43.4||[[阿部武臣]]||[[坂本東一]] |- |{{Center|第54回}}||2022年3月20日||帯広||晴||4.8%||メジロゴーリキ||牡8||1000||2:47.2||西謙一||松井浩文 |- |{{Center|第55回}}||2023年3月20日||帯広||晴||1.3%||メムロボブサップ||牡7||1000||3:34.4||阿部武臣||坂本東一 |} === 騎手の主な記録 === 2013年度(2014年)終了時までにおける騎手別の優勝回数は[[金山明彦]]が6勝で歴代最多。現役騎手では藤野俊一の5勝が最多となっている。 == 脚注 == {{Reflist|group=注}} == 出典 == {{Reflist |refs= <ref name="番組2020年度">{{Cite web|和書|title=帯広市ばんえい競馬番組 2020年度第26回|url=https://www.banei-keiba.or.jp/race_program_detail.php?d=2020&n=26|work=ばんえい十勝オフィシャルサイト|accessdate=2021-03-22}}</ref> <ref name="banei-kinen-2015">{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/baneikinen2015/history.html|title=【第47回ばんえい記念】レースの歴史|work=ばんえい十勝オフィシャルサイト|accessdate=2015-03-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150402094232/http://www.banei-keiba.or.jp/baneikinen2015/history.html|archivedate=2015年4月2日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref> <ref name="歴代優勝馬">[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2154&k_babaCode=4 ばんえい記念 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会、2018年3月30日閲覧</ref> <ref name="arekore1">[http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20080314.html うまナビ - ばんえい記念あれこれ(上)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130403175805/http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20080314.html |date=2013年4月3日 }}北海道新聞帯広支社</ref> <ref name="arekore2">[http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20080321.html うまナビ - ばんえい記念あれこれ(下)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130403161739/http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20080321.html |date=2013年4月3日 }}北海道新聞帯広支社</ref> <ref name="輓曳No.2">{{PDFLink|[http://www.worldsoft.co.jp/banei-pdf/banei-no2-opt.pdf 北海道輓曳競走(No.2、P22)]}} - 北海道市営競馬協議会、2014年12月23日閲覧</ref> <ref name="輓曳No.3">{{PDFLink|[http://www.worldsoft.co.jp/banei-pdf/banei-no3-opt.pdf 北海道ばんえい競走(No.3、P42)]}} - 北海道市営競馬協議会、2014年12月23日閲覧</ref> <ref name="劇場20120407">{{Cite web|和書|url=http://www.tokachi.co.jp/banei/2012/4/entry_1127.php|title=ばんえい記念1着賞金 300万円に減額|work=ばんえい十勝劇場|publisher=[[十勝毎日新聞]]|date=2012-04-07|accessdate=2014-02-24}}</ref> <ref name="劇場20121222">{{Cite web|和書|url=http://www.tokachi.co.jp/banei/2012/12/entry_1232.php|title=特別報奨金を設定|work=ばんえい十勝劇場|publisher=[[十勝毎日新聞]]|date=2012-12-22|accessdate=2014-03-16}}</ref> <ref name="web-furlong-2013">{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/furlong/2013/highlight/0323-01.html|title=【レースハイライト】第46回 ばんえい記念|author=斎藤修|work=[[ハロン (雑誌)|web Furlong]] 2013|publisher=[[地方競馬全国協会]]|accessdate=2014-04-26}}</ref> <ref name="viva">{{Cite web|和書|url=http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20080321.html|title=ばんえい記念特集(後編)|work=ビバ!BANBA|publisher=[[北海道新聞]]帯広支社|date=2008-03-21|accessdate=2014-04-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130403161739/http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/viva_banba/20080321.html|archivedate=2013年4月3日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref> <ref name="kachimai20090330">{{Cite web|和書|url=http://www.tokachi.co.jp/news/200903/20090330-0001051.php|title=「頑張れ!」 拍手と涙 ばんえい記念|author=丹羽恭太|publisher=[[十勝毎日新聞|十勝毎日新聞社]]|date=2009-03-30|accessdate=2014-04-26}}</ref> <ref name="higawari">{{Cite web|和書|url=http://plaza.rakuten.co.jp/dailykeiba/diary/201203210000/|title=第44回ばんえい記念|author=小枝佳代|work=日替わりライターブログ|publisher=[[楽天競馬]]|date=2012-03-21|accessdate=2014-03-04}}</ref> <ref name="event">{{Cite web|和書|url=http://www.banei-keiba.or.jp/topics/32325.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130921020601/http://www.banei-keiba.or.jp/topics/32325.html|archivedate=2013年9月21日|title=【イベント】3/23〜24帯広競馬場イベント|work=ばんえい十勝オフィシャルホームページ|date=2013-03-18|accessdate=2014-03-04}}</ref> <ref name="oddspark">{{Cite web|和書|url=http://blog.oddspark.com/baneiinfo/2009/03/329_5.html|title=3/29ばんえい記念回顧|work=ばんえい競馬情報局|publisher=[[オッズパーク|オッズパーク競馬]]|date=2009-03-29|accessdate=2014-03-04}}</ref> <ref name="NAR出走表2015">[http://www2.keiba.go.jp/KeibaWeb/TodayRaceInfo/DebaTable?k_raceDate=2015%2f03%2f22&k_raceNo=10&k_babaCode=3 第47回ばんえい記念4歳以上選抜定量] - 地方競馬全国協会、2015年3月20日閲覧</ref> <ref name="obihiro_20150322">{{PDFLink|[http://www.banei-keiba.or.jp/syussouhyou/seiseki/20150322A306R.PDF 成績表(平成26年度第26回帯広競馬2日目)]}} - ばんえい競馬、2015年3月26日閲覧</ref> }} === 各回競走結果の出典 === * 第1回から第46回:[https://web.archive.org/web/20150402094232/http://www.banei-keiba.or.jp/baneikinen2015/history.html 【第47回ばんえい記念】レースの歴史] - ばんえい競馬、2015年3月21日閲覧 * 1973年以降:[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2154&k_babaCode=3 ばんえい記念 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会 * 1972年:{{PDFLink|[http://www.worldsoft.co.jp/banei-pdf/banei-no3-opt.pdf 北海道ばんえい競走(No.3、P42)]}} - 北海道市営競馬協議会、1973年5月 * 1971年:{{PDFLink|[http://www.worldsoft.co.jp/banei-pdf/banei-no2-opt.pdf 北海道輓曳競走(No.2、P22)]}} - 北海道市営競馬協議会、1972年4月 * netkeiba.comより(最終閲覧日:2015年3月15日) ** 農林水産大臣賞典 *** {{Netkeiba-raceresult|1998|65012510}} ** ばんえい記念 *** {{Netkeiba-raceresult|1999|65020710}}、{{Netkeiba-raceresult|2000|65020610}}、{{Netkeiba-raceresult|2001|65021810}}、{{Netkeiba-raceresult|2002|65021710}}、{{Netkeiba-raceresult|2003|65021610}}、{{Netkeiba-raceresult|2004|65022210}}、{{Netkeiba-raceresult|2005|65022010}}、{{Netkeiba-raceresult|2006|65032610}}、{{Netkeiba-raceresult|2007|65032510}}、{{Netkeiba-raceresult|2008|65032310}}、{{Netkeiba-raceresult|2009|65032911}}、{{Netkeiba-raceresult|2010|65032811}}、{{Netkeiba-raceresult|2011|65032711}}、{{Netkeiba-raceresult|2012|65032511}}、{{Netkeiba-raceresult|2013|65032411}}、{{Netkeiba-raceresult|2014|65032311}}、{{Netkeiba-raceresult|2015|65032210}}、{{Netkeiba-raceresult|2016|65032009}} == 外部リンク == {{Commonscat|Ban'ei Kinen}} * {{Wikinews-inline|第46回ばんえい記念 - 1000kgの闘いを制したのは6番人気の伏兵インフィニティー}}【2014年3月26日】 * {{Wikinews-inline|第48回ばんえい記念 - 1番人気のフジダイビクトリーが残り10mで差し切り勝利}}【2016年4月2日】 * [http://www.banei-keiba.or.jp/bgsite/baneikinen2014/index.html ばんえい競馬公式サイト内特設ページ] * 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ラムタラ
ラムタラ(Lammtarra, 1992年2月2日 - 2014年7月6日)は、アメリカ合衆国で生産され、イギリスとアラブ首長国連邦ドバイで調教された競走馬。イギリスと日本で種牡馬として供用された。 1994年にデビュー。初戦を勝利したのち、翌1995年春に長期休養明けでイギリスのクラシック競走・ダービーステークスに優勝。その後夏から秋にかけて、古馬(4歳以上馬)を交えたイギリスの最高格競走・キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス(以下、「キングジョージ」と記述)と、同様のフランスの競走・凱旋門賞を無敗のまま制覇し、1971年のミルリーフ以来、史上2頭目のヨーロッパ三大競走完全制覇を達成した。通算成績は4戦4勝。 競走馬引退後はイギリスで種牡馬入りしたが、1996年に日本の生産者団体が3000万ドルで購入し、日本へ導入されたことで、競馬を離れた一般の耳目も集めた。しかし期待された産駒成績は挙がらず、2006年に24万ドルでイギリスへ買い戻され、以後は同地で余生を送った。 文語である現代標準アラビア語が由来。لم تر(lam tara、主語は省略されているが目であることが示唆される「それは見なかった」)という語形で「目で見えなかった」という意味になるが、つづり間違いのلم ترى(lam tarā)やさらにはلمطارة(lamṭārah)も見られ揺れがある。 外国語訳自体は定まっておらず英語では「invisible(目に見えないもの)」という説明が多い。日本語では「決して見ることがない」、「神の見えざる力」といった訳がある。また、石川ワタルは「無敵 (invincible) 」という意味であると紹介している。管理調教師の殺害や、自身の生命の危機の克服、その戦績と馬名との連想などから、日本においては「奇跡の名馬」または「神の馬」とも紹介された。 1992年、アラブ首長国連邦ドバイの首長モハメド・ビン=ラーシド・アル・マクトゥーム(ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム)がアメリカ合衆国ケンタッキー州に所有するゲインズバラファームに生まれる。父は1970年のイギリス三冠馬であり、種牡馬としても数々の活躍馬を輩出していたニジンスキー、母は1989年のオークスを2位入線からの繰り上がりで優勝したスノーブライド。ニジンスキーはラムタラ誕生の2か月後に死亡したため、その最終世代の産駒となった。 翌1993年7月、マクトゥーム一族所有馬の専属調教師の一人であったアレックス・スコットに見初められ、同年冬にはイギリス・ニューマーケットのオークハウス厩舎に移動した。その後モハメドの甥サーイド・マクトゥームの所有馬となったが、サーイドは18歳の学生であったため、実質的な所有はモハメドが創設した競走馬管理組織ゴドルフィン・レーシングが行った。スコットのアシスタントを務めていたデイヴィッド・フィップスによれば、入厩当初のラムタラは穏和で、優れた馬ではあったが、凱旋門賞などの大競走を制すると予感させるほどではなかった。しかしスコットはその素質の高さを確信し、本格的な調教が始まった頃には妻ジュリアに対し「ダービー馬になる」と予告していた。 初戦は1994年8月、鞍上にスコットの友人でもあるウォルター・スウィンバーンを配し、リステッド競走のワシントンシンガーステークスで迎えた。スタートから行き脚が鈍く最後方からのレース運びとなり、最後の直線でも伸びを見せなかった。しかしスウィンバーンが鞭を入れると鋭い反応を見せ、先頭を行く牝馬マイフェアを3/4馬身差し切って初勝利を挙げた。スウィンバーンは「若駒に鞭は使いたくなかったが、仕方なかった。このままでは困ったことになると思ったのです」と回顧している。この勝利の直後、スコットはブックメーカーに赴き、ダービーに向けたラムタラの前売り単勝馬券を1000ポンド購入した。 競走後も日ごとに動きが良化し、厩舎内でも特に優れた馬と見られ始めた。その後は秋に向けて調整が行われていたが、調教中に捻挫を起こし、以降のシーズンの出走を見送った。この後、冬場の調教に備え、ラムタラは温暖なドバイのサイード・ビン・スルール厩舎へ送られた。春には戻ってくるという約束があったが、ジュリアによればスコットはラムタラを連れて行かれたことに不満を感じていたという。 9月30日、ゴドルフィンのスタッフがスコットの厩舎を訪れ、ラムタラと、もう1頭ドバイに送られていたタマヤズが戻ってくるとスコットに伝えた。スコットはこれを大いに喜び、アシスタントのフィップスに対し「すごいぞ、両方とも戻ってくるぞ」と伝えた。その後、厩舎の庭師を伴い、かねてスコットと諍いが絶えなかった厩務員、ウィリアム・オブライエンへの解雇通告に向かった。そしてフィップスとの会話から約1時間後の午後6時10分、スコットは逆上したオブライエンに物置内で銃撃され死亡した。38歳であった。 調教師を失ったラムタラは、そのままサイード・ビン・スルールの管理下へ移った。10月18日にはスコットの追悼式が行われ、挨拶に立ったスウィンバーンは「私たちに現在できることは、ラムタラがダービーに勝ってくれるように、願うことしかないのです」と語った。 翌1995年3月、ラムタラは突如として肺の感染症を患い、一時は生命を危ぶまれる重篤な状態に陥った。しかし当時最新の獣医療技術を集積したドバイ馬事病院に入院し、一命を取り留める。ゴドルフィンのスタッフはラムタラの戦線復帰をシーズン後半と見込んでいたが、モハメドはダービー出走を計画し、回復から間もなくして調教が再開された。クラシック初戦・2000ギニーが行われた頃にイギリスに戻り、サイード・ビン・スルールがニューマーケットに置く厩舎に入った。以後調教が進められ、3歳の初戦として直接ダービーへの出走が決まった。ラムタラの調教パートナーも務めたヴェットーリに騎乗したランフランコ・デットーリは、その時のラムタラの走りからダービー勝利の見込みは薄いと感じたといい、デビュー以来キャリアがない点や、肺病で調教も不順だったことから、「ラムタラのダービー出走が決定された時には、みな本当に気が狂った、としか思えなかった」と語っている。なお、デットーリはゴドルフィン所有馬のタムレに騎乗してダービーに臨んだ。 ダービー当日は前走の2000ギニーまで無敗の6連勝中であったペニカンプが15頭立ての1番人気に支持され、ラムタラは6番人気の評価であった。競走前、スウィンバーンは道中で「3番手か4番手」を進むよう指示を受けていたが、ラムタラはスタートから行き脚が付かず、後方からのレース運びとなった。最終コーナーから最後の直線に入ると、並走する馬や失速してきた先行馬に包まれる形となり、一時進路を失った。しかし残り2ハロン(約400m)から馬場の中央に持ち出すと、先行勢を急追し、先頭を走るタムレから6馬身半の差をゴール前で逆転、同馬に1馬身差を付けて優勝した。走破タイム2分32秒31は、1934年にマームードが記録したタイムを一挙に1秒半短縮するダービーレコードであり、20年前にバスティノが記録したコースレコードも1秒短縮するものだった。過去1戦のキャリアでダービーを勝ったのはボワルセル(1938年)、モーストン(1973年)に続く3頭目、19世紀に存在したダービーが初出走という馬を除いては、2歳時からの休み明けで勝ったのはラムタラが史上初めての例となった。 競走後のインタビューで、スウィンバーンは次のように語った。 また、ダービー出走の判断とドバイ経由の調教の正しさを証明する形となったモハメドは、「この馬をここに連れてきて勝ったことは、自分の服色の馬が4回ダービーに勝つよりも大きな喜びを与えてくれました」と述べ、また「もしアレックス・スコットがここにいたならば、はるかに幸せだったでしょう」とも語った。スコットが生前に買っていたラムタラの単勝馬券1000ポンドは、規則では購入者死亡のため無効となるものであったが、購入を受け付けたブックメーカーのラドブロークス社は特例として有効と認め、ジュリア・スコットに3万4000ポンドの配当金が支払われた。なお、名義上のみではあるものの、馬主のサイードはこの勝利で史上最年少のダービーオーナーとなっている。 次走はアイリッシュダービーに登録。ここまで6戦5勝、全欧の3歳馬で最高レートの130ポンドのレイティングを与えられていた ジョッケクルブ賞(フランスダービー)優勝馬・セルティックスウィングとの対戦が注目を集めたが、競走直前に右後脚を捻挫して出走を回避。代わって20日後のキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスに登録した。競走の3日前、ラムタラの騎手がランフランコ・デットーリに代わることが発表され、イギリス国内で大きな反響を呼んだ。ラムタラの伝記を執筆したローラ・トンプソンは、当時の状況を次のように伝えている。 モハメドは「騎手を選ぶ決定権は馬主にある」と語り、ゴドルフィンのレーシングマネージャー、サイモン・クリスフォードは「フランキー(デットーリ)は厩舎の騎手なので、乗ってもらうことにしました」と語ったのみであった。スウィンバーンはこの件について一切の不満を漏らさず、「それでいいと思います。これからはデットーリで勝ち続けて欲しいし、心から応援したい」と語った。デットーリは後に自著において、「ラムタラに騎乗できるだけでも嬉しかった僕は、騎乗依頼を即座に受けたものの、もし負けでもしたら、ウォルターだったら勝てたのに、と言われるだろうとも考えた」と、当時の心境を回想している。 当日は7頭立てで、ラムタラは1番人気に支持された。スタートが切られるとラムタラは2番人気のペンタイアと並んで最後方を進んだ。デットーリは残り4ハロン(約800m)付近からスピードを上げようとしたが、ラムタラはデットーリが意図したほど合図に応えず、ペンタイアが先に先団へ上がっていった。最終コーナーでは内側を走っていたエンヴァイロメントフレンドと接触して外に弾かれたが、この瞬間からラムタラはスパートを掛け、ペンタイアと並んで最後の直線に入った。直線ではペンタイア、ストラテジックチョイスと激しく競り合った末、ゴール前で首差抜け出してこれを制した。ダービーとキングジョージを無敗のまま連勝した馬は、父ニジンスキー(1970年)、ナシュワン(1989年)以来、史上3頭目であった。デットーリはペンタイアとの競り合いをボクシングに喩え、「パンチを受けてもノックアウトでやり返すラムタラは、真のプロボクサーだ」と称えている。 その後しばらく出走することはなく、10月にフランスの最高格競走とされる凱旋門賞に直接出走した。デットーリは、自身が騎乗して前哨戦のフォワ賞で2着となっていたバランシーン(ゴドルフィン所有)とラムタラのどちらに騎乗するかを迷っていたが、モハメドに相談した際に「ラムタラを手放すな」と助言され、ラムタラを選択した。バランシーンの鞍上には、デットーリに代わってスウィンバーンが据えられた。 戦前のモーニングライン(予想オッズ)で1番人気となったのは日本の吉田照哉が所有するカーリングで、他にもフォワ賞を制した前年度優勝馬カーネギー、デビュー以来5連勝中のスウェインなどが名を連ねたが、ラムタラは競走当日の単勝オッズで1番人気に支持された。レースでは好スタートから初めて先行策を見せ、ペースメーカーのルソーに次ぐ2番手を進んだ。レースはそのまま推移したが、デットーリはスローペースによって、優れた瞬発力を持つ馬に直線で一気に交わされることを危惧し、全体のペースを上げるため、ロンシャン競馬場特有の「フォルス・ストレート」からスパートを掛けた。最後の直線半ばでは上がってきたフリーダムクライにクビ差まで迫られたが、ラムタラはそこから再度の伸びを見せ、ゴールでは同馬の追走を1馬身振り切って優勝。1971年の優勝馬ミルリーフ以来、史上2頭目(無敗馬としては史上初)の、欧州3大レース(日本のみヨーロッパ三冠と呼ぶ)完全制覇を果たした。 競走後、デットーリは涙を見せながら「この馬はライオンの心臓を持っている。我慢し、全力で走り、戦った。これまでで、僕が知っている最高の馬だ」と語り、記者から「これまで乗った馬、見たことのある馬の中でラムタラがベストの馬か」と問われると、「もし、この馬より強い馬がいるというのなら、ぜひ乗ってみたいものだね。ラムタラは、僕たちが長らく出会ったことのなかった、最高の馬だ」と答えた。表彰式でオーナーのサイード・マクトゥーム・アル・マクトゥームに代わってラムタラの引き手を握ったシェイク・モハメドは「ダービーの日と同じように、今日は最高の気分だ。こんな気持ちになったのは、私のレース経験で初めてのことだ。ラムタラは素晴らしい。私が知る限りではベストの馬だ」と語った。サイード・ビン・スルールは言葉が見つからず何も語らなかったが、彼の代理としてゴドルフィン・レーシングマネージャーのサイモン・クリスフォードは「ラムタラは、我々が勝つために必要だと考えていたことをすべてやってくれた。ダービーの頃は子供っぽくて、小さなスクールボーイのような馬だったのに、今日の彼は完璧なレーシング・マシンだった。彼の課題はレース経験の少なさだった。キングジョージの後、我々はその欠点を克服しようと試み、そして成功した。動きも一段と良くなり、我々は凱旋門賞でいいレースができるという自信を持つことができた」と代弁した。 その後は生国アメリカのブリーダーズカップ・ターフに出走するプランもあったが、レース間隔が短かったために出走を見送り、競走10日後の10月11日、競走生活からの引退と種牡馬入りが発表された。1カ月余り後にはヨーロッパの年度表彰・カルティエ賞の選考結果が発表されたが、ラムタラは最優秀3歳牡馬に選出されたものの、年度代表馬はマイル戦線でGI競走4勝を挙げた牝馬・リッジウッドパールが選出され、論議を呼んだ(後述)。 凱旋門賞の前にアメリカの生産者から1800万ドルで購買の申し入れがあったが、これは成立せず、競走馬引退後はゴドルフィンがイギリスに所有するダルハムホールスタッドに入った。初年度の種付け料は3万ポンドに設定され、凱旋門賞優勝牝馬アーバンシーなどを含む56頭への種付けが行われた。 このシーズン中の5月末、日本の生産者団体ジェイエスより、2000万ドルでの購買が打診される。この申し入れは拒否され、6月にも2500万ドルでの交渉があったが、再度拒否となった。これを受けた6月23日、日本では8名の生産牧場代表を中心として会議が行われ、ラムタラの適正な購買価格、資金の回収方法等の方策などが話し合われた。この結果、3000万ドル(約33億円。当時)を5回払いという条件で3度目の交渉が行われた。返答を待つ間の6月28日には、この交渉がスポーツ新聞に漏れて記事となり、1株2頭の種付け権で40株を予定していたシンジケートに対し、当日のうちに100件を超える問い合わせが寄せられた。そして7月2日、ドバイ側より「3000万ドルを一括払い、モハメド殿下に毎年5頭分の無償種付け権を付与」という条件で売却の意志が伝えられた。この条件で交渉が成立し、7月10日、ダルハムホールスタッドで契約が行われた。この時、スタッド職員は「本当は売りたくない」という意志を示すために、契約書類への記入に際してインクが出ないボールペンを渡したという。ジェイエス代表の矢野秀春によれば、「スタッドの関係者はラムタラを売ることを絶対に嫌がる」という予測から、ジェイエスはスタッドマネージャーを避け、レーシングマネージャー(競走部門責任者)を通じて交渉を行っていたという。 イギリスにおいてラムタラ売却が報じられると、「日本人が金の力に物を言わせて名馬を買い漁る」という旨の批判的な記事が、雑誌や新聞紙上に相次いで載せられた。また、1980年代のバブル景気の頃より数々の名馬を日本へ手放したアメリカにおいても同様の非難の声が上がり、日本国内でも一部の競馬評論家がイギリスに留めるべきとの批判を行った。 契約直前に決定されていたシンジケートは、2頭の種付け権を付与した1株が1億800万円、総株数41で総額44億2800万円というものであった。日本国内では1990年に社台グループの吉田善哉がアメリカから輸入したサンデーサイレンスに対して組まれたシンジケート額・24億9000万円を遙かに凌ぐ、史上最高額のシンジケートであった。この輸入は競馬サークルのみならず一般の関心も集め、10月4日のラムタラ成田空港到着時には、その戦績と高額のシンジケート紹介とともに、一般ニュースでも報じられた。 当時の日本競馬界においては、国内最大の生産組織・社台グループが所有するサンデーサイレンスの産駒と、日本国外で生産された外国産馬が大きな勢力を占めており、馬を売って生計を立てるマーケットブリーダーが集まる北海道日高地方においては、馬主に対するコマーシャル面で強い訴求力を持つ独自の存在が求められていた。外国産馬に対する出走制限の緩和も急速に進んでいたことから、矢野は「ただ静観していては、未来はない。思い切った策に出るしかなかったんです」と語っている。発起人の生産者8名の間では、ラムタラが3000万ドルに値する名馬であるという見解で一致し、また円高であった当時の経済状況を逃せば、同じクラスの馬は二度と導入できないのではないかとの見通しもあった。俗にあった「サンデーサイレンス・社台に対抗するためではないか」との見方について、矢野は「サンデーは、お金を出せば誰でも付けられますし、事実、静内の生産者の多くがお世話になっています。サンデー憎しという気持ちはありません」と、これを否定した。 白井寿昭は「手の届かないはずの名馬に手が届いた。バブル経済の影響は大きかったと思うね。サンデーサイレンスに対抗するための導入...なんて声もあったけど、その意見に僕は否定的で、かつてのテスコボーイが与えてくれたような夢を、日高の生産者は見ていたんじゃないかな。もっとも、このような熱意は血統の更新に必要なもので、結果は伴わなかったとしても、それは日本の競馬発展につながっていくと思う。」と評している。 1999年にヨーロッパにおける初年度産駒がデビュー。この中からはアイリッシュオークス2着、エプソムオークス3着のメリカーが出た。 日本では日高の生産者を中心に、数々の実績馬・良血馬を含む112頭を初年度の交配相手に揃え、2000年に87頭がデビューした。2002年にミレニアムスズカが阪神ジャンプステークス、メイショウラムセスが富士ステークス、2003・2004年にマルカセンリョウが名古屋大賞典・かきつばた記念と、それぞれ重賞に勝利した。しかしGI戦線で活躍する馬は現れず、以後の世代からもダートグレード競走や地方競馬限定の重賞勝ち馬を散発的に出すに留まった。種牡馬ランキングの最高位は2003年の16位(JBIS集計分)であった。気性難や虚弱体質などの欠点を持つ産駒が多かったとされる。 2006年、ラムタラはイギリスに売却されることとなった。売却額は24万ドル(約2750万円、当時)で、購入額3000万ドルの100分の1未満であった。以後は種牡馬を引退してイギリスのダルハムホールスタッドで余生を送り、2014年7月に22歳で死亡した。 ランフランコ・デットーリは、ダービー、キングジョージ、凱旋門賞の三競走を全勝することは、「競馬に関わる者が等しく抱く野心」であるとしている。しかし、ラムタラは実際にこれを無敗のまま全勝したにもかかわらず、出走回数がわずか4レースと極めて少なかったこともあり、年度代表馬に選出されなかった。カルティエ賞の結果を報じたタイムズは、「多くの場合は、最高の馬にはカリスマ性がある。しかしときには、そうならないこともあるのだろう。今回のカルティエ賞は、それを知らしめる最高の事例となった」と論評した。 イギリスの競馬関係者のラムタラに対する評価としては「(ラムタラは)確かに素晴らしく強い。だが、かつての名馬の上に燦然と君臨するほどのものではない」というものが多く、その詳細としては「ラムタラには、名馬の証であるダイナミックな加速能力がない。彼の末脚には、ニジンスキー、サーアイヴァー、そしてダンシングブレーヴに伍するほどの迫力はない」というものがあった。さらにキングジョージに至っては「恵まれて勝利を手にした」と評され、ペンタイアに騎乗したマイケル・ヒルズが早仕掛けしたことでラムタラは後方で力を温存して直線で末脚を伸ばすことができたとされ、もしヒルズがもう100m仕掛けを遅らせていたらペンタイアはラムタラを楽に負かしていたと言われた。 各競走に対する評価(レイティング)も低いものであった。ダービー優勝に対して与えられたレート・123ポンドは、1969年のブレイクニー以来となる低評価であり、キングジョージ優勝時の124ポンドは、前年優勝のキングスシアターを2ポンド下回る、過去10年間で最も低い評価だった。凱旋門賞を経ての最終的な評価はヨーロッパ調教馬で最高の130ポンドであったが、これも前年のバランシーン(牝馬)と共に10年間での最低評価であり、アメリカの年度代表馬・シガーを2ポンド下回っていた。イギリス競馬委員会 (BHB) は、「ラムタラの勝った3つのレースにはトップクラスの馬が出走しておらず、したがって着差を考えると、ラムタラを最高にランクすることはできない」とした。着差という点について、デットーリは「みんな本当に心が狭い。凱旋門賞でも、1着と2着との間の着差しか見ていない。でも全体を見て欲しいよね。1着から最後尾までの着差は80馬身もあったのだ。(中略)ランド、ストラテジックチョイス、カーネギー、バランシーン、みんなずっと後方だったんだ! ラムタラがいかに偉大であるかは、それがはっきり示している」と反論している。またデットーリはラムタラのレーススタイルについて、「着差を付けないで勝つ。それがラムタラさ。彼は競馬を楽しんでいるし、着差を付けないで勝つことが好きなんだ。弱い相手でも、やっぱり差を付けないで勝つだろう。挑戦することが好きだし、格闘することが好きなんだ。変わった奴だよ」とも評している。 低評価の背景には、イギリス競馬界で急速に勢力を拡大するマクトゥーム一族への反感が作用したとの見方もある。ローラ・トンプソンは、ラムタラが年度代表馬を逃した背景にはマクトゥーム一族への嫉妬があるとし、イギリスの競馬関係者にとって、マクトゥーム一族が「石油の海に浮かび、次々と成功を収めていく外国人、何を考えているか分からない、気むずかしき外国人」であったのに対し、リッジウッドパールを所有するコフラン夫妻が「『普通』の人たち」「好感の持てるアイルランド人」であったことが影響を及ぼしたと論じている。さらに、日本人騎手に伴っての渡欧経験が豊富な日刊スポーツ記者の松田隆は、「リッジウッドパールがロンドンのダブルデッカー(2階建てバス)なら、ラムタラは米国で造られた日本車ぐらいの違いがある」とし、イギリス人がアメリカ人ほど他人種に寛容ではないとした上で「そんな事情がどこまで影響したかわからないが、まったく無関係である、と断言できないのが悲しい」と述べている。また、『サラブレッド・ビジネス - ラムタラと日本競馬』の著者・江面弘也は、「オイルマネーを後ろ盾にしてヨーロッパの大レースを勝ちまくるマクトゥーム一族を目の当たりにしたとき、イギリス貴族にはかつてペルシャ湾で猛威を振るった『海賊』を見るような思いがしたかも知れない。そう考えれば『ドバイの馬』に対するイギリス競馬界の冷ややかな態度も少しは納得できる」と述べている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ラムタラ(Lammtarra, 1992年2月2日 - 2014年7月6日)は、アメリカ合衆国で生産され、イギリスとアラブ首長国連邦ドバイで調教された競走馬。イギリスと日本で種牡馬として供用された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1994年にデビュー。初戦を勝利したのち、翌1995年春に長期休養明けでイギリスのクラシック競走・ダービーステークスに優勝。その後夏から秋にかけて、古馬(4歳以上馬)を交えたイギリスの最高格競走・キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス(以下、「キングジョージ」と記述)と、同様のフランスの競走・凱旋門賞を無敗のまま制覇し、1971年のミルリーフ以来、史上2頭目のヨーロッパ三大競走完全制覇を達成した。通算成績は4戦4勝。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "競走馬引退後はイギリスで種牡馬入りしたが、1996年に日本の生産者団体が3000万ドルで購入し、日本へ導入されたことで、競馬を離れた一般の耳目も集めた。しかし期待された産駒成績は挙がらず、2006年に24万ドルでイギリスへ買い戻され、以後は同地で余生を送った。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "文語である現代標準アラビア語が由来。لم تر(lam tara、主語は省略されているが目であることが示唆される「それは見なかった」)という語形で「目で見えなかった」という意味になるが、つづり間違いのلم ترى(lam tarā)やさらにはلمطارة(lamṭārah)も見られ揺れがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "外国語訳自体は定まっておらず英語では「invisible(目に見えないもの)」という説明が多い。日本語では「決して見ることがない」、「神の見えざる力」といった訳がある。また、石川ワタルは「無敵 (invincible) 」という意味であると紹介している。管理調教師の殺害や、自身の生命の危機の克服、その戦績と馬名との連想などから、日本においては「奇跡の名馬」または「神の馬」とも紹介された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1992年、アラブ首長国連邦ドバイの首長モハメド・ビン=ラーシド・アル・マクトゥーム(ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム)がアメリカ合衆国ケンタッキー州に所有するゲインズバラファームに生まれる。父は1970年のイギリス三冠馬であり、種牡馬としても数々の活躍馬を輩出していたニジンスキー、母は1989年のオークスを2位入線からの繰り上がりで優勝したスノーブライド。ニジンスキーはラムタラ誕生の2か月後に死亡したため、その最終世代の産駒となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "翌1993年7月、マクトゥーム一族所有馬の専属調教師の一人であったアレックス・スコットに見初められ、同年冬にはイギリス・ニューマーケットのオークハウス厩舎に移動した。その後モハメドの甥サーイド・マクトゥームの所有馬となったが、サーイドは18歳の学生であったため、実質的な所有はモハメドが創設した競走馬管理組織ゴドルフィン・レーシングが行った。スコットのアシスタントを務めていたデイヴィッド・フィップスによれば、入厩当初のラムタラは穏和で、優れた馬ではあったが、凱旋門賞などの大競走を制すると予感させるほどではなかった。しかしスコットはその素質の高さを確信し、本格的な調教が始まった頃には妻ジュリアに対し「ダービー馬になる」と予告していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "初戦は1994年8月、鞍上にスコットの友人でもあるウォルター・スウィンバーンを配し、リステッド競走のワシントンシンガーステークスで迎えた。スタートから行き脚が鈍く最後方からのレース運びとなり、最後の直線でも伸びを見せなかった。しかしスウィンバーンが鞭を入れると鋭い反応を見せ、先頭を行く牝馬マイフェアを3/4馬身差し切って初勝利を挙げた。スウィンバーンは「若駒に鞭は使いたくなかったが、仕方なかった。このままでは困ったことになると思ったのです」と回顧している。この勝利の直後、スコットはブックメーカーに赴き、ダービーに向けたラムタラの前売り単勝馬券を1000ポンド購入した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "競走後も日ごとに動きが良化し、厩舎内でも特に優れた馬と見られ始めた。その後は秋に向けて調整が行われていたが、調教中に捻挫を起こし、以降のシーズンの出走を見送った。この後、冬場の調教に備え、ラムタラは温暖なドバイのサイード・ビン・スルール厩舎へ送られた。春には戻ってくるという約束があったが、ジュリアによればスコットはラムタラを連れて行かれたことに不満を感じていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "9月30日、ゴドルフィンのスタッフがスコットの厩舎を訪れ、ラムタラと、もう1頭ドバイに送られていたタマヤズが戻ってくるとスコットに伝えた。スコットはこれを大いに喜び、アシスタントのフィップスに対し「すごいぞ、両方とも戻ってくるぞ」と伝えた。その後、厩舎の庭師を伴い、かねてスコットと諍いが絶えなかった厩務員、ウィリアム・オブライエンへの解雇通告に向かった。そしてフィップスとの会話から約1時間後の午後6時10分、スコットは逆上したオブライエンに物置内で銃撃され死亡した。38歳であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "調教師を失ったラムタラは、そのままサイード・ビン・スルールの管理下へ移った。10月18日にはスコットの追悼式が行われ、挨拶に立ったスウィンバーンは「私たちに現在できることは、ラムタラがダービーに勝ってくれるように、願うことしかないのです」と語った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "翌1995年3月、ラムタラは突如として肺の感染症を患い、一時は生命を危ぶまれる重篤な状態に陥った。しかし当時最新の獣医療技術を集積したドバイ馬事病院に入院し、一命を取り留める。ゴドルフィンのスタッフはラムタラの戦線復帰をシーズン後半と見込んでいたが、モハメドはダービー出走を計画し、回復から間もなくして調教が再開された。クラシック初戦・2000ギニーが行われた頃にイギリスに戻り、サイード・ビン・スルールがニューマーケットに置く厩舎に入った。以後調教が進められ、3歳の初戦として直接ダービーへの出走が決まった。ラムタラの調教パートナーも務めたヴェットーリに騎乗したランフランコ・デットーリは、その時のラムタラの走りからダービー勝利の見込みは薄いと感じたといい、デビュー以来キャリアがない点や、肺病で調教も不順だったことから、「ラムタラのダービー出走が決定された時には、みな本当に気が狂った、としか思えなかった」と語っている。なお、デットーリはゴドルフィン所有馬のタムレに騎乗してダービーに臨んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ダービー当日は前走の2000ギニーまで無敗の6連勝中であったペニカンプが15頭立ての1番人気に支持され、ラムタラは6番人気の評価であった。競走前、スウィンバーンは道中で「3番手か4番手」を進むよう指示を受けていたが、ラムタラはスタートから行き脚が付かず、後方からのレース運びとなった。最終コーナーから最後の直線に入ると、並走する馬や失速してきた先行馬に包まれる形となり、一時進路を失った。しかし残り2ハロン(約400m)から馬場の中央に持ち出すと、先行勢を急追し、先頭を走るタムレから6馬身半の差をゴール前で逆転、同馬に1馬身差を付けて優勝した。走破タイム2分32秒31は、1934年にマームードが記録したタイムを一挙に1秒半短縮するダービーレコードであり、20年前にバスティノが記録したコースレコードも1秒短縮するものだった。過去1戦のキャリアでダービーを勝ったのはボワルセル(1938年)、モーストン(1973年)に続く3頭目、19世紀に存在したダービーが初出走という馬を除いては、2歳時からの休み明けで勝ったのはラムタラが史上初めての例となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "競走後のインタビューで、スウィンバーンは次のように語った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "また、ダービー出走の判断とドバイ経由の調教の正しさを証明する形となったモハメドは、「この馬をここに連れてきて勝ったことは、自分の服色の馬が4回ダービーに勝つよりも大きな喜びを与えてくれました」と述べ、また「もしアレックス・スコットがここにいたならば、はるかに幸せだったでしょう」とも語った。スコットが生前に買っていたラムタラの単勝馬券1000ポンドは、規則では購入者死亡のため無効となるものであったが、購入を受け付けたブックメーカーのラドブロークス社は特例として有効と認め、ジュリア・スコットに3万4000ポンドの配当金が支払われた。なお、名義上のみではあるものの、馬主のサイードはこの勝利で史上最年少のダービーオーナーとなっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "次走はアイリッシュダービーに登録。ここまで6戦5勝、全欧の3歳馬で最高レートの130ポンドのレイティングを与えられていた ジョッケクルブ賞(フランスダービー)優勝馬・セルティックスウィングとの対戦が注目を集めたが、競走直前に右後脚を捻挫して出走を回避。代わって20日後のキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスに登録した。競走の3日前、ラムタラの騎手がランフランコ・デットーリに代わることが発表され、イギリス国内で大きな反響を呼んだ。ラムタラの伝記を執筆したローラ・トンプソンは、当時の状況を次のように伝えている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "モハメドは「騎手を選ぶ決定権は馬主にある」と語り、ゴドルフィンのレーシングマネージャー、サイモン・クリスフォードは「フランキー(デットーリ)は厩舎の騎手なので、乗ってもらうことにしました」と語ったのみであった。スウィンバーンはこの件について一切の不満を漏らさず、「それでいいと思います。これからはデットーリで勝ち続けて欲しいし、心から応援したい」と語った。デットーリは後に自著において、「ラムタラに騎乗できるだけでも嬉しかった僕は、騎乗依頼を即座に受けたものの、もし負けでもしたら、ウォルターだったら勝てたのに、と言われるだろうとも考えた」と、当時の心境を回想している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "当日は7頭立てで、ラムタラは1番人気に支持された。スタートが切られるとラムタラは2番人気のペンタイアと並んで最後方を進んだ。デットーリは残り4ハロン(約800m)付近からスピードを上げようとしたが、ラムタラはデットーリが意図したほど合図に応えず、ペンタイアが先に先団へ上がっていった。最終コーナーでは内側を走っていたエンヴァイロメントフレンドと接触して外に弾かれたが、この瞬間からラムタラはスパートを掛け、ペンタイアと並んで最後の直線に入った。直線ではペンタイア、ストラテジックチョイスと激しく競り合った末、ゴール前で首差抜け出してこれを制した。ダービーとキングジョージを無敗のまま連勝した馬は、父ニジンスキー(1970年)、ナシュワン(1989年)以来、史上3頭目であった。デットーリはペンタイアとの競り合いをボクシングに喩え、「パンチを受けてもノックアウトでやり返すラムタラは、真のプロボクサーだ」と称えている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その後しばらく出走することはなく、10月にフランスの最高格競走とされる凱旋門賞に直接出走した。デットーリは、自身が騎乗して前哨戦のフォワ賞で2着となっていたバランシーン(ゴドルフィン所有)とラムタラのどちらに騎乗するかを迷っていたが、モハメドに相談した際に「ラムタラを手放すな」と助言され、ラムタラを選択した。バランシーンの鞍上には、デットーリに代わってスウィンバーンが据えられた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "戦前のモーニングライン(予想オッズ)で1番人気となったのは日本の吉田照哉が所有するカーリングで、他にもフォワ賞を制した前年度優勝馬カーネギー、デビュー以来5連勝中のスウェインなどが名を連ねたが、ラムタラは競走当日の単勝オッズで1番人気に支持された。レースでは好スタートから初めて先行策を見せ、ペースメーカーのルソーに次ぐ2番手を進んだ。レースはそのまま推移したが、デットーリはスローペースによって、優れた瞬発力を持つ馬に直線で一気に交わされることを危惧し、全体のペースを上げるため、ロンシャン競馬場特有の「フォルス・ストレート」からスパートを掛けた。最後の直線半ばでは上がってきたフリーダムクライにクビ差まで迫られたが、ラムタラはそこから再度の伸びを見せ、ゴールでは同馬の追走を1馬身振り切って優勝。1971年の優勝馬ミルリーフ以来、史上2頭目(無敗馬としては史上初)の、欧州3大レース(日本のみヨーロッパ三冠と呼ぶ)完全制覇を果たした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "競走後、デットーリは涙を見せながら「この馬はライオンの心臓を持っている。我慢し、全力で走り、戦った。これまでで、僕が知っている最高の馬だ」と語り、記者から「これまで乗った馬、見たことのある馬の中でラムタラがベストの馬か」と問われると、「もし、この馬より強い馬がいるというのなら、ぜひ乗ってみたいものだね。ラムタラは、僕たちが長らく出会ったことのなかった、最高の馬だ」と答えた。表彰式でオーナーのサイード・マクトゥーム・アル・マクトゥームに代わってラムタラの引き手を握ったシェイク・モハメドは「ダービーの日と同じように、今日は最高の気分だ。こんな気持ちになったのは、私のレース経験で初めてのことだ。ラムタラは素晴らしい。私が知る限りではベストの馬だ」と語った。サイード・ビン・スルールは言葉が見つからず何も語らなかったが、彼の代理としてゴドルフィン・レーシングマネージャーのサイモン・クリスフォードは「ラムタラは、我々が勝つために必要だと考えていたことをすべてやってくれた。ダービーの頃は子供っぽくて、小さなスクールボーイのような馬だったのに、今日の彼は完璧なレーシング・マシンだった。彼の課題はレース経験の少なさだった。キングジョージの後、我々はその欠点を克服しようと試み、そして成功した。動きも一段と良くなり、我々は凱旋門賞でいいレースができるという自信を持つことができた」と代弁した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "その後は生国アメリカのブリーダーズカップ・ターフに出走するプランもあったが、レース間隔が短かったために出走を見送り、競走10日後の10月11日、競走生活からの引退と種牡馬入りが発表された。1カ月余り後にはヨーロッパの年度表彰・カルティエ賞の選考結果が発表されたが、ラムタラは最優秀3歳牡馬に選出されたものの、年度代表馬はマイル戦線でGI競走4勝を挙げた牝馬・リッジウッドパールが選出され、論議を呼んだ(後述)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "凱旋門賞の前にアメリカの生産者から1800万ドルで購買の申し入れがあったが、これは成立せず、競走馬引退後はゴドルフィンがイギリスに所有するダルハムホールスタッドに入った。初年度の種付け料は3万ポンドに設定され、凱旋門賞優勝牝馬アーバンシーなどを含む56頭への種付けが行われた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "このシーズン中の5月末、日本の生産者団体ジェイエスより、2000万ドルでの購買が打診される。この申し入れは拒否され、6月にも2500万ドルでの交渉があったが、再度拒否となった。これを受けた6月23日、日本では8名の生産牧場代表を中心として会議が行われ、ラムタラの適正な購買価格、資金の回収方法等の方策などが話し合われた。この結果、3000万ドル(約33億円。当時)を5回払いという条件で3度目の交渉が行われた。返答を待つ間の6月28日には、この交渉がスポーツ新聞に漏れて記事となり、1株2頭の種付け権で40株を予定していたシンジケートに対し、当日のうちに100件を超える問い合わせが寄せられた。そして7月2日、ドバイ側より「3000万ドルを一括払い、モハメド殿下に毎年5頭分の無償種付け権を付与」という条件で売却の意志が伝えられた。この条件で交渉が成立し、7月10日、ダルハムホールスタッドで契約が行われた。この時、スタッド職員は「本当は売りたくない」という意志を示すために、契約書類への記入に際してインクが出ないボールペンを渡したという。ジェイエス代表の矢野秀春によれば、「スタッドの関係者はラムタラを売ることを絶対に嫌がる」という予測から、ジェイエスはスタッドマネージャーを避け、レーシングマネージャー(競走部門責任者)を通じて交渉を行っていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "イギリスにおいてラムタラ売却が報じられると、「日本人が金の力に物を言わせて名馬を買い漁る」という旨の批判的な記事が、雑誌や新聞紙上に相次いで載せられた。また、1980年代のバブル景気の頃より数々の名馬を日本へ手放したアメリカにおいても同様の非難の声が上がり、日本国内でも一部の競馬評論家がイギリスに留めるべきとの批判を行った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "契約直前に決定されていたシンジケートは、2頭の種付け権を付与した1株が1億800万円、総株数41で総額44億2800万円というものであった。日本国内では1990年に社台グループの吉田善哉がアメリカから輸入したサンデーサイレンスに対して組まれたシンジケート額・24億9000万円を遙かに凌ぐ、史上最高額のシンジケートであった。この輸入は競馬サークルのみならず一般の関心も集め、10月4日のラムタラ成田空港到着時には、その戦績と高額のシンジケート紹介とともに、一般ニュースでも報じられた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "当時の日本競馬界においては、国内最大の生産組織・社台グループが所有するサンデーサイレンスの産駒と、日本国外で生産された外国産馬が大きな勢力を占めており、馬を売って生計を立てるマーケットブリーダーが集まる北海道日高地方においては、馬主に対するコマーシャル面で強い訴求力を持つ独自の存在が求められていた。外国産馬に対する出走制限の緩和も急速に進んでいたことから、矢野は「ただ静観していては、未来はない。思い切った策に出るしかなかったんです」と語っている。発起人の生産者8名の間では、ラムタラが3000万ドルに値する名馬であるという見解で一致し、また円高であった当時の経済状況を逃せば、同じクラスの馬は二度と導入できないのではないかとの見通しもあった。俗にあった「サンデーサイレンス・社台に対抗するためではないか」との見方について、矢野は「サンデーは、お金を出せば誰でも付けられますし、事実、静内の生産者の多くがお世話になっています。サンデー憎しという気持ちはありません」と、これを否定した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "白井寿昭は「手の届かないはずの名馬に手が届いた。バブル経済の影響は大きかったと思うね。サンデーサイレンスに対抗するための導入...なんて声もあったけど、その意見に僕は否定的で、かつてのテスコボーイが与えてくれたような夢を、日高の生産者は見ていたんじゃないかな。もっとも、このような熱意は血統の更新に必要なもので、結果は伴わなかったとしても、それは日本の競馬発展につながっていくと思う。」と評している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1999年にヨーロッパにおける初年度産駒がデビュー。この中からはアイリッシュオークス2着、エプソムオークス3着のメリカーが出た。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "日本では日高の生産者を中心に、数々の実績馬・良血馬を含む112頭を初年度の交配相手に揃え、2000年に87頭がデビューした。2002年にミレニアムスズカが阪神ジャンプステークス、メイショウラムセスが富士ステークス、2003・2004年にマルカセンリョウが名古屋大賞典・かきつばた記念と、それぞれ重賞に勝利した。しかしGI戦線で活躍する馬は現れず、以後の世代からもダートグレード競走や地方競馬限定の重賞勝ち馬を散発的に出すに留まった。種牡馬ランキングの最高位は2003年の16位(JBIS集計分)であった。気性難や虚弱体質などの欠点を持つ産駒が多かったとされる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2006年、ラムタラはイギリスに売却されることとなった。売却額は24万ドル(約2750万円、当時)で、購入額3000万ドルの100分の1未満であった。以後は種牡馬を引退してイギリスのダルハムホールスタッドで余生を送り、2014年7月に22歳で死亡した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ランフランコ・デットーリは、ダービー、キングジョージ、凱旋門賞の三競走を全勝することは、「競馬に関わる者が等しく抱く野心」であるとしている。しかし、ラムタラは実際にこれを無敗のまま全勝したにもかかわらず、出走回数がわずか4レースと極めて少なかったこともあり、年度代表馬に選出されなかった。カルティエ賞の結果を報じたタイムズは、「多くの場合は、最高の馬にはカリスマ性がある。しかしときには、そうならないこともあるのだろう。今回のカルティエ賞は、それを知らしめる最高の事例となった」と論評した。", "title": "戦績・競走能力に対する低評価とその背景" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "イギリスの競馬関係者のラムタラに対する評価としては「(ラムタラは)確かに素晴らしく強い。だが、かつての名馬の上に燦然と君臨するほどのものではない」というものが多く、その詳細としては「ラムタラには、名馬の証であるダイナミックな加速能力がない。彼の末脚には、ニジンスキー、サーアイヴァー、そしてダンシングブレーヴに伍するほどの迫力はない」というものがあった。さらにキングジョージに至っては「恵まれて勝利を手にした」と評され、ペンタイアに騎乗したマイケル・ヒルズが早仕掛けしたことでラムタラは後方で力を温存して直線で末脚を伸ばすことができたとされ、もしヒルズがもう100m仕掛けを遅らせていたらペンタイアはラムタラを楽に負かしていたと言われた。", "title": "戦績・競走能力に対する低評価とその背景" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "各競走に対する評価(レイティング)も低いものであった。ダービー優勝に対して与えられたレート・123ポンドは、1969年のブレイクニー以来となる低評価であり、キングジョージ優勝時の124ポンドは、前年優勝のキングスシアターを2ポンド下回る、過去10年間で最も低い評価だった。凱旋門賞を経ての最終的な評価はヨーロッパ調教馬で最高の130ポンドであったが、これも前年のバランシーン(牝馬)と共に10年間での最低評価であり、アメリカの年度代表馬・シガーを2ポンド下回っていた。イギリス競馬委員会 (BHB) は、「ラムタラの勝った3つのレースにはトップクラスの馬が出走しておらず、したがって着差を考えると、ラムタラを最高にランクすることはできない」とした。着差という点について、デットーリは「みんな本当に心が狭い。凱旋門賞でも、1着と2着との間の着差しか見ていない。でも全体を見て欲しいよね。1着から最後尾までの着差は80馬身もあったのだ。(中略)ランド、ストラテジックチョイス、カーネギー、バランシーン、みんなずっと後方だったんだ! ラムタラがいかに偉大であるかは、それがはっきり示している」と反論している。またデットーリはラムタラのレーススタイルについて、「着差を付けないで勝つ。それがラムタラさ。彼は競馬を楽しんでいるし、着差を付けないで勝つことが好きなんだ。弱い相手でも、やっぱり差を付けないで勝つだろう。挑戦することが好きだし、格闘することが好きなんだ。変わった奴だよ」とも評している。", "title": "戦績・競走能力に対する低評価とその背景" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "低評価の背景には、イギリス競馬界で急速に勢力を拡大するマクトゥーム一族への反感が作用したとの見方もある。ローラ・トンプソンは、ラムタラが年度代表馬を逃した背景にはマクトゥーム一族への嫉妬があるとし、イギリスの競馬関係者にとって、マクトゥーム一族が「石油の海に浮かび、次々と成功を収めていく外国人、何を考えているか分からない、気むずかしき外国人」であったのに対し、リッジウッドパールを所有するコフラン夫妻が「『普通』の人たち」「好感の持てるアイルランド人」であったことが影響を及ぼしたと論じている。さらに、日本人騎手に伴っての渡欧経験が豊富な日刊スポーツ記者の松田隆は、「リッジウッドパールがロンドンのダブルデッカー(2階建てバス)なら、ラムタラは米国で造られた日本車ぐらいの違いがある」とし、イギリス人がアメリカ人ほど他人種に寛容ではないとした上で「そんな事情がどこまで影響したかわからないが、まったく無関係である、と断言できないのが悲しい」と述べている。また、『サラブレッド・ビジネス - ラムタラと日本競馬』の著者・江面弘也は、「オイルマネーを後ろ盾にしてヨーロッパの大レースを勝ちまくるマクトゥーム一族を目の当たりにしたとき、イギリス貴族にはかつてペルシャ湾で猛威を振るった『海賊』を見るような思いがしたかも知れない。そう考えれば『ドバイの馬』に対するイギリス競馬界の冷ややかな態度も少しは納得できる」と述べている。", "title": "戦績・競走能力に対する低評価とその背景" } ]
ラムタラは、アメリカ合衆国で生産され、イギリスとアラブ首長国連邦ドバイで調教された競走馬。イギリスと日本で種牡馬として供用された。
{{otheruses|競走馬|その他|ラムタラ (曖昧さ回避)}} {{競走馬 | 画 = [[File:Lammtarra.jpg|240px]] | 説 = 2002年、[[アロースタッド]] | 名 = ラムタラ | 性 = [[牡馬|牡]] | 色 = [[栗毛]] | 英 = {{lang|en|Lammtarra}} | 種 = [[サラブレッド]] | 生 = [[1992年]][[2月2日]] | 死 = [[2014年]][[7月6日]](22歳没) | 父 = [[ニジンスキー (競走馬)|Nijinsky]] | 母 = Snow Bride | 母父 = [[ブラッシンググルーム|Blushing Groom]] | 産 = Gainsborough Farm Inc | 国 = {{USA}} | 主 = Saeed Maktoum Al Maktoum | 調 = Alex Scott([[イギリス]])<br />→[[サイード・ビン・スルール|Saeed bin Suroor]] ([[アラブ首長国連邦|UAE]]) | 績 = 4戦4勝 | 金 = 79万2033[[スターリング・ポンド|ポンド]]<br />400万[[フラン_(通貨)|フラン]] | medaltemplates = {{MedalG1|[[ダービーステークス]]|1995年}} {{MedalG1|[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス|KGVI & QES]]|1995年}} {{MedalG1|[[凱旋門賞]]|1995年}} | 鞍 = | 冠 = [[カルティエ賞]]最優秀3歳牡馬(1995年) }} '''ラムタラ'''(''{{lang|en|Lammtarra}}'', [[1992年]][[2月2日]] - [[2014年]][[7月6日]])は、[[アメリカ合衆国]]で生産され、[[イギリス]]と[[アラブ首長国連邦]][[ドバイ]]で調教された[[競走馬]]。イギリスと[[日本]]で[[種牡馬]]として供用された。 == 概要 == 1994年にデビュー。初戦を勝利したのち、翌1995年春に長期休養明けでイギリスの[[クラシック (競馬)|クラシック競走]]・[[ダービーステークス]]に優勝。その後夏から秋にかけて、古馬(4歳以上馬)を交えたイギリスの最高格競走・[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス|キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス]](以下、「キングジョージ」と記述)と、同様の[[フランス]]の競走・[[凱旋門賞]]を無敗のまま制覇し、1971年の[[ミルリーフ]]以来、史上2頭目のヨーロッパ三大競走完全制覇を達成した。通算成績は4戦4勝。 競走馬引退後はイギリスで種牡馬入りしたが、1996年に日本の生産者団体が3000万ドルで購入し、日本へ導入されたことで、競馬を離れた一般の耳目も集めた。しかし期待された産駒成績は挙がらず、2006年に24万ドルでイギリスへ買い戻され、以後は同地で余生を送った。 === 馬名 === 文語である現代標準[[アラビア語]]が由来。لم تر(lam tara、主語は省略されているが目であることが示唆される「それは見なかった」)という語形で「目で見えなかった」という意味になるが、つづり間違いのلم ترى(lam tarā)<ref>{{Cite web|url=https://www.alroeya.com/32-15/144213-%C2%AB%D9%84%D9%85-%D8%AA%D8%B1%D9%8A%C2%BB-%D8%A3%D8%B3%D8%B7%D9%88%D8%B1%D8%A9-%D8%A7%D9%84%D8%AE%D9%8A%D9%88%D9%84-%D8%A7%D9%84%D9%85%D9%87%D8%AC%D9%86%D8%A9|title=«لم تري» .. أسطورة الخيول المهجنة|accessdate=2021-06-04}}</ref>やさらにはلمطارة(lamṭārah)も見られ揺れがある。 外国語訳自体は定まっておらず英語では「invisible(目に見えないもの)<ref>{{Cite web |url=http://www.independent.co.uk/sport/lammtarra-joins-legends-1585844.html |title=Lammtarra joins legends |author=Sue Montgomery |publisher=[[インデペンデント|The Independent]] |accessdate=2011年3月26日 |date=1995-6-11}}</ref>」という説明が多い。日本語では「決して見ることがない<ref name="lammtarra11">江面(2000)p.25</ref>」、「神の見えざる力<ref>『季刊名馬』p.7</ref>」といった訳がある。また、石川ワタルは「無敵 (invincible) 」という意味であると紹介している<ref name="lammtarra">『優駿』1995年8月号、p.115</ref>。管理調教師の殺害や、自身の生命の危機の克服、その戦績と馬名との連想などから、日本においては「奇跡の名馬」または「神の馬」とも紹介された。 == 生涯 == === 誕生からデビューまで === 1992年、[[アラブ首長国連邦]][[ドバイ]]の首長[[ムハンマド・ビン=ラーシド・アール=マクトゥーム|モハメド・ビン=ラーシド・アル・マクトゥーム]](ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム)がアメリカ合衆国[[ケンタッキー州]]に所有するゲインズバラファームに生まれる。父は1970年のイギリス[[三冠馬]]であり、種牡馬としても数々の活躍馬を輩出していた[[ニジンスキー (競走馬)|ニジンスキー]]、母は1989年の[[オークス]]を2位入線からの繰り上がりで優勝したスノーブライド。ニジンスキーはラムタラ誕生の2か月後に死亡したため、その最終世代の産駒となった<ref>江面(2000)p.22</ref>。 翌1993年7月、マクトゥーム一族所有馬の専属調教師の一人であったアレックス・スコットに見初められ、同年冬には[[イギリス]]・[[ニューマーケット (サフォーク州)|ニューマーケット]]のオークハウス厩舎に移動した<ref>『書斎の競馬(3)』p.232</ref>。その後モハメドの甥サーイド・マクトゥームの所有馬となったが、サーイドは18歳の学生であったため、実質的な所有はモハメドが創設した競走馬管理組織[[ゴドルフィン|ゴドルフィン・レーシング]]が行った<ref name="lammtarra11" />。スコットのアシスタントを務めていたデイヴィッド・フィップスによれば、入厩当初のラムタラは穏和で、優れた馬ではあったが、凱旋門賞などの大競走を制すると予感させるほどではなかった<ref>『書斎の競馬(3)』p.233</ref>。しかしスコットはその素質の高さを確信し、本格的な調教が始まった頃には妻ジュリアに対し「ダービー馬になる」と予告していた<ref>『書斎の競馬(3)』p.234</ref>。 === 戦績 === 初戦は1994年8月、鞍上にスコットの友人でもある[[ウォルター・スウィンバーン]]を配し、[[リステッド競走]]のワシントンシンガーステークスで迎えた。スタートから行き脚が鈍く最後方からのレース運びとなり、最後の直線でも伸びを見せなかった。しかしスウィンバーンが鞭を入れると鋭い反応を見せ、先頭を行く牝馬マイフェアを3/4馬身差し切って初勝利を挙げた。スウィンバーンは「若駒に鞭は使いたくなかったが、仕方なかった。このままでは困ったことになると思ったのです」と回顧している<ref>『書斎の競馬(3)』pp.236-237</ref>。この勝利の直後、スコットは[[ブックメーカー]]に赴き、ダービーに向けたラムタラの前売り単勝馬券を1000ポンド購入した<ref>江面(2000)p.26</ref>。 競走後も日ごとに動きが良化し、厩舎内でも特に優れた馬と見られ始めた<ref>『書斎の競馬(4)』p.222</ref>。その後は秋に向けて調整が行われていたが、調教中に[[捻挫]]を起こし、以降のシーズンの出走を見送った<ref>『書斎の競馬(4)』p.223</ref>。この後、冬場の調教に備え、ラムタラは温暖なドバイの[[サイード・ビン・スルール]]厩舎へ送られた。春には戻ってくるという約束があったが、ジュリアによればスコットはラムタラを連れて行かれたことに不満を感じていたという<ref name="lammtarra2">『書斎の競馬(4)』pp.228-230</ref>。 9月30日、ゴドルフィンのスタッフがスコットの厩舎を訪れ、ラムタラと、もう1頭ドバイに送られていたタマヤズが戻ってくるとスコットに伝えた。スコットはこれを大いに喜び、アシスタントのフィップスに対し「すごいぞ、両方とも戻ってくるぞ」と伝えた。その後、厩舎の庭師を伴い、かねてスコットと諍いが絶えなかった[[厩務員]]、ウィリアム・オブライエンへの解雇通告に向かった。そしてフィップスとの会話から約1時間後の午後6時10分、スコットは逆上したオブライエンに物置内で銃撃され死亡した<ref name="lammtarra2" />。38歳であった。 調教師を失ったラムタラは、そのままサイード・ビン・スルールの管理下へ移った。10月18日にはスコットの追悼式が行われ、挨拶に立ったスウィンバーンは「私たちに現在できることは、ラムタラがダービーに勝ってくれるように、願うことしかないのです」と語った<ref>『書斎の競馬(4)』p.233</ref>。 翌[[1995年]]3月、ラムタラは突如として肺の感染症を患い、一時は生命を危ぶまれる重篤な状態に陥った。しかし当時最新の獣医療技術を集積したドバイ馬事病院に入院し、一命を取り留める。ゴドルフィンのスタッフはラムタラの戦線復帰をシーズン後半と見込んでいたが、モハメドはダービー出走を計画し、回復から間もなくして調教が再開された<ref>『書斎の競馬(5)』pp.215-217</ref>。クラシック初戦・[[2000ギニー]]が行われた頃にイギリスに戻り、サイード・ビン・スルールがニューマーケットに置く厩舎に入った<ref>『書斎の競馬(5)』pp.225</ref>。以後調教が進められ、3歳の初戦として直接ダービーへの出走が決まった。ラムタラの調教パートナーも務めた[[ヴェットーリ]]{{Efn|同年の[[プール・デッセ・デ・プーラン]](フランス2000ギニー)優勝馬。}}に騎乗した[[ランフランコ・デットーリ]]は、その時のラムタラの走りからダービー勝利の見込みは薄いと感じたといい、デビュー以来キャリアがない点や、肺病で調教も不順だったことから、「ラムタラのダービー出走が決定された時には、みな本当に気が狂った、としか思えなかった」と語っている<ref name="lammtarra3">デットーリ(1998)p.75-79</ref>。なお、デットーリはゴドルフィン所有馬のタムレに騎乗してダービーに臨んだ。 ==== ダービー ==== ダービー当日は前走の2000ギニーまで無敗の6連勝中であった[[ペニカンプ]]が15頭立ての1番人気に支持され、ラムタラは6番人気の評価であった。競走前、スウィンバーンは道中で「3番手か4番手」を進むよう指示を受けていたが、ラムタラはスタートから行き脚が付かず、後方からのレース運びとなった<ref name="lammtarra4">『書斎の競馬(7)』pp.215-220</ref>。最終コーナーから最後の直線に入ると、並走する馬や失速してきた先行馬に包まれる形となり、一時進路を失った<ref name="lammtarra4" />。しかし残り2ハロン(約400m)から馬場の中央に持ち出すと、先行勢を急追し、先頭を走るタムレから6馬身半の差をゴール前で逆転、同馬に1馬身差を付けて優勝した<ref name="lammtarra3" />。走破タイム2分32秒31は、1934年に[[マームード]]が記録したタイムを一挙に1秒半短縮するダービーレコードであり、20年前に[[バスティノ]]が記録したコースレコードも1秒短縮するものだった<ref name="lammtarra" />。過去1戦のキャリアでダービーを勝ったのは[[ボワルセル]](1938年)、[[モーストン]](1973年)に続く3頭目、[[19世紀]]に存在したダービーが初出走という馬を除いては、2歳時からの休み明けで勝ったのはラムタラが史上初めての例となった<ref name="lammtarra" />。 競走後のインタビューで、スウィンバーンは次のように語った。 {{Quotation|丘を下りながら{{Efn|エプソム競馬場の第3コーナーから「タッテナムコーナー」と呼ばれる最終コーナーまでは急勾配の下り坂となっている。}}私は、神よ、アレックスよ、我に奇跡を! と言ったのです。すると[[モーゼ]]を前にした[[紅海]]のように、前が開いたのでした。私は、アレックスが天上から助けてくれていることを知りました。かねてから私は神を信じていました。しかし今は、本当に信じているのです<ref name="lammtarra4" />。|}} また、ダービー出走の判断とドバイ経由の調教の正しさを証明する形となったモハメドは、「この馬をここに連れてきて勝ったことは、自分の服色の馬が4回ダービーに勝つよりも大きな喜びを与えてくれました」と述べ、また「もしアレックス・スコットがここにいたならば、はるかに幸せだったでしょう」とも語った<ref name="lammtarra4" />。スコットが生前に買っていたラムタラの単勝馬券1000ポンドは、規則では購入者死亡のため無効となるものであったが、購入を受け付けた[[ブックメーカー]]のラドブロークス社は特例として有効と認め、ジュリア・スコットに3万4000ポンドの配当金が支払われた<ref name="lammtarra" />。なお、名義上のみではあるものの、馬主のサイードはこの勝利で史上最年少のダービーオーナーとなっている。 ==== キングジョージ ==== 次走は[[アイリッシュダービー]]に登録。ここまで6戦5勝、全欧の3歳馬で最高レートの130ポンドの[[レイティング#競馬|レイティング]]を与えられていた [[ジョッケクルブ賞]](フランスダービー)優勝馬・[[セルティックスウィング]]との対戦が注目を集めたが、競走直前に右後脚を捻挫して出走を回避<ref>『優駿』1995年9月号、pp.115-116</ref>{{Efn|セルティックスウィングはこの競走で8着。靱帯を傷め、競走馬を引退した。}}。代わって20日後の[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス|キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス]]に登録した。競走の3日前、ラムタラの騎手がランフランコ・デットーリに代わることが発表され、イギリス国内で大きな反響を呼んだ。ラムタラの伝記を執筆したローラ・トンプソンは、当時の状況を次のように伝えている。 {{Quotation|ニュースは、驚きとともに、一部は反感を込めて、競馬の世界を駆けめぐった。スインバーン<small>''(ママ)''</small>はダービーで非常に素晴らしい騎乗を見せたし、ニューマーケットでも良い動きで追い切っていたので、この乗り替わりはどうにも理解できなかった。デットーリは素晴らしい騎手だが、スインバーンの方が腕が良いと思われていたし、たとえ一方のほうが優れていると言ったところで、それは個人的な見解にすぎなかった<ref name="lammtarra6">『書斎の競馬(10)』pp.156-157</ref>。|}} [[ファイル:Frankie Dettori.jpg|ランフランコ・デットーリ|thumb|150px]] モハメドは「騎手を選ぶ決定権は馬主にある」と語り<ref name="lammtarra5">『優駿』1995年9月号、pp.114-115</ref>、ゴドルフィンのレーシングマネージャー、サイモン・クリスフォードは「フランキー(デットーリ)は厩舎の騎手なので、乗ってもらうことにしました」と語ったのみであった<ref name="lammtarra6" />。スウィンバーンはこの件について一切の不満を漏らさず、「それでいいと思います。これからはデットーリで勝ち続けて欲しいし、心から応援したい」と語った<ref>『競馬感涙読本』p.64</ref>。デットーリは後に自著において、「ラムタラに騎乗できるだけでも嬉しかった僕は、騎乗依頼を即座に受けたものの、もし負けでもしたら、ウォルターだったら勝てたのに、と言われるだろうとも考えた」と、当時の心境を回想している<ref name="lammtarra3" />。 当日は7頭立てで、ラムタラは1番人気に支持された。スタートが切られるとラムタラは2番人気の[[ペンタイア]]と並んで最後方を進んだ<ref name="lammtarra7">『書斎の競馬(10)』pp.161-163</ref>。デットーリは残り4ハロン(約800m)付近からスピードを上げようとしたが、ラムタラはデットーリが意図したほど合図に応えず、ペンタイアが先に先団へ上がっていった<ref name="lammtarra7" />。最終コーナーでは内側を走っていたエンヴァイロメントフレンドと接触して外に弾かれたが、この瞬間からラムタラはスパートを掛け、ペンタイアと並んで最後の直線に入った。直線では[[ペンタイア]]、[[ストラテジックチョイス]]と激しく競り合った末、ゴール前で首差抜け出してこれを制した<ref name="lammtarra7" />。ダービーとキングジョージを無敗のまま連勝した馬は、父ニジンスキー(1970年)、[[ナシュワン]](1989年)以来、史上3頭目であった。デットーリはペンタイアとの競り合いを[[ボクシング]]に喩え、「パンチを受けてもノックアウトでやり返すラムタラは、真のプロボクサーだ」と称えている<ref name="lammtarra3" />。 ==== 凱旋門賞 - 引退 ==== その後しばらく出走することはなく、10月に[[フランス]]の最高格競走とされる[[凱旋門賞]]に直接出走した。デットーリは、自身が騎乗して前哨戦の[[フォワ賞]]で2着となっていた[[バランシーン]]{{Efn|前年の[[オークス]]と[[アイリッシュダービー]]の優勝馬。}}(ゴドルフィン所有)とラムタラのどちらに騎乗するかを迷っていたが、モハメドに相談した際に「ラムタラを手放すな」と助言され、ラムタラを選択した<ref>『書斎の競馬(11)』p.196</ref>。バランシーンの鞍上には、デットーリに代わってスウィンバーンが据えられた。 戦前のモーニングライン(予想オッズ)で1番人気となったのは日本の[[吉田照哉]]が所有する[[カーリング (競走馬)|カーリング]]で<ref>『Sports Graphic Number』378号、p.64</ref>、他にもフォワ賞を制した前年度優勝馬[[カーネギー (競走馬)|カーネギー]]、デビュー以来5連勝中の[[スウェイン]]などが名を連ねたが、ラムタラは競走当日の単勝オッズで1番人気に支持された。レースでは好スタートから初めて先行策を見せ、ペースメーカーのルソーに次ぐ2番手を進んだ。レースはそのまま推移したが、デットーリはスローペースによって、優れた瞬発力を持つ馬に直線で一気に交わされることを危惧し、全体のペースを上げるため、[[パリロンシャン競馬場|ロンシャン競馬場]]特有の「フォルス・ストレート{{Efn|最後の直線手前にある非常に緩やかなカーブ。騎乗者が直線と誤認しやすいため、「False straight(偽の直線)」と呼ばれる。}}」からスパートを掛けた<ref name="lammtarra8">『書斎の競馬(12)』pp.197-198</ref>。最後の直線半ばでは上がってきたフリーダムクライにクビ差まで迫られたが<ref name="lammtarra8" />、ラムタラはそこから再度の伸びを見せ、ゴールでは同馬の追走を1馬身振り切って優勝。1971年の優勝馬[[ミルリーフ]]以来、史上2頭目(無敗馬としては史上初)の、欧州3大レース(日本のみ[[三冠 (競馬)#イギリス・フランス|ヨーロッパ三冠]]と呼ぶ)完全制覇を果たした。 競走後、デットーリは涙を見せながら「この馬は[[ライオン]]の心臓を持っている。我慢し、全力で走り、戦った。これまでで、僕が知っている最高の馬だ」と語り<ref>『書斎の競馬(12)』p.199</ref>、記者から「これまで乗った馬、見たことのある馬の中でラムタラがベストの馬か」と問われると、「もし、この馬より強い馬がいるというのなら、ぜひ乗ってみたいものだね。ラムタラは、僕たちが長らく出会ったことのなかった、最高の馬だ」と答えた<ref name="number-66">『Sports Graphic Number』378号、p.66</ref>。表彰式でオーナーのサイード・マクトゥーム・アル・マクトゥームに代わってラムタラの引き手を握ったシェイク・モハメドは「ダービーの日と同じように、今日は最高の気分だ。こんな気持ちになったのは、私のレース経験で初めてのことだ。ラムタラは素晴らしい。私が知る限りではベストの馬だ」と語った<ref name="number-66"/>。サイード・ビン・スルールは言葉が見つからず何も語らなかったが、彼の代理としてゴドルフィン・レーシングマネージャーのサイモン・クリスフォードは「ラムタラは、我々が勝つために必要だと考えていたことをすべてやってくれた。ダービーの頃は子供っぽくて、小さなスクールボーイのような馬だったのに、今日の彼は完璧なレーシング・マシンだった。彼の課題はレース経験の少なさだった。キングジョージの後、我々はその欠点を克服しようと試み、そして成功した。動きも一段と良くなり、我々は凱旋門賞でいいレースができるという自信を持つことができた」と代弁した<ref name="number-66"/>。 その後は生国アメリカの[[ブリーダーズカップ・ターフ]]に出走するプランもあったが、レース間隔が短かったために出走を見送り、競走10日後の10月11日、競走生活からの引退と種牡馬入りが発表された<ref>江面(2000)p.41</ref>。1カ月余り後にはヨーロッパの年度表彰・[[カルティエ賞]]の選考結果が発表されたが、ラムタラは最優秀3歳牡馬に選出されたものの、年度代表馬は[[マイル]]戦線でGI競走4勝を挙げた[[牝馬]]・[[リッジウッドパール]]が選出され、論議を呼んだ(後述)。 === 種牡馬時代 === ==== 日本への輸出 ==== 凱旋門賞の前にアメリカの生産者から1800万ドルで購買の申し入れがあったが、これは成立せず、競走馬引退後は[[ゴドルフィン]]がイギリスに所有する[[ダルハムホールスタッド]]に入った。初年度の種付け料は3万ポンドに設定され、凱旋門賞優勝牝馬[[アーバンシー]]などを含む56頭への種付けが行われた。 このシーズン中の5月末、日本の生産者団体[[ジェイエス]]より、2000万ドルでの購買が打診される。この申し入れは拒否され、6月にも2500万ドルでの交渉があったが、再度拒否となった<ref>江面(2000)pp.114-116</ref>。これを受けた6月23日、日本では8名の生産牧場代表を中心として会議が行われ、ラムタラの適正な購買価格、資金の回収方法等の方策などが話し合われた。この結果、3000万ドル(約33億円。当時)を5回払いという条件で3度目の交渉が行われた<ref>江面(2000)pp.116-121</ref>。返答を待つ間の6月28日には、この交渉がスポーツ新聞に漏れて記事となり、1株2頭の種付け権で40株を予定していた[[種牡馬#シンジケート|シンジケート]]に対し、当日のうちに100件を超える問い合わせが寄せられた<ref>江面(2000)pp.121-123</ref>。そして7月2日、ドバイ側より「3000万ドルを一括払い、モハメド殿下に毎年5頭分の無償種付け権を付与」という条件で売却の意志が伝えられた<ref>江面(2000)pp.123-124</ref>。この条件で交渉が成立し、7月10日、ダルハムホールスタッドで契約が行われた。この時、スタッド職員は「本当は売りたくない」という意志を示すために、契約書類への記入に際してインクが出ないボールペンを渡したという<ref>江面(2000)pp.131-132</ref>。ジェイエス代表の矢野秀春によれば、「スタッドの関係者はラムタラを売ることを絶対に嫌がる」という予測から、ジェイエスはスタッドマネージャーを避け、レーシングマネージャー(競走部門責任者)を通じて交渉を行っていたという<ref name="lammtarra10">『季刊名馬』pp.8-9</ref>。 イギリスにおいてラムタラ売却が報じられると、「日本人が金の力に物を言わせて名馬を買い漁る」という旨の批判的な記事が、雑誌や新聞紙上に相次いで載せられた。また、1980年代の[[バブル景気]]の頃より数々の名馬を日本へ手放したアメリカにおいても同様の非難の声が上がり、日本国内でも一部の[[競馬評論家]]がイギリスに留めるべきとの批判を行った<ref>江面(2000)pp.133-135</ref>。 契約直前に決定されていたシンジケートは、2頭の種付け権を付与した1株が1億800万円、総株数41で総額44億2800万円というものであった<ref>江面(2000)p.131</ref>。日本国内では1990年に[[社台グループ]]の[[吉田善哉]]がアメリカから輸入した[[サンデーサイレンス]]に対して組まれたシンジケート額・24億9000万円を遙かに凌ぐ、史上最高額のシンジケートであった。この輸入は競馬サークルのみならず一般の関心も集め、10月4日のラムタラ成田空港到着時には、その戦績と高額のシンジケート紹介とともに、一般ニュースでも報じられた。 ==== ラムタラ導入の意図 ==== 当時の日本競馬界においては、国内最大の生産組織・社台グループが所有するサンデーサイレンスの産駒と、日本国外で生産された[[外国産馬]]が大きな勢力を占めており、馬を売って生計を立てる[[マーケットブリーダー]]が集まる[[北海道]][[日高振興局|日高地方]]においては、馬主に対するコマーシャル面で強い訴求力を持つ独自の存在が求められていた<ref>江面(2000)pp.169-170</ref>。外国産馬に対する出走制限の緩和も急速に進んでいたことから、矢野は「ただ静観していては、未来はない。思い切った策に出るしかなかったんです」と語っている<ref name="lammtarra10" />。発起人の生産者8名の間では、ラムタラが3000万ドルに値する名馬であるという見解で一致し、また[[円高]]であった当時の経済状況を逃せば、同じクラスの馬は二度と導入できないのではないかとの見通しもあった<ref>江面(2000)p.118</ref>。俗にあった「サンデーサイレンス・社台に対抗するためではないか」との見方について、矢野は「サンデーは、お金を出せば誰でも付けられますし、事実、静内の生産者の多くがお世話になっています。サンデー憎しという気持ちはありません」と、これを否定した<ref name="lammtarra10" />。 [[白井寿昭]]は「手の届かないはずの名馬に手が届いた。バブル経済の影響は大きかったと思うね。サンデーサイレンスに対抗するための導入…なんて声もあったけど、その意見に僕は否定的で、かつてのテスコボーイが与えてくれたような夢を、日高の生産者は見ていたんじゃないかな。もっとも、このような熱意は血統の更新に必要なもので、結果は伴わなかったとしても、それは日本の競馬発展につながっていくと思う。」と評している。<ref>白井元調教師と学ぶ血統学【20】「種牡馬ラムタラ」に足りなかったもの https://tospo-keiba.jp/onkochishin/8406 2023年1月8日閲覧。</ref> ==== 種牡馬成績 ==== [[1999年]]にヨーロッパにおける初年度産駒がデビュー。この中からは[[アイリッシュオークス]]2着、[[エプソムオークス]]3着のメリカーが出た<!--出典のない現状では若干主観的との指摘を受けましたので、ひとまずコメントアウトします。/が、総合的には目立たない成績であり、また日本へ輸出された産駒にも特筆すべき馬は出なかった。-->。 日本では日高の生産者を中心に、数々の実績馬・良血馬を含む112頭を初年度の交配相手に揃え、2000年に87頭がデビューした。2002年にミレニアムスズカが[[阪神ジャンプステークス]]、メイショウラムセスが[[富士ステークス]]、2003・2004年に[[マルカセンリョウ]]が[[名古屋大賞典]]・[[かきつばた記念]]と、それぞれ重賞に勝利した。しかしGI戦線で活躍する馬は現れず、以後の世代からも[[ダートグレード競走]]や[[地方競馬]]限定の重賞勝ち馬を散発的に出すに留まった。種牡馬ランキングの最高位は2003年の16位(JBIS集計分)であった<ref>[http://www.jbis.or.jp/horse/0000362599/sire/record/ ラムタラ 種牡馬成績]/</ref>。気性難や虚弱体質などの欠点を持つ産駒が多かったとされる<ref name="北海道新聞20060704">『[[北海道新聞]]』2006年7月4日朝刊33面「ラムタラ売却 &yen;3,300,000,000→&yen;27,500,000 産駒不振 価値100分の1 日高のグループ、英生産者に」</ref><ref name="朝日新聞20060705">『[[朝日新聞]]』東京朝刊2006年7月5日34面 吉⽥純哉「33億円種牡⾺、100分の1に暴落 世界的名⾺ラムタラ、⼦どもの成績振るわず…」</ref>。 2006年、ラムタラはイギリスに売却されることとなった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.netkeiba.com/news/?pid=news_view&no=14499&category=D |title=ラムタラ、英国へ売却 |author= |publisher=netkeiba.com |accessdate=2011年3月26日 |date=2006-7-3}}</ref><ref name="北海道新聞20060704" /><ref name="朝日新聞20060705" />。売却額は24万ドル(約2750万円、当時)で、購入額3000万ドルの100分の1未満であった<ref name="北海道新聞20060704" /><ref name="朝日新聞20060705" />。以後は種牡馬を引退してイギリスのダルハムホールスタッドで余生を送り、2014年7月に22歳で死亡した<ref>『[[日刊スポーツ]]』東京日刊2014年7月9日「「神の馬」ラムタラ死す」</ref>。 == 競走成績 == {|class="wikitable" style="text-align:center; font-size: smaller;" !出走日!!競馬場!!競走名!!格!!距離!!着順!!騎手!!タイム!!着差!!1着(2着)馬 |- |1994年8月12日||ニューベリー||ワシントンシンガーS||L||芝7[[ハロン (単位)|f]] |{{color|darkred|1着}}||[[ウォルター・スウィンバーン|W.スウィンバーン]]||{{0}}1:28.26||3/4馬身|| (Myself) |- |1995年6月10日||[[エプソム競馬場|エプソム]]||[[ダービーステークス|ダービー]]||G1||芝12f10[[ヤード|y]] |{{color|darkred|1着}}||W.スウィンバーン||{{color|darkred|R2:32.31}}||1馬身|| (Tamure) |- |1995年7月22日||[[アスコット競馬場|アスコット]]||[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス|KGVI&QES]]||G1||芝12f |{{color|darkred|1着}}||[[ランフランコ・デットーリ|L.デットーリ]]||{{0}}2:31.01||クビ|| ([[ペンタイア|Pentire]]) |- |1995年10月1日||[[パリロンシャン競馬場|ロンシャン]]||[[凱旋門賞]]||G1||芝2400m |{{color|darkred|1着}}||L.デットーリ||2.31.8||1馬身|| (Freedom Cry) |} == 主な産駒 == * ローズクォーツ(1997年産 仏ダービー馬ブラムトの父ラジサマンの母) * メリカー (Melikah) (1997年産 [[アイリッシュオークス]]2着 母は凱旋門賞馬[[アーバンシー]]) * メイショウラムセス(1998年産 [[富士ステークス]]) * マルカセンリョウ(1998年産 [[名古屋大賞典]]、[[かきつばた記念]]) * ミレニアムスズカ(1998年産 [[阪神ジャンプステークス]]) * ロイヤルエンデバー(1998年産 [[埼玉新聞栄冠賞|埼玉新聞杯]]、[[テレビ埼玉杯]]) * シメオン (Simeon) (1999年産 クラシックトライアル) * ベルモントノーヴァ(2001年産 [[しらさぎ賞]]、[[トゥインクルレディー賞]]、[[東京シンデレラマイル]]) * タニノウィンザー(2004年産 [[肥後の国グランプリ]]3連覇、[[大阿蘇大賞典]]連覇、[[九州記念]]連覇) * [[マサノミネルバ]](2005年産 [[エーデルワイス賞]]) === ブルードメアサイアーとしての主な産駒 === * トーワヒヨシマル(2005年産 [[阪神スプリングジャンプ]] 父[[マンハッタンカフェ]]、母シェアエレガンス) * [[イナズマアマリリス]](2006年産 [[ファンタジーステークス]] 父[[スエヒロコマンダー]]、母イナズマラム) * [[ヒルノダムール]](2007年産 '''[[天皇賞(春)]]'''、[[大阪杯]] 父マンハッタンカフェ、母シェアエレガンス) * メイレディ(2009年産 [[兵庫ダービー]]、[[兵庫若駒賞]]、[[ル・プランタン賞]] 父[[ジェニュイン]]、母ゴッドエンジェル) * ビービーコモン(2010年産 [[王冠賞]]、[[ステイヤーズカップ]] 父[[バブルガムフェロー]]、母イシノエディーナ) * トラバージョ(2010年産 [[戸塚記念]]、[[黒潮盃]] 父[[ワイルドラッシュ]]、母ゴールデンアリー) *コンサートドーレ(2014年産 [[早池峰スーパースプリント]] 父[[サウスヴィグラス]]、母スズカララバイ) *キヨラ(2018年産 [[オパールカップ]] 父[[エピファネイア]]、母テンイムホウ) *トワイライトウェイ(2021年産 [[ジュニアグランプリ (岩手競馬)|ジュニアグランプリ]] 父[[ジャスタウェイ]]) == 戦績・競走能力に対する低評価とその背景 == ランフランコ・デットーリは、ダービー、キングジョージ、凱旋門賞の三競走を全勝することは、「競馬に関わる者が等しく抱く野心」であるとしている<ref name="lammtarra3" />。しかし、ラムタラは実際にこれを無敗のまま全勝したにもかかわらず、出走回数がわずか4レースと極めて少なかったこともあり、年度代表馬に選出されなかった。カルティエ賞の結果を報じた[[タイムズ]]は、「多くの場合は、最高の馬にはカリスマ性がある。しかしときには、そうならないこともあるのだろう。今回のカルティエ賞は、それを知らしめる最高の事例となった」と論評した<ref name="lammtarra9">『書斎の競馬(13)』p.159</ref>。 イギリスの競馬関係者のラムタラに対する評価としては「(ラムタラは)確かに素晴らしく強い。だが、かつての名馬の上に燦然と君臨するほどのものではない」というものが多く、その詳細としては「ラムタラには、名馬の証であるダイナミックな加速能力がない。彼の末脚には、ニジンスキー、[[サーアイヴァー]]、そして[[ダンシングブレーヴ]]に伍するほどの迫力はない」というものがあった<ref name="number378-67">『Sports Graphic Number』378号、p.67</ref>。さらにキングジョージに至っては「恵まれて勝利を手にした」と評され、ペンタイアに騎乗したマイケル・ヒルズが早仕掛けしたことでラムタラは後方で力を温存して直線で末脚を伸ばすことができたとされ、もしヒルズがもう100m仕掛けを遅らせていたらペンタイアはラムタラを楽に負かしていたと言われた<ref name="number378-67"/>。 各競走に対する評価([[レイティング#競馬|レイティング]])も低いものであった。ダービー優勝に対して与えられたレート・123ポンドは、1969年の[[ブレイクニー]]以来となる低評価であり、キングジョージ優勝時の124ポンドは、前年優勝の[[キングスシアター]]を2ポンド下回る、過去10年間で最も低い評価だった。凱旋門賞を経ての最終的な評価はヨーロッパ調教馬で最高の130ポンドであったが、これも前年の[[バランシーン]](牝馬)と共に10年間での最低評価であり、アメリカの年度代表馬・[[シガー (競走馬)|シガー]]を2ポンド下回っていた。イギリス競馬委員会 (BHB) は、「ラムタラの勝った3つのレースにはトップクラスの馬が出走しておらず、したがって着差を考えると、ラムタラを最高にランクすることはできない」とした<ref name="lammtarra9" />。着差という点について、デットーリは「みんな本当に心が狭い。凱旋門賞でも、1着と2着との間の着差しか見ていない。でも全体を見て欲しいよね。1着から最後尾までの着差は80馬身もあったのだ。(中略)[[ランド (ドイツの競走馬)|ランド]]、ストラテジックチョイス、[[カーネギー (競走馬)|カーネギー]]、バランシーン、みんなずっと後方だったんだ! ラムタラがいかに偉大であるかは、それがはっきり示している」と反論している<ref name="lammtarra9" />。またデットーリはラムタラのレーススタイルについて、「着差を付けないで勝つ。それがラムタラさ。彼は競馬を楽しんでいるし、着差を付けないで勝つことが好きなんだ。弱い相手でも、やっぱり差を付けないで勝つだろう。挑戦することが好きだし、格闘することが好きなんだ。変わった奴だよ」とも評している<ref name="lammtarra7" />。 [[ファイル:Mohammed Bin Rashid Al Maktoum at the World Economic Forum Summit on the Global Agenda 2008 1.jpg|マクトゥーム一族はアラブ首長国連邦ドバイを統治し、2006年からはモハメド(画像)が首長を務めている。|thumb|150px]] 低評価の背景には、イギリス競馬界で急速に勢力を拡大するマクトゥーム一族への反感が作用したとの見方もある。ローラ・トンプソンは、ラムタラが年度代表馬を逃した背景にはマクトゥーム一族への嫉妬があるとし、イギリスの競馬関係者にとって、マクトゥーム一族が「石油の海に浮かび、次々と成功を収めていく外国人、何を考えているか分からない、気むずかしき外国人」であったのに対し、リッジウッドパールを所有するコフラン夫妻が「『普通』の人たち」「好感の持てるアイルランド人」であったことが影響を及ぼしたと論じている<ref>『書斎の競馬(13)』p.157</ref>。さらに、日本人騎手に伴っての渡欧経験が豊富な[[日刊スポーツ]]記者の松田隆は、「リッジウッドパールが[[ロンドン]]の[[ダブルデッカー]](2階建てバス)なら、ラムタラは米国で造られた日本車ぐらいの違いがある」とし、イギリス人がアメリカ人ほど他人種に寛容ではないとした上で「そんな事情がどこまで影響したかわからないが、まったく無関係である、と断言できないのが悲しい」と述べている<ref>松田(1997)p.187</ref>。また、『サラブレッド・ビジネス - ラムタラと日本競馬』の著者・江面弘也は、「オイルマネーを後ろ盾にしてヨーロッパの大レースを勝ちまくるマクトゥーム一族を目の当たりにしたとき、イギリス貴族にはかつて[[ペルシャ湾]]で猛威を振るった『海賊』を見るような思いがしたかも知れない。そう考えれば『ドバイの馬』に対するイギリス競馬界の冷ややかな態度も少しは納得できる」と述べている<ref>江面(2000)p.83</ref>。 == 血統表 == {{競走馬血統表 |name = ラムタラ |f = [[ニジンスキー_(競走馬)|Nijinsky]]<br />1967 [[鹿毛]]<br />[[カナダ]] |m = Snow Bride<br />1986 栗毛<br />[[アメリカ合衆国|アメリカ]] |ff = [[ノーザンダンサー|'''''Northern Dancer''''']]<br />1961 鹿毛<br />[[カナダ]] |fm = [[フレーミングページ|Flaming Page]]<br />1959 鹿毛<br />[[カナダ]] |mf = [[ブラッシンググルーム|Blushing Groom]]<br />1974 栗毛<br />[[フランス]] |mm = Awaasif<br />1979 鹿毛<br />[[カナダ]] |fff = [[ニアークティック|Nearctic]] |ffm = [[ナタルマ|Natalma]] |fmf = [[ブルページ|Bull Page]] |fmm = Flaring Top |mff = [[レッドゴッド|Red God]] |mfm = Runaway Bride |mmf = Snow Knight |mmm = Royal Statue |ffff = [[ネアルコ|Nearco]] |fffm = [[レディアンジェラ|Lady Angela]] |ffmf = [[ネイティヴダンサー|Native Dancer]] |ffmm = [[アルマームード|Almahmoud]] |fmff = [[ブルリー|Bull Lea]] |fmfm = Our Page |fmmf = [[メノウ (競走馬)|Menow]] |fmmm = Flaming Top |mfff = [[ナスルーラ|Nasrullah]] |mffm = Spring Run |mfmf = [[ワイルドリスク|Wild Risk]] |mfmm = Aimee |mmff = Firestreak |mmfm = Snow Blossom |mmmf = '''''Northern Dancer''''' |mmmm = Queen's Statue |ref1 = [http://www.jbis.or.jp/horse/0000362599/pedigree/ JBIS ラムタラ(USA)5代血統表]2020年1月3日閲覧。 |mlin = [[ニジンスキー系]] |ref2 = |flin = [[22号族]] |FN =22-b |ref3 =[http://www.jbis.or.jp/horse/0000362599/pedigree/ JBIS ラムタラ(USA)5代血統表]2020年1月3日閲覧。 |inbr =Northern Dancer 2×4、Nearco 4×5、Menow 4×5 |ref4 =[http://www.jbis.or.jp/horse/0000362599/pedigree/ JBIS ラムタラ(USA)5代血統表]2020年1月3日閲覧。 }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == <!-- ※参考文献:実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍、論文、資料やウェブページなど〉のみを列挙して下さい。実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。)。 --> *『[[優駿]]』1995年8月号・9月号(日本中央競馬会、1995年) ** 石川ワタル「海外ニュース」 *『[[Sports Graphic Number]]』第378号([[文藝春秋]]、1995年11月9日発売) ** クラウド・ベニアーダ(文)・[[島田明宏]](翻訳・構成)「[凱旋門賞リポート]パリは秋、ラムタラが駆ける。」 *『季刊 名馬』1996年秋号(緑書房、1996年) ** 河原千津子「神の見えざる力、ラムタラは日高の救世主となれるか」 *『競馬種牡馬読本2』(宝島社、1997年)ISBN 978-4796693400 ** 松田隆「無敗の欧州三冠馬ラムタラが手に入れられなかったモノとは」 *『競馬〈感涙〉読本 - 思い出すたび胸が痛む……泣300選』(宝島社、1998年)ISBN 978-4796694025 ** 石川ワタル「キリストもアラーの神も真っ青……ラムタラが起こした"奇跡"」 * ランフランコ・デットーリ著、水田陽子訳『騎手フランキー・デットーリ』(日本短波放送、1998年)ISBN 978-4931367333 *『書斎の競馬』第1号 - 第14号(飛鳥新社、1999-2000年) ** ローラ・トンプソン著、[[山本一生]]訳「神よ、アレックスよ、我に奇跡を」 * 江面弘也『サラブレッド・ビジネス - ラムタラと日本競馬』(文藝春秋、2000年)ISBN 978-4166600915 == 関連項目 == <!-- ※関連項目:本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク(姉妹プロジェクトリンク、言語間リンク)、ウィキリンク(ウィキペディア内部リンク)。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 --> * [[フサイチコンコルド]] - 戦後最少のキャリア2戦で1996年の日本ダービーを制し、「和製ラムタラ」と呼ばれた。 * [[銀と金]] - [[福本伸行]]の漫画。本作最後のギャンブルである競馬編に「欧州三冠馬」の「ラムタル」が出る。 == 外部リンク == * [http://www.godolphin.com/horses/horse/96546/lammtarra-usa Godolphin - LAMMTARRA (USA)](ゴドルフィン公式サイト内ページ。レース動画の閲覧が可能) * {{競走馬成績|netkeiba=000a0001d4|jbis=0000362599|racingpost=96546/lammtarra}} {{タイムフォーム年度代表馬}} {{カルティエ賞最優秀3歳牡馬}} {{エプソムダービー勝利馬}} {{キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス勝ち馬}} {{凱旋門賞勝ち馬}} {{Good article}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:らむたら}} [[Category:1992年生 (競走馬)|英らむたら]] [[Category:2014年没]] [[Category:サラブレッド]] [[Category:アメリカ合衆国生産の競走馬]] [[Category:イギリス調教の競走馬]] [[Category:アラブ首長国連邦調教の競走馬]] [[Category:日本供用種牡馬]] [[Category:イギリス供用種牡馬]]
2003-07-31T02:56:00Z
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庵野秀明
庵野 秀明(、1960年〈昭和35年〉5月22日 - )は、日本のアニメーション作家・アニメーター・脚本家・映画監督・声優・実業家。カラー代表取締役社長。株式会社プロジェクトスタジオQ創作管理統括。株式会社でほぎゃらりー取締役。NPO法人アニメ特撮アーカイブ機構理事長。山口県宇部市出身。山口県立宇部高等学校卒業。大阪芸術大学芸術学部映像計画学科(現・映像学科)除籍。血液型はA型。妻は漫画家の安野モヨコ。 別名義として、アニメーションを手がける際のあんの ひであきやアンノ ヒデアキ、作詞家としての空母そ・そ・そ・そ、樋口真嗣との作詞コンビHIDE&シンディー♡などがある。 代表作に『トップをねらえ!』、『ふしぎの海のナディア』、第18回日本SF大賞受賞作の『新世紀エヴァンゲリオン』、ゴジラシリーズ第29作で第40回日本アカデミー賞などの数々の賞を受賞した『シン・ゴジラ』などがある。監督作が日本アカデミー賞の最優秀作品賞と最優秀アニメーション作品賞の両方を受賞した宮崎駿、山崎貴に続く史上三人目の映画監督である。 幼いころよりアニメや特撮、そして大規模建造物などの絵を夢中で描いていたという。生まれ育った山口県宇部市はセメント工業などが盛んな街であり、その工場群の原風景は人工物、メカニックを好む感性に影響を与えたという。高校の時代には「工場のある赤い風景」のような作品を描いている。また、漫画少年でもあり、中学生のころは特に少女漫画を大量に読んでいた。庵野の父親は若いころの事故で左足の膝から下を失っており義足であった。朝日新聞「おやじの背中」(1999年8月30日)で、父親のその姿に影響を受けていること、完全なものは好きになれない、自分にとっては何かが壊れ、欠けていることが普通であると語っている。 山口県立宇部高等学校での高校生時代には、美術部で部長を務めるほどの画力を有していた。アマチュア映像制作グループ「グループSHADO」にも所属し、自主制作の映像作品『ナカムライダー』が、文化祭で上映された。 高校卒業後は就職せず、遊んでばかりいたために親に心配され、一浪を経て、当時、入試が実技のみであった大阪芸術大学映像計画学科に進学する。受験対策は宮崎駿らの絵コンテなどを見て勉強したという。 同じ学科の同級生には南雅彦・西森明良などの同業者、広告デザイナーの碇義彦や漫画家の島本和彦および士郎正宗なども在籍していた。士郎とは学生時代の面識・交流の有無は不明だが、後に『アップルシード』『蒼きウル(未発表)』にて互いにスタッフとして参加している。 サークルはSF研究会に所属。入学当初、同級生の山賀博之、赤井孝美らと班を作る。なお、このころの庵野について、画力は「特にメカの描写は圧倒的であった」と後に山賀が語っており、学生生活の様子は島本和彦の漫画作品『アオイホノオ』に詳しく描かれている。 そのころ、2回生に誘われた自主制作アニメに熱中し、山賀たちとの自主製作映画グループである「DAICON FILM」の主要メンバーとして参加した、大阪で開催のSF大会では異例であったオープニングアニメーションや、特撮作品などを製作し、プロをも驚かせ高い評価を受けた。この時、スタジオぬえのメンバーに誘われ山賀たちと『超時空要塞マクロス』の制作に参加し、アマチュアのアルバイトであるが、数話分の動画から原画までを担当した。この時に描いた爆発シーンが各所で評価され、仕事が来るようになったという。また、『アニメージュ』に掲載された、劇場アニメ『風の谷のナウシカ』の人手不足のための作画スタッフの募集告知を見て上京し、原画担当として採用される。 学校生活では、共同実習にしか出席せず、学費も未納状態であったため、3回生時に除籍処分を受けるが、通学しなくなったのは、単位さえ取れればそれでいいという、周囲のやる気のない学生に付き合って在籍し続けるよりも、自分の作品を作り続ける方が意義があるとの考えからとのことである。なお、この時にはすでに『風の谷のナウシカ』への参加に伴う上京が決まっていた。また、漫画家を目指そうとした時期もあったが、漫画の才能は無いとの考えから断念している。 上京し、劇場アニメ『風の谷のナウシカ』、『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』やOVA『メガゾーン23』などの商業作品に参加し、メカや爆発シーンなどのエフェクトアニメーションを手がける。『風の谷のナウシカ』では、採用時に持参した大量の原画が宮崎駿に評価され、難しいとされるクライマックスの巨神兵登場のシーン担当に抜擢された。この時、人物も描くよう監督から指示されるも、出来が悪かったため監督本人に頼んだというエピソードがある。このころから原画・動画一筋でやっていくのは無理だと考え、監督・演出の仕事をメインに切り替える。ちなみに、パンフレットに記載されている「巨神兵の呪いを受けて腹を壊したA氏」は庵野のことである。なお、師匠として、宮崎と『超時空要塞マクロス』の板野一郎の名前を挙げており、特に宮崎からは監督としての仕事の進め方などを学んだという。また、『機動戦士ガンダム』の富野由悠季らも含め、アニメーション界を代表する作家の仕事に参加できたことをとてもラッキーだったと語っている。 その後、DAICON FILMを母体とするガイナックスの初作品『王立宇宙軍 オネアミスの翼』には「スペシャルエフェクトアーティスト」という肩書きで参加。クライマックスシーンでは、戦闘・ロケット発射シーンは絵コンテから作画までほとんどを1人でこなした。セルを1コマに9枚重ね、3秒間でセル枚数が250枚にも上るカットもあるという。当時、戦車やミサイルなどに極限のリアリティを追求しており、軍事関係の資料に手当たり次第に目を通し、自衛隊にも体験入隊している。 監督作品である『トップをねらえ!』および『ふしぎの海のナディア』は、前者はOVAで発売され、後者はNHK総合テレビジョンで放送された。 1995年(平成7年)にテレビ東京の18時のアニメ枠で放送開始され、1997年(平成9年)以降は劇場版として制作されている。大ヒットを記録し、「庵野監督の代表作」として真っ先に名前が挙がる作品であり、数々の受賞歴がある。 テレビシリーズ後半、特に最終回2話とその前の展開について、パソコン通信上で激しい議論が繰り広げられ、批判意見も多くあった、さらには「原画マンと喧嘩した」や、「途中までは考えていたが、最後は全く考えていない」など嘘が瞬く間に広がり、脚本なる物が出回る大惨事にまで発展した。この現象については、議論内容よりも「パソコン通信にハマる人たちは『現実世界に帰れ』」と苦言を呈している。また、テレビ放映後から劇場版公開ごろの『エヴァブーム』当時、インターネット上のチャットや電子掲示板上での作品論争を「便所の落書き」と言い放っている。 『新世紀エヴァンゲリオン』制作終了後、実写方面への進出(『ラブ&ポップ』『式日』『キューティーハニー』)を経て、それ以降のアニメ作品では、いわゆる「実写畑の声優・つまり俳優」を起用することが多くなる。これは「職業声優の限界」を感じ、新しい可能性を模索するためだという。幾原邦彦の紹介で舞台にも非常に惹かれているが、まだ取り組めないので映画を作ることにした、とインタビューに答えている。 2002年(平成14年)3月26日に、共通の知人である貞本義行による紹介が縁で知り合った漫画家の安野モヨコと結婚。4月28日に「ダブルアンノの結婚を祝う会」と称した結婚披露宴パーティーが行われ、新郎側の主賓として宮崎駿、新婦側の主賓として桜沢エリカがそれぞれスピーチを行った。庵野自身は安野の『ハッピーマニア』などを読んでおり高く評価していた。安野モヨコは本名非公開ではあるが、ペンネームの読みは「あんの」であるため「Wアンノ」と話題になった。 安野の漫画作品『監督不行届』で結婚生活が描写されている。作中での呼び名は「カントク(庵野)」「ロンパース、モヨ(安野)」。また、結婚を機に安野の食事管理によって、体脂肪率40%越えから180cm73kg体脂肪率22%までの減量に成功した。身の回りにも無頓着で、充分な収入がありながら風呂の壊れたアパートに住んでいたため、結婚前は1年間風呂に入らなかったり、洗濯もせずに服はボロボロになるまで着用し、汚れたら捨てる、という生活だったが、安野との生活で、4・5日おきに着替え、1日おきに入浴するようになった。作中では庵野がアルマーニを試着する様子も紹介されている。 2006年(平成18年)に、アニメ制作会社「株式会社カラー」を設立し、それまで名を連ねていたガイナックスの取締役から退いている。新スタジオでの第一作目は、2007年(平成19年)9月1日に全国主要映画館にて封切りされた『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』四部作の1つ『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』であった。2009年(平成21年)6月27日には『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』、2012年(平成24年)11月17日に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』、2021年(令和3年)3月8日に完結編の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が封切りされ、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズは完結した。 2011年(平成23年)に平野勝之監督の『監督失格』を実写初プロデュース作品として手掛けた。2013年(平成25年)には、宮崎駿の長編アニメーション映画『風立ちぬ』の主人公・堀越二郎役で声優デビューした。 2014年(平成26年)に第27回東京国際映画祭の企画で「庵野秀明の世界」が開催。学生時代からの映像作品がTOHOシネマズ日本橋で上映、トークセッションも開催された。 2015年(平成27年)4月1日、2016年に公開予定の「ゴジラシリーズ」新作で、脚本と総監督を務めることが発表された。2015年秋から撮影を開始し、2016年7月29日に『シン・ゴジラ』のタイトルで公開された。 2017年(平成29年)5月8日、NPO法人『アニメ特撮アーカイブ機構』を設立し、代表を務める。 2021年(令和3年)、円谷プロならびに東映からそれぞれ庵野を脚本とする『シン・ウルトラマン』『シン・仮面ライダー』の製作が発表された。 日本SF作家クラブ会員だったが、2023年4月現在は、会員名簿に名前がない。 作風については#来歴の項目も参照のこと。
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庵野 秀明(あんの ひであき、は、日本のアニメーション作家・アニメーター・脚本家・映画監督・声優・実業家。カラー代表取締役社長。株式会社プロジェクトスタジオQ創作管理統括。株式会社でほぎゃらりー取締役。NPO法人アニメ特撮アーカイブ機構理事長。山口県宇部市出身。山口県立宇部高等学校卒業。大阪芸術大学芸術学部映像計画学科除籍。血液型はA型。妻は漫画家の安野モヨコ。 別名義として、アニメーションを手がける際のあんの ひであきやアンノ ヒデアキ、作詞家としての空母そ・そ・そ・そ、樋口真嗣との作詞コンビHIDE&シンディー♡などがある。 代表作に『トップをねらえ!』、『ふしぎの海のナディア』、第18回日本SF大賞受賞作の『新世紀エヴァンゲリオン』、ゴジラシリーズ第29作で第40回日本アカデミー賞などの数々の賞を受賞した『シン・ゴジラ』などがある。監督作が日本アカデミー賞の最優秀作品賞と最優秀アニメーション作品賞の両方を受賞した宮崎駿、山崎貴に続く史上三人目の映画監督である。
{{ActorActress | 芸名 = {{ruby|庵野|あんの}} {{ruby|秀明|ひであき}} | ふりがな = | 画像ファイル = Godzilla Resurgence World Premiere Red Carpet- Anno Hideaki (28526527191).jpg | 画像サイズ = 250px | 画像コメント = [[2016年]][[7月25日]]、[[東京都]][[新宿区]]にて | 本名 = 庵野 秀明 | 別名義 = {{Plainlist| * あんの ひであき * アンノ ヒデアキ * 空母そ・そ・そ・そ }} | 出生地 = {{JPN}}・[[山口県]][[宇部市]] | 死没地 = | 国籍 = {{JPN}} | 身長 = | 血液型 = [[ABO式血液型|A型]] | 生年 = 1960 | 生月 = 5 | 生日 = 22 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 職業 = {{Plainlist| * [[アニメーション]][[作家]] * [[アニメーター]] * [[脚本家]] * [[映画監督]] * [[プロデューサー]] * [[声優]] }} | ジャンル = {{Plainlist| * [[アニメーション映画]] * [[実写映画]] * [[テレビアニメ]] }} | 活動期間 = | 活動内容 = | 配偶者 = [[安野モヨコ]]([[妻]]) | 著名な家族 = [[小島功]]([[義叔父]]) | 所属劇団 = | 事務所 = | 公式サイト = [https://www.khara.co.jp/hideakianno/ 庵野秀明公式web] | 主な作品 = <!--テンプレートでは煩雑化するので役職はリスト参照-->'''テレビアニメ'''{{Plainlist| * 『[[ふしぎの海のナディア]]』 * 『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』 * 『[[彼氏彼女の事情]]』 }} ---- '''アニメーション映画'''{{Plainlist| * 『[[新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生]]』 * 『[[新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に]]』 * 『[[空想の機械達の中の破壊の発明]]』 * 『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序]]』 * 『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破]]』 * 『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q]]』 * 『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』 * 『[[シン・エヴァンゲリオン劇場版]]』 }} ---- '''実写映画'''{{Plainlist| * 『[[ラブ&ポップ]]』 * 『[[式日]]』 * 『[[キューティーハニー (映画)|キューティーハニー]]』 * 『[[巨神兵東京に現わる]]』 * 『[[シン・ゴジラ]]』 * 『[[シン・ウルトラマン]]』 * 『[[シン・仮面ライダー]]』 }} ---- '''OVA'''{{Plainlist| * 『[[トップをねらえ!]]』 * 『[[キューティーハニー|Re:キューティーハニー]]』 }} ---- '''OV'''{{Plainlist| * 『[[GAMERA1999]]』 * 『[[GAMERA1999|GAMERA1999+]]』 }} ---- '''PV'''{{Plainlist| * [[松たか子]]「[[コイシイヒト]]」 * [[宇多田ヒカル]]「[[One Last Kiss]]」 }} | アカデミー賞 = | AFI賞 = | 英国アカデミー賞 = | エミー賞 = | グラミー賞 = | ゴールデングローブ賞 = | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = | ジェミニ賞 = | セザール賞 = | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | 日本アカデミー賞 = '''最優秀作品賞'''<br/>[[第40回日本アカデミー賞|2016年]]『シン・ゴジラ』<br/>'''最優秀監督賞'''<br/>2016年『シン・ゴジラ』<br/>'''最優秀編集賞'''<br/>2016年『シン・ゴジラ』<br/>'''最優秀アニメーション作品賞'''<br/>[[第45回日本アカデミー賞|2021年]]『シン・エヴァンゲリオン劇場版』<br/>'''優秀アニメーション作品賞'''<br/>[[第31回日本アカデミー賞|2007年]]『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』<br/>[[第33回日本アカデミー賞|2009年]] 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』<br />[[第36回日本アカデミー賞|2012年]]『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』<br/>'''話題賞・作品部門'''<br/>[[第21回日本アカデミー賞|1997年]]『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』<br/>2021年『シン・エヴァンゲリオン劇場版』 | 東京国際映画祭 = '''最優秀芸術貢献賞'''<br />[[第13回東京国際映画祭|2000年]]『式日』 | ブルーリボン賞 = '''作品賞'''<br/> [[2016年]]『シン・ゴジラ』 | ローレンス・オリヴィエ賞 = |その他の賞 = '''[[日本SF大賞]]<br />'''[[1997年]]『新世紀エヴァンゲリオン』<br />'''特別賞'''<br />[[2016年]]『シン・ゴジラ』<hr/ >'''[[毎日映画コンクール]]'''<br />'''日本映画大賞'''<br />2016年『シン・ゴジラ』 <hr/ >'''[[ヨコハマ映画祭]]'''<br />'''新人監督賞'''<br />[[1998年]]『ラブ&ポップ』'''<br />特別大賞<br />'''2016年『シン・ゴジラ』<hr/ >'''[[日本映画批評家大賞]]'''<br />'''アニメーション監督賞'''<br />2012年『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』'''<br />'''2021年『シン・エヴァンゲリオン劇場版』<hr />'''[[キネマ旬報ベスト・テン]]'''<br />'''脚本賞'''<br />2016年『シン・ゴジラ』<hr />'''[[文化庁メディア芸術祭]]'''<br />'''エンターテインメント部門大賞'''<br />2017年『シン・ゴジラ』<br />'''[[文化庁メディア芸術祭アニメーション部門|アニメーション部門]]優秀賞'''<br />1997年『新世紀エヴァンゲリオン』<br />[[2013年]]『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』 <hr />'''[[芸術選奨文部科学大臣賞]]'''<br />2017年『シン・ゴジラ』 ---- '''[[褒章#紫綬褒章|紫綬褒章]]'''<br />2022年 [[#受賞歴|受賞歴]]参照 | 備考 = }} {{読み仮名|'''庵野 秀明'''|あんの ひであき|[[1960年]]〈[[昭和]]35年〉[[5月22日]] - }}は、[[日本]]の[[アニメーション]][[作家]]・[[アニメーター]]・[[脚本家]]・[[映画監督]]・[[声優]]・[[実業家]]。[[カラー (映像制作会社)|カラー]][[代表取締役]][[社長]]。[[プロジェクトスタジオQ|株式会社プロジェクトスタジオQ]]創作管理統括。株式会社でほぎゃらりー取締役。NPO法人[[アニメ特撮アーカイブ機構]]理事長。[[山口県]][[宇部市]]出身。[[山口県立宇部高等学校]]卒業。[[大阪芸術大学]][[芸術学部]]映像計画学科(現・映像学科)除籍。[[ABO式血液型|血液型]]はA型。妻は[[漫画家]]の[[安野モヨコ]]。 別名義として、[[アニメーション]]を手がける際の'''あんの ひであき'''や'''アンノ ヒデアキ'''、[[作詞家]]としての'''空母そ・そ・そ・そ'''、[[樋口真嗣]]との作詞コンビ'''HIDE&シンディー♡'''などがある。 代表作に『[[トップをねらえ!]]』、『[[ふしぎの海のナディア]]』、第18回[[日本SF大賞]]受賞作の『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』、[[ゴジラ|ゴジラシリーズ]]第29作で[[第40回日本アカデミー賞]]などの数々の賞を受賞した『[[シン・ゴジラ]]』などがある。監督作が日本アカデミー賞の[[日本アカデミー賞作品賞|最優秀作品賞]]と[[日本アカデミー賞アニメーション作品賞|最優秀アニメーション作品賞]]の両方を受賞した[[宮崎駿]]、[[山崎貴]]に続く史上三人目の映画監督である。 == 来歴 == === 生い立ち === 幼いころより[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]や[[特撮]]、そして大規模[[建築物|建造物]]などの絵を夢中で描いていたという。生まれ育った[[山口県]][[宇部市]]はセメント工業などが盛んな街であり、その[[工場]]群の[[原風景]]は[[人工物]]、メカニックを好む[[感性]]に影響を与えたという{{R|ぶらぶら美術館 庵野秀明展}}。高校の時代には「工場のある赤い風景」のような作品を描いている{{R|ぶらぶら美術館 庵野秀明展}}。また、漫画少年でもあり、[[中学生]]のころは特に[[少女漫画]]を大量に読んでいた<ref>{{Cite book |和書 |author= わかつきめぐみ|authorlink=わかつきめぐみ |title = [[月は東に日は西に]] |year = 2000 |publisher = [[白泉社]] |series = 白泉社文庫 |pages = {{要ページ番号|date=2015年10月}} |isbn = 4-592-88285-7 |chapter = 解説 }}</ref>。庵野の父親は若いころの事故で左足の膝から下を失っており[[義足]]であった。[[朝日新聞]]「おやじの背中」(1999年8月30日)で、父親のその姿に影響を受けていること、完全なものは好きになれない、自分にとっては何かが壊れ、欠けていることが普通であると語っている。 [[山口県立宇部高等学校]]での高校生時代には、[[美術部]]で部長を務めるほどの画力を有していた。[[アマチュア]]映像制作グループ「グループSHADO」にも所属し、[[自主制作]]の映像作品『ナカムライダー』が、文化祭で上映された。 === 大学生時代 === 高校卒業後は就職せず、遊んでばかりいたために親に心配され、一浪を経て、当時、入試が実技のみであった[[大阪芸術大学]]映像計画学科に進学する。受験対策は[[宮崎駿]]らの[[絵コンテ]]などを見て勉強したという<ref>{{Cite book |和書 |author = 庵野秀明 |title = パラノ・エヴァンゲリオン |year = 1997 |publisher = [[太田出版]] |page = 34 |isbn = 4-87233-316-0}}</ref>。 同じ学科の同級生には[[南雅彦]]・[[西森章|西森明良]]などの同業者、広告[[デザイナー]]の碇義彦や漫画家の[[島本和彦]]および[[士郎正宗]]なども在籍していた。士郎とは学生時代の面識・交流の有無は不明だが、後に『[[アップルシード]]』『[[蒼きウル]](未発表)』にて互いにスタッフとして参加している。 [[クラブ活動|サークル]]はSF研究会に所属。入学当初、同級生の[[山賀博之]]、[[赤井孝美]]らと班を作る。なお、このころの庵野について、画力は「特に[[メカ]]の描写は圧倒的であった」と後に山賀が語っており、学生生活の様子は島本和彦の漫画作品『[[アオイホノオ]]』に詳しく描かれている。 そのころ、2回生に誘われた[[自主制作アニメ]]に熱中し、山賀たちとの[[自主製作映画]]グループである「[[DAICON FILM]]」の主要メンバーとして参加した、大阪で開催の[[SF大会]]では異例であったオープニングアニメーションや、特撮作品などを製作し、プロをも驚かせ高い評価を受けた。この時、[[スタジオぬえ]]のメンバーに誘われ山賀たちと『[[超時空要塞マクロス]]』の制作に参加し、アマチュアの[[アルバイト]]であるが、数話分の動画から原画までを担当した。この時に描いた爆発シーンが各所で評価され、仕事が来るようになったという{{R|mynavi-1}}。また、『[[アニメージュ]]』に掲載された、劇場アニメ『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』の人手不足のための作画スタッフの募集告知を見て上京し、<!--アニメーターとしては素人同然であったが←マクロスで原画-->原画担当として採用される{{R|mynavi-1}}。 学校生活では、共同実習にしか出席せず、学費も未納状態であったため、3回生時に除籍処分を受けるが、通学しなくなったのは、単位さえ取れればそれでいいという、周囲のやる気のない学生に付き合って在籍し続けるよりも、自分の作品を作り続ける方が意義があるとの考えからとのことである。なお、この時にはすでに『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』への参加に伴う上京が決まっていた。また、漫画家を目指そうとした時期もあったが、漫画の才能は無いとの考えから断念している<ref>『[[ヤングサンデー]]』本誌(『[[アオイホノオ]]』発売記念対談){{Full|date=2023年9月}}、『アオイホノオ』(ヤングサンデーコミック版1巻の巻末){{要ページ番号|date=2023年9月}}</ref>。 === アニメーター時代 === 上京し、劇場アニメ『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』、『[[超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか]]』や[[OVA]]『[[メガゾーン23]]』などの商業作品に参加し、メカや爆発シーンなどの[[エフェクト]]アニメーションを手がける。『風の谷のナウシカ』では、採用時に持参した大量の原画が宮崎駿に評価され、難しいとされるクライマックスの巨神兵登場のシーン担当に抜擢された。この時、人物も描くよう監督から指示されるも、出来が悪かったため監督本人に頼んだというエピソードがある{{Sfn|庵野秀明|1997|p=63}}。このころから原画・動画一筋でやっていくのは無理だと考え、監督・演出の仕事をメインに切り替える。ちなみに、パンフレットに記載されている「巨神兵の呪いを受けて腹を壊したA氏」は庵野のことである。なお、師匠として、宮崎と『超時空要塞マクロス』の[[板野一郎]]{{R|mynavi-1}}の名前を挙げており、特に宮崎からは監督としての仕事の進め方などを学んだという{{Sfn|庵野秀明|1997|p=66}}。また、『[[機動戦士ガンダム]]』の[[富野由悠季]]らも含め、アニメーション界を代表する作家の仕事に参加できたことをとてもラッキーだったと語っている。<!-- 余談だが、劇場版『マクロス』参加後、東京から[[原動機付自転車|原付]]で帰阪しようとしたが果たせなかったエピソードがある。(必要な記述でしょうか?)--> その後、DAICON FILMを母体とする[[ガイナックス]]の初作品『[[王立宇宙軍 オネアミスの翼]]』には「スペシャルエフェクトアーティスト」という肩書きで参加{{R|mynavi-2}}。クライマックスシーンでは、戦闘・ロケット発射シーンは絵コンテから作画までほとんどを1人でこなした。セルを1コマに9枚重ね、3秒間でセル枚数が250枚にも上るカットもあるという。当時、戦車やミサイルなどに極限のリアリティを追求しており、軍事関係の資料に手当たり次第に目を通し、[[自衛隊]]にも体験入隊している。 === 『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』 === {{節スタブ}} {{Main|トップをねらえ!|ふしぎの海のナディア}} 監督作品である『トップをねらえ!』および『[[ふしぎの海のナディア]]』は、前者は[[OVA]]で発売され、後者は[[NHK総合テレビジョン]]で放送された。 * 両作品ともアニメや特撮のパロディ・オマージュを多く取り入れており、特に爆発やエフェクトパターンは実写を忠実に再現している{{R|ゴジラ大百科MG}}。 * 『トップをねらえ!』第5話戦闘シーンの収録の際、主演の[[日髙のり子]]に「自ら必殺技名を絶叫してみせる」という体当たりの演技指導を行ったという逸話がある<ref>2004年8月27日発売 DVD『トップをねらえ ! パーフェクトガイド 』声優座談会</ref>。 * ナディアのグランディス一味が「[[タイムボカンシリーズ]]」における[[三悪 (タイムボカンシリーズ)|三悪]]の変形版になったのは自身のアイディアだという。また、ハンソンの口癖「そ、そ、そ、そ」は庵野の口癖である{{efn|両作品に出演していた日髙のり子が担当していた[[ラジオ番組]]『[[はいぱぁナイト]]』金曜日にたびたび庵野はゲスト出演し、この口癖や「[[航空母艦|空母]]好き」から日高やリスナーから「'''空母そ・そ・そ・そ'''」のあだ名が付いた(本人は空母よりは[[戦艦]]マニアと主張)。}}。 * 主人公ナディアの性格は当時の性格の反映で、ナディアが冷たかったりわがままに描かれているのは、恋して振られた時の、自身の女性観を元にしたためとのことである。他にも「南の島編」での暴走ぶりも「周りから見た庵野監督」をモチーフにしていた。また、下記に記載している「偏食家であり、[[食肉|肉]]と魚は一切食べられない」というのもナディアの特徴であり、庵野がモチーフである{{要出典|date=2018年11月}}。 * キングについては当初は「実は宇宙人」との設定が構想にあり、最終回ではキングの着ぐるみを脱いで正体を現す予定だったが、周囲の反対でこの構想はなくなった<ref>{{Cite book |和書 |editor = アニメージュ編集部 |title = ふしぎの海のナディア |year = 1991 |publisher = [[徳間書店]] |series = ロマンアルバム |page = 53 |isbn = 4-19-721070-1 }}</ref>。 === 『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズ === {{Main|新世紀エヴァンゲリオン|新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生|新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に}} [[1995年]]([[平成]]7年)に[[テレビ東京]]の18時のアニメ枠で放送開始され、[[1997年]](平成9年)以降は劇場版として制作されている。大ヒットを記録し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202106120000590.html|title=「庵野秀明展」10月開催 シン・エヴァ、シン・ゴジラなど創作活動に迫る|publisher=日刊スポーツ|date=2021-06-12|accessdate=2021-06-12}}</ref>、「庵野監督の代表作」として真っ先に名前が挙がる作品であり、数々の受賞歴がある。 テレビシリーズ後半、特に最終回2話とその前の展開について、[[パソコン通信]]上で激しい議論が繰り広げられ、批判意見も多くあった、さらには「原画マンと喧嘩した」や、「途中までは考えていたが、最後は全く考えていない」など嘘が瞬く間に広がり、脚本なる物が出回る大惨事にまで発展した。この現象については、議論内容よりも「パソコン通信にハマる人たちは『現実世界に帰れ』」と苦言を呈している<ref>{{Cite journal |和書 |journal = [[月刊ニュータイプ]] |date = 1996-06 |pages = {{要ページ番号|date=2015年10月}} }}</ref>。また、テレビ放映後から劇場版公開ごろの『エヴァブーム』当時、[[インターネット]]上の[[チャット]]や[[電子掲示板]]上での作品論争を「[[便所]]の[[落書き]]」と言い放っている<ref>1996年 - 1997年ごろの発言。『スキゾ・エヴァンゲリオン』、『パラノ・エヴァンゲリオン』などを参照。</ref>。 {{節スタブ}} === 実写映画への進出 === 『新世紀エヴァンゲリオン』制作終了後、実写方面への進出(『[[ラブ&ポップ]]』『[[式日]]』『[[キューティーハニー (映画)|キューティーハニー]]』)を経て、それ以降のアニメ作品では、いわゆる「実写畑の[[声優]]・つまり[[俳優]]」を起用することが多くなる。これは「職業声優の限界」を感じ、新しい可能性を模索するためだという。[[幾原邦彦]]の紹介で[[演劇|舞台]]にも非常に惹かれているが、まだ取り組めないので映画を作ることにした、と[[インタビュー]]に答えている<ref>{{Cite book |和書 |author = 庵野秀明 |title = 庵野秀明のフタリシバイ |year = 2001 |publisher = 徳間書店スタジオジブリ事業本部 |pages = {{要ページ番号|date=2015年10月}} |isbn = 4-19-861375-3 }}</ref>。 === 結婚 === [[2002年]](平成14年)[[3月26日]]に、共通の知人である[[貞本義行]]による紹介が縁で知り合った漫画家の[[安野モヨコ]]と[[結婚]]。[[4月28日]]に「ダブルアンノの結婚を祝う会」と称した[[結婚披露宴]]パーティーが行われ、新郎側の主賓として[[宮崎駿]]、新婦側の主賓として[[桜沢エリカ]]がそれぞれスピーチを行った。庵野自身は安野の『[[ハッピーマニア]]』などを読んでおり高く評価していた。安野モヨコは本名非公開ではあるが、ペンネームの読みは「あんの」であるため「'''Wアンノ'''」と話題になった。 安野の漫画作品『[[監督不行届]]』で結婚生活が描写されている。作中での呼び名は「カントク(庵野)」「ロンパース、モヨ(安野)」。また、結婚を機に安野の食事管理によって、体脂肪率40%越えから180cm73kg体脂肪率22%までの減量に成功した。身の回りにも無頓着で、充分な収入がありながら風呂の壊れたアパートに住んでいたため、結婚前は1年間風呂に入らなかったり、洗濯もせずに服はボロボロになるまで着用し、汚れたら捨てる、という生活だったが、安野との生活で、4・5日おきに着替え、1日おきに入浴するようになった。作中では庵野が[[アルマーニ]]を試着する様子も紹介されている。 === 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズへ === [[ファイル:Hideaki Anno and Ryusuke Hikawa 20141030 2.jpg|thumb|200px|[[2014年]][[10月30日]]、[[室町古河三井ビルディング|TOHOシネマズ日本橋]]での「[[第27回東京国際映画祭|庵野秀明の世界]]」にて[[明治大学]][[大学院]]国際日本学研究科[[客員教授]][[氷川竜介]](右)と]] {{Main|ヱヴァンゲリヲン新劇場版}} [[2006年]]([[平成]]18年)に、アニメ制作会社「[[カラー (映像制作会社)|株式会社カラー]]」を設立し、それまで名を連ねていたガイナックスの取締役から退いている。新スタジオでの第一作目は、[[2007年]](平成19年)[[9月1日]]に全国主要映画館にて封切りされた『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』四部作の1つ『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序]]』であった。[[2009年]](平成21年)[[6月27日]]には『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破]]』、2012年(平成24年)11月17日に『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q]]』、2021年([[令和]]3年)3月8日に完結編の『[[シン・エヴァンゲリオン劇場版|シン・エヴァンゲリオン劇場版:<nowiki>|</nowiki>'''<nowiki>|</nowiki>''']]』が封切りされ、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズは完結した。 2011年(平成23年)に[[平野勝之]]監督の『[[監督失格]]』を実写初プロデュース作品として手掛けた。[[2013年]](平成25年)には、宮崎駿の長編アニメーション映画『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』の主人公・[[堀越二郎]]役で声優デビューした。 2014年(平成26年)に[[第27回東京国際映画祭]]の企画で「[[第27回東京国際映画祭#その他|庵野秀明の世界]]」が開催。学生時代からの映像作品が[[TOHOシネマズ]][[室町古河三井ビルディング#TOHOシネマズ日本橋|日本橋]]で上映、トークセッションも開催された<ref>{{Cite web|和書|url = http://2014.tiff-jp.net/ja/lineup/list.php?category=m%3D7&genre=&date= |title = 第27回東京国際映画祭 上映作品 |publisher = 第27回東京国際映画祭公式ホームページ |accessdate = 2015-10-24 }}</ref>。 2015年(平成27年)4月1日、2016年に公開予定の「[[ゴジラ|ゴジラシリーズ]]」新作で、脚本と総監督を務めることが発表された<ref>{{Cite news |url= https://mantan-web.jp/article/20150331dog00m200105000c.html |title= ゴジラ:12年ぶり日本版新作の総監督に「エヴァ」庵野秀明 監督に「進撃の巨人」樋口真嗣 |publisher= まんたんウェブ |date= 2015-04-01 |accessdate= 2015-04-01 }}</ref>。2015年秋から撮影を開始し、2016年7月29日に『[[シン・ゴジラ]]』のタイトルで公開された。 [[2017年]](平成29年)[[5月8日]]、NPO法人『[[アニメ特撮アーカイブ機構]]』を設立し、代表を務める{{R|名前なし-1}}<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1805/02/news070.html 庵野理事長「個人ではとても叶えられない願い」 アニメの原画や特撮のミニチュアをアーカイブするNPOを立ち上げ]、ねとらぼ(2018年5月2日)、2018年5月12日閲覧。</ref>。 2021年(令和3年)、[[円谷プロ]]ならびに[[東映]]からそれぞれ庵野を脚本とする『[[シン・ウルトラマン]]』『[[シン・仮面ライダー]]』の製作が発表された。 [[日本SF作家クラブ]]会員だったが<REF>日本SF作家クラブ編『SF入門』(早川書房、2001年)巻末名簿</REF>、2023年4月現在は、会員名簿に名前がない。 == 作風 == {{言葉を濁さない|section=1|date=2011年11月}} [[ファイル:Hideaki Anno 20141030 2.jpg|thumb|200px|[[2014年]][[10月30日]]、[[室町古河三井ビルディング|TOHOシネマズ日本橋]]での「[[第27回東京国際映画祭|庵野秀明の世界]]」にて]] * 人間の[[エゴ]]や醜さをえぐり出す心理描写、細部にこだわったメカ造型、大胆な映像演出を得意とする。意外なところから撮るエキセントリックなアングル(カメラアングル=構図)や[[逆光]]などを多用した描写が多い。また、作品中に[[電柱]]・[[電線路|電線]]、[[信号機]]、[[遮断機]]、[[道路標識]]、[[非常口]]マークなどの短いカットを挿入することが多い。電柱・電線は、自らの会社[[カラー (映像制作会社)|カラー]]のホームページにも使用している。 * 好きな映画・アニメ・漫画からの[[パロディ]]・[[オマージュ]]が多く盛り込まれている。特に[[永井豪]]、[[石川賢 (漫画家)|石川賢]]や[[岡本喜八]]、[[実相寺昭雄]]などからの影響が大きい。同時にオリジナリティについては『新世紀エヴァンゲリオン』のコミック第1巻の所信表明文や『スキゾ・エヴァンゲリオン』で、「僕のようなアニメや漫画ばかりを見てきた世代は、パッと浮かんだことにだいたいいつも元ネタがあり、時に嫌になる」という趣旨の発言をしている。 * 作画面では[[建築物]]や[[機械]]、[[爆発]]シーンの描写を得意とする。人物は、アニメ的なキャラクターが苦手と本人も認めており、描くことは少ないが、ゼネラルプロダクツの[[アニメック]]誌の連載やパンフレットの挿絵、[[アニメック|まんがアニメック]]や[[同人誌]]に掲載された短編マンガなどがあり、『[[超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか]]』では[[リン・ミンメイ]]の[[原画]]を手掛けている。 * 作中の楽曲には、「[[FLY ME TO THE MOON (CLAIREと高橋洋子のシングル)]]」「[[あの素晴しい愛をもう一度]]」「[[夢の中へ]]」などの[[カバー]]が用いられている。 * 実写作品を制作する際には、「被写体をどう撮るか」「欲しい絵は何か」という違いでカメラを変えている。構図を重視し、絵画的な美しさを求めて、緊張感が出て迫力のあるシーンを撮る場合は[[35ミリフィルム]]・[[アナモルフィックレンズ]]を選び、撮れる範囲を広げつつ、取り扱い・小回りを重視し、色を明快に出し、リラックスしたシーンを撮る場合は[[DV (ビデオ規格)|デジタルビデオカメラ]]を選ぶ<ref>[[美術出版社]]刊「[[美術手帖]]」2004年6月号「digi+KISHIN×庵野秀明 欲望の写し取り、緊張感の制御への挑戦」pp.32-33,42より。</ref>。 ''作風については[[#来歴]]の項目も参照のこと。'' === アニメ・特撮マニア === {{出典の明記|section=1|date=2011年11月|ソートキー=人}} [[ファイル:Godzilla Resurgence World Premiere Red Carpet- Anno Hideaki (28526529431).jpg|thumb|200px|[[2016年]][[7月25日]]、[[東京都]][[新宿区]]での「[[シン・ゴジラ|シン・ゴジラワールドプレミアレッドカーペットイベント]]」にて]] * [[宇宙作家クラブ]]会員。 * 観る側でもアニメや特撮物のマニアであり、特に、中学生ごろに出会った『[[宇宙戦艦ヤマト]]』や幼少時代に出会った『ウルトラマン』には非常に影響を受け{{R|名前なし-2}}、特に宇宙戦艦ヤマトは原作者の[[西崎義展]]との対談でも自身の人生を変えた作品であることを語っている<ref>週刊プレイボーイ2008年2月25日号NO.8</ref><ref>オトナファミ 2008 April</ref>。 * 『[[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア]]』の『逆襲のシャア友の会』なる[[同人誌]]を出版。[[ゆうきまさみ]]、[[出渕裕]]、[[美樹本晴彦]]、[[北爪宏幸]]、[[幾原邦彦]]、[[鈴木敏夫]]などのメンバーが参加しており、自身と[[押井守]]、[[富野由悠季]]らとの対談が収録されている<ref>{{Cite web|和書|author = [[小黒祐一郎]] |url = http://www.style.fm/as/05_column/365/365_458.shtml |title = アニメ様365日 第458回 「逆襲のシャア友の会」(完結編) |work = [[アニメスタイル|WEBアニメスタイル]] |publisher = スタジオ雄 |accessdate = 2015-10-24 }}</ref>。 * 『[[機動戦士Vガンダム]]』は当時、自身はハマっていたが、周囲では評判が芳しくなかったため、アニメ誌での特集を働きかけたり、ガイナックスで原画を手伝ったこと、同時に「自分にとって本作が最後の富野作品」と話している<ref>同作のDVDBOXに収録されている庵野のコメントより</ref>。 * 2013年に発売された、初代ガンダムのキャラクターデザインおよび作画監督を務めた[[安彦良和]]の特集本の責任編集を手掛け、同書では安彦、同作で原画を担当した[[板野一郎]]と庵野による師弟&孫弟子の鼎談が収録された<ref>2013年5月発売の『安彦良和アニメーション原画集「機動戦士ガンダム」』</ref> 。 * 特撮作品では「[[ウルトラシリーズ]]」の大ファンで、特に『[[帰ってきたウルトラマン]]』に熱中したといい、大学時代には『ウルトラマン』の8ミリ映画を自主制作している。なお、高校時代に8ミリフィルムのカメラを購入している{{R|名前なし-2}}。[[DAICON FILM]]で[[1983年]](昭和58年)に製作した『[[帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令]]』では、総監督と顔出しのウルトラマン役で自ら出演(主演)した。なお、この作品は後年、[[円谷プロダクション|円谷プロ]]の許諾を得て、[[ガイナックス]]から期間および通販限定のDVDソフトとして発売された。また、[[ゼネラルプロダクツ]]から販売された「帰ってきたウルトラマンTシャツ」用の素材イラストも手掛けている。また、自身の作品への影響として、"首都"東京に定期的に怪獣が出没し、それを迎撃するための組織があり、巨大ヒーローは数分間しかフル活動できないというウルトラシリーズの特徴的だった設定と展開が、そのまま『新世紀エヴァンゲリオン』に受け継がれている。 * 庵野と同じく『帰ってきたウルトラマン』のファンである[[小谷野敦]]によれば、『帰ってきたウルトラマン』のメインキャストである[[西田健]]を偶然、バーで見かけて、感動し涙を流したという<ref>[[小谷野敦]]『ウルトラマンがいた時代』ベストセラーズ〈ベスト新書 403〉、2013年4月。{{ISBN2|978-4-584-12403-1}}。</ref>。[[町山智浩]]は『新世紀エヴァンゲリオン』や『シン・ゴジラ』に『帰ってきたウルトラマン』の強い影響、とりわけ第5・6話の影響を指摘した<ref>[[映画秘宝]]2017年3月号、[[柳下毅一郎]]との対談</ref> * コロタン文庫『ゴジラ怪獣全百科』の巻末に自ら描いた[[メーサー兵器#メーサー殺獣光線車|メーサー殺獣光線車]]などのイラストつきエッセイを掲載している。 * [[東京都現代美術館]]で2012年7月10日より開催された展覧会「館長 庵野秀明特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」のプロデュースを担当し、会場で上映された短編特撮映画『[[巨神兵東京に現わる]]』の脚本などを手がけた。 * 東映特撮ファンクラブ(TTFC)の会員である事を『シン・仮面ライダー対庵野秀明展』合同記者会見にて明かす。ニチアサではリアタイできない為、こちらで近年の作品をチェックしているとの事<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2208764/full/|title=庵野秀明監督、仮面ライダー愛を熱弁 TTFC会員をアピール「ちゃんと宣伝もします」|publisher=[[ORICON NEWS]]|accessdate=2023-10-20}}</ref>。 * 他にも時代劇『[[大江戸捜査網]]』のファンでもあり、『新世紀エヴァンゲリオン』が同じテレビ東京系列で放送されていたことから、知り合いの関係者に『大江戸捜査網』のソフト化を働きかけることも多かったという<ref>{{Cite book |和書 |author= 金子明雄|authorlink=金子明雄 (テレビプロデューサー) |title = 東京12チャンネルの挑戦 300チャンネル時代への視点 |year = 1998 |publisher = [[三一書房]] |page = 141 |isbn = 4-380-98278-5 }}</ref>。 == 略歴 == {{雑多な内容の箇条書き|date=2021年9月8日 (水) 12:47 (UTC)|section=1}} * [[1960年]]([[昭和]]35年) - [[5月22日]]、山口県宇部市生まれ。 * [[1980年]](昭和55年) - [[大阪芸術大学]][[芸術学部]]映像計画学科入学。 * [[1983年]](昭和58年) - 大阪芸術大学を中退。『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』の原画に採用され上京。 * [[1984年]](昭和59年) - 株式会社[[ガイナックス]]の設立に参加。 * [[1988年]](昭和63年) - 『[[トップをねらえ!]]』でアニメ初監督。 * [[1997年]]([[平成]]{{0}}9年) - 『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』で第18回[[日本SF大賞]]を受賞。 * [[1998年]](平成10年) - 映画『[[ラブ&ポップ]]』で実写初監督。 * [[1999年]](平成11年) - [[小惑星]]『[[庵野秀明 (小惑星)|庵野秀明]]』が命名される。 * [[2002年]](平成14年) - 漫画家[[安野モヨコ]]と結婚。[[明治神宮]]で挙式を執り行う。 * [[2006年]](平成18年) - 庵野個人のアニメ制作会社・[[カラー (映像制作会社)|株式会社カラー]]、制作スタジオ・スタジオカラーを設立。 * [[2007年]](平成19年) - [[ヱヴァンゲリヲン新劇場版]]シリーズの第1作として『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序]]』を発表。同年、株式会社ガイナックスを退社。 * [[2009年]](平成21年) - ヱヴァンゲリヲン新劇場版シリーズ第2作『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破]]』を全国主要映画館にて公開。 * [[2011年]](平成23年) - 映画『[[監督失格]]』のプロデュースに関わる。 * [[2012年]](平成24年) - ヱヴァンゲリヲン新劇場版シリーズ第3作『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q]]』を全国主要映画館にて公開。 * [[2013年]](平成25年) - 『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』で初声優{{efn|正式には2000年の[[OVA]]『[[フリクリ]]』で猫のキャラクター・ミユミユ役を演じているが、クレジット表記では声優名が「?」表記で伏せられており、北米版OVAの出演者インタビューでしか明らかにされていない。}}・初主演。 * [[2015年]](平成27年) - 背景美術会社株式会社でほぎゃらりー設立、取締役就任。 * [[2016年]](平成28年) - 映画『[[シン・ゴジラ]]』を全国主要映画館にて公開。総監督を務める。 * [[2017年]](平成29年) - 『シン・ゴジラ』が[[第40回日本アカデミー賞]]最優秀作品賞を受賞。同作で監督を務めた[[樋口真嗣]]とともに最優秀監督賞を受賞。また、「平成28年度(第67回)[[芸術選奨]]映画部門 文部科学大臣賞」も受賞している{{Refnest|{{Cite web|和書|date=2017年3月8日 |url=https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/2017030801_besshi.pdf |title=平成28年度(第67回)芸術選奨受賞者一覧 |format=PDF |publisher=[[文化庁]] |accessdate=2017年5月20日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170426084635/http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/2017030801_besshi.pdf |archivedate=2017年4月26日}}<ref>{{Cite web|和書|date=2017年3月8日 |url=https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/2017030801.html |title=平成28年度(第67回)芸術選奨文部科学大臣賞及び同新人賞の決定について |publisher=[[文化庁]] |accessdate=2017年5月20日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170520035329/http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/2017030801.html |archivedate=2017年5月20日}}</ref>}}。また同作で第37回[[日本SF大賞]]・特別賞を受賞。 * [[2017年]](平成29年) - [[カラー (映像制作会社)|スタジオカラー]]・ドワンゴ・[[学校法人麻生塾|麻生塾]]の三社で福岡に設立したアニメ制作会社[[プロジェクトスタジオQ|株式会社プロジェクトスタジオQ]]の取締役創作管理統括に就任。 * [[2017年]](平成29年) - NPO法人『[[アニメ特撮アーカイブ機構]]』を設立し、代表を務める{{R|名前なし-1}}<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1805/02/news070.html 庵野理事長「個人ではとても叶えられない願い」 アニメの原画や特撮のミニチュアをアーカイブするNPOを立ち上げ]、ねとらぼ(2018年5月2日)、2018年5月12日閲覧。</ref>。 * [[2018年]](平成30年) - スタジオカラー・ドワンゴの二社で設立した株式会社バカー(βακα)の取締役に就任<ref>{{Cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1802/23/news072.html|title=ドワンゴとカラー、新会社「バカー」設立 インディーゲームなど開発支援|newspaper=ITmedia NEWS|publisher=アイティメディア|date=2018-02-23|accessdate=2022-06-25}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年) - スタジオカラー・ドワンゴ・[[KADOKAWA]]・[[インクストゥエンター]]・アソビシステムホールディングスでVTuberを起用したモーションキャプチャアニメの制作、およびVTuberの開発・マネジメント・プロデュースなどの事業を展開する合弁会社として[[リド (企業)|リド]]を12月14日に設立。 * [[2021年]]([[令和]]{{0}}3年) - ヱヴァンゲリヲン新劇場版シリーズ第4作『[[シン・エヴァンゲリオン劇場版]]』を全国主要映画館にて公開。 * [[2022年]]([[令和]]{{0}}4年) - 文化庁より[[紫綬褒章]]を受賞。 == 監督作品 == === テレビアニメ(監督作品) === * [[ふしぎの海のナディア]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/program/102536/|title=ふしぎの海のナディア :作品情報|publisher=アニメハック|accessdate=2020-08-04}}</ref>(1990年 - 1991年)総監督、脚本(ノンクレジット)、絵コンテ(1話、9話)、作画監督(34話、37話) * [[新世紀エヴァンゲリオン]](1995年 - 1996年)監督、企画、原作、メカニックデザイン、脚本(1話 - 3話、5話 - 26話)、絵コンテ(OP、1話、2話、7話、10話、14話、20話、23話 - 26話)、原画(2話、20話、26話) * [[彼氏彼女の事情]](1998年 - 1999年)監督、[[音響監督]]、脚本(1話 - 18話、20話 - 23話、26話)、絵コンテ(OP、26話)、構成(14話)、劇メーター(19話) === 長編アニメ映画 === * [[新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生]](1997年)原作、総監督、脚本、メカニックデザイン、作画監督(「DEATH」編)、原画 * [[新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に]](1997年)企画、原作、総監督、監督(26話)、脚本、メカニックデザイン、絵コンテ(26話)、演出(26話)、作画監督(26話)、設定デザイン、原画(25話、26話) *[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版]]シリーズ(2006年-2021年) ** [[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序]](2007年)原作、総監督、脚本、音響監督、画コンテ、デザインワークス、原画 ** [[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破]](2009年)企画、原作、エグゼクティブ・プロデューサー、総監督、脚本、画コンテ、デザインワークス、原画 ** [[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q]](2012年)企画、原作、エグゼクティブ・プロデューサー、総監督、脚本、画コンテ、イメージボード、デザインワークス、原画 ** [[シン・エヴァンゲリオン劇場版]](2021年)企画、原作、エグゼクティブ・プロデューサー、総監督、脚本、画コンテ、原画、宣伝 === OVA(監督作品) === * [[トップをねらえ!]](1988年 - 1989年)監督、脚本(5話、6話)、画コンテ(1話 - 6話)、設定(5話、6話)、原画(5話、6話) * [[キューティーハニー|Re:キューティーハニー]](2004年)総監督、演出(3話)、原画(オープニング、3話) === 実写映画(監督作品) === * [[ラブ&ポップ]](1998年)監督、Self Cam * [[式日]](2000年)監督、脚本 * [[キューティーハニー (映画)|キューティーハニー]](2004年)監督、脚本、挿入歌作詞 * [[シン・ゴジラ]](2016年)総監督、脚本、編集、音響設計、ゴジラコンセプトデザイン、画像設計、画コンテ、プリヴィズ企画・監督、予告篇演出<ref>https://twitter.com/back_asato/status/754742907869855744</ref>、D班監督・撮影・録音、宣伝監修・ポスター/チラシデザイン ** シン・ゴジラ:オルソ(2023年)上記作品のモノクロ版 - 企画<ref>{{cite web2 |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0139309 |title=『シン・ゴジラ』初のモノクロ版『シン・ゴジラ:オルソ』公開決定!庵野秀明が企画提案 |author=倉本拓弥 |date=2023-10-03 |website=シネマトゥデイ |publisher=シネマトゥデイ |access-date=2023-11-08 }}</ref> * [[シン・仮面ライダー]](2023年)監督、脚本、特撮班准監督、コンセプトデザイン、撮影、タイトルロゴデザイン、光学作画、モーションアクター、総宣伝監修、予告編演出・ポスターデザイン === その他監督作品 === * [[夢幻戦士ヴァリス]](1987年)ファミリーコンピュータ版プロモーション映像 監督・絵コンテ * [[GAMERA1999]]([[オリジナルビデオ|OV]]、1999年)総監督、撮影 * GAMERA1999+(OV、1999年)総監督、撮影 * [[加藤あい|24人の加藤あい]](テレビ番組、2001年)監督(全24編の中の1本を監督) * [[しりあがり寿|流星課長]] ショートフィルムマガジン『Grasshoppa! VOL.3』収録(OV、2002年)監督・脚本 * [[空想の機械達の中の破壊の発明]](短編アニメ映像、2002年)原作、監督、脚本 * [[日本アニメ(ーター)見本市]](Webアニメ、2014年 - ) * PV監督 ** [[松たか子]]「[[コイシイヒト]]」([[ミュージックビデオ|MV]]&15秒スポット、2001年)監督 ** 「オープニング(スタジオカラーver.)」(2014年)監督・絵コンテ・作画 ** [[宇多田ヒカル]]「[[One Last Kiss]]」(MV、2021年)監督・編集 == 参加作品 == === 劇場アニメ === * [[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]](1984年)原画(巨神兵) * [[超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか]](1984年)原画 * [[うる星やつら3 リメンバー・マイ・ラブ]](1985年)原画 * [[王立宇宙軍 オネアミスの翼]](1987年)作画監督、スペシャルエフェクトアーティスト、原画 * [[ウルトラマンUSA]](1987年)作画監督補佐、原画 * [[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア]](1988年)メカニカルデザイン (ガイナックス名義) * [[火垂るの墓]](1988年)原画 * [[劇場版美少女戦士セーラームーンR]](1993年)原画 * [[MACROSS PLUS]] MOVIE EDITION(1995年)原画 * [[スカイ・クロラシリーズ#映画|スカイ・クロラ The Sky Crawlers]](2008年)スペシャルサンクス、PV演出 * [[宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟]](2014年)原画 === テレビアニメ(参加作品) === * [[超時空要塞マクロス]](1982年 - 1983年)原画(2話、9話、18話、24話、27話、28話)、動画(18話) * [[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]](1981年 - 1986年)原画(133話、156話) * [[魔法のスターマジカルエミ]](1985年 - 1986年)原画(1話) * [[ついでにとんちんかん]](1987年 - 1988年)OP3原画 * [[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーンS]](1994年 - 1995年)原画(103話)、[[天王はるか|ウラヌス]]&[[海王みちる|ネプチューン]]変身バンク演出 * [[機動武闘伝Gガンダム]](1994年 - 1995年)OP1絵コンテ * [[おるちゅばんエビちゅ]](1999年)企画 * [[まほろまてぃっく]](2001年)OP絵コンテ * まほろまてぃっく〜もっと美しいもの〜(2002年 - 2003年)OP絵コンテ * [[アベノ橋魔法☆商店街]](2002年)絵コンテ(13話)、メカニカル作画監督(13話)、原画(12話)、声 * [[シュガシュガルーン]](2005年 - 2006年)絵コンテ・演出(オープニング1、エンディング1、エンディング2) * [[宇宙戦艦ヤマト2199]](2012年 - 2013年)オープニング絵コンテ * [[龍の歯医者]](2017年)音響監督、制作統括 * [[バーチャルさんはみている]](2019年)アイデア協力 === OVA(参加作品) === * [[BIRTH (OVA)|BIRTH]](1984年)原画 * [[くりいむレモン|くりいむレモン PART.2 エスカレーション 今夜はハードコア]](1984年)原画(あんのひであき名義) * [[くりいむレモン|くりいむレモン PART.4 POPCHASER]](1984年)原画(あんのひであき名義) * [[天使のたまご]](1985年)原画 * [[メガゾーン23]](1985年)原画 * [[禁断の黙示録 クリスタル・トライアングル]](1987年)原画 * [[来留間慎一|真魔神伝 バトルロイヤルハイスクール]](1987年)作画監督補佐、原画 * [[アートミック|メタルスキンパニック MADOX-01]](1988年)原画 * [[アップルシード]](1988年)メカニックスーパーバイザー * [[バオー来訪者]](1989年)原画 * [[江口寿史のなんとかなるでショ!]](1990年)原画 * [[炎の転校生]](1991年)熱烈友情演出(特報) * [[装甲巨神Zナイト]](1991年)原画 * [[ジャイアントロボ THE ANIMATION -地球が静止する日]](1992年 - 1998年)スペシャル・ゲストキー・アニメーター(1話 - 6話)、アバンタイトル原画 * [[帝都物語]] 菩薩篇(1992年)原画 * [[紅狼]](1993年)原画 * [[MACROSS PLUS]](1994年 - 1995年)原画(1話) * [[フリクリ]](2001年 - 2002年)監修、原画(2話、5話)、友情メカニック作画監督(4話)、声優 * [[サブマリン707R]](2003年 - 2004年)オープニング演出、原画 * [[トップをねらえ2!]](2004年 - 2006年)監修、絵コンテ(4話、6話)、原画(2話)、第二原画(6話) * 機動警察パトレイバーREBOOT(2016年)企画、エグゼクティブプロデューサー === 自主制作作品(DAICON FILM作品) === * [[DAICON FILM|DAICON III OPENING ANIMATION]](1981年)原画 * [[愛國戦隊大日本]](1982年)メカニックデザイン、モンスターデザイン、ナレーション、光学 * [[帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令]](1983年)総監督、光学、主演 * [[DAICON FILM|DAICON IV OPENING ANIMATION]](1983年)作画監督、原画 *[[八岐之大蛇の逆襲]](1984年)レポーター役 === 実写映画(参加作品) === * [[ローレライ (映画)|ローレライ]](2005年)画コンテ(CGパート) * [[亡国のイージス]](2005年)絵コンテ(特撮パート) * [[日本沈没]](2006年)メカデザイン * [[ストリングス〜愛と絆の旅路]](2007年)監督(日本語版)※[[人形劇]]映画 * [[監督失格]](2011年)プロデューサー * [[巨神兵東京に現わる]](2012年)製作、脚本、光学作画、企画 * [[シン・ウルトラマン]](2022年)- 製作、企画<ref>{{Cite web|和書|title=「ウルトラマン」の歴史が動く、すべての人に贈るエンターテイメント『シン・ウルトラマン』製作決定!|url=https://m-78.jp/news/post-5190/|website=円谷ステーション – ウルトラマン、円谷プロ公式サイト|accessdate=2019-08-01|language=ja}}</ref>、脚本、編集<ref>{{Cite web|和書|title=シン・ウルトラマン - 映画・映像|url=https://www.toho.co.jp/movie/lineup/shin-ultraman.html|website=東宝WEB SITE|accessdate=2022-04-18|language=ja}}</ref>、コンセプトデザイン、撮影、画コンテ、タイトルロゴデザイン、モーションアクションアクター、ティザーポスター・ティザーチラシ表面デザイン、総宣伝監修、選曲、総監修 === 書籍 === * {{Cite book |和書 |editor=大泉実成|editor-link=大泉実成 |title=庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン |date=1997-03 |publisher=[[太田出版]] |series=¥800本 9 |isbn=9784872333152}} * {{Cite book |和書 |editor=竹熊健太郎|editor-link=竹熊健太郎 |title=庵野秀明パラノ・エヴァンゲリオン |date=1997-03 |publisher=太田出版 |series=¥800本 10 |isbn=9784872333169}} * {{Cite book |和書 |title=The end of evangelion 僕という記号 |date=1997-08 |publisher=[[幻冬舎]] |isbn=9784877281717}} * {{Cite book |和書 |author1=薩川昭夫|authorlink1=薩川昭夫|author2=庵野秀明 |title=シナリオ ラブ&ポップ |date=1998-02 |publisher=幻冬舎 |series=[[幻冬舎文庫]] |isbn=9784877285647}} * {{Cite book |和書 |author1=庵野秀明 |author2=岩井俊二|authorlink2=岩井俊二|title=マジック・ランチャー |date=1998-06 |publisher=デジタルハリウッド出版局 |series=Making of actual-media |isbn=9784925140003}} * {{Cite book |和書 |title=庵野秀明のフタリシバイ ―孤掌鳴難― |date=2001-07 |publisher=[[徳間書店|徳間書店スタジオジブリ事業本部]] |isbn=9784198613754}} * {{Cite book |和書 |title=ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ |date=2016-12 |publisher=[[カラー (映像制作会社)|カラー]] |isbn=9784905033080}} * {{Cite book |和書 |others=[[原口智生]]修復、加藤文哉撮影、庵野秀明総監修、[[樋口真嗣]]・西村祐次共同監修、[[東宝株式会社]]監修 |title=夢のかけら |volume=東宝特撮映画篇 |date=2021-03 |publisher=[[ホビージャパン]] |isbn=9784798624471}} * {{Cite book |和書 |others=原口智生修復、加藤文哉撮影、庵野秀明総監修、樋口真嗣・西村祐次共同監修、[[円谷プロダクション]]監修 |title=夢のかけら |volume=円谷プロダクション篇 |date=2021-08 |publisher=ホビージャパン |isbn=9784798625232}} === シナリオ集 === * {{Cite book |和書 |title=Evangelion original |volume=1 |date=1996-07 |publisher=[[富士見書房]] |isbn=9784829173213}} * {{Cite book |和書 |title=Evangelion original |volume=2 |date=1996-10 |publisher=富士見書房 |isbn=9784829173220}} * {{Cite book |和書 |title=Evangelion original |volume=3 |date=1996-11 |publisher=富士見書房 |isbn=9784829173237}} === 原画集 === * {{Cite book |和書 |editor=「新世紀エヴァンゲリオン原画集」編集部 |others=庵野秀明監修 |title=新世紀エヴァンゲリオン原画集 |volume=第1巻 |date=2000-10 |publisher=[[ガイナックス]] |isbn=9784903713007}} * {{Cite book |和書 |editor=「新世紀エヴァンゲリオン原画集」編集部 |others=庵野秀明監修 |title=新世紀エヴァンゲリオン原画集 |volume=第2巻 |date=2000-12 |publisher=ガイナックス |isbn=9784903713014}} * {{Cite book |和書 |editor=「新世紀エヴァンゲリオン原画集」編集部 |others=庵野秀明監修 |title=新世紀エヴァンゲリオン原画集 |volume=第3巻 |date=2001-03 |publisher=ガイナックス |isbn=9784903713021}} * {{Cite book |和書 |editor=「新世紀エヴァンゲリオン劇場版原画集」編集部 |others=庵野秀明監修 |title=新世紀エヴァンゲリオン劇場版原画集 |volume=上巻 |date=2001-10 |publisher=ガイナックス |isbn=9784903713045}} * {{Cite book |和書 |editor=「新世紀エヴァンゲリオン劇場版原画集」編集部 |others=庵野秀明監修 |title=新世紀エヴァンゲリオン劇場版原画集 |volume=下巻 |date=2002-01 |publisher=ガイナックス |isbn=9784903713052}} * {{Cite book |和書 |others=庵野秀明総監修 |title=新世紀エヴァンゲリオン画集 DIE STERNE |date=2003-07 |publisher=[[角川書店]] |isbn=9784048536523}} * {{Cite book |和書 |editor=「ふしぎの海のナディアアニメーション原画集」編集部 |others=庵野秀明監修 |title=ふしぎの海のナディアアニメーション原画集 return of Nadia |date=2004-12 |publisher=ガイナックス |isbn=9784903713090}} * {{Cite book |和書 |author=安彦良和|authorlink=安彦良和 |others=[[サンライズ (アニメ制作会社)|サンライズ]]監修、庵野秀明責任編集、[[氷川竜介]]構成・編集 |title=安彦良和アニメーション原画集「機動戦士ガンダム」 |date=2013-05 |publisher=角川書店 |isbn=9784041100899}} * {{Cite book |和書 |editor=「新世紀エヴァンゲリオン原画集ダイジェスト」編集部 |others=庵野秀明監修、カラー許諾・監修 |title=新世紀エヴァンゲリオン原画集ダイジェスト |date=2021-01 |publisher=グラウンドワークス |isbn=9784909466020}} * {{Cite book |和書 |editor=「新世紀エヴァンゲリオン劇場版原画集ダイジェスト」編集部 |others=庵野秀明監修、カラー許諾・監修 |title=新世紀エヴァンゲリオン劇場版原画集ダイジェスト |date=2021-04 |publisher=グラウンドワークス |isbn=9784909466037}} === その他の参加作品 === * [[王立宇宙軍 オネアミスの翼|王立宇宙軍]] パイロットフィルム(1985年)作画監督 * ザ・コンプリート・サンダーバード(ダイジェスト版、1985年)構成・編集 ** シン・コンプリート・サンダーバード(HDリマスター版、2021年)監修 * [[ビクター]]ハイパーロボットコンポ(CM、1987年)絵コンテ、原画 * [[龍騎兵団ダンザルブ]](ゲーム、1993年)キャラクター・メカニック・モンスターデザイン * 新・[[トップをねらえ!]]科学講座(特典映像、1994年)プロデューサー、脚本、音響 * シズラープロジェクト(特典映像、2001年)原画 * [[アニメ店長]](PV、2002年)友情監督 * [[SH-06A#SH-06A NERV|SH-06A NERV]]([[スマートフォン]]、2009年)デザイン * [[矢野顕子]]プロモーションビデオ「しあわせなバカタレ」(PV、2011年)プロデューサー * コンテンツビジネス最前線 [[ジャパコンTV]](PV、2012年)OP原画 * [[安堂ロイド〜A.I. knows LOVE?〜]](実写テレビドラマ、2013年)コンセプト・設定協力 * Peaceful Times(F02)petit film(PV、2013年)監修 * [[日本アニメ(ーター)見本市]](Webアニメ、2014年 - ) ** 企画立案・エグゼクティブプロデューサー・「(ーター)くん」キャラクターデザイン ** 安彦良和・板野一郎 原撮集(2015年)構成・編集 ** until You come to me.(2015年)原作・レイアウト(共同) ** evangelion:Another Impact(Confidential)(2015年)原作 ** おばけちゃん(2015年)原画協力・特技監修 ** ザ・ウルトラマン(2015年)エグゼクティブプロデューサー * [[シン・ゴジラ対エヴァンゲリオン交響楽]](オーケストラコンサート、2017年)エグゼクティブ・プロデューサー * [[準天頂衛星システム]]「みちびき」2 - 4号機ミッションロゴ(2017年)監修 === その他の自主制作作品 === * 閉じた部屋の中で(1977年) * ナカムライダー(1978年) * UBEKOSEI(1978年) * 宇部高美術部作品集(1978年) * 反戦(1978年) * ことわざ辞典 へたな鉄砲も数うちゃあたる!(1979年) * みず(1980年) * バス停にて…(1980年) * じょうぶなタイヤ!SHADOタイヤ(1980年) * 空中換装(1980年) * ザク(1980年) * レーゾー庫を開けたら戦車がとび出した!!(1980年) * ウルトラマン(1980年) * ウルトラマンDX(1981年) * TEA TINE(1981年) * パワードスーツ!装甲強化服(1981年) == 出演 == === 映画・OV === * [[ドラゴンクエスト ファンタジア・ビデオ]](1988年) - [[竜王 (ドラゴンクエスト)|竜王]] 役 ※制作スタッフとしてエフェクトアニメ演出も担当 * [[あぶない刑事フォーエヴァー#劇場作品|あぶない刑事フォーエヴァーTHE MOVIE]](1998年、[[成田裕介]]監督) - 怪しい男 役 * FROG RIVER(2001年、[[伊志嶺一]]監督作品、「Grasshoppa!」の全4話) - Bar「ほら貝」のマスター(世界制覇) 役 * [[茶の味]](2003年、[[石井克人]]監督作品) - 監督 役 * [[恋の門]](2004年、[[松尾スズキ]]監督作品) - 旅館経営者夫婦(妻役は安野モヨコ) 役 ※劇中アニメ『不可思議実験体ギバレンガー』メカニックデザイン・演出も担当 * [[ナイスの森〜The First Contact〜]](2006年、[[石井克人]]、[[三木俊一郎]]、[[ANIKI]]監督作品) - 原画マン ハスダ 役 * [[日本沈没#2006年の映画|日本沈没]](2006年) - 山城教授の娘婿 役 ※制作スタッフとしてメカデザインも担当 * [[キャッチボール屋]](2006年、[[大崎章]] 第1回監督作品) - 先代キャッチボール屋 役 * [[さくらん]](2007年、原作・安野モヨコ [[蜷川実花]]監督作品) - 玉菊屋の客 役 * [[クワイエットルームにようこそ]](2007年、[[松尾スズキ]]監督作品) - 松原医師 役 * [[デスカッパ]](2010年) - 友情出演 * [[ホームカミング (2011年の映画)|ホームカミング]](2011年、[[飯島敏宏]]監督作品) - 友情出演 * [[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]](2013年、宮崎駿監督作品、アニメ映画) - 主演・[[堀越二郎]] 役 * [[夢と狂気の王国]](2013年、[[砂田麻美]]監督作品) * シン・ゴジラ(2016年、庵野秀明総監督、[[樋口真嗣]]監督・特技監督作品) - 消防隊員(声) 役 * [[星くず兄弟の新たな伝説]](2018年、[[手塚眞]]監督作品) - 酒場でポーカーをする客 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://cinema.pia.co.jp/news/171790/73578/|title=庵野秀明&黒沢清、『星くず兄弟の新たな伝説』に特別出演していた!|publisher=映画情報のぴあ映画生活|date=2018-01-20|accessdate=2018-01-31}}</ref> ※[[山本政志]]、[[犬童一心]]、[[吉村元希]]らと出演 * [[ラストレター (映画)|ラストレター]](2020年、[[岩井俊二]]監督作品) - 岸辺野宗二郎 役<ref>{{Cite web|和書|url= https://natalie.mu/eiga/news/293829 |title= 岩井俊二新作「Last Letter」に松たか子、広瀬すず、神木隆之介、福山雅治が出演 |publisher=映画ナタリー|date=2018-08-03|accessdate=2018-08-03}}</ref> * [[イチケイのカラス#劇場版|映画 イチケイのカラス]](2023年、[[田中亮 (演出家)|田中亮]]監督作品)裁判官役<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2263585/full/|title=庵野秀明、竹野内豊主演映画『イチケイのカラス』に友情出演 メイキング写真を公開|date=2023-01-10|website=ORICON NEWS|publisher=[[オリコン|oricon ME]]|accessdate=2023-01-10}}</ref> === TV === * [[未来潮流]]〜映画監督・[[河瀬直美]]の「リアル」を探して(1997年7月26日放送、[[NHK教育テレビ]]) * [[課外授業 ようこそ先輩]](1999年10月24日放送、NHK) * [[トップランナー]](2004年5月9日放送、NHK) * [[トゥルーラブ]](西村圭介役 2006年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[P&Gパンテーンドラマスペシャル]]) * [[MM9]](第6話、通行人役 2010年8月11日放送) * 岩井俊二のMOVIEラボ(2015年1月8日・同15日放送、[[NHK教育テレビジョン|NHK-E]]) * 庵野さんと僕らの向こう見ずな挑戦 日本アニメ(ーター)見本市(2015年11月8日放送、[[NHK BSプレミアム]]) * [[プロフェッショナル 仕事の流儀]] 庵野秀明スペシャル(2021年3月22日放送、[[日本放送協会|NHK]]) * [[BS1スペシャル]]「さようなら全てのエヴァンゲリオン〜庵野秀明の1214日〜」(2021年4月29日、[[NHK BS1]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www6.nhk.or.jp/anime/topics/detail.html?i=10347 |title=さようなら全てのエヴァンゲリオン〜庵野秀明の1214日〜 |date=2021-04-16 |publisher=NHK |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210416080042/https://www6.nhk.or.jp/anime/topics/detail.html?i=10347 |archivedate=2021-04-16 |accessdate=2021-05-02}}</ref> **再放送 NHK-G, 2021年8月6日 AM 0:11~ * ドキュメント「シン・仮面ライダー 〜ヒーローアクション挑戦の舞台裏〜」(2023年3月31日、NHK BSP)<ref>{{Cite web2 |url=https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2023126899SA000/?capid=nte001 |title=ドキュメント「シン・仮面ライダー」〜ヒーローアクション挑戦の舞台裏〜 |date=2023-03-31 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.md/J3pqp |df=ja |url-status=live |archivedate=2023-04-01 |accessdate=2023-04-01}}</ref> === CM === * [[日産自動車]] Touch Your NISSAN キャンペーン(2005年) * [[KDDI]]/[[沖縄セルラー電話]] [[au (通信)|au]] loves ジブリキャンペーン「ジブリの森」篇・「風立ちぬ」篇(2013年) * [[本田技研工業]] 「Go, Vantage Point.」(2017年) * [[サッポロビール]] サッポロ生ビール黒ラベル(2018年) === その他の出演 === * ナディアおまけ劇場(1991年)監督、脚本、出演 * [[NEON GENESIS EVANGELION ADDITION]]『終局の続き(仮題)』(脚本、演出、出演) * JMSDF FLEET POWERS(出演、映像監修) == 受賞歴 == ; [[星雲賞]] :* 第21回[[1990年]]度メディア部門(『[[トップをねらえ!]]』) :* 第48回[[2017年]]度メディア部門(『[[シン・ゴジラ]]』) :* 第53回[[2022年]]度自由部門(『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版]]シリーズの完結』 受賞対象者:'''庵野秀明'''』) :<!-- この「:」は削除しないでください。[[Help:箇条書き]]参照 --> ; [[日本SF大賞]] :* 第18回(『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』) :* 第37回特別賞(『シン・ゴジラ』) : ; [[アニメーション神戸]] :* 96'(第1回アニメーション神戸)個人賞(『新世紀エヴァンゲリオン』) : ; [[東京アニメアワード]] :* 2008年 個人部門・監督賞(『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序]]』) :* 2014年 個人部門・声優賞(『風立ちぬ』) :* 2021年 個人賞・原作・脚本部門、監督・演出部門:庵野秀明([[シン・エヴァンゲリオン劇場版]]) ; [[ヨコハマ映画祭]] :* 第20回新人監督賞(『[[ラブ&ポップ]]』) :* 第38回特別大賞(『シン・ゴジラ』) : ; [[日本アカデミー賞]] :* [[第21回日本アカデミー賞|第21回]]話題賞・作品部門(『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』) :* [[第31回日本アカデミー賞|第31回]]優秀アニメーション作品賞(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』) :* [[第33回日本アカデミー賞|第33回]]優秀アニメーション作品賞(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』) :* [[第36回日本アカデミー賞|第36回]]優秀アニメーション作品賞(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』) :* [[第40回日本アカデミー賞|第40回]]最優秀作品賞・最優秀監督賞・最優秀編集賞(『シン・ゴジラ』) :* [[第45回日本アカデミー賞|第45回]]最優秀アニメーション作品賞・話題賞・作品部門(『シン・エヴァンゲリオン劇場版』) :* [[第46回日本アカデミー賞|第46回]]優秀編集賞(『シン・ウルトラマン』) : ; [[第71回毎日映画コンクール]] :* 日本映画大賞(『シン・ゴジラ』) ; [[東京国際映画祭]] :* [[第13回東京国際映画祭]] 最優秀芸術貢献賞(『[[式日]]』) : ; [[日本映画プロフェッショナル大賞]] :* 第21回作品賞(『[[監督失格]]』) : ; [[日本映画批評家大賞]] :* 第22回アニメーション監督賞(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』) :* 第31回アニメーション監督賞(『シン・エヴァンゲリオン劇場版』) : ; [[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]] :* 第59回作品賞(『シン・ゴジラ』) : ; [[東京スポーツ映画大賞]] :* 第26回監督賞(『シン・ゴジラ』) : ; [[キネマ旬報ベスト・テン]] :* 第90回脚本賞(『シン・ゴジラ』) : ; [[芸術選奨]] :* 第67回映画部門文部科学大臣賞(『シン・ゴジラ』) : ; [[文化庁メディア芸術祭]] :* 第20回エンターテインメント部門大賞(『シン・ゴジラ』) : ; [[文化庁メディア芸術祭アニメーション部門]] :* 第1回優秀賞(『新世紀エヴァンゲリオン』) :* 第17回優秀賞(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』) : ; [[SPACE SHOWER MUSIC AWARDS]]2022 :* BEST CONCEPTUAL VIDEO : [[宇多田ヒカル]]「[[One Last Kiss]]」(監督:庵野秀明) : ; [[神奈川文化賞]] :*第70回(庵野秀明) : ; [[紫綬褒章]]<ref>『官報』号外第97号、令和4年5月2日</ref><ref name="cao">{{Cite web|和書|url=https://www8.cao.go.jp/shokun/hatsurei/r04haru/meibo_hosho/hosho-13tokyo.pdf|title=令和4年春の褒章 受章者 東京都|format=PDF|accessdate=2023-05-04|publisher=[[内閣府]]|date =2022-04-29|page=2}}</ref> :* 2022年4月 == その他・逸話 == * [[宮崎駿]]には反発した時期もあり、庵野が宮崎監督作品を「つまらない[[日本映画|映画]]」と評したこともあった。しかし『新世紀エヴァンゲリオン』放送終了後、庵野が危ないという噂を聞いた宮崎は[[電話]]をかけ「作れるようになるまで休めばいい」「あれだけのものを作ったんだから、人も金も集まってくる」と庵野を励まし、庵野は宮崎の言葉にかなり助けられたという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0067513|title=庵野秀明、宮崎駿との秘話明かす「エヴァ」のプレッシャーから助けられた… |publisher=[[シネマトゥデイ]]|accessdate=2021-3-22}}</ref>。 * [[1984年]](昭和59年)に、原画として参加した『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』で、後に作中の登場人物クシャナを主人公にした外伝を作りたいと申し出るが、宮崎駿は庵野の企画を[[戦争]]ごっこをやりたいだけなのだとし、くだらない最低のものになるのが決まっているからと却下している<ref>{{Cite journal |和書 |title = 少し前よりもナウシカの事が少しわかるようになった。 ロング・インタビュー宮崎駿 |journal = [[コミックボックス]] |volume = VOL.98 |date = 1995-01 |publisher = [[ふゅーじょんぷろだくと]] |page = 21 }}</ref>。『ナウシカ』の漫画作品の連載がクライマックスを迎えたころには、映画会社内で続編の企画が存在したが、宮崎の意向により、制作は行われず企画は立ち消えとなった<ref name="nikkeibp">{{Cite web|和書|url=http://premium.nikkeibp.co.jp/itm/col/suzuki/143/ |author=鈴木貴博 |title=ビジネスを考える目 第143回 映画『風の谷のナウシカ2』は実現するのか |publisher=ITマネジメント |accessdate=2008-09-11 |deadlinkdate=2017年10月 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081004233709/http://premium.nikkeibp.co.jp/itm/col/suzuki/143/ |archivedate=2008年10月4日 }}</ref>。しかし、[[2013年]]に「僕は続編をやる気はない。でも庵野がやりたいやりたいと言うから、やるならやっても良いと思うようになっていってます」と発言<ref>王様のブランチ「宮崎駿×本仮屋ユイカスペシャルインタビュー」{{出典無効|date=2023年1月}}</ref>。[[鈴木敏夫]]によると、[[2016年]]時点では既に宮崎本人から続編を手がける許可を得ているものの、庵野自身がなかなか動かずにいるという<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/pp/godzilla2016_01/page/2 |author=伊東弘剛 |title=鈴木敏夫、庵野秀明を語る。 |publisher=映画ナタリー |accessdate=2016-08-03}}</ref>。 * [[1988年]](昭和63年)に公開された『[[火垂るの墓]]』で原画を担当し、[[神戸港]]での[[観艦式]](清太の回想)の場面での軍艦(高雄型重巡洋艦「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」)を、出来るだけ史実に則って描写することを求められ、[[舷窓]]の数やラッタルの段数まで正確に描いた。もっとも完成した映画では([[樋口真嗣]]の妻、[[高屋法子]]の手によって)すべて影として塗り潰され、庵野の努力は徒労に終わったという。 *「[[アニメージュ]]」1997年1月号で最も多く観た映画として『[[激動の昭和史 沖縄決戦|激動の昭和史/沖縄決戦]]』([[岡本喜八]]監督)を挙げており、「一番好きな監督はだれかと言われたら、考える間もなく「[[岡本喜八]]」と言ってしまうんですけど」と述べている<ref>{{Cite journal |和書 |title = 庵野秀明×岡本喜八 |journal = [[アニメージュ]] |date = 1997-01 |publisher = 徳間書店 |page = 5-8}}</ref>。 * [[1999年]](平成11年)、[[海上自衛隊]]の[[ドキュメンタリー|ドキュメント]]ビデオである『JMSDF FLEET POWERS』に出演し、同作品の映像監修も務めた。 * 極端な[[偏食|偏食家]]であり、[[食肉|肉]]と魚は一切食べられない。自ら動く生物は食べられないという(ジブリ汗まみれ、Vol.119)。その一方で、[[菜食主義者]]かというとそうでもなく、知らないものに対する警戒心が強いがゆえに食べられるものが少なく(妻の安野モヨコによれば、例えば食べる必要のなかった[[ズッキーニ]]を食べられるようにするのに苦労したという)、油断するとスナック菓子ばかり食べているという<ref>{{Cite web|和書|url=https://fumumu.net/219957/|title=安野モヨコ、当初の庵野秀明は「死んじゃうんじゃないか」 夫婦像に反響|website=fumumu|date=2021-03-23|accessdate=2021-03-24}}</ref>。 * 安野モヨコの著作『[[監督不行届]]』によると、[[伊藤理佐]]の漫画『[[おるちゅばんエビちゅ]]』のエビちゅの真似をして「〜でちゅう」言葉を日常会話で使っていた時期があったという。また、『[[日本沈没#1973年の映画|日本沈没]]』で[[丹波哲郎]]が演じた山本総理のマネは得意。 * [[1970年]]前後生まれのアニメ監督に、庵野を尊敬している人物が多く、[[水島精二]]、[[山本寛 (アニメ演出家)|山本寛]]、[[高村和宏]]、[[京田知己]]などは各所のインタビューで度々その旨を語っている{{Full|date=2023年9月}}。 * 若いころは大の[[風呂]]嫌いであり、長い時は1年間風呂に入らなかったという。庵野曰く「風呂に入らなくても死なない。死なないことを毎日、習慣でする奴は時間が余ってるからだ。オレにはやることがあるので、余ってる時間などない。ゆえに風呂になど入らない」「頭皮は1ヶ月で痒くなくなる」「(数ヶ月に1度、風呂に入った時は)身体を洗ったお湯が灰色になった」とのこと<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/aoihonoo/special/blog/06.html|title=ドラマ24「アオイホノオ」 |publisher=[[テレビ東京]]|accessdate=2017-4-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://ch.nicovideo.jp/ex/blomaga/ar606169|title = 岡田斗司夫の毎日ブロマガ|publisher=[[ドワンゴ]]|accessdate=2017-10-05}}</ref>。しかし『[[監督不行届]]』によれば、結婚生活の中で妻から改善を促され、現在は定期的に入るようになった。 == 庵野秀明をモデルとしたキャラクター == * [[監督不行届]] ([[安野モヨコ]]作、[[祥伝社]]) ** 庵野をモデルとしたキャラクター「カントクくん」が登場。アニメ版の声優は[[山寺宏一]]。 * [[式日]](庵野秀明監督の実写映画) ** 庵野自身の「カントク」を、[[岩井俊二]]が演じ、庵野の出身地である[[山口県]][[宇部市]]が、ロケや映画の舞台となった。 * [[アオイホノオ]]([[島本和彦]]作、[[小学館]]) ** 庵野をモデルとしたキャラクター「[[大阪芸術大学|大作家芸術大学]]学生で後のエヴァンゲリオン監督となる庵野秀明」が登場。[[アオイホノオ#テレビドラマ|ドラマ版]]では[[安田顕]]が演じた{{efn|ドラマ版での名前は「庵野ヒデアキ」。}}。 * [[SHIROBAKO]]([[水島努]]監督、[[ピーエーワークス|P.A.WORKS]]制作のTVアニメーション) ** 第11話の最後で話題に上り、第12話に登場したアニメーション監督では、「菅野光明」の名前で登場。声優は[[樫井笙人]]。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2 |refs= <ref name="ぶらぶら美術館 庵野秀明展">{{Cite news|url= https://www.bs4.jp/burabi/articles/hkxw7s5f6fejwhqx.html |title= BS日テレ『ぶらぶら美術館 庵野秀明展』 |newspaper= [[BS日テレ]] |date= 2021-11-02 |accessdate= 2022-02-19 }}</ref> <ref name="mynavi-1">{{Cite web|和書|author=山田井ユウキ |date=2014-11-05 |url=https://news.mynavi.jp/article/20141105-annohideaki/ |title=庵野秀明監督「アニメーターの技術は、今でも『オネアミスの翼』が最高峰」と断言 - 自らのキャリアを語る (1) 『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』の原画に感動した庵野秀明監督 |work=[[マイナビニュース]] |publisher=[[マイナビ]] |accessdate=2015-03-18}}</ref> <ref name="mynavi-2">{{Cite web|和書|author=山田井ユウキ |date=2014-11-05 |url=https://news.mynavi.jp/article/20141105-annohideaki/2 |title=庵野秀明監督「アニメーターの技術は、今でも『オネアミスの翼』が最高峰」と断言 - 自らのキャリアを語る (2) 納得のいく爆発表現は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の丸い爆発 |work=[[マイナビニュース]] |publisher=[[マイナビ]] |accessdate=2015-03-18}}</ref> <ref name="名前なし-1">[https://www.npo-homepage.go.jp/npoportal/detail/013012531 NPO法人ポータルサイト アニメ特撮アーカイブ機構]</ref> <ref name="名前なし-2">高等学校美術教科書『美術1』、光村図書、平成28年3月10日 検定済み、平成31年2月5日 発行、66ページ</ref> <ref name="ゴジラ大百科MG">{{Cite book|和書|others=監修 [[田中友幸]]、責任編集 [[川北紘一]]|title=ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科 [メカゴジラ編]|publisher=[[Gakken]]|series=Gakken MOOK|date=1993-12-10|page=170|chapter=ゴジラ映画を100倍楽しくする 東宝怪獣映画カルト・コラム 46 ゴジラとアニメーション}}</ref> }} == 関連項目 == * [[ゼネラルプロダクツ]] * [[ガイナックス]] * [[カラー (映像制作会社)]] * [[ハッピー興行新社]](庵野秀明が主宰する同人サークル) * [[アオイホノオ]]([[島本和彦]]の漫画。作中に庵野が実名で登場する。島本と庵野は大阪芸大の同じ学科の同級生である) * [[宮崎駿]] * [[西村知美]](中学校の後輩) * [[庵野秀明 (小惑星)]] * [[轟木一騎]](助手) * [[金田伊功]] * [[岩井俊二]](共著『マジック・ランチャー』で対談後、映画『式日』にて庵野監督の役を演じる等親交がある) * [[岡本喜八]](一番好きな監督との問いに同監督を挙げている) == 外部リンク == {{Commonscat|Hideaki Anno}} * [https://www.khara.co.jp/ 株式会社カラー] (庵野秀明が代表取締役を務める制作会社) * [https://www.khara.co.jp/hideakianno/ 庵野秀明公式ウェブ] * [https://atac.or.jp/ アニメ特撮アーカイブ機構](庵野秀明が代表を務めるNPO法人) * {{Allcinema name}} * {{imdb name|nm0030417|Hideaki Anno}} {{庵野秀明監督作品}} {{カラー}} {{ガイナックス}} {{スタジオジブリ}} {{新世紀エヴァンゲリオン}} {{ゴジラ}} {{Navboxes |title= 受賞 |list1= {{日本SF大賞|第18回}} {{星雲賞メディア部門}} {{日本アカデミー賞最優秀監督賞}} {{日本映画批評家大賞アニメーション部門監督賞}} {{キネマ旬報ベスト・テン脚本賞}} {{ヨコハマ映画祭新人監督賞}} }} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あんの ひてあき}} [[Category:庵野秀明|*]] [[Category:日本の男性アニメーター]] [[Category:日本のアニメーション監督]] [[Category:日本の映画監督]] [[Category:特撮スタッフ]] [[Category:カラーの人物]] [[Category:ガイナックスの人物]] [[Category:ファンダムに関連する人物]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:21世紀日本の実業家]] [[Category:菜食主義者]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:山口県立宇部高等学校出身の人物]] [[Category:山口県出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]]
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全日本2歳優駿
全日本2歳優駿(ぜんにっぽんにさいゆうしゅん)は、神奈川県川崎競馬組合が川崎競馬場で施行する地方競馬の重賞競走(ダートグレード競走、JpnI)である。 農林水産大臣より寄贈賞が提供されており、正式名称は「農林水産大臣賞典 全日本2歳優駿」と表記される。 副賞は、農林水産大臣賞、川崎市長賞、日本中央競馬会理事長賞、日本馬主協会連合会長奨励賞、日本地方競馬馬主振興協会会長賞、地方競馬全国協会理事賞、神奈川県馬主協会会長賞、チャーチルダウンズ競馬場賞、よみうりランド賞、管理者賞(2023年)。 1950年に「全日本三才優駿」の名称で創設され、第1回は川崎競馬場のダート1200mで施行された。1988年より「全日本3歳優駿」に改称、2001年に競走馬年齢(馬齢)を国際基準に合わせた事に伴い「全日本2歳優駿」に改称した。現存する地方競馬の重賞競走では最も歴史が長い。 第1回に限り中央競馬(日本中央競馬会)から競走馬を招待して行われたが、第2回(1951年)以降は南関東地区の2歳(旧3歳)チャンプ決定戦として位置付けられダート1400mに延長、更に1956年にはダート1500m、1959年に現在のダート1600mで施行されるようになった。1985年には地方全国交流競走に指定され、南関東地区だけではない名実共に全日本の地方競馬の2歳(旧3歳)チャンピオン決定戦として位置付けられた。1997年には中央・地方全国指定交流競走に指定され中央競馬所属馬に再び門戸が開かれ、前年から制度化されていたダートグレード競走のGII(統一GII)に格付けされた。2002年にはダートグレード競走のGI(統一GI)に昇格、名実共に日本の2歳ダート最強馬決定戦として位置付けされた。 2017年より、前年に創設された日本馬を対象としたケンタッキーダービー(G1)出走馬選定ポイントシリーズ「JAPAN ROAD TO THE KENTUCKY DERBY」の対象競走に指定され、サブタイトルに「めざせ!ケンタッキー」が付与され、2018年からは国際競走として施行されることになった。また国際格付け上の扱いも、2017年の時点では「LR」(出走資格に制限のあるリステッド競走)であったものが2018年の時点では「L」(出走資格に制限のないリステッド競走)となっている。国際格付けでのグレード格付けは未取得。 古くはネンタカラ(中央競馬に移籍後はゴールデンウエーブ)、ダイゴホマレの2頭の東京優駿優勝馬に始まり天皇賞(春)優勝馬のオンスロート、ヒカルタカイ、東京大賞典優勝馬スピードパーシアなどが優勝。1990年代以降も中央競馬のアグネスワールド・アグネスデジタル・ユートピア・スーニ・ルヴァンスレーヴ、地方競馬のトーシンブリザード・フリオーソら、のちに日本や世界で活躍する馬を多数輩出している。 以下の競走で所定の成績を挙げた地方競馬所属馬は、優先出走権が付与される。 上記のほか、ダートグレード競走の2着以内馬は指定馬として選定対象になる。 馬齢は2000年以前も現表記を用いる。 全て川崎競馬場のダートコースでの施行。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "全日本2歳優駿(ぜんにっぽんにさいゆうしゅん)は、神奈川県川崎競馬組合が川崎競馬場で施行する地方競馬の重賞競走(ダートグレード競走、JpnI)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "農林水産大臣より寄贈賞が提供されており、正式名称は「農林水産大臣賞典 全日本2歳優駿」と表記される。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "副賞は、農林水産大臣賞、川崎市長賞、日本中央競馬会理事長賞、日本馬主協会連合会長奨励賞、日本地方競馬馬主振興協会会長賞、地方競馬全国協会理事賞、神奈川県馬主協会会長賞、チャーチルダウンズ競馬場賞、よみうりランド賞、管理者賞(2023年)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1950年に「全日本三才優駿」の名称で創設され、第1回は川崎競馬場のダート1200mで施行された。1988年より「全日本3歳優駿」に改称、2001年に競走馬年齢(馬齢)を国際基準に合わせた事に伴い「全日本2歳優駿」に改称した。現存する地方競馬の重賞競走では最も歴史が長い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "第1回に限り中央競馬(日本中央競馬会)から競走馬を招待して行われたが、第2回(1951年)以降は南関東地区の2歳(旧3歳)チャンプ決定戦として位置付けられダート1400mに延長、更に1956年にはダート1500m、1959年に現在のダート1600mで施行されるようになった。1985年には地方全国交流競走に指定され、南関東地区だけではない名実共に全日本の地方競馬の2歳(旧3歳)チャンピオン決定戦として位置付けられた。1997年には中央・地方全国指定交流競走に指定され中央競馬所属馬に再び門戸が開かれ、前年から制度化されていたダートグレード競走のGII(統一GII)に格付けされた。2002年にはダートグレード競走のGI(統一GI)に昇格、名実共に日本の2歳ダート最強馬決定戦として位置付けされた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2017年より、前年に創設された日本馬を対象としたケンタッキーダービー(G1)出走馬選定ポイントシリーズ「JAPAN ROAD TO THE KENTUCKY DERBY」の対象競走に指定され、サブタイトルに「めざせ!ケンタッキー」が付与され、2018年からは国際競走として施行されることになった。また国際格付け上の扱いも、2017年の時点では「LR」(出走資格に制限のあるリステッド競走)であったものが2018年の時点では「L」(出走資格に制限のないリステッド競走)となっている。国際格付けでのグレード格付けは未取得。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "古くはネンタカラ(中央競馬に移籍後はゴールデンウエーブ)、ダイゴホマレの2頭の東京優駿優勝馬に始まり天皇賞(春)優勝馬のオンスロート、ヒカルタカイ、東京大賞典優勝馬スピードパーシアなどが優勝。1990年代以降も中央競馬のアグネスワールド・アグネスデジタル・ユートピア・スーニ・ルヴァンスレーヴ、地方競馬のトーシンブリザード・フリオーソら、のちに日本や世界で活躍する馬を多数輩出している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "以下の競走で所定の成績を挙げた地方競馬所属馬は、優先出走権が付与される。", "title": "競走条件・賞金(2023年)" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "上記のほか、ダートグレード競走の2着以内馬は指定馬として選定対象になる。", "title": "競走条件・賞金(2023年)" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "馬齢は2000年以前も現表記を用いる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "全て川崎競馬場のダートコースでの施行。", "title": "歴史" } ]
全日本2歳優駿(ぜんにっぽんにさいゆうしゅん)は、神奈川県川崎競馬組合が川崎競馬場で施行する地方競馬の重賞競走(ダートグレード競走、JpnI)である。 農林水産大臣より寄贈賞が提供されており、正式名称は「農林水産大臣賞典 全日本2歳優駿」と表記される。 副賞は、農林水産大臣賞、川崎市長賞、日本中央競馬会理事長賞、日本馬主協会連合会長奨励賞、日本地方競馬馬主振興協会会長賞、地方競馬全国協会理事賞、神奈川県馬主協会会長賞、チャーチルダウンズ競馬場賞、よみうりランド賞、管理者賞(2023年)。
{{競馬の競走 |馬場 = ダート |画像 = [[ファイル:Love_Michan_20091216W1.jpg|230px]] |画像説明 = 2009年優勝馬ラブミーチャン<br>(鞍上・[[濱口楠彦]]) |競走名 = 全日本2歳優駿 |開催国 = {{Flagicon|JPN}}[[日本の競馬|日本]] |主催者 = [[神奈川県川崎競馬組合]] |競馬場 = [[川崎競馬場]] |年次 = 2023 |格付け = JpnI / 国際[[リステッド競走|L]] |1着賞金 = 4200万円 |賞金総額 = <!-- 着外手当(着外賞金)があるので一応空欄に --> |距離 = 1600m |条件 = {{Nowrap|[[サラブレッド]]系2歳(国際交流)}}<br />[[#出走資格|出走資格]]も参照 |負担重量 = 定量(55[[キログラム|kg]]、[[牝馬|牝]]1kg減 南半球産3kg減) |第一回施行日 = [[1950年]]8月13日 |出典 = <ref name="bangumi">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.kawasaki-keiba.jp/info/news/pdf/R5_zennnihonn2saiyuusixyun_1207.pdf|title=目指せケンタッキー 農林水産大臣賞典 第74回全日本2歳優駿競走(JpnⅠ)〔国際交流〕登録馬(令和5年12月13日実施)|website=川崎競馬 KAWASAKI KEIBA|accessdate=2023-12-11}}</ref> }} '''全日本2歳優駿'''(ぜんにっぽんにさいゆうしゅん<ref name="jockeyclub-2015">{{cite web|format=PDF|url=http://www.tjcis.com/pdf/icsc15/ICSC-partI_Japan.pdf|title=Pt I—JAPAN|publisher=[[ジョッキークラブ|The Jockey Club]] Information Systems|accessdate=2016-02-07}}</ref><ref group="注">「ぜんにほんにさいゆうしゅん」と呼称する例もある。{{Cite web|和書|url=http://keiba-lv-st.jp/movie/player?track=kawasaki&date=20131218&race=11|title=過去映像 2013/12/18 川崎 11R|website=地方競馬ライブ|accessdate=2016-02-07}}</ref>)は、[[神奈川県川崎競馬組合]]が[[川崎競馬場]]で施行する[[地方競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[ダートグレード競走]]、[[G1 (競馬)|JpnI]])である。 [[農林水産大臣]]より寄贈賞が提供されており、正式名称は「'''[[農林水産大臣賞典]] 全日本2歳優駿'''」と表記される。 副賞は、農林水産大臣賞、川崎市長賞、[[日本中央競馬会]]理事長賞、[[日本馬主協会連合会]]長奨励賞、日本地方競馬馬主振興協会会長賞、[[地方競馬全国協会]]理事賞、神奈川県馬主協会会長賞、[[チャーチルダウンズ競馬場]]賞、[[よみうりランド]]賞、管理者賞(2023年)<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.nagoyakeiba.com/info/race/file/63d1919a4abeece8743b0589e75ea6fa7b10b810.pdf|title=川崎競馬出走馬一覧表 令和5年度第10回川崎競馬第3日12月13日(水)|website=名古屋けいばオフィシャルサイト|accessdate=2023-12-11}}</ref>。 == 概要 == [[1950年]]に「'''全日本三才優駿'''」の名称で創設され、第1回は川崎競馬場のダート1200mで施行された。[[1988年]]より「全日本3歳優駿」に改称、[[2001年]]に競走馬年齢([[馬齢]])を国際基準に合わせた事に伴い「全日本2歳優駿」に改称した。現存する地方競馬の重賞競走では最も歴史が長い<ref name="netkeiba-20091215">[http://www.plus-blog.sportsnavi.com/netkeiba/article/308 地方馬の大逆襲【全日本2歳優駿】] - netkeiba.com取材ノート、2014年12月3日閲覧</ref>。 第1回に限り[[中央競馬]]([[日本中央競馬会]])から[[競走馬]]を招待して行われた<ref>参考文献:『競馬社会の戦後史』三木晴男、近代文藝社、[[1994年]]</ref>が、第2回([[1951年]])以降は南関東地区の2歳(旧3歳)チャンプ決定戦として位置付けられダート1400mに延長、更に[[1956年]]にはダート1500m、[[1959年]]に現在のダート1600mで施行されるようになった。[[1985年]]には地方全国交流競走に指定され、南関東地区だけではない名実共に全日本の地方競馬の2歳(旧3歳)チャンピオン決定戦として位置付けられた。[[1997年]]には中央・地方全国指定交流競走に指定され中央競馬所属馬に再び門戸が開かれ、前年から制度化されていた[[ダートグレード競走]]のGII(統一GII)に格付けされた。[[2002年]]にはダートグレード競走のGI(統一GI)に昇格、名実共に日本の2歳ダート最強馬決定戦として位置付けされた。 2017年より、前年に創設された日本馬を対象とした[[ケンタッキーダービー]](G1)出走馬選定ポイントシリーズ「JAPAN ROAD TO THE KENTUCKY DERBY」の対象競走に指定され、サブタイトルに「'''めざせ!ケンタッキー'''」が付与され<ref>[http://www.jra.go.jp/news/201709/090105.html 「JAPAN ROAD TO THE KENTUCKY DERBY」平成30年度シリーズ構成競走について]日本中央競馬会、2017年9月2日閲覧</ref>、2018年からは[[国際競走]]として施行されることになった<ref>[https://www.kawasaki-keiba.jp/wp/wp-content/uploads/20180213.pdf 平成30年度神奈川県川崎競馬組合一般会計予算について - 川崎競馬公式サイト]</ref>。また国際格付け上の扱いも、2017年の時点では「LR」<ref name="ICSC2017">{{cite web|url=https://www.tjcis.com/pdf/icsc17/2017_EntireBook.pdf|title=INTERNATIONAL CATALOGUING STANDARDS and INTERNATIONAL STATISTICS 2017|publisher=The Jockey Club Information Systems|accessdate=2020-02-09}}</ref>(出走資格に制限のある[[リステッド競走]])であったものが2018年の時点では「L」<ref name="ICSC2018">{{cite web|url=https://www.tjcis.com/pdf/icsc18/2018_EntireBook.pdf|title=INTERNATIONAL CATALOGUING STANDARDS and INTERNATIONAL STATISTICS 2018|publisher=The Jockey Club Information Systems|accessdate=2020-02-09}}</ref>(出走資格に制限のないリステッド競走)となっている。国際格付けでのグレード格付けは未取得。 古くはネンタカラ(中央競馬に移籍後は[[ゴールデンウエーブ]])、[[ダイゴホマレ]]の2頭の[[東京優駿]]優勝馬に始まり[[天皇賞(春)]]優勝馬の[[オンスロート (競走馬)|オンスロート]]、[[ヒカルタカイ]]、[[東京大賞典]]優勝馬スピードパーシアなどが優勝。1990年代以降も中央競馬の[[アグネスワールド]]・[[アグネスデジタル]]・[[ユートピア (競走馬)|ユートピア]]・[[スーニ (競走馬)|スーニ]]・[[ルヴァンスレーヴ]]、地方競馬の[[トーシンブリザード]]・[[フリオーソ (2004年生)|フリオーソ]]ら、のちに日本や世界で活躍する馬を多数輩出している<ref name="netkeiba-20091215" />。 == 競走条件・賞金(2023年) == ;出走資格 :<span id="出走資格"></span>[[サラブレッド]]系2歳 中央・地方選定馬 :出走枠は中央所属馬5頭、地方所属馬9頭(うち他地区所属は原則6頭以下)。 ;[[負担重量]] :定量(56[[キログラム|kg]]、牝馬55kg、南半球産3kg減<ref name="bangumi"/>) ;賞金額 :1着4,200万円、2着1,470万円、3着840万円、4着420万円、5着210万円、着外手当25万円<ref name="bangumi"/>。 === 優先出走権 === 以下の競走で所定の成績を挙げた地方競馬所属馬は、優先出走権が付与される<ref name="bangumi" />。 {| class="wikitable" !競走名!!格!!競馬場!!距離!!成績条件 |- |[[JBC2歳優駿]]||JpnIII||[[門別競馬場]]||1800m||1着 |- |[[兵庫ジュニアグランプリ]]||JpnII||[[園田競馬場]]||1400m||1着 |- |[[鎌倉記念]]||SII||川崎競馬場||1500m||2着以上 |- |[[ハイセイコー記念]]||SI||[[大井競馬場]]||1600m||1着 |- |[[平和賞 (船橋競馬)|平和賞]]||SIII||[[船橋競馬場]]||1600m||1着 |} 上記のほか、ダートグレード競走の2着以内馬は指定馬として選定対象になる<ref name="bangumi" />。 == 歴史 == *[[1950年]] - 川崎競馬場のダート1200mの2歳(旧3歳)限定の重賞競走「全日本三才優駿」として創設。 *[[1951年]] - 距離をダート1400mに変更。 *[[1956年]] - 距離をダート1500mに変更。 *[[1959年]] **距離をダート1600mに変更。 **この年の[[9月1日]]から日本競馬の時計表示が変更になったのに伴い、時計が1/5秒表示から1/10秒表示に変更。 *[[1985年]] - 地方全国交流競走に指定。 *[[1988年]] - 名称を「全日本3歳優駿」に変更。 *[[1997年]] **中央・地方全国指定交流競走に指定。 **ダート競走格付け委員会から、GII(統一GII)に格付けされる。 *[[2001年]] **[[馬齢]]表示の国際基準への変更に伴い、出走資格が「3歳」から「2歳」に変更。 **名称を「全日本2歳優駿」に変更。 *[[2002年]] - ダート競走格付け委員会により、GI(統一GI)に昇格。 *[[2005年]] - 負担重量が牡馬54kg・牝馬53kgから牡馬55kg・牝馬54kgに変更。 *[[2007年]] - 日本のパートI国昇格に伴い、格付表記をJpnIに変更。 *[[2017年]] - 「JAPAN ROAD TO THE KENTUCKY DERBY」の対象競走に指定。 *2018年 - 国際交流競走となる<ref>{{Cite news|url=https://race.sanspo.com/keiba/news/20180914/ove18091412540003-n1.html|title=米ケンタッキーダービー日本馬選定競走が決定|newspaper=サンケイスポーツ|date=2018-09-14|accessdate=2018-12-17}}</ref>。国際格付けも「LR」(出走資格に制限のある[[リステッド競走]])から「L」(出走資格に制限のないリステッド競走)に変更<ref name="ICSC2017" /><ref name="ICSC2018" />。 *2021年 - [[未来優駿|2歳チャンピオンシリーズ]]の対象競走に指定される(2022年まで)。 *2023年 **[[未来優駿]]の対象競走に指定される。 **負担重量が牡馬56kg、牝馬55kgに変更。 === 歴代優勝馬 === 馬齢は2000年以前も現表記を用いる。 全て川崎競馬場のダートコースでの施行。 {| class="wikitable" !回数!!施行日!!距離!!優勝馬!!性齢!!所属!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主 |- |style="text-align:center"|第1回||1950年8月13日||1200m||サチフサ||牡2||[[大井競馬場|大井]]||1:22 2/5||大山末治||大山末治||小倉極之助 |- |style="text-align:center"|第2回||1951年11月4日||1400m||シンタカラ||牡2||大井||1:22 2/5||勝又衛||小林元治||川俣欣也 |- |style="text-align:center"|第3回||1952年9月30日||1400m||ローズバツト||牝2||大井||1:31 1/5||[[須田茂]]||大山末治||平野高次郎 |- |style="text-align:center"|第4回||1953年11月6日||1400m||[[ゴールデンウエーブ|ネンタカラ]]||牡2||大井||1:30 2/5||遠間波満行||小林元治||川俣欣也 |- |style="text-align:center"|第5回||1954年12月1日||1400m||タジマオー||牡2||[[川崎競馬場|川崎]]||1:31 1/5||[[井上宥蔵]]||[[井上宥蔵]]||田島将光 |- |style="text-align:center"|第6回||1955年11月23日||1400m||カブト||牡2||大井||1:31 4/5||長沢忠夫||大山末治||新本秀吉 |- |style="text-align:center"|第7回||1956年11月15日||1500m||エイシヨウ||牝2||大井||1:38 0/5||須田茂||関口三治||鈴木績 |- |style="text-align:center"|第8回||1957年11月18日||1500m||[[ダイゴホマレ]]||牡2||大井||1:36 0/5||小筆昌||天間三之助||醍醐幸右衛門 |- |style="text-align:center"|第9回||1958年11月20日||1500m||カチススム||牡2||大井||1:38 0/5||内田秋造||秋谷元次||藤田義男 |- |style="text-align:center"|第10回||1959年11月20日||1600m||[[オンスロート (競走馬)|オンスロート]]||牡2||大井||1:41.4||[[赤間清松]]||田中九兵衛||三輪野憲治 |- |style="text-align:center"|第11回||1960年12月6日||1600m||ユキロウ||牡2||大井||1:43.8||古野重孝||栗田武||堀場勝 |- |style="text-align:center"|第12回||1961年11月21日||1600m||セルコール||牡2||[[船橋競馬場|船橋]]||1:45.9||須田茂||[[出川己代造]]||安達保多 |- |style="text-align:center"|第13回||1962年12月1日||1600m||テルチカラ||牡2||大井||1:44.5||高岩隆||森田正一||塚越昭 |- |style="text-align:center"|第14回||1963年12月11日||1600m||ハロユウ||牡2||大井||1:43.7||宮下哲朗||伊藤正美||青野保 |- |style="text-align:center"|第15回||1964年11月18日||1600m||タマノニシキ||牝2||大井||1:43.6||[[佐々木竹見]]||大南栄蔵||宇野智子 |- |style="text-align:center"|第16回||1965年11月24日||1600m||ニユーサカエ||牡2||大井||1:41.7||小筆昌||平野金一||青木福次郎 |- |style="text-align:center"|第17回||1966年11月30日||1600m||[[ヒカルタカイ]]||牡2||大井||1:42.6||竹山隆||鏑木文一郎||高井正子 |- |style="text-align:center"|第18回||1967年11月15日||1600m||バトラー||牡2||大井||1:43.6||[[福永二三雄]]||荒井貢||只木清太郎 |- |style="text-align:center"|第19回||1968年12月26日||1600m||トウシユン||牡2||船橋||1:41.8||渥美忠男||出川己代造||中井美恵子 |- |style="text-align:center"|第20回||1969年12月18日||1600m||タマプチー||牡2||大井||1:42.3||赤間清松||竹内美喜男||花田まさ |- |style="text-align:center"|第21回||1970年12月10日||1600m||タニノカツヒメ||牝2||船橋||1:40.5||宮下紀英||岡林喜和||谷中勇 |- |style="text-align:center"|第22回||1971年12月10日||1600m||ヤシマスウパー||牡2||船橋||1:41.6||内野健二||木村万吉||石塚昌男 |- |style="text-align:center"|第23回||1972年12月20日||1600m||チヤイナホープ||牡2||船橋||1:41.9||[[川島正行]]||[[矢熊壽]]||岡田久夫 |- |style="text-align:center"|第24回||1973年12月5日||1600m||スピードパーシア||牡2||船橋||1:41.0||内野健二||及川六郎||佐藤興業(株) |- |style="text-align:center"|第25回||1974年12月11日||1600m||シタヤロープ||牡2||船橋||1:40.8||佐々木竹見||江口勇||高氏茂二 |- |style="text-align:center"|第26回||1975年12月11日||1600m||カツフアーム||牡2||大井||1:41.3||[[高橋三郎 (競馬)|高橋三郎]]||秋谷元次||[[栗林友二]] |- |style="text-align:center"|第27回||1976年12月10日||1600m||カシキユネ||牡2||[[浦和競馬場|浦和]]||1:42.3||[[本間茂 (騎手)|本間茂]]||中島正治||(株)ルイスクラブ |- |style="text-align:center"|第28回||1977年12月8日||1600m||ヒダカホーリユウ||牡2||船橋||1:41.2||岡島茂||谷口源吾||戸部洋 |- |style="text-align:center"|第29回||1978年12月14日||1600m||マイリマンド||牡2||大井||1:40.5||高橋三郎||菊池千秋||古川一男 |- |style="text-align:center"|第30回||1979年12月20日||1600m||スーパーヤマト||牡2||船橋||1:40.3||[[桑島孝春]]||米山仲司||秋元重弘 |- |style="text-align:center"|第31回||1980年12月17日||1600m||シゲノカマダ||牡2||船橋||1:41.4||[[佐藤隆 (競馬)|佐藤隆]]||吉田馨||鎌田管仲 |- |style="text-align:center"|第32回||1981年12月16日||1600m||ヒノデスター||牡2||船橋||1:42.8||桑島孝春||栗原清||吉種実 |- |style="text-align:center"|第33回||1982年12月20日||1600m||ヨネタロウ||牡2||川崎||1:42.5||本間茂||高橋久志||田所国丈 |- |style="text-align:center"|第34回||1983年12月23日||1600m||ヨシマサボーイ||牡2||船橋||1:42.8||[[石崎隆之]]||出川己代造||吉田昌子 |- |style="text-align:center"|第35回||1984年12月19日||1600m||ロングタイシヨー||牡2||川崎||1:42.7||佐々木竹見||八木弘||笠原英政 |- |style="text-align:center"|第36回||1985年12月25日||1600m||ミハマシヤーク||牡2||川崎||1:42.5||[[山崎尋美]]||鈴木敏一||関明夫 |- |style="text-align:center"|第37回||1986年12月29日||1600m||ダイカツラモーヌ||牝2||浦和||1:43.8||石崎隆之||柘榴喜八郎||志賀泰吉 |- |style="text-align:center"|第38回||1987年12月29日||1600m||リユウコウキング||牡2||川崎||1:43.2||本間茂||鳥飼元脩||池田徳七 |- |style="text-align:center"|第39回||1988年12月21日||1600m||ミルユージ||牡2||船橋||1:44.7||桑島孝春||米山仲司||藤代由太郎 |- |style="text-align:center"|第40回||1989年12月28日||1600m||ハセノトライアン||牡2||船橋||1:43.9||石崎隆之||出川己代造||長谷川文夫 |- |style="text-align:center"|第41回||1990年12月29日||1600m||ユウユウサンボーイ||牡2||川崎||1:42.7||[[森下博 (競馬)|森下博]]||八木弘||澤井唯一 |- |style="text-align:center"|第42回||1991年12月26日||1600m||ヤマニンロード||牡2||川崎||1:42.3||石崎隆之||style="white-space:nowrap"|長谷川蓮太郎||安西善作 |- |style="text-align:center"|第43回||1992年12月22日||1600m||キタサンテイオー||牡2||船橋||1:42.0||石崎隆之||[[川島正行]]||(有)[[大野商事]] |- |style="text-align:center"|第44回||1993年12月27日||1600m||キタノジライ||牡2||style="white-space:nowrap"|[[ホッカイドウ競馬|北海道]]||1:43.2||大城剛||中村光春||吉田秀夫 |- |style="text-align:center"|第45回||1994年12月29日||1600m||ヒカリルーファス||牡2||浦和||1:42.1||佐々木竹見||牛房榮吉||原口常雄 |- |style="text-align:center"|第46回||1995年12月27日||1600m||ホウシュウサルーン||牡2||川崎||1:44.1||石崎隆之||八木仁||共慶商事(株) |- |style="text-align:center"|第47回||1996年12月18日||1600m||オグリダンディ||牡2||大井||1:42.3||[[佐宗応和]]||菅原秀雄||[[小栗孝一]] |- |style="text-align:center"|第48回||1997年12月29日||1600m||[[アグネスワールド]]||牡2||[[日本中央競馬会|JRA]]||1:41.7||[[武豊]]||[[森秀行]]||[[渡辺孝男 (実業家)|渡辺孝男]]、[[吉田照哉]] |- |style="text-align:center"|第49回||1998年12月29日||1600m||アドマイヤマンボ||牡2||JRA||1:43.3||[[田中勝春]]||[[橋田満]]||[[近藤利一]] |- |style="text-align:center"|第50回||1999年12月23日||1600m||[[アグネスデジタル]]||牡2||JRA||1:41.1||[[的場均]]||[[白井寿昭]]||渡辺孝男 |- |style="text-align:center"|第51回||2000年12月13日||1600m||[[トーシンブリザード]]||牡2||船橋||1:42.6||石崎隆之||[[佐藤賢二]]||稲垣博信 |- |style="text-align:center"|第52回||2001年12月25日||1600m||[[プリンシパルリバー]]||牡2||北海道||1:42.5||[[五十嵐冬樹]]||[[成田春男]]||吉田照哉 |- |style="text-align:center"|第53回||2002年12月25日||1600m||[[ユートピア (競走馬)|ユートピア]]||牡2||JRA||1:42.4||[[河内洋]]||[[橋口弘次郎]]||[[金子真人]] |- |style="text-align:center"|第54回||2003年12月17日||1600m||[[アドマイヤホープ]]||牡2||JRA||1:42.8||武豊||橋田満||近藤利一 |- |style="text-align:center"|第55回||2004年12月22日||1600m||[[プライドキム]]||牡2||JRA||1:40.6||[[池添謙一]]||[[池添兼雄]]||[[深見富朗]] |- |style="text-align:center"|第56回||2005年12月21日||1600m||[[グレイスティアラ]]||牝2||JRA||1:42.3||田中勝春||[[手塚貴久]]||(有)[[下河辺牧場]] |- |style="text-align:center"|第57回||2006年12月13日||1600m||[[フリオーソ (2004年生)|フリオーソ]]||牡2||船橋||1:41.8||[[内田博幸]]||川島正行||[[ダーレー・ジャパン・レーシング]](有) |- |style="text-align:center"|第58回||2007年12月19日||1600m||[[イイデケンシン]]||牡2||JRA||1:41.8||[[藤田伸二]]||[[昆貢]]||(株)[[アールエスエーカントリ]] |- |style="text-align:center"|第59回||2008年12月17日||1600m||[[スーニ (競走馬)|スーニ]]||牡2||JRA||1:40.5||内田博幸||[[吉田直弘]]||[[吉田和美]] |- |style="text-align:center"|第60回||2009年12月16日||1600m||[[ラブミーチャン]]||牝2||[[笠松競馬場|笠松]]||1:40.0||[[濱口楠彦]]||[[柳江仁]]||[[小林祥晃]] |- |style="text-align:center"|第61回||2010年12月15日||1600m||[[ビッグロマンス]]||牡2||JRA||1:41.2||田中勝春||[[河野通文]]||[[西村専次]] |- |style="text-align:center"|第62回||2011年12月14日||1600m||[[オーブルチェフ (競走馬)|オーブルチェフ]]||牡2||JRA||1:41.6||[[中舘英二]]||[[萩原清]]||[[前田幸治]] |- |style="text-align:center"|第63回||2012年12月19日||1600m||[[サマリーズ]]||牝2||JRA||1:41.9||[[藤岡佑介]]||[[藤岡健一]]||[[ハヤー・ビント・アル=フセイン|ハヤー・ビント・アル=フセイン]] |- |style="text-align:center"|第64回||2013年12月18日||1600m||[[ハッピースプリント]]||牡2||北海道||1:40.4||宮崎光行||田中淳司||(有)[[辻牧場]] |- |style="text-align:center"|第65回||2014年12月17日||1600m||[[ディアドムス]]||牡2||JRA||1:45.3||[[三浦皇成]]||[[高橋裕 (競馬)|高橋裕]]||[[ディアレスト]] |- |style="text-align:center"|第66回||2015年12月16日||1600m||[[サウンドスカイ]]||牡2||JRA||1:43.1||[[戸崎圭太]]||[[佐藤正雄]]||[[増田雄一 (実業家)|増田雄一]] |- |style="text-align:center"|第67回||2016年12月14日||1600m||[[リエノテソーロ]]||牝2||JRA||1:42.8||[[吉田隼人 (競馬)|吉田隼人]]||[[武井亮]]||[[了徳寺健二]] |- |style="text-align:center"|第68回||2017年12月13日||1600m||[[ルヴァンスレーヴ]]||牡2||JRA||1:41.6||[[ミルコ・デムーロ|M.デムーロ]]||[[萩原清]]||(株)[[G1レーシング]] |- |style="text-align:center"|第69回||2018年12月19日||1600m||[[ノーヴァレンダ]]||牡2||JRA||1:42.6||[[北村友一]]||[[斉藤崇史]]||(有)[[キャロットファーム]] |- |style="text-align:center"|第70回||2019年12月18日||1600m||[[ヴァケーション (競走馬)|ヴァケーション]]||牡2||川崎||1:41.9||[[吉原寛人]]||高月賢一||大岸昌浩 |- |第71回||2020年12月16日||1600m||[[アランバローズ]]||牡2||船橋||1:40.7||[[左海誠二]]||[[林正人 (競馬)|林正人]]||[[猪熊広次]] |- |第72回||2021年12月15日||1600m||[[ドライスタウト]]||牡2||JRA||1:39.2||戸崎圭太||[[牧浦充徳]]||(株)[[YGGホースクラブ]] |- |第73回||2022年12月14日||1600m||[[デルマソトガケ]]||牡2||JRA||1:43.3||[[松若風馬]]||[[音無秀孝]]||[[浅沼廣幸]] |- |第74回||2023年12月13日||1600m||[[フォーエバーヤング (競走馬)|フォーエバーヤング]]||牡2||JRA||1:43.5||[[坂井瑠星]]||[[矢作芳人]]||[[藤田晋]] |} == 脚注・出典 == === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} ==== 各回競走結果の出典 ==== *[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=2701&k_babaCode=21 全日本2歳優駿 歴代優勝馬(1973年以降)] - 地方競馬全国協会 *[https://www.nankankeiba.com/win_uma/38.do 全日本2歳優駿競走優勝馬] - 南関東4競馬公式サイト == 関連項目 == *[[朝日杯フューチュリティステークス]] - 日本における2歳芝マイル最強馬決定戦 *[[ホープフルステークス (中央競馬)|ホープフルステークス]] - 日本における2歳芝中距離最強馬決定戦 *[[阪神ジュベナイルフィリーズ]] - 日本における2歳牝馬の芝最強決定戦 *[[ブリーダーズカップ・ジュヴェナイル]] - アメリカにおける2歳最強馬決定戦 *[[ブリーダーズカップ・ジュヴェナイルフィリーズ]] - アメリカにおける2歳牝馬最強決定戦 *[[ブリーダーズカップ・ジュヴェナイルターフ]] - アメリカにおける2歳芝最強馬決定戦 *[[ブリーダーズカップ・ジュヴェナイルフィリーズターフ]] - アメリカにおける2歳牝馬の芝最強決定戦。2008年新設 == 外部リンク == * [https://www.keiba.go.jp/dirtgraderace/2023/1213_zen-nipponnisaiyushun/racecard.html 全日本2歳優駿|ダートグレード競走特設サイト] - 地方競馬全国協会 * [https://www.kawasaki-keiba.jp/graded_race/20231213/ 川崎競馬公式サイト「レースと日程」]より(2023年版) {{ダートグレード競走}} {{南関東公営競馬の重賞競走}} {{未来優駿}} {{DEFAULTSORT:せんにつほんにさいゆうしゆん}} [[Category:農林水産大臣賞典]] [[Category:地方競馬の競走]] [[Category:川崎競馬場の競走]]
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みうらじゅん
みうら じゅん (本名:三浦 純、1958年2月1日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター。 血液型:AB型、ニックネームはMJ、じゅんちゃん、みうらさん。 妻はシンガーソングライターのbird。 京都府京都市出身。東山高等学校、武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科卒業。 職業については、エッセイスト、小説家、ミュージシャン、評論家、ラジオDJ、編集長、ライター、解説者など幅広い分野で活動しており、公表している職業は「イラストレーターなど」。 亡き祖父は『拓本による京の句碑』を出版した饗庭蘆穂(あいば あしほ) 。 小学生時代から仏像と怪獣が好きな少年で、京都や奈良の仏像をめぐる。仏像が好きすぎて仏教系の学校に入学したが、途中でエロに興味が出て仏像に飽きる。仏像が好きな理由は、怪獣のように見上げる迫力があったからだという。 高校一年生でカセットデビューしてオリジナルソングは全16巻450曲に及ぶ。 高校時代から絵描きを目指し、2浪後に武蔵野美術大学に入学する。在学中から、友人が糸井重里の事務所に勤めていたため、特に何をするでもなく入り浸り、糸井が「タダでイラストを仕上げる奴がいる」と紹介し、カットの仕事をもらっていた。 1980年に『ガロ』誌上でデビュー。『ガロ』に持込をしたのは、他に掲載させてくれる雑誌はないと周囲に言われ判断したためだが、それでも当時編集長の渡辺和博の判断で何度もボツになった。デビュー作の「うしの日」も、一旦はボツになったが、その後、渡辺と親交の深かった糸井の「載せてあげれば?」の一言で掲載された。初期の頃の画風は現在とは全く違い、デビュー前は和田誠を真似た絵だったので、ガロに持ち込みに行った時には渡辺和博に「和田誠って名前変えれば?」と言われた。それからひさうちみちおの絵を真似たり試行錯誤したことから、デビュー時は「ヘタクソなひさうちみちお」のような絵であった。 みうらとガロとの出会いは、小学生の頃に熱を出して学校を休んだ際、父親が貸本屋から希望してた『COM』と間違えて『ガロ』を借りてきてしまい、つげ義春の『ゲンセンカン主人』の温泉シーンで始まった(抜いた)と後年語っている。 1982年には講談社の発行する『週刊ヤングマガジン』のちばてつや賞で佳作を受賞する。以後、『ビックリハウス』や『宝島』などの各雑誌で、関西ネタや怪獣ネタのエッセイやイラストを執筆する。1986年に刊行された、糸井重里を「相談」役にすえた漫画集『見ぐるしいほど愛されたい』で、キャンプなものを題材とする現在のスタイルを確立した。本人曰く、漫画を描くのは大嫌いであるが、完成原稿を並べて俯瞰で見ることだけが楽しみで描いているという。一般的にゆるい絵柄で知られているが、それはカエルの絵などに限り、人物や仏像などは時間をかけて描くことが多い。 1980年代後半からテレビ・ラジオでの出演も増え、多彩な活動を見せ始め、1989年には『いかすバンド天国』に喜国雅彦(漫画家)、滝本淳助(写真家)らと「大島渚」(由来は同名の映画監督の大島渚より)という名のバンドを結成して出演し、『カリフォルニアの青いバカ』というオリジナル楽曲を披露した。 1991年ごろには女装に凝り、いとうせいこう、安斎肇と「バギナーズ」という「女装バンド」を結成した。「ナオミ」の名でボーカルとギターを担当(安斎は「キャンディ・O」、いとうは「マリエ」)。バギナーズは外タレという設定で「遂に来日」「日本上陸」等と謳っていた。 1994年にはハリウッド俳優のチャールズ・ブロンソンの男気に憧れるあまり、映画俳優の田口トモロヲとユニット「ブロンソンズ」を結成。1996年にはいとうせいこうと「The Rock'n Roll Sliders」を結成し、みうらが撮影した写真にいとうが突っ込みを入れるという「ザ・スライドショー」が初めて開催され、以後何度も開催される人気公演となる。 1996年には青林堂からみうら漫画のベスト選集『はんすう』が刊行された。渡辺和博が解説を書いているが、「初めてみうら先生のオフィスに玉稿をいただきにいった時は、非常に緊張した。みうら先生からは、卓越した漫画にたいする意見をいただいた」という、現実にまったく反するイヤミな内容が書かれている。 1997年に自由国民社の『現代用語の基礎知識』による新語・流行語大賞のトップテンに「マイブーム」(後述)が選出され表彰される。 2003年には自伝的コミック『アイデン&ティティ』が、田口トモロヲの初監督作品として映画化され再び脚光を浴びる。『シベリア超特急』が縁で交流のある水野晴郎が世話人を務める日本映画批評家大賞では2004年度に功労賞を受賞。「勝手に観光協会」などのコラムの他、エッセイ、小説など文章の世界でも活躍中である。 歌手birdとの不倫(後にみうらの子を出産)が発覚し、前夫人と2007年春に離婚した。birdとは2006年末から「パートナー」という形で共同生活をしていたが、第2子の妊娠をきっかけに2009年に入籍をした。 2008年には興福寺創建1300年記念『国宝 阿修羅展』(2009年に東京・福岡で開催)にともない発足する『阿修羅ファンクラブ』の会長となる。「阿修羅ファンクラブ」の公式ソング「愛の偶像(ラブ・アイドル)」(作曲:高見沢俊彦、作詞:みうらじゅん)は、高見沢のアルバム『Kaleidoscope』に収録。 テリー伊藤の司会を務めるNHKの視聴者参加番組『テレ遊びパフォー!』にて怪獣デザインマスターを名乗り、全国より怪獣デザインを公募、その中の一枚のデザインから『長髪大怪獣ゲハラ』のシナリオを執筆し、樋口真嗣制作総指揮の短編映画として完成するまでに携わった。 2018年10月4日 仏教伝道文化賞沼田奨励賞を受賞した。 2021年に、2015年に出版された『「ない仕事」の作り方』が本屋大賞発掘部門「超発掘本!」を受賞した。 マイブーム(my boom)はみうらによる造語である。「my」と「boom」を組み合わせた和製英語で「自分の中だけではやっている物や出来事」といった意味で使用される。みうらのマイブームのルーツは小学生時代にさかのぼる。小学校の社会科見学で奈良・京都の寺院を見学してから仏像に興味を持ちはじめ、寺院で配布されているパンフレットの仏像の写真を切り抜き仏像の感想を添えスクラップしていた。この仏像ブームがみうらの人生初のマイブームとなった。この言葉は「大ブーム」に語感が似ていることから思いついたという。 1994年に『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに出演した際に発言したのを機に、その語感の良さもあって一般に広まっていった。そして1997年に新語・流行語大賞で表彰された。同賞を受賞した言葉は、一般的にマスコミが多用する例はあるもののマスコミ外で流行したとは言い難いものがほとんどであり、その年限りの一過性に終わり死語と化すことも多い。その中で、「マイブーム」はマスコミ外でも広く使われており、受賞後も廃れることなく使用され続け、遂には2008年1月に発売された『広辞苑第六版』にも掲載されている珍しい例といえる(一方、2006年に彩図社より発売された『死語大全』にも掲載されており、みうら本人はダブル受賞だと喜んでいる)。 みうら自身はマイブームを、「自分だけのブームだけで終わらせず他人に広めること」としており、彼が注目した事柄は自身が出演する番組や著作などのかたちで面白おかしく紹介している。またそれらを世間に広める際は、みうらが考案した造語を用いる。またまったく流行らず埋もれてしまった“ナイブーム”もあったとのことである。後述される、カニパンブーム、地獄表ブーム、バックオブエイジーズブーム、シンスブーム、AMAブーム、しびんブーム、男キッスブーム、テープカッターブームはナイブームとしてタモリ倶楽部内で検証された。 「みうらじゅん大図鑑」(宣伝会議)より 「この人にはだれも賞を贈らないだろう」というみうらの独断で選定・贈呈される賞。雑誌『宝島』で1994年に開始され、1999年までの7年間連載されたのち、同誌のリニューアルによって掲載が終了した。5年間のブランクを経て、「リリー・フランキーが『自分もみうらじゅん賞が欲しい』と言ったため」という理由で2005年から復活した。 シリーズ化・文庫化されている作品はおもにシリーズ第1作・初出版時のものを挙げる。
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みうら じゅん は、日本の漫画家、イラストレーター。 血液型:AB型、ニックネームはMJ、じゅんちゃん、みうらさん。 妻はシンガーソングライターのbird。 京都府京都市出身。東山高等学校、武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科卒業。 職業については、エッセイスト、小説家、ミュージシャン、評論家、ラジオDJ、編集長、ライター、解説者など幅広い分野で活動しており、公表している職業は「イラストレーターなど」。 亡き祖父は『拓本による京の句碑』を出版した饗庭蘆穂。
{{別人|三浦淳|三浦淳 (ドイツ文学者)|x1=[[フジテレビジョン|フジテレビ]]社員の}} {{存命人物の出典明記|date=2015-10}} {{Infobox 漫画家 |名前=みうら じゅん |画像=Miura Jun from "I am a pervert" at Opening Ceremony of the Tokyo International Film Festival 2016 (32829392573).jpg |画像サイズ= |脚注=[[第29回東京国際映画祭]]にて([[2016年]]) |本名=三浦 純 |生年={{生年月日と年齢|1958|2|1}}<ref name=prof>[http://www.miurajun.net/profile/profile.html みうらじゅんOFFICIAL SITE miurajun.net PROFILE]</ref> |生地=[[京都府]][[京都市]]<ref name=prof/> |没年= |没地= |国籍={{JPN}} |職業=[[漫画家]]、[[イラストレーター]]、[[タレント]] |活動期間=[[1980年]] - |ジャンル=[[ギャグ漫画]] |代表作=『[[アイデン&ティティ]]』 |受賞=[[仏教伝道文化賞]]沼田奨励賞 [[本屋大賞]]発掘部門「超発掘本!」(「ない仕事」の作り方) |サイン= |公式サイト=http://www.miurajun.net/ }} '''みうら じゅん''' (本名:三浦 純<ref name=shintei>『新訂現代日本人名録2002』「みうら じゅん」2001年2月</ref>、[[1958年]][[2月1日]]<ref name=prof/> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[イラストレーター]]。 血液型:AB型<ref name=prof/>、ニックネームはMJ、じゅんちゃん、みうらさん。 妻は[[シンガーソングライター]]の[[bird (日本の歌手)|bird]]。 [[京都府]][[京都市]]出身<ref name=prof/>。[[東山中学校・高等学校|東山高等学校]]、[[武蔵野美術大学]]造形学部視覚伝達デザイン学科卒業。 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1980年代後半からテレビ・ラジオでの出演も増え、多彩な活動を見せ始め、[[1989年]]には『[[三宅裕司のいかすバンド天国|いかすバンド天国]]』に[[喜国雅彦]](漫画家)、[[滝本淳助]](写真家)らと「[[大島渚 (バンド)|大島渚]]」(由来は同名の[[映画監督]]の[[大島渚]]より)という名のバンドを結成して出演し、『カリフォルニアの青いバカ』というオリジナル楽曲を披露した。 ===1990年代=== [[1991年]]ごろには女装に凝り、[[いとうせいこう]]、[[安斎肇]]と「バギナーズ」という「女装バンド」を結成した。「ナオミ」の名でボーカルとギターを担当(安斎は「キャンディ・O」、いとうは「マリエ」)。バギナーズは[[外タレ]]という設定で「遂に来日」「日本上陸」等と謳っていた<ref>[https://www.zakzak.co.jp/article/20190109-5UY2NY4NKNICRIWWVCBB3JADFM/ アイドル!?その正体は… 「バギナーズ」のCD] - [[夕刊フジ#ネット事業|ZAKZAK]](2019.1.9版)2019年3月31日閲覧</ref>。 [[1994年]]には[[ハリウッド]]俳優の[[チャールズ・ブロンソン]]の男気に憧れるあまり、映画俳優の[[田口トモロヲ]]とユニット「[[ブロンソンズ]]」を結成。[[1996年]]には[[いとうせいこう]]と「The Rock'n Roll Sliders」を結成し、みうらが撮影した写真にいとうが突っ込みを入れるという「[[ザ・スライドショー]]」が初めて開催され、以後何度も開催される人気公演となる。 [[1996年]]には[[青林堂]]からみうら漫画のベスト選集『はんすう』が刊行された。[[渡辺和博]]が解説を書いているが、「初めてみうら先生のオフィスに玉稿をいただきにいった時は、非常に緊張した。みうら先生からは、卓越した漫画にたいする意見をいただいた」という、現実にまったく反するイヤミな内容が書かれている。 [[1997年]]に[[自由国民社]]の『[[現代用語の基礎知識]]』による[[新語・流行語大賞]]のトップテンに「[[#マイブーム|マイブーム]]」(後述)が選出され表彰される。 ===2000年代=== [[2003年]]には自伝的コミック『[[アイデン&ティティ]]』が、田口トモロヲの初監督作品として映画化され再び脚光を浴びる。『[[シベリア超特急]]』が縁で交流のある[[水野晴郎]]が世話人を務める[[日本映画批評家大賞]]では2004年度に功労賞を受賞。「[[勝手に観光協会]]」などのコラムの他、エッセイ、小説など文章の世界でも活躍中である。 歌手[[bird (日本の歌手)|bird]]との[[不倫]](後にみうらの子を出産)が発覚し、前夫人と[[2007年]]春に離婚した。birdとは2006年末から「パートナー」という形で共同生活をしていたが、第2子の妊娠をきっかけに2009年に入籍をした<ref>[https://web.archive.org/web/20090710013200/http://www.sanspo.com/geino/news/090508/gnb0905080506000-n1.htm みうらじゅん氏が結婚!bird第2子妊娠 ] 2009.5.8 05:04 [[SANSPO]]</ref>。 [[2008年]]には[[興福寺]]創建1300年記念『国宝 [[阿修羅]]展』(2009年に[[東京国立博物館|東京]]・[[九州国立博物館|福岡]]で開催)にともない発足する『阿修羅ファンクラブ』の会長となる。「阿修羅ファンクラブ」の公式ソング「愛の偶像(ラブ・アイドル)」(作曲:[[高見沢俊彦]]、作詞:みうらじゅん)は、高見沢のアルバム『[[Kaleidoscope (高見沢俊彦のアルバム)|Kaleidoscope]]』に収録。 [[テリー伊藤]]の司会を務める[[日本放送協会|NHK]]の視聴者参加番組『[[テレ遊びパフォー!]]』にて怪獣デザインマスターを名乗り、全国より怪獣デザインを公募、その中の一枚のデザインから『[[長髪大怪獣ゲハラ]]』のシナリオを執筆し、[[樋口真嗣]]制作総指揮の短編映画として完成するまでに携わった。 2018年10月4日 [[仏教伝道文化賞]]沼田奨励賞を受賞した。 2021年に、2015年に出版された『「ない仕事」の作り方』が[[本屋大賞]]発掘部門「超発掘本!」を受賞した。 == 人物 == === 仏教マニアとして === *長きにわたる[[仏像]]マニアとして知られ、いとうせいこうと各地の仏像を見て回る『[[見仏記]]』は、書籍やDVDでシリーズ化されている。最近では、その流れから[[仏教]]に通ずる人生観を語ることもある。 *『[[般若心経]]』に使用される278の漢字を市街地の看板などで使用されている文字から収集(各文字を写真撮影することによる『[[写経]]』)した「[[アウトドア般若心経]]」を完成させ、[[2006年]]秋の「[[タモリ倶楽部]]」で発表した。 *いずれは[[出家]]する計画もある。さきの番組内では、インドア派であるみうらが撮影のためには外出が必要であり、「アウトドア」行動をとることが自らへの修行と位置づけられるため、家から出ることそのものを『出家』と表現していた。 *[[1992年]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で放送された番組にて「[[大日本仏像連合]]」というバンドを結成し、[[不空羂索観音]]のコスプレをしながら自身が作詞した楽曲である『君は千手観音』を歌唱した。 === 音楽性 === * 高校1年生になって、いくら仏像を熱く語ってもモテないということに気づき、モテてるのは誰だろう、と考えて[[吉田拓郎]]を知る<ref name="現代201335">『[[週刊現代]]』2013年3月5日号 p.136 - 137 「わが人生最高の10冊」</ref><ref name="崖っぷち">みうらじゅん、[[泉麻人]]、[[山田五郎]]、[[安斎肇]]『日本崖っぷち大賞』、[[毎日新聞社]]、1998年、p.183</ref><ref name="日経">[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080425/1009953/?ST=life&P=5 みうらじゅん インタビュー5 米国音楽界の巨人 ボブ・ディラン特集]、[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080425/1009953/?P=6 みうらじゅん インタビュー6 日経トレンディネット]</ref>。吉田拓郎の初[[エッセイ|エッセイ集]]『気ままな絵日記』を読み「吉田拓郎になろう」と決めた<ref name="現代201335"/><ref name="崖っぷち"/><ref name="恩返し">[https://www.1101.com/ongaeshi/050610index.html ほぼ日刊イトイ新聞- じゅんの恩返し12]</ref>。400曲くらい歌を作ったが、ほとんど吉田拓郎のマネ<ref name="現代201335"/>。みうらの名前がひらがな表記なのも、吉田拓郎の初期の名義が「よしだたくろう」だったことに由来している<ref name="崖っぷち"/><ref>みうらじゅん『みうらじゅん対談集 正論。』、[[コアマガジン]]、2009年、p.231、234</ref>。50代半ばにしてまだ[[ロン毛]]にしているのも、あの頃の拓郎さんを引きずっているからという<ref name="現代201335"/><ref name="恩返し"/><ref>[http://www.sony.jp/headphone/special/park/powerspot/episode3.html 第三回 : アレ?ここウチの地元? テーマ曲 「伽草子」 吉田拓郎 ]</ref>。『気ままな絵日記』は[[バイブル]]といい、自身の[[文体]]は、どんな文豪より吉田拓郎の影響を受けていると話している<ref name="崖っぷち"/><ref>『[[en-taxi]]』 第21号、2008年、p.100、『[[みうらじゅんの「サブカルジェッター」〜2番目がいいんじゃない]]』、[[TBSラジオ]]、2008年1月26日放送</ref>。 * 吉田拓郎を通して[[ボブ・ディラン]]を知り、「人生の師匠」とまでリスペクトしており、ディラン関係のCDなどは(安売りの千円CDなどまで含めて)コンプリートに近くコレクションしている。「[[サングラス]]はボブ・ディラン、ロン毛は吉田拓郎と、考えて見たらボクは自分なんてものはなく、色んなものが合体してできあがっている」と話している<ref name="現代201335"/><ref name="日経"/>。 *[[ロック (音楽)|ロック]]マニアでもあり、主に[[ボブ・ディラン]]や[[トム・ジョーンズ (歌手)|トム・ジョーンズ]]などのキャラの濃いアーティストを愛好。また、半自伝的な漫画作品『[[アイデン&ティティ]]』シリーズでは、[[ウディ・アレン]]の映画『[[ボギー!俺も男だ]]』の[[ハンフリー・ボガート]]のように、ディランが「主人公にだけ見える助言役」として、登場している。 *長髪(およびサングラス)がトレードマークだが、1980年代半ばの「トレンディ系コラムニスト・ブーム」の際は、その影響で短髪にしていた時代があった。1982年〜1983年頃はテクノカットにしていた。この際、[[糸井重里]]の「[[モッズヘア]]いいね」という言葉を聞き、どうやら[[モッズヘア]]と言えばテクノカットにしてくれると思い込み、[[高円寺]]の[[理容所|床屋]]へ行って「[[モッズヘア]]にして下さい」と注文し店内を凍りつかせた伝説がある。だが、「本来の自分とは何か」と考え直し、長髪・サングラスの現在のスタイルに戻した。本人自身「自分が短髪だった『[[三宅裕司のいかすバンド天国|イカ天]]』が始まる前の1980年代は、すごく嫌いな時代だった」と語る<ref>『サブカルチャー世界遺産』(扶桑社)収録のインタビューより。</ref>。2011年1月17日放送回のバラエティ番組『[[クイズ☆タレント名鑑]]』([[TBSテレビ|TBS]])のコーナーで、約20年ぶりにサングラスを外した素顔をテレビ番組で披露した。 === その他サブカル関連 === *[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]など8bit[[CPU]]家庭用[[ゲーム機]]の[[マニア]]でもあり、「[[クソゲー]]」は自分が生んだ言葉だと自認。 *お笑い評論家としての顔も持ち合わせている。 *エロ写真[[スクラップブック|スクラップ]]収集家としても知られ、自作のスクラップ本は460冊を超えている。スクラップブック作成にはコクヨの「ラ40」とヤマト糊(L字タイプ)を使用している。みうら曰く「やはりエロは本能だから強い」。 *高校時代は「犬に似ているから」という理由で、ジョンというあだ名を付けられた。その後、長い間入院し退院して学校へ行ってみると、今度は「死にかけ」というあだ名を付けられた。 *[[堀江しのぶ]]のファンであった。「'''日本の夏は堀江しのぶである'''」と力説して応援していたが、堀江は1988年に[[スキルス#スキルス胃癌|スキルス性胃がん]]のため23歳の若さで他界。その際にも「ボー然とした、ただ。そして生まれて初めて芸能人の死に対して泣けてきた」との言葉を残している<ref>『みうらじゅん ひとり大宴会』プリンツ21、2000年、p.84</ref>。 *[[1979年]]の[[日本劇場|有楽町日劇]]で行われた[[ゴジラ]]大全集(東宝特撮日替わり上映)の際、館外に陳列されていた全長2メートルほどのディスプレイ用ゴジラ2体を酒に酔った勢いで友人らで盗んだことがある。12年後の1991年に、名古屋で宣伝用ゴジラぬいぐるみの盗難事件が起きたのをきっかけに、このエピソード『ゴジラの運搬』を漫画化して犯行を自白し、自身が所持していた1体を東宝に返却。「名古屋の君も早く返した方がいいよ」とコメントした<ref>[http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/152692/1 みうらじゅん 12年後に真相を公表した「ゴジラ人形盗難事件」](日刊ゲンダイ「プレイバック芸能スキャンダル史」、2014年8月20日)</ref>。 == 主要活動履歴 == === マイブーム === '''マイブーム'''(my boom)はみうらによる造語である。「my」と「boom」を組み合わせた[[和製英語]]で「自分の中だけではやっている物や出来事」といった意味で使用される。みうらのマイブームのルーツは小学生時代にさかのぼる。小学校の[[社会科見学]]で奈良・京都の寺院を見学してから仏像に興味を持ちはじめ、寺院で配布されているパンフレットの仏像の写真を切り抜き仏像の感想を添えスクラップしていた。この仏像ブームがみうらの人生初のマイブームとなった。この言葉は「大[[流行|ブーム]]」に語感が似ていることから思いついたという。 1994年に『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』のテレフォンショッキングに出演した際に発言したのを機に、その語感の良さもあって一般に広まっていった。そして1997年に[[新語・流行語大賞]]で表彰された。同賞を受賞した言葉は、一般的にマスコミが多用する例はあるもののマスコミ外で流行したとは言い難いものがほとんどであり、その年限りの一過性に終わり[[廃語|死語]]と化すことも多い。その中で、「マイブーム」はマスコミ外でも広く使われており、受賞後も廃れることなく使用され続け、遂には2008年1月に発売された『[[広辞苑]]第六版』にも掲載されている珍しい例といえる(一方、2006年に[[彩図社]]より発売された『[[死語大全]]』にも掲載されており、みうら本人は[[ダブル受賞]]だと喜んでいる)。 みうら自身はマイブームを、「自分だけのブームだけで終わらせず他人に広めること」としており、彼が注目した事柄は自身が出演する番組や著作などのかたちで面白おかしく紹介している。またそれらを世間に広める際は、みうらが考案した造語を用いる。またまったく流行らず埋もれてしまった“ナイブーム”もあったとのことである<ref>[https://natalie.mu/music/news/190285 堂本剛が「タモリ倶楽部」に、みうらじゅんの“ナイブーム”検証] 音楽ナタリー</ref>。後述される、カニパンブーム、地獄表ブーム、バックオブエイジーズブーム、シンスブーム、AMAブーム、しびんブーム、男キッスブーム、テープカッターブームはナイブームとしてタモリ倶楽部内で検証された。 ==== 主なマイブーム ==== *[[仏像]]ブーム *[[ウシ|牛]]ブーム *[[飛び出し坊や]]ブーム *エロスクラップ作り *ムカエマ(ムカツク+[[絵馬]]) **読んでいるだけでムカツク=腹が立ってくる内容の絵馬のこと。みうらが紹介したものの一例:「田中と関わりがあることがないように」「秀さん生きてくれ!!○○生命一同」 *いやげもの(嫌+土産物) **悪趣味な置物やキーホルダー等、もらって困る土産物のこと。 *カスハガ(カス+[[はがき|絵葉書]]) **絵葉書セットに混じっている、何をアピールしたいのか意図が全く不明であるカスのような絵葉書のこと。有名でもないただの建築物や風景、温泉の写真等が多い。 *とんまつり(とんま+[[祭|祭り]]) **学術的に言えば「[[奇祭]]」だが、「そんな格好良いものではない」というみうらの考えにより作られた概念。地元では吉例行事だが、傍から観ているととんまに思える祭りのこと。例として[[新潟県]]の「つぶろさし」、[[愛知県]]の「[[田縣神社|豊年祭り]]」、[[和歌山県]]の「[[笑い祭|笑い祭り]]」、[[奈良県]]の「[[飛鳥坐神社|おんだ祭り]]」、[[福岡県]]の「尻振り祭り」([[東大野八幡神社]])がある。2000年には『[[とんまつりJAPAN|とんまつりジャパン]]』という楽曲を制作した。 *[[ゆるキャラ]](ゆるい+[[キャラクター]]) *らくがお([[落書き]]+[[顔]]) **著名人の写真をベースにして、様々な落書きを施す遊び。元々は『[[小学館の学年別学習雑誌|小学四年生]]』でみうらが連載していたものだが、後に『[[どちら様も!!笑ってヨロシク]]』でもクイズの題材になるほど広まった。時の総理大臣:[[宮澤喜一|宮沢喜一]]も自身の写真を“らくがお”してもらうことを認めていたという。 *[[奥村チヨ]]再評価 **『CHIYO!COQUETTISH BOMB』(1994年・TOCT-8293〜4)の責任編集・選曲を担当。 *『[[シベリア超特急]]』([[水野晴郎]]監督・脚本・主演) **第1作目が制作/公開された当時は本当に一部のマニアにしか知られていない文字通りのカルトムービーだったが、みうらがきっかけの一つとなり広く話題となった。「シベ超」と略したのもみうらが最初である。なお、みうらは『[[映画秘宝]]』創刊者の[[町山智浩]]とは彼が『[[宝島 (雑誌)|宝島]]』編集者だった時代からの長いつきあいであり、『映画秘宝』が創刊以来、一貫して「[[バカ映画]]」についての連載を持っている。町山によると、雑誌『映画秘宝』のキーワードのひとつでもある「バカ映画」は、みうらの命名だという。 *男キッス **長い付き合いでも手さえ触れたことがない男友達が多い。そんな人達は友情を確認するために男同士でキッスするべきという考え。 *シンスブーム **英語の“…から”や、“…以来”を表すSINCEのロゴの写真を集めるブーム。ファッションブランドのBOATHOUSEのSINCEが集めるきっかけとなった。ブームがこうじてSINCE Tシャツを制作したり[[ヒヤシンス]]を育てたりしているとのこと。今年など新しすぎるシンスのことは、最シンス。 *カニパンブーム **蟹のパンフレットを集めるブーム。 *地獄表ブーム **バスの本数が地獄のように少ない時刻表に注目したブーム。 *バック オブ エイジーズ ブーム **文房具店などで売られている英文が印刷されている紙袋を集めるブーム。エイジーズは英字を意味する。 *AMAブーム **[[海人|海女]]さんのフィギュアやグッズを集めるブーム。 *しびんブーム **世界中のしびんを集めるブーム *テープカッターブーム **通常は招待され参加するテープカットのイベントをみうら自ら参加を希望し、テープカットをするブーム。テープカットをするマイはさみとマイリボンを持参しているとのことである。 ==== マイブーム詳細 ==== 「みうらじゅん大図鑑」(宣伝会議)より {{Colbegin|2}} *1965年-1967年(7‐9歳)第1期[[怪獣]]ブーム *1966年(8歳)第1期カエルブーム *1967年‐1973年(9-15歳)漫画家ブーム *1968年‐1969年(10‐11. 歳)第一期[[仏像]]ブーム *1968年(10歳)第一期[[吉本新喜劇]]ブーム/第一期[[渚ゆう子]]ブーム/第一期[[奥村チヨ]]ブーム *1971年-1977(13-19歳)[[エッセイスト]]ブーム/[[映画評論家]]ブーム *1972年‐1974年(14‐16歳)[[フォークソング|フォーク]]シンガーブーム *1972年(14歳)第一期[[ブロンソン]]ブーム/[[イラストレーター]]ブーム/[[落合恵子]]・おセンチ・ポエムブーム/[[ユースホステル]]ブーム *1974年(16歳)旅人ブーム/[[プログレッシブ・ロック|プログレ]]ブーム(意味なく瞑想期) *1974年‐1979年(16‐21歳)[[ボブ・ディラン]]ブーム *1975年‐1979年(17‐21歳)[[谷ナオミ]]ブーム *1976年(18歳・一浪当時)エロスクラップブーム(現在まで続行中) *1978年(20歳・大学1年)第二期[[怪獣]]ブーム/第一期[[女装]]ブーム/[[万引き]]ブーム *1979年(21歳・大学2年)ウシブーム/[[ブルック・シールズ]]([[ロリータ・コンプレックス|ロリコン]])ブーム *1982年(24歳)[[埴輪|ハニワ]]ブーム/[[高円寺]]インドブーム *1985年‐1993年(27‐35歳)バカレコ・バカグッズブーム *1985年(27歳)ふんころがしブーム/[[琺瑯看板|ホウロウ看板]]ブーム/ガスギターブーム *1986年‐1988年(28∼30歳)[[変読]]ブーム *1986年(28歳)[[関西仕事]]ブーム *1987年‐1988年(29‐30歳)[[ピーポくん]]ブーム *1987年(29歳)[[帝銀事件]]ブーム *1988年‐1993年(30‐35歳)[[桂米朝]]ブーム *1989年(31歳)第二期[[吉本新喜劇]]ブーム/[[三宅裕司のいかすバンド天国|イカ天]]ブーム *1989年-1992年(31‐34歳)[[クソゲー]]ブーム *1990年(32歳)第二期カエルブーム/[[松本清張]](マッちゃん)ブーム *1990年-1993年(32-35歳)杖ブーム *1991年(33歳)第二期[[女装]]ブーム/[[エマニエル夫人|エマニエル]]([[エマニエル坊や|坊や]]を含む)ブーム/第二期[[渚ゆう子]]ブーム/ヤング[[大橋巨泉|巨泉]]ブーム *1992年-1993年(34‐35歳)第二期[[仏像]]ブーム 1993年(35歳)カスハガブーム/らくがおブーム/第二期[[奥村チヨ]]ブーム/お笑い虎の穴ブーム/バカ本ブーム/[[仏画]]ブーム *1994年‐1997年(36‐39歳)第二期[[チャールズ・ブロンソン|ブロンソン]]ブーム *1995年(37歳)いやげ物ブーム/[[松尾芭蕉|芭蕉]]ブーム *1996年(38歳)トノ&コミー([[殿山泰司]]&[[田中小実昌]])ブーム/エンケン([[遠藤賢司]])ブーム/[[ジョージ・ハリスン]]ブーム/[[ロブスター]]ブーム *1997年‐2000年(39‐42歳)[[大木こだま・ひびき]]ブーム/とんまつりブーム *1997年(39歳)[[角兵衛獅子]]ブーム *1998年-1999年(40-41歳)[[崖っぷち]]ブーム *1998年(40歳)IZUMIN([[泉麻人]])ブーム *1999年‐2000年(41‐42歳)青春ノイローゼブーム/[[ムカエマ]](むかつく絵馬)ブーム *1999年(41歳)[[ミイラ]]ブーム *2000年(42歳)和フィギュアブーム/湾ブーム *2001年(43歳)[[親孝行]]ブーム *2002年(44歳)[[ゆるキャラ]]ブーム *2003年(45歳)[[金魚]]ブーム *2010年(52歳)[[地獄]]ブーム *2013年(55歳)[[尿瓶]]ブーム *2017年(59歳)SINCEブーム {{Colend|2}} === 造語一例 === {{columns-list|2| *マイブーム *[[ゆるキャラ]] *[[クソゲー]] : <small>みうらがファミコンブーム時に雑誌で連載していたコラム「ゲロゲロゲームランド」から生まれた造語。元々はバカゲームと呼んでいたが、金払ってるんだからバカじゃ済まないぞということでクソゲーと呼ぶようになった。</small> *[[バカ映画]] *[[童貞|DT]](童貞のこと) *[[見仏記|見仏]] *[[グレート余生]] : <small>人は生れ落ちた時、余生が始まると説いており、その余生を有意義にするのがマイブームである。</small> * [[エナリスト]] :<small>[[えなりかずき]]を愛好する人のこと。</small> *『シベ超』 }} === みうらじゅん賞 === 「この人にはだれも賞を贈らないだろう」というみうらの独断で選定・贈呈される賞。雑誌『[[宝島 (雑誌)|宝島]]』で1994年に開始され、1999年までの7年間連載されたのち、同誌のリニューアルによって掲載が終了した。5年間のブランクを経て、「[[リリー・フランキー]]が『自分もみうらじゅん賞が欲しい』と言ったため」という理由で2005年から復活した。 ==== 歴代受賞者 ==== {| class="wikitable" style="text-align:left; font-size:small" ! 回 !! 発表媒体 !! 受賞者名 |- | 1994年(第1回) | rowspan=7 | 宝島 | [[杉作J太郎]]、[[中野まり子]](元[[おきゃんぴー]]、ライター)、[[佐藤克之|カーツ佐藤]](ライター)、[[いとうせいこう]] |- | 1995年(第2回) | [[薮下秀樹]](宝島社「[[VOW]]」担当、[[三宅裕司のえびぞり巨匠天国|エビ天]]巨匠監督)、[[泉晴紀]]、[[泉麻人]]、[[田口トモロヲ]] |- | 1996年(第3回) | [[金子修介]]、[[樋口真嗣]]、[[町山智浩]]、[[水野晴郎]]、[[安斎肇]]、[[山田五郎]] |- | 1997年(第4回) | [[宮本浩次 (エレファントカシマシ)|宮本浩次]]、[[吉田照美]]、[[喜国雅彦]]、[[谷ナオミ]]、[[松崎しげる]]、[[水道橋博士]] |- | 1998年(第5回) | [[スターシップ・トゥルーパーズ]]、[[ランディ・マッスル|ミスターマッスル]]、[[野坂昭如]]、[[能登金剛|ヤセの断崖]]、[[池田貴族]] |- | 1999年(第6回) | [[遠藤賢司]]、[[久住昌之]]、[[ジョージ・ルーカス]]、[[優香]]、[[ニャンまげ]] |- | 2000年(第7回) | [[ケヴィン・ベーコン|ケビン・ベーコン]](『[[インビジブル (2000年の映画)|インビジブル]]』)、[[野沢直子]]、[[井上陽水]]、[[小林よしのり]]、[[叶姉妹]] |- | 2005年(第8回) | [[GOLDEN TIME (ラジオ番組)|GOLDEN TIME]]([[J-WAVE]]) | [[熊田曜子]]、[[井筒和幸]]、[[猫ひろし]]、[[リリー・フランキー]]、[[峯田和伸]](『[[アイデン&ティティ]]』)、[[ジャガー (ローカルタレント)|ジャガー]]、[[リチャード・ギア]](『[[Shall We Dance?]]』) |- | 2006年(第9回) | rowspan=2 |みうらじゅん&安齋肇のなまはげ兄弟([[EXエンタテイメント]]) | [[高見沢俊彦]](わんこそばギター)、[[スチャダラパー]]、[[高田純次]]、[[サミュエル・L・ジャクソン]](『[[スネーク・フライト]]』)、[[菊人形|二本松の菊人形]]、[[大竹伸朗]] 、[[ギャル曽根]] |- | 2007年(第10回) | [[田村正和]](『[[ラストラブ]]』)、[[黒川晃彦]](野外彫刻)、[[あぶくま洞#入水鍾乳洞|入水鍾乳洞]](福島県)、[[湧永製薬|キヨーレオピン]]、[[俺たちフィギュアスケーター]]、[[古田幸希|ぽっちゃり王子]](ゴルファー)、[[SAM (ダンサー)|SAM]]([[TRF]]) |- | 2008年(第11回) | [[みうらじゅんDS]]([[TBSチャンネル]]) | [[せんとくん]]、[[笑福亭鶴光]]、[[人間椅子 (バンド)|人間椅子]]、[[高田文夫]]、[[根本敬]]、[[中井貴一]](『[[次郎長三国志]]』) |- | 2009年(第12回) | イベント「みうらじゅんのDSショー」 | [[チョー (俳優)|チョー]](『[[たんけんぼくのまち]]』)、[[ポール・スミス]]、[[色即ぜねれいしょん]]、[[松本清張]]、[[ビーグル38]] |- | 2010年(第13回) | miurajunnet([[Ustream]]) | [[水嶋ヒロ]]、[[ダニー・トレホ]](『[[マチェーテ (映画)|マチェーテ]]』)、[[YO-KING]]、[[風間ゆみ]]、太田章([[ニャン2倶楽部]]初代編集長)、[[松久淳]] |- | 2011年(第14回) | rowspan=5 | [[ニコニコ生放送]] | [[野口健]]、[[前野健太]]、[[わさお]]、[[ピンク・フロイド]]、[[ミゲル・ゲレイロ]]([[消臭力]]) |- | 2012年(第15回) | [[川勝正幸]]、[[小西良幸|ドン小西]]、[[糸井重里]]、[[壇蜜]]、[[オリエント工業]](ラブドール) |- | 2013年(第16回) | [[タモリ]]、[[土門拳]]、[[大日坊|真如海上人]]、[[宮藤官九郎]]、[[ねぎし]]の[[牛タン|しろ4]] |- | 2014年(第17回) | [[楳図かずお]]、[[小谷元彦]]、[[橋本マナミ]]、[[渡辺祐]]、[[リーアム・ニーソン]](『[[フライト・ゲーム]]』) |- | 2015年(第18回) | 平田一式飾(島根県)、[[松本人志]]、[[三浦憲治]](写真家)、[[マッドマックス 怒りのデス・ロード]]、[[GLIM SPANKY]] |- | 2016年(第19回) | rowspan=3 | [[GYAO!]] | [[安住紳一郎]]、Since 1624([[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]四方)、[[月船さらら]]、御陣乗太鼓(石川県)、[[ボブ・ディラン]] |- | 2017年(第20回) | 冷マ(冷蔵庫のドアに貼るマグネット式販促チラシ)、[[伊集院光]]、[[船越英一郎]]、[[川上ゆう]]、[[運慶]] |- | 2018年(第21回) | [[峨眉山|峨嵋山]]、[[ミッション:インポッシブルシリーズ#出演者と登場人物|イーサン・ハント]]([[ミッション:インポッシブルシリーズ]])、[[ヒックスヴィル]]、[[仏教伝道協会]]、[[沢口靖子]] |- | 2019年(第22回) | rowspan=5 | [https://www.youtube.com/@mjj445 みうらじゅんチャンネル]([[YouTube]]) | ロバート・ブロンジー(チャールズ・ブロンソンの激似俳優)、[[大竹まこと]]、[[綾小路翔]]、[[松本りんす]]、[[MTG (企業)|SIXPAD]] |- | 2020年(第23回) | [[ジョン・レノン|ジョン]]&[[オノ・ヨーコ|ヨーコ]]、[[コクヨ]]、[[ヤマト (文具)|アラビックヤマト]]、[[ルチアーノ・パヴァロッティ]]、[[春川ナミオ]]、[[伊藤政則]]、[[ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!|ビル&テッド]]、[[熱川バナナワニ園]]<ref>{{Cite web|和書|title=『2020年 第23回みうらじゅん賞』は“ジョン&ヨーコ”が受賞|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000194550|website=BARKS|accessdate=2020-12-28|language=ja|publisher=|date=2020.12.26}}</ref> |- | 2021年(第24回) | [[ダニエル・クレイグ]]、脊戸真由美([[丸善雄松堂|丸善書店]] 福岡店員)、[[巨人の星]]、[[新谷学]]、[[ほんとうのピノッキオ]]、[[竹倉史人]]、[[大槻ケンヂ]] |- | 2022年(第25回) | 「ワニがまわる タムラサトル」展 タムラサトル、[[RRR (映画)|RRR]]、茶平工業株式会社([[スーベニアメダル|メダリオン]])、[[ピカソ]]、[[ROLLY]]、[[おさるのジョージ (テレビアニメ)|黄色い帽子のおじさん]] |- | 2023年(第26回) | [[カルピス]]([[アサヒ飲料]])、[[M3GAN ミーガン]]([[NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン]])、[[牛頭天王]]([[奈良国立博物館]])、ファイト最中([[輪島功一]])、[[サンボマスター]] |} == 主な作品 == シリーズ化・文庫化されている作品はおもにシリーズ第1作・初出版時のものを挙げる。 === 漫画 === ==== 単著 ==== * 『単になんぎなうし』(1984年、[[青林堂]]) * 『みうジャン』(1985年、ISBN 4-89194-111-1、パルコ出版社) * 『ハニーに首ったけ』(1986年、ISBN 4-309-72510-4、[[河出書房新社]]) * 『ボクとカエルと校庭で』(1988年、ISBN 4-7926-0184-3、青林堂) * 『[[アイデン&ティティ]]』シリーズ(1992年、ISBN 4-7926-0228-9、青林堂) * 『はんすう』(1996年、ISBN 4-7926-0275-0、青林堂) * 『やらせてくん』(2000年、ISBN 978-4-88379-052-4、青林工藝舎) ==== 共著 ==== * 『見ぐるしいほど愛されたい』(1986年、ISBN 4-06-103720-X、講談社)(共著:[[糸井重里]]) === 書籍 === ==== 単著 ==== * 『東京の関西文』(1985年、ISBN 4-479-48018-8、大和書房) * 『オレに言わせりゃTV』(1991年、ISBN 4-04-883284-0、角川書店) * 『みうらじゅんのフェロモンレコード』(1994年、ISBN 4-924880-36-1、TOKYO FM出版) - 図鑑(レコード・CDジャケット) * 『やりにげ』(1994年、ISBN 4-8211-0506-3、ぶんか社) - 随筆 * 『みうらじゅんの仏画集・上 お堂で逢いましょう』(1995年、ISBN 4-330-31695-1、弘済出版社) - 画集 * 『[[VOW]]でやんす!』(1996年、ISBN 4-7966-1164-9、宝島社) - 書籍 * 『マイブームの魂』(1997年、ISBN 4-620-31152-9、毎日新聞社) - 随筆 * 『マイブームの狼』(1997年、ISBN 4-620-31185-5、毎日新聞社) - 随筆 * 『マイブームの塔』(1999年、ISBN 4-620-31385-8、毎日新聞社) - 随筆 * 『青春ノイローゼ』(1999年、ISBN 4-575-29047-5、双葉社) - 随筆 * 『Slave of love』(2000年、ISBN 4-8211-0715-5、ぶんか社 2003年『愛にこんがらがって』に改題 ISBN 978-4043434039 角川文庫) - 小説 * 『とんまつりJapan』(2000年、ISBN 4-08-781193-X、集英社) - 随筆・紀行 * 『新「[[親孝行]]」術』(2001年、ISBN 978-4796624558、宝島社)- 随筆 * 『飛び出せ!自分マニア』(2003年、ISBN 4-537-25171-9、日本文芸社) - 随筆 * 『LOVE―miura jun rare tracks 1990‐2003』(2003年、ISBN 4-418-03517-6、世界文化社) - 随筆 * 『PEACE―miura jun rare tracks 1990‐2003』(2003年、ISBN 4-418-03518-4、世界文化社) - 随筆 * 『ゆるキャラ大図鑑』(2004年、ISBN 4-594-04666-5、扶桑社) - 図鑑(キャラクター) * 『[[色即ぜねれいしょん]]』(2004年、ISBN 4334924425、光文社) - 小説 * 『正しい保健体育』(2004年、ISBN 4-652-07805-6、理論社) - 児童書 * 『アイノカテゴリー 写真集』(2005年、ISBN 4-8356-0988-3、ぴあ) - 本人撮影による[[写真集]] * 『カスハガの世界』(2006年1月、ISBN 978-4480421784、筑摩書房)- 図鑑 * 『みうらじゅんマガジン vol.01』(2006年、ISBN 4-86191-169-9、白夜書房、第1作) - 特集ボブ・ディラン * 『そこがいいんじゃない!みうらじゅんの映画批評大全1998‐2005』(2006年、ISBN 4-86248-077-2、洋泉社) - 書籍 * 『[[アウトドア般若心経]]』(2007年、ISBN 978-4-344-01397-1、幻冬舎) - 書籍 * 『全日本ゆるキャラ公式ガイドブック』(2009年、ISBN 978-4-594-06076-3、扶桑社) - 書籍 * 『十五歳』(2009年、ISBN 978-4-904345-03-0、TBSサービス) - 詩・随筆 * 『自分なくしの旅』(2009年、ISBN 978-4-344-01767-2、幻冬舎) - 小説 * 『テクノカットにDCブランド』(2010年、ISBN 978-4-7783-1211-4、太田出版) - 随筆 * 『アレの名前大百科』(2010年、PHP研究所、のち文庫) - 監修 * 『ムカエマの世界』(2011年、ISBN 978-4480428035、筑摩書房) - 図鑑 * 『マイ仏教』(2011年、ISBN 978-4-1061-0421-3、新潮社) - 書籍 * 『みうらじゅんのマイブームクッキング』(2011年、ISBN 978-4-0487-4253-5、角川書店) - 書籍 * 『正しい保健体育II 結婚編』(2013年、ISBN 978-4-7816-9060-5、イースト・プレス) - 書籍 * 『キャラ立ち民俗学』(2013年、ISBN 978-4-0411-0390-6、角川書店) - 書籍 * 『セックス・ドリンク・ロックンロール!』(2013年、ISBN 978-4-3349-2876-6、光文社) - 小説 * 『マイ京都慕情』(2013年、ISBN 978-4-10-334151-2、新潮社) - 書籍 * 『人生エロエロ』(2014年、ISBN 978-4-16-390055-1、文藝春秋) - 随筆 * 『みうらじゅんの映画ってそこがいいんじゃない!』(2015年、ISBN 978-4-80-030620-3、洋泉社) - 書籍 * 『ない仕事の作り方』(2015年、ISBN 978-4-16-390369-9、文藝春秋) - 書籍 [[本屋大賞]]発掘部門「超発掘本!」受賞。 * 『されど人生エロエロ』(2016年、ISBN 978-4-16-390446-7、文藝春秋) - 随筆 * 『マイ遺品セレクション』(2019年、ISBN 978-4163909721、文藝春秋) - 書籍 * 『キャラ立ち民俗学』(2019年、ISBN 978-4041072066、KADOKAWA) - 書籍 * 『ラブノーマル白書』(2019年、ISBN 978-4167912871、文藝春秋) - 随筆 * 『ひみつのダイアリー』(2020年、ISBN 978-4167914660、文藝春秋) - 随筆 * 『メランコリック・サマー』(2021年、ISBN 978-4-16-791726-5、文藝春秋) - 随筆 * 『マイ修行映画』(2022年、 文藝春秋) ==== 共著 ==== * 『無共闘世代 ウルトラマンと骨肉腫』(1985年、ISBN 4-255-85012-7、朝日出版社・[[週刊本]])(共著:[[泉麻人]]) * 『女の子エスニック図鑑』(1985年、ISBN 4-7669-0115-0、勁文社)(共著:[[綱島理友]]) * 『亜細亜の恋人』(1986年、ISBN 4-7897-0254-5、CBSソニー出版)(共著:[[手塚能理子]]) * 『[[大阪呑気大事典]]』(1988年、ISBN 4-8806-3420-4、JICC出版局、2008年 増補新版 ISBN 978-4-7966-6412-7、宝島社文庫)(執筆者の一人) * 『[[見仏記]]』(1993年、ISBN 4-12-002239-0、中央公論社、第1作)(共著:いとうせいこう) - [[紀行]] * 『ブロンソンならこう言うね―マニア・カルト一生相談』(1995年、ISBN 4-341160311、ごま書房)(共著:田口トモロヲ) * 『[[日本崖っぷち大賞]]』(1998年、ISBN 4-620-31233-9、毎日新聞社)(共著:[[安斎肇]]、[[泉麻人]]、[[山田五郎]]) - 座談 * 『D.T.』(2002年、ISBN 4-840-10619-3、メディアファクトリー)(共著:伊集院光) - 対談 * 『グラビアン魂』(2006年、『[[週刊SPA!]]』3月14日号臨時増刊、扶桑社)(共著:[[リリー・フランキー]]) - 写真集 * 『ボクらの時代 ロングヘアーという生き方』(2010年、ISBN 978-4594062576、扶桑社)(共著:[[高見沢俊彦]]・[[リリー・フランキー]]) - 対談 * 『どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか』(2011年、ISBN 978-4594063054、扶桑社)(共著:[[リリー・フランキー]]) * 『運慶-リアルを超えた天才仏師-』(2012年7月27日、ISBN 978-4-10-602233-3、新潮社〈とんぼの本〉)(共著:[[山本勉]]・[[ヤノベケンジ]]・[[橋本麻里]]) * 『みうらじゅんと宮藤官九郎の世界全体会議』(2020年12月、ISBN 978-4-08-744191-8、集英社〈集英社文庫〉)(共著:[[宮藤官九郎]]) * 『ヌー道 nude じゅんとなめ子のハダカ芸術入門』(2021年12月、ISBN 978-4103341529、新潮社)(共著:[[辛酸なめ子]]) === 音楽 === ==== ソロ ==== * 『青春ノイローゼ』(1999年、88-LDKCD) - CDアルバム 主な収録曲:『とんまつりJAPAN』 *『DTF 童貞編』(2004年) - DVDアルバム 主な収録曲 : 『ぼくはかしこい‼︎』<ref>{{Cite web|和書|title=みうらじゅんのDTF-童貞編- DVD|url=https://ark.on.arena.ne.jp/miura/DtfDouteiDVD01.html|website=ark.on.arena.ne.jp|accessdate=2020-05-19}}</ref> *『DTF 非童貞編』(2005年) - DVDアルバム 主な収録曲 : 『TOKYO・OGIKUBO・APARTMENT BLUES』 ==== ユニット ==== * 『大島渚』(1990年) - CDアルバム (「大島渚」名義、ボーカル&ギターとして参加) * 『アイデン&ティティ』(1991年) - CDアルバム (「大島渚」名義) * 『シーモンキーズ』(1991年) - カセット (「シーモンキーズ」名義) * 『君は千手観音』(1992年) - テレビ番組内で披露(「[[大日本仏像連合]]」名義) * 『ビバ!バギナーズ』(1994年、TOCP-8332) - CDアルバム (「バギナーズ」名義、ボーカル&ギターとして参加) * 『SUPER MAGNUM』(1997年、TOCT-9768) - CDアルバム (「ブロンソンズ」名義) * 『[[とんまつりJAPAN]]』(2000年9月25日) - ビデオシングル(「みうらじゅん with [[人間椅子 (バンド)|人間椅子]]」名義) * 『勝手に観光協会 vol.1』(2004年、LDCD-50012、第1作) - CDアルバム (「みうらじゅん&安斎肇」名義) ==== プロデュース ==== * OKAMANO KEN with スーパーホモンキーズ(みうらじゅんがプロデュースした名古屋の名物ホモ・ユニット) ** 1stシングル『URAHARA』(作詞・作曲) ** 2ndシングル『SNOW LIGHT LOVE』(作詞・作曲) ** 3rdシングル『微熱が続いた夜』(作詞・作曲) === 映画 === *『お笑い虎の穴』(1995年) - 企画・監督。[[ゆうばり国際ファンタスティック映画祭]]出品作。 *『ダブルD・アベンジャー』- 字幕監修。 *『[[色即ぜねれいしょん]]』(2009年) - 原作。 *『[[長髪大怪獣ゲハラ]]』(2009年) - 企画・脚本。 *『みうらじゅんの正しい保健体育』(2011年) - 原作。監督は西巻正和。プロデューサーは森田健。 *『変態だ』(2016年) - 企画・原作・脚本。監督は安齋肇。 *『みうらじゅん&いとうせいこう 20th anniversary ザ・スライドショーがやって来る! 「レジェンド仲良し」の秘密』(2017年) - いとうせいこう、スライとのユニット、Rock'n Roll Slidersの20年間の活動のドキュメンタリー。<ref>{{Cite web|和書|title=映画 ザ・スライドショーがやって来る!「レジェンド仲良し」の秘密|url=http://ark.on.arena.ne.jp/miura/slideshow-movie.html|website=ark.on.arena.ne.jp|accessdate=2020-05-19}}</ref> *『[[大仏廻国#大仏廻国 The Great Buddha Arrival|大仏廻国 The Great Buddha Arrival]]』(2018年) - アンバサダー ====出演==== *『バネ式』(2006年、監督:[[吉田照美]])- 客役 *『SHA-CHI-HO-KO』(2002年、ENGEL、監督:薬師寺光幸) *『怪奇!! 幽霊スナック殴り込み!』(2006年)- 亭主役 *『MOONRIDERS THE MOVIE 「PASSION MANIACS マニアの受難」』ドキメンタリー映画。(2006年) *『[[ギララの逆襲/洞爺湖サミット危機一発]]』([[2008年]]、[[松竹]]、監督:[[河崎実]]) *『[[TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ]]』(2016年) - MOJA・MJ役 * 『[[いちごの唄 (小説)#映画|いちごの唄]]』(2019年) - カメオ出演<ref>{{Cite news|url= https://eiga.com/news/20190621/3/|title=麻生久美子×みうらじゅん×田口トモロヲ×宮藤官九郎 峯田和伸「いちごの唄」にカメオ出演|publisher=映画.com|date= 2019-06-21 |accessdate= 2019-06-21}}</ref> === DVD・その他 === * 『[[霊幻道士3 キョンシーの七不思議]]』(1988年)- VHSビデオのみコメント出演 *『[[吉本新喜劇]]ギャグ100連発』シリーズ(1989-1990年、セレクトを担当) - ビデオからDVD化 * 『[[GTV (ビデオマガジン)]]』第11号(1988年) - VHSビデオ : ※みうらじゅんのぎゃふんソフト『[[はにいいんざすかい]]』紹介コーナー * 『[[GTV (ビデオマガジン)]]』第15号(1989年) - VHSビデオ : ※じゅんとカーツのてなもんや野球ゲームレビュー([[カーツ佐藤]]と共演) * 『とんまつりJAPAN』(2000年) - VHSビデオ * 『テレビ見仏記1 京都編』(2002年、PIBW-7118、第1作) - DVD * 『みうらじゅんの伝説のゆるキャラショー』(2003年)- DVD * 『[[全日本コール選手権]] with みうらじゅん』(2005年、UPBH-1183) - DVD * 『みうらじゅん&安斎肇の「勝手に観光協会」 Vol.1』(2006年、AVBD-34318、第1作) - DVD * 『みうらじゅん・いとうせいこう めがね番長〜めがね上等!編〜』(2007年、PCBG-50961、第1作)-DVD * 『[[シンボルず]]』(2008年、MHBW-242、第1作) - DVD === 主な開催イベント === *[[ザ・スライドショー]](1996年・初開催) - [[いとうせいこう]]と共演 *日本崖っぷち大賞ライブ(1998年) - [[安斎肇]]、[[泉麻人]]、[[山田五郎]]と共演 *とんまつり祭り(2000年) *みうらじゅんのゆるキャラショー - 安斎肇、[[清水ミチコ]]、山田五郎と共演 *みうらじゅんの勝手に JAPAN TOUR 2003(2003年) - 安斎肇と共演 *みうらじゅん in 東京ドーム 郷土愛(きょうどラヴ) 2004(2004年) *みうらじゅん的映画祭(2005年) *みうらじゅんpresents 勝手に観光協会 ラジオショーUK.E(2006年) - 安斎肇、ウクレレえいじと共演 *みうらじゅんのDSショー(2009年)-[[羽佐間道夫]]、[[野沢雅子]]と共演 ==== 展覧会 ==== * 大物産展 マイブームの国へようこそ(1998年、[[ラフォーレ原宿]]) * みうらじゅん キョーレツ!3本立!(2002年、[[ラフォーレ原宿]]他全国9か所) - 絵画、スクラップ、レコード * みうらじゅんのマイブーム・アート(2005年、[[枚方市民ギャラリー]]企画展) * 〜みうらじゅんジャンボリー〜[みうらじゅんの100冊展] Book On Rock'n Roll!(2009〜2010年、[[パルコ]]ファクトリー)- 原稿、フィギュ和、いやげ物、ゆるキャラ * MJ'S FES みうらじゅんフェス! マイブームの全貌展 SINCE 1958 - 川崎市民ミュージアム、富山市民プラザ(2018年)<ref>{{Cite web|和書|title=MJ'S FES みうらじゅんフェス! マイブームの全貌展 SINCE 1958|url=https://www.kawasaki-museum.jp/exhibition/9910/|publisher=川崎市民ミュージアム|accessdate=2018-03-14}}</ref> == 主な出演番組 == === 冠番組 === *『[[みうらじゅんDS]]』([[TBSチャンネル]]) - 企画も担当 *『[[デザインの森]]』([[BSフジ]]) *『みうらじゅんもぐらビューティフル』([[第2日本テレビ]](もぐら骨董堂の1コーナー)) - 古い映像にテロップでコメント *毎週水曜に新作 *『みうらじゅんのわらいどころ』([[ファミリー劇場]]) - 同局で放送される喜劇映画のナビゲート番組 *『[[みうらじゅんのマイブームクッキング]]』([[食と旅のフーディーズTV]]) *隔週日曜に新作 *『[[みうらじゅん&amp;山田五郎の親爺同志]]』([[MONDO TV]]) *『[[みうらじゅんの信越ゆるキャラ運動会]]』([[長野放送]]・[[NST新潟総合テレビ|新潟総合テレビ]]) *『みうらじゅんのグレイト余生映画ショー in [[日活ロマンポルノ]]』([[衛星劇場]]) - 構成も担当 *『[[笑う洋楽展]]』([[NHK BSプレミアム]]) - 安齋肇とのフリートークで進行 *『[[みうらじゅんのグレイト余生映画ショー in 日活ロマンポルノ]]』([[衛星劇場]]) *『いとうせいこう×みうらじゅん ザツダン!』([[文化放送]]、2016年10月 - )<ref>{{cite news|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1706880.html|title=いとうせいこうとみうらじゅん雑談だけの番組会見|newspaper=日刊スポーツ|date=2016-09-08|accessdate=2016-09-08}}</ref> === 不定期・非レギュラー === *『[[勝手に観光協会|みうらじゅん&安齋肇の勝手に観光協会]]』([[EXエンタテイメント]] 他地上波各局及び[[ワールド・ハイビジョン・チャンネル|TwellV]]) - [[安齋肇]]と共演 *『新TV見仏記』([[関西テレビ]]、[[関西テレビ☆京都チャンネル]])- いとうせいこうと共演 *「TV見仏記」に続いて2010年より番組HPは外部リンク参照 *『[[タモリ倶楽部]]』([[テレビ朝日]]) *『[[みうらじゅん&amp;山田五郎の男同志]]』([[MONDO TV|MONDO21]]) - 題字も担当 *『みうらじゅん&山田五郎の男同志2』(MONDO21) *『みうらじゅん&山田五郎の男同志3』(MONDO21) *『みうらじゅん&山田五郎の親爺同志』(MONDO21) *『[[山田五郎アワー『新マニア解体新書』|山田五郎アワー「新マニア解体新書」SP]]』(MONDO21) *『[[みうらじゅんのサントラくん]]』([[NHKラジオ第1放送|NHKラジオ第1]]) *『[[大竹まこと ゴールデンラジオ!]]』([[文化放送]] - 「大竹紳士交友録」木曜週替わり) *『[[隅田川花火大会]]』(テレビ東京)副音声 *『みうらじゅんのファンブック』([[NHKラジオ第1放送|NHKラジオ第1]]・[[NHK-FM放送|NHK-FM]]) === 終了 === ====テレビ番組==== *『[[どちら様も!!笑ってヨロシク]]』(日本テレビ)- 落がおクイズプレゼンター *『[[世界で一番くだらない番組]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]]) *『[[えいせい魂]] [[みうらじゅんバナナマンのゼッタイに出る授業]]』([[BSジャパン]]・[[2008年]][[2月22日]] - [[2008年]][[3月28日]]、[[テレビ東京]]・[[2008年]][[10月3日]] - [[2008年]][[11月7日]]) *『[[親孝行プレイ]]』([[MBSテレビ|毎日放送]]ほか) - 原案・題字・キャラクターデザインを担当。出演はしていない *『キュート特捜隊』([[WOWOW]]・[[1992年]][[10月12日]]-[[1993年]][[3月26日]])- [[小川範子]]と共演 *『[[金曜かきこみTV]]』(NHK教育・終了) - アート掲示板管理人 *『CX-NUDE DV』(フジテレビ) - [[ザ・会議室]] [[伊集院光]]、山田五郎、[[佐野瑞樹 (アナウンサー)|佐野瑞樹]]と共演 *『[[シンボルず]]』([[テレビ東京]]・[[2007年]][[4月1日]] - [[2008年]][[9月28日]]) - 企画も担当 *『[[天才てれびくんMAX|天才てれびくん]]』(NHK教育・出演終了) *『[[土曜かきこみTV]]』([[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]) - アート掲示板管理人。言わせて掲示板(参加していない回もある) *『[[はなまるマーケット]]』([[TBSテレビ|TBS]]・出演終了) - 「[[濱田マリ]]のドリームハンター」に毎回VTR出演していた。「はなまるカフェ」出演歴もある *『[[みうらじゅん&安斎肇のなまはげ兄弟]]』([[EXエンタテイメント]]) *『music roots』(終了) - ロック崖先生D *『めがね番長』([[BSフジ]]・終了)- いとうせいこうと共演 *『[[ラジオDEごめん]]』 ([[中京テレビ放送|中京テレビ]]) *『[[スタジオパークからこんにちは]]』(NHK) *『[[みうらじゅんのマイブームクッキング]]』([[食と旅のフーディーズTV]]) *『[[みうらじゅん&安斎肇のゆるキャラに負けない!|みうらじゅん&安齋肇のゆるキャラに負けない!]]』([[東京メトロポリタンテレビジョン]]) *『[[ゆるキャラQ]]』([[東海テレビ放送]]・[[GYAO!]]、2017年7月 - 12月) ====ラジオ番組==== *『[[小堺一機のサタデーウィズ]]』([[TBSラジオ]])- およそ半年に一回のペースで出演 *『[[北野誠の世紀の雑談]]』(TBSラジオ)- 番組では最多の16回のゲスト出演 *『[[GOLDEN TIME (ラジオ番組)|GOLDEN TIME]]』([[J-WAVE]]) - 安斎肇と共演 *『[[TR2]]』(J-WAVE・出演終了) - 安斎肇と共演 *『[[吉田照美のやる気MANMAN!]]』([[文化放送]]) - マイクサイドボクシング「俺に言わせろ!」(水曜日) *『[[みうらじゅんのMJ RADIOアワー]]』(TBSラジオ) *『[[みうらじゅんの「サブカルジェッター」〜2番目がいいんじゃない]]』(TBSラジオ) *『[[ストリーム (TBSラジオ)|ストリーム]]』(TBSラジオ)- 「コラムの花道」におよそ月一回のペースで出演 ==== テレビドラマ ==== *『[[世にも奇妙な物語]] 1994年春の特別編「指名手配の男」』(フジテレビ) ====CM・広告==== *[[ローソン]] (2000年) - いとうせいこう、しりあがり寿と共演 *[[全日本空輸]] 「LIVE/中国/ANA 竹の家篇」(2005年)- 山田五郎と共演 *[[KDDI]] 「[[Au (携帯電話)|auの庭で。]]まとめる篇」(2008年) :長女役の[[仲間由紀恵]]、妻役の[[萬田久子]]、長男役の[[鈴木Q太郎]]([[ハイキングウォーキング]])、次男役の子役少年と共演。家族揃って長く伸ばした黒髪が特徴。 *[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]] スカパー!HDパック (2011年)- [[釈由美子]]と共演 *[[キリンビバレッジ]][[午後の紅茶]] (2013年2月)- [[亀梨和也]]、[[蒼井優]]と共演 *サントリーBOSSコーヒー「プレミアム鉄道(仲間)篇」(2015年3月)- 豪華列車内でタモリが「産まれたての仔馬」の物まねをしているところを、笑って見ている一緒に旅する仲間として山田五郎と共に出演。 * [[ウィザードリィV]] 災渦の中心 (1992年11月 - 雑誌広告)- [[小川範子]]と共演 * [[モンスターストライク]]「『[[幽☆遊☆白書 (テレビアニメ)|幽☆遊☆白書]]』コラボ企画」(2017年)<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/231082|title=幽白×モンストCMで、萬田久子、みうらじゅん、安齋肇が戸愚呂ファミリーに|newspaper=コミックナタリー|date=2017-5-2|accessdate=2017-08-14}}</ref> * [[ハンコヤドットコム]](2020年2月 - ) - [[遠藤憲一]]、[[ロマ・トニオロ]]と共演<ref>{{Cite web|和書|url=https://p-prom.com/company/?p=39203|title=ハンコヤドットコム「第1回はんこサミット」にエンケン、みうらじゅん Youtubeで配信開始|publisher=プリント&プロモーション|date=2020-02-12|accessdate=2020-02-18}}</ref> * [[日清焼そばU.F.O.]]「濃い濃いラー油マヨ超濃厚段積み沼CM篇」(2020年3月18日 - ) - [[えなこ]]と共演 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{外部リンクの注意|section=1}} * [http://www.miurajun.net/ miurajun.net] - 公式サイト * [https://web.archive.org/web/20140517204920/http://mjmb.jp/ みうらじゅんがモバイル] - 3キャリア公式モバイルサイト * {{Twitter|miurajun_net|みうらじゅん公式サイト}} * [https://web.archive.org/web/20161027064719/http://www.r-sliders.com/ The Rock'n Roll Sliders' SITE] - 公認サイト * [https://web.archive.org/web/20040404210153/http://www.ascii.co.jp/pb/iascii/miura/ みうらじゅんの俺コン!] * [https://web.archive.org/web/20070410081255/http://blog.yomone.jp/miura/ みうらじゅんの頭のなか] * [https://www.mondotv.jp/entertainment/oyajidoushi みうらじゅん&山田五郎の親爺同志 - MONDO TV] * [https://www.1101.com/ongaeshi/ じゅんの恩返し] - [[ほぼ日刊イトイ新聞]] * {{NHK人物録|D0009071983_00000}} * [https://seesaawiki.jp/w/livedoormiura1/d/ みうらじゅん公式wiki] * [https://web.archive.org/web/20051213014959/http://www.universal-music.co.jp/zennihon/ 全日本コール選手権withみうらじゅん] * [https://web.archive.org/web/20070224205636/http://entame.express.jp/blog/namahage/ みうらじゅんと安斎肇のなまはげ兄弟] * [https://web.archive.org/web/20110618005104/http://www.castella.jp/detail_out?channel_id=1001819 みうらじゅんの私の人生すべてお見せします(Videocast)] * [https://www.1101.com/job_study/jun/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 みうらじゅんに訊け! 就職編](2007年) * [https://www.1101.com/shimaguni/jun/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 みうらじゅんに訊け! この島国編](2009年) * [https://www.1101.com/okane/jun/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 みうらじゅんに訊け! お金編](2010年) * [https://www.1101.com/ero/jun/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 みうらじゅんに訊け! エロ編](2015年) * [https://www.1101.com/naishigoto/jun/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 みうらじゅんと糸井重里は、もともとなかった仕事をやっていた。](2016年) * [https://www.1101.com/oyakobaka/jun/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 みうらじゅんに訊け!親バカ子バカ編](2016年) * [https://www.1101.com/tokyo/jun/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 みうらじゅんに訊け!東京編](2017年) *[https://www.1101.com/60/jun/2018-03-01.html ほぼ日刊イトイ新聞 みうらじゅんに聞け! 還暦編 ](2019年) *[https://www.1101.com/camp/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 南伸坊+みうらじゅん+糸井重里 緑のなかに出かけようよ。 ](2019年) *[https://www.1101.com/n/s/jun/relics/ ほぼ日刊イトイ新聞 みうらじゅんさんの「マイ遺品 」with銀の鳥シジュちゃん ](2022年) *[https://www.1101.com/n/s/jun/shinjuku/ ほぼ日刊イトイ新聞 みうらじゅんに聞け! 新宿編 ](2022年) * [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010635 特集 あの人のとっておきセレクション みうらじゅんさん NHKアーカイブス] * [https://www.ktv.jp/kenbutsu/index.html 関西テレビ「新TV見仏記」番組HP] {{Portal bar|アジア|日本|京都府|漫画|音楽|文学|人物伝}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:みうら しゆん}} [[Category:みうらじゅん|*]] [[Category:日本の男性イラストレーター]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本のコラムニスト]] [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:20世紀日本の随筆家]] [[Category:21世紀日本の随筆家]] [[Category:日本の男性著作家]] [[Category:学士号取得者]] [[Category:日本のコレクター]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:珍スポット|人]] [[Category:ガロ|人]] [[Category:武蔵野美術大学出身の人物]] [[Category:東山高等学校出身の人物]] [[Category:京都市出身の人物]] [[Category:1958年生]] [[Category:存命人物]]
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ディラック定数
換算プランク定数(かんさんプランクていすう、英: reduced Planck constant)またはディラック定数(ディラックていすう、英: Dirac's constant)ħ は、プランク定数 h を 2π で割った値を持つ定数である。 2019年5月20日に施行された新しいSIの定義では、プランク定数を定義値として定めることによって質量(キログラム)を定義している。このためディラック定数も定義値となり、不確かさのないものとなった。 その値は である。 ħ は「エイチ・バー」と読む。 物理的には、プランク定数が周波数 ν とエネルギー E の間の比例定数を意味するのに対して、換算プランク定数は角周波数 ω とエネルギー E の間の比例定数を意味する。すなわち、 の関係が成り立っている。また、以下のように運動量 p と角波数 k の間の比例定数と見ることもできる。 ディラック定数は原子単位系における作用の単位である。 電子の軌道角運動量 L の大きさ |L| と z 成分 Lz は と表され、ディラック定数を基本単位としていることが分かる。ここで、n を主量子数とすると、l は l = 0, 1, 2, 3, ⋯, n − 1 までの値を取る方位量子数、m は m = 0, ±1, ±2, ⋯, ±l の (2l + 1) 個の値を取る磁気量子数で、軌道角運動量を極座標 (r, θ, φ) で表わした場合の角部分が l、動径部分が m である。また、電子のスピン角運動量は ±1/2ħ で、量子力学の分野ではプランク単位系を用いることが多く、その場合の電子のスピンは ±1/2 と書き、この ±1/2 をスピン量子数と呼ぶ。 二原子分子の回転運動を表す際、J を回転量子数とすると、回転の角運動量の大きさは √J(J + 1)ħ、回転運動のエネルギーは BJ(J + 1) と表され、回転定数 B の中に B = ħ/2I とディラック定数が現れる。ここで、I は分子の重心まわりの主慣性モーメントの非零成分である。 量子力学によって記述されるような物理現象の観測においては、不確定性原理によって位置の不確かさ Δx と運動量の不確かさ Δp の積 Δx⋅Δp、あるいはエネルギーの不確かさ ΔE と時間の不確かさ Δt の積 ΔE⋅Δt は、ħ/2 より小さくなることはないとして と表される。 ディラック定数には H にバーを付した Ħ の小文字 ħ が用いられることもあるが、Unicode には専用の文字 U+210F ħ planck constant over two pi が用意されている。またTeXでは \hbar コマンドが用いられる。
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換算プランク定数またはディラック定数ħ は、プランク定数 h を 2π で割った値を持つ定数である。
{{物理定数 |名称=換算プランク定数<br />ディラック定数 |英語=reduced Planck constant<br />Dirac's constant |記号={{math|{{hbar}}}} |値=<math>1.054\ 571\ 817...\times10^{-34}\mbox{J}\cdot\mbox{s}</math> |不確かさ=ゼロ |語源=[[マックス・プランク]]<br />[[ポール・ディラック]] }} '''換算プランク定数'''(かんさんプランクていすう、{{lang-en-short|reduced Planck constant}})または'''ディラック定数'''(ディラックていすう、{{lang-en-short|Dirac's constant}}){{math|{{hbar}}}} は、[[プランク定数]] {{mvar|h}} を {{math|2''&pi;''}} で割った値を持つ定数である。 == 数値 == 2019年5月20日に施行された新しいSIの定義では、[[プランク定数]]を定義値として定めることによって[[質量]]([[キログラム]])を定義している。このためディラック定数も定義値となり、不確かさのないものとなった。 その値は :<math>\begin{align}\hbar\equiv\frac{h}{2\pi}&=1.054\ 571\ 817...\times10^{-34}\ \mbox{J}\cdot\mbox{s}\\&=6.582\ 119\ 569...\times10^{-16}\ \mbox{eV}\cdot\mbox{s}\end{align}</math> である<ref>[[#hbar|CODATA Value]]</ref><ref>[[#hbarev|CODATA Value]]</ref>。 {{math|{{hbar}}}} は「エイチ・バー」と読む。 == 物理的意義 == 物理的には、プランク定数が[[周波数]] {{mvar|&nu;}} と[[エネルギー]] {{mvar|E}} の間の比例定数を意味するのに対して、換算プランク定数は[[角周波数]] {{mvar|&omega;}} とエネルギー {{mvar|E}} の間の比例定数を意味する。すなわち、 :<math>E=h\nu=\frac{h}{2\pi}\cdot 2\pi\nu=\hbar\omega</math> の関係が成り立っている。また、以下のように[[運動量]] {{mvar|p}} と[[波数|角波数]] {{mvar|k}} の間の比例定数と見ることもできる。 :<math>p=\frac{h}{\lambda}=\frac{h}{2\pi}\frac{2\pi}{\lambda}=\hbar k</math> ディラック定数は[[原子単位系]]における[[作用 (物理学)|作用]]の単位である。 === 角運動量 === [[電子]]の[[軌道角運動量]] {{Mvar|'''L'''}} の大きさ {{Math|{{!}}'''''L'''''{{!}}}} と {{Mvar|z}} 成分 {{Mvar|L{{Sub|z}}}} は :<math>\begin{align}&|\boldsymbol{L}|=\sqrt{l(l+1)}\hbar\\ &L_z=m\hbar\end{align}</math> と表され{{R|butsuri|page1=138,334頁|kagaku}}、ディラック定数を基本単位としていることが分かる。ここで、{{Mvar|n}} を[[量子数|主量子数]]とすると、{{Mvar|l}} は {{Math|''l'' {{=}} 0, 1, 2, 3, &#x22EF;, ''n'' &minus; 1}} までの値を取る方位量子数{{R|butsuri|page1=335頁|kagaku}}<ref>{{Kotobank|方位量子数|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>、{{Mvar|m}} は {{Math|''m'' {{=}} 0, &plusmn;1, &plusmn;2, &#x22EF;, &plusmn;''l''}} の {{Math|(2''l'' + 1)}} 個の値を取る磁気量子数で{{R|butsuri|page1=138頁|kagaku}}<ref>{{Kotobank|磁気量子数|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>、軌道角運動量を[[極座標系|極座標]] {{Math|(''r'', ''&theta;'', ''&phi;'')}} で表わした場合の[[角]]部分が {{Mvar|l}}、[[半径|動径]]部分が {{Mvar|m}} である{{R|kagaku}}。また、[[電子]]の[[スピン角運動量]]は {{math|&plusmn;{{Sfrac|1|2}}{{hbar}}}} で<ref>{{Kotobank|スピン量子数|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>、[[量子力学]]の分野では[[プランク単位系]]を用いることが多く、その場合の電子のスピンは {{math|&plusmn;{{sfrac|1|2}}}} と書き、この {{math|&plusmn;{{sfrac|1|2}}}} をスピン量子数と呼ぶ。 [[二原子分子]]の[[回転#物理的回転|回転運動]]を表す際、{{Mvar|J}} を[[回転準位|回転量子数]]とすると、回転の[[角運動量]]の大きさは {{Math|{{Sqrt|''J''(''J'' + 1)}}{{hbar}}}}、回転運動のエネルギーは {{Math|''BJ''(''J'' + 1)}} と表され、回転定数 {{Mvar|B}} の中に {{Math|''B'' {{=}} {{Sfrac|{{hbar}}{{Sup|2}}|2''I''}}}} とディラック定数が現れる。ここで、{{Mvar|I}} は分子の重心まわりの[[慣性モーメント|主慣性モーメント]]の非零成分である{{R|butsuri|page1=51頁}}。 === 不確定性原理 === [[量子力学]]によって記述されるような[[物理現象]]の[[観測]]においては、[[不確定性原理]]によって[[位置]]の[[不確かさ (測定)|不確かさ]] {{Math|&Delta;''x''}} と[[運動量]]の不確かさ {{Math|&Delta;''p''}} の積 {{Math|&Delta;''x''&sdot;&Delta;''p''}}、あるいはエネルギーの不確かさ {{Math|&Delta;''E''}} と[[時間]]の不確かさ {{Math|&Delta;''t''}} の積 {{Math|&Delta;''E''&sdot;&Delta;''t''}} は、{{Math|{{Sfrac|{{hbar}}|2}}}} より小さくなることはないとして :<math>\begin{align}&\Delta x\cdot\Delta p\ge\frac{\hbar}{2}\\ &\Delta E\cdot\Delta t\ge\frac{\hbar}{2}\end{align}</math> と表される{{R|butsuri|page1=303頁}}<ref>{{Kotobank|不確定性原理|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。 ==記号== ディラック定数には H にバーを付した [[Ħ]] の小文字 ħ が用いられることもあるが、Unicode には専用の文字 {{unichar|210F|PLANCK CONSTANT OVER TWO PI}} が用意されている。また[[TeX|{{TeX}}]]では <code>\hbar</code> コマンドが用いられる。 {|class="wikitable" style="text-align: center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|8463|210F|1-3-61|PLANCK CONSTANT OVER TWO PI}} |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ; 出典 {{Reflist|2|refs= <ref name="butsuri">[[#jiten|物理小事典]]</ref> <ref name="kagaku">[[#jiten2|化学小事典]]</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book|url=http://dictionary.reference.com/browse/dirac's+constant|chapter=dirac's constant|title={{enlink|The American Heritage Dictionary of the English Language|The American Heritage® Science Dictionary|p=off|s=off}}|edition=1st|location=[[ボストン|Boston]]|publisher={{enlink|Houghton Mifflin Harcourt|p=off|s=off}}|date=January 25, 2005|asin=B001P5HDQI|oclc=56356196|ncid=BA73925776|isbn=0618455043|ref=dictionary}} * {{Cite book|和書|title=物理小事典|edition=第4版|date=2008|origdate=1994-04-01|publisher=[[三省堂]]|id={{全国書誌番号|94041161}}|oclc=675375379|ncid=BN10774805|asin=4385240167|isbn=978-4385240169|ref=jiten}} * {{Cite book|和書|title=化学小事典|edition=第4版|date=2008|origdate=1993-12|publisher=三省堂|id={{全国書誌番号|95021622}}|ncid=BN10357874|oclc=674607619|asin=4385240256|isbn=978-4385240251|ref=jiten2}} == 関連項目 == * [[プランク定数]] * [[ポール・ディラック]] == 外部リンク == * {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?hbar|title=CODATA Value: Planck constant over 2 pi|publisher=[[アメリカ国立標準技術研究所|NIST]]|date=2019-05-20|accessdate=2019-05-31|ref=hbar}} * {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?hbarev|title=CODATA Value: Planck constant over 2 pi in eV s|publisher=NIST|date=2019-05-20|accessdate=2019-05-31|ref=hbarev}} * {{Kotobank|2=デジタル[[大辞泉]]}} * {{Britannica|science|Dirac-h|Dirac h}} {{Physics-stub}} {{DEFAULTSORT:ていらつくていすう}} [[Category:量子力学]] [[Category:物理定数]] [[Category:ポール・ディラック]] [[Category:物理学のエポニム]] [[en:Planck constant]]
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12,366
フォトニックバンド構造
フォトニックバンド構造(フォトニックバンドこうぞう、英: Photonic band structure)は、フォトニック結晶中を伝播する電磁波の分散関係に見られるバンド構造のことである。 フォトニック結晶中では誘電率が周期的に変化するので、固体物理学における逆格子やブリュアンゾーンの考え方をそのまま使用できる。それらを利用して電磁波に関して波動方程式を解くことによって、固体中の電子と同様にバンド構造を持つ分散関係が得られる。このバンド構造をフォトニックバンド構造という。このバンド構造から、電磁波の伝播の様子を知ることができる。 フォトニックバンド構造は縦軸を電磁波の周波数、横軸を波数とするグラフとして図示されることが多い(電子のバンド構造は縦軸をエネルギーとすることが多い)。 フォトニックバンド構造の形状によっては電磁波の伝播できない周波数領域が存在することがあり、フォトニックバンドギャップ(光の禁止帯)と呼ぶ。これも、電子のバンドギャップと同様である。フォトニックバンドギャップができるかどうかは、フォトニック結晶の対称性などの条件に依る。 電子のバンド計算においては電子同士の相互作用のために波動方程式が非線形となり、多くの場合はセルフコンシステントに解くことによってバンド構造を求めるのに対し、電磁波の場合は波動方程式が線形であり、セルフコンシステントに解く必要がない。その分、電子のバンド計算と比べて計算量はずっと少なくて済む。
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フォトニックバンド構造は、フォトニック結晶中を伝播する電磁波の分散関係に見られるバンド構造のことである。
{{出典の明記|date=2015年9月}} '''フォトニックバンド構造'''(フォトニックバンドこうぞう、{{Lang-en-short|Photonic band structure}})は、[[フォトニック結晶]]中を伝播する[[電磁波]]の[[分散関係]]に見られる[[バンド構造]]のことである。 == 概要 == フォトニック結晶中では[[誘電率]]が周期的に変化するので、[[固体物理学]]における[[逆格子]]や[[ブリュアンゾーン]]の考え方をそのまま使用できる。それらを利用して電磁波に関して[[波動方程式]]を解くことによって、固体中の電子と同様にバンド構造を持つ分散関係が得られる。このバンド構造を'''フォトニックバンド構造'''という<ref name=ntt2010>{{Cite journal|和書|url=http://www.ntt.co.jp/journal/1005/files/jn201005038.pdf|format=PDF|title=フォトニック結晶による光の制御|journal=NTT技術ジャーナル|date=2010.5|author=納富雅也}}</ref>。このバンド構造から、電磁波の伝播の様子を知ることができる。 フォトニックバンド構造は縦軸を電磁波の周波数、横軸を[[波数]]とするグラフとして図示されることが多い(電子のバンド構造は縦軸をエネルギーとすることが多い)。 フォトニックバンド構造の形状によっては電磁波の伝播できない周波数領域が存在することがあり、フォトニックバンドギャップ(光の禁止帯)と呼ぶ<ref name=ntt2010/>。これも、電子の[[バンドギャップ]]と同様である。フォトニックバンドギャップができるかどうかは、フォトニック結晶の対称性などの条件に依る。 == 固体中の電子との類比 == 電子のバンド計算においては電子同士の相互作用のために波動方程式が非線形となり、多くの場合は[[セルフコンシステント]]に解くことによってバンド構造を求めるのに対し、電磁波の場合は波動方程式が線形であり、セルフコンシステントに解く必要がない。その分、電子のバンド計算と比べて計算量はずっと少なくて済む。 ==出典== {{Reflist}} ==関連記事== * [[物性物理学]] * [[光学]] * [[FDTD]] {{DEFAULTSORT:ふおとにつくはんとこうそう}} [[Category:光学]] [[Category:固体物理学]] [[Category:電磁気学]] [[Category:計算物理学]]
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PHASE-III衛星
PHASE-III衛星(Phase-3衛星、フェイズスリーえいせい)は、AMSATの楕円軌道を用いたアマチュア衛星(通信衛星)である。1970年代なかばごろ、アマチュア衛星の世代として に続く第3世代の衛星として、より広範囲に通信が可能なPHASE-III衛星の開発計画を立案・実行したものである。 PHASE-III衛星は、概ねモルニア軌道に近い軌道を狙った衛星である。この軌道は北半球側に遠地点を持つ周期12時間程度の長楕円型である。したがって、次のような利点と課題がある。 以上のように多くの点で技術的ブレークスルーを求められるが、PHASE-II衛星に比べ使い勝手は大きく向上することが期待され、文字通り新しい段階 (pphase) の衛星であった。 一般的な商用通信衛星と異なりPHASE-III計画では初期段階から完全な静止軌道は採用しなかった。これにはいくつかの理由がある。 過去打ち上げられた衛星および計画中の衛星は次のとおりである。 AMSAT-OSCAR 6号および7号を成功させたAMSATでは、衛星ユーザの拡大と支持に自信を深めたが、同時にその限界についても認識していた。より便利に使える衛星を求めて、またよりチャレンジングな衛星の開発により技術力を蓄積することを目指して次世代の衛星が企画されることとなった。 構想を具体化したのはAMSAT-DLおよびAMSAT-NAのチームが主導的で、特に衛星バスの設計はマールブルク大学のカール・マインツァー博士らのグループによるところが大きい。 PHASE-III計画で最初に開発された衛星PHASE-III-Aは次のような特徴をもっていた。 製作団体は、AMSAT-DL,AMSAT-NA,ブダペスト工科大学。 打上げは1980年5月23日、フランス領ギアナのクールー宇宙センターからアリアンロケット2号機(L02)で行われた。しかし発射後数分で第1段ロケットエンジンの異常燃焼のため打上げは失敗し、PHASE-III-A衛星は主ペイロードの「ファイアーホイール」(西ドイツのマックス・プランク研究所の科学衛星)とともに大西洋に落下、喪失した。 関係者の失望は大きかったが、欧州宇宙機関(ESA)は再打上げの要請に対し、衛星さえ製作できれば1982年の7回目の打ち上げに便乗させられるとの回答を寄せたため、代替衛星(PHASE-III-B)の製作に着手することになった。 打上げの失敗に対しアマチュア無線コミュニティからは同情と激励の言葉が寄せられ、ARRL始め多くの団体から衛星再製作のための寄付が寄せられた。また、ヨルダンの故フセイン国王(JY1のコールサインを持つアマチュア無線家でもあった)からの寄付もあった。 オスカー10号はアリアンロケットの打上げ失敗で海中に没したPHASE-III-A衛星の代替機として製作され、1983年にアリアンロケット第6号機で打ち上げられた。しかし、衛星がロケットの三段目と分離した直後にロケットの推力が低下せず追突された。このため軌道変更時の制御が正常に行われず、最終軌道は予定したよりも高い近地点と小さい軌道傾斜角を持つことになった。これは、衝突直後衛星の姿勢が約90度変わってしまい、太陽光の入射角の関係で衛星温度が低下したため、液体燃料を送り出すヘリウムガスタンクあるいは配管系統が劣化したことにより、近地点を下げようとした2度目の燃焼が行えなかったためである。 軌道は最終形ではなかったものの、高高度・広帯域の衛星の登場は世界のアマチュア衛星愛好家から歓迎され、多くの交信がオスカー10号を通じて行われ、アマチュア宇宙通信の普及に大きく貢献したのである。 しかし近地点の高い軌道により衛星がヴァン・アレン帯中を通過する時間が増えたため、電子回路が計画より早くダメージを受けた。特に打ち上げ後3年半くらいでマイクロコンピュータ制御回路の主メモリの恒久破損が進み制御プログラムの実行が困難になった。 打ち上げから約20年を経た現在は、制御系の喪失に加えバッテリ(二次電池)が劣化したため、太陽電池への太陽光の入射角が良好な時にBモードトランスポンダが動作するのみである。 衛星の諸元 AO-10の打ち上げに先立つ1982年始め、ESAからアリアン4型の最初の試験飛行でピギーバック打ち上げの可能性が示唆された。AMSAT-DLではより大型の衛星も検討しつつ、最終的にはAO-10の改良型として製作することを1984年に決定し製作を開始した。AO-10で不調だったLモードトランスポンダーについては全面的に再設計したほか、アップリンクとして2mも受け入れるJ/L併用モードを新設、さらに430MHzから2.4GHzに変換するSモードトランスポンダーを搭載することになった。また、デジタル通信用としてRUDAKを搭載、AX.25パケット通信で使えるよう計画された。 打ち上げはアリアンV-18号機の失敗などにより当初予定より遅れ、1988年6月15日にクールー宇宙センターから打ち上げられた。今回は分離に伴うトラブルもなく、6月22日と7月6日には軌道変換にも成功し、自力で予定通りの軌道に変換投入することに成功した初めてのアマチュア衛星となった。 7月22日にはBモード、24日にはJLモードのトランスポンダの使用が一般に公開され運用が開始された。さらに9月17日からSモードトランスポンダが開放された。しかし、RUDAKは不調であった。 AO-13はそれまでのアマチュア衛星のなかでもっとも成功したものであった。1990年、AO-13の軌道は摂動により近地点高度が単調減少することが明らかになったが、商用衛星のようなスラスタを持たないためこれを食い止めることはできなかった。1996年には近地点が150km程まで低下し、同年12月5日に大気圏に突入して消滅した。 8年半の運用を通じて世界のアマチュア無線家に広く使われ、PHASE-IIIタイプの衛星の有効性が認められた。 衛星の諸元
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PHASE-III衛星(Phase-3衛星、フェイズスリーえいせい)は、AMSATの楕円軌道を用いたアマチュア衛星(通信衛星)である。1970年代なかばごろ、アマチュア衛星の世代として 実験的なPHASE-I衛星 実用的だが通信可能範囲が狭い低軌道を用いたPHASE-II衛星 に続く第3世代の衛星として、より広範囲に通信が可能なPHASE-III衛星の開発計画を立案・実行したものである。
{{出典の明記|date=2023年2月26日 (日) 09:14 (UTC)}} '''PHASE-III衛星'''(Phase-3衛星、フェイズスリーえいせい)は、AMSATの[[楕円軌道]]を用いた[[アマチュア衛星]]([[通信衛星]])である。1970年代なかばごろ、アマチュア衛星の世代として #実験的なPHASE-I衛星 #実用的だが通信可能範囲が狭い[[低軌道]]を用いたPHASE-II衛星 に続く第3世代の衛星として、より広範囲に通信が可能なPHASE-III衛星の開発計画を立案・実行したものである。 == 衛星の特徴 == PHASE-III衛星は、概ね[[モルニア軌道]]に近い軌道を狙った衛星である。この軌道は北半球側に[[近地点・遠地点|遠地点]]を持つ周期12時間程度の長楕円型である。したがって、次のような利点と課題がある。 * 利点 ** [[アマチュア無線]]家の人口の多い地域から数時間以上連続して可視となるため、低軌道衛星に比べ利用時間が長い。 ** 衛星の高度が高いため、同時に衛星が見える範囲が広い。言い換えると、より遠方の局と交信できるようになる。 ** 遠地点側では衛星の動きがゆっくりであるため、追尾が容易である。 * 衛星を開発・運用するうえでの課題 ** 遠地点での通信距離が低軌道の数十倍にも達するため、伝播損失を補うため[[トランスポンダ]]の高出力化や[[アンテナ]]の大型化が必要になる。 ** 高出力化に伴い搭載機器の消費電力が増加するので[[太陽電池]]を貼るスペースも多く必要になり、必然的に大型化する。 ** 最終軌道に達するために[[静止トランスファ軌道]]からの軌道変換や、アンテナを地球に向けるための能動的な[[姿勢制御]]を必要とするため、[[マイクロプロセッサ]]を搭載して高度な航法制御を行う必要がある 以上のように多くの点で技術的ブレークスルーを求められるが、PHASE-II衛星に比べ使い勝手は大きく向上することが期待され、文字通り新しい段階 (pphase) の衛星であった。 一般的な商用通信衛星と異なりPHASE-III計画では初期段階から完全な[[静止軌道]]は採用しなかった。これにはいくつかの理由がある。 * 静止位置の確保ができない : 静止軌道は有限な資源であり、国際的な管理下にあるため、アマチュア無線用として希望の静止位置([[経度]])を確保できる可能性が殆ど無い。 * 技術的ハードルが高い ** 目指す経度に静止できる軌道はただひとつしかなく、極めて精密な軌道変換と、その後の静止位置を維持するための軌道制御が必須となる。 ** 静止位置に衛星をとどめるためのスラスターの燃料が切れれば運用を継続できないため、多目の燃料を搭載せねばならずこれも衛星の設計に対し負担が大きい。これに対しモルニア軌道類似の軌道であれば予定軌道と多少ずれがあっても運用には支障は無いし、軌道の変化への対応にも神経を使う必要は少ない。 * 静止衛星を利用できる地域は全地球の約1/3であるため、限られた位置に置くか、あるいは複数の衛星を用意(多額の費用を要する)しなければならない。 * 高緯度地域からは、静止衛星だと仰角が下がって地上の障害物にさえぎられることがある。 == 衛星の一覧 == 過去打ち上げられた衛星および計画中の衛星は次のとおりである。 * PHASE-III-A : [[1980年]]、ロケットが打上げに失敗 * PHASE-III-B (AO-10) : [[1983年]]打上げに成功。現在は一部の機能のみ動作中 * PHASE-III-C (AO-13) : [[1988年]]打上げに成功。[[摂動 (天文学)|摂動]]による近地点低下現象で[[1996年]][[12月]]に再突入 * PHASE-III-D(AO-40) : [[1999年]]アリアン5で打上げ成功。3軸制御も可能な大型衛星だが、軌道変換中のモーター異常で機能の一部を喪失した。2004年1月25日UTC、電源の故障により全面的に運用停止した。 * PHASE-III-E : PHASE-III-Cタイプの設計で計画中 == 歴史 == AMSAT-OSCAR 6号および7号を成功させたAMSATでは、衛星ユーザの拡大と支持に自信を深めたが、同時にその限界についても認識していた。より便利に使える衛星を求めて、またよりチャレンジングな衛星の開発により技術力を蓄積することを目指して次世代の衛星が企画されることとなった。 構想を具体化したのはAMSAT-DLおよびAMSAT-NAのチームが主導的で、特に衛星バスの設計は[[フィリップ大学マールブルク|マールブルク大学]]のカール・マインツァー博士らのグループによるところが大きい。 === PHASE-III-A === PHASE-III計画で最初に開発された衛星'''PHASE-III-A'''は次のような特徴をもっていた。 * 形状は直径1600mm、高さ400mm、質量約92kgの三角星型で、スピン安定方式により姿勢を保つ。大きさはそれまでのアマチュア衛星中最大である(日本の技術試験衛星1号「きく」より大きく大質量)。 * 予定軌道は次のとおり ** [[近地点・遠地点|近地点]]高度1,500km、[[近地点・遠地点|遠地点]]高度35,800km、(周期約660分) ** 軌道傾斜角57deg、近地点引数210度 * 通信衛星として機能するため、一般ユーザが利用可能な約120kHzの周波数帯域を持つ出力50WのBモードトランスポンダ(アップリンクが70cm帯・ダウンリンクが2m帯)を搭載した。 * 衛星の航法制御・ハウスキーピング用として[[Complementary Metal Oxide Semiconductor|CMOS]]マイクロプロセッサ([[RCA]] CDP-1802)と16KB [[誤り検出|ECC]]付[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]メモリを備えた。 * [[遠隔測定法|テレメトリ]]は[[モールス信号|モールス符号]]によるジェネラルビーコンと[[デジタル変調#位相偏移変調|PSK変調]]によるエンジニアリングビーコンの2系統を備えた。 * 軌道変換用に[[チオコール|サイオコール]]社の小型固体ロケットモーターを内蔵する。 * 姿勢制御用に、導体に電流を流し地球磁場との相互作用により回転[[モーメント]]を発生させるマグネトルカーを用いる。これはその後のPHASE-III衛星にも引き続き採用された。 * アンテナは以下の3組を持つ: :: 三角星型の各頂点にモノポール素子を配置した、2m帯[[偏波|円偏波]]ビームアンテナ(送信) :: 上面の中心軸上に配置した、2m帯{{仮リンク|モノポールアンテナ|en|Monopole antenna}}(送信) :: 上面に120度おき3箇所にダイポールを配置した、70cm帯位相給電ビームアンテナ(受信) 製作団体は、AMSAT-DL,AMSAT-NA,ブダペスト工科大学。 : 日本を含む世界中のアマチュア無線家からの寄付も寄せられた。日本ではJAMSATを通じ太陽電池基金の寄付、および中間周波数用クリスタルフィルタの製作・寄付などの貢献があった。 打上げは[[1980年]][[5月23日]]、[[フランス領ギアナ]]のクールー宇宙センターから[[アリアン]]ロケット2号機(L02)で行われた。しかし発射後数分で第1段ロケットエンジンの異常燃焼のため打上げは失敗し、PHASE-III-A衛星は主[[ペイロード (航空宇宙)|ペイロード]]の「ファイアーホイール」([[ドイツ|西ドイツ]]の[[マックス・プランク研究所]]の科学衛星)とともに大西洋に落下、喪失した。 関係者の失望は大きかったが、[[欧州宇宙機関]](ESA)は再打上げの要請に対し、衛星さえ製作できれば[[1982年]]の7回目の打ち上げに便乗させられるとの回答を寄せたため、代替衛星(PHASE-III-B)の製作に着手することになった。 打上げの失敗に対しアマチュア無線コミュニティからは同情と激励の言葉が寄せられ、[[アメリカ無線中継連盟|ARRL]]始め多くの団体から衛星再製作のための寄付が寄せられた。また、[[ヨルダン]]の故[[フセイン1世|フセイン国王]](JY1のコールサインを持つアマチュア無線家でもあった)からの寄付もあった。 === オスカー10号(AMSAT-OSCAR-10/PHASE-III-B) === '''オスカー10号'''はアリアンロケットの打上げ失敗で海中に没したPHASE-III-A衛星の代替機として製作され、[[1983年]]にアリアンロケット第6号機で打ち上げられた。しかし、衛星がロケットの三段目と分離した直後にロケットの推力が低下せず追突された。このため軌道変更時の制御が正常に行われず、最終軌道は予定したよりも高い近地点と小さい軌道傾斜角を持つことになった。これは、衝突直後衛星の姿勢が約90度変わってしまい、太陽光の入射角の関係で衛星温度が低下したため、液体燃料を送り出すヘリウムガスタンクあるいは配管系統が劣化したことにより、近地点を下げようとした2度目の燃焼が行えなかったためである。 軌道は最終形ではなかったものの、高高度・広帯域の衛星の登場は世界のアマチュア衛星愛好家から歓迎され、多くの交信がオスカー10号を通じて行われ、アマチュア宇宙通信の普及に大きく貢献したのである。 しかし近地点の高い軌道により衛星が[[ヴァン・アレン帯]]中を通過する時間が増えたため、電子回路が計画より早くダメージを受けた。特に打ち上げ後3年半くらいでマイクロコンピュータ制御回路の主メモリの恒久破損が進み制御プログラムの実行が困難になった。 打ち上げから約20年を経た現在は、制御系の喪失に加え[[電池|バッテリ]](二次電池)が劣化したため、太陽電池への太陽光の入射角が良好な時にBモードトランスポンダが動作するのみである。 '''衛星の諸元''' * 基本的にはPHASE-III-Aとほぼ同じサイズと機能だが、トランスポンダが2組に増え、[[アポジモーター]]が液体式になった。 * 打ち上げ日時:[[1983年]][[6月16日]]11:59UTC * 射場:フランス領ギアナ・クールー宇宙センター * ロケット:アリアン6号機(L-6) * 主ペイロード:ECS-1(Europian Communication Satellite) * 予定軌道:近地点高度1500km、遠地点高度36000km、軌道傾斜角57度〜64度 * 最終軌道:近地点高度3950km、遠地点高度35500km、軌道傾斜角25.8度 * アポジモーター:MBB社製液体モーター([[非対称ジメチルヒドラジン|UDMH]]+[[四酸化二窒素|N2O4]]) * 大きさ:三角星型で直径1.6m×高さ0.4m。質量130kg * トランスポンダ:以下の二組 ** Bモード:70cm→2m、帯域150kHz、50W *** ビーコン:145.810MHz(GB)/145.987MHz(EB) ** Lモード:23cm→70cm、帯域800kHz、35W *** ビーコン:436.04MHz(GB)/436.02MHz(EB) : GB=General Beacon(CW/RTTY/PSK)、EB=Engineering Beacon(PSK) * アンテナ:以下の三組 ** 2m帯:3x2素子位相給電モノポール(ゲイン7dBi) ** 70cm帯:3x位相給電ダイポール(ゲイン11dBi) ** 23cm:ヘリックス(ゲイン13dBi) === オスカー13号(AMSAT-OSCAR-13/PHASE-III-C) === AO-10の打ち上げに先立つ1982年始め、ESAからアリアン4型の最初の試験飛行で[[ピギーバック衛星|ピギーバック]]打ち上げの可能性が示唆された。AMSAT-DLではより大型の衛星も検討しつつ、最終的にはAO-10の改良型として製作することを1984年に決定し製作を開始した。AO-10で不調だったLモードトランスポンダーについては全面的に再設計したほか、アップリンクとして2mも受け入れるJ/L併用モードを新設、さらに430MHzから2.4GHzに変換するSモードトランスポンダーを搭載することになった。また、デジタル通信用としてRUDAKを搭載、AX.25[[パケット通信 (アマチュア無線)|パケット通信]]で使えるよう計画された。 打ち上げはアリアンV-18号機の失敗などにより当初予定より遅れ、1988年6月15日にクールー宇宙センターから打ち上げられた。今回は分離に伴うトラブルもなく、6月22日と7月6日には軌道変換にも成功し、自力で予定通りの軌道に変換投入することに成功した初めてのアマチュア衛星となった。 7月22日にはBモード、24日にはJLモードのトランスポンダの使用が一般に公開され運用が開始された。さらに9月17日からSモードトランスポンダが開放された。しかし、RUDAKは不調であった。 AO-13はそれまでのアマチュア衛星のなかでもっとも成功したものであった。1990年、AO-13の軌道は摂動により[[近地点]]高度が単調減少することが明らかになったが、商用衛星のようなスラスタを持たないためこれを食い止めることはできなかった。1996年には近地点が150km程まで低下し、同年12月5日に大気圏に突入して消滅した。 8年半の運用を通じて世界のアマチュア無線家に広く使われ、PHASE-IIIタイプの衛星の有効性が認められた。 '''衛星の諸元''' * 基本的にはオスカー10号を踏襲して様々な改良を加えて設計されている。 * 打ち上げ日時:[[1988年]][[6月15日]]11:19UTC * 射場:フランス領ギアナ・クールー宇宙センター * ロケット:アリアンV-22(アリアン4型の試験飛行第1号機で構成は44LP) * 主ペイロード:METEOSAT-P2([[気象衛星]])、PANAMSAT(通信衛星) * 予定軌道:近地点高度1500km、遠地点高度36000km、軌道傾斜角57度 * 最終軌道:近地点高度2545km、遠地点高度36264km、軌道傾斜角57.85度(最終軌道変換直後) * アポジモーター:MBB社製液体モーター(UDMH+N2O4) * 大きさ:三角星型で直径1.6m×高さ0.4m。質量142kg * トランスポンダ:以下の3組のリニアトランスポンダ+RUDAK ** Bモード:70cm→2m、帯域150kHz、50W *** ビーコン:145.812MHz(GB)/145.985MHz(EB) ** J/Lモード:2m/23cm→70cm、帯域50kHz/290kHz、35W *** ビーコン:436.651MHz(GB) ** Sモード:70cm→13cm、帯域36kHz *** ビーコン:2400.325MHz(GB) ** RUDAK:Lモードで動作するデジタルトランスポンダ(AX.25プロトコル) *** 1259.710MHz(2400bps BPSK)→435.677MHz(400bps BPSK/1200bps NRZI) : GB=General Beacon(CW/RTTY/PSK)、EB=Engineering Beacon(PSK) * アンテナ:以下の四組 ** 2m帯:3x2素子位相給電ビームアンテナ(ゲイン6dBi)およびモノポール ** 70cm帯:3x位相給電ダイポール(ゲイン9.5dBi) ** 23cm帯:ヘリックス(ゲイン12.2dBi) ** 13cm帯:ヘリックス(ゲイン13dBi) === オスカー40号(AMSAT-OSCAR-40/PHASE-III-D) === === PHASE-III-E === == 参考文献 == * JAMSAT Newsletter == 外部リンク == * [http://www.amsat.org AMSAT] * [http://www.amsat-dl.org/ AMSAT-DL] * [http://www.jamsat.or.jp/ JAMSAT] {{DEFAULTSORT:PHASE3えいせい}} [[Category:通信衛星]] [[Category:アマチュア衛星]] [[Category:民間宇宙開発]]
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浜松駅
浜松駅(はままつえき)は、静岡県浜松市中区砂山町にある、東海旅客鉄道(JR東海)東海道新幹線および東海道本線の駅である。東海道本線の駅番号はCA34。遠州鉄道の新浜松駅と相互乗換駅である。 東海道本線の運行形態の詳細は「東海道線 (静岡地区)」を参照。 東海道新幹線と東海道本線が乗り入れる浜松市の中心駅であり、新幹線・在来線間の乗換駅としても機能している。 隣接する遠州鉄道の新浜松駅と合わせて、静岡県西部の拠点駅としても機能している。 新幹線は、「こだま」の全列車が毎時2本と、「ひかり」が毎時1本停車する。また、朝・夜に当駅発着の「こだま」が設定されている。 在来線は、日中は静岡方面が毎時4本、豊橋方面が毎時3本運転され、普通列車の多くが当駅で乗り換えとなる。また、通勤客向けに当駅と静岡間を結ぶホームライナーが設定されている。特急列車は寝台特急「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」の下り列車が停車する。上りは運転停車で乗降はできない。 JR浜松駅の事務管コードは、▲520127となっている。 1949年5月20日に東海道本線静岡 - 浜松間の電化が完成すると、浜松駅は電化区間の境界となり、東京方面の電気機関車と名古屋方面の蒸気機関車との付け換えが行われるようになった(戦前では沼津駅でのそれが知られる)。これに伴う長い停車時間は、浜松駅に以下のような「名物」を生むことになった。 1953年7月21日に浜松 - 名古屋間の電化が完成すると機関車交換駅の役割は終わりを告げた。ただし、「ハモニカ娘」はその後も駅の名物として1969年まで営業を続け、乗客に親しまれた。なお、楽曲や映画でも『僕は特急の機関士で』の「東海道の巻」や『喜劇 駅前弁当』などで「ハモニカ娘」が取り上げられている。 東海道新幹線の計画段階では、市の南部を通過し新幹線駅を在来線の浜松駅ではなく、国鉄浜松工場付近に設置する予定であった(南線案)。しかし、この案では市の通過する区間がすべて土盛りとなり、南北の交通が分断されるなど浜松市にメリットがほぼないとして、市は新幹線駅を浜松駅に併設し、浜名湖の中間を渡る対案(北線案)を要望した。この対案も通過地域からの反発や浜名湖の漁業補償がより増大すること等もあったため、国鉄の静岡工事局の坂本局長は一旦両案を白紙に戻し、現東海道線の高架化を見据えたコース(坂本私案)を提案した。この案は新幹線駅が東海道線と80メートル離れてはいるが市案の希望をほぼ満たす現状のルートとなった。しかし、浜松駅に併設としたことで商店の密集する地域を通過することから、用地買収が非常に難航した。また、駅前広場の設置についても、市や地権者と国鉄側で協議が難航し、決着までにかなりの時間を要した。 東海道線の高架化以前は、新幹線ホームがカーブで建設されているのに対し、在来線ホームは直線のホームとなっていて、駅構内の西側で急なカーブを描く線形となっていたため、在来線ホームと新幹線ホームの間に大きな隙間が生じることとなり、在来線ホームの高架化が完成するまでかなり長い距離の跨線橋により連絡することになった(航空写真の画像を参照)。 国鉄時代は東京 - 浜松間の普通列車が1日に何本か設定されていたが、JR化後の1988年に消滅した。1972年から1988年まで、当駅は東海道本線で東京から発着する昼行普通列車の最西端駅だった(いわゆる「大垣夜行」(ムーンライトながら)は除く。1972年以前は昼行でも東京 - 大垣間などの普通列車があった)。 現在では高速バスがこれらの普通列車に取って代わる存在となっており、東海道上り方面では、東名ハイウェイバス(昼行便)の東京駅行き「東名ライナー」の他、2005年12月に運行を開始した夜行便の「ドリーム静岡・浜松号」を皮切りに東京方面への高速バスが運行されている。 新幹線・在来線ともに高架駅である。 島式ホーム2面4線を有する。4番線(下り本線)の外側に通過線(下り1番線)を持つ。両方向には2本ずつ電留線が配置されており、当駅で始発・終着となる列車の組成や簡単な整備などが行われている。 また西側の電留線から上り本線を介し、浜松運輸区や西浜松駅への引き上げ線が分岐する。 駅長・駅員配置駅(直営駅)である。管理駅として、東海道本線の天竜川駅・高塚駅・舞阪駅の3駅を管理している。 軌道道床にスラブ軌道を広範囲に使用していることが特徴である。浜松駅と同時期に高架化した静岡駅は極僅かな区間に限られている。 改札口は2か所設置されている。このうちメイワン口改札は、新幹線在来線乗り換えコンコースの在来線側に設置されており、駅ビル「メイワン」を経てアクトシティ浜松の連絡通路へつながっている。近距離用の自動券売機が設置されている。自動改札機のみで有人通路はないが、駅係員がいることが多く非自動化券を持っている場合は業務用通路から出場の便宜を図ってもらえることがある。いったん「メイワン」の2階に入る構造になっているが、メイワン営業時間外でも改札口の利用時間であれば利用できる。 (出典:JR東海:駅構内図) 相対式ホーム2面2線を有する。中央の2線は通過線(本線)となっており、西側から浜松工場への引き上げ線が分岐している。上下ホームとも、両端に各車系ごとの停車位置表示がある。 ホームの発車標はソラリー式が使用されていたが、2010年11月におよそ1か月間の試用期間を経てLED式に変更され、同時に自動放送も変更された。 (出典:JR東海:駅構内図) コンコースは大小2つの展示ブースとして、浜松に拠点を構える河合楽器製作所(KAWAI)・ヤマハ・スズキの3社が、1988年から1年ごとに持ち回りで自社製品の展示を行う。以下はその展示品。 自笑亭が販売している。主な駅弁は下記の通り。 2019年(令和元年)度の1日平均乗車人員は37,026人である。これはJR東海の駅では名古屋、東京、新大阪、金山、静岡、京都、豊橋に次ぎ第8位で、静岡県内の駅では第2位である。 『静岡県統計年鑑』及び『浜松市統計書』によると、近年の1日平均乗車人員は以下の通りである。
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浜松駅(はままつえき)は、静岡県浜松市中区砂山町にある、東海旅客鉄道(JR東海)東海道新幹線および東海道本線の駅である。東海道本線の駅番号はCA34。遠州鉄道の新浜松駅と相互乗換駅である。 東海道本線の運行形態の詳細は「東海道線 (静岡地区)」を参照。
{{Otheruses||遠州鉄道の駅|新浜松駅}} {{駅情報 |社色 = #f77321 |文字色 = |駅名 = 浜松駅 |画像 = JR浜松駅北口.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 北口駅ビル「メイワン」(2018年8月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail|coord={{coord|34|42|12.33|N|137|44|3.85|E}}|title=浜松駅|coord2={{coord|34|42|13.39|N|137|43|56.56|E}}|title2=新浜松駅|marker-color=f77321|marker-color2=FF0000}}左は新浜松駅 |よみがな = はままつ |ローマ字 = Hamamatsu |電報略号 = ハツ |事務官コード = ▲0520127 |所属事業者 = [[東海旅客鉄道]](JR東海) |所在地 =[[浜松市]][[中央区 (浜松市)|中央区]]砂山町6-2 |座標 = {{Coord|34|42|12.33|N|137|44|3.85|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |開業年月日 = [[1888年]]([[明治]]21年)[[9月1日]]<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1988年12月号 |title = TOPIC PHOTOS |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |volume = 38 |issue = 12 |page = 92 |publisher = [[電気車研究会]] }}</ref><ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|year=1998|isbn=978-4-533-02980-6|page=22}}</ref> |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 4面6線(合計)<br />2面2線(新幹線)<br />2面4線(在来線) |廃止年月日 = |乗車人員 = 22,496<!--静岡県統計年鑑より--> |乗降人員 = 65,201<!--JR東海 移動等円滑化取組報告書より--> |統計年度 = 2020年(乗降人員は2021年) |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{Color|mediumblue|■}}[[東海道新幹線]] |前の駅1 = [[掛川駅|掛川]] |駅間A1 = 27.8 |駅間B1 = 36.5 |次の駅1 = [[豊橋駅|豊橋]] |駅番号1 = |キロ程1 = 257.1 |起点駅1 = [[東京駅|東京]] |所属路線2 = {{JR海駅番号|CA}} [[東海道線 (静岡地区)|東海道本線]] |前の駅2 = CA33 [[天竜川駅|天竜川]] |駅間A2 = 4.4 |駅間B2 = 5.3 |次の駅2 = [[高塚駅|高塚]] CA35* |駅番号2 = {{JR海駅番号|CA|34}} |キロ程2 = 257.1 |起点駅2 = 東京 |乗換 = [[新浜松駅]]([[遠州鉄道鉄道線]]) |備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|駅長配置駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])<!--←JR東海の表記--><br/>[[みどりの窓口|JR全線きっぷうりば]] 有 |備考全幅 = *この間に[[貨物駅]]として[[西浜松駅]]有り(当駅から2.0km先)。 }} [[ファイル:Hamamatsu Station 2.JPG|thumb|南口(2012年5月)]] '''浜松駅'''(はままつえき)は、[[静岡県]][[浜松市]][[中央区 (浜松市)|中央区]]砂山町にある、[[東海旅客鉄道]](JR東海)[[東海道新幹線]]および[[東海道本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。東海道本線の[[駅ナンバリング#JR東海|駅番号]]は'''CA34'''。[[遠州鉄道]]の[[新浜松駅]]と相互乗換駅である。 東海道本線の運行形態の詳細は「[[東海道線 (静岡地区)]]」を参照。 == 概要 == 東海道新幹線と東海道本線が乗り入れる浜松市の中心駅であり、新幹線・在来線間の乗換駅としても機能している。 隣接する[[遠州鉄道]]の[[新浜松駅]]と合わせて、静岡県西部の拠点駅としても機能している。 新幹線は、「[[こだま (列車)|こだま]]」の全列車が毎時2本と、「[[ひかり (列車)|ひかり]]」が毎時1本停車する。また、朝・夜に当駅発着の「こだま」が設定されている。 在来線は、日中は静岡方面が毎時4本、[[豊橋駅|豊橋]]方面が毎時3本運転され、[[普通列車]]の多くが当駅で乗り換えとなる。また、通勤客向けに当駅と[[静岡駅|静岡]]間を結ぶ[[ホームライナー]]が設定されている。特急列車は[[寝台特急]]「[[サンライズ瀬戸]]」「[[サンライズ出雲]]」の下り列車が停車する。上りは運転停車で乗降はできない。 JR浜松駅の[[事務管理コード|事務管コード]]は、▲520127となっている<ref>日本国有鉄道旅客局(1984)『鉄道・航路旅客運賃・料金算出表 昭和59年4月20日現行』。</ref>。 == 歴史 == [[ファイル:Hamamatsu Railway Station.jpg|thumb|明治末期の駅前]] [[ファイル:Hamamatsu Station.1965.jpg|thumb|周辺の白黒空中写真(1965年8月)<br />{{国土航空写真}}]] === 年表 === * [[1888年]]([[明治]]21年)[[9月1日]]:鉄道局(のちの[[鉄道省]]→[[日本国有鉄道]]〈国鉄〉{{Efn|浜松駅設置時点では、内閣直属の鉄道局。その後の組織変遷の詳細は[[鉄道省]]を参照。}})による浜松 - [[大府駅|大府]]間の官設鉄道線開通により、その終点として開業<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|year=1998|isbn=978-4-533-02980-6|page=22}}</ref>。 * [[1889年]](明治22年)[[4月16日]]:官設鉄道が静岡まで延伸し、新橋までの既存線と直結。途中駅となる。 * [[1895年]](明治28年)[[4月1日]]:線路名称制定。東海道線([[1909年]]に東海道本線に改称)の所属となる。 * [[1926年]]([[大正]]15年)[[12月12日]]:駅舎を洋風の近代的建物に改築(2代目)。 * [[1945年]]([[昭和]]20年)[[6月10日]]:[[浜松空襲]]により2代目駅舎焼失。 * [[1948年]](昭和23年)[[10月15日]]:木造2階建の3代目駅舎完成。 * [[1964年]](昭和39年)[[10月1日]]:東海道新幹線が開業。乗換駅となる。在来線ホームとは、[[跨線橋]]により連絡 * [[1970年]](昭和45年)[[3月15日]]:新幹線のホームが16両対応に延伸される<ref>{{Cite news |title=ホーム延伸工事進む 「こだま」の一部16両化で |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1972-01-13 |page=2 }}</ref>。 * [[1971年]](昭和46年)[[4月26日]]:貨物取扱業務の一部を新設の[[西浜松駅]]に移管。 * [[1976年]](昭和51年)10月1日:貨物の取扱を全廃{{R|停車場}}。これと同時に[[遠州鉄道]][[西鹿島線]]の貨物輸送が終了し、[[遠州馬込駅]]で行われていた国鉄からの乗り入れ貨車の収受が終了した。 * [[1979年]](昭和54年)10月15日:東海道本線の高架化完成<ref>{{Cite news |和書|title=高架化工事が相次ぎ完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1979-10-12 |page=2 }}</ref>。これにより駅は東海道線から離れて設置された新幹線ホームと一体化。 * [[1980年]](昭和55年)10月1日:新幹線「[[ひかり (列車)|ひかり]]」が停車開始。 * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により、JR東海の駅となる{{R|停車場}}。 * [[1988年]](昭和63年)[[5月1日]]:浜松駅ビル「[[メイワン|MayOne(メイワン)]]」開業<ref>{{Cite book|和書 |date=1989-08-01 |title=JR気動車客車情報 89年版 |chapter=JR年表 |page=142 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-110-4}}</ref>。 * [[1992年]]([[平成]]4年)[[11月14日]]:在来線改札口に[[自動改札機]]導入<ref name="gate"/>。 * [[1996年]](平成8年)2月:南口外観を改装<ref>{{cite news |和書|title=外装イメージ一新 JR東海 浜松駅南口改良工事が完成 |newspaper=交通新聞 |date=1996-03-01 |publisher=交通新聞社 |page=3 }}</ref>。 * [[1998年]](平成10年)[[3月7日]]:新幹線改札口に自動改札機導入<ref name="gate">{{Cite web|和書|title=浜松市史 五 第四章 国際化の進展と新たな課題 第六節 交通・通信 第一項 JR東海 自動改札機の導入|url=https://adeac.jp/hamamatsu-city/text-list/d100050/ht007070|publisher=[[浜松市]]立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ|accessdate=2017-05-31}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |date=1998-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '98年版 |chapter=JR年表 |page=184 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-119-8}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[3月16日]]:在来線にエレベーター・エスカレーターが各2基新設される<ref>{{Cite news |和書|title=JR御殿場駅、浜松駅にエレベーターなど新設 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2001-03-16 |page=3 }}</ref>。 * [[2005年]](平成17年)4月:構内の耐震補強および改良工事に着手。 * [[2006年]](平成18年)[[11月11日]]:構内商業施設「メイワン エキマチ・ウエスト」開業。なおこれにより構内の構成(切符売場・旅行センター・売店・トイレ等の位置)が大きく変更になった。 * [[2007年]](平成19年) ** [[3月15日]]:構内商業施設「メイワン エキマチ・イースト」開業。 ** 6月:耐震補強および構内改良工事が完工。 * [[2008年]](平成20年) ** 2月:[[連動装置]]の電子化が完了(浜松運輸区も同時に電子化)。これをもってJR東海の主要駅・車両基地などの電子連動化計画が完了した。 ** [[3月1日]]:東海道本線で[[ICカード]]「[[TOICA]]」の利用が可能となる。 ** [[11月20日]]:駅西側高架下に「メイワン [[ビックカメラ]]館」を核とした商業施設を開業。 === 機関車交換駅時代 === [[1949年]][[5月20日]]に東海道本線[[静岡駅|静岡]] - 浜松間の電化が完成すると、浜松駅は電化区間の境界となり、東京方面の[[電気機関車]]と名古屋方面の[[蒸気機関車]]との付け換えが行われるようになった(戦前では[[沼津駅]]でのそれが知られる)。これに伴う長い停車時間は、浜松駅に以下のような「名物」を生むことになった。 * 乗客の気分転換を目的としたホーム上での[[ラジオ体操]]。 * 日本楽器製造(現・[[ヤマハ]])による[[ハーモニカ]]の立ち売り「ハモニカ娘」の登場(1951年から)<ref>[http://www2.yamaha.co.jp/u/naruhodo/22harmonica/harmonica3.html ハーモニカの雑学] ヤマハ</ref>。 [[1953年]][[7月21日]]に浜松 - 名古屋間の電化が完成すると機関車交換駅の役割は終わりを告げた。ただし、「ハモニカ娘」はその後も駅の名物として1969年まで営業を続け、乗客に親しまれた。なお、楽曲や映画でも『[[僕は特急の機関士で]]』の「東海道の巻」や『[[喜劇 駅前弁当]]』などで「ハモニカ娘」が取り上げられている。 === 新幹線駅併設 === 東海道新幹線の計画段階では、市の南部を通過し新幹線駅を在来線の浜松駅ではなく、国鉄浜松工場付近に設置する予定であった(南線案)。しかし、この案では市の通過する区間がすべて土盛りとなり、南北の交通が分断されるなど浜松市にメリットがほぼないとして、市は新幹線駅を浜松駅に併設し、浜名湖の中間を渡る対案(北線案)を要望した。この対案も通過地域からの反発や浜名湖の漁業補償がより増大すること等もあったため、国鉄の静岡工事局の坂本局長は一旦両案を白紙に戻し、現東海道線の高架化を見据えたコース(坂本私案)を提案した。この案は新幹線駅が東海道線と80メートル離れてはいるが市案の希望をほぼ満たす現状のルートとなった。しかし、浜松駅に併設としたことで商店の密集する地域を通過することから、用地買収が非常に難航した。また、駅前広場の設置についても、市や地権者と国鉄側で協議が難航し、決着までにかなりの時間を要した<ref>「東海道新幹線工事誌」編集 日本国有鉄道 静岡幹線工事局 1965年3月 p.90,229</ref>。 東海道線の高架化以前は、新幹線ホームがカーブで建設されているのに対し、在来線ホームは直線のホームとなっていて、駅構内の西側で急なカーブを描く線形となっていたため、在来線ホームと新幹線ホームの間に大きな隙間が生じることとなり、在来線ホームの高架化が完成するまでかなり長い距離の[[跨線橋]]により連絡することになった(航空写真の画像を参照)。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Aerophotograph Hamamatsu sta 1975 ja.jpg|1975年頃の駅周辺。{{国土航空写真}} Aerophotograph Hamamatsu sta 1988 ja.jpg|1988年頃の駅周辺。{{国土航空写真}} </gallery> === 東京 - 浜松間の普通列車 === 国鉄時代は[[東京駅|東京]] - 浜松間の普通列車が1日に何本か設定されていたが、JR化後の[[1988年]]に消滅した。[[1972年]]から1988年まで、当駅は東海道本線で東京から発着する昼行普通列車の最西端駅だった(いわゆる「[[大垣夜行]]」([[ムーンライトながら]])は除く。1972年以前は昼行でも東京 - 大垣間などの普通列車があった)。 現在では高速バスがこれらの普通列車に取って代わる存在となっており、東海道上り方面では、[[東名ハイウェイバス]](昼行便)の東京駅行き「東名ライナー」の他、2005年12月に運行を開始した夜行便の「[[ドリーム静岡・浜松号]]」を皮切りに東京方面への高速バスが運行されている。 == 駅構造 == 新幹線・在来線ともに[[高架駅]]である。 === 在来線 === [[島式ホーム]]2面4線を有する。4番線(下り本線)の外側に通過線(下り1番線)を持つ。両方向には2本ずつ[[電留線]]が配置されており、当駅で始発・終着となる列車の組成や簡単な整備などが行われている。 また西側の電留線から上り本線を介し、[[東海旅客鉄道静岡支社#浜松運輸区|浜松運輸区]]や[[西浜松駅]]への引き上げ線が分岐する。 [[駅長]]・[[駅員]]配置駅([[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]])である。[[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]として、東海道本線の[[天竜川駅]]・[[高塚駅]]・[[舞阪駅]]の3駅を管理している。 軌道[[道床]]に[[スラブ軌道]]を広範囲に使用していることが特徴である。浜松駅と同時期に高架化した[[静岡駅]]は極僅かな区間に限られている。 改札口は2か所設置されている<!--JR東海の「駅構内図」を参照-->。このうちメイワン口改札は、[[新幹線]][[在来線]]乗り換えコンコースの在来線側に設置されており、[[駅ビル]]「[[メイワン]]」を経て[[アクトシティ浜松]]の[[ペデストリアンデッキ|連絡通路]]へつながっている。近距離用の[[自動券売機]]が設置されている。自動改札機のみで有人通路はないが、駅係員がいることが多く非自動化券を持っている場合は業務用通路から出場の便宜を図ってもらえることがある。いったん「メイワン」の2階に入る構造になっているが、メイワン営業時間外でも[[改札口]]の利用時間であれば利用できる。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、JR東海の「駅構内図」の記載に準拠--> {| class="wikitable" !番線!!路線!!方向!!行先!!備考 |- !1・2 |rowspan="2"|{{JR海駅番号|CA}} 東海道本線 |style="text-align:center;"|上り |[[静岡駅|静岡]]・[[沼津駅|沼津]]方面 |当駅始発の一部は3・4番線 |- !3・4 |style="text-align:center;"|下り |[[豊橋駅|豊橋]]・[[名古屋駅|名古屋]]方面 |&nbsp; |} (出典:[https://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/hamamatsu/map.html JR東海:駅構内図]) * 外側の1・4番線が本線で、内側の2・3番線が副本線(待避線)である。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JR Central Hamamatsu Station JR Line Gate.jpg|在来線改札口(2022年10月) JR Central Hamamatsu Station May One Gate.jpg|メイワン口改札(2022年10月) JR Central Hamamatsu Station JR Line Platform 1・2.jpg|在来線1・2番線ホーム(2022年10月) JR Central Hamamatsu Station JR Line Platform 3・4.jpg|在来線3・4番線ホーム(2022年10月) </gallery> === 新幹線 === [[相対式ホーム]]2面2線を有する。中央の2線は通過線(本線)となっており、西側から[[東海旅客鉄道浜松工場|浜松工場]]への[[引き上げ線]]が分岐している。上下ホームとも、両端に各車系ごとの停車位置表示がある。 ホームの発車標は[[反転フラップ式案内表示機|ソラリー]]式が使用されていたが、2010年11月におよそ1か月間の試用期間を経て[[発光ダイオード|LED]]式に変更され、同時に自動放送も変更された。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、JR東海の「駅構内図」の記載に準拠--> {| class="wikitable" !番線!!路線!!方向!!行先 |- !5 |rowspan="2"|[[File:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] 東海道新幹線 |style="text-align:center;"|上り |[[東京駅|東京]]方面 |- !6 |style="text-align:center;"|下り |[[新大阪駅|新大阪]]方面 |} (出典:[https://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/hamamatsu/map.html JR東海:駅構内図]) コンコースは大小2つの展示ブースとして、浜松に拠点を構える[[河合楽器製作所]](KAWAI)・[[ヤマハ]]・[[スズキ (企業)|スズキ]]の3社が、1988年から1年ごとに持ち回りで自社製品の展示を行う<ref>{{Cite news|title=浜松駅の企業展示一新 楽器メーカー2社「音楽のまち」演出 |newspaper=[[静岡新聞]]|date=2017-07-22|url=http://www.at-s.com/news/article/economy/shizuoka/383118.html|accessdate=2017-10-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171011073517/http://www.at-s.com/news/article/economy/shizuoka/383118.html|archivedate=2017-10-11}}</ref>。以下はその展示品。 * KAWAI:[[グランドピアノ]]「Shigeru Kawaiシリーズ」・[[クリスタル・ピアノ]]「CR-40A」、及び、そのピアノに縁のあるアーティストの紹介(前者は[[ミハイル・プレトニョフ]]、後者は[[YOSHIKI]]([[X JAPAN]]))<ref>[http://www2.kawai.co.jp/press/2014/0711.asp ピアノとアーティストそれぞれにスポットを当てた展示を浜松駅コンコースにて実施] - 河合楽器製作所ニュースリリース 2014年7月11日</ref> * ヤマハ:ピアノ・[[シンセサイザー]]・[[電子ドラム]]等の楽器や、[[音声合成]]技術、及びその応用製品([[VOCALOID]]等)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yamaha.com/ja/about/community/hamamatsu_station/|title=浜松駅コンコース JR東海道新幹線 浜松駅内にあるコンコースは 地元の企業3社によって毎年趣向を凝らした展示を展開しています。|website=ヤマハ株式会社|accessdate=2023-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160826202010/https://www.yamaha.com/ja/about/community/hamamatsu_station/|archivedate=2016-08-26}}</ref>。 * スズキ:[[スズキ・ワゴンR|ワゴンRシリーズ]]・[[スズキ・ハスラー|ハスラー]]・[[スズキ・スイフト|スイフト]]等の自社生産自動車及び[[スズキ・SV#2016年モデル|SV650]]等のバイク。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JR Central Hamamatsu Station Shinkansen Gate.jpg|新幹線改札口(2022年10月) JR Central Hamamatsu Station Transfer Gate.jpg|乗換改札口(2022年10月) JR Central Hamamatsu Station Shinkansen Platform 5・6.jpg|新幹線5・6番線ホーム(2022年10月) </gallery> == 駅弁 == 自笑亭が販売している<ref name="chunichi-np-2011-8-18-h">“100年企業 宿る精神(3)自笑亭 屋号の思いを駅弁に”. [[中日新聞]] (中日新聞社). (2011年8月18日)</ref>。主な[[駅弁]]は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=43,159}}</ref>。 {{Div col||20em}} * 三ヶ日牛ごぼうしぐれ&プチうなぎ弁当 * しらす弁当 * 浜の釜めし * 浜松三ヶ日牛弁当 * 喧嘩凧 * 浜松三ヶ日牛&遠州しらす弁当 * うなぎ弁当(赤ワイン仕込) * うなぎまぶし * 出世大名 家康くん弁当 * 赤飯弁当 {{Div col end}} == 利用状況 == [[2019年]](令和元年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''37,026人'''である。これはJR東海の駅では名古屋、東京、新大阪、金山、静岡、京都、豊橋に次ぎ第8位で、静岡県内の駅では第2位である。 『静岡県統計年鑑』及び『浜松市統計書』によると、近年の1日平均'''乗車'''人員は以下の通りである<ref>[https://toukei.pref.shizuoka.jp/chosa/22-020/index.html 静岡県統計年鑑] - 静岡県</ref><ref>[https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/gyousei/library/toukeisyo/004_r01-toukeisyo.html 浜松市統計書] - 浜松市</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:right;" |- !年度 !1日平均<br />乗車人員 |- |1993年 |33,898 |- |1994年 |35,758 |- |1995年 |35,858 |- |1996年 |36,491 |- |1997年 |35,607 |- |1998年 |35,309 |- |1999年 |34,821 |- |2000年 |35,187 |- |2001年 |35,666 |- |2002年 |35,738 |- |2003年 |36,364 |- |2004年 |36,766 |- |2005年 |36,549 |- |2006年 |37,250 |- |2007年 |37,496 |- |2008年 |37,298 |- |2009年 |35,177 |- |2010年 |34,934 |- |2011年 |35,047 |- |2012年 |35,494 |- |2013年 |36,197 |- |2014年 |35,440 |- |2015年 |36,345 |- |2016年 |36,756 |- |2017年 |37,258 |- |2018年 |37,594 |- |2019年 |37,026 |- |2020年 |22,496 |} == 駅周辺 == [[ファイル:Hamamatsu station cityscape in 2010.jpg|thumb|北口駅前]] === 北口 === * [[新浜松駅]] - [[遠州鉄道]][[遠州鉄道鉄道線|鉄道線]](通称[[西鹿島線]]) * [[浜松駅バスターミナル]] ** [[遠鉄バス|遠州鉄道]]による一般路線と各社による[[高速バス]]が発着する。詳細は当該記事を参照。 * [[遠鉄百貨店]] * [[駅ビル]]「[[メイワン]]」「エキマチ」「[[ビックカメラ]]館(ビックカメラ浜松店)」 * [[ホテルクラウンパレス浜松]] * [[プレスタワー]] * UP-ON(高架下の商業施設) * [[ザザシティ浜松]] * [[かじ町プラザ]] * [[アクトシティ浜松]] ** [[アクトシティ浜松#Bゾーン(浜松アクトタワー)|浜松アクトタワー]] ** [[オークラアクトシティホテル浜松]] ** [[アクトシティ浜松#Dゾーン(浜松市楽器博物館、研修交流センター)|浜松市楽器博物館]] * [[浜松エフエム放送|FM Haro!]] [[サテライトスタジオ]] === 南口 === * [[浜松科学館]] * [[日本生命保険|日本生命]]ビル * [[佐鳴予備校]]総合教育センタービル == 隣の駅 == ; 東海旅客鉄道(JR東海) : [[File:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] 東海道新幹線(各列車の停車駅は列車記事参照) ::: [[掛川駅]] - '''浜松駅''' - [[豊橋駅]] : {{JR海駅番号|CA}} 東海道本線 :* 寝台特急「[[サンライズ瀬戸]]」「[[サンライズ出雲]]」停車駅(下りのみ停車)、「[[東海道線 (静岡地区)#駅一覧|ホームライナー静岡]]」始発駅、「[[東海道線 (静岡地区)#駅一覧|ホームライナー浜松]]」終着駅<!--ホームライナーは列車の性質上、優等列車と同等扱いとする---> :: {{Color|#ffdf00|■}}特別快速・{{Color|orangered|■}}新快速(以上は豊橋駅まで各駅停車)・{{Color|#0066ff|■}}快速(上り到着列車のみ)・{{Color|limegreen|■}}区間快速(下りのみ運転、岡崎駅まで各駅停車) ::: '''浜松駅 (CA34)''' - [[高塚駅]] (CA35) :: {{Color|gray|■}}普通 ::: [[天竜川駅]] (CA33) - '''浜松駅 (CA34)''' - [[西浜松駅]](貨)- 高塚駅 (CA35) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{commonscat}} {{commonscat|Hamamatsu Station (Tōkaidō Shinkansen)|浜松駅 (東海道新幹線)}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * [https://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/hamamatsu/ JR東海 浜松駅] * [http://www.may-one.co.jp/ 浜松駅ビル メイワン] {{東海道新幹線}} {{東海道本線 (JR東海)}} {{土木学会デザイン賞}} {{DEFAULTSORT:はままつ}} [[Category:浜松駅|*]] [[Category:浜松市中区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 は|ままつ]] [[Category:東海旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:東海道線 (JR東海)]] [[Category:東海道新幹線]] [[Category:1888年開業の鉄道駅]]
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N95マスク
N95マスク(Particulate Respirator Type N95)とは、アメリカ合衆国労働安全衛生研究所(NIOSH)のN95規格をクリアし、認可された微粒子用マスクのこと。 N95マスクにはいくつかの前身がある。ひとつには、「満州ペスト(1910-1911)」中に伍連徳が使用したマスクがあった。また別の例にガスマスクがある。 1970年代に、米国鉱山局とNIOSHが使い捨て呼吸具の規格を開発した。最初の使い捨てN95呼吸具(粉塵用)が3Mによって開発され、1972年に承認された。 1992年、台湾系アメリカ人である材料科学者の蔡秉燚と彼のチームは、N95マスクのフィルタを発明した 。新しい材料は、コロナ静電帯電方式(the corona electrostatic charging method; 新型コロナのコロナではない)を採用している。粒子(ほこり、バクテリア、ウイルスなど)を引き付ける。フィルタは、粒子がマスクを通過してしまう前に、分極によって粒子を捕集(trap)する。少なくとも95パーセントを捕集できる 。この技術は1995年に米国特許を受け、すぐにN95マスクの製造に使用された 。 これに前後して米国ではN95マスクを結核等の呼吸器感染症の職業感染予防に導入するようになり、その後日本でも、結核感染対策にN95マスクが導入され今日に至っている。 N95 規格は、NIOSHが定めた9種類(後述)の基準の中で最も低いもので、「N」は耐油性が無いことを表し(Not resistant to oil)、「95」は試験粒子を 95% 以上捕集できることを表している。 NIOSH規格で用いる試験粒子は、フィルターで最も捕集しづらい、つまりフィルターを通過しやすいサイズの粒子状物質で、空力学的質量径でおおよそ0.3μmの粒子であり、この粒子径で95%以上捕集できなければならない。なお、N規格の試験粒子は、塩化ナトリウム(NaCl)、および液体粒子であるフタル酸ジオクチル(DOP)が用いられる。試験粒子は、ろ材のタイプにより選択される。 日本の厚生労働省国家検定規格では、DS2区分マスクがN95マスクに相当する能力を持つ。 N95とはフィルター自体の性能を示すもので、装着後のマスクと顔との密着性は保証していない。市販されているN95マスクの多くは密着性を高めるためカップ型となっており、ズレにくくするため2本のゴム紐で固定するタイプもある。ただし使用にあたっては、正しい装着を実施する必要があり、サイズの確認のため、最低年1回のフィットテストが必要で、息の漏れが無いかを確認するシールチェックは、マスク着用の度に行う。 2020年の新型コロナ大流行時に、日本でN95マスクが不足した。このとき、余儀なく1枚を複数回再使用させられた医療従事者は多い。しかし実験で、ウイルス通過率が新品では1%であったところアルコール消毒後は35%も通過するほど劣化したという。新品のサージカルマスクは4%しか通過しないという同じ実験の値と比べると驚くほどの劣化であった。アルコール消毒は、アルコール分または水分が繊維が帯びた電気を失わせてしまうと考えられるので、N95マスクに対しては禁忌とすべきである。 上記発明者の蔡秉燚は2020年の米国で同じ問題に取り組んで試行錯誤の結果、7枚のN95マスクを入手して毎日交換して順繰りに再使用する方法なら、ウイルスは一週間以内に不活化しているので良いだろう、ということを見出した。 粒子状物質の吸入防止に用いる。元々は製造・建設現場など粉塵の多い場所で使用するマスクとしてであるが、結核・SARSなどの感染症防止に効果を上げたことから、医療業界でも利用されるようになった。またPM2.5やそれら有害物質を含むヘイズにも有効である。 手術用のサージカルマスクなどとは区別し、レスピレータ(respirator)、呼吸用保護具、防じんマスク、などとも呼ばれる。 米国労働安全衛生研究所(NIOSH)による規格には、以下の計9種がある。3種の耐油性イニシャルと、3種の性能数字とを組み合わせる。
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N95マスクとは、アメリカ合衆国労働安全衛生研究所(NIOSH)のN95規格をクリアし、認可された微粒子用マスクのこと。
{{出典の明記|date=2019-02-23}} [[ファイル:3M N95 Particulate Respirator.JPG|thumb|right|[[3M]]製のN95マスク]] '''N95マスク'''(Particulate Respirator Type N95)とは、[[:en:National Institute for Occupational Safety and Health|アメリカ合衆国労働安全衛生研究所]](NIOSH)のN95規格をクリアし、[[認可]]された微粒子用[[マスク]]のこと。 == 歴史 == N95マスクにはいくつかの前身がある。ひとつには、「満州ペスト(1910-1911)」中に[[伍連徳]]が使用したマスクがあった<ref>{{Cite journal|last=Meng|first=ZHANG|date=2021-01-13|title=From respirator to Wu’s mask: the transition of personal protective equipment in the Manchurian plague|url=https://doi.org/10.1080/17535654.2020.1845529|journal=Journal of Modern Chinese History|volume=0|issue=0|pages=1–19|doi=10.1080/17535654.2020.1845529|issn=1753-5654}}</ref>。また別の例に[[ガスマスク]]がある。 1970年代に、米国鉱山局とNIOSHが使い捨て呼吸具の規格を開発した。最初の使い捨てN95呼吸具(粉塵用)が[[3M]]によって開発され、1972年に承認された<ref>{{Cite web|title=The untold origin story of the N95 mask|url=https://www.fastcompany.com/90479846/the-untold-origin-story-of-the-n95-mask|website=Fast Company|date=2020-03-24|accessdate=2021-02-18|language=en-US|first=Mark|last=Wilson}}</ref>。 1992年、[[台湾]]系アメリカ人である材料科学者の[[蔡秉燚]]と彼のチームは、N95マスクのフィルタを発明した<ref name=":0">{{Cite web|title=Meet the U.S. scientist who invented the N95 mask filter|url=http://ge.usembassy.gov/meet-the-u-s-scientist-who-invented-the-n95-mask-filter/|website=U.S. Embassy in Georgia|date=2020-08-12|accessdate=2021-02-18|language=en-US}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|title=He invented the N95 mask filter. Then the coronavirus pandemic hit and he was called to help once again|url=https://www.cnn.com/2020/07/15/health/n95-mask-inventor-coronavirus-sanjay-wellness-trnd/index.html|website=CNN|accessdate=2021-02-18|first=Scottie|last=Andrew}}</ref> 。新しい材料は、コロナ静電帯電方式(the corona electrostatic charging method; 新型コロナのコロナではない)を採用している。粒子(ほこり、[[バクテリア]]、[[ウイルス]]など)を引き付ける。フィルタは、粒子がマスクを通過してしまう前に、分極によって粒子を捕集(trap)する。少なくとも95パーセントを捕集できる<ref name=":0" /><ref name=":1" /><ref name=":2">{{Cite web|title=The Man Behind the Mask|url=https://tickle.utk.edu/the-man-behind-the-mask/|website=[[テネシー大学]]|date=2020-04-17|accessdate=2021-02-18|language=en-US}}</ref> 。この技術は1995年に米国特許を受け、すぐにN95マスクの製造に使用された<ref name=":0" /><ref name=":2" /> 。 これに前後して米国ではN95マスクを結核等の呼吸器感染症の職業感染予防に導入するようになり、その後日本でも、結核感染対策にN95マスクが導入され今日に至っている<ref>{{Cite web|和書|title= 医療従事者のための N95マスク適正使用ガイド |url= http://jrgoicp.umin.ac.jp/index_ppewg_ppe_usage.html|website= 一般社団法人 職業感染制御研究会 |date=2020-11|accessdate=2021-03-21|}}</ref>。 == N95規格 == N95 規格は、NIOSHが定めた9種類(後述)の基準の中で最も低いもので、「N」は耐油性が無いことを表し({{en|Not resistant to oil}})、「95」は試験粒子を 95% 以上捕集できることを表している。 NIOSH規格で用いる試験粒子は、フィルターで最も捕集しづらい、つまりフィルターを通過しやすいサイズの[[粒子状物質]]で、空力学的質量径でおおよそ0.3µmの粒子であり、この粒子径で95%以上捕集できなければならない。なお、N規格の試験粒子は、[[塩化ナトリウム]](NaCl)、および液体粒子である[[フタル酸ビス(2-エチルヘキシル)|フタル酸ジオクチル]](DOP)が用いられる。試験粒子は、ろ材のタイプにより選択される。 日本の[[厚生労働省]]国家検定規格では、DS2区分マスクがN95マスクに相当する能力を持つ。 N95とはフィルター自体の性能を示すもので、装着後のマスクと顔との密着性は保証していない。市販されているN95マスクの多くは密着性を高めるためカップ型となっており、ズレにくくするため2本のゴム紐で固定するタイプもある。ただし使用にあたっては、正しい装着を実施する必要があり、サイズの確認のため、最低年1回のフィットテストが必要で、息の漏れが無いかを確認するシールチェックは、マスク着用の度に行う。 == 再使用方法の問題と対策 == 2020年の新型コロナ大流行時に、日本でN95マスクが不足した。このとき、余儀なく1枚を複数回再使用させられた医療従事者は多い。しかし実験で、ウイルス通過率が新品では1%であったところアルコール消毒後は35%も通過するほど劣化したという。新品のサージカルマスクは4%しか通過しないという同じ実験の値と比べると驚くほどの劣化であった。アルコール消毒は、アルコール分または水分が繊維が帯びた電気を失わせてしまうと考えられるので、N95マスクに対しては禁忌とすべきである<ref>{{Cite web|和書|date=2020-4-24 | url=https://corona.quora.com/%E7%B7%8A%E6%80%A5%E5%AF%84%E7%A8%BF-N95%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E6%B6%88%E6%AF%92%E3%81%AF%E7%A6%81%E5%BF%8C?comment_id=2560917&comment_type=3 | title=緊急寄稿:N95マスクのアルコールによる消毒は禁忌 医療現場の安全のため、緊急性があるとして報告されています。 | publisher=[https://corona.quora.com/ Quora] | accessdate=2020-6-2}}</ref>。 上記発明者の蔡秉燚は2020年の米国で同じ問題に取り組んで試行錯誤の結果、7枚のN95マスクを入手して毎日交換して順繰りに再使用する方法なら、ウイルスは一週間以内に不活化しているので良いだろう、ということを見出した<ref name=':1'/>。 == 用途 == [[File:USNS Mercy Sailor Treats Patient (49785699691).jpg|thumb|装着した状態]] [[粒子状物質]]の吸入防止に用いる。元々は製造・建設現場など粉塵の多い場所で使用するマスクとしてであるが、[[結核]]・[[重症急性呼吸器症候群|SARS]]などの[[感染症]]防止に効果を上げたことから、医療業界でも利用されるようになった。また[[PM2.5]]やそれら有害物質を含む[[ヘイズ (気象)|ヘイズ]]にも有効である。 手術用のサージカルマスクなどとは区別し、レスピレータ(respirator)、呼吸用保護具、防じんマスク、などとも呼ばれる。 == NIOSHによる規格区分 == 米国労働安全衛生研究所(NIOSH)による規格には、以下の計9種がある。3種の耐油性イニシャルと、3種の性能数字とを組み合わせる。 {| class="wikitable" style="margin:0 auto" |+ NIOSHによる9規格 ! style="background-color:#fff" | ! style="background-color:#dff" | 95 ! style="background-color:#9ff" | 99 ! style="background-color:#5ff" | 100 |- ! style="background-color:#ffd" | N | style="background-color:#dfd" | N95 | style="background-color:#9fd" | N99 | style="background-color:#5fd" | N100 |- ! style="background-color:#ff9" | R | style="background-color:#df9" | R95 | style="background-color:#9f9" | R99 | style="background-color:#5f9" | R100 |- ! style="background-color:#ff5" | P | style="background-color:#df5" | P95 | style="background-color:#9f5" | P99 | style="background-color:#5f5" | P100 |} *N:Not resistant to oil(耐油性なし) *R:Resistant to oil(耐油性あり) *P:Oil Proof(防油性あり) *N95/R95/P95:0.1~0.3µmの微粒子を95%以上除去できる性能 *N99/R99/P99:0.1~0.3µmの微粒子を99%以上除去できる性能 *N100/R100/P100:0.1~0.3µmの微粒子を99.97%以上除去できる性能 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat|Masks}} *[https://www.3mcompany.jp/3M/ja_JP/medical-jp/mask/protection/ 空気感染対策とN95マスク] - 3M *[https://www.3mcompany.jp/3M/ja_JP/medical-jp/mask/fit-test/ N95マスクの適切な装着のために] - 3M *{{Kotobank}} {{工具の種類}} {{2019-nCoV}} {{DEFAULTSORT:えぬきゆうしゆうこますく}} [[Category:医療用マスク]] [[Category:衛生材料]] [[Category:専門服・特殊服]]
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天保通宝
天保通宝(てんぽうつうほう)は、江戸時代末期から明治時代前半頃にかけての日本で流通した銭貨。天保銭(てんぽうせん)ともいう。形状は小判を意識した楕円形で、中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「天保通寳」、裏面には上部に「當百」と表記され、下部に金座後藤家の花押が鋳込まれている。素材は銅を主成分とした合金製で鉛や錫なども含んでいる。重量(量目)は5.5匁(約20.6グラム)。サイズは縦50mm(1寸6分5厘)、横30mm(1寸1分)程度である。 天保6年(1835年)に創鋳された。貨幣価値は100文とされ、当百銭とも呼ばれたが、実際には80文で通用した。いずれにしても質量的に額面(寛永通宝一文銭100枚分)の価値は全くない貨幣で、経済に混乱を起こし偽造も相次いだという。明治維新後も流通したが、1891年(明治24年)12月31日を最後に正式に通用停止となり、1896年(明治29年)末で新貨幣との交換も停止となった。 明治以後、陸軍大学校卒業者が付けた徽章が天保通宝に似ていた事から「天保銭組」と称せられた。その一方で、新通貨制度では天保通宝1枚=8厘(寛永通宝銅一文銭1枚=1厘)と換算され、1銭に足りなかったために、新時代に乗り遅れた人やそれに適応するだけの才覚の足りない人を揶揄して「天保銭」と呼ぶこともあったという。また明治時代前半の頃には、現代の100円ショップに類似したものとして、天保通宝の8厘通用を意識した「8厘均一」や「2銭8厘均一」といった店もあったという。 『明治財政史』には、1877年(明治10年)から1897年(明治30年)9月までの間に流通不便貨幣として回収・鋳潰しの対象となった貨幣として、5銭銀貨・2銭銅貨・天保通宝・文久永宝の4種が挙げられている。 回収および溶解された物を除き、現在まで残っている天保通宝の枚数は1億から2億枚と推定されている。 真鍮四文銭の成功により銀座が潤ったことに対抗し、金座御金改役の後藤三右衛門光亨の発案により高額の銭貨の発行へ至った。このため天保通寳は金座主導で鋳造が行われることとなった。 規定量目は五匁五分、規定品位は銅78%、鉛12%、錫10%と定められたが、明治の造幣局の分析では銀0.037%、銅81.307%、鉛9.742%、錫8.261%、鉄0.056%、亜鉛0.193%、アンチモン0.035%、砒素0.182%、硫黄0.084%となっている。 天保6年6月15日(1835年)に鋳造が始まり同年9月2日より発行され、鋳造は翌7年12月(1836年)に中断されるが、このときまでの鋳造高は29,710,700枚であった。8年8月(1837年)に再開され、13年1月(1842年)までの鋳造高は10,024,500枚で天保年間の合計は39,735,200枚とされる。天保6年より13年までの総鋳造高を39,732,200枚とする記述もある。何れかが「五」と「二」の読み違いで誤植であることになる。 天保年間の鋳造により幕府が得た利益は180,800両である。 弘化4年10月18日(1847年)に鋳造が再開され、これ以降大幅に増鋳され万延年間に最盛期を迎えた。慶應元年11月(1865年)からは大坂難波に設置された銭座でも鋳造が始まり4年1月(1868年)まで行われ、大政奉還の後、新政府に設立された貨幣司は慶應4年4月23日(1868年)より明治3年8月5日(1870年)までに63,913,752枚を鋳造し、天保6年からの総鋳造高は484,804,054枚とされる。 明和年間以降、寛永通寳鉄銭および真鍮四文銭の大量発行により銭相場は下落していたが、天保通寳の発行はこれに拍車をかけることになった。そこで幕府は銭相場の下落を防止するため、天保13年8月に御用相場として一両=6500文の触書を出し、しばらくは一両=6000〜7000文程度で落ち着いたが、幕末期の大量発行に至り慶應年間にはついに一両=10000文を突破した。 また安政年間頃から寛永通寳銅一文銭、鉄一文銭、および真鍮四文銭などの通用において額面からの乖離が著しくなり、文久永寳の発行に至り相場は混乱し、文久2年12月(1862年)に幕府は改めて天保通寳を100文で通用させるよう通達を出したが、実際に100文銭としての通用は困難との申し出もあり、幕府は慶応元年閏5月(1865年)に、鉄一文銭=1文および天保通寳=100文の基準に対し以下のような増歩通用を認めざるを得なくなった。 この慶応元年の改正にも批議があり、銭貨通用価格の改正がさらなる物価の騰貴を招いた。また、真鍮銭が12文となったのに対し、天保銭はこれまで通りとされたため相対的に天保銭の価値は低下した。 公鋳のものには「長郭」、「細郭」、「中郭」、「広郭」といった手代わりが知られており、「長郭」は「寳」字の「貝」がやや縦長で郭も僅かに縦長の長方形である。他の三種は「貝」が横広でほぼ字体も同一で郭はほぼ正方形であり、郭の幅により分類されているが中間的なものも存在し、制作上の移行期のものと考えられる。 貨幣収集界には天保6年から翌年鋳造分を「長郭」あるいは「中郭」、8年から13年までのものを「細郭」、弘化4年以降のものを「広郭」とする説もあったが、これでは現存数と鋳造数の比率に整合しないとの説もある。いずれにしても「長郭」が初期のもので、「広郭」が後期のものであるとする説は定着している。 天保通寳は寛永通寳銅一文銭5〜6枚分の量目に過ぎず、吹き減りおよび工賃を考慮しても一枚10文前後のコストで製造可能である為、幕府は地方での発行を「禁制」として認めなかったが、幕末期に偽装工作としての地方貨幣発行の陰で各藩による密鋳が横行した。明治期に引換回収された天保通寳は5億8674万枚にも上り、これは金座および貨幣司が鋳造したものを1億枚以上も上回る数であり、かつ流通高のすべてが回収されたわけではないため、密鋳は2億枚程度に達したものと思われる。 密鋳に関わった藩は判明しているだけでも、久留米藩、薩摩藩、福岡藩、岡藩、土佐藩、長州藩、会津藩、仙台藩、久保田藩、盛岡藩など10を超える。また、水戸藩も天保通宝の鋳造を行っていたが、こちらは江戸幕府より正式な許可を受けた上で鋳造していたため密鋳とはいえない。 そればかりでなく、素性の不明ないわゆる「不知銭(ふちせん)」とされる天保通寳も多種存在し、現在のところ判明していない他の藩によるもの、あるいは小規模な民鋳によるものなどが考えられる。 現代の貨幣収集界では、現存数の少ない地方密鋳銭等の方が公鋳銭(本座)より古銭的価値が高いとされる。 天保通宝の試鋳貨幣としては、実際に発行されたものより一回りサイズが小さい当五十のものがある。
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天保通宝(てんぽうつうほう)は、江戸時代末期から明治時代前半頃にかけての日本で流通した銭貨。天保銭(てんぽうせん)ともいう。形状は小判を意識した楕円形で、中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「天保通寳」、裏面には上部に「當百」と表記され、下部に金座後藤家の花押が鋳込まれている。素材は銅を主成分とした合金製で鉛や錫なども含んでいる。重量(量目)は5.5匁(約20.6グラム)。サイズは縦50mm(1寸6分5厘)、横30mm(1寸1分)程度である。
{{右 |{{Vertical images list |幅=320px |1=Tenpo-tsuho-chokaku.jpg |2=天保通寳 本座長郭 |3=Tenpo-tsuho-saikaku.jpg |4=天保通寳 本座細郭 |5=Tenpo-tsuho-chukaku.jpg |6=天保通寳 本座中郭 |7=Tenpo-tsuho-kokaku.jpg |8=天保通寳 本座広郭 }} }} '''天保通宝'''(てんぽうつうほう)は、[[江戸時代]]末期から[[明治]]時代前半頃にかけての[[日本]]で流通した[[銭貨]]。'''天保銭'''(てんぽうせん)ともいう。形状は[[小判]]を意識した[[楕円]]形で、中心部に[[正方形]]の穴が開けられ、表面には「天保通寳」、裏面には上部に「當百」と表記され、下部に[[金座]]後藤家の[[花押]]が鋳込まれている。素材は[[銅]]を主成分とした合金製で鉛や錫なども含んでいる。重量(量目)は5.5[[匁]](約20.6[[グラム]])<ref name="adachi">{{Cite journal|和書|title=明治文学に現われた天保通宝 |author=阿達義雄 |year=1976 |journal=新潟青陵女子短期大学研究報告 |publisher=新潟青陵女子短期大学 |volume=6 |issue=6 |pages=1-19 |url=https://doi.org/10.32147/00001847 |doi=10.32147/00001847 |naid=110000299912 |ISSN=0386-5630 |accessdate=2022-08-17}}</ref>。サイズは縦50mm(1寸6分5厘)、横30mm(1寸1分)程度である<ref name="adachi" />。 == 概要 == [[天保]]6年([[1835年]])に創鋳された。[[貨幣]]価値は100[[文 (通貨単位)|文]]とされ、当百銭とも呼ばれたが、実際には80文で通用した。いずれにしても質量的に額面([[寛永通宝]]一文銭100枚分)の価値は全くない貨幣で、経済に混乱を起こし偽造も相次いだという。[[明治維新]]後も流通したが、[[1891年]]([[明治]]24年)[[12月31日]]を最後に正式に通用停止となり<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2944249/1|1886年(明治17年)11月15日勅令第70号「天保通實通用禁止延期ノ件」|format=EXTERNAL}}</ref>、[[1896年]](明治29年)末で新貨幣との交換も停止となった<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2945816/1|1892年(明治25年)1月4日大蔵省告示第1号「舊銅貨天保通寶通用禁止後引換ノ件」|format=EXTERNAL}}</ref>{{Refnest|group="注"|明治29年11月の大蔵省訓令で天保銭交換の催促が行われている<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2947301/1|1896年(明治29年)11月19日大蔵省訓令第35号「天保通寶交換告知方」|format=EXTERNAL}}</ref><ref name="adachi" />。ただし、[[高岡市]]では翌明治30年になっても流通していたという<ref name="adachi" />。}}。 明治以後、[[陸軍大学校]]卒業者が付けた[[徽章]]が天保通宝に似ていた事から「天保銭組」と称せられた。その一方で、新通貨制度では天保通宝1枚=8[[厘]](寛永通宝銅一文銭1枚=1厘)と換算され、1[[銭]]に足りなかったために、新時代に乗り遅れた人やそれに適応するだけの才覚の足りない人を揶揄して「天保銭」と呼ぶこともあったという。また明治時代前半の頃には、現代の[[100円ショップ]]に類似したものとして、天保通宝の8厘通用を意識した「8厘均一」や「2銭8厘均一」といった店もあったという。 『明治財政史』には、[[1877年]](明治10年)から[[1897年]](明治30年)9月までの間に流通不便貨幣として回収・鋳潰しの対象となった貨幣として、[[五銭硬貨|5銭銀貨]]・[[二銭硬貨|2銭銅貨]]・天保通宝・[[文久永宝]]の4種が挙げられている。 回収および溶解された物を除き、現在まで残っている天保通宝の枚数は1億から2億枚と推定されている。 == 公鋳銭 == [[寛永通宝#真鍮四文銭|真鍮四文銭]]の成功により[[銀座 (歴史)|銀座]]が潤ったことに対抗し、金座御金改役の[[後藤三右衛門|後藤三右衛門光亨]]の発案により高額の銭貨の発行へ至った<ref name="takizawa">滝沢武雄 『日本の貨幣の歴史』 吉川弘文館、1996年</ref>。このため天保通寳は金座主導で鋳造が行われることとなった。 規定量目は五匁五分、規定品位は銅78%、[[鉛]]12%、[[スズ|錫]]10%と定められたが、明治の[[造幣局 (日本)|造幣局]]の分析では[[銀]]0.037%、銅81.307%、鉛9.742%、錫8.261%、[[鉄]]0.056%、[[亜鉛]]0.193%、[[アンチモン]]0.035%、[[ヒ素|砒素]]0.182%、[[硫黄]]0.084%となっている<ref name="nenposho">『造幣局長第三十七年報書(明治四十三年度)』 大蔵省造幣局、1910年</ref>。 天保6年6月15日(1835年)に鋳造が始まり同年9月2日より発行され、鋳造は翌7年12月([[1836年]])に中断されるが、このときまでの鋳造高は29,710,700枚であった。8年8月([[1837年]])に再開され、13年1月([[1842年]])までの鋳造高は10,024,500枚で天保年間の合計は39,735,200枚とされる<ref name="zuroku">『図録 日本の貨幣・第4巻』 東洋経済新報社、1973年</ref><ref name="uryu">瓜生有伸 『天保通寳銭の研究』 天保堂、1996年</ref>。天保6年より13年までの総鋳造高を39,732,200枚とする記述もある<ref name="hiroku">佐藤治左衛門 『貨幣秘録』 1843年 </ref><ref name="kobata">[[小葉田淳]] 『日本の貨幣』 至文堂、1958年</ref>。何れかが「五」と「二」の読み違いで誤植であることになる。 天保年間の鋳造により[[江戸幕府|幕府]]が得た利益は180,800[[両]]である<ref name="mikami">三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年</ref>。 [[弘化]]4年10月18日([[1847年]])に鋳造が再開され、これ以降大幅に増鋳され[[万延]]年間に最盛期を迎えた。[[慶應]]元年11月([[1865年]])からは[[大坂]][[難波]]に設置された[[銭座]]でも鋳造が始まり4年1月([[1868年]])まで行われ、[[大政奉還]]の後、新政府に設立された貨幣司は慶應4年4月23日(1868年)より明治3年8月5日([[1870年]])までに63,913,752枚を鋳造し、天保6年からの総鋳造高は484,804,054枚とされる<ref name="suizinroku">[[勝海舟]] 『吹塵録』 1887年</ref>。 [[明和]]年間以降、[[寛永通宝#鉄一文銭|寛永通寳鉄銭]]および真鍮四文銭の大量発行により銭相場は下落していたが、天保通寳の発行はこれに拍車をかけることになった。そこで幕府は銭相場の下落を防止するため、天保13年8月に御用相場として一両=6500文の触書を出し<ref name="takizawa" />、しばらくは一両=6000{{〜}}7000文程度で落ち着いたが、[[幕末]]期の大量発行に至り慶應年間にはついに一両=10000文を突破した。 また[[安政]]年間頃から寛永通寳銅一文銭、鉄一文銭、および真鍮四文銭などの通用において額面からの乖離が著しくなり、[[文久永宝|文久永寳]]の発行に至り相場は混乱し、文久2年12月([[1862年]])に幕府は改めて天保通寳を100文で通用させるよう通達を出したが、実際に100文銭としての通用は困難との申し出もあり、幕府は慶応元年[[閏]]5月(1865年)に、鉄一文銭=1文および天保通寳=100文の基準に対し以下のような増歩通用を認めざるを得なくなった<ref name="adachi" /><ref name="kobata" />。 * 寛永通寳文銭および耳白銭:6文 * その他寛永通寳銅一文銭:4文 * 寛永通寳真鍮四文銭:12文 * 文久永寳四文銭:8文 この慶応元年の改正にも批議があり、銭貨通用価格の改正がさらなる物価の騰貴を招いた<ref name="adachi" />。また、真鍮銭が12文となったのに対し、天保銭はこれまで通りとされたため相対的に天保銭の価値は低下した<ref name="adachi" />。 公鋳のものには「長郭」、「細郭」、「中郭」、「広郭」といった手代わりが知られており、「長郭」は「寳」字の「貝」がやや縦長で郭も僅かに縦長の長方形である。他の三種は「貝」が横広でほぼ字体も同一で郭はほぼ正方形であり、郭の幅により分類されているが中間的なものも存在し、制作上の移行期のものと考えられる。 [[貨幣]][[収集]]界には天保6年から翌年鋳造分を「長郭」あるいは「中郭」、8年から13年までのものを「細郭」、弘化4年以降のものを「広郭」とする説<ref name="uryu" />もあったが、これでは現存数と鋳造数の比率に整合しないとの説もある。いずれにしても「長郭」が初期のもので、「広郭」が後期のものであるとする説は定着している。 == 地方密鋳銭 == 天保通寳は寛永通寳銅一文銭5{{〜}}6枚分の量目に過ぎず、吹き減りおよび工賃を考慮しても一枚10文前後のコストで製造可能である為、幕府は地方での発行を「禁制」として認めなかったが、幕末期に偽装工作としての[[地方貨幣]]発行の陰で各藩による密鋳が横行した。明治期に引換回収された天保通寳は5億8674万枚にも上り<ref name="tebiki">『日本の貨幣-収集の手引き-』 日本貨幣商協同組合、1998年</ref>、これは金座および貨幣司が鋳造したものを1億枚以上も上回る数であり、かつ流通高のすべてが回収されたわけではないため、密鋳は2億枚程度に達したものと思われる。 密鋳に関わった藩は判明しているだけでも、[[久留米藩]]、[[薩摩藩]]、[[福岡藩]]、[[岡藩]]、[[土佐藩]]、[[長州藩]]、[[会津藩]]、[[仙台藩]]、[[久保田藩]]、[[盛岡藩]]など10を超える<ref name="nishiwaki">瀧澤武雄,西脇康 『日本史小百科「貨幣」』 [[東京堂出版]]、1999年</ref>。また、[[水戸藩]]も天保通宝の鋳造を行っていたが、こちらは江戸幕府より正式な許可を受けた上で鋳造していたため密鋳とはいえない。 そればかりでなく、素性の不明ないわゆる「不知銭(ふちせん)」とされる天保通寳も多種存在し、現在のところ判明していない他の藩によるもの、あるいは小規模な民鋳によるものなどが考えられる。 現代の貨幣収集界では、現存数の少ない地方密鋳銭等の方が公鋳銭(本座)より古銭的価値が高いとされる。 == 試鋳貨幣 == 天保通宝の[[試鋳貨幣]]としては、実際に発行されたものより一回りサイズが小さい当五十のものがある。 == 漢字文化圏の他国における類例 == * [[清]]時代の[[中国]]では、一文銭の他、当十、当五十、当百などの高額銭が発行された。 * [[李氏朝鮮]]では、[[常平通宝]]の一文銭が主に流通していたところに、当百銭が一時期発行されたことがある。 * [[阮朝]]時代の[[ベトナム]]では、小額銭とともに、嗣徳宝鈔という高額銭(額面は多種類あり)が発行された。 == 注釈 == {{Reflist|group="注"}} == 参考文献 == {{Reflist}} {{江戸時代の貨幣}} {{DEFAULTSORT:てんほつうほう}} [[Category:江戸時代の硬貨]] [[Category:日本の銅貨]]
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ゴールデンウィーク
ゴールデンウィークまたはゴールデンウイーク(和製英語:Golden Week, GW)は、日本において毎年4月末から5月初めにかけて休日が続く期間のこと。春の大型連休(おおがたれんきゅう)、黄金週間(おうごんしゅうかん)ともいう。元々は映画会社の大映が集客目的で作成した宣伝用語。 2022年のように一週目の平日は金曜日のみが休日、二週目の平日は火曜日から木曜日の三連休だけのゴールデンとは形容しがたい年もある。 1948年の国民の祝日に関する法律施行により4月29日から5月5日までの期間に休日・祝日が集中し、この期間(平日や土曜日も含む)がゴールデンウィークと呼ばれるようになった。直前・直後に土曜日・日曜日・振替休日がある場合、それらを含めて呼ぶことも多い。この期間は、4月29日(昭和の日)・5月3日(憲法記念日)・5月4日(みどりの日)・5月5日(こどもの日)が国民の祝日である。5月1日がメーデーのため休日になる会社(従業員)も少なくないことから、間の平日を休みにすることで長期連休にしやすい。 以前は休日が飛び飛びになることが多かったことから「飛石連休」という言い方がされた。1985年(昭和60年)の「国民の祝日に関する法律」(以下「祝日法」という。)の改正で5月4日が日曜日や振替休日でなくても「国民の休日」になってからは、この言い回しは少なくなった。 2005年(平成17年)に行われた祝日法の改正により、休日の名称および振替休日の規定が変更されたため、憲法記念日やみどりの日が日曜日と重なった場合、「こどもの日」の翌日にあたる5月6日が振替休日になり、その分ゴールデンウィークも延びることとなる。5月4日が日曜日となる2008年(平成20年)に最初に適用され、振替休日が初めて月曜日以外の火曜日となった。続く2009年(平成21年)も振替休日が初めて水曜日となった。 「ゴールデンウィーク」の名称は、映画会社の大映が松竹と競作して1951年(昭和26年)に同時上映となった『自由学校』が、大映創設以来最高の売上(当時)を記録し、正月映画やお盆映画以上の興行成績を残したことで、この時期に観客を多数動員し活性化することを目的として、当時の大映の社長であった永田雅一によって作成された宣伝用語であり、和製英語である。1952年(昭和27年) - 1953年(昭和28年)頃から一般にも使用されるようになり、他の業界にも広まった。同時に大映は続いて秋の文化の日を中心とした期間を「シルバーウィーク」と名付けたが、当時こちらは定着しなかった。 NHKや一部の民放などは原則として「(春の)大型連休」という表現で統一している。この理由について、NHK放送文化研究所では1970年代のオイルショック以降に「ゴールデンウィーク」という表現に視聴者から苦情が寄せられるようになったこと、「外来語・カタカナ語はできるだけ避けたい」「長すぎて表記の際に困る」などの放送の制作現場の声を反映させたこと、元々「ゴールデンウィーク」という表現が映画業界という私企業の宣伝用語であったこと、週休二日制の定着で期間がウィーク(一週間)にとどまらなくなってきたことなどを理由に掲げている。「シルバーウィーク」についても、同様の表現差し替え(「(秋の)大型連休」)が行われているが、新聞業界では「ゴールデンウィーク」「大型連休」の表現が半々、雑誌業界では「ゴールデンウィーク」「GW」の表現が主流であるという。 なお、「ゴールデンウィーク」という言葉は、保険その他の分野においては2004年(平成16年)に損害保険ジャパンが(第4824147号)、酒類においては2014年(平成26年)に宝ホールディングスが(第5713010号)商標登録している。 ゴールデンウィークとの名称が用いられ始めた時代は、第二次世界大戦後のテレビ普及前の日本映画の黄金期で映画館も多数存在しており、映画鑑賞、近場の百貨店での買い物、近郊の遊園地への行楽、周辺の行楽地へのハイキングといった日帰り旅行などが、この時期の一般的な過ごし方で、1970年代以前は普段の日曜日・祝日の過ごし方と大きな違いはなかった。しかし、その後の振替休日制度の導入や土曜休みの普及に伴って、次第にこの時期全体を利用した泊まりがけの旅行や帰省が増え、1990年代以降は日本国外への海外旅行も一般的になった。 日本人観光客の多いハワイなど海外の観光地では、ホテル・バス・レストランなど観光業に従事する人物の場合、日本に縁のない現地出身の人間であっても“Golden Week”で意味が通じるほど認知されている。 帰省や行楽などのために長距離を移動する人も多く、その数は、夏休み(特に旧盆時期)・年末年始と同程度に多い。毎年ゴールデンウィークの序盤と終盤において、主要ターミナル駅・空港・長距離列車などでは多くの乗客が見られる。 このため、多くの場合、お盆・年末年始と共通する以下のような交通状況となり、そのためにそれらの期間に準じた制度が適用される。 ただし鉄道のダイヤ面では、ゴールデンウィーク中の平日については原則として平日ダイヤで運転されており、お盆期間中の平日が一部の鉄道事業者(主に近畿地方・中京の私鉄・地下鉄)において土曜又は休日のダイヤで運行されていることとは対照的である。学校は一部の私立学校を除いては平常通り授業が行われており、お盆と異なり通学需要がある。 また、繁華街や観光地などにあるコインパーキングは上限料金が適用されない、特別駐車料金になるところがある。 週刊誌では、連休前に合併号の発行が一般的に行われているが、これは大型連休に合わせた営業施策というよりも、印刷所の連休に合わせているためである。 郵便物の配達業務は、2015年までは連休中の後半に1日程度、休日ではあるが全ての郵便物を配達する日を設けていたが、2016年以降はこの扱いは行われなくなった。2018年以降は最大で連続4日間、速達・書留・荷物等を除く通常の郵便物が配達されない年が発生している。2019年は新天皇の即位もあり、10連休と長期連休になった。顧客利便性や郵便物の保管場所不足防止の観点から土曜日の4月27日に配達した後、5月2日に全ての郵便物を配達する日を設けた。その後、2021年10月の土曜配達休止を経て、カレンダー上は5日間配達休止日が続く配列であった2023年には中間の5月5日に配達を実施した。 不況時の場合、製造部門を持つ企業において、この期間を生産調整・在庫調整に充て、通常の休日に数日上乗せし、さらなる長期休業となる従業員も見受けられる。 観光地や行楽地などにある飲食店やデリバリー、テイクアウトの飲食店で大型連休中はランチタイムの休止、高価格帯のメニューのみの提供、特別料金となるところもある。 気候のいいこの時期には全国各地でイベントが開催される。有名なイベントを挙げる。 この時期は北東北や道南などではソメイヨシノの時期にあたり、花見(観桜)の季節でもある。それらの地域では桜だけでなく梅や花桃の花も同時に咲くことが多い。それ以外の地域では多くの場合は桜が散った後となるが、代わりに藤・バラなどの晩春の花の時期であり、新緑のシーズンでもある。 祝日法の改正によって敬老の日がハッピーマンデー対象となったことにより、秋分の日と合わせての大型連休ができる可能性が生じており、2009年(平成21年)・2015年(平成27年)はこれに該当する。その後は、2026年がこれに当たると予測されている(秋分日の観測状況により変動することがあるため、正式な祝日は前年の2月第1平日付の官報で確定する。「暦要項」参照)。 体育の日を11月1日に、勤労感謝の日を11月5日に移すことによって11月3日の文化の日と併せて秋に大型連休を作る構想もあり、当時の与党内で検討されていた。 これらを「秋のゴールデンウィーク」あるいは「シルバーウィーク」と称することがある。 2017年に成立した皇室典範特例法により、2019年4月30日をもって第125代天皇・明仁が皇位を退き、翌5月1日に皇太子徳仁親王が即位した。特例法の成立を受け、2018年の第197臨時国会にて即位及び改元当日の5月1日と、即位礼正殿の儀が行われる10月22日を2019年限りの祝日とする法律が成立。この結果、4月30日と5月2日が国民の休日になり、土日及び振替休日を含めると4月27日(土曜日)から5月6日(月曜日・振替休日)まで10日間の休日となった。 過去にない10連休となったため、生活に影響が出ることが予想されたため、以下のような対応が取られた。 5月1日、いわゆるメーデーの開催日を祝日にすることで4月30日と5月2日に「国民の休日」が適用され、4月29日から5月5日まで7連休となる。しかし、既にある勤労感謝の日と趣旨が重複する祝日を定める意義や、メーデー自体が歴史的経緯から社会主義的である問題もあり、実現には至っていない。前者を回避するために、勤労感謝の日自体を5月1日に移動させるという案もあるが、戦前に新嘗祭の日付を祝日にした経緯があるため、主に保守派から反対論がある。金融関係者からは上記の10連休のように長期連休によって金融市場が長期間開かれないことを問題視する意見もある。また、休日にすることによるメーデー集会の参加者減少を恐れる労働組合の反対意見もある。 メーデー実行委員会は1984年(昭和59年)と翌1985年(昭和60年)に中央メーデーでメーデーを祝日にしようという特別決議を採択している。1996年(平成8年)から施行されている海の日ともに、祝日化が1995年(平成7年)の第132回通常国会で議論された。 世界の少なくとも80以上の国ではメーデーが祝日となっている。例として中国、ベトナム、北朝鮮などの社会主義諸国、旧ソ連・東欧圏、ヨーロッパ大陸のほとんどの国、メキシコ以南のラテンアメリカ諸国の大陸部のうちパナマとスリナムを除くすべての国、ASEAN加盟国のうちインドネシアとブルネイを除くすべての国、台湾、イスラム諸国ではパキスタンやバングラデシュやチュニジア、祝日が少ないアフリカ諸国でも多くの国が祝日としている。 しかしその一方で、メーデーを祝日としていない国もある。OECD加盟国では、日本のほか、アメリカ合衆国・イギリス・オランダ・スイス・デンマーク・トルコ・大韓民国が該当する。ギリシャなどヨーロッパのいくつかの国では、5月1日は祝日となっているが、これは春の訪れを祝う伝統的な祭日としての性質が強い。詳細はメーデーの項参照。 民主党政権時の2010年(平成22年)、国土交通省はゴールデンウィーク(春季)とシルバーウィーク(秋季)の連休を地域別に分散して設定する祝日法の改正案を計画していた。具体的には ゴールデンウィークは基本的に憲法記念日、みどりの日、こどもの日の3連休を一つのまとまり、シルバーウィークは基本的にハッピーマンデーの当該日である海の日、敬老の日、体育の日を従来の日に記念日と位置づけ、休日は文化・スポーツ・観光に適した時期を利用して、いずれも次のようなパターンを計画していた。 しかし、日本国内でありながら地域によって平日と休日が異なることで、商取引や金融システムなどの経済活動や、遠方への単身赴任者が帰省しても現地では平日のために家族と一緒に過ごせない、などの問題が挙がった。 中国にも日本のゴールデンウィークに類似した名称の大型連休があり、中国語で「黄金周」(huángjīn zhōu)と呼ばれる。これは、中国政府が経済効果をねらって1999年10月1日から導入した制度である。なお、「周」は「週」の簡体字である。 中国の黄金週は2023年現在、年に2回設定されている。 いずれも、3日間の法定休日に2日間の振替休日を加え、さらに土日を連続させて7連休にしている。2日間の振替休日は、直前の土日をこの期間に振り替える。 2007年度までは「労働節(5月1日)から始まる1週間」も黄金週であったが、中国政府の意向で2008年度以降は3連休に短縮されている。ただし、2009年度は広東省のみ7連休が実施された。
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"地域別大型連休案" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "中国にも日本のゴールデンウィークに類似した名称の大型連休があり、中国語で「黄金周」(huángjīn zhōu)と呼ばれる。これは、中国政府が経済効果をねらって1999年10月1日から導入した制度である。なお、「周」は「週」の簡体字である。", "title": "中国の黄金週" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "中国の黄金週は2023年現在、年に2回設定されている。", "title": "中国の黄金週" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "いずれも、3日間の法定休日に2日間の振替休日を加え、さらに土日を連続させて7連休にしている。2日間の振替休日は、直前の土日をこの期間に振り替える。", "title": "中国の黄金週" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2007年度までは「労働節(5月1日)から始まる1週間」も黄金週であったが、中国政府の意向で2008年度以降は3連休に短縮されている。ただし、2009年度は広東省のみ7連休が実施された。", "title": "中国の黄金週" } ]
ゴールデンウィークまたはゴールデンウイークは、日本において毎年4月末から5月初めにかけて休日が続く期間のこと。春の大型連休(おおがたれんきゅう)、黄金週間(おうごんしゅうかん)ともいう。元々は映画会社の大映が集客目的で作成した宣伝用語。 2022年のように一週目の平日は金曜日のみが休日、二週目の平日は火曜日から木曜日の三連休だけのゴールデンとは形容しがたい年もある。
{| style="float:right" |- | style="vertical-align:top" | {{カレンダー_4月}} | style="vertical-align:top" | {{カレンダー_5月}} |} {{表記揺れ案内|表記1=ゴールデンウィーク|議論ページ=}} '''ゴールデンウィーク'''または'''ゴールデンウイーク'''({{和製英語|Golden Week, '''GW'''}})は、[[日本]]において毎年[[4月]]末から[[5月]]初めにかけて[[休日]]が続く期間のこと。春の'''大型連休'''(おおがたれんきゅう)、'''黄金週間'''(おうごんしゅうかん)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%BB%84%E9%87%91%E9%80%B1%E9%96%93-448893 黄金週間(オウゴンシュウカン)とは] コトバンク、2023年3月30日閲覧</ref>ともいう。元々は映画会社の[[大映]]が集客目的で作成した宣伝用語。 2022年のように一週目の平日は金曜日のみが休日、二週目の平日は火曜日から木曜日の三連休だけのゴールデンとは形容しがたい年もある。 == 概要 == [[1948年]]の[[国民の祝日に関する法律]]施行により[[4月29日]]から[[5月5日]]までの期間に[[休日]]・[[国民の祝日|祝日]]が集中し、この期間([[平日]]や[[土曜日]]も含む)がゴールデンウィークと呼ばれるようになった。直前・直後に土曜日・[[日曜日]]・[[振替休日]]がある場合、それらを含めて呼ぶことも多い。この期間は、4月29日([[昭和の日]]<ref group="注釈">[[1988年]]([[昭和]]63年)までは[[天皇誕生日]]、[[2006年]]([[平成]]18年)まではみどりの日。</ref>)・[[5月3日]]([[憲法記念日 (日本)|憲法記念日]])・[[5月4日]]([[みどりの日]]<ref group="注釈">1988年(昭和63年)から2006年(平成18年)までは日曜日・[[月曜日]]以外であった場合は[[国民の休日]]。</ref>)・5月5日([[こどもの日]])が国民の祝日<ref group="注釈">2006年(平成18年)までの5月4日を除く。</ref>である。[[5月1日]]が[[メーデー]]のため休日になる会社(従業員)も少なくないことから、間の平日を休みにすることで長期連休にしやすい。 以前は休日が飛び飛びになることが多かったことから「[[飛石連休]]」という言い方がされた<ref group="注釈">[[1980年代]]前半以前は、4月29日が金曜日で始まる年は完全な飛石連休だった(この状態は[[1983年]](昭和58年)が最後となっている)。当時は[[休日#週休二日制|週休二日制]]もまだ一般的ではなかった。</ref>。[[1985年]](昭和60年)の「国民の祝日に関する法律」(以下「祝日法」という。)の改正で5月4日が日曜日や振替休日でなくても「国民の休日」になってからは、この言い回しは少なくなった。 [[2005年]](平成17年)に行われた祝日法の改正により、休日の名称および振替休日の規定が変更されたため、憲法記念日やみどりの日が日曜日と重なった場合、「こどもの日」の翌日にあたる5月6日が振替休日になり、その分ゴールデンウィークも延びることとなる。5月4日が日曜日となる[[2008年]](平成20年)に最初に適用され、振替休日が初めて月曜日以外の[[火曜日]]となった。続く[[2009年]](平成21年)も振替休日が初めて水曜日となった。 === 由来 === 「ゴールデンウィーク」の名称は、映画会社の[[大映]]が[[松竹]]と競作して[[1951年]](昭和26年)に同時上映となった『[[自由学校]]』が、大映創設以来最高の売上(当時)を記録<ref>牧村健一郎『獅子文六の二つの昭和』朝日新聞出版より。</ref>し、[[正月映画]]やお盆映画以上の[[興行成績]]を残したことで<ref name="goldenweek">[http://gogen-allguide.com/ko/goldenweek.html ゴールデンウィーク] [[語源]][[由来]][[辞典]]</ref>、この時期に観客を多数動員し活性化することを目的として、当時の大映の[[社長]]であった[[永田雅一]]によって作成された[[キャッチコピー|宣伝用語]]であり<ref name="goldenweek"/><ref name="nhk">{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/gimon/181.html |title=「ゴールデンウイーク」「大型連休」どちらを使う? |ことば(放送用語)放送現場の疑問・視聴者の疑問 |publisher=NHK放送文化研究所|accessdate=2020-8-2}}</ref>、[[和製英語]]である。[[1952年]](昭和27年) - [[1953年]](昭和28年)頃から一般にも使用されるようになり<ref name="nhk"/>、他の業界にも広まった。同時に大映は続いて秋の[[文化の日]]を中心とした期間を「[[シルバーウィーク]]」と名付けたが、当時こちらは定着しなかった<ref name="goldenweek"/><ref name="nhk"/>。 === 「ゴールデンウィーク」の表現を変更しているケース === [[日本放送協会|NHK]]や一部の民放などは原則として「(春の)大型連休」という表現で統一している。この理由について、[[NHK放送文化研究所]]では1970年代の[[オイルショック]]以降に「ゴールデンウィーク」という表現に視聴者から苦情が寄せられるようになったこと、「外来語・カタカナ語はできるだけ避けたい」「長すぎて表記の際に困る」などの放送の制作現場の声を反映させたこと、元々「ゴールデンウィーク」という表現が映画業界という私企業の宣伝用語であったこと、週休二日制の定着で期間がウィーク(一週間)にとどまらなくなってきたことなどを理由に掲げている<ref name="nhk"/>。「シルバーウィーク」についても、同様の表現差し替え(「(秋の)大型連休」)が行われているが、[[日本の新聞|新聞]]業界では「ゴールデンウィーク」「大型連休」の表現が半々、雑誌業界では「ゴールデンウィーク」「GW」の表現が主流であるという<ref name="nhk"/>。 なお、「ゴールデンウィーク」という言葉は、保険その他の分野においては[[2004年]](平成16年)に[[損害保険ジャパン]]が(第4824147号)、酒類においては[[2014年]](平成26年)に[[宝ホールディングス]]が(第5713010号)[[商標登録]]している。 == 日本の旅行シーズン == {{出典明記|section=1|date=2020-05-23}} [[ファイル:Odawara Sta platform OER Tozan 19930504.jpg|thumb|250px|ゴールデンウィークに観光客で混雑する登山電車乗り場([[小田原駅]]にて、1993年5月4日撮影)]] ゴールデンウィークとの名称が用いられ始めた時代は、[[第二次世界大戦]]後の[[テレビ]]普及前の日本映画の黄金期で[[映画館]]も多数存在しており、[[映画]]鑑賞、近場の[[百貨店]]での買い物、近郊の[[遊園地]]への行楽、周辺の[[行楽地]]へのハイキングといった日帰り旅行などが、この時期の一般的な過ごし方で、[[1970年代]]以前は普段の日曜日・祝日の過ごし方と大きな違いはなかった。しかし、その後の[[振替休日]]制度の導入や土曜休みの普及に伴って、次第にこの時期全体を利用した泊まりがけの旅行や帰省が増え、[[1990年代]]以降は日本国外への[[海外旅行]]も一般的になった。 [[日本人]]観光客の多い[[ハワイ]]など海外の観光地では、[[ホテル]]・[[バス (交通機関)|バス]]・[[レストラン]]など観光業に従事する人物の場合、日本に縁のない現地出身の人間であっても“Golden Week”で意味が通じるほど認知されている。 [[帰省]]や[[行楽]]などのために長距離を移動する人も多く、その数は、[[夏休み]](特に[[旧盆]]時期)・[[年末年始]]と同程度に多い{{refnest|group="注釈"|例えば、[[日本国有鉄道|国鉄]]時代、[[東海道新幹線|東海道]]・[[山陽新幹線]]の1日あたりの乗客数が最も多かったのはゴールデンウィーク期間中である[[1975年]][[5月5日]]の103万人であった<ref>{{Cite book|和書|title=東海道新幹線|author=須田寬|authorlink=須田寬|date=2000-08-01|publisher=JTBパブリッシング|ISBN=4533035639|page=34}}</ref>。}}。毎年ゴールデンウィークの序盤と終盤において、主要ターミナル駅・[[空港]]・長距離列車などでは多くの乗客が見られる。 このため、多くの場合、お盆・年末年始と共通する以下のような交通状況となり、そのためにそれらの期間に準じた制度が適用される。 * 主要な[[日本の高速道路|高速道路]]の一部区間に[[渋滞]]が発生。10 - 100 km以上にも及ぶ場合もある。 * 全席指定車の列車以外の新幹線や主要な特急列車・[[高速バス]]における混雑、列車の指定席特急券や[[航空券]]の入手の困難さ。 *: そのため、[[JR]]の場合、[[特別急行券#特急券(指定席)|指定席特急券]]には[[特別急行券#閑散期・繁忙期・最繁忙期|繁忙期]]が適用され、かつ[[新幹線]]・[[特別急行列車|特急列車]]を使用する多くの[[特別企画乗車券]]に利用制限がかかる(ただし、[[訪日外国人旅行]]者向けの[[ジャパンレールパス]]と一部の特別企画乗車券は利用可能)。 * 都市[[近郊]]を結ぶ[[快速列車]]では、行楽客の増加で通勤[[ラッシュ時]]並みの混雑が発生することもある。その他、各地の観光地・[[繁華街]]の混雑、[[ホテル]]などの宿泊代、国内外への割引航空券の値段、[[レンタカー]]の料金などにおける、旅行費用の高騰も見られる。反面、多くの航空会社の国内線正規運賃は最盛期運賃とはならない。また[[路線バス]]・[[路面電車]]など近距離の交通機関の利用においては、逆にこの時期に割安な企画切符・料金が適用される例も多いなど、必ずしも他の時期に比べて割高ではない事例も存在する。他の繁忙期と異なり、[[青春18きっぷ]]はこの時期に発売されない。これは、当初この商品が学生などの休業期間を見込んだものであり、この時期は春・夏・冬の休業期間とは異なり、本来その時期には当たらないという性格上のものからだった。しかし[[日本国有鉄道|国鉄]]時代に初めて発売された「青春18のびのびきっぷ」は、有効期間がゴールデンウィークまであった。 ただし鉄道のダイヤ面では、ゴールデンウィーク中の平日については原則として平日ダイヤで運転されており、お盆期間中の平日が一部の[[鉄道事業者]](主に[[近畿地方]]・[[中京圏|中京]]の[[私鉄]]・[[地下鉄]])において[[土曜日|土曜]]又は[[休日]]のダイヤで運行されていることとは対照的である。学校は一部の[[私立学校]]を除いては平常通り授業が行われており、お盆と異なり通学需要がある。 また、繁華街や観光地などにある[[コインパーキング]]は上限料金が適用されない、特別駐車料金になるところがある。 == ゴールデンウィーク中の対応 == [[週刊誌]]では、連休前に合併号の発行が一般的に行われているが、これは大型連休に合わせた営業施策というよりも、[[印刷会社|印刷所]]の連休に合わせているためである。 [[郵便物]]の配達業務は、[[2015年]]までは連休中の後半に1日程度、休日ではあるが全ての郵便物を配達する日を設けていた<ref>{{Cite press release|和書|date=2015-02-20 |url=https://www.post.japanpost.jp/notification/pressrelease/2015/00_honsha/0220_01_01.pdf|format=pdf|title=祝日等における郵便物等の配達|publisher=[[日本郵便]]|accessdate=2018-09-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304211412/https://www.post.japanpost.jp/notification/pressrelease/2015/00_honsha/0220_01_01.pdf|archivedate=2016-03-04}}</ref>が、[[2016年]]以降はこの扱いは行われなくなった<ref>{{Cite web|和書|date=2016-04-01 |url=https://www.post.japanpost.jp/notification/productinformation/2016/0401_01_01.pdf|format=pdf|title=ゴールデンウィーク期間中における郵便物等の配達|publisher=日本郵便|accessdate=2018-09-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170105020032/https://www.post.japanpost.jp/notification/productinformation/2016/0401_01_01.pdf|archivedate=2017-01-05}}</ref>。[[2018年]]以降は最大で連続4日間、[[速達郵便|速達]]・[[書留郵便|書留]]・[[荷物 (日本郵便)|荷物]]等を除く通常の郵便物が配達されない年が発生している<ref>{{Cite web|和書|date=2018-02-21 |url=http://www.post.japanpost.jp/notification/productinformation/2018/0221_01.html|title=祝日等における郵便物等の配達|publisher=日本郵便|accessdate=2018-09-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180225150330/http://www.post.japanpost.jp/notification/productinformation/2018/0221_01.html|archivedate=2018-02-25}}</ref>。2019年は新天皇の即位もあり、10連休と長期連休になった。顧客利便性や郵便物の保管場所不足防止の観点から土曜日の4月27日に配達した後、5月2日に全ての郵便物を配達する日を設けた<ref name="yubin1">{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASLD653BCLD6UTFK00S.html|title=来春の10連休中に配達日 日本郵政「保管場所ない」|accessdate=2019年4月17日|publisher=朝日新聞|date=2018-12-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220409181626/https://www.asahi.com/articles/ASLD653BCLD6UTFK00S.html|archivedate=2022-04-09}}</ref><ref name="yubin2">{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/notification/productinformation/2019/0227_01.html|title=祝日等における郵便物等の配達|accessdate=2019年4月17日|publisher=日本郵便|date=2019-02-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220409181627/https://www.post.japanpost.jp/notification/productinformation/2019/0227_01.html|archivedate=2022-04-09}}</ref>。その後、2021年10月の土曜配達休止を経て<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210811111718/https://www.post.japanpost.jp/2021revision/|url=https://www.post.japanpost.jp/2021revision/|date=|archivedate=2021-08-11|accessdate=2023-05-08|title=2021年10月から郵便物(手紙・はがき)・ゆうメールのサービスを一部変更します。|publisher=日本郵便}}</ref>、カレンダー上は5日間配達休止日が続く配列であった[[2023年]]には中間の5月5日に配達を実施した<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230419052846/https://www.post.japanpost.jp/notification/productinformation/2023/0310_01.html|url=https://www.post.japanpost.jp/notification/productinformation/2023/0310_01.html|date=2023-03-10|archivedate=2023-04-19|accessdate=2023-05-08|title=2023年度の祝日等における郵便物等の配達|publisher=日本郵便}}</ref>。 [[景気循環|不況]]時の場合、製造部門を持つ企業において、この期間を生産調整・在庫調整に充て、通常の休日に数日上乗せし、さらなる長期休業となる従業員も見受けられる<ref>[http://mainichi.jp/area/miyazaki/archive/news/2009/04/24/20090424ddlk45040495000c.html GW:不況下、喜び半分? 生産調整で最長12日 人出97万2000人予想 /宮崎] 毎日jp 2009年4月24日・毎日新聞 2009年4月24日 地方版{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。 観光地や行楽地などにある飲食店やデリバリー、テイクアウトの飲食店で大型連休中はランチタイムの休止、高価格帯のメニューのみの提供、特別料金となるところもある。 == 主なイベント == 気候のいいこの時期には全国各地でイベントが開催される。有名なイベントを挙げる。 <!--あいうえお順--> * [[有田陶器市]] * [[朝日レガッタ]] * [[小田原北條五代祭り]] * [[くらやみ祭]] * [[となみチューリップフェア]] * [[那覇ハーリー]] * [[浜松まつり]] * [[博多どんたく]] * [[ひろしまフラワーフェスティバル]] * [[弘前さくらまつり]] * [[マンモスフリーマーケット]](この他、秋にも開催される) この時期は[[北東北]]や[[道南]]などでは[[ソメイヨシノ]]の時期にあたり、[[花見]](観桜)の季節でもある。それらの地域では桜だけでなく[[ウメ|梅]]や[[ハナモモ|花桃]]の花も同時に咲くことが多い。それ以外の地域では多くの場合は桜が散った後となるが、代わりに[[フジ属|藤]]・[[バラ]]などの晩春の花の時期であり、[[新緑]]のシーズンでもある。 == 秋の大型連休 == {{Main|シルバーウィーク}} 祝日法の改正によって[[敬老の日]]が[[ハッピーマンデー制度|ハッピーマンデー]]対象となったことにより、[[秋分の日]]と合わせての大型連休ができる可能性が生じており、[[2009年]](平成21年)・[[2015年]](平成27年)はこれに該当する。その後は、[[2026年]]がこれに当たると予測されている([[秋分]]日の観測状況により変動することがあるため、正式な祝日は前年の2月第1平日付の官報で確定する。「[[暦要項]]」参照)。 [[体育の日]]を[[11月1日]]に、[[勤労感謝の日]]を[[11月5日]]に移すことによって[[11月3日]]の[[文化の日]]と併せて秋に大型連休を作る構想もあり、当時の与党内で検討されていた。 これらを「秋のゴールデンウィーク」あるいは「[[シルバーウィーク]]」と称することがある。 == 2019年の10連休 == {{Main|明仁から徳仁への皇位継承}} 2017年に成立した[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法|皇室典範特例法]]により、2019年4月30日をもって第125代[[天皇]]・[[明仁]]が皇位を退き、翌5月1日に[[徳仁|皇太子徳仁親王]]が即位した。特例法の成立を受け、2018年の[[第197回国会|第197回臨時国会]]にて即位及び改元当日の5月1日と、[[即位礼正殿の儀]]が行われる[[10月22日]]を2019年限りの祝日とする[[s:天皇の即位の日及び即位礼正殿の儀の行われる日を休日とする法律|法律]]が成立<ref>[https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou.html 「国民の祝日」について] - 内閣府</ref>。この結果、4月30日と5月2日が国民の休日になり、土日及び振替休日を含めると4月27日(土曜日)から5月6日(月曜日・振替休日)まで10日間の休日となった<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1812/09/news039.html 2019年に10連休、国会で成立 新天皇即位の日を1年限りの祝日に] - ねとらぼ、2018年12月9日、2018年12月14日閲覧。</ref>。 {| class="wikitable" い |- ! style="min-width:8em" | 日曜日 ! style="min-width:8em" | 月曜日 ! style="min-width:8em" | 火曜日 ! style="min-width:8em" | 水曜日 ! style="min-width:8em" | 木曜日 ! style="min-width:8em" | 金曜日 ! style="min-width:8em" | 土曜日 |- | | | | | | | style="vertical-align:top" | 平成31年4月27日<br />(土曜日) |- | style="vertical-align:top" | 4月28日<br />(日曜日) | style="vertical-align:top" | 4月29日<br />'''[[昭和の日]]''' | style="vertical-align:top" | 4月30日<br />[[国民の休日]]<br>([[退位の礼|退位礼正殿の儀]]) | style="vertical-align:top" | 令和元年5月1日<br />'''天皇の即位の日''' | style="vertical-align:top" | 5月2日<br />[[国民の休日]] | style="vertical-align:top" | 5月3日<br />'''[[憲法記念日 (日本)|憲法記念日]]''' | style="vertical-align:top" | 5月4日<br />'''[[みどりの日]]''' |- | style="vertical-align:top" | 5月5日<br />'''[[こどもの日]]''' | style="vertical-align:top" | 5月6日<br />[[振替休日]] | | | | | |} 過去にない10連休となったため、生活に影響が出ることが予想されたため、以下のような対応が取られた。 * 金融機関は、各銀行のATMが残高不足となる事態を回避するため、残高の監視強化やATM内現金量の3割増(例年比)といった対応を実施した<ref>[https://web.archive.org/web/20190416153543/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019041601158&g=eco ATMの残高不足回避=10連休対応、政府が更新] - 時事通信 2019年4月16日</ref>。 * 厚生労働省は連休中に受診できる医療機関をまとめた<ref>[https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_04364.html 2019年4月27日から5月6日までの10連休における各都道府県の医療提供体制について] - 厚生労働省</ref>。 * 新元号初日となる5月1日には[[婚姻届]]が数多く出される見込みであることから、臨時に窓口を設置する自治体もあった<ref>[https://mainichi.jp/articles/20190418/ddf/007/100/018000c 5月1日 婚姻届増見込み臨時開庁] - 毎日新聞 2019年4月18日</ref>。 * 生鮮食品を扱う東京の[[豊洲市場]]は、臨時開場日を設定した<ref>[http://www.shijou.metro.tokyo.jp/calendar/2019/index.html#GW 市場開場日・休業日年間カレンダー] - 東京都 豊洲市場</ref>。 * [[日本郵便]]では、「[[#ゴールデンウィーク中の対応|ゴールデンウィーク中の対応]]」の通り通常日曜日・祝日には実施しない普通郵便物の配達を、特例として5月2日にも実施した<ref name="yubin1"/><ref name="yubin2"/>。 == 7連休化案 == {{出典の明記|section=1|date=2020-05-23}} [[5月1日]]、いわゆる[[メーデー]]の開催日を祝日にすることで[[4月30日]]と[[5月2日]]に「国民の休日」が適用され、[[4月29日]]から[[5月5日]]まで7連休となる。しかし、既にある[[勤労感謝の日]]と趣旨が重複する祝日を定める意義や、メーデー自体が歴史的経緯から[[社会主義]]的である問題もあり、実現には至っていない。前者を回避するために、勤労感謝の日自体を5月1日に移動させるという案もあるが、[[戦前]]に[[新嘗祭]]の日付を祝日にした経緯があるため、主に[[保守|保守派]]から反対論がある。金融関係者からは上記の10連休のように長期連休によって[[金融市場]]が長期間開かれないことを問題視する意見もある。また、休日にすることによるメーデー集会の参加者減少を恐れる[[労働組合]]の反対意見もある。 メーデー実行委員会は[[1984年]](昭和59年)と翌[[1985年]](昭和60年)に中央メーデーでメーデーを祝日にしようという特別決議を採択している。[[1996年]](平成8年)から施行されている[[海の日]]ともに、祝日化が1995年(平成7年)の第132回[[常会|通常国会]]で議論された。 世界の少なくとも80以上の国ではメーデーが祝日となっている。例として中国、[[ベトナム]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]などの社会主義諸国、旧[[ソビエト連邦|ソ連]]・[[東ヨーロッパ|東欧]]圏、[[ヨーロッパ|ヨーロッパ大陸]]のほとんどの国、[[メキシコ]]以南の[[ラテンアメリカ]]諸国の大陸部のうち[[パナマ]]と[[スリナム]]を除くすべての国、[[東南アジア諸国連合|ASEAN]]加盟国のうち[[インドネシア]]と[[ブルネイ]]を除くすべての国、[[中華民国|台湾]]、[[イスラム諸国]]では[[パキスタン]]や[[バングラデシュ]]や[[チュニジア]]、祝日が少ない[[アフリカ]]諸国でも多くの国が祝日としている。 しかしその一方で、メーデーを祝日としていない国もある。[[経済協力開発機構|OECD]]加盟国では、日本のほか、[[アメリカ合衆国]]・[[イギリス]]・[[オランダ]]・[[スイス]]・[[デンマーク]]・[[トルコ]]・[[大韓民国]]が該当する。[[ギリシャ]]などヨーロッパのいくつかの国では、5月1日は祝日となっているが、これは春の訪れを祝う伝統的な祭日としての性質が強い。詳細は[[メーデー]]の項参照。 == 地域別大型連休案 == [[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]][[政権]]時の2010年(平成22年)、[[国土交通省]]はゴールデンウィーク(春季)とシルバーウィーク(秋季)の連休を地域別に分散して設定する祝日法の改正案を計画していた。具体的には *「休日となる国民の祝日」の日数を増やさない *「ゴールデンウィークとハッピーマンデーにおける国民の祝日」については「記念日」としての意味と「休日」としての意味を分けて考える *これらの「国民の祝日」は記念日と見なして従来の日に残しながら、祝日に代わる休日は5月と10月にそれぞれ地域別に分けて設定する ゴールデンウィークは基本的に憲法記念日、みどりの日、こどもの日の3連休を一つのまとまり、シルバーウィークは基本的にハッピーマンデーの当該日である海の日、敬老の日、体育の日を従来の日に記念日と位置づけ、休日は文化・スポーツ・観光に適した時期を利用して、いずれも次のようなパターンを計画していた<ref>[https://www.mlit.go.jp/common/000059727.pdf 休暇分散パターンについて](国土交通省)</ref>。 * それらの休日を月曜日から[[水曜日]]に振り分けることで、土日を含む5連休を各地区1週ずつ、全体で5週間確保する案(パターンA) * 地域別に月曜から水曜、または水曜から金曜に振り分けて、土日(前者前週、後者当該週)を含めた5連休を全体で2週半確保する案(パターンB) {| class="wikitable" |+ パターンAの例 |- !週!!土曜!!日曜!!月曜!!火曜!!水曜!!木曜!!金曜 |- !第1週 |colspan="5"|[[九州]][[沖縄県|沖縄]]・[[中国・四国地方|中国四国地方]]の休日||colspan="2" rowspan="5"| |- !第2週 |colspan="5"|[[近畿地方]]の休日 |- !第3週 |colspan="5"|[[中部地方|中部]]・[[北信越地方|北陸・信越地方]]の休日 |- !第4週 |colspan="5"|[[南関東|南関東地方]]の休日 |- !第5週 |colspan="5"|[[北関東]]・[[東北地方|東北]]・[[北海道|北海道地方]]の休日 |} {| class="wikitable" |+ パターンBの例 |- !colspan="7"|第1週!!colspan="7"|第2週!!colspan="7"|第3週 |- !土曜!!日曜!!月曜!!火曜!!水曜!!木曜!!金曜!!土曜!!日曜!!月曜!!火曜!!水曜!!木曜!!金曜!!土曜!!日曜!!月曜!!火曜!!水曜!!木曜!!金曜 |- |colspan="5"|九州沖縄・中国四国地方の休日||colspan="16"| |- |colspan="4"| ||colspan="5"|近畿地方の休日||colspan="12"| |- |colspan="7"| ||colspan="5"|中部・北陸信越地方の休日||colspan="9"| |- |colspan="11"| ||colspan="5"|南関東地方の休日||colspan="5"| |- |colspan="14"| ||colspan="5"|北関東・東北・北海道地方の休日||colspan="2"| |} しかし、日本国内でありながら地域によって平日と休日が異なることで、商取引や金融システムなどの経済活動や、遠方への単身赴任者が帰省しても現地では平日のために家族と一緒に過ごせない、などの問題が挙がった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20100304/plt1003041609006-n2.htm|title=大迷惑!メリットどこ? 「休日分散化案」世紀の愚策か|publisher=zakzak|date=2010-03-04 |accessdate=2018-05-07 |language=日本語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20100307153324/http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20100304/plt1003041609006-n2.htm |archivedate= 2010-03-07 }}</ref>。<!--その後、議論が沈静化したため過去形にする。--> == 中国の黄金週 == [[中華人民共和国|中国]]にも日本のゴールデンウィークに類似した名称の大型連休があり、[[中国語]]で「'''黄金周'''」(huángjīn zhōu)と呼ばれる。これは、中国政府が[[経済効果]]をねらって[[1999年]][[10月1日]]から導入した制度である。なお、「周」は「週」の[[簡体字]]である。 中国の黄金週は2023年現在、年に2回設定されている。 * [[春節]]([[旧正月]])から始まる1週間 * [[国慶節]](10月1日)から始まる1週間 いずれも、3日間の法定休日に2日間の振替休日を加え、さらに土日を連続させて7連休にしている。2日間の振替休日は、直前の土日をこの期間に振り替える。 2007年度までは「[[労働節]](5月1日)から始まる1週間」も黄金週であったが、中国政府の意向で2008年度以降は3連休に短縮されている。ただし、2009年度は[[広東省]]のみ7連休が実施された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[五月病]] * [[国民の休日]] * [[シルバーウィーク|シルバーウイーク]] * [[ハッピーマンデー制度]] * [[労働節]] - 中国で4月29日~5月3日は5連休となり日本のGWと重なっていて、近年は宿泊施設が取りにくくなる傾向にある。 * [[外遊]] * [[日本の週間一覧]] * [[端午の節句]] * [[年次有給休暇]] * [[お盆]] * [[年末年始]] {{デフォルトソート:こおるてんういいく}} [[Category:日本の記念週間]] [[Category:日本の祝日]] [[Category:4月]] [[Category:5月]] [[Category:和製英語]] [[Category:大映]] [[Category:登録商標]]
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和製英語
和製英語(わせいえいご)は、日本語の中で使われる和製外来語の一つで、日本で日本人により作られた、英語の言葉や英語に似ている言葉(固有名詞や商品名などを除く)である。英語圏では別表現をするために理解されなかったり、もしくは、全く異なった解釈をされたりする場合がある。 定義・外延は人によって異なる。狭い解釈では「フォアボール」「ベースアップ」「レベルダウン」など外来語を使った造語。これらは英語圏の英語ではそれぞれ「base on balls」「pay raise」「level decrease」という。 次に既存の語形を省略して作ったものを含めることもある。「ワープロ (word processor)」「パソコン (personal computer)」「エンゲージリング (engagement ring)」のようなものである。 広い解釈では、形はほぼ同じものが英語にあっても、意味が英語と大きく異なるものを含めることがある。これは和製語であってたまたま同語形が英語にある場合もあるが、日本語圏で意味変化しただけであって語形そのものは英語圏に由来するものも含まれる。 例えば「デッドヒート」(dead heat) の英語の意味は「同着、単独の勝者のいないこと」をいうが、日本語における外来語としては「激しい競り合い」の意味である。ほかに「デッドボール」、「ムーディ」、「フェミニスト」などがある。更に緩い定義では「日常会話の中でごくふつうに、そして自然に使われている『カタカナ英語』」というものもある。 日本語文脈中の片仮名語彙のほかに、英語表現について言われることもある。例えば「Please be careful to steps.」(英語圏では Watch your step.)「Care your hand.」(同 Keep hands free of door.)のようなものである。 日本特有の意味であれば和製英語であると認定するならば、英語の意味から、どの程度異なっていれば認定してよいかは難しい問題である。小規模な意味のずれは、ほぼ全ての外来語に見られ、外来語の意味が原語と異なるのは必然だからである。 また日本製であることを証明するのは難しい。例えば日没後に行われる野球の試合を意味する「ナイター」は和製英語としてとてもに有名であるが、AP通信の電信文に用いられていたとする説もあり、また野球解説者である伊東一雄も米国の野球関係者の間で使われていたとする。 ただし、語源の痕跡について議論するよりも前に、典型的な英語を母国語とする現代の人に日常会話で通じるかどうかも重要な点である。 ハンドルネームのように和製英語と同じ形でないと最早英語圏で通じなくなったり、ライフラインのように特定の分野の学術用語が日本語圏で一般に幅広く普及したり、海外ではポリティカル・コレクトネスの観点から使われなくなった語句が日本語では未だに使われている例もある。 和製英語は「外国語の誤用」として否定的に語られることも多い。しかし、和製英語は英語の語彙ではなく日本語の語彙であり、日本語話者でない者に通じないことはある意味当然である。また国内での英語使用の中には日本限定用法が存在し、英語話者との言葉の意味に不一致が生じることもある。例としてリベンジなど。日本語文脈で使われていた和製英語を原語の語形・意味に回帰しようという圧力が働き、その結果、既存の語形・意味と衝突して、混乱を生じることがある。 原語が英語でないが、多くの人に英語だと誤解されている言葉や、商標や商品名が外来の普通名称と誤解されている例もある。多くの人に英語だと誤解されている言葉の例として、元がフランス語の「アベック」、「アンケート」などが、商標や商品名が外来の普通名称と誤解されている例としてはホッチキス、キャタピラー、クラクション、マジックインキ、チャックなどがある。 この他、和製英語が示す内容が日本独自もしくは日本国外では未普及・衰退した事例であるために、英語の対応語が存在しない場合もある。 ここでは、文献により「和製英語」とされているものの一例を掲げる。あくまでも一例であり、和製英語として認定するものではない。なお辞書・研究によって和製英語であるか否かの定義や判断が異なる場合がある。和製英語に関する諸問題については上記を参照のこと。 のように示す。単に日本語単語に対する英訳語を掲げるのみ、或いは英単語に対する日本語訳語を掲げるのみで、「和製英語である」という指摘のない出典は対象としない。また単に「(2017年3月現在の)英語圏では使わない」というだけのものも除外する。なお相当する英単語が指摘されないものは出典だけを示す。 和製英語では無いという指摘のある出典があれば併せて掲げる。
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和製英語(わせいえいご)は、日本語の中で使われる和製外来語の一つで、日本で日本人により作られた、英語の言葉や英語に似ている言葉(固有名詞や商品名などを除く)である。英語圏では別表現をするために理解されなかったり、もしくは、全く異なった解釈をされたりする場合がある。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年2月 | 更新 = 2021年2月 }} '''和製英語'''(わせいえいご)は、日本語の中で使われる[[和製外来語]]<ref>広辞苑第6版</ref>の一つで、日本で日本人により作られた、英語の言葉や英語に似ている言葉(固有名詞や商品名などを除く)である。[[英語圏]]では別表現をするために理解されなかったり、もしくは、全く異なった解釈をされたりする場合がある。 == 定義 == 定義・外延は人によって異なる。狭い解釈では「[[フォアボール]]」「[[ベースアップ]]」「レベルダウン」など[[外来語]]を使った[[造語]]<ref name="isino1989"/>。これらは英語圏の英語ではそれぞれ「{{en|base on balls}}」「{{en|pay raise}}」「{{en|level decrease}}」という<ref name="colwa">小島義郎・竹林滋・中尾啓介(編)『カレッジライトハウス和英辞典』研究社、初版1995年。</ref>。 次に既存の語形を省略して作ったものを含めることもある。「ワープロ {{en|(word processor)}}」「パソコン {{en|(personal computer)}}」「エンゲージリング {{en|(engagement ring)}}」のようなものである。 広い解釈では、形はほぼ同じものが英語にあっても、意味が英語と大きく異なるものを含めることがある。これは和製語であってたまたま同語形が英語にある場合もあるが、[[日本語圏]]で意味変化しただけであって語形そのものは英語圏に由来するものも含まれる。 例えば「デッドヒート」{{en|(dead heat)}} の英語の意味は「同着、単独の勝者のいないこと」をいうが、日本語における外来語としては「激しい競り合い」の意味である<ref name="isino1989">石野博史「外来語」『講座日本語と日本語教育第6巻 日本語の語彙・意味(上)』明治書院、1989年。</ref>。ほかに「[[死球|デッドボール]]」、「ムーディ」、「[[フェミニスト]]」などがある。更に緩い定義では「日常会話の中でごくふつうに、そして自然に使われている『[[カタカナ英語]]』」というものもある<ref>亀田ら (2014)、iiiページ(まえがき)。</ref>。 === 英語との違い === 日本語[[文脈]]中の[[片仮名]]語彙のほかに、英語表現について言われることもある<ref>亀田ら (2014)。</ref>。例えば「{{en|Please be careful to steps.}}」(英語圏では {{en|Watch your step.}})「{{en|Care your hand.}}」(同 {{en|Keep hands free of door.}})のようなものである。 日本特有の意味であれば和製英語であると認定するならば、英語の意味から、どの程度異なっていれば認定してよいかは難しい問題である<ref name="isino1989"/>。小規模な意味のずれは、ほぼ全ての外来語に見られ<ref name="isino1989"/>、外来語の意味が原語と異なるのは必然<ref name="zinno">陣内正敬『外来語の社会言語学 日本語のグローカルな考え方』世界思想社、2007年。</ref>だからである。 また日本製であることを証明するのは難しい。例えば日没後に行われる[[野球]]の試合を意味する「ナイター」は和製英語としてとてもに有名である<ref>西尾寅弥「語種」『朝倉日本語講座4 語彙・意味』朝倉書店、2002年。</ref>が、[[AP通信]]の電信文に用いられていたとする説もあり<ref>『日本国語大辞典第2版』「ナイター」の項。</ref>、また野球解説者である[[伊東一雄]]も米国の野球関係者の間で使われていたとする<ref name=Ito>{{Cite web |url=https://0llo.com/english/night_game/ |title=「ナイター」ってホントに和製英語? - 時とともに変わる言語1 - 0llo.com |accessdate=2017-03-31}}</ref>。 ただし、語源の痕跡について議論するよりも前に、典型的な英語を[[母国語]]とする[[現代 (時代区分)|現代]]の人に日常会話で通じるかどうかも重要な点である。 [[ハンドルネーム]]のように和製英語と同じ形でないと最早英語圏で通じなくなったり、ライフラインのように特定の分野の学術用語が日本語圏で一般に幅広く普及したり、海外では[[ポリティカル・コレクトネス]]の観点から使われなくなった語句が日本語では未だに使われている例もある。 === 和製英語は「日本語」 === 和製英語は「外国語の[[誤用]]」として否定的に語られることも多い。しかし、和製英語は英語の[[語彙]]ではなく日本語の語彙であり、日本語話者でない者に通じないことはある意味当然である。また国内での英語使用の中には日本限定用法が存在し、英語話者との言葉の意味に不一致が生じることもある。例として[[リベンジ]]など。日本語文脈で使われていた和製英語を原語の語形・意味に回帰しようという圧力が働き、その結果、既存の語形・意味と衝突して、混乱を生じることがある。 原語が英語でないが、多くの人に英語だと誤解されている言葉や、商標や商品名が外来の普通名称と誤解されている例もある。多くの人に英語だと誤解されている言葉の例として、元が[[フランス語]]の「[[アベック]]」、「[[アンケート]]」<ref>{{Cite book|和書|title=NHKカタカナ英語うそ・ほんと|author=坂田俊策|date=1988-05-20|page=6}}</ref>などが、商標や商品名が外来の普通名称と誤解されている例としてはホッチキス、キャタピラー、クラクション、マジックインキ、チャックなどがある。 この他、和製英語が示す内容が日本独自もしくは日本国外では未普及・衰退した事例であるために、英語の対応語が存在しない場合もある。 == 和製英語の一例 == ここでは、文献により「和製英語」とされているものの一例を掲げる。あくまでも一例であり、和製英語として認定するものではない。なお辞書・研究によって和製英語であるか否かの定義や判断が異なる場合がある。和製英語に関する諸問題については上記を参照のこと。 === 凡例 === * 日本語 ー「相当する英単語」(この英単語に相当する「和製英語」であると指摘している出典) のように示す。単に日本語単語に対する英訳語を掲げるのみ、或いは英単語に対する日本語訳語を掲げるのみで、「和製英語である」という指摘のない出典は対象としない。また単に「(2017年3月現在の)英語圏では使わない」というだけのものも除外する。なお相当する英単語が指摘されないものは出典だけを示す。 和製英語では無いという指摘のある出典があれば併せて掲げる。 === 出典略号 === ; CLHJ : [[小島義郎]]・[[竹林滋]]・中尾啓介(編)『カレッジライトハウス和英辞典』[[研究社]]、1995年 ; CLHE : 竹林滋・小島義郎・東信行(編)『カレッジライトハウス英和辞典』研究社、1995年 ; NJED : 渡邉敏郎・E. Skrzypczak・P. Snowden(編)『新英和大辞典 第5版』研究社、2003年 ; 広辞苑 : 岩波書店『[[広辞苑]]』第五版、1998年 (和製語であるとの記載のみ) === 日本語圏での一般的な造語 ===<!-- 必要以上に事典的事項を書かないように注意してください。連想ゲームは不要。 --> ==== ア行 ==== * [[アウトコース]] - {{en|outside}} (CLHJ) * [[アクセルペダル|アクセル(ペダル)]] - {{en|gas pedal}}(米)、{{en|accelerator}}(英) * [[アドバルーン]] - {{en|advertising balloon}}(CLHJ) * [[アフターサービス]] - {{En|customer service, user support, aftersales service}} * [[アフレコ]] - {{en|postrecording}}、{{en|dubbing}} * [[イートイン]] - {{en|stay}}、{{en|for-here}}、{{en| eat out food and drinks in a casual style}} * [[イメージガール]] - {{en|promotional model}} <ref name="weblio">{{Cite web|オンライン英会話コラム|url=https://eikaiwa.weblio.jp/column/knowledge/unnatural_english/campaign-girl-is-japlish|title=【通じない英語】 「キャンペーンガール」はネイティブが使わない和製英語|accessdate=2019-02-07|date=2016-6-23}}</ref> * [[インコース]] - {{en|inside}} (CLHJ) * [[方向指示器|ウインカー]] - turn signal(米)、blinker(米)、(directional) indicator(英) * [[エンカウント]] - encounter * [[エントリーシート]] - application form * [[オートバイ]] - {{en|motorcycle}} (CLHJ) * [[オーバーシュート]] - outbreak, pandemic, surge (of {{en|infections}})([[アウトブレイク|感染拡大]]の意味合いとしては和製英語) * [[オーブントースター]] - {{en|toaster oven}} * [[オープンカー]] - {{en|convertible}}, {{en|cabriolet}} * [[OL|オフィスレディー]] (OL) - {{en|(female) office worker}} (NJED)、{{en|company employee}} * [[オフヴォーカル]] - instrumental, backing track ==== カ行 ==== * [[警備員|ガードマン]] - {{en|(security) guard}}(CLHJ) * [[ガソリンスタンド]] - {{en|gas station}} (米)、{{en|petrol station}} (英) * [[カットオーバー]] - 文脈によりbegin, go-live, launch, release, start など(英) * [[カレーライス]] - curry and rice * [[カンニング]] - {{en|cheating}} (米) * [[キッチンカー]] - {{en|food truck}} * [[ギャップ・イヤー|ギャップターム]] - 日本独特の学校進学実情に基づく概念のため、対応語なし。 * [[キャンペーンガール]] - {{en|campaign model}} <ref name="weblio" /> * [[クッキングシート]] - parchment paper * [[クラクション]] - (car) horn 一般的な警笛という意味で使う場合のみ和製英語。商品名や商標として使う場合は違う。 * [[グループ・サウンズ]] - 日本発祥の概念のため、対応語なし。 * [[クレーム]] - 苦情の意味なら和製英語、特許の請求項など主張と言う意味で使う場合は英語である。 * [[クレーンゲーム]] - claw game * [[冷房|クーラー]] - {{En|air conditioner}}(冷房という意味で使う場合は和製英語、[[クーラーボックス]]の略として使う場合は英語である) * [[ゲッツー]] - double play * [[ゴールデンウィーク]] - 日本独自の用語のため、対応語なし。 * [[プライムタイム|ゴールデンタイム]] - {{en|prime time}} (NJED) * [[配線用差込接続器|コンセント]] - outlet(米)、socket(英) * [[コンテナハウス]] - Shipping container home<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%8A%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9-506395 |title=コンテナハウス |publisher=[[コトバンク]] |date= |accessdate=2022-07-18 }}</ref> * [[コンドミニアムホテル]] - {{En|condo hotel, condotel, hotel condo, contel}} ==== サ行 ==== * [[サービスイン]] - 文脈によりbegin, go-live, launch, release, start など(英) *[[サービスエリア]] - {{en|rest area}} * [[パーキングブレーキ|サイドブレーキ]] - {{en|hand brake}} (CLHJ)、{{En|parking brake}} * [[サラリーマン]] - {{en|white-collar worker}} (CLHJ)、高給職は {{en|salaried worker}} (CLHJ) * (略称としての)[[サンドイッチ|サンド]] - sandwich(「サンド」まででは『砂(sand)』の意味) * [[シートノック]] - {{en|fielding practice}} (CLHJ) * [[ジーパン]] - {{en|jeans}} (CLJE)。「{{en|jeans}}」と「{{en|pants}}」の組み合わせ (RHJ2) * [[ジェットコースター]] - {{en|roller coaster}} (NJED) * [[ジェンダーレス]] - {{en|unisex}} * [[シャープペンシル]]、シャーペン - {{en|mechanical pencil, clutch pencil}} * [[ショベルカー]] - 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電流
電流(でんりゅう、英: electric current)は、通常は、電荷群が連続的に動く現象をいう。電荷の運動に伴い起こる電気量の巨視的な移動。 「正電荷の流れる向きが電流の向き」と定めてある。 電流の担い手となるキャリア(電荷担体)には電子・陽子・正孔などがある。 仮に電流の流れる向きを「電子の流れる向き」と定義してしまうと、人体や氷を流れる電流は「向きを持たない」ことになってしまうので、電流の流れる向きはキャリアと独立に定めなければならない。歴史上の経緯からそれは正電荷の流れる向きとされているので、キャリアが電子である場合には電流と電子の流れる向きは一致しないが、これは何ら矛盾した状況ではない。 物理量としての電流(「電流の強さ」とも言う)は、向き付け可能な曲面 S {\displaystyle S} と S {\displaystyle S} 上の法線ベクトル n {\displaystyle {\boldsymbol {n}}} を定めた上で、電流密度を面積分して「曲面 S {\displaystyle S} を貫く n {\displaystyle {\boldsymbol {n}}} 向きを正とした電流 I S , n {\displaystyle I_{S,{\boldsymbol {n}}}} 」と表現せねばならない。したがって、導線中に仮想的に考えたメビウスの輪を通る電流の強さは定義されない。 S {\displaystyle S} は特に断りがなければ導線の断面を指すが、どちら向きをプラスとするかは必ず宣言する必要があり、回路図では矢印がその役割を果たす。このように誤解の恐れがないようにすれば、面積分の値を単に I {\displaystyle I} と書くことができる。 国際単位系では電流の単位はアンペアであり、電気素量 e {\displaystyle e} を用いて次のように定義される。 磁場 B {\displaystyle {\boldsymbol {B}}} 中にある電流の微小部分(電流素片) d s {\displaystyle d{\boldsymbol {s}}} は、その中の電荷がローレンツ力を受けることで全体として I d s × B {\displaystyle Id{\boldsymbol {s}}\times {\boldsymbol {B}}} のアンペール力を受ける。電流はマクスウェル=アンペールの法則に従って磁場を生起する ので、真空中に 1 m {\displaystyle 1\mathrm {~m} } の間隔で平行に配置された同じ大きさの二本の直線電流は互いにアンペール力を及ぼし合い、2019年までの国際単位系ではそれが 1 m {\displaystyle 1\mathrm {~m} } あたり 2 × 10 − 7 N {\displaystyle 2\times 10^{-7}\mathrm {~N} } となる電流の大きさを 1 A {\displaystyle 1\mathrm {~A} } と定義していた。 時間によって流れる向きと大きさが変化しない電流を直流、流れる向きは変化せず大きさが周期的に変化する電流を脈流、流れる向きも大きさも周期的に変化する電流を交流という。直流以外の電流の大きさの指標として絶対値平均(平均値)や二乗平均平方根(実効値)が使われる。このように電流が時間変化すると、ファラデーの法則と合わせて電場と磁場が互いに直交するように電磁波(光)が伝播する。 電荷はミクロには離散的だが、マクロには流体のように連続的なものとして近似できる。 電気回路において電流は向きと大きさを持つ。 電流は向きと大きさの時間変化の仕方によって次のように分類される: アンペールの法則 r o t H = j {\displaystyle \mathrm {rot} {\boldsymbol {H}}={\boldsymbol {j}}} は d i v j = d i v ( r o t H ) = 0 {\displaystyle \mathrm {div} {\boldsymbol {j}}=\mathrm {div} (\mathrm {rot} {\boldsymbol {H}})=0} を導き、これを満たす電流を定常電流という。連続方程式より定常電流の電荷分布は時間変化しない。非定常電流を含んでいても成り立つのはマクスウェル=アンペールの法則 r o t H = j + ∂ t D {\displaystyle \mathrm {rot} {\boldsymbol {H}}={\boldsymbol {j}}+\partial _{t}{\boldsymbol {D}}} であり、右辺の第二項を変位電流という。このことは、コンデンサーの充電過程で導線の周りにアンペールの法則を適用する際に曲面がコンデンサーの間を通るようにするか否かで磁場が変わってしまうこと からも、点電荷から放出される球対称な電流分布の「赤道」にアンペールの法則を適用する際に “北半球” と “南半球” で磁場が逆になってしまうこと からも示唆される。 注意すべきこととして、非定常電流の場合は「電流がつくる磁場」や「変位電流がつくる磁場」といった表現はそもそも無意味であって、磁場との関係において電流と変位電流は不可分のものであり、ビオ=サヴァールの法則で計算される磁場には変位電流の効果が自動的に織り込まれている。 物質中の電磁気学では、分極によって生じる分極電流 ∂ t P {\displaystyle \partial _{t}{\boldsymbol {P}}} と、磁化によって生じる磁化電流 r o t M {\displaystyle \mathrm {rot} {\boldsymbol {M}}} から成る束縛電流を電流(自由電流)に付け加える必要がある。なお、たとえば磁化電流の場合であれば、実際の磁石の中の電流はあくまでも磁性原子の電子スピンや電子軌道などに沿って分布して流れているのであって、マクロに見れば隣接する内部電流が互いに相殺されて無視され、最外壁に出来たものは打ち消されずに漏れ出てくるという事情に注意されたい。 微小体積 d V {\displaystyle dV} の領域に含まれる電荷 d q {\displaystyle dq} が ρ d V {\displaystyle \rho dV} と等しくなるように電荷密度 ρ {\displaystyle \rho } が定義され、次のようにディラックのデルタ関数を用いて表される。 ただし和は領域内のすべてにわたり、 r a {\displaystyle {\boldsymbol {r}}_{a}} は電荷 q a {\displaystyle q_{a}} の位置ベクトルである。ここで d q = ρ d V {\displaystyle dq=\rho dV} の両辺に d x μ {\displaystyle dx^{\mu }} を掛けると となり、左辺は4元ベクトルであり右辺の d V d t {\displaystyle dVdt} がスカラーなので、4元電流密度 は4元ベクトルであり、 j = ρ v {\displaystyle {\boldsymbol {j}}=\rho {\boldsymbol {v}}} を電流密度という。電荷保存則から次の連続方程式が従う。 向き付けられた曲面 S → {\displaystyle {\vec {S}}} を貫く電流 I S → {\displaystyle I_{\vec {S}}} は次の面積分で定義される。 電流密度はホッジスター作用素を用いて J = ⋆ j {\displaystyle {\boldsymbol {J}}=\star {\boldsymbol {j}}} という擬2次微分形式と、電荷密度は考えている正規直交基底 e 1 , e 2 , e 3 {\displaystyle {\boldsymbol {e}}_{1},{\boldsymbol {e}}_{2},{\boldsymbol {e}}_{3}} を用いて ρ ^ = ρ e 1 ∧ e 2 ∧ e 3 {\displaystyle {\widehat {\rho }}=\rho {\boldsymbol {e}}_{1}\wedge {\boldsymbol {e}}_{2}\wedge {\boldsymbol {e}}_{3}} という擬3次微分形式と見ることができる。 一般に「電流の速度」という語には次の3種類の意味がある。 日常的に使われる導線であれば、ドリフト速度は毎秒数ミリ程度、キャリアの運動速度は高々フェルミ速度(一般的には光速の0.5%程度)、電場変化の伝播速度は光速である。したがって「電流の速度は光速である」といった説明は「電場変化の伝播速度が光速なので電流も光速で伝わる」と解釈されるべきだが、一方で「導線中の電子の速度が光速」とする説明は誤りである。実際、電子などの質量あるキャリアが光速やそれに近い速度で動くと相対論的エネルギー が極めて大きな量となり不合理である。 固体の電気伝導性のある金属には、伝導電子に由来する移動可能な自由電子がある。それらの電子は金属格子に束縛されているが、個々の原子には束縛されていない。外部から電場が適用されなくとも、それらの電子は熱エネルギーの作用で無作為に動いている。しかしそれらの動きを平均すると、単なる金属内の電流は全体としてはゼロになっている。電線を輪切りにするような方向のある面を想定したとき、その面の一方からもう一方へ移動する電子の個数(時間も任意)は平均すると逆方向に移動する電子の個数と同じになっている。 真空においては、イオンや電子のビームを形成できる。他の伝導性の媒体では、正の電荷と負の電荷を帯びた両方の粒子が流れを作り、電流を生じさせる。例えば電解液における電流は、電荷を帯びた原子(イオン)の流れであり、正のイオンと負のイオンの両方が存在している。鉛蓄電池のような電気化学的な電池では、正の水素イオン(陽子)が一方向に流れ、負の硫酸イオンが反対方向に流れることで電流が生じる。火花やプラズマに生じる電流は、電子と同時に正および負のイオンも流れている。P型半導体では、電流を正孔の流れと見ることもできる。正孔は、半導体結晶内で価電子帯の電子が不足した状態を表したものである。 電流が人体の近くで扱われる際には感電の危険がある。 落雷や電車架線への接触のように高電圧かつ大電流 のときには熱傷を招く。 また心臓や脳に流れた場合は熱傷とは別に心停止といった機能不全を引き起こしうる。そのため、特に周波数が心拍数や脳波に近い条件の交流電源は低電圧であっても危険とされる。 感電により人体に及ぼされる損害の程度は、接触した部位や、接触部の表面積と濡れ状態、電圧/電流および周波数などに左右される。100 V 50/60 Hzの日本国内一般家庭電源は、乾いた状態で一瞬触る程度であれば触れた部分にしびれを感じる程度だが、変圧器を使っている場合や、水場では注意を要する。 また、感電とは別に、電流によって生じる熱の危険もある。送電線が過負荷に陥ると高温となり火災の原因にもなりうる。小さなボタン電池と金属製の硬貨をポケットに入れておいたために、それらの接触によって電流が生じ、焼け焦げを生じることもある。ニッケル・カドミウム蓄電池、ニッケル・水素充電池、リチウム電池は特に内部抵抗が小さいため、取り扱いに注意を要する。
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であり、右辺の第二項を変位電流という。このことは、コンデンサーの充電過程で導線の周りにアンペールの法則を適用する際に曲面がコンデンサーの間を通るようにするか否かで磁場が変わってしまうこと からも、点電荷から放出される球対称な電流分布の「赤道」にアンペールの法則を適用する際に “北半球” と “南半球” で磁場が逆になってしまうこと からも示唆される。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "注意すべきこととして、非定常電流の場合は「電流がつくる磁場」や「変位電流がつくる磁場」といった表現はそもそも無意味であって、磁場との関係において電流と変位電流は不可分のものであり、ビオ=サヴァールの法則で計算される磁場には変位電流の効果が自動的に織り込まれている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "物質中の電磁気学では、分極によって生じる分極電流 ∂ t P {\\displaystyle \\partial _{t}{\\boldsymbol {P}}} と、磁化によって生じる磁化電流 r o t M {\\displaystyle \\mathrm {rot} {\\boldsymbol {M}}} から成る束縛電流を電流(自由電流)に付け加える必要がある。なお、たとえば磁化電流の場合であれば、実際の磁石の中の電流はあくまでも磁性原子の電子スピンや電子軌道などに沿って分布して流れているのであって、マクロに見れば隣接する内部電流が互いに相殺されて無視され、最外壁に出来たものは打ち消されずに漏れ出てくるという事情に注意されたい。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "微小体積 d V {\\displaystyle dV} の領域に含まれる電荷 d q {\\displaystyle dq} が ρ d V {\\displaystyle \\rho dV} と等しくなるように電荷密度 ρ {\\displaystyle \\rho } が定義され、次のようにディラックのデルタ関数を用いて表される。", "title": 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e 1 ∧ e 2 ∧ e 3 {\\displaystyle {\\widehat {\\rho }}=\\rho {\\boldsymbol {e}}_{1}\\wedge {\\boldsymbol {e}}_{2}\\wedge {\\boldsymbol {e}}_{3}} という擬3次微分形式と見ることができる。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "一般に「電流の速度」という語には次の3種類の意味がある。", "title": "電流の速度" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日常的に使われる導線であれば、ドリフト速度は毎秒数ミリ程度、キャリアの運動速度は高々フェルミ速度(一般的には光速の0.5%程度)、電場変化の伝播速度は光速である。したがって「電流の速度は光速である」といった説明は「電場変化の伝播速度が光速なので電流も光速で伝わる」と解釈されるべきだが、一方で「導線中の電子の速度が光速」とする説明は誤りである。実際、電子などの質量あるキャリアが光速やそれに近い速度で動くと相対論的エネルギー", "title": "電流の速度" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "が極めて大きな量となり不合理である。", "title": "電流の速度" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "固体の電気伝導性のある金属には、伝導電子に由来する移動可能な自由電子がある。それらの電子は金属格子に束縛されているが、個々の原子には束縛されていない。外部から電場が適用されなくとも、それらの電子は熱エネルギーの作用で無作為に動いている。しかしそれらの動きを平均すると、単なる金属内の電流は全体としてはゼロになっている。電線を輪切りにするような方向のある面を想定したとき、その面の一方からもう一方へ移動する電子の個数(時間も任意)は平均すると逆方向に移動する電子の個数と同じになっている。", "title": "メカニズム" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "真空においては、イオンや電子のビームを形成できる。他の伝導性の媒体では、正の電荷と負の電荷を帯びた両方の粒子が流れを作り、電流を生じさせる。例えば電解液における電流は、電荷を帯びた原子(イオン)の流れであり、正のイオンと負のイオンの両方が存在している。鉛蓄電池のような電気化学的な電池では、正の水素イオン(陽子)が一方向に流れ、負の硫酸イオンが反対方向に流れることで電流が生じる。火花やプラズマに生じる電流は、電子と同時に正および負のイオンも流れている。P型半導体では、電流を正孔の流れと見ることもできる。正孔は、半導体結晶内で価電子帯の電子が不足した状態を表したものである。", "title": "メカニズム" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "電流が人体の近くで扱われる際には感電の危険がある。", "title": "安全性" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "落雷や電車架線への接触のように高電圧かつ大電流 のときには熱傷を招く。", "title": "安全性" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また心臓や脳に流れた場合は熱傷とは別に心停止といった機能不全を引き起こしうる。そのため、特に周波数が心拍数や脳波に近い条件の交流電源は低電圧であっても危険とされる。", "title": "安全性" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "感電により人体に及ぼされる損害の程度は、接触した部位や、接触部の表面積と濡れ状態、電圧/電流および周波数などに左右される。100 V 50/60 Hzの日本国内一般家庭電源は、乾いた状態で一瞬触る程度であれば触れた部分にしびれを感じる程度だが、変圧器を使っている場合や、水場では注意を要する。", "title": "安全性" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、感電とは別に、電流によって生じる熱の危険もある。送電線が過負荷に陥ると高温となり火災の原因にもなりうる。小さなボタン電池と金属製の硬貨をポケットに入れておいたために、それらの接触によって電流が生じ、焼け焦げを生じることもある。ニッケル・カドミウム蓄電池、ニッケル・水素充電池、リチウム電池は特に内部抵抗が小さいため、取り扱いに注意を要する。", "title": "安全性" } ]
電流は、通常は、電荷群が連続的に動く現象をいう。電荷の運動に伴い起こる電気量の巨視的な移動。
{{otheruses|物理量|佐賀藩の軍艦|電流丸}} {{物理量 |名称= 電流 |英語= electric current |画像= |記号= ''I'', ''J'' |次元= I |階= スカラー |SI= [[アンペア]] (A) |emu= [[ビオ (単位)]] (Bi)・[[アブアンペア]] (abA) |プランク= [[プランク電流]] |esu=[[スタットアンペア]] (statA)}} '''電流'''(でんりゅう、{{lang-en-short|electric current}})は、通常は、[[電荷]][[群]]が連続的に動く現象をいう<ref name="NihonDaiHZ">『日本大百科全書』【電流】</ref>。電荷の運動に伴い起こる電気量の巨視的な[[移動]]<ref>森北出版『化学辞典 第2版』</ref>{{Efn|電気量というのは、電磁気現象を引起すもととなる実体である電荷の量であり、[[シャルル・ド・クーロン|シャルル=オーギュスタン・ド・クーロン]]が電荷間に働く力を測定することにより導入した量。(出典:ブリタニカ国際大百科事典小項目事典【電気量】)}}。 <!--{{要出典|date=2022年11月}}またそれを表す[[物理量]]も電流という。--><!-- [[電子]]や[[イオン]]などの荷電粒子が[[導電体]]や空間を移動する流れである。 --> == 概要 == 「正電荷の[[流れ|流れる]]向きが電流の向き」と定めてある<ref name="NihonDaiHZ" />。 電流の担い手となる[[電荷担体|キャリア(電荷担体)]]には[[電子]]・[[陽子]]・[[正孔]]などがある<ref>{{Cite web|url=https://www.austincc.edu/wkibbe/truth.htm|title=The Truth About Electricity|accessdate=2021年7月29日|publisher=William Kibbe}}</ref>。 *[[金属]]製[[電線]]、[[炭素]]製[[抵抗器]]、[[真空管]]においては、電流は[[電子]]の[[流れ]]である<ref name="Stackexchage_17109">{{Cite web|title=electricity - Why is the charge naming convention wrong?|url=https://physics.stackexchange.com/questions/17109/why-is-the-charge-naming-convention-wrong|website=Physics Stack Exchange|accessdate=2021-07-30}}</ref>。 *バッテリー([[鉛蓄電池]])、電解コンデンサ([[:en:electrolytic capacitor]])、[[ネオン管|ネオン灯]]においては電流は[[イオン]]の流れであり、正の電荷(positive)と負の電荷(negative)の両方である(それぞれ逆方向に流れている)<ref name="Stackexchage_17109" />。 *([[水素]])[[燃料電池]]や[[氷]]においては、電流は[[陽子]]の流れである<ref name="Stackexchage_17109" />。 *[[半導体]]においては、電流は[[正孔]](の移動)でありえる<ref name="Stackexchage_17109" />。<!--詳しくは[[正孔]]の記事を読んでもらえばよい、と判断。「これは必ずしも電子の欠如と同義ではない」<ref name="Stackexchage_17109" />。--> <!-- 仮想の論敵を作って反論する必要は無い。まっとうな知識をおだやかに説明すればよい。 導体の話は「導体」という記事ですべき。話がやや逸れている。 身近な反例としては、[[人体]]は[[ナトリウムイオン]]や[[カリウムイオン]]などをキャリアとした[[導体]]であること([[活動電位]])や、[[氷]]は[[水素イオン]]<ref>de Grotthuss, C. J. T. (1806). ''Sur la décomposition de l'eau et des corps qu'elle tient en dissolution à l'aide de l'électricité galvanique''. Ann. Chim. '''58''': 54–73.</ref> や[[水酸化物イオン]]<ref>{{Cite journal|last=Watanabe|first=N.|last2=Sameera|first2=W.M.C.|last3=Hidaka|first3=H.|last4=Miyazaki|first4=A.|last5=Kouchi|first5=A.|date=2019-12|title=Ultraviolet-photon exposure stimulates negative current conductivity in amorphous ice below 50 K|url=https://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S0009261419308012|journal=Chemical Physics Letters|volume=737|pages=136820|language=en|doi=10.1016/j.cplett.2019.136820}}</ref> をキャリアとして双方向の電流を流す[[半導体]]である<ref>{{Cite web|title=氷はマイナスの電気を流す半導体? – 紫外線で電子の移動を制御 {{!}} academist Journal|url=https://academist-cf.com/journal/?p=12106|date=2019-11-21|accessdate=2021-07-28|first=直樹|last=渡部}}</ref>ことを挙げることができる。 --> 仮に電流の流れる向きを「電子の流れる向き」と定義してしまうと、人体や氷を流れる電流は「向きを持たない」ことになってしまうので、電流の流れる向きはキャリアと独立に定めなければならない。歴史上の経緯からそれは正電荷の流れる向きとされているので、キャリアが電子である場合には電流と電子の流れる向きは一致しないが、これは何ら矛盾した状況ではない<ref>{{Cite web|title=electricity - Why is the charge naming convention wrong?|url=https://physics.stackexchange.com/questions/17109/why-is-the-charge-naming-convention-wrong|website=Physics Stack Exchange|accessdate=2021-07-30}}</ref><ref group="注">たしかに電子の電荷を <math>e<0</math> とする流儀は存在するが、それはあくまでも「電荷の正負の定め方」であって直接的には「電流の流れる向きの定め方」ではない。</ref>。 物理量としての電流(「電流の強さ」とも言う)は、[[向き付け可能性|向き付け可能]]な曲面 <math>S</math> と <math>S</math> 上の[[法線ベクトル]] <math>\boldsymbol{n}</math> を定めた上で、[[電流密度]]を[[面積分]]して「曲面 <math>S</math> を貫く <math>\boldsymbol{n}</math> 向きを正とした電流 <math>I_{S,\boldsymbol{n}}</math>」と表現せねばならない{{疑問点|date=2021年10月|title=面の向き(電流を正とする向き)が必要というのはその通りだが、法線ベクトルである必要はない。}}。したがって、導線中に仮想的に考えた[[メビウスの帯|メビウスの輪]]を通る電流の強さは定義されない。<math>S</math> は特に断りがなければ導線の断面を指すが、どちら向きをプラスとするか<!-- <math>\boldsymbol{n}</math> -->は必ず宣言する必要があり、回路図では'''矢印'''がその役割を果たす。このように[[誤解]]の恐れがないようにすれば、面積分の値を単に <math>I</math> と書くことができる<ref group="注"><math>I</math> は「電流の強さ」を意味する intensité du courant の頭文字から来ている。電気工学では電流を {{mvar|i}} で表すことがあり、誤解のないように虚数単位を j と書く慣習がある。</ref>。 [[国際単位系]]では電流の単位は[[アンペア]]であり、[[電気素量]] <math>e</math> を用いて次のように定義される<ref>{{Cite web|和書|url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_日本語版_r.pdf|title=国際単位系(SI)第 9 版(2019)日本語版|accessdate=2021年7月29日|publisher=国立研究開発法人産業技術総合研究所 計量標準総合センター|author=国際度量衡局(BIPM)}}</ref>。<math display="block">1 \mathrm{~A}=\left(\frac{e}{1.602176634 \times 10^{-19}}\right) \mathrm{s}^{-1}</math>[[磁場]] <math>\boldsymbol{B}</math> 中にある電流の微小部分(電流素片<ref group="注">電荷素片は実在するが電流素片は実在しない。詳しくは前野 (2010) の pp. 198-199 を参照せよ。</ref>)<math>d\boldsymbol{s}</math> は、その中の電荷が[[ローレンツ力]]を受けることで全体として <math>Id\boldsymbol{s}\times\boldsymbol{B}</math> のアンペール力を受ける。電流は[[マクスウェル=アンペールの法則]]に従って磁場を生起する<ref group="注">これを利用する電流センサや[[架線電流計]]、[[変流器|計器用変流器]]などは、[[電流計]]や[[検流計]]とは違って回路の特性を変えずに電流を測ることができる。</ref> ので、真空中に <math>1\mathrm{~m}</math> の間隔で平行に配置された同じ大きさの二本の[[直線]]電流は互いにアンペール力を及ぼし合い、2019年までの国際単位系ではそれが <math>1\mathrm{~m}</math> あたり <math>2\times10^{-7}\mathrm{~N}</math> となる電流の大きさを <math>1\mathrm{~A}</math> と定義していた。 [[時間]]によって流れる向きと大きさが変化しない電流を[[直流]]、流れる向きは変化せず大きさが[[周期]]的に変化する電流を[[脈流]]、流れる向きも大きさも周期的に変化する電流を[[交流]]という。直流以外の電流の大きさの指標として絶対値平均(平均値)や[[二乗平均平方根]]([[実効値]])が使われる。このように電流が時間変化すると、[[ファラデーの電磁誘導の法則|ファラデーの法則]]と合わせて電場と磁場が互いに直交するように[[電磁波]]([[光]])が伝播する。 電荷はミクロには離散的だが、マクロには[[流体]]のように連続的なものとして近似できる。 <!-- 電流密度の面積分としての電流は、しかしながら、電荷が面を通過するときにだけ[[ディラックのデルタ関数|デルタ関数]]的な電流が流れるので、我々がマクロに観測している連続的な「電流」は電流だけではなく[[変位電流]]も含んでいる。面を通過するときにだけ流れるデルタ関数的な電流と変位電流が互いに打ち消し合うことによって、連続体近似が正当化されている<ref>{{Cite web|title=https://twitter.com/irobutsu/status/1374202049907159041|url=https://twitter.com/irobutsu/status/1374202049907159041|accessdate=2021-07-30|author=前野[いろもの物理学者]昌弘}}</ref>{{出典無効}}。←怪しい。 後にある「磁場との関係において電流と変位電流は不可分」はよいですが、それとこれとは別の話です。 --> [[電気回路]]において電流は向きと大きさを持つ。 == 分類 == === 直流・交流・脈流 === {{main|直流|交流|脈流}} [[ファイル:Types of current.svg|thumb|250px|直流、脈流、交流の関係。Y軸は電流および電圧。X軸(t)は時間。赤線が直流、青線が脈流、緑線が交流である。]] 電流は向きと大きさの時間変化の仕方によって次のように分類される: ;[[直流]]({{lang-en-short|direct current}}, 略記:DC) :向きが一定の電流。 ;[[脈流]]({{lang-en-short|pulsating current}}) :向きが一定で大きさが時間とともに周期的に変化する電流。 ;[[交流]]({{lang-en-short|alternating current}}, 略記:AC) :向きが時間とともに周期的に交代し、大きさが時間とともに周期的に変化する電流。 === 変位電流 === {{main|変位電流}} [[アンペールの法則]] <math>\mathrm{rot}\boldsymbol{H}=\boldsymbol{j}</math> は <math>\mathrm{div}\boldsymbol{j}=\mathrm{div}(\mathrm{rot}\boldsymbol{H})=0</math> を導き、これを満たす電流を定常電流という。連続方程式より定常電流の電荷分布は時間変化しない。非定常電流を含んでいても成り立つのはマクスウェル=アンペールの法則 <math>\mathrm{rot}\boldsymbol{H}=\boldsymbol{j}+\partial_t\boldsymbol{D}</math> であり、右辺の第二項を変位電流という。このことは、コンデンサーの充電過程で導線の周りにアンペールの法則を適用する際に曲面がコンデンサーの間を通るようにするか否かで磁場が変わってしまうこと{{sfn|前野昌弘|2010|p=280}}からも、点電荷から放出される球対称な電流分布の「[[赤道]]」にアンペールの法則を適用する際に “[[北半球]]” と “[[南半球]]” で磁場が逆になってしまうこと{{sfn|前野昌弘|2010|p=296}}からも示唆される。 注意すべきこととして、非定常電流の場合は「電流がつくる磁場」や「変位電流がつくる磁場」といった表現はそもそも無意味であって、磁場との関係において電流と変位電流は不可分のものであり、[[ビオ・サバールの法則|ビオ=サヴァールの法則]]で計算される磁場には変位電流の効果が自動的に織り込まれている<ref>{{Cite journal|和書|author=北野正雄 |date=2021-03 |url=https://doi.org/10.11316/peu.27.1_22 |title=変位電流をめぐる混乱について |journal=大学の物理教育 |ISSN=1340993X |publisher=日本物理学会 |volume=27 |issue=1 |pages=22-25 |doi=10.11316/peu.27.1_22 |CRID=1390006221183852544 |ref=harv}}</ref>。 === 自由電流・束縛電流 === 物質中の電磁気学では、[[誘電分極|分極]]によって生じる分極電流 <math>\partial_t\boldsymbol{P}</math> と、[[磁化]]によって生じる磁化電流 <math>\mathrm{rot}\boldsymbol{M}</math> から成る束縛電流を電流(自由電流)に付け加える必要がある。なお、たとえば磁化電流の場合であれば、実際の磁石の中の電流はあくまでも磁性原子の電子スピンや電子軌道などに沿って分布して流れているのであって、マクロに見れば隣接する内部電流が互いに相殺されて無視され、最外壁に出来たものは打ち消されずに漏れ出てくるという事情に注意されたい<ref>{{Cite web|和書|url=https://dora.bk.tsukuba.ac.jp/~takeuchi/?電磁気学%2F静止物体中の%20Maxwell%20の方程式|title=静止物体中の Maxwell の方程式|accessdate=2021年7月31日|last=武内|first=修}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.moge.org/okabe/temp/elemag/|title=電磁気学|accessdate=2021年7月31日|first=洋一|last=岡部}}</ref>。 == 理論 == 微小体積 <math>dV</math> の領域に含まれる電荷 <math>dq</math> が <math>\rho dV</math> と等しくなるように[[電荷密度]] <math>\rho</math> が定義され、次のように[[ディラックのデルタ関数]]を用いて表される。<math display="block">\rho=\sum_{a}q_a\delta(\boldsymbol{r}-\boldsymbol{r}_a)</math>ただし和は領域内のすべてにわたり、<math>\boldsymbol{r}_a</math> は電荷 <math>q_a</math> の位置ベクトルである。ここで <math>dq=\rho dV</math> の両辺に <math>dx^{\mu}</math> を掛けると<math display="block">dqdx^{\mu}=\rho dVdx^{\mu}=\rho dVdt\frac{dx^{\mu}}{dt}</math>となり、左辺は[[4元ベクトル]]であり右辺の <math>dVdt</math> がスカラーなので、[[4元電流密度]]<math display="block">j^{\mu}=\rho\frac{dx^{\mu}}{dt}=(c\rho,\boldsymbol{j})</math>は4元ベクトルであり、<math>\boldsymbol{j}=\rho\boldsymbol{v}</math> を[[電流密度]]という<ref>{{Cite book|洋書|title=The Classical Theory of Fields|year=1975|publisher=Pergamon Press|author=Landau, L. D.|author2=Lifshitz, E. M.|edition=4th}}</ref>。[[電荷保存則]]から次の[[連続の方程式|連続方程式]]が従う。<math display="block">\partial_{\mu}j^{\mu}=\mathrm{div}\boldsymbol{j}+\frac{\partial\rho}{\partial t}=0</math>向き付けられた曲面 <math>\vec{S}</math> を貫く電流 <math>I_{\vec{S}}</math> は次の面積分で定義される。<math display="block">I_{\vec{S}}=\int_{S}\boldsymbol{j}\cdot d\boldsymbol{S}</math>電流密度は[[ホッジ双対|ホッジスター作用素]]を用いて <math>\boldsymbol{J}=\star\boldsymbol{j}</math> という擬2次[[微分形式]]と、電荷密度は考えている[[正規直交基底]] <math>\boldsymbol{e}_1, \boldsymbol{e}_2, \boldsymbol{e}_3</math> を用いて <math>\widehat{\rho}=\rho\boldsymbol{e}_1\wedge\boldsymbol{e}_2\wedge\boldsymbol{e}_3</math> という擬3次微分形式と見ることができる{{sfn|新井朝雄|2003|p=296}}<ref>{{Cite journal|last=谷村|first=省吾|year=2015|title=電磁気の幾何学と単位系|url=http://www.sceng.kochi-tech.ac.jp/koban/quatuo/lib/exe/fetch.php?media=第4回quatuo研究会:quatuo2014_tanimura.pdf|journal=QUATUO研究会|volume=4|format=PDF}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://kir018304.kir.jp/nc/htdocs/?page_id=20|title=電磁気学におけるパリティについて|accessdate=2021年8月8日|last=北野|first=正雄}}</ref>。 == 電流の速度 == 一般に「電流の速度」という語には次の3種類の意味がある{{sfn|前野昌弘|2010|p=169}}。 ; [[ドリフト電流|ドリフト速度]] : キャリアの速度の平均。一般的に電流が <math>I=enS|\boldsymbol{v}_{\text{d}}| </math> と表せる(<math>n</math> はキャリア数密度)。 ; キャリアの運動速度 : 個々のキャリアの速さ。電子の速度。 ; 電場変化の伝播速度 : 電流の伝播速度。電気信号の伝達速度。概ね[[光速]]と等しい。 日常的に使われる導線であれば、ドリフト速度は毎秒数ミリ程度、キャリアの運動速度は高々[[フェルミ速度]](一般的には光速の0.5%程度<ref>{{Cite web|和書|url=https://home.hiroshima-u.ac.jp/ino/lecture/SSP1note4_ino2017.pdf|title=固体物理学 I 講義ノート:第4章|accessdate=2021年7月31日|last=井野|first=明洋}}</ref>)、電場変化の伝播速度は光速である。したがって「電流の速度は光速である」といった説明は「電場変化の伝播速度が光速なので電流も光速で伝わる」と解釈されるべきだが、一方で「導線中の電子の速度が光速」とする説明は誤りである。実際、電子などの質量あるキャリアが光速やそれに近い速度で動くと[[相対論的エネルギー]]<math display="block">E={\frac {mc^{2}}{\sqrt{1-(v/c)^2}}}</math>が極めて大きな量となり不合理である。 == メカニズム == {{Main|バンド理論}} === 金属 === [[固体]]の[[電気伝導体|電気伝導性]]のある金属には、[[伝導電子]]に由来する移動可能な[[自由電子]]がある。それらの電子は[[金属#定義|金属格子]]に束縛されているが、個々の原子には束縛されていない。外部から[[電場]]が適用されなくとも、それらの電子は[[内部エネルギー|熱エネルギー]]の作用で無作為に動いている。しかしそれらの動きを平均すると、単なる金属内の電流は全体としてはゼロになっている。電線を輪切りにするような方向のある面を想定したとき、その面の一方からもう一方へ移動する電子の個数(時間も任意)は平均すると逆方向に移動する電子の個数と同じになっている。 === 金属以外 === [[真空]]においては、イオンや電子のビームを形成できる。他の伝導性の媒体では、正の電荷と負の電荷を帯びた両方の粒子が流れを作り、電流を生じさせる。例えば[[電解液]]における電流は、電荷を帯びた原子(イオン)の流れであり、正のイオンと負のイオンの両方が存在している。[[鉛蓄電池]]のような[[電気化学]]的な電池では、正の水素イオン(陽子)が一方向に流れ、負の硫酸イオンが反対方向に流れることで電流が生じる。火花や[[プラズマ]]に生じる電流は、電子と同時に正および負のイオンも流れている。[[半導体|P型半導体]]では、電流を[[正孔]]の流れと見ることもできる。正孔は、半導体結晶内で[[価電子帯]]の電子が不足した状態を表したものである。 <!-- == 電気回路 == {{main|電気回路}} {{独自の研究|section=1|date=2022年11月}} {{要出典範囲|[[電気伝導]]とは[[微視的と巨視的|マクロ]]系における[[電荷]]の流れであり、その代表的な対象が[[電気回路]]である。|date=2022年11月}} 実は、電流の向きを決める電池の[[電圧]]は[[熱力学]]的な[[電気化学ポテンシャル]]に他ならず、[[熱力学的平衡|平衡状態]]に意味を持つ[[電磁気学]]的な[[電位]]差(静電ポテンシャルの差)とは電子密度勾配などの影響によって一般に異なっている。たとえば、平衡状態にある[[半導体]]の[[pn接合]]では、電位差こそあれ電気化学ポテンシャルがないので電流は流れず、順バイアスをかけると電気化学ポテンシャルが電位差と逆向きに生じるので電位差から予想される向きとは逆向きに電流が流れる。[[エントロピー]]は平衡状態にしか意味を持たないので電気化学ポテンシャルもそうであるはずだが、ある位置を固定した上で局所的な電気化学ポテンシャルを電圧と線形関係を成すように[[電位差計]]を設置すると一定の時間が経てば一定の測定値を示すので、この事実をもとに非平衡定常状態にも自然に定義を拡張しているのである{{sfn|清水明|2007|p=300}}。このように回路は線形非平衡定常系の熱力学と捉えられ<ref>{{Cite journal|和書|author=田崎晴明 |year=2008 |title=非平衡定常系の熱力学と統計力学にむけて (<特集>線形応答理論から50年――非線形・非平衡の物理学) |url=https://doi.org/10.11316/butsuri.63.10_797 |journal=日本物理学会誌 |ISSN=00290181 |publisher=日本物理学会 |volume=63 |issue=10 |pages=797-804 |doi=10.11316/butsuri.63.10_797 |CRID=1390282680384379264}}</ref>、実際に[[ゼーベック効果]]や[[ペルティエ効果]]や[[トムソン効果]]のような熱流と電流が影響を及ぼし合う[[熱電効果]]が知られている。 また、一般に「抵抗に電流を流すと[[ジュール熱]]が発生する」と表現されるが、実際には[[系 (自然科学)|系]]に対して電流を流して[[仕事 (物理学)|仕事]]をしたことで系の[[エネルギー]]が上昇しているということであり、熱の移動はない。なぜ「ジュール熱が発生する」と表現されるのかというと、電流を流してから止めると流す前よりもエネルギーが増して温度が上昇した平衡状態に速やかに移行するが、そのエネルギーの増分を外部系に対する仕事として取り出す際には必ず抵抗を高温系(熱源)として[[熱機関]]を組むしかなく、[[熱力学第二法則]]より100%の効率で仕事を[[熱力学サイクル|サイクル過程]]で取り出すのは不可能になってしまうからであり、つまり「抵抗に電流を流して成した仕事が熱という使い勝手の悪いエネルギーとしてしか取り出せなくなる」ということを意味している{{sfn|清水明|2007|p=217}}。 この回路に流れる電流が平衡状態の周りに駆動力(電場、すなわち電圧)の[[冪級数]]で書ける摂動的領域<ref>{{Cite web|url=https://as2.c.u-tokyo.ac.jp/lecture_note/noneqSM/noneqsm_gakkai08s.pdf|title=noneqsm_gakkai08s.pdf|accessdate=2021年7月31日|last=清水|first=明}}</ref> では<math display="block">I=0+\frac{1}{R}V+a_2V^2+a_3V^3+\cdots</math>となり、1次の項の係数の逆数 <math>R</math> を[[電気抵抗]]という。関数 <math>I(V)</math> のグラフを <math>I-V</math> 特性([[電流電圧特性]])といい、それが原点を通る直線になること([[線形応答理論|線形応答]]とみなせること)を[[オームの法則]]が成り立つという。古典的には[[ドルーデモデル]]によって説明されていたが、現代的には[[久保公式]]や[[ランダウアー公式]]を用いてミクロな統計モデルから導出することが可能である<ref>{{Cite web|url=http://jfujimo.to/memo/j-j/j-j.pdf|title=線形応答理論の簡単な例:Drudeの公式|accessdate=2021年7月31日|last=藤本|first=純治|format=PDF}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=伏屋雄紀 |author2=福山秀敏 |date=2017-01 |url=http://www.kookai.pc.uec.ac.jp/kotaibutsuri/practical_guide_vol_2.pdf |format=PDF |title=誌上セミナー 久保公式とグリーン関数法の実践的基礎(その2) |journal=固体物理 |ISSN=04544544 |publisher=アグネ技術センター |volume=52 |issue=1 |pages=1-21 |CRID=1523388078303505280}}</ref>。電球のフィラメントの <math>I-V</math> 特性は上に凸な、半導体の <math>I-V</math> 特性は下に凸な曲線になる傾向がある。 --> == 安全性 == 電流が人体の近くで扱われる際には[[感電]]の危険がある。 落雷や電車架線への接触のように高電圧かつ大電流<ref group="注">「高圧電流」は誤用であり、それぞれ「高電圧」「大電流」と表現する。そもそも「高電圧で流れる電流」は大電流とは限らない。</ref> のときには[[熱傷]]を招く。 また心臓や脳に流れた場合は熱傷とは別に[[心停止]]といった機能不全を引き起こしうる。そのため、特に周波数が心拍数や脳波に近い条件の交流電源は低電圧であっても危険とされる。 感電により人体に及ぼされる損害の程度は、接触した部位や、接触部の表面積と濡れ状態、電圧/電流および周波数などに左右される。100{{nbsp}}V 50/60{{nbsp}}Hzの日本国内一般家庭電源は、乾いた状態で一瞬触る程度であれば触れた部分にしびれを感じる程度だが、変圧器を使っている場合や、水場では注意を要する。 また、感電とは別に、電流によって生じる熱の危険もある。送電線が過負荷に陥ると高温となり火災の原因にもなりうる。小さなボタン電池と金属製の硬貨をポケットに入れておいたために、それらの接触によって電流が生じ、焼け焦げを生じることもある。[[ニッケル・カドミウム蓄電池]]、[[ニッケル・水素充電池]]、[[リチウム電池]]は特に[[内部抵抗]]が小さいため、取り扱いに注意を要する。 <!-- == 送電技術 == {{main|送電}} === 直流と交流 === {{see also|電流戦争}} 現在、送電には[[交流]]が広く利用されている。歴史的には[[トーマス・エジソン]]が[[直流]]方式の送電を広めようとし、[[ニコラ・テスラ]]が交流方式の送電を広めようとした。エジソンとテスラの競争([[電流戦争]])を経て、交流による送電システムが一般的に用いられるようになった。 直流方式が廃れた理由の一つとして、交流では[[変圧器]]による[[電圧]]の操作が容易だったことが挙げられる。送電中に発生する[[ジュール熱]]による[[エネルギー]]損失は電流の2乗に比例するため、損失を減らすためには電流を小さくしなければならない。電流量を小さく保ち必要な[[電力]]を生み出すには電圧を高くする必要がある。従って送電時にはなるべく電圧を高くしたほうが効率がよく、電気機器を利用する段階で適正な電圧になっていると都合がよい。そのためには変圧器により[[電力系統|送電網]]や[[配電]]網では需要家に近づくにつれて降圧する必要があり、変圧器の利用のためには交流方式を使うほうが理に適っていた。 === 日本の送電における損失率 === 送電損失率の低減は、発電電力量の削減による発電用エネルギー資源の節約に貢献する。日本の送配電損失率は4.8%(2010年度)<ref>[http://www.globalnote.jp/post-3711.html グローバルノート - 国際統計・ランキング専門サイト 統計データ配信]</ref> とされる。 --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注記 === <references group="注釈"/> <references group="注" /> === 出典 === <references group=""></references> == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=新井朝雄 |title=物理現象の数学的諸原理 : 現代数理物理学入門 |publisher=共立出版 |year=2003 |ISBN=4320017269 |id={{全国書誌番号|20381969}} |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=清水明 |title=熱力学の基礎 |publisher=東京大学出版会 |year=2007 |ISBN=9784130626095 |id={{全国書誌番号|21221045}} |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=前野昌弘 |title=よくわかる電磁気学 |publisher=東京図書 |year=2010 |ISBN=9784489020711 |id={{全国書誌番号|21752278}} |ref=harv}} == 関連項目 == * [[送電]] * [[漏電]] * [[電荷保存則]] * [[流束]] * [[キルヒホッフの法則 (電気回路)|キルヒホッフの法則]] * [[許容電流]] * [[放電#非自続放電|暗電流]] * [[地電流]] * [[アンダーソン局在]] * [[ガルヴァーニ電気]] * [[ガルバニック皮膚反応]] * [[電流戦争]] {{電磁気学}} {{電気電力}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:てんりゆう}} [[Category:電流|*]] [[Category:電磁気学]] [[Category:電気理論]] [[Category:物理量]]
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ハングル
ハングル(韓: 한글)およびチョソングル(朝: 조선글)は、朝鮮語を表記するための表音文字(素性文字)である。 1443年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、訓民正音(朝: 훈민정음、略称: 正音)の名で公布した。意味は「偉大なる(ハン)・文字(グル)」であるが、「ハン」を「大韓帝国」の「韓()」とする説もある。 現代の大韓民国ではハングル、朝鮮民主主義人民共和国では朝鮮文字の意でチョソングル(조선글)またはチョソングルチャ(조선글자)もしくは我々の文字の意でウリグル(우리 글)と呼ぶ。 ハングル制定時の正式名称は訓民正音であったが、当初から卑語(朝鮮語)の文字という意味で「諺文(、ハングル表記: 언문)」と呼んだ。また、知識のない平民たち、女や子供が使う卑しい文字として「アムクル(암클、「女文字」の意)」、「アヘグル(아해글、「子供文字」の意)」とも卑下されてきたといわれるが、解例本に「諺」が通常語彙としてあるように、必ずしも卑称ではないとする見解もある。朝鮮時代後期には、ハングルの名称は非常に多様に現れていて、訓民正音、正音、諺文、諺音、諺書、諺字、訓音、訓文、訓字、東音、東文、アムクル(암클)などと呼ばれていた。 諺文という卑下した名前を嫌って「ハングル」の語が使われるようになったのは、1900年代である。周時経は1913年に、朝鮮語の研究会の名前を「ハングルモ」としている。朝鮮語のローマ字表記の1つであるM-R式を考案したマッキューンとライシャワーは、1939年当時に朝鮮語学会が「ハングル」、朝鮮語学研究会が「チョンウム(正音)」の語を使っていると述べている(なお、この論文ではハングルのハンを「一」と解釈して、Unified System と翻訳している)。近代開化期には、現在韓国一般的に用いられているハングル(한글)、現在北朝鮮で一般的なチョソングル(조선글)の他、国文(국문)、国語(국어)、ハンマル(한말)、ハンナラマル(한나라말)、ペダルマルクル(배달말글)、朝鮮言文(조선언문)、ハンナラクル(한나라글)、朝鮮語(조선어)、朝鮮語文(조선어문)などと呼ばれていた。 ラテン語表記では「Hangul」と表記されることが多いが、近年は2000年式に準拠した「Hangeul」という表記も使われている。英語圏では「Korean Alphabet」と呼ぶこともある。 中国では「諺文(簡体字: 谚文; 拼音: yànwén; 注音: ㄧㄢˋㄨㄣˊ)」もしくは「韓文」「朝鮮文字」と呼ぶ。 上述のように朝鮮で訓民正音を古くは諺文(언문〈オンムン〉)とも呼んでいて、日本では諺文(本来の音読みでは「げんぶん」だが、朝鮮語由来の訛りで「おんもん」)と呼んだが、現代の日本ではハングルと呼ぶ。また朝鮮文字とも呼ぶ。「ハングル文字」の呼び方も存在するが本来は重言となる。 朝鮮半島では、15世紀半ばまで、自民族の言語である朝鮮語を表記する固有の文字を持たず、知識層は漢字を使用していた。口訣(こうけつ・くけつ)・吏読(りとう)など漢字を借りた表記法により断片的・暗示的に示されてきた。 李氏朝鮮第4代王の世宗は、朝鮮固有の文字の創製を積極的に推し進めた。しかし、その事業は当初から事大主義の保守派に反発を受けた。世宗が設立した諮問機関の集賢殿副提学だった崔萬理は1444年に上疏文で、「昔から中国の諸地は風土が異なっても方言に基づいて文字を作った例はない。ただモンゴル(パスパ文字)・西夏(西夏文字)・女真(女真文字)・日本(仮名)・チベット(チベット文字)のみが文字を持つが、これらはみな夷狄(野蛮人・未開人)のなすことであり、言うに足るものではない」「漢字(中国文字)こそ唯一の文字であり、民族固有の文字など有り得ない」と反対した。しかし、世宗はこのような反対を「これは文字ではない(中国文化に対する反逆ではない)、訓民正音(漢字の素養がないものに発音を教える記号)に過ぎない」と押し切り、鄭麟趾など集賢殿内の新進の学者に命じて1446年に訓民正音の名でハングルを頒布した。「民を訓(おし)える正しい音」の意である。 なお、この点に関して異説がない訳でもない。ソウル大学校国文学科教授の朴鎮浩によると、世宗が一人で作った可能性が高い。『朝鮮王朝実録』の世宗25年(1442年)12月の条に、「ハングルを創製した」と短く記載されている。ハングルという言葉の文献初出であるが、もし集賢殿の学者たちの協力のもとハングルを創製したのならばその過程も詳しく記載されているはずである。朴鎮浩は、反対派の臣下がいることを懸念して世宗単独でハングルを創製し、その後ハングルで書かれた書籍の編纂などに集賢殿の学者を動員したと考えている。 1504年、燕山君の暴政を誹謗するハングルの張り紙が各地で発見され、燕山君はハングルの教育や学習を禁止し、ハングルの書籍を焼却、ハングルを使用する者を弾圧した。世宗時代に設置されていた正音庁は中宗年間の1507年に閉鎖されたが、ハングルの使用自体は禁止されることなく、一部高官には書記手段として用いる者もいた。1490年に軍官の羅臣傑(1461年 - 1524年)が妻の孟氏に送ったハングル書簡は現存最古のハングル書簡であり、1998年に慶尚北道安東で発掘された李応台(1556年 - 1586年)の墓で亡くなった夫の死を悼む妻からのハングル書簡が発見された。『ウォンの父へ・・・丙戌(1586年)6月』と始まる長文の手紙である。また17世紀に宋奎濂が自分の下男のキチュック(己丑の意)に書いた書簡などが残っている。一方、ハングルは支配層でも使われたケースもあり、王室をはじめ王・王妃の勅令や臣民への伝言、王・王妃と公主のハングル書簡・王族同士のやりとりしたハングルの手紙も残っている。また、宮廷や両班階級におけるハングルの使用もあり、国王の記したハングル書簡としては宣祖の『御筆諺簡』(1603年)筆写文献が現存している。李珥、権好文、金尚容ら両班の文化人の一部が時調(詩歌)を詠む際にハングルが利用された。文定王后・仁穆王后などの諺文勅令や明聖王后が都落ちする儒学者の宋時烈を引き止めるハングル書簡、1839年に憲宗の祖母・純元王后によるキリスト教禁止令である『斥邪綸音』をハングルで書いて公布した。 ハングルはまず、発案者である世宗のもと国家的な出版事業において活用された。ハングルの創製直後1447年には王朝を讃える頌歌『竜飛御天歌』、釈迦の功績を讃えるため世宗自ら書いた詩歌集の『月印千江之曲』、世宗の命により首陽大君が編纂した釈迦の一代記である『釈譜詳節』が相次いで刊行され、次いで1448年には韻書『東国正韻』を刊行した。その後も国家によるハングル文献の刊行は続き、諺解書(中国書籍の翻訳書)を中心にその分野は仏典・儒教関連書・実用書など多岐にわたる。刊行された書籍は各地で覆刻され版を重ねることが少なくなかった。世祖の書簡『上院寺御牒』(1464年)もハングルである。 石幡貞「朝鮮帰好余録」(1878年)には「朝鮮国文字有二様。曰真文即漢字也。曰諺文是為国字。...以其易学、民皆便之。而政府公文措之不用。(朝鮮には2種の文字がある。真文というのが漢字であり、諺文(※ハングルのこと)というのが国の字とされる。...学びやすいので、民衆は皆これ(※諺文)に慣れている。しかし政府は公文書ではこれを用いない。)」とある。 鈴木信仁「朝鮮紀聞」(1885年)には「貧賤の者は諺文のみを習ひ纔かに通用に便するものなり。貧窶にして筆墨を買ふの資なきものは砂を盆に盛て字を習ひ或は河海の浜に往き平坦の石面に大字を習ふ事あり。」とある。 石井研堂 (民司) 「朝鮮児童画談」(1891年)には「又此国には、諺文とて、仮名九十九字あれども、一般に用ひるもの少なく、書状等にのみ用ひ居れり。」とある。(15頁) イザベラ・バード「朝鮮奥地紀行1」(東洋文庫1993年。原著は1898年出版)には「私は、川上に居る下層社会の非常に多くの男の人たちが、朝鮮固有の筆記文字〔諺文〕を読める事に気付いた。」(138頁)とある。 井上角五郎先生伝記編纂会編「井上角五郎先生伝」(1943年)には「...それで朝鮮では上流社会は漢字ばかりで綴った漢文を用ひて棒読にし、下流社会は諺文ばかりで文を綴っていたのである。」とある。 1874年(明治7)日本と朝鮮の外交文書で漢字・ハングル混淆文が用いられている。 公文書のハングル使用は、甲午改革の一環として1894年11月に公布された勅令1号公文式において、公文に国文(ハングル)を使用することを定めたことに始まった。 朝鮮初の近代新聞(官報)である『漢城旬報』(1883年)の続刊である『漢城周報』(1886年創刊)では、漢字混合文(通称「国漢混用文」)を基本とする一方、内容によっては漢文もしくはハングルのみによる朝鮮文で記述された。 『漢城周報』の特筆点は、ハングルで書かれた最初の新聞であったこととともに、「国漢文」と呼ばれる文体が採用されたことである。このような韓国式の「国漢文混用文」の原型となったのは、兪吉濬の《西遊見聞》(1895)とされている。しかしながら、国漢文は漢文の素養を必要とする文体であったため、一般に広く流布するには至らなかった。 1896年に創刊された『独立新聞』はハングルと英文による新聞であった。これは分かち書きを初めて導入した点でも注目される。ハングル分かち書きに大きく貢献した人物は、スコットランド人のジョーン・ロス(John Ross, 1842~1915)である。 1890年代後期に訪朝したイザベラ・バードは、その当時諺文(En-mun)と呼ばれていたハングルについて、いまだ知識層からは蔑視されてはいるが、1895年1月に漢文諺文混合文が官報に現れて以来、国王による独立宣誓文をはじめ、一部を除く公式文書に正式に採用され、諺文による書物も徐々に増えつつあると描写し、今後、諺文による教科書と教師の育成が待たれるとしている。また、上流階級の女性は諺文が読めるが、女性の識字率は極めて低く、1000人に2人であろうとする一方、漢江沿いで出会った下層階級の男たちの多くは諺文が読めたと述べている。 1905年韓国保護条約(第二次日韓協約)後、伊藤博文は自ら朝鮮半島に渡り、1906年初代韓国統監に就任。理想的に国家を立て直すため、まず「学校教育の充実」を最優先で実施。そのために、日本銀行から500万円を借欺し、そのうち50万円を教育の振興に充てた。それにより、1906年に周時経が『大韓国語文法』を、1908年に『国語文典音学』を出版した。また崔光玉の『大韓文典』と兪吉濬の『大韓文典』(崔光玉の『大韓文典』と同名)、1909年に金熙祥の『初等国語語典』、周時経の『国語文法』などが出版された。 「ハングル」という呼称が文献上に初めて現れるのは大日本帝国による韓国併合以降の1912年のことであり、周時経に始まる。韓国併合時代の朝鮮総督府は「諺文」(おんもん)と呼び、1912年に普通学校用諺文綴字法を制定し、1921年には周時経の弟子らが朝鮮語研究会を結成し、総督府と協力して1930年には正書法諺文綴字法を制定した。 1920年からは併合下でタクチ本が多数出版され、読書が朝鮮半島で大衆化・近代化する決定的な契機になった。 1933年、朝鮮語綴字法統一案が出され、これが韓国でのハングル正書法(1988年)のもととなった。北朝鮮では1954年に朝鮮語綴字法、1987年に朝鮮語規範集が出された。 日本統治時代になると両班層のハングル蔑視権力が一掃されたため、ハングルは積極的に教育に用いられるようになる。ハングルは朝鮮半島における平仮名として引き続き用いられたが、太平洋戦争が始まると皇民化政策で朝鮮語のみの教育は廃止され「街中でも家庭でも国語(※日本語のこと)を常用しない学生がいるときは、学校当局と連絡を取って厳重に処罰」といった日本語普及方針がとられた。ハングルについては、太平洋戦争中も引き続き朝鮮半島において官民で漢字混じり文で用いられたが、漸次的に平仮名・片仮名利用で縮小していくようにする方針を決めていた。 ハングルの創製の原理を記した『訓民正音解例本』ではハングルの母音と子音を陰陽五行に基づいて創っていると記されている。 また同書の序文では「賢い者は朝の間に、愚かな者だとしても十日なら十分に学んで習うことができる」と記されている。 陰陽の原理に基づいて創られた。 五行に基づいて創られた。 ハングルは表音文字である。ひとつひとつの文字が音節を表す文字体系だが、子音と母音の字母(자모、チャモ)を組み合わせて文字を構成する。このような文字体系を素性文字と呼ぶ研究者もいる。 子音字母は基本字母が14個、合成字母が5個の計19個、母音字母は基本字母が10個、合成字母が11個の計21個であり、基本字母は計24個、合成字母を含めた字母の総数は40個である。それぞれの字母は以下の通りである。 なお、1446年訓民正音創製当時と現在とでは文字の構成要素も変化している(古ハングル)。創製当時には中期朝鮮語の音韻を表す子音字母(ᅀ [z],ᅌ [ŋ],ᅙ [ʔ])、母音字母( ᆞ [ʌ])があり、当初はこれら4個を含めて基本字母が計28個あったが、これら4個は現代では用いられない。 この表の終声の発音は、語末や無声子音の前での発音である。 字母「ᄋ」は音節頭の位置にあるときには子音がないことを表し、音節末にあるときには鼻音[ŋ]を表す。 合成字母の配列順序は韓国の順序によった。 この表における陽母音・陰母音は、ハングル(訓民正音)の成り立ち上のものである。現代朝鮮語における用言の活用や擬態語・擬声語における陽母音・陰母音の扱いについては、「ᅵ」や「ᅬ」が陰母音として扱われるなど、ハングルの成り立ち上の陽母音・陰母音と必ずしも一致しない部分がある。 字母(チャモ)を2つ以上組み合わせて1文字を成す。1文字の構成は子音字母 + 母音字母あるいは子音字母 + 母音字母 + 子音字母のどちらかである。音節頭の子音字母を初声、母音字母を中声、音節末に来る子音字母を終声またはパッチム(받침。「支えるもの」の意)と呼ぶ。 初声と中声の組み合わせ方には3つのタイプがある。 終声があるときは、これらの下に終声を置く。 このハングルの字母の組み合わせ方の由来については、契丹小字から取られたとする説が西田龍雄によって唱えられている。 終声として用いることのできる子音字母は、ᄄ dd,ᄈ bb,ᄍ jjを除いた16個である。また、朝鮮語の形態音素表記のために、終声では2つの子音字母を左右に組み合わせる(二重終声、二重パッチム)ことがある。正書法で認められている組み合わせは、ᆪ gs,ᆬ nj,ᆭ nh,ᆰ lg,ᆱ lm,ᆲ lb,ᆳ ls,ᆴ lt,ᆵ lp,ᄚ lh,ᄡ bsの11種類である。これらの二重終声は、語末の場合や後に子音の続く場合、基本的にᆰ・ᆱ・ᆵは右側を、それ以外は左側を発音するが、ᆲのみはᄅと発音する語とᄇと発音する語がある。 終声は二重終声を含めると表記上は合計27種類あるが、発音としてはᄀ・ᄂ・ᄃ・ᄅ・ᄆ・ᄇ・ᄋの7種類しかない。それにもかかわらず激音字母や濃音字母などを終声に用いたり、二重終声を用いるなど様々に書き分ける理由は、主に形態素を明示するためである。形態素を明示するために前述の7種類以外の終声字母(二重終声含む)を用いるケースは、具体的には、大きく次の3パターンに分けられる。 1.は終声ᄉ・ᄌ・ᄎ・ᄏ・ᄐ・ᄑ・ᄁ・ᄊが該当し、例えば옷[옫]-옷이[오시]、밭[받]-밭에[바테]、밖[박]-밖에[바께]といった具合に、直後に母音が来たときに次の音節の初声として発音される音を示す。 2.は二重終声のうち9種(ᆪ・ᆬ・ᆰ・ᆱ・ᆲ・ᆳ・ᆴ・ᆵ・ᄡ)が該当し、例えば넓다[널따]-넓어[널버]、삶[삼]-삶이[살미]といった具合に、直後に母音が来たときに終声として発音される音と、次の音節の初声として発音される音の両方を示す。ただし、ᆪ・ᄡの場合は、実際の発音変化が[넉]-[넉씨]、[갑]-[갑씨]となるので、本来ᄀᄊ・ᄇᄊと書くべきと考えられるところを、これでは表記が煩雑なので、終声ᄀ・ᄇの次に来る初声ᄉは濃音ᄊで発音されることから便宜上表記をᆪ・ᄡ(넋[넉]-넋이[넉씨]、값[갑]-값이[갑씨])としている。 3.はᄒ・ᆭ・ᄚが該当し、実際の発音変化が[조아]-[조코]、[마나]-[만치]、[구러]-[굴타]のようになる場合で、 このような場合、それぞれ語幹を조・만・굴と書いたのでは、そのまま続けて고・지・다など平音の字を書いたときに激音化が表現できない。そこでこのようなケースにあっては、便宜的に語幹末のᄒを想定して終声をᄒ・ᆭ・ᄚと表記し、좋아[조아]-좋고[조코]、많아[마나]-많지[만치]、굻어[구러]-굻다[굴타]といった具合に、平音が後続した場合は平音とᄒが融合して激音で発音すると考える一方、母音が後続して新たに子音が現れない場合は、そのᄒがあたかも他の終声と同様にいったん初声となった上で語中なので聞こえなくなっている(そして単語によっては二重終声の左側であるᄂ・ᄅが初声化している)と見なしたような(좋아→[조하]→[조아]、많아→[만하]→[만아]→[마나]、굻어→[굴허]→[굴어]→[구러]と見なしたような)書き方となる。つまり激音化を表現するためにᄒを終声に利用するのである。 ハングルの由来をめぐって諸説があるが、1446年9月上旬に発刊した『訓民正音解例本』にはハングルを創製した理由と陰陽の原理に基づいて子音と母音を造ったと明らかにしている。今更ハングルの字形の由来に関する直接的な論争はないが漢字とパスパ文字の起源説がある。 ハングルの音体系は子音字母が三十六字母に対応するように作られているなど、中国音韻学に則っており、『訓民正音』にはハングルの字形について「象形而字倣古篆」、宋・鄭樵の『六書略』の「起一成文図」を起源とする説もある。字母の字形などについては、『訓民正音』の「制字原理」に書かれていることが全てか、更に原形となるものがあるのかについて議論がある。 ハングルの字形そのものの起源は上述の『訓民正音解例』の通り、象形によるものだが、その他の点ではパスパ文字の影響があるという主張もある。パスパ文字は1269年にフビライ・ハンがラマ僧のパスパ(八思巴)に命じて作らせたもので、モンゴルから支配された高麗時代以降、李氏朝鮮の時代の知識人もこのパスパ文字を習得していた。コロンビア大学名誉教授ガリ・レッドヤード(英語版)は、「古篆」は当時「蒙古篆字」の名で知られていたパスパ文字を指すとしている。 レッドヤードによれば、『訓民正音』での基本的な子音字母はᄀ(k) ᄂ(n) ᄆ(m) ᄉ(s) ᄋ(ʔ)であるが、ᄋ系を除く字母で基礎になっているものはᄀ(k) ᄃ(t) ᄅ(l) ᄇ(p) ᄌ(ts)であり、これらはパスパ文字のꡂ(k) ꡊ(t) ꡙ(l) ꡎ(p) ꡛ(s)に由来し、チベット文字のག(ga) ད(da) ལ(la) བ(ba) ས(sa)に由来するとしている。チベット文字はブラーフミー系文字の一つで、その起源はフェニキア文字とされるため(さらに遡ればヒエログリフにたどり着く)、ハングルはフェニキア文字から派生したギリシア文字、ラテン文字とも同系統とされる。ᄀ ᄃ ᄅ ᄇはおそらくギリシア文字のΓ Δ Λ Β、ラテン文字のC/G D L Bと同系統であろうとしている(ᄌについては、チベット文字とラテン文字とで同系統の文字を抽出するのが困難)。また、ゼロ子音を表すᄋについては、ハングルにおいて独自に発明された字母だとしている。 なお、フェニキア文字にはハングルのᄋに似た機能を持つ文字としてアレフ(𐤀)やアイン(𐤏)があり、それぞれラテン文字のAとOの由来となっている。しかし、フェニキア文字がインドに伝わりブラーフミー文字となった段階でこれらに相当する文字は消失しており、ハングルのᄋは独自に再発明されたことになる。ただし、古ハングルで唇軽音を表したᄫ ᅗ ᄬ ᄝに現れるᄋはパスパ文字にならったもの(音価はw)としている。 以上よりハングルの子音字母は、ブラーフミー系文字(究極的にはヒエログリフ)に由来するᄀ ᄃ ᄅ ᄇ ᄌと独自に開発されたᄋの計六つの字母を基本とし、中国音韻学に基づいて他の字母をそれらの変形により派生させたものとなる。母音字母については、朝鮮語の音韻にあわせて独自に作られたものとしている。 ハングル成立に先立って契丹文字、女真文字、西夏文字、パスパ文字等の様々な民族文字が先行・成立していたことが重要であり、ハングルはそれら民族文字の最終走者であり、特にパスパ文字はアジア初の体系的表音文字であるため、その表音文字という発想がハングル成立に巨大な刺激を与えており、ハングルがパスパ文字の巨大な影響を受け作成されたのは、モンゴル帝国に支配されていた記憶が生々しい李氏朝鮮初期にハングルが作成されたことが傍証であるという。 韓国と北朝鮮では、字母の扱いや、辞書における見出し語の配列などが異なる。韓国はソウル方言に、北朝鮮は平壌方言に依拠しているため、発音も若干異なる。 文化観光部2000年式、マッキューン=ライシャワー式、北朝鮮1992年式などがある。 字母を組み合わせて作られる文字の理論上の組み合わせは11,172文字だが、実際に使用されるのはその半分以下である(1987年に韓国の国家標準となったコンピュータ用の文字セット(KS完成型、KS C 5601-1987)には日常の99%が表記できる範囲として2,350字しか含まれなかった)。なお、1994-1995年ごろまでは11,172文字全部を表現できる文字セット(組合型、johab)が圧倒的に多く使われていたが、Windows 95でKS完成型を拡張した文字セット(拡張完成型、UHC (Unified Hangul Code))を採用し、後のWindowsにも使用されたため、現在は組合型文字セットはほとんど使われていない。なお、Windows NT系ではUnicode 2.0(KS C 5700、現:KS X 1005-1)以降をサポートしている。 Unicode にはハングルを符号化するための文字が数種類あり、標準的に使用されるものは、ハングル字母(U+1100-11FF)とハングル音節文字(U+AC00-D7A3)である。ハングル字母はハングルを構成する字母で、これらを合成する事により15世紀から現代までのハングル音節文字を作成できる。U+1100-115F は初声子音、U+1160-11A2 は中声母音、U+11A8-11F9 は終声子音が定義されている。ハングル音節文字は、2 つの字母からなる音節 399 文字、3 つの字母からなる音節 10,773 文字の合計 11,172 文字で構成されている。この他にハングル互換字母(U+3130-318F)があるが、KS完成型(KS C 5601-1987、現:KS X 1001:1998)との互換性のために存在する。 Unicode では、Unicode 1.1 以前と Unicode 2.0 以降ではハングルを定義する領域が異なっており互換性がない。Unicode 1.1 までは U+3400-4DFF にハングルが定義されていたが、Unicode 2.0 制定時に、新しく U+AC00-D7AF にハングルが定義され旧領域は破棄された。その際、韓国の要求により KS C 5601-1992 の組合型文字セットに基づく現代ハングル音節文字 11,172文字 が網羅されている。なお Unicode 2.0 で破棄された領域は、Unicode 3.0 制定時にCJK統合漢字拡張 A 集合として U+3400-4DBF に定義され、Unicode 4.0 制定時に易経記号集合として U+4DC0-4DFF に定義されている。一方、半角ハングルはUnicode 1.0から一貫して半角・全角形(英語版)ブロックのU+FFA0-FFBE、U+FFC2-FFC7、U+FFCA-FFCF、U+FFD2-FFD7、U+FFDA-FFDCで定義されている。 2019年3月現在、現代朝鮮語を表現するのに、Microsoft系のOS(Windows 10など)では完成型(U+AC00-D7AF)が、Mac系のOS(iOSやmacOS Mojaveなど)では組合型(U+1100-11F9)が用いられており、Mac系で作成されたファイルのファイル名のハングル部分が、Windows系のエクスプローラーで初・中・終声で分かれて表示されることがある。 ハングルのユニコード番号は 0xAC00 + (子音番号 * 21 * 28) + (母音番号 * 28) + (パッチム番号) で求めることができる。 パッチムの表にある * はパッチムが何もつかないことを表す。 2009年には、ハングル世界化プロジェクトによって、インドネシアの少数民族チアチア族がチアチア語の文字表記にハングルを導入した。韓国の訓民正音学会が中心となって、チアチア語のハングル表記をすすめた。 チアチア語にはアルファベットやアラビア文字では表せない音があるが、ハングルなら表記が可能であるかもしれないと採用された。チアチア語は「固有の文字を持たず、固有語を失う危機にあった」ため、韓国の団体が提案し、2009年7月、バウバウ市にてハングル普及覚書を交わした。 一方、バウバウ市はインドネシア政府と相談せずに導入を決定しており、インドネシア政府もハングルを公式文字として採用していないと発表している。また、この表記法はチアチア語の音韻を反映するものではなく、朝鮮語の事情にあわせて作成されたものであり、趙義成は「アジアの一半島とその周辺でしか用いない文字をあえて採用する必要はない」として、世界的に汎用性のあるラテン文字でチアチア語を表記した方がはるかに合理的で効率的であるとした。 2018年に放送された韓国のテレビ番組によれば、村の看板や教科書などでいまだに使われている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ハングル(韓: 한글)およびチョソングル(朝: 조선글)は、朝鮮語を表記するための表音文字(素性文字)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1443年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、訓民正音(朝: 훈민정음、略称: 正音)の名で公布した。意味は「偉大なる(ハン)・文字(グル)」であるが、「ハン」を「大韓帝国」の「韓()」とする説もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "現代の大韓民国ではハングル、朝鮮民主主義人民共和国では朝鮮文字の意でチョソングル(조선글)またはチョソングルチャ(조선글자)もしくは我々の文字の意でウリグル(우리 글)と呼ぶ。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ハングル制定時の正式名称は訓民正音であったが、当初から卑語(朝鮮語)の文字という意味で「諺文(、ハングル表記: 언문)」と呼んだ。また、知識のない平民たち、女や子供が使う卑しい文字として「アムクル(암클、「女文字」の意)」、「アヘグル(아해글、「子供文字」の意)」とも卑下されてきたといわれるが、解例本に「諺」が通常語彙としてあるように、必ずしも卑称ではないとする見解もある。朝鮮時代後期には、ハングルの名称は非常に多様に現れていて、訓民正音、正音、諺文、諺音、諺書、諺字、訓音、訓文、訓字、東音、東文、アムクル(암클)などと呼ばれていた。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "諺文という卑下した名前を嫌って「ハングル」の語が使われるようになったのは、1900年代である。周時経は1913年に、朝鮮語の研究会の名前を「ハングルモ」としている。朝鮮語のローマ字表記の1つであるM-R式を考案したマッキューンとライシャワーは、1939年当時に朝鮮語学会が「ハングル」、朝鮮語学研究会が「チョンウム(正音)」の語を使っていると述べている(なお、この論文ではハングルのハンを「一」と解釈して、Unified System と翻訳している)。近代開化期には、現在韓国一般的に用いられているハングル(한글)、現在北朝鮮で一般的なチョソングル(조선글)の他、国文(국문)、国語(국어)、ハンマル(한말)、ハンナラマル(한나라말)、ペダルマルクル(배달말글)、朝鮮言文(조선언문)、ハンナラクル(한나라글)、朝鮮語(조선어)、朝鮮語文(조선어문)などと呼ばれていた。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ラテン語表記では「Hangul」と表記されることが多いが、近年は2000年式に準拠した「Hangeul」という表記も使われている。英語圏では「Korean Alphabet」と呼ぶこともある。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "中国では「諺文(簡体字: 谚文; 拼音: yànwén; 注音: ㄧㄢˋㄨㄣˊ)」もしくは「韓文」「朝鮮文字」と呼ぶ。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "上述のように朝鮮で訓民正音を古くは諺文(언문〈オンムン〉)とも呼んでいて、日本では諺文(本来の音読みでは「げんぶん」だが、朝鮮語由来の訛りで「おんもん」)と呼んだが、現代の日本ではハングルと呼ぶ。また朝鮮文字とも呼ぶ。「ハングル文字」の呼び方も存在するが本来は重言となる。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "朝鮮半島では、15世紀半ばまで、自民族の言語である朝鮮語を表記する固有の文字を持たず、知識層は漢字を使用していた。口訣(こうけつ・くけつ)・吏読(りとう)など漢字を借りた表記法により断片的・暗示的に示されてきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "李氏朝鮮第4代王の世宗は、朝鮮固有の文字の創製を積極的に推し進めた。しかし、その事業は当初から事大主義の保守派に反発を受けた。世宗が設立した諮問機関の集賢殿副提学だった崔萬理は1444年に上疏文で、「昔から中国の諸地は風土が異なっても方言に基づいて文字を作った例はない。ただモンゴル(パスパ文字)・西夏(西夏文字)・女真(女真文字)・日本(仮名)・チベット(チベット文字)のみが文字を持つが、これらはみな夷狄(野蛮人・未開人)のなすことであり、言うに足るものではない」「漢字(中国文字)こそ唯一の文字であり、民族固有の文字など有り得ない」と反対した。しかし、世宗はこのような反対を「これは文字ではない(中国文化に対する反逆ではない)、訓民正音(漢字の素養がないものに発音を教える記号)に過ぎない」と押し切り、鄭麟趾など集賢殿内の新進の学者に命じて1446年に訓民正音の名でハングルを頒布した。「民を訓(おし)える正しい音」の意である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "なお、この点に関して異説がない訳でもない。ソウル大学校国文学科教授の朴鎮浩によると、世宗が一人で作った可能性が高い。『朝鮮王朝実録』の世宗25年(1442年)12月の条に、「ハングルを創製した」と短く記載されている。ハングルという言葉の文献初出であるが、もし集賢殿の学者たちの協力のもとハングルを創製したのならばその過程も詳しく記載されているはずである。朴鎮浩は、反対派の臣下がいることを懸念して世宗単独でハングルを創製し、その後ハングルで書かれた書籍の編纂などに集賢殿の学者を動員したと考えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1504年、燕山君の暴政を誹謗するハングルの張り紙が各地で発見され、燕山君はハングルの教育や学習を禁止し、ハングルの書籍を焼却、ハングルを使用する者を弾圧した。世宗時代に設置されていた正音庁は中宗年間の1507年に閉鎖されたが、ハングルの使用自体は禁止されることなく、一部高官には書記手段として用いる者もいた。1490年に軍官の羅臣傑(1461年 - 1524年)が妻の孟氏に送ったハングル書簡は現存最古のハングル書簡であり、1998年に慶尚北道安東で発掘された李応台(1556年 - 1586年)の墓で亡くなった夫の死を悼む妻からのハングル書簡が発見された。『ウォンの父へ・・・丙戌(1586年)6月』と始まる長文の手紙である。また17世紀に宋奎濂が自分の下男のキチュック(己丑の意)に書いた書簡などが残っている。一方、ハングルは支配層でも使われたケースもあり、王室をはじめ王・王妃の勅令や臣民への伝言、王・王妃と公主のハングル書簡・王族同士のやりとりしたハングルの手紙も残っている。また、宮廷や両班階級におけるハングルの使用もあり、国王の記したハングル書簡としては宣祖の『御筆諺簡』(1603年)筆写文献が現存している。李珥、権好文、金尚容ら両班の文化人の一部が時調(詩歌)を詠む際にハングルが利用された。文定王后・仁穆王后などの諺文勅令や明聖王后が都落ちする儒学者の宋時烈を引き止めるハングル書簡、1839年に憲宗の祖母・純元王后によるキリスト教禁止令である『斥邪綸音』をハングルで書いて公布した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ハングルはまず、発案者である世宗のもと国家的な出版事業において活用された。ハングルの創製直後1447年には王朝を讃える頌歌『竜飛御天歌』、釈迦の功績を讃えるため世宗自ら書いた詩歌集の『月印千江之曲』、世宗の命により首陽大君が編纂した釈迦の一代記である『釈譜詳節』が相次いで刊行され、次いで1448年には韻書『東国正韻』を刊行した。その後も国家によるハングル文献の刊行は続き、諺解書(中国書籍の翻訳書)を中心にその分野は仏典・儒教関連書・実用書など多岐にわたる。刊行された書籍は各地で覆刻され版を重ねることが少なくなかった。世祖の書簡『上院寺御牒』(1464年)もハングルである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "石幡貞「朝鮮帰好余録」(1878年)には「朝鮮国文字有二様。曰真文即漢字也。曰諺文是為国字。...以其易学、民皆便之。而政府公文措之不用。(朝鮮には2種の文字がある。真文というのが漢字であり、諺文(※ハングルのこと)というのが国の字とされる。...学びやすいので、民衆は皆これ(※諺文)に慣れている。しかし政府は公文書ではこれを用いない。)」とある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "鈴木信仁「朝鮮紀聞」(1885年)には「貧賤の者は諺文のみを習ひ纔かに通用に便するものなり。貧窶にして筆墨を買ふの資なきものは砂を盆に盛て字を習ひ或は河海の浜に往き平坦の石面に大字を習ふ事あり。」とある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "石井研堂 (民司) 「朝鮮児童画談」(1891年)には「又此国には、諺文とて、仮名九十九字あれども、一般に用ひるもの少なく、書状等にのみ用ひ居れり。」とある。(15頁)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "イザベラ・バード「朝鮮奥地紀行1」(東洋文庫1993年。原著は1898年出版)には「私は、川上に居る下層社会の非常に多くの男の人たちが、朝鮮固有の筆記文字〔諺文〕を読める事に気付いた。」(138頁)とある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "井上角五郎先生伝記編纂会編「井上角五郎先生伝」(1943年)には「...それで朝鮮では上流社会は漢字ばかりで綴った漢文を用ひて棒読にし、下流社会は諺文ばかりで文を綴っていたのである。」とある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1874年(明治7)日本と朝鮮の外交文書で漢字・ハングル混淆文が用いられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "公文書のハングル使用は、甲午改革の一環として1894年11月に公布された勅令1号公文式において、公文に国文(ハングル)を使用することを定めたことに始まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "朝鮮初の近代新聞(官報)である『漢城旬報』(1883年)の続刊である『漢城周報』(1886年創刊)では、漢字混合文(通称「国漢混用文」)を基本とする一方、内容によっては漢文もしくはハングルのみによる朝鮮文で記述された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "『漢城周報』の特筆点は、ハングルで書かれた最初の新聞であったこととともに、「国漢文」と呼ばれる文体が採用されたことである。このような韓国式の「国漢文混用文」の原型となったのは、兪吉濬の《西遊見聞》(1895)とされている。しかしながら、国漢文は漢文の素養を必要とする文体であったため、一般に広く流布するには至らなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1896年に創刊された『独立新聞』はハングルと英文による新聞であった。これは分かち書きを初めて導入した点でも注目される。ハングル分かち書きに大きく貢献した人物は、スコットランド人のジョーン・ロス(John Ross, 1842~1915)である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1890年代後期に訪朝したイザベラ・バードは、その当時諺文(En-mun)と呼ばれていたハングルについて、いまだ知識層からは蔑視されてはいるが、1895年1月に漢文諺文混合文が官報に現れて以来、国王による独立宣誓文をはじめ、一部を除く公式文書に正式に採用され、諺文による書物も徐々に増えつつあると描写し、今後、諺文による教科書と教師の育成が待たれるとしている。また、上流階級の女性は諺文が読めるが、女性の識字率は極めて低く、1000人に2人であろうとする一方、漢江沿いで出会った下層階級の男たちの多くは諺文が読めたと述べている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1905年韓国保護条約(第二次日韓協約)後、伊藤博文は自ら朝鮮半島に渡り、1906年初代韓国統監に就任。理想的に国家を立て直すため、まず「学校教育の充実」を最優先で実施。そのために、日本銀行から500万円を借欺し、そのうち50万円を教育の振興に充てた。それにより、1906年に周時経が『大韓国語文法』を、1908年に『国語文典音学』を出版した。また崔光玉の『大韓文典』と兪吉濬の『大韓文典』(崔光玉の『大韓文典』と同名)、1909年に金熙祥の『初等国語語典』、周時経の『国語文法』などが出版された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "「ハングル」という呼称が文献上に初めて現れるのは大日本帝国による韓国併合以降の1912年のことであり、周時経に始まる。韓国併合時代の朝鮮総督府は「諺文」(おんもん)と呼び、1912年に普通学校用諺文綴字法を制定し、1921年には周時経の弟子らが朝鮮語研究会を結成し、総督府と協力して1930年には正書法諺文綴字法を制定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1920年からは併合下でタクチ本が多数出版され、読書が朝鮮半島で大衆化・近代化する決定的な契機になった。 1933年、朝鮮語綴字法統一案が出され、これが韓国でのハングル正書法(1988年)のもととなった。北朝鮮では1954年に朝鮮語綴字法、1987年に朝鮮語規範集が出された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本統治時代になると両班層のハングル蔑視権力が一掃されたため、ハングルは積極的に教育に用いられるようになる。ハングルは朝鮮半島における平仮名として引き続き用いられたが、太平洋戦争が始まると皇民化政策で朝鮮語のみの教育は廃止され「街中でも家庭でも国語(※日本語のこと)を常用しない学生がいるときは、学校当局と連絡を取って厳重に処罰」といった日本語普及方針がとられた。ハングルについては、太平洋戦争中も引き続き朝鮮半島において官民で漢字混じり文で用いられたが、漸次的に平仮名・片仮名利用で縮小していくようにする方針を決めていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ハングルの創製の原理を記した『訓民正音解例本』ではハングルの母音と子音を陰陽五行に基づいて創っていると記されている。 また同書の序文では「賢い者は朝の間に、愚かな者だとしても十日なら十分に学んで習うことができる」と記されている。", "title": "創製原理" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "陰陽の原理に基づいて創られた。", "title": "創製原理" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "五行に基づいて創られた。", "title": "創製原理" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ハングルは表音文字である。ひとつひとつの文字が音節を表す文字体系だが、子音と母音の字母(자모、チャモ)を組み合わせて文字を構成する。このような文字体系を素性文字と呼ぶ研究者もいる。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "子音字母は基本字母が14個、合成字母が5個の計19個、母音字母は基本字母が10個、合成字母が11個の計21個であり、基本字母は計24個、合成字母を含めた字母の総数は40個である。それぞれの字母は以下の通りである。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "なお、1446年訓民正音創製当時と現在とでは文字の構成要素も変化している(古ハングル)。創製当時には中期朝鮮語の音韻を表す子音字母(ᅀ [z],ᅌ [ŋ],ᅙ [ʔ])、母音字母( ᆞ [ʌ])があり、当初はこれら4個を含めて基本字母が計28個あったが、これら4個は現代では用いられない。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "この表の終声の発音は、語末や無声子音の前での発音である。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "字母「ᄋ」は音節頭の位置にあるときには子音がないことを表し、音節末にあるときには鼻音[ŋ]を表す。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "合成字母の配列順序は韓国の順序によった。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "この表における陽母音・陰母音は、ハングル(訓民正音)の成り立ち上のものである。現代朝鮮語における用言の活用や擬態語・擬声語における陽母音・陰母音の扱いについては、「ᅵ」や「ᅬ」が陰母音として扱われるなど、ハングルの成り立ち上の陽母音・陰母音と必ずしも一致しない部分がある。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "字母(チャモ)を2つ以上組み合わせて1文字を成す。1文字の構成は子音字母 + 母音字母あるいは子音字母 + 母音字母 + 子音字母のどちらかである。音節頭の子音字母を初声、母音字母を中声、音節末に来る子音字母を終声またはパッチム(받침。「支えるもの」の意)と呼ぶ。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "初声と中声の組み合わせ方には3つのタイプがある。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "終声があるときは、これらの下に終声を置く。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "このハングルの字母の組み合わせ方の由来については、契丹小字から取られたとする説が西田龍雄によって唱えられている。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "終声として用いることのできる子音字母は、ᄄ dd,ᄈ bb,ᄍ jjを除いた16個である。また、朝鮮語の形態音素表記のために、終声では2つの子音字母を左右に組み合わせる(二重終声、二重パッチム)ことがある。正書法で認められている組み合わせは、ᆪ gs,ᆬ nj,ᆭ nh,ᆰ lg,ᆱ lm,ᆲ lb,ᆳ ls,ᆴ lt,ᆵ lp,ᄚ lh,ᄡ bsの11種類である。これらの二重終声は、語末の場合や後に子音の続く場合、基本的にᆰ・ᆱ・ᆵは右側を、それ以外は左側を発音するが、ᆲのみはᄅと発音する語とᄇと発音する語がある。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "終声は二重終声を含めると表記上は合計27種類あるが、発音としてはᄀ・ᄂ・ᄃ・ᄅ・ᄆ・ᄇ・ᄋの7種類しかない。それにもかかわらず激音字母や濃音字母などを終声に用いたり、二重終声を用いるなど様々に書き分ける理由は、主に形態素を明示するためである。形態素を明示するために前述の7種類以外の終声字母(二重終声含む)を用いるケースは、具体的には、大きく次の3パターンに分けられる。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1.は終声ᄉ・ᄌ・ᄎ・ᄏ・ᄐ・ᄑ・ᄁ・ᄊが該当し、例えば옷[옫]-옷이[오시]、밭[받]-밭에[바테]、밖[박]-밖에[바께]といった具合に、直後に母音が来たときに次の音節の初声として発音される音を示す。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2.は二重終声のうち9種(ᆪ・ᆬ・ᆰ・ᆱ・ᆲ・ᆳ・ᆴ・ᆵ・ᄡ)が該当し、例えば넓다[널따]-넓어[널버]、삶[삼]-삶이[살미]といった具合に、直後に母音が来たときに終声として発音される音と、次の音節の初声として発音される音の両方を示す。ただし、ᆪ・ᄡの場合は、実際の発音変化が[넉]-[넉씨]、[갑]-[갑씨]となるので、本来ᄀᄊ・ᄇᄊと書くべきと考えられるところを、これでは表記が煩雑なので、終声ᄀ・ᄇの次に来る初声ᄉは濃音ᄊで発音されることから便宜上表記をᆪ・ᄡ(넋[넉]-넋이[넉씨]、값[갑]-값이[갑씨])としている。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "3.はᄒ・ᆭ・ᄚが該当し、実際の発音変化が[조아]-[조코]、[마나]-[만치]、[구러]-[굴타]のようになる場合で、", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "このような場合、それぞれ語幹を조・만・굴と書いたのでは、そのまま続けて고・지・다など平音の字を書いたときに激音化が表現できない。そこでこのようなケースにあっては、便宜的に語幹末のᄒを想定して終声をᄒ・ᆭ・ᄚと表記し、좋아[조아]-좋고[조코]、많아[마나]-많지[만치]、굻어[구러]-굻다[굴타]といった具合に、平音が後続した場合は平音とᄒが融合して激音で発音すると考える一方、母音が後続して新たに子音が現れない場合は、そのᄒがあたかも他の終声と同様にいったん初声となった上で語中なので聞こえなくなっている(そして単語によっては二重終声の左側であるᄂ・ᄅが初声化している)と見なしたような(좋아→[조하]→[조아]、많아→[만하]→[만아]→[마나]、굻어→[굴허]→[굴어]→[구러]と見なしたような)書き方となる。つまり激音化を表現するためにᄒを終声に利用するのである。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ハングルの由来をめぐって諸説があるが、1446年9月上旬に発刊した『訓民正音解例本』にはハングルを創製した理由と陰陽の原理に基づいて子音と母音を造ったと明らかにしている。今更ハングルの字形の由来に関する直接的な論争はないが漢字とパスパ文字の起源説がある。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ハングルの音体系は子音字母が三十六字母に対応するように作られているなど、中国音韻学に則っており、『訓民正音』にはハングルの字形について「象形而字倣古篆」、宋・鄭樵の『六書略』の「起一成文図」を起源とする説もある。字母の字形などについては、『訓民正音』の「制字原理」に書かれていることが全てか、更に原形となるものがあるのかについて議論がある。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ハングルの字形そのものの起源は上述の『訓民正音解例』の通り、象形によるものだが、その他の点ではパスパ文字の影響があるという主張もある。パスパ文字は1269年にフビライ・ハンがラマ僧のパスパ(八思巴)に命じて作らせたもので、モンゴルから支配された高麗時代以降、李氏朝鮮の時代の知識人もこのパスパ文字を習得していた。コロンビア大学名誉教授ガリ・レッドヤード(英語版)は、「古篆」は当時「蒙古篆字」の名で知られていたパスパ文字を指すとしている。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "レッドヤードによれば、『訓民正音』での基本的な子音字母はᄀ(k) ᄂ(n) ᄆ(m) ᄉ(s) ᄋ(ʔ)であるが、ᄋ系を除く字母で基礎になっているものはᄀ(k) ᄃ(t) ᄅ(l) ᄇ(p) ᄌ(ts)であり、これらはパスパ文字のꡂ(k) ꡊ(t) ꡙ(l) ꡎ(p) ꡛ(s)に由来し、チベット文字のག(ga) ད(da) ལ(la) བ(ba) ས(sa)に由来するとしている。チベット文字はブラーフミー系文字の一つで、その起源はフェニキア文字とされるため(さらに遡ればヒエログリフにたどり着く)、ハングルはフェニキア文字から派生したギリシア文字、ラテン文字とも同系統とされる。ᄀ ᄃ ᄅ ᄇはおそらくギリシア文字のΓ Δ Λ Β、ラテン文字のC/G D L Bと同系統であろうとしている(ᄌについては、チベット文字とラテン文字とで同系統の文字を抽出するのが困難)。また、ゼロ子音を表すᄋについては、ハングルにおいて独自に発明された字母だとしている。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "なお、フェニキア文字にはハングルのᄋに似た機能を持つ文字としてアレフ(𐤀)やアイン(𐤏)があり、それぞれラテン文字のAとOの由来となっている。しかし、フェニキア文字がインドに伝わりブラーフミー文字となった段階でこれらに相当する文字は消失しており、ハングルのᄋは独自に再発明されたことになる。ただし、古ハングルで唇軽音を表したᄫ ᅗ ᄬ ᄝに現れるᄋはパスパ文字にならったもの(音価はw)としている。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "以上よりハングルの子音字母は、ブラーフミー系文字(究極的にはヒエログリフ)に由来するᄀ ᄃ ᄅ ᄇ ᄌと独自に開発されたᄋの計六つの字母を基本とし、中国音韻学に基づいて他の字母をそれらの変形により派生させたものとなる。母音字母については、朝鮮語の音韻にあわせて独自に作られたものとしている。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ハングル成立に先立って契丹文字、女真文字、西夏文字、パスパ文字等の様々な民族文字が先行・成立していたことが重要であり、ハングルはそれら民族文字の最終走者であり、特にパスパ文字はアジア初の体系的表音文字であるため、その表音文字という発想がハングル成立に巨大な刺激を与えており、ハングルがパスパ文字の巨大な影響を受け作成されたのは、モンゴル帝国に支配されていた記憶が生々しい李氏朝鮮初期にハングルが作成されたことが傍証であるという。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "韓国と北朝鮮では、字母の扱いや、辞書における見出し語の配列などが異なる。韓国はソウル方言に、北朝鮮は平壌方言に依拠しているため、発音も若干異なる。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "文化観光部2000年式、マッキューン=ライシャワー式、北朝鮮1992年式などがある。", "title": "字母と文字構成" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "字母を組み合わせて作られる文字の理論上の組み合わせは11,172文字だが、実際に使用されるのはその半分以下である(1987年に韓国の国家標準となったコンピュータ用の文字セット(KS完成型、KS C 5601-1987)には日常の99%が表記できる範囲として2,350字しか含まれなかった)。なお、1994-1995年ごろまでは11,172文字全部を表現できる文字セット(組合型、johab)が圧倒的に多く使われていたが、Windows 95でKS完成型を拡張した文字セット(拡張完成型、UHC (Unified Hangul Code))を採用し、後のWindowsにも使用されたため、現在は組合型文字セットはほとんど使われていない。なお、Windows NT系ではUnicode 2.0(KS C 5700、現:KS X 1005-1)以降をサポートしている。", "title": "文字コード" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "Unicode にはハングルを符号化するための文字が数種類あり、標準的に使用されるものは、ハングル字母(U+1100-11FF)とハングル音節文字(U+AC00-D7A3)である。ハングル字母はハングルを構成する字母で、これらを合成する事により15世紀から現代までのハングル音節文字を作成できる。U+1100-115F は初声子音、U+1160-11A2 は中声母音、U+11A8-11F9 は終声子音が定義されている。ハングル音節文字は、2 つの字母からなる音節 399 文字、3 つの字母からなる音節 10,773 文字の合計 11,172 文字で構成されている。この他にハングル互換字母(U+3130-318F)があるが、KS完成型(KS C 5601-1987、現:KS X 1001:1998)との互換性のために存在する。", "title": "文字コード" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "Unicode では、Unicode 1.1 以前と Unicode 2.0 以降ではハングルを定義する領域が異なっており互換性がない。Unicode 1.1 までは U+3400-4DFF にハングルが定義されていたが、Unicode 2.0 制定時に、新しく U+AC00-D7AF にハングルが定義され旧領域は破棄された。その際、韓国の要求により KS C 5601-1992 の組合型文字セットに基づく現代ハングル音節文字 11,172文字 が網羅されている。なお Unicode 2.0 で破棄された領域は、Unicode 3.0 制定時にCJK統合漢字拡張 A 集合として U+3400-4DBF に定義され、Unicode 4.0 制定時に易経記号集合として U+4DC0-4DFF に定義されている。一方、半角ハングルはUnicode 1.0から一貫して半角・全角形(英語版)ブロックのU+FFA0-FFBE、U+FFC2-FFC7、U+FFCA-FFCF、U+FFD2-FFD7、U+FFDA-FFDCで定義されている。", "title": "文字コード" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2019年3月現在、現代朝鮮語を表現するのに、Microsoft系のOS(Windows 10など)では完成型(U+AC00-D7AF)が、Mac系のOS(iOSやmacOS Mojaveなど)では組合型(U+1100-11F9)が用いられており、Mac系で作成されたファイルのファイル名のハングル部分が、Windows系のエクスプローラーで初・中・終声で分かれて表示されることがある。", "title": "文字コード" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ハングルのユニコード番号は 0xAC00 + (子音番号 * 21 * 28) + (母音番号 * 28) + (パッチム番号) で求めることができる。 パッチムの表にある * はパッチムが何もつかないことを表す。", "title": "文字コード" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2009年には、ハングル世界化プロジェクトによって、インドネシアの少数民族チアチア族がチアチア語の文字表記にハングルを導入した。韓国の訓民正音学会が中心となって、チアチア語のハングル表記をすすめた。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "チアチア語にはアルファベットやアラビア文字では表せない音があるが、ハングルなら表記が可能であるかもしれないと採用された。チアチア語は「固有の文字を持たず、固有語を失う危機にあった」ため、韓国の団体が提案し、2009年7月、バウバウ市にてハングル普及覚書を交わした。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "一方、バウバウ市はインドネシア政府と相談せずに導入を決定しており、インドネシア政府もハングルを公式文字として採用していないと発表している。また、この表記法はチアチア語の音韻を反映するものではなく、朝鮮語の事情にあわせて作成されたものであり、趙義成は「アジアの一半島とその周辺でしか用いない文字をあえて採用する必要はない」として、世界的に汎用性のあるラテン文字でチアチア語を表記した方がはるかに合理的で効率的であるとした。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2018年に放送された韓国のテレビ番組によれば、村の看板や教科書などでいまだに使われている。", "title": "その他" } ]
ハングルおよびチョソングルは、朝鮮語を表記するための表音文字(素性文字)である。 1443年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、訓民正音の名で公布した。意味は「偉大なる(ハン)・文字(グル)」であるが、「ハン」を「大韓帝国」の「韓」とする説もある。
{{Otheruses|文字|言語|朝鮮語|その他}} {{Infobox WS | name=ハングル | sample=Hangul chosongul fontembed.svg | type=[[表音文字]], [[素性文字]], [[アルファベット]] | languages=[[朝鮮語]], [[済州語]], [[チアチア語]], [[台湾語]] ({{仮リンク|台湾語ハングル|en|Taiwanese Hangul}}) | time=[[1443年]] - 現在 | creator =[[世宗大王]] | unicode = *[https://www.unicode.org/charts/PDF/UAC00.pdf U+AC00-U+D7AF]<br />(ハングル音節) *[https://www.unicode.org/charts/PDF/U1100.pdf U+1100-U+11FF]<br />(ハングル字母) *[https://www.unicode.org/charts/PDF/U3130.pdf U+3130-U+318F]<br />(ハングル互換字母) *[https://www.unicode.org/charts/PDF/UA960.pdf U+A960–U+A97F]<br />(ハングル字母拡張A) *[https://www.unicode.org/charts/PDF/UD7B0.pdf U+D7B0–U+D7FF]<br />(ハングル字母拡張B) *[https://www.unicode.org/charts/PDF/UFF00.pdf U+FFA0-U+FFDF]<br />(半角・全角形) | iso15924=Hang, 286 |fam1=調音器官模倣|fam2=|fam3=|fam4=|fam5=|fam6=|fam7=}} {{韓国の事物 |title = {{flagicon|KOR}} ハングル |picture = |hangeul = {{wikt-lang|ko|한글}} |katakana = ハングル |hiragana = <!--漢字語用パラメータにつき記載しない--> |rr = Han(-)geul |mr = Han'gŭl |alphabet = Hangul (Hangeul) }} {{北朝鮮の事物 |title = {{flagicon|PRK}} チョソングル |chosŏn'gŭl = {{wikt-lang|ko|조선글}} |katakana = チョソングル |hiragana = <!--漢字語用パラメータにつき記載しない--> |rr = Joseon(-)geul |mr = Chosŏn'gŭl |alphabet = Chosŏn'gŭl }} '''ハングル'''({{lang-ko-kr-short|'''한글'''}})および'''チョソングル'''({{lang-ko-kp-short|'''조선글'''}})は、[[朝鮮語]]を表記するための[[表音文字]]([[素性文字]])である。 [[1443年]]に[[李氏朝鮮]]第4代国王の[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]が、[[訓民正音]]({{lang-ko-short|훈민정음}}、略称: 正音)の名で[[公布]]した。意味は「偉大なる(ハン)・文字(グル)」である<ref name="chosonshogaku">東京外国語大学・趙義成「チアチア語のハングル表記体系について」学術論文集28、2011.朝鮮奨学会</ref>が、「ハン」を「[[大韓帝国]]」の「{{読み仮名|韓|ハン}}」とする説もある<ref>野間秀樹『ハングルの誕生:音から文字を創る』平凡社新書、2010年、22頁</ref>。 == 呼称 == 現代の[[大韓民国]]では'''ハングル'''、[[朝鮮民主主義人民共和国]]では朝鮮文字の意で'''チョソングル'''({{Lang|ko|조선글}})または'''チョソングルチャ'''({{Lang|ko|조선글자}})もしくは我々の文字の意で'''ウリグル'''({{Lang|ko|우리 글}})と呼ぶ<ref>{{Cite book|和書|author=クォン・ヘヒョ|title=私の心の中の朝鮮学校|publisher=HANA|date=2012-6-22|page=163|isbn=9784490102710}}</ref>。 ハングル制定時の正式名称は'''[[訓民正音]]'''であったが、当初から卑語(朝鮮語)の文字という意味で「{{読み仮名|諺文|オンムン|ハングル表記: {{Lang|ko|언문}}}}」と呼んだ<ref name="chosonshogaku" /><ref name="oya">大宅京平「南のハングル教育、北の漢字教育」こた朝鮮難民救援基金NEWS,May 2013,No.82.</ref>。また、知識のない平民たち、女や子供が使う卑しい文字として「アムクル({{Lang|ko|암클}}、「女文字」の意)」、「アヘグル({{Lang|ko|아해글}}、「子供文字」の意)」とも卑下されてきたといわれるが<ref name="oya" />、解例本に「諺」が通常語彙としてあるように、必ずしも卑称ではないとする見解もある<ref name="chosonshogaku" />。朝鮮時代後期には、ハングルの名称は非常に多様に現れていて、訓民正音、正音、諺文、諺音、諺書、諺字、訓音、訓文、訓字、東音、東文、アムクル(암클)などと呼ばれていた<ref name="名前なし-1">李商赫『訓民正音と国語研究』2004年</ref>。 諺文という卑下した名前を嫌って<ref>{{Cite book|和書|author=河野六郎|authorlink=河野六郎|chapter=朝鮮の漢文|title=河野六郎著作集|volume=3|year=1980|page=416}}</ref>「ハングル」の語が使われるようになったのは、1900年代である<ref>姜信沆 (2003) p.5</ref>。[[周時経]]は1913年に、朝鮮語の研究会の名前を「ハングルモ」としている<ref>{{Cite journal|和書|url=http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.25-2/07_Lee.pdf|author=李善英|title=植民地朝鮮における言語政策とナショナリズム - 朝鮮総督府の朝鮮教育令と朝鮮語学会事件を中心に -|journal=立命館国際研究|volume=25|issue=2|page=508|year=2012}}</ref>。朝鮮語のローマ字表記の1つである[[マッキューン=ライシャワー式|M-R式]]を考案した[[ジョージ・M・マッキューン|マッキューン]]と[[エドウィン・O・ライシャワー|ライシャワー]]は、1939年当時に[[ハングル学会|朝鮮語学会]]が「ハングル」、朝鮮語学研究会が「チョンウム(正音)」の語を使っていると述べている<ref>{{Cite journal|author1=McCune, G. M|author2=Reischauer, E. G|title=Romanization of Korean|year=1939|journal=Transactions of the Korea Branch of the Royal Asiatic Society |volume=29|page=6|url=http://www.nla.gov.au/librariesaustralia/files/2011/07/ras-1939.pdf|format=pdf}}</ref>(なお、この論文ではハングルのハンを「一」と解釈して、Unified System と翻訳している)。近代開化期には、現在韓国一般的に用いられているハングル(한글)、現在北朝鮮で一般的なチョソングル(조선글)の他、国文(국문)、国語(국어)、ハンマル(한말)、ハンナラマル(한나라말)、ペダルマルクル(배달말글)、朝鮮言文(조선언문)、ハンナラクル(한나라글)、朝鮮語(조선어)、朝鮮語文(조선어문)などと呼ばれていた<ref name="名前なし-1"/>。 ラテン語表記では「Hangul」と表記されることが多いが、近年は[[文化観光部2000年式|2000年式]]に準拠した「Hangeul」という表記も使われている。英語圏では「Korean Alphabet」と呼ぶこともある。 中国では「諺文({{簡体字|谚文}}; {{ピン音|yànwén}}; {{注音|ㄧㄢˋㄨㄣˊ}})」もしくは「韓文」「朝鮮文字」と呼ぶ。 上述のように朝鮮で訓民正音を古くは'''諺文'''(언문〈オンムン〉)とも呼んでいて、日本では'''諺文'''(本来の音読みでは「げんぶん」だが、朝鮮語由来の訛りで「おんもん」)と呼んだが、現代の日本では'''ハングル'''と呼ぶ<ref>大江孝男「[https://www.excite.co.jp/dictionary/ency/content/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB ハングル]{{リンク切れ|date=2021年6月}}」『[[世界大百科事典]]』エキサイト辞書、[[エキサイト]]。2021年5月13日閲覧。</ref><ref>「[https://kotobank.jp/word/%E8%AB%BA%E6%96%87-42040 諺文]」『精選版 [[日本国語大辞典]]』[[コトバンク]]。2021年3月31日閲覧。</ref>。また'''朝鮮文字'''とも呼ぶ<ref>矢沢康祐「[https://www.excite.co.jp/dictionary/ency/content/%E6%9D%8E%E6%9C%9D 李朝]{{リンク切れ|date=2021年6月}}」(2番目の項目)『世界大百科事典』エキサイト辞書。2021年5月13日閲覧。</ref><ref>「[https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB-117962 ハングル]」『デジタル[[大辞泉]]』、『精選版 日本国語大辞典』コトバンク。2021年3月31日閲覧。</ref><ref>青山秀夫『基礎朝鮮語』[[大学書林]]、1987年、1頁。ISBN 4475010373。「朝鮮文字はハングルとも呼ばれています。」</ref>。「ハングル文字」の呼び方も存在するが本来は[[重言]]となる。 == 歴史 == === ハングルの創製・反対派との対立 === {{See|訓民正音|朝鮮における漢字}} 朝鮮半島では、[[15世紀]]半ばまで、自民族の言語である[[朝鮮語]]を表記する固有の文字を持たず、知識層は漢字を使用していた。[[口訣]](こうけつ・くけつ)・[[吏読]](りとう)など漢字を借りた表記法により断片的・暗示的に示されてきた。 [[李氏朝鮮]]第4代王の[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]は、[[朝鮮]]固有の文字の創製を積極的に推し進めた。しかし、その事業は当初から[[事大主義]]の保守派に反発を受けた。世宗が設立した諮問機関の[[集賢殿]]副提学だった崔萬理は[[1444年]]に上疏文で、「昔から中国の諸地は風土が異なっても方言に基づいて文字を作った例はない。ただ[[モンゴル]]([[パスパ文字]])・[[西夏]]([[西夏文字]])・[[女真]]([[女真文字]])・日本(仮名)・[[チベット]]([[チベット文字]])のみが文字を持つが、これらはみな[[夷狄]](野蛮人・未開人)のなすことであり、言うに足るものではない」「漢字([[中国文字]])こそ唯一の文字であり、民族固有の文字など有り得ない」と反対した。しかし、[[世宗]]はこのような反対を「これは文字ではない([[中国文化]]に対する反逆ではない)、訓民正音(漢字の素養がないものに発音を教える記号)に過ぎない」と押し切り<ref>{{Cite book|和書|author=井沢元彦|authorlink=井沢元彦|date=2011-12-16|title=逆説の朝鮮王朝史|publisher=[[週刊ポスト]]|pages=22-25}}</ref>、[[鄭麟趾]]など集賢殿内の新進の学者に命じて[[1446年]]に[[訓民正音]]の名でハングルを頒布した。「民を訓(おし)える正しい音」の意である{{Sfn|朴鎮浩|2021|p=15}}。 なお、この点に関して異説がない訳でもない。ソウル大学校国文学科教授の朴鎮浩によると、世宗が一人で作った可能性が高い。『朝鮮王朝実録』の世宗25年([[1442年]])12月の条に、「ハングルを創製した」と短く記載されている。ハングルという言葉の文献初出であるが、もし集賢殿の学者たちの協力のもとハングルを創製したのならばその過程も詳しく記載されているはずである。朴鎮浩は、反対派の臣下がいることを懸念して世宗単独でハングルを創製し、その後ハングルで書かれた書籍の編纂などに集賢殿の学者を動員したと考えている{{Sfn|朴鎮浩|2021|p=14-17}}。 [[ファイル:列女伝.jpg|サムネイル|右|[[1543年]]、王命<ref>『中宗実録』8卷12年丁丑・正德12年6月 27日(辛未)http://sillok.history.go.kr/inspection/inspection.jsp?mTree=0&id=kka</ref>によって刊行された『[[列女伝]]』のハングル翻訳版]] ===燕山君による禁止政策以降=== [[1504年]]、[[燕山君]]の暴政を誹謗するハングルの張り紙が各地で発見され、燕山君はハングルの教育や学習を禁止し、ハングルの書籍を焼却、ハングルを使用する者を弾圧した<ref>{{Cite web|publisher=[[国立国語院]] |title=4. The providing process of Hangeul |url=http://www.korean.go.kr/eng_hangeul/supply/001.html |date=January 2004|accessdate=2008-05-19 }}</ref>。世宗時代に設置されていた正音庁は[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]年間の[[1507年]]に閉鎖されたが、ハングルの使用自体は禁止されることなく、一部高官には書記手段として用いる者もいた。1490年に軍官の羅臣傑(1461年 - 1524年)が妻の孟氏に送ったハングル書簡は現存最古のハングル書簡であり<ref>http://news.donga.com/3/all/20150420/70806327/1</ref>、1998年に[[慶尚北道]][[安東市|安東]]で発掘された李応台([[1556年]] - [[1586年]])の墓で亡くなった夫の死を悼む妻からのハングル書簡が発見された。『ウォンの父へ・・・丙戌(1586年)6月』と始まる長文の手紙である。また17世紀に宋奎濂が自分の下男のキチュック(己丑の意)に書いた書簡などが残っている。一方、ハングルは支配層でも使われたケースもあり、王室をはじめ王・王妃の勅令や臣民への伝言、王・王妃と公主のハングル書簡・王族同士のやりとりしたハングルの手紙も残っている<ref>朝鮮王室のハングル書簡 http://hangeul.naver.com/hangeul2</ref>。また、宮廷や[[両班]]階級におけるハングルの使用もあり、国王の記したハングル書簡としては[[宣祖]]の『御筆諺簡』([[1603年]])筆写文献が現存している。[[李珥]]、権好文、金尚容ら両班の文化人の一部が[[時調]](詩歌)を詠む際にハングルが利用された。[[文定王后]]・[[仁穆王后]]などの諺文勅令や[[明聖王后]]が都落ちする儒学者の[[宋時烈]]を引き止めるハングル書簡、1839年に[[憲宗 (朝鮮王)|憲宗]]の祖母・純元王后によるキリスト教禁止令である『斥邪綸音』をハングルで書いて公布した。 [[ファイル:孝宗御筆.jpg|thumb|left|[[孝宗 (朝鮮王)|孝宗]]と三女・淑明公主のハングル書簡のやり取り。左側は淑明公主が父の孝宗に、右側は娘への返事]] [[ファイル:正祖御筆.jpg|thumb|right|[[正祖]]が8歳の時に叔母・閔氏(洪楽仁の妻)に書いたハングル書簡]] === ハングルでの出版 === {{anchors|国漢文}} ハングルはまず、発案者である世宗のもと国家的な出版事業において活用された。ハングルの創製直後[[1447年]]には王朝を讃える頌歌『[[竜飛御天歌]]』、釈迦の功績を讃えるため世宗自ら書いた詩歌集の『月印千江之曲』{{Sfn|朴鎮浩|2021|p=15}}、世宗の命により[[世祖 (朝鮮王)|首陽大君]]が編纂した釈迦の一代記である『[[釈譜詳節]]』{{Sfn|朴鎮浩|2021|p=15}}が相次いで刊行され、次いで[[1448年]]には韻書『[[東国正韻]]』を刊行した。その後も国家によるハングル文献の刊行は続き、諺解書(中国書籍の翻訳書)を中心にその分野は仏典・儒教関連書・実用書など多岐にわたる。刊行された書籍は各地で覆刻され版を重ねることが少なくなかった。[[世祖 (朝鮮王)|世祖]]の書簡『[[上院寺御牒]]』(1464年)もハングルである。 # '''仏典''':李朝初期には刊経都監が設置(1461年)され仏典翻訳が盛んに行われた。その後、国家によって仏教が弾圧されはじめたにもかかわらず、『[[楞厳経]]諺解』(1461年)、『[[法華経]]諺解』(1463年)、『[[金剛経]]諺解』(1464年)、『[[般若心経]]諺解』(1464年)、『[[円覚経]]諺解』(1465年)など、15世紀中頃に多くの仏典が刊行された。 # '''儒教関連書''':李氏朝鮮が儒教を国教としたことにより、儒教関連書は李朝を通して盛んに刊行された。四書五経などの翻訳本として『翻訳[[小学]]』(1517年)、『[[大学 (書物)|大学]]諺解』(1590年)、『[[周易|易経]]諺解』(1606年)、『[[詩経]]諺解』(1613年)などがあり後世に重刊本も刊行された。また『[[三綱行実図]]諺解』(1481年)は儒教の民衆教化書として各種の版本が李朝後期まで何度も重刊されている。 # '''実用書''':『[[救急方諺解]]』(1466年)、『[[救急簡易方]]』(1489年)、『[[牛馬羊猪染疫治療方]]』(1541年)、『[[分門瘟疫易解方]]』(1542年)などの医書・家畜防疫書がたびたび刊行されている。また、通訳官養成所である司訳院からは日本語学習書『[[伊路波]]』(1492年)、中国語学習書『[[翻訳老乞大]]』(16世紀)、[[満州語]]学習書『[[清語老乞大]]』(1704年)、[[モンゴル語]]学習書『[[蒙語老乞大]]』(1741年)などハングルで音を示した外国語学習書が刊行された。 #'''文学作品''':ハングル創製初期以降にも『[[杜詩諺解]]』(1481年)などの翻訳漢詩集が刊行されている。ハングル使用が国家レベルで禁止された[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]以降にも、{{Lang|ko|[[金絿]]}}(1488年 - 1534年)の「花田別曲」、[[李賢輔]]の「漁夫歌」、[[李滉]]の「陶山十二曲」の詩歌、{{Lang|ko|[[許筠]]}}の小説『[[洪吉童伝]]』、また日記文学『[[癸丑日記]]』『[[春香伝]]』『[[沈清伝]]』など[[パンソリ]]を起源とする小説がハングルによる書籍として刊行された。 === 韓国併合以前のハングル === 石幡貞「朝鮮帰好余録」<ref>{{Cite book|和書|title=朝鮮帰好余録. 1|year=1878|publisher=石幡貞|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/894217/23}}</ref>(1878年)には「朝鮮国文字有二様。曰真文即漢字也。曰諺文是為国字。…以其易学、民皆便之。而政府公文措之不用。(朝鮮には2種の文字がある。真文というのが漢字であり、諺文(※ハングルのこと)というのが国の字とされる。…学びやすいので、民衆は皆これ(※諺文)に慣れている。しかし政府は公文書ではこれを用いない。)」とある。 鈴木信仁「朝鮮紀聞」<ref>{{Cite book|和書|title=朝鮮紀聞|year=1885|publisher=愛善社|pages=126-127|author=鈴木信仁|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766885/72}}</ref>(1885年)には「貧賤の者は諺文のみを習ひ纔かに通用に便するものなり。貧窶にして筆墨を買ふの資なきものは砂を盆に盛て字を習ひ或は河海の浜に往き平坦の石面に大字を習ふ事あり。」とある。 石井研堂 (民司) 「朝鮮児童画談」<ref>{{Cite book|和書|title=朝鮮児童画談|date=|year=1891|publisher=学齢館|page=15|author=石井研堂 (民司)|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851191/23}}</ref>(1891年)には「又此国には、諺文とて、仮名九十九字あれども、一般に用ひるもの少なく、書状等にのみ用ひ居れり。」とある。(15頁) イザベラ・バード「朝鮮奥地紀行1」(東洋文庫1993年。原著は1898年出版)には「私は、川上に居る下層社会の非常に多くの男の人たちが、朝鮮固有の筆記文字〔諺文〕を読める事に気付いた。」(138頁)とある。 井上角五郎先生伝記編纂会編「井上角五郎先生伝」<ref>{{Cite book|和書|title=井上角五郎先生伝|year=1943|publisher=井上角五郎先生伝記編纂会|page=98|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1154607/70}}</ref>(1943年)には「…それで朝鮮では上流社会は漢字ばかりで綴った漢文を用ひて棒読にし、下流社会は諺文ばかりで文を綴っていたのである。」とある。 ==== 漢字・ハングル混淆文 ==== 1874年(明治7)日本と朝鮮の外交文書<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/B03030127500|title=4 朝鮮事件取扱手続撮要 2〔6-8画像目〕|accessdate=2021年11月19日|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター|work=日韓尋交ノ為森山茂、広津弘信一行渡韓一件 第三巻}}</ref>で漢字・ハングル混淆文が用いられている。 === 大衆出版とハングル === {{See also|朝鮮における漢字|日本統治時代の朝鮮|ハングル学会}} 公文書のハングル使用は、[[甲午改革]]の一環として1894年11月に公布された勅令1号公文式において、公文に国文(ハングル)を使用することを定めたことに始まった。 朝鮮初の近代[[新聞]](官報)である『[[漢城旬報]]』(1883年)の続刊である『[[漢城周報]]』(1886年創刊)では、漢字混合文(通称「国漢混用文」)を基本とする一方、内容によっては[[漢文]]もしくはハングルのみによる朝鮮文で記述された。 『漢城周報』の特筆点は、ハングルで書かれた最初の新聞であったこととともに、「'''国漢文'''」と呼ばれる文体が採用されたことである。このような''韓国式の「国漢文混用文」の原型となったのは、兪吉濬の《西遊見聞》(1895)とされている。''しかしながら、国漢文は漢文の素養を必要とする文体であったため、一般に広く流布するには至らなかった。 1896年に創刊された『[[独立新聞]]』はハングルと英文による新聞であった。これは分かち書きを初めて導入した点でも注目される。ハングル分かち書きに大きく貢献した人物は、スコットランド人の[[ジョン・ロス (宣教師)|ジョーン・ロス]](John Ross, 1842~1915)である。 1890年代後期に訪朝した[[イザベラ・バード]]は、その当時諺文(En-mun)と呼ばれていたハングルについて、いまだ知識層からは蔑視されてはいるが、1895年1月に漢文諺文混合文が官報に現れて以来、国王による独立宣誓文をはじめ、一部を除く公式文書に正式に採用され、諺文による書物も徐々に増えつつあると描写し<ref>[https://archive.org/stream/koreaherneighbor00bird#page/21 "Korea and her neighbors" p21]Isabella Bird, 1898</ref>、今後、諺文による教科書と教師の育成が待たれるとしている<ref>"Korea and her neighbors" p391</ref>。また、上流階級の女性は諺文が読めるが、女性の識字率は極めて低く、1000人に2人であろうとする一方<ref>"Korea and her neighbors" p342</ref>、[[漢江]]沿いで出会った下層階級の男たちの多くは諺文が読めたと述べている<ref>"Korea and her neighbors" p79</ref>。 1905年韓国保護条約(第二次日韓協約)後、伊藤博文は自ら朝鮮半島に渡り、1906年初代韓国統監に就任。理想的に国家を立て直すため、まず「学校教育の充実」を最優先で実施。そのために、日本銀行から500万円を借欺し、そのうち50万円を教育の振興に充てた<ref>水間政徳, ひと目でわかる「日韓併合」時代の真実, 株式会社PHP研究所, 2013年 p168-169</ref>。それにより、1906年に[[周時経]]が『大韓国語文法』を、1908年に『国語文典音学』を出版した。また崔光玉の『大韓文典』と[[兪吉濬]]の『大韓文典』(崔光玉の『大韓文典』と同名)、1909年に金熙祥の『初等国語語典』、周時経の『国語文法』などが出版された。 「ハングル」という呼称が文献上に初めて現れるのは[[大日本帝国]]による[[韓国併合]]以降の[[1912年]]のことであり、周時経に始まる<ref>1981年12月11日付 中央日報</ref>{{Efn2|1927年にはハングル社から雑誌『ハングル』が刊行された。}}。[[韓国併合]]時代の[[朝鮮総督府]]は「諺文」(おんもん)と呼び、1912年に普通学校用諺文綴字法<ref name="osawa">大澤宏紀「朝鮮総督府による朝鮮語教育」教育史・比較教育論考, 19: 1-15、北海道大学、2009</ref>を制定し、1921年には周時経の弟子らが[[ハングル学会|朝鮮語研究会]]を結成し、総督府と協力して1930年には正書法[[諺文綴字法]]を制定した<ref>[http://www.soc.hit-u.ac.jp/research/thesis/doctor/?choice=exam&thesisID=67 植民地下朝鮮における言語支配の構造][[三ツ井崇]] 2002年3月13日一橋大学博士論文</ref>。 1920年からは併合下で[[タクチ本]]が多数出版され、読書が朝鮮半島で大衆化・近代化する決定的な契機になった。 <ref>http://www.chosunonline.com/news/20100718000004 {{リンク切れ|date=2020-8}}</ref><ref>http://www.chosunonline.com/news/20100718000005 {{リンク切れ|date=2020-8}}</ref>1933年、[[朝鮮語綴字法統一案]]が出され、これが韓国での[[ハングル正書法]](1988年)のもととなった。北朝鮮では1954年に[[朝鮮語綴字法]]、1987年に[[朝鮮語規範集]]が出された。 === 日本統治時代のハングル === 日本統治時代になると両班層のハングル蔑視権力が一掃されたため、ハングルは積極的に教育に用いられるようになる<ref name=":0">「韓国が漢字を復活できない理由」p13,豊田有恒</ref>。ハングルは朝鮮半島における平仮名として引き続き用いられたが、太平洋戦争が始まると皇民化政策で朝鮮語のみの教育は廃止され<ref>{{Cite book|和書|title=前進する朝鮮|year=1942|publisher=朝鮮総督府情報課|page=37|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042329/34|quote=既に朝鮮語の教授は廃止され、教科書に逐年改正を加へて、朝鮮の特殊事情を加味した教材を加へつゝ皇国臣民教育の徹底を期してゐる。}}</ref>「街中でも家庭でも国語(※日本語のこと)を常用しない学生がいるときは、学校当局と連絡を取って厳重に処罰」といった日本語普及方針がとられた<ref>{{Cite journal|author=熊谷明泰|year=2004|title=植民地下朝鮮における徴兵制度実施計画と「国語全解・国語常用」政策(下)|url=https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3026&item_no=1&page_id=13&block_id=21|journal=関西大学人権問題研究室紀要|volume=49|page=177}}</ref>。ハングルについては、太平洋戦争中も引き続き朝鮮半島において官民で漢字混じり文で用いられたが、漸次的に平仮名・片仮名利用で縮小していくようにする方針を決めていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/B02031291000|title=朝鮮及台湾在住民政治処遇ニ関スル質疑応答(18画像目)|accessdate=2021年9月4日|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター|quote=十四 諺文並諺文出版物に対する方針如何 答 国語の普及に伴ひ諺文は漸次其の使用の範囲を縮小せらるるものと考ふ。諺文出版物に付ても漸進的に之を減少を見る如く適当に指導する方針なり。|author=内務省管理局|date=1945年3月6日}}</ref><ref>「韓国が漢字を復活できない理由」p68,豊田有恒</ref>。 == 創製原理 == ハングルの創製の原理を記した『[[訓民正音|訓民正音解例本]]』ではハングルの母音と子音を[[陰陽五行]]に基づいて創っていると記されている。 また同書の序文では「賢い者は朝の間に、愚かな者だとしても十日なら十分に学んで習うことができる」と記されている。 === 母音 === [[陰陽]]の原理に基づいて創られた。 *基本母音は‘・、ㅡ、ㅣ’で、‘・’は陽にあたる「天」を‘ㅡ’は陰にあたる「地」を、‘ㅣ’は陰と陽の中間にあたる「人間(人)」の形から模っている。 *天地人は[[檀君#三国遺事における檀君|檀君思想]]から由来したもので宇宙や万物を構成する主要な要所の「天(・)」と「地(ㅡ)」と「人(ㅣ)」を意味する。 *『訓民正音解例本』によると‘ㅏ、ㅑ、ㅗ、ㅛ’は‘・’系列の母音である。 *‘・’の属性は陽であり、陽の特性は上に上昇、外への拡張であるので上と外に点(・)を打つ。 *‘ㅓ、ㅕ、ㅜ、ㅠ’は‘ㅡ’系列の母音で音の属性に沿って下降と収縮を意味するので中と下に点(・)を打つ。 === 子音 === [[五行思想|五行]]に基づいて創られた。 *『訓民正音解例本』では方位と発音器官を結びつけ、該当の発音器官から音がするのを方位と結び付けている。方位は季節と結ばれ、結局音は季節と結ばれる。 *「春夏秋冬の変化」のとおりに子音は[[五音#ハングルにおける五音|牙音]](ㄱ、春)・[[五音#ハングルにおける五音|舌音]](ㄴ、夏)・[[五音#ハングルにおける五音|唇音]](ㅁ、晩夏)・[[五音#ハングルにおける五音|歯音]](ㅅ、秋)・[[五音#ハングルにおける五音|喉音]](ㅇ、冬)の順に配列する。 *『訓民正音解例本』で基本子音をㄱ、ㄴ、ㅁ、ㅅ、ㅇ、ㄹの順に配列するのは五行の原理である。 * 基本子音は発音器官の形から来ており、基本子音以外の字形は基本子音を元に加画・並書して作られた。ㄹは字形としてはㄴの変形から出たが、[[半舌音]]という特別な分類となっている。 {| class = "wikitable" |+ 子音と五行の関係 |- ! [[五行思想|属性]] !! [[季節]] !! [[方位]] !! 音声 !! [[五音]] |- style="background-color:#CFD" | 木 || [[春]] || [[東]] || [[牙音]]([[ㄱ]]、[[ㅋ]]、[[ㄲ]]) || 角 |- style="background-color:#FDC" | 火 || [[夏]] || [[南]] || [[舌音]]([[ㄴ]]、[[ㄷ]]、[[ㅌ]]、[[ㄸ]]) || 徴 |- style="background-color:#EFC" | 土 || [[季夏]] || [[中]] || [[唇音]]([[ㅁ]]、[[ㅂ]]、[[ㅍ]]、[[ㅃ]]) || 宮 |- style="background-color:#FFF" | 金 || [[秋]] || [[西]] || [[歯音]]([[ㅅ]]、[[ㅆ]]、[[ㅈ]]、[[ㅊ]]、[[ㅉ]]) || 商 |- style="background-color:#CCC" | 水 || [[冬]] || [[北]] || [[喉音]]([[ㅇ]]、[[ㅎ]]) || 羽 |} == 字母と文字構成 == {{Main2|正書法に関しては「[[朝鮮語の正書法]]」を}} {{Main2|朝鮮語の音韻に関する諸々の事柄については「[[朝鮮語の音韻]]」を}} {|lang="ko" style="text-align:center; float:right; margin-right:1em; border-collapse:collapsed; border:1px solid #ccc; background-color:#ddd;" ! lang="ja" colspan="11" style="background: #eee;"|[[ハングルの字母]] |- |[[ㄱ]]||[[ㄲ]]||[[ㄴ]]||[[ㄷ]]||[[ㄸ]]||[[ㄹ]]||[[ㅁ]] |- |[[ㅂ]]||[[ㅃ]]||[[ㅅ]]||[[ㅆ]]||[[ㅇ]]||[[ㅈ]]||[[ㅉ]] |- |[[ㅊ]]||[[ㅋ]]||[[ㅌ]]||[[ㅍ]]||[[ㅎ]]|| || |- |[[ㄳ]]||[[ㄵ]]||[[ㄶ]]||[[ㄺ]]||[[ㄻ]]||[[ㄼ]]||[[ㄽ]] |- |[[ㄾ]]||[[ㄿ]]||[[ㅀ]]||[[ㅄ]]|| || || |- |[[ㅏ]]||[[ㅐ]]||[[ㅑ]]||[[ㅒ]]||[[ㅓ]]||[[ㅔ]]||[[ㅕ]] |- |[[ㅖ]]||[[ㅗ]]||[[ㅘ]]||[[ㅙ]]||[[ㅚ]]||[[ㅛ]]||[[ㅜ]] |- |[[ㅝ]]||[[ㅞ]]||[[ㅟ]]||[[ㅠ]]||[[ㅡ]]||[[ㅢ]]||[[ㅣ]] |} ハングルは[[表音文字]]である。ひとつひとつの文字が音節を表す文字体系だが、子音と母音の字母({{Lang|ko|자모}}、''チャモ'')を組み合わせて文字を構成する。このような文字体系を[[素性文字]]と呼ぶ研究者もいる。<!-- ノートの議論参照 --> 子音字母は基本字母が14個、合成字母が5個の計19個、母音字母は基本字母が10個、合成字母が11個の計21個であり、基本字母は計24個、合成字母を含めた字母の総数は40個である。それぞれの字母は以下の通りである。 なお、1446年[[訓民正音]]創製当時と現在とでは文字の構成要素も変化している([[古ハングル]])。創製当時には[[中期朝鮮語]]の音韻を表す子音字母({{Lang|ko|[[ㅿ]]}} {{IPA|z}},{{Lang|ko|[[ㆁ]]}} {{IPA|ŋ}},{{Lang|ko|[[ㆆ]]}} {{IPA|ʔ}})、母音字母( {{Lang|ko|[[ㆍ]]}} {{IPA|ʌ}})があり、当初はこれら4個を含めて基本字母が計28個あったが、これら4個は現代では用いられない。 === 子音(初声・終声)字母 === {| class="wikitable" style="font-size:small;" |- ! !!字母!!発音(初声)!!発音(終声)!!ローマ字<ref name="romaji">[[ローマ字]]は2000年[[大韓民国文化体育観光部|大韓民国文化観光部]]告示第2000-8号「[[文化観光部2000年式|国語のローマ字表記法]]({{Lang|ko|국어의 로마자 표기법}})」による。</ref>!!五音!!名称(韓国)!!colspan=2|名称(北朝鮮) |- style="background-color:#CFD" !style="line-height:250%;" rowspan=14|基<br/>本<br/>字<br/>母 |{{Lang|ko|[[ㄱ]]}}||{{IPA|[[無声軟口蓋破裂音|[k]]/[[有声軟口蓋破裂音|ɡ]]]}}||{{IPA|k&#794;}}||g||牙音||{{Lang|ko|기역}} giyeok||{{Lang|ko|기윽}} gieuk||{{Lang|ko|그}} geu |- style="background-color:#FDC" |{{Lang|ko|[[ㄴ]]}}||{{IPA|[[歯茎鼻音|[n]]]}}||{{IPA|[[歯茎鼻音|[n]]]}}||n||舌音||colspan=2|{{Lang|ko|니은}} nieun||{{Lang|ko|느}} neu |- style="background-color:#FDC" |{{Lang|ko|[[ㄷ]]}}||{{IPA|[[無声歯茎破裂音|[t]]/[[有声歯茎破裂音|d]]]}}||{{IPA|t&#794;}}||d||舌音||{{Lang|ko|디귿}} digeut||{{Lang|ko|디읃}} dieut||{{Lang|ko|드}} deu |- style="background-color:#FDC" |{{Lang|ko|[[ㄹ]]}}||{{IPA|[[歯茎はじき音|[ɾ]]]}}||{{IPA|[[歯茎側面接近音|[l]]]}}||r/l||半舌音||colspan=2|{{Lang|ko|리을}} rieul||{{Lang|ko|르}} reu |- style="background-color:#EFC" |{{Lang|ko|[[ㅁ]]}}||{{IPA|[[両唇鼻音|[m]]]}}||{{IPA|[[両唇鼻音|[m]]]}}||m||唇音||colspan=2|{{Lang|ko|미음}} mieum||{{Lang|ko|므}} meu |- style="background-color:#EFC" |{{Lang|ko|[[ㅂ]]}}||{{IPA|[[無声両唇破裂音|[p]]/[[有声両唇破裂音|b]]]}}||{{IPA|p&#794;}}||b||唇音||colspan=2|{{Lang|ko|비읍}} bieup||{{Lang|ko|브}} beu |- style="background-color:#FFF" |{{Lang|ko|[[ㅅ]]}}||{{IPA|[[無声歯茎摩擦音|[s]]/[[無声歯茎硬口蓋摩擦音|ɕ]]/[[無声後部歯茎摩擦音|ʃ]]]}}||{{IPA|t&#794;}}||s||歯音||{{Lang|ko|시옷}} siot||{{Lang|ko|시읏}} sieut||{{Lang|ko|스}} seu |- style="background-color:#CCC" |{{Lang|ko|[[ㅇ]]}}||(無音)||{{IPA|[[軟口蓋鼻音|[ŋ]]]}}||(ng)||喉音||colspan=2|{{Lang|ko|이응}} ieung||{{Lang|ko|으}} eu |- style="background-color:#FFF" |{{Lang|ko|[[ㅈ]]}}||{{IPA|[[無声歯茎硬口蓋破擦音|[t͡ɕ]]/[[有声歯茎硬口蓋破擦音|d͡ʑ]]/[[無声後部歯茎破擦音|t͡ʃ]]/[[有声後部歯茎破擦音|d͡ʒ]]]}}||{{IPA|t&#794;}}||j||歯音||colspan=2|{{Lang|ko|지읒}} jieut||{{Lang|ko|즈}} jeu |- style="background-color:#FFF" |{{Lang|ko|[[ㅊ]]}}||{{IPA|t͡ɕʰ/t͡ʃʰ}}||{{IPA|t&#794;}}||ch||歯音||colspan=2|{{Lang|ko|치읓}} chieut||{{Lang|ko|츠}} cheu |- style="background-color:#CFD" |{{Lang|ko|[[ㅋ]]}}||{{IPA|kʰ}}||{{IPA|k&#794;}}||k||牙音||colspan=2|{{Lang|ko|키읔}} kieuk||{{Lang|ko|크}} keu |- style="background-color:#FDC" |{{Lang|ko|[[ㅌ]]}}||{{IPA|tʰ}}||{{IPA|t&#794;}}||t||舌音||colspan=2|{{Lang|ko|티읕}} tieut||{{Lang|ko|트}} teu |- style="background-color:#EFC" |{{Lang|ko|[[ㅍ]]}}||{{IPA|pʰ}}||{{IPA|p&#794;}}||p||唇音||colspan=2|{{Lang|ko|피읖}} pieup||{{Lang|ko|프}} peu |- style="background-color:#CCC" |{{Lang|ko|[[ㅎ]]}}||{{IPA|[[無声声門摩擦音|[h]]/[[有声声門摩擦音|ɦ]]]}}||{{IPA|t&#794;}}||h||喉音||colspan=2|{{Lang|ko|히읗}} hieut||{{Lang|ko|흐}} heu |- style="background-color:#CFD" !rowspan=5|合<br/>成<br/>字<br/>母 |{{Lang|ko|[[ㄲ]]}}||{{IPA|kʼ}}||{{IPA|k&#794;}}||kk||牙音||{{Lang|ko|쌍기역}} ssanggiyeok||{{Lang|ko|된기윽}} doen-gieuk||{{Lang|ko|끄}} kkeu |- style="background-color:#FDC" |{{Lang|ko|[[ㄸ]]}}||{{IPA|tʼ}}||-||tt||舌音||{{Lang|ko|쌍디귿}} ssangdigeut||{{Lang|ko|된디읃}} doendieut||{{Lang|ko|뜨}} tteu |- style="background-color:#EFC" |{{Lang|ko|[[ㅃ]]}}||{{IPA|pʼ}}||-||pp||唇音||{{Lang|ko|쌍비읍}} ssangbieup||{{Lang|ko|된비읍}} doenbieup||{{Lang|ko|쁘}} ppeu |- style="background-color:#FFF" |{{Lang|ko|[[ㅆ]]}}||{{IPA|sʼ/ɕʼ/ʃʼ}}||{{IPA|t&#794;}}||ss||歯音||{{Lang|ko|쌍시옷}} ssangsiot||{{Lang|ko|된시읏}} doensieut||{{Lang|ko|쓰}} sseu |- style="background-color:#FFF" |{{Lang|ko|[[ㅉ]]}}||{{IPA|t͡ɕʼ/t͡ʃʼ}}||-||jj||歯音||{{Lang|ko|쌍지읒}} ssangjieut||{{Lang|ko|된지읒}} doenjieut||{{Lang|ko|쯔}} jjeu |} この表の終声の発音は、語末や無声子音の前での発音である。 字母「{{Lang|ko|ㅇ}}」は音節頭の位置にあるときには子音がないことを表し、音節末にあるときには鼻音{{IPA|ŋ}}を表す。 === 消失子音字母 === {| class="wikitable" style="font-size:small;" |- ! 字母 !! 発音(初声)!! 発音(終声)!! 五音 !! 名称 |- style="background-color:#FFF" | [[ㅿ]] || {{IPA|z}} || - || 半歯音 || {{Lang|ko|반시옷}} bansiot |- style="background-color:#CFD" | [[ㆁ]] || {{IPA|ŋ}} || {{IPA|ŋ}} || 牙音 || {{Lang|ko|옛이응}} yennieung |- style="background-color:#CCC" | [[ㆆ]] || {{IPA|ʔ}} || - || 喉音 || {{Lang|ko|여린히읗}} yeorinhieut |- style="background-color:#EFC" | [[ㅸ]] || {{IPA|β}} || - || 唇軽音 || {{Lang|ko|가벼운비읍}} gabyeounbieup |- style="background-color:#CCC" | [[ㆀ]] || {{IPA|jj}}? || - || 喉音 || {{Lang|ko|쌍이응}} ssangieung |- style="background-color:#CCC" | [[ㆅ]] || {{IPA|hʼ}} || - || 喉音 || {{Lang|ko|쌍히읗}} ssanghieut |} === 母音(中声)字母 === {| class="wikitable" style="font-size:small;" |- ! !!字母!!発音!!ローマ字<ref name="romaji" />!!陰陽!!名称 |- !rowspan=10|基<br>本<br>字<br>母 |{{Lang|ko|[[ㅏ]]}}||{{IPA|[[非円唇前舌広母音|[a]]]}}||a||陽母音||{{Lang|ko|아}} a |- |{{Lang|ko|[[ㅑ]]}}||{{IPA|ja}}||ya||陽母音||{{Lang|ko|야}} ya |- |{{Lang|ko|[[ㅓ]]}}||[{{IPA|[[円唇後舌半広母音|ɔ]]/[[非円唇後舌半広母音|ʌ]]]}}||eo||陰母音||{{Lang|ko|어}} eo |- |{{Lang|ko|[[ㅕ]]}}||{{IPA|jɔ/jʌ}}||yeo||陰母音||{{Lang|ko|여}} yeo |- |{{Lang|ko|[[ㅗ]]}}||{{IPA|[[円唇後舌半狭母音|[o]]]}}||o||陽母音||{{Lang|ko|오}} o |- |{{Lang|ko|[[ㅛ]]}}||{{IPA|jo}}||yo||陽母音||{{Lang|ko|요}} yo |- |{{Lang|ko|[[ㅜ]]}}||{{IPA|[[円唇後舌狭母音|[u]]]}}||u||陰母音||{{Lang|ko|우}} u |- |{{Lang|ko|[[ㅠ]]}}||{{IPA|ju}}||yu||陰母音||{{Lang|ko|유}} yu |- |{{Lang|ko|[[ㅡ]]}}||{{IPA|[[非円唇後舌狭母音|[ɯ]]]}}||eu||陰母音||{{Lang|ko|으}} eu |- |{{Lang|ko|[[ㅣ]]}}||{{IPA|[[非円唇前舌狭母音|[i]]]}}||i||中性母音||{{Lang|ko|이}} i |- !rowspan=11|合<br>成<br>字<br>母 |{{Lang|ko|[[ㅐ]]}}||{{IPA|[[非円唇前舌半広母音|[ɛ]]]}}||ae||陽母音||{{Lang|ko|애}} ae |- |{{Lang|ko|[[ㅒ]]}}||{{IPA|jɛ}}||yae||陽母音||{{Lang|ko|얘}} yae |- |{{Lang|ko|[[ㅔ]]}}||{{IPA|[[非円唇前舌半狭母音|[e]]]}}||e||陰母音||{{Lang|ko|에}} e |- |{{Lang|ko|[[ㅖ]]}}||{{IPA|je}}||ye||陰母音||{{Lang|ko|예}} ye |- |{{Lang|ko|[[ㅘ]]}}||{{IPA|wa}}||wa||陽母音||{{Lang|ko|와}} wa |- |{{Lang|ko|[[ㅙ]]}}||{{IPA|wɛ}}||wae||陽母音||{{Lang|ko|왜}} wae |- |{{Lang|ko|[[ㅚ]]}}||{{IPA|[[円唇前舌半狭母音|[ø]]/we]}}||oe||陽母音||{{Lang|ko|외}} oe |- |{{Lang|ko|[[ㅝ]]}}||{{IPA|wɔ}}||wo||陰母音||{{Lang|ko|워}} wo |- |{{Lang|ko|[[ㅞ]]}}||{{IPA|we}}||we||陰母音||{{Lang|ko|웨}} we |- |{{Lang|ko|[[ㅟ]]}}||{{IPA|[[円唇前舌狭母音|[y]]/wi]}}||wi||陰母音||{{Lang|ko|위}} wi |- |{{Lang|ko|[[ㅢ]]}}||{{IPA|ɯj/ɰi}}||ui||陰母音||{{Lang|ko|의}} ui |} 合成字母の配列順序は韓国の順序によった。 この表における陽母音・陰母音は、ハングル(訓民正音)の成り立ち上のものである。現代朝鮮語における用言の活用や擬態語・擬声語における陽母音・陰母音の扱いについては、「ㅣ」や「ㅚ」が陰母音として扱われるなど、ハングルの成り立ち上の陽母音・陰母音と必ずしも一致しない部分がある。 === 消失母音字母 === {| class="wikitable" style="font-size:small;" |- ! 字母 !! 発音 !! 陰陽 !! 名称 |- | [[ㆍ]] || {{IPA|ʌ}} || 陽母音 || {{Lang|ko|아래아}} araea |- | [[ㆎ]] || {{IPA|ʌi}} || 陽母音 || {{Lang|ko|아래애}} araeae |} === 字母の組合せ === 字母(チャモ)を2つ以上組み合わせて1文字を成す。1文字の構成は子音字母 + 母音字母あるいは子音字母 + 母音字母 + 子音字母のどちらかである。音節頭の子音字母を'''初声'''、母音字母を'''中声'''、音節末に来る子音字母を'''終声'''または'''[[パッチム]]'''({{Lang|ko|받침}}。「支えるもの」の意)と呼ぶ<!-- 終声とパッチムは同じではないような気がする。 -->。 初声と中声の組み合わせ方には3つのタイプがある。 {| style="text-align:center;" |- | {| |- | {| |- |style="background-color: #faa; white-space: nowrap; width: 2em; height: 3em;" |初||style="background-color: #afa; white-space: nowrap; width: 2em; height: 3em;"|中 |} |- |} | style="white-space: nowrap;"|{{Larger|{{Lang|ko|가}}}} ga | |style="text-align:left;"|中声が縦長の字母(具体的には「{{Lang|ko|ㅏ}}、{{Lang|ko|ㅑ}}、{{Lang|ko|ㅓ}}、{{Lang|ko|ㅕ}}、{{Lang|ko|ㅣ}}、{{Lang|ko|ㅐ}}、{{Lang|ko|ㅒ}}、{{Lang|ko|ㅔ}}、{{Lang|ko|ㅖ}}」)のときは、初声を左に、中声を右に配置する。 |- |- | {| |- | {| |- |style="background-color: #faa; white-space: nowrap; width: 4em;"|初 |- |style="background-color: #afa; white-space: nowrap; width: 4em;" |中 |} |- |} | style="white-space: nowrap;"|{{Larger|{{Lang|ko|고}}}} go | |style="text-align:left;"|中声が横長の字母(具体的には「{{Lang|ko|ㅗ}}、{{Lang|ko|ㅛ}}、{{Lang|ko|ㅜ}}、{{Lang|ko|ㅠ}}、{{Lang|ko|ㅡ}}」。古ハングルでは「{{Lang|ko|ㆍ}}」も含む)のときは、初声を上に、中声を下に配置する。 |- |- | {| |- | {| |- |style="background-color: #faa; white-space: nowrap; width: 2em;" |初|| rowspan="2" style="background-color: #afa; white-space: nowrap; width: 2em;" |中2 |- |style="background-color: #afa; white-space: nowrap; width: 2em;"|中1 |} |- |} | style="white-space: nowrap;"|{{Larger|{{Lang|ko|과}}}} gwa | |style="text-align:left;"|中声が横長と縦長の字母の組み合わせ(具体的には「{{Lang|ko|ㅘ}}、{{Lang|ko|ㅙ}}、{{Lang|ko|ㅚ}}、{{Lang|ko|ㅝ}}、{{Lang|ko|ㅞ}}、{{Lang|ko|ㅟ}}、{{Lang|ko|ㅢ}}」)のときは、初声を左上に、中声を下から右にかけて配置する。 |- |} 終声があるときは、これらの下に終声を置く。 {| style="text-align:center;" |- | {| |- |style="background-color: #faa; width: 2em; height: 3em;"|初||style="background-color: #afa; width: 2em; height: 3em;" |中 |- |style="background-color: #aaf; width: 4em;" colspan="2"|終 |} | {| |- |style="background-color: #faa; width: 4em;" |初 |- |style="background-color: #afa; width: 4em;" |中 |- |style="background-color: #aaf; width: 4em;" |終 |} | {| |- |style="background-color: #faa; width: 2em;" |初||style="background-color: #aaffaa; width: 2em;" rowspan="2"|中2 |- |style="background-color: #afa; width: 2em;" |中1 |- |style="background-color: #aaf; width: 4em;" colspan="2"|終 |} |- |{{Larger|{{Lang|ko|간}}}}<br />gan |{{Larger|{{Lang|ko|곤}}}}<br />gon |{{Larger|{{Lang|ko|관}}}}<br />gwan |} このハングルの字母の組み合わせ方の由来については、[[契丹文字|契丹小字]]から取られたとする説が[[西田龍雄]]によって唱えられている。 === 終声について === {{see also|[[パッチム]]}} 終声として用いることのできる子音字母は、{{Lang|ko|ㄸ}} dd,{{Lang|ko|ㅃ}} bb,{{Lang|ko|ㅉ jj}}を除いた16個である。また、朝鮮語の[[形態音素]]表記<!-- こういう用語はあるのか? -->のために、終声では2つの子音字母を左右に組み合わせる(二重終声、二重パッチム)ことがある。正書法で認められている組み合わせは、{{Lang|ko|ㄳ}} gs,{{Lang|ko|ㄵ}} nj,{{Lang|ko|ㄶ}} nh,{{Lang|ko|ㄺ}} lg,{{Lang|ko|ㄻ}} lm,{{Lang|ko|ㄼ}} lb,{{Lang|ko|ㄽ}} ls,{{Lang|ko|ㄾ}} lt,{{Lang|ko|ㄿ}} lp,{{Lang|ko|ㅀ}} lh,{{Lang|ko|ㅄ}} bsの11種類である。これらの二重終声は、語末の場合や後に子音の続く場合、基本的にㄺ・ㄻ・ㄿは右側を、それ以外は左側を発音するが、ㄼのみはㄹと発音する語とㅂと発音する語がある。 終声は二重終声を含めると表記上は合計27種類あるが、発音としてはㄱ・ㄴ・ㄷ・ㄹ・ㅁ・ㅂ・ㅇの7種類しかない。それにもかかわらず激音字母や濃音字母などを終声に用いたり、二重終声を用いるなど様々に書き分ける理由は、主に形態素を明示するためである。形態素を明示するために前述の7種類以外の終声字母(二重終声含む)を用いるケースは、具体的には、大きく次の3パターンに分けられる。 #語幹末音の直後に母音が来ることによって、語幹末音が初声として発音される場合は激音や濃音、ㅅやㅈなどの音として現れるが、語幹末音が終声として発音される場合には平音ㄱ・ㄷ・ㅂに中和される。 #語幹末に子音が2つ連続している場合、語幹末の子音が初声の位置に立つときは連続する2つの子音が両方とも現れるが、語幹末の子音が終声の位置に立つときは2つの子音のうち一方が脱落する。 #接尾辞・語尾の頭音の平音が激音で現れる用言の場合。 1.は終声ㅅ・ㅈ・ㅊ・ㅋ・ㅌ・ㅍ・ㄲ・ㅆが該当し、例えば옷[옫]-옷이[오시]、밭[받]-밭에[바테]、밖[박]-밖에[바께]といった具合に、直後に母音が来たときに次の音節の初声として発音される音を示す。 2.は二重終声のうち9種(ㄳ・ㄵ・ㄺ・ㄻ・ㄼ・ㄽ・ㄾ・ㄿ・ㅄ)が該当し、例えば넓다[널따]-넓어[널버]、삶[삼]-삶이[살미]といった具合に、直後に母音が来たときに終声として発音される音と、次の音節の初声として発音される音の両方を示す。ただし、ㄳ・ㅄの場合は、実際の発音変化が[넉]-[넉씨]、[갑]-[갑씨]となるので、本来ㄱㅆ・ㅂㅆと書くべきと考えられるところを、これでは表記が煩雑なので、終声ㄱ・ㅂの次に来る初声ㅅは濃音ㅆで発音されることから便宜上表記をㄳ・ㅄ(넋[넉]-넋이[넉씨]、값[갑]-값이[갑씨])としている。 3.はㅎ・ㄶ・ㅀが該当し、実際の発音変化が[조아]-[조코]、[마나]-[만치]、[구러]-[굴타]のようになる場合で、 *第1の例では아が後続したときは語幹の次の音節に子音が現れないのに対して、고が後続したときに激音の코として発音されている。 *第2の例では아が後続したときは語幹のㄴが初声で発音されるのに対して、지が後続したときは激音の치として発音されている。 *第3の例では어が後続したときは語幹のㄹが初声で発音されるのに対して、다が後続したときは激音の타として発音されている。 このような場合、それぞれ語幹を조・만・굴と書いたのでは、そのまま続けて고・지・다など平音の字を書いたときに激音化が表現できない。そこでこのようなケースにあっては、便宜的に語幹末のㅎを想定して終声をㅎ・ㄶ・ㅀと表記し、좋아[조아]-좋고[조코]、많아[마나]-많지[만치]、굻어[구러]-굻다[굴타]といった具合に、平音が後続した場合は平音とㅎが融合して激音で発音すると考える一方、母音が後続して新たに子音が現れない場合は、そのㅎがあたかも他の終声と同様にいったん初声となった上で語中なので聞こえなくなっている(そして単語によっては二重終声の左側であるㄴ・ㄹが初声化している)と見なしたような(좋아→[조하]→[조아]、많아→[만하]→[만아]→[마나]、굻어→[굴허]→[굴어]→[구러]と見なしたような)書き方となる。つまり激音化を表現するためにㅎを終声に利用するのである。 {{ハングル終声}} === ハングルの由来をめぐる諸説 === {{Main|ハングル優越主義#ハングルの起源に対する学説}} ハングルの由来をめぐって諸説があるが、1446年9月上旬に発刊した『訓民正音解例本』にはハングルを創製した理由と陰陽の原理に基づいて子音と母音を造ったと明らかにしている。今更ハングルの字形の由来に関する直接的な論争はないが[[漢字]]と[[パスパ文字]]の起源説がある。 ==== 漢字の影響 ==== ハングルの音体系は子音字母が[[三十六字母]]に対応するように作られているなど、[[中国音韻学]]に則っており、『訓民正音』にはハングルの字形について「象形而字倣古篆」、宋・[[鄭樵]]の『[[通志|六書略]]』の「起一成文図」を起源とする説もある<ref>姜信沆『ハングルの成立と歴史』 (大修館)</ref>。字母の字形などについては、『[[訓民正音]]』の「[[訓民正音#制字原理|制字原理]]」に書かれていることが全てか、更に原形となるものがあるのかについて議論がある{{要出典|date=2015年6月}}。 ==== パスパ文字の影響 ==== {{Main|パスパ文字#ハングルとの関係}} <!--[[ファイル:Phagspa-Hangul comparison.svg|thumb|パスパ文字とハングルの比較]] どれがどう両文字で対応しているのか、この画像ではわかりません--> ハングルの字形そのものの起源は上述の『訓民正音解例』の通り、象形によるもの<ref name="sekai12" /><ref name="korai" />だが、その他の点では[[パスパ文字]]の影響があるという主張もある<ref name="korai">[http://japanese.joins.com/article/430/107430.html?sectcode=&servcode= 「訓民正音、モンゴル‘パスパ文字’の影響受けた」…高麗大教授]</ref>。パスパ文字は1269年に[[フビライ・ハン]]がラマ僧のパスパ(八思巴)に命じて作らせたもので、[[モンゴル]]から支配された[[高麗]]時代以降、[[李氏朝鮮]]の時代の知識人もこのパスパ文字を習得していた<ref name="korai" />。[[コロンビア大学]]名誉教授{{仮リンク|ガリ・レッドヤード|en|Gari Ledyard}}は、「古篆」は当時「蒙古篆字」の名で知られていた[[パスパ文字]]を指すとしている<ref>Ledyard, Gari K. (1998、1997)</ref>。 レッドヤードによれば、『訓民正音』での基本的な子音字母は[[ㄱ]](k) [[ㄴ]](n) [[ㅁ]](m) [[ㅅ]](s) [[ㅇ]](ʔ)であるが、ㅇ系を除く字母で基礎になっているものは[[ㄱ]](k) [[ㄷ]](t) [[ㄹ]](l) [[ㅂ]](p) [[ㅈ]](ts)であり、これらはパスパ文字のꡂ(k) ꡊ(t) ꡙ(l) ꡎ(p) ꡛ(s)に由来し、[[チベット文字]]のག(ga) ད(da) ལ(la) བ(ba) ས(sa)に由来するとしている。チベット文字は[[ブラーフミー系文字]]の一つで、その起源は[[フェニキア文字]]とされるため(さらに遡れば[[ヒエログリフ]]にたどり着く)、ハングルはフェニキア文字から派生した[[ギリシア文字]]、[[ラテン文字]]とも同系統とされる。ㄱ ㄷ ㄹ ㅂはおそらくギリシア文字の[[Γ]] [[Δ]] [[Λ]] [[Β]]、ラテン文字の[[C]]/[[G]] [[D]] [[L]] [[B]]と同系統であろうとしている(ㅈについては、チベット文字とラテン文字とで同系統の文字を抽出するのが困難)。また、ゼロ子音を表すㅇについては、ハングルにおいて独自に発明された字母だとしている。 なお、[[フェニキア文字]]にはハングルのㅇに似た機能を持つ文字としてアレフ(𐤀)やアイン(𐤏)があり、それぞれラテン文字の[[A]]と[[O]]の由来となっている。しかし、フェニキア文字がインドに伝わり[[ブラーフミー文字]]となった段階でこれらに相当する文字は消失しており、ハングルのㅇは独自に再発明されたことになる。ただし、古ハングルで唇軽音を表した[[ㅸ]] [[ㆄ]] [[ㅹ]] [[ㅱ]]に現れるㅇはパスパ文字にならったもの(音価はw)としている。 以上よりハングルの子音字母は、[[ブラーフミー系文字]](究極的には[[ヒエログリフ]])に由来するㄱ ㄷ ㄹ ㅂ ㅈと独自に開発されたㅇの計六つの字母を基本とし、[[中国音韻学]]に基づいて他の字母をそれらの変形により派生させたものとなる。母音字母については、朝鮮語の音韻にあわせて独自に作られたものとしている。 ハングル成立に先立って[[契丹文字]]、[[女真文字]]、[[西夏文字]]、パスパ文字等の様々な民族文字が先行・成立していたことが重要であり、ハングルはそれら民族文字の最終走者であり、特にパスパ文字はアジア初の体系的[[表音文字]]であるため、その表音文字という発想がハングル成立に巨大な刺激を与えており、ハングルがパスパ文字の巨大な影響を受け作成されたのは、[[モンゴル帝国]]に支配されていた記憶が生々しい李氏朝鮮初期にハングルが作成されたことが傍証であるという<ref name="sekai12">{{Cite book|和書|author1=岸本美緒|authorlink1=岸本美緒|author2=宮嶋博史|authorlink2=宮嶋博史|date=1998年|title=明清と李朝の時代 「世界の歴史12」|publisher=[[中央公論社]]|ISBN=978-4124034127|ref={{SfnRef|岸本美緒・宮嶋博史|1998}}}}p41</ref><ref>[[伊藤英人]]「朝鮮半島における言語接触」[[東京外国語大学]]語学研究所論集、第18号、p80</ref>。 ===韓国・北朝鮮における表記の違い === {{main|[[朝鮮語の南北差]]}} 韓国と北朝鮮では、字母の扱いや、辞書における見出し語の配列などが異なる。韓国は[[ソウル方言]]に、北朝鮮は平壌方言に依拠しているため、発音も若干異なる{{Efn2|例:有声歯茎破擦音は一律平音の「{{Lang|ko|ㅈ}}{{IPA|j}}」で表記し、有声歯茎硬口蓋破擦音は「{{Lang|ko|ㅈ}}」の後に「{{Lang|ko|ㅣ}}{{IPA|i}}」か点が2つある母音字 {{IPA|y}} で表記する。日本語で言うなら北朝鮮ではザとジャを区別するが韓国では区別しないということである。無声歯茎破擦音は激音の「{{Lang|ko|ㅊ}}{{IPA|c}}」で表記し、無声歯茎硬口蓋破擦音は「{{Lang|ko|ㅊ}}」の後に「{{Lang|ko|ㅣ}}{{IPA|i}}」か点が2つある母音字 {{IPA|y}} で表記する。日本語で言うなら北朝鮮ではツとチュを区別するが韓国では区別しないということである。}}。 === ローマ字表記 === [[文化観光部2000年式]]、[[マッキューン=ライシャワー式]]、北朝鮮1992年式などがある。 {{Main|朝鮮語のローマ字表記法}} == 文字コード == === 完成型と組合型 === 字母を組み合わせて作られる文字の理論上の組み合わせは11,172文字だが、実際に使用されるのはその半分以下である(1987年に韓国の国家標準となったコンピュータ用の文字セット(KS完成型、[[KS X 1001|KS C 5601-1987]])には日常の99%が表記できる範囲として2,350字しか含まれなかった)。なお、1994-1995年ごろまでは11,172文字全部を表現できる文字セット(組合型、johab)が圧倒的に多く使われていたが、[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]でKS完成型を拡張した文字セット(拡張完成型、[[CP949|UHC]] (Unified Hangul Code))を採用し、後のWindowsにも使用されたため、現在は組合型文字セットはほとんど使われていない。なお、[[Windows NT系]]ではUnicode 2.0(KS C 5700、現:KS X 1005-1)以降をサポートしている。 === Unicode === [[ファイル:Hangul keyboard.jpg|right|thumb|ハングルのキーボード]] [[Unicode]] にはハングルを符号化するための文字が数種類あり、標準的に使用されるものは、ハングル字母(U+1100-11FF)とハングル音節文字(U+AC00-D7A3)である。ハングル字母はハングルを構成する字母で、これらを合成する事により15世紀から現代までのハングル音節文字を作成できる。U+1100-115F は初声子音、U+1160-11A2 は中声母音、U+11A8-11F9 は終声子音が定義されている。ハングル音節文字は、2 つの字母からなる音節 399 文字、3 つの字母からなる音節 10,773 文字の合計 11,172 文字で構成されている。この他にハングル互換字母(U+3130-318F)があるが、KS完成型(KS C 5601-1987、現:KS X 1001:1998)との互換性のために存在する。 Unicode では、Unicode 1.1 以前と Unicode 2.0 以降ではハングルを定義する領域が異なっており互換性がない。Unicode 1.1 までは U+3400-4DFF にハングルが定義されていたが、Unicode 2.0 制定時に、新しく U+AC00-D7AF にハングルが定義され旧領域は破棄された。その際、韓国の要求により KS C 5601-1992 の組合型文字セットに基づく現代ハングル音節文字 11,172文字 が網羅されている。なお Unicode 2.0 で破棄された領域は、Unicode 3.0 制定時に[[CJK統合漢字]]拡張 A 集合として U+3400-4DBF に定義され、Unicode 4.0 制定時に[[易経記号]]集合として U+4DC0-4DFF に定義されている。一方、半角ハングルはUnicode 1.0から一貫して{{仮リンク|半角・全角形|en|Halfwidth and Fullwidth Forms (Unicode block)}}ブロックのU+FFA0-FFBE、U+FFC2-FFC7、U+FFCA-FFCF、U+FFD2-FFD7、U+FFDA-FFDCで定義されている。 2019年3月現在、現代朝鮮語を表現するのに、Microsoft系のOS([[Microsoft Windows 10|Windows 10]]など)では完成型(U+AC00-D7AF)が、Mac系のOS([[iOS]]や[[macOS Mojave]]など)では組合型(U+1100-11F9)が用いられており、Mac系で作成されたファイルのファイル名のハングル部分が、Windows系のエクスプローラーで初・中・終声で分かれて表示されることがある。 === 子音番号 === {| class="wikitable" | ㄱ<br /> | ㄲ | ㄴ | ㄷ | ㄸ | ㄹ | ㅁ | ㅂ | ㅃ | ㅅ | ㅆ | ㅇ | ㅈ | ㅉ | ㅊ | ㅋ | ㅌ | ㅍ | ㅎ |- | 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |} === 母音番号 === {| class="wikitable" | ㅏ | ㅐ | ㅑ | ㅒ | ㅓ | ㅔ | ㅕ | ㅖ | ㅗ | ㅘ | ㅙ | ㅚ | ㅛ | ㅜ | ㅝ | ㅞ | ㅟ | ㅠ | ㅡ | ㅢ | ㅣ |- | 0<br /> | 1<br /> | 2<br /> | 3<br /> | 4<br /> | 5<br /> | 6<br /> | 7<br /> | 8<br /> | 9<br /> | 10<br /> | 11<br /> | 12<br /> | 13<br /> | 14<br /> | 15<br /> | 16<br /> | 17<br /> | 18<br /> | 19<br /> | 20<br /> |} === パッチム番号 === {| class="wikitable" | | <nowiki>*</nowiki><br /> | ㄱ<br /> | ㄲ | ㄳ | ㄴ | ㄵ | ㄶ | ㄷ | ㄹ | ㄺ | ㄻ | ㄼ | ㄽ | ㄾ | ㄿ | ㅀ | ㅁ | ㅂ | ㅄ | ㅅ | ㅆ | ㅇ | ㅈ | ㅊ | ㅋ | ㅌ | ㅍ | ㅎ |- | 0<br /> | 1<br /> | 2<br /> | 3<br /> | 4<br /> | 5<br /> | 6<br /> | 7<br /> | 8<br /> | 9<br /> | 10<br /> | 11<br /> | 12<br /> | 13<br /> | 14<br /> | 15<br /> | 16<br /> | 17<br /> | 18<br /> | 19<br /> | 20<br /> | 21<br /> | 22<br /> | 23<br /> | 24<br /> | 25<br /> | 26<br /> | 27<br /> |} ハングルのユニコード番号は <code>0xAC00 + (子音番号 * 21 * 28) + (母音番号 * 28) + (パッチム番号)</code> で求めることができる。 パッチムの表にある * はパッチムが何もつかないことを表す。 == その他 == === チアチア語へのハングル導入 === {{Main|チアチア語}} 2009年には、ハングル世界化プロジェクトによって、[[インドネシア]]の少数民族[[チアチア族]]が[[チアチア語]]の文字表記にハングルを導入した<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2009/08/06/0800000000AJP20090806000800882.HTML インドネシアの少数民族、ハングルを公式文字に採択] 聯合ニュース 2009/08/06。東亜日報2009/8/12</ref>。韓国の[[訓民正音学会]]が中心となって、チアチア語のハングル表記をすすめた<ref name="chosonshogaku" />。 チアチア語にはアルファベットやアラビア文字では表せない音があるが、ハングルなら表記が可能であるかもしれないと採用された<ref>「インドネシア 文字持たぬ少数民族 ハングル採用」読売新聞2009年10月17日</ref>。チアチア語は「固有の文字を持たず、固有語を失う危機にあった」ため、韓国の団体が提案し、2009年7月、バウバウ市にてハングル普及覚書を交わした<ref name="chosonshogaku" />。 一方、バウバウ市はインドネシア政府と相談せずに導入を決定しており<ref name="chosonshogaku" />、インドネシア政府もハングルを公式文字として採用していないと発表している<ref>[http://www.koreatimes.co.kr/www/news/nation/2010/10/116_74158.html インドネシア政府、ハングルを公式文字として採用せず] コリアンタイムズ 2010/10/07</ref>。また、この表記法はチアチア語の音韻を反映するものではなく、朝鮮語の事情にあわせて作成されたものであり、[[趙義成]]は「アジアの一半島とその周辺でしか用いない文字をあえて採用する必要はない」として、世界的に汎用性のある[[ラテン文字]]でチアチア語を表記した方がはるかに合理的で効率的であるとした<ref name="chosonshogaku" />。 2018年に放送された韓国のテレビ番組によれば、村の看板や教科書などでいまだに使われている<ref>{{Cite web|title=한글 도입한 인도네시아 `찌아찌아족` 요즘은 - 매일경제|url=https://www.mk.co.kr/news/society/view/2018/10/627351/|website=mk.co.kr|accessdate=2019-04-22|language=ko|publisher=毎日経済新聞「매일경제신문」}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=小倉進平|authorlink=小倉進平|title=増訂 朝鮮語学史|year=1940|publisher=刀江書院|doi=10.11501/1126653}} * 野間秀樹『ハングルの誕生:音から文字を創る』平凡社新書、2010年 * {{Cite book|和書|author=金東昭|title=韓国語変遷史|year=2003|translator=栗田英二|publisher=明石書店|isbn=4750317144}} * {{Cite book|和書|author=姜信沆|title=ハングルの成立と歴史|year=1993|publisher=[[大修館書店]]|isbn=4469211796}} * 趙義成「チアチア語のハングル表記体系について」学術論文集28、2011.朝鮮奨学会 * {{Cite journal|和書|author=朴鎮浩(パク・ジノ)|title=民のための表音文字|year=2021|publisher=The Korea Foundation|location=済州特別自治道西帰浦市|journal=Koreana|volume=28|issue=3|issn=1225-4592|ref={{SfnRef|朴鎮浩|2021}} }} * Ledyard, Gari K. (1998). The Korean Language Reform of 1446. Seoul: Shingu munhwasa. * Ledyard, Gari K. (1997). "The International Linguistic Background of the Correct Sounds for the Instruction of the People". In Young-Key Kim-Renaud, ed. The Korean Alphabet: Its History and Structure. Honolulu: University of Hawai'i Press. == 関連項目 == {{Commons&cat|Hunminjeongeum|Hangul}} {{Wikibooks|朝鮮語/入門/書法と発音|ハングル}} {{Wiktionary|ハングル}} * [[ハングル専用文と漢字ハングル混じり文]] * [[ハングルの書体]] *[[燕山君]] - ハングル禁止令を出した朝鮮王 * [[ハングルの日]] * [[漢字復活論]] * [[音素文字]] * [[阿比留文字]] * [[日本語のハングル表記]] == 外部リンク == * [http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/korean/index.html 趙義成 ― 朝鮮語の部屋] * [http://www.nacos.com/moji/64.htm 朝鮮文字(ハングル) Korean character] - 中西印刷 * 「[https://k-topmedia.com/hangul-characters-learn/ ハングル文字の覚え方]」K-TOP MEDIA * {{Kotobank}} <!---オンライン辞書などは多数あるが、ここはまとめサイトではない。---> {{朝鮮}} {{文字}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はんくる}} [[Category:表音文字]] [[Category:朝鮮]] [[Category:朝鮮語]] [[Category:ハングル|*]] [[Category:アジアの文字]] [[Category:ブラーフミー系文字]]
2003-08-01T08:43:28Z
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用宗駅
用宗駅(もちむねえき)は、静岡県静岡市駿河区用宗城山町にある、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅。静岡市最南端の駅である。駅番号はCA19。 運行形態の詳細は「東海道線 (静岡地区)」を参照。 単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを持つ地上駅。2・3番線が本線、1番線は下り副本線であるが、上り方面への折り返しも可能な配線となっている。この他、保線車両留置用の側線がある。2つのホームは跨線橋で繋がっている。エレベーター設置駅。 東海交通事業の職員が業務を担当する業務委託駅で、静岡駅が当駅を管理している。駅舎内にはJR全線きっぷうりばなどが置かれている。早朝・夜間は無人となる。 (出典:JR東海:駅構内図) かつては、駅北にある巴川製紙所静岡事業所や住友セメント用宗サービスステーション(閉鎖)への専用線があった。 「静岡県統計年鑑」によると、2019年(令和元年)度の1日平均乗車人員は1,517人である。 近年の推移は以下のとおりである。
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用宗駅(もちむねえき)は、静岡県静岡市駿河区用宗城山町にある、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅。静岡市最南端の駅である。駅番号はCA19。 運行形態の詳細は「東海道線 (静岡地区)」を参照。
{{駅情報 |社色 = #f77321 |文字色 = |駅名 = 用宗駅 |画像 = JR Central Mochimune Station building.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 駅舎(2022年9月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|34|55|21.41|N|138|21|36.36|E}}}}<!--地図が表示されないバグを防止するため、座標を挿入しています。--> |よみがな = もちむね |ローマ字 = Mochimune |前の駅 = CA18 [[安倍川駅|安倍川]] |駅間A = 2.1 |駅間B = 7.1 |次の駅 = [[焼津駅|焼津]] CA20 |所属事業者 = [[東海旅客鉄道]](JR東海) |所属路線 = {{JR海駅番号|CA}} [[東海道本線]]([[東海道線 (静岡地区)|静岡地区]]) |電報略号 = ムネ |駅番号 = {{JR海駅番号|CA|19}} |キロ程 = 186.6 |起点駅 = [[東京駅|東京]] |所在地 = [[静岡市]][[駿河区]]用宗城山町4番1号 |座標 = {{coord|34|55|21.41|N|138|21|36.36|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 2面3線 |開業年月日 = [[1909年]]([[明治]]42年)[[11月1日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = 1,517<!--静岡県統計年鑑による--> |乗降人員 = |統計年度 = 2019年 |備考 = [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]](夜間[[無人駅]])<!--←JR東海の表記--><br/>[[みどりの窓口|JR全線きっぷうりば]] 有 }} '''用宗駅'''(もちむねえき)は、[[静岡県]][[静岡市]][[駿河区]]用宗城山町にある、[[東海旅客鉄道]](JR東海)[[東海道本線]]の[[鉄道駅|駅]]。静岡市最南端の駅である。[[駅ナンバリング#JR東海|駅番号]]は'''CA19'''。 運行形態の詳細は「[[東海道線 (静岡地区)]]」を参照。 == 歴史 == * [[1909年]]([[明治]]42年)[[11月1日]]:開業。[[日本の鉄道駅#一般駅|一般駅]]。 * [[1974年]]([[昭和]]49年)[[4月6日]]:[[専用鉄道|専用線]]発着を除く貨物の取扱を廃止。 * [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]]:[[チッキ]]の取扱を廃止。 * [[1986年]](昭和61年)11月1日:[[車扱貨物]]の取扱を全廃。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、東海旅客鉄道(JR東海)の駅となる。 * [[2008年]]([[平成]]20年)[[3月1日]]:[[ICカード]]「[[TOICA]]」の利用が可能となる。 * [[2011年]](平成23年)[[9月30日]]:駅改札外にある[[KIOSK]]が閉店。 * [[2014年]](平成26年)[[11月29日]]:[[バリアフリー]]整備が完了。新しく専用の跨線橋と障がい者対応エレベーターの供用開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000024805.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160331142732/http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000024805.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東海道本線 用宗駅エレベーター等使用開始について|publisher=東海旅客鉄道|date=2014-11-14|accessdate=2020-12-24|archivedate=2016-03-31}}</ref>。 == 駅構造 == [[単式ホーム]]1面1線と[[島式ホーム]]1面2線、合計2面3線のホームを持つ[[地上駅]]。2・3番線が[[停車場#本線|本線]]、1番線は下り[[停車場#本線|副本線]]であるが、上り方面への折り返しも可能な配線となっている。この他、保線車両留置用の[[停車場#側線|側線]]がある。2つのホームは[[跨線橋]]で繋がっている。エレベーター設置駅。 [[東海交通事業]]の職員が業務を担当する[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]で、[[静岡駅]]が当駅を管理している。駅舎内には[[みどりの窓口|JR全線きっぷうりば]]などが置かれている。早朝・夜間は無人となる。 === のりば === <!--方面表記は、JR東海のHPの「駅構内図」の記載に準拠--> {| class="wikitable" !番線!!路線!!方向!!行先!!備考 |- !1 |rowspan="3"|{{JR海駅番号|CA}} 東海道本線 |rowspan="2" style="text-align:center" | 下り |rowspan="2"|[[浜松駅|浜松]]・[[豊橋駅|豊橋]]方面 |平日1本のみ<ref group="注釈">18:18発浜松行き(2021年3月改正時点)</ref> |- !2 |&nbsp; |- !3 |style="text-align:center" | 上り |[[静岡駅|静岡]]・[[沼津駅|沼津]]方面 |&nbsp; |} (出典:[https://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/mochimune/map.html JR東海:駅構内図]) かつては、駅北にある[[巴川製紙所]]静岡事業所や[[住友大阪セメント|住友セメント]][[セメント包装所|用宗サービスステーション]](閉鎖)への[[専用鉄道|専用線]]があった。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JR Central Mochimune Station Gate.jpg|改札口(2022年9月) JR Central Mochimune Station Vending Machine.jpg|自動券売機(2022年9月) JR Central Mochimune Station Platform 1.jpg|1番線ホーム(2022年9月) JR Central Mochimune Station Platform 2・3.jpg|2・3番線ホーム(2022年9月) </gallery> == 利用状況 == 「静岡県統計年鑑」によると、[[2019年]](令和元年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''1,517人'''である<ref group="利用客数" name="r1_11_06" />。 近年の推移は以下のとおりである。 {|class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;" |- style="background: #ddd;" !colspan="3"|乗車人員推移 |- !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1993年(平成{{0}}5年) |style="text-align:right;"|2,373 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_14.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=285|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/1993_h05.html 静岡県統計年鑑1993(平成5年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702160322/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_14.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |style="text-align:right;"|2,146 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_13.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=285|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/1994_h06.html 静岡県統計年鑑1994(平成6年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702160734/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_13.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |style="text-align:right;"|2,099 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_12.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=285|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/1995_h07.html 静岡県統計年鑑1995(平成7年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702160945/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_12.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |style="text-align:right;"|2,098 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_11.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=290|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/1996_h08.html 静岡県統計年鑑1996(平成8年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702161231/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_11.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |style="text-align:right;"|2,036 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_10.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=290|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/1997_h09.html 静岡県統計年鑑1997(平成9年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702161526/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_10.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |1998年(平成10年) |style="text-align:right;"|1,902 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_9.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=290|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/1998_h10.html 静岡県統計年鑑1998(平成10年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702161708/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_9.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |1999年(平成11年) |style="text-align:right;"|1,936 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_8.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=290|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/1999_h11.html 静岡県統計年鑑1999(平成11年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702161842/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_8.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2000年(平成12年) |style="text-align:right;"|1,861 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_7.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=338|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2000_h12.html 静岡県統計年鑑2000(平成12年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702162002/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_7.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2001年(平成13年) |style="text-align:right;"|1,793 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_6.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=282|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2001_h13.html 静岡県統計年鑑2001(平成13年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702162216/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_6.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2002年(平成14年) |style="text-align:right;"|1,758 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_5.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=282|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2002_h14.html 静岡県統計年鑑2002(平成14年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702162415/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_5.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2003年(平成15年) |style="text-align:right;"|1,760 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_4.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=284|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2003_h15.html 静岡県統計年鑑2003(平成15年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702162605/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_4.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2004年(平成16年) |style="text-align:right;"|1,733 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_3.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2004_h16.html 静岡県統計年鑑2004(平成16年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702162757/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_3.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2005年(平成17年) |style="text-align:right;"|1,734 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h17_11_6.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2005_h17.html 静岡県統計年鑑2005(平成17年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702162952/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h17_11_6.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2006年(平成18年) |style="text-align:right;"|1,715 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_01-02_2.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2006_h18.html 静岡県統計年鑑2006(平成18年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702163144/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_01-02_2.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2007年(平成19年) |style="text-align:right;"|1,738 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_01-02_3.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2007_h19.html 静岡県統計年鑑2007(平成19年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702163319/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_01-02_3.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2008年(平成20年) |style="text-align:right;"|1,768 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_01-02.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2008_h20.html 静岡県統計年鑑2008(平成20年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702163546/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_01-02.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2009年(平成21年) |style="text-align:right;"|1,667 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2009_h21.html 静岡県統計年鑑2009(平成21年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702163756/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2010年(平成22年) |style="text-align:right;"|1,613 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_1.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2010_h22.html 静岡県統計年鑑2010(平成22年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702163937/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_1.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2011年(平成23年) |style="text-align:right;"|1,562 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_23.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2011_h23.html 静岡県統計年鑑2011(平成23年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702164120/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_23.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2012年(平成24年) |style="text-align:right;"|1,534 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h24_11_06.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2012_h24.html 静岡県統計年鑑2012(平成24年)]|publisher=静岡県|date=2014-05-01|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702164307/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h24_11_06.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2013年(平成25年) |style="text-align:right;"|1,563 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h25_11_06.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2013_h25.html 静岡県統計年鑑2013(平成25年)]|publisher=静岡県|date=2015-05-11|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702164435/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h25_11_06.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2014年(平成26年) |style="text-align:right;"|1,548 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h26_11_06.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2014_h26.html 静岡県統計年鑑2014(平成26年)]|publisher=静岡県|date=2016-05-02|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702164652/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h26_11_06.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2015年(平成27年) |style="text-align:right;"|1,544 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h27_11_06.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2015_h27.html 静岡県統計年鑑2015(平成27年)]|publisher=静岡県|date=2017-05-02|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702164819/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h27_11_06.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2016年(平成28年) |style="text-align:right;"|1,531 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h28_11_06.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2016_h28.html 静岡県統計年鑑2016(平成28年)]|publisher=静岡県|date=2018-03-29|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702164946/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h28_11_06.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2017年(平成29年) |style="text-align:right;"|1,537 |<ref group="利用客数" name="h29_11_06">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h29_11_06.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2017_h29.html 静岡県統計年鑑2017(平成29年)]|publisher=静岡県|date=2019-03-27|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702165102/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h29_11_06.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2018年(平成30年) |style="text-align:right;"|1,505 |<ref group="利用客数" name="h30_11_06">{{Cite web|和書|url=https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h30_11_06.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2018_h30.html 静岡県統計年鑑2018(平成30年)]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200605223916/https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h30_11_06.pdf|archivedate=2020-06-05|publisher=静岡県|date=2020-03-17|accessdate=2020-08-19}}</ref> |- |2019年(令和元年) |style="text-align:right;"|1,517 |<ref group="利用客数" name="r1_11_06">{{Cite web|和書|url=https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/r01_11_06.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2019_r01.html 静岡県統計年鑑2019(令和元年)]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210324040622/https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/r01_11_06.pdf|archivedate=2021-03-24|publisher=静岡県|date=2021-03-23|accessdate=2021-03-24}}</ref> |} == 駅周辺 == [[File:ファイル Aerial photograph of mochimune, Shizuoka.jpg|thumb|right|250px|用宗駅周辺の空中写真。{{国土航空写真}}1988年。]] * [[用宗漁港]] * 用宗海岸 * [[静岡県道416号静岡焼津線]] * [[持船城|用宗城]]跡 === バス路線 === * [[しずてつジャストライン]] ** 93[[しずてつジャストライン丸子営業所#用宗線|用宗線]](新静岡~用宗駅前) *** 最寄り停留所名は用宗駅前。 == 隣の駅 == <!--ホームライナーは列車の性質上、優等列車と同等扱いとする---> ; 東海旅客鉄道(JR東海) : {{JR海駅番号|CA}} 東海道本線 :: [[安倍川駅]] (CA18) - '''用宗駅 (CA19)''' - [[焼津駅]] (CA20) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist}} === 利用状況 === {{Reflist|group="利用客数"|3}} == 関連項目 == {{Commonscat|Mochimune Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[東海道線 (静岡地区)]] == 外部リンク == * [https://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/mochimune/ JR東海 用宗駅] {{東海道本線 (JR東海)|mode=1}} {{DEFAULTSORT:もちむね}} [[Category:駿河区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 も|ちむね]] [[Category:東海旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:1909年開業の鉄道駅]] [[Category:東海道線 (JR東海)]]
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由比駅
由比駅(ゆいえき)は、静岡県静岡市清水区由比今宿にある、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅である。駅番号はCA12。 運行形態の詳細は「東海道線 (静岡地区)」を参照。 元々由比は東海道五十三次16番目の宿場町であり、現在の東海道本線に当たる官設鉄道線の開業時から駅設置の請願が出されていた。しかし実現の見込みがなかったため、折衷案として隣の蒲原町で蒲原駅設置の運動が丁度起こっており、同駅を蒲原宿と由比宿のあった間である旧堰沢村の位置へ、国府津 - 静岡間の開業翌年である1890年に設置することにした。 しかしそれでも由比町では、同地で産出される海産物や果物を運び出すには鉄道が不可欠と考え、1913年に再び駅設置の請願書を国有鉄道を当時管理していた鉄道院に提出、2年半後にようやくそれが認められて駅が設置される事になった。 単式ホーム2面2線と島式ホーム1面2線を有する地上駅。北側から駅舎、単式ホーム、島式ホーム、単式ホームの順に並んでいる。島式ホームの2・3番線が本線、単式ホームの1・4番線が副本線となっており、一部の普通列車が1・4番線で特急列車や貨物列車、ホームライナーを待避する。3つのホームは跨線橋で連絡している。 東海交通事業の職員が業務を担当する業務委託駅で、富士川駅が当駅を管理している。駅舎内にはJR全線きっぷうりばや自動改札機などが設置されている。早朝・夜間は無人となる。 毎年5月3日に当駅至近の由比漁港で開催される由比桜えびまつりに合わせて、臨時列車が設定されている。当駅では折り返しが行えないため、当駅始発の列車は折り返しが行える富士駅や東田子の浦駅から当駅までは回送で運転されている。 ただし、2014年の台風18号による復旧工事中は、富士 - 由比間での折り返し運転が行われ、由比行きが一時的に設定されていた。(この時は東京寄りにある渡り線を使用しての折り返し) (出典:JR東海:駅構内図) 「静岡県統計年鑑」によると、2019年(令和元年)度の1日平均乗車人員は1,388人である。 近年の推移は以下のとおりである。 「由比駅」停留所にて、静岡市のコミュニティバス(運行は信興バスが委託)が発着する。 寺尾橋・由比駅上から蒲原病院を経て富士駅方面へ運行していた富士急静岡バスの廃止に伴い、2019年10月1日より蒲原病院への自主運行バスを運行開始。 富士急は、廃止より前の時代には当駅から西、興津駅まで行く便も存在した。興津方面への廃止により、東京 - 清水・静岡方面を路線バスを乗り継いで行き来することは不可能になった。
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由比駅(ゆいえき)は、静岡県静岡市清水区由比今宿にある、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅である。駅番号はCA12。 運行形態の詳細は「東海道線 (静岡地区)」を参照。
{{駅情報 |社色 = #f77321 |文字色 = |駅名 = 由比駅 |画像 = JR Tōkaidō Line Yui Station building.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 駅舎(2022年7月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}} |よみがな = ゆい |ローマ字 = Yui |前の駅 = CA11 [[蒲原駅|蒲原]] |駅間A = 3.5 |駅間B = 5.9 |次の駅 = [[興津駅|興津]] CA13 |所属事業者 = [[東海旅客鉄道]](JR東海) |所属路線 = {{JR海駅番号|CA}} [[東海道本線]]([[東海道線 (静岡地区)|静岡地区]]) |電報略号 = ユイ |駅番号 = {{JR海駅番号|CA|12}} |キロ程 = 158.4 |起点駅 = [[東京駅|東京]] |所在地 = [[静岡市]][[清水区]]由比今宿 |座標 = {{coord|35|5|49.9|N|138|33|9.8|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 3面4線 |開業年月日 = [[1916年]]([[大正]]5年)[[4月15日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = 1,388<!--静岡県統計年鑑による--> |乗降人員 = |統計年度 = 2019年 |備考 = [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]](夜間[[無人駅]])<!--←JR東海の表記--><br/>[[みどりの窓口|JR全線きっぷうりば]] 有 }} '''由比駅'''(ゆいえき)は、[[静岡県]][[静岡市]][[清水区]]由比今宿にある、[[東海旅客鉄道]](JR東海)[[東海道本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング#JR東海|駅番号]]は'''CA12'''。 運行形態の詳細は「[[東海道線 (静岡地区)]]」を参照。 == 歴史 == 元々由比は[[東海道五十三次]]16番目の[[宿場]]町であり、現在の東海道本線に当たる官設鉄道線の開業時から駅設置の請願が出されていた。しかし実現の見込みがなかったため、折衷案として隣の[[蒲原町]]で[[蒲原駅]]設置の運動が丁度起こっており、同駅を[[蒲原宿]]と[[由比宿]]のあった間である旧堰沢村の位置へ、[[国府津駅|国府津]] - [[静岡駅|静岡]]間の開業翌年である[[1890年]]に設置することにした。 しかしそれでも[[由比町]]では、同地で産出される海産物や果物を運び出すには鉄道が不可欠と考え、[[1913年]]に再び駅設置の請願書を国有鉄道を当時管理していた[[鉄道院]]に提出、2年半後にようやくそれが認められて駅が設置される事になった。 === 年表 === * [[1916年]]([[大正]]5年)[[4月15日]]:[[日本国有鉄道|国有鉄道]]東海道本線の蒲原 - 興津間に新設開業。[[日本の鉄道駅#一般駅|一般駅]]。 * [[1971年]]([[昭和]]46年)[[10月1日]]:[[鉄道貨物|貨物]]の取扱を廃止。 * [[1979年]](昭和54年)[[3月]]:駅舎改築。 * [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]]:[[チッキ|荷物]]の取扱を廃止。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、東海旅客鉄道(JR東海)の駅となる。 * [[2008年]]([[平成]]20年)[[3月1日]]:[[TOICA]]のサービス開始。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月28日]]:エレベーターおよび多機能トイレの供用を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000040275.pdf|title=東海道本線 由比駅 エレベーター等の供用開始について|format=PDF|publisher=東海旅客鉄道|date=2020-03-12|accessdate=2020-03-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200312072424/https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000040275.pdf|archivedate=2020-03-12}}</ref>。 == 駅構造 == [[単式ホーム]]2面2線と[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]。北側から駅舎、単式ホーム、島式ホーム、単式ホームの順に並んでいる。島式ホームの2・3番線が[[停車場#本線|本線]]、単式ホームの1・4番線が[[停車場#本線|副本線]]となっており、一部の普通列車が1・4番線で特急列車や貨物列車、ホームライナーを待避する。3つのホームは[[跨線橋]]で連絡している。 [[東海交通事業]]の職員が業務を担当する[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]で、[[富士川駅]]が当駅を管理している。駅舎内には[[みどりの窓口|JR全線きっぷうりば]]や[[自動改札機]]などが設置されている。早朝・夜間は無人となる。 毎年5月3日に当駅至近の[[由比漁港]]で開催される由比桜えびまつりに合わせて、臨時列車が設定されている。当駅では折り返しが行えないため、当駅始発の列車は折り返しが行える[[富士駅]]や[[東田子の浦駅]]から当駅までは回送で運転されている。 ただし、[[平成26年台風第18号|2014年の台風18号]]による復旧工事中は、富士 - 由比間での折り返し運転が行われ、由比行きが一時的に設定されていた。(この時は東京寄りにある渡り線を使用しての折り返し) === のりば === <!--方面表記は、JR東海のHPの「駅構内図」の記載に準拠--> {| class="wikitable" !番線<!--事業者側による呼称--->!!路線!!方向!!行先!!備考 |- !1・2 |rowspan="2"|{{JR海駅番号|CA}} 東海道本線 |style="text-align:center" | 上り |[[沼津駅|沼津]]・[[熱海駅|熱海]]方面 | 1番線は平日2本、土休日1本のみ<ref>[https://railway.jr-central.co.jp/time-schedule/srch/_pdf/data/202103/tokaido_Yui_B_wh_u.pdf 駅の時刻表-由比駅(平休)(上り)]</ref><ref group="注釈">2021年3月改正時点では、8:35発熱海行き普通と平日のみ18:19発熱海行き普通が1番線より発車</ref>。 |- !3・4 |style="text-align:center" | 下り |[[静岡駅|静岡]]・[[浜松駅|浜松]]方面 |4番線は現在、定期列車の発着はなし。 |} (出典:[https://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/yui/map.html JR東海:駅構内図]) <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> JR Tōkaidō Line Yui Station Gate.jpg|改札口(2022年7月) JR Tōkaidō Line Yui Station Platform 1.jpg|1番線ホーム(2022年7月) JR Tōkaidō Line Yui Station Platform 2・3.jpg|2・3番線ホーム(2022年7月) JR Tōkaidō Line Yui Station Platform 4.jpg|4番線ホーム(2022年7月) </gallery> == 利用状況 == 「静岡県統計年鑑」によると、[[2019年]](令和元年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''1,388人'''である<ref group="利用客数" name="r1_11_06" />。 近年の推移は以下のとおりである。 {|class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;" |- style="background: #ddd;" !colspan="3"|乗車人員推移 |- !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1993年(平成{{0}}5年) |style="text-align:right;"|1,634 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_14.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=285|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/1993_h05.html 静岡県統計年鑑1993(平成5年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702160322/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_14.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |style="text-align:right;"|1,488 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_13.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=285|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/1994_h06.html 静岡県統計年鑑1994(平成6年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702160734/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_13.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |style="text-align:right;"|1,429 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_12.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=285|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/1995_h07.html 静岡県統計年鑑1995(平成7年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702160945/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_12.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |style="text-align:right;"|1,412 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_11.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=290|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/1996_h08.html 静岡県統計年鑑1996(平成8年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702161231/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_11.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |style="text-align:right;"|1,312 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_10.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=290|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/1997_h09.html 静岡県統計年鑑1997(平成9年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702161526/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_10.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |1998年(平成10年) |style="text-align:right;"|1,274 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_9.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=290|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/1998_h10.html 静岡県統計年鑑1998(平成10年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702161708/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_9.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |1999年(平成11年) |style="text-align:right;"|1,225 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_8.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=290|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/1999_h11.html 静岡県統計年鑑1999(平成11年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702161842/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_8.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2000年(平成12年) |style="text-align:right;"|1,183 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_7.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=338|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2000_h12.html 静岡県統計年鑑2000(平成12年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702162002/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_7.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2001年(平成13年) |style="text-align:right;"|1,134 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_6.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=282|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2001_h13.html 静岡県統計年鑑2001(平成13年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702162216/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_6.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2002年(平成14年) |style="text-align:right;"|1,115 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_5.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=282|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2002_h14.html 静岡県統計年鑑2002(平成14年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702162415/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_5.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2003年(平成15年) |style="text-align:right;"|1,318 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_4.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|page=284|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2003_h15.html 静岡県統計年鑑2003(平成15年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702162605/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_4.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2004年(平成16年) |style="text-align:right;"|1,605 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_3.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2004_h16.html 静岡県統計年鑑2004(平成16年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702162757/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_3.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2005年(平成17年) |style="text-align:right;"|1,702 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h17_11_6.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2005_h17.html 静岡県統計年鑑2005(平成17年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702162952/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h17_11_6.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2006年(平成18年) |style="text-align:right;"|1,703 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_01-02_2.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2006_h18.html 静岡県統計年鑑2006(平成18年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702163144/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_01-02_2.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2007年(平成19年) |style="text-align:right;"|1,737 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_01-02_3.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2007_h19.html 静岡県統計年鑑2007(平成19年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702163319/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_01-02_3.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2008年(平成20年) |style="text-align:right;"|1,657 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_01-02.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2008_h20.html 静岡県統計年鑑2008(平成20年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702163546/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_01-02.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2009年(平成21年) |style="text-align:right;"|1,659 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2009_h21.html 静岡県統計年鑑2009(平成21年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702163756/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2010年(平成22年) |style="text-align:right;"|1,658 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_1.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2010_h22.html 静岡県統計年鑑2010(平成22年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702163937/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_1.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2011年(平成23年) |style="text-align:right;"|1,627 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_23.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2011_h23.html 静岡県統計年鑑2011(平成23年)]|publisher=静岡県|date=2013-05-09|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702164120/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/11_06_23.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2012年(平成24年) |style="text-align:right;"|1,703 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h24_11_06.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2012_h24.html 静岡県統計年鑑2012(平成24年)]|publisher=静岡県|date=2014-05-01|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702164307/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h24_11_06.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2013年(平成25年) |style="text-align:right;"|1,762 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h25_11_06.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2013_h25.html 静岡県統計年鑑2013(平成25年)]|publisher=静岡県|date=2015-05-11|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702164435/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h25_11_06.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2014年(平成26年) |style="text-align:right;"|1,555 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h26_11_06.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2014_h26.html 静岡県統計年鑑2014(平成26年)]|publisher=静岡県|date=2016-05-02|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702164652/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h26_11_06.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2015年(平成27年) |style="text-align:right;"|1,656 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h27_11_06.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2015_h27.html 静岡県統計年鑑2015(平成27年)]|publisher=静岡県|date=2017-05-02|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702164819/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h27_11_06.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2016年(平成28年) |style="text-align:right;"|1,607 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h28_11_06.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2016_h28.html 静岡県統計年鑑2016(平成28年)]|publisher=静岡県|date=2018-03-29|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702164946/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h28_11_06.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2017年(平成29年) |style="text-align:right;"|1,587 |<ref group="利用客数" name="h29_11_06">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h29_11_06.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2017_h29.html 静岡県統計年鑑2017(平成29年)]|publisher=静岡県|date=2019-03-27|accessdate=2019-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190702165102/http://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h29_11_06.pdf|archivedate=2019-07-03}}</ref> |- |2018年(平成30年) |style="text-align:right;"|1,502 |<ref group="利用客数" name="h30_11_06">{{Cite web|和書|url=https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h30_11_06.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2018_h30.html 静岡県統計年鑑2018(平成30年)]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200605223916/https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/h30_11_06.pdf|archivedate=2020-06-05|publisher=静岡県|date=2020-03-17|accessdate=2020-08-19}}</ref> |- |2019年(令和元年) |style="text-align:right;"|1,388 |<ref group="利用客数" name="r1_11_06">{{Cite web|和書|url=https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/r01_11_06.pdf|title=6.鉄道運輸状況|format=PDF|work=[https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/2019_r01.html 静岡県統計年鑑2019(令和元年)]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210324040622/https://toukei.pref.shizuoka.jp/toukeikikakuhan/page/nenkan/documents/r01_11_06.pdf|archivedate=2021-03-24|publisher=静岡県|date=2021-03-23|accessdate=2021-03-24}}</ref> |} == 駅周辺 == [[File:Yui Station and Port of Yui.jpg|300px|thumb|薩埵峠方面から望む由比駅周辺、国道1号の富士由比バイパス、由比漁港と東名高速道路]] * [[国道1号]]([[富士由比バイパス]]) * [[東名高速道路]] * 旧[[東海道]] * 由比漁港 == バス路線 == <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> 「由比駅」停留所にて、静岡市の[[コミュニティバス]](運行は[[信興バス]]が委託)が発着する。 * 由比・蒲原病院線<ref name="kambarabyoin">{{Cite web|和書| url=https://www.city.shizuoka.lg.jp/000_004649_00002.html | title=由比・蒲原病院線自主運行バスについて |publisher=静岡市 | date=2021-02-05 |accessdate=2021-02-06}}</ref>:[[共立蒲原総合病院|蒲原病院]] * ゆいバス香木穴・倉沢コース<ref name="yuibus">{{Cite web|和書| url=https://www.city.shizuoka.lg.jp/000_004649.html | title=ゆいばす(由比地区自主運行バス)について |publisher=静岡市 | date=2021-02-05 |accessdate=2021-02-06}}</ref>:舟場入口 / 庵原分署 / 由比駅 ※月・水・金曜運行 * ゆいバス桜野・阿僧コース<ref name="yuibus" />:桜野会館/ 庵原分署 / 由比駅 ※火・木曜運行 寺尾橋・由比駅上から蒲原病院を経て[[富士駅]]方面へ運行していた[[富士急静岡バス]]の廃止{{refnest |group="注釈"|同社は蒲原病院 - 富士駅間の運行に短縮ののち、2021年4月2日をもって同区間からも撤退<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.shizuokabus.co.jp/2021/03/15/7524/ | title=蒲原病院線廃止のお知らせ | publisher=富士急静岡バス | date=2021-03-15 |accessdate=2021-07-01 }}</ref>。}}に伴い、2019年10月1日より蒲原病院への自主運行バスを運行開始<ref name="kambarabyoin"/>。 富士急は、廃止より前の時代には当駅から西、[[興津駅]]まで行く便も存在した。興津方面への廃止により、東京 - 清水・静岡方面を路線バスを乗り継いで行き来することは不可能になった。 == 隣の駅 == <!--ホームライナーは列車の性質上、優等列車と同等扱いとする---> ; 東海旅客鉄道(JR東海) : {{JR海駅番号|CA}} 東海道本線 :: 快速(下りのみ運転) ::: '''通過''' :: 普通 ::: [[蒲原駅]] (CA11) - '''由比駅 (CA12)''' - [[興津駅]] (CA13) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist}} === 利用状況 === {{Reflist|group="利用客数"|3}} == 関連項目 == * [[日本の鉄道駅一覧]] {{commonscat|Yui Station}} == 外部リンク == * [https://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/yui/ JR東海 由比駅] {{東海道本線 (JR東海)|mode=1}} {{DEFAULTSORT:ゆい}} 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固有値と固有ベクトル
数学の線型代数学において、線型変換の固有値(こゆうち、英: eigenvalue)とは、零ベクトルでないベクトルを線型変換によって写したときに、写された後のベクトルが写される前のベクトルのスカラー倍になっている場合の、そのスカラー量(拡大率)のことである。この零ベクトルでないベクトルを固有ベクトル(こゆうベクトル、英: eigenvector)という。この2つの用語を合わせて、固有対 (eigenpair) という。 固有値・固有ベクトルは線型変換の特徴を表す指標の一つである。 線形変換 T の固有値の一つを λ とすると、T の固有値 λ に関する固有ベクトルおよび零ベクトルは部分線形空間を形成し、固有空間 (英: eigenspace) という。 与えられた線型変換の固有値および固有ベクトルを求める問題のことを固有値問題 (英: eigenvalue problem) という。ヒルベルト空間論において線型作用素 あるいは線型演算子と呼ばれるものは線型変換であり、やはりその固有値や固有ベクトルを考えることができる。固有値という言葉は無限次元ヒルベルト空間論や作用素代数におけるスペクトルの意味でもしばしば使われる。 現在では、固有値の概念は行列論と絡めて導入されることが多いものの、歴史的には二次形式や微分方程式の研究から生じたものである。 18世紀初頭、ヨハン・ベルヌーイとダニエル・ベルヌーイ、ダランベールおよびオイラーらは、いくつかの質点がつけられた重さのない弦の運動を研究しているうちに固有値問題に突き当たった。18世紀後半に、ラプラスとラグランジュはこの問題をさらに研究し、弦の運動の安定性には固有値が関係していることを突き止めた。彼らはまた固有値問題を太陽系の研究にも適用している。 オイラーはまた剛体の回転についても研究し、主軸の重要性に気づいた。ラグランジュがこの後発見したように、主軸は慣性行列の固有ベクトルである。19世紀初頭には、コーシーがこの研究を二次曲面の分類に適用する方法を示し、その後一般化して任意次元の二次超曲面の分類を行った。コーシーはまた "racine caractéristique"(特性根)という言葉も考案し、これが今日「固有値」と呼ばれているものである。彼の単語は「特性方程式 (英: characteristic 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固有値や固有ベクトルの計算に対する数値的なアルゴリズムの最初のものは、ヤコビが対称行列の固有値固有ベクトルを求める手法として(ヤコビの提出したヤコビ法(電子計算機が発明されたときにフォンノイマンが発見したと思われたが実際はヤコビが既に述べていた)、ガウスによる行列の基本変形操作によるヘッセンベルグ形式への還元、などが知られていた)、1929年にフォン・ミーゼスが公表した冪乗法である。今日最もよく知られた手法の一つに、1961年に Francis と Kublanovskaya が独立に考案したQR法がある。 線形空間 V(有限次元とは限らない)上の線形変換 A に対して、次の方程式 を満たす零ベクトルでないベクトル x とスカラー λ が存在するとき、x を A の固有ベクトル(右固有ベクトル)、λ を A の固有値と呼ぶ。 空間の線型変換(回転、鏡映、拡大・縮小、剪断、およびそれらの任意の合成)は、それがベクトルに対して引き起こす影響によって視覚化することができる。ベクトルは一点から他の点へ向かう矢印によって視覚化される。 線型変換 A の固有値 λ に対するその固有ベクトルおよび零ベクトルは部分線形空間をなし、これを固有空間という。固有値 λ の固有空間 W(λ) は次の式で表せる(Ker は核、I は恒等変換を表す): 体 K の元を成分とする n次正方行列 A の固有値は、体 K 上に存在するとは限らない。このことを含めて、固有値は 、次のようにして求めることができる。 A の固有値 λ が満たすべき条件は、 すなわち を満たす x ≠ o が存在することである。ただし、I は単位行列である。 線形方程式・行列式の理論より、この条件は となる。この方程式のことを固有方程式(または特性方程式)という。固有方程式は λ についての n次代数方程式であり、A は、この方程式の解として、重複度(代数学的重複度)を込めて(基礎体の代数的閉包上)n個の固有値を持つことが分かる。 特に行列 A が実対称(あるいはエルミート)の場合、固有方程式は永年方程式とも言われる。 n が大きければ固有値問題は数値的対角化手法(→ヤコビ法、ハウスホルダー法など)によって解くこととなる。行列 A が実対称やエルミートでない場合は、これを解くことは一般に難しくなる。 例えば、三次元内の回転変換の固有ベクトルは回転軸の中にある。この変換の固有値は 1 のみで、固有値は 1 の固有空間は回転軸である。固有空間が一次元であるから、この固有値 1 の幾何的重複度は 1 であり、スペクトルは実数である固有値 1 唯一つのみからなる。 別の例として、右のモナ・リザの画像の変形のような剪断変換の正方行列を考える: まず、この行列の固有多項式を求める。 故に、この行列 A の固有方程式は で、この場合の A の固有値は、ただ一つ λ = 1 のみである。この固有値 1 の固有空間は変換 1I − A の零空間、すなわち線型方程式 (I − A)x = 0 の解空間であり、 の解 x 全体である。この方程式の解空間は、 となる。ここで c は任意の定数である。つまり、この形に表される(この場合、真上または真下を向いている)ベクトルで零ベクトルでないものは全てこの行列 A の固有ベクトルである。 一般に、2次正方行列は代数的重複を込めて2つの固有値をもち、固有値それぞれに関する固有ベクトルをもつ。ほとんどのベクトルが行列の作用によってその長さと方向の両方を変えるのに対して、固有ベクトルは向きつき長さのみが変化し、方向は変わらない。 地球が自転すると、地球中心から地表の各地点へ向かう矢印も一緒に向きが変わる。しかしこの回転軸上にあるベクトルだけは向きが変わらない。たとえば、地球の中心から北極あるいは南極へのベクトルはこの変換の固有ベクトルとなるが、赤道に向いているベクトルは固有ベクトルとはならない。また、地球が回転してもこのベクトルの大きさは変わらないので、この固有値は 1 である。 別の例として、ゴムシートをある固定された一点から全方向に向かって伸ばすような変換を考える。ゴムシート上のあらゆる点と点の間の距離が 2倍になるように引き伸ばすとすると、この変換の固有値は 2 になる。この場合、固定された点からシート上のあらゆる点に向かうベクトルはすべて固有ベクトルになり、固有空間はこれらのベクトルすべてからなるような集合となる。 ベクトル空間は、二次元や三次元の幾何的な空間だけとは限らない。さらに別の例として、ちょうど弦楽器における弦のような、両端が固定されたひもを考えよう(図2)。このひもが振動しているとき、ひも上の各原子が、ひもがぴんと張った時の位置(釣り合いの位置)から動いた距離(変位)は、ひもを構成する原子の個数分だけの次元をもつベクトルの構成部分として表すことができる。このひもが連続的な物体でできていると仮定しよう。このとき、ひもの各点の加速度を表す式(運動方程式)を考えると、その固有ベクトル(より正確には固有関数)は定常波となる。 定常波では、ひもの加速度とひもの変位が常に一定の比例係数で比例する。その比例係数が固有値である。その値は、角振動数を ω とすると、−ω に等しい。 定常波は時間とともに正弦的な振幅で伸縮するが、基本的な形は変わらない。 この定義は対角化を用いることにより、二次形式の正定値、半正定値の定義と同値の関係であることが確認できる。 量子力学においては固有値問題が次のような形で現れる。まず、系の状態は、「状態ベクトル」というもの(波動関数ともいう)で表現されると考える。そして、その状態ベクトルは、シュレーディンガー方程式に従って時間的に変化すると考える。このとき、系が時間的に変化しない定常状態(厳密に言うと、時間的に変化するものが状態ベクトルの位相に限定される場合)、シュレーディンガー方程式は、変数分離法によって、以下のようになる: ここで、Hは系のハミルトニアンであり、|x⟩ は状態ベクトルである。これは固有値問題そのものである。上の方程式を解くことで固有値 ε が求まる。この ε を用いて、下の方程式を解くと、状態ベクトルの位相は ε / ħ {\displaystyle \epsilon /\hbar } の角速度で変化することが分かる。ところが量子力学の原理によると、系のエネルギーは、系の位相の角速度の ħ {\displaystyle \hbar } 倍である。すなわち、この固有値 ε は、系のエネルギーに相当する。そこで、ε をエネルギー固有値、またはエネルギー準位と呼ぶ。この時、状態ベクトルxはハミルトニアンの固有ベクトルになっており、そのような状態をエネルギー固有状態という。 ハミルトニアンはエルミート演算子であり、従って、異なる固有値に対応する固有ベクトルは互いに直交している。ハミルトニアンに限らず、任意の物理量は、それぞれエルミート演算子に対応する。それらに関する固有ベクトルは、それらの物理量が確定している状態であり、その固有値が、その状態での物理量の値となる。 実際の多電子系などの数値計算においてはエルミート演算子を有限サイズのエルミート行列で近似することになる。つまり、本来、状態ベクトルのなすヒルベルト空間が無限次元であれば、行列による表現は無限行、無限列であるが、これは現実に計算することは不可能なので、有限の大きさに切断して近似的に計算が実行される。波動関数は適当な基底関数の線型結合(重ねあわせ)で表現され、求めるべき基底関数の展開係数を並べたものが、そのエルミート行列の固有ベクトルに相当することになる。展開係数の数も本来無限個必要であるが、有限の数で切断(カットオフ)される。切断は、求めるべき物理量(全エネルギーなど)が精度として十分に収束するところで行う必要がある(解くために必要な数値計算量にも依存する)。
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"ベクトル空間は、二次元や三次元の幾何的な空間だけとは限らない。さらに別の例として、ちょうど弦楽器における弦のような、両端が固定されたひもを考えよう(図2)。このひもが振動しているとき、ひも上の各原子が、ひもがぴんと張った時の位置(釣り合いの位置)から動いた距離(変位)は、ひもを構成する原子の個数分だけの次元をもつベクトルの構成部分として表すことができる。このひもが連続的な物体でできていると仮定しよう。このとき、ひもの各点の加速度を表す式(運動方程式)を考えると、その固有ベクトル(より正確には固有関数)は定常波となる。", "title": "例" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "定常波では、ひもの加速度とひもの変位が常に一定の比例係数で比例する。その比例係数が固有値である。その値は、角振動数を ω とすると、−ω に等しい。", "title": "例" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "定常波は時間とともに正弦的な振幅で伸縮するが、基本的な形は変わらない。", "title": "例" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "この定義は対角化を用いることにより、二次形式の正定値、半正定値の定義と同値の関係であることが確認できる。", "title": "正定値と半正定値" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "量子力学においては固有値問題が次のような形で現れる。まず、系の状態は、「状態ベクトル」というもの(波動関数ともいう)で表現されると考える。そして、その状態ベクトルは、シュレーディンガー方程式に従って時間的に変化すると考える。このとき、系が時間的に変化しない定常状態(厳密に言うと、時間的に変化するものが状態ベクトルの位相に限定される場合)、シュレーディンガー方程式は、変数分離法によって、以下のようになる:", "title": "量子力学における固有値問題" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ここで、Hは系のハミルトニアンであり、|x⟩ は状態ベクトルである。これは固有値問題そのものである。上の方程式を解くことで固有値 ε が求まる。この ε を用いて、下の方程式を解くと、状態ベクトルの位相は ε / ħ {\\displaystyle \\epsilon /\\hbar } の角速度で変化することが分かる。ところが量子力学の原理によると、系のエネルギーは、系の位相の角速度の ħ {\\displaystyle \\hbar } 倍である。すなわち、この固有値 ε は、系のエネルギーに相当する。そこで、ε をエネルギー固有値、またはエネルギー準位と呼ぶ。この時、状態ベクトルxはハミルトニアンの固有ベクトルになっており、そのような状態をエネルギー固有状態という。", "title": "量子力学における固有値問題" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ハミルトニアンはエルミート演算子であり、従って、異なる固有値に対応する固有ベクトルは互いに直交している。ハミルトニアンに限らず、任意の物理量は、それぞれエルミート演算子に対応する。それらに関する固有ベクトルは、それらの物理量が確定している状態であり、その固有値が、その状態での物理量の値となる。", "title": "量子力学における固有値問題" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "実際の多電子系などの数値計算においてはエルミート演算子を有限サイズのエルミート行列で近似することになる。つまり、本来、状態ベクトルのなすヒルベルト空間が無限次元であれば、行列による表現は無限行、無限列であるが、これは現実に計算することは不可能なので、有限の大きさに切断して近似的に計算が実行される。波動関数は適当な基底関数の線型結合(重ねあわせ)で表現され、求めるべき基底関数の展開係数を並べたものが、そのエルミート行列の固有ベクトルに相当することになる。展開係数の数も本来無限個必要であるが、有限の数で切断(カットオフ)される。切断は、求めるべき物理量(全エネルギーなど)が精度として十分に収束するところで行う必要がある(解くために必要な数値計算量にも依存する)。", "title": "量子力学における固有値問題" } ]
数学の線型代数学において、線型変換の固有値とは、零ベクトルでないベクトルを線型変換によって写したときに、写された後のベクトルが写される前のベクトルのスカラー倍になっている場合の、そのスカラー量(拡大率)のことである。この零ベクトルでないベクトルを固有ベクトルという。この2つの用語を合わせて、固有対 (eigenpair) という。 固有値・固有ベクトルは線型変換の特徴を表す指標の一つである。 線形変換 T の固有値の一つを λ とすると、T の固有値 λ に関する固有ベクトルおよび零ベクトルは部分線形空間を形成し、固有空間 という。 与えられた線型変換の固有値および固有ベクトルを求める問題のことを固有値問題 という。ヒルベルト空間論において線型作用素 あるいは線型演算子と呼ばれるものは線型変換であり、やはりその固有値や固有ベクトルを考えることができる。固有値という言葉は無限次元ヒルベルト空間論や作用素代数におけるスペクトルの意味でもしばしば使われる。
[[画像:Mona Lisa eigenvector grid.png|270px|thumb|[[モナ・リザ]]の画像(左図)を平行四辺形に線形変換した画像(右図)。この線形変換において、画像の中にある右向きの矢印(青色)は変化していないのに対し、上を向いた矢印(赤色)は方向が変化している。この青い矢印がこの変換における'''固有ベクトル'''であり、赤い矢印は固有ベクトルではない。ここで青い矢印は伸張も収縮もしていないので、この'''固有値'''は 1 である。このベクトルと平行なすべてのベクトルは固有ベクトルである。零ベクトルも含めて、これらのベクトルはこの固有値に対する'''固有空間'''を形成する。]] [[数学]]の[[線型代数学]]において、[[線型変換]]の'''固有値'''(こゆうち、{{lang-en-short|eigenvalue}})とは、[[零ベクトル]]でないベクトルを線型変換によって写したときに、写された後のベクトルが写される前のベクトルの[[スカラー (数学)|スカラー]]倍になっている場合の、そのスカラー量(拡大率)のことである。この[[零ベクトル]]でないベクトルを'''固有ベクトル'''(こゆうベクトル、{{lang-en-short|eigenvector}})という。この2つの用語を合わせて、'''固有対''' (eigenpair) という。 固有値・固有ベクトルは線型変換の特徴を表す指標の一つである。 線形変換 {{mvar|T}} の固有値の一つを {{mvar|λ}} とすると、{{mvar|T}} の固有値 {{mvar|λ}} に関する固有ベクトルおよび零ベクトルは部分線形空間を形成し、'''固有空間''' ({{lang-en-short|eigenspace}}) という。 与えられた線型変換の固有値および固有ベクトルを求める問題のことを'''固有値問題''' ({{lang-en-short|eigenvalue problem}}) という。[[ヒルベルト空間論]]において'''線型作用素''' あるいは'''線型演算子'''と呼ばれるものは線型変換であり、やはりその固有値や固有ベクトルを考えることができる。固有値という言葉は無限次元ヒルベルト空間論や作用素代数における[[スペクトル理論|スペクトル]]の意味でもしばしば使われる。 == 歴史 == 現在では、固有値の概念は[[行列]]論と絡めて導入されることが多いものの、歴史的には[[二次形式]]や[[微分方程式]]の研究から生じたものである。 18世紀初頭、[[ヨハン・ベルヌーイ]]と[[ダニエル・ベルヌーイ]]、[[ジャン・ル・ロン・ダランベール|ダランベール]]および[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]らは、いくつかの質点がつけられた重さのない弦の運動を研究しているうちに固有値問題に突き当たった。18世紀後半に、[[ピエール・シモン・ラプラス|ラプラス]]と[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ|ラグランジュ]]はこの問題をさらに研究し、弦の運動の安定性には固有値が関係していることを突き止めた。彼らはまた固有値問題を[[太陽系]]の研究にも適用している<ref>{{harvtxt|Hawkins|1975|loc=&sect;2}}; {{harvtxt|Kline|1972|pp=807-808}} を参照のこと。</ref>。 オイラーはまた[[剛体]]の回転についても研究し、[[慣性モーメント|主軸]]の重要性に気づいた。ラグランジュがこの後発見したように、主軸は慣性行列の固有ベクトルである<ref>{{harvtxt|Hawkins|1975|loc=&sect;2}} を参照。</ref>。19世紀初頭には、[[オーギュスタン=ルイ・コーシー|コーシー]]がこの研究を[[二次曲面]]の分類に適用する方法を示し、その後一般化して任意次元の二次超曲面の分類を行った<ref name="hawkins3">{{harvtxt|Hawkins|1975|loc=&sect;3}} を参照。</ref>。コーシーはまた {{lang|fr|"''racine caractéristique''"}}(特性根)という言葉も考案し、これが今日「固有値」と呼ばれているものである。彼の単語は「[[固有多項式|特性方程式]] ({{lang-en-short|''characteristic equation''}})」という用語の中に生きている<ref name="kline807">{{harvtxt|Kline|1972|pp=807-808}} を参照。</ref>。 [[ジョゼフ・フーリエ|フーリエ]]は、1822年の有名な著書 ({{lang|fr|"''Théorie analytique de la chaleur''"}}) の中で、[[変数分離]]による[[熱方程式]]の解法においてラプラスとラグランジュの結果を利用している<ref>{{harvtxt|Kline|1972|p=673}} を参照。</ref>。[[ジャック・シャルル・フランソワ・ステュルム|スツルム]]はフーリエのアイデアをさらに発展させ、これにコーシーが気づくことになった。コーシーは彼自身のアイデアを加え、対称行列の全ての固有値は実数であるという事実を発見した<ref name="hawkins3"/>。この事実は、[[1855年]]に[[シャルル・エルミート|エルミート]]によって、今日[[エルミート行列]]と呼ばれる概念に対して拡張された<ref name="kline807"/>。ほぼ同時期に[[フランシスコ・ブリオスキ|ブリオスキ]]は[[直交行列]]の固有値全てが[[単位円]]上に分布することを証明し<ref name="hawkins3"/>、[[アルフレッド・クレープシュ|クレープシュ]]が[[歪対称行列]]に関して対応する結果を得ている<ref name="kline807"/>。最終的に、[[カール・ワイエルシュトラス|ワイエルシュトラス]]が、ラプラスの創始した安定論 ({{lang-en-short|''stability theory''}}) の重要な側面を、不安定性の引き起こす[[不完全行列]]を構成することによって明らかにした<ref name="hawkins3"/>。 19世紀中ごろ、[[ジョゼフ・リウヴィル]]は、スツルムの固有値問題の類似研究を行った。彼らの研究は、今日[[スツルム=リウヴィル型微分方程式|スツルム=リウヴィル理論]]と呼ばれる一分野に発展している<ref>{{harvtxt|Kline|1972|pp=715-716}}</ref>。[[ヘルマン・アマンドゥス・シュヴァルツ]]は一般の定義域上での[[ラプラス方程式]]の固有値についての研究を19世紀の終わりにかけて初めて行った。一方、[[アンリ・ポアンカレ]]はその数年後[[ポアソン方程式]]について研究している<ref>{{harvtxt|Kline|1972|pp=706-707}}</ref>。 20世紀初頭、[[ダフィット・ヒルベルト|ヒルベルト]]は、[[コンパクト作用素|積分作用素]]を無限次元の行列と見なしてその固有値について研究した<ref>{{harvtxt|Kline|1972|p=1063}}</ref>。ヒルベルトは、[[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ|ヘルムホルツ]]の関連する語法に従ったのだと思われるが、固有値や固有ベクトルを表すために [[ドイツ語]]の {{de|''eigen''}} を冠した最初の人であり、それは1904年のことである{{sfn|Ben-Menahem|2009|p=5513|loc=Table 6.24: Earliest Known Mathematical Terminology}}。ドイツ語の形容詞 "eigen" は「独特の」「特有の」「特徴的な」「個性的な」といったような意味があり{{sfn|Schwartzman|1994|p={{google books quote|id=iuoZSkSOBQsC|page=80|80}}}}、固有値は特定の変換に特有の性質というものを決定付けるということが強調されている。英語の標準的な用語法で {{en|"proper value"}} ということもあるが、印象的な {{en|"eigenvalue"}} の方が今日では標準的に用いられる<ref>{{harvtxt|Aldrich|2006}}</ref>。フランス語では {{lang|fr|valeur propre}} である。 固有値や固有ベクトルの計算に対する数値的なアルゴリズムの最初のものは、ヤコビが対称行列の固有値固有ベクトルを求める手法として(ヤコビの提出したヤコビ法(電子計算機が発明されたときにフォンノイマンが発見したと思われたが実際はヤコビが既に述べていた)、ガウスによる行列の基本変形操作によるヘッセンベルグ形式への還元、などが知られていた)、1929年に[[リヒャルト・フォン・ミーゼス|フォン・ミーゼス]]が公表した[[べき乗法|冪乗法]]である。今日最もよく知られた手法の一つに、1961年に [[J.G.F. Francis|Francis]] と [[Vera Kublanovskaya|Kublanovskaya]] が独立に考案した[[QR法]]がある<ref>See {{harvtxt|Golub|van Loan|1996|loc=&sect;7.3}}, {{harvtxt|Meyer|2000|loc=&sect;7.3}}</ref>。 == 定義 == [[線形空間]] {{mvar|V}}(有限[[次元]]とは限らない)上の線形変換 {{mvar|A}} に対して、次の方程式 : <math>A \boldsymbol{x} = \lambda \boldsymbol{x}</math> を満たす[[零ベクトル]]でないベクトル {{mathbf|''x''}} とスカラー {{mvar|λ}} が存在するとき、{{mathbf|''x''}} を {{mvar|A}} の'''固有ベクトル(右固有ベクトル)'''、{{mvar|λ}} を {{mvar|A}} の'''固有値'''と呼ぶ。 * 線型変換 {{mvar|A}} の'''固有ベクトル''' {{mathbf|''x''}} は、{{mvar|A}} により写しても、その方向は変わらず、定数倍されるだけの影響しか受けない(拡大率が 1 なら全く影響を受けない)ベクトルで、零ベクトルでないもののことである。 **{{mvar|V}} が[[関数空間]]である場合には、固有ベクトルのことを'''[[固有関数]]'''ともいう。 * 線型変換 {{mvar|A}} の'''固有値'''は、固有ベクトルの{{mvar|A}} による拡大率(上の {{mvar|λ}})のことである。 空間の[[線型変換]]([[回転]]、[[鏡映]]、[[スケール変換|拡大・縮小]]、[[せん断|剪断]]、およびそれらの任意の合成)は、それがベクトルに対して引き起こす影響によって視覚化することができる。ベクトルは一点から他の点へ向かう矢印によって視覚化される。 線型変換 {{mvar|A}} の固有値 {{mvar|λ}} に対するその固有ベクトルおよび零ベクトルは[[部分線形空間]]をなし、これを'''固有空間'''という。固有値 {{mvar|λ}} の固有空間 {{math|''W''(''λ'')}} は次の式で表せる({{math|Ker}} は[[零空間|核]]、{{mvar|I}} は恒等変換を表す): :<math>W(\lambda) = \operatorname{Ker} (\lambda I-A)</math> * 固有空間の次元をその固有値の'''幾何的重複度'''という。{{mvar|n}}次正方行列 {{mvar|A}} の固有値 {{mvar|λ}} の幾何的重複度は次の式で求められる: :<math>\dim W(\lambda)=n-\operatorname{rank}(\lambda I-A)</math> * 有限次元ベクトル空間上の線型変換の'''[[行列のスペクトル|スペクトル]]'''とは、その変換の固有値全体の成す集合のことである。無限次元の場合はもう少し複雑になって、スペクトルの概念はそのベクトル空間の[[位相空間|位相]]に依存する。 {{See also|スペクトル (関数解析学)}} == 固有多項式 == {{main|固有多項式}} [[可換体|体]] {{mathbf|K}} の元を成分とする {{mvar|n}}次[[正方行列]] {{mvar|A}} の固有値は、体 {{mathbf|K}} 上に存在するとは限らない。このことを含めて、固有値は 、次のようにして求めることができる。 {{mvar|A}} の固有値 {{mvar|λ}} が満たすべき条件は、 :<math>A \boldsymbol{x} = \lambda \boldsymbol{x}</math> すなわち :<math>(\lambda I-A) \boldsymbol{x} = \boldsymbol{o}</math> を満たす {{math2|'''''x''''' ≠ '''''o'''''}} が存在することである。ただし、{{mvar|I}} は[[単位行列]]である。 [[線形方程式]]・[[行列式]]の理論より、この条件は :<math>\det(\lambda I-A)=0</math> となる。この方程式のことを'''固有方程式'''(または'''特性方程式''')という。固有方程式は {{mvar|λ}} についての {{mvar|n}}次[[代数方程式]]であり、{{mvar|A}} は、この方程式の解として、[[重複度 (数学)|重複度]]('''代数学的重複度''')を込めて(基礎体の[[代数的閉包]]上){{mvar|n}}個の固有値を持つことが分かる。 {{See also|代数学の基本定理}} 特に行列 {{mvar|A}} が実対称(あるいはエルミート)の場合、固有方程式は'''永年方程式'''とも言われる。 *実[[対称行列|対称]]か[[エルミート行列|エルミート]]の固有値は必ず実数になる。 *実[[対称行列|対称]]か[[エルミート行列|エルミート]]である行列の、固有値を異にする固有ベクトルは相互に直交する(内積が {{math|0}} である)。 {{mvar|n}} が大きければ固有値問題は数値的対角化手法(→[[ヤコビ法]]、[[ハウスホルダー変換|ハウスホルダー法]]など)によって解くこととなる。行列 {{mvar|A}} が実対称やエルミートでない場合は、これを解くことは一般に難しくなる。 {{See|数値線形代数|固有値問題の数値解法}} == 例 == 例えば、三次元内の回転変換の固有ベクトルは[[軸 (機械要素)|回転軸]]の中にある。この変換の固有値は {{math|1}} のみで、固有値は {{math|1}} の固有空間は回転軸である。固有空間が一次元であるから、この固有値 {{math|1}} の幾何的重複度は {{math|1}} であり、スペクトルは実数である固有値 {{math|1}} 唯一つのみからなる。 [[画像:Mona Lisa with eigenvector.png|270px|right]] 別の例として、右のモナ・リザの画像の変形のような[[せん断写像|剪断変換]]の正方行列を考える: :<math>A=\begin{bmatrix} 1 &0 \\ -\frac{1}{2} &1 \end{bmatrix}</math> まず、この行列の[[固有多項式]]を求める。 :<math>\begin{align} \det(\lambda I - A) &=\det\!\left(\lambda\begin{bmatrix} 1 &0 \\ 0 &1 \end{bmatrix} - \begin{bmatrix} 1 &0 \\ -\frac{1}{2} &1 \end{bmatrix}\right) \\ &=(\lambda-1)^2 \end{align}</math> 故に、この行列 {{mvar|A}} の固有方程式は :{{math2|1=(''λ'' &minus; 1){{sup|2}} =0}} で、この場合の {{mvar|A}} の固有値は、ただ一つ {{math2|''λ'' {{=}} 1}} のみである。この固有値 1 の固有空間は変換 {{math2|1''I'' &minus; ''A''}} の[[零空間]]、すなわち[[線型方程式]] {{math2|(''I'' &minus; ''A'')'''''x''''' {{=}} 0}} の解空間であり、 :<math>\begin{bmatrix} 0 &0 \\ \frac{1}{2} &0 \end{bmatrix} \begin{bmatrix} x_1 \\ x_2 \end{bmatrix}=0</math> の解 {{mathbf|''x''}} 全体である。この方程式の解空間は、 :<math>\boldsymbol{x} = \begin{bmatrix} 0 \\ c \end{bmatrix} \quad (c \in \mathbb{K})</math> となる。ここで {{mvar|c}} は任意の定数である。つまり、この形に表される(この場合、真上または真下を向いている)ベクトルで零ベクトルでないものは全てこの行列 {{mvar|A}} の固有ベクトルである。 一般に、2次正方行列は代数的重複を込めて2つの固有値をもち、固有値それぞれに関する固有ベクトルをもつ。ほとんどのベクトルが行列の作用によってその長さと方向の両方を変えるのに対して、固有ベクトルは向きつき長さのみが変化し、方向は変わらない。 === その他の例 === 地球が自転すると、地球中心から地表の各地点へ向かう矢印も一緒に向きが変わる。しかしこの回転軸上にあるベクトルだけは向きが変わらない。たとえば、地球の中心から北極あるいは南極へのベクトルはこの変換の固有ベクトルとなるが、赤道に向いているベクトルは固有ベクトルとはならない。また、地球が回転してもこのベクトルの大きさは変わらないので、この固有値は 1 である。 別の例として、ゴムシートをある固定された一点から全方向に向かって伸ばすような変換を考える。ゴムシート上のあらゆる点と点の間の距離が 2倍になるように引き伸ばすとすると、この変換の固有値は 2 になる。この場合、固定された点からシート上のあらゆる点に向かうベクトルはすべて固有ベクトルになり、固有空間はこれらのベクトルすべてからなるような集合となる。 [[画像:Standing wave.gif|270px|thumb|境界が固定されたひもの[[定常波]]の振動数もまた固有値の例である。]] ベクトル空間は、二次元や三次元の幾何的な空間だけとは限らない。さらに別の例として、ちょうど[[弦楽器]]における[[弦 (楽器)|弦]]のような、両端が固定されたひもを考えよう(図2)。このひもが振動しているとき、ひも上の各[[原子]]が、ひもがぴんと張った時の位置(釣り合いの位置)から動いた距離(変位)は、ひもを構成する原子の個数分だけの次元をもつベクトルの構成部分として表すことができる。このひもが連続的な物体でできていると仮定しよう。このとき、ひもの各点の加速度を表す式(運動方程式)を考えると、その固有ベクトル(より正確には[[固有関数]])は[[定常波]]となる。 定常波では、ひもの加速度とひもの変位が常に一定の比例係数で比例する。その比例係数が固有値である。その値は、[[角振動数]]を ω とすると、&minus;ω{{sup|2}} に等しい。 定常波は時間とともに正弦的な振幅で伸縮するが、基本的な形は変わらない。<!-- The standing waves correspond to particular oscillations of the rope such that the acceleration of the rope is simply its shape scaled by a factor&mdash;this factor, the eigenvalue, turns out to be <math>-\omega^2</math> where &omega; is the [[angular frequency]] of the oscillation. Each component of the vector associated with the rope is multiplied by a time-dependent factor <math>\sin(\omega t)</math>. If [[damping]] is considered, the [[amplitude]] of this oscillation decreases until the rope stops oscillating, corresponding to a [[complex number|complex]] &omega;. One can then associate a [[lifetime]] with the imaginary part of &omega;, and relate the concept of an eigenvector to the concept of [[resonance]]. Without damping, the fact that the acceleration operator (assuming a uniform density) is [[Hermitian operator|Hermitian]] leads to several important properties, such as that the standing wave patterns are [[orthogonal functions]].--> == 正定値と半正定値 == * [[エルミート行列]] ''A'' の固有値が全て正の場合に、その行列 ''A'' は'''[[正定値]]'''<ref group="注">[[:en:positive definite|positive definite]]の訳語として「正定値」もしくは「正値」がある。</ref>であるという('''正定値行列''')。 * エルミート行列 ''A'' の固有値が全て非負の場合に、その行列 ''A'' は'''半正定値'''であるという('''半正定値行列''')。 この定義は[[対角化]]を用いることにより、[[二次形式]]の正定値、半正定値の定義と同値の関係であることが確認できる。 == 量子力学における固有値問題 == [[量子力学]]においては固有値問題が次のような形で現れる。まず、系の状態は、「状態ベクトル」というもの(波動関数ともいう)で表現されると考える。そして、その状態ベクトルは、[[シュレーディンガー方程式]]に従って時間的に変化すると考える。このとき、系が時間的に変化しない定常状態(厳密に言うと、時間的に変化するものが状態ベクトルの位相に限定される場合)、[[シュレーディンガー方程式]]は、変数分離法によって、以下のようになる: :<math>i \hbar \frac{\partial}{\partial t} | \mathbf{x} \rangle = H |\mathbf{x} \rangle = \epsilon | \mathbf{x} \rangle ,</math> :and :<math> H | \mathbf{x} \rangle = \epsilon | \mathbf{x} \rangle . </math> ここで、''H''は系の[[ハミルトニアン]]であり、|'''x'''&rang; は状態ベクトルである。これは固有値問題そのものである。上の方程式を解くことで固有値 ε が求まる。この ε を用いて、下の方程式を解くと、状態ベクトルの位相は<math>\epsilon/\hbar</math> の角速度で変化することが分かる。ところが量子力学の原理によると、系のエネルギーは、系の位相の角速度の<math>\hbar</math>倍である。すなわち、この固有値 ε は、系のエネルギーに相当する。そこで、ε をエネルギー固有値、または'''[[エネルギー準位]]'''と呼ぶ。この時、状態ベクトル''x''はハミルトニアンの固有ベクトルになっており、そのような状態をエネルギー[[固有状態]]という。 ハミルトニアンはエルミート演算子であり、従って、異なる固有値に対応する固有ベクトルは互いに直交している。ハミルトニアンに限らず、任意の物理量は、それぞれエルミート演算子に対応する。それらに関する固有ベクトルは、それらの物理量が確定している状態であり、その固有値が、その状態での物理量の値となる。 実際の多電子系などの数値計算においてはエルミート演算子を有限サイズのエルミート行列で近似することになる。つまり、本来、状態ベクトルのなすヒルベルト空間が無限次元であれば、行列による表現は無限行、無限列であるが、これは現実に計算することは不可能なので、有限の大きさに切断して近似的に計算が実行される。波動関数は適当な[[基底関数]]の線型結合(重ねあわせ)で表現され、求めるべき基底関数の展開係数を並べたものが、そのエルミート行列の固有ベクトルに相当することになる。展開係数の数も本来無限個必要であるが、有限の数で切断(カットオフ)される。切断は、求めるべき物理量(全エネルギーなど)が精度として十分に収束するところで行う必要がある(解くために必要な数値計算量にも依存する)。 == 解析ソフト == *[[NAG数値計算ライブラリ|NAG]] *[[IMSL]] *[[MATLAB]] *[[GNU Octave]] *[[INTLAB]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2016-03}} * {{Citation |last1 = Abdi |first1 = H. |editor = Neil Salkind |year = 2007 |title = Encyclopedia of Measurement and Statistics |contribution = Eigen-decomposition: eigenvalues and eigenvecteurs |url = http://www.utdallas.edu/~herve/Abdi-EVD2007-pretty.pdf |publisher = Sage |isbn = 978-1-4129-1611-0 |doi = 10.4135/9781412952644 }} * {{Citation |last1 = Aldrich |first1 = John |editor = Jeff Miller |accessdate = 2006-8-22 |year = 2006 |title = Earliest Known Uses of Some of the Words of Mathematics |contribution = Eigenvalue, eigenfunction, eigenvector, and related terms |url = http://members.aol.com/jeff570/e.html }} (last updated 2006-8-7) * {{Citation |last1 = Ben-Menahem |first1 = Ari |year = 2009 |title = Historical Encyclopedia of Natural and Mathematical Sciences |publisher = Springer-Verlag |isbn = 978-3-540-68831-0 |mr = 2848375 |zbl = 1175.01001 |doi = 10.1007/978-3-540-68832-7_1 }} * {{Citation |author = [[クロード・コーエン=タヌージ]] |year = 1977 |title = Quantum Mechanics |chapter = Chapter II. 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(2013), Matrix Computations (4th ed.), Johns Hopkins, ISBN 978-1-4214-0794-4 * {{Citation |last1 = Hawkins |first1 = T. |year = 1975 |title = Cauchy and the spectral theory of matrices |journal = Historia Mathematica |volume = 2 |pages = 1-29 |mr = 0469635 |zbl = 0296.01014 |doi = 10.1016/0315-0860(75)90032-4 }} * {{Citation |last1 = Horn |first1 = Roger A. |last2 = Johnson |first2 = Charles R. |year = 1985 |title = Matrix Analysis |publisher = [[Cambridge University Press]] |isbn = 0-521-30586-1 |mr = 0832183 |zbl = 0576.15001 |doi = 10.1017/CBO9780511810817 }} * {{Citation |last1 = Kline |first1 = Morris |year = 1972 |title = Mathematical Thought from Ancient to Modern Times |publisher = [[Oxford University Press]] |isbn = 0-19-501496-0 |mr = 0472307 |zbl = 0277.01001 }} ([https://projecteuclid.org/euclid.bams/1183535805 Review] by Gian-Carlo Rota in Bull. Amer. Math. Soc.) * {{Citation |last1 = Meyer |first1 = Carl D. |year = 2000 |title = Matrix Analysis and Applied Linear Algebra |url = {{google books|-7JeAwAAQBAJ|plainurl=yes}} |publisher = Society for Industrial and Applied Mathematics (SIAM) |location = Philadelphia |isbn = 978-0-89871-454-8 |mr = 1777382 |zbl = 0962.15001 |doi = 10.1137/1.9780898719512 }} * {{Citation |last1 = Schwartzman |first1 = S. |year = 1994 |title = The Words of Mathematics: An Etymological Dictionary of Mathematical Terms Used in English |url = {{google books|iuoZSkSOBQsC|plainurl=yes}} |publisher = Mathematical Association of America |isbn = 0-88385-511-9 |mr = 1270906 |zbl = 0864.00007 }} * {{Citation |last1 = Valentin |first1 = D. |last2 = Abdi |first2 = H. |last3 = Edelman |first3 = B. |last4 = O'Toole |first4 = A. |year = 1997 |journal = Journal of Mathematical Psychology |title = Principal component and neural network analyses of face images: What can be generalized in gender classification? |volume = 41 |url = http://www.utdallas.edu/~herve/abdi.vaeo97.pdf |pages = 398-413 |doi = 10.1006/jmps.1997.1186 }} *[http://www.netlib.org/utk/people/JackDongarra/etemplates/book.html Templates for the Solution of Algebraic Eigenvalue Problems:a Practical Guide; Edited by Zhaojun Bai, James Demmel, Jack Dongarra, Axel Ruhe, and Henk van der Vorst (NETLIB)] {{Linear algebra}} {{DEFAULTSORT:こゆうちとこゆうへくとる}} [[Category:線型代数学]] [[Category:物理数学]] [[Category:数学に関する記事]]
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対角化
対角化(たいかくか、diagonalization)とは、正方行列を適当な線形変換によりもとの行列と相似な対角行列に変形することを言う。あるいは、ベクトル空間の線形写像に対し、空間の基底を取り替え、その作用が常にある方向(固有空間)へのスカラー倍(固有値)として現れるようにすること。対角化により変換において本質的には無駄な計算を省くことで計算量を大幅に減らすことができる。 n 次正方行列 A に対して、n 次対角行列 D と n 次正則行列 P が存在して、 とできるとき、行列 A は対角化可能(英: diagonalizable)であるという。 定義式を成分で表示すると、 両辺に左から P を掛けると: ここで、P を列ベクトル α → i {\displaystyle {\vec {\alpha }}_{i}} を並べて表記すると 上式は、次のように書き直せる: つまり、P の構成する各列ベクトルは Aの固有ベクトルであり、対応する対角成分はその固有ベクトルに対応する固有値になっている。行列 P が正則であることは、これらの固有ベクトルが線形独立である(= n次元ベクトル空間の基底になっている)ことを意味する。 ここまでの議論は完全に逆向きにたどることができる。つまり、行列Aの固有ベクトルだけで n 次元ベクトル空間の基底が構成できるならば、それら縦ベクトルを横に並べた行列 P は正則行列となり、 が成り立ち、D の対角成分には A の固有値が並ぶ。 以上が行列が対角化できるための必要十分条件である。またこれは、実際に対角化を行うための手順にもなっている。 他にも同値な条件がいくつか知られている。 A が実対称行列のとき、A は常に対角化可能であり、P として直交行列を取ることができる。また A がユニタリー行列 U を用いて対角化できるためには、A が正規行列であることが必要十分である。正規行列の中で応用上重要なクラスとして、対称行列とエルミート行列がある。 次の 2 次実正方行列 A は固有値 a − bi と a + bi をもち、たとえば以下の正則行列 P で対角化される。 一方、次の行列 B は対角化可能ではない。 3次正方行列について、具体的な数値で計算を行ってみる。 次の行列は対角化可能かどうか判断し、可能な場合は対角化せよ: 固有値と固有ベクトルを計算すると、 固有ベクトルを並べた の行列式は0でないため、これを使って対角化できる。
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対角化(たいかくか、diagonalization)とは、正方行列を適当な線形変換によりもとの行列と相似な対角行列に変形することを言う。あるいは、ベクトル空間の線形写像に対し、空間の基底を取り替え、その作用が常にある方向(固有空間)へのスカラー倍(固有値)として現れるようにすること。対角化により変換において本質的には無駄な計算を省くことで計算量を大幅に減らすことができる。
'''対角化'''(たいかくか、diagonalization<ref>{{Cite book|和書 |author=文部省 |authorlink=文部省 |coauthors=[[日本物理学会]]編 |title =学術用語集 物理学編 |url=http://sciterm.nii.ac.jp/cgi-bin/reference.cgi |year=1990|publisher=[[培風館]] |isbn=4-563-02195-4}}{{リンク切れ|date=2017年10月 |bot=InternetArchiveBot}}</ref>)とは、[[正方行列]]を適当な[[線形変換]]によりもとの[[行列 (数学)|行列]]と[[行列の相似|相似]]な[[対角行列]]に変形することを言う。あるいは、[[ベクトル空間]]の[[線形写像]]に対し、[[空間]]の[[基底 (線型代数学)|基底]]を取り替え、その作用が常にある方向([[固有値|固有空間]])への[[スカラー (数学)|スカラー]]倍([[固有値]])として現れるようにすること。対角化により変換において本質的には無駄な計算を省くことで計算量を大幅に減らすことができる<!-- <ref>100行100列のような大きな正規行列を対角化するにあたっては、そのまま対角化のアルゴリズムを適用するよりは、いったん[[ブロック対角化]]された行列にする、すなわち複数の100行100列よりは小さな正規行列の直和に変換することで、並列的かつ以前の計算資産を再利用する形で対角化をすることができるようになる。</ref> -->。 == 概要 == ''n'' 次正方行列 ''A'' に対して、''n'' 次対角行列 ''D'' と ''n'' 次[[正則行列]] ''P'' が存在して、 : <math>P^{-1} A P = D</math> とできるとき、行列 ''A'' は'''[[:en:Diagonalizable_matrix|対角化可能]]'''({{lang-en-short|diagonalizable}})であるという。 == 対角化可能であるための必要十分条件 == 定義式を成分で表示すると、 : <math>P^{-1}AP = \begin{bmatrix} \lambda_1 &0 &\dots &0 \\ 0 &\lambda_2 &\dots &0 \\ \vdots &\vdots &\ddots &\vdots \\ 0 &0 &\dots &\lambda_n \end{bmatrix}</math> 両辺に左から ''P'' を掛けると: : <math>AP = P\begin{bmatrix} \lambda_1 &0 &\dots &0 \\ 0 &\lambda_2 &\dots &0 \\ \vdots &\vdots &\ddots &\vdots \\ 0 &0 &\dots &\lambda_n \end{bmatrix}</math> ここで、''P'' を列ベクトル <math>\vec{\alpha}_i</math> を並べて表記すると :<math>P = \begin{bmatrix} \vec{\alpha}_1 &\vec{\alpha}_2 &\cdots &\vec{\alpha}_n \end{bmatrix}</math> 上式は、次のように書き直せる: :<math>A\vec{\alpha}_i = \lambda_i\vec{\alpha}_i\qquad(i=1,2,\dots,n)</math> つまり、''P'' の構成する各列ベクトルは ''A''の[[固有ベクトル]]であり、対応する対角成分はその固有ベクトルに対応する[[固有値]]になっている。行列 ''P'' が正則であることは、これらの固有ベクトルが[[線形独立]]である(= ''n''次元ベクトル空間の[[基底 (線型代数学)|基底]]になっている)ことを意味する。 ここまでの議論は完全に逆向きにたどることができる。つまり、'''行列''A''の固有ベクトルだけで ''n'' 次元ベクトル空間の基底が構成できる'''ならば、それら縦ベクトルを横に並べた行列 ''P'' は正則行列となり、 :<math> P^{-1} A P = D</math> が成り立ち、''D'' の対角成分には ''A'' の固有値が並ぶ。 以上が行列が対角化できるための必要十分条件である。またこれは、実際に対角化を行うための手順にもなっている。 他にも同値な条件がいくつか知られている。 * {{small|(ここでは固有方程式が(重解を持つ場合も許容して)1次式の積に分解できることを前提とする。固有値・固有ベクトルが複素数でもよいのならこれはいつでも正しい([[代数学の基本定理]])が、実数だけで考えている場合は固有方程式の左辺が因数分解できないこともあり得る。)}} :''A'' の固有値を <math>\lambda_i, i=1,\cdots,r,</math> とするとき、''A'' が対角化可能であるための必要十分条件は、次の等式が成り立つことである: : <math>\textstyle\sum\limits_{i=1}^r \dim\ker(\lambda_i I_n - A) = n,</math> :ここで、{{mvar|I{{sub|n}}}} は ''n'' 次単位行列を表す。<math>\ker(\lambda_i I_n -A)</math> は固有値 <math>\lambda_i</math> の固有空間であるから、この条件はベクトル空間の基底として ''A'' の固有ベクトルが取れることを意味している。 * 上の条件は、<math>\textstyle\sum\limits_{i=1}^r \dim\ker(\lambda_i I_n - A)</math> の各項が <math>\lambda_i</math> の重複度と一致する、とも言い換えられる。一致しない場合はその固有空間の次元は <math>\lambda_i</math> を下回り、総計が ''n'' には成り得ないからである。詳しくは固有空間の次元を参照。 * '''行列 ''A'' の[[最小多項式 (線型代数学)|最小多項式]]が重根をもたないこと'''も対角化可能であるための必要十分条件である{{sfn|斎藤|1996|loc=系3.4}}。 ''A'' が実[[対称行列]]のとき、''A'' は常に対角化可能であり、''P'' として[[直交行列]]を取ることができる。また ''A'' が[[ユニタリー行列]] ''U'' を用いて対角化できるためには、''A'' が[[正規行列]]であることが[[同値|必要十分]]である。正規行列の中で応用上重要なクラスとして、対称行列と[[エルミート行列]]がある。<!-- (数値的対角化手法)--> == 例 == 次の 2 次実正方行列 ''A'' は固有値 ''a'' &minus; ''bi'' と ''a'' + ''bi'' をもち、たとえば以下の正則行列 ''P'' で対角化される。 : <math>A = \begin{bmatrix} a &-b \\ b &a \end{bmatrix}, \quad P = \begin{bmatrix} i &1 \\ -i &1 \end{bmatrix}, \quad P^{-1}AP = \begin{bmatrix} a-bi & \\ &a+bi \end{bmatrix}</math> 一方、次の行列 ''B'' は対角化可能ではない。 :<math>B = \begin{bmatrix} \lambda &1 \\ &\lambda \end{bmatrix}</math> 3次正方行列について、具体的な数値で計算を行ってみる。 次の行列は対角化可能かどうか判断し、可能な場合は対角化せよ: :<math>A=\begin{bmatrix} 1 &2 &0 \\ 0 &3 &0 \\ 2 &-4 &2 \end{bmatrix}</math> 固有値と固有ベクトルを計算すると、 :<math>\lambda_1 = 3, \quad \lambda_2 = 2, \quad \lambda_3= 1</math> :<math>v_1 = \begin{bmatrix} -1 \\ -1 \\ 2 \end{bmatrix}, \quad v_2 = \begin{bmatrix} 0 \\ 0 \\ 1 \end{bmatrix}, \quad v_3 = \begin{bmatrix} -1 \\ 0 \\ 2 \end{bmatrix}</math> 固有ベクトルを並べた :<math>P= \begin{bmatrix} -1 &0 &-1 \\ -1 &0 &0 \\ 2 &1 &2 \end{bmatrix}</math> の行列式は0でないため、これを使って対角化できる。 :<math>P^{-1}AP = \begin{bmatrix} 0 &-1 &0 \\ 2 &0 &1 \\ -1 &1 &0 \end{bmatrix} \begin{bmatrix} 1 &2 &0 \\ 0 &3 &0 \\ 2 &-4 &2 \end{bmatrix} \begin{bmatrix} -1 &0 &-1 \\ -1 &0 &0 \\ 2 &1 &2 \end{bmatrix} = \begin{bmatrix} 3 &0 &0 \\ 0 &2 &0 \\ 0 &0 &1 \end{bmatrix}</math> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == === 和書 === * {{Cite book|和書 |author=[[斎藤正彦]] |year=1966 |title=線型代数入門 |url=https://www.utp.or.jp/book/b302039.html |edition=初版 |publisher=東京大学出版会 |isbn=978-4-13-062001-7 |ref=harv}} * {{Cite book|和書 |author=[[佐武一郎]] |year=1974 |title=線型代数学 |publisher=裳華房}} * {{Cite book|和書 |title=ヒルベルト空間と量子力学 |author=[[新井朝雄]] |year=1997 |series=共立講座21世紀の数学 |publisher=共立出版}} === 洋書 === * Strang, G. (2003). Introduction to linear algebra. Cambridge (MA): Wellesley-Cambridge Press. * Franklin, Joel N. (1968). Matrix Theory. [[:en:Dover Publications]]. ISBN 978-0-486-41179-8. * Golub, Gene H.; Van Loan, Charles F. (1996), Matrix Computations (3rd ed.), Baltimore: Johns Hopkins University Press, ISBN 978-0-8018-5414-9 * Horn, Roger A.; Johnson, Charles R. (1985). Matrix Analysis. [[:en:Cambridge University Press]]. ISBN 978-0-521-38632-6. * Horn, Roger A.; Johnson, Charles R. (1991). Topics in Matrix Analysis. [[:en:Cambridge University Press]]. ISBN 978-0-521-46713-1. * Nering, Evar D. (1970), Linear Algebra and Matrix Theory (2nd ed.), New York: Wiley, LCCN 76091646 == 関連項目 == <!-- {{Commonscat|Diagonalization}} --> * [[線型写像]] * [[対角行列]] * [[固有値]] * [[ジョルダン標準形]] * [[ランチョス法]] == 外部リンク == * {{高校数学の美しい物語|1133|行列の対角化の意味と具体的な計算方法}} {{linear-algebra-stub}} {{線形代数}} {{DEFAULTSORT:たいかくか}} [[Category:線型代数学]] [[Category:数値線形代数]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:行列]]
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磁性半導体
磁性半導体(じせいはんどうたい、Magnetic Semiconductor)とは、強磁性と半導体の両方の性質を合わせ持つ物質。スピントロニクス材料として用いられる。半導体の電気デバイスとしての性質を用いた電気的制御により、磁気特性をコントロールすることが可能である。 現在は、主に半導体結晶成長の際に磁性不純物を入れる、希薄磁性半導体が主流である。
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陰暦
陰暦(いんれき)
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陰暦(いんれき) 太陰暦。 太陰太陽暦。主に近代以前の中国暦を指す。 2.の中でも特に日本で明治初期まで使われた天保暦。対義語は西暦。
'''陰暦'''(いんれき) # [[太陰暦]]。 # [[太陰太陽暦]]。主に近代以前の[[中国暦]]を指す。 # 2.の中でも特に日本で明治初期まで使われた[[天保暦]]。[[対義語]]は[[西暦]]。 {{aimai}} {{デフォルトソート:いんれき}}
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枢機卿
枢機卿(すうききょう、すうきけい、ラテン語: Cardinalis、英: Cardinal)は、カトリック教会における教皇の最高顧問である。重要な案件について教皇を直接に補佐する「枢機卿団」を構成すると同時に、個々の枢機卿は教会全体にかかわる日常的な職務について教皇を助ける。 正式な称号は「聖なるローマ教会の枢機卿」 で、枢機卿(カーディナル)という言葉自体はラテン語の「Cardo(カルド=蝶番)」に由来している。これには、枢機卿が教会にとって蝶番のように重要なものという意味がある。敬称は猊下(げいか)。 枢機卿は、原則として司教の叙階を受けた聖職者の中から教皇が自由に任命し、任期は設けられていない。また、教皇選出選挙(コンクラーヴェ)の選挙権は、枢機卿だけが持つ。これらと関連して、教皇没後等の使徒座空位時には教皇庁の運営を指導する役割も担う。使徒座空位時の枢機卿団の職務と教皇選挙の詳細については1996年に発布された使徒憲章『ウニヴェルシ・ドミニチ・グレギシ』で規定されている。 13世紀以来、枢機卿は緋色(カーディナルレッド)の聖職者服を身にまとう習慣がある。緋色は、信仰のためならいつでもすすんで命を捧げるという枢機卿の決意を表す色である。 教会法典第350条によれば、枢機卿には以下の三つの位階が存在する。 これらは、カトリックの聖職位階である司教・司祭・助祭とは直接関係のない、意味の異なるもので、「司祭枢機卿」や「助祭枢機卿」であっても原則として枢機卿は司教の叙階を受けた聖職者の中から選ばれるので、実際には既に司教叙階を受けている者がほとんどである。 枢機卿の起源は、5世紀の教皇がローマに在住する司祭・助祭のあるものを自らの顧問団に任じたことであるとされる。その後、ローマ教区が拡大し、ローマ周辺にローマ教区に属する司教区が設けられると、その司教たちも枢機卿団に加えられた。これらが司祭枢機卿、助祭枢機卿、そして司教枢機卿のルーツである。当初の目的を果たすため、枢機卿はローマとその近郊から選ばれるのが通例であったが、教皇の権威が増していく中で、ローマ以外の地域からも枢機卿が選ばれるようになっていった。 教皇は、初めから枢機卿団によって選出されていたわけではない。古代においては教皇はローマ市民によって選ばれていた。中世に入って教皇の選挙権は枢機卿団のみが持つというシステムが構築されていった。西方教会の歴史の中で、司教団にこの権限をゆだねようという動きが出たこともあったが、結局実現しなかった。 中世に入って、枢機卿団が教皇宮廷の貴族のような色合いを持ち始めると、枢機卿は信者の男性であれば誰でも任命されうるものとなり、聖職者でない者も枢機卿団に加わっていた。たとえば16世紀の著名な枢機卿レジナルド・ポールは司祭叙階を受けるまでに18年以上も枢機卿職を務めていた。逆に、イングランドとフランスでは、宰相あるいは首席閣僚を枢機卿が務めていた時期があった。たとえばイングランドのトマス・ウルジー、フランスのリシュリューやマザランがそれにあたる。 現代では最低限の条件として司祭であることが必要とされており、通常は司教団から任命される。司祭が枢機卿に任命される場合は任命後に司教叙階を受けることが多いが、最近の例では2001年に枢機卿に任命されたイエズス会士エイヴリー・ダレス(英語版)が枢機卿任命時に司祭であったが、高齢を理由に司教叙階の免除を願い出てゆるされている。 13世紀初頭にはわずか7人しかなかった枢機卿団であるが、16世紀に入って急速にその規模が拡大したため、シクストゥス5世の時代に枢機卿団の人数に70人という枠が設けられた。内訳は6名の司教枢機卿、50名の司祭枢機卿、14名の助祭枢機卿である。20世紀にいたるまでこの制限は守られていたが、ヨハネ23世はこの制限を解除し、枢機卿団を増員した。ついでパウロ6世は教皇選挙の有資格者を使徒座空位発生日時点で80歳未満の枢機卿に限り、その人数は120人までという制限を設定した。これは必然的に80歳未満の枢機卿の定員である。 以後、有権枢機卿の任命はこの120人という枠を念頭に置いて、その欠員を補充するために数年に一度のペースで任命が行われるようになった。ただし枢機卿団の年齢構成を考慮してか、120人を上回ることも何度か発生している(新たな枢機卿の任命時点で有権枢機卿の人数が120人を上回っても、次回のコンクラーヴェを迎えるまでに80歳以上となって選挙権を失う枢機卿が多数発生するため、有権枢機卿の定員については特に問題はないとされる)。また、この規定を逆手に取って、顕著な功績のあった80歳以上の聖職者の名誉的な枢機卿任命も行われるようになった。 現在の首席枢機卿は、2020年1月に就任したジョヴァンニ・バッティスタ・レ(英語版)枢機卿である。 歴史上、日本国籍保持者の枢機卿は以下の6名がいる。 なお、土井は1963年の、白柳と濱尾は2005年のコンクラーヴェにそれぞれ参加している(田口と里脇は存命中にコンクラーヴェの開催自体がなかった)。2018年6月時点で唯一の存命者である前田は最長で2029年3月2日までコンクラーヴェへの参加義務がある。 枢機卿は真紅の衣をまとうことから、ヨーロッパ諸語では「カーディナル(枢機卿)」は「赤」の代名詞となった。生物学ではショウジョウコウカンチョウ(ラテン語: Cardinalis cardinalis、英: Northern Cardinal、アメリカメジャーリーグのセントルイス・カージナルスの球団名の由来)、カージナルテトラの例のようによく使われる(日本語では猩々が使用される)。 カクテルの一種「カーディナル」は、赤ワインをベースにクレーム・ド・カシスを混ぜたもの。赤ワインでなく白ワインを用いたものはカーディナルではなく「キール」である。 欧米諸国では黒幕的な官僚や政治家を「灰色の枢機卿(éminence grise:灰色の猊下)」と呼ぶことがある。これはフランスの宰相リシュリュー枢機卿の片腕だった修道士フランソワ・ルクレール・デュ・トランブレーに由来する(灰色は修道士の服の色である。トランブレー自身は枢機卿ではない)。
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枢機卿は、カトリック教会における教皇の最高顧問である。重要な案件について教皇を直接に補佐する「枢機卿団」を構成すると同時に、個々の枢機卿は教会全体にかかわる日常的な職務について教皇を助ける。 正式な称号は「聖なるローマ教会の枢機卿」 で、枢機卿(カーディナル)という言葉自体はラテン語の「Cardo(カルド=蝶番)」に由来している。これには、枢機卿が教会にとって蝶番のように重要なものという意味がある。敬称は猊下(げいか)。 枢機卿は、原則として司教の叙階を受けた聖職者の中から教皇が自由に任命し、任期は設けられていない。また、教皇選出選挙(コンクラーヴェ)の選挙権は、枢機卿だけが持つ。これらと関連して、教皇没後等の使徒座空位時には教皇庁の運営を指導する役割も担う。使徒座空位時の枢機卿団の職務と教皇選挙の詳細については1996年に発布された使徒憲章『ウニヴェルシ・ドミニチ・グレギシ』で規定されている。
{{Otheruses||映画|枢機卿 (映画)}} {{統合文字|卿}} '''枢機卿'''(すうききょう、すうきけい{{Refnest|group="注"|日本のカトリック教会では「すうききょう」が公式な読み方とされている<ref name="cbcj_cardinal">{{Cite web|和書|url=https://www.cbcj.catholic.jp/faq/cardinal/ |title=枢機卿(すうききょう)とは? |publisher=[[カトリック中央協議会]] |accessdate=2017-06-22 }}</ref>。{{要出典範囲|かつては一部で「すうききょう」と読まれたこともあった|date=2018年11月}}。}}{{Refnest|group="注"|NHK放送文化研究所編『ことばのハンドブック 第2版』では放送上の表現としては「すうきけい」ではなく「すうききょう」と読むと解説されている<ref>NHK放送文化研究所編 『ことばのハンドブック 第2版』 p.110 2005年</ref>。}}、{{Lang-la|Cardinalis}}、{{Lang-en-short|Cardinal}})は、[[カトリック教会]]における[[教皇]]の最高顧問である。重要な案件について教皇を直接に補佐する「枢機卿団」<ref>{{lang-en-short|College of Cardinals}}</ref>を構成すると同時に、個々の枢機卿は教会全体にかかわる日常的な職務について教皇を助ける<ref name="cbcj_cardinal"/>。 正式な称号は「聖なるローマ教会の枢機卿<ref>{{Lang-la|Sanctae Romanae Ecclesiae cardinalis}}</ref>」 で、枢機卿(カーディナル)という言葉自体はラテン語の「{{lang|la|Cardo}}(カルド=[[蝶番]])」に由来している。これには、枢機卿が教会にとって蝶番のように重要なものという意味がある。[[敬称]]は[[敬称#「下」の付く敬称|猊下]](げいか)。なお、かつて日本では、枢機卿に対して、「すうききょう」「すうきけい」と2通りの読み方があったが、1960年4月にカトリック教の全国司教会議が「すうききょう」に読み方を統一することを決定<ref> https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/gimon/074.html</ref>。以後、カトリック教会はもちろん、マスメディアもこの決定に従ったため、「すうきけい」はあまり使われなくなった。 枢機卿は、原則として[[司教]]の[[叙階]]を受けた聖職者の中から教皇が自由に任命し、任期は設けられていない。また、教皇選出選挙([[コンクラーヴェ]])の選挙権は、枢機卿だけが持つ<ref name="cbcj_cardinal"/>。これらと関連して、教皇没後等の[[使徒座空位]]時には[[ローマ教皇庁|教皇庁]]の運営を指導する役割も担う。使徒座空位時の枢機卿団の職務と教皇選挙の詳細については1996年に発布された使徒憲章『ウニヴェルシ・ドミニチ・グレギシ』で規定されている。 ==機能と位階== [[Image:Vetements cardinal Gamarelli.jpg|thumb|枢機卿の礼服]] [[Image:Template-Cardinal.svg|thumb|枢機卿の紋章の基本形]] [[13世紀]]以来、枢機卿は緋色([[色名一覧 (か)|カーディナルレッド]])の聖職者服を身にまとう習慣がある。緋色は、信仰のためならいつでもすすんで命を捧げるという枢機卿の決意を表す色である。 [[教会法]]典第350条によれば、枢機卿には以下の三つの位階が存在する<ref>{{Cite web|url=https://www.cbcj.catholic.jp/faq/congregation/ |title=枢機卿会議({{lang|en|Congregation of the Cardinals}})とは? |publisher=カトリック中央協議会 |accessdate=2017-06-22 }}</ref>。 *[[司教枢機卿]]<ref>{{lang-en-short|Cardinal bishop}}</ref> *[[司祭枢機卿]]<ref>{{lang-en-short|Cardinal priest}}</ref> *[[助祭枢機卿]]<ref>{{lang-en-short|Cardinal deacon}}</ref> これらは、カトリックの聖職位階である[[司教]]・[[司祭]]・[[助祭]]とは直接関係のない、意味の異なるもので、「司祭枢機卿」や「助祭枢機卿」であっても原則として枢機卿は司教の[[叙階]]を受けた聖職者の中から選ばれるので<ref name="cbcj_cardinal"/>、実際には既に司教叙階を受けている者がほとんどである。 ==歴史と変遷== {{出典の明記|section=1|date=2013年10月}} 枢機卿の起源は、[[5世紀]]の[[教皇]]が[[ローマ]]に在住する司祭・助祭のあるものを自らの顧問団に任じたことであるとされる。その後、ローマ教区が拡大し、ローマ周辺にローマ教区に属する司教区が設けられると、その司教たちも枢機卿団に加えられた。これらが司祭枢機卿、助祭枢機卿、そして司教枢機卿のルーツである。当初の目的を果たすため、枢機卿はローマとその近郊から選ばれるのが通例であったが、教皇の権威が増していく中で、ローマ以外の地域からも枢機卿が選ばれるようになっていった。 教皇は、初めから枢機卿団によって選出されていたわけではない。古代においては教皇はローマ市民によって選ばれていた。中世に入って教皇の選挙権は枢機卿団のみが持つというシステムが構築されていった。[[西方教会]]の歴史の中で、司教団にこの権限をゆだねようという動きが出たこともあったが、結局実現しなかった。 中世に入って、枢機卿団が教皇宮廷の貴族のような色合いを持ち始めると、枢機卿は信者の男性であれば誰でも任命されうるものとなり、聖職者でない者も枢機卿団に加わっていた。たとえば[[16世紀]]の著名な枢機卿[[レジナルド・ポール]]は司祭叙階を受けるまでに18年以上も枢機卿職を務めていた。逆に、[[イングランド王国|イングランド]]と[[フランス王国|フランス]]では、[[宰相]]あるいは首席閣僚を枢機卿が務めていた時期があった。たとえばイングランドの[[トマス・ウルジー]]、フランスの[[リシュリュー]]や[[ジュール・マザラン|マザラン]]がそれにあたる。 現代では最低限の条件として司祭であることが必要とされており、通常は司教団から任命される。司祭が枢機卿に任命される場合は任命後に司教叙階を受けることが多いが、最近の例では2001年に枢機卿に任命された[[イエズス会]]士{{仮リンク|エイヴリー・ダレス|en|Avery Dulles}}が枢機卿任命時に司祭であったが、高齢を理由に司教叙階の免除を願い出てゆるされている。 13世紀初頭にはわずか7人しかなかった枢機卿団であるが、[[16世紀]]に入って急速にその規模が拡大したため、[[シクストゥス5世 (ローマ教皇)|シクストゥス5世]]の時代に枢機卿団の人数に70人という枠が設けられた。内訳は6名の司教枢機卿、50名の司祭枢機卿、14名の助祭枢機卿である。20世紀にいたるまでこの制限は守られていたが、[[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]はこの制限を解除し、枢機卿団を増員した。ついで[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]は教皇選挙の有資格者を使徒座空位発生日時点で80歳未満の枢機卿に限り、その人数は120人までという制限を設定した。これは必然的に80歳未満の枢機卿の定員である。 以後、有権枢機卿の任命はこの120人という枠を念頭に置いて、その欠員を補充するために数年に一度のペースで任命が行われるようになった。ただし枢機卿団の年齢構成を考慮してか、120人を上回ることも何度か発生している(新たな枢機卿の任命時点で有権枢機卿の人数が120人を上回っても、次回のコンクラーヴェを迎えるまでに80歳以上となって選挙権を失う枢機卿が多数発生するため、有権枢機卿の定員については特に問題はないとされる)。また、この規定を逆手に取って、顕著な功績のあった80歳以上の聖職者の名誉的な枢機卿任命も行われるようになった。 現在の首席枢機卿は、2020年1月に就任した{{仮リンク|ジョヴァンニ・バッティスタ・レ|en|Giovanni Battista Re}}枢機卿である。 ==日本人の枢機卿== 歴史上、日本国籍保持者の枢機卿は以下の6名がいる。 *[[土井辰雄]](1960年3月28日任命、1970年2月[[帰天]])東京[[大司教]] *[[田口芳五郎]](1973年3月5日任命、1978年2月帰天)大阪大司教、[[英知大学]]学長 *[[里脇浅次郎]](1979年6月30日任命、1996年8月帰天)長崎大司教 *[[白柳誠一]](1994年11月26日任命、2009年12月帰天)東京大司教、[[世界宗教者平和会議]]日本委員会理事長 *[[濱尾文郎]](2003年10月21日任命、2007年11月帰天)横浜司教、教皇庁{{仮リンク|移住移動者司牧評議会|en|Pontifical Council for the Pastoral Care of Migrants and Itinerants}}議長 *[[前田万葉]](2018年6月28日任命)大阪大司教 なお、土井は1963年の、白柳と濱尾は2005年のコンクラーヴェにそれぞれ参加している(田口と里脇は存命中にコンクラーヴェの開催自体がなかった)。2018年6月時点で唯一の存命者である前田は最長で2029年3月2日までコンクラーヴェへの参加義務がある。 ==備考== 枢機卿は真紅の衣をまとうことから、ヨーロッパ諸語では「カーディナル(枢機卿)」は「赤」の代名詞となった。生物学では[[ショウジョウコウカンチョウ]]({{Lang-la|Cardinalis cardinalis}}、{{Lang-en-short|Northern Cardinal}}、[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]の[[セントルイス・カージナルス]]の球団名の由来)、[[カージナルテトラ]]の例のようによく使われる(日本語では[[猩々]]が使用される)。 [[カクテル]]の一種「[[カーディナル (カクテル)|カーディナル]]」は、[[ワイン|赤ワイン]]をベースに[[クレーム・ド・カシス]]を混ぜたもの。赤ワインでなく白ワインを用いたものはカーディナルではなく「[[キール (カクテル)|キール]]」である。 欧米諸国では黒幕的な官僚や政治家を「灰色の枢機卿(éminence grise:灰色の猊下)」と呼ぶことがある。これはフランスの宰相[[リシュリュー]]枢機卿の片腕だった修道士[[フランソワ・ルクレール・デュ・トランブレー]]に由来する(灰色は修道士の服の色である。トランブレー自身は枢機卿ではない)。 ==脚注== ===注釈=== {{Reflist|group="注"}} ===出典=== {{Reflist}} ==関連項目== *[[卿]] *[[コンクラーヴェ]] *[[チェーザレ・ボルジア]] *{{仮リンク|枢機卿・甥|en|Cardinal-nephew}} *{{仮リンク|存命中の枢機卿のリスト|en|List of living cardinals}} *{{仮リンク|心の内に|en|In pectore}} ==外部リンク== *[http://www.newadvent.org/cathen/03333b.htm CATHOLIC ENCYCLOPEDIA:Cardinal] {{en icon}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:すうききよう}} [[Category:枢機卿| ]] [[Category:カトリックの称号・役職]]
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第一次インドシナ戦争
第一次インドシナ戦争(だいいちじいんどしなせんそう、ベトナム語: Chiến tranh Đông Dương、フランス語: Guerre d'Indochine)は、1945年から1954年にかけて当時フランスの植民地であったフランス領インドシナのベトナム、ラオス、カンボジアの脱植民地化をめぐってベトナム民主共和国(ベトナム)とフランス共和国(フランス)との間で勃発した戦争である。単に「インドシナ戦争」と言った場合は、通常この戦いを指す事が多い。 インドシナ半島は1941年のヴィシー政権成立以降、フランス領インドシナ総督との間で協定を結んだ日本軍が進駐し(仏印進駐)、軍事的には日本軍が占拠し、内政はフランス側が続ける状態にあった。ヴィシー・フランスに対抗していたシャルル・ド・ゴールの自由フランスは、ブラザヴィル会議(フランス語版、英語版)で植民地の協力と引き替えに戦後の自治拡大を約束した。しかし、フランスの世論は基本的に植民地保持派が多数を占めており、独立を容認する考えはなかった。 1944年6月にアルジェ(アルジェリア)で成立した自由フランス主導のフランス共和国臨時政府が8月のパリ解放で帰国すると、日本軍は1945年3月に明号作戦を行い、フランス領インドシナ政府を解体、フランスの植民地支配が終結したと宣言した(仏印処理)。これにともなってインドシナでは保護下にあったベトナム帝国、カンボジア王国、ラオス王国が独立を宣言した。 ベトナムの社会構造の基礎は家族制度であり、これを基礎単位に広範な自治権をもつ村落が形成されていた。これら村落が独自の長老会議を集約点とする自治形態を保持し、強固な団結心を維持しつつベトナム社会の底辺をなした。それ故に歴代王朝やフランス植民地行政機関も村落自治に容易に干渉できなかった。 総人口の約85%が農業、牧畜、漁業産業に従事し、国民総生産額の5割から6割を占めた。フランス植民地省はこのような経済構造を変革させるために積極的に資本投下したが、前述の村落自治形態に阻まれ旧態依然のまま日本軍の占領統治を受けることになった。また、19世紀末頃からフランスは、村落ごとの共同経営形態である公田制に介入し、地主制度をおき親仏カトリック教徒を地主とした。その結果、1930年には全耕作地の8割が私有地となったが、農民の内約7割近くが小作人で、最大期で約6%の大地主が耕作地の60%以上を所有していた。1930年代末の南部コーチシナでは、米田面積の82%を人口の8%に満たない中〜大規模地主が占有し、6割の農民は土地を持たず、その他多くの零細農家がいた。 土地問題はのちの共産主義勢力の伸張の根源の一つとなる。 1945年8月15日、日本軍が無条件降伏すると、8月18日から8月28日にかけてベトナム独立同盟会(ベトミン)が指導する蜂起がベトナム全土で起こった。ベトミンはベトナム帝国のバオ・ダイ(保大帝)を退位させて権力を奪取し、臨時ベトナム民主共和国政府が成立した(ベトナム八月革命)。日本が降伏文書に調印し休戦協定が結ばれた9月2日、ハノイでベトナム民主共和国の独立宣言がなされた。一方でラオスとカンボジアは独立を取り消した。 8月15日以降、日本軍第38軍は降伏に備えて待機していたが、一部部隊や軍人はベトミンなどに武器を引渡したり或いは個人単位で合流したり、武器の引渡しを拒否した部隊との間では小競り合いが発生した。事態を憂慮した第38軍とインドシナ植民地行政当局は、フランス本国より国家憲兵隊が到着するまでの間、日本軍憲兵隊による取り締まりを実施させた。 連合国一般命令第1号(1945年9月2日公布)に基づき、北緯16度線以北が中国国民党軍に、以南がイギリス軍に割り当てられ、フランス軍が本格展開するまでの間、進駐する事となった。同年8月末には北部ベトナムに盧漢将軍率いる国民党軍180,000人規模の部隊が進駐、南部ベトナムには9月12日にルイス・マウントバッテン卿率いる英印軍の第一陣が上陸しそれぞれ日本軍の武装解除に着手した。フランスは、ジョルジュ・ティエリ・ダルジャンリュー提督を高等弁務官に任命し、軍からは本国軍2個師団の派遣を決定し、フィリップ・ルクレール将軍を長とするフランス極東遠征軍団が編制され、9月12日にマダガスカル旅団を第一陣にして出発、10月5日に先遣部隊がサイゴンに到着、ルクレールは同月9日にジャック・マシュ大佐率いる行進群と一緒に到着した。11月までの間に3派に分かれて第3機械化師団と第9植民地師団が到着した。空軍は輸送機と戦闘機を中心に約100機を派遣、海軍はフィリップ・オーボワノ提督を長とする護衛艦隊を率いて、戦艦「リシュリュー」、軽巡洋艦「グロワール」、大型駆逐艦「ル・トリオンファン」、空母「ベアルン」が極東海域に展開した。 北部では、進駐国民党軍の共産主義敵視政策により、ホンガイ炭鉱などで多くのベトミン系労働者が逮捕・追放された。そのため臨時政府は非共産主義者を入閣させ、1945年11月にはインドシナ共産党を偽装解散した。以後インドシナ共産党は1951年にベトナム労働党となるまで、非合法組織として活動する。1946年2月、フランス・中華民国間で重慶協定が締結されると、国民党軍は4月以降順次撤退した。フランスは同協定で国民党軍撤退の代償として、中国でのフランス租借権放棄・雲南鉄道の中国譲渡・ハイフォン港自由化・在インドシナ華僑に対する優遇措置などを受け入れた。 1946年2月28日と3月6日、ベトミンとフランスは予備協定(ハノイ暫定協定(ベトナム語版、フランス語版、英語版))を締結した。フランス連合インドシナ連邦の一国としてベトナム民主共和国の独立とトンキン地方のフランス軍駐留を認め、相互に一時的妥協が成立した。独立宣言からこの間まで、各地でベトナム人と英印軍や10月末到着したフランス遠征軍を巻き込んだ小紛争が頻発した(マスタードム作戦)。 フランス共和国臨時政府とベトナム民主共和国との間では独立交渉(ダラット会議)が続けられていた。しかし、南部のプランテーション入植者達の既得権益を優先したフランスは、1946年3月26日にはフランス権益が多く存在するベトナム南部に傀儡のコーチシナ共和国を成立させた。フランスは植民地をフランス連合(fr)に再構成し、インドシナには連合傘下の「インドシナ連邦」を置き、その連邦の枠内での自治を認める方針を指向していた。しかし「インドシナ連邦」はすなわちフランス植民地時代と同じ名称であり、ベトナム側にとっては受け入れられるものではなかった。 ホー・チ・ミンを始めとするベトナム代表団は、6月からフランス本国のフォンテーヌブローまで赴いてベトナムの独立問題について話し合ったが(フォンテーヌブロー会談(ベトナム語版、フランス語版、英語版))、この席でコーチシナ共和国の成立を通告された上、コーチシナの分離問題や独立問題交渉で相互譲歩が行われず、交渉は9月で決裂した。1946年1月20日に突如ド・ゴールが辞任した後、当時臨時政府は人民共和運動(MRP、fr)、フランス共産党、フランス社会党の連立政権であったが、与野党を問わず植民地問題で譲歩する政党はなかった。 6月1日、ベトミンは独立戦争長期化に備えて元日本軍将兵からなる義勇兵を教官としたクァンガイ陸軍中学を設立して近代戦に対処した将校の育成を始める。1946年11月20日、ハイフォン港での密輸船取締りに端を発する砲撃事件(ハイフォン事件)は同港制圧の口実となり、11月23日にフランス海軍艦も交えての制圧戦となった。 1946年12月19日から、フランス軍はトンキン・デルタ地帯の各要衝やハノイのホー・チ・ミン官邸やその他重要施設を襲撃した。その後2ヶ月間に多くの戦略拠点を占領した。ベトミンが北部国境地帯の要点を押さえ中越間の連絡路を確保するとフランス軍は国境沿いの要衝ランソンを占領し牽制した。1947年2月にフランスの一連の平定作戦は完了し、中部ではダナン、フエ、プレイクを占領した。ヴォー・グエン・ザップを総司令官とするベトミン軍は内陸の農村地帯に退避しゲリラ戦に移行した。 5月、フランス現地機関が軍事問題は存在しないと声明し強硬姿勢をとった。ベトミンはあくまでフランス本国政府に和平を求め4月には交渉に臨んだが両者の要求は対立し決裂した。 1947年10月のリアー作戦では、フランスは機械化部隊15,000人を投入し、北部山岳地帯のベトミン軍拠点ランソンを攻撃したが完敗した。フランス軍当局はこの事実を糊塗し勝利したように見せかけたが、既にベトミン軍は守勢を脱し以降は正規軍による積極的反攻にでた。1947年11月29日、フランス軍はミーチャック村虐殺事件を引き起こした。 戦争中、フランスはハノイ・ハイフォン・サイゴンの主要三都市を保持し、ベトミンは農村地帯の大部分を保持した。北部の山岳地帯はベトミンの牙城であり、トンキンデルタと中越国境地帯は一進一退が続いた。中部高原・中部沿岸諸省・南部メコンデルタではベトミンの抵抗は根強く、やがてフランス軍はフエ・ダナン・ニャチャン周辺に狭い橋頭堡を残すだけとなった。 1949年、現地の情勢悪化を確認したフランス軍参謀総長は、近い将来ベトミン軍は中国共産党から援助され北部ベトナム制圧は困難になるため、ハノイ・ハイフォン地区に兵力を集中し要塞地帯にしてベトミン軍の攻撃に耐えねばならないと判断した。同年1月、ベトミン軍首脳部もゲリラ戦術だけでは決定的勝利はできないと判断、同年12月を目処に総攻撃に出る準備を開始した。 1949年8月にソ連が原爆実験に成功し、10月に北隣に中国共産党による一党独裁国家の中華人民共和国が成立すると、翌1950年1月にソ連と中国がベトナム民主共和国(ホー・チ・ミン政権)を正式承認し、武器援助を開始した。これによりベトミン軍は近代化され、正規軍の規模を以前より拡大し編成することが可能となった。しかし、南部デルタや農村のゲリラの間では以後も長く米仏製捕獲武器やベトミン製造武器が主流であった。一方アメリカはフランスとインドシナ三国に軍事援助を開始した。 1948年6月、フランスはコーチシナ共和国を廃して、ベトナム臨時中央政府を経て、1949年6月、南部に旧阮朝のバオ・ダイを国家主席とする傀儡のベトナム国を成立させた。また、ラオスを7月に、カンボジアを11月に独立させ、インドシナ全域に影響力を残しつつベトナム国の正当性を強調しようとした。 手榴弾や小型地雷や罠で手足を切断され、ゲリラ容疑の村民を殺傷する掃討作戦によって身体と精神に障害を負い帰国した若い兵士の姿に、フランス本国は大きな衝撃を受けた。このため1949年には本国軍徴集兵の海外派遣が禁止される法律が制定され、極東遠征軍団はフランス人志願兵・現地人・モロッコやアルジェリアおよびセネガル等の他の植民地人・ドイツ人やイタリア人などの外人部隊兵で構成されることとなる。当初、フランス軍は本国軍兵士を年間47,000人を交代で勤務させる計画だった。しかし現地兵や植民地兵の錬度・士気は低く、前線に立つのはもっぱら外人部隊兵や本国軍兵士だった。このため逐次に交代兵を利用し増員するのは不可能となり実質的に増援は来ない状態となった。 こうしてインドシナ戦争は、単にベトナム人民の独立運動ではなくなり、東西冷戦の一部となったが、6月に朝鮮戦争が勃発すると米ソ中各国は朝鮮半島に注目し、ベトナムに戦力を集中することは無かった。 第二次世界大戦後の第四共和政のフランスは、国土再建とインドシナ戦争で疲弊し、アメリカに援助を要請した。1950年5月、アメリカは要請に基づきベトナム援助計画を発表、6月にはグレーブス・アースキン少将の調査団が派遣された。10月、フランシス・ブレリンク准将率いる軍事顧問団が派遣された。同月ジュール・モック仏国防大臣とマルセル・ペッチェ仏財務大臣が要請し、援助物資がインドシナに送られた。12月、サイゴンでジャン・ルトルノー海外担当大臣とヒース米公使とチャン・バン・フーベトナム国首相の三者会談により軍事援助協定が結ばれた。1952年度までに年額約3億ドル、1953年までに約4億ドルにおよび、4年間の援助総量は航空機約130機、戦車約850輌、舟艇約280隻、車両16,000台、弾薬1億7千万発以上となり、その他医薬品、無線機などが送られた。また、アメリカ軍事顧問団約400人が派遣され、ベトナム国軍など現地部隊を教育訓練した。 1950年初頭、ベトミン軍は大規模戦闘は行なわず各地でゲリラ戦を活発化させていた。特に、メコンデルタとトンキンでは間断なき戦闘を続けフランス軍の小規模陣地を襲撃、次々と全滅させていった。フランス軍は小規模陣地群を撤収させ、ラオカイ、カオバン、ドンケ(英語版)、タトケ、ランソンに兵力を集中した。結果、兵力消耗は防げたが主要拠点との連絡線が遮断され「点の支配」に陥り各地で孤立した。とくにカオバン攻防戦及び植民地道4号線の戦い(英語版)では「カオバンの悲劇」と呼ばれるほどの大敗を喫した。 9月、ベトミン軍は各地のフランス軍主要拠点を攻撃し、これまでのゲリラ戦ではなく大隊単位の正規軍を投入した。これらの部隊は砲迫を装備した近代的部隊であった。フランス軍はマダガスカル、アフリカなどから増援部隊を送ったが、10月以降に国境地帯から逐次撤退した。12月17日、ジャン・ド・ラトル・ド・タシニ極東遠征軍団司令官が高等弁務官を兼任し、フランス軍兵力は125,000人となった。この頃の本国政府はインドシナ問題の総てをド・ラトル・ド・タシニ将軍に一任していた。ベトミン軍は各所で攻勢に出て、1950年末、フランス軍はハノイ・ハイフォン・ナムデン三角地帯を防衛するド・ラトル線(英語版)まで戦線を縮小した。 1951年、ベトミン軍は総攻撃を成功させ反攻段階に移る。1月、フランス軍はヴィンイエンでのヴィンイエンの戦い(英語版)で新兵器ナパーム弾投下で反撃した。 ベトミン軍は、3月にはマオケの戦い(英語版)、4月にはナムディンと次々攻撃したが、5月にフランス軍はデイ川の戦い(英語版)で紅河デルタの勢力圏を維持した。 1951年前半期、ベトミン軍は正規戦の経験も訓練も不十分だったため都市部はまだ劣勢だった。北部ベトナムを押さえたベトミン軍だが、これ以後トンキンデルタでの戦闘を回避し、山岳部に誘引して小規模戦闘を行い戦力再編成を行なった。10月、ライチャウ、ソンラを攻撃。11月から1952年2月にかけて激戦となったホアビンの戦い(英語版)で、フランス軍は要衝ホアビンを占領した。南ベトナムでは10月、サイゴンで大規模部隊同士の戦闘が発生した。この頃には従来のゲリラ戦やテロ活動は減少し、組織的な正規戦闘に転換した。 1951年2月、インドシナ共産党の後身であるベトナム労働党が結成された。1951年3月3日、ベトミンはインドシナ共産党の別の統一戦線組織であったリエンベト(連越/ベトナム国民連合会)と合同して「リエンベト戦線」となったが、その後も一般には「ベトミン」と呼ばれ続けた。更に3月11日にはラオス・カンボジアの国民戦線と会合し、インドシナ民族統一解放戦線が結成された。一方、ベトナム国側は宗教団体私兵団4万人を基幹に国軍を編成、7月に総動員令が発令、10月に召集が始まった。同年7月には土地改革計画を発表したが計画は貫徹されなかった。 1952年2月、ベトミン軍はホアビンを占領、ハノイ包囲網を狭めた。フランス軍はド・ラトル線の多くを保持していたが、10月にベトミン軍は北西部に3個師団を投入しナサンの戦い(英語版)で攻勢に転じ、沱江沿岸の要衝ナサンを攻略し、ラオス国境目前にせまった。11月、ベトミン軍は中ソ製の120mm迫撃砲、75mm無反動砲を使いフランス軍を撃退し、フランス軍はソンラを撤退、飛行場のあるナサンに集結、空挺部隊を投入し周辺の攻勢を阻止した。しかしラウル・サラン極東遠征軍団司令官はラオカイを奪回せず、これが戦局の転換点となり、実質的な敗北となった。 1953年1月、アンケ攻防戦でフランス軍は空母を動員し海軍部隊も投入した。ベトミン軍はタイピン、ホアビンに進出、ハイフォン南に切迫。紅河デルタ一帯は膠着状態に陥る。やがてベトミン軍は南進し、北部沿岸および中部フエ、ダナン、クイニョンを占領する。4月、ベトミン軍はフランス軍の補給線と防衛線を破綻させるためラオスに進攻、これに対しフランス軍もビエンチャンに部隊を増派、ジャール平原に空挺部隊を降下させ防戦した。 フランスの報告によれば、1954年初期には南ベトナム農村地帯の90%はベトミンが支配していた。 1952年5月、アンリ・ナヴァール(英語版)が遠征軍司令官に着任、1953年、米英仏外相会談でナヴァール計画への援助が約束された。この計画で1955年を目処にベトミン軍の中核体を破壊するため、ベトナム国軍やラオス軍および少数民族部隊の諸整備と作戦を実施することとなった。本計画に基づき、フランス軍は8月にナサン、12月にライチャウから撤収し戦力集中と再編成を実施、また補給線遮断を目的に空挺作戦を実施した。7月にランソン、10月にラオカイを占領しニンビンでベトミン軍1個師団を捕捉し損害を与えるも山岳部に逃走され決戦は回避された。これによりフランス軍が自主選定した地域での撃破は困難とわかり、山岳地帯に入り拠点にしベトミン軍を誘引撃滅する方針に変更された。 1953年4月のベトミン軍ラオス進攻によりフランス軍は広域に展開せざるを得なくなったが、それはベトミン軍も同じだった。補給能力を比較すれば、ベトミン根拠地の東部ラオスと中国国境からの補給路を断ち、航空機が使えアメリカの援助が期待できるフランス軍が有利であるとし、ベトミン正規軍主力を逐次遠隔地に誘引し撃滅することが計画された。適地として北西部山岳地帯とラオス平原地帯が選ばれ、ラオス国境に近い盆地帯のディエンビエンフーを拠点とし、ベトミン軍がこの攻撃に現れたところを砲爆撃で粉砕し、周囲数十km一帯やラオス平原地帯に空挺部隊を降下させ、ベトミン正規軍を撃滅する計画となった。ディエンビエンフーは旧日本軍が設営した飛行場跡があり、大規模な空中補給と空挺降下が可能で、作戦航空機のハノイへの往復路としては限界点であり、ここを補給拠点にすることとなった。 本計画に対して、トンキン軍管区司令官ルネ・コニー(英語版)将軍はトンキンデルタの守備兵力減少を理由に反対し、遠征軍団空軍副司令官のニコ大佐は輸送力不足を理由に反対していた。事実、コニー将軍は1953年8月に隷下部隊をナサンから隠密裏に撤収させて、戦線縮小を図っていた。 1953年11月20日、カストール作戦(英語版)が実施され、ディエンビエンフーに3個空挺大隊が降下、同地を占領し12,000人の兵力と火砲が配備され、地上設備・空中補給および近接航空支援態勢が整えられた。 ベトミン軍はディエンビエンフー降下の一報が入ると、それまで分散配置していた4個師団の集結を決定。周辺の山岳諸民族と連携し隠密裏に陣地に大砲・食糧を運び込んだ。また小規模ゲリラ部隊を駆使して各地のフランス軍を拘束し部隊移動を秘匿した。 1954年3月13日、戦闘が始まるが、攻撃開始日からベトミン軍の猛烈な砲撃が加えられ、人海戦術により独立高地に設けた2個のフランス軍陣地は早々に陥落した。フランス軍は劣勢となり3月末には滑走路も使用不可能になった。4月、ハノイから3個空挺大隊の派遣と近接航空支援を増強したが、塹壕に篭るベトミン軍にはあまり効果がなかった。雨季の天候は空軍の活動を制限し、ベトミン軍の砲撃支援を受けた夜襲は次々と陣地を攻略していった。末期には周囲2kmの範囲のみをかろうじて保持するのみで、5月7日に陥落し生き残ったフランス兵は捕虜となった ディエンビエンフー陥落後、ベトミン軍はトンキンデルタに攻勢を仕掛けジュネーブ会談中も手を緩めることなく交渉を有利に進めるべく、各地の攻撃を実施した。6月にフランス軍はプーリー、ソンタイ、ラクナム、ハイフォンを結ぶ一帯から撤収を開始、7月にハノイ・ハイフォン回廊に撤退しここにいたりフランスの敗北は明白となった。 ディエンビエンフーの戦いで敗北したフランスはベトナム民主共和国と和平交渉を開始し、1954年7月21日、関係国の間でジュネーヴ協定が締結された。これによりひとまず北緯17度線を境に両軍を分離して1956年にヴェトナム全国統一選挙を行うことが定められたが、アメリカは協定に参加せず、統一選挙を拒否し南に傀儡政権ベトナム国を存続させた。それは民主共和国軍人として17度線以北に結集した兵士と南の家族の長い分断の始まりでもあった。 しかし、フランスはアルジェリアなどアフリカ植民地の独立闘争が激化すると、アメリカにインドシナの肩代わりを求め、1955年10月、アメリカの強い影響力を受けたベトナム共和国(南ベトナム)が成立、1956年6月にフランス軍は完全撤収し、80年に及ぶフランスのベトナム支配が終わった。南部のベトミンはゴ・ディン・ジエム政権により激しい弾圧を受け、やがて南ベトナム解放民族戦線を組織した。 8年間の戦争で、フランスは航空機177機を喪失した。フランス軍は7万5000人、フランス軍以外のフランス連合軍は1万9000人が戦死し、7万8000人が負傷した。またベトミンは兵士50万人の死傷者と25万人の民間人戦死者を出した。別の推計ではベトミン側は50万人の戦死者を出した。 日本人志願兵は約600名に上るとされており、陸軍第34独立混成旅団参謀の井川省少佐を始めとする高級将校から兵卒にいたるまでの多くの志願兵が独立運動に参加していた。日本人志願兵はベトミンに軍事訓練を施したり、作戦指導を行っていた。ベトナム初の士官学校であるクァンガイ陸軍中学の教官・助教官全員と医務官は日本人であった。30名を上回る日本人がベトナム政府から勲章や徽章を授与されていることが確認されている。
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"title": "前史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "総人口の約85%が農業、牧畜、漁業産業に従事し、国民総生産額の5割から6割を占めた。フランス植民地省はこのような経済構造を変革させるために積極的に資本投下したが、前述の村落自治形態に阻まれ旧態依然のまま日本軍の占領統治を受けることになった。また、19世紀末頃からフランスは、村落ごとの共同経営形態である公田制に介入し、地主制度をおき親仏カトリック教徒を地主とした。その結果、1930年には全耕作地の8割が私有地となったが、農民の内約7割近くが小作人で、最大期で約6%の大地主が耕作地の60%以上を所有していた。1930年代末の南部コーチシナでは、米田面積の82%を人口の8%に満たない中〜大規模地主が占有し、6割の農民は土地を持たず、その他多くの零細農家がいた。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "土地問題はのちの共産主義勢力の伸張の根源の一つとなる。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1945年8月15日、日本軍が無条件降伏すると、8月18日から8月28日にかけてベトナム独立同盟会(ベトミン)が指導する蜂起がベトナム全土で起こった。ベトミンはベトナム帝国のバオ・ダイ(保大帝)を退位させて権力を奪取し、臨時ベトナム民主共和国政府が成立した(ベトナム八月革命)。日本が降伏文書に調印し休戦協定が結ばれた9月2日、ハノイでベトナム民主共和国の独立宣言がなされた。一方でラオスとカンボジアは独立を取り消した。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "8月15日以降、日本軍第38軍は降伏に備えて待機していたが、一部部隊や軍人はベトミンなどに武器を引渡したり或いは個人単位で合流したり、武器の引渡しを拒否した部隊との間では小競り合いが発生した。事態を憂慮した第38軍とインドシナ植民地行政当局は、フランス本国より国家憲兵隊が到着するまでの間、日本軍憲兵隊による取り締まりを実施させた。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "連合国一般命令第1号(1945年9月2日公布)に基づき、北緯16度線以北が中国国民党軍に、以南がイギリス軍に割り当てられ、フランス軍が本格展開するまでの間、進駐する事となった。同年8月末には北部ベトナムに盧漢将軍率いる国民党軍180,000人規模の部隊が進駐、南部ベトナムには9月12日にルイス・マウントバッテン卿率いる英印軍の第一陣が上陸しそれぞれ日本軍の武装解除に着手した。フランスは、ジョルジュ・ティエリ・ダルジャンリュー提督を高等弁務官に任命し、軍からは本国軍2個師団の派遣を決定し、フィリップ・ルクレール将軍を長とするフランス極東遠征軍団が編制され、9月12日にマダガスカル旅団を第一陣にして出発、10月5日に先遣部隊がサイゴンに到着、ルクレールは同月9日にジャック・マシュ大佐率いる行進群と一緒に到着した。11月までの間に3派に分かれて第3機械化師団と第9植民地師団が到着した。空軍は輸送機と戦闘機を中心に約100機を派遣、海軍はフィリップ・オーボワノ提督を長とする護衛艦隊を率いて、戦艦「リシュリュー」、軽巡洋艦「グロワール」、大型駆逐艦「ル・トリオンファン」、空母「ベアルン」が極東海域に展開した。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "北部では、進駐国民党軍の共産主義敵視政策により、ホンガイ炭鉱などで多くのベトミン系労働者が逮捕・追放された。そのため臨時政府は非共産主義者を入閣させ、1945年11月にはインドシナ共産党を偽装解散した。以後インドシナ共産党は1951年にベトナム労働党となるまで、非合法組織として活動する。1946年2月、フランス・中華民国間で重慶協定が締結されると、国民党軍は4月以降順次撤退した。フランスは同協定で国民党軍撤退の代償として、中国でのフランス租借権放棄・雲南鉄道の中国譲渡・ハイフォン港自由化・在インドシナ華僑に対する優遇措置などを受け入れた。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1946年2月28日と3月6日、ベトミンとフランスは予備協定(ハノイ暫定協定(ベトナム語版、フランス語版、英語版))を締結した。フランス連合インドシナ連邦の一国としてベトナム民主共和国の独立とトンキン地方のフランス軍駐留を認め、相互に一時的妥協が成立した。独立宣言からこの間まで、各地でベトナム人と英印軍や10月末到着したフランス遠征軍を巻き込んだ小紛争が頻発した(マスタードム作戦)。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "フランス共和国臨時政府とベトナム民主共和国との間では独立交渉(ダラット会議)が続けられていた。しかし、南部のプランテーション入植者達の既得権益を優先したフランスは、1946年3月26日にはフランス権益が多く存在するベトナム南部に傀儡のコーチシナ共和国を成立させた。フランスは植民地をフランス連合(fr)に再構成し、インドシナには連合傘下の「インドシナ連邦」を置き、その連邦の枠内での自治を認める方針を指向していた。しかし「インドシナ連邦」はすなわちフランス植民地時代と同じ名称であり、ベトナム側にとっては受け入れられるものではなかった。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ホー・チ・ミンを始めとするベトナム代表団は、6月からフランス本国のフォンテーヌブローまで赴いてベトナムの独立問題について話し合ったが(フォンテーヌブロー会談(ベトナム語版、フランス語版、英語版))、この席でコーチシナ共和国の成立を通告された上、コーチシナの分離問題や独立問題交渉で相互譲歩が行われず、交渉は9月で決裂した。1946年1月20日に突如ド・ゴールが辞任した後、当時臨時政府は人民共和運動(MRP、fr)、フランス共産党、フランス社会党の連立政権であったが、与野党を問わず植民地問題で譲歩する政党はなかった。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "6月1日、ベトミンは独立戦争長期化に備えて元日本軍将兵からなる義勇兵を教官としたクァンガイ陸軍中学を設立して近代戦に対処した将校の育成を始める。1946年11月20日、ハイフォン港での密輸船取締りに端を発する砲撃事件(ハイフォン事件)は同港制圧の口実となり、11月23日にフランス海軍艦も交えての制圧戦となった。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1946年12月19日から、フランス軍はトンキン・デルタ地帯の各要衝やハノイのホー・チ・ミン官邸やその他重要施設を襲撃した。その後2ヶ月間に多くの戦略拠点を占領した。ベトミンが北部国境地帯の要点を押さえ中越間の連絡路を確保するとフランス軍は国境沿いの要衝ランソンを占領し牽制した。1947年2月にフランスの一連の平定作戦は完了し、中部ではダナン、フエ、プレイクを占領した。ヴォー・グエン・ザップを総司令官とするベトミン軍は内陸の農村地帯に退避しゲリラ戦に移行した。", "title": "前半期(1946〜1949年)" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "5月、フランス現地機関が軍事問題は存在しないと声明し強硬姿勢をとった。ベトミンはあくまでフランス本国政府に和平を求め4月には交渉に臨んだが両者の要求は対立し決裂した。", "title": "前半期(1946〜1949年)" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1947年10月のリアー作戦では、フランスは機械化部隊15,000人を投入し、北部山岳地帯のベトミン軍拠点ランソンを攻撃したが完敗した。フランス軍当局はこの事実を糊塗し勝利したように見せかけたが、既にベトミン軍は守勢を脱し以降は正規軍による積極的反攻にでた。1947年11月29日、フランス軍はミーチャック村虐殺事件を引き起こした。", "title": "前半期(1946〜1949年)" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "戦争中、フランスはハノイ・ハイフォン・サイゴンの主要三都市を保持し、ベトミンは農村地帯の大部分を保持した。北部の山岳地帯はベトミンの牙城であり、トンキンデルタと中越国境地帯は一進一退が続いた。中部高原・中部沿岸諸省・南部メコンデルタではベトミンの抵抗は根強く、やがてフランス軍はフエ・ダナン・ニャチャン周辺に狭い橋頭堡を残すだけとなった。", "title": "前半期(1946〜1949年)" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1949年、現地の情勢悪化を確認したフランス軍参謀総長は、近い将来ベトミン軍は中国共産党から援助され北部ベトナム制圧は困難になるため、ハノイ・ハイフォン地区に兵力を集中し要塞地帯にしてベトミン軍の攻撃に耐えねばならないと判断した。同年1月、ベトミン軍首脳部もゲリラ戦術だけでは決定的勝利はできないと判断、同年12月を目処に総攻撃に出る準備を開始した。", "title": "前半期(1946〜1949年)" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1949年8月にソ連が原爆実験に成功し、10月に北隣に中国共産党による一党独裁国家の中華人民共和国が成立すると、翌1950年1月にソ連と中国がベトナム民主共和国(ホー・チ・ミン政権)を正式承認し、武器援助を開始した。これによりベトミン軍は近代化され、正規軍の規模を以前より拡大し編成することが可能となった。しかし、南部デルタや農村のゲリラの間では以後も長く米仏製捕獲武器やベトミン製造武器が主流であった。一方アメリカはフランスとインドシナ三国に軍事援助を開始した。", "title": "前半期(1946〜1949年)" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1948年6月、フランスはコーチシナ共和国を廃して、ベトナム臨時中央政府を経て、1949年6月、南部に旧阮朝のバオ・ダイを国家主席とする傀儡のベトナム国を成立させた。また、ラオスを7月に、カンボジアを11月に独立させ、インドシナ全域に影響力を残しつつベトナム国の正当性を強調しようとした。", "title": "前半期(1946〜1949年)" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "手榴弾や小型地雷や罠で手足を切断され、ゲリラ容疑の村民を殺傷する掃討作戦によって身体と精神に障害を負い帰国した若い兵士の姿に、フランス本国は大きな衝撃を受けた。このため1949年には本国軍徴集兵の海外派遣が禁止される法律が制定され、極東遠征軍団はフランス人志願兵・現地人・モロッコやアルジェリアおよびセネガル等の他の植民地人・ドイツ人やイタリア人などの外人部隊兵で構成されることとなる。当初、フランス軍は本国軍兵士を年間47,000人を交代で勤務させる計画だった。しかし現地兵や植民地兵の錬度・士気は低く、前線に立つのはもっぱら外人部隊兵や本国軍兵士だった。このため逐次に交代兵を利用し増員するのは不可能となり実質的に増援は来ない状態となった。", "title": "前半期(1946〜1949年)" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "こうしてインドシナ戦争は、単にベトナム人民の独立運動ではなくなり、東西冷戦の一部となったが、6月に朝鮮戦争が勃発すると米ソ中各国は朝鮮半島に注目し、ベトナムに戦力を集中することは無かった。", "title": "前半期(1946〜1949年)" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後の第四共和政のフランスは、国土再建とインドシナ戦争で疲弊し、アメリカに援助を要請した。1950年5月、アメリカは要請に基づきベトナム援助計画を発表、6月にはグレーブス・アースキン少将の調査団が派遣された。10月、フランシス・ブレリンク准将率いる軍事顧問団が派遣された。同月ジュール・モック仏国防大臣とマルセル・ペッチェ仏財務大臣が要請し、援助物資がインドシナに送られた。12月、サイゴンでジャン・ルトルノー海外担当大臣とヒース米公使とチャン・バン・フーベトナム国首相の三者会談により軍事援助協定が結ばれた。1952年度までに年額約3億ドル、1953年までに約4億ドルにおよび、4年間の援助総量は航空機約130機、戦車約850輌、舟艇約280隻、車両16,000台、弾薬1億7千万発以上となり、その他医薬品、無線機などが送られた。また、アメリカ軍事顧問団約400人が派遣され、ベトナム国軍など現地部隊を教育訓練した。", "title": "後半期(1950〜1954年)" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1950年初頭、ベトミン軍は大規模戦闘は行なわず各地でゲリラ戦を活発化させていた。特に、メコンデルタとトンキンでは間断なき戦闘を続けフランス軍の小規模陣地を襲撃、次々と全滅させていった。フランス軍は小規模陣地群を撤収させ、ラオカイ、カオバン、ドンケ(英語版)、タトケ、ランソンに兵力を集中した。結果、兵力消耗は防げたが主要拠点との連絡線が遮断され「点の支配」に陥り各地で孤立した。とくにカオバン攻防戦及び植民地道4号線の戦い(英語版)では「カオバンの悲劇」と呼ばれるほどの大敗を喫した。", "title": "後半期(1950〜1954年)" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "9月、ベトミン軍は各地のフランス軍主要拠点を攻撃し、これまでのゲリラ戦ではなく大隊単位の正規軍を投入した。これらの部隊は砲迫を装備した近代的部隊であった。フランス軍はマダガスカル、アフリカなどから増援部隊を送ったが、10月以降に国境地帯から逐次撤退した。12月17日、ジャン・ド・ラトル・ド・タシニ極東遠征軍団司令官が高等弁務官を兼任し、フランス軍兵力は125,000人となった。この頃の本国政府はインドシナ問題の総てをド・ラトル・ド・タシニ将軍に一任していた。ベトミン軍は各所で攻勢に出て、1950年末、フランス軍はハノイ・ハイフォン・ナムデン三角地帯を防衛するド・ラトル線(英語版)まで戦線を縮小した。", "title": "後半期(1950〜1954年)" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1951年、ベトミン軍は総攻撃を成功させ反攻段階に移る。1月、フランス軍はヴィンイエンでのヴィンイエンの戦い(英語版)で新兵器ナパーム弾投下で反撃した。 ベトミン軍は、3月にはマオケの戦い(英語版)、4月にはナムディンと次々攻撃したが、5月にフランス軍はデイ川の戦い(英語版)で紅河デルタの勢力圏を維持した。", "title": "後半期(1950〜1954年)" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1951年前半期、ベトミン軍は正規戦の経験も訓練も不十分だったため都市部はまだ劣勢だった。北部ベトナムを押さえたベトミン軍だが、これ以後トンキンデルタでの戦闘を回避し、山岳部に誘引して小規模戦闘を行い戦力再編成を行なった。10月、ライチャウ、ソンラを攻撃。11月から1952年2月にかけて激戦となったホアビンの戦い(英語版)で、フランス軍は要衝ホアビンを占領した。南ベトナムでは10月、サイゴンで大規模部隊同士の戦闘が発生した。この頃には従来のゲリラ戦やテロ活動は減少し、組織的な正規戦闘に転換した。", "title": "後半期(1950〜1954年)" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1951年2月、インドシナ共産党の後身であるベトナム労働党が結成された。1951年3月3日、ベトミンはインドシナ共産党の別の統一戦線組織であったリエンベト(連越/ベトナム国民連合会)と合同して「リエンベト戦線」となったが、その後も一般には「ベトミン」と呼ばれ続けた。更に3月11日にはラオス・カンボジアの国民戦線と会合し、インドシナ民族統一解放戦線が結成された。一方、ベトナム国側は宗教団体私兵団4万人を基幹に国軍を編成、7月に総動員令が発令、10月に召集が始まった。同年7月には土地改革計画を発表したが計画は貫徹されなかった。", "title": "後半期(1950〜1954年)" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1952年2月、ベトミン軍はホアビンを占領、ハノイ包囲網を狭めた。フランス軍はド・ラトル線の多くを保持していたが、10月にベトミン軍は北西部に3個師団を投入しナサンの戦い(英語版)で攻勢に転じ、沱江沿岸の要衝ナサンを攻略し、ラオス国境目前にせまった。11月、ベトミン軍は中ソ製の120mm迫撃砲、75mm無反動砲を使いフランス軍を撃退し、フランス軍はソンラを撤退、飛行場のあるナサンに集結、空挺部隊を投入し周辺の攻勢を阻止した。しかしラウル・サラン極東遠征軍団司令官はラオカイを奪回せず、これが戦局の転換点となり、実質的な敗北となった。", "title": "後半期(1950〜1954年)" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1953年1月、アンケ攻防戦でフランス軍は空母を動員し海軍部隊も投入した。ベトミン軍はタイピン、ホアビンに進出、ハイフォン南に切迫。紅河デルタ一帯は膠着状態に陥る。やがてベトミン軍は南進し、北部沿岸および中部フエ、ダナン、クイニョンを占領する。4月、ベトミン軍はフランス軍の補給線と防衛線を破綻させるためラオスに進攻、これに対しフランス軍もビエンチャンに部隊を増派、ジャール平原に空挺部隊を降下させ防戦した。", "title": "後半期(1950〜1954年)" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "フランスの報告によれば、1954年初期には南ベトナム農村地帯の90%はベトミンが支配していた。", "title": "後半期(1950〜1954年)" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1952年5月、アンリ・ナヴァール(英語版)が遠征軍司令官に着任、1953年、米英仏外相会談でナヴァール計画への援助が約束された。この計画で1955年を目処にベトミン軍の中核体を破壊するため、ベトナム国軍やラオス軍および少数民族部隊の諸整備と作戦を実施することとなった。本計画に基づき、フランス軍は8月にナサン、12月にライチャウから撤収し戦力集中と再編成を実施、また補給線遮断を目的に空挺作戦を実施した。7月にランソン、10月にラオカイを占領しニンビンでベトミン軍1個師団を捕捉し損害を与えるも山岳部に逃走され決戦は回避された。これによりフランス軍が自主選定した地域での撃破は困難とわかり、山岳地帯に入り拠点にしベトミン軍を誘引撃滅する方針に変更された。", "title": "後半期(1950〜1954年)" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1953年4月のベトミン軍ラオス進攻によりフランス軍は広域に展開せざるを得なくなったが、それはベトミン軍も同じだった。補給能力を比較すれば、ベトミン根拠地の東部ラオスと中国国境からの補給路を断ち、航空機が使えアメリカの援助が期待できるフランス軍が有利であるとし、ベトミン正規軍主力を逐次遠隔地に誘引し撃滅することが計画された。適地として北西部山岳地帯とラオス平原地帯が選ばれ、ラオス国境に近い盆地帯のディエンビエンフーを拠点とし、ベトミン軍がこの攻撃に現れたところを砲爆撃で粉砕し、周囲数十km一帯やラオス平原地帯に空挺部隊を降下させ、ベトミン正規軍を撃滅する計画となった。ディエンビエンフーは旧日本軍が設営した飛行場跡があり、大規模な空中補給と空挺降下が可能で、作戦航空機のハノイへの往復路としては限界点であり、ここを補給拠点にすることとなった。", "title": "後半期(1950〜1954年)" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "本計画に対して、トンキン軍管区司令官ルネ・コニー(英語版)将軍はトンキンデルタの守備兵力減少を理由に反対し、遠征軍団空軍副司令官のニコ大佐は輸送力不足を理由に反対していた。事実、コニー将軍は1953年8月に隷下部隊をナサンから隠密裏に撤収させて、戦線縮小を図っていた。", "title": "後半期(1950〜1954年)" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1953年11月20日、カストール作戦(英語版)が実施され、ディエンビエンフーに3個空挺大隊が降下、同地を占領し12,000人の兵力と火砲が配備され、地上設備・空中補給および近接航空支援態勢が整えられた。", "title": "後半期(1950〜1954年)" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ベトミン軍はディエンビエンフー降下の一報が入ると、それまで分散配置していた4個師団の集結を決定。周辺の山岳諸民族と連携し隠密裏に陣地に大砲・食糧を運び込んだ。また小規模ゲリラ部隊を駆使して各地のフランス軍を拘束し部隊移動を秘匿した。", "title": "後半期(1950〜1954年)" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1954年3月13日、戦闘が始まるが、攻撃開始日からベトミン軍の猛烈な砲撃が加えられ、人海戦術により独立高地に設けた2個のフランス軍陣地は早々に陥落した。フランス軍は劣勢となり3月末には滑走路も使用不可能になった。4月、ハノイから3個空挺大隊の派遣と近接航空支援を増強したが、塹壕に篭るベトミン軍にはあまり効果がなかった。雨季の天候は空軍の活動を制限し、ベトミン軍の砲撃支援を受けた夜襲は次々と陣地を攻略していった。末期には周囲2kmの範囲のみをかろうじて保持するのみで、5月7日に陥落し生き残ったフランス兵は捕虜となった", "title": "後半期(1950〜1954年)" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ディエンビエンフー陥落後、ベトミン軍はトンキンデルタに攻勢を仕掛けジュネーブ会談中も手を緩めることなく交渉を有利に進めるべく、各地の攻撃を実施した。6月にフランス軍はプーリー、ソンタイ、ラクナム、ハイフォンを結ぶ一帯から撤収を開始、7月にハノイ・ハイフォン回廊に撤退しここにいたりフランスの敗北は明白となった。", "title": "後半期(1950〜1954年)" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ディエンビエンフーの戦いで敗北したフランスはベトナム民主共和国と和平交渉を開始し、1954年7月21日、関係国の間でジュネーヴ協定が締結された。これによりひとまず北緯17度線を境に両軍を分離して1956年にヴェトナム全国統一選挙を行うことが定められたが、アメリカは協定に参加せず、統一選挙を拒否し南に傀儡政権ベトナム国を存続させた。それは民主共和国軍人として17度線以北に結集した兵士と南の家族の長い分断の始まりでもあった。", "title": "戦争終結" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "しかし、フランスはアルジェリアなどアフリカ植民地の独立闘争が激化すると、アメリカにインドシナの肩代わりを求め、1955年10月、アメリカの強い影響力を受けたベトナム共和国(南ベトナム)が成立、1956年6月にフランス軍は完全撤収し、80年に及ぶフランスのベトナム支配が終わった。南部のベトミンはゴ・ディン・ジエム政権により激しい弾圧を受け、やがて南ベトナム解放民族戦線を組織した。", "title": "戦争終結" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "8年間の戦争で、フランスは航空機177機を喪失した。フランス軍は7万5000人、フランス軍以外のフランス連合軍は1万9000人が戦死し、7万8000人が負傷した。またベトミンは兵士50万人の死傷者と25万人の民間人戦死者を出した。別の推計ではベトミン側は50万人の戦死者を出した。", "title": "犠牲と損失" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日本人志願兵は約600名に上るとされており、陸軍第34独立混成旅団参謀の井川省少佐を始めとする高級将校から兵卒にいたるまでの多くの志願兵が独立運動に参加していた。日本人志願兵はベトミンに軍事訓練を施したり、作戦指導を行っていた。ベトナム初の士官学校であるクァンガイ陸軍中学の教官・助教官全員と医務官は日本人であった。30名を上回る日本人がベトナム政府から勲章や徽章を授与されていることが確認されている。", "title": "ベトミンへの日本人志願兵" } ]
第一次インドシナ戦争は、1945年から1954年にかけて当時フランスの植民地であったフランス領インドシナのベトナム、ラオス、カンボジアの脱植民地化をめぐってベトナム民主共和国(ベトナム)とフランス共和国(フランス)との間で勃発した戦争である。単に「インドシナ戦争」と言った場合は、通常この戦いを指す事が多い。
{{脚注の不足|date=2012年11月}} {{Battlebox | battle_name = 第一次インドシナ戦争 | campaign = 第一次インドシナ戦争 |colour_scheme = background:#ffccaa | image = [[File:First Indochina War COLLAGE.jpg|300px]] | caption = 左上から下に、ディエンビエンフーの戦いの後にパテート・ラーオを支援するため[[メコン川]]を越えてラオスへ向かうベトミン軍、苦戦するフランス軍を支援するため[[安南]]沿岸に上陸したフランス軍増援の[[コマンド部隊]]、トンキン湾上でのフランス海軍の空母[[アローマンシュ (空母)|アローマンシュ]]と[[F6F (航空機)|F6F]]戦闘機、停戦のためジュネーヴ会議を行う関係各国代表。 | conflict = [[インドシナ戦争]]<ref name="kotobank">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%B7%E3%83%8A%E6%88%A6%E4%BA%89-33093 |title=インドシナ戦争 |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2023-08-22}}</ref> | date = [[1945年]][[9月2日]] - [[1954年]][[7月21日]]{{R|"kotobank"}} | place = 旧[[フランス領インドシナ]]。現在の[[ベトナム]]、[[ラオス]]、[[カンボジア]]等[[インドシナ半島]]地域{{R|"kotobank"}}。 | result = ベトナム民主共和国側の勝利。[[ジュネーヴ協定]]により[[停戦]]し、ベトナムはフランスから[[脱植民地化|独立]]するも[[分断国家]]となる{{R|"kotobank"}}。 | combatant1 = {{VNM1945}}<br/>{{VTM}}<br/>{{LI}}<br/>{{PL}}<br/>{{KI}} | combatant2 = 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|url=http://tuoitrekontum.org.vn/3-phong-trao/xung-kich-bao-ve-to-quoc/-nhung-con-so-biet-noi...-.html |title=NHỮNG CON SỐ BIẾT NÓI...! |publisher=Trung Phương |date=2020-07-16 |accessdate=2023-08-22}}</ref> | casualties2 = 172,000人死傷{{R|"kotobank"}} }} '''第一次インドシナ戦争'''(だいいちじいんどしなせんそう、{{lang-vi|Chiến tranh Đông Dương}}、{{lang-fr|Guerre d'Indochine}})は、[[1945年]]から[[1954年]]にかけて当時フランスの[[植民地]]であった[[フランス領インドシナ]]の[[ベトナム]]、[[ラオス]]、[[カンボジア]]の[[脱植民地化]]をめぐって[[ベトナム民主共和国]](ベトナム)と[[フランス第四共和政|フランス共和国]](フランス)との間で勃発した[[戦争]]である。単に「インドシナ戦争」と言った場合は、通常この戦いを指す事が多い{{R|"kotobank"}}。 == 前史 == === ド・ゴールのブラザヴィル会議 === [[インドシナ半島]]は[[1941年]]の[[ヴィシー政権]]成立以降、[[フランス領インドシナ]]総督との間で協定を結んだ[[日本軍]]が進駐し([[仏印進駐]])、軍事的には日本軍が占拠し、内政はフランス側が続ける状態にあった。ヴィシー・フランスに対抗していた[[シャルル・ド・ゴール]]の[[自由フランス]]は、{{仮リンク|ブラザヴィル会議|fr|Conférence de Brazzaville|en|Brazzaville Conference of 1944}}で[[植民地]]の協力と引き替えに戦後の[[自治]]拡大を約束した。しかし、フランスの世論は基本的に植民地保持派が多数を占めており、独立を容認する考えはなかった。 [[1944年]][[6月]]に[[アルジェ]]([[フランス領アルジェリア|アルジェリア]])で成立した自由フランス主導の[[フランス共和国臨時政府]]が[[8月]]の[[パリの解放|パリ解放]]で帰国すると、日本軍は[[1945年]][[3月]]に[[明号作戦]]を行い、フランス領インドシナ政府を解体、フランスの植民地支配が終結したと宣言した(仏印処理)。これにともなってインドシナでは保護下にあった[[ベトナム帝国]]、[[カンボジア王国]]、[[ラオス王国]]が[[独立]]を宣言した。 === 農村と共産主義の伸張の素地 === ベトナムの[[社会構造]]の基礎は[[家族制度]]であり、これを基礎単位に広範な自治権をもつ[[村落]]が形成されていた。これら村落が独自の長老会議を集約点とする自治形態を保持し、強固な団結心を維持しつつベトナム社会の底辺をなした。それ故に歴代王朝やフランス植民地行政機関も村落自治に容易に干渉できなかった。 総人口の約85%が[[農業]]、[[牧畜]]、[[漁業]]産業に従事し、[[国民総生産|国民総生産額]]の5割から6割を占めた。フランス植民地省はこのような経済構造を変革させるために積極的に資本投下したが、前述の村落自治形態に阻まれ旧態依然のまま日本軍の占領統治を受けることになった。また、[[19世紀]]末頃からフランスは、村落ごとの共同経営形態である公田制に介入し、地主制度をおき[[親仏]][[カトリック教会|カトリック]]教徒を地主とした。その結果、[[1930年]]には全耕作地の8割が私有地となったが、[[農民]]の内約7割近くが[[小作人]]で、最大期で約6%の大地主が耕作地の60%以上を所有していた。[[1930年代]]末の南部[[コーチシナ]]では、米田面積の82%を人口の8%に満たない中〜大規模地主が占有し、6割の農民は土地を持たず、その他多くの零細農家がいた<ref>ガブリエル・コルコ「ベトナム戦争全史」p33 社会思想社</ref>。 土地問題はのちの[[共産主義]]勢力の伸張の根源の一つとなる。 === 独立宣言 === [[File:RE-OCCUPATION OF FRENCH INDO-CHINA.jpg|thumb|left|サイゴンにてイギリス軍に降伏する日本海軍将校]] 1945年[[8月15日]]、日本軍が無条件降伏すると、[[8月18日]]から[[8月28日]]にかけてベトナム独立同盟会([[ベトミン]])が指導する蜂起がベトナム全土で起こった<ref>ロバート・S・マクナマラ「果てしなき論争」p143 共同通信社</ref>。ベトミンは[[ベトナム帝国]]の[[バオ・ダイ]](保大帝)を退位させて権力を奪取し、臨時ベトナム民主共和国政府が成立した([[ベトナム八月革命]])。[[大日本帝国|日本]]が[[日本の降伏文書|降伏文書]]に調印し[[休戦協定]]が結ばれた[[9月2日]]、[[ハノイ]]でベトナム民主共和国の[[ベトナム独立宣言|独立宣言]]がなされた。一方でラオスとカンボジアは独立を取り消した。 === 日本軍憲兵隊 === 8月15日以降、日本軍[[第38軍 (日本軍)|第38軍]]は降伏に備えて待機していたが、一部部隊や軍人はベトミンなどに武器を引渡したり或いは個人単位で合流したり、武器の引渡しを拒否した部隊との間では小競り合いが発生した。事態を憂慮した第38軍とインドシナ植民地行政当局は、フランス本国より[[国家憲兵隊 (フランス)|国家憲兵隊]]が到着するまでの間、日本軍[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]隊による取り締まりを実施させた。 === 連合国軍進駐 === [[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]一般命令第1号(1945年9月2日公布)に基づき、[[北緯16度線]]以北が[[国民革命軍|中国国民党軍]]に、以南が[[イギリス軍]]に割り当てられ、[[フランス軍]]が本格展開するまでの間、進駐する事となった。同年[[8月]]末には北部ベトナムに[[盧漢]][[将軍]]率いる国民党軍180,000人規模の部隊が進駐、南部ベトナムには[[9月12日]]に[[ルイス・マウントバッテン]]卿率いる[[イギリス領インド陸軍|英印軍]]の第一陣が上陸しそれぞれ日本軍の武装解除に着手した。フランスは、[[ジョルジュ・ティエリ・ダルジャンリュー]]提督を[[高等弁務官]]に任命し、軍からは本国軍2個師団の派遣を決定し、[[フィリップ・ルクレール]]{{efn|ルクレール自身は9月2日の東京湾上における降伏文書調印式に参加したのち仏領インドシナに着任する。}}将軍を長とするフランス極東遠征軍団が編制され、9月12日にマダガスカル旅団を第一陣にして出発、[[10月5日]]に先遣部隊が[[ホーチミン市|サイゴン]]に到着、ルクレールは同月[[10月9日|9日]]に[[ジャック・マシュ]][[大佐]]率いる''行進群''と一緒に到着した。[[11月]]までの間に3派に分かれて第3機械化師団と第9植民地師団が到着した。[[フランス空軍|空軍]]は輸送機と戦闘機を中心に約100機を派遣、[[フランス海軍|海軍]]はフィリップ・オーボワノ提督を長とする護衛艦隊を率いて、[[戦艦]]「[[リシュリュー (戦艦)|リシュリュー]]」、[[軽巡洋艦]]「[[グロワール (軽巡洋艦)|グロワール]]」、[[駆逐艦|大型駆逐艦]]「[[ル・トリオンファン (大型駆逐艦)|ル・トリオンファン]]」、[[航空母艦|空母]]「[[ベアルン (空母)|ベアルン]]」が[[極東]]海域に展開した。 北部では、進駐国民党軍の[[反共主義|共産主義敵視]]政策により、ホンガイ炭鉱などで多くのベトミン系労働者が逮捕・追放された。そのため臨時政府は非共産主義者を入閣させ、1945年[[11月]]には[[インドシナ共産党]]を偽装解散した。以後インドシナ共産党は[[1951年]]に[[ベトナム共産党|ベトナム労働党]]となるまで、非合法組織として活動する。1946年[[2月]]、フランス・[[中華民国]]間で重慶協定が締結されると、国民党軍は[[4月]]以降順次撤退した。フランスは同協定で国民党軍撤退の代償として、中国でのフランス租借権放棄・雲南鉄道の中国譲渡・[[ハイフォン港]]自由化・在インドシナ[[華僑]]に対する優遇措置などを受け入れた。 === フォンテーヌブロー会談決裂 === {{ベトナム}} 1946年[[2月28日]]と[[3月6日]]、ベトミンとフランスは予備協定({{仮リンク|ホー・サンテニ協定|vi|Hiệp định sơ bộ Pháp-Việt (1946)|fr|Accords Hô-Sainteny|en|Ho–Sainteny agreement|label=ハノイ暫定協定}})を締結した。フランス連合インドシナ連邦の一国としてベトナム民主共和国の独立と[[トンキン|トンキン地方]]のフランス軍駐留を認め、相互に一時的妥協が成立した。独立宣言からこの間まで、各地で[[ベトナム人]]と英印軍や10月末到着したフランス遠征軍を巻き込んだ小紛争が頻発した([[マスタードム作戦]])。 フランス共和国臨時政府とベトナム民主共和国との間では独立交渉([[:vi:Hội nghị Đà Lạt 1946|ダラット会議]])が続けられていた。しかし、南部の[[プランテーション]]入植者達の既得権益を優先したフランスは、1946年[[3月26日]]にはフランス権益が多く存在するベトナム南部に傀儡の[[コーチシナ共和国]]を成立させた。フランスは植民地を[[フランス連合]]([[:fr:Union française|fr]])に再構成し、インドシナには連合傘下の「インドシナ連邦」を置き、その連邦の枠内での自治を認める方針を指向していた。しかし「インドシナ連邦」はすなわちフランス植民地時代と同じ名称であり、ベトナム側にとっては受け入れられるものではなかった。 [[ホー・チ・ミン]]を始めとするベトナム代表団は、[[6月]]からフランス本国の[[フォンテーヌブロー]]まで赴いてベトナムの独立問題について話し合ったが({{仮リンク|フォンテーヌブロー会談|vi|Hội nghị Fontainebleau 1946|fr|Conférence de Fontainebleau|en|Fontainebleau Agreements}})、この席でコーチシナ共和国の成立を通告された上、コーチシナの分離問題や独立問題交渉で相互譲歩が行われず、交渉は9月で決裂した。1946年[[1月20日]]に突如ド・ゴールが辞任した後、当時臨時政府は人民共和運動(MRP、[[:fr:Mouvement Républicain Populaire|fr]])、[[フランス共産党]]、[[フランス社会党 (SFIO)|フランス社会党]]の連立政権であったが、与野党を問わず植民地問題で譲歩する政党はなかった。 [[6月1日]]、ベトミンは独立戦争長期化に備えて元日本軍将兵からなる義勇兵を教官とした[[クァンガイ陸軍中学]]を設立して近代戦に対処した将校の育成を始める<ref name="東京財団研究報告書"/>。1946年[[11月20日]]、ハイフォン港での密輸船取締りに端を発する砲撃事件([[ハイフォン事件]])は同港制圧の口実となり、[[11月23日]]にフランス海軍艦も交えての制圧戦となった。 == 前半期(1946〜1949年) == === 全面衝突 === 1946年[[12月19日]]から、フランス軍はトンキン・デルタ地帯の各要衝や[[ハノイ]]のホー・チ・ミン官邸やその他重要施設を襲撃した。その後2ヶ月間に多くの戦略拠点を占領した。ベトミンが北部国境地帯の要点を押さえ中越間の連絡路を確保するとフランス軍は国境沿いの要衝[[ランソン]]を占領し牽制した。1947年2月にフランスの一連の平定作戦は完了し、中部では[[ダナン]]、[[フエ]]、[[プレイク]]を占領した。[[ヴォー・グエン・ザップ]]を総司令官とするベトミン軍は内陸の農村地帯に退避し[[ゲリラ|ゲリラ戦]]に移行した。 [[5月]]、フランス現地機関が軍事問題は存在しないと声明し強硬姿勢をとった。ベトミンはあくまでフランス本国政府に和平を求め4月には交渉に臨んだが両者の要求は対立し決裂した。 [[1947年]]10月の[[リアー作戦]]では、フランスは機械化部隊15,000人を投入し、北部山岳地帯のベトミン軍拠点[[ランソン]]を攻撃したが完敗した。フランス軍当局はこの事実を糊塗し勝利したように見せかけたが、既にベトミン軍は守勢を脱し以降は正規軍による積極的反攻にでた。1947年[[11月29日]]、フランス軍は[[ミーチャック村虐殺]]事件を引き起こした。 戦争中、フランスはハノイ・[[ハイフォン]]・サイゴンの主要三都市を保持し、ベトミンは農村地帯の大部分を保持した<ref>ロバート・S・マクナマラ「果てしなき論争」p144 共同通信社</ref>。北部の山岳地帯はベトミンの牙城であり、トンキンデルタと中越国境地帯は一進一退が続いた。中部高原・中部沿岸諸省・南部メコンデルタではベトミンの抵抗は根強く、やがてフランス軍はフエ・ダナン・[[ニャチャン]]周辺に狭い橋頭堡を残すだけとなった<ref>バーナード・フォール「二つのベトナム」p130 毎日新聞社</ref>。 === 外国勢力の援助拡大 === [[1949年]]、現地の情勢悪化を確認したフランス軍参謀総長は、近い将来ベトミン軍は[[中国共産党]]から援助され北部ベトナム制圧は困難になるため、ハノイ・ハイフォン地区に兵力を集中し要塞地帯にしてベトミン軍の攻撃に耐えねばならないと判断した。同年1月、ベトミン軍首脳部もゲリラ戦術だけでは決定的勝利はできないと判断、同年12月を目処に総攻撃に出る準備を開始した。 1949年[[8月]]に[[ソビエト連邦|ソ連]]が[[核実験|原爆実験]]に成功し、10月に北隣に中国共産党による[[一党独裁制|一党独裁国家]]の[[中華人民共和国]]が成立すると、翌[[1950年]]1月にソ連と中国がベトナム民主共和国(ホー・チ・ミン政権)を正式承認し、武器援助を開始した。これによりベトミン軍は近代化され、正規軍の規模を以前より拡大し編成することが可能となった。しかし、南部デルタや農村のゲリラの間では以後も長く米仏製捕獲武器やベトミン製造武器が主流であった{{efn|1961年国務省白書によれば当時の解放戦線の武器の大部分が米・仏製あるいはジャングル内の原始的工場で作られたものだった}}。一方[[アメリカ合衆国|アメリカ]]はフランスとインドシナ三国に軍事援助を開始した。 [[1948年]]6月、フランスはコーチシナ共和国を廃して、ベトナム臨時中央政府を経て、1949年6月、南部に旧[[阮朝]]の[[バオ・ダイ]]を国家主席とする[[傀儡政権|傀儡]]の[[ベトナム国]]を成立させた。また、ラオスを7月に、カンボジアを11月に独立させ、インドシナ全域に影響力を残しつつベトナム国の正当性を強調しようとした。 [[手榴弾]]や小型[[地雷]]や[[罠]]で手足を切断され、ゲリラ容疑の村民を殺傷する掃討作戦によって身体と精神に障害を負い帰国した若い兵士の姿に、フランス本国は大きな衝撃を受けた。このため1949年には本国軍徴集兵の海外派遣が禁止される法律が制定され、極東遠征軍団はフランス人志願兵・現地人・モロッコや[[フランス領アルジェリア|アルジェリア]]およびセネガル等の他の植民地人・[[ドイツ人]]や[[イタリア人]]などの外人部隊兵で構成されることとなる。当初、フランス軍は本国軍兵士を年間47,000人を交代で勤務させる計画だった。しかし現地兵や植民地兵の錬度・士気は低く、前線に立つのはもっぱら外人部隊兵や本国軍兵士だった。このため逐次に交代兵を利用し増員するのは不可能となり実質的に増援は来ない状態となった。 こうしてインドシナ戦争は、単にベトナム人民の独立運動ではなくなり、東西[[冷戦]]の一部となったが、6月に[[朝鮮戦争]]が勃発すると米ソ中各国は[[朝鮮半島]]に注目し、ベトナムに戦力を集中することは無かった。 == 後半期(1950〜1954年) == === アメリカの援助 === [[第二次世界大戦]]後の[[フランス第四共和政|第四共和政]]のフランスは、国土再建とインドシナ戦争で疲弊し、アメリカに援助を要請した。[[1950年]]5月、アメリカは要請に基づきベトナム援助計画を発表、6月には[[グレーブス・アースキン]][[少将]]の調査団が派遣された。10月、フランシス・ブレリンク[[准将]]率いる[[軍事顧問|軍事顧問団]]が派遣された。同月[[ジュール・モック]]仏国防大臣とマルセル・ペッチェ仏財務大臣が要請し、援助物資がインドシナに送られた。12月、サイゴンでジャン・ルトルノー海外担当大臣とヒース米公使とチャン・バン・フーベトナム国首相の三者会談により軍事援助協定が結ばれた。1952年度までに年額約3億[[ドル]]、1953年までに約4億ドルにおよび、4年間の援助総量は航空機約130機、戦車約850輌、舟艇約280隻、車両16,000台、弾薬1億7千万発以上となり、その他医薬品、無線機などが送られた。また、アメリカ軍事顧問団約400人が派遣され、ベトナム国軍など現地部隊を教育訓練した。 === ベトミンの大攻勢 === [[File:Giap-Ho.jpg|thumb|right|180px|[[ヴォー・グエン・ザップ]]と[[ホー・チ・ミン]]]] [[1950年]]初頭、ベトミン軍は大規模戦闘は行なわず各地でゲリラ戦を活発化させていた。特に、メコンデルタと[[トンキン]]では間断なき戦闘を続けフランス軍の小規模陣地を襲撃、次々と全滅させていった。フランス軍は小規模陣地群を撤収させ、[[ラオカイ]]、[[カオバン]]、{{仮リンク|ドンケの戦い|en|Battle of Dong Khe|label=ドンケ}}、タトケ、ランソンに兵力を集中した。結果、兵力消耗は防げたが主要拠点との連絡線が遮断され「点の支配」に陥り各地で孤立した。とくに[[カオバン攻防戦]]及び{{仮リンク|植民地道4号線の戦い|en|Battle of Route Coloniale 4}}では「カオバンの悲劇」と呼ばれるほどの大敗を喫した。 9月、ベトミン軍は各地のフランス軍主要拠点を攻撃し、これまでのゲリラ戦ではなく大隊単位の正規軍を投入した。これらの部隊は砲迫を装備した近代的部隊であった。フランス軍は[[マダガスカル島|マダガスカル]]、アフリカなどから増援部隊を送ったが、10月以降に国境地帯から逐次撤退した。[[12月17日]]、[[ジャン・ド・ラトル・ド・タシニ]]極東遠征軍団司令官が高等弁務官を兼任し、フランス軍兵力は125,000人となった。この頃の本国政府はインドシナ問題の総てをド・ラトル・ド・タシニ将軍に一任していた。ベトミン軍は各所で攻勢に出て、1950年末、フランス軍はハノイ・ハイフォン・ナムデン三角地帯を防衛する{{仮リンク|ド・ラトル線|en|De Lattre Line}}まで戦線を縮小した。 [[1951年]]、ベトミン軍は総攻撃を成功させ反攻段階に移る。[[1月]]、フランス軍は[[ヴィンイエン]]での{{仮リンク|ヴィンイエンの戦い|en|Battle of Vinh Yen}}で新兵器[[ナパーム弾]]投下で反撃した。 ベトミン軍は、3月には{{仮リンク|マオケの戦い|en|Battle of Mao Khe}}、4月には[[ナムディン]]と次々攻撃したが、5月にフランス軍は{{仮リンク|デイ川の戦い|en|Battle of the Day River}}で[[紅河デルタ]]の勢力圏を維持した。 1951年前半期、ベトミン軍は正規戦の経験も訓練も不十分だったため都市部はまだ劣勢だった。北部ベトナムを押さえたベトミン軍だが、これ以後トンキンデルタでの戦闘を回避し、山岳部に誘引して小規模戦闘を行い戦力再編成を行なった。10月、[[ライチャウ]]、[[ソンラ]]を攻撃。11月から1952年2月にかけて激戦となった{{仮リンク|ホアビンの戦い|en|Battle of Hoa Binh}}で、フランス軍は要衝[[ホアビン省|ホアビン]]を占領した。南ベトナムでは10月、[[サイゴン]]で大規模部隊同士の戦闘が発生した。この頃には従来のゲリラ戦やテロ活動は減少し、組織的な正規戦闘に転換した。 1951年2月、インドシナ共産党の後身である[[ベトナム労働党]]が結成された。[[1951年]][[3月3日]]、ベトミンはインドシナ共産党の別の統一戦線組織であったリエンベト(連越/ベトナム国民連合会)と合同して「リエンベト戦線」となったが、その後も一般には「ベトミン」と呼ばれ続けた。更に3月11日にはラオス・カンボジアの国民戦線と会合し、インドシナ民族統一解放戦線が結成された。一方、ベトナム国側は宗教団体[[私兵]]団4万人を基幹に国軍を編成、7月に総動員令が発令、10月に召集が始まった。同年7月には土地改革計画を発表したが計画は貫徹されなかった。 === 一進一退の攻防戦とラオスへの戦火拡大 === [[File:HD-SN-99-02042.JPEG|thumb|right|180px|仏軍外人部隊兵士に尋問されるベトミン兵容疑者(1954年)]] [[1952年]]2月、ベトミン軍はホアビンを占領、ハノイ包囲網を狭めた。フランス軍はド・ラトル線の多くを保持していたが、10月にベトミン軍は北西部に3個師団を投入し{{仮リンク|ナサンの戦い|en|Battle of Na San}}で攻勢に転じ、[[ダ川|沱江]]沿岸の要衝[[ナサン]]を攻略し、ラオス国境目前にせまった。11月、ベトミン軍は中ソ製の120mm迫撃砲、75mm無反動砲を使いフランス軍を撃退し、フランス軍は[[ソンラ]]を撤退、飛行場のあるナサンに集結、空挺部隊を投入し周辺の攻勢を阻止した。しかし[[ラウル・サラン]]極東遠征軍団司令官は'''[[ラオカイ]]'''を奪回せず、これが戦局の転換点となり、実質的な敗北となった{{efn|1954年3月11日にワシントンD.C.で行なわれた米仏統合参謀総長会談で[[アーサー・W・ラドフォード]]米海軍大将が[[ポール・エリー]]仏陸軍大将に「あなたがたは1952年冬の時点で敗北していた。」と語った。}}。 [[1953年]]1月、アンケ攻防戦でフランス軍は空母を動員し海軍部隊も投入した。ベトミン軍はタイピン、ホアビンに進出、ハイフォン南に切迫。[[紅河]]デルタ一帯は膠着状態に陥る。やがてベトミン軍は南進し、北部沿岸および中部フエ、ダナン、クイニョンを占領する。4月、ベトミン軍はフランス軍の補給線と防衛線を破綻させるためラオスに進攻、これに対しフランス軍も[[ビエンチャン]]に部隊を増派、[[ジャール平原]]に空挺部隊を降下させ防戦した。 フランスの報告によれば、[[1954年]]初期には南ベトナム農村地帯の90%はベトミンが支配していた<ref>Pentagon Papers,Origins of Insurgency in South Vietnam 54-60,pp270-282</ref>。 === ナヴァール計画 === [[1952年]]5月、{{仮リンク|アンリ・ナヴァール|en|Henri Navarre}}が遠征軍司令官に着任、[[1953年]]、米英仏外相会談でナヴァール計画への援助が約束された。この計画で1955年を目処にベトミン軍の中核体を破壊するため、ベトナム国軍やラオス軍および少数民族部隊の諸整備と作戦を実施することとなった。本計画に基づき、フランス軍は8月にナサン、12月にライチャウから撤収し戦力集中と再編成を実施、また補給線遮断を目的に空挺作戦を実施した。7月にランソン、10月にラオカイを占領し[[ニンビン]]でベトミン軍1個師団を捕捉し損害を与えるも山岳部に逃走され決戦は回避された。これによりフランス軍が自主選定した地域での撃破は困難とわかり、山岳地帯に入り拠点にしベトミン軍を誘引撃滅する方針に変更された。 [[1953年]]4月のベトミン軍ラオス進攻によりフランス軍は広域に展開せざるを得なくなったが、それはベトミン軍も同じだった。補給能力を比較すれば、ベトミン根拠地の東部ラオスと中国国境からの補給路を断ち、航空機が使えアメリカの援助が期待できるフランス軍が有利であるとし、ベトミン正規軍主力を逐次遠隔地に誘引し撃滅することが計画された。適地として北西部山岳地帯とラオス平原地帯が選ばれ、ラオス国境に近い盆地帯の[[ディエンビエンフー]]を拠点とし、ベトミン軍がこの攻撃に現れたところを砲爆撃で粉砕し、周囲数十km一帯やラオス平原地帯に[[エアボーン|空挺部隊]]を降下させ、ベトミン正規軍を撃滅する計画となった。ディエンビエンフーは旧日本軍が設営した飛行場跡があり、大規模な空中補給と空挺降下が可能で、作戦航空機のハノイへの往復路としては限界点であり、ここを補給拠点にすることとなった。 本計画に対して、トンキン軍管区司令官{{仮リンク|ルネ・コニー|en|René Cogny}}将軍はトンキンデルタの守備兵力減少を理由に反対し、遠征軍団空軍副司令官のニコ大佐は輸送力不足を理由に反対していた。事実、コニー将軍は1953年8月に隷下部隊をナサンから隠密裏に撤収させて、戦線縮小を図っていた。 === ディエンビエンフーの戦い === [[ファイル:Bataille de Dien Bien Phu.jpg|[[ディエンビエンフーの戦い]]|thumb|300px]] {{main|ディエンビエンフーの戦い}} [[1953年]]11月20日、{{仮リンク|カストール作戦|en|Operation Castor}}が実施され、ディエンビエンフーに3個空挺大隊が降下、同地を占領し12,000人の兵力と火砲が配備され、地上設備・空中補給および近接航空支援態勢が整えられた{{efn|ディエンビエンフー要塞の建設は、フランスへの援助を通じてベトナムへの介入を強めていたアメリカ、特に[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]副大統領の強力なイニシアチブの下で進められた。要塞が完成する直前にはニクソン副大統領自らが現地を訪問し、ジープで走り回りながら構築状況を確認している姿が記録フィルムに残されている。}}。 ベトミン軍はディエンビエンフー降下の一報が入ると、それまで分散配置していた4個師団の集結を決定。周辺の山岳諸民族と連携し隠密裏に陣地に大砲・食糧を運び込んだ。また小規模ゲリラ部隊を駆使して各地のフランス軍を拘束し部隊移動を秘匿した。 [[1954年]]3月13日、戦闘が始まるが、攻撃開始日からベトミン軍の猛烈な砲撃が加えられ、[[人海戦術]]により独立高地に設けた2個のフランス軍陣地は早々に陥落した。フランス軍は劣勢となり3月末には滑走路も使用不可能になった。4月、ハノイから3個空挺大隊の派遣と近接航空支援を増強したが、塹壕に篭るベトミン軍にはあまり効果がなかった。雨季の天候は空軍の活動を制限し、ベトミン軍の砲撃支援を受けた夜襲は次々と陣地を攻略していった。末期には周囲2kmの範囲のみをかろうじて保持するのみで、5月7日に陥落し生き残ったフランス兵は捕虜となった{{efn|ディエンビエンフーの戦いで事実上の当事者であったニクソン副大統領は、ディエンビエンフー要塞が包囲されフランス軍が危機に陥った際に、周辺山岳地帯に集結したベトミン軍に対する原爆の使用を[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]大統領に進言したが却下された事を、自著『ノー・モア・ヴェトナム』(講談社 1986年 ISBN 4062024462)に記している。}}{{efn|ディエンビエンフーの戦いでは、1万人にのぼるフランス連合軍兵士が捕虜となったが、ベトミン側は当初これらの捕虜の存在を秘匿して、フランスとの交渉での取引材料とし、[[ジュネーヴ協定]]の交渉過程でフランス政府に[[身代金]]の支払と引き換えでの送還が実現した。この捕虜問題は、フランス政府に撤退後の南部メコンデルタ地域のフランス人入植者の安全への危惧を呼び起こし、フランスはかつて反仏的だった[[カオダイ教]]や[[ホアハオ教]]、[[サイゴン]]の[[幇]]である[[ビン・スエン派]]などを資金援助してフランスの[[私兵]]団化させた。}} === ディエンビエンフー後 === ディエンビエンフー陥落後、ベトミン軍はトンキンデルタに攻勢を仕掛けジュネーブ会談中も手を緩めることなく交渉を有利に進めるべく、各地の攻撃を実施した。6月にフランス軍はプーリー、ソンタイ、ラクナム、ハイフォンを結ぶ一帯から撤収を開始、7月にハノイ・ハイフォン回廊に撤退しここにいたりフランスの敗北は明白となった。 === 兵力の推移 === {|class=wikitable |+兵力の推移 |- !|年||フランス本国軍<br />フランス植民地軍||インドシナ現地兵軍||ベトミン正規軍||ベトミン非正規兵 |- |1945年8月|| - || - ||1個連隊||500,000 |- |1945年末||2個師団|| - ||10,000程度||500,000 |- |1946年1月||40,000|| - ||50,000||500,000 |- |1947年||115,000|| - || - ||500,000 |- |1949年末||108,000||40,000<br />(宗教団体の[[私兵]]が主力)||80,000||500,000 |- |1951年末||4個師団|| - ||80,000 (51年中葉)||500,000 |- |1952年末||6個師団|| - || - ||500,000 |- |1953年半ば||164,000||100,000|| - ||500,000 |- |1953年末||7個師団<br />54個大隊|| - || - ||500,000 |- |1954年2月||7個師団<br />200,000||50,000<br />一部は本国軍に編入||7個師団<br />100,000||500,000 |} == 戦争終結 == ディエンビエンフーの戦いで敗北したフランスはベトナム民主共和国と和平交渉を開始し、1954年7月21日、関係国の間で[[ジュネーヴ協定]]が締結された。これによりひとまず[[北緯17度線]]を境に両軍を分離して1956年にヴェトナム全国統一選挙を行うことが定められたが、アメリカは協定に参加せず、統一選挙を拒否し南に傀儡政権ベトナム国を存続させた。それは民主共和国軍人として17度線以北に結集した兵士と南の家族の長い分断の始まりでもあった。 しかし、フランスはアルジェリアなど[[アフリカ]][[植民地]]の独立闘争が激化すると、アメリカにインドシナの肩代わりを求め、[[1955年]]10月、アメリカの強い影響力を受けた[[ベトナム共和国]](南ベトナム)が成立、[[1956年]]6月にフランス軍は完全撤収し、80年に及ぶフランスのベトナム支配が終わった。南部のベトミンは[[ゴ・ディン・ジエム]]政権により激しい弾圧を受け、やがて[[南ベトナム解放民族戦線]]を組織した。 == 犠牲と損失 == 8年間の戦争で、フランスは航空機177機を喪失した。フランス軍は7万5000人、フランス軍以外のフランス連合軍は1万9000人が戦死し、7万8000人が負傷した。またベトミンは兵士50万人の死傷者と25万人の民間人戦死者を出した<ref>Bernard B. Fall,The Two-Vietnams: a Political and Military Analysis,p129,Frederick Praeger, New York</ref>。別の推計ではベトミン側は50万人の戦死者を出した<ref>タウンゼント・フープス「アメリカの挫折」p94 草思社</ref>。 == ベトミンへの日本人志願兵 == [[残留日本兵|日本人志願兵]]は約600名に上るとされており、[[第38軍 (日本軍)|陸軍第34独立混成旅団]]参謀の[[井川省]]少佐を始めとする高級将校から兵卒にいたるまでの多くの志願兵が独立運動に参加していた<ref name="東京財団研究報告書"/>。日本人志願兵はベトミンに軍事訓練を施したり、作戦指導を行っていた<ref name="東京財団研究報告書"/>。ベトナム初の士官学校である[[クァンガイ陸軍中学]]の教官・助教官全員と医務官は日本人であった<ref name="東京財団研究報告書"/>。30名を上回る日本人がベトナム政府から勲章や徽章を授与されていることが確認されている<ref name="東京財団研究報告書"/>。 == 第一次インドシナ戦争を描いた作品 == === 映画 === *[[ベトナムの少女]](別邦題:[[少女と小鳥]])(1961年北ベトナム) *[[トーハウ ベトナムの若い母]](1962年北ベトナム) *[[若い兵士]](1965年北ベトナム) *[[愛は17度線を越えて]](1972年、北ベトナム) *[[愛と戦火の大地]](1992年、フランス、ビデオ邦題:スカイミッション/空挺要塞DC3) *[[天と地]](1993年、米国)映画の冒頭のみ。全体としては[[ベトナム戦争]]を扱っている。 *[[インドシナ激戦史1954 要塞ディエン・ビエン]](2004年、ベトナム) == 脚注 == === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="東京財団研究報告書">[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2005/01036/pdf/0001.pdf ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のありかたに関する研究] 井川一久 [[東京財団]]研究報告書 2005年10月</ref> }} == 参考文献 == * 陸戦学会『現代戦争史概説 上巻』(陸戦学会、1982年) * 戦略問題研究会『戦後世界軍事史1945~1969年』([[原書房]]、1970年) * 学研『歴史群像アーカイブ VOL.5アジア紛争史』([[学研ホールディングス|学研]]、2008年) * 柏木明『フランス解放戦争史』(原書房、1995年) * Amédée Thévenet,''LA GUERRE D`INDOCHINE'',France-Empire 2001 * Georges Fleuy,''La Guerre en Indochine'',tempus 2003 * Marcel Bigeard,''Bigeard ma Guerre d`indochine'',Rocher 2004 == 関連項目 == * [[戦争一覧]] * [[ベトナムの歴史]] * [[フランスの歴史]] * [[清仏戦争]] * [[ブラザヴィル会議]]([[:fr:Conférence de Brazzaville]]) * [[インドシナ戦争]] * [[ベトナム戦争]] * [[ロバート・キャパ]] * [[アラン・ドロン]] == 外部リンク == * [http://www.documen.tv/asset/Vietnam_Guerre_1_film.html Documentaire: VIÊTNAM: La première Guerre 1945-1954 (1)] * [http://www.documen.tv/asset/Vietnam_Guerre_2_film.html Documentaire: VIÊTNAM: La première Guerre 1945-1954 (2)] *[[藤木登]] **[https://ci.nii.ac.jp/naid/110004723279 「第一次インドシナ戦争の起源 : モダス=ヴィヴェンディ」] **[https://ci.nii.ac.jp/naid/110004723134 第一次インドシナ戦争 (上) : フランス政治の中のインドシナ] **[https://ci.nii.ac.jp/naid/110004723141 第一次インドシナ戦争 (中) : フランス政治の中のインドシナ] {{authority control}} {{DEFAULTSORT:いんとしなせんそう1}} [[Category:第一次インドシナ戦争|*]] [[Category:独立戦争]] [[Category:フランスの戦争]] [[Category:ベトナムの戦争]] [[Category:ラオスの戦争]] [[Category:カンボジアの戦争]] [[Category:東南アジアの戦争]] [[Category:ベトナム民主共和国]] [[Category:南ベトナム]] [[Category:フランス領インドシナ]] [[Category:冷戦]] [[Category:第二次世界大戦直後]] [[Category:フランス植民帝国]] [[Category:フランス第四共和政]] [[Category:20世紀の戦争]] [[Category:1940年代]] [[Category:1950年代]] [[Category:ホー・チ・ミン]] [[Category:ヴォー・グエン・ザップ]]
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文久永宝
文久永宝(ぶんきゅうえいほう)は、幕末に流通した銭貨。形状は円形で、中央部に正方形の穴が開けられている。表面には「文 久 永 寳(宝)」の文字が上下右左の順に刻まれ、裏面には寛永通宝真鍮四文銭の十一波のものと同様の波形模様が刻まれている。地方貨幣などを別にすれば、銭銘としては日本最後の銭貨である。 この「文 久 永 寳(宝)」の文字には三種類のものがあり、それぞれ能筆の幕閣が担当した。「文」字が楷書体のものは若年寄(老中格)・小笠原長行の筆によるもので「真文(しんぶん)」と呼び、草書体の「攵」となっているものが老中・板倉勝静の筆によるもので「草文(そうぶん)」と呼び、草書体で「寳」の字が「宝」となっているものが政事総裁職・松平慶永(松平春嶽)の筆によるもので「略宝(りゃくほう)」あるいは「玉宝(ぎょくほう)」とそれぞれ呼ばれる。 銅製で、直径0.9寸(約2.7センチメートル)、規定量目は9分(約3.375グラム)と、初期の寛永通宝より軽めである。鋳造は、文久3年2月(1863年)から慶応3年(1867年)まで。貨幣価値は4文として通用した。 万延元年(1860年)から鋳造が始まった寛永通寳精鉄四文銭が不評であり、かつ鋳造コストがかさむものであったことを受け、四文銭を銅銭に復帰することとしたが、産出量の絶対的不足から生じた銅地金の高騰などから量目を減じた銅四文銭を発行することになった。 真鍮四文銭はこれまで原則として銀座指導監督の下で鋳造されてきたが、文久永寳については、銀座監督の下で江戸深川千田新田(大工町)の銭座において鋳造されたものは「真文」のものであり、金座指導監督となった浅草橋場(小菅)の銭座では「草文」と「略宝」のものであった。 明治時代の造幣局の分析では銀0.060%、銅83.107%、鉛11.227%、錫3.217%、鉄0.269%、アンチモン0.489%、砒素1.500%、硫黄0.387%となっている。 安政年間から引換回収された寛永通寳一文銅銭2,114,246,283枚の内、1,420,200,000枚を文久永寳に改鋳したとされ、文久永寳の総鋳造高は891,515,631枚との記録もある。 発行当初は、真鍮四文銭の代わりに差支えなく通用するよう通達が出されたが、市場における差別通用の実態を追認せざるを得なくなり、慶応元年閏5月(1865年)には鉄一文銭に対し、寛永通寳真鍮四文銭は12文、文久永寳は8文の増歩通用となり、慶應3年(1867年)には自由相場(天然相場)に任されることとなり、鉄一文銭=1文の基準に対し以下のような相場となった。 この相場を元に新貨条例制定後の旧銅貨の通用価値が規定され、一圓は一両と等価となり、一両=10000文という基準から、これらの銭貨は以下の様な通用価格となった。 これらの内、鉄銭は明治6年(1873年)12月25日に太政官からの指令で、勝手に鋳潰しても差し支えないとされ、事実上の貨幣の資格を失い、明治30年(1897年)9月末の貨幣法施行により法的にも通用停止となり、天保通寳は明治24年(1891年)末をもって通用停止となったが、文久永寳は寛永通寳銅銭・真鍮銭とともに昭和28年(1953年)末の「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」により廃貨措置がとられる(この法律により1円未満の法定通貨は全て通用停止、この時点で江戸時代に鋳造された貨幣は全て通用停止)まで法的に通用力を有した。 文久永寳は基本的には銅合金製であるが、彷鋳銭の一部には少ないながら鉄製のものもある。 文久永寳の明治以降の法定通用価値は1厘5毛とされたが、明治時代には実際には高知や和歌山、神戸など、地域によっては1厘として流通することがあったという。寛永通寳鉄四文銭・鉄一文銭の通用停止以降は、昭和28年末の文久永寳を含む1円未満の法定通貨の通用停止まで、文久永寳が日本の法定通貨として厘未満の端数を有する唯一のものとなっていた。 『明治財政史』には、明治10年(1877年)から明治30年(1897年)9月までの間に流通不便貨幣として回収・鋳潰しの対象となった貨幣として、5銭銀貨・2銭銅貨・天保通寳・文久永寳の4種が挙げられている。 文久永宝の試鋳貨幣としては、裏面に「當百」・「當五十」と表記されている大型のものや、小型の一文銭などがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "文久永宝(ぶんきゅうえいほう)は、幕末に流通した銭貨。形状は円形で、中央部に正方形の穴が開けられている。表面には「文 久 永 寳(宝)」の文字が上下右左の順に刻まれ、裏面には寛永通宝真鍮四文銭の十一波のものと同様の波形模様が刻まれている。地方貨幣などを別にすれば、銭銘としては日本最後の銭貨である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "この「文 久 永 寳(宝)」の文字には三種類のものがあり、それぞれ能筆の幕閣が担当した。「文」字が楷書体のものは若年寄(老中格)・小笠原長行の筆によるもので「真文(しんぶん)」と呼び、草書体の「攵」となっているものが老中・板倉勝静の筆によるもので「草文(そうぶん)」と呼び、草書体で「寳」の字が「宝」となっているものが政事総裁職・松平慶永(松平春嶽)の筆によるもので「略宝(りゃくほう)」あるいは「玉宝(ぎょくほう)」とそれぞれ呼ばれる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "銅製で、直径0.9寸(約2.7センチメートル)、規定量目は9分(約3.375グラム)と、初期の寛永通宝より軽めである。鋳造は、文久3年2月(1863年)から慶応3年(1867年)まで。貨幣価値は4文として通用した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "万延元年(1860年)から鋳造が始まった寛永通寳精鉄四文銭が不評であり、かつ鋳造コストがかさむものであったことを受け、四文銭を銅銭に復帰することとしたが、産出量の絶対的不足から生じた銅地金の高騰などから量目を減じた銅四文銭を発行することになった。", "title": "略史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "真鍮四文銭はこれまで原則として銀座指導監督の下で鋳造されてきたが、文久永寳については、銀座監督の下で江戸深川千田新田(大工町)の銭座において鋳造されたものは「真文」のものであり、金座指導監督となった浅草橋場(小菅)の銭座では「草文」と「略宝」のものであった。", "title": "略史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "明治時代の造幣局の分析では銀0.060%、銅83.107%、鉛11.227%、錫3.217%、鉄0.269%、アンチモン0.489%、砒素1.500%、硫黄0.387%となっている。", "title": "略史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "安政年間から引換回収された寛永通寳一文銅銭2,114,246,283枚の内、1,420,200,000枚を文久永寳に改鋳したとされ、文久永寳の総鋳造高は891,515,631枚との記録もある。", "title": "略史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "発行当初は、真鍮四文銭の代わりに差支えなく通用するよう通達が出されたが、市場における差別通用の実態を追認せざるを得なくなり、慶応元年閏5月(1865年)には鉄一文銭に対し、寛永通寳真鍮四文銭は12文、文久永寳は8文の増歩通用となり、慶應3年(1867年)には自由相場(天然相場)に任されることとなり、鉄一文銭=1文の基準に対し以下のような相場となった。", "title": "略史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "この相場を元に新貨条例制定後の旧銅貨の通用価値が規定され、一圓は一両と等価となり、一両=10000文という基準から、これらの銭貨は以下の様な通用価格となった。", "title": "略史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "これらの内、鉄銭は明治6年(1873年)12月25日に太政官からの指令で、勝手に鋳潰しても差し支えないとされ、事実上の貨幣の資格を失い、明治30年(1897年)9月末の貨幣法施行により法的にも通用停止となり、天保通寳は明治24年(1891年)末をもって通用停止となったが、文久永寳は寛永通寳銅銭・真鍮銭とともに昭和28年(1953年)末の「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」により廃貨措置がとられる(この法律により1円未満の法定通貨は全て通用停止、この時点で江戸時代に鋳造された貨幣は全て通用停止)まで法的に通用力を有した。", "title": "略史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "文久永寳は基本的には銅合金製であるが、彷鋳銭の一部には少ないながら鉄製のものもある。", "title": "略史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "文久永寳の明治以降の法定通用価値は1厘5毛とされたが、明治時代には実際には高知や和歌山、神戸など、地域によっては1厘として流通することがあったという。寛永通寳鉄四文銭・鉄一文銭の通用停止以降は、昭和28年末の文久永寳を含む1円未満の法定通貨の通用停止まで、文久永寳が日本の法定通貨として厘未満の端数を有する唯一のものとなっていた。", "title": "略史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "『明治財政史』には、明治10年(1877年)から明治30年(1897年)9月までの間に流通不便貨幣として回収・鋳潰しの対象となった貨幣として、5銭銀貨・2銭銅貨・天保通寳・文久永寳の4種が挙げられている。", "title": "略史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "文久永宝の試鋳貨幣としては、裏面に「當百」・「當五十」と表記されている大型のものや、小型の一文銭などがある。", "title": "試鋳貨幣" } ]
文久永宝(ぶんきゅうえいほう)は、幕末に流通した銭貨。形状は円形で、中央部に正方形の穴が開けられている。表面には「文 久 永 寳(宝)」の文字が上下右左の順に刻まれ、裏面には寛永通宝真鍮四文銭の十一波のものと同様の波形模様が刻まれている。地方貨幣などを別にすれば、銭銘としては日本最後の銭貨である。
[[画像:4mon bunkyu-eiho.jpg|thumb|文久永宝(文久銭)]] '''文久永宝'''(ぶんきゅうえいほう)は、[[幕末]]に流通した[[銭貨]]。形状は円形で、中央部に正方形の穴が開けられている。表面には「文 久 永 寳(宝)」の文字が上下右左の順に刻まれ、裏面には[[寛永通宝]]真鍮四文銭の十一波のものと同様の波形模様が刻まれている。[[地方貨幣]]などを別にすれば、銭銘としては[[日本最後の一覧|日本最後]]の銭貨である。 == 概要 == この「文 久 永 寳(宝)」の文字には三種類のものがあり、それぞれ[[能筆]]の幕閣が担当した。「文」字が[[楷書体]]のものは[[若年寄]]([[老中格]])・[[小笠原長行]]の筆によるもので「真文(しんぶん)」と呼び、[[草書体]]の「攵」となっているものが[[老中]]・[[板倉勝静]]の筆によるもので「草文(そうぶん)」と呼び、草書体で「寳」の字が「宝」となっているものが[[政事総裁職]]・松平慶永([[松平春嶽]])の筆によるもので「略宝(りゃくほう)」あるいは「玉宝(ぎょくほう)」とそれぞれ呼ばれる<ref name="nishiwaki">瀧澤武雄,西脇康 『日本史小百科「貨幣」』 [[東京堂出版]]、1999年</ref>。 [[銅]]製で、直径0.9[[寸]](約2.7[[センチメートル]])、規定量目は9[[分]](約3.375[[グラム]])と、初期の[[寛永通宝]]より軽めである。鋳造は、[[文久]]3年2月([[1863年]])から[[慶応]]3年([[1867年]])まで。貨幣価値は4[[文 (通貨単位)|文]]として通用した。 == 略史 == {{右 |{{Vertical images list |幅=200px |1=Bunkyu-eiho-shinbun.jpg |2=真文 |3=Bunkyu-eiho-sobun.jpg |4=草文 |5=Bunkyu-eiho-ryakuho.jpg |6=略宝 }} }} [[画像:Kaei period Edasen.jpg|thumb|鋳造途中の文久永宝。枝銭(えだぜに)と呼ばれる。その後、切り離されて貨幣となる。]] [[万延]]元年([[1860年]])から鋳造が始まった[[寛永通宝#鉄四文銭|寛永通寳精鉄四文銭]]が不評であり、かつ鋳造コストがかさむものであったことを受け、四文銭を銅銭に復帰することとしたが、産出量の絶対的不足から生じた銅地金の高騰などから量目を減じた銅四文銭を発行することになった。 [[寛永通宝#真鍮四文銭|真鍮四文銭]]はこれまで原則として[[銀座 (歴史)|銀座]]指導監督の下で鋳造されてきたが、文久永寳については、銀座監督の下で[[江戸]][[深川_(江東区)|深川]][[千田 (江東区)|千田]]新田(大工町)の[[銭座]]において鋳造されたものは「真文」のものであり、[[金座]]指導監督となった[[浅草]][[橋場]]([[小菅 (葛飾区)|小菅]])の銭座では「草文」と「略宝」のものであった<ref name="nishiwaki" /><ref name="takizawa">滝沢武雄 『日本の貨幣の歴史』 [[吉川弘文館]]、1996年</ref>。 [[明治]]時代の[[造幣局 (日本)|造幣局]]の分析では[[銀]]0.060%、銅83.107%、[[鉛]]11.227%、[[スズ|錫]]3.217%、[[鉄]]0.269%、[[アンチモン]]0.489%、[[ヒ素|砒素]]1.500%、[[硫黄]]0.387%となっている<ref name="nenposho">『造幣局長第三十七年報書(明治四十三年度)』 [[造幣局 (日本)|大蔵省造幣局]]、1910年</ref>。 [[安政]]年間から引換回収された寛永通寳一文銅銭2,114,246,283枚の内、1,420,200,000枚を文久永寳に改鋳したとされ、文久永寳の総鋳造高は891,515,631枚との記録もある<ref name="shinkyukingin">『新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書』 [[大蔵省]]、1875年</ref>。 発行当初は、真鍮四文銭の代わりに差支えなく通用するよう通達が出されたが、市場における差別通用の実態を追認せざるを得なくなり、[[慶応]]元年[[閏]]5月([[1865年]])には鉄一文銭に対し、寛永通寳真鍮四文銭は12文、文久永寳は8文の増歩通用となり、慶應3年([[1867年]])には自由相場(天然相場)に任されることとなり、鉄一文銭=1文の基準に対し以下のような相場となった<ref name="mikami">三上隆三 『江戸の貨幣物語』 [[東洋経済新報社]]、1996年</ref>。 * 寛永通寳銅一文銭:10~12文 * 寛永通寳真鍮四文銭:20~24文 * 文久永寳:15~16文 * [[天保通宝|天保通寳]]:80~96文 * 寛永通寳鉄四文銭:2文 * 寛永通寳鉄一文銭:1文 この相場を元に[[新貨条例]]制定後の旧銅貨の通用価値が規定され、一[[円 (通貨)|圓]]は一[[両]]と等価となり、一両=10000文という基準から、これらの銭貨は以下の様な通用価格となった<ref name="shinkyukingin" />。 * 寛永通寳銅一文銭:1厘 * 寛永通寳真鍮四文銭:2厘  * 文久永寳:1.5厘 * 天保通寳:8厘 * 寛永通寳鉄四文銭:8枚で1厘 * 寛永通寳鉄一文銭:16枚で1厘 これらの内、鉄銭は明治6年([[1873年]])12月25日に太政官からの指令で、勝手に鋳潰しても差し支えないとされ、事実上の貨幣の資格を失い、明治30年([[1897年]])9月末の[[貨幣法]]施行により法的にも通用停止となり、天保通寳は明治24年([[1891年]])末をもって通用停止となったが、文久永寳は寛永通寳銅銭・真鍮銭とともに[[昭和]]28年([[1953年]])末の「[[小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律]]」により廃貨措置がとられる(この法律により1円未満の法定通貨は全て通用停止、この時点で江戸時代に鋳造された貨幣は全て通用停止)まで法的に通用力を有した。 文久永寳は基本的には銅合金製であるが、彷鋳銭の一部には少ないながら鉄製のものもある。 文久永寳の明治以降の法定通用価値は1厘5毛とされたが、明治時代には実際には高知や和歌山、神戸など、地域によっては1厘として流通することがあったという。寛永通寳鉄四文銭・鉄一文銭の通用停止以降は、昭和28年末の文久永寳を含む1円未満の法定通貨の通用停止まで、文久永寳が日本の法定通貨として厘未満の端数を有する唯一のものとなっていた。 『明治財政史』には、明治10年([[1877年]])から明治30年([[1897年]])9月までの間に流通不便貨幣として回収・鋳潰しの対象となった貨幣として、[[五銭硬貨|5銭銀貨]]・[[二銭硬貨|2銭銅貨]]・[[天保通宝|天保通寳]]・文久永寳の4種が挙げられている。 == 試鋳貨幣 == 文久永宝の[[試鋳貨幣]]としては、裏面に「當百」・「當五十」と表記されている大型のものや、小型の一文銭などがある。 == 参考文献 == {{reflist}} {{江戸時代の貨幣}} {{DEFAULTSORT:ふんきゆうえいほう}} [[Category:江戸時代の硬貨]] [[Category:幕末]]
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おおすみ
おおすみは、1970年2月11日に東京大学宇宙航空研究所(後の宇宙科学研究所)が鹿児島宇宙空間観測所からL-4Sロケット5号機により打ち上げた日本最初の人工衛星である。名称は打ち上げ基地があった大隅半島に由来する。開発・製造は日本電気が担当した。 1966年から観測用ロケットL-3H型に補助ブースターと姿勢制御装置、第4段球形ロケットを追加したL-4Sロケットで打ち上げ実験を開始し、1969年に打ち上げられたL-4T型(L-4Sとほぼ同型であるが、第4段の能力を減じているため、衛星打ち上げ手法の確認は出来ても、軌道投入能力はない)1機の打ち上げを含めた、計5回の試行錯誤の後での打ち上げ成功だった。 その結果、日本はソビエト連邦(当時)、アメリカ合衆国、フランスに次いで世界で4番目の人工衛星打上げ国となった。参考までに、その2ヵ月後に中華人民共和国は東方紅1号の打ち上げに成功している。ただ、中国を含め、多くの国は弾道ミサイル開発の副産物として人工衛星打ち上げ技術を習得したのに対して、日本は大学の付属研究所が純粋な民生技術として研究を行い、非軍事目的での人工衛星開発に成功し、なおかつ日本国内では直接的な軍事技術への転用も行われなかったという点で、国際的に特異性を持っている。 「おおすみ」はL-4Sロケットの最終段そのものであり、また衛星の目的も衛星打上げロケットの技術開発である。おおすみを語るうえでL-4Sロケットは文字通り切っても切り離せない関係にあるため、まずロケット側の背景から述べる。 L-4Sロケットは誘導制御装置が付いていない、世界初の無誘導衛星打ち上げロケットであった。これは決して開発能力が無かったわけではなく、誘導装置はミサイル開発に繋がる軍事技術への転用が可能であるという指摘が野党の日本社会党等から上がり、開発の着手時期が大幅に遅れたためである。 もちろん、単に真っ直ぐロケットを打ち上げても地球周回軌道には乗らないため、何らかの方法で機体を制御し、地表に対して水平に向きを変えなくては、衛星を軌道に投入できない。この代替策として「無誘導重力ターン方式」で軌道に投げ込む方法を取ることとなった。これは以下のように手の込んだ打ち上げ方式である。 「無誘導重力ターン方式」での「手の込んだ」一例を上げると、デスピンモーターがある。一旦点火をすると燃焼を中断できない固体ロケットによって、ロケット本体のスピンを停めるため、デスピンモーターはスピン方向と反スピン方向の両方にノズルを持っている。デスピンモーターは、燃焼直後には反スピン方向のノズルのみに燃焼経路を開きスピン停止の為の噴射を行うが、スピン停止を検知するとスピン方向のノズルにも燃焼経路を開き、相対推力を零にする。この技術は、後の宇宙研衛星打ち上げロケットに採用されるロール制御モーター「SMRC」に結実する。 「おおすみ」は、L-4Sロケットの最上段(4段目)である直径48 cmの球形固体モーター(ロケットエンジン)に円錐台状の計器部を付けたもので、全長約1 m、質量は4段目(燃焼後質量)の14.9 kgと計器部8.9 kgを合わせた23.8 kgの小さな人工衛星である。計器部には軸方向の加速度計、温度計、テレメータ送信機(295.6 MHz)、ビーコン送信機(136 MHz帯)、パイロット信号送信機(296.7 MHz)などを搭載していた。電源は容量5 AHの酸化銀と亜鉛を電極とした一次電池で、設計寿命は電池容量から約30時間であった。 目標とされた軌道は、遠地点2900 km、近地点530 kmであった。しかし、第1段が風で流された事と第4段の推力が過剰であったため、実際に投入された軌道は、遠地点5151 km、近地点337 kmの楕円軌道であった。また、ロケットモーターとの断熱が不充分であり、機体が予想よりも高温となったために電池の消耗が激しく、約15時間ほどで電力供給が途絶えた。そのため、衛星からの電波の発信も終了した。おおすみの電波運用は打ち切られたが、その後も光学観測により存在が確認されていた。 打上げ後、約33年間地球周回軌道上にあったものの、地球の上層大気の抵抗での減速によって次第に高度が低下し、JAXA統合を10月に控えた2003年8月2日午前5時45分に、北緯30.3度、東経25.0度(エジプト・リビアの国境付近)上空にて大気圏に再突入によって燃え尽きた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "おおすみは、1970年2月11日に東京大学宇宙航空研究所(後の宇宙科学研究所)が鹿児島宇宙空間観測所からL-4Sロケット5号機により打ち上げた日本最初の人工衛星である。名称は打ち上げ基地があった大隅半島に由来する。開発・製造は日本電気が担当した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1966年から観測用ロケットL-3H型に補助ブースターと姿勢制御装置、第4段球形ロケットを追加したL-4Sロケットで打ち上げ実験を開始し、1969年に打ち上げられたL-4T型(L-4Sとほぼ同型であるが、第4段の能力を減じているため、衛星打ち上げ手法の確認は出来ても、軌道投入能力はない)1機の打ち上げを含めた、計5回の試行錯誤の後での打ち上げ成功だった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "その結果、日本はソビエト連邦(当時)、アメリカ合衆国、フランスに次いで世界で4番目の人工衛星打上げ国となった。参考までに、その2ヵ月後に中華人民共和国は東方紅1号の打ち上げに成功している。ただ、中国を含め、多くの国は弾道ミサイル開発の副産物として人工衛星打ち上げ技術を習得したのに対して、日本は大学の付属研究所が純粋な民生技術として研究を行い、非軍事目的での人工衛星開発に成功し、なおかつ日本国内では直接的な軍事技術への転用も行われなかったという点で、国際的に特異性を持っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「おおすみ」はL-4Sロケットの最終段そのものであり、また衛星の目的も衛星打上げロケットの技術開発である。おおすみを語るうえでL-4Sロケットは文字通り切っても切り離せない関係にあるため、まずロケット側の背景から述べる。", "title": "L-4Sロケット" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "L-4Sロケットは誘導制御装置が付いていない、世界初の無誘導衛星打ち上げロケットであった。これは決して開発能力が無かったわけではなく、誘導装置はミサイル開発に繋がる軍事技術への転用が可能であるという指摘が野党の日本社会党等から上がり、開発の着手時期が大幅に遅れたためである。", "title": "L-4Sロケット" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "もちろん、単に真っ直ぐロケットを打ち上げても地球周回軌道には乗らないため、何らかの方法で機体を制御し、地表に対して水平に向きを変えなくては、衛星を軌道に投入できない。この代替策として「無誘導重力ターン方式」で軌道に投げ込む方法を取ることとなった。これは以下のように手の込んだ打ち上げ方式である。", "title": "L-4Sロケット" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "「無誘導重力ターン方式」での「手の込んだ」一例を上げると、デスピンモーターがある。一旦点火をすると燃焼を中断できない固体ロケットによって、ロケット本体のスピンを停めるため、デスピンモーターはスピン方向と反スピン方向の両方にノズルを持っている。デスピンモーターは、燃焼直後には反スピン方向のノズルのみに燃焼経路を開きスピン停止の為の噴射を行うが、スピン停止を検知するとスピン方向のノズルにも燃焼経路を開き、相対推力を零にする。この技術は、後の宇宙研衛星打ち上げロケットに採用されるロール制御モーター「SMRC」に結実する。", "title": "L-4Sロケット" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「おおすみ」は、L-4Sロケットの最上段(4段目)である直径48 cmの球形固体モーター(ロケットエンジン)に円錐台状の計器部を付けたもので、全長約1 m、質量は4段目(燃焼後質量)の14.9 kgと計器部8.9 kgを合わせた23.8 kgの小さな人工衛星である。計器部には軸方向の加速度計、温度計、テレメータ送信機(295.6 MHz)、ビーコン送信機(136 MHz帯)、パイロット信号送信機(296.7 MHz)などを搭載していた。電源は容量5 AHの酸化銀と亜鉛を電極とした一次電池で、設計寿命は電池容量から約30時間であった。", "title": "おおすみ" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "目標とされた軌道は、遠地点2900 km、近地点530 kmであった。しかし、第1段が風で流された事と第4段の推力が過剰であったため、実際に投入された軌道は、遠地点5151 km、近地点337 kmの楕円軌道であった。また、ロケットモーターとの断熱が不充分であり、機体が予想よりも高温となったために電池の消耗が激しく、約15時間ほどで電力供給が途絶えた。そのため、衛星からの電波の発信も終了した。おおすみの電波運用は打ち切られたが、その後も光学観測により存在が確認されていた。", "title": "おおすみ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "打上げ後、約33年間地球周回軌道上にあったものの、地球の上層大気の抵抗での減速によって次第に高度が低下し、JAXA統合を10月に控えた2003年8月2日午前5時45分に、北緯30.3度、東経25.0度(エジプト・リビアの国境付近)上空にて大気圏に再突入によって燃え尽きた。", "title": "おおすみ" } ]
おおすみは、1970年2月11日に東京大学宇宙航空研究所(後の宇宙科学研究所)が鹿児島宇宙空間観測所からL-4Sロケット5号機により打ち上げた日本最初の人工衛星である。名称は打ち上げ基地があった大隅半島に由来する。開発・製造は日本電気が担当した。
{{Otheruses|日本初の人工衛星|その他}} {{宇宙機 | 名称 = おおすみ | 画像 = [[画像:Ohsumi.jpg|250px]] | 画像の注釈 = 銀色の[[円錐台]]部分が本体で、「黒い球体」と竜頭状の部分(ノズル)はロケットの最終段である。<!--写真では衛星本体よりむしろノズルのほうが「円筒」に見えるため表現を変更。--> | 所属 = {{JPN}} | 主製造業者 =[[日本電気]] | 公式ページ = | 国際標識番号 = 1970-011A | NORAD_NO = 04330 | 状態 = 運用終了 | 目的 = 技術試験 | 観測対象 = | 計画の期間 = | 設計寿命 = | 打上げ場所 = 鹿児島宇宙空間観測所 | 打上げ機 = L-4Sロケット5号機 | 打上げ日時 = [[1970年]][[2月11日]]<br/>13時25分([[日本標準時|JST]]) | 軌道投入日 = | 最接近日 = | ランデブー日 = | 機能停止日 = | 通信途絶日 = [[1970年]][[2月12日]] | 運用終了日 = | 停波日 = | 消滅日時 = [[2003年]][[8月2日]] | 物理的特長 = 物理的特長 | 本体寸法 = | 最大寸法 = 長さ: 100cm<br/>太さ: 48cm | 質量 = 23.8kg | 発生電力 = 10.3W | 主な推進器 = | 姿勢制御方式 = | 軌道要素 = 軌道要素 | 周回対象 = | 軌道 = 楕円軌道 | 静止経度 = | 高度 = | 近点高度 = 350km | 遠点高度 = 5140km | 軌道半長径 = | 離心率 = | 軌道傾斜角 = 31度 | 軌道周期 = 145分 | 回帰日数 = | サブサイクル = | 回帰精度 = | 降交点通過地方時 = | 搭載機器 = 搭載機器 | 搭載機器名称1 = 加速度計 | 搭載機器説明1 = 加速度を測定 | 搭載機器名称2 = 温度計 | 搭載機器説明2 = 温度を測定 }} '''おおすみ'''は、[[1970年]][[2月11日]]に[[東京大学]]宇宙航空研究所(後の[[宇宙科学研究所]])が[[内之浦宇宙空間観測所|鹿児島宇宙空間観測所]]から[[L-4Sロケット]]5号機により打ち上げた日本最初の[[人工衛星]]である。名称は打ち上げ基地があった[[大隅半島]]に由来する。開発・製造は[[日本電気]]が担当した。 == 概要 == [[1966年]]から観測用ロケットL-3H型に補助ブースターと[[姿勢制御]]装置、第4段球形ロケットを追加したL-4Sロケットで打ち上げ実験を開始し、[[1969年]]に打ち上げられたL-4T型(L-4Sとほぼ同型であるが、第4段の能力を減じているため、衛星打ち上げ手法の確認は出来ても、軌道投入能力はない)1機の打ち上げを含めた、計5回の試行錯誤の後での打ち上げ成功だった。 その結果、日本は[[ソビエト連邦]](当時)、[[アメリカ合衆国]]、[[フランス]]に次いで世界で4番目の人工衛星打上げ国となった<ref>国産衛星 反響さまざま「純国産がうれしい」「ただ国威発揚だけ」『朝日新聞』1970年(昭和45年)2月12日夕刊 3版 10面</ref><ref>日の丸衛星“おおすみ”地球を回る 世界第四の人工衛星国に 6周まで確認 電波弱まり追跡中止『読売新聞』1970年(昭和45年)2月12日夕刊 1面</ref>。参考までに、その2ヵ月後に[[中華人民共和国]]は[[東方紅1号]]の打ち上げに成功している。ただ、中国を含め、多くの国は[[弾道ミサイル]]開発の副産物として人工衛星打ち上げ技術を習得したのに対して{{refnest|group="注"|日本のロケットも開発当初は朝鮮戦争の兵器用に作られた推進剤や、戦時中に開発されていたミサイル兵器「[[桜花 (航空機)|桜花]]」や「重[[ロケット弾|噴進弾]]」の推進剤の圧伸機を転用しており、これらの推進剤の規格(サイズ)に合わせて[[ペンシルロケット|ペンシル]]、[[ベビーロケット|ベビー]]、[[カッパロケット]]が開発されたという経緯がある<ref>野本陽代「日本のロケット」NHK BOOKS (1993)、p72</ref>。ただし推進剤もしくはその製造機材を流用したのみで、ロケット本体は新規に開発された技術である。}}、日本は大学の付属研究所が'''純粋な民生技術として研究を行い、非軍事目的での人工衛星開発に成功し'''、なおかつ日本国内では直接的な軍事技術への転用も行われなかった{{refnest|group="注"|後年になってインドも民生技術による人工衛星の打ち上げを達成しているが、こちらは後にミサイルへ転用されている<ref>坂本明「最強 世界のミサイル・ロケット兵器図鑑」(2015)、p188[https://books.google.co.jp/books?id=wrizCAAAQBAJ&pg=PA188&lpg=PA188&dq=%E3%82%A2%E3%82%B0%E3%83%8B+%E3%83%9F%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%AB+SLV%E3%83%AD%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88&source=bl&ots=_sbds2WavP&sig=PY-RDcsFrx-z9zsDilP73lHxSnE&hl=ja&sa=X&ved=0CBQQ6AEwAGoVChMIic2-lojnxwIVzJ6UCh3lSwrR]</ref>。ただし開発後の軍事転用の有無を問うのであれば、日本のロケット技術も[[カッパロケット#カッパロケットの軍事転用|日本国外では軍事転用されている]]。}}という点で、国際的に特異性を持っている。 == L-4Sロケット == {{main|L-4Sロケット}} [[File:Lambda Rocket Launcher.jpg|thumb|200px|right|おおすみを打ち上げたラムダロケット・ランチャとL-4Sロケット(同型)。[[国立科学博物館]]の展示。]] 「おおすみ」はL-4Sロケットの最終段そのものであり、また衛星の目的も衛星打上げロケットの技術開発である。おおすみを語るうえでL-4Sロケットは文字通り切っても切り離せない関係にあるため、まずロケット側の背景から述べる。 L-4Sロケットは誘導制御装置が付いていない、世界初の無誘導衛星打ち上げロケットであった。これは決して開発能力が無かったわけではなく、誘導装置はミサイル開発に繋がる軍事技術への転用が可能であるという指摘が野党の[[日本社会党]]等から上がり、開発の着手時期が大幅に遅れたためである<ref>1960年4月14日第34回参議院内閣委員会第19号 社会党の[[矢嶋三義]]がロケット研究の軍事転用の可能性について懸念を表明 </ref><ref>1961年4月18日第38回衆議院科学技術振興対策特別委員会第11号 糸川英夫がラムダへ誘導装置を搭載することを示唆 </ref><ref>1965年2月17日第48回衆議院科学技術振興対策特別委員会第5号 社会党の田中武夫からラムダのIRBM転用可能性について質問</ref>。 もちろん、単に真っ直ぐロケットを打ち上げても[[地球周回軌道]]には乗らないため、何らかの方法で機体を制御し、地表に対して水平に向きを変えなくては、衛星を軌道に投入できない。この代替策として「'''[[重力ターン方式|無誘導重力ターン方式]]'''」で軌道に投げ込む方法を取ることとなった。これは以下のように手の込んだ打ち上げ方式である。 * 第1段と第2段は尾翼による空力的効果で、第2段と第3段はスピンモーターにより機体をスピンさせて安定を保つ。 * 第3段燃焼終了・分離後、第3段が第4段に衝突しないように、第3段はレトロモーターで飛翔経路を後落させる<ref group="注">この時、第3段と第4段は慣性飛行を行っているので、そのままだと第3段の残留推力で第3段が第4段に衝突する。</ref>。 * 第4段はデスピンモータでスピンを停止、姿勢制御装置で第4段を水平姿勢に制御する<ref group="注">この時、ロケットは燃焼していないので「誘導」ではなく「姿勢制御」である。</ref>。 * 水平姿勢に制御した後、リスピンモーターでスピンを再び掛けて、放物線の頂点で第4段の燃焼を開始する。 「無誘導重力ターン方式」での「手の込んだ」一例を上げると、デスピンモーターがある。一旦点火をすると燃焼を中断できない固体ロケットによって、ロケット本体のスピンを停めるため、デスピンモーターはスピン方向と反スピン方向の両方にノズルを持っている。デスピンモーターは、燃焼直後には反スピン方向のノズルのみに燃焼経路を開きスピン停止の為の噴射を行うが、スピン停止を検知するとスピン方向のノズルにも燃焼経路を開き、相対推力を零にする。この技術は、後の宇宙研衛星打ち上げロケットに採用されるロール制御モーター「SMRC」に結実する。 == おおすみ == 「おおすみ」は、L-4Sロケットの最上段(4段目)である直径48 cmの球形固体モーター([[ロケット|ロケットエンジン]])に円錐台状の計器部を付けたもので、全長約1 m、質量は4段目(燃焼後質量)の14.9 kgと計器部8.9 kgを合わせた23.8 kgの小さな人工衛星である。計器部には軸方向の加速度計、温度計、テレメータ送信機(295.6 MHz)、ビーコン送信機(136 MHz帯)、パイロット信号送信機(296.7 MHz)などを搭載していた。電源は容量5 AHの[[酸化銀電池|酸化銀と亜鉛を電極]]とした[[一次電池]]で、設計寿命は電池容量から約30時間であった。 目標とされた軌道は、[[遠地点]]2900 km、[[近地点]]530 kmであった。しかし、第1段が風で流された事と第4段の推力が過剰であったため、実際に投入された軌道は、[[遠地点]]5151 km、[[近地点]]337 kmの楕円軌道であった。また、ロケットモーターとの断熱が不充分であり、機体が予想よりも高温となったために電池の消耗が激しく、約15時間ほどで電力供給が途絶えた。そのため、衛星からの電波の発信も終了した。おおすみの電波運用は打ち切られたが、<!--当時の新聞記事の見出しによれば-->その後も光学観測により存在が確認されていた。 打上げ後、約33年間地球周回軌道上にあったものの、地球の上層大気の抵抗での減速によって次第に高度が低下し、[[宇宙航空研究開発機構|JAXA]]統合を10月に控えた[[2003年]]8月2日午前5時45分に、北緯30.3度、東経25.0度([[エジプト]]・[[リビア]]の国境付近)上空にて[[大気圏再突入|大気圏に再突入]]によって燃え尽きた。 == 脚注 == === 注釈 === <references group="注" /> === 出典 === <references/> == 参考文献 == * [http://www.isas.jaxa.jp/missions/spacecraft/past/ohsumi.html 人工衛星「おおすみ」] JAXA - 宇宙科学研究本部 * [http://nssdc.gsfc.nasa.gov/nmc/spacecraftDisplay.do?id=1970-011A NSSDC Master Catalog: Ohsumi] NASA - NSSDC == 関連項目 == {{Commons|Category:Ohsumi}} * [[人工衛星の軌道]] * [[日本初の一覧]] == 外部リンク == * [http://www.isas.ac.jp/docs/ISASnews/No.270/isas.html#ohsumi 日本最初の人工衛星「おおすみ」の大気圏突入] * [https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/permanent/outdoors/index.html 国立科学博物館 屋外展示] (おおすみの打ち上げに(にも)使われたラムダ用ランチャが展示されている。横を通過するJR線の車内からも一瞬見える) * {{NHK放送史|D0009030553_00000|日本初の人工衛星「おおすみ」}} {{日本の宇宙探査機・人工衛星}} {{DEFAULTSORT:おおすみ}} [[Category:日本の人工衛星]] [[Category:1970年の日本]] [[Category:1970年の宇宙飛行]] [[Category:各国の最初の人工衛星]]
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松平広忠
松平 広忠(まつだいら ひろただ)は、戦国時代の武将。三河国額田郡岡崎城主。安城松平家4代当主。松平清康の子。母は青木氏(青木貞景もしくは青木弐宗)の娘。徳川家康の父。 「武徳大成記」が大永6年4月(1巻72頁)とし「三家考」および「御九族記」(寛保3・1743年成立)は同年4月29日としている。「改正三河後風土記」(上巻151頁)「徳川実紀」(1巻22頁)がこれを踏襲している。「朝野旧聞裒藁」(1巻407頁)「徳川幕府家譜」(18頁)は大永6年と記すにとどめている。また、「松平記」(107頁)や「三河記大全」は天文18年に24歳で死去としており、没年と享年から計算すると生年は等しくなる。 このほか25歳とするもの(「創業記考異」ただし一説にとして24歳と記す)また27歳で死去とするもの(「三州八代記古伝集」)もあり、同書の記述から逆算できる広忠の生年は大永3年(1526年)である。「三河物語」は23歳とするが年次の記述がない(69頁)。 青木貞景の娘とされているが(「徳川幕府家譜」18頁「徳川実紀」1巻21頁)、清康の室であった松平信貞の娘とする異説もある(広忠を「弾正左衛門」信貞の実孫とする『新編岡崎市史6』851および852頁所収の「大林寺由緒」また「朝野旧聞裒藁」1巻737頁「大樹寺御由緒書」も同旨)。 竹千代・千松丸・仙千代など諸書により異なる。汲古書院刊『朝野旧聞裒藁』によれば以下のとおり(1巻511から512頁)。 『三河物語』には、お千千代様、拾三にシテ・・・と記載。 『新編岡崎市史6』689頁所収「信光明寺文書16」天文6年10月23日付け判物写しには「千松丸」とある。 通称は次郎三郎であったといい(「三河物語」・「武徳大成記」1巻72頁)また「岡崎三郎」と称したことが発給文書より確認されている(『新編岡崎市史6』757頁所収「大樹寺文書44」天文16年12月5日付け大樹寺宛寺領寄進状) 「徳川幕府家譜」の記述を一例として示す(18から19頁) 天文4年(1535年)、広忠が10歳の頃に父・清康が死去し、大叔父の松平信定は「虚に乗りて」岡崎押領を断行。信定を諌めぬどころか黙認という隠居の曽祖父・道閲(松平長親)の姿勢もあり、それゆえ「国中の制法信定次第」で「権威つよくなり、日増しに増長」し、同6年には所領を悉く押領して譜代の衆をひきつけ、また広忠を殺害しようと企てるようになった。 ここから阿部大蔵定吉の働きに救われる。まず天文8年(1539年)、大蔵によって吉良持広の庇護を得て伊勢国・神戸まで逃れ、この地に匿(かくま)われる。1月11日には元服し、持広より一字を拝領して“二郎三郎広忠”と改めた。しかし同年9月の持広の死去後、吉良義安の外交方針の変更により織田氏との連携が強まると再逃亡。 長篠領民を頼んで暫く潜伏。吉良を見限り今川義元に執り成してもらうべく東へ奔り遠州「掛塚」に潜伏し、駿河へ渡って翌年秋まで保護される。 天文9年(1540年)義元の計らいで三河「牟呂城」に移される。信定死後の桜井松平家の混乱に乗じて同11年5月31日、松平信孝・松平康孝の協力を得て岡崎城を占領した。 天文14年(1545年)岩松八弥による傷害事件が起こるも、同年「安城畷」において織田氏と合戦、勝利を得る。同16年9月「渡理川原」では信孝と戦い、本多忠高の功績によりこれを破る。同年、織田信秀による三河進攻では今川氏へ加勢を乞うも、見返りに竹千代を人質として送ることとなった。しかし戸田康光の裏切りにより竹千代は織田方に送られてしまう。 天文17年(1548年)3月19日「駿州」(ママ)小豆坂において織田勢と対陣したが、今川家からの援軍2万余を加えて大勝し、4月1日には「松平権兵衛重弘」兄弟の山中城をおとした。同月「三州冑山」にて信孝と対陣。「菅生川原」で信孝が流矢で戦死すると残兵は敗北した。翌18年2月20日再び織田勢と対陣、勝利を得て織田信広を捕虜とし、これと和して竹千代と交換、26日に今川家との約命どおり人質として駿府へ移送。 天文18年(1549年)3月6日、24歳で死去。 「三河物語」は清康の死に関して「森山崩れ」と呼び、諸書はこの後に織田信秀による三河への進攻があったと記す。 「朝野旧聞裒藁」は年次について特定を避けている(1巻515頁)。「徳川実紀」は天文5年2月としている(1巻22頁)。 村岡幹生は「松平記」は織田軍が松平信定を当主に据えるために出兵しながら目的を果たせずに和睦したと記しながら、その直後に信定が岡崎に入城したことになっており、合戦記事そのものが虚構であるとしている。 広忠の岡崎帰還までの経緯を「阿部家夢物語」は次のように記す(157から159頁)。 「三河物語」はこうである(45から56頁)。 「松平記」は次のように記す(102から103頁) 「武徳大成記」は年次を附して次のように記す(1巻73から79頁)。 「松平記」は森山崩れを天文4年と明記した上で(101頁)この時の広忠の年齢を10歳とし(同)、また伊勢行きを13歳としている(102頁また103頁)。天文6年と記す岡崎への帰還には2年しかなく、それゆえ年次と年齢の記述が矛盾する。「武徳大成記」は「松平記」と年次が同じであるが、同年の岡崎帰城を12歳として生年との齟齬を避けている(1巻79頁)。 「朝野旧聞裒藁」は天文6年(1537年)6月に広忠の岡崎還住が実現したとしている(1巻573頁)。また上記「千松丸」の名がある『新編岡崎市史6』689頁「信光明寺文書16」の天文6年10月23日付け判物写しは、八国甚六郎、大窪新八郎(ママ)、成瀬又太郎、大原左近右衛門、林藤助に対して「今度入国之儀 忠節無比類候」として15貫文の加増を約しており、『新編 岡崎市史2』はこれを岡崎帰還の功績によるものと考えている(687頁)。大久保ら5名への加増については「三河物語」(57頁)「武徳大成記」(1巻86頁)に記述がある。 異説として「御年譜附尾」(正保3・1646年成立)は岡崎押領を松平信孝によるものとし、これを天文7年(1538年)と記す。また義元への岡崎還住の要請を同8年暮とし、駿府行きを同9年春、「茂呂」入城は同年秋、岡崎還住を天文10年(1541年)と記述する。これについて「朝野旧聞裒藁」は、信定の岡崎押領を天文7年とするのは「松平記」がその年齢を13歳と記したために生じた誤りではないかと推測している(1巻531頁)。 なお、近年の研究では阿部大蔵(定吉)について研究した茶園紘己は、阿部の側室が北畠氏の一門である星合氏の出とする『寛政重修諸家譜』の記事に注目し、広忠は阿部の姻戚関係を頼って伊勢に亡命したのではないか、と推測している。一方、村岡幹生は、森山崩れは安城家の一門(信定・信孝ら)及び家臣と旧岡崎家の家臣の対立に端を発する阿部大蔵によるクーデターで、阿部が広忠を連れて逃亡したために信定や信孝は事態収拾のために岡崎城に入った、その後家中の広忠擁立論や今川氏の介入を受けて広忠を当主にするために和睦が図られて阿部も赦免がされたが、広忠の後見を巡って信孝と阿部の対立が続いた、と推測している。 村岡幹生は天文9年3月5日に広忠が西三河の各寺院に対して一斉に所領安堵を行い、実際にそのいくつかが後世に伝わっていることを重視する。これは「岡崎領主古記」にも広忠の「御形判始」と記されているように、松平家当主としての最初の行為であったと考えられるからである。また、その4か月前の天文8年11月27日には松平信定が病死している(菩提寺過去帳)。村岡は信定が存命中は松平家の家督を預かる(押領ではない)ことの正当性を家中で認識されていたからだとしている。 広忠の後半生は三河へ進攻する織田氏との戦いに費やされていたようである。 「岡崎領主古記」は次のように記す。 同書はこの後、天文12年(「本多吉左エ門討死」)と同14年の計4回の安祥合戦を記している。 「寛永諸家系図伝」にも織田家による安祥攻めの記述があるが(1巻169から170頁。年次は天文9年6月6日)松平利長らが防戦して敵が退いたと記している(「寛政譜」1巻「藤井」42頁同じ)。また同1巻127頁は松平忠次が参戦したとするだけで(年次なし)その結果についての記述がない。「寛政譜」の忠次の記事は「信秀ついに利を失いて敗走」したというものである(1巻「五井」146頁)。 同じく「武徳大成記」は天文9年の戦いを「織田信秀いくさをやめて引き退く」とし(1巻89頁)、天文13年には城兵の防戦により織田勢が敗軍したと記す。翌14年のこととして「広忠卿安城の敗れを憂て」とあること(同94頁)、また広忠の死後、今川からの援兵を得て安祥城を陥落させたとの記述があることから(109頁)、城が織田方の手に渡ったことは認めている。しかしその時期や経緯についての記述がない。 「信長公記」は「8月上旬」のこととして小豆坂での戦闘をつぎのように記す(下記刊行本22頁)。年次の記載はない これを小瀬甫庵「信長記」は天文11年(1542年)のこととして記す(下記刊行本上巻34頁)。 同書はこの戦いについて、世間では「尾張勢の勝軍」といわれているが「誠にかかる手痛き合戦は前代未聞」であったとし、造酒丞らを「小豆坂の七本槍」と呼んで語り継いだと記している。「由原」戦死について「信長公記」はこれを記さず、逆に「由原」が「那古野弥五郎」の首を討ち取ったとしている。 他方「三河物語」は小豆坂の戦いをこのように記す(68から69頁)。年次はない。 「松平記」は年次を附してこのように記す(106頁)。 諸書の記述は次のとおり 『新編 岡崎市史2』は17年3月が11年8月に誤伝される可能性を低くみて2回説を支持し(691頁)、小和田哲男「駿河 今川一族」は今川義元の東三河進出は天文12年からであるとして、11年の戦いはなかったとする説をとっている(200より201頁)。後述の天文16年の岡崎城落城説を採る村岡幹生は「三河物語」がこの戦いにおける岡崎の松平軍についてほとんど触れていないことを指摘し、更に織田軍の撤退時に追撃を行っていない(今川氏から見たら背信行為である)ことから、天文17年当時の岡崎城は織田方で広忠は織田軍に加わっていた可能性があり、今川方に参加した松平家臣は謂わば「牢人」状態にあった可能性を指摘している。 近年になって、天文16年(1547年)9月に織田信秀が岡崎城を攻め落としたとする古文書(「本成寺文書」『古証文』/『戦国遺文』今川氏編第2巻965号)の発見をきっかけに、村岡幹生が同年に織田軍の侵攻によって岡崎城が陥落して松平広忠が降伏を余儀なくされたのではないかとする説を唱えた。この岡崎城陥落については研究者による一定の支持を得ているものの、この時の松平広忠の政治的な立場について、従来の通説通りに今川氏の傘下として織田氏の侵攻を受けたとみる村岡幹生と広忠が戸田氏らと共に今川氏からの自立を策して、それに対抗すべく今川義元と織田信秀が手を結んで三河侵攻を行ったとする平野明夫や糟谷幸裕の意見が対立している。また、柴裕之は後者の立場から、松平竹千代(徳川家康)が織田氏の人質になったのは戸田康光の裏切りによるものではなく岡崎城陥落によって松平広忠が降伏の条件として竹千代を人質に差し出したとする見解を述べている。なお、織田信秀と今川義元という敵対していた両者を結びつけて広忠攻めを行わせたのは広忠と対立した松平信孝や阿部定吉との権力争いに敗れた酒井忠尚らであったとみられ、更に牧野氏もこの動きに加わったとされる。最終的には広忠は今川方の岡崎城主として死去したとみられるが、今川方への復帰の時期として村岡は同年9月28日の渡河原の合戦以前(すなわち信秀が岡崎城から撤退した直後)と小豆坂の戦いにおける今川氏の勝利後の2つの可能性があるとした上で、小豆坂の戦いでの広忠の行動を不審視して後者の可能性が高いとしている。一方、柴は『武家聞伝記』に天文17年(1548年)に斎藤利政(道三)が織田大和守家と松平広忠に働きかけて対信秀の挙兵をさせたと記されており、道三と結んで挙兵した広忠が義元に接近した結果、小豆坂の戦いが始まったとしている。 いずれにしても、村岡論文によって江戸時代以来疑われることがなかった「天文6年に岡崎城主になってのち同18年に没するまでの間に今川義元の配下になることはあっても、この間ずっと岡崎城主としての地位は保ち続けた」とされてきた松平広忠像が覆されることになり、その根本的な見直しを迫られることになった。 「武徳大成記」は大子(伝通院)との婚姻は天文10年(1540年)としている。家康出生の後に離縁することになるが、同書はその理由について、天文12年の水野忠政の卒去により、家督を継いだ水野信元が織田家に与したことにあったとみる。同書は家康誕生を天文11年の生まれとした上で、伝通院との離縁は家康3歳の時のこととしている。 「岡崎領主古記」は大子との婚姻を「天文9年の事成と云」とし、また同13年に離別とする。 なお、小川雄は、広忠と伝通院の婚姻が行われたのは、松平信孝が広忠の後見をしていた時期にあたり、水野氏との同盟や伝通院との婚姻も信孝主導であったとする。従って、広忠と重臣たちが信孝を追放したことによって水野氏との同盟関係も破綻することになり、離縁に至ったとする説を唱えている。また、小川は広忠の再婚相手が戸田康光の娘であったのも、水野氏や信孝が牧野氏と結んでいるために、牧野氏と対立する戸田氏を新たな同盟者として選んだとしている。 大子との関係でいえば、彼女の再婚相手である坂部城主久松俊勝を通じて尾張国知多郡に介入した形跡がみられることである。「寛永諸家系図伝」1巻202では天文15年(1545年)「広忠卿しきりに御あつかいありし故」大野(常滑市北部)の佐治家との和睦が実現したとしている。『新編岡崎市史6』1171頁所収の「久松弥九郎」宛ての広忠書状写しに「大野此方就申御同心 外聞実儀 本望至極候」としるされている。 広忠は天文18(1549年)3月6日に死去したとされている(「家忠日記増補」「創業記考異」「岡崎領主古記」ほか)。ただし『岡崎市史別巻』上巻191頁は3月10日としている。しかし他の史料に所見がなく、誤植と考えられている(『新編 岡崎市史2』710頁)。 死因に関しても諸説がある 「松平記」が記す忌日は『三河文献集成 中世編』に収められた翻刻(107頁)、および国立公文書館所蔵の写本2冊はいずれも3月6日となっており「朝野旧聞裒藁」の記述は誤写と思われる。 『岡崎市史別巻』上巻は岩松八弥による殺害説を採り、これが『新編 岡崎市史2』に踏襲されている(710頁)。明智憲三郎は織田信秀が岩松八弥を抱き込んで広忠を暗殺させた可能性を提示している。 これに対して、村岡幹生は『松平記』も片目八弥による襲撃自体は認めているが、襲撃と広忠の死を結びつけた史料はいずれも後世の編纂物で、織田氏が仮に関わっていたとしても広忠の死の直後に当時織田方にいた筈の竹千代を利用するなどの何ら行動を起こしていないのは不自然であるとして、岩松八弥による襲撃と広忠の死は直接の因果関係はなく、「病没説に疑問を挟まねばならぬ理由がどこにあろう」と殺害説を完全に否定している。 葬地は愛知県岡崎市の大樹寺(「朝野旧聞裒藁」1巻737頁所載「大樹寺御由緒書」。「御九族記」および「徳川幕府家譜」19頁に同じ)。法名は「慈光院殿」もしくは「瑞雲院殿」応政道幹大居士(「御九族記」「徳川幕府家譜」19頁)で、贈官の後「大樹寺殿」となったとする同寺の記録があるという(「朝野旧聞裒藁」1巻738頁所載。「御九族記」おなじ)。 現在大樹寺に加え、大林寺・松應寺・法蔵寺・広忠寺と5つの墓所が岡崎市にある。 また死後、慶長16年3月22日従二位大納言の官位を贈られている。「御年譜附尾」は「因大権現宮願」として従三位大納言と記し「御九族記」は正二位権大納言としている。なお、嘉永元年10月19日には、太政大臣正一位に追贈されている。 松平広忠 贈太政大臣正一位宣命(高麗環雑記) 天皇我詔良万止、贈従二位權大納言源廣忠朝臣尓詔倍止勅命乎聞食止宣、弓乎鞬志劔乎鞘仁志氐与利、今仁至氐二百有餘年、此世乎加久仁志毛、治免給比、遂給倍留者、汝乃子奈利止奈牟、聞食須其父仁功阿礼者、賞子仁延岐、子仁功阿礼者、貴父仁及者、古乃典奈利、然仁顯揚乃不足遠歎給比氐、重天官位乎上給比氐、太政大臣正一位仁治賜比贈給布、天皇我勅命乎遠聞食止宣、嘉永元年十月十九日奉大内記菅在光朝臣申、 (訓読文)天皇(すめら、孝明天皇のこと)が詔(おほみこと)らまと、贈従二位(すないふたつのくらゐ)権大納言(かりのおほいものまうすのつかさ)源広忠朝臣に詔(のら)へと勅命(おほみこと)を聞こし食(め)せと宣(の)る、弓を鞬(ゆぶくろ)にし劔を鞘にしてより今に至りて二百有余年、此の世をかくにしも、治め給ひ遂げ給へるは、汝の子なりとなむ、聞こし食す其の父に功あれば、賞子に延(つ)ぎ、子に功あれば貴父に及ぶは古(いにしへ)の典(のり)なり、然るに顕揚(けんやう)の不足遠く歎き給ひて、重ねて官位を上(のぼ)せ給ひて、太政大臣正一位に治め賜ひ贈り賜ふ、天皇が勅命を遠く聞こし食せと宣る、嘉永元年(1848年)10月19日、大内記菅(原)在光(唐橋在光、従四位下)朝臣奉(うけたまは)りて申す、 「柳営婦女伝」は三人の室を記している。正室・側室の別を明記する史料はない。またその子に関しても一男一女(「武徳大成記」1巻72頁)二男二女(「参松伝」巻1)二男三女(「改正三河後風土記」上巻171頁および「徳川実紀」24頁)三男三女(「御九族記」巻1)と諸書により記述が異なる。 生母により分類して以下に示すが、生母について争いのあるもの、広忠の子として争いのあるものはこれを「一説に」とした。ただし存在そのものが疑われている、忠政、恵最、家元、親良についてはこのかぎりではなく、単に所伝のあるものとして列挙した。 連歌師である宗牧が記した『東国紀行』にも広忠に関する記述がある。 天文12年(1543年)、広忠は三河国に下向していた勅使の三条西公頼に進納を行った。これを受けて朝廷では翌天文13年(1544年)に東国に下ることになった宗牧に広忠宛の女房奉書を託して感謝の意を伝えるように命じた。同年閏11月13日に岡崎に着いた宗牧はまずは筆頭重臣である阿部大蔵(定吉)に面会を求めた。しかし、来訪の趣旨を事前に伝えていたにもかかわらず、大蔵は不在で、しかも宿泊先の宿でも不手際があったらしく、不満を書き記している。翌日、大蔵が岡崎に戻ってきたために面会するが、出迎えの準備が出来ていなかったために見かねた石川忠成が代わりの茶の湯を設けた。その後、ようやく広忠に拝謁して奉書を渡すことができたという。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "松平 広忠(まつだいら ひろただ)は、戦国時代の武将。三河国額田郡岡崎城主。安城松平家4代当主。松平清康の子。母は青木氏(青木貞景もしくは青木弐宗)の娘。徳川家康の父。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「武徳大成記」が大永6年4月(1巻72頁)とし「三家考」および「御九族記」(寛保3・1743年成立)は同年4月29日としている。「改正三河後風土記」(上巻151頁)「徳川実紀」(1巻22頁)がこれを踏襲している。「朝野旧聞裒藁」(1巻407頁)「徳川幕府家譜」(18頁)は大永6年と記すにとどめている。また、「松平記」(107頁)や「三河記大全」は天文18年に24歳で死去としており、没年と享年から計算すると生年は等しくなる。", "title": "出自など" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "このほか25歳とするもの(「創業記考異」ただし一説にとして24歳と記す)また27歳で死去とするもの(「三州八代記古伝集」)もあり、同書の記述から逆算できる広忠の生年は大永3年(1526年)である。「三河物語」は23歳とするが年次の記述がない(69頁)。", "title": "出自など" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "青木貞景の娘とされているが(「徳川幕府家譜」18頁「徳川実紀」1巻21頁)、清康の室であった松平信貞の娘とする異説もある(広忠を「弾正左衛門」信貞の実孫とする『新編岡崎市史6』851および852頁所収の「大林寺由緒」また「朝野旧聞裒藁」1巻737頁「大樹寺御由緒書」も同旨)。", "title": "出自など" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "竹千代・千松丸・仙千代など諸書により異なる。汲古書院刊『朝野旧聞裒藁』によれば以下のとおり(1巻511から512頁)。", "title": "出自など" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『三河物語』には、お千千代様、拾三にシテ・・・と記載。", "title": "出自など" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "『新編岡崎市史6』689頁所収「信光明寺文書16」天文6年10月23日付け判物写しには「千松丸」とある。", "title": "出自など" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "通称は次郎三郎であったといい(「三河物語」・「武徳大成記」1巻72頁)また「岡崎三郎」と称したことが発給文書より確認されている(『新編岡崎市史6』757頁所収「大樹寺文書44」天文16年12月5日付け大樹寺宛寺領寄進状)", "title": "出自など" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「徳川幕府家譜」の記述を一例として示す(18から19頁)", "title": "経歴(一説に)" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "天文4年(1535年)、広忠が10歳の頃に父・清康が死去し、大叔父の松平信定は「虚に乗りて」岡崎押領を断行。信定を諌めぬどころか黙認という隠居の曽祖父・道閲(松平長親)の姿勢もあり、それゆえ「国中の制法信定次第」で「権威つよくなり、日増しに増長」し、同6年には所領を悉く押領して譜代の衆をひきつけ、また広忠を殺害しようと企てるようになった。", "title": "経歴(一説に)" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ここから阿部大蔵定吉の働きに救われる。まず天文8年(1539年)、大蔵によって吉良持広の庇護を得て伊勢国・神戸まで逃れ、この地に匿(かくま)われる。1月11日には元服し、持広より一字を拝領して“二郎三郎広忠”と改めた。しかし同年9月の持広の死去後、吉良義安の外交方針の変更により織田氏との連携が強まると再逃亡。 長篠領民を頼んで暫く潜伏。吉良を見限り今川義元に執り成してもらうべく東へ奔り遠州「掛塚」に潜伏し、駿河へ渡って翌年秋まで保護される。", "title": "経歴(一説に)" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "天文9年(1540年)義元の計らいで三河「牟呂城」に移される。信定死後の桜井松平家の混乱に乗じて同11年5月31日、松平信孝・松平康孝の協力を得て岡崎城を占領した。", "title": "経歴(一説に)" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "天文14年(1545年)岩松八弥による傷害事件が起こるも、同年「安城畷」において織田氏と合戦、勝利を得る。同16年9月「渡理川原」では信孝と戦い、本多忠高の功績によりこれを破る。同年、織田信秀による三河進攻では今川氏へ加勢を乞うも、見返りに竹千代を人質として送ることとなった。しかし戸田康光の裏切りにより竹千代は織田方に送られてしまう。", "title": "経歴(一説に)" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "天文17年(1548年)3月19日「駿州」(ママ)小豆坂において織田勢と対陣したが、今川家からの援軍2万余を加えて大勝し、4月1日には「松平権兵衛重弘」兄弟の山中城をおとした。同月「三州冑山」にて信孝と対陣。「菅生川原」で信孝が流矢で戦死すると残兵は敗北した。翌18年2月20日再び織田勢と対陣、勝利を得て織田信広を捕虜とし、これと和して竹千代と交換、26日に今川家との約命どおり人質として駿府へ移送。", "title": "経歴(一説に)" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "天文18年(1549年)3月6日、24歳で死去。", "title": "経歴(一説に)" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "「三河物語」は清康の死に関して「森山崩れ」と呼び、諸書はこの後に織田信秀による三河への進攻があったと記す。", "title": "森山崩れと井田野合戦" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "「朝野旧聞裒藁」は年次について特定を避けている(1巻515頁)。「徳川実紀」は天文5年2月としている(1巻22頁)。", "title": "森山崩れと井田野合戦" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "村岡幹生は「松平記」は織田軍が松平信定を当主に据えるために出兵しながら目的を果たせずに和睦したと記しながら、その直後に信定が岡崎に入城したことになっており、合戦記事そのものが虚構であるとしている。", "title": "森山崩れと井田野合戦" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "広忠の岡崎帰還までの経緯を「阿部家夢物語」は次のように記す(157から159頁)。", "title": "伊勢への逃走と岡崎還住" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "「三河物語」はこうである(45から56頁)。", "title": "伊勢への逃走と岡崎還住" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "「松平記」は次のように記す(102から103頁)", "title": "伊勢への逃走と岡崎還住" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "「武徳大成記」は年次を附して次のように記す(1巻73から79頁)。", "title": "伊勢への逃走と岡崎還住" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "「松平記」は森山崩れを天文4年と明記した上で(101頁)この時の広忠の年齢を10歳とし(同)、また伊勢行きを13歳としている(102頁また103頁)。天文6年と記す岡崎への帰還には2年しかなく、それゆえ年次と年齢の記述が矛盾する。「武徳大成記」は「松平記」と年次が同じであるが、同年の岡崎帰城を12歳として生年との齟齬を避けている(1巻79頁)。", "title": "伊勢への逃走と岡崎還住" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "「朝野旧聞裒藁」は天文6年(1537年)6月に広忠の岡崎還住が実現したとしている(1巻573頁)。また上記「千松丸」の名がある『新編岡崎市史6』689頁「信光明寺文書16」の天文6年10月23日付け判物写しは、八国甚六郎、大窪新八郎(ママ)、成瀬又太郎、大原左近右衛門、林藤助に対して「今度入国之儀 忠節無比類候」として15貫文の加増を約しており、『新編 岡崎市史2』はこれを岡崎帰還の功績によるものと考えている(687頁)。大久保ら5名への加増については「三河物語」(57頁)「武徳大成記」(1巻86頁)に記述がある。", "title": "伊勢への逃走と岡崎還住" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "異説として「御年譜附尾」(正保3・1646年成立)は岡崎押領を松平信孝によるものとし、これを天文7年(1538年)と記す。また義元への岡崎還住の要請を同8年暮とし、駿府行きを同9年春、「茂呂」入城は同年秋、岡崎還住を天文10年(1541年)と記述する。これについて「朝野旧聞裒藁」は、信定の岡崎押領を天文7年とするのは「松平記」がその年齢を13歳と記したために生じた誤りではないかと推測している(1巻531頁)。", "title": "伊勢への逃走と岡崎還住" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "なお、近年の研究では阿部大蔵(定吉)について研究した茶園紘己は、阿部の側室が北畠氏の一門である星合氏の出とする『寛政重修諸家譜』の記事に注目し、広忠は阿部の姻戚関係を頼って伊勢に亡命したのではないか、と推測している。一方、村岡幹生は、森山崩れは安城家の一門(信定・信孝ら)及び家臣と旧岡崎家の家臣の対立に端を発する阿部大蔵によるクーデターで、阿部が広忠を連れて逃亡したために信定や信孝は事態収拾のために岡崎城に入った、その後家中の広忠擁立論や今川氏の介入を受けて広忠を当主にするために和睦が図られて阿部も赦免がされたが、広忠の後見を巡って信孝と阿部の対立が続いた、と推測している。", "title": "伊勢への逃走と岡崎還住" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "村岡幹生は天文9年3月5日に広忠が西三河の各寺院に対して一斉に所領安堵を行い、実際にそのいくつかが後世に伝わっていることを重視する。これは「岡崎領主古記」にも広忠の「御形判始」と記されているように、松平家当主としての最初の行為であったと考えられるからである。また、その4か月前の天文8年11月27日には松平信定が病死している(菩提寺過去帳)。村岡は信定が存命中は松平家の家督を預かる(押領ではない)ことの正当性を家中で認識されていたからだとしている。", "title": "伊勢への逃走と岡崎還住" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "広忠の後半生は三河へ進攻する織田氏との戦いに費やされていたようである。", "title": "織田氏の三河進攻と小豆坂の戦い" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "「岡崎領主古記」は次のように記す。", "title": "織田氏の三河進攻と小豆坂の戦い" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "同書はこの後、天文12年(「本多吉左エ門討死」)と同14年の計4回の安祥合戦を記している。", "title": "織田氏の三河進攻と小豆坂の戦い" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "「寛永諸家系図伝」にも織田家による安祥攻めの記述があるが(1巻169から170頁。年次は天文9年6月6日)松平利長らが防戦して敵が退いたと記している(「寛政譜」1巻「藤井」42頁同じ)。また同1巻127頁は松平忠次が参戦したとするだけで(年次なし)その結果についての記述がない。「寛政譜」の忠次の記事は「信秀ついに利を失いて敗走」したというものである(1巻「五井」146頁)。", "title": "織田氏の三河進攻と小豆坂の戦い" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "同じく「武徳大成記」は天文9年の戦いを「織田信秀いくさをやめて引き退く」とし(1巻89頁)、天文13年には城兵の防戦により織田勢が敗軍したと記す。翌14年のこととして「広忠卿安城の敗れを憂て」とあること(同94頁)、また広忠の死後、今川からの援兵を得て安祥城を陥落させたとの記述があることから(109頁)、城が織田方の手に渡ったことは認めている。しかしその時期や経緯についての記述がない。", "title": "織田氏の三河進攻と小豆坂の戦い" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "「信長公記」は「8月上旬」のこととして小豆坂での戦闘をつぎのように記す(下記刊行本22頁)。年次の記載はない", "title": "織田氏の三河進攻と小豆坂の戦い" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "これを小瀬甫庵「信長記」は天文11年(1542年)のこととして記す(下記刊行本上巻34頁)。", "title": "織田氏の三河進攻と小豆坂の戦い" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "同書はこの戦いについて、世間では「尾張勢の勝軍」といわれているが「誠にかかる手痛き合戦は前代未聞」であったとし、造酒丞らを「小豆坂の七本槍」と呼んで語り継いだと記している。「由原」戦死について「信長公記」はこれを記さず、逆に「由原」が「那古野弥五郎」の首を討ち取ったとしている。", "title": "織田氏の三河進攻と小豆坂の戦い" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "他方「三河物語」は小豆坂の戦いをこのように記す(68から69頁)。年次はない。", "title": "織田氏の三河進攻と小豆坂の戦い" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "「松平記」は年次を附してこのように記す(106頁)。", "title": "織田氏の三河進攻と小豆坂の戦い" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "諸書の記述は次のとおり", "title": "織田氏の三河進攻と小豆坂の戦い" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "『新編 岡崎市史2』は17年3月が11年8月に誤伝される可能性を低くみて2回説を支持し(691頁)、小和田哲男「駿河 今川一族」は今川義元の東三河進出は天文12年からであるとして、11年の戦いはなかったとする説をとっている(200より201頁)。後述の天文16年の岡崎城落城説を採る村岡幹生は「三河物語」がこの戦いにおける岡崎の松平軍についてほとんど触れていないことを指摘し、更に織田軍の撤退時に追撃を行っていない(今川氏から見たら背信行為である)ことから、天文17年当時の岡崎城は織田方で広忠は織田軍に加わっていた可能性があり、今川方に参加した松平家臣は謂わば「牢人」状態にあった可能性を指摘している。", "title": "織田氏の三河進攻と小豆坂の戦い" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "近年になって、天文16年(1547年)9月に織田信秀が岡崎城を攻め落としたとする古文書(「本成寺文書」『古証文』/『戦国遺文』今川氏編第2巻965号)の発見をきっかけに、村岡幹生が同年に織田軍の侵攻によって岡崎城が陥落して松平広忠が降伏を余儀なくされたのではないかとする説を唱えた。この岡崎城陥落については研究者による一定の支持を得ているものの、この時の松平広忠の政治的な立場について、従来の通説通りに今川氏の傘下として織田氏の侵攻を受けたとみる村岡幹生と広忠が戸田氏らと共に今川氏からの自立を策して、それに対抗すべく今川義元と織田信秀が手を結んで三河侵攻を行ったとする平野明夫や糟谷幸裕の意見が対立している。また、柴裕之は後者の立場から、松平竹千代(徳川家康)が織田氏の人質になったのは戸田康光の裏切りによるものではなく岡崎城陥落によって松平広忠が降伏の条件として竹千代を人質に差し出したとする見解を述べている。なお、織田信秀と今川義元という敵対していた両者を結びつけて広忠攻めを行わせたのは広忠と対立した松平信孝や阿部定吉との権力争いに敗れた酒井忠尚らであったとみられ、更に牧野氏もこの動きに加わったとされる。最終的には広忠は今川方の岡崎城主として死去したとみられるが、今川方への復帰の時期として村岡は同年9月28日の渡河原の合戦以前(すなわち信秀が岡崎城から撤退した直後)と小豆坂の戦いにおける今川氏の勝利後の2つの可能性があるとした上で、小豆坂の戦いでの広忠の行動を不審視して後者の可能性が高いとしている。一方、柴は『武家聞伝記』に天文17年(1548年)に斎藤利政(道三)が織田大和守家と松平広忠に働きかけて対信秀の挙兵をさせたと記されており、道三と結んで挙兵した広忠が義元に接近した結果、小豆坂の戦いが始まったとしている。", "title": "織田氏の三河進攻と小豆坂の戦い" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "いずれにしても、村岡論文によって江戸時代以来疑われることがなかった「天文6年に岡崎城主になってのち同18年に没するまでの間に今川義元の配下になることはあっても、この間ずっと岡崎城主としての地位は保ち続けた」とされてきた松平広忠像が覆されることになり、その根本的な見直しを迫られることになった。", "title": "織田氏の三河進攻と小豆坂の戦い" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "「武徳大成記」は大子(伝通院)との婚姻は天文10年(1540年)としている。家康出生の後に離縁することになるが、同書はその理由について、天文12年の水野忠政の卒去により、家督を継いだ水野信元が織田家に与したことにあったとみる。同書は家康誕生を天文11年の生まれとした上で、伝通院との離縁は家康3歳の時のこととしている。", "title": "婚姻と離別" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "「岡崎領主古記」は大子との婚姻を「天文9年の事成と云」とし、また同13年に離別とする。", "title": "婚姻と離別" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "なお、小川雄は、広忠と伝通院の婚姻が行われたのは、松平信孝が広忠の後見をしていた時期にあたり、水野氏との同盟や伝通院との婚姻も信孝主導であったとする。従って、広忠と重臣たちが信孝を追放したことによって水野氏との同盟関係も破綻することになり、離縁に至ったとする説を唱えている。また、小川は広忠の再婚相手が戸田康光の娘であったのも、水野氏や信孝が牧野氏と結んでいるために、牧野氏と対立する戸田氏を新たな同盟者として選んだとしている。", "title": "婚姻と離別" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "大子との関係でいえば、彼女の再婚相手である坂部城主久松俊勝を通じて尾張国知多郡に介入した形跡がみられることである。「寛永諸家系図伝」1巻202では天文15年(1545年)「広忠卿しきりに御あつかいありし故」大野(常滑市北部)の佐治家との和睦が実現したとしている。『新編岡崎市史6』1171頁所収の「久松弥九郎」宛ての広忠書状写しに「大野此方就申御同心 外聞実儀 本望至極候」としるされている。", "title": "婚姻と離別" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "広忠は天文18(1549年)3月6日に死去したとされている(「家忠日記増補」「創業記考異」「岡崎領主古記」ほか)。ただし『岡崎市史別巻』上巻191頁は3月10日としている。しかし他の史料に所見がなく、誤植と考えられている(『新編 岡崎市史2』710頁)。", "title": "死" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "死因に関しても諸説がある", "title": "死" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "「松平記」が記す忌日は『三河文献集成 中世編』に収められた翻刻(107頁)、および国立公文書館所蔵の写本2冊はいずれも3月6日となっており「朝野旧聞裒藁」の記述は誤写と思われる。", "title": "死" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "『岡崎市史別巻』上巻は岩松八弥による殺害説を採り、これが『新編 岡崎市史2』に踏襲されている(710頁)。明智憲三郎は織田信秀が岩松八弥を抱き込んで広忠を暗殺させた可能性を提示している。", "title": "死" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "これに対して、村岡幹生は『松平記』も片目八弥による襲撃自体は認めているが、襲撃と広忠の死を結びつけた史料はいずれも後世の編纂物で、織田氏が仮に関わっていたとしても広忠の死の直後に当時織田方にいた筈の竹千代を利用するなどの何ら行動を起こしていないのは不自然であるとして、岩松八弥による襲撃と広忠の死は直接の因果関係はなく、「病没説に疑問を挟まねばならぬ理由がどこにあろう」と殺害説を完全に否定している。", "title": "死" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "葬地は愛知県岡崎市の大樹寺(「朝野旧聞裒藁」1巻737頁所載「大樹寺御由緒書」。「御九族記」および「徳川幕府家譜」19頁に同じ)。法名は「慈光院殿」もしくは「瑞雲院殿」応政道幹大居士(「御九族記」「徳川幕府家譜」19頁)で、贈官の後「大樹寺殿」となったとする同寺の記録があるという(「朝野旧聞裒藁」1巻738頁所載。「御九族記」おなじ)。", "title": "死" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "現在大樹寺に加え、大林寺・松應寺・法蔵寺・広忠寺と5つの墓所が岡崎市にある。", "title": "死" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "また死後、慶長16年3月22日従二位大納言の官位を贈られている。「御年譜附尾」は「因大権現宮願」として従三位大納言と記し「御九族記」は正二位権大納言としている。なお、嘉永元年10月19日には、太政大臣正一位に追贈されている。", "title": "死" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "松平広忠 贈太政大臣正一位宣命(高麗環雑記)", "title": "死" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "天皇我詔良万止、贈従二位權大納言源廣忠朝臣尓詔倍止勅命乎聞食止宣、弓乎鞬志劔乎鞘仁志氐与利、今仁至氐二百有餘年、此世乎加久仁志毛、治免給比、遂給倍留者、汝乃子奈利止奈牟、聞食須其父仁功阿礼者、賞子仁延岐、子仁功阿礼者、貴父仁及者、古乃典奈利、然仁顯揚乃不足遠歎給比氐、重天官位乎上給比氐、太政大臣正一位仁治賜比贈給布、天皇我勅命乎遠聞食止宣、嘉永元年十月十九日奉大内記菅在光朝臣申、", "title": "死" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "(訓読文)天皇(すめら、孝明天皇のこと)が詔(おほみこと)らまと、贈従二位(すないふたつのくらゐ)権大納言(かりのおほいものまうすのつかさ)源広忠朝臣に詔(のら)へと勅命(おほみこと)を聞こし食(め)せと宣(の)る、弓を鞬(ゆぶくろ)にし劔を鞘にしてより今に至りて二百有余年、此の世をかくにしも、治め給ひ遂げ給へるは、汝の子なりとなむ、聞こし食す其の父に功あれば、賞子に延(つ)ぎ、子に功あれば貴父に及ぶは古(いにしへ)の典(のり)なり、然るに顕揚(けんやう)の不足遠く歎き給ひて、重ねて官位を上(のぼ)せ給ひて、太政大臣正一位に治め賜ひ贈り賜ふ、天皇が勅命を遠く聞こし食せと宣る、嘉永元年(1848年)10月19日、大内記菅(原)在光(唐橋在光、従四位下)朝臣奉(うけたまは)りて申す、", "title": "死" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "「柳営婦女伝」は三人の室を記している。正室・側室の別を明記する史料はない。またその子に関しても一男一女(「武徳大成記」1巻72頁)二男二女(「参松伝」巻1)二男三女(「改正三河後風土記」上巻171頁および「徳川実紀」24頁)三男三女(「御九族記」巻1)と諸書により記述が異なる。", "title": "妻子に関する伝承" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "生母により分類して以下に示すが、生母について争いのあるもの、広忠の子として争いのあるものはこれを「一説に」とした。ただし存在そのものが疑われている、忠政、恵最、家元、親良についてはこのかぎりではなく、単に所伝のあるものとして列挙した。", "title": "妻子に関する伝承" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "連歌師である宗牧が記した『東国紀行』にも広忠に関する記述がある。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "天文12年(1543年)、広忠は三河国に下向していた勅使の三条西公頼に進納を行った。これを受けて朝廷では翌天文13年(1544年)に東国に下ることになった宗牧に広忠宛の女房奉書を託して感謝の意を伝えるように命じた。同年閏11月13日に岡崎に着いた宗牧はまずは筆頭重臣である阿部大蔵(定吉)に面会を求めた。しかし、来訪の趣旨を事前に伝えていたにもかかわらず、大蔵は不在で、しかも宿泊先の宿でも不手際があったらしく、不満を書き記している。翌日、大蔵が岡崎に戻ってきたために面会するが、出迎えの準備が出来ていなかったために見かねた石川忠成が代わりの茶の湯を設けた。その後、ようやく広忠に拝謁して奉書を渡すことができたという。", "title": "その他" } ]
松平 広忠は、戦国時代の武将。三河国額田郡岡崎城主。安城松平家4代当主。松平清康の子。母は青木氏(青木貞景もしくは青木弐宗)の娘。徳川家康の父。
{{基礎情報 武士 | 氏名 = 松平 広忠 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代中期-後期]] | 生誕 = [[大永]]6年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]([[1526年]][[6月9日]]) | 死没 = [[天文 (元号)|天文]]18年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]([[1549年]][[4月3日]]) | 改名 = 千松丸([[幼名]])→広忠 | 別名 = 竹千代、仙千代(幼名)<br />次郎三郎、三郎、岡崎三郎([[仮名 (通称)|通称]]) | 諡号 = | 神号 = | 戒名 = 応政道幹大居士 | 霊名 = | 墓所 = [[愛知県]][[岡崎市]][[鴨田町 (岡崎市)|鴨田町]]の[[大樹寺]]ほか | 官位 = 贈[[従二位]][[大納言]]<ref>村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年。</ref> | 幕府 = | 主君 = [[今川義元]] | 藩 = | 氏族 = [[松平氏]] | 父母 = 父:[[松平清康]] 母:[[青木筑後守]]の娘 | 兄弟 = '''広忠'''、[[松平信康 (源次郎)|信康]]、[[香樹院|俊継尼]]([[吉良義安]]室)<br />[[碓井姫]]([[松平政忠]]室→[[酒井忠次]]室)、[[成誉]] | 妻 = 正室:'''[[於大の方|水野大子]]'''([[水野忠政]]の娘)<br />継室:'''[[真喜姫]]'''([[戸田康光]]の娘) | 子 =[[松平忠政 (松平広忠の子)|忠政]]、[[恵最]]、'''[[徳川家康|家康]]'''、<br />[[市場姫]]([[荒川義広]]の妻) | 特記事項 = 官位、墓所、妻子などには異説もあるので本文参照のこと }} '''松平 広忠'''(まつだいら ひろただ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[三河国]][[額田郡]][[岡崎城]]主。[[松平氏|安城松平家]]4代当主。[[松平清康]]の子。母は[[青木氏]]([[青木貞景]]もしくは[[青木弐宗]])の娘。[[徳川家康]]の父。 == 出自など == === 生年 === 「武徳大成記」が大永6年4月(1巻72頁)とし「三家考」および「御九族記」([[寛保]]3・[[1743年]]成立)は同年4月29日としている。「[[改正三河後風土記]]」(上巻151頁)「[[徳川実紀]]」(1巻22頁)がこれを踏襲している。「朝野旧聞裒藁」(1巻407頁)「徳川幕府家譜」(18頁)は大永6年と記すにとどめている。また、「松平記」(107頁)や「三河記大全」は天文18年に24歳で死去としており、没年と享年から計算すると生年は等しくなる。 このほか25歳とするもの(「創業記考異」ただし一説にとして24歳と記す)また27歳で死去とするもの(「三州八代記古伝集」)もあり、同書の記述から逆算できる広忠の生年は大永3年([[1526年]])である。「[[三河物語]]」は23歳とするが年次の記述がない(69頁)。 === 生母 === [[青木貞景]]の娘とされているが(「徳川幕府家譜」18頁「徳川実紀」1巻21頁)、清康の室であった[[松平昌安|松平信貞]]の娘とする異説もある(広忠を「弾正左衛門」信貞の実孫とする『新編岡崎市史6』851および852頁所収の「大林寺由緒」また「朝野旧聞裒藁」1巻737頁「大樹寺御由緒書」も同旨)。 === 兄弟 === *[[松平信康 (源次郎)|松平信康]](源次郎):天文9年([[1540年]])6月6日、[[安城市|安祥]]において討死(「御九族記」)、生年未詳。 *[[香樹院]]:[[吉良義安]]室(「寛政譜」2巻217頁)。[[松平信忠]]の娘「瀬戸の大房」の養女となる(同前。また院号は「御九族記」による。 *[[碓井姫]]:[[松平政忠]]の妻(「寛政譜」1巻「[[長沢松平家|長沢]]」211頁)。のち[[酒井忠次]]に再嫁(「同」2巻「酒井」47頁)。「碓井姫」の名は「御九族記」および「寛政譜」2巻「酒井」による。また「御九族記」によれば[[享禄]]2年([[1529年]])生まれ、[[慶長]]10年(1605年)10月17日卒、77歳、法名は光樹院窓月香心または大樹寺光誉窓月(ママ)とする。[[西尾市岩瀬文庫]]蔵「法蔵寺由緒書」では慶長17年10月17日卒、光樹院殿九心窓月大姉となっており「寛政譜」は「法蔵寺の記録に従う」としながら同年'''11月27日'''としている。 *[[成誉]]上人:大樹寺14世住持。[[天正]]3年([[1575年]])4月25日卒(「御九族記」)。 === 幼名 === 竹千代・千松丸・仙千代など諸書により異なる。汲古書院刊『朝野旧聞裒藁』によれば以下のとおり(1巻511から512頁)。 *「烈朝系譜」→竹千代または千松 *「松源大譜系」→千松丸 *「別本御系図」→仙千代 『三河物語』には、お千千代様、拾三にシテ・・・と記載。 『新編岡崎市史6』689頁所収「信光明寺文書16」天文6年10月23日付け判物写しには「千松丸」とある。 通称は次郎三郎であったといい(「三河物語」・「武徳大成記」1巻72頁)また「岡崎三郎」と称したことが発給文書より確認されている(『新編岡崎市史6』757頁所収「大樹寺文書44」天文16年12月5日付け大樹寺宛寺領寄進状) == 経歴(一説に) == 「徳川幕府家譜」の記述を一例として示す(18から19頁) [[天文 (元号)|天文]]4年([[1535年]])、広忠が10歳の頃に父・清康が死去し、大叔父の[[松平信定]]は「虚に乗りて」岡崎[[押領]]を断行。信定を諌めぬどころか黙認という隠居の曽祖父・道閲([[松平長親]])の姿勢もあり、それゆえ「国中の制法信定次第」で「権威つよくなり、日増しに増長」し、同6年には所領を悉く押領して[[譜代]]の衆をひきつけ、また広忠を殺害しようと企てるようになった。 ここから[[阿部定吉|阿部大蔵定吉]]の働きに救われる。まず天文8年([[1539年]])、大蔵によって[[吉良持広]]の庇護を得て[[伊勢国]]・神戸まで逃れ、この地に匿(かくま)われる。1月11日には[[元服]]し、持広より[[一字拝領|一字を拝領]]して“二郎三郎'''広忠'''”と改めた。しかし同年9月の持広の死去後、[[吉良義安]]の外交方針の変更により[[織田氏]]との連携が強まると再逃亡。 [[新城市|長篠]]領民を頼んで暫く潜伏。吉良を見限り[[今川義元]]に執り成してもらうべく東へ奔り[[遠江国|遠州]]「掛塚」に潜伏し、駿河へ渡って翌年秋まで保護される。 天文9年([[1540年]])義元の計らいで三河「牟呂城」に移される。信定死後の桜井松平家の混乱に乗じて同11年5月31日、[[松平信孝 (戦国時代)|松平信孝]]・[[松平康孝]]の協力を得て岡崎城を占領した。 天文14年([[1545年]])[[岩松八弥]]による傷害事件が起こるも、同年「[[安城市|安城]]畷」において織田氏と合戦、勝利を得る。同16年9月「渡理川原」では信孝と戦い、[[本多忠高]]の功績によりこれを破る。同年、[[織田信秀]]による三河進攻では[[今川氏]]へ加勢を乞うも、見返りに[[徳川家康|竹千代]]を人質として送ることとなった。しかし[[戸田康光]]の裏切りにより竹千代は織田方に送られてしまう{{efn|近年の研究では最初から織田方への降伏の証として送られた可能性が指摘されている。詳しくは[[徳川家康#人質として今川家、そして織田家へ]]を参照。}}。 天文17年([[1548年]])3月19日「駿州」(ママ)小豆坂において織田勢と対陣したが、今川家からの援軍2万余を加えて大勝し、4月1日には「[[松平重弘|松平権兵衛重弘]]」兄弟の[[山中城 (三河国)|山中城]]をおとした。同月「三州冑山」にて信孝と対陣。「菅生川原」で信孝が流矢で戦死すると残兵は敗北した。翌18年2月20日再び織田勢と対陣、勝利を得て[[織田信広]]を捕虜とし、これと和して竹千代と交換、26日に今川家との約命どおり人質として駿府へ移送。 天文18年(1549年)3月6日、24歳で死去。 *参考附記:「寛政譜」2巻217頁は吉良持広の養子として[[吉良義安]]と記す。 == 森山崩れと井田野合戦 == 「三河物語」は清康の死に関して「[[森山崩れ]]」と呼び、諸書はこの後に[[織田信秀]]による三河への進攻があったと記す。 *「松平記」:大樹寺付近に布陣した織田勢に対し、松平方は「松平十郎三郎」を大将として700余人で井田郷に陣をとった。味方は兵を二手に分けて合戦し、「随分の侍衆 悉討死」したが、信秀も「譜代衆骨をりて なかなか欺く事ならず」これと和睦し帰陣した。清康の死を天文4年12月5日とするが井田野合戦の年次は記されていない。 *「三河物語」:「森山崩れ」の「10日も過ぎざるに」として井田野合戦を記す。「三河にて伊田合戦と申しけるは是なり」と述べる。いずれも年次を欠く。味方800の雑兵にたいし信秀の兵8,000とし、双方が二手にわかれて戦ったと説く。「誰見たると云人はなけれ共 申伝えには」との文言がみえる。 *「家忠日記増補」:信秀が率いた兵は8,000余りと記し、これを二手にわけたとする。同じく年次なし。 *「岡崎領主古記」:天文4年12月27日「織田家より多勢にて三州に働き」と記す。 *「寛永所家系図伝」6巻77頁「高力」:天文4年10月清康死去の後、織田備後守三河に出張、伊田郷にて[[高力重長]]が討死したとする。 *「三州八代記古伝集」:清康の死を天文2年12月5日とし、ここから「100ヶ日も過ぎずに」織田方の進攻があったとする。 「朝野旧聞裒藁」は年次について特定を避けている(1巻515頁)。「徳川実紀」は天文5年2月としている(1巻22頁)。 *参考附記:「松平記」の松平十郎三郎は清康、信孝の兄弟・松平康孝か(「寛政譜」1巻22頁)。「朝野旧聞裒藁」は「三河国古墳考」ほかを引いて天文11年3月18日卒としている(1巻616頁以下)。 村岡幹生は「松平記」は織田軍が松平信定を当主に据えるために出兵しながら目的を果たせずに和睦したと記しながら、その直後に信定が岡崎に入城したことになっており、合戦記事そのものが虚構であるとしている<ref>村岡幹生「松平信定の事績」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)、P236.</ref>。 == 伊勢への逃走と岡崎還住 == 広忠の岡崎帰還までの経緯を「阿部家夢物語」は次のように記す(157から159頁)。 *[[天文 (元号)|天文]]4年「極月5日」に清康が「御腹を召され」た。伊勢へ船をしたて「大蔵殿」に申しあわせて遠州への下向を決めた。「かけつか」で3月17日に「御若子」に会い、天文5年の夏のあいだ中「懸つか かぢか所」にいた。同8月5日から「今橋」「世喜」「形原」を経て、9月10日に「むろつか」についたが、閏10月7日にむろつかを「ぢやき」して「今橋」へ退いた。「大蔵殿」は再び駿河へ赴き、翌年6月1日に岡崎において本意をとげ、駿河へ迎えをおくって25日に「御若子」が入城した。 「三河物語」はこうである(45から56頁)。 *「伊田合戦」の後「内前」は広忠を「立出し」、そのため「阿部之大蔵」は13歳の広忠に供して伊勢へ逃れた。14歳まで滞在した後に駿河へ渡り、15歳の秋に義元の援軍を得て「茂呂の城」へ入った。「内前」は大久保新八郎に7枚の起請文を書かせ、茂呂を攻撃する。大久保は「有間」へ湯治に行くとの信孝の申し出を受け、この間に広忠を岡崎城へ入れた。その後「内膳殿も御詫事成されて」出仕した。 「松平記」は次のように記す(102から103頁) *信秀と縁者であった「内膳」は「御隠居をだまし岡崎知行悉押領」し広忠を「内々にて」追出した。13歳の広忠は「伊勢国へ浪人」の身となり、阿部大蔵がこれに従った。越年後に元服し、吉良持広の「御肝煎」で今川義元へ助力の申し入れがなされた。広忠は駿河に赴き、義元の加勢を得て三河の「もろの城」に移る。譜代の家臣は内密に広忠の帰還をうながすが、これを聞いた信定は「大久保新八」を呼び「伊賀八幡」で7枚の起請文をかかせる。大久保らはこれを破って「松平蔵人」らに相談、「本城」(岡崎城)の留守居であった信孝を「[[有馬温泉|有馬]]」へ湯治にやり、この間に広忠を城にいれた。広忠の三河帰国は天文6年6月1日で、岡崎入城は同25日、この時17歳。譜代衆「皆々来たり加勢申 中々手を出事ならず」6月8日「内膳」は和睦し、岡崎に出仕した。 「武徳大成記」は年次を附して次のように記す(1巻73から79頁)。 *天文4年12月5日清康が「尾州守山」で死去、10歳の広忠は阿部大蔵らを従えて伊勢・神戸にいた。内膳正信定は「嫡家を奪う志ありて 長親君をたぶらかし」織田家へ内通した。広忠は[[大久保忠俊]]らの要請をうけ、翌年3月17日に伊勢神戸を出て遠州「懸塚」に上陸、「150日ばかり逗留」したのち「今橋」に居住、密かに「世喜」「形原」「室塚」などへ「通じて」信孝・「松平伝十郎」と連絡をとる。閏10月10日阿部は駿河で義元に会い、同年冬に広忠は「参州牟呂」に入る。信定は攻撃を加え、また大久保忠俊に7枚の起請文を書かせる。大久保ら譜代の衆と信孝は談合し、信孝は湯治と称して「有馬」へ行き、12歳の広忠は天文6年5月1日岡崎に帰還した。 「松平記」は森山崩れを天文4年と明記した上で(101頁)この時の広忠の年齢を10歳とし(同)、また伊勢行きを13歳としている(102頁また103頁)。天文6年と記す岡崎への帰還には2年しかなく、それゆえ年次と年齢の記述が矛盾する。「武徳大成記」は「松平記」と年次が同じであるが、同年の岡崎帰城を12歳として生年との齟齬を避けている(1巻79頁)。 「朝野旧聞裒藁」は天文6年([[1537年]])6月に広忠の岡崎還住が実現したとしている(1巻573頁)。また上記「千松丸」の名がある『新編岡崎市史6』689頁「信光明寺文書16」の天文6年10月23日付け判物写しは、[[八国甚六郎]]、大窪新八郎(ママ)、[[成瀬又太郎]]、[[大原左近右衛門]]、[[林藤助]]に対して「今度入国之儀 忠節無比類候」として15貫文の加増を約しており、『新編 岡崎市史2』はこれを岡崎帰還の功績によるものと考えている(687頁)。大久保ら5名への加増については「三河物語」(57頁)「武徳大成記」(1巻86頁)に記述がある。 異説として「御年譜附尾」([[正保]]3・[[1646年]]成立)は岡崎押領を松平信孝によるものとし、これを天文7年([[1538年]])と記す。また義元への岡崎還住の要請を同8年暮とし、駿府行きを同9年春、「茂呂」入城は同年秋、岡崎還住を天文10年([[1541年]])と記述する。これについて「朝野旧聞裒藁」は、信定の岡崎押領を天文7年とするのは「松平記」がその年齢を13歳と記したために生じた誤りではないかと推測している(1巻531頁)。 なお、近年の研究では阿部大蔵(定吉)について研究した茶園紘己は、阿部の側室が[[北畠氏]]の一門である[[星合氏]]の出とする『[[寛政重修諸家譜]]』の記事に注目し、広忠は阿部の姻戚関係を頼って伊勢に亡命したのではないか、と推測している<ref>茶園紘己「安城松平家における阿部大蔵の位置と役割」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P128-131.</ref>。一方、村岡幹生は、森山崩れは安城家の一門(信定・信孝ら)及び家臣と旧岡崎家の家臣の対立に端を発する阿部大蔵によるクーデターで、阿部が広忠を連れて逃亡したために信定や信孝は事態収拾のために岡崎城に入った、その後家中の広忠擁立論や今川氏の介入を受けて広忠を当主にするために和睦が図られて阿部も赦免がされたが、広忠の後見を巡って信孝と阿部の対立が続いた、と推測している<ref>村岡幹生「松平信定の事績」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)、P223-231.</ref><ref>村岡幹生「安城四代清康から広忠へ-守山崩れの真相と松平広忠の執政開始-」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)、P246-251.</ref>。 村岡幹生は天文9年3月5日に広忠が西三河の各寺院に対して一斉に所領安堵を行い、実際にそのいくつかが後世に伝わっていることを重視する。これは「岡崎領主古記」にも広忠の「御形判始」と記されているように、松平家当主としての最初の行為であったと考えられるからである。また、その4か月前の天文8年11月27日には松平信定が病死している([[菩提寺 (安城市)|菩提寺]]過去帳)。村岡は信定が存命中は松平家の家督を預かる(押領ではない)ことの正当性を家中で認識されていたからだとしている<ref>村岡幹生「安城四代清康から広忠へ-守山崩れの真相と松平広忠の執政開始-」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)、P249.</ref>。 *参考附記:「内前」「内膳」→松平信定(「寛政譜」1巻「桜井」31頁)、「松平蔵人」→松平信孝(同「三木」22頁)、「大蔵」「阿部之大蔵」→阿部定吉(10巻「阿部」348頁。今の呈譜「定吉」につくる、とする)、「大久保新八」→大久保忠俊(11巻「大久保」341頁)、「牟呂城」→諸書により表記が一定しないが『新編 岡崎市史2』は[[西尾市]]室町に比定している(685頁)。 == 織田氏の三河進攻と小豆坂の戦い == 広忠の後半生は三河へ進攻する[[織田氏]]との戦いに費やされていたようである。 === 安祥城をめぐる攻防 === 「岡崎領主古記」は次のように記す。 *天文9年([[1540年]])「尾州勢 [[安祥城]]へ取掛」け、6月6日に合戦となった。「安祥方討負城陥」して城代「[[松平長家|松平左馬允長家]]」が切腹した。他に松平甚六、同・源次郎、[[林藤内]]、[[内藤善左衛門]]、[[近藤与市]]、[[足立弥市]]、[[高木入道]]が討死、「是より安祥 織田家に渡る」こととなった。翌10年8月10日、駿河勢が安祥に寄せ来て「安祥畷」において戦いとなった。 同書はこの後、天文12年(「[[本多吉左エ門]]討死」)と同14年の計4回の安祥合戦を記している。 「寛永諸家系図伝」にも織田家による安祥攻めの記述があるが(1巻169から170頁。年次は天文9年6月6日)[[松平利長]]らが防戦して敵が退いたと記している(「寛政譜」1巻「藤井」42頁同じ)。また同1巻127頁は[[松平忠次]]が参戦したとするだけで(年次なし)その結果についての記述がない。「寛政譜」の忠次の記事は「信秀ついに利を失いて敗走」したというものである(1巻「五井」146頁)。 同じく「武徳大成記」は天文9年の戦いを「織田信秀いくさをやめて引き退く」とし(1巻89頁)、天文13年には城兵の防戦により織田勢が敗軍したと記す。翌14年のこととして「広忠卿安城の敗れを憂て」とあること(同94頁)、また広忠の死後、今川からの援兵を得て安祥城を陥落させたとの記述があることから(109頁)、城が織田方の手に渡ったことは認めている。しかしその時期や経緯についての記述がない。 *参考附記:「松平左馬允長家」→松平長家。「岡崎領主古記」が「親忠主御息」と記すほか「寛政譜」1巻21頁は[[松平親忠]]の子・安城左馬助「長家」とし、天文9年6月6日安城において死去と記す。 === 小豆坂の戦い === 「信長公記」は「'''8月上旬'''」のこととして[[小豆坂の戦い|小豆坂での戦闘]]をつぎのように記す(下記刊行本22頁)。年次の記載はない *駿河勢は三河「正田原」に七段に陣を構え「駿河の由原先懸けにて あずき坂へ人数をだし」安祥から矢作へ出た織田勢と戦いになった。織田備後守、舎弟「[[織田与二郎|与二郎]]」「孫三郎」「[[織田四郎次郎|四郎次郎]]」また「[[織田信房 (造酒丞)|織田造酒丞]]」が奮戦し、槍傷を負った。「三度四度かかり合い 各手柄と云う事」限りなく、今川勢は兵を「打ち納れ」た。 これを[[小瀬甫庵]]「信長記」は'''天文11年'''([[1542年]])のこととして記す(下記刊行本上巻34頁)。 *[[天文 (元号)|天文]][[壬寅#壬寅の年|壬寅]]'''8月10日'''、今川義元は4万余騎を率いて「正田原」に出陣し、兵を二手に分けて小豆坂に押し寄せた。対する織田勢の兵力は4,000余騎で安城へ出向、織田「孫三郎」を大将として敵陣へ向かった。織田勢は坂の途中で防戦し、[[河尻与四郎]]が今川勢の足軽大将「由原」の首を取った。日暮れになって織田勢は坂の下へと追い詰められたが、織田造酒丞、[[下方貞清|下方左近]]、[[岡田重能|岡田助右衛門]]、[[佐々政次|佐々隼人正]]、同・[[佐々孫介|孫助]]、[[中野一安|中野又兵衛]]らの活躍で今川勢を追い返し、勝どきをあげた。 同書はこの戦いについて、世間では「尾張勢の勝軍」といわれているが「誠にかかる手痛き合戦は前代未聞」であったとし、造酒丞らを「[[小豆坂七本槍|小豆坂の七本槍]]」と呼んで語り継いだと記している。「由原」戦死について「信長公記」はこれを記さず、逆に「由原」が「[[那古野弥五郎]]」の首を討ち取ったとしている。 *参考附記:織田備後守→織田信秀、「孫三郎」→[[織田信光]](「寛政譜」8巻「織田」167頁) 他方「三河物語」は小豆坂の戦いをこのように記す(68から69頁)。年次はない。 *今川勢の進出を聞いた信秀は、安祥を経て上和田に着き「馬頭の原」へ陣をとるため進発した。今川勢は藤川から上和田をめざして進軍し、小豆坂を上ったところで両者が遭遇し、戦いとなった。織田勢は上和田から安祥へ退陣し、今川勢も藤川へ戻ったが、「対々とは申せ共 弾正之中之方は二度追帰され申 人も多打れたれば 駿河衆之勝」であったという。また「三河にて小豆坂之合戦と申つたえしは此の事」である。 「松平記」は年次を附してこのように記す(106頁)。 *'''天文17年'''([[1548年]])'''3月19日'''、織田勢は岡崎をとらんとして安祥を進発、これをきいた駿河勢は[[臨済寺 (静岡市)|臨済寺]]「[[太原雪斎|太原崇孚雪斎]]」を大将として上和田に陣をとり、小豆坂をのぼった。織田勢は「織田三郎五郎大将分にて」坂の途中でせりあいとなった。「朝比奈藤三郎」が岡崎衆に下知して「三郎五郎」を追い崩し、また織田勢も盛り返したため「[[林藤五郎]]」「[[小林源之助]]」ら「よき者あまた討死」した。「岡部五郎兵衛横槍を入」てもりかえし、「やり三位」を「[[小倉千之助]]」が組み討ち、織田勢は「悉く敗軍」した。 諸書の記述は次のとおり *「岡崎領主古記」:天文17年3月19日、小豆坂において合戦があり「軍勢多数討死」、今川勢は「千種野」に、織田勢は安祥に退いた。 *「寛永諸家系図伝」:1巻「松平・[[松平泰親|泰親]]庶流」149頁。天文11年'''8月11日'''、小豆坂合戦において伝十郎「某」が戦死したとする。 *「同」:9巻「大久保」45頁。天文11年、臨済寺の長老雪斎が「今川義元にかわりて」安祥をせめたとし、[[大久保忠勝]]が「清縄手の合戦」において槍を合したと記す。 *「同」:3巻「高木」131頁。天文17年小豆坂において[[高木清秀]]が首級を挙げ、それを知った織田信秀が自らの旗下においたという。 *「同」:14巻「山口」254頁。おなじく天文17年[[山口盛政]]([[山口重政]]の実父)<!--山口盛政をリンク化するのは執筆予定がある方にお願いしたいと思います。また執筆が終わりましたら「山口重政の実父」の記述の削除をどうかお願いします-->が首級を挙げ、これを織田信秀に献上したとする。 *「家忠日記増補」:天文17年3月19日「広忠君軍を岡崎の城より発し駿州の兵と合す」として戦いへの関与を示し、岡崎の兵が今川勢と「是と同く競い進て奮戦」、[[酒井正親]]が「鳴海大学助」を討ち取ったとする。内容は前半が「松平記」と同じであるが、後半に至って「織田造酒丞」、下方、佐々、中野らが織田信広と共に奮戦し「駿州の兵利を失て敗亡す」とする。また「七人をして三州小豆坂の七本槍と称す」とした上で、後に「'''岡崎勢'''五郎兵衛尉横槍を入れ」織田勢を追い崩したこと、「小倉千之助」が「鑓三位」を討ったことも併記している。<!--五郎兵衛らによって織田勢に50余人の戦死者が出て信秀は上和田に退き、今川勢も藤川へ兵を収めたという。--> *「織田軍記」(総見記):天文17年3月、織田信秀は4,000の兵を率い安祥に入城、「正田原」に陣を構えた今川勢と'''3月12日'''に小豆坂で戦いとなった。織田勢は大将「孫三郎」信光を「織田造酒丞」が補佐し、河尻が今川勢の先陣「[[庵原安房守]]」を討ち取った。夕暮れになって「無勢故戦い疲れ」劣勢となったが、下方、岡田、佐々、中野らが取って返し、敵陣を切り崩した。今川勢は「庵原」をはじめ「三州」の「林」「小林」らが討ち取られ敗軍し「岡部五郎兵衛」が「横槍を入れ」後殿となって駿河へ退却したとする(下記刊行本11頁)。 <!--これらは年次とその内容からして「信長記」と「松平記」の記述を取捨して書かれたようである。--> *「三河記大全」:天文16年8月、織田勢の大将を孫三郎信光、今川勢を「林際寺雪斎長老」として小豆坂の戦いを記す。「家忠日記増補」とおなじく、織田造酒丞らが引き返したところを岡部が横槍を入れて突き返したとする。また「松平記」において「岡崎衆」とされた林・小林が岡部の横槍によって討ち取られたとするなど、内容に混乱がみられる。 *「武徳大成記」:天文11年(1巻89から90頁)、同17年(104頁)と2回にたって小豆坂の戦いを記す。 『新編 岡崎市史2』は'''17年3月'''が'''11年8月'''に誤伝される可能性を低くみて2回説を支持し(691頁)、[[小和田哲男]]「駿河 今川一族」は今川義元の東三河進出は天文12年からであるとして、11年の戦いはなかったとする説をとっている(200より201頁){{Efn|今川氏の情勢を見ると、天文6年(1537年)から天文14年(1545年)にかけて[[駿東郡]]・[[富士郡]]の所謂「河東」地域を巡って[[後北条氏|北条氏]]と衝突を繰り返しており(「[[河東の乱]]」)、駿河東部に軍事力を注入しなければならなかった時期と重なっている。}}。後述の天文16年の岡崎城落城説を採る村岡幹生は「三河物語」がこの戦いにおける岡崎の松平軍についてほとんど触れていないことを指摘し、更に織田軍の撤退時に追撃を行っていない(今川氏から見たら背信行為である)ことから、天文17年当時の岡崎城は織田方で広忠は織田軍に加わっていた可能性があり、今川方に参加した松平家臣は謂わば「牢人」状態にあった可能性を指摘している<ref>村岡(大石)、2019年、P374-376.</ref>。 *参考附記 **伝十郎「某」→「寛政譜」1巻206頁では「今の呈譜に[[松平勝吉|勝吉]]あるいは信勝に作る」とされている。また「寛永諸家系図伝」には記述がないが「寛政譜」では父「[[松平信吉 (松平郷松平家)|信吉]]」も戦死したとしている。<!--すでにある松平信吉の項目は与次郎忠吉ですので、例えば「松平信吉 (太郎左衛門)」のような形で項目が執筆されるまでリンク化しないでください--> **「織田三郎五郎」→織田信広(「寛政譜」8巻「織田」168頁) **「岡部五郎兵衛」→岡部長教(「寛政譜」14巻「岡部」132頁)[[岡部正綱]]の兄弟とされている。同6巻「水野」64頁、「改正三河後風土記」上巻226頁も同じく「長教」と記す。「朝野旧聞裒藁」1巻697頁および2巻327頁綱文に五郎兵衛「真幸」とあるが、これは「武徳編年集成」上巻56頁の表記によったものと思われる。『新編岡崎市史6』は「三川古文書」所収文書20・天文21年8月25日付・岡部五郎兵衛宛て「今川義元感状写」の五郎兵衛の名に「元信」と注記して採録(1035頁)し『新編東浦町誌 資料編3』は国立公文書館蔵「古今消息集」所収文書2-88・永禄3年6月8日付の岡部五郎兵衛宛て「今川氏真判物」(245頁)の五郎兵衛を「[[岡部元信]]」のこととして解説(345頁)している。 **「朝比奈藤三郎」→「武徳大成記」1巻104頁は「[[朝比奈泰能|朝比奈藤三郎泰能]]」と記している。 === 岡崎城をめぐる攻防 === 近年になって、天文16年(1547年)9月に織田信秀が岡崎城を攻め落としたとする古文書(「本成寺文書」『古証文』/『戦国遺文』今川氏編第2巻965号<ref>村岡幹生によれば、この文書は越後長久山本成寺の第九世の日覚が隠居後に越中井田菩提心院から本成寺送ったもので、日覚自身が尾張国出身で今川氏家臣の鵜殿氏の帰依を受けていたことから尾張・三河に一定の人脈を持つ人物と評価されている(村岡(大石)、2019年、P354-359.)。</ref>)の発見<ref name="柴裕之『徳川家康』">柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』、平凡社〈中世から近世へ〉、2017年6月。ISBN 978-4-582-47731-3 P40-42.</ref>をきっかけに、村岡幹生が同年に織田軍の侵攻によって岡崎城が陥落<ref>村岡は他にも織田信秀が[[北条氏康]]に今川氏の挟撃を誘った際の返答とみられる「天文17年3月11日付織田信秀宛北条氏康書状」(『神奈川県史資料編3古代・中世(3下)』6852号/愛知県史『中世3』1658号)においても、氏康が織田信秀が岡崎に、今川義元が今橋に進出したと認識していることが記されていると指摘する(村岡(大石)、2019年、P361-369.)。</ref>して松平広忠が降伏を余儀なくされたのではないかとする説を唱えた<ref>村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」(『中京大学文学論叢』1号、2015年。後に大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年)に所収)</ref>。この岡崎城陥落については研究者による一定の支持を得ているものの、この時の松平広忠の政治的な立場について、従来の通説通りに今川氏の傘下として織田氏の侵攻を受けたとみる村岡幹生と広忠が戸田氏らと共に今川氏からの自立を策して、それに対抗すべく今川義元と織田信秀が手を結んで三河侵攻を行ったとする平野明夫<ref>平野明夫「家康は、いつ今川氏から完全に自立したのか」(平野 編『家康研究の最前線ーここまでわかった「東照神君」の実像』、洋泉社、2017年)</ref>や糟谷幸裕<ref>大石泰史 編『今川史年表ー氏親・氏輝・義元・氏真』高志書院、2017年 天文15年-永禄3年節</ref>の意見が対立している<ref>糟谷幸裕「国衆の本領・家中と戦国大名ー今川領国を事例に」戦国史研究会 編「戦国時代の大名と国衆 支配・従属・自立のメカニズム』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-308-4 P145.</ref>{{efn|村岡幹生も「織田信秀岡崎攻落考証」を自著『戦国期三河松平氏の研究』に採録した際、織田氏と今川氏の連携を認めた上で、今川義元が奥平定能に天文14年8月25日付で出した書状の中に「時宜変化の儀ありといえども」安堵すると念押ししていることから、岡崎城の攻防中に既に織田・今川の連携が破綻し、松平広忠が今川方に帰参すれば義元はこれを赦免する方針に向かっていたため、奥平定能に広忠赦免(今川方帰参)後も山中の領有を認める約束であったとしている<ref>村岡幹生『戦国期三河松平氏の研究』岩田書院、2023年 ISBN 978-4-86602-149-2 P291-295.</ref>。なお、その後山中の地は奥平定能が[[三河忩劇]]で今川から離反した際に広忠の遺児である元康(徳川家康)に還付されている<ref>大石泰史「今川氏と奥平氏-〈松平奥平家古文書写〉の検討を通じて」『地方史静岡』21号、静岡県立中央図書館、1993年。/所収:大石 2019, pp. 162-164・169-170.</ref>。}}。また、柴裕之は後者の立場から、松平竹千代(徳川家康)が織田氏の人質になったのは[[戸田康光]]の裏切りによるものではなく岡崎城陥落によって松平広忠が降伏の条件として竹千代を人質に差し出したとする見解を述べている<ref name=柴裕之『徳川家康』/><ref name="柴裕之「松平元康との関係」">柴裕之「松平元康との関係」黒田基樹 編『シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) ISBN 978-4-86403-322-0 P276-277.</ref>。なお、織田信秀と今川義元という敵対していた両者を結びつけて広忠攻めを行わせたのは広忠と対立した松平信孝や阿部定吉との権力争いに敗れた[[酒井忠尚]]らであったとみられ、更に[[三河牧野氏|牧野氏]]もこの動きに加わったとされる<ref name=柴裕之「松平元康との関係」/>。最終的には広忠は今川方の岡崎城主として死去したとみられるが、今川方への復帰の時期として村岡は同年9月28日の渡河原の合戦以前(すなわち信秀が岡崎城から撤退した直後)と小豆坂の戦いにおける今川氏の勝利後の2つの可能性があるとした上で、小豆坂の戦いでの広忠の行動を不審視して後者の可能性が高いとしている<ref>村岡(大石)、2019年、P372-377.</ref>。一方、柴は『[[武家聞伝記]]』に天文17年(1548年)に[[斎藤道三|斎藤利政(道三)]]が織田大和守家と松平広忠に働きかけて対信秀の挙兵をさせたと記されており、道三と結んで挙兵した広忠が義元に接近した結果、小豆坂の戦いが始まったとしている<ref name=柴裕之「松平元康との関係」/>。 いずれにしても、村岡論文によって江戸時代以来疑われることがなかった「天文6年に岡崎城主になってのち同18年に没するまでの間に今川義元の配下になることはあっても、この間ずっと岡崎城主としての地位は保ち続けた<ref>村岡(大石)、2019年、P360.</ref>」とされてきた松平広忠像が覆されることになり、その根本的な見直しを迫られることになった。 == 婚姻と離別 == 「武徳大成記」は[[於大の方|大子]](伝通院)との婚姻は天文10年([[1540年]])としている。家康出生の後に離縁することになるが、同書はその理由について、天文12年の[[水野忠政]]の卒去により、家督を継いだ[[水野信元]]が織田家に与したことにあったとみる。同書は家康誕生を天文11年の生まれとした上で、伝通院との離縁は家康3歳の時のこととしている。 「岡崎領主古記」は大子との婚姻を「天文9年の事成と云」とし、また同13年に離別とする。 なお、小川雄は、広忠と伝通院の婚姻が行われたのは、松平信孝が広忠の後見をしていた時期にあたり、水野氏との同盟や伝通院との婚姻も信孝主導であったとする。従って、広忠と重臣たちが信孝を追放したことによって水野氏との同盟関係も破綻することになり、離縁に至ったとする説を唱えている。また、小川は広忠の再婚相手が戸田康光の娘([[戸田御前]])であったのも、水野氏や信孝が牧野氏と結んでいるために、牧野氏と対立する戸田氏を新たな同盟者として選んだとしている{{Efn|なお、関連する論考として、信孝追放の原因を信孝が今川氏の三河進出に対応するために[[長沢松平家]]の所領を今川方である牧野氏に譲って関係を結ぼうとし、水野信元もそれに加担していたとする小林輝久彦の説<ref>小林輝久彦「三河松平氏と駿河今川氏」大石泰史 編『今川氏年表』(高志書院、2017年)</ref>がある。また、戸田氏は渥美半島の国衆であるが、三河湾を挟んだ対岸の知多半島の河和や師崎にも分家の拠点があり、水野信元は知多半島の戸田氏勢力との関係から牧野氏と結んだ可能性もある。}}<ref>小川雄「今川氏の三河・尾張経略と水野一族」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P166-168.</ref>。 大子との関係でいえば、彼女の再婚相手である[[坂部城]]主[[久松俊勝]]を通じて[[尾張国]][[知多郡]]に介入した形跡がみられることである。「寛永諸家系図伝」1巻202では天文15年([[1545年]])「広忠卿しきりに御あつかいありし故」大野([[常滑市]]北部)の佐治家との和睦が実現したとしている。『新編岡崎市史6』1171頁所収の「久松弥九郎」宛ての広忠書状写しに「大野此方就申御同心 外聞実儀 本望至極候」としるされている。 == 死 == [[File:Matsudaira Hirotada's Tomb in Daiju-ji Temple, Kamoda-cho Okazaki 2019.jpg|thumb|240px|[[大樹寺]]内にある松平八代墓の松平広忠の墓]] [[File:法蔵寺 (岡崎市)07.jpg|thumb|240px|松平広忠と一族の墓([[法蔵寺 (岡崎市)|法蔵寺)]]]] [[File:Okazaki-Shououji-2.jpg|thumb|240px|松平広忠公御廟所([[松應寺 (岡崎市)|松應寺]])]] [[File:Dairinji2.jpg|thumb|160px|松平広忠の墓([[大林寺 (岡崎市)|大林寺)]]]] [[File:Okazaki-Kochuji-2.jpg|thumb|240px|岡崎市桑谷町にある広忠寺。1562年、徳川家康によって広忠の菩提を弔うために創建された。]] === 忌日と死因 === 広忠は天文18([[1549年]])3月6日に死去したとされている(「家忠日記増補」「創業記考異」「岡崎領主古記」ほか)。ただし『岡崎市史別巻』上巻191頁は3月10日としている。しかし他の史料に所見がなく、誤植と考えられている(『新編 岡崎市史2』710頁)。 死因に関しても諸説がある *病死とするもの→「三河物語」(69頁)・「松平記」(107頁)など *[[岩松八弥]](片目八弥)によって殺害されたと記すもの→「岡崎領主古記」 *一揆により殺害されたとするもの→「三河東泉記」。天文18年3月、鷹狩の際に「岡崎領分 渡利村の一揆生害なし奉る」と記す(下記所蔵本15丁左)。またこれを「尾州[[織田信秀|織田弾正忠]]の武略」としている。『岡崎市史別巻』上巻206頁に採録されている。 *三河東泉記には、岡崎城に在城の時、片目弥八に村正の刀で殺害された。上村新六が、弥八を討ち取った、という記述も紹介されている。(三河東泉記全74ページ目) *「武徳大成記」のほか「家忠日記増補」・「創業記考異」・「烈祖成績」などいずれも病死説を採る。「徳川実紀」・「朝野旧聞裒藁」も同じ。『朝野旧聞裒藁』採録記事は次のとおり(1巻737頁以下) *「松平記」:天文18年春より「御煩あり」、同3月18日卒去。24歳 *「官本三河記」:同じく「18年春広忠病気」、3月6日卒、24歳 *「家忠日記増補」6日卒去、24歳 *「三岡記」:「御病気」3月6日卒。「病気連年疱証ト云々」とする。 「松平記」が記す忌日は『三河文献集成 中世編』に収められた翻刻(107頁)、および[[国立公文書館]]所蔵の写本2冊はいずれも3月6日となっており「朝野旧聞裒藁」の記述は誤写と思われる。 『岡崎市史別巻』上巻は岩松八弥による殺害説を採り、これが『新編 岡崎市史2』に踏襲されている(710頁)。[[明智憲三郎]]は織田信秀が岩松八弥を抱き込んで広忠を暗殺させた可能性を提示している<ref>[https://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/0f30929eaf3b5fe1235d5cc8d0617cd6 大河ドラマ「江」の歴史捜査45:家康の父・広忠の死因]</ref>。 これに対して、村岡幹生は『松平記』も片目八弥による襲撃自体は認めているが、襲撃と広忠の死を結びつけた史料はいずれも後世の編纂物で、織田氏が仮に関わっていたとしても広忠の死の直後に当時織田方にいた筈の竹千代を利用するなどの何ら行動を起こしていないのは不自然であるとして、岩松八弥による襲撃と広忠の死は直接の因果関係はなく、「病没説に疑問を挟まねばならぬ理由がどこにあろう」と殺害説を完全に否定している<ref>村岡(大石)、2019年、P377-379.</ref>。 === 葬地と法名、贈官位 === 葬地は[[愛知県]][[岡崎市]]の[[大樹寺]](「朝野旧聞裒藁」1巻737頁所載「大樹寺御由緒書」。「御九族記」および「徳川幕府家譜」19頁に同じ)。法名は「慈光院殿」もしくは「瑞雲院殿」応政道幹大居士(「御九族記」「徳川幕府家譜」19頁)で、贈官の後「大樹寺殿」となったとする同寺の記録があるという(「朝野旧聞裒藁」1巻738頁所載。「御九族記」おなじ)。 現在大樹寺に加え、[[大林寺 (岡崎市)|大林寺]]・[[松應寺 (岡崎市)|松應寺]]・[[法蔵寺 (岡崎市)|法蔵寺]]・[[広忠寺]]と5つの墓所が岡崎市にある。 また死後、慶長16年3月22日[[従二位]][[大納言]]の[[官位]]を贈られている<ref>村川前掲論文。なお、「徳川幕府家譜」19頁は「家康公 [[武家執奏|御執秦]]」に依るとする。</ref>。「御年譜附尾」は「因大権現宮願」として従三位大納言と記し「御九族記」は正二位権大納言としている。なお、嘉永元年10月19日には、太政大臣正一位に追贈されている。 '''松平広忠 贈太政大臣正一位宣命'''(高麗環雑記) 天皇我詔良万止、贈従二位權大納言源廣忠朝臣尓詔倍止勅命乎聞食止宣、弓乎鞬志劔乎鞘仁志氐与利、今仁至氐二百有餘年、此世乎加久仁志毛、治免給比、遂給倍留者、汝乃子奈利止奈牟、聞食須其父仁功阿礼者、賞子仁延岐、子仁功阿礼者、貴父仁及者、古乃典奈利、然仁顯揚乃不足遠歎給比氐、重天官位乎上給比氐、太政大臣正一位仁治賜比贈給布、天皇我勅命乎遠聞食止宣、嘉永元年十月十九日奉大内記菅在光朝臣申、 (訓読文)天皇(すめら、[[孝明天皇]]のこと)が詔(おほみこと)らまと、贈従二位(すないふたつのくらゐ)権大納言(かりのおほいものまうすのつかさ)源広忠朝臣に詔(のら)へと勅命(おほみこと)を聞こし食(め)せと宣(の)る、弓を鞬(ゆぶくろ)にし劔を鞘にしてより今に至りて二百有余年、此の世をかくにしも、治め給ひ遂げ給へるは、汝の子なりとなむ、聞こし食す其の父に功あれば、賞子に延(つ)ぎ、子に功あれば貴父に及ぶは古(いにしへ)の典(のり)なり、然るに顕揚(けんやう)の不足遠く歎き給ひて、重ねて官位を上(のぼ)せ給ひて、太政大臣正一位に治め賜ひ贈り賜ふ、天皇が勅命を遠く聞こし食せと宣る、嘉永元年(1848年)10月19日、大内記菅(原)在光([[唐橋在光]]、従四位下)朝臣奉(うけたまは)りて申す、 == 妻子に関する伝承 == === 妻に関して === 「柳営婦女伝」は三人の室を記している。正室・側室の別を明記する史料はない。またその子に関しても一男一女(「武徳大成記」1巻72頁)二男二女(「参松伝」巻1)二男三女(「改正三河後風土記」上巻171頁および「徳川実紀」24頁)三男三女(「御九族記」巻1)と諸書により記述が異なる。<br /> === 子女とその生母 === 生母により分類して以下に示すが、生母について争いのあるもの、広忠の子として争いのあるものはこれを「一説に」とした。ただし存在そのものが疑われている、忠政、恵最、家元、親良についてはこのかぎりではなく、単に所伝のあるものとして列挙した。 *伝通院との間にうまれた子 **[[徳川家康]]{{efn|「柳営婦女伝系」では「広忠」と伝通院の間の子として「東照宮」および「女子」1人を記している(137頁)。家康と父母を同じくする兄弟ということになるが、「女子」ということ以外に記述がない。}} **[[多劫姫]](一説に){{efn|「改正三河後風土記」では広忠の娘として「多劫姫」を挙げる。しかし家康の異母妹かそれとも父母を同じくするかについては言及を避けている(上巻171頁)「御九族記」は多劫姫の母を伝通院とし、広忠の子として系図にかけ、久松家のそれにかけない(巻1)。「寛政譜」17巻・菅原氏「久松」(315頁)および1巻「桜井松平」(33頁)は[[久松俊勝]]との間の子としている。}} *大給松平二代[[松平乗正|乗正]]の娘「[[於久の方 (松平広忠側室)|於久の方]]」{{efn|「朝野旧聞裒藁」1巻610頁。また広忠の死後、尼となり「妙林」と称した旨の所伝が「寛政譜」にある(1巻221頁の按文)。[[酒井氏|酒井家]](雅楽頭家)家臣松平孫三郎「[[松平久典|久典]]」所蔵の家譜、[[三河国|三河]]・法蔵寺および広忠寺由緒書に拠るという。ただし、「柳営婦女伝」には記述がない。}}との間の子 **[[松平忠政 (松平広忠の子)|松平忠政]]{{efn|「朝野旧聞裒藁」1巻610頁。「松平忠政遺状」によると、幼名を勘六といい、のち任官されて'''右京大夫'''「忠政」と称したという。松平孫三郎「久典」の系譜では「右京大夫又は'''右京進'''」とされている。「寛政譜」1巻221頁にその所伝が示されており、広忠が大子を妻とした後に三河国桑谷村に250石を与えられ、のち家康に仕えて従五位下となり、[[慶長]]4年([[1599年]])に没したという。また長子の孫三郎「[[松平康久 (戦国時代)|康久]]」は酒井家家臣孫三郎「久典」の祖、次子'''右京進'''「[[松平長清|長清]]」は彦太夫「[[松平忠明 (戦国時代)|忠明]]」(224頁)および分家・二郎右衛門「[[松平忠暁 (戦国時代)|忠暁]]」(225頁)らの祖とする家伝が記されている。}} **[[恵最|樵暗恵最]](僧){{efn|「朝野旧聞裒藁」1巻620から622頁所載「松平忠政遺状」「松平彦太夫家伝」「広忠寺由緒書」および「寛政譜」1巻221頁による。「忠政」の弟'''穎新'''(えいしん)または'''恵新'''(けいしん)。広忠の意向により僧となり、のち樵暗恵最と名を改めた。ただし同書では、家康の異母兄弟である忠政がわずかな所領しか与えられなかったことや、「寛永諸家系図伝」など幕府保管の文書にその記録がみられないことから、一連の所伝を「不審なきにあらず」とする。また長沢松平分家「[[松平信強|信強]]」(220頁)の祖・'''孫三郎'''「[[松平信重 (戦国時代)|信重]]」(219および210頁)の子・'''右京'''「長次」(219頁)の子孫が不明とされているのは(同頁按文)、家祖を右京進「忠政」としたために起こった誤りではないかとし、「忠政」の子とされている'''右京進'''「長清」はこの右京「長次」のことであろうとしている(222頁按文)。 *参考附記 **「松平忠政遺状」→「朝野旧聞裒藁」9巻274から276に全文と思われる記事が採録されている。 **「法蔵寺由緒書」→西尾市岩瀬文庫に写本の所蔵があり(請求番号:98-76)、この影印複製本が岡崎市図書館にある。 **「広忠寺由緒書」→『岡崎市史研究』11号(岡崎市史編さん委員会刊、1989年)所収、新行紀一「徳川家康の異母兄弟」には岡崎市史編さん事務局再訪史料によるとして「桑谷松平氏」「広忠寺之記」「古書写」「御由緒」の四点をあげている。岡崎市史編さん史料は全て岡崎市美術博物館に移管されている。 }} *平原氏・娘との間の子 **[[矢田姫]]{{efn|松平上野介康忠の室を[[平原正次|平原助之丞正次]]の娘とし(「柳営婦女伝系」137頁)その名を矢田姫とする(「寛政譜」1巻「長沢松平」211頁。「御九族記」同じ)。}}([[松平康忠]]の妻) *[[真喜姫]]{{efn|「寛政譜」14巻「戸田」318頁は弾正少弼「某」を「今の呈譜 康光に作る」とし、娘「真喜姫」を「広忠卿の簾中たり」と記している。}}との間の子(一説に) **[[市場姫|市場殿]]{{efn|「柳営婦女伝系」では[[荒川頼持|荒川甲斐守頼持]]の室を平原氏娘の子とし(137頁)、それとは別に[[戸田康元|戸田弾正少弼康元]]娘の子として「一場御前」とする(「御九族記」同じ)。一方「松平記」()「改正三河後風土記」(上巻172頁)は広忠との間に子はなかったとしている。「寛政譜」2巻「吉良」は義広の室として「市場の御方」と記し(217頁)また「[[士林泝洄]]」巻37「荒川」は甲斐守「義弘」の子・次郎九郎「[[荒川弘綱|弘綱]]」の母を「広忠卿御女」とする(下記刊行本229頁)。しかしその生母についての記述はない。「市場殿」の呼称は「御九族記」巻1、「徳川幕府家譜」34頁、「徳川実紀」1巻24頁に示される。}}([[荒川義広]]の妻) *その他 **[[松平家元|三郎五郎家元]]{{efn|「徳川幕府家譜」35頁。広忠の死の前年、[[天文 (元号)|天文]]17年([[1548年]])の生まれで、その母の申し出により岡崎在城時代、家康に召抱られたという。また多病のため生涯隠棲し、[[慶長]]8年([[1603年]])に亡くなったとされている。}} **[[内藤信成]](一説に){{efn|「朝野旧聞裒藁」1巻657頁および658頁以下。「内藤家譜」によるとその母は広忠の寵愛を受けて懐妊するが、前室(大子)に憚り、「島田久右衛門」平'''景信'''に預けられ、天文14年5月5日に信成を出生したという。一説に(「秘録」曰く、として)この女性は「[[小野次郎右衛門]]」の娘で、広忠の侍女であったといい(「松平系諸集参考」)、またいったん島田久右衛門に嫁したのち出生した男子を、[[内藤清長]]が養子として育てたのが、後の豊前守信成であるとする「徳世系譜」の所伝があるという。}} **[[松平親良 (西福釜松平家)|松平親良]]{{efn|『寛政譜』巻四十四「松平」が載せる[[西福釜松平家]]の家伝によれば、2代目の松平信乗(松平親忠の孫にあたる)は広忠から懐妊した侍女を妻として与えられ、産まれてくる子供は信乗の家で養育するよう仰せつけられた。その子供が親良で、天文14年(1545年)生まれという。『寛政譜』按文では、そもそも[[松平行隆]](親良の子とされるが、父の名には異説もある)以前の西福釜松平家の系図に大きな混乱があることを指摘し、父祖のことは「家伝」として載せるものの、系譜は行隆から始めている<ref>『寛政重修諸家譜』巻四十四、[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082717/123 国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.226]。</ref>([[西福釜松平家]]参照)。}} *参考附記 **「内藤家譜」→国立公文書館所蔵。請求番号157-0205。記事の下限は[[享保]]4年(1719年)であるが、これを[[内藤弌信]]の[[村上藩]]移封とする誤りがある。また信成出生に関する記述は「別本 内藤家譜」の名で『[[大日本史料]]』12編ノ9に引用されている(1011から1015頁)。 **「松平系諸集参考」→『国書総目録』などに所見がなく焼失もしくは散逸したと思われる。 **「徳世系譜」→「徳世系譜実録」として国立公文書館に所蔵がある。請求番号149-0060 **内藤清長→「寛政譜」13巻「内藤」183頁「某・弥次衛門」。内藤信成→同185頁および197頁では、内藤弥次衛門の養子で、実は[[嶋田景信|嶋田久右衛門景信]]の子、母は内藤右京進某の娘とする。同5巻「嶋田」には「景信」の名は見当たらない。また「徳川幕府家譜」には「信成」とだけ記されている(35頁)。 == その他 == 連歌師である[[宗牧]]が記した『[[東国紀行]]』にも広忠に関する記述がある。 天文12年(1543年)、広忠は三河国に下向していた勅使の[[三条西公頼]]に進納を行った。これを受けて朝廷では翌天文13年(1544年)に東国に下ることになった宗牧に広忠宛の[[女房奉書]]を託して感謝の意を伝えるように命じた。同年閏11月13日に岡崎に着いた宗牧はまずは筆頭重臣である阿部大蔵(定吉)に面会を求めた。しかし、来訪の趣旨を事前に伝えていたにもかかわらず、大蔵は不在で、しかも宿泊先の宿でも不手際があったらしく、不満を書き記している。翌日、大蔵が岡崎に戻ってきたために面会するが、出迎えの準備が出来ていなかったために見かねた[[石川忠成]]が代わりの茶の湯を設けた。その後、ようやく広忠に拝謁して奉書を渡すことができたという<ref>茶園紘己「安城松平家における阿部大蔵の位置と役割」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P135.</ref>。 == 脚注 == === 注釈 === {{脚注ヘルプ}} {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2015年9月|section=1}}<!--実際にこの記事作成に利用した書籍を書くべき項目です。それ以外は関連図書の節を設けて移動させてください。}}--> *『三河文献集成 中世編』所収「松平記」および松平記附載「阿部家夢物語」国書刊行会、1980年 *[[国立公文書館]]所蔵「松平記」請求番号:特042-0012および148-0012 *『徳川諸家系譜』1巻 所収「徳川幕府家譜」「柳営婦女伝系」 続群書類従完成会、1982年 *内閣文庫所蔵史籍叢刊 特刊第1『朝野旧聞裒藁』1巻 汲古書院、1982年 *[[東京大学史料編纂所]]所蔵「三河東泉記」請求番号:2041.55-11 *『新編岡崎市史6』新編岡崎市史編さん委員会、1983年 *[[新城市|新城]]図書館所蔵「御九族記」請求番号:こ119 ---- *[[刈谷市中央図書館]]所蔵「家忠日記増補追加」請求番号:W3816 *[[愛知県図書館]]所蔵「岡崎領主古記」請求番号:請求番号:BWマ/A210/オ2 *『物語日本史大系第7巻』所収「織田軍記」早稲田大学出版部、1928年 ※内題は「総見記」。[[遠山信春]]著、[[貞享]]3・成立 *『改正三河後風土記』上巻 秋田書店、1976年 *[[西尾市岩瀬文庫]]所蔵「御年譜附尾」請求番号:109-23 *刈谷市中央図書館所蔵「三家考」請求番号:W4080 ※巻末の附記に「[[享保]]乙巳(注・1725年)門人 平元成識」とある *国立公文書館所蔵「三州八代記古伝集」請求番号:148-0085 *[[東京大学]]総合図書館所蔵「参州本間氏覚書」請求番号:G27 625 *新城図書館所蔵「参松伝」請求番号:4/甲ロ/14 ※国立国会図書館所蔵本→内題「改正増補参松伝」国立公文書館所蔵本→内題「改撰増補参松伝」 *小瀬甫庵『信長記』上巻 現代思潮社、1981年 *[[桑原忠親]]校注『新訂 信長公記』新人物往来社、1997年 *[[名古屋市]]鶴舞中央図書館所蔵「創業記考異」請求番号:河サ-2 *国史大系第38巻『徳川実紀』第1篇 吉川弘文館、1981年 *国立公文書館所蔵「内藤家譜」請求番号:157-0205 *内閣文庫所蔵史籍叢刊92『武徳大成記』1巻 汲古書院、1989年 *『武徳編年集成』上巻 名著出版、1976年 *国立公文書館所蔵「三河記大全」請求番号:169-0025 ※データベース登録名は内題「参河記大全」 *『[[日本思想大系]]26 三河物語』 岩波書店、1974年 *[[国立国会図書館]]所蔵『鶴鳴館蔵版 烈祖成績』※徳川昭武による明治11年の板行本。請求番号:YDM7073→[{{NDLDC|781743}} 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー]から閲覧・印刷可 ---- *『寛永諸家系図伝』1巻「松平」「久松」3巻「高木」6巻「高力」9巻「大久保」14巻「山口」続群書類従完成会、1985年  *『新訂寛政重修諸家譜』1巻「藤井」「桜井」「長沢」2巻「酒井」「吉良」6巻「水野」8巻「織田」10巻「阿部」11巻「大久保」13巻「内藤」14巻「戸田」17巻「久松」続群書類従完成会、1984年 *校訂復刻 名古屋叢書続編 第18巻『[[士林泝洄]] 2』巻37「吉良」愛知県郷土史料刊行会、1983年 ※名古屋市教育委員会、昭和42・1967年刊行本の復刻。図書館の所蔵データベース検索は「士林泝洄」もしくは「名古屋叢書続編」で行うこと。 ---- *『岡崎市史 第1巻』名著出版、1972年 ※岡崎市役所、大正15・1926年刊行本の復刻 *『岡崎市史別巻 徳川家康と其周囲』上巻 名著出版、1972年 ※岡崎市役所、昭和9・1934年刊行本の復刻 *『新編 岡崎市史2』新編岡崎市史編さん委員会、1989年 *『新編東浦町誌 資料編3』愛知県知多郡[[東浦町]]、2003年 *小和田哲男『駿河 今川一族』新人物往来社、1983年 *『岡崎市史研究』11号所収、新行紀一「徳川家康の異母兄弟」岡崎市史編さん委員会、1989年 *平野明夫著『三河松平一族』、新人物往来社 2002年、ISBN 4-404-02961-6 C0021 *村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」(初出:『中京大学文学論叢』1号、2015年/所収:大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P353-383. == 関連項目および外部リンク == *[https://okazaki-kanko.jp/point/478 広忠寺] 愛知県岡崎市桑谷町。広忠菩提寺であると共に「於久」と家康異母兄弟の所伝を残している。 {{松平宗家歴代当主||第8代}} {{徳川家康の系譜}} {{明正天皇の系譜}} {{DEFAULTSORT:まつたいら ひろたた}} [[Category:安祥松平氏|ひろたた]] [[Category:戦国大名]] [[Category:三河国の人物]] [[Category:暗殺された武将]] [[Category:愛知県の歴史]] [[Category:1526年生]] [[Category:1549年没]]
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放物線
放物線(ほうぶつせん、拋物線・抛物線、希:παραβολή「parabolē」、羅、英: parabola、独: Parabel)とは、その名の通り地表(つまり重力下)で投射した物体の運動(放物運動)が描く軌跡のことである。 放物線をその対称軸を中心として回転させた曲面を放物面という。 数学的な定義としてよく知られたものはいくつかの方法があるが、いずれも適当な枠組みで互いに他を導出することができる等価なものである。 平面幾何学において放物線(ほうぶつせん、parabola)とは、準線 (directrix) と呼ばれる直線 L と、その上にない焦点 (focus) と呼ばれる一点 F が与えられるとき、準線 L と焦点 F とをともに含む唯一つの平面 π 上の点 P であって、P から焦点 F への距離 PF と等しい距離 PQ を持つような準線 L 上の点 Q が存在するようなものの軌跡として定義される平面曲線である。 放物線上の点を P(x, y)、焦点を F(0, a)、準線の式を y = −a とすると PQ = PF より なので となる。x と y を入れ替えた y = 4ax も放物線の方程式である。この式は標準形と呼ばれる。 放物線は二次曲線の一種で、離心率は 1 である。 焦点と準線による定義から実際に放物線を糸や三角定規などを用いて作図することができる。 質量 m の物体を斜めに投射するとき、投げ出されたあとの物体に掛かる力は、空気抵抗の存在しない理想的な状況下では下向きに掛かる重力 mg のみ(g は重力加速度)である。したがって、運動方程式 F = ma から、物体の加速度は となる。初速が v 0 = ( v x ( 0 ) , v y ( 0 ) ) T = v 0 ( cos θ , sin θ ) T ( v = | v | ) {\displaystyle {\boldsymbol {v}}_{0}=(v_{x}(0),v_{y}(0))^{T}=v_{0}(\cos \theta ,\sin \theta )^{T}(v=|{\boldsymbol {v}}|)} であるならば、積分して となり、初期位置を r0 = (0, y0) にとると、さらに積分して が時刻 t における物体の位置である。t を消去すれば、適当な定数 a, b, c によって の形に書くことができる。 直線LとL上にない1点Fを固定し、L上に任意の点Pをとると、 直線PFと直線Lのなす角の2等分線は、直線Lを準線、点Fを焦点とする放物線の包絡線となる。 これを利用して、紙の折り跡から放物線を浮かび上がらせることができる。 ある曲線 γ が(γ 上の)ある点 P において C-級ならば、γ は P の十分近くである放物線(の一部)にほぼ一致する。γ が必ずしも一定の平面上にある曲線ではないとしても、P において C-級という条件から、P の十分近くであれば一定の平面上にほぼ乗っていると考えられる。別な言い方をすれば、任意の C-級曲線は各点で放物線と二次の接触を持つ。 関数のグラフを放物線によって近似し、その関数の積分を計算する数値積分法にシンプソンの方法がある。このときの近似誤差はテイラーの式の3次の剰余項を適当に評価することで測れる。被積分関数が3次までの多項式関数ならば、シンプソンの公式による数値積分は誤差無しに積分値を得ることができる。 カテナリー曲線(懸垂線)は、見た目が放物線と似ていて混同されることがあるが、全く別物である。共通した性質として、 があり、両者は頂点付近の十分近くで微視的にはほぼ一致するが、巨視的にはかけ離れた形状を示す。
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放物線とは、その名の通り地表(つまり重力下)で投射した物体の運動(放物運動)が描く軌跡のことである。 放物線をその対称軸を中心として回転させた曲面を放物面という。
{{Redirect|パラボラ}} [[Image:Parabola.svg|200px|thumb|放物線]] [[Image:ParabolaRotation.png|200px|thumb|回転放物面]] '''放物線'''(ほうぶつせん、拋物線・抛物線、[[ギリシャ語|希]]:παραβολή「''parabolē''」、[[ラテン語|羅]]、[[英語|英]]: ''parabola''、[[ドイツ語|独]]: ''Parabel'')<ref>[[当用漢字]]制定以前は「'''拋物線'''又は抛物線(抛は拋の異体字)」の表記が多かったが、「拋・抛」が当用漢字表外であった為、[[1956年]](昭和31年)に国語審議会が発表した指針「[[同音の漢字による書きかえ]]」により現在では「放」が一般に使用されている。</ref>とは、その名の通り地表(つまり[[重力]]下)で投射した物体の運動(放物運動)が描く軌跡のことである。 放物線をその[[対称軸]]を中心として回転させた[[曲面]]を'''放物面'''という。 == 数学的定義 == {{-}} 数学的な定義としてよく知られたものはいくつかの方法があるが、いずれも適当な枠組みで互いに他を導出することができる等価なものである。 === 軌跡 === [[Image:Parabola with focus and directrix.svg|200px|thumb|準線 L と焦点 F]] [[平面幾何学]]において'''放物線'''(ほうぶつせん、parabola)とは、[[準線]] (directrix) と呼ばれる直線 L と、その上にない[[焦点 (幾何学)|焦点]] (focus) と呼ばれる一点 F が与えられるとき、準線 L と焦点 F とをともに含む唯一つの平面 &pi; 上の点 P であって、P から焦点 F への距離 PF と等しい距離 PQ を持つような準線 L 上の点 Q が存在するようなものの軌跡として定義される平面[[曲線]]である。 放物線上の点を P(''x'', ''y'')、焦点を F(0, ''a'')、準線の式を ''y'' = −''a'' とすると PQ = PF より : <math>y+a = \sqrt{x^2 + (a-y)^2} </math> なので : <math>x^2 = 4ay</math> となる。''x'' と ''y'' を入れ替えた ''y''<sup>2</sup> = 4''ax'' も放物線の方程式である。この式は標準形と呼ばれる。 {{-}} === 円錐の断面 === [[Image:ConicSection parabola.PNG|200px|thumb|円錐面の平面 &pi; による断面(赤い面の縁)が、準線 L と焦点 F をもつ放物線を描くことが確認できる]] * [[円錐|円錐面]]を母線に平行な平面で切ると、切断面は放物線になる([[円錐曲線]])。 {{-}} === 二次曲線 === [[Image:Square root.svg|150px|thumb|''y'' = ''x''<sup>2</sup> と ''x'' = ''y''<sup>2</sup> (''y'' &gt; 0)]] 放物線は[[円錐曲線|二次曲線]]の一種で、[[離心率]]は 1 である。 * 焦点が (0, ''c'')、準線が ''y'' = −''c'' のとき、放物線の式 ''x''<sup>2</sup> = 4''cy'' となる。 * 焦点が (''c'', 0)、準線が ''x'' = −''c'' のとき、放物線の式は ''y''<sup>2</sup> = 4''cx'' となる。 * [[二次関数]] ''y'' = ''ax''<sup>2</sup> + ''bx'' + ''c'' (''a'' は 0 ではない)が描く[[グラフ (関数)|グラフ]]は放物線になる。 <!-- [[Image:Parabola-with-samples.svg|200px|thumb|''y'' = ''x''<sup>2</sup> とその上の格子点]] --> {{-}} == 作図 == [[File:Parabola-pin-string.svg|thumb|200px|準線 ''l'' と焦点 ''F'' の定める放物線の作図法]] 焦点と準線による定義から実際に放物線を糸や[[三角定規]]などを用いて作図することができる。 # 放物線の焦点 ''F'' と準線 ''l'' をとる # 三角定規の直角を挟む一辺の長さ |''AB''| に合わせた糸を用意する(右図参照) # 糸の両端を点 ''A'' と焦点 ''F'' に固定する # 三角定規の直角を挟む残りの一辺が準線に沿ってを滑るにようにする(たとえば準線に定規をおいて合わせる) # 鉛筆で糸を辺 ''AB'' 上の点 ''P'' に押し当て、糸を張る # 三角定規を準線に沿って滑らすと、鉛筆は放物線を描く(軌跡は |''PF''| = |''PB''| ゆえ放物線になる) == 物理学的な導出 == [[Image:ProjectileRange.svg|thumb|初速 ''v'', 角度 ''&theta;'' で初期の高さ ''y''<sub>0</sub> から投げ出した物体の描く曲線]] 質量 {{Math|''m''}} の物体を斜めに投射するとき、投げ出されたあとの物体に掛かる力は、空気抵抗の存在しない理想的な状況下では下向きに掛かる重力 {{Math|''mg''}} のみ({{Math|''g''}} は重力加速度)である。したがって、[[ニュートンの運動方程式|運動方程式]] {{Math|''F {{=}} ma''}} から、物体の加速度は : <math>\boldsymbol{a} = \frac{d^2\boldsymbol{r}}{dt^2} = \frac{d^2}{dt^2} \begin{bmatrix} x \\ y \end{bmatrix} = \begin{bmatrix} 0 \\ -g \end{bmatrix}</math> となる。初速が <math>\boldsymbol{v}_{0}=(v_{x}(0),v_{y}(0))^{T}=v_{0}(\cos\theta,\sin\theta)^{T}(v=|\boldsymbol{v}|)</math> であるならば、積分して : <math>\boldsymbol{v} = \frac{d\boldsymbol{x}}{dt} = \boldsymbol{v}(0) + \int_0^t \boldsymbol{a} \, dt = \begin{bmatrix} v_0 \cos\theta \\ v_0\sin\theta - gt \end{bmatrix} </math> となり、初期位置を '''''r'''''<sub>0</sub> = (0, ''y''<sub>0</sub>) にとると、さらに積分して : <math>\boldsymbol{r} = \begin{bmatrix} x \\ y \end{bmatrix} = \boldsymbol{r}_0 + \int_0^t \boldsymbol{v} \, dt = \begin{bmatrix} v_0 t \cos\theta \\ y_0 + v_0 t \sin\theta - gt^2/2 \end{bmatrix}</math> が時刻 {{Math|''t''}} における物体の位置である。{{Math|''t''}} を消去すれば、適当な定数 {{Math|''a, b, c''}} によって : <math>y = ax^2 + bx + c</math> の形に書くことができる。 {{-}} == 性質・例示 == === 正射影と焦点 === [[Image:Parabola_showing_focus_and_reflective_property.png|200px|thumb|準線(緑)と焦点(青丸)は同じ長さの線(青)を半径と思うと、放物線上の点を中心とする同じ円(水色の破線)の上にある。放物線に無限遠から来る、準線への直交射影となる光線は、放物線と直交する直線(赤)を軸として対称に反射して焦点を結ぶ。]] * 焦点から準線に引いた垂線は、この放物線の唯一の対称軸になる。放物線とその対称軸との交点を、この放物線の頂点と呼ぶ。放物線をその対称軸の周りに回転させてできる[[曲面]]を'''回転放物面'''、または単に'''放物面''' {{lang|en|(paraboloid)}} と呼ぶ。 {{-}} [[Image:Parabola reflection.svg|300px|thumb|放物面鏡による平行光線の反射。]] *: [[パラボラアンテナ]]の形も放物線の回転により得られる放物面である(パラボラ Parabola[英]=放物線)。放物面の形をした反射板は平行な光線(あるいは電波、その他の放射線)を焦点に集めるので、アンテナや[[太陽炉]]に使う[[凹面鏡]]の形として利用される。発信の際にも、焦点に置いた点源の[[球面波]]から平行な放射を得るために利用される。 {{-}} [[Image:Tour Eiffel pic11.jpg|300px|thumb|エッフェル塔の下部アーチ。]] *: 多くの建造物における[[アーチ]]形状には、[[カテナリー曲線]]と並んで放物線が使われることが多い。とりわけ[[エッフェル塔]]や[[東京タワー]]などの[[鉄塔]]では、下部アーチはもちろん、塔体側面の曲線も放物線で近似される。 {{-}} === 包絡線 === [[Image:Isoptic.png|200px|thumb|right|準線上の点から放物線に引いた二本の接線]] 直線LとL上にない1点Fを固定し、L上に任意の点Pをとると、 直線PFと直線Lのなす角の2等分線は、直線Lを準線、点Fを焦点とする放物線の[[包絡線]]となる。 これを利用して、紙の折り跡から放物線を浮かび上がらせることができる<ref>[http://math-info.criced.tsukuba.ac.jp/Forall/project/history/2004/origami/pdf/origami_report.pdf 折り紙による2次曲線]</ref>。 [[Image:EvolventenKonstuktion.png|200px|thumb|right|ナイルズの放物線]] {{節スタブ}} {{-}} === 微積分 === [[Image:Krümmungskreis-Parabel.png|200px|thumb|right|原点での曲率円]] {{節スタブ}} {{-}} === 電子 === * [[自由電子]]の[[バンド構造]]は放物線となる。また、自由電子の[[状態密度]](三次元)も放物線となる。 == 二次近似 == {{main|テイラーの定理}} ある曲線 &gamma; が(&gamma; 上の)ある点 P において [[滑らかな関数|C<sup>2</sup>-級]]ならば、&gamma; は P の十分近くである放物線(の一部)にほぼ一致する。&gamma; が必ずしも一定の平面上にある曲線ではないとしても、P において C<sup>2</sup>-級という条件から、P の十分近くであれば一定の平面上にほぼ乗っていると考えられる。別な言い方をすれば、任意の ''C''<sup>2</sup>-級曲線は各点で放物線と二次の接触を持つ。 : これは、C<sup>1</sup>-級曲線が各点の近傍で[[接線]]と呼ばれる直線(線分)で近似されることの類似である。 [[画像:Simpsons method illustration.svg|200px|thumb|right|シンプソンの近似]] 関数のグラフを放物線によって近似し、その関数の積分を計算する数値積分法に[[シンプソンの公式|シンプソンの方法]]がある。このときの近似誤差は[[テイラーの定理|テイラーの式]]の3次の剰余項を適当に評価することで測れる。被積分関数が3次までの多項式関数ならば、シンプソンの公式による数値積分は誤差無しに積分値を得ることができる。 {{-}} == カテナリー曲線 == [[Image:CatenaryAndParabola.jpg|thumb|200px|[[カテナリー曲線]](緑線)と放物線(赤線)の比較]] [[カテナリー曲線]](懸垂線)は、見た目が放物線と似ていて混同されることがあるが、全く別物である。共通した性質として、 * 唯一の極小な頂点を持つ * 下に凸な滑らかな曲線 * 頂点を通る直線を対称の軸として線対称 があり、両者は頂点付近の十分近くで微視的にはほぼ一致するが、巨視的にはかけ離れた形状を示す。 {{-}} == 参考文献 == * 『曲線の事典 性質・歴史・作図法』 礒田正美、Maria G. Bartolini Bussi編、田端毅、讃岐勝、礒田正美著:共立出版、2009年 ISBN 9784320019072 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[放物線の求積]] * [[曲線]] * [[放物面]] * [[円錐曲線]] ** [[楕円]] ** [[双曲線]] == 外部リンク == {{commonscat|Parabolas}} * [http://www.mathematische-basteleien.de/parabel.htm Köller, Jürgen, "Parabeln" - Mathematische Basteleien.] (ドイツ語) * {{MathWorld|title=Parabola|urlname=Parabola}} * [http://math-info.criced.tsukuba.ac.jp/museum/Mathematics_tools/schooten-parabola/schooten-parabola.htm スコーテンの放物線作図器] * [http://www.daikagaku.jp/content/vol022/?mp4=NEDSC02101022001T01000 「みんなここに集まってくる」] ― [[大科学実験]] {{DEFAULTSORT:ほうふつせん}} [[Category:曲線]] [[Category:円錐曲線]] [[Category:数学に関する記事]]
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錦糸町駅
錦糸町駅(きんしちょうえき)は、東京都墨田区江東橋三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。 JR東日本の各線と、東京メトロの半蔵門線が乗り入れ、接続駅となっている。また、各路線に駅番号が付与されている。 JR東日本の駅に乗り入れている路線は総武本線であり、当駅は東京駅方面の本線と御茶ノ水駅方面の支線との分岐駅となっている。当駅 - 千葉駅間は総武快速線と中央・総武緩行線との複々線区間となっている。また、特定都区市内制度における「東京都区内」に属している。 東京メトロ半蔵門線の列車は東急電鉄と東武鉄道との3社直通運転を行っている。 JR東日本と東京メトロの駅は少し離れた別構内であり、両駅の出入口はやや離れている。両駅は直結しておらず、一旦屋外を少し歩く必要がある。半蔵門線の駅は、南北方向に走る道路(四ツ目通り)の地下に立地する。東西に伸びるJR総武線に対して、通路が南北方向に伸びている。 島式ホーム2面4線を有する高架駅である。錦糸町営業統括センターが所在し、所長兼駅長が配置された直営駅であり、浅草橋駅 - 小岩駅間を当統括センターの管理エリアとし錦糸町駅は管理駅として亀戸駅を管理する。 当駅で各駅停車御茶ノ水・中央線方面と快速東京・横須賀線方面が分岐するため、各駅停車と快速を相互に乗り換える旅客は多い。ただし、線路別複々線であるため、快速と各駅停車の乗り換えは別ホームになり、階段・エスカレーター(ホーム中央 - コンコース間)・エレベーター(同)を経由する。当駅ホームの亀戸寄りには、ホーム間乗り換え専用通路が設置されている。2000年代に両ホームへのエレベーター・エスカレーター整備が行われ、バリアフリー化が行われた。 (出典:JR東日本:駅構内図) 当駅の西方(両国寄り)に緩行線・快速線間の渡り線が存在する。新宿方面からの特急(「あずさ」の千葉駅発着系統および、土日祝を中心に臨時列車として運行される「新宿さざなみ」や「新宿わかしお」など)はここで緩行線(御茶ノ水・中央本線方面) - 快速線(千葉方面)と転線し、当駅の快速線ホームに停車する。また、この分岐器配線の関係上、快速電車が当駅を発着した前後は大きく揺れる。 当駅は「成田エクスプレス」以外の営業列車は臨時列車も含めて停車する。かつては「ホームライナー千葉」も通過していたが、東京発「ホームライナー千葉」は過去に運転停車していたことがある。 北側には快速線の留置線が隣接し、6本の列車を止めることができる。総武快速線および横須賀線の東京駅発着で即時折り返しを行わない列車は当駅付近まで総武快速線を回送し、この留置線に一旦引き上げた後、再び総武快速線を回送して、東京駅へ向かう。留置線は両国駅方で本線と出入りする構造になっている。このため営業列車での当駅始発・終点の設定はない。 総武快速線は「通勤五方面作戦」の計画に当駅での優等列車待避が盛り込まれていたため、上下線とも通過線を設置できる構造になっている。ただし、当駅は当面の間全列車が停車するとされたため、市川駅と異なり当初から通過線は敷設されず、「成田エクスプレス」などの当駅通過列車が登場した後も敷設の計画はない。現在、上り線の予定地は広告スペースとなっており、下り線の予定地は0番留置線として使用されている。 国鉄時代には鉄道管理局の境界(東京→東京南鉄道管理局と千葉鉄道管理局との境界)が馬喰町 - 錦糸町間にあったことから、東京都内にありながら、同駅以東は千葉鉄道管理局が管轄していた。 2018年(平成30年)10月末頃に自動放送 (ATOS)が更新された。 1・2番線では五感工房、3・4番線では東洋メディアリンクス制作のメロディを使用している。 島式ホーム1面2線を有する地下駅である。押上側には非常用の両渡り線がある(ホームからはやや遠い位置にある)。改札口は1箇所となっている。押上止まりの列車で、終点到着が2番線の列車で、1本後の列車が東武線直通の場合は、階段移動を伴うために当駅で乗り換えを促すアナウンスが行われることもある。 2018年にホームドアが設置されたが、B線(渋谷方面)のみ大開口ホームドアを採用している。これは、押上駅で乗務員が交代した後の最初の停車駅で、乗務員がブレーキ操作に慣れていない可能性があることを考慮し、停止位置許容範囲に余裕を持たせるためである。 (出典:東京メトロ:構内図) 総武線の当駅が開業してから1910年(明治43年)3月26日まで、東武鉄道は亀戸線、総武線を経由して当駅に乗り入れていた(東武亀戸線参照)。2003年(平成15年)3月19日に半蔵門線との直通運転を開始したことにより、東武鉄道は事実上93年ぶりに当駅への乗り入れを再開したことになった。 2018年(平成30年)9月13日からスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 曲は1番線が「光彩都市」、2番線が「五月雨」(いずれも福嶋尚哉作曲)である。 開業後の1日平均乗降人員推移は下表の通り(JRを除く)。 各年度の1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。 近年の1日平均乗車人員推移は下表の通り。 当駅周辺は、東京都の副都心(錦糸町・亀戸副都心)に指定されている。 北口および南口ともに地下駐輪場が設置されているものの、2013年度における東京都の調査によれば、放置自転車の数が東京都内の駅の中で最も多かった。 北口は錦糸、南口は江東橋の街が広がっている。 北口は元々日本国有鉄道の用地が広がっており、商業施設はあまり多くなかった。1980年頃に再開発の機運が高まり再開発組合が設置され、1997年(平成9年)10月に「アルカタワーズ錦糸町」がオープンすることとなった(再開発組合は2000年に解散)。これと同時に、北口の核施設としてそごう錦糸町店が開店したが、そごうの経営難に伴い僅か3年で閉店されることとなり、2002年(平成14年)より現在の「アルカキット錦糸町」として営業している。 なお、駅前にはJR錦糸町北口モニュメントとして、ヘ音記号をイメージした金色のオブジェ「ECHO」(エコー)が設置されている。 南口は東京の東側の歓楽街として栄えている。 最寄り停留所は、当駅北口ロータリー、南口ロータリー、および京葉道路と四ツ目通り上にある錦糸町駅前となる。また、少々離れた東武ホテルレバント東京の正面玄関車寄せ内に空港リムジンバスのりばがある。以下の路線が乗り入れており、都営バス、東京空港交通、京成バス、東武バスセントラル、京浜急行バスにより運行されている。2012年3月からは墨田区内循環バス「すみだ百景 すみまるくん・すみりんちゃん」の運行も開始されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "錦糸町駅(きんしちょうえき)は、東京都墨田区江東橋三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "JR東日本の各線と、東京メトロの半蔵門線が乗り入れ、接続駅となっている。また、各路線に駅番号が付与されている。", "title": "乗り入れ路線" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "JR東日本の駅に乗り入れている路線は総武本線であり、当駅は東京駅方面の本線と御茶ノ水駅方面の支線との分岐駅となっている。当駅 - 千葉駅間は総武快速線と中央・総武緩行線との複々線区間となっている。また、特定都区市内制度における「東京都区内」に属している。", "title": "乗り入れ路線" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "東京メトロ半蔵門線の列車は東急電鉄と東武鉄道との3社直通運転を行っている。", "title": "乗り入れ路線" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "JR東日本と東京メトロの駅は少し離れた別構内であり、両駅の出入口はやや離れている。両駅は直結しておらず、一旦屋外を少し歩く必要がある。半蔵門線の駅は、南北方向に走る道路(四ツ目通り)の地下に立地する。東西に伸びるJR総武線に対して、通路が南北方向に伸びている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "島式ホーム2面4線を有する高架駅である。錦糸町営業統括センターが所在し、所長兼駅長が配置された直営駅であり、浅草橋駅 - 小岩駅間を当統括センターの管理エリアとし錦糸町駅は管理駅として亀戸駅を管理する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "当駅で各駅停車御茶ノ水・中央線方面と快速東京・横須賀線方面が分岐するため、各駅停車と快速を相互に乗り換える旅客は多い。ただし、線路別複々線であるため、快速と各駅停車の乗り換えは別ホームになり、階段・エスカレーター(ホーム中央 - コンコース間)・エレベーター(同)を経由する。当駅ホームの亀戸寄りには、ホーム間乗り換え専用通路が設置されている。2000年代に両ホームへのエレベーター・エスカレーター整備が行われ、バリアフリー化が行われた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "当駅の西方(両国寄り)に緩行線・快速線間の渡り線が存在する。新宿方面からの特急(「あずさ」の千葉駅発着系統および、土日祝を中心に臨時列車として運行される「新宿さざなみ」や「新宿わかしお」など)はここで緩行線(御茶ノ水・中央本線方面) - 快速線(千葉方面)と転線し、当駅の快速線ホームに停車する。また、この分岐器配線の関係上、快速電車が当駅を発着した前後は大きく揺れる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "当駅は「成田エクスプレス」以外の営業列車は臨時列車も含めて停車する。かつては「ホームライナー千葉」も通過していたが、東京発「ホームライナー千葉」は過去に運転停車していたことがある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "北側には快速線の留置線が隣接し、6本の列車を止めることができる。総武快速線および横須賀線の東京駅発着で即時折り返しを行わない列車は当駅付近まで総武快速線を回送し、この留置線に一旦引き上げた後、再び総武快速線を回送して、東京駅へ向かう。留置線は両国駅方で本線と出入りする構造になっている。このため営業列車での当駅始発・終点の設定はない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "総武快速線は「通勤五方面作戦」の計画に当駅での優等列車待避が盛り込まれていたため、上下線とも通過線を設置できる構造になっている。ただし、当駅は当面の間全列車が停車するとされたため、市川駅と異なり当初から通過線は敷設されず、「成田エクスプレス」などの当駅通過列車が登場した後も敷設の計画はない。現在、上り線の予定地は広告スペースとなっており、下り線の予定地は0番留置線として使用されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "国鉄時代には鉄道管理局の境界(東京→東京南鉄道管理局と千葉鉄道管理局との境界)が馬喰町 - 錦糸町間にあったことから、東京都内にありながら、同駅以東は千葉鉄道管理局が管轄していた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2018年(平成30年)10月末頃に自動放送 (ATOS)が更新された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1・2番線では五感工房、3・4番線では東洋メディアリンクス制作のメロディを使用している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "島式ホーム1面2線を有する地下駅である。押上側には非常用の両渡り線がある(ホームからはやや遠い位置にある)。改札口は1箇所となっている。押上止まりの列車で、終点到着が2番線の列車で、1本後の列車が東武線直通の場合は、階段移動を伴うために当駅で乗り換えを促すアナウンスが行われることもある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2018年にホームドアが設置されたが、B線(渋谷方面)のみ大開口ホームドアを採用している。これは、押上駅で乗務員が交代した後の最初の停車駅で、乗務員がブレーキ操作に慣れていない可能性があることを考慮し、停止位置許容範囲に余裕を持たせるためである。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "(出典:東京メトロ:構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "総武線の当駅が開業してから1910年(明治43年)3月26日まで、東武鉄道は亀戸線、総武線を経由して当駅に乗り入れていた(東武亀戸線参照)。2003年(平成15年)3月19日に半蔵門線との直通運転を開始したことにより、東武鉄道は事実上93年ぶりに当駅への乗り入れを再開したことになった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2018年(平成30年)9月13日からスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "曲は1番線が「光彩都市」、2番線が「五月雨」(いずれも福嶋尚哉作曲)である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "開業後の1日平均乗降人員推移は下表の通り(JRを除く)。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "各年度の1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗車人員推移は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "当駅周辺は、東京都の副都心(錦糸町・亀戸副都心)に指定されている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "北口および南口ともに地下駐輪場が設置されているものの、2013年度における東京都の調査によれば、放置自転車の数が東京都内の駅の中で最も多かった。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "北口は錦糸、南口は江東橋の街が広がっている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "北口は元々日本国有鉄道の用地が広がっており、商業施設はあまり多くなかった。1980年頃に再開発の機運が高まり再開発組合が設置され、1997年(平成9年)10月に「アルカタワーズ錦糸町」がオープンすることとなった(再開発組合は2000年に解散)。これと同時に、北口の核施設としてそごう錦糸町店が開店したが、そごうの経営難に伴い僅か3年で閉店されることとなり、2002年(平成14年)より現在の「アルカキット錦糸町」として営業している。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "なお、駅前にはJR錦糸町北口モニュメントとして、ヘ音記号をイメージした金色のオブジェ「ECHO」(エコー)が設置されている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "南口は東京の東側の歓楽街として栄えている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "最寄り停留所は、当駅北口ロータリー、南口ロータリー、および京葉道路と四ツ目通り上にある錦糸町駅前となる。また、少々離れた東武ホテルレバント東京の正面玄関車寄せ内に空港リムジンバスのりばがある。以下の路線が乗り入れており、都営バス、東京空港交通、京成バス、東武バスセントラル、京浜急行バスにより運行されている。2012年3月からは墨田区内循環バス「すみだ百景 すみまるくん・すみりんちゃん」の運行も開始されている。", "title": "バス路線" } ]
錦糸町駅(きんしちょうえき)は、東京都墨田区江東橋三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。
{{駅情報 |駅名 = 錦糸町駅 |画像 = 錦糸町駅南口(TERMINA).jpg |pxl = 300 |画像説明 = 南口駅ビル「[[テルミナ (駅ビル)|テルミナ]]」(2019年11月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center |type=point|type2=point |marker=rail|marker2=rail-metro |coord={{coord|35|41|48|N|139|48|50|E}}|marker-color=008000|title=JR 錦糸町駅 |coord2={{coord|35|41|47|N|139|48|54|E}}|marker-color2=8f76d6|title2=東京メトロ 錦糸町駅 |frame-latitude=35.696719|frame-longitude=139.814661 }} |よみがな = きんしちょう |ローマ字 = Kinshichō{{Refnest|group="*"|JR東日本の表記。}}<br />Kinshicho{{Refnest|group="*"|東京メトロの表記。}} |所在地 = [[東京都]][[墨田区]][[江東橋]]三丁目 |電報略号 = キウ(両社とも) |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東京メトロ|駅詳細]])}} |備考 = {{Reflist|group="*"}} }} [[File:Kinshicho.jpg|thumb|北口駅舎(2022年9月)]] '''錦糸町駅'''(きんしちょうえき)は、[[東京都]][[墨田区]][[江東橋]]三丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京地下鉄]](東京メトロ)の[[鉄道駅|駅]]である。 == 乗り入れ路線 == JR東日本の各線と、東京メトロの[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]が乗り入れ、接続駅となっている。また、各路線に[[駅ナンバリング|駅番号]]が付与されている。 * JR東日本:各線(後述) * 東京メトロ:[[File:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|15px|Z]] 半蔵門線 - 駅番号は'''Z 13'''。 JR東日本の駅に乗り入れている路線は[[総武本線]]であり、当駅は[[東京駅]]方面の本線と[[御茶ノ水駅]]方面の支線との分岐駅となっている。当駅 - [[千葉駅]]間は[[横須賀・総武快速線|総武快速線]]と[[中央・総武緩行線]]との複々線区間となっている。また、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」に属している<ref name="c">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/kippu/11041.html|title=運賃計算の特例|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-01-22}}</ref>。 * [[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 総武線(快速):[[急行線]]を走行する総武本線の近距離電車。上り列車は東京駅を起点に[[横須賀線]]への直通運転も実施している。[[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]は'''JO 22'''。 * [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車):[[急行線|緩行線]]を走行する総武本線の近距離電車。当駅以西は総武本線の支線を経由し、御茶ノ水駅から[[中央本線]]を走行し<ref group="注釈">[[中央線快速]]は御茶ノ水駅での乗り換えを必要とする。</ref>、当駅以東は総武本線の本線を走行する。駅番号は'''JB 22'''。 東京メトロ半蔵門線の列車は[[東急電鉄]]と[[東武鉄道]]との3社直通運転を行っている。 == 歴史 == [[File:Kinshicho 1920s.jpg|thumb|震災復興後の総武本線(高架)と錦糸町駅付近]] * [[1894年]]([[明治]]27年)[[12月9日]]:[[総武鉄道 (初代)|総武鉄道]]の'''本所駅'''(ほんじょえき)として[[本所区]][[錦糸町]]に開業<ref name="sone26">{{Cite book|和書|author=曽根悟|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線|pages=16-19|date=2010-01-17}}</ref>。 * [[1895年]](明治28年):総武鉄道本所工場及び本所機関庫を駅構内に開設。 * [[1907年]](明治40年)[[9月1日]]:[[鉄道国有法]]により買収、国有化<ref name="sone26"/>。 * [[1915年]]([[大正]]4年) ** [[5月1日]]:'''錦糸町駅'''に改称<ref name="sone26"/><ref group="注釈">この時期発行された列車時刻表のうち、5月発行分には「錦糸堀駅」、6月以降発行分には「錦糸町駅」としたものがある。</ref>。 ** [[5月11日]]:本所工場と本所機関庫をそれぞれ錦糸町工場と錦糸町機関庫に改称。 * [[1923年]](大正12年)[[9月1日]]:[[関東大震災]]により壊滅状態となる<ref name="sone26"/>。その後、工場と機関庫は新小岩操車場(現・[[新小岩信号場駅]])に移転。 * [[1945年]]([[昭和]]20年)[[3月10日]]:[[東京大空襲]]により全焼<ref name="sone26"/> * [[1961年]](昭和36年)[[11月28日]]:南口に駅ビル「駅ビルきんし町」(現・テルミナ)が開業する<ref name="termina">{{Cite web|和書|url=https://www.termina.info/about/outline.php|title=会社概要|テルミナについて|publisher=錦糸町ステーションビル|accessdate=2023-01-22}}</ref>。 * [[1967年]](昭和42年)[[10月1日]]:[[日産化学工業|東京日産化学]][[専用鉄道|専用線]]および[[昭和シェル石油|シェル石油]]専用線廃止。 * [[1972年]](昭和47年)[[7月15日]]:総武快速線東京 - 錦糸町間開業に伴い、総武緩行線と総武快速線の[[乗換駅]]となる<ref name="sone26"/>。 * [[1980年]](昭和55年)[[5月30日]]:北口に「らがーる」(現・テルミナ2)が開業する<ref name="termina"/>。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref name="sone26"/>。 * [[1993年]]([[平成]]5年)[[3月13日]]:北口に[[自動改札機]]を設置<ref>{{Cite book|和書 |date=1993-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '93年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-114-7}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2003年]](平成15年) ** [[3月19日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)半蔵門線の駅が開業<ref group="報道" name="pr20020829">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2002-27.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040204014324/http://www.tokyometro.go.jp/news/2002-27.html|language=日本語|title=首都圏の地下鉄ネットワークがますます便利に! 半蔵門線 水天宮前・押上間 平成15年3月19日(水)開業(予定) 東武伊勢崎線・日光線南栗橋まで相互直通運転開始!|publisher=営団地下鉄|date=2002-08-29|accessdate=2020-05-02|archivedate=2004-02-04}}</ref><ref name="JRC608">{{Cite book|和書|title=RAIL FAN|issue=6|volume=50|page=19|chapter=鉄道記録帳2003年3月|publisher=[[鉄道友の会]]|date=2003-06-01}}</ref>。営団地下鉄・JR東日本の乗換業務を開始。 ** [[7月23日]]:テルミナウエストウィングが開業する<ref name="termina"/>。 * [[2004年]](平成16年)4月1日:営団地下鉄の民営化に伴い、半蔵門線の駅が東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:東京メトロでICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2016年]](平成28年)[[2月2日]]:JR北口の[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://doro-chiba.org/nikkan/%E5%8D%83%E8%91%89%E6%94%AF%E7%A4%BE%E3%83%BC%E3%80%8C%E5%8D%83%E8%91%89%E9%81%8B%E8%BC%B8%E5%8C%BA%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%A6%81%E5%93%A1%E3%82%92%E6%8F%90%E6%A1%88-%EF%BC%96%E9%A7%85%E5%A7%94%E8%A8%97/|date=2015-08-24|archiveurl=https://archive.fo/LB6c7|title=千葉支社 「千葉運輸区」の要員を提案 6駅委託と窓口削減・要員削減も提案|accessdate=2019-07-30|publisher=[[国鉄千葉動力車労働組合]]|archivedate=2019-07-30}}</ref>。 * [[2017年]](平成29年)[[4月27日]]:JR南口の「テルミナ」1階がリニューアルオープンし、それに伴い駅ビル外装が改装される<ref>{{Cite news |title=錦糸町ステーションビル 「テルミナ」1階全面新装 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2017-05-01 }}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)[[9月13日]]:半蔵門線の駅に[[発車メロディ]]を導入<ref group="報道" name="2018-09-06">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180906_87.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180913150400/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180906_87.pdf|format=PDF|language=日本語|title=半蔵門線に初めて発車メロディを導入します 半蔵門駅、三越前駅にはその駅にゆかりのある曲を採用|publisher=東京地下鉄|date=2018-09-06|accessdate=2020-03-20|archivedate=2018-09-13}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[9月30日]]:[[びゅうプラザ]]の営業を終了<ref name="closed-view">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=609|title=駅の情報(錦糸町駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2020-07-31|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200729141724/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=609|archivedate=2020-07-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5ee35ca713626c791fc49a36.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613144739/http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5ee35ca713626c791fc49a36.pdf|title=営業施策について説明を受ける!|archivedate=2020-06-13|date=2020-06-12|accessdate=2020-06-13|publisher=JR東労組千葉地方本部|format=PDF|language=日本語}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.v-travels.co.jp/mt/press_20200703.pdf|title=「びゅうプラザ吉祥寺駅」及び「びゅうプラザ錦糸町駅」の閉店について|format=PDF|publisher=びゅうトラベルサービス|date=2020-07-03|accessdate=2020-07-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200723023928/http://www.v-travels.co.jp/mt/press_20200703.pdf|archivedate=2020-07-23}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年)[[4月3日]]:総武線(各駅停車)ホームで[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210406_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210406050253/https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210406_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2021年度のホームドア整備について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-04-06|accessdate=2021-04-06|archivedate=2021-04-06}}</ref>。 == 駅構造 == JR東日本と東京メトロの駅は少し離れた別構内であり、両駅の出入口はやや離れている<ref name="d">{{Cite web|和書|url=http://www.ecomo-rakuraku.jp/stationmap/22640.html|title=錦糸町駅の構内図|website=らくらくおでかけネット|publisher=公益財団法人交通エコロジー・モビリティ財団|accessdate=2023-01-22}}</ref>。両駅は直結しておらず、一旦屋外を少し歩く必要がある。半蔵門線の駅は、南北方向に走る道路(四ツ目通り)の地下に立地する<ref name="e">[http://chizu.tokyometro.jp/cgi/rosen/eki/map/mapMain.cgi?code=46 東京メトロ駅周辺案内地図]、錦糸町駅より</ref>。東西に伸びるJR総武線に対して、通路が南北方向に伸びている。 === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名= JR 錦糸町駅 |画像= <!-- 記事のバランスが乱れるので画像は入れないでください --> |画像説明 = |よみがな = きんしちょう |ローマ字 = Kinshichō |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |電報略号 = |所在地 = [[東京都]][[墨田区]][[江東橋]]三丁目14-5 |座標 = {{coord|35|41|48|N|139|48|50|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 錦糸町駅}} |開業年月日 = {{Nowrap|[[1894年]]([[明治]]27年)[[12月9日]]}}<ref name="sone26"/> |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面4線 |廃止年月日 = |乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />87,590 |統計年度 = 2022年 |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{color|#0067c0|■}}[[横須賀・総武快速線|総武線(快速)]]{{Refnest|group="**"|name="name"|いずれも線路名称上は[[総武本線]]。}} |前の駅1=JO 21 [[馬喰町駅|馬喰町]]{{Refnest|group="**"|この間に[[東日本旅客鉄道首都圏本部|首都圏本部]]と[[東日本旅客鉄道千葉支社|千葉支社]]の[[JR支社境|境界]]あり(当駅から新小岩方は千葉支社管内)。}} |駅間A1 = 2.5 |駅間B1 = 5.2 |次の駅1 = [[新小岩駅|新小岩]] JO 23 |駅番号1 = {{駅番号r|JO|22|#0067c0|1}} |キロ程1 = 4.8 |起点駅1 = [[東京駅|東京]] |所属路線2 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]<ref group="**" name="name" /> |前の駅2 = JB 21 [[両国駅|両国]] |駅間A2 = 1.5 |駅間B2 = 1.5 |次の駅2 = [[亀戸駅|亀戸]] JB 23 |駅番号2 = {{駅番号r|JB|22|#ffd400|1}} |キロ程2 = 0.0&nbsp;km(錦糸町<ref group="**">総武本線(支線)の起点として</ref>起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から34.4 |起点駅2 = |備考 = {{Plainlist| * [[直営駅]]([[管理駅]]) * [[みどりの窓口]] 有 * [[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[特定都区市内|東京都区内]]駅}} |備考全幅 = {{Reflist|group="**"}} }} [[島式ホーム]]2面4線を有する[[高架駅]]である。錦糸町営業統括センターが所在し、所長兼駅長が配置された[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]であり、[[浅草橋駅]] - [[小岩駅]]間を当統括センターの管理エリアとし錦糸町駅は管理駅として[[亀戸駅]]を管理する。 当駅で各駅停車[[御茶ノ水駅|御茶ノ水]]・[[中央本線|中央線]]方面と快速[[東京駅|東京]]・[[横須賀線]]方面が分岐するため、各駅停車と快速を相互に乗り換える旅客は多い。ただし、[[複々線#線路別複々線|線路別複々線]]であるため、快速と各駅停車の乗り換えは別ホームになり、階段・[[エスカレーター]](ホーム中央 - コンコース間)・[[エレベーター]](同)を経由する。当駅ホームの亀戸寄りには、ホーム間乗り換え専用通路が設置されている。[[2000年代]]に両ホームへのエレベーター・エスカレーター整備が行われ、[[バリアフリー]]化が行われた。 ==== のりば ==== <!-- 方面表記はJR東日本の「駅構内図」の記載に準拠 --> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車) |style="text-align:center"|西行 |[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[新宿駅|新宿]]・[[中野駅 (東京都)|中野]]方面 |- !2 |style="text-align:center"|東行 |[[新小岩駅|新小岩]]・[[市川駅|市川]]・[[船橋駅|船橋]]・[[千葉駅|千葉]]方面 |- !3 |rowspan="2"|[[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 総武線(特急・快速) |style="text-align:center"|上り |[[馬喰町駅|馬喰町]]・[[東京駅|東京]]・[[横浜駅|横浜]]・[[鎌倉駅|鎌倉]]方面 |- !4 |style="text-align:center"|下り |船橋・[[津田沼駅|津田沼]]・千葉方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/609.html JR東日本:駅構内図]) 当駅の西方(両国寄り)に緩行線・快速線間の[[分岐器#形状による分類|渡り線]]が存在する。新宿方面からの[[特別急行列車|特急]](「[[あずさ (列車)|あずさ]]」の千葉駅発着系統および、土日祝を中心に臨時列車として運行される「[[さざなみ (列車)|新宿さざなみ]]」や「[[わかしお (列車)|新宿わかしお]]」など)はここで緩行線(御茶ノ水・[[中央本線]]方面) - 快速線(千葉方面)と転線し、当駅の快速線ホームに停車する。また、この分岐器配線の関係上、快速電車が当駅を発着した前後は大きく揺れる。 当駅は「[[成田エクスプレス]]」以外の営業列車は臨時列車も含めて停車する。かつては「[[横須賀・総武快速線#ホームライナー|ホームライナー千葉]]」も通過していたが、東京発「ホームライナー千葉」は過去に運転停車していたことがある<ref group="注釈">保安装置の切替の必要から(地上線・[[自動列車停止装置|ATS]]⇔東京トンネル・[[自動列車制御装置|ATC]])。</ref>。 北側には快速線の[[留置線]]が隣接し、6本の列車を止めることができる。総武快速線および横須賀線の東京駅発着で即時折り返しを行わない列車は当駅付近まで総武快速線を回送し、この留置線に一旦引き上げた後、再び総武快速線を回送して、東京駅へ向かう。留置線は両国駅方で本線と出入りする構造になっている。このため営業列車での当駅始発・終点の設定はない。 総武快速線は「[[通勤五方面作戦]]」の計画に当駅での優等列車待避が盛り込まれていたため、上下線とも通過線を設置できる構造になっている。ただし、当駅は当面の間全列車が停車するとされたため、[[市川駅]]と異なり当初から通過線は敷設されず、「成田エクスプレス」などの当駅通過列車が登場した後も敷設の計画はない。現在、上り線の予定地は広告スペースとなっており、下り線の予定地は0番留置線として使用されている。 {{Main|横須賀・総武快速線#総武快速線新設計画}} 国鉄時代には鉄道管理局の境界(東京→東京南鉄道管理局と千葉鉄道管理局との境界)が馬喰町 - 錦糸町間にあったことから、東京都内にありながら、同駅以東は千葉鉄道管理局が管轄していた。 [[2018年]]([[平成]]30年)10月末頃に[[駅自動放送|自動放送]] (ATOS)が更新された。 <gallery> JR Sobu-Main-Line Kinshicho Station North Gates.jpg|北口改札(2019年6月) JR Sobu-Main-Line Kinshicho Station South Gates.jpg|南口改札(2019年6月) JR Sobu-Main-Line Kinshicho Station Platform 1・2 (20210410).jpg|1・2番線ホーム(2021年4月) JR Sobu-Main-Line Kinshicho Station Platform 3・4.jpg|3・4番線ホーム(2019年6月) JR Kinshicho Custody Line.jpg|JR駅北側にある留置線(2007年8月) </gallery> ==== 発車メロディ ==== 1・2番線では[[五感工房]]、3・4番線では[[東洋メディアリンクス]]制作のメロディを使用している。 {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" !1 |rowspan="2"|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] |JR-SH2-1 |- !2 |JR-SH2-3 |- !3 |rowspan="2"|[[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] |Water Crown |- !4 |Gota del Vient |} === 東京メトロ === {{駅情報 |社色 = #109ed4 |文字色 = |駅名 = 東京メトロ 錦糸町駅 |画像 = <!-- 記事のバランスが乱れるので画像は入れないでください --> |pxl = |画像説明 = |よみがな = きんしちょう |ローマ字 = Kinshicho |駅番号 = {{駅番号r|Z|13|#8f76d6|4}} |前の駅 = Z 12 [[住吉駅 (東京都)|住吉]] |駅間A = 1.0 |駅間B = 1.4 |次の駅 = [[押上駅|押上]] Z 14 |電報略号 = |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ) |所属路線 = {{color|#8f76d6|●}}[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]] |キロ程 = 15.4 |起点駅 = [[渋谷駅|渋谷]] |所在地 = [[東京都]][[墨田区]][[江東橋]]三丁目14-6 |座標 = {{coord|35|41|47|N|139|48|54|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=東京メトロ 錦糸町駅}} |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[2003年]]([[平成]]15年)[[3月19日]]<ref group="報道" name="pr20020829"/> |廃止年月日 = |乗車人員 = |乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />92,013 |統計年度 = 2022年 |備考 = }} 島式ホーム1面2線を有する[[地下駅]]である。押上側には非常用の[[分岐器#形状による分類|両渡り線]]がある(ホームからはやや遠い位置にある)<ref name="RP926_end">{{Cite book|和書|title=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=12|chapter=線路略図|page=巻末|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。[[改札|改札口]]は1箇所となっている。押上止まりの列車で、終点到着が2番線の列車で、1本後の列車が東武線直通の場合は、階段移動を伴うために当駅で乗り換えを促すアナウンスが行われることもある。 2018年にホームドアが設置されたが、B線(渋谷方面)のみ大開口ホームドアを採用している。これは、押上駅で乗務員が交代した後の最初の停車駅で、乗務員がブレーキ操作に慣れていない可能性があることを考慮し、停止位置許容範囲に余裕を持たせるためである<ref>[https://dime.jp/genre/586048/5/ 運び方は?ピタリと停車するのはなぜ?知って驚く「ホームドア」の秘密] DIME 2018年8月23日</ref>。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|15px|Z]] 半蔵門線 |[[渋谷駅|渋谷]]・[[長津田駅|長津田]]・[[中央林間駅|中央林間]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/kinshicho/timetable/hanzomon/b/index.html |title=錦糸町駅時刻表 渋谷・長津田・中央林間方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- !2 |[[押上駅|押上〈スカイツリー前〉]]・[[久喜駅|久喜]]・[[南栗橋駅|南栗橋]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/kinshicho/timetable/hanzomon/a/index.html |title=錦糸町駅時刻表 押上・久喜・南栗橋方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/kinshicho/index.html 東京メトロ:構内図]) 総武線の当駅が開業してから[[1910年]]([[明治]]43年)[[3月26日]]まで、[[東武鉄道]]は[[東武亀戸線|亀戸線]]、総武線を経由して当駅に乗り入れていた([[東武亀戸線]]参照)。[[2003年]]([[平成]]15年)[[3月19日]]に半蔵門線との直通運転を開始したことにより、東武鉄道は事実上93年ぶりに当駅への乗り入れを再開したことになった。 <gallery> Kinshicho-eki-2005 03 29 1.jpg|改札口(2005年3月) Tokyo Metro Kinshicho Sta001.jpg|1番出入口(2007年10月) Platform at Kinshichō Station(Hanzōmon Line).JPG|2番線ホーム(2008年12月) </gallery> ==== 発車メロディ ==== [[2018年]](平成30年)[[9月13日]]から[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している<ref group="報道" name="2018-09-06" />。 曲は1番線が「光彩都市」、2番線が「五月雨」(いずれも[[福嶋尚哉]]作曲)である<ref>{{Cite web|和書|title=東京メトロ半蔵門線発車サイン音を制作|url=http://www.switching.co.jp/news/361|date=2018-09-10|website=[http://www.switching.co.jp/ スイッチオフィシャルサイト]|accessdate=2021-03-29|language=ja|publisher=スイッチ}}</ref>。 == 利用状況 == * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は''' 87,590人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。 *: 同社の駅全体では[[日暮里駅]]に次いで第34位。半蔵門線開業前は80,000人程度でほぼ横ばい傾向であったが、半蔵門線が開業し、のちに[[東京スカイツリー]]も開業したことから増加傾向に転じ、2006年度に90,000人、2012年度に100,000人を越えた。 * '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''92,013人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 *: 同社の駅全体では第28位<!--他鉄道との直結連絡駅及び共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。開業前の予想では32,000人程度と見込まれていたが、開業以来その数字を上回り、2008年度に80,000人を越えるまで急激な伸びを見せた。その後も緩やかに増加し、2015年度には100,000人を超えている。 === 年度別1日平均乗降人員 === 開業後の1日平均'''乗降'''人員推移は下表の通り(JRを除く)。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="統計">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="統計" name="sumida">[https://www.city.sumida.lg.jp/kuseijoho/sumida_info/gyoseikisoshiryo/index.html 行政基礎資料集] - 墨田区</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|営団 / 東京メトロ |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |2002年(平成14年) |<ref name="RJ759_31">{{Cite journal|和書|author=瀬ノ上清二(東京地下鉄鉄道本部運輸営業部運転課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻759号)|page=31|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>31,426||<ref group="備考" name="metro-remarks" /> |- |2003年(平成15年) |<ref name="RJ759_31" />45,956||46.2% |- |2004年(平成16年) |54,420||18.4% |- |2005年(平成17年) |59,496||9.3% |- |2006年(平成18年) |68,285||14.8% |- |2007年(平成19年) |77,389||13.3% |- |2008年(平成20年) |81,347||5.1% |- |2009年(平成21年) |81,494||0.2% |- |2010年(平成22年) |83,324||2.2% |- |2011年(平成23年) |82,342||&minus;1.2% |- |2012年(平成24年) |89,233||8.4% |- |2013年(平成25年) |92,658||3.8% |- |2014年(平成26年) |95,710||3.3% |- |2015年(平成27年) |100,275||3.9% |- |2016年(平成28年) |103,851||3.6% |- |2017年(平成29年) |105,342||1.4% |- |2018年(平成30年) |107,922||2.4% |- |2019年(令和元年) |110,136||2.1% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>74,337||&minus;32.5% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>79,913||7.5% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>92,013||15.1% |} === 年度別1日平均乗車人員(1890年代 - 1930年代) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通りである。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !総武鉄道 /<br/>国鉄 !出典 |- |1894年(明治27年) |<ref group="備考">1894年12月9日開業。</ref> | |- |1895年(明治28年) |1,082 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806575/135?viewMode= 明治28年]</ref> |- |1896年(明治29年) |1,129 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806576/153?viewMode= 明治29年]</ref> |- |1897年(明治30年) |1,570 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806577/135?viewMode= 明治30年]</ref> |- |1898年(明治31年) |1,520 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806578/147?viewMode= 明治31年]</ref> |- |1899年(明治32年)<!--1899年度は1900年が100で割り切れるが400では割り切れない年であるため、閏年ではなく平年となるので365日間で集計--> |1,749 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806579/168?viewMode= 明治32年]</ref> |- |1900年(明治33年) |1,895 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806580/165?viewMode= 明治33年]</ref> |- |1901年(明治34年) |1,814 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806581/188?viewMode= 明治34年]</ref> |- |1902年(明治35年) |1,638 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806582/186?viewMode= 明治35年]</ref> |- |1903年(明治36年) |1,527 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806583/183?viewMode= 明治36年]</ref> |- |1904年(明治37年) |704 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806584/213?viewMode= 明治37年]</ref> |- |1905年(明治38年) |377 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806585/196?viewMode= 明治38年]</ref> |- |1907年(明治40年) |259 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806587/190?viewMode= 明治40年]</ref> |- |1908年(明治41年) |433 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806589/103?viewMode= 明治41年]</ref> |- |1909年(明治42年) |412 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806591/106?viewMode= 明治42年]</ref> |- |1911年(明治44年) |408 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref> |- |1912年(大正元年) |550 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/134?viewMode= 大正元年]</ref> |- |1913年(大正{{0}}2年) |653 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/127?viewMode= 大正2年]</ref> |- |1914年(大正{{0}}3年) |736 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref> |- |1915年(大正{{0}}4年) |690 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/348?viewMode= 大正4年]</ref> |- |1916年(大正{{0}}5年) |717 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref> |- |1919年(大正{{0}}8年) |889 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/266?viewMode= 大正8年]</ref> |- |1920年(大正{{0}}9年) |949 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/302?viewMode= 大正10年]</ref> |- |1922年(大正11年) |1,189 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref> |- |1923年(大正12年) |1,780 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref> |- |1924年(大正13年) |2,138 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref> |- |1925年(大正14年) |2,503 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref> |- |1926年(昭和元年) |3,061 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref> |- |1927年(昭和{{0}}2年) |3,679 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref> |- |1928年(昭和{{0}}3年) |5,258 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref> |- |1929年(昭和{{0}}4年) |5,467 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref> |- |1930年(昭和{{0}}5年) |4,530 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref> |- |1931年(昭和{{0}}6年) |4,045 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref> |- |1932年(昭和{{0}}7年) |4,436 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |6,724 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |8,086 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |9,177 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !国鉄 /<br />JR東日本 !出典 |- |1953年(昭和28年) |33,541 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 13ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |35,947 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 10ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |37,625 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 10ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |42,561 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 10ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |46,397 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 10ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |48,971 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 10ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |53,738 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |58,970 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |60,336 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |68,863 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |72,479 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |77,647 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |80,518 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |82,665 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |84,254 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |83,994 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |65,150 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |61,079 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |58,915 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |63,211 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |65,074 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |65,948 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |64,609 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |64,318 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |63,359 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |61,770 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |60,355 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |57,775 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |56,918 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |56,342 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |58,202 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |59,789 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |60,616 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |64,107 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |66,331 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |69,230 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |70,025 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |73,836 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |76,697 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |78,912 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |80,740 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |80,989 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |80,377 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |78,904 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |81,021 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |83,603 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>83,336 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>85,652 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === 近年の1日平均'''乗車'''人員推移は下表の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="sumida" /> !年度 !JR東日本 !営団 /<br />東京メトロ !出典 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>84,485 |rowspan="1" style="text-align:center"|未開業 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>87,059 |<ref group="備考" name="metro-remarks">2003年3月19日開業。開業日から同年3月31日までの計13日間を集計したデータ。</ref>20,308 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>88,934 |22,902 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>89,283 |27,277 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>89,700 |29,622 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>95,118 |34,386 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>98,872 |38,653 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>99,890 |40,249 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>98,986 |40,485 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>99,032 |41,411 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>99,167 |40,880 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>101,250 |44,101 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>103,522 |45,873 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>103,548 |47,183 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>105,191 |49,295 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>106,222 |51,049 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>106,164 |51,778 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>105,669 |52,986 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>105,681 |54,079 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>74,343 | | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>78,597 | | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/ 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>87,590 | | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == {{See also|錦糸町|錦糸|江東橋|緑 (墨田区)|太平 (墨田区)}} 当駅周辺は、[[都心|東京都の副都心]]([[錦糸町・亀戸副都心]])に指定されている。 北口および南口ともに地下[[駐輪場]]が設置されているものの、2013年度における東京都の調査によれば、[[放置自転車]]の数が東京都内の駅の中で最も多かった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.seisyounen-chian.metro.tokyo.jp/koutuu/pdf/07_jitensyagenkyo252.pdf|title=平成25年度調査 駅前放置自転車の現況と対策|publisher=東京都青少年・治安対策本部|deadlinkdate=2023-01-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305002044/http://www.seisyounen-chian.metro.tokyo.jp/koutuu/pdf/07_jitensyagenkyo252.pdf|archivedate=2016-03-05}}</ref>。 北口は[[錦糸]]、南口は[[江東橋]]の街が広がっている。 === 北口 === 北口は元々[[日本国有鉄道]]の用地が広がっており、商業施設はあまり多くなかった。[[1980年]]頃に[[都市再開発|再開発]]の機運が高まり再開発組合が設置され、[[1997年]]([[平成]]9年)10月に「アルカタワーズ錦糸町」がオープンすることとなった(再開発組合は2000年に解散)。これと同時に、北口の核施設として[[そごう]]錦糸町店が開店したが、そごうの経営難に伴い僅か3年で閉店されることとなり、[[2002年]](平成14年)より現在の「[[アルカキット錦糸町]]」として営業している。 なお、駅前にはJR錦糸町北口モニュメントとして、[[音部記号#ヘ音記号|ヘ音記号]]をイメージした金色のオブジェ「ECHO」(エコー)が設置されている<ref>{{Cite web|和書|title=JR錦糸町北口モニュメント |url=https://www.city.sumida.lg.jp/matizukuri/matizukuri_suisin/keikan_matizukuri/monument/jr_kinsi_monument.html |website=www.city.sumida.lg.jp |access-date=2022-10-30 |language=ja}}</ref>。 {{columns-list|2| * [[アルカタワーズ]] ** アルカイースト ** アルカセントラル ** アルカウェスト([[AIG]]タワー) ** [[すみだトリフォニーホール]] ** [[東武ホテルレバント東京]] ** [[アルカキット錦糸町]] * テルミナ2 * [[ロッテシティホテル錦糸町]] * [[オリナス]]錦糸町 ** [[TOHOシネマズ]]錦糸町オリナス(スクリーン1 - 8) * [[本所郵便局]] * 墨田横川郵便局 |}} <gallery> File:Kinshicho Station North Gate “ECHO” by Loren Madsen.jpg|錦糸町駅北口のモニュメント「ECHO」([[東京スカイツリー]]は駅から約1.5&nbsp;km北に位置) </gallery> === 南口 === 南口は東京の東側の[[歓楽街]]として栄えている。 {{columns-list|2| * [[テルミナ (駅ビル)|テルミナ]] ** [[ヨドバシカメラ]]マルチメディア錦糸町 * テルミナ3 * [[丸井]]錦糸町店・すみだ産業会館 * [[東京楽天地]] ** TOHOシネマズ錦糸町楽天地(スクリーン9 - 12) ** [[パルコ|錦糸町PARCO]]<ref>[http://www.parco.co.jp/kinshicho/ 錦糸町駅前物件のご案内] - 株式会社パルコ(2018年11月22日閲覧)</ref> *** 錦糸町パルコ内郵便局 ** [[西友]]錦糸町店 * [[日本中央競馬会|JRA]] [[ウインズ錦糸町]] 東館・西館 * 東京トラフィック錦糸町ビル(旧・[[白木屋 (デパート)|錦糸町白木屋]]) ** [[みずほ銀行]] * 墨田江東橋郵便局 |}} <gallery> ファイル:Kinshicho Station South Exit 2006.jpg|JR南口改札付近からの眺め(2006年9月) ファイル:OIOI Kinshicho.jpg|丸井錦糸町店 ファイル:Kinshicho-Parco-2019-06-01.jpg|東京楽天地(2019年6月) </gallery> === 公共施設など === {{columns-list|2| * [[錦糸公園]] ** [[墨田区総合体育館]] * 墨田[[公共職業安定所]](ハローワーク墨田) * [[東京都立墨東病院]] * [[東京簡易裁判所]]墨田庁舎([[東京区検察庁]]道路交通部墨田分室・[[警視庁]]交通執行課墨田分室) * [[東京都交通局]][[都営バス江東営業所|江東自動車営業所]] * [[大横川親水公園]] * [[学校法人立志舎]] ** [[東京IT会計専門学校]]錦糸町校 ** [[東京法律専門学校]]錦糸町校 ** [[専門学校日本スクールオブビジネス21|専門学校日本鉄道&スポーツビジネスカレッジ21]] ** [[立志舎高等学校]] * [[東京都立両国高等学校・附属中学校]] * [[国道14号]]([[京葉道路]]) * [[東京都道465号深川吾嬬町線]](四ツ目通り) * [[首都高速7号小松川線]] [[錦糸町出入口]] |}} == バス路線 == 当駅北口ロータリー、南口ロータリー、および京葉道路と四ツ目通り上に停留所が設置されている<ref name="tobus">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/bus/noriba/kinshi.html|title=錦糸町駅|publisher=東京都交通局|accessdate=2011-02-19}}</ref>。また、少々離れた東武ホテルレバント東京の正面玄関車寄せ内に空港リムジンバスのりばがある。以下の路線が乗り入れており、[[都営バス]]、[[東京空港交通]]、[[京成バス]]、[[東武バスセントラル]]、[[京浜急行バス]]により運行されている。 === 南口側 === 都営バス錦22系統・東22系統の錦糸町駅前行は、南口ロータリー到着前に四ツ目通り上の降車専用バス停にも停車する(一部便を除く)。 <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !colspan="4"|錦糸町駅前 |- !1 |rowspan="9" style="text-align:center;"|都営バス |{{Unbulleted list|[[都営バス深川営業所#錦13系統|'''錦13''']]:[[東京港#晴海埠頭|晴海埠頭]]・[[豊洲駅|豊洲駅前]]・[[都営バス深川営業所|深川車庫前]]|[[都営バス江東営業所#錦18・急行05・直行03系統|'''錦18''']]:[[新木場駅|新木場駅前]]・[[国際展示場駅|国際展示場駅前]]|[[都営バス江東営業所#錦18・急行05・直行03系統|'''急行05''']]・[[都営バス江東営業所#錦18・急行05・直行03系統|'''直行03''']]:[[日本科学未来館]]}} |{{Unbulleted list|「錦18」は平日のみ運行、朝は0番のりば発|「急行05」「直行03」は土休日のみ運行}} |- !2 |{{Unbulleted list|[[都営バス江東営業所#都07系統(グリーンスター)|'''都07''']]:[[門前仲町駅|門前仲町]]・[[東陽町駅|東陽町駅前]]|[[都営バス臨海支所#両28系統|'''両28''']]:第六葛西小学校前}} |「両28」は夜1本のみ運行 |- !3 |[[都営バス江東営業所#東22系統|'''東22''']]:東陽町駅前・[[東京駅のバス乗り場|東京駅丸の内北口]] |&nbsp; |- !4 |[[都営バス江戸川営業所#錦28系統|'''錦28''']]:[[東大島駅|東大島駅前]] |&nbsp; |- !5 |{{Unbulleted list|[[都営バス江戸川営業所#錦25系統|'''錦25''']]:[[葛西駅|葛西駅前]]・[[船堀駅|船堀駅前]]|[[都営バス江戸川営業所#FL01系統|'''FL01''']]:葛西駅前}} |「FL01」は土休日のみ運行 |- !6 |[[都営バス江戸川営業所#錦27系統|'''錦27''']]:[[小岩駅|小岩駅前]] |&nbsp; |- !7 |{{Unbulleted list|[[都営バス臨海支所#錦11系統|'''錦11''']]:[[亀戸駅|亀戸駅前]]|'''両28''':葛西橋・[[都営バス臨海支所|臨海車庫]]}} |&nbsp; |- !8 |'''錦27'''・'''両28''':[[両国駅|両国駅前]] |{{Unbulleted list|京葉道路上に設置|平日は丸井前、土休日はみずほ銀行前から発着}} |- !10 |{{Unbulleted list|'''錦11''':[[築地駅|築地駅前]]|[[都営バス臨海支所#錦22系統|'''錦22''']]:臨海車庫}} |四ツ目通り上に設置 |- !colspan="4"|錦糸町駅 |- !rowspan="2"|- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|京浜急行バス|東武バスセントラル}} |[[東武バスセントラル足立営業事務所#スカイツリーシャトル|'''スカイツリーシャトル''']]:[[東京国際空港|羽田空港]] |rowspan="2"|{{Unbulleted list|四ツ目通り上に設置|[[東京スカイツリータウン]]行は降車専用}} |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|京成バス|東武バスセントラル}} |'''スカイツリーシャトル''':[[東京ディズニーランド]] |} === 北口側 === <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !colspan="4"|錦糸町駅前 |- !1 |rowspan="3" style="text-align:center;"|都営バス |[[都営バス巣鴨営業所#都02系統(グリーンライナー)|'''都02''']]:[[大塚駅 (東京都)|大塚駅前]]・[[文京区立窪町小学校|窪町小学校]] |&nbsp; |- !2 |[[都営バス南千住営業所#都08系統(グリーンリバー)|'''都08(T08)''']]:[[日暮里駅|日暮里駅前]]・[[浅草駅|東武浅草駅前]] |&nbsp; |- !3 |{{Unbulleted list|[[都営バス青戸支所#錦37系統|'''錦37''']]:[[都営バス青戸支所|青戸車庫前]]・[[新四ツ木橋]]|[[都営バス南千住営業所#錦40系統|'''錦40''']]:[[南千住駅|南千住駅東口]]}} |「錦37」の新四ツ木橋行は平日朝夕のみ運行 |- !colspan="4"|錦糸町駅北口 |- !- |style="text-align:center;"|[[墨田区内循環バス]]<br />「[[京成バス奥戸営業所#墨田区「すみだ百景 すみまるくん・すみりんちゃん」|すみだ百景 すみまるくん・すみりんちゃん]]」<br />(京成バス) |[[墨田区内循環バス#南部ルート|'''南部ルート''']]:[[両国駅|両国駅西口]]方面 |&nbsp; |- !colspan="4"|東武ホテルレバント東京 |- !- |style="text-align:center;"|[[東京空港交通]] |'''リムジンバス''':[[成田国際空港|成田空港]] / 羽田空港 |&nbsp; |} == 隣の駅 == ;東日本旅客鉄道(JR東日本) :*特急「[[しおさい (列車)|しおさい]]」「[[あずさ (列車)|あずさ]]」「[[富士回遊]]」、臨時特急「[[さざなみ (列車)#新宿さざなみ|新宿さざなみ]]」「[[わかしお (列車)#新宿わかしお|新宿わかしお]]」停車駅<!--「新宿さざなみ」と「新宿わかしお」は臨時列車ながら土休日にほぼ恒常的に運転されていることから掲載--> :[[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 総武線(快速) ::[[馬喰町駅]] (JO 21) - '''錦糸町駅 (JO 22)''' - [[新小岩駅]] (JO 23) :[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車) ::[[両国駅]] (JB 21) - '''錦糸町駅 (JB 22)''' - [[亀戸駅]] (JB 23) ; 東京地下鉄(東京メトロ) :[[File:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|15px|Z]] 半蔵門線 ::[[住吉駅 (東京都)|住吉駅]] (Z 12) - '''錦糸町駅 (Z 13)''' - [[押上駅]] (Z 14) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"}} <!-- ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"}} --> === 利用状況 === ; JR・地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|23em}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|22em}} ; JR・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="統計"}} ; 東京府統計書 {{Reflist|group="東京府統計"|17em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 関連項目 == {{commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[錦糸町]] * [[錦糸町・亀戸副都心]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=609|name=錦糸町}} * [https://www.tokyometro.jp/station/kinshicho/index.html 錦糸町駅/Z13 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] {{横須賀線・総武快速線}} {{中央・総武緩行線}} {{東京メトロ半蔵門線}} {{DEFAULTSORT:きんしちよう}} [[Category:墨田区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 き|んしちよう]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:横須賀・総武快速線]] [[Category:中央・総武緩行線]] [[Category:総武鉄道の鉄道駅]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅]] [[Category:錦糸町|きんしちようえき]] [[Category:1894年開業の鉄道駅]] [[Category:本所]] [[Category:東京都の駅ビル]]
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両国駅
両国駅(りょうごくえき)は、東京都墨田区横網一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。墨田区最西端の駅。 JR東日本の総武本線(支線)、東京都交通局の都営地下鉄大江戸線が乗り入れ、接続駅となっているが、一番近い出口同士でも300 m余り離れている。 JR東日本の駅は、定期列車は緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみが停車する。この他、千葉方面の快速線に接続している列車ホーム(後述)が存在するが、現在は臨時列車のみに使用される。 また、特定都区市内制度における「東京都区内」に属する。 当駅は、千葉県方面への鉄道を建設した私鉄であった総武鉄道が1904年(明治37年)4月5日に「両国橋駅」として開業させた。総武鉄道は市川駅より東側の区間を先に開業させており、そこから西へ東京へ向かって順次建設を進めてきた。そして、本所駅(後の錦糸町駅)から両国橋駅までの区間が都心側で最後に開業した。この当時、本所から両国橋までの沿線はすでに市街地になっており、盛土・高架とすることを条件に免許が出された。会社側は建設費のかかる高架線を避けようと、地上の線路に変更しようとする工作をしたが、結局煉瓦造りの橋脚の上に鉄桁を載せた形状の高架橋を約1.5 kmに渡って建設して開業することになった。これは日本の鉄道で最初の高架区間であった。当初は単線で開業したが、最初から橋脚は複線用に準備されており、1906年(明治39年)8月19日に複線化された。この高架橋の関係で、垂れ流し式のトイレからの汚物が沿線に被害を及ぼすことを避けるために、本所より西側ではトイレの使用が禁止されていた。 総武鉄道の力では隅田川を渡る橋を建設することが難しかったこともあり、両国橋駅は総武鉄道の都心側のターミナルとして機能するようになった。当初の駅舎建物は駅の西側に建てられており、木造2階建てで面積170坪(約562平方メートル)、建設費は約9,000円であった。また、脇に同じく木造2階建ての総武鉄道本社も建てられていた。プラットホームは全長212 mあり、その先の東側にも地下道を通じて亀沢町方面への出口が造られていた。隅田川からの運河が構内に掘られ、水運との連絡が行われるようになっていた。貨物営業は1904年(明治37年)9月1日に開始された。 また、吾妻橋駅(現在のとうきょうスカイツリー駅)をターミナルとしていた東武鉄道も亀戸線を建設して総武鉄道に乗り入れるようになり、両国橋駅は開業と同時に房総方面だけではなく北関東方面へのターミナルとしても機能するようになった。このために吾妻橋駅は一時廃止されるが、1907年(明治40年)9月1日に総武鉄道が国有化されて国鉄となったこともあり、1910年(明治43年)3月1日に吾妻橋駅を浅草駅に改称して旅客営業が再開され、同年3月27日に両国橋駅への東武鉄道の列車の乗り入れが廃止された。ただし、貨物列車については、1926年(大正15年)7月1日に小岩駅と金町駅を結ぶ新金貨物線が開通するまで、東武亀戸線を経由して北千住駅で常磐線と連絡する運転が継続された。 1923年(大正12年)9月1日に、関東大震災が発生。駅舎は倒壊しなかったが、駅構内の機関車5両、客車94両、貨車48両が延焼により焼失した。高架橋も大きな被害を受けて、復旧して運転を再開したのは同年10月9日のこととなった。バラック立ての仮駅舎を建設して暫定的に営業を行っていたが、増大する旅客・貨物需要を捌ききれなくなったため、1929年(昭和4年)12月30日に新駅舎が営業を開始した。これは現在供用されている西口駅舎である。この時点で行き止まり式の2面4線の構造となった。駅舎の面積は3,034坪(約10,030平方メートル)であった。当時は乗車口と降車口が分離されており、外から駅舎に向かって左側に乗車口、右側に降車口があった。内部には出札口、2等待合室、3等待合室、手荷物カウンターなどが設置されていた。 元々隅田川の両岸を両国(17世紀まで隅田川が武蔵国と下総国の境界であったため)と称し、そこに架かる橋を両国橋と呼んでいたことから、橋の近くにある駅を両国橋と名付けたものであったが、次第に隅田川東岸のことを両国と称するようになった。駅名もまた、一般には単に両国駅と呼ばれることが多くなっていた。そこで、1931年(昭和6年)10月1日に正式に「両国駅」へ改称した。 この頃、房総方面にあった全部で94の駅の中では、東京側のターミナルであった両国駅は乗降客数と収入の面ではぬきんでた1位であり、貨物取扱量も第2位であった。東京の鉄道駅の中では東京、上野、新宿、横浜、新橋に次ぐ第6位の取扱収入で、当時は渋谷や池袋などよりも収入の大きな駅であった。しかし、両国駅より西側の総武本線の建設が行われると、このターミナルとしての繁栄は次第に凋落していくことになった。 関東大震災で焼失した市街地の区画整理が行われたことで線路用地の捻出が可能となり、1932年(昭和7年)7月1日に御茶ノ水までの線路が完成し、総武本線の起点が御茶ノ水に変更された。これにより両国は孤立したターミナルの状態を脱することになった。御茶ノ水と両国の間は電化されて電車が折り返し運転を行うようになり、房総方面への列車の乗換駅となった。これに合わせて、現在も使用されている1・2番線のプラットホームが整備された。地下道で従来の列車用ホームとの連絡がなされ、また電車用のプラットホームへ直接出入りできる改札口が高架下に設けられた。当初は両国より東側はまだ電化されていなかったので、房総方面へは両国駅での乗換を必要としていたが、それでも乗り換えだけの乗客は改札口を通過しないため両国駅の乗降客数や収入は大きく減じることになった。さらに電化が東へ進展して1935年(昭和10年)7月1日に千葉駅まで完成すると、房総方面の列車が同駅で折り返すものが増え、次第に両国駅の列車ホームで発着する列車は減少していくことになった。特に第二次世界大戦後の石炭不足による蒸気機関車牽引列車の減少と房総方面が気動車化の重点線区とされたことで、当駅を始発・終着とする房総方面の列車は2往復まで減少することになった。 しかし外房線・内房線とも千葉から先はまだ非電化であり、1958年(昭和33年)7月10日から気動車準急「犬吠」の運転が開始され、その始発・終着駅となった。さらに房総方面の準急・急行は増発され、一部総武緩行線経由で新宿方面へ乗り入れる列車もあったものの、多くの優等列車は当駅始発・終着とされた。これにより再び房総方面へのターミナル駅としての地位が高まることになった。特に毎年夏には房総への海水浴客を輸送するための臨時列車が多数設定されて両国駅の列車ホームは賑わった。後に列車ホームは電化された。 次の大きな転機となったのは、1972年(昭和47年)7月15日の総武本線複々線化である。東京駅から錦糸町駅までの地下線で総武快速線が建設され、総武線の快速列車が東京駅へ直通するようになった。183系の特急がこの時より完成した東京地下駅から総武線、内房線、外房線に乗り入れを開始する。この線路は当駅構内の北側を通過してはいるが、急勾配及び急カーブ区間であることから、当駅にホームは設けられなかった。これにより総武快速線の列車は当駅に停まらなくなった。貨物営業も近隣の越中島駅などへ集約されることになり、物流拠点としての役目を終えた。この時点ではまだ房総方面への急行列車の一部など両国駅発着で残存していたが、1982年(昭和57年)11月15日のダイヤ改正により房総方面の急行列車は全廃され、特急「しおさい」「あやめ」「すいごう」が1日1往復だけ当駅に発着する状態となった。1988年(昭和63年)3月13日のダイヤ改正でしおさい・すいごうが、1991年(平成3年)3月16日のダイヤ改正であやめの発着も終了し、当駅は総武線各駅停車のみが停車する駅となって、現在に至っている。 一方、東京で進んでいた地下鉄網整備の中で、両国地域を通る路線は長く開業していなかったが、2000年に都営大江戸線の駅が開業し、両国から地下鉄の利用が可能となった。 元来、両国とは両国橋を挟んだ隅田川の両岸を指す地名であった(隅田川西岸は旧日本橋両国)。しかし、総武鉄道は当初隅田川の東岸までの開通に留まったため、両国橋の東、東両国に両国橋駅を開業し、後に両国駅と改称した。駅名の影響に両国国技館の開設も加わり、現在では両国という地名は専ら両国橋の東の地域に対して用いられる。 JRの駅は東西に出入口があり(階段の位置はホームの両端ではなくやや中央寄り)、駅舎は高架下にある。ホーム横にはターミナル駅の面影を残す駅舎とホームが残されている。この旧駅舎コンコースを利用し、居酒屋チェーン「はなの舞」の独自業態「大江戸八百八町・花の舞 両国国技館前店」が営業していたが閉店(後に清澄通り沿い錦糸町方の高架下に「両国八百八町・花の舞 江戸東京博物館前店」として移転)。閉店後の旧駅舎を改装して2016年11月25日に複合飲食施設「-両国- 江戸NOREN」が開業した。 都営大江戸線の駅はJR駅の東側を通る清澄通り(東京都道463号上野月島線)の地下に建設され、出口もその両側に設置されている。JR総武線と都営大江戸線の乗り換えはJR駅の東口から乗り換えるが、駅間がかなり離れている。 総武線各駅停車用の島式ホーム1面2線の電車ホームと、単式ホーム1面1線の列車ホームを有する高架駅である。電車ホームから一段低い高さに列車ホームがある。 千葉支社管轄で錦糸町営業統括センター管内の直営駅で、副所長兼駅長が配置されており、管理駅として浅草橋駅を管理する。 近くに大相撲興行などが開催される両国国技館があることにちなみ、西口の駅入口にある駅名表示は根岸流の書体で「両国駅」と書かれ、西口改札横には優勝額が展示されている。また、西口改札を入ってすぐの所にはタイルの色が違う所があり、これはよく見ると土俵の形になっている。 (出典:JR東日本:駅構内図) 当駅北側には、東京駅方面へ直通する総武快速線・総武トンネルの入口がある。 2008年9月2日に発車メロディとスピーカーが変更された。 西口には、バリアフリー施設としてエスカレーターやエレベーターなどを併設している。 当駅は開業当初東京都心のターミナル駅の一つとして機能していたことから、総武快速線東京駅(総武トンネル)開業前、長らく房総方面への中・長距離列車の発着ホームとして広い構内設備を持っていた。列車ホームは当初は3 - 6番線の2面4線の櫛型形状であり、その北側に広大な留置線と貨物設備を有していた。この縮小部分には後に両国国技館や江戸東京博物館が建設されている。 JR発足当初は特急「あやめ」「すいごう」の発着があり、総武快速線の団体列車がここで折り返すことも多かった。また2010年3月12日までは、旅客以外の定期列車として内房・外房線沿線の新聞販売店や主要駅のキヨスク向けに夕刊を発送する新聞輸送列車が1日1本、3番線ホームから発車していた。しかし1991年(平成3年)3月15日に特急列車の乗り入れが終了し、使わなくなった4 - 6番線は今現在、保線基地となっている。 一方3番線ホームは2008年秋の観光キャンペーン「ぐるっと ゆめ半島ちば」を機に全面リニューアルされた。同年11月29日発の「快速 ぐるっと ゆめ半島1号」より使用を開始し、列車発着時間帯以外はホーム自体をイベントスペースとして貸し出している。また、2017年から毎年夏に、味の素冷凍食品がイベント「ギョーザステーション」を開催している。 なお、2018年1月にはサイクルトレイン「B.B.BASE」専用通路が整備され、道路から直接ホームにアクセスすることが可能となった。また、2020年11月27日 - 11月28日には、成田エクスプレスで使用されるE259系電車を活用したテレワーク空間の実証実験が実施された(事前予約制)。 島式ホーム1面2線を有する地下駅である。「江戸東京博物館前」の副名称が設定されている。 (出典:東京都交通局:構内立体図) 近年の1日平均乗降人員は下表の通りである(JRを除く)。 各年度の1日平均乗車人員は下表の通りである。 大相撲の興行施設である両国国技館(上の写真の緑の屋根の建物)が駅の近くにあるほか、江戸時代には勧進相撲が執り行われた両国回向院が駅の南側にあり、相撲部屋や力士サイズの服を取り扱う洋品店などがあるなど相撲の街として全国に知られている。1909年竣工の旧・両国国技館は回向院の境内にあったが、第二次大戦後の蔵前国技館使用期を挟んで、1985年に竣工した現・両国国技館は駅の北側に位置している。 駅北側には、国技館に隣接して東京都江戸東京博物館(2022年4月1日より長期休館中)がある(江戸東京博物館にはJR駅より都営地下鉄駅の方が近い)。前述の通り、かつては貨物駅があり、総武快速線建設に伴い貨物駅が閉鎖された後には国鉄バスの東京自動車営業所(後のジェイアールバス関東東京支店)があったが、現在は江東区塩浜の越中島貨物駅周辺に移転し、その跡地に両国国技館が建設されている。 国技館の北隣には旧安田庭園および刀剣博物館がある。庭園の西側には隅田川が流れ、川岸に首都高速6号向島線の高架が建設されている。同高速はほぼ南北に伸び、JR駅の西側で総武線の上を通る。 旧安田庭園の東側、江戸東京博物館の北側には2004年にNTTドコモ墨田ビルという超高層ビルが竣工した。ここには「NTTドコモ歴史展示スクエア」というショールームがあり、過去のNTTドコモなどの携帯電話端末などを一堂に見ることができる。 旧安田庭園の北東側、NTTドコモ墨田ビルの北側、清澄通りと蔵前橋通りに面した角の一角には都立横網町公園がある。ここには関東大震災で多数の犠牲者を出した陸軍本所被服廠跡地で(震災当時は既に「跡地」であった)、都立公園の中でも慰霊を目的とした特異な存在である。敷地内には震災犠牲者や東京大空襲犠牲者などを祀る東京都慰霊堂や震災復興記念館、東京空襲犠牲者追悼碑などが建てられており、毎年3月10日(東京大空襲忌日)と9月1日(関東大震災忌日)には慰霊法要が営まれる。この横網町公園へはJR駅より都営地下鉄の駅の方が近い。 JR東口から南に向かって京葉道路(国道14号)を越え、さらに南に少々入った辺りに本所松坂町公園(吉良上野介の屋敷跡・忠臣蔵の討ち入りの舞台)がある。さらにその近くの両国公園には「勝海舟生誕の地」碑がある他、附近には江戸から明治期の著名人の足跡(芥川龍之介生育の地など)が数多くある。また、駅南東側一帯は池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の主要な舞台になったことでも知られている。 JR西口から南側に向かうと、京葉道路との交点(両国二丁目交差点)の南側に再開発地域の複合ビル「両国シティコア」があり、内部に劇場「シアターΧ」(シアターカイ)が運営されている。旧・両国国技館はここに位置していた。シティコアの南側に両国回向院があり、そこからさらに南に進むと竪川と首都高速7号小松川線の高架橋が東西方向へ伸びる。同高速は隅田川岸に作られた両国ジャンクションで6号向島線から分離しているが、当駅近辺には両路線とも出入口は設置されていない。 最寄りのバス停留所は、JR西口、両国ビューホテル前付近の「両国駅前」、京葉道路沿いの「両国駅入口」、都営大江戸線の駅近辺、清澄通り上の「都営両国駅前」の3箇所であり、都営バスと京成バス、東武バスセントラル、日の丸自動車興業によって運行されている。都営バスの詳細は江東営業所・江戸川営業所・臨海支所の記事を参照のこと。 JR両国駅にバスが乗り入れたのは平23乙系統(現在の上23系統)の頃からである。その後、門33・錦27系統の両国駅行設定(その後錦27系統は全便が当駅までに短縮)墨38系統(東京都リハビリテーション病院行)の新設などによって様々な系統が乗り入れて来るようになる。しかし、ターミナルとしては中途半端であったことも影響して、平23乙系統は1990年11月には上37系統と経路交換のうえ上野松坂屋へ向かうこととなって当駅には来なくなり(上37系統は当駅ではなく隣の錦糸町駅に向かう錦37系統となる)、また、門33系統には豊海水産埠頭からの両国駅前折り返し便が設定され、草28系統も神田駅まで運行していたが、いずれも都営大江戸線の開業により廃止、草28系統も当駅までに短縮、両28系統となった。錦27系統はかつて京成バスと共同で運行していた。 一方、「都営両国駅前」停留所は都営大江戸線の開業に伴って改称されたものである。大江戸線の駅が開業する前までは「横網一丁目」、さらに墨田区役所が横網一丁目(現在の国際ファッションセンタービル一帯)から現在地(リバーピア吾妻橋)に移転するまでは「墨田区役所前」を名乗っていた。また、移動も頻繁に行われており、「横網一丁目」時代の停留所の位置は亀戸駅方面が国際ファッションセンター前(現在郵便ポストがある場所)、豊海水産埠頭前方面はそのほぼ向かい(たい焼き屋の斜め前)と、現在の場所よりもかなり北方にあった。 なお、「両国駅前」停留所はJRの駅よりさらに西にある。京葉道路を経由する両28・錦27両系統の錦糸町駅方面行へ都営大江戸線から乗り換える場合、「両国駅前」よりもA5出口から左に歩いて交差点を左折したところにある「緑一丁目」停留所が最寄りとなる。 2008年4月26日から2012年3月19日までは、観光路線バス「東京→夢の下町」(S-1系統)が乗り入れていた。 墨38系統は2015年3月31日をもって廃止され、墨田区内循環バス「すみだ百景 すみまるくん・すみりんちゃん」南部ルート が「国技館・水上バス乗り場」や「両国駅西口(回向院入口)」に停車するようになった。
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"JRの駅は東西に出入口があり(階段の位置はホームの両端ではなくやや中央寄り)、駅舎は高架下にある。ホーム横にはターミナル駅の面影を残す駅舎とホームが残されている。この旧駅舎コンコースを利用し、居酒屋チェーン「はなの舞」の独自業態「大江戸八百八町・花の舞 両国国技館前店」が営業していたが閉店(後に清澄通り沿い錦糸町方の高架下に「両国八百八町・花の舞 江戸東京博物館前店」として移転)。閉店後の旧駅舎を改装して2016年11月25日に複合飲食施設「-両国- 江戸NOREN」が開業した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "都営大江戸線の駅はJR駅の東側を通る清澄通り(東京都道463号上野月島線)の地下に建設され、出口もその両側に設置されている。JR総武線と都営大江戸線の乗り換えはJR駅の東口から乗り換えるが、駅間がかなり離れている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "総武線各駅停車用の島式ホーム1面2線の電車ホームと、単式ホーム1面1線の列車ホームを有する高架駅である。電車ホームから一段低い高さに列車ホームがある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "千葉支社管轄で錦糸町営業統括センター管内の直営駅で、副所長兼駅長が配置されており、管理駅として浅草橋駅を管理する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "近くに大相撲興行などが開催される両国国技館があることにちなみ、西口の駅入口にある駅名表示は根岸流の書体で「両国駅」と書かれ、西口改札横には優勝額が展示されている。また、西口改札を入ってすぐの所にはタイルの色が違う所があり、これはよく見ると土俵の形になっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "当駅北側には、東京駅方面へ直通する総武快速線・総武トンネルの入口がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2008年9月2日に発車メロディとスピーカーが変更された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "西口には、バリアフリー施設としてエスカレーターやエレベーターなどを併設している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "当駅は開業当初東京都心のターミナル駅の一つとして機能していたことから、総武快速線東京駅(総武トンネル)開業前、長らく房総方面への中・長距離列車の発着ホームとして広い構内設備を持っていた。列車ホームは当初は3 - 6番線の2面4線の櫛型形状であり、その北側に広大な留置線と貨物設備を有していた。この縮小部分には後に両国国技館や江戸東京博物館が建設されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "JR発足当初は特急「あやめ」「すいごう」の発着があり、総武快速線の団体列車がここで折り返すことも多かった。また2010年3月12日までは、旅客以外の定期列車として内房・外房線沿線の新聞販売店や主要駅のキヨスク向けに夕刊を発送する新聞輸送列車が1日1本、3番線ホームから発車していた。しかし1991年(平成3年)3月15日に特急列車の乗り入れが終了し、使わなくなった4 - 6番線は今現在、保線基地となっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "一方3番線ホームは2008年秋の観光キャンペーン「ぐるっと ゆめ半島ちば」を機に全面リニューアルされた。同年11月29日発の「快速 ぐるっと ゆめ半島1号」より使用を開始し、列車発着時間帯以外はホーム自体をイベントスペースとして貸し出している。また、2017年から毎年夏に、味の素冷凍食品がイベント「ギョーザステーション」を開催している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "なお、2018年1月にはサイクルトレイン「B.B.BASE」専用通路が整備され、道路から直接ホームにアクセスすることが可能となった。また、2020年11月27日 - 11月28日には、成田エクスプレスで使用されるE259系電車を活用したテレワーク空間の実証実験が実施された(事前予約制)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "島式ホーム1面2線を有する地下駅である。「江戸東京博物館前」の副名称が設定されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "(出典:東京都交通局:構内立体図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗降人員は下表の通りである(JRを除く)。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "各年度の1日平均乗車人員は下表の通りである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "大相撲の興行施設である両国国技館(上の写真の緑の屋根の建物)が駅の近くにあるほか、江戸時代には勧進相撲が執り行われた両国回向院が駅の南側にあり、相撲部屋や力士サイズの服を取り扱う洋品店などがあるなど相撲の街として全国に知られている。1909年竣工の旧・両国国技館は回向院の境内にあったが、第二次大戦後の蔵前国技館使用期を挟んで、1985年に竣工した現・両国国技館は駅の北側に位置している。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "駅北側には、国技館に隣接して東京都江戸東京博物館(2022年4月1日より長期休館中)がある(江戸東京博物館にはJR駅より都営地下鉄駅の方が近い)。前述の通り、かつては貨物駅があり、総武快速線建設に伴い貨物駅が閉鎖された後には国鉄バスの東京自動車営業所(後のジェイアールバス関東東京支店)があったが、現在は江東区塩浜の越中島貨物駅周辺に移転し、その跡地に両国国技館が建設されている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "国技館の北隣には旧安田庭園および刀剣博物館がある。庭園の西側には隅田川が流れ、川岸に首都高速6号向島線の高架が建設されている。同高速はほぼ南北に伸び、JR駅の西側で総武線の上を通る。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "旧安田庭園の東側、江戸東京博物館の北側には2004年にNTTドコモ墨田ビルという超高層ビルが竣工した。ここには「NTTドコモ歴史展示スクエア」というショールームがあり、過去のNTTドコモなどの携帯電話端末などを一堂に見ることができる。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "旧安田庭園の北東側、NTTドコモ墨田ビルの北側、清澄通りと蔵前橋通りに面した角の一角には都立横網町公園がある。ここには関東大震災で多数の犠牲者を出した陸軍本所被服廠跡地で(震災当時は既に「跡地」であった)、都立公園の中でも慰霊を目的とした特異な存在である。敷地内には震災犠牲者や東京大空襲犠牲者などを祀る東京都慰霊堂や震災復興記念館、東京空襲犠牲者追悼碑などが建てられており、毎年3月10日(東京大空襲忌日)と9月1日(関東大震災忌日)には慰霊法要が営まれる。この横網町公園へはJR駅より都営地下鉄の駅の方が近い。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "JR東口から南に向かって京葉道路(国道14号)を越え、さらに南に少々入った辺りに本所松坂町公園(吉良上野介の屋敷跡・忠臣蔵の討ち入りの舞台)がある。さらにその近くの両国公園には「勝海舟生誕の地」碑がある他、附近には江戸から明治期の著名人の足跡(芥川龍之介生育の地など)が数多くある。また、駅南東側一帯は池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の主要な舞台になったことでも知られている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "JR西口から南側に向かうと、京葉道路との交点(両国二丁目交差点)の南側に再開発地域の複合ビル「両国シティコア」があり、内部に劇場「シアターΧ」(シアターカイ)が運営されている。旧・両国国技館はここに位置していた。シティコアの南側に両国回向院があり、そこからさらに南に進むと竪川と首都高速7号小松川線の高架橋が東西方向へ伸びる。同高速は隅田川岸に作られた両国ジャンクションで6号向島線から分離しているが、当駅近辺には両路線とも出入口は設置されていない。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "最寄りのバス停留所は、JR西口、両国ビューホテル前付近の「両国駅前」、京葉道路沿いの「両国駅入口」、都営大江戸線の駅近辺、清澄通り上の「都営両国駅前」の3箇所であり、都営バスと京成バス、東武バスセントラル、日の丸自動車興業によって運行されている。都営バスの詳細は江東営業所・江戸川営業所・臨海支所の記事を参照のこと。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "JR両国駅にバスが乗り入れたのは平23乙系統(現在の上23系統)の頃からである。その後、門33・錦27系統の両国駅行設定(その後錦27系統は全便が当駅までに短縮)墨38系統(東京都リハビリテーション病院行)の新設などによって様々な系統が乗り入れて来るようになる。しかし、ターミナルとしては中途半端であったことも影響して、平23乙系統は1990年11月には上37系統と経路交換のうえ上野松坂屋へ向かうこととなって当駅には来なくなり(上37系統は当駅ではなく隣の錦糸町駅に向かう錦37系統となる)、また、門33系統には豊海水産埠頭からの両国駅前折り返し便が設定され、草28系統も神田駅まで運行していたが、いずれも都営大江戸線の開業により廃止、草28系統も当駅までに短縮、両28系統となった。錦27系統はかつて京成バスと共同で運行していた。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "一方、「都営両国駅前」停留所は都営大江戸線の開業に伴って改称されたものである。大江戸線の駅が開業する前までは「横網一丁目」、さらに墨田区役所が横網一丁目(現在の国際ファッションセンタービル一帯)から現在地(リバーピア吾妻橋)に移転するまでは「墨田区役所前」を名乗っていた。また、移動も頻繁に行われており、「横網一丁目」時代の停留所の位置は亀戸駅方面が国際ファッションセンター前(現在郵便ポストがある場所)、豊海水産埠頭前方面はそのほぼ向かい(たい焼き屋の斜め前)と、現在の場所よりもかなり北方にあった。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "なお、「両国駅前」停留所はJRの駅よりさらに西にある。京葉道路を経由する両28・錦27両系統の錦糸町駅方面行へ都営大江戸線から乗り換える場合、「両国駅前」よりもA5出口から左に歩いて交差点を左折したところにある「緑一丁目」停留所が最寄りとなる。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2008年4月26日から2012年3月19日までは、観光路線バス「東京→夢の下町」(S-1系統)が乗り入れていた。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "墨38系統は2015年3月31日をもって廃止され、墨田区内循環バス「すみだ百景 すみまるくん・すみりんちゃん」南部ルート が「国技館・水上バス乗り場」や「両国駅西口(回向院入口)」に停車するようになった。", "title": "バス路線" } ]
両国駅(りょうごくえき)は、東京都墨田区横網一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。墨田区最西端の駅。
{{Otheruses|東京都墨田区にある東日本旅客鉄道(JR東日本)と東京都交通局の駅|静岡県榛原郡川根本町にある大井川鐵道井川線の駅|川根両国駅}} {{駅情報 |駅名 = 両国駅 |画像 = Ryogoku-station new.jpg |pxl = 300 |画像説明 = JR西口(2016年12月) |地図={{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300 |marker=rail|marker2=rail-metro |coord={{coord|35|41|46|N|139|47|33|E}}|title=JR 両国駅 |coord2={{coord|35|41|48.7|N|139|47|50.8|E}}|title2=都営地下鉄 両国駅 |marker-color=008000|marker-color2=ce045b |frame-latitude=35.696644|frame-longitude=139.795115}} |よみがな= りょうごく |ローマ字= Ry&#333;goku |所在地 = [[東京都]][[墨田区]][[横網]]一丁目 |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[東京都交通局]]([[#東京都交通局|駅詳細]])}} }} '''両国駅'''(りょうごくえき)は、[[東京都]][[墨田区]][[横網]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])の[[鉄道駅|駅]]である。墨田区最西端の駅。 == 乗り入れ路線 == JR東日本の[[総武本線]](支線)、東京都交通局の[[都営地下鉄大江戸線]]が乗り入れ、接続駅となっているが、一番近い出口同士でも300 [[メートル|m]]余り離れている。 * JR東日本:[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車) - 駅番号「'''JB 21'''」 * 東京都交通局:[[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 都営大江戸線 - 駅番号「'''E 12'''」 JR東日本の駅は、定期列車は[[急行線|緩行線]]を走る[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]]のみが停車する。この他、[[千葉駅|千葉]]方面の[[急行線|快速線]]に接続している列車ホーム([[#JR東日本|後述]])が存在するが、現在は臨時列車のみに使用される。 また、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」に属する。 == 歴史 == 当駅は、千葉県方面への鉄道を建設した私鉄であった[[総武鉄道 (初代)|総武鉄道]]が[[1904年]](明治37年)[[4月5日]]に「両国橋駅」として開業させた<ref name="RP828_78">[[#RP828|『鉄道ピクトリアル』通巻828号]]、p.78。</ref>。総武鉄道は[[市川駅]]より東側の区間を先に開業させており、そこから西へ東京へ向かって順次建設を進めてきた。そして、本所駅(後の錦糸町駅)から両国橋駅までの区間が都心側で最後に開業した。この当時、本所から両国橋までの沿線はすでに市街地になっており、盛土・高架とすることを条件に免許が出された<ref name="RP828_78" />。会社側は建設費のかかる高架線を避けようと、地上の線路に変更しようとする工作をしたが、結局煉瓦造りの橋脚の上に鉄桁を載せた形状の高架橋を約1.5&nbsp;kmに渡って建設して開業することになった<ref name="RP828_78" />。これは日本の鉄道で最初の高架区間であった。当初は単線で開業したが、最初から橋脚は複線用に準備されており、[[1906年]](明治39年)[[8月19日]]に複線化された<ref name="RP828_78" />。この高架橋の関係で、[[列車便所|垂れ流し式のトイレ]]からの汚物が沿線に被害を及ぼすことを避けるために、本所より西側ではトイレの使用が禁止されていた<ref name="RP828_78" />。 総武鉄道の力では隅田川を渡る橋を建設することが難しかったこともあり、両国橋駅は総武鉄道の都心側のターミナルとして機能するようになった。当初の駅舎建物は駅の西側に建てられており、木造2階建てで面積170坪(約562平方メートル)、建設費は約9,000円であった。また、脇に同じく木造2階建ての総武鉄道本社も建てられていた<ref name="RP828_79">[[#RP828|『鉄道ピクトリアル』通巻828号]]、p.79。</ref>。プラットホームは全長212&nbsp;mあり、その先の東側にも地下道を通じて亀沢町方面への出口が造られていた<ref name="RP828_79" />。隅田川からの[[運河]]が構内に掘られ<ref name="RP828_79" />、水運との連絡が行われるようになっていた。貨物営業は[[1904年]](明治37年)[[9月1日]]に開始された<ref name="RP828_79" />。 また、吾妻橋駅(現在の[[とうきょうスカイツリー駅]])をターミナルとしていた[[東武鉄道]]も[[東武亀戸線|亀戸線]]を建設して総武鉄道に乗り入れるようになり、両国橋駅は開業と同時に房総方面だけではなく北関東方面へのターミナルとしても機能するようになった<ref name="RP828_80">[[#RP828|『鉄道ピクトリアル』通巻828号]]、p.80。</ref>。このために吾妻橋駅は一時廃止されるが、[[1907年]](明治40年)9月1日に総武鉄道が国有化されて国鉄となったこともあり、[[1910年]](明治43年)[[3月1日]]に吾妻橋駅を浅草駅に改称して旅客営業が再開され、同年[[3月27日]]に両国橋駅への東武鉄道の列車の乗り入れが廃止された<ref name="RP828_80" />。ただし、貨物列車については、[[1926年]](大正15年)[[7月1日]]に[[小岩駅]]と[[金町駅]]を結ぶ[[新金貨物線]]が開通するまで、東武亀戸線を経由して[[北千住駅]]で常磐線と連絡する運転が継続された<ref name="RP828_80" />。 [[1923年]](大正12年)9月1日に、[[関東大震災]]が発生<ref name="RP828_80" />。駅舎は倒壊しなかったが、駅構内の[[機関車]]5両、[[客車]]94両、[[貨車]]48両が延焼により焼失した<ref name="RP828_80" /><ref>{{Cite book|和書|author=内田宗治|title=関東大震災と鉄道|date=2012-7-25|year=2012|accessdate=2018-5-31|publisher=新潮社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。高架橋も大きな被害を受けて、復旧して運転を再開したのは同年[[10月9日]]のこととなった<ref name="RP828_80" />。バラック立ての仮駅舎を建設して暫定的に営業を行っていたが、増大する旅客・貨物需要を捌ききれなくなったため、[[1929年]](昭和4年)[[12月30日]]に新駅舎が営業を開始した<ref name="RP828_80" />。これは現在供用されている西口駅舎である。この時点で行き止まり式の2面4線の構造となった。駅舎の面積は3,034坪(約10,030平方メートル)であった<ref name="RP828_81">[[#RP828|『鉄道ピクトリアル』通巻828号]]、p.81。</ref>。当時は乗車口と降車口が分離されており、外から駅舎に向かって左側に乗車口、右側に降車口があった。内部には出札口、2等待合室、3等待合室、手荷物カウンターなどが設置されていた<ref name="RP828_81" />。 元々隅田川の両岸を両国(17世紀まで隅田川が[[武蔵国]]と[[下総国]]の境界であったため)と称し、そこに架かる橋を両国橋と呼んでいたことから、橋の近くにある駅を両国橋と名付けたものであったが、次第に隅田川東岸のことを両国と称するようになった<ref name="RP828_81" />。駅名もまた、一般には単に両国駅と呼ばれることが多くなっていた<ref name="RP828_81" />。そこで、[[1931年]](昭和6年)[[10月1日]]に正式に「両国駅」へ改称した<ref name="RP828_81" />。 この頃、房総方面にあった全部で94の駅の中では、東京側のターミナルであった両国駅は乗降客数と収入の面ではぬきんでた1位であり、貨物取扱量も第2位であった。東京の鉄道駅の中では東京、上野、新宿、横浜、新橋に次ぐ第6位の取扱収入で、当時は渋谷や池袋などよりも収入の大きな駅であった。しかし、両国駅より西側の総武本線の建設が行われると、このターミナルとしての繁栄は次第に凋落していくことになった。 関東大震災で焼失した市街地の区画整理が行われたことで線路用地の捻出が可能となり、[[1932年]](昭和7年)7月1日に御茶ノ水までの線路が完成し、総武本線の起点が御茶ノ水に変更された<ref name="RP828_81" />。これにより両国は孤立したターミナルの状態を脱することになった。御茶ノ水と両国の間は電化されて電車が折り返し運転を行うようになり、房総方面への列車の乗換駅となった。これに合わせて、現在も使用されている1・2番線のプラットホームが整備された。地下道で従来の列車用ホームとの連絡がなされ、また電車用のプラットホームへ直接出入りできる改札口が高架下に設けられた。当初は両国より東側はまだ電化されていなかったので、房総方面へは両国駅での乗換を必要としていたが、それでも乗り換えだけの乗客は改札口を通過しないため両国駅の乗降客数や収入は大きく減じることになった。さらに電化が東へ進展して[[1935年]](昭和10年)[[7月1日]]に千葉駅まで完成すると、房総方面の列車が同駅で折り返すものが増え、次第に両国駅の列車ホームで発着する列車は減少していくことになった<ref name="RP828_82">[[#RP828|『鉄道ピクトリアル』通巻828号]]、p.82。</ref>。特に第二次世界大戦後の石炭不足による蒸気機関車牽引列車の減少と房総方面が気動車化の重点線区とされたことで、当駅を始発・終着とする房総方面の列車は2往復まで減少することになった。 しかし外房線・内房線とも千葉から先はまだ非電化であり、[[1958年]](昭和33年)[[7月10日]]から[[気動車]][[準急]]「犬吠」の運転が開始され、その始発・終着駅となった<ref name="RP828_83">[[#RP828|『鉄道ピクトリアル』通巻828号]]、p.83。</ref>。さらに房総方面の準急・急行は増発され、一部総武緩行線経由で新宿方面へ乗り入れる列車もあったものの、多くの優等列車は当駅始発・終着とされた。これにより再び房総方面へのターミナル駅としての地位が高まることになった<ref name="RP828_83" />。特に毎年夏には房総への海水浴客を輸送するための臨時列車が多数設定されて両国駅の列車ホームは賑わった<ref name="RP828_83" />。後に列車ホームは電化された。 次の大きな転機となったのは、[[1972年]](昭和47年)[[7月15日]]の総武本線[[複々線]]化である<ref name="RP828_83" />。東京駅から錦糸町駅までの地下線で[[横須賀・総武快速線|総武快速線]]が建設され、総武線の快速列車が東京駅へ直通するようになった<ref name="RP828_83" />。[[国鉄183系電車|183系]]の特急がこの時より完成した東京地下駅から総武線、内房線、外房線に乗り入れを開始する。この線路は当駅構内の北側を通過してはいるが、急勾配及び急カーブ区間であることから、当駅にホームは設けられなかった<ref name="RP828_83" />。これにより総武快速線の列車は当駅に停まらなくなった<ref name="RP828_83" />。貨物営業も近隣の[[越中島貨物駅|越中島駅]]などへ集約されることになり、物流拠点としての役目を終えた。この時点ではまだ房総方面への急行列車の一部など両国駅発着で残存していた<ref group="注釈">急行列車に使われる車両は[[国鉄165系電車|165系急行用電車]]などの非ATC搭載車だったため、当時保安装置が[[自動列車制御装置|ATC]]だった総武快速線地下区間(東京方面)に入線することができなかった。</ref>が、[[1982年11月15日国鉄ダイヤ改正|1982年(昭和57年)11月15日のダイヤ改正]]により房総方面の急行列車{{Refnest|group="注釈"|1982年11月15日ダイヤ改正による急行列車廃止時点では、急行「外房」2往復と急行「内房」2往復<ref>{{Cite journal|和書|journal=国鉄監修 交通公社の時刻表1982年9月号|publisher=日本交通公社出版|date=1982-09-01|volume=58|issue=第9号(通巻679号)|pages=124 - 128<!--124 - 126頁「内房線」のページと127 - 128頁「外房線」のページ-->}}</ref>。}}は全廃され、特急「[[しおさい (列車)|しおさい]]」[[あやめ (列車)|「あやめ」「すいごう」]]が1日1往復だけ当駅に発着する状態となった<ref name="RP828_84">[[#RP828|『鉄道ピクトリアル』通巻828号]]、p.84。</ref>。[[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]のダイヤ改正でしおさい・すいごうが、[[1991年]](平成3年)[[3月16日]]のダイヤ改正であやめの発着も終了し、当駅は総武線各駅停車のみが停車する駅となって、現在に至っている<ref name="RP828_84" />。 一方、東京で進んでいた地下鉄網整備の中で、両国地域を通る路線は長く開業していなかったが<ref group="注釈">1962年の[[都市交通審議会答申第6号]]では両国付近を通る10号線(後の8号線)が計画されたが、後にルートを大きく変更して現在の[[東京メトロ有楽町線]]となり、経由地から外れた。なお、隣駅の浅草橋駅には1960年に[[都営地下鉄浅草線]](当時は都営1号線)が開業し、また駅から1kmほど南側には1978年に[[都営地下鉄新宿線]][[森下駅 (東京都)|森下駅]]が開業している。</ref>、2000年に都営大江戸線の駅が開業し、両国から地下鉄の利用が可能となった。 <gallery> Soubu_railway_Kamezawacho_overpass.jpg|亀沢町高架橋を行く総武鉄道の列車(1906年頃) Ryogoku_station_after_great_Kanto_earthquake.jpg|関東大震災で被災した両国駅構内 Ryogoku_station_completed_in_1929.jpg|1929年に完成した両国駅舎(全体)と初代の両国駅舎(右上) Ryogoku Station, 1935.jpg|1935年のホーム </gallery> === 年表 === * [[1904年]]([[明治]]37年) ** [[4月5日]]:総武鉄道のターミナル駅として開業<ref name="RP828_78" /><ref name="sone26">{{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線|pages=16-19|date=2010-01-17}}</ref>。当時は'''両国橋駅'''(りょうごくばしえき)と称す<ref name="sone26" />。また、東武鉄道の列車も亀戸線経由で当駅に乗り入れ、東京側のターミナルとした<ref name="sone26" />。 ** [[9月1日]]:貨物営業開始<ref name="RP828_79" />。 * [[1906年]](明治39年)[[8月19日]]:本所までの区間が複線化<ref name="RP828_78" />。 * [[1907年]](明治40年)9月1日:総武鉄道の[[鉄道国有法]]に基づく国有化で、国有鉄道の駅となる<ref name="RP828_80" /><ref name="sone26" />。 * [[1910年]](明治43年)[[3月27日]]:東武鉄道の浅草駅(現在のとうきょうスカイツリー駅)の営業再開により、東武鉄道の列車の乗り入れを廃止<ref name="RP828_80" /><ref name="sone26" />。 * [[1923年]]([[大正]]12年) ** 9月1日:関東大震災で被災、駅舎焼失<ref name="RP828_80" /><ref name="sone26" /><ref name="JTB_122-123" />。 ** [[10月9日]]:震災の被害を復旧し、運転を再開<ref name="RP828_80" /><ref name="sone26" />。 * [[1929年]]([[昭和]]4年)[[12月30日]]:現西口駅舎使用開始<ref name="RP828_80" /><ref name="JTB_122-123">{{Cite book|和書|author=三好好三|title=総武線 120年の軌跡 東京・千葉を走る列車と駅のあゆみ|others=|publisher=[[JTBパブリッシング]]|date=2014-03-01|isbn=9784533096310|pages=122-123}}</ref>。 * [[1931年]](昭和6年)[[10月1日]]:'''両国駅'''に改称<ref name="RP828_81" /><ref name="sone26" /><ref name="JTB_122-123" />。 * [[1932年]](昭和7年)[[7月1日]]:御茶ノ水駅までの[[電車線・列車線|電車線]]開業<ref name="RP828_81" /><ref name="sone26" /><ref name="JTB_122-123" />。 * [[1958年]](昭和33年)[[7月10日]]:準急「犬吠」運転開始<ref name="RP828_83" /><ref name="sone26" />。 * [[1969年]](昭和44年) ** [[8月20日]]:当駅発勝浦行き客221レ蒸気機関車による最終運用<ref name="RP828_83" />。これを最後に東京都23区内発着の蒸気機関車牽引による客車列車が全廃(その後も貨物列車は翌年度まで存続)<ref name="RP828_83" />。 ** 10月1日:貨物配達取扱を廃止。 * [[1970年]](昭和45年)7月1日:貨物営業廃止<ref name="JTB_122-123" />。 * [[1972年]](昭和47年)[[7月15日]]:[[総武本線]]複々線化および[[東京駅|東京]] - [[錦糸町駅|錦糸町]]間開業により[[総武快速線]]の運転開始<ref name="RP828_83" /><ref name="sone26" />。 * [[1982年]](昭和57年)[[11月15日]]:この日のダイヤ改正により房総方面の急行が全廃され<ref name="sone26" />、当駅列車ホームを発車する列車が激減する<ref name="RP828_84" />。[[特別急行列車|特急]]「[[しおさい (列車)|しおさい]]」[[あやめ (列車)|「あやめ」「すいごう」]]の各1往復が設定される<ref name="RP828_84" />。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref name="sone26" />。 * [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]:特急「しおさい」「すいごう」の乗り入れ終了<ref name="RP828_84" />、両国発着の特急はあやめ1往復のみとなる。 * [[1991年]](平成3年)[[3月16日]]:特急「あやめ」の乗り入れ終了。これにより、定期旅客列車では総武線各駅停車のみが停車する駅となる<ref name="RP828_84" />。 * [[1996年]]([[平成]]8年)[[8月2日]]:旧駅舎を改装し「ビヤステーション両国」が開業<ref group="新聞">{{Cite news|title=両国駅旧駅舎 ビアレストランに変身 JR東日本 900席、都内最大規模|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通新聞社|date=1996-08-02|page=3}}</ref>。 * [[1998年]](平成10年):「[[関東の駅百選]]」に選定される<ref name="stations"/>。選定理由は「鉄筋2階建ての駅舎で相撲とともに歩んだ下町の代表となる駅」<ref name="stations">{{Cite book|和書|author=(監修)「鉄道の日」関東実行委員会|title=駅の旅物語 関東の駅百選|publisher=[[人文社]]|date=2000-10-14|pages=14-15,227|edition=初版|isbn=4795912807}}</ref>。 * [[2000年]](平成12年)[[12月12日]]:都営大江戸線の駅が開業<ref name="RJ704_78-86">{{Cite journal|和書|author=平野元哉(東京都交通局建設工務部計画課)|title=大江戸線の構想から完成まで|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2001-07-10|volume=51|issue=第7号(通巻第704号)|pages=78 - 86|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:東京都交通局でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-06|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2008年]](平成20年)[[11月29日]]:列車ホーム(3番線)の改修完了による使用開始<ref group="報道" name="pr20081110"/>。 * [[2010年]](平成22年)[[3月12日]]:新聞輸送列車の乗り入れを終了<ref group="新聞" name="news20100306">{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100306/trd1003060825005-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100309103904/http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100306/trd1003060825005-n1.htm|title=さらば新聞輸送列車 JR両国-千葉、12日で最後|newspaper=産経新聞|date=2010-03-06|accessdate=2020-11-26|archivedate=2010-03-09}}</ref><ref group="新聞" name="news20100209">{{Cite news|url=https://www.47news.jp/CN/201002/CN2010020901000115.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100323010712/https://www.47news.jp/CN/201002/CN2010020901000115.html|title=新聞専用列車、3月で幕 経費削減「時代の流れ」|newspaper=共同通信|date=2010-02-09|accessdate=2020-11-26|archivedate=2010-03-23}}</ref>。3番線ホームの定期列車の発着がなくなる<ref group="新聞" name="news20100306"/><ref group="新聞" name="news20100209"/>。 * [[2016年]](平成28年)[[11月25日]]:旧駅舎を再改装し、複合飲食施設「-両国-江戸NOREN」が開業<ref group="報道" name="release20161028">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrtk.jp/topics/wp-content/uploads/2016/10/87f29e6ca7f73dd8612739959a1467d3-1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190726114447/http://www.jrtk.jp/topics/wp-content/uploads/2016/10/87f29e6ca7f73dd8612739959a1467d3-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2016年11月25日(金)11:00JR両国駅旧駅舎に「-両国- 江戸 NOREN」が誕生します!|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社/ジェイアール東日本都市開発|date=2016-10-28|accessdate=2020-04-21|archivedate=2019-07-26}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)[[1月6日]]:当駅発着の[[サイクルトレイン]]「[[BOSO BICYCLE BASE]]」が運行開始<ref group="報道" name="release20171222" />。同時に道路から改札を通らずに当駅3番線へ直接向かえる「B.B.BASE」専用通路の使用を開始<ref group="報道" name="release20171222">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1712_bbbase.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190209232055/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1712_bbbase.pdf|format=PDF|language=日本語|title=サイクリストの移動基地 B.B.BASE 始動!!! 2018年1月6日出発イベントについて|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2017-12-22|accessdate=2020-04-21|archivedate=2019-02-09}}</ref>。 * [[2021年]]([[令和]]3年) ** [[1月31日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref name="green">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1691|title=駅の情報(両国駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2020-12-23|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201222075624/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1691|archivedate=2020-12-22}}</ref><ref name="Close">{{Cite web|和書|url=http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5ee35ca713626c791fc49a36.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613144739/http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5ee35ca713626c791fc49a36.pdf|title=営業施策について説明を受ける!|archivedate=2020-06-13|date=2020-06-12|accessdate=2020-06-13|publisher=JR東労組千葉地方本部|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 ** [[3月1日]]:JR東日本の東口が[[駅集中管理システム|駅遠隔操作システム]]導入に伴い終日無人化<ref name="Close" />。 ** [[7月16日]] - [[9月30日]]:[[2020年東京オリンピック・パラリンピック]]開催に伴い、都営地下鉄の駅において副名称「'''国技館'''」および特別[[発車メロディ#接近メロディ|接近メロディ]](『Make The Beat!』プロジェクトの「2020ビート」<!--makethebeat.tokyo2020.org の利用規約および各種配信での楽曲タイトルに基づく-->のアレンジ)を期間限定で使用<ref>{{Cite web|和書|title=東京2020大会の開催にあわせて、副名称及び列車接近メロディを使用します|publisher=東京都交通局|date=2021-07-15|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2021/sub_i_2021071510013_h.html|accessdate=2021-07-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210715072816/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2021/sub_i_2021071510013_h.html|archivedate=2021-07-15}}</ref>。 === 駅名の由来 === 元来、両国とは[[両国橋]]を挟んだ[[隅田川]]の両岸を指す地名であった(隅田川西岸は<small>旧</small>日本橋両国)<ref name="RP828_81" />。しかし、総武鉄道は当初隅田川の東岸までの開通に留まったため、両国橋の東、東両国に両国橋駅を開業し、後に両国駅と改称した。駅名の影響に両国国技館の開設も加わり、現在では両国という地名は専ら両国橋の東の地域に対して用いられる。{{main2|地名の詳細|両国 (墨田区)}} == 駅構造 == JRの駅は東西に出入口があり(階段の位置はホームの両端ではなくやや中央寄り)、駅舎は高架下にある。ホーム横には[[ターミナル駅]]の面影を残す駅舎とホームが残されている。この旧駅舎コンコースを利用し、[[居酒屋]]チェーン「[[チムニー (居酒屋)|はなの舞]]」の独自業態「大江戸八百八町・花の舞 両国国技館前店」が営業していたが閉店(後に清澄通り沿い錦糸町方の高架下に「両国八百八町・花の舞 江戸東京博物館前店」として移転)。閉店後の旧駅舎を改装して[[2016年]][[11月25日]]に複合飲食施設「-両国- 江戸NOREN」が開業した<ref group="報道" name="release20161028" /><ref group="新聞">朝日新聞「日本酒 飲むなら東京産でしょ」売り込みの動き盛ん、「酒造」-オフィス街のビルで醸造([[東京港醸造]])、「小売」-都内10ヵ所の酒がずらり(都内にある酒造10ヵ所の酒を販売する「東京商店」が、JR両国駅舎内の商業施設「-両国-江戸NOREN」に2016年(平成28年)11月にオープンした)、「行政」-「酒どころ多摩」PR、2017年4月14日。</ref>。 <gallery> Ryōgoku Station-2.jpg|「-両国-江戸 NOREN」エントランス(2017年6月) </gallery> 都営大江戸線の駅はJR駅の東側を通る[[清澄通り]]([[東京都道463号上野月島線]])の地下に建設され、出口もその両側に設置されている。JR総武線と都営大江戸線の乗り換えはJR駅の東口から乗り換えるが、駅間がかなり離れている。 === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = JR 両国駅{{Refnest|group="*"|[[1931年]](昭和6年)[[10月1日]]に両国橋駅から改称<ref name="RP828_81" />。}} |画像 = Ryogoku Platform3.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 3番線ホーム(2007年4月) |よみがな = りょうごく |ローマ字 = Ry&#333;goku |前の駅 = JB 20 [[浅草橋駅|浅草橋]] |駅間A = 0.8 |駅間B = 1.5 |次の駅 = [[錦糸町駅|錦糸町]] JB 22 |駅番号 = {{駅番号r|JB|21|#ffd400|1}} |キロ程 = 1.5&nbsp;km([[錦糸町駅|錦糸町]]起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から35.9 |起点駅 = |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]<br />(線路名称上は[[総武本線]]の支線) |電報略号 = レウ |所在地 = [[東京都]][[墨田区]][[横網]]一丁目3-20 |座標 = {{coord|35|41|46|N|139|47|33|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 両国駅}} |開業年月日 = [[1904年]]([[明治]]37年)[[4月5日]]<ref name="RP828_78" /><ref name="sone26" /> |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面3線 |廃止年月日 = |乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />31,301 |統計年度 = 2022年 |備考 = {{Plainlist| * [[直営駅]]([[管理駅]]) * [[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[特定都区市内|東京都区内]]駅}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} 総武線各駅停車用の[[島式ホーム]]1面2線の電車ホームと、[[単式ホーム]]1面1線の列車ホームを有する[[高架駅]]である。電車ホームから一段低い高さに列車ホームがある。 千葉支社管轄で錦糸町営業統括センター管内の[[直営駅]]で、副所長兼駅長が配置されており、管理駅として[[浅草橋駅]]を管理する。 近くに[[大相撲]]興行などが開催される[[両国国技館]]があることにちなみ、西口の駅入口にある駅名表示は[[根岸流 (書風)|根岸流]]の書体で「両国駅」と書かれ、西口改札横には[[優勝額]]が展示されている。また、西口改札を入ってすぐの所には[[タイル]]の色が違う所があり、これはよく見ると[[土俵]]の形になっている<ref name="RF364_140">{{Cite journal|和書|author=吉川文夫|date=1991-08-01|title=下を向いて歩こう -路上観察学:鉄道のマーク-|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=31|issue=第8号(通巻364号)|pages=140-141|oclc=61102288|publisher=[[交友社]]}}</ref>。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、JR東日本の「駅構内図」の記載に準拠--> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan=2|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車) |style="text-align:center"|西行 |[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[新宿駅|新宿]]・[[中野駅 (東京都)|中野]]方面<ref name="stations/1691">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/estation/stations/1691.html|title=駅構内図(両国駅)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-08-03}}</ref> |- !2 |style="text-align:center"|東行 |[[錦糸町駅|錦糸町]]・[[市川駅|市川]]・[[船橋駅|船橋]]・[[千葉駅|千葉]]方面<ref name="stations/1691" /> |- !3 |colspan="3"|{{Color|#0067c0|■}}団体・臨時ホーム(総武快速線千葉方面と接続) |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1691.html JR東日本:駅構内図]) * 1番線の案内の一部に、当駅からは物理的に直通していない[[東京駅]]・[[上野駅]]の表記があるが、両駅へ行く場合は[[秋葉原駅]]での乗り換えが必要となる。 * 3番線は定期列車としては回送列車が1日1本乗り入れる<ref group="注釈">この列車は、津田沼駅方面から回送で当駅に乗り入れ、当駅で方向転換して錦糸町駅の留置線へ引き上げて留置される。</ref>のみで、定期旅客列車の発着はなく、通常は立ち入りができない<ref name="RP828_85">[[#RP828|『鉄道ピクトリアル』通巻828号]]、p.85。</ref>。なお、新宿方面から総武線千葉方面に乗り入れる特急などはすべて1・2番線を通過する。 当駅北側には、[[東京駅]]方面へ直通する[[横須賀・総武快速線#総武快速線新設(複々線化)|総武快速線・総武トンネル]]の入口がある。 2008年[[9月2日]]に[[発車メロディ]]とスピーカーが変更された。 西口には、[[バリアフリー]]施設として[[エスカレーター]]や[[エレベーター]]などを併設している。 <gallery> JR Ryogoku sta 003.jpg|東口(2010年7月) Ryōgoku Station 2012.JPG|リニューアル前の西口(2012年5月) JR Sobu-Main-Line Ryogoku Station East Gates.jpg|東口改札(2019年6月) JR Sobu-Main-Line Ryogoku Station West Gates.jpg|西口改札(2019年6月) JR Sobu-Main-Line Ryogoku Station Platform 1・2 (20191130).jpg|1・2番線ホーム(2019年11月) Ryogoku Station, Platform 3.jpg|3番線ホーム(2022年2月) Ryōgoku Station-5.jpg|構内の「両国ステーションギャラリー」(2017年6月) </gallery> ==== ターミナル駅としての地位低下 ==== 当駅は開業当初東京都心の[[ターミナル駅]]の一つとして機能していたことから、総武快速線[[東京駅]](総武トンネル)開業前、長らく房総方面への中・長距離列車の発着ホームとして広い構内設備を持っていた<ref name="RP828_78" />。列車ホームは当初は3 - 6番線の2面4線の櫛型形状であり、その北側に広大な留置線と貨物設備を有していた<ref name="RP828_84" />。この縮小部分には後に[[両国国技館]]や[[東京都江戸東京博物館|江戸東京博物館]]が建設されている<ref name="JTB_122-123" />。 JR発足当初は[[特別急行列車|特急]]「[[あやめ (列車)|あやめ]]」「[[あやめ (列車)|すいごう]]」の発着があり、総武快速線の団体列車がここで折り返すことも多かった。また[[2010年]][[3月12日]]までは、旅客以外の定期列車として内房・外房線沿線の[[新聞販売店]]や主要駅の[[キヨスク]]向けに[[夕刊]]を発送する[[荷物列車#新聞輸送列車|新聞輸送列車]]が1日1本、3番線ホームから発車していた<ref group="新聞" name="news20100306"/><ref group="新聞" name="news20100209"/>。しかし[[1991年]](平成3年)[[3月15日]]に特急列車の乗り入れが終了し<ref name="RP828_84" />、使わなくなった4 - 6番線は今現在、保線基地となっている<ref name="RP828_85" />。 一方3番線ホームは[[2008年]]秋の観光キャンペーン「ぐるっと ゆめ半島ちば」を機に全面リニューアルされた。同年[[11月29日]]発の「快速 ぐるっと ゆめ半島1号」より使用を開始し<ref group="報道" name="pr20081110">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrchiba.jp/news/pdf/20081110ryougoku.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130512173706/http://www.jrchiba.jp/news/pdf/20081110ryougoku.pdf|format=PDF|language=日本語|title=両国駅臨時列車用ホームをリニューアルします!|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2008-11-10|accessdate=2020-04-19|archivedate=2013-05-12}}</ref>、列車発着時間帯以外はホーム自体をイベントスペースとして貸し出している<ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/83988/3|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211031123229/https://trafficnews.jp/post/83988/3|title=JR両国駅「幻のホーム」はなぜ生まれた? ターミナルの痕跡、いまはイベント会場に|date=2019-03-08|archivedate=2021-10-31|accessdate=2021-10-31|website=乗りものニュース|deadlinkdate=}}</ref>。また、2017年から毎年夏に、[[味の素冷凍食品]]がイベント「[[餃子|ギョーザ]]ステーション」を開催している<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/amp/301915|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190918031352/https://toyokeizai.net/articles/amp/301915|title=駅で「焼き餃子」、ホームで食べると実にウマい JR両国駅「幻の3番線」で今年も開催|date=2019-09-15|publisher=東洋経済新報社|work=東洋経済オンライン|accessdate=2020-11-26|archivedate=2019-09-18}}</ref>。 なお、2018年1月には[[サイクルトレイン]]「[[BOSO BICYCLE BASE|B.B.BASE]]」専用通路が整備され、道路から直接ホームにアクセスすることが可能となった<ref group="報道" name="release20171222" />。また、2020年[[11月27日]] - [[11月28日]]には、[[成田エクスプレス]]で使用される[[JR東日本E259系電車|E259系電車]]を活用した[[テレワーク]]空間の実証実験が実施された(事前予約制)<ref group="報道" name="pre2011_nextere">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre2011_nextere.pdf|title=両国駅3番線にて「N'EX でテレワーク!」を実施します! ~臨時ホームと鉄道車両を活用したシェアオフィス実証実験~|format=PDF|language=日本語|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2020-11-18|accessdate=2020-11-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201118065844/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre2011_nextere.pdf|archivedate=2020-11-18}}</ref>。 <gallery> Ryougoku-sta IMG 0671 1.JPG|3番線停車中の新聞輸送列車と総武線の各駅停車(2007年8月) </gallery> === 東京都交通局 === {{駅情報 |社色 = #009f40 |文字色 = |駅名 = 東京都交通局 両国駅 |画像 = |pxl = |画像説明 = |よみがな = りょうごく |ローマ字 = Ryogoku |電報略号 = 両(駅名略称) |副駅名 = 江戸東京博物館前 |所属事業者= [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]]) |所在地 = [[東京都]][[墨田区]][[横網]]一丁目4-29 |座標 = {{coord|35|41|48.7|N|139|47|50.8|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=都営地下鉄 両国駅}} |開業年月日 = [[2000年]]([[平成]]12年)[[12月12日]]<ref name="RJ704_78-86" /> |廃止年月日 = |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線<ref name="RJ704_78-86" /> |乗降人員 = <ref group="都交" name="toei2022" />28,397 |統計年度 = 2022年 |所属路線 = {{color|#ce045b|●}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] |前の駅 = E 11 [[蔵前駅|蔵前]] |駅間A = 1.2 |駅間B = 1.0 |次の駅 = [[森下駅 (東京都)|森下]] E 13 |駅番号 = {{駅番号r|E|12|#ce045b|4}}<ref name="tokyosubway" /> |キロ程 = 11.7 |起点駅 = [[都庁前駅|都庁前]] |乗換 = |備考 = [[業務委託駅]] }} 島式ホーム1面2線を有する[[地下駅]]である<ref name="RJ704_78-86" />。「'''江戸東京博物館前'''」の副名称が設定されている<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|title=都営交通お客様センター等に寄せられたお客様の声(令和3(2021)年12月分)|publisher=東京都交通局|date=2022-02|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/enq/customer/pdf/customer-december_r03.pdf|accessdate=2023-01-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230104064608/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/enq/customer/pdf/customer-december_r03.pdf|archivedate=2023-01-04}}</ref>。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/oedo/E12BD.html |title=両国 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-04}}</ref> |- !1 |rowspan="2"|[[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 都営大江戸線 |[[飯田橋駅|飯田橋]]・[[都庁前駅|都庁前]]方面 |- !2 |[[大門駅 (東京都)|大門]]・[[六本木駅|六本木]]方面 |} (出典:[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/ryogoku.html 東京都交通局:構内立体図]) <gallery> Toei Ryogoku-STA Platform1-2.jpg|ホーム(2023年3月) </gallery> {{clear}} == 利用状況 == * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''31,301人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。 * '''都営地下鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''28,397人'''(乗車人員:14,307人、降車人員:14,090人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。 *: 開業前は1日あたり約5,000人の乗車人員が見込まれていた<ref name="subway1212">{{Cite web|和書|url=http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/topics/topics01-80.htm |title=大江戸線国立競技場~六本木~上野御徒町~都庁前間の開業について |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20001018231543/http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/topics/topics01-80.htm |archivedate=2000-10-18 |deadlinkdate=2022-11-15 }}</ref>が、当初から予想を上回っており、2013年度には14,000人を越えた。 === 年度別1日平均乗降人員 === 近年の1日平均'''乗降'''人員は下表の通りである(JRを除く)。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+各年度の1日平均乗降人員<ref group="統計">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="統計" name="sumida">[https://www.city.sumida.lg.jp/kuseijoho/sumida_info/gyoseikisoshiryo/index.html 行政基礎資料集] - 墨田区</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|都営地下鉄 |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |2003年(平成15年) |20,722 |2.6% |- |2004年(平成16年) |21,192 |2.3% |- |2005年(平成17年) |22,097 |4.3% |- |2006年(平成18年) |23,955 |8.6% |- |2007年(平成19年) |25,894 |8.1% |- |2008年(平成20年) |26,789 |3.5% |- |2009年(平成21年) |26,788 |0.0% |- |2010年(平成22年) |27,318 |2.0% |- |2011年(平成23年) |26,616 |&minus;2.6% |- |2012年(平成24年) |27,812 |4.5% |- |2013年(平成25年) |28,702 |3.2% |- |2014年(平成26年) |29,556 |3.0% |- |2015年(平成27年) |31,472 |6.5% |- |2016年(平成28年) |32,739 |4.0% |- |2017年(平成29年) |33,839 |3.4% |- |2018年(平成30年) |35,313 |4.4% |- |2019年(令和元年) |36,066 |2.1% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="都交" name="toei2020" />24,875 |&minus;31.0% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="都交" name="toei2021" />25,852 |3.9% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="都交" name="toei2022" />28,397 |9.8% |} === 年度別1日平均乗車人員(1900年代 - 1930年代) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通りである。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !総武鉄道 /<br/>国鉄 !出典 |- |1904年(明治37年) |<ref group="備考">1904年4月5日開業。開業日から翌年3月31日までの計361日間を集計したデータ。</ref>1,785 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806584/212?viewMode= 明治37年]</ref> |- |1905年(明治38年) |2,230 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806585/195?viewMode= 明治38年]</ref> |- |1907年(明治40年) |1,773 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806587/192?viewMode= 明治40年]</ref> |- |1908年(明治41年) |3,247 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806589/103?viewMode= 明治41年]</ref> |- |1909年(明治42年) |3,127 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806591/107?viewMode= 明治42年]</ref> |- |1911年(明治44年) |2,936 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/132?viewMode= 明治44年]</ref> |- |1912年(大正元年) |2,699 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/134?viewMode= 大正元年]</ref> |- |1913年(大正{{0}}2年) |2,511 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/127?viewMode= 大正2年]</ref> |- |1914年(大正{{0}}3年) |2,548 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/387?viewMode= 大正3年]</ref> |- |1915年(大正{{0}}4年) |2,381 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/348?viewMode= 大正4年]</ref> |- |1916年(大正{{0}}5年) |2,534 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref> |- |1919年(大正{{0}}8年) |4,437 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/266?viewMode= 大正8年]</ref> |- |1920年(大正{{0}}9年) |5,310 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/302?viewMode= 大正10年]</ref> |- |1922年(大正11年) |7,052 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/304?viewMode= 大正11年]</ref> |- |1923年(大正12年) |7,990 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/295?viewMode= 大正12年]</ref> |- |1924年(大正13年) |9,020 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/293?viewMode= 大正13年]</ref> |- |1925年(大正14年) |9,224 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/327?viewMode= 大正14年]</ref> |- |1926年(昭和元年) |9,559 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/317?viewMode= 昭和元年]</ref> |- |1927年(昭和{{0}}2年) |10,163 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/315?viewMode= 昭和2年]</ref> |- |1928年(昭和{{0}}3年) |10,646 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/347?viewMode= 昭和3年]</ref> |- |1929年(昭和{{0}}4年) |10,448 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/335?viewMode= 昭和4年]</ref> |- |1930年(昭和{{0}}5年) |19,616 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/340?viewMode= 昭和5年]</ref> |- |1931年(昭和{{0}}6年) |10,624 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/343?viewMode= 昭和6年]</ref> |- |1932年(昭和{{0}}7年) |12,552 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/316?viewMode= 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |13,480 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/334?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |14,215 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/342?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |15,128 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/340?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !国鉄 /<br />JR東日本 !都営地下鉄 !出典 |- |1953年(昭和28年) |24,022 |rowspan="47" style="text-align:center"|未<br />開<br />業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 13ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |24,265 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 10ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |25,753 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 10ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |28,268 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 10ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |28,435 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 10ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |29,172 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 10ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |30,871 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |32,745 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |33,997 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |36,707 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |38,700 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |41,081 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |42,595 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |42,470 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |45,386 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |45,838 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |40,540 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |39,638 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |39,456 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |38,584 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |37,121 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |37,775 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |36,986 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |38,282 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |38,129 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |36,795 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |35,970 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |34,715 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |33,934 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |33,156 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |32,664 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |33,326 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |34,830 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |34,877 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |34,995 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |35,833 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |36,488 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |38,641 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |40,956 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |43,721 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |47,441 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |44,649 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |43,639 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |43,386 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |42,041 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |41,619 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>40,977 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>40,892 |<ref group="備考">2000年12月12日開業。開業日から翌年3月31日までの計110日間を集計したデータ。</ref>7,518 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="sumida" /> !年度!!JR東日本!!都営地下鉄!!出典 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>39,106 |9,403 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>39,078 |10,438 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>38,826 |10,667 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>38,548 |10,909 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>38,047 |11,288 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>39,406 |12,254 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>39,811 |13,106 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>39,969 |13,538 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>39,371 |13,488 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>38,733 |13,735 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>37,926 |13,384 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_01.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>37,961 |13,957 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_01.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>37,996 |14,384 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_01.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>37,813 |14,800 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_01.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>38,901 |15,769 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_01.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>39,902 |16,398 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_01.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>39,768 |16,949 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_01.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>39,862 |17,698 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_01.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>39,148 |18,078 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_01.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>26,938 |<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104153832/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2021-11-04 |deadlinkdate=2022-11-12}}</ref>12,486 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>28,236 |<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221112011444/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2022-11-12 |deadlinkdate=}}</ref>12,999 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>31,301 |<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102231721/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |archivedate=2023-11-03 }}</ref>14,307 | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == [[大相撲]]の興行施設である[[両国国技館]](上の写真の緑の屋根の建物)が駅の近くにあるほか、[[江戸時代]]には勧進相撲が執り行われた[[回向院|両国回向院]]が駅の南側にあり、相撲部屋や力士サイズの服を取り扱う洋品店などがあるなど[[相撲]]の街として全国に知られている。[[1909年]]竣工の旧・両国国技館<ref group="注釈">戦後に[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ) が接収し、その後は[[1982年]]まで[[日本大学]]講堂として使用されたが、翌[[1983年]]に解体された。</ref>は回向院の境内にあったが、第二次大戦後の[[蔵前国技館]]使用期を挟んで、[[1985年]]に竣工した現・両国国技館は駅の北側に位置している。 駅北側には、国技館に隣接して[[東京都江戸東京博物館]](2022年4月1日より長期休館中)がある(江戸東京博物館にはJR駅より都営地下鉄駅の方が近い)。前述の通り、かつては貨物駅があり、総武快速線建設に伴い貨物駅が閉鎖された後には[[国鉄バス]]の東京自動車営業所(後の[[ジェイアールバス関東東京支店]])があったが、現在は[[江東区]][[塩浜 (江東区)|塩浜]]の[[越中島貨物駅]]周辺に移転し、その跡地に両国国技館が建設されている。 国技館の北隣には[[旧安田庭園]]および[[刀剣博物館]]がある。庭園の西側には[[隅田川]]が流れ、川岸に[[首都高速6号向島線]]の高架が建設されている。同高速はほぼ南北に伸び、JR駅の西側で総武線の上を通る。 旧安田庭園の東側、江戸東京博物館の北側には[[2004年]]に[[NTTドコモ墨田ビル]]という超高層ビルが竣工した。ここには「[[NTTドコモ歴史展示スクエア]]」というショールームがあり、過去の[[NTTドコモ]]などの携帯電話端末などを一堂に見ることができる。 旧安田庭園の北東側、NTTドコモ墨田ビルの北側、清澄通りと蔵前橋通りに面した角の一角には都立[[横網町公園]]がある。ここには[[関東大震災]]で多数の犠牲者を出した[[陸軍]]本所[[被服廠]]跡地で(震災当時は既に「跡地」であった)、都立公園の中でも慰霊を目的とした特異な存在である。敷地内には震災犠牲者や[[東京大空襲]]犠牲者などを祀る[[東京都慰霊堂]]や震災復興記念館、東京空襲犠牲者追悼碑などが建てられており、毎年[[3月10日]](東京大空襲忌日)と[[9月1日]](関東大震災忌日)には慰霊法要が営まれる。この横網町公園へはJR駅より都営地下鉄の駅の方が近い。 JR東口から南に向かって[[京葉道路]]([[国道14号]])を越え、さらに南に少々入った辺りに[[本所松坂町公園]]([[吉良義央|吉良上野介]]の屋敷跡・[[忠臣蔵]]の討ち入りの舞台)がある。さらにその近くの両国公園には「[[勝海舟]]生誕の地」碑がある他、附近には江戸から[[明治]]期の著名人の足跡([[芥川龍之介]]生育の地など)が数多くある。また、駅南東側一帯は[[池波正太郎]]の小説「[[鬼平犯科帳]]」の主要な舞台になったことでも知られている。 JR西口から南側に向かうと、京葉道路との交点(両国二丁目交差点)の南側に再開発地域の複合ビル「両国シティコア」があり、内部に劇場「[[シアターΧ]]」(シアターカイ)が運営されている。旧・両国国技館はここに位置していた。シティコアの南側に両国回向院があり、そこからさらに南に進むと[[竪川 (東京都)|竪川]]と[[首都高速7号小松川線]]の高架橋が東西方向へ伸びる。同高速は隅田川岸に作られた[[両国ジャンクション]]で6号向島線から分離しているが、当駅近辺には両路線とも出入口は設置されていない。 === 横網(駅北側) === {{columns-list|2| * [[両国国技館]] ** [[相撲博物館]] ** 相撲診療所 * [[東京都江戸東京博物館]](2022年4月1日より長期休館中) * パールホテル両国 * [[旧安田庭園]] * [[刀剣博物館]] - [[両国公会堂]]の跡地に建設された。 * [[すみだ北斎美術館]] * [[NTTドコモ墨田ビル]] ** [[NTTドコモ歴史展示スクエア]] * 都立[[横網町公園]] ** [[東京都慰霊堂]] ** 東京都復興記念館 * 国際ファッションセンタービル ** [[第一ホテル両国]] * [[同愛記念病院]] * [[日本大学第一中学校・高等学校]] * [[安田学園中学校・高等学校]] * [[墨田区立両国中学校]] |}} === 両国(駅南側) === {{columns-list|2| * 両国ビューホテル(旧:ザ・ホテル ベルグランデ) * リバーホテル両国 * 両国シティコア ** [[シアターΧ]](シアターカイ) * [[回向院#両国回向院|両国回向院]] * [[本所松坂町公園]] * 吉良邸跡([[吉良義央|吉良上野介]]の屋敷跡・[[忠臣蔵]]の討ち入りの舞台) * [[墨田区立両国小学校]] * 江戸NOREN |}} == バス路線 == 最寄りの[[バス停留所]]は、JR西口、両国ビューホテル前付近の「'''両国駅前'''」、京葉道路沿いの「'''両国駅入口'''」、都営大江戸線の駅近辺、清澄通り上の「'''都営両国駅前'''」の3箇所であり、[[都営バス]]と[[京成バス]]、[[東武バスセントラル]]、[[日の丸自動車興業]]によって運行されている。都営バスの詳細は[[都営バス江東営業所|江東営業所]]・[[都営バス江戸川営業所|江戸川営業所]]・[[都営バス臨海支所|臨海支所]]の記事を参照のこと。 JR両国駅にバスが乗り入れたのは平23乙系統(現在の[[都営バス青戸支所#上23系統|上23系統]])の頃からである。その後、門33・錦27系統の両国駅行設定(その後錦27系統は全便が当駅までに短縮)墨38系統([[東京都リハビリテーション病院]]行)の新設などによって様々な系統が乗り入れて来るようになる。しかし、ターミナルとしては中途半端であったことも影響して、平23乙系統は1990年11月には上37系統と経路交換のうえ上野松坂屋へ向かうこととなって当駅には来なくなり(上37系統は当駅ではなく隣の[[錦糸町駅]]に向かう錦37系統となる)、また、門33系統には[[豊海町 (東京都中央区)|豊海水産埠頭]]からの両国駅前折り返し便が設定され、草28系統も[[神田駅 (東京都)|神田駅]]まで運行していたが、いずれも都営大江戸線の開業により廃止、草28系統も当駅までに短縮、両28系統となった。錦27系統はかつて[[京成バス]]と共同で運行していた。 一方、「都営両国駅前」停留所は都営大江戸線の開業に伴って改称されたものである。大江戸線の駅が開業する前までは「横網一丁目」、さらに[[墨田区役所]]が横網一丁目(現在の国際ファッションセンタービル一帯)から現在地([[リバーピア吾妻橋]])に移転するまでは「墨田区役所前」を名乗っていた。また、移動も頻繁に行われており、「横網一丁目」時代の停留所の位置は亀戸駅方面が国際ファッションセンター前(現在郵便ポストがある場所)、豊海水産埠頭前方面はそのほぼ向かい(たい焼き屋の斜め前)と、現在の場所よりもかなり北方にあった。 なお、京葉道路を経由する両28・錦27系統の東行へ都営大江戸線から乗り換える場合、「両国駅前」よりもA5出口から左に歩いて交差点を左折したところにある「緑一丁目」停留所が最寄りとなる。 [[2008年]][[4月26日]]から[[2012年]][[3月19日]]までは、[[都営バス#観光路線バス「東京→夢の下町」|観光路線バス「東京→夢の下町」(S-1系統)]]が乗り入れていた。 墨38系統は2015年3月31日をもって廃止され、墨田区内循環バス「すみだ百景 すみまるくん・すみりんちゃん」南部ルート が「国技館・水上バス乗り場」や「両国駅西口(回向院入口)」に停車するようになった。 <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !colspan="4"|両国駅前 |- !1 |rowspan="2" style="text-align:center;"|都営バス |{{Unbulleted list|[[都営バス江戸川営業所#錦27系統|'''錦27''']]:[[小岩駅|小岩駅前]]|[[都営バス臨海支所#両28系統|'''両28''']]:葛西橋・[[都営バス臨海支所|臨海車庫]]}} |&nbsp; |- !2 |'''両28''':臨海車庫 |日中の1本のみ運行 |- !colspan="4"|両国駅入口 |- !- |style="text-align:center;"|都営バス |{{Unbulleted list|'''錦27''':小岩駅前|'''両28''':葛西橋・臨海車庫}} |&nbsp; |- !colspan="4"|都営両国駅前 |- !- |style="text-align:center;"|都営バス |{{Unbulleted list|[[都営バス江東営業所#門33系統|'''門33''']]:豊海水産埠頭 / [[亀戸駅|亀戸駅前]]|'''錦27'''・'''両28''':両国駅前}} |&nbsp; |- !colspan="4"|都営両国駅(江戸東京博物館前) |- !- |style="text-align:center;"|[[墨田区内循環バス]]「[[京成バス奥戸営業所#墨田区「すみだ百景 すみまるくん・すみりんちゃん」|すみだ百景 すみまるくん・すみりんちゃん]]」<br />(京成バス) |[[墨田区内循環バス#南部ルート|'''南部ルート''']]:弥勒寺前・墨田区役所方面 |&nbsp; |- !colspan="4"|国技館・水上バス乗り場 |- !- |style="text-align:center;"|墨田区内循環バス「すみだ百景 すみまるくん・すみりんちゃん」<br />(京成バス) |'''南部ルート''':弥勒寺前・墨田区役所方面 |&nbsp; |- !colspan="4"|両国駅西口(回向院入口) |- !- |style="text-align:center;"|墨田区内循環バス「すみだ百景 すみまるくん・すみりんちゃん」<br />(京成バス) |'''南部ルート''':弥勒寺前・墨田区役所方面 |&nbsp; |- !colspan="4"|両国駅入口<ref group="注釈">[[国道14号]](京葉道路)沿いに設置。</ref> |- !- |style="text-align:center;"|[[東武バス|東武バスセントラル]] |[[東京国際空港|羽田空港]] |朝1本のみ運行<ref group="注釈">最寄りの路線バス停留所は「両国駅入口」ではなく、都営バス「両国四丁目」となる。[http://www.keikyu-bus.co.jp/topics/2019/0312_1615.html 羽田空港 ⇔ 錦糸町駅・東京スカイツリータウン線の停留所新設について] - 京浜急行バス(2019年3月12日リリース・これに大まかな地図が載っている)</ref> |- !colspan="4"|両国・江戸東京博物館前<ref group="注釈">国道14号(京葉道路)沿いに設置。上記の「両国駅入口」バス停に同居。</ref> |- !- |style="text-align:center;"|「スカイホップバス」<br />[[日の丸自動車興業]] |'''レッドコース''':丸の内三菱ビル前方面([[日の丸自動車興業]]) |&nbsp; |} === 水上バス === * 両国発着場 ** [[東京水辺ライン]] == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) :* 臨時快速「B.B.BASE」発着駅 : [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車) :: [[浅草橋駅]] (JB 20) - '''両国駅 (JB 21)''' - [[錦糸町駅]] (JB 22) ; 東京都交通局(都営地下鉄) : [[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 都営大江戸線 :: [[蔵前駅]] (E 11) - '''両国駅 (E 12)''' - [[森下駅 (東京都)|森下駅]] (E 13) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==== 報道発表資料 ==== {{Reflist|group="報道"}} ==== 新聞記事 ==== {{Reflist|group="新聞"}} ==== 利用状況に関する出典 ==== ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|23em}} ;東京都交通局 各駅乗降人員 {{Reflist|group="都交"|3}} ; JR・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="統計"}} ; 東京府統計書 {{Reflist|group="東京府統計"|17em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|author=白土貞夫|date=2010-01-01|title=房総へのターミナル 両国駅のいまむかし|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|publisher=[[電気車研究会]]|volume=60|issue=第1号(通巻第828号)|pages=78 - 85|issn=0040-4047|ref=RP828}} == 関連項目 == {{commonscat|Ryōgoku Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[両国 (東京都)|両国]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1691|name=両国}} ** [http://www.jrtk.jp/edonoren/ -両国-江戸NOREN] * [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/ryogoku.html 両国駅 | 都営地下鉄 | 東京都交通局] {{中央・総武緩行線}} {{都営地下鉄大江戸線}} {{関東の駅百選}} {{DEFAULTSORT:りようこく}} [[Category:日本の鉄道駅 り|ようこく]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:中央・総武緩行線]] [[Category:総武鉄道の鉄道駅]] [[Category:都営地下鉄の鉄道駅]] [[Category:墨田区の鉄道駅]] [[Category:両国|りようこくえき]] [[Category:1904年開業の鉄道駅]] [[Category:1929年竣工の日本の建築物|りようこくえき]] [[Category:西洋館|りようこくえき]]
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浅草橋駅
浅草橋駅(あさくさばしえき)は、東京都台東区浅草橋一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。台東区の駅で最も南に位置する。 JR東日本の総武本線の支線(運転系統は中央・総武線各駅停車)と、都営地下鉄の浅草線が乗り入れ、接続駅となっている。JR東日本の駅は特定都区市内制度における「東京都区内」に属する。JR中央・総武線各駅停車の駅には「JB 20」、都営地下鉄浅草線の駅には「A 16」の駅番号がそれぞれ付与されている。 相対式ホーム2面2線を有する高架駅である。東西に出口があり都営地下鉄浅草線とは東口での乗り換えとなる。当駅より千葉方面は千葉支社の管轄である。 JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している錦糸町営業統括センター(両国駅)管理の業務委託駅。 開業以来エスカレーターとエレベーターは設置されておらず、車椅子利用者のために係員の付き添いのもとで利用できる階段昇降機が東口側階段に設置されているだけだったが、2016年3月26日には西口改札とホームを結ぶエレベーターの使用が開始され、深夜および早朝に閉鎖されていた西口も終日営業となった(ただし始発 - 6時30分頃及び20時50分 - 21時50分頃は係員不在)。東口のバリアフリー化は、駅周辺のまちづくりに併せて整備を進める予定である。トイレは東口・西口とも改札内にある。 自動改札機が設置されているが、東口では隅田川花火大会が開催される日に、臨時で簡易Suica改札機が設置される。 台東区唯一のJR総武線の駅、また台東区最南端の駅でもある。 (出典:JR東日本:駅構内図) 島式ホーム1面2線を有する地下駅である。ホーム階(地下2階)と改札階(地下1階)の間にはエスカレーターとエレベーターが設置されている。コンコースにはだれでもトイレが設置されている。また、A1出入口にはエレベーターも併設されている。 ホームの西馬込方はカーブにかかっており、ドアとホームの間が広く開いている。 門前仲町駅務管区浅草橋駅務区として、浅草橋駅 - 押上駅間の各駅を管理している(ただし押上駅は京成電鉄の管轄駅である)。 (出典:東京都交通局:構内立体図) 近年の1日平均乗降人員の推移は下表の通り(JRを除く)。 各年度の1日平均乗車人員は下表の通りである。 近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通り。 JR駅の東口周辺は「久月」や「吉徳」などの人形問屋や模型メーカー・卸、総武線の南側は衣料品といった各種の問屋がそれぞれ集まっており、東京の代表的な問屋街の一つとして知られている。2003年から2012年まで、フランス語によるインターナショナル・スクールであるリセ・フランコ・ジャポネ・ド・東京柳北校が駅西側の旧柳北小学校跡地を利用していた。 駅南の柳橋一丁目は1999年まで花柳界があった。現在も屋形船の発着場がある。駅北の旧茅町は「毎日新聞」発祥の地である。 東口付近の江戸通り上にある都営バスの「浅草橋駅前」停留所と、西口付近にある台東区循環バス「めぐりん」の「浅草橋駅北」停留所、「ぐるーりめぐりん」の「浅草橋地区センター」が最寄りバス停留所となる。 都営バスの「浅草橋」停留所は、当駅から神田川を越えた靖国通りおよび江戸通り上に存在する(馬喰町駅付近)。
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浅草橋駅(あさくさばしえき)は、東京都台東区浅草橋一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。台東区の駅で最も南に位置する。 JR東日本の総武本線の支線(運転系統は中央・総武線各駅停車)と、都営地下鉄の浅草線が乗り入れ、接続駅となっている。JR東日本の駅は特定都区市内制度における「東京都区内」に属する。JR中央・総武線各駅停車の駅には「JB 20」、都営地下鉄浅草線の駅には「A 16」の駅番号がそれぞれ付与されている。
{{出典の明記|date=2012年1月|ソートキー=駅}} {{駅情報 |駅名 = 浅草橋駅 |画像 = Asakusabashi-station-East-gate.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 東口(2019年5月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center |type=point|type2=point |marker=rail|marker2=rail-metro |coord={{coord|35|41|50.5|N|139|47|5.4|E}}|marker-color=008000|title=JR 浅草橋駅 |coord2={{coord|35|41|50.4|N|139|47|10.5|E}}|marker-color2=e83e2f|title2=東京都交通局 浅草橋駅 |frame-latitude=35.697335|frame-longitude=139.785582 }} |よみがな = あさくさばし |ローマ字 = Asakusabashi |所在地 = [[東京都]][[台東区]][[浅草橋 (台東区)|浅草橋]]一丁目 |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[東京都交通局]]([[#東京都交通局|駅詳細]])}} }} '''浅草橋駅'''(あさくさばしえき)は、[[東京都]][[台東区]][[浅草橋 (台東区)|浅草橋]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])の[[鉄道駅|駅]]である。台東区の駅で最も南に位置する。 JR東日本の[[総武本線]]の支線(運転系統は[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]])と、都営地下鉄の[[都営地下鉄浅草線|浅草線]]が乗り入れ、接続駅となっている。JR東日本の駅は[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」に属する。JR中央・総武線各駅停車の駅には「'''JB 20'''」、都営地下鉄浅草線の駅には「'''A 16'''」の[[駅ナンバリング|駅番号]]がそれぞれ付与されている。 == 歴史 == * [[1932年]]([[昭和]]7年)[[7月1日]]:[[総武本線|総武線]]の駅が開業<ref name="sone26">{{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線|pages=17-19|date=2010-01-17}}</ref>。 * [[1960年]](昭和35年)[[12月4日]]:都営地下鉄1号線の駅が開業<ref name="aramashi2020"/>、乗り換え駅となる。 * [[1963年]](昭和38年)[[4月22日]]:国鉄の東口駅舎が完成<ref name="yomiuri19630423">{{Cite news|title=浅草橋駅に総合駅舎 国電と地下鉄の連絡便利に|newspaper=[[読売新聞]]|publisher=[[読売新聞社]]|date=1963-04-23|page=9 朝刊}}</ref>。 * [[1978年]](昭和53年)7月1日:都営地下鉄1号線を[[都営地下鉄浅草線|浅草線]]に改称<ref name="aramashi2020">{{Cite journal|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/service/pdf/kotsu_aramashi_2020.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201109043025/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/service/pdf/kotsu_aramashi_2020.pdf|title=都営交通のあゆみ|date=2020-09|publisher=東京都交通局|journal=都営交通のあらまし2020|format=PDF|page=35|accessdate=2020-11-09 |archivedate=2020-11-09}}</ref>。 * [[1985年]](昭和60年)[[11月29日]]:[[国鉄千葉動力車労働組合]]を支持する[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]が[[国鉄分割民営化]]に反対して駅を占拠・放火するなどの騒乱が発生。当日は国鉄線側が終日客扱いが不能となった(→[[国電同時多発ゲリラ事件]])<ref name="sone26"/>。なお、都営浅草線は平常通り運行していた。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref name="sone26"/>。 * [[2001年]]([[平成]]13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年) ** [[3月18日]]:東京都交通局でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-06|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 ** 4月1日:JR東日本の西口が業務委託化<ref>[http://www.doro-chiba.org/nikkan_dc/n2006_07_12/n6367.htm 「日刊動労千葉」2006年10月23日]</ref>。 * [[2016年]](平成28年) ** [[3月26日]]:JR東日本の西口エレベーターの使用を開始。 ** [[4月1日]]:JR東日本の西口が早朝無人化。 * [[2018年]](平成30年)[[7月1日]]:JR東日本の東口が業務委託化<ref name="2018-04-16"/>。これに伴い[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]となる<ref name="2018-04-16">{{Cite web|和書|url=https://doro-chiba.org/nikkan/%EF%BD%8A%EF%BD%92%E5%8D%83%E8%91%89%E6%94%AF%E7%A4%BE-%E6%B5%85%E8%8D%89%E6%A9%8B%EF%BD%A4%E9%83%BD%E8%B3%80%E3%81%AE%EF%BC%92%E9%A7%85%E5%A4%96%E6%B3%A8%E5%8C%96%E3%82%92%E6%8F%90%E6%A1%88/|title=JR千葉支社 浅草橋、都賀の2駅外注化を提案 4徹、3徹体制の駅も委託対象|accessdate=2020-04-19|publisher=国鉄千葉動力車労働組合|date=2018-04-16|archiveurl=https://archive.fo/lYDxl|archivedate=2018-10-03}}</ref>。 * [[2021年]]([[令和]]3年) ** [[1月31日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref name="green">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=47|title=駅の情報(浅草橋駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2020-12-23|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201222132905/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=47|archivedate=2020-12-22}}</ref><ref name="Close">{{Cite web|和書|url=http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5ee35ca713626c791fc49a36.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613144739/http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5ee35ca713626c791fc49a36.pdf|title=営業施策について説明を受ける!|archivedate=2020-06-13|date=2020-06-12|accessdate=2020-06-13|publisher=JR東労組千葉地方本部|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 ** [[4月26日]]:総武線ホームのホームドアが稼働開始。 == 駅構造 == === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = JR 浅草橋駅 |画像 = |画像説明 = |よみがな = あさくさばし |ローマ字 = Asakusabashi |前の駅 = JB 19 [[秋葉原駅|秋葉原]]{{Refnest|group="*"|この間に[[東日本旅客鉄道首都圏本部|首都圏本部]]と[[東日本旅客鉄道千葉支社|千葉支社]]の[[JR支社境|境界]]あり(当駅から両国寄りは千葉支社管内)。}} |駅間A = 1.1 |駅間B = 0.8 |次の駅 = [[両国駅|両国]] JB 21 |キロ程 = 2.3&nbsp;km([[錦糸町駅|錦糸町]]起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から36.7 |起点駅 = |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]<br />(線路名称上は[[総武本線]]支線) |駅番号 = {{駅番号r|JB|20|#ffd400|1}} |電報略号 = クサ |所在地 = [[東京都]][[台東区]][[浅草橋 (台東区)|浅草橋]]一丁目18番1号 |座標 = {{coord|35|41|50.5|N|139|47|5.4|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 浅草橋駅}} |開業年月日 = {{Nowrap|[[1932年]]([[昭和]]7年)[[7月1日]]}}<ref name="sone26"/> |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面2線 |廃止年月日 = |乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />44,804 |統計年度 = 2022年 |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]] * [[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[特定都区市内|東京都区内]]駅}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} [[相対式ホーム]]2面2線を有する[[高架駅]]である。東西に出口があり都営地下鉄浅草線とは東口での乗り換えとなる。当駅より[[千葉駅|千葉]]方面は[[東日本旅客鉄道千葉支社|千葉支社]]の管轄である。 [[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している錦糸町営業統括センター([[両国駅]])管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]。 開業以来[[エスカレーター]]と[[エレベーター]]は設置されておらず、[[車椅子]]利用者のために係員の付き添いのもとで利用できる階段昇降機が東口側階段に設置されているだけだったが、[[2016年]][[3月26日]]には西口改札とホームを結ぶエレベーターの使用が開始され、深夜および早朝に閉鎖されていた西口も終日営業となった(ただし始発 - 6時30分頃及び20時50分 - 21時50分頃は係員不在)。東口のバリアフリー化は、駅周辺のまちづくりに併せて整備を進める予定である<ref>{{Cite news|url=https://www.kensetsunews.com/archives/559947|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210501153413/https://www.kensetsunews.com/archives/559947|title=協議会設置を検討/東口に商業施設など/台東区の浅草橋駅周辺まちづくり|newspaper=建設通信新聞|date=2021-04-08|accessdate=2021-05-01|archivedate=2021-05-01}}</ref>。[[便所|トイレ]]は東口・西口とも改札内にある。 [[自動改札機]]が設置されているが、東口では[[隅田川花火大会]]が開催される日に、臨時で簡易Suica改札機が設置される。 台東区唯一のJR総武線の駅、また台東区最南端の駅でもある。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車) |style="text-align:center;"|西行 |[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[新宿駅|新宿]]・[[中野駅 (東京都)|中野]]方面 |- !2 |style="text-align:center;"|東行 |[[錦糸町駅|錦糸町]]・[[市川駅|市川]]・[[船橋駅|船橋]]・[[千葉駅|千葉]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/47.html JR東日本:駅構内図]) * [[浅草駅]]周辺でのイベント開催時などで、当駅と浅草駅との混同を防ぐ<ref name="浅草駅">[https://trafficnews.jp/post/127826 「浅草」じゃないです!!「浅草橋」は何が違うのか“悲劇”を防ぐ注意喚起も「乗り物ニュース」2023年9月10日] 2023年10月16日閲覧</ref>ため、改札口には「浅草は東口を降りて地下鉄をご利用ください」<ref name="掲示板">[https://trafficnews.jp/photo/127826 実際の掲示板の画像「乗り物ニュース」2023年9月10日] 2023年10月16日閲覧]</ref>という掲示がされている<ref name="浅草駅" /><ref name="掲示板" /> <gallery> JR Asakusabashi sta 004.jpg|西口(2010年7月) JR Sobu-Main-Line Asakusabashi Station East Gates.jpg|東口改札(2019年6月) JR Sobu-Main-Line Asakusabashi Station West Gates.jpg|西口改札(2019年6月) JR Sobu-Main-Line Asakusabashi Station Platform (20210605).jpg|ホーム(2021年6月) </gallery> === 東京都交通局 === {{駅情報 |社色 = #009f40 |文字色 = |駅名 = 東京都交通局 浅草橋駅 |画像 = |pxl = |画像説明 = |よみがな = あさくさばし |ローマ字 = Asakusabashi |前の駅 = A 15 [[東日本橋駅|東日本橋]] |駅間A = 0.7 |駅間B = 0.7 |次の駅 = [[蔵前駅|蔵前]] A 17 |駅番号 = {{駅番号r|A|16|#ec6e65|4}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref> |所属事業者 = [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]]) |所属路線 = {{color|#ec6e65|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[都営地下鉄浅草線|浅草線]] |電報略号 = 橋(駅名略称) |所在地=[[東京都]][[台東区]][[浅草橋 (台東区)|浅草橋]]一丁目18番11号 |座標 = {{coord|35|41|50.4|N|139|47|10.5|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=都営地下鉄 浅草橋駅}} |キロ程 = 15.2 |起点駅 = [[西馬込駅|西馬込]] |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1960年]]([[昭和]]35年)[[12月4日]]<ref name="aramashi2020"/> |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="都交" name="toei2022" />50,828 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = [[直営駅]]([[管理駅]]) }} [[島式ホーム]]1面2線を有する[[地下駅]]である。ホーム階(地下2階)と改札階(地下1階)の間にはエスカレーターとエレベーターが設置されている。コンコースにはだれでもトイレが設置されている。また、A1出入口にはエレベーターも併設されている<ref>[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/asakusabashi/i/solid.gif 駅立体図]</ref>。 ホームの西馬込方はカーブにかかっており、ドアとホームの間が広く開いている。 [[門前仲町駅|門前仲町]]駅務管区浅草橋駅務区として、浅草橋駅 - [[押上駅]]間の各駅を管理している(ただし押上駅は[[京成電鉄]]の管轄駅である)。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/asakusa/A16SD.html |title=浅草橋 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-05}}</ref> |- !1 |rowspan="2"|[[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] 都営浅草線 |[[西馬込駅|西馬込]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]・[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] [[京急本線|京急線]]方面 |- !2 |[[押上駅|押上]]・[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] [[京成本線|京成線]]・[[File:Number prefix Hokusō.svg|15px|HS]] [[北総鉄道北総線|北総線]]方面 |} (出典:[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/asakusabashi.html 東京都交通局:構内立体図]) * 押上方に両渡り線(非常渡り兼用)と[[引き上げ線]]1本を有し<ref name="RJ704_29">{{Cite journal|和書|author=篠澤政一(東京都交通局電車部運転課)|title=輸送と運転|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2001-07-10|volume=51|issue=第7号(通巻704号)|page=29|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>、押上方面への始発・押上方面からの最終列車の発着駅となっている。また、ダイヤ乱れ時に京急線方面からの列車が折り返すことがあるほか、試運転列車の折り返し駅でもある。なお、開業時は引き上げ線が上り本線となっていたため、現在の上り本線が引き上げ線となっていた。ただし現在は車止めが設置されており、引き上げ線は蔵前方につながっていない。 * [[エアポート快特]]は通常当駅を通過するが、隅田川花火大会が開催される日は臨時に停車する。 <gallery> Toei-Asakusabashi001.jpg|浅草線改札付近(2007年2月) Toei-subway-A16-Asakusabashi-station-platform-20230610-111020.jpg|浅草線ホーム(2023年6月) </gallery> == 利用状況 == * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''44,804人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。 *: 同社の駅の中では[[北浦和駅]]に次いで第93位である。 * '''都営地下鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''50,828人'''(乗車人員:25,715人、降車人員:25,113人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。 *: 浅草線全20駅中第10位。エアポート快特停車駅の[[浅草駅]]よりも多い。2011年度までは減少が続いていたがその後増加に転じた。 === 年度別1日平均乗降人員 === 近年の1日平均'''乗降'''人員の推移は下表の通り(JRを除く)。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|都営地下鉄 |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |2003年(平成15年) |55,492 |&minus;4.4% |- |2004年(平成16年) |54,129 |&minus;2.5% |- |2005年(平成17年) |53,600 |&minus;1.0% |- |2006年(平成18年) |53,758 |0.3% |- |2007年(平成19年) |55,086 |2.5% |- |2008年(平成20年) |54,864 |&minus;0.4% |- |2009年(平成21年) |53,999 |&minus;1.6% |- |2010年(平成22年) |53,966 |&minus;0.1% |- |2011年(平成23年) |52,036 |&minus;3.6% |- |2012年(平成24年) |55,722 |7.1% |- |2013年(平成25年) |56,585 |1.5% |- |2014年(平成26年) |56,949 |0.6% |- |2015年(平成27年) |58,593 |2.9% |- |2016年(平成28年) |59,150 |1.0% |- |2017年(平成29年) |60,454 |2.2% |- |2018年(平成30年) |61,500 |1.7% |- |2019年(令和元年) |60,380 |&minus;1.8% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="都交" name="toei2020" />39,826 |&minus;34.0% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="都交" name="toei2021" />42,918 |7.8% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="都交" name="toei2022" />50,828 |18.4% |} === 年度別1日平均乗車人員(1930年代) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通りである。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !国鉄 !出典 |- |1932年(昭和{{0}}7年) |<ref group="備考">1932年7月1日開業。開業日から翌年3月31日までの計274日間を集計したデータ。</ref>6,818 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |9,087 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |10,753 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |12,041 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !国鉄 /<br />JR東日本 !都営地下鉄 !出典 |- |1953年(昭和28年) |41,104 |rowspan="7" style="text-align:center"|未<br />開<br />業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 13ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |42,120 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 10ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |44,035 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 10ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |46,619 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 10ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |48,430 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 10ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |49,966 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 10ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |52,435 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |55,508 |<ref group="備考">1960年12月4日開業。開業日から翌年3月31日までの計118日間を集計したデータ。</ref>4,957 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |59,393 |7,289 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |64,615 |9,600 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |69,730 |16,201 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |75,343 |21,182 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |78,706 |24,711 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |82,620 |27,364 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |84,791 |29,521 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |85,953 |30,839 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |75,736 |31,329 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |73,167 |34,041 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |72,219 |35,175 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |71,444 |35,575 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |67,351 |33,301 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |67,581 |33,036 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |65,473 |32,178 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |67,142 |32,386 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |64,622 |31,915 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |63,847 |30,532 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |61,175 |28,361 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |56,597 |26,638 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |53,775 |25,534 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |53,430 |24,956 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |52,582 |24,921 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |53,099 |25,112 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |53,077 |25,186 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |54,915 |26,132 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |62,148 |27,298 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |59,011 |28,310 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |59,526 |28,734 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |60,962 |30,104 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |64,669 |33,104 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |66,471 |29,118 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |65,551 |34,282 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |63,605 |33,712 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |62,943 |32,956 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |62,614 |32,849 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |61,080 |32,540 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |59,490 |32,003 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>58,658 |30,825 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>57,537 |29,962 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref> !年度!!JR東日本!!都営地下鉄!!出典 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>56,602 |29,173 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>56,594 |29,162 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>55,414 |27,970 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>54,405 |27,208 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>54,178 |26,915 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>54,322 |27,019 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>54,894 |27,691 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>54,347 |27,656 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>53,612 |27,206 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>53,014 |27,182 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>51,475 |26,265 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>52,259 |27,939 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>53,327 |28,410 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>53,432 |28,651 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>53,954 |29,521 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>54,070 |29,740 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>54,593 |30,341 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>55,061 |30,951 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>53,911 |30,364 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>38,059 |<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104153832/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2021-11-04 |deadlinkdate=2022-11-12}}</ref>20,016 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>40,001 |<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221112011444/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2022-11-12 |deadlinkdate=}}</ref>21,614 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/ 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>44,804 |<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102231721/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |archivedate=2023-11-03 }}</ref>25,715 | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == [[File:Asakusabashi.jpg|thumb|総武線高架下の商店]] JR駅の東口周辺は「[[久月]]」や「[[吉徳]]」などの人形問屋や模型メーカー・[[卸売|卸]]、総武線の南側は衣料品といった各種の[[問屋]]がそれぞれ集まっており、東京の代表的な[[問屋街]]の一つとして知られている。2003年から2012年まで、フランス語による[[インターナショナル・スクール]]である[[リセ・フランコ・ジャポネ・ド・東京]]柳北校が駅西側の旧柳北小学校跡地を利用していた。 {{columns-list|2| * [[神田川 (東京都)|神田川]] ** [[浅草橋]](駅名の由来。神田川に架かる最後から二番目の橋梁) ** [[柳橋 (神田川)|柳橋]](神田川に架かる最下流の橋梁) * [[隅田川]] ** [[両国橋]] * [[国道6号]]([[江戸通り]]) * [[国道14号]]([[京葉道路]]) * [[東京都道302号新宿両国線]](靖国通り) * [[台東区立浅草中学校]] * [[開智日本橋学園中学・高等学校]] * [[東京都立忍岡高等学校]] * [[みずほ銀行]] 浅草橋支店 * [[三菱UFJ銀行]] 浅草橋支店 * [[千葉興業銀行]] 東京支店 * [[総武快速線]][[馬喰町駅]]6番出入口まで徒歩5分ほど |}} 駅南の[[柳橋 (台東区)|柳橋]]一丁目は[[1999年]]まで[[花街|花柳界]]があった。現在も[[屋形船]]の発着場がある。駅北の旧茅町は「[[毎日新聞]]」発祥の地である。 == バス路線 == 東口付近の江戸通り上にある[[都営バス]]の「'''浅草橋駅前'''」停留所と、西口付近にある[[めぐりん (台東区)|台東区循環バス「めぐりん」]]の「'''浅草橋駅北'''」停留所、「ぐるーりめぐりん」の「'''浅草橋地区センター'''」が最寄り[[バス停留所]]となる。 都営バスの「'''浅草橋'''」停留所は、当駅から神田川を越えた靖国通りおよび江戸通り上に存在する([[馬喰町駅]]付近)。 <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先 |- !colspan="3"|浅草橋駅前 |- !1 |rowspan="2" style="text-align:center;"|都営バス |{{Unbulleted list|[[都営バス南千住営業所#東42系統|'''東42-1''']]:[[東京駅のバス乗り場|東京駅八重洲口]]|'''東42-2''':[[東神田]]}} |- !2 |'''東42-1'''・'''東42-2''':[[南千住駅|南千住駅西口]]・南千住車庫前 |- !colspan="3"|浅草橋駅北 |- !- |style="text-align:center;"|台東区循環バス<br />「[[めぐりん (台東区)#南めぐりん|南めぐりん]]」 |[[蔵前駅|大江戸線蔵前駅]]・[[田原町駅 (東京都)|田原町駅]]・生涯学習センター北方面(循環) |- !colspan="3"|浅草橋地区センター |- !- |style="text-align:center;"|台東区循環バス<br />「[[めぐりん (台東区)#ぐるーりめぐりん|ぐるーりめぐりん]]」 |三井記念病院・[[上野駅|上野駅入谷口]]・[[三ノ輪駅]]・吉原大門・清川一丁目・[[浅草駅]]方面(循環) |} == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車) ::: [[秋葉原駅]] (JB 19) - '''浅草橋駅 (JB 20)''' - [[両国駅]] (JB 21) ; 東京都交通局(都営地下鉄) : [[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] 都営浅草線 :: {{Color|#ef7a00|■}}[[エアポート快特]] ::; 通過 :: {{Color|#ef454a|■}}エアポート快特以外の[[列車種別]] ::: [[東日本橋駅]] (A 15) - '''浅草橋駅 (A 16)''' - [[蔵前駅]] (A 17) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} --> === 出典 === {{Reflist|2}} == 広報資料・プレスリリースなど一次資料 == {{Reflist|group="広報"}} === 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エタノール
エタノール(英: ethanol)は、アルコールの一種。揮発性の無色液体で、特有の芳香を持つ。別名はエチルアルコール (ethyl alcohol)。酒を酒たらしめる化学成分であり、酒精(しゅせい)とも呼ばれる。その分子は、油になじみやすいエチル基 CH3CH2- と水になじみやすいヒドロキシ基 -OH が結合した構造を持つ。 メタノールなど、他のアルコールが知られる以前から広く用いられてきた物質であり、エチルアルコールを指して単に「アルコール」と呼ぶことも多い。例えば、アルコール発酵で生じるアルコールはエタノールであり、アルコール飲料に含まれるアルコールもエタノールである。変性アルコールは、飲用への転用を防ぐために、毒性の強いメタノールや苦味の強いイソプロパノールが添加されたエタノールである。 発酵により生じたエタノールを蒸留・精製すると、純度が93 %(質量パーセント濃度)のエタノールが得られる。残りの7 %は水分である。この水分を化学処理で取り除いて、エタノールの純度を99.5 %以上にまで高めたものが、無水エタノール(absolute ethanol または anhydrous ethanol)である。 酸化によって、アセトアルデヒド CH3CHO に化学変化し、さらに酸化されると酢酸 CH3COOH になる。空気中で完全燃焼すると、二酸化炭素 CO2 と水 H2O を生じる。殺菌・消毒に用いられるほか、溶剤や燃料として用いられる。 一般的な第一級アルコールとしての性質を持つ。また、炭化水素鎖が2つと充分に短く、親水性のヒドロキシ基の影響が強く出るために、プロトン性の極性溶媒である水と自由な割合で混和することが可能。 そして2つとは言え、疎水性の炭化水素鎖を持っていることから、様々な有機溶媒とも比較的自由な割合で混和することが可能な場合がある。なお、エタノールそれ自体も、れっきとした有機溶媒の1種に数えられ、様々な物質を溶解させる能力を持つ。この他、金属組織を顕微鏡観察しやすくするための腐蝕液の溶媒として用いられる。 エタノールの製造は、主にエチレンと硫酸を反応させて硫酸エチルを生成した後に加水分解する方法で行われていたが、現在はエチレンの水和反応にほぼ置き換わっている。 硫酸エチルを経由する場合は、実験室でエタノールと硫酸を140°C以下に保ちながら穏やかに沸騰させて反応させることにより製造することができる。反応自体は発熱が大きいため、硫酸を滴下するか、よく冷却しながら反応させる必要がある。 こののち水に溶けて、徐々に硫酸とエタノールに分解する。 現在市場に出回っているエタノールは、アルコール発酵によって製造されている。 一部は、化石燃料由来のエチレンの水和反応等の有機合成手法によっても製造される。リン酸を触媒とし、エチレンに高温・高圧の水蒸気を作用させて作る。 エタノールに濃硫酸を混ぜて、130–140 °Cに加熱すると分子間脱水が起こり、ジエチルエーテルが生成する。 また、濃硫酸を混ぜた状態で160–170 °Cに加熱するか、活性アルミナ触媒の存在下で強熱すると、分子内脱水が起こり、エチレンが生成する。 エタノールにある適当な酸化剤 [O] を作用させる、または脱水素反応などを施すとアセトアルデヒドに変わり、さらに強い酸化反応条件下では酢酸まで酸化される。ヒトの肝臓では、アルコール脱水素酵素によりアセトアルデヒドに分解された後、さらにアルデヒド脱水素酵素に分解されて、酢酸として体内に吸収・排出される。 ただしモンゴロイドには、アセトアルデヒドを高い効率で酸化して酢酸にするALDH2の活性の低いヒトや、活性を持たないヒトが、遺伝子多型の影響のため一定の比率で見られる。ALDH2の活性の低いヒトがエタノールを摂取すると、アセトアルデヒドの毒性による害が出やすい。 以上の酸化の過程を簡略した化学反応式で表すと以下のようになる。 エタノールに、金属ナトリウムあるいは水素化ナトリウムを反応させると、水素ガスを発生しながらナトリウムエトキシドを生成する。 エタノールは、第一級アルコールとして唯一 CH3CH(OH)- を構造中に持つため、ヨードホルム反応に対して陽性である。 燃焼時の反応で、二酸化炭素と水が生成する。 水とエタノールの混合液を蒸留によって、2つの成分に完全に分離することはできない。これは水とエタノールが共沸をするためであり、この時の共沸混合物は、エタノールが96 vol%、水が4 vol%であるため、蒸留によって得られるエタノールの最高濃度は、96 vol%である。 ここにペンタンなどの成分が存在すると、始留に水分が集まるようになる。日本薬局方にある「無水エタノール」を作る時は、これら3成分の共沸によって、さらに水分が除かれたのち、分別蒸留でさらに99.5 vol%まで精製される。 エタノールは引火点が低く、非常に燃えやすい。 様々な有機物質を溶解できるほか、1価アルコール類の中では比較的毒性が低いため、溶媒としては特に好んで使われ、溶剤(有機溶媒)、有機合成原料、消毒剤などとして広く使われている。用途別の使用量としては、飲用8 %・工業用15 %・燃料用77 %である(2006年)。 工業用アルコールのうち、天然の原料から作った発酵アルコールは、食品の防腐用、みりんなどの調味料の原料などに使用され、化学合成された合成アルコールは、接着剤、インク、塗料、農薬などに使用される。 飲用(酒類)及び医薬品以外のエタノール(いわゆる工業用アルコール)は、ほとんどが変性アルコールと呼ばれるもので、エタノールにかなりの量あるいは少量のメタノールやイソプロパノールのアルコール類が混入されている。したがって、酒として販売されているもの以外のアルコールを、「エタノール」と表示されているからといって、薄めて飲む行為は極めて危険である。 外用剤や化粧品に用いられている変性アルコールは、変性剤としてメタノールを使用しておらず、有害性はやや低い。酒税を回避するため、メタノールよりは誤飲時の毒性が低いイソプロパノールを数パーセント添加するか、苦味や匂いを付加して、飲用に適さないアルコールとしている。 なお、平成12年(2000年)からアルコール事業法が施行され、許可を取得すれば、酒税相当分の価格を上乗せしていない無変性アルコールを取り扱えるようになった(後述)。 エタノールの利用で最も古いものは、エタノールの含まれた飲料、すなわち酒を飲むことであり、有史以前からの歴史が存在する。 以後長い間、飲料はエタノールの最大の用途となってきたが、2006年には飲料用のエタノール使用は総生産量の8 %にまで低下しており、燃料や工業用に比べ小さなものとなっている。 殺菌消毒用アルコールとして外科用の外傷処置や手術時、生体に対する挿管等での感染症防止のための清拭に幅広く使用される。細菌のほか真菌、ウイルスに対しても効果がある。 内服薬としてはメタノールやエチレングリコールを誤飲した場合の解毒剤として用いられる。ただし解毒とは言っても、エタノールが直接メタノールなどの毒性を減弱させるのではなく、体内でメタノールなどから非常に有害な物質が一気に生成して、生体に大きな打撃を与えるのを防いでいるに過ぎない。以下、メタノールを例にとって説明する。 メタノールの代謝産物(酸化産物)であるホルムアルデヒドやギ酸は、共にヒトにとっては非常に有害で、血中において高濃度になると、失明の原因となる。この時体内にエタノールを共存させると、ヒトの体内では代謝酵素との親和性の関係で、メタノールよりもエタノールの方が酸化されやすいため、エタノールからアセトアルデヒド(有毒)や酢酸(事実上無害)ができやすい状態になり、他方でメタノールの酸化反応は速度が落ちる。これによって、ホルムアルデヒドやギ酸の体内での濃度を上がりにくい状態に保ちながら、ホルムアルデヒドやギ酸や代謝されなかったメタノール自体が体外へと排泄されたり、少しずつ生成するホルムアルデヒドやギ酸が処理されるのを待っているに過ぎない。 したがって、メタノールの摂取量にもよるものの、メタノールとその代謝産物の排泄が終わるまでエタノールを一定量ずつ摂取し続ける必要が出てくる。逆に、エタノールを一気に単回摂取しても効果は限られるし、エタノールの量が過ぎれば、今度はエタノールとその代謝産物による害が出かねないことは留意する必要がある。ただそれでも、家庭においてメタノールを誤飲した場合は、エタノール(酒として市販されている品で構わない)を飲みながら病院を受診するという手は、メタノールとその代謝産物による害を、最小にする応急処置として有用と言える。 殺菌料として食品添加物に用いられる。医薬品である「消毒用アルコール」には、製造販売にかかる免許が必要であるのに対し、そのハードルが無い食品用アルコールは「除菌剤」などと称し、経口摂取の可能性があることから、IPA等が添加されず成分上は飲用可能であっても、後述する特定アルコールとすることで、医薬用より安く販売されていることがあった。しかし2020年の新型コロナウイルスに起因するアルコール製剤の需給逼迫から、これらの大幅な値上がりや品薄、酒造メーカーからの参入といった、業界構造の変化が生じている。 近年、石油の代替燃料としてのエタノールの自動車用燃料用途に注目が集まっている。こうしたエタノール燃料はサトウキビやトウモロコシなどの植物、いわゆるバイオマスから生成されるものであり、バイオマスエタノールとよばれる。 自動車の登場期にすでに燃料として使われており、フォード・モデルTもエタノールの燃料使用が当初は考慮されていた。アメリカ合衆国(米国)では、1920年代にゼネラルモーターズが石油会社と共に(会社の利益となる)有鉛ガソリンの普及を推進するようになったため、以降ほとんど使われなくなった。 フランスでは、1920年代から1950年代頃にかけて砂糖大根で作ったエタノールをガソリンに混ぜて使っていた。石油が安価に手に入るようになると、ほとんどの国ではエタノールを使わなくなった。しかし、ブラジルでは、1973年の石油ショックによる原油価格の高騰に対処するため、政府が1975年からプロアルコール (Proalcool) 政策を実施し、自国で豊富にとれるサトウキビから生産できるエタノールをガソリン代替にすることを進めてきた。1977年にフォルクスワーゲン・ブラジリアを皮切りに導入され、既にブラジルでは年間に販売される新車の半数以上がエタノール燃料に対応した車となっている。2003年よりブラジルでのガソリンに対するエタノール混合率は25 %となっている。 米国でも、1970年代から中西部のとうもろこし生産地帯においてエタノール混合率10 %のガソリン「ガソホール」が販売されてきた。1990年代になると、クリーンエア・アクト(大気浄化法)にもとづき、エタノール混合に優遇措置がなされた。これらは米国では農業生産者が政治に対して力をもっているからなしえたことでもあった。2000年代になり、米国内では、州によって状況が異なるが、通常E10とよばれる10 %混合ガソリンが広く販売されるようになっている。しかし、すべての米国人がその実態を知っているとはいえない程度である。エタノールとガソリンの混合燃料(フレックス燃料)に対応した車(フレックス燃料車)の販売も増加している。通常の米国車は基本的にE10対応となっており、普通にガソリンをいれていると思いながらE10フレックス燃料をいれているようなケースも実際には多く、使用者の意識がなくともフレックスを使用している場合がある。米国ではフレックスに対応している車はE10対応、E25対応とよばれるが、E10対応はすでに標準であり、フォードではE85というような車も販売をはじめている。 日本においては、実験を進めていた経済産業省が、コストの観点から日本国内での生産よりも輸入によることによる普及促進を狙い、2006年(平成18年)2月にブラジルの国営石油会社ペトロブラスと日本の日本アルコール販売の50 %出資で、「日伯エタノール」を設立した。2007年(平成19年)2月時点で経済産業省の政策に対し石油会社の協力が得られておらず、ガソリンとの混合およびその販売にはまだ明確な道筋が立っていない。日本の法制度上では、過去にメタノールが主成分のガイアックスを高濃度アルコール燃料と名指しした上で事実上の販売禁止令を発布した経緯があり、その際に自動車部品への安全性を確保する基準とされた「アルコール添加量3 %以下(E3相当)」という文面が現在でも法的根拠として残り続けていることや、「高濃度アルコール燃料」に対する過度のバッシングによる悪印象が未だ尾を引いている事から、E3以上の濃度のアルコール燃料の普及の目処は全く立っていないことが現状である。 モータースポーツのインディカー・シリーズでは2007年より98 %エタノール燃料(飲用防止と発火を目視できるように2 %のガソリンを混ぜてある)を使用している。 工業的に生産されるエタノールの原料は、主に糖質とデンプン質のものに大別される。糖質原料としてはサトウキビが使用されているが、テンサイが使用されることもある。これらからとれる廃糖蜜(モラセス)も重要な原料のひとつである。デンプン質の原料として最も使用されるものはトウモロコシであり、ほかにソルガム(スイートソルガム)やコムギなどの麦類などの穀物や、ジャガイモやサツマイモといったイモ類が使用される。 このほかにも、炭水化物か糖が含まれていれば、原理的にはエタノールを生成できるため、さまざまな原料が使用されている。酪農においてチーズを製造したのちの乳清(ホエー)にも糖分が含まれているため、ニュージーランドではエタノール原料となっており、また木材パルプ製造後の廃液にも糖分が含まれているため、カナダやロシアで原料として使用されている。このほか、原理的には木材に含まれるセルロースを分解してエタノールを製造することも可能であり、技術自体は確立しているものの、費用面で折り合わず、生産はごく小規模に留まっている。 21世紀に入ってから、特にアメリカ合衆国を中心としてエタノール燃料の需要が急拡大し、エタノール用のトウモロコシ需要は、1998年の1,300万tから2007年には8100万tにまで急拡大するなど、トウモロコシやサトウキビの生産の多くがエタノール生産へと投入されるようになったが、こうした作物ではこれまでの食用・飼料用の需要と食い合う形となったために価格が急騰し、特にトウモロコシを食用として使用していた国家を中心に食糧危機が発生して、2007年-2008年の世界食料価格危機を引き起こした原因のひとつとなったという説もある。 日本では日本薬局方により、純度が規定されている。 一般用医薬品(日本薬局方)のエタノール(第三類医薬品)は、アルコール事業法により酒税相当額の国庫納付金が課されている。節税のため、イソプロパノールを添加したものや変性アルコールを用いたものもあり、塩化ベンザルコニウムを添加して消毒の効力を高めた物もある。 ヒトがエタノールを摂取すると、中枢神経系を抑制する効果により酔いという急性症状が現れる。また、その量が多くなると、中枢神経を抑制するため、呼吸が停止して死亡する。ヒトにおける致死量には個体差が見られるものの、1400 mg/kg 程度、アルコール度数100 %溶液で大人は6–10 mL/kg、小児では3.6 (mL/kg) がヒトのLDLo(最小致死量)。液量に換算すると、30分以内にアルコール度数100 %を大人で250 mL、幼小児だと6–30 mL、消毒用アルコールであれば500 mLを飲み干した場合、急性アルコール中毒で死亡に至る。 飲酒習慣のある人間は、エタノールを繰り返し摂取することになるわけだが、エタノールを長期にわたって摂取し続けると、大脳萎縮が発生する。その他にエタノールには発癌性も指摘されており、IARC発がん性リスク一覧では「グループ1:発がん性がある」と分類されている。そして肝臓にダメージを与え、脂肪肝やアルコール性肝炎、さらには肝硬変やアルコール依存症の原因にもなる。なお妊婦が飲酒した場合は、胎児に影響を及ぼし、例えば胎児性アルコール症候群(FAS)の原因となる。 殺菌・消毒といった外用薬を手指に用いた場合では、人体への影響は無視できるものの、酒税を回避するため、メタノールやイソプロパノールが混入されているものがあり、これらを含む物を飲用すると、失明や胃に穴が空くなど、重篤な症状を引き起こす。 また傷口や粘膜に使用した場合は刺激が強く、痛みを感ずるために、基本的には正常な皮膚にしか使用しない。しかし、エタノールには有機溶剤としての作用があり、皮膚へ塗布した際には皮脂や水分を奪い、蓄積すれば皮膚炎が起きるため、過度な使用は控えること。特にイソプロパノールは、エタノール以上に皮脂を溶出しやすいため、これが混入された物ならば、なおさらである。 日本では消防法により、危険物第4類(アルコール類 危険等級II)に指定されている。航空法においては引火性液体に指定される。 炎が青白色で、日中の太陽光のもとでは見えにくい。2013年8月4日、滋賀県で消火訓練準備中に消防団員が火が消えたことを確認し、エタノールを注ぎ足したところ爆発、女児が火だるまになる事故が起きた。滋賀県警察では、火が消えたことの確認が不充分だったと見ている。 容積比率で1 %以上のエタノールを含む飲料は、酒税法により酒類と呼ばれ、この製造や販売には所轄税務署長の免許(製造免許や販売業免許)が必要である。酒税法では、酒類を製造場から移出するとき、または保税地域から引き取る際に酒税を納めることを義務付けている。同法ではさらに、さまざまな種類の酒類を規定し、種類に応じた税率を定める。20歳未満の飲酒は、二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律によって禁止され、違反者には罰則がある。 工業用に作られたエタノールが酒税法で定める酒類に転用されるのを防ぐために、昭和12年(1937年)に制定された旧アルコール専売法や平成12年(2000年)に制定されたアルコール事業法では、容積比で90 %のエタノールを含むアルコールの製造・使用・流通を制限ないし管理している。 旧アルコール専売法の下では公示価格が設定され、酒類に転用するには高すぎる価格(酒税相当分が加算された価格)で販売された。工業用に使用するアルコールにはこの公示価格は適用されなかったが、その場合は添加物を加えて飲用不可の状態とすること(変性アルコール)が義務づけられていた。 アルコール事業法が施行され、専売制が廃止された後は、変性アルコールでないアルコール(一般アルコール、無変性アルコール、事業法アルコールなどと呼ばれる)も自由に取引できるようになった。ただし、製造・輸入・使用・販売には、経済産業大臣の許可が必要である。なお、製造業者や輸入業者は省令で定められた加算額を含む価格で工業用アルコールを販売することができ、これを特定アルコールという。特定アルコールは許可を受けずに誰でも購入して自由に使用することができる。 工業用アルコールには、その原料・製造方法の違いにより発酵アルコールと合成アルコールの2種類がある。発酵アルコールはサトウキビから作った糖蜜などを原料として、それを発酵させて作る。合成アルコールはエチレンから化学的に合成されたものである。合成アルコールは、旧食品衛生法でいうところの化学的合成品にあたり、食品添加物としてもヒトの食べ物に使用できないと定められている。 エタノールを含有する飲料は、有史以前から世界各地で醸造されてきた。これらの醸造酒から誰が最初にエタノールを単離したのかは、よく分かっていない。一説には、サレルノのサレルヌス(Magister Salernus, 1167年没)がエタノール蒸留の発案者とされる。(偽書との疑いがあるが)フィレンツェのタッデオ・アルデロッティ(英語版)(1295年没)が著したとされる『生命の水の効用について』De virtutibus aquae vitae には、エタノールの蒸留法とその薬用価値が記されている。「生命の水」(aqua vitae) は、中世ヨーロッパにおけるエタノールの呼称である(なお、aqua vitaeの現用フランス語訳であるeau-de-vieは「ブランデー」の意)。火を着ければ燃えることから、「燃える水」(aqua ardens) とも呼ばれた。 タッデオの水冷式蒸留器により得られるエタノールの純度は、90パーセントと推定されている。無水エタノール、すなわち水をほとんど含まない純粋なエタノールは、1796年にペテルブルクのヨーハン・トビアス・ローヴィッツ(ドイツ語版)が初めてつくった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "エタノール(英: ethanol)は、アルコールの一種。揮発性の無色液体で、特有の芳香を持つ。別名はエチルアルコール (ethyl alcohol)。酒を酒たらしめる化学成分であり、酒精(しゅせい)とも呼ばれる。その分子は、油になじみやすいエチル基 CH3CH2- と水になじみやすいヒドロキシ基 -OH が結合した構造を持つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "メタノールなど、他のアルコールが知られる以前から広く用いられてきた物質であり、エチルアルコールを指して単に「アルコール」と呼ぶことも多い。例えば、アルコール発酵で生じるアルコールはエタノールであり、アルコール飲料に含まれるアルコールもエタノールである。変性アルコールは、飲用への転用を防ぐために、毒性の強いメタノールや苦味の強いイソプロパノールが添加されたエタノールである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "発酵により生じたエタノールを蒸留・精製すると、純度が93 %(質量パーセント濃度)のエタノールが得られる。残りの7 %は水分である。この水分を化学処理で取り除いて、エタノールの純度を99.5 %以上にまで高めたものが、無水エタノール(absolute ethanol または anhydrous ethanol)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "酸化によって、アセトアルデヒド CH3CHO に化学変化し、さらに酸化されると酢酸 CH3COOH になる。空気中で完全燃焼すると、二酸化炭素 CO2 と水 H2O を生じる。殺菌・消毒に用いられるほか、溶剤や燃料として用いられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": 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"text": "エタノールに濃硫酸を混ぜて、130–140 °Cに加熱すると分子間脱水が起こり、ジエチルエーテルが生成する。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、濃硫酸を混ぜた状態で160–170 °Cに加熱するか、活性アルミナ触媒の存在下で強熱すると、分子内脱水が起こり、エチレンが生成する。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "エタノールにある適当な酸化剤 [O] を作用させる、または脱水素反応などを施すとアセトアルデヒドに変わり、さらに強い酸化反応条件下では酢酸まで酸化される。ヒトの肝臓では、アルコール脱水素酵素によりアセトアルデヒドに分解された後、さらにアルデヒド脱水素酵素に分解されて、酢酸として体内に吸収・排出される。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ただしモンゴロイドには、アセトアルデヒドを高い効率で酸化して酢酸にするALDH2の活性の低いヒトや、活性を持たないヒトが、遺伝子多型の影響のため一定の比率で見られる。ALDH2の活性の低いヒトがエタノールを摂取すると、アセトアルデヒドの毒性による害が出やすい。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "以上の酸化の過程を簡略した化学反応式で表すと以下のようになる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "エタノールに、金属ナトリウムあるいは水素化ナトリウムを反応させると、水素ガスを発生しながらナトリウムエトキシドを生成する。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "エタノールは、第一級アルコールとして唯一 CH3CH(OH)- を構造中に持つため、ヨードホルム反応に対して陽性である。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "燃焼時の反応で、二酸化炭素と水が生成する。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "水とエタノールの混合液を蒸留によって、2つの成分に完全に分離することはできない。これは水とエタノールが共沸をするためであり、この時の共沸混合物は、エタノールが96 vol%、水が4 vol%であるため、蒸留によって得られるエタノールの最高濃度は、96 vol%である。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ここにペンタンなどの成分が存在すると、始留に水分が集まるようになる。日本薬局方にある「無水エタノール」を作る時は、これら3成分の共沸によって、さらに水分が除かれたのち、分別蒸留でさらに99.5 vol%まで精製される。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "エタノールは引火点が低く、非常に燃えやすい。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "様々な有機物質を溶解できるほか、1価アルコール類の中では比較的毒性が低いため、溶媒としては特に好んで使われ、溶剤(有機溶媒)、有機合成原料、消毒剤などとして広く使われている。用途別の使用量としては、飲用8 %・工業用15 %・燃料用77 %である(2006年)。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "工業用アルコールのうち、天然の原料から作った発酵アルコールは、食品の防腐用、みりんなどの調味料の原料などに使用され、化学合成された合成アルコールは、接着剤、インク、塗料、農薬などに使用される。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "飲用(酒類)及び医薬品以外のエタノール(いわゆる工業用アルコール)は、ほとんどが変性アルコールと呼ばれるもので、エタノールにかなりの量あるいは少量のメタノールやイソプロパノールのアルコール類が混入されている。したがって、酒として販売されているもの以外のアルコールを、「エタノール」と表示されているからといって、薄めて飲む行為は極めて危険である。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "外用剤や化粧品に用いられている変性アルコールは、変性剤としてメタノールを使用しておらず、有害性はやや低い。酒税を回避するため、メタノールよりは誤飲時の毒性が低いイソプロパノールを数パーセント添加するか、苦味や匂いを付加して、飲用に適さないアルコールとしている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "なお、平成12年(2000年)からアルコール事業法が施行され、許可を取得すれば、酒税相当分の価格を上乗せしていない無変性アルコールを取り扱えるようになった(後述)。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "エタノールの利用で最も古いものは、エタノールの含まれた飲料、すなわち酒を飲むことであり、有史以前からの歴史が存在する。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "以後長い間、飲料はエタノールの最大の用途となってきたが、2006年には飲料用のエタノール使用は総生産量の8 %にまで低下しており、燃料や工業用に比べ小さなものとなっている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "殺菌消毒用アルコールとして外科用の外傷処置や手術時、生体に対する挿管等での感染症防止のための清拭に幅広く使用される。細菌のほか真菌、ウイルスに対しても効果がある。 内服薬としてはメタノールやエチレングリコールを誤飲した場合の解毒剤として用いられる。ただし解毒とは言っても、エタノールが直接メタノールなどの毒性を減弱させるのではなく、体内でメタノールなどから非常に有害な物質が一気に生成して、生体に大きな打撃を与えるのを防いでいるに過ぎない。以下、メタノールを例にとって説明する。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "メタノールの代謝産物(酸化産物)であるホルムアルデヒドやギ酸は、共にヒトにとっては非常に有害で、血中において高濃度になると、失明の原因となる。この時体内にエタノールを共存させると、ヒトの体内では代謝酵素との親和性の関係で、メタノールよりもエタノールの方が酸化されやすいため、エタノールからアセトアルデヒド(有毒)や酢酸(事実上無害)ができやすい状態になり、他方でメタノールの酸化反応は速度が落ちる。これによって、ホルムアルデヒドやギ酸の体内での濃度を上がりにくい状態に保ちながら、ホルムアルデヒドやギ酸や代謝されなかったメタノール自体が体外へと排泄されたり、少しずつ生成するホルムアルデヒドやギ酸が処理されるのを待っているに過ぎない。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "したがって、メタノールの摂取量にもよるものの、メタノールとその代謝産物の排泄が終わるまでエタノールを一定量ずつ摂取し続ける必要が出てくる。逆に、エタノールを一気に単回摂取しても効果は限られるし、エタノールの量が過ぎれば、今度はエタノールとその代謝産物による害が出かねないことは留意する必要がある。ただそれでも、家庭においてメタノールを誤飲した場合は、エタノール(酒として市販されている品で構わない)を飲みながら病院を受診するという手は、メタノールとその代謝産物による害を、最小にする応急処置として有用と言える。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "殺菌料として食品添加物に用いられる。医薬品である「消毒用アルコール」には、製造販売にかかる免許が必要であるのに対し、そのハードルが無い食品用アルコールは「除菌剤」などと称し、経口摂取の可能性があることから、IPA等が添加されず成分上は飲用可能であっても、後述する特定アルコールとすることで、医薬用より安く販売されていることがあった。しかし2020年の新型コロナウイルスに起因するアルコール製剤の需給逼迫から、これらの大幅な値上がりや品薄、酒造メーカーからの参入といった、業界構造の変化が生じている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "近年、石油の代替燃料としてのエタノールの自動車用燃料用途に注目が集まっている。こうしたエタノール燃料はサトウキビやトウモロコシなどの植物、いわゆるバイオマスから生成されるものであり、バイオマスエタノールとよばれる。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "自動車の登場期にすでに燃料として使われており、フォード・モデルTもエタノールの燃料使用が当初は考慮されていた。アメリカ合衆国(米国)では、1920年代にゼネラルモーターズが石油会社と共に(会社の利益となる)有鉛ガソリンの普及を推進するようになったため、以降ほとんど使われなくなった。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "フランスでは、1920年代から1950年代頃にかけて砂糖大根で作ったエタノールをガソリンに混ぜて使っていた。石油が安価に手に入るようになると、ほとんどの国ではエタノールを使わなくなった。しかし、ブラジルでは、1973年の石油ショックによる原油価格の高騰に対処するため、政府が1975年からプロアルコール (Proalcool) 政策を実施し、自国で豊富にとれるサトウキビから生産できるエタノールをガソリン代替にすることを進めてきた。1977年にフォルクスワーゲン・ブラジリアを皮切りに導入され、既にブラジルでは年間に販売される新車の半数以上がエタノール燃料に対応した車となっている。2003年よりブラジルでのガソリンに対するエタノール混合率は25 %となっている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "米国でも、1970年代から中西部のとうもろこし生産地帯においてエタノール混合率10 %のガソリン「ガソホール」が販売されてきた。1990年代になると、クリーンエア・アクト(大気浄化法)にもとづき、エタノール混合に優遇措置がなされた。これらは米国では農業生産者が政治に対して力をもっているからなしえたことでもあった。2000年代になり、米国内では、州によって状況が異なるが、通常E10とよばれる10 %混合ガソリンが広く販売されるようになっている。しかし、すべての米国人がその実態を知っているとはいえない程度である。エタノールとガソリンの混合燃料(フレックス燃料)に対応した車(フレックス燃料車)の販売も増加している。通常の米国車は基本的にE10対応となっており、普通にガソリンをいれていると思いながらE10フレックス燃料をいれているようなケースも実際には多く、使用者の意識がなくともフレックスを使用している場合がある。米国ではフレックスに対応している車はE10対応、E25対応とよばれるが、E10対応はすでに標準であり、フォードではE85というような車も販売をはじめている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日本においては、実験を進めていた経済産業省が、コストの観点から日本国内での生産よりも輸入によることによる普及促進を狙い、2006年(平成18年)2月にブラジルの国営石油会社ペトロブラスと日本の日本アルコール販売の50 %出資で、「日伯エタノール」を設立した。2007年(平成19年)2月時点で経済産業省の政策に対し石油会社の協力が得られておらず、ガソリンとの混合およびその販売にはまだ明確な道筋が立っていない。日本の法制度上では、過去にメタノールが主成分のガイアックスを高濃度アルコール燃料と名指しした上で事実上の販売禁止令を発布した経緯があり、その際に自動車部品への安全性を確保する基準とされた「アルコール添加量3 %以下(E3相当)」という文面が現在でも法的根拠として残り続けていることや、「高濃度アルコール燃料」に対する過度のバッシングによる悪印象が未だ尾を引いている事から、E3以上の濃度のアルコール燃料の普及の目処は全く立っていないことが現状である。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "モータースポーツのインディカー・シリーズでは2007年より98 %エタノール燃料(飲用防止と発火を目視できるように2 %のガソリンを混ぜてある)を使用している。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "工業的に生産されるエタノールの原料は、主に糖質とデンプン質のものに大別される。糖質原料としてはサトウキビが使用されているが、テンサイが使用されることもある。これらからとれる廃糖蜜(モラセス)も重要な原料のひとつである。デンプン質の原料として最も使用されるものはトウモロコシであり、ほかにソルガム(スイートソルガム)やコムギなどの麦類などの穀物や、ジャガイモやサツマイモといったイモ類が使用される。", "title": "原料" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "このほかにも、炭水化物か糖が含まれていれば、原理的にはエタノールを生成できるため、さまざまな原料が使用されている。酪農においてチーズを製造したのちの乳清(ホエー)にも糖分が含まれているため、ニュージーランドではエタノール原料となっており、また木材パルプ製造後の廃液にも糖分が含まれているため、カナダやロシアで原料として使用されている。このほか、原理的には木材に含まれるセルロースを分解してエタノールを製造することも可能であり、技術自体は確立しているものの、費用面で折り合わず、生産はごく小規模に留まっている。", "title": "原料" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "21世紀に入ってから、特にアメリカ合衆国を中心としてエタノール燃料の需要が急拡大し、エタノール用のトウモロコシ需要は、1998年の1,300万tから2007年には8100万tにまで急拡大するなど、トウモロコシやサトウキビの生産の多くがエタノール生産へと投入されるようになったが、こうした作物ではこれまでの食用・飼料用の需要と食い合う形となったために価格が急騰し、特にトウモロコシを食用として使用していた国家を中心に食糧危機が発生して、2007年-2008年の世界食料価格危機を引き起こした原因のひとつとなったという説もある。", "title": "原料" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日本では日本薬局方により、純度が規定されている。", "title": "薬局方" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "一般用医薬品(日本薬局方)のエタノール(第三類医薬品)は、アルコール事業法により酒税相当額の国庫納付金が課されている。節税のため、イソプロパノールを添加したものや変性アルコールを用いたものもあり、塩化ベンザルコニウムを添加して消毒の効力を高めた物もある。", "title": "薬局方" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ヒトがエタノールを摂取すると、中枢神経系を抑制する効果により酔いという急性症状が現れる。また、その量が多くなると、中枢神経を抑制するため、呼吸が停止して死亡する。ヒトにおける致死量には個体差が見られるものの、1400 mg/kg 程度、アルコール度数100 %溶液で大人は6–10 mL/kg、小児では3.6 (mL/kg) がヒトのLDLo(最小致死量)。液量に換算すると、30分以内にアルコール度数100 %を大人で250 mL、幼小児だと6–30 mL、消毒用アルコールであれば500 mLを飲み干した場合、急性アルコール中毒で死亡に至る。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "飲酒習慣のある人間は、エタノールを繰り返し摂取することになるわけだが、エタノールを長期にわたって摂取し続けると、大脳萎縮が発生する。その他にエタノールには発癌性も指摘されており、IARC発がん性リスク一覧では「グループ1:発がん性がある」と分類されている。そして肝臓にダメージを与え、脂肪肝やアルコール性肝炎、さらには肝硬変やアルコール依存症の原因にもなる。なお妊婦が飲酒した場合は、胎児に影響を及ぼし、例えば胎児性アルコール症候群(FAS)の原因となる。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "殺菌・消毒といった外用薬を手指に用いた場合では、人体への影響は無視できるものの、酒税を回避するため、メタノールやイソプロパノールが混入されているものがあり、これらを含む物を飲用すると、失明や胃に穴が空くなど、重篤な症状を引き起こす。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "また傷口や粘膜に使用した場合は刺激が強く、痛みを感ずるために、基本的には正常な皮膚にしか使用しない。しかし、エタノールには有機溶剤としての作用があり、皮膚へ塗布した際には皮脂や水分を奪い、蓄積すれば皮膚炎が起きるため、過度な使用は控えること。特にイソプロパノールは、エタノール以上に皮脂を溶出しやすいため、これが混入された物ならば、なおさらである。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "日本では消防法により、危険物第4類(アルコール類 危険等級II)に指定されている。航空法においては引火性液体に指定される。", "title": "法的規制" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "炎が青白色で、日中の太陽光のもとでは見えにくい。2013年8月4日、滋賀県で消火訓練準備中に消防団員が火が消えたことを確認し、エタノールを注ぎ足したところ爆発、女児が火だるまになる事故が起きた。滋賀県警察では、火が消えたことの確認が不充分だったと見ている。", "title": "法的規制" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "容積比率で1 %以上のエタノールを含む飲料は、酒税法により酒類と呼ばれ、この製造や販売には所轄税務署長の免許(製造免許や販売業免許)が必要である。酒税法では、酒類を製造場から移出するとき、または保税地域から引き取る際に酒税を納めることを義務付けている。同法ではさらに、さまざまな種類の酒類を規定し、種類に応じた税率を定める。20歳未満の飲酒は、二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律によって禁止され、違反者には罰則がある。", "title": "法的規制" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "工業用に作られたエタノールが酒税法で定める酒類に転用されるのを防ぐために、昭和12年(1937年)に制定された旧アルコール専売法や平成12年(2000年)に制定されたアルコール事業法では、容積比で90 %のエタノールを含むアルコールの製造・使用・流通を制限ないし管理している。", "title": "法的規制" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "旧アルコール専売法の下では公示価格が設定され、酒類に転用するには高すぎる価格(酒税相当分が加算された価格)で販売された。工業用に使用するアルコールにはこの公示価格は適用されなかったが、その場合は添加物を加えて飲用不可の状態とすること(変性アルコール)が義務づけられていた。", "title": "法的規制" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "アルコール事業法が施行され、専売制が廃止された後は、変性アルコールでないアルコール(一般アルコール、無変性アルコール、事業法アルコールなどと呼ばれる)も自由に取引できるようになった。ただし、製造・輸入・使用・販売には、経済産業大臣の許可が必要である。なお、製造業者や輸入業者は省令で定められた加算額を含む価格で工業用アルコールを販売することができ、これを特定アルコールという。特定アルコールは許可を受けずに誰でも購入して自由に使用することができる。", "title": "法的規制" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "工業用アルコールには、その原料・製造方法の違いにより発酵アルコールと合成アルコールの2種類がある。発酵アルコールはサトウキビから作った糖蜜などを原料として、それを発酵させて作る。合成アルコールはエチレンから化学的に合成されたものである。合成アルコールは、旧食品衛生法でいうところの化学的合成品にあたり、食品添加物としてもヒトの食べ物に使用できないと定められている。", "title": "法的規制" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "エタノールを含有する飲料は、有史以前から世界各地で醸造されてきた。これらの醸造酒から誰が最初にエタノールを単離したのかは、よく分かっていない。一説には、サレルノのサレルヌス(Magister Salernus, 1167年没)がエタノール蒸留の発案者とされる。(偽書との疑いがあるが)フィレンツェのタッデオ・アルデロッティ(英語版)(1295年没)が著したとされる『生命の水の効用について』De virtutibus aquae vitae には、エタノールの蒸留法とその薬用価値が記されている。「生命の水」(aqua vitae) は、中世ヨーロッパにおけるエタノールの呼称である(なお、aqua vitaeの現用フランス語訳であるeau-de-vieは「ブランデー」の意)。火を着ければ燃えることから、「燃える水」(aqua ardens) とも呼ばれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "タッデオの水冷式蒸留器により得られるエタノールの純度は、90パーセントと推定されている。無水エタノール、すなわち水をほとんど含まない純粋なエタノールは、1796年にペテルブルクのヨーハン・トビアス・ローヴィッツ(ドイツ語版)が初めてつくった。", "title": "歴史" } ]
エタノール(英: ethanol)は、アルコールの一種。揮発性の無色液体で、特有の芳香を持つ。別名はエチルアルコール (ethyl alcohol)。酒を酒たらしめる化学成分であり、酒精(しゅせい)とも呼ばれる。その分子は、油になじみやすいエチル基 CH3CH2- と水になじみやすいヒドロキシ基 -OH が結合した構造を持つ。 メタノールなど、他のアルコールが知られる以前から広く用いられてきた物質であり、エチルアルコールを指して単に「アルコール」と呼ぶことも多い。例えば、アルコール発酵で生じるアルコールはエタノールであり、アルコール飲料に含まれるアルコールもエタノールである。変性アルコールは、飲用への転用を防ぐために、毒性の強いメタノールや苦味の強いイソプロパノールが添加されたエタノールである。 発酵により生じたエタノールを蒸留・精製すると、純度が93 %(質量パーセント濃度)のエタノールが得られる。残りの7 %は水分である。この水分を化学処理で取り除いて、エタノールの純度を99.5 %以上にまで高めたものが、無水エタノール(absolute ethanol または anhydrous ethanol)である。 酸化によって、アセトアルデヒド CH3CHO に化学変化し、さらに酸化されると酢酸 CH3COOH になる。空気中で完全燃焼すると、二酸化炭素 CO2 と水 H2O を生じる。殺菌・消毒に用いられるほか、溶剤や燃料として用いられる。
{{混同|メタノール}} {{Chembox | ImageFileL1 = Ethanol-2D-skeletal.svg | ImageFileL2 = Ethanol_flat_structure.png | ImageFileR1 = Ethanol-3D-vdW.png | ImageFileR2 = Ethanol-3D-balls.png | IUPACName = エタノール | OtherNames = エチルアルコール<br />メチルカルビノール<br />酒精 | Section1 = {{Chembox Identifiers | SMILES = CCO | CASNo = 64-17-5 | CASNo_Ref = {{cascite}} | ChemSpiderID = 682 | RTECS = KQ6300000 | KEGG = C00469 }} | Section2 = {{Chembox Properties | C = 2 | H = 6 | O = 1 | RationalFormula =C{{sub|2}}H{{sub|5}}OH または<br/>CH{{sub|3}}CH{{sub|2}}OH | Appearance = 無色液体 | Density = 0.789 g/cm<sup>3</sup> | Solubility = 水と任意に混合 | MeltingPtC = −114.14 | BoilingPtC = 78.29| pKa = 15.9 | Viscosity = 1.200 mPa s ([[ポアズ|cP]]) at 20.0 {{℃}} | Dipole = 5.64 fC fm (1.69 [[デバイ|D]]) (gas) }} | Section4 = {{Chembox Thermochemistry | DeltaHf = −277.69 kJ mol<sup>−1</sup><ref name=Parker>D.D. Wagman, W.H. Evans, V.B. Parker, R.H. Schumm, I. Halow, S.M. Bailey, K.L. Churney, R.I. Nuttal, K.L. Churney and R.I. Nuttal, The NBS tables of chemical thermodynamics properties, ''J. Phys. Chem.'' Ref. Data 11 Suppl. 2 (1982).</ref> | DeltaHc = 1367.6 kJ mol<sup>−1</sup> | Entropy = 160.7 J mol<sup>−1</sup>K<sup>−1</sup> | HeatCapacity = 111.46 J mol<sup>−1</sup>K<sup>−1</sup> }} | Section7 = {{Chembox Hazards | ExternalSDS = [http://www.j-alco.com/qc/pdf/MSDS99GHS_130101.pdf 日本アルコール産業株式会社]<br/>[https://www.ilo.org/dyn/icsc/showcard.display?p_lang=ja&p_card_id=0044&p_version=2 ICSC 0044] | FlashPt = 13 {{℃}} | EUClass = {{Hazchem F}} | NFPA-H = 1 | NFPA-F = 3 | NFPA-R = 0 | RPhrases = {{R11}} {{R20}} {{R21}} {{R22}} {{R36}} | SPhrases = {{S2}} {{S7}} {{S16}} }} | Section8 = {{Chembox Related | Function = [[アルコール]] | OtherCpds = [[メタノール]]<br />[[プロパノール]] }} }} '''エタノール'''({{lang-en-short|ethanol}})は、[[アルコール]]の一種。[[相転移#物理学的性質|揮発性]]の無色液体で、特有の芳香を持つ<ref name=msds />。別名は'''エチルアルコール''' (ethyl alcohol)。[[酒]]を酒たらしめる化学成分であり、'''酒精'''(しゅせい)とも呼ばれる<ref name=msds />。その[[分子]]は、油になじみやすい[[エチル基]] CH{{sub|3}}CH{{sub|2}}- と水になじみやすい[[ヒドロキシ基]] -OH が[[共有結合|結合]]した[[分子構造|構造]]を持つ。 [[メタノール]]など、他のアルコールが知られる以前から広く用いられてきた物質であり、エチルアルコールを指して単に「アルコール」と呼ぶことも多い。例えば、[[アルコール発酵]]で生じるアルコールはエタノールであり、アルコール飲料に含まれるアルコールもエタノールである。変性アルコールは、飲用への転用を防ぐために、毒性の強いメタノールや苦味の強い[[2-プロパノール|イソプロパノール]]が添加されたエタノールである<ref>『[[#化学辞典|化学辞典]]』「エタノール」。</ref>。 発酵により生じたエタノールを[[蒸留]]・[[精製]]すると、[[純度]]が93 %([[質量パーセント濃度]]){{efn|重量パーセント (wt%)。15 {{℃}}での体積パーセント (vol%) は95–96 vol%<ref>[http://www.alcohol.jp/expert/expert_table/09%20youryou%20jyuuryou.pdf エタノール水溶液の容量%と比重及び重量%等との関係]</ref>。}}のエタノールが得られる。残りの7 %は[[水分]]である。この水分を化学処理で取り除いて、エタノールの純度を99.5 %以上にまで高めたものが、無水エタノール(absolute ethanol または anhydrous ethanol)である。 [[酸化]]によって、[[アセトアルデヒド]] CH<sub>3</sub>CHO に化学変化し、さらに酸化されると[[酢酸]] CH<sub>3</sub>COOH になる。空気中で[[完全燃焼]]すると、[[二酸化炭素]] CO<sub>2</sub> と水 H<sub>2</sub>O を生じる。[[殺菌]]・[[消毒]]に用いられるほか、[[溶剤]]や[[燃料]]として用いられる。 == 性質 == {{main|アルコール}} 一般的な[[第一級アルコール]]としての性質を持つ。また、炭化水素鎖が2つと充分に短く、親水性の[[ヒドロキシ基]]の影響が強く出るために、プロトン性の極性溶媒である[[水]]と自由な割合で混和することが可能。 そして2つとは言え、疎水性の炭化水素鎖を持っていることから、様々な有機溶媒とも比較的自由な割合で混和することが可能な場合がある。なお、エタノールそれ自体も、れっきとした有機溶媒の1種に数えられ、様々な物質を溶解させる能力を持つ。この他、金属組織を顕微鏡観察しやすくするための腐蝕液の溶媒として用いられる。 === 合成 === エタノールの製造は、主に[[エチレン]]と[[硫酸]]を反応させて[[硫酸エチル]]を生成した後に[[加水分解]]する方法で行われていたが<ref>{{Cite book |title=Organic Chemistry, Volume One : Part I: Aliphatic Compounds Part II: Alicyclic Compounds. |url=https://www.worldcat.org/oclc/898770698 |publisher=Dover Publications |date=2012 |location=Newburyport |isbn=978-0-486-31115-9 |oclc=898770698 |first=Frank C. |last=Whitmore}}</ref>、現在はエチレンの[[水和反応]]にほぼ置き換わっている<ref>{{Cite book |title=Radiation chemistry; [papers] |url=https://www.worldcat.org/oclc/451648 |publisher=American Chemical Society |date=1968 |location=Washington, |isbn=0-8412-0120-X |oclc=451648 |others=Argonne National Laboratory}}</ref>。 [[硫酸エチル]]を経由する場合は、実験室でエタノールと[[硫酸]]を140℃以下に保ちながら穏やかに沸騰させて反応させることにより製造することができる。反応自体は発熱が大きいため、[[硫酸]]を滴下するか、よく冷却しながら反応させる必要がある。 : <chem>CH2CH2 + H2SO4 -> CH3CH2-OSO3H + H2O </chem> こののち水に溶けて、徐々に硫酸とエタノールに分解する<ref>{{Cite book |edition=5th ed. |title=Vogel's Textbook of practical organic chemistry. |url=https://www.worldcat.org/oclc/18960711 |publisher=Longman Scientific & Technical |date=1989 |location=London |isbn=0-470-21414-7 |oclc=18960711 |others=B. S. Furniss, Arthur Israel Vogel |first=Arthur Israel |last=Vogel}}</ref>。 現在市場に出回っているエタノールは、[[アルコール発酵]]によって製造されている。 : <chem>C6H12O6 -> 2C2H5OH + 2CO2 </chem> {{main|アルコール発酵}} 一部は、化石燃料由来のエチレンの水和反応等の有機合成手法によっても製造される<ref>田中佑樹, 米山嘉治, 椿範立, 「[https://doi.org/10.20550/jietaikaiyoushi.20.0_56 2-4-4 ゼオライト触媒と金属触媒を用いた新規エタノール合成(2-4 天然ガス科学,Session2 天然ガス・メタンハイドレート等,研究発表)]」『日本エネルギー学会大会講演要旨集』 2011年 20巻, 第20回日本エネルギー学会大会, セッションID:2-4-4, p.56-57, {{doi|10.20550/jietaikaiyoushi.20.0_56}}。</ref><ref>井上剛良, 「沿面放電を用いたメタンと水からのエタノール合成」『第36回日本伝熱シンポジウム講演論文集』 2巻 p.431-432, 1999, {{naid|10009687526}}。</ref>。[[リン酸]]を触媒とし、エチレンに高温・高圧の[[水蒸気]]を作用させて作る。<ref>{{Cite book|和書 |title=化学の新研究 |date=2019年1月10日 |publisher=三省堂 |page=575 |author=卜部𠮷庸}}</ref> : <chem>C2H4 + H2O -> C2H5OH</chem> === 反応 === エタノールに[[濃硫酸]]を混ぜて、130–140 {{℃}}に加熱すると分子間脱水が起こり、[[ジエチルエーテル]]が生成する。 : <chem>2C2H5OH -> C2H5OC2H5 + H2O</chem> また、濃硫酸を混ぜた状態で160–170 {{℃}}に加熱するか、活性アルミナ触媒の存在下で強熱する<ref>妻木貴雄, 臼井豊和, 「[https://doi.org/10.20665/kakyoshi.42.1_42 エタノールからエチレンを作る : 活性アルミナ触媒を用いて(化学実験虎の巻)]」『化学と教育』 42巻 1号 1994年 p.42-43, {{doi|10.20665/kakyoshi.42.1_42}}。</ref>と、分子内脱水が起こり、[[エチレン]]が生成する。 : <chem>C2H5OH -> C2H4 + H2O</chem> エタノールにある適当な[[酸化剤]] [O] を作用させる、または[[脱水素反応]]などを施すと[[アセトアルデヒド]]に変わり、さらに強い酸化反応条件下では[[酢酸]]まで酸化される。[[ヒト]]の[[肝臓]]では、[[アルコール脱水素酵素]]によりアセトアルデヒドに分解された後、さらに[[アルデヒド脱水素酵素]]に分解されて、酢酸として体内に吸収・排出される。 ただし[[モンゴロイド]]には、アセトアルデヒドを高い効率で酸化して酢酸にする[[ALDH2]]の活性の低いヒトや、活性を持たないヒトが、遺伝子多型の影響のため一定の比率で見られる。ALDH2の活性の低いヒトがエタノールを摂取すると、アセトアルデヒドの毒性による害が出やすい{{efn|[[急性アルコール中毒]]はエタノールを短時間に過剰摂取すれば、ALDH2の活性の有無を問わず、誰でも発症する。ALDH2の活性によって大きく変わるのは、少量のエタノール摂取によって吐き気などのアセトアルデヒドの悪影響が出てくるかどうかである。ALDH2の活性が高いヒトは、少々のエタノールを摂取したところで、エタノールの代謝によって体内で発生するアセトアルデヒドもすぐに処理できてしまえるので悪影響が出にくい。そうでないヒトは、アセトアルデヒドによる悪影響が出やすいということ。}}。 以上の酸化の過程を簡略した化学反応式で表すと以下のようになる。 : <chem>CH3CH2OH + [O] -> CH3CHO + H2O</chem> : <chem>CH3CHO + [O] -> CH3COOH</chem> エタノールに、金属[[ナトリウム]]あるいは[[水素化ナトリウム]]を反応させると、[[水素|水素ガス]]を発生しながら[[ナトリウムエトキシド]]を生成する。 : <chem>2C2H5OH + 2Na -> 2C2H5ONa + H2 ^</chem> エタノールは、[[第一級アルコール]]として唯一 CH{{sub|3}}CH(OH)- を構造中に持つため、[[ヨードホルム反応]]に対して陽性である。 : <chem>CH3CH2OH + 6NaOH + 4I2 -> CHI3 + HCOONa + 5NaI + 5H2O</chem> 燃焼時の反応で、[[二酸化炭素]]と[[水]]が生成する。 * <chem>CH3CH2OH + 3O2 -> 2CO2 + 3H2O</chem> === 共沸と精製 === 水とエタノールの混合液を[[蒸留]]によって、2つの成分に完全に分離することはできない。これは水とエタノールが[[共沸]]をするためであり、この時の共沸混合物は、エタノールが96 vol%、水が4 vol%であるため、蒸留によって得られるエタノールの最高濃度は、96 vol%である。 ここに[[ペンタン]]{{efn|かつては、[[ベンゼン]]が用いられていたが、発がん性、毒性のため、近年ではペンタンが用いられている<ref>[http://www.j-s-a.co.jp/pro/outline1.html 製造方法概要 - 日本合成アルコール株式会社]</ref>。}}などの成分が存在すると、始留に水分が集まるようになる。[[日本薬局方]]にある「無水エタノール」を作る時は、これら3成分の[[共沸]]によって、さらに水分が除かれたのち、分別蒸留でさらに99.5 vol%まで精製される。 === 引火性 === エタノールは引火点が低く、非常に燃えやすい。 {| class="wikitable" style="white-space: nowrap; text-align: center;" |+ 質量パーセント濃度(wt %)別のエタノールの引火点<ref>{{cite web|url=http://www.engineeringtoolbox.com/ethanol-water-d_989.html|title=Flash points of ethanol-based water solutions |access-date=23 June 2011|website=Engineeringtoolbox.com}}</ref> ! wt %!! 引火点 |- | 10 % || 49 {{℃}} |- | 20 % || 36 {{℃}} |- | 30 % || 29 {{℃}} |- | 40 % || 26 {{℃}} |- | 50 % || 24 {{℃}} |- | 60 % || 22 {{℃}} |- | 70 % || 21 {{℃}} |- | 80 % || 20 {{℃}} |- | 90 % || 17 {{℃}} |- | 96 % || 17 {{℃}} |} == 利用 == 様々な有機物質を溶解できるほか、1価アルコール類の中では比較的毒性が低いため、溶媒としては特に好んで使われ、溶剤(有機溶媒)、有機合成原料、消毒剤などとして広く使われている。用途別の使用量としては、飲用8 %・工業用15 %・燃料用77 %である(2006年)<ref name="名前なし-1">「図解 バイオエタノール最前線 改訂版」p50 大聖泰弘・三井物産株式会社編 工業調査会 2008年5月25日改訂版1刷発行</ref>。 工業用アルコールのうち、天然の原料から作った発酵アルコールは、食品の防腐用、みりんなどの調味料の原料などに使用され、化学合成された合成アルコールは、接着剤、インク、塗料、農薬などに使用される<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/hyouka/senbai01.htm 総務省のウェブサイトにある資料] - アルコール専売事業(2001年に廃止)の仕組みをあらわしたもの(2010年12月01日閲覧)。</ref>。 飲用(酒類)及び医薬品以外のエタノール(いわゆる工業用アルコール)は、ほとんどが変性アルコールと呼ばれるもので、エタノールにかなりの量あるいは少量の[[メタノール]]や[[イソプロパノール]]のアルコール類が混入されている{{efn|平成12年12月26日付け厚生省の通達<ref name="nihs">{{cite web |url=http://www.nihs.go.jp/mhlw/tuuchi/2000/001226-1803/001226-1803.html |title=変性アルコールの例 |accessdate=2010-11-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111020081228/http://www.nihs.go.jp/mhlw/tuuchi/2000/001226-1803/001226-1803.html |archivedate=2011-10-20 }}</ref>末尾のアルコール専売法施行規則別表「工業用アルコール変性標準」の抜粋より。}}。したがって、酒として販売されているもの以外のアルコールを、「エタノール」と表示されているからといって、薄めて飲む行為は極めて危険である。 外用剤や化粧品に用いられている変性アルコールは、変性剤としてメタノールを使用しておらず、有害性はやや低い。[[酒税]]を回避するため、メタノールよりは誤飲時の毒性が低いイソプロパノールを数パーセント添加するか{{efn|イソプロパノールはメタノールよりも炭素鎖が長いために、油を溶かす能力は高い。したがって、外用した場合は皮膚から脂分を取り去り、手荒れなどの原因になりやすいのはイソプロパノールとされる。}}、苦味や匂いを付加して、飲用に適さないアルコールとしている。 なお、平成12年([[2000年]])から[[アルコール事業法]]が施行され、許可を取得すれば、酒税相当分の価格を上乗せしていない無変性アルコールを取り扱えるようになった([[#法的規制|後述]])。 === 飲料用 === エタノールの利用で最も古いものは、エタノールの含まれた飲料、すなわち[[酒]]を飲むことであり、有史以前からの歴史が存在する。 以後長い間、飲料はエタノールの最大の用途となってきたが、2006年には飲料用のエタノール使用は総生産量の8 %にまで低下しており、燃料や工業用に比べ小さなものとなっている<ref name="名前なし-1"/>。 === 医薬として === [[殺菌]][[消毒用アルコール]]として[[外科]]用の外傷処置や[[手術]]時、生体に対する[[挿管]]等での感染症防止のための[[清拭]]に幅広く使用される。[[細菌]]のほか[[真菌]]、[[ウイルス]]に対しても効果がある。 内服薬としては[[メタノール]]や[[エチレングリコール]]を誤飲した場合の解毒剤として用いられる<ref>{{cite web|title=Methanol poisoning|url=https://www.nlm.nih.gov/medlineplus/ency/article/002680.htm|website=MedlinePlus|publisher=National Institute of Health|accessdate=6 April 2015|date=30 January 2013}}</ref>。ただし解毒とは言っても、エタノールが直接メタノールなどの毒性を減弱させるのではなく、体内でメタノールなどから非常に有害な物質が一気に生成して、生体に大きな打撃を与えるのを防いでいるに過ぎない。以下、メタノールを例にとって説明する。 メタノールの代謝産物(酸化産物)である[[ホルムアルデヒド]]や[[ギ酸]]は、共に[[ヒト]]にとっては非常に有害で、血中において高濃度になると、[[失明]]の原因となる。この時体内にエタノールを共存させると、ヒトの体内では代謝酵素との親和性の関係で、メタノールよりもエタノールの方が酸化されやすいため、エタノールからアセトアルデヒド(有毒)や酢酸(事実上無害)ができやすい状態になり、他方でメタノールの酸化反応は速度が落ちる。これによって、ホルムアルデヒドやギ酸の体内での濃度を上がりにくい状態に保ちながら、ホルムアルデヒドやギ酸や代謝されなかったメタノール自体が体外へと排泄されたり、少しずつ生成するホルムアルデヒドやギ酸が処理されるのを待っているに過ぎない。 したがって、メタノールの摂取量にもよるものの、メタノールとその代謝産物の排泄が終わるまでエタノールを一定量ずつ摂取し続ける必要が出てくる。逆に、エタノールを一気に単回摂取しても効果は限られるし、エタノールの量が過ぎれば、今度はエタノールとその代謝産物による害が出かねないことは留意する必要がある。ただそれでも、家庭においてメタノールを誤飲した場合は、エタノール(酒として市販されている品で構わない)を飲みながら病院を受診するという手は、メタノールとその代謝産物による害を、最小にする応急処置として有用と言える。 === 食品添加物 === [[殺菌料]]として[[食品添加物]]に用いられる。医薬品である「消毒用アルコール」には、製造販売にかかる免許が必要であるのに対し、そのハードルが無い食品用アルコールは「除菌剤」などと称し、経口摂取の可能性があることから、IPA等が添加されず成分上は飲用可能であっても、後述する特定アルコールとすることで、医薬用より安く販売されていることがあった。しかし2020年の[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス]]に起因するアルコール製剤の需給逼迫から、これらの大幅な値上がりや品薄、酒造メーカーからの参入といった、業界構造の変化が生じている。 === 自動車用燃料 === [[File:Sao Paulo ethanol pump 04 2008 74 zoom.jpg|thumb|right|ブラジルの燃料スタンド。自動車燃料用のエタノールも販売されている。]] 近年、石油の[[代替燃料]]としてのエタノールの[[自動車]]用燃料用途に注目が集まっている。こうしたエタノール燃料は[[サトウキビ]]や[[トウモロコシ]]などの植物、いわゆる[[バイオマス]]から生成されるものであり、[[バイオマスエタノール]]とよばれる。 自動車の登場期にすでに燃料として使われており、[[フォード・モデルT]]もエタノールの燃料使用が当初は考慮されていた<ref>「図解 バイオエタノール最前線 改訂版」p21 大聖泰弘・三井物産株式会社編 工業調査会 2008年5月25日改訂版1刷発行</ref>。[[アメリカ合衆国]](米国)では、[[1920年代]]に[[ゼネラルモーターズ]]が石油会社と共に(会社の利益となる)[[有鉛ガソリン]]の普及を推進するようになったため、以降ほとんど使われなくなった。 {{see_also|トマス・ミジリー#エチルの発見}} [[フランス]]では、1920年代から[[1950年代]]頃にかけて[[テンサイ|砂糖大根]]で作ったエタノールをガソリンに混ぜて使っていた。石油が安価に手に入るようになると、ほとんどの国ではエタノールを使わなくなった。しかし、[[ブラジル]]では、[[1973年]]の[[オイルショック|石油ショック]]による[[原油価格]]の高騰に対処するため、政府が[[1975年]]からプロアルコール (Proalcool) 政策を実施し、自国で豊富にとれる[[サトウキビ]]から生産できるエタノールをガソリン代替にすることを進めてきた<ref>「図解 バイオエタノール最前線 改訂版」p91 大聖泰弘・三井物産株式会社編 工業調査会 2008年5月25日改訂版1刷発行</ref>。[[1977年]]に[[フォルクスワーゲン・ブラジリア]]を皮切りに導入され、既にブラジルでは年間に販売される新車の半数以上がエタノール燃料に対応した車となっている。[[2003年]]よりブラジルでのガソリンに対するエタノール混合率は25 %となっている。 米国でも、[[1970年代]]から[[アメリカ合衆国中西部|中西部]]のとうもろこし生産地帯においてエタノール混合率10 %のガソリン「[[ガソホール]]」が販売されてきた。[[1990年代]]になると、クリーンエア・アクト(大気浄化法)にもとづき、エタノール混合に優遇措置がなされた。これらは米国では農業生産者が政治に対して力をもっているからなしえたことでもあった。[[2000年代]]になり、米国内では、州によって状況が異なるが、通常E10とよばれる10 %混合ガソリンが広く販売されるようになっている<ref>「図解 バイオエタノール最前線 改訂版」p55 大聖泰弘・三井物産株式会社編 工業調査会 2008年5月25日改訂版1刷発行</ref>。しかし、すべての米国人がその実態を知っているとはいえない程度である。エタノールとガソリンの混合燃料(フレックス燃料)に対応した車([[フレックス燃料車]])の販売も増加している。通常の米国車は基本的にE10対応となっており、普通にガソリンをいれていると思いながらE10フレックス燃料をいれているようなケースも実際には多く、使用者の意識がなくともフレックスを使用している場合がある。米国ではフレックスに対応している車はE10対応、E25対応とよばれるが、E10対応はすでに標準であり、フォードではE85というような車も販売をはじめている<ref>[https://web.archive.org/web/20030314084407/http://www.ford.com/en/vehicles/specialtyVehicles/environmental/ethanol.htm Ford Motor Company - Ethanol](2003年3月14日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。 日本においては、実験を進めていた[[経済産業省]]が、コストの観点から日本国内での生産よりも輸入によることによる普及促進を狙い、2006年(平成18年)2月にブラジルの国営石油会社[[ペトロブラス]]と日本の[[日本アルコール販売]]の50 %出資で、「日伯エタノール」を設立した。2007年(平成19年)2月時点で経済産業省の政策に対し石油会社の協力が得られておらず、ガソリンとの混合およびその販売にはまだ明確な道筋が立っていない。日本の法制度上では、過去に[[メタノール]]が主成分の[[ガイアックス_(燃料)|ガイアックス]]を'''高濃度アルコール燃料'''と名指しした上で[[揮発油等の品質の確保等に関する法律|事実上の販売禁止令]]を発布した経緯があり、その際に自動車部品への安全性を確保する基準とされた「アルコール添加量3 %以下(E3相当)」という文面が現在でも法的根拠として残り続けていることや、「高濃度アルコール燃料」に対する過度のバッシングによる悪印象が未だ尾を引いている事から、E3以上の濃度のアルコール燃料の普及の目処は全く立っていないことが現状である。 [[モータースポーツ]]の[[インディカー・シリーズ]]では[[2007年]]より98 %エタノール燃料(飲用防止と発火を目視できるように2 %のガソリンを混ぜてある)を使用している。{{main|アルコール燃料}} == 原料 == 工業的に生産されるエタノールの原料は、主に[[糖]]質とデンプン質のものに大別される。糖質原料としては[[サトウキビ]]が使用されているが、[[テンサイ]]が使用されることもある。これらからとれる廃[[糖蜜]](モラセス)も重要な原料のひとつである。[[デンプン]]質の原料として最も使用されるものは[[トウモロコシ]]であり、ほかに[[ソルガム]](スイートソルガム)や[[コムギ]]などの[[麦]]類などの[[穀物]]や、[[ジャガイモ]]や[[サツマイモ]]といった[[イモ]]類が使用される<ref>「図解 バイオエタノール最前線 改訂版」p15-16 大聖泰弘・三井物産株式会社編 工業調査会 2008年5月25日改訂版1刷発行</ref>。 このほかにも、[[炭水化物]]か糖が含まれていれば、原理的にはエタノールを生成できるため、さまざまな原料が使用されている。[[酪農]]において[[チーズ]]を製造したのちの[[乳清]](ホエー)にも糖分が含まれているため、[[ニュージーランド]]ではエタノール原料となっており<ref>「図解 バイオエタノール最前線 改訂版」p123 大聖泰弘・三井物産株式会社編 工業調査会 2008年5月25日改訂版1刷発行</ref>、また木材[[パルプ]]製造後の廃液にも糖分が含まれているため、カナダやロシアで原料として使用されている<ref name="名前なし-2">「図解 バイオエタノール最前線 改訂版」p125 大聖泰弘・三井物産株式会社編 工業調査会 2008年5月25日改訂版1刷発行</ref>。このほか、原理的には[[木材]]に含まれる[[セルロース]]を分解してエタノールを製造することも可能であり、技術自体は確立しているものの、費用面で折り合わず、生産はごく小規模に留まっている<ref name="名前なし-2"/>。 21世紀に入ってから、特にアメリカ合衆国を中心としてエタノール燃料の需要が急拡大し、エタノール用のトウモロコシ需要は、1998年の1,300万tから2007年には8100万tにまで急拡大する<ref>「絵で見る 食糧ビジネスのしくみ」p146-147 榎本裕洋、安部直樹著 柴田明夫監修 日本能率協会マネジメントセンター 2008年8月30日初版第1刷</ref>など、トウモロコシやサトウキビの生産の多くがエタノール生産へと投入されるようになったが、こうした作物ではこれまでの食用・飼料用の需要と食い合う形となったために価格が急騰し、特にトウモロコシを食用として使用していた国家を中心に食糧危機が発生して、[[2007年-2008年の世界食料価格危機]]を引き起こした原因のひとつとなったという説もある<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol2/ 日本国外務省「わかる!国際情勢 食料価格高騰~世界の食料安全保障~」2008年7月17日 2019年3月4日閲覧</ref>。 == 薬局方 == [[ファイル:消毒用エタノール㈱阪神薬方P1020629.jpg|thumbnail|150px|消毒用エタノール(阪神局方製)]] 日本では[[薬局方|日本薬局方]]により、純度が規定されている。 ; 無水エタノール(別名:無水アルコール) : 15 {{℃}}でエタノールを99.5 vol%以上含む。消毒効果は消毒用エタノールに比べて小さいが、[[肝癌]]治療に応用されている。 : また空気中で容易に蒸発するため、水拭きが出来ない電気器具の掃除用として使用されている。 ; エタノール(別名:アルコール) : 15 {{℃}}でエタノールを95.1〜96.9 vol%含む。 ; 消毒用エタノール(別名:[[消毒用アルコール]]) : 15 {{℃}}でエタノールを76.9〜81.4 vol%含む。一般的な医療用消毒剤。 [[一般用医薬品]](日本薬局方)のエタノール(第三類医薬品)は、[[アルコール事業法]]により[[酒税]]相当額の国庫納付金が課されている。節税のため、[[2-プロパノール|イソプロパノール]]を添加したものや変性アルコールを用いたものもあり、[[塩化ベンザルコニウム]]を添加して消毒の効力を高めた物もある。 == 危険性 == {{main|エタノールと人体}} === 致死量 === [[ヒト]]がエタノールを摂取すると、[[中枢神経系]]を抑制する効果により[[酔い]]という急性症状が現れる。また、その量が多くなると、中枢神経を抑制するため、呼吸が停止して[[死亡]]する。ヒトにおける致死量には個体差が見られるものの、1400 mg/kg 程度<ref name="msds">{{Cite report|publisher=[[日本アルコール産業]] |title=MSDS- アルコール(99) |date=2013-01-01 |url= http://www.j-alco.com/qc/pdf/MSDS99GHS_130101.pdf }}</ref>、アルコール度数100 %溶液で大人は6–10 mL/kg、小児では3.6 (mL/kg) が<ref name="Kenei">{{Cite report | publisher = [[健栄製薬]] |title = 消毒剤の毒性、副作用、中毒 | accessdate = 2020-09-26 | url = https://www.kenei-pharm.com/medical/countermeasure/toxicity/01.php }}</ref>ヒトの[[LDLo]](最小[[致死量]])。液量に換算すると、30分以内にアルコール度数100 %を大人で250 mL、幼小児だと6–30 mL、[[消毒用アルコール]]であれば500 mLを飲み干した場合、[[急性アルコール中毒]]で[[死亡]]に至る<ref name="Kenei"/>。 === 傷病 === 飲酒習慣のある[[人間]]は、エタノールを繰り返し摂取することになるわけだが、エタノールを長期にわたって摂取し続けると、[[大脳]]萎縮が発生する。その他にエタノールには[[発癌性]]も指摘されており、[[IARC発がん性リスク一覧]]では「グループ1:発がん性がある」と分類されている<ref>[http://monographs.iarc.fr/ENG/Classification/ClassificationsGroupOrder.pdf Agents Classified by the IARC Monographs, Volumes 1-111]. monographs.iarc.fr</ref>。そして[[肝臓]]にダメージを与え、[[脂肪肝]]や[[アルコール性肝炎]]、さらには[[肝硬変]]や[[アルコール依存症]]の原因にもなる。なお[[妊婦]]が飲酒した場合は、[[胎児]]に影響を及ぼし、例えば[[胎児性アルコール症候群]](FAS)の原因となる<ref name=msds />。 {{see also|消毒用アルコール}} 殺菌・消毒といった外用薬を手指に用いた場合では、人体への影響は無視できるものの、[[酒税]]を回避するため、[[メタノール]]やイソプロパノールが混入されているものがあり、これらを含む物を飲用すると、[[失明]]や[[胃]]に穴が空くなど、重篤な症状を引き起こす。 また傷口や粘膜に使用した場合は刺激が強く、痛みを感ずるために、基本的には正常な皮膚にしか使用しない。しかし、エタノールには[[有機溶剤]]としての作用があり、皮膚へ塗布した際には皮脂や水分を奪い、蓄積すれば[[皮膚炎]]が起きるため、過度な使用は控えること。特に[[イソプロパノール]]は、エタノール以上に皮脂を溶出しやすいため、これが混入された物ならば、なおさらである。 == おもな誘導体 == * [[エチルメチルエーテル]] * [[ジエチルエーテル]] * [[エチルフェニルエーテル]] * [[酢酸]] * [[酢酸エチル]] * [[ブロモエタン]] * [[メタノール]] == 法的規制 == === 危険物 === [[File:Spiritusflamme mit spektrum.png|thumb|right|エタノールの燃焼の様子。]] 日本では[[消防法]]により、[[危険物]]第4類(アルコール類 危険等級II)に指定されている<ref name=msds />。[[航空法]]においては引火性液体に指定される<ref name=msds />。 炎が青白色で、日中の[[太陽光]]のもとでは見えにくい。[[2013年]][[8月4日]]、[[滋賀県]]で消火訓練準備中に消防団員が火が消えたことを確認し、エタノールを注ぎ足したところ爆発、女児が火だるまになる事故が起きた<ref>{{cite news |title= 消火訓練で10人やけど 滋賀、アルコールが飛散 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0400X_U3A800C1CC1000/ | newspaper = [[日本経済新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]]|date= 2013-08-04}}</ref>。[[滋賀県警察]]では、火が消えたことの確認が不充分だったと見ている<ref>{{cite news |title= エタノールの「見えない炎」、消火訓練準備で10人やけど |url=http://news.tbs.co.jp/20130805/newseye/tbs_newseye5401821.html|publisher=[[TBSテレビ|TBS]]|date= 2013-08-05}}{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。 === 飲用アルコール(酒類) === 容積比率で1 %以上のエタノールを含む飲料は、[[酒税法]]により酒類と呼ばれ<ref>酒税法第二条</ref>、この製造や販売には所轄税務署長の免許(製造免許や販売業免許)が必要である<ref>同第七条、第九条</ref>。酒税法では、酒類を製造場から移出するとき、または[[保税地域]]から引き取る際に酒税を納めることを義務付けている<ref>同第六条</ref>。同法ではさらに、さまざまな種類の酒類を規定し<ref>同第三条</ref>、種類に応じた税率を定める<ref>同第二十三条</ref>。20歳未満の飲酒は、[[二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律]]によって禁止され<ref> 二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律第一条</ref>、違反者には罰則がある。 === 工業用アルコール === 工業用に作られたエタノールが酒税法で定める酒類に転用されるのを防ぐために、昭和12年(1937年)に制定された旧[[アルコール専売法]]や平成12年(2000年)に制定されたアルコール事業法では、容積比で90 %のエタノールを含むアルコールの製造・使用・流通を制限ないし管理している。 旧アルコール専売法の下では公示価格が設定され<ref>アルコール専売法十九条</ref>、酒類に転用するには高すぎる価格(酒税相当分が加算された価格)で販売された。工業用に使用するアルコールにはこの公示価格は適用されなかったが、その場合は添加物を加えて飲用不可の状態とすること(変性アルコール)が義務づけられていた<ref>同第二十六条</ref>。 [[アルコール事業法]]が施行され、専売制が廃止された後は、変性アルコールでないアルコール(一般アルコール<ref>[http://www.sankyo-chem.com/alcohol.html 三協化学株式会社のウェブサイト](2010年11月29日閲覧)</ref>、無変性アルコール<ref name="nihs"/>、事業法アルコール<ref>[http://www.aruhan.gr.jp/aruhan/c3.html] [[日本アルコール販売]]のウェブサイト(2010年11月29日閲覧)</ref>などと呼ばれる)も自由に取引できるようになった。ただし、製造・輸入・使用・販売には、[[経済産業大臣]]の許可が必要である<ref>アルコール事業法第三条、第十六条、第二十一条、第二十六条。</ref>。なお、製造業者や輸入業者は省令で定められた加算額を含む価格で工業用アルコールを販売することができ、これを特定アルコール<ref>同第二条</ref>という。特定アルコールは許可を受けずに誰でも購入して自由に使用することができる。 工業用アルコールには、その原料・製造方法の違いにより発酵アルコールと合成アルコールの2種類がある。発酵アルコールはサトウキビから作った糖蜜などを原料として、それを発酵させて作る。合成アルコールはエチレンから化学的に合成されたものである。合成アルコールは、旧食品衛生法でいうところの化学的合成品<ref>旧食品衛生法第二条第三項</ref>にあたり、[[食品添加物]]としてもヒトの食べ物に使用できないと定められている<ref>[[食品衛生法]]第十条。食品衛生法施行規則第十二条別表第一(使用を認められている添加物の一覧表)も参照。</ref>。 == 歴史 == エタノールを含有する飲料は、有史以前から世界各地で[[醸造]]されてきた。これらの[[醸造酒]]から誰が最初にエタノールを[[単離]]したのかは、よく分かっていない<ref name=kagakusi>『[[#化学史事典|化学史事典]]』「アルコール」。</ref>{{sfnp|ホームヤード|1996|pp=35-36}}。一説には、[[サレルノ]]のサレルヌス(Magister Salernus, 1167年没)がエタノール蒸留の発案者とされる<ref name=kagakusi />。(偽書との疑いがあるが)[[フィレンツェ]]の{{仮リンク|タッデオ・アルデロッティ|en|Taddeo_Alderotti}}(1295年没)が著したとされる『生命の水の効用について』''De virtutibus aquae vitae'' には、エタノールの蒸留法とその薬用価値が記されている{{sfnp|ホームヤード|1996|pp=35-36}}{{sfnp|アイド|1972|p=18}}。「生命の水」(aqua vitae) は、[[中世ヨーロッパ]]におけるエタノールの呼称である(なお、aqua vitaeの現用フランス語訳であるeau-de-vieは「ブランデー」の意)<ref name="kagakusi" />。火を着ければ燃えることから、「燃える水」(aqua ardens) とも呼ばれた{{sfnp|アイド|1972|p=17}}。 タッデオの水冷式蒸留器により得られるエタノールの純度は、90パーセントと推定されている{{sfnp|ホームヤード|1996|pp=35-36}}。無水エタノール、すなわち水をほとんど含まない純粋なエタノールは、1796年に[[ペテルブルク]]の{{仮リンク|ヨーハン・トビアス・ローヴィッツ|de|Johann_Tobias_Lowitz}}が初めてつくった{{sfnp|アイド|1972|p=169}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === 融点・沸点 摂氏と華氏とケルビンが小数点以下で一致していません。摂氏温度が正しいのは確認済 融点−114.14 {{℃}}:HSDB(2013)、沸点は引用先で異なる 沸点78.29 {{℃}} :HSDB(2013)、 沸点78.5 {{℃}} :Merck (14th, 2006) {{notelist}} === 出典 === {{reflist|3}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |title=化学辞典 |publisher=[[森北出版]] |edition=第2版 |others=吉村壽次 編 |year=2009 |isbn=978-4-627-24012-4 |ref=化学辞典 }} *{{Cite book|和書 |title=化学史事典 |publisher=[[化学同人]] |others=化学史学会 編 |year=2017 |isbn= 978-4-7598-1839-0 |ref=化学史事典 }} * {{Cite book|和書 |author=E.J.ホームヤード |year=1996 |title=錬金術の歴史―近代化学の起源 |others=大沼正則監訳 |series=科学史ライブラリー |publisher=朝倉書店 |isbn=978-4254105711 |ref={{sfnref|ホームヤード|1996}} }} * {{Cite book|和書 |author=アーロン・J. アイド |year=1972 |title=現代化学史 |others=鎌谷親善、藤井清久、藤田千枝 訳 |volume=1 (基礎理論の時代) |publisher=[[みすず書房]] |isbn=4622024217 |NCID=BN00690017 |ref={{sfnref|アイド|1972}} }} == 関連項目 == {{Commons|Ethanol}} * [[アルコール]] - [[メタノール]]、[[1-プロパノール]]、[[2-プロパノール]] * [[エーテル (化学)|エーテル]] * [[カルボン酸]] * [[酒]] - [[アルコール度数]] * [[アルコールプルーフ]] * [[アルコール燃料]] * [[バイオマスエタノール]] == 外部リンク == * {{Wayback|url=https://rika-net.com/contents/cp0100a/contents/3420/3420.html |title=エタノール(エチルアルコール) 理科ねっとわーく(一般公開版) |date=20171004193117}} - 文部科学省 国立教育政策研究所 * {{Kotobank}} {{アルコール飲料}} {{アルコール}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えたのおる}} [[Category:脂肪族アルコール]] [[Category:溶媒]] [[Category:殺菌消毒薬]] [[Category:防腐剤]] [[Category:第4類危険物]] [[Category:酒]] [[Category:NMDA受容体拮抗薬]] [[category:エタノール|*]]
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水道橋駅
水道橋駅(すいどうばしえき)は、東京都千代田区・文京区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。 JR東日本と都営地下鉄の計2社局が乗り入れ、接続駅となっている。また、各路線ごとに駅番号が付与されている。 JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は中央本線であるが、当駅には緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみが停車する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。 駅名の由来は、神田上水水道の通る橋であるかけひが近くにあったことによる。砲兵工廠用の駅だった。 JR東日本の駅(東口)と東京都交通局の駅(A2番出入口)は、外堀通りの横断歩道を挟んで100 mほど離れている。 駅長配置の直営駅で、当駅の他に飯田橋駅を管理している。相対式ホーム2面2線を有する高架駅。改札口は東口と西口の2か所ある。快速線はホームの南側を通るが、壁で仕切られている。JR東日本の複々線区間で相対式ホームを採用しているのは当駅のみである。 また、東口改札内、西口券売機前、改札内、2番線ホーム上の御茶ノ水寄りにはコインロッカーも設置されている。なお、コインロッカーを使う際に改札を通るための入場料はかからない。窓口にて申告すれば利用が可能。 東口には1・2番線ともにエレベーターがある。西口には構造上、エレベーターやエスカレーターがない。 指定席券売機は東口・西口両方に設置。 (出典:JR東日本:駅構内図) 島式ホーム1面2線を有する地下駅。JR東日本の駅と離れているのは、中央線の跨道橋の構造がかなり複雑であること、また水道橋道路橋が狭く老朽化していることから、地下鉄建設工事で損傷を与えないよう現在の位置に建設したものである。 駅業務は2015年4月1日より、東京都営交通協力会が受託している(ただし駅務区に関する業務を除く)。 日比谷駅務管理所水道橋駅務区として、大手町駅 - 千石駅間を管理していたが、2016年4月1日付で東京都交通局が行った駅管区制移行のため日比谷駅に設置された、日比谷駅管区に管理される被管理駅となった。 開業より1999年のATC化までは春日寄りに非常渡り線があったが、現在は撤去された。 (出典:東京都交通局:構内図) 各年度の1日平均乗降人員は下表の通りである(JRは除く)。 各年度の1日平均乗車人員数は下表の通りである。 東京ドームホテル・ミーツポート(水道橋北詰)
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水道橋駅(すいどうばしえき)は、東京都千代田区・文京区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。
{{駅情報 |社色 = |文字色 = |駅名 = 水道橋駅 |画像 = JRE Suidobashi-STA West.jpg |pxl = 300 |画像説明 = JR水道橋駅西口(2022年8月) |地図={{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail-metro|coord={{coord|35|42|7.2|N|139|45|13|E}}|title=JR 水道橋駅|coord2={{coord|35|42|13|N|139|45|18.3|E}}|title2=東京都交通局 水道橋駅|marker-color=008000|marker-color2=006ab8|frame-latitude=35.703356|frame-longitude=139.754255}} |よみがな = すいどうばし |ローマ字 = Suid&#333;bashi |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[東京都交通局]]([[#東京都交通局|駅詳細]])}} |所在地 = [[東京都]][[千代田区]]・[[文京区]] |乗換 = |備考 = }} '''水道橋駅'''(すいどうばしえき)は、[[東京都]][[千代田区]]・[[文京区]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])の[[鉄道駅|駅]]である。 == 乗り入れ路線 == JR東日本と都営地下鉄の計2社局が乗り入れ、接続駅となっている。また、各路線ごとに[[駅ナンバリング|駅番号]]が付与されている。 * JR東日本 ** [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車) - 駅番号「'''JB 17'''」 * 都営地下鉄 ** [[File:Toei Mita line symbol.svg|15px|I]] [[都営地下鉄三田線|三田線]] - 駅番号「'''I 11'''」 JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は[[中央本線]]であるが、当駅には[[急行線|緩行線]]を走る[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]]のみが停車する。また、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属している。 == 歴史 == [[File:水道橋.jpg|thumb|『江戸図屏風』に描かれた江戸時代初期の水道橋。橋の下を通っているのが水道]] 駅名の由来は、[[神田上水]]水道の通る橋であるかけひが近くにあったことによる。砲兵工廠用の駅だった。 === 年表 === * [[1906年]]([[明治]]39年) ** [[9月24日]]:[[甲武鉄道]]の駅として開業<ref>[{{NDLDC|2950319/8}} 「停車場設置」『官報』1906年10月1日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。旅客営業のみ。 ** [[10月1日]]:[[鉄道国有法|国有化]]により[[鉄道省|官設鉄道]]の駅となる<ref name="sone05-23">[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、23頁</ref>。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により中央東線(1911年から中央本線)の所属となる{{R|sone05-23}}。 * [[1949年]]([[昭和]]24年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]発足<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、25頁</ref>。 * [[1971年]](昭和46年) ** [[2月22日]]終電後:都営地下鉄6号線の建設と[[白山通り]]の拡幅工事に伴い、当駅東側にある快速線の水道橋架道橋(東京寄り道路拡幅部)を架け替え<ref name="JRCEA1972-5">日本鉄道施設協会『鉄道土木』1972年5月号施工の記録「操重車4台同時使用によるけた架設 - 中央本線水道橋架道橋 - 」pp.15 - 21。</ref>。 ** [[2月27日]]終電後:前記工事に伴い、当駅東側にある緩行線の新水道橋架道橋(秋葉原寄り道路拡幅部)を架け替え<ref name="JRCEA1972-5"/>。この架け替え工事(快速線含む)は[[国鉄ソ200形貨車|ソ200形]]と[[国鉄ソ300形貨車|ソ300形]][[操重車]]計4台を同時に使用したもので、前例のない大規模なものとなった<ref name="JRCEA1972-5"/>。 * [[1972年]](昭和47年)[[6月30日]]:都営地下鉄6号線の駅が開業。 * [[1978年]](昭和53年)[[7月1日]]:都営6号線を三田線に改称。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、27頁</ref>。 * [[1991年]]([[平成]]3年) ** [[1月26日]]:JR東日本の東口に自動改札機を設置<ref name=JRR1991>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=193 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。 ** [[3月8日]]:JR東日本の西口に自動改札機を設置{{R|JRR1991}}。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2006年]](平成18年)[[7月4日]]:JR東日本の[[発車メロディ]]を[[読売ジャイアンツ]]応援歌の「[[巨人軍の歌 -闘魂こめて-|闘魂こめて]]」に変更<ref name="yomiuri20060701">{{Cite news|title=ホーム上でも「闘魂こめて」東京・水道橋駅にジャイアンツコーナー|newspaper=[[読売新聞]]|publisher=[[読売新聞社]]|date=2006-07-01|page=38 東京朝刊}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:東京都交通局でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-06|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年)4月1日:東京都交通局の駅業務が[[東京都営交通協力会]]委託となる。 * [[2021年]]([[令和]]3年)[[3月12日]]:この日をもって[[みどりの窓口]]が営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=891|title=駅の情報(水道橋駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2021-02-25|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210225092555/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=891|archivedate=2021-02-25}}</ref><ref name="eigyo20210110">{{Cite web|和書|url=https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_90b54f3eeb504c47a978f8bf60fffb0f.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210114051101/https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_90b54f3eeb504c47a978f8bf60fffb0f.pdf|title=「2020年度営業関係施策(その4)について」提案を受ける!!|date=2021-01-10|archivedate=2021-01-14|accessdate=2021-01-14|publisher=JTSU-E 東京地本|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年) ** [[2月]]中旬:JR東日本の1番線で[[ホームドア]]の使用を開始<ref name="press20211116">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/tokyo/20211116_to01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211116111624/https://www.jreast.co.jp/press/2021/tokyo/20211116_to01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京支社管内のホームドア使用開始駅について|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2021-11-16|accessdate=2021-11-16|archivedate=2021-11-16}}</ref>。 ** [[3月]]中旬:JR東日本の2番線でホームドアの使用を開始<ref name="press20211116" />。 == 駅構造 == JR東日本の駅(東口)と東京都交通局の駅(A2番出入口)は、[[東京都道405号外濠環状線|外堀通り]]の[[横断歩道]]を挟んで100&nbsp;[[メートル|m]]ほど離れている。 === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = JR 水道橋駅 |画像 = JRE Suidobashi-STA East.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 東口(2022年8月) |よみがな = すいどうばし |ローマ字 = Suid&#333;bashi |副駅名 = |前の駅 = JB 18 [[御茶ノ水駅|御茶ノ水]] |駅間A = 0.8 |駅間B = 0.9 |次の駅 = [[飯田橋駅|飯田橋]] JB 16 |電報略号 = スイ←スヰ |駅番号 = {{駅番号r|JB|17|#ffd400|1}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]]<br />(線路名称上は[[中央本線]]) |キロ程 = 2.1&nbsp;km([[神田駅 (東京都)|神田]]起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から39.5 |起点駅 = |所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[神田三崎町]]二丁目22-1 |座標 = {{coord|35|42|7.2|N|139|45|13|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 水道橋駅}} |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面2線 |開業年月日 = [[1906年]]([[明治]]39年)[[9月24日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />62,888 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])<ref name="outsourcing" /> * [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}} }} 駅長配置の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]で、当駅の他に[[飯田橋駅]]を管理している<ref name="outsourcing">{{Cite web|和書|url=https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_bb411a658fc943e185d3831a17350a9a.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201006001737/https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_bb411a658fc943e185d3831a17350a9a.pdf|title=「2020年度営業関係施策(その3)について」提案を受ける!!|date=2020-10-05|archivedate=2020-10-06|accessdate=2021-03-31|publisher=JTSU-E 東京地本|format=PDF|language=日本語}}</ref>。[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[高架駅]]。[[改札|改札口]]は東口と西口の2か所ある。[[中央線快速|快速線]]はホームの南側を通るが、壁で仕切られている。JR東日本の複々線区間で相対式ホームを採用しているのは当駅のみである。 また、東口改札内、西口券売機前、改札内、2番線ホーム上の御茶ノ水寄りには[[ロッカー#コインロッカー|コインロッカー]]も設置されている。なお、コインロッカーを使う際に改札を通るための入場料はかからない。窓口にて申告すれば利用が可能。 東口には1・2番線ともにエレベーターがある。西口には構造上、エレベーターやエスカレーターがない。 [[自動券売機#指定券自動券売機|指定席券売機]]は東口・西口両方に設置。 ==== のりば ==== <!-- 方面表記は、出典の「構内図」の記載に準拠 --> {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車) |style="text-align:center;"|西行 |[[新宿駅|新宿]]・[[三鷹駅|三鷹]]方面 |- !2 |style="text-align:center;"|東行 |[[御茶ノ水駅|御茶ノ水]]・[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[千葉駅|千葉]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/891.html JR東日本:駅構内図]) * 2番線では接近放送の後に「東京方面へは、御茶ノ水駅でお乗り換えです。」との放送が流れる。2020年3月14日のダイヤ改正で、それまで早朝・深夜に設定されていた[[東京駅]]発着の各駅停車が消滅した<ref name="pr20191213">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191213080612/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年3月ダイヤ改正について|page=6|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-12-13|accessdate=2020-02-29|archivedate=2019-12-13}}</ref>。 * 当駅は[[東京ドームシティ]]の最寄り駅であり、[[日本プロ野球|プロ野球]]を始め各種イベントが東京ドームや関連施設で行われる際は非常に混雑し、入場規制が実施される場合もある。なお、東京ドームへは西口・東口のどちらからもアクセスできるため、ホーム上の案内はホーム中央を境に三鷹側は西口、千葉側は東口へ誘導している。 * 駅開業100周年を記念して、[[2006年]]7月4日から発車メロディが、最寄りの東京ドームを本拠地とする[[読売ジャイアンツ]]の球団応援歌『[[巨人軍の歌 -闘魂こめて-|闘魂こめて]]』に変更された。1番線がサビの部分、2番線が歌い出しの部分である。これは同年シーズン終了までの使用予定だったが、シーズン終了後も継続されている。 * [[1977年]][[9月3日]]、[[王貞治]]が通算756本の[[本塁打|ホームラン]]世界新記録を達成したのを記念して、当駅で記念[[入場券]]が発売された。王の[[一本足打法]]のイラストに王のサインが描かれた図柄で、当駅の入場券(当時60円)と当駅から[[青梅駅|青梅]]までの乗車券(当時440円)がセットされて500円だった。売り出し初日に5時間半で売り切れ、後の増刷分も含めて20万組も売れ、1億円もの売り上げとなり、発行組数の記念入場券新記録を達成した。またこの入場券は翌[[1978年]]に[[日本交通趣味協会]]の「第1回記念きっぷ大賞」で国鉄部門第4位となった。 * 売店は西口と東口それぞれの改札外に[[NewDays]]がある。かつては東口にも改札内に[[キヨスク|KIOSK]]とNEWDAYS MINIがあったが、前者は2000年代中頃に、後者は[[2010年]]にエレベーター設置工事の影響で閉鎖した。KIOSK跡には[[洋菓子のヒロタ|ヒロタ]]や東京カレンといった洋菓子店が後に出店したが、いずれも長続きしなかった。西口の改札外にあったKIOSKは改修工事の影響で[[2016年]]に閉鎖した。2番線にも1店舗KIOSKが設置されていたが、[[2007年]]にJR東日本の首都圏域内で発生した店員不足の影響で休業となり、そのまま再開せずに閉店、撤去された。 * 総武線各駅停車の御茶ノ水止まりの終電の[[夜間滞泊|夜間留置]]および非常時の折り返しのため、御茶ノ水寄りに両渡り線が設置されている。なお、年末年始の[[終夜運転]]では、当駅始発千葉行きが設定される。 <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> JRE Suidobashi-STA East-Gate.jpg|東口改札(2022年8月) JRE Suidobashi-STA West-Gate.jpg|西口改札(2022年8月) JRE Suidobashi-STA Platform1.jpg|1番線ホーム(2022年8月) JRE Suidobashi-STA Platform2.jpg|2番線ホーム(2022年8月) </gallery> === 東京都交通局 === {{駅情報 |社色 = #009f40 |文字色 = |駅名 = 東京都交通局 水道橋駅 |画像 = Suidobashi Station of Mita Line.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 駅入口(2008年9月) |よみがな = すいどうばし |ローマ字 = Suidobashi |副駅名 = |前の駅 = I 10 [[神保町駅|神保町]] |駅間A = 1.0 |駅間B = 0.7 |次の駅 = [[春日駅 (東京都)|春日]] I 12 |電報略号 = 水(駅名略称) |駅番号 = {{駅番号r|I|11|#006ab8|4}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref> |所属事業者 = [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]]) |所属路線 = {{color|#006ab8|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[都営地下鉄三田線|三田線]] |キロ程 = 10.6 |起点駅 = [[目黒駅|目黒]] |所在地 = [[東京都]][[文京区]][[後楽]]一丁目3-42 |座標 = {{coord|35|42|13|N|139|45|18.3|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=都営地下鉄 水道橋駅}} |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1972年]]([[昭和]]47年)[[6月30日]] |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="都交" name="toei2022" />39,938 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = }} [[島式ホーム]]1面2線を有する[[地下駅]]<ref name="RP229_27" />。JR東日本の駅と離れているのは、中央線の跨道橋の構造がかなり複雑であること、また水道橋道路橋が狭く老朽化していることから、地下鉄建設工事で損傷を与えないよう現在の位置に建設したものである<ref name="RP229_27">{{Cite journal|和書|author=松本成男(東京都交通局高速電車建設本部計画第一課)|title=都営地下鉄第6号線 巣鴨=日比谷=三田間の計画概要|journal=鉄道ピクトリアル|date=1969-10-01|volume=19|issue=第10号(通巻第229号)|page=27|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。 駅業務は[[2015年]]4月1日より、東京都営交通協力会が受託している(ただし駅務区に関する業務を除く)。 日比谷駅務管理所水道橋駅務区として、[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]] - [[千石駅]]間を管理していたが、[[2016年]]4月1日付で[[東京都交通局]]が行った[[駅管区制]]移行のため[[日比谷駅]]に設置された、[[日比谷駅管区]]に管理される被管理駅となった。 開業より1999年のATC化までは春日寄りに非常渡り線があったが、現在は撤去された。 ==== のりば ==== {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/mita/I11SD.html |title=水道橋 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-04}}</ref> |- !1 |rowspan="2"|[[File:Toei Mita line symbol.svg|15px|I]] 都営三田線 |[[目黒駅|目黒]]・[[File:Tokyu MG line symbol.svg|15px|MG]] [[東急目黒線|東急線]]方面 |- !2 |[[西高島平駅|西高島平]]方面 |} (出典:[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/suidobashi.html 東京都交通局:構内図]) <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> Toei-Suidobashi-Sta-Gate.JPG|改札口(2016年6月) Toei-Suidobashi-Sta-Platform.JPG|ホーム(2016年6月) </gallery> {{-}} == 利用状況 == * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''62,888人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。 *: JR東日本では[[巣鴨駅]]に次いで第61位。 * '''都営地下鉄''' - 2021年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''39,938人'''(乗車人員:19,643人、降車人員:20,295人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。 === 年度別1日平均乗降人員 === 各年度の1日平均'''乗降'''人員は下表の通りである(JRは除く)。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="統計">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="統計" name="bunkyo">[http://www.city.bunkyo.lg.jp/kusejoho/toke/toukei.html 文京の統計] - 文京区</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|都営地下鉄 |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |1974年(昭和49年) |42,338 | |- |1975年(昭和50年) |42,644 |0.7% |- |1976年(昭和51年) |48,870 |14.6% |- |1977年(昭和52年) |49,390 |1.1% |- |1978年(昭和53年) |46,731 |&minus;5.4% |- |1979年(昭和54年) |45,888 |&minus;1.8% |- |1980年(昭和55年) |42,173 |&minus;8.1% |- |1981年(昭和56年) |40,437 |&minus;4.1% |- |1982年(昭和57年) |39,780 |&minus;1.6% |- |1983年(昭和58年) |39,733 |&minus;0.1% |- |1984年(昭和59年) |32,030 |{{要出典|date=2015年5月}} |- |1985年(昭和60年) |39,379 | |- |1986年(昭和61年) |39,053 |&minus;0.8% |- |1987年(昭和62年) |40,346 |3.3% |- |1988年(昭和63年) |46,525 |15.3% |- |1989年(平成元年) |45,600 |&minus;2.0% |- |1990年(平成{{0}}2年) |46,395 |1.7% |- |1991年(平成{{0}}3年) |47,141 |1.6% |- |1992年(平成{{0}}4年) |47,522 |0.8% |- |1993年(平成{{0}}5年) |47,990 |1.0% |- |1994年(平成{{0}}6年) |47,987 |0.0% |- |1995年(平成{{0}}7年) | | |- |1996年(平成{{0}}8年) |36,267 |{{要出典|date=2015年5月}} |- |1997年(平成{{0}}9年) |43,314 | |- |1998年(平成10年) |42,199 |&minus;2.6% |- |1999年(平成11年) |32,257 |{{要出典|date=2015年5月}} |- |2000年(平成12年) |40,235 | |- |2001年(平成13年) |35,500 |{{要出典|date=2015年5月}} |- |2002年(平成14年) |38,739 | |- |2003年(平成15年) |38,421 |&minus;0.8% |- |2004年(平成16年) |38,025 |&minus;1.0% |- |2005年(平成17年) |38,564 |1.4% |- |2006年(平成18年) |39,178 |1.6% |- |2007年(平成19年) |41,362 |5.6% |- |2008年(平成20年) |43,164 |4.4% |- |2009年(平成21年) |43,281 |0.3% |- |2010年(平成22年) |41,836 |&minus;3.3% |- |2011年(平成23年) |40,591 |&minus;3.0% |- |2012年(平成24年) |42,743 |5.3% |- |2013年(平成25年) |44,074 |3.1% |- |2014年(平成26年) |44,540 |1.1% |- |2015年(平成27年) |45,690 |2.6% |- |2016年(平成28年) |46,667 |2.1% |- |2017年(平成29年) |48,084 |3.0% |- |2018年(平成30年) |48,493 |0.9% |- |2019年(令和元年) |47,746 |&minus;1.5% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="都交" name="toei2020" />26,278 |&minus;45.0% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="都交" name="toei2021" />31,011 |18.0% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="都交" name="toei2022" />39,938 |28.8% |} === 年度別1日平均乗車人員(1900年代 - 1930年代) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員数は下表の通りである。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !甲武鉄道 /<br />国鉄 !出典 |- |1906年(明治39年) |<ref group="備考">1906年9月24日開業。</ref> | |- |1907年(明治40年) |588 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806587/191?viewMode= 明治40年]</ref> |- |1908年(明治41年) |857 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806589/103?viewMode= 明治41年]</ref> |- |1909年(明治42年) |1,010 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806591/106?viewMode= 明治42年]</ref> |- |1911年(明治44年) |1,403 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref> |- |1912年(大正元年) |1,593 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/134?viewMode= 大正元年]</ref> |- |1913年(大正{{0}}2年) |1,551 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/127?viewMode= 大正2年]</ref> |- |1914年(大正{{0}}3年) |1,416 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref> |- |1915年(大正{{0}}4年) |1,133 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/348?viewMode= 大正4年]</ref> |- |1916年(大正{{0}}5年) |1,533 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref> |- |1919年(大正{{0}}8年) |3,938 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/265?viewMode= 大正8年]</ref> |- |1920年(大正{{0}}9年) |6,652 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/301?viewMode= 大正10年]</ref> |- |1922年(大正11年) |2,790 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref> |- |1923年(大正12年) |10,416 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref> |- |1924年(大正13年) |11,538 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref> |- |1925年(大正14年) |12,880 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref> |- |1926年(昭和元年) |14,734 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref> |- |1927年(昭和{{0}}2年) |15,475 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref> |- |1928年(昭和{{0}}3年) |16,746 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref> |- |1929年(昭和{{0}}4年) |19,418 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref> |- |1930年(昭和{{0}}5年) |19,133 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref> |- |1931年(昭和{{0}}6年) |18,009 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref> |- |1932年(昭和{{0}}7年) |18,823 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |20,537 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |22,050 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |22,684 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑、千代田区統計書を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="bunkyo" /> !年度 !国鉄 /<br />JR東日本 !都営地下鉄 !出典 |- |1953年(昭和28年) |54,733 |rowspan=19 style="text-align:center"|未開業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 11ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |57,870 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 9ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |63,084 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 9ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |70,262 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 9ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |71,609 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 9ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |75,414 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 9ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |76,264 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |80,590 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |82,867 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |92,484 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |99,512 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |102,625 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |103,820 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |106,701 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |107,299 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |107,748 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |91,910 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |88,838 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |85,596 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |83,866 |<ref group="備考>1972年6月30日開業。</ref>9,808 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |90,140 |17,756 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |96,890 |20,427 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |95,943 |21,863 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |99,482 |23,819 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |100,003 |24,644 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |99,652 |24,132 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |99,522 |23,783 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |90,967 |22,040 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |87,466 |21,006 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |83,830 |20,562 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |81,713 |20,526 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |82,732 |20,811 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |82,044 |20,430 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |83,430 |20,333 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |86,090 |21,157 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |95,244 |22,641 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |93,759 |23,031 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |97,997 |23,669 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |101,399 |24,494 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |103,397 |24,692 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |103,592 |24,964 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |101,570 |24,875 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |99,238 |23,984 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |97,321 |22,732 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |94,031 |22,025 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |92,923 |21,831 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>90,774 |20,814 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>89,320 |20,662 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="bunkyo" /><ref group="統計">[https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kuse/toke/kisotoke/index.html 行政基礎資料集] - 千代田区</ref> !年度!!JR東日本!!都営地下鉄!!出典 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>86,599 |20,178 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>85,564 |20,001 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>87,238 |19,639 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>86,519 |19,472 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>87,040 |19,661 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>86,980 |19,965 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>88,449 |20,888 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>88,258 |21,658 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>87,458 |21,607 |<ref 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[[File:神田上水碑文.jpg|thumb|水道橋駅附近にある神田上水の碑文]] [[File:Tokyo Dome 2007-12.jpg|thumb|東京ドーム]] {{columns-list|2| * [[東京ドームシティ]] {{main2|東京ドームシティ内の施設|東京ドームシティ#施設一覧}} * [[日本大学法学部・大学院法学研究科及び新聞学研究科|日本大学法学部]]・[[日本大学経済学部・大学院経済学研究科|経済学部]] * [[東京歯科大学]]水道橋病院 * [[東京歯科大学短期大学]] * [[中央大学大学院理工学研究科・理工学部]]後楽園キャンパス * [[専修大学]]神田キャンパス(西口専大通り側) * [[東洋学園大学]]本郷キャンパス * [[代々木アニメーション学院]]東京校 * [[東京アニメーター学院]](西口方面) * [[LEC東京リーガルマインド大学院大学]]千代田キャンパス * [[研数学館]](本館・B館) * [[学校法人大原学園|大原学園]](大原大学院大学・大原簿記学校他) * [[桜蔭中学校・高等学校]] * [[東京都立工芸高等学校]] * 東京都教職員研修センター * 東京都東部学校経営支援センター * 東京都教育相談センター * [[昭和第一高等学校]] * [[東洋高等学校]] * [[神田女学園中学校・高等学校]] * [[神田川 (東京都)|神田川]] * [[神田上水]] ** [[水道橋 (神田川)|水道橋]]''(駅名の由来となった橋梁)'' * [[小石川後楽園]] * [[東京都道405号外濠環状線]] * [[東京都道301号白山祝田田町線]](白山通り) * [[神田古書店街]] * [[ホテルメトロポリタンエドモント]] * [[東京しごとセンター]] * [[カトリック神田教会]] * [[東京都戦没者霊苑]] * [[小石川大神宮]] * [[東京都水道歴史館]] * 全逓会館(旧:[[日本郵政公社労働組合]]中央本部) * 文京後楽[[郵便局]] * 西神田郵便局 * 鶴屋産業・[[紀州鉄道]]本社 * [[芳文社]] * [[後楽園駅]]・[[春日駅 (東京都)|春日駅]] * [[トヨタ自動車]]東京本社 * [[講道館]] * [[ドン・キホーテ 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東京都交通局(都営地下鉄) : [[File:Toei Mita line symbol.svg|15px|I]] 三田線 :: [[神保町駅]] (I 10) - '''水道橋駅 (I 11)''' - [[春日駅 (東京都)|春日駅]] (I 12) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ==== {{Reflist|group="広報"}} ==== 利用状況に関する出典 ==== ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ;東京都交通局 各駅乗降人員 {{Reflist|group="都交"|3}} ; JR・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="統計"}} ; 東京府統計書 {{Reflist|group="東京府統計"|17em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 参考文献 == * [[日本鉄道施設協会]]『鉄道土木』1972年5月号施工の記録「操重車4台同時使用によるけた架設 - 中央本線水道橋架道橋 - 」(石倉 勝美・羽田 幹夫、国鉄東京第三工事局調査課) * {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=5 |title=中央本線 |date=2009-08-09 |ref=sone05 }} == 関連項目 == {{Commonscat|Suidōbashi Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[後楽園球場]] * [[水道橋博士]] - 本人の出身大学の最寄駅が[[御茶ノ水駅]]だったため、師匠の[[ビートたけし]]が「一つ手前でいいや」と当駅から芸名を付けた。 == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=891|name=水道橋}} * [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/suidobashi.html 水道橋駅 | 都営地下鉄 | 東京都交通局] {{総武・中央緩行線}} {{都営地下鉄三田線}} {{DEFAULTSORT:すいとうはし}} [[Category:日本の鉄道駅 す|いとうはし]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:中央・総武緩行線]] [[Category:甲武鉄道の鉄道駅]] [[Category:都営地下鉄の鉄道駅]] [[Category:千代田区の鉄道駅]] [[Category:文京区の鉄道駅]] [[Category:1906年開業の鉄道駅]]
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飯田橋駅
飯田橋駅(いいだばしえき)は、東京都千代田区・新宿区・文京区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。 JR東日本、東京メトロおよび都営地下鉄の計3社が乗り入れ、接続駅となっている。また東京メトロの東西線と有楽町線、東西線と南北線が交差する唯一の駅でもある。 JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は中央本線であるが、当駅には緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみが停車する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属しており、各路線ごとに駅番号が付与されている。 地下鉄路線は、東西線と有楽町線、南北線および大江戸線の4路線が乗り入れており、各路線ごとに駅番号が付与されている。 当駅は、1928年に中央本線の複々線化に伴い、従来設置していた牛込駅(うしごめえき)と飯田町駅の近距離電車ホームを分離し、これらを統合する形で開業した経緯がある。 JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している業務委託駅。水道橋駅の被管理駅。 島式ホーム1面2線を有する高架駅。駅舎は東西に出口がある。地形が傾斜しているため、東口側は高架駅舎のようになっているが、西口側は橋上駅舎となっている。江戸城外堀跡の史跡区域に入る西口駅舎は、景観に与える影響を考え「日本建築の反りをモチーフとした佇まい」として建築されており、2階には商業施設の他に「史跡眺望デッキ」も設けられている。 牛込駅と飯田町駅を統合時に設置されたホームは、曲線半径300 mの急カーブに位置(写真も参照)しており、電車が停車した際に隙間が最大約33 cm、高低差が最大20 cm生まれ、年間で平均10件ほどの転落事故が起きていた。このため、2014年7月2日にJR東日本は抜本的な対策として、ホームを牛込橋を中心とした新宿方の直線区間へ約200 m移設してホームと車両の隙間を解消させるとともに、西口駅舎の建て替えと駅前広場の整備を実施することを発表した。新しく建設するホームにあたる位置には最大で33.3 ‰という勾配があり、建設する際に障害となったため、勾配を緩やかにする工事(上下線合わせて57回に分けて行う軌道低下工事と38回のホーム低下工事)を実施し、18.5 ‰に緩和した上で建設された。また、新ホームの一部が江戸城外堀跡の史跡区域に入っているため、埋蔵文化財の有無や正確な位置をボーリング調査などで把握したうえで工事を行うなど、地中遺構へ出来る限りの配慮を行った上で建設されている。なお、新駅舎や新ホームの供用に伴い、移設前のホームは東口への連絡通路として活用されている。移設前のホームのうち水道橋寄りの閉鎖された部分はほぼ原形通りのままで、連絡通路からも見ることができる。駅名標・広告は撤去されているが、ホーム部分の照明や閉鎖区域につながる階段・下りエスカレーターは撤去されていない。 改良工事により、西口の駅舎はホーム階、改札階、店舗階の3層構造になり、改札からホームへのアプローチが従前の緩い勾配の通路から、階段、エスカレーター、エレベーターで階を降りる形になった。 なお、この工事にあたって令和3年度の土木学会技術賞を受賞している。 (出典:JR東日本:駅構内図) 1番線ではサウンドフォーラム、2番線ではサウンドファクトリー制作の発車メロディを使用している。 東西線は中柱のある相対式ホーム2面2線、有楽町線と南北線はともに島式ホーム1面2線を有する地下駅である。有楽町線・南北線のホームは新宿区最東端となっている。 東西線のホームは目白通り、有楽町線と南北線のホームは外堀通り、それぞれの地下に設置されており、JRの駅を挟んで徒歩5分程の距離がある。そのため、東西線と有楽町線・南北線は改札が別になっている。JRとのホームまでの距離は、東西線・有楽町線・南北線のいずれも比較的近かったが、2020年のJRのホーム移転により、東西線だけが接続する他の全路線から遠くなってしまった(これは同じ東西線の駅では、大手町駅にも該当する)。 また東西線の駅は1991年から1997年にかけて駅改良工事により、中野方約105 mにわたってホーム幅を3.8 mから7.5 mとする拡幅が行われ、拡幅部の上部にコンコースを増設し、ホーム中ほどにも階段を新設して混雑緩和を図った。南北線開業時、エレベーター専用出入口の1箇所以外の出入口新設は行わず、既存の出入口を活用することで建設費用の低減を図った。 駅務管区所在駅であり、飯田橋駅務管区として飯田橋地域、九段下地域、高田馬場地域を管理する。過去には東西線と有楽町線に飯田橋検車区が設置され、廃止後も留置線として用いられている。東西線当駅の南側には飯田橋変電所(地上3階建て)があり、西船橋寄りから変電所への連絡地下通路が設けられている。 有料座席指定列車「S-TRAIN」は平日ダイヤのみ有楽町線に乗り入れ、当駅にも停車する。なお、当駅から東京メトロ線内のみの乗車はできない(乗車専用の石神井公園駅で乗車し、当駅で下車するのは可)。 (出典:東京メトロ:構内図) 全ホームで発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 東西線ホームでは向谷実作曲のメロディ(詳細は東京メトロ東西線#発車メロディを参照)、有楽町線ホームと南北線ホームではスイッチ制作のメロディを使用している。 なお、南北線ホームでは当初、吉村弘作曲の同線全駅共通のメロディを使用していた。 島式ホーム1面2線を有する地下駅。ホームは先に建設された東京メトロ各線を避けるため、地下32.1 mと非常に深い位置にある。当駅は都営地下鉄全体・大江戸線内では7番目に深い位置にホームがあり、当駅前後では高低差が激しくなる。ただし駅務室は非常に浅い位置にあり、壁と天井の換気および採光が、わずかに道路上に露出している事が、利用客の入れる部分からも見える。 当駅周辺には多数の地下鉄、首都高速5号池袋線や神田川、下水道管、東京電力の洞道など重要構造物が多数あることや、地上の外堀通り、目白通りなどが交差する飯田橋交差点は交通量が非常に多く、長期間の車線規制は困難であることから、建設には特殊なシールド工法を採用した。これは、世界初の3心円泥水式駅シールド工法(MFシールド工法・Multi-circular Face method)を採用することで、幅17.1 m、延長275.0 mに渡ってホームと旅客用通路部の同時掘削を行った。 バリアフリー設備として春日寄りの後楽方面改札側にエレベーターが設けられている。また、JR・東京メトロと大江戸線との乗り換えルートにも車椅子対応エスカレーターがあるものの、距離もあり時間もかかる。 駅業務は東京都営交通協力会に委託されている。1974年(昭和49年)の大江戸線免許申請時点では当駅は経由せず、春日駅から牛込神楽坂駅方面まで東京都道434号牛込小石川線(放射25号道路・当時未完成)の地下を経由する計画であったが、小型地下鉄規格への見直し時に当駅を経由することが旅客増加に繋がると判断して変更したものである。 (出典:都営地下鉄:駅構内図) 2000年に開業した大江戸線飯田橋駅は、建築家の渡辺誠が設計し、日本建築学会賞を受賞した。特に階段・エスカレーターの上の天井を走る「ウェブフレーム」と呼ばれる緑色の骨組は、構造的・空間的な条件を与えてコンピュータプログラムによる形態生成を行うという、半ば実験的な建築設計手法を具現化した作品である。そのウェブフレームには照明がはめ込まれている。この手法は九州新幹線新水俣駅前の「新水俣門」(同じく渡辺誠設計)にも用いられている。さらに、C3出入口にある換気塔は、葉っぱをデザインしたものであり、ウェブフレームと合わせて、植物が根を伸ばして花を咲かせるという設計となっている。 各年度の1日平均乗降人員は下表の通りである(JRを除く)。 各年度の1日平均乗車人員は下表の通りである。 駅から最も近いのが「飯田橋駅前」停留所であり、他に「飯田橋」と「都営飯田橋駅前」停留所、文京区コミュニティバス「Bーぐる」 の「小石川後楽園入口」と「後楽一丁目」停留所も近い。千代田区地域福祉交通「風ぐるま」も利用できる。 なお、都営飯田橋駅前停留所については2000年12月11日まで使用していた秋76系統・飯田橋終点停留所と同じ位置に設置されている。
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飯田橋駅(いいだばしえき)は、東京都千代田区・新宿区・文京区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。
{{redirectlist|牛込駅|新宿区原町にある都営地下鉄大江戸線の駅|牛込柳町駅|同区箪笥町にある同線の駅|牛込神楽坂駅}} {{出典の明記|date=2012年1月|ソートキー=駅}} {{駅情報 |社色 = |文字色 = |駅名 = 飯田橋駅 |画像 = Iidabashi Station 200719a.jpg |pxl = 300 |画像説明 = JR西口(2020年7月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center |type=point|type2=point|type3=point|type4=point |marker=rail|marker2=rail-metro|marker3=rail-metro|marker4=rail-metro |coord={{coord|35|42|7.4|N|139|44|42|E}}|marker-color=008000|title=JR 飯田橋駅 |coord2={{coord|35|42|7|N|139|44|44.2|E}}|marker-color2=009bbf|title2=東京メトロ東西線 飯田橋駅 |coord3={{coord|35|42|6|N|139|44|36.8|E}}|marker-color3=c1a470|title3=東京メトロ有楽町線・南北線 飯田橋駅 |coord4={{coord|35|42|11.4|N|139|44|45|E}}|marker-color4=ce045b|title4=東京都交通局 飯田橋駅 |frame-latitude=35.702116|frame-longitude=139.744473}} |よみがな = いいだばし |ローマ字 = Iidabashi |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東京メトロ|駅詳細]]) * [[東京都交通局]]([[#東京都交通局|駅詳細]])}} |所在地 = [[東京都]][[千代田区]]・[[新宿区]]・[[文京区]] |乗換 = |備考 = }} {{座標一覧}} '''飯田橋駅'''(いいだばしえき)は、[[東京都]][[千代田区]]・[[新宿区]]・[[文京区]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京地下鉄]](東京メトロ)・[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])の[[鉄道駅|駅]]である。 == 乗り入れ路線 == JR東日本、東京メトロおよび都営地下鉄の計3社局が乗り入れ、接続駅となっている。また東京メトロの東西線と有楽町線、東西線と南北線が交差する唯一の駅でもある。 JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は[[中央本線]]であるが、当駅には[[急行線|緩行線]]を走る[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]]のみが停車する。また、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属しており、各路線ごとに[[駅ナンバリング|駅番号]]が付与されている。 * JR東日本 ** [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車) - 駅番号「'''JB 16'''」 地下鉄路線は、[[東京メトロ東西線|東西線]]と[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]、[[東京メトロ南北線|南北線]]および[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]の4路線が乗り入れており、各路線ごとに駅番号が付与されている。 * 東京メトロ ** [[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線 - 駅番号「'''T 06'''」 ** [[File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|15px|Y]] 有楽町線 - 駅番号「'''Y 13'''」 ** [[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] 南北線 - 駅番号「'''N 10'''」 * 都営地下鉄 ** [[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 大江戸線 - 駅番号「'''E 06'''」 == 歴史 == 当駅は、[[1928年]]に中央本線の[[複々線]]化に伴い、従来設置していた'''牛込駅'''(うしごめえき)と'''[[飯田町駅]]'''の近距離電車ホームを分離し、これらを統合する形で開業した経緯がある。 === 年表 === * [[1894年]]([[明治]]27年)[[10月9日]]:[[甲武鉄道]][[新宿駅|新宿]] - 牛込間開通と同時に'''牛込駅'''開業<ref name="sone05-22">[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、22頁</ref>。 * [[1895年]](明治28年)[[4月3日]]:飯田町 - 牛込間開通{{R|sone05-22}}。 * [[1904年]](明治37年)[[8月21日]]:飯田町 - [[中野駅 (東京都)|中野]]間で電車の運行開始{{R|sone05-22}}。 * [[1906年]](明治39年)[[10月1日]]:甲武鉄道の[[鉄道国有法|国有化]]により、牛込駅と飯田町駅は[[鉄道省|官設鉄道]]の駅となる<ref name="sone05-23">[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、23頁</ref>。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により中央東線(1911年から中央本線)の所属となる{{R|sone05-23}}。 * [[1928年]]([[昭和]]3年)[[11月15日]]:[[関東大震災]]復興により、貨客分離を目的とした[[複々線]]化工事が新宿 - 飯田町間で完成。これにより駅間が近い牛込駅と電車線の飯田町駅を統合し、両駅ホームの中間<ref group="注釈">牛込橋より100&nbsp;mほど北東の地点から飯田橋(橋名)近辺にかけて。後に水道橋方面へ延長。</ref>にホームを新設し<ref group="注釈">旧牛込駅の利用者救済のために西口は牛込橋上に設けられ、そのためホームとの間を長い通路で繋ぐこととなった。</ref>、'''飯田橋駅'''が開業<ref name="sone05-24">[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、24頁</ref>。当初は旅客営業のみだった。 * [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]発足<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、25頁</ref>。 * [[1964年]](昭和39年)[[12月23日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)[[東京メトロ東西線|東西線]]の駅が開業<ref name="eidan582">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.582。</ref>。 * [[1968年]](昭和43年)[[1月15日]]:[[佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争]]に参加するため飯田橋駅に向かった[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]の学生200人らからなるデモ隊と警視庁機動隊が、駅前で衝突([[飯田橋事件]])。 *:この後も、学生運動は「都電廃止反対」のスローガンを掲げて都電を占拠する行動に及んだ影響もあって、この年[[9月29日]]に廃止になった[[東京都電車|都電]]江戸川線(15・39系統)の運転最終日には、[[さよなら運転|お別れ]][[花電車|装飾電車]]の運転及びセレモニーが断念された<ref>{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/aera/photoarticle/2019070500023.html?page=1|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200823062805/https://dot.asahi.com/aera/photoarticle/2019070500023.html?page=1|title=学生運動の煽りをうけた「飯田橋」の都電15系統最終日「さよなら装飾電車」は走らなかった… 連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」|publisher=[[朝日新聞出版]]|work=[[AERA dot.]]|date=2019-07-06|accessdate=2020-08-23|archivedate=2020-08-23}}</ref>。 * [[1974年]](昭和49年)[[10月30日]]:営団地下鉄有楽町線の駅が開業<ref name="eidan594">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.594。</ref>。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、中央本線の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、27頁</ref>。 * [[1990年]]([[平成]]2年)[[12月15日]]:JR東日本の西口に自動改札機を設置<ref>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=192 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。 * [[1991年]](平成3年)3月:東西線駅改良工事に着手<ref name="eidan236-237">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、pp.236 - 237。</ref>。 * [[1992年]](平成4年)[[12月10日]]:JR東日本の東口に自動改札機を設置<ref>{{Cite book|和書 |date=1993-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '93年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-114-7}}</ref>。 * [[1996年]](平成8年)[[3月26日]]:[[東京メトロ南北線|営団地下鉄南北線]]の駅が開業<ref name="eidan615">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.615。</ref><ref name="RP622_102">{{Cite journal|和書|author=福田孝義(帝都高速度交通営団運輸本部運輸部運転課)|title=1996.3.26 営団南北線四ツ谷延伸開業|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1996-06-01|volume=46|issue=第6号(通巻第622号)|pages=102 - 103|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref><ref group="新聞">{{cite news|title=南北線駒込-四ツ谷 きょう延伸開業 営団後楽園駅で記念式典 |newspaper=交通新聞 |date=1996-03-26 |publisher=交通新聞社 |page=3 }}</ref>。 * [[1997年]](平成9年)3月:東西線駅改良工事が終了<ref name="eidan236-237" />。総工費約57億3,000万円<ref name="eidan236-237" />。 * [[2000年]](平成12年)[[12月12日]]:都営地下鉄大江戸線の駅が開業<ref name="RJ704_17">{{Cite journal|和書|author=関根豊(東京都交通局経営企画室)|title=総説:東京都交通局 -質の高い公共交通サービスの提供をめざして-|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2001-07-10|volume=51|issue=第7号(通巻704号)|page=17|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2004年]](平成16年)4月1日:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)民営化に伴い、東西線・有楽町線・南北線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:東京メトロ・東京都交通局でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2011年]](平成23年)[[9月17日]]:地下鉄有楽町線ホームにて[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130809_k092.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190719233649/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130809_k092.pdf|format=PDF|language=日本語|title=千川駅、豊洲駅、辰巳駅に設置し、有楽町線全駅にホームドアの設置が完了します! 全179駅中84駅にホームドアの設置が完了しホーム上の安全性が向上|publisher=東京地下鉄|date=2013-08-09|accessdate=2020-07-23|archivedate=2019-07-19}}</ref>。同時に[[発車メロディ]]を導入。 * [[2012年]](平成24年)[[8月11日]]:都営地下鉄大江戸線ホーム設置のホームドアの使用を開始。 * [[2015年]](平成27年) ** [[3月13日]]:南北線ホームの発車メロディを変更<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150302_21.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190510120512/https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150302_21.pdf|format=PDF|language=日本語|title=南北線の発車メロディをリニューアル! 各駅に新しい発車メロディを導入します。|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-02|accessdate=2020-03-25|archivedate=2019-05-10}}</ref>。 ** [[3月29日]]:南北線駅構内に東京メトロお忘れ物総合取扱所を開設([[東京メトロ日比谷線|日比谷線]][[上野駅]]構内からの移転)。 ** [[5月27日]]:東西線ホームに[[発車メロディ]]を導入<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150325_T29.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630161536/http://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150325_T29.pdf|format=PDF|language=日本語|title=九段下駅「大きな玉ねぎの下で〜はるかなる想い〜」日本橋駅「お江戸日本橋」採用 東西線に発車メロディを導入します!|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-25|accessdate=2020-03-11|archivedate=2018-06-30}}</ref>。 * [[2016年]](平成28年)[[8月7日]]:JR東日本の駅改良工事の開始に伴い、西口駅舎が仮駅舎化<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.agneshotel.com/pdf/iidabashi.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200527052840/https://www.agneshotel.com/pdf/iidabashi.pdf|title=(お知らせ)JR飯田橋駅をご利用のみなさまへ 飯田橋駅改良工事に伴い、8月7日(日)より西口駅舎の位置が変わります。|archivedate=2020-05-27|accessdate=2020-05-27|publisher=飯田橋駅長/上野工事区長|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)[[11月24日]]:東西線ホームのホームドア稼働開始。 * [[2020年]]([[令和]]2年) ** [[7月12日]]:新西口駅舎が供用開始<ref group="報道" name="press/20200616_to02">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200616_to02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200616055733/https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200616_to02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=飯田橋駅がより安全に、より便利になります 〜新ホーム、新西口駅舎および歩行者空間の供用開始について〜|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2020-06-16|accessdate=2020-06-16|archivedate=2020-06-16}}</ref><ref group="新聞" name="news20200709"/>。[[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]]のホームが西側に約200&nbsp;[[メートル|m]]移設<ref group="報道" name="press/20200616_to02" /><ref group="新聞" name="news20200709"/>。 ** [[8月25日]]:JR東日本の新西口駅舎開業に伴い、エキナカ商業空間「エキュートエディション飯田橋」が部分開業<ref group="報道" name="retail20200709">{{Cite press release|和書|url=https://corp.j-retail.jp/lib/pdf/press_release/9-61-966/200709_ecutenews26.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200709110147/https://corp.j-retail.jp/lib/pdf/press_release/9-61-966/200709_ecutenews26.pdf|format=PDF|language=日本語|title=首都圏エリアの新規開業エキナカ商業空間 開業日・出店ショップ決定のお知らせ|publisher=JR東日本リテールネット|date=2020-07-09|accessdate=2020-07-09|page=4|archivedate=2020-07-09}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200228_ho01.pdf|title=2020年春より順次、エキナカ商業空間が続々誕生! ~山手線沿線をはじめとする首都圏エリア12駅で展開~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道/JR東日本リテールネット|date=2020-02-28|accessdate=2020-02-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200228073118/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200228_ho01.pdf|archivedate=2020-02-28}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年) ** [[3月18日]]:JR東日本の駅に駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」のブース型「STATION BOOTH」が開業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.stationwork.jp/user/notices-before|title=お知らせ一覧 > 3/18(木) 新たに9カ所でSTATION BOOTHが開業します!|publisher=STATION WORK|date=2021-03-17|accessdate=2021-03-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210318094835/https://www.stationwork.jp/user/notices-before|archivedate=2021-03-18}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210208_ho04.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210208053136/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210208_ho04.pdf|format=PDF|language=日本語|title=STATION WORKは2020年度100カ所ネットワークへ ~東日本エリア全域へ一挙拡大。ホテルワーク・ジムワークなどの新たなワークスタイルを提案します~|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-02-08|accessdate=2021-02-08|archivedate=2021-02-08}}</ref>。 ** 4月1日:JR東日本の駅が業務委託化<ref name="outsourcing">{{Cite web|和書|url=https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_bb411a658fc943e185d3831a17350a9a.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201006001737/https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_bb411a658fc943e185d3831a17350a9a.pdf|title=「2020年度営業関係施策(その3)について」提案を受ける!!|date=2020-10-05|archivedate=2020-10-06|accessdate=2020-10-06|publisher=JTSU-E 東京地本|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 ** [[7月21日]]:JR東日本の駅で史跡眺望テラスを供用開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/tokyo/20210615_to01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210615075416/https://www.jreast.co.jp/press/2021/tokyo/20210615_to01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=飯田橋駅西口駅舎2階「史跡眺望テラス」を供用開始します|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2021-06-15|accessdate=2021-06-15|archivedate=2021-06-15}}</ref>。エキナカ商業空間「エキュートエディション飯田橋」がグランドオープン<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/tokyo/20210630_to01.pdf|title=エキナカ商業空間「エキュートエディション飯田橋」グランドオープン!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道東京支社/JR東日本クロスステーション|date=2021-06-30|accessdate=2021-06-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210630123532/https://www.jreast.co.jp/press/2021/tokyo/20210630_to01.pdf|archivedate=2021-06-30}}</ref>。 == 駅構造 == === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = JR 飯田橋駅 |画像 = Iidabashi-Sta-E.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 東口(2016年6月) |よみがな = いいだばし |ローマ字 = Iidabashi |副駅名 = |前の駅 = JB 17 [[水道橋駅|水道橋]] |駅間A = 0.9 |駅間B = 1.5 |次の駅 = [[市ケ谷駅|市ケ谷]] JB 15 |電報略号 = イイ |駅番号 = {{駅番号r|JB|16|#ffd400|1}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]]<br />(線路名称上は[[中央本線]]) |キロ程 = 3.0&nbsp;km([[神田駅 (東京都)|神田]]起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から40.4 |起点駅 = |所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[飯田橋]]四丁目10-2 |座標 = {{coord|35|42|7.4|N|139|44|42|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 飯田橋駅}} |駅構造 = [[高架駅]]・[[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1928年]]([[昭和]]3年)[[11月15日]]{{R|sone05-24}} |廃止年月日 = |乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />62,060 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="outsourcing" /> * [[みどりの窓口]] 有 * [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}} }} [[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]。[[水道橋駅]]の被管理駅<ref name="outsourcing" />。 [[島式ホーム]]1面2線を有する[[高架駅]]。駅舎は東西に出口がある。地形が傾斜しているため、東口側は高架駅舎のようになっているが、西口側は[[橋上駅|橋上駅舎]]となっている。[[江戸城]]外堀跡の史跡区域に入る西口駅舎は、景観に与える影響を考え「日本建築の反りをモチーフとした佇まい」として建築されており、2階には商業施設の他に「史跡眺望デッキ」も設けられている<ref name="keizai20200712"/>。 牛込駅と飯田町駅を統合時に設置されたホームは、曲線半径300&nbsp;[[メートル|m]]の急カーブに位置(写真も参照)しており、電車が停車した際に隙間が最大約33&nbsp;[[センチメートル|cm]]、高低差が最大20&nbsp;cm生まれ、年間で平均10件ほどの転落事故が起きていた<ref group="報道" name="press/20200616_to02" /><ref group="新聞" name="news20200709">{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20200709/k00/00m/040/086000c|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200709071008/https://mainichi.jp/articles/20200709/k00/00m/040/086000c|title=隙間33センチ、転落相次ぐ「都内で最も危険なホーム」解消へ JR飯田橋駅|newspaper=毎日新聞|date=2020-07-09|accessdate=2020-07-09|archivedate=2020-07-09}}</ref>。このため、[[2014年]][[7月2日]]にJR東日本は抜本的な対策として、ホームを牛込橋を中心とした新宿方の直線区間へ約200&nbsp;m移設してホームと車両の隙間を解消させるとともに、西口駅舎の建て替えと駅前広場の整備を実施することを発表した<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2014/20140702.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191011201619/https://www.jreast.co.jp/press/2014/20140702.pdf|format=PDF|language=日本語|title=JR中央線飯田橋駅ホームにおける抜本的な安全対策の着手について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2014-07-02|accessdate=2020-05-27|archivedate=2019-10-11}}</ref>。新しく建設するホームにあたる位置には最大で33.3&nbsp;[[パーミル|‰]]という勾配があり、建設する際に障害となったため、勾配を緩やかにする工事(上下線合わせて57回に分けて行う軌道低下工事と38回のホーム低下工事)を実施し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tekken.co.jp/blog/2020/07/post-246.php|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210327154711/https://www.tekken.co.jp/blog/2020/07/post-246.php|title=JR飯田橋駅、新ホームと新駅舎供用開始/列車とホームの隙間・段差解消|archivedate=2021-03-27|date=2020-07-15|accessdate=2021-03-27|publisher=鉄建建設|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref><ref group="新聞" name="kensetsu20200801">{{Cite news|url=https://www.kensetsunews.com/web-kan/476325|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210526094623/https://www.kensetsunews.com/web-kan/476325|title=【考え得るあらゆる対策実践】JR東日本の飯田橋駅改良 前例のない工事への挑戦|newspaper=建設通信新聞|date=2020-08-01|accessdate=2021-05-26|archivedate=2021-05-26}}</ref>、18.5&nbsp;‰に緩和した上で建設された<ref name="keizai20200712">{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/amp/362441?page=2|title=「飯田橋駅」ホーム移設、急カーブ消え危険解消 カーブだけでなく実は急勾配の緩和工事も|date=2020-07-12|publisher=東洋経済新報社|work=東洋経済オンライン|accessdate=2020-07-23|page=2|archivedate=2020-07-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200716000705/https://toyokeizai.net/articles/amp/362441?page=2}}</ref>。また、新ホームの一部が[[江戸城]]外堀跡の[[史跡]]区域に入っているため、[[埋蔵文化財]]の有無や正確な位置を[[ボーリング]]調査などで把握したうえで工事を行うなど、地中遺構へ出来る限りの配慮を行った上で建設されている<ref name="keizai20200712"/>。なお、新駅舎や新ホームの供用に伴い、移設前のホームは東口への連絡通路として活用されている<ref group="報道" name="press/20200616_to02" /><ref group="新聞" name="news20200709"/>。移設前のホームのうち水道橋寄りの閉鎖された部分はほぼ原形通りのままで、連絡通路からも見ることができる。駅名標・広告は撤去されているが、ホーム部分の照明や閉鎖区域につながる階段・下りエスカレーターは撤去されていない。 改良工事により、西口の駅舎はホーム階、改札階、店舗階の3層構造になり、改札からホームへのアプローチが従前の緩い勾配の通路から、階段、エスカレーター、エレベーターで階を降りる形になった。 なお、この工事にあたって令和3年度の[[土木学会]]技術賞を受賞している<ref group="注釈">「急曲線ホームの解消による都心ターミナル駅の安全性向上 -徹底した機械化施工によるJR飯田橋駅ホーム移設工事-」として、JR東日本<!-- 東京工事事務所 -->・鉄建建設・前田建設<!-- 2社の共同企業体 -->・東鉄工業<!-- 東京線路支店東京軌道工事所 -->・JR東日本コンサルタンツの5者共同で受賞</ref>。 ==== のりば ==== <!-- 方面表記は、出典の「駅構内図」の表記に準拠 --> {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側の呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車) |style="text-align:center"|東行 |[[御茶ノ水駅|御茶ノ水]]・[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[千葉駅|千葉]]方面 |- !2 |style="text-align:center"|西行 |[[四ツ谷駅|四ツ谷]]・[[新宿駅|新宿]]・[[三鷹駅|三鷹]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/99.html JR東日本:駅構内図]) *移設前は市ヶ谷方の直線上に引上線があり千葉方面への折返しに使われた。移設後のホームの大部分は引上線のあったスペースを利用している。 * [[2020年]][[3月14日]]のダイヤ改正以降、早朝・深夜に設定されていた[[東京駅]]発着の各駅停車が消滅した<ref group="報道" name="pr20191213">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191213080612/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年3月ダイヤ改正について|page=6|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-12-13|accessdate=2020-07-23|archivedate=2019-12-13}}</ref>。 <gallery caption="東口駅舎・旧西口駅舎" widths="180" style="font-size:90%;"><!--画像サイズが統一されていないため取らないこと--> 飯田橋駅 西口 2015 (24624371562).jpg|西口旧駅舎(2015年10月) Iidabashi Station 201908a.jpg|西口仮駅舎(2019年8月) JR Chuo-Main-Line Iidabashi Station East Gates.jpg|東口改札(2019年9月) JR East Iidabashi Station West Entrance Concourse (Temporary) 2016.jpg|西口仮駅舎コンコース(2016年8月) JR Chuo-Main-Line Iidabashi Station West Gates.jpg|仮西口改札(2019年9月) Iidabashi-Sta-JR-Platform.JPG|大きく湾曲している移設前のホーム(2016年6月) </gallery> <gallery caption="西口駅舎" widths="180" style="font-size:90%;"><!--画像サイズが統一されていないため取らないこと--> Iidabashi Station 200719b.jpg|駅舎外観 JRE Iidabashi-STA West-Gate.jpg|西口改札 JRE Iidabashi-STA West-Ticket-office.jpg|切符券売機とみどりの窓口 JRE Iidabashi-STA West-Concourse.jpg|コンコース Iidabashi Station 200719f.jpg|東口への連絡通路 JR Chuō Line Iidabashi Station Platform (20220626).jpg|移設後のホーム </gallery> ==== 発車メロディ ==== 1番線ではサウンドフォーラム、2番線では[[サウンドファクトリー]]制作の発車メロディを使用している。 {| border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" !1 |[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] |春 New Ver. |- !2 |[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] |SF-3(教会の見える駅) |} {{-}} === 東京メトロ === {{駅情報 |社色 = #109ed4 |文字色 = |駅名 = 東京メトロ 飯田橋駅 |画像 = Toei Tokyo-Metro Iidabashi-STA-A1-Entrance.jpg |pxl = 300 |画像説明 = A1番出入口(2022年5月) |よみがな = いいだばし |ローマ字 = Iidabashi |副駅名 = |電報略号 = イイ |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ) |所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[飯田橋]]四丁目10-3(東西線)<br/>{{coord|35|42|7|N|139|44|44.2|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=東京メトロ東西線 飯田橋駅}}<hr />東京都[[新宿区]][[神楽坂]]一丁目13(有楽町線・南北線)<br />{{coord|35|42|6|N|139|44|36.8|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=東京メトロ有楽町線・南北線 飯田橋駅}} |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = {{Plainlist| * 2面2線(東西線) * 1面2線(有楽町線・南北線)}} |開業年月日 = [[1964年]]([[昭和]]39年)[[12月23日]]<ref name="eidan582" /> |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />138,426 |統計年度 = 2022年 |乗入路線数 = 3 |前の駅1 = T 05 [[神楽坂駅|神楽坂]] |駅間A1 = 1.2 |駅間B1 = 0.7 |次の駅1 = [[九段下駅|九段下]] T 07 |駅番号1 = {{駅番号r|T|06|#009bbf|4}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref> |所属路線1 = {{color|#009bbf|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[東京メトロ東西線|東西線]] |キロ程1 = 8.0 |起点駅1 = [[中野駅 (東京都)|中野]] |前の駅2 = Y 12 [[江戸川橋駅|江戸川橋]] |駅間A2 = 1.6 |駅間B2 = 1.1 |次の駅2 = [[市ケ谷駅|市ケ谷]] Y 14 |駅番号2 = {{駅番号r|Y|13|#c1a470|4}}<ref name="tokyosubway"/> |所属路線2 = {{color|#c1a470|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]] |キロ程2 = 16.4 |起点駅2 = [[和光市駅|和光市]] |前の駅3 = N 09 [[市ケ谷駅|市ケ谷]] |駅間A3 = 1.1 |駅間B3 = 1.4 |次の駅3 = [[後楽園駅|後楽園]] N 11 |駅番号3 = {{駅番号r|N|10|#00ac9b|4}}<ref name="tokyosubway"/> |所属路線3 = {{color|#00ac9b|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[東京メトロ南北線|南北線]] |キロ程3 = 10.0 |起点駅3 = [[目黒駅|目黒]] |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#管理駅|駅務管区所在駅]]<ref name="RP926" /> * [[定期券]]売り場 有}} |備考全幅 = }} 東西線は中柱のある[[相対式ホーム]]2面2線、有楽町線と南北線はともに島式ホーム1面2線を有する[[地下駅]]である。有楽町線・南北線のホームは新宿区最東端となっている。 東西線のホームは[[東京都道8号千代田練馬田無線|目白通り]]、有楽町線と南北線のホームは[[外堀通り]]、それぞれの地下に設置されており、JRの駅を挟んで徒歩5分程の距離がある。そのため、東西線と有楽町線・南北線は[[改札]]が別になっている。JRとのホームまでの距離は、東西線・有楽町線・南北線のいずれも比較的近かったが、2020年のJRのホーム移転により、東西線だけが接続する他の全路線から遠くなってしまった(これは同じ東西線の駅では、[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]にも該当する)。 また東西線の駅は1991年から1997年にかけて駅改良工事により、中野方約105&nbsp;mにわたってホーム幅を3.8&nbsp;mから7.5&nbsp;mとする拡幅が行われ、拡幅部の上部に[[コンコース]]を増設し、ホーム中ほどにも階段を新設して混雑緩和を図った<ref name="eidan236-237" />。南北線開業時、エレベーター専用出入口の1箇所以外の出入口新設は行わず、既存の出入口を活用することで建設費用の低減を図った<ref name="Namboku-Const564">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.340・564 - 569。</ref>。 駅務管区所在駅であり、飯田橋駅務管区として飯田橋地域、[[九段下駅|九段下]]地域、[[高田馬場駅|高田馬場]]地域を管理する<ref name="RP926">{{Cite journal|和書|author=関田崇(東京地下鉄経営企画本部経営管理部)|title=総説:東京メトロ|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=17|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。過去には東西線と有楽町線に[[飯田橋検車区]]が設置され、廃止後も留置線として用いられている。東西線当駅の南側には飯田橋[[変電所]](地上3階建て)があり、西船橋寄りから変電所への連絡地下通路が設けられている<ref name="Tozai-Const335">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.335 - 337・580。</ref>。 有料座席指定列車「[[S-TRAIN]]」は平日ダイヤのみ有楽町線に乗り入れ、当駅にも停車する。なお、当駅から東京メトロ線内のみの乗車はできない(乗車専用の[[石神井公園駅]]で乗車し、当駅で下車するのは可)<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170110_g02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181211204927/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170110_g02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=有料座席指定列車の愛称・詳細が決定! 2017年3月25日(土)から「S-TRAIN」運行開始!|publisher=西武鉄道/東京地下鉄/東京急行電鉄/横浜高速鉄道|date=2017-01-10|accessdate=2020-05-27|archivedate=2018-12-11}}</ref>。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側の呼称 -->!!路線!!行先 |- |colspan="3" style="background-color:#eee;border-top:solid 3px #999"|'''東西線ホーム(地下2階)''' |- ! 1 |rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線 |[[西船橋駅|西船橋]]・[[津田沼駅|津田沼]]・[[東葉勝田台駅|東葉勝田台]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/iidabashi/timetable/tozai/a/index.html |title=飯田橋駅時刻表 西船橋・津田沼・東葉勝田台方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- ! 2 |[[中野駅 (東京都)|中野]]・[[三鷹駅|三鷹]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/iidabashi/timetable/tozai/b/index.html |title=飯田橋駅時刻表 中野・三鷹方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- |colspan="3" style="background-color:#eee; border-top:solid 3px #999"|'''有楽町線・南北線ホーム(地下3階)''' |- ! 3 |style="width:5.5em;" rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|15px|Y]] 有楽町線 |[[新木場駅|新木場]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/iidabashi/timetable/yurakucho/a/index.html |title=飯田橋駅時刻表 新木場方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- ! 4 |[[和光市駅|和光市]]・[[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園]]・[[飯能駅|飯能]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/iidabashi/timetable/yurakucho/b/index.html |title=飯田橋駅時刻表 和光市・森林公園・飯能方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- ! 5 |rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] 南北線 |[[赤羽岩淵駅|赤羽岩淵]]・[[浦和美園駅|浦和美園]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/iidabashi/timetable/namboku/a/index.html |title=飯田橋駅時刻表 赤羽岩淵・浦和美園方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- ! 6 |[[白金高輪駅|白金高輪]]・[[目黒駅|目黒]]・[[日吉駅 (神奈川県)|日吉]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/iidabashi/timetable/namboku/b/index.html |title=飯田橋駅時刻表 白金高輪・目黒・日吉方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/iidabashi/index.html 東京メトロ:構内図]) <gallery> Tokyo-Metro Iidabashi-STA Central-Gate.jpg|中央改札(2022年5月) Tokyo-Metro Iidabashi-STA Iidabashi-Gate.jpg|飯田橋方面改札(2022年5月) Tokyo-Metro Iidabashi-STA Iidabashi-Intersection-Gate.jpg|飯田橋交差点方面改札(2022年5月) Tokyo-Metro Iidabashi-STA Iidabashi 1-4 chome-Gate.jpg|飯田橋1-4丁目方面改札(2022年5月) Tokyo-Metro_Iidabashi-STA_Kagurazakashita-Gate.jpg|神楽坂下方面改札(2022年10月) Tokyo-Metro Iidabashi-Station Tozai-Line-Platform1 20220523 145604.jpg|東西線1番線ホーム(2022年5月) Tokyo-Metro Iidabashi-Station Tozai-Line-Platform2 20220523 145749.jpg|東西線2番線ホーム(2022年5月) Tokyo-Metro Iidabashi-STA Yurakucho-Line-Platform.jpg|有楽町線3・4番線ホーム(2022年10月) Tokyo-Metro Iidabashi-Station Namboku-Line-Platform 20220523 142939.jpg|南北線5・6番線ホーム(2022年5月) </gallery> ==== 発車メロディ ==== 全ホームで発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 東西線ホームでは[[向谷実]]作曲のメロディ(詳細は[[東京メトロ東西線#発車メロディ]]を参照)、有楽町線ホームと南北線ホームでは[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作のメロディを使用している<ref>{{Cite web|和書|title=個人でのソーシャルメディアでの音源使用について|url=http://www.switching.co.jp/news/401|website=[http://www.switching.co.jp/ スイッチオフィシャルサイト]|accessdate=2019-10-03|language=ja|publisher=スイッチ}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.switching.co.jp/cd/images/nanboku_line_ekimelo.pdf|title=「南北線」曲目リスト|format=PDF|work=[http://www.switching.co.jp/news/155 東京メトロ「南北線」が新駅メロディ採用 制作:株式会社スイッチ]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190711050827/http://www.switching.co.jp/cd/images/nanboku_line_ekimelo.pdf|archivedate=2019-07-11|publisher=スイッチ|date=2015-03-02|accessdate=2021-03-28}}</ref>。 なお、南北線ホームでは当初、[[吉村弘]]作曲の同線全駅共通のメロディを使用していた。 {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側の呼称 --> !路線 !曲名 !作曲者 |- !1 | rowspan="2" |[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|フレームなし|15x15ピクセル]] 東西線 |A Day in the METRO | rowspan="2" |向谷実 |- !2 |Beyond the Metropolis |- !3 | rowspan="2" |[[File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|フレームなし|15x15ピクセル]] 有楽町線 |ラブリートレイン |[[福嶋尚哉]] |- !4 |星のゆくえ | rowspan="2" |[[塩塚博]] |- !5 | rowspan="2" |[[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|フレームなし|15x15ピクセル]] 南北線 |坂のある街 |- !6 |水の戯れ |[[山崎泰之]] |} {{-}} === 東京都交通局 === {{駅情報 |社色 = #009f40 |文字色 = |駅名 = 東京都交通局 飯田橋駅 |画像 = Toei Tokyo-Metro Iidabashi-STA B2a-Entrance.jpg |pxl = 300 |画像説明 = B2a番出入口(2022年10月) |よみがな = いいだばし |ローマ字 = Iidabashi |副駅名 = |前の駅 = E 05 [[牛込神楽坂駅|牛込神楽坂]] |駅間A = 1.0 |駅間B = 1.0 |次の駅 = [[春日駅 (東京都)|春日]] E 07 |電報略号 = 飯(駅名略称) |駅番号 = {{駅番号r|E|06|#ce045b|4}}<ref name="tokyosubway"/> |所属事業者 = [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]]) |所属路線 = {{color|#ce045b|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] |キロ程 = 5.8 |起点駅 = [[都庁前駅|都庁前]] |所在地 = [[東京都]][[文京区]][[後楽]]一丁目9-5 |座標 = {{coord|35|42|11.4|N|139|44|45|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=都営地下鉄 飯田橋駅}} |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[2000年]]([[平成]]12年)[[12月12日]] |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="都交" name="toei2022" />24,744 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]] }} 島式ホーム1面2線を有する[[地下駅]]。ホームは先に建設された東京メトロ各線を避けるため、地下32.1&nbsp;mと非常に深い位置にある。当駅は都営地下鉄全体・大江戸線内では7番目に深い位置にホームがあり、当駅前後では高低差が激しくなる。ただし駅務室は非常に浅い位置にあり、壁と天井の換気および採光が、わずかに道路上に露出している事が、利用客の入れる部分からも見える。 当駅周辺には多数の地下鉄、[[首都高速道路|首都高速]][[首都高速5号池袋線|5号池袋線]]や[[神田川 (東京都)|神田川]]、[[下水道]]管、[[東京電力ホールディングス|東京電力]]の[[洞道]]など重要構造物が多数あることや<ref name="Narumido-oedo112">{{Cite book|和書|others=東京都交通局監修|editor=大江戸線建設物語編纂委員会|edition=初版|date=2015-07-01|title=大江戸線建設物語 地下鉄のつくり方 ー計画から開業までー|publisher=[[成山堂書店]]|pages=112-118|isbn=978-4-425-96231-0}}</ref>、地上の[[東京都道405号外濠環状線|外堀通り]]、[[目白通り]]などが交差する飯田橋交差点は交通量が非常に多く、長期間の車線規制は困難であることから、建設には特殊な[[シールドトンネル|シールド工法]]を採用した<ref name="Narumido-oedo112"/><ref name="Kumagai">{{Cite web|和書|url=https://www.kumagaigumi.co.jp/works/tunnel_iidabashi.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210214131521/https://www.kumagaigumi.co.jp/works/tunnel_iidabashi.html|title=地下鉄大江戸線飯田橋駅工区|archivedate=2021-02-14|accessdate=2021-02-14|publisher=[[熊谷組]]|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref><ref name="english.shield-method">{{Cite web|和書|url=http://english.shield-method.gr.jp/wp/wp-content/uploads/mf_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230105114326/http://english.shield-method.gr.jp/wp/wp-content/uploads/mf_01.pdf|title=地下鉄12号線環状部飯田橋駅(仮称)建設工事|archivedate=2023-01-05|accessdate=2023-02-12|publisher=シールド工法技術協会|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref><ref name="shield-method">{{Cite web|和書|url=http://shield-method.gr.jp/construction-method/cm_ac_mf/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211021202912/http://shield-method.gr.jp/construction-method/cm_ac_mf/|title=施工実績:MFシールド工法|archivedate=2021-11-02|accessdate=2023-02-12|publisher=シールド工法技術協会|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。これは、世界初の3心円泥水式駅シールド工法(MFシールド工法・'''M'''ulti-circular '''F'''ace method)を採用することで、幅17.1&nbsp;m、延長275.0&nbsp;mに渡ってホームと旅客用通路部の同時掘削を行った<ref name="Narumido-oedo112"/><ref name="Kumagai"/><ref name="english.shield-method"/><ref name="shield-method"/>。 バリアフリー設備として春日寄りの後楽方面改札側にエレベーターが設けられている。また、JR・東京メトロと大江戸線との乗り換えルートにも車椅子対応エスカレーターがあるものの、距離もあり時間もかかる。 駅業務は[[東京都営交通協力会]]に委託されている。1974年(昭和49年)の大江戸線免許申請時点では当駅は経由せず、春日駅から牛込神楽坂駅方面まで[[東京都道434号牛込小石川線]](放射25号道路・当時未完成)の地下を経由する計画であったが、小型地下鉄規格への見直し時に当駅を経由することが旅客増加に繋がると判断して変更したものである<ref>建設界通信社「建設界」1987年1月号「東京都営地下鉄12号線建設の中間報告から - 建設のあり方、財政問題等を中心に - 」pp.46 - 49。</ref><ref>洋泉社「今だから話せる都営地下鉄の秘密」pp.117 - 118。</ref>。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側の呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/oedo/E06BD.html |title=飯田橋 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-04}}</ref> |- !1 |rowspan=2|[[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 都営大江戸線 |[[新宿西口駅|新宿西口]]・[[都庁前駅|都庁前]]・{{small|(都庁前のりかえ)}}[[光が丘駅|光が丘]]方面 |- !2 |[[両国駅|両国]]・[[大門駅 (東京都)|大門]]方面 |} (出典:[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/iidabashi.html 都営地下鉄:駅構内図]) ==== 大江戸線の駅デザイン ==== 2000年に開業した大江戸線飯田橋駅は、[[建築家]]の[[渡辺誠 (建築家)|渡辺誠]]が設計し、[[日本建築学会賞]]を受賞した<ref>{{Cite web|和書|url=https://makoto-architect.com/iidabashi_j.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211121114020/https://makoto-architect.com/iidabashi_j.html|title=ALGORITHMIC DESIGN / INDUCTION DESIGN 都営地下鉄 大江戸線 飯田橋駅 2000|archivedate=2021-11-21|accessdate=2021-11-23|website=[https://makoto-architect.com/index_j.html ALGORITHMIC DESIGN / INDUCTION DESIGN]|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。特に[[階段]]・[[エスカレーター]]の上の天井を走る「ウェブフレーム」と呼ばれる緑色の骨組は、構造的・空間的な条件を与えて[[コンピュータ]]プログラムによる形態生成を行うという、半ば実験的な建築設計手法を具現化した作品である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kikukawa.com/metalcraft-web-frame-of-iidabashi/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210415054555/https://www.kikukawa.com/metalcraft-web-frame-of-iidabashi/|title=都営大江戸線飯田橋駅の「ウェブフレーム」|date=2019-09-24|archivedate=2021-04-15|accessdate=2021-11-23|publisher=菊川工業|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。そのウェブフレームには照明がはめ込まれている。この手法は[[九州新幹線]][[新水俣駅]]前の「新水俣門」(同じく渡辺誠設計)にも用いられている。さらに、C3出入口にある換気塔は、葉っぱをデザインしたものであり、ウェブフレームと合わせて、植物が根を伸ばして花を咲かせるという設計となっている。 <gallery> Toei Iidabashi-STA Koraku-District-Gate.jpg|後楽方面改札(2022年12月) Toei Iidabashi-STA Tokyo-Metro-Iidabashi-Sta-District-Gate.jpg|東京メトロ飯田橋駅方面改札(2022年12月) Toei Iidabashi-STA Platform1-2.jpg|大江戸線ホーム(2022年12月) Toei Iidabashi-STA Inside-Stairs.jpg|階段ウェブフレーム(2022年12月) iidabashi-C3.JPG|大江戸線C3出入口換気口(2007年10月) </gallery> {{-}} == 利用状況 == * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''62,060人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。 *: 東日本管内の駅の中では[[水道橋駅]]に次いで第62位。中央線・総武線(千葉駅 - 高尾駅間)のうち各駅停車(中央線中野駅以西は快速も含む)のみ停車する駅では秋葉原駅・[[西船橋駅]]に続いて3番目に多い。中央線の複々線区間では最多。 * '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''138,426人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 *:東京メトロの全130駅の中では[[西日暮里駅]]に次いで第15位<!--他鉄道との直結連絡駅及び共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。この値は東京メトロ線同士の乗換人員を含まない。 ** 東京メトロ線同士の乗換人員を含んだ、2018年度の路線別1日平均乗降人員は以下の通りである<ref group="乗降データ" name="train-media" />。 *** 東西線 - '''179,917人''' - 同線内では大手町駅、西船橋駅、日本橋駅、茅場町駅、高田馬場駅、九段下駅に次ぐ第7位。 *** 有楽町線 - '''181,663人''' - 同線内では小竹向原駅、有楽町駅、豊洲駅、池袋駅、和光市駅に次ぐ第6位。 *** 南北線 - '''121,434人''' - 同線内では溜池山王駅、目黒駅に次ぐ第3位。 * '''東京都交通局''' - 2022年度の1日平均'''乗降'''人員は'''24,744人'''(乗車人員:12,380人、降車人員:12,364人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。 *: 大江戸線全38駅中28位。 === 年度別1日平均乗降人員 === 各年度の1日平均'''乗降'''人員は下表の通りである(JRを除く)。 * 東京メトロの値には、東京メトロ線内の乗換人員を含まない。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ" name="train-media">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="乗降データ" name="shinjuku">[http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/kikaku01_001004.html 新宿区の概況] - 新宿区</ref><ref group="乗降データ" name="bunkyo">[http://www.city.bunkyo.lg.jp/kusejoho/toke/toukei.html 文京の統計] - 文京区</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|営団 / 東京メトロ !colspan=2|都営地下鉄 |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |1999年(平成11年) |131,315|| |style="text-align:center" colspan="2"|未開業 |- |2000年(平成12年) |139,622||6.3% |16,296|| |- |2001年(平成13年) |143,587||2.8% |19,154||17.5% |- |2002年(平成14年) |141,411||&minus;1.5% |20,900||9.1% |- |2003年(平成15年) |144,725||2.3% |21,904||4.8% |- |2004年(平成16年) |150,714||4.1% |22,547||2.9% |- |2005年(平成17年) |154,277||2.4% |24,102||6.9% |- |2006年(平成18年) |157,443||2.1% |25,387||5.3% |- |2007年(平成19年) |166,617||5.8% |26,713||5.2% |- |2008年(平成20年) |168,553||1.2% |26,855||0.5% |- |2009年(平成21年) |167,499||&minus;0.6% |26,533||&minus;1.2% |- |2010年(平成22年) |167,960||0.3% |27,341||3.0% |- |2011年(平成23年) |166,452||&minus;0.9% |27,249||&minus;0.3% |- |2012年(平成24年) |169,830||2.0% |28,309||3.9% |- |2013年(平成25年) |173,224||2.0% |29,004||2.5% |- |2014年(平成26年) |177,964||2.7% |30,360||4.7% |- |2015年(平成27年) |186,299||4.7% |31,779||4.7% |- |2016年(平成28年) |190,749||2.4% |32,562||2.5% |- |2017年(平成29年) |195,294||2.4% |33,273||2.2% |- |2018年(平成30年) |198,296||1.5% |34,278||3.0% |- |2019年(令和元年) |194,569||&minus;1.9% |34,055||&minus;0.7% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>116,578||&minus;40.1% |<ref group="都交" name="toei2020" />22,323||&minus;34.5% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>119,584||2.6% |<ref group="都交" name="toei2021" />22,404||0.4% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>138,426||15.8% |<ref group="都交" name="toei2022" />24,744||10.4% |} === 年度別1日平均乗車人員(1920年代 - 1930年代) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通りである。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="東京府統計">東京府統計書 - 国立国会図書館(近代デジタル化資料)</ref> !年度 !国鉄 !出典 |- |1928年(昭和{{0}}3年) |<ref group="備考">1928年11月15日開業。</ref>6,873 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref> |- |1929年(昭和{{0}}4年) |22,075 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref> |- |1930年(昭和{{0}}5年) |21,675 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref> |- |1931年(昭和{{0}}6年) |20,070 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref> |- |1932年(昭和{{0}}7年) |20,559 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |21,220 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |21,963 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |22,120 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> <!--1974年度と1975年度の有楽町線の乗車人員データはありませんでした。--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !rowspan=2|年度 !rowspan=2|国鉄 /<br />JR東日本 !colspan=3|営団 !rowspan=2|都営地下鉄 !rowspan=2|出典 |- !東西線 !有楽町線 !南北線 |- |1953年(昭和28年) |47,531 |rowspan=11 style="text-align:center"|未<br/>開<br/>業 |rowspan=21 style="text-align:center"|未<br/>開<br/>業 |rowspan=42 style="text-align:center"|未<br/>開<br/>業 |rowspan=47 style="text-align:center"|未<br/>開<br/>業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 11ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |51,140 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 9ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |56,950 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 9ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |62,866 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 9ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |65,824 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 9ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |69,811 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 9ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |73,828 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |78,365 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |82,061 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |86,739 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |92,161 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |96,718 |<ref group="備考">1964年12月23日開業。開業日から翌年3月31日までの計99日間を集計したデータ。</ref>6,099 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |100,878 |9,020 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |106,314 |12,415 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |108,787 |16,365 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |109,088 |20,900 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |91,779 |26,726 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |91,003 |29,540 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |92,579 |31,311 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |92,937 |32,195 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |92,696 |30,299 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |95,455 |33,896 | |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |90,995 |42,339 | |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |91,830 |30,652 |13,485 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |89,649 |31,934 |14,849 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |92,093 |30,923 |14,967 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |89,880 |31,186 |15,770 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |80,597 |29,134 |17,468 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |80,110 |29,326 |18,375 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |77,510 |29,063 |18,455 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |77,806 |29,609 |20,134 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |80,666 |30,526 |22,926 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |82,896 |31,570 |24,882 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |85,370 |32,775 |26,718 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |87,571 |33,809 |28,120 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |93,296 |34,773 |30,712 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |92,247 |34,221 |30,671 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |94,211 |34,334 |31,274 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |96,093 |34,014 |31,478 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |96,110 |33,819 |31,605 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |95,734 |33,441 |31,430 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |93,625 |32,753 |30,482 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |92,814 |31,811 |30,077 |<ref group="備考">1996年3月26日開業。開業日から同年3月31日までの計6日間を集計したデータ。</ref>4,167 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |91,036 |31,816 |29,329 |4,227 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |88,746 |30,151 |29,611 |5,666 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |89,016 |29,847 |29,778 |6,685 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>89,641 |29,478 |29,265 |7,183 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>91,145 |30,074 |30,101 |9,003 |<ref group="備考">2000年12月12日開業。開業日から翌年3月31日までの計110日間を集計したデータ。</ref>8,273 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="shinjuku" /><ref group="乗降データ" name="bunkyo" /><ref group="乗降データ">[https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kuse/toke/kisotoke/index.html 千代田区ホームページ] - 行政基礎資料集</ref> !rowspan=2|年度 !rowspan=2|JR東日本 !colspan=3|営団 / 東京メトロ !rowspan=2|都営地下鉄 !rowspan=2|出典 |- !東西線 !有楽町線 !南北線 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>88,967 |29,841 |31,033 |11,603 |9,748 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>88,522 |29,192 |30,929 |12,047 |10,593 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>88,453 |29,459 |31,445 |12,768 |11,044 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>88,001 |29,699 |32,123 |13,200 |11,408 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>88,647 |30,386 |32,803 |13,816 |12,175 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>88,891 |30,784 |33,373 |14,271 |12,732 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>90,572 |32,566 |35,448 |15,481 |13,361 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>90,405 |33,184 |35,397 |16,216 |13,439 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>90,153 |34,797 |35,033 |16,378 |13,322 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>90,363 |33,022 |34,959 |16,647 |13,709 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>90,763 |32,445 |34,549 |16,842 |13,664 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>91,359 |32,967 |35,241 |17,353 |14,204 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>91,196 |33,233 |36,337 |17,699 |14,577 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>91,325 |34,012 |37,137 |18,232 |15,262 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>94,034 |35,260 |38,822 |19,571 |15,973 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>93,962 |36,282 |39,682 |20,164 |16,357 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>93,871 |37,282 |40,452 |20,866 |16,709 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>92,988 |37,858 |40,899 |21,449 |17,197 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>90,304 |37,298 |39,336 |21,683 |17,056 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>55,488 | | | |<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104153832/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2021-11-04 |deadlinkdate=2022-11-12}}</ref>11,165 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>55,335 | | | |<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221112011444/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2022-11-12 |deadlinkdate=}}</ref>11,200 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>62,060 | | | |<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102231721/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |archivedate=2023-11-03 }}</ref>12,380 | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == {{See also|飯田橋|神楽坂|後楽|富士見 (千代田区)|神楽河岸|市谷船河原町|若宮町 (新宿区)|揚場町|津久戸町|新小川町|下宮比町}} {{columns-list|2| * [[千代田区役所]] 富士見出張所・富士見区民館 * 東京区政会館 * 飯田橋セントラルプラザ : JRの駅の北西側、東口と西口の間にある[[駅ビル]]であり、低層階には一般店舗が入居、その上に住宅棟(千代田区側)と事務棟(東京都飯田橋庁舎、新宿区側)を備え、事務棟には東京都の関連団体などが入居している。 :* 東京都民生児童委員連合会 :* 東京都母子寡婦福祉協議会 :* 東京都身体障害者団体連合会 :* 東京都社会福祉協議会 :* 東京[[ボランティア]]・市民活動センター :* 東京都高齢者研究・福祉振興財団 :* 東京都消費生活総合センター :* 東京セントラルユースホステル :* ラムラ * 飯田橋[[公共職業安定所]](ハローワーク飯田橋) * [[東京しごとセンター]] * [[新宿区立津久戸小学校]] * [[日本歯科大学]] ** 日本歯科大学附属病院 ** [[日本歯科大学東京短期大学]] * [[東京理科大学]] 神楽坂校舎 * [[法政大学]] 市ケ谷キャンパス * [[千代田区立九段中等教育学校]] * [[千代田区立富士見小学校]] * [[暁星小学校]] * [[暁星中学校・高等学校]] * [[白百合学園小学校]] * [[白百合学園中学校・高等学校]] * [[専門学校ファッションカレッジ桜丘]] * [[東京観光専門学校]] * [[アンスティチュ・フランセ東京]] * [[地域医療機能推進機構東京新宿メディカルセンター]] * [[東京逓信病院]] * [[皇居]][[外濠 (東京都)|外濠]] ** [[飯田橋]](駅名の由来となった橋梁) * [[小石川後楽園]] * [[築土神社]] * [[東京大神宮]] * [[靖国神社]] * [[東京農業大学]]開校記念碑 * 麹町飯田橋通郵便局 * 新宿神楽坂郵便局 * 飯田橋駅東口郵便局 * [[アイガーデンエア]] ** ガーデンエアタワー - [[KDDI]]本社 ** アイガーデンテラス ** [[ホテルメトロポリタンエドモント]]本館・イーストウィング - 2020年12月10日より、駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」が利用可能(事前予約制)<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=STATION WORK ホテル提携プランを拡充します ~シティホテルのメトロポリタンホテルズ(池袋・飯田橋)でゆったりテレワーク~|publisher=東日本旅客鉄道/日本ホテル|date=2020-12-07|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201207_ho01.pdf|format=PDF|accessdate=2020-12-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201207052704/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201207_ho01.pdf|archivedate=2020-12-07}}</ref>。 * [[飯田橋プラーノ]]・プラーノモール * [[飯田橋グラン・ブルーム]]<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=飯田橋駅西口地区第一種市街地再開発事業【オフィス・商業棟】「飯田橋グラン・ブルーム」【住宅棟】「パークコート千代田富士見ザ タワー」 6月15日竣工、10月10日グランドオープン 商業ゾーン「飯田橋サクラテラス」出店店舗決定|publisher=飯田橋駅西口地区市街地再開発組合|date=2014-05-29|url=https://www.mitsuifudosan.co.jp/corporate/news/2014/0529_02/download/machizukuri/20140529.pdf|format=PDF|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180826183024/https://www.mitsuifudosan.co.jp/corporate/news/2014/0529_02/download/machizukuri/20140529.pdf|accessdate=2020-07-09|archivedate=2018-08-26}}</ref> ** 旧[[東京警察病院]]、旧富士見教会、旧飯田橋郵便局 * [[ホテルグランドパレス]] * [[木曽路 (企業)|素材屋]] 飯田橋店 * [[KADOKAWA]] * [[ぷろだくしょんバオバブ]] * [[秋田書店]] * [[竹書房]] * [[熊谷組]]本社 * [[在日本朝鮮人総聯合会]]中央本部 * [[帝拳ジム]] * [[シャミナード修道院]] * [[家の光協会]] * [[神田川 (東京都)|神田川]] * [[首都高速5号池袋線]] * [[目白通り]]([[東京都道8号千代田練馬田無線]]) * [[大久保通り]]([[東京都道・埼玉県道25号飯田橋石神井新座線|東京都道25号飯田橋石神井新座線]]) * [[早稲田通り]](神楽坂通り)飯田橋駅前交番前から九段中等学校前までは、0時から正午までは、交番前から学校前の一方通行、正午から24時までは、逆方向への一方通行である。なお、正午から13時までは車両通行止め(自転車を除く)になるため、自動車は通行できない。 * [[外堀通り]]([[東京都道405号外濠環状線]]) * 外濠公園通り * [[神楽坂]] |}} == バス路線 == <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> 駅から最も近いのが「'''飯田橋駅前'''」停留所であり、他に「'''飯田橋'''」と「'''都営飯田橋駅前'''」停留所、文京区コミュニティバス「[[Bーぐる]]」 の「'''小石川後楽園入口'''」と「'''後楽一丁目'''」停留所も近い。千代田区地域福祉交通「[[風ぐるま (千代田区)|風ぐるま]]」も利用できる。 なお、都営飯田橋駅前停留所については2000年12月11日まで使用していた[[都営バス新宿支所#秋76系統|秋76系統]]・飯田橋終点停留所と同じ位置に設置されている。 ; 飯田橋駅前 * [[都営バス小滝橋営業所#飯64系統|飯64]]:[[九段下駅|九段下]](循環) / [[都営バス小滝橋営業所|小滝橋車庫前]]行 * 千代田区地域福祉交通「[[風ぐるま (千代田区)|風ぐるま]]」:富士見・神保町ルート 千代田区役所行 ; 飯田橋 * [[都営バス小滝橋営業所#飯62系統|飯62]]:都営飯田橋駅前行 * 飯64:九段下(循環) / 小滝橋車庫前行 ; 都営飯田橋駅前 * 飯62:小滝橋車庫前行 ; 地下鉄飯田橋駅東口 * 千代田区地域福祉交通「風ぐるま」:麹町ルート 千代田区役所行 ; 小石川後楽園入口 * 文京区コミュニティバス「[[Bーぐる]]」:[[春日駅 (東京都)|春日駅]]方面 ; 後楽一丁目 * 文京区コミュニティバス「Bーぐる」:春日駅方面 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車) ::: [[水道橋駅]] (JB 17) - '''飯田橋駅 (JB 16)''' - [[市ケ谷駅]] (JB 15) ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線([[東陽町駅|東陽町]]以西は全列車が各駅に停車) ::: [[神楽坂駅]] (T 05) - '''飯田橋駅 (T 06)''' - [[九段下駅]] (T 07) : [[File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|15px|Y]] 有楽町線 :* {{Color|#0066cc|□}}[[S-TRAIN]]停車駅([[小手指駅|小手指]]行きは乗車のみ、[[豊洲駅|豊洲]]行きは降車のみ) :: {{Color|#999|■}}各駅停車 ::: [[江戸川橋駅]] (Y 12) - '''飯田橋駅 (Y 13)''' - [[市ケ谷駅]] (Y 14) : [[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] 南北線(線内は全列車が各駅に停車) ::: [[市ケ谷駅]] (N 09) - '''飯田橋駅 (N 10)''' - [[後楽園駅]] (N 11) ; 東京都交通局(都営地下鉄) : [[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 都営大江戸線 ::: [[牛込神楽坂駅]] (E 05) - '''飯田橋駅 (E 06)''' - [[春日駅 (東京都)|春日駅]] (E 07) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==== 報道発表資料 ==== {{Reflist|group="報道"|2}} ==== 新聞記事 ==== {{Reflist|group="新聞"}} ==== 利用状況に関する出典 ==== ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|3}} ;東京都交通局 各駅乗降人員 {{Reflist|group="都交"|3}} ; JR・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} ; 東京府統計書 {{Reflist|group="東京府統計"|17em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_touzai.html/|date=1978-07-31|title=東京地下鉄道東西線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Tozai-Const}} * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_nanboku.html/|date=2002-03-31|title=東京地下鉄道南北線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=namboku}} * {{Cite book|和書|title=[[帝都高速度交通営団]]史|publisher=[[東京地下鉄]]|date=2004-12|ref=eidan}} * {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=5 |title=中央本線 |date=2009-08-09 |ref=sone05 }} == 関連項目 == {{Commonscat|Iidabashi Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=99|name=飯田橋}} ** [https://www.ecute.jp/edition_iidabashi ecute EDITION 飯田橋] * [https://www.tokyometro.jp/station/iidabashi/index.html 飯田橋駅/T06/Y13/N10 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] * [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/iidabashi.html 飯田橋駅 | 都営地下鉄 | 東京都交通局] * [http://www.ramla.jp/ 飯田橋セントラルプラザ ラムラ] * [http://www.i-gardenair.com/ アイガーデンエア] ** [http://www.garden-at35.com/ ガーデンエアタワー] ** [http://www.igardenterrace.com/ アイガーデンテラス] {{鉄道路線ヘッダー}} {{総武・中央緩行線}} {{東京メトロ東西線}} {{東京メトロ有楽町線}} {{東京メトロ南北線}} {{都営地下鉄大江戸線}} {{鉄道路線フッター}} {{DEFAULTSORT:いいたはし}} [[Category:日本の鉄道駅 い|いたはし]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:中央・総武緩行線]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅]] [[Category:都営地下鉄の鉄道駅]] [[Category:千代田区の鉄道駅]] [[Category:新宿区の鉄道駅]] [[Category:文京区の鉄道駅]] [[Category:1928年開業の鉄道駅]] [[Category:飯田橋]]
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メタノール
メタノール (methanol) は、有機溶媒などとして用いられるアルコールの一種である。別名として、メチルアルコール (methyl alcohol)、木精 (wood spirit)、カルビノール (carbinol)、メチールとも呼ばれる。 一連のアルコールの中で、最も単純な分子構造を持つ。ホルマリンの原料、アルコールランプなどの燃料として広く使われる。燃料電池の水素の供給源としても注目されている。エタノールと違い、人体に有毒な化学物質で、代謝によりギ酸(蟻酸)を大量に生成し、失明や代謝性アシドーシスに至るため飲用不可である。 現代の工業製法はコスト面の事情により、天然ガスからの製造が主流である。 フェノール樹脂や接着剤、酢酸およびホルマリンの合成原料。さまざまな化学反応の溶媒のため、中間製品として多様な産業で用いられる。 石油代替自動車燃料としてはエタノールより安価でCNGと並ぶ価格競争力がある(詳細: アルコール燃料)。また、ノートパソコンなどのモバイル機器を長時間稼動させるため、直接メタノール燃料電池 (DMFC) が期待されている。 メタノールを加熱すると、一酸化炭素と水素の合成ガスが得られる。 CH 3 OH ⟶ CO + 2 H 2 {\displaystyle {\ce {CH3OH -> CO + 2H2}}} − 30.7 k c a l {\displaystyle -{\rm {30.7kcal}}} 必要な温度は300 - 400 °C程度で、エンジンの排熱を利用できる。この反応は吸熱反応であり、見かけ上燃料のエネルギー量は増加し熱効率が高まる。またこの分解ガスのオクタン価は極めて高く熱効率40%近くのエンジンも実現出来るとされる。 水素燃料電池の燃料としても使える。一般に直接メタノール燃料電池 (DMFC)よりエネルギー効率が高い。ただし、SOFC、MCFC以外の白金を使った燃料電池は一酸化炭素に被毒するので徹底的な除去が必要である。 改質器による空間の圧迫、システムの複雑化が課題である。 日本において、メタノールは危険物第四類アルコール類に指定されており、引火の危険性の高い液体である。揮発性が高く、メタノールの入った容器を直接火にかけると爆発するため、保管場所・使用場所における火気や電気火花について念入りに注意しなければならない。特に使用する場所では十分な換気と、容器を倒さないこと、液をこぼさないことに留意されたい。換気は防火上有効であるとともに、後述する中毒の防止にも有効である。 一般的な油火災(B火災)同様に引火して炎上した際は、粉末の消火器、二酸化炭素、砂を用いる。噴霧注水は差し支えないが、注水消火は、薄められたメタノールが溢れ火災が広がる可能性があり、極少量の火災以外には用いない。泡消火は泡がメタノールに吸収されてしまうので、泡消火薬剤を用いる場合は特に耐アルコール性の泡消火薬剤を用いる。 メタノールの炎は薄青色であるが、特に昼間は視認しにくい。キャンプ用品として販売されている木炭用の着火剤はゲル状物質にメタノールが含まれている。特に復元性を持つ樹脂容器に充填された製品は着火後に継ぎ足すと、容器内の空洞に生じた可燃性混合気に引火・破裂拡散し火のついたゲル状燃料を撒き散らす危険があるので決して着火後に継ぎ足してはならない。この種の事故が相次いだ為に使いかけの製品でも容器内に空洞を生じない製品も多い。金属製チューブ・使い切りのパック入りの製品ではこの危険は無い。また、適正な使用であっても、炎が見難いために火傷を負う事故がある。 メタノール中毒は、取り扱い時の吸入、故意の摂取、誤飲や多量の皮膚接触で起こる。メタノールの致死量に関しては様々な報告があり、個人差が大きいと考えられるが、ヒト、経口での最小致死量は0.3-1.0 g/kg程度であると考えられている。これはエタノールの10分の1程度の量である。 ヒトを含む霊長類の場合、メタノールはアルコールデヒドロゲナーゼによってホルムアルデヒドに代謝され、さらにホルムアルデヒドデヒドロゲナーゼによってギ酸に代謝される。ホルムアルデヒドの体内半減期はおよそ1分であり、ホルムアルデヒドからギ酸への代謝は迅速に行われるため、ホルムアルデヒドによる毒性はほとんど問題にならない。メタノールの毒性はギ酸による代謝性アシドーシスとニューロンへの毒性によるものである。ギ酸の代謝能力は種によって異なっており、げっ歯類に比べてギ酸の代謝能力に劣る霊長類はメタノールの毒性が強く出ることが知られている。 メタノール中毒による症状としては、目の網膜と視神経を損傷することによる失明がよく知られている。これは網膜にアルコール脱水素酵素が豊富に存在するためである(ビタミンA#生理活性)。このためメタノールを飲んだ場合には網膜でホルムアルデヒドが大量に作られ、またホルムアルデヒドは短時間でギ酸に代謝される(上記参照)。 ギ酸は、10-ホルミルテトラヒドロ葉酸合成酵素によりテトラヒドロ葉酸から10-ホルミルテトラヒドロ葉酸を経て代謝、分解されるが、ヒトではこの反応速度が遅いためギ酸が残留して毒性を示すこととなる。メタノール中毒による視力障害は、ギ酸の直接傷害による視神経の脱髄が原因と考えられるが、軸索の損傷も示唆する報告がある。またギ酸はミトコンドリアの電子伝達系に関わるシトクロムcオキシダーゼを阻害し、細胞呼吸を阻害するため、このことが視神経毒性に関係するという意見もある。治療薬としてホメピゾールがある。 また、ギ酸は被殻や前頭葉に選択的に作用し、壊死を引き起こす可能性がある。そのため、視力障害のほか、パーキンソニズムが後遺症になる場合がある。 メタノールとギ酸はともに血液透析により効率よく除去することができる。また、生体内でのギ酸分解を促進するために活性型葉酸の投与が推奨される。 かつてはウイスキーを直接胃管に投与し、血中のエタノール濃度を高くすることでアルコール脱水素酵素を阻害し、メタノールの代謝を遅延させるエタノール療法が行われていたが、投与量によっては急性アルコール中毒などの別の問題を引き起こす可能性があるため、ホメピゾールの承認以降は薬剤が入手できない場合などに限定されている。 日本では、エタノールを混合していないメタノールは、毒物及び劇物取締法の劇物であり、購入時に毒劇物譲受書への署名捺印、販売者には書類の5年間保存が、毒劇法で義務付けられている。 戦前の1933年にメタノールで増嵩したカストリの飲用から30名以上の死者を出す事件が発生したほか、太平洋戦争後の混乱期には安価な変性アルコールを用いた粗悪な密造酒による中毒はしばしば起こった。 エタノールは酒税の課税対象となるが、エタノールにメタノールなどを加えた変性アルコールは非課税であり、これらは安価であった。このエタノールにメタノールが混入された変性アルコールを蒸留して、すなわち、「メタノールとエタノールの沸点は異なるので、適切な温度で蒸留したら分離できるだろう」という目論見で、変性アルコールを加熱・蒸留してエタノールを分離しようとしたものを密造酒として供することが横行した。その結果、分離不完全により中毒を起こす場合があった。なお、メタノールとエタノールが共沸するために分離が不可能であるという俗説があるが誤りであり、メタノールとエタノールは共沸現象を起こさない。 飲酒による失明者が多く出たことから、メタノールの別称である「メチルアルコール」を当てて「目散るアルコール」や、その危険性を象徴して「バクダン」と呼ばれた。 新型コロナウィルスではエタノールとの誤用ケースが発生したため、薬局や自治体が注意喚起をすることになった。 1986年、メタノール入りのワインを飲んで22人が死亡した。 ケニアで一般的に飲まれているトウモロコシの発酵酒は、製造時にメタノールを添加し、アルコール度数を高める手法が密かに行われている。このため、しばしば中毒事件が発生する。2000年には、「チャンガー」と呼ばれる密造酒により134人が死亡、1000人以上が病院に収容される大事件が発生したほか、2005年にも30人程度の死亡者が発生するなど事件は後を絶たない。 1998年の春節直前に、山西省でメタノールが入った密造酒による中毒死事件が起きた。約400人が入院し、約30人が死亡した。 1988年のソウルオリンピックの際に、ソ連のオリンピック協会職員が、薬局でエタノールを購入しようとしたところ(当時のソ連の財政難とルーブル暴落のため、通常の酒が購入できなかった)、誤ってメタノールを購入して飲んでしまい、死亡する事故が起こった。 零細な酒造メーカーにおいては、蒸留酒のアルコール度数を増やすために、安価な燃料用メタノールを混入することが常習的に行われていることがある。2008年にもホーチミン市において20人程度の死亡者が出た。 2009年5月、バリ島でメタノールが混じった酒を飲んで中毒を起こす人が続出。外国人を含む20人以上が死亡、多数が入院する事態となった。地元の酒造業者がアラック(米やヤシの実が原料の蒸留酒)にメタノールを混ぜて製造した酒が原因とみられる。 2010年4月、ウガンダの南西のカバレ県、カムウェンゲ県において、メタノールが混入したワラギ(東アフリカの蒸留酒)による多臓器不全が原因となり、3週間で89人が死亡、100人以上が入院するという事件が起きた(英語版ワラギの項目も参照)。 1976年、7月にインドタミル・ナードゥ州チェンナイで密造酒を呑んだ124人が中毒死。同年10月、マディヤ・プラデーシュ州でスラム街を中心に105人が中毒死。もともと同州は密造酒の本場として悪名が高かったが、何らかの理由で密造酒が正規ルートで出回り被害が拡大したもの。 2011年12月、西ベンガル州で違法に醸造されたメタノール入りの酒を飲んだ労働者がメタノール中毒を起こし、140人以上の死者、100人以上の入院患者を出した。 2022年7月28日の警察の発表によると、グジャラート州ではメタノール入り密造酒を飲んで少なくとも42人(うちボタッド県(英語版)で31人・アフマダーバード県で11人)が死亡、97人が入院した。 2012年9月、チェコ北東部で違法に醸造されたメタノール入りの酒が市場に多数出回り、長期にわたり被害を出した。 2013年3月、首都のトリポリにてメタノール入りの密造酒による中毒が原因で50人以上が死亡、400人近くが病院で手当を受けた。 2014年3月、東シベリア・ザバイカル地方の村で、住民らがメタノール入りのウォッカを飲んだ後に、14人が死亡、12人が重症となった。 2016年12月、ロシア・シベリア地方のイルクーツクで、人体に有害なメタノール入りの入浴剤を安い酒代わりに飲んだ住民49人が死亡した。背景には、2010年からウォッカの最低小売価格が2倍になったことにあり、ロシア国内で年間1万3,000人以上が死亡していると見られている。 2020年11月21日、ロシア連邦のサハ共和国で、メタノールの含まれる手指消毒液を飲用したことにより9人が中毒となる事件が発生した。現場はオイミャコン地区にあるトムトル村で、3人がその場で死亡、病院に搬送された6人も内4人が同月23日までに死亡した。これを受けてサハ共和国の保険当局は同月22日、メタノールを主成分とする手指消毒液を販売禁止とした。 2021年10月、ロシア南部のオレンブルク州で、地元で造られた密造酒を飲んだ住民64人が中毒症状を起こし32人が死亡した。死亡した住民の体内からは致死量の3倍から5倍のメタノールが検出された。 アメリカ疾病対策センター(CDC)は2020年8月5日、同年5月から6月にかけてアリゾナ州とニューメキシコ州でメタノールを含有する手指消毒液を飲み込む事故が発生し、大人15人が中毒症状で病院に収容されていたことを明らかにした。患者が消毒液を摂取した理由は公表されていないが、CDCは誤飲ではなく酒の代用として意図的に飲用したケースもあるとの見解を示した。 2020年3月、イランでアルコール摂取が2019新型コロナウイルス感染症治療の一助となる噂の後、密造酒を飲んでメタノール中毒で死亡する者が続出。同年4月27日、イラン保健省は2月以降にメタノール中毒で病院に運ばれた者が5000人以上、うち525人が死亡したことを明らかにした。
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"tag": "p", "text": "日本では、エタノールを混合していないメタノールは、毒物及び劇物取締法の劇物であり、購入時に毒劇物譲受書への署名捺印、販売者には書類の5年間保存が、毒劇法で義務付けられている。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "戦前の1933年にメタノールで増嵩したカストリの飲用から30名以上の死者を出す事件が発生したほか、太平洋戦争後の混乱期には安価な変性アルコールを用いた粗悪な密造酒による中毒はしばしば起こった。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "エタノールは酒税の課税対象となるが、エタノールにメタノールなどを加えた変性アルコールは非課税であり、これらは安価であった。このエタノールにメタノールが混入された変性アルコールを蒸留して、すなわち、「メタノールとエタノールの沸点は異なるので、適切な温度で蒸留したら分離できるだろう」という目論見で、変性アルコールを加熱・蒸留してエタノールを分離しようとしたものを密造酒として供することが横行した。その結果、分離不完全により中毒を起こす場合があった。なお、メタノールとエタノールが共沸するために分離が不可能であるという俗説があるが誤りであり、メタノールとエタノールは共沸現象を起こさない。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "飲酒による失明者が多く出たことから、メタノールの別称である「メチルアルコール」を当てて「目散るアルコール」や、その危険性を象徴して「バクダン」と呼ばれた。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "新型コロナウィルスではエタノールとの誤用ケースが発生したため、薬局や自治体が注意喚起をすることになった。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1986年、メタノール入りのワインを飲んで22人が死亡した。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ケニアで一般的に飲まれているトウモロコシの発酵酒は、製造時にメタノールを添加し、アルコール度数を高める手法が密かに行われている。このため、しばしば中毒事件が発生する。2000年には、「チャンガー」と呼ばれる密造酒により134人が死亡、1000人以上が病院に収容される大事件が発生したほか、2005年にも30人程度の死亡者が発生するなど事件は後を絶たない。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1998年の春節直前に、山西省でメタノールが入った密造酒による中毒死事件が起きた。約400人が入院し、約30人が死亡した。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1988年のソウルオリンピックの際に、ソ連のオリンピック協会職員が、薬局でエタノールを購入しようとしたところ(当時のソ連の財政難とルーブル暴落のため、通常の酒が購入できなかった)、誤ってメタノールを購入して飲んでしまい、死亡する事故が起こった。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "零細な酒造メーカーにおいては、蒸留酒のアルコール度数を増やすために、安価な燃料用メタノールを混入することが常習的に行われていることがある。2008年にもホーチミン市において20人程度の死亡者が出た。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2009年5月、バリ島でメタノールが混じった酒を飲んで中毒を起こす人が続出。外国人を含む20人以上が死亡、多数が入院する事態となった。地元の酒造業者がアラック(米やヤシの実が原料の蒸留酒)にメタノールを混ぜて製造した酒が原因とみられる。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2010年4月、ウガンダの南西のカバレ県、カムウェンゲ県において、メタノールが混入したワラギ(東アフリカの蒸留酒)による多臓器不全が原因となり、3週間で89人が死亡、100人以上が入院するという事件が起きた(英語版ワラギの項目も参照)。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1976年、7月にインドタミル・ナードゥ州チェンナイで密造酒を呑んだ124人が中毒死。同年10月、マディヤ・プラデーシュ州でスラム街を中心に105人が中毒死。もともと同州は密造酒の本場として悪名が高かったが、何らかの理由で密造酒が正規ルートで出回り被害が拡大したもの。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2011年12月、西ベンガル州で違法に醸造されたメタノール入りの酒を飲んだ労働者がメタノール中毒を起こし、140人以上の死者、100人以上の入院患者を出した。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2022年7月28日の警察の発表によると、グジャラート州ではメタノール入り密造酒を飲んで少なくとも42人(うちボタッド県(英語版)で31人・アフマダーバード県で11人)が死亡、97人が入院した。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2012年9月、チェコ北東部で違法に醸造されたメタノール入りの酒が市場に多数出回り、長期にわたり被害を出した。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2013年3月、首都のトリポリにてメタノール入りの密造酒による中毒が原因で50人以上が死亡、400人近くが病院で手当を受けた。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2014年3月、東シベリア・ザバイカル地方の村で、住民らがメタノール入りのウォッカを飲んだ後に、14人が死亡、12人が重症となった。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2016年12月、ロシア・シベリア地方のイルクーツクで、人体に有害なメタノール入りの入浴剤を安い酒代わりに飲んだ住民49人が死亡した。背景には、2010年からウォッカの最低小売価格が2倍になったことにあり、ロシア国内で年間1万3,000人以上が死亡していると見られている。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2020年11月21日、ロシア連邦のサハ共和国で、メタノールの含まれる手指消毒液を飲用したことにより9人が中毒となる事件が発生した。現場はオイミャコン地区にあるトムトル村で、3人がその場で死亡、病院に搬送された6人も内4人が同月23日までに死亡した。これを受けてサハ共和国の保険当局は同月22日、メタノールを主成分とする手指消毒液を販売禁止とした。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2021年10月、ロシア南部のオレンブルク州で、地元で造られた密造酒を飲んだ住民64人が中毒症状を起こし32人が死亡した。死亡した住民の体内からは致死量の3倍から5倍のメタノールが検出された。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "アメリカ疾病対策センター(CDC)は2020年8月5日、同年5月から6月にかけてアリゾナ州とニューメキシコ州でメタノールを含有する手指消毒液を飲み込む事故が発生し、大人15人が中毒症状で病院に収容されていたことを明らかにした。患者が消毒液を摂取した理由は公表されていないが、CDCは誤飲ではなく酒の代用として意図的に飲用したケースもあるとの見解を示した。", "title": "危険性" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2020年3月、イランでアルコール摂取が2019新型コロナウイルス感染症治療の一助となる噂の後、密造酒を飲んでメタノール中毒で死亡する者が続出。同年4月27日、イラン保健省は2月以降にメタノール中毒で病院に運ばれた者が5000人以上、うち525人が死亡したことを明らかにした。", "title": "危険性" } ]
メタノール (methanol) は、有機溶媒などとして用いられるアルコールの一種である。別名として、メチルアルコール、木精、カルビノール (carbinol)、メチールとも呼ばれる。 一連のアルコールの中で、最も単純な分子構造を持つ。ホルマリンの原料、アルコールランプなどの燃料として広く使われる。燃料電池の水素の供給源としても注目されている。エタノールと違い、人体に有毒な化学物質で、代謝によりギ酸(蟻酸)を大量に生成し、失明や代謝性アシドーシスに至るため飲用不可である。
{{混同|エタノール}} {{Otheruses|化学物質としてのメタノール|2018年の同名のテレビ映画|[[2012年チェコにおけるメタノール入り密造酒事件#テレビ映画]]}} {{chembox | 出典 =<ref>{{Cite web|url=http://www.cdc.gov/niosh/ershdb/EmergencyResponseCard_29750029.html#er|title=The Emergency Responswswe Safety and Health Database: Systematic Agent: METHANOL|publisher=Centers for Disease Control and Prevention|accessdate=26 August 2009}}</ref> [https://www.ilo.org/dyn/icsc/showcard.display?p_lang=ja&p_card_id=0057&p_version=2 ICSC番号:0057] | ImageFileL1 = Methanol-2D.svg | ImageSizeL1 = 120px | ImageNameL1 = Methanol | ImageFileR1 = Methanol-3D-balls.png | ImageeweewewewewwewewwweeeSizeR1 = 150px | ImageNameR1 = Methanol | ImageFileR2 = Methanol-3D-vdW.png | ImageSizeR2 = 120px | ImageNameR2 = Methanol | ImageFileL2 = Methanol Lewis.svg | ImageSizeL2 = 120px | ImageNameL2 = Methanol | IUPACName = methanol | OtherNames = 木精<br />メチルアルコール<br />カルビノール<br />ヒドロキシメタンメチルアルコール | Section1 = {{Chembox Identifiers | SMILES = CO | CASNo = 67-56-1 | 日化辞番号 = J2.364G | ChemSpiderID = 864 | PubChem = 887 | RTECS = PC1400000 }} | Section2 = {{Chembox Properties | 分子 = yes | C =1 | H = 4 | O = 1 | RationalFormula =CH<sub>3</sub>OH | Appearance = 無色液体 | Density = 0.7918 g cm<sup>-3</sup> | Solubility = 任意に混和 | MeltingPtC = -97 | BoilingPtC = 64.7 | pKa = ~ 15.5 | 蒸気圧 = 133 hPa | Viscosity = 0.59 [[パスカル秒|mPa·s]] (20 ℃) | Dipole = 1.69 [[デバイ|D]](気体) | 屈折率 = 1.3292 (20 ℃) }} | Section7 = {{Chembox Hazards | FlashPt = 11-12 ℃ | EUClass = {{Hazchem F}} {{Hazchem T}} | NFPA-H = 3 | NFPA-F = 3 | NFPA-R = 0 | RPhrases = {{R11}}, {{R23/24/25}}, {{R39/23/24/25}} | SPhrases = {{S1/2}} {{S7}} {{S16}} {{S36/37}} {{S45}} }} | Section8 = {{Chembox Related | OtherFunctn = [[エタノール]]<br />[[プロパノール]]<br />[[ブタノール]] | Function = [[アルコール]] | OtherCpds = [[クロロメタン]]<br />[[ジメチルエーテル|メトキシメタン]] }} }} '''メタノール''' (methanol) は、[[有機溶媒]]などとして用いられる[[アルコール]]の一種である。別名として、'''メチルアルコール''' (methyl alcohol)、'''木精''' (wood spirit)、'''カルビノール''' (carbinol)、'''メチール'''とも呼ばれる。 一連のアルコールの中で、最も単純な分子構造を持つ。[[ホルマリン]]の[[原料]]、[[アルコールランプ]]などの[[燃料]]として広く使われる。[[燃料電池]]の水素の供給源としても注目されている。[[エタノール]]と違い、人体に有毒な化学物質で、[[代謝]]により[[ギ酸|ギ酸(蟻酸)]]を大量に生成し、[[失明]]や[[アシドーシスとアルカローシス|代謝性アシドーシス]]に至るため飲用不可である。 == 製法 == * [[木材]]由来による[[木酢液]]の[[蒸留]]("木精"という名の由来)。 * [[石炭]]ないし[[天然ガス]]の部分酸化で製造した[[一酸化炭素]] (CO) に、[[酸化銅]]-[[酸化亜鉛]]/[[アルミナ]]複合酸化物を[[触媒]]として、50-100気圧、240-260℃で[[水素]] ({{chem|H|2}}) を反応させる<ref>{{cite book|和書|title=工業有機化学 第5版|author=K. Weissermel, H.-J. Arpe|publisher=東京化学同人|year=2004|isbn=978-4807906055}}</ref>。 ** <chem>CO + 2H2 -> CH3OH</chem> * メタノール産生菌による[[発酵]]。 * (目的としない副産物として)[[ワイン]]等の[[植物]]を原料とした[[酒]]の[[醸造]]の際における、[[細胞壁]]の主成分の一つとして含まれる[[ペクチン]]の発酵<ref>果実等に含まれているペクチンを修飾しているメトキシ基が果実等に含まれるペクチンエステラーゼにより加水分解されて生成{{harv|浅野ほか(1996)}}</ref> 現代の工業製法はコスト面の事情により、天然ガスからの製造が主流である。 == 主要な用途 == === 化学原料 === [[フェノール樹脂]]や接着剤、[[酢酸]]および[[ホルマリン]]の合成原料。さまざまな化学反応の[[溶媒]]のため、中間製品として多様な産業で用いられる。 === 燃料用途 === 石油代替自動車燃料としてはエタノールより安価で[[天然ガス#圧縮天然ガス|CNG]]と並ぶ価格競争力がある(詳細: [[アルコール燃料]])。また、[[ノートパソコン]]などのモバイル機器を長時間稼動させるため、[[直接メタノール燃料電池]] (DMFC) が期待されている。 ==== 燃料改質 ==== メタノールを加熱すると、一酸化炭素と水素の合成ガスが得られる。 <chem>CH3OH -> CO + 2H2</chem><math>-\rm 30.7 kcal</math> 必要な温度は300 - 400{{nbsp}}°C程度で、エンジンの排熱を利用できる。この反応は[[吸熱反応]]であり、見かけ上燃料のエネルギー量は増加し熱効率が高まる。またこの分解ガスの[[オクタン価]]は極めて高く熱効率40%近くのエンジンも実現出来るとされる<ref>{{Cite journal|last=為親|first=山本|date=1983|title=新化学工業原料としての燃料メタノール|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/yukigoseikyokaishi1943/41/6/41_6_570/_article/-char/ja/|journal=有機合成化学協会誌|volume=41|issue=6|pages=570–576|doi=10.5059/yukigoseikyokaishi.41.570}}</ref><ref>{{Cite journal|last=宗信|first=田中|last2=忠教|first2=佐藤|last3=薫|first3=阿川|date=1986|title=メタノール改質ガスエンジンに関する研究|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/kikaib1979/52/484/52_484_4084/_article/-char/ja/|journal=日本機械学会論文集 B編|volume=52|issue=484|pages=4084–4093|doi=10.1299/kikaib.52.4084}}</ref>。 水素[[燃料電池]]の燃料としても使える。一般に[[直接メタノール燃料電池]] (DMFC)よりエネルギー効率が高い。ただし、[[固体酸化物形燃料電池|SOFC]]、[[溶融炭酸塩型燃料電池|MCFC]]以外の白金を使った燃料電池は一酸化炭素に被毒するので徹底的な除去が必要である。 改質器による空間の圧迫、システムの複雑化が課題である。 == 主な化学反応 == * 燃焼時の反応で[[二酸化炭素]]と[[水]]が生成する。 ** <chem>2CH3OH + 3O2 -> 2CO2 + 4H2O</chem> * 熱した[[酸化銅]] (CuO) と反応して酸化すると[[ホルムアルデヒド]] (HCHO) が生成する。 ** <chem>CH3OH + CuO -> HCHO + Cu + H2O</chem> * [[ナトリウム]] (Na) と反応して、[[ナトリウムメトキシド]] ({{chem|CH|3|ONa}}) と[[水素]] ({{chem|H|2}}) が生成する。 ** <chem>2CH3OH + 2Na -> 2CH3ONa + H2</chem> == 危険性 == === 引火 === 日本において、メタノールは[[危険物]]第四類アルコール類に指定されており、引火の危険性の高い液体である。[[相転移#物理学的性質|揮発性]]が高く、メタノールの入った容器を直接[[火]]にかけると[[爆発]]するため、保管場所・使用場所における火気や電気火花について念入りに注意しなければならない。特に使用する場所では十分な換気と、容器を倒さないこと、液をこぼさないことに留意されたい。換気は防火上有効であるとともに、後述する中毒の防止にも有効である。 一般的な油火災(B火災)同様に引火して炎上した際は、粉末の[[消火器]]、[[二酸化炭素]]、[[砂]]を用いる。噴霧注水は差し支えないが、注水消火は、薄められたメタノールが溢れ火災が広がる可能性があり、極少量の火災以外には用いない。泡消火は泡がメタノールに吸収されてしまうので、泡消火薬剤を用いる場合は特に耐アルコール性の泡消火薬剤を用いる。 メタノールの[[炎]]は薄青色であるが、特に昼間は視認しにくい。[[キャンプ]]用品として販売されている木炭用の[[着火剤]]は[[分散系#ゲル|ゲル]]状物質にメタノールが含まれている。特に復元性を持つ樹脂容器に充填された製品は着火後に継ぎ足すと、容器内の空洞に生じた可燃性混合気に引火・破裂拡散し火のついたゲル状燃料を撒き散らす危険があるので決して着火後に継ぎ足してはならない。この種の事故が相次いだ為に使いかけの製品でも容器内に空洞を生じない製品も多い。金属製チューブ・使い切りのパック入りの製品ではこの危険は無い。また、適正な使用であっても、炎が見難いために火傷を負う事故がある。 === 毒性 === {{See also|メタノール毒性}} メタノール中毒は、取り扱い時の吸入、故意の摂取、誤飲や多量の皮膚接触で起こる<ref>{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.1248/jhs1956.13.303 |title=メタノール中毒の生化学 |author=竹中祐典 |journal=衛生化学 |volume=13 |issue=6 |pages=303-310 |year=1967 |publisher=日本薬学会 |doi=10.1248/jhs1956.13.303}}</ref>。メタノールの[[致死量]]に関しては様々な報告があり、個人差が大きいと考えられるが、ヒト、[[経口]]での最小致死量は0.3-1.0{{nbsp}}g/kg程度であると考えられている。これはエタノールの10分の1程度の量である。 [[ヒト]]を含む[[霊長類]]の場合、メタノールは[[アルコールデヒドロゲナーゼ]]によって[[ホルムアルデヒド]]に[[代謝]]され、さらに[[ホルムアルデヒドデヒドロゲナーゼ]]によって[[ギ酸]]に代謝される<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=【第33回 「目散る」アルコール】こんなにも面白い医学の世界 からだのトリビア教えます|url=https://www.yodosha.co.jp/rnote/trivia/index.html|website=www.yodosha.co.jp|accessdate=2020-12-29|publisher=羊土社|author=中尾篤典}}</ref>。ホルムアルデヒドの体内半減期はおよそ1分であり、ホルムアルデヒドからギ酸への代謝は迅速に行われるため、ホルムアルデヒドによる毒性はほとんど問題にならない<ref name="ehc196">{{cite web|url=https://inchem.org/documents/ehc/ehc/ehc196.htm|title=ENVIRONMENTAL HEALTH CRITERIA 196 Methanol|author= ICPS INCHEM|accessdate=2014年5月9日}}</ref>。メタノールの毒性はギ酸による代謝性[[アシドーシス]]と[[ニューロン]]への毒性によるものである。ギ酸の代謝能力は種によって異なっており、[[げっ歯類]]に比べてギ酸の代謝能力に劣る霊長類はメタノールの毒性が強く出ることが知られている<ref name="ehc196">{{cite web|url=https://inchem.org/documents/ehc/ehc/ehc196.htm|title=ENVIRONMENTAL HEALTH CRITERIA 196 Methanol|author= ICPS INCHEM|accessdate=2014年5月9日}}</ref>。 メタノール中毒による症状としては、[[目]]の[[網膜]]と[[視神経]]を損傷することによる[[失明]]がよく知られている。これは網膜に[[アルコール脱水素酵素]]が豊富に存在するためである([[ビタミンA#生理活性]])。このためメタノールを飲んだ場合には網膜で[[ホルムアルデヒド]]が大量に作られ<ref>{{Cite book|和書|author=Anthony T.Tu |title=続・身のまわりの毒 |publisher=東京化学同人 |year=1993 |series=科学のとびら 15 |ISBN=4807912550 |id={{全国書誌番号|94008253}}}}</ref>、またホルムアルデヒドは短時間でギ酸に代謝される(上記参照)。 ギ酸は、10-ホルミルテトラヒドロ葉酸合成酵素により[[テトラヒドロ葉酸]]から[[10-ホルミルテトラヒドロ葉酸]]を経て代謝、分解されるが、ヒトではこの反応速度が遅いためギ酸が残留して毒性を示すこととなる。メタノール中毒による視力障害は、ギ酸の直接傷害による[[視神経]]の脱髄が原因と考えられるが、[[軸索]]の損傷も示唆する報告がある<ref name=sasaki>{{Cite journal|和書|author=佐々木庸郎 |author2=石田順朗 |author3=小島直樹 |author4=古谷良輔 |author5=稲川博司 |author6=岡田保誠 |author7=森啓 |url=https://doi.org/10.3893/jjaam.19.160 |title=Top of the basilar syndromeを疑われたメタノール中毒の1症例 |journal=日本救急医学会雑誌 |year=2008 |volume=19 |issue=3 |pages=160-167 |publisher=日本救急医学会 |doi=10.3893/jjaam.19.160}}</ref>。またギ酸はミトコンドリアの電子伝達系に関わる[[シトクロムcオキシダーゼ]]を阻害し、細胞呼吸を阻害するため、このことが視神経毒性に関係するという意見もある<ref name="ehc196" />。治療薬としてホメピゾールがある<ref>[https://www.kegg.jp/medicus-bin/japic_med?japic_code=00063296 医療用医薬品 : ホメピゾール (ホメピゾール点滴静注1.5g「タケダ」)] KEGG</ref>。 また、ギ酸は[[被殻]]や前頭葉に選択的に作用し、壊死を引き起こす可能性がある。そのため、視力障害のほか、[[パーキンソニズム]]が後遺症になる場合がある。 メタノールとギ酸はともに[[血液透析]]により効率よく除去することができる。また、生体内でのギ酸分解を促進するために活性型[[葉酸]]の投与が推奨される<ref name=sasaki/>。 かつては[[ウイスキー]]を直接胃管に投与し、血中のエタノール濃度を高くすることでアルコール脱水素酵素を阻害し、メタノールの代謝を遅延させるエタノール療法が行われていたが、投与量によっては[[急性アルコール中毒]]などの別の問題を引き起こす可能性があるため、ホメピゾールの承認以降は薬剤が入手できない場合などに限定されている。 日本では、エタノールを混合していないメタノールは、[[毒物及び劇物取締法]]の[[劇物]]であり、購入時に毒劇物譲受書への署名捺印、販売者には書類の5年間保存が、毒劇法で義務付けられている。 === 各国の中毒における事例 === ==== 日本 ==== 戦前の[[1933年]]にメタノールで増嵩した[[焼酎#カストリ|カストリ]]の飲用から30名以上の死者を出す事件が発生したほか、[[太平洋戦争]]後の混乱期には安価な[[エタノール#工業用アルコール|変性アルコール]]を用いた粗悪な[[密造酒]]による中毒はしばしば起こった。 [[エタノール]]は[[酒税]]の課税対象となるが、エタノールにメタノールなどを加えた[[エタノール#工業用アルコール|変性アルコール]]は非課税であり、これらは安価であった。このエタノールにメタノールが混入された変性アルコールを蒸留して、すなわち、「メタノールとエタノールの沸点は異なるので、適切な温度で蒸留したら分離できるだろう」という目論見で、変性アルコールを加熱・蒸留してエタノールを分離しようとしたものを密造酒として供することが横行した。その結果、分離不完全により中毒を起こす場合があった。なお、メタノールとエタノールが共沸するために分離が不可能であるという俗説があるが誤りであり、メタノールとエタノールは共沸現象を起こさない。 [[飲酒]]による[[失明]]者が多く出たことから、メタノールの別称である「メチルアルコール」を当てて「目散るアルコール」や、その危険性を象徴して「[[焼酎#カストリ|バクダン]]」と呼ばれた<ref name=":0" />。 [[新型コロナウイルス|新型コロナウィルス]]ではエタノールとの誤用ケースが発生したため、薬局や自治体が注意喚起をすることになった。<ref>https://www.city.sumida.lg.jp/kurashi/syouhisya/news/r2news.files/2020.07news_s.pdf</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2020022800066/ |title=医療機関,薬局等 新型コロナウイルス感染症に関連した通知等について |access-date=2023/5/16 |publisher=函館市}}</ref> ==== イタリア ==== 1986年、メタノール入りのワインを飲んで22人が死亡した<ref>[http://www.iph.pref.osaka.jp/merumaga/back/71-1.html 大阪府立公衆衛生研究所メールマガジン かわら版@iph -第71号- 2009年7月31日発行]</ref>。 ==== ケニア ==== [[ケニア]]で一般的に飲まれている[[トウモロコシ]]の[[発酵酒]]は、製造時にメタノールを添加し、アルコール度数を高める手法が密かに行われている。このため、しばしば中毒事件が発生する。2000年には、「チャンガー」と呼ばれる[[密造酒]]により134人が死亡、1000人以上が[[病院]]に収容される大事件が発生したほか、2005年にも30人程度の死亡者が発生するなど事件は後を絶たない。 ==== 中国 ==== 1998年の[[春節]]直前に、[[山西省]]でメタノールが入った[[密造酒]]による中毒死事件が起きた。約400人が入院し、約30人が死亡した。 ==== 韓国 ==== 1988年の[[ソウルオリンピック]]の際に、[[ソビエト連邦|ソ連]]のオリンピック協会職員が、薬局でエタノールを購入しようとしたところ(当時のソ連の財政難と[[ロシア・ルーブル|ルーブル]]暴落のため、通常の酒が購入できなかった)、誤ってメタノールを購入して飲んでしまい、死亡する事故が起こった。 ==== ベトナム ==== 零細な酒造メーカーにおいては、[[蒸留酒]]のアルコール度数を増やすために、安価な燃料用メタノールを混入することが常習的に行われていることがある。2008年にも[[ホーチミン市]]において20人程度の死亡者が出た。 ==== インドネシア ==== 2009年5月、[[バリ島]]でメタノールが混じった酒を飲んで中毒を起こす人が続出。外国人を含む20人以上が死亡、多数が入院する事態となった。地元の酒造業者が[[アラック]](米やヤシの実が原料の蒸留酒)にメタノールを混ぜて製造した酒が原因とみられる。 ==== ウガンダ ==== 2010年4月、[[ウガンダ]]の南西の[[カバレ県]]、[[カムウェンゲ県]]において、メタノールが混入した[[ワラギ]](東アフリカの蒸留酒)による[[多臓器不全]]が原因となり、3週間で89人が死亡、100人以上が入院するという事件が起きた<ref>{{Cite news|url=http://www.monitor.co.ug/News/Insight/-/688338/905924/-/7u0ahd/-/ |title=When African brewers ferment death|publisher=[[モニター (ウガンダの新聞)|Daily Monitor]]|language=en|date= 2010-04-25}}</ref>([[:en:Waragi#Incidents|英語版ワラギの項目]]も参照)。 ==== インド ==== 1976年、7月に[[インド]][[タミル・ナードゥ州]][[チェンナイ]]で密造酒を呑んだ124人が中毒死。同年10月、[[マディヤ・プラデーシュ州]]で[[スラム街]]を中心に105人が中毒死。もともと同州は密造酒の本場として悪名が高かったが、何らかの理由で密造酒が正規ルートで出回り被害が拡大したもの<ref>密造酒飲み105人中毒死『朝日新聞』1976年(昭和51年)10月10日朝刊、13版、23面</ref>。 2011年12月、[[西ベンガル州]]で違法に醸造されたメタノール入りの酒を飲んだ労働者がメタノール中毒を起こし、140人以上の死者、100人以上の入院患者を出した<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2845906?pid=8204999 |title=密造酒飲み143人死亡、100人以上が入院 インド・西ベンガル州|publisher=AFPBB NEWS |date=2011-12-16}}</ref>。 2022年7月28日の警察の発表によると、[[グジャラート州]]ではメタノール入り密造酒を飲んで少なくとも42人(うち{{仮リンク|ボタッド県|en|Botad district}}で31人・[[アフマダーバード県]]で11人)が死亡、97人が入院した<ref>{{Cite web|和書|title=メタノール入り密造酒飲んで42人死亡、97人入院 インド |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3416692 |website=www.afpbb.com |access-date=2022-09-12 |language=ja}}</ref>。 ==== チェコ ==== 2012年9月、[[チェコ]]北東部で違法に醸造されたメタノール入りの酒が市場に多数出回り、長期にわたり被害を出した<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/tk0901216-czech-bootleg-idJPTYE88O04620120925|title=チェコで25人死亡の密造酒事件、販売した疑いで男2人逮捕|publisher=ロイター |date=2012-09-25}}</ref>。 {{main|2012年チェコにおけるメタノール入り密造酒事件}} ==== リビア ==== 2013年3月、首都の[[トリポリ]]にてメタノール入りの密造酒による中毒が原因で50人以上が死亡、400人近くが病院で手当を受けた<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2933461?pid=10422926 |title=リビア、密造酒飲んで数百人が中毒に 50人以上死亡|publisher= AFPBB NEWS|date=2013-03-12}}</ref>。 ==== ロシア ==== 2014年3月、東シベリア・ザバイカル地方の村で、住民らがメタノール入りの[[ウォッカ]]を飲んだ後に、14人が死亡、12人が重症となった。 2016年12月、ロシア・[[シベリア]]地方の[[イルクーツク]]で、人体に有害なメタノール入りの[[入浴剤]]を安い酒代わりに飲んだ住民49人が死亡した<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3111829|title= 入浴剤飲み49人死亡、ロシア都市が非常事態宣言|publisher= AFP=時事|date= 2016-12-20}}</ref>。背景には、2010年から[[ウォッカ]]の最低小売価格が2倍になったことにあり、ロシア国内で年間1万3,000人以上が死亡していると見られている<ref>{{Cite news|url=https://www.news-postseven.com/archives/20170422_513972.html?DETAIL|title= ロシア、ウォッカ値上げで代替の入浴剤飲み年1.3万人死亡|publisher= NEWSポストセブン|page=2|date=2017-04-22}}</ref>。 2020年11月21日、ロシア連邦の[[サハ共和国]]で、メタノールの含まれる[[手指消毒剤|手指消毒液]]を飲用したことにより9人が中毒となる事件が発生した。現場は[[オイミャコン地区]]にある[[トムトル|トムトル村]]で、3人がその場で死亡、病院に搬送された6人も内4人が同月23日までに死亡した。これを受けてサハ共和国の保険当局は同月22日、メタノールを主成分とする手指消毒液を販売禁止とした<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3317450|title= 手指消毒液飲み7人死亡、2人昏睡状態 ロシア|publisher= AFPBB News|date=2020-11-23}}</ref>。 2021年10月、ロシア南部のオレンブルク州で、地元で造られた密造酒を飲んだ住民64人が中毒症状を起こし32人が死亡した。死亡した住民の体内からは致死量の3倍から5倍のメタノールが検出された。 ==== アメリカ ==== [[アメリカ疾病予防管理センター|アメリカ疾病対策センター(CDC)]]は2020年8月5日、同年5月から6月にかけて[[アリゾナ州]]と[[ニューメキシコ州]]でメタノールを含有する手指消毒液を飲み込む事故が発生し、大人15人が中毒症状で病院に収容されていたことを明らかにした。患者が消毒液を摂取した理由は公表されていないが、CDCは誤飲ではなく酒の代用として意図的に飲用したケースもあるとの見解を示した<ref>{{Cite news|url=https://www.cnn.co.jp/usa/35157821.html |title=手指消毒剤の飲用で死者も 米CDCが警告|publisher= CNN.co.jp|date=2020-08-06}}</ref>。 ==== イラン ==== 2020年3月、イランでアルコール摂取が[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|2019新型コロナウイルス感染症]]治療の一助となる噂の後<ref>{{Cite web|和書|title=コロナ禍で広がるメタノール中毒死 世界で最多ペース |url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO63020310V20C20A8000000/ |website=日本経済新聞 |date=2020-09-12 |access-date=2023-08-02 |language=ja}}</ref>、密造酒を飲んでメタノール中毒で死亡する者が続出<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3272464 |title=密造酒飲み27人死亡、新型ウイルスに効くとのデマ信じ イラン|publisher= AFPBB News|date=2020-03-10}}</ref>。同年4月27日、イラン保健省は2月以降にメタノール中毒で病院に運ばれた者が5000人以上、うち525人が死亡したことを明らかにした<ref>{{Cite web|和書|date=2020-04-27 |url= https://www.yomiuri.co.jp/world/20200428-OYT1T50204/|title=メタノール飲料で中毒、イランで525人死亡…「ウイルス死滅させる」との情報広がり |publisher=読売新聞 |accessdate=2020-04-28}}</ref>。 ==出典== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==参考文献== * {{Cite journal|和書|author=浅野行蔵,渋谷直子,富永一哉,吉川修司,菊地政則,高尾彰一 |date=1996 |title=メタノール含量の低いフルーツブランデーの製造方法 |journal=北海道立食品加工研究センター報告 |volume=2 |pages=57-63 |naid=10029394234 |url=https://www.hro.or.jp/list/industrial/research/food/archive/kenkyu/kenkyu_02/0210.pdf |format=PDF |ref={{harvid|浅野ほか(1996)}}}} == 関連項目 == * [[エタノール]] * [[アルコール]](化学) * [[アルコール燃料]] * [[直接メタノール燃料電池]] * [[化学性食中毒]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} * [https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/67-56-1.html 化学物質:メタノール] - 『職場のあんぜんサイト』([[厚生労働省]])より * [https://www.mgc.co.jp/rd/technology/methanol.html メタノール(メチルアルコール)~製品・技術トピックス] - [[三菱ガス化学]]Webサイトより {{アルコール}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:めたのおる}} [[Category:脂肪族アルコール]] [[Category:溶媒]] [[Category:第4類危険物]] [[Category:エネルギー貯蔵]] [[category:メタノール|*]]
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ビル・ゲイツ
ビル・ゲイツ(Bill Gates)ことウィリアム・ヘンリー・ゲイツ3世(William Henry Gates III、1955年10月28日 - )は、アメリカ合衆国の実業家、慈善家。 マイクロソフトの共同創業者であり、幼なじみの故ポール・アレンとともにマイクロソフトを創業した。マイクロソフトでのキャリアにおいて、ゲイツは会長、最高経営責任者(CEO)、社長、最高ソフトウェア設計者を歴任し、同時に20年5月まで個人筆頭株主であった。1970年代から1980年代にかけてのマイクロコンピュータ革命の主要な起業家であった。 ゲイツはシアトルで生まれ育つ。1975年、アレンとともにニューメキシコ州アルバカーキにマイクロソフトを設立。世界最大のパソコン用ソフトウエア会社となった。ゲイツは、2000年1月にCEOを退任し、スティーブ・バルマーに引き継がれるまで、会長兼CEOとして同社を率いたが、取締役会会長にとどまり、チーフ・ソフトウェア・アーキテクトに就任した。 1990年代後半、彼のビジネス戦術は反競争的であると批判された。この意見は、数々の裁判でも支持されている。2008年6月、ゲイツはマイクロソフトでは非常勤、2000年に当時の妻メリンダと設立した民間慈善財団ビル&メリンダ・ゲイツ財団では常勤に移行した。2014年2月にマイクロソフトの取締役会長を退任し、新たにサティア・ナデラCEOをサポートするテクノロジーアドバイザーに就任した。2020年3月、ゲイツはマイクロソフトとバークシャー・ハサウェイの取締役職を離れ、気候変動、世界の健康・開発、教育などに関する慈善活動に専念する。 2008年にマイクロソフトの日常業務を離れて以来、ゲイツは多くのビジネスと慈善活動を追求してきた。BEN、カスケード・インベストメント、bgC3、テラパワーなど、複数の企業の創業者であり会長でもある。また、世界最大の民間慈善団体といわれるビル&メリンダ・ゲイツ財団を通じて、さまざまな慈善団体や科学研究プログラムに多額の資金を提供している。同財団を通じて、21世紀初頭のワクチン接種キャンペーンを主導し、アフリカにおける野生ポリオウイルスの撲滅に大きく貢献した。2010年、ゲイツはウォーレン・バフェットとともに「ギビング・プレッジ」を設立し、自分たちや他の億万長者たちが、少なくとも財産の半分を慈善活動に寄付することを誓約している。 1955年10月28日にワシントン州シアトルで、ビル・ゲイツ・シニアとメアリー・マクスウェル・ゲイツとの間に誕生した。裕福な家庭だったが、自分のことには一切お金を使おうとしなかった。 そして会衆派教会の日曜学校に通い、聖歌隊で歌い、ボーイスカウトにも入っていた。また、エドガー・ライス・バローズのターザン物や火星人物を読みあさる一方で、フランクリン・ルーズベルト、ナポレオン、偉大な発明家などの伝記を耽読した。 1967年にシアトルのレイクサイド校に入学した。1968年秋、レイクサイド校はゼネラル・エレクトリック社のGE-635に接続されたテレタイプ端末を導入した。これを通じてコンピュータに興味を持つようになった。 このころ、ワシントン大学の近くにコンピュータ・センター・コーポレーション(CCC)という会社が設立され、DECのPDP-10への接続サービスを開始する予定であった。正式運用の前に負荷耐性テストを行う必要があったCCCは、1968年11月にゲイツらに夜間と週末にコンピュータを無料で使用させた。この経験を通じてゲイツはDECのPDP-10に詳しくなった。後に、ゲイツは自分のプログラムコードの書き方に影響を与えた人物としてPDPのオペレーティングシステムを書いた人たち全部、TRW社のジョン・ノートン、ポール・アレン、チャールズ・シモニー等の名前を挙げている。 1970年2月にCCCは不渡手形を出し、実質的に倒産する。これにより、ゲイツはコンピュータに触れる機会を失う。1970年11月オレゴン州ポートランドにあったインフォメーション・サイエンス・インク(ISI)から、COBOLでの給与計算システムの作成を請け負い、開発費の代わりとして無料でPDP-10を使う権利を手に入れたが、COBOLに習熟していなかったため、この作成は難航した。 高校在学当時、先輩でありワシントン州立大学の学生であったポール・アレンと共に、トラフォデータ(英語版)という名称で、交通量計測システムを作成しようとした。アレンによると、このトラフォデータは私的につけられたチーム名にすぎず、法人として設立されてはいないため、トラフォデータ社とは言えない。最終的に、このビジネスはゲイツが大学生になっても続けられたが、大きな利益をあげることはできなかった。 この頃のゲイツに関して以下のような逸話があるが、いずれも当事者が否定しているか、確認が取れない状況である。これらは初めは冗談で言われていた作り話が、徐々に尾ひれがついて大きくなったもので、事実ではないと思われる。 1973年にハーバード大学に入学した。ハーバード大学では、応用数学を専攻したが、成績は必ずしも良くなかった。1974年に2年生になると、ポーカーゲームに熱中することが多くなった。このころ同じ寮に住んでいた学生に、後にゲイツの後任としてマイクロソフトのCEOになるスティーブ・バルマーがいた。 1974年12月にゲイツはアレンから、ポピュラーエレクトロニクス誌にアルテア8800の記事が載っているのを教えられた。これを読んだゲイツとアレンはアルテア8800用にBASICインタプリタを作成することを考えた。 ゲイツは、アレンの名前を騙って、アルテア8800を販売していたハードメーカーのMITSに電話をかけ、実際には未だ何も作成していないBASICインタプリタについて「現在開発中であり、間も無く完成する。御社に伺ってお見せしましょうか。」と言って鎌をかけた。電話に応対したMITSのエド・ロバーツ社長は、「動作するBASICを最初に持ってきたものと契約する。」と答えた。これを受けて、彼らはBASICインタプリタの開発を開始した。 彼らはアルテア8800の実物を持っていなかった。そこで、アレンはハーバード大学にあったPDP-10上でアルテア8800をエミュレートするプログラムを作成し、これを用いてBASICインタプリタを作成した。 8週間後、ゲイツとアレンの寝食を忘れたプログラミングの結果、BASICインタプリタが完成した。1975年3月、デモのため、アレンがニューメキシコ州アルバカーキにあるMITSへ向かった。この際、アレンがBASICのブートローダの開発を忘れていたことに気が付き、移動中の飛行機中で完成させた。こうして作られたBASICはMITSでのデモに成功し動作した(この時ゲイツはボストンの大学寮でアレンの帰りを待っており、同席はしていない)。ゲイツらが作ったBASICインタプリタはアルテア・ベーシックとして販売された。 1975年4月にアレンはMITSの社員となった。一方のゲイツはハーバード大学の学生のままであり、学期が終わって夏休みになるとアルバカーキにやってきてBASICインタプリタの改良を手伝った。その後、9月になるとゲイツはハーバード大学に帰っていった。以降は1976年の春期・1976年の秋期のいずれもゲイツはハーバード大学におり、大学が休みの間にアルバカーキにやって来るという状態を続けていた。1977年2月に(日本でいえば大学4年生の前期終了時に相当する。)ゲイツはハーバード大学を休学し、以降は大学に戻ることは無かった。この時(1977年2月)ゲイツとアレンの間で、パートナーシップに関する合意書が交わされた。 BASICインタプリタ事業が開始された1975年4月をもってマイクロソフト社の創業とされることがあるが、上記のように、実際には1975年4月時点ではマイクロソフトという法人は存在せず、そもそもマイクロソフトという名称自体も存在していない。また、上述のように、BASICインタプリタ事業が始まってからも、ゲイツはその後の約2年間は、実質的にもハーバード大学の学生であり続けている。パートナーシップ形成に関してゲイツとアレンの間で合意書が交わされ、パートナーシップによる経営としてマイクロソフトが正式にスタートするのは、1977年2月である。 マイクロソフトという名前自体は1975年7月にアレンが考え出した。アレンによると、その時点ではマイクロソフトという名前は、ゲイツとアレンの活動を表す私的なチーム名に過ぎなかった。なおチーム名という形にせよ、文書でマイクロソフトの名前が確認できるのは、1975年10月にMITSの社長であったエド・ロバーツが書いた記事が初出である。このころはMicro-softとハイフンを含む名前であった。1976年にホビイストたちの多くが自社のBASICを違法にコピーして使っていたことを非難する『ホビイストたちへの公開状』を書いた。 1980年にIBMは、Apple IIの成功を見てパーソナルコンピュータ市場への本格参入を図ることにし、IBM PCの開発に乗り出した。短期に開発することを目指していたため、オペレーティングシステム(OS)については自社開発を諦め、既存のOSを採用・改良することにした。当時多くのパーソナルコンピュータのOSとして普及していたのは、ゲイリー・キルドールによって創業されたデジタルリサーチが開発したCP/Mだったが、OS採用をめぐるIBMとデジタルリサーチとの交渉は不調に終わった。 そこで、IBMはマイクロソフトにOSの開発を要請した。その際に当時OSの開発を行っていなかったマイクロソフトは、シアトル・コンピュータ・プロダクツ(SCP)から7万5000ドルで手に入れたCP/M互換OSの86-DOSをIBM PC用に改良し、PC-DOSとして納入した。このPC-DOSをさらにMS-DOSという名前で他のパーソナルコンピュータにもライセンスで供給することにより、現在の基礎を作った。7万5000ドルの価格については破格の条件であり、タダ同然の価格で騙し討ちであったと言われ、後に92万5000ドルを支払っている。 1982年7月6日、社長の座を離れ、マイクロソフト会長に就任。 MS-DOSの普及に尽力する一方、GUIを導入する必要性も理解していた。1982年の秋にコムデックスで、ビジコープ社のVisiOnが「MS-DOS上でGUIを実現するデモ」を見て焦りを感じたゲイツは、インタフェース・マネジャーという名称で、同様の機能を持つソフトウェアを発売する予定であると発表した。しかし、実際には何も開発しておらず、その後の開発も難航し、製品発売予定は守られずに何度も延期された。 実現の見通しが無いままで製品発売のアナウンスを行ったことは、同時期にGUIを実現するパソコンを実際に開発中であったAppleを無用に刺激することになった。Macintosh開発舞台裏を追った『レボリューション・イン・ザ・バレー』によると、Windowsの発表を知ったジョブズは激怒し、ゲイツをAppleへ呼びつけた。現れたゲイツは落ち着き払った態度で臨み、「僕たちにはParcというお金持ちのお隣さんがいて、僕が盗みに入ろうと思ったら先に君が盗み出していたようなものじゃないかな」と言い放ったという。 結局、紆余曲折を経た上でMicrosoft Windowsに改称され、最初の製品が発売された時には1985年になっていた。この時期には既にGUIを有するMacintoshが販売されており、機能的にWindowsはMacintoshに大きく見劣りするものであった。Windowsが現実的に使えるシステムになるのは、1990年のWindows 3.0の時である。 1995年にマイクロソフトの開発したWindows 95に至って、ようやくMacintoshと比肩しうるレベルに達した。 2000年1月にCEO職をバルマーに譲る。2006年6月15日には2008年7月にゲイツは第一線から身を退き、ビル&メリンダ・ゲイツ財団での活動を重視すると発表し、CSA(Chief Software Architect、主席ソフトウェア設計者)職をレイ・オジーに移譲した。そしてその発表通り、2008年6月30日をもって会長職には留まるものの、フルタイムの仕事からは引退し、2014年2月4日に会長職から退いて「技術担当アドバイザー」となり、後任にはジョン・トンプソンが就任した。 2016年に大統領自由勲章を妻と共に受章した。2017年5月19日に自身の出身のシアトルとの姉妹都市である神戸市栄誉市民の称号を獲得し、ビデオメッセージを送った。 2020年3月13日にマイクロソフト取締役を退任した。長年取り組んできた途上国などの教育問題や気候変動対策に充てる時間を増やすことを退任の理由に挙げている。ビル&メリンダ・ゲイツ財団ではトイレの普及活動に力を入れており、水を使わないトイレや大便と小便を別々に回収できるトイレといった先進的なアイデアを募集するコンペティションの開催やケースに入った人糞を持ちながら講演に登場する等奇抜な活動を展開している。自身も「まさかこの年になってトイレに詳しくなるとは思わなかった。」と講演で語っている。役員を退任後も、マイクロソフトのサティア・ナデラCEOなどへの技術担当のアドバイザーを続ける。 2020年4月に旭日大綬章を受章したが、新型コロナウイルスの影響などで受け取ったのは2022年8月18日となった。日本国政府は世界的な技術革新とグローバルヘルスの進歩に対する貢献を功績として挙げた。 アメリカの雑誌であるフォーブスの世界長者番付で、1994年から2006年まで13年連続の世界一となった。2006年の個人資産は推定530億ドル(日本円で約6兆2000億円)で、2007年、ビル・ゲイツの資産は、さらに50億ドル膨らんで資産総額580億ドルとなったが、推定資産620億ドルの著名投資家のウォーレン・バフェット、推定資産600億ドルの中南米の携帯電話会社América Móvilなどを所有するメキシコの「通信王」カルロス・スリムの後塵を拝し、ゲイツは3位に転落した。 2008年に推定資産400億ドルと世界的な金融危機で各々の総資産が減少する中、ゲイツの資産総額も前年度より180億ドル減少したが、結果的に再び第1位に返り咲いた。2014年の推定資産810億ドルで、世界1位である。長らくマイクロソフトの個人筆頭株主でありかつては資産の大半を同社株が占めていたが、定期的に売却を続けた影響で2014年には保有株数でスティーブ・バルマーに抜かれることとなった。現在の同氏の資産は個人投資会社であるカスケード・インベストメント社の投資成果によるものであり、マイクロソフト株も同社を通じて保有している。同社の投資資産としてはフォーシーズンズホテル、リパブリック・サービシズ、エコラボ、カナディアン・ナショナル鉄道、バークシャー・ハサウェイなどがある。フォーブスの世界長者番付2017で推定資産860億ドルで1年間で資産を90億ドル以上増やし、4年連続の首位に立った。過去23年間では18回首位に輝いている。 なお、2021年現在の純資産は1374億ドルで日本円にして約15兆5800円であったが、離婚により、1268億ドルまで減少している。 テキサス州ダラス出身のメリンダ・アン・フレンチ(旧姓)と1994年1月1日に結婚した。子供は3人いる。シアトル郊外のキング郡マダイナに在住している。 2021年5月3日にゲイツ夫妻は離婚を発表した。夫妻はツイッターで「熟慮と多大な関係改善努力の末、結婚生活を終わらせることを決めた」と共同声明を出した。 元妻のメリンダ・ゲイツは、ビル・ゲイツが性犯罪者ジェフリー・エプスタインと交際していたことが許せず、それが彼女に別れを決意させたという。2021年8月、ビル・ゲイツはCNNのインタビューで「彼と時間を過ごし、彼の存在を信用したことは大きな間違いだった」と関係を認めた。エプスタインからビルとメリンダの慈善活動に資金を提供すると持ちかけられたことから、一緒に数回ディナーをとったと話したが、このときすでにエプスタインは未成年の女性に対する性的行為で有罪になっていた。「私はビルがジェフリー・エプスタインと会っていたのが嫌だった。私はビルにそれをはっきり伝えた」と告白し、メリンダが反対したにもかかわらず、ビルがエプスタインとの交際を続けたと示唆した。さらにメリンダ自身もエプスタインに1度だけ会ったとしており、「彼がどんな人なのか見てみたかった。でも玄関に入った瞬間に後悔した。彼は忌まわしい人だった。悪の権化だった。後日、悪夢に見るほどだった」と語り、エプスタインの性的虐待の標的になった女性たちのことを思うと「心が痛む」とも話した。 2023年1月30日、オーストラリアのABCニュースでビルは「彼と一緒に時間を過ごし、そこにいるという信頼を彼に与えたのは大きな間違いでした。」と述べた。 ビル・ゲイツが彼の妻メリンダ・ゲイツ、父親のビル・ゲイツ・シニアとともに作った慈善団体。2005年には国際団体「ワクチンと予防接種のための世界同盟」に、民間としては最大規模の7億5000万ドルの寄付を発表した。 財産管理は主にメリンダが行っており、寄付をする際の検査は厳格に調査していると公表している。なお2006年6月15日の記者会見にて、2008年7月にマイクロソフトの経営とソフト開発の第一線から退き、「ビル&メリンダ・ゲイツ財団 (B&MGF)」の活動に専念すると発表した。 2006年12月1日には、夫妻の死後50年以内に財団の資産を使い切って活動を終えると発表した。同基金は「我々が取り組んでいる問題を今世紀中にめざましく進展させるため」と、存続期間を限定した理由を説明している。同基金は途上国のエイズ・マラリア・結核の根絶や教育・貧困・保健・介護・識字・子育て・疲労・無戸籍者・認知症・ワクチン・自殺・人間ドック・引きこもり・孤独死・社会的入院・グループホーム・共同作業所の水準の改善などに尽力しており、今後は更に寄付を拡大する方針も明らかにもしている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ビル・ゲイツ(Bill Gates)ことウィリアム・ヘンリー・ゲイツ3世(William Henry Gates III、1955年10月28日 - )は、アメリカ合衆国の実業家、慈善家。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "マイクロソフトの共同創業者であり、幼なじみの故ポール・アレンとともにマイクロソフトを創業した。マイクロソフトでのキャリアにおいて、ゲイツは会長、最高経営責任者(CEO)、社長、最高ソフトウェア設計者を歴任し、同時に20年5月まで個人筆頭株主であった。1970年代から1980年代にかけてのマイクロコンピュータ革命の主要な起業家であった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ゲイツはシアトルで生まれ育つ。1975年、アレンとともにニューメキシコ州アルバカーキにマイクロソフトを設立。世界最大のパソコン用ソフトウエア会社となった。ゲイツは、2000年1月にCEOを退任し、スティーブ・バルマーに引き継がれるまで、会長兼CEOとして同社を率いたが、取締役会会長にとどまり、チーフ・ソフトウェア・アーキテクトに就任した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1990年代後半、彼のビジネス戦術は反競争的であると批判された。この意見は、数々の裁判でも支持されている。2008年6月、ゲイツはマイクロソフトでは非常勤、2000年に当時の妻メリンダと設立した民間慈善財団ビル&メリンダ・ゲイツ財団では常勤に移行した。2014年2月にマイクロソフトの取締役会長を退任し、新たにサティア・ナデラCEOをサポートするテクノロジーアドバイザーに就任した。2020年3月、ゲイツはマイクロソフトとバークシャー・ハサウェイの取締役職を離れ、気候変動、世界の健康・開発、教育などに関する慈善活動に専念する。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2008年にマイクロソフトの日常業務を離れて以来、ゲイツは多くのビジネスと慈善活動を追求してきた。BEN、カスケード・インベストメント、bgC3、テラパワーなど、複数の企業の創業者であり会長でもある。また、世界最大の民間慈善団体といわれるビル&メリンダ・ゲイツ財団を通じて、さまざまな慈善団体や科学研究プログラムに多額の資金を提供している。同財団を通じて、21世紀初頭のワクチン接種キャンペーンを主導し、アフリカにおける野生ポリオウイルスの撲滅に大きく貢献した。2010年、ゲイツはウォーレン・バフェットとともに「ギビング・プレッジ」を設立し、自分たちや他の億万長者たちが、少なくとも財産の半分を慈善活動に寄付することを誓約している。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1955年10月28日にワシントン州シアトルで、ビル・ゲイツ・シニアとメアリー・マクスウェル・ゲイツとの間に誕生した。裕福な家庭だったが、自分のことには一切お金を使おうとしなかった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "そして会衆派教会の日曜学校に通い、聖歌隊で歌い、ボーイスカウトにも入っていた。また、エドガー・ライス・バローズのターザン物や火星人物を読みあさる一方で、フランクリン・ルーズベルト、ナポレオン、偉大な発明家などの伝記を耽読した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1967年にシアトルのレイクサイド校に入学した。1968年秋、レイクサイド校はゼネラル・エレクトリック社のGE-635に接続されたテレタイプ端末を導入した。これを通じてコンピュータに興味を持つようになった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "このころ、ワシントン大学の近くにコンピュータ・センター・コーポレーション(CCC)という会社が設立され、DECのPDP-10への接続サービスを開始する予定であった。正式運用の前に負荷耐性テストを行う必要があったCCCは、1968年11月にゲイツらに夜間と週末にコンピュータを無料で使用させた。この経験を通じてゲイツはDECのPDP-10に詳しくなった。後に、ゲイツは自分のプログラムコードの書き方に影響を与えた人物としてPDPのオペレーティングシステムを書いた人たち全部、TRW社のジョン・ノートン、ポール・アレン、チャールズ・シモニー等の名前を挙げている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1970年2月にCCCは不渡手形を出し、実質的に倒産する。これにより、ゲイツはコンピュータに触れる機会を失う。1970年11月オレゴン州ポートランドにあったインフォメーション・サイエンス・インク(ISI)から、COBOLでの給与計算システムの作成を請け負い、開発費の代わりとして無料でPDP-10を使う権利を手に入れたが、COBOLに習熟していなかったため、この作成は難航した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "高校在学当時、先輩でありワシントン州立大学の学生であったポール・アレンと共に、トラフォデータ(英語版)という名称で、交通量計測システムを作成しようとした。アレンによると、このトラフォデータは私的につけられたチーム名にすぎず、法人として設立されてはいないため、トラフォデータ社とは言えない。最終的に、このビジネスはゲイツが大学生になっても続けられたが、大きな利益をあげることはできなかった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この頃のゲイツに関して以下のような逸話があるが、いずれも当事者が否定しているか、確認が取れない状況である。これらは初めは冗談で言われていた作り話が、徐々に尾ひれがついて大きくなったもので、事実ではないと思われる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1973年にハーバード大学に入学した。ハーバード大学では、応用数学を専攻したが、成績は必ずしも良くなかった。1974年に2年生になると、ポーカーゲームに熱中することが多くなった。このころ同じ寮に住んでいた学生に、後にゲイツの後任としてマイクロソフトのCEOになるスティーブ・バルマーがいた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1974年12月にゲイツはアレンから、ポピュラーエレクトロニクス誌にアルテア8800の記事が載っているのを教えられた。これを読んだゲイツとアレンはアルテア8800用にBASICインタプリタを作成することを考えた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ゲイツは、アレンの名前を騙って、アルテア8800を販売していたハードメーカーのMITSに電話をかけ、実際には未だ何も作成していないBASICインタプリタについて「現在開発中であり、間も無く完成する。御社に伺ってお見せしましょうか。」と言って鎌をかけた。電話に応対したMITSのエド・ロバーツ社長は、「動作するBASICを最初に持ってきたものと契約する。」と答えた。これを受けて、彼らはBASICインタプリタの開発を開始した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "彼らはアルテア8800の実物を持っていなかった。そこで、アレンはハーバード大学にあったPDP-10上でアルテア8800をエミュレートするプログラムを作成し、これを用いてBASICインタプリタを作成した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "8週間後、ゲイツとアレンの寝食を忘れたプログラミングの結果、BASICインタプリタが完成した。1975年3月、デモのため、アレンがニューメキシコ州アルバカーキにあるMITSへ向かった。この際、アレンがBASICのブートローダの開発を忘れていたことに気が付き、移動中の飛行機中で完成させた。こうして作られたBASICはMITSでのデモに成功し動作した(この時ゲイツはボストンの大学寮でアレンの帰りを待っており、同席はしていない)。ゲイツらが作ったBASICインタプリタはアルテア・ベーシックとして販売された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1975年4月にアレンはMITSの社員となった。一方のゲイツはハーバード大学の学生のままであり、学期が終わって夏休みになるとアルバカーキにやってきてBASICインタプリタの改良を手伝った。その後、9月になるとゲイツはハーバード大学に帰っていった。以降は1976年の春期・1976年の秋期のいずれもゲイツはハーバード大学におり、大学が休みの間にアルバカーキにやって来るという状態を続けていた。1977年2月に(日本でいえば大学4年生の前期終了時に相当する。)ゲイツはハーバード大学を休学し、以降は大学に戻ることは無かった。この時(1977年2月)ゲイツとアレンの間で、パートナーシップに関する合意書が交わされた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "BASICインタプリタ事業が開始された1975年4月をもってマイクロソフト社の創業とされることがあるが、上記のように、実際には1975年4月時点ではマイクロソフトという法人は存在せず、そもそもマイクロソフトという名称自体も存在していない。また、上述のように、BASICインタプリタ事業が始まってからも、ゲイツはその後の約2年間は、実質的にもハーバード大学の学生であり続けている。パートナーシップ形成に関してゲイツとアレンの間で合意書が交わされ、パートナーシップによる経営としてマイクロソフトが正式にスタートするのは、1977年2月である。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "マイクロソフトという名前自体は1975年7月にアレンが考え出した。アレンによると、その時点ではマイクロソフトという名前は、ゲイツとアレンの活動を表す私的なチーム名に過ぎなかった。なおチーム名という形にせよ、文書でマイクロソフトの名前が確認できるのは、1975年10月にMITSの社長であったエド・ロバーツが書いた記事が初出である。このころはMicro-softとハイフンを含む名前であった。1976年にホビイストたちの多くが自社のBASICを違法にコピーして使っていたことを非難する『ホビイストたちへの公開状』を書いた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1980年にIBMは、Apple IIの成功を見てパーソナルコンピュータ市場への本格参入を図ることにし、IBM PCの開発に乗り出した。短期に開発することを目指していたため、オペレーティングシステム(OS)については自社開発を諦め、既存のOSを採用・改良することにした。当時多くのパーソナルコンピュータのOSとして普及していたのは、ゲイリー・キルドールによって創業されたデジタルリサーチが開発したCP/Mだったが、OS採用をめぐるIBMとデジタルリサーチとの交渉は不調に終わった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "そこで、IBMはマイクロソフトにOSの開発を要請した。その際に当時OSの開発を行っていなかったマイクロソフトは、シアトル・コンピュータ・プロダクツ(SCP)から7万5000ドルで手に入れたCP/M互換OSの86-DOSをIBM PC用に改良し、PC-DOSとして納入した。このPC-DOSをさらにMS-DOSという名前で他のパーソナルコンピュータにもライセンスで供給することにより、現在の基礎を作った。7万5000ドルの価格については破格の条件であり、タダ同然の価格で騙し討ちであったと言われ、後に92万5000ドルを支払っている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1982年7月6日、社長の座を離れ、マイクロソフト会長に就任。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "MS-DOSの普及に尽力する一方、GUIを導入する必要性も理解していた。1982年の秋にコムデックスで、ビジコープ社のVisiOnが「MS-DOS上でGUIを実現するデモ」を見て焦りを感じたゲイツは、インタフェース・マネジャーという名称で、同様の機能を持つソフトウェアを発売する予定であると発表した。しかし、実際には何も開発しておらず、その後の開発も難航し、製品発売予定は守られずに何度も延期された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "実現の見通しが無いままで製品発売のアナウンスを行ったことは、同時期にGUIを実現するパソコンを実際に開発中であったAppleを無用に刺激することになった。Macintosh開発舞台裏を追った『レボリューション・イン・ザ・バレー』によると、Windowsの発表を知ったジョブズは激怒し、ゲイツをAppleへ呼びつけた。現れたゲイツは落ち着き払った態度で臨み、「僕たちにはParcというお金持ちのお隣さんがいて、僕が盗みに入ろうと思ったら先に君が盗み出していたようなものじゃないかな」と言い放ったという。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "結局、紆余曲折を経た上でMicrosoft Windowsに改称され、最初の製品が発売された時には1985年になっていた。この時期には既にGUIを有するMacintoshが販売されており、機能的にWindowsはMacintoshに大きく見劣りするものであった。Windowsが現実的に使えるシステムになるのは、1990年のWindows 3.0の時である。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1995年にマイクロソフトの開発したWindows 95に至って、ようやくMacintoshと比肩しうるレベルに達した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2000年1月にCEO職をバルマーに譲る。2006年6月15日には2008年7月にゲイツは第一線から身を退き、ビル&メリンダ・ゲイツ財団での活動を重視すると発表し、CSA(Chief Software Architect、主席ソフトウェア設計者)職をレイ・オジーに移譲した。そしてその発表通り、2008年6月30日をもって会長職には留まるものの、フルタイムの仕事からは引退し、2014年2月4日に会長職から退いて「技術担当アドバイザー」となり、後任にはジョン・トンプソンが就任した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2016年に大統領自由勲章を妻と共に受章した。2017年5月19日に自身の出身のシアトルとの姉妹都市である神戸市栄誉市民の称号を獲得し、ビデオメッセージを送った。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2020年3月13日にマイクロソフト取締役を退任した。長年取り組んできた途上国などの教育問題や気候変動対策に充てる時間を増やすことを退任の理由に挙げている。ビル&メリンダ・ゲイツ財団ではトイレの普及活動に力を入れており、水を使わないトイレや大便と小便を別々に回収できるトイレといった先進的なアイデアを募集するコンペティションの開催やケースに入った人糞を持ちながら講演に登場する等奇抜な活動を展開している。自身も「まさかこの年になってトイレに詳しくなるとは思わなかった。」と講演で語っている。役員を退任後も、マイクロソフトのサティア・ナデラCEOなどへの技術担当のアドバイザーを続ける。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2020年4月に旭日大綬章を受章したが、新型コロナウイルスの影響などで受け取ったのは2022年8月18日となった。日本国政府は世界的な技術革新とグローバルヘルスの進歩に対する貢献を功績として挙げた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "アメリカの雑誌であるフォーブスの世界長者番付で、1994年から2006年まで13年連続の世界一となった。2006年の個人資産は推定530億ドル(日本円で約6兆2000億円)で、2007年、ビル・ゲイツの資産は、さらに50億ドル膨らんで資産総額580億ドルとなったが、推定資産620億ドルの著名投資家のウォーレン・バフェット、推定資産600億ドルの中南米の携帯電話会社América Móvilなどを所有するメキシコの「通信王」カルロス・スリムの後塵を拝し、ゲイツは3位に転落した。", "title": "世界長者番付" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2008年に推定資産400億ドルと世界的な金融危機で各々の総資産が減少する中、ゲイツの資産総額も前年度より180億ドル減少したが、結果的に再び第1位に返り咲いた。2014年の推定資産810億ドルで、世界1位である。長らくマイクロソフトの個人筆頭株主でありかつては資産の大半を同社株が占めていたが、定期的に売却を続けた影響で2014年には保有株数でスティーブ・バルマーに抜かれることとなった。現在の同氏の資産は個人投資会社であるカスケード・インベストメント社の投資成果によるものであり、マイクロソフト株も同社を通じて保有している。同社の投資資産としてはフォーシーズンズホテル、リパブリック・サービシズ、エコラボ、カナディアン・ナショナル鉄道、バークシャー・ハサウェイなどがある。フォーブスの世界長者番付2017で推定資産860億ドルで1年間で資産を90億ドル以上増やし、4年連続の首位に立った。過去23年間では18回首位に輝いている。", "title": "世界長者番付" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "なお、2021年現在の純資産は1374億ドルで日本円にして約15兆5800円であったが、離婚により、1268億ドルまで減少している。", "title": "世界長者番付" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "テキサス州ダラス出身のメリンダ・アン・フレンチ(旧姓)と1994年1月1日に結婚した。子供は3人いる。シアトル郊外のキング郡マダイナに在住している。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2021年5月3日にゲイツ夫妻は離婚を発表した。夫妻はツイッターで「熟慮と多大な関係改善努力の末、結婚生活を終わらせることを決めた」と共同声明を出した。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "元妻のメリンダ・ゲイツは、ビル・ゲイツが性犯罪者ジェフリー・エプスタインと交際していたことが許せず、それが彼女に別れを決意させたという。2021年8月、ビル・ゲイツはCNNのインタビューで「彼と時間を過ごし、彼の存在を信用したことは大きな間違いだった」と関係を認めた。エプスタインからビルとメリンダの慈善活動に資金を提供すると持ちかけられたことから、一緒に数回ディナーをとったと話したが、このときすでにエプスタインは未成年の女性に対する性的行為で有罪になっていた。「私はビルがジェフリー・エプスタインと会っていたのが嫌だった。私はビルにそれをはっきり伝えた」と告白し、メリンダが反対したにもかかわらず、ビルがエプスタインとの交際を続けたと示唆した。さらにメリンダ自身もエプスタインに1度だけ会ったとしており、「彼がどんな人なのか見てみたかった。でも玄関に入った瞬間に後悔した。彼は忌まわしい人だった。悪の権化だった。後日、悪夢に見るほどだった」と語り、エプスタインの性的虐待の標的になった女性たちのことを思うと「心が痛む」とも話した。", "title": "ジェフリー・エプスタインとの関係" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2023年1月30日、オーストラリアのABCニュースでビルは「彼と一緒に時間を過ごし、そこにいるという信頼を彼に与えたのは大きな間違いでした。」と述べた。", "title": "ジェフリー・エプスタインとの関係" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": 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ビル・ゲイツことウィリアム・ヘンリー・ゲイツ3世は、アメリカ合衆国の実業家、慈善家。 マイクロソフトの共同創業者であり、幼なじみの故ポール・アレンとともにマイクロソフトを創業した。マイクロソフトでのキャリアにおいて、ゲイツは会長、最高経営責任者(CEO)、社長、最高ソフトウェア設計者を歴任し、同時に20年5月まで個人筆頭株主であった。1970年代から1980年代にかけてのマイクロコンピュータ革命の主要な起業家であった。 ゲイツはシアトルで生まれ育つ。1975年、アレンとともにニューメキシコ州アルバカーキにマイクロソフトを設立。世界最大のパソコン用ソフトウエア会社となった。ゲイツは、2000年1月にCEOを退任し、スティーブ・バルマーに引き継がれるまで、会長兼CEOとして同社を率いたが、取締役会会長にとどまり、チーフ・ソフトウェア・アーキテクトに就任した。 1990年代後半、彼のビジネス戦術は反競争的であると批判された。この意見は、数々の裁判でも支持されている。2008年6月、ゲイツはマイクロソフトでは非常勤、2000年に当時の妻メリンダと設立した民間慈善財団ビル&メリンダ・ゲイツ財団では常勤に移行した。2014年2月にマイクロソフトの取締役会長を退任し、新たにサティア・ナデラCEOをサポートするテクノロジーアドバイザーに就任した。2020年3月、ゲイツはマイクロソフトとバークシャー・ハサウェイの取締役職を離れ、気候変動、世界の健康・開発、教育などに関する慈善活動に専念する。 2008年にマイクロソフトの日常業務を離れて以来、ゲイツは多くのビジネスと慈善活動を追求してきた。BEN、カスケード・インベストメント、bgC3、テラパワーなど、複数の企業の創業者であり会長でもある。また、世界最大の民間慈善団体といわれるビル&メリンダ・ゲイツ財団を通じて、さまざまな慈善団体や科学研究プログラムに多額の資金を提供している。同財団を通じて、21世紀初頭のワクチン接種キャンペーンを主導し、アフリカにおける野生ポリオウイルスの撲滅に大きく貢献した。2010年、ゲイツはウォーレン・バフェットとともに「ギビング・プレッジ」を設立し、自分たちや他の億万長者たちが、少なくとも財産の半分を慈善活動に寄付することを誓約している。
{{Infobox 人物 |氏名 = {{en|Bill Gates}} |ふりがな=ビル・ゲイツ |画像= Bill Gates - 2023 - P062021-967902 (cropped).jpg |画像サイズ= 210px |画像説明= |出生名 = William Henry Gates III |生年月日= {{生年月日と年齢|1955|10|28}} |生誕地= {{USA1912}} [[ワシントン州]][[シアトル]] |洗礼= |没年月日=<!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> |死没地= |死因= |遺体発見= |墓地= |記念碑= |住居 = {{USA}} [[ワシントン州]][[:en:Medina, Washington|メディナ]] |国籍= {{USA}} |別名= |民族 = [[ドイツ系アメリカ人]] [[イングランド系アメリカ人]] |教育= [[:en:Lakeside School (Seattle)|レイクサイドスクール]] |出身校= [[ハーバード大学]]中退 |職業= {{Ubl|[[実業家]]|[[フィランソロピー|慈善活動家]]|[[技術者]]|[[プログラマ]]|[[作家]]}} |活動期間= [[1975年]] - |時代= |雇用者= |団体= |代理人= |著名な実績= |代表作= |影響を受けたもの= |影響を与えたもの= |活動拠点= |給料= |純資産= {{Increase}} 1268億ドル(2021年)<ref>{{Cite news|url=https://www.forbes.com/profile/bill-gates/?sh=2371f90689f0 |title=Bill Gates |date=2021年6月15日 |newspaper=[[フォーブス (雑誌)|Forbes]] |accessdate=2021-06-15}}</ref> |身長= 178cm |体重= |テレビ番組= |肩書き= {{ubl | [[マイクロソフト]]の[[顧問|技術担当アドバイザー]] | [[ビル&メリンダ・ゲイツ財団]][[会長|共同会長]] | [[カスケード・インベストメント]]会長 | [[:en:Corbis|コービス]]会長| [[テラパワー]]共同会長 }} |任期= |前任者= |後任者= |敵対者= |取締役会= {{ubl | [[マイクロソフト]] | [[バークシャー・ハサウェイ]] }} |宗教= |宗派= |配偶者= {{marriage|[[メリンダ・ゲイツ]]|1994|2021|end=div.}} |子供= 3人 |親= {{ubl | [[ビル・ゲイツ・シニア]] | [[メアリー・マクスウェル・ゲイツ]] }} |親戚= |家族= |受賞= |栄誉= {{Plainlist|* [[大英帝国勲章]]ナイト・コマンダー * [[立教大学]] [[名誉博士]] * [[早稲田大学]] 名誉博士 * [[シルバー・バッファロー章]] * [[アメリカ国家技術賞]] * [[メアリー・ウッダード・ラスカー公益事業賞]] * [[:en:Jefferson Awards for Public Service|ジェファーソン公共サービス賞]] * [[:en:The Tech Awards|テック・アワード]] * [[大統領自由勲章]] * [[旭日大綬章]]}} |公式サイト= {{URL|https://www.gatesnotes.com/}} |署名= Bill Gates signature.svg |署名サイズ= |補足= }} '''ビル・ゲイツ'''('''Bill Gates''')こと'''ウィリアム・ヘンリー・ゲイツ3世'''('''William Henry Gates III'''、[[1955年]][[10月28日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[実業家]]、[[慈善家]]。 [[マイクロソフト]]の共同創業者であり、幼なじみの故[[ポール・アレン]]とともにマイクロソフトを創業した{{Sfn|Manes|1994|p=11}}<ref name=":5">{{Cite web |title=Bill Gates (American computer programmer, businessman, and philanthropist) |url=https://www.britannica.com/biography/Bill-Gates |access-date=March 20, 2013 |archive-url=https://web.archive.org/web/20130328082612/https://www.britannica.com/EBchecked/topic/226865/Bill-Gates |archive-date=March 28, 2013}}</ref>。マイクロソフトでのキャリアにおいて、ゲイツは会長、[[最高経営責任者]](CEO)、社長、最高ソフトウェア設計者を歴任し、同時に20年5月まで個人筆頭株主であった<ref>{{Cite web |author=Foley |first=Mary Jo |date=August 15, 2017 |title=Bill Gates' stake in Microsoft is now just 1.3 percent |url=https://www.zdnet.com/article/bill-gates-stake-in-microsoft-is-now-just-1-3-percent/ |access-date=July 26, 2021 |website=ZDNet}}</ref>。1970年代から1980年代にかけての[[マイクロコンピュータ]]革命の主要な起業家であった<ref>{{Cite web|和書|title=ビル・ゲイツへの講演・登壇なら {{!}} 『地球の未来のため僕が決断したこと』『パンデミックなき未来へ』などの著者 {{!}} 海外スピーカー企画はトップランナーマーケティング |url=https://toprunner-marketing.co.jp/speaker/detail/bill-gates/ |website=toprunner-marketing.co.jp |access-date=2023-02-19}}</ref>。 ゲイツは[[シアトル]]で生まれ育つ。1975年、アレンとともに[[ニューメキシコ州]][[アルバカーキ]]にマイクロソフトを設立。世界最大のパソコン用[[ソフトウエア]]会社となった<ref name="CNN Tech">{{Cite web |title=Bill Gates no longer Microsoft's biggest shareholder |url=https://money.cnn.com/2014/05/02/technology/gates-microsoft-stock-sale/ |website=CNN Money |access-date=August 22, 2014 |author=Sheridan |first=Patrick |date=May 2, 2014 |archive-url=https://web.archive.org/web/20140820064251/https://money.cnn.com/2014/05/02/technology/gates-microsoft-stock-sale |archive-date=August 20, 2014}}</ref>{{efn|Gates regularly documents his share ownership through public U.S. Securities and Exchange Commission [[Form 4]] filings.<ref>{{citation|title=MSFT|url=https://www.nasdaq.com/symbol/msft/institutional-holdings|publisher=NASDAQ|type=Holdings|access-date=April 10, 2016|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20111019112613/http://www.nasdaq.com/asp/holdings.asp?symbol=MSFT&selected=MSFT&FormType=form4|archive-date=October 19, 2011}}</ref><ref>{{citation|title=MSFT|publisher=NASDAQ|type=Symbol|url=http://www.nasdaq.com/symbol/msft|access-date=April 10, 2016|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20160408230653/http://www.nasdaq.com/symbol/msft|archive-date=April 8, 2016}}</ref>}}。ゲイツは、2000年1月にCEOを退任し、[[スティーブ・バルマー]]に引き継がれるまで、会長兼CEOとして同社を率いたが、取締役会会長にとどまり、チーフ・ソフトウェア・アーキテクトに就任した<ref>{{Cite web |title=Gates steps down as Microsoft CEO |url=https://www.forbes.com/2000/01/13/mu7.html |website=Forbes |date=January 13, 2000 |access-date=January 21, 2016 |first=David |author=Einstein |archive-url=https://web.archive.org/web/20160126145821/http://www.forbes.com/2000/01/13/mu7.html |archive-date=January 26, 2016}}</ref>。 1990年代後半、彼のビジネス戦術は反競争的であると批判された。この意見は、数々の裁判でも支持されている{{Sfnm|1a1=Lesinski|1y=2006|1p=96}}。2008年6月、ゲイツはマイクロソフトでは非常勤、2000年に当時の妻メリンダと設立した民間慈善財団[[ビル&メリンダ・ゲイツ財団|ビル&メリンダ・ゲイツ財団]]では常勤に移行した<ref>{{Cite web |title=Microsoft Chairman Gates to leave day-to-day role |url=https://money.cnn.com/2006/06/15/technology/microsoft_news/index.htm?iid=EL |website=money.cnn.com |access-date=January 21, 2016 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160130104313/https://money.cnn.com/2006/06/15/technology/microsoft_news/index.htm?iid=EL |archive-date=January 30, 2016}}</ref>。2014年2月にマイクロソフトの取締役会長を退任し、新たに[[サティア・ナデラ]]CEOをサポートするテクノロジーアドバイザーに就任した<ref name=":2">{{Cite news |title=Bill Gates steps down as chairman, will assist new CEO as 'technology advisor' |url=https://www.theverge.com/2014/2/4/5377226/bill-gates-steps-down-microsoft-chairman-named-tech-advisor |access-date=February 4, 2014 |newspaper=The Verge |archive-url=https://web.archive.org/web/20140204224246/http://www.theverge.com/2014/2/4/5377226/bill-gates-steps-down-microsoft-chairman-named-tech-advisor |archive-date=February 4, 2014}}</ref>。2020年3月、ゲイツはマイクロソフトと[[バークシャー・ハサウェイ]]の取締役職を離れ、[[気候変動]]、世界の健康・開発、教育などに関する慈善活動に専念する<ref name="Haselton">{{Cite news |last=Haselton |first=Todd |date=March 13, 2020 |title=Bill Gates leaves Microsoft board |url=https://www.cnbc.com/2020/03/13/bill-gates-leaves-microsoft-board.html |newspaper=[[CNBC]] |access-date=March 13, 2020}}</ref>。 2008年にマイクロソフトの日常業務を離れて以来、ゲイツは多くのビジネスと慈善活動を追求してきた。BEN、[[カスケード・インベストメント]]、bgC3、[[テラパワー]]など、複数の企業の創業者であり会長でもある。また、世界最大の民間慈善団体といわれるビル&メリンダ・ゲイツ財団を通じて、さまざまな慈善団体や科学研究プログラムに多額の資金を提供している<ref>{{Cite web |url=https://www.theguardian.com/technology/2017/aug/15/bill-gates-charity-donation-microsoft-shares-foundation |title=Bill Gates gives $4.6bn to charity in biggest donation since 2000 |author=Neate |first=Rupert |date=August 15, 2017 |website=The Guardian |language=en |access-date=April 10, 2018}}</ref>。同財団を通じて、21世紀初頭の[[予防接種|ワクチン接種]]キャンペーンを主導し、[[アフリカ]]における野生[[ポリオウイルス]]の撲滅に大きく貢献した<ref>{{Cite web |author=Barry |first=Michele |date=September 16, 2020 |title=How polio eradication in Africa can inform the global COVID-19 response |url=https://scopeblog.stanford.edu/2020/09/16/how-polio-eradication-in-africa-can-inform-the-global-covid-19-response/ |access-date=April 20, 2021 |website=Scope |language=en-US}}</ref><ref>{{Cite news |last=Maclean |first=Ruth |date=August 24, 2020 |title=Africa Celebrates the End of the Wild Poliovirus (but Not the End of All Polio) |language=en-US |newspaper=[[The New York Times]] |url=https://www.nytimes.com/2020/08/24/world/africa/polio-africa-eradicated.html |archive-url=https://web.archive.org/web/20200824164057/https://www.nytimes.com/2020/08/24/world/africa/polio-africa-eradicated.html |archive-date=2020-08-24 |access-date=April 20, 2021 |issn=0362-4331}}</ref>。2010年、ゲイツは[[ウォーレン・バフェット]]とともに「[[ギビング・プレッジ]]」を設立し、自分たちや他の億万長者たちが、少なくとも財産の半分を慈善活動に寄付することを誓約している<ref name="Fortune challenge">{{Cite web |url=http://fortune.com/2010/06/16/the-600-billion-challenge |title=The $600 billion challenge |website=[[Fortune (magazine)|Fortune]] |access-date=April 16, 2017 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170316165028/http://fortune.com/2010/06/16/the-600-billion-challenge/ |archive-date=March 16, 2017}}</ref>。 == 来歴 == === 幼少時代 === 1955年10月28日に[[ワシントン州]][[シアトル]]で、[[ビル・ゲイツ・シニア]]と[[メアリー・マクスウェル・ゲイツ]]との間に誕生した<ref>{{Cite web|url=http://www.wargs.com/other/gates.html|title=Ancestry of Bill Gates|accessdate=2016-11-05|author=William Addams Reitwiesner|publisher=wargs.com|language=英語}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.albawest.com/scottish-americans.html|title=Scottish Americans|accessdate=April 29, 2009|publisher=albawest.com|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080511172722/http://www.albawest.com/scottish-americans.html|archivedate=2008年5月11日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。裕福な家庭だったが、自分のことには一切お金を使おうとしなかった。 そして[[会衆派教会]]の[[日曜学校]]に通い、[[聖歌隊]]で歌い、[[ボーイスカウト]]にも入っていた。また、[[エドガー・ライス・バローズ]]の[[ターザン]]物や[[火星シリーズ|火星人]]物を読みあさる一方で、[[フランクリン・ルーズベルト]]、[[ナポレオン]]、偉大な[[発明家]]などの伝記を耽読した{{Sfn|Ichbiah|Knepper|1992}}。 === 中学時代 === 1967年にシアトルの[[レイクサイド校]]に入学した{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=38}}。1968年秋、レイクサイド校は[[ゼネラル・エレクトリック]]社の[[GE-600シリーズ|GE-635]]に接続されたテレタイプ端末を導入した{{Sfn|アレン|2013|p=47}}。これを通じてコンピュータに興味を持つようになった。 このころ、ワシントン大学の近くにコンピュータ・センター・コーポレーション(CCC)という会社が設立され{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=44}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://ftrcrblog.g2.xrea.com/Gates/67.html|title=ビル・ゲイツ初期の経歴を再検証 --- Part.16|accessdate=2017-11-16|publisher=}}</ref>{{信頼性要検証|date=2020-08}}、[[デジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]の[[PDP-10]]への接続サービスを開始する予定であった。正式運用の前に負荷耐性テストを行う必要があったCCCは、1968年11月にゲイツらに夜間と週末にコンピュータを無料で使用させた{{Sfnm|1a1=メインズ|1a2=アンドルーズ|1y=1995|1p=44|2a1=アレン|2y=2013|2p=57}}。この経験を通じてゲイツはDECのPDP-10に詳しくなった。後に、ゲイツは自分のプログラムコードの書き方に影響を与えた人物としてPDPのオペレーティングシステムを書いた人たち全部、TRW社のジョン・ノートン、ポール・アレン、[[チャールズ・シモニー]]等の名前を挙げている{{Sfn|スーザン|1987|p=85}}。 1970年2月にCCCは不渡手形を出し、実質的に倒産する{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=53}}。これにより、ゲイツはコンピュータに触れる機会を失う。1970年11月[[オレゴン州]][[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]にあったインフォメーション・サイエンス・インク(ISI)から、[[COBOL]]での給与計算システムの作成を請け負い、開発費の代わりとして無料でPDP-10を使う権利を手に入れた{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=58}}が、COBOLに習熟していなかったため、この作成は難航した{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=59}}。 === 高校時代 === 高校在学当時、先輩でありワシントン州立大学の学生であった[[ポール・アレン]]と共に、{{仮リンク|トラフォデータ|en|Traf-O-Data}}という名称で{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=72}}、交通量計測システムを作成しようとした。アレンによると、このトラフォデータは私的につけられたチーム名にすぎず{{Sfn|アレン|2013|p=93}}、法人として設立されてはいないため、トラフォデータ社とは言えない。最終的に、このビジネスはゲイツが大学生になっても続けられたが、大きな利益をあげることはできなかった{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=83}}。 この頃のゲイツに関して以下のような逸話があるが、いずれも当事者が否定しているか、確認が取れない状況である。これらは初めは冗談で言われていた作り話が、徐々に尾ひれがついて大きくなったもので、事実ではないと思われる{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=68}}。 * 副大統領候補のバッジを買い占め、後にプレミアム商品として高く売りつけた。 * ワシントン大学に潜入して不正なプログラムを動かし、ネットワークを止めた。 * CCCの会計ファイルを改竄し、自身への請求額を減らした。 * 大学生の時にデモに失敗し、近くにいた母親に加勢を求めて、「ママ、この人たちに昨日は確かに動いたって言ってあげてよ」と叫んだ。 1973年に[[ハーバード大学]]に入学した<ref>{{Cite web|和書|url=http://ftrcrblog.g2.xrea.com/Gates/86.html|title=ビル・ゲイツ初期の経歴を再検証 --- Part.35|accessdate=2017-11-16}}</ref>{{信頼性要検証|date=2020-08}}。ハーバード大学では、応用数学を専攻したが、成績は必ずしも良くなかった{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=80}}。1974年に2年生になると、ポーカーゲームに熱中することが多くなった{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=85}}。このころ同じ寮に住んでいた学生に、後にゲイツの後任としてマイクロソフトのCEOになる[[スティーブ・バルマー]]がいた{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=86}}。 === BASICの移植 === [[画像:Bill_Gates_mugshot.png|right|270px|thumb|[[ニューメキシコ州]][[アルバカーキ]]で交通違反を犯したときの[[マグショット]](1977年12月13日)]] {{main|Altair BASIC}} 1974年12月にゲイツはアレンから、[[ポピュラーエレクトロニクス]]誌に[[Altair 8800|アルテア8800]]の記事が載っているのを教えられた。これを読んだゲイツとアレンはアルテア8800用にBASICインタプリタを作成することを考えた。 ゲイツは、アレンの名前を騙って、アルテア8800を販売していたハードメーカーの[[Micro Instrumentation and Telemetry Systems|MITS]]に電話をかけ、実際には未だ何も作成していない[[BASIC]][[インタプリタ]]について「現在開発中であり、間も無く完成する。御社に伺ってお見せしましょうか。」と言って鎌をかけた。電話に応対したMITSの[[エド・ロバーツ]]社長は、「動作するBASICを最初に持ってきたものと契約する。」と答えた。これを受けて、彼らはBASICインタプリタの開発を開始した{{Sfn|アレン|2013|p=20}}。 彼らはアルテア8800の実物を持っていなかった。そこで、アレンはハーバード大学にあったPDP-10上でアルテア8800をエミュレートするプログラムを作成し、これを用いてBASICインタプリタを作成した{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=93}}。 8週間後、ゲイツとアレンの寝食を忘れたプログラミングの結果、BASICインタプリタが完成した{{Sfn|アレン|2013|p=125}}。1975年3月、デモのため、アレンが[[ニューメキシコ州]][[アルバカーキ]]にあるMITSへ向かった。この際、アレンがBASICの[[ブートローダ]]の開発を忘れていたことに気が付き、移動中の飛行機中で完成させた。こうして作られたBASICはMITSでのデモに成功し動作した(この時ゲイツは[[ボストン]]の大学寮でアレンの帰りを待っており、同席はしていない)。ゲイツらが作ったBASICインタプリタは[[Altair BASIC|アルテア・ベーシック]]として販売された。 1975年4月にアレンはMITSの社員となった{{Sfn|アレン|2013|p=138}}。一方のゲイツはハーバード大学の学生のままであり、学期が終わって夏休みになるとアルバカーキにやってきてBASICインタプリタの改良を手伝った{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=141}}。その後、9月になるとゲイツはハーバード大学に帰っていった{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=148}}。以降は1976年の春期・1976年の秋期のいずれもゲイツはハーバード大学におり{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|pp=124, 135}}、大学が休みの間にアルバカーキにやって来るという状態を続けていた。1977年2月に(日本でいえば大学4年生の前期終了時に相当する。)ゲイツはハーバード大学を休学し、以降は大学に戻ることは無かった。この時(1977年2月)ゲイツとアレンの間で、[[パートナーシップ]]に関する合意書が交わされた{{Sfnm|1a1=メインズ|1a2=アンドルーズ|1y=1995|1p=137|2a1=アレン|2y=2013|2p=165}}。 BASICインタプリタ事業が開始された1975年4月をもってマイクロソフト社の創業とされることがあるが、上記のように、実際には1975年4月時点ではマイクロソフトという法人は存在せず、そもそもマイクロソフトという名称自体も存在していない。また、上述のように、BASICインタプリタ事業が始まってからも、ゲイツはその後の約2年間は、実質的にもハーバード大学の学生であり続けている。パートナーシップ形成に関してゲイツとアレンの間で合意書が交わされ、パートナーシップによる経営としてマイクロソフトが正式にスタートするのは、1977年2月である<ref>ただし、この時点でもパートナーシップによる経営であるので、正確にはマイクロソフト「社」ではない。</ref>。 マイクロソフトという名前自体は1975年7月にアレンが考え出した{{Sfn|アレン|2013|p=146}}。アレンによると、その時点ではマイクロソフトという名前は、ゲイツとアレンの活動を表す私的なチーム名に過ぎなかった{{Sfn|アレン|2013|p=146}}。なおチーム名という形にせよ、文書でマイクロソフトの名前が確認できるのは、1975年10月にMITSの社長であったエド・ロバーツが書いた記事が初出である{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=115}}。このころはMicro-softとハイフンを含む名前であった。1976年にホビイストたちの多くが自社のBASICを違法にコピーして使っていたことを非難する『[[ホビイストたちへの公開状]]』を書いた。 === MS-DOSの開発 === [[1980年]]に[[IBM]]は、[[Apple II]]の成功を見て[[パーソナルコンピュータ]]市場への本格参入を図ることにし、[[IBM PC]]の開発に乗り出した。短期に開発することを目指していたため、[[オペレーティングシステム]](OS)については自社開発を諦め、既存のOSを採用・改良することにした。当時多くのパーソナルコンピュータのOSとして普及していたのは、[[ゲイリー・キルドール]]によって創業された[[デジタルリサーチ]]が開発した[[CP/M]]だったが、OS採用をめぐるIBMとデジタルリサーチとの交渉は不調に終わった。 そこで、IBMはマイクロソフトにOSの開発を要請した。その際に当時OSの開発を行っていなかったマイクロソフトは、[[シアトル・コンピュータ・プロダクツ]](SCP)から7万5000ドルで{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=225}}手に入れたCP/M互換OSの[[86-DOS]]を[[IBM PC]]用に改良し、[[PC-DOS]]として納入した。このPC-DOSをさらに[[MS-DOS]]という名前で他のパーソナルコンピュータにもライセンスで供給することにより、現在の基礎を作った。7万5000ドルの価格については破格の条件であり、タダ同然の価格で騙し討ちであったと言われ、後に92万5000ドルを支払っている{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=400}}。 1982年7月6日、社長の座を離れ、マイクロソフト会長に就任{{Sfn |ASCII 1982年9月号 |p=57}}。 === Windowsの開発 === MS-DOSの普及に尽力する一方、[[GUI]]を導入する必要性も理解していた。1982年の秋にコムデックスで、ビジコープ社のVisiOnが「MS-DOS上でGUIを実現するデモ」を見て焦りを感じたゲイツは{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=277}}、インタフェース・マネジャーという名称で、同様の機能を持つソフトウェアを発売する予定であると発表した{{Sfn|メインズ|アンドルーズ|1995|p=280}}。しかし、実際には何も開発しておらず、その後の開発も難航し、製品発売予定は守られずに何度も延期された。 実現の見通しが無いままで製品発売のアナウンスを行ったことは、同時期にGUIを実現するパソコンを実際に開発中であった[[Apple]]を無用に刺激することになった。Macintosh開発舞台裏を追った『レボリューション・イン・ザ・バレー』によると、Windowsの発表を知ったジョブズは激怒し、ゲイツをAppleへ呼びつけた。現れたゲイツは落ち着き払った態度で臨み、「僕たちには[[パロアルト研究所|Parc]]というお金持ちのお隣さんがいて、僕が盗みに入ろうと思ったら先に君が盗み出していたようなものじゃないかな」と言い放ったという{{Sfn|Hertzfeld|2005}}。 結局、紆余曲折を経た上で[[Microsoft Windows]]に改称され、最初の製品が発売された時には1985年になっていた。この時期には既にGUIを有する[[Macintosh]]が販売されており、機能的にWindowsはMacintoshに大きく見劣りするものであった。Windowsが現実的に使えるシステムになるのは、1990年のWindows 3.0の時である。 1995年にマイクロソフトの開発したWindows 95に至って、ようやくMacintoshと{{Ruby|比肩|ひけん}}しうるレベルに達した。 === 2000年以降の活躍 === [[ファイル:Steve Jobs and Bill Gates (522695099).jpg|250px|thumb|right|ビル・ゲイツ(右)と[[スティーブ・ジョブズ]](左)]] 2000年1月に[[最高経営責任者|CEO]]職をバルマーに譲る。2006年6月15日には2008年7月にゲイツは第一線から身を退き、[[ビル&メリンダ・ゲイツ財団]]での活動を重視すると発表し、CSA({{en|Chief Software Architect}}、主席ソフトウェア設計者)職を[[レイ・オジー]]に移譲した。そしてその発表通り、[[2008年]][[6月30日]]をもって会長職には留まるものの、フルタイムの仕事からは引退し、[[2014年]][[2月4日]]に会長職から退いて「[[顧問|技術担当アドバイザー]]」となり、後任には[[:en:John W. Thompson|ジョン・トンプソン]]が就任した<ref>{{cite news|title=Microsoftの新CEOはサトヤ・ナデラ氏 ゲイツ会長は退任してCEOのサポート役に|author=佐藤由紀子|newspaper=ITmedia News|publisher=アイティメディア|date=2014-02-05|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1402/05/news041.html|accessdate=2014-02-05}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=マイクロソフト取締役会、サティア ナデラを CEO に任命|publisher=マイクロソフト|date=2014-02-14|url=https://www.microsoft.com/ja-jp/news/Press/2014/Feb14/140205_CorpNews.aspx|accessdate=2014-02-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140214113239/http://www.microsoft.com/ja-jp/news/Press/2014/Feb14/140205_CorpNews.aspx|archivedate=2014-02-14}}</ref>。 2016年に[[大統領自由勲章]]を妻と共に受章した<ref>{{cite news|url=https://nordot.app/171754995940409350?c=39546741839462401|title=米大統領自由勲章にデニーロさん|newspaper=共同通信 47NEWS|date=2016-11-17|accessdate=2016-11-17|deadlinkdate=2020-08-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161117150331/http://this.kiji.is/171754995940409350?c=39546741839462401|archivedate=2016-11-17}}</ref>。2017年5月19日に自身の出身のシアトルとの姉妹都市である[[神戸市]]栄誉市民の称号を獲得し、ビデオメッセージを送った。 2020年3月13日にマイクロソフト取締役を退任した。長年取り組んできた途上国などの教育問題や気候変動対策に充てる時間を増やすことを退任の理由に挙げている。ビル&メリンダ・ゲイツ財団ではトイレの普及活動に力を入れており、水を使わないトイレや大便と小便を別々に回収できるトイレといった先進的なアイデアを募集するコンペティションの開催やケースに入った人糞を持ちながら講演に登場する等奇抜な活動を展開している。自身も「まさかこの年になってトイレに詳しくなるとは思わなかった。」と講演で語っている。役員を退任後も、マイクロソフトの[[サティア・ナデラ]]CEOなどへの技術担当のアドバイザーを続ける<ref>{{Cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200314/k10012331131000.html|title=ビル・ゲイツ氏 マイクロソフト取締役を退任|accessdate=2020年3月14日|newspaper=NHK WEB NEWS |deadlinkdate=2020-08-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200314205937/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200314/k10012331131000.html |archivedate=2020-03-14}}</ref>。 2020年4月に[[旭日大綬章]]を受章した<ref>{{Cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200429/k10012410051000.html |title=春の叙勲 4181人が受章 外国人叙勲ではビル・ゲイツさんも |newspaper=NHKニュース |date=2020年4月29日 |accessdate=2020-04-28 |deadlinkdate=2020-08-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200429200024/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200429/k10012410051000.html |archivedate=2020-04-29}}</ref>が、新型コロナウイルスの影響などで受け取ったのは2022年8月18日となった<ref>{{Cite web|和書|title=ビル・ゲイツ氏に2年越しの旭日大綬章 林外相が手渡し|url=https://www.asahi.com/articles/ASQ8L5RHSQ8LUTFK00L.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2022-08-20|language=ja}}</ref>。日本国政府は世界的な技術革新とグローバルヘルスの進歩に対する貢献を功績として挙げた<ref>{{Cite web|和書|title=ビル・ゲイツ氏令和2年春の叙勲受章|url=https://www.seattle.us.emb-japan.go.jp/itpr_ja/00_000673.html|website=Ministry of Foreign Affairs of Japan|accessdate=2021-02-11|language=ja}}</ref>。 == 世界長者番付 == アメリカの雑誌である[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]の[[世界長者番付]]で、1994年から2006年まで13年連続の世界一となった。2006年の個人資産は推定530億ドル(日本円で約6兆2000億円)で、2007年、ビル・ゲイツの資産は、さらに50億ドル膨らんで資産総額580億ドルとなったが、推定資産620億ドルの著名投資家の[[ウォーレン・バフェット]]、推定資産600億ドルの中南米の携帯電話会社América Móvilなどを所有する[[メキシコ]]の「通信王」[[カルロス・スリム]]の後塵を拝し、ゲイツは3位に転落した。 2008年に推定資産400億ドルと世界的な[[金融危機]]で各々の総資産が減少する中、ゲイツの資産総額も前年度より180億ドル減少したが、結果的に再び第1位に返り咲いた。2014年の推定資産810億ドルで、世界1位である。長らくマイクロソフトの個人筆頭株主でありかつては資産の大半を同社株が占めていたが、定期的に売却を続けた影響で2014年には保有株数でスティーブ・バルマーに抜かれることとなった。現在の同氏の資産は個人投資会社であるカスケード・インベストメント社の投資成果によるものであり、マイクロソフト株も同社を通じて保有している。同社の投資資産としては[[フォーシーズンズホテル]]、[[リパブリック・サービシズ]]、[[エコラボ]]、[[カナディアン・ナショナル鉄道]]、[[バークシャー・ハサウェイ]]などがある。[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]の世界長者番付2017で推定資産860億ドルで1年間で資産を90億ドル以上増やし、4年連続の首位に立った。過去23年間では18回首位に輝いている<ref>{{Cite news|url=https://oneboxworld.com/articles/2017-billionaires-2017-3 |title=地球上で最も豊かな10人 世界長者番付2017 |date=2017年3月21日 |newspaper=[[Onebox News]] |accessdate=2017-03-21 |deadlinkdate=2020-08-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170322020124/https://oneboxworld.com/articles/2017-billionaires-2017-3 |archivedate=2017-03-22}}</ref>。  なお、2021年現在の純資産は1374億ドルで日本円にして約15兆5800円であったが、離婚により、1268億ドルまで減少している。 == 家族 == [[ファイル:Bill og Melinda Gates 2009-06-03 (bilde 01).JPG|thumb|right|一緒にいるのは元妻の[[メリンダ・ゲイツ]](2009年)]] [[テキサス州]][[ダラス]]出身の[[メリンダ・ゲイツ|メリンダ・アン・フレンチ]](旧姓)と1994年1月1日に結婚した。子供は3人いる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.microsoft.com/ja-jp/news/exec/billg/default.aspx|title=ビル ゲイツ 創業者 テクノロジアドバイザー|accessdate=February 10, 2014|publisher=microsoft.com |deadlinkdate=2020-08-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140323030533/https://www.microsoft.com/ja-jp/news/exec/billg/default.aspx |archivedate=2014-03-23}}</ref>。シアトル郊外のキング郡マダイナに在住している。 2021年5月3日にゲイツ夫妻は離婚を発表した<ref name="27年">{{cite news |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3345125?act=all |publisher=afp |title=ゲイツ夫妻が離婚発表、27年の結婚生活に幕 |accessdate=2021-5-4}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210504-OYT1T50062/ |title=ビル・ゲイツ氏が離婚発表…世界4位の大富豪、資産13兆円超 |publisher=読売新聞オンライン |date=2021-05-04 |accessdate=2021-05-04}}</ref>。夫妻は[[ツイッター]]で「熟慮と多大な関係改善努力の末、結婚生活を終わらせることを決めた」と共同声明を出した{{r|27年}}。 == ジェフリー・エプスタインとの関係 == 元妻のメリンダ・ゲイツは、ビル・ゲイツが[[性犯罪]]者[[ジェフリー・エプスタイン]]と交際していたことが許せず、それが彼女に別れを決意させたという<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=メリンダ・ゲイツが告白 元夫ビル・ゲイツが性犯罪者J・エプスタインと会うのが「嫌だった」 |url=https://www.elle.com/jp/culture/celebgossip/a39317565/melinda-french-gates-talks-about-jeffery-epstein-220304/ |website=ELLE |date=2022-03-04 |access-date=2023-04-17 |language=ja-JP |first=Yoko |last=Nagasaka}}</ref><ref name=":1">{{Cite web |title=Melinda Gates Says Bill Gates's Work with “Abhorrent” Jeffrey Epstein Led to Divorce |url=https://www.vanityfair.com/style/2022/03/melinda-gates-jeffrey-epstein-led-to-bill-gates-divorce-gayle-king-interview |website=Vanity Fair |date=2022-03-03 |access-date=2023-04-17 |language=en-US |first=Condé |last=Nast}}</ref><ref name=":3">{{Cite web |title=Bill Gates says he shouldn't have had dinners with Jeffrey Epstein {{!}} CNN Business |url=https://www.cnn.com/2023/01/30/business/bill-gates-jeffrey-epstein-dinner-regrets/index.html |website=CNN |date=2023-01-30 |access-date=2023-04-17 |language=en |first=Ramishah |last=Maruf}}</ref>。2021年8月、ビル・ゲイツは[[CNN]]のインタビューで「彼と時間を過ごし、彼の存在を信用したことは大きな間違いだった」と関係を認めた<ref name=":0" /><ref>{{Cite web |title=Bill Gates Reflects on Divorce From Wife Melinda and "Mistake" of Meeting With Jeffrey Epstein |url=https://www.eonline.com/news/1296585/bill-gates-reflects-on-divorce-from-wife-melinda-and-mistake-of-meeting-with-jeffrey-epstein |website=E! Online |date=2021-08-05 |access-date=2023-04-17}}</ref>。エプスタインからビルとメリンダの慈善活動に資金を提供すると持ちかけられたことから、一緒に数回ディナーをとったと話したが、このときすでにエプスタインは未成年の女性に対する性的行為で有罪になっていた<ref name=":0" /><ref name=":1" />。「私はビルがジェフリー・エプスタインと会っていたのが嫌だった。私はビルにそれをはっきり伝えた」と告白し、メリンダが反対したにもかかわらず、ビルがエプスタインとの交際を続けたと示唆した<ref name=":0" /><ref name=":1" />。さらにメリンダ自身もエプスタインに1度だけ会ったとしており、「彼がどんな人なのか見てみたかった。でも玄関に入った瞬間に後悔した。彼は忌まわしい人だった。悪の権化だった。後日、悪夢に見るほどだった」と語り、エプスタインの[[性的虐待]]の標的になった女性たちのことを思うと「心が痛む」とも話した<ref name=":0" /><ref name=":1" />。 2023年1月30日、オーストラリアの[[ABCニュース (オーストラリア)|ABCニュース]]でビルは「彼と一緒に時間を過ごし、そこにいるという信頼を彼に与えたのは大きな間違いでした。」と述べた<ref name=":3" />。 == エピソード == ; 研究家 :* [[ナポレオン・ボナパルト]]、[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]、[[曹操]]、[[織田信長]]の研究家でもある<ref>{{cite news|title=Gates, a modern-day Napoleon?|author=David Schepp|newspaper=BBC News|publisher=BBC|date=2001-01-31|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/1144829.stm|accessdate=2016-11-05|language=en}}</ref>。 :* [[アーマンド・ハマー]]が所有していた「[[レスター手稿]]」([[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の手稿)72枚をオークションで30億円で購入した。2018年現在、唯一個人の所有者である。手稿は世界の美術館を巡回して展示されており、一般市民でも「レスター手稿」を閲覧する事が可能になった。2005年には日本で行われた「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」で展示された。 :* 世界初の印刷[[聖書]]である[[グーテンベルク聖書]]を個人で所有している。自著『ビル・ゲイツ未来を語る』などでは、[[Web会議]]・[[オペレーティングシステム]]・[[インターネット]]・[[携帯電話]]・[[テレビ電話]]・[[セットトップボックス]]・[[スマートフォン]]・[[カーナビゲーション]]・[[スマートスピーカー]]・[[タブレット (コンピュータ)]]・[[ウェアラブルコンピュータ]]・[[ファクシミリ]]・[[マウス (コンピュータ)]]・[[スキャナ]]、[[無人機]]、[[人工衛星]]、[[国際宇宙ステーション]]、[[太陽光発電]]、[[燃料電池]]、[[テレワーク]]、[[低公害車]]、[[電気自動車]]、[[オール電化住宅]]、[[現金自動預け払い機]]、[[監視カメラ]]、[[顔認証システム]]、[[メタバース]]、[[ロボット]]、[[人工知能]]の普及による社会的な影響力の大きさを[[グーテンベルク]]の[[活版印刷]]になぞらえるなど、グーテンベルクの研究にも熱心である。 ; 倹約家 :* 資産家であると同時に倹約家としても知られている。仕事のため世界中を飛び回っているが、一般旅客機に乗る時には極力[[エコノミークラス]]に座るようにしている。来日した際に日本法人のスタッフから[[ファーストクラス]]の[[航空券]]を渡されると「日本のマイクロソフトはこんな無駄遣いをする会社なのか。何だこのファーストクラスの搭乗券ってのは!1時間ちょっとのフライトに、何故そんな無駄に会社の金を使うんだ!!」と激怒したという<ref>なおこのチケットは空席があったため、ファーストクラスに自動的にアップグレードされたものであった。</ref>。マスコミのインタビューで、エコノミークラスを好む理由を質問された際には「会社の金でも個人の金でも、無駄なことに金を使うことは理解できない。ファーストクラスの料金に(エコノミークラスの)何倍もお金を払ってみたところで、到着する時間は同じなのだから」と答えた<ref name="hurukawa">{{Cite web|和書|url=https://public-api.wordpress.com/wls/redirect.php?alias=furukawablog&entryid=cns!156823E649BD3714!1554|title=私の知っているビルゲイツ、その6|accessdate=2016-11-05|author=[[古川享]]|date=2006-09-25|publisher=古川 享 ブログ|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061105070606/http://furukawablog.spaces.live.com/blog/cns!156823E649BD3714!1554.entry|archivedate=2006年11月5日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 :* 自家用ジェット機も所有しているが、使用する際には燃料代・整備費は会社側に一切請求せず、かかった経費は全て自前で支払っている<ref name="hurukawa" />。 :* [[ホテル]]に泊まる際も、部下がどこのホテルでどのような部屋を用意しても「こんな大きな部屋はもったいない。寝る場所があり、[[インターネット]]にアクセスできればそれで良いのだから」と、たしなめる事が多かった<ref name="hurukawa" />。 :* 小食として知られ、妻によると朝飯は摂らない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.businessinsider.jp/post-102448|title=皿洗いでリラックス、世界一の大富豪ビル・ゲイツの多忙な毎日|publisher=Business Insider Japan|date=2017-08-24||accessdate=2021-01-03}}</ref>。食事は[[ファーストフード]]が好物で、食生活は[[マクドナルド]]が中心だという<ref>{{cite news|title=ゲイツ氏「食生活はマクドナルド中心」「今後も助言」 MS樋口社長が語る|author=[[岡田有花]]|newspaper=ITmedia News|publisher=アイティメディア|date=2008-07-01|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0807/01/news083.html|accessdate=2016-11-05}}</ref>。 :* 約50ドルのカシオ製ダイバーズウォッチ(Casio duro)を着用しているところを、何度も目撃されており、その腕時計自体もビル・ゲイツのお気に入りとして有名になった。 ; その他 :* 最初に深層学習が普及し始めた頃に[[人工知能]]の実存的リスクに言及していた。現在では[[汎用人工知能]]のような将来のリスクよりも「長期的なリスクについて考えることで、より差し迫ったリスクをないがしろにしてはなりません」と考えていると言われる。人工知能は選挙や教育、雇用などにおいて脅威になっていると指摘する。ゲイツはそのような脅威は重大ではあるが、このような脅威に対処できるとも考えているとも言われる<ref>https://www.technologyreview.jp/s/313312/bill-gates-isnt-too-scared-about-ai/</ref>。 :* 判明しているだけでもアメリカ国内に10の自宅と別荘があり<ref>”[https://www.housebeautiful.com/design-inspiration/real-estate/a36322866/bill-melinda-gates-properties-homes-houses-mansions/ All of the Properties Bill and Melinda Gates Have Owned Together]” House Beautiful, May 4, 2021</ref>、そのほか世界中にいくつもの別荘を所有していると考えられている。最も知られているのは[[シアトル]]郊外[[:en:Lake Washington|ワシントン湖]]畔にある自宅「[[:en:Bill Gates’s house|ザナドゥ 2.0]]」で、延床面積約6,000平方メートル、敷地面積約140平方km、見積価格推定1億2550万ドル(約130億円、2012年時点)の大豪邸である<ref>“[https://www.elle.com/jp/decor/decor-architecture/g30619259/most-expensive-house-in-the-world-19-0710-r/ 桁違いのリッチさ! 世界で最も高額な物件べスト12]”ELLE(2019/07/10)</ref>。日本では[[京都市|京都]]と[[軽井沢町|軽井沢]]に別荘があると噂された。京都は約3500平方メートルの和風建築の豪邸で、土地の登記簿にはゲイツの名前があり、ゲイツが[[西和彦]]の会社に貸し付け西が所有していたが、2017年に西によって23億円で売りに出されたと報じられ、噂が事実であったことが判明した<ref>“[http://wgen.kodansha.ne.jp/archives/46850/ 価格は23億円 京都で売りに出た「ビルゲイツ別荘」]”週刊現代(2017/12/11)</ref>。軽井沢は延床面積約6000平方メートル、敷地面積約2万平方メートル、建設費約80億円の大規模な個人邸ということは判明しているが、所有者は未だに謎と報じられている(日本マイクロソフト社はこの軽井沢の別荘について「わからない」と回答した)<ref>“[https://president.jp/articles/-/14259?page=1 住民大激怒! 「ビル・ゲイツの軽井沢別荘」噂検証]”PRESIDENT Online(2014/12/29)</ref>。またゲイツは、ほかに広大な農地や一流ホテルなども買収し、その所有権を取得している<ref>”[https://www.businessinsider.com/bill-gates-home-and-real-estate-portfolio-2015-5?amp Bill Gates added a $43 million beachfront home to his sprawling real estate portfolio last year. Here's a closer look at his empire, which also includes a $130 million Washington mansion and horse ranches in Florida.]”INSIDER May4 2021</ref>。 :* [[ハーバード大学]]を中退したにもかかわらず、[[2007年]][[名誉学位|名誉学位号]]が授与された。[[立教大学]]から名誉博士号を授与されたときには、「大学を出ていない私が大学からこのような学位を得られて嬉しい」と語っている。 :* [[ベルギー]]を拠点に活動している「[[パイ投げスナイパー]]」と呼ばれる集団にパイを顔面にぶつけられたことがある(1998年2月)。 :* 地元の[[メジャーリーグベースボール|MLB]]球団[[シアトル・マリナーズ]]のファンである。[[T-モバイル・パーク]]の年間指定席を購入しており、時折観戦に訪れる。 :* [[中華人民共和国]]の歴代[[中華人民共和国の最高指導者一覧|指導者]]陣と強い繋がりを持ち<ref>{{Cite news|date=31 July 2015|title=米マイクロソフト、中国事業展望厳しく|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO75025720R30C14A7000000/|newspaper=日本経済新聞|accessdate=25 Sep 2015}}{{要購読}}</ref><ref>{{Cite news|date=26 Sep 2007|title=中国人たちの英雄、ビル・ゲイツ会長(2)|url=https://wired.jp/2007/09/26/中国人たちの英雄、ビル・ゲイツ会長2/|newspaper=WIRED.jp|accessdate=25 Sep 2015}}</ref>、[[中国共産党中央委員会総書記|中国共産党総書記]][[習近平]]とは2度会見している<ref>{{Cite news|date=22 Sep 2015|title=Xi Jinping in Seattle to meet with CEOs of Apple, Microsoft and other tech giants|url=https://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/northamerica/usa/11883919/Xi-Jinping-in-Seattle-to-meet-with-CEOs-of-Apple-Microsoft-and-other-tech-giants.html|newspaper=The Telegraph|accessdate=25 Sep 2015|deadlinkdate=2020-08-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151110050153/http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/northamerica/usa/11883919/Xi-Jinping-in-Seattle-to-meet-with-CEOs-of-Apple-Microsoft-and-other-tech-giants.html|archivedate=2015-11-10}}</ref><ref>{{Cite news|date=19 Sep 2015|title=習近平訪米、オバマ大統領より“世界一の富豪”ビル・ゲイツを優先―香港紙|url=https://www.recordchina.co.jp/a119265.html|newspaper=Record China|accessdate=25 Sep 2015}}</ref>。[[中国共産党]]機関紙の[[人民日報]]にもしばしば寄稿し<ref>{{Cite news|date=28 April 2014|title=中国富裕層はより積極的に貧困投資を、ゲイツ氏が人民日報に寄稿|url=https://jp.reuters.com/article/2014/04/28/billgates-idJPKBN0DE0G120140428|newspaper=ロイター|accessdate=25 Sep 2015}}</ref>、中国政府の金融政策や検閲政策に肯定的な姿勢を見せており<ref>{{Cite news|date=7 May 2015|title=Bill Gates: "Me encanta el dólar, pero prefiero el yuan"|url=https://www.iprofesional.com/notas/211315-Bill-Gates-Me-encanta-el-dlar-pero-prefiero-el-yuan|newspaper=iProfesional|accessdate=2015-09-25}}</ref><ref>{{Cite news|date=9 May 2015|title=ビル・ゲイツ氏、「アメリカは中国に追い抜かれた」|url=http://japanese.irib.ir/news/latest-news/item/54552|newspaper=イランラジオ|accessdate=25 Sep 2015|deadlinkdate=2020-08-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180715181250/http://japanese.irib.ir/news/latest-news/item/54552|archivedate=2018-07-15}}</ref><ref>{{Cite news|date=2010-01-27|title=ビル・ゲイツ氏、グーグル対中姿勢の批判に中国「よく言った」|url=http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0127&f=it_0127_004.shtml|newspaper=サーチナ|accessdate=2015-09-25|deadlinkdate=2020-08-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150925111353/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0127&f=it_0127_004.shtml|archivedate=2015-09-25}}</ref>、[[中国工程院]]の外国人会員にも選ばれている<ref>{{Cite news|date=2017-11-27|title=中国工学会員にビル・ゲイツ氏 科学技術の発展に協力|url=https://www.sankei.com/article/20171127-SYMKY4BCQNM2DHHEGKVJ37D7JA/|newspaper=[[産経デジタル|産経ニュース]]|accessdate=2018-01-05}}</ref>。 :* 同じシアトルに本社を置く関係から、[[任天堂]]の米国法人(Nintendo of America、NOA)の首脳陣と交友がある。中でもNOA初代社長の[[荒川實]]とは[[ゴルフ]]友達で、かつては同じ町に住んでいたこともある{{Sfn|相田|1997|p=202}}。 :* 競合他社でもある、[[Apple]]創業者の[[スティーブ・ジョブズ]]とは、1980年代からの友人かつライバル同士でありつつ、お互いに尊敬し合っており、テレビでの公開対談もしていた<ref>{{Cite web|和書|title=B・ゲイツ氏、S・ジョブズ氏との友情を回想|url=https://japan.cnet.com/article/35013462/|website=CNET Japan|date=2012-01-26|accessdate=2021-07-12|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ついに! ゲイツ氏とジョブズ氏が夢のステージへ--D5会場レポート|url=https://japan.cnet.com/article/20349898/|website=CNET Japan|date=2007-05-31|accessdate=2021-07-12|language=ja}}</ref>。 :* 普段は[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]のスマートフォンを使っている、また、初期から[[Clubhouse (アプリケーション)|Clubhouse]]も利用してるため[[iPhone]]も持っている<ref>{{Cite news|title=ビル・ゲイツ、Androidスマホを手にする。iPhoneは依然使わず|newspaper=[[ギズモード]]|date=2017-09-28|url=https://www.gizmodo.jp/2017/09/bill-gates-android.html|accessdate=2018-01-23}}</ref><ref>{{Cite web|title=In Clubhouse chat, Bill Gates talks bitcoin, iPhone, the pandemic and what he’s binging on Netflix|url=https://www.geekwire.com/2021/clubhouse-chat-bill-gates-talks-bitcoin-iphone-pandemic-hes-binging-netflix/|website=GeekWire|date=2021-02-25|accessdate=2021-07-12|language=en-US}}</ref>。 :* 2017年11月13日に自身のブログで[[アルツハイマー病]]の治療法開発を支援するために、[[認知症]]研究基金『Dementia Discovery Fund<ref group="注釈">政府や慈善団体や製薬会社から資金援助を受けてアルツハイマー病の治療法開発に取り組んでいる、[[ロンドン]]に拠点を置く民間基金。</ref>』に5000万ドル(約57億円)を提供することを明らかにした。なお、資金提供は個人的なもので、ビル&メリンダ・ゲイツ財団を通じたものではないと説明している。ゲイツは、「アルツハイマー病の治療が実現するには10年以上かかる可能性があり、恐らく最初は費用も極めて高額になるだろう」との見通しを示しており、治療法が確立したあかつきには、貧困国の患者にも治療を提供できるように、ビル&メリンダ・ゲイツ財団で取り組みを進める可能性についても言及している<ref>{{Cite news|title=ビル・ゲイツ氏がアルツハイマー病の治療法開発に57億円|newspaper=[[ITmedia]]|date=2017-11-14|url=https://www.itmedia.co.jp/news/spv/1711/14/news079.html|accessdate=2018-01-25|deadlinkdate=2020-08-22}}{{Dl|date=2020-08-22}}</ref>。 :* 2008年、ゲイツは1000万ドルを[[NSFヴェラ・C・ルービン天文台]]へ主鏡と2枚の副鏡の製作費として[[チャールズ・シモニー|チャールズ・シモニ−]]とともに寄付している<ref>{{Cite web|title=Next-gen telescope project honors astronomer Vera Rubin and billionaire backer Charles Simonyi|url=https://www.geekwire.com/2020/next-gen-telescope-project-honors-astronomer-vera-rubin-billionaire-backer-charles-simonyi/|website=GeekWire|date=2020-01-14|accessdate=2021-10-05|language=en-US}}</ref>。 :* 2022年、「人生で読んだ最高の本5冊」をピックアップ、世界100箇所の図書館に置いたことを公表。日本では唯一、[[京都府立植物園]]の屋外図書館からメッセージ入りの書籍5冊が見出された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mbs.jp/news/kansainews/20230519/GE00049961.shtml |title=世界100か所に設置…ビル・ゲイツ氏「お気に入りの5冊」日本では京都の屋外図書館に |publisher=MBS |date=2023-05-19 |accessdate=2023-05-20}}</ref>。 :* 桁外れの記憶力をもっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/174435|title=ビル・ゲイツが破天荒な質問をした深いワケ|publisher=東洋経済オンライン|date=2017-06-11|accessdate=2022-04-03}}</ref>。 == ビル&メリンダ・ゲイツ財団 == {{main|ビル&メリンダ・ゲイツ財団}} [[ファイル:Millennium Development Goals - World Economic Forum Annual Meeting Davos 2008.jpg|250px|thumb|right|2008年、[[世界経済フォーラム]]でのビルゲイツ(右から[[U2]]の[[ボノ]]、ビル・ゲイツ、ヨルダンの[[ラーニア (ヨルダン王妃)|ラーニア]]王妃、イギリスの[[ゴードン・ブラウン]]首相、ナイジェリアの[[ウマル・ヤラドゥア]]大統領、[[潘基文]]〈パン・ギムン〉[[国際連合事務総長|国連事務総長]])]] ビル・ゲイツが彼の妻メリンダ・ゲイツ、父親のビル・ゲイツ・シニアとともに作った慈善団体。[[2005年]]には国際団体「[[GAVIアライアンス|ワクチンと予防接種のための世界同盟]]」に、民間としては最大規模の7億5000万ドルの寄付を発表した。 財産管理は主にメリンダが行っており、寄付をする際の検査は厳格に調査していると公表している。なお2006年6月15日の記者会見にて、2008年7月にマイクロソフトの経営とソフト開発の第一線から退き、「ビル&メリンダ・ゲイツ財団 (B&MGF)」の活動に専念すると発表した。 2006年12月1日には、夫妻の死後50年以内に財団の資産を使い切って活動を終えると発表した。同基金は「我々が取り組んでいる問題を今世紀中にめざましく進展させるため」と、存続期間を限定した理由を説明している。同基金は途上国の[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]・[[マラリア]]・[[結核]]の根絶や[[教育]]・[[貧困]]・[[保健]]・[[介護]]・[[識字]]・[[子育て]]・[[疲労]]・[[無戸籍者]]・[[認知症]]・[[ワクチン]]・[[自殺]]・[[人間ドック]]・[[引きこもり]]・[[孤独死]]・[[社会的入院]]・[[グループホーム]]・[[共同作業所]]の水準の改善などに尽力しており、今後は更に寄付を拡大する方針も明らかにもしている。 == 著作 == * 『世界は考える ぼくたちの未来をつくるコンセプト集』ジョージ・ソロス、黒田東彦 ほかとの共著、野中邦子 訳、土曜社、2013年3月5日。ISBN 978-4-9905587-7-2。 * 『世界論 世界20名の要人に聞く、今年の論点』安倍晋三、朴槿恵 ほかとの共著、プロジェクトシンジケート叢書編集部 訳、土曜社、2014年1月17日。ISBN 978-4-907511-05-0。 * {{cite book |title=THE ROAD AHEAD |first1=Bill |last1=Gates |first2=Nathan |last2=Myhrvold |first3=Peter |last3=Rinearson |authorlink=Bill Gates |year=1995 |isbn=0-670-77289-5 |publisher=VIKING(A Division of Penguin U.S.A) |url=https://www.geekwire.com/2020/bill-gates-looks-back-road-ahead-25-years-hit-miss-tech-predictions/ |accessdate= |url-status=|archiveurl= |archivedate= |df= }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author1=相田洋|authorlink1=相田洋|date=1997-01|title=[[新・電子立国]]|volume=第4巻 (ビデオゲーム・巨富の攻防)|series=[[NHKスペシャル]]|publisher=[[日本放送出版協会]]|isbn=978-4-14-080274-8|ref={{Harvid|相田|1997}}}} * {{Cite book|和書|author=スティーヴン・メインズ |author2=ポール・アンドルーズ |translator=鈴木主税 |year=1995 |title=帝王の誕生 |publisher=三田出版会 |ref={{Sfnref|メインズ|アンドルーズ|1995}}}} * {{Cite book|和書|author=デーヴィッド・マーシャル|authorlink=デーヴィッド・マーシャル|translator=[[常盤新平]]|date=1997-04|title=世界を変えた6人の企業家|volume=第1巻 (マイクロソフト ビル・ゲイツ)|publisher=[[岩崎書店]]|isbn=978-4-265-05021-5|ref={{Harvid|マーシャル|常盤|1997}}}} - 原タイトル:''Bill Gates and Microsoft''. * {{Cite book|和書|author=ポール・アレン |authorlink=ポール・アレン |year=2013 |title=ぼくとビル・ゲイツとマイクロソフト アイデア・マンの軌跡と夢 |publisher=講談社 |ref={{Sfnref|アレン|2013}}}} * {{Cite book|和書|author=Andy Hertzfeld|translator=[[柴田文彦]]|date=2005-09|title=レボリューション・イン・ザ・バレー 開発者が語るMacintosh誕生の舞台裏|publisher=[[オライリー・ジャパン]] (出版) [[オーム社]] (発売)|isbn=978-4-87311-245-9|ref={{Harvid|Hertzfeld|2005}}}} - 原タイトル:''Revolution in the Valley''. * {{Cite book|和書|author=Daniel Ichbiah|coauthors=Susan L. Knepper|translator=[[椋田直子]] |date=1992-07|title=マイクロソフト ソフトウェア帝国誕生の奇跡|series=ASCII books|publisher=アスキー|isbn=978-4-7561-0118-1|ref={{Harvid|Ichbiah|Knepper|1992}}}} - 原タイトル:''The making of Microsoft''. * {{Cite book|和書 | author= スーザン・ラマース 著、岡 和夫 訳 | title= 実録!天才プログラマー | year=1987 | date=1987-7-11 | publisher=[[アスキー (企業)|株式会社アスキー]]|isbn = 4-87148-363-0|ref={{Sfnref|スーザン|1987}}}} * {{Cite journal|和書 |author= |title=ASCII 1982年9月号 |volume=6 |issue=9 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1982-9-1 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1982年9月号}} }} == 関連項目 ==<!--項目の50音順--> {{Div col}} * [[インターネット協会]] * [[ギビング・プレッジ]] * [[ハーバード大学の人物一覧]] * [[パロアルト研究所]] * [[ビルゲイツハナアブ]] * [[予約デバイス]] * [[ホビイストたちへの公開状]] {{Div col end}} == 外部リンク == {{Commons|Bill Gates}} {{wikinews|ビル・ゲイツ最多得票 - 過去25年でIT業界に最も影響力を持った人物|ビル・ゲイツ氏、2008年7月にマイクロソフトから退く}} * [https://www.gatesnotes.com/ Gates Notes] * [https://www.gatesfoundation.org/about/leadership/bill-gates Bill Gates - The Bill & Melinda Gates Foundation] * {{TED speaker}} * {{Twitter|BillGates|Bill Gates}} {{en icon}} {{先代次代|[[世界長者番付]]1位|1995年 - 1996年|[[堤義明]]|[[ハサナル・ボルキア]]}} {{先代次代|[[世界長者番付]]1位|1998年 - 2007年|[[ハサナル・ボルキア]]|[[ウォーレン・バフェット]]}} {{先代次代|[[世界長者番付]]1位|2009年|[[ウォーレン・バフェット]]|[[カルロス・スリム]]}} {{先代次代|[[世界長者番付]]1位|2014年 - 2017年|[[カルロス・スリム]]|[[ジェフ・ベゾス]]}} {{マイクロソフト}} {{世界の億万長者}} {{パーソン・オブ・ザ・イヤー|state=expanded|state4=expanded}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けいつ ひる}} [[Category:ビル・ゲイツ|*]] [[Category:アメリカ合衆国の慈善家]] [[Category:アメリカ合衆国の実業家]] [[Category:アメリカ国家技術賞受賞者]] [[Category:ベンジャミン・フランクリン・メダル (フランクリン協会) 受賞者]] [[Category:大英帝国勲章受章者]] [[Category:旭日大綬章受章者]] [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]] [[Category:全米技術アカデミー会員]] [[Category:タイム誌が選ぶパーソン・オブ・ザ・イヤー]] [[Category:ゲイツ家|ひる]] [[Category:マイクロソフトの人物]] [[Category:イングランド系アメリカ人]] [[Category:スコットランド系アメリカ人]] [[Category:ドイツ系アメリカ人]] [[Category:シアトル出身の人物]] [[Category:1955年生]] [[Category:存命人物]]
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市ケ谷駅
市ケ谷駅(いちがやえき)は、東京都千代田区・新宿区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。 JR東日本と東京メトロの駅は「市ケ谷」、都営地下鉄の駅は「市ヶ谷」と表記する。 所在地は、JR東日本が千代田区五番町、東京メトロが新宿区市谷田町一丁目、都営地下鉄が千代田区九段南四丁目である。 JR東日本、東京メトロおよび都営地下鉄の計3社が乗り入れ、接続駅となっている。南北線を挟んだ接続以外は容易に乗り換えられる。南北線とJR中央・総武線との乗り換えは、隣の飯田橋もしくは四ツ谷の方が便利。南北線と有楽町線の乗り換えは隣の飯田橋の方が便利である。 JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は中央本線であるが、当駅には緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみが停車する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属しており、各路線ごとに駅番号が付与されている。 地下鉄は、有楽町線と南北線、新宿線の3路線が乗り入れており、各路線ごとに駅番号が付与されている。 東京メトロの駅に乗り入れている路線では、有楽町線の列車は池袋駅方面の電車において東武東上線および西武池袋線と、南北線の列車は東急目黒線と埼玉高速鉄道線(埼玉スタジアム線)との3社直通運転をそれぞれ実施している。 都営地下鉄新宿線では、多くの列車が新宿駅を経由して京王線への相互直通運転を実施している。 当駅は3社局が乗り入れる駅であり、日本でも当駅だけの3社局全相互間の連絡改札口がある。東京メトロ⇔JR東日本間の連絡改札口はJR東日本の管理、都営地下鉄⇔東京メトロ・JR東日本間の連絡改札口は都営地下鉄の管理である。いずれも乗り継ぎ自動精算機が設置されている。 連絡改札自動化の実験として、2枚連続投入式(重ねて同時に投入するのではなく1枚ずつ続けて投入)の改札機の実用試験がJR東日本によって行われ、そのまま本採用となった(のちに更新されている)。また、東京都交通局 - 東京メトロ間の連絡改札口に自動乗り継ぎ精算機が設置されたのは当駅が最初である(1993年5月9日に設置)。 2013年3月16日より、都営地下鉄⇔東京メトロ間の連絡改札口を経由して相手方の駅構内を通過できる、駅構内通過サービスが導入された。 島式ホーム1面2線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。出口は新宿寄りに1か所ある。他に地下鉄各線への乗り換え口がある。 千代田区最西端の駅である。 当駅は運賃計算において東京山手線内の駅であるが、山手線電車の停車駅である神田駅(キロ程4.5 km)・秋葉原駅(4.1 km)・代々木駅(3.8 km)のほぼ中間に所在する。 ホームは外濠の真横にあり、外濠には釣り堀もある。とくに桜が満開となる時期の景観は美しい。 直営駅である。管理駅でもあるが、当駅は自駅のみの単駅管理となっている。 2010年に安全対策として床を防滑素材に張り替える際、近辺にある日本棋院の提案を受け、長生を題材としたモザイクアートを設置した。 (出典:JR東日本:駅構内図) 有楽町線、南北線それぞれに島式ホーム1面2線を有する地下駅で、有楽町線のホームには可動式ホーム柵が、南北線のホームにはフルスクリーンタイプのホームドアが設置されている。構内に南北線 - 有楽町線間の連絡線が存在し、南北線および乗り入れ先の埼玉高速鉄道の車両が、検査で綾瀬工場などへ回送される際に使用される。なお、当該連絡線設置に伴い2番線の停止位置目標は麹町側に移動した。有楽町線と南北線の間は号車によって差が出る上に、エレベーターが完全に整備されていないこともあり、極力隣の飯田橋での乗り換えの方がよい。(飯田橋だと号車による距離に差が出ない上に、エレベーターが整備されている) 有楽町線の池袋方向に留置線(旧・二代目飯田橋検車区)があり、2008年6月14日のダイヤ改正以前に設定されていた当駅始発・終着の列車が使用していた。現在は終電後に池袋駅から回送される1編成が夜間留置を行い、翌朝初電の当駅始発和光市行に使用される。 南北線側には有楽町線への連絡線部分に、入出庫用の引き上げ線1線と南北線用の留置線が4線あり、収容力が小さく5編成しか留置できない王子検車区を補完している(市ケ谷留置線)。市ケ谷留置線の線路自体は5線あるが、1線は器材線(保線車両留置用・延長128 m)である。また、四ツ谷駅寄りの本線上に両渡り線があるが、四ツ谷駅 - 溜池山王駅間の延伸開業までは折り返しを当箇所で行なっており、当駅 - 四ツ谷駅間は単線並列運転を行っていた。 南北線の駅構築は市ケ谷留置線との一体構築となっている。南北線開業時には、7番出入口の新設と新宿区提供の保険会館新館・国井記念館敷地内にエレベーター出入口の新設が行われたほか、既設の有楽町線5・6番出入口を南北線との共用に改造した。南北線ホームのエレベーターはホームの四ツ谷側端部に設置されている。6両編成の停車しない位置にあるため、8両化対応工事が実施されるまでは、ホームの未供用部分の一部に最低限の整備を施し通路として暫定供用していた。2021年10月に四ツ谷方階段の増設工事が完了し、同時にホームとしての全面供用も開始された。 有楽町線ホームと南北線ホームを結ぶ連絡通路には、JR中央線と都営新宿線の乗り換え口側に動く歩道が設置されている。 南北線のコンコース中央には江戸城外濠跡の石垣や江戸期古地図、遺跡展示コーナーなどからなる「江戸歴史散歩コーナー」が設置されている。 (出典:東京メトロ:構内図) 全ホームでスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 なお、南北線ホームでは当初、吉村弘作曲の同線全駅共通のメロディを使用していた。 相対式ホーム2面2線を有する地下駅。一部の駅名標の下部には大妻女子大学前の表示がある。 改札は地下1階、ホームは地下2階にある。本八幡寄りに片渡り線があるが、非常時の折り返し運転用であり、通常の営業用としては使われていない。ただし、2008年に運転された臨時列車「都営新宿線開業30周年」号では、実際に当駅で折り返し運転をする際に使用された。 都庁前駅務管区市ヶ谷駅務区の所在駅であり、新宿線の新宿駅(新線新宿駅) - 岩本町駅間の各駅を管理している(ただし新宿駅(新線新宿駅)は京王電鉄の管轄)。 (出典:都営地下鉄:構内図) 各年度の1日平均乗降人員数は下表の通り(JRを除く)。 各年度の1日平均乗車人員数は下表の通り。 周辺は、学校やオフィスビルが多く立地する。周辺には番町、麹町、九段、市谷などの地区がある。 最寄りのバス停留所は「市ヶ谷駅前」である。
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市ケ谷駅(いちがやえき)は、東京都千代田区・新宿区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。 JR東日本と東京メトロの駅は「市ケ谷」、都営地下鉄の駅は「市ヶ谷」と表記する。 所在地は、JR東日本が千代田区五番町、東京メトロが新宿区市谷田町一丁目、都営地下鉄が千代田区九段南四丁目である。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{出典の明記|date=2012年1月|ソートキー=駅}} {{駅情報 |社色 = |文字色 = |駅名 = 市ケ谷駅 |画像 = Ichigaya-Sta-201612.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 外濠北側からのJR市ケ谷駅遠景(2016年12月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center |type=point|type2=point|type3=point|type4=point |marker=rail|marker2=rail-metro|marker3=rail-metro|marker4=rail-metro |coord={{coord|35|41|27.6|N|139|44|8.1|E}}|marker-color=008000|title=JR 市ケ谷駅 |coord2={{coord|35|41|29|N|139|44|10.5|E}}|marker-color2=c1a470|title2=東京メトロ有楽町線 市ケ谷駅 |coord3={{coord|35|41|34.7|N|139|44|11|E}}|marker-color3=00ac9b|title3=東京メトロ南北線 市ケ谷駅 |coord4={{coord|35|41|29.6|N|139|44|15.5|E}}|marker-color4=b0bf1e|title4=東京都交通局 市ヶ谷駅 |frame-latitude=35.692348|frame-longitude=139.736437 }} |よみがな = いちがや |ローマ字 = Ichigaya |電報略号 = |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東京メトロ|駅詳細]]) * [[東京都交通局]]([[#東京都交通局|駅詳細]])}} |所在地 = [[東京都]][[千代田区]]・[[新宿区]] |乗換 = |備考 = }} {{座標一覧}} '''市ケ谷駅'''(いちがやえき)は、[[東京都]][[千代田区]]・[[新宿区]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京地下鉄]](東京メトロ)・[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])の[[鉄道駅|駅]]である。 JR東日本と東京メトロの駅は「市'''[[ヶ|ケ]]'''谷」、都営地下鉄の駅は「市'''[[ヶ]]'''谷」と表記する。 所在地は、JR東日本が千代田区[[五番町 (千代田区)|五番町]]、東京メトロが新宿区[[市谷田町]]一丁目、都営地下鉄が千代田区[[九段南]]四丁目である。 == 乗り入れ路線 == JR東日本、東京メトロおよび都営地下鉄の計3社局が乗り入れ、接続駅となっている。南北線を挟んだ接続以外は容易に乗り換えられる。南北線とJR中央・総武線との乗り換えは、隣の飯田橋もしくは四ツ谷の方が便利。南北線と有楽町線の乗り換えは隣の飯田橋の方が便利である。 JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は[[中央本線]]であるが、当駅には[[急行線|緩行線]]を走る[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]]のみが停車する。また、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属しており、各路線ごとに[[駅ナンバリング|駅番号]]が付与されている。 * JR東日本 ** [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車) - 駅番号「'''JB 15'''」 地下鉄は、[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]と[[東京メトロ南北線|南北線]]、[[都営地下鉄新宿線|新宿線]]の3路線が乗り入れており、各路線ごとに駅番号が付与されている。 * 東京メトロ ** [[File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|15px|Y]] 有楽町線 - 駅番号「'''Y 14'''」 ** [[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] 南北線 - 駅番号「'''N 09'''」 * 都営地下鉄 ** [[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] 新宿線 - 駅番号「'''S 04'''」 == 歴史 == * [[1895年]]([[明治]]28年)[[3月6日]]:[[甲武鉄道]]の駅として開業<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|year=1998|isbn=978-4-533-02980-6|page=175}}</ref>。当初は旅客営業のみ{{R|停車場}}。 * [[1906年]](明治39年)[[10月1日]]:甲武鉄道の[[鉄道国有法|国有化]]により[[鉄道省|官設鉄道]]の駅となる<ref name="sone05-23">[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、23頁</ref>。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により中央東線(1911年から中央本線)の所属となる{{R|sone05-23}}。 * [[1942年]]([[昭和]]17年)[[4月1日]]:[[チッキ|荷物]]の取り扱いを開始{{R|停車場}}。 * [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]発足<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、25頁</ref>。 * [[1960年]](昭和35年)[[5月1日]]:[[チッキ|荷物]]の取り扱いを廃止{{R|停車場}}。 * [[1974年]](昭和49年)[[10月30日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)有楽町線の駅が開業。両端駅(池袋駅・銀座一丁目駅)の自動改札化に伴い、自動券売機では、開業当初から磁気化券が発売された。 * [[1979年]](昭和54年) ** [[1月13日]]:国鉄の駅が改築され、そのうち1階駅部のみ使用を開始<ref name="交通1979">{{Cite news|title=「エポ市ヶ谷」開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1979-07-19 |page=2 }}</ref>。 ** [[7月17日]]:国鉄の駅が鉄骨二階建ての「エポ市ケ谷」として全面開業{{R|交通1979}}。[[みどりの窓口]]も同時に開設{{R|交通1979}}。 * [[1980年]](昭和55年)[[3月16日]]:都営地下鉄新宿線の駅が開業。 * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、27頁</ref>。 * [[1990年]]([[平成]]2年)[[12月22日]]:JR東日本の駅に自動改札機を設置<ref>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=193 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。 * [[1994年]](平成6年)[[3月26日]]:JR東日本と営団の連絡改札口に自動改札機を設置<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=187 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。 * [[1995年]](平成7年)[[6月25日]]:JR東日本と都営地下鉄の連絡改札口に自動改札機を設置<ref>{{Cite book|和書 |date=1995-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '95年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-116-3}}</ref>。 * [[1996年]](平成8年)3月26日:営団地下鉄南北線の駅が開業<ref>{{cite news|title=南北線駒込-四ツ谷 きょう延伸開業 営団後楽園駅で記念式典 |newspaper=交通新聞 |date=1996-03-26 |publisher=交通新聞社 |page=3 }}</ref><ref name="RP622_102">{{Cite journal|和書|author=福田孝義(帝都高速度交通営団運輸本部運輸部運転課)|title=1996.3.26 営団南北線四ツ谷延伸開業|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1996-06-01|volume=46|issue=第6号(通巻第622号)|pages=102 - 103|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref><ref name="RF422" />。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2004年]](平成16年)4月1日:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)民営化に伴い、有楽町線・南北線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:東京メトロ・都営地下鉄で[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2011年]](平成23年)[[10月15日]]:東京メトロ有楽町線で[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130809_k092.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190719233649/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130809_k092.pdf|format=PDF|language=日本語|title=千川駅、豊洲駅、辰巳駅に設置し、有楽町線全駅にホームドアの設置が完了します! 全179駅中84駅にホームドアの設置が完了しホーム上の安全性が向上|publisher=東京地下鉄|date=2013-08-09|accessdate=2020-03-25|archivedate=2019-07-19}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年)3月16日:東京メトロと都営地下鉄との改札通過サービスを実施<ref group="報道" name="pr20130215">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130215_serviceittaika.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191227021441/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130215_serviceittaika.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成25年3月16日(土)東京の地下鉄がさらに便利になります|publisher=東京都交通局/東京地下鉄|date=2013-02-15|accessdate=2020-03-25|archivedate=2019-12-27}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年) ** [[3月10日]]:東京メトロ南北線ホームの[[発車メロディ]]を変更<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150302_21.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190510120512/https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150302_21.pdf|format=PDF|language=日本語|title=南北線の発車メロディをリニューアル! 各駅に新しい発車メロディを導入します。|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-02|accessdate=2020-03-25|archivedate=2019-05-10}}</ref>。 ** 4月1日:都営地下鉄市ヶ谷駅務管理所が廃止、都庁前駅務管理所に統合される。 * [[2021年]]([[令和]]3年) ** [[3月6日]]:JR東日本で[[ホームドア#多様なホームドアの開発|スマートホームドア]]の使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200407_ho01.pdf|title=より安全な駅ホーム・踏切の実現に向けた取組みについて|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-04-07|accessdate=2020-04-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200407061032/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200407_ho01.pdf|archivedate=2020-04-07}}</ref>。 ** [[5月31日]]:都営交通の定期券売り場が営業終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2021/sub_i_202104019740_h_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210425074817/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2021/sub_i_202104019740_h_01.pdf|title=《お知らせ》定期券発売所の営業終了と営業日変更について|archivedate=2021-04-25|accessdate=2021-04-25|publisher=東京都交通局|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)[[2月28日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref name="StationCd_135">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=135|title=駅の情報(市ケ谷駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2022-02-28|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220228121516/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=135|archivedate=2022-02-28}}</ref><ref name="jtsu20211218">{{Cite web|和書|url=https://www.jtsu-e-tokyo.org/_files/ugd/57fa70_ba1c2407dc964912abe905d93d57883a.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211222090507/https://www.jtsu-e-tokyo.org/_files/ugd/57fa70_ba1c2407dc964912abe905d93d57883a.pdf|title=「2021年度営業関係施策(その3)」について提案を受ける!|date=2021-12-18|archivedate=2021-12-22|accessdate=2021-12-22|publisher=輸送サービス労組東京地本|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 == 駅構造 == 当駅は3社局が乗り入れる駅であり、[[日本]]でも当駅だけの3社局全相互間の連絡[[改札|改札口]]がある。東京メトロ⇔JR東日本間の連絡改札口はJR東日本の管理、都営地下鉄⇔東京メトロ・JR東日本間の連絡改札口は都営地下鉄の管理である。いずれも乗り継ぎ[[自動精算機]]が設置されている。 連絡改札自動化の実験として、2枚連続投入式(重ねて同時に投入するのではなく1枚ずつ続けて投入)の[[自動改札機|改札機]]の実用試験がJR東日本によって行われ、そのまま本採用となった(のちに更新されている)。また、東京都交通局 - 東京メトロ間の連絡改札口に自動乗り継ぎ精算機が設置されたのは当駅が最初である([[1993年]][[5月9日]]に設置)<ref name="RJ704_17">{{Cite journal|和書|author=関根豊(東京都交通局経営企画室)|title=総説:東京都交通局 -質の高い公共交通サービスの提供をめざして-|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2001-07-10|volume=51|issue=第7号(通巻704号)|page=17|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 [[2013年]][[3月16日]]より、都営地下鉄⇔東京メトロ間の連絡改札口を経由して相手方の駅構内を通過できる、駅構内通過サービスが導入された<ref group="報道" name="pr20130215"/>。 <gallery> Ichigaya Station Tokyo Metro ・JR Transfer Gates.jpg|東京メトロ⇔JR東日本間の乗り換え専用改札口(2019年9月) Ichigaya Station Toei Subway・Tokyo Metro and JR Transfer Gates.jpg|都営地下鉄⇔東京メトロ・JR東日本間の乗り換え専用改札口(2019年9月) </gallery> === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = JR 市ケ谷駅 |画像 = JR-Ichigaya-Sta-Gate.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 改札口(2016年6月) |よみがな = いちがや |ローマ字 = Ichigaya |副駅名 = |前の駅 = JB 16 [[飯田橋駅|飯田橋]] |駅間A = 1.5 |駅間B = 0.8 |次の駅 = [[四ツ谷駅|四ツ谷]] JB 14 |電報略号 = イチ |駅番号 ={{駅番号r|JB|15|#ffd400|1}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]]<br />(線路名称上は[[中央本線]]) |キロ程 = 4.5&nbsp;km([[神田駅 (東京都)|神田]]起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から41.9 |起点駅 = |所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[五番町 (千代田区)|五番町]]2-1 |座標 = {{coord|35|41|27.6|N|139|44|8.1|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 市ケ谷駅}} |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1895年]]([[明治]]28年)[[3月6日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />46,313 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]) * [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}} }} [[島式ホーム]]1面2線を持つ[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。出口は新宿寄りに1か所ある。他に地下鉄各線への乗り換え口がある。 千代田区最西端の駅である。 当駅は運賃計算において東京山手線内の駅であるが、山手線電車の停車駅である[[神田駅 (東京都)|神田駅]](キロ程4.5&nbsp;km)・[[秋葉原駅]](4.1&nbsp;km)・[[代々木駅]](3.8&nbsp;km)のほぼ中間に所在する。 ホームは[[外濠 (東京都)|外濠]]の真横にあり、外濠には[[釣り堀]]もある。とくに[[サクラ|桜]]が満開となる時期の景観は美しい。 直営駅である。管理駅でもあるが、当駅は自駅のみの単駅管理となっている。 2010年に安全対策として床を防滑素材に張り替える際、近辺にある[[日本棋院]]の提案を受け、[[長生]]を題材としたモザイクアートを設置した<ref>{{Cite web|和書|title=JR市ケ谷駅構内に詰め碁モニュメント-床に難問「黒先長生」 |url=https://ichigaya.keizai.biz/headline/995/ |website=市ケ谷経済新聞 |access-date=2023-05-31}}</ref>。 ==== のりば ==== <!-- 方面表記は、出典の「駅構内図」の表記に準拠 --> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車) |style="text-align:center"|西行 |[[新宿駅|新宿]]・[[中野駅 (東京都)|中野]]・[[三鷹駅|三鷹]]方面 |- !2 |style="text-align:center"|東行 |[[御茶ノ水駅|御茶ノ水]]・[[両国駅|両国]]・[[千葉駅|千葉]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/135.html JR東日本:駅構内図]) * [[2020年]][[3月14日]]のダイヤ改正以降、早朝・深夜に設定されていた[[東京駅]]発着の各駅停車が消滅した<ref group="報道" name="pr20191213">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191213080612/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年3月ダイヤ改正について|page=6|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-12-13|accessdate=2020-02-29|archivedate=2019-12-13}}</ref>。 <gallery> Ichigaya Station-3.jpg|駅入口(2018年6月) JR Chuo-Main-Line Ichigaya Station Platform.jpg|JRホーム(2021年4月) </gallery> {{clear}} === 東京メトロ === {{駅情報 |社色 = #109ed4 |文字色 = |駅名 = 東京メトロ 市ケ谷駅 |画像 = Tokyo-Metro Ichigaya-STA Ichigaya-hachiman-Gate.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 市谷八幡方面改札(2022年5月) |よみがな = いちがや |ローマ字 = Ichigaya |副駅名 = |電報略号 = イチ |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ) |所在地 = [[東京都]][[新宿区]][[市谷田町]]一丁目先 |座標 = {{coord|35|41|29|N|139|44|10.5|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=東京メトロ有楽町線 市ケ谷駅}}(有楽町線)<br />{{coord|35|41|34.7|N|139|44|11|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=東京メトロ南北線 市ケ谷駅}}(南北線) |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 各1面2線(計2面4線) |開業年月日 = [[1974年]]([[昭和]]49年)[[10月30日]] |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />116,190 |統計年度 = 2022年 |乗入路線数 = 2 |前の駅1 = Y 13 [[飯田橋駅|飯田橋]] |駅間A1 = 1.1 |駅間B1 = 0.9 |次の駅1 = [[麹町駅|麹町]] Y 15 |駅番号1 = {{駅番号r|Y|14|#c1a470|4}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref> |所属路線1 = {{color|#c1a470|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]] |キロ程1 = 17.5 |起点駅1 = [[和光市駅|和光市]] |前の駅2 = N 08 [[四ツ谷駅|四ツ谷]] |駅間A2 = 1.0 |駅間B2 = 1.1 |次の駅2 = [[飯田橋駅|飯田橋]] N 10 |駅番号2 = {{駅番号r|N|09|#00ac9b|4}}<ref name="tokyosubway"/> |所属路線2 = {{color|#00ac9b|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[東京メトロ南北線|南北線]] |キロ程2 = 8.9 |起点駅2 = [[目黒駅|目黒]] |乗換 = |備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]] }} 有楽町線、南北線それぞれに島式ホーム1面2線を有する[[地下駅]]で、有楽町線のホームには[[ホームドア#可動式ホーム柵|可動式ホーム柵]]が、南北線のホームには[[ホームドア#フルスクリーンタイプ|フルスクリーンタイプのホームドア]]が設置されている。構内に南北線 - 有楽町線間の[[連絡線]]が存在し<ref name="RJ926_end" /><ref name="Namboku-Const338">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.338・553 - 558。</ref>、南北線および乗り入れ先の[[埼玉高速鉄道]]の車両が、[[日本の鉄道車両検査|検査]]で[[綾瀬車両基地#綾瀬工場|綾瀬工場]]などへ[[回送]]される際に使用される。なお、当該連絡線設置に伴い2番線の[[停止位置目標]]は麹町側に移動した。有楽町線と南北線の間は号車によって差が出る上に、エレベーターが完全に整備されていないこともあり、極力隣の飯田橋での乗り換えの方がよい。(飯田橋だと号車による距離に差が出ない上に、エレベーターが整備されている) 有楽町線の池袋方向に[[留置線]](旧・二代目[[飯田橋検車区]])があり<ref name="RJ926_end" />、2008年6月14日の[[ダイヤ改正]]以前に設定されていた当駅始発・終着の列車が使用していた。現在は終電後に池袋駅から回送される1編成が夜間留置を行い、翌朝初電の当駅始発和光市行に使用される。 南北線側には有楽町線への連絡線部分に、入出庫用の引き上げ線1線と南北線用の留置線が4線あり<ref name="Namboku-Const338"/><ref name="RJ926_end">{{Cite journal|和書|author=|title=線路略図|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=巻末|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>、収容力が小さく5編成しか留置できない[[王子検車区]]を補完している(市ケ谷留置線)<ref name="RF422" />。市ケ谷留置線の線路自体は5線あるが、1線は器材線(保線車両留置用・延長128&nbsp;m)である<ref name="Namboku-Const701">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.701。</ref>。また、四ツ谷駅寄りの本線上に[[分岐器#形状による分類|両渡り線]]があるが、[[四ツ谷駅]] - [[溜池山王駅]]間の延伸開業までは折り返しを当箇所で行なっており、当駅 - 四ツ谷駅間は[[単線並列]]運転を行っていた<ref name="Namboku-Const838">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、p.838。</ref><ref name="RF422" />。 南北線の駅構築は市ケ谷留置線との一体構築となっている<ref name="Namboku-Const338"/>。南北線開業時には、7番出入口の新設と新宿区提供の保険会館新館・国井記念館敷地内にエレベーター出入口の新設が行われたほか、既設の有楽町線5・6番出入口を南北線との共用に改造した<ref name="Namboku-Const338"/>。南北線ホームの[[エレベーター]]はホームの四ツ谷側端部に設置されている。6両編成の停車しない位置にあるため、8両化対応工事が実施されるまでは、ホームの未供用部分の一部に最低限の整備を施し通路として暫定供用していた。2021年10月に四ツ谷方階段の増設工事が完了し、同時にホームとしての全面供用も開始された。 有楽町線ホームと南北線ホームを結ぶ連絡通路には、JR中央線と都営新宿線の乗り換え口側に[[動く歩道]]が設置されている<ref name="RF422">{{Cite journal|和書|author=佐藤公一(帝都高速度交通営団運輸本部運輸部運転課)|date=1996-06-01|title=帝都高速度交通営団南北線 延伸開業|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=36|issue=第6号(通巻422号)|pages=83 - 87|publisher=[[交友社]]}}</ref>。 南北線の[[コンコース]]中央には江戸城外濠跡の石垣や江戸期古地図、遺跡展示コーナーなどからなる「江戸歴史散歩コーナー」が設置されている<ref name="Namboku-Const736">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.736 - 737。</ref><ref name="RP622_102" />。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側の呼称 -->!!路線!!行先 |- |colspan="3" style="background-color:#eee; border-top:solid 3px #999"|'''有楽町線・南北線ホーム(地下4階)''' |- ! 1 |style="width:5.5em;" rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|15px|Y]] 有楽町線 |[[新木場駅|新木場]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/ichigaya/timetable/yurakucho/a/index.html |title=市ケ谷駅時刻表 新木場方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- ! 2 |[[和光市駅|和光市]]・[[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園]]・[[飯能駅|飯能]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/ichigaya/timetable/yurakucho/b/index.html |title=市ケ谷駅時刻表 和光市・森林公園・飯能方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- ! 3 |rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] 南北線 |[[赤羽岩淵駅|赤羽岩淵]]・[[浦和美園駅|浦和美園]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/ichigaya/timetable/namboku/a/index.html |title=市ケ谷駅時刻表 赤羽岩淵・浦和美園方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- ! 4 |[[白金高輪駅|白金高輪]]・[[目黒駅|目黒]]・[[日吉駅 (神奈川県)|日吉]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/ichigaya/timetable/namboku/b/index.html |title=市ケ谷駅時刻表 白金高輪・目黒・日吉方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/ichigaya/index.html 東京メトロ:構内図]) <gallery> Tokyo-Metro Ichigaya-STA Ichigaya-tamachi-Gate.jpg|市谷田町方面改札(2022年5月) Tokyo-Metro Ichigaya-STA Platform1-2.jpg|有楽町線1・2番線ホーム(2022年5月) Tokyo-Metro Ichigaya-STA Platform3-4.jpg|南北線3・4番線ホーム(2022年5月) Ichigaya-Station-2005-10-24 2.jpg|連絡通路の動く歩道(2005年10月) Ichigaya-Station-2005-10-24 1.jpg|江戸歴史散歩コーナー(2005年10月) </gallery> ==== 発車メロディ ==== 全ホームで[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している<ref>{{Cite web|和書|title=個人でのソーシャルメディアでの音源使用について|url=http://www.switching.co.jp/news/401|website=[http://www.switching.co.jp/ スイッチオフィシャルサイト]|accessdate=2019-10-03|language=ja|publisher=スイッチ}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.switching.co.jp/cd/images/nanboku_line_ekimelo.pdf|title=「南北線」曲目リスト|format=PDF|work=[http://www.switching.co.jp/news/155 東京メトロ「南北線」が新駅メロディ採用 制作:株式会社スイッチ]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190711050827/http://www.switching.co.jp/cd/images/nanboku_line_ekimelo.pdf|archivedate=2019-07-11|publisher=スイッチ|date=2015-03-02|accessdate=2021-03-28}}</ref>。 なお、南北線ホームでは当初、[[吉村弘]]作曲の同線全駅共通のメロディを使用していた。 {| class="wikitable" !番線 !路線 !曲名 !作曲者 |- !1 | rowspan="2" |[[File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|15x15ピクセル]] 有楽町線 |common |[[谷本貴義]] |- !2 |電車でウキウキ |[[福嶋尚哉]] |- !3 | rowspan="2" |[[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15x15ピクセル]] 南北線 |明るい水辺 |[[塩塚博]] |- !4 |オアシス |[[山崎泰之]] |} {{clear}} === 東京都交通局 === {{駅情報 |社色 = #009f40 |文字色 = |駅名 = 東京都交通局 市ヶ谷駅 |画像 = Ichigaya Station-1.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 市ヶ谷橋方面改札口(2018年3月) |よみがな = いちがや |ローマ字 = Ichigaya |副駅名 = |前の駅 = S 03 [[曙橋駅|曙橋]] |駅間A = 1.4 |駅間B = 1.3 |次の駅 = [[九段下駅|九段下]] S 05 |電報略号 = 市(駅名略称) |駅番号 = {{駅番号r|S|04|#b0bf1e|4}}<ref name="tokyosubway"/> |所属事業者 = [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]]) |所属路線 = {{color|#b0bf1e|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[都営地下鉄新宿線|新宿線]] |キロ程 = 3.7 |起点駅 = [[新宿駅|新宿]] |所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[九段南]]四丁目8-22 |座標 = {{coord|35|41|29.6|N|139|44|15.5|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=都営地下鉄 市ヶ谷駅}} |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 2面2線 |開業年月日 = [[1980年]]([[昭和]]55年)[[3月16日]] |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="都交" name="toei2022" />78,112 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = [[日本の鉄道駅#管理駅|駅務区所在駅]] }} [[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地下駅]]。一部の駅名標の下部には'''[[大妻女子大学]]前'''の表示がある<ref group="注釈">2014年7月までは'''[[法政大学]]前'''だった。</ref>。 改札は地下1階、ホームは地下2階にある。本八幡寄りに[[分岐器#形状による分類|片渡り線]]があるが、非常時の折り返し運転用であり、通常の営業用としては使われていない<ref name="RJ704_34">{{Cite journal|和書|author=篠澤政一(東京都交通局電車部運転課)|title=輸送と運転|journal=鉄道ピクトリアル|date=2001-07-10|volume=51|issue=第7号(通巻第704号)|page=34|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。ただし、2008年に運転された臨時列車「都営新宿線開業30周年」号では、実際に当駅で折り返し運転をする際に使用された。 都庁前駅務管区市ヶ谷駅務区の所在駅であり、新宿線の[[新宿駅]]([[新線新宿駅]]) - [[岩本町駅]]間の各駅を管理している<ref>[http://www.reiki.metro.tokyo.jp/reiki_honbun/ag10115671.html 東京都交通局駅務管理所処務規程]</ref><ref group="注釈">ただし、[[神保町駅]]は管轄外である。</ref>(ただし新宿駅(新線新宿駅)は[[京王電鉄]]の管轄)。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/shinjuku/S04WD.html |title=市ヶ谷 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-04}}</ref> |- !1 |rowspan=2|[[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] 都営新宿線 |[[新宿駅|新宿]]・[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] [[京王線]]方面 |- !2 |[[本八幡駅|本八幡]]方面 |} (出典:[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/ichigaya.html 都営地下鉄:構内図]) <gallery> Toei-subway-S04-Ichigaya-station-platform-20191201-161018.jpg|ホーム(2019年12月) </gallery> ==== 駅構内設備 ==== * 改札階 ** [[VIE DE FRANCE]] ** [[ラフィネ]] ** ミスターミニット {{clear}} == 利用状況 == *'''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''46,313人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。 *: JR東日本管内の駅の中では[[武蔵浦和駅]]に次いで第89位。 *'''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''116,190人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 *: 東京メトロ全130駅の中では[[有楽町駅]]に次ぐ第19位<!--他鉄道との直結連絡駅および共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。この値は有楽町線⇔南北線間の乗換人員を含まない。 ** 有楽町線⇔南北線間の乗換人員を含んだ、2018年度の路線別1日平均'''乗降'''人員は以下の通りである<ref group="乗降データ" name="Report" />。 *** 有楽町線 - '''116,166人''' - 同線内では第8位。 *** 南北線 - '''48,022人''' - 同線内では第11位。 *'''都営地下鉄''' - 2021年度の1日平均'''乗降'''人員は'''78,112人'''(乗車人員:38,508人、降車人員:39,604人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。 *: 新宿線内では新宿駅・神保町駅・[[馬喰横山駅]]・九段下駅に次いで第5位。 === 年度別1日平均乗降人員 === 各年度の1日平均'''乗降'''人員数は下表の通り(JRを除く)。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ" name="Report">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="乗降データ" name="shinjuku">[http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/kikaku01_001004.html 新宿区の概況] - 新宿区</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|営団 / 東京メトロ !colspan=2|都営地下鉄 |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |1999年(平成11年) |108,614|| | || |- |2000年(平成12年) |113,715||4.7% | || |- |2001年(平成13年) |113,448||&minus;0.2% | || |- |2002年(平成14年) |112,922||&minus;0.5% | || |- |2003年(平成15年) |112,658||&minus;0.2% |74,792||&minus;0.2% |- |2004年(平成16年) |111,534||&minus;1.0% |74,479||&minus;0.4% |- |2005年(平成17年) |113,876||2.1% |75,787||1.8% |- |2006年(平成18年) |118,413||4.0% |78,403||3.5% |- |2007年(平成19年) |126,622||6.9% |85,169||8.6% |- |2008年(平成20年) |128,092||1.2% |86,426||1.5% |- |2009年(平成21年) |127,542||&minus;0.4% |86,668||0.3% |- |2010年(平成22年) |126,997||&minus;0.4% |85,756||&minus;1.1% |- |2011年(平成23年) |124,197||&minus;2.2% |83,435||&minus;2.7% |- |2012年(平成24年) |126,846||2.1% |84,529||1.3% |- |2013年(平成25年) |131,363||3.6% |87.151||3.1% |- |2014年(平成26年) |134,206||2.2% |89,429||2.6% |- |2015年(平成27年) |139,608||4.0% |92,994||4.0% |- |2016年(平成28年) |142,685||2.2% |95,112||2.3% |- |2017年(平成29年) |146,603||2.7% |98,926||4.0% |- |2018年(平成30年) |150,760||2.8% |101,106||2.2% |- |2019年(令和元年) |150,922||0.1% |101,093||&minus;0.0% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>98,209||&minus;34.9% |66,889||&minus;33.8% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>102,747||4.6% |<ref group="都交" name="toei2021" />70,806||5.9% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>116,190||13.1% |<ref group="都交" name="toei2022" />78,112||10.3% |} === 年度別1日平均乗車人員(1890年代 - 1930年代) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員数は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="東京府統計">東京府統計書 - 国立国会図書館(近代デジタル化資料)</ref> !年度 !甲武鉄道 /<br />国鉄 !出典 |- |1895年(明治28年) |407 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806575/135?viewMode= 明治28年]</ref> |- |1896年(明治29年) |938 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806576/153?viewMode= 明治29年]</ref> |- |1897年(明治30年) |863 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806577/135?viewMode= 明治30年]</ref> |- |1898年(明治31年) |879 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806578/147?viewMode= 明治31年]</ref> |- |1899年(明治32年)<!--1899年度は1900年が100で割り切れるが400では割り切れない年であるため、閏年ではなく平年となるので365日間で集計--> |998 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806579/168?viewMode= 明治32年]</ref> |- |1900年(明治33年) |1,015 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806580/165?viewMode= 明治33年]</ref> |- |1901年(明治34年) |1,070 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806581/188?viewMode= 明治34年]</ref> |- |1902年(明治35年) |1,049 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806582/186?viewMode= 明治35年]</ref> |- |1903年(明治36年) |1,051 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806583/183?viewMode= 明治36年]</ref> |- |1904年(明治37年) |1,114 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806584/213?viewMode= 明治37年]</ref> |- |1905年(明治38年) |823 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806585/196?viewMode= 明治38年]</ref> |- |1907年(明治40年) |742 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806587/190?viewMode= 明治40年]</ref> |- |1908年(明治41年) |980 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806589/103?viewMode= 明治41年]</ref> |- |1909年(明治42年) |1,084 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806591/106?viewMode= 明治42年]</ref> |- |1911年(明治44年) |1,374 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref> |- |1912年(大正元年) |1,593 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/134?viewMode= 大正元年]</ref> |- |1913年(大正{{0}}2年) |1,606 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/127?viewMode= 大正2年]</ref> |- |1914年(大正{{0}}3年) |1,533 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref> |- |1915年(大正{{0}}4年) |1,308 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/348?viewMode= 大正4年]</ref> |- |1916年(大正{{0}}5年) |1,747 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref> |- |1919年(大正{{0}}8年) |2,967 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/266?viewMode= 大正8年]</ref> |- |1920年(大正{{0}}9年) |4,255 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/302?viewMode= 大正10年]</ref> |- |1922年(大正11年) |6,787 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref> |- |1923年(大正12年) |7,383 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref> |- |1924年(大正13年) |7,237 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref> |- |1925年(大正14年) |7,602 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref> |- |1926年(昭和元年) |8,695 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref> |- |1927年(昭和{{0}}2年) |9,589 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref> |- |1928年(昭和{{0}}3年) |10,507 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref> |- |1929年(昭和{{0}}4年) |11,878 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref> |- |1930年(昭和{{0}}5年) |11,764 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref> |- |1931年(昭和{{0}}6年) |11,749 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref> |- |1932年(昭和{{0}}7年) |12,439 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |12,836 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |13,261 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |13,606 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !rowspan=2|年度 !rowspan=2|国鉄 /<br>JR東日本 !colspan=2|営団 !rowspan=2|都営地下鉄 !rowspan=2|出典 |- !有楽町線 !南北線 |- |1953年(昭和28年) |20,506 |rowspan=21 style="text-align:center"|未<br/>開<br/>業 |rowspan=42 style="text-align:center"|未<br/>開<br/>業 |rowspan=26 style="text-align:center"|未<br/>開<br/>業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 11ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |23,797 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 9ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |24,959 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 9ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |27,060 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 9ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |28,597 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 9ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |30,932 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 9ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |33,023 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |36,042 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |37,742 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |41,307 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |44,399 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |48,595 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |50,803 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |53,171 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |55,032 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |57,290 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |54,131 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |56,159 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |60,505 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |60,090 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |60,046 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |62,910 |<ref group="備考">1974年10月30日開業。開業日から翌年3月31日までの計153日間を集計したデータ。</ref>11,882 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |58,628 |16,656 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |61,068 |20,299 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |62,882 |23,019 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |64,819 |23,271 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |63,612 |24,704 |<ref group="備考">1980年3月16日開業。開業日から同年3月31日までの計16日間を集計したデータ。</ref>9,500 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |57,296 |31,222 |18,449 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |59,512 |35,315 |22,195 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |61,145 |36,962 |24,060 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |62,060 |40,940 |26,749 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |63,438 |44,614 |32,082 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |66,847 |46,359 |32,512 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |67,036 |47,792 |33,600 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |67,801 |49,880 |35,519 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |69,751 |53,775 |37,767 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |69,586 |55,608 |37,515 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |69,901 |56,942 |40,427 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |71,478 |56,541 |40,664 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |72,268 |56,655 |23,085 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |70,260 |56,181 |41,567 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |69,408 |55,458 |41,641 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |69,536 |54,861 |<ref group="備考">1996年3月26日開業。開業日から同年3月31日までの計6日間を集計したデータ。</ref>3,667 |40,351 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |67,959 |52,537 |3,667 |40,351 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |65,674 |50,430 |4,299 |39,636 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |62,674 |48,175 |5,874 |37,819 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>60,628 |46,109 |7,287 |36,740 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>60,614 |46,877 |<ref group="備考">2000年9月26日、目黒駅 - 溜池山王駅間開業。</ref>8,805 |36,932 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="shinjuku" /><ref group="乗降データ" name="chiyoda">[https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kuse/toke/kisotoke/index.html 行政基礎資料集] - 千代田区</ref> !rowspan=2|年度 !rowspan=2|JR東日本 !colspan=2|営団 / 東京メトロ !rowspan=2|都営地下鉄 !rowspan=2|出典 |- !有楽町線!!南北線 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>59,827 |45,304 |10,805 |36,153 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>60,036 |44,573 |11,277 |36,458 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>58,551 |44,041 |11,817 |35,809 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>58,009 |44,055 |12,723 |35,740 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>58,799 |44,592 |13,211 |36,351 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>58,982 |45,984 |13,701 |37,444 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>60,746 |49,090 |14,751 |40,951 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>60,301 |48,531 |16,307 |42,010 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>59,680 |47,936 |16,709 |42,257 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>58,386 |47,491 |16,902 |41,834 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>56,956 |46,233 |16,639 |40,759 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>57,555 |47,147 |17,087 |41,349 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>58,900 |48,758 |17,759 |42,686 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>59,080 |49,743 |18,232 |43,821 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>60,673 |51,749 |19,025 |45,492 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>61,184 |52,819 |19,548 |46,499 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>62,333 |54,107 |20,268 |48,420 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>63,066 |55,422 |21,071 |49,533 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>63,882 |55,189 |21,303 |49,636 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>39,625 | | |<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104153832/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2021-11-04 |deadlinkdate=2022-11-12}}</ref>32,938 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>41,847 | | |<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221112011444/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2022-11-12 |deadlinkdate=}}</ref>34,834 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>46,313 | | |<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102231721/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |archivedate=2023-11-03 }}</ref>38,508 | |} === 備考 === {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == 周辺は、学校やオフィスビルが多く立地する。周辺には[[番町]]、[[麹町]]、[[九段]]、[[市谷]]などの地区がある。 === 施設・団体 === {{columns-list|2| * [[皇居]]外堀([[外濠 (東京都)|外濠]])- [[飯田橋駅]]から[[法政大学]]側へと続き、線路に隣接している。 * [[防衛省市ヶ谷地区]]・[[防衛省]]市ヶ谷庁舎 * [[警視庁]]第五[[機動隊]] * 警視庁特科車両隊 * 江上料理学院 * [[日本歯科医師会]] * [[日本棋院]] * [[大日本印刷]] * [[日本公認会計士協会]] * [[シャープ]]市ヶ谷ビル * [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|SME]]六番町ビル * 保健会館 ** [[全国保健センター連合会]] ** [[日本家族計画協会]] * [[東京逓信病院]] * [[麹町郵便局]] * 麹町郵便局東京逓信病院内分室 * 千代田四番町郵便局 * 新宿保健会館内郵便局 * 靖国通り([[東京都道302号新宿両国線]]) * 外堀通り([[東京都道405号外濠環状線]]) * 日本テレビ通り * [[靖国神社]] * [[法政大学]]市ケ谷キャンパス * [[中央大学]]市ヶ谷キャンパス・ミドルブリッジ * [[日本大学]]本部 * [[大妻女子大学]]千代田キャンパス * [[大妻中学校・高等学校]] * [[東京家政学院大学]]千代田三番町キャンパス * [[東京家政学院中学校・高等学校]] * [[三輪田学園中学校・高等学校]] * [[ローマ教皇庁|ローマ法王庁]]大使館 * [[駐日イスラエル大使館]] * 千代田区立[[東郷平八郎|東郷元帥記念公園]] * アルカディア市ヶ谷(私学会館) * [[駿台予備学校]]市谷校舎 * 山脇美術専門学院 * [[東京観光専門学校]] * [[メヂカルフレンド社]] * [[日本学生支援機構]] * [[河合塾]]麹町校 * [[市ヶ谷アイスボックス]] * [[バスクリン]]本社 * [[文教堂]] * [[市ヶ谷フィッシュセンター]] |}} == バス路線 == <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> 最寄りの[[バス停留所]]は「'''市ヶ谷駅前'''」である。 * [[都営バス杉並支所#高71系統|高71系統]]:[[九段下駅|九段下]]行 / [[高田馬場駅|高田馬場駅前]]行 * [[都営バス小滝橋営業所#橋63系統|橋63系統]]:[[新橋駅|新橋駅前]]行 / 小滝橋車庫前行 * 千代田区地域福祉交通「[[風ぐるま (千代田区)|風ぐるま]]」:麹町ルート == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車) ::: [[飯田橋駅]] (JB 16) - '''市ケ谷駅 (JB 15)''' - [[四ツ谷駅]] (JB 14) ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|15px|Y]] 有楽町線 ::: [[飯田橋駅]] (Y 13) - '''市ケ谷駅 (Y 14)''' - [[麹町駅]] (Y 15) : [[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] 南北線 ::: [[四ツ谷駅]] (N 08) - '''市ケ谷駅 (N 09)''' - [[飯田橋駅]] (N 10) ; 東京都交通局(都営地下鉄) : [[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] 都営新宿線<!-- 都営の種別色は交通局公式サイトの停車駅表と、10-300形3次車のフルカラーLED方向幕に準拠 --> :: {{Color|red|■}}急行 ::: [[新宿駅]] (S 01) - '''市ヶ谷駅 (S 04)''' - [[神保町駅]] (S 06) :: {{Color|#6cbb5a|■}}各駅停車 ::: [[曙橋駅]] (S 03) - '''市ヶ谷駅 (S 04)''' - [[九段下駅]] (S 05) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==== 報道発表資料 ==== {{Reflist|group="報道"|2}} ==== 利用状況に関する出典 ==== ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|3}} ;東京都交通局 各駅乗降人員 {{Reflist|group="都交"|3}} ; JR・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} ; 東京府統計書 {{Reflist|group="東京府統計"|17em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 参考文献 == * {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=5 |title=中央本線 |date=2009-08-09 |ref=sone05 }} * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_nanboku.html/|date=2002-03-31|title=東京地下鉄道南北線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=namboku}} == 関連項目 == {{commonscat|Ichigaya Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[市谷]] * [[番町]] * [[九段]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=135|name=市ケ谷}} * [https://www.tokyometro.jp/station/ichigaya/index.html 市ケ谷駅/Y14/N09 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] * [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/ichigaya.html 市ヶ谷駅 | 都営地下鉄 | 東京都交通局] {{鉄道路線ヘッダー}} {{総武・中央緩行線}} {{東京メトロ有楽町線}} {{東京メトロ南北線}} {{都営地下鉄新宿線}} {{鉄道路線フッター}} {{DEFAULTSORT:いちかや}} [[Category:日本の鉄道駅 い|ちかや]] 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信濃町駅
信濃町駅(しなのまちえき)は、東京都新宿区信濃町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線の駅。駅番号はJB 13。新宿区最南端の駅で、中央本線において起点の神田駅(東京駅)から起算して乗り換えのない最初の単独駅でもある。 当駅には、緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみが停車する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属する。 駅舎は信濃町に立地するが、ホームは信濃町と南元町にまたがっており、千駄ケ谷駅寄りは信濃町、四ツ谷駅寄りは南元町となる。 島式ホーム1面2線を有する地上駅。ホームの上に駅ビルの「JR信濃町ビル」(1993年2月竣工・開業)があり、駅ビル1階部分が改札口となっている。駅ビルは地上6階地下2階建て延べ床面積20,260平方メートルで、上層階にはオフィスが入っている。当駅は地上駅だが、明治神宮外苑側の標高が高いことから、ホームから階段などで上った場所にある改札口が外に段差なく直結している。すぐ南側を首都高速4号新宿線が並走する。 駅ビル完成(1992年10月)までは西隣の千駄ケ谷駅と同様に臨時ホームが下り線南側にあった。臨時ホームは、1980年頃までは、明治神宮野球場で東京六大学野球などが開催される土曜日・日曜日を中心に使用されていたが、次第に使用されなくなった。駅ビル完成直後も四ツ谷寄りにホームの一部が残っていたが、後に撤去された。 かつてはみどりの窓口が設置されていたが、2008年2月20日をもって営業を終了した。2019年2月1日より、駅遠隔操作システム(現・お客さまサポートコールシステム)が導入され、早朝時間帯は、遠隔対応(インターホン対応は四ツ谷駅が行う)のため改札係員は不在となり、一部の自動券売機のみが稼働する。 駅ビル1・2階には「アトレヴィ信濃町」があり、5店舗が入居している。2021年2月1日に「アトレ信濃町」としてリニューアルした。 近隣の国立競技場などが会場となった2020年東京オリンピック・パラリンピックに向け、トイレの拡幅やエレベーター増設、ホームドアの整備が行われた。 (出典:JR東日本:駅構内図) 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は19,297人である。 近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。 外苑東通り上、駅を南北に挟んで位置する信濃町駅前(1・2番のりば)と信濃町駅南口(3・4番のりば)が最寄りバス停である。いずれのバス停も、東京都交通局(都営バス)の以下の路線が発着する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "信濃町駅(しなのまちえき)は、東京都新宿区信濃町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線の駅。駅番号はJB 13。新宿区最南端の駅で、中央本線において起点の神田駅(東京駅)から起算して乗り換えのない最初の単独駅でもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "当駅には、緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみが停車する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "駅舎は信濃町に立地するが、ホームは信濃町と南元町にまたがっており、千駄ケ谷駅寄りは信濃町、四ツ谷駅寄りは南元町となる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "島式ホーム1面2線を有する地上駅。ホームの上に駅ビルの「JR信濃町ビル」(1993年2月竣工・開業)があり、駅ビル1階部分が改札口となっている。駅ビルは地上6階地下2階建て延べ床面積20,260平方メートルで、上層階にはオフィスが入っている。当駅は地上駅だが、明治神宮外苑側の標高が高いことから、ホームから階段などで上った場所にある改札口が外に段差なく直結している。すぐ南側を首都高速4号新宿線が並走する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "駅ビル完成(1992年10月)までは西隣の千駄ケ谷駅と同様に臨時ホームが下り線南側にあった。臨時ホームは、1980年頃までは、明治神宮野球場で東京六大学野球などが開催される土曜日・日曜日を中心に使用されていたが、次第に使用されなくなった。駅ビル完成直後も四ツ谷寄りにホームの一部が残っていたが、後に撤去された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "かつてはみどりの窓口が設置されていたが、2008年2月20日をもって営業を終了した。2019年2月1日より、駅遠隔操作システム(現・お客さまサポートコールシステム)が導入され、早朝時間帯は、遠隔対応(インターホン対応は四ツ谷駅が行う)のため改札係員は不在となり、一部の自動券売機のみが稼働する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "駅ビル1・2階には「アトレヴィ信濃町」があり、5店舗が入居している。2021年2月1日に「アトレ信濃町」としてリニューアルした。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "近隣の国立競技場などが会場となった2020年東京オリンピック・パラリンピックに向け、トイレの拡幅やエレベーター増設、ホームドアの整備が行われた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は19,297人である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "外苑東通り上、駅を南北に挟んで位置する信濃町駅前(1・2番のりば)と信濃町駅南口(3・4番のりば)が最寄りバス停である。いずれのバス停も、東京都交通局(都営バス)の以下の路線が発着する。", "title": "駅周辺" } ]
信濃町駅(しなのまちえき)は、東京都新宿区信濃町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線の駅。駅番号はJB 13。新宿区最南端の駅で、中央本線において起点の神田駅(東京駅)から起算して乗り換えのない最初の単独駅でもある。 当駅には、緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみが停車する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属する。 駅舎は信濃町に立地するが、ホームは信濃町と南元町にまたがっており、千駄ケ谷駅寄りは信濃町、四ツ谷駅寄りは南元町となる。
{{出典の明記|date=2012年11月|ソートキー=駅}} {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = 信濃町駅 |画像 = JRE Shinanomachi-STA.jpg |pxl = 300 |画像説明 = JR信濃町ビル(2023年7月) |地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|40|48.3|N|139|43|12.9|E}}}} |よみがな = しなのまち |ローマ字 = Shinanomachi |前の駅 = JB 14 [[四ツ谷駅|四ツ谷]] |駅間A = 1.3 |駅間B = 0.7 |次の駅 = [[千駄ケ谷駅|千駄ケ谷]] JB 12 |電報略号 = シチ |駅番号 = {{駅番号r|JB|13|#ffd400|1}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]]<br />(線路名称上は[[中央本線]]) |キロ程 = 6.6&nbsp;km([[神田駅 (東京都)|神田]]起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から44.0 |起点駅 = |所在地 = [[東京都]][[新宿区]][[信濃町 (新宿区)|信濃町]]34 |座標 = {{coord|35|40|48.3|N|139|43|12.9|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1894年]]([[明治]]27年)[[10月9日]]<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|year=1998|isbn=978-4-533-02980-6|page=175}}</ref> |廃止年月日 = |乗車人員 = 19,297 |統計年度 = 2022年 |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]] * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅<ref name="StationCd=798_230911">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=798|title=駅の情報(信濃町駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230911143748/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=798|archivedate=2023-09-11}}</ref> * [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}} }} '''信濃町駅'''(しなのまちえき)は、[[東京都]][[新宿区]][[信濃町 (新宿区)|信濃町]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[中央本線]]の[[鉄道駅|駅]]。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JB 13'''。新宿区最南端の駅で、中央本線において起点の神田駅(東京駅)から起算して乗り換えのない最初の単独駅でもある。 当駅には、[[急行線|緩行線]]を走る[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]]のみが停車する。また、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属する。 駅舎は'''信濃町'''に立地するが、ホームは信濃町と[[南元町 (新宿区)|南元町]]にまたがっており、[[千駄ケ谷駅]]寄りは信濃町、[[四ツ谷駅]]寄りは南元町となる。 == 歴史 == [[File:Shinanomachi Station 1964.jpg|thumb|東京オリンピックで賑わう信濃町駅(1964年)]] * [[1894年]]([[明治]]27年)[[10月9日]]:[[新宿駅]] - [[飯田橋駅#歴史|牛込駅]]間開通と同時に[[甲武鉄道]]の駅として開業{{R|停車場}}。旅客および貨物の取り扱いを開始{{R|停車場}}。 * [[1906年]](明治39年)[[10月1日]]:甲武鉄道の国有化により[[鉄道省|国有鉄道]]<!-- 当時は「逓信省鉄道作業局」 -->の駅となる<ref name="sone05-23">[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、23頁</ref>。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により中央東線(1911年から中央本線)の所属となる{{R|sone05-23}}。 * [[1941年]]([[昭和]]16年)[[2月1日]]:貨物の取り扱いを廃止{{R|停車場}}。 * [[1963年]](昭和38年)[[12月1日]]:[[チッキ|荷物]]扱い廃止{{R|停車場}}。 * [[1980年]](昭和55年)[[6月11日]]:駅舎改築<ref>{{Cite news |title=信濃町駅 装いも新たにお目見得 きょうオープン |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1980-06-11 |page=1 }}</ref>。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、27頁</ref>。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[11月23日]]:自動改札機を設置し、使用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1992-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '92年版 |chapter=JR年表 |page=181 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-113-9}}</ref>。 * [[1993年]](平成5年)[[2月26日]]:JR信濃町ビルオープン<ref name = "RJ319">{{Cite journal | 和書 | title = JR東日本 信濃町と新浦安に新駅ビルがオープン | journal = [[鉄道ジャーナル]] | issue = 319 | year = 1993 | month = 5 | pages = 97 | publisher = 鉄道ジャーナル社}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2008年]](平成20年)[[2月20日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了。 * [[2019年]](平成31年)2月1日:[[駅集中管理システム|駅遠隔操作システム(現・お客さまサポートコールシステム)]]導入に伴い、早朝無人化<ref name="early-morning">{{Cite web|和書|url=http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/h30eigyou_no1.html|title=「平成30年度営業関係施策(その1)について」提案を受ける|accessdate=2019-11-15|publisher=東日本ユニオン東京地本|archivedate=2019-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191114154228/http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/h30eigyou_no1.html}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[6月22日]]:[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200407_ho01.pdf|title=より安全な駅ホーム・踏切の実現に向けた取組みについて|language=日本語|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-04-07|accessdate=2020-04-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200407061032/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200407_ho01.pdf|archivedate=2020-04-07}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年)[[2月1日]]:「アトレヴィ信濃町」が「アトレ信濃町」へリニューアルオープン<ref group="報道" name="pr20210114">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/688_20210114shinanomachi.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210114071858/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/688_20210114shinanomachi.pdf|format=PDF|language=日本語|title=“スポーツの聖地”神宮外苑へ入口に食を楽しむ5ショップが誕生 「アトレ信濃町」2021年2月1日(月)リニューアルオープン|publisher=アトレ|date=2021-01-14|accessdate=2021-01-14|archivedate=2021-01-14}}</ref><ref group="報道" name="pr20201203" />。 == 駅構造 == [[プラットホーム#島式ホーム|島式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]。ホームの上に[[駅ビル]]の「JR信濃町ビル」(1993年2月竣工・開業)があり、駅ビル1階部分が[[改札|改札口]]となっている。駅ビルは地上6階地下2階建て延べ床面積20,260平方メートルで、上層階にはオフィスが入っている<ref name = "RJ319" />。当駅は地上駅だが、[[明治神宮外苑]]側の標高が高いことから、ホームから[[階段]]などで上った場所にある改札口が外に段差なく直結している。すぐ南側を[[首都高速4号新宿線]]が並走する。 駅ビル完成(1992年10月)までは西隣の千駄ケ谷駅と同様に臨時ホームが下り線南側にあった。臨時ホームは、1980年頃までは、[[明治神宮野球場]]で[[東京六大学野球連盟|東京六大学野球]]などが開催される土曜日・日曜日を中心に使用されていたが、次第に使用されなくなった。駅ビル完成直後も四ツ谷寄りにホームの一部が残っていたが、後に撤去された。 かつてはみどりの窓口が設置されていたが、[[2008年]][[2月20日]]をもって営業を終了した。[[2019年]][[2月1日]]より、[[駅集中管理システム|駅遠隔操作システム(現・お客さまサポートコールシステム)]]が導入され、早朝時間帯は、遠隔対応(インターホン対応は[[四ツ谷駅]]が行う)のため改札係員は不在となり、一部の自動券売機のみが稼働する<ref name="early-morning" />。 駅ビル1・2階には「[[アトレ#アトレヴィ|アトレヴィ信濃町]]」があり、5店舗が入居している。2021年2月1日に「[[アトレ]]信濃町」としてリニューアルした<ref group="報道" name="pr20210114" /><ref group="報道" name="pr20201203">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/674_1203shinanomachi.pdf|title=「アトレ信濃町」2021年2月1日(月)リニューアルオープン! 朝活から乾杯まで、一日中楽しめる5店舗が登場 ~街の自然とスポーツの感動を食と共に~|format=PDF|publisher=アトレ|date=2020-12-03|accessdate=2020-12-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201207151813/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/674_1203shinanomachi.pdf|archivedate=2020-12-07}}</ref>。 近隣の[[国立競技場]]などが会場となった[[2020年東京オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]に向け、トイレの拡幅やエレベーター増設、[[ホームドア]]の整備が行われた<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160605.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190818210947/https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160605.pdf|format=PDF|language=日本語|title=駅改良の工事計画について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2016-06-08|archivedate=2019-08-18|accessdate=2020-03-21}}</ref>。 === のりば === <!-- 方面表記は、出典の「駅構内図」の記載に基づく --> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan=2|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車) |style="text-align:center"|東行 |[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[船橋駅|船橋]]方面 |- !2 |style="text-align:center"|西行 |[[新宿駅|新宿]]・[[三鷹駅|三鷹]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/798.html JR東日本:駅構内図]) * [[2020年]][[3月14日]]のダイヤ改正以降、早朝・深夜に設定されていた[[東京駅]]発着の各駅停車が消滅した<ref group="報道" name="pr20191213">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191213080612/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年3月ダイヤ改正について|page=6|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-12-13|accessdate=2020-02-29|archivedate=2019-12-13}}</ref>。 <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> Atre Shinanomachi Appearance.jpg|アトレ信濃町 JR Chuo-Main-Line Shinanomachi Station Gates (20210418).jpg|改札口 JR Chuo-Main-Line Shinanomachi Station Platform.jpg|ホーム(左端に首都高速4号新宿線、右端に中央線快速の線路がある) </gallery> == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''19,297人'''である。 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[https://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/kikaku01_001004.html 新宿区の概況] - 新宿区</ref> !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1990年(平成{{0}}2年) |27,704 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |27,855 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |29,258 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |30,967 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |30,882 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |31,372 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |31,079 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |30,818 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) |29,762 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |29,664 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>29,676 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>28,738 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>27,794 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>27,410 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>27,035 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>27,852 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>28,064 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>28,080 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>27,237 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>27,374 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>26,519 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>26,031 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_01.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>26,165 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_01.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>26,908 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_01.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>25,678 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_01.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>25,596 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_01.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>25,341 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_01.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>26,180 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_01.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>26,258 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_01.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>25,572 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_01.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>15,257 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>16,576 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>19,297 | |} == 駅周辺 == [[File:Jingu gaien air.jpg|thumb|[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]空撮。当駅は右上端にある。]] [[File:Rengakan sinanomachi 2018.jpg|thumb|駅前の慶応大学信濃町キャンパス敷地に建つ煉瓦館]] {{See also|信濃町 (新宿区)|南元町 (新宿区)|大京町|左門町|須賀町 (新宿区)|霞ヶ丘町|北青山|元赤坂}} <!--チェーン店を含む飲食店、コンビニ、個人商店などは際限がなくなるので記載しない--> {{columns-list|2| * [[東京都道319号環状三号線]]([[外苑東通り]]) * [[慶應義塾大学#施設|慶應義塾大学 信濃町キャンパス]] ** [[慶應義塾大学病院]] ** 北里記念医学図書館 * [[赤坂御用地]] ** [[東宮御所|赤坂御所]] * [[四谷警察署|警視庁四谷警察署]] * 信濃町駅前郵便局 * [[首都高速4号新宿線]] [[外苑出入口]] * [[国立競技場]] * [[明治神宮外苑]] ** [[明治神宮野球場]] - JR線では当駅が最寄り。 ** 明治神宮[[アイススケート]]場・明治神宮[[フットサル]]コート ** [[聖徳記念絵画館]] ** [[明治記念館]] ** [[日本青年館]] * 日本文化芸術研究センター ** [[京都造形芸術大学]]・[[東北芸術工科大学]]外苑キャンパス * 千日谷会堂 * [[公明党]]本部 * [[創価学会]]総本部 ** 広宣流布大誓堂 ** 創価文化センター ** [[聖教新聞社]]本社屋(創価学会世界聖教会館) ** [[民主音楽協会]] * [[東京メトロ丸ノ内線]][[四谷三丁目駅]](外苑東通りを北へ8分程) * [[東鉄工業]]本社 - 駅ビル(JR信濃町ビル4階) |}} === バス路線 === 外苑東通り上、駅を南北に挟んで位置する'''信濃町駅前'''(1・2番のりば)<ref name="toeibus">{{Cite web|和書|title=信濃町駅|publisher=東京都交通局|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/bus/noriba/shinano.html|accessdate=2022-12-19}}</ref>と'''信濃町駅南口'''(3・4番のりば)<ref name="toeibus"/>が最寄りバス停である。いずれのバス停も、[[東京都交通局]]([[都営バス]])の以下の路線が発着する。 * [[都営バス杉並支所#品97系統|品97系統]]:[[品川駅|品川駅高輪口]]行 / [[新宿駅のバス乗り場#東京都交通局(都営バス)|新宿駅西口]]行 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車) :: [[四ツ谷駅]] (JB 14) - '''信濃町駅 (JB 13)''' - [[千駄ケ谷駅]] (JB 12) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === <!--==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} --> ==== 出典 ==== {{Reflist}} ==== 報道発表資料 ==== {{Reflist|group="報道"|2}} === 利用状況 === {{Reflist|group="統計"}} ;JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ;東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 参考文献 == * {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=5 |title=中央本線 |date=2009-08-09 |ref=sone05 }} == 関連項目 == {{Commonscat|Shinanomachi Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=798|name=信濃町}} {{総武・中央緩行線}} {{DEFAULTSORT:しなのまち}} [[Category:新宿区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 し|なのまち]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:中央・総武緩行線]] [[Category:甲武鉄道の鉄道駅]] [[Category:1890年開業の鉄道駅]] [[Category:四谷]]
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千駄ケ谷駅
千駄ケ谷駅(せんだがやえき) は、東京都渋谷区千駄ヶ谷一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線の駅である。駅番号はJB 12。渋谷区内の鉄道駅では最も東に位置する。 当駅には中央・総武線各駅停車のみが停車する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属する。駅名は「千駄ケ谷」と表記するが、地名は「千駄ヶ谷」。 当時の甲武鉄道が飯田町 - 中野間を電化した際、当駅を旅客駅として新設開業したが、当時の乗降客は一日に250人程度であった。その後、アメリカ軍による空襲を受けて駅舎が被災するなどしたが、駅に隣接して駅前に被さる首都高速4号新宿線高架道路の完成や駅舎の改築を経て現在の姿となっている。 1927年(昭和2年)2月7日より2日間に渡って行われた大正天皇の大喪の礼に際し、当駅の付近に新宿御苑仮停車場(しんじゅくぎょえんかりていしゃじょう)が開設されている。 当時複々線化の為に新設工事中だった列車線(現在の上り急行線)の新宿御苑側に専用のホームと駅舎が設置され、霊柩列車を東浅川駅へ奉送運行する際に使用された。同年2月9日に廃止となり、駅舎は浅川駅へ移設された。 単式ホーム2面2線を有する地上駅である。当駅は駅のすぐ北側にある新宿御苑への配慮のため、周辺の駅のような発車メロディは導入されておらず、代わりに発車ベルが鳴る。かつてはみどりの窓口が営業していたが2007年(平成19年)に営業終了し、代わりに指定席券売機が設置されている。2019年(平成31年)2月1日より、駅遠隔操作システム(現・お客さまサポートコールシステム)が導入され、早朝時間帯は、遠隔対応(インターホン対応は四ツ谷駅が行う)のため改札係員は不在となり、一部の自動券売機のみが稼働する。 1964年東京オリンピック開催時に、旧1番線の反対側に臨時ホームが設置され、五輪観戦客の混雑緩和を図っていたが、開催後は稀に使用される程度で事実上閉鎖された状態が続いていた。その後、2020年東京オリンピック開催に向け、臨時ホームを再整備のうえ西行専用ホームとして使用することになり、エスカレーターやエレベーター、ホームドアの設置と改札口の移設が行われた。また、ホームドアを設けるため、従来は5メートルだったホームの横幅を最大9メートルに広げる工事も同時に行われた。 (出典:JR東日本:駅構内図) 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は14,610人である。中央・総武線(千葉駅 - 三鷹駅間)においては幕張駅に次いで少ない。 近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通り。 最寄りのバス停留所は千駄ヶ谷駅前(国立競技場駅前)停留所となる。以下の路線が乗り入れている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "千駄ケ谷駅(せんだがやえき) は、東京都渋谷区千駄ヶ谷一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線の駅である。駅番号はJB 12。渋谷区内の鉄道駅では最も東に位置する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "当駅には中央・総武線各駅停車のみが停車する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属する。駅名は「千駄ケ谷」と表記するが、地名は「千駄ヶ谷」。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "当時の甲武鉄道が飯田町 - 中野間を電化した際、当駅を旅客駅として新設開業したが、当時の乗降客は一日に250人程度であった。その後、アメリカ軍による空襲を受けて駅舎が被災するなどしたが、駅に隣接して駅前に被さる首都高速4号新宿線高架道路の完成や駅舎の改築を経て現在の姿となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1927年(昭和2年)2月7日より2日間に渡って行われた大正天皇の大喪の礼に際し、当駅の付近に新宿御苑仮停車場(しんじゅくぎょえんかりていしゃじょう)が開設されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当時複々線化の為に新設工事中だった列車線(現在の上り急行線)の新宿御苑側に専用のホームと駅舎が設置され、霊柩列車を東浅川駅へ奉送運行する際に使用された。同年2月9日に廃止となり、駅舎は浅川駅へ移設された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "単式ホーム2面2線を有する地上駅である。当駅は駅のすぐ北側にある新宿御苑への配慮のため、周辺の駅のような発車メロディは導入されておらず、代わりに発車ベルが鳴る。かつてはみどりの窓口が営業していたが2007年(平成19年)に営業終了し、代わりに指定席券売機が設置されている。2019年(平成31年)2月1日より、駅遠隔操作システム(現・お客さまサポートコールシステム)が導入され、早朝時間帯は、遠隔対応(インターホン対応は四ツ谷駅が行う)のため改札係員は不在となり、一部の自動券売機のみが稼働する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1964年東京オリンピック開催時に、旧1番線の反対側に臨時ホームが設置され、五輪観戦客の混雑緩和を図っていたが、開催後は稀に使用される程度で事実上閉鎖された状態が続いていた。その後、2020年東京オリンピック開催に向け、臨時ホームを再整備のうえ西行専用ホームとして使用することになり、エスカレーターやエレベーター、ホームドアの設置と改札口の移設が行われた。また、ホームドアを設けるため、従来は5メートルだったホームの横幅を最大9メートルに広げる工事も同時に行われた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は14,610人である。中央・総武線(千葉駅 - 三鷹駅間)においては幕張駅に次いで少ない。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "最寄りのバス停留所は千駄ヶ谷駅前(国立競技場駅前)停留所となる。以下の路線が乗り入れている。", "title": "駅周辺" } ]
千駄ケ谷駅(せんだがやえき) は、東京都渋谷区千駄ヶ谷一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線の駅である。駅番号はJB 12。渋谷区内の鉄道駅では最も東に位置する。 当駅には中央・総武線各駅停車のみが停車する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属する。駅名は「千駄ケ谷」と表記するが、地名は「千駄ヶ谷」。
{{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = 千駄ケ谷駅 |画像 = Sendagaya-Station-building-202006.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 駅入口(2020年6月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|40|52.2|N|139|42|41.2|E}}}} |よみがな = せんだがや |ローマ字 = Sendagaya |前の駅 = JB 13 [[信濃町駅|信濃町]] |駅間A = 0.7 |駅間B = 1.0 |次の駅 = [[代々木駅|代々木]] JB 11 |電報略号 = セカ |駅番号 = {{駅番号r|JB|12|#ffd400|1}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]]<br />(線路名称上は[[中央本線]]) |キロ程 = 7.3&nbsp;km([[神田駅 (東京都)|神田]]起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から44.7 |起点駅 = |所在地 = [[東京都]][[渋谷区]][[千駄ヶ谷]]一丁目35-10 |座標 = {{coord|35|40|52.2|N|139|42|41.2|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 2面2線 |開業年月日 = [[1904年]]([[明治]]37年)[[8月21日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = 14,610 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]] * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅<ref name="StationCd=914_230911">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=914|title=駅の情報(千駄ケ谷駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230911144218/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=914|archivedate=2023-09-11}}</ref> * [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}} }} '''千駄ケ谷駅'''(せんだがやえき) は、[[東京都]][[渋谷区]][[千駄ヶ谷]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[中央本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JB 12'''。渋谷区内の鉄道駅では最も東に位置する。 当駅には[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]]のみが停車する。また、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属する。駅名は「千駄'''ケ'''谷」と表記するが、地名は「千駄'''ヶ'''谷」。 == 歴史 == 当時の[[甲武鉄道]]が[[飯田町駅|飯田町]] - [[中野駅 (東京都)|中野]]間を電化した際、当駅を[[旅客駅]]として新設開業したが、当時の乗降客は一日に250人程度であった<ref name="kioku">{{Cite book|和書|title=渋谷の記憶 : 写真でみる今と昔|publisher=渋谷区教育委員会|volume=2|date=2009-03-10}}</ref>。その後、[[アメリカ軍]]による[[東京大空襲|空襲]]を受けて駅舎が被災するなどしたが<ref name="kioku"/>、駅に隣接して駅前に被さる[[首都高速4号新宿線]]高架道路の完成や駅舎の改築を経て現在の姿となっている。 === 年表 === * [[1904年]]([[明治]]37年)[[8月21日]]:甲武鉄道の駅として開業<ref>{{NDLDC|2949669/10|官報. 1904年08月29日|format=EXTERNAL}}]</ref>。当初は旅客営業のみ。 * [[1906年]](明治39年)[[10月1日]]:甲武鉄道の[[鉄道国有法|国有化]]により[[官設鉄道]]の駅となる<ref name="sone05-23">[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、23頁</ref>。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により中央東線(1911年から中央本線)の所属となる{{R|sone05-23}}。 * [[1924年]]([[大正]]13年):2代目駅舎が完成。 * [[1945年]]([[昭和]]20年) ** [[5月18日]]:[[東京大空襲]]により駅舎が全焼<ref name="交通1956">{{Cite news |和書|title=出改札も二本建 スポーツ客ラッシュも解消へ 新装千駄ヶ谷駅 お目見得 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1956-03-30 |page=2 }}</ref>。 ** 12月:木造バラック駅舎建築。 * [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]発足<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、25頁</ref>。 * [[1956年]](昭和31年)[[4月2日]]:駅舎改築{{R|交通1956}}(PCブロック構造)。モデル駅に指定。 * [[1958年]](昭和33年)1月:[[アジア競技大会]]開催に伴い改築。 * [[1964年]](昭和39年)9月:[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]にあわせ改築。臨時ホーム新設。 * [[1976年]](昭和51年)7月:[[みどりの窓口]]営業開始<ref>{{Cite book|和書|title=交通公社の時刻表|publisher=[[JTBパブリッシング|日本交通公社出版事業局]]|volume=8月号|year=1976}}</ref>。 * [[1980年]](昭和55年)12月:ホームに将棋の駒のオブジェ設置(日本将棋連盟より寄贈)。 * [[1986年]](昭和61年)[[10月23日]]:[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]からの観客5000人が当駅の改札に殺到し、[[群衆事故]]が起こる<ref name="RJ241">{{Cite book|和書|title=[[鉄道ジャーナル]]|volume=21|issue=1|page=121|publisher=鉄道ジャーナル社|date=1987-01}}</ref>。46人負傷<ref name="RJ241"/>。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、27頁</ref>。 * [[1990年]]([[平成]]2年)[[6月2日]]:[[自動改札機]]導入<ref>{{Cite book|和書|date=1991-08-01|title=JR気動車客車編成表 '91年版|chapter=JR年表|page=191|publisher=ジェー・アール・アール|ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。 * [[1998年]](平成10年)3月:[[エスカレーター]]の使用を開始。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月9日]]:みどりの窓口の営業を終了。 * [[2009年]](平成21年)4月:駅構内が全面禁煙になる。 * [[2012年]](平成24年)9月:[[エレベーター]]の使用を開始。 * [[2016年]](平成28年)[[9月18日]]:[[2020年東京オリンピック]]に向けての駅舎改修工事のため、仮駅舎の使用を開始<ref group="報道" name="press-20160605">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160605.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190818210947/https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160605.pdf|format=PDF|language=日本語|title=駅改良の工事計画について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2016-06-08|archivedate=2019-08-18|accessdate=2019-11-19}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年) ** [[2月1日]]:[[駅集中管理システム|駅遠隔操作システム(現・お客さまサポートコールシステム)]]導入に伴い、早朝無人化<ref name="early-morning">{{Cite web|和書|url=http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/h30eigyou_no1.html|title=「平成30年度営業関係施策(その1)について」提案を受ける|accessdate=2019-11-15|publisher=東日本ユニオン東京地本|archivedate=2019-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191114154228/http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/h30eigyou_no1.html}}</ref>。 ** [[10月27日]]:新駅舎の供用を開始<ref group="報道" name="New-station">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/tokyo/20190917_to02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=千駄ケ谷駅 新駅舎及び新ホームの供用開始について|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2019-09-17|accessdate=2019-09-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190918112537/https://www.jreast.co.jp/press/2019/tokyo/20190917_to02.pdf|archivedate=2019-09-18}}</ref>。 * [[2020年]](令和2年) ** [[3月22日]]:新宿方面行きのりば(旧1番線)を新ホームへ移動<ref group="報道" name="New-station"/><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://this.kiji.is/614345549200671841?c=39546741839462401|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200322073909/https://this.kiji.is/614345549200671841?c=39546741839462401|title=国立競技場最寄り駅リニューアル JR千駄ケ谷に新ホーム|newspaper=共同通信|date=2020-03-22|accessdate=2020-03-22|archivedate=2020-03-22|deadlinkdate=2022-12-12}}</ref>。 ** [[6月13日]]:[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200407_ho01.pdf|title=より安全な駅ホーム・踏切の実現に向けた取組みについて|language=日本語|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-04-07|accessdate=2020-04-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200407061032/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200407_ho01.pdf|archivedate=2020-04-07}}</ref>。 === 新宿御苑仮停車場 === [[1927年]](昭和2年)[[2月7日]]より2日間に渡って行われた[[大正天皇]]の[[大喪の礼]]に際し、当駅の付近に'''新宿御苑仮停車場'''(しんじゅくぎょえんかりていしゃじょう)が開設されている<ref name="kajima">{{Cite web|和書|url=https://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki44/index-j.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201025163506/https://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki44/index-j.html|title=第44回 JR高尾駅 -大正天皇御大喪仮停車場の今-|website=[https://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/list.html 鹿島の軌跡〜歴史の中から見えてくるものがある〜]|archivedate=2020-10-25|accessdate=2021-03-11|publisher=[[鹿島建設|鹿島]]|language=日本語}}</ref>。 当時複々線化の為に新設工事中だった[[電車線・列車線|列車線]](現在の上り急行線)の[[新宿御苑]]側に専用のホームと駅舎が設置され、霊柩列車を[[東浅川駅]]へ奉送運行する際に使用された<ref name="kajima" />。同年[[2月9日]]に廃止となり、駅舎は[[高尾駅 (東京都)|浅川駅]]へ移設された<ref name="kajima" />。 == 駅構造 == [[プラットホーム#単式ホーム|単式ホーム]]2面2線を有する[[地上駅]]である。当駅は駅のすぐ北側にある新宿御苑への配慮のため、周辺の駅のような[[発車メロディ]]は導入されておらず、代わりに発車ベルが鳴る。かつては[[みどりの窓口]]が営業していたが[[2007年]]([[平成]]19年)に営業終了し、代わりに[[指定席券売機]]が設置されている。[[2019年]](平成31年)[[2月1日]]より、[[駅集中管理システム|駅遠隔操作システム(現・お客さまサポートコールシステム)]]が導入され、早朝時間帯は、遠隔対応(インターホン対応は[[四ツ谷駅]]が行う)のため改札係員は不在となり、一部の自動券売機のみが稼働する<ref name="early-morning" />。 [[1964年東京オリンピック]]開催時に、旧1番線の反対側に臨時ホームが設置され、五輪観戦客の混雑緩和を図っていたが、開催後は稀に使用される程度で事実上閉鎖された状態が続いていた。その後、[[2020年東京オリンピック]]開催に向け、臨時ホームを再整備のうえ西行専用ホームとして使用することになり、[[エスカレーター]]や[[エレベーター]]、[[ホームドア]]の設置と改札口の移設が行われた<ref group="報道" name="press-20160605" /><ref group="新聞" name="news20180718"/>。また、ホームドアを設けるため、従来は5[[メートル]]だったホームの横幅を最大9メートルに広げる工事も同時に行われた<ref group="新聞" name="news20180718">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASL7K4FNWL7KUTIL028.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200916115732/https://www.asahi.com/articles/ASL7K4FNWL7KUTIL028.html|title=JR千駄ケ谷駅、改良工事急ピッチ 新国立競技場最寄り|newspaper=朝日新聞|date=2018-07-18|accessdate=2020-09-16|archivedate=2020-09-16}}</ref>。 === のりば === <!-- 方面表記は「駅構内図」の記載に基づく --> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車) |style="text-align:center"|西行 |[[新宿駅|新宿]]・[[中野駅 (東京都)|中野]]・[[三鷹駅|三鷹]]方面 |- !2 |style="text-align:center"|東行 |[[御茶ノ水駅|御茶ノ水]]・[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[千葉駅|千葉]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/914.html JR東日本:駅構内図]) * [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月14日]]のダイヤ改正以降、早朝・深夜に設定されていた[[東京駅]]発着の各駅停車が消滅した<ref group="報道" name="pr20191213">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191213080612/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年3月ダイヤ改正について|page=6|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-12-13|accessdate=2020-02-29|archivedate=2019-12-13}}</ref>。 <gallery> JRE Sendagaya-STA Gate.jpg|駅出入口および改札(2022年11月) JRE Sendagaya-STA Ticket.jpg|切符売り場(2022年11月) JRE Sendagaya-STA Platform1.jpg|1番線ホーム(2023年7月) JRE Sendagaya-STA Platform2.jpg|2番線ホーム(2023年7月) </gallery> == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''14,610人'''である。中央・総武線(千葉駅 - 三鷹駅間)においては[[幕張駅]]に次いで少ない。 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[https://www.city.shibuya.tokyo.jp/kusei/kankobutsu/shibuya_gaiyo/index.html 渋谷区勢概要] - 渋谷区</ref><ref group="統計">[https://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/kikaku01_001004.html 新宿区の概況] - 新宿区</ref> ! rowspan="2" |年度 ! colspan="3" |1日平均乗車人員 ! rowspan="2" |出典 |- !定期外 !定期 !合計 |- |1990年(平成{{0}}2年) | | |28,112 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) | | |29,806 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) | | |29,085 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) | | |28,866 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) | | |27,795 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) | | |27,068 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) | | |25,800 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) | | |25,313 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) | | |24,463 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) | | |23,923 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>23,123 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>22,698 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>23,022 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>22,508 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>22,419 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>22,213 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>21,993 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>22,543 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |12,567 |8,742 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>21,309 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |12,177 |8,348 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>20,525 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |11,582 |8,685 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>20,268 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |11,383 |8,625 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>20,008 |<ref 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name="jr-2021" />5,777 |<ref group="JR" name="jr-2021" />5,903 |<ref group="JR" name="jr-2021">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_02.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>11,680 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR" name="jr-2022" />8,320 |<ref group="JR" name="jr-2022" />6,289 |<ref group="JR" name="jr-2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_02.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>14,610 | |} == 駅周辺 == {{See also|霞ヶ丘町|千駄ヶ谷}} [[File:Tokyo Metropolitan Gymnasium 2008 cropped.jpg|thumb|東京体育館]] {{columns-list|2| * [[東京体育館]] * [[国立競技場]] * [[国立能楽堂]] * [[神宮外苑]] * [[新宿御苑]] * [[明治神宮野球場]] * 明治神宮[[アイススケート]]場 * [[三井不動産ホテルマネジメント|三井ガーデンホテル]]神宮外苑の杜プレミア([[千駄ヶ谷コート]]跡地<ref>{{Cite web|和書|url=https://smtrc.jp/town-archives/city/yotsuya/p09.html|title=スポーツの拠点となった「神宮外苑」|website=このまちアーカイブス|publisher=三井住友トラスト不動産|accessdate=2022-08-07}}</ref>) * [[日本将棋連盟]]東京・[[将棋会館]] * [[東京勤労者医療会]]代々木[[病院]] * [[都営地下鉄大江戸線]][[国立競技場駅]] * [[東京メトロ副都心線]][[北参道駅]] * [[原宿警察署]]千駄ヶ谷駅前交番 * [[佐藤美術館]] * [[津田塾大学]]千駄ヶ谷キャンパス |}} === バス路線 === 最寄りの[[バス停留所]]は'''千駄ヶ谷駅前(国立競技場駅前)'''停留所となる。以下の路線が乗り入れている。 * [[都営バス]] ** [[都営バス新宿支所#早81系統|早81系統]]:[[渋谷駅|渋谷駅東口]](循環) / [[早稲田大学|早大正門]]行き ** [[都営バス品川営業所#黒77系統|黒77系統]]:[[目黒駅|目黒駅前]]行き ; 千駄ケ谷駅(東京体育館)停留所 * [[ハチ公バス]]([[東急バス]]) ** [[ハチ公バス#神宮の杜ルート|神宮の杜ルート]]:[[代々木駅]]方面/渋谷駅ハチ公口方面 == その他 == * かつて2番線ホーム中央の水飲み場には、[[日本将棋連盟]]本部所在地に因み、[[将棋]]の[[玉将|王将]]の駒を模したモニュメント(書は[[大山康晴]]によるもの)があったが<ref group="新聞">{{Cite news |title=疑問解決モンジロー 水飲み場少なくなった?|newspaper=[[朝日新聞]] |date=2004-07-10 |location=[[東京都]] |publisher=[[朝日新聞社]] |page=27(生活) }}</ref>、改良工事に伴い一時撤去された<ref name="fun20200825">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/funtokyo/event/2020_ohsho.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210312220425/https://www.jreast.co.jp/funtokyo/event/2020_ohsho.html|title= 千駄ケ谷駅 王将の駒モニュメント再展示! お帰りなさい、王将の駒モニュメント!!|date =2020-08-25|archivedate=2021-03-12|accessdate=2021-03-12|website=[https://www.jreast.co.jp/funtokyo/ FUN!TOKYO!]|publisher=東日本旅客鉄道|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。[[2020年]]([[令和]]2年)[[8月21日]]から駅コンコースに設けられた将棋コーナーに移設され、[[羽生善治]]の[[揮毫]]による駅名の書と共に展示されている<ref name="fun20200825" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/event/2020/08/jr.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201006045456/https://www.shogi.or.jp/event/2020/08/jr.html|title=JR千駄ケ谷駅「将棋コーナー」除幕セレモニーの模様|date=2020-08-24|archivedate=2020-10-06|accessdate=2020-10-06|publisher=日本将棋連盟|language=日本語}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S14621788.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200915015313/https://www.asahi.com/articles/DA3S14621788.html|title=石の「王将」お引っ越し JR千駄ケ谷駅|newspaper=朝日新聞|date=2020-09-14|accessdate=2020-09-15|archivedate=2020-09-15}}</ref>。 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車) :: [[信濃町駅]] (JB 13) - '''千駄ケ谷駅 (JB 12)''' - [[代々木駅]] (JB 11) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === <!--==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} --> ==== 出典 ==== {{Reflist}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === {{Reflist|group="統計"}} ; JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 参考文献 == * {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=5 |title=中央本線 |date=2009-08-09 |ref=sone05 }} == 関連項目 == {{Commonscat|Sendagaya Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[千駄ヶ谷]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=914|name=千駄ケ谷}} * 青山軍用停車場図[{{NDLDC|805187/54}} 『甲武鉄道市街線紀要』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー) {{総武・中央緩行線}} {{DEFAULTSORT:せんたかや}} [[Category:渋谷区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 せ|んたかや]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:中央・総武緩行線]] [[Category:甲武鉄道の鉄道駅]] [[Category:1904年開業の鉄道駅]] [[Category:千駄ヶ谷]]
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12,448
近点・遠点
近点・遠点(きんてん・えんてん、periapsis and apoapsis) とは、軌道運動する天体が、中心天体の重力中心に最も近づく位置「近点」と最も遠ざかる位置「遠点」のことである。両者を総称して軌道極点またはアプシス (apsis) と言う。 特に、中心天体が太陽のときは近日点・遠日点(きんじつてん・えんじつてん、perihelion and aphelion)、主星が地球のときは近地点・遠地点(きんちてん・えんちてん、perigee and apogee)、連星系では近星点・遠星点(きんせいてん・えんせいてん、periastron and apastron)と言う。地球を周回する人工衛星については英単語のままペリジー・アポジーとも言う。主星が惑星の場合、例えば木星の衛星や木星を周回する探査機(ジュノーなど)の軌道の木星に対する近点・遠点は近木点・遠木点(きんもくてん・えんもくてん、perijove and apojove)、土星ならば近土点・遠土点(きんどてん・えんどてん、perichron and apochron)と表現することもある。 中心天体の周りを周回する天体は楕円軌道を取るが、中心天体は楕円の中心ではなく、楕円の長軸上にふたつ存在する焦点のいずれかに位置する。このため周回する天体は中心天体に対して、最も接近する位置(近点)と最も遠ざかる位置(遠点)を持つことになる。遠点・近点および中心天体の重力中心は一直線をなし、この直線は楕円の長軸に一致する。 中心天体の重力中心から近点までの距離を近点距離(近日点距離、近地点距離)、遠点までの距離を遠点距離(遠日点距離、遠地点距離)といい、それぞれ軌道要素の1つである。軌道長半径、離心率、近点距離、遠点距離の4つの軌道要素のうち2つを指定すれば、軌道の2次元的な形状が決まる。通常、軌道長半径と離心率が使われるが、放物線軌道・双曲線軌道(特に、彗星の軌道)については通常の意味での軌道長半径を定義できないので、近点距離と離心率が使われる。なお、人工衛星については近地点高度・遠地点高度という言葉もあるが、これらは地球の海面(ジオイド)からの距離である。 他の天体による摂動、一般相対論的効果により、近点は(したがって遠点も)少しずつ移動することがある。これを近点移動(近日点移動、近地点移動)という。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "近点・遠点(きんてん・えんてん、periapsis and apoapsis) とは、軌道運動する天体が、中心天体の重力中心に最も近づく位置「近点」と最も遠ざかる位置「遠点」のことである。両者を総称して軌道極点またはアプシス (apsis) と言う。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "特に、中心天体が太陽のときは近日点・遠日点(きんじつてん・えんじつてん、perihelion and aphelion)、主星が地球のときは近地点・遠地点(きんちてん・えんちてん、perigee and apogee)、連星系では近星点・遠星点(きんせいてん・えんせいてん、periastron and apastron)と言う。地球を周回する人工衛星については英単語のままペリジー・アポジーとも言う。主星が惑星の場合、例えば木星の衛星や木星を周回する探査機(ジュノーなど)の軌道の木星に対する近点・遠点は近木点・遠木点(きんもくてん・えんもくてん、perijove and apojove)、土星ならば近土点・遠土点(きんどてん・えんどてん、perichron and apochron)と表現することもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "中心天体の周りを周回する天体は楕円軌道を取るが、中心天体は楕円の中心ではなく、楕円の長軸上にふたつ存在する焦点のいずれかに位置する。このため周回する天体は中心天体に対して、最も接近する位置(近点)と最も遠ざかる位置(遠点)を持つことになる。遠点・近点および中心天体の重力中心は一直線をなし、この直線は楕円の長軸に一致する。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "中心天体の重力中心から近点までの距離を近点距離(近日点距離、近地点距離)、遠点までの距離を遠点距離(遠日点距離、遠地点距離)といい、それぞれ軌道要素の1つである。軌道長半径、離心率、近点距離、遠点距離の4つの軌道要素のうち2つを指定すれば、軌道の2次元的な形状が決まる。通常、軌道長半径と離心率が使われるが、放物線軌道・双曲線軌道(特に、彗星の軌道)については通常の意味での軌道長半径を定義できないので、近点距離と離心率が使われる。なお、人工衛星については近地点高度・遠地点高度という言葉もあるが、これらは地球の海面(ジオイド)からの距離である。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "他の天体による摂動、一般相対論的効果により、近点は(したがって遠点も)少しずつ移動することがある。これを近点移動(近日点移動、近地点移動)という。", "title": null } ]
近点・遠点、主星が地球のときは近地点・遠地点、連星系では近星点・遠星点と言う。地球を周回する人工衛星については英単語のままペリジー・アポジーとも言う。主星が惑星の場合、例えば木星の衛星や木星を周回する探査機(ジュノーなど)の軌道の木星に対する近点・遠点は近木点・遠木点、土星ならば近土点・遠土点と表現することもある。 中心天体の周りを周回する天体は楕円軌道を取るが、中心天体は楕円の中心ではなく、楕円の長軸上にふたつ存在する焦点のいずれかに位置する。このため周回する天体は中心天体に対して、最も接近する位置(近点)と最も遠ざかる位置(遠点)を持つことになる。遠点・近点および中心天体の重力中心は一直線をなし、この直線は楕円の長軸に一致する。 中心天体の重力中心から近点までの距離を近点距離(近日点距離、近地点距離)、遠点までの距離を遠点距離(遠日点距離、遠地点距離)といい、それぞれ軌道要素の1つである。軌道長半径、離心率、近点距離、遠点距離の4つの軌道要素のうち2つを指定すれば、軌道の2次元的な形状が決まる。通常、軌道長半径と離心率が使われるが、放物線軌道・双曲線軌道(特に、彗星の軌道)については通常の意味での軌道長半径を定義できないので、近点距離と離心率が使われる。なお、人工衛星については近地点高度・遠地点高度という言葉もあるが、これらは地球の海面(ジオイド)からの距離である。 他の天体による摂動、一般相対論的効果により、近点は(したがって遠点も)少しずつ移動することがある。これを近点移動(近日点移動、近地点移動)という。
{{出典の明記|| date = 2022年1月}} {{Redirect|アポジ|ブラジル出身のサッカー選手|ジ・ソウザ・アウベス・ルイス・ジャリソン}} [[画像:Elliptical-orbit.png|right|thumb|250px|近地点と遠地点の位置関係]] {{Astrodynamics}} '''近点・遠点'''(きんてん・えんてん) とは、[[軌道 (力学)|軌道]]運動する[[天体]]が、中心天体の重力中心に最も近づく位置「近点」と最も遠ざかる位置「遠点」のことである。両者を総称して'''軌道極点'''または'''アプシス''' と言う。 特に、中心天体が[[太陽]]のときは'''近日点・遠日点'''(きんじつてん・えんじつてん)、主星が[[地球]]のときは'''近地点・遠地点'''(きんちてん・えんちてん)、[[連星]]系では'''近星点・遠星点'''(きんせいてん・えんせいてん)と言う。[[地球]]を周回する[[人工衛星]]については英単語のまま'''ペリジー・アポジー'''とも言う。主星が[[惑星]]の場合、例えば[[木星]]の[[衛星]]や木星を周回する[[探査機]]の軌道の木星に対する近点・遠点は'''近木点・遠木点'''(きんもくてん・えんもくてん)、[[土星]]ならば'''近土点・遠土点'''(きんどてん・えんどてん)と表現することもある。 中心天体の周りを周回する天体は[[楕円軌道]]を取るが、中心天体は楕円の中心ではなく、楕円の長軸上にふたつ存在する[[焦点 (幾何学)|焦点]]のいずれかに位置する。このため周回する天体は中心天体に対して、最も接近する位置と最も遠ざかる位置を持つことになる。遠点・近点および中心天体の[[重力]]中心は一直線をなし、この直線は[[楕円]]の長軸に一致する。 中心天体の重力中心から近点までの距離を'''近点距離'''、遠点までの距離を'''遠点距離'''といい、それぞれ[[軌道要素]]の1つである。[[軌道長半径]]、[[離心率]]、近点距離、遠点距離の4つの軌道要素のうち2つを指定すれば、軌道の[[2次元]]的な形状が決まる。通常、軌道長半径と離心率が使われるが、放物線軌道・双曲線軌道については通常の意味での軌道長半径を定義できないので、近点距離と離心率が使われる。人工衛星については近地点高度・遠地点高度という言葉もあるが、これらは地球の海面([[ジオイド]])からの距離である。一方、宇宙船や探査機が他の天体の周りを公転する際には、それぞれの天体の形や質量分布に基づいた参照面を基準にして、高度が定義されることが多い。 他の天体による[[摂動 (天文学)|摂動]]、[[一般相対論]]的効果により、近点は少しずつ移動することがある。これを[[近日点移動|近点移動]]という。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[人工衛星の軌道]] * [[楕円軌道]] {{軌道}} {{デフォルトソート:きんてんえんてん}} [[Category:軌道]] [[Category:太陽系]]
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円軌道
円軌道(、英: circular orbit)は、楕円軌道の特別な場合、すなわち離心率 e が0であるものを言う。 人工衛星で円軌道という場合は、完全にゼロでなくても一定以下ならばこう呼ぶことが多い。一般に一定の高度から地表などを観測するリモートセンシング衛星は円軌道を採用することが多い。また、静止軌道は必ず円軌道である。 太陽系の惑星は概ね離心率が小さく円軌道をなすが、かつて惑星であった冥王星は当時の惑星としては例外的に離心率が大きく、近日点付近では海王星よりも太陽からの距離が近くなることで知られている。また、火星も比較的離心率が大きく、これが幸いしてヨハネス・ケプラーが惑星の運動法則であるケプラーの第一法則を発見するのが容易になった。
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円軌道(えんきどう、は、楕円軌道の特別な場合、すなわち離心率 e が0であるものを言う。 人工衛星で円軌道という場合は、完全にゼロでなくても一定以下ならばこう呼ぶことが多い。一般に一定の高度から地表などを観測するリモートセンシング衛星は円軌道を採用することが多い。また、静止軌道は必ず円軌道である。 太陽系の惑星は概ね離心率が小さく円軌道をなすが、かつて惑星であった冥王星は当時の惑星としては例外的に離心率が大きく、近日点付近では海王星よりも太陽からの距離が近くなることで知られている。また、火星も比較的離心率が大きく、これが幸いしてヨハネス・ケプラーが惑星の運動法則であるケプラーの第一法則を発見するのが容易になった。
{{otheruses|天体の軌跡|『ギルガメシュ叙事詩』の登場人物|エンキドゥ}} {{出典の明記|date=2023年2月26日 (日) 09:14 (UTC)}} [[ファイル:OrbitalEccentricityDemo.svg|サムネイル|灰色(e=0)が円軌道]] {{Astrodynamics}} {{読み仮名|'''円軌道'''|えんきどう|{{lang-en-short|circular orbit}}}}は、[[楕円軌道]]の特別な場合、すなわち[[離心率]] ''e'' が0であるものを言う。 [[人工衛星]]で円軌道という場合は、完全にゼロでなくても一定以下ならばこう呼ぶことが多い。一般に一定の高度から地表などを観測する[[リモートセンシング衛星]]は円軌道を採用することが多い。また、[[静止軌道]]は必ず円軌道である。 [[太陽系]]の[[惑星]]は概ね離心率が小さく円軌道をなすが、かつて惑星であった[[冥王星]]は当時の惑星としては例外的に離心率が大きく、近日点付近では[[海王星]]よりも太陽からの距離が近くなることで知られている。また、[[火星]]も比較的離心率が大きく、これが幸いして[[ヨハネス・ケプラー]]が惑星の運動法則である[[ケプラーの法則|ケプラーの第一法則]]を発見するのが容易になった。 ==関連記事== *[[楕円軌道]] *[[人工衛星の軌道]] *[[ケプラーの法則]] *[[万有引力]] *[[ニュートン力学]] {{軌道}} [[Category:軌道|えんきとう]]
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磁性
物理学において磁性(じせい、英: magnetism)とは、物質が原子あるいは原子よりも小さいレベルで磁場に反応する性質であり、他の物質に対して引力や斥力を及ぼす性質の一つである。磁気(じき)とも言う。 磁性は様々に分類がなされている。例えば、磁性の分類の中では強磁性がよく知られているが、強磁性を持つ物質は自ら持続的な磁場を生み出し得る。また、電流などによっても磁場は発生する。ところで、あらゆる物質は程度の差こそあれ、磁場によって何らかの影響を受ける。磁場に引き付けられる物質もあれば(常磁性)、磁場に反発する物質もある(反磁性)。さらに、磁場と複雑な関係を有する物質もある。しかも、ある物質の磁性状態(または相)は、温度(あるいは圧力や周囲の磁場)に依存するため、1つの物質であっても温度などの条件によって様々な磁性を示すことがある。ただし、ほとんどの場合、磁場によって物質が受ける影響は、特別な装置を使わなければ検出できないほど小さい。中でも、磁場の影響が無視できる物質は非磁性 (non-magnetic) 物質と呼ばれ、これには例えば、銅、アルミニウム、一般的な気体、合成樹脂などが含まれる。非磁性物質に対して、特別な装置など使わずとも容易に判るほど強い磁性を示す物質(強磁性物質)として、ある種の鋼のような人工的な鉄合金がよく知られている。また、磁鉄鉱(天然磁石)や磁硫鉄鉱などといった鉱物も強磁性物質であり、その名に「磁石」の「磁」が付いていることからも明らかなように、人間が手を加えるまでもなく、磁力を持っていることが見て取れる磁石が天然に生成される場合もあることが知られている。 磁力は、電荷の運動によって引き起こされる基本的な力である。磁力を支配する場の起源と振る舞いはマクスウェル方程式で記述される(ビオ・サバールの法則も参照のこと)。そのため磁気は電荷を持つ粒子が運動をすればいつでも現れる。磁気・磁性は電流の中の電子の運動によって発生して電磁気と呼ばれたり、電子の量子力学的な軌道運動(電子は太陽を周る惑星のような軌道運動を行なっているわけではないが、「実効的な電子の速度」は存在する)やスピンによって生じ、永久磁石の力の源となったりする。 電気と磁気の関係の解明は1819年、コペンハーゲン大学の教授だったハンス・クリスティアン・エルステッドが電流によって方位磁針が影響を受けることを発見したのが始まりである。その後、アンドレ=マリ・アンペール、カール・フリードリヒ・ガウス、マイケル・ファラデーといった人々が実験を行い、電気と磁気の関係をさらに明らかにしていった。ジェームズ・クラーク・マクスウェルはそれまでの知見をマクスウェルの方程式にまとめ、電気と磁気と光学を一分野にまとめた電磁気学を生み出すことになった。1905年、アインシュタインはそこから特殊相対性理論を生み出した。 古典電磁気学は19世紀末には完成していたものの、物質の磁性の起源を本格的に議論するには、20世紀初頭の量子力学の成立を待たねばならなかった。これは、ボーア=ファン・リューエンの定理のために、マクロな古典系においては物質の磁性を説明できないためである。 量子力学の成立以後、電子や原子核の持つスピン角運動量が微視的な物質中の磁性の起源の本質である事が認識された。 量子力学の成立においても中心的な役割を果たしたヴェルナー・ハイゼンベルクは、量子論に基づく強磁性体の理論を1928年に提出した。ハイゼンベルクの理論を始めとして、量子力学を用いた物質の磁性の研究が本格的に始まったが、原子核近傍に局在した電子が磁性を担っているとするハイゼンベルクの理論に対立して、 フェリックス・ブロッホ、エドマンド・ストーナー等が物質中を遍歴する電子が磁性を担っているとする遍歴電子理論を擁立し、どちらの理論が的を射ているのか、30年に渡って論争が続いた。その間も、ネール反強磁性、弱強磁性等、新しい磁気構造の発見、説明が行われた。局在電子理論vs遍歴電子理論の戦いは、結局の所それぞれの理論が有効な物質が見つかり、どちらの理論もある程度的を射ている事が明らかになった。 1949年になると、ネヴィル・モットによって、電子相関に伴う遍歴電子の局在化の概念がもたらされ、1959年にはフィリップ・アンダーソンによってモットの概念を用いてハバード・モデルにおける電子の局在化の基礎付けがなされた。これによって、遍歴電子と局在電子を統一的に扱う枠組みが確立した。 この功績によってモットとアンダーソンは、同じく磁性について研究していたジョン・ヴァン・ブレックと共に、1977年ノーベル物理学賞を受賞した(授賞理由:磁性体と無秩序系の電子構造の基礎理論的研究)。 20世紀後半になると、銅酸化物系高温超伝導体と磁気秩序の関連、磁性の工業的利用、スピントロニクスの発展等から、物質中の電子の持つスピンの性質に対するより深い理解への欲求が強まり、物質中の磁気秩序の解明が進んだ。 物質中の磁気構造を人工的に操作することも可能になり、磁区と呼ばれる強磁性の構造に情報を記録するハードディスクドライブも実用化された。 磁性と角運動量には密接な関係があり、微視的には「磁化による回転」を示すアインシュタイン・ド=ハース効果と、その逆の「回転による磁化」を示すバーネット効果がある。 原子およびそれよりさらに小さいスケールでは、この関係は磁気モーメントと角運動量の比、すなわち磁気回転比で表される。 磁性の源泉は2種類ある。 物体が磁性を持つ物理的原因は、電流の場合とは異なり、原子に生じる磁気双極子である。原子スケールでの磁気双極子、あるいは磁気モーメントは、電子の2種類の運動によって生じる。1番目は原子核の周りを回る電子の軌道運動である。これは電流のループと見なすことができ、原子の軸方向に軌道磁気モーメントを生じる。2番目の、もっとずっと強い磁気モーメントの源は、スピンと呼ばれる量子力学的な性質である。これはスピン磁気モーメントと呼ばれる。なお原子核にも磁気モーメントは存在するが、一般に電子のそれの数千分の1の強さしかなく、物質の磁性にはほとんど影響しない。しかし、例えば核磁気共鳴 (NMR) や核磁気共鳴画像法 (MRI) は、その原子核の磁気モーメントを利用している。 原子の全体的な磁気モーメントは、個々の電子の磁気モーメントの総和になる。磁気双極子は互いに反発してエネルギーを小さくしようとするため、軌道運動においてもスピン磁気モーメントにおいても、いくつかの電子のペアが持つ反対向きの磁気モーメントは互いに打ち消しあう。このため、電子殻や副殻が完全に満たされている原子では磁気モーメントは通常は完全に打ち消される。磁気モーメントを持つのは電子殻が部分的に満たされている原子だけであり、その強さは不対電子の数で決まる。 そのため、様々な元素ごとの電子配置の違いが原子の磁気モーメントの性質や強さを決めており、また様々な物質の磁気的な特性の違いをも決めている。また、温度によっても磁気的特性は変化する(高温では無作為な分子の運動によって電子が一定方向にそろって運動し続けるのが困難になる)。様々な物質で以下のようないくつかの形態の磁気的な振る舞いが見られる。 反磁性はあらゆる物質に存在し、磁場に反発する傾向を示す。しかし、常磁性(外部の磁場を強化する傾向)のある物質では常磁性が支配的になる。したがって、あらゆる物質が反磁性を持つにもかかわらず、反磁性的現象は反磁性しか持たない物質でしか観測されない。反磁性物質では電子は必ず対になっており、電子のスピン磁気モーメントは常に相殺されて巨視的効果を全く引き起こさない。その場合、磁化は電子の軌道運動から生じ、古典的には次のように理解できる。 物質を磁場に置くと、原子核の周囲を回っている電子は原子核との間のクーロン力に加えて磁場によるローレンツ力を受けることになる。電子の運動の方向によって、向心力が強まって電子が原子核に引き寄せられたり、逆に引き離されたりする。このため、磁場と逆向きの軌道磁気モーメントを持つ電子の磁気モーメントは強くなり、磁場と同じ方向の軌道磁気モーメントを持つ電子の磁気モーメントは弱められる(レンツの法則)。結果として、物質全体では磁場とは逆向きの磁気モーメントが生じる。 なお、この解説は一種のヒューリスティクスであって、真の理解のためには量子力学を持ち出す必要がある。 あらゆる物質でこのような電子軌道の変化が起きるが、常磁性や強磁性の物質では対になっていない電子の効果が相対的に大きいため、反磁性的現象は観測できない。 常磁性の物質には対になっていない電子があり、原子軌道または分子軌道に1つしか電子が存在しない。パウリの排他原理により、1つの軌道を共有する2つの電子は真性(スピン)磁気モーメントが逆向きになっていて、その磁気モーメントによる磁場は相殺される。対になっていない電子では磁気モーメントの向きは自由である。外部から磁場が印加されるとそれらの磁気モーメントは印加された磁場の向きにそろう傾向があり、それによって全体の磁気が強まる。 強磁性体も常磁性体と同様に対でない電子を持つ。したがって、磁場に置かれたときにそれらの磁気モーメントが一定方向にそろう性質を持つが、同時にエネルギー状態を低く保とうとしてそれぞれの磁気モーメントが互いに揃おうとする傾向がある。そのため、磁場を除いても物質内の電子が同じ向きを維持し続け、永久磁石となり得る。 強磁性物質にはそれぞれキュリー温度またはキュリー点と呼ばれる温度があり、それより高温の状態では強磁性を失う。これは、高温によって原子や分子が乱雑に運動するため、強磁性を発揮するために必要な向きの一致が保てなくなるためである。 磁石などにも使われる強磁性物質としては、ニッケル、鉄、コバルト、ガドリニウム、およびそれらの合金がある。 強磁性物質では個々の原子が持つ磁気モーメントによって、原子が小さな永久磁石のような振る舞いをする。そのため、互いに磁石のように引き付けあって整列し、磁気モーメントが揃った区域を形成する。これを磁区 (magnetic domain) と呼ぶ。磁気力顕微鏡を使うとこの微小な磁区を観察できる。 1つの磁区が大きくなりすぎると不安定になり、逆向きの2つの磁区に分裂する。すると右図のようになり、隣接する磁区がより強固に引き付け合うことになる。 強磁性体を磁場に置くと、左図のように磁区が成長して磁場の方向に揃うようになる。外部磁場を取り除いても、磁区の状態が元に戻らないこともある。そのため強磁性物質は磁化され、永久磁石となる。 十分強力に磁化されると、1つの磁区が支配的となって飽和磁化状態となる。ただし、磁化された強磁性物質を熱してキュリー温度を超えると、分子が揺り動かされて磁区を形成できなくなり、強磁性は失われる。 反強磁性は強磁性とは異なり、隣接する原子の真性磁気モーメントが互いに反対向き(反平行)になる傾向がある。原子が整列している場合、隣接する原子同士で磁気モーメントは常に反平行となり、反強磁性を示す。反強磁性体は全体として磁気モーメントが相殺されているため、磁場を発生しない。反強磁性は他の磁性に比較するとあまり見られず、主に非常に低い温度で観測される。温度を変化させると反強磁性体は反磁性およびフェリ磁性を示す。 一部の物質では隣接する電子が反平行となるが、それぞれの対はばらばらな向きを向いている。このような物質を「スピングラス」と呼ぶ。これはフラストレーションが生じている例である。 強磁性体と同様、フェリ磁性体も磁場のない状態で磁化された状態を保持する。しかし反強磁性体と同様、隣接する電子のスピンは反平行となっている。一見すると矛盾する特性を兼ね備えているのは、最適な幾何学的配置において一方向の磁気モーメントが逆方向の磁気モーメントより大きいためである。 天然に産する磁鉄鉱は元々は強磁性体だとみなされていたが、ルイ・ネールがフェリ磁性体であることを発見した。 強磁性体あるいはフェリ磁性体が十分小さいとき、ブラウン運動に左右される単一の磁気スピンのように振る舞う。磁場を印加した場合の反応は定性的には常磁性体と類似しているが、定量的にはもっと大きい。 マグネターと呼ばれる非常に強い磁場を持つ天体も存在すると考えられている。 アインシュタインの特殊相対性理論の帰結として、電気と磁気は根本的に相互に関連していると理解されている。電気を伴わない磁気や磁気を伴わない電気は、ローレンツ力が速度に依存する点から特殊相対性理論と整合しない。しかし、電気と磁気を両方考慮する電磁気学の理論は特殊相対性理論に完全に整合している。従って、ある観察者から見て完全に電気に見える現象や完全に磁気に見える現象が、別の観察者から見れば電気と磁気を両方伴うものに見える可能性があり、電気と磁気は系に依存した相対的なものである。つまり、特殊相対性理論では電気と磁気は1つとなり、分けて考えることができない。 磁気現象は磁場によってもたらされる。電流または磁気双極子は磁場を生み出し、その磁場内にある他の粒子に磁力が与えられる。 マクスウェルの方程式(定常電流の場合はビオ・サバールの法則に単純化される)は、そういった力を生み出す場の起源とその振る舞いを記述する。電荷を持つ粒子が運動すると(例えば、電子の運動によって電流が流れる場合や原子核の周りを電子が軌道を描いて回る場合)、磁気が現れる。また、磁気は量子力学的スピンによる(電流によるものではない)磁気双極子によっても生じる。 荷電粒子の運動やスピンによる磁気双極子によって磁場が生まれると、磁力も生じる。次の式は運動する荷電粒子についてのものである。 磁場の中を運動する荷電粒子は、以下のベクトル積で表される力 F(ローレンツ力)を受ける。 (ただし、粒子が磁気双極子でもある場合、これ以外の力も受ける。) ここで、 q {\displaystyle q\,} は粒子の電荷、 v → {\displaystyle {\vec {v}}\,} は粒子の速度ベクトル、 B → {\displaystyle {\vec {B}}\,} は磁束密度である。 この力は外積なので、粒子の速度と磁場の両方に対して垂直な方向に働く。このため仕事はなされず、磁力は粒子の運動の方向だけを変え、速さは変えない。力の大きさは、v と B の間の角度を θ {\displaystyle \theta } とすると、次のようになる。 力の向きを知るにはフレミング左手の法則が利用でき、電流の向き q v を中指、磁場 B を人差し指で表せば、力 F の方向は親指で表される。 粒子が磁気双極子である場合は、(非一様な)磁場の中で粒子がその速度と垂直でない力を受け速さが変わることもある。 一部の生物は磁場を知覚でき、これを磁覚 (magnetoception) と呼ぶ。医学的治療に磁場を使う Magnetobiology もある。また、生物が磁場を生み出す現象を biomagnetism と呼ぶ。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "物理学において磁性(じせい、英: magnetism)とは、物質が原子あるいは原子よりも小さいレベルで磁場に反応する性質であり、他の物質に対して引力や斥力を及ぼす性質の一つである。磁気(じき)とも言う。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "磁性は様々に分類がなされている。例えば、磁性の分類の中では強磁性がよく知られているが、強磁性を持つ物質は自ら持続的な磁場を生み出し得る。また、電流などによっても磁場は発生する。ところで、あらゆる物質は程度の差こそあれ、磁場によって何らかの影響を受ける。磁場に引き付けられる物質もあれば(常磁性)、磁場に反発する物質もある(反磁性)。さらに、磁場と複雑な関係を有する物質もある。しかも、ある物質の磁性状態(または相)は、温度(あるいは圧力や周囲の磁場)に依存するため、1つの物質であっても温度などの条件によって様々な磁性を示すことがある。ただし、ほとんどの場合、磁場によって物質が受ける影響は、特別な装置を使わなければ検出できないほど小さい。中でも、磁場の影響が無視できる物質は非磁性 (non-magnetic) 物質と呼ばれ、これには例えば、銅、アルミニウム、一般的な気体、合成樹脂などが含まれる。非磁性物質に対して、特別な装置など使わずとも容易に判るほど強い磁性を示す物質(強磁性物質)として、ある種の鋼のような人工的な鉄合金がよく知られている。また、磁鉄鉱(天然磁石)や磁硫鉄鉱などといった鉱物も強磁性物質であり、その名に「磁石」の「磁」が付いていることからも明らかなように、人間が手を加えるまでもなく、磁力を持っていることが見て取れる磁石が天然に生成される場合もあることが知られている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "磁力は、電荷の運動によって引き起こされる基本的な力である。磁力を支配する場の起源と振る舞いはマクスウェル方程式で記述される(ビオ・サバールの法則も参照のこと)。そのため磁気は電荷を持つ粒子が運動をすればいつでも現れる。磁気・磁性は電流の中の電子の運動によって発生して電磁気と呼ばれたり、電子の量子力学的な軌道運動(電子は太陽を周る惑星のような軌道運動を行なっているわけではないが、「実効的な電子の速度」は存在する)やスピンによって生じ、永久磁石の力の源となったりする。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "電気と磁気の関係の解明は1819年、コペンハーゲン大学の教授だったハンス・クリスティアン・エルステッドが電流によって方位磁針が影響を受けることを発見したのが始まりである。その後、アンドレ=マリ・アンペール、カール・フリードリヒ・ガウス、マイケル・ファラデーといった人々が実験を行い、電気と磁気の関係をさらに明らかにしていった。ジェームズ・クラーク・マクスウェルはそれまでの知見をマクスウェルの方程式にまとめ、電気と磁気と光学を一分野にまとめた電磁気学を生み出すことになった。1905年、アインシュタインはそこから特殊相対性理論を生み出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "古典電磁気学は19世紀末には完成していたものの、物質の磁性の起源を本格的に議論するには、20世紀初頭の量子力学の成立を待たねばならなかった。これは、ボーア=ファン・リューエンの定理のために、マクロな古典系においては物質の磁性を説明できないためである。 量子力学の成立以後、電子や原子核の持つスピン角運動量が微視的な物質中の磁性の起源の本質である事が認識された。 量子力学の成立においても中心的な役割を果たしたヴェルナー・ハイゼンベルクは、量子論に基づく強磁性体の理論を1928年に提出した。ハイゼンベルクの理論を始めとして、量子力学を用いた物質の磁性の研究が本格的に始まったが、原子核近傍に局在した電子が磁性を担っているとするハイゼンベルクの理論に対立して、 フェリックス・ブロッホ、エドマンド・ストーナー等が物質中を遍歴する電子が磁性を担っているとする遍歴電子理論を擁立し、どちらの理論が的を射ているのか、30年に渡って論争が続いた。その間も、ネール反強磁性、弱強磁性等、新しい磁気構造の発見、説明が行われた。局在電子理論vs遍歴電子理論の戦いは、結局の所それぞれの理論が有効な物質が見つかり、どちらの理論もある程度的を射ている事が明らかになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1949年になると、ネヴィル・モットによって、電子相関に伴う遍歴電子の局在化の概念がもたらされ、1959年にはフィリップ・アンダーソンによってモットの概念を用いてハバード・モデルにおける電子の局在化の基礎付けがなされた。これによって、遍歴電子と局在電子を統一的に扱う枠組みが確立した。 この功績によってモットとアンダーソンは、同じく磁性について研究していたジョン・ヴァン・ブレックと共に、1977年ノーベル物理学賞を受賞した(授賞理由:磁性体と無秩序系の電子構造の基礎理論的研究)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "20世紀後半になると、銅酸化物系高温超伝導体と磁気秩序の関連、磁性の工業的利用、スピントロニクスの発展等から、物質中の電子の持つスピンの性質に対するより深い理解への欲求が強まり、物質中の磁気秩序の解明が進んだ。 物質中の磁気構造を人工的に操作することも可能になり、磁区と呼ばれる強磁性の構造に情報を記録するハードディスクドライブも実用化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "磁性と角運動量には密接な関係があり、微視的には「磁化による回転」を示すアインシュタイン・ド=ハース効果と、その逆の「回転による磁化」を示すバーネット効果がある。", "title": "磁性の源" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "原子およびそれよりさらに小さいスケールでは、この関係は磁気モーメントと角運動量の比、すなわち磁気回転比で表される。", "title": "磁性の源" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "磁性の源泉は2種類ある。", "title": "磁性の源" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "物体が磁性を持つ物理的原因は、電流の場合とは異なり、原子に生じる磁気双極子である。原子スケールでの磁気双極子、あるいは磁気モーメントは、電子の2種類の運動によって生じる。1番目は原子核の周りを回る電子の軌道運動である。これは電流のループと見なすことができ、原子の軸方向に軌道磁気モーメントを生じる。2番目の、もっとずっと強い磁気モーメントの源は、スピンと呼ばれる量子力学的な性質である。これはスピン磁気モーメントと呼ばれる。なお原子核にも磁気モーメントは存在するが、一般に電子のそれの数千分の1の強さしかなく、物質の磁性にはほとんど影響しない。しかし、例えば核磁気共鳴 (NMR) や核磁気共鳴画像法 (MRI) は、その原子核の磁気モーメントを利用している。", "title": "磁性の源" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "原子の全体的な磁気モーメントは、個々の電子の磁気モーメントの総和になる。磁気双極子は互いに反発してエネルギーを小さくしようとするため、軌道運動においてもスピン磁気モーメントにおいても、いくつかの電子のペアが持つ反対向きの磁気モーメントは互いに打ち消しあう。このため、電子殻や副殻が完全に満たされている原子では磁気モーメントは通常は完全に打ち消される。磁気モーメントを持つのは電子殻が部分的に満たされている原子だけであり、その強さは不対電子の数で決まる。", "title": "磁性の源" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "そのため、様々な元素ごとの電子配置の違いが原子の磁気モーメントの性質や強さを決めており、また様々な物質の磁気的な特性の違いをも決めている。また、温度によっても磁気的特性は変化する(高温では無作為な分子の運動によって電子が一定方向にそろって運動し続けるのが困難になる)。様々な物質で以下のようないくつかの形態の磁気的な振る舞いが見られる。", "title": "磁性の源" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "反磁性はあらゆる物質に存在し、磁場に反発する傾向を示す。しかし、常磁性(外部の磁場を強化する傾向)のある物質では常磁性が支配的になる。したがって、あらゆる物質が反磁性を持つにもかかわらず、反磁性的現象は反磁性しか持たない物質でしか観測されない。反磁性物質では電子は必ず対になっており、電子のスピン磁気モーメントは常に相殺されて巨視的効果を全く引き起こさない。その場合、磁化は電子の軌道運動から生じ、古典的には次のように理解できる。", "title": "様々な磁性" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "物質を磁場に置くと、原子核の周囲を回っている電子は原子核との間のクーロン力に加えて磁場によるローレンツ力を受けることになる。電子の運動の方向によって、向心力が強まって電子が原子核に引き寄せられたり、逆に引き離されたりする。このため、磁場と逆向きの軌道磁気モーメントを持つ電子の磁気モーメントは強くなり、磁場と同じ方向の軌道磁気モーメントを持つ電子の磁気モーメントは弱められる(レンツの法則)。結果として、物質全体では磁場とは逆向きの磁気モーメントが生じる。", "title": "様々な磁性" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "なお、この解説は一種のヒューリスティクスであって、真の理解のためには量子力学を持ち出す必要がある。", "title": "様々な磁性" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "あらゆる物質でこのような電子軌道の変化が起きるが、常磁性や強磁性の物質では対になっていない電子の効果が相対的に大きいため、反磁性的現象は観測できない。", "title": "様々な磁性" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "常磁性の物質には対になっていない電子があり、原子軌道または分子軌道に1つしか電子が存在しない。パウリの排他原理により、1つの軌道を共有する2つの電子は真性(スピン)磁気モーメントが逆向きになっていて、その磁気モーメントによる磁場は相殺される。対になっていない電子では磁気モーメントの向きは自由である。外部から磁場が印加されるとそれらの磁気モーメントは印加された磁場の向きにそろう傾向があり、それによって全体の磁気が強まる。", "title": "様々な磁性" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "強磁性体も常磁性体と同様に対でない電子を持つ。したがって、磁場に置かれたときにそれらの磁気モーメントが一定方向にそろう性質を持つが、同時にエネルギー状態を低く保とうとしてそれぞれの磁気モーメントが互いに揃おうとする傾向がある。そのため、磁場を除いても物質内の電子が同じ向きを維持し続け、永久磁石となり得る。", "title": "様々な磁性" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "強磁性物質にはそれぞれキュリー温度またはキュリー点と呼ばれる温度があり、それより高温の状態では強磁性を失う。これは、高温によって原子や分子が乱雑に運動するため、強磁性を発揮するために必要な向きの一致が保てなくなるためである。", "title": "様々な磁性" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "磁石などにも使われる強磁性物質としては、ニッケル、鉄、コバルト、ガドリニウム、およびそれらの合金がある。", "title": "様々な磁性" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "強磁性物質では個々の原子が持つ磁気モーメントによって、原子が小さな永久磁石のような振る舞いをする。そのため、互いに磁石のように引き付けあって整列し、磁気モーメントが揃った区域を形成する。これを磁区 (magnetic domain) と呼ぶ。磁気力顕微鏡を使うとこの微小な磁区を観察できる。", "title": "様々な磁性" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1つの磁区が大きくなりすぎると不安定になり、逆向きの2つの磁区に分裂する。すると右図のようになり、隣接する磁区がより強固に引き付け合うことになる。", "title": "様々な磁性" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "強磁性体を磁場に置くと、左図のように磁区が成長して磁場の方向に揃うようになる。外部磁場を取り除いても、磁区の状態が元に戻らないこともある。そのため強磁性物質は磁化され、永久磁石となる。", "title": "様々な磁性" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "十分強力に磁化されると、1つの磁区が支配的となって飽和磁化状態となる。ただし、磁化された強磁性物質を熱してキュリー温度を超えると、分子が揺り動かされて磁区を形成できなくなり、強磁性は失われる。", "title": "様々な磁性" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "反強磁性は強磁性とは異なり、隣接する原子の真性磁気モーメントが互いに反対向き(反平行)になる傾向がある。原子が整列している場合、隣接する原子同士で磁気モーメントは常に反平行となり、反強磁性を示す。反強磁性体は全体として磁気モーメントが相殺されているため、磁場を発生しない。反強磁性は他の磁性に比較するとあまり見られず、主に非常に低い温度で観測される。温度を変化させると反強磁性体は反磁性およびフェリ磁性を示す。", "title": "様々な磁性" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "一部の物質では隣接する電子が反平行となるが、それぞれの対はばらばらな向きを向いている。このような物質を「スピングラス」と呼ぶ。これはフラストレーションが生じている例である。", "title": "様々な磁性" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "強磁性体と同様、フェリ磁性体も磁場のない状態で磁化された状態を保持する。しかし反強磁性体と同様、隣接する電子のスピンは反平行となっている。一見すると矛盾する特性を兼ね備えているのは、最適な幾何学的配置において一方向の磁気モーメントが逆方向の磁気モーメントより大きいためである。", "title": "様々な磁性" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "天然に産する磁鉄鉱は元々は強磁性体だとみなされていたが、ルイ・ネールがフェリ磁性体であることを発見した。", "title": "様々な磁性" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "強磁性体あるいはフェリ磁性体が十分小さいとき、ブラウン運動に左右される単一の磁気スピンのように振る舞う。磁場を印加した場合の反応は定性的には常磁性体と類似しているが、定量的にはもっと大きい。", "title": "様々な磁性" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "マグネターと呼ばれる非常に強い磁場を持つ天体も存在すると考えられている。", "title": "様々な磁性" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "アインシュタインの特殊相対性理論の帰結として、電気と磁気は根本的に相互に関連していると理解されている。電気を伴わない磁気や磁気を伴わない電気は、ローレンツ力が速度に依存する点から特殊相対性理論と整合しない。しかし、電気と磁気を両方考慮する電磁気学の理論は特殊相対性理論に完全に整合している。従って、ある観察者から見て完全に電気に見える現象や完全に磁気に見える現象が、別の観察者から見れば電気と磁気を両方伴うものに見える可能性があり、電気と磁気は系に依存した相対的なものである。つまり、特殊相対性理論では電気と磁気は1つとなり、分けて考えることができない。", "title": "磁気・電気と特殊相対性理論" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "磁気現象は磁場によってもたらされる。電流または磁気双極子は磁場を生み出し、その磁場内にある他の粒子に磁力が与えられる。", "title": "磁場と力" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "マクスウェルの方程式(定常電流の場合はビオ・サバールの法則に単純化される)は、そういった力を生み出す場の起源とその振る舞いを記述する。電荷を持つ粒子が運動すると(例えば、電子の運動によって電流が流れる場合や原子核の周りを電子が軌道を描いて回る場合)、磁気が現れる。また、磁気は量子力学的スピンによる(電流によるものではない)磁気双極子によっても生じる。", "title": "磁場と力" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "荷電粒子の運動やスピンによる磁気双極子によって磁場が生まれると、磁力も生じる。次の式は運動する荷電粒子についてのものである。", "title": "磁場と力" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "磁場の中を運動する荷電粒子は、以下のベクトル積で表される力 F(ローレンツ力)を受ける。 (ただし、粒子が磁気双極子でもある場合、これ以外の力も受ける。)", "title": "磁場と力" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ここで、 q {\\displaystyle q\\,} は粒子の電荷、 v → {\\displaystyle {\\vec {v}}\\,} は粒子の速度ベクトル、 B → {\\displaystyle {\\vec {B}}\\,} は磁束密度である。 この力は外積なので、粒子の速度と磁場の両方に対して垂直な方向に働く。このため仕事はなされず、磁力は粒子の運動の方向だけを変え、速さは変えない。力の大きさは、v と B の間の角度を θ {\\displaystyle \\theta } とすると、次のようになる。", "title": "磁場と力" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "力の向きを知るにはフレミング左手の法則が利用でき、電流の向き q v を中指、磁場 B を人差し指で表せば、力 F の方向は親指で表される。", "title": "磁場と力" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "粒子が磁気双極子である場合は、(非一様な)磁場の中で粒子がその速度と垂直でない力を受け速さが変わることもある。", "title": "磁場と力" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "一部の生物は磁場を知覚でき、これを磁覚 (magnetoception) と呼ぶ。医学的治療に磁場を使う Magnetobiology もある。また、生物が磁場を生み出す現象を biomagnetism と呼ぶ。", "title": "生物と磁性" } ]
物理学において磁性とは、物質が原子あるいは原子よりも小さいレベルで磁場に反応する性質であり、他の物質に対して引力や斥力を及ぼす性質の一つである。磁気(じき)とも言う。
[[物理学]]において'''磁性'''(じせい、{{lang-en-short|magnetism}})とは、[[物質]]が原子あるいは原子よりも小さいレベルで[[磁場]]に反応する性質であり、他の物質に対して[[引力と斥力|引力や斥力]]を及ぼす[[性質]]の一つである。'''磁気'''(じき)とも言う。 == 概要 == 磁性は様々に分類がなされている。例えば、磁性の分類の中では[[強磁性]]がよく知られているが、強磁性を持つ物質は自ら持続的な[[磁場]]を生み出し得る。また、電流などによっても磁場は発生する。ところで、あらゆる物質は程度の差こそあれ、磁場によって何らかの影響を受ける。磁場に引き付けられる物質もあれば([[常磁性]])、磁場に反発する物質もある([[反磁性]])。さらに、磁場と複雑な関係を有する物質もある。しかも、ある物質の磁性状態(または相)は、温度(あるいは圧力や周囲の磁場)に依存するため、1つの物質であっても温度などの条件によって様々な磁性を示すことがある。ただし、ほとんどの場合、磁場によって物質が受ける影響は、特別な装置を使わなければ検出できないほど小さい。中でも、磁場の影響が無視できる物質は非磁性 (non-magnetic) 物質と呼ばれ、これには例えば、[[銅]]、[[アルミニウム]]、一般的な[[気体]]、[[合成樹脂]]などが含まれる。非磁性物質に対して、特別な装置など使わずとも容易に判るほど強い磁性を示す物質(強磁性物質)として、ある種の[[鋼]]のような人工的な[[鉄]]合金がよく知られている。また、[[磁鉄鉱]](天然磁石)や[[磁硫鉄鉱]]などといった[[鉱物]]も強磁性物質であり、その名に「磁石」の「磁」が付いていることからも明らかなように、人間が手を加えるまでもなく、[[磁力]]を持っていることが見て取れる磁石が天然に生成される場合もあることが知られている。 磁力は、[[電荷]]の運動によって引き起こされる基本的な[[力 (物理学)|力]]である。磁力を支配する場の起源と振る舞いは[[マクスウェル方程式]]で記述される([[ビオ・サバールの法則]]も参照のこと)。そのため磁気は電荷を持つ[[粒子]]が[[運動 (物理学)|運動]]をすればいつでも現れる。磁気・磁性は[[電流]]の中の[[電子]]の運動によって発生して[[電磁気]]と呼ばれたり、電子の[[量子力学]]的な軌道運動<small>(電子は[[太陽]]を周る[[惑星]]のような軌道運動を行なっているわけではないが、「実効的な電子の速度」は存在する)</small>や[[スピン角運動量|スピン]]によって生じ、[[永久磁石]]の力の源となったりする。 == 歴史 == [[電気]]と磁気の関係の解明は1819年、コペンハーゲン大学の教授だった[[ハンス・クリスティアン・エルステッド]]が電流によって方位磁針が影響を受けることを発見したのが始まりである。その後、[[アンドレ=マリ・アンペール]]、[[カール・フリードリヒ・ガウス]]、[[マイケル・ファラデー]]といった人々が実験を行い、電気と磁気の関係をさらに明らかにしていった。[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]はそれまでの知見を[[マクスウェルの方程式]]にまとめ、電気と磁気と[[光学]]を一分野にまとめた[[電磁気学]]を生み出すことになった。1905年、[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]はそこから[[特殊相対性理論]]を生み出した<ref name="Moving">[http://www.fourmilab.ch/etexts/einstein/specrel/www/ A. Einstein: "On the Electrodynamics of Moving Bodies"], June 30, 1905.</ref>。 古典電磁気学は19世紀末には完成していたものの、物質の磁性の起源を本格的に議論するには、20世紀初頭の量子力学の成立を待たねばならなかった。これは、[[ボーア=ファン・リューエンの定理]]のために、マクロな古典系においては物質の磁性を説明できないためである。 量子力学の成立以後、電子や原子核の持つスピン角運動量が微視的な物質中の磁性の起源の本質である事が認識された。 量子力学の成立においても中心的な役割を果たした[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]は、量子論に基づく強磁性体の理論を1928年に提出した<ref>{{Cite journal |first=Werner K. |last=Heisenberg |title=zur theorie des ferromagnetismus |journal=Zeitschrift für Physik A Hadrons and Nuclei |volume=61 |issue=3-4 |year=1928 |pages=619-636 }}</ref>。ハイゼンベルクの理論を始めとして、量子力学を用いた物質の磁性の研究が本格的に始まったが、原子核近傍に局在した電子が磁性を担っているとするハイゼンベルクの理論に対立して、 [[フェリックス・ブロッホ]]、[[エドマンド・ストーナー]]等が物質中を遍歴する電子が磁性を担っているとする遍歴電子理論<ref>{{Cite journal |first=Felix |last=Bloch |title=zur theorie des ferromagnetismus |journal=Zeitschrift für Physik A Hadrons and Nuclei |volume=61 |issue=3-4 |year=1930 |pages=206-219 }}</ref><ref>{{Cite journal |first=Edmund C. |last=Stoner |title=The magnetic and magneto-thermal properties of ferromagnetics |journal=Philosophical Magazine Series 7 |volume=10 |issue=62 |year=1930 |pages=27-48 }}</ref>を擁立し、どちらの理論が的を射ているのか、30年に渡って論争が続いた。その間も、ネール[[反強磁性]]、[[弱強磁性]]等、新しい磁気構造の発見、説明が行われた。局在電子理論vs遍歴電子理論の戦いは、結局の所それぞれの理論が有効な物質が見つかり、どちらの理論もある程度的を射ている事が明らかになった。 1949年になると、[[ネヴィル・モット]]によって、電子相関に伴う遍歴電子の局在化の概念がもたらされ<ref>{{Cite journal |first=N. F. |last=Mott |title=The Basis of the Electron Theory of Metals, with Special Reference to the Transition Metals |journal=Proceedings of the Physical Society. Section A |volume=62 |issue=7 |year=1949 |pages=416 }}</ref>、1959年には[[フィリップ・アンダーソン]]によってモットの概念を用いてハバード・モデルにおける電子の局在化の基礎付けがなされた<ref>{{Cite journal |first=P.W. |last=Anderson |title=New Approach to the Theory of Superexchange Interactions |journal=Physical Review |volume=115 |issue=1 |year=1959 |pages=1 }}</ref>。これによって、遍歴電子と局在電子を統一的に扱う枠組みが確立した。 この功績によってモットとアンダーソンは、同じく磁性について研究していた[[ジョン・ヴァン・ブレック]]と共に、1977年ノーベル物理学賞を受賞した(授賞理由:磁性体と無秩序系の電子構造の基礎理論的研究)。 20世紀後半になると、銅酸化物系[[高温超伝導]]体と磁気秩序の関連、磁性の工業的利用、[[スピントロニクス]]の発展等から、物質中の電子の持つスピンの性質に対するより深い理解への欲求が強まり、物質中の磁気秩序の解明が進んだ。 物質中の磁気構造を人工的に操作することも可能になり、磁区と呼ばれる強磁性の構造に情報を記録する[[ハードディスクドライブ]]も実用化された。 == 磁性の源 == {{See also|磁気モーメント}} 磁性と[[角運動量]]には密接な関係があり、[[微視的]]には「磁化による回転」を示す[[アインシュタイン・ド=ハース効果]]と、その逆の「回転による磁化」を示す[[バーネット効果]]がある<ref name=Graham>{{cite book |title=Introduction to Magnetic Materials |author=B. D. Cullity, C. D. Graham |url= https://books.google.co.jp/books?id=ixAe4qIGEmwC&pg=PA103&redir_esc=y&hl=ja |page=103 |isbn=0471477419 |year=2008 |publisher=Wiley-IEEE |edition=2}}</ref>。 原子およびそれよりさらに小さいスケールでは、この関係は磁気モーメントと角運動量の比、すなわち[[磁気回転比]]で表される。 磁性の源泉は2種類ある。 * [[電流]]または移動する[[電荷]]によって磁場が形成される([[マクスウェルの方程式]]) * 多くの[[素粒子]]はゼロでない「真性」(または「スピン」)磁気モーメントを持つ。それぞれの粒子に[[質量]]と[[電荷]]があるように、ゼロでない磁気モーメントを持つことがある。 物体が磁性を持つ物理的原因は、電流の場合とは異なり、[[原子]]に生じる磁気双極子である。原子スケールでの磁気双極子、あるいは[[磁気モーメント]]は、電子の2種類の運動によって生じる。1番目は[[原子核]]の周りを回る電子の軌道運動である。これは電流のループと見なすことができ、原子の軸方向に軌道磁気モーメントを生じる。2番目の、もっとずっと強い磁気モーメントの源は、[[スピン角運動量|スピン]]と呼ばれる量子力学的な性質である。これはスピン磁気モーメントと呼ばれる。なお原子核にも磁気モーメントは存在するが、一般に電子のそれの数千分の1の強さしかなく、物質の磁性にはほとんど影響しない。しかし、例えば[[核磁気共鳴]] (NMR) や[[核磁気共鳴画像法]] (MRI) は、その原子核の磁気モーメントを利用している。 原子の全体的な磁気モーメントは、個々の電子の磁気モーメントの総和になる。磁気双極子は互いに反発してエネルギーを小さくしようとするため、軌道運動においてもスピン磁気モーメントにおいても、いくつかの電子のペアが持つ反対向きの磁気モーメントは互いに打ち消しあう。このため、[[電子殻]]や副殻が完全に満たされている原子では磁気モーメントは通常は完全に打ち消される。磁気モーメントを持つのは電子殻が部分的に満たされている原子だけであり、その強さは不対電子の数で決まる。 そのため、様々な[[元素]]ごとの[[電子配置]]の違いが原子の磁気モーメントの性質や強さを決めており、また様々な物質の磁気的な特性の違いをも決めている。また、温度によっても磁気的特性は変化する(高温では無作為な[[気体分子運動論|分子の運動]]によって電子が一定方向にそろって運動し続けるのが困難になる)。様々な物質で以下のようないくつかの形態の磁気的な振る舞いが見られる。 == 様々な磁性 == === 反磁性 === {{Main|反磁性}} 反磁性はあらゆる物質に存在し、磁場に反発する傾向を示す。しかし、[[常磁性]](外部の磁場を強化する傾向)のある物質では常磁性が支配的になる<ref name=Westbrook>{{cite book |title=MRI (Magnetic Resonance Imaging) in practice |author=Catherine Westbrook, Carolyn Kaut, Carolyn Kaut-Roth |isbn=0632042052 |url= https://books.google.co.jp/books?id=Qq1SHDtS2G8C&pg=PA217&redir_esc=y&hl=ja |page=217 |edition=2|publisher=Wiley-Blackwell |year=1998}}</ref>。したがって、あらゆる物質が反磁性を持つにもかかわらず、反磁性的現象は反磁性しか持たない物質でしか観測されない。反磁性物質では電子は必ず対になっており、電子のスピン磁気モーメントは常に相殺されて巨視的効果を全く引き起こさない。その場合、磁化は電子の軌道運動から生じ、[[古典物理学|古典的]]には次のように理解できる。 <blockquote> 物質を磁場に置くと、原子核の周囲を回っている電子は原子核との間の[[クーロン力]]に加えて磁場による[[ローレンツ力]]を受けることになる。電子の運動の方向によって、[[向心力]]が強まって電子が原子核に引き寄せられたり、逆に引き離されたりする。このため、磁場と逆向きの軌道磁気モーメントを持つ電子の磁気モーメントは強くなり、磁場と同じ方向の軌道磁気モーメントを持つ電子の磁気モーメントは弱められる([[レンツの法則]])。結果として、物質全体では磁場とは逆向きの磁気モーメントが生じる。 </blockquote> なお、この解説は一種の[[ヒューリスティクス]]であって、真の理解のためには[[量子力学]]を持ち出す必要がある。 あらゆる物質でこのような電子軌道の変化が起きるが、常磁性や強磁性の物質では対になっていない電子の効果が相対的に大きいため、反磁性的現象は観測できない。 === 常磁性 === {{Main|常磁性}} 常磁性の物質には対になっていない電子があり、[[原子軌道]]または[[分子軌道]]に1つしか電子が存在しない。[[パウリの排他原理]]により、1つの軌道を共有する2つの電子は真性(スピン)磁気モーメントが逆向きになっていて、その磁気モーメントによる磁場は相殺される。対になっていない電子では磁気モーメントの向きは自由である。外部から磁場が印加されるとそれらの磁気モーメントは印加された磁場の向きにそろう傾向があり、それによって全体の磁気が強まる。 === 強磁性 === {{Main|強磁性}} 強磁性体も常磁性体と同様に対でない電子を持つ。したがって、磁場に置かれたときにそれらの磁気モーメントが一定方向にそろう性質を持つが、同時にエネルギー状態を低く保とうとしてそれぞれの磁気モーメントが互いに揃おうとする傾向がある。そのため、磁場を除いても物質内の電子が同じ向きを維持し続け、永久磁石となり得る。 強磁性物質にはそれぞれ[[キュリー温度]]またはキュリー点と呼ばれる温度があり、それより高温の状態では強磁性を失う。これは、高温によって原子や分子が乱雑に運動するため、強磁性を発揮するために必要な向きの一致が保てなくなるためである。 [[磁石]]などにも使われる強磁性物質としては、[[ニッケル]]、[[鉄]]、[[コバルト]]、[[ガドリニウム]]、およびそれらの[[合金]]がある。 ==== 磁区 ==== [[ファイル:Ferromag Matl Sketch.JPG|right|thumb|150px|強磁性体の磁区]] [[強磁性]]物質では個々の原子が持つ磁気モーメントによって、原子が小さな永久磁石のような振る舞いをする。そのため、互いに磁石のように引き付けあって整列し、磁気モーメントが揃った区域を形成する。これを[[磁区]] (magnetic domain) と呼ぶ。[[磁気力顕微鏡]]を使うとこの微小な磁区を観察できる。 [[ファイル:Ferromag Matl Magnetized.JPG|left|thumb|180px|磁石が磁区に及ぼす影響]] 1つの磁区が大きくなりすぎると不安定になり、逆向きの2つの磁区に分裂する。すると右図のようになり、隣接する磁区がより強固に引き付け合うことになる。 強磁性体を磁場に置くと、左図のように磁区が成長して磁場の方向に揃うようになる。外部磁場を取り除いても、磁区の状態が元に戻らないこともある。そのため強磁性物質は磁化され、[[永久磁石]]となる。 十分強力に[[磁化]]されると、1つの磁区が支配的となって飽和磁化状態となる。ただし、磁化された強磁性物質を熱して[[キュリー温度]]を超えると、分子が揺り動かされて磁区を形成できなくなり、強磁性は失われる。 === 反強磁性 === [[ファイル:Antiferromagnetic ordering.svg|thumb|反強磁性の磁気モーメントの配列]] {{Main|反強磁性}} 反強磁性は強磁性とは異なり、隣接する原子の真性磁気モーメントが互いに反対向き(反平行)になる傾向がある。原子が整列している場合、隣接する原子同士で磁気モーメントは常に反平行となり、反強磁性を示す。反強磁性体は全体として磁気モーメントが相殺されているため、磁場を発生しない。反強磁性は他の磁性に比較するとあまり見られず、主に非常に低い温度で観測される。温度を変化させると反強磁性体は反磁性および[[フェリ磁性]]を示す。 一部の物質では隣接する電子が反平行となるが、それぞれの対はばらばらな向きを向いている。このような物質を「[[スピングラス]]」と呼ぶ。これは[[フラストレーション (磁性体)|フラストレーション]]が生じている例である。 === フェリ磁性 === [[ファイル:Ferrimagnetic ordering.svg|thumb|フェリ磁性の磁気モーメントの配列]] {{Main|フェリ磁性}} 強磁性体と同様、フェリ磁性体も磁場のない状態で磁化された状態を保持する。しかし反強磁性体と同様、隣接する電子のスピンは反平行となっている。一見すると矛盾する特性を兼ね備えているのは、最適な幾何学的配置において一方向の磁気モーメントが逆方向の磁気モーメントより大きいためである。 天然に産する[[磁鉄鉱]]は元々は強磁性体だとみなされていたが、[[ルイ・ネール]]がフェリ磁性体であることを発見した。 === 超常磁性 === {{Main|超常磁性}} 強磁性体あるいはフェリ磁性体が十分小さいとき、[[ブラウン運動]]に左右される単一の磁気スピンのように振る舞う。磁場を印加した場合の反応は定性的には常磁性体と類似しているが、定量的にはもっと大きい。 === その他の磁性 === * [[分子磁石]] * [[メタ磁性]] * [[スピングラス]] [[マグネター]]と呼ばれる非常に強い磁場を持つ[[天体]]も存在すると考えられている。 == 磁気・電気と特殊相対性理論 == アインシュタインの[[特殊相対性理論]]の帰結として、電気と磁気は根本的に相互に関連していると理解されている。電気を伴わない磁気や磁気を伴わない電気は、[[ローレンツ力]]が速度に依存する点から特殊相対性理論と整合しない。しかし、電気と磁気を両方考慮する[[電磁気学]]の理論は特殊相対性理論に完全に整合している<ref name="Moving" /><ref>{{cite book|last = Griffiths|first = David J.|author-link=デイヴィッド・グリフィス |title = Introduction to Electrodynamics|edition = 3rd|publisher = Prentice Hall|year = 1998|isbn = 0-13-805326-X|oclc = 40251748}}, chapter 12</ref>。従って、ある観察者から見て完全に電気に見える現象や完全に磁気に見える現象が、別の観察者から見れば電気と磁気を両方伴うものに見える可能性があり、電気と磁気は系に依存した相対的なものである。つまり、特殊相対性理論では電気と磁気は1つとなり、分けて考えることができない。 == 磁場と力 == [[ファイル:Magnet0873.png|thumb|棒磁石の上に紙を置き、その上に砂鉄を撒くと、磁力線が目に見えるようになる。]] {{Main|磁場}} 磁気現象は磁場によってもたらされる。電流または磁気双極子は磁場を生み出し、その磁場内にある他の粒子に磁力が与えられる。 マクスウェルの方程式(定常電流の場合は[[ビオ・サバールの法則]]に単純化される)は、そういった力を生み出す場の起源とその振る舞いを記述する。[[電荷]]を持つ粒子が[[運動 (物理学)|運動]]すると(例えば、電子の運動によって[[電流]]が流れる場合や原子核の周りを{{訳語疑問点範囲|電子が軌道を描いて回る場合|date=2021年7月|title=原文: in certain cases from the orbital motion of electrons}})、磁気が現れる<!--磁力が観測される-->。また、磁気は量子力学的[[スピン角運動量|スピン]]による(電流によるものではない)[[磁気双極子]]によっても生じる。 荷電粒子の運動<!--電流としてor原子内で ←前の段落でも言ってるので繰り返さなくていいのでは-->やスピンによる磁気双極子によって{{訳語疑問点範囲|磁場が生まれると、磁力も生じる|磁場が生じる状況は、磁場が効果をもたらすつまり磁力が生じる状況でもある。|date=2021年7月}}。次の式は運動する荷電粒子についてのものである。 [[磁場]]<!-- B -->の中を運動する荷電粒子は、以下の[[ベクトル積]]で表される力 {{mvar|'''F'''}}([[ローレンツ力]])を受ける<ref>{{Cite book |first = John David |last = Jackson |author-link= |title = Classical electrodynamics |edition = 3rd|location = New York |publisher = Wiley | year = 1999 |isbn = 0-471-30932-X |postscript = <!--None-->}}</ref>。 (ただし、粒子が磁気双極子でもある場合、これ以外の力も受ける。) : <math>\vec F = q\,\vec v \times \vec B</math> ここで、 <math>q\,</math> は粒子の電荷、 <math>\vec v \,</math> は粒子の[[速度]][[空間ベクトル|ベクトル]]、 <math>\vec B \,</math> は[[磁束密度]]である。 この力は外積なので、粒子の速度と磁場の両方に対して[[垂直]]な方向に働く。このため[[仕事 (物理学)|仕事]]はなされず、磁力は粒子の運動の方向だけを変え、速さは変えない。<!--その-->力の大きさは、{{mvar|'''v'''}} と {{mvar|'''B'''}} の間の角度を <math>\theta</math> とすると、次のようになる。 : <math>F=q\,v\,B\sin\theta\,</math> <!-- 移動する荷電粒子と磁場の方向から力のかかる方向 -->力の向きを知るには[[フレミング左手の法則]]が利用でき、電流の向き {{mvar|q '''v'''}} を[[中指]]、磁場 {{mvar|'''B'''}} を[[人差し指]]で表せば、力 {{mvar|'''F'''}} の方向は[[親指]]で表される。 粒子が磁気双極子である場合は、(非一様な)磁場の中で粒子がその速度と垂直でない力を受け速さが変わることもある。 == 電磁気に関する単位 == === 磁性に関わる国際単位系 === {{SI電磁気単位}} === その他の単位 === * [[ガウス (単位)|ガウス]] – 磁場([[磁束密度]])の[[CGS単位系|CGS]][[物理単位|単位]]。 * [[エルステッド]] – [[磁場]]の強さのCGS単位。 * [[マクスウェル (単位)|マクスウェル]] – [[磁束]]のCGS単位。 * ガンマ (γ) – 地磁気の磁束密度の単位。1ガンマは1ナノテスラに等しい。 * ''μ''<sub>0</sub>&nbsp;– 真空の[[透磁率]]を表す記号(4π×10<sup>−7</sup> [[ニュートン (単位)|N]]/[[アンペア回数|AT]]<sup>2</sup>) == 生物と磁性 == 一部の[[生物]]は磁場を知覚でき、これを[[磁覚]] ([[:en:magnetoception|magnetoception]]) と呼ぶ。[[医学]]的治療に磁場を使う [[:en:Magnetobiology|Magnetobiology]] もある。また、生物が磁場を生み出す現象を [[:en:biomagnetism|biomagnetism]] と呼ぶ。 == 関連項目 == * [[電磁気学]] - [[静電気学]] - [[レンツの法則]] * [[磁気モーメント]] - [[磁化]] - [[保磁力]] * [[磁性体]] - [[磁石]] - [[電磁石]] - [[プラスチック磁石]] - [[ネオジム磁石]] - [[希土類磁石]] * [[磁鉄鉱]] - [[磁硫鉄鉱]] * [[磁気軸受]] - [[センサ]] - [[マグネチックスターラー]] * [[マグネター]] * [[断熱消磁]] == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{cite book | author=Furlani, Edward P. | title=Permanent Magnet and Electromechanical Devices: Materials, Analysis and Applications | publisher=Academic Press | year=2001 | isbn=0-12-269951-3 | oclc=162129430}} * {{cite book | author=Griffiths, David J.|title=Introduction to Electrodynamics (3rd ed.)| publisher=Prentice Hall |year=1998 |isbn=0-13-805326-X | oclc=40251748}} * {{cite book | author=Kronmüller, Helmut.|title=Handbook of Magnetism and Advanced Magnetic Materials, 5 Volume Set| publisher=John Wiley & Sons|year=2007 |isbn=978-0-470-02217-7 | oclc=124165851}} * {{cite book | author=Tipler, Paul | title=Physics for Scientists and Engineers: Electricity, Magnetism, Light, and Elementary Modern Physics (5th ed.) | publisher=W. H. Freeman | year=2004 | isbn=0-7167-0810-8 | oclc=51095685}} * {{cite book | author=David K. Cheng | title=Field and Wave Electromagnetics | publisher=Addison-Wesley Publishing Company, Inc. | year=1992 | isbn=0-201-12819-5 }} == 外部リンク == {{sisterlinks|commons=category:Magnetism}} * [http://sciencecastle.com/sc/index.php/scienceexperiments/search?p=0&t=a&v=mr&c=0&cl=1 Magnetism Experiments] * [http://www.lightandmatter.com/html_books/0sn/ch11/ch11.html Electromagnetism] - a chapter from an online textbook * [http://edu.blogs.com/edublogs/2009/04/magnetism-explained-beautifully.html Jacob Bogatin about Magnetism] * [http://www.youtube.com/watch?v=wMFPe-DwULM Video: The physicist Richard Feynman answers the question, Why do bar magnets attract or repel each other?] * [http://www.antiquebooks.net/readpage.html#gilbert On the Magnet, 1600] ウィリアム・ギルバートの著作のオンライン版。全文検索可能。 {{電磁気学}} {{磁性}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しせい}} [[Category:磁気|*]] [[Category:物性物理学]]
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スプリンターズステークス
スプリンターズステークスは、日本中央競馬会(JRA)が中山競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。 正賞は日本馬主協会連合会会長賞。 1967年に4歳(現3歳)以上の馬によるハンデキャップの重賞競走として、中山競馬場の芝1200mで創設。当時は4歳(現3歳)以上の馬が出走できる中央競馬で唯一のスプリント(短距離)重賞だった。 1984年にはグレード制の導入に伴いGIIIに格付けされ、1987年にはGIIに格上げされた。その後、1年を締めくくるスプリント系の大レースを開催しようとする機運が高まり、1990年にはGIに格上げされ、施行時期も有馬記念の前週に移された。2000年にはスプリント競走体系が整備され、施行時期を初秋の中山開催最終週に繰り上げ。以来、秋競馬で最初に行われるGIレースとして定着している。2005年には世界初の国際スプリントシリーズ「グローバルスプリントチャレンジ」が創設され、本競走はそのひとつとして第8戦に組み入れられていた(2017年を最後に休止)。 1994年から国際競走となり外国馬が出走可能になったほか、1995年には地方競馬所属馬も出走可能になった。 2016年から2019年までブリーダーズカップ・チャレンジの対象競走に指定され、優勝馬には当該年のブリーダーズカップ・ターフスプリントへの優先出走権と出走登録料・輸送費用の一部負担の特権が付与されていた。 高松宮記念同様に「電撃の6ハロン」と呼称される。 この項の出典: 世界の競馬開催国は国際セリ名簿基準書におけるパートIからパートIVまでランク分けされており、2023年時点で日本は平地競走が最上位のパートI、障害競走はパートIVにランク付けされている。 また、各国の主要な競走は国際的な統一判断基準で評価されており、競馬の競走における距離別の区分法として定着しているSMILE区分によると、スプリンターズステークスは「Sprint(1000m - 1300m)」に分類される。国際競馬統括機関連盟(IFHA)が公表した2012年から2014年の年間レースレーティングの平均値に基づく「世界のトップ100GIレース」によると、スプリンターズステークスは全体の89位にランキングされた。このランキングで日本の競走はスプリンターズステークスを含め10競走がランクインしているが、「Sprint(1000m - 1300m)」のカテゴリーからランクインした日本の競走はスプリンターズステークスのみ。「Sprint(1000m - 1300m)」のカテゴリーからランクインした外国の競走との比較では、ドバイゴールデンシャヒーン(86位)に次ぐ評価となっている。 以下の内容は、2023年現在のもの。 出走資格:サラ系3歳以上(出走可能頭数:16頭) 負担重量:定量(3歳55kg、4歳以上57kg、牝馬2kg減) 出馬投票を行った馬のうち優先出走権(後述)のある馬から優先して割り当て、その他の馬は「通算の収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI(JpnI)競走の収得賞金」の総計が多い順に出走できる。 外国調教馬、およびレーティング順位の上位5頭(牡馬・セン馬は110ポンド、牝馬は106ポンド以上であることが条件)は優先出走できる。 JRA所属馬は、同年に行われる下表の競走のいずれかで1着となった馬に優先出走権が与えられる。 地方競馬所属馬は、同年に行われる下表の競走のいずれかで2着以内となった馬に優先出走権が与えられる。 地方競馬所属馬は上記のほか、GI競走(2歳GIを除く)の1着馬及び外国で行われるグローバル・スプリント・チャレンジ対象競走のいずれかで2着以内となった馬にも出走資格が与えられる(2017年まで)。 2023年の1着賞金は1億3000万円で、以下2着5200万円、3着3300万円、4着2000万円、5着1300万円。 この項の出典: コース種別を表記していない距離は、芝コースを表す。 優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。 競走名は第3回が「英国フェア開催記念」、第8回から第13回は「読売杯スプリンターズステークス」、第14回から第16回は「読売スプリンターズステークス」。
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スプリンターズステークスは、日本中央競馬会(JRA)が中山競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。 正賞は日本馬主協会連合会会長賞。
{{競馬の競走 |馬場 = 芝 |競走名 = スプリンターズステークス<br>{{Lang|en|Sprinters Stakes}} |画像 = [[File:Gendarme Sprinters Stakes 20221002a3.jpg|300px]] |画像説明 = 第56回スプリンターズステークス<br>優勝馬:[[ジャンダルム (競走馬)|ジャンダルム]]<br>鞍上:[[荻野極]] |開催国 = {{JPN}} |主催者 = [[日本中央競馬会]] |競馬場 = [[中山競馬場]] |第一回施行日 = |創設 = 1967年7月9日 |年次 = 2023 |距離 = 1200m |格付け = GI |1着賞金 = 1億7000万円 |賞金総額 = |条件 = [[サラブレッド|サラ]]系3歳以上(国際)(指定) |負担重量 = {{Nowrap|定量(3歳55kg、4歳以上57kg、牝馬2kg減)}} |出典 = <ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023nakayama4" /> }} '''スプリンターズステークス'''は、[[日本中央競馬会]](JRA)が[[中山競馬場]]で施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け|GI]])である。 正賞は[[日本馬主協会連合会]]会長賞<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023nakayama4" />。 == 概要 == 1967年に4歳(現3歳)以上の馬による[[ハンデキャップ競走|ハンデキャップ]]の重賞競走として、中山競馬場の芝1200mで創設。当時は4歳(現3歳)以上の馬が出走できる中央競馬で唯一のスプリント(短距離)重賞だった。 1984年には[[グレード制]]の導入に伴いGIII<ref group="注" name="grade">当時の格付表記は、JRAの独自グレード。</ref>に格付けされ、1987年にはGII<ref group="注" name="grade" />に格上げされた。その後、1年を締めくくるスプリント系の大レースを開催しようとする機運が高まり、1990年にはGI<ref group="注" name="grade" />に格上げされ、施行時期も[[有馬記念]]の前週に移された。2000年にはスプリント競走体系が整備され、施行時期を初秋の中山開催最終週に繰り上げ。以来、秋競馬で最初に行われるGIレースとして定着している。2005年には世界初の国際スプリントシリーズ「[[グローバル・スプリント・チャレンジ|グローバルスプリントチャレンジ]]」が創設され、本競走はそのひとつとして第8戦<ref group="注">2010年までは第6戦、2011年は第7戦として行われた。</ref>に組み入れられていた(2017年を最後に休止)。 1994年から[[国際競走]]となり[[外国馬]]が出走可能になったほか、1995年には[[地方競馬]]所属馬も出走可能になった。 2016年から2019年まで[[ブリーダーズカップ・チャレンジ]]の対象競走に指定され、優勝馬には当該年の[[ブリーダーズカップ・ターフスプリント]]への優先出走権と出走登録料・輸送費用の一部負担の特権が付与されていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/201606/062707.html |title=ブリーダーズカップチャレンジ競走の追加指定について|publisher=日本中央競馬会 |date=2016-06-27|accessdate=2016-10-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161005214526/http://jra.jp/news/201606/062707.html|archivedate=2016-10-05}}</ref>。 [[高松宮記念 (競馬)|高松宮記念]]同様に「電撃の6ハロン」と呼称される。 この項の出典:<ref name="特別レース名解説" /><ref name="JRA注目" /><ref name="netkeiba_raceguide" /> === 国際的評価 === 世界の競馬開催国は[[国際セリ名簿基準書]]におけるパートIからパートIVまでランク分けされており、2023年時点で日本は平地競走が最上位のパートI、障害競走はパートIVにランク付けされている<ref name="ICSBook" />。 また、各国の主要な競走は国際的な統一判断基準で評価されており、競馬の競走における距離別の区分法として定着している[[距離 (競馬)#SMILE 区分|SMILE区分]]によると、スプリンターズステークスは「Sprint(1000m - 1300m)」に分類される。[[国際競馬統括機関連盟]](IFHA)が公表した2012年から2014年の年間レースレーティング<ref group="注">年間レースレーティングは、個々のレースにおける上位4頭のレーティングを年度末のランキング会議で決定した数値に置き換え算出した平均値。なお、牝馬限定競走以外のレースで、対象馬が牝馬の場合はアローワンスが加算される(日本の場合+4ポンド)。</ref>の平均値に基づく「[[世界のトップ100GIレース]]」によると、スプリンターズステークスは全体の89位にランキングされた。このランキングで日本の競走はスプリンターズステークスを含め10競走がランクインしているが、「Sprint(1000m - 1300m)」のカテゴリーからランクインした日本の競走はスプリンターズステークスのみ。「Sprint(1000m - 1300m)」のカテゴリーからランクインした外国の競走との比較では、[[ドバイゴールデンシャヒーン]](86位)に次ぐ評価となっている<ref name="JRA20150306" /><ref name="TOP100GI" />。 === 競走条件 === 以下の内容は、2023年現在<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023nakayama4" />のもの。 出走資格:サラ系3歳以上(出走可能頭数:16頭) * JRA所属馬 * 地方競馬所属馬 * 外国調教馬 負担重量:定量(3歳55kg、4歳以上57kg、牝馬2kg減) * 第1回・第2回はハンデキャップ、第3回 - 第23回は別定、第28回・第29回は南半球産3歳馬2kg減<ref name="JRA注目" />。 出馬投票を行った馬のうち優先出走権(後述)のある馬から優先して割り当て、その他の馬は「通算の収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI(JpnI)競走の収得賞金」の総計が多い順に出走できる<ref name="競馬番組一般事項" />。 === 優先出走権 === 外国調教馬<ref name="競馬番組一般事項" />、およびレーティング順位の上位5頭(牡馬・セン馬は110ポンド、牝馬は106ポンド以上であることが条件)は優先出走できる。 JRA所属馬は、同年に行われる下表の競走のいずれかで1着となった馬に優先出走権が与えられる<ref name="競馬番組一般事項" />。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !競走名!!格!!競馬場!!距離 |- |[[キーンランドカップ]]||GIII||{{Flagicon|JPN}}[[札幌競馬場]]||芝1200m |- |[[セントウルステークス]]||GII||{{Flagicon|JPN}}[[阪神競馬場]]||芝1200m |} 地方競馬所属馬は、同年に行われる下表の競走のいずれかで2着以内となった馬に優先出走権が与えられる<ref name="JRA注目" /><ref name="kakuchi" />。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !競走名!!格!!競馬場!!距離 |- |キーンランドカップ||GIII||{{Flagicon|JPN}}札幌競馬場||芝1200m |- |セントウルステークス||GII||{{Flagicon|JPN}}阪神競馬場||芝1200m |} 地方競馬所属馬は上記のほか、GI競走(2歳GIを除く)の1着馬及び外国で行われるグローバル・スプリント・チャレンジ対象競走のいずれかで2着以内となった馬にも出走資格が与えられる(2017年まで)<ref name="JRA注目" /><ref name="kakuchi" /><ref name="競馬番組一般事項" />。 === 賞金 === 2023年の1着賞金は1億3000万円で、以下2着5200万円、3着3300万円、4着2000万円、5着1300万円<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023nakayama4" />。 == 歴史 == === 年表 === * 1967年 - 4歳以上の馬による重賞競走として創設、中山競馬場の芝1200mで施行。 * 1969年 ** この年のみ、名称を「'''英国フェア開催記念'''(第3回スプリンターズステークス)」に変更。 ** この年のみ正賞は「英国フェア名誉総裁[[通商産業大臣]][[大平正芳]]賞ブリティッシュ・ウィーク・カップ」となる<ref>[[#中央競馬全重賞成績集|中央競馬全重賞成績集]]、973頁。</ref>。 * 1974年 - 名称を「'''読売杯スプリンターズステークス'''」に変更。正賞が読売新聞社賞となる<ref>『[[#中央競馬全重賞成績集|中央競馬全重賞成績集【GI編】]]』、981-994頁。</ref>。 * 1980年 - 名称を「'''読売スプリンターズステークス'''」に変更<ref name="中央競馬全重賞成績集" />。 * 1983年 - 名称を「'''スプリンターズステークス'''」に変更<ref name="中央競馬全重賞成績集" />。 * 1984年 - グレード制施行によりGIII<ref group="注" name="grade" />に格付け。 * 1987年 - GII<ref group="注" name="grade" />に昇格。 * 1988年 - 中山競馬場の観客スタンド改修工事のため[[東京競馬場]]1400mで施行。 * 1989年 - 混合競走に指定、[[外国産馬]]が出走可能になる<ref name="中央競馬全重賞成績集" />。 * 1990年 ** GI<ref group="注" name="grade" />に昇格。 ** 騎手賞として「[[オートラマ]]賞」が贈られる(1992年まで)<ref>『[[#中央競馬全重賞成績集|中央競馬全重賞成績集【GI編】]]』、1003-1006頁。</ref>。 * 1994年 - [[国際競走]]に指定され、外国調教馬が4頭まで出走可能になる<ref name="中央競馬全重賞成績集" />。 * 1995年 ** 特別[[指定交流競走]]となり、地方競馬所属馬が出走可能になる。 ** 正賞が日本馬主協会連合会会長賞となる<ref>『[[#中央競馬全重賞成績集|中央競馬全重賞成績集【GI編】]]』、1012頁。</ref>。 * 2004年 - 「日本中央競馬会創立50周年記念」の副称をつけて施行<ref name="result2004" />。 * 2005年 - [[グローバル・スプリント・チャレンジ]]に組み入れられる<ref name="result2005" />。 * 2006年 - 外国調教馬の出走枠を8頭に拡大<ref name="result2006" />。 * 2014年 ** トライアル制を確立し、指定された競走の1着馬に優先出走を認める。 ** 中山競馬場の改修工事のため[[新潟競馬場]]で施行<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jra.go.jp/keiba/program/pdf/h26gai03.pdf |title=平成26年度秋季競馬番組の概要について|publisher=日本中央競馬会 |date=2014-08-03|accessdate=2014-11-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141107092730/http://www.jra.go.jp/keiba/program/pdf/h26gai03.pdf|archivedate=2014-11-07}}</ref>。このため、フルゲートは18頭に拡大。 * 2016年 - 「[[ブリーダーズカップ・チャレンジ]]」指定競走となる(2019年まで)<ref name="result2016" />。 * 2018年 - グローバル・スプリント・チャレンジが休止される。 * 2020年 - [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス]]の感染拡大防止のため、「[[無観客試合#競馬|無観客競馬]]」として実施(ただし[[新日本フィルハーモニー交響楽団]]によるファンファーレの生演奏並びにベストターンドアウト賞の審査は行われた)<ref name="jranews082701" />。 この項の出典:<ref name="JRA注目" /> == 歴代優勝馬 == コース種別を表記していない距離は、芝コースを表す。 優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。 競走名は第3回が「英国フェア開催記念」、第8回から第13回は「読売杯スプリンターズステークス」、第14回から第16回は「読売スプリンターズステークス」<ref name="中央競馬全重賞成績集" />。 {| class="wikitable" !回数!!施行日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!所属!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主 |- |style="text-align:center"|第1回||1967年7月9日||中山||1200m||オンワードヒル||牡4||JRA||1:12.1||牧野三雄||[[中村広]]||[[樫山純三]] |- |style="text-align:center"|第2回||1968年5月3日||中山||1200m||スズハヤテ||牡4||JRA||1:11.3||増田久||佐藤正二||ワイ・エス・エス |- |style="text-align:center"|第3回||1969年9月28日||中山||1200m||[[タケシバオー]]||牡4||JRA||1:10.4||[[吉永正人]]||三井末太郎||[[小畑正雄]] |- |style="text-align:center"|第4回||1970年10月11日||中山||1200m||[[タマミ]]||牝3||JRA||1:10.8||[[中島啓之]]||坂本栄三郎||坂本栄蔵 |- |style="text-align:center"|第5回||1971年9月26日||中山||1200m||ケンサチオー||牡5||JRA||1:11.5||[[藤本勝彦]]||[[藤本冨良]]||長山善建 |- |style="text-align:center"|第6回||1972年10月8日||中山||1200m||[[ノボルトウコウ]]||牡3||JRA||1:09.8||[[森安重勝]]||加藤朝治郎||[[渡辺喜八郎]] |- |style="text-align:center"|第7回||1973年9月30日||中山||1200m||[[キョウエイグリーン]]||牝4||JRA||1:09.6||[[東信二]]||[[境勝太郎]]||[[松岡正雄]] |- |style="text-align:center"|第8回||1974年10月6日||中山||1200m||[[サクライワイ]]||牝3||JRA||1:08.4||[[小島太]]||高木良三||(株)[[さくらコマース]] |- |style="text-align:center"|第9回||1975年9月27日||中山||1200m||サクライワイ||牝4||JRA||1:09.0||小島太||高木良三||(株)さくらコマース |- |style="text-align:center"|第10回||1976年10月10日||中山||1200m||[[ジャンボキング]]||牡3||JRA||1:10.5||[[的場均]]||[[久保田金造]]||醍醐幸右衛門 |- |style="text-align:center"|第11回||1977年10月9日||中山||1200m||メイワキミコ||牝3||JRA||1:09.8||[[増沢末夫]]||[[鈴木勝太郎]]||鬼嶋力也 |- |style="text-align:center"|第12回||1978年10月8日||中山||1200m||メイワキミコ||牝4||JRA||1:09.0||増沢末夫||鈴木勝太郎||鬼嶋力也 |- |style="text-align:center"|第13回||1979年10月7日||中山||1200m||サニーフラワー||牝4||JRA||1:12.8||[[岡部幸雄]]||[[伊藤雄二]]||[[山本慎一 (実業家)|山本慎一]] |- |style="text-align:center"|第14回||1980年9月27日||中山||1200m||サクラゴッド||牝5||JRA||1:11.8||小島太||久保田彦之||(株)さくらコマース |- |style="text-align:center"|第15回||1981年2月22日||中山||1200m||[[サクラシンゲキ]]||牡4||JRA||1:09.5||東信二||境勝太郎||(株)さくらコマース |- |style="text-align:center"|第16回||1982年2月28日||中山||1200m||[[ブロケード]]||牝4||JRA||1:09.0||[[柴田政人]]||[[高松邦男]]||[[伊達秀和]] |- |style="text-align:center"|第17回||1983年2月27日||中山||1200m||[[シンウルフ]]||牡4||JRA||1:09.5||[[飯田明弘]]||[[松元省一]]||林幸雄 |- |style="text-align:center"|第18回||1984年3月18日||中山||1200m||[[ハッピープログレス]]||牡6||JRA||1:10.3||飯田明弘||[[山本正司]]||藤田晋 |- |style="text-align:center"|第19回||1985年3月17日||中山||1200m||[[マルタカストーム]]||牡4||JRA||1:11.1||[[菅原泰夫]]||[[本郷一彦]]||鈴木隆雄 |- |style="text-align:center"|第20回||1986年3月16日||中山||1200m||[[ドウカンテスコ]]||牡4||JRA||1:10.2||[[田村正光]]||[[田中朋次郎]]||新井興業(株) |- |style="text-align:center"|第21回||1987年3月22日||中山||1200m||[[キングフローリック]]||牡4||JRA||1:09.5||田村正光||[[久保田敏夫]]||青木啓二朗 |- |style="text-align:center"|第22回||1988年3月20日||東京||1400m||[[ダイナアクトレス]]||牝5||JRA||1:21.9||的場均||[[矢野進]]||(有)[[社台レースホース]] |- |style="text-align:center"|第23回||1989年3月19日||中山||1200m||[[ウィニングスマイル]]||牡6||JRA||1:09.3||田村正光||[[矢野照正]]||白井フサ |- |style="text-align:center"|第24回||1990年12月16日||中山||1200m||[[バンブーメモリー]]||牡5||JRA||1:07.8||[[武豊]]||[[武邦彦]]||竹田辰一 |- |style="text-align:center"|第25回||1991年12月15日||中山||1200m||[[ダイイチルビー]]||牝4||JRA||1:07.6||[[河内洋]]||伊藤雄二||辻本晴雄 |- |style="text-align:center"|第26回||1992年12月20日||中山||1200m||[[ニシノフラワー]]||牝3||JRA||1:07.7||河内洋||[[松田正弘]]||[[西山正行]] |- |style="text-align:center"|第27回||1993年12月19日||中山||1200m||[[サクラバクシンオー]]||牡4||JRA||1:07.9||小島太||境勝太郎||(株)さくらコマース |- |style="text-align:center"|第28回||1994年12月18日||中山||1200m||サクラバクシンオー||牡5||JRA||1:07.1||小島太||境勝太郎||(株)さくらコマース |- |style="text-align:center"|第29回||1995年12月17日||中山||1200m||[[ヒシアケボノ]]||牡3||JRA||1:08.1||[[角田晃一]]||[[佐山優]]||[[阿部雅一郎]] |- |style="text-align:center"|第30回||1996年12月15日||中山||1200m||[[フラワーパーク]]||牝4||JRA||1:08.8||[[田原成貴]]||松元省一||[[吉田勝己]] |- |style="text-align:center"|第31回||1997年12月14日||中山||1200m||[[タイキシャトル]]||牡3||JRA||1:07.8||岡部幸雄||[[藤沢和雄]]||(有)[[大樹ファーム]] |- |style="text-align:center"|第32回||1998年12月20日||中山||1200m||[[マイネルラヴ]]||牡3||JRA||1:08.6||[[吉田豊 (競馬)|吉田豊]]||[[稲葉隆一]]||(株)[[サラブレッドクラブ・ラフィアン]] |- |style="text-align:center"|第33回||1999年12月19日||中山||1200m||[[ブラックホーク (競走馬)|ブラックホーク]]||牡5||JRA||1:08.2||[[横山典弘]]||[[国枝栄]]||[[金子真人]] |- |style="text-align:center"|第34回||2000年10月1日||中山||1200m||[[ダイタクヤマト]]||牡6||JRA||1:08.6||[[江田照男]]||[[石坂正]]||[[太陽ファーム (競馬)|中村和子]] |- |style="text-align:center"|第35回||2001年9月30日||中山||1200m||[[トロットスター]]||牡5||JRA||1:07.0||[[蛯名正義]]||[[中野栄治]]||高野稔 |- |style="text-align:center"|第36回||2002年9月29日||新潟||1200m||[[ビリーヴ (競走馬)|ビリーヴ]]||牝4||JRA||1:07.7||武豊||[[松元茂樹]]||[[前田幸治]] |- |style="text-align:center"|第37回||2003年10月5日||中山||1200m||[[デュランダル (競走馬)|デュランダル]]||牡4||JRA||1:08.0||[[池添謙一]]||[[坂口正大]]||[[吉田照哉]] |- |style="text-align:center"|第38回||2004年10月3日||中山||1200m||[[カルストンライトオ]]||牡6||JRA||1:09.9||[[大西直宏]]||[[大根田裕之]]||[[清水貞光]] |- |style="text-align:center"|第39回||2005年10月2日||中山||1200m||[[サイレントウィットネス]]||&#39480;6||[[香港]]<ref name="JRA注目" />||1:07.3||style="white-space:nowrap"|[[フェリックス・コーツィー|F.コーツィー]]||[[アンソニー・クルーズ|A.クルーズ]]||A.A.ダ・シルバ&B.ダ・シルバ |- |style="text-align:center"|第40回||2006年10月1日||中山||1200m||[[テイクオーバーターゲット]]||&#39480;7||[[オーストラリア|AUS]]<ref name="JRA注目" />||1:08.1||[[ジェイ・フォード|J.フォード]]||J.ジャニアック||J.ジャニアック |- |style="text-align:center"|[[第41回スプリンターズステークス|第41回]]||2007年9月30日||中山||1200m||[[アストンマーチャン]]||牝3||JRA||1:09.4||[[中舘英二]]||石坂正||[[戸佐眞弓]] |- |style="text-align:center"|第42回||2008年10月5日||中山||1200m||[[スリープレスナイト]]||牝4||JRA||1:08.0||[[上村洋行]]||[[橋口弘次郎]]||(有)[[サンデーレーシング]] |- |style="text-align:center"|第43回||2009年10月4日||中山||1200m||[[ローレルゲレイロ]]||牡5||JRA||1:07.5||[[藤田伸二]]||[[昆貢]]||(株)[[ローレルレーシング]] |- |style="text-align:center"|第44回||2010年10月3日||中山||1200m||[[ウルトラファンタジー]]||&#39480;8||香港<ref name="JRA注目" />||1:07.4||[[黎海栄]]||[[姚本輝]]||[[林大輝]] |- |style="text-align:center"|第45回||2011年10月2日||中山||1200m||[[カレンチャン]]||牝4||JRA||1:07.4||池添謙一||[[安田隆行]]||[[鈴木隆司]] |- |style="text-align:center"|第46回||2012年9月30日||中山||1200m||[[ロードカナロア]]||牡4||JRA||1:06.7||[[岩田康誠]]||安田隆行||(株)[[ロードホースクラブ]] |- |style="text-align:center"|第47回||2013年9月29日||中山||1200m||ロードカナロア||牡5||JRA||1:07.2||岩田康誠||安田隆行||ロードホースクラブ |- |style="text-align:center"|第48回||2014年10月5日||新潟||1200m||[[スノードラゴン]]||牡6||JRA||1:08.8||[[大野拓弥]]||[[高木登 (競馬)|高木登]]||[[岡田牧雄]] |- |style="text-align:center"|第49回||2015年10月4日||中山||1200m||[[ストレイトガール]]||牝6||JRA||1:08.1||[[戸崎圭太]]||[[藤原英昭]]||[[廣崎利洋HD]](株) |- |style="text-align:center"|第50回||2016年10月2日||中山||1200m||[[レッドファルクス]]||牡5||JRA||1:07.6||[[ミルコ・デムーロ|M.デムーロ]]||[[尾関知人]]||(株)[[東京ホースレーシング]] |- |style="text-align:center"|第51回||2017年10月1日||中山||1200m||レッドファルクス||牡6||JRA||1:07.6||M.デムーロ||尾関知人||(株)東京ホースレーシング |- |style="text-align:center"|第52回||2018年9月30日||中山||1200m||[[ファインニードル]]||牡5||JRA||1:08.3||[[川田将雅]]||[[高橋義忠]]||[[ゴドルフィン]] |- |style="text-align:center"|第53回||2019年9月29日||中山||1200m||[[タワーオブロンドン]]||牡4||JRA||1:07.1||[[クリストフ・ルメール|C.ルメール]]||[[藤沢和雄]]||ゴドルフィン |- |style="text-align:center"|第54回||2020年10月4日||中山||1200m||[[グランアレグリア]]||牝4||JRA||1:08.3||C.ルメール||藤沢和雄||(有)サンデーレーシング |- |style="text-align:center"|第55回||2021年10月3日||中山||1200m||[[ピクシーナイト]]||牡3||JRA||1:07.1||[[福永祐一]]||[[音無秀孝]]||(有)[[シルクレーシング]] |- |style="text-align:center"|第56回||2022年10月2日||中山||1200m||[[ジャンダルム (競走馬)|ジャンダルム]]||牡7||JRA||1:07.8||[[荻野極]]||[[池江泰寿]]||前田幸治 |- |style="text-align:center"|第57回||2023年10月1日||中山||1200m||[[ママコチャ (競走馬)|ママコチャ]]||牝4||JRA||1:08.0||川田将雅||池江泰寿||金子真人ホールディングス(株) |} == スプリンターズステークスの記録 == * レースレコード - 1:06.7(第46回優勝馬ロードカナロア)<ref name="result2016" /><ref name="recordGI" /> なお、このタイムは中山競馬場芝外回り1200m3歳以上のコースレコードでもある。 ** 優勝タイム最遅記録 - 1:12.8(第13回優勝馬サニーフラワー)<ref>GⅠ昇格後は1:09.9(第38回優勝馬カルストンライトオ)</ref> * 最年長優勝馬 - 8歳(第44回優勝馬ウルトラファンタジー) * 連覇 1993・1994年サクラバクシンオー、2012・2013年ロードカナロア、2016・2017年レッドファルクス ** グレード制以前も含めると1974・1975年サクライワイ、1977・1978年メイワキミコも達成 * 最多優勝騎手 - 5勝 ** 小島太(第8回・第9回・第14回・第27回・第28回)<ref>連覇は他に増沢末夫(第11回・第12回)、飯田明弘(第17回・第18回)、田村正光(第20回・第21回)、河内洋(第25回・第26回)、岩田康誠(第46回・第47回)、M.デムーロ(第50回・第51回)、C.ルメール(第53回・第54回)が記録</ref> * 最多勝調教師 - 4勝 ** 境勝太郎(第7回・第15回・第27回・第28回)<ref>連続記録は安田隆行の3年連続(第45回〜第47回)</ref> * 最多勝利種牡馬 - 3勝 ** マタドア(第7回・第8回・第9回) == 外国調教馬の成績 == {{Main|海外調教馬による日本への遠征#スプリンターズステークス}} == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} === 参考文献 === * {{Cite book|和書|title=中央競馬全重賞成績集【GI編】|publisher=日本中央競馬会|year=1996|page=969-1013|chapter=スプリンターズステークス|ref=中央競馬全重賞成績集}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="JRA注目">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/keiba/thisweek/2020/1004_1/race.html |title=レースについて:スプリンターズステークス 今週の注目レース|publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2020年9月24日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201024081249/https://jra.jp/keiba/thisweek/2020/1004_1/race.html|archivedate=2020-10-24}}</ref> <ref name="jusyo_kanto">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/jusyo_kanto.pdf#page=35 |title=重賞競走一覧(レース別・関東) |year=2023|publisher=日本中央競馬会 |page=35 |accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="bangumi_2023nakayama4">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/nakayama4.pdf |title=令和5年第4回中山競馬番組 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="特別レース名解説">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/tokubetsu/2023/0406.pdf#page=5 |title=2023年度第4回中山競馬特別レース名解説(第8日)|publisher=日本中央競馬会 |page=5 |accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="netkeiba_raceguide">{{Cite web|和書|url=http://race.netkeiba.com/?pid=special&id=0099 |title=スプリンターズS特集(レースガイド) |publisher=netkeiba.com |accessdate=2015年3月11日}}</ref> <ref name="kakuchi">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/kakuchi.pdf |title=「地」が出走できるGI競走とそのステップ競走について【令和5年度】|publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="競馬番組一般事項">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi_ippan.pdf |title=競馬番組一般事項 |year=2023|publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="JRA20150306">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/201503/030601.html |title=世界のトップ100GIレースがIFHAから発表! |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2015年3月7日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150308213100/https://jra.jp/news/201503/030601.html |archivedate=2015年3月8日}}</ref> <ref name="TOP100GI">{{Cite web|format=PDF|url=https://jra.jp/news/201503/pdf/030601.pdf |title=THE WORLD'S TOP 100 G1 RACES for 3yo's and upwards |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2015年3月7日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150319074950/https://jra.jp/news/201503/pdf/030601.pdf |archivedate=2015年3月19日}}</ref> <ref name="ICSBook">{{Cite web|format=PDF|url=http://www.tjcis.com/pdf/icsc23/2023_EntireBook.pdf |title=INTERNATIONAL CATALOGUING STANDARDS and INTERNATIONAL STATISTICS 2023 |author=INTERNATIONAL GRADING AND RACE PLANNING ADVISORY COMMITTEE |publisher=The Jockey Club Information Systems, Inc. |language=英語 |accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="中央競馬全重賞成績集">『[[#中央競馬全重賞成績集|中央競馬全重賞成績集【GI編】]]』</ref> <ref name="result2006">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2006/4naka.pdf#page=108 |title=第4回 中山競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会 |year=2006|pages=2950-2951 |accessdate=2016年10月5日}}(索引番号:26095)</ref> <ref name="result2016">[[#JRA年度別全成績2016|2016年の成績表]]参照。</ref> <ref name="result2005">[[#JRA年度別全成績2005|2005年の成績表]]参照。</ref> <ref name="result2004">[[#JRA年度別全成績2004|2004年の成績表]]参照。</ref> <ref name="recordGI">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/record/gi.html |title=中央競馬レコードタイム GIレース|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2016年10月5日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170211073503/https://jra.jp/datafile/record/gi.html|archivedate=2017-02-11}}</ref> <ref name="jranews082701">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/202008/082701.html |title=9月12日(土曜)から10月4日(日曜)までの中央競馬の開催等|publisher=日本中央競馬会|date=2020年8月27日|accessdate=2020年9月24日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200930141756/https://jra.jp/news/202008/082701.html|archivedate=2020-09-30}}</ref> }} ==== 各回競走結果の出典 ==== * 『[[#中央競馬全重賞成績集|中央競馬全重賞成績集【GI編】]]』第1回 - 第29回 * 中山競馬場70年史編集委員会(編)『中山競馬場70年史』(日本中央競馬会中山競馬場、1998年):1967年 - 1997年(除1988年) * JRA年度別全成績 ** (2023年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2023/2023-4nakayama9.pdf#page=6 |title=第4回 中山競馬 第9日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2023年10月2日|ref=JRA年度別全成績2023}}(索引番号:25107) ** (2022年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2022/2022-4nakayama9.pdf#page=6 |title=第4回 中山競馬 第9日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2022年10月24日|ref=JRA年度別全成績2022}}(索引番号:25107) ** (2021年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2021/2021-4nakayama9.pdf#page=6 |title=第4回 中山競馬 第9日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2021年10月6日|ref=JRA年度別全成績2021}}(索引番号:25107) ** (2020年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2020/2020-4nakayama9.pdf#page=6 |title=第4回 中山競馬 第9日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2020年10月6日|ref=JRA年度別全成績2020}}(索引番号:25107) ** (2019年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2019/2019-4nakayama9.pdf#page=6 |title=第4回 中山競馬 第9日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2020年10月6日|ref=JRA年度別全成績2019}}(索引番号:25107) ** (2018年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2018/2018-4nakayama9.pdf#page=6 |title=第4回 中山競馬 第9日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2020年10月6日|ref=JRA年度別全成績2018}}(索引番号:25107) ** (2017年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2017/2017-4nakayama9.pdf#page=6 |title=第4回 中山競馬 第9日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2017年10月2日|ref=JRA年度別全成績2017}}(索引番号:25107) ** (2016年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2016/2016-4nakayama8.pdf#page=6 |title=第4回 中山競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2016年10月3日|ref=JRA年度別全成績2016}}(索引番号:25095) ** (2015年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2015/2015-4nakayama9.pdf#page=6 |title=第4回 中山競馬 第9日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2016年10月3日}}(索引番号:25107) ** (2014年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2014/2014-3niigata8.pdf#page=6 |title=第3回 新潟競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2016年10月3日}}(索引番号:25095) ** (2013年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2013/2013-4nakayama9.pdf#page=6 |title=第4回 中山競馬 第9日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2016年10月3日}}(索引番号:25107) ** (2012年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2012/2012-4nakayama9.pdf#page=6 |title=第4回 中山競馬 第9日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2016年10月3日}}(索引番号:25107) ** (2011年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2011/2011-4nakayama8.pdf#page=6 |title=第4回 中山競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2016年10月3日}}(索引番号:27095) ** (2010年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2010/2010-4nakayama8.pdf#page=11 |title=第4回 中山競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11 |accessdate=2016年10月3日}}(索引番号:26095) ** (2009年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2009/2009-4nakayama8.pdf#page=11 |title=第4回 中山競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11 |accessdate=2016年10月3日}}(索引番号:25085) ** (2008年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2008/2008-4nakayama8.pdf#page=11 |title=第4回 中山競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11 |accessdate=2016年10月3日}}(索引番号:26095) ** (2007年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2007/2007-4nakayama8.pdf#page=11 |title=第4回 中山競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11 |accessdate=2016年10月3日}}(索引番号:26095) ** (2006年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2006/2006-4nakayama8.pdf#page=11 |title=第4回 中山競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11 |accessdate=2016年10月3日}}(索引番号:26095) ** (2005年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2005/4naka.pdf#page=106 |title=第4回 中山競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会 |pages=2950-2951 |accessdate=2016年10月3日|ref=JRA年度別全成績2005}}(索引番号:26095) ** (2004年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2004/4-naka.pdf#page=107 |title=第4回 中山競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会 |pages=2963-2965 |accessdate=2016年10月3日|ref=JRA年度別全成績2004}}(索引番号:26095) ** (2003年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2003/5-naka.pdf#page=106 |title=第5回 中山競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会 |pages=2936-2937 |accessdate=2016年10月3日}}(索引番号:26095) ** (2002年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2002/4-nii.pdf#page=108 |title=第4回 新潟競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会 |pages=2787-2788 |accessdate=2016年10月3日}}(索引番号:25095) * netkeiba.comより(最終閲覧日:2023年10月2日) ** {{Netkeiba-raceresult|1986|06020811}}、{{Netkeiba-raceresult|1987|06020811}}、{{Netkeiba-raceresult|1988|05020811}}、{{Netkeiba-raceresult|1989|06020810}}、{{Netkeiba-raceresult|1989|06020810}}、{{Netkeiba-raceresult|1990|06050610}}、{{Netkeiba-raceresult|1991|06050610}}、{{Netkeiba-raceresult|1992|06050610}}、{{Netkeiba-raceresult|1993|06050610}}、{{Netkeiba-raceresult|1994|06050610}}、{{Netkeiba-raceresult|1995|06050610}}、{{Netkeiba-raceresult|1996|06060611}}、{{Netkeiba-raceresult|1997|06050611}}、{{Netkeiba-raceresult|1998|06050611}}、{{Netkeiba-raceresult|1999|06050611}}、{{Netkeiba-raceresult|2000|06050811}}、{{Netkeiba-raceresult|2001|06040811}}、{{Netkeiba-raceresult|2002|04040811}}、{{Netkeiba-raceresult|2003|06050811}}、{{Netkeiba-raceresult|2004|06040811}}、{{Netkeiba-raceresult|2005|06040811}}、{{Netkeiba-raceresult|2006|06040811}}、{{Netkeiba-raceresult|2007|06040811}}、{{Netkeiba-raceresult|2008|06040811}}、{{Netkeiba-raceresult|2009|06040811}}、{{Netkeiba-raceresult|2010|06040811}}、{{Netkeiba-raceresult|2011|06040811}}、{{Netkeiba-raceresult|2012|06040911}}、{{Netkeiba-raceresult|2013|06040911}}、{{Netkeiba-raceresult|2014|04030811}}、{{Netkeiba-raceresult|2015|04030911}}、{{Netkeiba-raceresult|2016|06040811}}、{{Netkeiba-raceresult|2017|06040911}}、{{Netkeiba-raceresult|2018|06040911}}、{{Netkeiba-raceresult|2019|06040911}}、{{Netkeiba-raceresult|2020|06040911}}、{{Netkeiba-raceresult|2021|06040911}}、{{Netkeiba-raceresult|2022|06040911}}、{{Netkeiba-raceresult|2023|06040911}} == 外部リンク == {{Commonscat|Sprinters Stakes|スプリンターズステークス}} * [https://jra.jp/keiba/thisweek/2023/1001_1/index.html データ分析:スプリンターズステークス 今週の注目レース] - 日本中央競馬会 * {{中央競馬の重賞競走}} {{グローバル・スプリント・チャレンジ}} {{デフォルトソート:すふりんたあすすてえくす}} [[Category:中央競馬の競走]] [[Category:中山競馬場の競走]] [[Category:1967年開始のスポーツイベント]] [[Category:読売グループのスポーツ活動の歴史]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B9
12,455
秋華賞
秋華賞(しゅうかしょう)は、日本中央競馬会(JRA)が京都競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。 「秋華」とは、中国の詩人である杜甫や張衡が「あきのはな」として詩のなかで用いた言葉。「秋」は大きな実りを表し、「華」は名誉・盛り・容姿が美しいという意味がこめられている。 正賞は京都市長賞、日本馬主協会連合会会長賞。 1996年に新設された、4歳(現3歳)牝馬限定のGI競走。その後エリザベス女王杯へ向かう馬も多く、エリザベス女王杯へ向けた前哨戦としての意味合いも持っている。施行距離は創設以来、京都競馬場・芝2000m(内回り)で変わっていない。 1995年まではエリザベス女王杯が4歳(現3歳)牝馬三冠の最終戦として行われていたが、1996年よりエリザベス女王杯が古馬にも開放され4歳(現3歳)以上の牝馬限定戦となったため、新たな4歳(現3歳)牝馬限定のGI競走として新設された。 創設時から外国産馬・地方競馬所属馬が出走可能で、2009年からは外国馬も出走可能な国際競走となった。 以下の内容は、2023年現在のもの。 出走資格:サラ系3歳牝馬(出走可能頭数:最大16頭) 負担重量:馬齢(55kg) 出馬投票を行った馬のうち、優先出走権をもっている馬から優先して割り当て、その他の馬は収得賞金の総計が多い順に出走できる(残る1枠が複数の同収得金額馬だった場合は抽選で出走馬が決まる)。 出馬投票を行った外国馬は、優先出走できる。 JRA所属馬は、下表のトライアル競走で所定の成績を収めた馬に優先出走権が付与される 。 地方競馬所属馬は上記トライアル競走で所定の成績を収めた馬のほか、桜花賞・優駿牝馬(オークス)で1着となった馬に優先出走が認められている。また、桜花賞・優駿牝馬(オークス)で2着となった地方競馬所属馬、および皐月賞・東京優駿(日本ダービー)・NHKマイルカップで2着以内に入着した地方競馬所属馬にも出走資格が与えられる。 なお、本競走で2着以内の成績を収めた地方競馬所属馬はエリザベス女王杯の優先出走権が与えられる。 2023年の1着賞金は1億円で、以下2着4000万円、3着2500万円、4着1500万円、5着1000万円。 距離はすべて芝コース。 優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。
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秋華賞(しゅうかしょう)は、日本中央競馬会(JRA)が京都競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。 「秋華」とは、中国の詩人である杜甫や張衡が「あきのはな」として詩のなかで用いた言葉。「秋」は大きな実りを表し、「華」は名誉・盛り・容姿が美しいという意味がこめられている。 正賞は京都市長賞、日本馬主協会連合会会長賞。
{{競馬の競走 |馬場 = 芝 |競走名 = 秋華賞<br>{{Lang|en|Shūka Sho}} |画像 = [[File:Akaitorino Musume Shukasho 2022(IMG1).jpg|275px]] |画像説明 = 第26回秋華賞<br>優勝馬・[[アカイトリノムスメ]]<br>(鞍上、[[戸崎圭太]]) |開催国 = {{JPN}} |主催者 = [[日本中央競馬会]] |競馬場 = [[京都競馬場]] |第一回施行日 = |創設 = [[1996年]][[10月20日]] |年次 = 2023 |距離 = 2000m |格付け = GI |1着賞金 = 1億1000万円 |賞金総額 = |条件 = {{Nowrap|[[サラブレッド|サラ]]系3歳牝馬(国際)(指定)}} |負担重量 = 馬齢(55kg) |出典 =<ref name="jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2023kyoto2" /> }} '''秋華賞'''(しゅうかしょう)は、[[日本中央競馬会]](JRA)が[[京都競馬場]]で施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け|GI]])である。 「秋華」とは、中国の詩人である[[杜甫]]や[[張衡 (科学者)|張衡]]が「あきのはな」として詩のなかで用いた言葉。「[[秋]]」は大きな実りを表し、「[[華]]」は名誉・盛り・容姿が美しいという意味がこめられている<ref name="特別レース名解説" />。 正賞は[[京都市長]]賞、[[日本馬主協会連合会]]会長賞<ref name="jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2023kyoto2" />。 == 概要 == 1996年に新設された、4歳(現3歳)牝馬限定のGI競走<ref name="JRA注目" />。その後[[エリザベス女王杯]]へ向かう馬も多く、エリザベス女王杯へ向けた前哨戦としての意味合いも持っている<ref name="JRA注目" />。施行距離は創設以来、京都競馬場・芝2000m(内回り)で変わっていない<ref name="JRA注目" />。 1995年まではエリザベス女王杯が4歳(現3歳)[[三冠 (競馬)#3歳|牝馬三冠]]の最終戦として行われていたが、1996年よりエリザベス女王杯が古馬にも開放され4歳(現3歳)以上の牝馬限定戦となったため、新たな4歳(現3歳)牝馬限定のGI<ref group="注" name="grade">当時の格付表記は、JRAの独自グレード。</ref>競走として新設された<ref name="JRA注目" />。 創設時から[[外国産馬]]・[[地方競馬]]所属馬が出走可能で、2009年からは[[外国馬]]も出走可能な[[国際競走]]となった<ref name="result2009" />。 === 競走条件 === 以下の内容は、2023年現在<ref name="jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2023kyoto2" />のもの。 出走資格:[[サラブレッド|サラ系]]3歳牝馬(出走可能頭数:最大16頭) * JRA所属馬(外国産馬含む) * 地方競馬所属馬(後述) * 外国調教馬(優先出走) * 未出走馬・未勝利馬は出走できない。 負担重量:馬齢(55kg) 出馬投票を行った馬のうち、優先出走権をもっている馬から優先して割り当て、その他の馬は収得賞金の総計が多い順に出走できる(残る1枠が複数の同収得金額馬だった場合は抽選で出走馬が決まる)。 === 優先出走権 === 出馬投票を行った外国馬は、優先出走できる<ref name="一般事項" />。 JRA所属馬は、下表のトライアル競走で所定の成績を収めた馬に優先出走権が付与される<ref name="一般事項" /><ref>[http://jra.jp/keiba/program/pdf/h28-henkou.pdf 平成28年度の重賞競走の主な変更点について] - 日本中央競馬会、2016年7月21日閲覧</ref> 。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !競走名!!格!!競馬場!!距離!!必要な着順 |- |[[紫苑ステークス]]||GII<ref>[https://jra.jp/news/202301/011903.html 紫苑ステークスのGⅡ格付けと新潟牝馬ステークスのリステッド格付け]日本中央競馬会、2023年1月19日配信・閲覧</ref>||{{Flagicon|JPN}}[[中山競馬場]]||芝2000m||3着以内 |- |[[ローズステークス]]||GII||{{Flagicon|JPN}}[[阪神競馬場]]||芝1800m||3着以内 |} 地方競馬所属馬は上記トライアル競走で所定の成績を収めた馬のほか、[[桜花賞]]・[[優駿牝馬]](オークス)で1着となった馬に優先出走が認められている<ref name="一般事項" /><ref name="ステップ競走" />。また、桜花賞・優駿牝馬(オークス)で2着となった地方競馬所属馬、および[[皐月賞]]・[[東京優駿]](日本ダービー)・[[NHKマイルカップ]]で2着以内に入着した地方競馬所属馬にも出走資格が与えられる<ref name="JRA注目" /><ref name="一般事項" />。 なお、本競走で2着以内の成績を収めた地方競馬所属馬は[[エリザベス女王杯]]の優先出走権が与えられる<ref name="ステップ競走" /><ref name="一般事項" />。 === 賞金 === 2023年の1着賞金は1億円で、以下2着4000万円、3着2500万円、4着1500万円、5着1000万円<ref name="jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2023kyoto2" />。 == 歴史 == === 年表 === * 1996年 - 4歳牝馬によるGI<ref group="注" name="grade" />競走として創設、京都競馬場・芝2000m(内回り)で施行<ref name="JRA注目" />。 * 2001年 - [[馬齢]]表示の国際基準への変更に伴い、出走条件を「3歳牝馬」に変更。 * 2003年 - [[負担重量]]を「馬齢重量」に変更<ref name="result2003" />。 * 2007年 - 日本のパートI国昇格に伴い、格付表記をJpnIに変更<ref name="result2007" />。 * 2009年 ** [[国際競走]]に変更され、外国調教馬が9頭まで出走可能となる<ref name="result2009" />。 ** 格付表記をGI(国際格付)に変更<ref name="JRA注目" />。 * 2019年 - [[令和元年東日本台風]] (台風19号・ハギビス)の影響で[[関東地方]]の競馬場・[[場外勝馬投票券発売所|WINS・パークウインズ]]での馬券の発売が中止となる。([[令和元年東日本台風#イベントなどへの影響]]参照) * 2021年 - 京都競馬場の整備工事に伴い、[[阪神競馬場]]で施行<ref name="R03henko" />(2022年も同様<ref name="R04henko" />)。このため、出走可能頭数が16頭に変更される。 == 歴代優勝馬 == 距離はすべて芝コース。 優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。 {| class="wikitable" !回数!!施行日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主 |- |style="text-align:center"|第1回||1996年10月20日||京都||2000m||[[ファビラスラフイン]]||牝3||1:58.1||[[松永幹夫]]||[[長浜博之]]||[[吉田和子 (社台グループ)|吉田和子]] |- |style="text-align:center"|第2回||1997年10月19日||京都||2000m||[[メジロドーベル]]||牝3||2:00.1||[[吉田豊 (競馬)|吉田豊]]||[[大久保洋吉]]||[[メジロ牧場|メジロ商事]](株) |- |style="text-align:center"|第3回||1998年10月25日||京都||2000m||[[ファレノプシス (競走馬)|ファレノプシス]]||牝3||2:02.4||[[武豊]]||[[浜田光正]]||(有)[[ノースヒルズマネジメント]] |- |style="text-align:center"|第4回||1999年10月24日||京都||2000m||[[ブゼンキャンドル]]||牝3||1:59.3||[[安田康彦]]||[[松田博資]]||(株)[[上田牧場]] |- |style="text-align:center"|第5回||2000年10月15日||京都||2000m||[[ティコティコタック]]||牝3||1:59.9||[[武幸四郎]]||[[松田正弘]]||(有)[[バンブー牧場]] |- |style="text-align:center"|第6回||2001年10月14日||京都||2000m||[[テイエムオーシャン]]||牝3||1:58.5||[[本田優]]||[[西浦勝一]]||[[竹園正繼]] |- |style="text-align:center"|第7回||2002年10月13日||京都||2000m||[[ファインモーション]]||牝3||1:58.1||武豊||[[伊藤雄二]]||[[伏木田達男]] |- |style="text-align:center"|第8回||2003年10月19日||京都||2000m||[[スティルインラブ]]||牝3||1:59.1||[[幸英明]]||[[松元省一]]||(有)ノースヒルズマネジメント |- |style="text-align:center"|第9回||2004年10月17日||京都||2000m||[[スイープトウショウ]]||牝3||1:58.4||[[池添謙一]]||[[鶴留明雄]]||[[トウショウ産業]](株) |- |style="text-align:center"|第10回||2005年10月16日||京都||2000m||[[エアメサイア]]||牝3||1:59.2||武豊||伊藤雄二||(株)[[ラッキーフィールド]] |- |style="text-align:center"|第11回||2006年10月15日||京都||2000m||[[カワカミプリンセス]]||牝3||1:58.2||本田優||西浦勝一||(有)[[三石川上牧場]] |- |style="text-align:center"|[[第12回秋華賞|'''第12回''']]||2007年10月14日||京都||2000m||[[ダイワスカーレット]]||牝3||1:59.1||[[安藤勝己]]||[[松田国英]]||[[大城敬三]] |- |style="text-align:center"|第13回||2008年10月19日||京都||2000m||[[ブラックエンブレム]]||牝3||1:58.4||[[岩田康誠]]||[[小島茂之 (競馬)|小島茂之]]||[[田原邦男]] |- |style="text-align:center"|第14回||2009年10月18日||京都||2000m||[[レッドディザイア]]||牝3||1:58.2||[[四位洋文]]||松永幹夫||(株)[[東京ホースレーシング]] |- |style="text-align:center"|第15回||2010年10月17日||京都||2000m||[[アパパネ]]||牝3||1:58.4||[[蛯名正義]]||[[国枝栄]]||[[金子真人ホールディングス]](株) |- |style="text-align:center"|第16回||2011年10月16日||京都||2000m||[[アヴェンチュラ]]||牝3||1:58.2||岩田康誠||[[角居勝彦]]||(有)[[キャロットファーム]] |- |style="text-align:center"|[[第17回秋華賞|'''第17回''']]||2012年10月14日||京都||2000m||[[ジェンティルドンナ]]||牝3||2:00.4||岩田康誠||[[石坂正]]||(有)[[サンデーレーシング]] |- |style="text-align:center"|第18回||2013年10月13日||京都||2000m||[[メイショウマンボ]]||牝3||1:58.6||武幸四郎||[[飯田明弘]]||[[松本好雄]] |- |style="text-align:center"|第19回||2014年10月19日||京都||2000m||[[ショウナンパンドラ]]||牝3||1:57.0||[[浜中俊]]||[[高野友和]]||[[国本哲秀]] |- |style="text-align:center"|第20回||2015年10月18日||京都||2000m||[[ミッキークイーン]]||牝3||1:56.9||浜中俊||[[池江泰寿]]||[[野田みづき]] |- |style="text-align:center"|第21回||2016年10月16日||京都||2000m||[[ヴィブロス]]||牝3||1:58.6||[[福永祐一]]||[[友道康夫]]||[[佐々木主浩]] |- |style="text-align:center"|第22回||2017年10月15日||京都||2000m||[[ディアドラ (競走馬)|ディアドラ]]||牝3||2:00.2||[[クリストフ・ルメール|C.ルメール]]||[[橋田満]]||[[森田藤治]] |- |第23回||2018年10月14日||京都||2000m||[[アーモンドアイ]]||牝3||1:58.5||C.ルメール||国枝栄||(有)[[シルクレーシング]] |- |第24回||2019年10月13日||京都||2000m||[[クロノジェネシス]]||牝3||1:59.9||[[北村友一]]||[[斉藤崇史]]||(有)サンデーレーシング |- |第25回||2020年10月18日||京都||2000m||[[デアリングタクト]]||牝3||2:00.6||[[松山弘平]]||[[杉山晴紀]]||(株)[[ノルマンディーサラブレッドレーシング]] |- |第26回||2021年10月17日||阪神||2000m||[[アカイトリノムスメ]]||牝3||2:01.2||[[戸崎圭太]]||国枝栄||金子真人ホールディングス(株) |- |第27回||2022年10月16日||阪神||2000m||[[スタニングローズ]]||牝3||1:58.6||[[坂井瑠星]]||高野友和||(有)サンデーレーシング |- |[[第28回秋華賞|'''第28回''']]||2023年10月15日||京都||2000m||[[リバティアイランド]]||牝3||2:01.1||[[川田将雅]]||[[中内田充正]]||(有)サンデーレーシング |} == 秋華賞の記録 == * レースレコード - 1:56.9(第20回優勝馬ミッキークイーン)<ref>{{Cite web|和書|url=http://jra.jp/datafile/record/gi.html |title=中央競馬レコードタイム GIレース|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2015年10月19日}}</ref> ** 優勝タイム最遅記録 - 2:01.2(第26回優勝馬アカイトリノムスメ) * 単勝支持率 - 72.0%(第7回優勝馬ファインモーション)<ref>https://news.sp.netkeiba.com/?pid=news_view&no=244447</ref> * 最多優勝騎手 - 3勝 ** 武豊(第3回・第7回・第10回)、岩田康誠(第13回・第16回・第17回)<ref>連覇は他に浜中俊(第19回・第20回)、クリストフ・ルメール(第22回・第23回)が記録</ref> * 最多優勝調教師 - 3勝 ** 国枝栄(第15回・第23回・第26回) * 最多優勝馬主 - 4勝 **(有)サンデーレーシング(第17回・第24回・第27回・第28回) * 最多勝利種牡馬 - 5勝 ** [[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]](第17回・第19回・第20回・第21回・第26回) == フォトギャラリー == <gallery> File:Kawakami Princess DSCN2849 20061015.JPG|第11回優勝馬カワカミプリンセス(鞍上、本田優) ファイル:The 13th Shuka Sho 20081019.JPG|第13回優勝馬ブラックエンブレム(鞍上、岩田康誠) ファイル:Apapane(horse)20101017(2).jpg|第15回優勝馬アパパネ(鞍上、蛯名正義) File:Aventura20111016(1).jpg|第16回優勝馬アヴェンチュラ(鞍上、岩田康誠) File:17th Shuka-sho 20121017.JPG|第17回優勝馬ジェンティルドンナ(鞍上、岩田康誠) File:Meisho Mambo Syukasyo 2013(IMG1).jpg|第18回優勝馬メイショウマンボ(鞍上、武幸四郎) File:Shonan Pandora Syuka Syo 2014(IMG1).jpg|第19回優勝馬ショウナンパンドラ(鞍上、浜中俊) File:Mikki Queen Syukasyo 2015(IMG1).jpg|第20回優勝馬ミッキークイーン(鞍上、浜中俊) File:Vivlos IMG 8524-1 20161016.jpg|第21回優勝馬ヴィブロス(鞍上、福永祐一) File:Deirdre Shukasho 2017(IMG1).jpg|第22回優勝馬ディアドラ(鞍上、クリストフ・ルメール) 画像:Almond Eye(JPN) IMG 9225-1 20181014.jpg|第23回優勝馬アーモンドアイ(鞍上、クリストフ・ルメール) File:Chrono Genesis(JPN) IMG 4796-1 20191013.jpg|第24回優勝馬クロノジェネシス(鞍上、北村友一) </gallery> == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2 |refs= <ref name="jusyo_kansai">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/jusyo_kansai.pdf#page=28 |title=重賞競走一覧(レース別・関西)|publisher=日本中央競馬会|page=28|accessdate=2023年9月12日}}</ref> <ref name="bangumi_2023kyoto2">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/kyoto2.pdf |title=令和5年第2回京都競馬番組 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2023年9月12日}}</ref> <ref name="特別レース名解説">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/tokubetsu/2022/0409.pdf#page=2 |title=2022年度第4回阪神競馬特別レース名解説|publisher=日本中央競馬会|page=3|accessdate=2023年9月12日}}</ref> <ref name="JRA注目">{{Cite web|和書|url=http://jra.jp/keiba/thisweek/2022/1016_1/race.html |title=レースについて:秋華賞 今週の注目レース|publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2023年9月12日}}</ref> <ref name="ステップ競走">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/kakuchi.pdf |title=「地」が出走できるGI競走とそのステップ競走について【令和5年度】|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="一般事項">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi_ippan.pdf |title=競馬番組一般事項|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="result2003">[[#result2003|2003年の成績表]]参照。</ref> <ref name="result2007">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2007/4kyo.pdf#page=64 |title=第4回 京都競馬成績集計表|publisher=日本中央競馬会|pages=3136-3138|year=2007|accessdate=2016年10月6日}}(索引番号:29059)</ref> <ref name="result2009">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2009/4kyo.pdf#page=56 |title=第4回 京都競馬成績集計表|publisher=日本中央競馬会|pages=3230-3231|year=2009|accessdate=2016年10月6日}}(索引番号:29047)</ref> <ref name="R03henko">{{Cite web|和書|url=https://www.jra.go.jp/keiba/program/2021/pdf/henkou.pdf|title=令和3年度の重賞競走の主な変更点について|accessdate=2020-10-20|date=2020-10-19|publisher=日本中央競馬会}}</ref> <ref name="R04henko">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2022/pdf/henkou.pdf |title=令和4年度の重賞競走の主な変更点について|accessdate=2021年10月18日|date=2020年10月18日|publisher=日本中央競馬会}}</ref> }} ==== 各回競走結果の出典 ==== * JRA年度別全成績 ** (2023年){{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2023/2023-2kyoto5.pdf#page=6 |title=第2回 京都競馬 第5日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2023年10月16日}}(索引番号:28059) ** (2022年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2022/2022-4hanshin5.pdf#page=6 |title=第4回 阪神競馬 第5日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2022年10月24日}}(索引番号:28059) ** (2021年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2021/2021-4hanshin4.pdf#page=6 |title=第4回 阪神競馬 第4日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2021年10月18日}}(索引番号:28047) ** (2020年){{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2020/2020-4kyoto4.pdf#page=6 |title=第4回 京都競馬 第4日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2020年10月19日}}(索引番号:28047) ** (2019年){{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2019/2019-4kyoto5.pdf#page=6 |title=第4回 京都競馬 第5日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2020年10月9日}}(索引番号:28059) ** (2018年){{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2018/2018-4kyoto5.pdf#page=6 |title=第4回 京都競馬 第5日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2020年10月9日}}(索引番号:28059) ** (2017年){{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2017/2017-4kyoto5.pdf#page=6 |title=第4回 京都競馬 第5日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2017年10月16日}}(索引番号:28059) ** (2016年){{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2016/2016-4kyoto5.pdf#page=6 |title=第4回 京都競馬 第5日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2016年10月17日}}(索引番号:28059) ** (2015年){{Cite 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web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2010/2010-5kyoto4.pdf#page=11 |title=第5回 京都競馬 第4日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11 |accessdate=2016年10月17日}}(索引番号:29047) ** (2009年){{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2009/2009-4kyoto4.pdf#page=11 |title=第4回 京都競馬 第4日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11 |accessdate=2016年10月17日}}(索引番号:29047) ** (2008年){{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2008/2008-4kyoto4.pdf#page=11 |title=第4回 京都競馬 第4日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11 |accessdate=2016年10月17日}}(索引番号:29047) ** (2007年){{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2007/2007-4kyoto5.pdf#page=11 |title=第4回 京都競馬 第5日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11 |accessdate=2016年10月17日}}(索引番号:29059) ** (2006年){{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2006/2006-5kyoto4.pdf#page=11 |title=第5回 京都競馬 第4日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11 |accessdate=2016年10月17日}}(索引番号:29047) ** (2005年){{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2005/4kyo.pdf#page=52 |title=第4回 京都競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会 |pages=3220-3222 |accessdate=2016年10月17日}}(索引番号:29047) ** (2004年){{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2004/4-kyo.pdf#page=55 |title=第4回 京都競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会 |pages=3239-3241|accessdate=2016年10月17日}}(索引番号:29047) ** (2003年){{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2003/4-kyo.pdf#page=53 |title=第4回 京都競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会 |pages=3209-3211 |accessdate=2016年10月17日|ref=result2003}}(索引番号:29047) ** (2002年){{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2002/4-kyo.pdf#page=54 |title=第4回 京都競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会 |pages=3056-3057 |accessdate=2016年10月17日}}(索引番号:28047) * netkeiba.comより(最終閲覧日:2023年10月16日) ** {{Netkeiba-raceresult|1996|08040610}}、{{Netkeiba-raceresult|1997|08040611}}、{{Netkeiba-raceresult|1998|08050611}}、{{Netkeiba-raceresult|1999|08040611}}、{{Netkeiba-raceresult|2000|08040411}}、{{Netkeiba-raceresult|2001|08040411}}、{{Netkeiba-raceresult|2002|08040411}}、{{Netkeiba-raceresult|2003|08040411}}、{{Netkeiba-raceresult|2004|08040411}}、{{Netkeiba-raceresult|2005|08040411}}、{{Netkeiba-raceresult|2006|08050411}}、{{Netkeiba-raceresult|2007|08040511}}、{{Netkeiba-raceresult|2008|08040411}}、{{Netkeiba-raceresult|2009|08040411}}、{{Netkeiba-raceresult|2010|08050411}}、{{Netkeiba-raceresult|2011|08050411}}、{{Netkeiba-raceresult|2012|08040511}}、{{Netkeiba-raceresult|2013|08040411}}、{{Netkeiba-raceresult|2014|08040511}}、{{Netkeiba-raceresult|2015|08040511}}、{{Netkeiba-raceresult|2016|08040511}}、{{Netkeiba-raceresult|2017|08040511}}、{{Netkeiba-raceresult|2018|08040511}}、{{Netkeiba-raceresult|2019|08040411}}、{{Netkeiba-raceresult|2020|08040411}}、{{Netkeiba-raceresult|2021|09040411}}、{{Netkeiba-raceresult|2022|09040511}}、{{Netkeiba-raceresult|2023|08020511}} == 外部リンク == {{Commonscat|Shūka Sho|秋華賞}} * [http://jra.jp/keiba/thisweek/2023/1015_1/ データ分析:秋華賞 今週の注目レース] - 日本中央競馬会 {{中央競馬の重賞競走}} {{アメリカ競馬三冠}} {{デフォルトソート:しゆうかしよう}} [[Category:秋華賞|*]] [[Category:京都競馬場の競走]] [[Category:1996年開始のスポーツイベント]]
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理想気体の状態方程式
理想気体の状態方程式(りそうきたいのじょうたいほうていしき、英語: ideal gas law)とは、気体の振る舞いを理想化した状態方程式である。 なお、理想気体は、この状態方程式に従うが、その振る舞いは状態方程式だけでは決まらず、比熱容量の定数性が要求される。 熱力学温度 T、圧力 p の下で、物質量 n の理想気体が占める体積 V が p V = n R T {\displaystyle pV=nRT} で与えられる。ここで係数 R はモル気体定数である。 この式が理想気体の状態方程式であり、ボイルの法則、シャルルの法則(あるいは合わせてボイル=シャルルの法則)と体積の示量性から導かれる。 実在気体の場合は、気体は近似的にこの方程式に従い、式の有効性は気体の密度が0に近づき(低圧になり)、かつ高温になるにつれて高まる。 何故なら、密度が0に近付けば、分子の運動に際し、お互いがぶつからずに、分子自身の体積が無視できるようになる。また、高温になることによって、分子の運動が高速になり、分子間力(ファンデルワールス力)が無視出来るようになるからである。 理想気体の状態方程式から導かれる性質として以下のものがある。これらは比熱容量の定数性が要求されない半理想気体でも成り立つ。 状態方程式の微分から得られる熱膨張係数 α と等温圧縮率 κT は、それぞれ α = 1 V ( ∂ V ∂ T ) p = 1 T {\displaystyle \alpha ={\frac {1}{V}}\left({\frac {\partial V}{\partial T}}\right)_{p}={\frac {1}{T}}} κ T = − 1 V ( ∂ V ∂ p ) T = 1 p {\displaystyle \kappa _{T}=-{\frac {1}{V}}\left({\frac {\partial V}{\partial p}}\right)_{T}={\frac {1}{p}}} である。 熱力学的状態方程式が ( ∂ U ∂ V ) T = T α κ T − p = 0 {\displaystyle \left({\frac {\partial U}{\partial V}}\right)_{T}={\frac {T\alpha }{\kappa _{T}}}-p=0} ( ∂ H ∂ p ) T = T V ( 1 T − α ) = 0 {\displaystyle \left({\frac {\partial H}{\partial p}}\right)_{T}=TV\left({\frac {1}{T}}-\alpha \right)=0} であり、内部エネルギーやエンタルピーが体積や圧力に依存しない温度だけの関数となる。 ジュール=トムソン係数が μ J-T = T V C p ( α − 1 T ) = 0 {\displaystyle \mu _{\text{J-T}}={\frac {TV}{C_{p}}}\left(\alpha -{\frac {1}{T}}\right)=0} であり、ジュール=トムソン効果がない。 等圧熱容量と等積熱容量の差が C p − C V = T V α 2 κ T = n R {\displaystyle C_{p}-C_{V}={\frac {TV\alpha ^{2}}{\kappa _{T}}}=nR} となる。(マイヤーの関係式)
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理想気体の状態方程式とは、気体の振る舞いを理想化した状態方程式である。 なお、理想気体は、この状態方程式に従うが、その振る舞いは状態方程式だけでは決まらず、比熱容量の定数性が要求される。
{{出典の明記|date=2011年7月}} {{Thermodynamics sidebar}} [[File:Ideal gas isotherms.png|thumb|right|200px|理想気体の等温曲線。[[温度]]が一定のいくつかの条件下での圧力 ''p'' と体積 ''V'' の関係を示す。左下から右上に向かって高温になる。]] '''理想気体の状態方程式'''(りそうきたいのじょうたいほうていしき、{{Lang-en|ideal gas law}})とは、[[気体]]の振る舞いを理想化した[[状態方程式 (熱力学)|状態方程式]]である。 なお、[[理想気体]]は、この状態方程式に従うが、その振る舞いは状態方程式だけでは決まらず、[[比熱容量]]の定数性が要求される。 ==方程式== [[熱力学温度]] {{mvar|T}}、[[圧力]] {{mvar|p}} の下で、[[物質量]] {{mvar|n}} の理想気体が占める[[体積]] {{mvar|V}} が {{Indent| <math>pV = nRT</math> }} で与えられる。ここで係数 {{mvar|R}} は[[気体定数|モル気体定数]]である。 この式が理想気体の状態方程式であり、[[ボイルの法則]]、[[シャルルの法則]](あるいは合わせて[[ボイル=シャルルの法則]])と体積の[[示量性]]から導かれる。 [[実在気体]]の場合は、気体は近似的にこの方程式に従い、式の有効性は気体の密度が0に近づき(低圧になり)、かつ高温になるにつれて高まる。 何故なら、密度が0に近付けば、分子の運動に際し、お互いがぶつからずに、分子自身の体積が無視できるようになる。また、高温になることによって、分子の運動が高速になり、[[分子間力]]([[ファンデルワールス力]])が無視出来るようになるからである。 == 諸性質 == 理想気体の状態方程式から導かれる性質として以下のものがある。これらは比熱容量の定数性が要求されない半理想気体でも成り立つ。 状態方程式の微分から得られる[[熱膨張係数]] {{mvar|&alpha;}} と[[圧縮率|等温圧縮率]] {{mvar|&kappa;{{sub|T}}}} は、それぞれ {{Indent| <math>\alpha =\frac{1}{V} \left( \frac{\partial V}{\partial T} \right)_p =\frac{1}{T}</math> }} {{Indent| <math>\kappa_T =-\frac{1}{V} \left( \frac{\partial V}{\partial p} \right)_T =\frac{1}{p}</math> }} である。 [[熱力学的状態方程式]]が {{Indent| <math>\left( \frac{\partial U}{\partial V} \right)_T = \frac{T\alpha}{\kappa_T}-p =0</math> }} {{Indent| <math>\left( \frac{\partial H}{\partial p} \right)_T = TV \left( \frac{1}{T} -\alpha \right) =0</math> }} であり、[[内部エネルギー]]や[[エンタルピー]]が体積や圧力に依存しない温度だけの関数となる。 [[ジュール=トムソン係数]]が {{Indent| <math>\mu_\text{J-T} =\frac{TV}{C_p} \left( \alpha -\frac{1}{T} \right) =0</math> }} であり、[[ジュール=トムソン効果]]がない。 等圧熱容量と等積熱容量の差が {{Indent| <math>C_p -C_V =\frac{TV\alpha^2}{\kappa_T} =nR</math> }} となる。([[マイヤーの関係式]]) == 関連項目 == * [[状態方程式 (熱力学)|状態方程式]] ** [[ファンデルワールスの状態方程式]] ** [[ビリアル展開]] * [[気体分子運動論]] *[[ボイル=シャルルの法則]] *[[ゲイ=リュサックの法則]] *[[アボガドロの法則]] {{DEFAULTSORT:りそうきたいのしようたいほうていしき}} [[Category:理想気体]] [[Category:状態方程式 (熱力学)]] [[Category:気体の法則]]
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ジャパンカップ
ジャパンカップは、日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)。英称の頭文字から、JCという略称も用いられることがある。 正賞は農林水産大臣賞、外務大臣賞、ロンジン賞、日本馬主協会連合会会長賞、東京馬主協会賞。 1981年に創設された国際招待競走で、日本初の国際GIでもある。また、国際競走であるため、JRAの厩舎関係者表彰においては、最優秀騎手賞と最優秀調教師賞の資格を得るにあたり「1着をとらねばならない競走」のひとつに指定され、いわゆる「八大競走」と同格の扱いを受けていた。 かつては中山グランドジャンプとジャパンカップダートも国際招待競走になっていたが、中山グランドジャンプは2011年より、ジャパンカップダートは2014年よりチャンピオンズカップに改称の上、いずれもJRAが馬や関係者の諸費用を負担しない国際競走となっている。 本競走は2014年にスイス発祥の世界大手時計メーカー・ロンジンとパートナーシップを締結し、公式計時もロンジンがサポートしており、2022年現在の正式名称は「ジャパン・オータムインターナショナル ロンジン賞 ジャパンカップ」となっている。 なお、ジャパンカップダート(現・チャンピオンズカップ)との同日開催となった2004年以後、平年の第5回中山競馬相当分が代替されない限り、ジャパンカップが東京競馬場の年内最終競走となっている(それ以前は、ジャパンカップ終了後に一般、または特別競走が最終競走として行われていた。また他場への振り替えは2002年に東京競馬場の馬場の拡幅工事及びスタンドの建て替え工事により、中山競馬場で代替された1例だけである)。 世界の競馬開催国は国際セリ名簿基準書におけるパートIからパートIVまでランク分けされており、2014年時点で日本は平地競走が最上位のパートI、障害競走はパートIVにランク付けされている。 国際競馬統括機関連盟(IFHA)が公表した「世界のトップ100GIレース」によると、2018年度の格付ランキングでは、世界7位、日本のレースの中では有馬記念を抜いて1位(有馬記念は日本2位)に位置付けられた。2019年度のランキングでは世界46位、日本の中では7位であった。2020年度のランキングでは世界3位、日本の中では1位であった。2021年度のランキングでは世界12位、日本の中では4位であった。 以下の内容は2022年現在のもの。 出走資格:サラ系3歳以上(出走可能頭数:最大18頭) 負担重量:定量(3歳55kg、4歳以上57kg、牝馬2kg減) 出馬投票を行った外国馬は、優先出走が認められている。 また、JRAが指定した競走(下表参照)の上位馬に対し優先出走権を与えている。 2023年の1着本賞金は5億円で、以下2着2億円、3着1億3,000万円、4着7,500万円、5着5,000万円。1着本賞金は有馬記念と並んで中央競馬・地方競馬を通じて最高額。 第1回(1981年)の1着本賞金は、当時有馬記念・東京優駿・天皇賞と同じ中央競馬最高額である6,500万円であった。第9回(1989年)に初めて1着本賞金が1億円を超え1億300万円となった。第2回(1982年)から第12回(1992年)までは毎年増額されたが、第13回(1993年)と第14回(1994年)は前年と同額(1億3,000万円)に据え置かれた。第15回(1995年)に1億3,200万円となり、その後第19回(1999年)まで同額であった。第20回(2000年)には2億5,000万円と前年比で約90%増額され、この年初めてジャパンカップの1着本賞金が単独で最高額となった。その後第34回(2014年)まで2億5,000万円に据え置かれていたが、第35回(2015年)に3億円に増額された。ちなみに、その翌年2016年に有馬記念の1着本賞金も3億円に増額され、この年以降はジャパンカップと有馬記念の1着本賞金は同額である。第42回(2022年)に4億円、第43回(2023年)に5億円、と2年続けて1億円ずつ増額されたが、これは年々香港国際競走(特に同距離に近い香港カップ・香港ヴァーズ)への出走馬の流出が相次いでいること、日本国外においてもサウジカップ(1000万USドル)、ドバイワールドカップ(696万USドル)、凱旋門賞(285万7000ユーロ)などに代表される世界最高賞金額のレースが増えてきており、「海外の主要競走に対する競争力を高める」ことが理由である。 天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念の3競走を同一年にすべて優勝したJRA所属馬には内国産馬2億円、外国産馬1億円の褒賞金が交付される。 なお、指定競走(下表参照)の当年優勝馬がジャパンカップに出走した場合に褒賞金を交付している。 過去の指定外国競走 1970年代後半より「世界に通用する強い馬づくり」が提唱され、日本国外の調教馬を招待して国際競走を開催する計画も持ち上がっていたが、招待馬の選定にあたりJRAと各国との意向に齟齬があり実現しなかった経緯がある。1981年に日本初の国際招待競走として、ジャパンカップが創設された。 第1回は北アメリカとアジア地区から招待馬を選出したが、翌年からは招待範囲がヨーロッパ、オセアニアにも広げられ、参加国の多さから「世界一の競走」「競馬のオリンピック」と評されることもあった。さらに1983年からは、地方競馬の所属馬も招待対象に加えられた。 第1回の優勝馬・メアジードーツは、アメリカからやってきた成績の目立たない牝馬の上、当時のコースレコードを1秒更新したことから、日本の競馬関係者に「(日本馬は)永遠に勝てないのではないか」と思わせる衝撃を与えた。そうした懸念は極端なものであったが、創設から1990年までの10年間は外国招待馬の8勝に対し、日本馬はカツラギエース(1984年)とシンボリルドルフ(1985年)の2勝にとどまり、外国招待馬の活躍が目立っていた。しかし、その後は日本馬の活躍が目立つようになり、また外国招待馬の頭数も減った(後述)ことから、2004年から2013年までの10年間でみると外国招待馬は1勝、日本馬は9勝と完全に逆転した。創設から2023年までの優勝は外国招待馬14勝、日本馬29勝である。 コース種別を記載していない距離は、芝コースを表す。 優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。 外国馬の所属表記は、調教国の出典が示されているもののみ記載する。 ジャパンカップを含む一連のジャパン・オータムインターナショナルシリーズの直後に、香港国際競走が行われ、そちらへ外国調教馬の参戦が多くなりつつあり、実際ジャパンカップは2019年の開催で外国馬の参加が1頭もないという異常事態となったことを踏まえ、2021年6月28日に日本中央競馬会関西定例会見(大阪市)の席で、「これまで、外国馬の関係者からは、帯同馬を連れていきたいが、走るレースがないと聞いたことがあったのです。今はジャパンカップの前日(平年の第5回東京競馬第7日)に「キャピタルステークス」がありますが、今年(2021年)から、外国馬の大量参戦を促すために、ジャパンカップが開催される週に、賞金条件戦クラスで国際競走を新設する」ことを目指すと、国際・競走担当理事の臼田雅弘が明かした。 そして2021年8月1日に発表された「令和3年度秋季競馬番組」において、調教などで帯同する予定の馬の出走機会を拡大しつつ、ジャパンカップに出走を予定する外国馬がジャパンカップに出走しやすい環境を提供することを目指し、次の競走を国際競走に指定することになった。 さらに、外国馬はこれまで、競馬学校(白井市)か、三木ホースランドパーク(三木市)の国際厩舎で原則1週間程度の検疫を受けなければならなかったが、より一層の外国馬の参戦を促す観点から、東京競馬場内馬場内に、国際厩舎の建設を行うことになった。これは諸外国においてはレースが開催される競馬場内での検疫が行われるのが通例であり、その流れを受けてのものである。2022年5月末に完成し、秋競馬より運用が開始されることになった。これにより、外国馬は国際厩舎6棟・最大12頭が検疫を受けながら、競馬場で直接調整できるようになった。同年10月1日付で東京競馬場の国際厩舎は農林水産省より輸出入検査場所としての指定を受け、正式に検疫厩舎となった。国際厩舎のクラブハウスには24時間馬房を画面で確認できる警備室や打ち合わせのための食堂などを設置。防疫のため、基本的に国際厩舎とクラブハウス間を行き来する際にはシャワールームを通過する構造になっている。さらに施設の周りには一周292mの楕円形追い馬場ダートコースが設置されている。 これらの改革では、2021・22年ともに開放された一般・特別戦の国際競走には帯同の海外調教馬の出走は皆無であったが、ジャパンカップについては2021年は3頭、東京競馬場の国際厩舎が竣工した2022年は4頭と、海外調教馬が皆無であった2019年と比較してコンスタントに参戦が続いている。特に競馬場内の国際厩舎に関しては海外調教馬の陣営からも概ね好評価を得ており、特に競馬場内の厩舎で検疫が可能になったことや、24時間馬房の様子をモニタリングできるシステムなどの環境面での評価を得ている。
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"なお、ジャパンカップダート(現・チャンピオンズカップ)との同日開催となった2004年以後、平年の第5回中山競馬相当分が代替されない限り、ジャパンカップが東京競馬場の年内最終競走となっている(それ以前は、ジャパンカップ終了後に一般、または特別競走が最終競走として行われていた。また他場への振り替えは2002年に東京競馬場の馬場の拡幅工事及びスタンドの建て替え工事により、中山競馬場で代替された1例だけである)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "世界の競馬開催国は国際セリ名簿基準書におけるパートIからパートIVまでランク分けされており、2014年時点で日本は平地競走が最上位のパートI、障害競走はパートIVにランク付けされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "国際競馬統括機関連盟(IFHA)が公表した「世界のトップ100GIレース」によると、2018年度の格付ランキングでは、世界7位、日本のレースの中では有馬記念を抜いて1位(有馬記念は日本2位)に位置付けられた。2019年度のランキングでは世界46位、日本の中では7位であった。2020年度のランキングでは世界3位、日本の中では1位であった。2021年度のランキングでは世界12位、日本の中では4位であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "以下の内容は2022年現在のもの。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "出走資格:サラ系3歳以上(出走可能頭数:最大18頭)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "負担重量:定量(3歳55kg、4歳以上57kg、牝馬2kg減)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "出馬投票を行った外国馬は、優先出走が認められている。", "title": "概要" }, { 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ジャパンカップは、日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)。英称の頭文字から、JCという略称も用いられることがある。 正賞は農林水産大臣賞、外務大臣賞、ロンジン賞、日本馬主協会連合会会長賞、東京馬主協会賞。
{{Otheruses|競馬の競走}} {{競馬の競走 |馬場 = 芝 |競走名 = ジャパンカップ(国際招待)<br />JAPAN CUP |画像 = [[File:Vela Azul 20221127b.jpg|300px]] |画像説明 = 第42回(2022年)ジャパンカップ<br /><small>優勝馬:[[ヴェラアズール]](鞍上: [[ライアン・ムーア]])</small> |開催国 = {{JPN}} |主催者 = [[日本中央競馬会]] |競馬場 = [[東京競馬場]] |第1回施行日 = |創設 = 1981年11月22日 |年次 = 2023 |距離 = 2400m |格付け = GI |1着賞金 = 5億円 |賞金総額 = |条件 = [[サラブレッド|サラ]]系3歳以上(国際招待)(指定) |負担重量 = {{Nowrap|定量(3歳55kg、4歳以上57kg、牝馬2kg減)}} |出典 = <ref name="bangumi_2021tokyo5" /><ref name="2021-jusyo_kanto" /> }} [[File:2021-11-30 41th Japan Cup.jpg|thumb|300px|第41回(2021年)優勝馬:[[コントレイル (競走馬)|コントレイル]](鞍上:[[福永祐一]])]] '''ジャパンカップ'''は、[[日本中央競馬会]](JRA)が[[東京競馬場]]で施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け|GI]])。英称の頭文字から、'''JC'''という略称も用いられることがある<ref>[http://www.nikkankeiba.co.jp/chuo/meiba/20/20.html 日刊競馬で振り返るGI(第5回ジャパンカップ)] - 日刊競馬新聞社、2015年2月13日閲覧</ref>。 正賞は[[農林水産大臣賞典|農林水産大臣賞]]、外務大臣賞、[[ロンジン]]賞、[[日本馬主協会連合会]]会長賞、[[馬主|東京馬主協会]]賞<ref name="bangumi_2021tokyo5" /><ref name="2021-jusyo_kanto" />。 == 概要 == [[1981年]]に創設された[[招待競走 (競馬)|国際招待競走]]で、日本初の国際[[競馬の競走格付け|GI]]でもある<ref name="JRA注目" />。また、[[国際競走]]であるため、[[日本中央競馬会|JRA]]の[[厩舎関係者表彰]]においては、[[JRA賞|最優秀騎手賞]]と[[JRA賞|最優秀調教師賞]]の資格を得るにあたり「1着をとらねばならない競走」のひとつに指定され、いわゆる「[[八大競走]]」と同格の扱いを受けていた<ref>{{Cite journal|和書|publisher=日本中央競馬会|journal=[[優駿]]|year=1982|month=2|page=84|title=サークルだより『障害100勝騎手を表彰』}}</ref>。 かつては[[中山グランドジャンプ]]とジャパンカップダートも国際招待競走になっていたが、中山グランドジャンプは2011年より<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jra.go.jp/news/201010/101802.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101022134557/http://www.jra.go.jp/news/201010/101802.html|archivedate=2010年10月22日|title=2011年度開催日割および重賞競走について|publisher=日本中央競馬会|date=2010年10月18日|accessdate=2014年4月30日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、ジャパンカップダートは2014年より[[チャンピオンズカップ (中央競馬)|チャンピオンズカップ]]に改称の上、いずれもJRAが馬や関係者の諸費用を負担しない国際競走となっている。 [[ファイル:ジャパンカップ当日.jpg|thumb|300px|ジャパンカップ当週の東京競馬場(2018年)。写真後面にロンジンのタイマーが特設されている]] 本競走は2014年にスイス発祥の世界大手時計メーカー・[[ロンジン]]とパートナーシップを締結し、公式計時もロンジンがサポート<ref name=Gressive>[https://www.gressive.jp/brand/longines/news/155582 ロンジン、公式計時としてジャパンカップをサポート] - Gressive、2019年11月18日閲覧</ref>しており、2022年現在の正式名称は「'''[[ジャパン・オータムインターナショナル]] ロンジン賞 ジャパンカップ'''」となっている<ref name="bangumi_2021tokyo5" />。 なお、[[チャンピオンズカップ (中央競馬)|ジャパンカップダート(現・チャンピオンズカップ)]]との同日開催となった2004年<ref>[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/jc/result/jc2004.html 競走成績 2004年5回東京8日( 11月 28日) 11R 第24回 ジャパンカップ(GI)]</ref>以後、平年の第5回中山競馬<ref group="注">[[中山大障害]]・[[有馬記念]]・[[ホープフルステークス (中央競馬)|ホープフルステークス]]が行われる節。但し[[有馬記念]]は創設以来、[[中山競馬場]]の大規模改築による[[代替]]をできるだけ避ける観点から、[[東京競馬場]]など他場での代替をされたことは一度もない。</ref>相当分が代替されない限り、ジャパンカップが[[東京競馬場]]の年内最終競走となっている(それ以前は、ジャパンカップ終了後に一般、または特別競走が最終競走として行われていた。また他場への振り替えは2002年に東京競馬場の馬場の拡幅工事及びスタンドの建て替え工事により、[[中山競馬場]]で代替された1例だけである)。 === 国際的評価 === 世界の競馬開催国は[[国際セリ名簿基準書]]におけるパートIからパートIVまでランク分けされており、2014年時点で日本は[[平地競走]]が最上位のパートI、[[障害競走]]はパートIVにランク付けされている<ref>{{Cite web|format=PDF|url=http://www.tjcis.com/pdf/icsc14/2014_EntireBook.pdf |title=INTERNATIONAL GRADING AND RACE PLANNING ADVISORY COMMITTEE "INTERNATIONAL CATALOGUING STANDARDS and INTERNATIONAL STATISTICS 2014" |publisher=The Jockey Club Information Systems, Inc. |language=英語 |accessdate=2015年3月7日}}</ref>。 [[国際競馬統括機関連盟]](IFHA)が公表した「[[世界のトップ100GIレース]]」によると、2018年度の格付ランキングでは、世界7位、日本のレースの中では[[有馬記念]]を抜いて1位(有馬記念は日本2位)に位置付けられた<ref>[http://jra.jp/news/201901/012406.html JRAニュース『世界のトップ100 GⅠレースがIFHAから発表!』]</ref>。2019年度のランキングでは世界46位、日本の中では7位であった<ref>[http://jra.jp/news/202001/012311.html JRAニュース『世界のトップ100 GⅠレースがIFHAから発表!』]</ref>。2020年度のランキングでは世界3位、日本の中では1位であった<ref>{{Cite web|title=International Federation of Horseracing Authorities|url=https://www.ifhaonline.org/Default.asp?section=Resources&area=0&story=1080|website=www.ifhaonline.org|accessdate=2021-01-26}}</ref>。2021年度のランキングでは世界12位、日本の中では4位であった<ref>https://jra.jp/news/202201/012605.html</ref>。 === 競走条件 === 以下の内容は2023年現在のもの。 出走資格:[[サラブレッド|サラ系]][[馬齢|3歳]]以上(出走可能頭数:最大18頭) * JRA所属馬 * [[地方競馬]]所属馬(選定馬のみ) * 本競走に出走登録した外国馬(優先出走) 負担重量:[[定量]](3歳56kg、4歳以上58kg、牝馬2kg減) ==== 日本馬の出走権 ==== * レーティング110(牝馬は106)以上の上位5頭に優先出走権が与えられる<ref name="2021-jusyo_kanto" />(レーティングが同じ値の場合は「近走成績や距離実績などを総合的に勘案して」順位をつけているとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/tokubetsu/2020jc.html |title=【ジャパンカップ(GI)】特別登録日本馬のレーティング順位 |publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年10月30日}}</ref>)。 * その他は「通算収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI競走の収得賞金」の総計が多い順に出走できる<ref name="2021-jusyo_kanto" /><ref name="R03一般事項" />。 ==== 外国馬の出走権 ==== [[出馬投票]]を行った外国馬は、優先出走が認められている<ref name="R03一般事項" />。 また、JRAが指定した競走(下表参照)の上位馬に対し優先出走権を与えている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jra.go.jp/news/200806/063004.html|title=ジャパンカップへの優先出走について|work=JRAニュース|publisher=日本中央競馬会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081104184822/http://www.jra.go.jp/news/200806/063004.html|archivedate=2008年11月4日|accessdate=2015年9月7日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 {| class="wikitable" !開催国・競走名!!格!!競馬場!!距離!!優先出走権対象馬!!優先出走権付与年 |- |{{Flagicon|GBR}}[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]||G1||[[アスコット競馬場|アスコット]]||芝11f211y||rowspan="2"|1着馬・2着馬||rowspan="4"|2008年 - |- |{{Flagicon|FRA}}[[凱旋門賞]]||G1||[[パリロンシャン競馬場|パリロンシャン]]||芝2400m |- |{{Flagicon|IRL}}[[アイリッシュチャンピオンステークス|愛チャンピオンステークス]]||G1||[[レパーズタウン競馬場|レパーズタウン]]||芝10f||rowspan="4"|1着馬 |- |{{Flagicon|GER}}[[バーデン大賞]]||G1||[[バーデンバーデン競馬場|バーデンバーデン]]||芝2400m |- |{{Flagicon|USA}}[[アーリントンミリオンステークス]]||G1||[[コロニアルダウンズ競馬場|コロニアルダウンズ]]||芝10f||{{要出典範囲|2009年 - |date=2015年11月}} |- |{{Flagicon|USA}}[[ブリーダーズカップターフ]]||G1||持ち回り||芝12f||{{要出典範囲|2011年 - |date=2015年11月}} |} === 賞金 === ==== 本賞金 ==== 2023年の1着本賞金は5億円で、以下2着2億円、3着1億3,000万円、4着7,500万円、5着5,000万円。1着本賞金は[[有馬記念]]と並んで中央競馬・地方競馬を通じて最高額<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/jusyo_2.pdf |title=令和3年度重賞競走一覧|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年10月30日}}</ref>{{refnest|地方競馬で施行する競走では、[[JBCクラシック]](JpnI)と、[[東京大賞典]](GI)の1着本賞金8000万円が最高額<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/dirtgraderace/2021/racelist/index.html |title=ダート交流重賞競走一覧 |publisher=地方競馬全国協会|accessdate=2021年10月30日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/jbc2021/about/ |title=JBC実施要綱等 JBC特設サイト2021 |publisher=地方競馬全国協会|accessdate=2021年10月30日}}</ref>。|group="注"}}。 第1回(1981年)の1着本賞金は、当時[[有馬記念]]・[[東京優駿]]・[[天皇賞]]と同じ中央競馬最高額である6,500万円であった。第9回(1989年)に初めて1着本賞金が1億円を超え1億300万円となった。第2回(1982年)から第12回(1992年)までは毎年増額されたが、第13回(1993年)と第14回(1994年)は前年と同額(1億3,000万円)に据え置かれた。第15回(1995年)に1億3,200万円となり、その後第19回(1999年)まで同額であった。第20回(2000年)には2億5,000万円と前年比で約90%増額され、この年初めてジャパンカップの1着本賞金が単独で最高額となった。その後第34回(2014年)まで2億5,000万円に据え置かれていたが、第35回(2015年)に3億円に増額された。ちなみに、その翌年2016年に有馬記念の1着本賞金も3億円に増額され、この年以降はジャパンカップと有馬記念の1着本賞金は同額である。第42回(2022年)に4億円、第43回(2023年)に5億円、と2年続けて1億円ずつ増額されたが、これは年々香港国際競走(特に同距離に近い[[香港カップ]]・[[香港ヴァーズ]])への出走馬の流出が相次いでいること、日本国外においても[[サウジカップ]](1000万[[USドル]])、[[ドバイワールドカップ]](696万USドル)、[[凱旋門賞]](285万7000[[ユーロ]])などに代表される世界最高賞金額のレースが増えてきており、「海外の主要競走に対する競争力を高める」ことが理由である。<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOKC18C0Q0Y1A111C2000000/ 有馬記念・ジャパンCの1着賞金4億円に JRA、22年から](日経電子版)</ref> ==== 褒賞金制度 ==== [[天皇賞(秋)]]・ジャパンカップ・[[有馬記念]]の3競走を同一年にすべて優勝したJRA所属馬には内国産馬2億円、外国産馬1億円の褒賞金が交付される<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/pdf/housyoukin_1.pdf |title=同一年度に本会が定める競走に優勝した馬に対する褒賞金交付基準|publisher=日本中央競馬会|date=2017年1月1日|accessdate=2021年10月30日}}</ref>。 なお、指定競走(下表参照)の当年優勝馬がジャパンカップに出走した場合に褒賞金を交付している<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/keiba/program/pdf/housyoukin_4.pdf |title=交付対象競走、指定外国競走、交付対象馬及び褒賞金の額|publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2021年10月30日}}</ref>。 ; 指定外国競走 : 競走名の「英」はイギリス (グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)、「仏」はフランス、「愛」はアイルランド。"f"は[[ハロン (単位)|ハロン]] (≒201.17 m)、"y"は[[ヤード]] (=0.9144 m)。 {| class="wikitable" !開催国・競走名!!格!!競馬場!!距離 |- |{{Flagicon|GBR}}キングジョージVI世&クイーンエリザベスステークス||G1||アスコット||芝11f211y |- |{{Flagicon|FRA}}凱旋門賞||G1||パリロンシャン||芝2400m |- |{{Flagicon|GER}}バーデン大賞||G1||バーデンバーデン||芝2400m |- |{{Flagicon|USA}}アーリントンミリオンステークス||G1||コロニアルダウンズ||芝10f |- |{{Flagicon|USA}}ブリーダーズカップターフ||G1||持ち回り||芝12f |- |{{Flagicon|GBR}}[[ダービーステークス|英ダービー]]||G1||[[エプソム競馬場|エプソム]]||芝12f6y |- |{{Flagicon|FRA}}[[ジョッケクルブ賞|仏ダービー]]||G1||[[シャンティイ競馬場|シャンティイ]]||芝2100m |- |{{Flagicon|IRL}}[[アイリッシュダービー|愛ダービー]]||G1||[[カラ競馬場|カラ]]||芝12f |- |{{Flagicon|CAN}}[[カナディアンインターナショナルステークス]]||G1||[[ウッドバイン競馬場|ウッドバイン]]||芝12f |- |{{Flagicon|AUS}}[[コックスプレート]]||G1||[[ムーニーヴァレー競馬場|ムーニーヴァレー]]||芝2040m |- |{{Flagicon|FRA}}[[パリ大賞]]||G1||パリロンシャン||芝2400m |- |{{Flagicon|GBR}}[[インターナショナルステークス]]||G1||[[ヨーク競馬場|ヨーク]]||芝10f56y |- |{{Flagicon|FRA}}[[サンクルー大賞]]||G1||[[サンクルー競馬場|サンクルー]]||芝2400m |- |{{Flagicon|UAE}}[[ドバイシーマクラシック]]||G1||メイダン||芝2410m |- |{{Flagicon|GBR}}[[チャンピオンステークス]]||G1||アスコット||芝9f212y |- |{{Flagicon|GBR}}[[プリンスオブウェールズステークス (イギリス)|プリンスオブウェールズステークス]]||G1||アスコット||芝9f212y |- |{{Flagicon|GBR}}[[エクリプスステークス]]||G1||[[サンダウン競馬場|サンダウン]]||芝9f209y |- |{{Flagicon|USA}}[[ソードダンサーステークス]]||G1||[[サラトガ競馬場|サラトガ]]||芝12f |- |{{Flagicon|IRL}}[[アイリッシュチャンピオンステークス|愛チャンピオンステークス]]||G1||レパーズタウン||芝10f |- |{{Flagicon|USA}}[[ジョーハーシュ・ターフクラシックステークス|ジョーハーシュターフクラシック]]||G1||[[ベルモントパーク競馬場|ベルモントパーク]]||芝12f |- |{{Flagicon|AUS}}[[コーフィールドカップ]]||G1||[[コーフィールド競馬場|コーフィールド]]||芝2400m |- |{{Flagicon|AUS}}[[メルボルンカップ]]||G1||[[フレミントン競馬場|フレミントン]]||芝3200m |- |{{Flagicon|USA}}[[マンハッタンステークス]]||G1||ベルモントパーク||芝10f |- |{{Flagicon|AUS}}[[タンクレッドステークス]]||G1||[[ローズヒルガーデンズ競馬場|ローズヒルガーデンズ]]||芝2400m |} '''過去の指定外国競走''' {| class="wikitable" !開催国・競走名 !格 !競馬場 !距離 |- |{{Flagicon|USA}}[[ブリーダーズカップクラシック]]||G1||持ち回り||ダート10f |- |{{Flagicon|UAE}}[[ドバイワールドカップ]]||G1||[[メイダン競馬場|メイダン]]||ダート2000m<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.dubairacingclub.com/sites/default/files/2015_dwcc_programme_index_of_races.pdf|title=2015年ドバイワールドカップカーニバルプログラム|publisher=ドバイ競馬クラブ|accessdate=2015年4月29日}}</ref> |} ; 褒賞金の額 {| class="wikitable" ! !本競走1着馬!!本競走2着馬!!本競走3着馬!!左記以外 |- |外国調教馬 |300万[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]||120万米ドル||75万米ドル||20万米ドル |- |日本調教馬 |200万米ドル |40万米ドル |25万米ドル |10万米ドル |} == 歴史 == 1970年代後半より「世界に通用する強い馬づくり」が提唱され<ref name="JRA注目" /><ref name="panf" />、日本国外の調教馬を招待して[[国際競走]]を開催する計画も持ち上がっていたが、招待馬の選定にあたり[[日本中央競馬会|JRA]]と各国との意向に齟齬があり実現しなかった<ref name="yushun197010" />経緯がある。1981年に日本初の[[招待競走 (競馬)|国際招待競走]]として、ジャパンカップが創設された。 第1回は[[北アメリカ]]と[[アジア]]地区から招待馬を選出したが、翌年からは招待範囲が[[ヨーロッパ]]、[[オセアニア]]にも広げられ<ref name="JRA注目" />、参加国の多さから「世界一の競走」「競馬のオリンピック」と評されることもあった<ref name="panf" />。さらに1983年からは、[[地方競馬]]の所属馬も招待対象に加えられた<ref name="JRA注目" />。 第1回の優勝馬・[[メアジードーツ]]は、アメリカからやってきた成績の目立たない[[牝馬]]の上、当時の[[時計 (競馬)|コースレコード]]を1秒更新したことから、日本の競馬関係者に「(日本馬は)永遠に勝てないのではないか」と思わせる衝撃を与えた。そうした懸念は極端なものであったが<ref>{{Cite web|和書|date= 2018/11/25|url= https://toyokeizai.net/articles/-/245124?page=3|title=韓国馬が地元G1で日本馬にボロ負けする理由 |publisher=東洋経済オンライン |accessdate=2019年1月14日}}</ref>、創設から1990年までの10年間は外国招待馬の8勝に対し、日本馬は[[カツラギエース]](1984年)と[[シンボリルドルフ]](1985年)の2勝にとどまり、外国招待馬の活躍が目立っていた<ref name="JRA注目" /><ref group="注">第3回から第9回までは複勝圏(3着以内)には必ず来ている。</ref>。しかし、その後は日本馬の活躍が目立つようになり、また外国招待馬の頭数も減った(後述)ことから、2004年から2013年までの10年間でみると外国招待馬は1勝、日本馬は9勝と完全に逆転した<ref name="JRA注目" />。創設から2023年までの優勝は外国招待馬14勝、日本馬29勝である。 === 年表 === * 1981年 - [[馬齢|4歳]]以上の馬による国際招待競走「ジャパンカップ」を創設、[[東京競馬場]]の芝2400mで施行<ref name="JRA注目" />。 * 1984年 - JRA[[グレード制]]施行により[[競馬の競走格付け|GI]]<ref group="注">当時の格付表記は、JRAの独自グレード。国際的には[[リステッド競走]]扱い。</ref>に格付け。 * 1992年 - [[国際セリ名簿基準委員会]](ICSC)により国際GIに指定。 * 1999年 - [[ワールドレーシング・チャンピオンシップ]]に参加(2005年まで)<ref name="JRA注目" />。 * 2000年 - この年から日本の最高賞金競走となる。 * 2001年 - [[馬齢]]表示の国際基準化により、出走条件を「3歳以上」に変更。 * 2008年 - [[ジャパン・オータムインターナショナル]]の構成レースに指定<ref name="JRA注目" />。 * 2014年 - [[ロンジン]]社とパートナーシップを締結<ref name="Gressive" />。 * 2019年 ** 本年に限り「[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]メモリアル」の副称をつけて施行<ref>{{Cite web|和書|date=2019年10月21日|url=https://jra.jp/news/201910/102106.html|title=「ディープインパクトメモリアルデー」の実施について|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2019年10月23日}}</ref>。 ** 創設以来初めて、外国調教馬の出走が0頭となった<ref name="netkeiba20191114">[https://news.netkeiba.com/?pid=column_view&cid=45303 島田明宏 熱視点(外国馬ゼロのジャパンカップについて)] - netkeiba.com、2019年11月14日配信、2019年11月18日閲覧</ref>。 == 歴代優勝馬 == コース種別を記載していない距離は、芝コースを表す。 優勝馬の[[馬齢]]は、2000年以前も現行表記に揃えている。 外国馬の所属表記は、調教国の出典が示されているもののみ記載する。 {| class="wikitable" !回!!施行日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!所属!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主!!単勝払戻金!!単勝人気!!1着本賞金!!レースレーティング(IFHA) |- | style="text-align:center" |[[第1回ジャパンカップ|'''第1回''']]||1981年<br />11月22日||[[東京競馬場|東京]]||2400m||[[メアジードーツ]]||牝5||[[アメリカ合衆国|USA]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://jra.jp/50th/html/gjpro/10.html |title=思い出の名レース(No.10:昭和56年・第1回ジャパンカップ)|publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2015年4月14日}}</ref><ref name="あゆみp188" />||2:25.3||[[キャッシュ・アスムッセン|C.アスムッセン]]||[[ジョン・フルトン|J.フルトン]]||A.D.シェフラー |1120円 |5 |6500万円 | |- | style="text-align:center" |[[第2回ジャパンカップ|'''第2回''']]||1982年<br />11月28日||東京||2400m||[[ハーフアイスト]]||牡3||USA<ref name="あゆみp188">{{Cite book|和書|series=ジャパンカップのあゆみ|page=188|title=参加国別成績|year=1992|author=中央競馬ピーアール・センター}}</ref>||2:27.1||[[ドン・マクベス|D.マクベス]]||[[スタンリー・ホッフ|S.ホッフ]]||B.R.ファイアーストーン |3230円 |6 |7000万円 | |- | style="text-align:center" |[[第3回ジャパンカップ|'''第3回''']]||1983年<br />11月27日||東京||2400m||[[スタネーラ]]||牝5||[[アイルランド|IRE]]<ref name="あゆみp188" />||2:27.6||[[ブライアン・ラウス|B.ラウス]]||[[フランク・ダン|F.ダン]]||F.ダン |420円 |3 |7200万円 | |- | style="text-align:center" |'''[[第4回ジャパンカップ|第4回]]'''||1984年<br />11月25日||東京||2400m||[[カツラギエース]]||牡4||JRA<ref name="あゆみp188" />||2:26.3||[[西浦勝一]]||[[土門一美]]||野出一三 |4060円 |10 |7500万円 | |- | style="text-align:center" |第5回||1985年<br />11月24日||東京||2400m||[[シンボリルドルフ]]||牡4||JRA<ref name="あゆみp188" />||2:28.8||[[岡部幸雄]]||[[野平祐二]]||[[シンボリ牧場]] |200円 |1 |7800万円 | |- | style="text-align:center" |第6回||1986年<br />11月23日||東京||2400m||[[ジュピターアイランド]]||牡7||[[イギリス|GBR]]<ref name="あゆみp188" />||2:25.0||[[パット・エデリー|P.エデリー]]||[[クライヴ・ブリテン|C.ブリテン]]||タビストック侯爵 |1490円 |8 |8000万円 | |- | style="text-align:center" |第7回||1987年<br />11月29日||東京||2400m||[[ルグロリュー]]||牡3||[[フランス|FRA]]<ref name="あゆみp188" />||2:24.9||[[アラン・ルクー|A.ルクー]]||[[ロベール・コレ|R.コレ]]||S.ウォルフ |860円 |3 |8500万円 | |- | style="text-align:center" |第8回||1988年<br />11月27日||東京||2400m||[[ペイザバトラー]]||牡4||USA<ref name="あゆみp188" />||2:25.5||[[クリス・マッキャロン|C.マッキャロン]]||[[ロバート・フランケル|R.フランケル]]||エドムンド・ガン |1490円 |9 |9500万円 | |- | style="text-align:center" |[[第9回ジャパンカップ|'''第9回''']]||1989年<br />11月26日||東京||2400m||[[ホーリックス]]||牝6||[[ニュージーランド|NZL]]<ref name="あゆみp188" /><ref>[http://jra.jp/topics/column/meibamen/tme08_1109.html 競馬コラム(平成元年・第9回ジャパンカップ)] - 日本中央競馬会、2015年4月14日閲覧</ref>||2:22.2||[[ランス・アンソニー・オサリバン|L.オサリバン]]||[[デイブ・オサリバン|D.オサリバン]]||G.W.ド・グルシー |1990円 |9 |1億300万円 | |- | style="text-align:center; white-space:nowrap" |'''[[第10回ジャパンカップ|第10回]]'''||1990年<br />11月25日||東京||2400m||[[ベタールースンアップ]]||[[せん馬|セ]]5||[[オーストラリア|AUS]]<ref name="あゆみp188" />||2:23.2||[[マイケル・クラーク (競馬)|M.クラーク]]||[[デイヴィッド・ヘイズ|D.ヘイズ]]||G.ファラー |620円 |2 |1億1000万円 | |- | style="text-align:center" |第11回||1991年<br />11月24日||東京||2400m||[[ゴールデンフェザント]]||牡5||USA<ref name="あゆみp188" />||2:24.7|| style="white-space:nowrap" |[[ゲイリー・スティーヴンス (競馬)|G.スティーヴンス]]|| style="white-space:nowrap" |[[チャーリー・ウィッティンガム|C.ウィッティンガム]]||B.マクノール |1820円 |7 |1億2000万円 | |- | style="text-align:center" |第12回||1992年<br />11月29日||東京||2400m||[[トウカイテイオー]]||牡4||JRA||2:24.6||岡部幸雄||[[松元省一]]||内村正則 |1000円 |5 |1億3000万円 | |- | style="text-align:center" |第13回||1993年<br />11月28日||東京||2400m||[[レガシーワールド]]||セ4||JRA||2:24.4||[[河内洋]]||[[森秀行]]||(株)ホースタジマ |1250円 |6 |1億3000万円 | |- | style="text-align:center" |第14回||1994年<br />11月27日||東京||2400m||[[マーベラスクラウン]]||セ4||JRA||2:23.6||[[南井克巳]]||[[大沢真]]||笹原貞生 |1060円 |6 |1億3000万円 | |- | style="text-align:center" |第15回||1995年<br />11月26日||東京||2400m||[[ランド (ドイツの競走馬)|ランド]]||牡5||[[ドイツ|GER]]<ref name="kuni">{{cite news|url=https://web.archive.org/web/20081204043424/http://www.nikkansports.com/race/news/f-rc-tp0-20081126-433755.html|title=ジャパンC出走の外国馬、どの国が強い?|newspaper=日刊スポーツ|date=2008年11月26日|accessdate=2015年4月25日}}</ref>||2:24.6||[[マイケル・ロバーツ (競馬)|M.ロバーツ]]||[[ハインツ・イエンチ|H.イエンチ]]||イットリンゲン牧場 |1450円 |6 |1億3200万円 | |- | style="text-align:center" |第16回||1996年<br />11月24日||東京||2400m||[[シングスピール]]||牡4||GBR<ref name="kuni" />||2:23.8||[[ランフランコ・デットーリ|L.デットーリ]]||[[マイケル・スタウト|M.スタウト]]||[[ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム|H.H.シェイク・モハメド]] |760円 |4 |1億3200万円 | |- | style="text-align:center" |第17回||1997年<br />11月23日||東京||2400m||[[ピルサドスキー]]||牡5||GBR<ref name="kuni" />||2:25.8||[[マイケル・キネーン|M.キネーン]]||M.スタウト||[[アーノルド・ウェインストック|ウェインストック卿]] |460円 |3 |1億3200万円 | |- | style="text-align:center" |第18回||1998年<br />11月29日||東京||2400m||[[エルコンドルパサー]]||牡3||JRA||2:25.9||[[蛯名正義]]||[[二ノ宮敬宇]]||[[渡邊隆]] |600円 |3 |1億3200万円 | |- | style="text-align:center" |第19回||1999年<br />11月28日||東京||2400m||[[スペシャルウィーク]]||牡4||JRA||2:25.5||[[武豊]]||[[白井寿昭]]||[[臼田浩義]] |340円 |2 |1億3200万円 | |- | style="text-align:center" |第20回||2000年<br />11月26日||東京||2400m||[[テイエムオペラオー]]||牡4||JRA||2:26.1||[[和田竜二]]||[[岩元市三]]||[[竹園正繼]] |150円 |1 |2億5000万円 | |- | style="text-align:center" |第21回||2001年<br />11月25日||東京||2400m||[[ジャングルポケット (競走馬)|ジャングルポケット]]||牡3||JRA||2:23.8||[[オリビエ・ペリエ|O.ペリエ]]||[[渡辺栄]]||[[齊藤四方司]] |420円 |2 |2億5000万円 | |- | style="text-align:center" |第22回||2002年<br />11月24日||[[中山競馬場|中山]]||2200m||[[ファルブラヴ]]||牡4||[[イタリア|ITA]]<ref name="kuni" />||2:12.2||L.デットーリ||[[ルチアーノ・ダウリア|L.ダウリア]]||スクデリーア・ランカティ |2050円 |9 |2億5000万円 | |- | style="text-align:center" |第23回||2003年<br />11月30日||東京||2400m||[[タップダンスシチー]]||牡6||JRA||2:28.7||[[佐藤哲三 (競馬)|佐藤哲三]]||[[佐々木晶三]]||[[友駿ホースクラブ|(株)友駿ホースクラブ]] |1380円 |4 |2億5000万円 | |- | style="text-align:center" |第24回||2004年<br />11月28日||東京||2400m||[[ゼンノロブロイ]]||牡4||JRA||2:24.2||O.ペリエ||[[藤沢和雄]]||[[大迫忍]] |270円 |1 |2億5000万円 | |- | style="text-align:center" |第25回||2005年<br />11月27日||東京||2400m||[[アルカセット]]||牡5||GBR<ref name="kuni" />||2:22.1||L.デットーリ||[[ルカ・クマーニ|L.クマーニ]]||M.チャールトン |1060円 |3 |2億5000万円 | |- | style="text-align:center" |第26回||2006年<br />11月26日||東京||2400m||[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]||牡4||JRA||2:25.1||武豊||[[池江泰郎]]||[[金子真人|金子真人ホールディングス(株)]] |130円 |1 |2億5000万円 | |- | style="text-align:center" |[[第27回ジャパンカップ|'''第27回''']]||2007年<br />11月25日||東京||2400m||[[アドマイヤムーン]]||牡4||JRA||2:24.7||[[岩田康誠]]||[[松田博資]]||[[ダーレー・ジャパン・ファーム|ダーレー・ジャパン・ファーム(有)]] |1090円 |5 |2億5000万円 | |- | style="text-align:center" |第28回||2008年<br />11月30日||東京||2400m||[[スクリーンヒーロー]]||牡4||JRA||2:25.5||[[ミルコ・デムーロ|M.デムーロ]]||[[鹿戸雄一]]||[[吉田照哉]] |4100円 |9 |2億5000万円 | |- | style="text-align:center" |第29回||2009年<br />11月29日||東京||2400m||[[ウオッカ (競走馬)|ウオッカ]]||牝5||JRA||2:22.4||[[クリストフ・ルメール|C.ルメール]]||[[角居勝彦]]||[[谷水雄三]] |360円 |1 |2億5000万円 | |- | style="text-align:center" |[[第30回ジャパンカップ|'''第30回''']]||2010年<br />11月28日|| style="white-space:nowrap" |東京||2400m||[[ローズキングダム]]<ref group="注">第30回は[[ブエナビスタ (競走馬)|ブエナビスタ]]が1位で入線したが最後の直線で2位入線の[[ローズキングダム]]の進路を妨害したとして、審議の結果2着に降着処分を受け、ローズキングダムが繰り上がりで優勝となった(参考:ブエナビスタの走破タイム 2:24.9)。</ref>||牡3||JRA||2:25.2||武豊||[[橋口弘次郎]]||[[サンデーレーシング|(有)サンデーレーシング]] |880円 |4 |2億5000万円 |121.00<ref name=":0">{{Cite web |url=http://www.jra.go.jp/news/201303/pdf/031804.pdf |website= |doi= |deadlinkdate= |archivedate=2013-06-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130620185251/http://www.jra.go.jp/news/201303/pdf/031804.pdf |language= |quote= |pages= |page= |publisher= |work= |format=PDF |title=THE WORLD'S TOP 50 GROUP/GRADE ONE RACES |month= |year= |date= |coauthors= |authorlink= |author= |first= |last= |accessdate=2022-03-09 |trans-title= |ref=}}</ref> |- | style="text-align:center" |第31回||2011年<br />11月27日||東京||2400m||[[ブエナビスタ (競走馬)|ブエナビスタ]]||牝5||JRA||2:24.2||岩田康誠||松田博資||(有)サンデーレーシング |340円 |2 |2億5000万円 |120.75<ref name=":0" /> |- | style="text-align:center" |[[第32回ジャパンカップ|'''第32回''']]||2012年<br />11月25日||東京||2400m||[[ジェンティルドンナ]]||牝3||JRA||2:23.1||岩田康誠||[[石坂正]]||(有)サンデーレーシング |660円 |3 |2億5000万円 |124.25<ref name=":0" /> |- | style="text-align:center" |第33回||2013年<br />11月24日||東京||2400m||ジェンティルドンナ||牝4||JRA||2:26.1||[[ライアン・ムーア|R.ムーア]]||石坂正||(有)サンデーレーシング |210円 |1 |2億5000万円 |119.25<ref name=":1">{{Cite web |url=http://www.jra.go.jp/news/201601/pdf/012004.pdf |website= |doi= |deadlinkdate= |archivedate=2016-01-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160123022107/http://www.jra.go.jp/news/201601/pdf/012004.pdf |language= |quote= |pages= |page= |publisher= |work= |format=PDF |title=THE WORLD'S GROUP/GRADE ONE RACES for 3yo's and upwards |month= |year= |date= |coauthors= |authorlink= |author= |first= |last= |accessdate=2022-03-09 |trans-title= |ref=}}</ref> |- | style="text-align:center" |第34回||2014年<br />11月30日||東京||2400m||[[エピファネイア]]||牡4||JRA||2:23.1||[[クリストフ・スミヨン|C.スミヨン]]||角居勝彦||[[キャロットファーム|(有)キャロットファーム]] |890円 |4 |2億5000万円 |125.25<ref name=":1" /> |- | style="text-align:center" |第35回||2015年<br />11月29日||東京||2400m||[[ショウナンパンドラ]]||牝4||JRA||2:24.7||[[池添謙一]]||[[高野友和]]||[[国本哲秀]] |920円 |4 |3億円 |119.25<ref name=":1" /> |- | style="text-align:center" |第36回||2016年<br />11月27日||東京||2400m||[[キタサンブラック]]||牡4||JRA||2:25.8||武豊||[[清水久詞]]||[[北島音楽事務所|(有)大野商事]] |380円 |1 |3億円 |119.50<ref group="注">世界28位タイ、日本6位</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.horseracingintfed.com/resources/LWBRR/Top-100-G1-Races-by-Yearly-Rating_2016.pdf |website= |doi= |deadlinkdate= |archivedate=2018-03-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180328190315/http://www.horseracingintfed.com/resources/LWBRR/Top-100-G1-Races-by-Yearly-Rating_2016.pdf |language= |quote= |pages= |page= |publisher= |work= |format=PDF |title=THE WORLD'S TOP 100 GROUP/GRADE ONE RACES for 3yo's and upwards - 2016 |month= |year= |date= |coauthors= |authorlink= |author= |first= |last= |accessdate=2022-03-09|trans-title= |ref=}}</ref> |- | style="text-align:center" |第37回||2017年<br />11月26日||東京||2400m||[[シュヴァルグラン]]||牡5||JRA||2:23.7||[[ヒュー・ボウマン|H.ボウマン]]||[[友道康夫]]||[[佐々木主浩]] |1330円 |5 |3億円 |121.25<ref group="注">世界12位タイ、日本1位タイ</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.ifhaonline.org/resources/LWBRR/Top-100-G1-Races-2017.pdf |website= |doi= |deadlinkdate= |archivedate=2018-02-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180219000459/http://www.ifhaonline.org/resources/LWBRR/Top-100-G1-Races-2017.pdf |language= |quote= |pages= |page= |publisher= |work= |format=PDF |title=THE WORLD'S TOP 100 GROUP/GRADE ONE RACES for 3yo's and upwards ‐ 2017 |month= |year= |date= |coauthors= |authorlink= |author= |first= |last= |accessdate=2022-03-09 |trans-title= |ref=}}</ref> |- | style="text-align:center" |[[第38回ジャパンカップ|'''第38回''']]||2018年<br />11月25日||東京||2400m||[[アーモンドアイ]]||牝3||JRA||2:20.6||C.ルメール||[[国枝栄]]||(有)[[シルクレーシング]] |140円 |1 |3億円 |122.50<ref group="注">世界7位、日本1位</ref><ref name="2018年2">{{Cite web |url=https://ifhaonline.org/resources/WTGradedRanking/LWGRank.asp?batch=2 |website= |doi= |deadlinkdate= |archivedate= |archiveurl= |language= |quote= |pages= |page= |publisher= |work= |format= |title=The LONGINES World's Top 100 Group/Grade 1 Races for 3yos and upwards - 2018 |month= |year= |date= |coauthors= |authorlink= |author= |first= |last= |accessdate=2022-03-09 |trans-title= |ref=}}</ref> |- | style="text-align:center" |'''[[第39回ジャパンカップ|第39回]]'''||2019年<br />11月24日||東京||2400m||[[スワーヴリチャード]]||牡5||JRA||2:25.9||[[オイシン・マーフィー|O.マーフィー]]||[[庄野靖志]]|| (株)NICKS |510円 |3 |3億円 |118.00<ref group="注">世界46位、日本7位</ref><ref name="2019年">{{Cite web |url=https://www.ifhaonline.org/resources/LWBRR/Top-100-G1-Races-2019.pdf |website= |doi= |deadlinkdate= |archivedate= |archiveurl= |language= |quote= |pages= |page= |publisher= |work= |format=PDF |title=THE WORLD'S TOP 100 GROUP/GRADE ONE RACES for 3yo's and upwards ‐ 2019 |month= |year= |date= |coauthors= |authorlink= |author= |first= |last= |accessdate=2022-03-09 |trans-title= |ref=}}</ref> |- | style="text-align:center" |'''[[第40回ジャパンカップ|第40回]]'''||2020年<br />11月29日||東京||2400m||アーモンドアイ||牝5||JRA||2:23.0||C.ルメール||国枝栄||(有)シルクレーシング |220円 |1 |3億円 |124.50<ref group="注">世界3位、日本1位</ref><ref name="2020年">{{Cite web |url=https://www.ifhaonline.org/resources/WTGradedRanking/LWGRank.asp?batch=4 |website= |doi= |deadlinkdate= |archivedate= |archiveurl= |language= |quote= |pages= |page= |publisher= |work= |format= |title=The LONGINES World's Top 100 Group/Grade 1 Races for 3yos and upwards - 2020 |month= |year= |date= |coauthors= |authorlink= |author= |first= |last= |accessdate=2022-03-09 |trans-title= |ref=}}</ref> |- | style="text-align:center" |'''[[第41回ジャパンカップ|第41回]]'''||2021年<br />11月28日||東京||2400m||[[コントレイル (競走馬)|コントレイル]]||牡4||JRA||2:24.7||[[福永祐一]]||[[矢作芳人]]||[[ノースヒルズ|前田晋二]] |160円 |1 |3億円 |121.25<ref group="注">世界12位タイ、日本4位</ref><ref name="2021年">{{Cite web |url=https://www.ifhaonline.org/resources/WTGradedRanking/LWGRank.asp?batch=5 |website=www.ifhaonline.org |accessdate=2022-03-09 |title=The LONGINES World's Top 100 Group/Grade 1 Races for 3yos and upwards - 2021}}</ref> |- | style="text-align:center" |第42回||2022年<br />11月27日||東京||2400m||[[ヴェラアズール]]||牡5||JRA||2:23.7||R.ムーア||[[渡辺薫彦]]||(有)キャロットファーム |450円 |3 |4億円 |120.75<ref>https://www.ifhaonline.org/resources/WTGradedRanking/LWGRank.asp?batch=6</ref> |- | style="text-align:center" |'''[[第43回ジャパンカップ|第43回]]'''||2023年<br />11月26日||東京||2400m||[[イクイノックス]]||牡4||JRA||2:21.8||C.ルメール||[[木村哲也 (競馬)|木村哲也]]||(有)シルクレーシング |130円 |1 |5億円 | |} == 外国調教馬の成績 == {{Main|海外調教馬による日本への遠征#ジャパンカップ}} == ジャパンカップの記録 == [[ファイル:第38回ジャパンカップのアーモンドアイが出した勝ちタイム.jpg|サムネイル|300x300ピクセル|特設されたロンジンのタイマーによる2018年の勝ちタイム表示。]] * レースレコード - 2分20秒6(第38回優勝馬アーモンドアイ)<ref name="JRA注目" />  ** 優勝タイム最遅記録 - 2:28.8(第5回優勝馬シンボリルドルフ) * 最多優勝騎手 - 4勝 ** 武豊(第19回・第26回・第30回・第36回)、クリストフ・ルメール(第29回・第38回・第40回・第43回)<ref>連覇は岩田康誠(第31回・第32回)が記録</ref> * 最多優勝調教師 - 2勝 ** M.スタウト(第16回・第17回)、松田博資(第27回・第31回)、角居勝彦(第29回・第34回)、石坂正(第32回・第33回)、国枝栄(第38回・第40回) * 最多優勝馬主 - 4勝 **(有)サンデーレーシング(第30-33回) * 最年長優勝馬 - 7歳 ** ジュピターアイランド(第6回) * 最多優勝馬 - 2勝 ** ジェンティルドンナ(第32回・第33回)、アーモンドアイ(第38回・第40回)<ref group="注">1位入線では、ブエナビスタも[[第30回ジャパンカップ|第30回]](2着に降着)・第31回の2回を記録</ref> * 最多勝利種牡馬 - 4勝 ** [[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]](第32回・第33回・第35回・第41回) ==外国馬の参戦について== ジャパンカップを含む一連の[[ジャパン・オータムインターナショナル]]シリーズの直後に、[[香港国際競走]]が行われ、そちらへ外国調教馬の参戦が多くなりつつあり、実際ジャパンカップは2019年の開催で外国馬の参加が1頭もないという異常事態となったことを踏まえ、2021年6月28日に日本中央競馬会関西定例会見(大阪市)の席で、「これまで、外国馬の関係者からは、帯同馬を連れていきたいが、走るレースがないと聞いたことがあったのです。今はジャパンカップの前日(平年の第5回東京競馬第7日)に「[[キャピタルステークス]]」がありますが、今年(2021年)から、外国馬の大量参戦を促すために、ジャパンカップが開催される週に、賞金条件戦クラスで国際競走を新設する」ことを目指すと、国際・競走担当理事の臼田雅弘が明かした<ref>[https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2021/06/28/kiji/20210628s00004048452000c.html ジャパンCウイークに2、3勝クラスの国際競走新設へ「帯同馬が出走できるレースを」2021年6月28日 14:43 スポーツニッポン]</ref>。 そして2021年8月1日に発表された「令和3年度秋季競馬番組」<ref>[https://www.jra.go.jp/keiba/program/2021/pdf/gai03.pdf 「2021年度秋季競馬番組が決定しました」の「○2021年度競馬番組の概要(秋季)PDFファイル 355KB」5ページ(9)ジャパンカップ実施週の(国際)=〇囲みについて]参照</ref>において、調教などで帯同する予定の馬の出走機会を拡大しつつ、ジャパンカップに出走を予定する外国馬がジャパンカップに出走しやすい環境を提供することを目指し、次の競走を国際競走に指定することになった。 {| class="wikitable" !競走名!!施行競馬場!!開催日・競走番号!!出走条件!!距離 |- |(一般競走)||rowspan="4"|[[東京競馬場]]||第5回東京競馬第7日第8競走||3歳以上・2勝馬クラス<ref group="注" name="2勝馬クラス">旧1000万円以下クラス</ref>||rowspan="2"|ダート1400m |- |シャングリラステークス||第5回東京競馬第7日第10競走||3歳以上・3勝馬クラス<ref group="注" name="3勝馬クラス">旧1600万円以下=準オープンクラス</ref> |- |オリエンタル賞||第5回東京競馬第8日第9競走||3歳以上・2勝馬クラス<ref group="注" name="2勝馬クラス"/>||rowspan="2"|芝2000m |- |ウェルカムステークス||第5回東京競馬第8日第11競走<ref group="注">メイン競走の「ジャパンカップ」は第12競走で施行。</ref>||3歳以上・3勝馬クラス<ref group="注" name="3勝馬クラス"/> |} さらに、外国馬はこれまで、[[競馬学校]]([[白井市]])か、[[三木ホースランドパーク]]([[三木市]])の国際厩舎で原則1週間程度の検疫を受けなければならなかったが、より一層の外国馬の参戦を促す観点から、東京競馬場内馬場内に、国際厩舎の建設を行うことになった。これは諸外国においてはレースが開催される競馬場内での検疫が行われるのが通例であり、その流れを受けてのものである。2022年5月末に完成し、秋競馬より運用が開始されることになった。これにより、外国馬は国際厩舎6棟・最大12頭が検疫を受けながら、競馬場で直接調整できるようになった<ref>[https://www.chunichi.co.jp/article/378977 東京競馬場の内馬場に「国際厩舎」、外国馬の参戦促す環境を整備へ] - 中日スポーツ 2021年12月7日</ref>。同年10月1日付で東京競馬場の国際厩舎は農林水産省より輸出入検査場所としての指定を受け、正式に検疫厩舎となった。国際厩舎のクラブハウスには24時間馬房を画面で確認できる警備室や打ち合わせのための食堂などを設置。防疫のため、基本的に国際厩舎とクラブハウス間を行き来する際にはシャワールームを通過する構造になっている。さらに施設の周りには一周292mの楕円形追い馬場ダートコースが設置されている<ref>[https://tospo-keiba.jp/breaking_news/20946 凱旋門賞馬アルピニスタ“ジャパンカップ参戦”の追い風に!? 東京競馬場馬場内に新国際検疫厩舎が誕生] - 東スポ競馬 2023年10月3日</ref>。 これらの改革では、2021・22年ともに開放された一般・特別戦の国際競走には帯同の海外調教馬の出走は皆無であったが、ジャパンカップについては2021年は3頭、東京競馬場の国際厩舎が竣工した2022年は4頭と、海外調教馬が皆無であった2019年と比較してコンスタントに参戦が続いている。特に競馬場内の国際厩舎に関しては海外調教馬の陣営からも概ね好評価を得ており、特に競馬場内の厩舎で検疫が可能になったことや、24時間馬房の様子をモニタリングできるシステムなどの環境面での評価を得ている<ref>[https://umatoku.hochi.co.jp/articles/20221128-OHT1T51116.html 「常連」も絶賛 国際厩舎新設で示したジャパンC復活への確かな一歩] - UMATOKU(報知新聞社)2022年11月29日</ref>。 == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|2|group=注}} === 出典 === {{Reflist|2 |refs= <ref name="bangumi_2021tokyo5">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/bangumi/tokyo5.pdf |title=令和3年第5回東京競馬番組|publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2021年10月30日}}</ref> <ref name="2021-jusyo_kanto">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/jusyo_kanto.pdf#page=43 |title=令和3年度重賞競走一覧(レース別・関東) |page=43 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2021年10月30日}}</ref> <ref name="panf">「レーシングプログラム」(日本中央競馬会) 2006年11月26日</ref> <ref name="JRA注目">{{Cite web|和書|url=http://www.jra.go.jp/keiba/thisweek/2015/1129_1/playback.html |title=今週の注目レース(レースについて:ジャパンカップ)|publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2016年11月21日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151117034000/http://www.jra.go.jp/keiba/thisweek/2015/1129_1/playback.html |archivedate=2015年11月17日}}</ref> <ref name="yushun197010">{{Cite journal|和書|publisher=日本中央競馬会|journal=[[優駿]]|volume=1970年10月号|page=49}}</ref> <ref name="R03一般事項">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/bangumi_ippan.pdf |title=競馬番組一般事項|publisher=日本中央競馬会|year=2021|accessdate=2021年10月30日}}</ref> }} ==== 各回競走結果の出典 ==== * {{Cite book|和書|title=中央競馬全重賞成績集【GI編】|publisher=日本中央競馬会|year=1996|page=853-886|chapter=ジャパンカップ(国際招待)|ref=中央競馬全重賞成績集}} 1981年 - 1995年 * JRA年度別全成績 ** (2023年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2023/2023-5tokyo8.pdf#page=6 |title=第5回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2023年11月28日|ref=2023-5tokyo8}}(索引番号:30096) ** (2022年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2022/2022-5tokyo8.pdf#page=6 |title=第5回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2022年11月29日|ref=2022-5tokyo8}}(索引番号:30096) ** (2021年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2021/2021-5tokyo8.pdf#page=6 |title=第5回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2021年11月29日|ref=2021-5tokyo8}}(索引番号:30096) ** (2020年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2020/2020-5tokyo9.pdf#page=6 |title=第5回 東京競馬 第9日|publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2020年11月30日|ref=2020-5tokyo9}}(索引番号:31108) ** (2019年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2019/2019-5tokyo8.pdf#page=6 |title=第5回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2020年11月13日|ref=2019-5tokyo8}}(索引番号:30095) ** (2018年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2018/2018-5tokyo8.pdf#page=6 |title=第5回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会 |page=6 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|pages=3473-3474 |accessdate=2015年11月16日}}(索引番号:31094) ** (2002年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2002/4-naka.pdf#page=103 |title=第4回 中山競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会 |pages=3321-3323 |accessdate=2015年11月16日}}(索引番号:30094) * netkeiba.comより(最終閲覧日:2023年11月27日) ** {{Netkeiba-raceresult|1981|05050809}}(優勝馬主の記載なし)、{{Netkeiba-raceresult|1982|05050809}}(優勝馬主の記載なし)、{{Netkeiba-raceresult|1983|05050809}}(優勝馬主の記載なし)、{{Netkeiba-raceresult|1984|05050810}}(優勝馬主の記載なし)、{{Netkeiba-raceresult|1985|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|1986|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|1987|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|1988|05070810}}、{{Netkeiba-raceresult|1989|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|1990|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|1991|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|1992|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|1993|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|1994|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|1995|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|1996|05060810}}、{{Netkeiba-raceresult|1997|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|1998|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|1999|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|2000|05060810}}、{{Netkeiba-raceresult|2001|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|2002|06040810}}、{{Netkeiba-raceresult|2003|05040810}}、{{Netkeiba-raceresult|2004|05050811}}、{{Netkeiba-raceresult|2005|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|2006|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|2007|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|2008|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|2009|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|2010|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|2011|05050810}}、{{Netkeiba-raceresult|2012|05050811}}、{{Netkeiba-raceresult|2013|05050811}}、{{Netkeiba-raceresult|2014|05050911}}、{{Netkeiba-raceresult|2015|05050911}}、{{Netkeiba-raceresult|2016|05050811}}、{{Netkeiba-raceresult|2017|05050811}}、{{Netkeiba-raceresult|2018|05050811}}、{{Netkeiba-raceresult|2019|05050811}}、{{Netkeiba-raceresult|2020|05050912}}、{{Netkeiba-raceresult|2021|05050812}}、{{Netkeiba-raceresult|2022|05050812}}、{{Netkeiba-raceresult|2023|05050812}} ; 馬主名義についての出典 * 日本馬主協会連合会(編)『日本馬主協会連合会40年史』(日本馬主協会連合会、2001年):1981年 - 2000年 === 参考文献 === * 中央競馬ピーアール・センター編 『ジャパンカップのあゆみ』、日本中央競馬会、1992年 == 外部リンク == {{Commonscat|Japan Cup (horse racing)|ジャパンカップ}} * [https://jra.jp/keiba/thisweek/2023/1126_1/index.html データ分析:ジャパンカップ 今週の注目レース] - 日本中央競馬会 {{中央競馬の重賞競走}} {{ワールドレーシング・チャンピオンシップ}} {{ジャパン・オータムインターナショナル}} {{八大競走}} {{デフォルトソート:しやはんかつふ}} [[Category:東京競馬場の競走]] [[Category:ジャパンカップ|*]] [[Category:1981年開始のスポーツイベント]]
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日支事変
日支事変(にっしじへん)とは日本と中国の間の紛争を指す呼称であり、次のような使用例がある。
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日支事変(にっしじへん)とは日本と中国の間の紛争を指す呼称であり、次のような使用例がある。 満州事変と上海事変の総称。 支那事変 (日中戦争)。
'''日支事変'''(にっしじへん)とは[[大日本帝国|日本]]と[[中華民国 (1912年-1949年)|中国]]の間の紛争を指す呼称であり、次のような使用例がある。 *[[満州事変]]と[[第一次上海事変|上海事変]]の総称<ref>{{Cite book |和書 |editor=忠孝之日本社編輯部 |title=日支事変写真帖 |year=1932 |publisher=忠孝之日本社 |doi=10.11501/1111973}}</ref>。 *[[支那事変]] ([[日中戦争]])。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{aimai}} {{デフォルトソート:につししへん}}
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沖積平野
沖積平野(ちゅうせきへいや、英語: alluvial plain)とは、平野の一種であり、主に河川による堆積作用によって形成される地形。河川によって運搬された砕屑物(礫、砂、泥)が、山地間の谷底や、山地を離れた平地、河口、さらに沖合にかけて堆積して平野となったものをいう。谷底堆積低地、扇状地、氾濫原、三角州などの総称。海浜堆積物によって形成される海岸平野と区別される。河成堆積低地とほぼ同義。沖積低地、沖積地ともいう。 かつては、沖積世(完新世)に形成された平野についても沖積平野と呼ばれていた。そのため、海岸平野のうち完新世に形成されたものは沖積平野に含まれていた。現在では沖積世という時代区分用語は使用されていないため、沖積平野という語を形成時代的な意味合いで使用することは推奨されない。 沖積平野は、上流域から下流域に向かって、谷底堆積低地、扇状地、氾濫原(自然堤防帯、蛇行原)、三角州の順に配列される。同じ河川において、上記の地形種の順序が変わることはほとんどない。しかし、急峻な山地を流れるような土砂供給量の多い河川では、粗粒な砕屑物(礫など)が下流域まで運搬されることにより、扇状地が海岸にまで到達し、砂泥質の堆積物からなる氾濫原や三角州が形成されない場合がある。一方で、土砂供給量の少ない河川では、扇状地が発達しない場合がある。 一般には水害の危険が高いが利水しやすく、肥沃で平らであるため農耕に適する。多くの文明が沖積平野で発祥している。 沖積平野は災害に対して脆弱な地形であるものの、日本においては人口の大部分が沖積平野に集まっている。沖積平野の地層は沖積層と呼ばれる。形成年代が若く締め固まっておらず、地下水面も高く水分に富むため軟弱地盤が広く分布している。 はじめて関東平野に大規模な軟弱地盤が拡がっていることが発見・確認されたのは、関東大震災の復興局による調査によるものである。復興局はボーリングマシンを輸入し、「突下数(とっかすう)」といわれる現在の標準貫入試験の原形にあたる調査を実施したことにより、埋没谷(第四紀海水準変動により形成)と沖積層の分布が作成され、それにより初めて軟らかい地層が数十m分布することが確認された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "沖積平野(ちゅうせきへいや、英語: alluvial plain)とは、平野の一種であり、主に河川による堆積作用によって形成される地形。河川によって運搬された砕屑物(礫、砂、泥)が、山地間の谷底や、山地を離れた平地、河口、さらに沖合にかけて堆積して平野となったものをいう。谷底堆積低地、扇状地、氾濫原、三角州などの総称。海浜堆積物によって形成される海岸平野と区別される。河成堆積低地とほぼ同義。沖積低地、沖積地ともいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "かつては、沖積世(完新世)に形成された平野についても沖積平野と呼ばれていた。そのため、海岸平野のうち完新世に形成されたものは沖積平野に含まれていた。現在では沖積世という時代区分用語は使用されていないため、沖積平野という語を形成時代的な意味合いで使用することは推奨されない。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "沖積平野は、上流域から下流域に向かって、谷底堆積低地、扇状地、氾濫原(自然堤防帯、蛇行原)、三角州の順に配列される。同じ河川において、上記の地形種の順序が変わることはほとんどない。しかし、急峻な山地を流れるような土砂供給量の多い河川では、粗粒な砕屑物(礫など)が下流域まで運搬されることにより、扇状地が海岸にまで到達し、砂泥質の堆積物からなる氾濫原や三角州が形成されない場合がある。一方で、土砂供給量の少ない河川では、扇状地が発達しない場合がある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "一般には水害の危険が高いが利水しやすく、肥沃で平らであるため農耕に適する。多くの文明が沖積平野で発祥している。", "title": "土地利用" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "沖積平野は災害に対して脆弱な地形であるものの、日本においては人口の大部分が沖積平野に集まっている。沖積平野の地層は沖積層と呼ばれる。形成年代が若く締め固まっておらず、地下水面も高く水分に富むため軟弱地盤が広く分布している。", "title": "自然災害リスク" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "はじめて関東平野に大規模な軟弱地盤が拡がっていることが発見・確認されたのは、関東大震災の復興局による調査によるものである。復興局はボーリングマシンを輸入し、「突下数(とっかすう)」といわれる現在の標準貫入試験の原形にあたる調査を実施したことにより、埋没谷(第四紀海水準変動により形成)と沖積層の分布が作成され、それにより初めて軟らかい地層が数十m分布することが確認された。", "title": "軟弱地盤の発見" } ]
沖積平野とは、平野の一種であり、主に河川による堆積作用によって形成される地形。河川によって運搬された砕屑物(礫、砂、泥)が、山地間の谷底や、山地を離れた平地、河口、さらに沖合にかけて堆積して平野となったものをいう。谷底堆積低地、扇状地、氾濫原、三角州などの総称。海浜堆積物によって形成される海岸平野と区別される。河成堆積低地とほぼ同義。沖積低地、沖積地ともいう。 かつては、沖積世(完新世)に形成された平野についても沖積平野と呼ばれていた。そのため、海岸平野のうち完新世に形成されたものは沖積平野に含まれていた。現在では沖積世という時代区分用語は使用されていないため、沖積平野という語を形成時代的な意味合いで使用することは推奨されない。
{{出典の明記|date=2012年9月}} [[File:Waimakariri02 gobeirne.jpg|thumb|250px|沖積平野]] '''沖積平野'''(ちゅうせきへいや、{{lang-en|alluvial plain}})とは、[[平野]]の一種であり、主に[[河川]]による[[堆積作用]]によって形成される[[地形]]。河川によって[[運搬]]された[[砕屑物]]([[礫]]、[[砂]]、[[泥]])が、[[山地]]間の[[谷底]]や、山地を離れた平地、[[河口]]、さらに[[沖|沖合]]にかけて堆積して平野となったものをいう<ref name=":0">{{Cite book|author=太田陽子ほか|title=日本列島の地形学|date=|year=|accessdate=|publisher=東京大学出版会|page=146|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。[[谷底平野|谷底堆積低地]]、[[扇状地]]、[[氾濫原]]、[[三角州]]などの総称<ref name=":0" />。海浜堆積物によって形成される'''[[海岸平野]]'''と区別される<ref name=":0" />。[[河成堆積低地]]とほぼ同義。'''沖積低地'''、'''沖積地'''ともいう。 かつては、沖積世([[完新世]])に形成された平野についても沖積平野と呼ばれていた<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=http://quaternary.jp/QA/answer/ans021.html|title=だいよんき Q&A|accessdate=2018/12/14|publisher=日本第四紀学会}}</ref>。そのため、海岸平野のうち完新世に形成されたものは沖積平野に含まれていた<ref name=":1" />。現在では沖積世という時代区分用語は使用されていないため、沖積平野という語を形成時代的な意味合いで使用することは推奨されない<ref name=":1" />。 == 分類 == 沖積平野は、上流域から下流域に向かって、[[谷底平野|谷底堆積低地]]、[[扇状地]]、[[氾濫原]](自然堤防帯、蛇行原)、[[三角州]]の順に配列される<ref name=":2">{{Cite book|author=鈴木隆介|title=建設技術者のための地形図読図入門 第2巻 低地|date=|year=|accessdate=|publisher=古今書院|page=295|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。同じ河川において、上記の地形種の順序が変わることはほとんどない<ref name=":2" />。しかし、急峻な山地を流れるような土砂供給量の多い河川では、粗粒な砕屑物(礫など)が下流域まで運搬されることにより、扇状地が海岸にまで到達し、砂泥質の堆積物からなる氾濫原や三角州が形成されない場合がある<ref name=":2" />。一方で、土砂供給量の少ない河川では、扇状地が発達しない場合がある<ref name=":2" />。 == 土地利用 == 一般には[[水害]]の危険が高いが利水しやすく、肥沃で平らであるため[[農耕]]に適する。多くの[[文明]]が沖積平野で発祥している。 == 自然災害リスク == 沖積平野は災害に対して脆弱な地形であるものの、日本においては人口の大部分が沖積平野に集まっている。沖積平野の[[地層]]は'''沖積層'''と呼ばれる。形成年代が若く締め固まっておらず、[[地下水面]]も高く水分に富むため[[軟弱地盤]]が広く分布している。 * [[地盤沈下]]が発生しやすい地質状況である。地下水利用に限らず、[[工業用水]]や[[トンネル]]などの地下[[掘削]]に伴う揚水においても、沈下現象が発生しやすい。[[昭和50年代]]頃までに発生した地盤沈下により[[ゼロメートル地帯]]となり、[[水害]]に対して脆弱な状況となった地域がある。 * [[地震]]の際には地盤の[[液状化]]が発生しやすい地質状況にある。[[新潟地震]]の際には、[[海岸]]に近い場所で液状化現象が発生し、[[建築物]]の倒壊が起こった。 * 地震の際に揺れが大きくなることから[[火災]]の発生が危惧されている。[[関東大震災]]の際には、[[下町]]地域(沖積平野)で大規模な火災が発生した。 == 軟弱地盤の発見 == はじめて[[関東平野]]に大規模な軟弱地盤が拡がっていることが発見・確認されたのは、関東大震災の[[復興局 (内務省)|復興局]]による調査によるものである。復興局は[[ボーリング]]マシンを輸入し、「突下数(とっかすう)」といわれる現在の[[標準貫入試験]]の原形にあたる調査を実施したことにより、埋没谷(第四紀[[海水準変動]]により形成)と沖積層の分布が作成され、それにより初めて軟らかい地層が数十m分布することが確認された。 == 脚注 == <references /> <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[平野]] * [[完新世]] - かつての沖積世とはほぼ同義。 * [[沖積層]] <!-- == 外部リンク == --> {{地形}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちゆうせきへいや}} [[Category:平野]] [[Category:地形]] [[Category:地形の一覧]]
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マーデルングエネルギー
マーデルングエネルギー(英: Madelung energy)は、イオン結晶物質における、イオン-イオン間の静電的相互作用によるエネルギーの総和。 結晶における最隣接原子間距離をr0 、最隣接の陽イオン‐陰イオンのペアの数をN 、イオンの価数をZ 、素電荷をe とすると、マーデルングエネルギーEMadelung は、 となる。ここでαはマーデルング定数と言われるもので、結晶構造によって値が変わる定数である。 イオン結晶に限らず、結晶内(結晶構造となっていない周期系なども含む→分子動力学法)のイオン同士、イオン芯同士などの計算は、その相互作用が長距離力であるため、エバルトの方法を使って求められる。 イオン結晶において、静電気的なポテンシャルエネルギーを表す定数をマーデルング定数と呼び、結晶構造の種類により決まる定数である。イオン結晶の格子エネルギーUはマーデルング定数をMとして以下の理論式で表される。 なおこの定数の計算法として最近接のイオンによる静電エネルギー、第二近接のイオンによる静電エネルギー、と順次加算していくという説明がなされる場合がある。例えば塩化ナトリウム型格子では、ナトリウムイオンを中心として、それを囲む6配位の塩化物イオンとのクーロン引力、さらに隣の塩化物イオンの 2 {\displaystyle {\sqrt {2}}} 倍の距離にある、12個のナトリウムイオンとのクーロン斥力という具合に、以下の無限級数の和として求められるなどと記されることがある。 しかしながらこの級数は収束しないことが知られており、このような分割ではマーデルング定数を求めることはできない.。これは、このような分割を行った場合にはある項は多数の正イオンのみを含みエネルギーを大きく上昇させ、次の項は多数の負イオンのみを含みエネルギーを大きく低下させることになり、級数の和が激しく振動してしまうためである。また、任意のn番目の項の配位数をnの関数として表現することも不可能であるため、実際の計算にも適さない。マーデルング定数を正しく求める場合には、エバルトの方法などを用いるとよい。また、簡便でありながらも比較的収束が良い計算法としては、立方体状のセルに含まれるイオンからの静電エネルギーを用い、このセルのサイズを大きくしていくという手法もある。主な結晶構造のマーデルング定数は以下の通りである。
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マーデルングエネルギーは、イオン結晶物質における、イオン-イオン間の静電的相互作用によるエネルギーの総和。 結晶における最隣接原子間距離をr0 、最隣接の陽イオン‐陰イオンのペアの数をN 、イオンの価数をZ 、素電荷をe とすると、マーデルングエネルギーEMadelung は、 となる。ここでαはマーデルング定数と言われるもので、結晶構造によって値が変わる定数である。 イオン結晶に限らず、結晶内(結晶構造となっていない周期系なども含む→分子動力学法)のイオン同士、イオン芯同士などの計算は、その相互作用が長距離力であるため、エバルトの方法を使って求められる。
'''マーデルングエネルギー'''({{lang-en-short|Madelung energy}})は、[[イオン結晶]]物質における、[[イオン]]-イオン間の静電的相互作用によるエネルギーの総和。 結晶における最隣接原子間距離を''r''<sub>0</sub> 、最隣接の陽イオン‐陰イオンのペアの数を''N'' 、イオンの価数を''Z'' 、素電荷を''e'' とすると、マーデルングエネルギー''E''<sub>Madelung</sub> は、 :<math> E_\mathrm{Madelung} = -N \alpha {{Z^2 e^2} \over {r_0} } </math> となる。ここで&alpha;は'''マーデルング定数'''と言われるもので、結晶構造によって値が変わる定数である。 イオン結晶に限らず、結晶内(結晶構造となっていない周期系なども含む→[[分子動力学法]])のイオン同士、[[イオン芯]]同士などの計算は、その相互作用が長距離力であるため、[[エバルトの方法]]を使って求められる。 == マーデルング定数 == [[File:NaCl-Ionengitter.png|thumb|right|180px|塩化ナトリウム型格子]] イオン結晶において、[[静電気力|静電気的]]な[[ポテンシャルエネルギー]]を表す定数をマーデルング定数と呼び、[[結晶構造]]の種類により決まる定数である。イオン結晶の[[格子エネルギー]]''U''はマーデルング定数を''M''として以下の理論式で表される。 :<math>U = \frac{N_AM z^2 e^2 }{4 \pi \varepsilon_0 r_0}\left(1-\frac{1}{n}\right)</math> なおこの定数の計算法として最近接のイオンによる静電エネルギー、第二近接のイオンによる静電エネルギー、と順次加算していくという説明がなされる場合がある。例えば[[塩化ナトリウム型構造|塩化ナトリウム型格子]]では、[[ナトリウム]]イオンを中心として、それを囲む6配位の[[塩化物]]イオンとのクーロン引力、さらに隣の塩化物イオンの<math>\sqrt{2}</math>倍の距離にある、12個のナトリウムイオンとのクーロン斥力という具合に、以下の[[無限級数]]の和として求められるなどと記されることがある<ref name=Cotton>{{cite|和書|author=FA コットン|author2=G. ウィルキンソン|translator=中原 勝儼|title=コットン・ウィルキンソン無機化学|publisher=培風館|year=1987}}</ref>。 :<math>M_{\rm{NaCl}} = 6 - \frac{12}{\sqrt{2}} + \frac{8}{\sqrt{3}} - \frac{6}{2} + \frac{24}{\sqrt{5}} - \cdots</math> しかしながらこの級数は収束しないことが知られており、このような分割ではマーデルング定数を求めることはできない.<ref>{{cite journal|last1=Emersleben|first1=O.|year=1951|title=Das Selbstpotential einer endlichen Reihe neutraler äquidistanter Punktepaare|journal=[[Mathematische Nachrichten]]|volume=4|issue=3–4|page=468|doi=10.1002/mana.3210040140}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Borwein|first1=D.|last2=Borwein|first2=J. M.|last3=Taylor|first3=K. F.|year=1985|title=Convergence of Lattice Sums and Madelung's Constant|journal=J. Math. Phys.|volume=26|issue=11|pages=2999–3009|bibcode=1985JMP....26.2999B|doi=10.1063/1.526675|hdl=1959.13/1043576|hdl-access=free}}</ref>。これは、このような分割を行った場合にはある項は多数の正イオンのみを含みエネルギーを大きく上昇させ、次の項は多数の負イオンのみを含みエネルギーを大きく低下させることになり、級数の和が激しく振動してしまうためである。また、任意のn番目の項の配位数をnの関数として表現することも不可能であるため、実際の計算にも適さない。マーデルング定数を正しく求める場合には、[[エバルトの方法]]などを用いるとよい。また、簡便でありながらも比較的収束が良い計算法としては、立方体状のセルに含まれるイオンからの静電エネルギーを用い、このセルのサイズを大きくしていくという手法もある<ref>{{Cite journal|author=露本伊佐男|year=2018|title=応用化学統合演習におけるマーデルング定数の数値計算を活用したPBL教育|journal=KIT progress|volume=26|page=221-229}}</ref>。主な結晶構造のマーデルング定数は以下の通りである<ref name=nagashima>{{cite|和書|author=長島弘三|author2=佐野博敏|author3=富田 功|title=無機化学|publisher=実教出版}}</ref><ref name=shimura>{{cite|和書|author=新村陽一|title=無機化学|publisher=朝倉書店|year=1984}}</ref>。 {| class="wikitable" style="float:left; text-align: center" ! 結晶構造 !! マーデルング定数 ''M'' |- | [[塩化ナトリウム型構造]] | 1.747558 |- | [[塩化セシウム型構造]] | 1.762670 |- | [[閃亜鉛鉱]]型構造 | 1.63806 |- | [[ウルツ鉱]]型構造 | 1.6413 |- | [[蛍石]]型構造 | 5.03878 |- | [[赤銅鉱]]型構造 | 4.11552 |- | [[ルチル]]型構造 | 4.816 |} {{-}} == 脚注 == {{reflist}} {{DEFAULTSORT:まあてるんくえねるきい}} [[Category:固体物理学]] [[Category:計算物理学]]
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散乱理論
散乱理論(さんらんりろん、英: Theory of Scattering)は、粒子などの散乱を扱う理論のこと。 物質の微視的な構造を調べるときに最も一般的な方法は、その物体に粒子(または波動)を衝突させて、散乱された粒子の分布の様子を調べることである。現代物理学の実験的研究の結果の多くは量子力学における散乱理論に基づく計算の結果と比較されることになる。 実験では電子、光子(電磁波)、中性子、陽子、イオンなどが、原子、分子、原子核、素粒子などによって散乱される。 通常、量子力学を用いてこれらの散乱を記述する理論のことを散乱理論と言う場合が多いが、古典力学によって扱われる散乱もある。以下は、量子力学の立場による記述である。 散乱現象を理論的に扱う方法には2つの方法が考えられる。 例として、ホースから出た水が散乱体にぶつかって四方八方に飛び散るような散乱現象を考える。 第一の方法では、水を出しっぱなしにして全体の状況が定常的になったとき、この散乱の様子を撮影した1枚の写真として全体像を考察する。この方法では、一体もしくは二体の弾性散乱(散乱前後でエネルギーが不変である散乱)のみ扱う事ができる。この方法では定常状態のシュレディンガー方程式を、散乱を表す境界条件のもとで解くことで、散乱状態を求める。 これはハミルトニアンの固有値・固有ベクトルを求める問題とは異なることに注意しなければならない。入射粒子のエネルギーは実験者によって指定されるため、弾性散乱では散乱状態のエネルギー固有値Eはすでに指定されており、それに対応するエネルギー固有状態を求めるのである。つまり自由粒子(入射状態)の満たしているエネルギー固有関係を境界条件として微分方程式を解く。これにはグリーン関数を用いる方法が有用である。 シュレディンガー方程式の解である散乱状態は、入射平面波と外向き球面波の重ね合わせで記述されると考えて、その球面波の振幅(散乱振幅)を決定することで散乱断面積を求める。この考え方は古典的な波動の散乱の問題の扱い方と本質的に同等であり、その波動が量子的な確率振幅であると解釈する点だけが異なる。以下ではこちらの方法での散乱理論を記す。 第二の方法では、ホースから出た1つの水滴がどのように散乱されていくかを時間的に追跡していく。この方法では、散乱過程を始状態から終状態への転移としてとらえ、その転移確率を時間依存シュレディンガー方程式を用いて求める(時間発展についてはシュレディンガー描像から相互作用描像に書き換えてから計算することもある)。この方法は、より量子力学の考え方に沿った方法であり、非弾性散乱なども扱えるため、第一の方法より一般性がある。この方法はS行列の理論とも呼ばれる。 散乱体が、単独に存在する(孤立した)マフィンティンポテンシャル V M T ( r ) {\displaystyle V_{\mathrm {MT} }(r)} である場合を考える。 ここで r M T {\displaystyle r_{\mathrm {MT} }} は球対称ポテンシャル V ( r ) {\displaystyle V(r)} のおよぶ領域の半径で、マフィンティン半径と呼ばれる。 長距離相互作用のポテンシャルはここでは考察対象外とする。 マフィンティンポテンシャル下での電子についての定常状態のシュレーディンガー方程式は、 となる。ここで m {\displaystyle m} は電子の質量、 k 0 2 = E {\displaystyle {k_{0}}^{2}=E} 、 E {\displaystyle E} は入射状態のエネルギー固有値ですでに指定されている。また簡単のため ħ / 2 m = 1 {\displaystyle \hbar /2m=1} とした。この微分方程式を解くことができれば、散乱問題は解けたことになる。 波動関数 Ψ ( r ) {\displaystyle \Psi (\mathbf {r} )} を極座標表示で展開すると、 とする。 Φ l ( r ) {\displaystyle \Phi _{l}(r)} は動径波動関数( r {\displaystyle r} は動径座標、 l {\displaystyle l} は軌道角運動量)、 C l {\displaystyle C_{l}} は未定係数、 P l ( cos θ ) {\displaystyle P_{l}(\cos \theta )} は l {\displaystyle l} 次のルジャンドル多項式である。 r > r M T {\displaystyle r>r_{\mathrm {MT} }} の場合、動径波動関数は、 を解くことによって次の解が得られる。 ここで、A、Bは任意の係数。jl(x)は球ベッセル関数、nl(x)は球ノイマン関数である。 r < rMTの場合は省略。 この解を、 と変形し、ここで出てくる δ l {\displaystyle \delta _{l}} を位相差(位相シフト、位相のずれ、フェーズシフト)と言う。これはポテンシャル(マフィンティン型である必要はない)が存在することによる波動関数の位相のずれの効果を表している。 ここで、z軸上の無限遠(-∞)から平面波が入射して、これがポテンシャルV(r)によって散乱され、球面波となって出て行く場合、全体の散乱状態の波動関数は次のように漸近すると考える。 ここで、f(θ)は散乱の確率振幅(散乱振幅、θは極座標の角度成分)であり、これはシュレディンガー方程式の解と比較することで、次のように表される。 散乱振幅は本来、f(θ,φ)と表されるが(φは極座標におけるもう1つの角度成分)、マフィンティンポテンシャルは球対称なのでθのみに依存し、φに依らない。ここで散乱振幅の二乗が微分散乱断面積(dσ/dΩ、σ:全断面積、dΩ:微小立体角)となる。 多重散乱理論などを考える場合に便利であるため、以下で示される遷移演算子(T演算子)を導入する。 ここで、G0は自由電子のグリーン関数、H0は自由電子のハミルトニアンである。εは無限小の数である。 f ( θ ) {\displaystyle f(\theta )\ } は、遷移演算子を入射状態 { | k ⟩ } {\displaystyle \{|\mathbf {k} \rangle \}} と散乱状態 { | k + q ⟩ } {\displaystyle \{|\mathbf {k} +\mathbf {q} \rangle \}} で行列表示したT行列(T行列、遷移行列)によって、以下のように表せる。 T演算子は、 とも表せる。よってT行列の行列要素は、 となる。ここで Y l m {\displaystyle Y_{lm}} は球面調和関数で、 m {\displaystyle m} は軌道磁気量子数である。更に、 より、これから、 を得る。これが角運動量表示でのT行列と位相差(フェーズシフト)との関係。k0はκの記号で表されることが多い。 以上は、孤立したポテンシャル下での散乱であるが、実際は多数存在するポテンシャルの存在下で、多数の粒子(電子など)が何度も散乱される(多重散乱)。これを理論的に取り扱うのが多重散乱理論である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "散乱理論(さんらんりろん、英: Theory of Scattering)は、粒子などの散乱を扱う理論のこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "物質の微視的な構造を調べるときに最も一般的な方法は、その物体に粒子(または波動)を衝突させて、散乱された粒子の分布の様子を調べることである。現代物理学の実験的研究の結果の多くは量子力学における散乱理論に基づく計算の結果と比較されることになる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "実験では電子、光子(電磁波)、中性子、陽子、イオンなどが、原子、分子、原子核、素粒子などによって散乱される。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "通常、量子力学を用いてこれらの散乱を記述する理論のことを散乱理論と言う場合が多いが、古典力学によって扱われる散乱もある。以下は、量子力学の立場による記述である。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "散乱現象を理論的に扱う方法には2つの方法が考えられる。", "title": "散乱現象を扱う2つの方法" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "例として、ホースから出た水が散乱体にぶつかって四方八方に飛び散るような散乱現象を考える。", "title": "散乱現象を扱う2つの方法" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "第一の方法では、水を出しっぱなしにして全体の状況が定常的になったとき、この散乱の様子を撮影した1枚の写真として全体像を考察する。この方法では、一体もしくは二体の弾性散乱(散乱前後でエネルギーが不変である散乱)のみ扱う事ができる。この方法では定常状態のシュレディンガー方程式を、散乱を表す境界条件のもとで解くことで、散乱状態を求める。", "title": 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散乱理論は、粒子などの散乱を扱う理論のこと。 物質の微視的な構造を調べるときに最も一般的な方法は、その物体に粒子(または波動)を衝突させて、散乱された粒子の分布の様子を調べることである。現代物理学の実験的研究の結果の多くは量子力学における散乱理論に基づく計算の結果と比較されることになる。 実験では電子、光子(電磁波)、中性子、陽子、イオンなどが、原子、分子、原子核、素粒子などによって散乱される。 通常、量子力学を用いてこれらの散乱を記述する理論のことを散乱理論と言う場合が多いが、古典力学によって扱われる散乱もある。以下は、量子力学の立場による記述である。
'''散乱理論'''(さんらんりろん、{{lang-en-short|Theory of Scattering}})は、粒子などの[[散乱]]を扱う理論のこと。 物質の微視的な構造を調べるときに最も一般的な方法は、その物体に粒子(または波動)を衝突させて、散乱された粒子の分布の様子を調べることである。[[現代物理学]]の実験的研究の結果の多くは量子力学における散乱理論に基づく計算の結果と比較されることになる。<ref name="sunakawa">{{Cite book|和書|author=砂川重信|year=1977|title=散乱の量子論|publisher=[[岩波書店]]|id=ISBN 4000212133}}</ref> 実験では電子、光子(電磁波)、中性子、陽子、イオンなどが、原子、分子、原子核、素粒子などによって散乱される。 通常、[[量子力学]]を用いてこれらの散乱を記述する理論のことを'''散乱理論'''と言う場合が多いが、古典力学によって扱われる散乱もある。以下は、量子力学の立場による記述である。 ==散乱現象を扱う2つの方法== 散乱現象を理論的に扱う方法には2つの方法が考えられる。<ref name="sunakawa"></ref> 例として、ホースから出た水が散乱体にぶつかって四方八方に飛び散るような散乱現象を考える。 第一の方法では、水を出しっぱなしにして全体の状況が[[定常状態|定常的]]になったとき、この散乱の様子を撮影した1枚の写真として全体像を考察する。この方法では、一体もしくは二体の弾性散乱(散乱前後でエネルギーが不変である散乱)のみ扱う事ができる。この方法では[[定常状態]]の[[シュレディンガー方程式]]を、散乱を表す[[境界条件]]のもとで解くことで、散乱状態を求める。 これは[[ハミルトニアン]]の[[固有値]]・[[固有ベクトル]]を求める問題とは異なることに注意しなければならない。入射粒子のエネルギーは実験者によって指定されるため、弾性散乱では散乱状態のエネルギー固有値Eはすでに指定されており、それに対応する[[エネルギー固有状態]]を求めるのである。つまり[[自由粒子]](入射状態)の満たしているエネルギー固有関係を境界条件として微分方程式を解く。これには[[グリーン関数]]を用いる方法が有用である。 シュレディンガー方程式の解である散乱状態は、入射平面波と外向き球面波の重ね合わせで記述されると考えて、その球面波の振幅([[散乱振幅]])を決定することで[[散乱断面積]]を求める。この考え方は古典的な波動の散乱の問題の扱い方と本質的に同等であり、その波動が量子的な確率振幅であると解釈する点だけが異なる。以下ではこちらの方法での散乱理論を記す。 第二の方法では、ホースから出た1つの水滴がどのように散乱されていくかを時間的に追跡していく。この方法では、散乱過程を始状態から終状態への転移としてとらえ、その転移確率を時間依存シュレディンガー方程式を用いて求める([[時間発展]]については[[シュレディンガー描像]]から[[相互作用描像]]に書き換えてから計算することもある)。この方法は、より量子力学の考え方に沿った方法であり、非弾性散乱なども扱えるため、第一の方法より一般性がある。この方法は[[S行列]]の理論とも呼ばれる。 ==ポテンシャルによる電子散乱== ===定常状態のシュレディンガー方程式の解=== 散乱体が、単独に存在する(孤立した)'''[[マフィンティンポテンシャル]]'''<math>V_\mathrm{MT}(r)</math>である場合を考える。 :<math> V_\mathrm{MT}(r) = \begin{cases} V(r) & (r < r_\mathrm{MT}) \\ 0 & (r > r_\mathrm{MT}) \\ \end{cases} </math> ここで<math>r_\mathrm{MT}</math>は球対称ポテンシャル<math>V(r)</math>のおよぶ領域の半径で、マフィンティン半径と呼ばれる。 長距離相互作用のポテンシャルはここでは考察対象外とする。 マフィンティンポテンシャル下での電子についての定常状態のシュレーディンガー方程式は、 :<math> \begin{cases} [ - \nabla^2 + V(r) ] \Psi(\mathbf{r}) = \, {k_0}^2 \Psi(\mathbf{r}) & (r < r_\mathrm{MT}) \\ - \nabla^2 \Psi(\mathbf{r}) = \, {k_0}^2 \Psi(\mathbf{r}) & (r > r_\mathrm{MT}) \\ \end{cases}</math> となる。ここで<math>m</math>は電子の質量、<math>{k_0}^2 = E</math>、<math>E</math>は入射状態のエネルギー固有値ですでに指定されている。また簡単のため<math>\hbar / 2m = 1</math>とした。この微分方程式を解くことができれば、散乱問題は解けたことになる。 波動関数<math>\Psi(\mathbf{r})</math>を極座標表示で展開すると、 :<math>\Psi(\mathbf{r}) = \, \sum_l C_l \Phi_l (r) P_l (\cos \theta)</math> とする。<math>\Phi_l (r)</math>は動径波動関数(<math>r</math>は動径座標、<math>l</math>は軌道角運動量)、<math>C_l</math>は未定係数、<math>P_l (\cos \theta)</math>は<math>l</math>次の[[ルジャンドル多項式]]である。 <math>r > r_\mathrm{MT}</math>の場合、動径波動関数は、 :<math>\frac{1}{r^2} \frac{d}{dr} \left( r^2 \frac{d \Phi_l}{dr} \right) + \left( {k_0}^2 - \frac{l(l+1)}{r^2} \right) \Phi_l = 0</math> を解くことによって次の解が得られる。 :<math>\phi_l (r) = \, A j_l (k_0 r) + B n_l (k_0 r)</math> ここで、A、Bは任意の係数。j<SUB>l</SUB>(x)は[[球ベッセル関数]]、n<sub>l</sub>(x)は[[球ノイマン関数]]である。 r &lt; r<SUB>MT</SUB>の場合は省略。 ===位相差=== この解を、 :<math>\begin{align} \phi_l (r) &= A \{ j_l (k_0 r) - \tan \delta_l \cdot n_l (k_0 r) \} \\ \tan \delta_l &= -B/A \end{align}</math> と変形し、ここで出てくる<math>\delta_l</math>を'''[[位相差]]'''(位相シフト、位相のずれ、フェーズシフト)と言う。これはポテンシャル(マフィンティン型である必要はない)が存在することによる波動関数の位相のずれの効果を表している。 ===散乱振幅・散乱断面積=== ここで、z軸上の無限遠(-∞)から[[平面波]]が入射して、これがポテンシャルV(r)によって散乱され、[[球面波]]となって出て行く場合、全体の散乱状態の波動関数は次のように漸近すると考える。 :<math>\Psi \sim e^{ik\mathbf{z} \cdot \mathbf{z}} + f(\theta) {e^{i\mathbf{k} \cdot \mathbf{r}} \over {r}}</math> ここで、f(θ)は散乱の確率振幅('''[[散乱振幅]]'''、θは極座標の角度成分)であり、これはシュレディンガー方程式の解と比較することで、次のように表される。 :<math>f(\theta) = {1 \over {k}} \sum_{l=0}^{\infty} (2l + 1) e^{i \delta_l} \sin \delta_l \cdot P_l (\cos \theta)</math> 散乱振幅は本来、f(θ,φ)と表されるが(φは極座標におけるもう1つの角度成分)、マフィンティンポテンシャルは球対称なのでθのみに依存し、φに依らない。ここで散乱振幅の二乗が[[微分散乱断面積]](dσ/dΩ、σ:全断面積、dΩ:微小立体角)となる。 :<math>{d \sigma \over {d \Omega}} = \, |f(\theta,\phi)|^2</math> ===T行列=== [[多重散乱理論]]などを考える場合に便利であるため、以下で示される[[遷移演算子]](T演算子)を導入する。 :<math>T = V + V G_0 V + V G_0 V G_0 V + \cdot \cdot \cdot</math> :<math>G_0 =\, {1 \over {E - H_0 + i\epsilon}}</math> ここで、G<sub>0</sub>は[[自由電子]]の[[グリーン関数]]、H<sub>0</sub>は自由電子の[[ハミルトニアン]]である。εは[[無限小]]の数である。 <math>f(\theta) \ </math>は、遷移演算子を入射状態<math>\{|\mathbf{k}\rangle \} </math>と散乱状態<math>\{|\mathbf{k}+ \mathbf{q}\rangle \} </math>で[[行列表示]]した'''[[T行列]]'''(T行列、遷移行列)によって、以下のように表せる。 :<math>f(\theta) = - {1 \over {4 \pi}} \langle\mathbf{k} + \mathbf{q}|T|\mathbf{k} \rangle</math> :<math>\langle\mathbf{k} + \mathbf{q}|T|\mathbf{k} \rangle = \langle\mathbf{k} + \mathbf{q}|V|\mathbf{k}\rangle + \int { \langle\mathbf{k} + \mathbf{q}|V|\mathbf{k} + \mathbf{q}' \rangle \langle\mathbf{k} + \mathbf{q}'|V|\mathbf{k} \rangle \over { (k^2 - |\mathbf{k} + \mathbf{q}'|^2 ) } }d^3 q' + \cdot \cdot \cdot</math> T演算子は、 :<math>T = V + V G_0 \{ V + V G_0 V + \cdot \cdot \cdot \} = V + V G_0 T</math> とも表せる。よってT行列の行列要素は、 :<math>\langle \mathbf{k} + \mathbf{q}|T|\mathbf{k}\rangle = \,- {1 \over {k_0}} \sum_{l} e^{i\delta_l} \sin \delta_l \cdot 4 \pi (2l + 1) P_l(\cos \theta) = - {1 \over {k_0}} \sum_{l,m} e^{i\delta_l} \sin \delta_l \cdot Y_{lm} (\mathbf{k} + \mathbf{q})Y_{lm}(\mathbf{k})</math> となる。ここで<math>Y_{lm}</math>は[[球面調和関数]]で、<math>m</math>は[[軌道磁気量子数]]である。更に、 :<math>\langle \mathbf{k} + \mathbf{q}|T|\mathbf{k}\rangle = \sum_{l,m} T_l Y_{lm} (\mathbf{k} + \mathbf{q})Y_{lm}(\mathbf{k})</math> より、これから、 :<math>T_l = - {1 \over {k_0} } e^{i\delta_l} \sin \delta_l = - {1 \over {\kappa} } e^{i\delta_l} \sin \delta_l</math> を得る。これが角運動量表示でのT行列と位相差(フェーズシフト)との関係。k<sub>0</sub>はκの記号で表されることが多い。<br /> 以上は、孤立したポテンシャル下での散乱であるが、実際は多数存在するポテンシャルの存在下で、多数の粒子(電子など)が何度も散乱される(多重散乱)。これを理論的に取り扱うのが[[多重散乱理論]]である。 ==参考文献== <references/> ==関連項目== *[[リップマン‐シュウィンガー方程式]] *[[多重散乱理論]] *[[S行列]] *[[遷移行列]] *[[散乱振幅]] *[[ボルン近似]] *[[部分波展開]] *[[位相のずれ]] {{デフォルトソート:さんらんりろん}} [[Category:量子力学]] [[Category:散乱理論]]
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エーテル
エーテル(Æther, Aether, Ether) イーサ
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エーテル エーテル (神学) - アリストテレスが四元素説を拡張して提唱した、天体を構成する「第五元素」。 エーテル (物理) - 19世紀以前の物理学で、光を伝える媒質を表す術語。 エーテル (化学) - R-O-R'で表される有機化合物。 溶媒のジエチルエーテルは、単に「エーテル」と呼ばれることがある。 エーテル (音楽) - トリスタン・ミュライユが1978年に作曲したフルートとアンサンブルのための音楽作品。 ether [エーテル] - 日本のバンド、レミオロメンの2枚目のアルバム。 エーテル - 日本の音楽ユニット、Lily Chou-Chouの3枚目のシングル(配信限定)。 ÆTHER - 日本の作曲家、田口康裕の楽曲(TAG Underground名義)。 複数のフィクションに登場する架空の薬品。ゲームではファイナルファンタジーシリーズに代表されるように、キャラクターのマジックポイントを回復するアイテムとして扱われる事が多い。 ゲーム『ゼノブレイドシリーズ』における、世界を構成するエネルギー源。 映画「ドラえもん のび太の月面探査記」におけるエスパルが使う超能力で生まれるエネルギー。 Ather★[エーテル] - 美少女ゲームブランドのひとつ。→アセンブラージュ AETHER [エーテル] - 株式会社ドリームフィールズが運営する、日本のレディース向け革小物ブランド。 Aether, 2020年のビデオゲーム「原神」の男性主人公。日本語では「空」と呼ばれている。 イーサ エーテル(Ether)の英語読み イーサネット(Ether-net)の略。コンピュータ・ネットワーク規格。 Ether - イーサリアム (Ethereum) が発行する内部通貨。
'''エーテル'''(Æther, Aether, Ether) ; 学術関連 * [[エーテル (神学)]] - [[アリストテレス]]が四元素説を拡張して提唱した、天体を構成する「第五元素」。 * [[エーテル (物理)]] - 19世紀以前の物理学で、光を伝える媒質を表す術語。 * [[エーテル (化学)]] - R-O-R'で表される有機化合物。 * 溶媒の[[ジエチルエーテル]]は、単に「エーテル」と呼ばれることがある。 ;音楽関連 * [[エーテル (音楽)]] - [[トリスタン・ミュライユ]]が1978年に作曲したフルートとアンサンブルのための音楽作品。 * [[Ether|ether [エーテル]]] - 日本のバンド、[[レミオロメン]]の2枚目の[[アルバム]]。 * [[エーテル (Lily Chou-Chouの曲)]] - 日本の音楽ユニット、[[Lily Chou-Chou]]の3枚目の[[シングル]](配信限定)。 * [[ÆTHER]] - 日本の作曲家、[[田口康裕]]の楽曲(TAG Underground名義)。 ; その他 * 複数のフィクションに登場する架空の薬品。ゲームでは[[ファイナルファンタジーシリーズ]]に代表されるように、キャラクターの[[マジックポイント]]を回復する[[アイテム]]として扱われる事が多い。 *ゲーム『[[ゼノブレイド]]シリーズ』における、世界を構成するエネルギー源。 *映画「[[ドラえもん のび太の月面探査記]]」におけるエスパルが使う超能力で生まれるエネルギー。 * Ather★[エーテル] - 美少女ゲームブランドのひとつ。→[[アセンブラージュ]] *AETHER [エーテル] - 株式会社ドリームフィールズが運営する、日本のレディース向け革小物ブランド。 *Aether, 2020年のビデオゲーム「[[原神]]」の男性主人公。日本語では「空」と呼ばれている。 '''[[イーサ]]''' *エーテル(Ether)の英語読み **[[イーサネット]](Ether-net)の略。コンピュータ・ネットワーク規格。 **Ether - [[イーサリアム]] (Ethereum) が発行する内部通貨。 ==関連項目== * [[エーテル体]] * [[石油エーテル]] * [[エチル]] {{aimai}} {{DEFAULTSORT:ええてる}} [[Category:オランダ語由来の外来語]] [[Category:同名の作品]]
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人口密度
人口密度(じんこうみつど, 英: Population density)は、人口統計において、単位面積である1平方キロメートル (km) 当たりに居住する人の数により定義される数値である。都市化、土地利用の度合いなどの目安となる。 大抵は1kmあたりの人口、すなわち人口を面積(平方キロメートル)で割った値で表される。 地形については、対象地域内に人の居住できない水域や山岳地を多く含むところでは見かけ上の人口密度は低くなる。代表的な例としては、日本国外では香港、日本では札幌市・仙台市・静岡市・浜松市・京都市・神戸市・広島市・北九州市などがある。これらの都市は皆山地を多く含んでいる。また、この欠点を補うものとして可住地面積や人口集中地区 (DID) に対する人口密度という考え方がある。 面積については、小さい方が極端な値になりやすく、広域になるほど平均的になる。これは、例えば、東京中心部の局地的な狭い範囲の過密地区の人口密度(場所によっては2万人弱/km)と、ある程度の面積規模をもつ東京23区(約15,402人/km)(2022年2月1日現在)と、周辺部も含めた広い地域(人口密度はさらに低くなる)とでは、人口密度が異なるのに対応する。 この他、例えばシンガポールの場合、面積だけで見れば東京23区に近い広さをもつが、独立した都市国家である特性から、国内に軍用・民間用の空港を多く保有していたり、水源のためのダムや森林地帯を確保するなど土地の利用の仕方が大きく異なっており、実際の居住地域の人口密度は非常に高い例もある。 以下に、2022年度の主な国の人口密度を示す。ただし、シンガポールなど、極端に面積の小さい国は除いてある。 都市国家や、極端に面積の人口密度を以下に示す。 ヨーロッパの都市の人口密度はそれほど高くない。たとえヨーロッパ各国の首都と比べても、むしろ日本の地方都市のほうが高い人口密度をもつ過密状態であることが多い。ただしパリやロンドン中心部の限られた範囲において、局所的には東京23区平均を超える高い人口密度になっている。 日本の人口密度は2022年(令和4年)で340.06人/kmで、人口1,000万人以上を有する国の中では11番目の人口密度を持つ。近年、日本の人口は減少傾向にある一方、途上国や新興国では増加傾向にある国が多く、特にイスラエルの人口は2022年時点で約900万人であるが人口密度は417.67人/kmと日本を上回っており、人口増加率も高いことから、数年程度で人口1,000万人以上の国を対象とした人口密度のランキングに入り、日本を上回ることが予測されている。 令和2年(2020年)国勢調査10月1日現在 2019年10月1日の推計人口データより人口密度を計算。小数点第3位を四捨五入している。 2009年10月1日の推計人口と、2009年10月1日の国土交通省国土地理院「全国都道府県市区町村別面積調」の面積により人口密度を計算。
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人口密度は、人口統計において、単位面積である1平方キロメートル (km2) 当たりに居住する人の数により定義される数値である。都市化、土地利用の度合いなどの目安となる。
{{出典の明記|date=2018年9月}} '''人口密度'''(じんこうみつど, {{lang-en-short|Population density}})は、人口統計において、単位面積である1[[平方キロメートル]] (km{{sup|2}}) 当たりに居住する人の数により定義される数値である。[[都市化]]、土地利用の度合いなどの目安となる。 == 概要 == [[File:World population density 1994.png|thumb|right|450px|1994年の世界の人口密度の分布図。紫の領域が最も高い人口密度の領域を表す。ピンクの領域は、その次に密度が高い。<br /> グレー: < 2 人/km{{sup|2}}<br /> ベージュ: 2-10 人/km{{sup|2}}<br /> 緑: 11-40 人/km{{sup|2}}<br /> オレンジ: 41-100 人/km{{sup|2}}<br /> ピンク: 101-500 人/km{{sup|2}}<br /> 紫: > 500 人/km{{sup|2}}]] 大抵は1km{{sup|2}}あたりの[[人口]]、すなわち人口を面積(平方キロメートル)で割った値で表される。 地形については、対象地域内に人の居住できない水域や山岳地を多く含むところでは見かけ上の人口密度は低くなる。代表的な例としては、日本国外では[[香港]]、日本では[[札幌市]]・[[仙台市]]・[[静岡市]]・[[浜松市]]・[[京都市]]・[[神戸市]]・[[広島市]]・[[北九州市]]などがある。これらの都市は皆山地を多く含んでいる。また、この欠点を補うものとして[[可住地面積]]や[[人口集中地区]] (DID) に対する人口密度という考え方がある。 面積については、小さい方が極端な値になりやすく、広域になるほど平均的になる。これは、例えば、東京中心部の局地的な狭い範囲の過密地区の人口密度(場所によっては2万人弱/km{{sup|2}})と、ある程度の面積規模をもつ[[東京都区部|東京23区]](約15,402人/km{{sup|2}})(2022年2月1日現在)と、周辺部も含めた広い地域(人口密度はさらに低くなる)とでは、人口密度が異なるのに対応する。 この他、例えば[[シンガポール]]の場合、面積だけで見れば東京23区に近い広さをもつが、独立した都市国家である特性から、国内に軍用・民間用の空港を多く保有していたり、水源のためのダムや森林地帯を確保するなど土地の利用の仕方が大きく異なっており、実際の居住地域の人口密度は非常に高い例もある。 == 世界の人口密度 == [[File:Male, the capital of Maldives.jpg|thumb|right|モルディブの首都である[[マレ]](左下)は、人口密度が世界一であると言われる。]] [[File:Mongolia562.jpg|thumb|right|モンゴルは、国連に加盟している国の中で最も人口密度が低い。]] {{Main|国の人口密度順リスト}} 以下に、2022年度の主な国の人口密度を示す。<ref name=":0">{{Cite web |title=Population density |url=https://ourworldindata.org/grapher/population-density |website=Our World in Data |access-date=2023-08-04}}</ref>ただし、[[シンガポール]]など、極端に面積の小さい国は除いてある。 {| class="wikitable" !順位 !国 !人口密度(人/km{{sup|2}}) |- |1 |[[バングラデシュ]] |1,315.10 |- |2 |[[中華民国|台湾]] |674.76 |- |3 |[[ルワンダ]] |558.44 |- |4 |[[大韓民国]] |530.90 |- |5 |[[オランダ]] |521.65 |- |6 |[[ブルンジ]] |501.93 |- |7 |[[インド]] |476.65 |- |8 |[[ハイチ]] |420.36 |- |9 |[[フィリピン]] |387.56 |- |10 |[[ベルギー]] |384.94 |} [[都市国家]]や、極端に面積の小さい国の人口密度を以下に示す。 {| class="wikitable" !国 !人口密度(人/km{{sup|2}}) |- |[[モナコ]] |18,002.47 |- |[[シンガポール]] |8,322.69 |- |[[バーレーン]] |1,875.46 |- |[[バチカン|バチカン市国]] |1,818.18 |- |[[モルディブ]] |1,745.99 |- |[[マルタ]] |1,666.54 |} === 世界の主な都市の人口密度 === *[[マレ]]([[モルディブ]]の首都)35,000 人/km{{sup|2}}(世界一とされる) *[[ムンバイ]](旧名ボンベイ、インド) 27,200人/km{{sup|2}}(面積438km{{sup|2}}、人口推定1,190万人) *:数百km{{sup|2}}と比較的広い面積を持ちながら2万人/km{{sup|2}}以上の密度を示す、世界でもトップクラスの過密都市。 *[[メトロ・マニラ]](フィリピン) 21,000人/km{{sup|2}}(面積636km{{sup|2}}、人口1348万人) *[[ソウル特別市]] (韓国) 15,688人/km{{sup|2}}(面積621km{{sup|2}}、人口949万人) *:東京23区と比較的近い面積。 *[[特別区|東京23区]] 15,480人/km{{sup|2}}(面積627.57km{{sup|2}}、人口971万人) *:もっとも密度が高い[[特別区]]は、[[豊島区]]で23,273人/km{{sup|2}}、次が[[中野区]]で22,072人/km{{sup|2}}。 *[[大阪市]](24区) 12,241人/km{{sup|2}}(面積222.30km{{sup|2}}、人口2,756,885 人) *:もっとも密度が高い[[行政区画|行政区]]は[[西区 (大阪市)|西区]]で20,778人/km{{sup|2}}、次が[[城東区]]で20,064人/km{{sup|2}}。 *:JR[[大阪駅]]・[[梅田]]を抱える[[北区 (大阪市)|北区]](13,795人/km{{sup|2}})、東[[船場 (大阪市)|船場]]、[[難波]]や[[心斎橋]]を抱える[[中央区 (大阪市)|中央区]](12,384人/km{{sup|2}})である。 *[[香港]] 6,688 人/km{{sup|2}} *:香港は山岳地を多く抱えるため、単純密度は東京23区よりも低いが可住地の人口密度は非常に高い。地区によっては 50,000人/km{{sup|2}}を超え、高層マンションなどの集合建築が密集している。 *[[上海市|上海]] *:人口密度は2,100人/km{{sup|2}}だが、上海特別市は面積が6,340km{{sup|2}}([[群馬県]]の面積に近い)と広大なため、各区によって人口密度は異なる。 === その他、人口過密で知られた地域の人口密度 === *[[端島 (長崎県)|端島]](通称「軍艦島」、[[長崎県]][[長崎市]](旧[[高島町 (長崎県)|高島町]])) *:面積0.063km{{sup|2}}。人口が最盛期を迎えた[[1960年]]([[昭和]]35年)には5,267人の人口がおり、人口密度は83,600人/km{{sup|2}}と世界一を誇り東京特別区の5倍以上に達した。 *[[イスロテ島]]([[コロンビア]]) *:面積0.01km{{sup|2}}。人口は1,247人で、人口密度は124,700 人/km{{sup|2}}となる。 *[[九龍城砦]]([[香港]])  面積0.026km{{sup|2}}。推定で約5万人が住んでいたと言われ、その場合の人口密度は約1,900,000人/km{{sup|2}} 。区域の捉え方にもよるが、しばしば人類史上最も人口密度の高かった場所として挙げられる。 === ヨーロッパの主な都市の人口密度 === ヨーロッパの都市の人口密度はそれほど高くない。たとえヨーロッパ各国の首都と比べても、むしろ日本の地方都市のほうが高い人口密度をもつ[[過密]]状態であることが多い。ただし[[パリ]]や[[ロンドン]]中心部の限られた範囲において、局所的には東京23区平均を超える高い人口密度になっている。 *[[パリ]] 20,560人/km{{sup|2}}(面積105.40km{{sup|2}}、人口214.8万人) *:20,560人/km{{sup|2}}は、ブーローニュ、ヴァンセンヌの森を含む人口密度。20区合計のみの密度は 24,928人/km{{sup|2}}もっとも密度が高い11区 (3.67km{{sup|2}}) で40,000人強/km{{sup|2}}。 *:パリのみでは東京23区を大きく上回る非常に高い人口密度をもつが、市域が100km{{sup|2}}強と比較的狭い範囲に限られる。周辺3県を含めた人口密度では、面積723km{{sup|2}}(東京23区は627.57km{{sup|2}})に対して8,500人/km{{sup|2}}(東京23区は15,345人/km{{sup|2}})と東京23区の6割弱ほどの人口密度しかない。 *:パリ(1区から20区)は1920年代に人口がピークとなり、最盛期に人口は約290万人、密度は32,000人/km{{sup|2}}を超えた。その後、周辺部への人口の拡散で中心部の人口は減少し、現在(2006年末ごろ)の人口はおよそ217万人ほどになっている。近年は人口減少が底を打ち微増となっている。増加しているのは主に東部の11区や13区、20区といった移民の多いエスニックエリアであり、既にパリ市内では人口のおよそ5人に1人が[[移民]]や[[有色人種]]、[[外国籍]]の人々などで占められていると言われる。 *[[ロンドン]]/[[大ロンドン]] 4,782人/km{{sup|2}}(面積1,572km{{sup|2}}、人口889万人)(2018年現在)(インナーロンドン:9,300人/km{{sup|2}}、アウターロンドン3,600人/km{{sup|2}}) *:もっとも人口密度の高い[[ロンドン特別区|行政区]](特別区、バラ/borough)は中心部の高級ブティック・住宅街の[[ケンジントン&チェルシー王立区|ケンジントン&チェルシー]]で、およそ16,200人/km{{sup|2}}である。 *:[[大ロンドン]]の行政区や人口推移について:大ロンドン (Greater London) とはグレーター・ロンドン・オーソリティ (Greater London Authority) が管轄する行政区である。大きさはやや扁平な直径50km圏をカバーしており、「市」よりは「首都」と呼ぶのが相応しい。[[管轄]]域は2つの市(シティ:city)と31の[[ロンドン特別区|行政区]](バラ:London borough)に分かれ、住民登録・行政サービスなどは区役所 (London Borough Councils) が扱う。市として区別されるのは『ウェストミンスター』と『シティ』のみ。[[シティ・オブ・ロンドン]]は、[[ロンドン塔]]周辺の城壁に囲まれた地域のみを指した時期が長く、古くはこの地域のみをロンドンと呼んでいた。これがいわゆる金融街の『シティ』(オブ・ロンドン)である。一方、[[イギリス王室|王室]]・政治の拠点であるウェストミンスターは『[[シティ・オブ・ウェストミンスター]]』であり、[[シティ・オブ・ロンドン]]と並んで古くから英国の中心都市である。これら2市と中心部5ボローを合わせて「セントラル・ロンドン」と呼ぶ。このほか31ある[[ロンドン特別区|行政区]]のうち、とくに2市と12[[ロンドン特別区|行政区]]を合わせて「インナー・ロンドン」、その他を「アウター・ロンドン」と区別することが多い。過去のインナーロンドンの人口は1900年代前半には過去最多の840万人余りに達した。過去のドーナツ化現象の指摘もあるが、東京のそれと違って人口移動距離は短く、中心部のセントラル・ロンドンから隣接地区へ移動する程度である。インナー・ロンドン全体の人口密度はアウターロンドンよりも高い。ただしロンドンを管轄する行政区が近年みなおされているため、長期的な人口統計を比較する際、対象エリアの把握に注意が必要である([[大ロンドン]]の項参照)。 *:グローバル化や[[欧州連合|EU]]統合、移民や[[留学生]]の誘致政策により、ロンドンへの外国人の流入が続いている。この影響でネイティブの英国市民の中には、住宅価格・物価が高騰しているロンドンを諦め、郊外または地方都市など「住みやすい」地域へ脱出する者も少なくない(81,500人が流出/2005年)。[[大ロンドン]]発行のマニフェスト「[[ロンドン・プラン]]」のための人口統計によると、ネイティブの流出が続くものの外国人流入がそれを上回り、域内は人口増加傾向にある。2030年ごろまでに815万人前後にまで到達すると予想する研究者がいる。ロンドンにおいて人口密度が比較的高い理由は、歴史地区が高密度に商業開発されることがなく、古い高級住宅が貴族または高所得者によって継続的に所有・賃貸されている結果と思われる。事実、厳しい開発規制もあって域内の大半の建物が10階建を超えることが稀である。[[事務所]]としての利用が限られるこれら古い建築群が住宅として利用されるため、[[ドーナツ化現象]]が起きずにむしろ中心部ほど人口密度が高い。アウター・[[ロンドン]]においては都市の無秩序な拡大を阻止するために設置された森林帯「[[グリーンベルト]]」の保護政策などが人口密度に影響している。このほか公共交通機関の未発達も、ロンドン中心部の人口を押し上げている。鉄道・地下鉄の本数・所要時間ともに需要に応えているとは言えず、通勤時間を減らすには中心部に住むしかない。地形の特徴も無視できない。英国は地質学的に世界でも最古の岩盤が表れている地域であり、風雨にさらされた平らな国土が人口密度低下に貢献している。ロンドン中心部では、[[リージェンツ・パーク]]の北側にある標高わずか64m<ref>Ordnance Survey Explorer Map 1:25 000 Scale</ref>の[[プリムローズ・ヒル]]が、平らな土地、低く広がる街並みを見渡せるというので名所になるほど、土地も建物も低いのである。 *[[マンチェスター]](イギリス):3,815人/km{{sup|2}} *[[デュッセルドルフ]](ドイツ):2,857人/km{{sup|2}} *[[ストラスブール]](フランス):3,590人/km{{sup|2}} *[[ボローニャ]](イタリア):2,759人/km{{sup|2}} *[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]](スペイン):5,840人/km{{sup|2}} *[[ストックホルム]](スウェーデン):4,600人/km{{sup|2}} *[[ウィーン]](オーストリア):4,326人/km{{sup|2}} *[[デン・ハーグ]](オランダ):5,794人/km{{sup|2}} *[[コペンハーゲン]](デンマーク):4,417/km{{sup|2}}(中心部のみ) == 日本の人口密度 == {{更新|date=2023年1月|section=1}} 日本の人口密度は2022年(令和4年)で340.06人/km{{sup|2}}で、人口1,000万人以上を有する国の中では11番目の人口密度を持つ。近年、日本の人口は減少傾向にある一方、途上国や新興国では増加傾向にある国が多く、特に[[イスラエル]]の人口は2022年時点で約900万人であるが人口密度は417.67人/km{{sup|2}}と日本を上回っており、人口増加率も高いことから、数年程度で人口1,000万人以上の国を対象とした人口密度のランキングに入り、日本を上回ることが予測されている。 === 人口の偏在 === ;平野部への偏在 :日本は山地を多く含む国であり、人口は都市部や平野部に集中している。日本の[[過疎地域]]のデータによれば、2006年4月時点で[[過疎]]市町村となっている地域の面積は 204,329km{{sup|2}}で、全国面積に対する割合は54.1%、そこに居住する人口は約1064万人で全人口に対する割合は 8.3%、この地域での人口密度は52人/km{{sup|2}}となっている。逆に、残り45.9% (173,506km{{sup|2}}) の地域に総人口の91.7%(約1億1711万人)の人が住み、この地域での平均密度は675人/km{{sup|2}}となる。 ;[[太平洋ベルト|太平洋ベルト地帯]]への偏在 :人口の約60%が集中している。 ;関東地方への偏在 :[[関東地方]](1都6県)の場合、人口は約4,347万人(2021年3月)と日本の総人口の約1/3 (34.5%) が住み、平均人口密度は1,340人/km{{sup|2}}となっている。 ;都市部・大都市圏への偏在 :都市化の目安となる[[人口集中地区]] (DID) の統計によれば、2000年(平成12年)にDIDの面積は12,457km{{sup|2}}([[新潟県]]の面積とほぼ同じ)、そこに居住する人口は約8,280万人で総人口の約2/3 (65.2%)、この地域での平均人口密度は6,647人/km{{sup|2}}となっている。 === 日本の都道府県の人口密度 === [[令和]]2年([[2020年]])[[国勢調査]]10月1日現在<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032142402&fileKind=0|title=令和2年国勢調査 人口等基本集計(確定値)|work=e-Stat 政府統計の総合窓口|date=2021-11-30|publisher=|accessdate=2022-03-27|format=XLS|archiveurl=|archivedate=|url-status=live}} 小数点以下2桁の表示を得るために、人口総数列と面積列に基づき独自に関数計算を行った。</ref> {| class="wikitable sortable" ! !! 地名 !! 人口密度(人/km{{sup|2}}) |- | 1 || [[北海道]] |style="text-align: right;"| 66.62 |- | 2 || [[青森県]] |style="text-align: right;"| 128.35 |- | 3 || [[岩手県]] |style="text-align: right;"| 79.25 |- | 4 || [[宮城県]] |style="text-align: right;"| 316.11 |- | 5 || [[秋田県]] |style="text-align: right;"| 82.45 |- | 6 || [[山形県]] |style="text-align: right;"| 114.56 |- | 7 || [[福島県]] |style="text-align: right;"| 132.99 |- | 8 || [[茨城県]] |style="text-align: right;"| 470.20 |- | 9 || [[栃木県]] |style="text-align: right;"| 301.67 |- | 10 || [[群馬県]] |style="text-align: right;"| 304.78 |- | 11 || [[埼玉県]] |style="text-align: right;"| 1,933.98 |- | 12 || [[千葉県]] |style="text-align: right;"| 1,218.50 |- | 13 || [[東京都]] |style="text-align: right;"| 6,402.64 |- | 14 || [[神奈川県]] |style="text-align: right;"| 3,823.23 |- | 15 || [[新潟県]] |style="text-align: right;"| 174.93 |- | 16 || [[富山県]] |style="text-align: right;"| 243.62 |- | 17 || [[石川県]] |style="text-align: right;"| 270.54 |- | 18 || [[福井県]] |style="text-align: right;"| 183.00 |- | 19 || [[山梨県]] |style="text-align: right;"| 181.39 |- | 20 || [[長野県]] |style="text-align: right;"| 151.02 |- | 21 || [[岐阜県]] |style="text-align: right;"| 186.30 |- | 22 || [[静岡県]] |style="text-align: right;"| 467.15 |- | 23 || [[愛知県]] |style="text-align: right;"| 1,458.02 |- | 24 || [[三重県]] |style="text-align: right;"| 306.56 |- | 25 || [[滋賀県]] |style="text-align: right;"| 351.87 |- | 26 || [[京都府]] |style="text-align: right;"| 558.97 |- | 27 || [[大阪府]] |style="text-align: right;"| 4,638.43 |- | 28 || [[兵庫県]] |style="text-align: right;"| 650.52 |- | 29 || [[奈良県]] |style="text-align: right;"| 358.84 |- | 30 || [[和歌山県]] |style="text-align: right;"| 195.27 |- | 31 || [[鳥取県]] |style="text-align: right;"| 157.79 |- | 32 || [[島根県]] |style="text-align: right;"| 100.05 |- | 33 || [[岡山県]] |style="text-align: right;"| 265.44 |- | 34 || [[広島県]] |style="text-align: right;"| 330.17 |- | 35 || [[山口県]] |style="text-align: right;"| 219.56 |- | 36 || [[徳島県]] |style="text-align: right;"| 173.52 |- | 37 || [[香川県]] |style="text-align: right;"| 506.32 |- | 38 || [[愛媛県]] |style="text-align: right;"| 235.16 |- | 39 || [[高知県]] |style="text-align: right;"| 97.35 |- | 40 || [[福岡県]] |style="text-align: right;"| 1,029.82 |- | 41 || [[佐賀県]] |style="text-align: right;"| 332.46 |- | 42 || [[長崎県]] |style="text-align: right;"| 317.68 |- | 43 || [[熊本県]] |style="text-align: right;"| 234.61 |- | 44 || [[大分県]] |style="text-align: right;"| 177.24 |- | 45 || [[宮崎県]] |style="text-align: right;"| 138.27 |- | 46 || [[鹿児島県]] |style="text-align: right;"| 172.88 |- | 47 || [[沖縄県]] |style="text-align: right;"| 642.90 |} ==== 上位10位 ==== *1位 [[東京都]] *2位 [[大阪府]] *3位 [[神奈川県]] *4位 [[埼玉県]] *5位 [[愛知県]] *6位 [[千葉県]] *7位 [[福岡県]](以上1,000人/km{{sup|2}}超) *8位 [[兵庫県]] *9位 [[沖縄県]] *10位 [[京都府]] ==== 下位10位 ==== *38位 [[長野県]] *39位 [[宮崎県]] *40位 [[福島県]] *41位 [[青森県]] *42位 [[山形県]] *43位 [[島根県]] *44位 [[高知県]](以下100人/km{{sup|2}}未満) *45位 [[秋田県]] *46位 [[岩手県]] *47位 [[北海道]] === 日本の主な市町村の人口密度 === 2019年10月1日の推計人口データより人口密度を計算。小数点第3位を四捨五入している。<ref group="注釈">(単位:人/km{{sup|2}})</ref> {{See also|日本の市の面積一覧}} ==== 上位 ==== {| class="wikitable" |- | 埼玉県[[蕨市]] || 14,681.21 |- | 東京都[[武蔵野市]] || 13,508.74 |- | 東京都[[狛江市]]|| 13,112.36 |- | 東京都[[西東京市]]|| 13,066.73 |- | 大阪府[[大阪市]] || 12,162.46 |- | 東京都[[三鷹市]] || 11,722.84 |- | 大阪府[[守口市]] || 11,192.92 |- | 東京都[[国分寺市]]|| 11,150.96 |- | 東京都[[小金井市]] ||11,134.07 |- | 東京都[[調布市]]||11,105.19 |} ==== 下位 ==== {| class="wikitable" |- | 北海道[[島牧村]]|| 3.13 |- | 北海道[[音威子府村]]|| 2.81 |- | 山梨県[[早川町]] || 2.69 |- | 北海道[[中川町]]|| 2.61 |- | 北海道[[占冠村]]|| 2.48 |- | 長野県[[王滝村]]|| 2.37 |- |奈良県[[野迫川村]] |2.33 |- | 北海道[[幌加内町]]|| 1.83 |- | 奈良県[[上北山村]] || 1.55 |- | 福島県[[檜枝岐村]]|| 1.43 |} === 日本の主な区の人口密度 === 2009年10月1日の推計人口と、2009年10月1日の国土交通省国土地理院「全国都道府県市区町村別面積調」の面積により人口密度を計算。 ==== 上位 ==== {| class="wikitable" |- | 東京都[[中野区]] || 20,175.75 |- | 東京都[[豊島区]] || 20,107.53 |- | 東京都[[荒川区]] || 19,822.25 |- | 大阪府大阪市[[城東区]] || 19,641.69 |- | 東京都[[目黒区]] || 18,294.63 |- | 大阪府大阪市[[阿倍野区]] || 17,945.74 |- | 東京都[[墨田区]] || 17,762.04 |- | 東京都[[文京区]] || 17,668.17 |- | 大阪府大阪市[[西成区]] || 17,635.24 |- | 東京都[[新宿区]] || 17,438.62 |} ====下位==== === 政令指定都市の人口密度 === {| class="wikitable" |- | [[大阪市]] |style="text-align: right;"| 11,972.81 |- | [[川崎市]] |style="text-align: right;"| 9,742.61 |- | [[横浜市]] |style="text-align: right;"| 8,348.41 |- | [[名古屋市]] |style="text-align: right;"| 7,119.43 |- | [[さいたま市]] |style="text-align: right;"| 5,773.53 |- | [[堺市]] |style="text-align: right;"| 5,574.36 |- | [[福岡市]] |style="text-align: right;"| 4,216.68 |- | [[千葉市]] |style="text-align: right;"| 3,481.41 |- | [[神戸市]] |style="text-align: right;"| 2,776.08 |- | [[相模原市]] |style="text-align: right;"| 2,199.32 |- | [[北九州市]] |style="text-align: right;"| 2,019.55 |- | [[熊本市]] |style="text-align: right;"| 1,896.53 |- | [[京都市]] |style="text-align: right;"| 1,772.33 |- | [[札幌市]] |style="text-align: right;"| 1,693.35 |- | [[仙台市]] |style="text-align: right;"| 1,316.03 |- | [[広島市]] |style="text-align: right;"| 1,288.82 |- | [[新潟市]] |style="text-align: right;"| 1,118.35 |- | [[岡山市]] |style="text-align: right;"| 890.48 |- | [[浜松市]] |style="text-align: right;"| 538.12 |- | [[静岡市]] |style="text-align: right;"| 509.10 |} == 上位から順 == {| class="wikitable" !順位 !都道府県 !人口密度 !偏差値 |- !並替 !北  南 !降順  昇順 !降順  昇順 |- !1 !東京都 |6,168.7人 |96.66 |- !2 !大阪府 |4,639.8人 |83.72 |- !3 !神奈川県 |3,777.7人 |76.43 |- !4 !埼玉県 |1,913.4人 |60.65 |- !5 !愛知県 |1,446.7人 |56.70 |- !6 !千葉県 |1,206.5人 |54.66 |- !7 !福岡県 |1,023.1人 |53.11 |- !8 !兵庫県 |658.8人 |50.03 |- !9 !沖縄県 |628.4人 |49.77 |- !10 !京都府 |566.0人 |49.24 |- !11 !香川県 |520.2人 |48.86 |- !12 !茨城県 |478.4人 |48.50 |- !13 !静岡県 |475.8人 |48.48 |- !14 !奈良県 |369.6人 |47.58 |- !15 !滋賀県 |351.7人 |47.43 |- !16 !佐賀県 |341.2人 |47.34 |- !17 !広島県 |335.4人 |47.29 |- !18 !長崎県 |333.3人 |47.27 |- !19 !宮城県 |320.5人 |47.17 |- !20 !三重県 |314.5人 |47.12 |- !21 !群馬県 |310.1人 |47.08 |- !22 !栃木県 |308.1人 |47.06 |- !23 !石川県 |275.7人 |46.79 |- !24 !岡山県 |270.1人 |46.74 |- !25 !富山県 |251.0人 |46.58 |- !26 !愛媛県 |244.1人 |46.52 |- !27 !熊本県 |241.1人 |46.49 |- !28 !山口県 |229.8人 |46.40 |- !29 !和歌山県 |203.9人 |46.18 |- !30 !岐阜県 |191.3人 |46.07 |- !31 !福井県 |187.7人 |46.04 |- !32 !山梨県 |187.0人 |46.04 |- !33 !大分県 |183.9人 |46.01 |- !34 !新潟県 |183.1人 |46.00 |- !35 !徳島県 |182.3人 |46.00 |- !36 !鹿児島県 |179.4人 |45.97 |- !37 !鳥取県 |163.5人 |45.84 |- !38 !長野県 |154.8人 |45.76 |- !39 !宮崎県 |142.7人 |45.66 |- !40 !福島県 |138.9人 |45.63 |- !41 !青森県 |135.6人 |45.60 |- !42 !山形県 |120.5人 |45.47 |- !43 !島根県 |103.5人 |45.33 |- !44 !高知県 |102.5人 |45.32 |- !45 !秋田県 |87.9人 |45.20 |- !46 !岩手県 |83.8人 |45.16 |- !47 !北海道 |68.6人 |45.03 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist}}https://todo-ran.com/t/kiji/13400<nowiki/>{{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しんこうみつと}} [[Category:密度]] [[Category:グローバル化の問題]] [[Category:人口統計学]] [[Category:個体群]]
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ワシントン
ワシントン(Washington)は英語圏の姓および名。原発音は[ˈwɑʃɪŋtən] ( 音声ファイル) [ˈwɔːʃɪŋtən] [ˈwɔʃɪŋtən](ウォシントン) 。 日本語では「ワシントン」と表記される。 合衆国内には上記以外にもワシントンという土地が多く存在する。
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ワシントン(Washington)は英語圏の姓および名。原発音は ( 音声ファイル) (ウォシントン)。 日本語では「ワシントン」と表記される。
{{TOCright}} '''ワシントン'''({{lang|en|Washington}})は英語圏の姓および名。原発音は{{IPA-en|ˈwɑʃɪŋtən||en-us-Washington.ogg}} {{IPA|ˈwɔːʃɪŋtən}} {{IPA|ˈwɔʃɪŋtən}}('''ウォシントン''') 。 日本語では「ワシントン」と表記される。 == 有名人 == ;姓 * [[ジョージ・ワシントン]] - アメリカ合衆国・初代大統領。 * [[マーサ・ワシントン]] - ジョージ・ワシントンの妻。 * [[ウィリアム・ワシントン]] - アメリカ独立戦争〜合衆国陸軍初期のアメリカ軍人。 * [[ウィリアム・D・ワシントン]] - アメリカ合衆国の画家。 * [[ブッカー・T・ワシントン]] - アメリカ合衆国の教育家・作家。 * [[ジョージ・ワシントン・カーヴァー]] - アメリカ合衆国の教育家、植物学者。 * [[グローヴァー・ワシントン・ジュニア]] - アメリカ合衆国のジャズ・サックス奏者。 * [[デンゼル・ワシントン]] - アメリカ合衆国の俳優。 * [[ジョン・デヴィッド・ワシントン]] - アメリカ合衆国の元アメリカンフットボール、俳優。デンゼル・ワシントンの息子。 ;名 * [[ワシントン・アーヴィング]] - アメリカ合衆国の作家。 * [[ワシントン・シャーリー (第5代フェラーズ伯爵)]] - イギリスの貴族・海軍軍人・天文学者。 === スポーツ選手 === ;姓 * [[ケン・ワシントン]] - アメリカ出身の野球選手。[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]に所属していた。 * ジェミー・ワシントン (Jemie Washington) - オーストラリア出身のラグビー選手。[[サントリーサンゴリアス]]に所属した。 * [[リン・ワシントン]] - アメリカ出身のバスケットボール選手。[[大阪エヴェッサ]]所属。 ;名 * [[ワシントン・ステカネロ・セルケイラ]] - ブラジル出身の元サッカー選手。2005年に[[東京ヴェルディ1969]]、2006 - 2007年に[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]に所属した。 * [[ワシントン・ルイジ・ガルシア]] (Washington Luigi Garcia) - ブラジル出身のサッカー選手。2000年に[[モンテディオ山形]]に所属した。 * [[ワシントン・ルイス・ペレイラ・ドス・サントス]] - ブラジル出身のサッカー選手。2001年に[[セレッソ大阪]]に所属した。 * [[ワシントン・ルイス・マスカレニャス・シルバ]] - ブラジル出身のサッカー選手。2006年に[[FC東京]]に所属した。 == 土地 == * ワシントン - イギリス・[[イングランド]]の[[ノース・イースト・イングランド]]にある町 * [[ワシントンD.C.]] - アメリカ合衆国の首都。転じて、「[[アメリカ合衆国]]首脳部」の意味で用いられることがある。文脈でどちらかはっきりしない場合で単にワシントンと言った場合はこちらを意味する。 * [[ワシントン州]] - アメリカ合衆国の州。単にワシントンと言うと上記の-D.C.を示すので、文脈でどちらかはっきりしない場合は「州」を付ける必要がある。 * [[ワシントン郡 (曖昧さ回避)]] - 合衆国内に31ヶ所存在。 * [[ワシントン郡区 (曖昧さ回避)]] 合衆国内には上記以外にも'''ワシントン'''という土地が多く存在する。 == 軍艦・軍用機 == * アメリカ海軍軍艦「ワシントン」(下記以外にも同名が7隻ある) ** [[ワシントン (装甲巡洋艦)|ワシントン (ACR-11)]] - [[テネシー級装甲巡洋艦]]の2番艦。 ** [[ワシントン (BB-47)]] - コロラド級戦艦の3番艦。未成艦。 ** [[ワシントン (BB-56)]] - ノースカロライナ級戦艦の2番艦。 <!--* アメリカ海軍の軍艦「ジョージ・ワシントン」(下記以外にも同名が2隻ある) ** [[ジョージ・ワシントン (原子力潜水艦)|ジョージ・ワシントン (SSBN-598)]] - [[ジョージ・ワシントン級原子力潜水艦]]の1番艦。アメリカ初の弾道ミサイル潜水艦。 ** [[ジョージ・ワシントン (空母)|ジョージ・ワシントン (CVN-73)]] - [[ニミッツ級航空母艦]]の6番艦。--> * ボーイング ワシントン - イギリス空軍が所有している[[B-29 (航空機)|B-29爆撃機]]。 == 作品名 == * ワシントン (''Wasington'') - [[ラース・フォン・トリアー]]監督・脚本の映画『[[ドッグヴィル]]』『[[マンダレイ]]』に続くアメリカ3部作の最終作。未公開。 == スポーツチーム == * [[ワシントン・コマンダース]] ([[NFL]]) の略称。 == 関連項目 == * [[ジョージ・ワシントン (曖昧さ回避)]] * [[ワシントンホテル (曖昧さ回避)]] * {{prefix}} * {{intitle}} * [[Wikipedia:索引 わし#わしんとん]] {{aimai}} {{DEFAULTSORT:わしんとん}} [[Category:英語の姓]] [[Category:英語の男性名]] [[Category:同名の地名]] [[Category:同名の船]]
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後藤羽矢子
後藤 羽矢子(ごとう はやこ、6月14日 - )は、日本の漫画家。神奈川県小田原市出身。 主に一般向けストーリー4コマ漫画と、成人向けの雑誌などに短編の実録漫画などを描いている。 ペンネームの由来は「後藤」は2005年当時、内縁の夫となっていた彼氏の苗字から。「羽矢子」は、当初は子供につけようと思っていた名前からと説明していたが、後に漫画で使おうと思っていたキャラクターの名前であると説明を改めた。 少女漫画家佐柄きょうこに師事し、おおばやしみゆきと親交が深い。 原稿を「落とした」ことが無く、単行本作業のため『NAMAIKIッ!』を休んだことが数回あるのみで、連載を予告して休んだこともほとんどない。 長期間に渡りストーリー漫画を多く描き続けていることから、4コマ漫画においてもギャグ漫画としてではなく、登場人物の機微を柔らかく描いたストーリーで読ませるコメディータッチの作品を得意としている。 投稿歴は長く、さまざまな雑誌に投稿を続けていた。そんな投稿先のひとつであるフランス書院の成人向け漫画誌『COMICパピポ』の新人賞から、1995年8月に『COMICパピポ』10月号掲載の「二人の一線」で成人向け漫画家としてデビューした。 1997年3月より竹書房でも青年誌『えっち一本勝負』(現『NAMAIKIッ!』)などに同様の漫画を2002年頃まで執筆していた。 1999年11月、同社の4コマ漫画誌『まんがライフ』誌上に発表した「どきどき姉弟ライフ」にて4コマ漫画界にデビュー。同作はストーリー4コマ漫画として2003年3月まで『まんがライフ』、『まんがライフオリジナル』で並行連載され、単行本も計4巻発行されるヒット作となり、4コマ漫画家としての流れを決定付ける。また、これ以降成人向け雑誌の作家で活躍していた作家が一般4コマ誌へ流入するケースが相次ぐようになり、成人(男性)向け漫画出身の作家が最も得意とする分野である「萌え」要素が4コマ漫画に取り込まれた「萌え4コマ」というジャンルが広まり、新たな購読者層を開拓するなどの影響を与えるきっかけの一つとなった。また、次の作品「耕して♥フォーリンLOVE」では2003年7月から2006年2月まで『まんがライフ』の巻頭カラーと表紙を担当するなどし、同誌の看板作家となった。同作は『まんがライフオリジナル』と共に2006年7月まで連載された。 2011年現在、4コマ漫画4本、非4コマ漫画(ショート漫画)1本をいずれも月刊ペースで連載している。 ※お色気4コマ(艶笑4コマ)漫画は通常成人向け漫画に含まれないため、こちらに記す。 ※非18禁指定(いわゆる「ソフトエッチコミック」。ただしコンビニ販売では条例で成人向け指定されている)は、こちらに含む。 1 - 3話完結の短編が大半で作品数も多く、ここですべて記すのは困難である。そのため、単行本を取り上げることにする。本系列の単行本は原則的に全て18禁指定で販売されている。 本系列の単行本は非18禁指定作品として販売されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "後藤 羽矢子(ごとう はやこ、6月14日 - )は、日本の漫画家。神奈川県小田原市出身。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "主に一般向けストーリー4コマ漫画と、成人向けの雑誌などに短編の実録漫画などを描いている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ペンネームの由来は「後藤」は2005年当時、内縁の夫となっていた彼氏の苗字から。「羽矢子」は、当初は子供につけようと思っていた名前からと説明していたが、後に漫画で使おうと思っていたキャラクターの名前であると説明を改めた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "少女漫画家佐柄きょうこに師事し、おおばやしみゆきと親交が深い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "原稿を「落とした」ことが無く、単行本作業のため『NAMAIKIッ!』を休んだことが数回あるのみで、連載を予告して休んだこともほとんどない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "長期間に渡りストーリー漫画を多く描き続けていることから、4コマ漫画においてもギャグ漫画としてではなく、登場人物の機微を柔らかく描いたストーリーで読ませるコメディータッチの作品を得意としている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "投稿歴は長く、さまざまな雑誌に投稿を続けていた。そんな投稿先のひとつであるフランス書院の成人向け漫画誌『COMICパピポ』の新人賞から、1995年8月に『COMICパピポ』10月号掲載の「二人の一線」で成人向け漫画家としてデビューした。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1997年3月より竹書房でも青年誌『えっち一本勝負』(現『NAMAIKIッ!』)などに同様の漫画を2002年頃まで執筆していた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1999年11月、同社の4コマ漫画誌『まんがライフ』誌上に発表した「どきどき姉弟ライフ」にて4コマ漫画界にデビュー。同作はストーリー4コマ漫画として2003年3月まで『まんがライフ』、『まんがライフオリジナル』で並行連載され、単行本も計4巻発行されるヒット作となり、4コマ漫画家としての流れを決定付ける。また、これ以降成人向け雑誌の作家で活躍していた作家が一般4コマ誌へ流入するケースが相次ぐようになり、成人(男性)向け漫画出身の作家が最も得意とする分野である「萌え」要素が4コマ漫画に取り込まれた「萌え4コマ」というジャンルが広まり、新たな購読者層を開拓するなどの影響を与えるきっかけの一つとなった。また、次の作品「耕して♥フォーリンLOVE」では2003年7月から2006年2月まで『まんがライフ』の巻頭カラーと表紙を担当するなどし、同誌の看板作家となった。同作は『まんがライフオリジナル』と共に2006年7月まで連載された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2011年現在、4コマ漫画4本、非4コマ漫画(ショート漫画)1本をいずれも月刊ペースで連載している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "※お色気4コマ(艶笑4コマ)漫画は通常成人向け漫画に含まれないため、こちらに記す。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "※非18禁指定(いわゆる「ソフトエッチコミック」。ただしコンビニ販売では条例で成人向け指定されている)は、こちらに含む。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1 - 3話完結の短編が大半で作品数も多く、ここですべて記すのは困難である。そのため、単行本を取り上げることにする。本系列の単行本は原則的に全て18禁指定で販売されている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "本系列の単行本は非18禁指定作品として販売されている。", "title": "作品" } ]
後藤 羽矢子は、日本の漫画家。神奈川県小田原市出身。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 後藤 羽矢子<br/>(ごとう はやこ) | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 長谷川 裕世(はせがわ ひろよ)<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/hayakogoto/status/487241130199633922 |title=本名は長谷川裕世っていいます。いい名前でしょ? |accessdate=2017-6-12 |author=後藤羽矢子 |date=2014-7-10 |work=[[Twitter]] }}</ref><ref>[http://www.townnews.co.jp/0607/i/2015/09/05/298272.html 小田原の街並みも登場 後藤さんの作品連載] タウンニュース 小田原版 2015年9月5日号. 2015年9月6日閲覧。</ref> | 生地 = {{JPN}}・[[神奈川県]] | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢||6|14}} | 没年 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1995年]] - | ジャンル = [[4コマ漫画]]<br/>[[ストーリー漫画]] | 代表作 = [[どきどき姉弟ライフ]]<br/>[[耕して♥フォーリンLOVE]]<br/>ラブ タンバリン | 受賞 = | サイン = | 公式サイト = [http://inutan.moe-nifty.com/hayanomoto/ ブログはやの素] }} '''後藤 羽矢子'''(ごとう はやこ、[[6月14日]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/hayakogoto/status/609891571316592640 |title=誕生日おめリプありがとうございます!イベント終わったらゆっくりお返事させていただきます。 |accessdate=2017-6-12 |author=後藤羽矢子 |date=2015-6-14 |work=[[Twitter]] }}</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[神奈川県]]<ref>「まんが家さんプレイバック」『[[まんがライフオリジナル]]』[[2008年]]6月号、[[竹書房]]</ref>[[小田原市]]出身。 == 概要 == 主に一般向け[[4コマ漫画#ストーリー4コマ|ストーリー4コマ漫画]]と、成人向けの雑誌などに短編の[[実録漫画]]などを描いている。 ペンネームの由来は「後藤」は2005年当時、内縁の夫となっていた彼氏の苗字から。「羽矢子」は、当初は子供につけようと思っていた名前からと説明していたが、後に漫画で使おうと思っていたキャラクターの名前であると説明を改めた<ref>『COMICパピポ』2005年10月号</ref>。 少女漫画家[[佐柄きょうこ]]に師事し、[[おおばやしみゆき]]と親交が深い<ref group="注">本人著の同人誌によると、[[1999年]]まで[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]もしていたとのこと。</ref>。 原稿を「落とした」ことが無く、単行本作業のため『[[ナマイキッ!|NAMAIKIッ!]]』を休んだことが数回あるのみで、連載を予告して休んだこともほとんどない。 長期間に渡りストーリー漫画を多く描き続けていることから、4コマ漫画においてもギャグ漫画としてではなく、登場人物の機微を柔らかく描いたストーリーで読ませるコメディータッチの作品を得意としている。 == 経歴 == 投稿歴は長く<ref group="注">本人単行本『コミカプ』1巻あとがき漫画によると、中学1年生の時に少女漫画雑誌に作品が掲載され賞金をもらったこともあるとのこと。</ref>、さまざまな雑誌に投稿を続けていた。そんな投稿先のひとつである[[フランス書院]]の成人向け漫画誌『[[COMICパピポ]]』の新人賞から、[[1995年]]8月に『COMICパピポ』10月号掲載の「二人の一線」で成人向け漫画家としてデビューした<ref group="注">同誌でデビューしてから雑誌廃刊(2007年12月号付け)までの連続掲載は12年2ヶ月を数えた。ただし2005年までは短編・長編とも執筆していたが、最後の約2年は短編のみの執筆にとどまっていた。</ref>。 [[1997年]]3月より[[竹書房]]でも青年誌『えっち一本勝負』(現『NAMAIKIッ!』)などに同様の漫画を[[2002年]]頃まで執筆していた<ref group="注">ただし竹書房刊の雑誌は非18禁指定であるため、これらの作品は修正が強く過激度の少ない「ソフトエッチコミック」に属する作品として描かれている。</ref>。 [[1999年]]11月、同社の4コマ漫画誌『まんがライフ』誌上に発表した「[[どきどき姉弟ライフ]]」にて4コマ漫画界にデビュー。同作はストーリー4コマ漫画として[[2003年]]3月まで『まんがライフ』、『まんがライフオリジナル』で並行連載され、単行本も計4巻発行されるヒット作となり、4コマ漫画家としての流れを決定付ける。また、これ以降成人向け雑誌の作家で活躍していた作家が一般4コマ誌へ流入するケースが相次ぐようになり、[[成人向け漫画|成人(男性)向け漫画]]出身の作家が最も得意とする分野である「[[萌え]]」要素が4コマ漫画に取り込まれた「[[4コマ漫画#萌え4コマ|萌え4コマ]]」というジャンルが広まり、新たな購読者層を開拓するなどの影響を与えるきっかけの一つとなった<ref group="注">「どきどき姉弟ライフ」の連載が開始された1999年は、他にも「[[あずまんが大王]]」([[あずまきよひこ]]作)の連載もスタートするなどしており、「萌え4コマ」という新たなジャンルの開拓を決定付ける年となっている。</ref>。また、次の作品「[[耕して♥フォーリンLOVE]]」では2003年7月から[[2006年]]2月まで『まんがライフ』の巻頭カラーと表紙を担当するなどし、同誌の看板作家となった。同作は『まんがライフオリジナル』と共に2006年7月まで連載された。 [[2011年]]現在、4コマ漫画4本、非4コマ漫画(ショート漫画)1本をいずれも月刊ペースで連載している。 == 作品 == === 連載中の作品 === * 叡智なビデオは好きですか?(2022年2月26日 - 、『電撃大王WEBコミック』[[KADOKAWA]])原作担当、作画:玖珂ツニヤ<ref>{{Cite web|和書|title=AVメーカー公認!深淵なるAVの世界へご招待! WEB新連載「叡智なビデオは好きですか?」【ComicWalker】【ニコニコ漫画】にて2/26(土)連載スタート! |url=https://news.sod.co.jp/eroneta/110734/ |website=日刊SODオンライン |date=2022-02-26 |accessdate=2022-02-26 |language=ja}}</ref> ; 4コマ漫画 * となりのエロチカちゃん(2012年<!--2013年1月号付--> - 2016年<!--2017年1月号付-->、『[[まんがライフ]]』、[[竹書房]]) * うわばみ彼女(2013年 - 2017年 、『[[ヤングアニマル#ヤングアニマルDensi|ヤングアニマルDensi 日替わり4コマ]]』(Webコミックサイト)→『[[ヤングアニマル]]』、[[白泉社]]) ** うわばみ乙女ずかん(2018年 - 2019年、『[[ヤングアニマル]]』、[[白泉社]]) * おさな妻の星(2013年にパイロット版3話掲載後、2014年 - 、『[[主任がゆく!スペシャル]]』、[[ぶんか社]]) === 一般向け作品リスト === ※お色気4コマ(艶笑4コマ)漫画は通常成人向け漫画に含まれないため、こちらに記す。 ; [[どきどき姉弟ライフ]] : 本編『[[まんがライフ]]』1999年12月号・2000年2月号 - 2003年5月号 : 高校編『[[まんがライフオリジナル]]』2000年9月号 - 2003年4月号 : 単行本…竹書房から全4巻発行。 ; ピンクとみずいろ : 『ヤングアニマル』2000年9月増刊 - 2002年3月増刊 : 共に[[性同一性障害]]の双子の姉弟・あきとふみが恋愛を通して成長する物語。 : 連載終了後改めて『ヤングアニマル』本誌での連載開始を打診されたが断り、下記「パブロフの犬」の連載が開始された経緯がある。 : 単行本…『パブロフの犬』1 - 2巻に収録。 ; パブロフの犬 : 『[[ヤングアニマル]]』2001年22 - 24号、2002年6号 - 2004年1号 : 犬好きなカップル・姫子と八房のどたばたラブコメ。煽り文は「ワンからはじまるアイキャッチコメディー」 : 単行本…白泉社から全3巻発行。 :# 2002年10月5日発行 {{ISBN2|4-592-13251-3}} :# 2003年7月5日発行 {{ISBN2|4-592-13252-1}} :# 2004年5月5日発行 {{ISBN2|4-592-13253-X}} ; ふぁみレス : 『[[月刊サンデージェネックス]]』2002年8月号 - 2004年6月号 : 巨乳で男性恐怖症の女教師・まりあが里子として高校生のチハルを預かる。チハルには彼女・美香子ができるが、まりあもいつしかチハルに恋愛感情を抱くようになる。やがてチハルが女性へのトラウマにより性的不能になっていることが明らかとなり、まりあと美香子はそれぞれの方法でチハルのトラウマの解消を目指すが、チハルは18歳の誕生日(6月生まれ)で里親・里子関係が解消されるのを機に、高校を中退しスウェーデンに留学。作品はそこで終了となった<ref group="注">この漫画での[[里親]]制度では里子は満18歳の誕生日までとなっているが、一般的に高校卒業に支障が出るので年度内は里子として扱われ、また必要に応じて20歳まで延長可能。同制度は本作のように、高校3年生の里子が6月に18歳になったからと言っていきなり高校中退を余儀なくされる制度ではない。</ref>。 : 単行本化はされていない。 ; アシコちゃんたち : 『[[エース桃組]]』2003winter - 2004winter(季刊) : 新米アシスタント・アシコちゃんの奮戦記。全5回と短いため単独で単行本化するだけの分量がなく、他作品単行本にも収録されていない。 ; [[耕して♥フォーリンLOVE]] : 『まんがライフ』2003年4月号・2003年6月号 - 2006年9月号 : 『まんがライフオリジナル』2003年6月号 - 2006年8月号 : 単行本…竹書房から全5巻発行。 ; [[あそこの処方箋]] : 『みこすり半劇場別館』2004年6月 - 2004年11月(最終号) : 『[[みこすり半劇場]]』2004年22号、23号、2005年02号 - 2013年06号(偶数号掲載) : 漢方薬局の若き女主人阿蘇子と龍樹の姉弟が客の性の悩みを解決する。 : 単行本…ぶんか社から全5巻が発行。1巻のみ巻数表記無し。 ; [[アソコのプロジェクト]] : 『主任がゆく!スペシャル』2008年 - 2013年(隔月刊→月刊) : 『あそこの処方箋』の[[スピンオフ]]作品。 : 単行本…ぶんか社から全2巻が発行(未収録話多数)。 ; アバターえくぼ : 『月刊サンデージェネックス』2005年4月号 - 2007年2月号 : 引きこもり気味の少年・久保英太のパソコンから、チャットで使用していた[[アバター]]の「えくぼ」が実体化する。えくぼは英太と共に生活するうち、英太に恋愛感情を抱くが、時を同じくして、えくぼ以外にも実体化するアバターが現れる。現実世界の人間にとっての理想の姿であるアバターたちは、現実世界で本人になりかわろうと企んでいた。 : 一般向け初の非4コマ連載。単行本化はされていない。 ; [[シスコなふたり]] : 『[[まんがタウンオリジナル]]』2004年3月号、11月号、2005年3月号、7月号、10 - 12月号、2006年5月号、8月号 : 『[[まんがタウン]]』2006年11月号、2007年4月号 - 2011年3月号 : お互いが[[シスターコンプレックス|シスコン]]な椎子と麻衣子姉妹と麻衣子に一目惚れしてしまった遠野裕の奇妙な三角関係などを描いた作品。『まんがタウンオリジナル』で不定期掲載後、雑誌の休刊に伴い『まんがタウン』に一度ゲスト掲載された後、2007年4月号から連載開始。 : 単行本…双葉社から全4巻発行。 ; ゴーイン!! マイクック♥ : 『[[まんがライフMOMO]]』2003年8月(創刊)号、2004年2月号、8月号 : 『まんがライフオリジナル』2006年10月号 - 2008年12月号 : 料理の得意な新婚主婦・小宮みやこと、料理の腕が怪しい料理研究家・八島マナによる家庭料理コメディ。『まんがライフMOMO』でゲスト掲載されたが、雑誌の傾向に合わないと言うことでお蔵入りになっていた作品を「耕して♥フォーリンLOVE」が終了した『まんがライフオリジナル』の新作として連載にした。 : 単行本…竹書房から全1巻発行。 :# 2009年5月16日発売<!--奥付発行日は5月30日--> {{ISBN2|978-4-8124-7084-8}} ; プアプアLIPS : 『まんがライフ』2006年11月号 - 2012年11月号 : 『[[まんがくらぶオリジナル]]』2007年1月号 : [[レズビアン]]を公言する[[パワーストーン]]販売店の店長で金持ちのレンが、アルバイトとしてやって来た貧乏女性・ナコを意識し、本人に対しては、漫画の記号として非常にわかりやすいツンデレな態度を取りつつ、陰で無駄に派手な行動を繰り広げる「女の子ラブコメ」(雑誌アオリ文より)。ナコの貧乏ネタとレンの珍行動ネタがメイン。ラブコメよりもギャグの要素が強い。 : 単行本…竹書房から全4巻発行。 :# 2008年6月17日発売<!--奥付発行日は7月17日--> {{ISBN2|978-4-8124-6840-1}} :# 2009年12月26日発売<!--奥付発行日は2010年1月10日--> {{ISBN2|978-4-8124-7215-6}} :# 2011年10月27日発売<!--奥付発行日は2011年11月10日--> {{ISBN2|978-4-8124-7679-6}} :# 2012年10月27日発売<!--奥付発行日は2012年11月10日--> {{ISBN2|978-4-8124-8029-8}} ; ぎゃんぶる太平記G : 『ヤングアニマル嵐』2006年No.7 - 2007年No.10 : [[藤島じゅん]]が妊娠により「ぎゃんぶる太平記」を降板したことによる後継連載。ライターの[[北野海人]]が作者のギャンブル師匠になったという設定で、編集の秋田(のちに大野木)主導のもとギャンブルを繰り広げる実録漫画。誌上では作者の6ページ漫画と北野の1ページコラムがセットになっている。 : 作者は漫画家になるにあたって「運は漫画に使いたい」としてギャンブルを封印したため、ギャンブルに対する興味が薄い。一方実録漫画・ラブコメ漫画では実績があり、連載中に北野が女性と交際の末3回目の結婚を果たしたことなどから、ギャンブルより登場人物の恋愛などにスポットが当たることが多い。 : 単行本…白泉社から発行。 :* 2007年12月20日発売 {{ISBN2|978-4-592-14275-1}} ; ねこまった! : 『[[コミック怪]]』2007年(創刊号) - 2013年秋号(最終号)(季刊) : 単行本…[[角川書店]]から既刊1巻発行。 :# 2011年2月24日発売 {{ISBN2|978-4-04-715639-5}} : 2巻分は同人誌「ねこまった!未収録」に収録。 ; 後藤羽矢子の裁判びゅー日記 : 『ヤングアニマル嵐』2007年No.12 - 2009年No.07 : 裁判の傍聴レポート。裁判傍聴をライフワークとするタレント[[阿曽山大噴火]]・編集の大野木と3人で定期的に裁判を傍聴し、漫画化する。作者の6ページ漫画と阿曽山の1ページコラム「阿曽山大噴火の判決」がセットになっている。 : この作品を執筆するまで裁判傍聴未経験という作者の裁判傍聴スキル、スケジュールの都合、および「洒落にならない事件は扱わない」という方針からか、題材となるのは[[即決裁判手続|即決裁判]]もしくは即日公判が結審する比較的小さな事件が中心である。 : 単行本…白泉社から発行。 :* 2009年8月28日発売 {{ISBN2|978-4-592-14593-6}} ; コミカプ : 『まんがタイムジャンボ』2008年4月号 - 2011年1月号 : [[幼馴染]]で先に漫画家としてデビューした「成川ちひろ」(ペンネーム:チーTAN)と投稿などを続けるもデビューできないアシスタント「功田うい」の漫画の執筆作業を通した2人の関係を中心に描いた作品。 : 単行本…芳文社から全2巻発行。 :# 2009年11月7日発売 {{ISBN2|978-4-8322-6792-3}} :# 2011年2月7日発売 {{ISBN2|978-4-8322-6935-4}} ; 世田谷のマリーアントワネット : 『[[マリカ (雑誌)|マリカ]]』2008年6月(創刊)号 - 2008年12月(休刊)号 ; 常春なふたり : 『[[本当にあったゆかいな話DX]]』2008年12月号 - 2009年5月号 ; [[へべれけ恋バナ相談室]] : 『ヤングアニマル嵐』2009年No.08 - 2013年No.01 : 単行本…白泉社から既刊1巻発行。 ; 魔法女子高生 トラノイー カルナ : 『[[まんがタウン]]』2011年6月号 - 2012年11月号 ; ハーフでいっとこ : 『[[まんがライフWIN]]』2009年4月27日(開設日) - 2014年4月15日 更新 : 竹書房から全4巻発行。 :# 2010年8月27日発売 {{ISBN2|978-4-8124-7441-9}} :# 2011年11月7日発売 {{ISBN2|978-4-8124-7685-7}} :# 2013年3月7日発売 {{ISBN2|978-4-8124-8119-6}} :# 2014年5月7日発売 {{ISBN2|978-4-8124-8578-1}} ; うわばみ乙女ずかん :# 2018年12月26日発売 {{ISBN2|978-4-592-16311-4}} :# 2019年11月26日発売 {{ISBN2|978-4-592-16312-1}} ; アスクミ先生に聞いてみた : 『まんがライフ』 :# 2019年1月26日発売 {{ISBN2|978-4-8019-6498-3}} :# 2020年5月27日発売 {{ISBN2|978-4-8019-6963-6}} :# 2021年5月27日発売 {{ISBN2|978-4-8019-7302-2}} {{節スタブ}} === 成人向け作品 === ※非18禁指定(いわゆる「ソフトエッチコミック」。ただしコンビニ販売では条例で成人向け指定されている)は、こちらに含む。 ==== 『COMICパピポ』掲載作品 ==== 1 - 3話完結の短編が大半で作品数も多く、ここですべて記すのは困難である。そのため、単行本を取り上げることにする。本系列の単行本は原則的に全て18禁指定で販売されている。 ; 好きより大好き : フランス書院Xコミックス 1998年4月15日発行 {{ISBN2|4-8296-7786-4}} : 著者の初単行本。成人マーク付き。初期の作品を収録。 : 絶版だが、1作品を入れ替え「オレンジ色の花」と言うタイトルで再版されている。 ; ラブ タンバリン : フランス書院コミック文庫 1999年5月31日発行 {{ISBN2|4-8296-7388-5}} : 成人マーク付き。3ヶ月に一度の「メールデイ」の日だけ男性化する女性だけが住む自由(フリーセックス)の惑星・ラウルスで敢えて結婚を選んだ若者ベスとリラの性生活を描いたシリーズ作品。 : 第1話「ラブ タンバリン」は著者の投稿入選作(第8回C.Y大賞佳作)。絶版だが、単行本未収録作やその後の作品を追加収録した完全版が発売されている。基本設定は[[アーシュラ・K・ル=グウィン]]のSF小説『[[闇の左手]]』」と似通っている。タイトルは[[岡村靖幸]]の1989年発売の同名の曲から。 ; かわいいケモノ : フランス書院Zコミックス 2002年12月15日発行 {{ISBN2|4-8296-7406-7}} : 1999年春 - 2001年春までの作品から9編を選り抜いて収録された単行本。2002年2月創設のフランス書院の一般向けブランド「Zコミックス」から発行された。 : 9編中5編は大都社から発行の「泣きたがりの花」にも収録されている。 ; オレンジ色の花 : 大都社ダイトコミックス 2003年2月10日発行 {{ISBN2|4-88653-760-X}} : 「好きより大好き」の再録本。作品は「はじめて物語」を「みつめていたい」に入れ替えた以外「好きより大好き」と同一。タイトルは収録作品名。 ; インセストヘブン : フランス書院Zコミックス 2003年5月30日発行 {{ISBN2|4-8296-7414-8}} : インセスト、つまり[[近親相姦]]ものを中心に収録。著者の商業デビュー作「二人の一線」も収録されている。3分の2の作品は近親相姦描写がメインとなっており、そのためか、大阪府で[[有害図書]]に指定された。 : 「うわごと」は大都社から発行の「泣きたがりの花」にも収録されている。 ; ラブ タンバリン I 紙とダイヤモンド / II 花と琥珀 : 大都社ダイトコミックス 2003年6月10日発行 :# (I) {{ISBN2|4-88653-771-5}} :# (II) {{ISBN2|4-88653-772-3}} : フランス書院から発行された「ラブ タンバリン」に、当時未収録の1話と発行後描かれた5話、描き下ろし1話を追加した完全版。 ; 実録ですよっ!パヤパヤライフ : 大都社ダイトコミックス :# 2004年5月10日発行 {{ISBN2|4-88653-465-1}}(巻数表記なし) :# 2009年1月3日発行 {{ISBN2|978-4-88653-480-4}} : 『COMICパピポ』掲載のショート実録雑記「実録ですよっ!」と日常本同人誌「はやの素」を約半々で収録。ハエサイズの筆者とアシスタントの「ニセ後藤羽矢子(掲載誌によって「パピ子」「ヤキ子」など)」よる進行は、筆者の実録もの作品のスタンダードとなる。パピポ掲載分に月刊ヤングキングに掲載したものを加えた「パヤパヤNOTE(2011年8月2日発行 {{ISBN2|978-4-7859-3657-0}})」も少年画報社ヤングキングコミックスから刊行された。 ; 保健医・栢山美冴の保健室 KOIする科学 : フランス書院Xコミックス 2004年9月15日発行 {{ISBN2|4-8296-7874-7}} : 1998年夏 - 2002年夏に掲載されたシリーズ作品。[[耳年増]]の保健医・栢山美冴が生徒の性の悩みを解決していく作品だが、舞台が高校のため性行動をするのが自然と高校生となってしまい、当時の『COMICパピポ』誌が成人マークの付いていない雑誌だったこともあり、2000年になって作品の継続にストップがかかった。同誌が成人マーク付き雑誌になってからは、ストップは解除された。 ; 泣きたがりの花 : 大都社ダイトコミックス 2005年9月12日発行 {{ISBN2|4-88653-858-4}} : 「かわいいケモノ」「インセストヘブン」から7編を再録、新規に2作品を収録した。メス奴隷・千代と、彼女を愛した故に同じ世界に堕ちていく学生・史生のストーリー(通称:メス奴隷シリーズ)計5編が収録されている。タイトルは新規収録作のうち1作のタイトル。 ; 甘えていいよ : 大都社ダイトコミックス 2009年5月8日発行 {{ISBN2|978-4-88653-923-6}} : 『COMICパピポ』に2003年 - 2004年を中心に家庭教師シリーズとして連載されていた作品を1冊にまとめた作品集。外見は子供で中身は大人な家庭教師の高口みもなと、外見は大人で中身は子供っぽい友成の恋を描いた作品。全10話。「ガヴァーネス」前後編はフランス書院発行の「かわいいケモノ」、「ドッグデイズ」は同「インセストヘブン」に収録されていた作品。タイトルは新規収録作のうち1作のタイトルから名付けられている。 ; WILD FANCY LOVEPOTION : 大都社ダイトコミックス 2009年6月8日発行 {{ISBN2|978-4-88653-925-0}} : 『COMICパピポ』にワイルドファンシーシリーズ(全6話)として連載されていた作品および短編「妹モード」(前後編)、「ミルキーガール」、「カウントダウン」の3作を1冊にまとめた作品集。シリーズ作「WILD FANCY LOVEPOTION」は[[オナニー|自慰行為]]をしている他人の妄想が見えてしまうという特殊能力を持つ宮川露子と、そのクラスメイトの松下の妄想などから始まる恋が描かれている作品。なお短編作のうち1作「カウントダウン」はリライト(描き直し)したとの旨をあとがきで公表している。 ==== 竹書房の雑誌掲載作品 ==== 本系列の単行本は非18禁指定作品として販売されている。 ; 恋するイトコ! : 竹書房BAMBOO COMICS NAMAIKI SELECT 1999年7月28日発行 {{ISBN2|4-8124-5302-X}} : 1998年 - 1999年に竹書房『[[ナマイキッ!|NAMAIKIッ!]]』で10話連載された作品。女子高生の音々子が、女癖の悪い従兄の厚史とさまざまな障害を乗り越えて結ばれる、という内容。作者はこれまで4話以上の連続作品を描いたことがなく、そのためペース配分に苦労。主人公2名をすぐHさせようとして担当編集者に止められたというエピソードがある。なお、これ以降10話連載の形態での作品は発表されていない。ほか、同作以前に発表された読み切り2編を収録。 ; フルーツMIX : 竹書房BAMBOO COMICS NAMAIKI SELECT 2000年6月17日発行 {{ISBN2|4-8124-5391-7}} : 1999年 - 2000年に竹書房『NAMAIKIッ!』で連載された短編集。基本的に1話完結で、主人公の女性の名前に果物が入っている作品が多い(苺、なつめ、かりん、柚香)。ほか、同社他誌掲載の読み切りを収録。 ; ラブ<sup>2</sup>ポーション : 竹書房BAMBOO COMICS NAMAIKI SELECT :# 2001年5月27日発行 {{ISBN2|4-8124-5506-5}} :# 2002年5月17日発行 {{ISBN2|4-8124-5638-X}} : 2000年 - 2002年に竹書房『NAMAIKIッ!』で連載されたオムニバス連作集。 : 1巻には[[勃起不全|インポテンツ]]の仁名と、処女のひとみが主人公の「仁名&ひとみ」、駆け出し声優が主人公の「Kiiko」、意地悪な妹に振り回される兄と、大人しい遠縁の女性の恋愛模様を描いた「天使と魔女」を収録。 : 2巻にはカップル喫茶で働くことになった小説家志望の女性が主人公の「オールオーバー」、留学から帰ったものの太ってしまい、彼女の前に出られなくなってしまった男性が主人公の「メタモルフォーゼ」、身近な男性に対する愛を意識し始める女性が主人公の「愛の名前」を収録。 : これが『NAMAIKIッ!』での最後の作品となった。雑誌側は少し期間を置いてからの復帰を考えていたが、作者が「どきどき姉弟ライフ」のヒットで4コマ漫画家として認知され、複数の連載を抱え多忙になっていったため、復帰のタイミングを失ってしまった、とのこと。 ; 運命とユウウツ : 竹書房BAMBOO COMICS RENPARA COLLECTION : 2004年4月25日発行 {{ISBN2|4-8124-5927-3}} : 2002年 - 2003年に[[ティーンズラブ]]雑誌『[[恋愛天国パラダイス|恋愛天国]]』に掲載された7編を収録。1話あたりのページ数が24 - 28ページと多いのが特徴。[[台湾]]でも出版されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://archive.is/20120717073959/http://homepage2.nifty.com/paso-haya/index.htm パソはやの素] - 公式サイト、更新終了、2012年7月17日時点の{{Archive.today|url=http://homepage2.nifty.com/paso-haya/index.htm |title=オリジナル|date=20120717073959}}よりアーカイブ * [http://inutan.moe-nifty.com/hayanomoto/ ブログはやの素] - 公式ブログ * {{twitter|hayakogoto|後藤羽矢子}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ことう はやこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:生年未記載]] [[Category:存命人物]]
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反強磁性
反強磁性(はんきょうじせい、英: antiferromagnetism)とは、隣り合うスピンがそれぞれ反対方向を向いて整列し、全体として磁気モーメントを持たない物質の磁性を指す。電気伝導は大半の物質は絶縁性を示す。 代表的な物質としては、絶縁体では酸化マンガン(MnO)や酸化ニッケル(NiO)などが挙げられる。なお、これら酸化物における相互作用は超交換相互作用によって説明されるが、スピンを逆向きに揃えようとする反強磁性相互作用は超交換相互作用のみに由来するものではなく、強磁性を説明した「ハイゼンベルクの(直接)交換相互作用」においても、磁性軌道間に重なりがあればその係数は負となり、反強磁性相互作用をもたらす。 強磁性体と同様に、反強磁性もその性質を示すのは低温に限られる。熱揺らぎによるスピンをランダムにしようとする効果(=熱によるエントロピーの増大)のため、ある温度以上になるとスピンはそれぞれ無秩序な方向を向いて整列しなくなり、物質は常磁性を示すようになる。この転移温度をネール温度(英: Néel Temperature)と呼ぶ。ネール温度以上での磁化率は通常は近似的にキュリー・ワイスの法則で表すことが出来る。 なお、反磁性 (英: diamagnetism) は反強磁性とは全く違う現象である。 多くの反強磁性とフェリ磁性において、その相互作用の起源は超交換相互作用である。 反強磁性での超交換相互作用においても、格子状に整列する多数の磁気モーメントの向きによって磁気特性が説明される点では、強磁性と同様であるが、反強磁性体では1種類のイオンが半数ずつの副格子に分かれて、それらが互いにほぼ反対方向の磁気モーメントを持つ点で異なる。 酸化マンガンを例に説明する。2つの副格子に存在するマンガン・イオンをそれぞれ Mn(A)、Mn(B) と表現する。超交換相互作用は左右を Mn(A) と Mn(B) にはさまれた酸素イオン O の3つのイオン間で働く。Mn(A)の 3d軌道に「フントの規則」によって同じ方向を向いた5つの電子によるスピンが存在する。2つのマンガン・イオンにはさまれた酸素イオン O の 2p軌道の1つの電子が Mn(A)の 3d軌道にある電子の1つと化学結合するために、スピンの向きが互いに反対向きとなってエネルギーを最少にして安定となる必要がある。 Mn(A) と O が電子のスピンの向きを反対にして化学結合した反対側の Mn(B) も O の 2p軌道の電子と化学結合するために、それぞれの電子のスピンの向きを反対にするが、この時、O に残っている 2p軌道の電子の向きは最初にMn(A) と結合した 2p軌道の電子とは逆向きのため、Mn(B) は O をはさんで Mn(A) とは逆方向に結合することになる。 この二次摂動の結果としてMn(A) と Mn(B) の持つ5つの電子のスピンはほぼ反対方向を向き、互いに打ち消しあうことになる。これが反強磁性での超交換相互作用である。 上記の説明は典型的な反強磁性について述べている。いくつかの物質においては、より複雑なスピン配列が形成されている。全体として磁気モーメントを持たないという点で、これらも広義の反強磁性と位置づけられている。 また、フェリ磁性や弱強磁性は全体として磁気モーメントを持つために強磁性の一種と位置づけられているが、スピン配列からみるとむしろ反強磁性の変形である。
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反強磁性とは、隣り合うスピンがそれぞれ反対方向を向いて整列し、全体として磁気モーメントを持たない物質の磁性を指す。電気伝導は大半の物質は絶縁性を示す。 代表的な物質としては、絶縁体では酸化マンガン(MnO)や酸化ニッケル(NiO)などが挙げられる。なお、これら酸化物における相互作用は超交換相互作用によって説明されるが、スピンを逆向きに揃えようとする反強磁性相互作用は超交換相互作用のみに由来するものではなく、強磁性を説明した「ハイゼンベルクの(直接)交換相互作用」においても、磁性軌道間に重なりがあればその係数は負となり、反強磁性相互作用をもたらす。 強磁性体と同様に、反強磁性もその性質を示すのは低温に限られる。熱揺らぎによるスピンをランダムにしようとする効果(=熱によるエントロピーの増大)のため、ある温度以上になるとスピンはそれぞれ無秩序な方向を向いて整列しなくなり、物質は常磁性を示すようになる。この転移温度をネール温度と呼ぶ。ネール温度以上での磁化率は通常は近似的にキュリー・ワイスの法則で表すことが出来る。 なお、反磁性 は反強磁性とは全く違う現象である。
{{Double image stack|right|antiferro.png|反強磁性の磁化率の温度依存性.PNG|200|'''反強磁性模式図'''|'''反強磁性の磁化率の温度依存性'''}} '''反強磁性'''(はんきょうじせい、{{lang-en-short|antiferromagnetism}})とは、隣り合う[[スピン角運動量|スピン]]がそれぞれ反対方向を向いて整列し<ref>金属イオンの半数ずつのスピンが逆方向となる。</ref>、全体として[[磁気モーメント]]を持たない物質の[[磁性]]を指す。[[電気伝導]]は大半の物質は絶縁性を示す。 代表的な物質としては、絶縁体では[[酸化マンガン(II)|酸化マンガン]](MnO)や[[酸化ニッケル]](NiO)などが挙げられる。なお、これら酸化物における相互作用は'''超交換相互作用'''によって説明されるが、スピンを逆向きに揃えようとする反強磁性相互作用は超交換相互作用のみに由来するものではなく、[[強磁性]]を説明した「ハイゼンベルクの(直接)[[交換相互作用]]」においても、磁性軌道間に重なりがあればその係数は負となり、反強磁性相互作用をもたらす。 強磁性体と同様に、反強磁性もその性質を示すのは低温に限られる。熱揺らぎによるスピンをランダムにしようとする効果(=熱によるエントロピーの増大)のため、ある温度以上になるとスピンはそれぞれ無秩序な方向を向いて整列しなくなり、物質は[[常磁性]]を示すようになる。この転移温度を[[ネール温度]]({{lang-en-short|Néel Temperature}})と呼ぶ。ネール温度以上での磁化率は通常は近似的に[[キュリー・ワイスの法則]]で表すことが出来る。 なお、[[反磁性]] ({{lang-en-short|diamagnetism}}) は反強磁性とは全く違う現象である。 == 反強磁性での超交換相互作用 == 多くの反強磁性と[[フェリ磁性]]において、その相互作用の起源は[[超交換相互作用]]である。 反強磁性での超交換相互作用においても、格子状に整列する多数の磁気モーメントの向きによって磁気特性が説明される点では、強磁性と同様であるが、反強磁性体では1種類のイオンが半数ずつの副格子に分かれて、それらが互いにほぼ反対方向の磁気モーメントを持つ点で異なる。 [[Image:超交換相互作用の概念図.PNG|thumb|300px|right|'''超交換相互作用の概念図'''<br>酸化マンガン(MnO)の例<ref name="したしむ磁性">志村史夫監修 小林久理眞著 『したしむ磁性』 朝倉書店 1999年11月初版第1刷 ISBN 4-254-22764-7 p.103前後</ref>]] 酸化マンガンを例に説明する。2つの副格子に存在するマンガン・イオンをそれぞれ Mn<sup>2+</sup>(A)、Mn<sup>2+</sup>(B) と表現する。超交換相互作用は左右を Mn<sup>2+</sup>(A) と Mn<sup>2+</sup>(B) にはさまれた酸素イオン O<sup>2-</sup> の3つのイオン間で働く。Mn<sup>2+</sup>(A)の 3d軌道に「[[フントの規則]]」によって同じ方向を向いた5つの電子によるスピンが存在する。2つのマンガン・イオンにはさまれた酸素イオン O<sup>2-</sup> の 2p軌道の1つの電子が Mn<sup>2+</sup>(A)の 3d軌道にある電子の1つと化学結合するために、スピンの向きが互いに反対向きとなってエネルギーを最少にして安定となる必要がある。 Mn<sup>2+</sup>(A) と O<sup>2-</sup> が電子のスピンの向きを反対にして化学結合した反対側の Mn<sup>2+</sup>(B) も O<sup>2-</sup> の 2p軌道の電子と化学結合するために、それぞれの電子のスピンの向きを反対にするが、この時、O<sup>2-</sup> に残っている 2p軌道の電子の向きは最初にMn<sup>2+</sup>(A) と結合した 2p軌道の電子とは逆向きのため、Mn<sup>2+</sup>(B) は O<sup>2-</sup> をはさんで Mn<sup>2+</sup>(A) とは逆方向に結合することになる。 この二次摂動の結果としてMn<sup>2+</sup>(A) と Mn<sup>2+</sup>(B) の持つ5つの電子のスピンはほぼ反対方向を向き、互いに打ち消しあうことになる。これが反強磁性での超交換相互作用である。 == 広義の反強磁性 == 上記の説明は典型的な反強磁性について述べている。いくつかの物質においては、より複雑なスピン配列が形成されている。全体として磁気モーメントを持たないという点で、これらも広義の反強磁性と位置づけられている。 ;[[マンガン]]:常温安定相であるα-マンガンは[[単位胞]]あたり58個の原子を含む複雑な[[立方晶]]であり、原子の位置により4種類の異なるスピンを持っていると考えられている(詳細はいまだ明らかになっていない)。 ;クロム:[[体心立方構造]]の頂点位置と体心位置のスピンが反対方向を向いているだけでなく、スピンの大きさが単位胞ごとに正弦関数的に変化している。 ;[[ランタノイド元素]]:[[ユウロピウム]]、[[テルビウム]]、[[ジスプロシウム]]、[[エルビウム]]において、隣り合うスピンが0度(平行)と180度(反平行)の中間の角度をとる構造が観察されている。これを'''らせん磁性'''と呼ぶ。 また、[[フェリ磁性]]や[[弱強磁性]]は全体として磁気モーメントを持つために強磁性の一種と位置づけられているが、スピン配列からみるとむしろ反強磁性の変形である。 == 用途 == #[[スピンデバイス]]に於ける[[スピンバルブ]]の[[ピン層]]として用い、[[磁化]]の方向を固定する == 脚注 == {{Reflist}} == 関連記事 == *[[スピントロニクス]] *[[強磁性体]] *[[フェリ磁性]] *[[モット絶縁体]] == 参考文献 == 『磁気工学の基礎 I』太田敬三・著 [[共立出版]] 1973年 ISBN 4-320-00200-8 <References/> {{DEFAULTSORT:はんきようしせい}} [[Category:磁気]] [[Category:電磁気学]] {{Physics-stub}} {{磁性}} {{Condensed matter physics topics}}
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ニュートン (単位)
ニュートン(英: newton、記号: N)は、 国際単位系(SI)における力の単位。1ニュートンは、1 kgの質量を持つ物体に1 m/sの加速度を生じさせる力である。名称は古典力学で有名なイギリスの物理学者アイザック・ニュートンに因む。 誤用であるが習慣的にトルクの単位であるニュートンメートルのメートルを省略し「ニュートン」という場合がある。 「ニュートン(newton)」の名称は、1904年4月にブリストル大学のデビッド・ロバートソン (1875 – 1941)(en:David Robertson (engineer))が提唱したものである。 1913年の第5回国際度量衡総会は、ニュートンを力の単位として提案した。 1946年、国際度量衡委員会 (CIPM) において、力の単位は1キログラムの質量に1 m/s の加速度を生じさせる力であるとの定義が決議された。 1948年の第9回国際度量衡総会 (CGPM) は、このMKS単位系における力に「ニュートン(newton)」の名称と記号「N」を与える決議を採択した。 人名に因む計量単位であるため、単位記号は大文字・立体の「N」と表記される。ただし英語で本単位の意味であるニュートンと書き出す場合は「newton」とする(国際単位系#単位の英語名称、一般的にアイザック・ニュートンを含め人名を示す場合は「Newton」とする。)。 1ニュートンは、1キログラムの質量をもつ物体に1メートル毎秒毎秒 (m/s) の加速度を生じさせる力と定義される。運動の第2法則はF = maとし、Fが力、mが質量、aが加速度である。単位で表すと以下のようになる: つまり、基本単位で書き表すと N = kg·m/s (キログラムメートル毎秒毎秒)となる。 また、次元解析で F {\displaystyle {\mathsf {F}}} を力、 M {\displaystyle {\mathsf {M}}} を質量、 L {\displaystyle {\mathsf {L}}} を長さ、 T {\displaystyle {\mathsf {T}}} を時間とした場合の式: 重量が重力によって2つの物体の間に働く力と定義されているので、ニュートンはまた重量の単位でもある。重力加速度は地球上の場所によってわずかに異なるが、地球表面において質量1キログラムの物体の重量は約9.81ニュートンである。 重量キログラムは標準重力上で質量1 kgの物体の重量を1 kgfと定義している。 ニュートンのリンゴについての逸話にちなんで、力学の教科書での重力の説明にリンゴを用いたり、リンゴ1個に働く重力が 1 N であるという説明がなされることがある。 より正確には質量102 g のリンゴに働く重力が、0.102 kg × 9.80665 m/s = 1.00 N ということになる。ただし、日本で流通しているリンゴは海外と比較して大きいものが多く、質量が102 g を上回る品種がほとんどである。 リンゴの比重が 1.0 (水と同じ)であり、真球であるとすると、質量102 g のりんごの直径は約 5.8 cm となる(超球の体積#公式)。このことからも、実際の市販されているリンゴとしては小さすぎることが分かる。このため、リンゴに替えて、1 N を、みかんやキウイまたは単1マンガン乾電池 1個に働く重力との説明もある。
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ニュートンは、 国際単位系(SI)における力の単位。1ニュートンは、1 kgの質量を持つ物体に1 m/s2の加速度を生じさせる力である。名称は古典力学で有名なイギリスの物理学者アイザック・ニュートンに因む。 誤用であるが習慣的にトルクの単位であるニュートンメートルのメートルを省略し「ニュートン」という場合がある。
{{単位 |名称=ニュートン |英字=newton |記号=N |単位系=SI |種類=[[SI組立単位|組立単位]] |物理量=[[力 (物理学)|力]] |組立=kg·m/s<sup>2</sup> |定義=1 kgの質量を持つ物体に1 m/s<sup>2</sup>の加速度を生じさせる力 |語源=[[アイザック・ニュートン]] |画像= }} '''ニュートン'''({{lang-en-short|newton}}<ref group="注">単位のニュートンの英語表記は、'''n'''ewton と小文字で始める。後述参照。</ref>、記号: N)は、 [[国際単位系]](SI)における[[力 (物理学)|力]]の単位。1ニュートンは、1 [[キログラム|kg]]の[[質量]]を持つ物体に1 [[メートル毎秒毎秒|m/s<sup>2</sup>]]の[[加速度]]を生じさせる力である。名称は[[古典力学]]で有名なイギリスの物理学者[[アイザック・ニュートン]]に因む。 [[誤用]]であるが習慣的に[[トルク]]の単位である[[ニュートンメートル]]のメートルを省略し「ニュートン」という場合がある。 == 名称 == 「ニュートン(newton)」の名称は、1904年4月に[[ブリストル大学]]のデビッド・ロバートソン (1875 – 1941) ([[:en:David Robertson (engineer)]])が提唱したものである<ref>[https://www.govinfo.gov/content/pkg/GOVPUB-C13-59e1dce9a007f7c11f9df0d0a16cca55/pdf/GOVPUB-C13-59e1dce9a007f7c11f9df0d0a16cca55.pdf U.S.METRIC STUDY INTERIM REPORT ENGINEERING STANDARDS] Eleventh in a series of reports prepared for the Congress, U.S. METRIC STUDY, Daniel V. De Simone, Director National Bureau of Standards, Special Publication 345-11(NBS SP 345-11), July 1971, p.49, 15.2 MEASUREMENT UNITS, Professor David Robertson of Bristol University in a letter to the Electrician in April 1904 independently advocated the adoption of a similar MKS system by the St. Louis International Electrical Congress and suggested the "newton" for the unit of force and the "kram" for the unit of mass in order to eliminate the prefix in the base unit "kilogram."</ref><ref>[https://archive.org/details/usmetricstudyin3451desi_0/page/49/mode/1up?view=theater 15.2 MEASUREMENT UNITS] U.S. Metric Study Interim Report, Engineering Standards, National Bureau of Standards, Special Publication 345-11, July 1971</ref><ref>[https://www.gracesguide.co.uk/David_Robertson 1941 Obituary, David Robertson] Grace's Guide to British Industrial History、「He was an advocate of the MKS system of units, and 36 years ago proposed the "Newton" for the unit of force, and the "Volt-second" for the unit of flux in that system.」</ref><ref group="注">デビッド・ロバートソンは、これと同時に、質量の基本単位 kg ([[キログラム]]) の[[接頭語]]を除くために、「kram」の語を提案している。</ref>。 1913年の第5回[[国際度量衡総会]]は、ニュートンを力の単位として提案した<ref>[https://www.bipm.org/en/search?p_p_id=search_portlet&p_p_lifecycle=2&p_p_state=normal&p_p_mode=view&p_p_resource_id=%2Fdownload%2Fpublication&p_p_cacheability=cacheLevelPage&_search_portlet_dlFileId=33145788&p_p_lifecycle=1&_search_portlet_javax.portlet.action=search&_search_portlet_formDate=1679120505664&_search_portlet_query=CGPM+1913&_search_portlet_source=BIPM COMPTES RENDUS DES SEANCES DE LA CINQUIÈME CONFÉRENCE GÉNÉRALE DES POIDS ET MESURES, RÉUNIE A PARIS EN 1913.(Proceedings of the 5th General Conference on Weights and Measures, 1913)] page 56 (french) » L'unité de force est la force qui, en 1 seconde, çommunique à une masse de 1 kilogramme un accroissement de vitesse de 1 mètre par seconde. Le rapport donne à cette unité le nom glorieux de.Newton, si intimement lié à l'idée de force. </ref>。 1946年、[[国際度量衡委員会]] (CIPM) において、力の単位は1[[キログラム]]の質量に1 [[メートル毎秒毎秒|m/s<sup>2</sup>]] の[[加速度]]を生じさせる力であるとの定義が決議された<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] p.127, 国際度量衡委員会(CIPM),1946年, 側方の注記</ref>。 1948年の第9回[[国際度量衡総会]] (CGPM) は、この[[MKS単位系]]における力に「ニュートン(newton)」の名称と記号「N」を与える決議を採択した<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] p.130, 第9回 国際度量衡総会(CGPM),1948年、国際度量衡委員会(CIPM),1946年</ref>。 人名に因む[[計量単位]]であるため、[[単位記号]]は大文字・立体の「N」と表記される。ただし英語で本単位の意味であるニュートンと書き出す場合は「'''n'''ewton」とする([[国際単位系#単位の英語名称]]、一般的にアイザック・ニュートンを含め人名を示す場合は「'''N'''ewton」とする。)。 == 定義 == 1ニュートンは、1[[キログラム]]の[[質量]]をもつ[[物体]]に1[[メートル毎秒毎秒]] (m/s<sup>2</sup>) の[[加速度]]を生じさせる力と定義される。[[運動の第2法則]]は''F'' = ''ma''とし、''F''が[[力 (物理学)|力]]、''m''が[[質量]]、''a''が加速度である。単位で表すと以下のようになる: {| |- |align=center|{{math|1=''F''}} |{{math| {{=}} }} |align=center|{{math|''m ''}} |&sdot; |align=center|{{math|''a''}} |- |align=center|1 N |{{math| {{=}} }} | 1kg |&sdot; |m/s<sup>2</sup> |} つまり、[[物理単位]]で書き表すと N = kg·m/s<sup>2</sup> (キログラムメートル毎秒毎秒)となる。 また、[[次元解析]]で<math>\mathsf F</math>を力、<math>\mathsf M</math>を質量、<math>\mathsf L</math>を長さ、<math>\mathsf T</math>を時間とした場合の式: :<math>\mathsf F = \frac{\mathsf{ML}} {\mathsf T^2}</math> == 重量 == [[重量]]が[[重力]]によって2つの物体の間に働く力と定義されているので、ニュートンはまた重量の単位でもある。重力加速度は地球上の場所によってわずかに異なるが、地球表面において質量1キログラムの物体の重量は約9.81ニュートンである。 [[重量キログラム]]は[[標準重力]]上で質量1 kgの物体の重量を1 kgfと定義している。 === リンゴによる力の表現 === [[アイザック・ニュートン#リンゴについての逸話|ニュートンのリンゴについての逸話]]にちなんで、力学の教科書での重力の説明にリンゴを用いたり<ref>[[兵頭俊夫]]、『考える力学』第2版、p.16、「たとえば、手に持ったリンゴを離すと、下に落ちる。これはリンゴが地球から§2.2で学ぶ万有引力''F''<sub>1</sub>を受けているからである。」、[[学術図書出版社]]、ISBN 978-4-7806-0941-7、2021年10月31日第2版第1刷</ref>、[[リンゴ]]1個に働く重力が 1 N であるという説明がなされることがある<ref>[https://www.diy-id.net/know-how-screw/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E5%8D%98%E4%BD%8D%E3%81%A3%E3%81%A6%E4%BD%95/#:~:text=%EF%BC%91%EF%BC%90%EF%BC%90%EF%BC%90%EF%BD%87%E3%82%92%EF%BC%99.%EF%BC%98%E3%81%A7,%E3%81%AB%E7%94%B1%E6%9D%A5%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82 ニュートン単位っていったい何?] 株式会社 大里</ref><ref>[https://imada.com/what-is-a-force-gauge/ What is a Force Gauge?] force & torque measurement, imada.com</ref>。 より正確には質量102 g のリンゴに働く重力が、0.102 kg × {{val|9.80665}} m/s<sup>2</sup> = {{val|1.00}} N ということになる。ただし、日本で流通しているリンゴは海外と比較して大きいものが多く、質量が102 g を上回る品種がほとんどである<ref>[https://www.ooyufarm.com/c/about/size りんごサイズ比較] 大湯ファーム、Sサイズの質量は220~250 g となっている。</ref><ref>[https://calorie.slism.jp/107148/ りんご] カロリーSlim、りんごSサイズ(170g)となっている。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=食文化の違い。大きいりんご、小さいりんご |url=http://malus.my.coocan.jp/mitearuku/syokubunka/syokubunka.htm |website=malus.my.coocan.jp |access-date=2022-04-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日本のリンゴは大きくて、海外のリンゴは小さい?その理由は? |url=https://myreviewnote.com/gourmet/apple |website=MyReviewNote:色んなレビューや感想 |date=2017-06-28 |access-date=2022-04-14 |language=ja |last=mrn}}</ref><ref group="注">しかし質量が102 g を下回る小さいリンゴの品種も一部存在する</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ミニフジコ {{!}} MINI FUJI-CO {{!}} 小さくおいしいリンゴの物語 |url=http://minifuji-co.com/ |website=ミニフジコ |access-date=2022-04-14 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アルプス乙女(あるぷすおとめ) {{!}} りんご大学 |url=https://www.ringodaigaku.com/main/hinshu/a/alpsmaiden.html |website=www.ringodaigaku.com |access-date=2022-04-14}}</ref>。 リンゴの[[比重]]が 1.0 (水と同じ)であり、[[真球]]であるとすると、質量102 g のりんごの[[直径]]は約 5.8 cm となる([[超球の体積#公式]])。このことからも、実際の市販されているリンゴとしては小さすぎることが分かる<ref>[http://www.aeroastro-kait.net/blog-entry-123.html ニュートン先生のリンゴの木&1ニュートン[N]のお話(3)-リンゴの重さがポイント?!] 宙をめざせ!、神奈川工大機械工学科 航空宇宙専攻、「ちなみにニュートン先生のリンゴは日本で普通にみられるリンゴ(約300グラム前後)の3分の1程度の大きさです。」</ref><ref>[https://www.myfooddata.com/articles/how-much-is-100-grams.php How much is 100 grams?] 100gは、中サイズのリンゴの半分としている。by Daisy Whitbread, Half a medium sized apple, Last Updated: 2021-07-28</ref>。このため、リンゴに替えて、1 N を、[[柑橘類|みかん]]や[[キウイフルーツ|キウイ]]または単1[[マンガン乾電池]] 1個に働く重力との説明もある<ref>[https://www.dainippon-tosho.co.jp/unit/list/N.html りんごにはたらく重力] 力 ニュートン、大日本図書</ref>。 == 換算 == {{力の単位}} {{GravEngAbs}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注"/> === 出典 === {{Reflist|30em}} {{SI units navbox}} {{DEFAULTSORT:にゆうとん}} [[Category:力の単位]] [[Category:SI組立単位]] [[Category:物理学のエポニム]] [[Category:アイザック・ニュートン]]
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デカルト (曖昧さ回避)
デカルト (Descartes)
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デカルト (Descartes) ルネ・デカルト - フランス出身の哲学者、自然哲学者、数学者。以下はこれにちなむ。 デカルト座標 - ルネ・デカルトの確立した直交座標。直交座標系や平面#デカルト座標を参照。 デカルトの正葉線 - 直交座標の方程式によって表される曲線。 デカルト閉圏 - 任意の2つの対象の直積上で定義される射が直積因子の一方で定義される射と自然に同一視できること。 デカルト (クレーター) - 月のクレーター デカルト級防護巡洋艦 - フランスが建造した防護巡洋艦の艦級。 デカルト・シャーマン - アニメ映画『劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』の登場人物。機動戦士ガンダム00の登場人物#デカルト・シャーマンを参照。
'''デカルト''' (Descartes) * [[ルネ・デカルト]] - フランス出身の哲学者、自然哲学者、数学者。以下はこれにちなむ。 ** デカルト座標 - ルネ・デカルトの確立した直交座標。[[直交座標系]]や[[平面#デカルト座標]]を参照。 ** [[デカルトの正葉線]] - 直交座標の方程式によって表される曲線。 ** [[デカルト閉圏]] - 任意の2つの対象の直積上で定義される射が直積因子の一方で定義される射と自然に同一視できること。 ** {{仮リンク|デカルト (クレーター)|en|Descartes (crater)}} - 月のクレーター * [[デカルト級防護巡洋艦]] - フランスが建造した防護巡洋艦の艦級。 * デカルト・シャーマン - アニメ映画『劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』の登場人物。[[機動戦士ガンダム00の登場人物#デカルト・シャーマン]]を参照。 {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:てかると}} [[Category:フランス語の姓]]
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マクスウェル
マクスウェル、マックスウェル(Maxwell)はスコットランドの姓。ロクスバーグシャーにあるメルローズに近い場所で発生した。この名前は1144年にMackeswellとして最初に確認された。意味は「マックの泉」(wellは古英語で泉や小川の意)。
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'''マクスウェル'''、'''マックスウェル'''(Maxwell)は[[スコットランド]]の[[姓]]。ロクスバーグシャーにあるメルローズに近い場所で発生した。この名前は1144年にMackeswellとして最初に確認された。意味は「マックの泉」(wellは古英語で泉や小川の意)<ref>[[:en:Maxwell (surname)]]の翻訳、原文の脚注には{{cite book|title=Dictionary of American Family Names|publisher=[[Oxford University Press]]|isbn=0-19-508137-4 }}とある。</ref>。 == 人名 == * [[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]] - [[イギリス]](スコットランド)の理論物理学者。 * [[マクスウェル・シェレル・カベリーノ・アンドラーデ]] - ブラジルのサッカー選手。 * [[ロイス・マクスウェル]] - カナダ出身の女優。 * [[ロバート・マクスウェル]] - イギリスの実業家。 * [[マクスウェル・D・テイラー]] - アメリカ合衆国の軍人、外交官。 * [[ウィリアム・マクスウェル・エヴァーツ]] - アメリカ合衆国の法律家、政治家。 * [[フルール・マクスウェル]] - ルクセンブルク出身のフィギュアスケート選手。 * [[マックスウェル (ミュージシャン)]] - アメリカ合衆国のネオ・ソウル歌手。 * [[ジョン・マックスウェル・クッツェー]] - 南アフリカ共和国の文学者。 === 架空 === * [[デュオ・マックスウェル]] - アニメ『[[新機動戦記ガンダムW]]』の登場人物。 * ジェーン・マックスウェル - ゲーム『[[ワイルドアームズ]]』『[[ワイルドアームズ アルターコード:エフ]]』の登場人物。 ** ニコラ・マックスウェル - 上記の父親。 * ヴァージニア・マックスウェル - ゲーム『[[ワイルドアームズ アドヴァンスドサード]]』の主人公。 * マクスウェル - ゲーム『[[テイルズ オブ シリーズ]]』に登場する架空の精霊。 ** ミラ=マクスウェル - ゲーム『[[テイルズ オブ エクシリア]]』の主人公のひとり。 * ジョー・マックスウェル - 小説『[[ARIEL]]』の登場人物。 * クロエ・マクスウェル - アニメ・TCG『[[ラクエンロジック]]』の登場人物。 *エンリコ・マクスウェル - 漫画『[[HELLSING]]』及びその派生作品の登場人物。 == その他 == * [[マクスウェルブリッジ]] - 未知のインダクタンスを求めるために使用されるホイートストンブリッジの一種。 * [[X-57 (航空機)]] - アメリカの実験機。 * [[マックスウェル行政大学院]] - アメリカ合衆国の[[大学院]]。 * [[マックスウェル アーキテクチャ]] - NVIDIA社のGeforce 900シリーズ。 * [[マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー]] - [[ビートルズ]]の楽曲。アルバム『[[アビイ・ロード]]』に収録。 ; ジェームズ・クラークに由来するもの * [[マクスウェル (単位)]] - 磁束の単位。 * [[マクスウェルの方程式]] - 電磁場のふるまいを記述する古典電磁気学の基礎方程式。 * [[マクスウェルの応力テンソル]] - 電磁場における応力テンソル。 * [[マクスウェルの関係式]] - 熱力学における4つの状態量の間に成り立つ関係式。 * [[マクスウェル分布]] - 熱力学的平衡状態において気体分子の速度が従う分布関数。 * [[マクスウェルの悪魔]] - 分子の動きに関する思考実験、ないしその実験で想定される架空の存在。 * [[ジェームズ・クラーク・マクスウェル望遠鏡]] - [[ハワイ島]][[マウナケア天文台群|マウナケア山頂天文台群]]にある[[電波望遠鏡]]。 * [[マクスウェル山]] - 金星にある最高峰の山の名称。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{aimai}} {{DEFAULTSORT:まくすうえる}} [[Category:英語の姓]]
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強磁性
強磁性 (きょうじせい、英: ferromagnetism) とは、隣り合うスピンが同一の方向を向いて整列し、全体として大きな磁気モーメントを持つ物質の磁性を指す。そのため、物質は外部磁場が無くても自発磁化を持つことが出来る。室温で強磁性を示す単体の物質は少なく、鉄、コバルト、ニッケル、ガドリニウム(18°C以下)である。また、ミネソタ大学で正方晶のルテニウムが常温で強磁性を示すことを実験的に確認している(ルテニウムは通常は六方最密充填構造を取る)。 単に強磁性と言うとフェリ磁性を含めることもあるが、日本語ではフェリ磁性を含まない狭義の強磁性をフェロ磁性と呼んで区別することがある。なおフェロ (ferro) はイタリア語で鉄を意味する。 磁性イオン間の交換積分が正である場合、交換相互作用はスピンが互いに揃うように作用し、強磁性を示すことになる。 強磁性体は、ある温度以上になるとスピンがそれぞれ無秩序な方向を向いて整列しなくなり、常磁性を示すようになる。この転移温度を、キュリー温度(Curie Temperature、キュリー点とも言う)と呼ぶ。 キュリー温度以上では、磁化率(帯磁率)を χ {\displaystyle \chi } 、絶対温度をT、常磁性キュリー温度を θ p {\displaystyle \theta _{p}} としたとき、 となる。これを、キュリー・ワイスの法則 (Curie-Weiss law) と呼ぶ。Cは比例定数であり、これはキュリー定数と呼ばれる。 磁性体とは磁場をかけると磁気を生じる物質であるが、反磁性、常磁性、強磁性の3種類の磁性体の内、ここでは強磁性体がなぜ強磁性を持つのかを中心に関連する現象を説明する。 不対電子(ふついでんし) 多くの原子が2つずつ対となる電子を電子軌道に留めている。これら、対となる電子はその各電子のスピンをそれぞれの電子がお互いに打ち消しあうために、外部から見て磁気は発生しない。つまりヘリウム原子は1s軌道に2つの電子が入って対(つい)となっているので磁気は生じない。水素原子は1s軌道に電子が1つしかない、つまり不対電子であるために磁気を生じる。これは、単独の原子の場合であるが、たとえばヘリウム原子はイオンとなってHeの状態では1sに不対電子が生じるので磁気が生じる。また、水素原子も2つ集まったH2という水素分子になれば、共有結合の1s電子がお互いの1s軌道を埋めあうために不対ではなくなり磁気は生じなくなる。水素分子H2が酸素原子Oと化合した水分子H2Oも水素原子の1s軌道が少し曲がったくらいでは磁気は生じない。 より重い原子では、3d軌道や4f軌道に不対電子があるために磁性が生じている場合が多い。その典型は、鉄である。26Feは3d軌道の1個と4s軌道の2個の電子が欠けることで3d軌道の5個の電子がすべて不対電子となる。これは受け入れられる電子が多い電子軌道の特徴的な差であり、単純なs軌道では対となればスピンを打ち消しあうがd軌道では5つの電子がすべて同じ方向のスピンを持っており強い磁性を発揮する。3d軌道に外殻電子を持つ原子がイオンとなると鉄同様の強い磁気を持つ。これらのイオン原子を磁気イオンという。22Ti、24Cr、25Mnが磁気イオンである。面白いことにd軌道の閉殻となる数10の半数の5がちょうど26Feでここで磁気のピークとなりあとはd軌道に(6は欠番)7個電子が入った27Co、8個入った28Ni、9個入った29Cuと続き、不対電子が減ることで順に磁気は弱くなる。30Znでは3d軌道に電子が10個すべて埋まるために不対電子が無くなって磁気は発生しなくなる。 ここ迄は、原子や分子、イオン単体の場合であるが、もっと大きな集団の場合を考える。磁気イオンがイオン結晶となれば、磁性は各磁気イオンに温存されるので磁気は局在して発生する。これを局在電子という。またイオン状態ではなく鉄などの強磁性体が単なる金属のかたまりとなった場合は、金属特有の伝導電子が原子の間に漂っているので、不対電子が局在できず、そのために磁気は金属全体に広がって発生する強磁性の電子伝導モデルといわれる状態になる。 原子軌道上のスピンを持った電子が不対電子か対電子かで磁気が生じるか生じないかが決まるのが量子論的なモデルであるが、これとは全くべつな磁性体の見方がある。すべての原子が独立してスピン磁石を持っておりその原子の間にはある決まった規則が存在すると仮定することで、反磁性、常磁性、強磁性の3種類の磁性体の違いを説明するモデルである。つまり、反磁性を示す物質は内部の原子の間で一番近い原子間ではスピン磁石は逆になるという相互作用が働く、強磁性を示す物質は内部の原子の間でお互いのスピン磁石に相互作用が働く、という理屈である。 これが交換相互作用とよばれる。 フェリ磁性体とは内部に強磁性体と反強磁性体の部分をあわせ持つ磁性体である。酸化物の磁性体でフェライトと呼ばれる FeO・Fe2O3、MnO・Fe2O3、NiO・Fe2O3、CoO・Fe2O3 が代表である。前半分(FeOやMnOの部分)の2価の磁気モーメントだけが残り磁性に寄与するのでこちらは強磁性体となり、後ろ半分(Fe2O3)は3価の鉄イオンのスピン電子が反平行で反強磁性体である。たとえばFeO・Fe2O3、は1+0=1となって差し引き1つだけが磁気となって現れる。 別にフェリ磁性を示す代表として絶縁性のフェリ磁性体である鉄ガーネット(ザクロ石ともいう)M3・Fe5O12がある(MにはFeやMnが入る)。具体的にはイットリウム鉄ガーネット(YIG)Y3・Fe5O12である。後半のFe5の中では3個と2個のFeが反平行を向いているので、差し引き1個の磁気モーメントが残る。 内部の層ごとに磁性の方向が回るようにずれてゆき、らせんを描くように磁性の向きが変わってゆく磁性体をヘリカル磁性体と呼ぶ。希土類金属に例がある。スピンのフラストレーションを最小にしようと自己組織化した結果最も安定な配向に落ち着いたのがらせんとなった。 金や銀、銅などの非磁性物質に鉄などの電子スピンを持った物質(磁性不純物という)を混ぜると、スピンの向きがばらばらなまま分散する。このまま合金として冷え固まるとアモルファスとなり、まるでガラスの内部で結晶が微小なまま固まったように、微小な電子スピンを持った磁性不純物が、あるところでは強磁性を、あるところでは反強磁性を、ばらばらに示す磁気構造が出来上がる。そのスピンがガラスのように空間的に方向がばらばらになって固まっているので、スピングラスと言う。それぞれのスピンには周りのスピンに対してフラストレーションが生じている。 反強磁性体の一種で、磁化の特性が突然進んで突然飽和してしまうもの。中にはCsFeCl3のように細かなステップになるものもある。 2004年に炭素同素体の一つ、カーボンナノフォームからなる強磁性体が発表された。室温では数時間後にはその現象は消失してしまったが、低温ではより長く続いた。その物質は半導体でもあり、ホウ素と窒素の等電子化合物をはじめとする同じような性状の物質も強磁性体ではないかと考えられる。ZnZr2という合金も28.5 K (−244.7 °C)では強磁性体となる。
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強磁性 とは、隣り合うスピンが同一の方向を向いて整列し、全体として大きな磁気モーメントを持つ物質の磁性を指す。そのため、物質は外部磁場が無くても自発磁化を持つことが出来る。室温で強磁性を示す単体の物質は少なく、鉄、コバルト、ニッケル、ガドリニウム(18℃以下)である。また、ミネソタ大学で正方晶のルテニウムが常温で強磁性を示すことを実験的に確認している(ルテニウムは通常は六方最密充填構造を取る)。 単に強磁性と言うとフェリ磁性を含めることもあるが、日本語ではフェリ磁性を含まない狭義の強磁性をフェロ磁性と呼んで区別することがある。なおフェロ (ferro) はイタリア語で鉄を意味する。
{{参照方法|date=2022年7月}} '''強磁性''' (きょうじせい、{{lang-en-short|ferromagnetism}}) とは、隣り合う[[スピン角運動量|スピン]]が同一の方向を向いて整列し、全体として大きな[[磁気モーメント]]を持つ物質の[[磁性]]を指す。そのため、物質は外部磁場が無くても自発磁化を持つことが出来る。室温で強磁性を示す単体の物質は少なく、[[鉄]]、[[コバルト]]、[[ニッケル]]、[[ガドリニウム]](18℃以下)である。また、ミネソタ大学で[[正方晶系|正方晶]]の[[ルテニウム]]が常温で強磁性を示すことを実験的に確認している(ルテニウムは通常は[[六方最密充填構造]]を取る)。 単に強磁性と言うと[[フェリ磁性]]を含めることもあるが、日本語ではフェリ磁性を含まない狭義の強磁性を'''フェロ磁性'''と呼んで区別することがある。なおフェロ (ferro) は[[イタリア語]]で[[鉄]]を意味する<ref>[[ラテン語]]の[[wikt:ferrum|ferrum]]が語源。</ref>。 == 物理的起源 == 磁性イオン間の[[交換積分]]が正である場合、[[交換相互作用]]はスピンが互いに揃うように作用し、強磁性を示すことになる。 == 強磁性体の性質 == 強磁性体は、ある温度以上になるとスピンがそれぞれ無秩序な方向を向いて整列しなくなり、[[常磁性]]を示すようになる。この転移温度を、'''[[キュリー温度]]'''(Curie Temperature、キュリー点とも言う)と呼ぶ。 キュリー温度以上では、[[磁化率]](帯磁率)を<math>\chi</math>、[[絶対温度]]を''T''、[[キュリー温度|常磁性キュリー温度]]を<math>\theta_p</math>としたとき、 :<math> \chi = \frac{C}{T - \theta_p} </math> となる。これを、[[キュリー・ワイスの法則]] (Curie-Weiss law) と呼ぶ。''C''は比例定数であり、これはキュリー定数と呼ばれる。 == 強磁性体の物理 == 磁性体とは磁場をかけると磁気を生じる物質であるが、'''反磁性'''、'''常磁性'''、'''強磁性'''の3種類の磁性体の内、ここでは強磁性体がなぜ強磁性を持つのかを中心に関連する現象を説明する。 === 電子スピンによる磁性 === '''[[不対電子]]'''(ふついでんし) 多くの原子が2つずつ対となる電子を[[電子軌道]]に留めている。これら、対となる電子はその各電子のスピンをそれぞれの電子がお互いに打ち消しあうために、外部から見て磁気は発生しない。つまり[[ヘリウム]]原子は'''1s軌道'''に2つの電子が入って対(つい)となっているので磁気は生じない。[[水素原子]]は1s軌道に電子が1つしかない、つまり'''不対電子'''であるために磁気を生じる。これは、単独の原子の場合であるが、たとえばヘリウム原子は[[イオン]]となってHe<sup>+</sup>の状態では1sに'''不対電子'''が生じるので磁気が生じる。また、水素原子も2つ集まったH<sub>2</sub>という水素分子になれば、共有結合の1s電子がお互いの1s軌道を埋めあうために不対ではなくなり磁気は生じなくなる。水素分子H<sub>2</sub>が酸素原子Oと化合した水分子H<sub>2</sub>Oも水素原子の1s軌道が少し曲がったくらいでは磁気は生じない。 より重い原子では、[[3d軌道]]や'''4f軌道'''に不対電子があるために磁性が生じている場合が多い。その典型は、鉄である。<sub>26</sub>Fe<sup>3+</sup>は3d軌道の1個と'''4s軌道'''の2個の電子が欠けることで3d軌道の5個の電子がすべて不対電子となる。これは受け入れられる電子が多い電子軌道の特徴的な差であり、単純なs軌道では対となればスピンを打ち消しあうがd軌道では5つの電子がすべて同じ方向のスピンを持っており強い磁性を発揮する。3d軌道に'''外殻電子'''を持つ原子がイオンとなると鉄同様の強い磁気を持つ。これらのイオン原子を'''磁気イオン'''という。<sub>22</sub>Ti<sup>3+</sup>、<sub>24</sub>Cr<sup>3+</sup>、<sub>25</sub>Mn<sup>2+</sup>が磁気イオンである。面白いことにd軌道の閉殻となる数10の半数の5がちょうど<sub>26</sub>Fe<sup>3+</sup>でここで磁気のピークとなりあとはd軌道に(6は欠番)7個電子が入った<sub>27</sub>Co<sup>2+</sup>、8個入った<sub>28</sub>Ni<sup>2+</sup>、9個入った<sub>29</sub>Cu<sup>2+</sup>と続き、不対電子が減ることで順に磁気は弱くなる。<sub>30</sub>Zn<sup>2+</sup>では3d軌道に電子が10個すべて埋まるために不対電子が無くなって磁気は発生しなくなる。 ここ迄は、原子や分子、イオン単体の場合であるが、もっと大きな集団の場合を考える。磁気イオンがイオン結晶となれば、磁性は各磁気イオンに温存されるので磁気は局在して発生する。これを'''局在電子'''という。またイオン状態ではなく鉄などの強磁性体が単なる金属のかたまりとなった場合は、金属特有の伝導電子が原子の間に漂っているので、不対電子が局在できず、そのために磁気は金属全体に広がって発生する'''強磁性の電子伝導モデル'''といわれる状態になる。 === 交換相互作用 === {{main|交換相互作用}} 原子軌道上のスピンを持った電子が不対電子か対電子かで磁気が生じるか生じないかが決まるのが量子論的なモデルであるが、これとは全くべつな磁性体の見方がある。すべての原子が独立してスピン磁石を持っておりその原子の間にはある決まった規則が存在すると仮定することで、'''反磁性'''、'''常磁性'''、'''強磁性'''の3種類の磁性体の違いを説明するモデルである。つまり、反磁性を示す物質は内部の原子の間で一番近い原子間ではスピン磁石は逆になるという相互作用が働く、強磁性を示す物質は内部の原子の間でお互いのスピン磁石に相互作用が働く、という理屈である。 これが'''交換相互作用'''とよばれる。 ===フェリ磁性体 === {{main|フェリ磁性}} フェリ磁性体とは内部に強磁性体と反強磁性体の部分をあわせ持つ磁性体である。酸化物の磁性体でフェライトと呼ばれる {{chem|FeO・Fe|2|O|3}}、{{chem|MnO・Fe|2|O|3}}、{{chem|NiO・Fe|2|O|3}}、{{chem|CoO・Fe|2|O|3}} が代表である。前半分(FeOやMnOの部分)の2価の磁気モーメントだけが残り磁性に寄与するのでこちらは強磁性体となり、後ろ半分({{chem|Fe|2|O|3}})は3価の鉄イオンのスピン電子が反平行で反強磁性体である。たとえばFeO・{{chem|Fe|2|O|3}}、は1+0=1となって差し引き1つだけが磁気となって現れる。 別にフェリ磁性を示す代表として絶縁性のフェリ磁性体である鉄ガーネット(ザクロ石ともいう)'''M'''<sub>3</sub>・{{chem|Fe|5|O|12}}がある('''M'''には[[鉄|Fe]]や[[マンガン|Mn]]が入る)。具体的にはイットリウム鉄ガーネット(YIG){{chem|Y|3|・Fe|5|O|12}}である。後半のFe<sub>5</sub>の中では3個と2個のFeが反平行を向いているので、差し引き1個の磁気モーメントが残る。 === ヘリカル磁性体 === {{Main|螺旋磁性}} [[Image:ヘリカル磁性体.PNG|thumb|200px|right|ヘリカル磁性体の模式図。内部で磁性の向き(青矢印)がらせん形に変化する。]] 内部の層ごとに磁性の方向が回るようにずれてゆき、らせんを描くように磁性の向きが変わってゆく磁性体をヘリカル磁性体と呼ぶ。希土類金属に例がある。スピンの[[フラストレーション]]を最小にしようと自己組織化した結果最も安定な配向に落ち着いたのがらせんとなった。 === スピングラス === {{main|スピングラス}} 金や銀、銅などの非磁性物質に鉄などの電子スピンを持った物質('''磁性不純物'''という)を混ぜると、スピンの向きがばらばらなまま分散する。このまま合金として冷え固まるとアモルファスとなり、まるでガラスの内部で結晶が微小なまま固まったように、微小な電子スピンを持った磁性不純物が、あるところでは強磁性を、あるところでは反強磁性を、ばらばらに示す磁気構造が出来上がる。そのスピンがガラスのように空間的に方向がばらばらになって固まっているので、'''スピングラス'''と言う。それぞれのスピンには周りのスピンに対して'''フラストレーション'''が生じている。 === メタ磁性体 === [[Image:メタ磁性体の特性.PNG|thumb|250px|right|'''メタ磁性体の特性''' 急に磁化が進んだ後で飽和してしまう]] [[Image:メタ磁性体の特性2.PNG|thumb|250px|right|'''メタ磁性体の特性2''' CsFeCl<sub>3</sub>での磁化特性]] 反強磁性体の一種で、磁化の特性が突然進んで突然飽和してしまうもの。中にはCsFeCl<sub>3</sub>のように細かなステップになるものもある。 == 新発見された強磁性体 == [[2004年]]に[[炭素]][[同素体]]の一つ、[[カーボンナノフォーム]]からなる強磁性体が発表された。室温では数時間後にはその現象は消失してしまったが、低温ではより長く続いた。その物質は半導体でもあり、ホウ素と窒素の[[等電子的|等電子]]化合物をはじめとする同じような性状の物質も強磁性体ではないかと考えられる。ZnZr<sub>2</sub>という合金も{{Convert|28.5|K|C}}では強磁性体となる。 == 用途 == * [[永久磁石]] * 高透磁率材料 * 磁気記録媒体 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[常磁性]] * [[反磁性]] * [[反強磁性]] == 参照資料 == * 新しい物性物理 [[伊達宗行]] 講談社BLUEBACKS ISBN 4-06-257483-7 * "Nanofoam makes magnetic debut," Physics World 17 (5), 3 (May 2004) * [http://www.magnet.okayama-u.ac.jp/magword/ 岡山大学 磁性用語辞典] {{磁性}} {{Condensed matter physics topics}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きようしせい}} [[Category:磁気]] [[Category:電磁気学]]
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編集
編集(へんしゅう)とは、書物(書籍や雑誌)・文章・映画・ラジオ番組・テレビ番組・動画などの仕分け素材を、取捨選択、構成、配置、関連づけ、調整などの作業をすることである。 古くから「編輯」「編緝」などの表記があり、特に戦前は「編輯」の表記が多かったが、当用漢字制定後に「編集」に統一された。当用漢字に「輯」の字がなく、似たような意味で同音の字である「集」(「輯」の新字体ではなく、全く別の字)に置き換えたためである(これを「俗用書換え」という)。なお書物の編集においては、全集や辞典・百科事典など大部なものを対象とするときは「編纂(へんさん)」、また歴史書・教科書などを対象とするときは「編修(へんしゅう)」の表記を使うことがある。 転じて、編集をやり直すことや既存のものに変更を加える(改訂)ことをも編集ということもある。特にコンピュータ関連では、既存のファイルの一部(あるいは全部)を変更することを「ファイルを編集する」と言い表す。ウィキペディア内で散見する「記事(あるいはページ)を編 「編集」と訳される英単語は、editのほかにcompile、redaction、revisionなどがある。 編集実務(へんしゅうじつむ)とは、狭義の編集を行うだけではなく、企画立案から表装までも含む業務である。本(書籍・雑誌など)やパンフレットなどの刊行物の生産に当たって、内容の編集そのものだけでなく、企画から原稿依頼・原稿整理・校正・割付(レイアウト)・装幀なども含む実務作業一般を指す。 編集実務が職業として独立するのは日本では明治時代以降で、それ以前は著作家と編集実務を担当する「編集者」は未分化であった。現代においては、職務の幅が広くなり、出版業界における編集者は、単に原稿のやりとりをしたり印刷・製本工程に指示を与えるだけではなく、企画立案から、著者に資料提供や助言をおこない、プロデューサー的な役務をもこなす職業となっている。 書籍(などのテキスト)の編集実務は、映像・音楽の編集と違って何らかの特殊な機材(や、ソフトウェア)が必要なわけではない。無論、本づくりのための知識(印刷や用紙、流通について)や小道具(紙の本を作るならば定規や、級数表・歯送り表など)は必要だが、それはbookmaking的な編集のためのものであって、editingな編集作業の本質は、純粋に編集者の脳内に存在する。他の分野の編集でも無論その側面はあるが、「手元になにもなくてもできる」という意味で、その傾向が特に強いと言える。 一冊、または一企画を総合的に編集する組織として編集プロダクションがある。
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編集(へんしゅう)とは、書物(書籍や雑誌)・文章・映画・ラジオ番組・テレビ番組・動画などの仕分け素材を、取捨選択、構成、配置、関連づけ、調整などの作業をすることである。 古くから「編輯」「編緝」などの表記があり、特に戦前は「編輯」の表記が多かったが、当用漢字制定後に「編集」に統一された。当用漢字に「輯」の字がなく、似たような意味で同音の字である「集」(「輯」の新字体ではなく、全く別の字)に置き換えたためである(これを「俗用書換え」という)。なお書物の編集においては、全集や辞典・百科事典など大部なものを対象とするときは「編纂(へんさん)」、また歴史書・教科書などを対象とするときは「編修(へんしゅう)」の表記を使うことがある。 転じて、編集をやり直すことや既存のものに変更を加える(改訂)ことをも編集ということもある。特にコンピュータ関連では、既存のファイルの一部(あるいは全部)を変更することを「ファイルを編集する」と言い表す。ウィキペディア内で散見する「記事(あるいはページ)を編 「編集」と訳される英単語は、editのほかにcompile、redaction、revisionなどがある。
{{WikipediaPage||Help:ページの編集}} {{独自研究|date=2015年3月}} '''編集'''(へんしゅう)とは、[[書物]]([[書籍]]や[[雑誌]])・[[文章]]・[[映画]]・[[ラジオ番組]]・[[テレビ番組]]・[[動画]]などの仕分け素材を、[[取捨選択]]、[[構成]]、[[配置図|配置]]、[[関連付け|関連づけ]]、[[調整]]などの作業をすることである。 古くから[[wikt:編輯|「編輯」]]<ref group="注釈">「輯」は車輪の中心に[[スポーク]]が集まって車輪をなす様子を現し、「集」と同じく「あつめる」という動詞でもある。</ref>「編緝」などの表記があり<ref>日本国語大辞典「へん‐しゅう[:シフ] 【編集・編輯・編緝】」</ref>、特に戦前は「編輯」の表記が多かったが、[[当用漢字]]制定後に「編集」に統一された。当用漢字に「輯」の字がなく、似たような意味で同音の字である「集」(「輯」の新字体ではなく、全く別の字)に置き換えたためである(これを「俗用書換え」という)。なお書物の編集においては、[[全集]]や[[辞典]]・[[百科事典]]など大部なものを対象とするときは「[[編纂]](へんさん)」、また[[歴史書]]・[[教科書]]などを対象とするときは「編修(へんしゅう)」の表記を使うことがある。 転じて、編集をやり直すことや既存のものに変更を加える([[wikt:改訂|改訂]])ことをも編集ということもある。特にコンピュータ関連では、既存のファイルの一部(あるいは全部)を変更することを「ファイルを編集する」と言い表す。[[ウィキペディア]]内で散見する「記事(あるいはページ)を編集」と訳される英単語は、[[wikt:edit|edit]]のほかに[[wikt:compile|compile]]、redaction、[[wikt:revision|revision]]などがある。 [[動画編集ソフトウェア]]は[[VFX]]などの特殊効果など映画用語でいう編集を超えた機能を備えている。そのため、一般的な動画用語ではそれらを含み編集と呼んでいる。 ; 狭義の編集作業 : 狭義の編集作業 ({{Lang-en|edit}}) としては、著作物の修正・註記・改変・削除などがある。[[編集者]]が行う業務であり、''編集部註''などとあるのは、この編集である。 : 映画の場合、既に撮影された素材から取捨選択・並べなおしを行い、(音声を除いて)最終的な映画作品に完成させる行為である。{{要出典範囲|この「編集権」が誰に属するかで紛糾が起きる場合が多い(現在のハリウッド映画においては、最終的な編集権はほとんどスタジオ側が持っており、監督の意向が無視されることもしばしばである。そのため、のちに独自の「ディレクターズ・カット版」などが上映・発売される場合がある)。|date=2022年10月1日 (土) 12:18 (UTC)}} ; 編纂 : 編纂 ({{Lang-en|compile}}) とは素材を集めて取りまとめる作業を指す。著作物一般に関して手を加えず、印刷物をはじめとする成果物を作る目的で行なわれる、編集・改訂・[[wikt:校訂|校訂]]の行為、またはそのプロセスのこと。または、編集・改訂・校訂の成果としてできあがった改訂版の現物を指して言う言葉。redaction と reduction は別の英単語であるので、混同しないように注意する必要がある。一般的には、オーディオにおけるノイズ'''リダクション'''は、noise reduction であって、noise redaction ではない。reduction(縮小・削減・低下という意味)は reduce(減らすという意味)という動詞から派生した名詞である。noise reduction の意味は、ノイズを減らすことである。 == 編集実務 == {{独自研究範囲|編集実務(へんしゅうじつむ)|date=2022年10月1日 (土) 12:18 (UTC)|title=辞書にない独自の単語}}とは、狭義の編集を行うだけではなく、企画立案から表装までも含む業務である。[[本]]([[本|書籍]]・[[雑誌]]など)や[[パンフレット]]などの[[刊行物]]の生産に当たって、内容の編集そのものだけでなく、[[企画]]から原稿依頼・原稿整理・[[校正]]・[[割付]](レイアウト)・[[装幀]]なども含む実務作業一般を指す。 編集実務が[[職業]]として独立するのは日本では[[明治時代]]以降で、それ以前は[[著作家]]と編集実務を担当する「編集者」は未分化であった。現代においては、職務の幅が広くなり、[[出版業]]界における編集者は、単に原稿のやりとりをしたり[[印刷]]・[[製本]]工程に指示を与えるだけではなく、企画立案から、著者に資料提供や助言をおこない、プロデューサー的な役務をもこなす職業となっている。 書籍(などの[[テキスト]])の編集実務は、映像・音楽の編集と違って何らかの特殊な機材(や、ソフトウェア)が必要なわけではない。無論、本づくりのための知識(印刷や用紙、流通について)や小道具(紙の本を作るならば[[定規]]や、[[級数表]]・[[歯送り表]]など)は必要だが、それはbookmaking的な編集のためのものであって、[[editing]]な編集作業の本質は、純粋に編集者の脳内に存在する。他の分野の編集でも無論その側面はあるが、「手元になにもなくてもできる」という意味で、その傾向が特に強いと言える。 一冊、または一企画を総合的に編集する組織として[[編集プロダクション]]がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * 日本エディタースクール編『標準 編集必携』 日本エディタースクール 1987/8 ISBN 4888883254 * {{Cite wikisource|title=日本におけるIP編集|author=ウィキメディア財団|wslanguage=jp}} == 関連項目 == {{wiktionary|編集}} * [[映像編集]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へんしゆう}} [[Category:編集|*]] [[Category:映画]] [[Category:テレビ]]
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ホイヘンス
ホイヘンス(蘭: Huygens)は、オランダ語の姓。
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ホイヘンスは、オランダ語の姓。 コンスタンティン・ホイヘンス - オランダの詩人・作曲家。クリスティアーン・ホイヘンスの父。 クリスティアーン・ホイヘンス - オランダの数学者・物理学者・天文学者。 ホイヘンス (小惑星) - 1935年に発見された小惑星。小惑星番号2801。 ホイヘンス (クレーター) - 火星にあるクレーター。 ホイヘンス・プローブ - クリスティアーン・ホイヘンスにちなんで名づけられた惑星探査機。
'''ホイヘンス'''({{lang-nl-short|'''Huygens'''}})は、オランダ語の姓。 * [[コンスタンティン・ホイヘンス]]({{lang|nl|[[:en:Constantijn Huygens|Constantijn Huygens]]}}、1596年 - 1687年) - オランダの詩人・作曲家。クリスティアーン・ホイヘンスの父。 * [[クリスティアーン・ホイヘンス]](1629年 - 1695年) - オランダの数学者・物理学者・天文学者。 ** [[ホイヘンス (小惑星)]] - 1935年に発見された[[小惑星]]。[[小惑星番号]]2801。 ** [[ホイヘンス (クレーター)]] - [[火星]]にある[[クレーター]]。 ** [[ホイヘンス・プローブ]] - クリスティアーン・ホイヘンスにちなんで名づけられた[[惑星探査機]]。 {{aimai}} {{デフォルトソート:ほいへんす}} [[Category:オランダ語の姓]]
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ヘルツ (曖昧さ回避)
ヘルツ(Herz、Hertz)は、元来はドイツ語圏の姓。
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ヘルツ(Herz、Hertz)は、元来はドイツ語圏の姓。
'''ヘルツ'''(Herz、Hertz)は、元来は[[ドイツ]]語圏の[[姓]]。 == 人物 == * [[ヘンリエッテ・ヘルツ]] - ベルリンの文学サロンを主催した女性。 * [[ハインリヒ・ヘルツ]] - 物理学者。電磁波の存在を実証した。 * [[グスタフ・ルートヴィヒ・ヘルツ]] - 量子力学分野の物理学者。ハインリヒ・ヘルツの甥。 * [[アルフレッド・ヘルツ]] - ドイツの指揮者。 * [[アンリ・エルツ]] - オーストリア出身のフランスのピアニスト、作曲家。 == 単位・用語等 == * [[ヘルツ (単位)]] - 振動数・周波数の単位。ハインリヒに由来。 * [[ヘルツの接触応力]] - 球面と球面、円柱面と円柱面、任意の曲面と曲面などの弾性接触圧力を求める理論。 * ヘルツ(Herz) - 「[[心臓]]」。日本では医学用語や[[焼き鳥]]の部位の名称などに用いられる。 == その他 == * [[HERTZ]] - [[小森まなみ]]の楽曲名および音楽アルバム。単位のヘルツに由来。 * [[Weekly Music Magazine ヘルツ]] - [[毎日放送]](MBS)の音楽情報番組。 * [[ヘルツ (企業)]] - [[新潟県]]・[[長岡市]]の[[電子機器]]メーカー。 * 特撮テレビドラマ『[[ウルトラマンタロウ]]』に登場した怪獣。[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#逃亡怪獣 ヘルツ]]を参照。 * [[ヘルツ (ブランド)]] == 関連項目 == * [[ハーツ]] (曖昧さ回避) {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:へるつ}} [[Category:ドイツ語の姓]]
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カイザー窓
カイザー窓(カイザーまど、Kaiser window)はデジタル信号処理で使用される準最適の窓関数 wk である。そして公式 によって定義されている。ここで I0 は第1種の0次の変形ベッセル関数であり、α は窓の形状を決める任意の実数である、そして整数 n は窓の長さである。 定義から、この関数は常に k = n/2、すなわち窓の中心でピークをもち、そして窓の端に向かって指数関数的に減衰する。 α の値が大きくなるほど窓は狭くなっていく。α = 0 は長方形窓に相当する。逆に言えば、より大きい α に対して、メインローブの幅は wk のフーリエ変換後の空間で増加し、サイドローブは振幅で減衰する。このようにしてこのパラメータはメインローブの幅とサイドローブの領域を支配している。α を大きくするほどカイザー窓の形状はガウス型関数に近似したものとなる。 他の窓関数では、変更可能なパラメータが無く、得られるダイナミックレンジが固定されている場合が多いが、カイザー窓の場合はαの値を大きくするだけで、ダイナミックレンジを自由に広く取ることが可能である。 関連した窓関数は カイザー-ベッセル派生 (Kaiser-Bessel derived; KBD) 窓である、これは修正離散コサイン変換 (MDCT) での使用に適当であるように設計されたものである。 KBD 窓関数 dk はカイザー窓 wk の項で、公式 で定義される。 これは長さ 2n の窓を定義している。ここで定義から dk はMDCTに対する次のプリンセン-ブラッドレイ条件を満たす: dk+dk+n = 1(wn-k = wk を用いて示される)。 KBD 窓はもう1つの MDCT 条件である対称性 dk = d2n-1-k も満たす。 KBD 窓関数はAdvanced Audio Codingデジタル音声フォーマットで使われている。
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カイザー窓はデジタル信号処理で使用される準最適の窓関数 wk である。そして公式 によって定義されている。ここで I0 は第1種の0次の変形ベッセル関数であり、α は窓の形状を決める任意の実数である、そして整数 n は窓の長さである。 定義から、この関数は常に k = n/2、すなわち窓の中心でピークをもち、そして窓の端に向かって指数関数的に減衰する。 α の値が大きくなるほど窓は狭くなっていく。α = 0 は長方形窓に相当する。逆に言えば、より大きい α に対して、メインローブの幅は wk のフーリエ変換後の空間で増加し、サイドローブは振幅で減衰する。このようにしてこのパラメータはメインローブの幅とサイドローブの領域を支配している。α を大きくするほどカイザー窓の形状はガウス型関数に近似したものとなる。 他の窓関数では、変更可能なパラメータが無く、得られるダイナミックレンジが固定されている場合が多いが、カイザー窓の場合はαの値を大きくするだけで、ダイナミックレンジを自由に広く取ることが可能である。
[[画像:Kaiser-window.png|right|thumb|400px|Kaiser window function for ''n''=100 and &alpha;= 0.5,1,2,4,8,16.]] '''カイザー窓'''(カイザーまど、'''Kaiser window''')は[[デジタル信号処理]]で使用される準最適の[[窓関数]] ''w''<sub>''k''</sub> である。そして公式 :<math>w_k = \left\{ \begin{matrix} \displaystyle\frac{ I_0 \left\{ \pi \alpha \sqrt{ 1 - (\frac{2k}{n-1} - 1) ^ 2 } \right\} }{ I_0( \pi \alpha ) } & \mbox{if } 0 \leq k \leq n \\ 0 & \mbox{otherwise} \\ \end{matrix} \right.</math> によって定義されている。ここで ''I''<sub>0</sub> は第1種の0次の[[ベッセル関数#変形ベッセル関数|変形ベッセル関数]]であり、&alpha; は窓の形状を決める任意の実数である、そして整数 ''n'' は窓の長さである。 定義から、この関数は常に ''k'' = ''n''/2、すなわち窓の中心でピークをもち、そして窓の端に向かって[[指数関数]]的に減衰する。 &alpha; の値が大きくなるほど窓は狭くなっていく。&alpha; = 0 は長方形窓に相当する。逆に言えば、より大きい &alpha; に対して、メインローブの幅は ''w''<sub>''k''</sub> の[[フーリエ変換]]後の空間で増加し、サイドローブは振幅で減衰する。このようにしてこのパラメータはメインローブの幅とサイドローブの領域を支配している。&alpha; を大きくするほどカイザー窓の形状は[[ガウス関数|ガウス型関数]]に近似したものとなる。 他の窓関数では、変更可能なパラメータが無く、得られるダイナミックレンジが固定されている場合が多いが、カイザー窓の場合は&alpha;の値を大きくするだけで、ダイナミックレンジを自由に広く取ることが可能である。 ==カイザー-ベッセル派生 (KBD) 窓== 関連した窓関数は '''カイザー-ベッセル派生''' (Kaiser-Bessel derived; KBD) 窓である、これは[[修正離散コサイン変換]] (MDCT) での使用に適当であるように設計されたものである。 KBD 窓関数 ''d''<sub>''k''</sub> はカイザー窓 ''w''<sub>''k''</sub> の項で、公式 [[Image:Kbd-window.jpg|right|thumb|250px|KBD window function for ''M'' = 128 and πα = 2, 8, 24, 100.]] :<math>d_k = \left\{ \begin{matrix}\sqrt{\frac{\sum_{j=0}^{k} w_j} {\sum_{j=0}^{n} w_j}} & \mbox{if } 0 \leq k < n \\ \\ \sqrt{\frac{\sum_{j=0}^{2n-1-k} w_j} {\sum_{j=0}^{n} w_j}} & \mbox{if } n \leq k < 2n \\ \\ 0 & \mbox{otherwise} \\ \end{matrix} \right.</math> で定義される。 これは長さ 2''n'' の窓を定義している。ここで定義から ''d''<sub>''k''</sub> はMDCTに対する次のプリンセン-ブラッドレイ条件を満たす: ''d''<sub>''k''</sub><sup>2</sup>+''d''<sub>''k''+''n''</sub><sup>2</sup> = 1(''w''<sub>''n''-''k''</sub> = ''w''<sub>''k''</sub> を用いて示される)。 KBD 窓はもう1つの MDCT 条件である対称性 ''d''<sub>''k''</sub> = ''d''<sub>2''n''-1-''k''</sub> も満たす。 ===応用=== KBD 窓関数は[[AAC|Advanced Audio Coding]]デジタル音声フォーマットで使われている。 ==参考文献== * A. V. Oppenheim, R. W. Schafer, and J. R. Buck, ''Discrete-Time Signal Processing'' (Prentice-Hall, 1999). * J. F. Kaiser, "Digital Filters," ''System Analysis by Digital Computer'' chap. 7 (Wiley: New York, 1966); F. F. Kuo and J. F. Kaiser, eds. * [http://ccrma-www.stanford.edu/courses/422/projects/kbd/ KBD Window Page] * {{Wayback|url=http://www9.ocn.ne.jp/~hkato111/ |title=H.Kato web page |date=20030807234258}} [[Category:信号処理|かいさあまと]]
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森村あおい
森村 あおい(もりむら あおい)は、日本の女性漫画家。 1990年芳文社まんがホーム「新人4コマまんが展」に『愛ラブ友ラブ』で入選。また、1991年まんがタイムスペシャル「新人4コマまんが展」に沢田良治名義にて『ぽんぽこオフィス』で入選している。以降芳文社、竹書房、双葉社など各社4コマ漫画誌などで執筆していた。 作風としては『きまぐれオフィス』や『いきなりドンちゃん』・『チャコのOL物語』・『おねえさんにまかせなさい』などに代表されるように、どこか抜けている女性の主人公やその周りの人間が仕事場などで引き起こす騒動などを面白おかしく描く作品を得意としていた。単行本は竹書房から合計6冊発行されている。
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森村 あおいは、日本の女性漫画家。
'''森村 あおい'''(もりむら あおい)は、日本の[[女性]][[漫画家]]。 == 来歴・概要 == [[1990年]][[芳文社]][[まんがホーム]]「新人4コマまんが展」に『愛ラブ友ラブ』で入選。また、[[1991年]][[まんがタイムスペシャル]]「新人4コマまんが展」に'''沢田良治'''名義にて『ぽんぽこオフィス』で入選している。以降芳文社、[[竹書房]]、[[双葉社]]など各社[[4コマ漫画]]誌などで執筆していた。 作風としては『きまぐれオフィス』や『いきなりドンちゃん』・『チャコのOL物語』・『おねえさんにまかせなさい』などに代表されるように、どこか抜けている女性の主人公やその周りの人間が仕事場などで引き起こす騒動などを面白おかしく描く作品を得意としていた。単行本は竹書房から合計6冊発行されている。 == 作品リスト == <!-- あいうえお順にソートしております --> * あんびばライフ(WEEKLY漫画アクションファミリー増刊クレヨンしんちゃん特集号→[[まんがタウン]](双葉社)) * いきなりドンちゃん([[まんがライフ]](竹書房))単行本全4巻 # ISBN 9784812450499(1996年4月) # ISBN 9784812451472 (1997年9月) # ISBN 9784812452684(1998年12月) # ISBN 9784812454664(2001年1月) * おねえさんにまかせなさい([[まんがタイムジャンボ]](芳文社)) * 気まぐれオフィス([[まんがタイムスペシャル]]/芳文社))単行本は竹書房より全2巻 # ISBN 9784812454671(2001年1月) # ISBN 9784812455708(2001年11月) * クルシマさん熱視線([[まんがくらぶオリジナル]](竹書房)) * スリーピース(まんがタイムジャンボ(芳文社)) * そんな若菜の物語(まんがタイムジャンボ(芳文社)) * チャコのOL物語(まんがタウン(双葉社)) * TSUBOMI~つぼみ(まんがタイムジャンボ(芳文社)) * ポリアンヌ学園男子校(まんがタイムジャンボ(芳文社)) * ろじんぐ若葉荘(まんがタイムスペシャル(芳文社)) {{DEFAULTSORT:もりむら あおい}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:存命人物]] {{Manga-artist-stub}}
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藤原鉄頭
藤原 鉄頭、テッド藤原(ふじわら てつあたま、てっど ふじわら)は、漫画家。代表作にマックな人など。 まだMacintoshがパソコン界のポルシェと呼ばれていた頃に購入し、イラストレーターとしての仕事に使用。Macintoshをテーマとしたエッセイ漫画、マックな人で人気を博す。 映画等の評論も行っている。 作品リスト:
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藤原 鉄頭、テッド藤原は、漫画家。代表作にマックな人など。 まだMacintoshがパソコン界のポルシェと呼ばれていた頃に購入し、イラストレーターとしての仕事に使用。Macintoshをテーマとしたエッセイ漫画、マックな人で人気を博す。 映画等の評論も行っている。 作品リスト: マックな人 ビッグマック伝説
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ワシントンD.C.
コロンビア特別区(コロンビアとくべつく、英: District of Columbia)は、アメリカ合衆国の首都。アメリカ合衆国東部に位置する連邦直轄地である。東海岸、メリーランド州とヴァージニア州に挟まれたポトマック川河畔に位置する。通称は、ワシントンD.C.(ワシントン・ディー・シー、英: Washington, D.C.)。 アメリカ合衆国連邦政府の所在地として国際的に強大な政治的影響力を保持する世界都市であり、また金融センターとしても高い重要性を持つ。その構造は、首都としての機能を果たすべく設計された計画都市である。 ポトマック川の北岸に位置し、南西をバージニア州に、その他の方角をメリーランド州に接している。2010年度国勢調査による人口は601,723人で全米24位だが、労働時間帯には近郊からの通勤者により人口100万を超える。ワシントンD.C.を中心に、メリーランド州、バージニア州北部、ウェストバージニア州の最東部2郡を併せた地域を一般に「首都圏」または「メトロポリタン」と呼んでいるが、その人口は5,582,170人(2010年国勢調査)で、全米7位である。また、北東に約65キロメートルの地には人口620,961人(2010年国勢調査)を抱えるメリーランド州の最大都市ボルチモアが位置している。このボルチモアといわゆる首都圏を併せたワシントン・ボルチモア・北バージニア広域都市圏の人口は8,572,971人(2010年国勢調査)を数え、全米4位の規模である。 アメリカ合衆国憲法第1条により、各州とは別に、恒久的な首都としての役割を果たすため、連邦の管轄する区域が与えられている。アメリカ合衆国三権機関(大統領官邸(「ホワイトハウス」)、連邦議会(議会議事堂)、連邦最高裁判所)が所在し連邦機関が集まる他、多くの国の記念建造物や博物館(スミソニアン博物館など)も置かれている。 中心部には高さ169メートル(約555フィート)のワシントン記念塔がある。 同市のナショナル・モールにおける博物館群は質・量ともに世界でもトップクラスであり、観光資源にもなっている。ポトマック川の入り江であるタイダルベイスンの畔にある桜の木々は、アメリカ合衆国内で有数の桜の花見の名所となっており、毎年全米桜祭りが開催される。 172か国の大使館に加え、世界銀行、国際通貨基金 (IMF)、米州機構 (OAS)、米州開発銀行、汎アメリカ保健機関 (PAHO) の本部も置かれている。労働組合、ロビイスト、職業組合など各種団体の本部もある。 連邦議会がワシントンD.C.における権限を有している。連邦議会に関してワシントンD.C.は、下院に本会議での投票権を持たない市代表(代議員)を選出しているものの、上院議員の議席は与えられていない。ワシントンD.C.が州であると仮定し他の州と比較すれば、面積ではロードアイランド州に後れて最下位、人口では最下位から2番目(最下位はワイオミング州)であるが、人口密度では1位、州民総生産では35位、また黒人の比率では1位であり、国全体のマジョリティ(非ヒスパニック系白人)とマイノリティとは反転している。 2011年現在、ワシントンD.C.においては死刑制度が廃止されている。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界17位の都市と評価されており、アメリカの都市ではニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴ、サンフランシスコに次ぐ5位である。 法律上の正式名称は「コロンビア特別区」(コロンビアとくべつく、District of Columbia)。州に属していないアメリカ合衆国・連邦政府直轄地。 コロンビア特別領 (territory of Columbia) として1790年に創設され、1801年のコロンビア特別区自治法(旧)により地方自治権を持つコロンビア特別区となった。特別区内には自治権を持つ市や郡があり、その一つが首都たるワシントン市だった。しかし1871年のコロンビア特別区自治法(新)により特別区内の全ての自治体は特別区に統合された。 この歴史的な経緯から、かつての呼び名である「Washington, District of Columbia」 がしばしば使われる。ただしこれは「コロンビア特別区のワシントン市」という意味の語句であり、かつての正式名称というわけではない。またそれゆえ、これを和訳する場合は(語順どおりにワシントン・コロンビア特別区ともするが)直訳はコロンビア特別区ワシントンとなる。 略してワシントンD.C.と呼び、米国ではWashington、The District、または単にD.C.とも通称する。日本語では首都ワシントンまたはワシントンと呼ぶことも多い。 "D.C." は "District of Columbia"(コロンビア特別区)の頭文字で、南アメリカのコロンビア共和国と同様にクリストファー・コロンブスに因む名である。日本語ではワシントンD.C.を単に「ワシントン」と呼び、(ワシントンD.C.と識別するため)ワシントン州を「ワシントン州」と呼ぶことが多い。 アメリカ合衆国憲法第1条第8節第17項によって、連邦議会にアメリカ合衆国の首都を設立する権限が与えられた。同条によれば、「ある州が譲渡し、連邦議会が受諾することにより、合衆国政府の所在地としての地区(ただし10マイル四方を超えてはならない)」が認められた。ジェームズ・マディソンは、1788年1月23日の『ザ・フェデラリスト』第43篇で、合衆国の首都は、その持続と安全のため、各州からは別個のものとすべきだとして、連邦の管轄する区域の必要性を説明した。1783年には、フィラデルフィアに置かれていた連邦議会に対し、兵士らの暴動により攻撃が加えられたことも、合衆国政府が安全に配慮する必要性があることを強調することとなった。 憲法は新たな首都の場所を特定していなかったが、マディソン、トーマス・ジェファーソン及びアレクサンダー・ハミルトンの3人は、1790年、首都を南部に置くことを条件に、合衆国が州の発行した戦時負債を肩代わりするとの合意に達した(後に1790年協定として知られる)。 1790年7月16日、首都立地法により、新しい恒久的な首都がポトマック川河畔に置かれることになり、詳細はジョージ・ワシントン大統領により選定されることとなった。当初の形は、合衆国憲法により認められていた通り、一辺が10マイル (16 km) のダイヤモンド型で、100平方マイル (260 km) であった。新首都建設のためメリーランド州とバージニア州が領土の一部を割譲し、新しい「連邦の市」はそのうちポトマック川の北岸に建設されることとなった。もっとも、同じ100平方マイルの地区内にはすでに2つの独立した自治体(1749年に設立されたアレクサンドリア市と、1751年に設立されたジョージタウン市)があった。1791年9月9日、この連邦の市はジョージ・ワシントンに敬意を表してワシントン市と命名され、この100平方マイルの地区全体はコロンビア区 (Territory of Columbia) と名付けられた(コロンビアは、当時合衆国を指す詩的な名称として使われていた言葉である)。連邦議会は、1800年11月17日、ワシントンで最初の議会を開催した。 1801年のコロンビア特別区基本法 (The Organic Act) により、正式にコロンビア特別区が編制され、アレクサンドリア市、ジョージタウン市、ワシントン市を含む連邦の管轄地域全体が、連邦議会の排他的支配下に置かれた。さらに、特別区内で自治体に組み込まれていない領域は、二つの郡 (county) に組織された。すなわち、ポトマック川北岸のワシントン郡と南岸のアレクサンドリア郡である。同法制定後は、特別区内の市民はメリーランド州やバージニア州の住民ではなくなり、議会の代表権もなくなることとなった。 米英戦争の中、1814年8月24日から25日にかけて、イギリス軍がアメリカ軍によるヨーク(現在のトロント)焼き討ちの報復として首都を焼き討ちした(ワシントン焼き討ち)。議会議事堂、財務省、ホワイトハウスはこの攻撃の中で焼かれ、破壊された。ほとんどの政府の建物は速やかに修復されたが、議事堂は大規模な建設工事が行われ、1868年になって初めて完成を見た。 1830年代、特別区の南にあるアレクサンドリア郡は、より内陸に位置しチェサピーク・オハイオ運河に面したジョージタウン港との厳しい競争などにより経済的に落ち込んでいた。当時、アレクサンドリアは奴隷貿易の主要な市場であったが、奴隷廃止論者が首都における奴隷制を終わらせようとしているとの噂が流れた。富をもたらす奴隷貿易ができなくなることを避ける目的もあって、1846年、アレクサンドリアのバージニア州への返還の可否について住民投票が行われ、可決された。同年7月9日、連邦議会は、特別区のうちポトマック川より南の領域(約100km)をバージニア州に返還することに同意した。この土地は現在はアーリントン郡に属し、アレクサンドリア市の一部をなす。この結果、ワシントンD.C.は頂点を北に向けた正方形のうち、南西部の川に区切られた区画を除いた形をなすことになった。なお、その4年後、1850年協定により、特別区内における奴隷貿易(奴隷制そのものではない)が禁止された。 ワシントンは、1861年の南北戦争勃発までは小さな町であった。南北戦争によって合衆国政府は大きく膨張し、それにより町の人口も著しく増大した。解放奴隷の大量の流入もこれに寄与した。1870年までに、特別区の人口は、13万2000人近くにまで増えた。しかし町の成長にもかかわらず、ワシントンの道路は未舗装であり、基本的な衛生設備もないなど、条件が非常に悪かったため、首都を別の場所に移転することを提案する連邦議会の議員もいた。 1871年のコロンビア特別区基本法 (District of Columbia Organic Act of 1871) により、連邦議会は特別区全体の新しい政府を創設し、ワシントン市、ジョージタウン市及びワシントン郡を一つの自治体に統合した。これをもって現在のワシントンD.C.が形作られ、この町が「ワシントン」と「コロンビア特別区」の両方の名前で知られているのはこのためである。同じ法律の中で、連邦議会は公共事業委員会を設立し、町の近代化に当たらせた。1873年、ユリシーズ・グラント大統領は、同委員会の最も有力なメンバーであるアレクサンダー・シェパードを新たに設置された知事職に任命した。その年、シェパードは2000万ドルを公共事業に費やし(2007年は3億5700万ドル)、ワシントンの近代化を行ったが、同時に財政を破綻させることにもなった。1874年、連邦議会はシェパードの知事職を廃止して直接統治を選んだ。更なる町の改修作業は、1901年に行われたマクミラン・プラン (McMillan Plan) を待たなければならなかった。 特別区の人口は、しばらくの間比較的安定していたが、1930年代の世界恐慌ではフランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策立法により、ワシントンの官僚が増加した。第二次世界大戦で政府の活動は更に増大し、首都における政府職員の数も増加した。1950年までに、特別区の人口は80万2178人というピークに達した。 1961年、アメリカ合衆国憲法修正第23条により、ワシントンD.C.市民に初めて大統領選挙の選挙権が与えられた。コロンビア特別区全体に対して、人口の最も少ない州に与えられる、選挙人3人の定数が確保された。 公民権運動の指導者キング牧師が1968年4月4日に暗殺された後、特別区(主に北西地区のUストリート、14番ストリート、7番ストリート)で暴動が発生した。暴動は3日間続き、1万3000人以上の連邦軍とコロンビア特別区州兵がようやく鎮圧に成功した。多くの店やその他の建物が焼かれ、多くが1990年代後半に再建されるまで荒廃したままであった。 1973年、連邦議会はコロンビア特別区地方自治法 (Home Rule Act) を制定し、特別区に公選制の市長と議会を導入することとした。1974年、市長の公選が行われ、1975年、行政委員会委員長であった民主党のウォルター・ワシントン (Walter Washington) が特別区初めての公選の市長、かつ特別区初めての黒人の市長となった。 1979年、マリオン・バリー (Marion Barry) が市長に選ばれ、4年間の任期を3期連続で務めた。しかし麻薬の使用が噂され、3期目の任期半ばの1991年にはFBIのおとり捜査によりクラック・コカイン所持使用で現行犯逮捕され、公判で禁錮6か月の実刑判決を受けた。この不祥事でバリーは次の選挙には出馬しなかった。 1991年、次に市長となったシャロン・プラット・ケリー (Sharon Pratt Kelly) は、アメリカの大都市で初めて市長になった黒人女性である。1994年、ケリーの任期が満了すると、バリーが市長に返り咲いた。1998年、エール大学卒の弁護士、アンソニー・ウィリアムス (Anthony Williams) が市長に選ばれて2期務め、2007年1月から2011年1月までアドリアン・フェンティ (Adrian Fenty) が、2011年1月から2015年1月までビンセント・グレー (Vincent C. Gray) が市長を務めている。2015年1月、ミューリエル・バウザー(Muriel Bowser)が第8代のワシントンD.C.政府の市長に就任し現在に至っている。 1995年までに、市は債務超過のため支払不能になりかけていた。これを受けて、連邦議会はコロンビア特別区財政管理委員会を設立し、市のすべての支出を監督させることとした。特別区は、2001年9月に財政管理権限を回復し、同委員会の活動は中止された。 2001年9月11日、テロリストがアメリカン航空77便をハイジャックし、ワシントンD.C.郊外のバージニア州アーリントンにある国防総省(ペンタゴン)に航空機を突入させた。ユナイテッド航空93便もホワイトハウスまたは連邦議会議事堂のいずれかを標的としていたが、同機はペンシルベニア州シャンクスヴィル近くで墜落した。ペンタゴンへの攻撃が行われた場所には、2008年9月11日、ペンタゴン記念館がオープンした。 ワシントンD.C.は、全部で68.3平方マイル (177 km) の市域を有し、そのうち61.4平方マイル (159 km) が陸地、6.9平方マイル (18 km, 10.16%) が水面である。特別区は、当初100平方マイル (260 km) の面積を有していたが、1846年に南の一部をバージニア州に返還したため、この面積となっている。現在の市域は、メリーランド州から割譲された領域のみから成っている。そのため、ワシントンD.C.は南東・北東・北西をメリーランド州に、南西をバージニア州に囲まれている。特別区内には、三つの大きな天然の河川がある。ポトマック川、アナコスティア川、ロック・クリークである。アナコスティア川とロック・クリークはポトマック川の支流である。北西部のポトマック川河畔にはダンバートン・オークスが位置する。 合衆国首都設置法は、ワシントン大統領に、東はアナコスティア川の河口までの範囲で新しい首都の正確な位置を選ぶ権限を与えた。しかし、ワシントン大統領は、区の南端にアレクサンドリア市を含むようにするため、この連邦の領域の境界を南東に動かした。1791年、連邦議会はワシントン大統領の選んだ区域を認めるため、合衆国首都設置法を修正し、これによりバージニアから割譲された領域も含まれることとなった。この場所は、多くの利点を有していた。ポトマック川は特別区まで航行可能であり、船による交通が可能であった。また、アレクサンドリアとジョージタウンの既成の港は、市にとって重要な経済的な基盤を提供した。さらに、内陸の特別区は、北西部領土に近かった。1791年から1792年にかけて、アンドリュー・エリコットとベンジャミン・バネカーが特別区の境界を調査し、1マイルごとに境界石を設置した。その多くが今も残っている。 一般に伝えられるところとは異なり、ワシントンD.C.は沼地を埋め立てて建設されたわけではない。確かに二つの川とその他の小川に沿って湿地が広がっていたものの、特別区の領域のほとんどは農地と樹木に覆われた丘から成っていた。特別区内で、自然の状態で最も高い地点は、海抜125メートルのテンリータウンである。最も低い地点は海水面と同じポトマック川である。ワシントンD.C.の地理的な中心点は、北西地区の4番ストリートとLストリートの交差点付近に位置する。 アメリカ合衆国国立公園局は、ロック・クリーク公園、チェサピーク・オハイオ運河自然歴史公園、ナショナル・モール、セオドア・ルーズベルト島、アナコスティア公園など、ワシントンD.C.の自然生育地のほとんどを管理する。国立公園局による管理外の重要な自然生育地としては、農務省の管轄である国立森林公園があるのみである。ポトマック川の上流(ワシントンD.C.の北西)にはグレイト・フォールズ (Great Falls) がある。19世紀には、輸送船の交通がこの滝を迂回できるようにするため、ジョージタウンに端を発するチェサピーク・オハイオ運河が用いられた。 1965年、リンドン・ジョンソン大統領はポトマック川を「国の恥」と呼び、1966年の清流回復法 (the Clean Water Restoration Act) の必要性を訴える材料とした。現在では、この川は活気のある暖水漁業の場となっており、自然に繁殖したハクトウワシも川岸に戻った。高度に都市化した景観にもかかわらず、ワシントンD.C.は、都市における野生生物の管理、外来種の管理、都市流水の回復、都市流水における水エコロジーなどの研究の中心地となっている。国立公園局の都市エコロジーセンターは、この地域における専門的知見と応用科学を提供する場となっている。 ワシントンD.C.の気候は、ケッペンの気候区分によれば温暖湿潤気候 (Cfa) であり、これはアメリカの中部大西洋岸諸州のうち海域から離れた地域に典型的に見られる気候である。四季がはっきり分かれており、春と秋は温暖で湿度も低いのに対し、冬は低温が続き、1年に平均 420mm も降雪量がある。冬の最低気温は、12月中旬から2月中旬にかけては零下 1°C (30°F) くらいになることが多い。まれではあるが、猛烈な吹雪が2、3年ごとにワシントンD.C.を襲い、最低気温は −15°C を下回る。最も激しい嵐は、ノーイースターと呼ばれ、これはアメリカ東海岸全体に影響を及ぼすのが普通である。夏は高温多湿になる傾向があり、7月と8月の日中最高気温は平均 30°C 前後(80°F台)である。夏には高温・多湿という組み合わせのため、激しい雷雨が非常に頻繁に発生し、場合によってはこの地域に竜巻を発生させることもある。 ハリケーン(熱帯低気圧)ないしそれが温帯低気圧化したものが、夏の終わりから初秋にかけてこの地域を通過することが時々ある。ワシントンD.C.は内陸に位置していることもあって、ハリケーンはここに来る頃には勢力が弱まっていることが多い。しかし、満潮・高潮・雨水が合わさることによって引き起こされるポトマック川の氾濫は、ジョージタウンやバージニア州アレクサンドリア近くにまで大規模な財産的被害をもたらすことが知られている。 記録されている史上最高気温は1930年7月20日と1918年8月6日の 41°C (106°F) である。史上最低気温は1899年2月11日の零下 26.1°C (−15°F) であり、これは1899年の記録的猛ふぶき (the Great Blizzard) の時のものである。32°C (90°F) を超える日数は平均36.7日であり、氷点下になる夜は平均64.4日である。 ワシントンD.C.は計画都市である。ワシントン市の設計は、ピエール・シャルル・ランファンの労によるところが大きい。ランファンはフランス生まれの建築家・技師・都市設計家であり、当初、軍の技師としてラファイエットと共にアメリカ植民地に来た。1791年、ランファンはバロック様式を基に基本計画を作成した。これは、環状交差路から放射状に広い街路が伸びているものであり、開かれた空間と景観作りを最大限に重視したものであった。しかし、20世紀初頭には、開放された公園と壮麗な国の記念建造物というランファンの都市計画の構想は、スラム街や乱開発された建物によって損なわれてしまっていた。その中にはナショナル・モールの中の鉄道の駅もあった。1900年、連邦議会は、ジェームズ・マクミラン上院議員率いる両院合同協議会を設置し、ワシントンD.C.の儀礼の中心地の美化に当たらせた。マクミラン計画として知られるこの計画は1901年に仕上がり、その中には連邦議会議事堂の敷地やナショナル・モールの景観再整備、新しい連邦の建物・記念館の建設、スラム街の一掃、全市を横断する新しい公園のシステムの構築が含まれていた。委員会から任命された建築家たちは市の本来の設計には手を加えなかった。建築家たちのなすべきことは、ランファンの意図したデザインの壮大な仕上げをすることであると考えられた。 1899年に12階建てのカイロ・アパートメント・ビルが建設された後、連邦議会は建造物の高さを制限する法律 (the Heights of Buildings Act) を可決し、連邦議会議事堂より高い建物を建ててはならないと宣言した。この法律は1910年に改正され、建物の高さが、面する道路の幅員に20フィート (6.1m) を加えた長さを超えないよう規制された。今日、ワシントンD.C.の建物群のシルエットは低く広がっており、トーマス・ジェファーソンの、ワシントンD.C.を「低層で便利な」建物と「明るく風通しのよい」街路を備えた「アメリカのパリ」にしたいという願いに忠実である。その結果、ワシントン記念塔がずっとワシントンD.C.で最も高い建造物のままである。しかしながら、ワシントンD.C.の高さ制限は、同市で廉価な住宅が限られていることやスプロール現象による交通問題の発生の最大の原因であるとして、批判されている。ワシントンD.C.の高さ制限を逃れるため、ダウンタウンの近くとしては、ポトマック川の対岸にあるバージニア州ロズリンに高層の建物が建てられることが多い。 ワシントンD.C.は四つの地区 (quadrant) に不均等に割られている。北西地区 (Northwest)、北東地区 (Northeast)、南東地区 (Southeast)、南西地区 (Southwest) である。各地区の境界を画す軸は連邦議会議事堂から放射状に伸びている。すべての通りの名称には、地区名の省略形(NWなど)が付いており、その場所を明らかにしている。市内のほとんどの地域で、街路は碁盤目状に整備されており、東西方向の通りにはアルファベットで(例えばC Street SW)、南北方向の通りには数字で(例えば4th Street NW)名前が付けられている。環状交差路から放射状に伸びる街路には、主に各州の名前が付けられており、50州すべてが名称の中に含まれている。ワシントンD.C.の街路の中には、特に注目すべきものがある。ペンシルベニア大通り は、ホワイトハウスと連邦議会議事堂を繋いでおり、Kストリートには多くのロビー団体の事務所が入居している。ワシントンD.C.には172か国の外国の大使館があるが、そのうち57の大使館はマサチューセッツ通り (Massachusetts Avenue) の地区にあり、正式名称ではないが大使館通り (Embassy Row) として知られている。 ワシントンD.C.の建築物はバラエティに富んでいる。アメリカ建築家協会が選ぶ2007年の「アメリカ建築傑作選」では、10位までにランクされた建物のうち6つがワシントンD.C.にある。すなわち、ホワイトハウス、ワシントン大聖堂、トマス・ジェファーソン記念館、連邦議会議事堂、リンカーン記念館、ベトナム戦争戦没者慰霊碑である。これら6つの建築はすべて新古典主義、ジョージ王朝様式、ゴシック様式および近代建築のスタイルを反映しており、他のワシントンD.C.の主要な建物も同様である。特筆すべき例外としては、第二帝政様式によるアイゼンハワー行政府ビル(旧行政府ビル)やアメリカ議会図書館などがある。 ワシントンD.C.の中心市街を離れると、建築様式はさらに多様化する。「オールド・シティー」(ランファンによって設計された地域)では、歴史的建造物は主にアン女王様式、シャトーエスク様式、リチャードソン・ロマネスク様式、新ジョージア王朝様式、ボザール様式、また様々なビクトリア朝様式で設計されている。オールド・シティーでは19世紀からのロウハウス(長屋)が特に目立っており、連邦様式や後期ビクトリア朝様式に従うものが多い。ジョージタウンは、ワシントン市よりも先に建設されたため、この地域はワシントンD.C.の中でも最も古い建築物を誇る。ジョージタウンのオールド・ストーン・ハウスは1765年に建てられ、市内で最古の遺構となっている。もっとも、この地域における現在の住宅のほとんどは1870年代になって初めて建てられたもので、当時の後期ビクトリア朝様式を反映している。1789年に創立されたジョージタウン大学は、周囲の建物とはさらに一線を画しており、ロマネスク様式とゴシック・リヴァイヴァル建築が融合した建築が特徴である。 2010年の国勢調査によれば、ワシントンD.C.の居住者人口は601,723人で、2000年国勢調査の572,059人以来、増加傾向が続いている。これは50年来の減少傾向からの反転である。他方、労働時間帯には、近郊からの通勤により、ワシントンD.C.の人口は推計で71.8%膨らみ、日中人口は100万人を超えるとされている。周辺のメリーランド州やバージニア州の一部を含むワシントン首都圏は、2010年の国勢調査で約558万人の居住者を抱える。ボルチモア及びその近郊も併せたワシントン・ボルチモア・北バージニア広域都市圏は、2010年の国勢調査では850万人を超える居住者人口を抱えている。 以下にワシントンD.C.における1800年から2010年までの人口推移を表およびグラフで示す。 2010年における人口の割合は、50.7%がアフリカ系アメリカ人(黒人)、38.5%がコーカサス系(白人)、9.1%がヒスパニック(人種は様々)、4.4%がその他(インディアン、アラスカ先住民、ハワイ先住民、南洋諸島先住民など)、3.5%がアジア系、2.9%が混血である。黒人はワシントンD.C.で最も多くを占めるものの、郊外へ去る者が多いため、その人口は一貫して減少傾向にある。同時に、ワシントンD.C.で昔から黒人の居住地域だった多くの場所が高級住宅化していることもあり、白人の人口は一貫して増加傾向にある。このことは、2000年と比べて、アフリカ系アメリカ人の人口が6.2%減少し、反対にコーカサス系は13.8%増加していることに表れている。移民の主な出身地としては、エルサルバドル、ベトナム、エチオピアなどがあり、エルサルバドル人はマウント・プレザント近辺に集まっている。 2000年の国勢調査によって、ワシントンD.C.の成人のうち推計3万3000人が自らをゲイ、レズビアンまたはバイセクシュアルだと考えていることが明らかになった。これは市の成人人口の8.1%に当たる。このようにLGBTの人口は相当大きく、また政治的風土もリベラルだが、連邦議会における反対論も原因して、同性結婚はワシントンD.C.の法律では認められていない。しかし、家庭内パートナーシップ法 (Domestic partnership law) によって、同性のカップルも、他の法域で認められているシビル・ユニオンと似た法的取り扱いを受けることができる。 2007年の報告によって、ワシントンD.C.の居住者の3分の1が機能的非識字(仕事や日常生活上の読み書き能力が不十分な状態)であることが分かった(全国における割合は5分の1)。英語に習熟していない移民もその一つの原因であると考えられている。2005年に行われた研究では、ワシントンD.C.の5歳以上の居住者のうち85.16%が家で英語のみを使用しており、8.78%がスペイン語を使用していることが分かった。フランス語がそれに次いで1.35%である。機能的文盲率の高さとは対照的に、ワシントンD.C.の居住者のうち45%が少なくとも4年制大学の学位を持っており、国内で4番目に高い割合である。 また、2000年のデータによると、半数以上の居住者が自分をキリスト教徒だと考えている。28%がカトリック、6.8%が南部バプテスト連盟、1.3%が正教会(ギリシャ正教)又は東方諸教会、21.8%が他のプロテスタント教派である。イスラム教徒は人口の10.6%、ユダヤ教徒は4.5%、26.8%は無宗教である。 この地に先住したインディアン部族はコノイ族、デラウェア族、ナンチコーク族、ポウハタン族、ショーニー族、サスケハンナ族など。そのことごとくがアメリカ政府に虐殺され、19世紀には他州へと強制移住させられた。この地に残ったインディアン部族はすべて「絶滅部族」とみなされ、保留地 (Reservation) を没収されていて、部族単位では存在しないことになっている。 1944年にワシントンD.C.に結成された「アメリカインディアン国民会議 (National Congress of American Indians)」は、インディアン寄宿学校で白人同化教育を受けた、全米のインディアンたちによる初の本格的なロビー運動組織である。彼らは「大声でほえまくる赤い番犬」と呼ばれたが、活動自体は保守的で、AIM などとは違い、若い世代からは「白人寄り」と批判された。 2004年には、この地に全米のインディアン部族の文化展示を目的とした「国立アメリカ・インディアン博物館」が開設された。 ≪アメリカ連邦政府に公認要求中のインディアン部族≫ 現在のところ、ワシントンD.C.でインディアン部族が運営する「インディアン・カジノ」は一軒もない。同地ではインディアン部族は存在しないことになっており、今後も開設される望みは薄い。 1990年代初頭に凶悪犯罪の波が訪れた時、ワシントンD.C.はアメリカの「殺人首都」 (murder capital) として知られ、殺人事件の発生数において、ルイジアナ州ニューオーリンズとしばしば肩を並べていた。謀殺(計画的殺人)の発生件数は1991年に482件だったが、1990年代を通じて犯罪の激しさは大幅に緩和した。2006年までに、市内における謀殺の件数は169件にまで減少した。窃盗や強盗など各種の財産犯も、同様の割合で減少した。 また、2012年は殺人件数が88件と減少し1961年以来最低の値であった。 そして、2019年は2012年の約1.9倍の166件であった。人口比で見ると2019年は、23.5件(全米平均:5.0件)と全米平均より高く、州別で見るとワースト1である。 また、殺人事件被害者の8割前後が黒人男性であり、凶器も約8割が銃器を使用している。 多くの大都市と同様、犯罪の発生率が高いのは違法薬物やギャングと関係のある地域である。より富裕な地域のワシントンD.C.北西地区(高級住宅街のジョージタウンなど)では犯罪発生率は低いが、東に行くに従って増加する。コロンビア・ハイツやローガン・サークルのように、一時は凶悪犯罪がはびこったものの、ジェントリフィケーション(高級住宅化)の影響を受けて安全と活気を取り戻しつつある地域も多い。その結果、ワシントンD.C.における犯罪は、さらに東方、メリーランド州プリンスジョージ郡との境界を越えるところまで追い払われつつある。 特に危険なのは市南東部のアナコスティア地区 (Anacostia) である。ワシントンD.C.で起こる殺人の約3分の1はこのアナコスティア地区内で発生している。1950年代までは白人の中流階級の住宅地だったが、州間高速道路の発達により人口が郊外へ流出、住民層が大きく変わり、治安が著しく悪化した。現在、この地区の黒人人口率は92%に達する。また、市の北東部も治安の悪い地域である(右図参照)。市境を越え、メリーランド州側にも治安の良くないエリアが広がっている。 2008年6月26日、連邦最高裁判所は、ワシントンD.C.対ヘラー事件において、ワシントンD.C.が1976年に行った拳銃の所持禁止は、アメリカ合衆国憲法修正第2条で定められた銃所持の権利を侵すものだと判示した。もっとも、この判決は、どのような形での銃規制も一律に禁止するものではない。銃器の登録制を定める法律は依然有効で、ワシントンD.C.による殺傷能力の高い攻撃用武器の禁止も有効である。 2020年代になると中心部では金銭ではなくゲーム感覚で犯行を楽しむカージャックが多発しており、ジョージタウン大学のケビン・M・ドーク教授は中心部に行くのが恐ろしいと語る状況となっている。 治安機関として自治体警察ワシントンD.C.首都警察が置かれている。 ワシントンD.C.では、経済が多角的に成長しつつあり、専門的職業やホワイトカラーのサービス業の割合が増加している。ワシントンD.C.の2007年における州民総生産は938億ドルで、これは50州と比較すると35位に位置付けられる。2008年3月の時点で、連邦政府がワシントンD.C.における雇用の27%を占めている。このために、ワシントンD.C.は全国的な経済の停滞の影響を受けていないと考えられている。連邦政府の活動は景気後退期においても継続するからである。もっとも、2007年1月時点で、ワシントン地域の連邦職員は、全米の連邦職員数の14%を占めるに過ぎない。法律事務所、独立契約就業者(インディペンデント・コントラクター。軍事関係と非軍事の双方がある)、非営利団体、ロビー団体、全国労働組合、職業団体といった多くの組織が、連邦政府に近接した場所を求めて、ワシントンD.C.内またはその近郊に本部を置いている。2008年5月現在、ワシントン首都圏の失業率は3.5%で、国内40の大都市圏の中で最も低い。これは、同時期の全国平均失業率の5.2%と比べても低い。 ワシントンD.C.では政府関連の産業、特に教育、金融、科学研究の分野が成長している。非政府関連としては、ジョージ・ワシントン大学、ジョージタウン大学、ワシントン病院センター、ハワード大学、連邦住宅抵当公庫が市内における雇用主体の上位5位である。ワシントンに本拠を置くフォーチュン1000企業(フォーチュン誌が選ぶ上位1000企業)は5社あり、そのうち2社はフォーチュン500にも入っている。ワシントンD.C.は、国際不動産投資においてはロンドン、ニューヨーク、パリに次ぐ先進的地位を得ている。2006年、「エクスパンション・マガジン」誌は、D.C.を国内で最もビジネスの拡大に適した10の地域の一つに挙げた。ワシントンは、商業オフィスの面積に関しては、ニューヨーク、シカゴに次いでアメリカで第3に大きい商業地域を有している。 ワシントンD.C.では、ジェントリフィケーション(高級住宅化)の努力が実りつつあり、特にローガン・サークル、ショー、コロンビアハイツ、Uストリート地帯、14番ストリート地帯の近隣で著しい。いくつかの地域では、1990年代末の地下鉄(メトロ)グリーンラインの敷設により開発が進んだ。地下鉄網によって、これらの地域は商業地域と結ばれた。2008年3月にコロンビアハイツにできた新しいショッピングモールは、ワシントンD.C.で40年ぶりの新しい大規模ショッピングセンターとなった。多くの都市と同様、ジェントリフィケーションはワシントンD.C.の経済を活性化させているが、その利益が均等に配分されているとはいえず、貧困層にとっては直接の救いになっていない。例えば、ワシントンD.C.の失業率は市の中で大きく異なっている。2008年5月において、北西地区北部の裕福な第3地区では失業率が1.7%だったのに対し、南東地区の貧しい第8地区では17.2%であった。2005年において、アメリカの50州と比較すると、ワシントンD.C.は1人当たり収入が高いものの、貧困率もまた高く、全住民における経済的格差を際立たせている。 2017年のイギリスのシンクタンクの調査によると、世界12位の金融センターであり、アメリカの都市では5位である。 ナショナル・モールは、ワシントンD.C.の中心にある、広大で開放されたエリアである。モールの中心にはワシントン記念塔がある。また、モールの中には、リフレクティング・プールの西端と東端にリンカーン記念館と第二次世界大戦記念碑があるほか、朝鮮戦争戦没者慰霊碑、ベトナム戦争戦没者慰霊碑、アルバート・アインシュタイン記念碑もある。国立公文書館には、アメリカ史にとって重要な何千もの文書が収蔵されており、その中にアメリカ独立宣言、アメリカ合衆国憲法、権利章典の原本も含まれている。 モールのすぐ南、タイダル・ベイスン(ポトマック川に隣接する池)は、桜並木で彩られている。この桜は日本から贈られたものである。タイダル・ベイスンの周りには、フランクリン・ルーズベルト記念公園、トマス・ジェファーソン記念館、D.C.戦争記念碑がある。 スミソニアン協会は、1846年に連邦議会によって創設された教育目的の基金で、ワシントンD.C.内にある国立の博物館・美術館のほとんどを管理している。アメリカ合衆国政府がスミソニアン協会に一部資金を提供しており、収蔵品を入場料無料で公開しているのはこのためである。スミソニアンの博物館の中でも最も来場者が多いのが、ナショナル・モール内にある国立自然史博物館である。このほかに、モール内にあるスミソニアンの博物館・美術館としては、国立航空宇宙博物館、国立アフリカ美術館、国立アメリカ歴史博物館、国立アメリカ・インディアン博物館、アーサー・M・サックラー・ギャラリー、フリーア美術館(サックラー・ギャラリーとフリーア・ギャラリーはいずれもアジアの美術・文化に焦点を当てている)、ハーシュホーン博物館と彫刻の庭、芸術産業館、スミソニアン協会本部(「キャッスル」とも呼ばれる)がある。 スミソニアン・アメリカ美術館(正式には国立アメリカ美術館、National Museum of American Art)と国立肖像画美術館 は、ドナルド・レイノルズ・センターという、チャイナタウン近くの同じ建物に入っている。レイノルズ・センターは旧特許庁ビルとも呼ばれている。レンウィック・ギャラリー (Renwick Gallery) は、正式にはスミソニアン・アメリカ美術館の一部だが、ホワイトハウス近くの分館にある。その他のスミソニアン博物館・美術館としては、南東地区のアナコスティア博物館、ユニオン駅近くの国立郵便博物館、ウッドリー公園内の国立動物園がある。 ナショナル・ギャラリーは、ナショナル・モール内の連邦議会議事堂近くにあるが、スミソニアン協会のものではない。完全にアメリカ合衆国政府が所有しており、そのためこれも入場料が無料となっている。ギャラリーの西館では、19世紀のアメリカ、ヨーロッパ美術の収蔵品にスポットが当てられている。東館は、建築士のイオ・ミン・ペイによって設計されたもので、現代美術を取り扱っている。スミソニアン・アメリカ美術館と国立肖像画美術館はよくナショナル・ギャラリーと間違われるが、実際は完全に別の組織である。ジュディシャリー・スクエア近くのナショナル・ビルディング博物館 (National Building Museum) は連邦議会が創設したもので、その時々の特別展を行っている。 ワシントンD.C.には私設の美術館も多く、重要な収蔵品・展示品を一般に公開している。女性芸術美術館 (National Museum of Women in the Arts)、コーコラン・ギャラリー(Corcoran Gallery。ワシントンD.C.で最大の私設の美術館)、デュポン・サークルにあるフィリップス・コレクション(Phillips Collection。アメリカで最初の、現代美術を扱う美術館)などである。その他、ワシントンD.C.内の私設の博物館としては、ニュージアム (Newseum)、国際スパイ博物館 (International Spy Museum)、ナショナルジオグラフィック協会博物館、科学博物館 (Marian Koshland Science Museum) がある。ナショナル・モール近くのホロコースト記念博物館 (Holocaust Memorial Museum) では、ホロコーストに関する展示品、文書、工作物が保管されている。 ワシントンD.C.は、国内の芸術の中心地の一つである。ジョン・F・ケネディ・センターは、ワシントン・ナショナル交響楽団、ワシントン・ナショナル・オペラ (Washington National Opera)、ワシントン・バレエ (Washington Ballet) の本拠地である。毎年、舞台芸術の分野でアメリカの文化に大きく貢献した人に対し、ケネディ・センター名誉賞が与えられる。大統領とファーストレディが名誉賞の授賞式に出席するのが通例である。これは、ファーストレディがケネディ・センター理事会の名誉会長であるためである。 アリーナ・ステージ (Arena Stage) は、アメリカで最も早い時期にできた非営利の地方劇場の一つで、1シーズンに古典的作品や新しいアメリカ演劇などを取り上げた八つの舞台を上演する。シェークスピア劇場 (Shakespeare Theatre) は、1985年に設立された非営利の劇場で、その古典的演劇に対する再解釈や演出手法に対しては、評論家から「世界で最も素晴らしい三つのシェークスピア劇場のうちの一つ」と評価されている。 ワシントン北西地区のUストリート地帯は、「ワシントンのブラック・ブロードウェイ」として知られる。ボヘミアン・カバンズ(Bohemian Caverns、ナイトクラブ)やリンカーン・シアター (Lincoln Theatre) があり、そこではワシントン生まれのデューク・エリントン、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィスなど音楽史の伝説的人物が演奏していた。その他のジャズクラブとして、アダムズ・モーガンにあるマダムズ・オーガン (Madam's Organ) やジョージタウンにあるブルース・アリーなどがあり、モダン・ブルースが演奏されている。 ワシントンD.C.には、ここで生まれたゴーゴー (Go-go) と呼ばれる固有の音楽ジャンルがある。ファンクを受け継ぎ、駆り立てるようなパーカッションとR&Bの味わいが、ライブのセッションと激しいダンスのリズムを一体化させている。最も成功したミュージシャンが、D.C.のバンドを率いたチャック・ブラウン (Chuck Brown) で、彼は1979年のレコード"Bustin' Loose"でゴーゴーを全国の注目の的とした。 ワシントンD.C.は、アメリカのインディーズ文化・音楽にとっても重要な中心地である。イアン・マッケイの作ったディスコード・レコードは、1980年代のパンク・ロックや、さらには1990年代のインディー・ロックが生まれる上で最も重要な役割を担ったインディーズ・レーベルの一つである。ワシントンのインディーズ・レーベルの歴史には、ティーンビート・レコード、ディスコード・レコード、シンプル・マシンズ、ESLミュージックなどが登場する。Uストリート近くのブラックキャット (The Black Cat) や9:30クラブ (9:30 Club) といった、現代のオルタナティブ・ミュージックやインディーズ音楽を演奏するナイトクラブの存在によって、大衆的な音楽は、より小規模でうち解けた雰囲気のクラブに持ち込まれている。1964年2月に渡米中のビートルズがコロシアムでコンサートを行った。その模様は撮影され、メンバーの帰国後に映画で上映され(関係者やビートルズがそれを知ったのはずいぶん経ってからだった)、後に「コンプリート・ビートルズ」や「ザ・ビートルズ・アンソロジー」やビートルズ関連の作品に使用されている。 ワシントンD.C.は、国内そして国際メディアの一大中心地である。ワシントン・ポストは1877年に創刊され、ワシントンD.C.で最も歴史があり、かつ最も購読者が多いる日刊地方紙である。同紙で最も注目されるのは、国内・国際政治についての取材範囲の広さ、そしてウォーターゲート事件の暴露である。同紙――「ザ・ポスト」と広く呼ばれている――は、ずっと3つの版しか印刷していない。それぞれワシントンD.C.、メリーランド州、バージニア州向けのものである。広域の全国版はないにもかかわらず、同紙は2008年3月現在において国内の全日刊紙の中で6番目に多い発行部数を誇っている。ワシントン・ポスト社は、「エクスプレス」というフリーの通勤客向け日刊紙を発行しており、時事、スポーツ、エンターテイメントを短くまとめている。また同社はスペイン語紙 El Tiempo latino も発行している。国内で最大の発行部数を有する日刊紙であるUSAトゥデイは、本部をバージニア州マクリーン近郊に置いている。 そのほかの日刊地方紙としてワシントン・タイムズ、週刊のオルタナティブ紙としてワシントン・シティ・ペーパーの両紙も、ワシントン地域で相当数の読者を得ている。 また、地域や文化的なテーマに焦点を当てたコミュニティ紙、専門紙も多い。週刊のワシントン・ブレード紙とメトロ・ウィークリー紙は、LGBT に関する話題を取り上げたものである。ワシントン・インフォーマー紙とワシントン・アフロ・アメリカン紙は、黒人コミュニティにとっての関心事項にスポットを当てたものである。そのほか、カレント・ニューズペーパーが発行するいくつかの地区新聞がある。ヒル紙とロール・コール紙は、連邦議会と連邦政府に関する話題のみに的を絞ったものである。 ワシントン首都圏は、230万8290世帯(アメリカ人口の2.05%)を擁する、アメリカで9番目に大きなテレビのマーケットである。いくつかのメディア会社とケーブルテレビのチャンネルがワシントンD.C.に本社を置いている。C-SPAN、ブラック・エンターテインメント・テレビジョン (BET)、ナショナルジオグラフィックチャンネル、スミソニアン・ネットワークス、XMサテライト・ラジオ、ナショナル・パブリック・ラジオ (NPR)、ディスカバリー・コミュニケーションズ社(メリーランド州シルバー・スプリングに所在)、公共放送サービス(PBS。バージニア州アーリントンに所在)などがある。アメリカ政府の国際ニュースサービス「ボイス・オブ・アメリカ」(VOA) は、本部を連邦議会議事堂近くの南西地区に置いている。同じくD.C.に本拠地を置くラジオ・ワンは、アメリカで最大のアフリカ系アメリカ人向けテレビ・ラジオの複合企業で、メディア界の大物キャシー・ヒューズによって設立された。 参照:ワシントンD.C.のラジオ放送局の一覧 ワシントンD.C.は、5つの大きなプロスポーツチームの本拠地となっている。バスケットボールのワシントン・ウィザーズ (NBA) とアイスホッケーのワシントン・キャピタルズ (NHL) は、いずれもチャイナタウンにあるキャピタル・ワン・アリーナでプレーしている。2008年にD.C.南東地区にオープンしたナショナルズ・パークは、ワシントン・ナショナルズ(メジャーリーグベースボール)の本拠地である。D.C. ユナイテッド(メジャーリーグサッカー)は、アウディ・フィールドでプレーしている。フットボールのワシントン・コマンダース (NFL) は、メリーランド州ランドーバーにあるフェデックスフィールドである。 ワシントン地域には、女子プロスポーツチームもたくさんある。バスケットボールのワシントン・ミスティクス (WNBA) はキャピタル・ワン・アリーナで、ソフトボールのワシントン・グローリー(ナショナル・プロ・ファストピッチ)はウェストフィールド・ハイスクール・スポーツ・コンプレックス(バージニア州フェアファクス郡)でそれぞれプレーしている。サッカーのワシントン・フリーダムは、2009年から始まった女子プロサッカーリーグ(アメリカ女子プロサッカー、アメリカ女子サッカーリーグ (WUSA) の後を継ぐ団体)で復活、2011年よりマジックジャックに改名し、フロリダ州に移転した。 そのほかにワシントンに本拠を置くプロ又はセミプロのチームとしては、次のものがある。 アメリカンフットボール、バスケットボール、野球、アイスホッケーという4大メジャースポーツリーグのチームがすべて揃っている都市はアメリカには13しかなく、ワシントンD.C.はそのうちの一つである。これにサッカーを加えると、すべて揃っているのはワシントンD.C.を含む8都市となる。ワシントンD.C.のスポーツチームは、総計すると12回のリーグでの優勝を手にしている。そのうち4回がD.C.ユナイテッドが勝ち取ったものである(メジャーリーグサッカー史上最多である)。またワシントン・コマンダースが3回、ワシントン・ベイホークスが2回、ワシントン・ウィザーズ、ワシントン・グローリー、ワシントン・ナショナルズがそれぞれ1回である。 そのほか、ロック・クリーク公園にあるフィッツジェラルド・テニス・センターでは、レッグ・メイソン・テニス・クラシック (Legg Mason Tennis Classic) の大会が開催される。マリン・コープス・マラソン (Marine Corps Marathon) とナショナル・マラソン (National Marathon) の2つもワシントンで毎年開催される。また、ワシントン地域には、コムキャスト・スポーツネット (CSN) というスポーツ専門の地方テレビ局があり、メリーランド州ベセスダに本拠がある。プロテニスシティ・オープンも開催される。 ナショナル・モールとその周辺には、多くの観光スポットが集中している。モール内にはワシントン記念塔、リンカーン記念館などのモニュメントがあり、その周辺にはスミソニアン博物館、ナショナル・ギャラリーを代表として、多数の博物館・美術館がある。また、モールの北側や、アメリカ合衆国議会議事堂、アメリカ合衆国最高裁判所などの政府機関も一般に公開されており、観光名所として人気がある。 モールを離れて北側のナショナル・ジオグラフィック協会などや、北西側のワシントン大聖堂なども、観光名所は集中していないものの、それぞれ独自の町並みを見せており、これらの地域を訪れる人も多い。さらにワシントンメトロで結ばれている近郊の街には、アーリントン国立墓地があるアーリントンや、オールド・タウンと呼ばれる古い町並みが残るアレクサンドリアなどがある。 モールを中心に、解説を交えながらこれらの観光名所を巡回する観光用バスが多数走っており、ツアーモービル、オールド・タウン・トロリー、グレイライン・レッド・トロリー、ダックツアーなどがある。また、ユニオン駅からはナショナル・モール、タイダルベイスン湖岸を巡回する路線バス特別区循環も運行されている。 一つの地方としてのワシントンD.C.ローカルの政治傾向はリベラルであり、民主党が強く、支持者も圧倒的に多い。 アメリカ合衆国憲法1条8節17項は、合衆国の連邦議会に、ワシントンD.C.に対する最高の権限を与えている。1973年のコロンビア特別区地方自治法により、連邦議会の一定の権限が特別区のワシントンD.C.地方政府に委譲され、同政府は、ワシントンD.C.の首長であるコロンビア特別区長(現在は民主党のミューリエル・バウザー)と、条例制定権を有する地方議会のコロンビア特別区議会(定数13議席)によって運営されることとなった。もっとも、連邦議会は、コロンビア特別区議会の作った法律を審査・破棄し、またワシントンD.C.地方自治の問題について介入する権限を有している。8つの選挙区ごとに1人の市議会議員が選ばれ、これとは別に全域から議長を含む5人の議員が選ばれる。また、小地区ごとに、地区諮問委員会 (ANC) の37人の委員が選挙される。ANC は伝統的に多大な影響力を行使しており、市政府は ANC の助言に十分に配慮するのが通例である。 ワシントンD.C.市長とコロンビア特別区議会が予算を採択したとき、連邦議会はそれを変更する権限を有している。地方の所得税、売上税及び資産税が、市政府の部局や行政サービスに当てるための収入の大部分を占める。50州と同様、ワシントンD.C.は老齢者医療保険制度 (Medicare) のような連邦政府補助金プログラムからの資金を受けている。連邦議会は、このほかに市の経費の一部を補助するため、資金を直接交付しており、これは2007年度では3800万ドル(D.C.の予算の約0.5%)となっている。しかし、これらの資金提供とは別に、連邦政府が特別区裁判所(2008年で2億7200万ドルの予算)や、連邦公園警察のような連邦警察機構を運営しており、これらが市の治安の維持に貢献している。 歴史的には、市の地方政府は失策や浪費で悪名を得てきており、特にマリオン・バリー市長の時代はこれが顕著だった。1997年7月20日のワシントン・ポスト紙は、1面記事で、ワシントンD.C.の行政サービスは全国でもコストが最高で質は最低だと報じた。アンソニー・ウィリアムス市長の時代になって成功を見るようになり、都市の再生も進み、1990年代に財政の黒字化も実現し、それが今日まで続いている。2007年末に、捜査当局の調べで、租税・歳入事務所の複数の職員が、虚偽の税金還付の小切手を作出することにより、4400万ドル以上を詐取していたことが発覚した。このスキャンダルはフェンティ市政にとっての汚点となり、市民の信頼回復が最重要課題となっている。 ワシントンD.C.は、すべての連邦の休日 (Federal holiday) に従っている。そのほかに、1862年(奴隷解放宣言の9か月前)に奴隷解放補償法がエイブラハム・リンカーン大統領によって署名されたのを記念して、4月16日の奴隷解放記念日を祝日としている。この法律により、D.C.での奴隷制は終わりを迎え、およそ3100人の奴隷が解放された。 アメリカ合衆国大統領選挙の選挙人数は3人、議会の選挙区は定数1議席のコロンビア特別区全区選挙区である。 ワシントンD.C.の市民は、連邦議会に投票権のある議員を送っていない。下院では、投票権のない代議員(準議員)1名がワシントンD.C.を代表しており、現在はエレナー・ホームズ・ノートン(民主党、コロンビア特別区全区選挙区選出)がこれを務めている。代議員は、下院で委員会に出席し、議論に参加し、法案を提出する権限はあるが、議場で投票に加わることはできない。また上院には全く代表を送っていない。1961年までは大統領選挙への投票からも除外されていたが、アメリカ合衆国憲法修正第23条によって、D.C.にも選挙人団の中に3人の投票権が与えられた。プエルトリコやグアムのようなアメリカ合衆国の領域(準州)も下院に投票権のない代議員を送っている(ただし大統領選挙に参加はできない)が、両地域と異なり、ワシントンD.C.の市民はすべての連邦法と課税に服している。2007年度において、D.C.の住民と企業は204億ドルの連邦税を支払っており、これより少ない州は19州ある上、1人当たりの納税額では最大である。これに加え、公民権運動以前には南部で名ばかりの平等の下で選挙権を奪われていた黒人がD.C.の多数派であるため、当時のように間接的に黒人を投票から締め出す形になっている。 2005年の世論調査で、アメリカ人の78%が、コロンビア特別区の住民が連邦議会での代表について50州よりも低い地位しか与えられていないことを知らなかったと答えた。この問題についての認識を高めてもらおうとする運動がD.C.の官民挙げて行われている。1990年からはD.C.当局が2年ごとの連邦選挙に合わせて「影の議員」の選挙を行っており、D.C.公認の「影の上院議員」2名と「影の下院議員」1名(連邦に認められた、投票権なき代表とは別)が存在する。また2000年11月からは市の「代表なき課税(代表なくして課税なし)」という非公式のモットーを、ワシントンの車のナンバープレートに入れてアピールしている。このナンバープレートの登場時に退任直前であったビル・クリントン大統領(民主党)は、趣旨に賛同するとしてこれを大統領専用リムジンに装着した。しかし、ジョージ・W・ブッシュ新大統領(共和党)は、政治スローガンをナンバープレートに載せるべきではないとして、就任後すぐに大統領就任式記念のナンバープレートに取り替えてしまった。なおD.C.は民主党への支持が圧倒的に強固な土地柄である。 様々な世論調査によれば、アメリカ人の61%ないし82%が、D.C.は連邦議会での投票権付き代表を認められるべきだと考えている。にもかかわらず、D.C.に投票権付き代表を与えようとする試みは成功していない。その中には、D.C.州昇格運動もあり、またD.C.に上下両院選挙の投票権を付与する憲法修正案も提出されたが、いずれも成功を見ていない。1978年には州なみの上下両院議員の選出権を付与する改憲案が7年以内の批准を条件として連邦議会を通過したが、1985年までに批准した州は16州にとどまり、改憲に必要な3/4の州(38州)に遠く及ばず成立しなかった。 D.C.に投票権を与えることに対する反対論者は、アメリカ合衆国建国の父たちはD.C.の住民が連邦議会での投票権を持つことを全く意図していなかった、なぜなら憲法は代表は各州の出身でなければならないと明確に規定しているからだと主張している。また、D.C.を州に昇格させることに対する反対論者は、そのような運動は、州から切り離された国の首都という概念を破壊することになる、州とすることは一つの市に上院の代表権を与えることになり不公平であると主張している。 2016年4月15日、ミュリエル・バウザー(英語版)市長は州への昇格を問う住民投票の実施を提案し、29日に州憲法草案を発表した。特別区議会は7月10日に満場一致で住民投票の実施を決定した。新州名は最初「ニューコロンビア州 (State of New Columbia)」となっていたが、投票直前となって「ワシントンD.C.州 (State of Washington, D.C.)」に変更された。新州名のD.C.は従来の「コロンビア特別区 (District of Columbia)」ではなく、「ダグラス・コモンウェルス (Douglass Commonwealth)」の略称である。D.C.を略さず「ワシントン・ダグラス・コモンウェルス州 (Washington Douglass Commonwealth)」とも表記される。ダグラスは奴隷制度廃止運動家のフレデリック・ダグラスに由来する。コモンウェルスは合衆国において4つの州が州名に使用している表現である(コモンウェルス (米国州)を参照)。州域はナショナル・モールやホワイトハウスといった連邦政府機関を除いた特別区全域とされ、新州に含まれない地域は連邦直轄領に残留する。これは合衆国憲法第1章第8条で「連邦政府の所在地は連邦政府の直轄地であること」と定めているための措置である。住民投票は11月8日の大統領選挙と同時に実施され、結果は賛成票が約8割を占めた。 2017年に特別区の投票権のない代議員であるエレノア・ホルムズ・ノートンとデラウェア州選出のトム・カーパー(英語版)がそれぞれ下院に法案を提出するも、当時は昇格に反対的な共和党が多数派であったこともあり失敗に終わった。2018年の下院選挙(英語版)で昇格に同調的な民主党が過半数を獲得すると、2019年1月に可決した「2019年人民法 (HR 1)」において特別区の州昇格を支持する文言を取り入れた。同法案には拘束力はなく、また大統領および上院の過半数は共和党員であるため成立する可能性は低いものの、合衆国議院が初めて州昇格を承認した歴史的瞬間となった。また同時期に、特別区の合衆国加入を規定した「ワシントンD.C.合衆国加入法(英語版) (HR 51)」が提出された。 2020年5月に始まったジョージ・フロイド抗議運動では、特別区で起きた抗議運動(英語版)に対してときの大統領ドナルド・トランプは特別区州兵に鎮圧を要請。更に合衆国軍や連邦警察といった連邦機関も投入し、睡眠ガスやゴム弾を用いて議者を徹底的に排除した。過剰な対応に住民や市長は反発し、州昇格への機運が高まった。特別区州兵は連邦政府の指揮下にあり、市長には一切の指揮権がない。州であれば州兵の指揮権は州知事にあるため、大統領の一存で抗議者を強制排除するようなことが起こらないと考えられた。HR 51は6月26日に下院を通過するも、共和党党員で上院多数党院内総務を務めるミッチ・マコーネルは上院の投票の放棄を示唆。またトランプは同法案を「非常に、非常に愚か (very, very stupid)」と評した。結局HR 51は会期中に成立せず、次期に再び下院からやり直すこととなった。同年11月の大統領選挙では、HR 51を推進しているジョー・バイデン民主党候補が勝利した。また同時に実施された連邦議会選挙では、下院(英語版)は民主党が過半数を維持した一方、上院(英語版)はジョージア州の通常選挙と特別選挙がともに決選投票となり、民主党と共和党のどちらが主導権を握るかは年明けに持ち越された。 2021年1月3日、新会期が始まりHR 51は下院に再び提出された。6日、ジョージア州上院選挙の決選投票が実施され、両選挙とも民主党候補が勝利したことで民主党が上院の主導権を握り、法案可決が現実味を帯びるようになった。7日、トランプ支持者による議会襲撃事件が発生した。事件当日の13時ごろ、支持者は議事堂の敷地内へ入り建物を取り囲んだ。一部は暴徒化しており、危機感を感じた市長は国防総省へ州軍の派遣要請を行った。しかし派遣が決定したのは15時で、暴徒らは既に議事堂内に侵入していた。トランプは州兵投入について自らが直ちに行ったと主張しているがその痕跡は確認されておらず、逆に襲撃を扇動したとして批判された。前年とは正反対となる今回の対応によって、特別区州軍が大統領個人の制御下にあると広く考えられるようになり、特別区の地位の見直す動きは国内に広がった。27日、HR 51は上院に提出された。4月20日、下院の投票を前にバイデン大統領はHR 51の支持を表明した。23日、HR 51は下院を通過した。 コロンビア特別区パブリックスクールズ (DCPS) が、市の公立学校システムを運営しており、これは167の学校と学習センターから成る。2007年度では、4万9076人の生徒が公立学校システムに登録されている。DCPS への登録は一貫して減少しており、次の年までに全登録生徒数が4万7700人にまで減少するだろうと市では予測している。DCPS は、インフラの面でも、生徒の成績の面でも、国内でコストが最も高い割に成果が最も乏しい学校システムの一つであることは否めない。市議会は、2007年に市の学校システムの大改革を行うに当たり、市長に対し公立学校についてのほぼ完全な権限を与えた。フェンティ市長が指名した DCPS の新しい最高責任者であるミシェル・リー長官 (Michelle Rhee) は、一部の学校を民間経営会社に委ねたり、校長を解任したり、教師を入れ替えたりするなど、徹底的な改革を行った。 公立学校システムの問題点から、公立のチャーター・スクールの登録数が、2001年以来、年々13%の割合で増加している。コロンビア特別区公立チャーター・スクール委員会は、市内の56校の公立チャーター・スクールを監督している。2007年秋の時点で、D.C.のチャーター・スクールには全部で2万1859人が登録している。ワシントンD.C.には、有名な私立高校もいくつかある。多くの著名人やその子弟が、シドウェル・フレンズ校のような私立高校に通ってきた。チェルシー・クリントンもその一人で、父ビル・クリントンの大統領在職期間中、シドウェル校に通っていた。 ワシントンD.C.には、多くの著名大学がある。ジョージタウン大学、ジョージ・ワシントン大学、アメリカン大学、ハワード大学、ギャローデット大学、アメリカカトリック大学 (CUA)、ジョンズ・ホプキンス大学の高等国際関係大学院(SAIS) などがある。コーコラン美術デザイン大学 (Corcoran College of Art and Design) では専門的な美術の授業を行っているほか、他の高等教育機関でも、継続教育(英語版)}、遠隔教育、社会人向け教育を提供している。コロンビア特別区大学 (UDC) は国によるランドグラント大学で、どこの州にも属さないために州立大学というものを持たないこのワシントンD.C.において、公的な高等教育の機会を与えている。 ワシントンD.C.には、16の医療センターと病院があり、患者のケアと医学研究の全国的な中心地となっている。アメリカ国立衛生研究所はメリーランド州ベセスダの近くにある。ワシントン・ホスピタル・センター (WHC) は、D.C.で最大の敷地を持つ病院であ、私立病院としても、非営利病院としても最大である。WHC のすぐ隣には、国立子ども医療センター (Children's National Medical Center) がある。同センターは、USニューズ&ワールド・レポート誌によれば、アメリカ国内で最も高いランクを与えられている小児科病院の一つである。ジョージタウン大学、ジョージ・ワシントン大学、ハワード大学など、多くの有名大学も、メディカル・スクールとその附属病院を設けている。ウォルター・リード軍医療センター (Walter Reed Army Medical Center) は、ワシントンD.C.北西地区にあり、現役・退役の軍人とその家族に対し医療サービスを提供している。 救急医療サービスはコロンビア特別区消防局によって提供されている。 連邦軍組織として、D.C.内に大規模な駐屯地などはないが、統合部隊である首都地域統合部隊司令部 (Joint Force Headquarters National Capital Region,JFHQ-NCR) がワシントンD.C.およびその周辺の防衛を担っている。また、州兵としてコロンビア特別区州兵およびコロンビア特別区空軍州兵が編成されている。これら州兵は常に連邦政府の指揮下にある。 ワシントンD.C.は、国内でも最悪クラスの交通事情と混雑でよく引き合いに出される。2007年、ワシントンの自動車は年あたり60時間の間渋滞に巻き込まれており、これはロサンゼルスに次いで国内で最悪の交通事情と結び付いている。一方で、ワシントンの通勤者の37.7%が通勤に公共交通機関を利用しており、これも国内で2番目に高い割合である。 ワシントン首都圏交通局 (WMATA) は、市の地下鉄網であるメトロレール(「メトロ」と呼ばれることが多い)と、メトロバスを運営している。地下鉄とバス網は、ワシントンD.C.のほか、メリーランド州とバージニア州の近郊地域にもサービスを提供している。メトロレールが開業したのは1976年3月27日で、現在、駅の数は87、線路の全長は171.1kmである。2008年において、平日には平均すると1日のべ95万人が利用しており、メトロレールはニューヨーク市地下鉄に次いで全国で2番目に繁忙な地下鉄となっている。 WMATA では、2030年までに地下鉄の利用客は1日平均100万人になると見ている。輸送能力を拡張する必要があることから、220の車両を追加するとともに、繁忙駅の混雑を緩和するために迂回ルートを作るよう計画が更新された。この地域の人口増加を受け、メトロの路線を2つ新たに建設するという取り組みがよみがえった。それとともに、町と町を結ぶ新たなライトレール網も計画されている。最初の路面電車の路線は、2009年末にオープンする見通しである。なお2016年、小規模ながらDCストリートカーが開業した。ワシントンの周辺地域にも、ローカルなバス網がある。メリーランド州モンゴメリー郡にはライド・オンというバスが走っており、WMATA のサービスを補完している。メトロレール、メトロバスおよびその他のローカルな公共バスでは、「スマートリップ」(SmarTrip) という、繰り返しチャージ可能な乗車券(ICカード)が利用できる。 ユニオン駅は、アメリカでニューヨークのペンシルベニア駅(ペン・ステーション)に次いで2番目に賑わった鉄道駅であり、アムトラックのノースイースト・コリダーとアセラ・エクスプレスのターミナル駅となっている。メリーランド州のメリーランド・レール・コミューター (MARC) とバージニア州のバージニア・レールウェイ・エクスプレス (VRE) の通勤用電車、並びにメトロのレッド・ラインもユニオン駅に乗り入れている。都市間バスは、グレイハウンド、ピーターパン、ボルトバス、メガバス、その他多数のチャイナタウン・バスラインによって運行されている。 ワシントンD.C.へのアクセスには3つの大きな空港があり、1つがメリーランド州、他の2つがバージニア州にある。 ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港は、D.C.の中心地からポトマック川を渡ってすぐの、バージニア州アーリントン郡にある。レーガン空港は、ワシントンエリアの中でメトロレールの駅がある唯一の空港である。D.C.に近接していることから、レーガン空港は、防空識別圏のために特別なセキュリティ警戒が要求されている上、追加的な騒音規制も課せられている。レーガン空港にはアメリカ合衆国税関・国境警備局がないので、カナダ線、カリブ海域諸島線など、プリクリアランス(搭乗前の入国審査、通関手続等)が許可されている航空機に限って国際線サービスを提供している。 主な国際線は、ワシントン・ダレス国際空港に発着する。ダレス空港はD.C.から42km西の、バージニア州フェアファクス郡とラウダウン郡にある。同空港はアメリカ合衆国東海岸におけるユナイテッド航空の主要なハブ空港として機能しており、日本からは全日本空輸、ユナイテッド航空が直行便を運航している。 ボルチモア・ワシントン国際空港はD.C.から48km北東、メリーランド州アン・アランデル郡にあり、サウスウエスト航空のハブ空港となっている。 ワシントンD.C.付近を通る主要な州間高速道路としては、次のものがある。 ワシントンD.C.には15の姉妹都市がある。パリは、その町(コミューン)の方針のために「パートナー都市」となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "コロンビア特別区(コロンビアとくべつく、英: District of Columbia)は、アメリカ合衆国の首都。アメリカ合衆国東部に位置する連邦直轄地である。東海岸、メリーランド州とヴァージニア州に挟まれたポトマック川河畔に位置する。通称は、ワシントンD.C.(ワシントン・ディー・シー、英: Washington, D.C.)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国連邦政府の所在地として国際的に強大な政治的影響力を保持する世界都市であり、また金融センターとしても高い重要性を持つ。その構造は、首都としての機能を果たすべく設計された計画都市である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ポトマック川の北岸に位置し、南西をバージニア州に、その他の方角をメリーランド州に接している。2010年度国勢調査による人口は601,723人で全米24位だが、労働時間帯には近郊からの通勤者により人口100万を超える。ワシントンD.C.を中心に、メリーランド州、バージニア州北部、ウェストバージニア州の最東部2郡を併せた地域を一般に「首都圏」または「メトロポリタン」と呼んでいるが、その人口は5,582,170人(2010年国勢調査)で、全米7位である。また、北東に約65キロメートルの地には人口620,961人(2010年国勢調査)を抱えるメリーランド州の最大都市ボルチモアが位置している。このボルチモアといわゆる首都圏を併せたワシントン・ボルチモア・北バージニア広域都市圏の人口は8,572,971人(2010年国勢調査)を数え、全米4位の規模である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国憲法第1条により、各州とは別に、恒久的な首都としての役割を果たすため、連邦の管轄する区域が与えられている。アメリカ合衆国三権機関(大統領官邸(「ホワイトハウス」)、連邦議会(議会議事堂)、連邦最高裁判所)が所在し連邦機関が集まる他、多くの国の記念建造物や博物館(スミソニアン博物館など)も置かれている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "中心部には高さ169メートル(約555フィート)のワシントン記念塔がある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "同市のナショナル・モールにおける博物館群は質・量ともに世界でもトップクラスであり、観光資源にもなっている。ポトマック川の入り江であるタイダルベイスンの畔にある桜の木々は、アメリカ合衆国内で有数の桜の花見の名所となっており、毎年全米桜祭りが開催される。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "172か国の大使館に加え、世界銀行、国際通貨基金 (IMF)、米州機構 (OAS)、米州開発銀行、汎アメリカ保健機関 (PAHO) の本部も置かれている。労働組合、ロビイスト、職業組合など各種団体の本部もある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "連邦議会がワシントンD.C.における権限を有している。連邦議会に関してワシントンD.C.は、下院に本会議での投票権を持たない市代表(代議員)を選出しているものの、上院議員の議席は与えられていない。ワシントンD.C.が州であると仮定し他の州と比較すれば、面積ではロードアイランド州に後れて最下位、人口では最下位から2番目(最下位はワイオミング州)であるが、人口密度では1位、州民総生産では35位、また黒人の比率では1位であり、国全体のマジョリティ(非ヒスパニック系白人)とマイノリティとは反転している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2011年現在、ワシントンD.C.においては死刑制度が廃止されている。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界17位の都市と評価されており、アメリカの都市ではニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴ、サンフランシスコに次ぐ5位である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "法律上の正式名称は「コロンビア特別区」(コロンビアとくべつく、District of Columbia)。州に属していないアメリカ合衆国・連邦政府直轄地。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "コロンビア特別領 (territory of Columbia) として1790年に創設され、1801年のコロンビア特別区自治法(旧)により地方自治権を持つコロンビア特別区となった。特別区内には自治権を持つ市や郡があり、その一つが首都たるワシントン市だった。しかし1871年のコロンビア特別区自治法(新)により特別区内の全ての自治体は特別区に統合された。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この歴史的な経緯から、かつての呼び名である「Washington, District of Columbia」 がしばしば使われる。ただしこれは「コロンビア特別区のワシントン市」という意味の語句であり、かつての正式名称というわけではない。またそれゆえ、これを和訳する場合は(語順どおりにワシントン・コロンビア特別区ともするが)直訳はコロンビア特別区ワシントンとなる。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "略してワシントンD.C.と呼び、米国ではWashington、The District、または単にD.C.とも通称する。日本語では首都ワシントンまたはワシントンと呼ぶことも多い。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "\"D.C.\" は \"District of Columbia\"(コロンビア特別区)の頭文字で、南アメリカのコロンビア共和国と同様にクリストファー・コロンブスに因む名である。日本語ではワシントンD.C.を単に「ワシントン」と呼び、(ワシントンD.C.と識別するため)ワシントン州を「ワシントン州」と呼ぶことが多い。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国憲法第1条第8節第17項によって、連邦議会にアメリカ合衆国の首都を設立する権限が与えられた。同条によれば、「ある州が譲渡し、連邦議会が受諾することにより、合衆国政府の所在地としての地区(ただし10マイル四方を超えてはならない)」が認められた。ジェームズ・マディソンは、1788年1月23日の『ザ・フェデラリスト』第43篇で、合衆国の首都は、その持続と安全のため、各州からは別個のものとすべきだとして、連邦の管轄する区域の必要性を説明した。1783年には、フィラデルフィアに置かれていた連邦議会に対し、兵士らの暴動により攻撃が加えられたことも、合衆国政府が安全に配慮する必要性があることを強調することとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "憲法は新たな首都の場所を特定していなかったが、マディソン、トーマス・ジェファーソン及びアレクサンダー・ハミルトンの3人は、1790年、首都を南部に置くことを条件に、合衆国が州の発行した戦時負債を肩代わりするとの合意に達した(後に1790年協定として知られる)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1790年7月16日、首都立地法により、新しい恒久的な首都がポトマック川河畔に置かれることになり、詳細はジョージ・ワシントン大統領により選定されることとなった。当初の形は、合衆国憲法により認められていた通り、一辺が10マイル (16 km) のダイヤモンド型で、100平方マイル (260 km) であった。新首都建設のためメリーランド州とバージニア州が領土の一部を割譲し、新しい「連邦の市」はそのうちポトマック川の北岸に建設されることとなった。もっとも、同じ100平方マイルの地区内にはすでに2つの独立した自治体(1749年に設立されたアレクサンドリア市と、1751年に設立されたジョージタウン市)があった。1791年9月9日、この連邦の市はジョージ・ワシントンに敬意を表してワシントン市と命名され、この100平方マイルの地区全体はコロンビア区 (Territory of Columbia) と名付けられた(コロンビアは、当時合衆国を指す詩的な名称として使われていた言葉である)。連邦議会は、1800年11月17日、ワシントンで最初の議会を開催した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1801年のコロンビア特別区基本法 (The Organic Act) により、正式にコロンビア特別区が編制され、アレクサンドリア市、ジョージタウン市、ワシントン市を含む連邦の管轄地域全体が、連邦議会の排他的支配下に置かれた。さらに、特別区内で自治体に組み込まれていない領域は、二つの郡 (county) に組織された。すなわち、ポトマック川北岸のワシントン郡と南岸のアレクサンドリア郡である。同法制定後は、特別区内の市民はメリーランド州やバージニア州の住民ではなくなり、議会の代表権もなくなることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "米英戦争の中、1814年8月24日から25日にかけて、イギリス軍がアメリカ軍によるヨーク(現在のトロント)焼き討ちの報復として首都を焼き討ちした(ワシントン焼き討ち)。議会議事堂、財務省、ホワイトハウスはこの攻撃の中で焼かれ、破壊された。ほとんどの政府の建物は速やかに修復されたが、議事堂は大規模な建設工事が行われ、1868年になって初めて完成を見た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1830年代、特別区の南にあるアレクサンドリア郡は、より内陸に位置しチェサピーク・オハイオ運河に面したジョージタウン港との厳しい競争などにより経済的に落ち込んでいた。当時、アレクサンドリアは奴隷貿易の主要な市場であったが、奴隷廃止論者が首都における奴隷制を終わらせようとしているとの噂が流れた。富をもたらす奴隷貿易ができなくなることを避ける目的もあって、1846年、アレクサンドリアのバージニア州への返還の可否について住民投票が行われ、可決された。同年7月9日、連邦議会は、特別区のうちポトマック川より南の領域(約100km)をバージニア州に返還することに同意した。この土地は現在はアーリントン郡に属し、アレクサンドリア市の一部をなす。この結果、ワシントンD.C.は頂点を北に向けた正方形のうち、南西部の川に区切られた区画を除いた形をなすことになった。なお、その4年後、1850年協定により、特別区内における奴隷貿易(奴隷制そのものではない)が禁止された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ワシントンは、1861年の南北戦争勃発までは小さな町であった。南北戦争によって合衆国政府は大きく膨張し、それにより町の人口も著しく増大した。解放奴隷の大量の流入もこれに寄与した。1870年までに、特別区の人口は、13万2000人近くにまで増えた。しかし町の成長にもかかわらず、ワシントンの道路は未舗装であり、基本的な衛生設備もないなど、条件が非常に悪かったため、首都を別の場所に移転することを提案する連邦議会の議員もいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1871年のコロンビア特別区基本法 (District of Columbia Organic Act of 1871) により、連邦議会は特別区全体の新しい政府を創設し、ワシントン市、ジョージタウン市及びワシントン郡を一つの自治体に統合した。これをもって現在のワシントンD.C.が形作られ、この町が「ワシントン」と「コロンビア特別区」の両方の名前で知られているのはこのためである。同じ法律の中で、連邦議会は公共事業委員会を設立し、町の近代化に当たらせた。1873年、ユリシーズ・グラント大統領は、同委員会の最も有力なメンバーであるアレクサンダー・シェパードを新たに設置された知事職に任命した。その年、シェパードは2000万ドルを公共事業に費やし(2007年は3億5700万ドル)、ワシントンの近代化を行ったが、同時に財政を破綻させることにもなった。1874年、連邦議会はシェパードの知事職を廃止して直接統治を選んだ。更なる町の改修作業は、1901年に行われたマクミラン・プラン (McMillan Plan) を待たなければならなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "特別区の人口は、しばらくの間比較的安定していたが、1930年代の世界恐慌ではフランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策立法により、ワシントンの官僚が増加した。第二次世界大戦で政府の活動は更に増大し、首都における政府職員の数も増加した。1950年までに、特別区の人口は80万2178人というピークに達した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1961年、アメリカ合衆国憲法修正第23条により、ワシントンD.C.市民に初めて大統領選挙の選挙権が与えられた。コロンビア特別区全体に対して、人口の最も少ない州に与えられる、選挙人3人の定数が確保された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "公民権運動の指導者キング牧師が1968年4月4日に暗殺された後、特別区(主に北西地区のUストリート、14番ストリート、7番ストリート)で暴動が発生した。暴動は3日間続き、1万3000人以上の連邦軍とコロンビア特別区州兵がようやく鎮圧に成功した。多くの店やその他の建物が焼かれ、多くが1990年代後半に再建されるまで荒廃したままであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1973年、連邦議会はコロンビア特別区地方自治法 (Home Rule Act) を制定し、特別区に公選制の市長と議会を導入することとした。1974年、市長の公選が行われ、1975年、行政委員会委員長であった民主党のウォルター・ワシントン (Walter Washington) が特別区初めての公選の市長、かつ特別区初めての黒人の市長となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1979年、マリオン・バリー (Marion Barry) が市長に選ばれ、4年間の任期を3期連続で務めた。しかし麻薬の使用が噂され、3期目の任期半ばの1991年にはFBIのおとり捜査によりクラック・コカイン所持使用で現行犯逮捕され、公判で禁錮6か月の実刑判決を受けた。この不祥事でバリーは次の選挙には出馬しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1991年、次に市長となったシャロン・プラット・ケリー (Sharon Pratt Kelly) は、アメリカの大都市で初めて市長になった黒人女性である。1994年、ケリーの任期が満了すると、バリーが市長に返り咲いた。1998年、エール大学卒の弁護士、アンソニー・ウィリアムス (Anthony Williams) が市長に選ばれて2期務め、2007年1月から2011年1月までアドリアン・フェンティ (Adrian Fenty) が、2011年1月から2015年1月までビンセント・グレー (Vincent C. Gray) が市長を務めている。2015年1月、ミューリエル・バウザー(Muriel Bowser)が第8代のワシントンD.C.政府の市長に就任し現在に至っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1995年までに、市は債務超過のため支払不能になりかけていた。これを受けて、連邦議会はコロンビア特別区財政管理委員会を設立し、市のすべての支出を監督させることとした。特別区は、2001年9月に財政管理権限を回復し、同委員会の活動は中止された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2001年9月11日、テロリストがアメリカン航空77便をハイジャックし、ワシントンD.C.郊外のバージニア州アーリントンにある国防総省(ペンタゴン)に航空機を突入させた。ユナイテッド航空93便もホワイトハウスまたは連邦議会議事堂のいずれかを標的としていたが、同機はペンシルベニア州シャンクスヴィル近くで墜落した。ペンタゴンへの攻撃が行われた場所には、2008年9月11日、ペンタゴン記念館がオープンした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.は、全部で68.3平方マイル (177 km) の市域を有し、そのうち61.4平方マイル (159 km) が陸地、6.9平方マイル (18 km, 10.16%) が水面である。特別区は、当初100平方マイル (260 km) の面積を有していたが、1846年に南の一部をバージニア州に返還したため、この面積となっている。現在の市域は、メリーランド州から割譲された領域のみから成っている。そのため、ワシントンD.C.は南東・北東・北西をメリーランド州に、南西をバージニア州に囲まれている。特別区内には、三つの大きな天然の河川がある。ポトマック川、アナコスティア川、ロック・クリークである。アナコスティア川とロック・クリークはポトマック川の支流である。北西部のポトマック川河畔にはダンバートン・オークスが位置する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "合衆国首都設置法は、ワシントン大統領に、東はアナコスティア川の河口までの範囲で新しい首都の正確な位置を選ぶ権限を与えた。しかし、ワシントン大統領は、区の南端にアレクサンドリア市を含むようにするため、この連邦の領域の境界を南東に動かした。1791年、連邦議会はワシントン大統領の選んだ区域を認めるため、合衆国首都設置法を修正し、これによりバージニアから割譲された領域も含まれることとなった。この場所は、多くの利点を有していた。ポトマック川は特別区まで航行可能であり、船による交通が可能であった。また、アレクサンドリアとジョージタウンの既成の港は、市にとって重要な経済的な基盤を提供した。さらに、内陸の特別区は、北西部領土に近かった。1791年から1792年にかけて、アンドリュー・エリコットとベンジャミン・バネカーが特別区の境界を調査し、1マイルごとに境界石を設置した。その多くが今も残っている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "一般に伝えられるところとは異なり、ワシントンD.C.は沼地を埋め立てて建設されたわけではない。確かに二つの川とその他の小川に沿って湿地が広がっていたものの、特別区の領域のほとんどは農地と樹木に覆われた丘から成っていた。特別区内で、自然の状態で最も高い地点は、海抜125メートルのテンリータウンである。最も低い地点は海水面と同じポトマック川である。ワシントンD.C.の地理的な中心点は、北西地区の4番ストリートとLストリートの交差点付近に位置する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国国立公園局は、ロック・クリーク公園、チェサピーク・オハイオ運河自然歴史公園、ナショナル・モール、セオドア・ルーズベルト島、アナコスティア公園など、ワシントンD.C.の自然生育地のほとんどを管理する。国立公園局による管理外の重要な自然生育地としては、農務省の管轄である国立森林公園があるのみである。ポトマック川の上流(ワシントンD.C.の北西)にはグレイト・フォールズ (Great Falls) がある。19世紀には、輸送船の交通がこの滝を迂回できるようにするため、ジョージタウンに端を発するチェサピーク・オハイオ運河が用いられた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1965年、リンドン・ジョンソン大統領はポトマック川を「国の恥」と呼び、1966年の清流回復法 (the Clean Water Restoration Act) の必要性を訴える材料とした。現在では、この川は活気のある暖水漁業の場となっており、自然に繁殖したハクトウワシも川岸に戻った。高度に都市化した景観にもかかわらず、ワシントンD.C.は、都市における野生生物の管理、外来種の管理、都市流水の回復、都市流水における水エコロジーなどの研究の中心地となっている。国立公園局の都市エコロジーセンターは、この地域における専門的知見と応用科学を提供する場となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.の気候は、ケッペンの気候区分によれば温暖湿潤気候 (Cfa) であり、これはアメリカの中部大西洋岸諸州のうち海域から離れた地域に典型的に見られる気候である。四季がはっきり分かれており、春と秋は温暖で湿度も低いのに対し、冬は低温が続き、1年に平均 420mm も降雪量がある。冬の最低気温は、12月中旬から2月中旬にかけては零下 1°C (30°F) くらいになることが多い。まれではあるが、猛烈な吹雪が2、3年ごとにワシントンD.C.を襲い、最低気温は −15°C を下回る。最も激しい嵐は、ノーイースターと呼ばれ、これはアメリカ東海岸全体に影響を及ぼすのが普通である。夏は高温多湿になる傾向があり、7月と8月の日中最高気温は平均 30°C 前後(80°F台)である。夏には高温・多湿という組み合わせのため、激しい雷雨が非常に頻繁に発生し、場合によってはこの地域に竜巻を発生させることもある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ハリケーン(熱帯低気圧)ないしそれが温帯低気圧化したものが、夏の終わりから初秋にかけてこの地域を通過することが時々ある。ワシントンD.C.は内陸に位置していることもあって、ハリケーンはここに来る頃には勢力が弱まっていることが多い。しかし、満潮・高潮・雨水が合わさることによって引き起こされるポトマック川の氾濫は、ジョージタウンやバージニア州アレクサンドリア近くにまで大規模な財産的被害をもたらすことが知られている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "記録されている史上最高気温は1930年7月20日と1918年8月6日の 41°C (106°F) である。史上最低気温は1899年2月11日の零下 26.1°C (−15°F) であり、これは1899年の記録的猛ふぶき (the Great Blizzard) の時のものである。32°C (90°F) を超える日数は平均36.7日であり、氷点下になる夜は平均64.4日である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.は計画都市である。ワシントン市の設計は、ピエール・シャルル・ランファンの労によるところが大きい。ランファンはフランス生まれの建築家・技師・都市設計家であり、当初、軍の技師としてラファイエットと共にアメリカ植民地に来た。1791年、ランファンはバロック様式を基に基本計画を作成した。これは、環状交差路から放射状に広い街路が伸びているものであり、開かれた空間と景観作りを最大限に重視したものであった。しかし、20世紀初頭には、開放された公園と壮麗な国の記念建造物というランファンの都市計画の構想は、スラム街や乱開発された建物によって損なわれてしまっていた。その中にはナショナル・モールの中の鉄道の駅もあった。1900年、連邦議会は、ジェームズ・マクミラン上院議員率いる両院合同協議会を設置し、ワシントンD.C.の儀礼の中心地の美化に当たらせた。マクミラン計画として知られるこの計画は1901年に仕上がり、その中には連邦議会議事堂の敷地やナショナル・モールの景観再整備、新しい連邦の建物・記念館の建設、スラム街の一掃、全市を横断する新しい公園のシステムの構築が含まれていた。委員会から任命された建築家たちは市の本来の設計には手を加えなかった。建築家たちのなすべきことは、ランファンの意図したデザインの壮大な仕上げをすることであると考えられた。", "title": "町並み" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1899年に12階建てのカイロ・アパートメント・ビルが建設された後、連邦議会は建造物の高さを制限する法律 (the Heights of Buildings Act) を可決し、連邦議会議事堂より高い建物を建ててはならないと宣言した。この法律は1910年に改正され、建物の高さが、面する道路の幅員に20フィート (6.1m) を加えた長さを超えないよう規制された。今日、ワシントンD.C.の建物群のシルエットは低く広がっており、トーマス・ジェファーソンの、ワシントンD.C.を「低層で便利な」建物と「明るく風通しのよい」街路を備えた「アメリカのパリ」にしたいという願いに忠実である。その結果、ワシントン記念塔がずっとワシントンD.C.で最も高い建造物のままである。しかしながら、ワシントンD.C.の高さ制限は、同市で廉価な住宅が限られていることやスプロール現象による交通問題の発生の最大の原因であるとして、批判されている。ワシントンD.C.の高さ制限を逃れるため、ダウンタウンの近くとしては、ポトマック川の対岸にあるバージニア州ロズリンに高層の建物が建てられることが多い。", "title": "町並み" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.は四つの地区 (quadrant) に不均等に割られている。北西地区 (Northwest)、北東地区 (Northeast)、南東地区 (Southeast)、南西地区 (Southwest) である。各地区の境界を画す軸は連邦議会議事堂から放射状に伸びている。すべての通りの名称には、地区名の省略形(NWなど)が付いており、その場所を明らかにしている。市内のほとんどの地域で、街路は碁盤目状に整備されており、東西方向の通りにはアルファベットで(例えばC Street SW)、南北方向の通りには数字で(例えば4th Street NW)名前が付けられている。環状交差路から放射状に伸びる街路には、主に各州の名前が付けられており、50州すべてが名称の中に含まれている。ワシントンD.C.の街路の中には、特に注目すべきものがある。ペンシルベニア大通り は、ホワイトハウスと連邦議会議事堂を繋いでおり、Kストリートには多くのロビー団体の事務所が入居している。ワシントンD.C.には172か国の外国の大使館があるが、そのうち57の大使館はマサチューセッツ通り (Massachusetts Avenue) の地区にあり、正式名称ではないが大使館通り (Embassy Row) として知られている。", "title": "町並み" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.の建築物はバラエティに富んでいる。アメリカ建築家協会が選ぶ2007年の「アメリカ建築傑作選」では、10位までにランクされた建物のうち6つがワシントンD.C.にある。すなわち、ホワイトハウス、ワシントン大聖堂、トマス・ジェファーソン記念館、連邦議会議事堂、リンカーン記念館、ベトナム戦争戦没者慰霊碑である。これら6つの建築はすべて新古典主義、ジョージ王朝様式、ゴシック様式および近代建築のスタイルを反映しており、他のワシントンD.C.の主要な建物も同様である。特筆すべき例外としては、第二帝政様式によるアイゼンハワー行政府ビル(旧行政府ビル)やアメリカ議会図書館などがある。", "title": "町並み" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.の中心市街を離れると、建築様式はさらに多様化する。「オールド・シティー」(ランファンによって設計された地域)では、歴史的建造物は主にアン女王様式、シャトーエスク様式、リチャードソン・ロマネスク様式、新ジョージア王朝様式、ボザール様式、また様々なビクトリア朝様式で設計されている。オールド・シティーでは19世紀からのロウハウス(長屋)が特に目立っており、連邦様式や後期ビクトリア朝様式に従うものが多い。ジョージタウンは、ワシントン市よりも先に建設されたため、この地域はワシントンD.C.の中でも最も古い建築物を誇る。ジョージタウンのオールド・ストーン・ハウスは1765年に建てられ、市内で最古の遺構となっている。もっとも、この地域における現在の住宅のほとんどは1870年代になって初めて建てられたもので、当時の後期ビクトリア朝様式を反映している。1789年に創立されたジョージタウン大学は、周囲の建物とはさらに一線を画しており、ロマネスク様式とゴシック・リヴァイヴァル建築が融合した建築が特徴である。", "title": "町並み" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2010年の国勢調査によれば、ワシントンD.C.の居住者人口は601,723人で、2000年国勢調査の572,059人以来、増加傾向が続いている。これは50年来の減少傾向からの反転である。他方、労働時間帯には、近郊からの通勤により、ワシントンD.C.の人口は推計で71.8%膨らみ、日中人口は100万人を超えるとされている。周辺のメリーランド州やバージニア州の一部を含むワシントン首都圏は、2010年の国勢調査で約558万人の居住者を抱える。ボルチモア及びその近郊も併せたワシントン・ボルチモア・北バージニア広域都市圏は、2010年の国勢調査では850万人を超える居住者人口を抱えている。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "以下にワシントンD.C.における1800年から2010年までの人口推移を表およびグラフで示す。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2010年における人口の割合は、50.7%がアフリカ系アメリカ人(黒人)、38.5%がコーカサス系(白人)、9.1%がヒスパニック(人種は様々)、4.4%がその他(インディアン、アラスカ先住民、ハワイ先住民、南洋諸島先住民など)、3.5%がアジア系、2.9%が混血である。黒人はワシントンD.C.で最も多くを占めるものの、郊外へ去る者が多いため、その人口は一貫して減少傾向にある。同時に、ワシントンD.C.で昔から黒人の居住地域だった多くの場所が高級住宅化していることもあり、白人の人口は一貫して増加傾向にある。このことは、2000年と比べて、アフリカ系アメリカ人の人口が6.2%減少し、反対にコーカサス系は13.8%増加していることに表れている。移民の主な出身地としては、エルサルバドル、ベトナム、エチオピアなどがあり、エルサルバドル人はマウント・プレザント近辺に集まっている。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2000年の国勢調査によって、ワシントンD.C.の成人のうち推計3万3000人が自らをゲイ、レズビアンまたはバイセクシュアルだと考えていることが明らかになった。これは市の成人人口の8.1%に当たる。このようにLGBTの人口は相当大きく、また政治的風土もリベラルだが、連邦議会における反対論も原因して、同性結婚はワシントンD.C.の法律では認められていない。しかし、家庭内パートナーシップ法 (Domestic partnership law) によって、同性のカップルも、他の法域で認められているシビル・ユニオンと似た法的取り扱いを受けることができる。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2007年の報告によって、ワシントンD.C.の居住者の3分の1が機能的非識字(仕事や日常生活上の読み書き能力が不十分な状態)であることが分かった(全国における割合は5分の1)。英語に習熟していない移民もその一つの原因であると考えられている。2005年に行われた研究では、ワシントンD.C.の5歳以上の居住者のうち85.16%が家で英語のみを使用しており、8.78%がスペイン語を使用していることが分かった。フランス語がそれに次いで1.35%である。機能的文盲率の高さとは対照的に、ワシントンD.C.の居住者のうち45%が少なくとも4年制大学の学位を持っており、国内で4番目に高い割合である。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "また、2000年のデータによると、半数以上の居住者が自分をキリスト教徒だと考えている。28%がカトリック、6.8%が南部バプテスト連盟、1.3%が正教会(ギリシャ正教)又は東方諸教会、21.8%が他のプロテスタント教派である。イスラム教徒は人口の10.6%、ユダヤ教徒は4.5%、26.8%は無宗教である。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "この地に先住したインディアン部族はコノイ族、デラウェア族、ナンチコーク族、ポウハタン族、ショーニー族、サスケハンナ族など。そのことごとくがアメリカ政府に虐殺され、19世紀には他州へと強制移住させられた。この地に残ったインディアン部族はすべて「絶滅部族」とみなされ、保留地 (Reservation) を没収されていて、部族単位では存在しないことになっている。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1944年にワシントンD.C.に結成された「アメリカインディアン国民会議 (National Congress of American Indians)」は、インディアン寄宿学校で白人同化教育を受けた、全米のインディアンたちによる初の本格的なロビー運動組織である。彼らは「大声でほえまくる赤い番犬」と呼ばれたが、活動自体は保守的で、AIM などとは違い、若い世代からは「白人寄り」と批判された。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2004年には、この地に全米のインディアン部族の文化展示を目的とした「国立アメリカ・インディアン博物館」が開設された。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "≪アメリカ連邦政府に公認要求中のインディアン部族≫", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "現在のところ、ワシントンD.C.でインディアン部族が運営する「インディアン・カジノ」は一軒もない。同地ではインディアン部族は存在しないことになっており、今後も開設される望みは薄い。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1990年代初頭に凶悪犯罪の波が訪れた時、ワシントンD.C.はアメリカの「殺人首都」 (murder capital) として知られ、殺人事件の発生数において、ルイジアナ州ニューオーリンズとしばしば肩を並べていた。謀殺(計画的殺人)の発生件数は1991年に482件だったが、1990年代を通じて犯罪の激しさは大幅に緩和した。2006年までに、市内における謀殺の件数は169件にまで減少した。窃盗や強盗など各種の財産犯も、同様の割合で減少した。 また、2012年は殺人件数が88件と減少し1961年以来最低の値であった。 そして、2019年は2012年の約1.9倍の166件であった。人口比で見ると2019年は、23.5件(全米平均:5.0件)と全米平均より高く、州別で見るとワースト1である。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "また、殺人事件被害者の8割前後が黒人男性であり、凶器も約8割が銃器を使用している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "多くの大都市と同様、犯罪の発生率が高いのは違法薬物やギャングと関係のある地域である。より富裕な地域のワシントンD.C.北西地区(高級住宅街のジョージタウンなど)では犯罪発生率は低いが、東に行くに従って増加する。コロンビア・ハイツやローガン・サークルのように、一時は凶悪犯罪がはびこったものの、ジェントリフィケーション(高級住宅化)の影響を受けて安全と活気を取り戻しつつある地域も多い。その結果、ワシントンD.C.における犯罪は、さらに東方、メリーランド州プリンスジョージ郡との境界を越えるところまで追い払われつつある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "特に危険なのは市南東部のアナコスティア地区 (Anacostia) である。ワシントンD.C.で起こる殺人の約3分の1はこのアナコスティア地区内で発生している。1950年代までは白人の中流階級の住宅地だったが、州間高速道路の発達により人口が郊外へ流出、住民層が大きく変わり、治安が著しく悪化した。現在、この地区の黒人人口率は92%に達する。また、市の北東部も治安の悪い地域である(右図参照)。市境を越え、メリーランド州側にも治安の良くないエリアが広がっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2008年6月26日、連邦最高裁判所は、ワシントンD.C.対ヘラー事件において、ワシントンD.C.が1976年に行った拳銃の所持禁止は、アメリカ合衆国憲法修正第2条で定められた銃所持の権利を侵すものだと判示した。もっとも、この判決は、どのような形での銃規制も一律に禁止するものではない。銃器の登録制を定める法律は依然有効で、ワシントンD.C.による殺傷能力の高い攻撃用武器の禁止も有効である。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2020年代になると中心部では金銭ではなくゲーム感覚で犯行を楽しむカージャックが多発しており、ジョージタウン大学のケビン・M・ドーク教授は中心部に行くのが恐ろしいと語る状況となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "治安機関として自治体警察ワシントンD.C.首都警察が置かれている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.では、経済が多角的に成長しつつあり、専門的職業やホワイトカラーのサービス業の割合が増加している。ワシントンD.C.の2007年における州民総生産は938億ドルで、これは50州と比較すると35位に位置付けられる。2008年3月の時点で、連邦政府がワシントンD.C.における雇用の27%を占めている。このために、ワシントンD.C.は全国的な経済の停滞の影響を受けていないと考えられている。連邦政府の活動は景気後退期においても継続するからである。もっとも、2007年1月時点で、ワシントン地域の連邦職員は、全米の連邦職員数の14%を占めるに過ぎない。法律事務所、独立契約就業者(インディペンデント・コントラクター。軍事関係と非軍事の双方がある)、非営利団体、ロビー団体、全国労働組合、職業団体といった多くの組織が、連邦政府に近接した場所を求めて、ワシントンD.C.内またはその近郊に本部を置いている。2008年5月現在、ワシントン首都圏の失業率は3.5%で、国内40の大都市圏の中で最も低い。これは、同時期の全国平均失業率の5.2%と比べても低い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.では政府関連の産業、特に教育、金融、科学研究の分野が成長している。非政府関連としては、ジョージ・ワシントン大学、ジョージタウン大学、ワシントン病院センター、ハワード大学、連邦住宅抵当公庫が市内における雇用主体の上位5位である。ワシントンに本拠を置くフォーチュン1000企業(フォーチュン誌が選ぶ上位1000企業)は5社あり、そのうち2社はフォーチュン500にも入っている。ワシントンD.C.は、国際不動産投資においてはロンドン、ニューヨーク、パリに次ぐ先進的地位を得ている。2006年、「エクスパンション・マガジン」誌は、D.C.を国内で最もビジネスの拡大に適した10の地域の一つに挙げた。ワシントンは、商業オフィスの面積に関しては、ニューヨーク、シカゴに次いでアメリカで第3に大きい商業地域を有している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.では、ジェントリフィケーション(高級住宅化)の努力が実りつつあり、特にローガン・サークル、ショー、コロンビアハイツ、Uストリート地帯、14番ストリート地帯の近隣で著しい。いくつかの地域では、1990年代末の地下鉄(メトロ)グリーンラインの敷設により開発が進んだ。地下鉄網によって、これらの地域は商業地域と結ばれた。2008年3月にコロンビアハイツにできた新しいショッピングモールは、ワシントンD.C.で40年ぶりの新しい大規模ショッピングセンターとなった。多くの都市と同様、ジェントリフィケーションはワシントンD.C.の経済を活性化させているが、その利益が均等に配分されているとはいえず、貧困層にとっては直接の救いになっていない。例えば、ワシントンD.C.の失業率は市の中で大きく異なっている。2008年5月において、北西地区北部の裕福な第3地区では失業率が1.7%だったのに対し、南東地区の貧しい第8地区では17.2%であった。2005年において、アメリカの50州と比較すると、ワシントンD.C.は1人当たり収入が高いものの、貧困率もまた高く、全住民における経済的格差を際立たせている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2017年のイギリスのシンクタンクの調査によると、世界12位の金融センターであり、アメリカの都市では5位である。", "title": "金融" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ナショナル・モールは、ワシントンD.C.の中心にある、広大で開放されたエリアである。モールの中心にはワシントン記念塔がある。また、モールの中には、リフレクティング・プールの西端と東端にリンカーン記念館と第二次世界大戦記念碑があるほか、朝鮮戦争戦没者慰霊碑、ベトナム戦争戦没者慰霊碑、アルバート・アインシュタイン記念碑もある。国立公文書館には、アメリカ史にとって重要な何千もの文書が収蔵されており、その中にアメリカ独立宣言、アメリカ合衆国憲法、権利章典の原本も含まれている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "モールのすぐ南、タイダル・ベイスン(ポトマック川に隣接する池)は、桜並木で彩られている。この桜は日本から贈られたものである。タイダル・ベイスンの周りには、フランクリン・ルーズベルト記念公園、トマス・ジェファーソン記念館、D.C.戦争記念碑がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "スミソニアン協会は、1846年に連邦議会によって創設された教育目的の基金で、ワシントンD.C.内にある国立の博物館・美術館のほとんどを管理している。アメリカ合衆国政府がスミソニアン協会に一部資金を提供しており、収蔵品を入場料無料で公開しているのはこのためである。スミソニアンの博物館の中でも最も来場者が多いのが、ナショナル・モール内にある国立自然史博物館である。このほかに、モール内にあるスミソニアンの博物館・美術館としては、国立航空宇宙博物館、国立アフリカ美術館、国立アメリカ歴史博物館、国立アメリカ・インディアン博物館、アーサー・M・サックラー・ギャラリー、フリーア美術館(サックラー・ギャラリーとフリーア・ギャラリーはいずれもアジアの美術・文化に焦点を当てている)、ハーシュホーン博物館と彫刻の庭、芸術産業館、スミソニアン協会本部(「キャッスル」とも呼ばれる)がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "スミソニアン・アメリカ美術館(正式には国立アメリカ美術館、National Museum of American Art)と国立肖像画美術館 は、ドナルド・レイノルズ・センターという、チャイナタウン近くの同じ建物に入っている。レイノルズ・センターは旧特許庁ビルとも呼ばれている。レンウィック・ギャラリー (Renwick Gallery) は、正式にはスミソニアン・アメリカ美術館の一部だが、ホワイトハウス近くの分館にある。その他のスミソニアン博物館・美術館としては、南東地区のアナコスティア博物館、ユニオン駅近くの国立郵便博物館、ウッドリー公園内の国立動物園がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ナショナル・ギャラリーは、ナショナル・モール内の連邦議会議事堂近くにあるが、スミソニアン協会のものではない。完全にアメリカ合衆国政府が所有しており、そのためこれも入場料が無料となっている。ギャラリーの西館では、19世紀のアメリカ、ヨーロッパ美術の収蔵品にスポットが当てられている。東館は、建築士のイオ・ミン・ペイによって設計されたもので、現代美術を取り扱っている。スミソニアン・アメリカ美術館と国立肖像画美術館はよくナショナル・ギャラリーと間違われるが、実際は完全に別の組織である。ジュディシャリー・スクエア近くのナショナル・ビルディング博物館 (National Building Museum) は連邦議会が創設したもので、その時々の特別展を行っている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.には私設の美術館も多く、重要な収蔵品・展示品を一般に公開している。女性芸術美術館 (National Museum of Women in the Arts)、コーコラン・ギャラリー(Corcoran Gallery。ワシントンD.C.で最大の私設の美術館)、デュポン・サークルにあるフィリップス・コレクション(Phillips Collection。アメリカで最初の、現代美術を扱う美術館)などである。その他、ワシントンD.C.内の私設の博物館としては、ニュージアム (Newseum)、国際スパイ博物館 (International Spy Museum)、ナショナルジオグラフィック協会博物館、科学博物館 (Marian Koshland Science Museum) がある。ナショナル・モール近くのホロコースト記念博物館 (Holocaust Memorial Museum) では、ホロコーストに関する展示品、文書、工作物が保管されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.は、国内の芸術の中心地の一つである。ジョン・F・ケネディ・センターは、ワシントン・ナショナル交響楽団、ワシントン・ナショナル・オペラ (Washington National Opera)、ワシントン・バレエ (Washington Ballet) の本拠地である。毎年、舞台芸術の分野でアメリカの文化に大きく貢献した人に対し、ケネディ・センター名誉賞が与えられる。大統領とファーストレディが名誉賞の授賞式に出席するのが通例である。これは、ファーストレディがケネディ・センター理事会の名誉会長であるためである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "アリーナ・ステージ (Arena Stage) は、アメリカで最も早い時期にできた非営利の地方劇場の一つで、1シーズンに古典的作品や新しいアメリカ演劇などを取り上げた八つの舞台を上演する。シェークスピア劇場 (Shakespeare Theatre) は、1985年に設立された非営利の劇場で、その古典的演劇に対する再解釈や演出手法に対しては、評論家から「世界で最も素晴らしい三つのシェークスピア劇場のうちの一つ」と評価されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ワシントン北西地区のUストリート地帯は、「ワシントンのブラック・ブロードウェイ」として知られる。ボヘミアン・カバンズ(Bohemian Caverns、ナイトクラブ)やリンカーン・シアター (Lincoln Theatre) があり、そこではワシントン生まれのデューク・エリントン、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィスなど音楽史の伝説的人物が演奏していた。その他のジャズクラブとして、アダムズ・モーガンにあるマダムズ・オーガン (Madam's Organ) やジョージタウンにあるブルース・アリーなどがあり、モダン・ブルースが演奏されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.には、ここで生まれたゴーゴー (Go-go) と呼ばれる固有の音楽ジャンルがある。ファンクを受け継ぎ、駆り立てるようなパーカッションとR&Bの味わいが、ライブのセッションと激しいダンスのリズムを一体化させている。最も成功したミュージシャンが、D.C.のバンドを率いたチャック・ブラウン (Chuck Brown) で、彼は1979年のレコード\"Bustin' Loose\"でゴーゴーを全国の注目の的とした。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.は、アメリカのインディーズ文化・音楽にとっても重要な中心地である。イアン・マッケイの作ったディスコード・レコードは、1980年代のパンク・ロックや、さらには1990年代のインディー・ロックが生まれる上で最も重要な役割を担ったインディーズ・レーベルの一つである。ワシントンのインディーズ・レーベルの歴史には、ティーンビート・レコード、ディスコード・レコード、シンプル・マシンズ、ESLミュージックなどが登場する。Uストリート近くのブラックキャット (The Black Cat) や9:30クラブ (9:30 Club) といった、現代のオルタナティブ・ミュージックやインディーズ音楽を演奏するナイトクラブの存在によって、大衆的な音楽は、より小規模でうち解けた雰囲気のクラブに持ち込まれている。1964年2月に渡米中のビートルズがコロシアムでコンサートを行った。その模様は撮影され、メンバーの帰国後に映画で上映され(関係者やビートルズがそれを知ったのはずいぶん経ってからだった)、後に「コンプリート・ビートルズ」や「ザ・ビートルズ・アンソロジー」やビートルズ関連の作品に使用されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.は、国内そして国際メディアの一大中心地である。ワシントン・ポストは1877年に創刊され、ワシントンD.C.で最も歴史があり、かつ最も購読者が多いる日刊地方紙である。同紙で最も注目されるのは、国内・国際政治についての取材範囲の広さ、そしてウォーターゲート事件の暴露である。同紙――「ザ・ポスト」と広く呼ばれている――は、ずっと3つの版しか印刷していない。それぞれワシントンD.C.、メリーランド州、バージニア州向けのものである。広域の全国版はないにもかかわらず、同紙は2008年3月現在において国内の全日刊紙の中で6番目に多い発行部数を誇っている。ワシントン・ポスト社は、「エクスプレス」というフリーの通勤客向け日刊紙を発行しており、時事、スポーツ、エンターテイメントを短くまとめている。また同社はスペイン語紙 El Tiempo latino も発行している。国内で最大の発行部数を有する日刊紙であるUSAトゥデイは、本部をバージニア州マクリーン近郊に置いている。", "title": "マスメディア" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "そのほかの日刊地方紙としてワシントン・タイムズ、週刊のオルタナティブ紙としてワシントン・シティ・ペーパーの両紙も、ワシントン地域で相当数の読者を得ている。", "title": "マスメディア" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "また、地域や文化的なテーマに焦点を当てたコミュニティ紙、専門紙も多い。週刊のワシントン・ブレード紙とメトロ・ウィークリー紙は、LGBT に関する話題を取り上げたものである。ワシントン・インフォーマー紙とワシントン・アフロ・アメリカン紙は、黒人コミュニティにとっての関心事項にスポットを当てたものである。そのほか、カレント・ニューズペーパーが発行するいくつかの地区新聞がある。ヒル紙とロール・コール紙は、連邦議会と連邦政府に関する話題のみに的を絞ったものである。", "title": "マスメディア" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ワシントン首都圏は、230万8290世帯(アメリカ人口の2.05%)を擁する、アメリカで9番目に大きなテレビのマーケットである。いくつかのメディア会社とケーブルテレビのチャンネルがワシントンD.C.に本社を置いている。C-SPAN、ブラック・エンターテインメント・テレビジョン (BET)、ナショナルジオグラフィックチャンネル、スミソニアン・ネットワークス、XMサテライト・ラジオ、ナショナル・パブリック・ラジオ (NPR)、ディスカバリー・コミュニケーションズ社(メリーランド州シルバー・スプリングに所在)、公共放送サービス(PBS。バージニア州アーリントンに所在)などがある。アメリカ政府の国際ニュースサービス「ボイス・オブ・アメリカ」(VOA) は、本部を連邦議会議事堂近くの南西地区に置いている。同じくD.C.に本拠地を置くラジオ・ワンは、アメリカで最大のアフリカ系アメリカ人向けテレビ・ラジオの複合企業で、メディア界の大物キャシー・ヒューズによって設立された。", "title": "マスメディア" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "参照:ワシントンD.C.のラジオ放送局の一覧", "title": "マスメディア" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.は、5つの大きなプロスポーツチームの本拠地となっている。バスケットボールのワシントン・ウィザーズ (NBA) とアイスホッケーのワシントン・キャピタルズ (NHL) は、いずれもチャイナタウンにあるキャピタル・ワン・アリーナでプレーしている。2008年にD.C.南東地区にオープンしたナショナルズ・パークは、ワシントン・ナショナルズ(メジャーリーグベースボール)の本拠地である。D.C. ユナイテッド(メジャーリーグサッカー)は、アウディ・フィールドでプレーしている。フットボールのワシントン・コマンダース (NFL) は、メリーランド州ランドーバーにあるフェデックスフィールドである。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ワシントン地域には、女子プロスポーツチームもたくさんある。バスケットボールのワシントン・ミスティクス (WNBA) はキャピタル・ワン・アリーナで、ソフトボールのワシントン・グローリー(ナショナル・プロ・ファストピッチ)はウェストフィールド・ハイスクール・スポーツ・コンプレックス(バージニア州フェアファクス郡)でそれぞれプレーしている。サッカーのワシントン・フリーダムは、2009年から始まった女子プロサッカーリーグ(アメリカ女子プロサッカー、アメリカ女子サッカーリーグ (WUSA) の後を継ぐ団体)で復活、2011年よりマジックジャックに改名し、フロリダ州に移転した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "そのほかにワシントンに本拠を置くプロ又はセミプロのチームとしては、次のものがある。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "アメリカンフットボール、バスケットボール、野球、アイスホッケーという4大メジャースポーツリーグのチームがすべて揃っている都市はアメリカには13しかなく、ワシントンD.C.はそのうちの一つである。これにサッカーを加えると、すべて揃っているのはワシントンD.C.を含む8都市となる。ワシントンD.C.のスポーツチームは、総計すると12回のリーグでの優勝を手にしている。そのうち4回がD.C.ユナイテッドが勝ち取ったものである(メジャーリーグサッカー史上最多である)。またワシントン・コマンダースが3回、ワシントン・ベイホークスが2回、ワシントン・ウィザーズ、ワシントン・グローリー、ワシントン・ナショナルズがそれぞれ1回である。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "そのほか、ロック・クリーク公園にあるフィッツジェラルド・テニス・センターでは、レッグ・メイソン・テニス・クラシック (Legg Mason Tennis Classic) の大会が開催される。マリン・コープス・マラソン (Marine Corps Marathon) とナショナル・マラソン (National Marathon) の2つもワシントンで毎年開催される。また、ワシントン地域には、コムキャスト・スポーツネット (CSN) というスポーツ専門の地方テレビ局があり、メリーランド州ベセスダに本拠がある。プロテニスシティ・オープンも開催される。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "ナショナル・モールとその周辺には、多くの観光スポットが集中している。モール内にはワシントン記念塔、リンカーン記念館などのモニュメントがあり、その周辺にはスミソニアン博物館、ナショナル・ギャラリーを代表として、多数の博物館・美術館がある。また、モールの北側や、アメリカ合衆国議会議事堂、アメリカ合衆国最高裁判所などの政府機関も一般に公開されており、観光名所として人気がある。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "モールを離れて北側のナショナル・ジオグラフィック協会などや、北西側のワシントン大聖堂なども、観光名所は集中していないものの、それぞれ独自の町並みを見せており、これらの地域を訪れる人も多い。さらにワシントンメトロで結ばれている近郊の街には、アーリントン国立墓地があるアーリントンや、オールド・タウンと呼ばれる古い町並みが残るアレクサンドリアなどがある。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "モールを中心に、解説を交えながらこれらの観光名所を巡回する観光用バスが多数走っており、ツアーモービル、オールド・タウン・トロリー、グレイライン・レッド・トロリー、ダックツアーなどがある。また、ユニオン駅からはナショナル・モール、タイダルベイスン湖岸を巡回する路線バス特別区循環も運行されている。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "一つの地方としてのワシントンD.C.ローカルの政治傾向はリベラルであり、民主党が強く、支持者も圧倒的に多い。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国憲法1条8節17項は、合衆国の連邦議会に、ワシントンD.C.に対する最高の権限を与えている。1973年のコロンビア特別区地方自治法により、連邦議会の一定の権限が特別区のワシントンD.C.地方政府に委譲され、同政府は、ワシントンD.C.の首長であるコロンビア特別区長(現在は民主党のミューリエル・バウザー)と、条例制定権を有する地方議会のコロンビア特別区議会(定数13議席)によって運営されることとなった。もっとも、連邦議会は、コロンビア特別区議会の作った法律を審査・破棄し、またワシントンD.C.地方自治の問題について介入する権限を有している。8つの選挙区ごとに1人の市議会議員が選ばれ、これとは別に全域から議長を含む5人の議員が選ばれる。また、小地区ごとに、地区諮問委員会 (ANC) の37人の委員が選挙される。ANC は伝統的に多大な影響力を行使しており、市政府は ANC の助言に十分に配慮するのが通例である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.市長とコロンビア特別区議会が予算を採択したとき、連邦議会はそれを変更する権限を有している。地方の所得税、売上税及び資産税が、市政府の部局や行政サービスに当てるための収入の大部分を占める。50州と同様、ワシントンD.C.は老齢者医療保険制度 (Medicare) のような連邦政府補助金プログラムからの資金を受けている。連邦議会は、このほかに市の経費の一部を補助するため、資金を直接交付しており、これは2007年度では3800万ドル(D.C.の予算の約0.5%)となっている。しかし、これらの資金提供とは別に、連邦政府が特別区裁判所(2008年で2億7200万ドルの予算)や、連邦公園警察のような連邦警察機構を運営しており、これらが市の治安の維持に貢献している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "歴史的には、市の地方政府は失策や浪費で悪名を得てきており、特にマリオン・バリー市長の時代はこれが顕著だった。1997年7月20日のワシントン・ポスト紙は、1面記事で、ワシントンD.C.の行政サービスは全国でもコストが最高で質は最低だと報じた。アンソニー・ウィリアムス市長の時代になって成功を見るようになり、都市の再生も進み、1990年代に財政の黒字化も実現し、それが今日まで続いている。2007年末に、捜査当局の調べで、租税・歳入事務所の複数の職員が、虚偽の税金還付の小切手を作出することにより、4400万ドル以上を詐取していたことが発覚した。このスキャンダルはフェンティ市政にとっての汚点となり、市民の信頼回復が最重要課題となっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.は、すべての連邦の休日 (Federal holiday) に従っている。そのほかに、1862年(奴隷解放宣言の9か月前)に奴隷解放補償法がエイブラハム・リンカーン大統領によって署名されたのを記念して、4月16日の奴隷解放記念日を祝日としている。この法律により、D.C.での奴隷制は終わりを迎え、およそ3100人の奴隷が解放された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国大統領選挙の選挙人数は3人、議会の選挙区は定数1議席のコロンビア特別区全区選挙区である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.の市民は、連邦議会に投票権のある議員を送っていない。下院では、投票権のない代議員(準議員)1名がワシントンD.C.を代表しており、現在はエレナー・ホームズ・ノートン(民主党、コロンビア特別区全区選挙区選出)がこれを務めている。代議員は、下院で委員会に出席し、議論に参加し、法案を提出する権限はあるが、議場で投票に加わることはできない。また上院には全く代表を送っていない。1961年までは大統領選挙への投票からも除外されていたが、アメリカ合衆国憲法修正第23条によって、D.C.にも選挙人団の中に3人の投票権が与えられた。プエルトリコやグアムのようなアメリカ合衆国の領域(準州)も下院に投票権のない代議員を送っている(ただし大統領選挙に参加はできない)が、両地域と異なり、ワシントンD.C.の市民はすべての連邦法と課税に服している。2007年度において、D.C.の住民と企業は204億ドルの連邦税を支払っており、これより少ない州は19州ある上、1人当たりの納税額では最大である。これに加え、公民権運動以前には南部で名ばかりの平等の下で選挙権を奪われていた黒人がD.C.の多数派であるため、当時のように間接的に黒人を投票から締め出す形になっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "2005年の世論調査で、アメリカ人の78%が、コロンビア特別区の住民が連邦議会での代表について50州よりも低い地位しか与えられていないことを知らなかったと答えた。この問題についての認識を高めてもらおうとする運動がD.C.の官民挙げて行われている。1990年からはD.C.当局が2年ごとの連邦選挙に合わせて「影の議員」の選挙を行っており、D.C.公認の「影の上院議員」2名と「影の下院議員」1名(連邦に認められた、投票権なき代表とは別)が存在する。また2000年11月からは市の「代表なき課税(代表なくして課税なし)」という非公式のモットーを、ワシントンの車のナンバープレートに入れてアピールしている。このナンバープレートの登場時に退任直前であったビル・クリントン大統領(民主党)は、趣旨に賛同するとしてこれを大統領専用リムジンに装着した。しかし、ジョージ・W・ブッシュ新大統領(共和党)は、政治スローガンをナンバープレートに載せるべきではないとして、就任後すぐに大統領就任式記念のナンバープレートに取り替えてしまった。なおD.C.は民主党への支持が圧倒的に強固な土地柄である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "様々な世論調査によれば、アメリカ人の61%ないし82%が、D.C.は連邦議会での投票権付き代表を認められるべきだと考えている。にもかかわらず、D.C.に投票権付き代表を与えようとする試みは成功していない。その中には、D.C.州昇格運動もあり、またD.C.に上下両院選挙の投票権を付与する憲法修正案も提出されたが、いずれも成功を見ていない。1978年には州なみの上下両院議員の選出権を付与する改憲案が7年以内の批准を条件として連邦議会を通過したが、1985年までに批准した州は16州にとどまり、改憲に必要な3/4の州(38州)に遠く及ばず成立しなかった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "D.C.に投票権を与えることに対する反対論者は、アメリカ合衆国建国の父たちはD.C.の住民が連邦議会での投票権を持つことを全く意図していなかった、なぜなら憲法は代表は各州の出身でなければならないと明確に規定しているからだと主張している。また、D.C.を州に昇格させることに対する反対論者は、そのような運動は、州から切り離された国の首都という概念を破壊することになる、州とすることは一つの市に上院の代表権を与えることになり不公平であると主張している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "2016年4月15日、ミュリエル・バウザー(英語版)市長は州への昇格を問う住民投票の実施を提案し、29日に州憲法草案を発表した。特別区議会は7月10日に満場一致で住民投票の実施を決定した。新州名は最初「ニューコロンビア州 (State of New Columbia)」となっていたが、投票直前となって「ワシントンD.C.州 (State of Washington, D.C.)」に変更された。新州名のD.C.は従来の「コロンビア特別区 (District of Columbia)」ではなく、「ダグラス・コモンウェルス (Douglass Commonwealth)」の略称である。D.C.を略さず「ワシントン・ダグラス・コモンウェルス州 (Washington Douglass Commonwealth)」とも表記される。ダグラスは奴隷制度廃止運動家のフレデリック・ダグラスに由来する。コモンウェルスは合衆国において4つの州が州名に使用している表現である(コモンウェルス (米国州)を参照)。州域はナショナル・モールやホワイトハウスといった連邦政府機関を除いた特別区全域とされ、新州に含まれない地域は連邦直轄領に残留する。これは合衆国憲法第1章第8条で「連邦政府の所在地は連邦政府の直轄地であること」と定めているための措置である。住民投票は11月8日の大統領選挙と同時に実施され、結果は賛成票が約8割を占めた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2017年に特別区の投票権のない代議員であるエレノア・ホルムズ・ノートンとデラウェア州選出のトム・カーパー(英語版)がそれぞれ下院に法案を提出するも、当時は昇格に反対的な共和党が多数派であったこともあり失敗に終わった。2018年の下院選挙(英語版)で昇格に同調的な民主党が過半数を獲得すると、2019年1月に可決した「2019年人民法 (HR 1)」において特別区の州昇格を支持する文言を取り入れた。同法案には拘束力はなく、また大統領および上院の過半数は共和党員であるため成立する可能性は低いものの、合衆国議院が初めて州昇格を承認した歴史的瞬間となった。また同時期に、特別区の合衆国加入を規定した「ワシントンD.C.合衆国加入法(英語版) (HR 51)」が提出された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "2020年5月に始まったジョージ・フロイド抗議運動では、特別区で起きた抗議運動(英語版)に対してときの大統領ドナルド・トランプは特別区州兵に鎮圧を要請。更に合衆国軍や連邦警察といった連邦機関も投入し、睡眠ガスやゴム弾を用いて議者を徹底的に排除した。過剰な対応に住民や市長は反発し、州昇格への機運が高まった。特別区州兵は連邦政府の指揮下にあり、市長には一切の指揮権がない。州であれば州兵の指揮権は州知事にあるため、大統領の一存で抗議者を強制排除するようなことが起こらないと考えられた。HR 51は6月26日に下院を通過するも、共和党党員で上院多数党院内総務を務めるミッチ・マコーネルは上院の投票の放棄を示唆。またトランプは同法案を「非常に、非常に愚か (very, very stupid)」と評した。結局HR 51は会期中に成立せず、次期に再び下院からやり直すこととなった。同年11月の大統領選挙では、HR 51を推進しているジョー・バイデン民主党候補が勝利した。また同時に実施された連邦議会選挙では、下院(英語版)は民主党が過半数を維持した一方、上院(英語版)はジョージア州の通常選挙と特別選挙がともに決選投票となり、民主党と共和党のどちらが主導権を握るかは年明けに持ち越された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2021年1月3日、新会期が始まりHR 51は下院に再び提出された。6日、ジョージア州上院選挙の決選投票が実施され、両選挙とも民主党候補が勝利したことで民主党が上院の主導権を握り、法案可決が現実味を帯びるようになった。7日、トランプ支持者による議会襲撃事件が発生した。事件当日の13時ごろ、支持者は議事堂の敷地内へ入り建物を取り囲んだ。一部は暴徒化しており、危機感を感じた市長は国防総省へ州軍の派遣要請を行った。しかし派遣が決定したのは15時で、暴徒らは既に議事堂内に侵入していた。トランプは州兵投入について自らが直ちに行ったと主張しているがその痕跡は確認されておらず、逆に襲撃を扇動したとして批判された。前年とは正反対となる今回の対応によって、特別区州軍が大統領個人の制御下にあると広く考えられるようになり、特別区の地位の見直す動きは国内に広がった。27日、HR 51は上院に提出された。4月20日、下院の投票を前にバイデン大統領はHR 51の支持を表明した。23日、HR 51は下院を通過した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "コロンビア特別区パブリックスクールズ (DCPS) が、市の公立学校システムを運営しており、これは167の学校と学習センターから成る。2007年度では、4万9076人の生徒が公立学校システムに登録されている。DCPS への登録は一貫して減少しており、次の年までに全登録生徒数が4万7700人にまで減少するだろうと市では予測している。DCPS は、インフラの面でも、生徒の成績の面でも、国内でコストが最も高い割に成果が最も乏しい学校システムの一つであることは否めない。市議会は、2007年に市の学校システムの大改革を行うに当たり、市長に対し公立学校についてのほぼ完全な権限を与えた。フェンティ市長が指名した DCPS の新しい最高責任者であるミシェル・リー長官 (Michelle Rhee) は、一部の学校を民間経営会社に委ねたり、校長を解任したり、教師を入れ替えたりするなど、徹底的な改革を行った。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "公立学校システムの問題点から、公立のチャーター・スクールの登録数が、2001年以来、年々13%の割合で増加している。コロンビア特別区公立チャーター・スクール委員会は、市内の56校の公立チャーター・スクールを監督している。2007年秋の時点で、D.C.のチャーター・スクールには全部で2万1859人が登録している。ワシントンD.C.には、有名な私立高校もいくつかある。多くの著名人やその子弟が、シドウェル・フレンズ校のような私立高校に通ってきた。チェルシー・クリントンもその一人で、父ビル・クリントンの大統領在職期間中、シドウェル校に通っていた。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.には、多くの著名大学がある。ジョージタウン大学、ジョージ・ワシントン大学、アメリカン大学、ハワード大学、ギャローデット大学、アメリカカトリック大学 (CUA)、ジョンズ・ホプキンス大学の高等国際関係大学院(SAIS) などがある。コーコラン美術デザイン大学 (Corcoran College of Art and Design) では専門的な美術の授業を行っているほか、他の高等教育機関でも、継続教育(英語版)}、遠隔教育、社会人向け教育を提供している。コロンビア特別区大学 (UDC) は国によるランドグラント大学で、どこの州にも属さないために州立大学というものを持たないこのワシントンD.C.において、公的な高等教育の機会を与えている。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.には、16の医療センターと病院があり、患者のケアと医学研究の全国的な中心地となっている。アメリカ国立衛生研究所はメリーランド州ベセスダの近くにある。ワシントン・ホスピタル・センター (WHC) は、D.C.で最大の敷地を持つ病院であ、私立病院としても、非営利病院としても最大である。WHC のすぐ隣には、国立子ども医療センター (Children's National Medical Center) がある。同センターは、USニューズ&ワールド・レポート誌によれば、アメリカ国内で最も高いランクを与えられている小児科病院の一つである。ジョージタウン大学、ジョージ・ワシントン大学、ハワード大学など、多くの有名大学も、メディカル・スクールとその附属病院を設けている。ウォルター・リード軍医療センター (Walter Reed Army Medical Center) は、ワシントンD.C.北西地区にあり、現役・退役の軍人とその家族に対し医療サービスを提供している。", "title": "医療" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "救急医療サービスはコロンビア特別区消防局によって提供されている。", "title": "医療" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "連邦軍組織として、D.C.内に大規模な駐屯地などはないが、統合部隊である首都地域統合部隊司令部 (Joint Force Headquarters National Capital Region,JFHQ-NCR) がワシントンD.C.およびその周辺の防衛を担っている。また、州兵としてコロンビア特別区州兵およびコロンビア特別区空軍州兵が編成されている。これら州兵は常に連邦政府の指揮下にある。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.は、国内でも最悪クラスの交通事情と混雑でよく引き合いに出される。2007年、ワシントンの自動車は年あたり60時間の間渋滞に巻き込まれており、これはロサンゼルスに次いで国内で最悪の交通事情と結び付いている。一方で、ワシントンの通勤者の37.7%が通勤に公共交通機関を利用しており、これも国内で2番目に高い割合である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "ワシントン首都圏交通局 (WMATA) は、市の地下鉄網であるメトロレール(「メトロ」と呼ばれることが多い)と、メトロバスを運営している。地下鉄とバス網は、ワシントンD.C.のほか、メリーランド州とバージニア州の近郊地域にもサービスを提供している。メトロレールが開業したのは1976年3月27日で、現在、駅の数は87、線路の全長は171.1kmである。2008年において、平日には平均すると1日のべ95万人が利用しており、メトロレールはニューヨーク市地下鉄に次いで全国で2番目に繁忙な地下鉄となっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "WMATA では、2030年までに地下鉄の利用客は1日平均100万人になると見ている。輸送能力を拡張する必要があることから、220の車両を追加するとともに、繁忙駅の混雑を緩和するために迂回ルートを作るよう計画が更新された。この地域の人口増加を受け、メトロの路線を2つ新たに建設するという取り組みがよみがえった。それとともに、町と町を結ぶ新たなライトレール網も計画されている。最初の路面電車の路線は、2009年末にオープンする見通しである。なお2016年、小規模ながらDCストリートカーが開業した。ワシントンの周辺地域にも、ローカルなバス網がある。メリーランド州モンゴメリー郡にはライド・オンというバスが走っており、WMATA のサービスを補完している。メトロレール、メトロバスおよびその他のローカルな公共バスでは、「スマートリップ」(SmarTrip) という、繰り返しチャージ可能な乗車券(ICカード)が利用できる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "ユニオン駅は、アメリカでニューヨークのペンシルベニア駅(ペン・ステーション)に次いで2番目に賑わった鉄道駅であり、アムトラックのノースイースト・コリダーとアセラ・エクスプレスのターミナル駅となっている。メリーランド州のメリーランド・レール・コミューター (MARC) とバージニア州のバージニア・レールウェイ・エクスプレス (VRE) の通勤用電車、並びにメトロのレッド・ラインもユニオン駅に乗り入れている。都市間バスは、グレイハウンド、ピーターパン、ボルトバス、メガバス、その他多数のチャイナタウン・バスラインによって運行されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.へのアクセスには3つの大きな空港があり、1つがメリーランド州、他の2つがバージニア州にある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港は、D.C.の中心地からポトマック川を渡ってすぐの、バージニア州アーリントン郡にある。レーガン空港は、ワシントンエリアの中でメトロレールの駅がある唯一の空港である。D.C.に近接していることから、レーガン空港は、防空識別圏のために特別なセキュリティ警戒が要求されている上、追加的な騒音規制も課せられている。レーガン空港にはアメリカ合衆国税関・国境警備局がないので、カナダ線、カリブ海域諸島線など、プリクリアランス(搭乗前の入国審査、通関手続等)が許可されている航空機に限って国際線サービスを提供している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "主な国際線は、ワシントン・ダレス国際空港に発着する。ダレス空港はD.C.から42km西の、バージニア州フェアファクス郡とラウダウン郡にある。同空港はアメリカ合衆国東海岸におけるユナイテッド航空の主要なハブ空港として機能しており、日本からは全日本空輸、ユナイテッド航空が直行便を運航している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "ボルチモア・ワシントン国際空港はD.C.から48km北東、メリーランド州アン・アランデル郡にあり、サウスウエスト航空のハブ空港となっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.付近を通る主要な州間高速道路としては、次のものがある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.には15の姉妹都市がある。パリは、その町(コミューン)の方針のために「パートナー都市」となっている。", "title": "姉妹都市" } ]
コロンビア特別区は、アメリカ合衆国の首都。アメリカ合衆国東部に位置する連邦直轄地である。東海岸、メリーランド州とヴァージニア州に挟まれたポトマック川河畔に位置する。通称は、ワシントンD.C.。 アメリカ合衆国連邦政府の所在地として国際的に強大な政治的影響力を保持する世界都市であり、また金融センターとしても高い重要性を持つ。その構造は、首都としての機能を果たすべく設計された計画都市である。
{{Otheruses|アメリカ合衆国東部の都市|同国西部の州|ワシントン州|その他|ワシントン}} {{世界の市 | 正式名称 = コロンビア特別区 | 公用語名称 = District of Columbia<br/>{{flagicon|USA}} | 愛称 = ワシントンD.C.、D.C.、特別区(The District) | 標語 = Justitia Omnibus" (Justice for All)<br />"すべてに正義(公平)を | 画像 = Washington Montage 2016.png | 画像サイズ指定 = | 画像の見出し = | 市旗 = Flag of the District of Columbia.svg | 市章 = Seal of the District of Columbia.svg | 位置図 = Washington, D.C. locator map.svg | 位置図サイズ指定 = | 位置図の見出し = ワシントンD.C.の位置 | 位置図B = {{Location map|USA#North America#America|relief=1|float=center|label=ワシントンD.C.}} | 位置図2B = {{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=270|frame-height=240|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}} | 緯度度 = 38|緯度分 = 53|緯度秒 = 42.4|N(北緯)及びS(南緯) = N | 経度度 = 77|経度分 = 02|経度秒 = 12.0|E(東経)及びW(西経) = W | 下位区分名 = {{USA}} | 下位区分種類1 = | 下位区分名1 = | 下位区分種類2 = | 下位区分名2 = | 下位区分種類3 = | 下位区分名3 = | 下位区分種類4 = | 下位区分名4 = | 最高行政執行者称号 = [[ワシントンD.C.市長|特別区長]] | 最高行政執行者名 = {{仮リンク|ミュリエル・バウザー|en|Muriel Bowser}} | 最高行政執行者所属党派 = [[民主党 (アメリカ)|民主党]] | 成立区分 = 首都移転 | 成立日 = [[1800年]] | 規模 = 特別区 | 総面積(平方キロ) = [[1 E8 m²|177.0]] | 総面積(平方マイル) = 68.3 | 陸上面積(平方キロ) = 159.0 | 陸上面積(平方マイル) = 61.4 | 水面面積(平方キロ) = 18.0 | 水面面積(平方マイル) = 6.9 | 水面面積比率 = 10.2 | 市街地面積(平方キロ) = | 市街地面積(平方マイル) = | 都市圏面積(平方キロ) = | 都市圏面積(平方マイル) = | 標高(メートル) = 0-125 | 標高(フィート) = 0-410 | 人口の時点 = 2019年 | 人口に関する備考 = [[アメリカ合衆国の主な都市人口の順位|全米都市人口第24位]] | 総人口 = 705,749 | 人口密度(平方キロ当たり) = 4,439 | 人口密度(平方マイル当たり) = | 市街地人口 = | 市街地人口密度(平方キロ) = | 市街地人口密度(平方マイル) = | 都市圏人口 = 6,216,589 | 都市圏人口密度(平方キロ) = | 都市圏人口密度(平方マイル) = | 等時帯 = [[東部標準時]] | 協定世界時との時差 = -5 | 夏時間の等時帯 = [[東部夏時間]] | 夏時間の協定世界時との時差 = -4 | 郵便番号の区分 = | 郵便番号 = | 市外局番 = | ナンバープレート = | ISOコード = | 公式ウェブサイト = {{URL|https://dc.gov/}} | 備考 = }} '''コロンビア特別区'''(コロンビアとくべつく、{{lang-en-short|District of Columbia}})は、[[アメリカ合衆国]]の[[首都]]。[[アメリカ合衆国東部]]に位置する[[連邦直轄地]]である。[[アメリカ東海岸|東海岸]]、[[メリーランド州]]と[[ヴァージニア州]]に挟まれた[[ポトマック川]]河畔に位置する。[[通称]]は、'''ワシントンD.C.'''(ワシントン・ディー・シー、{{lang-en-short|Washington, D.C.}})。 [[アメリカ合衆国連邦政府]]の所在地として国際的に強大な政治的影響力を保持する[[世界都市]]であり、また[[金融センター]]としても高い重要性を持つ。その構造は、首都としての機能を果たすべく設計された[[計画都市]]である<ref group="注">同様な計画都市としては旧[[満州国]]の[[新京]](現在の[[中華人民共和国]][[吉林省]][[長春市]])、[[オーストラリア]]の[[キャンベラ]]、[[ブラジル]]の[[ブラジリア]](共に首都)がある。</ref>。 {{bar box |title = 家庭で話される言語(ワシントンD.C.)2010<ref>[http://www.mla.org/map_data_results&state_id=23&mode=state_tops MLA Language Map Data Center". Modern Language Association.]</ref> |titlebar = #ddd |float = right |bars = {{bar percent|[[英語]]|red|85.47}} {{bar percent|[[スペイン語]]|Purple|7.42}} {{bar percent|[[フランス語]]|blue|1.38}} }} {{bar box |title = 人種構成(ワシントンD.C.)2010 |titlebar = #ddd |float = right |bars = {{bar percent|[[アフリカ系アメリカ人|黒人]]|Purple|50.1}} {{bar percent|[[:en:White Americans|白人]]|blue|35.5}} {{bar percent|[[ヒスパニック]]|pink|9.9}} {{bar percent|[[アジア系アメリカ人|アジア系]]|brown|3.8}} {{bar percent|[[インディアン]]|orange|0.6}} {{bar percent|[[混血]]|yellow|2.5}} }} ==概説== [[ファイル:Washington C D.C. Tidal Basin cherry trees.jpg|thumb|left|[[タイダルベイスン]]畔の[[サクラ|日本桜]]]] [[ポトマック川]]の北岸に位置し、南西を[[バージニア州]]に、その他の方角を[[メリーランド州]]に接している。2010年度[[国勢調査]]による人口は601,723人<ref name="FactFinder">[http://factfinder2.census.gov/main.html American FactFinder]. U.S. Census Bureau. 2011年2月4日.</ref>で全米24位だが、労働時間帯には近郊からの通勤者により人口100万を超える。ワシントンD.C.を中心に、メリーランド州、バージニア州北部、[[ウェストバージニア州]]の最東部2郡を併せた地域を一般に「首都圏」または「メトロポリタン」と呼んでいるが、その人口は5,582,170人(2010年国勢調査)<ref name="FactFinder" />で、全米7位である。また、北東に約65キロメートルの地には人口620,961人(2010年国勢調査)を抱えるメリーランド州の最大都市[[ボルチモア]]<ref name="FactFinder" />が位置している。このボルチモアといわゆる首都圏を併せた[[ワシントン・ボルチモア・北バージニア広域都市圏]]<ref group="注">通常、都市圏や広域都市圏の名称では人口の多い都市の名が先にするが、ワシントン・ボルチモア・北バージニア広域都市圏は例外的に首都であるワシントンD.C.の名称を先にしている。</ref>の人口は8,572,971人(2010年国勢調査)<ref name="FactFinder" />を数え、全米4位の規模である。 [[アメリカ合衆国憲法第1条]]により、各州とは別に、恒久的な首都としての役割を果たすため、連邦の管轄する区域が与えられている。アメリカ合衆国[[三権]]機関([[アメリカ合衆国大統領|大統領]]官邸(「[[ホワイトハウス]]」)、[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]([[アメリカ合衆国議会議事堂|議会議事堂]])、[[合衆国最高裁判所|連邦最高裁判所]])が所在し連邦機関が集まる他、多くの国の記念建造物や博物館([[スミソニアン博物館]]など)も置かれている。 中心部には高さ169メートル(約555フィート)の[[ワシントン記念塔]]がある。 同市の[[ナショナル・モール]]における博物館群は質・量ともに世界でもトップクラスであり、観光資源にもなっている。[[ポトマック川]]の入り江である[[タイダルベイスン]]の畔にある[[サクラ|桜]]の木々は、アメリカ合衆国内で有数の桜の[[花見]]の名所となっており、毎年[[全米桜祭り]]が開催される。 172か国の[[大使館]]に加え、[[世界銀行]]、[[国際通貨基金]] (IMF)、[[米州機構]] (OAS)、[[米州開発銀行]]、汎アメリカ保健機関 (PAHO) の本部も置かれている。[[労働組合]]、[[ロビイスト]]、職業組合など各種団体の本部もある。 [[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]がワシントンD.C.における権限を有している。連邦議会に関してワシントンD.C.は、下院に本会議での投票権を持たない市代表(代議員)を選出しているものの、上院議員の議席は与えられていない。ワシントンD.C.が州であると仮定し他の州と比較すれば、面積では[[ロードアイランド州]]に後れて最下位、人口では最下位から2番目(最下位は[[ワイオミング州]])であるが、人口密度では1位、州民総生産では35位、また黒人の比率では1位であり、国全体のマジョリティ(非ヒスパニック系白人)とマイノリティとは反転している。 2011年現在、ワシントンD.C.においては[[死刑制度]]が廃止されている。アメリカの[[シンクタンク]]が[[2017年]]に発表した総合的な[[世界都市]]ランキングにおいて、世界17位の都市と評価されており、アメリカの[[都市]]では[[ニューヨーク]]、[[ロサンゼルス]]、[[シカゴ]]、[[サンフランシスコ]]に次ぐ5位である<ref>[http://www.joneslanglasalle.co.jp/japan/ja-jp/Documents/New%20Release/20171023-JLL-DecodingCityPerformance.pdf JLL、世界の都市比較インデックスを分析「都市パフォーマンスの解読」を発表] JLL 2017年10月25日閲覧。</ref>。 == 名称 == 法律上の正式名称は「'''コロンビア特別区'''」(コロンビアとくべつく、District of Columbia)。州に属していないアメリカ合衆国・連邦政府直轄地。 コロンビア特別領 ({{en|territory of Columbia}}) として[[1790年]]に創設され、[[1801年]]の[[:en:District of Columbia Organic Act of 1801|コロンビア特別区自治法(旧)]]により地方自治権を持つコロンビア特別区となった。特別区内には自治権を持つ市や郡があり、その一つが首都たる'''ワシントン市'''だった。しかし[[1871年]]の[[:en:District of Columbia Organic Act of 1871|コロンビア特別区自治法(新)]]により特別区内の全ての自治体は特別区に統合された。 この歴史的な経緯から、かつての呼び名である「'''{{en|Washington, District of Columbia}}'''」 がしばしば使われる。ただしこれは「'''コロンビア特別区のワシントン市'''」という意味の語句であり、かつての正式名称というわけではない。またそれゆえ、これを和訳する場合は(語順どおりに'''ワシントン・コロンビア特別区'''ともするが)直訳は'''''コロンビア特別区ワシントン'''''となる。 略して'''ワシントンD.C.'''と呼び、米国ではWashington、The District、または単にD.C.とも通称する。日本語では'''首都ワシントン'''または'''ワシントン'''と呼ぶことも多い。 "D.C." は '''"District of Columbia"'''([[コロンビア (古名)|コロンビア]]特別区)の頭文字で、[[南アメリカ]]の[[コロンビア]]共和国と同様に[[クリストファー・コロンブス]]に因む名である<ref>「Patric(男性名)+ia=Patricia(女性名)」と同様に「Columbus(男性名)+ia=Columbia(女性名)」である</ref>。日本語ではワシントンD.C.を単に「ワシントン」と呼び、(ワシントンD.C.と識別するため)[[ワシントン州]]を「ワシントン州」と呼ぶことが多い。 == 歴史 == {{Main|ワシントンD.C.の歴史}} [[ファイル:WashMonument WhiteHouse.jpg|thumb|right|[[ワシントン記念塔]](手前)と[[ホワイトハウス]](奥)]] [[アメリカ合衆国憲法第1条]]第8節第17項によって、連邦議会にアメリカ合衆国の首都を設立する権限が与えられた。同条によれば、「ある州が譲渡し、連邦議会が受諾することにより、合衆国政府の所在地としての地区(ただし10マイル四方を超えてはならない)」が認められた<ref>[[s:アメリカ合衆国憲法#1|アメリカ合衆国憲法1条訳文]](ウィキソース)、[[s:en:Constitution of the United States of America|原文]](英語版ウィキソース)</ref>。[[ジェームズ・マディソン]]は、[[1788年]][[1月23日]]の『[[ザ・フェデラリスト]]』第43篇で、合衆国の首都は、その持続と安全のため、各州からは別個のものとすべきだとして、連邦の管轄する区域の必要性を説明した<ref>{{cite web |url = https://guides.loc.gov/federalist-papers/text-41-50 |title = The Federalist No. 43 |accessdate = 2008-05-31 |last = Madison |first = James |date = 1996-04-30 |work = The Independent Journal |publisher = [[アメリカ議会図書館]] |language = 英語 }}</ref>。[[1783年]]には、[[フィラデルフィア]]に置かれていた連邦議会に対し、兵士らの暴動により攻撃が加えられたことも、合衆国政府が安全に配慮する必要性があることを強調することとなった<ref>{{cite book |last = Crew |first = Harvey W. |coauthors = William Bensing Webb, John Wooldridge |title = Centennial History of the City of Washington, D. C. |publisher = United Brethren Publishing House |year = 1892 |location = オハイオ州デイトン |url = https://books.google.co.jp/books?id=5Q81AAAAIAAJ&redir_esc=y&hl=ja |pages = 66 |language = 英語 }}</ref>。 憲法は新たな首都の場所を特定していなかったが、マディソン、[[トーマス・ジェファーソン]]及び[[アレクサンダー・ハミルトン]]の3人は、[[1790年]]、首都を[[アメリカ合衆国南部|南部]]に置くことを条件に、合衆国が州の発行した戦時負債を肩代わりするとの合意に達した(後に1790年協定として知られる)<ref group="注">1790年までに、[[アメリカ合衆国南部|南部州]]は[[アメリカ独立戦争]]の外債をほとんど返済していた。これに対し、北部州は返済が進んでおらず、新しい連邦政府に未払いの負債を引き継いでもらいたいと考えていた。これは、南部州が北部州の負債を肩代わりすることを事実上意味していたので、その見返りとして、南部州は連邦の首都を自分たちの農業地域・奴隷使用地域の利権の近くに置くようロビー活動を行ったのである。前掲''Centennial History of the City of Washington, D. C.''124頁参照。</ref>。 [[ファイル:L'Enfant plan.svg|right|thumb|250px|[[ピエール・シャルル・ランファン]]によるワシントン市の計画図]] 1790年7月16日、[[首都立地法 (アメリカ合衆国)|首都立地法]]により、新しい恒久的な首都が[[ポトマック川]]河畔に置かれることになり、詳細は[[ジョージ・ワシントン]]大統領により選定されることとなった<ref>{{cite web |url = http://www.loc.gov/rr/program/bib/ourdocs/Residence.html |title = Residence Act: Primary Documents in American History |accessdate = 2008-06-10 |date = 2007-09-21 |publisher = 議会図書館 |language = 英語 }}</ref>。当初の形は、合衆国憲法により認められていた通り、一辺が10マイル (16 km) のダイヤモンド型で、100平方マイル (260 [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]) であった。新首都建設のため[[メリーランド州]]と[[バージニア州]]が領土の一部を[[割譲]]し、新しい「連邦の市」はそのうちポトマック川の北岸に建設されることとなった。もっとも、同じ100平方マイルの地区内にはすでに2つの独立した自治体(1749年に設立されたアレクサンドリア市<ref>{{cite web |url = http://www.alexandriahistorical.org/alexhistory.php |title = History of Alexandria, Virginia |accessdate = 2008-07-31 |publisher = Alexandria Historical Society |language = 英語 }}</ref>と、1751年に設立された[[ジョージタウン (ワシントンD.C.)|ジョージタウン]]市<ref>{{cite web |url = http://www.cr.nps.gov/nr/travel/Wash/dc15.htm |title = Georgetown Historic District |accessdate = 2008-07-05 |publisher = [[アメリカ合衆国国立公園局]] |language = 英語 }}</ref>)があった。1791年9月9日、この連邦の市はジョージ・ワシントンに敬意を表してワシントン市と命名され、この100平方マイルの地区全体はコロンビア区 (Territory of Columbia) と名付けられた<ref group="注">[[1871年]]にこの地区がコロンビア特別区 (the District of Columbia) と正式に命名されるまでは、現在では「〜領」を意味する "territory" と「〜区」を意味する "district" の2語が互換的に用いられていた。参照:{{cite web |url = http://www.historydc.org/gettoknow/faq.asp |title = Get to know D.C. |accessdate = 2008-05-27 |year = 2004 |publisher = The Historical Society of Washington, D.C. |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080315212051/http://www.historydc.org/gettoknow/faq.asp |archivedate = 2008年3月15日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>(コロンビアは、当時合衆国を指す詩的な名称として使われていた言葉である)。連邦議会は、1800年11月17日、ワシントンで最初の議会を開催した<ref> {{cite web |url = http://www.senate.gov/artandhistory/history/minute/The_Senate_Moves_to_Washington.htm |title = The Senate Moves to Washington |publisher=[[アメリカ合衆国上院]] |date = 2006-02-14 |accessdate = 2008-07-11 |language = 英語 }}</ref>。 [[1801年]]のコロンビア特別区基本法 ([[:en:District of Columbia Organic Act of 1801|The Organic Act]]) により、正式にコロンビア特別区が編制され、アレクサンドリア市、ジョージタウン市、ワシントン市を含む連邦の管轄地域全体が、連邦議会の排他的支配下に置かれた<ref>前掲''Centennial History of the City of Washington, D. C.''103頁</ref>。さらに、特別区内で自治体に組み込まれていない領域は、二つの郡 (county) に組織された。すなわち、ポトマック川北岸のワシントン郡と南岸のアレクサンドリア郡である。同法制定後は、特別区内の市民はメリーランド州やバージニア州の住民ではなくなり、議会の代表権もなくなることとなった<ref>{{Cite web |url = http://www.abanet.org/poladv/letters/electionlaw/060914testimony_dcvoting.pdf|title=Statement on the subject of The District of Columbia Fair and Equal Voting Rights Act |format = PDF |publisher = アメリカ法律家協会 |accessdate = 2012-11-07 }}</ref>。 [[ファイル:Fords Theatre.jpg|thumb|left|200px|19世紀の[[フォード劇場]]。1865年[[エイブラハム・リンカーン|リンカーン]]大統領暗殺の場となった。]] [[米英戦争]]の中、[[1814年]][[8月24日]]から25日にかけて、イギリス軍がアメリカ軍によるヨーク(現在の[[トロント]])焼き討ちの報復として首都を焼き討ちした([[ワシントン焼き討ち]])。[[アメリカ合衆国議会議事堂|議会議事堂]]、[[アメリカ合衆国財務省|財務省]]、[[ホワイトハウス]]はこの攻撃の中で焼かれ、破壊された<ref>{{cite web |url = http://www.whitehousehistory.org/04/subs/images_subs/primary_1812.pdf |title = Saving History: Dolley Madison, the White House, and the War of 1812 |accessdate = 2008-07-29 |publisher = ホワイトハウス歴史協会 |language = 英語 }}</ref>。ほとんどの政府の建物は速やかに修復されたが、議事堂は大規模な建設工事が行われ、1868年になって初めて完成を見た<ref>{{cite web|url=http://www.aoc.gov/cc/capitol/capitol_construction.cfm |title=A Brief Construction History of the Capitol |accessdate = 2008-06-04 |publisher = Architect of the Capitol |language = 英語 }}</ref>。 1830年代、特別区の南にあるアレクサンドリア郡は、より内陸に位置しチェサピーク・オハイオ運河に面したジョージタウン港との厳しい競争などにより経済的に落ち込んでいた<ref name="dcfaq">{{cite web |url = http://www.historydc.org/gettoknow/faq.asp |title = Get to know D.C. |accessdate = 2008-05-27 |year = 2004 |publisher = The Historical Society of Washington, D.C. |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080315212051/http://www.historydc.org/gettoknow/faq.asp |archivedate = 2008年3月15日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。当時、アレクサンドリアは[[奴隷貿易]]の主要な市場であったが、奴隷廃止論者が首都における奴隷制を終わらせようとしているとの噂が流れた<ref>{{cite book |last = Greeley |first = Horace |title = The American Conflict: A History of the Great Rebellion in the United States |publisher = G.& C.W. Sherwood |year = 1864 |location = シカゴ |url = https://books.google.co.jp/books?id=ZlIMAAAAYAAJ&redir_esc=y&hl=ja |pages = 142–144 |language = 英語 }}</ref>。富をもたらす奴隷貿易ができなくなることを避ける目的もあって、1846年、アレクサンドリアのバージニア州への返還の可否について住民投票が行われ、可決された。同年7月9日、連邦議会は、特別区のうちポトマック川より南の領域(約100km<sup>2</sup>)をバージニア州に返還することに同意した<ref name=dcfaq/>。この土地は現在はアーリントン郡に属し、アレクサンドリア市の一部をなす。この結果、ワシントンD.C.は頂点を北に向けた正方形のうち、南西部の川に区切られた区画を除いた形をなすことになった。なお、その4年後、[[1850年協定]]により、特別区内における奴隷貿易(奴隷制そのものではない)が禁止された<ref>{{cite web |url = http://www.loc.gov/rr/program/bib/ourdocs/Compromise1850.html |title = Compromise of 1850 |date = 2007-09-21 |accessdate = 2008-07-24 |publisher = 議会図書館 |language = 英語 }}</ref>。 ワシントンは、1861年の[[南北戦争]]勃発までは小さな町であった。南北戦争によって合衆国政府は大きく膨張し、それにより町の人口も著しく増大した。解放奴隷の大量の流入もこれに寄与した<ref>{{cite web |url = http://memory.loc.gov/ammem/today/sep20.html |title = Today in History: September 20 |accessdate = 2008-07-12 |date = 2007-09-18 |publisher = 議会図書館 |language = 英語 }}</ref>。1870年までに、特別区の人口は、13万2000人近くにまで増えた<ref>{{cite web |url = http://www.census.gov/population/www/documentation/twps0056/tab23.pdf |title = Historical Census Statistics on Population Totals By Race, 1790 to 1990 |accessdate = 2008-07-19 |date = 2002-09-13 |format = PDF |publisher = [[アメリカ合衆国国勢調査局]] |language = 英語 }}</ref>。しかし町の成長にもかかわらず、ワシントンの道路は未舗装であり、基本的な衛生設備もないなど、条件が非常に悪かったため、首都を別の場所に移転することを提案する連邦議会の議員もいた<ref name="weta">{{cite web |url = http://www.exploredc.org/index.php?id=4 |title = "Boss" Shepherd Remakes the City |accessdate = 2008-06-03 |year = 2001 |publisher = WETA Public Broadcasting |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20070311084455/http://www.exploredc.org/index.php?id=4 |archivedate = 2007年3月11日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 [[ファイル:March on Washington edit.jpg|thumb|upright|right|200px|1963年の[[ワシントン大行進]]で[[リンカーン記念館]][[リフレクティング・プール]]を囲む群衆]] 1871年のコロンビア特別区基本法 ([[:en:District of Columbia Organic Act of 1871|District of Columbia Organic Act of 1871]]) により、連邦議会は特別区全体の新しい政府を創設し、ワシントン市、ジョージタウン市及びワシントン郡を一つの自治体に統合した<ref>前掲''Centennial History of the City of Washington, D. C.''p.157.</ref>。これをもって現在のワシントンD.C.が形作られ、この町が「ワシントン」と「コロンビア特別区」の両方の名前で知られているのはこのためである。同じ法律の中で、連邦議会は公共事業委員会を設立し、町の近代化に当たらせた<ref>{{cite web |url=http://memory.loc.gov/cgi-bin/ampage?collId=llsl&fileName=016/llsl016.db&recNum=0454 |title = Statutes at Large, 41st Congress, 3rd Session |accessdate = 2008-07-10 |publisher = 議会図書館 |language = 英語 }}</ref>。1873年、[[ユリシーズ・グラント]]大統領は、同委員会の最も有力なメンバーであるアレクサンダー・シェパードを新たに設置された知事職に任命した。その年、シェパードは2000万ドルを公共事業に費やし(2007年は3億5700万ドル)<ref>{{cite web |url = http://www.measuringworth.com/uscompare/ |title = Measuring Worth - Relative Value of US Dollars |accessdate = 2008-07-03 |last = Williamson |first = Samuel |year = 2008 |publisher = Institute for the Measurement of Worth |language = 英語 }}</ref>、ワシントンの近代化を行ったが、同時に財政を破綻させることにもなった。1874年、連邦議会はシェパードの知事職を廃止して直接統治を選んだ<ref name=weta />。更なる町の改修作業は、1901年に行われたマクミラン・プラン ([[:en:McMillan Plan|McMillan Plan]]) を待たなければならなかった<ref name="lenfant">{{cite web |url = http://www.nps.gov/nr/travel/wash/lenfant.htm |title = The L'Enfant and McMillian Plans |accessdate = 2019-11-11 |publisher = 国立公園局 |language = 英語 }}</ref>。 特別区の人口は、しばらくの間比較的安定していたが、1930年代の[[世界恐慌]]では[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領の[[ニューディール政策]]立法により、ワシントンの官僚が増加した。第二次世界大戦で政府の活動は更に増大し、首都における政府職員の数も増加した<ref>{{cite web |url = http://www.exploredc.org/index.php?id=189 |title = WWII: Changes |accessdate = 2008-07-12 |year = 2001 |publisher = WETA Public Broadcasting |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20050214190234/http://exploredc.org/index.php?id=189 |archivedate = 2005年2月14日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。1950年までに、特別区の人口は80万2178人というピークに達した<ref>{{cite web |url = http://www.census.gov/Press-Release/www/releases/archives/facts_for_features_special_editions/001574.html |title = Anniversary of Washington, D.C. as Nation’s Capital |accessdate = 2008-07-09 |date = 2003-12-01 |publisher = [[アメリカ合衆国国勢調査局]] |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080207171308/http://www.census.gov/Press-Release/www/releases/archives/facts_for_features_special_editions/001574.html |archivedate = 2008年2月7日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 1961年、[[アメリカ合衆国憲法修正第23条]]<ref name="amend23">[[s:アメリカ合衆国憲法#aa23|アメリカ合衆国憲法修正23条訳文]](ウィキソース)</ref>により、ワシントンD.C.市民に初めて大統領選挙の[[選挙権]]が与えられた。コロンビア特別区全体に対して、人口の最も少ない州に与えられる、選挙人3人の定数が確保された。 公民権運動の指導者[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア|キング牧師]]が1968年4月4日に暗殺された後、特別区(主に北西地区のUストリート、14番ストリート、7番ストリート)で暴動が発生した。暴動は3日間続き、1万3000人以上の連邦軍と[[コロンビア特別区州兵]]がようやく鎮圧に成功した。多くの店やその他の建物が焼かれ、多くが1990年代後半に再建されるまで荒廃したままであった<ref>{{cite news |first = Paul |last = Schwartzman |coauthors = Robert E. Pierre |title = From Ruins To Rebirth |date = 2008-04-06 |url = http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/04/05/AR2008040501607.html |work = [[ワシントン・ポスト]] |accessdate = 2008-06-06 |language = 英語 }}</ref>。 1973年、連邦議会はコロンビア特別区地方自治法 ([[:en:District of Columbia Home Rule Act|Home Rule Act]]) を制定し、特別区に公選制の[[ワシントンD.C.市長|市長]]と[[地方議会|議会]]を導入することとした<ref>{{cite web |url = http://www.abfa.com/ogc/hract.htm |title = District of Columbia Home Rule Act |accessdate = 2008-05-27 |month = 1999-02 |publisher = ワシントンD.C.政府 |language = 英語 }}</ref>。[[1974年]]、市長の公選が行われ、[[1975年]]、行政委員会委員長であった[[民主党 (アメリカ)|民主党]]のウォルター・ワシントン ([[:en:Walter Washington|Walter Washington]]) が特別区初めての公選の市長、かつ特別区初めての黒人の市長となった<ref>{{cite web |url = http://www.exploredc.org/index.php?id=289 |title = Walter Washington |accessdate = 2008-07-18 |year = 2001 |publisher = WETA Public Broadcasting |language = 英語 }}</ref>。 1979年、マリオン・バリー ([[:en:Marion Barry|Marion Barry]]) が市長に選ばれ、4年間の任期を3期連続で務めた。しかし麻薬の使用が噂され、3期目の任期半ばの1991年には[[連邦捜査局|FBI]]のおとり捜査により[[クラック・コカイン]]所持使用で現行犯逮捕され、公判で[[禁錮]]6か月の実刑判決を受けた。この不祥事でバリーは次の選挙には出馬しなかった<ref name="barry">{{cite web |url = http://www.exploredc.org/index.php?id=286 |title = Marion Barry |accessdate = 2008-07-18 |year = 2001 |publisher = WETA-TV |6 = WETA Public Broadcasting |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20050324161937/http://www.exploredc.org/index.php?id=286 |archivedate = 2005年3月24日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 1991年、次に市長となったシャロン・プラット・ケリー ([[:en:Sharon Pratt Kelly|Sharon Pratt Kelly]]) は、アメリカの大都市で初めて市長になった黒人女性である<ref> {{cite web |url = http://www.exploredc.org/index.php?id=288 |title = Sharon Pratt Kelly |accessdate = 2008-07-18 |year = 2001 |publisher = WETA Public Broadcasting |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20060427010538/http://www.exploredc.org/index.php?id=288 |archivedate = 2006年4月27日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。1994年、ケリーの任期が満了すると、バリーが市長に返り咲いた<ref name=barry />。1998年、エール大学卒の弁護士、アンソニー・ウィリアムス ([[:en:Anthony A. Williams|Anthony Williams]]) が市長に選ばれて2期務め、2007年1月から2011年1月までアドリアン・フェンティ ([[:en:Adrian Fenty|Adrian Fenty]]) が、2011年1月から2015年1月までビンセント・グレー (Vincent C. Gray) が市長を務めている<ref>{{cite web |url = http://dc.gov/mayor/bios/fenty.shtm |title = Biography, Adrian M. Fenty |publisher = ワシントンD.C.政府 |accessdate = 2008-08-30 |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20070219074028/http://dc.gov/mayor/bios/fenty.shtm |archivedate = 2007年2月19日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。2015年1月、ミューリエル・バウザー(Muriel Bowser)が第8代のワシントンD.C.政府の市長に就任し現在に至っている<ref>{{Cite web |title=Muriel Bowser {{!}} mayormb |url=https://mayor.dc.gov/biography/muriel-bowser |website=mayor.dc.gov |access-date=2022-07-03}}</ref>。 1995年までに、市は債務超過のため支払不能になりかけていた<ref name=barry />。これを受けて、連邦議会はコロンビア特別区財政管理委員会を設立し、市のすべての支出を監督させることとした<ref>{{cite news |first = Michael |last = Janofsky |title = Congress creates board to oversee Washington, D.C. |date = 1995-04-08 |url = http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=990CE7DB1739F93BA35757C0A963958260&sec=&spon=&pagewanted=all |work = ニューヨーク・タイムズ |accessdate = 2008-05-27 |language = 英語 }}</ref>。特別区は、2001年9月に財政管理権限を回復し、同委員会の活動は中止された<ref>{{cite web |url = http://oig.dc.gov/news/view1.asp?url=testimony%2Fwhole.pdf&mode=testimony&archived=1&month=20015 |title = Testimony of the D.C. Inspector General |accessdate = 2008-07-06 |last = Maddox |first = Charles |date = 2001-06-19 |format = PDF |publisher = Office of the Inspector General |language = 英語 }}</ref>。 [[2001年]][[9月11日]]、テロリストが[[アメリカン航空77便テロ事件|アメリカン航空77便]]をハイジャックし、ワシントンD.C.郊外の[[バージニア州]][[アーリントン (バージニア州)|アーリントン]]にある[[アメリカ国防総省|国防総省]]([[ペンタゴン]])に航空機を突入させた。[[ユナイテッド航空93便テロ事件|ユナイテッド航空93便]]もホワイトハウスまたは連邦議会議事堂のいずれかを標的としていたが、同機は[[ペンシルベニア州]]シャンクスヴィル近くで墜落した<ref>{{cite web |url = http://archives.cnn.com/2002/WORLD/meast/09/12/alqaeda.911.claim/index.html |title = Al-Jazeera offers accounts of 9/11 planning |publisher = [[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |accessdate = 2008-06-03 |date = 2002-09-12 |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20060220124318/http://archives.cnn.com/2002/WORLD/meast/09/12/alqaeda.911.claim/index.html |archivedate = 2006年2月20日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref><ref>{{cite web |url = http://archives.cnn.com/2002/US/05/23/flight.93/index.html |title = White House target of Flight 93, officials say |accessdate = 2008-06-03 |date = 2002-05-23 |publisher = [[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080521222438/http://archives.cnn.com/2002/US/05/23/flight.93/index.html |archivedate = 2008年5月21日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。ペンタゴンへの攻撃が行われた場所には、2008年9月11日、ペンタゴン記念館がオープンした<ref>{{cite news |url = http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/09/11/AR2008091100579.html |title = A Long-Awaited Opening, Bringing Closure to Many |author = Nick Miroff |work = The Washington Post |date = 2008-09-12 |pages = A01 |accessdate = 2008-10-05 |language = 英語 }}</ref>。 {{see|アメリカ同時多発テロ事件}} == 地理 == === 市域 === [[ファイル:Washington DC view1.jpg|thumb|right|250px|ワシントンD.C.の航空写真。市街東部から西南西方向を望む。写真中央が[[アメリカ合衆国議会議事堂|連邦議会議事堂]]、左下が[[合衆国最高裁判所|連邦最高裁判所]]。右上の細長い白い塔は[[ワシントン記念塔]]。[[ホワイトハウス]]はその右手に位置するが写っていない。議事堂から右斜め上方へ延びる舗装道路([[ペンシルベニア大通り]])の先にある。また、議事堂から記念塔を経てポトマック川に至る細長い緑地は[[ナショナル・モール]]と呼ばれる。[[ペンタゴン]]は写真左上の川向こうに写っている。]] ワシントンD.C.は、全部で68.3平方マイル (177 km<sup>2</sup>) の市域を有し、そのうち61.4平方マイル (159 km<sup>2</sup>) が陸地、6.9平方マイル (18 km<sup>2</sup>, 10.16%) が水面である<ref name="quickfacts">{{cite web |url = http://quickfacts.census.gov/qfd/states/11000.html |title = State & County QuickFacts |accessdate = 2008-06-04 |date = 2008-01-02 |publisher = [[アメリカ合衆国国勢調査局]] |language = 英語 }}</ref>。特別区は、当初100平方マイル (260&nbsp;km<sup>2</sup>) の面積を有していたが、1846年に南の一部をバージニア州に返還したため、この面積となっている。現在の市域は、メリーランド州から[[割譲]]された領域のみから成っている<ref>{{cite web |url = http://www.potomacriver.org/about_potomac/about_the_potomac.htm |title = About the Potomac River |accessdate = 2008-06-29 |date = 2002-04-01 |publisher = Interstate Commission on the Potomac River Basin |language = 英語 }}</ref>。そのため、ワシントンD.C.は南東・北東・北西をメリーランド州に、南西をバージニア州に囲まれている。特別区内には、三つの大きな天然の河川がある。[[ポトマック川]]、[[アナコスティア川]]、[[ロック・クリーク]]である。アナコスティア川とロック・クリークはポトマック川の支流である<ref>{{cite web |url = http://www.potomacriver.org/about_potomac/basin-facts.htm |title = Potomac Basin Facts |accessdate = 2008-07-11 |date = 2002-04-01 |publisher = Interstate Commission on the Potomac River Basin |language = 英語 }}</ref>。北西部のポトマック川河畔には[[ダンバートン・オークス]]が位置する。 合衆国首都設置法は、ワシントン大統領に、東はアナコスティア川の河口までの範囲で新しい首都の正確な位置を選ぶ権限を与えた。しかし、ワシントン大統領は、区の南端にアレクサンドリア市を含むようにするため、この連邦の領域の境界を南東に動かした。1791年、連邦議会はワシントン大統領の選んだ区域を認めるため、合衆国首都設置法を修正し、これによりバージニアから割譲された領域も含まれることとなった<ref name=geog>前掲''Centennial History of the City of Washington, D. C.''89頁-92頁</ref>。この場所は、多くの利点を有していた。ポトマック川は特別区まで航行可能であり、船による交通が可能であった。また、アレクサンドリアと[[ジョージタウン (ワシントンD.C.)|ジョージタウン]]の既成の港は、市にとって重要な経済的な基盤を提供した。さらに、内陸の特別区は、[[北西部領土 (アメリカ合衆国)|北西部領土]]に近かった<ref name=geog />。1791年から1792年にかけて、アンドリュー・エリコットと[[ベンジャミン・バネカー]]が特別区の境界を調査し、1マイルごとに境界石を設置した。その多くが今も残っている<ref>{{cite web |url = http://www.boundarystones.org/ |title = Boundary Stones of Washington, D.C. |publisher = BoundaryStones.org |accessdate = 2008-05-27 |language = 英語 }}</ref>。 一般に伝えられるところとは異なり、ワシントンD.C.は沼地を埋め立てて建設されたわけではない<ref>{{cite news |first = Marc |last = Fisher |title = Built On A Swamp and Other Myths of D.C. |date = 2006-04-05 |url = http://blog.washingtonpost.com/rawfisher/2006/04/built_on_a_swamp_and_other_myt.html |work = ワシントン・ポスト |accessdate = 2008-07-01 |language = 英語 }}</ref>。確かに二つの川とその他の小川に沿って湿地が広がっていたものの、特別区の領域のほとんどは農地と樹木に覆われた丘から成っていた<ref name=geog />。特別区内で、自然の状態で最も高い地点は、海抜125メートルのテンリータウンである<ref>{{cite web |title = Rock Creek Park: Fort Reno |url=http://www.nps.gov/archive/rocr/ftcircle/reno.htm |publisher = [[アメリカ合衆国国立公園局]] |date = 2001-08-01 |accessdate = 2008-06-10 |language = 英語 }}</ref>。最も低い地点は海水面と同じポトマック川である。ワシントンD.C.の地理的な中心点は、北西地区の4番ストリートとLストリートの交差点付近に位置する<ref>{{cite web |url = http://www.usgs.gov/state/state.asp?State=DC |title = Science In Your State: District of Columbia |accessdate = 2008-07-07 |date = 2007-07-30 |publisher = [[アメリカ地質調査所]] |language = 英語 }}</ref>。 === 自然 === [[ファイル:CandO Canal, Georgetown.jpg|left|thumb|200px|チェサピーク・オハイオ運河。ジョージタウン近くを通る。]] [[アメリカ合衆国国立公園局]]は、ロック・クリーク公園、チェサピーク・オハイオ運河自然歴史公園、[[ナショナル・モール]]、セオドア・ルーズベルト島、アナコスティア公園など、ワシントンD.C.の自然生育地のほとんどを管理する<ref>{{cite web |url = http://www.nps.gov/state/dc/ |title = District of Columbia |accessdate = 2008-07-07 |publisher = 国立公園局 |language = 英語 }}</ref>。国立公園局による管理外の重要な自然生育地としては、農務省の管轄である国立森林公園があるのみである<ref>{{cite web |url = http://www.usna.usda.gov/Information/historymissn.html |title = U.S. National Arboretum History and Mission |accessdate = 2008-07-07 |date = 2007-10-16 |publisher = アメリカ合衆国国立森林公園 |language = 英語 }}</ref>。ポトマック川の上流(ワシントンD.C.の北西)にはグレイト・フォールズ ([[:en:Great Falls (Potomac River)|Great Falls]]) がある。19世紀には、輸送船の交通がこの滝を迂回できるようにするため、ジョージタウンに端を発するチェサピーク・オハイオ運河が用いられた<ref>{{cite web |url = http://www.nps.gov/choh/historyculture/index.htm |title = C&O Canal National Historic Park: History & Culture |accessdate = 2008-07-03 |publisher = 国立公園局 |language = 英語 }}</ref>。 1965年、[[リンドン・ジョンソン]]大統領はポトマック川を「国の恥」と呼び、1966年の清流回復法 (the Clean Water Restoration Act) の必要性を訴える材料とした<ref>{{cite web |url = http://www.potomacriver.org/about_potomac/history.htm |title = Potomac Basin History |accessdate = 2008-06-02 |date = 2002-04-01 |publisher = Interstate Commission on the Potomac River Basin |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080527192035/http://www.potomacriver.org/about_potomac/history.htm |archivedate = 2008年5月27日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。現在では、この川は活気のある暖水漁業の場となっており、自然に繁殖した[[ハクトウワシ]]も川岸に戻った<ref>{{cite news |first = Elizabeth |last = Shogren |title = Eagle Population Up, But Prime Habitat Threatened |date = 2007-03-14 |url = http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=7805391 |publisher = ナショナル・パブリック・ラジオ |accessdate = 2008-06-10 |language = 英語 }}</ref>。高度に都市化した景観にもかかわらず、ワシントンD.C.は、都市における野生生物の管理、外来種の管理、都市流水の回復、都市流水における水エコロジーなどの研究の中心地となっている<ref>{{cite web |url = http://www.ddoe.dc.gov/ddoe/cwp/view,a,1210,q,494364,ddoeNav,%7C31007%7C,.asp |title = Environmental Resources |accessdate = 2008-06-03 |publisher = ワシントンD.C.環境局 |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080211183144/http://www.ddoe.dc.gov/ddoe/cwp/view%2Ca%2C1210%2Cq%2C494364%2CddoeNav%2C%7C31007%7C%2C.asp |archivedate = 2008年2月11日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。国立公園局の都市エコロジーセンターは、この地域における専門的知見と応用科学を提供する場となっている<ref>{{cite web |url = http://www.nps.gov/cue/ecology.htm |title = Center for Urban Ecology |accessdate = 2008-05-27 |publisher = 国立公園局 |language = 英語 }}</ref>。 === 気候 === ワシントンD.C.の気候は、[[ケッペンの気候区分]]によれば[[温暖湿潤気候]] (Cfa) であり、これはアメリカの中部大西洋岸諸州のうち海域から離れた地域に典型的に見られる気候である。四季がはっきり分かれており、春と秋は温暖で湿度も低いのに対し、冬は低温が続き、1年に平均 420mm も降雪量がある<ref name="dcwinter">{{cite web |url = http://www.erh.noaa.gov/er/lwx/Historic_Events/DC-Winters.htm |title = Washington Area Winters |accessdate = 2008-06-03 |last = Watson |first = Barbara McNaught |date = 1999-11-17 |publisher = National Weather Service |language = 英語 }}</ref>。冬の最低気温は、12月中旬から2月中旬にかけては零下 1℃ (30{{°F}}) くらいになることが多い。まれではあるが、猛烈な吹雪が2、3年ごとにワシントンD.C.を襲い、最低気温は −15℃ を下回る。最も激しい嵐は、[[ノーイースター]]と呼ばれ、これはアメリカ東海岸全体に影響を及ぼすのが普通である<ref name=dcwinter />。夏は高温多湿になる傾向があり、7月と8月の日中最高気温は平均 30℃ 前後(80{{°F}}台)である<ref name="weather">{{cite web |url = http://www.weather.com/outlook/homeandgarden/garden/wxclimatology/monthly/graph/USDC0001?from=36hr_bottomnav_garden |title = Average Weather for Washington, DC&nbsp;— Temperature and Precipitation |accessdate = 2008-06-03 |publisher = The Weather Channel |language = 英語 }}</ref>。夏には高温・多湿という組み合わせのため、激しい雷雨が非常に頻繁に発生し、場合によってはこの地域に竜巻を発生させることもある。 [[ハリケーン]]([[熱帯低気圧]])ないしそれが[[温帯低気圧]]化したものが、夏の終わりから初秋にかけてこの地域を通過することが時々ある。ワシントンD.C.は内陸に位置していることもあって、ハリケーンはここに来る頃には勢力が弱まっていることが多い。しかし、満潮・[[高潮]]・雨水が合わさることによって引き起こされるポトマック川の氾濫は、ジョージタウンやバージニア州アレクサンドリア近くにまで大規模な財産的被害をもたらすことが知られている<ref>{{cite news |last = Vogel |first = Steve |title = Bulk of Flooding Expected in Old Town, Washington Harbour |url = http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/06/27/AR2006062701527.html |date = 2006-06-28 |work = [[ワシントン・ポスト]] |page = B02 |accessdate = 2008-07-11 |language = 英語 }}</ref>。 記録されている史上最高気温は1930年7月20日と1918年8月6日の 41℃ (106{{°F}}) である。史上最低気温は1899年2月11日の零下 26.1℃ (−15{{°F}}) であり、これは1899年の記録的猛ふぶき (the Great Blizzard) の時のものである。32℃ (90{{°F}}) を超える日数は平均36.7日であり、氷点下になる夜は平均64.4日である<ref name=dcwinter /><ref name=weather />。 {{Weather box |name = Washington, DC weatherbox |width = auto |location = ワシントンD.C. |single line = Y |metric first = Y |Jan high F = 43.6 |Feb high F = 47.2 |Mar high F = 56.0 |Apr high F = 66.7 |May high F = 75.5 |Jun high F = 84.3 |Jul high F = 88.5 |Aug high F = 86.7 |Sep high F = 79.6 |Oct high F = 68.5 |Nov high F = 58.0 |Dec high F = 47.0 |year high F = 66.8 |Jan low F = 28.7 |Feb low F = 30.9 |Mar low F = 37.7 |Apr low F = 47.1 |May low F = 56.6 |Jun low F = 66.3 |Jul low F = 71.2 |Aug low F = 69.8 |Sep low F = 62.6 |Oct low F = 50.7 |Nov low F = 41.2 |Dec low F = 32.5 |year low F = 49.6 |Jan record high F = 79 |Feb record high F = 84 |Mar record high F = 93 |Apr record high F = 95 |May record high F = 99 |Jun record high F = 102 |Jul record high F = 106 |Aug record high F = 106 |Sep record high F = 104 |Oct record high F = 96 |Nov record high F = 86 |Dec record high F = 79 |year record high F = 106 |Jan record low F = −14 |Feb record low F = −15 |Mar record low F = 4 |Apr record low F = 15 |May record low F = 33 |Jun record low F = 43 |Jul record low F = 52 |Aug record low F = 49 |Sep record low F = 36 |Oct record low F = 26 |Nov record low F = 11 |Dec record low F = −13 |year record low F = −15 |precipitation colour = green |Jan precipitation inch = 2.8 |Feb precipitation inch = 2.6 |Mar precipitation inch = 3.5 |Apr precipitation inch = 3.1 |May precipitation inch = 4.0 |Jun precipitation inch = 3.8 |Jul precipitation inch = 3.7 |Aug precipitation inch = 2.9 |Sep precipitation inch = 3.7 |Oct precipitation inch = 3.4 |Nov precipitation inch = 3.2 |Dec precipitation inch = 3.1 |Jan snow inch = 5.7 |Feb snow inch = 5.7 |Mar snow inch = 1.3 |Apr snow inch = 0 |May snow inch = 0 |Jun snow inch = 0 |Jul snow inch = 0 |Aug snow inch = 0 |Sep snow inch = 0 |Oct snow inch = 0 |Nov snow inch = .5 |Dec snow inch = 2.3 |unit precipitation days = 0.01 in |Jan precipitation days = 9.6 |Feb precipitation days = 9.0 |Mar precipitation days = 10.5 |Apr precipitation days = 10.4 |May precipitation days = 11.1 |Jun precipitation days = 10.7 |Jul precipitation days = 10.3 |Aug precipitation days = 8.2 |Sep precipitation days = 8.3 |Oct precipitation days = 7.7 |Nov precipitation days = 8.6 |Dec precipitation days = 9.7 |unit snow days = 0.1 in |Jan snow days = 3.1 |Feb snow days = 2.5 |Mar snow days = .9 |Apr snow days = .1 |May snow days = 0 |Jun snow days = 0 |Jul snow days = 0 |Aug snow days = 0 |Sep snow days = 0 |Oct snow days = 0 |Nov snow days = .2 |Dec snow days = 1.5 |Jan sun = 145.7 |Feb sun = 152.6 |Mar sun = 204.6 |Apr sun = 228.0 |May sun = 260.4 |Jun sun = 282.0 |Jul sun = 279.0 |Aug sun = 263.5 |Sep sun = 225.0 |Oct sun = 204.6 |Nov sun = 150.0 |Dec sun = 133.3 |source 1 = NOAA (1981−2010 normals at Ronald Reagan Washington National Airport|Reagan National)<ref name= NOAA>{{cite web |url = http://www.nws.noaa.gov/climate/xmacis.php?wfo=lwx |title = NowData - NOAA Online Weather Data |publisher = National Oceanic and Atmospheric Administration |accessdate = 2011-12-16 }}</ref> |source 2 = The Weather Channel (extremes),<ref name= Weather.com >{{cite web |url = http://www.weather.com/weather/wxclimatology/monthly/USDC0001 |title = Monthly Averages for Washington, DC |publisher = The Weather Channel |accessdate = 2011-12-16 }}</ref> HKO (sun only, 1961−1990)<ref name= HKO >{{cite web |url = http://www.weather.gov.hk/wxinfo/climat/world/eng/n_america/us/washington_e.htm |title = Climatological Normals of Washington, DC |accessdate = 2011-12-16 |publisher = Hong Kong Observatory }}</ref> |date=December 2011 }} == 町並み == === 都市設計 === [[ファイル:DC satellite image.jpg|thumb|upright|200px|ワシントンD.C.は4つの地区に分かれる。]] ワシントンD.C.は計画都市である。ワシントン市の設計は、[[ピエール・シャルル・ランファン]]の労によるところが大きい。ランファンはフランス生まれの建築家・技師・都市設計家であり、当初、軍の技師として[[ラファイエット]]と共にアメリカ植民地に来た。1791年、ランファンは[[バロック]]様式を基に基本計画を作成した。これは、環状交差路から放射状に広い街路が伸びているものであり、開かれた空間と景観作りを最大限に重視したものであった<ref group="注">ワシントン大統領は、ランファンが市の設計を余りに細部まで管理することを主張したため、最終的に彼を解任した。ランファンとともに市の測量に携わっていたアンドリュー・エリコットがその後の任務を引き継ぎ、記憶を基に計画を完成させた。エリコットは、いくつかの点で表面的な変更を加えたものの、ランファンはなお都市計画全体の功労者として認められている。参照:{{cite web |url = http://www.nps.gov/nr/travel/wash/lenfant.htm |title = The L'Enfant and McMillian Plans |accessdate = 2019-11-11 |publisher = 国立公園局 |language = 英語 }}</ref>。しかし、20世紀初頭には、開放された公園と壮麗な国の記念建造物というランファンの都市計画の構想は、スラム街や乱開発された建物によって損なわれてしまっていた。その中にはナショナル・モールの中の鉄道の駅もあった<ref name=lenfant>{{cite web |url = http://www.nps.gov/nr/travel/wash/lenfant.htm |title = The L'Enfant and McMillian Plans |accessdate = 2019-11-11 |publisher = 国立公園局 |language = 英語 }}</ref>。1900年、連邦議会は、ジェームズ・マクミラン上院議員率いる両院合同協議会を設置し、ワシントンD.C.の儀礼の中心地の美化に当たらせた。マクミラン計画として知られるこの計画は1901年に仕上がり、その中には連邦議会議事堂の敷地やナショナル・モールの景観再整備、新しい連邦の建物・記念館の建設、スラム街の一掃、全市を横断する新しい公園のシステムの構築が含まれていた。委員会から任命された建築家たちは市の本来の設計には手を加えなかった。建築家たちのなすべきことは、ランファンの意図したデザインの壮大な仕上げをすることであると考えられた<ref name=lenfant />。 [[ファイル:Washington DC at night.jpg|thumb|upright|left|200px|夜の[[リンカーン記念館]]、[[ワシントン記念塔]]、連邦議会議事堂]] 1899年に12階建てのカイロ・アパートメント・ビルが建設された後、連邦議会は建造物の高さを制限する法律 (the Heights of Buildings Act) を可決し、連邦議会議事堂より高い建物を建ててはならないと宣言した。この法律は1910年に改正され、建物の高さが、面する道路の幅員に20フィート (6.1m) を加えた長さを超えないよう規制された<ref name="buildheight">{{cite news |first = Michael |last = Grunwald |title = D.C.'s Fear of Heights |date = 2006-07-02 |url = http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/06/30/AR2006063001316.html |work = ワシントン・ポスト |pages = B02 |accessdate = 2008-06-10 |language = 英語 }}</ref>。今日、ワシントンD.C.の建物群のシルエットは低く広がっており、トーマス・ジェファーソンの、ワシントンD.C.を「低層で便利な」建物と「明るく風通しのよい」街路を備えた「アメリカのパリ」にしたいという願いに忠実である<ref name=buildheight/>。その結果、[[ワシントン記念塔]]がずっとワシントンD.C.で最も高い建造物のままである<ref>{{cite news |url = http://www.tulsaworld.com/news/article.aspx?articleID=20080221_1_A2_hhpsp76588 |title = Way back when: Today in history |first = Gene |last = Curtis |date = 2008-02-21 |work = Tulsa World |accessdate = 2008-07-02 |language = 英語 }}</ref>。しかしながら、ワシントンD.C.の高さ制限は、同市で廉価な住宅が限られていることや[[スプロール現象]]による交通問題の発生の最大の原因であるとして、批判されている<ref name=buildheight/>。ワシントンD.C.の高さ制限を逃れるため、ダウンタウンの近くとしては、ポトマック川の対岸にあるバージニア州ロズリンに高層の建物が建てられることが多い<ref>{{cite news |first = Annie |last = Gowen |title = Planned Rosslyn Tower Might Be Hazard, FAA Says |date = 2006-12-08 |url = http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/12/07/AR2006120701790.html |work = ワシントン・ポスト |pages = B03 |accessdate = 2008-07-14 |language = 英語 }}</ref>。 === 街路 === ワシントンD.C.は四つの地区 (quadrant) に不均等に割られている。北西地区 (Northwest)、北東地区 (Northeast)、南東地区 (Southeast)、南西地区 (Southwest) である。各地区の境界を画す軸は連邦議会議事堂から放射状に伸びている<ref name="dcstreets">{{cite web |url = http://www.senate.gov/pagelayout/visiting/one_item_and_teasers/layout_of_washington.htm |title = Layout of Washington DC |accessdate = 2008-07-14 |date = 2005-09-30 |publisher = アメリカ合衆国上院 |language = 英語 }}</ref>。すべての通りの名称には、地区名の省略形(NWなど)が付いており、その場所を明らかにしている。市内のほとんどの地域で、街路は碁盤目状に整備されており、東西方向の通りにはアルファベットで(例えばC Street SW)、南北方向の通りには数字で(例えば4th Street NW)名前が付けられている<ref name=dcstreets />。環状交差路から放射状に伸びる街路には、主に各州の名前が付けられており、50州すべてが名称の中に含まれている。ワシントンD.C.の街路の中には、特に注目すべきものがある。[[ペンシルベニア大通り]] は、ホワイトハウスと連邦議会議事堂を繋いでおり、Kストリートには多くのロビー団体の事務所が入居している<ref name="kstreet">{{cite news |first = Jeffrey H. |last = Birnbaum |title = The Road to Riches Is Called K Street |date = 2005-06-22 |url = http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/06/21/AR2005062101632.html |work = ワシントン・ポスト |pages = A01 |accessdate = 2008-06-17 |language = 英語 }}</ref>。ワシントンD.C.には172か国の外国の大使館<ref>[[:en:List of diplomatic missions in Washington, D.C.|ワシントンD.C.に大使館を有する国のリスト(英語版ウィキペディア)]]</ref>があるが、そのうち57の大使館はマサチューセッツ通り (Massachusetts Avenue) の地区にあり、正式名称ではないが大使館通り (Embassy Row) として知られている<ref>{{cite web |url = http://www.state.gov/s/cpr/rls/dpl/ |title = Diplomatic List |accessdate = 2008-06-25 |date = 2008-02-25 |publisher = [[アメリカ合衆国国務省]] |language = 英語 }}</ref>。 === 建築 === [[ファイル:White house south.jpg|thumb|250px|2007年、[[ホワイトハウス]]はアメリカ建築家協会 (AIA) が選ぶ「アメリカ建築傑作選」で2位にランクされた。]] ワシントンD.C.の建築物はバラエティに富んでいる。アメリカ建築家協会が選ぶ2007年の「アメリカ建築傑作選」では、10位までにランクされた建物のうち6つがワシントンD.C.にある<ref>{{cite web |url = http://favoritearchitecture.org/afa150.php |title = America's Favorite Architecture |accessdate = 2008-07-03 |date = 2007 |publisher = American Institute of Architects and Harris Interactive |language = 英語 }}</ref>。すなわち、ホワイトハウス、ワシントン大聖堂、[[ジェファーソン記念館|トマス・ジェファーソン記念館]]、連邦議会議事堂、[[リンカーン記念館]]、[[ベトナム戦争戦没者慰霊碑]]である。これら6つの建築はすべて新古典主義、ジョージ王朝様式、ゴシック様式および近代建築のスタイルを反映しており、他のワシントンD.C.の主要な建物も同様である。特筆すべき例外としては、第二帝政様式による[[アイゼンハワー行政府ビル]](旧行政府ビル)や[[アメリカ議会図書館]]などがある<ref name="nps">{{cite web |url = http://www.nps.gov/nr/travel/wash/sitelist.htm |title = Washington, D.C. List of Sites |accessdate = 2008-06-05 |publisher = 国立公園局 |language = 英語 }}</ref>。 ワシントンD.C.の中心市街を離れると、建築様式はさらに多様化する。「オールド・シティー」(ランファンによって設計された地域)では、歴史的建造物は主にアン女王様式、シャトーエスク様式、リチャードソン・ロマネスク様式、新ジョージア王朝様式、[[ボザール様式]]、また様々なビクトリア朝様式で設計されている。オールド・シティーでは19世紀からのロウハウス(長屋)が特に目立っており、連邦様式や後期ビクトリア朝様式に従うものが多い<ref>{{cite web |url = http://www.loc.gov/rr/print/adecenter/essays/Scott.html |title = Residential Architecture of Washington, D.C., and Its Suburbs |accessdate = 2008-06-05 |last = Scott |first = Pamela |year = 2005 |publisher = 議会図書館 |language = 英語 }}</ref>。ジョージタウンは、ワシントン市よりも先に建設されたため、この地域はワシントンD.C.の中でも最も古い建築物を誇る。ジョージタウンのオールド・ストーン・ハウスは1765年に建てられ、市内で最古の遺構となっている<ref>{{cite web |url = http://www.nps.gov/history/nr/travel/wash/dc17.htm |title = Old Stone House |accessdate = 2008-07-22 |publisher = 国立公園局 |language = 英語 }}</ref>。もっとも、この地域における現在の住宅のほとんどは1870年代になって初めて建てられたもので、当時の後期ビクトリア朝様式を反映している。1789年に創立された[[ジョージタウン大学]]は、周囲の建物とはさらに一線を画しており、ロマネスク様式と[[ゴシック・リヴァイヴァル建築]]が融合した建築が特徴である<ref name=nps />。 == 人口動態 == {{Wikisource|ワシントンD.C.の人口統計データ}} 2010年の国勢調査によれば、ワシントンD.C.の居住者人口は601,723人で、2000年国勢調査の572,059人以来、増加傾向が続いている。これは50年来の減少傾向からの反転である<ref name="FactFinder" />。他方、労働時間帯には、近郊からの通勤により、ワシントンD.C.の人口は推計で71.8%膨らみ、日中人口は100万人を超えるとされている<ref>{{cite web |url = http://money.cnn.com/2005/10/21/real_estate/buying_selling/daytime_population_cities/ |title = Biggest commuter cities |accessdate = 2008-06-03 |date = 2005-10-21 |publisher = CNNマネー |language = 英語 }}</ref>。周辺のメリーランド州やバージニア州の一部を含むワシントン首都圏は、2010年の国勢調査で約558万人の居住者を抱える<ref name="FactFinder" />。[[ボルチモア]]及びその近郊も併せたワシントン・ボルチモア・北バージニア広域都市圏は、2010年の国勢調査では850万人を超える居住者人口を抱えている<ref name="FactFinder" />。 以下にワシントンD.C.における1800年から2010年までの人口推移を表およびグラフで示す<ref>{{cite web |url = http://www.census.gov/population/www/documentation/twps0056/tab23.pdf |title = District of Columbia - Race and Hispanic Origin: 1800 to 1990 |accessdate = 2008-07-29 |date = 2002-09-13 |format = PDF |publisher = 国勢調査局 }}。1890年まで、アメリカ国勢調査局は、ワシントン市、ジョージタウン及び自治体に編入されていないワシントン郡をそれぞれ別の地域として数えていた。ここに挙げた1890年以前のデータは、ワシントンD.C.が今日のような一つの自治体だったと仮定して計算したものである。1890年以前の3地域それぞれのデータについては、参照:{{cite web |url = http://www.census.gov/population/www/documentation/twps0027/twps0027.html |title = Population of the 100 Largest Cities and Other Urban Places in the United States: 1790 to 1990 |accessdate = 2008-07-29 |last = Gibson |first = Campbell |month = 1998-06 |publisher = 国勢調査局 |language = 英語 }}</ref>。 <div style="float: right; margin-left:15px"> {|class="wikitable" style="font-size:90%;width:80;text-align:right" !統計!!人口!!増減率 |- |1800||8,144||- |- |1810||15,471||90.0% |- |1820||23,336||50.8% |- |1830||30,261||29.7% |- |1840||33,745||11.5% |- |1850||51,687||53.2% |- |1860||75,080||45.3% |- |1870||131,700||75.4% |- |1880||177,624||34.9% |- |1890||230,392||29.7% |- |1900||278,718||21.0% |- |1910||331,069||18.8% |- |1920||437,571||32.2% |- |1930||486,869||11.3% |- |1940||663,091||36.2% |- |1950||802,178||21.0% |- |1960||763,956||−4.8% |- |1970||756,510||−1.0% |- |1980||638,333||−15.6% |- |1990||606,900||−4.9% |- |2000||572,059||−5.7% |- |2010||601,723||5.2% |} </div> <timeline> Colors = id:lightgrey value:gray(0.9) id:darkgrey value:gray(0.8) id:sfondo value:rgb(1,1,1) id:barra value:rgb(0.6,0.7,0.8) ImageSize = width:600 height:620 PlotArea = left:50 bottom:50 top:30 right:30 DateFormat = x.y Period = from:0 till:840000 TimeAxis = orientation:horizontal AlignBars = justify ScaleMajor = gridcolor:darkgrey increment:200000 start:0 ScaleMinor = gridcolor:lightgrey increment:20000 start:0 BackgroundColors = canvas:sfondo BarData = bar:1800 text:1800 bar:1810 text:1810 bar:1820 text:1820 bar:1830 text:1830 bar:1840 text:1840 bar:1850 text:1850 bar:1860 text:1860 bar:1870 text:1870 bar:1880 text:1880 bar:1890 text:1890 bar:1900 text:1900 bar:1910 text:1910 bar:1920 text:1920 bar:1930 text:1930 bar:1940 text:1940 bar:1950 text:1950 bar:1960 text:1960 bar:1970 text:1970 bar:1980 text:1980 bar:1990 text:1990 bar:2000 text:2000 bar:2010 text:2010 PlotData = color:barra width:15 align:center bar:1800 from:0 till:8144 bar:1810 from:0 till:15471 bar:1820 from:0 till:23336 bar:1830 from:0 till:30261 bar:1840 from:0 till:33745 bar:1850 from:0 till:51687 bar:1860 from:0 till:75080 bar:1870 from:0 till:131700 bar:1880 from:0 till:177624 bar:1890 from:0 till:230392 bar:1900 from:0 till:278718 bar:1910 from:0 till:331069 bar:1920 from:0 till:437571 bar:1930 from:0 till:486869 bar:1940 from:0 till:663091 bar:1950 from:0 till:802178 bar:1960 from:0 till:763956 bar:1970 from:0 till:756510 bar:1980 from:0 till:638333 bar:1990 from:0 till:606900 bar:2000 from:0 till:572059 bar:2010 from:0 till:601723 PlotData = bar:1800 at:8144 fontsize:XS text:8144 shift:(13,0) bar:1810 at:15471 fontsize:XS text:15471 shift:(15,0) bar:1820 at:23336 fontsize:XS text:23336 shift:(15,0) bar:1830 at:30261 fontsize:XS text:30261 shift:(15,0) bar:1840 at:33745 fontsize:XS text:33745 shift:(15,0) bar:1850 at:51687 fontsize:XS text:51687 shift:(15,0) bar:1860 at:75080 fontsize:XS text:75080 shift:(15,0) bar:1870 at:131700 fontsize:XS text:131700 shift:(17,0) bar:1880 at:177624 fontsize:XS text:177624 shift:(17,0) bar:1890 at:230392 fontsize:XS text:230392 shift:(17,0) bar:1900 at:278718 fontsize:XS text:278718 shift:(17,0) bar:1910 at:331069 fontsize:XS text:331069 shift:(17,0) bar:1920 at:437571 fontsize:XS text:437571 shift:(17,0) bar:1930 at:486869 fontsize:XS text:486869 shift:(17,0) bar:1940 at:663091 fontsize:XS text:663091 shift:(17,0) bar:1950 at:802178 fontsize:XS text:802178 shift:(17,0) bar:1960 at:763956 fontsize:XS text:763956 shift:(17,0) bar:1970 at:756510 fontsize:XS text:756510 shift:(17,0) bar:1980 at:638333 fontsize:XS text:638333 shift:(17,0) bar:1990 at:606900 fontsize:XS text:606900 shift:(17,0) bar:2000 at:572059 fontsize:XS text:572059 shift:(17,0) bar:2010 at:601723 fontsize:XS text:601723 shift:(17,0) </timeline> === 人口構成 === [[ファイル:Chinatown, DC gate.jpg|thumb|left|200px|「友情の門」。チャイナタウンの中心にある。]] 2010年における人口の割合は、50.7%が[[アフリカ系アメリカ人]](黒人)、38.5%が[[コーカソイド|コーカサス系]](白人)、9.1%が[[ヒスパニック]](人種は様々)、4.4%がその他([[インディアン]]、アラスカ先住民、[[ハワイ先住民]]、南洋諸島先住民など)、3.5%がアジア系、2.9%が混血である<ref name="FactFinder" />。黒人はワシントンD.C.で最も多くを占めるものの、郊外へ去る者が多いため、その人口は一貫して減少傾向にある。同時に、ワシントンD.C.で昔から黒人の居住地域だった多くの場所が高級住宅化していることもあり、白人の人口は一貫して増加傾向にある<ref>{{cite news |title = Washington’s Black Majority Is Shrinking |date = 2007-09-16 |publisher = Associated Press |url = http://www.nytimes.com/2007/09/16/us/16washington.html?_r=1&oref=slogin |accessdate = 2008-07-12 |language = 英語 }}</ref>。このことは、2000年と比べて、アフリカ系アメリカ人の人口が6.2%減少し、反対にコーカサス系は13.8%増加していることに表れている<ref name="dc_demographic_data">{{cite web |url = http://factfinder.census.gov/servlet/ACSSAFFFacts?_event=&geo_id=04000US11&_geoContext=01000US%7C04000US11&_street=&_county=&_cityTown=&_state=04000US11&_zip=&_lang=en&_sse=on&ActiveGeoDiv=&_useEV=&pctxt=fph&pgsl=040&_submenuId=factsheet_1&ds_name=DEC_2000_SAFF&_ci_nbr=null&qr_name=null®=null%3Anull&_keyword=&_industry= |title = District of Columbia Fact Sheet |accessdate = 2008-06-05 |year = 2006 |publisher = 国勢調査局 |language = 英語 }}</ref>。移民の主な出身地としては、[[エルサルバドル]]、[[ベトナム]]、[[エチオピア]]などがあり、エルサルバドル人はマウント・プレザント近辺に集まっている<ref>{{cite web |url = http://www.brookings.edu/~/media/Files/rc/reports/2001/04_washington_dc_singer/immigration.pdf |title = The World in a Zip Code: Greater Washington, D.C. as a New Region of Immigration |publisher = The Brookings Institution |author = Singer, Audrey, et al. |year = 2001 |format = PDF |accessdate = 2008-09-03 |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20081216222225/http://www.brookings.edu/~/media/Files/rc/reports/2001/04_washington_dc_singer/immigration.pdf |archivedate = 2008年12月16日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 2000年の国勢調査によって、ワシントンD.C.の成人のうち推計3万3000人が自らを[[ゲイ]]、[[レズビアン]]または[[バイセクシュアル]]だと考えていることが明らかになった。これは市の成人人口の8.1%に当たる<ref>{{cite web |url = http://www.law.ucla.edu/williamsinstitute/publications/WashingtonDCCensusSnapshot.pdf |title = Census Snapshot: Washington, D.C. |accessdate = 2008-05-27 |last = Romero |first = Adam P. |coauthors = Amanda Baumle, M.V. Lee Badgett, Gary J. Gates |month = 2007-12 |format = PDF |publisher = The Williams Institute |language = 英語 }}</ref>。このように[[LGBT]]の人口は相当大きく、また政治的風土もリベラルだが、連邦議会における反対論も原因して、[[同性結婚]]はワシントンD.C.の法律では認められていない<ref name="blade">{{cite news |first = Lou |last = Chibbaro |title = D.C. Council expands DP law |date = 2008-05-16 |work = ワシントン・ブレード紙 |url = http://www.washingtonblade.com/2008/5-16/news/localnews/12599.cfm |accessdate = 2008-06-20 |language = 英語 }}</ref>。しかし、家庭内パートナーシップ法 ([[:en:Domestic partnership in the District of Columbia|Domestic partnership law]]) によって、同性のカップルも、他の法域で認められている[[シビル・ユニオン]]と似た法的取り扱いを受けることができる<ref name="blade" />。 2007年の報告によって、ワシントンD.C.の居住者の3分の1が[[機能的非識字]](仕事や日常生活上の読み書き能力が不十分な状態)であることが分かった(全国における割合は5分の1)。英語に習熟していない移民もその一つの原因であると考えられている<ref name="illiteracy">{{cite news |title = Study Finds One-Third in D.C. Illiterate |date = 2007-03-19 |publisher = Associated Press |url = http://www.breitbart.com/article.php?id=d8nvbuv81&show_article=1 |accessdate = 2008-06-10 |language = 英語 }}</ref>。2005年に行われた研究では、ワシントンD.C.の5歳以上の居住者のうち85.16%が家で英語のみを使用しており、8.78%がスペイン語を使用していることが分かった。フランス語がそれに次いで1.35%である<ref name="language_distro">{{cite web |url = http://www.mla.org/cgi-shl/docstudio/docs.pl?map_data_results&SRVY_YEAR=compare&geo=state&state_id=11&county_id=&mode=geographic&lang_id=&zip=&place_id=&cty_id=&region_id=&division_id=&ll=&ea=&order=&a= |title = Data Center Results: District of Columbia |accessdate = 2008-07-03 |publisher = Modern Language Association |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20090722065514/http://www.mla.org/cgi-shl/docstudio/docs.pl?map_data_results&SRVY_YEAR=compare&geo=state&state_id=11&county_id=&mode=geographic&lang_id=&zip=&place_id=&cty_id=&region_id=&division_id=&ll=&ea=&order=&a= |archivedate = 2009年7月22日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。機能的文盲率の高さとは対照的に、ワシントンD.C.の居住者のうち45%が少なくとも4年制大学の学位を持っており、国内で4番目に高い割合である<ref name="acs">{{cite web |url = http://factfinder.census.gov/servlet/ADPTable?_bm=y&-geo_id=04000US11&-qr_name=ACS_2006_EST_G00_DP2&-ds_name=ACS_2006_EST_G00_&-_lang=en&-_sse=on |title = Selected Social Characteristics in the United States: 2006 |accessdate = 2008-06-06 |year = 2006 |publisher = 国勢調査局 |language = 英語 }}</ref>。 また、2000年のデータによると、半数以上の居住者が自分を[[キリスト教|キリスト教徒]]だと考えている。28%が[[カトリック教会|カトリック]]、6.8%が[[南部バプテスト連盟]]、1.3%が[[正教会]](ギリシャ正教)又は[[東方諸教会]]、21.8%が他の[[プロテスタント]]教派である。[[イスラム教|イスラム教徒]]は人口の10.6%、[[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]は4.5%、26.8%は無宗教である<ref>{{cite web |url = http://www.thearda.com/mapsReports/reports/counties/11001_2000.asp |title = District of Columbia Denominational Groups, 2000 |accessdate = 2008-07-03 |publisher = The Association of Religious Data Archives |language = 英語 }}</ref>。 == インディアン部族 == この地に先住した[[インディアン]]部族は[[コノイ族]]、[[レナペ|デラウェア族]]、[[ナンチコーク族]]、[[ポウハタン|ポウハタン族]]、[[ショーニー族]]、[[サスケハンナ族]]など。そのことごとくがアメリカ政府に虐殺され、19世紀には他州へと強制移住させられた。この地に残ったインディアン部族はすべて「絶滅部族」とみなされ、[[インディアン居留地|保留地]] (Reservation) を没収されていて、部族単位では存在しないことになっている。 1944年にワシントンD.C.に結成された「アメリカインディアン国民会議 ([[w:National Congress of American Indians|National Congress of American Indians]])」は、[[インディアン寄宿学校]]で白人同化教育を受けた、全米のインディアンたちによる初の本格的なロビー運動組織である。彼らは「大声でほえまくる赤い番犬」と呼ばれたが、活動自体は保守的で、AIM などとは違い、若い世代からは「白人寄り」と批判された。 2004年には、この地に全米のインディアン部族の文化展示を目的とした「[[国立アメリカ・インディアン博物館]]」が開設された。 ≪アメリカ連邦政府に公認要求中のインディアン部族≫ *「[[チェロキー族|チェロキー]]・[[タスカローラ族]]・亀の島国家」 :※「亀の島」はインディアンが北米大陸を指す呼び名 === インディアン・カジノ === 現在のところ、ワシントンD.C.でインディアン部族が運営する「[[インディアン・カジノ]]」は一軒もない。同地ではインディアン部族は存在しないことになっており、今後も開設される望みは薄い。 == 治安 == [[ファイル:Dchomicidechart.svg|thumb|left|225px|ワシントンD.C.における殺人発生件数の推移(1986-2005年)]] 1990年代初頭に凶悪犯罪の波が訪れた時、ワシントンD.C.はアメリカの「殺人首都」 (murder capital) として知られ、殺人事件の発生数において、ルイジアナ州[[ニューオーリンズ]]としばしば肩を並べていた<ref>{{cite news |first = Ian |last = Urbina |title = Washington Officials Try to Ease Crime Fear |date = 2006-07-13 |url = http://www.nytimes.com/2006/07/13/us/13deecee.html?n=Top%2FReference%2FTimes%20Topics%2FPeople%2FW%2FWilliams%2C%20Anthony%20A. |work = ニューヨーク・タイムズ |accessdate = 2008-06-10 |language = 英語 }}</ref>。謀殺(計画的殺人)の発生件数は1991年に482件だったが、1990年代を通じて犯罪の激しさは大幅に緩和した。2006年までに、市内における謀殺の件数は169件にまで減少した<ref>{{cite web |title = 2006 Annual Report |url = http://cjcc.dc.gov/cjcc/lib/cjcc/Annual-Report-2006-CJCC.pdf |accessdate = 2008-06-10 |year = 2007 |format = PDF |publisher = D.C. Criminal Justice Coordinating Council |language = 英語 }}</ref>。窃盗や強盗など各種の財産犯も、同様の割合で減少した<ref>{{cite news |title = Citywide Crime Statistics Annual Totals, 1993-2005 |publisher = ワシントンD.C.都市警察局 |url = http://mpdc.dc.gov/mpdc/cwp/view,a,1239,q,547256,mpdcNav_GID,1556.asp |accessdate = 2008-05-27 |language = 英語 }}</ref>。 また、2012年は殺人件数が88件と減少し1961年以来最低の値であった<ref>{{cite web|last=Mollenbeck|first=Andrew|title=District celebrates historically low homicide rate|url=http://www.wtop.com/109/3180337/District-celebrates-historically-low-homicide-rate|publisher=WTOP|accessdate=2018-09-29|date=2013-01-03}}</ref><ref>{{Cite web |last=FBI |title=Uniform Crime Reports>2012 Crime in The United States>Violent Crime>Table4 |url=http://www.fbi.gov/about-us/cjis/ucr/crime-in-the-u.s/2012/crime-in-the-u.s.-2012/tables/4tabledatadecoverviewpdf/table_4_crime_in_the_united_states_by_region_geographic_division_and_state_2011-2012.xls |accessdate=2013-10-13 |language = 英語 }} </ref><ref>{{cite web|url=http://mpdc.dc.gov/page/district-crime-data-glance|title=District Crime Data|publisher=Mpdc.dc.gov|date=2019-01-01|accessdate=2019-10-03}}</ref>。 そして、2019年は2012年の約1.9倍の166件であった<ref name="FBICrimeReports2019 T4">{{Cite web|last=FBI|title=Uniform Crime Reports>2019 Crime in The United States>Violent Crime>Table4|url=https://ucr.fbi.gov/crime-in-the-u.s/2019/crime-in-the-u.s.-2019/topic-pages/tables/table-4|language=英語|accessdate=2020-10-11}}</ref>。人口比で見ると2019年は、23.5件(全米平均:5.0件)と全米平均より高く、州別で見るとワースト1である<ref name="FBICrimeReports2019 T4" />。 また、殺人事件被害者の8割前後が黒人男性であり、凶器も約8割が銃器を使用している<ref>{{cite web|url=https://mpdc.dc.gov/publication/mpd-annual-report-2017|title=MPD Annual Report - 2017 Homicide Analysis|publisher=Mpdc.dc.gov|date=2019-02-22|accessdate=2018-10-03}}</ref>。 [[ファイル:DChomicides.jpg|right|thumb|ワシントンD.C.における殺人事件発生地点の分布(2004-2008年)。NE(北東)とSE(南東)に圧倒的に多いことが分かる。]] 多くの大都市と同様、犯罪の発生率が高いのは違法薬物やギャングと関係のある地域である。より富裕な地域のワシントンD.C.北西地区(高級住宅街の[[ジョージタウン (ワシントンD.C.)|ジョージタウン]]など)では犯罪発生率は低いが、東に行くに従って増加する。コロンビア・ハイツやローガン・サークルのように、一時は凶悪犯罪がはびこったものの、[[ジェントリフィケーション]](高級住宅化)の影響を受けて安全と活気を取り戻しつつある地域も多い。その結果、ワシントンD.C.における犯罪は、さらに東方、メリーランド州プリンスジョージ郡との境界を越えるところまで追い払われつつある<ref>{{cite news |first = Scott |last = Shewfelt |title = Baltimore, Prince George's Reign as State's Murder Capitals |date = 2007-04-24 |url = http://somd.com/news/headlines/2007/5809.shtml |work = Southern Maryland |accessdate = 2008-06-10 |language = 英語 }}</ref>。 特に危険なのは市南東部の[[アナコスティア]]地区 ([[w:Anacostia|Anacostia]]) である。ワシントンD.C.で起こる殺人の約3分の1はこのアナコスティア地区内で発生している<ref>[http://mpdc.dc.gov/mpdc/cwp/view,a,1239,q,543308,mpdcNav_GID,1523.asp Crime and Activity Statistics], [http://mpdc.dc.gov/mpdc/cwp/view,a,1239,q,546605,mpdcNav_GID,1540.asp Seventh District Crime Statistics Annual Totals, 2001-2005], [http://mpdc.dc.gov/mpdc/cwp/view,a,1239,q,547256,mpdcNav_GID,1556.asp Citywide Crime Statistics Annual Totals, 1993-2005]. Metropolitan Police Department. Washington, D.C. 閲覧日: 2008年10月5日</ref>。[[1950年代]]までは白人の中流階級の住宅地だったが、[[州間高速道路]]の発達により人口が郊外へ流出、住民層が大きく変わり、治安が著しく悪化した。現在、この地区の黒人人口率は92%に達する。また、市の北東部も治安の悪い地域である(右図参照)。市境を越え、[[メリーランド州]]側にも治安の良くないエリアが広がっている。 2008年6月26日、[[アメリカ合衆国最高裁判所|連邦最高裁判所]]は、ワシントンD.C.対ヘラー事件において、ワシントンD.C.が1976年に行った[[銃規制|拳銃の所持禁止]]は、[[権利章典 (アメリカ)|アメリカ合衆国憲法修正第2条]]で定められた銃所持の権利を侵すものだと判示した<ref>{{cite news |first = Robert |last = Barnes |title = Supreme Court Strikes Down D.C. Ban on Handguns |date = 2008-06-26 |url = http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/06/26/AR2008062600615.html |work = ワシントン・ポスト |accessdate = 2008-06-27 |language = 英語 }}</ref>。もっとも、この判決は、どのような形での銃規制も一律に禁止するものではない。銃器の登録制を定める法律は依然有効で、ワシントンD.C.による殺傷能力の高い攻撃用武器の禁止も有効である<ref>{{cite news |first = David |last = Nakamura |title = D.C. Attorney General: All Guns Must Be Registered |date = 2008-06-26 |url = http://blog.washingtonpost.com/dc/2008/06/dc_attorney_general_all_guns_m.html |work = ワシントン・ポスト |accessdate = 2008-06-26 |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20081011085230/http://blog.washingtonpost.com/dc/2008/06/dc_attorney_general_all_guns_m.html |archivedate = 2008年10月11日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 2020年代になると中心部では金銭ではなくゲーム感覚で犯行を楽しむ[[ハイジャック|カージャック]]が多発しており、[[ジョージタウン大学]]のケビン・M・ドーク教授は中心部に行くのが恐ろしいと語る状況となっている<ref>{{Cite web|和書|title=米国よりマシな日本 ジョージタウン大教授・ドーク |url=https://www.sankei.com/article/20230724-JJH4SF7SBZJTBBOI5WKTCMXYJU/ |website=産経ニュース |date=2023-07-24 |access-date=2023-07-25 |language=ja |first=菅原 |last=慎太郎}}</ref>。 治安機関として[[自治体警察]][[ワシントンD.C.首都警察]]が置かれている。 == 経済 == [[ファイル:GWU Professors Gate.jpg|thumb|left|200px|[[ジョージ・ワシントン大学]]のプロフェッサーズ・ゲート。同大学はワシントンD.C.の民間で最大の雇用を有する。]] ワシントンD.C.では、経済が多角的に成長しつつあり、専門的職業やホワイトカラーのサービス業の割合が増加している<ref>{{cite web |url = http://www.does.dc.gov/does/frames.asp?doc=/does/lib/does/info/ep2.62105.pdf |title = District of Columbia Employment Projections by Industry and Occupation, 2002-2012 |accessdate = 2008-06-10 |last = Whitman |first = Ray D. |coauthors = Fred Siegmund |date = 2005-06-01 |format = PDF |publisher = D.C. Office of Labor Market Research and Information |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20120118072817/http://www.does.dc.gov/does/frames.asp?doc=%2Fdoes%2Flib%2Fdoes%2Finfo%2Fep2.62105.pdf |archivedate = 2012年1月18日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。ワシントンD.C.の2007年における州民総生産は938億ドルで、これは50州と比較すると35位に位置付けられる<ref>{{cite web |url = http://www.bea.gov/regional/gsp/ |title = Gross Domestic Product by State |accessdate = 2008-06-22 |date=2008-06-05 |publisher = アメリカ経済分析局 |language = 英語 }}</ref>。2008年3月の時点で、連邦政府がワシントンD.C.における雇用の27%を占めている<ref name="fedjobs">{{cite web |url = http://www.does.dc.gov/does/frames.asp?doc=/does/lib/does/DC_Industry_Employment_2008.pdf |title = Wage and Salary Employment by Industry and Place of Work |accessdate = 2008-05-27 |date = 2008 |format = PDF |publisher = District of Columbia Department of Employment Services |language = 英語 }}</ref>。このために、ワシントンD.C.は全国的な経済の停滞の影響を受けていないと考えられている。連邦政府の活動は景気後退期においても継続するからである<ref>{{cite web |url = http://www.prwatch.org/node/7279 |title = Lobbying: A Recession-Proof Industry |accessdate = 2008-05-27 |date = 2008-05-01 |publisher = Center for Media and Democracy |language = 英語 }}</ref>。もっとも、2007年1月時点で、ワシントン地域の連邦職員は、全米の連邦職員数の14%を占めるに過ぎない<ref>{{cite web |url = http://www.bls.gov/oco/cg/cgs041.htm |title = Federal Government, Excluding the Postal Service |accessdate = 2008-08-11 |date = 2008-03-12 |publisher = 労働統計局 |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20090114201419/http://www.bls.gov/oco/cg/cgs041.htm |archivedate = 2009年1月14日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。法律事務所、独立契約就業者(インディペンデント・コントラクター。軍事関係と非軍事の双方がある)、[[非営利団体]]、ロビー団体、全国労働組合、職業団体といった多くの組織が、連邦政府に近接した場所を求めて、ワシントンD.C.内またはその近郊に本部を置いている<ref name=kstreet />。2008年5月現在、ワシントン首都圏の失業率は3.5%で、国内40の大都市圏の中で最も低い。これは、同時期の全国平均失業率の5.2%と比べても低い<ref>{{cite web |url = http://www.bls.gov/news.release/archives/metro_07082008.pdf |title = Metropolitan Area Employment and Unemployment: May 2008 |accessdate = 2008-07-18 |date = 2008-07-08 |format = PDF |publisher = 労働統計局 |language = 英語 }}</ref>。 ワシントンD.C.では政府関連の産業、特に教育、金融、科学研究の分野が成長している。非政府関連としては、[[ジョージ・ワシントン大学]]、[[ジョージタウン大学]]、ワシントン病院センター、[[ハワード大学]]、[[連邦住宅抵当公庫]]が市内における雇用主体の上位5位である<ref>{{cite web |url = http://does.dc.gov/does/frames.asp?doc=/does/lib/does/frames/top200__2004__36pgs.pdf |title = Top 200 Chief Executive Officers of the Major Employers in the District of Columbia |accessdate = 2008-06-03 |month = 2004-09 |format = PDF |publisher = D.C. Office of Labor Market Research and Information |language = 英語 }}</ref>。ワシントンに本拠を置くフォーチュン1000企業([[フォーチュン (雑誌)|フォーチュン]]誌が選ぶ上位1000企業)は5社あり、そのうち2社はフォーチュン500にも入っている<ref>{{cite news |url = http://money.cnn.com/magazines/fortune/fortune500/2007/states/DC.html |title = 2007 Fortune 500 Annual Ranking |accessdate = 2008-07-26 |date = 2007-04-30 |work = フォーチュン誌 |language = 英語 }}</ref>。ワシントンD.C.は、国際不動産投資においては[[ロンドン]]、[[ニューヨーク]]、[[パリ]]に次ぐ先進的地位を得ている<ref>{{cite web |url = http://www.afire.org/foreign_data/2006/survey.shtm |title = 2006 AFIRE Annual Survey |accessdate = 2008-06-03 |publisher = Association of Foreign Investors in Real Estate |language = 英語 }}</ref>。2006年、「エクスパンション・マガジン」誌は、D.C.を国内で最もビジネスの拡大に適した10の地域の一つに挙げた<ref>{{cite news |work = Expansion Magazine |url = http://www.expansionmanagement.com/smo/newsviewer/default.asp?cmd=articledetail&articleid=17713&st=3 |title = 2006 Mayor's Challenge: Where Are the Best Metros for Future Business Locations? |date = 2006-08-07 |language = 英語 }}</ref>。ワシントンは、商業オフィスの面積に関しては、ニューヨーク、[[シカゴ]]に次いでアメリカで第3に大きい商業地域を有している<ref>{{cite web |url = http://www.buyusa.gov/southafrica/en/washingtondc.html |title = Washington DC: A Capital City |accessdate = 2008-06-03 |last = Manoileff |first = Manoileff |coauthors = Camille Richardson |publisher = U.S. Commercial Service |language = 英語 }}</ref>。 ワシントンD.C.では、ジェントリフィケーション(高級住宅化)の努力が実りつつあり、特にローガン・サークル、ショー、コロンビアハイツ、Uストリート地帯、14番ストリート地帯の近隣で著しい<ref name="urbaninst">{{cite web |url = http://www.urban.org/publications/900461.html |title = Leading Indicators of Gentrification in D.C. Neighborhoods |accessdate = 2008-06-10 |last = Turner |first = Margery Austin |coauthors = Christopher Snow |date = 2001-06-14 |publisher = The Urban Institute |language = 英語 }}</ref>。いくつかの地域では、1990年代末の地下鉄(メトロ)グリーンラインの敷設により開発が進んだ。地下鉄網によって、これらの地域は商業地域と結ばれた<ref>{{cite book |last = Schrag |first = Zachary |title = The Great Society Subway: A History of the Washington Metro |publisher = ジョンズ・ホプキンス大学出版 |date = 2006-02-08 |location = ボルチモア |pages = 213-220 |isbn = 978-0801882463 |language = 英語 }}</ref>。2008年3月にコロンビアハイツにできた新しいショッピングモールは、ワシントンD.C.で40年ぶりの新しい大規模ショッピングセンターとなった<ref>{{cite web |url = http://www.nbc4.com/news/15485670/detail.html |title = New Target Opens Doors In District |accessdate = 2008-06-03 |date = 2008-03-04 |publisher = NBC4.com |language = 英語 }}</ref>。多くの都市と同様、ジェントリフィケーションはワシントンD.C.の経済を活性化させているが、その利益が均等に配分されているとはいえず、貧困層にとっては直接の救いになっていない<ref name=urbaninst />。例えば、ワシントンD.C.の失業率は市の中で大きく異なっている。2008年5月において、北西地区北部の裕福な第3地区では失業率が1.7%だったのに対し、南東地区の貧しい第8地区では17.2%であった<ref>{{cite web |url = http://does.ci.washington.dc.us/does/frames.asp?doc=/does/lib/does/ward_may_08.pdf |title = Ward Unemployment Rates |accessdate = 2008-08-10 |year = 2008 |format = PDF |publisher = ワシントンD.C.雇用サービス局 |language = 英語 }}</ref>。2005年において、アメリカの50州と比較すると、ワシントンD.C.は1人当たり収入が高いものの、貧困率もまた高く、全住民における経済的格差を際立たせている<ref name=quickfacts />。 == 金融 == [[2017年]]の[[イギリス]]のシンクタンクの調査によると、世界12位の[[金融センター]]であり、アメリカの都市では5位である<ref>[http://www.banque-finance.ch/wp-content/uploads/2017/03/gfci_21.pdf Global Financial Centres Index 21] Z/Yen Group 2017年4月5日閲覧。</ref>。 == 文化 == === 史跡・博物館 === [[ファイル:National Museum of the American Indian.JPG|thumb|225px|[[国立アメリカ・インディアン博物館]]。2004年オープン。]] [[ファイル:Smithsonian Air and Space Museum.jpg|thumb|200px|[[スミソニアン博物館]]の一つ[[国立航空宇宙博物館]]]] [[ナショナル・モール]]は、ワシントンD.C.の中心にある、広大で開放されたエリアである。モールの中心にはワシントン記念塔がある。また、モールの中には、[[リフレクティング・プール]]の西端と東端にリンカーン記念館と[[第二次世界大戦記念碑]]があるほか、[[朝鮮戦争戦没者慰霊碑]]、ベトナム戦争戦没者慰霊碑、アルバート・アインシュタイン記念碑もある<ref>{{cite web |url = http://www.nps.gov/nama/historyculture/index.htm |title = National Mall & Memorial Parks |accessdate = 2008-06-28 |date = 2006-09-28 |publisher = 国立公園局 |language = 英語 }}</ref>。[[アメリカ国立公文書記録管理局|国立公文書館]]には、アメリカ史にとって重要な何千もの文書が収蔵されており、その中に[[アメリカ独立宣言]]、[[アメリカ合衆国憲法]]、[[権利章典 (アメリカ)|権利章典]]の原本も含まれている<ref>{{cite web |url = http://www.archives.gov/nae/visit/rotunda.html |title=Rotunda for the Charters of Freedom |accessdate = 2008-06-28 |publisher = 国立公文書館 |language = 英語 }}</ref>。 モールのすぐ南、タイダル・ベイスン(ポトマック川に隣接する池)は、桜並木で彩られている。この桜は[[日本]]から贈られたものである。タイダル・ベイスンの周りには、[[フランクリン・デラノ・ルーズベルト記念公園|フランクリン・ルーズベルト記念公園]]、トマス・ジェファーソン記念館、D.C.戦争記念碑がある<ref>{{cite web |url = http://www.nps.gov/nama/ |title = National Mall and Memorial Parks |accessdate = 2008-06-02 |date = 2008-02-07 |publisher = 国立公園局 |language = 英語 }}</ref>。 [[スミソニアン博物館|スミソニアン協会]]は、1846年に連邦議会によって創設された教育目的の基金で、ワシントンD.C.内にある国立の博物館・美術館のほとんどを管理している。アメリカ合衆国政府がスミソニアン協会に一部資金を提供しており、収蔵品を入場料無料で公開しているのはこのためである<ref>{{cite web |url = http://www.si.edu/about/ |title = About the Smithsonian |accessdate = 2008-05-27 |publisher = スミソニアン協会 |language = 英語 }}</ref>。スミソニアンの博物館の中でも最も来場者が多いのが、ナショナル・モール内にある[[国立自然史博物館 (アメリカ)|国立自然史博物館]]である<ref>{{cite web |url = http://newsdesk.si.edu/visits/default.htm |title = Smithsonian Visit Statistics |accessdate = 2008-06-02 |month = 2008-05 |publisher = スミソニアン協会 |language = 英語 }}</ref>。このほかに、モール内にあるスミソニアンの博物館・美術館としては、[[国立航空宇宙博物館]]、[[国立アフリカ美術館]]、[[国立アメリカ歴史博物館]]、[[国立アメリカ・インディアン博物館]]、[[アーサー・M・サックラー・ギャラリー]]、[[フリーア美術館]](サックラー・ギャラリーとフリーア・ギャラリーはいずれもアジアの美術・文化に焦点を当てている)、[[ハーシュホーン博物館と彫刻の庭]]、[[芸術産業館]]、[[スミソニアン協会本部]](「キャッスル」とも呼ばれる)がある<ref>{{cite web |url = http://newsdesk.si.edu/factsheets/default.htm |title = Museum and Program Fact Sheets |accessdate = 2008-06-02 |publisher = スミソニアン協会 |language = 英語 }}</ref>。 スミソニアン・アメリカ美術館(正式には[[国立アメリカ美術館]]、[[:en:Smithsonian American Art Museum|National Museum of American Art]])と[[国立肖像画美術館 (アメリカ合衆国)|国立肖像画美術館]] は、ドナルド・レイノルズ・センターという、チャイナタウン近くの同じ建物に入っている<ref>{{cite web |url = http://americanart.si.edu/reynolds_center/faq.cfm |title = The Reynolds Center Frequently Asked Questions |accessdate = 2008-05-27 |year = 2006 |publisher = スミソニアン協会 |language = 英語 }}</ref>。レイノルズ・センターは旧特許庁ビルとも呼ばれている<ref>{{cite web |url = http://www.npg.si.edu/inform/chron.htm |title = Architectural Chronology of the Patent Office Building |accessdate = 2008-07-22 |publisher = スミソニアン協会 |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20070425215935/http://www.npg.si.edu/inform/chron.htm |archivedate = 2007年4月25日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。レンウィック・ギャラリー ([[:en:Renwick Gallery|Renwick Gallery]]) は、正式にはスミソニアン・アメリカ美術館の一部だが、ホワイトハウス近くの分館にある。その他のスミソニアン博物館・美術館としては、南東地区の[[アナコスティア博物館]]、ユニオン駅近くの[[国立郵便博物館]]、ウッドリー公園内の国立動物園がある。 [[ファイル:Nga fg04.jpg|thumb|200px|left|[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]東館。現代美術を収蔵する。]] [[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]は、ナショナル・モール内の連邦議会議事堂近くにあるが、スミソニアン協会のものではない。完全にアメリカ合衆国政府が所有しており、そのためこれも入場料が無料となっている。ギャラリーの西館では、19世紀のアメリカ、ヨーロッパ美術の収蔵品にスポットが当てられている<ref>{{cite web |url = http://www.nga.gov/ginfo/aboutnga.shtm |title = About the National Gallery of Art |accessdate = 2008-05-27 |year = 2008 |publisher = ナショナル・ギャラリー |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20061208014849/http://www.nga.gov/ginfo/aboutnga.shtm |archivedate = 2006年12月8日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。東館は、建築士の[[イオ・ミン・ペイ]]によって設計されたもので、現代美術を取り扱っている<ref>{{cite web |url = http://www.nga.gov/education/schoolarts/east.shtm |title = I.M. Pei's East Building |accessdate = 2008-06-04 |month = 1999-04 |publisher = ナショナル・ギャラリー |language = 英語 }}</ref>。スミソニアン・アメリカ美術館と国立肖像画美術館はよくナショナル・ギャラリーと間違われるが、実際は完全に別の組織である。ジュディシャリー・スクエア近くのナショナル・ビルディング博物館 ([[:en:National Building Museum|National Building Museum]]) は連邦議会が創設したもので、その時々の特別展を行っている。 ワシントンD.C.には私設の美術館も多く、重要な収蔵品・展示品を一般に公開している。[[女性芸術美術館]] ([[:en:National Museum of Women in the Arts|National Museum of Women in the Arts]])、[[コーコラン・ギャラリー]]([[:en:Corcoran Gallery of Art|Corcoran Gallery]]。ワシントンD.C.で最大の私設の美術館)、デュポン・サークルにある[[フィリップス・コレクション]]([[:en:The Phillips Collection|Phillips Collection]]。アメリカで最初の、現代美術を扱う美術館)<ref>{{cite web |url = http://www.phillipscollection.org/html/about.htm |title = History of the Phillips Collection |accessdate = 2008-06-13 |publisher = フィリップス・コレクション |language = 英語 }}</ref>などである。その他、ワシントンD.C.内の私設の博物館としては、[[ニュージアム]] ([[:en:Newseum|Newseum]])、[[国際スパイ博物館]] ([[:en:International Spy Museum|International Spy Museum]])、[[ナショナルジオグラフィック協会]]博物館、科学博物館 ([[:en:Marian Koshland Science Museum|Marian Koshland Science Museum]]) がある。ナショナル・モール近くの[[ホロコースト記念博物館]] ([[:en:United States Holocaust Memorial Museum|Holocaust Memorial Museum]]) では、[[ホロコースト]]に関する展示品、文書、工作物が保管されている<ref>{{cite web |url = http://www.ushmm.org/research/library/faq/details.php?lang=en&topic=06 |title = Frequently Asked Questions |accessdate = 2008-05-27 |date = 2008-01-14 |publisher = ホロコースト記念博物館 |language = 英語 }}</ref>。 === 舞台芸術・音楽 === [[ファイル:Kennedy Center at Sunset.jpg|thumb|225px|[[ジョン・F・ケネディ・センター|ケネディ・センター]]はポトマック川沿いにある。]] ワシントンD.C.は、国内の芸術の中心地の一つである。[[ジョン・F・ケネディ・センター]]は、[[ワシントン・ナショナル交響楽団]]、[[ワシントン・ナショナル・オペラ]] ([[:en:Washington National Opera|Washington National Opera]])、[[ワシントン・バレエ]] ([[:en:Washington Ballet|Washington Ballet]]) の本拠地である。毎年、舞台芸術の分野でアメリカの文化に大きく貢献した人に対し、[[ケネディ・センター名誉賞]]が与えられる<ref>{{cite web |url = http://www.kennedy-center.org/programs/specialevents/honors/about/home.html |title = About the Kennedy Center Honors |accessdate = 2008-06-29 |publisher = ケネディ・センター |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080516004214/http://kennedy-center.org/programs/specialevents/honors/about/home.html |archivedate = 2008年5月16日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]と[[アメリカ合衆国のファーストレディ|ファーストレディ]]が名誉賞の授賞式に出席するのが通例である。これは、ファーストレディがケネディ・センター理事会の名誉会長であるためである<ref>{{cite web |url = http://www.kennedy-center.org/about/kctrustees.html |title = The Board of Trustees |accessdate = 2008-06-29 |publisher = ケネディ・センター |language = 英語 }}</ref>。 アリーナ・ステージ ([[:en:Arena Stage|Arena Stage]]) は、アメリカで最も早い時期にできた非営利の地方劇場の一つで、1シーズンに古典的作品や新しいアメリカ演劇などを取り上げた八つの舞台を上演する<ref>{{cite web |url = http://www.arenastage.org/about/history/ |title = Arena Stage History |accessdate = 2008-06-03 |publisher = アリーナ・ステージ |language = 英語 }}</ref>。シェークスピア劇場 ([[:en:Shakespeare Theatre Company|Shakespeare Theatre]]) は、1985年に設立された非営利の劇場で、その古典的演劇に対する再解釈や演出手法に対しては、評論家から「世界で最も素晴らしい三つのシェークスピア劇場のうちの一つ」と評価されている<ref>{{cite web |url = http://www.shakespearetheatre.org/about/history.aspx |title = STC History |accessdate = 2008-06-03 |publisher = シェークスピア劇場 |language = 英語 }}</ref>。 ワシントン北西地区のUストリート地帯は、「ワシントンのブラック・ブロードウェイ」として知られる。ボヘミアン・カバンズ([[:en:Bohemian Caverns|Bohemian Caverns]]、ナイトクラブ)やリンカーン・シアター ([[:en:Lincoln Theatre (Washington, D.C.)|Lincoln Theatre]]) があり、そこではワシントン生まれの[[デューク・エリントン]]、[[ジョン・コルトレーン]]、[[マイルス・デイヴィス]]など音楽史の伝説的人物が演奏していた<ref>{{cite news |first = Dan |last = Levin |title = Lights Return to‘Black Broadway’ in Northwest Washington, D.C. |date = 2006-09-10 |url = http://travel2.nytimes.com/2006/09/10/travel/10surfacing.html?ref=travel |work = ニューヨーク・タイムズ |accessdate = 2008-06-20 |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20110610144435/http://travel2.nytimes.com/2006/09/10/travel/10surfacing.html?ref=travel |archivedate = 2011年6月10日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。その他のジャズクラブとして、アダムズ・モーガンにあるマダムズ・オーガン ([[:en:Madam's Organ Blues Bar|Madam's Organ]]) やジョージタウンにあるブルース・アリーなどがあり、モダン・ブルースが演奏されている。 ワシントンD.C.には、ここで生まれた[[ゴーゴー]] ([[:en:Go-go|Go-go]]) と呼ばれる固有の音楽ジャンルがある。[[ファンク]]を受け継ぎ、駆り立てるようなパーカッションと[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]の味わいが、ライブのセッションと激しいダンスのリズムを一体化させている。最も成功したミュージシャンが、D.C.のバンドを率いた[[チャック・ブラウン]] ([[:en:Chuck Brown|Chuck Brown]]) で、彼は1979年のレコード"Bustin' Loose"でゴーゴーを全国の注目の的とした<ref>{{cite news |first = Alona |last = Wartofsky |title = What Go-Goes Around&nbsp;... |date = 2001-06-03 |url = http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn?pagename=article&contentId=A8247-2001Jun1&notFound=true |work = ワシントン・ポスト |pages = G01 |accessdate = 2008-06-10 |language = 英語 }}</ref>。 ワシントンD.C.は、アメリカの[[インディーズ]]文化・音楽にとっても重要な中心地である。[[イアン・マッケイ]]の作った[[ディスコード・レコード]]は、1980年代の[[パンク・ロック]]や、さらには1990年代の[[インディー・ロック]]が生まれる上で最も重要な役割を担ったインディーズ・レーベルの一つである<ref>{{cite news |first = Susie J |last = Horgan |title = Birth of D.C. Punk |date = 2007-02-08 |url = http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/discussion/2007/02/07/DI2007020701569.html |work = ワシントン・ポスト |accessdate = 2008-06-17 |language = 英語 }}</ref>。ワシントンのインディーズ・レーベルの歴史には、ティーンビート・レコード、ディスコード・レコード、シンプル・マシンズ、ESLミュージックなどが登場する。Uストリート近くのブラックキャット ([[:en:The Black Cat (Washington, D.C. nightclub)|The Black Cat]]) や9:30クラブ ([[:en:9:30 Club|9:30 Club]]) といった、現代の[[オルタナティブ・ミュージック]]やインディーズ音楽を演奏するナイトクラブの存在によって、大衆的な音楽は、より小規模でうち解けた雰囲気のクラブに持ち込まれている<ref>{{cite news |title = Black Cat: A changing club with a changing scene in a changing city |date = 2001-09-09 |url = http://www.georgetownvoice.com/2004-09-09/feature/black-cat-a-changing-club-with-a-changing-scene-in-a-changing-city |work = ジョージタウン・ボイス |accessdate = 2008-06-10 |language = 英語 }}</ref>。1964年2月に渡米中のビートルズがコロシアムでコンサートを行った。その模様は撮影され、メンバーの帰国後に映画で上映され(関係者やビートルズがそれを知ったのはずいぶん経ってからだった)、後に「コンプリート・ビートルズ」や「ザ・ビートルズ・アンソロジー」やビートルズ関連の作品に使用されている。 == マスメディア == === 新聞 === [[ファイル:Washington dc 1874.jpg|left|thumb|250px|ペンシルベニア通りの新聞社の並び(1874年)]] ワシントンD.C.は、国内そして国際メディアの一大中心地である。[[ワシントン・ポスト]]は1877年に創刊され、ワシントンD.C.で最も歴史があり、かつ最も購読者が多いる日刊地方紙である<ref name="wapo">{{cite web |url = http://washpost.com/gen_info/history/timeline/index.shtml |title = History of the Post Timeline |accessdate = 2008-05-27 |work = ワシントン・ポスト |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080611105409/http://www.washpost.com/gen_info/history/timeline/index.shtml |archivedate = 2008年6月11日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref><ref>{{cite news |first = Annys |last = Shin |title = Newspaper Circulation Continues to Decline |date = 2005-05-03 |url = http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/05/02/AR2005050201457.html |work = ワシントン・ポスト |pages = E03 |accessdate = 2008-06-10 |language = 英語 }}</ref>。同紙で最も注目されるのは、国内・国際政治についての取材範囲の広さ、そして[[ウォーターゲート事件]]の暴露である<ref>{{cite web |url = http://www.washingtonpost.com/wp-srv/onpolitics/watergate/chronology.htm |title = The Watergate Story Timeline |accessdate = 2008-05-27 |work = ワシントン・ポスト |language = 英語 }}</ref>。同紙――「ザ・ポスト」と広く呼ばれている――は、ずっと3つの版しか印刷していない。それぞれワシントンD.C.、メリーランド州、バージニア州向けのものである。広域の全国版はないにもかかわらず、同紙は2008年3月現在において国内の全日刊紙の中で6番目に多い発行部数を誇っている<ref name="newscirc">{{cite web |url = http://abcas3.accessabc.com/ecirc/newsform.asp |title = eCirc for US Newspapers |accessdate = 2008-07-08 |date = 2008-03-31 |publisher = Audit Bureau of Circulations |language = 英語 }}</ref>。[[ワシントン・ポスト社]]は、「エクスプレス」というフリーの通勤客向け日刊紙を発行しており、時事、スポーツ、エンターテイメントを短くまとめている。また同社はスペイン語紙 ''El Tiempo latino'' も発行している。国内で最大の発行部数を有する日刊紙である[[USAトゥデイ]]は、本部をバージニア州マクリーン近郊に置いている<ref>{{cite web |url = http://www.usatoday.com/media_kit/pressroom/pr_justfacts_usatoday.htm |title = Just the Facts |accessdate = 2008-07-08 |publisher = USAトゥデイ |language = 英語 }}</ref>。 そのほかの日刊地方紙として[[ワシントン・タイムズ]]、週刊のオルタナティブ紙<ref group="注">オルタナティブ紙 ([[:en:Alternative newspaper|Alternative newspaper]]) とは、一般的なニュースを網羅的に取り上げるのではなく、オピニオン的な論評やコラム、最先端の話題のリサーチ、地元の人や文化についての雑誌的な特集などを内容とする若者向けのローカル新聞である。[[:en:Alternative newspaper|英語版ウィキペディア]]参照。</ref>としてワシントン・シティ・ペーパーの両紙も、ワシントン地域で相当数の読者を得ている<ref>{{cite web |url = http://www.outsidethebeltway.com/archives/2005/05/washington_times_circulation_growing/ |title = Washington Times Circulation Growing |accessdate = 2008-06-10 |last = Joyner |first = James |date = 2005-05-18 |work = Outside the Beltway |language = 英語 }}</ref><ref>{{cite web |url = http://aan.org/alternative/Aan/ViewCompany?oid=oid%3A95 |title = Washington City Paper |accessdate = 2008-05-27 |year = 2008 |publisher = Association of Alternative Newsweeklies |language = 英語 }}</ref>。 また、地域や文化的なテーマに焦点を当てたコミュニティ紙、専門紙も多い。週刊のワシントン・ブレード紙と[[メトロ・ウィークリー]]紙は、[[LGBT]] に関する話題を取り上げたものである。ワシントン・インフォーマー紙とワシントン・アフロ・アメリカン紙は、黒人コミュニティにとっての関心事項にスポットを当てたものである。そのほか、カレント・ニューズペーパーが発行するいくつかの地区新聞がある。ヒル紙とロール・コール紙は、連邦議会と連邦政府に関する話題のみに的を絞ったものである。 === 放送 === ワシントン首都圏は、230万8290世帯(アメリカ人口の2.05%)を擁する、アメリカで9番目に大きなテレビのマーケットである<ref>{{cite web |url = http://www.nielsenmedia.com/nc/portal/site/Public/menuitem.3437240b94cacebc3a81e810d8a062a0/?vgnextoid=130547f8b5264010VgnVCM100000880a260aRCRD# |title = Local Television Market Universe Estimates |accessdate = 2008-05-27 |date = 2008-01-01 |format = PDF |publisher = The Nielsen Company |language = 英語 }}</ref>。いくつかのメディア会社とケーブルテレビのチャンネルがワシントンD.C.に本社を置いている。[[C-SPAN]]、[[ブラック・エンターテインメント・テレビジョン]] (BET)、[[ナショナルジオグラフィックチャンネル]]、スミソニアン・ネットワークス、XMサテライト・ラジオ、[[ナショナル・パブリック・ラジオ]] (NPR)、[[ディスカバリーチャンネル|ディスカバリー・コミュニケーションズ社]](メリーランド州シルバー・スプリングに所在)、[[公共放送サービス]](PBS。バージニア州[[アーリントン (バージニア州)|アーリントン]]に所在)などがある。アメリカ政府の国際ニュースサービス「[[ボイス・オブ・アメリカ]]」(VOA) は、本部を連邦議会議事堂近くの南西地区に置いている。同じくD.C.に本拠地を置く[[ラジオ・ワン]]は、アメリカで最大のアフリカ系アメリカ人向けテレビ・ラジオの複合企業で、メディア界の大物[[キャシー・ヒューズ]]によって設立された<ref>{{cite news |first = Charisse |last = Jones |title = Sweeping national study finds blacks in U.S. diverse, optimistic |date = 2008-06-26 |url = http://www.usatoday.com/news/nation/2008-06-26-Blacksurvey_N.htm |work = USAトゥデイ |accessdate = 2008-07-12 |language = 英語 }}</ref>。 参照:[[ワシントンD.C.のラジオ放送局の一覧]] == スポーツ == [[ファイル:Mci center jan2006b.jpg|right|thumb|250px|[[キャピタル・ワン・アリーナ]]は、[[ワシントン・キャピタルズ]]、[[ワシントン・ミスティクス]]、[[ワシントン・ウィザーズ]]の本拠地である]] ワシントンD.C.は、5つの大きなプロスポーツチームの本拠地となっている。バスケットボールの[[ワシントン・ウィザーズ]] ([[NBA]]) とアイスホッケーの[[ワシントン・キャピタルズ]] ([[ナショナルホッケーリーグ|NHL]]) は、いずれもチャイナタウンにある[[キャピタル・ワン・アリーナ]]でプレーしている。2008年にD.C.南東地区にオープンした[[ナショナルズ・パーク]]は、[[ワシントン・ナショナルズ]]([[メジャーリーグベースボール]])の本拠地である。[[D.C. ユナイテッド]]([[メジャーリーグサッカー]])は、[[アウディ・フィールド]]でプレーしている。フットボールの[[ワシントン・コマンダース]] ([[NFL]]) は、メリーランド州ランドーバーにある[[フェデックスフィールド]]である。 ワシントン地域には、女子プロスポーツチームもたくさんある。バスケットボールの[[ワシントン・ミスティクス]] ([[WNBA]]) はキャピタル・ワン・アリーナで、ソフトボールのワシントン・グローリー([[ナショナル・プロ・ファストピッチ]])はウェストフィールド・ハイスクール・スポーツ・コンプレックス(バージニア州フェアファクス郡)でそれぞれプレーしている。サッカーのワシントン・フリーダムは、2009年から始まった女子プロサッカーリーグ([[アメリカ女子プロサッカー]]、[[アメリカ女子サッカーリーグ]] (WUSA) の後を継ぐ団体)で復活、2011年よりマジックジャックに改名し、[[フロリダ州]]に移転した<ref>{{cite web |url = http://www.womensprosoccer.com/soccer_ektid582.aspx?team=dc |title = Washington Freedom History |accessdate = 2008-06-03 |publisher = 女子プロサッカー協会 |language = 英語 }}</ref>。 そのほかにワシントンに本拠を置くプロ又はセミプロのチームとしては、次のものがある。 *[[ワシントン・フリーダム]]([[メジャーリーグクリケット]]) *ワシントン・ベイホークス([[メジャーリーグ・ラクロス]]):実際には本拠スタジアムは[[メリーランド州]][[アナポリス (メリーランド州)|アナポリス]]の[[海軍海兵隊記念スタジアム]]だが、名前はワシントンを冠している。 *ワシントンD.C.スレイヤーズ(アメリカン・ナショナル・ラグビー・リーグ) *ポトマック・マーベリックス(プロフェッショナル・インライン・ホッケー協会) *ボルチモア・ワシントン・イーグルス([[オージーフットボール]]) *D.C.ディーバズ(女子ナショナル・フットボール協会) *D.C.エクスプロージョン(マイナーリーグ・フットボール) *ワシントン・ラグビー・フットボール・クラブ(ラグビー・スーパーリーグ) *[[オールドグローリーDC]]([[メジャーリーグラグビー]]) *D.C. ディフェンダーズ (XFL) [[アメリカンフットボール]]、[[バスケットボール]]、野球、[[アイスホッケー]]という4大メジャースポーツリーグのチームがすべて揃っている都市はアメリカには13しかなく、ワシントンD.C.はそのうちの一つである。これにサッカーを加えると、すべて揃っているのはワシントンD.C.を含む8都市となる。ワシントンD.C.のスポーツチームは、総計すると12回のリーグでの優勝を手にしている。そのうち4回がD.C.ユナイテッドが勝ち取ったものである(メジャーリーグサッカー史上最多である)<ref>{{cite web |url = http://www.mlsnet.com/t103/load.jsp?section=about&content=tradition |title = D.C. United Tradition |publisher = D.C.ユナイテッド |accessdate = 2008-03-09 |language = 英語 }}</ref>。またワシントン・コマンダースが3回<ref>{{cite web |url = http://www.nfl.com/superbowl/history |title = Super Bowl History |accessdate = 2008-06-29 |year = 2008 |publisher = ナショナル・フットボール・リーグ |language = 英語 }}</ref>、ワシントン・ベイホークスが2回<ref>{{cite web |url = http://www.washingtonbayhawks.com/about/history/ |title = History |accessdate = 2008-06-29 |year = 2008 |publisher = ワシントン・ベイホークス |language = 英語 }}</ref>、ワシントン・ウィザーズ、ワシントン・グローリー、ワシントン・ナショナルズがそれぞれ1回である<ref>{{cite web |url = http://www.nba.com/history/finals/champions.html |title = NBA Finals: All-Time Champions |accessdate = 2008-06-29 |year = 2008 |publisher = NBA |language = 英語 }}</ref><ref>{{cite web |url=Https://scammerwebsite.com |title=NPF History |accessdate=2008-06-29 |year=2008 |publisher=ナショナル・プロ・ファストピッチ協会 |language=英語}}</ref><ref>{{Cite news|title=ナショナルズ粘り腰で初栄冠 首都95年ぶり美酒|newspaper=[[日刊スポーツ]]|date=2019-10-31|url=https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/201910310000334.html|accessdate=2020-08-29|publisher=株式会社日刊スポーツ新聞社}}</ref>。 そのほか、ロック・クリーク公園にあるフィッツジェラルド・テニス・センターでは、レッグ・メイソン・テニス・クラシック ([[:en:Legg Mason Tennis Classic|Legg Mason Tennis Classic]]) の大会が開催される。マリン・コープス・マラソン ([[:en:Marine Corps Marathon|Marine Corps Marathon]]) とナショナル・マラソン ([[:en:National Marathon|National Marathon]]) の2つもワシントンで毎年開催される。また、ワシントン地域には、コムキャスト・スポーツネット ([[:en:Comcast SportsNet|CSN]]) というスポーツ専門の地方テレビ局があり、メリーランド州[[ベセスダ (メリーランド州)|ベセスダ]]に本拠がある。プロテニス[[シティ・オープン]]も開催される。 == 観光 == [[ナショナル・モール]]とその周辺には、多くの観光スポットが集中している。モール内には[[ワシントン記念塔]]、[[リンカーン記念館]]などのモニュメントがあり、その周辺には[[スミソニアン博物館]]、[[ナショナル・ギャラリー]]を代表として、多数の博物館・美術館がある。また、モールの北側や、[[アメリカ合衆国議会議事堂]]、[[アメリカ合衆国最高裁判所]]などの政府機関も一般に公開されており、観光名所として人気がある。 モールを離れて北側の[[ナショナル・ジオグラフィック協会]]などや、北西側の[[ワシントン大聖堂]]なども、観光名所は集中していないものの、それぞれ独自の町並みを見せており、これらの地域を訪れる人も多い。さらに[[ワシントンメトロ]]で結ばれている近郊の街には、[[アーリントン国立墓地]]がある[[アーリントン郡 (バージニア州)|アーリントン]]や、オールド・タウンと呼ばれる古い町並みが残る[[アレクサンドリア (バージニア州)|アレクサンドリア]]などがある。 モールを中心に、解説を交えながらこれらの観光名所を巡回する観光用バスが多数走っており、ツアーモービル、オールド・タウン・トロリー、グレイライン・レッド・トロリー、ダックツアーなどがある<ref>前掲『地球の歩き方』57-58頁。</ref>。また、[[ユニオン駅 (ワシントンD.C.)|ユニオン駅]]からは[[ナショナル・モール]]、[[タイダルベイスン]]湖岸を巡回する路線バス[[:en:DC Circulator|特別区循環]]も運行されている。 == 政治 == 一つの地方としてのワシントンD.C.ローカルの政治傾向はリベラルであり、民主党が強く、支持者も圧倒的に多い<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASNCV4FGZNCRUHBI00S.html|title=トランプは論外だけどバイデンも…忘れられた街の疎外感|newspaper=朝日新聞デジタル|date=2020-11-28|accessdate=2020-11-30}}</ref>。 === 地方政府と地方政治 === [[ファイル:Wilsonbldg.JPG|thumb|right|225px|ウィルソン・ビルにはワシントンD.C.地方政府([[ワシントンD.C.市長|コロンビア特別区長]]と[[コロンビア特別区議会]])のオフィスがある。]] [[アメリカ合衆国憲法]]1条8節17項<ref>[[s:アメリカ合衆国憲法#a1-8|アメリカ合衆国憲法1条8節の訳文]](ウィキソース)</ref>は、合衆国の連邦議会に、ワシントンD.C.に対する最高の権限を与えている。1973年のコロンビア特別区地方自治法により、連邦議会の一定の権限が特別区のワシントンD.C.地方政府に委譲され、同政府は、ワシントンD.C.の首長である[[ワシントンD.C.市長|コロンビア特別区長]](現在は[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ミューリエル・バウザー]])と、条例制定権を有する地方議会の[[コロンビア特別区議会]](定数13議席)によって運営されることとなった。もっとも、連邦議会は、コロンビア特別区議会の作った法律を審査・破棄し、またワシントンD.C.地方自治の問題について介入する権限を有している。8つの選挙区<ref>[[:en:List of neighborhoods of the District of Columbia by ward|ワシントンD.C.の選挙区割とそこに含まれる地域一覧]](英語版ウィキペディア)</ref>ごとに1人の市議会議員が選ばれ、これとは別に全域から議長を含む5人の議員が選ばれる<ref>{{cite web |url = http://www.grc.dc.gov/grc/cwp/view,a,1203,q,447121,pm,1,grcnav_gid,1424,,grcNav_GID,0.asp |title = Elected Officials |accessdate = 2008-06-03 |publisher = ワシントンD.C.政府 |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20071215123415/http://www.grc.dc.gov/grc/cwp/view,a,1203,q,447121,pm,1,grcnav_gid,1424,,grcNav_GID,0.asp |archivedate = 2007年12月15日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。また、小地区ごとに、地区諮問委員会 ([[:en:Advisory Neighborhood Commission|ANC]]) の37人の委員が選挙される。ANC は伝統的に多大な影響力を行使しており、市政府は ANC の助言に十分に配慮するのが通例である<ref>{{cite web |url = http://anc.dc.gov/anc/site/default.asp |title = Advisory Neighborhood Commissions |accessdate = 2008-05-27 |publisher = ワシントンD.C.政府 |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080607022442/http://anc.dc.gov/anc/site/default.asp |archivedate = 2008年6月7日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 [[ファイル:Capitol 07130011.jpg|thumb|left|200px|[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]はD.C.に対する最高の権限を有する。]] ワシントンD.C.市長とコロンビア特別区議会が予算を採択したとき、連邦議会はそれを変更する権限を有している。地方の[[所得税]]、[[売上税]]及び資産税が、市政府の部局や行政サービスに当てるための収入の大部分を占める。50州と同様、ワシントンD.C.は老齢者医療保険制度 ([[:en:Medicare (United States)|Medicare]]) のような連邦政府補助金プログラムからの資金を受けている。連邦議会は、このほかに市の経費の一部を補助するため、資金を直接交付しており、これは2007年度では3800万ドル(D.C.の予算の約0.5%)となっている<ref>{{cite web |url = http://cfo.dc.gov/cfo/frames.asp?doc=/cfo/lib/cfo/budget/2007/DC_Budget-Volume_1b.pdf&open=/33210/ |title = Introduction to the FY 2007 Budget and Financial Plan |accessdate = 2008-08-29 |format = PDF |publisher = Office of the Chief Financial Officer |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20100722072723/http://cfo.dc.gov/cfo/frames.asp?doc=%2Fcfo%2Flib%2Fcfo%2Fbudget%2F2007%2FDC_Budget-Volume_1b.pdf&open=%2F33210%2F |archivedate = 2010年7月22日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。しかし、これらの資金提供とは別に、連邦政府が特別区裁判所(2008年で2億7200万ドルの予算)や、連邦公園警察のような連邦警察機構を運営しており、これらが市の治安の維持に貢献している<ref>{{cite web |url = http://www.dccourts.gov/dccourts/about/index.jsp |title = About the District of Columbia Courts |accessdate = 2008-05-31 |publisher = 特別区裁判所 |language = 英語 }}</ref><ref>{{cite web |url = http://www.nps.gov/uspp/tauthorit.htm |title = U.S. Park Police Authority and Jurisdiction |date = 2006-03-03 |accessdate = 2008-06-10 |publisher = 国立公園局 |language = 英語 }}</ref>。 歴史的には、市の地方政府は失策や浪費で悪名を得てきており、特にマリオン・バリー市長の時代はこれが顕著だった。1997年7月20日のワシントン・ポスト紙は、1面記事で、ワシントンD.C.の行政サービスは全国でもコストが最高で質は最低だと報じた<ref>{{cite news |first = Michael |last = Powell |url = http://www.washingtonpost.com/wp-srv/local/longterm/library/dc/mismanage/manage20.htm |title = Poor Management, Federal Rule, Undermine Services |date = 2007-07-20 |work = ワシントン・ポスト |pages = A01 |accessdate = 2008-08-29 |language = 英語 }}</ref>。アンソニー・ウィリアムス市長の時代になって成功を見るようになり、都市の再生も進み、1990年代に財政の黒字化も実現し、それが今日まで続いている<ref> {{cite web |url = http://app.cfo.dc.gov/CFORUI/news/release.asp?id=96&mon=200401 |title = District Government Achieves Balanced Budget and Clean Audit Opinion for FY 2003 |accessdate = 2008-06-23 |date = 2004-01-30 |publisher = D.C. Office of the Chief Financial Officer |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20090508094540/http://app.cfo.dc.gov/CFORUI/news/release.asp?id=96&mon=200401 |archivedate = 2009年5月8日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。2007年末に、捜査当局の調べで、租税・歳入事務所の複数の職員が、虚偽の税金還付の小切手を作出することにより、4400万ドル以上を詐取していたことが発覚した。このスキャンダルはフェンティ市政にとっての汚点となり、市民の信頼回復が最重要課題となっている<ref>{{cite news |first = Carol |last = Leonnig |coauthors = Dan Keating |title = D.C. Tax Scandal At $44.3 Million, Analysis Finds |date = 2007-12-02 |url =http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/story/2007/12/02/ST2007120200563.html |work = ワシントン・ポスト |accessdate = 2008-06-10 |language = 英語 }}</ref>。 ワシントンD.C.は、すべての連邦の休日 ([[:en:Federal holiday|Federal holiday]]) に従っている。そのほかに、[[1862年]]([[奴隷解放宣言]]の9か月前)に奴隷解放補償法が[[エイブラハム・リンカーン]]大統領によって署名されたのを記念して、[[4月16日]]の奴隷解放記念日を祝日としている。この法律により、D.C.での奴隷制は終わりを迎え、およそ3100人の奴隷が解放された<ref>{{cite web |url = http://os.dc.gov/os/cwp/view,a,1207,q,608954.asp |title = DC Celebrates Emancipation Day |accessdate = 2008-06-02 |publisher = D.C. Office of the Secretary |language = 英語 }}</ref>。 === 連邦政府と国政 === {| class="wikitable" style="float:right; margin:1em; font-size:95%;" |+ Washington, D.C vote|大統領選挙の結果<ref name="Leip, David">{{cite web|url=http://uselectionatlas.org/RESULTS/|title=General Election Results – Dictrict of Columbia|publisher=United States Election Atlas|accessdate=November 18, 2016|author=Leip, David}}</ref><ref>{{cite web|title=Election Results|url=https://www.dcboee.org/election_info/election_results/|website=District of Columbia Board of Elections|publisher=District of Columbia Board of Elections|accessdate=13 December 2016}}</ref> |- style="background:lightgrey;" ! 年 ! [[民主党 (アメリカ)|民主党]] ! [[共和党 (アメリカ)|共和党]] |- |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|[[1964年アメリカ合衆国大統領選挙|1964]] |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|'''85.5%''' ''169,796'' |style="text-align:center" {{Party shading/Republican}}|14.5% ''28,801'' |- |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|[[1968年アメリカ合衆国大統領選挙|1968]] |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|'''81.8%''' ''139,566'' |style="text-align:center" {{Party shading/Republican}}|18.2% ''31,012'' |- |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|[[1972年アメリカ合衆国大統領選挙|1972]] |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|'''78.1%''' ''127,627'' |style="text-align:center" {{Party shading/Republican}}|21.6% ''35,226'' |- |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|[[1976年アメリカ合衆国大統領選挙|1976]] |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|'''81.6%''' ''137,818'' |style="text-align:center" {{Party shading/Republican}}|16.5% ''27,873'' |- |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|[[1980年アメリカ合衆国大統領選挙|1980]] |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}| '''74.2%''' ''130,231'' |style="text-align:center" {{Party shading/Republican}}| 13.4% ''26,218'' |- |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|[[1984年アメリカ合衆国大統領選挙|1984]] |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|'''85.4%''' ''180,408'' |style="text-align:center" {{Party shading/Republican}}|13.7% ''29,009'' |- |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|[[1988年アメリカ合衆国大統領選挙|1988]] |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|'''82.6%''' ''159,407'' |style="text-align:center" {{Party shading/Republican}}|14.3% ''27,590'' |- |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|[[1992年アメリカ合衆国大統領選挙|1992]] |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|'''84.6%''' ''192,619'' |style="text-align:center" {{Party shading/Republican}}|18.4% ''20,698'' |- |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|[[1996年アメリカ合衆国大統領選挙|1996]] |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|'''85.2%''' ''158,220'' |style="text-align:center" {{Party shading/Republican}}|9.3% ''17,339'' |- |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|[[2000年アメリカ合衆国大統領選挙|2000]] |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|'''85.2%''' ''171,923'' |style="text-align:center" {{Party shading/Republican}}|9.0% ''18,073'' |- |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙|2004]] |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}| '''89.0%''' ''202,970'' |style="text-align:center" {{Party shading/Republican}}|9.0% ''21,256'' |- |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|2008]] |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|'''92.5%''' ''245,800'' |style="text-align:center" {{Party shading/Republican}}|6.5% ''17,367'' |- |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|[[2012年アメリカ合衆国大統領選挙|2012]] |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|'''90.9%''' ''267,070'' |style="text-align:center" {{Party shading/Republican}}|7.3% ''21,381'' |- |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙|2016]] |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|'''90.5%''' ''282,830'' |style="text-align:center" {{Party shading/Republican}}|4.1% ''12,723'' |- |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|[[2020年アメリカ合衆国大統領選挙|2020]] |style="text-align:center" {{Party shading/Democratic}}|'''92.6%''' ''317,323'' |style="text-align:center" {{Party shading/Republican}}|5.4% ''18,586'' |- |} [[アメリカ合衆国大統領選挙]]の[[アメリカ選挙人団|選挙人]]数は3人、議会の選挙区は定数1議席の[[コロンビア特別区全区選挙区]]である。 === 州への昇格運動 === {{see|:en:Statehood movement in the District of Columbia|アメリカ合衆国51番目の州}} ==== 代表・課税問題 ==== {{see|{{仮リンク|ワシントンD.C.の投票権|en|District of Columbia voting rights}}}} ワシントンD.C.の市民は、連邦議会に投票権のある議員を送っていない。[[アメリカ合衆国下院|下院]]では、投票権のない代議員(準議員)1名がワシントンD.C.を代表しており、現在はエレナー・ホームズ・ノートン(民主党、[[コロンビア特別区全区選挙区]]選出)がこれを務めている。代議員は、下院で委員会に出席し、議論に参加し、法案を提出する権限はあるが、議場で投票に加わることはできない。また[[アメリカ合衆国上院|上院]]には全く代表を送っていない。1961年までは大統領選挙への投票からも除外されていたが、[[アメリカ合衆国憲法修正第23条]]<ref name="amend23" />によって、D.C.にも選挙人団の中に3人の投票権が与えられた。[[プエルトリコ]]や[[グアム]]のようなアメリカ合衆国の領域(準州)も下院に投票権のない代議員を送っている(ただし大統領選挙に参加はできない)が、両地域と異なり、ワシントンD.C.の市民はすべての連邦法と課税に服している<ref>{{cite web |url = http://www.irs.gov/businesses/small/international/article/0,,id=97321,00.html |title = Individuals Living or Working in U.S. Possessions |accessdate = 2008-07-24 |publisher = 内国歳入庁 |language = 英語 }}</ref>。2007年度において、D.C.の住民と企業は204億ドルの連邦税を支払っており、これより少ない州は19州ある上、1人当たりの納税額では最大である<ref> {{cite web |url = http://www.irs.gov/pub/irs-soi/07db05co.xls |title = Internal Revenue Gross Collections, by Type of Tax and State, Fiscal Year 2007 |accessdate = 2008-08-20 |year = 2008 |format = XLS コロンビア特別区 |publisher = 内国歳入庁 |language = 英語 }}</ref>。これに加え、[[公民権運動]]以前には南部で名ばかりの平等の下で選挙権を奪われていた黒人がD.C.の多数派であるため、当時のように間接的に黒人を投票から締め出す形になっている。 [[File:DC 2013.jpg|180px|thumb|「代表なき課税」と下部に書かれた DC のナンバープレート]] 2005年の世論調査で、アメリカ人の78%が、コロンビア特別区の住民が連邦議会での代表について50州よりも低い地位しか与えられていないことを知らなかったと答えた<ref name="votepoll">{{cite web |url = http://www.dcvote.org/newsletter/spring05.pdf |title = Poll Shows Nationwide Support for DC Voting Rights |accessdate = 2008-05-29 |year = 2005 |format = PDF |work = DC Vote Voice |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080624204729/http://www.dcvote.org/newsletter/spring05.pdf |archivedate = 2008年6月24日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。この問題についての認識を高めてもらおうとする運動がD.C.の官民挙げて行われている。1990年からはD.C.当局が2年ごとの連邦選挙に合わせて「影の議員」の選挙を行っており、D.C.公認の「影の上院議員」2名と「影の下院議員」1名(連邦に認められた、投票権なき代表とは別)が存在する。また2000年11月からは市の「代表なき課税([[代表なくして課税なし]])」という非公式のモットーを、ワシントンの車のナンバープレートに入れてアピールしている<ref>{{cite web |url = http://dmv.dc.gov/serv/plates/tax.shtm |title = 'Taxation without Representation' Tags |accessdate = 2008-05-27 |publisher = ワシントンD.C.自動車局 |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20110430050604/http://dmv.dc.gov/serv/plates/tax.shtm |archivedate = 2011年4月30日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。このナンバープレートの登場時に退任直前であった[[ビル・クリントン]]大統領(民主党)は、趣旨に賛同するとしてこれを大統領専用リムジンに装着した。しかし、[[ジョージ・W・ブッシュ]]新大統領(共和党)は、政治スローガンをナンバープレートに載せるべきではないとして、就任後すぐに大統領就任式記念のナンバープレートに取り替えてしまった<ref>{{cite news |title = Political License Plate Is Out, Bush Says |date = 2001-01-19 |url = http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C06E0DB173CF93AA25752C0A9679C8B63 |work = ニューヨーク・タイムズ |accessdate = 2008-07-05 |language = 英語 }}</ref>。なおD.C.は民主党への支持が圧倒的に強固な土地柄である<ref group="注">[[アメリカ合衆国大統領選挙]]では、初参加となった[[1964年アメリカ合衆国大統領選挙|1964年]]から直近の[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙|2016年]]の選挙に至るまで、全ての選挙で[[民主党 (アメリカ)|民主党]]候補が7〜9割台の得票率で圧勝している。特に、[[1972年アメリカ合衆国大統領選挙|1972年]]・[[1984年アメリカ合衆国大統領選挙|1984年]]の選挙では、民主党候補([[ジョージ・マクガヴァン]]、[[ウォルター・モンデール]])は50州中1州(マクガヴァンは[[マサチューセッツ州]]、モンデールは[[ミネソタ州]])でしか選挙人を獲得出来ず、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]候補([[リチャード・ニクソン]]、[[ロナルド・レーガン]])に惨敗したが、それらの選挙においてもD.C.は民主党候補が8割前後の得票率(マクガヴァンは78.1%、モンデールは85.4%)で圧勝している。</ref>。 様々な世論調査によれば、アメリカ人の61%ないし82%が、D.C.は連邦議会での投票権付き代表を認められるべきだと考えている<ref name=votepoll/><ref>{{cite news |url = http://www.washingtonpost.com/wp-srv/politics/polls/postpoll_042307.html |title = Washington Post Poll: D.C. Voting Rights |date = 2007-04-23 |work = ワシントン・ポスト |accessdate = 2008-06-10 |language = 英語 }}</ref>。にもかかわらず、D.C.に投票権付き代表を与えようとする試みは成功していない。その中には、D.C.州昇格運動もあり、またD.C.に上下両院選挙の投票権を付与する憲法修正案も提出されたが、いずれも成功を見ていない。1978年には州なみの上下両院議員の選出権を付与する改憲案が7年以内の[[批准#米国|批准]]を条件として連邦議会を通過したが、1985年までに批准した州は16州にとどまり、改憲に必要な{{sfrac|3|4}}の州(38州)に遠く及ばず成立しなかった。 D.C.に投票権を与えることに対する反対論者は、[[アメリカ合衆国建国の父]]たちはD.C.の住民が連邦議会での投票権を持つことを全く意図していなかった、なぜなら憲法は代表は各州の出身でなければならないと明確に規定しているからだと主張している。また、D.C.を州に昇格させることに対する反対論者は、そのような運動は、州から切り離された国の首都という概念を破壊することになる、州とすることは一つの市に上院の代表権を与えることになり不公平であると主張している<ref>{{cite news |first = John |last = Fortier |url = http://thehill.com/john-fortier/the-d.c.-colony-2006-05-17.html |title = The D.C. colony |date = 2006-05-17 |work = ヒル紙 |accessdate = 2008-06-10 |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20081011171749/http://thehill.com/john-fortier/the-d.c.-colony-2006-05-17.html |archivedate = 2008年10月11日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 ==== 住民投票と合衆国加入法案(HR 51) ==== {{external media |image1=[https://en.wikipedia.org/wiki/File:State_of_Washington,_DC_Boundaries.png 提案された州の範囲](英語版ウィキペディアへのリンク)}} 2016年4月15日、{{仮リンク|ミュリエル・バウザー|en|Muriel Bowser}}市長は州への昇格を問う住民投票の実施を提案し<ref>{{Cite web |url= https://wamu.org/story/16/04/15/mayor_bowser_wants_vote_on_statehood_for_dc/ |title= Mayor Wants Statehood Vote This Year By D.C. Residents |publisher= WAMU |date= 2016-04-15 |accessdate= 2021-04-22 |language = 英語 }}</ref>、29日に州憲法草案を発表した<ref>{{Cite web |url=https://washingtoncitypaper.com/article/442501/d-c-statehood-commission-will-release-draft-constitution-next-friday/ |title= D.C. Statehood Commission Will Release Draft Constitution Next Friday |publisher= Washington City Paper |date= 2016-04-29 |accessdate= 2021-04-22 |language = 英語 }}</ref>。特別区議会は7月10日に満場一致で住民投票の実施を決定した<ref>{{Cite web |url=https://www.washingtonpost.com/local/dc-politics/dc-statehood-measure-approved-for-november-ballot/2016/07/12/5da6eec4-484f-11e6-90a8-fb84201e0645_story.html |title=D.C. statehood measure approved for November ballot |publisher= ワシントン・ポスト |date=2016-07-12 |accessdate=2021-04-22 |language = 英語 }}</ref>。新州名は最初「ニューコロンビア州 (State of New Columbia)」となっていたが、投票直前となって「ワシントンD.C.州 (State of Washington, D.C.)」に変更された<ref>{{Cite web |url=https://www.washingtonexaminer.com/dc-council-approves-name-change-if-city-becomes-state |title= DC Council approves name change if city becomes state |publisher= Washington Examiner |date= 2016-10-18 |accessdate=2021-04-22 |language = 英語 }}</ref>。新州名のD.C.は従来の「コロンビア特別区 (District of Columbia)」ではなく、「ダグラス・コモンウェルス (Douglass Commonwealth)」の略称である。D.C.を略さず「ワシントン・ダグラス・コモンウェルス州 (Washington Douglass Commonwealth)」とも表記される<ref>{{Cite web |url=https://www.wusa9.com/article/news/local/dc/dc-statehood-committee-on-oversight-and-reform-house-vote/65-9461d210-51b5-42ce-bd93-3559fc793a4b |title=DC statehood bill passes Oversight Committee, heads to House floor for vote next week |publisher=WUSA |date= 2021-04-21 |accessdate=2021-04-23 |language=英語}}</ref><ref name="reuters210423">{{Cite web|和書 |url=https://jp.reuters.com/article/usa-congress-statehood-washingtondc-idJPKBN2C92P7 |title=米下院、首都ワシントンを州にする法案可決 上院は再否決の公算 |publisher=ロイター |date=2021-04-23 |accessdate=2021-04-23}}</ref>。ダグラスは奴隷制度廃止運動家の[[フレデリック・ダグラス]]に由来する。コモンウェルスは合衆国において4つの州が州名に使用している表現である([[コモンウェルス (米国州)]]を参照<!--[[コモンウェルス (米国自治連邦区)]]の可能性もある -->)。州域はナショナル・モールやホワイトハウスといった連邦政府機関を除いた特別区全域とされ<ref>{{Cite web |url=https://statehood.dc.gov/sites/default/files/dc/sites/statehood/publication/attachments/Constitution-of-the-State-of-Washington-DC.pdf |title=Constitution of the State of Washington DC |format= pdf |accessdate= 2021-04-22 |language = 英語 }}</ref>、新州に含まれない地域は連邦直轄領に残留する。これは合衆国憲法第1章第8条で「連邦政府の所在地は連邦政府の直轄地であること」と定めているための措置である<ref>{{Cite web |url=https://www.msn.com/en-us/news/elections-2020/the-constitution-says-no-to-dc-statehood/ar-BB15MkiW |title=The Constitution says no to DC statehood |publisher=ボストン・グローブ |date= 2020-06-22 |accessdate=2021-04-22 |language = 英語 }}</ref>。住民投票は11月8日の大統領選挙と同時に実施され、結果は賛成票が約8割を占めた<ref>{{Cite web |url= https://www.dcboe.org/election_info/election_results/v3/2016/November-8-General-Election |title=General Election 2016 - Certified Results |publisher=特別区選挙管理委員会 |date=2016-11-18 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20180309123910/https://www.dcboe.org/election_info/election_results/v3/2016/November-8-General-Election |archivedate = 2018-03-09 |accessdate=2021-04-22}}</ref>。 2017年に特別区の投票権のない代議員であるエレノア・ホルムズ・ノートンとデラウェア州選出の{{仮リンク|トム・カーパー|en|Tom Carper}}がそれぞれ下院に法案を提出するも、当時は昇格に反対的な共和党が多数派であったこともあり失敗に終わった。{{仮リンク|2018年アメリカ合衆国下院選挙|label=2018年の下院選挙|en|2018 United States House of Representatives elections}}で昇格に同調的な民主党が過半数を獲得すると、2019年1月に可決した「2019年人民法 (HR 1)」において特別区の州昇格を支持する文言を取り入れた<ref>{{Cite web |url=https://www.congress.gov/bill/116th-congress/house-bill/1/text |title=H.R.1 - For the People Act of 2019 |publisher=合衆国議会 |date=2019 |accessdate=2021-04-22 |language=英語}}</ref>。同法案には拘束力はなく、また大統領および上院の過半数は共和党員であるため成立する可能性は低いものの、合衆国議院が初めて州昇格を承認した歴史的瞬間となった<ref>{{Cite web |url=https://www.washingtonpost.com/opinions/the-house-finally-voted-to-support-dc-statehood-its-a-needed-step/2019/03/12/f171771c-4434-11e9-8aab-95b8d80a1e4f_story.html |title= Opinion: The House finally voted to support D.C. statehood. It’s a needed step |publisher= ワシントン・ポスト |date=2019-03-13 |accessdate=2021-04-22 |language=英語}}</ref>。また同時期に、特別区の合衆国加入を規定した「{{仮リンク|ワシントンD.C.合衆国加入法|en|DC Admission Act}} (HR 51)」が提出された。 2020年5月に始まった[[ジョージ・フロイド抗議運動]]では、{{仮リンク|ワシントンD.C.のジョージ・フロイド抗議運動|label=特別区で起きた抗議運動|en|George Floyd protests in Washington, D.C.}}に対してときの大統領[[ドナルド・トランプ]]は特別区州兵に鎮圧を要請。更に合衆国軍や連邦警察といった連邦機関も投入し、睡眠ガスやゴム弾を用いて議者を徹底的に排除した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.bbc.com/japanese/52887126 |title=トランプ米大統領、騒乱鎮静に軍の投入も辞さないと 「法と秩序の大統領」自認 |publisher=BBC |date=2020-06-02 |accessdate=2021-04-23 |language=日本語}}</ref>。過剰な対応に住民や市長は反発し、州昇格への機運が高まった。特別区州兵は連邦政府の指揮下にあり、市長には一切の指揮権がない。州であれば州兵の指揮権は州知事にあるため、大統領の一存で抗議者を強制排除するようなことが起こらないと考えられた。HR 51は6月26日に下院を通過するも<ref>{{Cite web |url=https://www.vox.com/2020/6/22/21293168/dc-statehood-vote-filibuster-supreme-court-joe-biden |title=DC is closer to becoming a state now than it has ever been |publisher=VOX |date=2020-06-26 |accessdate=2021-04-22 |language=英語}}</ref>、共和党党員で[[院内総務 (アメリカ)|上院多数党院内総務]]を務める[[ミッチ・マコーネル]]は上院の投票の放棄を示唆<ref>{{Cite web |url=https://wamu.org/story/20/11/12/after-the-2020-election-results-heres-whats-next-for-d-c-statehood/ |title=After The 2020 Election Results, Here’s What’s Next For D.C. Statehood |publisher=WAMU |date=2020-11-12 |accessdate=2021-04-22 |language=英語}} </ref>。またトランプは同法案を「非常に、非常に愚か (very, very stupid)」と評した<ref>{{Cite web |url=https://dcist.com/story/20/05/05/trump-d-c-statehood-will-never-happen-unless-we-have-some-very-very-stupid-republicans/ |title= Trump: D.C. Statehood ‘Will Never Happen Unless We Have Some Very, Very Stupid Republicans’ |publisher= WAMU |date=2020-05-05 |accessdate=2021-04-22 |language=英語}}</ref>。結局HR 51は会期中に成立せず、次期に再び下院からやり直すこととなった。同年11月の大統領選挙では、HR 51を推進している[[ジョー・バイデン]]民主党候補が勝利した。また同時に実施された連邦議会選挙では、{{仮リンク|2020年アメリカ合衆国下院選挙|label=下院|en|2020 United States House of Representatives elections}}は民主党が過半数を維持した一方、{{仮リンク|2020年アメリカ合衆国上院選挙|label=上院|en|2020 United States Senate elections}}はジョージア州の通常選挙と特別選挙がともに決選投票となり、民主党と共和党のどちらが主導権を握るかは年明けに持ち越された。 2021年1月3日、新会期が始まりHR 51は下院に再び提出された<ref>{{Cite web |url=https://wtop.com/congress/2021/01/dc-statehood-boasts-record-support-in-new-congress/ |title=DC statehood boasts record support in new Congress |publisher=WTOP |date=2021-01-03 |accessdate=2021-04-23 |language=英語}}</ref>。6日、ジョージア州上院選挙の決選投票が実施され、両選挙とも民主党候補が勝利したことで民主党が上院の主導権を握り、法案可決が現実味を帯びるようになった<ref>{{Cite web |url=https://apnews.com/article/Georgia-election-results-4b82ba7ee3cc74d33e68daadaee2cbf3 |title= Warnock, Ossoff win in Georgia, handing Dems Senate control |publisher= AP通信 |date=2021-01-07 |accessdate=2021-04-22 |language=英語}}</ref>。7日、トランプ支持者による[[2021年アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件|議会襲撃事件]]が発生した。事件当日の13時ごろ、支持者は議事堂の敷地内へ入り建物を取り囲んだ。一部は暴徒化しており、危機感を感じた市長は国防総省へ州軍の派遣要請を行った。しかし派遣が決定したのは15時で、暴徒らは既に議事堂内に侵入していた。トランプは州兵投入について自らが直ちに行ったと主張しているがその痕跡は確認されておらず、逆に襲撃を扇動したとして批判された<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.bbc.com/japanese/55582706 |title=トランプ氏の解任求める声、高まる 支持者の連邦議会襲撃で |publisher=BBC |date=2021-01-08 |accessdate=2021-04-23 |language=日本語}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000203931.html |title= 米議会占拠事件の衝撃【1】狙われた副大統領 |publisher= テレビ朝日 |date= 2021-01-13 |accessdate=2021-04-23 |language=日本語}}</ref>。前年とは正反対となる今回の対応によって、特別区州軍が大統領個人の制御下にあると広く考えられるようになり、特別区の地位の見直す動きは国内に広がった。27日、HR 51は上院に提出された<ref>{{Cite web |url=https://spectrumnews1.com/ky/louisville/news/2021/01/27/washington-dc-statehood-bill-introduced |title=Lawmakers Introduce Bill to Make Wash­ington, D.C., the 51st State |publisher= Spectrum News |date=2021-01-27 |accessdate=2021-04-22 |language=英語}}</ref>。4月20日、下院の投票を前にバイデン大統領はHR 51の支持を表明した<ref>{{Cite web |url=https://www.independent.co.uk/news/world/americas/us-politics/white-house-washington-dc-statehood-b1834543.html |title=White House endorses Washington DC statehood bill |publisher= [[インデペンデント]] |date=2021-04-21 |accessdate=2021-04-22 |language=英語}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.voanews.com/usa/biden-administration-endorses-bill-establish-washington-americas-51st-state?amp |title=Biden Administration Endorses Bill to Establish Washington as America’s 51st State |publisher= ボイス・オブ・アメリカ |date= 2021-04-20 |accessdate=2021-04-22 |language=英語}}</ref>。23日、HR 51は下院を通過した<ref name="reuters210423" />。 == 教育 == [[ファイル:Healy Pink.jpg|left|thumb|ジョージタウン大学]] コロンビア特別区パブリックスクールズ ([[:en:District of Columbia Public Schools|DCPS]]) が、市の公立学校システムを運営しており、これは167の学校と学習センターから成る。2007年度では、4万9076人の生徒が公立学校システムに登録されている。DCPS への登録は一貫して減少しており、次の年までに全登録生徒数が4万7700人にまで減少するだろうと市では予測している<ref>{{cite web |url = http://www.seo.dc.gov/seo/frames.asp?doc=/seo/lib/seo/information/school_enrollment/2007-2008_Final_Audit_Report.pdf |title = DC Public Schools and Public Charter Schools Enrollment Census SY 2007-2008 |date = 2007-10-05 |accessdate = 2008-06-10 |format = PDF |publisher = D.C. State Superintendent of Education |language = 英語 }}</ref>。DCPS は、インフラの面でも、生徒の成績の面でも、国内でコストが最も高い割に成果が最も乏しい学校システムの一つであることは否めない<ref>{{cite web |url = http://www.forbes.com/2007/07/05/schools-taxes-education-biz-beltway_cz_cs_0705schools_2.html |title = Best And Worst School Districts For The Buck |last = Settimi |first = Christina |work = フォーブズ |date = 2007-07-05 |accessdate = 2008-06-10 |language = 英語 }}</ref>。市議会は、2007年に市の学校システムの大改革を行うに当たり、市長に対し公立学校についてのほぼ完全な権限を与えた。フェンティ市長が指名した DCPS の新しい最高責任者であるミシェル・リー長官 ([[:en:Michelle Rhee|Michelle Rhee]]) は、一部の学校を民間経営会社に委ねたり、校長を解任したり、教師を入れ替えたりするなど、徹底的な改革を行った<ref>{{cite news |first = V. Dion |last = Haynes |coauthors = Bill Turque |url = http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/05/15/AR2008051502354.html |title = Rhee Offers Plan To Improve D.C.'s Troubled Schools |date = 2008-05-16 |work = ワシントン・ポスト |pages = B01 |accessdate = 2008-06-03 |language = 英語 }}</ref>。 公立学校システムの問題点から、公立の[[チャーター・スクール]]の登録数が、2001年以来、年々13%の割合で増加している<ref>{{cite news |first = V. Dion |last = Haynes |coauthors = Theola Labbe |url = http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/04/24/AR2007042402542.html |title = A Boom for D.C. Charter Schools |date = 2007-04-25 |work = ワシントン・ポスト |pages = A01 |accessdate = 2008-07-25 |language = 英語 }}</ref>。コロンビア特別区公立チャーター・スクール委員会は、市内の56校の公立チャーター・スクールを監督している。2007年秋の時点で、D.C.のチャーター・スクールには全部で2万1859人が登録している<ref>{{cite web |url = http://www.dcpubliccharter.com/home/currenroll.html |title = Current Enrollment: 2006-2007 School Year |publisher = D.C.公立チャーター・スクール委員会 |accessdate = 2008-07-12 |language = 英語 }}</ref>。ワシントンD.C.には、有名な私立高校もいくつかある。多くの著名人やその子弟が、シドウェル・フレンズ校のような私立高校に通ってきた。[[チェルシー・クリントン]]もその一人で、父[[ビル・クリントン]]の大統領在職期間中、シドウェル校に通っていた<ref>{{cite news |first = Karen |last = De Witt |url = http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9F0CE5DC143DF935A35752C0A965958260 |title = Chelsea's School; Sidwell Is Often Chosen by Capital's Elite |date = 1993-01-06 |work = ニューヨーク・タイムズ |accessdate = 2008-07-05 |language = 英語 }}</ref>。 [[ファイル:Founders Library, Howard University.jpg|thumb|ハワード大学図書館]] ワシントンD.C.には、多くの著名大学がある。[[ジョージタウン大学]]、[[ジョージ・ワシントン大学]]、[[アメリカン大学]]、[[ハワード大学]]、[[ギャローデット大学]]、[[アメリカカトリック大学]] ([[:en:The Catholic University of America|CUA]])、[[ジョンズ・ホプキンス大学]]の[[SAIS|高等国際関係大学院(SAIS)]] などがある。コーコラン美術デザイン大学 ([[:en:Corcoran College of Art and Design|Corcoran College of Art and Design]]) では専門的な美術の授業を行っているほか、他の高等教育機関でも、{{仮リンク|継続教育 (アメリカ合衆国)|label=継続教育|en|Continuing education}}}、[[遠隔教育]]、社会人向け教育を提供している。コロンビア特別区大学 ([[:en:University of the District of Columbia|UDC]]) は国による[[ランドグラント大学]]で、どこの州にも属さないために州立大学というものを持たないこのワシントンD.C.において、公的な高等教育の機会を与えている。 == 医療 == ワシントンD.C.には、16の医療センターと病院があり、患者のケアと医学研究の全国的な中心地となっている<ref>{{cite web |url = http://www.dcha.org/MemberHospitals.htm |title = Member Hospitals |accessdate = 2008-06-03 |publisher = District of Columbia Hospital Association |language = 英語 }}</ref>。[[アメリカ国立衛生研究所]]はメリーランド州ベセスダの近くにある。ワシントン・ホスピタル・センター ([[:en:Washington Hospital Center|WHC]]) は、D.C.で最大の敷地を持つ病院であ、私立病院としても、非営利病院としても最大である。WHC のすぐ隣には、国立子ども医療センター ([[:en:Children's National Medical Center|Children's National Medical Center]]) がある。同センターは、[[USニューズ&ワールド・レポート]]誌によれば、アメリカ国内で最も高いランクを与えられている小児科病院の一つである<ref>{{cite web |url = http://www.childrensnational.org/about/AwardsandRecognition/ |title = Awards and Recognition |accessdate = 2008-06-03 |publisher = 国立子ども医療センター |language = 英語 }}</ref>。ジョージタウン大学、ジョージ・ワシントン大学、ハワード大学など、多くの有名大学も、メディカル・スクールとその附属病院を設けている。ウォルター・リード軍医療センター ([[:en:Walter Reed Army Medical Center|Walter Reed Army Medical Center]]) は、ワシントンD.C.北西地区にあり、現役・退役の軍人とその家族に対し医療サービスを提供している。 救急医療サービスは[[コロンビア特別区消防局]]によって提供されている。 == 軍事 == 連邦軍組織として、D.C.内に大規模な駐屯地などはないが、統合部隊である[[首都地域統合部隊司令部]] (Joint Force Headquarters National Capital Region,JFHQ-NCR) がワシントンD.C.およびその周辺の防衛を担っている。また、[[州兵]]として[[コロンビア特別区州兵]]および[[コロンビア特別区空軍州兵]]が編成されている。これら州兵は常に連邦政府の指揮下にある。 == 交通 == === 鉄道・バス === [[ファイル:WMATA metro center crossvault.jpg|left|thumb|225px|メトロ・センター駅は、地下鉄レッド・ライン、オレンジ・ライン、ブルー・ラインの乗換駅である。]] ワシントンD.C.は、国内でも最悪クラスの交通事情と混雑でよく引き合いに出される。2007年、ワシントンの自動車は年あたり60時間の間渋滞に巻き込まれており、これは[[ロサンゼルス]]に次いで国内で最悪の交通事情と結び付いている<ref>{{cite news |first = Jonathan |last = Mummalo |title = A Ranking Writ In Brake Lights: D.C. 2nd in Traffic |url = http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/09/18/AR2007091800777.html |work = ワシントン・ポスト |pages = B01 |date = 2007-09-19 |accessdate = 2008-07-15 |language = 英語 }}</ref>。一方で、ワシントンの通勤者の37.7%が通勤に公共交通機関を利用しており、これも国内で2番目に高い割合である<ref>{{cite web |url = http://money.cnn.com/2007/06/13/real_estate/public_transit_commutes/index.htm |title = New Yorkers are top transit users |accessdate = 2008-07-15 |last = Christie |first = Les |date = 2007-06-29 |publisher = CNNマネー |language = 英語 }}</ref>。 ワシントン首都圏交通局 ([[:en:Washington Metropolitan Area Transit Authority|WMATA]]) は、市の[[地下鉄]]網である[[ワシントンメトロ|メトロレール]](「メトロ」と呼ばれることが多い)と、メトロバスを運営している。地下鉄とバス網は、ワシントンD.C.のほか、メリーランド州とバージニア州の近郊地域にもサービスを提供している。メトロレールが開業したのは[[1976年]][[3月27日]]で、現在、駅の数は87、線路の全長は171.1kmである<ref>{{cite web |url = http://www.wmata.com/about/metrofacts.pdf |title = WMATA Facts |accessdate = 2008-05-27 |date = September 2007 |format = PDF |publisher = WMATA |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080527213516/http://www.wmata.com/about/metrofacts.pdf |archivedate = 2008年5月27日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。2008年において、平日には平均すると1日のべ95万人が利用しており、メトロレールは[[ニューヨーク市地下鉄]]に次いで全国で2番目に繁忙な地下鉄となっている<ref>{{cite web |url = http://www.apta.com/research/stats/ridership/riderep/documents/08q1hr.pdf |title = Estimated Unliked Transit Passenger Trips |accessdate = 2008-06-20 |last = Dawson |first = Christie R. |date = 2008-06-09 |format = PDF |publisher = アメリカ公共交通協会 |language = 英語 }}</ref>。 WMATA では、2030年までに地下鉄の利用客は1日平均100万人になると見ている。輸送能力を拡張する必要があることから、220の車両を追加するとともに、繁忙駅の混雑を緩和するために迂回ルートを作るよう計画が更新された<ref>{{cite web |url = http://www.wmata.com/about/met_news/PressReleaseDetail.cfm?ReleaseID=2064 |title = Metro details improvements to meet future capacity needs |publisher = WMATA |date = 2008-04-18 |accessdate = 2008-08-30 |language = 英語 }}</ref>。この地域の人口増加を受け、メトロの路線を2つ新たに建設するという取り組みがよみがえった<ref>{{cite news |first = Amy |last = Gardner |title = Proposed Extension To Dulles Revived |date = 2008-05-01 |url = http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/04/30/AR2008043001674.html |work = ワシントン・ポスト |pages = B01 |accessdate = 2008-08-30 |language = 英語}}</ref><ref>{{cite news |first = Katherine |last = Shaver |title = Trips on Purple Line Rail Projected at 68,000 Daily |date = 2008-05-30 |url = http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/05/29/AR2008052902261.html |work = ワシントン・ポスト |pages = B01 |accessdate = 2008-08-30 |language = 英語 }}</ref>。それとともに、町と町を結ぶ新たな[[ライトレール]]網も計画されている。最初の路面電車の路線は、2009年末にオープンする見通しである<ref>{{cite news |first = Lena |last = Sun |title = Transit Plan on Track |date = 2008-07-13 |url = http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/07/12/AR2008071201834.html |work = ワシントン・ポスト |pages = C01 |accessdate = 2008-07-13 |language = 英語 }}</ref>。なお2016年、小規模ながら[[:en:DC Streetcar|DCストリートカー]]が開業した<ref>{{cite news |title = <Life around the World>歩行者 守るために |date = 2019-06-15 |url = https://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201906/CK2019061502000188.html |work = 東京新聞 |accessdate = 2019-06-15 }}</ref>。ワシントンの周辺地域にも、ローカルなバス網がある。メリーランド州モンゴメリー郡にはライド・オンというバスが走っており、WMATA のサービスを補完している。メトロレール、メトロバスおよびその他のローカルな公共バスでは、「スマートリップ」(SmarTrip) という、繰り返しチャージ可能な乗車券(ICカード)が利用できる<ref>{{cite web |url = http://www.wmata.com/riding/smartrip.cfm |title = SmarTrip |accessdate = 2008-06-03 |publisher = WMATA |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20081112105732/http://www.wmata.com/riding/smartrip.cfm |archivedate = 2008年11月12日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 [[ユニオン駅 (ワシントンD.C.)|ユニオン駅]]は、アメリカでニューヨークの[[ペンシルベニア駅 (ニューヨーク)|ペンシルベニア駅]](ペン・ステーション)に次いで2番目に賑わった鉄道駅であり、[[アムトラック]]のノースイースト・コリダーと[[アセラ・エクスプレス]]のターミナル駅となっている。メリーランド州のメリーランド・レール・コミューター ([[:en:MARC Train|MARC]]) とバージニア州のバージニア・レールウェイ・エクスプレス ([[:en:Virginia Railway Express|VRE]]) の通勤用電車、並びにメトロのレッド・ラインもユニオン駅に乗り入れている<ref> {{cite web |url = http://www.amtrak.com/pdf/AmtrakBackgroundInformationFacts-050108.pdf |title = Amtrak National Fact Sheet FY 2007 |month = 2008-02 |accessdate = 2008-05-27 |format = PDF |publisher = Amtrak Media Relations |language = 英語 }}</ref>。都市間バスは、[[グレイハウンド (バス)|グレイハウンド]]、[[ピーターパン・バスラインズ|ピーターパン]]、[[ボルトバス]]、メガバス、その他多数のチャイナタウン・バスラインによって運行されている。 === 空港 === [[ファイル:Walkway_in_National_Airport_in_Washington_DC_2005.jpg|right|thumb|[[ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港]]ターミナル内。市街に最も近い商業空港である。]] ワシントンD.C.へのアクセスには3つの大きな空港があり、1つがメリーランド州、他の2つがバージニア州にある。 [[ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港]]は、D.C.の中心地からポトマック川を渡ってすぐの、バージニア州[[アーリントン (バージニア州)|アーリントン郡]]にある。レーガン空港は、ワシントンエリアの中でメトロレールの駅がある唯一の空港である。D.C.に近接していることから、レーガン空港は、[[防空識別圏]]のために特別なセキュリティ警戒が要求されている上<ref>{{cite web |url = http://www.faa.gov/airports_airtraffic/air_traffic/publications/notices/media/adiz.pdf |title = D.C. Metropolitan ADIZ and FRZ |date = 2007-08-02 |accessdate = 2008-07-15 |format = PDF |publisher = Federal Aviation Administration |language = 英語 }}</ref>、追加的な騒音規制も課せられている<ref>{{cite web |url = http://www.mwaa.com/reagan/about_reagan_national/airport_noise |title = Airport Noise Abatement Program |accessdate = 2008-07-15 |publisher = メトロポリタン・ワシントン航空局 |language = 英語 }}</ref>。レーガン空港には[[アメリカ合衆国税関・国境警備局]]がないので、カナダ線、カリブ海域諸島線など、プリクリアランス(搭乗前の入国審査、通関手続等)が許可されている航空機に限って国際線サービスを提供している<ref>{{cite web |url = http://www.mwaa.com/reagan/flight_information_2/customsdca |title = Customs at Reagan National |accessdate = 2008-07-15 |publisher = メトロポリタン・ワシントン航空局 |language = 英語 }}</ref>。 主な国際線は、[[ワシントン・ダレス国際空港]]に発着する。ダレス空港はD.C.から42km西の、バージニア州フェアファクス郡とラウダウン郡にある。同空港はアメリカ合衆国東海岸における[[ユナイテッド航空]]の主要なハブ空港として機能しており、日本からは[[全日本空輸]]、ユナイテッド航空が直行便を運航している。 [[ボルチモア・ワシントン国際空港]]はD.C.から48km北東、メリーランド州アン・アランデル郡にあり、[[サウスウエスト航空]]のハブ空港となっている。 === 高速道路 === ワシントンD.C.付近を通る主要な[[州間高速道路]]としては、次のものがある。 *95号線 **カナダ国境のメイン州ハウルトンからメリーランド州ボルチモア市を経てワシントンD.C.都市圏東部 - 南部を通過し、バージニア州都のリッチモンド市を経てフロリダ州マイアミ市に至る(ワシントンD.C.付近には支線として下記の二級州間高速道路がある)。 **[[州間高速道路495号線|495号線]]:半径約16kmの、都市圏を通過する環状道路(都市圏東部 - 南部は95号線と重複)。 *295号線:市街中心部から南方に向かい495号線に合流する。 *395号線:市街中心部から南西に向かい95号線に合流する。 *66号線 **市街中心部から西方に延びバージニア州フロント・ロイヤルに至る([[国道66号線 (アメリカ合衆国)|国道66号線]](ルート66)とは異なる)。 *270号線 **市街北部の495号線から分岐して北北西に伸び、メリーランド州フレデリックに至る。 == 姉妹都市 == ワシントンD.C.には15の[[姉妹都市]]がある<ref name="sisters">{{cite web |url = http://www.sister-cities.org/icrc/directory/usa/DC |title = Online Directory: District of Columbia, USA |publisher = Sister Cities International |accessdate = 2008-06-11 |language = 英語 }}なお市の公式サイトにはブラザヴィルと重慶を除く10都市しか記載されていない。{{cite web |url = http://os.dc.gov/os/cwp/view,a,1206,q,522336.asp |title = Protocol and International Affairs |publisher = ワシントンD.C.政府事務局 |accessdate = 2008-08-30 |language = 英語 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080513185356/http://os.dc.gov/os/cwp/view,a,1206,q,522336.asp |archivedate = 2008年5月13日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。パリは、その町([[コミューン]])の方針のために「パートナー都市」となっている<ref>{{cite web |url = http://www.paris.fr/portail/accueil/Portal.lut?page_id=6587&document_type_id=5&document_id=16467&portlet_id=14974 |title = Le jumelage avec Rome |accessdate = 2008-07-09 |publisher = Municipalité de Paris |language = フランス語 }}</ref>。 {{columns-list|colwidth=25em| *{{flagicon|GHA}} [[アクラ]]([[ガーナ共和国]]) *{{flagicon|GRE}} [[アテネ]]([[ギリシャ|ギリシャ共和国]]) *{{flagicon|THA}} [[バンコク]]([[タイ王国]]) *{{flagicon|CHN}} [[北京市|北京]]([[中華人民共和国]]) *{{flagicon|BEL}} [[ブリュッセル]]([[ベルギー|ベルギー王国]]) *{{flagicon|SEN}} [[ダカール]]([[セネガル|セネガル共和国]]) *{{flagicon|FRA}} [[パリ]]([[フランス|フランス共和国]]) *{{flagicon|RSA}} [[プレトリア]]([[南アフリカ共和国]]) *{{flagicon|KOR}} [[ソウル特別市]]([[大韓民国]]) *{{flagicon|GBR}} [[サンダーランド (イングランド)|サンダーランド]]([[グレートブリテン及び北アイルランド連合王国]] [[イングランド]]) *{{flagicon|Congo}}[[ブラザビル]]([[コンゴ共和国]] [[特別市#コンゴ共和国|特別市]]) *{{flagicon|ITA}}[[ローマ]]([[イタリア共和国]] [[ラツィオ州]]) *{{flagicon|TUR}}[[アンカラ]]([[トルコ共和国]] [[アンカラ県]]) *{{flagicon|BRA}}[[ブラジリア]]([[ブラジル連邦共和国]] [[ブラジリア連邦直轄区]]) *{{flagicon|ETH}}[[アディスアベバ]]([[エチオピア連邦民主共和国]] [[アディスアベバ|アディスアベバ自治区]]) }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist|3}} <!--=== 参考文献 ===--> == 関連項目 == * [[アメリカ合衆国の首都の一覧]] * [[アメリカ合衆国議会地下鉄]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Washington, D.C.|Washington, D.C.}} ; 公式 : [https://dc.gov | DC]:ワシントン市公式ウェブサイト {{en icon}} ; 日本政府 : [https://www.us.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在アメリカ合衆国日本国大使館] {{ja icon}} ; 観光 : {{ウィキトラベル インライン|ワシントンD.C.|ワシントンD.C.}} : [https://washington.org Official Tourism Site of Washington DC | Washington.org]:ワシントン観光局 {{en icon}} : [https://jp.capitalregionusa.org 私たちは、首都圏USAを探るように誘う。]:ワシントン観光局 {{ja icon}} ; その他 * {{Kotobank|ワシントン(市)}} {{S-start}} {{S-bef | before = [[フィラデルフィア]] | 表記 = 前 }} {{S-ttl | title = [[アメリカ合衆国]]の[[首都]] | years = [[1800年]] - 現在 }} <!--{{S-aft|after=[[]]|表記=次}}--> {{S-end}} {{ワシントンD.C.}} {{アメリカ合衆国の州}} {{アメリカ50大都市}} {{アメリカの首都}} {{首都特別地域}} {{Normdaten}} {{Coord|38|53|42.4|N|77|02|12.0|W|region:US-DC_scale:10000|display=title}} {{デフォルトソート:わしんとん}} [[Category:ワシントンD.C.|*]] [[Category:北アメリカの首都]] [[Category:ジョージ・ワシントン]] {{Featured article}}
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甲賀忍法帖
『甲賀忍法帖』(こうがにんぽうちょう)は、山田風太郎が雑誌『面白倶楽部』(光文社)1958年12月号から1959年11月号まで連載した小説。忍法帖シリーズの第1作にあたる。連載終了直後の同年11月に同社から1冊の単行本化され出版された。 シリーズ第1作であり、後の『魔界転生』や『柳生忍法帖』ほど大部ではなくシンプルではあるが、「風太郎忍法帖」の基本パターンは既に確立されている(ただし忍法の名前を詠唱する描写がない)。それぞれ独特の忍法能力を持つ個性的な20人の忍者(魔人とも称される)たちがその秘術を尽くして甲賀組対伊賀組の死闘を繰り広げる。 小説家の夢枕獏は「ストーリー上にチーム対決の要素を盛り込んだのは山田風太郎が初めてであり、山田風太郎という作家が漫画界に与えた影響は計り知れない」と評しており、今日「バトルもの」あるいは「能力バトルもの」に分類される日本の漫画アニメ系作品の始祖的な存在と言っても過言ではなく、日本のエンターテイメント界にとって極めて重要な作品である。 忍法帖シリーズ第1作である本作においては、他作品よりも特に強調される諸設定がある。超常忍法は、里主導で人間の血を配合しているという負の面を持つ。また甲賀卍谷と伊賀鍔隠れが致命的に仲が悪いとされ、敵の里への憎悪を教育する。そして戦国生き残りの甲賀・伊賀の里忍は、江戸の甲賀組・伊賀組を凌駕する「魔人」揃いであると言及される。後続作品では、このように忍法習得の過程にフォーカスが当たることは少なくなるものの、総じて忍者たちは権力者に利用されて無残に死んでいくという展開がパターン化している。 甲賀卍谷と伊賀鍔隠れに潜む一族は、ともに服部半蔵に率いられる忍者群同士でありながら、源平の昔より数百年、互いに憎悪を抱く不倶戴天の敵同士でもあった。服部の統制下、両門争闘の禁制によりかろうじて和平を保っていた。そのような中、甲賀組の首領甲賀弾正の孫・弦之介と伊賀組の頭目お幻の孫娘・朧は恋仲にあり、両家の縁組がすめば長きに亘った甲賀と伊賀の確執も解けるかと思われた。 そんな事情を知ってか知らずか、慶長19年4月末、両首領を駿府城に呼び出した徳川家康と半蔵(2代目)が甲賀・伊賀の忍びに与えた使命は実に戦慄すべきものであった。徳川第3代将軍となる後継者選びに悩んでいた家康は、天海の提言を受け入れ、その選定を甲賀対伊賀の忍法争いによって決めることにしたのだ。 方法はそれぞれから10人ずつの「選手」を出し、最後まで生き残った者が託された巻物を再び家康の前に持ち帰ること。後継者は、伊賀が勝てば竹千代、甲賀が勝てば国千代と決まる。甲賀・伊賀とも選ばれた10人は皆、驚くべき肉体や技を持った者ばかり。そして、その中には祝言間近の弦之介と朧の名もあった... 開戦直後、まずは伊賀が先手を取り、伝令の甲賀者を殺して、巻物2巻の片方を焼却し残った唯一巻を独占する。副頭領の天膳が指揮を取り、争いを好まぬ朧にはあえて知らせないままとする。こうして甲賀は開戦そのものを知らぬまま、伊賀者の奇襲を受けることになる。 両陣営が何人もの犠牲者を出した後に、開戦の事実がついに甲賀弦之介の知るところとなる。弦之介は家康と半蔵に不戦の約定を解いた理由を問うべしと宣言し、仲間と駿府へと赴く。伊賀の天膳たちも甲賀一行を追撃する。 山田風太郎の長編として唯一、英語版が2006年12月にデル・レイ社より発売された。また繁体字、簡体字両方において中国語版も発売されている。 2005年に『SHINOBI-HEART UNDER BLADE-』(シノビ-ハート・アンダー・ブレイド-、仮称:忍-SHINOBI-)として映画化。人物設定の変更、原作と異なる展開と結末、忍法争い勃発に映画オリジナルの動機を追加など、大胆なアレンジが施されている。松竹映画としては珍しく、当時の若手人気タレントを多数起用している。
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『甲賀忍法帖』(こうがにんぽうちょう)は、山田風太郎が雑誌『面白倶楽部』(光文社)1958年12月号から1959年11月号まで連載した小説。忍法帖シリーズの第1作にあたる。連載終了直後の同年11月に同社から1冊の単行本化され出版された。
{{otheruseslist|山田風太郎の小説、およびその関連作品全般|[[せがわまさき]]による漫画化版、およびそれを原作としたテレビアニメ|バジリスク 〜甲賀忍法帖〜|上記テレビアニメの主題歌|甲賀忍法帖 (曲)}} {{基礎情報 書籍 | title = 甲賀忍法帖 | author = [[山田風太郎]] | published = [[1959年]] | publisher = | genre = [[時代小説]] | preceded_by = | followed_by = [[江戸忍法帖]] | portal1 = 文学 }} 『'''甲賀忍法帖'''』(こうがにんぽうちょう)は、[[山田風太郎]]が雑誌『[[面白倶楽部]]』([[光文社]])[[1958年]]12月号から1959年11月号まで連載した小説。[[忍法帖シリーズ]]の第1作にあたる。連載終了直後の同年11月に同社から1冊の単行本化され出版された。 == 概要 == シリーズ第1作であり、後の『[[魔界転生]]』や『[[柳生忍法帖]]』ほど大部ではなくシンプルではあるが、「風太郎忍法帖」の基本パターンは既に確立されている(ただし忍法の名前を詠唱する描写がない)。それぞれ独特の忍法能力を持つ個性的な20人の[[忍者]](魔人とも称される)たちがその秘術を尽くして甲賀組対伊賀組の死闘を繰り広げる。 小説家の[[夢枕獏]]は「ストーリー上にチーム対決の要素を盛り込んだのは山田風太郎が初めてであり、山田風太郎という作家が漫画界に与えた影響は計り知れない」と評しており、今日「バトルもの」あるいは「能力バトルもの」に分類される日本の漫画アニメ系作品の始祖的な存在と言っても過言ではなく、日本のエンターテイメント界にとって極めて重要な作品である。 忍法帖シリーズ第1作である本作においては、他作品よりも特に強調される諸設定がある。超常忍法は、里主導で人間の血を配合しているという負の面を持つ。また甲賀卍谷と伊賀鍔隠れが致命的に仲が悪いとされ、敵の里への憎悪を教育する。そして戦国生き残りの甲賀・伊賀の里忍は、江戸の甲賀組・伊賀組を凌駕する「魔人」揃いであると言及される。後続作品では、このように忍法習得の過程にフォーカスが当たることは少なくなるものの、総じて忍者たちは権力者に利用されて無残に死んでいくという展開がパターン化している。 == あらすじ == [[甲賀流|甲賀]]卍谷と[[伊賀流|伊賀]]鍔隠れに潜む一族は、ともに[[服部半蔵]]に率いられる忍者群同士でありながら、源平の昔より数百年、互いに憎悪を抱く不倶戴天の敵同士でもあった。服部の統制下、両門争闘の禁制によりかろうじて和平を保っていた。そのような中、甲賀組の首領'''甲賀弾正'''の孫・'''弦之介'''と伊賀組の頭目'''お幻'''の孫娘・'''朧'''は恋仲にあり、両家の縁組がすめば長きに亘った甲賀と伊賀の確執も解けるかと思われた。 そんな事情を知ってか知らずか、[[慶長]]19年4月末、両首領を駿府城に呼び出した[[徳川家康]]と半蔵(2代目)が甲賀・伊賀の忍びに与えた使命は実に戦慄すべきものであった。徳川第3代将軍となる後継者選びに悩んでいた家康は、天海の提言を受け入れ、その選定を甲賀対伊賀の忍法争いによって決めることにしたのだ。 方法はそれぞれから10人ずつの「選手」を出し、最後まで生き残った者が託された巻物を再び家康の前に持ち帰ること。後継者は、伊賀が勝てば竹千代、甲賀が勝てば国千代と決まる。甲賀・伊賀とも選ばれた10人は皆、驚くべき肉体や技を持った者ばかり。そして、その中には祝言間近の弦之介と朧の名もあった… 開戦直後、まずは伊賀が先手を取り、伝令の甲賀者を殺して、巻物2巻の片方を焼却し残った唯一巻を独占する。副頭領の天膳が指揮を取り、争いを好まぬ朧にはあえて知らせないままとする。こうして甲賀は開戦そのものを知らぬまま、伊賀者の奇襲を受けることになる。 両陣営が何人もの犠牲者を出した後に、開戦の事実がついに甲賀弦之介の知るところとなる。弦之介は家康と半蔵に不戦の約定を解いた理由を問うべしと宣言し、仲間と駿府へと赴く。伊賀の天膳たちも甲賀一行を追撃する。 == 登場人物 == === 甲賀卍谷衆 === ; 甲賀弦之介(こうが げんのすけ) : 本作の主人公にして弾正の孫。彼に殺意を帯びて襲いかかった者を自滅させる「瞳術」の使い手。伊賀鍔隠れの朧とは恋人同士であり、甲賀と伊賀が手を取り合う未来を夢見ている。誠実で温厚な平和主義者だが、知らぬ間に多くの仲間が討たれていたことを知った際、襲い掛かかってきた伊賀衆を平然と皆殺しにするなど、容赦のなさも併せ持っている。 ; 甲賀弾正(こうが だんじょう) : 甲賀卍谷衆頭領。かつて伊賀のお幻とは恋仲だったが、彼女とは引き裂かれる運命にあった。長毒針の使い手。合戦の開始直後、お幻と相討ちとなり倒れる。 ; 風待将監(かざまち しょうげん) : 蜘蛛のような外見を持つ男。口から吐き出す痰は[[膠]]の粘着力をはるかに上回り、蜘蛛の糸のように操ることで、敵を絡め取ることが出来る。また、急ぐ時は両手両足を使って文字通り蜘蛛のように這い回り、直角の壁面に苦も無く張り付き駆け登ることが出来る。将監自身が痰の糸の粘りに絡め取られることはなく、むしろ足場として利用することすら可能であるなど、外見から戦闘スタイルに至るまで正しく蜘蛛のそれである。 ; 鵜殿丈助(うどの じょうすけ) : 弦之介の従者。丸々と太った体を持ち、柔軟性に富むその肉体はあらゆる衝撃を包み込んで吸収するため、直接攻撃はほぼ通用しない。また、弾性を活かしてスーパーボールの要領で跳ね回ることで高速移動を行う他、体を風船のように膨らませることで水に浮かんだり、一時的な飛翔すら可能。外面的には女好きでお調子者な性格だが、伊賀での酒宴中では大笑いしながらも内心では全く油断しておらず、伊賀方の幹部たちが出席していないことを訝しむ冷静な一面もある。 ; 地虫十兵衛(じむし じゅうべえ) : 四肢が無い異形の忍者。普段は駕籠に乗っているが、有事の際には腹に密生している蛇の鱗のようなものを利用し、並の忍者よりも遥かに速く移動することができる。また、喉奥に大型の槍の穂を仕込んでおり、それを食道の筋肉の特殊な動きで噴出する不意打ちを必殺の切り札とする。星占いが得意で、弾正の星に凶兆を見出し単独で駿府に向かう。 ; 室賀豹馬(むろが ひょうま) : 甲賀卍谷の重鎮で、弦之介を支える冷静沈着な参謀役。盲目だがその代わり他の感覚が発達しており、遠方の敵に対して人数、歩き方からの素性、殺気の有無まで察知できる。弦之介の瞳術の師であり、夜間のみ瞳が開き同等の術を使用出来る。 ; 霞刑部(かすみ ぎょうぶ) : 体毛の無い大柄な男。片腕でも人を容易く絞め殺せるほどの怪力を誇る。壁や地面などに自由に溶け込んで姿を隠すことができ、それを利用した攻撃が得意。 : 伊賀への潜入作戦では左衛門と行動を共にする。 ; 如月左衛門(きさらぎ さえもん) : お胡夷の兄。温厚で物静かな男だが、任務のときは忍者らしい冷酷な面も見せる。他人の顔を自分の顔に写し取ってその人物に成り済ますことができ、声帯模写と併用して敵を欺く(体格もある程度変えられる様子)。斬り掛かってきた複数の侍の肘を手刀で一瞬で脱臼させるなど、体術の腕前も高い。 ; 陽炎(かげろう) : 女忍者。妖艶な美女だが、彼女が情欲に身を任せる時は吐息が猛毒を帯びるため、抱いた者は死に至る。弦之介を一途に想い、また本来は弦之助と同等の家柄のため結婚できるはずが、その体質のため弦之助とは決して結ばれないことを思い悩んでおり、同時に朧に深い憎悪と嫉妬を抱いている。 ; お胡夷(おこい) : 左衛門の妹。豊満な体と無邪気な性格を持つ。ひとたび相手の皮膚に吸着すれば離さない肌を持ち、さらに口からは相手の血を吸い取り、たちまちの内にミイラにしてしまう。 === 伊賀鍔隠れ衆 === ; お幻(おげん) : 伊賀鍔隠れ衆頭領。かつて甲賀弾正とは恋仲だったが、2人が結ばれることは無かった。鷹を使役する。 ; 朧(おぼろ) : お幻の孫。おっとりした温和な性格で、少しそそっかしいところがある。その性格のせいか忍術も剣術も体術もまったく身に付けることができなかったが、見るだけであらゆる忍法を強制的に破る「破幻の瞳」を生まれつき備えている。 ; 小豆蠟斎(あずき ろうさい) : 才槌頭で長い白髭を伸ばした小柄な老人。厳格で短気な性格。手足を自在に伸縮、屈折させることができ、触れるものを刃物のように切り刻む。 ; 朱絹(あけぎぬ) : 朧の世話役を務める女忍者。理知的で仲間想いな性格。皮膚から血を吹き出して霧を生み出し、敵の目をくらます。視力を失った小四郎の世話をする内に、次第に特別な感情を抱くようになる。 ; 蓑念鬼(みの ねんき) : 全身毛むくじゃらの男。棒術の使い手。髪の毛をはじめとする全身の体毛を伸ばしたり、或いは針のように硬化させたりすることができ、自由自在に動かして移動や攻撃などに威力を発揮する。伊賀一党の中で最も凶暴勇猛な男と言われ、不戦の約定を解かれたことを祝着にたえないと言い放つ自信家。血気に逸る行動を天膳に制止されることも多い。 ; 夜叉丸(やしゃまる) : 容姿端麗な若い忍者。実力は高いが、経験の浅さ故か迂闊な面もある。女の毛髪をより合わせ獣油を染み込ませた細い縄を武器とし、自在に操ることで鋭利な刃物の如く人間の肉を斬り裂く威力を生み出す。蛍火とは恋人同士。 ; 蛍火(ほたるび) : 若い女忍者。虫や小動物を使役し、大量の蝶を用いた幻術を得意としている。常に白い蛇を連れており、攻撃などに使うこともある。夜叉丸とは恋人同士。 ; 雨夜陣五郎(あまよ じんごろう) : 水死体のような風貌の中年の忍者で、伊賀鍔隠れ衆の参謀。ナメクジのように塩に溶けて、体を小さく縮めることが出来、更に水に浸かると元に戻るという特異体質を持つ。そのため海を極端に怖がっている。 ; 薬師寺天膳(やくしじ てんぜん) : 伊賀の副首領。170年以上も生きているはずだが外見は青年~中年のままで、何度殺されてもその度に蘇る不死の術を持つ。冷酷、卑劣な性格であり、伊賀の勝利のためには手段を選ばない。剣術の達人ではあるものの、その能力による慢心から初手では殺害されることが多い。しかしこれによって相手の忍術を見破り、再戦時に対応して相手を詰ませる戦法を得意とする。 ; 筑摩小四郎(ちくま こしろう) : 薬師寺天膳の子飼いの従僕。血の気は多いものの、実直な性格の若者で朧を慕っており、身分の低さもあって伊賀鍔隠れ衆で唯一朧を「姫様」と呼ぶ。大鎌を武器とするほか、吸息によって前方の虚空に[[鎌鼬|カマイタチ]](真空刃)を作り出し敵を内部から切り刻むという非常に強力な術を使う。 === その他 === ; [[徳川家康]](とくがわ いえやす) : 大御所。3代将軍となる跡継ぎを決めるために甲賀と伊賀の不戦の約定を解いた張本人。 ; [[天海|南光坊天海]](なんこうぼう てんかい) : 家康に忍法合戦を進言した徳川幕府のブレーン。 ; [[柳生宗矩]](やぎゅう むねのり) : 将軍家剣術指南役。冒頭の忍法上覧に徳川家重臣の1人として立会い、常識を超えた忍者の戦いに驚愕する。 ; 阿福(おふく) : 竹千代の乳母。伊賀衆の勝利のためにルール違反ながら助勢をする。後の[[春日局]]。 == 翻訳 == [[山田風太郎]]の長編として唯一、英語版が2006年12月に[[デル・レイ・ブックス|デル・レイ社]]より発売された。また[[繁体字]]、[[簡体字]]両方において中国語版も発売されている。 == 漫画 == * 貸本漫画時代に[[小山春夫]]により漫画化された([[東邦図書出版社]])。[[2016年]]に[[アップルBOXクリエート]]より復刻されている。原作とは登場人物が一部異なる。 * [[せがわまさき]]により『[[バジリスク 〜甲賀忍法帖〜]]』という題名で漫画化され『[[ヤングマガジンアッパーズ]]』([[講談社]])で[[2003年]]から[[2004年]]まで連載された。原作におおむね忠実といえる内容(細かい違いはある)。2004年、第28回(平成16年度)[[講談社漫画賞]]一般部門を受賞。[[2005年]]に[[テレビアニメ]]化もされ放送された。その後[[パチスロ]]化もされ人気を博した。 * [[浅田寅ヲ]]による『甲賀忍法帖・改』が2003年に『[[エース特濃]]』([[角川書店]])で連載、2004年に『[[コミック新現実]]』(角川書店)に掲載誌を移したが、同誌が2005年に休刊し、作品は未完。 == 映画 == {{Infobox Film | 作品名 = SHINOBI<br />-HEART UNDER BLADE- | 原題 = | 画像 = | 画像サイズ = | 画像解説 = | 監督 = [[下山天]] | 製作総指揮 = [[迫本淳一]] | 製作 = | 脚本 = [[平田研也]] | 出演者 = [[仲間由紀恵]]<br />[[オダギリジョー]]<br />[[黒谷友香]]<br />[[沢尻エリカ]]<br />[[石橋蓮司]]<br />[[北村和夫]]<br />[[椎名桔平]] | 音楽 = [[岩代太郎]] | 主題歌 = [[浜崎あゆみ]]「[[HEAVEN_(浜崎あゆみの曲)|HEAVEN]]」 | 撮影 = [[近森眞史]] | 編集 = [[川瀬功]] | 美術 = [[磯見俊裕]] | 衣装 = | 配給 = [[松竹]] | 公開 = {{flagicon|JPN}} 2005年9月17日 | 上映時間 = 101分 | 製作国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 制作費 = | 興行収入 = 14.1億円 | 前作 = | 次作 = }} 2005年に『'''SHINOBI-HEART UNDER BLADE-'''』(シノビ-ハート・アンダー・ブレイド-、仮称:''忍-SHINOBI-'')として映画化。人物設定の変更、原作と異なる展開と結末、忍法争い勃発に映画オリジナルの動機を追加など、大胆なアレンジが施されている。松竹映画としては珍しく、当時の若手人気タレントを多数起用している<ref>{{Cite web|和書|title=解説・あらすじ - SHINOBI - 作品|url=https://movies.yahoo.co.jp/movie/322116/story/|website=Yahoo!映画|accessdate=2020-03-25|language=ja}}</ref>。 === スタッフ === * 監督:[[下山天]] * コンセプトデザイン:[[山田章博]] * 脚本:[[平田研也]] * 撮影:近森眞史 * 美術:磯見俊裕 * 照明:渡邊孝一 * 録音:鈴木肇 * 編集:川瀬功 * 音楽:[[岩代太郎]] * アクション監督:[[下村勇二]] * 製作担当:[[森井輝]] * 衣裳デザイン:小川久美子 * VFXプロデューサー:浅野秀二 * CGディレクター:林弘幸 * テクニカルスーパーバイザー:横石淳 * 主題歌:[[浜崎あゆみ]]「[[HEAVEN (浜崎あゆみの曲)|HEAVEN]]」([[avex trax]]) * 製作:「忍 SHINOBI」パートナーズ(松竹、[[日本テレビ放送網]]、[[讀賣テレビ放送]]、[[読売新聞]]、[[衛星劇場]]) === キャスト === * 朧(伊賀):[[仲間由紀恵]] * 甲賀弦之介(甲賀):[[オダギリジョー]] * 蛍火(伊賀):[[沢尻エリカ]] * 夜叉丸(伊賀):[[坂口拓]] * 蓑念鬼(伊賀):[[伊藤俊]] * 薬師寺天膳(伊賀):[[椎名桔平]] * 陽炎(甲賀):[[黒谷友香]] * 室賀豹馬(甲賀):[[升毅]] * 筑摩小四郎(甲賀):[[虎牙光揮]] * 如月左衛門(甲賀):[[木下ほうか]]/[[三好健児]] * お幻(伊賀):[[りりィ]] * 甲賀弾正(甲賀):[[寺田稔 (俳優)|寺田稔]] * [[柳生三厳|柳生十兵衛]]:[[仁科克基]] * 荷車を引く男:[[なべおさみ]] * [[柳生宗矩]]:[[永澤俊矢]] * [[服部正就|服部半蔵正就]]:[[松重豊]] * [[天海|南光坊天海]]:[[石橋蓮司]] * [[徳川家康]]:[[北村和夫]] == 関連項目 == * [[神君幻法帖]] - [[山田正紀]]の小説。本作へのオマージュ。 * [[桜花忍法帖 バジリスク新章]] - 山田正紀の小説。2015年に本作および『バジリスク 〜甲賀忍法帖〜』の続編という設定で書かれた。 == 外部リンク == * {{Allcinema title|322116|SHINOBI -HEART UNDER BLADE-}} * {{Kinejun title|36748|SHINOBI -HEART UNDER BLADE-}} == 脚注 == <references /> {{忍法帖シリーズ}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=SHINOBI-HEART UNDER BLADE- |1-1=忍者映画 |1-2=松竹製作の時代劇映画 |1-3=日本の恋愛映画 |1-4=2005年の映画 |1-5=日本テレビ製作の映画 |1-6=読売テレビ製作の映画 |1-7=小説を原作とする映画 |1-8=下山天の監督映画 |1-9=栃木県で製作された映画作品 }} {{DEFAULTSORT:こうかにんほうちよう}} [[Category:山田風太郎の小説]] [[Category:忍法帖シリーズ]] [[Category:日本の連載小説]] [[Category:江戸時代を舞台とした小説]] [[Category:服部半蔵を題材とする作品]] [[Category:漫画作品 こ|うかにんほうちよう]] [[Category:貸本漫画]] [[Category:時代劇漫画]] [[Category:忍者を題材とした漫画作品]] [[Category:江戸時代を舞台とした漫画作品]] [[Category:エース特濃]] [[Category:17世紀を舞台とした作品]]
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起承転結
起承転結(きしょうてんけつ)とは、4行から成る漢詩(近体詩)の絶句の構成を指す。1行目から順に起句、承句、転句、結句と呼ぶ。もとの中国語(漢文)では、起承轉合 (現代中国語: 起承转合, ピン音: qǐ chéng zhuǎn hé) である。 日本の初等・中等教育においては、本来の意味から転じて、文章の構成として一般的に教授されている。 起承転結による文章は論理的ではないとの指摘がある(節「批判」を参照)。 文章やストーリーの構成に起承転結を用いることは、国際的には一般的ではない。国際的には、英語の一般的な論理的文章ではパラグラフ・ライティング (主張→根拠→主張' )、学術論文ではIMRAD、および映画などの脚本では三幕構成が主に用いられている(節「「漢詩以外への転用」に対しての比較」を参照)。 元の楊載 (1271-1323) の著した『詩法家数』は、「起承転結」説を唱えた文献のうち、最古のものであると主張される場合がある。楊載の「起承転結」説は、主に以下のようなものである。 唐の詩人、杜甫の詠んだ次の五言絶句の詩が、「起承転結」の例である。 また、頼山陽 (1780-1832) の作と伝えられる以下の俗謡も、起承転結の例として認知されている (これには多様なバリエーションがあり、その一つを挙げる)。 頼は、漢詩の起承転結を弟子に理解させるために、この俗謡を用いていたと伝承されている。 国語学者で、武庫川女子大学・言語文化研究所長および同大教授 (当時) の佐竹秀雄は、起承転結による文章の構成について、以下のように定義している (佐竹は必ずしも起承転結の文章構成を支持していない点に注意)。 黒澤明監督作品の脚本を複数担当した脚本家の小国英雄は、ストーリーの構成における起承転結を、以下のように解釈している〔編者注: 一部誤字を修正〕。 そのようなストーリー構成の典型的な例として、4コマ漫画が引用される場合がある。 日本においては、中等教育の段階までに学習する文章のスタイルは、「起承転結」が一般的である。このため、生徒は「日本語の文章は必ず起承転結で書く」という認識を持って卒業している場合が多い。一方で、起承転結は、漢詩の構成にすぎず、論理的な文章を書ける構成ではないとして、以下のように指摘されている。 日本語学が専門で高崎経済大学助教授 (当時。後に教授) の高松正毅は、起承転結について、「こと説得を目的とする文章を作成するにあたっては極めて不適切で、ほとんど使いものにならない」と主張しており、「『起承転結』では、文章は書けない」と述べている。「起」「承」「転」「結」のそれぞれの機能の定義が明確でなく、各部分に含まれるべき文が曖昧であることを、高松は問題視する。 高松はまた、起承転結が真に問題であるのは、それが「役に立たない」からではなく、思考に大きな影響を与えるためであるとする。すなわち、文章の論旨とは無関係のように見えることを「転」で突然言い出したり、論旨を「結」に書くために、可能な限り後のほうに記述しようとしたり、文章の構成として絶対に認められない思考様式を定着させると、高松は主張している。 日本語教育が専門で千葉大学国際教育センター准教授の佐藤尚子らは、論理的な文章は論理の一貫性が必要であり、「転」の部分が論理の一貫性に反すると批判している。言語文化学会東北支部長 (当時) で論文指導者の横尾清志もまた、「転」の部分が論理的な展開から逸脱している点が論理的でないとする。横尾は、起承転結は文学的な文章展開であり、論理性や客観的視点が無いため、論証や議論には適さないとしている。「たとえ中学生の作文指導であったとしても、起承転結などで書くことを意識させてはなりません」と横尾は述べている。 ベイン・アンド・カンパニーの日本支社長を務めた経営コンサルタントの後正武は、起承転結は修辞の技法 (レトリック) であり、論理的な正しさとは関係が無く、むしろ修辞に影響されることにより論理的思考の障害になるとしている。 ブーズ・アレン・ハミルトンで主任コンサルタントを務め、バーバラ・ミントの著作を翻訳した山崎(やまさき)康司は、ビジネス文書では、まず結論から書くことが原則であり、その理由の一つは、読む側が多忙であるためとしている。山崎は、結論を最後に書く起承転結について、レポート・ライティングのスタイルではないと主張している。 心理学者でお茶の水女子大学の学長を務めた波多野完治、歴史学者の沢田昭夫、中世哲学を専門とする山内志朗、科学哲学を専門とする戸田山和久らも、文章技法としての起承転結に対して、これらの主張と同様の批判を行っている。 映画などの脚本においては、次のように指摘される。すなわち、アメリカの著名なスクリプト・ドクター(英語版)であるリンダ・シーガー(英語版)によれば、最初の転換点までの時間配分が長すぎる (全体の1/4より大幅に多い) 場合、観客の関心を得られないとしている。なぜならば、そのような構成では、三幕構成で言うところの第一幕 (設定) が間延びして退屈なものとなる。反対に、最初の転換点に続く第二幕 (対立) は、短すぎて呆気(あっけ)なくなるためであるという。 最初の転換点とミッドポイント (中間点) を混同する脚本家はアメリカでも多く、そのため、第二幕が映画の中間から始まるという破綻した構成の脚本が出来上がるのだと、シーガーは述べている。 英語圏では、「パラグラフ・ライティング」が文章一般に用いられている。また、学術論文では「IMRAD形式」が主流である。起承転結は、ストーリーの構成としても必ずしも評価されておらず、例えば、映画などの脚本においては、国際的に支持されていない。通常、映画などの脚本は「三幕構成」に基づいて作成される。なお、日本の伝統芸能における脚本構成も、序破急、すなわち三幕構成である。 パラグラフ・ライティングは、英語の論理的文章の一般的なスタイルである。パラグラフ・ライティングは、序論 (Introduction)、本論 (Body)、結論 (Conclusion) の三部構成から成り立っている。パラグラフ・ライティングでは、結論にあたる主張が、文章全体の最初のパラグラフ (段落) に書かれる。続いて、その根拠が1つ以上のパラグラフによって示される。そして、最後のパラグラフでは、それまでのパラグラフが要約され、また、結論にあたる主張が表現を替えて繰り返される。 序論では、論旨 (thesis statement)、すなわち文章全体で一番言いたいことが示される (論旨は序論の終わりに述べられる)。本論は、その論旨の根拠を書くところである。本論は1つ以上のパラグラフ (段落) から成る。本論のパラグラフは、主題文 (topic sentence) とそれに続く支持文 (supporting sentences) から出来ている。主題文は、そのパラグラフで言いたいことを述べた文であり、支持文はその根拠となる文である。 支持文は5つ以上であることが望ましい。そのようにして本論のパラグラフは成り立つ。結論は、全体のまとめである。ここでは、本論での論証に基づきながら、序論で述べた論旨が言い換えられ、改めて主張される。 パラグラフ・ライティングでは、 "One paragraph, one topic" が原則である。新たなトピック (主題) を述べるときには、段落を分ける。また、トピックや論旨と無関係な文 (irrelevant sentences) は書いてはならない。起承転結の「転」のような論述は、論理の飛躍 (logical leap) であるとして認められない。 IMRAD形式は、学術論文の典型的な構成である。IMRAD形式は、導入 (Introduction)、方法 (Methods)、結果 (Results)、および考察 (Discussion) から成る。派生的な形式も含めれば、学術論文の構成はIMRAD形式が主流となっている。分野別では、生物科学を始め、化学、および医学などの自然科学において比較的多く用いられている。 三幕構成は、映画などの脚本における一般的な構成である。三幕構成では、ストーリーの序盤、中盤、終盤が、それぞれ設定 (Set-up)、対立 (Confrontation)、解決 (Resolution) の役割を持つ3つの幕となり、3つの幕の比は1:2:1である。幕と幕は転換点 (プロットポイント) でつながっている。プロットポイントは、主人公に行動を起こさせ、ストーリーを異なる方向へ転換させる出来事である。 NHKエンタープライズのエグゼクティブ・プロデューサー (当時) である浜野高宏は、「日本と海外では、ストーリーの組み立て方がかなり異なる。例えば、日本では『起承転結』の概念を知らないプロデューサーはいないだろうが、外国人で知っている人は稀だ。海外では『序破急』の概念に近い『3幕構成』が主流であり、これは外国人ならほとんどの人が知っている。そのため、ピッチ〔編者注: 企画の売り込み〕を受けた外国人がストーリー構成を聞くときは、この3幕構成に沿った説明を求めていることがほとんどだ。それをすぐに答えられない場合は、基本的なことすら考えていない企画以前の段階なのだ、と思われてしまう。」と述べている。 起承転合 (起承転結) の語は、16世紀半ばの国語辞典である『運歩色葉集』に、日本における早い使用例が見られる。その後の日本においては、ある時点から、起承転結の構成は、漢詩以外の文章にも転用されるようになった。 1802年には、十返舎一九による『起承転合』と題した洒落本が刊行されている。このときの題名も『起承転合』であり、「起承転結」ではなかった。中国においては、文学者の魯迅が、1928年に出版された『而已集』の「通信」の中で、既に起承転結 (起承転合) の転用を行っている。 夏目漱石および寺田寅彦は「漢詩の構成」という本来の意味で「起承転結」の語を用いているが、寺田は比喩としても使用しており、1931年の『連句雑俎』では四部構成を漢詩のみでなく「戯曲にも小説にも用いられる必然的な構成法」としている。また同じころ、詩人の横山青娥は『新らしい詩の作り方(1931年)』において、自由詩に拡張した起承転結の必要性を主張している 。 遅くとも1940年代には「文章や物事の構成」という意味での「起承転結」の転用を一般化した例がみられる(筈見恒夫『映画五十年史』)。 1961年に出版された『作文の授業入門』(今井誉次郎著) は、「起承転結」について、「これはいうまでもなく、漢詩の句の排列の名称です」としながら、作文の表現として取り上げている。「これを子どもたちにもよくわかるようにいいあらわすと、『はじめ』『つづき』『かわり』『むすび』ということになるでしょうか」と、今井は述べている。今井は「日本作文の会」の委員長を務めた。日本作文の会によれば、日本の国語教育で「書くこと」が重視されるようになったのは、戦後のことであるという。 小国英雄は、1970年前後またはそれ以前に、「中国に、"起承転結"という言葉がある。この言葉は作劇上の構成をうまく表現した言葉で、これからシナリオを書く人はこの順序に従って劇を作って行くと便利ではないかと思われる。」と、語の紹介から始めている。また、この文章の掲載された『シナリオ作法考』(1969年または1971年に出版) は、起承転結のみでなく、アリストテレスの3部分説からフライタークの5段階説に至る「近代作劇術の基礎」を解説している。 1980年に出版された『NHK新アナウンス読本』(日本放送出版協会) では、NHK (日本放送協会) のニュースの原稿は、起承転結によって構成されているとしている。「起承転結は、文章でも音楽でも、あらゆる構成の基本型です」と同書は記している。 日本の国会においては、第1回 (1947年) 以降、「起承転結」の語を最初に用いたのは、第16回 (1953年) 6月30日の衆議院文部委員会における世耕弘一の質問である。世耕の発言は、起承転結の本来の意味、すなわち漢詩の構成という意味に基づいて、かつての教育勅語の詩吟としての芸術性を主張するものであった。世耕はまず、起承転結の語を紹介することから始めている。 これ以降、「起承転結」の語が国会において用いられることは17年間にわたって無く、1970年代に入り、突然、「文章や物事の構成」という意味での転用が3例 、1980年代には8例現れる。国会において最初にそのような転用を行ったのは、外務大臣 (当時) の愛知揆一である。1970年3月31日に発生した赤軍派のよど号ハイジャック事件の時期と重なったため、ソビエト連邦との外交交渉の顛末(てんまつ)が不明瞭となったことを、愛知は同年4月14日に述べている。 1970年代の国会における他の用例としては、上田哲による1973年の第71回国会・参議院内閣委員会での発言、および丸谷金保による1979年の第87回国会・参議院農林水産委員会での発言がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "起承転結(きしょうてんけつ)とは、4行から成る漢詩(近体詩)の絶句の構成を指す。1行目から順に起句、承句、転句、結句と呼ぶ。もとの中国語(漢文)では、起承轉合 (現代中国語: 起承转合, ピン音: qǐ chéng zhuǎn hé) である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本の初等・中等教育においては、本来の意味から転じて、文章の構成として一般的に教授されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "起承転結による文章は論理的ではないとの指摘がある(節「批判」を参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "文章やストーリーの構成に起承転結を用いることは、国際的には一般的ではない。国際的には、英語の一般的な論理的文章ではパラグラフ・ライティング (主張→根拠→主張' )、学術論文ではIMRAD、および映画などの脚本では三幕構成が主に用いられている(節「「漢詩以外への転用」に対しての比較」を参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "元の楊載 (1271-1323) の著した『詩法家数』は、「起承転結」説を唱えた文献のうち、最古のものであると主張される場合がある。楊載の「起承転結」説は、主に以下のようなものである。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "唐の詩人、杜甫の詠んだ次の五言絶句の詩が、「起承転結」の例である。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、頼山陽 (1780-1832) の作と伝えられる以下の俗謡も、起承転結の例として認知されている (これには多様なバリエーションがあり、その一つを挙げる)。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "頼は、漢詩の起承転結を弟子に理解させるために、この俗謡を用いていたと伝承されている。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "国語学者で、武庫川女子大学・言語文化研究所長および同大教授 (当時) の佐竹秀雄は、起承転結による文章の構成について、以下のように定義している (佐竹は必ずしも起承転結の文章構成を支持していない点に注意)。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "黒澤明監督作品の脚本を複数担当した脚本家の小国英雄は、ストーリーの構成における起承転結を、以下のように解釈している〔編者注: 一部誤字を修正〕。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "そのようなストーリー構成の典型的な例として、4コマ漫画が引用される場合がある。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本においては、中等教育の段階までに学習する文章のスタイルは、「起承転結」が一般的である。このため、生徒は「日本語の文章は必ず起承転結で書く」という認識を持って卒業している場合が多い。一方で、起承転結は、漢詩の構成にすぎず、論理的な文章を書ける構成ではないとして、以下のように指摘されている。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本語学が専門で高崎経済大学助教授 (当時。後に教授) の高松正毅は、起承転結について、「こと説得を目的とする文章を作成するにあたっては極めて不適切で、ほとんど使いものにならない」と主張しており、「『起承転結』では、文章は書けない」と述べている。「起」「承」「転」「結」のそれぞれの機能の定義が明確でなく、各部分に含まれるべき文が曖昧であることを、高松は問題視する。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "高松はまた、起承転結が真に問題であるのは、それが「役に立たない」からではなく、思考に大きな影響を与えるためであるとする。すなわち、文章の論旨とは無関係のように見えることを「転」で突然言い出したり、論旨を「結」に書くために、可能な限り後のほうに記述しようとしたり、文章の構成として絶対に認められない思考様式を定着させると、高松は主張している。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "日本語教育が専門で千葉大学国際教育センター准教授の佐藤尚子らは、論理的な文章は論理の一貫性が必要であり、「転」の部分が論理の一貫性に反すると批判している。言語文化学会東北支部長 (当時) で論文指導者の横尾清志もまた、「転」の部分が論理的な展開から逸脱している点が論理的でないとする。横尾は、起承転結は文学的な文章展開であり、論理性や客観的視点が無いため、論証や議論には適さないとしている。「たとえ中学生の作文指導であったとしても、起承転結などで書くことを意識させてはなりません」と横尾は述べている。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ベイン・アンド・カンパニーの日本支社長を務めた経営コンサルタントの後正武は、起承転結は修辞の技法 (レトリック) であり、論理的な正しさとは関係が無く、むしろ修辞に影響されることにより論理的思考の障害になるとしている。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ブーズ・アレン・ハミルトンで主任コンサルタントを務め、バーバラ・ミントの著作を翻訳した山崎(やまさき)康司は、ビジネス文書では、まず結論から書くことが原則であり、その理由の一つは、読む側が多忙であるためとしている。山崎は、結論を最後に書く起承転結について、レポート・ライティングのスタイルではないと主張している。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "心理学者でお茶の水女子大学の学長を務めた波多野完治、歴史学者の沢田昭夫、中世哲学を専門とする山内志朗、科学哲学を専門とする戸田山和久らも、文章技法としての起承転結に対して、これらの主張と同様の批判を行っている。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "映画などの脚本においては、次のように指摘される。すなわち、アメリカの著名なスクリプト・ドクター(英語版)であるリンダ・シーガー(英語版)によれば、最初の転換点までの時間配分が長すぎる (全体の1/4より大幅に多い) 場合、観客の関心を得られないとしている。なぜならば、そのような構成では、三幕構成で言うところの第一幕 (設定) が間延びして退屈なものとなる。反対に、最初の転換点に続く第二幕 (対立) は、短すぎて呆気(あっけ)なくなるためであるという。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "最初の転換点とミッドポイント (中間点) を混同する脚本家はアメリカでも多く、そのため、第二幕が映画の中間から始まるという破綻した構成の脚本が出来上がるのだと、シーガーは述べている。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "英語圏では、「パラグラフ・ライティング」が文章一般に用いられている。また、学術論文では「IMRAD形式」が主流である。起承転結は、ストーリーの構成としても必ずしも評価されておらず、例えば、映画などの脚本においては、国際的に支持されていない。通常、映画などの脚本は「三幕構成」に基づいて作成される。なお、日本の伝統芸能における脚本構成も、序破急、すなわち三幕構成である。", "title": "「漢詩以外への転用」に対しての比較" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "パラグラフ・ライティングは、英語の論理的文章の一般的なスタイルである。パラグラフ・ライティングは、序論 (Introduction)、本論 (Body)、結論 (Conclusion) の三部構成から成り立っている。パラグラフ・ライティングでは、結論にあたる主張が、文章全体の最初のパラグラフ (段落) に書かれる。続いて、その根拠が1つ以上のパラグラフによって示される。そして、最後のパラグラフでは、それまでのパラグラフが要約され、また、結論にあたる主張が表現を替えて繰り返される。", "title": "「漢詩以外への転用」に対しての比較" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "序論では、論旨 (thesis statement)、すなわち文章全体で一番言いたいことが示される (論旨は序論の終わりに述べられる)。本論は、その論旨の根拠を書くところである。本論は1つ以上のパラグラフ (段落) から成る。本論のパラグラフは、主題文 (topic sentence) とそれに続く支持文 (supporting sentences) から出来ている。主題文は、そのパラグラフで言いたいことを述べた文であり、支持文はその根拠となる文である。 支持文は5つ以上であることが望ましい。そのようにして本論のパラグラフは成り立つ。結論は、全体のまとめである。ここでは、本論での論証に基づきながら、序論で述べた論旨が言い換えられ、改めて主張される。", "title": "「漢詩以外への転用」に対しての比較" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "パラグラフ・ライティングでは、 \"One paragraph, one topic\" が原則である。新たなトピック (主題) を述べるときには、段落を分ける。また、トピックや論旨と無関係な文 (irrelevant sentences) は書いてはならない。起承転結の「転」のような論述は、論理の飛躍 (logical leap) であるとして認められない。", "title": "「漢詩以外への転用」に対しての比較" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "IMRAD形式は、学術論文の典型的な構成である。IMRAD形式は、導入 (Introduction)、方法 (Methods)、結果 (Results)、および考察 (Discussion) 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"小国英雄は、1970年前後またはそれ以前に、「中国に、\"起承転結\"という言葉がある。この言葉は作劇上の構成をうまく表現した言葉で、これからシナリオを書く人はこの順序に従って劇を作って行くと便利ではないかと思われる。」と、語の紹介から始めている。また、この文章の掲載された『シナリオ作法考』(1969年または1971年に出版) は、起承転結のみでなく、アリストテレスの3部分説からフライタークの5段階説に至る「近代作劇術の基礎」を解説している。", "title": "日本における受容" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1980年に出版された『NHK新アナウンス読本』(日本放送出版協会) では、NHK (日本放送協会) のニュースの原稿は、起承転結によって構成されているとしている。「起承転結は、文章でも音楽でも、あらゆる構成の基本型です」と同書は記している。", "title": "日本における受容" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本の国会においては、第1回 (1947年) 以降、「起承転結」の語を最初に用いたのは、第16回 (1953年) 6月30日の衆議院文部委員会における世耕弘一の質問である。世耕の発言は、起承転結の本来の意味、すなわち漢詩の構成という意味に基づいて、かつての教育勅語の詩吟としての芸術性を主張するものであった。世耕はまず、起承転結の語を紹介することから始めている。", "title": "日本における受容" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "これ以降、「起承転結」の語が国会において用いられることは17年間にわたって無く、1970年代に入り、突然、「文章や物事の構成」という意味での転用が3例 、1980年代には8例現れる。国会において最初にそのような転用を行ったのは、外務大臣 (当時) の愛知揆一である。1970年3月31日に発生した赤軍派のよど号ハイジャック事件の時期と重なったため、ソビエト連邦との外交交渉の顛末(てんまつ)が不明瞭となったことを、愛知は同年4月14日に述べている。", "title": "日本における受容" }, { "paragraph_id": 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起承転結(きしょうてんけつ)とは、4行から成る漢詩(近体詩)の絶句の構成を指す。1行目から順に起句、承句、転句、結句と呼ぶ。もとの中国語(漢文)では、起承轉合 である。 日本の初等・中等教育においては、本来の意味から転じて、文章の構成として一般的に教授されている。 起承転結による文章は論理的ではないとの指摘がある(節「批判」を参照)。 文章やストーリーの構成に起承転結を用いることは、国際的には一般的ではない。国際的には、英語の一般的な論理的文章ではパラグラフ・ライティング、学術論文ではIMRAD、および映画などの脚本では三幕構成が主に用いられている(節「「漢詩以外への転用」に対しての比較」を参照)。
{{otheruses||松山千春のアルバム|起承転結 (松山千春のアルバム)}} '''起承転結'''(きしょうてんけつ)とは、4行から成る[[漢詩]]([[近体詩]])の[[絶句]]の構成を指す。1行目から順に起句、承句、転句、結句と呼ぶ<ref>『[[世界大百科事典]]』第2版、[[平凡社]]、「[https://kotobank.jp/word/%E8%B5%B7%E6%89%BF%E8%BB%A2%E7%B5%90-12404#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 きしょうてんけつ【起承転結 {{lang|zh|qǐ chéng zhuǎng jié}}】]」。</ref><ref>『[[大辞林]]』第三版、[[三省堂]]、「[https://kotobank.jp/word/%E8%B5%B7%E6%89%BF%E8%BB%A2%E7%B5%90-12404 きしょうてんけつ【起承転結】]」。</ref>。もとの[[中国語]]([[漢文]])では、'''起承轉合''' (現代{{Lang-zh|起承转合}}, [[ピン音]]: {{lang|zh|qǐ chéng zhuǎn hé}}) である<ref>{{Cite web|和書|title=中国語辞典|publisher=白水社|work=「起承转合」|url=http://cjjc.weblio.jp/content/起承转合|accessdate=2014-05-29}}</ref>。 日本の初等・中等教育においては、本来の意味から転じて、文章の構成として一般的に教授されている<ref name="satoh">{{Cite journal |和書|author=佐藤尚子|author2=吉野文|author3=椎名紀久子|date=2008-03|title=『文章表現演習』における学生の問題点とその改善について|journal=言語文化論叢|volume=2|pages =129-131|publisher=千葉大学言語教育センター|url=http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/AN10532524/2008no2_129_136.pdf|id=52682756|naid=120002827830|accessdate=2014-05-19|language=Japanese}}</ref>。 起承転結による文章は論理的ではないとの指摘がある<ref name="takamatsu">{{Cite journal|author=高松正毅|title=「起承転結」小考|journal=高崎経済大学論集|volume=46|issue=4|pages=115-122|publisher=高崎経済大学経済学会|date=2004|language=Japanese|url=http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/46_4/takamatsu.pdf |accessdate=2014-05-11}}</ref><ref name="satoh" /><ref name="yokoo">{{Cite book|和書|author=横尾清志|title=日本語を鍛えるための論理思考トレーニング|publisher=ベレ出版|date=2007-10-19|pages=232-233|isbn=4860641701|language=Japanese}}</ref><ref name="ushiro">{{Cite book|和書|author=後正武|authorlink=後正武|title=経営参謀が明かす論理思考と発想の技術|publisher=PHP研究所|date=2006-03-01|isbn=4569666191|language=Japanese}}</ref><ref name="yamasaki">{{Cite book|和書|author=山崎康司|title=入門考える技術・書く技術: 日本人のロジカルシンキング実践法|publisher=ダイヤモンド社|date=2011-04-08|isbn=4478014582|language=Japanese}}</ref>([[#批判|節「批判」を参照]])。 文章やストーリーの構成に起承転結を用いることは、国際的には一般的ではない。国際的には、英語の一般的な論理的文章では[[パラグラフ・ライティング]] (主張→根拠→主張' )<ref name="tanabe" /><ref name="iwamoto"/><ref name="chukyo" />、学術論文では[[IMRAD]]<ref name="miyata" />、および映画などの脚本では[[三幕構成]]<ref name="structure" /><ref name="act" /><ref name="hamano" />が主に用いられている([[#「漢詩以外への転用」に対しての比較|節「「漢詩以外への転用」に対しての比較」を参照]])。 == 構成 == [[元 (王朝)|元]]の[[楊載 (元)|楊載]] (1271-1323) の著した『詩法家数』は、「起承転結」説を唱えた文献のうち、最古のものであると主張される場合がある。楊載の「起承転結」説は、主に以下のようなものである<ref name="suzuki">{{Cite journal|和書|author=鈴木敏雄|date=1997-03-31|title=楊載の『起承転結』説釈訓(上)|journal=東洋史訪|volume=3|pages=8-18|publisher=兵庫教育大学東洋史研究会|language=Japanese|url=https://hdl.handle.net/10132/2104|accessdate=2014-05-16}}</ref>。 *'''起''': 歴史や人事を題材とし、比喩や連想から詠み始めることにより、様々な展開が出来るとする。 *'''承''': 「穏健」に作るべきであるとし、突飛、露骨な句であったり、反対に平板であったりすることは避けるように主張している。 *'''転''': 読み手を驚かす変化を入れるよう求めている。ただし、「転」の句は、「承」のそれと表裏一体であり、別物であってはならず、互いに応じ、互いに避けるという一貫性がなければならないとする。 *'''結''': 「言に尽くる有りて意に窮まる無し」とし、適宜にフェードアウトすることにより、「含蓄」という詩作の目的の一つを達成できるとしている。 [[唐]]の詩人、[[杜甫]]の詠んだ次の五言絶句の詩<ref>{{Cite journal|和書|author=松原朗|title=杜甫の望郷意識: 蜀中前期|journal=中國詩文論叢|volume=22|publisher=早稲田大学中國詩文研究會|date=2003-12-31|page=1language=Japanese|url=https://hdl.handle.net/2065/40660|ISSN=0287-4342|accessdate=2022-06-09}}</ref>が、「起承転結」の例である。 {| class="wikitable" style="margin:0 auto" |- ! 原文 ! 書き下し文 ! 現代語訳 |- | lang="zh" | '''江碧鳥逾白''' |江{{ruby|碧|みどり}}にして 鳥{{ruby|逾|いよ}}いよ白く |川の水は深緑で鳥はますます白く見え |- | lang="zh" | '''山青花欲燃''' |山青くして 花燃えんと欲す |山は新緑で花は燃えさからんばかりに赤く見える |- | lang="zh" | '''今春看又過''' |今春 {{ruby|看|みす}}みす又た過ぐ |今年の春も見ているうちにまたもや過ぎ去ろうとしている |- | lang="zh" | '''何日是帰年''' |何れの日か 是れ帰年ならん |一体いつになれば故郷に帰れる年がくるというのか |} <!--(編者注: 出典が無く、独自研究にあたる疑いが強いです。) === 物語 === *'''起''': 物語の導入部。その物語にはどんな登場人物がいるか、どんな世界・時代に住んでいるのか、登場人物同士の関係はどんなものか、なぜその物語は始まるのかなど、これから物語を読む上で必要な知識を紹介する部分。 *'''承''': 「承」は「受ける」を意味し<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?kind=jn&mode=0&MT=%be%b5&from=stick6&PT=stick6 「承」の意味] [[三省堂]][[大辞林]]</ref>、「起」で提起した事柄を受け、さらに進めて理解を促し、物語の導入である「起」から、物語の核となる「転」へつなぐ役目を果たす部分。ここは単純に「起」で紹介した物語を進めるだけで、次に続く「転回」または「展開」が誤解されることがないように備えておくものであまり大きな展開はないのが普通。 *'''転''': 物語の核となる部分。「ヤマ」ともいわれる、物語の中で最も盛り上がりを見せる部分。物語の中でも最も大きな転機を見せる部分であり、読者が知らなかった事柄や想起を超える展開をすることによって、関心や興味を引く部分となる。 *'''結''': 「[[落ち|オチ]]」とも呼ばれる部分で、物語が進んだ結果、「転」での結末が最終的にどうなったのかを描いて物語を締めくくる部分。--> また、[[頼山陽]] (1780-1832) の作と伝えられる以下の[[俗謡]]も、起承転結の例として認知されている (これには多様なバリエーションがあり、その一つを挙げる)<ref>{{Cite book|和書|author=山中桂一|title=日本語のかたち: 対照言語学からのアプローチ|publisher=東京大学出版会|date=1998-01|page=181|isbn=4130800043|language=Japanese}}</ref>。 *'''起''': 大阪本町 糸屋の娘 *'''承''': 姉は十六 妹が十四 *'''転''': 諸国大名は 弓矢で殺す *'''結''': 糸屋の娘は 目で殺す <!--(編者注: 出典が無く、また、過剰な注釈となるので一時コメントアウトします。) 以下、前掲の俗謡のバリエーションの例。 一段目: 「京の三条の」「京都三条」「京の五条の」「三条木屋町」「大坂天満の」「大坂船場の」「浪速花町」「浪花本町」「向こう横丁の」など。 二段目:「 二十一」と「二十」、「十八」と「十五」、「十八」と「十六」、「十七」と「十五」、「十六」と「十五」など。 三段目: それぞれ、「諸国諸大名」、「刀」、「斬る」ともいう。 四段目:「目」を「眼」とする場合もある。 --> 頼は、漢詩の起承転結を弟子に理解させるために、この俗謡を用いていたと伝承されている<ref>{{Cite book|和書|author=原田種成|title=私の漢文講義|publisher=大修館書店|date=1995-10|page=111|isbn=4469231231|language=Japanese}}</ref>。 === 漢詩以外への転用 === [[日本語学者|国語学者]]で、[[武庫川女子大学]]・言語文化研究所長および同大教授 (当時) の[[佐竹秀雄]]は、起承転結による文章の構成について、以下のように定義している (佐竹は必ずしも起承転結の文章構成を支持していない点に注意)<ref>{{Cite book|和書|author=佐竹秀雄|title=文章を書く技術|series=日本語を知る・磨く|publisher=ベレ出版|date=2006-02-25|page=111|isbn=4860641140|language=Japanese}}</ref>。 *'''起''': 事実や出来事を述べる。 *'''承''': 『起』で述べたことに関することを述べる。解説したり、それによって起こる問題点を述べたり、感想、意見を述べたりする。 *'''転''': 『起承』とは関係のない別のことがらを持ち出す。 *'''結''': 全体を関連づけてしめくくる。 [[黒澤明]]監督作品の脚本を複数担当した脚本家の[[小国英雄]]は、ストーリーの構成における起承転結を、以下のように解釈している〔編者注: 一部誤字を修正〕<ref name="toriumi">{{Cite book|和書|author=鳥海尽三|authorlink=鳥海尽三|title=アニメ・シナリオ入門|publisher=映人社|date=1987-05-20|pages=121,124|isbn=4871002152|language=Japanese}} [孫引きにつき注意。原典は『シナリオ作法考』(宝文館出版)]</ref>。 *'''起''': 主人公の置かれている状態、劇の説明 *'''承''': 主人公の置かれている状態にある事件が起こり、これから段々劇が展開して行く過程 *'''転''': 一つの劇のヤマ場で結果に赴く為の転化 *'''結''': 承、即ち事件とそれによって起こった転化によって出された結果 そのようなストーリー構成の典型的な例として、[[4コマ漫画]]が引用される場合がある<ref>{{Cite book|和書|author=竹宮惠子|title=マンガの脚本概論|publisher=角川学芸出版|date=2010-04-08|page=73|isbn=4046538015|language=Japanese}}</ref>。 == 批判 == === 論理的文章の構成 === 日本においては、[[中等教育]]の段階までに学習する文章のスタイルは、「起承転結」が一般的である。このため、生徒は「日本語の文章は必ず起承転結で書く」という認識を持って卒業している場合が多い。一方で、起承転結は、[[漢詩]]の構成にすぎず、論理的な文章を書ける構成ではない<ref name="satoh"/>として、以下のように指摘されている。 [[日本語学]]が専門で[[高崎経済大学]]助教授 (当時。後に教授) の高松正毅は、起承転結について、「こと説得を目的とする文章を作成するにあたっては極めて不適切で、ほとんど使いものにならない」と主張しており、「『起承転結』では、文章は書けない」と述べている。「起」「承」「転」「結」のそれぞれの機能の定義が明確でなく、各部分に含まれるべき文が曖昧であることを、高松は問題視する<ref name="takamatsu"/>。 高松はまた、起承転結が真に問題であるのは、それが「役に立たない」からではなく、思考に大きな影響を与えるためであるとする。すなわち、文章の論旨とは無関係のように見えることを「転」で突然言い出したり、論旨を「結」に書くために、可能な限り後のほうに記述しようとしたり、文章の構成として絶対に認められない思考様式を定着させると、高松は主張している<ref name="takamatsu"/>。 日本語教育が専門で[[千葉大学]]国際教育センター准教授の佐藤尚子<!--内部リンクしないで下さい。同姓同名でやはり学者の故人がいます-->らは、論理的な文章は論理の一貫性が必要であり、「転」の部分が論理の一貫性に反すると批判している<ref name="satoh"/>。[[言語文化学会]]東北支部長 (当時) で論文指導者の横尾清志もまた、「転」の部分が論理的な展開から逸脱している点が論理的でないとする。横尾は、起承転結は文学的な文章展開であり、論理性や客観的視点が無いため、論証や議論には適さないとしている。「たとえ中学生の作文指導であったとしても、起承転結などで書くことを意識させてはなりません」と横尾は述べている<ref name="yokoo"/>。 [[ベイン・アンド・カンパニー]]の日本支社長を務めた[[経営コンサルタント]]の[[後正武]]は、起承転結は[[修辞技法|修辞]]の技法 (レトリック) であり、論理的な正しさとは関係が無く、むしろ修辞に影響されることにより論理的思考の障害になるとしている<ref name="ushiro"/>。 [[ブーズ・アレン・ハミルトン]]で主任コンサルタントを務め、バーバラ・ミントの著作を翻訳した山崎(やまさき)康司<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.diamond.co.jp/_itemcontents/0201_biz/49027-9.html#shoukai|title=新版 考える技術・書く技術: 問題解決力を伸ばすピラミッド原則; 著者紹介|publisher=ダイヤモンド社language=Japanese|accessdate=2014-05-14|archivedate=2014-05-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140514073504/http://www.diamond.co.jp/_itemcontents/0201_biz/49027-9.html}}</ref>は、ビジネス文書では、まず結論から書くことが原則であり、その理由の一つは、読む側が多忙であるためとしている。山崎は、結論を最後に書く起承転結について、レポート・ライティングのスタイルではないと主張している<ref name="yamasaki"/>。 [[心理学者]]で[[お茶の水女子大学]]の学長を務めた[[波多野完治]]、[[歴史学者]]の[[沢田昭夫]]、[[中世哲学]]を専門とする[[山内志朗]]、[[科学哲学]]を専門とする[[戸田山和久]]らも、文章技法としての起承転結に対して、これらの主張と同様の批判を行っている<ref>{{Cite journal|author=高松正毅|title=「文章表現技術」の理論確立に向けて|journal=高崎経済大学論集|volume=45|issue=4|page=178|publisher=高崎経済大学|date=2003|language=Japanese|url=http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/45_4/takamatsu.PDF|accessdate=2014-05-11}}</ref><ref>波多野完治『現代レトリック』大日本図書(1973年)、澤田昭夫『論文の書き方』(1977年)同『論文のレトリック』(1983年)講談社学術文庫、山内志朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』(2001年、新版2021年)、戸田山和久『論文の教室 レポートから卒論まで』(2004年、最新版2022年)日本放送出版協会。</ref>。 === 脚本の構成 === 映画などの脚本においては、次のように指摘される。すなわち、アメリカの著名な{{仮リンク|スクリプト・ドクター|en|Script doctor}}である{{仮リンク|リンダ・シーガー|en|Linda Seger}}<ref>{{Cite book|和書|author=リンダ・シガー (リンダ・シーガー)|title=ハリウッド・リライティング・バイブル|publisher=愛育社|year=2000|page=奥付|isbn=4750000655|language=Japanese}}</ref>によれば、最初の転換点までの時間配分が長すぎる (全体の1/4より大幅に多い) 場合、観客の関心を得られないとしている。なぜならば、そのような構成では、三幕構成で言うところの第一幕 (設定) が間延びして退屈なものとなる。反対に、最初の転換点に続く第二幕 (対立) は、短すぎて呆気<small>(あっけ)</small>なくなるためであるという<ref>{{Cite book|和書|author=リンダ・シガー (リンダ・シーガー)|title=ハリウッド・リライティング・バイブル|publisher=愛育社|year=2000|page=69|isbn=4750000655|language=Japanese}}</ref>。 最初の転換点とミッドポイント (中間点) を混同する脚本家はアメリカでも多く、そのため、第二幕が映画の中間から始まるという破綻した構成の脚本が出来上がるのだと、シーガーは述べている<ref>{{Cite book|和書|author=リンダ・シガー (リンダ・シーガー)|title=ハリウッド・リライティング・バイブル|publisher=愛育社|year=2000|page=68|isbn=4750000655|language=Japanese}}</ref>。 == 「漢詩以外への転用」に対しての比較 == [[英語圏]]では、「パラグラフ・ライティング」<ref>{{Cite journal|和書|author=國近秀信, 齊藤史明, 竹内章 |title=英語パラグラフライティングのためのアイデア整理支援 |journal=電子情報通信学会論文誌D 情報・システム |ISSN=1880-4535 |publisher=The Institute of Electronics, Information and Communication Engineers |year=2019 |volume=J102-D |issue=8 |pages=542-552 |doi=10.14923/transinfj.2018jdp7066 |url=https://doi.org/10.14923/transinfj.2018jdp7066}}</ref>が文章一般に用いられている<ref name="tanabe">{{Cite book|和書|author=田辺希久子|coauthors=光藤京子|title=英日日英プロが教える基礎からの翻訳スキル|publisher=三修社|date=2008-09-22|pages=64-65|isbn=4384055064|language=Japanese}}</ref>。また、[[論文|学術論文]]では「[[IMRAD]]形式」が主流である<ref name="miyata">{{Cite web|和書|author=宮田洋輔 ''et al.''|url=http://user.keio.ac.jp/~ueda/papers/webir121.pdf|title=学術論文の構成要素と構造|date=n.d.|format=PDF|language=Japanese|accessdate=2014-05-10|archivedate=2014-05-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140510041534/http://user.keio.ac.jp/~ueda/papers/webir121.pdf}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=石田栄美, 安形輝, 宮田洋輔, 池内淳, 上田修一 |title=構造と構成要素に基づく学術論文の自動判定 |journal=日本図書館情報学会誌 |ISSN=1344-8668 |publisher=日本図書館情報学会 |date=2014 |volume=60 |issue=1 |pages=18-34 |doi=10.20651/jslis.60.1_18 |naid=110009816038 |url=https://doi.org/10.20651/jslis.60.1_18}}</ref>。起承転結は、ストーリーの構成としても必ずしも評価されておらず、例えば、映画などの脚本においては、国際的に支持されていない。通常、映画などの[[脚本]]は「三幕構成」に基づいて作成される<ref name="structure">{{Cite web|和書|work=シネマセンス|title=構造|publisher=[[アールト大学]] (旧[[ヘルシンキ芸術デザイン大学]])|language=Japanese|accessdate=2014-04-29|url=http://elokuvantaju.uiah.fi/nihon_go/kyoozai/kyakuhon/kouzou.jsp|archivedate=2014-04-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140428020425/http://elokuvantaju.uiah.fi/nihon_go/kyoozai/kyakuhon/kouzou.jsp}}</ref><ref name="act">{{Cite web|和書|work=シネマセンス|title=幕|publisher=[[アールト大学]] (旧[[ヘルシンキ芸術デザイン大学]])|language=Japanese|accessdate=2014-04-26|url=http://elokuvantaju.uiah.fi/nihon_go/kyoozai/kyakuhon/maku.jsp|archivedate=2014-04-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140426012928/http://elokuvantaju.uiah.fi/nihon_go/kyoozai/kyakuhon/maku.jsp}}</ref><ref name="hamano">{{Cite web|和書|date=2012|url=http://www.unijapan.org/library/unijapantext/documentary_co-production.pdf|title=ドキュメンタリーの国際共同製作ガイダンス|format=PDF|publisher=公益財団法人ユニジャパン|accessdate=2014-03-02|author=浜野高宏|coauthors=今村研一, ハンス・ロバート・アイゼンハウアー|page=12||language=Japanese|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140302131845/http://unijapan.org/library/unijapantext/documentary_co-production.pdf|archivedate=2014-03-02|ref=hamano}}</ref>。なお、[[日本伝統芸能|日本の伝統芸能]]における脚本構成も、[[序破急]]、すなわち三幕構成である<ref>『[[大辞林]]』 第三版 [[三省堂]] 「[https://kotobank.jp/word/%E5%BA%8F%E7%A0%B4%E6%80%A5-80560 じょはきゅう【序破急】]」の頁 </ref><ref>『[[世界大百科事典]]』 第2版 [[平凡社]] 「[https://kotobank.jp/word/%E5%BA%8F%E7%A0%B4%E6%80%A5-80560#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 じょはきゅう【序破急】]」の頁</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc11/sakuhin/kousei/|title=歌舞伎舞踊の作品と表現-五段構成と序破急|accessdate=2014-02-28|year=2009|work=文化デジタルライブラリー|publisher=独立行政法人日本芸術文化振興会|language=Japanese|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140306085340/http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc11/sakuhin/kousei/|archivedate=2014-03-06}}</ref>。 <!--起承転結はもともと「[[句]]」や「[[句切れ]]」の構成を端的に表す[[四字熟語]]であり、説明文、実用文書には[[段落]]([[パラグラフ]])や[[節 (文法)|節]]を意識した構成が必要となる。さらには、複雑な事柄や、全く新しいことを記述する文書などは章<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?kind=jn&mode=0&MT=%be%cf&from=stick6&PT=stick6 章] [[三省堂]][[大辞林]]</ref>を設ける構成も要る{{fact|date=2014年3月}}。(編者注: 出典が示されていないためコメントアウトして保留。)--> === パラグラフ・ライティング === パラグラフ・ライティングは、英語の論理的文章の一般的なスタイルである。パラグラフ・ライティングは、序論 (Introduction)、本論 (Body)、結論 (Conclusion) の三部構成から成り立っている<ref name="tanabe"/><ref name="iwamoto">{{Cite journal|和書|author=岩本一 |date=2002-03 |title=パラグラフ・ライティングの応用 |journal=dialogos |ISSN=1346-3101 |publisher=東洋大学文学部英語コミュニケーション学科 |volume=2 |pages=25-41 |naid=120005299612 |url=http://id.nii.ac.jp/1060/00005033/ |accessdate=2022-06-01}}</ref>。パラグラフ・ライティングでは、結論にあたる主張が、文章全体の最初のパラグラフ (段落) に書かれる。続いて、その根拠が1つ以上のパラグラフによって示される。そして、最後のパラグラフでは、それまでのパラグラフが要約され、また、結論にあたる主張が表現を替えて繰り返される<ref name="chukyo">{{Cite web|和書|author=中京大学国際英語学部国際英語学科|url=http://www.chukyoeibei.org/media/awkt-e-j.pdf|title=Basic Terms for Academic Writing in English: アカデミック・ライティングのための基本用語|publisher=中京大学国際英語学部国際英語学科|format=PDF|language=Japanese|accessdate=2014-05-11}}</ref><ref name="iwamoto"/>。 '''序論'''では、論旨 (thesis statement)、すなわち文章全体で一番言いたいことが示される (論旨は序論の終わりに述べられる)。'''本論'''は、その論旨の根拠を書くところである。本論は1つ以上のパラグラフ (段落) から成る。本論のパラグラフは、主題文 (topic sentence) とそれに続く支持文 (supporting sentences) から出来ている。主題文は、そのパラグラフで言いたいことを述べた文であり、支持文はその根拠となる文である。 支持文は5つ以上であることが望ましい。そのようにして本論のパラグラフは成り立つ。'''結論'''は、全体のまとめである。ここでは、本論での論証に基づきながら、序論で述べた論旨が言い換えられ、改めて主張される<ref name="tanabe"/><ref name="chukyo"/><ref name="iwamoto"/>。 パラグラフ・ライティングでは、 "One paragraph, one topic" が原則である。新たなトピック (主題) を述べるときには、段落を分ける。また、トピックや論旨と無関係な文 (irrelevant sentences) は書いてはならない。起承転結の「転」のような論述は、論理の飛躍 (logical leap) であるとして認められない<ref name="tanabe"/>。 === IMRAD形式 === {{main|IMRAD}} IMRAD形式は、[[論文|学術論文]]の典型的な構成である。IMRAD形式は、導入 (Introduction)、方法 (Methods)、結果 (Results)、および考察 (Discussion) から成る。派生的な形式も含めれば、学術論文の構成はIMRAD形式が主流となっている。分野別では、[[生命科学|生物科学]]を始め、[[化学]]、および[[医学]]などの[[自然科学]]において比較的多く用いられている<ref name="miyata"/>。 === 三幕構成 === {{main|三幕構成}} 三幕構成は、映画などの脚本における一般的な構成である<ref name="structure"/><ref name="act"/><ref name="hamano"/>。三幕構成では、ストーリーの序盤、中盤、終盤が、それぞれ設定 (Set-up)、対立 (Confrontation)、解決 (Resolution) の役割を持つ3つの幕となり<ref> {{Cite book|和書|author=シド・フィールド|authorlink=シド・フィールド|title=映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと: シド・フィールドの脚本術|publisher=フィルムアート社|year=2009|isbn=4845909278|pages=17-22|language=Japanese}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://sydfield.com/writers-tools/the-paradigm-worksheet/|title=THE PARADIGM WORKSHEET|accessdate=2014-03-27|last=Field|first=Syd|year=2013|publisher=sydfield.com|language=English|archivedate=2013-09-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140327003711/http://sydfield.com/writers-tools/the-paradigm-worksheet/}}</ref>、3つの幕の比は1:2:1である<ref>{{Cite book|和書|author=リンダ・シガー (リンダ・シーガー)|title=ハリウッド・リライティング・バイブル|publisher=愛育社|year=2000|isbn=4750000655|pages=43-44|language=Japanese}}</ref>。幕と幕は転換点 (プロットポイント) でつながっている。プロットポイントは、主人公に行動を起こさせ、ストーリーを異なる方向へ転換させる出来事である<ref>{{Cite book|和書|author=シド・フィールド|authorlink=シド・フィールド|title=映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと: シド・フィールドの脚本術|publisher=フィルムアート社|year=2009|isbn=4845909278|page=23|language=Japanese}}</ref>。 [[NHKエンタープライズ]]のエグゼクティブ・プロデューサー (当時) である浜野高宏は、「日本と海外では、ストーリーの組み立て方がかなり異なる。例えば、日本では『起承転結』の概念を知らないプロデューサーはいないだろうが、外国人で知っている人は稀だ。海外では『[[序破急]]』の概念に近い『3幕構成』が主流であり、これは外国人ならほとんどの人が知っている。そのため、ピッチ〔編者注: 企画の売り込み〕を受けた外国人がストーリー構成を聞くときは、この3幕構成に沿った説明を求めていることがほとんどだ。それをすぐに答えられない場合は、基本的なことすら考えていない企画以前の段階なのだ、と思われてしまう。」と述べている<ref name="hamano"/>。 == 日本における受容 == 起承転合 (起承転結) の語は、[[16世紀|16世紀半ば]]の[[国語辞典]]である『[[運歩色葉集]]』に、日本における早い使用例が見られる<ref name="takamatsu"/>。その後の日本においては、ある時点から、起承転結の構成は、漢詩以外の文章にも転用されるようになった。 [[1802年]]には、[[十返舎一九]]による『起承転合』と題した[[洒落本]]が刊行されている。このときの題名も『起承転合』であり、「起承転結」ではなかった<ref>{{Cite web|和書|work=古典籍総合データベース|url=https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_03633_0057/index.html|title=起承転合 / 十偏舎一九 [撰・画]|publisher=早稲田大学図書館|language=Japanese|accessdate=2014-05-23}}</ref>。中国においては、文学者の[[魯迅]]が、[[1928年]]に出版された『而已集』の「通信」の中で、既に起承転結 (起承転合) の転用を行っている<ref>{{Cite book|和書|author=魯迅|title=魯迅選集||volume=7|publisher=岩波書店|date=1956-09-22|page=126|asin=B000JB1DEC|language=Japanese|quote=だがやむを得ない、なんとか'''起承転結''' (起承転合) を塩梅して、壇上にあがりああだこうだといいます。ただし私は規定を自分でつくっていて、せいぜい十分間を限っています。しかし気持ちは楽しくないので、演説の前とか後で、私はいつも、……}}</ref>。 [[夏目漱石]]および[[寺田寅彦]]は「漢詩の構成」という本来の意味で「起承転結」の語を用いているが、寺田は比喩としても使用しており、[[1931年]]の『連句雑俎』では四部構成を漢詩のみでなく「戯曲にも小説にも用いられる必然的な構成法」としている<ref>{{Cite book|和書|author=夏目漱石|authorlink=夏目漱石|title=夏目漱石全集|volume=7|url=http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/792_14937.html|publisher=筑摩書房|series=ちくま文庫|date=1988-04-26|language=Japanese|quote=……ふと十七字を並べて見たりまたは'''起承転結'''の四句ぐらい組み合せないとも限らないけれども……}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=寺田寅彦|authorlink=寺田寅彦|title=寺田寅彦随筆集|volume=3||url=http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2461_11119.html|publisher=岩波書店|series=岩波文庫|date=1948-05-15|language=Japanese|quote=元来この四楽章構成は決して偶然なものではなくて、ちょうど漢詩の'''起承転結'''などにも現われまた戯曲にも小説にも用いられる必然的な構成法であって特に連句のみに限られたことではないのであるが、……}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=寺田寅彦|authorlink=寺田寅彦|title=寺田寅彦随筆集|volume=2|url=http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2455_10268.html|publisher=岩波書店|series=岩波文庫|date=1947-09-10|language=Japanese|quote=実際この線香花火の一本の燃え方には、「序破急」があり「'''起承転結'''」があり、詩があり音楽がある。 ところが近代になってはやり出した電気花火とかなんとか花火とか称するものはどうであろう。}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=寺田寅彦|authorlink=寺田寅彦|title=寺田寅彦随筆集|volume=3|url=http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2469_9349.html|publisher=岩波書店|series=岩波文庫|date=1948-05-15|language=Japanese|quote=そうして序破急と言いあるいは'''起承転結'''と称する東洋的モンタージュ手法がことごとく映画編集の律動的原理の中にその同型を見いだすのである。}}</ref>。また同じころ、詩人の[[横山青娥]]は『新らしい詩の作り方(1931年)』において、自由詩に拡張した起承転結の必要性を主張している<ref>{{Cite book|和書|author=横山青娥|authorlink=横山青娥|title=新らしい詩の作り方|page=116|url={{NDLDC|1111384}}|publisher=交蘭社|date=1931-06-10|language=Japanese|quote=漢詩に限らず、詩歌はこの'''起承転結'''の型を踏んでいます。ただ今日の新しい詩にはこの型を用いないものも多く見受けるが、詩作の根本にあってはこの'''起承転結'''を常に心掛けていべきです。}}</ref> 。 遅くとも[[1940年代]]には「文章や物事の構成」という意味での「起承転結」の転用を一般化した例がみられる([[筈見恒夫]]『映画五十年史』<ref>{{Cite book|和書|author=筈見恒夫|title=映画五十年史|edition=2||url={{NDLDC|1125750}}|page=254|publisher=鱒書房|date=1947-10-05|language=Japanese|quote=『[[ハワイ・マレー沖海戦]]』は、[[真珠湾攻撃]]に参加した[[特別攻撃隊|特攻隊員]]とその家庭、隊員の猛訓練を描いたもので、劇的な'''起承転結'''は見出せない。こゝにあるものは通常の日本人の家庭と、当り前の少年隊員である。この映画は、さうした淡々たる日常茶飯的なものと、……}}</ref>)。 [[1961年]]に出版された『作文の授業入門』([[今井誉次郎]]著) は、「起承転結」について、「これはいうまでもなく、漢詩の句の排列の名称です」としながら、[[作文]]の表現として取り上げている。「これを子どもたちにもよくわかるようにいいあらわすと、『はじめ』『つづき』『かわり』『むすび』ということになるでしょうか」と、今井は述べている<ref>{{Cite book|和書|author=今井誉次郎|authorlink=今井誉次郎|title=作文の授業入門|publisher=明治図書出版|date=1961|page=187|asin=B000JANEZY|language=Japanese}}</ref>。今井は「[[日本作文の会]]」の委員長を務めた<ref>『日本人名大辞典+Plus』デジタル版 「[https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E8%AA%89%E6%AC%A1%E9%83%8E-1056262 今井誉次郎 【いまいたかじろう】]」の頁</ref>。日本作文の会によれば、日本の国語教育で「書くこと」が重視されるようになったのは、戦後のことであるという<ref>{{Cite web|和書||url=http://homepage3.nifty.com/nissaku/sakubunnnokaitowa.html|title=日本作文の会とは|publisher=日本作文の会|language=Japanese|accessdate=2014-05-30|archivedate=2013-11-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131113014522/http://homepage3.nifty.com/nissaku/sakubunnnokaitowa.html}}</ref>。 [[小国英雄]]は、[[1970年]]前後またはそれ以前に、「中国に、"起承転結"という言葉がある。この言葉は作劇上の構成をうまく表現した言葉で、これからシナリオを書く人はこの順序に従って劇を作って行くと便利ではないかと思われる。」と、語の紹介から始めている。また、この文章の掲載された『シナリオ作法考』(1969年または1971年に出版) は、起承転結のみでなく、[[アリストテレス]]の3部分説から[[グスタフ・フライターク|フライターク]]の5段階説に至る「近代作劇術の基礎」を解説している<ref name="toriumi"/>。 [[1980年]]に出版された『NHK新アナウンス読本』([[NHK出版|日本放送出版協会]]) では、[[日本放送協会|NHK]] (日本放送協会) のニュースの原稿は、起承転結によって構成されているとしている。「起承転結は、文章でも音楽でも、あらゆる構成の基本型です」と同書は記している<ref>{{Cite book|和書|editor=日本放送協会|title=NHK新アナウンス読本|publisher=日本放送出版協会|date=1980-03|page=195|isbn=4140110309|language=Japanese}}</ref>。 === 国会での用例 === 日本の[[国会]]においては、第1回 ([[1947年]]) 以降、「起承転結」の語を最初に用いたのは、第16回 ([[1953年]]) 6月30日の衆議院文部委員会における[[世耕弘一]]の質問である<ref>参照。[https://kokkai.ndl.go.jp/ 国会会議録検索システム]</ref>。世耕の発言は、起承転結の本来の意味、すなわち漢詩の構成という意味に基づいて、かつての[[教育勅語]]の[[詩吟]]としての芸術性を主張するものであった。世耕はまず、起承転結の語を紹介することから始めている<ref>{{cite conference|date=1953-06-30|title=衆議院文部委員会|volume= 5 |conference=第16回国会}}</ref>。 {{Quotation|詩に'''起承転結'''という法則がございます。詩吟するときにその転の部分を一きわ声を張り上げるようになつております。教育勅語にも芸術性がございまして、君に忠に親に孝にと、まことに朗吟に適し、……|世耕弘一|第16回国会・衆議院文部委員会5号、1953年6月30日。}} これ以降、「起承転結」の語が国会において用いられることは17年間にわたって無く、[[1970年代]]に入り、突然、「文章や物事の構成」という意味での転用が3例<ref name="aichi">{{cite conference|date=1970-04-14|title=参議院外務委員会|volume=7|conference=第63回国会}}</ref> <ref name="ueda">{{cite conference|date=1973-08-30|title=参議院内閣委員会|volume=24|conference=第71回国会|quote=……ひとつそういう方針の転換があるときには、国会、委員会の権威にかけて御報告なさい、これから。……この方向でやりたいと思うのだと、大臣が答えたとする。その点、何も変更なしにすいすいとやられてしまうということなら、やらずぶったくりですよ。……こういうことはきちっと'''起承転結'''を明らかにするということを約束をしてくださるか。}}</ref><ref name="marutani">{{cite conference|date=1979-03-22|title=参議院農林水産委員会|volume=6|conference=第87回国会|quote=どうもちょっと、そうすると大臣の発言としてはいま言われたようなふうに伝わっていないと思うんですよ、われわれが聞いている限りでは。もう少しちゃんと'''起承転結'''のある形での発言をしていただかないと困るのじゃないかと思うんですが、どうですか。}}</ref>、[[1980年代]]には8例<ref>{{cite conference|date=1980-02-22|title=参議院エネルギー対策特別委員会|volume=2|conference=第91回国会|quote=午前中の説明を聞いていますときわめてきちっとしているのです、'''起承転結'''が。}}</ref><ref>{{cite conference|date=1980-03-28|title=参議院大蔵委員会|volume=9|conference=第91回国会|quote=実は、総理の話しているときには大変わかりにくいことがあるんですけれど、後で記録を読むと、実にきちっと'''起承転結'''のりっぱな文章になっているのに私はかねがね感心していたんです。}}</ref><ref>{{cite conference|date=1980-05-08|title=参議院法務委員会|volume=8|conference=第91回国会|quote=つまり逆な、そういう発想を少し――'''起承転結'''、序論があって総論があって各論があって結論というんじゃなくて、結論から少し持ってくるようなPRが必要じゃないかと思う、特にこの法案の場合はですね。}}</ref><ref>{{cite conference|date=1984-03-10|title=衆議院予算委員会第三分科会|volume=1|conference=第101回国会|quote=暴力につきましても、例えばテレビ一つ取り上げてもそうでありますが、おもしろおかしく、結果的に暴力を犯し殺人を犯すことは処罰されるということの'''起承転結'''はテレビの中にある程度出ておりますけれども、そういうことのわからない子供たちの目の前で、……}}</ref><ref>{{cite conference|date=1984-03-12|title=衆議院予算委員会第七分科会|volume=2|conference=第101回国会|quote=それから中学校になりますと、いろいろ先生から今御指摘がありましたように、書き出しからあいさつ、その順序、こういった'''起承転結'''とか、こういったところまできちっと実は教科書などにも出ておりますし、……}}</ref><ref>{{cite conference|date=1984-07-25|title=衆議院社会労働委員会|volume=28|conference=第101回国会|quote=「……むしろこれだけ力を入れてきたのだから結核ぐらいちゃんと始末したらどうだといいたいのです。ひとつぐらいの病気についてまともに'''起承転結'''をつけてみたらどうか。……」と、こういうふうに言われておるわけです。}}</ref><ref>{{cite conference|date=1984-07-31|title=参議院内閣委員会|volume=19|conference=第101回国会|quote=これから審議会の御論議が進んでいくわけでございますけれども、審議会全体を、三年間を、春夏秋冬といいますか、'''起承転結'''といいますか、まず開会の辞から始まって、行儀よく、ずっと総論から順番に、はしがきから最後の終わりに臨んでまでを行儀正しく秩序整然といくのも一つの考え方でございますけれども、大体の流れとしてはそうなるでしょうけれども、……}}</ref><ref>{{cite conference|date=1989-06-13|title=参議院予算委員会|volume=12|conference=第114回国会|quote=まあ'''起承転結'''ですから、大臣就任で資産公開して、終わったときに資産公開。それはその間に悪いことをする大臣なんてまずいませんよ。}}</ref>現れる。国会において最初にそのような転用を行ったのは、外務大臣 (当時) の[[愛知揆一]]である<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/ 国会会議録検索システム]</ref>。[[1970年]]3月31日に発生した[[共産主義者同盟赤軍派|赤軍派]]の[[よど号ハイジャック事件]]の時期と重なったため、[[ソビエト連邦]]との外交交渉の顛末(てんまつ)が不明瞭となったことを、愛知は同年4月14日に述べている<ref name="aichi"/>。 {{Quotation|ただいまもお話がございましたように、これはハイジャック事件の突発によりましてこの問題の'''起承転結'''が少しぼやけている傾きがございます。政府とこの問題についてのソ連側との交渉、それからその終末でございますけれども、……これが終結するに至りますまでの正式の交渉のてんまつでございます。|愛知揆一・外務大臣 (当時)|第63回国会・参議院外務委員会7号、1970年4月14日。}} 1970年代の国会における他の用例としては、[[上田哲]]による[[1973年]]の第71回国会・参議院内閣委員会での発言<ref name="ueda"/>、および[[丸谷金保]]による[[1979年]]の第87回国会・参議院農林水産委員会での発言がある<ref name="marutani"/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}}--> === 出典 === {{reflist|23em}} == 関連項目 == * [[作文]] * [[中国文学]] * [[プロット (物語)]] * [[三幕構成]] - 脚本構成の[[デファクトスタンダード|事実上の標準]] * [[序破急]] - 三段構成 * [[起承鋪叙結]] - 五段構成 * [[IMRAD]] * [[Five-paragraph essay]] * [[:en:Dramatic structure|Dramatic structure]] {{lit-stub}} {{デフォルトソート:きしようてんけつ}} [[Category:中国文学]] [[Category:表現技術]] [[Category:中国の言葉の文化]] [[Category:日本語の成句]] [[Category:日本の文学用語]] [[Category:アカデミックスキル]]
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どきどき姉弟ライフ
『どきどき姉弟ライフ』(どきどきしていライフ)は、後藤羽矢子による日本の4コマ漫画。 竹書房の雑誌『まんがライフ』(月刊)にて、1999年12月号にゲスト掲載。その後、同誌で2000年2月号から2003年5月号までゲスト含め計40話、『まんがライフオリジナル』(月刊)にて、2000年9月号から2003年4月号まで計33話、それぞれ連載された。 後藤羽矢子の4コマ作家としての連載デビュー作で、出世作。青年男性読者層をターゲットとした『ラブコメ系萌え4コマ漫画』の元祖とも言える作品である(この作品が登場する以前のラブコメ系4コマは主に女性読者層をターゲットとした少女漫画系のものが主流であった)。 義理の弟のことを1人の男性として好きになってしまった女性を、笑いあり涙ありで描く恋物語。いわゆる「ストーリー4コマ」に属する作品で、ラブコメディーのようなストーリーが展開する。 『まんがライフ』での「本編」では主人公の2人が親元を離れて同棲を始めてから、『まんがライフオリジナル』での「高校編」では2人とも親元で同じ高校(静岡県立文楽高等学校:架空)に通っていた頃、という異なる時期のエピソードが同時進行で連載されていたのも、この作品の特徴である。 これは竹書房から2誌連載を持ちかけられた時に「ストーリーが2誌にまたがるとややこしくなる」という理由で時間軸を別にしたものであるが、本編が連載後半以降緊迫した展開になった時に、高校編は従来のほのぼのとした雰囲気を維持出来、上手く棲み分けが出来たという効果もあった。 竹書房より「バンブーコミックス」として刊行されている。全4巻完結。 作者自身が執筆している公式ストーリー。
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『どきどき姉弟ライフ』(どきどきしていライフ)は、後藤羽矢子による日本の4コマ漫画。 竹書房の雑誌『まんがライフ』(月刊)にて、1999年12月号にゲスト掲載。その後、同誌で2000年2月号から2003年5月号までゲスト含め計40話、『まんがライフオリジナル』(月刊)にて、2000年9月号から2003年4月号まで計33話、それぞれ連載された。 後藤羽矢子の4コマ作家としての連載デビュー作で、出世作。青年男性読者層をターゲットとした『ラブコメ系萌え4コマ漫画』の元祖とも言える作品である(この作品が登場する以前のラブコメ系4コマは主に女性読者層をターゲットとした少女漫画系のものが主流であった)。
『'''どきどき姉弟ライフ'''』(どきどきしていライフ)は、[[後藤羽矢子]]による[[日本]]の[[4コマ漫画]]。 [[竹書房]]の雑誌『[[まんがライフ]]』(月刊)にて、[[1999年]]12月号にゲスト掲載。その後、同誌で[[2000年]]2月号から[[2003年]]5月号までゲスト含め計40話、『[[まんがライフオリジナル]]』(月刊)にて、2000年9月号から2003年4月号まで計33話、それぞれ連載された。 後藤羽矢子の4コマ作家としての連載デビュー作で、出世作。[[青年]]男性読者層をターゲットとした『[[ラブコメディ|ラブコメ]]系[[4コマ漫画#萌え4コマ|萌え4コマ]]漫画』の元祖とも言える作品である(この作品が登場する以前のラブコメ系4コマは主に女性読者層をターゲットとした少女漫画系のものが主流であった)。 == 概要 == 義理の弟のことを1人の男性として好きになってしまった女性を、笑いあり涙ありで描く恋物語。いわゆる「ストーリー4コマ」に属する作品で、ラブコメディーのようなストーリーが展開する。 『まんがライフ』での「'''本編'''」では主人公の2人が親元を離れて同棲を始めてから、『まんがライフオリジナル』での「'''高校編'''」では2人とも親元で同じ[[高等学校|高校]](静岡県立文楽高等学校:架空)に通っていた頃、という異なる時期のエピソードが同時進行で連載されていたのも、この作品の特徴である。 これは竹書房から2誌連載を持ちかけられた時に「ストーリーが2誌にまたがるとややこしくなる」という理由で時間軸を別にしたものであるが、本編が連載後半以降緊迫した展開になった時に、高校編は従来のほのぼのとした雰囲気を維持出来、上手く棲み分けが出来たという効果もあった。 == 主な登場人物 == ; 川澄あゆこ(かわずみ あゆこ) : 本編の主人公。[[静岡県]]出身で、[[東京都|東京]]の[[広告代理店]]勤務。父親の再婚相手の連れ子である義弟のことが大好きで、それは「家族愛」のレベルを超えている。義弟なので、恋愛も自由で、法律上結婚も自由([[民法 (日本)|民法]]734条)なのだが、弟は自分のことを実姉だと思っているので、その感情を押し殺して過ごしている。わがままで、感情のままに動くところがあるので、いつも弟に迷惑をかけているが、時として姉らしく弟を助けることもある。 ; 川澄くまお(かわずみ くまお) : あゆこの義理の弟。東京の動物の専門学校に通うようになってからは、あゆこと同棲することになった。幼い頃に[[水痘|水疱瘡]]を悪化させて高熱を出し、[[病院]]に送られてからはそれ以前の記憶が無い。そのため、父親と姉に血のつながりが無いことを知らない。わがままな姉には振り回されているが、あまり嫌でもないらしい。なぜか動物に好かれ、動物を意のままに操ることができる。朴訥とした風貌で決してイケメンではないが、温厚で紳士的な性格のため女性からの人気も高い。 ; 山岸やよい(やまぎし やよい) : あゆこが勤務する広告代理店の先輩。あゆこが弟のことを好きだと知ってからは、好奇の目で成り行きを見守っている。時として、2人の仲を進展させるために「悪巧み」を企むこともある。 ; 山岸睦月(やまぎし むつき) : やよいの弟で、大学生。やよいにあゆこを紹介してもらい、あゆこがくまおのことを好きであるというのを承知の上で、付き合ってもらえるよう申し込んできた男。のちにくまおの親友にもなる。 ; 石田みちる(いしだ みちる) : くまおの同級生。人間嫌いで、予期しない人と接触すると体が震え出してしまう。くまおとは仲がいいようで、あゆこにも心を許すようになる。酒乱の気がある。 ; 川澄のりお(かわずみ のりお) : あゆこの実の父親で、設計士。あゆこが4歳の時に妻に先立たれ、その4年後にくまおの実母と結婚。ムードを大事にする男で、感情が高ぶった時には心に流れるメロディーを口ずさみ始める。 ; 川澄まさえ(かわずみ まさえ) : くまおの実の母親。前の夫とは離婚し、のりおとは仕事の関係で知り合った。旧姓「キムラ」。外見はぼんやりしていそうな雰囲気だが、実はしっかり者。いわゆる「ツッコミ役」のキャラクター。 ; 鳥海(川澄)そらこ(とりうみ<!--?--> そらこ) : あゆこの実の母親。のりおは、コロッケ屋を手伝っていた時の常連客。あゆこが4歳の時に病気で亡くなってしまった。 == 書誌情報 == === 単行本 === 竹書房より「バンブーコミックス」として刊行されている。全4巻完結。 # 第1巻(2001年6月28日発行) ISBN 4-8124-5520-0 本編1~15話、高校編1~6話を収録 # 第2巻(2002年3月27日発行) ISBN 4-8124-5621-5 本編16~26話、高校編7~12話を収録 # 第3巻(2002年12月27日発行) ISBN 4-8124-5743-2 本編27~34話、高校編13~21話を収録 # 第4巻(2003年8月26日発行) ISBN 4-8124-5837-4 本編35~40話、高校編22~33話を収録 === 同人誌 === 作者自身が執筆している公式ストーリー。 * そらいろ(2002年5月3日発行) そらことのりおの新婚時代のサイドストーリー。性描写あり。 * あゆくま(2003年5月4日発行) 雑誌での最終回から1ヶ月半後に発行。あゆことくまおの最終回直後のサイドストーリー。性描写あり。 {{Manga-stub}} {{DEFAULTSORT:ときときしていらいふ}} [[Category:漫画作品 と|きときしていらいふ]] [[Category:4コマ漫画]] [[Category:まんがライフ]] [[Category:まんがライフオリジナル]] [[Category:複数誌並行連載の漫画作品]] [[Category:義兄弟姉妹の恋愛を扱った漫画作品]] [[Category:1999年の漫画]]
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法 (仏教)
仏教における法(ほう、梵: dharma、巴: dhamma)とは、法則・真理、教法・説法、存在、具体的な存在を構成する要素的存在などのこと。本来は「保持するもの」「支持するもの」の意で、それらの働いてゆくすがたを意味して「秩序」「掟」「法則」「慣習」など様々な事柄を示す。三宝のひとつに数えられる。仏教における法を内法と呼び、それ以外の法を外法と呼ぶ。 ダルマは「たもつ」「支持する」などの意味をもつ動詞 (dhṛ) からつくられた名詞であり、漢訳仏典では音写されて達磨(だつま)、達摩(だつま)、曇摩(どんま)、曇無(どんむ)などとなり、通常は「法」と訳されている。また、「存在」を意味する男性名詞「梵: bhāva」が、玄奘により法(『阿毘達磨倶舎論』)と、真諦により法有(『阿毘達磨倶舎釈論』)と、それぞれ訳されていた。 また、この世に存在する有形・無形のすべての存在を一切法(諸法)とよび、宗派により様々な教説がなされている。 法(dhamma)は、仏教の興起以前のインドで、長い間重要な意味を持っていた。 ヴェーダ時代には、「天則」・「理法」の意味をもつ「リタ」(ṛta)、「法度」を意味する「ヴラタ」(vrata) と併用されている。この「リタ」や「ヴラタ」は天地運行の支配者であり、四季(ṛtu)の循環などをも支配するもので、主に神意を表現する。これに対し「法」は人倫道徳を支配するもので、人間生活を秩序づけると考えられた。そこで「法」が、社会の秩序や家庭の秩序をさし、さらに人間の日課も「法」と言われた。 ウパニシャッド時代に入ると、「法」は最高の真理を意味する。ウパニシャッドではブラーフマン〔=梵〕やアートマン〔=我〕などの形而上学的な概念が重要視されたので、この「法」はそれらより低いものと見られた。 仏教の時代に入ると「法」は非常に重要な言葉・思想・実践となった。「法」をよりどころとし、「法」を規範としての生活こそ仏教者の生活であるという教法は、仏典に多く記述されている(自灯明)。 それ故に、この世で自らを洲とし、自らを拠り所として、他人を拠り所とせず、法を洲とし、法を拠り所として、他のものを拠り所せずにあれ。 アーナンダよ、あなた方のため私によって示し定めた「法と律」が、私の死後は、あなた方の師である。 釈迦の死後、迦葉が収集して開催された第一結集において、アーナンダを中心として法がまとめられた。 仏教信者にとって法は三宝のひとつとして尊ばれ、法を説いた仏や、法を実践して生活する集団である僧とともに重視される。 上記にも述べたように、「法」の概念は仏教では多岐にわたる。ロシアの仏教学者シチェルバツコイ(露:Щербатской, Фёдор Ипполитович、英: Fyodor Shcherbatskoy)は、「法」の語をほぼ二義にまとめている。 法句経5の「実に怨みは怨みによって止むことはない。怨みを捨ててこそ止む。これは万古不易の法である」という時の「万古不易の法」は、変わらない真理の意味の法とされる。 つぎに、仏陀の説いた教えを九部経にまとめるが、これが法と呼ばれている。 また、法は、仏陀がその悟りにおいて見きわめた人生についての真理あるいはその真理を説き明かした仏陀の教説をさして用いる語であり、法(ダルマ)に対する研究をアビダルマ(阿毘達磨)と呼ぶ。 古い経典には「法をみるものは我をみる。我をみるものは法をみる」と説かれる。 釈迦のさとった法は、釈迦のドグマではない。「世間の実相」「世界の真理」であるというのが釈迦がみずからの所信であり、仏教の主張とされる。この「法」(=真理) とは、縁起の理である。 この真理としての「法」を、具体的な釈迦の教えでいうと、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三法印といわれる法であり、無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死の十二縁起の法である。このような「法」は中道をいい、仏陀の説かれた苦・集・滅・道の四諦の法でもある。特に、釈尊の悟った真理の中の真理とも言えるものを、邪法ではないと言う意味で正法(妙法)と言う。 後にこの教法が釈迦没後に結集の結果、経(スートラ)になった。 「一切の法(=ものごと)は無我である」(諸法無我)と 明らかな智慧をもって観るときに、 ひとは苦から厭い離れる。 これが清浄への道である。 存在としての「法」とは、具体的に「存在している個々のもの」を法という。唯識思想では、現象と本質を区別し、現象を法(Dharma)といい、本質(客観と主観との二元的対立をこえたところに現前する事物の本来的あり方)を法性(Dharmatā)という。 勝義諦(しょうぎたい)とか真諦とかいわれるのは、「真理の立場からみた世界の真相」といわれる。 この「存在現象」としての「法」について、古くは「能持自相、軌生解故」と規定している(『倶舎論宝疏』)。 古い仏典では五蘊の法といわれるものを「法」という。これは無常変転して、常住ではない現象存在である無常法そのものではなく、存在を存在あらしめている「色・受・想・行・識」の構成要素として、特性と特相をもっているものをいう。 また「十二処」という表現もされ、認識の根本となる眼耳鼻舌身意などの感覚器官と、色声香味触法の認識の対境となるものを指す。 このように「法」が存在を意味する場面がある。 後には、形而上的な思惟によって「法」を有為法と無為法とに分けて考えられることになる。「有為法」は無常変転する存在として、それを色法、心法、不相応法などと説き、「無為法」として常住不変の法を説く。部派仏教の説一切有部や、大乗仏教の瑜伽唯識学派などは、この存在としての法を、五位七十五法とか五位百法と詳しく分類した。
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仏教における法とは、法則・真理、教法・説法、存在、具体的な存在を構成する要素的存在などのこと。本来は「保持するもの」「支持するもの」の意で、それらの働いてゆくすがたを意味して「秩序」「掟」「法則」「慣習」など様々な事柄を示す。三宝のひとつに数えられる。仏教における法を内法と呼び、それ以外の法を外法と呼ぶ。 ダルマは「たもつ」「支持する」などの意味をもつ動詞 (dhṛ) からつくられた名詞であり、漢訳仏典では音写されて達磨(だつま)、達摩(だつま)、曇摩(どんま)、曇無(どんむ)などとなり、通常は「法」と訳されている。また、「存在」を意味する男性名詞「梵: bhāva」が、玄奘により法(『阿毘達磨倶舎論』)と、真諦により法有(『阿毘達磨倶舎釈論』)と、それぞれ訳されていた。 また、この世に存在する有形・無形のすべての存在を一切法(諸法)とよび、宗派により様々な教説がなされている。
{{for|[[インド発祥の宗教]]での総論|ダルマ (インド発祥の宗教)}} {{Infobox Buddhist term | title = 法 | en = Norm, truth, nature, morality | pi = {{lang|pi|धम्म}} Dhamma (ダンマ) | sa = {{lang|sa|धर्म}} Dharma (ダルマ) | bn = | my = | my-Latn = | zh = 法<br>軌則<br>達摩 | zh-Latn = | id = | ja = 法 | ja-Latn = hou | jv = | km = | km-Latn = }} [[仏教]]における'''法'''(ほう、{{lang-sa-short|dharma}}、{{lang-pi-short|dhamma}})とは、[[法則]]・[[真理]]、教法・説法、[[存在]]、具体的な存在を構成する要素的存在などのこと。本来は「保持するもの」「支持するもの」の意で、それらの働いてゆくすがたを意味して「秩序」「掟」「法則」「慣習」など様々な事柄を示す。[[三宝]]のひとつに数えられる。仏教における法を[[内法]]と呼び、それ以外の法を[[外法]]と呼ぶ。 '''ダルマ'''は「たもつ」「支持する」などの意味をもつ動詞 (dhṛ) からつくられた名詞であり、漢訳仏典では音写されて'''達磨'''(だつま)、'''達摩'''(だつま)、'''曇摩'''(どんま)、'''曇無'''(どんむ)などとなり、通常は「法」と訳されている。また、「存在」を意味する男性名詞「{{lang-sa-short|bhāva}}」が、[[玄奘]]により'''法'''(『[[阿毘達磨倶舎論]]』)と、[[真諦]]により'''法有'''(『[[阿毘達磨倶舎釈論]]』)と、それぞれ訳されていた{{sfn|村上|2010|p = 235}}。 また、この世に存在する有形・無形のすべての存在を[[一切法]](諸法)とよび、宗派により様々な教説がなされている<ref>{{Kotobank|諸法}}</ref>。 ==インド哲学における「法」== {{出典の明記|section=1|date=2019-05}} {{Main|ダルマ (インド発祥の宗教)}} 法(dhamma)は、仏教の興起以前のインドで、長い間重要な意味を持っていた。 [[ヴェーダ]]時代には、「天則」・「理法」の意味をもつ「リタ」(ṛta)、「法度」を意味する「ヴラタ」(vrata) と併用されている。この「リタ」や「ヴラタ」は天地運行の支配者であり、四季(ṛtu)の循環などをも支配するもので、主に神意を表現する。これに対し「法」は人倫道徳を支配するもので、人間生活を秩序づけると考えられた。そこで「法」が、社会の秩序や家庭の秩序をさし、さらに人間の日課も「法」と言われた。 [[ウパニシャッド]]時代に入ると、「法」は最高の真理を意味する。ウパニシャッドでは[[ブラフマン|ブラーフマン]]〔=梵〕や[[アートマン]]〔=我〕などの[[形而上学]]的な概念が重要視されたので、この「法」はそれらより低いものと見られた。 ==仏教における「法」== [[仏教]]の時代に入ると「法」は非常に重要な言葉・思想・実践となった。「法」をよりどころとし、「法」を規範としての生活こそ仏教者の生活であるという教法は、[[仏典]]に多く記述されている(自灯明)。 {{Quotation| それ故に、この世で自らを洲とし、自らを拠り所として、他人を拠り所とせず、法を洲とし、法を拠り所として、他のものを拠り所せずにあれ。 アーナンダよ、あなた方のため私によって示し定めた「法と[[律 (仏教)|律]]」が、私の死後は、あなた方の師である。<ref> {{SLTP|[[大般涅槃経 (上座部)|大般涅槃経]]}}</ref><ref name="baba">{{Cite |和書|title=初期仏教――ブッダの思想をたどる |series=岩波新書 |author=馬場紀寿 |isbn=978-4004317357 |date=2018 |pages=56-59}}</ref> }} 釈迦の死後、[[迦葉]]が収集して開催された第一[[結集]]において、[[アーナンダ]]を中心として法がまとめられた<ref name="baba"/>。 仏教信者にとって法は[[三宝]]のひとつとして尊ばれ、法を説いた[[仏陀|仏]]や、法を実践して生活する集団である[[僧]]とともに重視される。 上記にも述べたように、「法」の概念は仏教では多岐にわたる。ロシアの仏教学者[[シチェルバツコイ]]([[ロシア語|露]]:{{lang|ru|Щербатской, Фёдор Ипполитович}}、{{lang-en-short|Fyodor Shcherbatskoy}})は、「法」の語をほぼ二義にまとめている<ref>Щербатской, Фёдор Ипполитович [http://psylib.org.ua/books/shchb01/txt16.htm Центральная концепция буддизма и значение термина дхарма // Щербатской Ф. И. Избранные труды по буддизму. — М.: Наука, 1988. С. 169—170]</ref>。 #「真理」の意味を中心とする一群。仏教の「教義」「教法」「法則」などの意味がある。 #「存在」の意味を中心とする一群。「存在するもの」という意味であり、存在の「性質」「徳性」、さらには「具体的な存在」を構成している実体的要素なども含めて考えられる。 ===真理を意味する「法」=== [[法句経]]5の「実に怨みは怨みによって止むことはない。怨みを捨ててこそ止む。これは万古不易の法である」という時の「万古不易の法」は、変わらない真理の意味の法とされる{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=718}}。 つぎに、[[仏陀]]の説いた教えを[[九部経]]にまとめるが、これが法と呼ばれている{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=718}}。 また、法は、[[仏陀]]がその悟りにおいて見きわめた人生についての真理あるいはその真理を説き明かした仏陀の教説をさして用いる語{{sfn|櫻部|2002|p=9}}であり、法(ダルマ)に対する研究を[[アビダルマ]](阿毘達磨){{sfn|櫻部|2002|p=9}}と呼ぶ。 古い経典には「法をみるものは我をみる。我をみるものは法をみる」と説かれる{{sfn|新譯佛教聖典|1925|p=917}}。 [[釈迦]]のさとった法は、釈迦のドグマではない<ref>{{Cite book|和書|title=新譯佛教聖典 縮譯一切經 國民版|date=1932.12|year=1932|publisher=佛教協會、破塵閣書房|pages=80-84|author=佛教協會|NCID=BA59505781}}</ref>。「世間の実相」「世界の真理」であるというのが釈迦がみずからの所信であり、仏教の主張とされる。この「法」(=真理) とは、[[縁起]]の理である<ref>{{Cite book|和書|title=新譯佛教聖典 縮譯一切經 國民版|date=1932.12|year=1932|publisher=佛教協會 破塵閣書房|pages=68-70|author=佛教協會|NCID=BA59505781}}</ref>。 この真理としての「法」を、具体的な釈迦の教えでいうと、[[諸行無常]]・[[諸法無我]]・[[涅槃寂静]]の[[三法印]]といわれる法であり、無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死の[[十二縁起]]の法である。このような「法」は[[中道]]をいい<ref>{{Cite book|和書|title=新譯佛教聖典 縮譯一切經 國民版|date=1932.12|year=1932|publisher=佛教協會 破塵閣書房|pages=92-100|author=佛教協會|NCID=BA59505781}}</ref>、仏陀の説かれた苦・集・滅・道の[[四諦]]の法でもある。特に、[[釈尊]]の悟った真理の中の真理とも言えるものを、[[邪法]]ではないと言う意味で[[正法]]([[妙法]])と言う<ref>{{Cite book|和書|title=新譯佛教聖典 縮譯一切經 國民版|date=1932.12|year=1932|publisher=佛教協會 破塵閣書房|pages=157-161|author=佛教協會|NCID=BA59505781}}</ref>。 後にこの教法が釈迦没後に[[結集]]の結果、[[スートラ|経]](スートラ)になった。 {{Seealso|結集#第1回}} ===存在を意味する「法」=== {{Quote box| 「[[一切法|一切の法]](=ものごと)は[[無我]]である」(諸法無我)と<br> 明らかな[[智慧]]をもって観るときに、<br> ひとは苦から厭い離れる。<br> これが清浄への道である。 | {{SLTP| [[ダンマパダ]] 20}} }} 存在としての「法」とは、具体的に「存在している個々のもの」を法という。唯識思想では、現象と本質を区別し、現象を法(Dharma)といい、本質(客観と主観との二元的対立をこえたところに現前する事物の本来的あり方)を[[法性]](Dharmatā)という{{sfn|横山|1976|p=94 - 95}}。 [[勝義諦]](しょうぎたい)とか[[真諦 (教理)|真諦]]とかいわれるのは、「真理の立場からみた世界の真相」といわれる。 {{Seealso|世間#世間と出世間}} この「存在現象」としての「法」について、古くは「能持自相、軌生解故」と規定している(『倶舎論宝疏』)。 古い仏典では五蘊の法といわれるものを「法」という。これは無常変転して、常住ではない現象存在である無常法そのものではなく、存在を存在あらしめている「色・受・想・行・識」の構成要素として、特性と特相をもっているものをいう。 また「[[十二処]]」という表現もされ、認識の根本となる眼耳鼻舌身意などの感覚器官と、色声香味触法の認識の対境となるものを指す。 このように「法」が存在を意味する場面がある。 後には、{{要出典範囲|形而上的な思惟によって|date=2021年3月}}「法」を[[有為法]]と[[無為法]]とに分けて考えられることになる。「[[有為法]]」は無常変転する存在として、それを色法、心法、不相応法などと説き、「[[無為法]]」として常住不変の法を説く。[[部派仏教]]の[[説一切有部]]や、[[大乗仏教]]の[[瑜伽唯識学派]]などは、この存在としての法を、[[五位七十五法]]とか五位百法と詳しく分類した。 == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book |和書 |author=仏教協會 |year=1925 |title=新譯佛教聖典 |url= |publisher=仏教協會 |ref={{SfnRef|新譯佛教聖典|1925}} }} *{{Cite book |和書 |author=中村元他|authorlink=中村元 |year=1989 |title=岩波仏教辞典 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-080072-8 |ref={{SfnRef|岩波仏教辞典|1989}} }} *{{Cite book |和書 |author=横山紘一|authorlink=横山紘一 |year=1976 |title=唯識思想入門 |publisher=第三文明社 |isbn=978-4-476-01066-4 |ref={{SfnRef|横山|1976}} }} *{{Cite book |和書 |author=櫻部建|authorlink=櫻部建 |year=2002 |title=倶舎論 |publisher=大蔵出版 |isbn=978-4-8043-5441-5 |ref={{SfnRef|櫻部|2002}} }} * {{Cite journal |和書|author=村上真完 |title=法(dharma)と存在(bhava)と存在しているもの(sat) |url=https://doi.org/10.4259/ibk.60.2_892 |journal=印度學佛教學研究 |volume=60 |issue=2 |pages=892-885 |year=2012 |doi=10.4259/ibk.60.2_892 |publisher=日本印度学仏教学会|ref={{SfnRef|村上|2010}}}} == 関連項目 == * [[五位 (仏教)]] * [[邪法]] * [[正法]]([[妙法]]) * [[ダルマ (ジャイナ教)]] {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:ほう}} [[Category:仏教用語]] [[fa:درمه]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
12,500
Rpm (単位)
rpm(アールピーエム)は、英語の"revolutions per minute"または"rotations per minute"の略で、1分の間での回転数である。日本語では回転毎分と言い、回毎分、回転/分 や r/min などとも表記される。 60 rpm = 60 min = 1 rps = 1 s である。国際単位系 (SI) に含まれる単位は s(毎秒)だが、併用単位として min(毎分)も使え、計量法では rpm(回毎分)も認められている。 rpm という単位は、主として回転する機器(回転機)において、一周期を一回帰と見なし、1分間に何度同じ回帰を繰り返したかを表す単位として用いられる。例えば、電動機(モーター)やエンジンを搭載した製品や、ハードディスクドライブなどのカタログや取扱説明書の仕様などにおいて、スペックの表示に用いられる。 また、ファクシミリなどの線による描画を行う機器も、1分間に何度線を記す動作をしたかを示し、記録速度として用いられる。これは初期のファクシミリにおいて、現在のようなラインスキャナとプリンターの組み合わせではなく、回転ドラムを用いて原稿の読み取りや印刷を行っていたことの名残である。
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{{出典の明記|date=2013年9月}} {{小文字}} {{単位 |名称=回転毎分/回毎分 |英字=revolutions/rotations per minute |画像=[[File:Hdd od srodka.jpg|200px|ハードディスクドライブ]] |記号=rpm, r/min |単位系= |物理量=[[回転速度]] |SI= 1/60 s{{sup|−1}} |定義= 毎[[分]]1回の回転速度 |由来= |語源= }} '''rpm'''(アールピーエム)は、[[英語]]の"revolutions per minute"<ref> https://www.oxfordlearnersdictionaries.com/definition/american_english/revolution</ref>または"rotations per minute"の略で、1分の間での回転数である。日本語では'''回転毎分'''と言い、'''回毎分'''、'''回転/分''' や '''r/min''' などとも表記される。 60 rpm = 60 min<sup>−1</sup> = 1 rps = 1 s<sup>−1</sup> である。[[国際単位系]] (SI) に含まれる単位は s{{sup|−1}}([[毎秒]])だが、併用単位として min{{sup|−1}}(毎分)も使え、[[計量法]]では rpm(回毎分)も認められている。 rpm という単位は、主として回転する機器(回転機)において、一周期を一回帰と見なし、1分間に何度同じ回帰を繰り返したかを表す単位として用いられる。例えば、[[電動機]](モーター)や[[機関 (機械)|エンジン]]を搭載した製品や、[[磁気ディスク装置|ハードディスク]]ドライブなどの[[カタログ]]や[[取扱説明書]]の仕様などにおいて、スペックの表示に用いられる。 また、[[ファクシミリ]]などの線による描画を行う機器も、1分間に何度線を記す動作をしたかを示し、記録速度として用いられる。これは初期のファクシミリにおいて、現在のような[[イメージスキャナ|ラインスキャナ]]と[[プリンター]]の組み合わせではなく、回転ドラムを用いて原稿の読み取りや印刷を行っていたことの名残である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[回転運動]] * [[ヘルツ (単位)|ヘルツ]] (Hz) - [[周波数]]の単位 * [[タコメーター]] {{DEFAULTSORT:あるひえむ}} [[Category:回転数の単位]]
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瀧廉太郎
瀧 廉太郎(たき れんたろう、1879年(明治12年)8月24日 - 1903年(明治36年)6月29日)は、日本の音楽家・ピアニスト・作曲家。 明治期における西洋音楽黎明期の代表的な音楽家の一人で、歌唱共通教材として「荒城の月」が知られている。戸籍名は旧字体の「瀧 廉太郎」であるが、現代の教科書などでは新字体で「滝 廉太郎」とも表記される。 1879年(明治12年)8月24日に、旧・日出藩士(現:大分県速見郡日出町)の瀧吉弘の長男として東京府芝区南佐久間町2丁目18番地(現:東京都港区西新橋)に生まれた。両親は吉弘と正子で、瀧家は江戸時代に豊後国日出藩の家老職を代々務めたいわゆる上級武士の家柄である。父・吉弘も日出藩の家老で1872年(明治5年)に上京し、大蔵省から内務省に転じて大久保利通・伊藤博文らの下で内務官僚として勤務したのち、地方官として神奈川県・富山県を経て大分県竹田市に移り住んだ。 廉太郎は1886年(明治19年)5月に神奈川県師範学校附属小学校に入学する。同年9月に父・吉弘の転勤によって富山県尋常師範学校附属小学校に転校し、1888年(明治21年)5月には麹町尋常小学校へ転校し、1890年(明治23年)に卒業した。当時の廉太郎は色白で背が高く都会的な少年で、卒業時にはピアノを演奏したと伝えられているが、曲名などは不明である。廉太郎には2人の姉がおり、ヴァイオリンやアコーディオンを習得していた際に姉が所有していたヴァイオリンに大きな興味を示し、自ら手に取って弾いていたとも伝わる。 その後、廉太郎は故郷・大分県の大分県尋常師範学校附属小学校高等科に入学したが、再び父の転勤によって直入郡にある、旧岡藩の藩校由学館跡に建てられた高等小学校(現:竹田市立竹田小学校)へ転校した。廉太郎は当時アコーディオンを弾いていたが、同校ではオルガンを弾くようになる。1894年(明治27年)4月に卒業後は再び上京し、東京音楽学校(現:東京芸術大学)へ入学してピアノを橘糸重、遠山甲子に学ぶ。1898年(明治31年)に本科を卒業した後は研究科に進むと同時に東京音楽学校の嘱託教師を命じられ、ピアノ科教師として勤務しながら作曲とピアノ演奏において才能を伸ばしていった。廉太郎は1899年(明治32年)に東京市麹町区上二番町に移り住み、後述の博愛教会は近隣に位置していた。 1900年(明治33年)10月7日には東京市麹町区上五番町(現:東京都千代田区)にあった聖公会グレース・エピスコパル・チャーチ(博愛教会)で立教大学初代学長を務めた元田作之進から洗礼を受けてクリスチャンとなり、10月28日にはジョン・マキムから堅信礼を受けた。 翻訳唱歌は明治時代の前半には既に多くの作品が発表されていたが、その大半は間違えた翻訳、または他の無関係な歌詞を当てはめるなどといったように日本語訳詞を無理にはめ込んだ「ぎこちない歌」が多く、日本人作曲家によるオリジナルの唱歌を望む声が高まっていた。廉太郎の代表作である「荒城の月」は、箱根八里と並んで文部省編纂の「中学唱歌」に掲載された。また、廉太郎のもう一つの作品で人気の高い「花」は、1900年(明治33年)8月に作曲された4つの曲からなる組曲「四季」の第1曲で、「お正月」「鳩ぽっぽ」「雪やこんこん」などは幼稚園唱歌に収められた。さらに「荒城の月」はベルギーで讃美歌(聖歌)に選ばれたことも判明している。 ピアニストとしての廉太郎はラファエル・フォン・ケーベルに師事し、その影響を大きく受けてドイツ音楽を至上とする奏法を貫いていた。 1901年(明治34年)4月6日、日本人の音楽家では史上3人目となるヨーロッパ留学生として出国し、5月18日にドイツ帝国・ベルリンに到着し、同地で日本語教師を務めていた文学者の巖谷小波やヴァイオリニストの幸田幸、さらに海軍軍楽隊から派遣され、のちに「君が代行進曲」を作曲するクラリネット奏者の吉本光蔵と交友を持ち、共に室内楽を演奏した。廉太郎はさらにライプツィヒへ向かい、ライプツィヒ音楽院(フェリックス・メンデルスゾーンが設立し、カール・ライネッケが学院長を務める)に入学し、廉太郎は文部省外国留学生としてロベルト・タイヒミュラー(英語版)にピアノを、ザーロモン・ヤーダスゾーンに作曲や音楽理論を学ぶ。 しかし、入学から僅か5ヶ月後の同年11月に肺結核を発病する。オペラを観劇した帰りに体調不良を訴え、風邪の症状から聖ヤコブ病院へ入院後に結核に感染していることが判明した。入院治療を続けるも回復の見込みがなく、廉太郎は退学、帰国を余儀なくされた。なお入院から程なく1902年(明治35年)2月に恩師ヤーダスゾーンが世を去っている。 廉太郎は諸手続きを済ませ、1902年(明治35年)7月10日にドイツを発ち、ロンドンを経由して同年10月17日に横浜に到着した。帰国直後は東京の従兄である大吉の自宅で療養し、大吉が40歳の若さで逝去すると父・吉弘の故郷である大分県で療養していたが、1903年(明治36年)6月29日17時に大分県大分市稲荷町339番地(現:大分市府内町)の自宅で死去した。満23歳没(享年25)。結核に感染していたことから、多くの作品は死後に焼却処分されたという。一部の資料などでは廉太郎の作曲数については多かったとされているが、2022年現在においてその存在が確認されているものは34曲と決して多くない(編曲作品もいくらか現存する)。 瀧家の墓所は日出町の龍泉寺であるが、廉太郎は父と親交のあった大分市金池町の万寿寺に葬られた。戒名は直心正廉居士。但し彼個人は聖公会の教会に属したキリスト教徒であった。 2011年(平成23年)3月、廉太郎の墓は、親族らの意向により万寿寺から先祖の眠る龍泉寺へと移設された。龍泉寺には、廉太郎がドイツ留学時に愛用していた火鉢が残されている。 2019年(平成31年)2月、廉太郎が書いたとされる手紙や譜面、写真など200点以上もの史料が竹田市に寄贈された。 歌曲に有名な作品が多い瀧だが、1900年(明治33年)には日本人作曲家による初めてのピアノ独奏曲「メヌエット」を作曲している。肺結核が悪化して死期が近いことを悟った時、死の4ヶ月前に作曲したピアノ曲「憾(うらみ)」が最後の作品として残された。この2つを除いて、全て声楽作品である。 また、作品の一部は鉄道に関する音楽にも採用されている。代表作の「荒城の月」は九州旅客鉄道豊後竹田駅の列車到着時におけるメロディーとして採用され、「箱根八里」は箱根登山鉄道の発車メロディに使用されている。「花」は東京メトロ銀座線浅草駅の発車メロディーに「ご当地メロディー」として使用されているほか、かつては東北新幹線・上越新幹線の上野駅到着・発車時の車内チャイム(通称「ふるさとチャイム)として使用されていたが、東京駅延伸開業後は使用されていない。
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瀧 廉太郎は、日本の音楽家・ピアニスト・作曲家。 明治期における西洋音楽黎明期の代表的な音楽家の一人で、歌唱共通教材として「荒城の月」が知られている。戸籍名は旧字体の「瀧 廉太郎」であるが、現代の教科書などでは新字体で「滝 廉太郎」とも表記される。
{{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> | 名前 = {{ruby|瀧|たき}} {{ruby|廉太郎|れんたろう}} | 画像 = Taki Rentaro.jpg | 画像サイズ = 200px | 背景色 = maker | 出生 = [[1879年]][[8月24日]]<br />{{JPN}} [[東京府]][[東京市]][[芝区]]南佐久間町(現:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]西新橋) | 出身地 = {{JPN}} [[大分県]][[直入郡]][[竹田町 (大分県)|竹田町]](現:大分県[[竹田市]]) | 死没 = {{死亡年月日と没年齢|1879|8|24|1903|6|29}}<br />{{JPN}} [[大分県]][[大分市]]稲荷町(現:大分県大分市府内町) | 学歴 = [[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]](現:[[東京芸術大学]]) | ジャンル = {{hlist-comma|[[クラシック音楽]]|[[童謡]]|[[唱歌]]}} | 職業 = {{plainlist| * [[音楽家]] * [[作曲家]] }} | 担当楽器 = [[ピアノ]] | 活動期間 = [[1896年]] - [[1903年]] }} '''瀧 廉太郎'''(たき れんたろう、{{旧字体|'''瀧 廉&#xe0100;太郞'''}}、[[1879年]]([[明治]]12年)[[8月24日]] - [[1903年]](明治36年)[[6月29日]])は、[[日本]]の[[音楽家]]・[[ピアニスト]]・[[作曲家]]。 明治期における[[西洋音楽]]黎明期の代表的な音楽家の一人で、歌唱共通教材として「[[荒城の月]]」が知られている。戸籍名は旧字体の「{{kyujitai|'''瀧 廉&#xe0100;太郞'''}}」であるが、現代の教科書などでは新字体で「'''滝 廉太郎'''」とも表記される<ref>{{Cite journal|和書|title=歌唱共通教材としての「荒城の月」|author=木村勢津|journal=愛媛大学教育学部紀要|volume=67|pages=13-37|publisher=愛媛大学教育学部|date=2020-12|url=https://opac1.lib.ehime-u.ac.jp/iyokan/TD30307914}}</ref>。 == 生涯 == === 転校の多い学生時代 === [[1879年]](明治12年)[[8月24日]]に、旧・[[日出藩|日出藩士]](現:大分県速見郡日出町)の瀧吉弘の長男として[[東京府]][[芝区]]南佐久間町2丁目18番地(現:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[西新橋]])に生まれた<ref>楠木(2008)、12頁</ref>。両親は吉弘と正子で、[[多紀氏|瀧家]]は江戸時代に[[豊後国]][[日出藩]]の[[家老]]職を代々務めたいわゆる[[武士|上級武士]]の家柄である{{efn|瀧氏は[[東漢氏|東漢姓]][[大蔵氏 (豊後国)|大蔵氏流]][[多紀氏|瀧氏]]の[[庶家]]としており、「[[前漢]]の[[劉邦|高祖]]の末裔と自称する大蔵氏一族のうちの一人が'''[[多紀氏|多紀太郎]]'''と号した」<ref>「鎮西高橋系図」、[[丹羽基二]]著作/[[樋口清之]]監修』『姓氏』p.201、1970年7月。</ref>とある。}}。父・吉弘も日出藩の家老で[[1872年]](明治5年)に上京し、[[大蔵省]]から[[内務省 (日本)|内務省]]に転じて[[大久保利通]]・[[伊藤博文]]らの下で内務官僚として勤務したのち、地方官として[[神奈川県]]・[[富山県]]を経て[[大分県]][[竹田市]]に移り住んだ<ref name="taki">[http://pietro.music.coocan.jp/storia/taki_rentaro_vita_opere.html 瀧廉太郎 生涯と作品]</ref>。 廉太郎は[[1886年]](明治19年)5月に[[神奈川師範学校|神奈川県師範学校附属小学校]]に入学する。同年9月に父・吉弘の転勤によって[[富山大学教育学部附属小学校|富山県尋常師範学校附属小学校]]に転校し、[[1888年]](明治21年)5月には[[千代田区立麹町小学校|麹町尋常小学校]]へ転校し、[[1890年]](明治23年)に卒業した<ref name="Fujimaru2022">{{Cite web|和書|url=https://artplaza.geidai.ac.jp/column/15801/|title=早世の天才作曲家、瀧廉太郎とは? その功績と生涯を紹介|author=ふじまるあやか|work=藝大アートプラザ|publisher=藝大アートプラザ/東京藝術大学/小学館|date=2022-10-20|accessdate=2023-1-16}}</ref>。当時の廉太郎は色白で背が高く都会的な少年で、卒業時にはピアノを演奏したと伝えられているが、曲名などは不明である。廉太郎には2人の姉がおり、ヴァイオリンやアコーディオンを習得していた際に姉が所有していたヴァイオリンに大きな興味を示し、自ら手に取って弾いていたとも伝わる<ref name="taki"/>。 その後、廉太郎は故郷・大分県の[[大分大学教育学部附属小学校|大分県尋常師範学校附属小学校]]高等科に入学したが、再び父の転勤によって[[直入郡]]にある、旧岡藩の藩校由学館跡に建てられた高等小学校(現:[[竹田市立竹田小学校]])へ転校した。廉太郎は当時[[アコーディオン]]を弾いていたが、同校ではオルガンを弾くようになる<ref name="Fujimaru2022"/>。[[1894年]](明治27年)4月に卒業後は再び上京し、[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]](現:[[東京芸術大学]])へ入学してピアノを[[橘糸重]]、[[遠山甲子]]に学ぶ<ref>[[#海老澤敏]], p.98.</ref>。[[1898年]](明治31年)に本科を卒業<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2947799/2 『官報』第4510号、明治31年7月13日、p.167]</ref>した後は研究科に進むと同時に東京音楽学校の嘱託教師を命じられ<ref name="taki"/>、ピアノ科教師として勤務しながら作曲と[[ピアノ]]演奏において才能を伸ばしていった。廉太郎は[[1899年]](明治32年)に東京市麹町区上二番町に移り住み、後述の博愛教会は近隣に位置していた<ref name="taki"/>。 === 荒城の月 === [[1900年]](明治33年)[[10月7日]]には[[東京市]]麹町区上五番町(現:東京都千代田区)にあった[[日本聖公会|聖公会]]グレース・エピスコパル・チャーチ(博愛教会)で[[立教大学]]初代学長を務めた[[元田作之進]]から[[洗礼]]を受けて[[キリスト教徒|クリスチャン]]となり、[[10月28日]]には[[ジョン・マキム]]から[[堅信|堅信礼]]を受けた<ref name="taki"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.christianpress.jp/august-24-taki-renrarou-birthday/|title=8月24日は瀧廉太郎の誕生日|publisher=[[クリスチャンプレス]]|accessdate=2020-07-07}}</ref><ref>[http://www.poole.ac.jp/library/kiyo/Tosyo_Kiyo2013_5409.pdf 内海由美子「滝廉太郎の音楽作品におけるキリスト教信仰の影響]」[[プール学院大学]]研究紀要 第54号、2013年、pp.121-135。</ref><ref name="聖歌">{{Cite web|和書|url=http://www.geocities.jp/saitohmoto/hobby/music/kojonotsuki/kojonotsuki.html|title=『荒城の月』が聖歌になった|accessdate=2020-07-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190105230812/http://www.geocities.jp/saitohmoto/hobby/music/kojonotsuki/kojonotsuki.html|archivedate=2019年3月2日}}</ref>。 [[翻訳唱歌]]は明治時代の前半には既に多くの作品が発表されていたが、その大半は間違えた翻訳、または他の無関係な歌詞を当てはめるなどといったように[[日本語]]訳詞を無理にはめ込んだ「ぎこちない歌」が多く、[[日本人]]作曲家によるオリジナルの唱歌を望む声が高まっていた<ref name="taki"/>。廉太郎の代表作である「'''[[荒城の月]]'''」は、[[箱根八里]]と並んで[[文部省]]編纂の「中学唱歌」に掲載された<ref name="taki"/>。また、廉太郎のもう一つの作品で人気の高い「[[花 (瀧廉太郎)|花]]」は、1900年(明治33年)8月に作曲された4つの曲からなる[[組曲]]「四季」の第1曲<ref>{{Cite book |title=クラシック名曲1000聴きどころ徹底ガイド |url=https://books.google.co.jp/books?id=_maBQ8Y5nt4C&pg=PA107&lpg=PA107&dq=%E6%BB%9D%E5%BB%89%E5%A4%AA%E9%83%8E+%E7%B5%84%E6%9B%B2+%E5%9B%9B%E5%AD%A3%E3%80%80%E7%AC%AC1%E4%BD%9C%E3%80%80%E8%8A%B1%E3%80%80%E7%B4%8D%E6%B6%BC%E3%80%80%E6%9C%88%E3%80%80%E9%9B%AA&source=bl&ots=Olf7dzsi0C&sig=ACfU3U2Ye5aXC445NSuRAwUVQ9Do28WNUg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiwgfjW0I2CAxVMeN4KHVyrAUE4FBDoAXoECAIQAw#v=onepage&q=%E6%BB%9D%E5%BB%89%E5%A4%AA%E9%83%8E%20%E7%B5%84%E6%9B%B2%20%E5%9B%9B%E5%AD%A3%E3%80%80%E7%AC%AC1%E4%BD%9C%E3%80%80%E8%8A%B1%E3%80%80%E7%B4%8D%E6%B6%BC%E3%80%80%E6%9C%88%E3%80%80%E9%9B%AA&f=false |publisher=ONGAKUSHUPPANSHACo.,Ltd |date=2005 |isbn=978-4-900340-98-5 |language=ja}}</ref>で、「[[お正月 (歌曲)|お正月]]」「[[鳩ぽっぽ]]<ref>[[文部省唱歌]]「[[鳩 (童謡)|鳩]]」とは別の曲である。</ref>」「[[雪やこんこん]]<ref>文部省唱歌「[[雪 (童謡)|雪]]」とは別の曲である。</ref>」などは幼稚園唱歌に収められた。さらに「荒城の月」は[[ベルギー]]で[[讃美歌]]([[聖歌]])に選ばれたことも判明している<ref name="聖歌"/>。 ピアニストとしての廉太郎は[[ラファエル・フォン・ケーベル]]に師事し、その影響を大きく受けてドイツ音楽を至上とする奏法を貫いていた<ref name="taki" />。 === 欧州遠征~肺結核 === [[1901年]](明治34年)4月6日、日本人の音楽家では史上3人目となるヨーロッパ[[留学生]]として出国し、5月18日に[[ドイツ帝国]]・[[ベルリン]]に到着し、同地で日本語教師を務めていた文学者の[[巖谷小波]]やヴァイオリニストの[[安藤幸|幸田幸]]、さらに海軍軍楽隊から派遣され、のちに「君が代行進曲」を作曲するクラリネット奏者の[[吉本光蔵]]と交友を持ち、共に室内楽を演奏した<ref name="taki"/>。廉太郎はさらに[[ライプツィヒ]]へ向かい、[[フェリックス・メンデルスゾーン音楽演劇大学|ライプツィヒ音楽院]]([[フェリックス・メンデルスゾーン]]が設立し、[[カール・ライネッケ]]が学院長を務める)に入学し、廉太郎は文部省外国留学生として{{仮リンク|ロベルト・タイヒミュラー|en|Robert_Teichmüller}}にピアノを、[[ザーロモン・ヤーダスゾーン]]に作曲や音楽理論を学ぶ<ref>[http://www.takahiro-sonoda.com/lecture/001.html レクチュア『郷土と音楽』] [[園田高弘]]公式サイト、1996年10月15日</ref><ref>瀧井敬子『夏目漱石とクラシック音楽』第8章第1節「漱石が上野で聴いたハイカラの音楽会」、[[毎日新聞出版]]</ref>。 しかし、入学から僅か5ヶ月後の同年11月に肺結核を発病する。オペラを観劇した帰りに体調不良を訴え、風邪の症状から聖ヤコブ病院へ入院後に結核に感染していることが判明した。入院治療を続けるも回復の見込みがなく、廉太郎は退学、帰国を余儀なくされた<ref name="taki"/>。なお入院から程なく1902年(明治35年)2月に恩師ヤーダスゾーンが世を去っている。 === 晩年 === 廉太郎は諸手続きを済ませ、[[1902年]](明治35年)7月10日にドイツを発ち、[[ロンドン]]を経由して同年10月17日に[[横浜港|横浜]]に到着した<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』[[吉川弘文館]]、2010年、p.172。</ref><ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949101/4 『官報』第5798号、1902年10月30日、p.527] [[国立国会図書館デジタルコレクション]]</ref>。帰国直後は東京の従兄である大吉の自宅で療養し、大吉が40歳の若さで逝去すると父・吉弘の故郷である大分県で療養していたが、[[1903年]](明治36年)[[6月29日]]17時に大分県大分市稲荷町339番地(現:大分市府内町)の自宅で死去した<ref name="taki"/>。満{{没年齢|1879|8|24|1903|6|29}}(享年25)。結核に感染していたことから、多くの作品は死後に焼却処分されたという<ref name="taki"/>。一部の資料などでは廉太郎の作曲数については多かったとされているが、2022年現在においてその存在が確認されているものは34曲と決して多くない(編曲作品もいくらか現存する)<ref name="taki"/>。 瀧家の墓所は[[日出町]]の龍泉寺である<ref>{{Cite web|和書|url=https://hijinavi.com/hiji/rentaro-grave|title=龍泉寺(瀧廉太郎の墓)|website=ひじまち観光情報公式サイト|publisher=一般社団法人 [[日出町|ひじ町]]ツーリズム協会||accessdate=2020-07-07}}</ref>が、廉太郎は父と親交のあった大分市金池町の[[万寿寺 (大分市)|万寿寺]]に葬られた。[[戒名]]は直心正廉居士。但し彼個人は聖公会の教会に属したキリスト教徒であった。 [[2011年]](平成23年)3月、廉太郎の墓は、親族らの意向により万寿寺から先祖の眠る龍泉寺へと移設された<ref>{{Cite web|和書|url=https://hijinavi.com/hiji/taki-rentaro|title=瀧廉太郎|website=ひじまち観光情報公式サイト|publisher=一般社団法人 ひじ町ツーリズム協会|accessdate=2020-07-07}}</ref>。龍泉寺には、廉太郎がドイツ留学時に愛用していた火鉢が残されている。 [[2019年]](平成31年)2月、廉太郎が書いたとされる手紙や譜面、写真など200点以上もの史料が竹田市に寄贈された<ref>{{Cite web|和書|url=https://oita-press.co.jp/1010000000/2019/02/09/JD0057770207|title=滝廉太郎史料、竹田市に 親友の遺族が200点以上寄贈|publisher=[[大分合同新聞]]|accessdate=2020-07-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190302235419/https://oita-press.co.jp/1010000000/2019/02/09/JD0057770207|archivedate=2019年3月2日}}</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20200521154448/https://www.city.taketa.oita.jp/mayor/blog/?id=699 瀧廉太郎生誕140年に宝物を呼び込んだ後藤紫織さん] 竹田市長 [[首藤勝次]]ブログ「こんにちは、市長です」、2019年2月7日(アーカイブ)</ref>。 == 作品 == 歌曲に有名な作品が多い瀧だが、[[1900年]](明治33年)には日本人作曲家による初めてのピアノ独奏曲「[[メヌエット (瀧廉太郎)|メヌエット]]」を作曲している。肺結核が悪化して死期が近いことを悟った時、死の4ヶ月前に作曲したピアノ曲「[[憾 (瀧廉太郎)|憾]](うらみ)」が最後の作品として残された。この2つを除いて、全て声楽作品である。 また、作品の一部は[[鉄道]]に関する音楽にも採用されている。代表作の「荒城の月」は[[九州旅客鉄道]][[豊後竹田駅]]の列車到着時におけるメロディーとして採用され、「箱根八里」は[[箱根登山鉄道]]の発車メロディに使用されている。「花」は[[東京メトロ銀座線]][[浅草駅]]の発車メロディーに「ご当地メロディー」として使用されているほか、かつては[[東北新幹線]]・[[上越新幹線]]の[[上野駅]]到着・発車時の[[車内チャイム]](通称「[[ふるさとチャイム]])として使用されていたが、[[東京駅]]延伸開業後は使用されていない。 {| |valign="top"| ; 1896年(明治29年) * 日本男児(詞・東郊。独唱) ; 1897年(明治30年) * 春の海(詞・[[東くめ]]。独唱) * 散歩(詞・中村秋香。独唱) * 命を捨てて(詞・不詳。独唱) ; 1899年(明治32年) * 我神州(詞・砂沢丙喜治。独唱) * 四季の瀧(詞・東くめ。ソプラノ・アルト・ピアノ伴奏) ; 1900年(明治33年) * 卒業式歌(詞・失名氏。独唱)<ref>大分合同新聞2011年5月23日朝刊「滝廉太郎の新曲発見 重厚で明るい『卒業式歌』」</ref> * メヌエット(ピアノ曲) * 組歌『四季』 # [[花 (瀧廉太郎)|花]](詞・[[武島羽衣]]。ソプラノ・アルト・ピアノ伴奏) # 納涼(詞・東くめ。独唱・ピアノ伴奏) # 月(詞・瀧廉太郎。ソプラノ・アルト・テノール・バス) # 雪(詞・中村秋香。ソプラノ・アルト・テノール・バス・ピアノとオルガン伴奏) * 中学唱歌 ** [[箱根八里]](詞・[[鳥居忱]]。独唱) ** [[荒城の月]](詞・[[土井晩翠]]。独唱) ** 豊太閤(詞・[[外山正一]]。独唱) |valign="top"| ; 1901年(明治34年) * 幼稚園唱歌(作曲は1900年から) ** ほうほけきょ(詞・瀧廉太郎。独唱・ピアノ伴奏) ** ひばりはうたひ(詞・東くめ。独唱・ピアノ伴奏) ** 鯉幟(詞・東くめ。独唱・ピアノ伴奏) ** 海のうへ(詞・東くめ。独唱・ピアノ伴奏) ** 桃太郎(詞・瀧廉太郎。独唱・ピアノ伴奏) ** お池の蛙(詞・東くめ。独唱・ピアノ伴奏) ** 夕立(詞・東くめ。独唱・ピアノ伴奏) ** かちかち山(詞・東くめ。独唱・ピアノ伴奏) ** みずあそび(詞・東くめ。独唱・ピアノ伴奏) ** [[鳩ぽっぽ]](詞・東くめ。独唱・ピアノ伴奏) ** 菊(詞・東くめ。独唱・ピアノ伴奏) ** 軍ごっこ(詞・東くめ。独唱・ピアノ伴奏) ** 雀(詞・[[佐佐木信綱]]。独唱・ピアノ伴奏) ** [[雪やこんこん]](詞・東くめ。独唱・ピアノ伴奏) ** [[お正月 (歌曲)|お正月]] (詞・東くめ。独唱・ピアノ伴奏) ** さようなら(詞・東くめ。独唱・ピアノ伴奏) ; 1902年(明治35年) * 別れの歌(詞・不詳。ソプラノ・アルト・テノール・バス) * 水のゆくへ(詞・[[橘糸重]]<ref>大分合同新聞2010年12月18日夕刊「滝廉太郎『水のゆくへ』の作詞者 橘糸重と判明」</ref><ref>[http://school.nijl.ac.jp/kindai/CKMR/CKMR-00252.html#202 竹柏園集第1編](博文館、1901年2月)p.380</ref>。2ソプラノ・アルト・ピアノ伴奏) * 荒磯の波(詞・[[徳川光圀]]。独唱・ピアノ伴奏) ; 1903年(明治36年) * [[憾 (瀧廉太郎)|憾]](ピアノ曲、遺作) その他に他の作曲家の作品の編曲も存在する。 |} == 登場作品 == ;映画 *[[荒城の月 (1937年の映画)|荒城の月]]([[1937年]] 演:[[佐野周二]]) *[[荒城の月 (1958年の映画)|荒城の月]]([[1958年]] 演:[[石濱朗]]、[[村田正和]]) *[[花の宴]]([[1967年]] 演:[[中山仁]]) *[[わが愛の譜 滝廉太郎物語]]([[1993年]] 演:[[風間トオル]]) ;テレビドラマ *[[テレビ偉人伝 滝廉太郎]]([[1960年]] 演:[[子門真人|藤川正治]]) ;ラジオドラマ *[[忘れえぬ人々 滝廉太郎]]([[1952年]] 演:[[高島敏郎]]) *[[荒城の月 (1958年のラジオドラマ)|荒城の月]](1958年 演:[[石濱朗]]) ;演劇 *[[日本の騎士]]([[1970年]] 演:[[山本学]]) *[[日本の旋律 荒城の月]](1970年 演:[[舟木一夫]]) *[[荒城の月 (1990年の劇作品)|荒城の月]]([[1990年]] 演:[[松橋登]]) *[[花-滝廉太郎物語]]([[1991年]] 演:[[清水健太郎]]、[[夕鶴みき]]) *[[オペラ 瀧廉太郎]]([[1998年]] 演:[[山本裕真]]) *[[ミュージカル 花・滝廉太郎]]([[2002年]] 演:[[高嶋政伸]]) *音楽劇 荒城の月〜落日の譜〜《A組公演》([[2012年]] 演:[[小山陽二郎]]) *音楽劇 荒城の月〜落日の譜〜《B組公演》(2012年 演:[[大川晶也]]) *[[春うらら (2012年の舞台)|春うらら]](2012年 演:[[熊坂正実]]) *[[絶筆〜LAST MUSIC]]([[2013年]] 演:[[鎌田龍]]) *[[コンダーさんの恋 鹿鳴館騒動記]]([[2014年]] 演:[[荒井敦史]]) *[[瀧廉太郎の友人、と知人とその他の諸々]](2014年 演:[[鯨井康介]]) *[[音楽劇 瀧廉太郎物語]](2014年 演:[[石井友樹]]) *[[瀧廉太郎の友人、と知人とその他の諸々]]([[2015年]] 演:[[兼崎健太郎]]) *瀧廉太郎の友人、と知人とその他の諸々([[2016年]] 演:[[和田琢磨]]) == 関連画像など == <gallery> Taki Rentaro Memorial Museum.jpg|[[大分県]][[竹田市]]の旧居<br />現在は「瀧廉太郎記念館」となっている Oita Rentaro Taki02n3200.jpg|[[大分市]]の終焉の地に設置された瀧廉太郎像(大分市府内町) Rentarou Taki's Deathplace.jpg|瀧廉太郎終焉之地・[[遊歩公園]](大分市府内町、2018) Sogakudo07s750.jpg|[[旧東京音楽学校奏楽堂|奏楽堂]]に設置された瀧廉太郎像(東京都台東区上野公園) Ryusenzi.jpg|瀧家累世之墓(右)と「瀧廉太郎君碑」(左)(日出町・龍泉寺) Birthplace of Rentarou Taki's Ancestor.jpg|瀧廉太郎先祖生誕地(屋敷跡)/現在:日出町立日出幼稚園(日出町) Taki-Rentaro-Denkmal_Leipzig.jpg|ドイツ・[[ライプツィヒ]]の下宿跡に設置された滝廉太郎紀念碑 </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *滝廉太郎作品集([[ビクターエンタテインメント|ビクター]]CD VICC-5026) *渡辺かぞい『天才音楽家・瀧廉太郎、二十一世紀に蘇る』近代文芸社新書、近代文芸社。ISBN 4-7733-7396-2。 *小長久子(編)『瀧廉太郎全曲集 作品と解説』音楽之友社。ISBN 978-4-276-52500-9 *楠木しげお『滝廉太郎ものがたり』銀の鈴社。ISBN 978-4-87786-537-5 *{{Cite book|和書 |author=海老澤敏|authorlink=海老沢敏 |title=瀧廉太郎―夭折の響き |series=岩波新書921 |date=2004-11-19 |publisher=岩波書店 |isbn= |ref=海老澤敏}} == 関連項目 == {{Portal クラシック音楽}} {{ウィキプロジェクトリンク|音楽家|[[File:Band Silhouette 04.jpg|35px|ウィキプロジェクト 音楽家]]}} *[[旧東京音楽学校奏楽堂]] *[[筑紫哲也]] - 瀧の妹の孫。 *[[三浦環]] - 東京音楽学校助教授時代の教え子で、ピアノを教えていた。環が既婚であることを知らずに留学前に結婚を申し込んだ、と環が自伝で語っている<ref>{{Cite web|和書|title=麹町界隈わがまち人物館 |url=https://jinbutsukan.net/person/7i01.html?lst04 |website=jinbutsukan.net |access-date=2023-10-24}}</ref>。 {{-}} == 外部リンク == {{Commonscat|Rentarō_Taki}} * {{Kotobank|滝廉太郎}} * {{青空文庫著作者|633|滝 廉太郎}} * {{IMSLP|id=Taki, Rentarō}} * [https://www.city.taketa.oita.jp/soshiki/shogaigakushuka/4/668.html 瀧廉太郎とは] - [[竹田市]] * [https://hijinavi.com/hiji/taki-rentaro 瀧廉太郎] - [[日出町|ひじまち]]観光情報公式サイト * [https://www.kyogei.co.jp/shirabe/sakkyokuka/taki.html 滝(たき)廉太郎(れんたろう)] - [[教育芸術社]] * [https://rentaro.blog.ss-blog.jp/ 全作品] - 瀧廉太郎の『作曲作品34曲』と『編曲作品11曲』の演奏 {{Normdaten}} {{デフォルトソート:たき れんたろう}} [[Category:瀧廉太郎|*]] [[Category:日本の男性作曲家]] [[Category:ロマン派の作曲家]] [[Category:合唱音楽の作曲家]] [[Category:近現代の作曲家]] [[Category:19世紀日本の音楽家]] [[Category:20世紀日本の音楽家]] [[Category:豊後大蔵氏|れんたろう]] [[Category:明治時代の人物]] [[Category:結核で死亡した日本の人物]] [[Category:20世紀に結核で死亡した人物]] [[Category:日本の聖公会の信者]] [[Category:東京芸術大学出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:大分県出身の人物]] [[Category:1879年生]] [[Category:1903年没]]
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12,502
日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約
日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(にほんこくとアメリカがっしゅうこくとのあいだのそうごきょうりょくおよびあんぜんほしょうじょうやく、英語:Treaty of Mutual Cooperation and Security between Japan and the United States of America、昭和35年条約第6号)は、日本国とアメリカ合衆国の安全保障のため、日本本土に米軍(在日米軍)が駐留することなどを定めた軍事同盟である。 1960年(昭和35年)1月19日、アメリカ合衆国のワシントンD.C.で締結された。いわゆる日米同盟(にちべいどうめい)の根幹を成す条約である。条約の第6条の規定に従って「日米地位協定」(にちべいちいきょうてい)が締結されている。 形式的には1951年(昭和26年)に署名され、翌1952年(昭和27年)に発効した旧安保条約を失効させて新たな条約として締約・批准されたが、実質的には安保条約の改定とみなされている。この条約に基づき、在日アメリカ軍としてアメリカ軍の日本駐留を引き続き認めた。60年安保条約、新安保条約(しんあんぽじょうやく)などとも言われる。なお、新・旧条約を特段区別しない場合の通称は日米安全保障条約(にちべいあんぜんほしょうじょうやく)、日米安保条約(にちべいあんぽじょうやく)である。 1951年(昭和26年)9月8日、アメリカ合衆国を始めとする第二次世界大戦の連合国側49ヶ国の間で日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が締結され、翌1952年(昭和27年)4月28日に効力が発生した。この際、同条約第6条(a)但し書きに基づき、同時に締約された条約が旧日米安全保障条約(日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約)であり、この条約に基づき、連合国軍による日本の占領統治は終了して日米両国は国交回復し、GHQ麾下部隊のうちアメリカ軍部隊は在日米軍として駐留を継続し、他の連合国軍(主にイギリス軍)部隊は撤収した。 旧条約は日本の自主防衛力が除去された戦後占領期の社会情勢を前提に、日本政府が米軍の駐留を希望するという形式をとるものであり、また米国の「駐留権」に基づく片務的な性格を持つ条約であった。 1960年(昭和35年)1月16日に渡米した岸信介首相率いる全権委任団は、同1月19日に旧安保条約に代わる新安保条約に調印した。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領の訪日が予定されていた同年6月19日までに条約を批准したい岸首相の意向の下、期日までに衆議院の優越を利用した自然承認が成立するぎりぎりの日程であった5月20日、衆議院本会議で条約が承認された。 条約承認については野党が強く反発しており、前日の5月19日には日本社会党議員らが清瀬一郎衆議院議長を監禁して採決を阻止していたが、同日午後11時7分に警官隊がこれを排除した。清瀬議長は金丸信ら屈強な自由民主党議員らに守られながら議場に入り、自民党が会期延長を単独採決した。更に日付が変わった直後の午前0時5分に清瀬議長が開会を宣言し、そこで条約承認が緊急上程され可決した。なお、多数の議員が壇上に押しかける中で清瀬議長がマイクを握りしめているという有名な「強行採決」の様子は、会期延長を議決したときのものであり、その後野党議員らが抗議の退出をしたため条約批准案の可決自体は粛々と行われた。 この強行策は安保闘争の活発化を招く結果となり、条約反対運動は次第に激しいものとなっていった。アイゼンハワー大統領の訪日も結局中止されることとなるが、岸政権の目論見通り、条約は30日後の6月19日に参議院の承認のないまま自然承認された。批准書交換が行われて条約が発効した6月23日、岸は退陣を表明した。 新条約では集団的自衛権を前提とした(形式としては)双務的体裁を採用しており、日米双方が日本および極東の平和と安定に協力することを規定した。また、その期限を10年とし、以後は締結国からの1年前の予告により一方的に破棄出来ると定めた。締結後10年が経過した1970年(昭和45年)前後に再び安保闘争が興隆したものの、以後も当条約は破棄されておらず、現在も効力を有している。 新安保条約は、同時に締結された日米地位協定によりその細目を規定している。日米地位協定では日本がアメリカ軍に施設や地域を提供する具体的な方法を定める他、その施設内での特権・税金の免除・兵士と軍属などへの裁判権などを定めている。またこれらと同時に、「日米地位協定合意議事録」が作成された。 日米安全保障条約は時代と共に本質を変化させて来た。 旧安保条約が締結された当時、日本の独自の防衛力は事実上の空白状態であり(警察予備隊の創設が1950年(昭和25年)秋である)、一方で既に前年の1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発して在日米軍は朝鮮半島に出撃しており、アメリカは出撃拠点ともなる後方基地の安全と補給の確保を喫緊の課題としていた。日本側の思惑としては独自の防衛力を再建するための時間的猶予がいまだ必要であり、また敗戦により破壊された日本の国力が正常な状態に復活するまで安全保障に必要な大半の軍事をアメリカに委任させることで経済負担を極力抑え、経済復興から経済成長へと注力するのが狙いであった。1953年(昭和28年)7月に朝鮮戦争が停戦した後もひきつづき冷戦構造のもとで、日本は韓国・中華民国(台湾)と共に、陸軍長官ケネス・クレイボーン・ロイヤルの提唱した「封じ込め政策」に基づく反共主義の砦・防波堤として、ソ連・中国・北朝鮮に対峙していた。 1950年代中期になると、日本経済は朝鮮戦争特需から1955年(昭和30年)の神武景気に入り、1955年(昭和30年)の主要経済指標は戦前期の水準を回復して復興期を脱した。経済白書は「もはや戦後ではない」と述べ、高度経済成長への移行が始まった。政治体制においても自由党と日本民主党が合併し自由民主党に、右派と左派が合併した日本社会党が設立され、いわゆる「55年体制」が成立し安定期に入った。そして1959年、日本が戦後初めて発行した外債は米国の金融市場が引受けた。一方で、1954年(昭和29年)から1958年(昭和33年)にかけて中華人民共和国と中華民国(台湾)の間で台湾海峡危機が勃発し、軍事的緊張が高まった。また、アメリカ政府が支援して成立したゴ・ディン・ジエム大統領独裁体制下の南ベトナムでは後のベトナム戦争の兆しが現れていた。こうした日米両国が置かれた状況の変化を受けて締結されたのが新安保条約である。当条約の締結前夜には反対運動が展開された(安保闘争)。 新安保条約は1970年(昭和45年)をもって当初10年の固定期間が満了となり、単年毎の自動更新期に突入したが、東西冷戦構造の下で条約は自動的に更新され続けた。一方、その意義付けは、1978年以降「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)と、その改定の形で示され、対ソ連から対朝鮮有事、そして対中へと軍事条約としての実質的な性質を変えていった。 1979年(昭和54年)5月にアメリカを訪問した大平正芳首相は、日本の首相として初めてアメリカを「同盟国」と表現した。しかし、後任の鈴木善幸首相は、1981年(昭和56年)5月のアメリカ訪問時のレーガン大統領との日米共同声明に初めて「同盟」という表現が入ったことについて、帰国後「軍事的意味合いは持っていない」として、外務事務次官が異なる説明をすると激怒し、伊東正義外務大臣が事実上これに抗議して辞任している。日米「同盟」という言葉が市民権を得たのは、1983年1月の中曽根康弘首相によるアメリカ訪問時の共同宣言からとされる。 1991年(平成3年)12月のソビエト連邦の崩壊により冷戦は終結したが、ソ連崩壊後の極東アジアの不安定化や北朝鮮の脅威、中台関係の不安定さや中国の軍事力増強など、日本および周辺地域の平和への脅威に共同対処するため引き続き条約は継続している。日本政府は、基本的価値や戦略的利益を共有する国がアメリカであるとし、日米安保は日本外交の基軸であり極東アジアの安定と発展に寄与するものとしている。一方で日米双方において、当条約の有効性や歴史的存在意義についての多くの議論がおこなわれるようになっている。 2004年(平成16年)度の日本防衛白書では初めて中華人民共和国の軍事力に対する警戒感を明記し、また米国の安全保障に関する議論でも、日本の対中警戒感に同調する動きが見られ、2005年(平成17年)、米大統領ジョージ・W・ブッシュの外交に大きな影響を持つコンドリーザ・ライス国家安全保障問題担当大統領補佐官が中国に対する警戒感をにじませる発言をし、日米安全保障条約の本質は対中軍事同盟・トルコ以東地域への軍事的存在感維持の為の物へと変化して来ている。 2010年(平成22年)1月19日、米大統領バラク・オバマは、日米安保条約改定の署名50周年に際して声明を発表した。声明では、「共通の課題に対して両国が協力することは、われわれが世界に関与する上での重要な一部となる」として、日米安保を基盤として両国の世界規模での協力の必要性を強調した。また「日本の安全保障に対する米国の関与は揺るぎない」として、「同盟を21世紀向けに更新し、両国を結束させる友好関係と共通の目的を高めよう」と呼びかけていた。また、安保改定50年にあたり日米の外務・防衛担当閣僚が共同声明を出している。 2019年6月、以前から同様の発言をしていた米大統領ドナルド・トランプは日米安保条約について「もし日本が攻撃されれば我々は戦う」・「我々が攻撃されても日本は助ける必要が全く無い」・「(日本は)ソニーのテレビで見るだけだ」などと発言した。日米両政府は否定したものの、29日に大阪にて開催されたG20で来日し、閉幕後の会見で「破棄することは全く考えてない。不平等な合意だと言っている」「6カ月間、条約は見直す必要があると安倍晋三首相に伝えてきた」などと発言したが、菅官房長官は否定した。 1971年(昭和46年)7月、中国を訪問したヘンリー・キッシンジャーとの会談で、周恩来首相が日本には「拡張主義的傾向がある」と指摘したのに対し、キッシンジャーは同意して日米安保関係がそれを防いでいる、と述べた。これは現在の記録で確認できる、米中首脳が最初に日米安保「瓶の蓋」論を共有した瞬間とされる。 1990年(平成2年)3月、在沖縄アメリカ海兵隊司令官ヘンリー・スタックポール(Henry C. Stackpole, III)少将は「アメリカ軍が日本から撤退すれば、既に強力な軍事力を日本はさらに増強するだろう。我々は 『瓶のふた』 のようなものだ」と発言し、日本を抑止する必要があるとの見解を示した。 1999年(平成11年)のアメリカの世論調査では、条約の目的は何かという質問への回答が、「日本の軍事大国化防止」が49パーセント・「日本防衛」が12パーセントとなった。 この条約の第5条では日米両国の「共同対処」宣言が明記されており、アメリカが集団的自衛権を行使して日本を防衛する義務を負うという根拠とされている。日本の施政下においては、日本はもちろん「在日米軍に対する武力攻撃」であっても」「日米が共同して対処すること」となる。この際、日本はあくまで「日本への攻撃」に対処すると考えるられるため、日米安保に基づいた行動を行う場合も集団的自衛権ではなく、自国を守るための個別的自衛権の行使に留まるとの解釈が過去になされた。 また第5条では「日本の施政下の領域における日米どちらかへの攻撃」についてのみ述べられており、在日アメリカ軍基地・在日アメリカ施設などは含まれていない。しかし、日本の領土・領空を侵害せずにこれらに対する攻撃を行うことは不可能であるため、アメリカの施設に対する攻撃であっても日本への攻撃と同等と見做して同様に対処を行う。その他に、日本を防衛するために活動を行っているアメリカの艦艇に関しても、第98回国会の衆議院予算委員会にて谷川防衛庁長官(当時)が「(前略)アメリカの艦艇が相手国から攻撃を受けたときに、自衛隊が我が国を防衛するための共同対処行動の一環としてその攻撃を排除することは、我が国に対する武力攻撃から我が国を防衛するための必要な限度内と認められる以上、これは我が国の自衛の範囲内に入るであろう」と答弁しており、自衛隊による防護が可能となっている。 2012年(平成24年)11月29日、米連邦議会上院は本会議で、尖閣諸島問題を念頭に日本の施政権についての米国の立場について「第三国の一方的な行動により影響を受けない」「日米安保条約第5条に基づく責任を再確認する」と宣言する条項を国防権限法案に追加する修正案を全会一致で可決した。 2013年(平成25年)1月2日、前月20日に米下院・翌21日に米上院で可決された尖閣諸島が日米安全保障条約第5条の適用対象であることを明記した条文を盛り込んだ「2013年会計年度国防権限法案」にバラク・オバマ大統領が署名して法案が成立した。尖閣諸島の条文には「武力による威嚇や武力行使」問題解決を図ることに反対するとしている。 一方で、アメリカ側からの「日本に有利すぎる」といった批判がある。 日米地位協定第24条において、アメリカ軍の維持経費は「日本国に負担をかけないで合衆国が負担する」と規定されている。旧ソ連(現在のほぼ独立国家共同体構成国、主にロシアに相当)を主な脅威としていた日米安全保障の本質は冷戦終結と共に変化しているが、条約部分に決定的な変化は無い。また日米安全保障条約は、日本側が正常な軍事力を持つまで......として締結された経緯もあり、アメリカ側には日本を防衛する事を必要とされるが、日本側は必ずしもアメリカを防衛することは必要では無い状態になっている。これは日本側の憲法解釈(政府見解)上の制約で、個別的自衛権の行使は日米両国共に可能だが、集団的自衛権の場合は日本は憲法に抵触する恐れがあるという政策を採っている。抵触するかどうかについては議論が続いており、結論は出ていない。この事実を日本の二重保険外交と解釈し、日本はアメリカに対する防衛責務を負っていないのに、アメリカから防衛されている状態ではアメリカの潜在的敵国と軍事的協調をとれる余地を残している、との批判が米議会にあったことも事実である。また、アメリカ側は日本に対して集団的自衛権を行使出来ると明言しており、費用面からも、軍事的負担がアメリカ側に多いと、日米安全保障条約はアメリカで時として非難される。だが実際のところ、日米安全保障条約の信頼を失墜させるほどの行為は日米両国共にとっていないので、こう言った批判は、やはりアメリカでも少数派に留まっている。 2008年(平成20年)2月13日、ホワイトハウスのデイナ・ペリーノ報道官は「アメリカはどこに居ようとどこに基地を持とうと、それはそれらの国々から招かれてのことだ。世界のどのアメリカ軍基地でも撤去を求められているとは承知していない。もし求められれば恐らく我々は撤退するだろう」と述べた(ダナ・ペリノ発言、「恒久的基地は世界のどこにもない」AFP通信電)。 ただし世界的には、アメリカ軍自身が戦略的に必要と考える地域で現地の国民が駐屯に反対した場合には、駐留と引き換えの経済協力を提案し、あるいはパナマ侵攻・グレナダ侵攻や死の部隊の活動などに見られるように、反対勢力には経済制裁や対外工作機関(CIAなど)による非公然活動(スキャンダル暴露や暗殺など)、場合によっては軍事介入などのさまざまな妨害をちらつかせるなど、「アメとムチ」を使って駐留を維持させるという説もある。またディック・チェイニーは国防長官当時の1992年(平成4年)に議会で「アメリカ軍が日本にいるのは、日本を防衛するためではない。アメリカに軍が必要とあらば、常に出動できる前方基地として使用できるようにするため。加えて日本は駐留経費の75パーセントを負担してくれる」とまで発言している(思いやり予算)。 「日本がアメリカに軍の駐留費用を負担する意味があるか」との疑問が日本共産党などから提議されている。 アメリカの核の傘に対する否定的見解が、個人的見解としてアメリカの政治家・学者などから出ている。 上記のように、アメリカ中枢の人間が個人的立場で他国のために核報復は無いと明言しているが、その場合日本にとって核の傘の意味が低下する。 しかしこれらの発言は全て現職の閣僚・高官時の発言ではなく、要職を退いてからの個人的発言である。アメリカ政府としては、1965年(昭和40年)にある日米共同声明第8項「8.大統領と総理大臣は、日本の安全の確保につきいささかの不安もなからしめることがアジアの安定と平和の確保に不可欠であるとの確信を新たにした。このような見地から,総理大臣は,日米相互協力及び安全保障条約体制を今後とも堅持することが日本の基本的政策である旨述べ、これに対して、大統領はアメリカが外部からのいかなる武力攻撃に対しても日本を防衛するという同条約に基づく誓約を遵守する決意であることを再確認した。」とあるようにいかなる武力攻撃に対しても日本を防衛する誓約を遵守する決意を表明している。 1966年(昭和41年)の外務省による「日米安保条約の問題点について(外務省)」でも、アメリカの核抑止力について「安保条約第五条は,日本が武力攻撃を受けた場合は、日米両国が共通の危険に対処するよう行動することを定めている。ここにいう「武力攻撃」は、核攻撃を含むあらゆる種類の武力攻撃を意味する。このことは佐藤・ジョンソン共同声明が、アメリカが外部からの「いかなる武力攻撃」に対しても日本を防衛するという、安保条約に基づく誓約を遵守する決意であると述べていることによっても確認されている。」とあるように、アメリカ政府としては如何なる武力攻撃に対しても日本を防衛する方針と看做せる。このことは、2004年(平成16年)の日本プレス・クラブでの記者会見で、当時米国務副長官リチャード・アーミテージが「条約は、日本あるいは日本の施政権下にある領土に対するいかなる攻撃も、アメリカに対する攻撃とみなされることを定めている」と発言したことからも明らかである。また、核の傘の存在を肯定する意見として、ジョセフ・ナイ(ハーバード大学教授、元国務省国務次官補)、ポール・ジアラ(国防総省日本部長)、ジェームズ・シュレジンジャー(元国防長官)、キャスパー・ワインバーガー(元国防長官)らの意見が代表例である。 西村眞悟衆議院議員は第155回国会内閣委員会第2号(平成14年10月30日(水曜日))において、「アメリカは主要都市に核ミサイルが落ちる危険性を覚悟して日本に核の傘を開くのか」と疑念を述べた。またヨーロッパへ向けられたロシアの核についてのアメリカの「シアター・ミサイル・ディフェンス」という発言を捉え、アメリカ自身が核ミサイルの射程外の場合関係ないというアメリカの意識がにじみ出ていると主張した。 以下、外務省公式サイト掲載の「極東の範囲(昭和35年2月26日政府統一見解)」 「新条約の条約区域は、『日本国の施政の下にある領域』と明確に定められている。他方同条約は、『極東における国際の平和及び安全』ということも言っている。一般的な用語としてつかわれる『極東』は、別に地理学上正確に画定されたものではない。しかし、日米両国が、条約にいうとおり共通の関心をもっているのは、極東における国際の平和及び安全の維持ということである。この意味で実際問題として両国共通の関心の的となる極東の区域は、この条約に関する限り、在日米軍が日本の施設及び区域を使用して武力攻撃に対する防衛に寄与しうる区域である。かかる区域は、大体において、フィリピン以北並びに日本及びその周辺の地域であって、韓国及び中華民国の支配下にある地域もこれに含まれている。(「中華民国の支配下にある地域」は「台湾地域」と読替えている。) 新(安保)条約の基本的な考え方は右の通りであるが、この区域に対して武力攻撃が行われ、あるいはこの区域の安全が周辺地域に起こった事情のため脅威されるような場合、アメリカがこれに対処するため執ることのある行動の範囲は、その攻撃又は脅威の性質如何にかかるのであって、必ずしも前記の区域に局限される訳では無い。 しかしながらアメリカの行動には、基本的な制約がある。すなわちアメリカの行動は常に国際連合憲章の認める個別的又は集団的自衛権の行使として、侵略に抵抗するためにのみ執られることになっているからである。またかかるアメリカの行動が戦闘行為を伴うときはそのための日本の施設の使用には、当然に日本政府との事前協議が必要となっている。そして、この点については、アイゼンハウァー大統領が岸総理大臣に対し、アメリカは事前協議に際して表明された日本政府の意思に反して行動する意図の無いことを保証しているのである。」 沖縄県の在日アメリカ軍基地が日本の国土面積に占める割合は1割以下だが、在日アメリカ軍基地面積の7割以上(ただし自衛隊との共用地を除いたアメリカ軍専用地の割合)が沖縄県に集中している事で、本土(沖縄県を除く他の46都道府県全体)と比べて不公平だとする意見や、在日アメリカ軍基地の必要性についても疑問視する意見が沖縄県には多数ある。また、在日アメリカ軍基地近隣の騒音問題がある。 2010年(平成22年)5月に毎日新聞と琉球新報が沖縄県民を対象に行ったアンケートによると、同条約を「平和友好条約に改めるべき」が55パーセント・「破棄すべき」が14パーセント・「維持すべき」は7パーセントだった。 時事通信社解説委員の田崎史郎は、2017年2月10日に行われた日米首脳会談のニュースに触れ、中国が領有権を主張する尖閣諸島を巡っては、安倍晋三首相が首脳会談後の記者会見で、日米安保条約5条の適用対象であると首脳間で確認したと説明した。トランプ氏が会談でどのように発言したかは不明だが、共同声明に「日米安保条約第5条が尖閣諸島に適用される」と明記したことに対して、日本の防衛において日米安保は無くてはならない条約。日米関係に隙間を空けてはならないと答えた。 評論家の大井篤は1960年(昭和35年)の条約改定に当たり、「日米安全保障条約の持つ抑止効果を積極的に追求するべきである」と結論付けた。 元外務省局長の孫崎享は、「日米安保は日本の利益を守るためにあるのではなく、存在意義は全く無い」と述べている。また孫崎は、集団的自衛権について「アメリカが日本を戦闘に巻き込むのが狙い」と述べている。 内閣府が2010年(平成22年)1月に実施した世論調査では、同条約が日本の平和と安全に「役立っている」との回答が76.4パーセント・「役立っていない」との回答が16.2パーセントとなった。また「日本の安全を守るためにはどのような方法をとるべきだと思うか」との問いには「現状通り日米の安全保障体制と自衛隊で日本の安全を守る」との回答が77.3パーセント・「日米安全保障条約をやめて、自衛隊だけで日本の安全を守る」が9.9パーセント・「日米安全保障条約をやめて、自衛隊も縮小または廃止する」が4.2パーセントとなった。 従来の日本国憲法第9条解釈と日米安全保障条約では、安保条約第5条で米国に日本防衛のために米軍兵士に出動してもらうのを借りとして、第6条で日本国内に米軍基地の土地を提供することで返す事を前提に、1960年の安保条約改定時では「人(米軍)と物(日本)とのバーター」取引と言われた。安保条約は第5条と6条によって対等な関係とされた。 在日アメリカ軍が日本を防衛するのに、日本の自衛隊はアメリカ軍を守れないから集団的自衛権を行使するという第2次安倍内閣の憲法新解釈を、民主党の江崎孝参議院議員は2014年6月の参議院決算委員会で「集団的自衛権を容認するなら(従来と比べて日本側にとっては)在日米軍の分だけ負担が重くなる」と基地提供を認める安保条約6条の削除を迫ったが、安倍晋三首相は「条約を変える考えは毛頭無い。」と応えた。
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"1951年(昭和26年)9月8日、アメリカ合衆国を始めとする第二次世界大戦の連合国側49ヶ国の間で日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が締結され、翌1952年(昭和27年)4月28日に効力が発生した。この際、同条約第6条(a)但し書きに基づき、同時に締約された条約が旧日米安全保障条約(日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約)であり、この条約に基づき、連合国軍による日本の占領統治は終了して日米両国は国交回復し、GHQ麾下部隊のうちアメリカ軍部隊は在日米軍として駐留を継続し、他の連合国軍(主にイギリス軍)部隊は撤収した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "旧条約は日本の自主防衛力が除去された戦後占領期の社会情勢を前提に、日本政府が米軍の駐留を希望するという形式をとるものであり、また米国の「駐留権」に基づく片務的な性格を持つ条約であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1960年(昭和35年)1月16日に渡米した岸信介首相率いる全権委任団は、同1月19日に旧安保条約に代わる新安保条約に調印した。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領の訪日が予定されていた同年6月19日までに条約を批准したい岸首相の意向の下、期日までに衆議院の優越を利用した自然承認が成立するぎりぎりの日程であった5月20日、衆議院本会議で条約が承認された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "条約承認については野党が強く反発しており、前日の5月19日には日本社会党議員らが清瀬一郎衆議院議長を監禁して採決を阻止していたが、同日午後11時7分に警官隊がこれを排除した。清瀬議長は金丸信ら屈強な自由民主党議員らに守られながら議場に入り、自民党が会期延長を単独採決した。更に日付が変わった直後の午前0時5分に清瀬議長が開会を宣言し、そこで条約承認が緊急上程され可決した。なお、多数の議員が壇上に押しかける中で清瀬議長がマイクを握りしめているという有名な「強行採決」の様子は、会期延長を議決したときのものであり、その後野党議員らが抗議の退出をしたため条約批准案の可決自体は粛々と行われた。 この強行策は安保闘争の活発化を招く結果となり、条約反対運動は次第に激しいものとなっていった。アイゼンハワー大統領の訪日も結局中止されることとなるが、岸政権の目論見通り、条約は30日後の6月19日に参議院の承認のないまま自然承認された。批准書交換が行われて条約が発効した6月23日、岸は退陣を表明した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "新条約では集団的自衛権を前提とした(形式としては)双務的体裁を採用しており、日米双方が日本および極東の平和と安定に協力することを規定した。また、その期限を10年とし、以後は締結国からの1年前の予告により一方的に破棄出来ると定めた。締結後10年が経過した1970年(昭和45年)前後に再び安保闘争が興隆したものの、以後も当条約は破棄されておらず、現在も効力を有している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "新安保条約は、同時に締結された日米地位協定によりその細目を規定している。日米地位協定では日本がアメリカ軍に施設や地域を提供する具体的な方法を定める他、その施設内での特権・税金の免除・兵士と軍属などへの裁判権などを定めている。またこれらと同時に、「日米地位協定合意議事録」が作成された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日米安全保障条約は時代と共に本質を変化させて来た。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "旧安保条約が締結された当時、日本の独自の防衛力は事実上の空白状態であり(警察予備隊の創設が1950年(昭和25年)秋である)、一方で既に前年の1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発して在日米軍は朝鮮半島に出撃しており、アメリカは出撃拠点ともなる後方基地の安全と補給の確保を喫緊の課題としていた。日本側の思惑としては独自の防衛力を再建するための時間的猶予がいまだ必要であり、また敗戦により破壊された日本の国力が正常な状態に復活するまで安全保障に必要な大半の軍事をアメリカに委任させることで経済負担を極力抑え、経済復興から経済成長へと注力するのが狙いであった。1953年(昭和28年)7月に朝鮮戦争が停戦した後もひきつづき冷戦構造のもとで、日本は韓国・中華民国(台湾)と共に、陸軍長官ケネス・クレイボーン・ロイヤルの提唱した「封じ込め政策」に基づく反共主義の砦・防波堤として、ソ連・中国・北朝鮮に対峙していた。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1950年代中期になると、日本経済は朝鮮戦争特需から1955年(昭和30年)の神武景気に入り、1955年(昭和30年)の主要経済指標は戦前期の水準を回復して復興期を脱した。経済白書は「もはや戦後ではない」と述べ、高度経済成長への移行が始まった。政治体制においても自由党と日本民主党が合併し自由民主党に、右派と左派が合併した日本社会党が設立され、いわゆる「55年体制」が成立し安定期に入った。そして1959年、日本が戦後初めて発行した外債は米国の金融市場が引受けた。一方で、1954年(昭和29年)から1958年(昭和33年)にかけて中華人民共和国と中華民国(台湾)の間で台湾海峡危機が勃発し、軍事的緊張が高まった。また、アメリカ政府が支援して成立したゴ・ディン・ジエム大統領独裁体制下の南ベトナムでは後のベトナム戦争の兆しが現れていた。こうした日米両国が置かれた状況の変化を受けて締結されたのが新安保条約である。当条約の締結前夜には反対運動が展開された(安保闘争)。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "新安保条約は1970年(昭和45年)をもって当初10年の固定期間が満了となり、単年毎の自動更新期に突入したが、東西冷戦構造の下で条約は自動的に更新され続けた。一方、その意義付けは、1978年以降「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)と、その改定の形で示され、対ソ連から対朝鮮有事、そして対中へと軍事条約としての実質的な性質を変えていった。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1979年(昭和54年)5月にアメリカを訪問した大平正芳首相は、日本の首相として初めてアメリカを「同盟国」と表現した。しかし、後任の鈴木善幸首相は、1981年(昭和56年)5月のアメリカ訪問時のレーガン大統領との日米共同声明に初めて「同盟」という表現が入ったことについて、帰国後「軍事的意味合いは持っていない」として、外務事務次官が異なる説明をすると激怒し、伊東正義外務大臣が事実上これに抗議して辞任している。日米「同盟」という言葉が市民権を得たのは、1983年1月の中曽根康弘首相によるアメリカ訪問時の共同宣言からとされる。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1991年(平成3年)12月のソビエト連邦の崩壊により冷戦は終結したが、ソ連崩壊後の極東アジアの不安定化や北朝鮮の脅威、中台関係の不安定さや中国の軍事力増強など、日本および周辺地域の平和への脅威に共同対処するため引き続き条約は継続している。日本政府は、基本的価値や戦略的利益を共有する国がアメリカであるとし、日米安保は日本外交の基軸であり極東アジアの安定と発展に寄与するものとしている。一方で日米双方において、当条約の有効性や歴史的存在意義についての多くの議論がおこなわれるようになっている。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2004年(平成16年)度の日本防衛白書では初めて中華人民共和国の軍事力に対する警戒感を明記し、また米国の安全保障に関する議論でも、日本の対中警戒感に同調する動きが見られ、2005年(平成17年)、米大統領ジョージ・W・ブッシュの外交に大きな影響を持つコンドリーザ・ライス国家安全保障問題担当大統領補佐官が中国に対する警戒感をにじませる発言をし、日米安全保障条約の本質は対中軍事同盟・トルコ以東地域への軍事的存在感維持の為の物へと変化して来ている。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2010年(平成22年)1月19日、米大統領バラク・オバマは、日米安保条約改定の署名50周年に際して声明を発表した。声明では、「共通の課題に対して両国が協力することは、われわれが世界に関与する上での重要な一部となる」として、日米安保を基盤として両国の世界規模での協力の必要性を強調した。また「日本の安全保障に対する米国の関与は揺るぎない」として、「同盟を21世紀向けに更新し、両国を結束させる友好関係と共通の目的を高めよう」と呼びかけていた。また、安保改定50年にあたり日米の外務・防衛担当閣僚が共同声明を出している。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2019年6月、以前から同様の発言をしていた米大統領ドナルド・トランプは日米安保条約について「もし日本が攻撃されれば我々は戦う」・「我々が攻撃されても日本は助ける必要が全く無い」・「(日本は)ソニーのテレビで見るだけだ」などと発言した。日米両政府は否定したものの、29日に大阪にて開催されたG20で来日し、閉幕後の会見で「破棄することは全く考えてない。不平等な合意だと言っている」「6カ月間、条約は見直す必要があると安倍晋三首相に伝えてきた」などと発言したが、菅官房長官は否定した。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1971年(昭和46年)7月、中国を訪問したヘンリー・キッシンジャーとの会談で、周恩来首相が日本には「拡張主義的傾向がある」と指摘したのに対し、キッシンジャーは同意して日米安保関係がそれを防いでいる、と述べた。これは現在の記録で確認できる、米中首脳が最初に日米安保「瓶の蓋」論を共有した瞬間とされる。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1990年(平成2年)3月、在沖縄アメリカ海兵隊司令官ヘンリー・スタックポール(Henry C. Stackpole, III)少将は「アメリカ軍が日本から撤退すれば、既に強力な軍事力を日本はさらに増強するだろう。我々は 『瓶のふた』 のようなものだ」と発言し、日本を抑止する必要があるとの見解を示した。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1999年(平成11年)のアメリカの世論調査では、条約の目的は何かという質問への回答が、「日本の軍事大国化防止」が49パーセント・「日本防衛」が12パーセントとなった。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この条約の第5条では日米両国の「共同対処」宣言が明記されており、アメリカが集団的自衛権を行使して日本を防衛する義務を負うという根拠とされている。日本の施政下においては、日本はもちろん「在日米軍に対する武力攻撃」であっても」「日米が共同して対処すること」となる。この際、日本はあくまで「日本への攻撃」に対処すると考えるられるため、日米安保に基づいた行動を行う場合も集団的自衛権ではなく、自国を守るための個別的自衛権の行使に留まるとの解釈が過去になされた。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また第5条では「日本の施政下の領域における日米どちらかへの攻撃」についてのみ述べられており、在日アメリカ軍基地・在日アメリカ施設などは含まれていない。しかし、日本の領土・領空を侵害せずにこれらに対する攻撃を行うことは不可能であるため、アメリカの施設に対する攻撃であっても日本への攻撃と同等と見做して同様に対処を行う。その他に、日本を防衛するために活動を行っているアメリカの艦艇に関しても、第98回国会の衆議院予算委員会にて谷川防衛庁長官(当時)が「(前略)アメリカの艦艇が相手国から攻撃を受けたときに、自衛隊が我が国を防衛するための共同対処行動の一環としてその攻撃を排除することは、我が国に対する武力攻撃から我が国を防衛するための必要な限度内と認められる以上、これは我が国の自衛の範囲内に入るであろう」と答弁しており、自衛隊による防護が可能となっている。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2012年(平成24年)11月29日、米連邦議会上院は本会議で、尖閣諸島問題を念頭に日本の施政権についての米国の立場について「第三国の一方的な行動により影響を受けない」「日米安保条約第5条に基づく責任を再確認する」と宣言する条項を国防権限法案に追加する修正案を全会一致で可決した。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2013年(平成25年)1月2日、前月20日に米下院・翌21日に米上院で可決された尖閣諸島が日米安全保障条約第5条の適用対象であることを明記した条文を盛り込んだ「2013年会計年度国防権限法案」にバラク・オバマ大統領が署名して法案が成立した。尖閣諸島の条文には「武力による威嚇や武力行使」問題解決を図ることに反対するとしている。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "一方で、アメリカ側からの「日本に有利すぎる」といった批判がある。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "日米地位協定第24条において、アメリカ軍の維持経費は「日本国に負担をかけないで合衆国が負担する」と規定されている。旧ソ連(現在のほぼ独立国家共同体構成国、主にロシアに相当)を主な脅威としていた日米安全保障の本質は冷戦終結と共に変化しているが、条約部分に決定的な変化は無い。また日米安全保障条約は、日本側が正常な軍事力を持つまで......として締結された経緯もあり、アメリカ側には日本を防衛する事を必要とされるが、日本側は必ずしもアメリカを防衛することは必要では無い状態になっている。これは日本側の憲法解釈(政府見解)上の制約で、個別的自衛権の行使は日米両国共に可能だが、集団的自衛権の場合は日本は憲法に抵触する恐れがあるという政策を採っている。抵触するかどうかについては議論が続いており、結論は出ていない。この事実を日本の二重保険外交と解釈し、日本はアメリカに対する防衛責務を負っていないのに、アメリカから防衛されている状態ではアメリカの潜在的敵国と軍事的協調をとれる余地を残している、との批判が米議会にあったことも事実である。また、アメリカ側は日本に対して集団的自衛権を行使出来ると明言しており、費用面からも、軍事的負担がアメリカ側に多いと、日米安全保障条約はアメリカで時として非難される。だが実際のところ、日米安全保障条約の信頼を失墜させるほどの行為は日米両国共にとっていないので、こう言った批判は、やはりアメリカでも少数派に留まっている。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2008年(平成20年)2月13日、ホワイトハウスのデイナ・ペリーノ報道官は「アメリカはどこに居ようとどこに基地を持とうと、それはそれらの国々から招かれてのことだ。世界のどのアメリカ軍基地でも撤去を求められているとは承知していない。もし求められれば恐らく我々は撤退するだろう」と述べた(ダナ・ペリノ発言、「恒久的基地は世界のどこにもない」AFP通信電)。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ただし世界的には、アメリカ軍自身が戦略的に必要と考える地域で現地の国民が駐屯に反対した場合には、駐留と引き換えの経済協力を提案し、あるいはパナマ侵攻・グレナダ侵攻や死の部隊の活動などに見られるように、反対勢力には経済制裁や対外工作機関(CIAなど)による非公然活動(スキャンダル暴露や暗殺など)、場合によっては軍事介入などのさまざまな妨害をちらつかせるなど、「アメとムチ」を使って駐留を維持させるという説もある。またディック・チェイニーは国防長官当時の1992年(平成4年)に議会で「アメリカ軍が日本にいるのは、日本を防衛するためではない。アメリカに軍が必要とあらば、常に出動できる前方基地として使用できるようにするため。加えて日本は駐留経費の75パーセントを負担してくれる」とまで発言している(思いやり予算)。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "「日本がアメリカに軍の駐留費用を負担する意味があるか」との疑問が日本共産党などから提議されている。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "アメリカの核の傘に対する否定的見解が、個人的見解としてアメリカの政治家・学者などから出ている。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "上記のように、アメリカ中枢の人間が個人的立場で他国のために核報復は無いと明言しているが、その場合日本にとって核の傘の意味が低下する。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "しかしこれらの発言は全て現職の閣僚・高官時の発言ではなく、要職を退いてからの個人的発言である。アメリカ政府としては、1965年(昭和40年)にある日米共同声明第8項「8.大統領と総理大臣は、日本の安全の確保につきいささかの不安もなからしめることがアジアの安定と平和の確保に不可欠であるとの確信を新たにした。このような見地から,総理大臣は,日米相互協力及び安全保障条約体制を今後とも堅持することが日本の基本的政策である旨述べ、これに対して、大統領はアメリカが外部からのいかなる武力攻撃に対しても日本を防衛するという同条約に基づく誓約を遵守する決意であることを再確認した。」とあるようにいかなる武力攻撃に対しても日本を防衛する誓約を遵守する決意を表明している。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1966年(昭和41年)の外務省による「日米安保条約の問題点について(外務省)」でも、アメリカの核抑止力について「安保条約第五条は,日本が武力攻撃を受けた場合は、日米両国が共通の危険に対処するよう行動することを定めている。ここにいう「武力攻撃」は、核攻撃を含むあらゆる種類の武力攻撃を意味する。このことは佐藤・ジョンソン共同声明が、アメリカが外部からの「いかなる武力攻撃」に対しても日本を防衛するという、安保条約に基づく誓約を遵守する決意であると述べていることによっても確認されている。」とあるように、アメリカ政府としては如何なる武力攻撃に対しても日本を防衛する方針と看做せる。このことは、2004年(平成16年)の日本プレス・クラブでの記者会見で、当時米国務副長官リチャード・アーミテージが「条約は、日本あるいは日本の施政権下にある領土に対するいかなる攻撃も、アメリカに対する攻撃とみなされることを定めている」と発言したことからも明らかである。また、核の傘の存在を肯定する意見として、ジョセフ・ナイ(ハーバード大学教授、元国務省国務次官補)、ポール・ジアラ(国防総省日本部長)、ジェームズ・シュレジンジャー(元国防長官)、キャスパー・ワインバーガー(元国防長官)らの意見が代表例である。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "西村眞悟衆議院議員は第155回国会内閣委員会第2号(平成14年10月30日(水曜日))において、「アメリカは主要都市に核ミサイルが落ちる危険性を覚悟して日本に核の傘を開くのか」と疑念を述べた。またヨーロッパへ向けられたロシアの核についてのアメリカの「シアター・ミサイル・ディフェンス」という発言を捉え、アメリカ自身が核ミサイルの射程外の場合関係ないというアメリカの意識がにじみ出ていると主張した。", "title": "本質・諸解釈など" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "以下、外務省公式サイト掲載の「極東の範囲(昭和35年2月26日政府統一見解)」", "title": "日本国内の認識" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "「新条約の条約区域は、『日本国の施政の下にある領域』と明確に定められている。他方同条約は、『極東における国際の平和及び安全』ということも言っている。一般的な用語としてつかわれる『極東』は、別に地理学上正確に画定されたものではない。しかし、日米両国が、条約にいうとおり共通の関心をもっているのは、極東における国際の平和及び安全の維持ということである。この意味で実際問題として両国共通の関心の的となる極東の区域は、この条約に関する限り、在日米軍が日本の施設及び区域を使用して武力攻撃に対する防衛に寄与しうる区域である。かかる区域は、大体において、フィリピン以北並びに日本及びその周辺の地域であって、韓国及び中華民国の支配下にある地域もこれに含まれている。(「中華民国の支配下にある地域」は「台湾地域」と読替えている。)", "title": "日本国内の認識" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "新(安保)条約の基本的な考え方は右の通りであるが、この区域に対して武力攻撃が行われ、あるいはこの区域の安全が周辺地域に起こった事情のため脅威されるような場合、アメリカがこれに対処するため執ることのある行動の範囲は、その攻撃又は脅威の性質如何にかかるのであって、必ずしも前記の区域に局限される訳では無い。 しかしながらアメリカの行動には、基本的な制約がある。すなわちアメリカの行動は常に国際連合憲章の認める個別的又は集団的自衛権の行使として、侵略に抵抗するためにのみ執られることになっているからである。またかかるアメリカの行動が戦闘行為を伴うときはそのための日本の施設の使用には、当然に日本政府との事前協議が必要となっている。そして、この点については、アイゼンハウァー大統領が岸総理大臣に対し、アメリカは事前協議に際して表明された日本政府の意思に反して行動する意図の無いことを保証しているのである。」", "title": "日本国内の認識" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "沖縄県の在日アメリカ軍基地が日本の国土面積に占める割合は1割以下だが、在日アメリカ軍基地面積の7割以上(ただし自衛隊との共用地を除いたアメリカ軍専用地の割合)が沖縄県に集中している事で、本土(沖縄県を除く他の46都道府県全体)と比べて不公平だとする意見や、在日アメリカ軍基地の必要性についても疑問視する意見が沖縄県には多数ある。また、在日アメリカ軍基地近隣の騒音問題がある。", "title": "日本国内の認識" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2010年(平成22年)5月に毎日新聞と琉球新報が沖縄県民を対象に行ったアンケートによると、同条約を「平和友好条約に改めるべき」が55パーセント・「破棄すべき」が14パーセント・「維持すべき」は7パーセントだった。", "title": "日本国内の認識" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "時事通信社解説委員の田崎史郎は、2017年2月10日に行われた日米首脳会談のニュースに触れ、中国が領有権を主張する尖閣諸島を巡っては、安倍晋三首相が首脳会談後の記者会見で、日米安保条約5条の適用対象であると首脳間で確認したと説明した。トランプ氏が会談でどのように発言したかは不明だが、共同声明に「日米安保条約第5条が尖閣諸島に適用される」と明記したことに対して、日本の防衛において日米安保は無くてはならない条約。日米関係に隙間を空けてはならないと答えた。", "title": "日本国内の認識" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "評論家の大井篤は1960年(昭和35年)の条約改定に当たり、「日米安全保障条約の持つ抑止効果を積極的に追求するべきである」と結論付けた。", "title": "日本国内の認識" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "元外務省局長の孫崎享は、「日米安保は日本の利益を守るためにあるのではなく、存在意義は全く無い」と述べている。また孫崎は、集団的自衛権について「アメリカが日本を戦闘に巻き込むのが狙い」と述べている。", "title": "日本国内の認識" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "内閣府が2010年(平成22年)1月に実施した世論調査では、同条約が日本の平和と安全に「役立っている」との回答が76.4パーセント・「役立っていない」との回答が16.2パーセントとなった。また「日本の安全を守るためにはどのような方法をとるべきだと思うか」との問いには「現状通り日米の安全保障体制と自衛隊で日本の安全を守る」との回答が77.3パーセント・「日米安全保障条約をやめて、自衛隊だけで日本の安全を守る」が9.9パーセント・「日米安全保障条約をやめて、自衛隊も縮小または廃止する」が4.2パーセントとなった。", "title": "日本国内の認識" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "従来の日本国憲法第9条解釈と日米安全保障条約では、安保条約第5条で米国に日本防衛のために米軍兵士に出動してもらうのを借りとして、第6条で日本国内に米軍基地の土地を提供することで返す事を前提に、1960年の安保条約改定時では「人(米軍)と物(日本)とのバーター」取引と言われた。安保条約は第5条と6条によって対等な関係とされた。", "title": "日本国内の認識" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "在日アメリカ軍が日本を防衛するのに、日本の自衛隊はアメリカ軍を守れないから集団的自衛権を行使するという第2次安倍内閣の憲法新解釈を、民主党の江崎孝参議院議員は2014年6月の参議院決算委員会で「集団的自衛権を容認するなら(従来と比べて日本側にとっては)在日米軍の分だけ負担が重くなる」と基地提供を認める安保条約6条の削除を迫ったが、安倍晋三首相は「条約を変える考えは毛頭無い。」と応えた。", "title": "日本国内の認識" } ]
日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約は、日本国とアメリカ合衆国の安全保障のため、日本本土に米軍(在日米軍)が駐留することなどを定めた軍事同盟である。
{{otheruseslist|'''現行'''の日米安全保障条約|1952年(昭和27年)から1960年(昭和35年)までの旧日米安全保障条約|日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約}} {{条約 |題名 =日本国とアメリカ合衆国との間の<br>相互協力及び安全保障条約<ref>[https://hourei.ndl.go.jp/#/detail?lawId=0000052152 日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約及び関係文書] (日本法令索引)</ref><br>(日米安全保障条約)<br>{{small|Treaty of Mutual Cooperation and Security between Japan and the United States of America<br>(Japan-U.S. Security Treaty)}} |画像 =Japan US Treaty of Mutual Security and Cooperation 19 January 1960.jpg |画像サイズ = 400px |画像キャプション =[[外務省外交史料館]](東京都港区)で展示されている署名 |通称 =日米安保条約 |起草 = |署名 = [[1960年]]([[昭和]]35年)[[1月19日]] |署名場所 = {{USA1959}} [[ワシントンD.C.]] |捺印 = |効力発生 = 1960年(昭和35年)[[6月23日]] |現況 = |失効 = |締約国 ={{JPN}}、{{USA1959}} |当事国 = |寄託者 = |文献情報 =昭和35年6月23日官報号外第69号条約第6号 |言語 =[[日本語]]、[[英語]] |内容 =[[日本]]と[[アメリカ合衆国]]の[[国家安全保障|安全保障]]について |関連 =[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|旧安保条約]]、[[日米地位協定]] |ウィキソース =日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約 |リンク = }} '''日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約'''(にほんこくとアメリカがっしゅうこくとのあいだのそうごきょうりょくおよびあんぜんほしょうじょうやく、英語:{{en|Treaty of Mutual Cooperation and Security between Japan and the United States of America}}、[[1960年|昭和35年]]条約第6号)は、[[日本|日本国]]と[[アメリカ合衆国]]の[[国家安全保障|安全保障]]のため、日本本土に[[アメリカ軍|米軍]]([[在日米軍]])が駐留することなどを定めた[[軍事同盟]]である。 == 条約について == [[1960年]]([[昭和]]35年)[[1月19日]]、[[アメリカ合衆国]]の[[ワシントンD.C.]]で締結された。いわゆる'''[[日米関係|日米同盟]]'''(にちべいどうめい)の根幹を成す条約である{{efn2|日本において日米関係を「同盟」と表現するのが一般化したのは、1980年代になってからのことである。[[2021年]]から政府は[[思いやり予算]]の通称を「同盟強靱化予算」とするなど<ref>{{cite news|title=「思いやり予算」は時代遅れ? 「同盟強靱化」に込めた政府の意図は|url=https://www.asahi.com/articles/ASPDP5F9LPDPUTFK00N.html|date=2021-12-21|publisher=朝日新聞}}</ref>、政府の公式見解化している。}}。条約の第6条の規定に従って「'''[[日米地位協定]]'''」(にちべいちいきょうてい)が締結されている。 形式的には[[1951年]](昭和26年)に署名され、翌[[1952年]](昭和27年)に発効した[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|旧安保条約]]を失効させて新たな条約として締約・[[批准]]されたが、実質的には安保条約の改定とみなされている。この条約に基づき、[[在日米軍|在日アメリカ軍]]として[[アメリカ軍]]の日本駐留を引き続き認めた。60年安保条約、'''新安保条約'''(しんあんぽじょうやく)などとも言われる。なお、新・旧条約を特段区別しない場合の通称は'''日米安全保障条約'''(にちべいあんぜんほしょうじょうやく)、'''日米安保条約'''(にちべいあんぽじょうやく)である。 == 概要 == {{See also|日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約}} [[1951年]](昭和26年)[[9月8日]]、[[アメリカ合衆国]]を始めとする[[第二次世界大戦]]の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側49ヶ国の間で[[日本国との平和条約]](サンフランシスコ講和条約)が締結され、翌[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]に効力が発生した。この際、同条約第6条(a)但し書き<ref>第六条(a) 連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。'''但し、この規定は、一または二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。'''</ref>に基づき、同時に締約された条約が旧日米安全保障条約([[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約]])であり、<!--旧条約を吉田が一人で署名したという経緯については旧安保条約へ移動。-->この条約に基づき、[[連合国軍占領下の日本|連合国軍による日本の占領統治]]は終了して日米両国は国交回復し、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]麾下部隊のうち[[アメリカ軍]]部隊は[[在日米軍]]として駐留を継続し、他の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍(主に[[イギリス軍]])部隊は撤収した。 旧条約は日本の自主防衛力が除去された戦後占領期の社会情勢を前提に、日本政府が米軍の駐留を希望する<ref>旧条約前文「日本国は、本日連合国との平和条約に署名した。日本国は、武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない。無責任な[[軍国主義]]がまだ世界から駆逐されていないので、前記の状態にある日本国には危険がある。よつて、日本国は平和条約が日本国とアメリカ合衆国の間に効力を生ずるのと同時に効力を生ずべきアメリカ合衆国との安全保障条約を希望する。平和条約は、日本国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章は、すべての国が個別的及び集団的自衛の固有の権利を有することを承認している。これらの権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。」</ref>という形式をとるものであり、また米国の「駐留権」<ref>{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=115614184X00920030716|title=参議院会議録情報 第156回国会 憲法調査会 第9号|accessdate=2019-01-17|website=kokkai.ndl.go.jp|publisher=国会会議議事録検索システム}}</ref>に基づく片務的な性格を持つ条約であった<ref name=mitsui>{{Cite journal|和書|author=三浦信行|year=2011|month=3|title=日米安全保障条約改定50周年に寄せて : 第34回国会「日米安全保障条約等特別委員会」公聴会公述人の意見陳述を中心に|journal=国士舘大学政治研究|issue=2|pages=137-192|publisher=国士舘大学政経学部附属政治研究所|url=https://web.archive.org/web/20131215095744/https://kiss.kokushikan.ac.jp/contents/0/data/1002369/0000/referenceMaterial/1/1884_6963_002.pdf|format=PDF|issn=1884-6963|ref={{Harvid|三浦|2011}}}}</ref>。 [[ファイル:1960 Protests against the United States-Japan Security Treaty 01.jpg|左|サムネイル|野党議員らに詰め寄られながら会期延長を宣言する[[清瀬一郎]][[衆議院議長]](1960年5月19日)。議長の左すぐ後ろは[[金丸信]]。|250x250ピクセル]] [[1960年]](昭和35年)[[1月16日]]に渡米した[[岸信介]][[内閣総理大臣|首相]]率いる全権委任団は、同[[1月19日]]に旧安保条約に代わる新安保条約に調印した。[[ドワイト・D・アイゼンハワー]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の訪日が予定されていた同年[[6月19日]]までに条約を批准したい岸首相の意向の下、期日までに[[衆議院の優越]]を利用した[[自然成立|自然承認]]が成立するぎりぎりの日程であった[[5月20日]]、[[衆議院]]本会議で条約が承認された<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20150922-7QQTXUAIINJDLFBD42HUJTLJUM/|title=【安保改定の真実(7)】先鋭化する社会党「米帝は日中の敵!」 5・19強行採決で事態一転…牧歌的デモじわり過激化 そして犠牲者が|accessdate=2019-01-19|date=2015-09-22|website=産経ニュース|publisher=}}</ref>。 条約承認については野党が強く反発しており、前日の[[5月19日]]には[[日本社会党]]議員らが[[清瀬一郎]]衆議院議長を監禁して採決を阻止していたが、同日午後11時7分に警官隊がこれを排除した。清瀬議長は[[金丸信]]ら屈強な[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]議員らに守られながら議場に入り、自民党が[[会期延長]]を単独採決した。更に日付が変わった直後の午前0時5分に清瀬議長が開会を宣言し、そこで条約承認が緊急上程され可決した。なお、多数の議員が壇上に押しかける中で清瀬議長が[[マイクロフォン|マイク]]を握りしめているという有名な「[[強行採決]]」の様子は、会期延長を議決したときのものであり、その後野党議員らが抗議の退出をしたため条約批准案の可決自体は粛々と行われた<ref name=":1" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1903D_R00C11A8000000/|title=身代わり出馬でトップ当選(政客列伝 金丸信)|accessdate=2019-01-22|date=2011-08-07|website=日本経済新聞 電子版|publisher=}}</ref>。 この強行策は'''[[安保闘争]]'''の活発化を招く結果となり、条約反対運動は次第に激しいものとなっていった。アイゼンハワー大統領の訪日も結局中止されることとなるが、岸政権の目論見通り、条約は30日後の[[6月19日]]に[[参議院]]の承認のないまま自然承認された。批准書交換が行われて条約が発効した[[6月23日]]、岸は退陣を表明した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20150923-DQNPS3D5XBIHREZH3FUJAO43LA/|title=【安保改定の真実(8)完】岸信介の退陣 佐藤栄作との兄弟酒「ここで二人で死のう」 吉田茂と密かに決めた人事とは…|accessdate=2019-01-19|date=2015-09-23|website=産経ニュース|publisher=}}</ref>。 新条約では[[集団的自衛権]]を前提とした(形式としては)双務的体裁を採用しており、日米双方が日本および極東の平和と安定に協力することを規定した。また、その期限を10年とし、以後は締結国からの1年前の予告により一方的に破棄出来ると定めた。締結後10年が経過した[[1970年]](昭和45年)前後に再び安保闘争が興隆したものの、以後も当条約は破棄されておらず、現在も効力を有している。 新安保条約は、同時に締結された[[日米地位協定]]によりその細目を規定している。日米地位協定では日本がアメリカ軍に施設や地域を提供する具体的な方法を定める他、その施設内での特権・[[税金]]の免除・兵士と軍属などへの裁判権などを定めている。またこれらと同時に、「[[日米地位協定合意議事録]]」が作成された。 == 条文 == {{wikisource|日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約}} === 内容 === :(前文にて、条約を締結することの意義について説明する。また、個別的及び集団的[[自衛権]]についても言及している。) : 第1条 :: [[国際連合憲章]]の武力不行使の原則を確認し、この条約が純粋に防衛的性格のものであることを宣明する。 : 第2条 :: [[自由主義]]を護持し、日米両国が諸分野、とくに経済分野において協力することを規定する。 : 第3条 :: 日米双方が、憲法の定めに従い、各自の防衛能力を維持発展させることを規定する。 : 第4条 :: (イ)日米安保条約の実施に関して必要ある場合及び(ロ)我が国の安全又は極東の平和及び安全に対する脅威が生じた場合には、日米双方が随時協議する旨を定める。この協議の場として設定される[[日米安全保障協議委員会]]{{efn2|日本側の外務大臣と防衛庁長官、米国側の国務長官と国防長官により構成される会合。いわゆる「2プラス2」。条約署名時の往復書簡の基づき設置<ref>[https://worldjpn.net/documents/texts/JPUS/19600119.O2J.html 安全保障協議委員会の設置に関する往復書簡] - データベース「世界と日本」</ref>。}}の他、通常の外交ルートも用いて、随時協議される。なお、いわゆる「事前協議」の制度はこの規定とは関係がない。 : 第5条 :: 両国の日本における、(日米)いずれか一方に対する攻撃が自国の平和及び安全を危うくするものであるという位置づけを確認し、憲法や手続きに従い共通の危険に対処するように行動することを宣言している。 : 第6条 :: [[在日米軍]]について定める。細目は[[日米地位協定]]などに規定される。 : 第7条、第8条、第9条 :: 他の規定との効力関係、発効条件などを定める。 : 第10条 :: 当初の10年の有効期間(固定期間)が経過した後は、1年前に予告することにより、一方的に廃棄できる旨を規定する。いわゆる自動延長方式の規定であり、この破棄予告が出されない限り条約は存続する。なお、代わる国連の措置が有効になったと両国が認めれば、この条約は終了するとしている。 == 本質・諸解釈など == {{言葉を濁さない|date=2017年5月|section=1}} === 日米安全保障条約の本質の変化 === {{出典の明記|date=2017年10月|section=2}} 日米安全保障条約は時代と共に本質を変化させて来た。 旧安保条約が締結された当時、日本の独自の防衛力は事実上の空白状態であり([[警察予備隊]]の創設が1950年(昭和25年)秋である)、一方で既に前年の[[1950年]](昭和25年)に[[朝鮮戦争]]が勃発して在日米軍は朝鮮半島に出撃しており、アメリカは出撃拠点ともなる後方基地の安全と補給の確保を喫緊の課題としていた。日本側の思惑としては独自の防衛力を再建するための時間的猶予がいまだ必要であり、また敗戦により破壊された日本の国力が正常な状態に復活するまで安全保障に必要な大半の軍事をアメリカに委任させることで経済負担を極力抑え、経済復興から経済成長へと注力するのが狙いであった{{efn2|ソ連を含まない単独講和と旧安保条約の締結に反対していた[[松野鶴平]]に対して、[[吉田茂]]は「このご時世、番犬くらい飼ってるだろう?」と持ちかけ、「それがどうした」と返されると、「犬とえさ代は向こう持ちなんだよ」と発言したとされる。}}。[[1953年]](昭和28年)7月に朝鮮戦争が停戦した後もひきつづき[[冷戦]]構造のもとで、日本は[[大韓民国|韓国]]・[[中華民国]]([[台湾]])と共に、陸軍長官[[ケネス・クレイボーン・ロイヤル]]の提唱した「[[封じ込め]]政策」に基づく[[反共主義]]の砦・防波堤として、[[ソビエト連邦|ソ連]]・[[中華人民共和国|中国]]・[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]に対峙していた。 [[1950年代]]中期になると、日本経済は[[朝鮮特需|朝鮮戦争特需]]から[[1955年]](昭和30年)の[[神武景気]]に入り、1955年(昭和30年)の主要経済指標は[[戦前]]期の水準を回復して復興期を脱した。[[経済白書]]は「もはや戦後ではない」と述べ、[[高度経済成長]]への移行が始まった。政治体制においても[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]と[[日本民主党]]が合併し[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]に、右派と左派が合併した[[日本社会党]]が設立され、いわゆる「[[55年体制]]」が成立し安定期に入った。そして1959年、日本が戦後初めて発行した[[外債]]は米国の金融市場が引受けた。一方で、[[1954年]](昭和29年)から[[1958年]](昭和33年)にかけて中華人民共和国と中華民国(台湾)の間で[[台湾海峡危機]]が勃発し、軍事的緊張が高まった。また、アメリカ政府が支援して成立した[[ゴ・ディン・ジエム]]大統領独裁体制下の[[ベトナム共和国|南ベトナム]]では後の[[ベトナム戦争]]の兆しが現れていた。こうした日米両国が置かれた状況の変化を受けて締結されたのが新安保条約である。当条約の締結前夜には反対運動が展開された([[安保闘争]])。 新安保条約は[[1970年]](昭和45年)をもって当初10年の固定期間が満了となり、単年毎の自動更新期に突入したが、東西冷戦構造の下で条約は自動的に更新され続けた。一方、その意義付けは、[[1978年]]以降「[[日米防衛協力のための指針]]」(ガイドライン)と、その改定の形で示され、対ソ連から対朝鮮有事、そして対中へと軍事条約としての実質的な性質を変えていった。 [[1979年]](昭和54年)5月にアメリカを訪問した[[大平正芳]]首相は、日本の首相として初めてアメリカを「同盟国」と表現した<ref>{{Cite book|和書|author=五百旗頭真 編|title=戦後日本外交史[新版]|date=|year=2007|accessdate=|publisher=有斐閣、185頁|author2=中西寛「自律的協調の模索」|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=|頁=185頁。}}</ref>。しかし、後任の[[鈴木善幸]]首相は、[[1981年]](昭和56年)5月のアメリカ訪問時の[[ロナルド・レーガン|レーガン大統領]]との日米共同声明に初めて「同盟」という表現が入ったことについて、帰国後「軍事的意味合いは持っていない」として、外務事務次官が異なる説明をすると激怒し、[[伊東正義]]外務大臣が事実上これに抗議して辞任している<ref name=":0">{{Cite book|author=五百旗頭真 編|title=戦後日本外交史[新版]|date=|year=2007|accessdate=|publisher=有斐閣、198頁・202頁|author2=村田晃嗣「「国際国家」の使命と苦悩」|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。日米「同盟」という言葉が市民権を得たのは、1983年1月の[[中曽根康弘]]首相によるアメリカ訪問時の共同宣言からとされる<ref name=":0" />。 [[1991年]](平成3年)12月の[[ソビエト連邦の崩壊]]により[[冷戦]]は終結したが、ソ連崩壊後の極東アジアの不安定化や北朝鮮の脅威、中台関係の不安定さや中国の軍事力増強など、日本および周辺地域の平和への脅威に共同対処するため引き続き条約は継続している。日本政府は、基本的価値や戦略的利益を共有する国がアメリカであるとし、日米安保は日本外交の基軸であり極東アジアの安定と発展に寄与するものとしている<ref>{{Cite web|和書|date=2009年(平成21年)10月|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/kankei.html#02|title=外務省: 日米関係 2.日米安全保障関係|publisher=外務省|accessdate=2013-06-01}}</ref>。一方で日米双方において、当条約の有効性や歴史的存在意義についての多くの議論がおこなわれるようになっている。 [[2004年]](平成16年)度の日本[[防衛白書]]では初めて[[中華人民共和国]]の[[中国人民解放軍|軍事力]]に対する警戒感を明記し、また米国の安全保障に関する議論でも、日本の対中警戒感に同調する動きが見られ、[[2005年]](平成17年)、米大統領[[ジョージ・W・ブッシュ]]の外交に大きな影響を持つ[[コンドリーザ・ライス]][[国家安全保障問題担当大統領補佐官]]が中国に対する警戒感をにじませる発言をし、日米安全保障条約の本質は対中軍事同盟・[[トルコ]]以東地域への軍事的存在感維持の為の物へと変化して来ている。<!--なお、アジア諸国はアメリカと個別に軍事同盟・軍事協力を結んでいる([[#条約・機構]]参照)が、これは[[集団安全保障]]体制を組ませず、対抗軸とさせないためのアメリカによるアジア分断・干渉であるとする意見もある。--><!--誰の意見か不明。--> [[2010年]](平成22年)[[1月19日]]、米大統領[[バラク・オバマ]]は、日米安保条約改定の署名50周年に際して声明を発表した<ref>{{cite news|title=日米安保条約改定50年 オバマ大統領談話全文|newspaper=YOMIURI ONLINE|publisher=読売新聞社|date=2010-01-20|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100120-OYT1T00631.htm|accessdate=2013-06-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100123210001/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100120-OYT1T00631.htm|archivedate=2010年1月23日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。声明では、「共通の課題に対して両国が協力することは、われわれが世界に関与する上での重要な一部となる」として、日米安保を基盤として両国の世界規模での協力の必要性を強調した。また「日本の安全保障に対する米国の関与は揺るぎない」として、「同盟を21世紀向けに更新し、両国を結束させる友好関係と共通の目的を高めよう」と呼びかけていた。また、安保改定50年にあたり日米の外務・防衛担当閣僚が共同声明を出している。<ref>{{cite news|title=安保改定50周年:日米の外務・防衛担当閣僚が共同声明|author=野口武則・仙石恭|newspaper=毎日jp|publisher=毎日新聞社|date=2010-01-19|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100120k0000m010072000c.html|accessdate=2013-06-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100120072039/http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100120k0000m010072000c.html|archivedate=2010年1月20日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref> [[2019年]]6月、以前から同様の発言をしていた米大統領[[ドナルド・トランプ]]は日米安保条約について「もし日本が攻撃されれば我々は戦う」・「我々が攻撃されても日本は助ける必要が全く無い」・「(日本は)[[ソニー]]のテレビで見るだけだ」などと発言した<ref>[https://www.cnn.co.jp/usa/35139089.html トランプ大統領、日米安保めぐり不満 「日本は米国を助ける必要ない」] CNN 2019年6月27日配信 2021年10月6日閲覧。</ref>。日米両政府は否定したものの、29日に[[大阪]]にて開催された[[G20]]で来日し、閉幕後の会見で「破棄することは全く考えてない。不平等な合意だと言っている」「6カ月間、条約は見直す必要があると[[安倍晋三]]首相に伝えてきた<ref>[https://web.archive.org/web/20190629100631/http://www.asahi.com/international/reuters/CRWKCN1TU096.html 安保条約見直し必要、安倍首相に伝えた=トランプ米大統領] 朝日新聞デジタル 2019年6月29日配信 2021年10月6日閲覧。</ref>」などと発言したが、[[菅官房長官]]は否定した。 === 日本抑止論 === [[1971年]](昭和46年)7月、中国を訪問した[[ヘンリー・キッシンジャー]]との会談で、[[周恩来]]首相が日本には「拡張主義的傾向がある」と指摘したのに対し、キッシンジャーは同意して日米安保関係がそれを防いでいる、と述べた。これは現在の記録で確認できる、米中首脳が最初に日米安保「瓶の蓋」論を共有した瞬間とされる<ref>{{Cite book|author=国分良成、高原明生|title=日中関係史|date=|year=2013|accessdate=|publisher=有斐閣|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 [[1990年]](平成2年)3月、在沖縄[[アメリカ海兵隊]]司令官ヘンリー・スタックポール({{en|Henry C. Stackpole, III}})少将は「アメリカ軍が日本から撤退すれば、既に強力な軍事力を日本はさらに増強するだろう。我々は 『瓶のふた』 のようなものだ」と発言し、日本を抑止する必要があるとの見解を示した<ref>{{Cite journal|和書|author=等雄一郎|year=2006|month=5|title=専守防衛論議の現段階――憲法第9条、日米同盟、そして国際安全保障の間に揺れる原則|journal=レファレンス|volume=56|issue=(5)(通号 664)|pages=19-38|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/999839|format=PDF|publisher=国立国会図書館調査及び立法考査局|issn=0034-2912|accessdate=2013-06-01}}</ref>。 [[1999年]](平成11年)のアメリカの世論調査では、条約の目的は何かという質問への回答が、「日本の軍事大国化防止」が49パーセント・「日本防衛」が12パーセントとなった<ref>{{Cite web|和書|author=小熊英二|date=2004-05-12|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/1590512oguma.pdf/$File/1590512oguma.pdf|format=PDF|title=第9条の歴史的経緯について|publisher=衆議院憲法調査会|accessdate=2013-06-01}}</ref>。 === 第5条共同対処宣言(義務)に関する解釈 === この条約の第5条では日米両国の「共同対処」宣言が明記されており、アメリカが集団的自衛権を行使して日本を防衛する義務を負うという根拠とされている<ref>{{Cite web|和書|title=日米安全保障条約第5条とは|url=https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E6%9D%A1%E7%B4%84%E7%AC%AC5%E6%9D%A1-896580|website=コトバンク|accessdate=2019-06-12|author=朝日新聞}}</ref>。日本の施政下においては、日本はもちろん「在日米軍に対する武力攻撃」であっても」「日米が共同して対処すること」となる<ref>{{Cite web|和書||url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/1590512oguma.pdf/$File/1590512oguma.pdf|title=日米安全保障条約(主要規定の解説)|publisher=外務省|accessdate=2015-07-15}}</ref>。この際、日本はあくまで「日本への攻撃」に対処すると考えるられるため、日米安保に基づいた行動を行う場合も集団的自衛権ではなく、自国を守るための個別的自衛権の行使に留まるとの解釈が過去になされた<ref>{{Citation |author=佐藤内閣総理大臣|date=1968-08-10|title=第59回国会 参議院 予算委員会会議録第2号}}</ref>。 また第5条では「日本の施政下の領域における日米どちらかへの攻撃」についてのみ述べられており、在日アメリカ軍基地・在日アメリカ施設などは含まれていない。しかし、日本の領土・領空を侵害せずにこれらに対する攻撃を行うことは不可能であるため、アメリカの施設に対する攻撃であっても日本への攻撃と同等と見做して同様に対処を行う<ref>{{Citation |author=林内閣法制局長官|date=1960-02-13|title=第34回国会 衆議院 予算委員会議録第9号}}</ref>。その他に、日本を防衛するために活動を行っているアメリカの艦艇に関しても、第98回国会の衆議院予算委員会にて谷川防衛庁長官(当時)が「(前略)アメリカの艦艇が相手国から攻撃を受けたときに、自衛隊が我が国を防衛するための共同対処行動の一環としてその攻撃を排除することは、我が国に対する武力攻撃から我が国を防衛するための必要な限度内と認められる以上、これは我が国の自衛の範囲内に入るであろう」と答弁しており<ref>{{Citation |author=谷川防衛庁長官|date=1983-03-08|title=第98回国会 衆議院 予算委員会議録第18号}}</ref>、自衛隊による防護が可能となっている。 [[2012年]](平成24年)11月29日、[[アメリカ合衆国議会|米連邦議会]][[アメリカ合衆国上院|上院]]は本会議で、[[尖閣諸島問題]]を念頭に日本の施政権についての米国の立場について「第三国の一方的な行動により影響を受けない」「'''日米安保条約'''第5条に基づく責任を再確認する」と宣言する条項を国防権限法案に追加する修正案を全会一致で可決した<ref name="尖閣防衛義務を再確認=国防権限法が成立-米">{{cite news|title=尖閣防衛義務を再確認=国防権限法が成立-米|author=ワシントン時事|newspaper=時事ドットコム|publisher=時事通信社|date=2013-01-03|url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201301/2013010300169|accessdate=2013-06-01}}</ref><ref name=beijoin>{{cite news|title=米上院「尖閣に安保適用」全会一致…中国けん制|author=山口香子|newspaper=YOMIURI ONLINE|publisher=読売新聞社|date=2012-11-30|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20121130-OYT1T01080.htm|accessdate=2012-12-01|page=2012年12月1日夕刊13S版1面}}{{リンク切れ|date=2017年10月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。 [[2013年]](平成25年)[[1月2日]]、前月20日に米[[アメリカ合衆国下院|下院]]・翌21日に米上院で可決された[[尖閣諸島問題|尖閣諸島]]が'''日米安全保障条約'''第5条の適用対象であることを明記した条文を盛り込んだ「2013年会計年度国防権限法案」に[[バラク・オバマ]]大統領が署名して法案が成立した。尖閣諸島の条文には「武力による威嚇や武力行使」問題解決を図ることに反対するとしている<ref>読売新聞2012年12月23日13S版2面及び2013年1月4日13S版2面</ref><ref>{{cite news|title=グアム移転費復活に署名 尖閣への安保適用も明記|author=共同|newspaper=MSN産経ニュース|publisher=産経新聞|date=2013-01-03|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/130103/amr13010316200004-n1.htm|accessdate=2013-06-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130103201713/http://sankei.jp.msn.com/world/news/130103/amr13010316200004-n1.htm|archivedate=2013年1月3日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。 : === 米国下院で「日本側に有利過ぎる」と批判された日米安保条約 === {{言葉を濁さない|date=2017年5月|section=1}} {{出典の明記|date=2017年10月|section=2}} 一方で、アメリカ側からの「日本に有利すぎる」といった批判がある。 [[日米地位協定]]第24条において、アメリカ軍の維持経費は「日本国に負担をかけないで合衆国が負担する」と規定されている。旧[[ソビエト連邦|ソ連]](現在のほぼ[[独立国家共同体]]構成国、主に[[ロシア]]に相当)を主な脅威としていた日米安全保障の本質は[[冷戦]]終結と共に変化しているが、条約部分に決定的な変化は無い。また日米安全保障条約は、日本側が正常な軍事力を持つまで……として締結された経緯もあり、アメリカ側には日本を防衛する事を必要とされるが、日本側は必ずしもアメリカを防衛することは必要では無い状態になっている。これは日本側の憲法解釈(政府見解)上の制約で、個別的自衛権の行使は日米両国共に可能だが、集団的自衛権の場合は日本は憲法に抵触する恐れがあるという政策を採っている。抵触するかどうかについては議論が続いており、結論は出ていない。この事実を日本の二重保険外交と解釈し、日本はアメリカに対する防衛責務を負っていないのに、アメリカから防衛されている状態ではアメリカの潜在的敵国と軍事的協調をとれる余地を残している、との批判が米議会にあったことも事実である。また、アメリカ側は日本に対して集団的自衛権を行使出来ると明言しており、費用面からも、軍事的負担がアメリカ側に多いと、日米安全保障条約はアメリカで時として非難される。だが実際のところ、日米安全保障条約の信頼を失墜させるほどの行為は日米両国共にとっていないので、こう言った批判は、やはりアメリカでも少数派に留まっている。 === 米軍が日本に駐留し続ける事の意義 === {{出典の明記|date=2017年10月|section=2}} [[2008年]](平成20年)[[2月13日]]、[[ホワイトハウス]]のデイナ・ペリーノ[[ホワイトハウス報道官|報道官]]は「アメリカはどこに居ようとどこに基地を持とうと、それはそれらの国々から招かれてのことだ。世界のどのアメリカ軍基地でも撤去を求められているとは承知していない。もし求められれば恐らく我々は撤退するだろう」と述べた(ダナ・ペリノ発言、「恒久的基地は世界のどこにもない」AFP通信電)。 ただし世界的には、アメリカ軍自身が戦略的に必要と考える地域で現地の国民が駐屯に反対した場合には、駐留と引き換えの経済協力を提案し、あるいは[[パナマ侵攻]]・[[グレナダ侵攻]]や[[死の部隊]]の活動などに見られるように、反対勢力には経済制裁や対外工作機関([[中央情報局|CIA]]など)による非公然活動(スキャンダル暴露や暗殺など)、場合によっては軍事介入などのさまざまな妨害をちらつかせるなど、「[[アメとムチ]]」を使って駐留を維持させるという説もある。また[[ディック・チェイニー]]は国防長官当時の[[1992年]](平成4年)に議会で「アメリカ軍が日本にいるのは、日本を防衛するためではない。アメリカに軍が必要とあらば、常に出動できる前方基地として使用できるようにするため。加えて日本は駐留経費の75パーセントを負担してくれる」とまで発言している([[思いやり予算]])。 「日本がアメリカに軍の駐留費用を負担する意味があるか」との疑問が日本共産党などから提議されている<ref>{{cite news|title=参院予算委 市田書記局長の総括質問(大要)|author=日本共産党中央委員会|newspaper=しんぶん赤旗|publisher=日本共産党|date=2004-10-22|url=http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-10-22/25_01.html|accessdate=2013-06-01}}</ref>。 === アメリカの核の傘を否定する発言 === {{See|孤立主義#新孤立主義}} アメリカの[[核の傘]]に対する否定的見解が、個人的見解としてアメリカの政治家・学者などから出ている<ref>{{Harvtxt|伊藤|2006}}参考。</ref>。 * 以下のアメリカの要人が、アメリカの核の傘を否定する発言をしている。 ** [[サミュエル・P・ハンティントン]](ハーバード大学比較政治学教授) ** マーク・カーク(連邦下院軍事委員会メンバー) ** [[ケネス・ウォルツ]](国際政治学者、カリフォルニア大学バークレー校名誉教授) ** [[エニ・ファレオマバエガ]](下院外交委・アジア太平洋小委員会委員) 上記のように、アメリカ中枢の人間が個人的立場で他国のために核報復は無いと明言しているが、その場合日本にとって核の傘の意味が低下する。 しかしこれらの発言は全て現職の閣僚・高官時の発言ではなく、要職を退いてからの個人的発言である。アメリカ政府としては、[[1965年]](昭和40年)にある日米共同声明第8項「8.大統領と総理大臣は、日本の安全の確保につきいささかの不安もなからしめることがアジアの安定と平和の確保に不可欠であるとの確信を新たにした。このような見地から,総理大臣は,日米相互協力及び安全保障条約体制を今後とも堅持することが日本の基本的政策である旨述べ、これに対して、大統領はアメリカが外部からのいかなる武力攻撃に対しても日本を防衛するという同条約に基づく誓約を遵守する決意であることを再確認した。」とあるようにいかなる武力攻撃に対しても日本を防衛する誓約を遵守する決意を表明している。 [[1966年]](昭和41年)の[[外務省]]による「日米安保条約の問題点について(外務省)」でも、アメリカの核抑止力について「安保条約第五条は,日本が武力攻撃を受けた場合は、日米両国が共通の危険に対処するよう行動することを定めている。ここにいう「武力攻撃」は、核攻撃を含むあらゆる種類の武力攻撃を意味する。このことは佐藤・ジョンソン共同声明が、アメリカが外部からの「いかなる武力攻撃」に対しても日本を防衛するという、安保条約に基づく誓約を遵守する決意であると述べていることによっても確認されている。」とあるように、アメリカ政府としては如何なる武力攻撃に対しても日本を防衛する方針と看做せる。<br />このことは、[[2004年]](平成16年)の日本プレス・クラブでの記者会見で、当時米国務副長官[[リチャード・アーミテージ]]が「条約は、日本あるいは日本の施政権下にある領土に対するいかなる攻撃も、アメリカに対する攻撃とみなされることを定めている」と発言したことからも明らかである。また、核の傘の存在を肯定する意見として、[[ジョセフ・ナイ]](ハーバード大学教授、元国務省国務次官補)、[[ポール・ジアラ]](国防総省日本部長)、[[ジェームズ・シュレジンジャー]](元国防長官)、[[キャスパー・ワインバーガー]](元国防長官)らの意見が代表例である。 ==== 日本側の「核の傘」に対する疑問 ==== [[西村眞悟]]衆議院議員は第155回国会[[内閣委員会]]第2号(平成14年10月30日(水曜日))において、「アメリカは主要都市に核ミサイルが落ちる危険性を覚悟して日本に核の傘を開くのか」と疑念を述べた。またヨーロッパへ向けられたロシアの核についてのアメリカの「シアター・ミサイル・ディフェンス」という発言を捉え、アメリカ自身が核ミサイルの射程外の場合関係ないというアメリカの意識がにじみ出ていると主張した<ref>{{Cite web|和書|date=2002-10-30|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/000215520021030002.htm|title=第155回国会 内閣委員会 第2号(平成14年10月30日(水曜日))|publisher=衆議院|accessdate=2013-06-01}}</ref>。 == 日本国内の認識 == === 極東の範囲(昭和35年2月26日政府統一見解) === 以下、外務省公式サイト掲載の「極東の範囲(昭和35年2月26日政府統一見解)<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/qa/03_2.html 日米安保体制Q&A 極東の範囲(昭和35年2月26日政府統一見解)- 外務省]</ref>」 「新条約の条約区域は、『日本国の施政の下にある領域』と明確に定められている。他方同条約は、『極東における国際の平和及び安全』ということも言っている。一般的な用語としてつかわれる『極東』は、別に地理学上正確に画定されたものではない。しかし、日米両国が、条約にいうとおり共通の関心をもっているのは、極東における国際の平和及び安全の維持ということである。この意味で実際問題として両国共通の関心の的となる極東の区域は、この条約に関する限り、在日米軍が日本の施設及び区域を使用して武力攻撃に対する防衛に寄与しうる区域である。かかる区域は、大体において、フィリピン以北並びに日本及びその周辺の地域であって、韓国及び中華民国の支配下にある地域もこれに含まれている。(「中華民国の支配下にある地域」は「台湾地域」と読替えている。) 新(安保)条約の基本的な考え方は右の通りであるが、この区域に対して武力攻撃が行われ、あるいはこの区域の安全が周辺地域に起こった事情のため脅威されるような場合、アメリカがこれに対処するため執ることのある行動の範囲は、その攻撃又は脅威の性質如何にかかるのであって、必ずしも前記の区域に局限される訳では無い。   しかしながらアメリカの行動には、基本的な制約がある。すなわちアメリカの行動は常に国際連合憲章の認める個別的又は集団的自衛権の行使として、侵略に抵抗するためにのみ執られることになっているからである。またかかるアメリカの行動が戦闘行為を伴うときはそのための日本の施設の使用には、当然に日本政府との事前協議が必要となっている。そして、この点については、アイゼンハウァー大統領が岸総理大臣に対し、アメリカは事前協議に際して表明された日本政府の意思に反して行動する意図の無いことを保証しているのである。」 === 沖縄県 === {{See also|在日米軍#沖縄県の基地問題}} [[沖縄県]]の在日アメリカ軍基地が日本の国土面積に占める割合は1割以下だが、在日アメリカ軍基地面積の7割以上(ただし[[自衛隊]]との共用地を除いたアメリカ軍専用地の割合)が沖縄県に集中している事で、本土(沖縄県を除く他の46[[都道府県]]全体)と比べて不公平だとする意見や、在日アメリカ軍基地の必要性についても疑問視する意見が沖縄県には多数ある。また、在日アメリカ軍基地近隣の騒音問題がある。 [[2010年]](平成22年)[[5月]]に[[毎日新聞]]と[[琉球新報]]が沖縄県民を対象に行ったアンケートによると、同条約を「平和友好条約に改めるべき」が55パーセント・「破棄すべき」が14パーセント・「維持すべき」は7パーセントだった<ref>{{Cite news | url = http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-162838-storytopic-1.html | title = 「辺野古」反対84% 琉球新報・毎日新聞 県民世論調査 | newspaper = [[琉球新報]] | date = 2010-05-31 | accessdate = 2011-06-20 }}</ref>。 === 識者 === [[時事通信社]]解説委員の[[田崎史郎]]は、[[2017年]][[2月10日]]に行われた日米首脳会談のニュースに触れ、中国が領有権を主張する尖閣諸島を巡っては、安倍晋三首相が首脳会談後の記者会見で、日米安保条約5条の適用対象であると首脳間で確認したと説明した。トランプ氏が会談でどのように発言したかは不明だが、共同声明に「日米安保条約第5条が尖閣諸島に適用される」と明記したことに対して、日本の防衛において日米安保は無くてはならない条約。日米関係に隙間を空けてはならないと答えた<ref>[https://www.tbs.co.jp/hiru-obi/ TBS「ひるおび!」] 2017年2月13日</ref>。 評論家の[[大井篤]]は[[1960年]](昭和35年)の条約改定に当たり、「日米安全保障条約の持つ抑止効果を積極的に追求するべきである」と結論付けた<ref name=mitsui/>。 元外務省局長の[[孫崎享]]は、「日米安保は日本の利益を守るためにあるのではなく、存在意義は全く無い」と述べている<ref>{{cite news|title=日本外務省元局長:日米同盟の存在意義はまったくない_中国網_日本語|author=環球時報|newspaper=中国網日本語版(チャイナネット)|publisher=中国網|date=2012-07-27|url=http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2012-07/27/content_26036576_2.htm|accessdate=2013-06-01|language=日本語}}</ref>。また孫崎は、集団的自衛権について「アメリカが日本を戦闘に巻き込むのが狙い」と述べている。 === 世論調査 === 内閣府が[[2010年]](平成22年)1月に実施した世論調査では、同条約が日本の平和と安全に「役立っている」との回答が76.4パーセント・「役立っていない」との回答が16.2パーセントとなった。また「日本の安全を守るためにはどのような方法をとるべきだと思うか」との問いには「現状通り日米の安全保障体制と自衛隊で日本の安全を守る」との回答が77.3パーセント・「日米安全保障条約をやめて、自衛隊だけで日本の安全を守る」が9.9パーセント・「日米安全保障条約をやめて、自衛隊も縮小または廃止する」が4.2パーセントとなった<ref name="mitsui" />。 === 集団的自衛権との関係 === {{See|日本の集団的自衛権}} 従来の[[日本国憲法第9条]]解釈と日米安全保障条約では、安保条約第5条で米国に日本防衛のために米軍兵士に出動してもらうのを借りとして、第6条で日本国内に米軍基地の土地を提供することで返す事を前提に、1960年の安保条約改定時では「人(米軍)と物(日本)との[[物々交換|バーター]]」取引と言われた。安保条約は第5条と6条によって対等な関係とされた。 [[在日米軍|在日アメリカ軍]]が日本を防衛するのに、日本の[[自衛隊]]はアメリカ軍を守れないから[[集団的自衛権]]を行使するという[[第2次安倍内閣]]の憲法新解釈を、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の[[江崎孝]]参議院議員は2014年6月の参議院決算委員会で「集団的自衛権を容認するなら(従来と比べて日本側にとっては)在日米軍の分だけ負担が重くなる」と基地提供を認める安保条約6条の削除を迫ったが、[[安倍晋三]]首相は「条約を変える考えは毛頭無い。」と応えた。<ref>2014年8月27日[[中日新聞]]朝刊11面</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist}} == 関連文献 == <!--著作者名の50音順--> *{{Cite book|和書|author=伊藤貫|authorlink=伊藤貫|year=2006|month=2|title=中国の「核」が世界を制す|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=4-569-64868-1|ref={{Harvid|伊藤|2006}}}} **{{Cite book|和書|author=伊藤貫|year=2011|month=2|title=中国の核戦力に日本は屈服する 今こそ日本人に必要な核抑止力|series=[[小学館101新書]]|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4-09-825102-5|ref={{Harvid|伊藤|2011}}}} - {{Harvtxt|伊藤|2006}}の改訂版。『[[正論 (雑誌)|正論]]』2011年2月号に掲載された[[田母神俊雄]]との対談を収録。 *{{Cite book|和書|author=岡崎久彦|authorlink=岡崎久彦|date=1983-08-23|title=戦略的思考とは何か|series=中公新書 700|publisher=中央公論社|isbn=4-12-100700-X|ref={{Harvid|岡崎|1983}}}} *{{Cite book|和書|author=岡崎久彦|coauthors=[[佐藤誠三郎]]・[[西村繁樹]]|year=1991|month=8|title=日米同盟と日本の戦略 アメリカを見誤ってはならない|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=4-569-53229-2|ref={{Harvid|岡崎|佐藤|西村|1991}}}} *{{Cite book|和書|author=草野厚|authorlink=草野厚|date=1999-11-18|title=日米安保とは何か その成立から新ガイドラインまで|publisher=PHP研究所|isbn=4-569-60889-2|ref={{Harvid|草野|1999}}}} *{{Cite book|和書|editor1=マイケル・グリーン|editor1-link=マイケル・グリーン (政治学者)|editor2=パトリック・クローニン|editor2-link=パトリック・クローニン|others=[[川上高司]] 監訳|year=1999|month=9|title=日米同盟 米国の戦略|publisher=[[勁草書房]]|isbn=4-326-30133-3|ref={{Harvid|グリーン|クローニン|1999}}}} *{{Cite book|和書|editor=国際関係研究会|editor-link=国際関係研究会|year=1982|month=1|title=日米同盟の論理|series=Ohtemachi books|publisher=[[日本工業新聞社]]|isbn=4-8191-0511-6|ref={{Harvid|国際関係研究会|1982}}}} *{{Cite book|和書|author=坂元一哉|authorlink=坂元一哉|date=2000-05|title=日米同盟の絆 安保条約と相互性の模索|publisher=[[有斐閣]]|isbn=4-641-04976-9|ref={{Harvid|坂元|2000}}}} - 第22回(2000年度)[[サントリー学芸賞]](政治・経済部門)受賞。 *{{Cite book|和書|author=田久保忠衛|authorlink=田久保忠衛|date=2001-05-15|title=新しい日米同盟 親米ナショナリズムへの戦略|series=PHP新書|publisher=PHP研究所|isbn=4-569-61615-1|ref={{Harvid|田久保|2001}}}} *{{Cite book|和書|author=豊下楢彦|authorlink=豊下楢彦|date=1996-12-20|title=安保条約の成立 吉田外交と天皇外交|series=岩波新書 新赤版 478|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-430478-4|ref={{Harvid|豊下|1996}}}} *{{Cite book|和書|editor1=西原正|editor1-link=西原正|editor2=土山實男|editor2-link=土山實男|date=1998-02|title=日米同盟Q&A100 全貌をこの1冊で明らかにする|publisher=[[亜紀書房]]|isbn=4-7505-9803-8|ref={{Harvid|西原|土山|1998}}}} *{{Cite book|和書|others=西原正・土山實男 監修|editor=平和・安全保障研究所|editor-link=平和・安全保障研究所|date=2010-06-22|title=日米同盟再考 知っておきたい100の論点|publisher=亜紀書房|isbn=978-4-7505-1007-1|ref={{Harvid|西原|土山|2010}}}} *{{Cite journal|和書|editor=[[日本国際政治学会]] 編|year=1997|month=5|title=日米安保体制 持続と変容|journal=国際政治|publisher=有斐閣(発売)|issue=通号 115|issn=0454-2215 |ref={{Harvid|日本国際政治学会|1997}}}} *{{Cite book|和書|author1=孫崎享|authorlink1=孫崎享||date=2009-03-20|title=日米同盟の正体 迷走する安全保障|series=講談社現代新書 1985|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-287985-9|ref={{Harvid|孫崎|2009}}}} *{{Cite book|和書|author=室山義正|authorlink=室山義正|year=1992|month=2|title=日米安保体制 冷戦後の安全保障戦略を構想する|volume=上(平和憲法制定から沖縄返還まで)|publisher=有斐閣|isbn=4-641-04950-5|ref={{Harvid|室山|1992a}}}} *{{Cite book|和書|author=室山義正|year=1992|month=2|title=日米安保体制 冷戦後の安全保障戦略を構想する|volume=下(ニクソン・ドクトリンから湾岸戦争後まで)|publisher=有斐閣|isbn=4-641-04951-3|ref={{Harvid|室山|1992b}}}} *{{Cite book|和書|author=山本皓一 撮影|authorlink=山本皓一|coauthors=[[松本利秋]] 著|year=1996|month=2|title=軍事同盟 日米安保条約|publisher=[[クレスト社]]|isbn=4-87712-036-X|ref={{Harvid|山本|松本|1996}}}} == 関連項目 == {{関連項目過剰|date=2021年11月}} {{col| * [[連合国軍占領下の日本]] - [[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP) * [[日本国との平和条約]] * [[在日米軍]] * [[日本国憲法]]・[[日本国憲法第9条|第9条]] * [[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定]](日米相互防衛援助協定) * [[日米地位協定]] * [[横田空域]] * [[中国脅威論#ソ連脅威論と中国脅威論|ソ連脅威論]] * [[中国脅威論]] * [[冷戦]] * [[アメリカ帝国]] * [[覇権主義]] * [[日米安全保障協議委員会]] * [[日米合同委員会]] * [[日米豪印戦略対話]] * [[日米関係#日米同盟]] * [[対米従属論]] * [[アメリカ合衆国51番目の州]] * [[ANZUS]] * [[AUKUS]] * [[希望の同盟]] * [[日英同盟]] * [[平和安全法制]] ; 事件 * [[安保闘争]] * [[砂川事件]] | ; 条約・法律・機構 * [[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約]] - 1952年(昭和27年)から1960年(昭和35年)まで発効した旧日米安保条約 * [[日本国との平和条約]] * [[戦争権限法]] * [[日米防衛協力のための指針]] * [[米韓相互防衛条約]] * [[在韓米軍地位協定]] * [[ソ朝友好協力相互援助条約]] * [[中朝友好協力相互援助条約]] * [[台湾関係法]](旧[[米華相互防衛条約]]) * [[米比相互防衛条約]] * [[太平洋安全保障条約]] * [[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法]] * [[日本国における国際連合の軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法]] * [[北大西洋条約機構]] * [[中央条約機構]] * [[ワルシャワ条約機構]] * [[安全保障協力に関する日豪共同宣言]] * 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日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約](旧安保条約、日本語条文) * その他 ** [http://anpohaiki.news.coocan.jp 安保破棄中央実行委員会] {{日本の条約}} {{現行の軍事同盟・安全保障条約・集団安全保障}} {{日本の安全保障法制}} {{Poli-stub}} {{DEFAULTSORT:にほんこくとあめりかかつしゆうこくとのあいたのそうこきようりよくおよひあんせんほしようしようやく}} [[Category:日米二国間条約]] [[Category:在日米軍]] [[Category:日本の軍事]] [[Category:アメリカ合衆国の軍事史]] [[Category:戦後日本の外交]] [[Category:アメリカ合衆国の国際関係 (1945年-1989年)]] [[Category:アメリカ合衆国の国際関係 (1990年-)]] [[Category:冷戦]] [[Category:1960年の条約]] [[Category:岸信介]] [[Category:ワシントンD.C.の歴史]]
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刀(かたな)は、武器(刀剣)の一種であり、剣の内でもとくに片側にしか刃のない物を指す。 日本語としては「かた・な」と分解できてそれぞれ片、刃をあらわす。日本の刀に関する詳細は日本刀の項を参照。 刀は、両刃剣(直剣、刺突を重視)に比べ、身幅が細く(身幅が半分でも同じ強度とできるため)、軽量となる。したがって素早く断ち切ることができる。 刀は目標物を断ち切るための道具であるが、武器として造られた物は刺突も可能な先端を持つことが多い。 さらに刺突の効果を増すために、刀の先端部分、鋩(きっさき)から刀身の半分以上を両刃にした造り(擬似刃)を有するものも存在する。日本でも小烏丸のような鋒両刃(きっさきもろは)造りの刀が見られる。小烏丸は初期のものだが、後世にもこの造りをした刀は稀ながら見られる。 だが、「突き」には刀身(剣身)が真っ直ぐである方が適するため、突きに徹すると「斬る」には向かなくなる。効率よく物を斬る為には反りが深く、刃渡りが長いほうが向いているのに対して、突くためには反りが無く刃渡りが短いほうが向いている。例えば突くための武器である槍は、(穂先部分が)長いとされる「大身槍」の基準が1尺(30センチ)である。 青銅や鉄などの強靱な金属素材の精製、加工技術の発達により、ナイフや鉈のような道具から長い刀身を持つ剣が生まれ、更なる金属加工技術の進歩により長い刀身を持つ剣が生まれた(ただし刀より、可能な限り左右対称にしなければまっすぐにならない剣の方が制作が難しいともいわれる)。 一部において中国から伝わった直刀を基に作成が始まったと言われるが、日本でも紀元前から青銅製・鉄製の直刀が作られており、これらは製法からして異なるもので日本刀の基とはいえない。日本においては平安時代の頃から独特の反りをつけた「太刀」と呼ばれる刀が製作されはじめ、武人の一般的な武器となりこの時代以後の刀を日本刀という。また、アジア諸国では、11世紀から13世紀頃にかけて、馬上での斬り合いに適したペルシャのシャムシールやインドのタルワールのような反りのついた刀が生まれている。 中国においては、後漢(西暦25 - 220年)頃からそれまで主流だった剣に変わり直刀が用いられるようになる。これは騎馬民族である匈奴との騎乗戦闘が増え、すれ違いざまに刀剣を振るうことが多くなってきたため、従来の剣ではこのような使い方は向いておらず折れやすかったためである。以降武器としては刀が主流になっていくが格式は剣に劣った。 エジプトでは紀元前二千年紀から緩やかに彎曲した内側に刃を持つ、内刃のケペシュと呼ばれる武器が使われていた。紀元前7世紀頃からはカルタゴなどのフェニキア人が、鎌のように彎曲する弧を描いた内刃を持つハルペー(ハルパー)と呼ばれる武器を使いだした。 西ヨーロッパでは肉切り包丁や剣鉈をそのまま長大化したようなファルシオンやハンガー、グロスメッサーと呼ばれる直刀が用いられた。これらの直刀は従来の剣と比べ安価で使いやすかったため、民衆からの徴募を主体とする下級兵士や一部の騎士に使用されただけでなく、鉈や斧のような日用品としても用いられた。しかし、格式は低く正式な刀剣であるとは見なさない場合も多かった。16世紀頃銃によって重い鎧が廃れた事で、騎兵隊の身につけたサーベルなど、刀が見直される事となった。刀に対応する言葉もなく、全てソードとして分類される。 本項の両刃・片刃の区別は刀身に刃(は)と背(峰ともいう)を持つ物を片刃とし、刀身の両方に刃が付いた主に線対称な形状を持つ物を両刃としている。
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刀(かたな)は、武器(刀剣)の一種であり、剣の内でもとくに片側にしか刃のない物を指す。 湾刀:切断力を増す為に反りのついた構造のもの。 直刀:反りのついていないもの。「突き」にも向く。 日本語としては「かた・な」と分解できてそれぞれ片、刃をあらわす。日本の刀に関する詳細は日本刀の項を参照。 刀は、両刃剣(直剣、刺突を重視)に比べ、身幅が細く(身幅が半分でも同じ強度とできるため)、軽量となる。したがって素早く断ち切ることができる。 刀は目標物を断ち切るための道具であるが、武器として造られた物は刺突も可能な先端を持つことが多い。 さらに刺突の効果を増すために、刀の先端部分、鋩(きっさき)から刀身の半分以上を両刃にした造り(擬似刃)を有するものも存在する。日本でも小烏丸のような鋒両刃(きっさきもろは)造りの刀が見られる。小烏丸は初期のものだが、後世にもこの造りをした刀は稀ながら見られる。 だが、「突き」には刀身(剣身)が真っ直ぐである方が適するため、突きに徹すると「斬る」には向かなくなる。効率よく物を斬る為には反りが深く、刃渡りが長いほうが向いているのに対して、突くためには反りが無く刃渡りが短いほうが向いている。例えば突くための武器である槍は、(穂先部分が)長いとされる「大身槍」の基準が1尺(30センチ)である。
{{Otheruses}} {{redirect|真剣|マインドスポーツにおける賭博|真剣師|言葉のそれぞれの意味|wikt:真剣}} {{No footnotes|date=2019-02-10}} [[画像:MuseeMarine-sabreOfficer-p1000451.jpg|thumb|19世紀 [[フランス]]海軍将校が使用していた刀]] '''刀'''(かたな)は、[[武器]]([[刀剣]])の一種であり、[[剣]]の内でもとくに片側にしか[[刃]]のない物を指す。 * '''湾刀''':切断力を増す為に反りのついた構造のもの。 * '''[[直刀]]''':反りのついていないもの。「突き」にも向く。 [[日本語]]としては「かた・な」と分解できてそれぞれ片、刃をあらわす。[[日本]]の刀に関する詳細は[[日本刀]]の項を参照。 == 概要 == [[Image:Tachi-p1000620.jpg|thumb|220px|[[太刀]] 備前長船祐定 付 青貝螺鈿太刀拵]] 刀は、両刃剣(直剣、刺突を重視)に比べ、身幅が細く(身幅が半分でも同じ強度とできるため)、軽量となる。したがって素早く断ち切ることができる。 刀は目標物を断ち切るための[[道具]]であるが、[[武器]]として造られた物は刺突も可能な先端を持つことが多い。さらに刺突の効果を増すために、刀の先端部分、鋩(きっさき)から刀身の半分以上を両刃にした造り(擬似刃)を有するものも存在する。日本でも[[小烏丸]]のような鋒両刃(きっさきもろは)造りの刀が見られる。小烏丸は初期のものだが、後世にもこの造りをした刀は稀ながら見られる。 だが、「突き」には刀身(剣身)が真っ直ぐである方が適するため、突きに徹すると「斬る」には向かなくなる。効率よく物を斬る為には反りが深く、刃渡りが長いほうが向いているのに対して、突くためには反りが無く刃渡りが短いほうが向いている。例えば突くための武器である[[槍]]は、(穂先部分が)長いとされる「大身槍」の基準が1尺(30センチ)である。 <!--下記の段落は文意が不明 刀は、西洋の直剣に比べ鋭利であること、[[日本刀]]あるいは[[シャムシール]]などが一見細身に思えることから、より繊細な武器と見られることもあるが、実際には構造的に、切れ味を度外視するのでなければ刃先角との関係で剣身を厚くするのは限度があるため、両刃剣は強度を得るには身幅を広げる必要がある。刀の身幅が細いのは、その程度でも実用に耐える強度を確保できるからである。近代まで刀と剣の両方が並行して存在した中国圏では、刀は重く打撃力重視、剣は軽量で早さ重視と位置づけられてきた。--> == 歴史 == [[File:Khopesh.jpg|thumb|220px|[[古代エジプト]]、[[紀元前18世紀]]頃の[[ケペシュ]]]] [[File:Chinese swords Sui Dynasty about 600 found near Luoyang.jpg|thumb|320px|中国・[[隋代]]の[[環首刀]]]] [[File:Indian_tulwar_-_talwar_sword.jpg|thumb|220px|[[インド]]の[[タルワール]]、1806年]] [[青銅]]や[[鉄]]などの強靱な[[金属]]素材の[[精製]]、加工技術の発達により、[[ナイフ]]や[[鉈]]のような道具から戦闘に用いられる刀が生まれ、更なる金属加工技術の進歩により長くかつ両側に刀身を持つ[[剣]]が生まれたとされる。 [[中国]]においては、[[前漢]]頃から[[環首刀]]と呼ばれる種類の長い[[直刀]]が用いられるようになる。これは[[騎馬民族]]である[[匈奴]]との騎乗戦闘が増え、すれ違いざまに刀剣を振るうことが多くなってきたため、従来の剣ではこのような使い方は向いておらず折れやすかったためである。[[唐代]]までは儀礼用武器としても[[剣]]に替わって刀が主流となった<ref name="lc123">《中國古代兵器論叢》,123頁</ref>。 [[日本刀#歴史|日本における刀]]は中国から伝わった環首刀を基に作られ始めたとの説があるが、{{要説明範囲|日本でも紀元前から青銅製・鉄製の直刀が作られており、これらは製法からして異なるもので日本刀の基とはいえない|date=2023年10月}}。[[日本]]においては[[平安時代]]の頃から独特の反りをつけた「[[太刀]]」と呼ばれる刀が製作されはじめ、武人の一般的な武器となりこの時代以後の刀を日本刀という。 [[西アジア]]や[[南アジア]]諸国では、[[11世紀]]から[[13世紀]]頃にかけて、馬上での斬り合いに適した[[ペルシャ]]の[[シャムシール]]や[[インド]]の[[タルワール]]のような反りのついた刀が生まれた。 [[エジプト]]では紀元前二千年紀から緩やかに彎曲した内側に刃を持つ、内刃の[[ケペシュ]]と呼ばれる武器が使われていた。[[紀元前7世紀]]頃からは[[カルタゴ]]などのフェニキア人が、[[鎌]]のように彎曲する弧を描いた内刃を持つハルペー(ハルパー)と呼ばれる武器を使いだした<ref name="Hamblin">Hamblin, 2006. ''Warfare in the Ancient Near East,'' pp. 66–71.</ref>。 [[西ヨーロッパ]]では肉切り包丁や剣鉈をそのまま長大化したような[[ファルシオン]]やハンガー、グロスメッサーと呼ばれる直刀が用いられた。これらの直刀は従来の剣と比べ安価で使いやすかったため、民衆からの徴募を主体とする下級兵士や一部の騎士に使用されただけでなく、鉈や斧のような日用品としても用いられた。しかし、格式は低く正式な刀剣であるとは見なさない場合も多かった。[[16世紀]]頃[[銃]]によって重い鎧が廃れた事で、騎兵隊の身につけた[[サーベル]]など、刀が見直される事となった。刀に対応する言葉もなく、全てソードとして分類される。 == 世界各地の刀 == === 西ヨーロッパ === *[[カットラス]] *[[サーベル]] - [[軍刀]]として有名。 *[[メッサー (剣)|メッサー]] *[[スクラマサクス]] *[[スティレット]] *[[ファルシオン]] *[[マチェテ]] === 中東・インド === *[[ウルミ]] *[[ヤタガン]] *[[ククリ]] *[[コラ (刀)|コラ]] *[[シャムシール]] - [[イスラム世界]]の代表的な刀。 *[[ショーテル]] *[[タルワール]] *[[フィランギ]] - [[インド]]・[[マラーター]]が好んで使用した刀。 === 古代地中海 === *[[マカイラ]]({{lang-el|μάχαιρα}}) *[[ハルパー]] *[[ケペシュ]] - [[古代エジプト]]の刀。 === 東アジア === *[[環首刀]] - 東アジアの全ての刀の祖。 *[[斬馬刀]] - [[大太刀|メガ]]タイプな環首刀。 *[[匕首]] *[[日本刀]] **[[直刀]] - [[飛鳥時代|飛鳥]]〜[[奈良時代]]。 **[[太刀]] - [[平安時代|平安]]〜[[鎌倉時代]]。 **[[打刀]] - [[室町時代|室町]]〜[[江戸時代]]。 **[[薙刀]] **[[脇差]] *[[柳葉刀]] - 青龍刀とも呼ばれる。 *[[苗刀]] - [[倭寇]]の刀を模造して作られた[[明|明代]]の[[中国刀]]。 === 東南アジア・太平洋 === *[[カスターネ]] - [[スリランカ]]の刀。 *[[カンピラン]] - [[ボルネオ島]]・[[ダヤク族]]の刀。 *[[ピヌティ]] == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == *マーティン・J・ドアティ著、日暮雅通 監訳『[図説] 中世ヨーロッパ 武器・防具・戦術百科』原書房、ISBN 978-4-562-04590-7 *篠田耕一『武器と防具 中国編』新紀元社 *長田龍太『俗・中世ヨーロッパの武術』新紀元社、ISBN 978-4-7753-1167-7 *市川定春『武器事典』新紀元社 == 関連項目 == {{Div col}} {{Wiktionary|かたな|刀|釖}} * [[日本刀]] * [[木刀]] * [[竹刀]] * [[太刀]] * [[大刀]] * [[直刀]] * [[刀工]] * [[刀狩り]] * [[武士|刀差し]] * [[剣]] * [[剣術]] * [[剣道]] * [[一刀流]] * [[二刀流]] * [[白兵戦]] {{Div col end}} == 外部リンク == * [https://www.touken.or.jp/ 財団法人日本美術刀剣保存協会] {{weapon-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かたな}} [[Category:刀剣]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80
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昭憲皇太后
昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう、1849年5月9日〈嘉永2年4月17日〉 - 1914年〈大正3年〉4月9日)は、日本の第122代天皇・明治天皇の皇后。諱は勝子(まさこ)、のちに美子(はるこ)。お印は若葉。旧名は一条 美子(いちじょう はるこ)。 欧州の王侯貴族・貴婦人と対峙できるよう近代女子教育を振興し、社会事業の発展、国産の奨励等に尽力した。皇后として史上初めて洋装をした。明治天皇崩御に伴い皇太后となり、1914年(大正3年)崩御(64歳)。嫡妻として明治天皇の側室(柳原愛子)が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子とした。 嘉永2年(1849年)4月17日、従一位左大臣・一条忠香の三女として誕生。生母は側室の新畑民子。右大臣・一条実良(1835-1868年)の妹。徳川慶喜の婚約者であった千代君、疱瘡のため千代君に代わって慶喜に嫁いだ美賀子とは、義理の姉妹にあたる。 当初の名前は勝子(まさこ)。通称は富貴君(ふきぎみ)、富美君(ふみぎみ)など。安政5年(1858年)6月、皇女富貴宮の諱を避けるため、寿栄君(すえぎみ)と改名した。 慶応3年6月28日(1867年7月29日)、新帝明治天皇(第122代天皇)の女御に治定。伏見宮家の縁故で、女流漢学者で勤王論者の若江薫子が家庭教師として忠香の娘たちの養育に携わっていたが、「女御を一条家から出すのに際し、薫子は姉を差し置いて妹の寿栄君を推薦した」と言われている。 明治元年12月26日(1869年2月7日)、美子(はるこ)と改名し、従三位に叙位。同月28日(1869年2月9日)入内して次のような女御の宣下を蒙り、即日、皇后に立てられた。 「一条美子女御宣下 女御藤原美子入内立后一件(女御入内備忘定功卿記)」 從三位藤原朝臣美子 右中辨藤原朝臣長邦傳宣 權中納言藤原朝臣公正宣 奉 勅宜爲女御者 明治元年十二月二十八日 中務少輔輔世 ―宮内庁書陵部編纂『皇室制度史料(后妃4)』吉川弘文館所収 この際、天皇より3歳年長であることを忌避して、公式には嘉永3年(1850年)の出生とされた。当初、中世以来の慣行に従って中宮職を付置され、中宮と称されたが、翌年、中宮職が皇后宮職に改められ、称号も皇后宮(こうごうぐう)と改められた。この時を最後に、中宮職は廃止され、中宮の称号も絶えた。 1912年(明治45年)7月30日、明治天皇が崩御し、皇太子嘉仁親王の践祚および皇太子妃節子の立后と同時に皇太后となった。 1914年(大正3年)4月9日午前2時10分、沼津御用邸にて狭心症のため崩御。公式には4月11日同時刻。丸2日ずらされたのは、当時の収賄で司直の手が及びかけていた宮内省内蔵頭である宮内大臣渡辺千秋を急遽更迭させるための措置であった。 同年5月9日、宮内省告示第9号により「昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)」と追号され、翌年5月1日に、夫の明治天皇と共に明治神宮の祭神とされた。 陵墓は、京都府京都市伏見区にある伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)。 それまでの皇后は公の場に出ることも公務を担うこともなかったが、明治政府の意向で、美子皇后は欧州の皇后に倣って医療や教育の奨励活動を手掛けた。宮中顧問官として政府が雇ったドイツ貴族オットマール・フォン・モールによると、元宮廷女官だった自身の妻を皇后のもとに週一回通わせ、プロイセン王国王妃兼ドイツ皇后アウグステの活動を皇后に紹介し助言したという。美子は明治維新期の皇后として、社会事業振興の先頭に立ち、華族女学校(現:学習院女子中・高等科)や、お茶の水の東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の設立、日本赤十字社の発展などに大きく寄与した。慈善事業の発展に熱心で、東京慈恵医院や博愛社(現在の日本赤十字社)の発展に貢献した。 赤十字の日本国内における正式紋章「赤十字桐竹鳳凰章」は、紋章制定の相談を受けた際、皇后が大日本帝国憲法発布式で戴冠したパリの高級宝飾店ショーメ制作のフランス製の宝冠のデザインが、桐と竹の組み合わせで構成されていた事から、日本近代化の象徴として「これがよかろう」という自身の示唆で、さらに皇后を象徴する瑞獣である鳳凰を戴く形に決定されたという。 1912年(明治45年)、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.にて第9回赤十字国際会議が開催された際、国際赤十字に対して皇后は10万円(現在の貨幣価値に換算すれば3億5000万円ともいわれる。 資金としては現在(2021年時点)のおよそ1億1400万円に相当。)を下賜した。赤十字国際委員会はこの資金を基にして昭憲皇太后基金を創設した。この基金は現在も運用されており、皇后の命日に利子を配分している。 皇后として欧化政策の先頭に立たなければならない立場を強く自覚し、1886年(明治19年)以降は、着用の衣服を寝間着を除いて全て洋服に切り替えた。洋服を率先着用した理由としてもう一つ、「上半身と下半身の分かれていない着物は、女子の行動を制限して不自由である」という皇后自身の言葉も伝えられている。 能楽、美術、工芸の発展にも心を配り、日清・日露戦争に際しては、出征軍人や傷病兵に下賜品を与え、慰問使を送った。和歌や古典文学にも造詣が深く、創作した短歌(作歌)は3万6000首に上るが、その一部は『昭憲皇太后御歌集』に見ることができる。 「皇后」、「皇太后」、「太皇太后」の3つの身位の序列は、大宝律令では「1.太皇太后、2.皇太后、3.皇后」の順と定められていたが、皇族身位令制定によって「1.皇后、2.太皇太后、3.皇太后」の順に改められ、諡号・追号には生前帯びていた身位のうち最高のものをつけることになった。 皇后であった彼女の追号は、本来なら「昭憲皇后(しょうけんこうごう)」となるはずだった。だが、崩御時に大正天皇の勅定により贈られた追号は皇族身位令に従っていない「昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)」であった。 こうなった理由は、孝明天皇の正妻であり明治天皇の「実母」(嫡母)だった英照皇太后の追号が「皇太后」だったことから、誤ってそれに倣って命名してしまったものといわれている。英照皇太后は正妻ではあったものの、立后の意向を示した孝明天皇に幕府が反対して皇后には冊立されず、女御・准三宮のみを宣下され、明治天皇の即位に伴って皇太后とされたので、その追号は正確なものだったが、女御宣下と同時に立后された昭憲皇太后にはこれは当てはまらない。また、皇族身位令自体が1910年(明治43年)に制定され、そのわずか4年後に崩御したので、いまだその内容が充分に定着していなかったことも影響していると考えられる。 昭憲皇太后を祭神とする明治神宮は公式ホームページで「宮内大臣が昭憲さまのご追号を皇后に改めないで、『昭憲皇太后』としてそのまま大正天皇に上奏し御裁可となった」「この上奏の時点で間違いが生じました」として当時の宮内大臣の不手際を挙げている(上述の通り、昭憲皇太后が崩御した4月9日に宮内大臣が渡辺千秋から波多野敬直に交代しており、4月11日に崩御の事実が公表された)。 追号は勅裁(天皇の裁定)により定められたものなので、誤りが判明しても「綸言汗の如し」としてこれを改めることが出来ず、現在に至っている。明治神宮は、1920年(大正9年)と1963年(昭和38年)の2度にわたって「昭憲皇后」への改号を当時の宮内省、宮内庁に要請しているが、いずれも却下されている。 皇族身位令は1947年(昭和22年)に廃止されたが、1951年(昭和26年)に崩御した貞明皇后(皇太后節子)は、旧皇族身位令に準じて生前の最高位が皇后だったことを反映した追号を贈られている。また、2000年(平成12年)に崩御した香淳皇后(皇太后良子)も同様に同令に準じて生前の最高位である「皇后」の追号を贈られている。
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昭憲皇太后は、日本の第122代天皇・明治天皇の皇后。諱は勝子(まさこ)、のちに美子(はるこ)。お印は若葉。旧名は一条 美子。 欧州の王侯貴族・貴婦人と対峙できるよう近代女子教育を振興し、社会事業の発展、国産の奨励等に尽力した。皇后として史上初めて洋装をした。明治天皇崩御に伴い皇太后となり、1914年(大正3年)崩御(64歳)。嫡妻として明治天皇の側室(柳原愛子)が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子とした。
{{Otheruses|明治天皇の皇后|[[北宋]]の[[趙匡胤|太祖]]と[[太宗 (宋)|太宗]]の生母|昭憲太后杜氏}} {{基礎情報 皇后 |名=昭憲皇太后 |立后根拠=第122代天皇后 |画像=Empress Shoken2.jpg |画像サイズ=230px |画像説明=[[1889年]]([[明治]]22年) |在位期間=[[1869年]][[2月9日]] - [[1912年]][[7月30日]] |和暦在位期間=[[明治]]元年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]] - 明治45年/[[大正]]元年[[7月30日]] |出生日={{生年月日と年齢|1849|5|9|no}}<br>([[嘉永]]2年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]) |生地={{JPN}} [[山城国]][[平安京]] 一条烏丸東入・一条家 桃花殿<br>(現:[[京都府]][[京都市]][[上京区]] [[京都御苑]]) |死亡日={{死亡年月日と没年齢|1849|05|09|1914|04|09}} |没地={{JPN}} [[静岡県]][[駿東郡]][[静浦村]](現:[[沼津市]])<br>[[沼津御用邸]] |結婚=[[1869年]][[2月9日]]<br>([[明治]]元年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]) |中宮=1869年2月9日<br>(明治元年12月28日) |皇后宮=1869年8月15日(明治2年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]])<ref>中宮職廃止により、皇后宮職設置</ref> |皇太后=[[1912年]]([[大正]]元年)[[7月30日 ]] |女院= |大喪儀=[[1914年]](大正3年)[[5月24日]] |陵所={{JPN}} 京都府[[紀伊郡]][[伏見市|伏見町]](現:[[京都市]][[伏見区]])<br>[[伏見桃山陵|伏見桃山東陵]]<br>[[1914年]](大正3年)埋葬 |身位=[[女御]] → [[皇后#日本の皇后|皇后]] → [[皇太后]] |地位= |敬称=[[陛下]] |諱={{ruby|勝子|まさこ}}<br>→ {{ruby|美子|はるこ}} |命名年月日= |氏族=[[一条家]]([[藤原氏]]) |旧名={{ruby|一条美子|いちじょう はるこ}} |女院号= |追号=昭憲皇太后<br>1914年(大正3年)5月9日<br>追号勅定([[大正天皇]]) |異称={{ruby|富貴君|ふきぎみ}}<br>{{ruby|富美君|ふみぎみ}}<br>→{{ruby|寿栄君|すえぎみ}} |戒名= |幼称= |印={{ruby|若葉|わかば}} |父親=[[一条忠香]] |母親=[[新畑民子]] |配偶者1=[[明治天皇]] |子女=なし |養子女=[[大正天皇]] |皇居= |宮廷首脳人物= |宮廷首脳人物2= |宮廷女房= |空欄表題1= |空欄記載1= |栄典=[[宝冠大綬章]] |役職= |親署= |脚注= }} [[File:Empress-Shoken-Portrait-M.91.377.2.jpg|200px|thumb|1872年([[内田九一]]撮影)]] {{読み仮名_ruby不使用|'''昭憲皇太后'''|しょうけんこうたいごう|[[1849年]][[5月9日]]〈[[嘉永]]2年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]〉 - [[1914年]]〈[[大正]]3年〉[[4月9日]]}}は、[[日本]]の第122代[[天皇]]・[[明治天皇]]の[[皇后]]。[[諱]]は{{読み仮名_ruby不使用|'''勝子'''|まさこ}}、のちに{{読み仮名_ruby不使用|'''美子'''|はるこ}}。[[お印]]は'''若葉'''。旧名は{{読み仮名_ruby不使用|'''一条 美子'''|いちじょう はるこ}}。 欧州の王侯貴族・貴婦人と対峙できるよう近代[[女子教育]]を振興し、社会事業の発展、国産の奨励等に尽力した。皇后として史上初めて[[洋服|洋装]]をした。明治天皇崩御に伴い皇太后となり、1914年(大正3年)崩御(64歳)。嫡妻として明治天皇の[[側室]]([[柳原愛子]])が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を[[養子]]とした。 ==生涯== ===誕生から成婚、皇后時代=== 嘉永2年(1849年)4月17日、従一位[[左大臣]]・一条忠香の三女として誕生。生母は側室の新畑民子<ref group="注釈">一条忠香の正室は[[伏見宮]]順子女王である。なお、民子は一条家の典医・[[新畑大膳種成]]の娘であった</ref>。[[右大臣]]・[[一条実良]](1835-1868年)の妹。[[徳川慶喜]]の婚約者であった[[一条輝子|千代君]]<ref group="注釈">実父は[[醍醐忠順]]。輝姫。忠香は養父。</ref>、[[疱瘡]]のため千代君に代わって慶喜に嫁いだ[[一条美賀子|美賀子]]<ref group="注釈">実父は[[今出川公久]]。忠香は養父。</ref>とは、義理の姉妹にあたる。 当初の名前は'''勝子'''(まさこ)。通称は'''富貴君'''(ふきぎみ)、'''富美君'''(ふみぎみ)など。[[安政]]5年(1858年)6月、皇女富貴宮の[[避諱|諱を避ける]]ため、'''寿栄君'''(すえぎみ)と改名した。 [[慶応]]3年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]](1867年7月29日)、新帝明治天皇(第122代天皇)の女御に治定。伏見宮家の縁故で、女流漢学者で勤王論者の[[若江薫子]]が家庭教師として忠香の娘たちの養育に携わっていたが、「女御を一条家から出すのに際し、薫子は姉を差し置いて妹の寿栄君を推薦した」と言われている。 明治元年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]](1869年2月7日)、'''美子'''(はるこ)と改名し、[[従三位]]に叙位。同月28日(1869年2月9日)入内して次のような女御の宣下を蒙り、即日、皇后に立てられた。 {{Quotation| 「一条美子女御宣下 女御藤原美子入内立后一件(女御入内備忘定功卿記)」 <br>從三位藤原朝臣美子<br> 右中辨藤原朝臣長邦傳宣<br> 權中納言藤原朝臣公正宣<br> 奉 勅宜爲女御者<br> 明治元年十二月二十八日 中務少輔輔世<sup>奉</sup><br> <br>―宮内庁書陵部編纂『皇室制度史料(后妃4)』[[吉川弘文館]]所収 (訓読文)従三位藤原朝臣美子(一条美=はる子 20歳)右中弁藤原朝臣長邦(葉室長邦 30歳 従四位下)伝へ宣(の)り、権中納言藤原朝臣公正(清水谷公正 60歳 正三位)宣(の)る、勅(みことのり 明治天皇 17歳)を奉(うけたまは)るに、宜しく女御と為すべし者(てへり)、明治元年(1868年)12月28日 中務少輔兼左大史小槻(壬生 58歳 正四位上)宿禰輔世奉(うけたまは)る、}} この際、天皇より3歳年長であることを忌避して、公式には嘉永3年(1850年)の出生とされた。当初、中世以来の慣行に従って[[中宮職]]を付置され、[[中宮]]と称されたが、翌年、中宮職が[[皇后宮職]]に改められ、称号も'''皇后宮'''(こうごうぐう)と改められた。この時を最後に、中宮職は廃止され、中宮の称号も絶えた。 ===皇太后時代=== 1912年(明治45年)7月30日、明治天皇が[[崩御]]し、[[皇太子]]嘉仁親王の[[践祚]]および[[皇太子妃]][[貞明皇后|節子]]の立后と同時に皇太后となった。 1914年(大正3年)4月9日午前2時10分、沼津御用邸にて[[狭心症]]のため<ref>{{Cite |和書 |author=服部敏良 |author-link=服部敏良 |title=事典有名人の死亡診断 近代編 |publisher=吉川弘文館 |year=2010 |page=154 }}</ref>崩御。公式には4月11日同時刻。丸2日ずらされたのは、当時の収賄で司直の手が及びかけていた[[宮内省]][[内蔵頭]]である[[宮内大臣]][[渡辺千秋]]を急遽更迭させるための措置であった。 同年5月9日、宮内省告示第9号により「'''昭憲皇太后'''(しょうけんこうたいごう)」と追号され<ref group="注釈">同告示によると、追号の「'''昭憲'''(しょうけん)」は[[諡|諡法]]に則り、「明'''憲昭'''徳」を意味する。昭は「'''昭'''著(アキラカニアラワス)」であり、「君子以'''昭'''明徳」(『[[易経]]』)、「於昭于天」(『[[詩経]]』)、「百姓'''昭'''明」(『[[尚書]]』)などの例がある。憲は諡法に「博聞多記曰'''憲'''」、また『[[礼記]]・内則』に「'''憲'''、法其徳行也」とある。</ref>、翌年5月1日に、夫の明治天皇と共に[[明治神宮]]の祭神とされた。 [[天皇陵|陵墓]]は、[[京都府]][[京都市]][[伏見区]]にある伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)。 ==業績== それまでの皇后は公の場に出ることも公務を担うこともなかったが、明治政府の意向で、美子皇后は欧州の皇后に倣って医療や教育の奨励活動を手掛けた<ref name=szippl>[https://www.ic.nanzan-u.ac.jp/EUROPE/kanko/pdf/08szippl-8.pdf 外国人のみた明治日本の近代化と欧化一お雇い式部官オットマール・フォン・モールの場合]SZIPPL Richard、 南山大学 ヨーロッパ研修センター報. 2002. (8), 89-106 </ref>。[[宮中顧問官]]として政府が雇ったドイツ貴族[[オットマール・フォン・モール]]によると、元宮廷女官だった自身の妻を皇后のもとに週一回通わせ、[[プロイセン王国]]王妃兼ドイツ皇后[[アウグステ・ヴィクトリア・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=アウグステンブルク|アウグステ]]の活動を皇后に紹介し助言したという<ref name=szippl/>。美子は[[明治維新]]期の皇后として、社会事業振興の先頭に立ち、華族女学校(現:[[学習院女子中・高等科]])や、お茶の水の[[東京女子高等師範学校|東京女子師範学校]](現・[[お茶の水女子大学]])の設立、[[日本赤十字社]]の発展などに大きく寄与した。慈善事業の発展に熱心で、[[東京慈恵医院]]や[[博愛社]](現在の日本赤十字社)の発展に貢献した。<ref>『ビジュアル日本史ヒロイン1000人』の228頁</ref> [[ファイル:Empress Haruko. Image from book of 1902.jpg|210px|サムネイル|左|1902年(明治35年)発行、[[バッスル|バッスルスタイル]]の[[ローブ・モンタント]]を召して。([[ロシア]]の日本紹介文献にて)]] 赤十字の日本国内における正式紋章「赤十字桐竹鳳凰章」は、紋章制定の相談を受けた際、皇后が[[大日本帝国憲法]]発布式で戴冠した[[パリ]]の高級宝飾店ショーメ制作の[[フランス]]製の[[ティアラ|宝冠]]のデザインが、[[桐]]と[[竹]]の組み合わせで構成されていた事から、日本近代化の象徴として「これがよかろう」という自身の示唆で、さらに皇后を象徴する[[瑞獣]]である[[鳳凰]]を戴く形に決定されたという。 1912年(明治45年)、[[アメリカ合衆国]]の首都[[ワシントンD.C.]]にて第9回[[赤十字]]国際会議が開催された際、国際赤十字に対して皇后は10万円({{要出典|=現在の貨幣価値に換算すれば3億5000万円ともいわれる。|date=2022年2月}} 資金としては現在(2021年時点)のおよそ1億1400万円に相当{{efn|[[物価#企業物価指数|企業物価指数]](戦前基準指数)で試算した場合、1912年(明治45年)の1万円は2021年(令和3年)の1,138万5,448円になる。計算式は次のとおり(なお、日銀ウェブサイトを参照<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/history/j12.htm/|title=昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか?|work=教えて!にちぎん|publisher=日本銀行|access-date=2022-02-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220211232130/https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/history/j12.htm/|archivedate=2022-02-11|url-status=live}}</ref>)。<br>735.5(令和3年企業物価指数)÷0.646(明治45年企業物価指数)=1,138.5448(倍)<br>したがって<br> 100,000(円)×1,138.5448(倍)=113,854,480(円)}}。)を下賜した。[[赤十字国際委員会]]はこの資金を基にして[[昭憲皇太后基金]]を創設した。この基金は現在も運用されており、皇后の命日に利子を配分している。 皇后として欧化政策の先頭に立たなければならない立場を強く自覚し、1886年(明治19年)以降は、着用の衣服を寝間着を除いて全て洋服に切り替えた。洋服を率先着用した理由としてもう一つ、「上半身と下半身の分かれていない着物は、女子の行動を制限して不自由である」という皇后自身の言葉も伝えられている。 [[能楽]]、[[美術]]、[[工芸]]の発展にも心を配り、[[日清戦争|日清]]・[[日露戦争]]に際しては、出征軍人や傷病兵に下賜品を与え、慰問使を送った。[[和歌]]や古典文学にも造詣が深く、創作した[[短歌]](作歌)は3万6000首に上るが、その一部は『昭憲皇太后御歌集』に見ることができる。 ==年譜・行啓歴== [[ファイル:Tomioka Silk Mill Commemorative Monument of the Imperial Visit 01.JPG|150px|サムネイル|右|[[第二次世界大戦]]中の1943年(昭和18年)、皇后美子(昭憲皇太后)の行啓70周年を記念して建立された高さ4.6 m、幅1.86 mの富岡製糸場の行啓記念碑。]] [[ファイル:片多徳郎画、憲法発布観兵式行幸啓.jpg|サムネイル|1889年(明治22年)2月12日、憲法発布祝賀会に臨御するため馬車に乗っている明治天皇と昭憲皇太后。[[片多徳郎]]画『憲法発布観兵式行幸啓』]] {{Double image aside|right|MET 06 450 F.jpeg|120|MET 06 452 F.jpeg|120|1894年(明治27年)3月9日の大婚二十五年祝典(銀婚式)の参内者へ授与された[[記念章#大婚二十五年祝典之章|大婚二十五年祝典之章]](左:男性用、右:女性用)。皇族向けの金章。}} *1849年(嘉永2年)5月9日、京都、一条烏丸東入・一条家 桃花殿にて生誕する。 *1867年(慶応3年)7月29日、明治天皇の女御に内沙汰、同年に皇居に初目見えで参内する。 *1868年(明治元年)12月28日、入内。皇后冊立。 *1869年(明治2年)1月1日、[[元日節会]](正月一日)・[[白馬節会]](正月七日)・[[踏歌節会]](正月十六日)の[[節会|三節会]]に臨席する。 *1871年(明治4年)8月1日、宮中大奥改革の英断をする。 *1872年(明治5年)6月17日、[[恩賜箱根公園|箱根離宮]]の下温泉へ[[行啓]]する。同年7月18日に還啓。 **10月21日、[[ロシア帝国]]の{{仮リンク|アレクセイ皇子|en|Grand Duke Alexei Alexandrovich of Russia}}を謁見する。 *1873年(明治6年)3月、新政府令に基づき、皇后自らが[[眉墨|黛]]と[[お歯黒]]をやめる。 **同年5月、皇居宮殿で火事があり[[赤坂離宮]]に避難し、爾来そこを仮御所として住居にする。 **同年6月13日、[[下野国]][[甘楽郡]]富岡([[群馬県]][[富岡市]])の[[富岡製糸場]]に行啓する。同月28日に還啓。 **同年8月3日、明治天皇と共に箱根離宮に行幸啓する。同月31日に還幸啓。 **同年12月7日、天皇と共に現在の[[神奈川県]][[横須賀市]]にあった[[横須賀造船所]]に行幸啓する。同月8日に還幸啓。 *1875年(明治8年)11月29日、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の開業式に臨席する。 *1876年(明治9年)6月2日、明治天皇奥州地方巡幸の見送りのため、皇后宮千住駅に行啓する。 **同年11月20日、京都に行啓する。同年12月5日に[[京都御所]]に到着する。 *1877年(明治10年)2月28日、明治天皇と共に皇族として史上初の[[蒸気船]]・廣島丸に乗り、同月30日に[[横浜港]]に入港し東京に還幸啓する。 **同年10月26日、天皇と共に東京の[[上野恩賜公園|上野公園]]に行幸啓し、[[内国勧業博覧会#第一回内国勧業博覧会|第一回内国勧業博覧会]]を巡覧する。 **同年11月27日、義母[[英照皇太后]]と共に、女子師範学校幼稚園と紙幣局製造場に行啓する。 *1878年(明治11年)3月25日、天皇と共に日比谷原において[[大日本帝国陸軍]][[近衛兵]]らの操練を巡覧する。 *1879年(明治12年)4月28日、横浜に行啓する。軍艦『[[扶桑]]』・『[[金剛]]』・『[[比叡]]』等を巡覧する。 **同年5月29日、[[ドイツ帝国]]の皇族・[[ハインリヒ・フォン・プロイセン (1862-1929)|ハインリッヒ皇子]]と謁見する。 **同年7月4日、第18代[[アメリカ合衆国大統領]]の[[ユリシーズ・グラント]]将軍夫妻と謁見する。 **同年11月27日、宮城・[[吹上御苑]]において、[[島津忠義]]傳家の[[犬追物]]を観覧する。 *1880年(明治13年)3月22日、皇居・吹上御苑において[[松浦詮等]]の騎射犬追物を観覧する。 *1881年(明治14年)5月25日、横浜から軍艦『[[迅鯨 (初代)|迅鯨]]』に乗艦し横須賀を行啓する。 **同年6月2日、武蔵府中連光寺河原に行啓し、鮎漁を観覧する。 *1882年(明治15年)6月21日、[[向島]]に行啓し、[[隅田川]]で催されていた海兵の短艇競漕を台覧する。 *1883年(明治16年)9月、[[香川敬三]]皇后宮大夫に命じ、皇太子嘉仁親王に心身安全のため、[[島根県]]・[[出雲大社]]へ毎年正月九日に両度供物を献上し祈祷する。 *1885年(明治18年)7月8日、現在の東京都[[品川区]]にあった[[伊藤博文]]邸に行啓する。 *1886年(明治19年)3月30日、軍艦『[[武蔵 (スループ)|武蔵]]』の進水式に行啓する。 **同年7月30日、[[華族女学校]](現在の学習院女子中・高等科の前身)行啓で洋装を公にする。 **同年11月26日、明治天皇と共に相模国長浦(当時)に行幸啓し、軍艦『[[浪速 (防護巡洋艦)|浪速]]』・『[[高千穂 (防護巡洋艦)|高千穂]]』に試乗する。 *1887年(明治20年)1月17日、女性の洋服の着用を奨励する「思召書」を出す。 **1月25日、天皇と共に[[孝明天皇]]二十年祭のため京都に行幸啓する、2月21日京都発で同月23日に武豊港より軍艦『浪速』に乗艦し24日に横浜港に到着。 **同年5月、有志共立東京病院に約2万円(1200万円相当)を下賜。病院に「慈恵」という名を与え、「東京慈恵医院(現在の[[東京慈恵会医科大学附属病院]])」と改称する。 *1888年(明治21年)10月15日、横須賀で軍艦『[[高雄 (巡洋艦)|高雄]]』の命名式に行啓する。 **同年11月21日、天皇と共に現在の[[埼玉県]][[さいたま市]]に行幸啓。大日本帝国陸軍近衛兵の演習を台覧する。 *1889年(明治22年)2月12日、東京・上野公園へ行啓、憲法発布祝賀会に臨御する。 *1894年(明治27年)3月9日、大婚二十五年御祝典(銀婚式)を挙行する。 **同年4月19日、横須賀に行啓し、新造艦『[[松島 (防護巡洋艦)|松島]]』・『[[吉野 (防護巡洋艦)|吉野]]』・『[[千代田 (防護巡洋艦)|千代田]]』を台覧する。 *1897年(明治30年)1月11日、英照皇太后崩御、4月17日、京都に行啓し英照皇太后御陵を参拝する。 *1898年(明治31年)4月8日、東京の上野公園に行啓し、「奠都三十周年祝賀会」に臨御する。 **同年11月28日、横須賀に行啓する。軍艦『[[八島 (戦艦)|八島]]』に乗船し、艦橋上より軍艦『[[富士 (戦艦)|富士]]』・『[[高砂 (防護巡洋艦)|高砂]]』を台覧する。 *1902年(明治35年)11月15日、神奈川県横須賀市で軍艦『[[新高 (防護巡洋艦)|新高]]』の進水式に行啓する。 *1903年(明治36年)4月23日、明治天皇と共に大阪に行幸啓し、第五回勧業博覧会・連日博覧会を観覧し、5月11日に東京に還啓。 *1907年(明治40年)10月21日、横須賀で軍艦『[[鞍馬 (巡洋戦艦)|鞍馬]]』の進水式に行啓する。 *1909年(明治42年)1月15日、沼津御用邸へ避寒のために行啓する。 *1910年(明治43年)4月27日、観桜会([[園遊会]])のため[[赤坂御用地]]へ行啓する。同28日、慈恵病院へ行啓する。 *1911年(明治44年)5月18日、[[伊勢神宮]]参拝のため東京を出御し、名古屋に一泊する。同19日に山田に到着し外宮を参拝し、21日に内宮参拝し還啓。 *1912年(明治45年/大正元年) **5月8日、ドイツ帝国の[[ヴァルデマール・フォン・プロイセン (1868-1879)|ヴァルデマール皇子]]と謁見する。 **4月、[[国際赤十字]]に対して10万円を下賜、これを基金として「昭憲皇太后基金」が国際赤十字に設立され、それまで戦時救護だった赤十字活動に平時救護の理念が導入された。 **7月18日、明治天皇が倒れ、以後毎晩看護する。 **7月30日、明治天皇崩御、皇太后となる。 **10月13日、[[桃山御陵]]参拝。同月17日還啓。 *1913年(大正2年)7月21日、沼津御用邸より還啓し[[青山御所]]に入る。 *1914年(大正3年) **3月26日、狭心症の発作を起こす。 **4月9日、午前1時50分に崩御。64歳没。公式発表では「4月9日に重体に陥り、同月10日午後11時25分に東京に還啓し、11日午前2時50分崩御」。 **5月9日、追号を『{{読み仮名_ruby不使用|'''昭憲皇太后'''|しょうけんこうたいごう}}』に治定する(大正天皇勅定)。 **5月24日、[[大喪儀]]を執行。同月25日に東京発。これに際しては、[[山手線]]支線に臨時駅の[[葬場殿駅]]が設置された<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/trivia-391/ |title=鉄道トリビア 第391回 山手線に2日間だけ開設された旅客駅があった|author=[[杉山淳一]]|website=[[マイナビニュース]]|date=2017-02-04|accessdate=2023-11-08}}</ref> **5月26日、京都府[[紀伊郡]]堀内村字堀内古城山(当時)にて[[斂葬の儀]]を執行。 ==逸話== {{wide image|Nobility in the Evening Cool (Koki nōryō no zu).jpg|400px|1887年(明治20年)の皇后美子([[楊洲周延]]画)}} *1884年(明治17年)に宮中改革を巡って、明治天皇との関係が悪化していた伊藤博文が病気で倒れた際には、天皇に代わって見舞いの使者を出して両者の仲直りのきっかけを作った。また、同年に[[宮内大輔]]の[[吉井友実]]が以前に社長を務めていた[[日本鉄道]]の[[上野駅|上野]] - [[高崎駅|高崎]]間開通式典に出席した際に、明治天皇は出席に乗り気ではなく天気も一日中雨であったが、皇后は終始笑顔で応対し吉井を感激させた(吉井の[[宮島誠一郎]]宛書簡)。 *明治時代になって、[[大政奉還]]により再び朝廷に政権が返上された事により、[[江戸幕府]]の[[大奥]]や西洋の宮廷の例のように、皇后や周辺が国政に関与する可能性も生じたが、自らを戒め、国政には直接関与しなかった。また、香川敬三や[[下田歌子]]など側近を得て、近代日本の皇后像を確立した。 *1904年(明治37年)2月、「日露戦争の前夜、葉山の[[御用邸]]に滞在の折、37、38歳の[[武士]]が白衣で皇后の夢枕に立ち、戦いの際の[[大日本帝国海軍|海軍]]守護を誓った」という。宮内大臣[[田中光顕]]に下問したところ、田中は「[[坂本龍馬]]の霊である」とし、これが新聞に掲載されて国民の士気を鼓舞し、[[京都霊山護国神社|霊山官祭招魂社内]]にある坂本龍馬の墓前に忠魂碑が建立されるに至った。また龍馬の死後落魄していた未亡人の[[楢崎龍|お龍]]が世間に再評価されるきっかけともなった。 *その当時の日本女性には珍しく鼻筋の通った顔立ちであり、からかい混じりに明治天皇から「テングサン([[天狗]]さん)」と渾名されていたという<ref>{{Cite book |和書 |author=山口幸洋|authorlink=山口幸洋 |others=[[河西秀哉]]監修 |title=大正女官、宮中語り |publisher=[[創元社]] |year=2022|page=88|isbn=978-4-422-20167-2}}</ref>。 *天皇の前では決して吸うことはなかったが、大変な[[パイプ (たばこ)|パイプ]]好きであったという。 *趣味は庭園の池での[[釣り|魚釣り]]<ref>[[NHK BSプレミアム]]「時空超越ドラマ&ドキュメント美子伝説」</ref>。 ==追号について== 「皇后」、「皇太后」、「太皇太后」の3つの身位の序列は、[[大宝律令]]では「1.太皇太后、'''2.皇太后'''、'''3.皇后'''」の順と定められていたが、'''[[皇族身位令]]'''制定によって「'''1.皇后'''、2.太皇太后、'''3.皇太后'''」の順に改められ、'''諡号・追号には生前帯びていた身位のうち最高のものをつける'''ことになった。 皇后であった彼女の追号は、本来なら「{{読み仮名_ruby不使用|昭憲'''皇后'''|しょうけんこうごう}}」となるはずだった。だが、崩御時に大正天皇の勅定により'''贈られた追号は皇族身位令に従っていない'''「{{読み仮名_ruby不使用|昭憲'''皇太后'''|しょうけんこうたいごう}}」であった。 こうなった理由は、孝明天皇の正妻であり明治天皇の「実母」(嫡母)だった英照皇太后の追号が「皇太后」だったことから、誤ってそれに倣って命名してしまったものといわれている。英照皇太后は正妻ではあったものの、立后の意向を示した孝明天皇に幕府が反対して皇后には冊立されず、女御・[[准后|准三宮]]のみを宣下され、明治天皇の即位に伴って皇太后とされたので、その追号は正確なものだったが、女御宣下と同時に立后された昭憲皇太后にはこれは当てはまらない。また、皇族身位令自体が1910年(明治43年)に制定され、そのわずか4年後に崩御したので、いまだその内容が充分に定着していなかったことも影響していると考えられる。 昭憲皇太后を祭神とする明治神宮は公式ホームページで「宮内大臣が昭憲さまのご追号を皇后に改めないで、『昭憲皇太后』としてそのまま大正天皇に上奏し御裁可となった」「この上奏の時点で間違いが生じました」として当時の宮内大臣の不手際を挙げている(上述の通り、昭憲皇太后が崩御した4月9日に宮内大臣が渡辺千秋から[[波多野敬直]]に交代しており、4月11日に崩御の事実が公表された)。 追号は[[勅裁]](天皇の裁定)により定められたものなので、誤りが判明しても「[[綸言汗の如し]]」としてこれを改めることが出来ず、現在に至っている。明治神宮は、1920年(大正9年)と1963年([[昭和]]38年)の2度にわたって「昭憲皇后」への改号を当時の宮内省、宮内庁に要請しているが、いずれも却下されている。 皇族身位令は1947年(昭和22年)に廃止されたが、1951年(昭和26年)に崩御した'''貞明皇后'''(皇太后節子)は、旧皇族身位令に準じて'''生前の最高位が皇后'''だったことを反映した追号を贈られている。また、2000年([[平成]]12年)に崩御した'''[[香淳皇后]]'''(皇太后良子)も同様に同令に準じて'''生前の最高位である「皇后」の追号'''を贈られている。 ==著作== *『昭憲皇太后御製大全集』 全47冊 *『類纂新輯昭憲皇太后御集』、明治神宮編、1990年11月 ===公伝=== *『昭憲皇太后実録』全3巻組、明治神宮監修、吉川弘文館、2014年4月 ==栄典== ===日本=== *{{flagicon|JPN}}:[[宝冠章|勲一等宝冠章]] - [[File:JPN Hokan-sho 1Class BAR.svg|55px]] ===外国=== *{{Flag|Thailand|1855}}:[[大チャクリー勲章]] - [[File:Order of the Royal House of Chakri (Thailand) ribbon.svg|55px]] *{{Flag|Spain|1785}}:王妃マリア・ルイーザ勲章 - [[File:Order of Queen Maria Luisa (Spain) - ribbon bar.png|55px]] ==題材とされた作品== ===テレビ番組=== *時空超越ドラマ&ドキュメント「美子伝説」(2018年1月2日放送、NHK BSプレミアム)美子皇后役:[[田中麗奈]] *NHKドキュメンタリー「皇后四代~思いは時を超えて~」(2019年4月29日放送、NHK BSプレミアム) ===演じた俳優=== *[[伊藤榮子]] - テレビドラマ・『明治天皇』(1966年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])<ref>『[[福島民報]]』1966年1月17日付朝刊テレビ欄。</ref> *[[高倉みゆき]] - 映画『天皇・皇后と日清戦争』(1958年[[新東宝]])映画『明治大帝と乃木将軍』(1959年新東宝) *[[松尾嘉代]] - 映画『[[二百三高地]]』(1980年[[東映]]) *以上すべての作品において、明治天皇の3歳年長であった史実は無視されて若い女優が起用されている。天皇役の男優に対し、伊藤は30歳年少、高倉は32歳年少、松尾は23歳年少である。 ===書籍=== *[[山川三千子]]著『女官』([[実業之日本社]] 1960年) **新版『女官-明治宮中出仕の記』(講談社学術文庫、2016年) ==脚注== {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} ==参考文献== *宮内省編『昭憲皇太后御集』[[岩波書店]]<[[岩波文庫]]>、初版1938年 *明治神宮編『新抄明治天皇御集・昭憲皇太后御集』[[角川書店]]<[[角川文庫]]>、1967年。<br> ※この文庫版は現在、明治神宮で購入可能。 *山本和子文・外山勝志監修、村上正師画 『歴史絵本 明治天皇と昭憲皇太后』善本社 2007年 *[[出雲井晶]]『エピソードでつづる昭憲皇太后』[[錦正社]]、2001年。ISBN 4764602555 *出雲井晶『春の皇后 小説・明治天皇と昭憲さま』[[中央公論新社]]<[[中公文庫]]>、1999年。ISBN 4122033489 *[[保阪正康]]『皇后四代 明治から平成まで』中央公論新社<[[中公新書#中公新書ラクレ|中公新書ラクレ]]>、2002年。ISBN 4121500644 *[[小田部雄次]]『四代の天皇と女性たち』[[文藝春秋]]〈[[文春新書]]〉、2002年。ISBN 416660273X *小田部雄次『昭憲皇太后・貞明皇后』[[ミネルヴァ書房]]<[[ミネルヴァ日本評伝選]]>、2010年11月。ISBN 4623059081 *片野真佐子『皇后の近代』[[講談社]]<講談社選書メチエ>、2003年。皇后三代の物語 *[[若桑みどり]]『皇后の肖像―昭憲皇太后の表象と女性の国民化』[[筑摩書房]]、2001年。ISBN 4480873309 *[[河原敏明]]『昭和天皇の妹君』文藝春秋〈[[文春文庫]]〉、2002年。 *『明治神宮叢書(全20巻)』、[[国書刊行会]]、2006年完結。基本文献 ==外部リンク== {{commons&cat|昭憲皇太后|Empress Shōken}} *{{Wayback|url=http://j-texts.com/taisho/shoken.html |title=〔類題謹解〕昭憲皇太后御集 - 日本文学電子図書館 |date=20190814052813}} *{{Cite web|和書|url=http://space.geocities.jp/keiun17/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090701075424/http://space.geocities.jp/keiun17/ |title=昭憲皇太后史 |accessdate=2011-08-14 |archivedate=2009-07-01 }} *[https://www.meijijingu.or.jp/faq/?ca=2 明治神宮Q&A - なぜ、昭憲皇后ではなく昭憲皇太后なのですか?] {{歴代皇后一覧}} {{歴代日本の皇太后一覧}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しようけんこうたいこう}} [[Category:昭憲皇太后|*]] [[Category:19世紀日本の女性皇族]] [[Category:20世紀日本の女性皇族]] [[Category:19世紀日本の女性著作家]] [[Category:20世紀日本の女性著作家]] [[Category:19世紀日本の活動家]] [[Category:20世紀日本の活動家]] [[Category:日本の皇后]] [[Category:日本の皇太后]] [[Category:幕末の女性皇族]] [[Category:戦前日本の女性皇族]] [[Category:明治時代の女性]] [[Category:大正時代の女性]] [[Category:一条家]] [[Category:明治天皇|+]] [[Category:日本の社会福祉活動家]] [[Category:日本の慈善家]] [[Category:日本の赤十字の人物]] [[Category:日本の女性活動家]] [[Category:明治神宮|*02]] [[Category:勲一等宝冠章受章者]] [[Category:日本の神 (人物神 戦前日本)]] [[Category:山城国の人物]] [[Category:京都市出身の人物]] [[Category:1849年生]] [[Category:1914年没]]
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貞明皇后
貞明皇后(ていめいこうごう、1884年〈明治17年〉6月25日 - 1951年〈昭和26年〉5月17日)は、日本の第123代天皇・大正天皇の皇后(在位:1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日)。諱は節子(さだこ)。お印は藤。旧名は、九条 節子(くじょう さだこ)。 昭和天皇の母。元華族。公爵・九条道孝令嬢。ハンセン病の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業(絹糸)奨励などに尽力した。一夫一妻制での最初の皇后。藤原氏から立后した最後の例である。 1884年(明治17年)6月25日、公爵九条道孝の四女として、生母の野間幾子の実家である東京府神田錦町(現:東京都千代田区神田錦町)に誕生。道孝は明治4年(1871年)に正室和子を亡くしており、幾子は道孝の側室だった。 同年7月、東京府東多摩郡高円寺村(現:杉並区)近郊の豪農である大河原金蔵、てい夫妻に里子に出され、『九条の黒姫様』(くじょうのくろひめさま)と呼ばれるほど逞しく育った。農家の風習の中で育ち、栗拾いやトンボ捕りをするなど裸足で遊んだ。 大河原家は高円寺地域の氏神である氷川神社の氏子であったが、大河原家の敷地内には稲荷神社の祠もあった。また、養母のていは仏教への信仰心も篤く、早朝から観音経(法華経の一部)を読経しており、節子もていと共に仏壇に手を合わせていた。 1888年(明治21年)には、赤坂福吉町の九条家に戻る。 1890年(明治23年)9月1日、華族女学校(後の女子学習院)初等小学科に入学し、1893年(明治26年)には高等小学科に進学する。さらに1896年(明治28年)には初等中学科に進学する。華族女学校では下田歌子、石井筆子、津田梅子らに師事した。中でも、石井筆子との師弟関係の絆は強く、公私の交際は生涯に亘って続いた。 当初、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の妃として伏見宮貞愛親王の長女である禎子女王が挙げられていた。1893年(明治26年)5月に皇太子妃に内定し、1896年(明治29年)には明治天皇と皇后美子とも対面していた。禎子女王は外見が色白で美しかったが、西欧列強と並び立つためにキリスト教文化圏の一夫一妻制を導入する必要性がある中、健康面を不安視され1899年(明治32年)3月に、婚約は解消された。 九条節子は、正室の子でないことや、明治天皇が皇族からの東宮妃を強く望んでいたこと、更には政府上層部でも節子に否定的な意見が多かった。最終的には消去法にて、色黒すなわち容姿端麗ではないことよりも、先述の通り『黒姫』と呼ばれるほどに健康であることが重視され、1899年(明治32年)8月21日に婚約が内定した。「容姿端麗ではない」とされた節子以外の女性に皇太子が興味を持たぬよう、皇太子は節子を含めた女性との接触を制限された。また、大河原家にあった幼少期の写真は没収された。 1900年(明治33年)2月11日、満15歳(数え年17歳)で、5歳年上の皇太子嘉仁親王と婚約。同年5月10日、宮中の賢所に於いて、賢所大前の儀を執り行った。これは、前4月に制定された皇室婚嫁令に基づく、史上初の神前挙式であった。節子は、和装と洋装を計5回着替え、明治天皇と皇后美子への拝礼を含む多くの行事をこなした。 婚儀は従来の公家様式に代わる、新たな様式であり、婚礼の儀式や行事は、当時の最新マスメディアである新聞によって詳報され、一般市民の関心を集めた。そこで、翌1901年(明治34年)礼法講習会が日比谷大神宮で二人の婚礼を模して神前結婚式を創始し、以後、ホテル結婚式・披露宴とともに日本社会に広く普及していった。 結婚式の日の様子として、ドイツ帝国からの”お雇い外国人”であるエルヴィン・フォン・ベルツは「東宮はお元気な様子、妃は大変お美しい」と評した。一方、節子の恩師である下田歌子は、「これという取り柄が無いが、未来の国母としてわずかな欠点も無い方」という主旨の評価を新聞に寄せた。 同年5月23日から6月7日にかけて皇太子同妃は、伊勢の神宮や神武天皇陵への奉告を含め、東海~近畿地方を旅行した。 還御した嘉仁親王と皇太子妃節子は、それぞれ別に国学、漢学、フランス語等の教育を受けた。成婚当時は教育係の老女官・万里小路幸子らに宮中における礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したという。後年には万里小路の指導が自分の素養に大きく役立ったと感謝していた。当時は、皇太子は後の時代よりはるかに自由に行動できており、嘉仁親王は単独で代々木の練兵場や葉山、大磯などへ赴いた。特に大磯と日光には鍋島直大侯爵の別邸があり、イタリア生まれで雑誌グラビアでも頻繁に取り上げられた鍋島伊都子(梨本宮守正王と婚約中)と頻繁に会い、親しく交友していた。 成婚後すぐに懐妊したため、宮中祭祀等には出られなかった。20世紀の最初の年である1901年(明治34年)4月29日、満16歳(数え年18歳)で、第一皇男子(第一子)の迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)を出産した。しかし、このとき皇太子は葉山に滞在しており、4日後の5月3日になって義母の皇后美子が内孫と対面するのに合わせて帰京した。迪宮は生後70日の7月7日に、川村純義伯爵(海軍中将)に預けられた。 嘉仁親王は地方行啓や、御用邸への滞在で不在がちであった。節子妃は孤独の中で第二子を懐妊し、精神的にも深く落ち込んだ。この頃、下田歌子が神功皇后の故事にちなんで、節子妃を励ました。1902年(明治35年)6月25日、節子の満18歳(数え年19歳)の誕生日に、第二皇男子(第二子)淳宮雍仁親王(のちの秩父宮)を出産した。しかし、嘉仁親王は葉山に滞在して不在であり、7月22日に東宮仮御所に戻った。節子妃と淳宮の母子は、葉山で過ごしたのち、淳宮は兄迪宮と同様に川村伯爵に預けられた。 成婚当初、皇太子と同妃節子が揃って過ごす機会は少なかった。1903年(明治36年)5月26日から6月10日にかけ、第五回内国勧業博覧会への台覧のため、皇太子同妃は大阪へ行啓した。明治天皇と皇后が別々に行動したのに比し、皇太子同妃はそろって博覧会を台覧し、また嘉仁親王が馬車の上下車の際に同妃節子の手を取ってエスコートする等、西洋式近代社会において一夫一妻の良きモデル像となりつつあった。 帰京後の8月10日に第三子を懐妊するが、同月25日に流産した。翌年に再び懐妊し、1905年(明治38年)1月3日に第三皇男子(第三子)光宮宣仁親王(のちの高松宮)を出産した。前年に川村伯爵が死去しており、迪宮と淳宮は沼津御用邸に移っていた。3月22日、皇太子妃節子は光宮とともに沼津に行啓し、3人の子供たちとの時間を持つことができた。光宮はそのまま沼津に、迪宮と淳宮は青山の東宮仮御所に隣接する皇孫仮御所に移った。皇太子妃節子は、別離の悲しみを和歌に残している。 ベルツは、帰国前の1905年(明治38年)の様子として、親子が同居していると誤解しているものの、皇太子妃節子が成婚以前の快活な様子を取り戻したことや、家庭を持った皇太子にも良い影響があったと記している。週に数日とは言え、家族の時間を持てるようになったことは夫妻にとって喜ばしい一方、やがて皇太子妃節子は第一皇子の迪宮よりも、第二皇子の淳宮に対する愛情を深めていった。 1907年(明治40年)10月、皇太子妃節子が長年師事した下田歌子(学習院教授兼女学部長)が、同年1月より学習院院長となっていた乃木希典と対立して退職した。翌1908年(明治41年)4月からは迪宮が、翌年からは淳宮が学習院に入学した。 1909年(明治42年)5月29日、皇太子同妃は横須賀に行啓し、戦艦敷島に乗艦して海軍の演習を台覧した。軍事演習を台覧するのは皇太子妃節子にとって初めての経験であり、関連する和歌を33首も残すほど強い印象を受けた。同年には、御成婚祝の新居として建設された東宮御所(赤坂離宮)が完成するが、皇太子同妃の二人には広大すぎることや、子供たちとの距離が遠くなることから、皇太子同妃が暮らすことは無かった。 翌1910年(明治43年)頃になると、再び皇太子妃節子は精神的に落ち込んだことを示唆する和歌を遺すようになる。体重が減少した皇太子妃節子を心配した皇后が浜離宮や葉山へ誘った。翌1911年(明治44年)1月27日には、姉の大谷籌子(西本願寺法主・大谷光瑞夫人)が早世し、深い悲しみを受ける。籌子の葬儀から5日後の2月7日から葉山御用邸に滞在し、3月27日に発熱、3月31日に腸チフスの診断を受けた。4月4日以降、回復傾向と伝えられ、7月1日に全快した。長期の静養の間、皇太子や迪宮が葉山を直接見舞うことは無く、また皇后は自ら賢所で祈願した米(賢所御供米)を贈った。 1912年(明治45年・大正元年)7月30日、義父・明治天皇の崩御に伴う、夫・嘉仁親王の皇位継承(践祚)により皇后となる。3年後の1915年(大正4年)11月10日に京都御所にて御大典が行なわれたが、皇后は第4子(澄宮、のち三笠宮)を懐妊中のため欠席した。 1915年(大正4年)12月2日、第四皇男子(第四子/末子)澄宮崇仁親王(のちの三笠宮)を出産。 翌1916年(大正5年)春、神武天皇二千五百年山稜式年祭に合わせて天皇と共に関西に行幸啓し、一部別行動をとった。3月29日に皇后は東京を発ち、名古屋を経て、4月1日に伊勢の神宮を平安装束で参拝した。皇后の天照大神への傾倒ぶりを示すように、新婚の15年前とは参拝の方法が全く異なっていた。翌2日、春日大社を参拝後、京都で天皇と合流した。翌3日は夫妻で神武天皇陵を拝礼し、4日は正倉院及び奈良帝室博物館を行幸啓し、その後、単独で奈良高等女子師範学校に行啓した。皇后は正倉院で、光明皇后に対する関心を深めた。4月5日、皇后は単独で京都を訪問した。少女期以来の訪問となる京都御所では、昨年の即位礼のごとくかがり火がたかれ、大嘗祭のまま保存されていた各殿舎に拝礼し、大嘗祭を追体験した。翌4月6日は、明治天皇陵及び昭憲皇太后陵への参拝後、九条家の菩提寺東福寺に行啓した。東福寺では、妹大谷紝子(大谷光明夫人)や九条篷子(渋谷隆教男爵夫人)、義妹九条武子(九条良致夫人)ら九条家及び京都仏教ゆかりの人々と面会した。4月7日は紫宸殿で高御座・御帳台を見学後、関西行啓中の裕仁親王と会い、さらに翌4月8日は石清水八幡宮を参拝後、皇后の希望で二条城へ行啓した。4月9日、名古屋の熱田神宮を経由して帰京。 その後も、たびたび天皇の行幸に同行した。昭憲皇太后の後継者として、蚕糸・絹業を奨励し、自身も養蚕(皇后御親蚕)に取り組んだ。養蚕業に関心を持ち続け、1917年(大正6年)及び1920年(大正9年)に関東近郊の紡績工場を訪問している。灯台守を支援したことでも知られる。皇室や神道祭祀のしきたりや伝統を大切にした一方で、野口幽香、後閑菊野など近代女子教育の研究家を相談相手に宮中に招いた。 日本赤十字社により、1920年(大正9年)7月に第1次ポーランド孤児救済が、1922年(大正11年)8月に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われた。この活動によって約800名のポーランド孤児が祖国への帰還を果たした。皇后は4回、見舞金を下賜している。また実際に、単独公務として日本国内の施設に収容されたポーランド孤児たちを慰問するなどもした。 華族女学校時代の恩師である石井筆子と、その夫の石井亮一が経営する滝乃川学園(日本最初の知的障害者施設)を物心両面から支援し、それは生涯にわたって続いた。1921年(大正10年)に、滝乃川学園が園児の失火から火災を起こし、施設が焼失し、園児にも死者が出たことから、事業の継続を一時断念した石井夫妻に、内旨と下賜金を贈り、再起を促したのも皇后の尽力であった。そのため、学園では、創立者の石井亮一・筆子夫妻、理事長の渋沢栄一に加え、貞明皇后を「学園中興の母」として語り継ぎ、今なお崇敬している。 やがて大正天皇の体調悪化が顕著となり、1919年(大正8年)秋には自ら新嘗祭を執り行えない事態となった。翌1920年(大正9年)春から、政府は天皇の体調不良を公表するようになる。 一方、皇后は救癩事業(ハンセン病)に使命感を抱くようになり、沼津御用邸へ赴く途上、ハンセン病療養施設「神山復生病院」があることに気付くと、翌1921年(大正10年)に下賜金を与えて活動を支援した。皇太子裕仁親王の欧州訪問については当初反対の立場で、下田歌子を通じ霊能者と称する飯野吉三郎の「霊旨」にも影響されていたが、やがて容認に傾いた。原敬首相は、皇后の反対理由が天皇の体調問題にあると見抜き、皇后から「政事に干渉せざる積なり」との譲歩を引き出して皇太子洋行を実現させた。皇后は神功皇后に縁深い香椎宮(福岡)や住吉大社(大阪)に使者を派遣し、皇太子の無事を祈願した。皇太子が帰国後、後宮改革に着手しようとすると、一夫一妻制を推進していたはずの皇后は難色を示した。 1921年(大正10年)11月25日、大正天皇の「久シキニ亘ル疾患」を理由に、皇太子裕仁親王が満20歳(数え年21歳)で摂政に就任した。大正天皇は実権を喪失した。 この摂政就任に際し、その正当性の強調のため大正天皇は幼少期の病に起因した「御脳力の衰退」等の病状があることが公表されたが、天皇自身はまだ言葉や判断力も明晰で、葉山御用邸近傍に行幸することも可能だった。侍従の間では、在位を続けるべき派と、引退して療養に専念すべき派で対立が続いていた。 こうした中、1922年(大正11年)3月、貞明皇后は大正天皇の快癒祈願のため、福岡県への行啓を行った。皇后の九州行啓は、神功皇后以来とされた一方、天皇が重態と推測されることから盛大な奉迎は見送る世相であった。しかし、最終的には主目的の香椎宮の他、福岡県内の神社や公的機関、経路上の厳島神社(広島県)や住吉大社(大阪府)が追加され、さらに皇后の希望で海軍兵学校在学中の第3皇子高松宮宣仁親王との面会も設けられ、皇后単独としては異例の大規模な行啓となった。こうして3月21日、香椎宮で皇后が計20分に及ぶ長い祈りを神功皇后に捧げたのと同日、宮中では皇太子裕仁親王により春季皇霊祭が執り行われていた。 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災発生当時、天皇・皇后は日光田母沢御用邸に滞在中だった。皇后は天皇に代わる政治的主体として動き、9月13日に「宮内省巡回救療班」を設置し、計8万枚配布したビラには、皇后の御心に由来するメッセージが記されていた。第2皇子秩父宮雍仁親王は直ちに帰京し、9月3日に被災地を巡回したが、摂政宮皇太子は事態対応に追われ、巡回できたのは15日になってからだった。政府が帝都復興院を設置したのは9月27日だった。皇后は9月29日に帰京すると、泉橋慈善病院を訪問し、翌30日には日本赤十字社病院を皮切りに、病院や罹災者収容施設を多数訪問した。一度、日光に戻るが、10月15日に天皇と共に帰京後も精力的に被災地訪問を続けた。 震災により皇太子の良子女王との結婚は延期されたが、この結婚について皇后は皇太子に新嘗祭を「御親祭の後式事御挙行の事」と天皇同様に行う条件をつけていた。皇太子は台湾行啓から戻った春以降、半年余りにわたって準備と練習を重ね、無事に執り行うことができた。震災以来規模を縮小していた宮中祭祀は、この新嘗祭から通常規模に戻された。また、皇后は深夜まで起きて儀式の無事を気にかけ、この夜だけで44首の和歌を詠んだ。さらに年末12月27日、虎ノ門事件に際しては、皇太子の無事を「神の守り」と感謝する和歌を詠んでいる。 1924年(大正13年)2月から5月にかけて、かねてから尊敬していた筧克彦東京帝国大学教授から「神ながらの道」の進講を受ける、皇后はますます筧の教説に深く傾倒し、筧から学ぶ楽しみを「しきしまのやまとの国をつらぬけるまことの道にすゝむたのしさ」と歌っている。宮中に筧の考案した皇国体操(やまとばたらき)を広め、筧にならって「万歳」ではなく「弥栄」を使用するようになった。なお、宮内省総務課長、皇太后宮事務主管の筧素彦は筧克彦の息子である。 1924年(大正13年)秋、皇后は再び単独で関西を行啓した。陵墓や社寺を訪問する中、12月7日には京都御所で袿袴を着用し和歌の披講会を催した他、雅楽や蹴鞠を観賞している。 1926年(大正15年)8月、天皇の体調悪化は顕著で、天皇・皇后は葉山に滞在する。同年10月21日、詔書が発され長慶天皇が歴代天皇に加えられたが、神功皇后は見送られた。翌22日、宮中三殿で親告の儀が執り行われたが、皇后は典侍正親町鐘子に代拝させた。儀式と同日、貞明皇后は遺書を書いていた。高松宮はその内容について、筧克彦の書籍を秩父宮や三笠宮崇仁親王に形見分けすることや、周囲の人々への感謝が綴られていたとしている。 12月25日午前1時25分、皇后の看護や祈願も空しく、大正天皇が葉山御用邸で崩御。摂政を務めていた皇太子裕仁親王(昭和天皇)の皇位継承および皇太子妃良子(香淳皇后)の立后に伴い皇太后となる。大正天皇の臨終の際には、妻の貞明皇后の意向で、生母の柳原愛子を傍に居させた。三笠宮妃百合子によれば、以後ずっと黒または紫の衣服しか着用しなくなった。 1927年(昭和2年)11月12日、皇太后は居所を青山東御所へ移す。さらに1930年(昭和5年)5月1日、赤坂離宮青山御所内に新築された御殿が新たに「大宮御所」として皇太后の居所となった。この大宮御所には皇太后宮大夫入江為守が描いた大和絵(大正天皇の遺影)が奉納された「御影殿(みえでん)」が造営され、毎日2回過ごすようになった。沼津御用邸にも「御日拝室」が設けられ、滞在中は同様に過ごした。大正天皇の崩御後、皇太后は日課の如く、朝食を終えると御影殿に向かい、その日の出来事や新聞のニュースなどを「生ける人に仕えるように」語られ、退出する時間はいつも午前11時半を回っていたという。 1931年(昭和6年)、皇太后からの下賜金をもとに「癩予防協会」が設立された。彼女の誕生日の前後が「癩予防デー」となった。なお現在は「ハンセン病を正しく理解する週間」と改称されている。皇太后の経済支援により生活が救済された患者もいる一方、「予防」のためとして強制隔離が正当化された面も否めない。また一連の活動が皇太后の真意に関わらず「皇恩」「仁慈」として、その後も政治利用された側面もある。 終戦前、沼津の御用邸で過ごしていた貞明皇后と接触の深かった山本玄峰老師は田中清玄らに、「皇太后様は、戦争でこれ以上国民に苦しみを与えたくないと、いかい(=大変)心を痛めてござるわ」ともらしていた。 大戦末期、貞明皇后の大宮御所を軽井沢(旧末松謙澄別荘)へ移転させる案が浮上し、別荘の改修工事が急ピッチですすめられていた。1945年5月には東京の大宮御所が空襲により焼失し、同年7月には沼津御用邸も焼失。皇太后は直前まで天皇らとともに東京に残ることを望んだが、皇室内での直々の説得もあって最終的には軽井沢への疎開を了承した。しかし別荘の工事完成を目前にして終戦となり、その結果皇太后は終戦5日後から4ヶ月ほど軽井沢に疎開することになった。 皇太子明仁親王(現:明仁上皇)を含む九人の孫(昭和天皇の皇子女7人と三笠宮崇仁親王の子女2人)の成長を楽しみとし、孫からは「おばばさま」と慕われた。特に、甯子内親王と寬仁親王はたびたび御所に訪問したことから、一緒に羽根つきやままごと遊びを付き合った。 1951年(昭和26年)5月17日、狭心症により大宮御所で崩御。享年66。皇太子妃時代に腸チフスに罹った以外は特に大病に罹らず健康であり、この日も恒例の勤労奉仕団への会釈(挨拶)を行う予定だったが、その準備をしている時に狭心症の発作が起き、そのまま崩御した。なお当日、昭和天皇は学者たちより進講を受けており、あまりにも突然の母宮の訃報を聞きしばらく言葉が無かった。 1951年(昭和26年)6月7日に「貞明皇后(ていめいこうごう)」と追号され(昭和天皇勅定)、宮内庁長官より同年6月9日に官報告示が執り行われた。「貞明」の出典は、『易経』の一文「日月之道、貞明者也」(日月の道はただしくして明らかなり)から採られた。 「大喪の儀」は6月22日に行われ、長男の昭和天皇は以下の誄辞(るいじ、追悼の言葉)を述べている。 — 昭和26年6月22日「大喪の儀」にて 御陵は多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)。歴代皇后の中で、初めて関東の地に御陵が造営された。 日本国憲法と現行の皇室典範に基づき葬られた最初の皇后である。戦後の新皇室典範では皇族の葬儀の規定が設けられていないこと、また当時は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による占領下であることから国葬とすることが憚られる状況にあった。このため、国葬の有無を明確にしないまま「事実上の国葬」として扱われ、一連の大喪儀の儀式が行われた。 翌1952年(昭和27年)1月1日付で、皇太后宮職が廃止されたことにより、日本の後宮制度は終焉を迎えた。 父親は九条道孝。孝明天皇の女御である英照皇太后は伯母(父の姉)にあたる。 母の野間幾子(1849-1946、二条家家臣野間頼興娘、京都生まれ)は15歳で九条家に仕え、道孝の側室として、九条道実、菊麿王妃範子、大谷籌子、節子(貞明皇后)をもうけた。のちに中川局と呼ばれ、晩年は仏号を浄操院とした。 姉・範子は山階宮菊麿王の妃。同母姉・籌子は西本願寺門主・大谷光瑞の妻。異母弟・九条良致の妻は歌人として著名な九条武子である。 明治天皇とは義理の従兄妹でもある。 なお、貞明皇后を通して現在の皇室は織田氏、浅井氏、豊臣氏、徳川氏、石田三成の血を受け継いでいる(崇源院#系譜、石田三成#子女参照)。 夫の大正天皇との間に、4人の皇男子を儲けた。皇女子はなかった。現行の皇室典範が施行された後の1947年(昭和22年)10月14日にGHQの指令によって伏見宮系の皇族と宮家が皇籍離脱した際、昭和天皇と弟宮の三男子及び各妃とその子女が皇室に留まった。大正天皇・貞明皇后夫妻は、2022年(令和4年)1月時点における皇室典範の定めるところによる皇室構成員の中で生まれながらの皇族であるもの者(徳仁・明仁・全ての親王・内親王・女王)の最近共通祖先となっている。先述の通り、次男の淳宮雍仁親王出産後の1903年(明治36年)夏に流産している。 「姑として、嫁の香淳皇后には何かにつけて厳しかった」という。皇族出身(久邇宮家の嫡出の女子で、身位は女王)であった香淳皇后に対する家柄への妬み(貞明皇后は名門公家藤原氏五摂家の九条家の出身ではあるものの、嫡出ではなく庶子である)と、周囲の人間から考えられていた。 香淳皇后自身は、かなりおっとりした性格で、学齢まで高円寺近くの農家に里子として逞しく養育された貞明皇后とは、根本的に価値観の不一致があった。貞明皇后から香淳皇后に注意は女官長を通じて行なわれていたが、貞明皇后に仕える竹屋津根子皇太后宮女官長、香淳皇后に仕える竹屋志計子女官長は姉妹であり、「互いに言伝しにくかった」と回想している。 宮中で仕える女官長や女官が実際にその衝突を目撃したのは、大正天皇崩御の数ヶ月前、すでに摂政となっていた皇太子裕仁親王(昭和天皇)と同妃良子(香淳皇后)夫妻が療養先である葉山御用邸に見舞いに訪れた際である。皇太子妃良子が姑である皇后節子の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋(今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、何も言い返せずただ黙っているしかなかった。頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后ではあったが、目下の者にも決して直接叱責することはなく、この一件を目の前にした女官たちに、「二人は嫁姑として全くうまくいっていない」と知らしめる結果になってしまった。 一方で3人の弟宮の嫁達、秩父宮、高松宮、三笠宮の各親王妃(雍仁親王妃勢津子、宣仁親王妃喜久子、崇仁親王妃百合子)とは御所での食事や茶会を度々招いて、可愛がったそうである。特に次男秩父宮の妃であった勢津子はお気に入りであったらしく、お互い親交が深く、毎年3月3日の桃の節句(雛祭り)の折には勢津子妃が実家からお輿入れした際持ち込んだ雛人形を宮邸に飾って、貞明皇后に見てもらうのが恒例行事であったそうである。勢津子妃は、晩年の回想記『銀のボンボニエール』において、そのことを「お子様4人全員が親王様(男子)であったので、毎年お楽しみにされているのでしょう」と語っている。 女官制度の廃止など宮廷改革を進めた長男の昭和天皇に反発し、自身の大宮御所では旧態依然とした宮廷制度を維持した。とはいえ決して昭和天皇との母子関係は悪くなく、「皇居内で見かけた鳥の名前について子供染みた我の張り合いをした」というエピソードもある。また第二次世界大戦時においては、戦況の悪化の中でも疎開を拒む母皇太后を気遣ったことが、昭和天皇が最後まで東京を離れなかった一因ともされる。 しかし「貞明皇后の愛情は、次男の秩父宮に傾きがちであった」と囁かれる。貞明皇后と秩父宮の誕生日は同一日(6月25日)であり、そのことから「皇后は強い縁を感じていた」とも言われる。上記の雍仁親王の婚姻に関しても、「妃に幕末維新で朝敵とされた松平容保の孫である勢津子(せつこ、旧名:節子、読み同じ)を強く推薦したのは貞明皇后で、勢津子との婚姻が成立したのも皇后の意向が大きく働いた結果であった」と言われる。 生涯にわたって数多くの和歌 を著し、また夫・大正天皇の影響もあり、漢詩にも取り組んだ。ハンナ・リデルのハンセン病病院回春病院を援助していたが、後にハンセン病全体に関心を持ち、らい予防協会ができ、皇后の没後寄贈された基金をもとに「藤楓協会」というハンセン病援護団体の設立となった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "貞明皇后(ていめいこうごう、1884年〈明治17年〉6月25日 - 1951年〈昭和26年〉5月17日)は、日本の第123代天皇・大正天皇の皇后(在位:1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日)。諱は節子(さだこ)。お印は藤。旧名は、九条 節子(くじょう さだこ)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "昭和天皇の母。元華族。公爵・九条道孝令嬢。ハンセン病の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業(絹糸)奨励などに尽力した。一夫一妻制での最初の皇后。藤原氏から立后した最後の例である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1884年(明治17年)6月25日、公爵九条道孝の四女として、生母の野間幾子の実家である東京府神田錦町(現:東京都千代田区神田錦町)に誕生。道孝は明治4年(1871年)に正室和子を亡くしており、幾子は道孝の側室だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "同年7月、東京府東多摩郡高円寺村(現:杉並区)近郊の豪農である大河原金蔵、てい夫妻に里子に出され、『九条の黒姫様』(くじょうのくろひめさま)と呼ばれるほど逞しく育った。農家の風習の中で育ち、栗拾いやトンボ捕りをするなど裸足で遊んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "大河原家は高円寺地域の氏神である氷川神社の氏子であったが、大河原家の敷地内には稲荷神社の祠もあった。また、養母のていは仏教への信仰心も篤く、早朝から観音経(法華経の一部)を読経しており、節子もていと共に仏壇に手を合わせていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1888年(明治21年)には、赤坂福吉町の九条家に戻る。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1890年(明治23年)9月1日、華族女学校(後の女子学習院)初等小学科に入学し、1893年(明治26年)には高等小学科に進学する。さらに1896年(明治28年)には初等中学科に進学する。華族女学校では下田歌子、石井筆子、津田梅子らに師事した。中でも、石井筆子との師弟関係の絆は強く、公私の交際は生涯に亘って続いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "当初、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の妃として伏見宮貞愛親王の長女である禎子女王が挙げられていた。1893年(明治26年)5月に皇太子妃に内定し、1896年(明治29年)には明治天皇と皇后美子とも対面していた。禎子女王は外見が色白で美しかったが、西欧列強と並び立つためにキリスト教文化圏の一夫一妻制を導入する必要性がある中、健康面を不安視され1899年(明治32年)3月に、婚約は解消された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "九条節子は、正室の子でないことや、明治天皇が皇族からの東宮妃を強く望んでいたこと、更には政府上層部でも節子に否定的な意見が多かった。最終的には消去法にて、色黒すなわち容姿端麗ではないことよりも、先述の通り『黒姫』と呼ばれるほどに健康であることが重視され、1899年(明治32年)8月21日に婚約が内定した。「容姿端麗ではない」とされた節子以外の女性に皇太子が興味を持たぬよう、皇太子は節子を含めた女性との接触を制限された。また、大河原家にあった幼少期の写真は没収された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1900年(明治33年)2月11日、満15歳(数え年17歳)で、5歳年上の皇太子嘉仁親王と婚約。同年5月10日、宮中の賢所に於いて、賢所大前の儀を執り行った。これは、前4月に制定された皇室婚嫁令に基づく、史上初の神前挙式であった。節子は、和装と洋装を計5回着替え、明治天皇と皇后美子への拝礼を含む多くの行事をこなした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "婚儀は従来の公家様式に代わる、新たな様式であり、婚礼の儀式や行事は、当時の最新マスメディアである新聞によって詳報され、一般市民の関心を集めた。そこで、翌1901年(明治34年)礼法講習会が日比谷大神宮で二人の婚礼を模して神前結婚式を創始し、以後、ホテル結婚式・披露宴とともに日本社会に広く普及していった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "結婚式の日の様子として、ドイツ帝国からの”お雇い外国人”であるエルヴィン・フォン・ベルツは「東宮はお元気な様子、妃は大変お美しい」と評した。一方、節子の恩師である下田歌子は、「これという取り柄が無いが、未来の国母としてわずかな欠点も無い方」という主旨の評価を新聞に寄せた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "同年5月23日から6月7日にかけて皇太子同妃は、伊勢の神宮や神武天皇陵への奉告を含め、東海~近畿地方を旅行した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "還御した嘉仁親王と皇太子妃節子は、それぞれ別に国学、漢学、フランス語等の教育を受けた。成婚当時は教育係の老女官・万里小路幸子らに宮中における礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したという。後年には万里小路の指導が自分の素養に大きく役立ったと感謝していた。当時は、皇太子は後の時代よりはるかに自由に行動できており、嘉仁親王は単独で代々木の練兵場や葉山、大磯などへ赴いた。特に大磯と日光には鍋島直大侯爵の別邸があり、イタリア生まれで雑誌グラビアでも頻繁に取り上げられた鍋島伊都子(梨本宮守正王と婚約中)と頻繁に会い、親しく交友していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "成婚後すぐに懐妊したため、宮中祭祀等には出られなかった。20世紀の最初の年である1901年(明治34年)4月29日、満16歳(数え年18歳)で、第一皇男子(第一子)の迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)を出産した。しかし、このとき皇太子は葉山に滞在しており、4日後の5月3日になって義母の皇后美子が内孫と対面するのに合わせて帰京した。迪宮は生後70日の7月7日に、川村純義伯爵(海軍中将)に預けられた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "嘉仁親王は地方行啓や、御用邸への滞在で不在がちであった。節子妃は孤独の中で第二子を懐妊し、精神的にも深く落ち込んだ。この頃、下田歌子が神功皇后の故事にちなんで、節子妃を励ました。1902年(明治35年)6月25日、節子の満18歳(数え年19歳)の誕生日に、第二皇男子(第二子)淳宮雍仁親王(のちの秩父宮)を出産した。しかし、嘉仁親王は葉山に滞在して不在であり、7月22日に東宮仮御所に戻った。節子妃と淳宮の母子は、葉山で過ごしたのち、淳宮は兄迪宮と同様に川村伯爵に預けられた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "成婚当初、皇太子と同妃節子が揃って過ごす機会は少なかった。1903年(明治36年)5月26日から6月10日にかけ、第五回内国勧業博覧会への台覧のため、皇太子同妃は大阪へ行啓した。明治天皇と皇后が別々に行動したのに比し、皇太子同妃はそろって博覧会を台覧し、また嘉仁親王が馬車の上下車の際に同妃節子の手を取ってエスコートする等、西洋式近代社会において一夫一妻の良きモデル像となりつつあった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "帰京後の8月10日に第三子を懐妊するが、同月25日に流産した。翌年に再び懐妊し、1905年(明治38年)1月3日に第三皇男子(第三子)光宮宣仁親王(のちの高松宮)を出産した。前年に川村伯爵が死去しており、迪宮と淳宮は沼津御用邸に移っていた。3月22日、皇太子妃節子は光宮とともに沼津に行啓し、3人の子供たちとの時間を持つことができた。光宮はそのまま沼津に、迪宮と淳宮は青山の東宮仮御所に隣接する皇孫仮御所に移った。皇太子妃節子は、別離の悲しみを和歌に残している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ベルツは、帰国前の1905年(明治38年)の様子として、親子が同居していると誤解しているものの、皇太子妃節子が成婚以前の快活な様子を取り戻したことや、家庭を持った皇太子にも良い影響があったと記している。週に数日とは言え、家族の時間を持てるようになったことは夫妻にとって喜ばしい一方、やがて皇太子妃節子は第一皇子の迪宮よりも、第二皇子の淳宮に対する愛情を深めていった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1907年(明治40年)10月、皇太子妃節子が長年師事した下田歌子(学習院教授兼女学部長)が、同年1月より学習院院長となっていた乃木希典と対立して退職した。翌1908年(明治41年)4月からは迪宮が、翌年からは淳宮が学習院に入学した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1909年(明治42年)5月29日、皇太子同妃は横須賀に行啓し、戦艦敷島に乗艦して海軍の演習を台覧した。軍事演習を台覧するのは皇太子妃節子にとって初めての経験であり、関連する和歌を33首も残すほど強い印象を受けた。同年には、御成婚祝の新居として建設された東宮御所(赤坂離宮)が完成するが、皇太子同妃の二人には広大すぎることや、子供たちとの距離が遠くなることから、皇太子同妃が暮らすことは無かった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "翌1910年(明治43年)頃になると、再び皇太子妃節子は精神的に落ち込んだことを示唆する和歌を遺すようになる。体重が減少した皇太子妃節子を心配した皇后が浜離宮や葉山へ誘った。翌1911年(明治44年)1月27日には、姉の大谷籌子(西本願寺法主・大谷光瑞夫人)が早世し、深い悲しみを受ける。籌子の葬儀から5日後の2月7日から葉山御用邸に滞在し、3月27日に発熱、3月31日に腸チフスの診断を受けた。4月4日以降、回復傾向と伝えられ、7月1日に全快した。長期の静養の間、皇太子や迪宮が葉山を直接見舞うことは無く、また皇后は自ら賢所で祈願した米(賢所御供米)を贈った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1912年(明治45年・大正元年)7月30日、義父・明治天皇の崩御に伴う、夫・嘉仁親王の皇位継承(践祚)により皇后となる。3年後の1915年(大正4年)11月10日に京都御所にて御大典が行なわれたが、皇后は第4子(澄宮、のち三笠宮)を懐妊中のため欠席した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1915年(大正4年)12月2日、第四皇男子(第四子/末子)澄宮崇仁親王(のちの三笠宮)を出産。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "翌1916年(大正5年)春、神武天皇二千五百年山稜式年祭に合わせて天皇と共に関西に行幸啓し、一部別行動をとった。3月29日に皇后は東京を発ち、名古屋を経て、4月1日に伊勢の神宮を平安装束で参拝した。皇后の天照大神への傾倒ぶりを示すように、新婚の15年前とは参拝の方法が全く異なっていた。翌2日、春日大社を参拝後、京都で天皇と合流した。翌3日は夫妻で神武天皇陵を拝礼し、4日は正倉院及び奈良帝室博物館を行幸啓し、その後、単独で奈良高等女子師範学校に行啓した。皇后は正倉院で、光明皇后に対する関心を深めた。4月5日、皇后は単独で京都を訪問した。少女期以来の訪問となる京都御所では、昨年の即位礼のごとくかがり火がたかれ、大嘗祭のまま保存されていた各殿舎に拝礼し、大嘗祭を追体験した。翌4月6日は、明治天皇陵及び昭憲皇太后陵への参拝後、九条家の菩提寺東福寺に行啓した。東福寺では、妹大谷紝子(大谷光明夫人)や九条篷子(渋谷隆教男爵夫人)、義妹九条武子(九条良致夫人)ら九条家及び京都仏教ゆかりの人々と面会した。4月7日は紫宸殿で高御座・御帳台を見学後、関西行啓中の裕仁親王と会い、さらに翌4月8日は石清水八幡宮を参拝後、皇后の希望で二条城へ行啓した。4月9日、名古屋の熱田神宮を経由して帰京。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "その後も、たびたび天皇の行幸に同行した。昭憲皇太后の後継者として、蚕糸・絹業を奨励し、自身も養蚕(皇后御親蚕)に取り組んだ。養蚕業に関心を持ち続け、1917年(大正6年)及び1920年(大正9年)に関東近郊の紡績工場を訪問している。灯台守を支援したことでも知られる。皇室や神道祭祀のしきたりや伝統を大切にした一方で、野口幽香、後閑菊野など近代女子教育の研究家を相談相手に宮中に招いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "日本赤十字社により、1920年(大正9年)7月に第1次ポーランド孤児救済が、1922年(大正11年)8月に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われた。この活動によって約800名のポーランド孤児が祖国への帰還を果たした。皇后は4回、見舞金を下賜している。また実際に、単独公務として日本国内の施設に収容されたポーランド孤児たちを慰問するなどもした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "華族女学校時代の恩師である石井筆子と、その夫の石井亮一が経営する滝乃川学園(日本最初の知的障害者施設)を物心両面から支援し、それは生涯にわたって続いた。1921年(大正10年)に、滝乃川学園が園児の失火から火災を起こし、施設が焼失し、園児にも死者が出たことから、事業の継続を一時断念した石井夫妻に、内旨と下賜金を贈り、再起を促したのも皇后の尽力であった。そのため、学園では、創立者の石井亮一・筆子夫妻、理事長の渋沢栄一に加え、貞明皇后を「学園中興の母」として語り継ぎ、今なお崇敬している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "やがて大正天皇の体調悪化が顕著となり、1919年(大正8年)秋には自ら新嘗祭を執り行えない事態となった。翌1920年(大正9年)春から、政府は天皇の体調不良を公表するようになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "一方、皇后は救癩事業(ハンセン病)に使命感を抱くようになり、沼津御用邸へ赴く途上、ハンセン病療養施設「神山復生病院」があることに気付くと、翌1921年(大正10年)に下賜金を与えて活動を支援した。皇太子裕仁親王の欧州訪問については当初反対の立場で、下田歌子を通じ霊能者と称する飯野吉三郎の「霊旨」にも影響されていたが、やがて容認に傾いた。原敬首相は、皇后の反対理由が天皇の体調問題にあると見抜き、皇后から「政事に干渉せざる積なり」との譲歩を引き出して皇太子洋行を実現させた。皇后は神功皇后に縁深い香椎宮(福岡)や住吉大社(大阪)に使者を派遣し、皇太子の無事を祈願した。皇太子が帰国後、後宮改革に着手しようとすると、一夫一妻制を推進していたはずの皇后は難色を示した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1921年(大正10年)11月25日、大正天皇の「久シキニ亘ル疾患」を理由に、皇太子裕仁親王が満20歳(数え年21歳)で摂政に就任した。大正天皇は実権を喪失した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "この摂政就任に際し、その正当性の強調のため大正天皇は幼少期の病に起因した「御脳力の衰退」等の病状があることが公表されたが、天皇自身はまだ言葉や判断力も明晰で、葉山御用邸近傍に行幸することも可能だった。侍従の間では、在位を続けるべき派と、引退して療養に専念すべき派で対立が続いていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "こうした中、1922年(大正11年)3月、貞明皇后は大正天皇の快癒祈願のため、福岡県への行啓を行った。皇后の九州行啓は、神功皇后以来とされた一方、天皇が重態と推測されることから盛大な奉迎は見送る世相であった。しかし、最終的には主目的の香椎宮の他、福岡県内の神社や公的機関、経路上の厳島神社(広島県)や住吉大社(大阪府)が追加され、さらに皇后の希望で海軍兵学校在学中の第3皇子高松宮宣仁親王との面会も設けられ、皇后単独としては異例の大規模な行啓となった。こうして3月21日、香椎宮で皇后が計20分に及ぶ長い祈りを神功皇后に捧げたのと同日、宮中では皇太子裕仁親王により春季皇霊祭が執り行われていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1923年(大正12年)9月1日の関東大震災発生当時、天皇・皇后は日光田母沢御用邸に滞在中だった。皇后は天皇に代わる政治的主体として動き、9月13日に「宮内省巡回救療班」を設置し、計8万枚配布したビラには、皇后の御心に由来するメッセージが記されていた。第2皇子秩父宮雍仁親王は直ちに帰京し、9月3日に被災地を巡回したが、摂政宮皇太子は事態対応に追われ、巡回できたのは15日になってからだった。政府が帝都復興院を設置したのは9月27日だった。皇后は9月29日に帰京すると、泉橋慈善病院を訪問し、翌30日には日本赤十字社病院を皮切りに、病院や罹災者収容施設を多数訪問した。一度、日光に戻るが、10月15日に天皇と共に帰京後も精力的に被災地訪問を続けた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "震災により皇太子の良子女王との結婚は延期されたが、この結婚について皇后は皇太子に新嘗祭を「御親祭の後式事御挙行の事」と天皇同様に行う条件をつけていた。皇太子は台湾行啓から戻った春以降、半年余りにわたって準備と練習を重ね、無事に執り行うことができた。震災以来規模を縮小していた宮中祭祀は、この新嘗祭から通常規模に戻された。また、皇后は深夜まで起きて儀式の無事を気にかけ、この夜だけで44首の和歌を詠んだ。さらに年末12月27日、虎ノ門事件に際しては、皇太子の無事を「神の守り」と感謝する和歌を詠んでいる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1924年(大正13年)2月から5月にかけて、かねてから尊敬していた筧克彦東京帝国大学教授から「神ながらの道」の進講を受ける、皇后はますます筧の教説に深く傾倒し、筧から学ぶ楽しみを「しきしまのやまとの国をつらぬけるまことの道にすゝむたのしさ」と歌っている。宮中に筧の考案した皇国体操(やまとばたらき)を広め、筧にならって「万歳」ではなく「弥栄」を使用するようになった。なお、宮内省総務課長、皇太后宮事務主管の筧素彦は筧克彦の息子である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1924年(大正13年)秋、皇后は再び単独で関西を行啓した。陵墓や社寺を訪問する中、12月7日には京都御所で袿袴を着用し和歌の披講会を催した他、雅楽や蹴鞠を観賞している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1926年(大正15年)8月、天皇の体調悪化は顕著で、天皇・皇后は葉山に滞在する。同年10月21日、詔書が発され長慶天皇が歴代天皇に加えられたが、神功皇后は見送られた。翌22日、宮中三殿で親告の儀が執り行われたが、皇后は典侍正親町鐘子に代拝させた。儀式と同日、貞明皇后は遺書を書いていた。高松宮はその内容について、筧克彦の書籍を秩父宮や三笠宮崇仁親王に形見分けすることや、周囲の人々への感謝が綴られていたとしている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "12月25日午前1時25分、皇后の看護や祈願も空しく、大正天皇が葉山御用邸で崩御。摂政を務めていた皇太子裕仁親王(昭和天皇)の皇位継承および皇太子妃良子(香淳皇后)の立后に伴い皇太后となる。大正天皇の臨終の際には、妻の貞明皇后の意向で、生母の柳原愛子を傍に居させた。三笠宮妃百合子によれば、以後ずっと黒または紫の衣服しか着用しなくなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1927年(昭和2年)11月12日、皇太后は居所を青山東御所へ移す。さらに1930年(昭和5年)5月1日、赤坂離宮青山御所内に新築された御殿が新たに「大宮御所」として皇太后の居所となった。この大宮御所には皇太后宮大夫入江為守が描いた大和絵(大正天皇の遺影)が奉納された「御影殿(みえでん)」が造営され、毎日2回過ごすようになった。沼津御用邸にも「御日拝室」が設けられ、滞在中は同様に過ごした。大正天皇の崩御後、皇太后は日課の如く、朝食を終えると御影殿に向かい、その日の出来事や新聞のニュースなどを「生ける人に仕えるように」語られ、退出する時間はいつも午前11時半を回っていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1931年(昭和6年)、皇太后からの下賜金をもとに「癩予防協会」が設立された。彼女の誕生日の前後が「癩予防デー」となった。なお現在は「ハンセン病を正しく理解する週間」と改称されている。皇太后の経済支援により生活が救済された患者もいる一方、「予防」のためとして強制隔離が正当化された面も否めない。また一連の活動が皇太后の真意に関わらず「皇恩」「仁慈」として、その後も政治利用された側面もある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "終戦前、沼津の御用邸で過ごしていた貞明皇后と接触の深かった山本玄峰老師は田中清玄らに、「皇太后様は、戦争でこれ以上国民に苦しみを与えたくないと、いかい(=大変)心を痛めてござるわ」ともらしていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "大戦末期、貞明皇后の大宮御所を軽井沢(旧末松謙澄別荘)へ移転させる案が浮上し、別荘の改修工事が急ピッチですすめられていた。1945年5月には東京の大宮御所が空襲により焼失し、同年7月には沼津御用邸も焼失。皇太后は直前まで天皇らとともに東京に残ることを望んだが、皇室内での直々の説得もあって最終的には軽井沢への疎開を了承した。しかし別荘の工事完成を目前にして終戦となり、その結果皇太后は終戦5日後から4ヶ月ほど軽井沢に疎開することになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "皇太子明仁親王(現:明仁上皇)を含む九人の孫(昭和天皇の皇子女7人と三笠宮崇仁親王の子女2人)の成長を楽しみとし、孫からは「おばばさま」と慕われた。特に、甯子内親王と寬仁親王はたびたび御所に訪問したことから、一緒に羽根つきやままごと遊びを付き合った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1951年(昭和26年)5月17日、狭心症により大宮御所で崩御。享年66。皇太子妃時代に腸チフスに罹った以外は特に大病に罹らず健康であり、この日も恒例の勤労奉仕団への会釈(挨拶)を行う予定だったが、その準備をしている時に狭心症の発作が起き、そのまま崩御した。なお当日、昭和天皇は学者たちより進講を受けており、あまりにも突然の母宮の訃報を聞きしばらく言葉が無かった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1951年(昭和26年)6月7日に「貞明皇后(ていめいこうごう)」と追号され(昭和天皇勅定)、宮内庁長官より同年6月9日に官報告示が執り行われた。「貞明」の出典は、『易経』の一文「日月之道、貞明者也」(日月の道はただしくして明らかなり)から採られた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "「大喪の儀」は6月22日に行われ、長男の昭和天皇は以下の誄辞(るいじ、追悼の言葉)を述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "— 昭和26年6月22日「大喪の儀」にて", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "御陵は多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)。歴代皇后の中で、初めて関東の地に御陵が造営された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "日本国憲法と現行の皇室典範に基づき葬られた最初の皇后である。戦後の新皇室典範では皇族の葬儀の規定が設けられていないこと、また当時は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による占領下であることから国葬とすることが憚られる状況にあった。このため、国葬の有無を明確にしないまま「事実上の国葬」として扱われ、一連の大喪儀の儀式が行われた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "翌1952年(昭和27年)1月1日付で、皇太后宮職が廃止されたことにより、日本の後宮制度は終焉を迎えた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "父親は九条道孝。孝明天皇の女御である英照皇太后は伯母(父の姉)にあたる。", "title": "家系" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "母の野間幾子(1849-1946、二条家家臣野間頼興娘、京都生まれ)は15歳で九条家に仕え、道孝の側室として、九条道実、菊麿王妃範子、大谷籌子、節子(貞明皇后)をもうけた。のちに中川局と呼ばれ、晩年は仏号を浄操院とした。", "title": "家系" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "姉・範子は山階宮菊麿王の妃。同母姉・籌子は西本願寺門主・大谷光瑞の妻。異母弟・九条良致の妻は歌人として著名な九条武子である。", "title": "家系" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "明治天皇とは義理の従兄妹でもある。", "title": "家系" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "なお、貞明皇后を通して現在の皇室は織田氏、浅井氏、豊臣氏、徳川氏、石田三成の血を受け継いでいる(崇源院#系譜、石田三成#子女参照)。", "title": "家系" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "夫の大正天皇との間に、4人の皇男子を儲けた。皇女子はなかった。現行の皇室典範が施行された後の1947年(昭和22年)10月14日にGHQの指令によって伏見宮系の皇族と宮家が皇籍離脱した際、昭和天皇と弟宮の三男子及び各妃とその子女が皇室に留まった。大正天皇・貞明皇后夫妻は、2022年(令和4年)1月時点における皇室典範の定めるところによる皇室構成員の中で生まれながらの皇族であるもの者(徳仁・明仁・全ての親王・内親王・女王)の最近共通祖先となっている。先述の通り、次男の淳宮雍仁親王出産後の1903年(明治36年)夏に流産している。", "title": "皇子" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "「姑として、嫁の香淳皇后には何かにつけて厳しかった」という。皇族出身(久邇宮家の嫡出の女子で、身位は女王)であった香淳皇后に対する家柄への妬み(貞明皇后は名門公家藤原氏五摂家の九条家の出身ではあるものの、嫡出ではなく庶子である)と、周囲の人間から考えられていた。", "title": "皇子" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "香淳皇后自身は、かなりおっとりした性格で、学齢まで高円寺近くの農家に里子として逞しく養育された貞明皇后とは、根本的に価値観の不一致があった。貞明皇后から香淳皇后に注意は女官長を通じて行なわれていたが、貞明皇后に仕える竹屋津根子皇太后宮女官長、香淳皇后に仕える竹屋志計子女官長は姉妹であり、「互いに言伝しにくかった」と回想している。", "title": "皇子" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "宮中で仕える女官長や女官が実際にその衝突を目撃したのは、大正天皇崩御の数ヶ月前、すでに摂政となっていた皇太子裕仁親王(昭和天皇)と同妃良子(香淳皇后)夫妻が療養先である葉山御用邸に見舞いに訪れた際である。皇太子妃良子が姑である皇后節子の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋(今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、何も言い返せずただ黙っているしかなかった。頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后ではあったが、目下の者にも決して直接叱責することはなく、この一件を目の前にした女官たちに、「二人は嫁姑として全くうまくいっていない」と知らしめる結果になってしまった。", "title": "皇子" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "一方で3人の弟宮の嫁達、秩父宮、高松宮、三笠宮の各親王妃(雍仁親王妃勢津子、宣仁親王妃喜久子、崇仁親王妃百合子)とは御所での食事や茶会を度々招いて、可愛がったそうである。特に次男秩父宮の妃であった勢津子はお気に入りであったらしく、お互い親交が深く、毎年3月3日の桃の節句(雛祭り)の折には勢津子妃が実家からお輿入れした際持ち込んだ雛人形を宮邸に飾って、貞明皇后に見てもらうのが恒例行事であったそうである。勢津子妃は、晩年の回想記『銀のボンボニエール』において、そのことを「お子様4人全員が親王様(男子)であったので、毎年お楽しみにされているのでしょう」と語っている。", "title": "皇子" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "女官制度の廃止など宮廷改革を進めた長男の昭和天皇に反発し、自身の大宮御所では旧態依然とした宮廷制度を維持した。とはいえ決して昭和天皇との母子関係は悪くなく、「皇居内で見かけた鳥の名前について子供染みた我の張り合いをした」というエピソードもある。また第二次世界大戦時においては、戦況の悪化の中でも疎開を拒む母皇太后を気遣ったことが、昭和天皇が最後まで東京を離れなかった一因ともされる。", "title": "皇子" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "しかし「貞明皇后の愛情は、次男の秩父宮に傾きがちであった」と囁かれる。貞明皇后と秩父宮の誕生日は同一日(6月25日)であり、そのことから「皇后は強い縁を感じていた」とも言われる。上記の雍仁親王の婚姻に関しても、「妃に幕末維新で朝敵とされた松平容保の孫である勢津子(せつこ、旧名:節子、読み同じ)を強く推薦したのは貞明皇后で、勢津子との婚姻が成立したのも皇后の意向が大きく働いた結果であった」と言われる。", "title": "皇子" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "生涯にわたって数多くの和歌 を著し、また夫・大正天皇の影響もあり、漢詩にも取り組んだ。ハンナ・リデルのハンセン病病院回春病院を援助していたが、後にハンセン病全体に関心を持ち、らい予防協会ができ、皇后の没後寄贈された基金をもとに「藤楓協会」というハンセン病援護団体の設立となった。", "title": "逸話" } ]
貞明皇后は、日本の第123代天皇・大正天皇の皇后。諱は節子(さだこ)。お印は藤。旧名は、九条 節子。 昭和天皇の母。元華族。公爵・九条道孝令嬢。ハンセン病の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業(絹糸)奨励などに尽力した。一夫一妻制での最初の皇后。藤原氏から立后した最後の例である。
{{基礎情報 皇后 |名 = 貞明皇后 |立后根拠 = 第123代天皇后 |画像= Empress Sadako-big-1912.jpg |画像サイズ = 230px |画像説明 = [[1912年]](大正元年)撮影 |在位期間 = [[1912年]][[7月30日]] - [[1926年]][[12月25日]] |和暦在位期間 = 明治45年/大正元年7月30日 - 大正15年/昭和元年12月25日 |出生日 = [[1884年]][[6月25日]] |生地 = {{JPN}}・[[東京府]][[神田区]][[神田錦町]]<br>(現:[[東京都]][[千代田区]]神田錦町)<br>九条殿 |死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1884|6|25|1951|5|17}} |没地 = {{JPN}}・東京都[[港区 (東京都)|港区]][[元赤坂]] [[大宮御所]] |結婚 = 1900年([[明治]]33年)5月10日 |皇后 = 1912年([[大正]]元年)7月30日 |皇太后 = 1926年([[昭和]]元年)12月25日 |大喪儀 = 1951年(昭和26年)6月22日 |埋葬日 = 1951年(昭和26年)6月22日 |陵所 = {{JPN}}・東京都[[南多摩郡]][[横山村 (東京都)|横山村]]<br>(現:東京都[[八王子市]][[長房町]])<br>[[武蔵陵墓地|多摩東陵]] |身位 = [[皇太子妃]]→[[皇后]]→[[皇太后]] |地位 = |敬称 = [[陛下]] |諱 = 節子(さだこ) |命名年月日 = |氏族 = [[九条家]]([[藤原氏]]) |旧名 = 九条節子 |追号 = 貞明皇后<br/>1951年(昭和26年)6月8日<br>追号勅定 |異称 = |戒名 = |幼称 = |印 = [[フジ (植物)|藤]] |父親 = [[九条道孝]] |母親 = [[野間幾子]] |配偶者1 = [[大正天皇]] |子女 = 迪宮裕仁親王([[昭和天皇]])<br/>淳宮雍仁親王([[秩父宮雍仁親王]])<br/>光宮宣仁親王([[高松宮宣仁親王]])<br/>澄宮崇仁親王([[三笠宮崇仁親王]]) |養子女 = |皇居 = |宮廷首脳人物 = |宮廷首脳人物2 = |空欄表題1 = |空欄記載1 = |栄典 = |役職 = |親署 = |脚注 = }} '''貞明皇后'''(ていめいこうごう、[[1884年]]〈[[明治]]17年〉[[6月25日]] - [[1951年]]〈[[昭和]]26年〉[[5月17日]])は、[[日本]]の第123代[[天皇]]・[[大正天皇]]の[[皇后]](在位:[[1912年]]〈明治45年/[[大正]]元年〉[[7月30日]] - 1926年〈大正15年/[[昭和]]元年〉12月25日)。[[諱]]は'''節子'''(さだこ)。[[お印]]は'''[[フジ (植物)|藤]]'''。旧名は、'''九条 節子'''(くじょう さだこ)。 [[昭和天皇]]の母。元[[華族]]。[[公爵]]・[[九条道孝]]令嬢。[[ハンセン病]]の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業([[絹]]糸)奨励などに尽力した。[[一夫一妻制]]での最初の皇后。[[藤原氏]]から立后した最後の例である。 == 生涯 == === 生い立ち=== [[1884年]]([[明治]]17年)[[6月25日]]、[[公爵]][[九条道孝]]の四女として、生母の[[野間幾子]]の実家である[[東京府]]神田錦町(現:[[東京都]][[千代田区]][[神田錦町]])に誕生。道孝は明治4年(1871年)に[[正室]]和子を亡くしており、幾子は道孝の[[側室]]だった。 同年7月、[[東京府]][[東多摩郡]][[高円寺村]](現:[[杉並区]])近郊の[[農業|豪農]]である大河原金蔵、てい夫妻に[[里子]]に出され、'''『九条の黒姫様』'''(くじょうのくろひめさま)と<ref>『歴代皇后125代総覧』412頁10行目</ref>呼ばれるほど逞しく育った。農家の風習の中で育ち、栗拾いやトンボ捕りをするなど裸足で遊んだ<ref>『歴代皇后125代総覧』413頁2行目。(新人物往来社)</ref>。 大河原家は[[高円寺]]地域の氏神である[[氷川神社]]の氏子であったが、大河原家の敷地内には[[稲荷神社]]の祠もあった<ref name="hara2017-146">[[#原 2017|原 2017]] p.146</ref>。また、養母のていは[[仏教]]への信仰心も篤く、早朝から観音経([[法華経]]の一部)を読経しており、節子もていと共に仏壇に手を合わせていた<ref name="hara2017-146"/>。 1888年(明治21年)には、赤坂福吉町の九条家に戻る。 === 皇太子妃候補として === 1890年(明治23年)9月1日、華族女学校(後の[[女子学習院]])初等小学科に入学し、1893年(明治26年)には高等小学科に進学する。さらに1896年(明治28年)には初等中学科に進学する。華族女学校では[[下田歌子]]、[[石井筆子]]、[[津田梅子]]らに師事した。中でも、石井筆子との師弟関係の絆は強く、公私の交際は生涯に亘って続いた。 当初、'''[[皇太子]][[大正天皇|嘉仁親王]]'''(後の'''大正天皇''')の妃として[[伏見宮貞愛親王]]の長女である[[山内禎子|禎子女王]]が挙げられていた。1893年(明治26年)5月に皇太子妃に内定し、1896年(明治29年)には[[明治天皇]]と[[昭憲皇太后|皇后美子]]とも対面していた<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.136</ref>。禎子女王は外見が色白で美しかったが、西欧列強と並び立つために[[キリスト教]]文化圏の[[一夫一妻制]]を導入する必要性がある中、健康面を不安視され{{efn|明治天皇の后[[昭憲皇太后]](一条美子)には子が無く、[[明治天皇]]もその他の[[側室]]との間に、男子が[[大正天皇|皇太子嘉仁親王]]以外いない状況であった。その嘉仁親王も、幼少期から健康状態が不安定だった。なお、禎子女王は[[山内豊景]]侯爵に降嫁したが、子は無い。}}1899年(明治32年)3月に、婚約は解消された。 九条節子は、正室の子でないことや、明治天皇が皇族からの東宮妃を強く望んでいたこと、更には政府上層部でも節子に否定的な意見が多かった。最終的には消去法にて、色黒すなわち容姿端麗ではないことよりも、先述の通り『黒姫』と呼ばれるほどに健康であることが重視され、1899年(明治32年)8月21日に婚約が内定した。「容姿端麗ではない」とされた節子以外の女性に皇太子が興味を持たぬよう、皇太子は節子を含めた女性との接触を制限された<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.141-143</ref>。また、大河原家にあった幼少期の写真は没収された<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.145</ref>。 === 皇太子妃時代 === {{Double image aside|right|Emperor Taisho of Japan.jpg|160|Sadako Kujo wedding.jpg|160|結婚の儀に臨む皇太子嘉仁親王(当時)と節子<br/>([[1900年]]撮影)}} [[1900年]](明治33年)[[2月11日]]、満15歳([[数え年]]17歳)で、5歳年上の[[皇太子]]嘉仁親王と婚約。同年[[5月10日]]、宮中の賢所に於いて、賢所大前の儀を執り行った。これは、前4月に制定された[[:s:皇室婚嫁令|皇室婚嫁令]]に基づく、史上初の神前挙式であった<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.132-133</ref>。節子は、和装と洋装を計5回着替え、[[明治天皇]]と[[昭憲皇太后|皇后美子]]への拝礼を含む多くの行事をこなした。 婚儀は従来の公家様式に代わる、新たな様式であり<ref name="sumitomo2014-68">[[#住友 2014|住友 2014]] p.68</ref>、婚礼の儀式や行事は、当時の最新マスメディアである[[新聞]]によって詳報され、一般市民の関心を集めた。そこで、翌[[1901年]](明治34年)[[礼法講習会]]{{efn|[[華族女学校]]校長の[[細川潤次郎]]、同校教師の[[下田歌子]]が関与する、[[東京大神宮|日比谷大神宮]]の内部機関<ref name="sumitomo2014-68"/>。}}が[[東京大神宮|日比谷大神宮]]で二人の婚礼を模して[[結婚式|神前結婚式]]を創始し、以後、ホテル結婚式・披露宴とともに日本社会に広く普及していった<ref name="sumitomo2014-68"/>。 結婚式の日の様子として、[[ドイツ帝国]]からの”[[お雇い外国人]]”である[[エルヴィン・フォン・ベルツ]]は「東宮はお元気な様子、妃は大変お美しい」と評した。一方、節子の恩師である下田歌子は、「これという取り柄が無いが、未来の国母としてわずかな欠点も無い方」という主旨の評価を新聞に寄せた<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.135</ref>。 同年5月23日から6月7日にかけて皇太子同妃は、[[伊勢神宮|伊勢の神宮]]や[[神武天皇]]陵への奉告を含め、[[東海]]~[[近畿地方]]を旅行した{{efn|実質的な[[新婚旅行]]として皇室ゆかりの地を訪問する習慣は、[[昭和天皇]]、上皇([[明仁]])、今上天皇([[徳仁]])をはじめ、天皇及び皇族に定着した。}}。 還御した嘉仁親王と皇太子妃節子は、それぞれ別に[[国学]]、[[漢学]]、[[フランス語]]等の教育を受けた<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.150</ref>。成婚当時は教育係の老女官・[[万里小路幸子]]らに宮中における礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したという。後年には万里小路の指導が自分の素養に大きく役立ったと感謝していた<ref>『歴代皇后125代総覧』の413頁</ref>。当時は、皇太子は後の時代よりはるかに自由に行動できており、嘉仁親王は単独で代々木の練兵場や葉山、大磯などへ赴いた<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.150-151</ref>。特に大磯と日光には[[鍋島直大]][[侯爵]]の別邸があり、イタリア生まれで雑誌グラビアでも頻繁に取り上げられた[[梨本伊都子|鍋島伊都子]]([[梨本宮守正王]]と婚約中)と頻繁に会い、親しく交友していた<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.151-158</ref>。 成婚後すぐに懐妊したため、[[宮中祭祀]]等には出られなかった<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.161-162</ref>。[[20世紀]]の最初の年である[[1901年]](明治34年)[[4月29日]]、満16歳([[数え年]]18歳)で、第一皇男子(第一子)の'''[[昭和天皇|迪宮裕仁親王]]'''(のちの'''昭和天皇''')を出産した。しかし、このとき皇太子は葉山に滞在しており、4日後の5月3日になって義母の皇后美子が内孫と対面するのに合わせて帰京した<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.163</ref>。迪宮は生後70日の[[7月7日]]に、[[川村純義]][[伯爵]]([[海軍中将]])に預けられた。 嘉仁親王は地方行啓や、御用邸への滞在で不在がちであった。節子妃は孤独の中で第二子を懐妊し、精神的にも深く落ち込んだ<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.164</ref>。この頃、下田歌子が[[神功皇后]]の故事にちなんで、節子妃を励ました<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.164-168</ref>。[[1902年]](明治35年)[[6月25日]]、節子の満18歳(数え年19歳)の誕生日に、第二皇男子(第二子)'''[[秩父宮雍仁親王|淳宮雍仁親王]]'''(のちの'''[[秩父宮]]''')を出産した。しかし、嘉仁親王は葉山に滞在して不在であり、7月22日に東宮仮御所に戻った<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.168</ref>。節子妃と淳宮の母子は、葉山で過ごしたのち、淳宮は兄迪宮と同様に川村伯爵に預けられた。 成婚当初、皇太子と同妃節子が揃って過ごす機会は少なかった。[[1903年]](明治36年)[[5月26日]]から[[6月10日]]にかけ、[[内国勧業博覧会#第五回内国勧業博覧会|第五回内国勧業博覧会]]への台覧のため、皇太子同妃は[[大阪]]へ行啓した<ref name="hara2017-170">[[#原 2017|原 2017]] p.170</ref>。明治天皇と皇后が別々に行動したのに比し、皇太子同妃はそろって博覧会を台覧し、また嘉仁親王が馬車の上下車の際に同妃節子の手を取ってエスコートする等、西洋式近代社会において一夫一妻の良きモデル像となりつつあった<ref name="hara2017-170"/>。 [[File:Children of Yoshihito (嘉仁), the Crown Prince of Japan c.1906.jpg|thumb|200px|自身が出産した3人の息子たち。<br>左から、長男の迪宮裕仁親王(昭和天皇)、三男の[[光宮宣仁親王]](高松宮)、次男の[[淳宮雍仁親王]](秩父宮)<br>([[1906年]]頃撮影)<br>欧米の上流階級では、幼少期の男子にも女子の服装を着させて養育させる習慣があった事から、皇室でもそれを取り入れることになった。]] [[File:Togu-Gosho 0025 1.jpg|thumb|200px|完成当初の[[東宮御所]](現在の[[赤坂迎賓館]])<br/>([[1909年]]3月撮影)]] 帰京後の8月10日に第三子を懐妊するが、同月25日に流産した<ref name="hara2017-174">[[#原 2017|原 2017]] p.174</ref>。翌年に再び懐妊し、[[1905年]](明治38年)[[1月3日]]に第三皇男子(第三子)'''[[高松宮宣仁親王|光宮宣仁親王]]'''(のちの'''[[高松宮]]''')を出産した。前年に川村伯爵が死去しており、迪宮と淳宮は沼津御用邸に移っていた。[[3月22日]]、皇太子妃節子は光宮とともに沼津に行啓し、3人の子供たちとの時間を持つことができた。光宮はそのまま沼津に、迪宮と淳宮は青山の東宮仮御所に隣接する皇孫仮御所に移った。皇太子妃節子は、別離の悲しみを和歌に残している。 [[エルヴィン・フォン・ベルツ|ベルツ]]は、帰国前の1905年(明治38年)の様子として、親子が同居していると誤解しているものの、皇太子妃節子が成婚以前の快活な様子を取り戻したことや、家庭を持った皇太子にも良い影響があったと記している。週に数日とは言え、家族の時間を持てるようになったことは夫妻にとって喜ばしい一方、やがて皇太子妃節子は第一皇子の迪宮よりも、第二皇子の淳宮に対する愛情を深めていった。 [[1907年]](明治40年)10月、皇太子妃節子が長年師事した[[下田歌子]](学習院教授兼女学部長)が、同年1月より学習院院長となっていた[[乃木希典]]と対立して退職した<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.189</ref>。翌[[1908年]](明治41年)4月からは迪宮が、翌年からは淳宮が学習院に入学した。 [[1909年]](明治42年)[[5月29日]]、皇太子同妃は[[横須賀市|横須賀]]に行啓し、[[敷島 (戦艦)|戦艦敷島]]に乗艦して海軍の演習を台覧した<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.184</ref>。軍事演習を台覧するのは皇太子妃節子にとって初めての経験であり、関連する和歌を33首も残すほど強い印象を受けた<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.185</ref>。同年には、御成婚祝の新居として建設された[[迎賓館|東宮御所]](赤坂離宮)が完成するが、皇太子同妃の二人には広大すぎることや、子供たちとの距離が遠くなることから、皇太子同妃が暮らすことは無かった<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.193</ref>。 翌[[1910年]](明治43年)頃になると、再び皇太子妃節子は精神的に落ち込んだことを示唆する和歌を遺すようになる<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.193-194</ref>。体重が減少した皇太子妃節子を心配した皇后が[[浜離宮恩賜庭園|浜離宮]]や[[葉山]]へ誘った<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.194</ref>。翌[[1911年]](明治44年)[[1月27日]]には、姉の[[大谷籌子]]([[西本願寺]][[法主]]・[[大谷光瑞]]夫人)が早世し、深い悲しみを受ける。籌子の葬儀から5日後の[[2月7日]]から葉山御用邸に滞在し、[[3月27日]]に発熱、[[3月31日]]に[[腸チフス]]の診断を受けた<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.198-199</ref>。[[4月4日]]以降、回復傾向と伝えられ、[[7月1日]]に全快した<ref name="hara2017-199">[[#原 2017|原 2017]] p.199</ref>。長期の静養の間、皇太子や迪宮が葉山を直接見舞うことは無く<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.200-201</ref>、また皇后は自ら賢所で祈願した[[米]](賢所御供米)を贈った<ref name="hara2017-199"/>。 === 皇后時代 === [[ファイル:Empress Teimei at enthronement in 1912.jpg|200px|thumb|1912年、即位に際し撮影]] [[1912年]](明治45年・大正元年)[[7月30日]]、義父・[[明治天皇]]の[[崩御]]に伴う、夫・[[大正天皇|嘉仁親王]]の[[皇位継承]]([[践祚]])により皇后となる。3年後の1915年([[大正]]4年)11月10日に[[京都御所]]にて[[即位の礼|御大典]]が行なわれたが、皇后は第4子(澄宮、のち[[三笠宮崇仁親王|三笠宮]])を懐妊中のため欠席した。 [[1915年]](大正4年)[[12月2日]]、第四皇男子(第四子/末子)'''[[三笠宮崇仁親王|澄宮崇仁親王]]'''(のちの'''[[三笠宮]]''')を出産。 翌[[1916年]](大正5年)春、神武天皇二千五百年山稜式年祭に合わせて天皇と共に関西に行幸啓し、一部別行動をとった<ref>大正5年宮内省告示第3号(『官報』第1090号、大正5年3月23日)({{国立国会図書館デジタルコレクション|2953200/1/1|format=NDLJP}})</ref>。[[3月29日]]に皇后は東京を発ち、名古屋を経て{{efn|この際利用した8号御料車は解体され、一部が[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]に現存する<ref name="hara2017-239"/>。}}、[[4月1日]]に[[伊勢神宮|伊勢の神宮]]を[[平安装束]]で参拝した<ref name="hara2017-239">[[#原 2017|原 2017]] p.239</ref>。皇后の[[天照大神]]への傾倒ぶりを示すように、新婚の15年前とは参拝の方法が全く異なっていた<ref name="hara2017-239"/>。翌2日、[[春日大社]]を参拝後、京都で天皇と合流した<ref name="hara2017-239"/>。翌3日は夫妻で神武天皇陵を拝礼し、4日は[[正倉院]]及び[[奈良国立博物館|奈良帝室博物館]]を行幸啓し、その後、単独で[[奈良女子大学|奈良高等女子師範学校]]に行啓した<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.239-240</ref>。皇后は正倉院で、[[光明皇后]]に対する関心を深めた<ref name="hara2017-240">[[#原 2017|原 2017]] p.240</ref>。4月5日、皇后は単独で京都を訪問した<ref name="hara2017-240"/>。少女期以来の訪問となる京都御所では、昨年の即位礼のごとくかがり火がたかれ、[[大嘗祭]]のまま保存されていた各殿舎に拝礼し、大嘗祭を追体験した<ref name="hara2017-241">[[#原 2017|原 2017]] p.241</ref>。翌4月6日は、明治天皇陵及び昭憲皇太后陵への参拝後、九条家の菩提寺[[東福寺]]に行啓した<ref name="hara2017-241"/>。東福寺では、妹[[大谷紝子]]([[大谷光明]]夫人)や九条篷子([[渋谷隆教]][[男爵]]夫人)、義妹[[九条武子]]([[九条良致]]夫人)ら九条家及び京都仏教ゆかりの人々と面会した<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.241-242</ref>。4月7日は[[紫宸殿]]で[[高御座]]・[[御帳台]]を見学後、関西行啓中の[[裕仁親王]]と会い、さらに翌4月8日は[[石清水八幡宮]]を参拝後、皇后の希望で[[二条城]]へ行啓した<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.242-243</ref>。4月9日、名古屋の[[熱田神宮]]を経由して帰京<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.243</ref>。 その後も、たびたび天皇の行幸に同行した。[[昭憲皇太后]]の後継者として、蚕糸・絹業を奨励し、自身も[[養蚕]]([[皇后御親蚕]])に取り組んだ。養蚕業に関心を持ち続け、1917年(大正6年)及び1920年(大正9年)に関東近郊の紡績工場を訪問している<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.268</ref>。灯台守を支援したことでも知られる。皇室や神道祭祀のしきたりや伝統を大切にした一方で、[[野口幽香]]、[[後閑菊野]]など近代女子教育の研究家を相談相手に宮中に招いた<ref>『官報』第1903号「宮廷録事」、大正7年12月6日({{国立国会図書館デジタルコレクション|2954017/1/3|format=NDLJP}})</ref>。 [[日本赤十字社]]により、[[1920年]](大正9年)7月に第1次[[ポーランド]]孤児救済が、[[1922年]](大正11年)8月に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われた。この活動によって約800名のポーランド孤児が祖国への帰還を果たした。皇后は4回、見舞金を下賜している。また実際に、単独公務として日本国内の施設に収容されたポーランド孤児たちを慰問するなどもした。 華族女学校時代の恩師である[[石井筆子]]と、その夫の[[石井亮一]]が経営する[[滝乃川学園]](日本最初の知的障害者施設)を物心両面から支援し、それは生涯にわたって続いた。[[1921年]](大正10年)に、滝乃川学園が園児の失火から火災を起こし、施設が焼失し、園児にも死者が出たことから、事業の継続を一時断念した石井夫妻に、内旨と下賜金を贈り、再起を促したのも皇后の尽力であった。そのため、学園では、創立者の石井亮一・筆子夫妻、理事長の渋沢栄一に加え、貞明皇后を「学園中興の母」として語り継ぎ、今なお崇敬している。 やがて大正天皇の体調悪化が顕著となり、1919年(大正8年)秋には自ら[[新嘗祭]]を執り行えない事態となった<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.263</ref>。翌1920年(大正9年)春から、政府は天皇の体調不良を公表するようになる<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.267</ref>。 一方、皇后は救癩事業([[ハンセン病]])に使命感を抱くようになり、沼津御用邸へ赴く途上、ハンセン病療養施設「神山復生病院」があることに気付くと、翌1921年(大正10年)に下賜金を与えて活動を支援した<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.267-268</ref>。[[皇太子裕仁親王の欧州訪問]]については当初反対の立場で、[[下田歌子]]を通じ霊能者と称する[[飯野吉三郎]]の「霊旨」にも影響されていたが、やがて容認に傾いた<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.270</ref>。[[原敬]]首相は、皇后の反対理由が天皇の体調問題にあると見抜き、皇后から「政事に干渉せざる積なり」との譲歩を引き出して皇太子洋行を実現させた<ref name="hara2017-271">[[#原 2017|原 2017]] p.271</ref>。皇后は[[神功皇后]]に縁深い[[香椎宮]](福岡)や[[住吉大社]]([[大阪]])に使者を派遣し、皇太子の無事を祈願した<ref name="hara2017-271"/>。皇太子が帰国後、[[後宮]]改革に着手しようとすると、一夫一妻制を推進していたはずの皇后は難色を示した<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.277</ref>。 === 大正天皇の療養、皇后単独での活動 === {{seealso|貞明皇后の九州行啓}} [[ファイル:HIM Empress Tenmei's personal visit.jpg|200px|thumb|[[関東大震災]]の被災者を慰問<br>1923年(大正12年)9月15日]] [[ファイル:Empress Sadako with Prince of Wales in 1922.jpg|200px|thumb|[[1922年]](大正11年)、[[イギリス]]の[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード王太子]](後の国王エドワード8世)の訪日時、[[摂政]]裕仁親王(後の昭和天皇)とともに]] [[1921年]](大正10年)11月25日、大正天皇の「久シキニ亘ル疾患」を理由に、皇太子裕仁親王が満20歳([[数え年]]21歳)で[[摂政]]に就任した<ref name="kanpo19211125-gogai">大正10年11月25日「[[詔書]]」、大正10年11月25日官報号外({{国立国会図書館デジタルコレクション|2954911/1/16|format=NDLJP}})</ref>。大正天皇は実権を喪失した。 この摂政就任に際し、その正当性の強調のため大正天皇は幼少期の病に起因した「御脳力の衰退」等の病状があることが公表された<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.279</ref>が、天皇自身はまだ言葉や判断力も明晰で、葉山御用邸近傍に行幸することも可能だった<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.282-283</ref>。侍従の間では、在位を続けるべき派と、引退して療養に専念すべき派で対立が続いていた<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.283</ref>。 こうした中、[[1922年]](大正11年)3月、貞明皇后は大正天皇の快癒祈願のため、[[福岡県]]への行啓を行った<ref>大正11年宮内省告示第7号(『官報』第2873号、大正11年3月3日)({{国立国会図書館デジタルコレクション|2954989/1/2|format=NDLJP}})</ref>。皇后の九州行啓は、[[神功皇后]]以来とされた一方、天皇が重態と推測されることから盛大な奉迎は見送る世相であった<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.287-288</ref>。しかし、最終的には主目的の[[香椎宮]]の他、福岡県内の神社や公的機関、経路上の[[厳島神社]]([[広島県]])や[[住吉大社]]([[大阪府]])が追加され、さらに皇后の希望で[[海軍兵学校]]在学中の第3皇子[[高松宮宣仁親王]]との面会も設けられ、皇后単独としては異例の大規模な行啓となった<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.289</ref>。こうして3月21日、香椎宮で皇后が計20分に及ぶ長い祈りを神功皇后に捧げたのと同日、宮中では皇太子裕仁親王により春季[[皇霊祭]]が執り行われていた<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.291-292</ref>。 [[1923年]](大正12年)[[9月1日]]の[[関東大震災]]発生当時、天皇・皇后は[[日光田母沢御用邸]]に滞在中だった。皇后は天皇に代わる政治的主体として動き、9月13日に「宮内省巡回救療班」を設置し、計8万枚配布したビラには、皇后の御心に由来するメッセージが記されていた<ref>[[#原 2017|原 2017]] p343-344</ref>。第2皇子秩父宮雍仁親王は直ちに帰京し、9月3日に被災地を巡回したが、摂政宮皇太子は事態対応に追われ、巡回できたのは15日になってからだった<ref>[[#原 2017|原 2017]] p344-345</ref>。政府が[[帝都復興院]]を設置したのは9月27日だった。皇后は9月29日に帰京すると、[[三井記念病院|泉橋慈善病院]]を訪問し、翌30日には[[日本赤十字社医療センター|日本赤十字社病院]]を皮切りに、病院や罹災者収容施設を多数訪問した<ref>[[#原 2017|原 2017]] p346</ref>。一度、日光に戻るが、10月15日に天皇と共に帰京後も精力的に被災地訪問を続けた<ref name="hara2017-347">[[#原 2017|原 2017]] p.347</ref>{{efn|大規模災害に際し、まず皇室がメッセージを発信し、その後実際に被災地を訪問するというプロセスは、現代も続いているが、天皇の権威が強い大正期の方が「皇后単独で」活躍する余地が大きかった<ref name="hara2017-347"/>。}}。 震災により皇太子の[[香淳皇后|良子女王]]との結婚は延期されたが、この結婚について皇后は皇太子に新嘗祭を「御親祭の後式事御挙行の事」と天皇同様に行う条件をつけていた<ref name="hara2017-348">[[#原 2017|原 2017]] p.348</ref>。皇太子は[[台湾行啓]]から戻った春以降、半年余りにわたって準備と練習を重ね、無事に執り行うことができた<ref>[[#原 2017|原 2017]] p349-350</ref>。震災以来規模を縮小していた宮中祭祀は、この新嘗祭から通常規模に戻された<ref name="hara2017-348"/>。また、皇后は深夜まで起きて儀式の無事を気にかけ、この夜だけで44首の和歌を詠んだ<ref>[[#原 2017|原 2017]] p349</ref>。さらに年末[[12月27日]]、[[虎ノ門事件]]に際しては、皇太子の無事を「神の守り」と感謝する和歌を詠んでいる<ref>[[#原 2017|原 2017]] p350</ref>。 [[1924年]](大正13年)2月から5月にかけて、かねてから尊敬していた[[筧克彦]]東京帝国大学教授から「神ながらの道」の進講を受ける<ref name=":0">西田彰一「筧克彦の皇族論について」2016年、[[立命館大学]]人文科学研究所紀要</ref>、皇后はますます筧の教説に深く傾倒し、筧から学ぶ楽しみを「しきしまのやまとの国をつらぬけるまことの道にすゝむたのしさ」と歌っている<ref name=":0" />。宮中に筧の考案した皇国体操(やまとばたらき)を広め、筧にならって「[[万歳]]」ではなく「[[弥栄]]」を使用するようになった<ref name=":0" />。なお、[[宮内省]]総務課長、[[皇太后]]宮事務主管の[[筧素彦]]は筧克彦の息子である。 1924年(大正13年)秋、皇后は再び単独で関西を行啓した<ref>大正13年宮内省告示第40号(『官報』第3676号、大正13年11月22日)({{国立国会図書館デジタルコレクション|2955824|format=NDLJP}})</ref>。陵墓や社寺を訪問する中、12月7日には[[京都御所]]で[[袿袴]]を着用し和歌の披講会を催した他、雅楽や蹴鞠を観賞している<ref>[[#原 2017|原 2017]] p376-377</ref>。 [[1926年]](大正15年)8月、天皇の体調悪化は顕著で、天皇・皇后は葉山に滞在する。同年10月21日、[[詔書]]が発され[[長慶天皇]]が歴代天皇に加えられた<ref>大正15年[[詔書]](『官報』号外、大正15年10月21日)({{国立国会図書館デジタルコレクション|2956399/1/18|format=NDLJP}})</ref>が、神功皇后は見送られた。翌22日、宮中三殿で親告の儀が執り行われた<ref>大正15年宮内省告示第33号(『官報』号外、大正15年10月21日)({{国立国会図書館デジタルコレクション|2956399/1/43|format=NDLJP}})</ref>が、皇后は典侍[[正親町鐘子]]に代拝させた<ref name="hara2017-381">[[#原 2017|原 2017]] p.381</ref>。儀式と同日、貞明皇后は遺書を書いていた<ref name="hara2017-381"/>{{efn|崩御後に大宮御所で発見された<ref name="hara2017-381"/>。}}。高松宮はその内容について、[[筧克彦]]の書籍を秩父宮や[[三笠宮崇仁親王]]に形見分けすることや、周囲の人々への感謝が綴られていたとしている<ref name="hara2017-381"/>。 [[12月25日]]午前1時25分、皇后の看護や祈願も空しく、大正天皇が[[葉山御用邸]]で[[崩御]]<ref>『官報』号外「告示」、大正15年12月25日({{国立国会図書館デジタルコレクション|2956454/1/20|format=NDLJP}})</ref>。[[摂政]]を務めていた皇太子裕仁親王([[昭和天皇]])の[[皇位継承]]および皇太子妃良子([[香淳皇后]])の[[皇后#日本の皇后|立后]]に伴い[[皇太后]]となる。大正天皇の臨終の際には、妻の貞明皇后の意向で、生母の[[柳原愛子]]を傍に居させた。[[崇仁親王妃百合子|三笠宮妃百合子]]によれば、以後ずっと黒または紫の衣服しか着用しなくなった<ref name="hara2017-386">[[#原 2017|原 2017]] p386</ref>。 === 皇太后時代 === [[File:Empress Teimei official portrait 4 1949.jpg|thumb|180px|1949年撮影、満65歳頃]] [[1927年]](昭和2年)11月12日、皇太后は居所を[[青山東御所]]へ移す<ref>昭和2年宮内省告示第28号(『官報』第263号、昭和2年11月12日)({{国立国会図書館デジタルコレクション|2956723/1/3|format=NDLJP}})</ref>。さらに[[1930年]](昭和5年)5月1日、[[迎賓館|赤坂離宮]]青山御所内に新築された御殿が新たに「[[大宮御所]]」{{efn|これに伴い[[京都御所|京都皇宮]]内の大宮御所は「京都大宮御所」と改称された。}}として皇太后の居所となった<ref>昭和5年宮内省告示第21号(『官報』第998号、昭和5年5月1日)({{国立国会図書館デジタルコレクション|2957465|format=NDLJP}})</ref>。この大宮御所には[[皇太后宮]]大夫[[入江為守]]が描いた大和絵(大正天皇の遺影)が奉納された「御影殿(みえでん)」が造営され、毎日2回過ごすようになった<ref name="hara2017-386"/>。沼津御用邸にも「御日拝室」が設けられ、滞在中は同様に過ごした<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.388</ref>。大正天皇の崩御後、皇太后は日課の如く、朝食を終えると御影殿に向かい、その日の出来事や新聞のニュースなどを「'''生ける人に仕えるように'''」語られ、退出する時間はいつも午前11時半を回っていたという。 [[1931年]](昭和6年)、皇太后からの下賜金をもとに「'''癩予防協会'''」が設立された。彼女の誕生日の前後が「癩予防デー」となった。なお現在は「'''ハンセン病を正しく理解する週間'''」と改称されている。皇太后の経済支援により生活が救済された患者もいる一方、「予防」のためとして強制隔離が正当化された面も否めない。また一連の活動が皇太后の真意に関わらず「皇恩」「仁慈」として、その後も政治利用された側面もある<ref>片野真佐子『皇后の近代』、163 - 171頁。([[講談社選書メチエ]]、[[2003年]])</ref>。 終戦前、沼津の御用邸で過ごしていた貞明皇后と接触の深かった[[山本玄峰]]老師は[[田中清玄]]らに、「皇太后様は、戦争でこれ以上国民に苦しみを与えたくないと、いかい(=大変)心を痛めてござるわ」ともらしていた。 大戦末期、貞明皇后の[[大宮御所]]を[[軽井沢町|軽井沢]](旧[[末松謙澄]]別荘<ref>[https://karuizawa-news.org/bknum/130809-120.pdf 軽井沢ニュース2013年8月9日発行 第120号(5)]</ref>)へ移転させる案が浮上し、別荘の改修工事が急ピッチですすめられていた。1945年5月には東京の大宮御所が[[空襲]]により焼失し、同年7月には[[沼津御用邸]]も焼失。皇太后は直前まで天皇らとともに東京に残ることを望んだが、皇室内での直々の説得もあって最終的には軽井沢への[[疎開]]を了承した。しかし別荘の工事完成を目前にして終戦となり、その結果皇太后は終戦5日後から4ヶ月ほど軽井沢に疎開することになった<ref>高松宮宣仁親王(朝日新聞社, 1991年)419頁</ref><ref>[https://karuizawa-news.org/bknum/130712-119.pdf 軽井沢ニュース2013年7月12日発行 第119号(5)]</ref>。 皇太子明仁親王(現:[[上皇明仁|明仁上皇]])を含む九人の孫(昭和天皇の皇子女7人と三笠宮崇仁親王の子女2人)の成長を楽しみとし、孫からは「おばばさま」と慕われた。特に、[[甯子内親王]]と[[寬仁親王]]はたびたび御所に訪問したことから、一緒に[[羽根つき]]や[[ままごと]]遊びを付き合った<ref>「在りし日の御日常 不幸な人々に慈しみ 御霊まいりに明け暮れ」『朝日新聞』昭和26年(1951)5月18日1面</ref>。 [[1951年]](昭和26年)[[5月17日]]、[[狭心症]]により大宮御所で[[崩御]]。[[享年]]66。[[皇太子妃]]時代に[[腸チフス]]に罹った以外は特に大病に罹らず健康であり、この日も恒例の勤労奉仕団への会釈(挨拶)を行う予定だったが、その準備をしている時に狭心症の発作が起き、そのまま崩御した。なお当日、[[昭和天皇]]は学者たちより進講を受けており、あまりにも突然の母宮の訃報を聞きしばらく言葉が無かった。 === 大喪の儀 === [[ファイル:Funeral of Empress Teimei.JPG|thumb|200px|1951年(昭和26年)6月の貞明皇后大喪]] [[1951年]](昭和26年)[[6月7日]]に「'''貞明皇后'''(ていめいこうごう)」と追号され([[昭和天皇]]勅定)、宮内庁長官より同年6月9日に官報告示が執り行われた<ref>{{Cite web2|url= https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2963873/18?tocOpened=1|title= 官報 |language= 日本語 |format=HTML|page=18|publisher=[[国立国会図書館]] |date= 1951-06-09 |accessdate= 2019-12-11 }}</ref>。「貞明」の出典は、『[[易経]]』の一文「日月之道、'''貞明'''者也」(日月の道はただしくして明らかなり)から採られた。 「[[大喪儀|大喪の儀]]」は[[6月22日]]に行われ、長男の昭和天皇は以下の誄辞(るいじ、追悼の言葉)を述べている。 {{Quotation|「裕仁」敬みて、皇妣(母)の霊前に白す、皇考(父・先帝)の喪を服してより二十有五年、慈恩を仰き奉養に勉め楽を尽すの一日も長からむことを願へるに俄に大故に遭ふ、驚愕悲痛追慕止むなし、親(櫬)殿に殯宮に親祭すること三十余日、茲に礼を具へ儀を挙け将に多摩皇考山陵の次に斂葬せむとす、霊車停め難く幽明永へに違ふ嗚呼哀しいかな |昭和26年6月22日「大喪の儀」にて }} 御陵は[[武蔵陵墓地|多摩東陵]](たまのひがしのみささぎ)。歴代皇后の中で、初めて[[関東地方|関東]]の地に御陵が造営された。 [[日本国憲法]]と現行の[[皇室典範]]に基づき葬られた最初の皇后である。戦後の新皇室典範では皇族の葬儀の規定が設けられていないこと、また当時は[[連合国軍占領下の日本|連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による占領下]]であることから[[国葬]]とすることが憚られる状況にあった<ref>「葬儀の方法 宮内庁で協議」『朝日新聞』昭和26年5月18日1面</ref>。このため、国葬の有無を明確にしないまま「事実上の国葬」として扱われ、一連の大喪儀の儀式が行われた<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.kunaicho.go.jp/about/seido/seido10.html |title=ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 |publisher=宮内庁ホームページ |accessdate=2020-03-25}}</ref>。 翌[[1952年]](昭和27年)1月1日付で、皇太后宮職が廃止された<ref>昭和26年法律第317号(『官報』第7488号、昭和21年12月22日)({{国立国会図書館デジタルコレクション|2964041/1/1|format=NDLJP}})</ref>ことにより、日本の[[後宮]]制度は終焉を迎えた。 == 年譜 == *[[1884年]]([[明治]]17年)[[6月25日]]、[[東京府]][[神田区]][[神田錦町]](現:[[東京都]][[千代田区]]神田錦町)九条殿にて誕生。 *[[1890年]](明治23年)9月、[[学習院女子中・高等科|華族女学校]]初等小学科入学。 *[[1893年]](明治26年)9月、華族女学校高等小学科入学。 *[[1896年]](明治28年)9月、華族女学校初等中学科入学。 *[[1900年]](明治33年)[[2月11日]]、[[皇太子]][[大正天皇|嘉仁親王]]と婚約、[[皇太子妃]]冊立。 *[[1912年]]([[大正]]元年)[[7月30日]]、皇太子嘉仁親王の[[践祚]]に伴い立后、[[皇后]]冊立。 *[[1926年]]([[昭和]]元年)12月25日、大正天皇崩御及び皇太子裕仁親王の践祚に伴い、[[皇太后]]冊立。 *[[1951年]](昭和26年)[[5月17日]]、崩御。享年66。 == 栄典 == * [[1900年]](明治33年)[[5月9日]] - [[宝冠章|勲一等宝冠章]]<ref>『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。</ref> == 家系 == [[ファイル:Empress Teimei and Crown Prince Akihito.JPG|thumb|200px|1949年(昭和24年)、[[上皇明仁|明仁親王]](当時16歳)とともに]] 父親は[[九条道孝]]。[[孝明天皇]]の[[女御]]である[[英照皇太后]]は伯母(父の姉)にあたる。 母の野間幾子(1849-1946、[[二条家]]家臣野間頼興娘、京都生まれ)は15歳で九条家に仕え、道孝の側室として、[[九条道実]]、[[菊麿王妃範子]]、[[大谷籌子]]、節子(貞明皇后)をもうけた<ref>『貞明皇后』主婦の友社, 1971、p35 </ref><ref>産経新聞連載 川瀬弘至「朝けの空に−貞明皇后の66年」第2回</ref>。のちに中川局と呼ばれ、晩年は仏号を浄操院とした<ref>『歴代皇后人物系譜総覧』新人物往来社, 2002、p280</ref>。 姉・[[菊麿王妃範子|範子]]は[[山階宮菊麿王]]の妃。同母姉・[[大谷籌子|籌子]]は[[西本願寺]]門主・[[大谷光瑞]]の妻。異母弟・九条良致の妻は歌人として著名な[[九条武子]]である。 [[明治天皇]]とは義理の従兄妹でもある。 なお、貞明皇后を通して現在の[[皇室]]は[[織田氏]]、[[浅井氏]]、[[豊臣氏]]、[[徳川氏]]、[[石田三成]]の血を受け継いでいる([[崇源院#系譜]]、[[石田三成#子女]]参照)。 ==皇子== 夫の[[大正天皇]]との間に、4人の皇男子を儲けた。皇女子はなかった。現行の皇室典範が施行された後の[[1947年]](昭和22年)[[10月14日]]に[[GHQ]]の指令によって[[伏見宮]][[旧皇族|系の皇族と宮家]]が[[皇籍離脱]]した際、昭和天皇と弟宮の三男子及び各妃とその子女が皇室に留まった。大正天皇・貞明皇后夫妻は、[[2022年]]([[令和]]4年)1月時点における'''[[皇室典範]]の定めるところによる[[皇室]]構成員の中で生まれながらの[[皇族]]であるもの者([[徳仁]]・[[明仁]]・全ての[[親王]]・[[内親王]]・[[女王 (皇族)|女王]])'''の[[最近共通祖先]]となっている。先述の通り、次男の淳宮雍仁親王出産後の1903年(明治36年)夏に流産している<ref name="hara2017-174"/>。 {| class="wikitable" style="font-size:95%" ! ![[御称号]]及び[[諱]]・[[身位]] !読み !生年月日 !没年月日 ![[続柄]] !備考 |- | [[ファイル:Emperor Showa 1956-11-face.jpg|75px]] | style="white-space:nowrap;text-align:center"|迪宮裕仁親王 |みちのみや ひろひと | {{Nowrap|[[1901年]]〈明治34年〉}}<br />[[4月29日]] |[[1989年]]〈昭和64年〉<br />[[1月7日]](満87歳没) | style="white-space:nowrap;text-align:left;background-color:#ADD8E6"|第一皇男子<br />(第1子) |[[香淳皇后|良子女王]]([[久邇宮]]家)と結婚(→[[香淳皇后]])。<br>[[摂政]]:[[1921年]](大正10年)[[11月25日]]<br> – [[1926年]](大正15年)[[12月25日]]<br>'''[[昭和天皇]]'''(第124代天皇)<br>子女:[[昭和天皇#皇子女|2男5女(7人)]]。 |- | [[ファイル:Chichibunomiya Yasuhito.jpg|75px]] | style="white-space:nowrap;text-align:center"|淳宮雍仁親王 |あつのみや やすひと |[[1902年]]〈明治35年〉<br />[[6月25日]] |[[1953年]]〈昭和28年〉<br />[[1月4日]](満50歳没) |style="text-align:left;background-color:#ADD8E6"|第二皇男子<br />(第2子) |[[雍仁親王妃勢津子|松平節子]]と結婚(→[[雍仁親王妃勢津子]])。<br>'''[[雍仁親王]]'''(宮号:'''[[秩父宮]]''')<br>子女:無し。 |- | [[ファイル:Takamatsunomiya nobuhito.jpg|75px]] | style="white-space:nowrap;text-align:center"|光宮宣仁親王 |てるのみや のぶひと |[[1905年]]〈明治38年〉<br />[[1月3日]] | style="white-space:nowrap;" |[[1987年]]〈昭和62年〉<br />[[2月3日]](満82歳没) |style="text-align:left;background-color:#ADD8E6"|第三皇男子<br />(第3子) | style="white-space:nowrap;" |[[宣仁親王妃喜久子|徳川喜久子]]と結婚(→[[宣仁親王妃喜久子]])。<br>'''[[宣仁親王]]'''(宮号:'''[[高松宮]]''')<br>断絶した[[有栖川宮]]家の祭祀を継承。<br>子女:無し。 |- | [[ファイル:Prince Mikasa 2012-1-2.jpg|75px]] | style="white-space:nowrap;text-align:center"|澄宮崇仁親王 |すみのみや たかひと |[[1915年]]〈大正4年〉<br />[[12月2日]] |[[2016年]]〈平成28年〉<br />[[10月27日]](満100歳没) |style="text-align:left;background-color:#ADD8E6"|第四皇男子<br />(第4子) |[[崇仁親王妃百合子|高木百合子]]と結婚(→[[崇仁親王妃百合子]])。<br>'''[[崇仁親王]]'''(宮号:'''[[三笠宮]] ''')<br>子女:[[三笠宮崇仁親王#子女|3男2女(5人)]]。 |} [[ファイル:Emperor Taisho's sons 1921.jpg|thumb|240px|1921年(大正10年)撮影、4人の皇子。<br>左から皇太子裕仁親王(長男)、崇仁親王(四男)、宣仁親王(三男)、雍仁親王(次男)。]] ===皇子及びその妃たちとの関係=== 「姑として、嫁の[[香淳皇后]]には何かにつけて厳しかった」という。[[皇族]]出身([[久邇宮]]家の嫡出の女子で、身位は[[女王 (皇族)|女王]])であった香淳皇后に対する家柄への妬み(貞明皇后は名門公家[[藤原氏]][[五摂家]]の[[九条家]]の出身ではあるものの、嫡出ではなく[[庶子]]である)と、周囲の人間から考えられていた。 香淳皇后自身は、かなりおっとりした性格で、学齢まで高円寺近くの[[農家]]に[[里子]]として逞しく養育された貞明皇后とは、根本的に価値観の不一致があった。貞明皇后から香淳皇后に注意は女官長を通じて行なわれていたが、貞明皇后に仕える[[竹屋津根子]]皇太后宮女官長、香淳皇后に仕える[[竹屋志計子]]女官長は[[姉妹]]であり、「互いに言伝しにくかった」と回想している。 宮中で仕える女官長や[[女官]]が実際にその衝突を目撃したのは、[[大正天皇]][[崩御]]の数ヶ月前、すでに摂政となっていた皇太子裕仁親王([[昭和天皇]])と同妃良子(香淳皇后)夫妻が療養先である[[葉山御用邸]]に見舞いに訪れた際である。皇太子妃良子が[[姑]]である皇后節子の前で緊張のあまり、熱冷ましの[[手拭|手ぬぐい]]を素手ではなく、[[手袋]](今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、何も言い返せずただ黙っているしかなかった。頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后ではあったが、目下の者にも決して直接叱責することはなく、この一件を目の前にした女官たちに、「二人は嫁姑として全くうまくいっていない」と知らしめる結果になってしまった。 一方で3人の弟宮の嫁達、秩父宮、高松宮、三笠宮の各[[親王妃]]([[雍仁親王妃勢津子]]、[[宣仁親王妃喜久子]]、[[崇仁親王妃百合子]])とは[[御所]]での食事や[[茶会]]を度々招いて、可愛がったそうである。特に次男秩父宮の妃であった[[雍仁親王妃勢津子|勢津子]]はお気に入りであったらしく、お互い親交が深く、毎年[[3月3日]]の[[桃の節句]]([[雛祭り]])の折には勢津子妃が実家からお輿入れした際持ち込んだ[[雛人形]]を宮邸に飾って、貞明皇后に見てもらうのが恒例行事であったそうである。勢津子妃は、晩年の回想記『銀のボンボニエール』<ref>秩父宮妃勢津子『銀のボンボニエール 親王の妃として』(主婦の友社、1991年、講談社+α文庫、1994年)</ref>において、そのことを「お子様4人全員が[[親王]]様(男子)であったので、毎年お楽しみにされているのでしょう」と語っている。 女官制度の廃止など宮廷改革を進めた長男の昭和天皇に反発し、自身の[[大宮御所]]では旧態依然とした[[宮廷]]制度を維持した。とはいえ決して昭和天皇との母子関係は悪くなく、「[[皇居]]内で見かけた鳥の名前について子供染みた我の張り合いをした」というエピソードもある。また[[第二次世界大戦]]時においては、戦況の悪化の中でも[[疎開]]を拒む母皇太后を気遣ったことが、昭和天皇が最後まで[[東京]]を離れなかった一因ともされる。 しかし「貞明皇后の愛情は、次男の秩父宮に傾きがちであった」と囁かれる。貞明皇后と秩父宮の誕生日は同一日([[6月25日]])であり、そのことから「皇后は強い縁を感じていた」とも言われる。上記の雍仁親王の婚姻に関しても、「妃に幕末維新で[[朝敵]]とされた[[松平容保]]の[[孫]]である勢津子(せつこ、旧名:節子、読み同じ)を強く推薦したのは貞明皇后で、勢津子との[[結婚|婚姻]]が成立したのも皇后の意向が大きく働いた結果であった」と言われる<ref group="注釈">皇室ジャーナリスト[[河原敏明]]の複数の著書より</ref>。 == 逸話 == 生涯にわたって数多くの[[和歌]]<ref>[[宮内庁書陵部]]編『貞明皇后御歌集・御詩集』(和装本3冊組、[[1960年]](昭和35年)、改訂版『貞明皇后御集』 [[2001年]](平成13年))。</ref><ref>『貞明皇后御歌集』([[神社本庁|全国敬神婦人連合会]]編、主婦の友社、1988年(昭和63年)、解説筧素彦)</ref> を著し、また夫・[[大正天皇]]の影響もあり、[[漢詩]]にも取り組んだ<ref>西川泰彦『貞明皇后その御歌と御詩の世界 貞明皇后御集拝読』を参照。</ref>。[[ハンナ・リデル]]のハンセン病病院回春病院を援助していたが、後にハンセン病全体に関心を持ち、らい予防協会ができ、皇后の没後寄贈された基金をもとに「藤楓協会」というハンセン病援護団体の設立となった<ref>出雲井晶『天の声 小説・貞明皇后と光田健輔』を参照</ref>。 == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author= 山田米吉|title= [https://dl.ndl.go.jp/pid/1101006/1/121 大御光]|publisher = 日本図書刊行会|date=1941|id=全国書誌番号:1101006|ref=山田 1941}} *{{Cite book |和書 |editor=小泉和子|editor-link=小泉和子|title = 昭和の結婚 |publisher = [[河出書房新社]] |series = らんぷの本 |date = 2014-11 |isbn = 978-4309750125 |ref=}} ** {{Cite journal |和書 |author=住友和子 |title =「ホテル結婚式」の始まり |journal = 昭和の結婚 |pages = 66-72 |ref=住友 2014}} *{{Cite book|和書|author=原武史|authorlink=原武史|title=皇后考|publisher=[[講談社]]|date=2015-2|isbn=978-4062193948|ref=原 2015}} **{{Cite book|和書|author=原武史|authorlink=原武史|title=皇后考|series=|publisher=[[講談社学術文庫]]|date=2017-12|isbn=978-4062924733|ref=原 2017}} == 関連文献 == === 回想・伝記 === * [[福田清人]]・[[木俣修]]ほか編著 『貞明皇后』 [[主婦の友社]]、1971年 - 序文[[入江相政]]、伝記と歌集 * 筧素彦 『今上陛下〔昭和天皇〕と母宮貞明皇后』 [[日本教文社]]、1987年 - 序文[[徳川義寛]] * 西川泰彦 『貞明皇后 その御歌と御詩の世界 「貞明皇后御集」拝読』 [[錦正社]]、2007年 * [[工藤美代子]]編著 『母宮貞明皇后とその時代-三笠宮両殿下が語る思い出』 *:[[三笠宮崇仁親王|三笠宮崇仁]]・[[崇仁親王妃百合子|三笠宮百合子]]述、[[中央公論新社]]、2007年/[[中公文庫]]、2010年   * 工藤美代子 『国母の気品 貞明皇后の生涯』 [[清流出版]]、2008年 * [[榊原喜佐子]] 『大宮様と妃殿下のお手紙 古きよき貞明皇后の時代』 [[草思社]]、2010年 * [[小田部雄次]] 『昭憲皇太后・貞明皇后』 [[ミネルヴァ書房]]〈[[ミネルヴァ日本評伝選|日本評伝選]]〉、2010年 * 川瀬弘至 『孤高の国母 貞明皇后-知られざる「昭和天皇の母」』 [[産経新聞出版]]、2018年/[[潮書房光人新社|産経NF文庫]]、2020年 - 長編評伝 === その他 === * [[植松三十里]] 『大正の后』([[PHP研究所]]、2014年9月/[[PHP文庫|PHP文芸文庫]]、2018年9月)- 長編小説作品 * [[出雲井晶]] 『天の声 小説・貞明皇后と[[光田健輔]]』([[展転社]]、1992年) * [[岩見隆夫]] 『陛下の御質問 昭和天皇と戦後政治』([[文春文庫]]、2005年) * [[浅見雅男]] 『皇太子婚約解消事件』([[KADOKAWA|角川書店]]、2010年/[[角川ソフィア文庫]]、2018年)- 嘉仁親王(大正天皇)の妃選定までを描く == 登場する作品 == * 『天の声―小説・貞明皇后と光田健輔』(1992年、[[出雲井晶]]、[[展転社]]、ISBN 9784886560797)<ref>{{Cite web|和書|title=天の声―小説・貞明皇后と光田健輔 |url=https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784886560797 |website=紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア |access-date=2023-05-14 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite book |title=天の声 : 小説・貞明皇后と光田健輔 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002188355-00 |publisher=展転社 |date=1992 |location=東京 |first=出雲井 |last=晶}}</ref> * 『[[昭和天皇物語]]』(2017年 から『[[ビッグコミックオリジナル]]』連載、作画 [[能條純一]]:原作 [[半藤一利]]「昭和史」、脚本:[[永福一成]]、監修:[[志波秀宇]]) * 『朝けの空に』(2017年から『[[産経新聞]]』連載、[[川瀬弘至]])<ref>{{Cite web|和書|title=貞明皇后 激動の人生をたどる小説「朝けの空に」好評連載中 |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000065.000022608.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |access-date=2023-05-14}}</ref> * 『大正の后 昭和への激動』(2018年、[[植松三十里]]、[[PHP研究所]]、ISBN 9784569768434)<ref>{{Cite web|和書|title=「大正の后―昭和への激動」 PHP文芸文庫 |url=https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784569768434 |website=紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア |access-date=2023-05-14 |language=ja}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{reflist|group=注釈|1}} === 出典 === {{reflist|3}} == 関連項目 == {{Commons&cat|貞明皇后|Empress Teimei}} {{Wikisourcehas|次の原文があります| * [[:s:皇太后陛下崩御|皇太后陛下崩御]] * [[:s:故皇太后の追号|故皇太后の追号]] * [[:s:貞明皇后の陵名|貞明皇后の陵名]] }} * [[園祥子]] - [[明治天皇]]の側室で、貞明皇后の女官長 * [[柳原愛子]] - 明治天皇の側室で、大正天皇の生母 * [[井上通泰]] - 歌人([[御歌所]][[寄人]])、[[柳田國男]]の実兄 * [[佐佐木信綱]] - 歌人、皇后との関わりが多く(御歌所寄人)、『貞明皇后御歌謹解』(第二書房 1951年)がある * [[筧克彦]] - 筧の主張する「神ながらの道」に傾倒した。遺著に『大正の皇后宮御歌謹釈』(筧克彦博士著作刊行会 1961年)がある * [[日本のハンセン病問題]] * [[皇室用客車#3号御料車(初代)→13号御料車]] - 崩御の際、霊柩車として使用された。 * [[シベリア出兵]] - ポーランド孤児の祖国帰還 ==外部リンク== *{{YouTube|4lD7qYWqtsc|貞明皇后と24歳の昭和天皇の映像発見 皇学館大学で撮影}}(毎日新聞) {{歴代皇后一覧}} {{歴代日本の皇太后一覧}} {{昭和天皇の系譜}} {{s-start}} {{s-hou|[[ファイル:Imperial Seal of Japan.svg|25x20px]] [[皇室]]|1884年|6月25日|1951年|5月17日}} {{s-roy|jp}} {{s-bef|before=[[昭憲皇太后]]<br>{{small|(美子)}}}} {{s-ttl|title=[[ファイル:Japan Kou(tai)gou Flag.svg|border|25x20px]] 第123代[[皇后#日本の皇后|皇后]]<br>貞明皇后||years=1912年7月30日 – 1926年12月25日<br>{{nowrap|[[大正]]元年7月30日 – 大正15年12月25日}}}} {{s-aft|after=[[香淳皇后]]<br>{{small|(良子)}}}} {{s-bef|before=昭憲皇太后<br>{{small|(美子)}}}} {{s-ttl|title=[[ファイル:Japan Kou(tai)gou Flag.svg|border|25x20px]] 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オレゴン州
座標: 北緯44度00分 西経120度30分 / 北緯44度 西経120.5度 / 44; -120.5 オレゴン州(オレゴンしゅう、英: State of Oregon)は、北米西海岸に位置するアメリカ合衆国33番目の州。太平洋に沿って北にワシントン州、南にカリフォルニア州と接し、内陸の南東はネバダ州、東はアイダホ州である。北はコロンビア川、東はスネーク川が州境の大半を形作っている。1843年にオレゴン・カントリーの自治的な政府を樹立した交易業者、探検家および開拓者が訪れるまでは、アメリカ・インディアンの多くの部族が住んでいた。1848年にオレゴン準州が設立され、1859年2月14日にアメリカ合衆国33番目の州に昇格した。 オレゴン州の州旗は、表と裏でデザインが異なる。表は州の紋章と33の星を描いているが、これは1859年にオレゴン州が33番目の州に昇格したことを、また幌馬車は開拓時代のオレゴン街道の終着点を意味している。裏には州の獣である金色のビーバーが描かれている。 ワシントン州、カリフォルニア州と共にリベラルな気風で、保守的な中西部に対して「レッドウッド・カーテンの向こう側」と称される。 現代の先進国では珍しい直接民主制によって作られ、州、郡からも独立した地域政府メトロを擁する。 セイラムが州都であり、人口では州内第3位である。人口最多の都市はポートランドである。2020年国勢調査による州人口は420万人以上であり、2010年から10.6%増加した。同年のポートランドの人口は652,503人で全米第25位、その都市圏の人口は2,512,859人で全米第25位、セイラムも含む広域都市圏の人口は3,280,736人で全米第19位である。州西部、ウィラメット川のあるバレーに人口が集中しており、州内の人口上位10都市のうち8都市がこのバレーに入っている。 州内には、多様な景観がある。風に吹き曝される太平洋岸、カスケード山脈のゴツゴツして氷河に侵食された火山、マルトノマ滝など多くの滝、深い常緑樹の森、また州東部の大半でグレートベースンまで拡がる高原型砂漠などである。雨の多い州西部海岸にある背の高いダグラスファーやセコイアの木は、州東半分を覆う火を着けやすい松やジュニパー(セイヨウネズ)の疎らに生えた林と対照的である。州中央から東には半乾燥の灌木地、プレーリー、砂漠、ステップおよび牧草地が拡がっている。標高11,249フィート (3,429 m) のフッド山が州内最高地点である。クレーターレイク国立公園が州内唯一の国立公園である。 「オレゴン」という名前を最初期に使ったのは、1765年にロバート・ロジャーズ少佐がイギリス王国に宛てた請願書があった。この時の綴りはOuragonとなっていた。この名称は当時は伝説上の西部の川(コロンビア川)のことを指していた。1778年までにその綴りがOregonに変わっていた。ロジャーズの請願書は次のように書かれていた。 その道は...五大湖からミシシッピ川源流に向かい、そこからはインディアンによってオレゴン(Ouragon)と呼ばれる川に向かっていた。 別の説はフランス語のouraganから来たものである。これは「暴風」あるいは「ハリケーン」を意味している。インディアンの伝承にあるコロンビア川下流の強いチヌーク風(コロラドの東部に吹き降りてくる冬の暖かい風で気温を急激に上げるもの)、あるいはグレートプレーンズのチヌーク風をおそらく初めて経験したフランス人の話に基づいて「西部の川」に当てられたものである。当時西部の川はミネソタの西部に始まり、グレートプレーンズを通って西に流れると考えられていた。 詩人ホアキン・ミラーは1904年発行の雑誌「サンセット」で、オレゴンの名前の由来を以下のように説明している。 オレゴンという名前は「オレイラグア(Aure il agua)」が音声的に詰まって、「オラグア(Oragua)」「オラゴン(Or-a-gon)」「オレゴン(Oregon)」と変わってきたものであり、おそらく最初はファラロン諸島にその上官の名前を付けたポルトガルの航海者によって名付けられた。逐語的に訳すれば大体小さな滝を意味している。「これが水域だ。コロンビア川を遡り、フッド山の雲から落ちてくる水の音を聞き感じるべきだ。「オレイラグア(Aure il agua)」すなわちオレゴンの完全な意味を理解するために」 書籍『オレゴンの地名』(Oregon Geographic Names)で「最も信憑性有る説明」と後押しされた説は、地名学者ジョージ・R・ステュワートが雑誌『アメリカン・スピーチ』に載せた記事である。ステュワートに拠れば、オレゴンという名前は18世紀初期に発行されたフランスの地図で活字を入れた者の誤りから生まれたというものである。この説ではウィスコンシン川(Ouisiconsink)がOuaricon-sintという綴りで二行書きされ、西に流れる川がOuariconと呼ばれるように見えた。 オレゴン観光委員会(トラベル・オレゴンとも呼ばれる)に拠れば、現在のオレゴン州人(英: Oregonians、[ˌɒrɪˈɡoʊniənz])は、州名をオラガン(OR-UH-GUN)と発音し、決してオリゴン(OR-EE-GONE)とは発音しない、とのことである。 オレゴン・ダックスの元クォーターバック、ジョイ・ハリントンが2002年のドラフトでデトロイト・ライオンズに指名された後、ORYGUNと書かれたステッカーを記者達に配り、出身の州名の発音方法を覚えて貰おうとした。このステッカーはオレゴン大学書店で売られており、「我々の州名の発音をこのように面白おかしく言う者を放り出すオレゴン州人とオレゴンを愛好する者へ」という意味のジョークとして綴られたものとしている。 少なくとも15,000年前から、オレゴンには人類が居住していた。16世紀には既にオレゴンに関する記録が残されている。18世紀後半、イギリスのジェームズ・クックがオレゴン沿岸部を航海した。1818年には、イギリスと合衆国がオレゴン・カントリーを共同保有することを定めた。本格的な開拓は1830年代に進み、オレゴン街道を経て東部から多くの入植者がやってきた。1846年の協定によってオレゴンを分割、現在のカナダとの国境線で両国の境界を定めた。ただし、1853年にオレゴンからワシントンが分離したため、現在のオレゴンの州境はカナダ国境ではない。1859年にオレゴンは州に昇格し、現在では380万人以上が住んでいる。 太平洋岸北西部に人類が住むようになったのは15,000年前であり、レイク郡のフォートロック洞穴やペイズリー洞穴で人類の最古の痕跡が見つかっている。考古学者ルーサー・クレスマンはフォートロック洞穴で見つかった物質を13,200年前のものとした。紀元前8000年までにオレゴンの全体に入植地があり、コロンビア川下流、西部のバレーおよび海岸入江付近に人口が集中していた。 16世紀までにバンノック族、シャスタ族、チヌーク族、カラプーヤ族、クラマス族、モララ族、ネズ・パース族、タケルマ族およびウンプクア族など多くのインディアン部族がオレゴンに住んでいた。 オレゴンを最初に訪れたヨーロッパ人は1543年に太平洋岸沖からオレゴン南部を望んだスペイン人探検家達だった。1778年までヨーロッパ人が戻って来ることは無かったが、この年イギリス人ジェームズ・クックが海岸を探検した。18世紀後半と19世紀初期にはフランス系カナダ人の罠猟師達と伝道師達がオレゴン東部に到着した。その証拠として州東部にはフランス語起源の地名が多く残されている。 1805年、ルイス・クラーク探検隊は北西航路を探索する意味もあってオレゴン地域を旅した。コロンビア川河口近くにクラットソップ砦と呼ぶ冬季宿営地を建設した。イギリス人探検家デビッド・トンプソンも陸路の探検を行った。 1811年、北西会社のデビッド・トンプソンがコロンビア川全体を航行した最初のヨーロッパ人になった。その途中、スネーク川との合流点でこの地域がイギリスと北西会社の所有になることを記す杭を立てた。トンプソンはモントリオールに戻ったときに、その地域に毛皮採取用動物が豊富にいることを宣伝した。 1811年にはまたニューヨーク市出身のジョン・ジェイコブ・アスターが出資して、パシフィック毛皮会社の西部拠点としてコロンビア川河口にアストリア砦(英語版)(現アストリア (オレゴン州))を建設させた。これがオレゴンにおけるヨーロッパ人の恒久的開拓地としては最初のものになった。 1812年からの米英戦争で、イギリスはパシフィック毛皮会社の拠点全てを支配下に置いた。1818年の条約ではイギリスとアメリカがロッキー山脈の西、太平洋までの地域を協同で管理することが決められた。1820年代と1830年代にはハドソン湾会社がバーンクーバー砦(1825年にジョン・マクローリンが建設)にあるコロンビア地区本社から太平洋岸北西部を支配した。バンクーバー砦は現在のオレゴン州ポートランドからコロンビア川を挟んで対岸(ワシントン州)にある。 1841年、熟練した罠猟師で事業家のユーイング・ヤングが死に、かなりの資産を残したが相続人が居らず、遺言を執行する仕組みも無かった。ヤングの葬式後に行われた集会で、資産を管理する組織が提案された。ジェイソン・リーのメソジスト宣教師団に属するアイラ・バブコック博士が最高判事に選ばれた。バブコックは1842年にシャンプーイー(リーの宣教所とオレゴンシティの中間にあった)で2度の集会を開き、当時関心のあったオオカミなどの動物について議論した。これらの集会が1843年の全市民集会の前身となり、デビッド・ヒル、アランソン・ビアーズおよびジョセフ・ゲイルが作り上げた執行委員会が主宰する暫定政府の形を取った。この政府はオレゴン・カントリーでは最初の公的な政府となり、その後アメリカ合衆国政府によって取り込まれることになった。 1841年にはまた、ハドソン湾会社の知事ジョージ・シンプソン卿が会社の長い間の方針だった入植を奨励しないということを止めた。その方針では儲かる毛皮貿易に障害になるからだった。シンプソンはコロンビア地区を維持しようとする中で、バンクーバー砦近くのハドソン湾会社農場にレッドリバー・コロニーの開拓者200名程を移すよう指示した(ジェイムズ・シンクレア遠征隊)。 1842年から1843年に掛けてからは、オレゴン・トレイルを通って新しく多くのアメリカ人開拓者がオレゴン・カントリーに入ってきた。ある時期にはイギリスとアメリカが直前75年間で3度目の戦争に突き進む情勢にもなったが、1846年のオレゴン条約によって国境問題が平和的に解決された。アメリカ合衆国とイギリス領北アメリカの国境は北緯49度線に設定された。1848年にはオレゴン準州が公式に組織化された。 1850年の寄贈土地所有権法とインディアンのオレゴンにあるインディアン居留地への強制移住によって、開拓地が増加した。 オレゴンは1859年2月14日にアメリカ合衆国の州に昇格した。奴隷制問題に関する議論を避ける地として設立されていたので、その最初の州憲法には「白人のみ」という条項があった。 南北戦争が勃発したとき、アメリカ陸軍の正規部隊がこの地から撤退し東部に派遣された。カリフォルニア州で徴兵された志願兵の騎兵隊が北のオレゴンに派遣され、住民の平和と保護にあたった。オレゴン第1騎兵隊は1865年6月まで任務に就いていた。 1880年代、鉄道が発展して、州内の木材や小麦の市場が成長し、都市も急速に成長した。 1902年、オレゴン州はオレゴン・システムと呼ばれる発議権と住民投票を通じた州民による直接民主制を導入した。オレゴン州の住民投票には政治的に保守的な提案も多いが、州内の政治思想の多様性を反映して、リベラルなものも含まれている。 1933年から1937年にコロンビア川に建設されたボンネビル・ダムが完工した後は製造業が発展を始めた。水力発電、食品および木材が西部の発展に寄与したが、アメリカ合衆国建設業界の周期的な浮き沈みによって州経済は何度も苦しい時代を味わった。 1942年、アメリカ西岸部にいた潜水艦 伊-25から発進した零式小型水上偵察機がオレゴン州上空に到達し、4個の76 kg焼夷弾を森林の中に投下した。 この1942年9月のオレゴン州に対する2度にわたる攻撃は、アメリカ合衆国本土に対する史上唯一の航空機による爆撃である。 オレゴン州の地形はおおまかに以下の8つの地域に区分される。 オレゴン州西部の山岳部にはフッド山、ジェファーソン山、スリー・シスターズ、マザマ山などアメリカ合衆国でも最も著名な山が4つある。これらの山はプレートテクトニクス理論で挙げられるプレートの1つ、ファンデフカプレートの火山活動で形成されたものであり、この地域に火山活動や地震の脅威を与え続けている。最近の主要な活動としては1700年のカスケード地震があった。ワシントン州のセント・ヘレンズ山が1980年に噴火しており、オレゴン州からも視認できた。 オレゴン州の北側州境の大半を形成するコロンビア川もこの地域の地質的変化に大きな役割を果たしてきており、また経済や文化の発展にも貢献してきた。コロンビア川は北アメリカでも最大級の川であり、オレゴン州南部のクラマス川と共にカスケード山脈を横切る2つの川の1つである。約15,000年前、ミズーラ洪水が起こった時期にコロンビア川はオレゴン州の大半に何度も溢れた。ウィラメットバレーの今日ある肥沃さはこれら洪水のお陰である。セリロ滝など川の一部ではサケが豊富に生息し、数千年の間経済活動の中心だった。20世紀にコロンビア川には多くの水力発電用ダムが建設され、これがサケの生息、輸送と商業、電力および洪水制御に大きな影響を与えてきた。 オレゴン州はフロンティアの本来の意味である未開の地にふさわしい、海岸山脈の温帯雨林から南東部の不毛な砂漠までの多様な景観を含む州である。 オレゴン州は南北の最長部で295 マイル (475 km)、東西の最長幅で395 マイル (640 km) ある。陸地及び水域を合わせて、オレゴン州は98,381 平方マイル (255,026 km) にもおよぶ、アメリカ合衆国国内で9番目に大きな州である。 最高地点は標高11,239 フィート (3,428 m) のフッド山山頂である。最低地点は太平洋の海面である。カスケード山脈や東部の高地が存在するため、州内の平均の高さは3,300 フィート (1,000 m) である。 クレーターレイク国立公園はオレゴン州唯一の国立公園であり、水深1,943 フィート (592 m) とアメリカ合衆国内で一番深い湖であるクレーター・レイクがある。オレゴン州はD川が世界最短の川であると主張しているが、モンタナ州も同様にロック川が世界最短と主張している。州内には面積452平方インチ (0.292 m) と世界最小の公園であるミル・エンズ公園がある。オレゴン州の地理重心はアメリカ合衆国の大陸48州の中で最も西にある。ただし。最西端はワシントン州にある。 ビッグ・ホール、ホール・イン・ザ・グラウンド、フォートロックなどの古代の火山活動で生成された単成火山群が、中南部に位置するレイク郡に存在している。 州東部のマルール国有林の下生えに世界最大の単一有機物といわれるキノコ類 Armillaria solidipes が生息している。 オレゴン州の人口は大部分がウィラメットバレーを含む州西部に集中している。南のユージーン(オレゴン大学がある)からコーバリス(オレゴン州立大学がある)と州都セイラムを経て、北の最大都市ポートランドまで都市が並んでいる。 人口最大の都市はポートランドである。次いでユージーンが第2位である。 コロンビア川河口にあるアストリアは、現在の形のアメリカ合衆国のロッキー山脈より西では最初の恒久的な英語を話す開拓地だった。オレゴン・トレイルの終点だったオレゴンシティはオレゴン準州で最初の法人化都市であり、1848年から1852年まで州都だったが、その後州都はセイラムに移された。ロッキー山脈の西部で設立された初めての公立図書館(当時の所蔵数は300冊)がある場所でもある。州地理重心に近いベンドはアメリカ合衆国の中でも人口成長率の高い都市圏10傑に入っている。州南部ではメドフォードが急速に成長している都市圏であり、州内で3番目に乗降客の多いローグバレー国際メドフォード空港がある。その南、カリフォルニア州との州境近くにはアシュランドがあり、トニー賞を受賞したオレゴン・シェイクスピア・フェスティバルが開催されている。 オレゴン州の特に西部は太平洋に大きく影響されている。その気候は温暖であるが、極端に暑かったり寒かったりする期間があり、州の他の地域に影響している。州の人口重心がある西部は適度に湿気があり温暖だが、人口の少ない中部と東部の高原型砂漠はかなり乾燥している。過去最高気温は1898年8月10日にペンドルトンで 119°F (48°C) が、過去最低気温は1933年2月10日にセネカで −54°F (−47°C) が記録された。 1839年に書かれたオレゴン・カントリーの著作『太平洋の共和国』の著者は、この領土が独立した共和国になると予言した。その4年後の1843年、ウィラメットバレーの開拓者達は共和国政府の樹立を住民投票で可決した。オレゴン・カントリーは1848年8月13日にアメリカ合衆国に併合され、準州政府が樹立されるまで、その政府が機能し続けた。1859年2月14日にはオレゴン準州が州に昇格した。 オレゴン州政府は連邦政府と同様に州憲法に規定される三権分立の形を採っている。 オレゴン州知事は4年任期であり、連続して2期までに制限されているが、生涯を通じた任期制限は無い。副知事は置いていない。知事が不在の場合、州憲法第5章第8節Aに従いオレゴン州務長官が筆頭継承者となっている。その他州全体に関わる役職としては、州財務官、検事総長、監督総監および労働長官がいる。2年任期のオレゴン州議会では、上院に30人、下院に60人の議員が居る。オレゴン州最高裁判所は7人の選出された判事がいる。この中にはゲイを表明した判事2人が含まれている。判事は互選で6年任期の長官を選んでいる。オレゴン州最高裁判所の判決を覆したり修正したりできるのはアメリカ合衆国最高裁判所のみである。 オレゴン州議会の会期を2年制から毎年のものに変更するかの議論がオレゴン州政界で長く続いているが、有権者は市民の議員からプロの法律作成者に移行することに抵抗している。オレゴン州予算は2年ごとに作成されており、消費税は無く、その歳入は大部分が所得税に頼っている。このために予算不足あるいは過剰になることが多い。最近の経済不況から来る予算不足に対応するために特別会期を招集しなければならず、より頻繁な会期設定の必要性が問題になっている。2010年に成立したオレゴン発議71号は、オレゴン州議会に毎年会期を開き、奇数年は160日、偶数年は35日の議論を行うよう義務付けている。 オレゴン州人は1988年以降のアメリカ合衆国大統領選挙で民主党候補者を選んできている。2004年と2006年には民主党が州上院と下院を制した。1990年代後半以降、アメリカ合衆国下院には民主党議員4人と共和党議員1人を送り出している。2009年以降、州選出のアメリカ合衆国上院議員は2人とも民主党員である。州知事選挙では1986年以降民主党候補者が選ばれており、最近では2010年に民主党のジョン・キッツハーバーが共和党のクリス・ダドリーに勝利した。 民主党の基盤はほとんどがウィラメットバレーにある都市化された地域に集中している。カスケード山脈より東の面積では3分の2の地域は通常共和党支持である。2000年と2004年、共和党候補者のジョージ・W・ブッシュがこの地域の郡全てを制した。しかし、この地域には人口が少なく、州全体で集計される場合にはウィラメットバレーの人口の多い郡での結果が支配的になっている。 オレゴン州の政治は、都市部と田園部の間の問題など、北隣のワシントン州とよく似ている。 2002年の一般選挙で、オレゴン州の有権者は、消費者物価指数で測られるインフレ率に従い毎年自動的に最低賃金を引き上げるという住民投票案件を承認した。2004年の一般選挙で、同性の結婚を禁止する住民投票案件を承認した。また、土地利用の規制を制限する住民投票案件も承認した。2006年の一般選挙で、土地収用法の使用を制限し、州の処方箋薬の補償を延長した。 アルコール飲料の配布、販売および消費はオレゴン州酒類統制コミッションによって規制されているので、アルコール飲料統制州である。ワインとビールはほとんどのグロサリーストアで入手できるが、アルコール分の高い酒類は手に入りにくい。 2011年3月、公共空間(主に道路とその周辺)の清潔度について全体的有効性と質を評価され、アメリカ州ゴミ評価表で上位7州の中に位置付けられた。 オレゴン州では1973年、アメリカ国内で初めてマリファナ(大麻)が非犯罪化された伝統を守り、2020年11月3日に行われた州の住民投票で、LSDやマジックマッシュルーム、MDMAの他、一般的なハードドラッグも含む、多くの薬物の少量所持が非犯罪化される法案(第110法案)が、可決され、国内における麻薬戦争に終止符をうち始めた。麻薬中毒を15年間で半分に減らしたポルトガルほどではないが、オレゴン州内での少量の違法薬物所持については、法案110の可決にともない、認定薬物アルコールカウンセラーのもとで健康診断を受けるか、罰金100ドル(約10,512円)を収めるかのいずれかに問われる。また薬物依存者の治療や支援のための予算が拡充される。同じ住民投票で、別の法案である、シロシビンマッシュルームサービスプログラム(第109法案)も可決された。ハードドラッグを含む多くの薬物の非犯罪化も、シロシビンマジックマッシュルームサービスの合法化も、州レベルとして可決するのは全米で最初である。 オレゴン州は他の州と同様、アメリカ合衆国上院に2人の議員を送っている。また下院には1980年以降5人の議員を送っている。 オレゴン州が州に昇格した後、下院には1人の議員(ラファイエット・グローバー)を送り、1か月に満たない第35議会に参加した。その後1890年、1910年、1940年および1980年に議席数が1つずつ増えてきた。 アメリカ合衆国地区裁判所オレゴン地区が州内の連邦案件を審理している。ポートランド、ユージーン、メドフォード、およびペンドルトンの4か所に裁判所がある。ポートランドには連邦倒産裁判所もあり、ユージーンにも2つ目の裁判所がある。オレゴン州は連邦上訴裁判所の第9地区に所属している。その審判が開かれるのはポートランド中心街にあるパイオニア裁判所であり、ここは1869年に建設された国家歴史史跡である。 オレゴン州は政治的にカスケード山脈で分かれ、西部はリベラルで東部は保守的と考えられている。2004年アメリカ合衆国大統領選挙を政治分析家が2008年に分析した結果では、リッカート尺度で最もリベラルと最も保守的な有権者が居り、合衆国の中でも最も政治的に両極化した州となった。 オレゴン州史の中では革新の時代にウィリアム・S・ユーレンとその直接政治同盟の努力によって多くの選挙制度改革を採用してきた。その指導の下に、市民が提案法あるいは州憲法への改定案を提案あるいは承認するために発議権や住民投票を創設した1902年の住民投票案件を圧倒的多数で承認した。このような仕組みを採用したことではオレゴン州が最初の州になった。今日、約半数の州がこれに倣っている。 その後、1904年に政党候補者を選ぶ予備選挙が導入され、1908年には州憲法に公職のリコールを含む修正が施された。最近の修正では、国内初の医師による自殺幇助法がある。これは尊厳死法と呼ばれ、2005年にブッシュ政権から異議申し立てを受けたが、アメリカ合衆国最高裁判所の審問で却下された。その他薬用大麻の合法化、および国内でも最強の反都市空洞化と環境保護法の修正が行われた。2004年のメジャー37は土地使用法に対する反動を反映している。しかし、2007年に行われた住民投票でメジャー37の多くの条項が削除された。 1902年以降に行われた住民投票では、発議権288のうち99件、住民投票61件のうち25件が成立したが、その全てが裁判所での異議申し立てに成功したわけではなかった。これと同じ期間に議会は363の提案を行い、そのうち206件が成立した。 オレゴン州は不在者投票を採用したことでも国内の先駆けであり、1981年にオレゴン州議会で実験的に承認され、1988年の住民投票では全郡が郵送投票を行うことを義務化した。郵送投票が唯一の投票手段であるのはオレゴン州のみである。 1994年にジョン・キッツハーバー知事の指導で、オレゴン・ヘルスプランと呼ばれる有効的な健康管理プログラムを採用したことでも最初の州になった。このことで民間の健康保険が無い市民でもその大半が医療を受けられるようになった。 大統領選挙の選挙人は7人が割り当てられている。オレゴン州は過去6回の大統領選挙で民主党候補を選んでいる。2008年の場合、バラク・オバマは投票総数の56%以上を獲得し、16%の差を付けた。 2020年の一般選挙で、オレゴン州の有権者は、ストリートドラッグと呼ばれるコカインやヘロインなどのハードドラッグを含む、多くの薬物の少量の所持を非犯罪化する法案(第110法案)を可決した。同じ選挙で別の法案、シロシビンマッシュルームサービスプログラム(第109法案)も可決。多くの少量ドラッグ非犯罪化も、シロシビンマッシュルーム合法化も、全米で初めて州レベルで可決した州となった。 2020年国勢調査時点でのオレゴン州の人口は4,237,256人で、2010年と比較すると406,182人、10.60%増加した。人口密度は17.0人/kmである。 人種 この州の人種的な構成は次の通りである。ヒスパニック以外の数値はヒスパニック系を含まないものである。 オレゴン州の人口の22.6%が18未満、77.4%は18歳以上である。 オレゴン州の人口重心はリン郡のライアンズにある。州人口の57%以上がポートランド都市圏に住んでいる。 2004年現在、オレゴン州人口には309,700人の外国生まれ (州人口の8.7%)が含まれる。 オレゴン州の人口を先祖で分類すると以下のようになる 州人口の約62%が全てまたは部分的にイングランド、ウェールズ、アイルランドあるいはスコットランド系となる。州内の郡の大半は主に北西ヨーロッパの出身者が住んでいる。マルヒュア郡とジェファーソン郡にはメキシコ系アメリカ人が集中している。 アメリカ合衆国国勢調査局による将来予測では、オレゴン州人口は2030年までに4,833,918人に増加する。2000年と比べて41.3%の増加である。州独自の予測では2040年に5,425,408人となるとされている。 オレゴン州の人々の宗教別人口構成は次のようになっている。 2000年時点で最大の会派は信徒数348,239人のローマ・カトリックである。末日聖徒イエス・キリスト教会は104,312人、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは49,357人だった。 2009年のギャラップ調査で、オレゴン州人口の69%はキリスト教徒と自称した。残りの中で最大は無宗教である。2008年のアメリカ宗派別調査ではネバダ州と並んで無宗教の人口比率が24%と最大の州になった。 1990年代の大半で、キリスト教徒の保守的なグループがオレゴン市民同盟を設立し、公立学校で「ゲイに対する気配り訓練」を行うことと同性のカップルに法的恩恵を与えることを阻止する法案を通そうとしたが失敗した。 州内にはアメリカ合衆国では最大のロシア人のオールドビリーバーのコミュニティがある。北西部チベット文化協会がポートランドに本部を置き、ニューエイジの映画『What the Bleep Do We Know!?』はポートランドで撮影され、封切られた。イスラム教徒は6,000ないし10,000人がいると推計されている。 アハンチュユク族、アルシー族、アトファラチ族、カラプーヤ族、バンノック族、カイユース族、チャスタコスタ族、チェラメラ族、チェペナファ族、チェトコ族、クラッカマス族、クラチュカニー族、クラトソプ族、クロウウェワラ族、ダクベテデ族、ハニス族、クラマス族、クイッチュ族、ラトガワ族、ロヒム族、ルキアミュート族、ミルーク族、ミシキュメチュンネ族、モードック族、モララ族、マルトモナー族、ナルチュンネチュンネ族、ネ・ペルセ族、サンチーム族、北パイユート族、シャスタ族、シレツ族、シウスロー族、スキルート族、タケルマ族、タルツシュツンツデ族、テニノ族、チラムーク族、ツツトニ族、タイー族、ウンプクア族、ユーマティラ族ワラワラ族、ワルパピ族、ワスコ族、ワトララ族、ヤフスキン族、ヤメル族、ヤクイナ族、ヨンカラ族といったインディアン部族が先住する。ほとんどがロウグ川などの沿岸に住み、鮭漁を中心とする漁猟民である。 アメリカ連邦政府が1850年代以降に、数部族をまとめて一つの保留地(Reservation)に押し込む、という民族浄化施政を行い、「インディアン戦争」を引き起こしている。 なかでも「モードック戦争」は、強制移住を拒否して溶岩地帯に立て篭もったモードック族戦士がエドワード・キャンビー将軍を射殺し、インディアンと白人の戦いの中で白人の将軍職が殉職した、アメリカ史上最初で最後の戦いとなった。戦いを率いたモードック族のキエントプース(キャプテン・ジャック)は縛り首にされ、その遺体は防腐処置を施されて、東部でたったの10セントで見世物にされた。 4つの部族が連邦政府から「絶滅部族」として部族認定を取り消されて保留地を没収され、再認定を巡って係争中である。 ≪アメリカ連邦政府が公式認定しているインディアン部族≫ ≪アメリカ連邦政府が公式認定していないインディアン部族≫ オレゴン州の「インディアン・カジノ」は、現在のところ以下の9つ。今後さらに増える見込みである。 オレゴン州の州内総生産は2008年時点で1,616億ドルであり、アメリカ合衆国の州では第26位となった。同年の一人あたり収入は38,801ドルである。ウィラメットバレーの土地はミズーラ洪水でモンタナ州西部のミズーラ氷湖から運ばれた堆積物によって肥沃になった。 ヘーゼルナッツの生産では世界の4大生産地域の1つであり、国内の95%を生産している。ワインの生産は禁酒法時代以前に遡り、1970年代には重要な産業になった。2005年には303か所のワイン醸造所があり、その数では国内第3位である。フランスのアルザスやブルゴーニュ地方に気候や土壌が似ていることから、同じような品種のブドウが栽培されている。 南部海岸地域ではクランベリーが栽培され、その生産高は国内の7%である。州内農製品の中では23位になっている。2006年から2008年に毎年4,000ないし4,900万ポンド (18,000 - 22.000トン)のベリーを生産した。クランベリーの栽培には、海岸都市バンドンを中心にクーズ郡南部とカリー郡北部の土地約27,000エーカー (108 km) が使われている。 州北東部の特にペンドルトン周辺では、水生と陸生の小麦が育てられている。酪農では牛、羊、酪製品、卵、鶏肉が生産されている。 広大な森林があることで国内最大級の製材業と林業があるが、山火事、過伐採、および連邦政府所有森林の管理に関する訴訟のために、生産量が落ちてきた。オレゴン森林資源大学に拠れば、1989年から2001年の間に連邦政府所有森林から切り出された木材は43億3,300万ボードフィート (10,000,000 m) から1億7,300万ボードフィート (408,000 m) と96%も減少した。ただし私有林の収穫量は比較的一定である。 近年に紙や建材といった最終製品に移行してきたとしても、州内製材業の衰退を食い止めることはできなかった。その結果として2002年1月にポートランドに本拠を置くウィラメット・インダストリーズがウェアーハウザーに買収され、ルイジアナ・パシフィック社の本社がポートランドからテネシー州ナッシュビルに移転し、ギルクリストのような元の製材企業城下町が衰退した。このような変化にも拘わらず、オレゴン州は軟材の生産高では2001年時点で60億5,600万ボードフィート(14,000,000 m) と国内最大である。2位はワシントン州の42億5,700万ボードフィート(10,050,000 m)、以下カリフォルニア州、ジョージア州、ミシシッピ州と続いている。林業と製材産業の停滞によって田園部の失業率を増加させた。 オレゴン州に本拠地のある企業には右表のようなものがある。 1970年代以降、ハイテク産業とサービス業が主要な雇用主になっている。テクトロニクスは1980年代後半まで州内最大の民間雇用主だった。ワシントン郡東部でインテルが幾つかの施設を建設し拡張したことで、テクトロニクスが始めた成長を引き継いだ。インテルは州内最大の営利民間企業であり、4つの施設を運営しており、ロンラーエーカーズ、ジョーンズファームおよびホーソーンファームは全てヒルズボロにある。インテルは2008年まで州内最大の雇用主だったが、その後は2009年1月から非営利のプロビデンス・ヘルス・アンド・サービスに入れ替わった。 テクトロニクスとインテルからのスピンオフや新規起業社がいわゆるシリコン・フォレストと呼ばれる地域を作ることになった。2001年の不況とインターネット・バブルの崩壊がこの地域を厳しく襲った。多くのハイテク企業が従業員を削減するか、事業を畳んだ。オープンソース・デベロプメント・ラブズ (Open Source Development Labs) がLinuxカーネルの開発者リーナス・トーバルズを2004年に雇用したときはニュースになった。バイオテクノロジーの巨大企業ジェネンテックがヒルズボロで土地を購入し、その生産能力を拡大した。オレゴンは安い労賃を活かし、州中部の気候から冷房費を減らせることもあって、大型のデータセンターが幾つかある。Googleはザ・ダルズにデータセンターを持ち、Facebook はプラインビルに建設している。Amazon.comはボードマンでデータセンター建設を再開した。 他の産業分野でも大企業がある。ナイキの世界本社がビーバートンの中にある。ナイキとビーバートン市の訴訟により、2040年まではビーバートン市の一部にナイキキャンパスが編入されないという判決がある。ナイキは住所としてはビーバートン市住所を持っているが、ビーバートン市内ではないので、市の税金や条例には関わっていない。幾つかのブランドでギフト用品を販売するハリー・アンド・デビッドがメドフォードにある。メドフォードにはまたフォーチュン1000に入っているリチアモーターズの国内本社がある。ポートランドには西部最大級の一般書出版社グラフィックアーツ・センター・パブリッシングや、大型トラックの製造会社フレイトライナー・トラックス、チェーンソー部品において世界的シェアを占めるオレゴン・ツールがある。 オレゴン州はサケの漁獲では世界最大級であるが、海洋漁業が増えて、川の漁業は減ってきた。観光業も強力な産業である。常緑の山岳森林、滝、クレーターレイク国立公園など原始のままの湖、および景観の良い海浜が一年中観光客を惹き付けている。アシュランドで開催されるオレゴン・シェイクスピア祭が観客を呼んでおり、州南部の景観美やアウトドア活動を引き立たせている。 オレゴン州には多くのビール醸造所があり、ポートランドはその数で世界最大の都市である。 ポートランドにはラスベガスやサンフランシスコよりも一人当たりのストリップクラブの数が多いといわれている。 2011年4月時点でオレゴン州の失業率は9.5%である。 オレゴン州は州予算を2年ごとに作成しており、2007年の年間予算は424億ドルだった。これには一般資金、連邦資金、宝くじ資金などの資金が含まれている。個人の所得税が一般資金の88%になる。宝くじ資金は1984年に創設が認められて以来着実に増加しており、2007年には計画値を超えて6億400万ドルになった。 オレゴン州は消費税が無いことでは全米5州の1つである。有権者は常に消費税に反対して来ており、提案された9回の投票で悉く却下してきた。最新の提案は1993年にあったが、反対72%、賛成24%で却下された。 また法人税は年間最小10ドルであり、その総額が2005年から2007年の2年間予算では一般資金の5.6%になっている。どの事業が最小値を払っているかについては公開されていない。その結果、州はその歳入を資産税と所得税に頼っている。国内では所得税が高い方から5番目の州である。アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、2005年の1人当たり税額では50州の中で第41位になっている。平均税額Astruxh1,791.45ドルであり、他の9州より高いだけである。 幾つかの地方政府はサービスに消費税を課している。例えばアシュランド市は調理済み食材に5%の消費税を課している。 オレゴン州は歳入制限がある6州の1つである。「キッカー法」では、所得税が経済学者の予測を2%以上超過したとき、超過分は納税者に返却されることを規定している。この法を1979年に執行して以来。11回あった2年間予算のうち7回は返済が発生した。2000年の住民投票でキッカー法を州法から州憲法に転換し、その規定の幾つかを変更した。 国有林の伐採が1990年代に制限されたときに木材収入に代わって認められた郡政府への連邦資金は、数年間の中断の恐れがあった。この問題は基本的なサービスを提供することに対する支払に頼るようになっていた田園部の郡にとって、将来の収入に大きな関わりがある。 州政府の支出のうち、55%は公共教育に、23%は個人サービス(子供の保護、低所得者向け医療費補助、老人介護)に、17%は公共の安全に、5%がその他のサービスに遣われている。 2005年時点で州内の初等中等教育を受けている児童・生徒は559,215人居た。20の教育サービス地区が管轄する199の公立教育学区がある。2007年時点で大きな教育学区はポートランド公立教育学区(生徒数46,262人)、セイラム・カイザー教育学区(同40,106人)、ビーバートン教育学区(同37,821人)、ヒルズボロ教育学区(同20,401人)、ユージーン教育学区(同18,025人)である。 ユージーンに本部を置くオレゴン大学は、オレゴン州のリベラル・アーツ教育の旗艦校であり、「USニューズ&ワールド・レポート」誌が全国の大学評価リストに入れたオレゴン州では唯一の大学である。コーバリスに本部を置くオレゴン州立大学は科学、工学および農学では上位にランクされる研究開発型の旗艦校という特徴がある。この大学は学術的真価の世界的研究では高位にランクされる大学でもある。 また、モンマスに本部を置く西オレゴン大学、アシュランドに本部を置く南オレゴン大学、及びラ・グランデに本部を置く東オレゴン大学の3つの地域大学を有している。オレゴン州で最大の都市であるポートランドにはポートランド州立大学が都市大学として、オレゴン健康科学大学 (OHSU) が医学専門学校として存在し、クラマス・フォールズにはオレゴン工科大学がキャンパスを構えている。OHSU はオレゴン大学と共同で内科医教育を行っている。この大学はザ・メド・スクール100による調査でアメリカ合衆国医学校第2位にランクされた。この他ヒルズボロに科学・工学学校がある。 オレゴン州は歴史的に高等教育の財源確保に努めてきたが、現在のオレゴン州は5年以上前からの高等教育予算削減により、学生一人当たりに費やす教育予算ではアメリカ合衆国内で46番目に位置している。しかし、2007年議会は年3%と授業料値上げを強制し、オレゴン州立大学には州知事の要請以上に資金を割り当てた。 また州は17のコミュニティ・カレッジも支援している。 オレゴン州には多様な私立大学も存在している。カトリック系大学のポートランド大学やメリルハースト大学の他、リード・カレッジ、コンコーディア大学、ルイス・アンド・クラーク・カレッジ、マルトノマー・バイブル・カレッジ、ポートランド・バイブル・カレッジ、ワーナー・パシフィック大学、カスケード・カレッジ、ナショナル自然薬品カレッジおよび神学系大学院大学であるウェスタン・セミナリーもポートランドに本部を置く。パシフィック大学はポートランド郊外のフォレストグローブに本部を置いている。 ウィラメットバレー南部にも私立大学がある。マクミンビル市にはリンフィールド・カレッジ、その近くのニューバーグ市にジョージフォックス大学が存在する。州都セイラム市にはウィラメット大学(オレゴン州が暫定政府の時代に設立された州内最古の大学)及びコーバン大学の2つの私立大学が本部を置く。セイラムの近くにはアメリカ最大級のローマ・カトリック系神学校であるマウントエンジェル・セミナリーがある。ユージーン市にはオレゴン大学の他にもノースウェスト・クリスチャン大学、ユージーン・バイブル・カレッジおよびグーテンベルグ・カレッジのキャンパスが置かれている。 オレゴン州では多くの映画が撮影されている。例えば1975年の『オレゴン魂』、1978年の『アニマル・ハウス』、1985年の『グーニーズ』(オレゴン北西部の海沿いの町アストリアを舞台)、1986年の『スタンド・バイ・ミー』(ユージーン近郊ブラウンズビルで撮影)、1990年の『キンダガートン・コップ』、1994年の『激流』、2003年の『ハンテッド』、2008年の『ウェンディ&ルーシー』などである。オレゴン生まれで漫画『ザ・シンプソンズ』を制作したマット・グレイニングは、その中で生まれ故郷のポートランドについて何度も言及している。フジテレビジョンのテレビドラマ『オレゴンから愛』の舞台になったことでも知られている。 2008年後半のテレビ番組『MAN vs. WILD』では、ヘルズ・キャニオンとオレゴンの悪地が舞台になった。 オレゴン州には何れもポートランドを本拠にする2つのプロスポーツチームがある。NBAのポートランド・トレイルブレイザーズとメジャーリーグサッカーのポートランド・ティンバーズである。 2011年まではポートランド・トレイルブレイザーズが唯一のプロスポーツチームだった。1970年代から1990年代までトレイルブレイザーズはNBAで勝敗でも観客動員数でも好成績を残した。21世紀初頭に人事や財政の問題で人気が凋落したが、問題のある選手が去り、ブランドン・ロイ、ラマーカス・オルドリッジおよびグレッグ・オデンのような新人を獲得して再生された。 トレイルブレイザーズはポートランドのロイド地区にあるローズ・ガーデン・アリーナで試合を行っており、ここはジュニアのウェスタン・ホッケーリーグに属するポートランド・ウィンターホークスの本拠地でもある。 ティンバーズはポートランド中心街の直ぐに西にあるジェルド・ウェン・フィールドで試合を行っている。ティンバーズはこの多目的スタジアムを2010年秋にフットボールのみの構造に変え、観客席数も増やした。2009年3月にティンバーズは2011年からメジャーリーグサッカーでプレイすると宣言した。 ポートランドには過去にマイナーリーグ野球チームがあった。ポートランド・ビーバーズやポートランド・ロッキーズなどであり、PGEパークで試合を行っていた。またメジャーリーグベースボールのチームの誘致にも動いている。 ユージーンとセイラムにもマイナーリーグ野球チームがある。ユージーン・エメラルズとセイラム・カイザー・ボルケーノズはAクラスのノースウェストリーグに加盟している。新生間もないインターナショナル・バスケットボール・リーグにも4つのチームが加盟している。ポートランド・チヌークス、セントラルオレゴン・ホットショッツ、セイラム・スタンピードおよびユージーン・シャージャーズである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "座標: 北緯44度00分 西経120度30分 / 北緯44度 西経120.5度 / 44; -120.5", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "オレゴン州(オレゴンしゅう、英: State of Oregon)は、北米西海岸に位置するアメリカ合衆国33番目の州。太平洋に沿って北にワシントン州、南にカリフォルニア州と接し、内陸の南東はネバダ州、東はアイダホ州である。北はコロンビア川、東はスネーク川が州境の大半を形作っている。1843年にオレゴン・カントリーの自治的な政府を樹立した交易業者、探検家および開拓者が訪れるまでは、アメリカ・インディアンの多くの部族が住んでいた。1848年にオレゴン準州が設立され、1859年2月14日にアメリカ合衆国33番目の州に昇格した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "オレゴン州の州旗は、表と裏でデザインが異なる。表は州の紋章と33の星を描いているが、これは1859年にオレゴン州が33番目の州に昇格したことを、また幌馬車は開拓時代のオレゴン街道の終着点を意味している。裏には州の獣である金色のビーバーが描かれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ワシントン州、カリフォルニア州と共にリベラルな気風で、保守的な中西部に対して「レッドウッド・カーテンの向こう側」と称される。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "現代の先進国では珍しい直接民主制によって作られ、州、郡からも独立した地域政府メトロを擁する。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "セイラムが州都であり、人口では州内第3位である。人口最多の都市はポートランドである。2020年国勢調査による州人口は420万人以上であり、2010年から10.6%増加した。同年のポートランドの人口は652,503人で全米第25位、その都市圏の人口は2,512,859人で全米第25位、セイラムも含む広域都市圏の人口は3,280,736人で全米第19位である。州西部、ウィラメット川のあるバレーに人口が集中しており、州内の人口上位10都市のうち8都市がこのバレーに入っている。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "州内には、多様な景観がある。風に吹き曝される太平洋岸、カスケード山脈のゴツゴツして氷河に侵食された火山、マルトノマ滝など多くの滝、深い常緑樹の森、また州東部の大半でグレートベースンまで拡がる高原型砂漠などである。雨の多い州西部海岸にある背の高いダグラスファーやセコイアの木は、州東半分を覆う火を着けやすい松やジュニパー(セイヨウネズ)の疎らに生えた林と対照的である。州中央から東には半乾燥の灌木地、プレーリー、砂漠、ステップおよび牧草地が拡がっている。標高11,249フィート (3,429 m) のフッド山が州内最高地点である。クレーターレイク国立公園が州内唯一の国立公園である。", "title": null }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「オレゴン」という名前を最初期に使ったのは、1765年にロバート・ロジャーズ少佐がイギリス王国に宛てた請願書があった。この時の綴りはOuragonとなっていた。この名称は当時は伝説上の西部の川(コロンビア川)のことを指していた。1778年までにその綴りがOregonに変わっていた。ロジャーズの請願書は次のように書かれていた。", "title": "州名の由来" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "その道は...五大湖からミシシッピ川源流に向かい、そこからはインディアンによってオレゴン(Ouragon)と呼ばれる川に向かっていた。", "title": "州名の由来" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "別の説はフランス語のouraganから来たものである。これは「暴風」あるいは「ハリケーン」を意味している。インディアンの伝承にあるコロンビア川下流の強いチヌーク風(コロラドの東部に吹き降りてくる冬の暖かい風で気温を急激に上げるもの)、あるいはグレートプレーンズのチヌーク風をおそらく初めて経験したフランス人の話に基づいて「西部の川」に当てられたものである。当時西部の川はミネソタの西部に始まり、グレートプレーンズを通って西に流れると考えられていた。", "title": "州名の由来" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "詩人ホアキン・ミラーは1904年発行の雑誌「サンセット」で、オレゴンの名前の由来を以下のように説明している。", "title": "州名の由来" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "オレゴンという名前は「オレイラグア(Aure il agua)」が音声的に詰まって、「オラグア(Oragua)」「オラゴン(Or-a-gon)」「オレゴン(Oregon)」と変わってきたものであり、おそらく最初はファラロン諸島にその上官の名前を付けたポルトガルの航海者によって名付けられた。逐語的に訳すれば大体小さな滝を意味している。「これが水域だ。コロンビア川を遡り、フッド山の雲から落ちてくる水の音を聞き感じるべきだ。「オレイラグア(Aure il agua)」すなわちオレゴンの完全な意味を理解するために」", "title": "州名の由来" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "書籍『オレゴンの地名』(Oregon Geographic Names)で「最も信憑性有る説明」と後押しされた説は、地名学者ジョージ・R・ステュワートが雑誌『アメリカン・スピーチ』に載せた記事である。ステュワートに拠れば、オレゴンという名前は18世紀初期に発行されたフランスの地図で活字を入れた者の誤りから生まれたというものである。この説ではウィスコンシン川(Ouisiconsink)がOuaricon-sintという綴りで二行書きされ、西に流れる川がOuariconと呼ばれるように見えた。", "title": "州名の由来" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "オレゴン観光委員会(トラベル・オレゴンとも呼ばれる)に拠れば、現在のオレゴン州人(英: Oregonians、[ˌɒrɪˈɡoʊniənz])は、州名をオラガン(OR-UH-GUN)と発音し、決してオリゴン(OR-EE-GONE)とは発音しない、とのことである。", "title": "州名の由来" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "オレゴン・ダックスの元クォーターバック、ジョイ・ハリントンが2002年のドラフトでデトロイト・ライオンズに指名された後、ORYGUNと書かれたステッカーを記者達に配り、出身の州名の発音方法を覚えて貰おうとした。このステッカーはオレゴン大学書店で売られており、「我々の州名の発音をこのように面白おかしく言う者を放り出すオレゴン州人とオレゴンを愛好する者へ」という意味のジョークとして綴られたものとしている。", "title": "州名の由来" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "少なくとも15,000年前から、オレゴンには人類が居住していた。16世紀には既にオレゴンに関する記録が残されている。18世紀後半、イギリスのジェームズ・クックがオレゴン沿岸部を航海した。1818年には、イギリスと合衆国がオレゴン・カントリーを共同保有することを定めた。本格的な開拓は1830年代に進み、オレゴン街道を経て東部から多くの入植者がやってきた。1846年の協定によってオレゴンを分割、現在のカナダとの国境線で両国の境界を定めた。ただし、1853年にオレゴンからワシントンが分離したため、現在のオレゴンの州境はカナダ国境ではない。1859年にオレゴンは州に昇格し、現在では380万人以上が住んでいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "太平洋岸北西部に人類が住むようになったのは15,000年前であり、レイク郡のフォートロック洞穴やペイズリー洞穴で人類の最古の痕跡が見つかっている。考古学者ルーサー・クレスマンはフォートロック洞穴で見つかった物質を13,200年前のものとした。紀元前8000年までにオレゴンの全体に入植地があり、コロンビア川下流、西部のバレーおよび海岸入江付近に人口が集中していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "16世紀までにバンノック族、シャスタ族、チヌーク族、カラプーヤ族、クラマス族、モララ族、ネズ・パース族、タケルマ族およびウンプクア族など多くのインディアン部族がオレゴンに住んでいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "オレゴンを最初に訪れたヨーロッパ人は1543年に太平洋岸沖からオレゴン南部を望んだスペイン人探検家達だった。1778年までヨーロッパ人が戻って来ることは無かったが、この年イギリス人ジェームズ・クックが海岸を探検した。18世紀後半と19世紀初期にはフランス系カナダ人の罠猟師達と伝道師達がオレゴン東部に到着した。その証拠として州東部にはフランス語起源の地名が多く残されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1805年、ルイス・クラーク探検隊は北西航路を探索する意味もあってオレゴン地域を旅した。コロンビア川河口近くにクラットソップ砦と呼ぶ冬季宿営地を建設した。イギリス人探検家デビッド・トンプソンも陸路の探検を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1811年、北西会社のデビッド・トンプソンがコロンビア川全体を航行した最初のヨーロッパ人になった。その途中、スネーク川との合流点でこの地域がイギリスと北西会社の所有になることを記す杭を立てた。トンプソンはモントリオールに戻ったときに、その地域に毛皮採取用動物が豊富にいることを宣伝した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1811年にはまたニューヨーク市出身のジョン・ジェイコブ・アスターが出資して、パシフィック毛皮会社の西部拠点としてコロンビア川河口にアストリア砦(英語版)(現アストリア (オレゴン州))を建設させた。これがオレゴンにおけるヨーロッパ人の恒久的開拓地としては最初のものになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1812年からの米英戦争で、イギリスはパシフィック毛皮会社の拠点全てを支配下に置いた。1818年の条約ではイギリスとアメリカがロッキー山脈の西、太平洋までの地域を協同で管理することが決められた。1820年代と1830年代にはハドソン湾会社がバーンクーバー砦(1825年にジョン・マクローリンが建設)にあるコロンビア地区本社から太平洋岸北西部を支配した。バンクーバー砦は現在のオレゴン州ポートランドからコロンビア川を挟んで対岸(ワシントン州)にある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1841年、熟練した罠猟師で事業家のユーイング・ヤングが死に、かなりの資産を残したが相続人が居らず、遺言を執行する仕組みも無かった。ヤングの葬式後に行われた集会で、資産を管理する組織が提案された。ジェイソン・リーのメソジスト宣教師団に属するアイラ・バブコック博士が最高判事に選ばれた。バブコックは1842年にシャンプーイー(リーの宣教所とオレゴンシティの中間にあった)で2度の集会を開き、当時関心のあったオオカミなどの動物について議論した。これらの集会が1843年の全市民集会の前身となり、デビッド・ヒル、アランソン・ビアーズおよびジョセフ・ゲイルが作り上げた執行委員会が主宰する暫定政府の形を取った。この政府はオレゴン・カントリーでは最初の公的な政府となり、その後アメリカ合衆国政府によって取り込まれることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1841年にはまた、ハドソン湾会社の知事ジョージ・シンプソン卿が会社の長い間の方針だった入植を奨励しないということを止めた。その方針では儲かる毛皮貿易に障害になるからだった。シンプソンはコロンビア地区を維持しようとする中で、バンクーバー砦近くのハドソン湾会社農場にレッドリバー・コロニーの開拓者200名程を移すよう指示した(ジェイムズ・シンクレア遠征隊)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1842年から1843年に掛けてからは、オレゴン・トレイルを通って新しく多くのアメリカ人開拓者がオレゴン・カントリーに入ってきた。ある時期にはイギリスとアメリカが直前75年間で3度目の戦争に突き進む情勢にもなったが、1846年のオレゴン条約によって国境問題が平和的に解決された。アメリカ合衆国とイギリス領北アメリカの国境は北緯49度線に設定された。1848年にはオレゴン準州が公式に組織化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1850年の寄贈土地所有権法とインディアンのオレゴンにあるインディアン居留地への強制移住によって、開拓地が増加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "オレゴンは1859年2月14日にアメリカ合衆国の州に昇格した。奴隷制問題に関する議論を避ける地として設立されていたので、その最初の州憲法には「白人のみ」という条項があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "南北戦争が勃発したとき、アメリカ陸軍の正規部隊がこの地から撤退し東部に派遣された。カリフォルニア州で徴兵された志願兵の騎兵隊が北のオレゴンに派遣され、住民の平和と保護にあたった。オレゴン第1騎兵隊は1865年6月まで任務に就いていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1880年代、鉄道が発展して、州内の木材や小麦の市場が成長し、都市も急速に成長した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1902年、オレゴン州はオレゴン・システムと呼ばれる発議権と住民投票を通じた州民による直接民主制を導入した。オレゴン州の住民投票には政治的に保守的な提案も多いが、州内の政治思想の多様性を反映して、リベラルなものも含まれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1933年から1937年にコロンビア川に建設されたボンネビル・ダムが完工した後は製造業が発展を始めた。水力発電、食品および木材が西部の発展に寄与したが、アメリカ合衆国建設業界の周期的な浮き沈みによって州経済は何度も苦しい時代を味わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1942年、アメリカ西岸部にいた潜水艦 伊-25から発進した零式小型水上偵察機がオレゴン州上空に到達し、4個の76 kg焼夷弾を森林の中に投下した。 この1942年9月のオレゴン州に対する2度にわたる攻撃は、アメリカ合衆国本土に対する史上唯一の航空機による爆撃である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "オレゴン州の地形はおおまかに以下の8つの地域に区分される。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "オレゴン州西部の山岳部にはフッド山、ジェファーソン山、スリー・シスターズ、マザマ山などアメリカ合衆国でも最も著名な山が4つある。これらの山はプレートテクトニクス理論で挙げられるプレートの1つ、ファンデフカプレートの火山活動で形成されたものであり、この地域に火山活動や地震の脅威を与え続けている。最近の主要な活動としては1700年のカスケード地震があった。ワシントン州のセント・ヘレンズ山が1980年に噴火しており、オレゴン州からも視認できた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "オレゴン州の北側州境の大半を形成するコロンビア川もこの地域の地質的変化に大きな役割を果たしてきており、また経済や文化の発展にも貢献してきた。コロンビア川は北アメリカでも最大級の川であり、オレゴン州南部のクラマス川と共にカスケード山脈を横切る2つの川の1つである。約15,000年前、ミズーラ洪水が起こった時期にコロンビア川はオレゴン州の大半に何度も溢れた。ウィラメットバレーの今日ある肥沃さはこれら洪水のお陰である。セリロ滝など川の一部ではサケが豊富に生息し、数千年の間経済活動の中心だった。20世紀にコロンビア川には多くの水力発電用ダムが建設され、これがサケの生息、輸送と商業、電力および洪水制御に大きな影響を与えてきた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "オレゴン州はフロンティアの本来の意味である未開の地にふさわしい、海岸山脈の温帯雨林から南東部の不毛な砂漠までの多様な景観を含む州である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "オレゴン州は南北の最長部で295 マイル (475 km)、東西の最長幅で395 マイル (640 km) ある。陸地及び水域を合わせて、オレゴン州は98,381 平方マイル (255,026 km) にもおよぶ、アメリカ合衆国国内で9番目に大きな州である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "最高地点は標高11,239 フィート (3,428 m) のフッド山山頂である。最低地点は太平洋の海面である。カスケード山脈や東部の高地が存在するため、州内の平均の高さは3,300 フィート (1,000 m) である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "クレーターレイク国立公園はオレゴン州唯一の国立公園であり、水深1,943 フィート (592 m) とアメリカ合衆国内で一番深い湖であるクレーター・レイクがある。オレゴン州はD川が世界最短の川であると主張しているが、モンタナ州も同様にロック川が世界最短と主張している。州内には面積452平方インチ (0.292 m) と世界最小の公園であるミル・エンズ公園がある。オレゴン州の地理重心はアメリカ合衆国の大陸48州の中で最も西にある。ただし。最西端はワシントン州にある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ビッグ・ホール、ホール・イン・ザ・グラウンド、フォートロックなどの古代の火山活動で生成された単成火山群が、中南部に位置するレイク郡に存在している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "州東部のマルール国有林の下生えに世界最大の単一有機物といわれるキノコ類 Armillaria solidipes が生息している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "オレゴン州の人口は大部分がウィラメットバレーを含む州西部に集中している。南のユージーン(オレゴン大学がある)からコーバリス(オレゴン州立大学がある)と州都セイラムを経て、北の最大都市ポートランドまで都市が並んでいる。 人口最大の都市はポートランドである。次いでユージーンが第2位である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "コロンビア川河口にあるアストリアは、現在の形のアメリカ合衆国のロッキー山脈より西では最初の恒久的な英語を話す開拓地だった。オレゴン・トレイルの終点だったオレゴンシティはオレゴン準州で最初の法人化都市であり、1848年から1852年まで州都だったが、その後州都はセイラムに移された。ロッキー山脈の西部で設立された初めての公立図書館(当時の所蔵数は300冊)がある場所でもある。州地理重心に近いベンドはアメリカ合衆国の中でも人口成長率の高い都市圏10傑に入っている。州南部ではメドフォードが急速に成長している都市圏であり、州内で3番目に乗降客の多いローグバレー国際メドフォード空港がある。その南、カリフォルニア州との州境近くにはアシュランドがあり、トニー賞を受賞したオレゴン・シェイクスピア・フェスティバルが開催されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "オレゴン州の特に西部は太平洋に大きく影響されている。その気候は温暖であるが、極端に暑かったり寒かったりする期間があり、州の他の地域に影響している。州の人口重心がある西部は適度に湿気があり温暖だが、人口の少ない中部と東部の高原型砂漠はかなり乾燥している。過去最高気温は1898年8月10日にペンドルトンで 119°F (48°C) が、過去最低気温は1933年2月10日にセネカで −54°F (−47°C) が記録された。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1839年に書かれたオレゴン・カントリーの著作『太平洋の共和国』の著者は、この領土が独立した共和国になると予言した。その4年後の1843年、ウィラメットバレーの開拓者達は共和国政府の樹立を住民投票で可決した。オレゴン・カントリーは1848年8月13日にアメリカ合衆国に併合され、準州政府が樹立されるまで、その政府が機能し続けた。1859年2月14日にはオレゴン準州が州に昇格した。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "オレゴン州政府は連邦政府と同様に州憲法に規定される三権分立の形を採っている。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "オレゴン州知事は4年任期であり、連続して2期までに制限されているが、生涯を通じた任期制限は無い。副知事は置いていない。知事が不在の場合、州憲法第5章第8節Aに従いオレゴン州務長官が筆頭継承者となっている。その他州全体に関わる役職としては、州財務官、検事総長、監督総監および労働長官がいる。2年任期のオレゴン州議会では、上院に30人、下院に60人の議員が居る。オレゴン州最高裁判所は7人の選出された判事がいる。この中にはゲイを表明した判事2人が含まれている。判事は互選で6年任期の長官を選んでいる。オレゴン州最高裁判所の判決を覆したり修正したりできるのはアメリカ合衆国最高裁判所のみである。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "オレゴン州議会の会期を2年制から毎年のものに変更するかの議論がオレゴン州政界で長く続いているが、有権者は市民の議員からプロの法律作成者に移行することに抵抗している。オレゴン州予算は2年ごとに作成されており、消費税は無く、その歳入は大部分が所得税に頼っている。このために予算不足あるいは過剰になることが多い。最近の経済不況から来る予算不足に対応するために特別会期を招集しなければならず、より頻繁な会期設定の必要性が問題になっている。2010年に成立したオレゴン発議71号は、オレゴン州議会に毎年会期を開き、奇数年は160日、偶数年は35日の議論を行うよう義務付けている。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "オレゴン州人は1988年以降のアメリカ合衆国大統領選挙で民主党候補者を選んできている。2004年と2006年には民主党が州上院と下院を制した。1990年代後半以降、アメリカ合衆国下院には民主党議員4人と共和党議員1人を送り出している。2009年以降、州選出のアメリカ合衆国上院議員は2人とも民主党員である。州知事選挙では1986年以降民主党候補者が選ばれており、最近では2010年に民主党のジョン・キッツハーバーが共和党のクリス・ダドリーに勝利した。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "民主党の基盤はほとんどがウィラメットバレーにある都市化された地域に集中している。カスケード山脈より東の面積では3分の2の地域は通常共和党支持である。2000年と2004年、共和党候補者のジョージ・W・ブッシュがこの地域の郡全てを制した。しかし、この地域には人口が少なく、州全体で集計される場合にはウィラメットバレーの人口の多い郡での結果が支配的になっている。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "オレゴン州の政治は、都市部と田園部の間の問題など、北隣のワシントン州とよく似ている。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2002年の一般選挙で、オレゴン州の有権者は、消費者物価指数で測られるインフレ率に従い毎年自動的に最低賃金を引き上げるという住民投票案件を承認した。2004年の一般選挙で、同性の結婚を禁止する住民投票案件を承認した。また、土地利用の規制を制限する住民投票案件も承認した。2006年の一般選挙で、土地収用法の使用を制限し、州の処方箋薬の補償を延長した。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "アルコール飲料の配布、販売および消費はオレゴン州酒類統制コミッションによって規制されているので、アルコール飲料統制州である。ワインとビールはほとんどのグロサリーストアで入手できるが、アルコール分の高い酒類は手に入りにくい。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2011年3月、公共空間(主に道路とその周辺)の清潔度について全体的有効性と質を評価され、アメリカ州ゴミ評価表で上位7州の中に位置付けられた。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "オレゴン州では1973年、アメリカ国内で初めてマリファナ(大麻)が非犯罪化された伝統を守り、2020年11月3日に行われた州の住民投票で、LSDやマジックマッシュルーム、MDMAの他、一般的なハードドラッグも含む、多くの薬物の少量所持が非犯罪化される法案(第110法案)が、可決され、国内における麻薬戦争に終止符をうち始めた。麻薬中毒を15年間で半分に減らしたポルトガルほどではないが、オレゴン州内での少量の違法薬物所持については、法案110の可決にともない、認定薬物アルコールカウンセラーのもとで健康診断を受けるか、罰金100ドル(約10,512円)を収めるかのいずれかに問われる。また薬物依存者の治療や支援のための予算が拡充される。同じ住民投票で、別の法案である、シロシビンマッシュルームサービスプログラム(第109法案)も可決された。ハードドラッグを含む多くの薬物の非犯罪化も、シロシビンマジックマッシュルームサービスの合法化も、州レベルとして可決するのは全米で最初である。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "オレゴン州は他の州と同様、アメリカ合衆国上院に2人の議員を送っている。また下院には1980年以降5人の議員を送っている。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "オレゴン州が州に昇格した後、下院には1人の議員(ラファイエット・グローバー)を送り、1か月に満たない第35議会に参加した。その後1890年、1910年、1940年および1980年に議席数が1つずつ増えてきた。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国地区裁判所オレゴン地区が州内の連邦案件を審理している。ポートランド、ユージーン、メドフォード、およびペンドルトンの4か所に裁判所がある。ポートランドには連邦倒産裁判所もあり、ユージーンにも2つ目の裁判所がある。オレゴン州は連邦上訴裁判所の第9地区に所属している。その審判が開かれるのはポートランド中心街にあるパイオニア裁判所であり、ここは1869年に建設された国家歴史史跡である。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "オレゴン州は政治的にカスケード山脈で分かれ、西部はリベラルで東部は保守的と考えられている。2004年アメリカ合衆国大統領選挙を政治分析家が2008年に分析した結果では、リッカート尺度で最もリベラルと最も保守的な有権者が居り、合衆国の中でも最も政治的に両極化した州となった。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "オレゴン州史の中では革新の時代にウィリアム・S・ユーレンとその直接政治同盟の努力によって多くの選挙制度改革を採用してきた。その指導の下に、市民が提案法あるいは州憲法への改定案を提案あるいは承認するために発議権や住民投票を創設した1902年の住民投票案件を圧倒的多数で承認した。このような仕組みを採用したことではオレゴン州が最初の州になった。今日、約半数の州がこれに倣っている。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "その後、1904年に政党候補者を選ぶ予備選挙が導入され、1908年には州憲法に公職のリコールを含む修正が施された。最近の修正では、国内初の医師による自殺幇助法がある。これは尊厳死法と呼ばれ、2005年にブッシュ政権から異議申し立てを受けたが、アメリカ合衆国最高裁判所の審問で却下された。その他薬用大麻の合法化、および国内でも最強の反都市空洞化と環境保護法の修正が行われた。2004年のメジャー37は土地使用法に対する反動を反映している。しかし、2007年に行われた住民投票でメジャー37の多くの条項が削除された。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1902年以降に行われた住民投票では、発議権288のうち99件、住民投票61件のうち25件が成立したが、その全てが裁判所での異議申し立てに成功したわけではなかった。これと同じ期間に議会は363の提案を行い、そのうち206件が成立した。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "オレゴン州は不在者投票を採用したことでも国内の先駆けであり、1981年にオレゴン州議会で実験的に承認され、1988年の住民投票では全郡が郵送投票を行うことを義務化した。郵送投票が唯一の投票手段であるのはオレゴン州のみである。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1994年にジョン・キッツハーバー知事の指導で、オレゴン・ヘルスプランと呼ばれる有効的な健康管理プログラムを採用したことでも最初の州になった。このことで民間の健康保険が無い市民でもその大半が医療を受けられるようになった。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "大統領選挙の選挙人は7人が割り当てられている。オレゴン州は過去6回の大統領選挙で民主党候補を選んでいる。2008年の場合、バラク・オバマは投票総数の56%以上を獲得し、16%の差を付けた。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2020年の一般選挙で、オレゴン州の有権者は、ストリートドラッグと呼ばれるコカインやヘロインなどのハードドラッグを含む、多くの薬物の少量の所持を非犯罪化する法案(第110法案)を可決した。同じ選挙で別の法案、シロシビンマッシュルームサービスプログラム(第109法案)も可決。多くの少量ドラッグ非犯罪化も、シロシビンマッシュルーム合法化も、全米で初めて州レベルで可決した州となった。", "title": "法と政府" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2020年国勢調査時点でのオレゴン州の人口は4,237,256人で、2010年と比較すると406,182人、10.60%増加した。人口密度は17.0人/kmである。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "人種", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "この州の人種的な構成は次の通りである。ヒスパニック以外の数値はヒスパニック系を含まないものである。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "オレゴン州の人口の22.6%が18未満、77.4%は18歳以上である。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "オレゴン州の人口重心はリン郡のライアンズにある。州人口の57%以上がポートランド都市圏に住んでいる。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2004年現在、オレゴン州人口には309,700人の外国生まれ (州人口の8.7%)が含まれる。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "オレゴン州の人口を先祖で分類すると以下のようになる", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "州人口の約62%が全てまたは部分的にイングランド、ウェールズ、アイルランドあるいはスコットランド系となる。州内の郡の大半は主に北西ヨーロッパの出身者が住んでいる。マルヒュア郡とジェファーソン郡にはメキシコ系アメリカ人が集中している。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国国勢調査局による将来予測では、オレゴン州人口は2030年までに4,833,918人に増加する。2000年と比べて41.3%の増加である。州独自の予測では2040年に5,425,408人となるとされている。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "オレゴン州の人々の宗教別人口構成は次のようになっている。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2000年時点で最大の会派は信徒数348,239人のローマ・カトリックである。末日聖徒イエス・キリスト教会は104,312人、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは49,357人だった。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2009年のギャラップ調査で、オレゴン州人口の69%はキリスト教徒と自称した。残りの中で最大は無宗教である。2008年のアメリカ宗派別調査ではネバダ州と並んで無宗教の人口比率が24%と最大の州になった。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "1990年代の大半で、キリスト教徒の保守的なグループがオレゴン市民同盟を設立し、公立学校で「ゲイに対する気配り訓練」を行うことと同性のカップルに法的恩恵を与えることを阻止する法案を通そうとしたが失敗した。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "州内にはアメリカ合衆国では最大のロシア人のオールドビリーバーのコミュニティがある。北西部チベット文化協会がポートランドに本部を置き、ニューエイジの映画『What the Bleep Do We Know!?』はポートランドで撮影され、封切られた。イスラム教徒は6,000ないし10,000人がいると推計されている。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "アハンチュユク族、アルシー族、アトファラチ族、カラプーヤ族、バンノック族、カイユース族、チャスタコスタ族、チェラメラ族、チェペナファ族、チェトコ族、クラッカマス族、クラチュカニー族、クラトソプ族、クロウウェワラ族、ダクベテデ族、ハニス族、クラマス族、クイッチュ族、ラトガワ族、ロヒム族、ルキアミュート族、ミルーク族、ミシキュメチュンネ族、モードック族、モララ族、マルトモナー族、ナルチュンネチュンネ族、ネ・ペルセ族、サンチーム族、北パイユート族、シャスタ族、シレツ族、シウスロー族、スキルート族、タケルマ族、タルツシュツンツデ族、テニノ族、チラムーク族、ツツトニ族、タイー族、ウンプクア族、ユーマティラ族ワラワラ族、ワルパピ族、ワスコ族、ワトララ族、ヤフスキン族、ヤメル族、ヤクイナ族、ヨンカラ族といったインディアン部族が先住する。ほとんどがロウグ川などの沿岸に住み、鮭漁を中心とする漁猟民である。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "アメリカ連邦政府が1850年代以降に、数部族をまとめて一つの保留地(Reservation)に押し込む、という民族浄化施政を行い、「インディアン戦争」を引き起こしている。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "なかでも「モードック戦争」は、強制移住を拒否して溶岩地帯に立て篭もったモードック族戦士がエドワード・キャンビー将軍を射殺し、インディアンと白人の戦いの中で白人の将軍職が殉職した、アメリカ史上最初で最後の戦いとなった。戦いを率いたモードック族のキエントプース(キャプテン・ジャック)は縛り首にされ、その遺体は防腐処置を施されて、東部でたったの10セントで見世物にされた。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "4つの部族が連邦政府から「絶滅部族」として部族認定を取り消されて保留地を没収され、再認定を巡って係争中である。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "≪アメリカ連邦政府が公式認定しているインディアン部族≫", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "≪アメリカ連邦政府が公式認定していないインディアン部族≫", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "オレゴン州の「インディアン・カジノ」は、現在のところ以下の9つ。今後さらに増える見込みである。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "オレゴン州の州内総生産は2008年時点で1,616億ドルであり、アメリカ合衆国の州では第26位となった。同年の一人あたり収入は38,801ドルである。ウィラメットバレーの土地はミズーラ洪水でモンタナ州西部のミズーラ氷湖から運ばれた堆積物によって肥沃になった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "ヘーゼルナッツの生産では世界の4大生産地域の1つであり、国内の95%を生産している。ワインの生産は禁酒法時代以前に遡り、1970年代には重要な産業になった。2005年には303か所のワイン醸造所があり、その数では国内第3位である。フランスのアルザスやブルゴーニュ地方に気候や土壌が似ていることから、同じような品種のブドウが栽培されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "南部海岸地域ではクランベリーが栽培され、その生産高は国内の7%である。州内農製品の中では23位になっている。2006年から2008年に毎年4,000ないし4,900万ポンド (18,000 - 22.000トン)のベリーを生産した。クランベリーの栽培には、海岸都市バンドンを中心にクーズ郡南部とカリー郡北部の土地約27,000エーカー (108 km) が使われている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "州北東部の特にペンドルトン周辺では、水生と陸生の小麦が育てられている。酪農では牛、羊、酪製品、卵、鶏肉が生産されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "広大な森林があることで国内最大級の製材業と林業があるが、山火事、過伐採、および連邦政府所有森林の管理に関する訴訟のために、生産量が落ちてきた。オレゴン森林資源大学に拠れば、1989年から2001年の間に連邦政府所有森林から切り出された木材は43億3,300万ボードフィート (10,000,000 m) から1億7,300万ボードフィート (408,000 m) と96%も減少した。ただし私有林の収穫量は比較的一定である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "近年に紙や建材といった最終製品に移行してきたとしても、州内製材業の衰退を食い止めることはできなかった。その結果として2002年1月にポートランドに本拠を置くウィラメット・インダストリーズがウェアーハウザーに買収され、ルイジアナ・パシフィック社の本社がポートランドからテネシー州ナッシュビルに移転し、ギルクリストのような元の製材企業城下町が衰退した。このような変化にも拘わらず、オレゴン州は軟材の生産高では2001年時点で60億5,600万ボードフィート(14,000,000 m) と国内最大である。2位はワシントン州の42億5,700万ボードフィート(10,050,000 m)、以下カリフォルニア州、ジョージア州、ミシシッピ州と続いている。林業と製材産業の停滞によって田園部の失業率を増加させた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "オレゴン州に本拠地のある企業には右表のようなものがある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "1970年代以降、ハイテク産業とサービス業が主要な雇用主になっている。テクトロニクスは1980年代後半まで州内最大の民間雇用主だった。ワシントン郡東部でインテルが幾つかの施設を建設し拡張したことで、テクトロニクスが始めた成長を引き継いだ。インテルは州内最大の営利民間企業であり、4つの施設を運営しており、ロンラーエーカーズ、ジョーンズファームおよびホーソーンファームは全てヒルズボロにある。インテルは2008年まで州内最大の雇用主だったが、その後は2009年1月から非営利のプロビデンス・ヘルス・アンド・サービスに入れ替わった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "テクトロニクスとインテルからのスピンオフや新規起業社がいわゆるシリコン・フォレストと呼ばれる地域を作ることになった。2001年の不況とインターネット・バブルの崩壊がこの地域を厳しく襲った。多くのハイテク企業が従業員を削減するか、事業を畳んだ。オープンソース・デベロプメント・ラブズ (Open Source Development Labs) がLinuxカーネルの開発者リーナス・トーバルズを2004年に雇用したときはニュースになった。バイオテクノロジーの巨大企業ジェネンテックがヒルズボロで土地を購入し、その生産能力を拡大した。オレゴンは安い労賃を活かし、州中部の気候から冷房費を減らせることもあって、大型のデータセンターが幾つかある。Googleはザ・ダルズにデータセンターを持ち、Facebook はプラインビルに建設している。Amazon.comはボードマンでデータセンター建設を再開した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "他の産業分野でも大企業がある。ナイキの世界本社がビーバートンの中にある。ナイキとビーバートン市の訴訟により、2040年まではビーバートン市の一部にナイキキャンパスが編入されないという判決がある。ナイキは住所としてはビーバートン市住所を持っているが、ビーバートン市内ではないので、市の税金や条例には関わっていない。幾つかのブランドでギフト用品を販売するハリー・アンド・デビッドがメドフォードにある。メドフォードにはまたフォーチュン1000に入っているリチアモーターズの国内本社がある。ポートランドには西部最大級の一般書出版社グラフィックアーツ・センター・パブリッシングや、大型トラックの製造会社フレイトライナー・トラックス、チェーンソー部品において世界的シェアを占めるオレゴン・ツールがある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "オレゴン州はサケの漁獲では世界最大級であるが、海洋漁業が増えて、川の漁業は減ってきた。観光業も強力な産業である。常緑の山岳森林、滝、クレーターレイク国立公園など原始のままの湖、および景観の良い海浜が一年中観光客を惹き付けている。アシュランドで開催されるオレゴン・シェイクスピア祭が観客を呼んでおり、州南部の景観美やアウトドア活動を引き立たせている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "オレゴン州には多くのビール醸造所があり、ポートランドはその数で世界最大の都市である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "ポートランドにはラスベガスやサンフランシスコよりも一人当たりのストリップクラブの数が多いといわれている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "2011年4月時点でオレゴン州の失業率は9.5%である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "オレゴン州は州予算を2年ごとに作成しており、2007年の年間予算は424億ドルだった。これには一般資金、連邦資金、宝くじ資金などの資金が含まれている。個人の所得税が一般資金の88%になる。宝くじ資金は1984年に創設が認められて以来着実に増加しており、2007年には計画値を超えて6億400万ドルになった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "オレゴン州は消費税が無いことでは全米5州の1つである。有権者は常に消費税に反対して来ており、提案された9回の投票で悉く却下してきた。最新の提案は1993年にあったが、反対72%、賛成24%で却下された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "また法人税は年間最小10ドルであり、その総額が2005年から2007年の2年間予算では一般資金の5.6%になっている。どの事業が最小値を払っているかについては公開されていない。その結果、州はその歳入を資産税と所得税に頼っている。国内では所得税が高い方から5番目の州である。アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、2005年の1人当たり税額では50州の中で第41位になっている。平均税額Astruxh1,791.45ドルであり、他の9州より高いだけである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "幾つかの地方政府はサービスに消費税を課している。例えばアシュランド市は調理済み食材に5%の消費税を課している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "オレゴン州は歳入制限がある6州の1つである。「キッカー法」では、所得税が経済学者の予測を2%以上超過したとき、超過分は納税者に返却されることを規定している。この法を1979年に執行して以来。11回あった2年間予算のうち7回は返済が発生した。2000年の住民投票でキッカー法を州法から州憲法に転換し、その規定の幾つかを変更した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "国有林の伐採が1990年代に制限されたときに木材収入に代わって認められた郡政府への連邦資金は、数年間の中断の恐れがあった。この問題は基本的なサービスを提供することに対する支払に頼るようになっていた田園部の郡にとって、将来の収入に大きな関わりがある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "州政府の支出のうち、55%は公共教育に、23%は個人サービス(子供の保護、低所得者向け医療費補助、老人介護)に、17%は公共の安全に、5%がその他のサービスに遣われている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "2005年時点で州内の初等中等教育を受けている児童・生徒は559,215人居た。20の教育サービス地区が管轄する199の公立教育学区がある。2007年時点で大きな教育学区はポートランド公立教育学区(生徒数46,262人)、セイラム・カイザー教育学区(同40,106人)、ビーバートン教育学区(同37,821人)、ヒルズボロ教育学区(同20,401人)、ユージーン教育学区(同18,025人)である。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "ユージーンに本部を置くオレゴン大学は、オレゴン州のリベラル・アーツ教育の旗艦校であり、「USニューズ&ワールド・レポート」誌が全国の大学評価リストに入れたオレゴン州では唯一の大学である。コーバリスに本部を置くオレゴン州立大学は科学、工学および農学では上位にランクされる研究開発型の旗艦校という特徴がある。この大学は学術的真価の世界的研究では高位にランクされる大学でもある。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "また、モンマスに本部を置く西オレゴン大学、アシュランドに本部を置く南オレゴン大学、及びラ・グランデに本部を置く東オレゴン大学の3つの地域大学を有している。オレゴン州で最大の都市であるポートランドにはポートランド州立大学が都市大学として、オレゴン健康科学大学 (OHSU) が医学専門学校として存在し、クラマス・フォールズにはオレゴン工科大学がキャンパスを構えている。OHSU はオレゴン大学と共同で内科医教育を行っている。この大学はザ・メド・スクール100による調査でアメリカ合衆国医学校第2位にランクされた。この他ヒルズボロに科学・工学学校がある。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "オレゴン州は歴史的に高等教育の財源確保に努めてきたが、現在のオレゴン州は5年以上前からの高等教育予算削減により、学生一人当たりに費やす教育予算ではアメリカ合衆国内で46番目に位置している。しかし、2007年議会は年3%と授業料値上げを強制し、オレゴン州立大学には州知事の要請以上に資金を割り当てた。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "また州は17のコミュニティ・カレッジも支援している。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "オレゴン州には多様な私立大学も存在している。カトリック系大学のポートランド大学やメリルハースト大学の他、リード・カレッジ、コンコーディア大学、ルイス・アンド・クラーク・カレッジ、マルトノマー・バイブル・カレッジ、ポートランド・バイブル・カレッジ、ワーナー・パシフィック大学、カスケード・カレッジ、ナショナル自然薬品カレッジおよび神学系大学院大学であるウェスタン・セミナリーもポートランドに本部を置く。パシフィック大学はポートランド郊外のフォレストグローブに本部を置いている。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "ウィラメットバレー南部にも私立大学がある。マクミンビル市にはリンフィールド・カレッジ、その近くのニューバーグ市にジョージフォックス大学が存在する。州都セイラム市にはウィラメット大学(オレゴン州が暫定政府の時代に設立された州内最古の大学)及びコーバン大学の2つの私立大学が本部を置く。セイラムの近くにはアメリカ最大級のローマ・カトリック系神学校であるマウントエンジェル・セミナリーがある。ユージーン市にはオレゴン大学の他にもノースウェスト・クリスチャン大学、ユージーン・バイブル・カレッジおよびグーテンベルグ・カレッジのキャンパスが置かれている。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "オレゴン州では多くの映画が撮影されている。例えば1975年の『オレゴン魂』、1978年の『アニマル・ハウス』、1985年の『グーニーズ』(オレゴン北西部の海沿いの町アストリアを舞台)、1986年の『スタンド・バイ・ミー』(ユージーン近郊ブラウンズビルで撮影)、1990年の『キンダガートン・コップ』、1994年の『激流』、2003年の『ハンテッド』、2008年の『ウェンディ&ルーシー』などである。オレゴン生まれで漫画『ザ・シンプソンズ』を制作したマット・グレイニングは、その中で生まれ故郷のポートランドについて何度も言及している。フジテレビジョンのテレビドラマ『オレゴンから愛』の舞台になったことでも知られている。", "title": "芸術・文化" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "2008年後半のテレビ番組『MAN vs. WILD』では、ヘルズ・キャニオンとオレゴンの悪地が舞台になった。", "title": "芸術・文化" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "オレゴン州には何れもポートランドを本拠にする2つのプロスポーツチームがある。NBAのポートランド・トレイルブレイザーズとメジャーリーグサッカーのポートランド・ティンバーズである。", "title": "芸術・文化" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "2011年まではポートランド・トレイルブレイザーズが唯一のプロスポーツチームだった。1970年代から1990年代までトレイルブレイザーズはNBAで勝敗でも観客動員数でも好成績を残した。21世紀初頭に人事や財政の問題で人気が凋落したが、問題のある選手が去り、ブランドン・ロイ、ラマーカス・オルドリッジおよびグレッグ・オデンのような新人を獲得して再生された。", "title": "芸術・文化" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "トレイルブレイザーズはポートランドのロイド地区にあるローズ・ガーデン・アリーナで試合を行っており、ここはジュニアのウェスタン・ホッケーリーグに属するポートランド・ウィンターホークスの本拠地でもある。", "title": "芸術・文化" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "ティンバーズはポートランド中心街の直ぐに西にあるジェルド・ウェン・フィールドで試合を行っている。ティンバーズはこの多目的スタジアムを2010年秋にフットボールのみの構造に変え、観客席数も増やした。2009年3月にティンバーズは2011年からメジャーリーグサッカーでプレイすると宣言した。", "title": "芸術・文化" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "ポートランドには過去にマイナーリーグ野球チームがあった。ポートランド・ビーバーズやポートランド・ロッキーズなどであり、PGEパークで試合を行っていた。またメジャーリーグベースボールのチームの誘致にも動いている。", "title": "芸術・文化" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "ユージーンとセイラムにもマイナーリーグ野球チームがある。ユージーン・エメラルズとセイラム・カイザー・ボルケーノズはAクラスのノースウェストリーグに加盟している。新生間もないインターナショナル・バスケットボール・リーグにも4つのチームが加盟している。ポートランド・チヌークス、セントラルオレゴン・ホットショッツ、セイラム・スタンピードおよびユージーン・シャージャーズである。", "title": "芸術・文化" } ]
オレゴン州は、北米西海岸に位置するアメリカ合衆国33番目の州。太平洋に沿って北にワシントン州、南にカリフォルニア州と接し、内陸の南東はネバダ州、東はアイダホ州である。北はコロンビア川、東はスネーク川が州境の大半を形作っている。1843年にオレゴン・カントリーの自治的な政府を樹立した交易業者、探検家および開拓者が訪れるまでは、アメリカ・インディアンの多くの部族が住んでいた。1848年にオレゴン準州が設立され、1859年2月14日にアメリカ合衆国33番目の州に昇格した。 オレゴン州の州旗は、表と裏でデザインが異なる。表は州の紋章と33の星を描いているが、これは1859年にオレゴン州が33番目の州に昇格したことを、また幌馬車は開拓時代のオレゴン街道の終着点を意味している。裏には州の獣である金色のビーバーが描かれている。 ワシントン州、カリフォルニア州と共にリベラルな気風で、保守的な中西部に対して「レッドウッド・カーテンの向こう側」と称される。 現代の先進国では珍しい直接民主制によって作られ、州、郡からも独立した地域政府メトロを擁する。 セイラムが州都であり、人口では州内第3位である。人口最多の都市はポートランドである。2020年国勢調査による州人口は420万人以上であり、2010年から10.6%増加した。同年のポートランドの人口は652,503人で全米第25位、その都市圏の人口は2,512,859人で全米第25位、セイラムも含む広域都市圏の人口は3,280,736人で全米第19位である。州西部、ウィラメット川のあるバレーに人口が集中しており、州内の人口上位10都市のうち8都市がこのバレーに入っている。 州内には、多様な景観がある。風に吹き曝される太平洋岸、カスケード山脈のゴツゴツして氷河に侵食された火山、マルトノマ滝など多くの滝、深い常緑樹の森、また州東部の大半でグレートベースンまで拡がる高原型砂漠などである。雨の多い州西部海岸にある背の高いダグラスファーやセコイアの木は、州東半分を覆う火を着けやすい松やジュニパー(セイヨウネズ)の疎らに生えた林と対照的である。州中央から東には半乾燥の灌木地、プレーリー、砂漠、ステップおよび牧草地が拡がっている。標高11,249フィート のフッド山が州内最高地点である。クレーターレイク国立公園が州内唯一の国立公園である。
{{redirect|オレゴン|その他の用法|オレゴン (曖昧さ回避)}} {{Coord|display=title|44|N|120.5|W|region:US-OR_type:adm1st_scale:5000000}} {{基礎情報 アメリカ合衆国の州 | 公式名称 = State of Oregon | 州旗 = Flag of Oregon.svg | 州章 = Seal of Oregon.svg | 地図 = Oregon in United States.svg | 愛称 = [[ビーバー]]の州<br />Beaver State | 州都 = [[セイラム (オレゴン州)|セイラム]] | 最大都市 = [[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]] | 州知事 = [[ティナ・コテック]] | 公用語 = 不文律:[[アメリカ英語|英語]] <!--1989年 English Plus--> | 面積順位 = 9 | 総面積 = 255,026 | 面積大きさ = 1 E11 | 陸地面積 = 248,849 | 水域面積 = 6,177 | 水面積率 = 2.4 | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 27 | 人口値 = 4,237,256 | 人口大きさ = 1 E6 | 人口密度 = 17.0 | 加入順 = 33 | 加入日 = [[1859年]][[2月14日]] | 時間帯 = -8, -7 | 夏時間 = -7, -6 | 緯度 = 42° - 46°18' | 経度 = 116°28' - 124°38' | 幅 = 640 | 長さ = 580 | 最高標高 = 3,425 | 平均標高 = 1,005 | 最低標高 = 0 | ISOコード = US-OR | Website = www.oregon.gov | 上院議員 = [[:en:Ron Wyden|ロン・ワイデン]]<br>[[:en:Jeff Merkley|ジェフ・マークリー]] }} [[ファイル:Map of Oregon NA.png|thumb|300px|オレゴン州の地図]] [[ファイル:Oregon coastline looking south from Ecola State Park.jpg|thumb|300px|オレゴン州の海岸線、[[ルイス・アンド・クラーク国立州立歴史公園#エコラ州立公園|エコラ州立公園]]から南を望む。遠景にヘイスタック・ロックが見える。]] '''オレゴン州'''(オレゴンしゅう、{{lang-en-short|State of Oregon}})は、[[太平洋岸北西部|北米西海岸]]に位置する[[アメリカ合衆国]]33番目の[[アメリカ合衆国の州|州]]。[[太平洋]]に沿って北に[[ワシントン州]]、南に[[カリフォルニア州]]と接し、内陸の南東は[[ネバダ州]]、東は[[アイダホ州]]である。北は[[コロンビア川]]、東は[[スネーク川]]が州境の大半を形作っている。[[1843年]]に[[オレゴン・カントリー]]の自治的な政府を樹立した交易業者、探検家および開拓者が訪れるまでは、[[アメリカ・インディアン]]の多くの部族が住んでいた。[[1848年]]に[[オレゴン準州]]が設立され、[[1859年]]2月14日に[[アメリカ合衆国]]33番目の州に昇格した。 オレゴン州の州旗は、表と裏でデザインが異なる。表は州の紋章と33の星を描いているが、これは1859年にオレゴン州が33番目の州に昇格したことを、また幌馬車は開拓時代の[[オレゴン・トレイル|オレゴン街道]]の終着点を意味している。裏には州の獣である金色の[[ビーバー]]が描かれている<ref>辻原康夫、小学館『世界の国旗全図鑑』1998年1月10日、p.119</ref>。 ワシントン州、カリフォルニア州と共にリベラルな気風で、保守的な中西部に対して「[[アメリカ合衆国西海岸|レッドウッド・カーテンの向こう側]]」と称される。 現代の[[先進国]]では珍しい[[直接民主制]]によって作られ、州、[[郡 (アメリカ合衆国)|郡]]からも独立した地域政府[[メトロ (オレゴン地域政府)|メトロ]]を擁する。 [[セイラム (オレゴン州)|セイラム]]が[[州都]]であり、人口では州内第3位である。人口最多の都市は[[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]である。[[2020年]][[国勢調査]]による州人口は420万人以上であり、2010年から10.6%増加した<ref name="Census2020_QuickFacts">[https://www.census.gov/quickfacts/fact/table/US/POP010220 QuickFacts]. U.S. Census Bureau. 2020年.</ref>。同年のポートランドの人口は652,503人で全米第25位、その都市圏の人口は2,512,859人で全米第25位、セイラムも含む広域都市圏の人口は3,280,736人で全米第19位である<ref name="Census2020_QuickFacts" />。州西部、[[ウィラメット川]]のある[[ウィラメットバレー|バレー]]に人口が集中しており、州内の人口上位10都市のうち8都市がこのバレーに入っている。 州内には、多様な景観がある。風に吹き曝される[[太平洋]]岸、[[カスケード山脈]]のゴツゴツして[[氷河]]に侵食された[[火山]]、マルトノマ滝など多くの滝、深い[[温帯雨林|常緑樹の森]]、また州東部の大半で[[グレートベースン]]まで拡がる高原型[[砂漠]]などである。雨の多い州西部海岸にある背の高い[[トガサワラ属|ダグラスファー]]や[[セコイア]]の木は、州東半分を覆う火を着けやすい[[マツ|松]]やジュニパー([[セイヨウネズ]])の疎らに生えた林と対照的である。州中央から東には半乾燥の灌木地、[[プレーリー]]、[[砂漠]]、[[ステップ (植生)|ステップ]]および牧草地が拡がっている。標高11,249フィート (3,429 m) の[[フッド山]]が州内最高地点である。[[クレーターレイク国立公園]]が州内唯一の国立公園である。 {{bar box |title=家庭で話される言語(オレゴン州) 2010<ref>[http://www.mla.org/map_data_results&state_id=23&mode=state_tops MLA Language Map Data Center". Modern Language Association.]</ref> |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[英語]]|red|85.63}} {{bar percent|[[スペイン語]]|Purple|8.63}} }} {{bar box |title=人種構成(オレゴン州) 2010 |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[白人]]|blue|78.5}} {{bar percent|[[ヒスパニック]]|pink|11.7}} {{bar percent|[[アジア系アメリカ人|アジア系]]|brown|3.7}} {{bar percent|[[アフリカ系アメリカ人|黒人]]|Purple|1.8}} {{bar percent|[[インディアン]]|orange|1.4}} {{bar percent|[[混血]]|yellow|3.8}} }} ==州名の由来== [[ファイル:Oregon welcome sign.JPG|thumb|left|250px|ヘルズ・キャニオンにある歓迎看板]] 「オレゴン」という名前を最初期に使ったのは、1765年に[[ロバート・ロジャーズ]]少佐がイギリス王国に宛てた請願書があった。この時の綴りは''Ouragon''となっていた。この名称は当時は伝説上の西部の川(コロンビア川)のことを指していた。1778年までにその綴りが''Oregon''に変わっていた。ロジャーズの請願書は次のように書かれていた。 <blockquote> その道は...五大湖からミシシッピ川源流に向かい、そこからはインディアンによってオレゴン(''Ouragon'')と呼ばれる川に向かっていた。 </blockquote> 別の説はフランス語の''ouragan''から来たものである。これは「暴風」あるいは「[[ハリケーン]]」を意味している。インディアンの伝承にあるコロンビア川下流の強い[[チヌーク]]風(コロラドの東部に吹き降りてくる冬の暖かい風で気温を急激に上げるもの)、あるいは[[グレートプレーンズ]]のチヌーク風をおそらく初めて経験したフランス人の話に基づいて「西部の川」に当てられたものである。当時西部の川は[[ミネソタ州|ミネソタ]]の西部に始まり、グレートプレーンズを通って西に流れると考えられていた<ref>{{cite journal|last= Elliott|first= T.C.|month= June|year= 1921|title= The Origin of the Name Oregon|journal= Oregon Historical Quarterly|volume= XXIII|issue= 2|issn= 0030-4727|oclc= 1714620|url= https://books.google.co.jp/books?id=P-oXAAAAYAAJ&pg=PA99&redir_esc=y&hl=ja|accessdate= 2010-10-11|pages= 99–100}}</ref>。 詩人ホアキン・ミラーは1904年発行の雑誌「サンセット」で、オレゴンの名前の由来を以下のように説明している<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=GWhpzV9XeQUC&dq=sea+of+silence+miller&pg=PA395&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=sea%20of%20silence%20miller&f=false Miller, Joaquin (1904). "Sea of Silence", ''Sunset'', 396(13):5.]</ref>。 <blockquote> オレゴンという名前は「オレイラグア(''Aure il agua'')」が音声的に詰まって、「オラグア(Oragua)」「オラゴン(Or-a-gon)」「オレゴン(Oregon)」と変わってきたものであり、おそらく最初はファラロン諸島にその上官の名前を付けた[[ポルトガル]]の航海者によって名付けられた。逐語的に訳すれば大体小さな滝を意味している。「これが水域だ。コロンビア川を遡り、[[フッド山]]の雲から落ちてくる水の音を聞き感じるべきだ。「オレイラグア(''Aure il agua'')」すなわちオレゴンの完全な意味を理解するために」</blockquote> 書籍『オレゴンの地名』(''Oregon Geographic Names'')で「最も信憑性有る説明」と後押しされた説は、[[地名学]]者ジョージ・R・ステュワートが雑誌『アメリカン・スピーチ』に載せた記事である。ステュワートに拠れば、オレゴンという名前は18世紀初期に発行されたフランスの地図で活字を入れた者の誤りから生まれたというものである。この説ではウィスコンシン川(Ouisiconsink)が''Ouaricon-sint''という綴りで二行書きされ、西に流れる川が''Ouaricon''と呼ばれるように見えた。 オレゴン観光委員会(トラベル・オレゴンとも呼ばれる)に拠れば、現在のオレゴン州人({{lang-en-short|Oregonians}}、{{IPAc-en|ˌ|ɒ|r|ᵻ|ˈ|ɡ|oʊ|n|i|ə|n|z}}<ref name=mw>{{cite web|url =http://www.merriam-webster.com/dictionary/oregon|title=Oregon|accessdate=2006-09-14|publisher=Merriam-Webster Online Dictionary }}</ref>)は、州名をオラガン(''OR-UH-GUN'')と発音し、決してオリゴン(OR-EE-GONE)とは発音しない、とのことである<ref name=traveloregon>[http://traveloregon.mediaroom.com/index.php?s=23&item=33 Oregon Fast Facts.] Travel Oregon.</ref>。 オレゴン・ダックスの元クォーターバック、ジョイ・ハリントンが2002年のドラフトで[[デトロイト・ライオンズ]]に指名された後、''ORYGUN''と書かれたステッカーを記者達に配り、出身の州名の発音方法を覚えて貰おうとした<ref>Banks, Don (21 April 2002). [http://sportsillustrated.cnn.com/inside_game/don_banks/news/2002/04/21/harrington_intro/ "Harrington confident about Detroit QB challenge."] ''Sports Illustrated''.</ref><ref>{{cite news|last=Bellamy|first=Ron|title=See no evil, hear no evil|url=https://news.google.com/newspapers?id=MFFWAAAAIBAJ&sjid=qusDAAAAIBAJ&dq=Joey%20Harrington%20scoffs%20at%20criticism%20as%20he%20struggles%20to%20right%20the%20Lions&pg=3329%2C1524986|accessdate=2011-06-01|newspaper=The Register-Guard|date=2003-10-06}}</ref>。このステッカーは[[オレゴン大学]]書店で売られており、「我々の州名の発音をこのように面白おかしく言う者を放り出すオレゴン州人とオレゴンを愛好する者へ」という意味のジョークとして綴られたものとしている<ref>{{cite web|title=Yellow/Green ORYGUN Block Letter Outside Decal|url=http://spiritduck.uoduckstore.com/Yellow_Green_ORYGUN_Block_Letter_Outside_Decal_p/76386407024.htm|publisher=UO Duck Store|accessdate=2011-08-03}}</ref>。 ==歴史== {{main|オレゴン州の歴史}} [[ファイル:Oregoncountry2.png|thumb|[[オレゴン・カントリー]]の地図]] 少なくとも15,000年前から、オレゴンには人類が居住していた。16世紀には既にオレゴンに関する記録が残されている。[[18世紀]]後半、[[イギリス]]の[[ジェームズ・クック]]がオレゴン沿岸部を航海した。[[1818年]]には、イギリスと合衆国が[[オレゴン・カントリー]]を共同保有することを定めた。本格的な開拓は[[1830年代]]に進み、[[オレゴン・トレイル|オレゴン街道]]を経て東部から多くの入植者がやってきた。[[1846年]]の協定によってオレゴンを分割、現在の[[カナダ]]との[[カナダ=アメリカ合衆国国境|国境線]]で両国の境界を定めた。ただし、[[1853年]]にオレゴンから[[ワシントン州|ワシントン]]が分離したため、現在のオレゴンの州境はカナダ国境ではない。1859年にオレゴンは州に昇格し、現在では380万人以上が住んでいる。 ===最初期の住人=== 太平洋岸北西部に人類が住むようになったのは15,000年前であり、[[レイク郡 (オレゴン州)|レイク郡]]の[[フォートロック洞穴]]やペイズリー洞穴で人類の最古の痕跡が見つかっている。考古学者ルーサー・クレスマンはフォートロック洞穴で見つかった物質を13,200年前のものとした<ref>{{cite book|first = William G.|last = Robbins|title = Oregon:This Storied Land|publisher = Oregon Historical Society Press|year = 2005|isbn = 087595-286-0}}</ref>。紀元前8000年までにオレゴンの全体に入植地があり、コロンビア川下流、西部のバレーおよび海岸入江付近に人口が集中していた。 ===ヨーロッパ人の探検=== 16世紀までにバンノック族、シャスタ族、チヌーク族、カラプーヤ族、クラマス族、モララ族、[[ネズ・パース]]族、タケルマ族およびウンプクア族など多くのインディアン部族がオレゴンに住んでいた<ref name="CTGrandRonde">{{cite web|title=Confederated Tribes of the Grand Ronde:Culture|accessdate=2007-09-02|url=http://www.grandronde.org/culture/}}</ref>。 オレゴンを最初に訪れたヨーロッパ人は1543年に太平洋岸沖からオレゴン南部を望んだ[[スペイン人]]探検家達だった。1778年までヨーロッパ人が戻って来ることは無かったが、この年イギリス人ジェームズ・クックが海岸を探検した。18世紀後半と19世紀初期には[[フランス系カナダ人]]の罠猟師達と伝道師達がオレゴン東部に到着した。その証拠として州東部には[[フランス語]]起源の地名が多く残されている。 ===アメリカ合衆国の西部進出=== {{See also|アメリカ合衆国の歴史 (1789-1849)|オレゴン・カントリー|オレゴン準州}} 1805年、ルイス・クラーク探検隊は[[北西航路]]を探索する意味もあってオレゴン地域を旅した。[[コロンビア川]]河口近くにクラットソップ砦と呼ぶ冬季宿営地を建設した。イギリス人探検家デビッド・トンプソンも陸路の探検を行った。 1811年、[[北西会社]]のデビッド・トンプソンがコロンビア川全体を航行した最初のヨーロッパ人になった。その途中、スネーク川との合流点でこの地域がイギリスと北西会社の所有になることを記す杭を立てた。トンプソンは[[モントリオール]]に戻ったときに、その地域に毛皮採取用動物が豊富にいることを宣伝した。 1811年にはまた[[ニューヨーク]]市出身の[[ジョン・ジェイコブ・アスター]]が出資して、パシフィック毛皮会社の西部拠点としてコロンビア川河口に{{仮リンク|アストリア砦|en|Fort Astoria}}(現[[アストリア (オレゴン州)]])を建設させた<ref name="Atlas">{{cite book|last = Loy|first = Willam G.|coauthors = Stuart Allan, Aileen R. Buckley, James E. Meacham|title = Atlas of Oregon|publisher = University of Oregon Press|year = 2001|pages = 12–13|isbn = 0-87114-101-9 }}</ref>。これがオレゴンにおけるヨーロッパ人の恒久的開拓地としては最初のものになった。 1812年からの[[米英戦争]]で、イギリスはパシフィック毛皮会社の拠点全てを支配下に置いた。1818年の条約ではイギリスとアメリカが[[ロッキー山脈]]の西、太平洋までの地域を協同で管理することが決められた。1820年代と1830年代には[[ハドソン湾会社]]がバーンクーバー砦(1825年に[[ジョン・マクローリン (ハドソン湾会社)|ジョン・マクローリン]]が建設)にあるコロンビア地区本社から太平洋岸北西部を支配した。バンクーバー砦は現在のオレゴン州ポートランドからコロンビア川を挟んで対岸(ワシントン州)にある。 1841年、熟練した罠猟師で事業家のユーイング・ヤングが死に、かなりの資産を残したが相続人が居らず、遺言を執行する仕組みも無かった。ヤングの葬式後に行われた集会で、資産を管理する組織が提案された。[[ジェイソン・リー (伝道師)|ジェイソン・リー]]の[[メソジスト]]宣教師団に属するアイラ・バブコック博士が最高判事に選ばれた。バブコックは1842年にシャンプーイー(リーの宣教所と[[オレゴンシティ (オレゴン州)|オレゴンシティ]]の中間にあった)で2度の集会を開き、当時関心のあった[[オオカミ]]などの動物について議論した。これらの集会が1843年の全市民集会の前身となり、デビッド・ヒル、アランソン・ビアーズおよびジョセフ・ゲイルが作り上げた執行委員会が主宰する暫定政府の形を取った。この政府はオレゴン・カントリーでは最初の公的な政府となり、その後アメリカ合衆国政府によって取り込まれることになった。 1841年にはまた、[[ハドソン湾会社]]の知事ジョージ・シンプソン卿が会社の長い間の方針だった入植を奨励しないということを止めた。その方針では儲かる[[毛皮貿易]]に障害になるからだった。シンプソンはコロンビア地区を維持しようとする中で、バンクーバー砦近くのハドソン湾会社農場にレッドリバー・コロニーの開拓者200名程を移すよう指示した(ジェイムズ・シンクレア遠征隊)。 1842年から1843年に掛けてからは、[[オレゴン・トレイル]]を通って新しく多くのアメリカ人開拓者がオレゴン・カントリーに入ってきた。ある時期にはイギリスとアメリカが直前75年間で3度目の戦争に突き進む情勢にもなったが、1846年の[[オレゴン条約]]によって[[オレゴン境界紛争|国境問題]]が平和的に解決された。アメリカ合衆国とイギリス領北アメリカの国境は北緯49度線に設定された。1848年には[[オレゴン準州]]が公式に組織化された。 1850年の寄贈土地所有権法とインディアンのオレゴンにある[[インディアン居留地]]への強制移住によって、開拓地が増加した。 ===州昇格後=== オレゴンは1859年2月14日にアメリカ合衆国の州に昇格した。[[奴隷制]]問題に関する議論を避ける地として設立されていたので、その最初の州憲法には「白人のみ」という条項があった<ref name="A Peculiar Paradise">{{cite book|last = McLagan|first = Elizabeth|title = A Peculiar Paradise|publisher = Georgian Press|year = 1980|isbn = 0-96034-082-3 }}</ref>。 [[南北戦争]]が勃発したとき、[[アメリカ陸軍]]の正規部隊がこの地から撤退し東部に派遣された。カリフォルニア州で徴兵された志願兵の騎兵隊が北のオレゴンに派遣され、住民の平和と保護にあたった。オレゴン第1騎兵隊は1865年6月まで任務に就いていた。 1880年代、鉄道が発展して、州内の木材や小麦の市場が成長し、都市も急速に成長した。 ===20世紀と21世紀=== {{see also|ジェファーソン地域|カスカディア|エコトピア}} 1902年、オレゴン州はオレゴン・システムと呼ばれる発議権と[[住民投票]]を通じた州民による直接民主制を導入した。オレゴン州の住民投票には政治的に保守的な提案も多いが、州内の政治思想の多様性を反映して、リベラルなものも含まれている。 1933年から1937年にコロンビア川に建設された[[ボンネビル・ダム]]が完工した後は製造業が発展を始めた。[[水力発電]]、食品および木材が[[アメリカ合衆国西部|西部]]の発展に寄与したが、アメリカ合衆国建設業界の周期的な浮き沈みによって州経済は何度も苦しい時代を味わった。 1942年、アメリカ西岸部にいた潜水艦 [[伊号第二五潜水艦|伊-25]]から発進した[[零式小型水上偵察機]]がオレゴン州上空に到達し、4個の76 [[キログラム|kg]][[焼夷弾]]を森林の中に投下した。 この1942年9月のオレゴン州に対する2度にわたる攻撃は、アメリカ合衆国本土に対する史上唯一の航空機による爆撃である。 ==地理== {{see also|オレゴン州の郡一覧|[[:en:Oregon Geographic Names]]|[[:en:List of Oregon rivers]]|[[:en:List of Oregon mountain ranges]]|[[:en:List of Oregon state parks]]|[[:en:Oregon census statistical areas]]}} {| class="wikitable" style="font-size:97%" |+ 国立公園と歴史地域 |- ! 公園または地域 !! 場所 |- |[[クレーターレイク国立公園]]||オレゴン州南部 |- |ジョン・デイ・フォッシルベッズ国立保護区||オレゴン州東部 |- |ニューベリー国立火山保護区||オレゴン州中部 |- |カスケード・シスキュー国立保護区||オレゴン州南部 |- |オレゴン・ゲイブズ国立保護区||オレゴン州南部 |- |[[カリフォルニア・トレイル]]||オレゴン州南部、カリフォルニア州 |- |バンクーバー砦国立歴史史跡||オレゴン州西部、ワシントン州 |- |ルイス・クラーク国立歴史の道||[[イリノイ州]]、[[ミズーリ州]]、[[カンザス州]]、[[アイオワ州]]、[[ネブラスカ州]]、[[サウスダコタ州]]、<br /> [[ノースダコタ州]]、[[モンタナ州]]、[[アイダホ州]]、オレゴン州、[[ワシントン州]] |- |[[ルイス・アンド・クラーク国立州立歴史公園]]||オレゴン州西部、ワシントン州 |- |ネズ・パース国立歴史公園||モンタナ州、アイダホ州、オレゴン州、ワシントン州 |- |[[オレゴン・トレイル]]||ミズーリ州、カンザス州、ネブラスカ州、[[ワイオミング州]]、アイダホ州、オレゴン州 |} オレゴン州の地形はおおまかに以下の8つの地域に区分される。 *オレゴン海岸、[[太平洋海岸山脈]]の西側 *[[ウィラメットバレー]] *ローグ・バレー *[[カスケード山脈]] *{{仮リンク|クラマス山脈|en|Klamath Mountains}} *[[コロンビア川台地]] *オレゴン・アウトバック *ブルー山脈、[[グレートベースン|ベースン]] 及び山脈地域 オレゴン州西部の山岳部には[[フッド山]]、[[ジェファーソン山 (オレゴン州)|ジェファーソン山]]、[[スリー・シスターズ (オレゴン州)|スリー・シスターズ]]、[[マザマ山]]などアメリカ合衆国でも最も著名な山が4つある。これらの山は[[プレートテクトニクス]]理論で挙げられるプレートの1つ、[[ファンデフカプレート]]の火山活動で形成されたものであり、この地域に火山活動や地震の脅威を与え続けている。最近の主要な活動としては1700年の[[カスケード地震]]があった。ワシントン州の[[セント・ヘレンズ山]]が[[1980年のセント・ヘレンズ山噴火|1980年に噴火]]しており、オレゴン州からも視認できた。 オレゴン州の北側州境の大半を形成するコロンビア川もこの地域の地質的変化に大きな役割を果たしてきており、また経済や文化の発展にも貢献してきた。コロンビア川は北アメリカでも最大級の川であり、オレゴン州南部の[[クラマス川]]と共にカスケード山脈を横切る2つの川の1つである。約15,000年前、ミズーラ洪水が起こった時期にコロンビア川はオレゴン州の大半に何度も溢れた。ウィラメットバレーの今日ある肥沃さはこれら洪水のお陰である。セリロ滝など川の一部では[[サケ]]が豊富に生息し、数千年の間経済活動の中心だった。20世紀にコロンビア川には多くの水力発電用ダムが建設され、これがサケの生息、輸送と商業、電力および洪水制御に大きな影響を与えてきた。 オレゴン州は[[フロンティア]]の本来の意味である未開の地にふさわしい、海岸山脈の[[温帯雨林]]から南東部の不毛な砂漠までの多様な景観を含む州である。 オレゴン州は南北の最長部で295 [[マイル]] (475&nbsp;km)、東西の最長幅で395 マイル (640&nbsp;km) ある。陸地及び水域を合わせて、オレゴン州は98,381 [[平方マイル]] (255,026&nbsp;[[平方メートル|km{{sup|2}}]]) にもおよぶ、アメリカ合衆国国内で9番目に大きな州である<ref>[http://factfinder.census.gov/servlet/GCTTable?_bm=n&_lang=en&mt_name=DEC_2000_SF1_U_GCTPH1R_US9S&format=US-9S&_box_head_nbr=GCT-PH1-R&ds_name=DEC_2000_SF1_U&geo_id=01000US United States—States;and Puerto Rico:GCT-PH1-R. Population, Housing Units, Area, and Density.] U.S. Census Bureau. Retrieved on March 28, 2008.</ref>。 最高地点は標高11,239 [[フィート]] (3,428&nbsp;m) の[[フッド山]]山頂である。最低地点は太平洋の[[海面]]である<ref name=usgs>{{cite web|date=2005-04-29|url=http://egsc.usgs.gov/isb/pubs/booklets/elvadist/elvadist.html|title=Elevations and Distances in the United States|publisher=U.S Geological Survey|accessdate=2006-11-07 }}</ref>。カスケード山脈や東部の高地が存在するため、州内の平均の高さは3,300 フィート (1,000&nbsp;m) である。 [[クレーターレイク国立公園]]はオレゴン州唯一の[[アメリカの国立公園制度|国立公園]]であり、水深1,943 フィート (592 m) とアメリカ合衆国内で一番深い湖である[[クレーター湖|クレーター・レイク]]がある<ref>{{cite web|title=Crater Lake National Park|publisher=U.S. National Park Service|url=http://www.nps.gov/crla/index.htm|accessdate=2006-11-22 }}</ref>。オレゴン州はD川が世界最短の川であると主張しているが<ref name="driver">{{cite web|url=http://www.oregonstateparks.org/park_214.php|title=D River State Recreation Site|work=Oregon Parks and Recreation Department|accessdate=2007-05-11 }}</ref>、モンタナ州も同様にロック川が世界最短と主張している<ref name="roeriver">{{cite web|url=http://montanakids.com/db_engine/presentations/presentation.asp?pid=192|title=World's Shortest River|work=Travel Montana|accessdate=2007-05-11 }}</ref>。州内には面積452平方インチ (0.292 m{{sup|2}}) と世界最小の公園である[[ミル・エンズ公園]]がある。オレゴン州の地理重心はアメリカ合衆国の大陸48州の中で最も西にある。ただし。最西端はワシントン州にある。 ビッグ・ホール、ホール・イン・ザ・グラウンド、[[フォートロック]]などの古代の火山活動で生成された単成火山群が、中南部に位置する[[レイク郡 (オレゴン州)|レイク郡]]に存在している。 州東部の[[マルール国有林]]の下生えに世界最大の単一有機物といわれるキノコ類 ''Armillaria solidipes'' が生息している<ref>Beale, Bob (10 April 2003). [http://www.abc.net.au/science/news/enviro/EnviroRepublish_828525.htm "Humungous fungus:world's largest organism?"] Environment & Nature News, ABC Online. Accessed January 2, 2007.</ref>。 <center> <gallery caption="オレゴン州の景観" widths="200px" perrow="5"> ファイル:Trilliumlake.jpg|[[フッド山]]、前景はトリリウム湖 ファイル:Crater lake oregon.jpg|クレーターレイクの空中写真 ファイル:Sunset over Malheur Butte near Vale, Oregon.JPG|オンタリオ近くの火山性噴石丘、マルヒュア・ビュートの夕陽 ファイル:Portland panorama3.jpg|[[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]] ファイル:Oregon population map 2000.png|人口密度図 ファイル:Public-Lands-Western-US.png|オレゴン州の土地の半分近くはアメリカ合衆国森林局と土地管理局が所有している<ref>[http://www.wildlandfire.com/docs/2007/western-states-data-public-land.htm Western States Data Public Land Acreage] (13 November 2007).</ref> ファイル:Wpdms_shdrlfi020l_willamette_valley.jpg|[[ウィラメットバレー]]流域 </gallery> </center> ===主要な都市及び町=== [[ファイル:The Willamette.jpg|thumb|left|ポートランド]] {{main|[[:en:List of cities in Oregon]]}} {|class="wikitable floatright" style="font-size:97%" |+オレゴン州の人口の多い都市 |- ![[都市]]||人口 <small>(人、2020年国勢調査)</small><ref name="Census2020_QuickFacts" /> |- |1. [[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]||align=right|652,503 |- |2. [[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]||align=right|176,654 |- |3. [[セイラム (オレゴン州)|セイラム]]||align=right|175,535 |- |4. [[グレシャム (オレゴン州)|グレシャム]]||align=right|114,247 |- |5. [[ヒルズボロ (オレゴン州)|ヒルズボロ]]||align=right|106,447 |- |6. [[ベンド (オレゴン州)|ベンド]]||align=right|99,178 |- |7. [[ビーバートン (オレゴン州)|ビーバートン]]||align=right|97,494 |- |8. [[メドフォード (オレゴン州)|メドフォード]]||align=right|85,824 |- |9. [[スプリングフィールド (オレゴン州)|スプリングフィールド]]||align=right|61,851 |- |10. [[コーバリス (オレゴン州)|コーバリス]]||align=right|59,922 |- |11. [[オールバニ (オレゴン州)|オールバニ]]||align=right|56,472 |- |12. [[タイガード (オレゴン州)|タイガード]]||align=right|54,539 |} </div> オレゴン州の人口は大部分がウィラメットバレーを含む州西部に集中している。南の[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]](オレゴン大学がある)から[[コーバリス (オレゴン州)|コーバリス]](オレゴン州立大学がある)と州都[[セイラム (オレゴン州)|セイラム]]を経て、北の最大都市[[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]まで都市が並んでいる。 人口最大の[[都市]]は[[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]である。次いで[[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]が第2位である。 コロンビア川河口にある[[アストリア (オレゴン州)|アストリア]]は、現在の形のアメリカ合衆国のロッキー山脈より西では最初の恒久的な英語を話す開拓地だった。オレゴン・トレイルの終点だった[[オレゴンシティ (オレゴン州)|オレゴンシティ]]はオレゴン準州で最初の法人化都市であり、1848年から1852年まで州都だったが、その後州都はセイラムに移された。ロッキー山脈の西部で設立された初めての公立図書館(当時の所蔵数は300冊)がある場所でもある。州地理重心に近い[[ベンド (オレゴン州)|ベンド]]はアメリカ合衆国の中でも人口成長率の高い都市圏10傑に入っている<ref>[http://www.census.gov/newsroom/releases/archives/population/cb07-51.html 50 Fastest-Growing Metro Areas Concentrated in West and South.] U.S. Census Bureau 2005. Retrieved October 16, 2007.</ref>。州南部では[[メドフォード (オレゴン州)|メドフォード]]が急速に成長している都市圏であり、州内で3番目に乗降客の多いローグバレー国際メドフォード空港がある。その南、カリフォルニア州との州境近くには[[アシュランド (オレゴン州)|アシュランド]]があり、[[トニー賞]]を受賞したオレゴン・シェイクスピア・フェスティバルが開催されている。 ===気候=== オレゴン州の特に西部は太平洋に大きく影響されている。その気候は温暖であるが、極端に暑かったり寒かったりする期間があり、州の他の地域に影響している。州の人口重心がある西部は適度に湿気があり温暖だが、人口の少ない中部と東部の高原型砂漠はかなり乾燥している。過去最高気温は1898年8月10日にペンドルトンで 119{{°F}} (48℃) が、過去最低気温は1933年2月10日にセネカで −54{{°F}} (−47℃) が記録された。 ==法と政府== [[ファイル:Flags-of-usa-and-oregon.jpg|thumb|ポートランド中心街に掲揚されているアメリカ合衆国国旗とオレゴン州旗]] 1839年に書かれたオレゴン・カントリーの著作『太平洋の共和国』の著者は、この領土が独立した共和国になると予言した。その4年後の1843年、ウィラメットバレーの開拓者達は共和国政府の樹立を住民投票で可決した<ref>Allen, Cain (2006). [http://www.ohs.org/education/oregonhistory/historical_records/dspDocument.cfm?doc_ID=92F96702-9FCF-BAC0-3411BF129F1F23DA "The Oregon History Project- A Pacific Republic"]. Oregon Historical Society. Retrieved 2010-10-08.</ref>。オレゴン・カントリーは1848年8月13日にアメリカ合衆国に併合され、準州政府が樹立されるまで、その政府が機能し続けた。1859年2月14日にはオレゴン準州が州に昇格した。 ===州政府=== オレゴン州政府は連邦政府と同様に州憲法に規定される[[権力分立|三権分立]]の形を採っている。 *[[立法府]]、[[両院制]]のオレゴン州議会 *[[行政府]]、主席行政官としての州知事と管理部門で構成されている *[[司法府]]、オレゴン州最高裁判所長官を筆頭にしている オレゴン州知事は4年任期であり、連続して2期までに制限されているが、生涯を通じた任期制限は無い。副知事は置いていない。知事が不在の場合、州憲法第5章第8節Aに従いオレゴン州務長官が筆頭継承者となっている。その他州全体に関わる役職としては、州財務官、検事総長、監督総監および労働長官がいる。2年任期のオレゴン州議会では、上院に30人、下院に60人の議員が居る。オレゴン州最高裁判所は7人の選出された判事がいる。この中にはゲイを表明した判事2人が含まれている。判事は互選で6年任期の長官を選んでいる。オレゴン州最高裁判所の判決を覆したり修正したりできるのはアメリカ[[合衆国最高裁判所]]のみである。 オレゴン州議会の会期を2年制から毎年のものに変更するかの議論がオレゴン州政界で長く続いているが、有権者は市民の議員からプロの法律作成者に移行することに抵抗している。オレゴン州予算は2年ごとに作成されており、[[消費税]]は無く、その歳入は大部分が[[所得税]]に頼っている。このために予算不足あるいは過剰になることが多い。最近の経済不況から来る予算不足に対応するために特別会期を招集しなければならず、より頻繁な会期設定の必要性が問題になっている。2010年に成立したオレゴン発議71号は、オレゴン州議会に毎年会期を開き、奇数年は160日、偶数年は35日の議論を行うよう義務付けている。 [[ファイル:Oregon State Capitol 1.jpg|thumb|right|オレゴン州議会議事堂]] オレゴン州人は1988年以降の[[アメリカ合衆国大統領選挙]]で[[民主党 (アメリカ)|民主党]]候補者を選んできている。2004年と2006年には民主党が州上院と下院を制した。1990年代後半以降、[[アメリカ合衆国下院]]には民主党議員4人と[[共和党 (アメリカ)|共和党]]議員1人を送り出している。2009年以降、州選出の[[アメリカ合衆国上院]]議員は2人とも民主党員である。州知事選挙では1986年以降民主党候補者が選ばれており、最近では2010年に民主党のジョン・キッツハーバーが共和党のクリス・ダドリーに勝利した。 民主党の基盤はほとんどがウィラメットバレーにある都市化された地域に集中している。カスケード山脈より東の面積では3分の2の地域は通常共和党支持である。2000年と2004年、共和党候補者の[[ジョージ・W・ブッシュ]]がこの地域の郡全てを制した。しかし、この地域には人口が少なく、州全体で集計される場合にはウィラメットバレーの人口の多い郡での結果が支配的になっている。 オレゴン州の政治は、都市部と田園部の間の問題など、北隣のワシントン州とよく似ている。 2002年の一般選挙で、オレゴン州の有権者は、[[消費者物価指数]]で測られるインフレ率に従い毎年自動的に最低賃金を引き上げるという住民投票案件を承認した<ref>Oregon Revised Statutes [http://www.leg.state.or.us/ors/653.html 653.025].</ref>。2004年の一般選挙で、同性の結婚を禁止する住民投票案件を承認した。また、土地利用の規制を制限する住民投票案件も承認した。2006年の一般選挙で、土地収用法の使用を制限し、州の処方箋薬の補償を延長した。 アルコール飲料の配布、販売および消費はオレゴン州酒類統制コミッションによって規制されているので、アルコール飲料統制州である。ワインとビールはほとんどのグロサリーストアで入手できるが、アルコール分の高い酒類は手に入りにくい。 2011年3月、公共空間(主に道路とその周辺)の清潔度について全体的有効性と質を評価され、アメリカ州ゴミ評価表で上位7州の中に位置付けられた<ref>S. Spacek, 2011 American State Litter Scorecard:New Rankings for An Increasingly Environmetally-Concerned Populace.</ref>。 オレゴン州では1973年、アメリカ国内で初めてマリファナ(大麻)が非犯罪化された伝統を守り、2020年11月3日に行われた州の住民投票で、LSDやマジックマッシュルーム、MDMAの他、一般的なハードドラッグも含む、多くの薬物の少量所持が非犯罪化される法案(第110法案)が、可決され、国内における[[麻薬戦争]]に終止符をうち始めた。麻薬中毒を15年間で半分に減らしたポルトガルほどではないが、オレゴン州内での少量の違法薬物所持については、法案110の可決にともない、認定薬物アルコールカウンセラーのもとで健康診断を受けるか、罰金100ドル(約10,512円)を収めるかのいずれかに問われる。また薬物依存者の治療や支援のための予算が拡充される<ref name="#1">[https://www.afpbb.com/articles/-/3313957 オレゴン、全米初の「ハードドラッグ」非犯罪化]AFPBB(2020年11月5日).2020年11月10日閲覧 </ref>。同じ住民投票で、別の法案である、シロシビンマッシュルームサービスプログラム(第109法案)も可決された<ref>[https://ballotpedia.org/Oregon Psilocybin Services.2022年12月25日閲覧 </ref>。ハードドラッグを含む多くの薬物の非犯罪化も、シロシビンマジックマッシュルームサービスの合法化も、州レベルとして可決するのは全米で最初である。 ===連邦政府との関係=== オレゴン州は他の州と同様、アメリカ合衆国上院に2人の議員を送っている。また下院には1980年以降5人の議員を送っている。 オレゴン州が州に昇格した後、下院には1人の議員(ラファイエット・グローバー)を送り、1か月に満たない第35議会に参加した。その後1890年、1910年、1940年および1980年に議席数が1つずつ増えてきた。 アメリカ合衆国地区裁判所オレゴン地区が州内の連邦案件を審理している。ポートランド、ユージーン、メドフォード、およびペンドルトンの4か所に裁判所がある。ポートランドには[[アメリカ合衆国連邦裁判所#倒産裁判所|連邦倒産裁判所]]もあり、ユージーンにも2つ目の裁判所がある<ref>{{cite web|url=http://www.orb.uscourts.gov/|title=United States Bankruptcy Court, District of Oregon|publisher=U.S. Courts|accessdate=2008-12-14}}</ref>。オレゴン州は連邦上訴裁判所の第9地区に所属している。その審判が開かれるのはポートランド中心街にあるパイオニア裁判所であり、ここは1869年に建設された国家歴史史跡である。 ===政治=== {{Main|[[:en:Politics of Oregon]]}} {|class="wikitable" style="float:right;font-size:79%" |+ '''大統領選挙の結果'''<ref>Leip, David. [http://uselectionatlas.org/RESULTS/ "2008 presidential general election results"]. Retrieved 2010-10-12.</ref> |- style="background:lightgrey" ! 年 ! [[共和党 (アメリカ)|共和党]] ! [[民主党 (アメリカ)|民主党]] |- |bgcolor="#f0f0ff"|[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|2008年]] |bgcolor="#fff3f3"|40.40% ''738,475'' |bgcolor="#f0f0ff"|'''56.75%''' ''1,037,291'' |- |bgcolor="#f0f0ff"|[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙|2004年]] |bgcolor="#fff3f3"|47.19% ''866,831'' |bgcolor="#f0f0ff"|'''51.35%''' ''943,163'' |- |bgcolor="#f0f0ff"|[[2000年アメリカ合衆国大統領選挙|2000年]] |bgcolor="#fff3f3"|46.46% ''713,577'' |bgcolor="#f0f0ff"|'''47.01%''' ''720,342'' |- |bgcolor="#f0f0ff"|[[1996年アメリカ合衆国大統領選挙|1996年]] |bgcolor="#fff3f3"|39.06% ''538,152'' |bgcolor="#f0f0ff"|'''47.15%''' ''649,641'' |- |bgcolor="#f0f0ff"|[[1992年アメリカ合衆国大統領選挙|1992年]] |bgcolor="#fff3f3"|32.53% ''475,757'' |bgcolor="#f0f0ff"|'''42.48%''' ''621,314'' |- |bgcolor="#f0f0ff"|[[1988年アメリカ合衆国大統領選挙|1988年]] |bgcolor="#fff3f3"|46.61% ''560,126'' |bgcolor="#f0f0ff"|'''51.28%''' ''616,206'' |- |bgcolor="#fff3f3"|[[1984年アメリカ合衆国大統領選挙|1984年]] |bgcolor="#fff3f3"|'''55.91%''' ''685,700'' |bgcolor="#f0f0ff"|43.74% ''536,479'' |- |bgcolor="#fff3f3"|[[1980年アメリカ合衆国大統領選挙|1980年]] |bgcolor="#fff3f3"|'''48.33%''' ''571,044'' |bgcolor="#f0f0ff"|38.67% ''456,890'' |- |bgcolor="#fff3f3"|[[1976年アメリカ合衆国大統領選挙|1976年]] |bgcolor="#fff3f3"|'''47.78%''' ''492,120'' |bgcolor="#f0f0ff"|47.62% ''490,407'' |- |bgcolor="#fff3f3"|[[1972年アメリカ合衆国大統領選挙|1972年]] |bgcolor="#fff3f3"|'''52.45%''' ''486,686'' |bgcolor="#f0f0ff"|42.33% ''392,760'' |- |bgcolor="#fff3f3"|[[1968年アメリカ合衆国大統領選挙|1968年]] |bgcolor="#fff3f3"|'''49.83%''' ''408,433'' |bgcolor="#f0f0ff"|43.78% ''358,866'' |- |bgcolor="#f0f0ff"|[[1964年アメリカ合衆国大統領選挙|1964年]] |bgcolor="#fff3f3"|35.96% ''282,779'' |bgcolor="#f0f0ff"|'''63.72%''' ''501,017'' |- |bgcolor="#fff3f3"|[[1960年アメリカ合衆国大統領選挙|1960年]] |bgcolor="#fff3f3"|'''52.56%''' ''408,060'' |bgcolor="#f0f0ff"|47.32% ''367,402'' |- |bgcolor="#fff3f3"|[[1956年アメリカ合衆国大統領選挙|1956年]] |bgcolor="#fff3f3"|'''55.25%''' ''406,393'' |bgcolor="#f0f0ff"|44.75% ''329,204'' |- |bgcolor="#fff3f3"|[[1952年アメリカ合衆国大統領選挙|1952年]] |bgcolor="#fff3f3"|'''60.54%''' ''420,815'' |bgcolor="#f0f0ff"|38.93% ''270,579'' |} オレゴン州は政治的にカスケード山脈で分かれ、西部はリベラルで東部は保守的と考えられている。[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙]]を政治分析家が2008年に分析した結果では、リッカート尺度で最もリベラルと最も[[アメリカ合衆国の保守主義|保守的]]な有権者が居り、合衆国の中でも最も政治的に両極化した州となった<ref>{{cite news|url=http://www.fivethirtyeight.com/2008/05/oregon-swing-state-or-latte-drinking.html|agency=FiveThirtyEight.com|first=Nate|last=Silver|authorlink=Nate Silver|title=Oregon:Swing state or latte-drinking, Prius-driving lesbian commune?|date=2008-05-17}}</ref>。 オレゴン州史の中では[[進歩主義時代 (アメリカ合衆国)|革新の時代]]にウィリアム・S・ユーレンとその直接政治同盟の努力によって多くの選挙制度改革を採用してきた。その指導の下に、市民が提案法あるいは州憲法への改定案を提案あるいは承認するために発議権や住民投票を創設した1902年の住民投票案件を圧倒的多数で承認した。このような仕組みを採用したことではオレゴン州が最初の州になった。今日、約半数の州がこれに倣っている<ref>{{cite web|url = http://www.iandrinstitute.org/statewide_i&r.htm|publisher = State Initiative & Referendum Institute at USC|title = State Initiative and Referendum Summary|accessdate = 2006-11-27}}</ref>。 その後、1904年に政党候補者を選ぶ[[予備選挙]]が導入され、1908年には州憲法に公職の[[国民解職#アメリカ合衆国|リコール]]を含む修正が施された。最近の修正では、国内初の医師による自殺幇助法がある<ref>{{cite web|title = Eighth Annual Report on Oregon’s Death with Dignity Act|publisher = Oregon Department of Human Services|date = 2006-03-09|url = http://www.oregon.gov/DHS/ph/pas/docs/year8.pdf|format = PDF|accessdate = 2007-06-11}}</ref>。これは[[尊厳死]]法と呼ばれ、2005年にブッシュ政権から異議申し立てを受けたが、アメリカ合衆国最高裁判所の審問で却下された。その他薬用[[大麻]]の合法化、および国内でも最強の反都市空洞化と環境保護法の修正が行われた。2004年のメジャー37は土地使用法に対する反動を反映している。しかし、2007年に行われた住民投票でメジャー37の多くの条項が削除された。 1902年以降に行われた住民投票では、発議権288のうち99件、住民投票61件のうち25件が成立したが、その全てが裁判所での異議申し立てに成功したわけではなかった。これと同じ期間に議会は363の提案を行い、そのうち206件が成立した。 オレゴン州は[[不在者投票制度|不在者投票]]を採用したことでも国内の先駆けであり、1981年にオレゴン州議会で実験的に承認され、1988年の住民投票では全郡が郵送投票を行うことを義務化した。郵送投票が唯一の投票手段であるのはオレゴン州のみである<ref>[http://www.co.multnomah.or.us/dbcs/elections/election_information/voting_in_oregon.shtml "Voting In Oregon - Vote By Mail."] Multnomah County, Oregon.</ref>。 1994年にジョン・キッツハーバー知事の指導で、オレゴン・ヘルスプランと呼ばれる有効的な健康管理プログラムを採用したことでも最初の州になった。このことで民間の健康保険が無い市民でもその大半が医療を受けられるようになった。 大統領選挙の選挙人は7人が割り当てられている。オレゴン州は過去6回の大統領選挙で民主党候補を選んでいる。2008年の場合、[[バラク・オバマ]]は投票総数の56%以上を獲得し、16%の差を付けた。 2020年の一般選挙で、オレゴン州の有権者は、ストリートドラッグと呼ばれるコカインやヘロインなどのハードドラッグを含む、多くの薬物の少量の所持を非犯罪化する法案(第110法案)を可決した。同じ選挙で別の法案、シロシビンマッシュルームサービスプログラム(第109法案)も可決。多くの少量ドラッグ非犯罪化も、シロシビンマッシュルーム合法化も、全米で初めて州レベルで可決した州となった。 ==人口動態== {{USCensusPop |1850=12093 |1860=52465 |1870=90923 |1880=174768 |1890=317704 |1900=413536 |1910=672765 |1920=783389 |1930=953786 |1940=1089684 |1950=1521341 |1960=1768687 |1970=2091533 |1980=2633156 |1990=2842321 |2000=3421399 |2010=3831074 |2020=4237256 |footnote= U.S. Census Bureau<ref name="historical census data">{{cite web|url=http://www.census.gov/dmd/www/resapport/states/oregon.pdf|title=Oregon|date=2000-12-27|work=Resident Population and Apportionment of the U.S. House of Representatives|publisher=U.S. Census Bureau|accessdate=2009-08-28}}</ref> }} [[ファイル:Oregoncartogram.png|thumb|left|郡人口統計]] 2020年国勢調査時点でのオレゴン州の人口は4,237,256人で、2010年と比較すると406,182人、10.60%増加した。人口密度は17.0人/km<sup>2</sup>である。 '''人種''' この州の人種的な構成は次の通りである。ヒスパニック以外の数値はヒスパニック系を含まないものである。 *78.5% [[白人]] *11.7% [[ヒスパニック]] *1.7% [[黒人]] *3.6% [[アジア系アメリカ人|アジア人]] *1.1% [[インディアン]] *0.3% 太平洋諸島系 *0.1% その他の人種 *2.9% 混血 オレゴン州の人口の22.6%が18未満、77.4%は18歳以上である。 オレゴン州の[[人口重心]]は[[リン郡 (オレゴン州)|リン郡]]の[[ライアンズ (オレゴン州)|ライアンズ]]にある<ref>{{cite web|title = Population and Population Centers by State:2000|publisher = U.S. Census Bureau|url = http://www.census.gov/geo/www/cenpop/statecenters.txt|accessdate = 2006-11-23}}</ref>。州人口の57%以上がポートランド都市圏に住んでいる<ref>{{cite web|title=JULY 1, 2006 Population estimates for Metropolitan Combined Statistical Areas|publisher=U.S. Census Bureau|url=http://www.census.gov/population/www/estimates/metro_general/2006/CBSA-EST2006-01.csv|format=csv|accessdate=2007-10-19|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070920212740/http://www.census.gov/population/www/estimates/metro_general/2006/CBSA-EST2006-01.csv|archivedate = 2007-09-20}}</ref>。 2004年現在、オレゴン州人口には309,700人の外国生まれ (州人口の8.7%)が含まれる。 [[ファイル:Oregon Population Growth by County.png|thumb|right|郡別の人口成長率、2000年–2007年。緑色の郡は全国平均を上回っている。紫色に塗った郡はそれより少なく、減少している郡もある]] オレゴン州の人口を先祖で分類すると以下のようになる<ref>[http://factfinder.census.gov/servlet/ADPTable?_bm=y&-context=adp&-qr_name=ACS_2008_3YR_G00_DP3YR2&-ds_name=ACS_2008_3YR_G00_&-tree_id=3308&-redoLog=false&-_caller=geoselect&-geo_id=04000US41&-format=&-_lang=en "2006-2008 American Community Survey 3-year estimates."] U.S. Census Bureau.</ref> *22.5% [[ドイツ系アメリカ人]] *14.0% [[イングランド系アメリカ人]] *13.2% [[アイルランド系アメリカ人]] *8.4% [[スカンディナヴィア]]系アメリカ人:(1.2% [[デンマーク系アメリカ人]]、3.1% [[スウェーデン系アメリカ人]]、4.1% [[ノルウェー]]系) *5.0% [[アメリカ人]] *3.9% [[フランス系アメリカ人]] *3.7% [[イタリア系アメリカ人]] *3.6% [[スコットランド系アメリカ人]] *2.7% スコットランド・アイルランド系アメリカ人 *2.6% [[オランダ系アメリカ人]] *1.9% [[ポーランド系アメリカ人]] *1.4% [[ロシア系アメリカ人]] *1.1% [[ウェールズ]]系アメリカ人 州人口の約62%が全てまたは部分的にイングランド、ウェールズ、アイルランドあるいはスコットランド系となる。州内の郡の大半は主に北西ヨーロッパの出身者が住んでいる。[[マルヒュア郡 (オレゴン州)|マルヒュア郡]]と[[ジェファーソン郡 (オレゴン州)|ジェファーソン郡]]には[[メキシコ]]系アメリカ人が集中している。 === 将来予測 === アメリカ合衆国国勢調査局による将来予測では、オレゴン州人口は2030年までに4,833,918人に増加する。2000年と比べて41.3%の増加である<ref>{{cite web|url=http://www.census.gov/population/projections/SummaryTabA1.pdf|title=Interim Projections of the Total Population for the United States and States:April 1, 2000 to July 1, 2030|author=[[United States Census Bureau]]|date=2005-04-21|accessdate=2010-08-18}}</ref>。州独自の予測では2040年に5,425,408人となるとされている<ref>{{cite web|url=http://www.oregon.gov/DAS/OEA/docs/demographic/pop_components.xls|title=State and County Population Forecasts and Components of Change, 2000 to 2040|author=Office of Economic Analysis|publisher=Oregon Department of Administrative Services|date=April 2004|accessdate=2010-08-25}}</ref>。 === 宗教 === オレゴン州の人々の宗教別人口構成は次のようになっている<ref>[http://religions.pewforum.org/maps "U.S. Religious Landscape Survey."] The Pew Forum on Religion & Public Life. Retrieved 2010-02-05.</ref>。 *[[キリスト教]] – 67% **[[プロテスタント]] – 47% ***[[福音主義]]派 - 30% ***[[メインライン・プロテスタント|メインライン]] - 16% ***その他のプロテスタント - 1% **[[カトリック教会|ローマ・カトリック]] – 14% **[[モルモン教]] – 5% **他のキリスト教 – 1% *無宗教 – 27% *[[仏教]] - 2% *[[ユダヤ教]] - 1% *[[イスラム教]] - 1% *他の宗教 – 2% 2000年時点で最大の会派は信徒数348,239人の[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]である。[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]は104,312人、[[アッセンブリーズ・オブ・ゴッド]]は49,357人だった<ref>[http://www.thearda.com/mapsReports/reports/state/41_2000.asp "State membership report- Oregon."] The Association of Religion Data Archives.</ref>。 2009年の[[ギャラップ (企業)|ギャラップ]]調査で、オレゴン州人口の69%はキリスト教徒と自称した<ref>Newport, Frank (7 August 2009). [http://www.gallup.com/poll/122075/Religious-Identity-States-Differ-Widely.aspx#2 "Religious identity:States differ widely."] Gallup. Retrieved 2009-12-23.</ref>。残りの中で最大は無宗教である。2008年のアメリカ宗派別調査では[[ネバダ州]]と並んで無宗教の人口比率が24%と最大の州になった<ref>Kosmin, Barry A.;Keysar, Ariela. [http://www.americanreligionsurvey-aris.org/reports/ARIS_Report_2008.pdf "American Religious Identification Survey."] Hartford:Trinity College. Retrieved 2009-12-23.</ref><ref>Kosmin, Barry A.;Keysar, Ariela with Cragun, Ryan;Navarro-Rivera, Juhem. [http://www.americanreligionsurvey-aris.org/reports/NONES_08.pdf "American nones:The profile of the no religion population."] Hartford:Trinity College. Retrieved 2009-12-23.</ref>。 1990年代の大半で、キリスト教徒の保守的なグループがオレゴン市民同盟を設立し、公立学校で「ゲイに対する気配り訓練」を行うことと同性のカップルに法的恩恵を与えることを阻止する法案を通そうとしたが失敗した。 州内にはアメリカ合衆国では最大のロシア人の[[古儀式派|オールドビリーバー]]のコミュニティがある<ref>Binus, Joshua. [http://www.ohs.org/education/oregonhistory/historical_records/dspDocument.cfm?doc_ID=764E6BED-FFC4-C034-9A5563F41CE37080 "The Oregon History Project:Russian Old Believers."] Oregon Historical Society. Retrieved on March 14, 2008.</ref>。北西部チベット文化協会がポートランドに本部を置き、[[ニューエイジ]]の映画『What the Bleep Do We Know!?』はポートランドで撮影され、封切られた。[[イスラム教]]徒は6,000ないし10,000人がいると推計されている。 ==インディアン部族== [[ファイル:Americanindiansmapcensusbureau.gif|250px|left|thumb|オレゴン州のインディアン保留地]] [[アハンチュユク族]]、[[アルシー族]]、[[アトファラチ族]]、[[カラプーヤ族]]、[[バンノック族]]、[[カイユース族]]、[[チャスタコスタ族]]、[[チェラメラ族]]、[[チェペナファ族]]、[[チェトコ族]]、[[クラッカマス族]]、[[クラチュカニー族]]、[[クラトソプ族]]、[[クロウウェワラ族]]、[[ダクベテデ族]]、[[ハニス族]]、[[クラマス族]]、[[クイッチュ族]]、[[ラトガワ族]]、[[ロヒム族]]、[[ルキアミュート族]]、[[ミルーク族]]、[[ミシキュメチュンネ族]]、[[モードック族]]、[[モララ族]]、[[マルトモナー族]]、[[ナルチュンネチュンネ族]]、[[ネ・ペルセ|ネ・ペルセ族]]、[[サンチーム族]]、北[[パイユート族]]、[[シャスタ族]]、[[シレツ族]]、[[シウスロー族]]、[[スキルート族]]、[[タケルマ族]]、[[タルツシュツンツデ族]]、[[テニノ族]]、[[チラムーク族]]、[[ツツトニ族]]、[[タイー族]]、[[ウンプクア族]]、[[ユーマティラ族]][[ワラワラ族]]、[[ワルパピ族]]、[[ワスコ族]]、[[ワトララ族]]、[[ヤフスキン族]]、[[ヤメル族]]、[[ヤクイナ族]]、[[ヨンカラ族]]といった[[インディアン]]部族が先住する。ほとんどがロウグ川などの沿岸に住み、鮭漁を中心とする漁猟民である。 アメリカ連邦政府が1850年代以降に、数部族をまとめて一つの[[インディアン居留地|保留地]](Reservation)に押し込む、という[[民族浄化]]施政を行い、「[[インディアン戦争]]」を引き起こしている。 なかでも「[[モードック戦争]]」は、強制移住を拒否して溶岩地帯に立て篭もったモードック族戦士が[[エドワード・キャンビー]]将軍を射殺し、インディアンと白人の戦いの中で白人の将軍職が殉職した、アメリカ史上最初で最後の戦いとなった。戦いを率いたモードック族のキエントプース(キャプテン・ジャック)は縛り首にされ、その遺体は防腐処置を施されて、東部でたったの10セントで見世物にされた。 4つの部族が連邦政府から「絶滅部族」として部族認定を取り消されて保留地を没収され、再認定を巡って係争中である。 ≪アメリカ連邦政府が公式認定しているインディアン部族≫ {{col-begin}} {{col-2}} *「グランド・ロンド部族会議」 **「[[シャスタ族]]」 **「[[カラプヤ族]]」 **「[[モララ族]]」 **「[[ローグリバー族]]」 ***「[[ラトガワ族]]」 ***「[[タケルマ族]]」 ***「シャスタ族」 **「コクウィル族」 **「[[ウンプクア族]]」 *「ウォーム・スプリング保留地部族連合」 **「ウォーム・スプリング・インディアン」 **「北部[[パイユート族]]」 **「[[ワスコ族]]」 {{col-2}} *「クラマス連合」 **「[[クラマス族]]」 **「[[モードック族]]」 **「スネークインディアン([[ショーショーニー族]])ヤフースキン・バンド」 **「[[チロクイン族]]」 **「[[クラトソップ・ネハレム部族連合]]」 *「[[シレツ族]]」 *「クース・ローワー・ウンプクア族&[[シウスロー族]]連合」 *「バーンズ・パイユート族」 *「ユーマティラ・インディアン保留地部族連合」 **「[[カイユース族]]」 **「[[ユーマティラ族]]」 **「[[ワラワラ族]]」 *「[[コクゥイル族]]北部バンド」 *「ウンプクア族・牝牛の渓流バンド」 {{col-end}} ≪アメリカ連邦政府が公式認定していないインディアン部族≫ *「[[トロワ・ツツトニ族]]」 *「南東[[チェロキー族]]連合・南西チェロキー狼の氏族」 *「[[チェトコ族]]」 *「[[チヌーク族]] [[ファイル:Seven Feathers Hotel and Casino - Casino panorama - Canyonville Oregon.jpg|350px|thumb|right|「七枚の羽根のホテル&カジノリゾート」]] [[ファイル:Chinookwinds.jpg|250px|thumb|right|「チヌーク風のカジノ&協議会センター」]] ===インディアン・カジノ=== オレゴン州の「インディアン・カジノ」は、現在のところ以下の9つ。今後さらに増える見込みである。 *「コクウィル族」 **「ザ・ミル・カジノ&ホテル」 *「ウンプクア族・牝牛の渓流バンド」 **「七枚の羽根のホテル&カジノリゾート」 *「バーンズ・パイユート族」 **「古い野営のカジノ」 *「ウォーム・スプリング保留地部族連合」 **「カー=ネー=タ高地沙漠のリゾート&カジノ」 *「クラマス族」 **「クラ=モ=ヤ・カジノ」 *「クース・ローワー・ウンプクア族&シウスロー族連合」 **「三つの川のカジノ&リゾート」 *「シレツ・インディアン部族連合」 **「チヌーク風のカジノ&協議会センター」 *「グランド・ロンド部族会議」 **「精霊の山のカジノ」 *「ユーマティラ・インディアン保留地部族連合」 **「野生馬のリゾート&カジノ」 ==経済== {{main|[[オレゴン州の経済]]}} [[ファイル:Grass seed warehouse.jpg|thumb|ハルゼーの穀物エレベーター、州内最大の生産量を誇る草の種を貯蔵している]] オレゴン州の州内総生産は2008年時点で1,616億ドルであり、アメリカ合衆国の州では第26位となった。同年の一人あたり収入は38,801ドルである<ref>[http://www.bea.gov/regional/gsp/ "Gross domestic product by state."] Bureau of Economic Analysis.</ref>。ウィラメットバレーの土地はミズーラ洪水でモンタナ州西部のミズーラ氷湖から運ばれた堆積物によって肥沃になった<ref name=chapter24>McNab, W. Henry;Avers, Peter E (July 1994). [http://www.fs.fed.us/land/pubs/ecoregions/ ''Ecological Subregions of the United States.'' Chapter 24.] U.S. Forest Service and Dept. of Agriculture.</ref>。 [[ヘーゼルナッツ]]の生産では世界の4大生産地域の1つであり、国内の95%を生産している。ワインの生産は禁酒法時代以前に遡り、1970年代には重要な産業になった。2005年には303か所のワイン醸造所があり、その数では国内第3位である。フランスの[[アルザスワイン|アルザス]]や[[ブルゴーニュワイン|ブルゴーニュ]]地方に気候や土壌が似ていることから、同じような品種のブドウが栽培されている。 南部海岸地域では[[クランベリー]]が栽培され、その生産高は国内の7%である。州内農製品の中では23位になっている。2006年から2008年に毎年4,000ないし4,900万ポンド (18,000 - 22.000トン)のベリーを生産した。クランベリーの栽培には、海岸都市バンドンを中心にクーズ郡南部とカリー郡北部の土地約27,000エーカー (108 km{{sup|2}}) が使われている。 州北東部の特にペンドルトン周辺では、水生と陸生の小麦が育てられている。酪農では牛、羊、酪製品、卵、鶏肉が生産されている。 広大な森林があることで国内最大級の製材業と林業があるが、山火事、過伐採、および連邦政府所有森林の管理に関する訴訟のために、生産量が落ちてきた。オレゴン森林資源大学に拠れば、1989年から2001年の間に連邦政府所有森林から切り出された木材は43億3,300万ボードフィート (10,000,000&nbsp;m<sup>3</sup>) から1億7,300万ボードフィート (408,000&nbsp;m<sup>3</sup>) と96%も減少した。ただし私有林の収穫量は比較的一定である<ref>{{cite web|url=http://www.oregonforests.org/factbook/Harvest_History(24).html|title=Oregon Forest Facts:25-Year Harvest History|publisher=Oregon Forest Resources Institute|accessdate=2007-03-07}}</ref>。 近年に紙や建材といった最終製品に移行してきたとしても、州内製材業の衰退を食い止めることはできなかった。その結果として2002年1月にポートランドに本拠を置くウィラメット・インダストリーズが[[ウェアーハウザー]]に買収され、ルイジアナ・パシフィック社の本社がポートランドから[[テネシー州]][[ナッシュビル]]に移転し、ギルクリストのような元の製材[[企業城下町]]が衰退した。このような変化にも拘わらず、オレゴン州は軟材の生産高では2001年時点で60億5,600万ボードフィート(14,000,000 m<sup>3</sup>) と国内最大である。2位はワシントン州の42億5,700万ボードフィート(10,050,000 m<sup>3</sup>)、以下カリフォルニア州、[[ジョージア州]]、[[ミシシッピ州]]と続いている<ref>{{cite web|title=Forest Economics and Employment|publisher=Oregon Forest Resources Institute|url=http://www.oregonforests.org/factbook/economics(29_30).html|accessdate=2007-03-08}}</ref>。林業と製材産業の停滞によって田園部の失業率を増加させた<ref name="referencedesk">[http://www.e-referencedesk.com/resources/state-economy/oregon.html "Oregon economy"]. e-ReferenceDesk. Retrieved 2010-11-05.</ref>。 ===主な会社など=== オレゴン州に本拠地のある企業には右表のようなものがある。 {|class="wikitable floatright" |+オレゴン州に本社を置く民間企業10傑<ref>{{cite news|title = Bright spots amid the turmoil|publisher = ''The Oregonian''|page= D3|date = 2008-01-01|url = http://www.oregonlive.com/business/oregonian/index.ssf?/base/business/1199161505105830.xml&coll=7|accessdate = 2007-01-01}}</ref> |- !会社名||本社の位置||[[時価総額]](100万ドル) |- |1. [[ナイキ]]||[[ビーバートン (オレゴン州)|ビーバートン]]近く||$32,039 |- |2. プレシジョン・キャストパーツ||ポートランド||$16,158 |- |3. FLIRシステムズ||ウィルソンビル||$4,250 |- |4. スタンコープ・ファイナンシャル・グループ||ポートランド||$2,495 |- |5. シュニッツァー製鋼||ポートランド||$1,974 |- |6. ポートランド・ゼネラルエレクトリック||ポートランド||$1,737 |- |7. [[コロンビア・スポーツウェア]]||ビーバートン近く||$1,593 |- |8. ノースウェスト天然ガス||ポートランド||$1,287 |- |9. [[メンター・グラフィックス]]||ウィルソンビル||$976 |- |10. トリクィント・セミコンダクター||[[ヒルズボロ (オレゴン州)|ヒルズボロ]]||$938 |} 1970年代以降、ハイテク産業とサービス業が主要な雇用主になっている。[[テクトロニクス]]は1980年代後半まで州内最大の民間雇用主だった。[[ワシントン郡 (オレゴン州)|ワシントン郡]]東部で[[インテル]]が幾つかの施設を建設し拡張したことで、テクトロニクスが始めた成長を引き継いだ。インテルは州内最大の営利民間企業であり、4つの施設を運営しており、ロンラーエーカーズ、ジョーンズファームおよびホーソーンファームは全て[[ヒルズボロ (オレゴン州)|ヒルズボロ]]にある<ref>{{cite news|url=http://www.oregonlive.com/business/index.ssf/2009/01/intel_profits_slide_company_un.html|title=Intel profits slide, company uncertain about outlook|last=Rogoway|first=Mike|date=2009-01-15|work=The Oregonian|accessdate=2009-01-16}}</ref>。インテルは2008年まで州内最大の雇用主だったが、その後は2009年1月から非営利のプロビデンス・ヘルス・アンド・サービスに入れ替わった<ref>{{cite web|title=Oregon's largest private employer|url=http://blog.oregonlive.com/siliconforest/2009/01/oregons_largest_private_employ.html|first=Mike|last=Rogoway|publisher=The Oregonian|accessdate=2011-01-25}}</ref>。 テクトロニクスとインテルからのスピンオフや新規起業社がいわゆるシリコン・フォレストと呼ばれる地域を作ることになった。2001年の不況と[[インターネット・バブル]]の崩壊がこの地域を厳しく襲った。多くのハイテク企業が従業員を削減するか、事業を畳んだ。オープンソース・デベロプメント・ラブズ ([[Open Source Development Labs]]) が[[Linuxカーネル]]の開発者[[リーナス・トーバルズ]]を2004年に雇用したときはニュースになった。[[バイオテクノロジー]]の巨大企業[[ジェネンテック]]がヒルズボロで土地を購入し、その生産能力を拡大した<ref>{{cite web|title = Genentech Selects Hillsboro|publisher = Hillsboro Chamber of Commerce|url = http://www.hillchamber.org/memberservices/in_the_news.asp#Genentech|accessdate = 2007-03-21 }}</ref>。オレゴンは安い労賃を活かし、州中部の気候から冷房費を減らせることもあって、大型の[[データセンター]]が幾つかある。[[Google]]はザ・ダルズにデータセンターを持ち、[[Facebook]] はプラインビルに建設している。[[Amazon.com]]はボードマンでデータセンター建設を再開した。 他の産業分野でも大企業がある。[[ナイキ]]の世界本社が[[ビーバートン (オレゴン州)|ビーバートン]]の中にある。ナイキとビーバートン市の訴訟により、2040年まではビーバートン市の一部にナイキキャンパスが編入されないという判決がある。ナイキは住所としてはビーバートン市住所を持っているが、ビーバートン市内ではないので、市の税金や条例には関わっていない<ref>{{cite web|title = Beaverton hopes repaired relationship with Nike will help city's future|publisher = The Oregonian|url = https://www.oregonlive.com/beaverton/2013/04/beaverton_hopes_repaired_relat.html|accessdate = 2021-10-05 }}</ref>。幾つかのブランドでギフト用品を販売するハリー・アンド・デビッドがメドフォードにある。メドフォードにはまたフォーチュン1000に入っているリチアモーターズの国内本社がある。ポートランドには西部最大級の一般書出版社グラフィックアーツ・センター・パブリッシングや、大型トラックの製造会社[[フレイトライナー・トラックス]]、[[チェーンソー]]部品において世界的シェアを占める[[オレゴン・ツール]]がある。 オレゴン州は[[サケ]]の漁獲では世界最大級であるが、海洋漁業が増えて、川の漁業は減ってきた。[[観光]]業も強力な産業である。常緑の山岳森林、滝、[[クレーターレイク国立公園]]など原始のままの湖、および景観の良い海浜が一年中観光客を惹き付けている。アシュランドで開催されるオレゴン・シェイクスピア祭が観客を呼んでおり、州南部の景観美やアウトドア活動を引き立たせている。 [[ファイル:Craft Breweries Per Capita (US).svg|thumb|200px|オレゴン州は一人当たり地ビール醸造所の数で全国4位である]] オレゴン州には多くのビール醸造所があり、ポートランドはその数で世界最大の都市である<ref>{{cite web|title = Oregon's Beer Week gets under way.|publisher = Knight-Ridder Tribune News Service|url = http://goliath.ecnext.com/coms2/gi_0198-242714/Oregon-s-Beer-Week-gets.html|date = 2005-07-05|accessdate = 2007-10-22}}</ref>。 ポートランドには[[ラスベガス]]や[[サンフランシスコ]]よりも一人当たりのストリップクラブの数が多いといわれている<ref>{{cite web|last = Moore|first = Adam S.|coauthors = Beck, Byron|title = Bump and grind|publisher = ''Willamette Week''|date = 2004-11-08|url = http://www.wweek.com/story.php?story=6093|accessdate = 2007-02-01}}</ref>。 2011年4月時点でオレゴン州の失業率は9.5%である<REF>https://www.google.com/publicdata?ds=usunemployment&met_y=unemployment_rate&idim=state:ST410000&dl=en&hl=en&q=oregon+unemployment+rate</REF>。 ===税金と予算=== オレゴン州は州予算を2年ごとに作成しており、2007年の年間予算は424億ドルだった。これには一般資金、連邦資金、宝くじ資金などの資金が含まれている。個人の[[所得税]]が一般資金の88%になる。宝くじ資金は1984年に創設が認められて以来着実に増加しており、2007年には計画値を超えて6億400万ドルになった<ref>{{cite news|last=Har|first=Janie|title=Your loss is state's record game|url=http://0-docs.newsbank.com.catalog.multcolib.org/openurl?ctx_ver=z39.88-2004&rft_id=info:sid/iw.newsbank.com:NewsBank:ORGB&rft_val_format=info:ofi/fmt:kev:mtx:ctx&rft_dat=119E94A840D2FBB8&svc_dat=InfoWeb:aggregated4&req_dat=0D10F2CADB4B24C0|work=The Oregonian|date=2007-06-20|accessdate= 2007-06-20}}</ref>。 オレゴン州は[[消費税]]が無いことでは全米5州の1つである。有権者は常に消費税に反対して来ており、提案された9回の投票で悉く却下してきた。最新の提案は1993年にあったが、反対72%、賛成24%で却下された。 また[[法人税]]は年間最小10ドルであり、その総額が2005年から2007年の2年間予算では一般資金の5.6%になっている。どの事業が最小値を払っているかについては公開されていない<ref>{{cite news|last=Sheketoff|first=Charles|title=As Maryland Goes, So Should Oregon|url=http://salem-news.com/articles/march272007/oregon_mrlnd_32707.php|work=Salem News|date=2007-03-27|accessdate=2007-06-10}}</ref>。その結果、州はその歳入を[[資産税]]と所得税に頼っている。国内では所得税が高い方から5番目の州である。アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、2005年の1人当たり税額では50州の中で第41位になっている<ref name=percapita>{{cite web|title = Oregon ranks 41st in taxes per capita|publisher = Portland Business Journal|url = http://www.bizjournals.com/portland/stories/2006/03/27/daily28.html|date=2006-03-31|accessdate = 2007-06-10}}</ref>。平均税額Astruxh1,791.45ドルであり、他の9州より高いだけである<ref name=percapita/>。 幾つかの地方政府はサービスに消費税を課している。例えばアシュランド市は調理済み食材に5%の消費税を課している<ref>{{cite web|title = Food and Beverage Tax|publisher = City of Ashland|url = http://www.ashland.or.us/Page.asp?NavID=9180|accessdate = 2007-06-10}}</ref>。 オレゴン州は歳入制限がある6州の1つである<ref>{{cite web|title = Oregon's 2% Kicker|work=Oregon State Leglislative Review Office|url = http://www.leg.state.or.us/comm/lro/rr02-07.pdf|format = [[PDF]]|accessdate = 2007-06-10}}</ref>。「キッカー法」では、所得税が経済学者の予測を2%以上超過したとき、超過分は納税者に返却されることを規定している<ref>{{cite web|first = Brad|last = Cain|title = Kicker tax rebate eyed to help school and state budgets|publisher = KATU.com|date = 2006-03-02|url = http://www.katu.com/news/3617476.html|accessdate = 2006-06-10}}</ref>。この法を1979年に執行して以来。11回あった2年間予算のうち7回は返済が発生した<ref>{{cite web|title = 2 Percent Surplus Refund (Kicker) History|publisher = State of Oregon|url = http://www.oregon.gov/DOR/NEWS/docs/kicker.pdf|format = PDF|accessdate = 2007-06-10}}</ref>。2000年の住民投票でキッカー法を州法から州憲法に転換し、その規定の幾つかを変更した。 国有林の伐採が1990年代に制限されたときに木材収入に代わって認められた郡政府への連邦資金は、数年間の中断の恐れがあった。この問題は基本的なサービスを提供することに対する支払に頼るようになっていた田園部の郡にとって、将来の収入に大きな関わりがある<ref>{{cite news|last=Cooper|first=Matt|title=County may scrub income tax|publisher = ''The Register-Guard''|url=http://www2.registerguard.com/cms/index.php/static/search/archive/?q=County+may+scrub+income+tax|date=2007-03-09|accessdate=2007-03-09}}</ref>。 州政府の支出のうち、55%は公共教育に、23%は個人サービス(子供の保護、低所得者向け医療費補助、老人介護)に、17%は公共の安全に、5%がその他のサービスに遣われている<ref>[http://www.oregon.gov/DOR/PERTAX/docs/2006Forms/101-043-06.pdf "2006 Oregon full-year resident tax form instructions."] Oregon.Gov.</ref>。 ==教育== [[ファイル:Oregon State University clock tower.jpg|thumb|210px|オレゴン州立大学の時計台]] ===初等中等教育=== 2005年時点で州内の初等中等教育を受けている児童・生徒は559,215人居た。20の教育サービス地区が管轄する199の公立教育学区がある。2007年時点で大きな教育学区はポートランド公立教育学区(生徒数46,262人)、セイラム・カイザー教育学区(同40,106人)、ビーバートン教育学区(同37,821人)、ヒルズボロ教育学区(同20,401人)、ユージーン教育学区(同18,025人)である。 ===単科及び総合大学=== {{see also|[[:en:List of colleges and universities in Oregon]]|オレゴン大学システム|[[:en:List of community colleges in Oregon]]}} [[ファイル:Memorial Union at Oregon State University.jpg|thumb|left|オレゴン州立大学のメモリアルユニオン]] ====公立大学==== *[[オレゴン大学システム]]は2015年に解体された。 [[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]に本部を置く[[オレゴン大学]]は、オレゴン州の[[リベラル・アーツ]]教育の旗艦校であり<ref>{{cite news|last=Wood|first=Shelby Oppel|title=UO weighs new diversity plan amid simmering racial tensions|url=http://www.oregonlive.com/search/oregonian/|work=The Oregonian|date=2006-05-01}}</ref>、「[[USニューズ&ワールド・レポート]]」誌が全国の大学評価リストに入れたオレゴン州では唯一の大学である<ref>[http://colleges.usnews.rankingsandreviews.com/usnews/edu/college/rankings/brief/t1natudoc_brief.php USNews.com:America's Best Colleges 2008:National Universities:Best Schools]</ref>。[[コーバリス (オレゴン州)|コーバリス]]に本部を置く[[オレゴン州立大学]]は科学、工学および農学では上位にランクされる研究開発型の旗艦校という特徴がある。この大学は学術的真価の世界的研究では高位にランクされる大学でもある。 また、モンマスに本部を置く[[西オレゴン大学]]、アシュランドに本部を置く[[南オレゴン大学]]、及びラ・グランデに本部を置く[[東オレゴン大学]]の3つの地域大学を有している。オレゴン州で最大の都市であるポートランドには[[ポートランド州立大学]]が都市大学として、[[オレゴン健康科学大学]] (OHSU) が医学専門学校として存在し、クラマス・フォールズには[[オレゴン工科大学]]がキャンパスを構えている。OHSU はオレゴン大学と共同で内科医教育を行っている。この大学はザ・メド・スクール100による調査でアメリカ合衆国医学校第2位にランクされた<ref>[http://whichuniversitybest.blogspot.com/2010/03/ohsu-school-of-medicine.html Good University Ranking Guide]</ref>。この他ヒルズボロに科学・工学学校がある。 オレゴン州は歴史的に高等教育の財源確保に努めてきたが、現在のオレゴン州は5年以上前からの高等教育予算削減により、学生一人当たりに費やす教育予算ではアメリカ合衆国内で46番目に位置している。しかし、2007年議会は年3%と授業料値上げを強制し、[[オレゴン州立大学]]には州知事の要請以上に資金を割り当てた。 また州は17の[[コミュニティ・カレッジ]]も支援している。 ====私立大学==== オレゴン州には多様な私立大学も存在している。カトリック系大学の[[ポートランド大学]]や[[メリルハースト大学]]の他、リード・カレッジ、コンコーディア大学、ルイス・アンド・クラーク・カレッジ、マルトノマー・バイブル・カレッジ、ポートランド・バイブル・カレッジ、[[ワーナー・パシフィック大学]]、カスケード・カレッジ、ナショナル自然薬品カレッジおよび神学系大学院大学であるウェスタン・セミナリーもポートランドに本部を置く。[[パシフィック大学 (オレゴン州)|パシフィック大学]]はポートランド郊外の[[フォレストグローヴ (オレゴン州)|フォレストグローブ]]に本部を置いている。 ウィラメットバレー南部にも私立大学がある。マクミンビル市には[[リンフィールド・カレッジ]]、その近くのニューバーグ市に[[ジョージフォックス大学]]が存在する。州都セイラム市には[[ウィラメット大学]](オレゴン州が暫定政府の時代に設立された州内最古の大学)及び[[コーバン大学]]の2つの私立大学が本部を置く。セイラムの近くにはアメリカ最大級のローマ・カトリック系神学校である[[マウントエンジェル修道院|マウントエンジェル・セミナリー]]がある。ユージーン市にはオレゴン大学の他にもノースウェスト・クリスチャン大学、ユージーン・バイブル・カレッジおよびグーテンベルグ・カレッジのキャンパスが置かれている。 ==芸術・文化== ===映画・テレビ=== オレゴン州では多くの映画が撮影されている。例えば1975年の『[[オレゴン魂]]』、1978年の『[[アニマル・ハウス]]』、1985年の『[[グーニーズ]]』(オレゴン北西部の海沿いの町[[アストリア (オレゴン州)|アストリア]]を舞台)、1986年の『[[スタンド・バイ・ミー]]』([[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]]近郊[[ブラウンズビル (オレゴン州)|ブラウンズビル]]で撮影)、1990年の『[[キンダガートン・コップ]]』、1994年の『[[激流 (1994年の映画)|激流]]』、2003年の『[[ハンテッド (2003年の映画)|ハンテッド]]』、2008年の『[[ウェンディ&ルーシー]]』などである。オレゴン生まれで漫画『ザ・シンプソンズ』を制作したマット・グレイニングは、その中で生まれ故郷のポートランドについて何度も言及している<ref>{{cite web|url=http://portlandtribune.com/news/story.php?story_id=12392|title=Matt Groening’s Portland|author=Don Hamilton|publisher=''The Portland Tribune''|date=2002-07-19|accessdate=2007-03-07}}</ref>。[[フジテレビジョン]]の[[テレビドラマ]]『[[オレゴンから愛]]』の舞台になったことでも知られている。 2008年後半のテレビ番組『[[MAN vs. WILD]]』では、ヘルズ・キャニオンとオレゴンの悪地が舞台になった<ref>https://web.archive.org/web/20101029041848/beargrylls.blogspot.com/2008/11/man-vs-wildborn-survivor-complete.html#links</ref>。 ===スポーツ=== {{see also|[[:en:Sports in Portland, Oregon]]}} [[ファイル:RoseGardenArenaInterior3.jpg|thumb|[[ポートランド・トレイルブレイザーズ]]の試合が行われている[[ローズ・ガーデン・アリーナ]]]] オレゴン州には何れもポートランドを本拠にする2つのプロスポーツチームがある。[[NBA]]の[[ポートランド・トレイルブレイザーズ]]と[[メジャーリーグサッカー]]の[[ポートランド・ティンバーズ]]である<ref name=timbers>[http://portlandtimbers.com/newsroom/headlines/index.html?article_id=1108 "MLS awards team to Portland for 2011."] Portland Timbers, 20 March 2009.</ref>。 2011年まではポートランド・トレイルブレイザーズが唯一のプロスポーツチームだった。1970年代から1990年代までトレイルブレイザーズはNBAで勝敗でも観客動員数でも好成績を残した。21世紀初頭に人事や財政の問題で人気が凋落したが、問題のある選手が去り、[[ブランドン・ロイ]]、[[ラマーカス・オルドリッジ]]および[[グレッグ・オデン]]のような新人を獲得して再生された<ref name=samsmith>{{cite web|url=http://www.msnbc.msn.com/id/15321476/|title=Blazers stalled until bad apples go|last=Smith|first=Sam|date=2006-10-18|accessdate=2008-01-15|publisher=MSNBC.com}}</ref><ref name=mejia>{{cite web|url=http://www.cbsnews.com/stories/sportsline/main10406427.shtml|title=Oden's loss hurts, but team in good hands|accessdate=2008-01-15|publisher=CBSNews.com|last=Mejia|first=Tony|date=2007-10-13}}</ref>。 トレイルブレイザーズはポートランドのロイド地区にある[[ローズ・ガーデン・アリーナ]]で試合を行っており、ここはジュニアのウェスタン・ホッケーリーグに属するポートランド・ウィンターホークスの本拠地でもある<ref name=rosequarter>{{cite web|url=http://www.rosequarter.com/RoseQuarter/Venues/tabid/84/Default.aspx|title=Rose Quarter Venues|accessdate=2008-01-15|publisher=RoseQuarter.com}}</ref>。 ティンバーズはポートランド中心街の直ぐに西にある[[PGEパーク|ジェルド・ウェン・フィールド]]で試合を行っている。ティンバーズはこの多目的スタジアムを2010年秋にフットボールのみの構造に変え、観客席数も増やした。2009年3月にティンバーズは2011年からメジャーリーグサッカーでプレイすると宣言した<ref name="timbers" />。 ポートランドには過去にマイナーリーグ野球チームがあった。[[ツーソン・パドレス|ポートランド・ビーバーズ]]やポートランド・ロッキーズなどであり、[[PGEパーク]]で試合を行っていた。また[[メジャーリーグベースボール]]のチームの誘致にも動いている<ref name=osc>{{cite web|url=http://www.oregonstadiumcampaign.com/|publisher=Oregon Stadium Campaign|title=Oregon Stadium Campaign|accessdate=2008-01-14}}</ref>。 ユージーンとセイラムにもマイナーリーグ野球チームがある。ユージーン・エメラルズとセイラム・カイザー・ボルケーノズはAクラスの[[ノースウェストリーグ]]に加盟している<ref name=nwl>[http://web.minorleaguebaseball.com/index.jsp?sid=l126 "Northwest League."] Minor League Baseball. Retrieved 2008-01-15.</ref>。新生間もない[[インターナショナル・バスケットボール・リーグ]]にも4つのチームが加盟している。ポートランド・チヌークス、セントラルオレゴン・ホットショッツ、セイラム・スタンピードおよびユージーン・シャージャーズである<ref name=ibl>[http://www.iblhoopsonline.com/ "International Basketball League."] International Basketball League. Retrieved 2008-01-15.</ref>。 <!-- === 劇場 === === 美術館・博物館 === === オーケストラなど === --> <!-- == 日本との関連 == --> ===オレゴン州出身の有名人=== {{see also|[[:en:List of people from Oregon]]}} * [[アラン・エンブリー]] - 野球選手 * [[リリー・カーター]] - ポルノ女優 * [[イモージン・カニンガム]] - 写真家 * [[デーブ・キングマン]] - 野球選手 * [[トーニャ・ハーディング]] - [[フィギュアスケート]]選手、プロボクサー、[[総合格闘家]] * [[ジャスティン・ハーバート]] - アメリカンフットボール選手 * [[デール・マーフィー]] - 野球選手 * [[ジョン・リード]] - ジャーナリスト・活動家 * [[アシュトン・イートン]] - 陸上競技選手、[[七種競技]]・[[十種競技]]世界記録保持者 ===交通=== *主要な[[州間高速道路]]は [[州間高速道路5号線]]と[[州間高速道路84号西線|州間高速道路84号線]]である。 *[[ポートランド国際空港]] (PDX) *[[アムトラック]] **[[コースト・スターライト]] : [[シアトル]] - [[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]] - [[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン]] - [[ロサンゼルス]]を結ぶ長距離夜行列車 **[[アムトラック・カスケーズ]] : [[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー(カナダ)]] - シアトル - ポートランド - ユージーン間を走る昼行列車 ===観光=== *[[オレゴン・ヴォーテックス]] ===州の象徴など=== {{main|[[:en:List of Oregon state symbols]]}} [[ファイル:Mahonia aquifolium.jpg|thumb|right|オレゴン州の花、[[:en:Oregon-grape|Oregon-grape]]。]] *州の鳥 - [[ニシマキバドリ]] *州の木 - [[ベイマツ]] *州の愛称 - ビーバーの州 *州のモットー - Alis volat propriis(彼女は自分の羽で飛ぶ) ==国際関係== ===姉妹自治体(国)=== *{{flagicon|CHN}}[[中華人民共和国]][[福建省]] - 1984年<ref name=legbrief>Van Winkle, Teresa (June 2008). [http://www.leg.state.or.us/comm/commsrvs/background_briefs2008/briefs/EconomyBusinessLabor/InternationalTrade.pdf "Background brief on international trade."] State of Oregon. Retrieved 2008-07-21.</ref> *{{flagicon|ROC}}[[中華民国]] - 1985年<ref name=legbrief/> *{{flagicon|JPN}}[[富山県]] - (オレゴン州)、1991年<ref name=legbrief/> *{{flagicon|KOR}}[[大韓民国]] [[全羅南道]] - 1996年<ref name=legbrief/> *{{flagicon|IRQ}}[[イラク共和国]] [[クルディスタン地域]] - 2005年<ref>http://www.leg.state.or.us/05orlaws/sessresmem.dir/scr0003ses.htm</ref> ===日本の姉妹都市=== *({{flagicon|JPN}}日本) - ({{flagicon|Oregon}}州内)、[[年]] {{colbegin|2}} *{{flagicon|富山県}}[[富山県]] - (オレゴン州)、1991年<ref name=legbrief/> *{{flagicon|北海道}}[[北海道]][[札幌市]]) - ([[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド市]])1959年 *{{flagicon|北海道}}北海道[[江別市]]) - ([[グレシャム (オレゴン州)|グレシャム市]]) *{{flagicon|北海道}}北海道[[紋別市]]) - ([[ニューポート (オレゴン州)|ニューポート市]]) *{{flagicon|北海道}}北海道[[積丹町]]) - ([[シーサイド (オレゴン州)|シーサイド市]]) *{{flagicon|北海道}}北海道[[栗沢町]]) - ([[キャンビー (オレゴン州)|キャンピー]]) *{{flagicon|青森県}}[[青森県]][[岩木町]]) - ([[ミルウォーキー (オレゴン州)|ミルウォーキー市]]) *{{flagicon|青森県}}青森県[[鶴田町]]) - ([[フッドリバー (オレゴン州)|フッドリバー市]]) <!--*{{flagicon|福島県}}[[福島県]][[原町市]]) - ([[ペンドルトン (オレゴン州)|ペンドルトン市]]) →現・南相馬市/市サイトで姉妹都市継続が確認できないため--> *{{flagicon|福島県}}[[福島県]][[喜多方市]]) - ([[ウィルソンビル (オレゴン州)|ウィルソンビル市]]) *{{flagicon|埼玉県}}[[埼玉県]][[川越市]]) - ([[セーラム (オレゴン州)|セーラム市]]) *{{flagicon|埼玉県}}埼玉県[[吉川市]]) - ([[レイクオスウィーゴ (オレゴン州)|レイクオスウィーゴ市]]) *{{flagicon|埼玉県}}埼玉県[[菖蒲町]]) - ([[ローズバーグ (オレゴン州)|ローズバーグ市]]) *{{flagicon|千葉県}}[[千葉県]][[銚子市]]) - ([[クーズベイ (オレゴン州)|クースベイ市]]) *{{flagicon|富山県}}[[富山県]][[入善町]]) - ([[フォレストグローブ (オレゴン州)|フォレストグローブ市]]) *{{flagicon|長野県}}[[長野県]][[東御市]]) - ([[マドラス (オレゴン州)|マドラス市]]) *{{flagicon|長野県}}長野県[[立科町]]) - ([[オレゴンシティ (オレゴン州)|オレゴンシティ市]]) *{{flagicon|岐阜県}}[[岐阜県]][[山県市]]) - ([[フローレンス (オレゴン州)|フローレンス市]]) *{{flagicon|静岡県}}[[静岡県]][[掛川市]]) - ([[ユージーン (オレゴン州)|ユージーン市]]) *{{flagicon|静岡県}}静岡県[[御殿場市]]) - ([[ビーバートン (オレゴン州)|ビーバートン市]]) *{{flagicon|静岡県}}静岡県[[袋井市]]) - ([[ヒルズボロ (オレゴン州)|ヒルズボロ市]]) *{{flagicon|愛知県}}[[愛知県]][[豊田市]]) - (旧[[藤岡町 (愛知県)|藤岡町]]と[[ベンド (オレゴン州)|ベンド市]]), 1993年 (1976) *{{flagicon|大阪府}}[[大阪府]][[大阪狭山市]]) - ([[オンタリオ (オレゴン州)|オンタリオ市]]) *{{flagicon|兵庫県}}[[兵庫県]][[朝来市]]) - (旧[[和田山町]]と[[ニューバーグ (オレゴン州)|ニューバーグ市]]) *{{flagicon|岡山県}}[[岡山県]][[笠岡市]]) - ([[アストリア (オレゴン州)|アストリア市]]) *{{flagicon|徳島県}}[[徳島県]][[三好市]]) - ([[ザ・ダルズ (オレゴン州)|ザ・ダルズ市]]) {{colend}} ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==参考文献== {{Refbegin}} *[http://www.secstate.wa.gov/history/publications%5Fdetail.aspx?p=33 ''Excursion to the Oregon'' by John Kirk Townsend] *[https://www.sos.wa.gov/legacy/maps/maps_detail.aspx?m=14 ''New map of Texas, Oregon and California with the regions adjoining, compiled from the more recent authorities'' by Samuel Augustus Mitchell] *[http://www.secstate.wa.gov/history/publications%5Fdetail.aspx?p=26 ''Accompaniment to Mitchell's New map of Texas, Oregon, and California, with the regions adjoining'' by Samuel Augustus Mitchell] *O'Hara, E. (1911). [http://www.newadvent.org/cathen/11288a.htm Oregon]. In the ''Catholic Encyclopedia''. New York:Robert Appleton Company. Retrieved July 25, 2009, from New Advent. {{Refend}} ==関連項目== *[[オレゴン州の都市圏の一覧]] *[[オレゴン州の郡一覧]] *[[アメリカ本土空襲]] ==外部リンク== {{Commonscat|Oregon}} *[https://www.oregon.gov/ State of Oregon(英語版)] *[http://otc.traveloregon.com/japanese/ オレゴン州政府観光局(日本語版)] *[https://www.portland.us.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ポートランド日本国総領事館(日本語版、英語版)] *[https://jaso.org/ オレゴン日米協会(英語版)] *[https://www.oregonjapan.org/ オレゴン州政府駐日代表部] *[http://www.tt.em-net.ne.jp/~taihaku/geography/state/oregon.html オレゴン州の雑学] *[https://www.ohs.org/ Oregon Historical Society] *[http://wikis.ala.org/godort/index.php/Oregon Oregon State Databases], an annotated list, in wiki form, of searchable databases produced by Oregon state agencies and compiled by the Government Documents Roundtable of the American Library Association *[https://www.usgs.gov/states/oregon?qt-states_l2_landing_page_tabs=0#qt-states_l2_landing_page_tabs Real-time, geographic, and other scientific resources of Oregon] from the United States Geological Survey *[http://quickfacts.census.gov/qfd/states/41000.html Oregon Quickfacts] from the [[United States Census Bureau]] *[http://www.ers.usda.gov/StateFacts/OR.htm Oregon State Facts] from the United States Department of Agriculture *{{Curlie|Regional/North_America/United_States/Oregon}} *[http://www.openstreetmap.org/browse/relation/165476 Open Street Map] - [[オープン・ストリート・マップ]] {{Geographic Location |Centre = {{Flagcountry|Oregon}} |North = {{Flagcountry|Washington}} |Northeast = |East = {{Flagcountry|Idaho}} |Southeast = {{Flagcountry|Nevada}} |South = {{Flagcountry|California}} |Southwest = {{Flagcountry|Hawaii}} / [[太平洋]] |West = |Northwest = |image = }} {{オレゴン州}} {{アメリカ合衆国の州}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:おれこんしゆう}} [[Category:オレゴン州|*]] [[Category:アメリカ合衆国の州]]
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禅定
禅定(ぜんじょう、サンスクリット語: ध्यान、dhyāna、ディヤーナ、パーリ語: झान、jhāna, ジャーナ)あるいは禅那(ぜんな)とは、仏教で心が動揺することがなくなった一定の状態を指す。サンスクリット語の dhyāna の音写である禅と、訳した定の複合語で、静慮とも訳される。 仏教の三学の戒・定・慧と言われるように、仏教においては戒律を守ることと禅定と智慧とは一体になっている。 禅定の実践とは、通常時にひとつの対象に定まっていない心をひとつの対象に完全に集中することで、そうして1つの対象に定まったときや心が対象に集中し乱されないときを三昧(サマーディ)と呼ぶ。 禅定と智慧との関係については、止観を参照。 個々の禅定は、仏教が興る以前の古代インドで知られていたものを仏陀が体系化し、取り入れたものであった。ただし、以下に列挙する九次第定(くしだいじょう)のうち、悟りの境地である想受滅こそが、仏陀によってこそ初めて到達し得た境地だったのである。上座部研究の仏教学者、藤本晃によれば、この九次第定の体系は、パーリ仏典の成立以前には確立されていたようである。 感覚的経験の世界が欲界であり、禅定の実践によって色界の初禅定に到達する。 色界の禅定(Rūpajjhāna, 四禅)は以下の4段階がある。 無色界の禅定(Arūpajjhāna, Āruppajjhāna)は4段階がある。これが、四無色定(四空定とも)で、さらに想受滅に至ることで九次第定となる。まだ物質的な領域にある色界の禅定とは異なり、無色界では色蘊(しきうん)がなく、この段階に至った修行者は触覚、視覚、物質的な構成要素において微細なものからも完全に離れる修行をするといわれている。無色界の定は以下の順に深まる。 『大般涅槃経』によれば、釈迦は弟子アーナンダに、禅定の段階について以下のように説いたとされる。 〈物質的なもの〉という想いを全く超越して、抵抗感を消滅し、〈別のもの〉という想いを起こさないことによって〈(すべては)無辺なる虚空である〉と観じて、〈空無辺処〉に達して住する。これが第四の解脱である。 〈空無辺処〉を全く超越して、〈(すべては)無辺なる識である〉と観じて、〈識無辺処〉に達して住する。これが第五の解脱である。 〈識無辺処〉を全く超越して、〈何ものも存在しない〉と観じて、〈無所有処〉(=何も無いという境地)に達して住する。これが第五の解脱である。 〈無所有処〉を全く超越して、〈非想非非想処〉(想いがあるのでもなく、想いが無いのでもないという境地)に達して住する。これが第七の境地である。 〈非想非非想処〉を全く超越して、〈想受滅〉(表象も感受も消滅する境地)に達して住する。これが第八の解脱である。 日本仏教の密教や禅宗においても禅定を得るための様々な方法論が派生し、曹洞宗・臨済宗における坐禅や、天台宗での法華禅とも呼ばれる止観など。真言宗では印相を結ぶ陀羅尼と真言を唱える身体性を重視している。
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禅定あるいは禅那(ぜんな)とは、仏教で心が動揺することがなくなった一定の状態を指す。サンスクリット語の dhyāna の音写である禅と、訳した定の複合語で、静慮とも訳される。
{{Infobox Buddhist term | title = 禅定 | en = concentration of mind | pi = झान jhāna | sa = ध्यान dhyāna | bn = | my = | my-Latn = | zh = 禪定 | zh-Latn = | ja = 禅定 | ja-Latn = | ko = | ko-Latn = | lo = | si = | si-Latn = | ta = | th = | bo = {{fontsize|177%|བསམ་གཏན་}} {{ラテン翻字|bo|bsam gtan}} | bo-Latn = | vi = }} {{波羅蜜}} '''禅定'''(ぜんじょう、{{翻字併記|sa|ध्यान|dhyāna|n|区=、}}、'''ディヤーナ'''、{{翻字併記|pi|झान|jhāna|n|区=、}}, '''ジャーナ''')あるいは'''禅那'''(ぜんな)とは、[[仏教]]で心が動揺することがなくなった一定の状態を指す{{refnest|name="britanica_zenjou"|[https://kotobank.jp/word/%E7%A6%85%E5%AE%9A-88375#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 「禅定」 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]、2014 Britannica Japan}}。[[サンスクリット語]]の {{lang|sa|dhyāna}} の音写である禅と、訳した[[定]]の複合語で<ref name="総合仏教大辞">{{Cite book|和書|author=総合仏教大辞典編集委員会|title=総合仏教大辞典 全一巻|publisher=法蔵館|date=2005|isbn=978-4831870704|page=620}}</ref>、'''静慮'''とも訳される{{refnest|name="digi_daijisen_zenjou"|[https://kotobank.jp/word/%E7%A6%85%E9%82%A3-88791#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 「禅那」 - デジタル大辞泉]、小学館。}}。 ==位置づけ== 仏教の[[三学]]の戒・定・慧と言われるように、仏教においては[[戒律]]を守ることと禅定と[[智慧]]とは一体になっている。 禅定の実践とは、通常時にひとつの対象に定まっていない心をひとつの対象に完全に集中することで{{sfn|ダライ・ラマ14世|2001|p=104}}、そうして1つの対象に定まったときや心が対象に集中し乱されないときを[[三昧]](サマーディ)と呼ぶ{{sfn|ダライ・ラマ14世|2001|p=104}}。 禅定と智慧との関係については、[[止観]]を参照。 ==禅定の段階== 個々の禅定は、仏教が興る以前の古代インドで知られていたものを仏陀が体系化し{{Sfn|藤本|2005|pp=890-889}}、取り入れたものであった{{Sfn|藤本|2005|pp=890-891}}。ただし、以下に列挙する'''[[定#無心定(無想定と滅尽定)および九次次第|九次第定]]'''(くしだいじょう)のうち、悟りの境地である想受滅こそが、仏陀によってこそ初めて到達し得た境地だったのである{{Sfn|藤本|2005|p=890}}。[[上座部]]研究の[[仏教学者]]、[[藤本晃]]によれば、この九次第定の体系は、[[パーリ仏典]]の成立以前には確立されていたようである{{Sfn|藤本|2005|p=888}}。 感覚的経験の世界が[[欲界]]であり、禅定の実践によって色界の初禅定に到達する{{sfn|ダライ・ラマ14世|2001|p=120}}。 ===色界の禅定=== {{Seealso|四禅}} [[色界]]の禅定(Rūpajjhāna, [[四禅]])は以下の4段階がある。 # 初禅 - 諸欲・諸不善(すなわち欲界)を離れ、[[尋伺]]を伴いながらも、離による喜・[[楽 (仏教)|楽]]と共にある状態。『[[中部 (パーリ)|中部]]』が伝えるところによれば、釈迦は、自身がまだ在家の王子であった頃、すでにこの境地を楽しんでいたという<ref>『[[中部 (パーリ)|中部]]』36, 85, 100</ref>{{Sfn|藤本|2005|p=880}}。 # 第二禅 - [[尋伺]]が止み、内清浄による喜・楽と共にある状態。 # 第三禅 - 喜を捨し、正念・正見を得ながら、楽と共にある状態。 # 第四禅 - 楽が止み、一切の[[受]]が捨てられた[[捨 (仏教)|不苦不楽]]の状態。 ===無色界の禅定=== [[無色界]]の禅定(Arūpajjhāna, Āruppajjhāna)は4段階がある{{sfn|ダライ・ラマ14世|2001|p=120}}。これが、四無色定(四空定とも)で、さらに[[定#無心定(無想定と滅尽定)および九次次第|想受滅]]に至ることで九次第定となる{{Sfn|中村|334}}。まだ物質的な領域にある色界の禅定とは異なり、無色界では色蘊(しきうん)がなく、この段階に至った修行者は触覚、視覚、物質的な構成要素において微細なものからも完全に離れる修行をするといわれている{{sfn|ダライ・ラマ14世|2001|pp=127-128}}。無色界の定は以下の順に深まる{{sfn|ダライ・ラマ14世|2001|p=120}}。 :5. [[空無辺処]](くうむへんしょ{{refnest|nama="精選版_空無辺処"|[https://kotobank.jp/word/%E7%A9%BA%E7%84%A1%E8%BE%BA%E5%87%A6-2031001#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 「空無辺処」 - 精選版 日本国語大辞典]、小学館。}})- 漢訳で無限の空の領域の意味。 :6. [[識無辺処]](しきむへんしょ)-漢訳で無限の[[識]]の領域の意味。とらえられるべき対象はないことを修行するといわれている{{sfn|ダライ・ラマ14世|2001|pp=127-128}}。 :7. [[無所有処]](むしょうしょ)- 漢訳で有る所が無い領域の意味。微細な対象がいまだあるといわれている{{sfn|ダライ・ラマ14世|2001|pp=127-128}}。 :8. [[非想非非想処]](ひそうひひそうしょ)- 漢訳で想が非ず非想にも非ずの領域の意味。旧訳では非有想非無想処ともされ、この完成が[[有頂天]]である{{sfn|ダライ・ラマ14世|2001|pp=127-128}}。 『[[大般涅槃経 (上座部)|大般涅槃経]]』によれば、[[釈迦]]は弟子[[阿難|アーナンダ]]に、禅定の段階について以下のように説いたとされる{{Sfn|中村|2019|pp=84-85}}{{efn|なお『大般涅槃経』によればブッダは、第一の解脱について説いている。すなわち、第一の解脱は、[[色 (仏教)|色]]という想いをいだく者が、外部において形あるものを見ること。第二の解脱は、無色という想いをいだく者が、外部において形あるものを見ること。第三の解脱は、すべてのものが浄らかであると認めていることである{{Sfn|中村|2019|p=84}}。}}。 {{Quotation|1=アーナンダよ。これらの八つの解脱がある。その八つとは、どれどれであるか?……(中略)…… 〈物質的なもの〉という想いを全く超越して、抵抗感{{Refnest|group="注釈"|{{lang-pi-short|paṭhiga sañña}}「抵抗、対抗、の思い」。[[中村元 (哲学者)|中村元]]は、漢訳仏典においてこの語は「[[三毒#大乗仏教|瞋恚想]]」と訳される、としている。{{Sfn|中村|2019|272}}}}を消滅し、〈別のもの〉という想いを起こさないことによって〈(すべては)無辺なる虚空である〉と観じて、〈空無辺処〉に達して住する。これが第四の解脱である。 〈空無辺処〉を全く超越して、〈(すべては)無辺なる識である〉と観じて、〈識無辺処〉に達して住する。これが第五の解脱である。 〈識無辺処〉を全く超越して、〈何ものも存在しない〉と観じて、〈無所有処〉(=何も無いという境地)に達して住する。これが第五の解脱である。 〈無所有処〉を全く超越して、〈非想非非想処〉(想いがあるのでもなく、想いが無いのでもないという境地)に達して住する。これが第七の境地である。 〈非想非非想処〉を全く超越して、〈[[定#無心定(無想定と滅尽定)および九次次第|想受滅]]〉(表象も感受も消滅する境地)に達して住する。これが第八の解脱である。 アーナンダよ。これらが八つの解脱である。}} == 日本仏教と禅定 == 日本仏教の密教や禅宗においても禅定を得るための様々な方法論が派生し、[[曹洞宗]]・[[臨済宗]]における[[坐禅]]や、[[天台宗]]での法華禅とも呼ばれる[[止観]]など。[[真言宗]]では印相を結ぶ[[陀羅尼]]と[[真言]]を唱える身体性を重視している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==参考文献== *{{Cite journal|和書| author=[[藤本晃]]|year=2005|title=パーリ経典に説かれる「九次第定」の成立と構造 |doi=10.4259/ibk.53.891|journal=印度學佛教學研究|volume=53|issue=2|pages=891-888|ref={{Sfnref|藤本|2005}}|issn=0019-4344}} *{{Cite book|和書|author=ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ |authorlink=ダライ・ラマ |translator=[[菅沼晃]]|title=ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく|publisher=春秋社|date=2001|isbn=978-4-393-13335-4|ref={{SfnRef|ダライ・ラマ14世|2001}} }} *『[[大般涅槃経]]』 ** {{Cite book|和書|title=ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経|date=2019-05-07|year=2019|publisher=[[岩波書店]]|author=|isbn=4003332512|edition=55|translator=[[中村元 (哲学者)|中村元]]}} *『[[中部 (パーリ)|中部]]』 == 関連項目 == *[[坐禅]] *[[禅定道]] *[[果位]] / [[四向四果]] {{Buddhism-stub}} {{Buddhism2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せんしよう}} [[Category:禅用語]] [[Category:瞑想 (仏教)]] [[Category:瞑想]] [[Category:マインドフルネス]]
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三界
仏教における三界(さんがい、梵: tri-dhātu、または梵: त्रिलोक, IAST:triloka)とは、欲界・色界・無色界の三つの世界のことであり、衆生が生死を繰り返しながら輪廻する世界をその三つに分けたもの。三有(さんう)ともいう。 欲界よりも色界のほうが、色界よりも無色界のほうが、いっそうすぐれた生存のしかたであると考えられており、その場所も、欲界が最下にあり、無色界が最上に位置する。 以下の説明は、4世紀から5世紀頃にヴァスバンドゥ(世親)が著した『阿毘達磨倶舎論』(『倶舎論』)に依る。 欲界(梵: kāma‐dhātu)は、欲望(カーマ)にとらわれた淫欲と食欲がある衆生が住む世界。無色界および色界の下に位置する。本能的欲望(カーマ)が盛んで強力な世界。八大地獄から六欲天までの領域であり、『倶舎論』においては「五趣」(5つの生存状態)地獄、餓鬼、畜生、人、天の5種の世界が欲界に属するとされる。ただし、『倶舎論』を奉ずる説一切有部と対抗した中観派や、のちの大乗仏教諸派は、これらに修羅道を加えて「六道」(6つの迷える状態)とした。いずれの見解においても、地下の世界と、地表の世界と、空中の世界(天界)の最下層とが、欲界に属する。 色界(梵: rūpa-dhātu)は、淫欲と食欲の2つの欲を離れた衆生が住む世界。欲望は超越したが、物質的条件(色、サンスクリット語ラテン翻字: rupā)にとらわれた生物が住む境域。色天や色界天ともいう。有色(うしき)ともいう(欲界と色界の2界をさす場合もある)。欲界の上、無色界の下に位置する。 色(ルーパ)とは物質のことであり、色界とは物質的な世界という意味。欲界とひとしく物質的世界ではあるが、それほどに欲望が盛んではないところを単に色界とよぶ。色界には、清らかで純粋な物質だけがあるとされる。欲や煩悩は無いが、物質や肉体の束縛からは脱却していない世界である。四禅を修めた者が死後に生まれる世界。色界は禅定の段階によって四禅天に大別される。天界の上層は色界に属し、またそれを細かく17天(経典によっては18天または16天)に分ける。また、初禅の一部と欲界を合わせて「一小千世界」と呼ぶ。 なお、鳩摩羅什は『法華経』序品で、色界の最上位である色究竟天を(後述の)有頂天としている。 無色界(梵: ārūpa-dhātu)は、物質的なものから完全に離れた衆生が住む世界。欲望も物質的条件も超越し、精神的条件のみを有する生物が住む境域。欲界および色界よりも上位にあり 、天界の最上層に位置する。空間を超越する無色界は、厳密には色(かたち)を持たない。ゆえに、色界の上方に存在するわけではないが、便宜上三界のなかでは一番上部に置かれる(右図参照)。 物質が全く存在せず、心の働きである受・想・行・識の四蘊だけからなる世界。無色界は四天に分けられ、その最高処を有頂天(非想非非想天、非想非非想処)という。 以上に述べた『倶舎論』が説く「三界」では、極楽やそれに準ずる世界については説かれていない。その理由としては、この宇宙観が成立した時代にはまだ仏教に浄土思想は取り入られておらず、ゆえに三界のなかに浄土が組み込まれることはまだなかったことと、上座部にとっての最高の境地とは涅槃(ニッバーナ)、すなわち、三界から脱出して無に帰することであったことが挙げられる。三界という宇宙観と浄土思想の結びつきは、大乗仏教の隆盛に伴って進むこととなった。 また『倶舎論』は、エンマを六欲天の一つである夜摩天と餓鬼界両方に置いている。 宗派によって配列は異なる。橙色は天人。
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仏教における三界とは、欲界・色界・無色界の三つの世界のことであり、衆生が生死を繰り返しながら輪廻する世界をその三つに分けたもの。三有(さんう)ともいう。 欲界よりも色界のほうが、色界よりも無色界のほうが、いっそうすぐれた生存のしかたであると考えられており、その場所も、欲界が最下にあり、無色界が最上に位置する。
{{Otheruseslist|'''[[仏教]]における欲界・色界・無色界の総称としての三界'''|[[その他]]の用法|三界 (曖昧さ回避)}} {{multiple image | align = right | direction = vertical | width = 300 | image1 = Borobudur_Mandala.svg | caption1 = ボロブドゥール遺跡は、仏教世界観の三界を反映している。<br>外側から、欲界、色界、無色界。中央の最高点は仏性を象徴している。 | image2 = Panoramic_views_of_Borobudur.jpg | caption2 = ジャワ島の[[ボロブドゥール遺跡]]の航空写真 }} [[仏教]]における'''三界'''(さんがい、{{lang-sa-short|tri-dhātu}}、または梵: त्रिलोक, [[IAST]]:triloka)とは、欲界・[[色界]]・[[無色界]]の三つの世界のことであり、[[衆生]]が生死を繰り返しながら[[輪廻]]する世界をその三つに分けたもの<ref name="コトバンク三界">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E7%95%8C-70355|title=三界(さんがい)とは - コトバンク|publisher=[[朝日新聞社]]|accessdate=2020-11-19}}</ref>。'''三有'''(さんう)ともいう<ref name="コトバンク三界" />。 欲界よりも[[色界]]のほうが、色界よりも[[無色界]]のほうが、いっそうすぐれた生存のしかたであると考えられており、その場所も、欲界が最下にあり、無色界が最上に位置する{{sfn|櫻部・上山|2006|p=39}}。 == 三つの世界 == [[ファイル:1860s Edo Period Japanese Buddhist Map of Mount Meru.jpg|サムネイル|721x721ピクセル|「三界図」 それぞれの世界の海抜、距離、住民の寿命と身長などが書き込まれている。 [[1860年代]] 日本]] {{Quote|地獄傍生鬼 人及六欲天 名欲界二十 由地獄洲異 此上十七處 名色界於中 三靜慮各三 第四靜慮八 無色界無處 由生有四種 依同分及命 令心等相續|[[世親]] |『阿毘達磨倶舍論』卷第七 <ref>{{大正新脩大蔵経|title=分別世品第三之一 |no=1558 |vol=29 |page=0040c25}}</ref>}} 以下の説明は、4世紀から5世紀頃に[[ヴァスバンドゥ]](世親)が著した『[[阿毘達磨倶舎論]]』(『倶舎論』)に依る。 === 欲界(よくかい、よっかい) === {{Seealso|カーマ (ヒンドゥー教)}} 欲界({{lang-sa-short|kāma‐dhātu}})は、欲望(カーマ)にとらわれた{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=818}}[[性欲|淫欲]]と[[食欲]]がある[[衆生]]が住む世界<ref name="コトバンク三界" /><ref name="コトバンク欲界">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%AC%B2%E7%95%8C-653686|title=欲界(ヨクカイ)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2020-11-19}}</ref>{{efn|淫欲と食欲に[[睡眠]]欲を加える説もある<ref name="コトバンク三界" /><ref name="コトバンク欲界" />。}}<ref>分別世品第三之一 T1558_.29.0041a02 「論曰。地獄等四及六欲天并器世間。是名欲界。」(T1558以下の数字は本記事「外部リンク」掲載の大正大蔵経データベースでの行番号:以下同)</ref>。無色界および色界の下に位置する<ref name="コトバンク欲界" />。本能的欲望(カーマ)が盛んで強力な世界{{sfn|櫻部・上山|2006|p=39}}。[[八大地獄]]から[[六欲天]]までの領域であり、『倶舎論』においては「五趣」(5つの生存状態)[[地獄]]、[[餓鬼]]、[[畜生]]、[[人間界|人]]、[[天 (仏教)|天]]の5種の世界が欲界に属するとされる{{Sfn|定方|1973|p=120}}。ただし、『倶舎論』を奉ずる[[説一切有部]]と対抗した[[中観派]]や、のちの[[大乗仏教]]諸派は、これらに[[修羅道]]を加えて「[[六道]]」(6つの迷える状態)とした<ref name="コトバンク三界" />{{Sfn|定方|1973|p=120}}{{Efn|定方晟は、説一切有部と中観派その他の見解について、以下のように紹介している{{sfn|櫻部・上山|2006|p=39}}。 * 『[[大毘婆沙論]]』「他の部派の人たちは[[阿修羅]]をいれて六にするが、このような説はなすべきではない。経にただ五趣の説しかないからである」 * 『[[大智度論]]』([[龍樹]]著?・[[鳩摩羅什]]訳)「仏は、はっきり五道とは言わなかった。五道というのは、説一切有部の説である。ヴァートシープトリーヤ部([[犢子部]])の僧たちは、六道の説をなしている」}}。いずれの見解においても、地下の世界と、地表の世界と、空中の世界(天界)の最下層とが、欲界に属する{{sfn|櫻部・上山|2006|p=39}}。 === 色界(しきかい)=== {{Seealso|色 (仏教)}} [[色界]]({{lang-sa-short|rūpa-dhātu}})は、淫欲と食欲の2つの欲を離れた衆生が住む世界<ref name="コトバンク三界" />{{efn|淫欲と食欲に加えて睡眠欲をも離れているとする説もある<ref name="コトバンク三界" />。}}。欲望は超越したが、物質的条件([[色 (仏教)|色]]、{{lang-*-Latn|sa|rupā}})にとらわれた生物が住む境域{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=309}}。'''色天'''や'''色界天'''ともいう<ref name="コトバンク色界">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E8%89%B2%E7%95%8C-517613|title=色界(シキカイ)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2020-11-19}}</ref>。'''有色'''(うしき)ともいう(欲界と色界の2界をさす場合もある)<ref>{{kotobank|有色|2=精選版 日本国語大辞典}}</ref>。欲界の上、無色界の下に位置する<ref name="コトバンク色界" />。 [[色 (仏教)|色]](ルーパ)とは物質のことであり、色界とは物質的な世界という意味<ref name="コトバンク三界" />。欲界とひとしく物質的世界ではあるが、それほどに欲望が盛んではないところを単に色界とよぶ{{sfn|櫻部・上山|2006|p=39}}。色界には、清らかで純粋な物質だけがあるとされる<ref name="コトバンク三界" />。欲や[[煩悩]]は無いが、物質や[[体|肉体]]の束縛からは脱却していない世界である<ref name="コトバンク色界" />。[[四禅]]を修めた者が死後に生まれる世界<ref name="コトバンク色界" />。色界は[[禅定]]の段階によって四禅天に大別される<ref>分別世品第三之一 T1558_.29.0041a14 - 22</ref>{{Sfn|定方|1973|p=60}}。天界の上層は色界に属し{{sfn|櫻部・上山|2006|p=39}}、またそれを細かく17天(経典によっては18天{{Efn|[[瑜伽行唯識学派|インド瑜伽行派]]、[[上座部]]など。}}または16天<ref>分別世品第三之一 T1558_.29.0041a22 - 23「[[カシミール|迦濕彌羅國]]諸大[[説一切有部|論師]]皆言。色界處但有十六。」</ref>)に分ける。また、初禅の一部<ref>[[梵衆天]]、[[梵輔天]]、[[大梵天]]</ref>と欲界を合わせて「[[三千大千世界|一小千世界]]」と呼ぶ{{Sfn|定方|1973|p=62}}。 なお、鳩摩羅什は『[[法華経]]』序品で、色界の最上位である[[色究竟天]]を(後述の)有頂天としている<ref>{{Cite web|和書|title=有頂天とは|url=https://kotobank.jp/word/%E6%9C%89%E9%A0%82%E5%A4%A9-34863|website=コトバンク|accessdate=2021-11-22|author=[[定方晟]]}}</ref>。 === 無色界(むしきかい)=== [[無色界]]({{lang-sa-short|ārūpa-dhātu}})は、物質的なものから完全に離れた衆生が住む世界<ref name="コトバンク三界" /><ref name="コトバンク無色界">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E8%89%B2%E7%95%8C-641454|title=無色界(ムシキカイ)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2020-11-19}}</ref>。欲望も物質的条件も超越し、精神的条件のみを有する生物が住む境域{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=309}}。欲界および色界よりも上位にあり<ref name="コトバンク三界" /><ref name="コトバンク無色界" /> 、天界の最上層に位置する{{sfn|櫻部・上山|2006|p=39}}。空間を超越する無色界は、厳密には色(かたち)を持たない。ゆえに、色界の上方に存在するわけではないが、便宜上三界のなかでは一番上部に置かれる{{Sfn|定方|1973|p=65}}(右図参照)。 物質が全く存在せず<ref name="コトバンク三界" />、心の働きである[[受]]・[[想]]・[[サンカーラ|行]]・[[識]]の四[[五蘊|蘊]]だけからなる世界<ref name="コトバンク無色界" />。無色界は四天に分けられ、その最高処を[[有頂天]](非想非非想天、非想非非想処)という<ref name="コトバンク三界" /><ref name="コトバンク無色界" /><ref>分別世品第三之一 T1558_.29.0041a25 - 29「無色界中都無有處。以無色法無有方所。過去未來無表無色不住方所。理決然故。但異熟生差別有四。一空無邊處。二識無邊處。三無所有處。四非想非非想處。如是四種名無色界。」</ref>。 == その他 == 以上に述べた『倶舎論』が説く「三界」では、[[極楽]]や[[天国|それに準ずる世界]]については説かれていない。その理由としては、この宇宙観が成立した時代にはまだ仏教に[[浄土]]思想は取り入られておらず、ゆえに三界のなかに浄土が組み込まれることはまだなかったことと、[[上座部]]にとっての最高の境地とは[[涅槃]](ニッバーナ)、すなわち、三界から脱出して無に帰することであったことが挙げられる{{Sfn|定方|1973|p=134}}。三界という宇宙観と浄土思想の結びつきは、[[大乗仏教]]の隆盛に伴って進むこととなった。 また『倶舎論』は、[[夜摩天|エンマ]]を六欲天の一つである[[夜摩天]]と[[餓鬼|餓鬼界]]両方に置いている{{Sfn|定方|1973|p=153}}。 {{-}} == 一覧 == [[ファイル:The Buddha Shakyamuni at Mount Meru - c. 1700-1800.jpg|サムネイル|須弥山の頂上、[[忉利天]](三十三天)で説法する[[釈迦]](中央)。 中央から上方にかけて、それぞれ地居天、空居天、上界天が表現されている。[[18世紀]]頃、[[チベット]] {{仮リンク|サンフランシスコ・アジア美術館|en|Asian Art Museum of San Francisco|label=アジア美術館}}蔵]] 宗派によって配列は異なる{{Sfn|定方|1973|pp=66-67}}<!-- 非想非非想処から四天王天までは定方晟の記述に依る。日月星宿天から堅手天は、甲田利雄が引用した『法苑珠林』に依った。地下、八大地獄については『大毘婆沙論』の記述に依る。 -->。橙色は[[天人]]。 {| class="wikitable" style="font-size:90%" ! rowspan="4" style="min-width:5em" |無色界 | rowspan="8" style="min-width:9em;text-align:center; background:#ffeec2" |上界天 | colspan="4" |[[有頂天|非想非非想処]](有頂天{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1020-1021}}、非想非非想処、非想天) |- | colspan="4" |[[無所有天|無所有處天]]{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1020-1021}}(無所有天) |- | colspan="4" |[[識無辺天|識無邊處天]]{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1020-1021}}(識無辺天) |- | colspan="4" |[[空無辺天|空無邊處天]]{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1020-1021}}(空無辺処、空無辺天、無量空処) <!-----------------------------------------------------------------------> |- ! rowspan="4" |色界 | style="text-align:center; min-width:5em;" |四禅天{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1020-1021}} | colspan="3" |[[無煩天]]、[[無熱天]]、[[善現天]]、[[善見天]]、[[色究竟天]](左の5天を総称して五[[不還]]天といい、欲界及び天界には再び還らない) [[福生天]]、[[福慶天]]、[[広果天]]、[[広果天#無想天|無想天]] |- | style="text-align:center" |三禅天{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1020-1021}} | colspan="3" |[[少浄天]]、[[無量浄天]]、[[遍浄天]] |- | style="text-align:center" |二禅天{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1020-1021}} | colspan="3" |[[少光天]]、[[無量光天]]、[[光音天]] |- | style="text-align:center" |初禅天{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1020-1021}} | colspan="3" |[[梵衆天]]、[[梵輔天]]、[[大梵天]] <!-----------------------------------------------------------------------> |- ! rowspan="31" |欲界<br>([[五趣]]) | rowspan="4" style="text-align:center; background:#ffeec2" |空居天<br>(居虚空天) | colspan="4" |[[他化自在天]]{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1020-1021}}(他化楽天) |- | colspan="4" |[[化楽天]]{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1020-1021}}(楽変化天) |- | colspan="4" |[[兜率天]]{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1020-1021}}(覩史多天) |- | colspan="4" |[[夜摩天]]{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1020-1021}}(炎摩天) |- | rowspan="8" style="text-align:center; background:#ffeec2" |地居天 | rowspan="4" style="text-align:center" |[[忉利天|忉利天/<br>三十三天]] | rowspan="4" style="text-align:center;width:5em" |中央 善見城天 | style="text-align:center;width:3em" |東方 |影照天、智慧行天、衆分天、曼陀羅天、 上行天、威徳顔天、威徳燄輪光天、清浄天 |- | style="text-align:center" |西方 |波利耶多天、雑險岸天、谷崖岸天、摩尼蔵天、 旋行天、金殿天、鬘形天、柔軟天 |- | style="text-align:center" |南方 |善法堂天、山峰天、山頂天、鉢私他天、 俱吒天、雑殿天、歓喜園天、光明天 |- | style="text-align:center" |北方 |雑荘厳天、如意地天、微細行天、歌音喜楽天、 威德輪天、月光天(日行天)、閻摩娑羅天(閻摩那娑羅天)、速行天 |- | colspan="2" rowspan="4" style="text-align:center" |[[四天王天]] {{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1020-1021}} | style="text-align:center" |東方 |[[持国天]](提頭頼吒、ドリタラーシュトラ) |- | style="text-align:center" |南方 |[[増長天]](毘楼勒叉、ヴィルーダカ) |- | style="text-align:center" |西方 |[[広目天]](毘楼博叉天、ヴィルーパークシャ) |- | style="text-align:center" |北方 |[[多聞天]](毘沙門天、ヴァイシュラヴァナ) |- | style="text-align:center; background:#ffeec2" |游空天<br>(游虚空天) | colspan="4" |日月星宿天<ref>『{{仮リンク|正法念処経|zh|正法念處經}}』卷第二十二、『三界安立圖』、『[[阿毘達磨大毘婆沙論]]』ほか。</ref> |- | rowspan="3" style=" background:#ffeec2" |地居天{{Efn|四天王天以下、地居天たちは須弥山の中腹を住み処としている{{Sfn|定方|1973|p=65}}。}}<br>(配下夜叉) | colspan="4" |堅手天 |- | colspan="4" |持華鬘天(持鬘天、鬘持天) |- | colspan="4" |恒憍天(常驕天、常放逸天){{Sfn|甲田|1989|p=176}}<ref>『[[法苑珠林]]』巻第二、諸天部第二、辯位部第一</ref> |- | rowspan="6" |地上 | colspan="4" |[[須弥山]] |- | rowspan="4" |[[大州#仏教の四大洲|四大洲]] | colspan="3" |倶盧洲 |- | colspan="3" |牛貨洲 |- | colspan="3" |勝身洲 |- | colspan="3" |[[贍部洲]] |- | colspan="4" |[[畜生|傍生]] |- | rowspan="9" |地下 | colspan="4" |[[餓鬼]] |- | rowspan="8" |[[八大地獄]] | colspan="3" |等活地獄 |- | colspan="3" |黒縄地獄 |- | colspan="3" |衆合地獄 |- | colspan="3" |叫喚地獄 |- | colspan="3" |大叫喚地獄 |- | colspan="3" |焦熱地獄 |- | colspan="3" |大焦熱地獄 |- | colspan="3" |無間地獄 |- |} == 用法 == * 『[[法華経]]』譬喩品の「三界は安きことなく、なお、火宅のごとし」というのは、迷いと苦しみのこの世界を、燃えさかる家にたとえたもの{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=309}}。 * 「[[三界に家なし]]」とは、この世界が安住の地でないことを意味し、後には[[女性]]の不安定な[[地位]]を表す[[ことわざ|諺]]になった{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=309}}。 * 「子は三界の首枷」とは、親が子を思う心に引かれ、終生自由を[[束縛]]されること<ref name="コトバンク子は三界の首枷">{{Cite web|和書|url= https://kotobank.jp/word/%E5%AD%90%E3%81%AF%E4%B8%89%E7%95%8C%E3%81%AE%E9%A6%96%E6%9E%B7-493371|title= 子は三界の首枷とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2020-11-19}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=総合仏教大辞典編集委員会(編) |date=1988-01 |title=総合仏教大辞典 |edition= |publisher=法蔵館 |volume=下巻 |ref={{SfnRef|総合仏教大辞典|1988}} }} * {{Cite book|和書|title=校本江談抄とその研究 中巻|date=1989-03-01|year=1989|publisher=続群書類従完成会|accessdate=2021-11-25|url=https://books.google.co.jp/books?id=RRMC3CvIKAUC&lpg=PP182&dq=%E5%B8%B8%E6%94%BE%E9%80%B8%E5%A4%A9&hl=ja&pg=PP182#v=onepage&q=%E5%B8%B8%E6%94%BE%E9%80%B8%E5%A4%A9&f=false|author=甲田利雄|ref={{SfnRef|甲田|1989}}|isbn=9784797106220}} * {{Cite book |和書 |author=上山春平櫻部建 ; |authorlink=上山春平|year=2006 |title=存在の分析<[[阿毘達磨 |アビダルマ]]>―仏教の思想〈2〉 |publisher=[[角川書店]] |series=[[角川ソフィア文庫]] |isbn=4-04-198502-1 |ref={{SfnRef|櫻部・上山|2006}} }}(初出:『仏教の思想』第2巻 [[角川書店]]、[[1969年]]([[昭和]]44年)) * {{Cite book|和書|title=須弥山と極楽 仏教の宇宙観|date=1975-07-20|year=1975|publisher=[[講談社]]|author=定方晟|authorlink=定方晟|ref={{SfnRef|定方|1973}}|isbn=9784061157309|edition=3}} * {{Cite book |和書 |author=中村元他|authorlink=中村元|year=1989 |title=岩波仏教辞典 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-080072-8 |ref={{SfnRef|岩波仏教辞典|1989}} }} * {{大正新脩大蔵経|author=世親造 玄奘譯 |title=阿毘達磨倶舍論 (毘曇部) |no=1558 |vol=29}} == 関連項目 == * [[因果]] - [[業]] * [[極楽]] - [[浄土]] - [[穢土]] * [[娑婆]] * [[初期の世界地図]] {{天}} {{buddhism2}} {{DEFAULTSORT:さんかい}} [[Category:三界 (仏教)|*]] [[Category:仏教の宇宙観]] [[Category:仏教哲学の概念]] [[Category:仏教の名数3|かい]]
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金田伊功
金田 伊功(かなだ よしのり、1952年〈昭和27年〉2月5日 - 2009年〈平成21年〉7月21日)は、日本の男性アニメーター。奈良県出身。 「伊功」は「いこう」と読まれることもある。別名義に当初は誤字だったものを使用した「金田伊助」や、スクウェア・エニックス在籍中に他社仕事の際に使った「戸隠三郎」がある。 航空自衛隊パイロットだった父親を見て育ち、自分もその道を熱望していたが、視力が悪く断念する。この時に映画『空飛ぶゆうれい船』の宮崎駿の作画に衝撃を受け、アニメーション業界を志すきっかけとなる。高校2年生の時のノートには、当時好きだったテレビアニメ『アタックNo.1』のヒロイン・鮎原こずえのイラストが多数描かれており、当時からプロレベルに近い画力であった。 アニメの通信教育を経て専門学校東京デザイナー学院のアニメ科(現:専門学校東京クールジャパン)で学び、東映動画(現・東映アニメーション)の契約社員となる。1970年に同社のテレビアニメ『魔法のマコちゃん』で動画デビュー。東映動画を退社後、荒木伸吾のフリー集団のスタジオZ(第1期)、野田卓雄のスタジオNo.1を経て1976年にスタジオZ(第2期)、1980年にスタジオNo.1を結成して活動。1974年に野田が作画監督を担当した『ゲッターロボ』で原画として活躍してから1970年代半ばから『大空魔竜ガイキング』、『惑星ロボ ダンガードA』などの東映動画のロボットアニメ、『超電磁マシーン ボルテスV』のオープニングアニメに始まる日本サンライズ(現・サンライズ)での『無敵超人ザンボット3』『無敵鋼人ダイターン3』といったロボットアニメや『サイボーグ009』のオープニングアニメ、『くじらのホセフィーナ』の第03話、第20話で注目を集める。 1980年代前半には『銀河旋風ブライガー』などのJ9シリーズ、『魔境伝説アクロバンチ』や『機甲創世記モスピーダ』などでオープニングアニメーションの仕事をし、山下将仁など金田の影響を受けたアニメーターを輩出した。1979年の劇場版『銀河鉄道999』以来、アニメ映画の仕事が増え『サイボーグ009 超銀河伝説』『ヤマトよ永遠に』『地球へ...』『宇宙戦艦ヤマト 完結編』『幻魔大戦』『オーディーン 光子帆船スターライト』などのアニメ映画に参加してメカ作画やエフェクトアニメを担当するようになった。それらの作品の中には「スペシャルアニメーション(「幻魔大戦」におけるクレジット)」や「メカニック作画監督」と金田のために特別な役職まで設けられたものもあり、スターアニメーターとも言える地位を築いて、当時のアニメ雑誌では機会があるごとに金田の情報を取り上げた。熱心なアニメファンの中には金田を主役にした自主制作アニメを制作するグループまで現れた。1980年代半ばになるとスタジオジブリの宮崎作品の常連になり、主にアニメ映画の仕事をこなすようになっていった。 1998年から劇場作品『ファイナルファンタジー』の制作に参加したのをきっかけにスクウェアに入社し、スクウェア・エニックスの旧第7開発事業部所属の社員としてゲームのムービー制作を担当していた。この時期は日本を離れてハワイに滞在しており、日本での仕事をしていない。 渡米前にはスパロボ系同人誌を発行する同人サークル「スタジオザルツウェルツ」にも参加している。 映画『ファイナルファンタジー』の仕事を終えて、日本への帰国後はスクウェア・エニックスの開発推進部に所属して2002年発売の『ファイナルファンタジーXI』、2003年発売の『半熟英雄対3D』、2005年発売の『半熟英雄4 7人の半熟英雄』、『武蔵伝II ブレイドマスター』など同社のゲームのオープニングアニメやキャラクターの3Dモーションを担当。中でも『半熟英雄対3D』のささきいさおの歌うテーマソングに合わせて往年の金田びかり、金田パース(後述)が炸裂するオープニングムービーは話題を呼んだ。 2009年7月21日、心筋梗塞により57歳で死去。同年8月30日に有志によって行われた「金田伊功を送る会」には日本のアニメーション関係者が約800名、一般のファンが300名ほど参加した。野田卓雄、庵野秀明、りんたろうらによって弔辞が述べられ、亀垣一、平山智、本橋秀之、友永和秀が故人の思い出を語った。また同年12月には第13回文化庁メディア芸術祭特別功労賞を受賞、2014年には東京アニメアワードフェスティバル・アニメ功労部門に選出された。 ロボットアニメなどにおいて緩急をつけながら舞うように動くアクロバティックなメカ表現やこれに通称「金田パース」と呼ばれる大胆に誇張された遠近感とポージングを加えた独特な作画スタイルを生み出し、日本のアニメーションにひとつの変革を起こした。「金田びかり」と呼ばれる実写のレンズの逆光で起きるゴーストを表現として取り入れられている。 元来、金田のスタイルは日本のテレビアニメーションに要求されている限られた時間と予算といった制約の中で、いかに表現を膨らませるかという条件から生み出された苦肉の策でもあった。少ない枚数で動きを出すためのひとつの方策として動きの中割りを極端に省いたり、広角や魚眼のレンズで見たような視点といったアイデアを積み重ねて確立した。 そうして生み出された派手なアクションシーンに当時の若手アニメーターやまだ視聴者であり後にアニメーターになっていく層も感化され、言わば「金田フォロワー」とも呼ぶべき一群を1980年代に形成した。具体的には鍋島修、亀垣一、越智一裕、山下将仁、大張正己、摩砂雪、板野一郎、いのまたむつみらの名前が挙げられる。エフェクト作画で知られる橋本敬史も金田に憧れてアニメ業界入りしたという。 以上のような在京の「金田フォロワー」に対し、在阪の作画スタジオとして1980年代の作画シーンにおいて黄金期を形成していたアニメアールの中核メンバーである、毛利和昭、吉田徹、沖浦啓之、逢坂浩司らも金田作画から受けた影響と魅力を証言している。 またその影響はアニメのみならず漫画の世界にも波及し、金田流のパース表現を取り入れる漫画家も現れた。 アクション、ロボットアニメ等数多くの作品で彼はその力量を発揮した。また少女を主人公にした宇宙戦争漫画『BIRTH』を徳間書店の「リュウ」「ザ・モーションコミック」で描き、これは後に金田とそのフォロワー陣を中心とした作画スタッフによってOVAアニメ化もされた。この頃が商業的ピークであり、金田ブームと言っても良い現象が業界を席捲した。 しかし一方でその絵には若干の癖があり、作画用設定資料に似せて描いていても彼ならではの個性がそこかしこに表れてしまい、各作品の作画監督はキャラクターを似せる修正や登場メカニックの形状的な整合性の維持に苦心する「作監泣かせ」としても知られた。 宮崎駿からは、「邪道な作画ばっかすんな」と咎められたという逸話もある。一方で宮崎は、苦心の分その効果も強烈であったと評価しており、『風の谷のナウシカ』の当時に「金田の描くナウシカが一番感じが出ていた」と語っていた。 宮崎監督作品である1984年のトップクラフト作品『風の谷のナウシカ』に、プロデューサーの高畑勲を尊敬していたということから参加した。元々共に仕事をする以前から、金田はアニメ映画『空飛ぶゆうれい船』で宮崎が作画を担当したゴーレムのようなものを描きたくてアニメーターになったと発言しており、宮崎の方も1982年に出版された金田の画集に才能を高く評価する寄稿をしていた。 それ以降、スタジオジブリで『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』、『魔女の宅急便』、『紅の豚』、『もののけ姫』の原画を手がけていく。ちなみに『ラピュタ』においては原画頭(げんががしら)という特例な称号を高畑が考案し、エンディングクレジットでも正式に表記されている。 なお、ロボットアニメで名を馳せたが、自身は「巨大ロボットアニメは線が多くて、それほど好きではなかったが、当時は今ほど作画においての制約がなかったので携わっていた」と語っている。事実『無敵鋼人ダイターン3』の後番組である『機動戦士ガンダム』に僅かしか関わらなかったのは、キャラクターデザインの安彦良和からレイアウトに縛られた作画を要求されたからだと語っている。その一方で「性に合っていた」とも語っていた。
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金田 伊功は、日本の男性アニメーター。奈良県出身。 「伊功」は「いこう」と読まれることもある。別名義に当初は誤字だったものを使用した「金田伊助」や、スクウェア・エニックス在籍中に他社仕事の際に使った「戸隠三郎」がある。
{{出典の明記|date=2009年7月22日 (水) 09:40 (UTC)|ソートキー=人2009年没}} {{Infobox animator | 名前 = 金田 伊功 | ふりがな = かなだ よしのり | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 画像解説 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = | 別名義 = <!-- 愛称の欄ではありません --> | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1952|2|5|no}} | 出身地 = {{JPN}}・[[奈良県]] | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1952|2|5|2009|7|21}} | 死没地 = <!-- [[日本]]・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 出身校 = [[専門学校東京デザイナー学院]]のアニメ科(現:[[専門学校東京クールジャパン]]) | 職業 = [[アニメーター]]<br />[[キャラクターデザイナー]] | 所属 = | 活動期間 = [[1970年]] - 2009年 | ジャンル = [[アニメーション]] | 配偶者 = | 交流関係 = <!-- 友人や同期、師事した相手など --> | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = 第13回[[文化庁メディア芸術祭]]特別功労賞 | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | URL = | サイト名 = | その他 = }} '''金田 伊功'''(かなだ よしのり、[[1952年]]〈[[昭和]]27年〉[[2月5日]] - [[2009年]]〈[[平成]]21年〉[[7月21日]])は、[[日本]]の[[男性]][[アニメーター]]。[[奈良県]]出身。 「伊功」は「いこう」と読まれることもある<!--読みの難しい人名は音読みで統一されて表現されることが多い-->。別名義に当初は誤字だったものを使用した「金田伊助」や、[[スクウェア・エニックス]]在籍中に他社仕事の際に使った「戸隠三郎」がある。 == 生涯 == [[航空自衛隊]]パイロットだった父親を見て育ち、自分もその道を熱望していたが、視力が悪く断念する。この時に映画『空飛ぶゆうれい船』の[[宮崎駿]]の作画に衝撃を受け、アニメーション業界を志すきっかけとなる。高校2年生の時のノートには、当時好きだった[[テレビアニメ]]『[[アタックNo.1]]』のヒロイン・鮎原こずえのイラストが多数描かれており、当時からプロレベルに近い画力であった<ref>「アニメの革命児 金田伊功」『[[MAG・ネット]]スペシャル』 [[NHK衛星第2テレビジョン]] 2010年8月14日放送{{出典無効|date=2015-03-01}}。「金田伊功スペシャル」(徳間書店)p82-p84</ref>。 アニメの通信教育を経て[[専門学校東京デザイナー学院]]のアニメ科(現:[[専門学校東京クールジャパン]])で学び、東映動画(現・[[東映アニメーション]])の契約社員となる。1970年に同社のテレビアニメ『[[魔法のマコちゃん]]』で[[動画]]デビュー。東映動画を退社後、[[荒木伸吾]]のフリー集団のスタジオZ(第1期)<ref>「魔女っ子スタッフ人名録 荒木伸吾」『魔女っ子大全集 東映動画篇』たるかす編、バンダイ、1993年、p.147。</ref>、野田卓雄のスタジオNo.1を経て1976年にスタジオZ(第2期)<ref>「スタジオZ5の若き獅子たち」『[[アニメージュ]]』1981年8月号、徳間書店、p.89。</ref>、1980年にスタジオNo.1を結成して活動。1974年に野田が作画監督を担当した『[[ゲッターロボ]]』で原画として活躍してから[[1970年代]]半ばから『[[大空魔竜ガイキング]]』、『[[惑星ロボ ダンガードA]]』などの東映動画のロボットアニメ、『[[超電磁マシーン ボルテスV]]』のオープニングアニメに始まる日本サンライズ(現・[[サンライズ (アニメ制作会社)|サンライズ]])での『[[無敵超人ザンボット3]]』『[[無敵鋼人ダイターン3]]』といった[[ロボットアニメ]]や『[[サイボーグ009 (アニメ)|サイボーグ009]]』のオープニングアニメ、『[[くじらのホセフィーナ]]』の第03話、第20話で注目を集める。 [[1980年代]]前半には『[[銀河旋風ブライガー]]』<ref>[[池田憲章]]「池田憲章のいいシーン見つけた! 第1回 『銀河旋風ブライガー』のオープニング」『アニメージュ』[[1982年]]1月号、徳間書店。</ref>などの[[J9シリーズ]]、『[[魔境伝説アクロバンチ]]』や『[[機甲創世記モスピーダ]]』などでオープニングアニメーションの仕事をし、[[山下将仁]]など金田の影響を受けたアニメーターを輩出した<ref name="modoki">EYECOM Files編「第5章 テク 『アニメーション表現の歴史』 [[氷川竜介]]」『SFアニメがおもしろい 機動戦士ガンダムから新世紀エヴァンゲリオンまで』[[アスペクト (企業)|アスペクト]]、1997年1月7日、ISBN 4-89366-643-6、169-170頁。</ref>。1979年の劇場版『[[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]]』以来、[[アニメ映画]]の仕事が増え『[[サイボーグ009 超銀河伝説]]』『[[ヤマトよ永遠に]]』『[[地球へ…]]』『[[宇宙戦艦ヤマト 完結編]]』『[[幻魔大戦 (映画)|幻魔大戦]]』『[[オーディーン 光子帆船スターライト]]』などのアニメ映画に参加してメカ作画やエフェクトアニメを担当するようになった<ref>『動画王』p.197。</ref><ref>「スタジオNo.1 スタジオZ5の俺たちの10大ニュース」『アニメージュ』1983年2月号、徳間書店、p.34。</ref>。それらの作品の中には「スペシャルアニメーション(「幻魔大戦」におけるクレジット)」や「メカニック作画監督」と金田のために特別な役職まで設けられたものもあり、スターアニメーターとも言える地位を築いて<ref name="modoki"/><ref>[[竹熊健太郎]]『ゴルゴ13はいつ終わるのか? 竹熊漫談』[[イースト・プレス]]、2005年、p.135。</ref>、当時の[[アニメ雑誌]]では機会があるごとに金田の情報を取り上げた<ref>編集部コラム・編集(マ)の『アニメージュ』が愛したアニメ[http://animage.jp/column/col_09/col_09_main.html 「第10回 元祖スターアニメーター――金田伊功」] アニメージュ公式サイト 2009年5月25日。</ref>。熱心なアニメファンの中には金田を主役にした自主制作アニメを制作するグループまで現れた<ref>「アニメランド 自主制作アニメーションキンタマン東北で大評判 主役はあの金田伊功さん」『アニメージュ』1986年1月号、徳間書店、p.113。制作した4人グループ「アニメーションべろべろ」には[[玉川達文]]が参加。</ref>。1980年代半ばになると[[スタジオジブリ]]の宮崎作品の常連になり、主にアニメ映画の仕事をこなすようになっていった<ref>『動画王 Vol.1』</ref><ref>[[赤星政尚]]他「CHAPTER.3 ロボットアニメを作った男たち ロボットアニメ 殿堂入りスタッフ紳士録」『不滅のスーパーロボット大全 マジンガーZからトランスフォーマー、ガンダムWまで徹底大研究』[[二見書房]]、1998年9月25日、ISBN 4-576-98138-2、129頁。</ref><ref name="animev8806">「ギョーカイ噂の今さら友だちのWA! 金田伊功さんの巻」『アニメV』[[1988年]]6月号、[[学研ホールディングス|学習研究社]]、p.44。</ref>。 1998年から劇場作品『[[ファイナルファンタジー (映画)|ファイナルファンタジー]]』の制作に参加<ref>「金田伊功の世界」『アニメージュ』1998年5月号、徳間書店。</ref>したのをきっかけに[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]に入社し、[[スクウェア・エニックス]]の旧第7開発事業部所属の社員としてゲームのムービー制作を担当していた。この時期は日本を離れて[[ハワイ]]に滞在しており<ref>「イベント「小松原一男のアニメーション」記録」『小松原一男アニメーション画集』小松原一男著、なみきたかし編集、東急エージェンシー、2002年、p.153。</ref><ref name="style">[http://www.style.fm/log/02_topics/top050520a.html 「OPを担当したゲームが連続リリース!金田伊功ミニ・インタビュー!!」] WEB[[アニメスタイル]] 2005年5月20日。</ref>、日本での仕事をしていない。 渡米前にはスパロボ系同人誌を発行する同人サークル「スタジオザルツウェルツ」にも参加している。 映画『ファイナルファンタジー』の仕事を終えて、日本への帰国後はスクウェア・エニックスの開発推進部に所属して2002年発売の『[[ファイナルファンタジーXI]]』、2003年発売の『[[半熟英雄対3D]]』、2005年発売の『[[半熟英雄|半熟英雄4 7人の半熟英雄]]』、『[[武蔵伝II ブレイドマスター]]』など同社のゲームのオープニングアニメやキャラクターの3Dモーションを担当。中でも『半熟英雄対3D』の[[ささきいさお]]の歌うテーマソングに合わせて往年の金田びかり、金田パース(後述)が炸裂するオープニングムービーは話題を呼んだ<ref name="style" />。 [[2009年]][[7月21日]]、[[心筋梗塞]]により57歳で死去<ref>{{Cite news |title=金田伊功氏死去 アニメーター |agency=[[共同通信社]]|publisher=[[東京新聞]] |date=2009年7月23日}}<br />[http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20090722_kanada_yoshinori/index.html 独特の迫力で魅了する「金田パース」の開発者でアニメーターの金田伊功氏、心筋梗塞のため死去] [[GIGAZINE]] 2009年7月22日。</ref>。同年[[8月30日]]に有志によって行われた「金田伊功を送る会」には日本のアニメーション関係者が約800名、一般のファンが300名ほど参加した。野田卓雄、[[庵野秀明]]、[[りんたろう]]らによって弔辞が述べられ、[[亀垣一]]、[[平山智 (アニメーター)|平山智]]、[[本橋秀之]]、[[友永和秀]]が故人の思い出を語った。また同年12月には第13回[[文化庁メディア芸術祭]]特別功労賞を受賞、2014年には東京アニメアワードフェスティバル・アニメ功労部門に選出された。 == 概要 == [[ロボットアニメ]]などにおいて緩急をつけながら舞うように動くアクロバティックなメカ表現やこれに通称「金田パース」と呼ばれる大胆に誇張された[[遠近法|遠近感]]とポージングを加えた独特な作画スタイルを生み出し<ref>『動画王 Vol.1』p.193。</ref>、日本のアニメーションにひとつの変革を起こした<ref name="TodaiOtaku67">{{Cite book|和書 |author=岡田斗司夫 |authorlink=岡田斗司夫 |coauthors=[[氷川竜介]] |title=東大オタク学講座 |url=http://netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/otakusemi/mokuzi.html |accessdate=2009-07-28 |edition=第3版 |date=1997-09-26 |publisher=[[講談社]] |isbn=4-06-208292-6 |pages=67-94頁 |chapter=第三講 エフェクトアニメ進化論 |chapterurl=http://netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/otakusemi/No3.html}}</ref><ref name="modoki" />。「金田びかり」と呼ばれる実写のレンズの逆光で起きるゴーストを表現として取り入れられている<ref>『動画王 Vol.1』p.192。</ref>。 === 金田流の確立と流行 === {{独自研究|section=1|date=2009年7月}} 元来、金田のスタイルは日本のテレビアニメーションに要求されている限られた時間と予算といった制約の中で、いかに表現を膨らませるかという条件から生み出された苦肉の策でもあった<ref name="TodaiOtaku67" />。少ない枚数で動きを出すためのひとつの方策として動きの中割りを極端に省いたり、広角や魚眼のレンズで見たような視点といったアイデアを積み重ねて確立した。 そうして生み出された派手なアクションシーンに当時の若手アニメーターやまだ視聴者であり後にアニメーターになっていく層も感化され、言わば「金田フォロワー」とも呼ぶべき一群を1980年代に形成した。具体的には[[鍋島修]]、[[亀垣一]]、[[越智一裕]]、[[山下将仁]]、[[大張正己]]、[[摩砂雪]]、[[板野一郎]]、[[いのまたむつみ]]らの名前が挙げられる<ref name="modoki" /><ref>『庵野秀明 スキゾエヴァンエリオン』[[大泉実成]]編、太田出版、1997年、p.146。座談会での摩砂雪本人の発言による。</ref>。エフェクト作画で知られる[[橋本敬史]]も金田に憧れてアニメ業界入りしたという<ref>[http://www.dot-anime.com/tb/yamato/sp_talk/03_1.html SPECIAL TALK #03 橋本敬史] トルネードベース・宇宙戦艦ヤマト</ref>。 以上のような在京の「金田フォロワー」に対し、在阪の作画スタジオとして1980年代の作画シーンにおいて黄金期を形成していた[[アニメアール]]の中核メンバーである、[[毛利和昭]]<ref>『ヒロインステーション』大洋書房、2007年、p.94。毛利和昭インタビュー。</ref>、[[吉田徹]]<ref>岡島正晃、あさのまさひこ、中島紳介『ボトムズ・アライヴ』太田出版、2000年、p.250。吉田徹インタビュー。</ref>、[[沖浦啓之]]<ref>『ドリームハンター麗夢』DVD-BOX2、オンリー・ハーツ、2007年、ブックレット収録、沖浦啓之インタビュー。</ref>、[[逢坂浩司]]<ref>[http://blog.livedoor.jp/kimidori1983/archives/50374370.html 逢坂浩司インタビュー] 『ドリームハンター麗夢』DVD-BOX1、オンリー・ハーツ、2006年、ブックレット収録。</ref>らも金田作画から受けた影響と魅力を証言している。 またその影響はアニメのみならず漫画の世界にも波及し、金田流のパース表現を取り入れる漫画家も現れた<ref>氷川竜介『世紀末アニメ熱論』キネマ旬報社、2000年、p.148。</ref>。 アクション、ロボットアニメ等数多くの作品で彼はその力量を発揮した。また少女を主人公にした宇宙[[戦争漫画]]『[[BIRTH (OVA)|BIRTH]]』を[[徳間書店]]の「[[月刊COMICリュウ|リュウ]]」「[[ザ・モーションコミック]]」で描き、これは後に金田とそのフォロワー陣を中心とした作画スタッフによって[[OVA]]アニメ化もされた。この頃が商業的ピークであり、金田ブームと言っても良い現象が業界を席捲した。 === 作画監督泣かせの個性 === しかし一方でその絵には若干の癖があり、作画用設定資料に似せて描いていても彼ならではの個性がそこかしこに表れてしまい、各作品の作画監督はキャラクターを似せる修正や登場メカニックの形状的な整合性の維持に苦心する「作監泣かせ」としても知られた<ref name="sankei20090814">{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/090814/tnr0908140816005-n1.htm|title=追悼 アニメーター・金田伊功さん 宮崎監督が「頭(かしら)」と呼んだ男|work=[[産経新聞|MSN産経ニュース]]|publisher=[[産業経済新聞社]]|pages=1-3|date=2009-08-14|accessdate=2009-08-16}}</ref>。 宮崎駿からは、「邪道な作画ばっかすんな」と咎められたという逸話もある<ref name="TodaiOtaku67" />。一方で宮崎は、苦心の分その効果も強烈であったと評価しており<ref name="sankei20090814" />、『風の谷のナウシカ』の当時に「金田の描くナウシカが一番感じが出ていた」と語っていた<ref name="zensho">叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社、2006年、p.55。</ref>。 == ジブリ作品後 == 宮崎監督作品である1984年の[[トップクラフト]]作品『風の谷のナウシカ』に、プロデューサーの[[高畑勲]]を尊敬していたということから参加した<ref>[[鈴木敏夫]]『映画道楽』ぴあ、2005年、p.76。</ref>。元々共に仕事をする以前から、金田はアニメ映画『[[空飛ぶゆうれい船]]』で宮崎が作画を担当したゴーレムのようなものを描きたくてアニメーターになったと発言しており<ref>友永和秀、金田伊功、貞光紳也、鍋島治、越智一裕、山下将仁「アニメ・ホープ戦闘座談会 目にカミソリといった実感ある戦闘シーンがほしい」『アニメージュ』1981年9月号、徳間書店、pp.86-87。</ref>、宮崎の方も1982年に出版された金田の画集に才能を高く評価する寄稿をしていた<ref name="zensho" />。 それ以降、スタジオジブリで『[[天空の城ラピュタ]]』、『[[となりのトトロ]]』、『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』、『[[紅の豚]]』、『[[もののけ姫]]』の原画を手がけていく。ちなみに『ラピュタ』においては原画頭(げんががしら)という特例な称号を高畑が考案し<ref name="animev8806" />、エンディングクレジットでも正式に表記されている。 なお、ロボットアニメで名を馳せたが、自身は「巨大ロボットアニメは線が多くて、それほど好きではなかったが、当時は今ほど作画においての制約がなかったので携わっていた」と語っている<ref>『動画王 Vol.1』p.188-190。</ref>。事実『無敵鋼人ダイターン3』の後番組である『機動戦士ガンダム』に僅かしか関わらなかったのは、キャラクターデザインの[[安彦良和]]からレイアウトに縛られた作画を要求されたからだと語っている<ref>『動画王 Vol.1』p.196。</ref>。その一方で「性に合っていた」とも語っていた<ref>同人誌『金田伊功GREAT』p.72。インタビュー記事より。</ref>。 == 参加作品 == {{dl2 | 1970年 | * [[魔法のマコちゃん]](動画) | 1971年 | * [[さるとびエッちゃん]](動画) * [[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第2シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎]](動画) | 1972年 | * [[魔法使いチャッピー]](動画) * [[月光仮面]](動画) * [[赤胴鈴之助]](動画、原画) * [[ど根性ガエル]](動画、原画) | 1973年 | * [[ドロロンえん魔くん]](原画) * [[荒野の少年イサム]](動画) * [[キューティーハニー]](原画) | 1974年 | * [[ゲッターロボ]](原画)※金田伊助での誤植名義 * [[魔女っ子メグちゃん]](原画) * [[宇宙戦艦ヤマト]](原画)※タイガープロ回に参加。クレジットは無い | 1975年 | * [[ゲッターロボG]](原画) * [[一休さん (テレビアニメ)|一休さん]](原画) | 1976年 | * [[大空魔竜ガイキング]](原画、作画監督) * [[キャンディ・キャンディ]](原画) * [[ろぼっ子ビートン]](原画) | 1977年 | * [[惑星ロボ ダンガードA]](オープニング原画・初期原画) * [[氷河戦士ガイスラッガー]](原画) * [[超電磁マシーン ボルテスV]](オープニング原画) * [[無敵超人ザンボット3]](絵コンテ、原画) * [[激走!ルーベンカイザー]](オープニング原画) * [[女王陛下のプティアンジェ]](オープニング原画) * [[恐竜大戦争アイゼンボーグ]](原画) | 1978年 | * [[無敵鋼人ダイターン3]](オープニング原画・原画) * [[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]](原画) * [[宇宙戦艦ヤマト2]](原画) | 1979年 | * [[サイボーグ009 (アニメ)|サイボーグ009]](オープニング原画) * [[くじらのホセフィーナ]](第03話、第20話絵コンテ、原画) * [[宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち]](原画) * [[宇宙空母ブルーノア]](原画) * [[銀河鉄道999 (アニメ)#映画版|劇場版 銀河鉄道999]](原画) * [[機動戦士ガンダム]](原画3カット) | 1980年 | * [[燃えろアーサー 白馬の王子]](原画) * [[地球へ…]](原画) * [[ムーの白鯨]](メカ修正) * [[ずっこけナイトドンデラマンチャ]](絵コンテ、原画、'''キャラクターデザイン(第06話)''') * [[がんばれゴンベ]](原画) * [[サイボーグ009 (アニメ)#劇場版(第3作)|サイボーグ009 超銀河伝説]](原画手伝い) * [[ヤマトよ永遠に]](原画) * [[太陽の使者 鉄人28号]](原画) * [[宇宙戦艦ヤマトIII]](原画) * [[宇宙伝説ユリシーズ31]](メカデザイン) * [[テクノボイジャー|サンダーバード (パイロット版)]](レイアウト)※TV未放映 | 1981年 | * [[タイガーマスク#続編・関連作品|タイガーマスク二世]](原画手伝い) * [[ブレーメン4 地獄の中の天使たち]](原画) * 劇場版 さよなら銀河鉄道999(原画) * [[銀河旋風ブライガー]](オープニング・エンディング原画) * [[めちゃっこドタコン]](原画(第1話)) * [[六神合体ゴッドマーズ]](第3話原画3カット) | 1982年 | * [[新竹取物語 1000年女王|1000年女王]](メカニック作画監督、原画) * [[魔境伝説アクロバンチ]](オープニング・エンディング絵コンテ、原画) * [[わが青春のアルカディア]](原画) * [[FUTURE WAR 198X年]](メカニックデザイン、メカニック作画監督)※ノンクレジット | 1983年 | * [[機甲創世記モスピーダ]](オープニング、エンディングアニメーション、原画(第1話の導入部のみ)) * [[プラレス3四郎]](絵コンテ・原画) * [[幻魔大戦 (映画)|幻魔大戦]](原画、エンディング・クレジットは「スペシャル・アニメーション」) * [[宇宙戦艦ヤマト 完結編]](作画監督) | 1984年 | * [[BIRTH (OVA)|BIRTH]](アニメーションディレクター、'''キャラクターデザイン''') * [[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]](原画) * [[マイティ・オーボッツ]](原画) ※海外放送/日本未放映 | 1985年 | * 宇宙戦艦ヤマト(作画監督、原画)※[[LDゲーム]]版 * [[オーディーン 光子帆船スターライト]](作画監督) * [[押井版ルパン三世]](画面構成)※制作中止 * ザ・チョコレート・パニック・ピクチャー・ショー(絵コンテ・アニメーション) * [[ビデオ戦士レザリオン]](最終話原画) | 1986年 | * [[天空の城ラピュタ]](原画頭) * [[火の鳥 (漫画)|火の鳥]] 鳳凰編(原画) | 1987年 | * [[2001夜物語|スペース・ファンタジア 2001夜物語]](絵コンテ、原画) * [[学園特捜ヒカルオン]](オープニングプレゼンター、原画) * [[デビルマン|デビルマン 誕生編]](原画) * [[:en:Visionaries: Knights of the Magical Light|VISIONARIES Knights of the Magical Light]](アニメーション・ディレクター、OP作画、設定)※海外放送/日本未放映 | 1988年 | * [[AKIRA (アニメ映画)|AKIRA]](原画) * [[鎧伝サムライトルーパー]](原画) * [[ミスター味っ子]](原画) * [[となりのトトロ]](原画) | 1989年 | * [[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]](原画) * [[まじかるハット]](原画) | 1990年 | * [[レスラー軍団〈銀河編〉 聖戦士ロビンJr.]](絵コンテ) * [[デビルマン|デビルマン 妖鳥死麗濡編]](原画) * [[八神くんの家庭の事情#アニメ|八神くんの家庭の事情]](原画) | 1991年 | * [[しあわせのかたち]](絵コンテ、作画監督、原画) * [[コズミック・ファンタジー|コズミック・ファンタジー2 冒険少年バン]](原画) * [[寿五郎ショウ|江口寿史の寿五郎ショウ]]「怪獣王国」(怪獣デザイン、作画監督、原画) * [[緊急発進セイバーキッズ]](原画) | 1992年 | * [[紅の豚]](原画) * [[トーキング・ヘッド]](原画) * [[ダウンロード 南無阿弥陀仏は愛の詩]]('''キャラクターデザイン'''、原画) | 1993年 | * [[流星機ガクセイバー#OVA|流星機ガクセイバー]](原画) * [[X (漫画)#Music_Video版|X2 ダブルエックス]](原画) | 1994年 | * [[とっても!ラッキーマン]]('''キャラクターデザイン'''、オープニングアニメーション、'''金田伊助'''名義) * [[ファイナルファンタジー (OVA)|FINAL FANTASY]] 星の章(原画) * [[孔雀王|真・孔雀王]](原画) * [[幽☆遊☆白書 冥界死闘篇 炎の絆]](原画) | 1995年 | * [[ふしぎ遊戯]](オープニングアニメーション、原画) * [[魔物ハンター妖子|魔物ハンター妖子<sup>2</sup>]](原画) | 1996年 | * [[機動戦艦ナデシコ]]([[ゲキ・ガンガー3]]作画) * [[X (漫画)|X]](原画) * 魔法少女ファンシーCoCo(オープニングアニメーション) | 1997年 | * 劇場版 フランダースの犬(原画) * [[もののけ姫]](原画) * [[DESIRE (ゲーム)|DESIRE]](オープニングアニメ原画、SS版) * [[CLAMP学園探偵団]](オープニング原画) * [[吸血鬼ハンターD|VAMPIRE HUNTER The ANIMATION SERIES]](原画) * [[超獣伝説ゲシュタルト]](原画) | 1998年 | * [[ゲキ・ガンガー3|ゲキ・ガンガー3 熱血大決戦!!]](原画) * [[アレクサンダー戦記]](原画) * [[青の6号 (アニメ)|青の6号]](原画) * [[超特急ヒカリアン]](絵コンテ、演出、作画監督) * [[EVE The Lost One]](スペシャルアニメーション) | 2001年 | * [[ファイナルファンタジー (映画)|ファイナルファンタジー]](アニメーションスーパーバイザー、原画、レイアウト) * [[おとぎストーリー 天使のしっぽ]](第11話原画) * [[メトロポリス (2001年の映画)|メトロポリス]](原画) | 2002年 | * [[ファイナルファンタジーXI]](モーションキャプチャー・アニメーションディレクター) | 2003年 | * [[半熟英雄対3D]](OP監督) * [[ポポロクロイス (アニメ)|ポポロクロイス]](絵コンテ、原画、'''戸隠伊助'''名義) | 2004年 | * [[DESIRE (ゲーム)|DESIRE]](オープニングアニメ原画、PS2版) | 2005年 | * [[武蔵伝II ブレイドマスター]](絵コンテ) * [[半熟英雄|半熟英雄4 7人の半熟英雄]](OP監督) | 2006年 | * [[ガイキング LEGEND OF DAIKU-MARYU]](後期オープニング原画、'''戸隠三郎'''名義)※アニメ作品としての[[遺作]] * [[聖剣伝説4]](フェイシャルセッティング) | 2007年 | * [[ファイナルファンタジーIV]](絵コンテ)※[[ニンテンドーDS]]版 | 2009年 | * [[ファイナルファンタジーXIII]](ストーリーボードディレクター) * [[鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST|鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST -黄昏の少女-]](イベントムービー絵コンテ、アートワーク、原画) | 2011年 | * [[ファイナルファンタジーXIII-2]](絵コンテ) | 2012年 | * [[ドラゴンクエストX 目覚めし五つの種族 オンライン]](ストーリーボード※ゲーム作品としての遺作) }} == 著作 == * 『金田伊功スペシャル』([[徳間書店]]、1982年7月31日) ISBN 4-19-402547-4 * 漫画『わが青春のフローレシア』(月刊ベティ創廃刊号、吉村牧子との共作、1982年8月15日) * 漫画版『バース』第1巻 (原案/武上純希・カナメプロ 徳間書店、1983年12月20日) == 参考文献 == * [[氷川竜介]]『20年目のザンボット3』 [[太田出版]]、[[1997年]] * 氷川竜介取材・構成「証言・巨大ロボットアニメの時代 金田伊功インタビュー」『動画王 Vol.1 決戦!巨大ロボットアニメ』 [[キネマ旬報社]]、1997年、pp.186-200。 == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{jmdb name|0090330}} * {{allcinema name|132434}} * {{kinejun name|89827}} * {{Imdb name|id=0437484|name=Yoshinori Kanada}} * {{Movie Walker name|id=84780|name=金田伊功}} * [http://www.linkclub.or.jp/~h-884/iko.html 金田伊功FAN SITE「金田式.kanada style.」] * [http://studioz-official.jimdo.com/ 一般社団法人「金田伊功ARCHIVE」] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:かなた よしのり}} [[Category:日本の男性アニメーター]] [[Category:アニメのキャラクターデザイナー]] [[Category:スクウェア・エニックスの人物]] [[Category:東映アニメーションの人物]] [[Category:奈良県出身の人物]] [[Category:1952年生]] [[Category:2009年没]]
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2023-07-17T02:11:19Z
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