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帰依
仏教用語において帰依(きえ、巴: saraṇagamana、梵: śaraṇagamana)とは、拠り所にするという意味。 一般的に仏教に帰依をする際には「三帰五戒」(さんきごかい)とされ、仏・法・僧を拠り所にすることを宣言し(三帰依)、五戒とよばれる戒律と、可能であれば更に「八斎戒」を授かることになる。宗教的には仏教以外の教えを信じることをやめ、「五戒」を守ることを誓ってはじめて正式な仏教徒となるのである。 サンスクリットの「śaraṇa शरण」パーリの「saraṇa」は、保護所・避難所という意味である。いわゆる中国語には「依帰」という言葉が『書経』に出てくるが、この場合は「頼りにする」という程度の意味である。 仏法僧の「三宝」に帰依することを、先の様に三帰依(さんきえ、巴: ti-saraṇa、梵: tri-śaraṇa)というが、この三帰依の文章は仏道に入る儀式である『受戒会』や『得度』にも用いられ、しばしば音楽法要にも使われる。 八宗の祖と仰がれる龍樹は、「仏法の大海は信の一字をもって入る」と『大智度論』の中で述べていて、また、空海は「仏法の殊妙を聞かば、必ずよく帰依し信受すべし」と『十住心論』に述べている。 三宝は以下を指す。 南方仏教ではパーリ語で仏法僧の三宝への文章を、以下のように3度繰り返して帰依を表す(三帰依)。 三宝に帰依した後は以下の文章を毎日3回唱えて仏法僧への誓いを新たにし、御仏や諸尊、加えて御先祖様の加護を祈るようにする。 また、『華厳経』浄行品第7にある、以下の経文を「三帰礼拝文」とし、日本の伝統宗派では唱えながら礼拝する場合もある。 真宗大谷派では、開経偈と併せて以下のように唱える。
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仏教用語において帰依とは、拠り所にするという意味。 一般的に仏教に帰依をする際には「三帰五戒」(さんきごかい)とされ、仏・法・僧を拠り所にすることを宣言し(三帰依)、五戒とよばれる戒律と、可能であれば更に「八斎戒」を授かることになる。宗教的には仏教以外の教えを信じることをやめ、「五戒」を守ることを誓ってはじめて正式な仏教徒となるのである。 サンスクリットの「śaraṇa शरण」パーリの「saraṇa」は、保護所・避難所という意味である。いわゆる中国語には「依帰」という言葉が『書経』に出てくるが、この場合は「頼りにする」という程度の意味である。 大乗仏教の一部の宗派では、帰依とは勝れたものに対して自己の身心を帰投して「依伏信奉」することをいう。 自帰依、法帰依(自洲自依、法洲法依)という場合の「自帰依」(自灯明)は、四念処の実践を意味する。 仏法僧の「三宝」に帰依することを、先の様に三帰依というが、この三帰依の文章は仏道に入る儀式である『受戒会』や『得度』にも用いられ、しばしば音楽法要にも使われる。
{{出典の明記|date=2022年1月4日 (火) 06:02 (UTC)}} {{#invoke:String|replace|pattern=韓国語|replace={{ISO639言語名|ko}}|plain=false|source= {{Infobox Buddhist term |title= 帰依 |pi= saraṇa (सरण) |sa= śaraṇa (शरण) |bn= শরন |bn-Latn=Shôrôn |vi= Quy y |zh= 皈依 |zh-Latn=Guīyī |ja= 帰依 |ja-Latn=kie |km-Latn=nipean |ko= 귀의 |ko-Latn=gwiui |th= สรณะ, ที่พึ่ง ที่ระลึก {{RTGS|sarana, thi phueng thi raluek}} }} }} [[File:Veneration of the Three Jewels, Chorasan, Gandhara, 2nd century AD, schist - Ethnological Museum, Berlin - DSC01642.JPG|thumb|right|三宝のシンボル(Chorasan, Gandhara, 2世紀ごろ, [[ベルリン民族学博物館]])|333x333px]] [[仏教用語]]において'''帰依'''(きえ、{{lang-pi-short|saraṇagamana}}、[[サンスクリット|梵]]: {{IAST|śaraṇagamana}})とは、拠り所にするという意味<ref name=zenbu />。 一般的に[[仏教]]に帰依をする際には「三帰五戒」(さんきごかい)とされ、[[仏]]・[[法_(仏教)|法]]・[[僧]]を拠り所にすることを宣言し(三帰依)、[[五戒]]とよばれる戒律と、可能であれば更に「[[八斎戒]]」を授かることになる。宗教的には[[仏教]]以外の教えを信じることをやめ、「[[五戒]]」を守ることを誓ってはじめて正式な[[仏教徒]]となるのである。 [[サンスクリット]]の「{{IAST|śaraṇa}} {{lang|sa|शरण}}」[[パーリ]]の「{{lang|pi|saraṇa}}」は、保護所・避難所という意味である。いわゆる[[中国語]]には「依帰」という言葉が『[[書経]]』に出てくるが、この場合は「頼りにする」という程度の意味である。 *大乗仏教の一部の宗派では、'''帰依'''とは勝れたものに対して自己の身心を帰投して「依伏信奉」することをいう。 *自帰依、法帰依(自洲自依、法洲法依)({{lang-pi-short|attadīpo attasaraṇo dhammadīpo dhammasaraṇo}})という場合の「自帰依」(自灯明)は、[[四念処]]の実践を意味する。 仏法僧の「[[三宝]]」に帰依することを、先の様に三帰依(さんきえ、{{lang-pi-short|ti-saraṇa}}、{{lang-sa-short|tri-śaraṇa}})というが<ref name=zenbu />、この三帰依の文章は仏道に入る儀式である『受戒会』や『[[得度]]』にも用いられ、しばしば音楽法要にも使われる。 == 信 == 八宗の祖と仰がれる[[龍樹]]は、「仏法の大海は[[信]]{{efn2|ここでは帰依と信心の両方を指す。{{要出典|date=2016-07}}}}の一字をもって入る」と『[[大智度論]]』の中で述べていて、また、[[空海]]は「仏法の殊妙を聞かば、必ずよく帰依し信受すべし」と『[[十住心論]]』に述べている。 ==三帰依文== [[三宝]]は以下を指す<ref name=zenbu />。 * [[釈迦|ブッダ]](仏)- [[悟り]]を経た者、釈迦 * [[法 (仏教)|ダルマ]](法) - ブッダの教え * [[僧|サンガ]](僧)- ダルマを実践する仏教集団 === パーリ三帰依文 === 南方仏教では[[パーリ語]]で仏法僧の三宝への文章を、以下のように3度繰り返して帰依を表す(三帰依)<ref>{{Cite web|和書|title=初期仏教の世界 - 礼拝の言葉 |publisher=[[日本テーラワーダ仏教協会]] |accessdate=2022-12 |url=https://j-theravada.net/world/raihai/}}</ref><ref name=zenbu>{{Cite web|和書|publisher=公益社団法人[[全日本仏教会]] |title=仏旗・法輪・三帰依文 | |url=http://www.jbf.ne.jp/interest/symbols?id= |accessdate=2022-12}}</ref>。 *1度目の帰依 :{{lang|pi|Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi}}(ブッダン・サラナン・ガッチャーミ) ::(私はブッダ(仏)に帰依いたします) :{{lang|pi|Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi}}(ダンマン・サラナン・ガッチャーミ) ::(私はダンマ(法)に帰依いたします) :{{lang|pi|Saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi}}(サンガン・サラナン・ガッチャーミ) ::(私はサンガ(僧)に帰依いたします) *2度目の帰依 :{{lang|pi|Dutiyampi Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi}}(ドゥティヤンピ・ブッダン・サラナン・ガッチャーミ) ::(再び、私はブッダ(仏)に帰依いたします) :{{lang|pi|Dutiyampi Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi}}(ドゥティヤンピ・ダンマン・サラナン・ガッチャーミ) ::(再び、私はダンマ(法)に帰依いたします) :{{lang|pi|Dutiyampi Saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi}}(ドゥティヤンピ・サンガン・サラナン・ガッチャーミ) ::(再び、私はサンガ(僧)に帰依いたします) *3度目の帰依 :{{lang|pi|Tatiyampi Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi}}(タティヤンピ・ブッダン・サラナン・ガッチャーミ) ::(三度(みたび)、私はブッダ(仏)に帰依いたします) :{{lang|pi|Tatiyampi Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi}}(タティヤンピ・ダンマン・サラナン・ガッチャーミ) ::(三度、私はダンマ(法)に帰依いたします) :{{lang|pi|Tatiyampi Saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi}}(タティヤンピ・サンガン・サラナン・ガッチャーミ) ::(三度、私はサンガ(僧)に帰依いたします) === 大乗仏教 === 三宝に帰依した後は以下の文章を毎日3回唱えて仏法僧への誓いを新たにし、御仏や諸尊、{{要出典範囲|加えて御先祖様の加護を祈るようにする。|date=2018-07}} *南無帰依仏{{efn2|ブッダ:仏陀、覚者。直接的には歴史上の[[釈迦]]牟尼仏を指し、広義には諸仏・菩薩や仏像をも含める。}} *南無帰依法{{efn2|ダルマ:仏法。主に『[[大蔵経]]』における律蔵・経蔵・論蔵の「[[三蔵]]」の教えを意味する。}} *南無帰依[[僧]]{{efn2|サンガ:正しくは「[[僧伽]]」(そうぎゃ)。いわゆる20名以上の[[僧侶]]の集団である事が必要で、[[具足戒]]を保持している状態の人々を指す。}} また、『[[華厳経]]』浄行品第7にある、以下の経文を「三帰礼拝文」とし、日本の伝統宗派では唱えながら礼拝する場合もある。 *自帰依[[如来|佛]] 当願衆生 体解大道 発無上意 *自帰依[[法 (仏教)|法]] 当願衆生 深入経蔵 智慧如海 *自帰依[[僧]] 当願衆生 統理大衆 一切無碍 [[真宗大谷派]]では、[[開経偈]]と併せて以下のように唱える。 : 人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。 : この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん。 : 大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。 : '''自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。''' : '''自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。''' : '''自から僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。''' : 無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。 : 我いま見聞し受持することを得たり。 : 願わくは如来の真実義を解したてまつらん。 : (無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist2}} ===出典=== {{Reflist}} == 参考文献 == == 関連項目 == *[[僧]] *[[三宝]] {{buddhism-stub}} {{Buddhism2}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:きえ}} [[Category:仏教用語]] [[Category:仏教哲学の概念]]
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荻窪駅
荻窪駅(おぎくぼえき)は、東京都杉並区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。 JR東日本の駅は上荻一丁目に、東京メトロの駅は荻窪五丁目にそれぞれ所在する。 JR東日本の中央本線および東京メトロの丸ノ内線が乗り入れ、接続駅となっている。 JR東日本中央本線の運転系統としては、急行線で運行される中央線快速、および緩行線で運行される中央・総武線各駅停車の2系統が停車する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」に属する。 東京メトロ丸ノ内線は当駅を終着としている。 かつては東京都交通局の都電杉並線が乗り入れていたが、丸ノ内線開通後の1963年に廃止されている。 島式ホーム2面4線を有する地上駅。 改札口は、新宿側に東改札、三鷹側に西改札がそれぞれ設けられている。西改札にはお客さまサポートコールシステムが導入されており、一部の時間帯を除きインターホンによる案内となる。新宿側は駅舎が地下にあって地下駅のようになっており、改札口前の地下通路から南北にそれぞれ出入口がある。また、三鷹側は橋上駅舎になっており、跨線橋を介して南北双方に出入口が設けられている。なお、駅の南側には線路沿いに区道(都市計画道路補助131号線)が通っており、南口および西口南側の出入口は、区道の駅側と区道を渡った側とのそれぞれ2ヶ所に設けられている。 JR東日本では、新宿側での北側出入口を北口、南側出入口を南口と呼ぶのに対して、三鷹側の出入口には名前が付されていない。一般には北側も南側も西口と呼ばれている。また、新宿側の出入口を総称して東口と呼ぶ場合もある。 各改札口と各ホームとの間には、階段およびエレベーターが設置されており、東改札と各ホームの間には上下エスカレーターも設置されている。また、出入口と改札口の間には、北口および南口にエレベーターと上りエスカレーター、西口北側にエレベーターが設置されている。なお、新宿側地下通路は、丸ノ内線の東端改札にも面しており、東西に延びる丸ノ内線の地下通路を介して丸ノ内線の他の改札および西口出入口とも連絡している。丸ノ内線地下通路を経由すれば、駅南側の丸ノ内線西口のエレベーターも使用可能である。 (出典:JR東日本:駅構内図) 島式ホーム1面2線を有する地下駅である。改札口はホーム東端と西端、ホーム中央西寄りの3か所である。ホームと改札口との間は、東端改札には階段および上下エスカレーター、西端改札には階段、中央西寄り改札にはエレベーターがそれぞれ設けられている。丸ノ内線の当駅は開業当初の「荻窪線」が、都心方面へ向かう国鉄中央線の「混雑緩和」が大きな目的であることから、中央線との相互乗り換えに重点を置いた構造となっている。 東京メトロの管轄する駅および東京23区の地下鉄の駅としては最西端である。 東端改札は、JR駅の地下通路に面しており、北口、南口、荻窪ルミネに接続している。また、西端改札は、西口に通じている。東端側のJR駅地下通路と西口との間には東西に延びる地下通路が設けられており、東西の出入口と各改札口とを接続している。改札口と地上との間は、東端側の北口・南口にJR駅と共用の階段、エレベーター、上りエスカレーターが、西口に階段、エレベーターが設置されている。西口エレベーターは、2階レベルでJR駅の西口南側に連絡している。 東端改札に通じる駅看板には、JRロゴと丸ノ内線の路線記号の他に東西線の路線記号()が表記されているが、東西線はJRの改札を利用するよう注意書きがある。東西線を使用する場合、JR中央線経由(相互直通運転している中央・総武緩行線経由を含む)となるため、中野駅までJR線の運賃が必要となる。なお、東西線直通の連絡乗車券発売および電車の発車ホームはJR側となる。 かつては、東端改札の西側に定期券売り場が設置されていたが、自動券売機において定期券の新規購入が可能になったため、2011年10月14日をもって閉鎖された。 当駅は、「新宿駅務管区荻窪地域」として近隣の駅を管理している。 (出典:東京メトロ:構内図) ワンマン運転開始に伴い、スイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)が導入されている。 曲は1番線が「星の贈りもの」(塩塚博作曲)、2番線が「ハート畑」(福嶋尚哉作曲)である。 JR東日本、東京メトロの合計の利用者数では杉並区の中で最も多い駅である。 近年の1日平均乗降人員の推移は下表の通り(JRを除く)。 各年度の1日平均乗車人員の推移は下表の通り。 近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通り。 荻窪の街は、大正から昭和初期にかけて東京近郊の別荘地として「西の鎌倉、東の荻窪」と称され、以来文化人が多く住む閑静な住宅地として知られているが、駅前周辺は東京で有数のラーメン(荻窪ラーメン)店激戦地として知られる。また、地域としてクラシック音楽を支援しており、多くのコンサートが開催されている。2000年代後半以降はカレーショップが増え始めている。 南口には駅前広場がなく、南口に面して線路沿いに区道(南口駅前通り、都市計画道路補助131号線)が通っており、この通り沿いに路線バスの停留所やタクシー乗り場が設けられている。かつては幅員が狭くバス、タクシー、送迎車などが錯綜する状態にあったため、拡幅が行われ2005年に完了したが、朝夕を中心に依然として交通混雑が著しい。拡幅後は一方通行から相互通行に変更される予定だったが、安全を憂慮する地元の反対によって一方通行が維持されている。 また、南口から商店街側へ区道を渡る横断歩道(右写真の右端)には信号機が設置されていないため、関東バスが委託する警備員が交通整理を実施しているが、歩行者とバスとが交錯して事故の恐れがあり、バスの定時運行の妨げにもなっていた。このため、2004年に東改札側地下通路を南に拡張し、区道を渡った箇所に新たに階段とエレベーターを備えた出入口(南口b)が設けられた。しかし、上りエスカレーターは線路側にある従来の南口のみに設けられているため、駅から商店街方向へは依然として線路側の出入口を使用する利用者が多く、引き続き警備員による交通整理が実施されている。 北口からは関東バスと西武バスの路線、南口からは関東バスの路線が発着している。 2010年10月19日よりのりばが一部変更された。具体的には、ロータリー内に設置されている2・3番のりばの停留所を歩道側に移設し、ロータリー内を歩行する危険性を排除している。なお、停留所が青梅街道沿いに設置されている西武バスの路線と一部の関東バス路線については変更がない。 また、西口青梅街道上に発着するバスのうち、降車扱いについてはロータリーに入って行い、回送でロータリーを回ったあと乗車扱いをする。
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荻窪駅(おぎくぼえき)は、東京都杉並区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。 JR東日本の駅は上荻一丁目に、東京メトロの駅は荻窪五丁目にそれぞれ所在する。
{{出典の明記|date=2012年10月|ソートキー=駅}} {{Otheruses|東京都杉並区にあるJR東日本・東京メトロの駅|1969年(昭和44年)まで[[福島県]][[耶麻郡]][[猪苗代町]]にあった磐梯急行電鉄の駅|荻窪駅 (福島県)}} {{駅情報 |駅名 = 荻窪駅 |画像 = Ogikubo-Sta-N.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 北口(2011年9月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300 |marker=rail|marker2=rail-metro |coord={{coord|35|42|16.7|N|139|37|12|E}}|title=JR 荻窪駅 |coord2={{coord|35|42|15.4|N|139|37|12|E}}|title2=東京メトロ 荻窪駅 |marker-color=008000|marker-color2=f62e36 |frame-latitude=35.704499|frame-longitude=139.620005}} |よみがな = おぎくぼ |ローマ字 = Ogikubo |所在地 = [[東京都]][[杉並区]] |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本_2|駅詳細]]) * [[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東京メトロ_2|駅詳細]])}} }} {{Vertical images list |幅 = 250px |枠幅 = 250px |1 = Ogikubo_sta_south.jpg |2 = 南口(2008年2月) |3 = Ogikubo_sta_west_north.jpg |4 = 西口北側(2008年2月、エレベーター設置前) }} '''荻窪駅'''(おぎくぼえき)は、[[東京都]][[杉並区]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京地下鉄]](東京メトロ)の[[鉄道駅|駅]]である。 JR東日本の駅は[[上荻]]一丁目に、東京メトロの駅は[[荻窪 (杉並区)#地理|荻窪]]五丁目にそれぞれ所在する。 == 乗り入れ路線 == JR東日本の[[中央本線]]および東京メトロの[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]が乗り入れ、接続駅となっている。 * JR東日本:各線(後述) * 東京メトロ:[[File:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|15px|M]] 丸ノ内線 - [[駅ナンバリング|駅番号]]「'''M 01'''」 JR東日本中央本線の運転系統としては、[[急行線]]で運行される[[中央線快速]]、および[[急行線|緩行線]]で運行される[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]]の2系統が停車する。また、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」に属する。 * [[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] [[中央線快速|中央線(快速)]]:[[急行線]]を走行する中央本線の近距離電車。八王子駅・高尾駅方面の列車の他に、[[立川駅]]から[[青梅線]]へ直通する列車も運行 - 駅番号「'''JC 09'''」 * [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] [[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]]:[[急行線|緩行線]]を走行する中央本線の近距離電車。新宿駅を経由する中央・総武線の他に、中野駅から[[東京メトロ東西線|地下鉄東西線]]へ直通する列車も運行。東京メトロ東西線直通列車は西船橋駅から[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]への直通運転を行っている他、平日の朝夕ラッシュ時のみ[[津田沼駅]]まで総武線(各駅停車)への直通も行っている。 - 駅番号「'''JB 04'''」 東京メトロ丸ノ内線は当駅を終着としている<!-- 起点は池袋駅。駅番号は西側の駅から付与するため逆になっている -->。 かつては[[東京都交通局]]の[[都電杉並線]]が乗り入れていたが、丸ノ内線開通後の[[1963年]]に廃止されている。 == 歴史 == === JR東日本 === * [[1891年]]([[明治]]24年)[[12月21日]]:[[甲武鉄道]]の駅として開業。出入口は現在の南口のみ。 * [[1906年]](明治39年)[[10月1日]]:甲武鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]<ref name="sone05-23">[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、23頁</ref>。 * [[1909年]](明治42年) ** [[3月16日]]:[[中野駅 (東京都)|中野駅]] - [[吉祥寺駅]]間[[複線]]化{{R|sone05-23}}。 ** [[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により中央東線(1911年から中央本線)の所属となる{{R|sone05-23}}。 * [[1919年]]([[大正]]8年)[[3月1日]]:中野駅 - 吉祥寺駅間電化。 * [[1927年]]([[昭和]]2年):北口を新設。南口と北口は陸橋で連絡。 * [[1932年]](昭和7年)[[7月1日]]:中央線・総武線の直通運転開始。 * [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]発足<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、25頁</ref>。 * [[1960年]](昭和35年):駅西側に歩行者用南北跨線橋を設置(西口改札の開設時期は不明)。 * [[1962年]](昭和37年)頃:駅の高架化を見送る<ref name="ogikubomonogatari">{{Cite web|和書|url=https://amanuma8.com/assets/showa001_amanuma.pdf|title=荻窪物語|accessdate=2021/12/02|publisher=天沼8町会}}</ref>。 * [[1963年]](昭和38年):東改札側地下コンコース(南北自由通路)完成。 * [[1966年]](昭和41年) ** [[4月3日]]:中野駅 - 荻窪駅間の[[複々線]]化工事完了、大踏切(旧青梅街道が中央線と交差する踏切)廃止。 ** [[4月28日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)東西線が中野駅から当駅までの直通運転を開始。中央・総武緩行線を荻窪まで延伸。快速の休日運転開始。 * [[1969年]](昭和44年)[[4月8日]]:中央・総武緩行線・営団地下鉄東西線直通電車、運転区間を三鷹駅まで延長。 * [[1974年]](昭和49年)10月1日:貨物の取り扱いを廃止。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、27頁</ref>。 * [[1990年]]([[平成]]2年):北口に上りエスカレーター設置。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-27|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2004年]](平成16年):東改札側地下コンコースを線路沿いの区道(都市計画道路補助131号線)を越えて南側に延長し南口bを新設。また、西口跨線橋南側を延長し区道を渡る連絡橋を新設<ref name="23ogikubo_matidukuri_3">{{PDFlink|[https://www.city.suginami.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/013/971/23ogikubo_matidukuri_3.pdf 荻窪駅周辺まちづくり基礎調査報告書 第3章 まちづくりに関する課題]}} 杉並区、2012年3月</ref>。 * [[2006年]](平成18年)7月1日:中央快速線ホームの新宿側階段を閉鎖し、エレベーター・下りエスカレーター設置工事を開始。 * [[2007年]](平成19年) ** [[2月11日]]:中央・総武緩行線ホームにエレベーター設置。 ** 3月:中央・総武緩行線ホームの新宿側階段を閉鎖し、下りエスカレーター設置工事を開始。 ** [[3月22日]]:北口・中央快速線ホームにエレベーター設置。 * [[2011年]](平成23年)3月:北口駅前広場整備完了<ref name="23ogikubo_matidukuri_3" />。 === 東京メトロ === * [[1962年]](昭和37年)[[1月23日]]:営団地下鉄荻窪線が開業。 * [[1972年]](昭和47年)4月1日:営団地下鉄、荻窪線を丸ノ内線に名称統一。 * [[1999年]](平成11年)3月:丸ノ内線荻窪駅ホーム東改札側にエスカレーター設置(上り・下り共)。 * [[2004年]](平成16年)4月1日:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)民営化に伴い、当駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2006年]](平成18年)[[4月28日]]:丸ノ内線全線[[ホームドア]]化へ向けて、当駅にホームドアを設置。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:ICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2011年]](平成23年)[[10月14日]]:定期券うりばの営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyometro.jp/information/20110916/index.html?width=816&height=650|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111219083037/http://www.tokyometro.jp/information/20110916/index.html?width=816&height=650|title=【お知らせ】荻窪駅 定期券うりば閉鎖について|date=2011-11-15|archivedate=2011-12-19|accessdate=2021-01-29|publisher=東京地下鉄|language=日本語}}</ref>。 === 都電(廃止) === * [[1921年]](大正10年)[[8月26日]]:西武軌道により新宿軌道線が南口に乗り入れ(淀橋 - 荻窪間、西武軌道線とも)。 * [[1942年]](昭和17年)[[2月1日]]:東京市電気局が新宿軌道線(新宿駅前 - 荻窪駅前間)の委託を継承。 * [[1951年]](昭和26年)[[4月5日]]:東京都交通局、現・西武鉄道から新宿軌道線を買収し、[[都電杉並線]]に改称。 * [[1956年]](昭和31年):都電杉並線が天沼陸橋経由となり、荻窪駅前電停が中央線荻窪駅北口側に移設。 * [[1963年]](昭和38年)[[12月1日]]:地下鉄荻窪線(現丸ノ内線)との競合により、都電杉並線が廃止される。 == 駅構造 == === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = JR 荻窪駅 |画像 = <!-- 記事のバランスが乱れるので画像は入れないでください --> |pxl = |画像説明 = |よみがな = おぎくぼ |ローマ字 = Ogikubo |電報略号 = クホ |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |開業年月日 = [[1891年]]([[明治]]24年)[[12月21日]] |廃止年月日 = |所在地 = [[東京都]][[杉並区]][[上荻]]一丁目7-1 |座標 = {{coord|35|42|16.7|N|139|37|12|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 荻窪駅}} |駅構造 = [[地上駅]](一部[[橋上駅]]) |ホーム = 2面4線 |乗車人員 = 76,230 |乗降人員 = |統計年度 = 2022年 |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{color|#f15a22|■}}[[中央線快速|中央線(快速)]]<br />(線路名称上は[[中央本線]]) |前の駅1 = JC 08 [[阿佐ケ谷駅|阿佐ケ谷]] |駅間A1 = 1.4 |駅間B1 = 1.9 |次の駅1 = [[西荻窪駅|西荻窪]] JC 10 |駅番号1 = {{駅番号r|JC|09|#f15a22|1}} |キロ程1 = 8.4&nbsp;km([[新宿駅|新宿]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から18.7 |起点駅1 = |所属路線2 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]]<br />(線路名称上は中央本線) |前の駅2 = JB 05 阿佐ケ谷 |駅間A2 = 1.4 |駅間B2 = 1.9 |次の駅2 = 西荻窪 JB 03 |駅番号2 = {{駅番号r|JB|04|#ffd400|1}} |キロ程2 = 中央線(快速)に同じ<br />[[千葉駅|千葉]]から54.8 |起点駅2 = |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]) * [[みどりの窓口]] 有 * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|西改札に導入<ref name="StationCd=362_230912" />。}}<ref name="StationCd=362_230912" /> * [[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[特定都区市内|東京都区内]]駅}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} [[島式ホーム]]2面4線を有する[[地上駅]]。 [[改札|改札口]]は、新宿側に東改札、三鷹側に西改札がそれぞれ設けられている。西改札には[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、一部の時間帯を除きインターホンによる案内となる<ref name="StationCd=362_230912">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=362|title=駅の情報(荻窪駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230912135117/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=362|archivedate=2023-09-12}}</ref>。新宿側は駅舎が地下にあって[[地下駅]]のようになっており、改札口前の地下通路から南北にそれぞれ出入口がある<ref group="注釈">[[池袋駅]]などの構造と類似。</ref>。また、三鷹側は[[橋上駅|橋上駅舎]]になっており、跨線橋を介して南北双方に出入口が設けられている。なお、駅の南側には線路沿いに区道(都市計画道路補助131号線)が通っており、南口および西口南側の出入口は、区道の駅側と区道を渡った側とのそれぞれ2ヶ所に設けられている。 JR東日本では、新宿側での北側出入口を北口、南側出入口を南口と呼ぶのに対して、三鷹側の出入口には名前が付されていない<ref name="jr_kounai">[http://www.jreast.co.jp/estation/stations/362.html 駅構内図(荻窪駅)] JR東日本</ref>。一般には北側も南側も西口と呼ばれている<ref>[http://ekitan.com/station/ExitInfo?SFCODE=1742&RC=45 荻窪駅 出口案内] [[駅探]]</ref>。また、新宿側の出入口を総称して東口と呼ぶ場合もある<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.kentsu.co.jp/webnews/html/090526500013.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170303044648/http://www.kentsu.co.jp/webnews/html/090526500013.html|title=杉並区など3者 荻窪駅東口自由通路の拡幅や西口バリアフリー整備|newspaper=建設通信新聞|date=2009-05-28|accessdate=2020-11-30|archivedate=2017-03-03}}</ref>。 各改札口と各ホームとの間には、階段および[[エレベーター]]が設置されており、東改札と各ホームの間には上下[[エスカレーター]]も設置されている。また、出入口と改札口の間には、北口および南口にエレベーターと上りエスカレーター、西口北側にエレベーターが設置されている。なお、新宿側地下通路は、丸ノ内線の東端改札にも面しており、東西に延びる丸ノ内線の地下通路を介して丸ノ内線の他の改札および西口出入口とも連絡している。丸ノ内線地下通路を経由すれば、駅南側の丸ノ内線西口のエレベーターも使用可能である<ref name="jr_kounai" />。 ==== のりば ==== <!-- 方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠 --> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan=2| [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車) |style="text-align:center"|西行 |[[三鷹駅|三鷹]]方面 |- !2 |style="text-align:center"|東行 |[[新宿駅|新宿]]・[[千葉駅|千葉]]・[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] [[東京メトロ東西線]]方面 |- !3 |rowspan=2| [[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線(快速) |style="text-align:center"|下り |[[立川駅|立川]]・[[八王子駅|八王子]]・[[高尾駅 (東京都)|高尾]]方面 |- !4 |style="text-align:center"|上り |[[中野駅 (東京都)|中野]]・新宿・[[東京駅|東京]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/362.html JR東日本:駅構内図]) * [[2020年]][[3月14日]]の[[ダイヤ改正]]以降、早朝・深夜に設定されていた[[東京駅]]発着の各駅停車が消滅した<ref group="報道" name="pr20191213">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191213080612/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年3月ダイヤ改正について|page=6|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-12-13|accessdate=2020-07-23|archivedate=2019-12-13}}</ref>。 * 平日ダイヤの中央線下り快速(3番線発)は、終点までの各駅に停車するので、「各駅停車」と案内される。 * JR中央線は、[[2020年代]]前半(2021年度以降の向こう5年以内)をめどに快速電車に2階建てグリーン車を2両連結させ12両編成運転を行う。そのため、ホームの12両編成対応改築工事などが実施される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150203.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190924030537/https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150203.pdf|format=PDF|language=日本語|title=中央快速線等へのグリーン車サービスの導入について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2015-02-04|accessdate=2020-04-21|archivedate=2019-09-24}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/smp/economy/news/170324/ecn1703240001-s1.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170324011255/https://www.sankei.com/smp/economy/news/170324/ecn1703240001-s1.html|title=JR東日本、中央線のグリーン車計画を延期|newspaper=産経新聞|date=2017-03-24|accessdate=2020-11-30|archivedate=2017-03-24}}</ref>。 <gallery> JRE Ogikubo-STA East-Gate.jpg|東改札(2022年12月) JRE Ogikubo-STA West-Gate.jpg|西改札(2022年12月) JRE Ogikubo-STA Platform1-2.jpg|1・2番線(中央・総武線)ホーム(2022年12月) JRE Ogikubo-STA Platform3-4.jpg|3・4番線(中央快速線)ホーム(2022年12月) </gallery> === 東京メトロ === {{駅情報 |社色 = #109ed4 |文字色 = |駅名 = 東京メトロ 荻窪駅 |画像 = <!-- 記事のバランスが乱れるので画像は入れないでください --> |pxl = |画像説明 = |よみがな = おぎくぼ |ローマ字 = Ogikubo |電報略号 = クホ |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ) |開業年月日 = [[1962年]]([[昭和]]37年)[[1月23日]] |廃止年月日 = |所在地 = [[東京都]][[杉並区]][[荻窪 (杉並区)#地理|荻窪]]五丁目31-7 |座標 = {{coord|35|42|15.4|N|139|37|12|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=東京メトロ 荻窪駅}} |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |乗車人員 = |乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />76,452 |統計年度 = 2022年 |所属路線 = {{color|#f62e36|●}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] |前の駅 = |駅間A = |駅間B = 1.5 |次の駅 = [[南阿佐ケ谷駅|南阿佐ケ谷]] M 02 |駅番号 = {{駅番号r|M|01|#f62e36|4}}<ref name="tokyosubway"/> |キロ程 = 24.2 |起点駅 = [[池袋駅|池袋]] |乗換 = |備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]] }} 島式ホーム1面2線を有する[[地下駅]]である。改札口はホーム東端と西端、ホーム中央西寄りの3か所である。ホームと改札口との間は、東端改札には階段および上下エスカレーター、西端改札には階段、中央西寄り改札にはエレベーターがそれぞれ設けられている<ref name="kounai_metro">[http://www.tokyometro.jp/station/ogikubo/yardmap/index.html#adjacent 構内図 荻窪駅/M01] - 東京メトロ</ref><ref name="accessibility">[http://www.tokyometro.jp/station/ogikubo/accessibility/index.html バリアフリー設備 荻窪駅/M01] - 東京メトロ</ref>。丸ノ内線の当駅は開業当初の「荻窪線」が、都心方面へ向かう国鉄中央線の「混雑緩和」が大きな目的であることから、中央線との相互乗り換えに重点を置いた構造となっている<ref name="Ogikubo-Const-147">[[#Ogikubo-Con|東京地下鉄道荻窪線建設史]]、p.147。</ref>。 東京メトロの管轄する駅および東京23区の地下鉄の駅としては最西端である<ref group="注釈">東京メトロおよび東京の地下鉄全体としての最西端の駅は[[和光市駅]]だが、東武鉄道の管轄である上所在地が埼玉県である。</ref>。 東端改札は、JR駅の地下通路に面しており、北口、南口、荻窪ルミネに接続している。また、西端改札は、西口<ref group="注釈">JR東日本の西口とは近接しているものの、直接は接続していない。</ref>に通じている。東端側のJR駅地下通路と西口との間には東西に延びる地下通路が設けられており、東西の出入口と各改札口とを接続している。改札口と地上との間は、東端側の北口・南口にJR駅と共用の階段、エレベーター、上りエスカレーターが、西口に階段、エレベーターが設置されている。西口エレベーターは、2階レベルでJR駅の西口南側に連絡している<ref name="kounai_metro" /><ref name="accessibility" />。 東端改札に通じる駅看板には、JR[[ロゴタイプ|ロゴ]]と丸ノ内線の[[駅ナンバリング|路線記号]]の他に東西線の路線記号([[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]])が表記されているが、東西線はJRの改札を利用するよう注意書きがある。東西線を使用する場合、JR中央線経由([[直通運転|相互直通運転]]している中央・総武緩行線経由を含む)となるため、中野駅までJR線の運賃が必要となる。なお、東西線直通の[[連絡運輸#連絡乗車券|連絡乗車券]]発売および電車の発車ホームはJR側となる。 かつては、東端改札の西側に[[定期乗車券|定期券]]売り場が設置されていたが、[[自動券売機]]において定期券の新規購入が可能になったため、2011年10月14日をもって閉鎖された。 当駅は、「[[新宿駅|新宿]]駅務管区荻窪地域」として近隣の駅を管理している<ref>{{Cite journal|和書|author=関田崇(東京地下鉄経営企画本部経営管理部)|title=総説:東京メトロ|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=17|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先 |- !1・2 |[[File:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|15px|M]] 丸ノ内線 |[[新宿駅|新宿]]・[[池袋駅|池袋]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/ogikubo/timetable/marunouchi/b/index.html |title=荻窪駅時刻表 新宿・池袋方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/ogikubo/index.html 東京メトロ:構内図]) * 駅の終端側に[[分岐器#形状による分類|両渡り線]]と2本の[[引き上げ線|折返し線]]があり<ref name="RP926_end">{{Cite journal|和書|author=|title=線路略図|journal=鉄道ピクトリアル|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=巻末|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>、平日日中の留置と[[夜間滞泊]]に用いられている。 * この折返し線はダイヤ乱れ時の対応や故障車両の留置に備えて設けられたものである<ref name="Ogikubo-Const-147"/>。終端側の両渡り線は、本線側分岐器の故障時に備えたものである<ref name="Ogikubo-Const-147"/>。 * 夜間留置は2番線に1本と留置線に2本設定されている。 <gallery> Marunouchi Line 2000 Ogikubo 20190302b.jpg|2番線ホームの2000系電車(2019年3月) Ogikubo Station 2019a.jpg|1番線ホーム(2019年3月) Ogikubo-Station-2005-6-12.jpg|ホーム(2005年6月) </gallery> ==== 発車メロディ ==== ワンマン運転開始に伴い、[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の発車メロディ(発車サイン音)が導入されている。 曲は1番線が「星の贈りもの」([[塩塚博]]作曲)、2番線が「ハート畑」([[福嶋尚哉]]作曲)である<ref>{{Cite web|和書|title=音源リスト|東京メトロ|url=http://www.switching.co.jp/sound/index3.html|website=株式会社スイッチオフィシャルサイト|accessdate=2019-08-25|publisher=株式会社スイッチ}}</ref>。 == 利用状況 == JR東日本、東京メトロの合計の利用者数では杉並区の中で最も多い駅である。 *'''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''76,230人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。 *: JR東日本管内の全体では[[大井町駅]]に次いで第48位で、中央本線の特急停車駅である[[八王子駅]]よりも多い。 * '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''76,452人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 *: 東京メトロ全130駅の中では[[新御茶ノ水駅]]に次いで第42位<!--他鉄道との直結連絡駅及び共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。 === 年度別1日平均乗降人員 === 近年の1日平均'''乗降'''人員の推移は下表の通り(JRを除く)。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="統計">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="統計" name="suginami">[https://www.city.suginami.tokyo.jp/kusei/toukei/toukei/index.html 杉並区統計書] - 杉並区</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|営団 / 東京メトロ |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |1995年(平成{{0}}7年) |66,010 | |- |1996年(平成{{0}}8年) |66,595 |0.9% |- |1997年(平成{{0}}9年) |67,675 |1.6% |- |1998年(平成10年) |67,596 |&minus;0.1% |- |1999年(平成11年) |67,381 |&minus;0.3% |- |2000年(平成12年) |67,344 |&minus;0.1% |- |2001年(平成13年) |67,373 |0.0% |- |2002年(平成14年) |66,819 |&minus;0.8% |- |2003年(平成15年) |66,828 |0.0% |- |2004年(平成16年) |65,822 |&minus;1.5% |- |2005年(平成17年) |66,154 |0.5% |- |2006年(平成18年) |66,869 |1.1% |- |2007年(平成19年) |68,658 |2.7% |- |2008年(平成20年) |70,305 |2.4% |- |2009年(平成21年) |69,431 |&minus;1.2% |- |2010年(平成22年) |70,299 |1.3% |- |2011年(平成23年) |69,792 |&minus;0.7% |- |2012年(平成24年) |73,576 |5.4% |- |2013年(平成25年) |78,484 |6.7% |- |2014年(平成26年) |79,771 |1.6% |- |2015年(平成27年) |83,029 |4.1% |- |2016年(平成28年) |85,471 |2.9% |- |2017年(平成29年) |88,478 |3.5% |- |2018年(平成30年) |91,823 |3.8% |- |2019年(令和元年) |93,426 |1.7% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>68,325 |&minus;26.9% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>69,821 |2.2% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>76,452 |9.5% |} === 年度別1日平均乗車人員(1890年代 - 1930年代) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !甲武鉄道<br/>/ 国鉄 !出典 |- |1891年(明治24年) |<ref group="備考">1891年12月21日開業。開業日から翌年3月31日までの計102日間を集計したデータ。 </ref>207 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806572/139?viewMode= 明治25年]</ref> |- |1893年(明治26年) |65 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806573/209?viewMode= 明治26年]</ref> |- |1895年(明治28年) |100 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806575/134?viewMode= 明治28年]</ref> |- |1896年(明治29年) |120 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806576/153?viewMode= 明治29年]</ref> |- |1897年(明治30年) |150 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806577/135?viewMode= 明治30年]</ref> |- |1898年(明治31年) |185 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806578/147?viewMode= 明治31年]</ref> |- |1899年(明治32年)<!--1899年度は1900年が100で割り切れるが400では割り切れない年であるため、閏年ではなく平年となるので365日間で集計--> |182 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806579/168?viewMode= 明治32年]</ref> |- |1900年(明治33年) |154 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806580/165?viewMode= 明治33年]</ref> |- |1901年(明治34年) |144 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806581/188?viewMode= 明治34年]</ref> |- |1902年(明治35年) |134 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806582/186?viewMode= 明治35年]</ref> |- |1903年(明治36年) |136 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806583/183?viewMode= 明治36年]</ref> |- |1904年(明治37年) |136 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806584/213?viewMode= 明治37年]</ref> |- |1905年(明治38年) |129 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806585/196?viewMode= 明治38年]</ref> |- |1907年(明治40年) |141 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806587/191?viewMode= 明治40年]</ref> |- |1908年(明治41年) |135 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806589/103?viewMode= 明治41年]</ref> |- |1909年(明治42年) |141 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806591/106?viewMode= 明治42年]</ref> |- |1911年(明治44年) |172 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref> |- |1912年(大正元年) |189 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/134?viewMode= 大正元年]</ref> |- |1913年(大正{{0}}2年) |196 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/127?viewMode= 大正2年]</ref> |- |1914年(大正{{0}}3年) |197 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref> |- |1915年(大正{{0}}4年) |196 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/348?viewMode= 大正4年]</ref> |- |1916年(大正{{0}}5年) |208 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref> |- |1919年(大正{{0}}8年) |462 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/266?viewMode= 大正8年]</ref> |- |1920年(大正{{0}}9年) |529 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/302?viewMode= 大正10年]</ref> |- |1922年(大正11年) |930 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref> |- |1923年(大正12年) |1,215 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref> |- |1924年(大正13年) |2,086 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref> |- |1925年(大正14年) |2,838 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref> |- |1926年(昭和元年) |3,518 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref> |- |1927年(昭和{{0}}2年) |4,481 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref> |- |1928年(昭和{{0}}3年) |5,603 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref> |- |1929年(昭和{{0}}4年) |6,577 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref> |- |1930年(昭和{{0}}5年) |6,888 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref> |- |1931年(昭和{{0}}6年) |7,448 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref> |- |1932年(昭和{{0}}7年) |8,056 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |8,907 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |9,896 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |11,151 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !国鉄 /<br />JR東日本 !営団 !出典 |- |1953年(昭和28年) |39,644 |rowspan="8" style="text-align:center"|未開業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 13ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |41,843 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 10ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |44,356 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 10ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |46,985 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 10ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |49,733 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 10ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |52,747 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 10ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |56,772 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |62,050 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |64,987 |<ref group="備考">1961年1月23日開業。開業日から同年3月31日までの計68日間を集計したデータ。</ref>19,988 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |64,208 |20,148 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |70,071 |26,742 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |74,911 |33,835 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |77,046 |33,700 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |82,100 |35,188 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |84,276 |34,019 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |85,979 |34,897 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |80,553 |37,228 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |79,833 |37,318 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |81,055 |37,809 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |79,000 |36,978 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |80,137 |35,644 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |80,337 |35,345 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |78,932 |34,311 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |80,019 |34,170 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |77,564 |34,364 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |76,844 |32,249 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |68,096 |32,574 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |64,570 |33,373 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |67,942 |34,707 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |71,625 |35,981 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |72,186 |36,951 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |72,884 |37,167 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |73,216 |37,195 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |75,885 |37,797 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |75,514 |37,593 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |77,518 |37,978 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |78,674 |37,380 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |80,762 |36,614 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |82,689 |36,328 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |84,197 |36,093 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |84,274 |35,485 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |83,110 |35,011 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |82,601 |33,440 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |84,052 |33,602 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |83,451 |33,777 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |82,359 |33,707 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>82,426 |33,638 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>82,768 |33,722 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="suginami" /> !年度!!JR東日本!!営団 /<br/>東京メトロ!!出典 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>82,844 |33,901 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>82,849 |33,451 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>82,953 |33,470 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>82,951 |33,386 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>83,095 |33,452 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>84,436 |33,795 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>86,644 |34,508 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>86,838 |35,185 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>85,323 |34,813 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>85,093 |35,219 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>83,299 |34,970 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>85,167 |36,830 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>86,032 |39,307 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>85,938 |39,879 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>87,473 |41,522 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>88,288 |42,734 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>89,491 |44,266 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>90,715 |45,973 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>90,814 |46,801 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>67,231 | | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>70,366 | | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>76,230 | | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == {{See also|荻窪 (杉並区)|上荻|}} 荻窪の街は、大正から昭和初期にかけて東京近郊の別荘地として「西の鎌倉、東の荻窪」と称され、以来文化人が多く住む閑静な住宅地として知られているが、駅前周辺は東京で有数の[[ラーメン]]([[荻窪ラーメン]])店激戦地として知られる。また、地域として[[クラシック音楽]]を支援しており、多くのコンサートが開催されている。[[2000年代]]後半以降はカレーショップが増え始めている。 <gallery> Ogikubo-Sta-N-rotary.JPG|北口ロータリー(2011年9月18日) Ogikubo sta south b.jpg|南口(2008年2月24日)<br />手前に南口b、道路を挟んで奥(線路側)に従来からの南口が見える。 Ogikubo sta west south.jpg|西口南側(2008年2月24日)<br />右手に丸ノ内線荻窪駅に通じる下り階段がある。 </gallery> === 北口 === {{columns-list|2| * [[杉並公会堂]] - 西口の方が近い。 * ウェルファーム杉並<ref>{{Cite web|和書|title=ウェルファーム杉並 |publisher=杉並区 |url=https://www.city.suginami.tokyo.jp/guide/shien/wellfirm/1038928.html |date=2019-05-20 |accessdate=2019-05-25}}</ref> * [[東京衛生アドベンチスト病院]] - 敷地内にある[[セブンスデー・アドベンチスト教会|セブンスデー・アドベンチスト天沼教会]]は荻窪教会通り商店街の名前の由来にもなっている。 * [[天沼弁天池公園 (杉並区)|天沼弁天池公園]] ** [[杉並区立郷土博物館]]分館 * [[天沼八幡神社]] * [[三井住友銀行]]荻窪支店 * [[みずほ銀行]]荻窪支店 * [[りそな銀行]]荻窪支店 * [[三井住友信託銀行]]荻窪支店 * [[荻窪郵便局]] ** [[ゆうちょ銀行]]荻窪店 * [[西武信用金庫]]荻窪支店 * [[東京中央農業協同組合|東京中央農協]]杉並中野支店 * 杉並四面道郵便局 * Daiwa荻窪タワー<ref>{{PDFlink|[http://www.daiwa-office.co.jp/site/file/tmp-5SPzt.pdf 運用資産の名称変更に関するお知らせ]}} 大和証券オフィス投資法人、2019年8月30日</ref> - 旧インテグラルタワー<ref>{{PDFlink|[http://www.daiwa-office.co.jp/site/file/tmp-u7Tmg.pdf 資産の取得に関するお知らせ(インテグラルタワー)]}} 大和証券オフィス投資法人、2014年5月16日</ref>。元は[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|日本DEC]]の本社だった。その後の[[合併 (企業)|合併]]に伴い[[コンパック]]荻窪事業所、続いて[[日本ヒューレット・パッカード]](日本HP)荻窪事業所に変わった<ref>[http://ascii.jp/elem/000/000/330/330889/ これだけ読めば大丈夫 ~ 新生HPが活動開始、日本は秋口に1つの会社に] ASCII.jp、2002年5月13日</ref><ref>{{PDFlink|[http://h50146.www5.hpe.com/events/seminars/map/pdfs/Ogikubo.pdf 日本ヒューレット・パッカード株式会社 荻窪事業所]}} 日本ヒューレット・パッカード株式会社</ref>が、日本HPも2011年に[[江東区]]の自社ビルに移転し、このビルから退去した<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/427663.html 日本HP、江東区大島の新本社「HP Garage Tokyo」を公開] PC Watch、2011年2月18日</ref>。荻窪近辺では最も高いビルである。 ** [[杉並区役所]]荻窪区民事務所 - 2階に入居<ref>[http://www.city.suginami.tokyo.jp/shisetsu/kuyakusho/jimusho/1006371.html 施設案内 荻窪区民事務所] 杉並区</ref>。 ** 杉並区産業振興センター - 2階に入居<ref>[http://www.city.suginami.tokyo.jp/shisetsu/sangyo/shinko/1007448.html 施設案内 産業振興センター] 杉並区</ref>。 * [[ルミネ]]荻窪店 * [[荻窪タウンセブン]] ** [[西友]]荻窪店 ** 西友荻窪郵便局 *: ルミネとタウンセブンとも西口側(2階)にも入口がある。ルミネへは東改札外のコンコースから直接地下1階にアクセスできる。また、両施設間には地下1階から5階までの各階に連絡通路がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lumine.ne.jp/ogikubo/map/|title=フロアガイド|publisher=ルミネ荻窪|accessdate=2020-02-24}}</ref>。 * [[青梅街道]]([[東京都道・埼玉県道4号東京所沢線|東京都道4号東京所沢線]]・[[東京都道5号新宿青梅線]]、荻窪駅前商店街) * 環八通り([[東京都道311号環状八号線]]) * 四面道交差点(青梅街道と環八通りの交差点) |}} === 南口 === 南口には駅前広場がなく、南口に面して線路沿いに区道(南口駅前通り<ref name="ogikubomachi.kousou">{{PDFlink|[https://www.city.suginami.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/021/479/ogikubomachi.kousou.pdf 荻窪駅周辺まちづくり構想]}} 荻窪まちづくり会議、2015年11月</ref>、都市計画道路補助131号線<ref>[http://www.city.suginami.tokyo.jp/guide/machi/toshikeikaku/1026771.html 都市計画道路] 杉並区</ref>)が通っており、この通り沿いに[[路線バス]]の停留所や[[タクシー]]乗り場が設けられている。かつては幅員が狭くバス、タクシー、送迎車などが錯綜する状態にあったため、拡幅が行われ2005年に完了したが、朝夕を中心に依然として交通混雑が著しい。拡幅後は[[一方通行]]から相互通行に変更される予定だったが、安全を憂慮する地元の反対によって一方通行が維持されている<ref name="ogikubomachi.kousou" />。 また、南口から商店街側へ区道を渡る[[横断歩道]](右写真の右端)には[[交通信号機|信号機]]が設置されていないため、関東バスが委託する[[警備員]]が交通整理を実施しているが、歩行者とバスとが交錯して事故の恐れがあり、バスの定時運行の妨げにもなっていた。このため、2004年に東改札側地下通路を南に拡張し、区道を渡った箇所に新たに階段とエレベーターを備えた出入口('''南口b''')が設けられた。しかし、上りエスカレーターは線路側にある従来の南口のみに設けられているため、駅から商店街方向へは依然として線路側の出入口を使用する利用者が多く、引き続き警備員による交通整理が実施されている。 {{columns-list|2| * 杉並区杉並保健所 ** 荻窪保健センター * [[杉並区立中央図書館]] * 杉並区荻窪体育館 * 杉並区荻窪地域区民センター * [[東京都立荻窪高等学校]] * 杉並区立[[大田黒公園]] * [[三菱UFJ銀行]]荻窪支店 * 荻窪四丁目郵便局 |}} === 西口 === * 竹原英語スクール荻窪校 * 環八通り(東京都道311号環状八号線) ==== 北側 ==== * [[杉並公会堂]] * [[白山神社 (杉並区)|白山神社]] * [[カメラのさくらや]] - かつて存在した[[さくらや]]からのれん分けした企業であるが、別会社。 * なごみの湯 * 荻窪ユアボウル ==== 南側 ==== * 荻窪税務署<ref>{{Cite web|和書| title = 【5月20日】荻窪税務署移転のお知らせ | publisher = 杉並区 | url = https://www.city.suginami.tokyo.jp/news/h3104/1048886.html | date = 2019-05-17 | accessdate = 2019-05-25}}</ref> * 杉並児童相談所 * 荻窪自動車学校 * [[東京電力パワーグリッド]]荻窪支社 (なお、最寄りのバス停名は変わらずに「東電荻窪支社前」である) == バス路線 == 北口からは[[関東バス]]と[[西武バス]]の路線、南口からは関東バスの路線が発着している。 === 北口 === 2010年10月19日よりのりばが一部変更された。具体的には、ロータリー内に設置されている2・3番のりばの停留所を歩道側に移設し、ロータリー内を歩行する危険性を排除している。なお、停留所が青梅街道沿いに設置されている西武バスの路線と一部の関東バス路線については変更がない。 また、西口青梅街道上に発着するバスのうち、降車扱いについてはロータリーに入って行い、回送でロータリーを回ったあと乗車扱いをする。 <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !colspan="4"|ロータリー内 |- !0 |rowspan="6" style="text-align:center;"|[[関東バス]] |{{Unbulleted list|[[関東バス青梅街道営業所#荻窪線|'''荻32''']]:[[武蔵関駅]]|'''荻33''':電通裏|'''荻34''':北裏|'''荻35''':[[武蔵野大学]]|'''荻36''':南善福寺|'''荻30''':青梅街道営業所}} |{{Unbulleted list|「荻33」「荻35」は平日朝のみ運行|「荻30」は16時以降に発着}} |- !1 |'''荻30''':青梅街道営業所 |15時59分まで発着 |- !2 |{{Unbulleted list|[[関東バス青梅街道営業所#中瀬町線|'''荻10''']]:[[下井草駅]]|[[関東バス青梅街道営業所#西荻線|'''西51''']]:[[西荻窪駅]]|'''西51-1''':青梅街道営業所}} |「西51」は平日朝のみ運行 |- !3 |{{Unbulleted list|[[関東バス阿佐谷営業所#日大線|'''荻04''']]:阿佐谷営業所|'''荻05''':白鷺一丁目|'''荻06''':[[中村橋駅]]|'''荻07''':[[練馬駅]]}} |&nbsp; |- !4 |{{Unbulleted list|[[関東バス青梅街道営業所#立教線|'''荻31''']]:プロムナード荻窪|'''荻40''':[[学校法人立教女学院|立教女学院]]}} |&nbsp; |- !降り場 |colspan="2"|「荻11」「荻12」「荻12-1」「荻13」「荻14」「荻17」「荻18」の降車専用 |- !colspan="4"|西口青梅街道上 |- !rowspan="2"|5 |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|関東バス|[[西武バス]]}} |[[関東バス青梅街道営業所#井荻線|'''荻12''']]:[[井荻駅]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|西武バス |[[西武バス練馬営業所#井荻線|'''荻12-1''']]:南田中車庫 |&nbsp; |- !rowspan="2"|6 |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|関東バス|西武バス}} |'''荻11''':[[石神井公園駅]]南口 |&nbsp; |- |rowspan="2" style="text-align:center;"|西武バス |{{Unbulleted list|[[西武バス練馬営業所#石荻線、上井草循環線|'''荻14''']]:石神井公園駅南口|'''荻17''':[[練馬高野台駅]]}} |&nbsp; |- !7 |{{Unbulleted list|[[西武バス上石神井営業所#阿都線|'''荻15''']]:[[大泉学園町|長久保]]|'''荻15-2''':大泉学園駅南口|'''荻16''':上井草駅|'''荻18''':上井草保健センター循環}} |&nbsp; |- !colspan="4"|ロータリー沿い青梅街道上 |- !8 |style="text-align:center;"|関東バス |{{Unbulleted list|[[関東バス阿佐谷営業所#阿佐谷線|'''阿02''']]:白鷺一丁目|'''阿05'''・[[関東バス武蔵野営業所#銀座線(深夜急行)|'''銀座線(深夜急行)''']]:降車専用}} |「阿02」は午前のみ運行 |- !rowspan="2"|9 |style="text-align:center;"|西武バス |[[西武バス上石神井営業所#阿都線|'''荻15'''・'''荻15-1'''・'''荻15-2''']]:阿佐ヶ谷駅 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|関東バス |'''阿05''':白鷺一丁目 |日中のみ運行 |} === 南口 === <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !1 |rowspan="4" style="text-align:center;"|関東バス |{{Unbulleted list|[[関東バス五日市街道営業所#川南線|'''荻51''']]:シャレール荻窪|[[関東バス五日市街道営業所#高井戸線|'''荻53''']]:五日市街道営業所}} |「荻53」は深夜バスのみ発着 |- !2 |[[関東バス五日市街道営業所#春日線|'''荻60''']]:宮前三丁目 |&nbsp; |- !3 |{{Unbulleted list|'''荻53''':五日市街道営業所|[[関東バス五日市街道営業所#高井戸線|'''荻56''']]:[[日本年金機構]]入口}} |{{Unbulleted list|「荻53」の通常便はこちらから発着|「荻56」は平日朝・夕のみ運行}} |- !4 |{{Unbulleted list|'''荻54''':[[芦花公園駅]]|'''荻58''':北野}} |&nbsp; |} == その他 == [[File:Ogikubo-station chuuou-line JReast yonnbannsenn-oginohana-2010.JPG|thumb|right|2010年頃の荻の植え込み]] * 4番線ホームの西荻窪寄りの隅には、縦1&nbsp;[[メートル|m]]、横2&nbsp;mほどの[[ステンレス鋼|ステンレス]]製の鏡(反射鏡)が設置されている。これは、中央線で一時期多発していた[[鉄道人身障害事故|人身事故]]防止のために設置されたものである。この付近はホームの端で、改札に続く階段のちょうど裏に当たり、死角になっていて人目につきにくいため危険な場所となっている。この設置により、「自分や他人の目を意識させることで、自殺を思いとどまってほしい」との狙いがある。なお、ホーム側には接近告知チャイムを鳴らすスピーカーが設置されている。さらに、2009年7月31日には、自殺予防を目的としてホームの端部に青色の蛍光灯が設置され<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/const/news/20091001/535753/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091008205027/http://kenplatz.nikkeibp.co.jp:80/article/const/news/20091001/535753/|title=自殺予防で中央線にも青色のLED照明設置、JR東日本|newspaper=ケンプラッツ|publisher=[[日経BP|日経BP社]]|date=2009-10-02|accessdate=2020-11-30|archivedate=2009-10-08}}</ref>、その後、青色[[LED照明]]灯も設置されている。 * 当駅は[[請願駅]]として開業した。甲州鉄道は当初、駅を設置していなかった<ref group="注釈">2010年2月25日放送分[[テレビ東京]]『[[空から日本を見てみよう]]』より。</ref>。 * [[1990年代]]後半に、丸ノ内線を当駅から[[埼玉県]]の[[朝霞駅]]方面まで延伸する構想があったが、消滅した。 * 中央線快速上り線の線路脇に「荻窪」の地名のもととなった[[オギ]]が植えられており、4番ホーム(阿佐ケ谷寄り)からも見ることができる。この荻を展示している空間は、線路側から確認できる方向が正面となっていたが、北口ロータリー整備に伴い、ロータリー側が正面となる構造に変化した。 * JR東日本としては比較的初期に北口にエスカレーターが設置された(1990年)。 *[[通勤五方面作戦]]による中央線の複々線化の進展や[[立体交差]]事業によって、中央線快速では多くの駅が高架化した一方で、荻窪駅は依然として地上駅のままである(中央線の両隣となる阿佐ケ谷・西荻窪は高架駅)。これは、荻窪駅のすぐ東に位置し、中央線の線路を跨いでいる天沼陸橋が既に立体交差しており、他の多くの駅と同じように高架化しようと考えた場合は天沼陸橋がその妨げとなるからである<ref>[http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/4/ogikubo/why/why.htm#1 荻窪警察署管内のなぜ]</ref>。 * [[弾丸列車]]の始発駅候補であった<ref group="注釈">高井戸駅と表記されている文献もある。</ref>。 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線(快速) :: {{Color|#0099ff|■}}特別快速「[[ホリデー快速おくたま]]」<!-- おくたまは定期列車扱い -->・{{Color|#ff0066|■}}通勤特快・{{Color|#0033ff|■}}中央特快・{{Color|#339966|■}}青梅特快 :::; 通過 :: {{Color|#990099|■}}通勤快速(平日下りのみ)・{{Color|#f15a22|■}}快速(土曜・休日<ref>年末年始期間中([[12月30日]] - [[1月3日]]間)も含む。</ref>) ::: [[中野駅 (東京都)|中野駅]] (JC 06) - '''荻窪駅 (JC 09)''' - [[吉祥寺駅]] (JC 11) :: {{Color|#f15a22|■}}快速(平日、下り高尾方面は「各駅停車」扱い) ::: [[阿佐ケ谷駅]] (JC 08) - '''荻窪駅 (JC 09)''' - [[西荻窪駅]] (JC 10) : [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車)・[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線直通 ::: 阿佐ケ谷駅 (JB 05) - '''荻窪駅 (JB 04)''' - 西荻窪駅 (JB 03) ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|15px|M]] 丸ノ内線 ::: '''荻窪駅 (M 01)''' - [[南阿佐ケ谷駅]] (M 02) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === ;JR・地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ;JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|23em}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|22em}} ;JR・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="統計"}} ;東京府統計書 {{Reflist|group="東京府統計"|16em}} ;東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|16em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_ogikubo.html/|date=1967-03-31|title=東京地下鉄道荻窪線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Ogikubo-Con}} * {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=5 |title=中央本線 |date=2009-08-09 |ref=sone05 }} == 関連項目 == {{commonscat|Ogikubo Station (Tokyo)}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[エイトライナー]] * [[東京地下鉄|東京メトロ]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=362|name=荻窪}} * [https://www.tokyometro.jp/station/ogikubo/index.html 荻窪駅/M01 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] {{鉄道路線ヘッダー}} {{中央線快速}} {{総武・中央緩行線}} {{東京メトロ丸ノ内線}} {{鉄道路線フッター}} {{DEFAULTSORT:おきくほ}} [[Category:杉並区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 お|きくほ]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:中央線快速]] [[Category:中央・総武緩行線]] [[Category:甲武鉄道の鉄道駅]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅]] [[Category:西武鉄道 (初代)の鉄道駅]] [[Category:1891年開業の鉄道駅]] [[Category:荻窪|おきくほえき]]
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輪袈裟
輪袈裟()は、僧侶が首に掛ける袈裟の一種で、作務()や移動の時に用いるのが一般的である。輪袈裟()や畳袈裟()と呼ばれることもある。 形状は大別して2種ある。
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輪袈裟は、僧侶が首に掛ける袈裟の一種で、作務や移動の時に用いるのが一般的である。輪袈裟や畳袈裟と呼ばれることもある。
[[File:50番繁多寺前で托鉢する遍路P1010122.jpg|thumb|[[四国八十八箇所]]50番[[繁多寺]]前で托鉢する遍路。首にかかっている帯が輪袈裟である]] [[File:Sinsikokumandara01.jpg|thumb|新四国曼荼羅霊場の白衣と輪袈裟]] [[File:Sikokubekkaku03.jpg|thumb|四国別格霊場会の先達袈裟(輪袈裟)]] {{読み仮名|'''輪袈裟'''|わげさ}}は、[[僧|僧侶]]が首に掛ける[[袈裟]]の一種で、{{読み仮名|[[作務]]|さむ}}や移動の時に用いるのが一般的である。{{読み仮名|'''輪袈裟'''|りんげさ}}や{{読み仮名|'''畳袈裟'''|たたみげさ}}と呼ばれることもある。 == 概要 == 形状は大別して2種ある。 ;畳輪袈裟 :一枚の大きな布を幅6[[センチメートル]] ほどに折りたたんで輪にしたもの。 :大きさは五条袈裟とほぼ同じであり、簡易的な物として広げて五条袈裟の代用として着用する事もできるが、実際にそのような形で着用される事はほとんど無い。 ;略輪袈裟 :表生地を二つ折りにしたもの。 == 関連項目 == * [[略肩衣]] * [[ストラ]] {{buddhism-stub}} {{textile-stub}} {{DEFAULTSORT:わけさ}} [[Category:僧]] [[Category:仏教の服装]] [[Category:日本の仏教]] [[Category:シンボル]] [[Category:記章]]
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和讃
和讃(わさん)は、仏・菩薩、祖師・先人の徳、経典・教義などに対して和語を用いてほめたたえる讃歌である。声明の曲種の一。サンスクリット語を用いてほめたたえる「梵讃」、漢語を用いてほめたえる「漢讃」に対する。 七五調の形式の句を連ねて作られたものが多く、これに創作当時流行していた旋律を付して朗唱する。 原型である「讃歎」(さんだん)を和讃の一種とみなす事もある。 作者が推定とされるものについては、作者名の前に「伝」を付す。 作者の生没年は、西暦で表示する。そのため和暦を換算した西暦と異なる場合がある。 和讃の原型である「讃歎」(「仏教讃歎」、「讃談」とも)は、古く奈良時代にさかのぼる。和文の声明(しょうみょう)で、曲調は「梵讃」・「漢讃」に準ずる。歌体は、一致しない。法会の奉讃供養に用いる歌謡として作られたと考えられている。 「和讃」は、「讃歎」の流行の後を受け平安時代中期頃には成立・定着する。和讃は、広く民衆の間に流布し、仏教の布教だけでなく、日本の音楽にも大きな影響を与え、民謡や歌謡、ことに演歌などの歌唱法に影響の形跡がある。 平安時代中期〜後期に作成された「古和讃」という。 ほとんど平安中期の天台浄土教によって流布したものである 鎌倉時代には、和讃は布教の用に広く認められ、鎌倉仏教各宗で流行をした。また旧仏教である真言宗・天台宗などにも影響が及び、『高僧讃』・『神祇讃』などの和讃が作られた。
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和讃(わさん)は、仏・菩薩、祖師・先人の徳、経典・教義などに対して和語を用いてほめたたえる讃歌である。声明の曲種の一。サンスクリット語を用いてほめたたえる「梵讃」、漢語を用いてほめたえる「漢讃」に対する。 七五調の形式の句を連ねて作られたものが多く、これに創作当時流行していた旋律を付して朗唱する。 原型である「讃歎」(さんだん)を和讃の一種とみなす事もある。
'''和讃'''(わさん)は、[[仏]]・[[菩薩]]、祖師・先人の徳、[[経典]]・[[教義]]などに対して[[大和言葉|和語]]を用いてほめたたえる讃歌である。[[声明]]の曲種の一。[[サンスクリット|サンスクリット語]]を用いてほめたたえる「梵讃」、[[漢語]]を用いてほめたえる「漢讃」に対する。 [[七五調]]の形式の句を連ねて作られたものが多く、これに創作当時流行していた旋律を付して朗唱する。 原型である「讃歎」(さんだん)を和讃の一種とみなす事もある。 == 概要 == 作者が推定とされるものについては、作者名の前に「<span style="font-size:80%;">伝</span>」を付す。 作者の生没年は、西暦で表示する。そのため和暦を換算した西暦と異なる場合がある。 === 原型 === 和讃の原型である「'''讃歎'''」(「仏教讃歎」、「讃談」とも)は、古く[[奈良時代]]にさかのぼる。和文の声明(しょうみょう)で、曲調は「梵讃」・「漢讃」に準ずる。歌体は、一致しない。法会の奉讃供養に用いる歌謡として作られたと考えられている。 ;<span style="font-size:80%;">伝</span>[[光明皇后]](701年 - 760年)、もしくは[[行基]](668年 - 749年) :『法華讃歎』(ほつけさんたん)<ref name="sanpoue">出典…[[三宝絵詞|三宝絵]]</ref> ;<span style="font-size:80%;">伝</span>行基 :『百石讃歎』(ももさかさんだん)<ref name="sanpoue"/> ;[[文室浄三|文室真人智努(ぶんよのまひとちぬ)]](693年 - 770年) :『[[仏足石歌]]』(ぶっそくせきか) ::[[天平勝宝]]5年(753年)の作 ::[[薬師寺]]の「[[仏足石]]」([[国宝]])の後方に「[[仏足跡歌碑]]」(国宝)が残る。 ::[[万葉仮名]]を用いる。歌体は、五 - 七 - 五 - 七 - 七 - 七調で「仏足跡歌体」と呼ばれる。 ;<span style="font-size:80%;">伝</span>[[円仁]](794年 - 864年) :『舎利讃歎』(しゃりさんだん) ::「讃歎」から「和讃」への転換となる。現在は、真言宗にその声明が伝わる。 === 和讃 === 「和讃」は、「讃歎」の流行の後を受け[[平安時代]]中期頃には成立・定着する。和讃は、広く民衆の間に流布し、仏教の布教だけでなく、日本の音楽にも大きな影響を与え、民謡や歌謡、ことに演歌などの歌唱法に影響の形跡がある。 ==== 古和讃 ==== [[平安時代]]中期〜後期に作成された「'''古和讃'''」という。 ;<span style="font-size:80%;">伝</span>[[良源]](912年 - 985年) :『[[本覚讃]]」 ;[[千観]](918年 - 984年) :『[[極楽浄土弥陀和讃]]』 ;[[源信_(僧侶)|源信]](942年 - 1017年) :『[[極楽六時讃]]』 :『[[来迎讃]]』などがある。 ほとんど平安中期の天台[[浄土教]]によって流布したものである ==== 鎌倉仏教 ==== [[鎌倉時代]]には、和讃は布教の用に広く認められ、[[鎌倉仏教]]各宗で流行をした。また旧仏教である真言宗・天台宗などにも影響が及び、『高僧讃』・『神祇讃』などの和讃が作られた。 ;[[親鸞]](1173年 - 1263年) :『[[三帖和讃#浄土和讃|浄土和讃]]』 :『[[三帖和讃#高僧和讃|高僧和讃]]』 :『[[三帖和讃#正像末和讃|正像末和讃]]』 :『皇太子聖徳奉讃』75首 :『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』114首 :*上記の和讃集の内、『浄土和讃』・『高僧和讃』・『正像末和讃』は、総称して「[[三帖和讃]]」と呼ぶ。 :*『正像末和讃』に収められている「正像末浄土和讃」の58首目は、「恩徳讃<ref group="注釈">恩徳讃…如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし</ref>」と呼ばれ、法要や法話の終わりに、和讃を読誦する際とは別の曲調で歌われる。 :*後に親鸞は、[[浄土真宗]]の宗祖とされる。 : ;[[一遍]](1239年 - 1289年) :『[[別願讃]]』 :*後に一遍は、[[時宗]]の宗祖とされる。別名、「遊行上人」。 : ;[[他阿]](1237年 - 1319年) :『浄業和讃』(じょうごうわさん) ::『浄業和讃』は、「[[往生讃]]」と他13編からなる。 :*後に他阿を時宗では、「遊行上人二世」・「時宗二祖」とする。 : == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author=中村 元|authorlink=中村元 (哲学者) |coauthors=[[福永光司]]・[[田村芳朗]]・[[末木文美士]]・今野 達 編 |year=2002 |title=岩波仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=4-00-080205-4 }} *{{Cite book|和書 |author=名畑應順 校注 |year=1976 |title=親鸞和讃集 |publisher=岩波書店 |series=[[岩波文庫]] 青318-3 |isbn=4-00-333183-4 }} == 外部リンク == *[http://www.nara-yakushiji.com/guide/hotoke/hotoke_daikodo.html 薬師寺公式サイト「仏足石・仏足跡歌碑 【国宝】」] {{buddhism2}} {{浄土教2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:わさん}} [[Category:和讃|*]] [[Category:日本の仏教史]] [[category:仏教行事]] [[category:偈頌]] [[Category:仏教音楽]] [[Category:仏教文学]] [[Category:音楽のジャンル]] [[Category:聖歌]]
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Capeta
『capeta』(カペタ)は、モータースポーツを題材とした日本の漫画作品。作者は曽田正人、共同原作者は冨山玖呂。『月刊少年マガジン』にて2003年3月号より2013年4月号まで連載された。単行本は全32巻。 第29回講談社漫画賞少年部門受賞。テレビ東京系列でアニメ化もされている。 この作品の主人公はカートに魅せられた少年・平勝平太(たいら かっぺいた)。曽田の作品の例に漏れず、この主人公も初めてのサーキットで度肝を抜く走りを見せるなど、天才肌の人物である。コース上でのライバルとの戦いと並んで、レース界の厳しい実力主義や、個人活動を続ける困難も描かれており、主人公は徐々に支援者を増やしながら、それらの逆境を乗り越えていく。 漫画本編は主人公がプロレーサーを目指してヨーロッパへ旅立とうとする時点で完結し、その先の未来像については語られなかった。曽田は連載終了にあたり「完結については2年前にほぼ決めました」「この終わり方がベストだと確信しています」と述べている。なお、以前に行った小林可夢偉との対談では、主人公のF1デビューレースとしてイメージしていたこと(チャンピオン相手に一歩も引かないバトル)を、小林が2009年ブラジルGPで実際にやってくれた、と語っていた。 漫画とのコラボレーション企画として、2011年の全日本F3選手権に参戦した山内英輝が、主人公と同じカラーリングのマシンで出場した。 幼くして母を失い、父と2人で暮している少年、平勝平太(通称カペタ)。ある日、カペタの父は捨てられていた材料を使って手製のレーシングカートを造り、それをカペタに与えた。これが彼の運命を大きく変えることになる。カペタは仲間たちと「チーム・カペタ」を結成し、ジュニアカートに参戦。そこでライバルかつ目標となる源奈臣と出会う。 中学生になったカペタは、カートレース界の有力選手に成長。3年間使い古したマシンで苦戦しながらも、志波リョウを退けて全日本カート選手権ICAクラスのチャンピオンを獲得する。 活動資金が底をつき、カペタはレースを諦める事を覚悟するが、親友である安藤信に助けられ、ステラ自動車の新人オーディション (FSRS) に挑戦。ドライバー育成プログラム (S.D.P.) に補欠合格し、4輪レースの登竜門フォーミュラ・ステラ(Fステ)に参戦する。さらにノア・モータースポーツの竹森基に認められ、16歳にして全日本F3選手権にステップアップする。ここでもプライベーターゆえの苦労を味わうが、AYKチームの金田彬とのルーキー対決を制して、最年少F3チャンピオンを獲得する。 カペタはステラワークスの一員として、世界の精鋭が集うマカオグランプリに出場。ユーロF3に挑戦していた源と再会し、優勝を賭けたマッチレースを展開する。経済不況によるメーカー支援の縮小という逆風の中で、ふたりは最高峰のF1を目指して競いあうことを誓う。 作品『capeta』とモータースポーツについて解説したオフィシャル・ガイドブック。 2005年10月4日から2006年9月26日までテレビ東京系列で、毎週火曜日午後6時より放送。全52話。放送局の編成により27話から放送時間が30分繰り上げになった。また、CS放送のフジテレビ739でも再放送が行われていた。 構成は原作での1巻~11巻(カートとの出会いから、フォーミュラ・ステラオーディション辺りまで)を中心にオリジナルストーリーを交えたもので、終盤は完全オリジナルのストーリーとなっている。原作より先にカペタがフォーミュラデビューしており、最終回ではカペタと源がF1イタリアGPでデッド・ヒートを繰り広げるラジオ放送がある。 第14話までの小学生編では、実年齢と同じ小中学生の子役がメインキャラクターの声優を担当。このうち鈴木茂波役の宮本侑芽は後年「本当に苦戦した」と語っている。 本作終了後、テレビ東京火曜夕方の創通制作関与アニメは2018年4月3日開始の『ガンダムビルドダイバーズ』(枠は17:55 - 18:25)まで11年半途絶えた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『capeta』(カペタ)は、モータースポーツを題材とした日本の漫画作品。作者は曽田正人、共同原作者は冨山玖呂。『月刊少年マガジン』にて2003年3月号より2013年4月号まで連載された。単行本は全32巻。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "第29回講談社漫画賞少年部門受賞。テレビ東京系列でアニメ化もされている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この作品の主人公はカートに魅せられた少年・平勝平太(たいら かっぺいた)。曽田の作品の例に漏れず、この主人公も初めてのサーキットで度肝を抜く走りを見せるなど、天才肌の人物である。コース上でのライバルとの戦いと並んで、レース界の厳しい実力主義や、個人活動を続ける困難も描かれており、主人公は徐々に支援者を増やしながら、それらの逆境を乗り越えていく。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "漫画本編は主人公がプロレーサーを目指してヨーロッパへ旅立とうとする時点で完結し、その先の未来像については語られなかった。曽田は連載終了にあたり「完結については2年前にほぼ決めました」「この終わり方がベストだと確信しています」と述べている。なお、以前に行った小林可夢偉との対談では、主人公のF1デビューレースとしてイメージしていたこと(チャンピオン相手に一歩も引かないバトル)を、小林が2009年ブラジルGPで実際にやってくれた、と語っていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "漫画とのコラボレーション企画として、2011年の全日本F3選手権に参戦した山内英輝が、主人公と同じカラーリングのマシンで出場した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "幼くして母を失い、父と2人で暮している少年、平勝平太(通称カペタ)。ある日、カペタの父は捨てられていた材料を使って手製のレーシングカートを造り、それをカペタに与えた。これが彼の運命を大きく変えることになる。カペタは仲間たちと「チーム・カペタ」を結成し、ジュニアカートに参戦。そこでライバルかつ目標となる源奈臣と出会う。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "中学生になったカペタは、カートレース界の有力選手に成長。3年間使い古したマシンで苦戦しながらも、志波リョウを退けて全日本カート選手権ICAクラスのチャンピオンを獲得する。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "活動資金が底をつき、カペタはレースを諦める事を覚悟するが、親友である安藤信に助けられ、ステラ自動車の新人オーディション (FSRS) に挑戦。ドライバー育成プログラム (S.D.P.) に補欠合格し、4輪レースの登竜門フォーミュラ・ステラ(Fステ)に参戦する。さらにノア・モータースポーツの竹森基に認められ、16歳にして全日本F3選手権にステップアップする。ここでもプライベーターゆえの苦労を味わうが、AYKチームの金田彬とのルーキー対決を制して、最年少F3チャンピオンを獲得する。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "カペタはステラワークスの一員として、世界の精鋭が集うマカオグランプリに出場。ユーロF3に挑戦していた源と再会し、優勝を賭けたマッチレースを展開する。経済不況によるメーカー支援の縮小という逆風の中で、ふたりは最高峰のF1を目指して競いあうことを誓う。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "作品『capeta』とモータースポーツについて解説したオフィシャル・ガイドブック。", "title": "書籍" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2005年10月4日から2006年9月26日までテレビ東京系列で、毎週火曜日午後6時より放送。全52話。放送局の編成により27話から放送時間が30分繰り上げになった。また、CS放送のフジテレビ739でも再放送が行われていた。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "構成は原作での1巻~11巻(カートとの出会いから、フォーミュラ・ステラオーディション辺りまで)を中心にオリジナルストーリーを交えたもので、終盤は完全オリジナルのストーリーとなっている。原作より先にカペタがフォーミュラデビューしており、最終回ではカペタと源がF1イタリアGPでデッド・ヒートを繰り広げるラジオ放送がある。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "第14話までの小学生編では、実年齢と同じ小中学生の子役がメインキャラクターの声優を担当。このうち鈴木茂波役の宮本侑芽は後年「本当に苦戦した」と語っている。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "本作終了後、テレビ東京火曜夕方の創通制作関与アニメは2018年4月3日開始の『ガンダムビルドダイバーズ』(枠は17:55 - 18:25)まで11年半途絶えた。", "title": "テレビアニメ" } ]
『capeta』(カペタ)は、モータースポーツを題材とした日本の漫画作品。作者は曽田正人、共同原作者は冨山玖呂。『月刊少年マガジン』にて2003年3月号より2013年4月号まで連載された。単行本は全32巻。 第29回講談社漫画賞少年部門受賞。テレビ東京系列でアニメ化もされている。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Infobox animanga/Header |タイトル=capeta |画像= |サイズ= |説明= |ジャンル=[[少年漫画]]<br>[[モータースポーツ]] }} {{Infobox animanga/Manga |タイトル= |作者=[[曽田正人]] |作画= |出版社=[[講談社]] |他出版社= |掲載誌=[[月刊少年マガジン]] |レーベル= |開始号=[[2003年]]3月号 |終了号=[[2013年]]4月号 |開始日= |終了日= |巻数=全32巻 |話数= |その他=第29回[[講談社漫画賞]](少年部門)受賞 }} {{Infobox animanga/TVAnime |タイトル= |原作= |監督=[[三沢伸]] |シリーズ構成=[[上代務]] |キャラクターデザイン=[[興村忠美]] |音楽=[[佐橋俊彦]] |アニメーション制作=[[スタジオコメット]] |製作=[[テレビ東京]]、[[創通|創通映像]]、[[マーベラス (企業)|マーベラス音楽出版]] |放送局=テレビ東京他 |放送開始=[[2005年]][[10月4日]] |放送終了=[[2006年]][[9月26日]] |話数=全52話 |その他= |インターネット= }} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト= |ウィキポータル= }} {{小文字}} 『'''capeta'''』(カペタ)は、[[モータースポーツ]]を題材とした日本の[[漫画]]作品。作者は[[曽田正人]]、共同原作者は冨山玖呂<ref>"[https://web.archive.org/web/20130731113923/http://www.sodamasahito.jp/works/capeta.html 作品紹介]". 曽田正人オフィシャルウェブ. 2013年4月13日閲覧。</ref>。『[[月刊少年マガジン]]』にて[[2003年]]3月号より[[2013年]]4月号まで連載された。単行本は全32巻。 第29回[[講談社漫画賞]]少年部門受賞。[[テレビ東京]]系列でアニメ化もされている。 == 概要 == この作品の主人公は[[レーシングカート|カート]]に魅せられた少年・平勝平太(たいら かっぺいた)。曽田の作品の例に漏れず、この主人公も初めてのサーキットで度肝を抜く走りを見せるなど、天才肌の人物である。コース上でのライバルとの戦いと並んで、レース界の厳しい実力主義や、個人活動を続ける困難も描かれており、主人公は徐々に支援者を増やしながら、それらの逆境を乗り越えていく。 漫画本編は主人公がプロレーサーを目指してヨーロッパへ旅立とうとする時点で完結し、その先の未来像については語られなかった。曽田は連載終了にあたり「完結については2年前にほぼ決めました」「この終わり方がベストだと確信しています」と述べている<ref>"[https://web.archive.org/web/20130122021939/https://ameblo.jp/sodamasahito/entry-11443061764.html 今月のカペタ]". 曽田正人日記.(2013年1月6日)2013年4月14日閲覧。</ref>。なお、以前に行った[[小林可夢偉]]との対談では、主人公のF1デビューレースとしてイメージしていたこと(チャンピオン相手に一歩も引かないバトル)を、小林が[[2009年ブラジルグランプリ|2009年ブラジルGP]]で実際にやってくれた、と語っていた<ref>『capeta』単行本22巻巻末収録。</ref>。 漫画とのコラボレーション企画として、2011年の[[全日本F3選手権]]に参戦した[[山内英輝]]が、主人公と同じカラーリングのマシンで出場した<ref>"[https://www.as-web.jp/past/%e3%80%8ecapeta%e3%80%8f%e3%81%ae%e3%83%9e%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%81%8c%e7%8f%be%e5%ae%9f%e3%81%ab%ef%bc%81-%e5%b1%b1%e5%86%85%e8%bb%8a%e3%81%ab%e3%83%9a%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%88 『Capeta』のマシンが現実に! 山内車にペイント]". オートスポーツweb.(2011年9月24日)2013年4月14日閲覧。</ref>。 == あらすじ == 幼くして母を失い、父と2人で暮している少年、平勝平太(通称カペタ)。ある日、カペタの父は捨てられていた材料を使って手製のレーシングカートを造り、それをカペタに与えた。これが彼の運命を大きく変えることになる。カペタは仲間たちと「チーム・カペタ」を結成し、ジュニアカートに参戦。そこでライバルかつ目標となる源奈臣と出会う。 中学生になったカペタは、カートレース界の有力選手に成長。3年間使い古したマシンで苦戦しながらも、志波リョウを退けて全日本カート選手権ICAクラスのチャンピオンを獲得する。 活動資金が底をつき、カペタはレースを諦める事を覚悟するが、親友である安藤信に助けられ、ステラ自動車の新人オーディション (FSRS) に挑戦。ドライバー育成プログラム (S.D.P.) に補欠合格し、4輪レースの登竜門フォーミュラ・ステラ(Fステ)に参戦する。さらにノア・モータースポーツの竹森基に認められ、16歳にして[[全日本F3選手権]]にステップアップする。ここでもプライベーターゆえの苦労を味わうが、AYKチームの金田彬とのルーキー対決を制して、最年少F3チャンピオンを獲得する。 カペタはステラ[[ワークス・チーム|ワークス]]の一員として、世界の精鋭が集う[[マカオグランプリ]]に出場。[[ユーロF3]]に挑戦していた源と再会し、優勝を賭けたマッチレースを展開する。経済不況によるメーカー支援の縮小という逆風の中で、ふたりは最高峰の[[フォーミュラ1|F1]]を目指して競いあうことを誓う。 == 登場人物 == === 主人公と周囲の人々(チーム・カペタ) === ; 平 勝平太(たいら かっぺいた) : 愛称「カペタ」。本編の主人公。[[1990年]][[6月20日]]生まれ。身長:162cm。血液型はA型。作中では小学4年生から高校1年生までの成長過程が描かれる。 : 仕事に明け暮れる父を気遣い、幼くして自身の本心を押さえ、何をやっても本気になれず退屈な日々を過ごしていたが、[[レーシングカート]]と出会い、本格的にレースに打ち込むことになる。 : 初めて乗るマシンでも短時間でコツをつかみ、爆発的なラップタイムを叩き出す才能を持つ。カート時代より荷重移動を用いてマシンの向きを変え、コーナーの通過速度を高めるドライビングスタイルを身につけている。「マシンが一番気持ちいい走り」を理想とし、そのためには身体の酷使に耐えることも厭わない。 : 普段は温厚で優柔不断な性格だが、レースのこととなると闘争心を露わにし、有利な状況を作るため計算高く非情な一面もみせる。 : ライバルの源奈臣には尊敬も抱いており、一歩先を進んでいく源と同じ舞台で戦うことを目標にしていた。女性に関しては鈴木茂波のことが苦手な一方で、源奈々子や秦紀子などのお姉さんタイプに弱い。最終話で紀子から告白され、恋人関係に。 ; 平 茂雄(たいら しげお) : カペタの父親。愛称「シゲさん」。 :妻に先立たれた後、イカリ舗装で働きながら、男手ひとつでカペタを育て上げた。路面工事で訪れたカート場のスクラップを集め、カペタの初めてのレーシングカートを作り上げる。息子の夢を支えるため懸命に働き、レース会場への搬送やメカニックの整備も手伝う。 : レースについて源奈々子に相談するうちに親しくなり、やがて真剣な交際を始める。 ; 鈴木 茂波(すずき もなみ) : カペタの幼馴染。 :男勝りの勝気な性格で、「チーム・カペタの監督」を自称し、ノブと共にカペタを前進させるアドバイスを贈る。 :カート関係者の中では愛らしい容姿が知られており、中学生時代にはタレント事務所からスカウトされ、[[グラビアアイドル]]としてデビュー。芸能界でも人気者となり、女優としてドラマに主演する。(アニメ版では、玉木薫にスカウトされ、グラビアアイドルになるための活動をしていたが、茂波の意向で[[歌手]]になると決意する。エムベックスのオーディションに出場し落選してしまうが、有名プロデューサーのユウジにスカウトされ、歌手としてデビューした。) : 幼少時はカペタの父親に恋心を抱いていた。源奈臣をカペタのライバルとして敵視していたが、レース中の事故をきっかけに源と親密な仲になり、日本とヨーロッパで遠距離交際を続けている。 ; 安藤 信(あんどう のぶ) : カペタの小学校以来の同級生。公私に渡り、固い友情で結ばれたパートナーでもある。 : カペタの実力と能力を見抜いており、初めは何事にも本気を出さないカペタに苛立ちを感じていたが、カペタがカートレースでみせた才能に魅了され、全面的に応援することを決めた。 : 中学時代はチーム・カペタのマネージャーとして、活動計画や資金集めを担当。FSRS事務所にカペタの実績を売り込むなど、大人びた行動力をみせる。中学卒業時は、本格的に語学と[[スポーツ科学|スポーツマネージメント]]を学ぶためアメリカへ留学し、プロマネージャーになることを目指している。 :小学生の頃から鈴木茂波のことを好きだったが告白しなかった。カペタは彼女と源の仲を伝えようか悩んだ末、留学前に伝えられなかった。 ; 井狩 俊樹(いかり としき) : 茂雄の勤務する「イカリ舗装」の社長。 : カート時代にカペタのパーソナル・スポンサーとして資金援助をしたほか、年長者としての含蓄あるアドバイスを送る。叩き上げで会社を大きくした志をカペタに受け継いで欲しいと、密かに期待している。 ; サルッキー : チーム・カペタのマスコット的存在の[[サル]]。 : 本名は「ラインハルトIII世」。元は桃太郎のペットだったが、カペタに懐いたため譲られた。 === 幼少編 === ; 源 奈臣(みなもと なおみ) : 実母が指揮するカートチーム「オートハウス」のエースドライバー。カペタより年齢は1つ上である。血液型はO型。 : 幼少期からF1ドライバーとなるべく英才教育され、カート時代は国内で無敵を誇った。フォーミュラ・ステラでもチャンピオンを獲得し、S.D.P.からヨーロッパへ派遣。URTチームから[[ユーロF3]]に参戦し、世界レベルでも活躍が注目され始めている。ドライビングでは、深いブレーキングを武器にする。 : 感情をあまり表に出さないタイプで、実母からは'''歌舞伎顔'''と呼ばれている。家事全般が得意で、語学力も堪能。プロ意識が高く、レース後のスポンサーへの結果報告など、周りの期待に応えるための努力を怠らないようにしている。 : カペタに対しては天才的なセンスを認めているが、環境作りの努力が足りないと不満を感じていた。一方で、カペタの相談役である安藤信の存在をうらやましく思うこともある。カート時代より鈴木茂波に好意を持っており、カペタの知らないところでアプローチに成功。ヨーロッパ滞在中も交際を続けている。 ; 源 奈々子(みなもと ななこ) : 源奈臣の母親。カートチーム「オートハウス」の監督。本業の開業医としても成功している。 : 若いころはカートの全日本選手権で優勝の経験を持つ。「胸が大きくてステアリングを操作できない」ために現役を引退したというプロポーションの持ち主。離婚後、息子を厳しく育て上げたが、依然として美貌と若々しさを保っている。 : カペタの才能をいち早く見抜き、奈臣の競争相手としてオートハウスに勧誘したこともあったが、その後はレース活動や進路の良き相談相手となっている。父茂雄と意気投合し、息子たちにも報告するほど真剣に交際するようになった。 ; 飛田 勇(とびた いさむ) : 「オートハウス」所属のレーサー。 : 上手いものの平凡な選手だったが、カペタとのバトルを通じてレースの楽しさに目覚め、全日本チャンピオンを争うレベルの選手に成長する。 ; 田川上 桃太郎(たがわじょう ももたろう) : カペタのデビューレースに出場していた、大企業の御曹司。 : ドライバーとしての才能はカペタらに及ぶべくもないが、カペタの才能に惚れ込み、後に様々な援助を申し出てくる。飛び級で海外留学した秀才で、独自の美意識を持つ。 === 中学生編 === ; 志波 リョウ(しば リョウ) : 「カートショップおかくら」所属のドライバー。[[1989年]][[8月7日]]生まれ。血液型はAB型。 : 源奈臣と同期だが、全日本カートからフォーミュラ・ステラまでカペタとしのぎを削る。[[ジャニーズ事務所|ジャニーズ]]系の外見とは裏腹に、根は真面目で努力家。雨のレースを得意とする。 : カートのチャンピオン決定戦でカペタに敗れ、FSRSの最終選考で見返したものの、フォーミュラ・ステラでも補欠合格のカペタにシートを奪われるという屈辱を味わう。カペタがF3にステップアップした後、2年目のフォーミュラ・ステラに参戦中。 ; 安達 隼人(あだち はやと) : カート雑誌「月刊Jカート」のデスク。 : ジャーナリストとしてカペタの才能に惚れ込み、追いかけていくことを決意。後に総合モータースポーツ誌「週刊オートレーシング」に転属する。 === フォーミュラ・ステラ編 === ; 加賀美 敦也(かがみ あつや) : ステラ自動車の国内モータースポーツ活動の責任者。フォーミュラ・ステラ・レーシングスクール (FSRS) 校長。 : かつてはステラのワークスドライバーとして[[スポーツカー世界選手権]](SWC)で活躍した。興奮すると現役当時の体験談を語り始める。 ; 田中 肇(たなか はじめ) : FSRS事務局員。安藤信の売り込みでカペタをオーディションに参加させて以降、何かとカペタに目をかける。 : 作者曰く、中盤から最大の当たりキャラであり、特徴である女口調は作者の父に似ているらしい。 ; 新河 英樹(しんかわ ひでき) : [[フォーミュラ・ニッポン]]や[[SUPER GT]]のチャンピオン経験をもつ国内トップドライバー。血液型はA型。 : FSRS出身で講師としても参加し、担当したカペタの素質を評価する。[[フォーミュラ1|F1]]参戦を目指し、ステラF1チームのテストにも参加したが、実現には資金面と年齢というハードルがある。 : キャラクターのモデルは俳優の[[坂口憲二]]。作者は似顔絵が苦手だが、周りからは直ぐに当てられたと言っている。 ; 秦 紀子(はた のりこ) : FSRS受講生。[[1988年]][[4月18日]]生まれ。愛知県出身。身長:167cm、体重:57kg。[[普通自動二輪]]の免許を取得している。 : 元レーシングドライバーの父親をもち、女の子らしい生活には興味を持たず、レーサーを目指してきた。FSRSでは一次で落選したが、翌年パーセック・モータースポーツよりフォーミュラ・ステラに参戦。F3へのステップアップを目指している。 : 外見はボーイッシュで、女子高の後輩から人気がある。2歳年下のカペタのことを頼りない弟分のように思っていたが、「才能のある男に弱い」という自覚があり、急成長するカペタの力になりたいと願うようになる。最後には自ら告白して恋人同士となる。 ; ミッコ・アホネン : [[フィンランド]]から来日したドライバー。[[スキンヘッド]]が特徴。 : 源奈臣も認める実力の持ち主で、フォーミュラ・ステラでは源とシリーズチャンピオンを争ったが、途中参戦したカペタが3連勝したため、タイトルを逃した。その後[[フォーミュラ3|F3]]進級テストを受けたが、ノア・モータースポーツのシートをカペタに奪われた。 ; 石原 直樹(いしはら なおき)※アニメは石原 裕太(いしはら ゆうた) : ステラ・ヤングドライバーズ・プログラム (S.D.P.) 所属のレーシングドライバー。年齢はカペタの3歳年上。通称「石原くん」。血液型はAB型。 : カペタがFSRSを受講する前年から、選抜レースに[[ペースメーカー (陸上競技)|ペースメーカー]]として参加。当時受講生だった源にタイムを抜かれ、1年間FSRS講師陣にイジられ続けた。フォーミュラ・ステラ最終戦でも4輪デビュー戦の源に抜かれるが、シリーズチャンピオンを獲得。 : F3ではサムスワークスに所属したが、AYK相手の総力戦では実力不足と判断され、最新パーツの供給対象からはずされた。[[SUPER GT]] GT300クラスにも参戦しているが、第3戦直前に[[風疹]]にかかり、代役としてカペタが出場した。 === F3編 === ; 竹森 基(たけもり もとい) : ノア・モータースポーツ会長兼エンジニア。かつてはステラ系の[[セミワークス]]ドライバーとして活躍した。 : S.D.P.の[[フォーミュラ3|F3]]でカペタを見初め、自身のF3チームのドライバーに抜擢する。 : 加賀美とはドライバー時代から旧知の仲。 : モデルは[[森脇基恭]]。 ; 赤坂 昇(あかさか しょう) : ステラ系レーシングチームのサムス(ステラ[[ワークス・チーム]])所属のメカニック。 : 一度はステラ系販売店に就職するが、レースへの夢を断ちがたくサムスへ再就職。 : S.D.P.のF3セレクションのカペタのドライブするマシンを担当した際、竹森の腕に惹かれサムスからノアMSへ出向。 ; 堀 司(ほり つかさ) : ノアMSのメインスポンサーである静岡ステラ自動車販売の代表取締役社長。 : 竹森やノアMSとの付き合いが長く、F3についての造詣も深い。 : カペタのレースに心打たれ、運営資金調達としてステラ系販売店の全国社長会議の場で出資提案を行なった。 ; 桐谷 芹(きりたに せり) : カペタが通う高校の同級生。 : レース活動に打ち込んでいるカペタに恋心を抱く。モータースポーツの世界を理解するため、恋のライバルであることを知らず秦紀子に相談する。 : 作者曰く、カペタの将来の結婚相手候補として登場させたが、紀子に比べるとなぜか読者に支持されなかったという<ref>『月刊少年マガジン』2013年5月号(曽田・富山対談記事)。</ref>。 ; 金田 彬(かねだ あきら) : カート西日本選手権・FAクラスでの活躍をうけ、ステラのライバル企業・AYKのF3ワークス・チームに18歳で抜擢された、安達いわく「AYKのカペタ」。 : AYKエンジンの優位性もあったが、デビュー戦でいきなり表彰台を獲得し、その才能を見せつけた。 : 実家は大阪で焼肉家を経営。かつてはかなりの不良だったようだが、レースをはじめるに当たって足を洗ったため、地元の旧友とは折り合いが悪い。 : 同世代であるカペタに対しては、敵チームではあるがジムでトレーニングをしたり、実家の焼き肉店に招くなど仲が良い。タイヤテストの件ではカペタの考えに同意し、新タイヤを供給させるために動いている。ただしカペタがモナミや秦に好かれていることは羨ましく思っている。 ; 和泉 堅三郎(いずみ けんざぶろう) : AYKのF3ワークス・チームの総監督。 : かつては自チームを率いて[[全日本F2選手権|全日本F2]]や[[全日本F3000選手権|全日本F3000]]、[[富士グランチャンピオンレース|富士GC]]を戦い、[[フォーミュラ1|F1]]へ門下生を多数送り込んだ。 : 自チームをたたんだ後、AYKから若手育成の依頼を受け、ステラ陣営に対して長年劣勢だったチームの建て直しを図る。 ; セバスチャン・デリオン : AYKのF3ワークスのエースドライバー。フランス出身。愛称は「セブ」。 : ユーロF3に参戦していたが資金不足で断念。AYKに誘われて全日本F3を戦うため来日した。[[岡山国際サーキット|岡山]]ラウンドでの金田の[[チームオーダー]]違反に激怒する。[[下北沢]]在住。 ; ルネ・コルニュ : URTグランプリのユーロF3チームのレースエンジニア。シーズン途中に加入した源奈臣を担当する。 : フォーミュラ・ジアッラの頃より源のブレーキングテクニックを評価し、専用のPFC製ブレーキを調達。SAM'Sからセッティングデータを入手するなど尽力し、ドライバーと強い信頼関係で結ばれる。 == 関連用語 == ; オートハウス・レーシング (AUTO HOUSE) : 源奈々子が監督を務めるカート界の強豪チーム。[[エンドレスアドバンス|エンドレス]]をメインスポンサーに持ち、[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]のメーカーサポートを受けるという本格的な活動を行う。ドライバーには子供でもプロ意識を植え付けている。 ; ステラ自動車 (STELLA) : 日本の自動車メーカーであり、モータースポーツ活動を行うコンストラクター。ホームサーキットは[[富士スピードウェイ]]で、近隣の東富士に研究施設とファクトリーを置いている。「ステラF1」のチーム名で[[フォーミュラ1|F1]]にも参戦していたが、不況を理由にF1から撤退した。 :; フォーミュラ・ステラ・レーシング・スクール (FSRS) : フォーミュラレース入門者を対象としたタレント発掘機関。現役レーサーによる実技教習、受講者同士の選抜レースなどを行い、成績優秀者は[[スカラシップ]]制度に採用される。フォーミュラ・ステラにおけるワークスチームは'''S.D.P.-FSRS'''。 :; フォーミュラ・ステラ: ステラ自動車が主催する入門カテゴリ([[ジュニア・フォーミュラ]])。通称「Fステ」。ステラエンジンを搭載するワンメイクマシンでシリーズ戦を行い、チャンピオンを決定する。作中では他に金田を輩出した「フォーミュラAYK」、源が参戦したイタリアの「フォーミュラ・ジアッラ」というジュニア・フォーミュラが設定されている。 :;ステラ・ドライバーズ・プログラム (S.D.P.) : F1ドライバー養成を目的とする若手支援プログラム。FSRS出身ドライバーの国内外での活動をバックアップしていたが、F1撤退と同じくして、支援体制が縮小されていく。 ; サムス (SAM'S) : ステラの国内レース活動を運営する[[ワークス・チーム]]。F3チームのメインスポンサーはマレーシアの石油企業ペトロノート。 ; ノア・モータースポーツ : ステラ系のプライベーターF3チーム。[[静岡県]][[御殿場市]]に本拠地を置く。資金不足でシーズンフル参戦も危ぶまれる状況だったが、カペタの活躍により新規スポンサーを獲得し、ステラから[[セミワークス]]待遇のサポートを受けることになる。 ; AYK : ステラのライバルとなる自動車メーカー。ホームサーキットは[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]]。F3でのワークスは和泉監督率いる'''AYKレーシング'''。F3ではしばらくステラの後塵を拝していたが、強力なエンジンを開発して反転攻勢に出る。 ; パーセック・モータースポーツ : 坪巻監督率いるプライベーターチーム。Fステには秦紀子と駒沢卓が出場する。後述のアニメ版では設定が異なり、FSRSの選考に漏れたカペタが所属する。 ; URTグランプリ : 源が所属するユーロF3の強豪チーム。エースのクラウス・リンデマンにチャンピオンを獲らせる体制を敷いており、途中加入した源はチーム内の待遇差に直面する。 == 書籍 == === 単行本 === # 2003年10月16日発売 ISBN 978-4-06-334785-2 # 2003年10月16日発売 ISBN 978-4-06-334786-9 # 2004年2月17日発売 ISBN 978-4-06-334840-8 # 2004年5月15日発売 ISBN 978-4-06-334871-2 # 2004年8月17日発売 ISBN 978-4-06-334905-4 # 2004年11月17日発売 ISBN 978-4-06-334937-5 # 2005年3月17日発売 ISBN 978-4-06-334976-4 # 2005年7月15日発売 ISBN 978-4-06-372036-5 # 2005年10月17日発売 ISBN 978-4-06-372089-1 # 2006年2月17日発売 ISBN 978-4-06-372131-7 # 2006年6月16日発売 ISBN 978-4-06-372162-1 # 2006年10月17日発売 ISBN 978-4-06-372213-0 # 2007年2月16日発売 ISBN 978-4-06-372267-3 # 2007年7月17日発売 ISBN 978-4-06-372319-9 # 2007年11月16日発売 ISBN 978-4-06-372392-2 # 2008年3月17日発売 #* 通常版 ISBN 978-4-06-375460-5 #* 特装版 ISBN 978-4-06-362106-8 #*:オリジナルマグネットシート2枚付き。表紙の絵も通常版と異なる。 # 2008年7月17日発売 ISBN 978-4-06-375520-6 # 2008年11月17日発売 ISBN 978-4-06-375596-1 # 2009年4月17日発売 ISBN 978-4-06-375690-6 # 2009年8月17日発売 ISBN 978-4-06-375776-7 # 2009年12月17日発売 ISBN 978-4-06-375823-8 # 2010年5月17日発売 ISBN 978-4-06-375916-7 # 2010年10月15日発売 ISBN 978-4-06-375961-7 # 2011年3月17日発売 ISBN 978-4-06-376035-4 # 2011年7月15日発売 ISBN 978-4-06-376088-0 # 2011年11月17日発売 ISBN 978-4-06-376141-2 # 2012年2月17日発売 ISBN 978-4-06-376195-5 # 2012年5月17日発売 #* 通常版 ISBN 978-4-06-376637-0 #* 特装版 ISBN 978-4-06-362215-7 #*:主人公カペタのフィギュア付きの特装版である。 # 2012年8月17日発売 ISBN 978-4-06-376685-1 # 2012年11月16日発売 ISBN 978-4063767261 # 2013年2月15日発売 ISBN 978-4063767827 === ガイドブック === 作品『capeta』とモータースポーツについて解説したオフィシャル・ガイドブック。 * 『capeta THE GUIDE BOOK』&nbsp;2005年10月17日発売&nbsp;ISBN 978-4-06-372082-2 == テレビアニメ == [[2005年]][[10月4日]]から[[2006年]][[9月26日]]まで[[テレビ東京]]系列で、毎週火曜日午後6時より放送。全52話。放送局の編成により27話から放送時間が30分繰り上げになった。また、[[CS放送]]の[[フジテレビONE|フジテレビ739]]でも再放送が行われていた。 構成は原作での1巻~11巻(カートとの出会いから、フォーミュラ・ステラオーディション辺りまで)を中心にオリジナルストーリーを交えたもので、終盤は完全オリジナルのストーリーとなっている。原作より先にカペタがフォーミュラデビューしており、最終回ではカペタと源がF1[[イタリアグランプリ|イタリアGP]]でデッド・ヒートを繰り広げるラジオ放送がある。 第14話までの小学生編では、実年齢と同じ小中学生の[[子役]]がメインキャラクターの声優を担当。このうち鈴木茂波役の宮本侑芽は後年「本当に苦戦した」と語っている<ref>[https://mobile.twitter.com/yume_mymt/status/1536654295470202880 宮本侑芽Twitter 2022年7月1日](2022年7月28日閲覧)</ref>。 本作終了後、テレビ東京火曜夕方の[[創通]]制作関与アニメは[[2018年]][[4月3日]]開始の『[[ガンダムビルドダイバーズ]]』(枠は17:55 - 18:25)まで11年半途絶えた。 === キャスト === <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> * 平勝平太:[[安達直人]](小学生編)/[[豊永利行]](中学生編) * 安藤信:[[滝原祐太]](小学生編)/[[喜安浩平]](中学生編) * 鈴木茂波:[[宮本侑芽]](小学生編)/[[菊地美香]](中学生編) * 平茂雄:[[小手伸也]] * 熊田茂吉:[[永野広一]] * 源奈臣:[[内藤玲]] * 源奈々子:[[大輝ゆう]] * 井狩社長:[[トニーヒロタ]] * 三浦:[[木内秀信]] * 田川上桃太郎:[[福麻むつ美]] * 三瓶武:[[海鋒拓也]] * 飛田勇:[[宮里駿]](小学生編)/[[渡辺啓|渡辺慶]](中学生編) * 奥寺六三郎:[[松本忍]] * サルッキー(ラインハルトIII世)/クニミツ:[[石橋美佳]] * 安達隼人:[[窪田亮]](小学生編)/[[水島裕 (声優)|水島裕]](中学生編) * 梶原 慶:[[津田健次郎]] * 常盤まどか:[[菅由紀子]] * 藤村誠/渋谷昭彦:[[岩崎征実]] </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> * 和田:[[小嶋一成]] * カズヨシ:[[吉田麻子]] * サトル:[[井関佳子]] * ミカ:[[佐高美紀]] * 坪巻秀一:[[椙本滋]] * 高原誠一:[[平野貴裕]] * 本間太郎/酒井大輔:[[下崎紘史]] * 田中仁:[[途中慎吾]] * 志波リョウ:[[前田剛]] * 加賀美敦也:[[深貝大輔]] * 田中肇:[[西村仁]] * 秦紀子:[[齊藤真紀]] * 大亀総太:[[川原慶久]] * 伊佐宏:[[藤原祐規]] * 石原裕太:[[峯暢也]] * 新河英樹:[[細見大輔]] * 駒沢将斗:[[杉山大]] </div>{{clear}} === スタッフ === * 原作 - 曽田正人([[講談社]]刊「[[月刊少年マガジン]]」連載) * 監督 - [[三沢伸]] * 監督補佐 - 高林久弥 * シリーズ構成 - [[上代務]] * キャラクターデザイン・総作画監督 - [[興村忠美]] * カートデザイン(フォーミュラデザイン) - 大河原浩一、竹田佳子、ゴン・シュ(Gong Shu)、高松勝範、神谷淑貴 * 美術監督 - 高橋和博 * カラーコーディネイト - 津守裕子 * 撮影監督 - 森下成一 * 編集 - [[小島俊彦]] * 音楽 - [[佐橋俊彦]] * アフレコ演出 - [[三ツ矢雄二]] * 音響演出 - [[ハマノカズゾウ]] * プロデューサー - 山川典夫、板橋秀徳、田村孔亮→小川文平 * アニメーション制作 - [[スタジオコメット]] * 製作 - [[テレビ東京]]、[[創通|創通映像]]、[[マーベラス (企業)|マーベラス音楽出版]] === 主題歌 === ==== オープニングテーマ ==== ; 「Never Ever」(第1話 - 第35話) : 作詞 - [[小林和子]] / 作曲 - [[矢崎俊輔]] / 編曲 - [[前嶋康明]] / 歌 - [[今井翼]] :* Broad Band Edition(ネット配信版)はTVオンエア時と異なる[[器楽曲|インストゥルメンタル]]バージョンである。 ; 「導火線」(第36話 - 第51話) : 作詞 - 井上鉄平 / 作曲・編曲・歌 - [[BAZRA]] :* 第52話ではエンディングテーマとして使用。 ==== エンディングテーマ ==== ; 「僕ら」(第1話 - 第14話) : 作詞 - 井上鉄平 / 作曲・歌 - BAZRA ; 「ナナナビゲーション」(第15話 - 第32話) : 作詞・作曲 - [[井上慎二郎|SJR]] / 歌 - [[星井七瀬]] ; 「Here we go!」(第33話 - 第43話) : 作詞・作曲 - [[大渡亮]] / 編曲・歌 - [[ミサイルイノベーション]] ; 「My Star」(第44話 - 第51話) : 作詞・作曲 - [[Funta]] / 編曲 - 近田潔人 / 歌 - [[菊地美香]] === 各話リスト === {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!放送日 |- |Lap.01||リミッターをはずせ!||[[上代務]]||colspan="2" style="text-align:center"|[[三沢伸]]||[[一川孝久]]||'''2005年'''<br />10月4日 |- |Lap.02||オレのカート!||笠原邦暁||colspan="2" style="text-align:center"|高林久弥||飯田清貴||10月11日 |- |Lap.03||初めてのサーキット!||[[岸間信明]]||まつみゆう||西村大樹||岡野幸男||10月18日 |- |Lap.04||フルスロットル!||rowspan="2"|上代務||古川政美||[[政木伸一]]||佐久間健||10月25日 |- |Lap.05||ライバル!||colspan="2" style="text-align:center"|濁川敦||[[金沢比呂司|金澤比呂司]]||11月1日 |- |Lap.06||チーム・カペタ!||岸間信明||武内宣之||栗本宏志||浜津武広||11月8日 |- |Lap.07||エントリー!||笠原邦暁||まつみゆう||西村大樹||一川孝久||11月15日 |- |Lap.08||クラッシュ!||rowspan="2"|上代務||colspan="2" style="text-align:center"|いわもとやすお||北崎正浩||11月22日 |- |Lap.09||コースレコード!||まつみゆう||[[又野弘道]]||飯田清貴||11月29日 |- |Lap.10||タイムトライアル!||岸間信明||三宅雄一郎||政木伸一||佐久間健||12月6日 |- |Lap.11||スタート!||笠原邦暁||colspan="2" style="text-align:center"|浦田保則||岡野幸男||12月13日 |- |Lap.12||バトル!||rowspan="3"|上代務||まつみゆう||西村大樹||金澤比呂司||12月20日 |- |Lap.13||チームオーダー!||武内宣之||栗本宏志||浜津武広||12月27日 |- |Lap.14||ウィナー!||colspan="2" style="text-align:center"|濁川敦||飯飼一幸||'''2006年'''<br />1月2日 |- |Lap.15||ステップ・アップ!||岸間信明||colspan="2" style="text-align:center"|いわもとやすお||北崎正浩||1月10日 |- |Lap.16||ペナルティー!||rowspan="2"|[[前川淳 (脚本家)|前川淳]]||colspan="2" style="text-align:center"|政木伸一||佐久間健||1月17日 |- |Lap.17||オーバーテイク!||三宅雄一郎||又野弘道||平川亜喜雄||1月24日 |- |Lap.18||スポンサー!||rowspan="4"|上代務||colspan="2" style="text-align:center"|まつもとよしひさ||岡野幸男||1月31日 |- |Lap.19||フェスティバル!||まつみゆう||西村大樹||金澤比呂司||2月7日 |- |Lap.20||パートナー!||武内宣之||栗本宏志||浜津武広||2月14日 |- |Lap.21||レーシング・ヒストリー!||colspan="2" style="text-align:center"|濁川敦||一川孝久||2月21日 |- |Lap.22||プレッシャー!||rowspan="2"|岸間信明||colspan="2" style="text-align:center"|いわもとやすお||北崎正浩||2月28日 |- |Lap.23||ラストチャンス!||[[石踊宏]]||政木伸一||佐久間健||3月7日 |- |Lap.24||コンディション!||前川淳||まつみゆう||高橋順||岡野幸男||3月14日 |- |Lap.25||リバース!||rowspan="2"|上代務||高林久弥||又野弘道||平川亜喜雄||3月21日 |- |Lap.26||トラクション!||細越裕治||濁川敦||金澤比呂司||3月28日 |- |Lap.27||ブルー・フラッグ!||rowspan="2"|岸間信明||谷口一郎||栗本宏志||浜津武広||4月4日 |- |Lap.28||チャレンジ!||colspan="2" style="text-align:center"|いわもとやすお||北崎正浩||4月11日 |- |Lap.29||スリック・タイヤ!||rowspan="2"|前川淳||[[江上潔]]||古川政美||佐久間健||4月18日 |- |Lap.30||ハード・レイン!||まつみゆう||又野弘道||飯田清貴||4月25日 |- |Lap.31||サイド・バイ・サイド!||rowspan="2"|上代務||colspan="2" style="text-align:center"|高橋順||岡野幸男||5月2日 |- |Lap.32||ファイナル・ラップ!||工藤進||濁川敦||一川孝久||5月9日 |- |Lap.33||プレゼンテーション!||岸間信明||高林久弥||松浦錠平||平川亜喜雄||5月16日 |- |Lap.34||スカウト!||前川淳||まつみゆう||大関雅幸||山川宏治||5月23日 |- |Lap.35||パフォーマンス!||上代務||[[杉島邦久]]||古川政美||佐久間健||5月30日 |- |Lap.36||アイドリング!||岸間信明||colspan="2" style="text-align:center"|いわもとやすお||北崎正浩||6月6日 |- |Lap.37||ニューマシン!||前川淳||五島健||又野弘道||金澤比呂司||6月13日 |- |Lap.38||フォーミュラ・ステラ!||rowspan="2"|上代務||colspan="2" style="text-align:center"|高橋順||岡野幸男||6月20日 |- |Lap.39||ファースト・ステップ!||高林久弥||濁川敦||一川孝久||6月27日 |- |Lap.40||シフトアップ!||岸間信明||まつみゆう||伊佐英朗||平川亜喜雄||7月4日 |- |Lap.41||ブラインド・コーナー!||前川淳||杉島邦久||古川政美||佐久間健||7月11日 |- |Lap.42||ターニング・ポイント!||rowspan="2"|上代務||武内宣之||清水明||桝井一平||7月18日 |- |Lap.43||ヒートアップ!||colspan="2" style="text-align:center"|いわもとやすお||北崎正浩||7月25日 |- |Lap.44||ピット・イン!||岸間信明||colspan="2" style="text-align:center"|濁川敦||金澤比呂司||8月1日 |- |Lap.45||ビクトリー・ロード!||前川淳||colspan="2" style="text-align:center"|高橋順||岡野幸男||8月8日 |- |Lap.46||オーディション!||rowspan="2"|上代務||まつみゆう||伊佐英朗||飯田清貴||8月15日 |- |Lap.47||パーフェクト・ウィン!||政木伸一||古川政美||佐久間健<br />金澤比呂司||8月22日 |- |Lap.48||ネクスト・ステージ!||岸間信明||高林久弥||又野弘道||平川亜喜雄||8月29日 |- |Lap.49||バーサス!||rowspan="4"|上代務||武内宣之||清水明||泉保良輔||9月5日 |- |Lap.50||セカンド・ドライバー!||colspan="2" style="text-align:center"|いわもとやすお||一川孝久||9月12日 |- |Lap.51||レッド・ゾーン!||まつみゆう||高橋順||岡野幸男||9月19日 |- |Lap.52||チェッカー・フラッグ!||三沢伸<br />高林久弥||三沢伸||[[興村忠美]]||9月26日 |} === 漫画版からの変更点 === * 漫画版では実名で出ていたメーカー名はアニメ版では架空のものになっている。 * 漫画版には存在しないアニメオリジナルエピソードがある。(雲原カートランドでの大会、田川上桃太郎のカート大会入賞記念パーティーなど) * 漫画版とアニメ版では一部の人物の名前が違う。 * FSRS最終選考で最終セクションの志波とカペタのタイム。 * 漫画版でカペタはFSRSに補欠合格となり、後にSAM'Sよりフォーミュラ・ステラに参戦するが、アニメ版では選考に落ちた後、パーセック・モータースポーツを紹介され、FSRSに合格したSAM'Sの志波と対決する。また、漫画版ではパーセック・モータースポーツに所属する秦はアニメ版では父親が監督を務める秦レーシングに所属している。 == 脚注 == <div class="references-small"><references /></div> == 関連項目 == * [[モータースポーツ]] * [[キッズカート]] * [[レーシングカート]] * [[全日本F3選手権]] * [[マカオグランプリ]] == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20161023213602/http://sodamasahito.com/ 曽田正人オフィシャルウェブ] - 公式サイト * [https://web.archive.org/web/20210323200029/https://www.tv-tokyo.co.jp/anime/capeta/ capeta カペタ] - テレビ東京・[[あにてれ]] {{前後番組 |放送局=[[テレビ東京]]系列 |放送枠=[[テレビ東京平日夕方6時枠のアニメ|火曜18:00 - 18:30]] |番組名=capeta<br />(2005年10月 - 2006年3月) |前番組=[[エレメンタル ジェレイド]] |次番組=[[アニマル横町]] |次番組備考 = 30分繰り上げ、この番組以降[[アニメ530]]第2枠 |2放送局=テレビ東京系列 |2放送枠=火曜17:30 - 18:00(アニメ530第1枠) |2番組名=capeta<br />(2006年4月 - 2006年9月) |2前番組=[[ぶちぬき]]<br />※17:25 - 18:00 |2前番組備考 = 他のテレビ東京系列はローカル番組 |2次番組=[[NARUTO -ナルト- (アニメ)|NARUTO -ナルト-]]<br />(再放送) }} {{講談社漫画賞少年部門}} {{三沢伸監督作品}} {{スタジオコメット}} {{デフォルトソート:かへた}} [[Category:漫画作品 か|へた]] [[Category:2003年の漫画]] [[Category:月刊少年マガジンの漫画作品]] [[Category:カーレース漫画]] [[Category:アニメ作品 か|へた]] [[Category:2005年のテレビアニメ]] [[Category:テレビ東京系アニメ]] [[Category:創通のアニメ作品]] [[Category:マーベラスのアニメ作品]] [[Category:マガジンKCのアニメ作品]] [[Category:カーレースアニメ]] [[pt:Capeta]]
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良弁
良辨(ろうべん、りょうべん、持統天皇3年(689年) - 宝亀4年閏11月24日(774年1月10日))は、奈良時代の華厳宗の僧。東大寺の開山。通称を金鐘行者といった。 持統3年(689年)、相武国造後裔の漆部氏の出身である漆部直足人の子として生まれる。鎌倉生まれと言われ、義淵に師事した。別伝によれば、近江国の百済氏の出身、又は、若狭国小浜下根来生まれで、母親が野良仕事の最中、目を離した隙に鷲にさらわれて、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられたと言われる。東大寺の前身に当たる金鐘寺に住み、後に全国を探し歩いた母と30年後、再会したとの伝承もある。しかし現在では別人ではないかとされているなど、史実であるかは定かでない。ただし、幼少より義淵に師事して法相唯識を学んだのは事実である。 さらに慈訓について学び、華厳宗の奥義を受ける。東山 (奈良県生駒市)に隠棲し、自ら彫刻した執金剛神像を安置して、日々鍛錬して修行にはげみ、金鐘行者の異名をえたところ、聖武天皇の耳にとまり、羂索院を賜り、これがのちに改名されて金鐘寺となった。 天平12年(740年)、『華厳経』の講師として金鐘寺に審祥を招いた。聖武天皇の勅により、天平14年(742年)には金鐘寺が大和国分寺に指定。天平17年(745年)に律師となる。天平勝宝4年(751年)には、東大寺大仏建立の功績により東大寺の初代別当となった。天平勝宝8年(756年)には鑑真とともに大僧都に任じられる。その後、天平宝字4年(760年)8月に仏教界の粛正のために、慈訓、法進とともに、僧階(三色十三階制)を改めるよう奏上した。聖武天皇の看病禅師も務めている。 近江志賀の石山寺の建立に関わったことも『石山寺縁起絵巻』や、『元亨釈書』にくわしい。 宝亀4年(773年)には、 僧正に任命され、その年の閏11月24日没。東大寺開山堂には「良弁僧正坐像」(国宝)が安置されている。伊勢原市の大山寺の開基とも言われる。
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良辨は、奈良時代の華厳宗の僧。東大寺の開山。通称を金鐘行者といった。
{{出典の明記|date=2011年2月}} {{Infobox Buddhist |名前=良辨 |生没年=[[持統天皇]]3年 - [[宝亀]]4年[[11月24日 (旧暦)|閏11月24日]]<br />([[689年]] - [[774年]][[1月10日]]) |諡号= |尊称=金鐘行者 |生地= |没地= |画像=[[File:Rōben (Todaiji).jpg|250px]] |説明文= |宗派=[[華厳宗]] |寺院=[[東大寺]] |師=[[義淵]] |弟子= |著作= }} '''良辨'''(ろうべん、りょうべん<ref name=hioki>{{cite book|和書|last=日置|first=昌一 (しょういち)|title=日本歴史人名辞典|publisher=講談社|year=1990|isbn=4-06-158323-9}}, p.969 「良辨(りゃうべん)」の項</ref>、[[持統天皇]]3年([[689年]]) - [[宝亀]]4年[[11月24日 (旧暦)|閏11月24日]]([[774年]][[1月10日]]))<ref name=Toudaiji>[http://www.todaiji.or.jp/index/haikan2001/1216/roben.htm 東大寺 良弁僧正坐像と開山堂]</ref>は、[[奈良時代]]の[[華厳宗]]の僧。[[東大寺]]の[[開山 (仏教)|開山]]<ref name=Syutoku>[https://web.archive.org/web/20160307062704/http://ext.shukutoku.ac.jp/course/detail/227/ 淑徳大学 豊島区・豊島新聞社共催 奈良遷都1300年に寄せて-良弁と東大寺-]</ref>。通称を金鐘行者といった。 ==生涯== [[File:Roben-taken-by-eagle-Shukongoshinengi-by-Mitsuoki-detail.jpg|120px|thumb|left|鷲にさらわる嬰児の頃。国会図書館所蔵・[[土佐光起]]『執金剛神縁起』絵巻より]] 持統3年(689年)、[[相武国造]]後裔の[[漆部氏]]の出身である漆部直足人の子として生まれる。[[鎌倉]]生まれと言われ、[[義淵]]に師事した<ref name=Toudaiji />。別伝によれば、[[近江国]]の[[百済氏]]の出身、又は、[[若狭国]][[小浜]][[下根来]]生まれで、母親が野良仕事の最中、目を離した隙に[[鷲]]にさらわれて、[[奈良]]の[[二月堂]]前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられたと言われる<ref name=Toudaiji /><ref>相模国([[神奈川県]])鎌倉地方には、父親を[[染屋時忠]]をする伝承がある。染屋時忠にはまた、娘が大鷲にさらわれた伝承がある。</ref>。東大寺の前身に当たる金鐘寺に住み<ref name=Toudaiji />、後に全国を探し歩いた母と30年後、再会したとの伝承もある。しかし現在では別人ではないかとされているなど、史実であるかは定かでない。ただし、幼少より義淵に師事して[[法相宗|法相唯識]]を学んだのは事実である。 さらに[[慈訓]]について学び、華厳宗の奥義を受ける<ref name=hioki/>。[[東山駅 (奈良県)|東山]] ([[生駒市|奈良県生駒市]])に隠棲し、自ら彫刻した[[執金剛神]]像を安置して、日々鍛錬して修行にはげみ、金鐘行者の異名をえたところ、[[聖武天皇]]の耳にとまり、羂索院を賜り、これがのちに改名されて金鐘寺となった<ref name=hioki/>。 天平12年([[740年]])、『''[[華厳経]]''』の講師として金鐘寺に[[審祥]]を招いた。聖武天皇の勅により、天平14年([[742年]])には金鐘寺が大和[[国分寺]]に指定。天平17年([[745年]])に[[律師]]となる<ref name=hioki/>。[[天平勝宝]]4年([[751年]])には、[[東大寺盧舎那仏像|東大寺大仏]]建立の功績<ref name=Syutoku /><ref name=Toudaiji />により[[東大寺]]の初代[[別当]]となった<ref>[http://www.tnm.go.jp/jp/exhibition/regular/one_year.html 東京国立博物館 光明皇后1250年御遠忌記念 特別展「東大寺大仏―天平の至宝―」]</ref>。天平勝宝8年([[756年]])には[[鑑真]]とともに[[大僧都]]に任じられる。その後、[[天平宝字]]4年([[760年]])8月に仏教界の粛正のために、慈訓、[[法進]]とともに、[[僧階]](三色十三階制)を改めるよう奏上した。聖武天皇の看病禅師も務めている。<ref>図解仏教成美堂出版128頁</ref> [[滋賀郡|近江志賀]]の[[石山寺]]の建立に関わったことも『[[石山寺縁起絵巻]]』や<ref>{{cite book|和書|last=薗田|first=稔|last2=橋本|first2=政宣|title=神道史大辞典|publisher=吉川弘文館|year=2004|format=snippet|url=https://books.google.co.jp/books?id=Yz0QAQAAMAAJ}}, p.494</ref>、『[[元亨釈書]]』にくわしい<ref>{{cite book|和書|last=相馬|first=大 (だい)|authorlink=相馬大|title=近江33ヵ所|publisher=保育社|year=1982|format=preview|url=https://books.google.co.jp/books?id=Qt0dGmPoUbEC&pg=PA8|isbn10=4-58-650581-8|isbn=9784586505814}}, p.8-9</ref>。 [[宝亀]]4年([[773年]])には、 [[僧正]]に任命され、その年の閏11月24日没<ref name=Toudaiji />。東大寺開山堂には「良弁僧正坐像」([[国宝]])が安置されている。[[伊勢原市]]の[[大山寺]]の開基とも言われる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連作品 == *良辨杉由来 [[人形浄瑠璃]]・[[歌舞伎]]の作品。作者不詳、初演:明治20年2月 大阪[[彦六座]]。 *火の鳥 鳳凰編 [[手塚治虫]]の漫画作品。[[火の鳥 (漫画)#執筆された作品]]を参照。 *[[二月堂良弁杉]] 奈良の昔話。奈良市の市民劇団がミュージカルや紙芝居で上演している。 == 関連文献 == *『論集 東大寺創建前後』 [[東大寺]]、ザ・グレイトブッダ・シンポジウム論集 第2号、2004年 {{Commonscat|Rōben}} {{DEFAULTSORT:ろうへん}} [[Category:7世紀日本の僧]] [[Category:8世紀日本の僧]] [[Category:漆部氏]] [[Category:奈良時代の僧]] [[Category:華厳宗の僧]] [[Category:東大寺]] [[Category:相模国の人物]] [[Category:近江国の人物]] [[Category:689年生]] [[Category:774年没]]
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涅槃
涅槃(ねはん)、ニルヴァーナ(サンスクリット語: निर्वाण、nirvāṇa)、ニッバーナ(パーリ語: निब्बान、nibbāna)とは、一般にヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教における概念であり、繰り返す再生の輪廻から解放された状態のこと。 インド発祥の宗教においては、涅槃は解脱(モークシャ मोक्ष mokṣa または ムクティ मुक्ति mukti)の別名である。すべてのインドの宗教は、涅槃は完全な静寂、自由、最高の幸福の状態であるだけでなく、誕生、生、死の繰り返しである輪廻からの解放と終了であると主張している。 仏教においては、煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のこと。涅槃は、生死を超えた悟りの世界であり、仏教の究極的な実践目的とされる。完全な涅槃を般涅槃(はつねはん)、釈迦の入滅を大般涅槃という。この世に人として現れた仏の肉体の死を指すこともある。仏教以外の教えにも涅槃を説くものがあるが、仏教の涅槃とは異なる。 原語のサンスクリット語: nirvāṇa(ニルヴァーナ、巴: nibbāna)とは「消えた」という意味である。「涅槃」はこれらの原語の音写である。音写はその他に泥曰(ないわつ)、泥洹(ないおん)、涅槃那、涅隸槃那などがある。 梵: nirvāṇaは、滅、寂滅、滅度、寂、寂静、不生不滅などと漢訳される。また、解脱、択滅(ちゃくめつ)、離繋(りけ)などと同義とされる。釈迦の入滅を、大いなる般涅槃、すなわち大般涅槃(だいはつねはん、巴: mahāparinirbāṇa)、あるいは大円寂という。 ヴェーダや初期ウパニシャッドといったヒンドゥー教の最も古い聖典では、救済論的な用語「涅槃」について言及していない 。この用語はバガヴァッド ギーター(Bhagavad Gita)やニルヴァーナ・ウパニシャッド(Nirvana Upanishad)などのテキストに見られ、釈迦以降の時代に創作された可能性が高い 。 涅槃の概念は、仏教とヒンドゥー教の文学では異なって説明されている 。ヒンドゥー教はアートマン(自我・魂)の概念を持ち、すべての生物に存在すると主張しているが 、一方で仏教は無我の教義を通じて、いかなる存在にもアートマンは存在しないと主張している 。 ヒンドゥー教における古代の救済論的概念は解脱(Moksha)であり、自己認識・永遠の存在であるアートマンと形而上学的ブラフマンのつながり(梵我一如)による、生と死のサイクルからの解放として説明されている。Moksha とは、自由、手放す、手放す、解放するという意味の root muc* (サンスクリット語: मुच्)に由来する。Mokshaは「解放、自由、魂の離脱」を意味する 。 ジャイナ教聖典においては、、解脱と涅槃は、しばしば同じ意味として使われている。 涅槃の解釈は大乗仏教と部派仏教で異なり、大乗と部派の各々の内部にも、後述のように異なる説がある。 部派仏教では、涅槃とは煩悩を滅し尽くした状態であるとしている。部派仏教でいう涅槃には有余涅槃(有余依涅槃)と無余涅槃(無余依涅槃)の2つがある。有余涅槃は、煩悩は断たれたが肉体が残存する場合を指す。無余涅槃は、全てが滅無に帰した状態を指す。無余涅槃は灰身滅智(けしんめっち)の状態である。 説一切有部などでは、涅槃は存在のあり方であるとして実体的に考えられたが、経量部などでは、涅槃は煩悩の滅した状態を仮に名づけたものであって実体のあるものではないとされた。 また、説一切有部では涅槃は択滅(ちゃくめつ、梵: pratisaṃkhyānirodha、プラティサンキヤーニローダ)ともいい、五位七十五法の無為法の一つに数えられる。択滅は、正しい知恵による煩悩の止滅を意味し、苦集滅道の四諦のうち「滅」のことをさす。なお、「択」とは法に対して正しい弁別判断をなす洞察力のこと。 説一切有部では、1つ1つの煩悩が断たれて、有情の相続がその煩悩の拘束から離繫する(離れる)ごとに、「択滅」という無為の法(ダルマ)が1つ1つ、その有情の相続に結びつけられ、涅槃となると考える。こうしてすべての煩悩が断ち尽くされたのを般涅槃(はつねはん)、すなわち完全な涅槃という。 大乗仏教では、常・楽・我・浄の四徳を具えない部派仏教の涅槃を有為涅槃とするのに対して、この四徳を具える涅槃を無為涅槃とし、無為涅槃を最上のものとする。大乗仏教では、涅槃を積極的なものと考える。 唯識宗では、本来自性清浄涅槃・有余依涅槃・無余依涅槃・無住処涅槃の四種涅槃を分ける。地論宗や摂論宗では、性浄涅槃・方便浄涅槃の二涅槃を分ける。天台宗では、性浄涅槃・円浄涅槃・方便浄涅槃の三涅槃を分ける。 涅槃、般涅槃、大般涅槃の語は、この世に人として現れた仏(特に釈迦牟尼仏)の肉体の死を指すこともある。『総合仏教大辞典』は、これは無余依涅槃を意味しているようだとしている。 彼岸(ひがん, pāra)とは、川の向こう側の意味。涅槃は、川の流れ(暴流)に打ち勝って向こう側に渡ることに喩えられた。 Te rāgadose abhibhuyya bhikkhavo Bhavātha jātimaraṇassa pāragāti. 比丘たちよ、それら貪と瞋に打ち勝って 生(jati)と死(maraṇassa)の彼岸に至る者となれ。 相応部ジャンブカーダカ相応では、遊行者に「涅槃とはどのようなものか?」と問われたサーリプッタは、三毒の滅尽であると答えている。更に涅槃に至る道を問われ、それは八正道であると答えている。 Yo kho āvuso rāgakkhayo dosakkhayo mohakkhayo idaṃ vuccati nibbānanti. Atthi panāvuso maggo atthi paṭipadā etassa nibbānassa sacchikiriyāyāti. 友よ、貪の滅尽、瞋の滅尽、癡の滅尽、これを涅槃というのです。 増支部婆羅門品では、あるバラモンに「涅槃の現証(sandiṭṭhikaṃ; 三証のひとつ)は、いつ具体的になるのか?」と問われた釈迦は、「三毒の滅尽がなされたならば、心苦(dukkhaṃ domanassaṃ)の感受から解放されることを現証する」と答えている。 Yato ca kho ayaṃ brāhmaṇa anavasesaṃ rāgakkhayaṃ paṭisaṃvedeti, anavasesaṃ dosakkhayaṃ paṭisaṃvedeti, anavasesaṃ mohakkhayaṃ paṭisaṃvedeti. Evaṃ kho brāhmaṇa sandiṭṭhikaṃ nibbāṇaṃ hoti akālikaṃ ehipassikaṃ opanayikaṃ paccattaṃ veditabbaṃ viññūhīti. バラモンよ、彼が貪を限りなく滅尽し、瞋を限りなく滅尽し、癡を限りなく滅尽したのであれば、涅槃は、現証し、即座に結果をもたらし、全ての人の目に映り、内面に導かれ、賢者が個別に経験する。 Jighacchāparamā rogā saṅkhāraparamā dukhā Etaṃ ñatvā yathābhūtaṃ nibbāṇaparamaṃ sukhaṃ 飢えることは、最悪の病である。サンカーラは、最悪の苦しみである。 このことをあるがまま知る者にとって、涅槃は最高の幸福である。 南伝のパーリ語教典を訳した中村元は、ダンマパダ、第十章暴力、百三十四節の訳注において、 としている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "涅槃(ねはん)、ニルヴァーナ(サンスクリット語: निर्वाण、nirvāṇa)、ニッバーナ(パーリ語: निब्बान、nibbāna)とは、一般にヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教における概念であり、繰り返す再生の輪廻から解放された状態のこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "インド発祥の宗教においては、涅槃は解脱(モークシャ मोक्ष mokṣa または ムクティ मुक्ति mukti)の別名である。すべてのインドの宗教は、涅槃は完全な静寂、自由、最高の幸福の状態であるだけでなく、誕生、生、死の繰り返しである輪廻からの解放と終了であると主張している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "仏教においては、煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のこと。涅槃は、生死を超えた悟りの世界であり、仏教の究極的な実践目的とされる。完全な涅槃を般涅槃(はつねはん)、釈迦の入滅を大般涅槃という。この世に人として現れた仏の肉体の死を指すこともある。仏教以外の教えにも涅槃を説くものがあるが、仏教の涅槃とは異なる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "原語のサンスクリット語: nirvāṇa(ニルヴァーナ、巴: nibbāna)とは「消えた」という意味である。「涅槃」はこれらの原語の音写である。音写はその他に泥曰(ないわつ)、泥洹(ないおん)、涅槃那、涅隸槃那などがある。", "title": "原語・漢訳・同義語" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "梵: nirvāṇaは、滅、寂滅、滅度、寂、寂静、不生不滅などと漢訳される。また、解脱、択滅(ちゃくめつ)、離繋(りけ)などと同義とされる。釈迦の入滅を、大いなる般涅槃、すなわち大般涅槃(だいはつねはん、巴: mahāparinirbāṇa)、あるいは大円寂という。", "title": "原語・漢訳・同義語" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ヴェーダや初期ウパニシャッドといったヒンドゥー教の最も古い聖典では、救済論的な用語「涅槃」について言及していない 。この用語はバガヴァッド ギーター(Bhagavad Gita)やニルヴァーナ・ウパニシャッド(Nirvana Upanishad)などのテキストに見られ、釈迦以降の時代に創作された可能性が高い 。", "title": "ヒンドゥー教" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "涅槃の概念は、仏教とヒンドゥー教の文学では異なって説明されている 。ヒンドゥー教はアートマン(自我・魂)の概念を持ち、すべての生物に存在すると主張しているが 、一方で仏教は無我の教義を通じて、いかなる存在にもアートマンは存在しないと主張している 。", "title": "ヒンドゥー教" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ヒンドゥー教における古代の救済論的概念は解脱(Moksha)であり、自己認識・永遠の存在であるアートマンと形而上学的ブラフマンのつながり(梵我一如)による、生と死のサイクルからの解放として説明されている。Moksha とは、自由、手放す、手放す、解放するという意味の root muc* (サンスクリット語: मुच्)に由来する。Mokshaは「解放、自由、魂の離脱」を意味する 。", "title": "ヒンドゥー教" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ジャイナ教聖典においては、、解脱と涅槃は、しばしば同じ意味として使われている。", "title": "ジャイナ教" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "涅槃の解釈は大乗仏教と部派仏教で異なり、大乗と部派の各々の内部にも、後述のように異なる説がある。", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "部派仏教では、涅槃とは煩悩を滅し尽くした状態であるとしている。部派仏教でいう涅槃には有余涅槃(有余依涅槃)と無余涅槃(無余依涅槃)の2つがある。有余涅槃は、煩悩は断たれたが肉体が残存する場合を指す。無余涅槃は、全てが滅無に帰した状態を指す。無余涅槃は灰身滅智(けしんめっち)の状態である。", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "説一切有部などでは、涅槃は存在のあり方であるとして実体的に考えられたが、経量部などでは、涅槃は煩悩の滅した状態を仮に名づけたものであって実体のあるものではないとされた。", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、説一切有部では涅槃は択滅(ちゃくめつ、梵: pratisaṃkhyānirodha、プラティサンキヤーニローダ)ともいい、五位七十五法の無為法の一つに数えられる。択滅は、正しい知恵による煩悩の止滅を意味し、苦集滅道の四諦のうち「滅」のことをさす。なお、「択」とは法に対して正しい弁別判断をなす洞察力のこと。", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "説一切有部では、1つ1つの煩悩が断たれて、有情の相続がその煩悩の拘束から離繫する(離れる)ごとに、「択滅」という無為の法(ダルマ)が1つ1つ、その有情の相続に結びつけられ、涅槃となると考える。こうしてすべての煩悩が断ち尽くされたのを般涅槃(はつねはん)、すなわち完全な涅槃という。", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "大乗仏教では、常・楽・我・浄の四徳を具えない部派仏教の涅槃を有為涅槃とするのに対して、この四徳を具える涅槃を無為涅槃とし、無為涅槃を最上のものとする。大乗仏教では、涅槃を積極的なものと考える。", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "唯識宗では、本来自性清浄涅槃・有余依涅槃・無余依涅槃・無住処涅槃の四種涅槃を分ける。地論宗や摂論宗では、性浄涅槃・方便浄涅槃の二涅槃を分ける。天台宗では、性浄涅槃・円浄涅槃・方便浄涅槃の三涅槃を分ける。", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "涅槃、般涅槃、大般涅槃の語は、この世に人として現れた仏(特に釈迦牟尼仏)の肉体の死を指すこともある。『総合仏教大辞典』は、これは無余依涅槃を意味しているようだとしている。", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "彼岸(ひがん, pāra)とは、川の向こう側の意味。涅槃は、川の流れ(暴流)に打ち勝って向こう側に渡ることに喩えられた。", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "Te rāgadose abhibhuyya bhikkhavo Bhavātha jātimaraṇassa pāragāti. 比丘たちよ、それら貪と瞋に打ち勝って 生(jati)と死(maraṇassa)の彼岸に至る者となれ。", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "相応部ジャンブカーダカ相応では、遊行者に「涅槃とはどのようなものか?」と問われたサーリプッタは、三毒の滅尽であると答えている。更に涅槃に至る道を問われ、それは八正道であると答えている。", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "Yo kho āvuso rāgakkhayo dosakkhayo mohakkhayo idaṃ vuccati nibbānanti. Atthi panāvuso maggo atthi paṭipadā etassa nibbānassa sacchikiriyāyāti.", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "友よ、貪の滅尽、瞋の滅尽、癡の滅尽、これを涅槃というのです。", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "増支部婆羅門品では、あるバラモンに「涅槃の現証(sandiṭṭhikaṃ; 三証のひとつ)は、いつ具体的になるのか?」と問われた釈迦は、「三毒の滅尽がなされたならば、心苦(dukkhaṃ domanassaṃ)の感受から解放されることを現証する」と答えている。", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "Yato ca kho ayaṃ brāhmaṇa anavasesaṃ rāgakkhayaṃ paṭisaṃvedeti, anavasesaṃ dosakkhayaṃ paṭisaṃvedeti, anavasesaṃ mohakkhayaṃ paṭisaṃvedeti. Evaṃ kho brāhmaṇa sandiṭṭhikaṃ nibbāṇaṃ hoti akālikaṃ ehipassikaṃ opanayikaṃ paccattaṃ veditabbaṃ viññūhīti.", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "バラモンよ、彼が貪を限りなく滅尽し、瞋を限りなく滅尽し、癡を限りなく滅尽したのであれば、涅槃は、現証し、即座に結果をもたらし、全ての人の目に映り、内面に導かれ、賢者が個別に経験する。", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "Jighacchāparamā rogā saṅkhāraparamā dukhā Etaṃ ñatvā yathābhūtaṃ nibbāṇaparamaṃ sukhaṃ", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "飢えることは、最悪の病である。サンカーラは、最悪の苦しみである。 このことをあるがまま知る者にとって、涅槃は最高の幸福である。", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "南伝のパーリ語教典を訳した中村元は、ダンマパダ、第十章暴力、百三十四節の訳注において、", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "としている。", "title": "仏教" } ]
涅槃(ねはん)、ニルヴァーナ、ニッバーナとは、一般にヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教における概念であり、繰り返す再生の輪廻から解放された状態のこと。 インド発祥の宗教においては、涅槃は解脱の別名である。すべてのインドの宗教は、涅槃は完全な静寂、自由、最高の幸福の状態であるだけでなく、誕生、生、死の繰り返しである輪廻からの解放と終了であると主張している。 仏教においては、煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のこと。涅槃は、生死を超えた悟りの世界であり、仏教の究極的な実践目的とされる。完全な涅槃を般涅槃(はつねはん)、釈迦の入滅を大般涅槃という。この世に人として現れた仏の肉体の死を指すこともある。仏教以外の教えにも涅槃を説くものがあるが、仏教の涅槃とは異なる。
{{Otheruses|インド哲学|その他の用法|ニルヴァーナ}} {{Infobox Hindu term | title = ニルヴァーナ | AR = {{lang|ar|نيرفانا }} | en = freedom, liberation | sa = निर्वाण | sa-Latn = {{transl|sa|nirvāṇa}} | bn = নির্বাণ | bn-Latn = nirbanô | gu = નિર્વાણ | gu-Latn = {{transl|gu|nirvāṇa}} | hi = निर्वाण | hi-Latn = {{transl|hi|nirvāṇa}} | jv = ꦤꦶꦂꦮꦤ | jv-Latn = nirwana | ml = നിർവാണം | ml-Latn = nirvanam | kn = ನಿರ್ವಾಣ | kn-Latn = {{transl|kn|nirvāṇa}} | ne = निर्वाण | ne-Latn = {{transl|ne|nirvāṇa}} | pa = ਨਿਰਬਾਣ | pa-Latn = {{transl|pa|nirbāṇa}} | or = ନିର୍ବାଣ | or-Latn = nirbaana | te = నిర్వాణం | te-Latn = nirvaanam | ta = வீடுபேறு | ta-Latn = Veeduperu }} '''涅槃'''(ねはん)、'''ニルヴァーナ'''({{翻字併記|sa|निर्वाण|{{transl|sa|nirvāṇa}}|n|区=、}})、'''ニッバーナ'''({{翻字併記|pi|निब्बान|nibbāna|n|区=、}})とは、一般に[[ヒンドゥー教]]、[[ジャイナ教]]、[[仏教]]における概念であり、繰り返す再生の[[輪廻]]から解放された状態のこと<ref name="Meister2009p25">{{cite book|author=Chad Meister|title=Introducing Philosophy of Religion|url=https://books.google.fi/books?id=pOCT3qFirJMC&lpg=PP1&hl=fi&pg=PA25#v=onepage&q&f=false |year=2009|publisher=Routledge|isbn=978-1-134-14179-1|page=25|quote=Buddhism: the soteriological goal is nirvana, liberation from the wheel of samsara and extinction of all desires, cravings and suffering.}}</ref><ref name="EB=Nirvana">[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/415925/nirvana Donald S. lopez Jr., ''Nirvana'', Encyclopædia Britannica]</ref><ref>{{cite book|author=Kristin Johnston Largen|title=What Christians Can Learn from Buddhism: Rethinking Salvation|url=https://books.google.com/books?id=dNoXJVD_XEkC |publisher=Fortress Press |isbn=978-1-4514-1267-3 |pages=107–108|quote=One important caveat must be noted: for many lay Buddhists all over the world, rebirth in a higher realm - rather than realizing nirvana - has been the primary religious goal. [...] while many Buddhists strongly emphasize the soteriological value of the Buddha's teaching on nirvana [escape from samsara], many other Buddhists focus their practice on more tangible goals, in particular on the propitious rebirth in one's next life.}}</ref>。 [[インド発祥の宗教]]においては、涅槃は[[解脱]](モークシャ {{lang|sa-deva|मोक्ष}} {{transl|sa|mokṣa}} または ムクティ {{lang|sa-deva|मुक्ति}} {{lang|sa-latn|mukti}})の別名である<ref>{{cite web|title=IN THE PRESENCE OF NIBBANA:Developing Faith in the Buddhist Path to Enlightenment|url=http://www.dhammatalks.net/Books6/Ajahn_Brahm_In_the_Presence_of%20Nibbana.htm|publisher=What-Buddha-Taught.net|accessdate=22 October 2014}}</ref><ref name="vimoksha">{{Cite web |url=http://www.sgilibrary.org/search_dict.php?id=2602 |title=The Soka Gakkai Dictionary of Buddhism, ''vimoksha'' |access-date=17 February 2014 |archive-url=https://web.archive.org/web/20140222011614/http://www.sgilibrary.org/search_dict.php?id=2602 |archive-date=22 February 2014 |dead-url=yes |df=dmy-all }}</ref>。すべてのインドの宗教は、涅槃は完全な静寂、自由、最高の幸福の状態であるだけでなく、誕生、生、死の繰り返しである輪廻からの解放と終了であると主張している<ref name="Flood">Gavin Flood, ''Nirvana''. In: John Bowker (ed.), '' Oxford Dictionary of World Religions''</ref><ref>{{cite book|author=Anindita N. Balslev|title=On World Religions: Diversity, Not Dissension |url=https://books.google.com/books?id=H1clDAAAQBAJ&pg=PT29 |year=2014 |publisher=SAGE Publications| isbn=978-93-5150-405-4 |pages=28–29 }}</ref>。 [[仏教]]においては、[[煩悩]]を滅尽して[[悟り]]の[[智慧]]([[菩提]])を完成した境地のこと{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}<ref name="コトバンク涅槃">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%B6%85%E6%A7%83-111495|title=涅槃(ねはん)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-10-16}}</ref>。涅槃は、生死を超えた悟りの世界であり、仏教の究極的な実践目的とされる{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}{{efn|涅槃が仏教の究極的な実践目的であるところから、[[法印]]の一つに'''涅槃寂静'''がある{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。}}。完全な涅槃を'''般涅槃'''(はつねはん)、[[釈迦]]の[[入滅]]を'''大般涅槃'''という{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}{{sfn|岩波仏教辞典|p647}}{{efn|「般」は{{lang-sa-short|pari}}の[[音写]]であり、完全という意味{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。}}。この世に人として現れた[[仏陀|仏]]の[[肉体]]の[[死]]を指すこともある{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。[[外道|仏教以外]]の教えにも涅槃を説くものがあるが、仏教の涅槃とは異なる{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。 {{TOC limit|3}} == 原語・漢訳・同義語 == 原語の{{lang-sa|{{transl|sa|nirvāṇa}}}}(ニルヴァーナ、{{lang-pi-short|nibbāna}})とは「消えた」という意味である<ref>{{Cite |和書|title=テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え |author=[[アルボムッレ・スマナサーラ]] |publisher=Evolving |date=2018 |edition=kindle |isbn=978-4804613574 |p=19}}</ref>。「涅槃」はこれらの原語の[[音写]]である{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}<ref name="コトバンク涅槃" />{{efn|各言語では次のように表記される。{{要出典範囲|[[プラークリット]]: {{lang|pi|णिव्वाण}}、{{IAST|ṇivvāṇa}}、{{翻字併記|th|นิพพาน|Nípphaan|n|区=、}}、{{Lang-vi|niết bàn}}|date=2017年10月16日 (月) 08:19 (UTC)|title=}}。}}。音写はその他に泥曰(ないわつ)、泥&#x6d39;(ないおん)、涅槃那、涅隸槃那などがある{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。 {{lang-sa-short|nirvāṇa}}は、滅、寂滅、滅度、寂、{{要出典範囲|寂静、不生不滅|date=2017年10月16日 (月) 08:19 (UTC)|title=}}などと漢訳される{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。また、[[解脱]]、択滅(ちゃくめつ)、離繋(りけ)などと同義とされる{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。[[釈迦]]の[[入滅]]を、大いなる般涅槃、すなわち大般涅槃(だいはつねはん、{{lang-pi-short|mahāparinirbāṇa}})、あるいは大円寂という{{sfn|岩波仏教辞典|p647}}。 == ヒンドゥー教 == [[ヴェーダ]]や初期[[ウパニシャッド]]といったヒンドゥー教の最も古い聖典では、救済論的な用語「涅槃」について言及していない{{sfn|Fowler|2012|p=48}} 。この用語はバガヴァッド ギーター(Bhagavad Gita){{sfn|Fowler|2012|p=48}}やニルヴァーナ・ウパニシャッド(Nirvana Upanishad)などのテキストに見られ、釈迦以降の時代に創作された可能性が高い{{sfn|Olivelle|1992|pp= 5–9, 227-235, Quote: "Nirvana Upanishad..."}} 。 涅槃の概念は、仏教とヒンドゥー教の文学では異なって説明されている{{sfn|Fowler|2012|pp=48-49}} 。ヒンドゥー教は[[アートマン]](自我・魂)の概念を持ち、すべての生物に存在すると主張しているが<ref>{{cite web|title=Atman (in Oxford Dictionaries)| url=http://www.oxforddictionaries.com/us/definition/american_english/atman| archive-url=https://web.archive.org/web/20141230210157/http://www.oxforddictionaries.com/us/definition/american_english/atman| url-status=dead| archivedate=30 December 2014| accessdate=2014-12 |publisher = Oxford University Press| year=2012|quote= Quote: 1. real self of the individual; 2. a person's soul}}</ref><ref>{{cite book|author1=Constance Jones|author2=James D. Ryan|title=Encyclopedia of Hinduism|url=https://books.google.com/books?id=OgMmceadQ3gC|year=2006|publisher=Infobase|isbn=978-0-8160-7564-5|page=51}}; Quote: The atman is the self or soul.</ref><ref>{{cite book|author=David Lorenzen|editor1-last=Mittal|editor1-first=Sushil|editor2-last=Thursby|editor2-first=Gene|title=The Hindu World|date=2004|publisher=Routledge|isbn=9781134608751|pages=208–209|quote=Advaita and nirguni movements, on the other hand, stress an interior mysticism in which the devotee seeks to discover the identity of individual soul (atman) with the universal ground of being (brahman) or to find god within himself.}}</ref> 、一方で仏教は[[無我]]の教義を通じて、いかなる存在にもアートマンは存在しないと主張している<ref name=5sourcesanatta>'''[a]''' [https://www.britannica.com/topic/anatta Anatta], Encyclopædia Britannica (2013), Quote: "Anatta in Buddhism, the doctrine that there is in humans no permanent, underlying soul. The concept of anatta, or anatman, is a departure from the Hindu belief in atman ("the self").";<br />'''[b]''' Steven Collins (1994), Religion and Practical Reason (Editors: Frank Reynolds, David Tracy), State Univ of New York Press, {{ISBN2|978-0791422175}}, page 64; "Central to Buddhist soteriology is the doctrine of not-self (Pali: anattā, Sanskrit: anātman, the opposed doctrine of ātman is central to Brahmanical thought). Put very briefly, this is the [Buddhist] doctrine that human beings have no soul, no self, no unchanging essence.";<br />'''[c]''' John C. Plott et al (2000), Global History of Philosophy: The Axial Age, Volume 1, Motilal Banarsidass, {{ISBN2|978-8120801585}}, page 63, Quote: "The Buddhist schools reject any Ātman concept. As we have already observed, this is the basic and ineradicable distinction between Hinduism and Buddhism";<br />'''[d]''' Katie Javanaud (2013), [https://philosophynow.org/issues/97/Is_The_Buddhist_No-Self_Doctrine_Compatible_With_Pursuing_Nirvana Is The Buddhist 'No-Self' Doctrine Compatible With Pursuing Nirvana?], Philosophy Now;<br />'''[e]''' David Loy (1982), Enlightenment in Buddhism and Advaita Vedanta: Are Nirvana and Moksha the Same?, International Philosophical Quarterly, Volume 23, Issue 1, pages 65-74</ref><ref>[a] {{cite book|author=Christmas Humphreys|title=Exploring Buddhism|url=https://books.google.com/books?id=V3rYtmCZEIEC |year=2012|publisher=Routledge|isbn=978-1-136-22877-3 |pages=42–43 }}<br />[b] {{cite book|author=Richard Gombrich|title=Theravada Buddhism|url=https://books.google.com/books?id=jZyJAgAAQBAJ|year=2006|publisher=Routledge|isbn=978-1-134-90352-8|page=47|quote=Buddha's teaching that beings have no soul, no abiding essence. This 'no-soul doctrine' (anatta-vada) he expounded in his second sermon.}},</ref> 。 ヒンドゥー教における古代の救済論的概念は[[解脱]](Moksha)であり、自己認識・永遠の存在である[[アートマン]]と形而上学的[[ブラフマン]]のつながり([[梵我一如]])による、生と死のサイクルからの解放として説明されている。Moksha とは、自由、手放す、手放す、解放するという意味の root {{transl|sa|muc*}} ({{lang-sa|मुच्}})に由来する。Mokshaは「解放、自由、魂の離脱」を意味する<ref name=mmw>[http://www.ibiblio.org/sripedia/ebooks/mw/0800/mw__0853.html मुच] Monier-Williams Sanskrit English Dictionary, Germany (2008)</ref><ref>{{cite book|author=Heinrich Robert Zimmer|title=Philosophies of India|url=https://books.google.com/books?id=bRQ5fpTmwoAC&pg=PA41|year=1951|publisher=Princeton University Press|isbn=0-691-01758-1|page=41|quote=Moksa, from the root muc, "to loose, set free, let go, release, liberate, deliver" [...] means "liberation, escape, freedom, release, rescue, deliverance, final emancipation of the soul.}}</ref> 。 == ジャイナ教 == {{Main|解脱 (ジャイナ教)}} ジャイナ教聖典においては、、解脱と涅槃は、しばしば同じ意味として使われている<ref>{{cite book | last =Jaini | first =Padmanabh | title =Collected Papers on Jaina Studies | publisher =Motilal Banarsidass Publ. | year =2000 | location =Delhi | isbn =81-208-1691-9 }}: ''"Moksa and Nirvana are synonymous in Jainism".'' p. 168</ref><ref>Michael Carrithers, Caroline Humphrey (1991) ''The Assembly of listeners: Jains in society'' Cambridge University Press. {{ISBN2|0521365058}}: ''"Nirvana: A synonym for liberation, release, moksa."'' p. 297</ref>。 == 仏教 == {{Infobox Buddhist term | image = [[File:WRM Flame - Flamme.jpg|100px]] | caption= 燃料が尽きたために炎は消える |title = 涅槃 |en = liberation, salvation |pi = निब्बान |pi-Latn = Nibbāna |te = నిర్వాణం |te-Latn = nirvaaNam |bn = নির্বাণ |bn-Latn = nirbanô |si = [[:si:නිවන|නිර්වාණ]] |si-Latn = Nivana |sa = निर्वाण |sa-Latn = {{transl|sa|Nirvāṇa}} |vi = {{unicode|Niết bàn}} |zh = 涅槃 |zh-Latn = nièpán |mn = {{lang|mn|Нирваан дүр}} |mn-Latn = Nirvaan dür |mr = निर्वाण |mnw = နဳဗာန် |mnw-Latn= nìppàn |my = နိဗ္ဗာန် |my-Latn = neɪʔbàɴ |ja = 涅槃 |ja-Latn = nehan |km = និព្វាន |km-Latn = nipean |ko = 열반 |ko-Latn = yeolban |shn = ၼိၵ်ႈပၢၼ်ႇ |shn-Latn= nik3paan2 |th = นิพพาน |th-Latn = nipphan |bo = མྱ་ངན་ལས་འདས་པ། |bo-Latn = mya ngan las 'das pa }} [[画像:Parinirvana Buddha.jpg|thumb|300px|涅槃図(19世紀の仏教画)]] 涅槃の解釈は[[大乗仏教]]と[[部派仏教]]で異なり{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}、大乗と部派の各々の内部にも、後述のように異なる説がある。 === 部派仏教 === 部派仏教では、涅槃とは煩悩を滅し尽くした状態であるとしている{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。部派仏教でいう涅槃には有余涅槃(有余依涅槃)と[[無余涅槃]](無余依涅槃)の2つがある{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}{{efn|有余涅槃・無余涅槃は、パーリ語の {{lang|pi|sa-upādisesa-nibbāna, anupādisesa-nibbāna}} で、このうち、「余」にあたるウパーディセーサ({{lang|pi|upādisesa}})は、「生命として燃えるべき薪」「存在としてよりかかるべきもの」を意味する{{要出典|date=2017年11月3日 (金) 05:21 (UTC)|title=}}。}}。有余涅槃は、煩悩は断たれたが肉体が残存する場合を指す{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。無余涅槃は、全てが滅無に帰した状態を指す{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。無余涅槃は灰身滅智(けしんめっち)の状態である{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}{{efn|'''灰身滅智'''(けしんめっち)とは、身は焼かれて灰となり、智の滅した状態をいう{{要出典|date=2017年11月3日 (金) 05:21 (UTC)|title=}}。}}。 [[説一切有部]]などでは、涅槃は存在のあり方であるとして実体的に考えられたが、[[経量部]]などでは、涅槃は煩悩の滅した状態を仮に名づけたものであって実体のあるものではないとされた{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。 また、[[説一切有部]]では涅槃は択滅(ちゃくめつ、{{lang-sa-short|{{unicode|pratisaṃkhyānirodha}}}}、<small>プラティサンキヤーニローダ</small>)ともいい、[[五位七十五法]]の[[無為法]]の一つに数えられる{{sfn|中村|2002|p=96}}{{sfn|櫻部・上山|2006|p=142}}。択滅は、正しい知恵による煩悩の止滅{{sfn|櫻部・上山|2006|p=P109}}を意味し、[[苦集滅道]]の[[四諦]]のうち「{{linktext|滅}}」のことをさす{{sfn|櫻部|1981|p=P61}}。なお、「択」とは[[法 (仏教)|法]]に対して正しい弁別判断をなす洞察力のこと{{sfn|櫻部・上山|2006|p=P142}}。 [[説一切有部]]では、1つ1つの[[煩悩]]が断たれて、[[有情]]の相続がその[[煩悩]]の拘束から{{linktext|離繫}}する(離れる)ごとに、「択滅」という[[無為]]の[[法 (仏教)|法]](ダルマ)が1つ1つ、その[[有情]]の相続に結びつけられ、涅槃となると考える{{sfn|櫻部・上山|2006|p=142}}。こうしてすべての煩悩が断ち尽くされたのを般涅槃(はつねはん)、すなわち完全な涅槃という{{sfn|櫻部・上山|2006|p=142}}。 === 大乗仏教 === 大乗仏教では、[[常 (仏教)|常]]・楽・[[我]]・浄の[[常楽我浄|四徳]]を具えない部派仏教の涅槃を[[有為法|有為]]涅槃とするのに対して、この四徳を具える涅槃を[[無為法|無為]]涅槃とし、無為涅槃を最上のものとする{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。大乗仏教では、涅槃を積極的なものと考える{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。 [[法相宗|唯識宗]]では、本来自性清浄涅槃・有余依涅槃・無余依涅槃・無住処涅槃の四種涅槃を分ける{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。[[地論宗]]や[[摂論宗]]では、性浄涅槃・方便浄涅槃の二涅槃を分ける{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。[[天台宗]]では、性浄涅槃・円浄涅槃・方便浄涅槃の三涅槃を分ける{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。 === 釈迦牟尼仏の肉体の死としての涅槃 === 涅槃、般涅槃、大般涅槃の語は、この世に人として現れた仏(特に[[釈迦牟尼仏]])の肉体の死を指すこともある{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。『総合仏教大辞典』は、これは無余依涅槃を意味しているようだとしている{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。 === 彼岸 === [[彼岸]](ひがん, pāra)とは、川の向こう側の意味。涅槃は、川の流れ([[四暴流|暴流]])に打ち勝って向こう側に渡ることに喩えられた<ref>{{Cite journal| |title=On the Metaphor of the Raft in the Mahāparinibbānasutta |author=Thero Ven Randombe Suneetha |journal=The Annals of the Research Project Center for the Comparative Study of Logic |volume=15 |pages=173-181 |date=2018 |naid=120006517938 }}</ref>。 {{Quote| Te rāgadose abhibhuyya bhikkhavo Bhavātha jātimaraṇassa pāragāti.<ref>{{SLTP|[[相応部]] [[六処相応]] 10.Saḷa-vaggo }}</ref><br> 比丘たちよ、それら貪と瞋に打ち勝って 生(jati)と死(maraṇassa)の彼岸に至る者となれ。 }} === 仏典の記載 === [[相応部]][[ジャンブカーダカ相応]]では、遊行者に「涅槃とはどのようなものか?」と問われた[[サーリプッタ]]は、[[三毒]]の滅尽であると答えている<ref name=sn38>{{SLTP|[[相応部]][[ジャンブカーダカ相応]] Nibbānasuttaṃ}}</ref>。更に涅槃に至る道を問われ、それは[[八正道]]であると答えている<ref name=sn38 />。 {{Quote| Yo kho āvuso rāgakkhayo dosakkhayo mohakkhayo idaṃ vuccati nibbānanti. Atthi panāvuso maggo atthi paṭipadā etassa nibbānassa sacchikiriyāyāti. <ref name=sn38 /> 友よ、[[貪]]の滅尽、[[瞋]]の滅尽、[[癡]]の滅尽、これを涅槃というのです。 }} [[増支部]]婆羅門品では、ある[[バラモン]]に「涅槃の現証(sandiṭṭhikaṃ; [[三証]]のひとつ)は、いつ具体的になるのか?」と問われた釈迦は、「三毒の滅尽がなされたならば、心苦(dukkhaṃ domanassaṃ)の感受から解放されることを現証する」と答えている<ref name=an03>{{SLTP|[[増支部]][[三集 (増支部)]]婆羅門品}}</ref>。 {{Quote| Yato ca kho ayaṃ brāhmaṇa anavasesaṃ rāgakkhayaṃ paṭisaṃvedeti, anavasesaṃ dosakkhayaṃ paṭisaṃvedeti, anavasesaṃ mohakkhayaṃ paṭisaṃvedeti. Evaṃ kho brāhmaṇa sandiṭṭhikaṃ nibbāṇaṃ hoti akālikaṃ ehipassikaṃ opanayikaṃ paccattaṃ veditabbaṃ viññūhīti. <ref name=an03 /> バラモンよ、彼が貪を限りなく滅尽し、瞋を限りなく滅尽し、癡を限りなく滅尽したのであれば、涅槃は、現証し、即座に結果をもたらし、全ての人の目に映り、内面に導かれ、賢者が個別に経験する。 }} [[自説経]]では、釈迦は涅槃の境地について、[[無色界]][[禅定]]のさらに上位の状態であると説いている。 {{Quote| Atti bhikkave, tadāyatanaṃ, yattha neva paṭhavi, na āpo, na tejo, na vāyo, na ākāsānañcāyatanaṃ, na viññānañcāyatanaṃ, na ākiñcaññāyatanaṃ, na nevasaññānāsaññāyatanaṃ, nāyaṃ loko, na paraloko, na ubho candimasuriyā.<br> Tatrāpāhaṃ bhikkhave, neva āgatiṃ vadāmi, na gatiṃ, na ṭhitiṃ, na cutiṃ, na upapattiṃ. Appatiṭṭhaṃ appavattaṃ anārammaṇamevetaṃ. Esevanto dukkhassā"ti. 比丘たちよ、このような境地がある。そこでは地水火風(=[[四元素|四元]])がなく、[[空無辺処]]がなく、[[識無辺処]]がなく、[[無所有処]]がなく、[[非想非非想処]]がない。この世でもあの世でもない。月も太陽もない。<br> 比丘たちよ、その境地に対しては、行くことも、戻ることも、住すことも、死ぬことも、再び生まれることもないと私は説く。<br> それ(涅槃)はまさしく、支えるものも、転起もない、所縁もない。まさにこれが、苦の終焉である。 | {{SLTP|[[小部 (パーリ)|小部]][[自説経]]71 }} }} ==== ダンマパダ ==== {{Quote| {{transl|pi|Jighacchāparamā rogā saṅkhāraparamā dukhā<br /> Etaṃ ñatvā yathābhūtaṃ nibbāṇaparamaṃ sukhaṃ}}<br /> 飢えることは、最悪の病である。[[サンカーラ]]は、最悪の[[苦_(仏教)|苦しみ]]である。<br /> このことをあるがまま知る者にとって、涅槃は最高の[[楽 (仏教)|幸福]]である。 | {{SLTP|[[ダンマパダ]],203}} <ref>{{Cite |和書|title=原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話 |author=[[アルボムッレ・スマナサーラ]] |date=2003 |isbn=978-4333020447 |publisher=[[佼成出版社]] |at=Kindle版, 4.6 }}</ref> }} 南伝のパーリ語教典を訳した[[中村元 (哲学者)|中村元]]は、{{要追加記述範囲|ダンマパダ、第十章暴力、百三十四節の訳注|date=2017年10月16日 (月) 08:19 (UTC)|title=これは、この段落の出典たる書籍の書誌情報にはなっていません。この段落の出典としている資料(本?)の書名、出版社、出版年、ページ番号などを正しくお書きください。}}において、 {{quotation|安らぎ - {{lang|pi|Nibbāna}}(= {{transl|sa|Nirvāṇa}} 涅槃)声を荒らげないだけで、ニルヴァーナに達しえるのであるから、ここでいうニルヴァーナは後代の教義学者たちの言うようなうるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろう。}} としている{{疑問点|date=2017年10月16日 (月) 08:19 (UTC)|title=引用文冒頭の「ここでいう」が何を指しているのか不明なので、この引用文は文脈不明瞭となっている点が不適切だと思われます。}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=総合仏教大辞典編集委員会(編) |coauthors= |others= |date=1988-01 |title=総合仏教大辞典 |edition= |publisher=法蔵館 |volume=下巻 |ref={{SfnRef|総合仏教大辞典|1988}} }} *{{Cite book |和書 |author=中村元他|authorlink=中村元|year=1989 |title=岩波仏教辞典 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-080072-8 |ref={{SfnRef|岩波仏教辞典|1989}} }} *{{Cite book |和書 |author1=櫻部建|authorlink1=櫻部建|author2=上山春平|authorlink2=上山春平|year=2006 |title=存在の分析<[[阿毘達磨 |アビダルマ]]>―仏教の思想〈2〉 |publisher=[[角川書店]] |series=[[角川ソフィア文庫]] |isbn=4-04-198502-1 |ref={{SfnRef|櫻部・上山|2006}} }}(初出:『仏教の思想』第2巻 角川書店、1969年) *{{Cite book |和書 |author=櫻部建|authorlink=櫻部建|year=1981 |title=倶舎論 |publisher=大蔵出版 |isbn=978-4-8043-5441-5 |ref={{SfnRef|櫻部|1981}} }} *{{Cite book|和書|author=中村元|authorlink=中村元|year = 2002|title = 龍樹|publisher = 講談社学術文庫|isbn = 4-06-159548-2|ref = {{SfnRef|中村|2002}} }} * {{Citation | last1 =Fowler | first1 =Jeaneane D. | title =The Bhagavad Gita: A Text and Commentary for Students | date =2012 | publisher =Sussex Academic Press | isbn =9781845193461 | url =https://books.google.com/books?id=zU4E5ZidVr0C&q=The%20Bhagavad%20Gita%3A%20A%20Text%20and%20Commentary%20for%20Students&pg=PP1}} * {{cite book|first=Patrick| last=Olivelle|year=1992|title= The Samnyasa Upanisads: Hindu Scriptures on Asceticism and Renunciation|publisher= Oxford University Press|isbn= 9780195361377|url=https://books.google.com/books?id=fB8uneM7q1cC&q=The%20Samnyasa%20Upanisads%3A%20Hindu%20Scriptures%20on%20Asceticism%20and%20Renunciation&pg=PP1 }} == 関連項目 == {{Portal 仏教}} {{columns-list|colwidth=20em| * [[涅槃会]] * [[涅槃図]] * [[涅槃像]] * [[涅槃仏]] * [[大般涅槃経]] * [[三法印]] * [[四法印]] * [[正覚]] * [[如来]] * {{Prefix|涅槃}} * [[ニルヴァーナ]] - 曖昧さ回避ページ * [[ニルヴァーナ (ジャイナ教)]] * [[涅槃原則]] - [[精神分析学]]の概念。 * [[涅槃交響曲]] - [[黛敏郎]]作曲の交響曲。 }} == 外部リンク == * [https://www.youtube.com/watch?v=QvV54xX5yIQ&list=PLmwYOQLkF8Yi0r96xmE3pmOxhTTDwEOKl&index=31 佐々木閑「ブッダの最期」(動画)] - 涅槃の意味について整理・解説 {{インド哲学}} {{Buddhism2}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:ねはん}} [[Category:ヒンドゥー哲学]] [[Category:仏教用語]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83
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大学校
大学校(だいがっこう)は、教育訓練施設などが用いる名称。法令に「大学校」の名称の使用を制限する条文はなく、「大学校」が行なう教育訓練内容を規定する法令もないため、さまざまな組織がさまざまな目的や内容を持つ「○○大学校」という施設等を自由に設置している。ちなみに、大学校と後述の短期大学校を区別する基準はなく、大学校の中にも修業年限が2年のものがある。 短期大学(たんきだいがく)も大学校の一種であり、「短期大学校」を規定する法令はない。ただし、現存する(2022年現在)短期大学校の修業年限はすべて2年である。なお、短期大学校と類似の組織に「高等○○校」(高等技能校など)、「高等○○学院」(高等看護学院など)がある。 大学校を名乗る施設等には、 などがあり、大学校と名乗っていても、その法規上の位置付けや教育訓練内容等に大きな違いがある。 大学ではない施設は、学校教育法第135条第1項の規定により「大学」の名称を用いることが禁止され、違反した場合設置者は処罰対象となる。しかし大学校を規定する法律はないので、いかなる施設等でも「大学校」を名乗ることができる。文部科学省が所管する施設の中では、学校教育法第124条に規定される専修学校が「大学校」を名乗る例(例: 自動車大学校)や、学校教育法第134条に規定される各種学校が「大学校」を名乗る例(例: 朝鮮大学校)がある。 文部科学省が所管しない施設の中では、学校教育法以外の法律に規定がある大学校があり、例えば職業能力開発促進法に規定される公共職業能力開発施設である職業能力開発短期大学校、職業能力開発大学校および職業能力開発総合大学校は厚生労働省が所管し、これらの名称の使用制限が規定されている(職業能力開発促進法第17条および第27条)。 高校卒業見込者や高校既卒者を募集対象とする大学校に対しては、大学受験に際して国公立大学や私立大学と区別して準大学の名称が用いられる場合があるが、この呼び方は便宜上のものであり、法令上には存在しない。 大学校の課程が大学の学士課程、大学院の修士課程あるいは博士課程と同等の教育水準であると独立行政法人大学改革支援・学位授与機構(以下「機構」)によって認定されると、大学校の卒業者、修了者には審査・試験を経て学位が授与される。平成19年現在、認定されている大学校は以下のとおりである。なお、学校教育法第1条に規定される学校以外の教育施設で学校教育に類する教育を行うもののうち、他の法律に特別の規定があるものを省庁大学校という。以下の大学校は全てが省庁大学校であり、省庁等の目的に沿った教育を行う特徴を有するが、同時に大学と同等の教育内容、教官構成を持っている。 (ただし機構が認定した1992年度以降の卒業生に限る) 上記以外の大学校では学位は授与されない。ただし、卒業者が公務員に採用された場合、「人事院規則9-8(初任給、昇格、昇級等の基準)の運用について」における学歴、免許等資格区分によって、2年制短大あるいは4年制大学と同等に扱われる大学校は以下のとおり。 国および独立行政法人が設置している大学校には、大きく次の2種類に分けることができる。 国が設置している大学校の中には、入学すると当該省庁の職員(国家公務員)となり、学費が無料であるだけでなく、給料が支給されるところがある。高校新卒者対象の大学校の中で学生身分が国家公務員となっている5校が該当する。しかし年齢制限を設けている場合も多いため、過年度生(浪人)など年齢の高い人は入学することができない場合がある。近年では学費を無料とする条件を卒業後に一定年数を当該省庁で勤務することし、指定された勤続年数より前に退職する場合は規定の金額を返還させるという、無利子の奨学金のような形態に変更する例もある。防衛医科大学校では9年以内に退官する場合は卒業までの経費から勤務年数により減じた額を返還する制度があり、防衛大学校でも国立大学の授業料と入学金に相当する額を返還させる制度が立案されている。 上記のほかに、都道府県、職業訓練法人、学校法人、民間企業、政党等が設置する多くの大学校が存在する。これらについては大学校一覧を参照されたい。
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大学校(だいがっこう)は、教育訓練施設などが用いる名称。法令に「大学校」の名称の使用を制限する条文はなく、「大学校」が行なう教育訓練内容を規定する法令もないため、さまざまな組織がさまざまな目的や内容を持つ「○○大学校」という施設等を自由に設置している。ちなみに、大学校と後述の短期大学校を区別する基準はなく、大学校の中にも修業年限が2年のものがある。 短期大学(たんきだいがく)も大学校の一種であり、「短期大学校」を規定する法令はない。ただし、現存する(2022年現在)短期大学校の修業年限はすべて2年である。なお、短期大学校と類似の組織に「高等○○校」(高等技能校など)、「高等○○学院」(高等看護学院など)がある。
{{Otheruseslist|「[[大学]]」([[学校教育法]]第1条に規定)とは異なる日本の教育訓練施設等|学校教育法施行以前の日本に存在した高等教育機関|大学校 (旧制)|上記のうち、[[東京大学]]の前身機関|大学校 (1869年)|日本の[[大学]]に相当する[[大韓民国]]の「大学校(テハッキョ)」|大韓民国の教育#大学校}} '''大学校'''(だいがっこう)は、[[教育訓練施設]]などが用いる名称。[[法令]]に「大学校」の名称の使用を制限する条文はなく、「大学校」が行なう教育訓練内容を規定する法令もないため、さまざまな[[組織 (社会科学)|組織]]がさまざまな目的や内容を持つ「○○大学校」という施設等を自由に設置している。ちなみに、大学校と後述の短期大学校を区別する基準はなく、大学校の中にも修業年限が2年のものがある。 '''短期大学'''(たんきだいがく)も大学校の一種であり、「短期大学校」を規定する法令はない。ただし、現存する([[2022年]]現在)短期大学校の[[修業年限]]はすべて2年である。なお、短期大学校と類似の組織に「高等○○校」(高等技能校など)、「高等○○学院」(高等看護学院など)がある。 == 大学校が行う内容 == 大学校を名乗る施設等には、 * 大学([[学部]]または[[大学院]])に相当する教育を行うと認められ、その課程を修了すると[[学位]]の取得が可能な施設 * 上記以外で[[高等教育]]に類する教育訓練を行う施設(学位の取得はできない) * [[省庁]]の[[文教研修施設]]や、研修を行うために[[独立行政法人]]が設置する施設 * [[地方公共団体]]等が[[市民]]に対して[[生涯学習]]を提供するための[[市民大学講座]] *企業の社員研修所 などがあり、大学校と名乗っていても、その法規上の位置付けや教育訓練内容等に大きな違いがある。 == 名称について == 大学ではない施設は、[[学校教育法]]第135条第1項の規定により「[[大学]]」の名称を用いることが禁止され、違反した場合設置者は処罰対象となる。しかし大学校を規定する法律はないので、いかなる施設等でも「大学'''校'''」を名乗ることができる。[[文部科学省]]が所管する施設の中では、学校教育法第124条に規定される[[専修学校]]が「大学校」を名乗る例(例: [[自動車大学校]])や、学校教育法第134条に規定される[[各種学校]]が「大学校」を名乗る例(例: [[朝鮮大学校 (日本)|朝鮮大学校]])がある。 文部科学省が所管しない施設の中では、学校教育法以外の法律に規定がある大学校があり、例えば[[職業能力開発促進法]]に規定される[[公共職業能力開発施設]]である[[職業能力開発短期大学校]]、[[職業能力開発大学校]]および[[職業能力開発総合大学校]]は[[厚生労働省]]が所管し、これらの名称の使用制限が規定されている(職業能力開発促進法第17条および第27条)。 高校卒業見込者や高校既卒者を募集対象とする大学校に対しては、[[大学受験]]に際して[[国公立大学]]や[[私立大学]]と区別して'''準大学'''の名称が用いられる場合があるが、この呼び方は便宜上のものであり、法令上には存在しない。 == 学位を取得できる大学校 == {{更新|date=2021-12|section=1}}<!--2020年代の状況は?--> 大学校の課程が大学の[[学士]]課程、[[大学院]]の[[修士課程]]あるいは[[博士課程]]と同等の教育水準であると独立行政法人[[大学改革支援・学位授与機構]](以下「機構」)によって認定されると、大学校の卒業者、修了者には審査・試験を経て[[学位]]が授与される。[[平成19年]]現在、認定されている大学校は以下のとおりである。なお、[[一条校|学校教育法第1条に規定される学校]]以外の教育施設で学校教育に類する教育を行うもののうち、他の法律に特別の規定があるものを[[省庁大学校]]という<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/dokuritu/siryou/001/05052601/1-1-1.pdf|title=独立行政法人大学評価・学位授与機構中期目標・中期計画について(案)|last=文部科学省|language=日本語 |accessdate=2007年11月17日 }}</ref>。以下の大学校は全てが省庁大学校であり、省庁等の目的に沿った教育を行う特徴を有するが、同時に大学と同等の教育内容、教官構成を持っている。 === 学位を取得できる大学校の一覧 === (ただし機構が認定した1992年度以降の卒業生に限る) {| class="wikitable" style="font-size:90%" style="font-size:90%" ! style="min-width:12em" | 設置 !! style="min-width:15em" | 大学校名 !! 学士 !! 修士 !! 博士 |- |{{rh}} rowspan="2"| [[防衛省]] ||{{rh}}| [[防衛大学校]] | [[学士(理学)]]、[[学士(工学)]]、学士(人文科学)、[[学士(社会科学)]] || [[修士(理学)]]、[[修士(工学)]]、修士(安全保障学) || [[博士(理学)]]、[[博士(工学)]]、 [[博士(安全保障学)]] |- |{{rh}}| [[防衛医科大学校]] | [[学士(医学)]]、[[学士(看護学)]] || 修士課程はない || [[博士(医学)]] |- |{{rh}}| [[海上保安庁]] ||{{rh}}| [[海上保安大学校]] | 学士(海上保安) ||colspan="2"| 大学院に相当する課程はない |- |{{rh}}| [[気象庁]] ||{{rh}}| [[気象大学校]] | 学士(理学)||colspan="2"| 大学院に相当する課程はない |- |{{rh}}| [[厚生労働省]]<br>国立研究開発法人 [[国立国際医療研究センター]]||{{rh}}| [[国立看護大学校]] | [[学士(看護学)]] || [[修士(看護学)]] || 博士(看護学) |- |{{rh}}| [[水産庁]]<br>国立研究開発法人 [[水産研究・教育機構]] || {{rh}}| [[水産大学校]] | 学士(水産学) || 修士(水産学)|| 後期課程はない |- |{{rh}}| 厚生労働省<br>独立行政法人 [[高齢・障害・求職者雇用支援機構]] ||{{rh}} | [[職業能力開発総合大学校]]<br>(長期課程、総合課程) | 学士(工学)、学士(生産技術) ||修士(生産工学) || 後期課程はない |} 上記以外の大学校では学位は授与されない。ただし、卒業者が[[公務員]]に採用された場合、「[[人事院規則]]9-8(初任給、昇格、昇級等の基準)の運用について」における[[学歴]]、免許等資格区分によって、2年制[[短大]]あるいは4年制大学と同等に扱われる大学校は以下のとおり。 * 「短大2卒」 *: [[農業者研修教育施設#道府県農業大学校|道府県農業大学校]](養成課程)、職業能力開発大学校・職業能力開発短期大学校・[[職業能力開発総合大学校東京校|職業能力開発総合大学校]]の各[[職業能力開発大学校#専門課程|専門課程]]<ref group="注" name="ks">[[職業能力開発促進法]]に規定される[[高度職業訓練]]の専門課程。</ref>、[[航空保安大学校]](本科)、[[海事教育機関#海上技術短期大学校|国立海上技術短期大学校]](3校)。 * 「大学4卒」 *: 職業能力開発大学校・職業能力開発総合大学校の各[[職業能力開発大学校#応用課程|応用課程]] == 国および独立行政法人が設置する大学校 == === 機能 === [[国]]および[[独立行政法人]]が設置している大学校には、大きく次の2種類に分けることができる。 # 当該[[省庁]]または独立行政法人に設置され、大学と同等の教育を行なう大学校。当該省庁の幹部職員(となるべき者)の養成あるいは当該独立行政法人(及び所管する省庁等)の大学校設置目的に合致する者を養成するため、[[中等教育|後期中等教育]]修了者等を入校させ文部科学省の[[大学設置基準]]に準じた教育を行なうことを主眼とする。前述の[[#学位を取得できる大学校|学士を取得できる大学校]]の7校が該当する。 # 当該省庁の幹部職員(となるべき者)の養成や幹部職員のさらなる研修、あるいは当該独立行政法人が定める職員のさらなる研修のため、研修対象者の業務に直接関連した教育を行なう大学校。教育内容は高度なものを含むが、大学教育に準じた教育として実施されるわけではなく、この点で前者とは異なる。以下の[[#公務員等の研修施設としての大学校|研修施設としての大学校]]の13校が該当する。これらの中で、海上保安大学校、気象大学校、国立看護大学校、職業能力開発総合大学校の4校は、大学と同等の教育だけでなく、このタイプの研修機能も有している。なお、同様の教育を行う施設であっても「大学校」の名称を使用しない場合もあり、[[外務研修所]]、[[防衛研究所]]、[[統合幕僚学校]]、各自衛隊[[幹部学校]]等、各自衛隊[[幹部候補生学校]]、[[海上保安学校]]、[[消防学校]]、[[警察学校]]などがその例である。 国が設置している大学校の中には、入学すると当該省庁の職員([[国家公務員]])となり、学費が無料であるだけでなく、給料が支給されるところがある。[[#主に高校新卒者を対象|高校新卒者対象の大学校]]の中で学生身分が国家公務員となっている5校が該当する。しかし年齢制限を設けている場合も多いため、[[過年度生]](浪人)など年齢の高い人は入学することができない場合がある。近年では学費を無料とする条件を卒業後に一定年数を当該省庁で勤務することし、指定された勤続年数より前に退職する場合は規定の金額を返還させるという、無利子の[[奨学金]]のような形態に変更する例もある。防衛医科大学校では9年以内に退官する場合は卒業までの経費から勤務年数により減じた額を返還する制度があり、防衛大学校でも国立大学の授業料と入学金に相当する額を返還させる制度が立案されている。 === 入学対象者別の分類 === ==== 主に高校新卒者を対象 ==== {| class="wikitable" style="font-size:90%" ! 設置 !! style="min-width:17em"|大学校名 !! 修業年限 !! 学位 / [[称号]] !! 身分 !! 卒業後 |- |{{rh}} rowspan="3"| 防衛省 ||{{rh}}| 防衛大学校(本科) | 4年 || rowspan="5" |学士 || rowspan="6" | 国家公務員 || 陸・海・空[[曹長]](卒業後約1年で[[3尉]]) |- |{{rh}}| 防衛医科大学校(医学科) | 6年 || 陸・海・空曹長([[医師国家試験]]に合格すると[[2尉]]) |- |{{rh}}| 防衛医科大学校(看護学科) | 4年 || 自衛官コースは陸・海・空[[曹長]](卒業後約1年で[[3尉]])、<br />技官コースは医療職技官 |- |{{rh}}| 海上保安庁 ||{{rh}}| 海上保安大学校(本科) | rowspan="2" |4年 || 専攻科進学 |- |{{rh}}| 気象庁 ||{{rh}}| 気象大学校(大学部) | 気象庁職員 |- |{{rh}}| [[国土交通省]] ||{{rh}}| 航空保安大学校(本科) | 2年 || × || 国土交通省航空保安職員 |- |{{rh}}| 国立研究開発法人国立国際医療研究センター ||{{rh}}| 国立看護大学校(看護学部) | rowspan="4" |4年 ||rowspan="4" |学士 ||rowspan="10" |学生 || [[国立高度専門医療センター]] |- |{{rh}}| 国立研究開発法人[[水産研究・教育機構]] ||{{rh}}| 水産大学校(本科) || 水産・造船関連[[企業]]、一般企業、[[大学院]]進学等 |- |{{rh}} rowspan="5"| 独立行政法人<br>高齢・障害・求職者<br>雇用支援機構 ||{{rh}} |職業能力開発総合大学校([[職業能力開発総合大学校#長期課程|長期課程]]<ref group="注" name="H24teishi">平成24年度以降の学生募集停止。</ref>) | [[職業訓練指導員]](公務員、独立行政法人職員)、一般企業、[[職業能力開発総合大学校#研究課程|研究課程]]進学等 |- |{{rh}}| 職業能力開発総合大学校(総合課程) |一般企業、大学院進学等 |- |{{rh}}| 職業能力開発大学校(専門課程<ref group="注" name="ks"/>) | rowspan="6" |2年 ||rowspan="6" |× || rowspan="3" |一般企業、応用課程進学等 |- |{{rh}}| [[職業能力開発総合大学校東京校|職業能力開発総合大学校]](専門課程<ref group="注" name="ks"/><ref group="注" name="H24teishi"/>) |- |{{rh}}| 職業能力開発短期大学校(専門課程<ref group="注" name="ks"/>) |- |{{rh}} rowspan="3"| 独立行政法人[[海技教育機構]] ||{{rh}}| [[国立清水海上技術短期大学校]] | 航海士、機関士、海技大学校進学等 |- |{{rh}}| [[国立宮古海上技術短期大学校]] | 内航船舶職員、海技大学校進学等 |- |{{rh}}| [[国立波方海上技術短期大学校]] | 内航船舶職員、海技大学校進学等 |} ==== 短大卒相当を対象 ==== {| class="wikitable" style="font-size:90%" ! 設置 !! style="min-width:12em"|大学校名 !! 修業年限 !! 学位 / 称号 !! 身分 !! 入学条件 !! 卒業後 |- |{{rh}}| 独立行政法人海技教育機構 ||{{rh}}| [[海技大学校]] | rowspan="4" |2年 || rowspan="4" |× || style="white-space:nowrap" rowspan="4" | 学生 || [[船員]] 、海技短大校卒業者|| 船員 |- |{{rh}}| 独立行政法人航空大学校 ||{{rh}}| [[航空大学校]] | 短大、高専、[[専修学校]](専門課程)の卒業者。大学で規定以上の単位を取得した者|| 航空会社・官公庁のパイロット |- |{{rh}} rowspan="2" | 独立行政法人<br>高齢・障害・求職者雇用支援機構 ||{{rh}} | 職業能力開発大学校(応用課程) | rowspan="2" |[[職業訓練#高度職業訓練|専門課程]]<ref group="注" name="ks"/>卒業者、短大卒業者等 || rowspan="2" |一般企業、研究課程進学等 |- |{{rh}}| 職業能力開発総合大学校(応用課程)<ref group="注" name="H25teishi">平成25年度の入学生の卒業をもって廃止。</ref> |} ==== 大卒相当を対象 ==== {| class="wikitable" style="font-size:90%" ! 設置 !! style="min-width:17em"|大学校名 !! 修業年限 !! 学位 !! 身分 !! 入学条件 !! style="white-space:nowrap" |卒業後 |- |{{rh}}| 防衛省 ||{{rh}} | 防衛大学校(研究科前期課程) | 2年 || 修士 || rowspan="3" |国家公務員 || 推薦を受けた自衛隊員 || style="white-space:nowrap" |自衛隊員 |- |{{rh}}rowspan="2" | 海上保安庁 ||{{rh}}| 海上保安大学校(専攻科) | 6ヶ月 || × || 本科卒業者 ||rowspan="2"| 初級幹部 |- |{{rh}}| 海上保安大学校(初任科) | 2年 || × || 一般大学卒業者 |- |{{rh}}| 国立研究開発法人<br>国立国際医療研究センター ||{{rh}}| 国立看護大学校(研究課程部) | 2年 || 修士 || rowspan="5" |学生 || 看護学部卒業者、一般大学看護学専攻卒業者等 || 看護師等 |- |{{rh}} rowspan="2" | 国立研究開発法人<br>水産研究・教育機構||{{rh}}| 水産大学校(専攻科) | 1年 || × || 本科卒業者 || 公務員、水産関連企業等 |- |{{rh}}| 水産大学校(研究科) | rowspan="3" |2年 || rowspan="2" |修士 || 本科卒業者、一般大学卒業者 || 公務員、水産関連企業等 |- |{{rh}}| 独立行政法人<br>高齢・障害・求職者雇用支援機構||{{rh}}| 職業能力開発総合大学校(研究課程<ref group="注" name="H24teishi"/>) | 長期課程卒業者、一般大学卒業者 || 職業訓練指導員、一般企業等 |- |{{rh}}| 国立研究開発法人<br>[[農業・食品産業技術総合研究機構]] ||{{rh}}| [[農業者大学校]]<ref group="注">2008年度以降の入学者が対象。所在地は[[茨城県]][[つくば市]]。</ref> | × || 大卒程度 || 農業経営、農業法人等 |} ==== 大学院修士課程修了相当を対象 ==== {| class="wikitable" style="font-size:90%" ! 設置 !! 大学校名 !! 修業年限 !! 学位 !! 身分 !! style="white-space:nowrap" |入学条件 !! 卒業後 |- |{{rh}} rowspan="2" | 防衛省 ||{{rh}}| 防衛大学校(研究科後期課程) | style="white-space:nowrap" |3年 || rowspan="2" |博士 || rowspan="2" |国家公務員 || rowspan="2" | 推薦を受けた自衛隊員 || rowspan="2" |自衛隊員 |- |{{rh}}| 防衛医科大学校(医学研究科) | 4年 |- |{{rh}}| 独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構 ||{{rh}}| 職業能力開発総合大学校([[職業能力開発総合大学校#応用研究課程|応用研究課程]]) | 1年 || × ||学生 || 研究課程卒業者 || 職業能力開発大学校応用課程担当教員 |} ==== 公務員等の研修施設としての大学校 ==== {| class="wikitable" style="font-size:90%" ! 設置 !! 大学校名 !! 研修対象者 |- |{{rh}}| [[国家公安委員会]][[警察庁]] ||{{rh}}| [[警察大学校]] | 所属長任用予定者、[[警部]]昇任者等の幹部[[警察官]]等 |- |{{rh}}| [[総務省]] ||{{rh}}| [[自治大学校]] | [[地方公共団体]]の職員 |- |{{rh}}| 総務省[[消防庁]] ||{{rh}}| [[消防大学校]] | 国、地方公共団体の[[消防]]事務、消防職員 |- |{{rh}}| [[国税庁]] ||{{rh}}| [[税務大学校]] | 国家公務員、[[国税専門官]]等の税務職員 |- |{{rh}}| [[国土交通省]] ||{{rh}}| [[国土交通大学校]] | 国、地方公共団体等の国土交通行政担当職員 |- |{{rh}}| 気象庁 ||{{rh}}| 気象大学校(研修部) | 気象庁職員 |- |{{rh}} rowspan="2" | 海上保安庁 ||{{rh}} |海上保安大学校(研修科) | rowspan="2" |海上保安庁職員 |- |{{rh}} |海上保安大学校(特修科) |- |{{rh}} rowspan="2" | 国土交通省 ||{{rh}}| 航空保安大学校(航空管制官基礎研修課程) | [[航空管制官]]採用試験合格者 |- |{{rh}}| 航空保安大学校(特別研修) | 国土交通省[[航空局]]職員 |- |{{rh}}| 国立研究開発法人国立国際医療研究センター ||{{rh}}| 国立看護大学校(研修部) | 国立病院等の看護師 |- |{{rh}}| 独立行政法人[[労働政策研究・研修機構]] ||{{rh}}| [[労働大学校]] | 労働行政運営の行政職員等 |- |{{rh}}| 独立行政法人[[中小企業基盤整備機構]] ||{{rh}}| [[中小企業大学校]] | [[中小企業]][[経営者]]、支援機関担当者等 |- |{{rh}} rowspan="2" |独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構 ||{{rh}}| 職業能力開発総合大学校([[職業能力開発総合大学校#専門課程|専門課程]]<ref group="注" name="ss">職業能力開発促進法に規定される[[職業訓練#指導員訓練|指導員訓練]]の専門課程。</ref>) |rowspan="2" |[[公共職業能力開発施設]]の[[職業訓練指導員]] |- |{{rh}}| 職業能力開発総合大学校([[職業能力開発総合大学校#研修課程|研修課程]]) |} == 都道府県が設置する大学校 == === 入学対象者別の分類 === ==== 主に高校新卒者を対象 ==== {| class="wikitable" style="font-size:90%" ! 大学校名 !! 修業年限 !! 称号 !! 学生身分 !! 卒業後 |- |{{rh}} | 都道府県立職業能力開発短期大学校(専門課程<ref group="注" name="ks"/>) | rowspan="3" |2年 || rowspan="1" |× || rowspan="9" | 学生 || 一般企業等 |- |{{rh}}| 道府県農業大学校([[専修学校]]専門課程<ref group="注" name="ses">学校教育法に規定される専修学校の専門課程。</ref>に移行した養成部門) | rowspan="1" |[[専門士]] || rowspan="2" | 農業経営、農業法人等 |- |{{rh}}| 道府県農業大学校(養成部門) | rowspan="1" |× |- |{{rh}}| [[栃木県立衛生福祉大学校]](専修学校専門課程<ref group="注" name="ses"/>) | rowspan="2" |1、2、3年||rowspan="1" |専門士(保健学科を除く)|| 病院、保育所、歯科診療所、公務員等 |- |{{rh}}| [[千葉県医療技術大学校]](専修学校専門課程<ref group="注" name="ses"/>)<ref group="注">2011年3月末で閉校。</ref> | rowspan="1" |専門士(保健学科、助産学科を除く)|| 病院等 |- |{{rh}}| [[長野県福祉大学校]](専修学校専門課程<ref group="注" name="ses"/>) | rowspan="1" |1、2年|| rowspan="1" |専門士(介護福祉学科を除く)||rowspan="1" |保育所、介護施設等 |- |{{rh}}| [[熊本県立保育大学校]](専修学校専門課程<ref group="注" name="ses"/>)<ref group="注">平成20年度以降は学生募集を行わず、平成21年3月で廃止となる。</ref> | rowspan="3" |2年|| 専門士||rowspan="2" |保育所等 |- |{{rh}}| [[群馬県立保育大学校]]([[各種学校]])<ref group="注">平成20年度以降は学生募集を行わず、平成22年3月で廃止となる。</ref> | × |- |{{rh}}| [[佐賀県立有田窯業大学校]](専修学校専門課程<ref group="注" name="ses"/>) | 専門士||[[陶磁器]]産業の技術者・後継者等 |} ==== 短大卒相当を対象 ==== {| class="wikitable" style="font-size:90%" ! 大学校名 !! 修業年限 !! 称号 !! 学生身分 !! 入学条件 !! 卒業後 |- |{{rh}} | 道府県農業大学校(研究部門) | rowspan="1" |1年又は2年 || rowspan="1" |× || rowspan="1" | 学生 || 養成部門卒業者、短大卒等 || 農業経営、農業法人等 |- |{{rh}}| 佐賀県立有田窯業大学校(研究科) | rowspan="1" |1年 || rowspan="1" |× || rowspan="1" | 学生 || 専門課程<ref group="注" name="ses"/>卒業者等 || 陶磁器産業の技術者・後継者等 |} == 大学校一覧 == 上記のほかに、都道府県、職業訓練法人、学校法人、民間企業、[[政党]]等が設置する多くの大学校が存在する。これらについては[[大学校一覧]]を参照されたい。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === <references /> == 関連項目 == * [[省庁大学校]] * [[高等教育]] * [[学校]] ** [[訓練学校]] * [[アメリカ合衆国の連邦大学校]] * [[高等学園]] * [[職業訓練施設]] ** [[職業訓練校]] == 外部リンク == {{学校}} {{省庁大学校}} {{海技教育機構}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいかつこう}} [[Category:学校]] [[Category:日本の大学校|*]]
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幼稚園
幼稚園(ようちえん、独: kindergarten、英: kindergarten)は、満3歳から小学校就学までの幼児を教育し、年齢に相応しい適切な環境を整え、心身の発達を育成するための教育施設。 19世紀前半に活躍したドイツの幼児教育者、フリードリヒ・フレーベルが1840年に設立した、小学校に上がる前の幼児のための学校が最初の幼稚園である。幼稚園という語は、彼の作った学校の名前である Kindergarten(キンダーガルテン、フレーベルの造語で「子供達の庭」「子供の国」の意)を翻訳してできた。 ドイツ以外の国々でも、フレーベルに敬意を表してドイツ語に由来するkindergarten、kindergardenという表現を使う。アメリカ合衆国のカリフォルニア州など多くの州では幼稚園の1学年(kindergarten)が義務教育で小学校と併設されている、プリスクール(preschool)とは「幼稚園のさらに前の教育施設」として、preschoolまたはpre-K(pre-kindergarten) - kindergarten - 1st grade -... という順序になっている地域が多い。保育所は、nursery school(略してnursery)または daycare centerという。 実際にはフレーベルよりも数年早く、イギリスの産業革命の中で、工場における児童労働による健康障害と死亡率の高さに対し、空想的社会主義者といわれるロバート・オウエンが、幼児、子供のための性格形成学院を開校している。 ただし、現在の幼稚園の実態は、ほとんどがフレーベルの構想の中にあったもので、その意味では彼が幼稚園の生みの親といっても間違いない。ボール遊び、積み木(恩物)、お遊戯、砂場、鳥類を含む小動物の飼育と触れ合い、母親の家事の手伝い、言葉遊び、学級花壇での花や野菜の栽培など、すべて体系的にフレーベルの著作『幼稚園教育学』(玉川大学出版部刊フレーベル全集)に収録されている。 日本の場合、幼稚園は文部科学省幼児教育課の所管で、学校教育法第1条に規定される学校(一条校)の一種である。大学・大学院までの教育体系の中の一環として組み込まれている。私立の幼稚園においては学校法人のほか個人、社会福祉法人、宗教法人などが設置できる。 なお、保育所は厚生労働省所管の児童福祉施設(児童福祉法第7条に規定)であり、保育(養護と教育)を行うものの、学校教育法による学校ではない。なお、幼稚園機能と保育所機能を併せ持つ施設として、幼保連携型認定こども園がある。 日本の幼稚園における教育内容は、幼稚園教育要領の中に示されている。その内訳は「健康」「人間関係」「環境」「言葉」「表現」の5領域となっている(学校教育法23条各号参照)。施設設備については、幼稚園設置基準で定められている。幼稚園教員になるには、法律で定められた教育職員免許状を取得しなければならない。 学校教育法第26条では、幼稚園に入園することのできる者は「満三歳から、小学校就学の始期に達するまでの幼児」となっている。また幼稚園設置基準第4条では、「学級は、学年の初めの日の前日において同じ年齢にある幼児で編制することを原則とする。」となっており、ほぼ完全に年齢主義による運用となっている。学年は学校年度4月1日から翌年の3月31日までに達する満年齢で決まり、4月2日~翌年4月1日までの生まれで年少が4歳、年中が5歳・年長が6歳になる子供である。ただし就学猶予を受けた場合など、学齢に達していても引き続き通うケースは存在する。また、入学年齢に達していなくとも、兄弟が通っている場合には特例として2歳から年少組に入ることがある。その際には年少組を2年経験する。 満三歳からの入園(3年保育)は義務ではなく、公立幼稚園等では満四歳からの入園(2年保育)も広く行われている。1980年代以前は2年保育がほとんどであったが、出産後も仕事を続ける母親の増加といった時代の変化もあり、現代では3年保育が主流になりつつある。一方、沖縄県はアメリカ占領下の影響から、5歳児のみの1年保育(公立)が現代においても多い。主に小学校内にあり、小学生と一緒に登園する光景がみられる。また、併設されている学童保育も利用でき、保育園児でも最後の1年は幼稚園に通うケースが多い。 2023年(令和4年)時点、日本には9,111の幼稚園があり、うち国立49園、公立2,910園、私立6,152園である。 また特別支援学校には、幼稚園の課程に相当する幼稚部が置かれている。普通の幼稚園でも知的障害のある子供に対して年長組の年齢でも年少・年中組に在籍することが可能な幼稚園もある。 民族学校の一つである朝鮮学校では幼稚園課程に相当する幼稚班が初級学校(小学校に相当)に併設されている。また小倉朝鮮幼稚園(学校法人福岡朝鮮学園運営)は幼児教育のみを行う単独校である。いずれも各種学校として認可されており法的には「幼稚園」と見なされない。 さらに日本社会においては、幼稚園とは別に、小学校受験のための幼児教室や幼児教育研究所なども存在する。近年はプレスクールの名で就学前児童・幼児の保育や教育を行っている施設が増加している。 日本では1872年(明治5年)に公布された学制に小学校の一種として「幼稚小学」が「幼稚小学ハ甲女ノ子弟六歳迄ノモノ小学ニ入ル前ノ端緒ヲ教ルナリ」(第二十二章)と規定された。就学前の幼児教育施設として(日本で)実際に設けられた最も早いものは、1875年(明治8年)12月に京都の上京第二十七番組小学校に付設された「幼穉遊嬉場」(ようちゆうきじょう)である。これはフレーベルのキンダーガルテンに倣って、官民一致で設けられたものであるが、それは1年半しか存続しなかった。 キンダーガルテンの訳語として「幼稚園」を最初に名乗ったのが、1876年(明治9年)に開園した東京女子師範学校附属幼稚園で、現在もお茶の水女子大学附属幼稚園として存続し、これが日本で最古(少なくとも官立では)の幼稚園とされる。フレーベルの手引書を邦訳した関信三が初代監事(延長に相当)、ドイツ人女性の松野クララが保母の長に就き、11月の開園時には男女75人が学び、保育料は1カ月25銭だった。 1879年(明治12年)4月1日には鹿児島県が東京女子師範学校附属幼稚園より日本人保姆第一号とされる豊田芙雄を招聘し、鹿児島女子師範学校附属幼稚園を開園させている。さらにこの年の5月3日には大阪市に大阪府立模範幼稚園が(その後廃園となったが、現在の大阪教育大学附属幼稚園は同園を前身と位置づけている)、6月7日には宮城県仙台市に仙台区木町通小学校附属幼稚園が相次いで開園し、これ以降、幼稚園教育が地方へと展開していく。また現存する私立幼稚園としては1886年(明治19年)に石川県金沢市に英和幼稚園として開園された北陸学院短期大学附属幼稚園がある。 この時代に開園し、今日まで現存する園舎については1880年(明治13年)に開園した大阪市中央区の大阪市立愛珠幼稚園の木造園舎が1901年(明治34年)竣工で日本最古のものとして知られ、岡山市の「旧旭東幼稚園園舎」とともに重要文化財に指定されている。 フランスには幼稚園にあたる施設が数種あるが所管する省庁が異なり、保育サービスを含むものもある。
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幼稚園は、満3歳から小学校就学までの幼児を教育し、年齢に相応しい適切な環境を整え、心身の発達を育成するための教育施設。
{{for|[[小学館]]が発行する[[学習雑誌]]([[小学館の学習雑誌]])|幼稚園 (雑誌)}} {{Dablink|「[[幼稚部]]」とは異なる場合があります。}} [[ファイル:AF-kindergarten.jpg|right|250px|thumb|[[アフガニスタン]]の幼稚園]] [[ファイル:Waldkindergarten Düsseldorf.jpg|right|250px|thumb|戸外での自然体験([[森のようちえん]])]] '''幼稚園'''(ようちえん、{{lang-de-short|kindergarten}}、{{lang-en-short|kindergarten}})は、満3歳から[[小学校]]就学までの[[幼児]]を[[教育]]し、[[年齢]]に相応しい適切な環境を整え、心身の発達を育成するための教育施設。 == 歴史 == [[19世紀]]前半に活躍した[[ドイツ]]の幼児教育者、[[フリードリヒ・フレーベル]]が[[1840年]]に設立した、小学校に上がる前の幼児のための[[学校]]が最初の幼稚園である<ref name="朝日20220409"/>。幼稚園という語は、彼の作った学校の名前である {{Audio|De-kindergarten.ogg||de|Kindergarten}}(キンダーガルテン、フレーベルの[[造語]]で「子供達の庭」「子供の国」の意)を翻訳してできた。 ドイツ以外の国々でも、フレーベルに敬意を表して[[ドイツ語]]に由来する'''kindergarten'''、'''kindergarden'''という表現を使う。[[アメリカ合衆国]]の[[カリフォルニア州]]など多くの州では幼稚園の1学年(kindergarten)が義務教育で小学校と併設されている、[[保育学校|プリスクール]]('''preschool''')とは「幼稚園のさらに前の教育施設」として、preschoolまたは'''pre-K'''(pre-kindergarten) - kindergarten - 1st grade -... という順序になっている地域が多い。<ref group="注">学区によって呼称・年限は異なるが、kindergartenから12年生までの公共教育を「K-12」(''K through 12''または''K to 12''と読む)と呼ぶ。</ref>保育所は、'''nursery school'''(略してnursery)または '''daycare center'''という。 実際にはフレーベルよりも数年早く、[[イギリス]]の[[産業革命]]の中で、[[工場]]における[[児童労働]]による健康障害と死亡率の高さに対し、[[空想的社会主義]]者といわれる[[ロバート・オウエン]]が、幼児、子供のための性格形成学院を開校している。 ただし、現在の幼稚園の実態は、ほとんどがフレーベルの構想の中にあったもので、その意味では彼が幼稚園の生みの親といっても間違いない。[[ボール遊び]]、[[積み木]]([[恩物]])、[[お遊戯]]、[[砂場]]、[[鳥類]]を含む小動物の飼育と触れ合い、[[母|母親]]の家事の手伝い、[[言葉遊び]]、学級[[花壇]]での[[花]]や[[野菜]]の栽培など、すべて体系的にフレーベルの著作『幼稚園教育学』([[玉川大学]]出版部刊フレーベル全集)に収録されている。 == 各国の幼稚園 == === 日本 === ==== 制度 ==== [[日本]]の場合、幼稚園は[[文部科学省]][[就学前教育|幼児教育]]課の所管で、[[学校教育法]]第1条に規定される'''学校'''([[一条校]])の一種である。[[大学]]・[[大学院]]までの教育体系の中の一環として組み込まれている。私立の幼稚園においては[[学校法人]]のほか個人、[[社会福祉法人]]、[[宗教法人]]などが設置できる<ref group="注">法附則第6条により、「当分の間、学校法人によって設置されることを要しない」とされている。</ref>。 なお、[[保育所]]は[[厚生労働省]]所管の[[児童福祉施設]]([[児童福祉法]]第7条に規定)であり、保育(養護と教育)を行うものの、学校教育法による学校ではない。なお、幼稚園機能と保育所機能を併せ持つ施設として、[[認定こども園#幼保連携型認定こども園|幼保連携型認定こども園]]がある<ref group="注">[[就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律|認定こども園設置法]]第2条第7項に規定。</ref>。 日本の幼稚園における教育内容は、[[幼稚園教育要領]]の中に示されている。その内訳は「健康」「人間関係」「環境」「言葉」「表現」の5領域となっている([[学校教育法]]23条各号参照)。施設設備については、[[幼稚園設置基準]]で定められている。[[幼稚園教員]]になるには、法律で定められた[[教育職員免許状]]を取得しなければならない。 {{anchors|保育年数}}学校教育法第26条では、幼稚園に入園することのできる者は「満三歳から、小学校就学の始期に達するまでの幼児」となっている。また幼稚園設置基準第4条では、「学級は、学年の初めの日の前日において同じ年齢にある幼児で編制することを原則とする。」となっており、ほぼ完全に[[年齢主義と課程主義|年齢主義]]による運用となっている。学年は学校[[年度]]4月1日から翌年の3月31日までに達する満年齢で決まり、4月2日~翌年4月1日までの生まれで年少が4歳<ref group="注">2年保育では、[[年度]]内に5歳に達する子供を年少という場合がある。</ref>、年中が5歳・年長が6歳になる子供である。ただし[[就学猶予と就学免除|就学猶予]]を受けた場合など、[[学齢]]に達していても引き続き通うケースは存在する。また、入学年齢に達していなくとも、兄弟が通っている場合には特例として2歳から年少組に入ることがある。その際には年少組を2年経験する。<ref>[http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/shugaku/detail/1309966.htm 1.4月1日生まれの児童生徒の学年について] 文部科学省(現在は削除、もしくは移動されているページ)</ref> {{anchors|2年保育|ニ年保育|1年保育|一年保育}}満三歳からの入園(3年保育)は義務ではなく、公立幼稚園等では満四歳からの入園(2年保育)も広く行われている。[[1980年代]]以前は2年保育がほとんどであったが、出産後も仕事を続ける母親の増加といった時代の変化もあり、現代では3年保育が主流になりつつある。一方、[[沖縄県]]は[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ占領下]]の影響から、5歳児のみの1年保育(公立)が現代においても多い。主に小学校内にあり、小学生と一緒に登園する光景がみられる。また、併設されている学童保育も利用でき、保育園児でも最後の1年は幼稚園に通うケースが多い。 2023年(令和4年)時点、日本には9,111の幼稚園があり、うち[[国立学校|国立]]49園、[[公立学校|公立]]2,910園、[[私立学校|私立]]6,152園である。 また[[特別支援学校]]には、幼稚園の課程に相当する[[幼稚部]]が置かれている。普通の幼稚園でも[[知的障害]]のある子供に対して年長組の年齢でも年少・年中組に在籍することが可能な幼稚園もある。 民族学校の一つである[[朝鮮学校]]では幼稚園課程に相当する幼稚班が初級学校(小学校に相当)に併設されている。また{{要出典範囲|[[小倉朝鮮幼稚園]]([[学校法人福岡朝鮮学園]]運営)は幼児教育のみを行う単独校である。いずれも[[各種学校]]として認可されており法的には「幼稚園」と見なされない|date=2019年10月|title=『小倉朝鮮幼稚園』が学校教育法第135条第1項に抵触しているとする根拠を示してください。}}。 さらに日本社会においては、幼稚園とは別に、[[小学校受験]]のための幼児教室や幼児教育研究所なども存在する。近年は[[プリスクール|プレスクール]]の名で就学前児童・幼児の保育や教育を行っている施設が増加している。 ==== 歴史 ==== 日本では[[1872年]]([[明治]]5年)に公布された[[学制]]に小学校の一種として「幼稚小学」が「幼稚小学ハ甲女ノ子弟六歳迄ノモノ小学ニ入ル前ノ端緒ヲ教ルナリ」(第二十二章)と規定された。就学前の幼児教育施設として(日本で)実際に設けられた最も早いものは、[[1875年]](明治8年)[[12月]]に京都の[[上京第二十七番組小学校]]に付設された「幼穉遊嬉場」(ようちゆうきじょう)である<ref name="hara">原祐子{{PDFlink|「[http://www.shitennoji.ac.jp/ibu/images/toshokan/kiyo47-13.pdf 保育における子どものうた]」}}『[[四天王寺大学]]紀要』第47号(2009年3月)</ref><ref name="gakusei120_1-1-1">文部科学省『学制百二十年史』第一編・第一章・第一節「[http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz199201/hpbz199201_2_008.html 初等教育]」</ref>。これはフレーベルのキンダーガルテンに倣って、官民一致で設けられたものであるが<ref name="hara"/>、それは1年半しか存続しなかった<ref name="gakusei120_1-1-1"/>。 キンダーガルテンの訳語として「幼稚園」を最初に名乗ったのが、[[1876年]](明治9年)に開園した[[東京女子高等師範学校|東京女子師範学校]]附属幼稚園で、現在も[[お茶の水女子大学附属幼稚園]]として存続し、これが日本で最古(少なくとも官立では)の幼稚園とされる<ref name="朝日20220409">[https://www.asahi.com/articles/DA3S15259466.html 【はじまりを歩く】幼稚園(東京都文京区)子の主体性をはぐくむのは遊び][[be (朝日新聞)|『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」]]2022年4月9日6-7面(2022年7月31日閲覧)</ref>。フレーベルの手引書を邦訳した[[関信三]]が初代監事(延長に相当)、ドイツ人女性の[[松野クララ]]が[[保母]]の長に就き、11月の開園時には男女75人が学び、保育料は1カ月25[[銭]]だった<ref name="朝日20220409"/>。 [[1879年]](明治12年)[[4月1日]]には[[鹿児島県]]が東京女子師範学校附属幼稚園より日本人保姆第一号とされる[[豊田芙雄]]を招聘し、[[鹿児島大学教育学部附属幼稚園|鹿児島女子師範学校附属幼稚園]]を開園させている。さらにこの年の[[5月3日]]には[[大阪市]]に[[大阪府立模範幼稚園]]が(その後廃園となったが、現在の[[大阪教育大学附属幼稚園]]は同園を前身と位置づけている)、[[6月7日]]には[[宮城県]][[仙台市]]に[[東二番丁幼稚園|仙台区木町通小学校附属幼稚園]]が相次いで開園し、これ以降、幼稚園教育が地方へと展開していく<ref name="gakusei100_1-1-5">文部科学省『学制百年史』第一編・第一章・第五節「[https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317591.htm]」</ref>。また現存する私立幼稚園としては[[1886年]](明治19年)に[[石川県]][[金沢市]]に英和幼稚園として開園された[[学校法人北陸学院#設置教育機関|北陸学院短期大学附属幼稚園]]がある。 この時代に開園し、今日まで現存する園舎については[[1880年]](明治13年)に開園した大阪市[[中央区 (大阪市)|中央区]]の[[大阪市立愛珠幼稚園]]の木造園舎が[[1901年]](明治34年)竣工で日本最古のものとして知られ、[[岡山市]]の「旧旭東幼稚園園舎」とともに重要文化財に指定されている。 === フランス === [[フランス]]には幼稚園にあたる施設が数種あるが所管する省庁が異なり、保育サービスを含むものもある<ref name="niph">{{Cite web|和書|date= |url=https://www.niph.go.jp/wadai/mhlw/1999/h1137010.pdf |title=フランス共和国(フランス)|publisher=[[国立保健医療科学院]] |accessdate=2019-08-29|format=PDF }}</ref>。 ; [[:fr:École maternelle|École maternelle]](母親学校) : [[国民教育省|教育省]]所管で日本語では「幼稚園」あるいは「母親学校」と呼ばれる<ref name="niph" />。小学校教員が教育にあたる<ref name="niph" />。 ; [[:fr:Jardin d'enfants|Jardin d'enfants]](キンダーガーデン) : 医療担当省所管の幼稚園で目的や教育手法は教育省所管の施設とほぼ同じである<ref name="niph" />。ただし乳幼児指導教育員が教育にあたる<ref name="niph" />。 == 幼稚園を取り扱った作品 == *[[キンダガートン・コップ]](1990) *[[クレヨンしんちゃん]](1990) *[[さよならぼくたちのようちえん (テレビドラマ)|さよならぼくたちのようちえん]](2011) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[日本の幼稚園一覧]] * [[就学前教育]](幼児教育) * [[幼稚園教員]] * [[用務員]] * [[保育所]] * [[保育学校]](プリスクール) * [[認定こども園]] * [[幼児教室]] * [[フリードリヒ・フレーベル]] - 日本の幼稚園、保育所教育に大きな影響を与えてきたドイツ人。 * [[松野クララ]] * [[幼児用便器]] == 外部リンク == * [http://www.youchien.com/ 全日本私立幼稚園連合会] * 文部科学省『[https://web.archive.org/web/20100205145118/http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz199201/ 学制百二十年史]』 ** 「初等教育」の該当節([https://web.archive.org/web/20110323100204/http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz199201/hpbz199201_2_008.html 第1編第1章]、[https://web.archive.org/web/20110523053609/http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz199201/hpbz199201_2_017.html 第1編第2章]、[https://web.archive.org/web/20111220103153/http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz199201/hpbz199201_2_030.html 第2編第1章]、[https://web.archive.org/web/20111020073216/http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz199201/hpbz199201_2_040.html 第2編第2章]) ** 第3編「教育・学術・文化・スポーツの進展と新たな展開」 第3章「初等中等教育」 第8節「幼稚園教育の振興」 {{学校}} {| class="wikitable" style="margin:0.5em auto" |- ! 前段階の学校 ! 現学校 ! 次段階の学校 |- | * なし<br/>(注1) | style="text-align:center" | '''幼稚園'''<br/>1年以上<br/>3歳から6歳 | * [[小学校]] * [[特別支援学校]][[小学部]] |- ! colspan="3" | 同段階の学校 |- | colspan="3" | * (3 - 5歳対象)[[特別支援学校]]の[[幼稚部]] - [[全課程]]に相当 |- | colspan="3" | 注1: 学校ではないが[[保育所]]はある。 |} {{Education-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ようちえん}} [[Category:幼稚園|*]] [[Category:就学前教育]] [[Category:育児]] [[Category:保育学]]
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Embedded C++
Embedded C++(エンベデッドシープラスプラス、エンベッディドシープラスプラス)はプログラミング言語の一種である。EC++と略記される。 1990年代後半、組み込み用途への適用を目指して、肥大化したC++の仕様を必要最低限のものに絞り込んだサブセットが考案された。 一般的には、Embedded C++を用いた場合、C++よりプログラムをコンパクトにできる傾向がある。これは主に例外処理や実行時型情報に関わるランタイムとデータが減少するためである。 C++から削減された機能 C++のサブセットという位置付けから、Embedded C++で記述されたソースコードがそのままC++でも利用できることを目指したが、その目標は必ずしも達成されていない。 C++との互換性を妨げる要因には以下のものがある。
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Embedded C++(エンベデッドシープラスプラス、エンベッディドシープラスプラス)はプログラミング言語の一種である。EC++と略記される。
'''Embedded C++'''(エンベデッドシープラスプラス、エンベッディドシープラスプラス)は[[プログラミング言語]]の一種である。EC++と略記される。 == 特徴 == [[1990年代]]後半、組み込み用途への適用を目指して、肥大化した[[C++]]の仕様を必要最低限のものに絞り込んだサブセットが考案された。 一般的には、Embedded C++を用いた場合、C++より[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]をコンパクトにできる傾向がある。これは主に[[例外処理]]や[[実行時型情報]]に関わる[[ランタイムライブラリ|ランタイム]]と[[データ]]が減少するためである。 C++から削減された機能 * [[テンプレート (プログラミング)|テンプレート]] * [[例外処理]] * [[実行時型情報]] * [[多重継承]] * [[名前空間]] * [[ワイド文字]]ライブラリ * 新しい[[型変換]]の[[演算子]](const_cast, dynamic_cast, reinterpret_cast, static_cast) * mutable(const修飾の付いた[[オブジェクト]]の[[フィールド (計算機科学)|メンバ変数]]を変更可能にする) C++のサブセットという位置付けから、Embedded C++で記述された[[ソースコード]]がそのままC++でも利用できることを目指したが、その目標は必ずしも達成されていない。 C++との互換性を妨げる要因には以下のものがある。 * 名前空間がサポートされないため、シンタックス(文法)が統一できない。具体的には、size_t型を使う場合に、C++ではstd::size_tと記述し、Embedded C++では単にsize_tと記述しなければならない。 * 例外処理をサポートしないため、Embedded C++で記述されたプログラムは[[例外安全]]に配慮されていないが、C++ではそうした設計には問題がある。 * 組み込み用途ということから、[[フリースタンディング環境]]を対象とすることになるが、Embedded C++にはC++のフリースタンディング環境ではサポートされないライブラリ機能が多く存在する。 == 外部リンク == * [http://www.caravan.net/ec2plus/ Embedded C++ Homepage] {{C++}} [[Category:C++|Embedded]]
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フリースタンディング環境
フリースタンディング環境(フリースタンディングかんきょう、英: freestanding environment)はC言語およびC++のプログラム実行環境の一種である。対義語はホスト環境(英: hosted environment)。 フリースタンディング環境は、オペレーティングシステム (OS) なしでプログラムを実行しなければいけない環境を指すCおよびC++の用語である。それぞれ国際標準化機構による規格ISO/IEC 9899およびISO/IEC 14882で規定されている。OSなしで実行するプログラムとは、組み込みシステム用のプログラムであったり、あるいはOSそのものであったりする。ホスト環境は逆にOSが存在することを想定しており、一般的なアプリケーションソフトウェアやミドルウェアを指す。ただし、フリースタンディング環境用としてつくられたプログラムはOSなしで動作する必要はない。OS上で動くフリースタンディング環境のプログラムとしてはデモシーン用のプログラムが代表的である。 実行環境を指定しない場合は、ホスト環境を対象にしていることがある。組み込みシステムではフリースタンディング環境を対象にすることもある。μITRONはオペレーティングシステムの一種であるが、フリースタンディング環境を選択しているシステムとして提供していることがある。TOPPERSプロジェクトのTRON系、OSEK系などで、模擬環境でないものは、フリースタンディング環境での利用を想定してソースコードを提供している。 フリースタンディング環境はOSから提供される機能が無いこと、プログラムを書き込む記憶領域が狭いことを想定し、ホスト環境で標準Cライブラリとして要求される関数は、Cでは一切要求せず、またC++では言語機能を実装するために必要とされる最低限のものしか要求しない。Cにおいては定義を記述したヘッダーファイルのみを要求する(詳細は#制限を参照)。このため、Cにおいてはホスト環境で必要とされるランタイムライブラリを必要としない。 ホスト環境におけるmain関数は、プログラムを呼び出した親プログラム(OS等)の存在を想定しており、フリースタンディング環境のエントリーポイントとしては過剰である。またmainという名前が、main関数を呼び出すスタートアップコードを用意する上で邪魔になる(main関数を呼び出す関数がmainでは他にmainを定義できない)ため、エントリーポイントはmain関数とは名前も形式も異なる関数にすることができるようになっている。 フリースタンディング環境では言語仕様に以下の制限を受ける。 この Hello world は GCC と Linux の組み合わせで動作する。gcc -ffreestanding -nostartfiles -static -o freestanding freestanding.c でコンパイルする。exit は各種終了処理を行う stdlib.h の関数のためフリースタンディング環境では使えないが、_exit は unistd.h で定義されたシステムコールを呼び出すだけの POSIX の関数のため GCC の Linux 用フリースタンディング環境でも使える。 類似概念として、コンパイラによっては標準Cライブラリなしでコンパイルすることも可能。例えば GCC の場合、-nostdlib オプションを指定することにより、標準Cライブラリを使わなくなる。さらに制限は厳しくなる。フリースタンディング環境同様、終了処理すら行わないため、コンパイル結果を Linux で動作させる場合、エントリーポイントの最後などで OS のシステムコールの exit を呼び出してプロセスを殺す必要があり、フリースタンディング環境の場合は、GCC と Linux の組み合わせの場合、_exit(0) で終了させられるが、標準Cライブラリがないため、そのコードは OS と CPU 種別依存のアセンブラで書かないといけない。スタックに関しては、Linux の場合、execve システムコールがスタックを準備するため、スタックは正しく準備された状態でエントリーポイントが呼び出される。 この標準Cライブラリ未使用の Hello world は GCC、Linux、x86-64 の組み合わせで動作する。gcc -nostdlib -fno-builtin -static -o nostdlib nostdlib.c でコンパイルする。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "フリースタンディング環境(フリースタンディングかんきょう、英: freestanding environment)はC言語およびC++のプログラム実行環境の一種である。対義語はホスト環境(英: hosted environment)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "フリースタンディング環境は、オペレーティングシステム (OS) なしでプログラムを実行しなければいけない環境を指すCおよびC++の用語である。それぞれ国際標準化機構による規格ISO/IEC 9899およびISO/IEC 14882で規定されている。OSなしで実行するプログラムとは、組み込みシステム用のプログラムであったり、あるいはOSそのものであったりする。ホスト環境は逆にOSが存在することを想定しており、一般的なアプリケーションソフトウェアやミドルウェアを指す。ただし、フリースタンディング環境用としてつくられたプログラムはOSなしで動作する必要はない。OS上で動くフリースタンディング環境のプログラムとしてはデモシーン用のプログラムが代表的である。 実行環境を指定しない場合は、ホスト環境を対象にしていることがある。組み込みシステムではフリースタンディング環境を対象にすることもある。μITRONはオペレーティングシステムの一種であるが、フリースタンディング環境を選択しているシステムとして提供していることがある。TOPPERSプロジェクトのTRON系、OSEK系などで、模擬環境でないものは、フリースタンディング環境での利用を想定してソースコードを提供している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "フリースタンディング環境はOSから提供される機能が無いこと、プログラムを書き込む記憶領域が狭いことを想定し、ホスト環境で標準Cライブラリとして要求される関数は、Cでは一切要求せず、またC++では言語機能を実装するために必要とされる最低限のものしか要求しない。Cにおいては定義を記述したヘッダーファイルのみを要求する(詳細は#制限を参照)。このため、Cにおいてはホスト環境で必要とされるランタイムライブラリを必要としない。", "title": "ホスト環境との違い" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ホスト環境におけるmain関数は、プログラムを呼び出した親プログラム(OS等)の存在を想定しており、フリースタンディング環境のエントリーポイントとしては過剰である。またmainという名前が、main関数を呼び出すスタートアップコードを用意する上で邪魔になる(main関数を呼び出す関数がmainでは他にmainを定義できない)ため、エントリーポイントはmain関数とは名前も形式も異なる関数にすることができるようになっている。", "title": "ホスト環境との違い" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "フリースタンディング環境では言語仕様に以下の制限を受ける。", "title": "制限" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この Hello world は GCC と Linux の組み合わせで動作する。gcc -ffreestanding -nostartfiles -static -o freestanding freestanding.c でコンパイルする。exit は各種終了処理を行う stdlib.h の関数のためフリースタンディング環境では使えないが、_exit は unistd.h で定義されたシステムコールを呼び出すだけの POSIX の関数のため GCC の Linux 用フリースタンディング環境でも使える。", "title": "例" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "類似概念として、コンパイラによっては標準Cライブラリなしでコンパイルすることも可能。例えば GCC の場合、-nostdlib オプションを指定することにより、標準Cライブラリを使わなくなる。さらに制限は厳しくなる。フリースタンディング環境同様、終了処理すら行わないため、コンパイル結果を Linux で動作させる場合、エントリーポイントの最後などで OS のシステムコールの exit を呼び出してプロセスを殺す必要があり、フリースタンディング環境の場合は、GCC と Linux の組み合わせの場合、_exit(0) で終了させられるが、標準Cライブラリがないため、そのコードは OS と CPU 種別依存のアセンブラで書かないといけない。スタックに関しては、Linux の場合、execve システムコールがスタックを準備するため、スタックは正しく準備された状態でエントリーポイントが呼び出される。", "title": "標準Cライブラリなし" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "この標準Cライブラリ未使用の Hello world は GCC、Linux、x86-64 の組み合わせで動作する。gcc -nostdlib -fno-builtin -static -o nostdlib nostdlib.c でコンパイルする。", "title": "標準Cライブラリなし" } ]
フリースタンディング環境はC言語およびC++のプログラム実行環境の一種である。対義語はホスト環境。
{{複数の問題 |出典の明記=2023-08 |脚注の不足=2023-08 }} '''フリースタンディング環境'''(フリースタンディングかんきょう、{{lang-en-short|freestanding environment}})は[[C言語]]および[[C++]]のプログラム実行環境の一種である。対義語は[[ホスト環境]]({{lang-en-short|hosted environment}})。 == 概要 == フリースタンディング環境は、[[オペレーティングシステム]] (OS) なしでプログラムを実行しなければいけない環境を指すCおよびC++の用語である。それぞれ[[国際標準化機構]]による規格ISO/IEC 9899およびISO/IEC 14882で規定されている{{efn|例えば[[C11 (C言語)|C11]]の規格書<ref>[http://www.open-std.org/jtc1/sc22/wg14/www/docs/n1570.pdf C11の規格書の最終草案]</ref>および[[C++14]]の規格書<ref>[http://open-std.org/jtc1/sc22/wg21/docs/papers/2013/n3797.pdf C++14の規格書の最終草案]</ref>などを参照のこと。}}。OSなしで実行するプログラムとは、[[組み込みシステム]]用のプログラムであったり、あるいはOSそのものであったりする。ホスト環境は逆にOSが存在することを想定しており、一般的な[[アプリケーションソフトウェア]]や[[ミドルウェア]]を指す。ただし、フリースタンディング環境用としてつくられたプログラムはOSなしで動作する必要はない。OS上で動くフリースタンディング環境のプログラムとしては[[デモシーン]]用のプログラムが代表的である。 実行環境を指定しない場合は、ホスト環境を対象にしていることがある。[[組み込みシステム]]ではフリースタンディング環境を対象にすることもある。[[μITRON]]はオペレーティングシステムの一種であるが、フリースタンディング環境を選択しているシステムとして提供していることがある。[[TOPPERSプロジェクト]]のTRON系、OSEK系などで、模擬環境でないものは、フリースタンディング環境での利用を想定してソースコードを提供している。 == ホスト環境との違い == フリースタンディング環境はOSから提供される機能が無いこと、プログラムを書き込む記憶領域が狭いことを想定し、ホスト環境で[[標準Cライブラリ]]として要求される[[サブルーチン|関数]]は、Cでは一切要求せず、またC++では言語機能を実装するために必要とされる最低限のものしか要求しない。Cにおいては{{要説明範囲|date=2023-08|定義}}<!-- マクロ定義や型定義のことか? -->を記述したヘッダーファイルのみを要求する(詳細は[[#制限]]を参照)。このため、Cにおいてはホスト環境で必要とされる[[ランタイムライブラリ]]を必要としない。 ホスト環境における<code>main</code>関数は、プログラムを呼び出した親プログラム(OS等)の存在を想定しており、フリースタンディング環境のエントリーポイントとしては過剰である。また<code>main</code>という名前が、<code>main</code>関数を呼び出すスタートアップコードを用意する上で邪魔になる({{要校閲範囲|date=2023-08|<code>main</code>関数を呼び出す関数が<code>main</code>では他に<code>main</code>を定義できない}}<!-- 言いたいことは分からなくもないが、論理的に意味の通じない悪文。セマンティクスが破綻している。 -->)ため、エントリーポイントは<code>main</code>関数とは名前も形式も異なる関数にすることができるようになっている。 == 制限 == フリースタンディング環境では言語仕様に以下の制限を受ける。 * [[エントリーポイント]]は<code>main</code>関数である必要はなく、関数の型および名称は処理系定義となる。[[GNUコンパイラコレクション|GCC]] の場合、デフォルトは <code>void _start(void)</code>。 * [[標準Cライブラリ]]の大部分がサポートされない。フリースタンディング環境でもサポートされる標準ライブラリを以下に挙げる。 ** C89の場合、<code>float.h</code>、<code>limits.h</code>、<code>stdarg.h</code>、<code>stddef.h</code> ** C95の場合、C89の標準ライブラリ、<code>iso646.h</code> ** [[C99]]の場合、C95の標準ライブラリ、<code>stdbool.h</code>、<code>stdint.h</code> ** [[C11 (C言語)|C11]]の場合、C99の標準ライブラリ、<code>stdalign.h</code>、<code>stdnoreturn.h</code> ** C++03の場合、<code>exception</code>、<code>limits</code>、<code>cstdarg</code>、<code>cstddef</code>、<code>cstdlib</code>(<code>abort</code>、<code>atexit</code>、<code>exit</code>のみ)、<code>new</code>、<code>typeinfo</code> == 例 == この [[Hello world]] は [[GNUコンパイラコレクション|GCC]] と [[Linux]] の組み合わせで動作する。<code>gcc -ffreestanding -nostartfiles -static -o freestanding freestanding.c</code> でコンパイルする。<code>exit</code> は各種終了処理を行う <code>stdlib.h</code> の関数のためフリースタンディング環境では使えないが、<code>_exit</code> は <code>unistd.h</code> で定義されたシステムコールを呼び出すだけの POSIX の関数のため GCC の Linux 用フリースタンディング環境でも使える。 <syntaxhighlight lang="c"> #include <unistd.h> void _start (void) { char msg [] = "Hello, world!\n" ; write (1, msg, sizeof msg) ; _exit (0) ; } </syntaxhighlight> == 標準Cライブラリなし == 類似概念として、コンパイラによっては[[標準Cライブラリ]]なしでコンパイルすることも可能。例えば [[GNUコンパイラコレクション|GCC]] の場合、<code>-nostdlib</code> オプションを指定することにより、標準Cライブラリを使わなくなる。さらに制限は厳しくなる。フリースタンディング環境同様、終了処理すら行わないため、コンパイル結果を [[Linux]] で動作させる場合、エントリーポイントの最後などで OS のシステムコールの <code>exit</code> を呼び出してプロセスを殺す必要があり、フリースタンディング環境の場合は、GCC と Linux の組み合わせの場合、<code>_exit(0)</code> で終了させられるが、標準Cライブラリがないため、そのコードは OS と CPU 種別依存のアセンブラで書かないといけない。スタックに関しては、Linux の場合、<code>execve</code> システムコールがスタックを準備するため、スタックは正しく準備された状態でエントリーポイントが呼び出される。 === 例 === この標準Cライブラリ未使用の [[Hello world]] は GCC、Linux、x86-64 の組み合わせで動作する。<code>gcc -nostdlib -fno-builtin -static -o nostdlib nostdlib.c</code> でコンパイルする。 <syntaxhighlight lang="c"> static void write (long fd, const void *buf, unsigned long count) { __asm__ volatile ( "movq %0, %%rax \n\t" "movq %1, %%rdi \n\t" "movq %2, %%rsi \n\t" "movq %3, %%rdx \n\t" "syscall \n\t" : : "i" (1), "r" (fd), "r" (buf), "r" (count) : "%rax", "%rdi", "%rsi", "%rdx" ) ; } static void _exit (long status) { __asm__ volatile ( "movq %0, %%rax \n\t" "movq %1, %%rdi \n\t" "syscall \n\t" : : "i" (60), "r" (status) : "%rax", "%rdi") ; } void _start (void) { write (1, "Hello, world!\n", 14) ; _exit (0) ; } </syntaxhighlight> == 脚注 == {{Wikibooks|C言語/基礎知識#フリースタンディング環境|C言語}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ホスト環境]] {{CProLang}} {{デフォルトソート:ふりいすたんていんくかんきよう}} [[Category:プログラミング]] [[Category:組み込みシステム]] [[Category:C言語]] [[Category:C++]]
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対数
対数(たいすう、英: logarithm)とは、ある数 x を数 b の冪乗 b として表した場合の冪指数 p である。この p は「底を b とする x の対数(英: logarithm of x to base b; base b logarithm of x)」と呼ばれ、通常は logb x と書き表される。また、対数 logb x に対する x は真数(しんすう、英: antilogarithm)と呼ばれる。数 x に対応する対数を与える関数を考えることができ、そのような関数を対数関数と呼ぶ。対数関数は通常 log と表される。 通常の対数 logb x は真数 x, 底 b を実数として定義されるが、実数の対数からの類推により、複素数や行列などの様々な数に対してその対数が定義されている。 実数の対数 logb x は、底 b が 1 でない正数であり (b ≠ 1, b > 0)、真数 x が正数である場合 (x > 0) について定義される。 これらの条件を満たす対数は、ある x と b の組に対してただ一つに定まる。 実数の対数関数 logb x は底 b に対する指数関数 b の逆関数である。この性質はしばしば対数関数の定義として用いられるが、歴史的には対数の出現の方が指数関数よりも先である。 一般には複素数でも定義されるが、その解説は自然対数の項目にゆずる。 1 でない正の実数 a および正の実数 x に対し を満たす実数 p がただ一つ定まる。この p を x の a を底とする対数として定義する。x に対して a を底とする対数を loga x と表わせば、上記の方程式を満たす p は以下のように書き換えることができる。 この対数の定義はレオンハルト・オイラーによる(1728年)。 正の実数 a ≠ 1 について、正の実数 x を変数にとる実数値連続関数 fa (x) として を満たすものを と書き、この関数 loga x を a を底とする対数関数と呼ぶ。 1 以外の正の実数であれば底に何を用いてもよいが、分野によって慣例的によく用いられる底があり、底が省略されることも多い。log x のように底が省略されている場合は、前後の文脈や扱われている分野によって底がいくつであるかを判断する。 底を a = 10 とした対数は常用対数(英: common logarithm)あるいはブリッグスの対数(英: Briggsian logarithm)と呼ばれ、実験などの測定値に用いることが多い。ヘンリー・ブリッグスは、1617年に 1000 未満の整数について8桁、1624年には1~2万と9万~10万の整数についての14桁の常用対数表を出版した。他の対数と区別するために、"Log" のように大文字を用いたり、"lg" という記号を用いることがある (ISO 31/XI では "lg" となっている)。 "lg" は二進対数の表記でもしばしば使用される(後述)。 底を a = e(ネイピア数) とした対数を自然対数(英: natural logarithm)あるいはネイピアの対数(英: Napierian logarithm)という。ジョン・ネイピアの名前がとられているが、ネイピア自身が計算に用いた定義は現在の自然対数とは異なる(後述)。微積分などの計算が簡単になるため、数学などの理論分野で用いられることが多い。他の対数と区別するために "ln" という記号を用いることがある。 底を a = 2 とした対数は二進対数 (英: binary logarithm) といい、情報理論の分野で情報量などを表現するのに用いられることが多い。また、音楽の分野においても、1オクターブとは周波数比 1:2 のことであり、さらに、平均律においては半音が周波数比 1:2、全音が周波数比 1:2 と定義されているため、二進対数を用いると計算が簡便になる。他の対数と区別するために "lb" という記号を用いることがある (ISO 31/XI)。また二進対数では"lg n"と表記されることがよくある。 対数の概念は、16世紀末にヨスト・ビュルギ(1588年)やジョン・ネイピア(1594年)によって考案され、便利な計算法として広まった。天文学や航海学では膨大な数値計算がすでに必要とされており、三角関数表についてはヒッパルコスのころから存在していたとされ、ティコ・ブラーエは三角関数表を応用して掛け算を足し算に変換して計算する手法を使用していた。ネイピアは、20年かけて対数表を作成し1614年に発表した。エドマンド・ガンターは対数の値を長さに換算した目盛りを持つ物差しを利用し、以上の計算手順を簡単に行えるようにした対数計算尺を発明した。対数は煩雑な計算にかける労力を大幅に減らし、ヨハネス・ケプラーによる天体の軌道計算をはじめとして、その後の科学の急激な発展を支えた。 記号としては1624年にケプラーが"Log"を使い、その後オイラーが常用対数に"log"を、それ以外の底の対数に"l"を使った。用語としての対数(logarithm)はネイピアがギリシャ語のロゴス(関係)とアリトモス(数)を組み合わせたものだという。 対数表の近似精度を高めることはネイピア以降もしばしば行われ、産業政策にも利用された。1790年にフランスで ガスパール・ド・プロニー が失業中の理髪師たちを集めて雇用し計算させたのをはじめに、チャールズ・バベッジの階差機関への挑戦(1827年)や20世紀初頭アメリカ・ニューディール政策における公共事業促進局の実施するプロジェクト (Mathematical Tables Project) において精度向上の試みが行われた。 指数関数的に変化する量を対数に変換してみると、線型性などの綺麗な性質が浮かび上がる。また、双曲線などの面積を求める積分にも対数があらわれる(たとえば、∫A1 x dx = loge |A| である)。これらの例の他にも対数はいろいろな場面であらわれ、単なる「簡便な計算法」以上の意味を持つことも多い。そのため対数は、詳しく研究されてきた関数の一つでもある。 ネイピアらが示した対数の定義は現在用いられているものとは異なっていた。 ネイピアによる対数の定義は次のようなものである:正の実数 x に対して を満たす実数 p がただ一つ定まる。この p のことを ネイピアの対数(英: Napierian logarithm)という。この値は、−10 ln (x/10) と 7 桁の精度で一致する。ネイピアは、1594年に対数の概念に到達し、この定義を用いて20年間計算を続け、7 桁の数の対数表を完成させて1614年に発表した。 ビュルギもまた対数の発見者であるが、ビュルギが用いた定義はネイピアのものとはわずかに異なっている。ビュルギによる対数の定義は次のようなものである:正の実数 x に対して を満たす実数 p がただ一つ定まる。この p のことをビュルギの対数という。この値は、10 ln (x/10) と4桁の精度で一致する。ビュルギは、ネイピアよりも早く1588年に対数の概念を発見したが、1620年まで公表しなかったため、対数の発見者としてはネイピアが称えられることが多い。 三角関数において例えば (sin x) の意味で sin x と書くのと同様に、対数関数に対しても、2 以上の整数 n に対して log x という表記が使われることがある。 対数により、積の計算を、より簡単な和の計算に置き換えることができる。いくつかの例外を除き、有限の手順では対数の値を厳密に求めることはできないため、対数の計算には近似値を用いる。予め定めた近似の精度に応じて有効数字が決定される。対数の近似計算は計算量が多く高コストであるため、対数を含んだ計算には基本的に数表が用いられる。この対数値を列挙した数表を対数表という。対数表には限られた数しか値が載っていないため、対数表から対数値を参照する場合にはしばしば補間公式が用いられる。 2つの正の実数 x, y の積を求めたいとする。別の正の数 a ≠ 1 に対して、 という置き換えがいつでも可能であり、指数法則 が成り立つことから、以下の手順によって積 xy を求めることができる。 常用対数表を用いて積を求める例を示す。 対数の性質より 常用対数表より これより 常用対数表より対数 0.1968 に近い真数を探すと また、1 = log1010 であるから これより、3.45 × 4.56 ≒ 15.7 ・・・(2) (2)を(1)に代入して、 これは 345 × 4560 = 1,573,200 に対して上から3桁までの値が一致している。 (精度が必要な場合は有効数字の大きな対数表を用いる必要がある。一般に対数は無限小数の形で求められ、対数表の値は近似値である。) 以下の節において、a, b は 1 ではない正の実数、x, y は正の実数、p は実数、ln x は自然対数を表す。 定義より が成り立つ。 積の対数は(底が等しい)対数の和に等しい。 商の対数は(底が等しい)対数の差に等しい。 p 乗の対数は、対数の p 倍に等しい。 また、底の p 乗の対数は、対数の 1/p 倍に等しい。(pは0でない実数) loga x を用いた式から logb x を用いた式へと変形するには、 となることから、 とすればよい。これを底の変換という。 これにより、特定の底・任意の真数での対数が分かる場合に、それらの値から任意の底での対数を得ることができる。たとえば、b = 10 として常用対数表から log10 a と log10 x を引くこともできるし、底 b をネイピア数 e として後述のマクローリン展開で loge a と loge x を計算してもよい。 特に、x ≠ 1 ならば、b = x とすることにより を得る。 また、b = 1/a とする(底を逆数にする)と、対数の符号が反転する。 逆数の対数 を a を底とする余対数(よたいすう、英: cologarithm)と呼ぶ。 底の値によらず、真数が 1 のとき対数は 0 である。 a > 1 の場合、対数は狭義単調増加 であり、 が成り立つ。 0 < a < 1 の場合、対数は狭義単調減少 であり、 が成り立つ。 対数の発散は「とても緩やか」であり p > 0 に対して が成り立つ。 微分に関する公式 マクローリン展開 積分に関する公式(以下の不定積分において C は積分定数とする) 不等式
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "対数(たいすう、英: logarithm)とは、ある数 x を数 b の冪乗 b として表した場合の冪指数 p である。この p は「底を b とする x の対数(英: logarithm of x to base b; base b logarithm of x)」と呼ばれ、通常は logb x と書き表される。また、対数 logb x に対する x は真数(しんすう、英: antilogarithm)と呼ばれる。数 x に対応する対数を与える関数を考えることができ、そのような関数を対数関数と呼ぶ。対数関数は通常 log と表される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "通常の対数 logb x は真数 x, 底 b を実数として定義されるが、実数の対数からの類推により、複素数や行列などの様々な数に対してその対数が定義されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "実数の対数 logb x は、底 b が 1 でない正数であり (b ≠ 1, b > 0)、真数 x が正数である場合 (x > 0) について定義される。 これらの条件を満たす対数は、ある x と b の組に対してただ一つに定まる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "実数の対数関数 logb x は底 b に対する指数関数 b の逆関数である。この性質はしばしば対数関数の定義として用いられるが、歴史的には対数の出現の方が指数関数よりも先である。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "一般には複素数でも定義されるが、その解説は自然対数の項目にゆずる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1 でない正の実数 a および正の実数 x に対し", "title": "定義" }, { 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"対数の概念は、16世紀末にヨスト・ビュルギ(1588年)やジョン・ネイピア(1594年)によって考案され、便利な計算法として広まった。天文学や航海学では膨大な数値計算がすでに必要とされており、三角関数表についてはヒッパルコスのころから存在していたとされ、ティコ・ブラーエは三角関数表を応用して掛け算を足し算に変換して計算する手法を使用していた。ネイピアは、20年かけて対数表を作成し1614年に発表した。エドマンド・ガンターは対数の値を長さに換算した目盛りを持つ物差しを利用し、以上の計算手順を簡単に行えるようにした対数計算尺を発明した。対数は煩雑な計算にかける労力を大幅に減らし、ヨハネス・ケプラーによる天体の軌道計算をはじめとして、その後の科学の急激な発展を支えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "記号としては1624年にケプラーが\"Log\"を使い、その後オイラーが常用対数に\"log\"を、それ以外の底の対数に\"l\"を使った。用語としての対数(logarithm)はネイピアがギリシャ語のロゴス(関係)とアリトモス(数)を組み合わせたものだという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "対数表の近似精度を高めることはネイピア以降もしばしば行われ、産業政策にも利用された。1790年にフランスで ガスパール・ド・プロニー が失業中の理髪師たちを集めて雇用し計算させたのをはじめに、チャールズ・バベッジの階差機関への挑戦(1827年)や20世紀初頭アメリカ・ニューディール政策における公共事業促進局の実施するプロジェクト (Mathematical Tables Project) において精度向上の試みが行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "指数関数的に変化する量を対数に変換してみると、線型性などの綺麗な性質が浮かび上がる。また、双曲線などの面積を求める積分にも対数があらわれる(たとえば、∫A1 x dx = loge |A| 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という表記が使われることがある。", "title": "冪の表記" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "対数により、積の計算を、より簡単な和の計算に置き換えることができる。いくつかの例外を除き、有限の手順では対数の値を厳密に求めることはできないため、対数の計算には近似値を用いる。予め定めた近似の精度に応じて有効数字が決定される。対数の近似計算は計算量が多く高コストであるため、対数を含んだ計算には基本的に数表が用いられる。この対数値を列挙した数表を対数表という。対数表には限られた数しか値が載っていないため、対数表から対数値を参照する場合にはしばしば補間公式が用いられる。", "title": "計算" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2つの正の実数 x, y の積を求めたいとする。別の正の数 a ≠ 1 に対して、", "title": "計算" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "という置き換えがいつでも可能であり、指数法則", "title": "計算" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "が成り立つことから、以下の手順によって積 xy を求めることができる。", "title": "計算" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "常用対数表を用いて積を求める例を示す。", "title": "計算" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "対数の性質より", "title": "計算" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "常用対数表より", "title": "計算" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "これより", "title": "計算" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "常用対数表より対数 0.1968 に近い真数を探すと", "title": "計算" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "また、1 = log1010 であるから", "title": "計算" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "これより、3.45 × 4.56 ≒ 15.7 ・・・(2) (2)を(1)に代入して、", "title": "計算" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "これは 345 × 4560 = 1,573,200 に対して上から3桁までの値が一致している。 (精度が必要な場合は有効数字の大きな対数表を用いる必要がある。一般に対数は無限小数の形で求められ、対数表の値は近似値である。)", "title": "計算" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "以下の節において、a, b は 1 ではない正の実数、x, y は正の実数、p は実数、ln x は自然対数を表す。", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "定義より", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "が成り立つ。", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "積の対数は(底が等しい)対数の和に等しい。", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "商の対数は(底が等しい)対数の差に等しい。", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "p 乗の対数は、対数の p 倍に等しい。", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "また、底の p 乗の対数は、対数の 1/p 倍に等しい。(pは0でない実数)", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "loga x を用いた式から logb x を用いた式へと変形するには、", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "となることから、", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "とすればよい。これを底の変換という。", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "これにより、特定の底・任意の真数での対数が分かる場合に、それらの値から任意の底での対数を得ることができる。たとえば、b = 10 として常用対数表から log10 a と log10 x を引くこともできるし、底 b をネイピア数 e として後述のマクローリン展開で loge a と loge x を計算してもよい。", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "特に、x ≠ 1 ならば、b = x とすることにより", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "を得る。", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "また、b = 1/a とする(底を逆数にする)と、対数の符号が反転する。", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "逆数の対数", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "を a を底とする余対数(よたいすう、英: cologarithm)と呼ぶ。", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "底の値によらず、真数が 1 のとき対数は 0 である。", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "a > 1 の場合、対数は狭義単調増加", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "であり、", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "が成り立つ。", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "0 < a < 1 の場合、対数は狭義単調減少", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "であり、", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "が成り立つ。", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "対数の発散は「とても緩やか」であり p > 0 に対して", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "が成り立つ。", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "微分に関する公式", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "マクローリン展開", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "積分に関する公式(以下の不定積分において C は積分定数とする)", "title": "対数の性質" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "不等式", "title": "対数の性質" } ]
対数とは、ある数 x を数 b の冪乗 bp として表した場合の冪指数 p である。この p は「底を b とする x の対数」と呼ばれ、通常は logb x と書き表される。また、対数 logb x に対する x は真数と呼ばれる。数 x に対応する対数を与える関数を考えることができ、そのような関数を対数関数と呼ぶ。対数関数は通常 log と表される。 通常の対数 logb x は真数 x, 底 b を実数として定義されるが、実数の対数からの類推により、複素数や行列などの様々な数に対してその対数が定義されている。 実数の対数 logb x は、底 b が 1 でない正数であり、真数 x が正数である場合 について定義される。 これらの条件を満たす対数は、ある x と b の組に対してただ一つに定まる。 実数の対数関数 logb x は底 b に対する指数関数 bx の逆関数である。この性質はしばしば対数関数の定義として用いられるが、歴史的には対数の出現の方が指数関数よりも先である。
{{出典の明記|date=2015年12月}} '''対数'''(たいすう、{{lang-en-short|logarithm}})とは、ある数 {{mvar|x}} を数 {{mvar|b}} の[[冪乗]] {{mvar|b<sup>p</sup>}} として表した場合の[[冪乗|冪指数]] {{mvar|p}} である。この {{mvar|p}} は「底を {{mvar|b}} とする {{mvar|x}} の'''対数'''({{lang-en-short|logarithm of {{mvar|x}} to base {{mvar|b}}; base {{mvar|b}} logarithm of {{mvar|x}}}})」と呼ばれ、通常は {{math|log''<sub>b</sub>&thinsp;x''}} と書き表される。また、対数 {{math|log''<sub>b</sub>&thinsp;x''}} に対する {{mvar|x}} は'''真数'''(しんすう、{{lang-en-short|antilogarithm}})と呼ばれる。数 {{mvar|x}} に対応する対数を与える[[関数 (数学)|関数]]を考えることができ、そのような関数を対数関数と呼ぶ。対数関数は通常 {{math|log}} と表される。 通常の対数 {{math|log<sub>''b''</sub>&thinsp;''x''}} は真数 {{mvar|x}}, 底 {{mvar|b}} を[[実数]]として定義されるが、実数の対数からの類推により、[[複素数]]や[[行列]]などの様々な数に対してその対数が定義されている。 実数の対数 {{math|log''<sub>b</sub>&thinsp;x''}} は、底 {{mvar|b}} が {{math|1}} でない[[正数]]であり ({{math|''b'' &ne; 1, ''b'' &gt; 0}})、真数 {{mvar|x}} が正数である場合 ({{math|''x'' &gt; 0}})<ref group="注釈">この条件は'''真数条件'''と呼ばれる。</ref> について定義される。 これらの条件を満たす対数は、ある {{mvar|x}} と {{mvar|b}} の組に対してただ一つに定まる。 実数の対数関数 {{math|log''<sub>b</sub>&thinsp;x''}} は[[底を持つ指数函数|底 {{mvar|b}} に対する指数関数]] {{mvar|b<sup>x</sup>}} の[[逆関数]]である。この性質はしばしば対数関数の[[定義]]として用いられるが、歴史的には対数の出現の方が指数関数よりも先である<ref>{{harvnb|Cajori|1913 No.1|p=5}}, {{harvnb|Cajori|1913 No.2|p=35}}, {{harvnb|Cajori|1913 No.3|p=75}}, {{harvnb|Cajori|1913 No.4|p=107}}, {{harvnb|Cajori|1913 No.5|p=148}}, {{harvnb|Cajori|1913 No.6|p=173}}, {{harvnb|Cajori|1913 No.7|p=205}}.</ref><ref group="注釈">[[ネイピア数]] {{mvar|e}} の[[ヤコブ・ベルヌーイ]]による発見が1683年であり、指数関数の発見もその頃である。詳細は[[指数関数#歴史と概観]]や {{harvnb|O'Connor|Robertson|2001}} を参照。</ref>。 [[ファイル:Logarithms.png|thumb|300px|対数関数のグラフの底を変えたときの様子。緑の曲線は底が {{math|10}}、赤の曲線は底が[[ネイピア数]] {{math|1=''e'' &sim; 2.7}}、紫の曲線は底が {{math|1.7}} の対数である(底 10 の対数は[[常用対数]]、底 {{mvar|e}} の対数は[[自然対数]]と呼ばれる)。すべての曲線は点 {{math|(1, 0)}} を通り、{{mvar|y}} 軸を[[漸近線]]に持つ。]] == 定義 == 一般には[[複素数]]でも定義されるが、その解説は[[自然対数]]の項目にゆずる。 === 指数関数を用いた定義 === {{math|1}} でない正の[[実数]] {{mvar|a}} および正の実数 {{mvar|x}} に対し :<math>x = a^p</math> を満たす実数 {{mvar|p}} がただ一つ定まる。この {{mvar|p}} を {{mvar|x}} の {{mvar|a}} を底とする対数として定義する。{{mvar|x}} に対して {{mvar|a}} を底とする対数を {{math|log''<sub>a</sub>&thinsp;x''}} と表わせば、上記の方程式を満たす {{mvar|p}} は以下のように書き換えることができる。 :<math>p = \log_a x.</math> この対数の定義は[[レオンハルト・オイラー]]による([[1728年]])。 === 演算法則からの定義 === 正の実数 {{math|''a'' &ne; 1}} について、正の実数 {{mvar|x}} を[[変数 (数学)|変数]]にとる実数値[[連続 (数学)|連続]][[関数 (数学)|関数]] {{math|1=''f<sub>a</sub>''&thinsp;(''x'')}} として :<math>\begin{align} f_a(xy) &= f_a(x) + f_a(y) \\ f_a(a) &= 1 \end{align}</math> を満たすものを :<math>f_a(x) = \log_a x</math> と書き、この関数 {{math|1=log''{{ind|a}}&thinsp;x''}} を {{mvar|a}} を'''底'''とする'''対数関数'''と呼ぶ。 === 特殊な底 === <!--[[Image:Log-graph.png|thumb|right|自然対数など]](冒頭の画像と重複)--> 1 以外の正の実数であれば底に何を用いてもよいが、分野によって慣例的によく用いられる底があり、底が省略されることも多い。{{math|log ''x''}} のように底が省略されている場合は、前後の文脈や扱われている分野によって底がいくつであるかを判断する。 底を {{math|1=''a'' = 10}} とした対数は'''[[常用対数]]'''({{lang-en-short|common logarithm}})あるいは'''ブリッグスの対数'''({{lang-en-short|Briggsian logarithm}})と呼ばれ、実験などの測定値に用いることが多い。[[ヘンリー・ブリッグス]]は、[[1617年]]に 1000 未満の整数について8桁、[[1624年]]には1~2万と9万~10万の整数についての14桁の常用対数表を出版した。他の対数と区別するために、"Log" のように大文字を用いたり、"lg" という記号を用いることがある ([[ISO 31-11|ISO 31/XI]] では "lg" となっている)。 "lg" は[[二進対数]]の表記でもしばしば使用される(後述)。 底を {{math|1=''a'' = e}}([[ネイピア数]]) とした対数を'''[[自然対数]]'''({{lang-en-short|natural logarithm}})あるいは'''ネイピアの対数'''({{lang-en-short|Napierian logarithm}})という。[[ジョン・ネイピア]]の名前がとられているが、ネイピア自身が計算に用いた定義は現在の自然対数とは異なる(後述)。微積分などの計算が簡単になるため、数学などの理論分野で用いられることが多い。他の対数と区別するために "ln" という記号を用いることがある。 底を {{math|1=''a'' = 2}} とした対数は'''[[二進対数]]''' ({{lang-en-short|binary logarithm}}) といい、[[情報理論]]の分野で[[情報量]]などを表現するのに用いられることが多い。また、音楽の分野においても、1[[オクターブ]]とは[[周波数]]比 1:2 のことであり、さらに、[[平均律]]においては半音が周波数比 1:2<sup>1/12</sup>、全音が周波数比 1:2<sup>2/12</sup> と定義されているため、二進対数を用いると計算が簡便になる。他の対数と区別するために "lb" という記号を用いることがある ([[ISO 31-11|ISO 31/XI]])。また[[二進対数]]では"{{math|1=lg ''n''}}"と表記されることがよくある<ref>{{cite book | last = Cormen | first = Thomas H. | authorlink=Thomas H. Cormen | author2 = [[:en:Charles E. Leiserson|Leiserson, Charles E.]], [[:en:Ron Rivest|Rivest, Ronald L.]], [[:en:Clifford Stein|Stein, Clifford]] | title = [[Introduction to Algorithms]] | origyear = 1990 | year = 2001 | edition = 2nd | publisher = MIT Press and McGraw-Hill | isbn = 0-262-03293-7 | page = 34 }}</ref>。 == 歴史 == {{main|{{仮リンク|対数の歴史|en|History of logarithms}}}} {{see also|en:Logarithm#History}} 対数の概念は、[[16世紀]]末に[[ヨスト・ビュルギ]]([[1588年]])や[[ジョン・ネイピア]]([[1594年]])によって考案され、便利な計算法として広まった。天文学や航海学では膨大な数値計算がすでに必要とされており、三角関数表については[[ヒッパルコス]]のころから存在していたとされ{{sfn|熊倉|2007|p=38}}、[[ティコ・ブラーエ]]は三角関数表を応用して掛け算を足し算に変換して計算する手法を使用していた{{sfn|伊達|2015|p=14}}。ネイピアは、20年かけて対数表を作成し[[1614年]]に発表した。[[エドマンド・ガンター]]は対数の値を長さに換算した目盛りを持つ物差しを利用し、以上の計算手順を簡単に行えるようにした[[計算尺|対数計算尺]]を発明した。対数は煩雑な計算にかける労力を大幅に減らし、[[ヨハネス・ケプラー]]による天体の軌道計算をはじめとして、その後の[[科学]]の急激な発展を支えた。 記号としては[[1624年]]にケプラーが"Log"を使い、その後オイラーが常用対数に"log"を、それ以外の底の対数に"l"を使った。用語としての対数(logarithm)はネイピアがギリシャ語のロゴス(関係)とアリトモス(数)を組み合わせたものだという<ref>{{Cite |和書 | author = 黒木哲徳 | title = なっとくする数学記号 | date = 2021 | pages = 45 | publisher = 講談社 | isbn = 9784065225509 | series = ブルーバックス | ref = harv }}</ref>。 対数表の近似精度を高めることはネイピア以降もしばしば行われ、産業政策にも利用された。1790年にフランスで [[ガスパール・ド・プロニー]] が失業中の理髪師たちを集めて雇用し計算させたのをはじめに、[[チャールズ・バベッジ]]の[[階差機関]]への挑戦(1827年)や20世紀初頭アメリカ・[[ニューディール政策]]における[[公共事業促進局]]の実施するプロジェクト ([[:en:Mathematical Tables Project|Mathematical Tables Project]]) において精度向上の試みが行われた。 [[指数関数]]的に変化する量を対数に変換してみると、[[線型性]]などの綺麗な性質が浮かび上がる。また、[[双曲線]]などの面積を求める[[積分]]にも対数があらわれる(たとえば、{{math|1=&int;{{sup sub|''A''|1}} ''x''{{exp|&minus;1}} ''dx'' = log{{ind|e}} {{abs|''A''}}}} である)。これらの例の他にも対数はいろいろな場面であらわれ、単なる「簡便な計算法」以上の意味を持つことも多い。そのため対数は、詳しく研究されてきた関数の一つでもある。 === {{anchors|古典的な定義}} オリジナルの定義 === ネイピアらが示した対数の定義は現在用いられているものとは異なっていた。 ネイピアによる対数の定義は次のようなものである:正の実数 {{mvar|x}} に対して :<math>x=10^7 \left( 1-\frac{1}{10^7} \right)^p</math> を満たす実数 {{mvar|p}} がただ一つ定まる。この {{mvar|p}} のことを '''ネイピアの対数'''({{lang-en-short|Napierian logarithm}})という。この値は、{{math|1=&minus;10<sup>7</sup> ln (''x''/10<sup>7</sup>)}} と 7 桁の精度で一致する。ネイピアは、1594年に対数の概念に到達し、この定義を用いて20年間計算を続け、7 桁の数の対数表を完成させて[[1614年]]に発表した。 ビュルギもまた対数の発見者であるが、ビュルギが用いた定義はネイピアのものとはわずかに異なっている。ビュルギによる対数の定義は次のようなものである:正の実数 {{mvar|x}} に対して :<math>x=10^8 \left( 1+\frac{1}{10^4} \right)^p</math> を満たす実数 {{mvar|p}} がただ一つ定まる。この {{mvar|p}} のことを'''ビュルギの対数'''という。この値は、{{math|10<sup>4</sup> ln (''x''/10<sup>8</sup>)}} と4桁の精度で一致する。ビュルギは、ネイピアよりも早く1588年に対数の概念を発見したが、[[1620年]]まで公表しなかったため、対数の発見者としてはネイピアが称えられることが多い。 == 冪の表記 == [[三角関数]]において例えば {{math|(sin ''x'')<sup>2</sup>}} の意味で {{math|sin<sup>2</sup> ''x''}} と書くのと同様に、対数関数に対しても、2 以上の整数 {{mvar|n}} に対して {{math|log''<sup>n</sup>&thinsp;x''}} という表記が使われることがある{{sfn|本橋|2009}}{{sfn|Apostol|1976}}。 == 計算 == 対数により、[[乗法|積]]の計算を、より簡単な[[加法|和]]の計算に置き換えることができる。いくつかの例外を除き、有限の手順では対数の値を厳密に求めることはできないため、対数の計算には[[近似値]]を用いる。予め定めた近似の精度に応じて[[有効数字]]が決定される。対数の近似計算は計算量が多く高コストであるため、対数を含んだ計算には基本的に数表が用いられる。この対数値を列挙した数表を'''対数表'''という。対数表には限られた数しか値が載っていないため、対数表から対数値を参照する場合にはしばしば[[内挿|補間公式]]が用いられる。 2つの[[正の数と負の数|正]]の[[実数]] {{math|''x'', ''y''}} の積を求めたいとする。別の正の数 {{math|''a'' &ne; 1}} に対して、 :<math>\begin{align} x &= a^p \\ y &= a^q \end{align}</math> という置き換えがいつでも可能であり、指数法則 :<math>a^p a^q = a^{p + q}</math> が成り立つことから、以下の手順によって積 {{mvar|xy}} を求めることができる。 # 対数表を参照するなどして {{mvar|x}} を {{mvar|p}} に、{{mvar|y}} を {{mvar|q}} に変換する。 # 和 {{math|''p'' + ''q''}} を計算する。 # 対数表を逆に参照するなどして {{math|''p'' + ''q''}} の結果を {{math|''a''<sup>&thinsp;''p'' + ''q''</sup>}} に変換する。 # これが求める積 {{mvar|xy}} である。 === 具体例 === [[常用対数#常用対数表|常用対数表]]を用いて積を求める例を示す。<br> :345 &times; 4560 = 3.45 &times; 4.56 &times; 10{{sup|5}} ・・・(1)<br> 対数の性質より<br> :{{math|log}}<sub>10</sub>(3.45 &times; 4.56) = {{math|log}}<sub>10</sub>3.45 + {{math|log}}<sub>10</sub>4.56<br> 常用対数表より<br> :{{math|log}}<sub>10</sub>3.45 = 0.5378 , {{math|log}}<sub>10</sub>4.56 = 0.6590<br> これより<br> :{{math|log}}<sub>10</sub>3.45 + {{math|log}}<sub>10</sub>4.56 = 0.5378 + 0.6590 = 1.1968 = 0.1968 + 1<br> 常用対数表より対数 0.1968 に近い真数を探すと<br> :0.1968 ≒ {{math|log}}<sub>10</sub>1.57<br> また、1 = {{math|log}}<sub>10</sub>10 であるから<br> :{{math|log}}<sub>10</sub>(3.45 &times; 4.56) = {{math|log}}<sub>10</sub>3.45 + {{math|log}}<sub>10</sub>4.56 ≒ {{math|log}}<sub>10</sub>1.57 + {{math|log}}<sub>10</sub>10 = {{math|log}}<sub>10</sub>15.7<br> これより、3.45 &times; 4.56 ≒ 15.7 ・・・(2)<br> (2)を(1)に代入して、<br> :345 &times; 4560 ≒ 15.7 &times; 10{{sup|5}} = 1,570,000<br> これは 345 &times; 4560 = 1,573,200 に対して上から3桁までの値が一致している。<br> (精度が必要な場合は有効数字の大きな対数表を用いる必要がある。一般に対数は無限小数の形で求められ、対数表の値は近似値である。)<br> == 対数の性質 == 以下の節において、{{math|''a'', ''b''}} は 1 ではない正の実数、{{math|''x'', ''y''}} は正の実数、{{mvar|p}} は実数、{{math|ln ''x''}} は[[自然対数]]を表す。 === 基本的な演算 === 定義より :<math>a^{\log_a x} = x</math> が成り立つ。 積の対数は(底が等しい)対数の和に等しい。 :<math>\log_a xy=\log_a x+\log_a y</math> 商の対数は(底が等しい)対数の差に等しい。 :<math>\log_a\frac{x}{y}=\log_a x-\log_a y</math> {{mvar|p}} 乗の対数は、対数の {{mvar|p}} 倍に等しい。 :<math>\log_a x^p =p\log_a x</math> また、底の {{mvar|p}} 乗の対数は、対数の {{mvar|1/p}} 倍に等しい。({{mvar|p}}は0でない実数) :<math>\log_{a^p} {x} =\frac{1}{p}\log_a x</math> === 底の変換 === {{math|log''<sub>a</sub>&thinsp;x''}} を用いた式から {{math|log''<sub>b</sub>&thinsp;x''}} を用いた式へと変形するには、 :<math>\log_b x = \log_b \left(a^{\log_a x}\right) = \log_a x\cdot\log_b a</math> となることから、 :<math>\log_a x = {\log_b x \over \log_b a}</math> とすればよい。これを'''底の変換'''という。 これにより、特定の底・任意の真数での対数が分かる場合に、それらの値から任意の底での対数を得ることができる。たとえば、{{math|1=''b'' = 10}} として常用対数表から {{math|log<sub>10</sub>&thinsp;''a''}} と {{math|log<sub>10</sub>&thinsp;''x''}} を引くこともできるし、底 {{mvar|b}} をネイピア数 {{mvar|e}} として後述のマクローリン展開で {{math|log<sub>e</sub>&thinsp;''a''}} と {{math|log<sub>e</sub> ''x''}} を計算してもよい。 特に、{{math|1=''x'' &ne; 1}} ならば、{{math|1=''b'' = ''x''}} とすることにより :<math>\log_a x = {1 \over \log_x a}</math> を得る。 また、{{math|1=''b'' = 1/''a''}} とする(底を逆数にする)と、対数の符号が反転する。 :<math>\log_{1/a} x = \frac{\log_a x}{\log_a (1/a)} = - \log_a x.</math> === 余対数 === 逆数の対数 :<math>\mathrm{colog}_a x = \log_a \frac{1}{x} = - \log_a x = \log_{1/a} x </math> を {{mvar|a}} を底とする'''余対数'''(よたいすう、{{lang-en-short|cologarithm}})と呼ぶ。 === 対数の値の大きさに関する性質 === 底の値によらず、真数が 1 のとき対数は 0 である。 *<math>\log_a 1=0</math> {{math|''a'' &gt; 1}} の場合、対数は[[単調関数|狭義単調増加]] *<math>x<y\Leftrightarrow \log_a x<\log_a y</math> であり、 *<math>\lim_{x\to 0+} \log_a x=-\infty</math> *<math>\lim_{x\to \infty} \log_a x=\infty</math> が成り立つ。 {{math|0 &lt; ''a'' &lt; 1}} の場合、対数は[[単調関数|狭義単調減少]] *<math>x<y\Leftrightarrow \log_a x>\log_a y</math> であり、 *<math>\lim_{x\to 0+} \log_a x=\infty</math> *<math>\lim_{x\to \infty} \log_a x=-\infty</math> が成り立つ。 対数の発散は「とても緩やか」であり {{math|''p'' &gt; 0}} に対して *<math>\lim_{x\to \infty} \frac{|\log_a x|}{x^p} =0</math> が成り立つ。 === 解析学における公式 === [[微分]]に関する公式 *<math>\frac{d}{dx} \ln x=\frac{1}{x}</math> *<math>\frac{d}{dx} \log_a x=\frac{d}{dx} \frac{\ln x}{\ln a}=\frac{1}{x\ln a} =\frac{\log_a e}{x}</math> [[テイラー展開|マクローリン展開]]{{refnest|group="注釈"|数値計算をする上では :<math>\ln \frac{1+x}{1-x}=2\sum^{\infin}_{n=0} \frac{x^{2n+1}}{2n+1} \quad (|x|<1)</math> を用いる方が収束が速く、さらに {{math|(1 + ''x'')/(1 &minus; ''x'')}} は任意の正の実数を表せる{{harv|クーラント|ロビンズ|2001|loc=対数に対する無限級数.数値計算}}。}} *<math>\ln (1+x)=\sum^{\infin}_{n=1} \frac{(-1)^{n-1}}{n} x^n \quad (|x|<1)</math> *<math>\ln (1-x)=-\sum^{\infin}_{n=1} \frac{1}{n} x^n \quad (|x|<1)</math> [[積分]]に関する公式(以下の不定積分において {{mvar|C}} は積分定数とする) *<math>\int \frac{dx}{x} =\ln |x|+C</math> *<math>\int \ln x\, dx=x\ln x-x+C</math> *<math>\int \log_a x\, dx=\frac{x\ln x-x}{\ln a} +C =x\log_a x-x\log_a e+C=x\log_a \frac{x}{e} +C</math> 不等式 *<math>\frac{x}{1 + x} < \ln(1 + x) < x \quad (x > 0)</math> == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align:center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|13266|33D2|-|SQUARE LOG}} |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{refbegin}} *{{cite book|和書 |last = 本橋 |first = 洋一 |title = 解析的整数論 I ―素数分布論― |series = 朝倉数学大系1 |publisher = [[朝倉書店]] |year = 2009 |location = 東京 |isbn = 978-4-254-11821-6 |ref = harv }} *{{cite book|和書 |last1 = クーラント |first1 = R. |last2 = ロビンズ |first2 = H. |title = 数学とは何か |edition = 原書第2版 |publisher = [[岩波書店]] |year = 2001 |isbn = 978-4-00-005523-9 |ref = harv }} *{{cite book |last = Apostol |first = T. M. |title = Introduction to Analytic Number Theory |series = Undergraduate Texts in Mathematics |publisher = Springer-Verlag |place = New York |year = 1976 |isbn = 978-1-4757-5579-4 |ref = harv }} *{{cite journal|first=Florian|last=Cajori|authorlink=フロリアン・カジョリ|date=1913-1|title=History of the exponential and logarithmic concepts|publisher=American Mathematical Monthly|volume=20|issue=1|pages=5-14|doi=10.2307/2973509|ref={{sfnref|Cajori|1913 No.1}}}} *{{cite journal|first=Florian|last=Cajori|authorlink=フロリアン・カジョリ|date=1913-2|title=History of the exponential and logarithmic concepts|publisher=American Mathematical Monthly|volume=20|issue=2|pages=35-47|doi=10.2307/2974078|ref={{sfnref|Cajori|1913 No.2}}}} *{{cite journal|first=Florian|last=Cajori|authorlink=フロリアン・カジョリ|date=1913-3|title=History of the exponential and logarithmic concepts|publisher=American Mathematical Monthly|volume=20|issue=3|pages=75-84|doi=10.2307/2973441|ref={{sfnref|Cajori|1913 No.3}}}} *{{cite journal|first=Florian|last=Cajori|authorlink=フロリアン・カジョリ|date=1913-4|title=History of the exponential and logarithmic concepts|publisher=American Mathematical Monthly|volume=20|issue=4|pages=107-117|doi=10.2307/2972960|ref={{sfnref|Cajori|1913 No.4}}}} *{{cite journal|first=Florian|last=Cajori|authorlink=フロリアン・カジョリ|date=1913-5|title=History of the exponential and logarithmic concepts|publisher=American Mathematical Monthly|volume=20|issue=5|pages=148-151|doi=10.2307/2972412|ref={{sfnref|Cajori|1913 No.5}}}} *{{cite journal|first=Florian|last=Cajori|authorlink=フロリアン・カジョリ|date=1913-6|title=History of the exponential and logarithmic concepts|publisher=American Mathematical Monthly|volume=20|issue=6|pages=173-182|doi=10.2307/2973069|ref={{sfnref|Cajori|1913 No.6}}}} *{{cite journal|first=Florian|last=Cajori|authorlink=フロリアン・カジョリ|date=1913-7|title=History of the exponential and logarithmic concepts|publisher=American Mathematical Monthly|volume=20|issue=7|pages=205-210|doi=10.2307/2974104|ref={{sfnref|Cajori|1913 No.7}}}} *{{cite |url=http://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/HistTopics/e.html |title=The number e |first1=John J.|last1=O'Connor|first2=Edmund F.|last2=Robertson|publisher=University of St Andrews, Scotland |work=School of Mathematics and Statistics |date=2001-9|accessdate=2015-12-04|ref=harv}} *{{cite journal|和書|last=熊倉|first=啓之|title=中学との接続を重視した高等学校の幾何教育に関する研究(第3次): 三角比の指導に焦点を当てて|journal=静岡大学教育学部研究報告(教科教育学篇)|volume=第38号|pages=pp. 35&ndash;50|date=2007-3|doi= 10.14945/00000994|ref=harv}} *{{cite journal|和書|last=伊達|first=文治|title=三角法と対数の教材に関する史的考察|journal=[http://www.juen.ac.jp/math/journal.html 上越数学教育研究]|volume=第30号|publisher=上越教育大学数学教室|date=2015|pages=pp. 13&ndash;22|url=http://www.juen.ac.jp/math/journal/files/vol30/2015-date.pdf|ref=harv}} {{refend}} == 関連項目 == * [[指数関数]] * [[自然対数]] * [[常用対数]] * [[二進対数]] * [[離散対数]] * [[計算尺]] * [[フラクタル]] * [[対数スケール]] * [[デシベル]] * [[ネーパー]] * [[マグニチュード]] * [[水素イオン指数]](pH) * [[酸解離定数]](p''K''<sub>a</sub>) * [[片対数グラフ]] * [[両対数グラフ]] * [[多重対数関数]] == 外部リンク == {{commonscat|Logarithm}} * {{MathWorld|urlname=Logarithm|title=Logarithm}} * {{nlab|urlname=logarithm|title=Logarithms}} * {{PlanetMath|urlname=Logarithm|title=logarithm}} * {{ProofWiki|urlname=Definition:Logarithm|title=Definition:Logarithm}} * {{SpringerEOM|urlname=Logarithm_of_a_number|title=Logarithm of a number}} * [http://www.freewebs.com/brianjs/logarithmcalculator.htm Logarithm Calculator] * [http://www.mathlogarithms.com/ Explaining Logarithms] * [http://www.micheloud.com/FXM/LOG/index.htm Jost Burgi, Swiss Inventor of Logarithms] * [https://web.archive.org/web/20070627125949/http://www.johnnapier.com/table_of_logarithms_001.htm Translation of Napier's work on logarithms] * [http://www.jerrydallal.com/LHSP/logs.htm Logarithms - from The Little Handbook of Statistical Practice] * [http://en.literateprograms.org/Logarithm_Function_%28Python%29 Algorithm for determining Log values for any base] * {{Kotobank}} {{二項演算}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいすう}} [[Category:解析学]] [[Category:初等数学]] [[Category:初等関数]] [[Category:対数|*]] [[Category:数学に関する記事]]
2003-08-09T01:44:42Z
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ITRON
ITRON(アイトロン、Industrial TRON)は、TRONプロジェクトが策定・維持している組み込みOS・リアルタイムOSカーネルの仕様である。 仕様に準拠した実装を指して、ITRON OS等と呼ぶ場合もある。 トロンフォーラムが組込み総合技術展(主催:一般社団法人組込みシステム技術協会)で毎年実施している、「組込みシステムにおけるリアルタイムOSの利用動向に関するアンケート調査」によれば、日本では長年組み込みOSのトップシェアを占めており、業界標準のOSとして採用されている。例えば2016年度の調査では、組み込み系において(ITRONやT-Kernelなどを含む)TRON系OSのシェアが全体の約6割を占めたが、(μITRONを含む)ITRON系OSのシェアだけで全体の43%に達し、TRONに続くシェア2位となった(POSIXを含む)UNIX系OSの20%を引き離している。 なお、海外では2010年代の時点ではAndroidやUbuntuなどのLinux系OSが組み込み用としては圧倒的で、ITRONやT-Kernelなどを含むTRON系OSは全く使われておらず、海外でも販売されている日本製家電製品やトヨタ自動車の車載用OSとして使われて来たという歴史的事実のみ知られている(Usage_share_of_operating_systems(英語版)およびITRON project(英語版)を参照)。 海外ではあまり知名度がないが、日本製家電に搭載されて世界に輸出されているため、OSのシェア自体は高い。2003年の時点でOSのシェアが世界1位とされた。ライセンスが緩く、無料だったので、Linuxが普及する2000年代以前はアジアでもかなり使われていた。 極めて性能の低いシステムから、大規模なシステムにまで対応できることから、組み込み系OSで大きなシェアを占めるITRONのサブセット。μITRON3以降はITRONと言うとμITRONのことを指す。 TRONプロジェクトにおいて、インフラとなるシステムとして最初に設計が開始され、情報処理学会の第29回全国大会で基本設計の概要を発表している。 2016年現在のμITRON仕様の最新は、1999年公開のμITRON4仕様で、μITRON4仕様の最新は、2006年12月公開の4.03.03である。仕様書では、μITRONからT-Kernelへの移行がスムーズに果たせるような仕様を今後策定したいという予定が語られている。 坂村曰く、μITRONは2000年の時点ですでに「成熟した技術」とのこと。ユビキタス・コンピューティング時代にはITRONプロジェクトよりもT-Kernelプロジェクトに注力すべきとの立場で、従来μITRONが得意とした小規模システム向けにもμT-Kernelが用意され、IoT時代に向けたμT-Kernel 2.0も用意されている。 T-Kernelは高度な情報処理を必要とする組み込み系システムで主に採用されているが、それほどでもないシステムでは依然としてμITRONが使われている。 組み込み用として、一般消費者の身近にはない機器や、エアコン・電子レンジ・炊飯器・テレビやゲーム機のリモコンなど、身近ではあっても見えないところのOSとして採用されている。 テレビ録画サーバーや自動車と言った高度な機器にも採用されており、これらの機器ではシステム全体を制御する高度なOSの下に、複数のMCUとそれらを制御する複数のOSが搭載されている場合があるので、メインOSとしては組込Linuxや組込Windowsを採用していても、録画サーバーのメディア書き込み用MCUや自動車のエンジン制御用MCUなどその下の見えないところではμITRONが稼働している場合がある。例えば、任天堂が2017年に発売したゲーム機・Nintendo Switchは、メインOSとしてFreeBSD準拠のOSを採用しているが、コントローラー(Joy-Con)の近距離無線通信(NFC)制御用としてμITRON4.0仕様に準拠したイーソル社のリアルタイムOSを採用している。Nintendo Switchは、本体のファイルシステムはイーソル社のT-Kernelベースの「eCROS」プラットフォームの一部である「PrFILE2 exFAT」を採用しており、またNFCを扱う通信スタックとしてAndroidプラットフォームの一部である「Libnfc-nci」を採用するなど、TRON系OSを含む様々なプラットフォームを採用していることが分かっている(任天堂のゲーム機はマニアがいるので詳しく解析されているが、ゲーム機以外にも自動車やスマートフォンなどの高度な機器ではメインOS以外にリアルタイムOSを含む複数のOSを搭載しているのが一般的である)。 一般消費者の見えるところのOS、つまりGUIを搭載したOSとしては、2000年代前半から後半にかけて日本で普及した高機能携帯電話(ガラケー)のOSとして広く使われていた。例えば、ルネサスが2004年に発売し、2000年代中頃に日本で発売された高機能携帯電話の多くでメインCPUとして採用されたSH-Mobile3など、携帯電話メーカーにプロセッサを提供するマイコンメーカーがプラットフォームの一部としてITRON仕様OSを提供していた。しかし、ITRONは標準化が弱く、各社で各携帯電話ごとにカスタマイズして使っていたため、ソフトウェア規模が大きくなる第3世代移動通信システム(3G)携帯ではOSのカスタマイズ費用や手間が大きすぎることが問題となった。そのため、例えばNTTドコモは2003年に、同社の3GサービスであるFOMAではOSとして今後はSymbian OSとLinuxを推奨することを表明するなどして、2005年頃よりガラケーにおいてもITRONのようなリアルタイムOSではなくLinuxのような汎用性のあるOSが使われるようになった。 携帯電話のメインOSとして使用されなくなった後も、カメラ制御用のマイコンなどに搭載されて動いている可能性がある。例えば、富士通が2003年に発売し、2000年代前半に日本で普及したカメラ付き高機能携帯電話の多くに採用された画像処理LSI「Milbeaut Mobile」がμITRONをOSとして採用していた。Milbeautシリーズは、2010年代においてもドライブレコーダー、ドローン、監視カメラなどの画像処理LSIとして販売されている。 1990年代から2000年代前半のマルチメディア機器においては、低性能なプロセッサの性能を最大限に引き出して動画処理やネット通信をリアルタイムで並列的に制御するような高度な機能を実現するために、ITRONのようなリアルタイムOSを使わざるを得なかったが、一方で技術者の負担が非常に大きく、マイコンの性能が大きく向上した2010年代以降、このような高機能な機器の制御にリアルタイムOSを使うことは推奨されていない。基本的にAndroidなどの組み込みLinuxが使われ、どうしてもリアルタイム性が必要な部分にのみリアルタイムOSが使われる。ITRONは標準化が弱いため、高機能な組込みシステム向けのリアルタイムOSとして、トロンフォーラムではT-Kernelを推奨しており、実際に2000年代前半の一般消費者向け組み込み機器でも、2008年当時のセイコーエプソンのプリンターカラリオシリーズではイーソル社のT-Kernelベースのソフトウェアプラットフォーム「eCROS」を採用していた。 T-EngineフォーラムによるT-KernelはμITRON3.0仕様の発展版である。 ITRONでは「弱い標準化」の思想から、極めて性能の低いシステム(安価で大量に製造される組み込み系システム)から大規模な組み込みシステムにも対応できる柔軟性を持ったシステムであったが、そのぶん実装がハードウェアに依存する部分が大きく、システム自体のコストよりも技術者の教育や開発にかかる人的コストが相対的に重視される大規模な組み込みシステムでは「ソフトウェアの移植性が低い」「ミドルウェアの導入ができない」「技術者の負担が大きい」といった問題があった。 その反省から、T-Kernelは「より強い標準化」の思想でITRONの標準化を進め、互換性や移植性を高めることでミドルウェアの流通を推進し、大規模組み込みシステムにおける開発の効率を高めることを目的としている。 TOPPERSはITRONの主要な実装のひとつで、TOPPERS/JSPカーネルはμITRON仕様4.03に基づいている。TOPPERS新世代カーネルは、ITRON仕様に必ずしも準拠させないとしているが、ITRONベースである。
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ITRONは、TRONプロジェクトが策定・維持している組み込みOS・リアルタイムOSカーネルの仕様である。 仕様に準拠した実装を指して、ITRON OS等と呼ぶ場合もある。 トロンフォーラムが組込み総合技術展(主催:一般社団法人組込みシステム技術協会)で毎年実施している、「組込みシステムにおけるリアルタイムOSの利用動向に関するアンケート調査」によれば、日本では長年組み込みOSのトップシェアを占めており、業界標準のOSとして採用されている。例えば2016年度の調査では、組み込み系において(ITRONやT-Kernelなどを含む)TRON系OSのシェアが全体の約6割を占めたが、(μITRONを含む)ITRON系OSのシェアだけで全体の43%に達し、TRONに続くシェア2位となった(POSIXを含む)UNIX系OSの20%を引き離している。 なお、海外では2010年代の時点ではAndroidやUbuntuなどのLinux系OSが組み込み用としては圧倒的で、ITRONやT-Kernelなどを含むTRON系OSは全く使われておらず、海外でも販売されている日本製家電製品やトヨタ自動車の車載用OSとして使われて来たという歴史的事実のみ知られている。 海外ではあまり知名度がないが、日本製家電に搭載されて世界に輸出されているため、OSのシェア自体は高い。2003年の時点でOSのシェアが世界1位とされた。ライセンスが緩く、無料だったので、Linuxが普及する2000年代以前はアジアでもかなり使われていた。
{{otheruses|オペレーティングシステム|蛍光表示管メーカー|ノリタケ伊勢電子}} '''ITRON'''(アイトロン、'''Industrial TRON''')は、[[TRONプロジェクト]]が策定・維持している[[組み込みオペレーティングシステム|組み込みOS]]・[[リアルタイムオペレーティングシステム|リアルタイムOS]]カーネルの仕様である。 仕様に準拠した実装を指して、ITRON OS等と呼ぶ場合もある。 トロンフォーラムが組込み総合技術展(主催:一般社団法人組込みシステム技術協会)で毎年実施している、「組込みシステムにおけるリアルタイムOSの利用動向に関するアンケート調査」によれば、[[日本]]では長年組み込みOSのトップシェアを占めており、業界標準のOSとして採用されている。例えば2016年度の調査では、組み込み系において(ITRONやT-Kernelなどを含む)TRON系OSのシェアが全体の約6割を占めたが、(μITRONを含む)ITRON系OSのシェアだけで全体の43%に達し、TRONに続くシェア2位となった(POSIXを含む)UNIX系OSの20%を引き離している<ref>[http://www.tron.org/ja/wp-content/uploads/sites/2/2016/04/TEP160405_u01.pdf TEP160405_u01.pdf]トロンフォーラム</ref>。 なお、海外では2010年代の時点では[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]や[[Ubuntu]]などの[[Linux]]系OSが組み込み用としては圧倒的で、ITRONやT-Kernelなどを含むTRON系OSは全く使われておらず、海外でも販売されている日本製家電製品やトヨタ自動車の車載用OSとして使われて来たという歴史的事実のみ知られている({{仮リンク|Usage_share_of_operating_systems|en|Usage_share_of_operating_systems}}および{{仮リンク|ITRON project|en|ITRON project}}を参照)。 海外ではあまり知名度がないが、日本製家電に搭載されて世界に輸出されているため、OSのシェア自体は高い。2003年の時点でOSのシェアが世界1位とされた<ref>[http://www.linuxinsider.com/story/31855.html The Most Popular Operating System in the World | Software | LinuxInsider]</ref>。ライセンスが緩く、無料だったので、Linuxが普及する2000年代以前はアジアでもかなり使われていた。 == μITRON == {{see|μITRON}} 極めて性能の低いシステムから、大規模なシステムにまで対応できることから、組み込み系OSで大きなシェアを占めるITRONのサブセット。μITRON3以降はITRONと言うとμITRONのことを指す。 == 歴史 == TRONプロジェクトにおいて、インフラとなるシステムとして最初に設計が開始され、情報処理学会の第29回全国大会で基本設計の概要を発表している。 * 1984年頃 TRONプロジェクトのサブプロジェクトとしてITRONの開発開始。 * 1987年 ITRON1の仕様が公開。 * 1989年 ITRONのバージョン2となるITRON2、およびそのサブセットとなるμITRON2の仕様が公開。 ** ITRON2では、32bitの大規模なシステム向けに策定されたITRONと、8~16bitの小規模な[[マイクロコントローラ|ワンチップマイコン]]等を対象としたサブセット的な仕様である[[μITRON]]とに分けて公開された(このため、μITRONにはバージョン1は存在せず、最初のバージョンがμITRON2.0である)。このうちμITRON2は、非常に性能の低いMCUでも利用できたことから、組み込み向けで主要なMCUのほぼすべてで採用されるほど極めて広範囲に使われ、32bitの大規模システムにまでμITRONが採用されることとなったため、それらの事例のフィードバックから、μITRON3では8-32bitまでに対応できるスケーラビリティを持った仕様が策定されることとなった。 * 1993年 μITRON3の仕様が公開。 ** μITRON3ではシステムコールのレベル分けによって、一つの仕様で小規模システムから大規模システムまでをカバーしている。ITRON2のフルセットにほぼ相当する機能を定めている。 * 1996年頃 ITRONサブプロジェクトの第2フェーズが開始。 **この頃より組み込みシステムが急速に大規模化・複雑化していったため、アプリケーションの移植性を高めるための要望が高まった。また、組み込み向けシステムが高性能化し、ITRON仕様の策定時点ではオーバヘッドが大きすぎるために見送られた機能でも入れられるようになった。μITRON4の仕様書で紹介されているTRON協会のアンケートでは、当時の現場では「OSの使用リソースが大きすぎる」という悩みよりも「技術者が使いこなせない」「仕様の違いが大きく切り替えの負担が大きい」といった悩みの方が大きかったという。 * 1999年 μITRON4の仕様が公開。 ** 従来のITRONでは性能の低いCPUでも利用できるように「弱い標準化」の思想だったが、ITRON上でのミドルウェアの利用が広まるとともに、ソフトウェアの移植性を高める「強い標準化」の要望が出てきたことから、仕様の互換性や厳密性が高められた。 * 2000年 T-Engineプロジェクト開始。 ** ITRONの標準化を進め、「より強い標準化」を志向した次世代リアルタイムOSであるT-Kernelプロジェクトが開始された。 === 現状 === 2016年現在のμITRON仕様の最新は、1999年公開のμITRON4仕様で、μITRON4仕様の最新は、2006年12月公開の4.03.03である。仕様書では、μITRONからT-Kernelへの移行がスムーズに果たせるような仕様を今後策定したいという予定が語られている。 坂村曰く、μITRONは2000年の時点ですでに「成熟した技術」とのこと。[[ユビキタス・コンピューティング]]時代にはITRONプロジェクトよりもT-Kernelプロジェクトに注力すべきとの立場で、従来μITRONが得意とした小規模システム向けにもμT-Kernelが用意され、[[IoT]]時代に向けたμT-Kernel 2.0も用意されている。 T-Kernelは高度な情報処理を必要とする組み込み系システムで主に採用されているが、それほどでもないシステムでは依然としてμITRONが使われている。 == 主な採用例 == [[File:Toyota_Land_Cruiser_Prado_120_003.JPG|thumb|260px|エンジン制御システムにμITRONを採用したトヨタ・[[トヨタ・ランドクルーザープラド|PRADO]](2005年)<ref>[http://30th.tron.org/products.html TRON PROJECT 30th Anniversary]</ref>]] [[ファイル:Nintendo Switch Console.png|thumb|260px|本体のメインOSに[[FreeBSD]]、コントローラー(Joy-Con)の無線通信制御用OSにμITRON4.0を採用したゲーム機・[[Nintendo Switch]](2017年)<ref>[https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/1707/07/news029.html 「Nintendo Switch」がμITRON4.0仕様準拠リアルタイムOSを採用 - MONOist(モノイスト)]</ref>]] 組み込み用として、一般消費者の身近にはない機器や、エアコン・電子レンジ・炊飯器・テレビやゲーム機のリモコンなど、身近ではあっても見えないところのOSとして採用されている。 テレビ録画サーバーや自動車と言った高度な機器にも採用されており、これらの機器ではシステム全体を制御する高度なOSの下に、複数のMCUとそれらを制御する複数のOSが搭載されている場合があるので、メインOSとしては組込Linuxや組込Windowsを採用していても、録画サーバーのメディア書き込み用MCUや自動車のエンジン制御用MCUなどその下の見えないところではμITRONが稼働している場合がある。例えば、任天堂が2017年に発売したゲーム機・[[Nintendo Switch]]は、メインOSとして[[FreeBSD]]準拠のOSを採用しているが、コントローラー(Joy-Con)の近距離無線通信(NFC)制御用としてμITRON4.0仕様に準拠したイーソル社のリアルタイムOSを採用している<ref>{{Cite web|和書|title=「Nintendo Switch」【ゲーム機器】リアルタイムOS・ツール・ミドルウェア {{!}}|url=https://www.esol.co.jp/successstory/case_110.html|website=eSOL - イーソル株式会社|accessdate=2021-05-13|language=ja}}</ref>。Nintendo Switchは、本体のファイルシステムはイーソル社のT-Kernelベースの「eCROS」プラットフォームの一部である「PrFILE2 exFAT」を採用しており、またNFCを扱う通信スタックとしてAndroidプラットフォームの一部である「Libnfc-nci」を採用するなど、TRON系OSを含む様々なプラットフォームを採用していることが分かっている(任天堂のゲーム機はマニアがいるので詳しく解析されているが、ゲーム機以外にも自動車やスマートフォンなどの高度な機器ではメインOS以外にリアルタイムOSを含む複数のOSを搭載しているのが一般的である)。 一般消費者の見えるところのOS、つまりGUIを搭載したOSとしては、2000年代前半から後半にかけて日本で普及した高機能携帯電話([[ガラケー]])のOSとして広く使われていた。例えば、[[ルネサス]]が2004年に発売し、2000年代中頃に日本で発売された高機能携帯電話の多くでメインCPUとして採用された[[SuperH|SH-Mobile3]]など、携帯電話メーカーにプロセッサを提供するマイコンメーカーがプラットフォームの一部としてITRON仕様OSを提供していた。しかし、ITRONは標準化が弱く、各社で各携帯電話ごとにカスタマイズして使っていたため、ソフトウェア規模が大きくなる[[第3世代移動通信システム]](3G)携帯ではOSのカスタマイズ費用や手間が大きすぎることが問題となった<ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/0312/03/n_linux.html Mobile:ドコモ、FOMA向けLinuxの仕様を確定] ITmedia</ref>。そのため、例えば[[NTTドコモ]]は2003年に、同社の3Gサービスである[[FOMA]]ではOSとして今後は[[Symbian OS]]とLinuxを推奨することを表明するなどして、2005年頃よりガラケーにおいてもITRONのようなリアルタイムOSではなくLinuxのような汎用性のあるOSが使われるようになった。 携帯電話のメインOSとして使用されなくなった後も、カメラ制御用のマイコンなどに搭載されて動いている可能性がある。例えば、富士通が2003年に発売し、2000年代前半に日本で普及したカメラ付き高機能携帯電話の多くに採用された画像処理LSI「[[Milbeaut|Milbeaut Mobile]]」がμITRONをOSとして採用していた<ref>[https://www.fujitsu.com/downloads/JP/archive/imgjp/jmag/vol63-4/paper03.pdf 携帯電話向け画像処理LSI:Milbeaut Mobile]</ref>。Milbeautシリーズは、2010年代においてもドライブレコーダー、ドローン、監視カメラなどの画像処理LSIとして販売されている。 1990年代から2000年代前半のマルチメディア機器においては、低性能なプロセッサの性能を最大限に引き出して動画処理やネット通信をリアルタイムで並列的に制御するような高度な機能を実現するために、ITRONのようなリアルタイムOSを使わざるを得なかったが、一方で技術者の負担が非常に大きく、マイコンの性能が大きく向上した2010年代以降、このような高機能な機器の制御にリアルタイムOSを使うことは推奨されていない。基本的に[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]などの組み込みLinuxが使われ、どうしてもリアルタイム性が必要な部分にのみリアルタイムOSが使われる。ITRONは標準化が弱いため、高機能な組込みシステム向けのリアルタイムOSとして、トロンフォーラムではT-Kernelを推奨しており、実際に2000年代前半の一般消費者向け組み込み機器でも、2008年当時の[[セイコーエプソン]]のプリンター[[カラリオ]]シリーズではイーソル社のT-Kernelベースのソフトウェアプラットフォーム「eCROS」を採用していた<ref>{{Cite web|和書|title= エプソンがカラリオ™ シリーズの最上位機種にイーソルのマルチコアプロセッサ対応リアルタイムOSを採用|title{{!}}|url=https://www.esol.co.jp/archive/news/emb_press081009.html|website=eSOL - イーソル株式会社|accessdate=2022-04-13|language=ja}}</ref>。 == 発展 == === T-Kernel === {{main|T-Kernel}} [[T-Engine]]フォーラムによる[[T-Kernel]]はμITRON3.0仕様の発展版である。 ITRONでは「弱い標準化」の思想から、極めて性能の低いシステム(安価で大量に製造される組み込み系システム)から大規模な組み込みシステムにも対応できる柔軟性を持ったシステムであったが、そのぶん実装がハードウェアに依存する部分が大きく、システム自体のコストよりも技術者の教育や開発にかかる人的コストが相対的に重視される大規模な組み込みシステムでは「ソフトウェアの移植性が低い」「ミドルウェアの導入ができない」「技術者の負担が大きい」といった問題があった。 その反省から、T-Kernelは「より強い標準化」の思想でITRONの標準化を進め、互換性や移植性を高めることでミドルウェアの流通を推進し、大規模組み込みシステムにおける開発の効率を高めることを目的としている。 === TOPPERS === {{main|TOPPERS}} [[TOPPERS]]はITRONの主要な実装のひとつで、[[TOPPERS/JSPカーネル]]は[[μITRON]]仕様4.03に基づいている。TOPPERS新世代カーネルは、ITRON仕様に必ずしも準拠させないとしているが、ITRONベースである。 ==脚注== ===文献=== * μITRON 4.0仕様 等 http://www.t-engine.org/ja/specifications#d * μITRON4.0標準ガイドブック http://www.personal-media.co.jp/book/tron/191.html ===出典=== <references /> == 関連項目 == *[[はやぶさ (探査機)]] {{TRON}} {{Computer-stub}} {{Software-stub}} {{DEFAULTSORT:ITRON}} [[Category:TRONプロジェクト]] [[Category:OSのカーネル]] [[Category:組み込みOSの製品]]
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仮面ライダーBLACK
『仮面ライダーBLACK』(かめんライダーブラック)は、1987年10月4日から1988年10月9日まで、TBS系列で毎週日曜10時から10時30分(JST)に全51話が放送された、毎日放送・東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公が変身するヒーローの名称。 『仮面ライダースーパー1』以来、6年ぶりのテレビシリーズの新作。 過去のライダーと異なり、マフラーや手袋・ブーツのようなスーツを思わせる造形を省いた外骨格的(生物的)なデザイン、モチーフ動物の特徴をよりリアルに表現した怪人、戦闘員のいない敵組織など様々な新機軸が盛り込まれた。怪人のネーミングが「○○怪人」とシンプルなものに統一されている点も原点回帰の一環であり、仮面ライダーの体色が黒である点も、放送前の特番で「バッタの血液は黒」だと引用し、黒い仮面ライダーの姿に原点に戻るという意向を託した。 中でも、敵組織に仮面ライダーと全く同格の改造人間・世紀王シャドームーンが登場することは特徴的だった。シャドームーンは名前に「仮面ライダー」の文字は含まないものの、歴代仮面ライダーを紹介する書籍やバンダイの玩具などでもBLACKとほぼ同等に扱われている。この設定は、後のシリーズにおける「仮面ライダー対仮面ライダー」の構図の先駆けとなっている。 「原点回帰」の設定に加え、敵となった兄弟同然の親友と戦わねばならなくなった主人公の悲哀を描いた終盤のハードな展開、ヒーローが戦いに勝利したにもかかわらず、主人公にとってはやるせなさを残したラストに示されるようなドラマ性などがオンエア当時から高く支持され、視聴率も好調だった(平均視聴率9.2パーセント)。そのため、本作品に続けて南光太郎を主人公とする続編『仮面ライダーBLACK RX』が制作され、事実上2年続くシリーズとなった。 大学生・南 光太郎()は19歳の誕生日を迎えた日、親友の秋月信彦とともに暗黒結社ゴルゴムによって拉致される。そして、次期創世王候補にせんとする三神官から体内にキングストーン「太陽の石」を埋め込まれ、世紀王ブラックサンに生体改造された。 息子たちから人としての記憶だけは消させまいと乱入した秋月総一郎の手引きによって、脳改造を受ける寸前に、ゴルゴムが世紀王のために用意していたバイク型生命体・バトルホッパーを駆って逃亡した光太郎だったが、三神官に捕われて攻撃を受ける。その衝撃の中、光太郎の体は異形のバッタ男からブラックサンの姿となる。 その後、総一郎の死を経て、光太郎は仮面ライダーBLACKを名乗り、信彦の救出とゴルゴム壊滅のために戦いを開始する。 有史以前から驕り高ぶる人類の発展した文明や文化を完全破壊と淘汰し、優れた人間だけを怪人にして、怪人だけの世界を創ろうと暗躍を続けていた創世王が統治する暗黒結社。組織には政財界の実力者や優秀な科学者も参加しており、世界を裏から操っている。5万年に一度、キングストーンを持つ2人の世紀王を闘わせ、勝った方を次期創世王にする。基本的に人間に対しては冷酷で、同族としての怪人を重んじる。人類を不良品種と考えているため、死の恐怖がない5万年以上の生命を持つ改造怪人だけの世界を創り、本能のままに生きさせようとする。物語終盤で大怪人ダロムが組織の理念を否定する発言を行い、クジラ怪人の離反を招いた。シャドームーン復活を機に人類に宣戦布告したことで、その存在が世界に知れ渡ることとなった。次回作『仮面ライダーBLACK RX』での歴代10人ライダーはゴルゴムの海外支部と各国で戦い、撃破したことが語られている。 ゴルゴムの守護神にして総支配者で、代々5万年ごとに交代している。その姿は巨大な心臓そのもので、即に寿命が尽きようとしているが、それでも地球を破壊するほどの力を持つ。また、破壊光球を招来させたり、ロードセクターですら破れない強力なバリヤーを張り、シャドームーンにパワーを付与する能力を持つ。テレパシーによって世紀王や三神官と会話をする。 光太郎と信彦を世紀王ブラックサン・シャドームーンに選び、ブラックの脱走後はシャドームーンを次期創世王と定めた。しかし、シャドームーンの生命力が低下した際にはビルゲニアにサタンサーベルを与え世紀王昇格を暗示したこともあった。シャドームーン復活後は、太陽の黒点に自らの死期を見出し、ブラックサンとの戦い、最後の選別を迫り、自らの力を分け与えてブラックを倒させようとしたが、シャドームーンが敗れたためにブラックを次期創世王にしようとする。しかし、ブラックがそれを拒絶したために自らの命を引き換えにして地球を破壊しようとするが、ブラックが呼び寄せたサタンサーベルによって身体を刺し貫かれ、「人間の心に悪がある限り必ず甦る」と言い残しゴルゴム神殿と共に爆死した。 漫画『仮面ライダーSPIRITS』作者の村枝賢一によると、シャドームーンが緑色の仮面ライダーに、創世王が金色の仮面ライダーになり、三つ巴の戦いを繰り広げるという展開も考案されていたとされている。 次期創世王の候補である2人の戦士。その証としてキングストーンを持つ。次期創世王の後継者争いは5万年周期に、継承の儀式が行われ、皆既日食の日に誕生した人間を当代のゴルゴム最高の技術で互いに同格の力を持つ生体改造人間の戦士に改造し互いに競わせ、勝利した片方が創世王となる。 世紀王の証にして力の源となるのが「太陽の石」と「月の石」の2つのキングストーンである。後継者争いに勝ち抜き2つの石を両方手に入れたものが、名実ともに次期創世王となる。数々の奇跡を起こすもその力はあくまで石の力の一端で真の力は未知数であり、2つの石を揃えた時に真の力を発揮するとされる。 それぞれ、詳しくは個別の記事を参照。 第18話より登場。古代甲冑魚ビルケニアの大怪人。三万年前の日食の日に生まれたが、創世王の全盛期であったためキングストーンを与えられず世紀王になれなかった。過去の横暴な態度のため創世王の怒りに触れ、封印の棺に封じ込められていたが、創世王の命によりBLACKを倒すため三神官が復活させた。復活後は創世王にこそ忠誠を示したが、三神官に対しては慇懃無礼かつ反抗的でありしばしば作戦の妨害もした。BLACKのキングストーンを奪って、世紀王になろうとする。 初戦では事前にクロネコ怪人を犠牲にして能力をリサーチしたこともあり、BLACKを敗退させ、以後も何度も激闘を繰り広げたが決着はつかなかった。復活してからしばらくは顔の色は肌色だったが、体調が戻ると本来の色である白色に戻る。 妖剣ビルセイバーと、ゴルゴムの紋章が刻まれた盾ビルテクターを武器に持ち剣技を誇る。また、ビルセイバーで斬った人間を操ったり、剣を投げつけることで追尾する炎の矢へと変える。ビルセイバーからは強力なエネルギー波プレッシャーウェーブや秒速200メートルの旋風ダークストームなどを発生させたり、多数の分身を生成するデモントリックなどの多くの妖術や催眠術、変身能力、ビルケープで全身を包むと光の玉になり自在に飛行するなど、世紀王であるBLACKを凌ぐ特殊能力を発揮した。耐久力もライダーパンチやライダーキックを立て続けに受けても耐えられるほど高い。またロードセクターを開発した大門の教え子である江上の協力を得て自ら専用の超武装マシン・ヘルシューターを完成させ、ロードセクターを駆るBLACKと互角のマシン戦を展開した。バトルホッパーを奪おうと企んだこともあり、タマムシ怪人によって制御不能にされ暴走したところを乗っ取ろうとしたが、失敗している。 冷酷な性格ながら、黒松に変装して光太郎を殺そうとしたときには、人目を恐れて殺害を断念したり、BLACKは自分が倒すというプライドゆえにBLACKへの勝機を逃すこともしばしばあった。 その後シャドームーンとビルゲニアを天秤にかける創世王から次期創世王の剣サタンサーベルを与えられ、サタンサーベルとビルセイバーを併用し新必殺技サタンクロスを編み出したり、サタンサーベルの魔力で人々を洗脳して暴徒化するなどより強大な力を手に入れた。第35話でBLACKと戦闘中にシャドームーンが復活。サタンサーベルを奪われ、BLACKにライダーパンチとライダーキックの連打を受けて深手を負う。ゴルゴム神殿に帰還するもシャドームーンと戦わざるを得なくなり、サタンサーベルの一撃で斬り捨てられ倒された。 ゴルゴムの活動を具体的に決め、実践する大役を負う。一般怪人の中で組織への功績の大なる者が先代の神官に選出・再改造され、命の石を得ることで誕生する。創世王の交代時期には世紀王の育成や作戦指揮を補佐する役目を持つ。BLACKのことを当初は「ブラックサン」と呼んでいたが第4話から世間での呼称に合わせ「仮面ライダーBLACK」と呼び名が変わった。またシャドームーンを当初は呼び捨てをしていたが、復活後からは様付けで呼んでいる。三神官は、全て空中浮遊術および人間に変身する能力、暗黒超力と呼ばれる邪悪な超能力を持っている。 人間に動植物の遺伝子と能力を暗黒超力によって移植・融合させた改造人間で、5万年以上もの長い寿命を持つ。元が古代人であるため、人間態を持っている者もおり知能も高いが、ほとんどの者は怪人態では人語は話さない。アンモナイト怪人のように化石が怪人化した者も存在し、シーラカンス怪人のように現代人を改造した例も存在する。また、43話の描写から逆に動植物に直接人間の生体エネルギーを与えることで怪人にするケースもある模様。ゴルゴメスの実のタウリンを栄養源としているが、ゴルゴメスの実は地上世界でしか育たないため、多数の怪人が目覚めると不足をきたした。そのため、空中に無数の胞子を散布して人間に発芽させ培養、大量採取する作戦が採られたこともある(第11話)。 社会的に高い地位や名声を築いた者のみで構成され、傍ら彼らもゴルゴムに対して技術面や資金面における援助を行っている。様々な理由からゴルゴムの援助を受けている。一部のメンバーは暗黒超力によってある程度の知力や体力が大きく向上している。5万年以上の生命力を持つ怪人に憧れており、自らも怪人になることを望んでいる者もいれば、秋月総一郎のように恐怖のために仕方なく従っているメンバーも少数は存在している。 ※ 参考文献:『宇宙船別冊・仮面ライダーBLACK』(朝日ソノラマ・1988年)、『仮面ライダー大図鑑(6) 』(バンダイ・1992年)、『仮面ライダー 昭和 Vol.10・仮面ライダーBLACK』(講談社・2016年) 第1話の監督の小林義明は当初は別の作品の準備に入る予定だったが、プロデューサーの吉川の依頼で同話のみ担当することとなった。 BGMはのちに『仮面ライダーJ』、『五星戦隊ダイレンジャー』や『忍者戦隊カクレンジャー』を手掛けることになる川村栄二が作・編曲し、主題歌は歌謡曲界でヒットメーカーとして実績を挙げていた宇崎竜童・阿木燿子夫妻が作詩・作曲を手がけている。川村は、仮面ライダーBLACKのデザインを見てクールで都会的だと感じ、シンセサイザーを無機質に用いたと述べている。 挿入歌の作曲では渡辺宙明、同編曲では石田勝範がやはりシリーズ初参加となった。主題歌「仮面ライダーBLACK」と挿入歌「オレの青春」は主演を務めた倉田てつをが歌唱を担当した。 本作品のサウンドトラック・アルバム『仮面ライダーBLACK 音楽集』はLPレコードとカセットテープとCDの3種類が発売されたが、両者のキャパシティの差から、一部の曲はCDのみの収録となっている。また、収録された音源は、番組の本編ダビング用とは別にレコード・CD用にミックスされたものである。 このほかに、第14話では「ABC」、第15話では「ガラスの十代」、第28話では「パラダイス銀河」が使用された。 仮面ライダーシリーズの原作者である石ノ森章太郎と東映プロデューサーの平山亨は、『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』終了から2年経った1986年3月に新たな仮面ライダーシリーズを立ち上げるべく『キミは仮面ライダーをみたか?!』という企画書を制作した。この企画は「原点回帰」をコンセプトに仮面ライダー1号の世界観を最新技術でリフレッシュするというもので、石ノ森の描きおろしイラストがふんだんに用いられるなど力の入れられたものであったが、当時はリアルロボットアニメが勢いづいている時期であり、関係各方面からは好意的な反応は受けられず実現に至らなかった。その後、この企画は平山からメタルヒーローシリーズを手がけていたプロデューサーの吉川進の手に渡り、本作品の原案となった。 平山亨から交替したプロデューサーの吉川進の指揮下で旧作から世界観と設定の一新が行われ、過酷な運命を背負った主人公の苦悩と希望を中心に据えた物語づくりを目指して制作された。石ノ森は、原点に立ち返るつもりで「仮面ライダー0号」をイメージしたと語っている。スタッフの多くは宇宙刑事シリーズから共通している。ただし、脚本の鷺山京子、監督の小西通雄や撮影の松村文雄など、一部は過去のライダーシリーズに参加経験のあるスタッフも起用されていた。 本作品は小学館が出版権、すなわち雑誌連載などをほぼ独占的に行う権利を確保している。そのため、これまでのシリーズのグラフ記事では他社の追従を許さない立場にあった、『テレビマガジン』を始めとする講談社の児童グラフ誌には、本作品の情報や漫画は掲載されていない。当時講談社写真部のカメラマンであった大島康嗣も、本作品の撮影現場には一度も行っておらず、後年「本編で撮れなかったことが悔やまれてなりません」と語っている。 吉川によれば、スタッフらは仮面ライダーの特徴として「主人公は悪の組織から脱出してきた」「改造人間」「バイクに乗る」「バッタがモチーフ」「正義のヒーロー」という5要素を取り上げた上で、これらを当時最新の技術でリメイクするのか、あるいはすべてを否定するのかを検討したという。結果として、本作品ではリメイク案が採用された。 デザイン面においては、これまでのシリーズでは仮面ライダーのデザインは、石ノ森と東映側の意向が大きく反映されることが常だったものが、バンダイのディレクションが強く作用していることが特筆される。デザインのフィニッシュはバンダイ傘下のプレックスが手がけた。それまでのマフラーとスーツに、グローブとブーツといった「人が着ている」印象を排除し、生物的・外骨格的とも評されるソリッドな意匠は、裏を返せば玩具化を前提としたデザインということでもあるが、これまでの仮面ライダーとは異なるシャープなイメージを打ち出すだけでなく、後のライダーのデザインにも影響を与えている。 石ノ森によるラフデザインでは「バッタ男がスーツを着ている」というコンセプトのものもあり、この案は『真・仮面ライダー 序章』でも検討されている。 本放送当時に発行された特集ムック(宇宙船の別冊)のスタッフへのインタビューによると、従来までの東映ヒーロー特撮作品ではヒーローのスーツを見栄えが良いFRP製のアップ用と、動きやすい軟質ウレタン製のアクション用の2種類用意することが常だったものが、本作品では皺が寄り難い最新の軟質素材を採用したことで、アクション用がアップ用を兼ねられるようになったとある。この軟質素材製スーツが、ソリッド(外骨格的)ながらも生物的(柔らかい)というBLACKのビジュアルイメージと柔軟かつ頑強という設定上の特徴が一致することとなった。なお、NGデザインとして同じ形状ではあるが色がメタリックブルーのスーツが製作されている。また当初は間接部がメカニック的であったが、石ノ森の監修でNGとなり、筋肉と血管状の意匠に変更された。 テレビと視聴者である児童が一体となれるようにとの意向により、当時バンダイから発売されていた「テレビパワーシリーズ」(変身ベルトやBLACKのフィギュアなど)には、『キャプテンパワー』のグッズで導入された「テレビパワー」機能が搭載されていた。劇中の変身シーンや必殺技を繰り出すシーンなどでは、映像から白の閃光が連続的に発せられることにより画面が黒と白に明滅する効果(いわゆるパカパカと呼ばれる技法)が画面に合成されており、グッズに内蔵された光センサーが点滅信号を受信して発光回転が作動するというギミックである。ただし、当初期待していた業績には届かなかったため、挽回策としてパッケージの変更や、テレビパワーのギミックを省いた『バッテリーパワー変身ベルト』の発売、電気店店頭でサラリーマンがベルトを着用して変身ポーズを取るテレビCMなどが導入された。 当初の脚本はメタルヒーローシリーズを降板してブランクを置いていた上原正三が担当した。しかし、周囲からの意見がこれまでの作品に比べてあまりに多かったこともあって、上原はシリーズの序盤にて番組を降りた。その後は宮下隼一、杉村升などの面々が脚本陣の中心的役割を担った。またベテランの長坂秀佳が偶然テレビで『BLACK』を見てその黒の佇まいにほれ込み旧知の東映・齋藤頼照プロデューサーを通して吉川に作品の参加を志願したものの、吉川は「ギャラが高すぎるから無理」と長坂に断りを入れたというエピソードもある。後に『仮面ライダークウガ』や「スーパー戦隊シリーズ」などを手掛ける荒川稔久は、本作品で初めて東映特撮作品に参加した。当時の荒川はデビューしたてで仕事がなく、本作品にも参加していた脚本家の一人である山田隆司から紹介されたという。 パイロット監督は仮面ライダーシリーズ初参加となる小林義明が担当。小林は第1話のみの参加となったが、倉田てつをによると第1話は撮影だけで丸1ヶ月掛かったという。また、序盤で夜の街を疾走するシーンだけで10日間を費やしていたといわれる。その他は小西通雄、小笠原猛、蓑輪雅夫といった面々が演出陣のローテーションを組み、小西と小笠原は劇場版のメガホンもそれぞれ担当している。 主役・南光太郎役のキャストについては、公開オーディションにより決定された。秋月信彦役の堀内孝人は準入賞であった。このオーディションの告知ポスターには、バイクの反転写真と初代ライダーの横顔、そして「英雄(ヒーロー)は、誰だ!?」というキャッチコピーがあしらわれていた。また、オーディションの模様は「これが仮面ライダーBLACKだ!」で放送された。 殺陣の担当がそれまでの大野剣友会からJACへと変わり、BLACKの主なスーツアクターは当時若手の岡元次郎が担当した。従来のバトルシーンとは大きく変えたいという吉川の意向により、従来の空手や柔道技とトランポリンを組み合わせた「技のデパート」的なアクションや、見せ場の一つだった「戦闘員との立ち回り」も本作品では廃されている。『兄弟拳バイクロッサー』までスーツアクターを務めていた村上潤は、本作品でアクション監督としてデビューした。 音楽も、初代から一貫してシリーズの劇伴を手がけていた菊池俊輔に代わり、川村栄二が担当することになった。声優はこれまでのシリーズの大半に関わっていたテアトル・エコーに代わり、俳協の所属声優が主に起用されていた。ただし、オープニングクレジットへの表記はダロム、創世王、ナレーションの声優のみとなっており、当時のスーパー戦隊やメタルヒーローと同様に主要レギュラーのみをクレジットする形となっていた。 吉川は、次番組の『RX』も含め、本作品のシリーズを3年間続けたかったというが、後年の『真』や『仮面ライダーZO』、『仮面ライダーJ』で後世にはない新たな仮面ライダー像を輩出し、それなりの存在感を持たせるようになったという。 上記2作品は、VHSでは各単巻(2000年10月21日 - 11月21日発売)、DVDでは「仮面ライダーTHE MOVIE BOX」(2003年12月5日発売)および単巻の「仮面ライダーTHE MOVIE VOl.4」(2006年3月21日発売)、「仮面ライダーDVDコレクションVol.85」(2022年8月30日発売)、BDは「仮面ライダーTHE MOVIE BD BOX」(2011年5月21日発売)、「仮面ライダーTHE MOVIE1971-1988 4KリマスターBOX」(2021年11月10日発売)に収録されている。 本作品の放送開始および終了に合わせて放送された、30分枠の特別番組。このうち東映特撮ファンクラブでは『仮面ライダー1号〜RX大集合』のみが、CS東映チャンネルやDVDではどちらもテレビシリーズと同等の扱いで収録・配信・放送されている。 特記のない限り、いずれも発売元は東映ビデオ。 発売元はバンダイナムコゲームス→バンダイナムコエンターテインメント(旧バンダイレーベル、旧バンプレストレーベル)による。 『仮面ライダーBlack』のタイトルで、『週刊少年サンデー』にて1987年第41号 - 1988年50号の間に連載された。 実写版と違い、姿はバッタ男のままで、体に埋め込まれた「賢者の石」により体が黒く変色し、絶大な力を得るという設定となっている。ストーリーも実写版とは異なる点が多く、実写版のプロデューサーの吉川はテレビと漫画では分けており、互いに干渉させることはしなかったという。
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"それぞれ、詳しくは個別の記事を参照。", "title": "ゴルゴム(暗黒結社ゴルゴム)" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "第18話より登場。古代甲冑魚ビルケニアの大怪人。三万年前の日食の日に生まれたが、創世王の全盛期であったためキングストーンを与えられず世紀王になれなかった。過去の横暴な態度のため創世王の怒りに触れ、封印の棺に封じ込められていたが、創世王の命によりBLACKを倒すため三神官が復活させた。復活後は創世王にこそ忠誠を示したが、三神官に対しては慇懃無礼かつ反抗的でありしばしば作戦の妨害もした。BLACKのキングストーンを奪って、世紀王になろうとする。", "title": "ゴルゴム(暗黒結社ゴルゴム)" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "初戦では事前にクロネコ怪人を犠牲にして能力をリサーチしたこともあり、BLACKを敗退させ、以後も何度も激闘を繰り広げたが決着はつかなかった。復活してからしばらくは顔の色は肌色だったが、体調が戻ると本来の色である白色に戻る。", "title": "ゴルゴム(暗黒結社ゴルゴム)" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "妖剣ビルセイバーと、ゴルゴムの紋章が刻まれた盾ビルテクターを武器に持ち剣技を誇る。また、ビルセイバーで斬った人間を操ったり、剣を投げつけることで追尾する炎の矢へと変える。ビルセイバーからは強力なエネルギー波プレッシャーウェーブや秒速200メートルの旋風ダークストームなどを発生させたり、多数の分身を生成するデモントリックなどの多くの妖術や催眠術、変身能力、ビルケープで全身を包むと光の玉になり自在に飛行するなど、世紀王であるBLACKを凌ぐ特殊能力を発揮した。耐久力もライダーパンチやライダーキックを立て続けに受けても耐えられるほど高い。またロードセクターを開発した大門の教え子である江上の協力を得て自ら専用の超武装マシン・ヘルシューターを完成させ、ロードセクターを駆るBLACKと互角のマシン戦を展開した。バトルホッパーを奪おうと企んだこともあり、タマムシ怪人によって制御不能にされ暴走したところを乗っ取ろうとしたが、失敗している。", "title": "ゴルゴム(暗黒結社ゴルゴム)" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "冷酷な性格ながら、黒松に変装して光太郎を殺そうとしたときには、人目を恐れて殺害を断念したり、BLACKは自分が倒すというプライドゆえにBLACKへの勝機を逃すこともしばしばあった。", "title": "ゴルゴム(暗黒結社ゴルゴム)" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "その後シャドームーンとビルゲニアを天秤にかける創世王から次期創世王の剣サタンサーベルを与えられ、サタンサーベルとビルセイバーを併用し新必殺技サタンクロスを編み出したり、サタンサーベルの魔力で人々を洗脳して暴徒化するなどより強大な力を手に入れた。第35話でBLACKと戦闘中にシャドームーンが復活。サタンサーベルを奪われ、BLACKにライダーパンチとライダーキックの連打を受けて深手を負う。ゴルゴム神殿に帰還するもシャドームーンと戦わざるを得なくなり、サタンサーベルの一撃で斬り捨てられ倒された。", "title": "ゴルゴム(暗黒結社ゴルゴム)" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ゴルゴムの活動を具体的に決め、実践する大役を負う。一般怪人の中で組織への功績の大なる者が先代の神官に選出・再改造され、命の石を得ることで誕生する。創世王の交代時期には世紀王の育成や作戦指揮を補佐する役目を持つ。BLACKのことを当初は「ブラックサン」と呼んでいたが第4話から世間での呼称に合わせ「仮面ライダーBLACK」と呼び名が変わった。またシャドームーンを当初は呼び捨てをしていたが、復活後からは様付けで呼んでいる。三神官は、全て空中浮遊術および人間に変身する能力、暗黒超力と呼ばれる邪悪な超能力を持っている。", "title": "ゴルゴム(暗黒結社ゴルゴム)" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "人間に動植物の遺伝子と能力を暗黒超力によって移植・融合させた改造人間で、5万年以上もの長い寿命を持つ。元が古代人であるため、人間態を持っている者もおり知能も高いが、ほとんどの者は怪人態では人語は話さない。アンモナイト怪人のように化石が怪人化した者も存在し、シーラカンス怪人のように現代人を改造した例も存在する。また、43話の描写から逆に動植物に直接人間の生体エネルギーを与えることで怪人にするケースもある模様。ゴルゴメスの実のタウリンを栄養源としているが、ゴルゴメスの実は地上世界でしか育たないため、多数の怪人が目覚めると不足をきたした。そのため、空中に無数の胞子を散布して人間に発芽させ培養、大量採取する作戦が採られたこともある(第11話)。", "title": "ゴルゴム(暗黒結社ゴルゴム)" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "社会的に高い地位や名声を築いた者のみで構成され、傍ら彼らもゴルゴムに対して技術面や資金面における援助を行っている。様々な理由からゴルゴムの援助を受けている。一部のメンバーは暗黒超力によってある程度の知力や体力が大きく向上している。5万年以上の生命力を持つ怪人に憧れており、自らも怪人になることを望んでいる者もいれば、秋月総一郎のように恐怖のために仕方なく従っているメンバーも少数は存在している。", "title": "ゴルゴム(暗黒結社ゴルゴム)" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "※ 参考文献:『宇宙船別冊・仮面ライダーBLACK』(朝日ソノラマ・1988年)、『仮面ライダー大図鑑(6) 』(バンダイ・1992年)、『仮面ライダー 昭和 Vol.10・仮面ライダーBLACK』(講談社・2016年)", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "第1話の監督の小林義明は当初は別の作品の準備に入る予定だったが、プロデューサーの吉川の依頼で同話のみ担当することとなった。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "BGMはのちに『仮面ライダーJ』、『五星戦隊ダイレンジャー』や『忍者戦隊カクレンジャー』を手掛けることになる川村栄二が作・編曲し、主題歌は歌謡曲界でヒットメーカーとして実績を挙げていた宇崎竜童・阿木燿子夫妻が作詩・作曲を手がけている。川村は、仮面ライダーBLACKのデザインを見てクールで都会的だと感じ、シンセサイザーを無機質に用いたと述べている。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "挿入歌の作曲では渡辺宙明、同編曲では石田勝範がやはりシリーズ初参加となった。主題歌「仮面ライダーBLACK」と挿入歌「オレの青春」は主演を務めた倉田てつをが歌唱を担当した。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "本作品のサウンドトラック・アルバム『仮面ライダーBLACK 音楽集』はLPレコードとカセットテープとCDの3種類が発売されたが、両者のキャパシティの差から、一部の曲はCDのみの収録となっている。また、収録された音源は、番組の本編ダビング用とは別にレコード・CD用にミックスされたものである。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "このほかに、第14話では「ABC」、第15話では「ガラスの十代」、第28話では「パラダイス銀河」が使用された。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "仮面ライダーシリーズの原作者である石ノ森章太郎と東映プロデューサーの平山亨は、『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』終了から2年経った1986年3月に新たな仮面ライダーシリーズを立ち上げるべく『キミは仮面ライダーをみたか?!』という企画書を制作した。この企画は「原点回帰」をコンセプトに仮面ライダー1号の世界観を最新技術でリフレッシュするというもので、石ノ森の描きおろしイラストがふんだんに用いられるなど力の入れられたものであったが、当時はリアルロボットアニメが勢いづいている時期であり、関係各方面からは好意的な反応は受けられず実現に至らなかった。その後、この企画は平山からメタルヒーローシリーズを手がけていたプロデューサーの吉川進の手に渡り、本作品の原案となった。", "title": "制作" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "平山亨から交替したプロデューサーの吉川進の指揮下で旧作から世界観と設定の一新が行われ、過酷な運命を背負った主人公の苦悩と希望を中心に据えた物語づくりを目指して制作された。石ノ森は、原点に立ち返るつもりで「仮面ライダー0号」をイメージしたと語っている。スタッフの多くは宇宙刑事シリーズから共通している。ただし、脚本の鷺山京子、監督の小西通雄や撮影の松村文雄など、一部は過去のライダーシリーズに参加経験のあるスタッフも起用されていた。", "title": "制作" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "本作品は小学館が出版権、すなわち雑誌連載などをほぼ独占的に行う権利を確保している。そのため、これまでのシリーズのグラフ記事では他社の追従を許さない立場にあった、『テレビマガジン』を始めとする講談社の児童グラフ誌には、本作品の情報や漫画は掲載されていない。当時講談社写真部のカメラマンであった大島康嗣も、本作品の撮影現場には一度も行っておらず、後年「本編で撮れなかったことが悔やまれてなりません」と語っている。", "title": "制作" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "吉川によれば、スタッフらは仮面ライダーの特徴として「主人公は悪の組織から脱出してきた」「改造人間」「バイクに乗る」「バッタがモチーフ」「正義のヒーロー」という5要素を取り上げた上で、これらを当時最新の技術でリメイクするのか、あるいはすべてを否定するのかを検討したという。結果として、本作品ではリメイク案が採用された。", "title": "制作" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "デザイン面においては、これまでのシリーズでは仮面ライダーのデザインは、石ノ森と東映側の意向が大きく反映されることが常だったものが、バンダイのディレクションが強く作用していることが特筆される。デザインのフィニッシュはバンダイ傘下のプレックスが手がけた。それまでのマフラーとスーツに、グローブとブーツといった「人が着ている」印象を排除し、生物的・外骨格的とも評されるソリッドな意匠は、裏を返せば玩具化を前提としたデザインということでもあるが、これまでの仮面ライダーとは異なるシャープなイメージを打ち出すだけでなく、後のライダーのデザインにも影響を与えている。", "title": "制作" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "石ノ森によるラフデザインでは「バッタ男がスーツを着ている」というコンセプトのものもあり、この案は『真・仮面ライダー 序章』でも検討されている。", "title": "制作" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "本放送当時に発行された特集ムック(宇宙船の別冊)のスタッフへのインタビューによると、従来までの東映ヒーロー特撮作品ではヒーローのスーツを見栄えが良いFRP製のアップ用と、動きやすい軟質ウレタン製のアクション用の2種類用意することが常だったものが、本作品では皺が寄り難い最新の軟質素材を採用したことで、アクション用がアップ用を兼ねられるようになったとある。この軟質素材製スーツが、ソリッド(外骨格的)ながらも生物的(柔らかい)というBLACKのビジュアルイメージと柔軟かつ頑強という設定上の特徴が一致することとなった。なお、NGデザインとして同じ形状ではあるが色がメタリックブルーのスーツが製作されている。また当初は間接部がメカニック的であったが、石ノ森の監修でNGとなり、筋肉と血管状の意匠に変更された。", "title": "制作" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "テレビと視聴者である児童が一体となれるようにとの意向により、当時バンダイから発売されていた「テレビパワーシリーズ」(変身ベルトやBLACKのフィギュアなど)には、『キャプテンパワー』のグッズで導入された「テレビパワー」機能が搭載されていた。劇中の変身シーンや必殺技を繰り出すシーンなどでは、映像から白の閃光が連続的に発せられることにより画面が黒と白に明滅する効果(いわゆるパカパカと呼ばれる技法)が画面に合成されており、グッズに内蔵された光センサーが点滅信号を受信して発光回転が作動するというギミックである。ただし、当初期待していた業績には届かなかったため、挽回策としてパッケージの変更や、テレビパワーのギミックを省いた『バッテリーパワー変身ベルト』の発売、電気店店頭でサラリーマンがベルトを着用して変身ポーズを取るテレビCMなどが導入された。", "title": "制作" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "当初の脚本はメタルヒーローシリーズを降板してブランクを置いていた上原正三が担当した。しかし、周囲からの意見がこれまでの作品に比べてあまりに多かったこともあって、上原はシリーズの序盤にて番組を降りた。その後は宮下隼一、杉村升などの面々が脚本陣の中心的役割を担った。またベテランの長坂秀佳が偶然テレビで『BLACK』を見てその黒の佇まいにほれ込み旧知の東映・齋藤頼照プロデューサーを通して吉川に作品の参加を志願したものの、吉川は「ギャラが高すぎるから無理」と長坂に断りを入れたというエピソードもある。後に『仮面ライダークウガ』や「スーパー戦隊シリーズ」などを手掛ける荒川稔久は、本作品で初めて東映特撮作品に参加した。当時の荒川はデビューしたてで仕事がなく、本作品にも参加していた脚本家の一人である山田隆司から紹介されたという。", "title": "制作" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "パイロット監督は仮面ライダーシリーズ初参加となる小林義明が担当。小林は第1話のみの参加となったが、倉田てつをによると第1話は撮影だけで丸1ヶ月掛かったという。また、序盤で夜の街を疾走するシーンだけで10日間を費やしていたといわれる。その他は小西通雄、小笠原猛、蓑輪雅夫といった面々が演出陣のローテーションを組み、小西と小笠原は劇場版のメガホンもそれぞれ担当している。", "title": "制作" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "主役・南光太郎役のキャストについては、公開オーディションにより決定された。秋月信彦役の堀内孝人は準入賞であった。このオーディションの告知ポスターには、バイクの反転写真と初代ライダーの横顔、そして「英雄(ヒーロー)は、誰だ!?」というキャッチコピーがあしらわれていた。また、オーディションの模様は「これが仮面ライダーBLACKだ!」で放送された。", "title": "制作" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "殺陣の担当がそれまでの大野剣友会からJACへと変わり、BLACKの主なスーツアクターは当時若手の岡元次郎が担当した。従来のバトルシーンとは大きく変えたいという吉川の意向により、従来の空手や柔道技とトランポリンを組み合わせた「技のデパート」的なアクションや、見せ場の一つだった「戦闘員との立ち回り」も本作品では廃されている。『兄弟拳バイクロッサー』までスーツアクターを務めていた村上潤は、本作品でアクション監督としてデビューした。", "title": "制作" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "音楽も、初代から一貫してシリーズの劇伴を手がけていた菊池俊輔に代わり、川村栄二が担当することになった。声優はこれまでのシリーズの大半に関わっていたテアトル・エコーに代わり、俳協の所属声優が主に起用されていた。ただし、オープニングクレジットへの表記はダロム、創世王、ナレーションの声優のみとなっており、当時のスーパー戦隊やメタルヒーローと同様に主要レギュラーのみをクレジットする形となっていた。", "title": "制作" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "吉川は、次番組の『RX』も含め、本作品のシリーズを3年間続けたかったというが、後年の『真』や『仮面ライダーZO』、『仮面ライダーJ』で後世にはない新たな仮面ライダー像を輩出し、それなりの存在感を持たせるようになったという。", "title": "制作" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "上記2作品は、VHSでは各単巻(2000年10月21日 - 11月21日発売)、DVDでは「仮面ライダーTHE MOVIE BOX」(2003年12月5日発売)および単巻の「仮面ライダーTHE MOVIE VOl.4」(2006年3月21日発売)、「仮面ライダーDVDコレクションVol.85」(2022年8月30日発売)、BDは「仮面ライダーTHE MOVIE BD BOX」(2011年5月21日発売)、「仮面ライダーTHE MOVIE1971-1988 4KリマスターBOX」(2021年11月10日発売)に収録されている。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "本作品の放送開始および終了に合わせて放送された、30分枠の特別番組。このうち東映特撮ファンクラブでは『仮面ライダー1号〜RX大集合』のみが、CS東映チャンネルやDVDではどちらもテレビシリーズと同等の扱いで収録・配信・放送されている。", "title": "他媒体展開" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "特記のない限り、いずれも発売元は東映ビデオ。", "title": "他媒体展開" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "発売元はバンダイナムコゲームス→バンダイナムコエンターテインメント(旧バンダイレーベル、旧バンプレストレーベル)による。", "title": "他媒体展開" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "『仮面ライダーBlack』のタイトルで、『週刊少年サンデー』にて1987年第41号 - 1988年50号の間に連載された。", "title": "他媒体展開" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "実写版と違い、姿はバッタ男のままで、体に埋め込まれた「賢者の石」により体が黒く変色し、絶大な力を得るという設定となっている。ストーリーも実写版とは異なる点が多く、実写版のプロデューサーの吉川はテレビと漫画では分けており、互いに干渉させることはしなかったという。", "title": "他媒体展開" } ]
『仮面ライダーBLACK』(かめんライダーブラック)は、1987年10月4日から1988年10月9日まで、TBS系列で毎週日曜10時から10時30分(JST)に全51話が放送された、毎日放送・東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公が変身するヒーローの名称。
{{半保護}} {{Pathnav|仮面ライダーシリーズ|frame=1}} {{Redirectlist|仮面ライダーブラック|同作品の主人公が変身する同名のヒーロー|仮面ライダーBLACK (キャラクター)|漫画作品|仮面ライダーBlack}} {|style="float: right; text-align:center; border-collapse:collapse; border:2px solid black; white-space:nowrap" |- |colspan="3" style="background-color:#90ff90; border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''[[仮面ライダーシリーズ]]''' |- |style="border:1px solid black; white-space:nowrap; background-color:#90ff90"|'''第7作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[仮面ライダースーパー1]] |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1980年10月<br />- 1981年9月 |- |style="border:1px solid black; white-space:nowrap; background-color:#90ff90"|'''第8作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''仮面ライダーBLACK''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1987年10月<br />- 1988年10月 |- |style="border:1px solid black; white-space:nowrap; background-color:#90ff90"|'''第9作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[仮面ライダーBLACK RX]] |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1988年10月<br />- 1989年9月 |} {{基礎情報 テレビ番組 | 番組名 = 仮面ライダーBLACK | ジャンル = [[特撮]][[テレビドラマ]] | 原作 = [[石ノ森章太郎]] | 脚本 = {{Plainlist| * [[上原正三]] * [[杉村升]] 他 }} | 監督 = [[小林義明]] 他 | 出演者 = {{Plainlist| * [[倉田てつを]] * [[堀内孝人]] * [[井上明美]] * [[田口萌|田口あゆみ]] * [[好井ひとみ]] * [[高橋利道]] * [[吉田淳]] }} | 声の出演 = {{Plainlist| * [[てらそままさき|寺杣昌紀]] * [[渡部猛]] * [[飯塚昭三]] }} | ナレーター = {{Plainlist| * [[小林清志]](第1 - 39話) * [[政宗一成]](第40 - 51話) }} | 音楽 = [[川村栄二]] | OPテーマ = 「[[仮面ライダーBLACK (曲)|仮面ライダーBLACK]]」<br />歌:倉田てつを | EDテーマ = 「[[仮面ライダーBLACK (曲)|Long Long Ago, 20th Century]]」<br />歌:[[坂井紀雄]] | プロデューサー = {{Plainlist| * [[吉川進]] * [[堀長文]]([[東映]]) * 井口亮 * 山田尚良([[毎日放送]]) }} | 言語 = [[日本語]] | 製作 = {{Plainlist| * 東映 * 毎日放送 }} | 放送局 = [[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]] | 音声形式 = [[モノラル放送]] | 放送国 = {{JPN}} | 放送期間 = [[1987年]][[10月4日]]<br />- [[1988年]][[10月9日]] | 放送時間 = 日曜 10:00 - 10:30 | 放送分 = 30 | 放送回数 = 51 | 次作 = [[仮面ライダーBLACK RX]] | 特記事項 = 「[[仮面ライダーシリーズ]]」 第8作 }} 『'''仮面ライダーBLACK'''』(かめんライダーブラック)は、[[1987年]][[10月4日]]から[[1988年]][[10月9日]]まで、[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]で毎週日曜10時から10時30分([[日本標準時|JST]])に全51話が放送された、[[毎日放送]]・[[東映]]制作の[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]、および作中で主人公が変身するヒーローの名称。 == 概要 == 『[[仮面ライダースーパー1]]』以来、6年ぶりのテレビシリーズの新作。 過去のライダーと異なり、マフラーや手袋・ブーツのようなスーツを思わせる造形を省いた外骨格的(生物的)なデザイン、モチーフ動物の特徴をよりリアルに表現した怪人、戦闘員のいない敵組織など様々な新機軸が盛り込まれた{{efn|厳密には後述のとおり第43話や劇場版第2作に戦闘員が登場するが、レギュラーではない。}}。怪人のネーミングが「''○○怪人''」とシンプルなものに統一されている点も原点回帰の一環であり、仮面ライダーの体色が黒である点も、放送前の特番で「バッタの血液は黒」だと引用し、黒い仮面ライダーの姿に原点に戻るという意向を託した。 中でも、敵組織に仮面ライダーと全く同格の改造人間・世紀王[[シャドームーン]]が登場することは特徴的だった。シャドームーンは名前に「仮面ライダー」の文字は含まないものの、歴代仮面ライダーを紹介する書籍や[[バンダイ]]の玩具などでもBLACKとほぼ同等に扱われている{{efn|[[ライダーヒーローシリーズ#レジェンドライダーシリーズ(最新シリーズ)|レジェンドライダーシリーズ]]のソフビでは通し番号が振られている。}}{{R|超人画報}}。この設定は、後のシリーズにおける「仮面ライダー対仮面ライダー」の構図の先駆けとなっている。 「[[原点回帰]]」の設定に加え、敵となった兄弟同然の親友と戦わねばならなくなった主人公の悲哀を描いた終盤のハードな展開、ヒーローが戦いに勝利したにもかかわらず、主人公にとってはやるせなさを残したラストに示されるようなドラマ性などがオンエア当時から高く支持され{{R|超人画報}}、視聴率も好調だった(平均視聴率9.2パーセント)。そのため、本作品に続けて南光太郎を主人公とする続編『[[仮面ライダーBLACK RX]]』が制作され、事実上2年続くシリーズとなった。 == あらすじ == 大学生・{{読み仮名|'''南 光太郎'''|みなみ こうたろう}}は19歳の誕生日を迎えた日、親友の秋月信彦とともに'''暗黒結社ゴルゴム'''によって拉致される。そして、次期創世王候補にせんとする三神官から体内にキングストーン「太陽の石」を埋め込まれ、世紀王'''ブラックサン'''に生体改造された。 息子たちから人としての記憶だけは消させまいと乱入した秋月総一郎の手引きによって、脳改造を受ける寸前に、ゴルゴムが世紀王のために用意していたバイク型生命体・バトルホッパーを駆って逃亡した光太郎だったが、三神官に捕われて攻撃を受ける。その衝撃の中、光太郎の体は異形のバッタ男からブラックサンの姿となる。 その後、総一郎の死を経て、光太郎は'''仮面ライダーBLACK'''を名乗り、信彦の救出とゴルゴム壊滅のために戦いを開始する。 == 登場人物 == ; [[仮面ライダーBLACK (キャラクター)|{{読み仮名|南 光太郎|みなみ こうたろう}}]] / [[仮面ライダーBLACK (キャラクター)#仮面ライダーBLACK|仮面ライダーBLACK]] : 主人公。秋月信彦と同じく19年前の[[日食]]の日の同時刻に生まれた。3歳の時に両親と死に別れ、父の学者仲間だった信彦の父・総一郎の養子となる。東星大学人文学部2年生で、サッカー部に所属。 : 19歳のバースデーパーティーの最中に起こった不可思議な現象に疑惑を抱き、主催した総一郎の真意を突き止めるべく家に戻ろうとしたところを信彦共々三神官に連れ去られ、生体改造手術を受け世紀王ブラックサンとされたが、脳改造の前に総一郎の手引きで脱出。以後'''仮面ライダーBLACK'''を名乗り、ゴルゴムの陰謀に立ち向かうことになる。 : 詳細や、『[[仮面ライダーBLACK RX]]』などの後継作品の設定については[[仮面ライダーBLACK (キャラクター)]]を参照。 : ; [[シャドームーン|{{読み仮名|秋月 信彦|あきづき のぶひこ}}]] : 秋月家の長男。東星大学理工学部2年生でサッカー部に所属。 : 南光太郎と同じく、19年前の日食の日の同時刻に生まれ、秋月家に引き取られた光太郎とはサッカー仲間やバイク仲間にもなる。 : 19歳のバースデーパーティーの後、光太郎と家に戻ろうとしたところを三神官に連れ去られ改造手術を受けるが、総一郎の妨害の際に身体に深いダメージを受けたまま神殿に取り残され、蛹をまとったバッタ男の状態で眠りに就いた。 : 後に三神官の石の力で世紀王シャドームーンとして復活した。だが信彦としての記憶はあるものの、その人格はなかった。 : シャドームーンになってからの一人称は基本的に「私」だったが、第50話途中から「俺」になった。 : ; {{読み仮名|秋月 杏子|あきづき きょうこ}} : 総一郎の実娘で信彦の妹。朝霧女子高等學校二年生{{R|CHRONICLE12}}でテニス部所属。 : 父を喪った後、光太郎の勧めで秋月邸を離れ、キャピトラで住み込みでアルバイトすることになる。設定ではこの時点で高校を自主退学しており{{Sfn|超辞典|2011|p=31}}{{Sfn|仮面ライダー昭和10|2016|p=9}}、第45話でのかつての級友から「どこの学校に通っているの?」という質問を聞かれたときの様子から朝霧高校を退学し、その後も学校には通っていないことが劇中で示唆されている。 : 光太郎とは兄妹同然に育ったが次第に異性としても意識し始めていたようである。第35話にて光太郎がBLACKであることを知る。ゴルゴムの手によってシャドームーン覚醒のための生贄にされかかるが、「BLACKを倒すのは、あくまで自分」と言い張るビルゲニアの妨害で危うく難を逃れた。 : 仮面ライダーBLACKがシャドームーンに敗れ、日本へのゴルゴムの総攻撃が始まり失意の中、渡米。その後BLACK(光太郎)の生存を知り日本に帰ろうとするが、BLACKとシャドームーンの決着の邪魔になると克美にとがめられ、異国から光太郎の身を案じた。その後の動向は描写されておらず、次作『RX』では回想シーンのみの登場であった。 : ; {{読み仮名|紀田 克美|きだ かつみ}} : 信彦のガールフレンド。 東星大学人文学部2年生。キャピトラの経営を任されている。 : 中盤にて杏子同様に光太郎がBLACKであることを知る。ゴルゴムに拉致された恋人の無事帰還を切に願っていただけに、シャドームーンと化した信彦との再会には心を乱される。 : 仮面ライダーBLACKがシャドームーンに敗れ、日本へのゴルゴムの総攻撃が始まると杏子と共に渡米。その後BLACK(光太郎)の生存を知るも、BLACKとシャドームーンの決着の邪魔になると、帰国せず杏子と共に異国から光太郎の身を案じた。 : 杏子同様、その後の動向は描写されておらず、次作『RX』も杏子同様回想シーンでのみの登場であった。 : ; {{読み仮名|東堂 勝|とうどう まさる}} : バー&スキューバダイビング洋品店の{{読み仮名|CAPITOLA|キャピトラ}}{{R|CHRONICLE12}}のオーナー店主。37歳。光太郎の大学の先輩でサッカー部のOBでもある。店の経営よりも趣味のスキューバダイビングを優先しており、店にはほとんど顔を出さない。 : ; {{読み仮名|滝 竜介|たき りゅうすけ}} : [[国際刑事警察機構|インターポール]]の自称「はみだし捜査官」{{R|CHRONICLE12}}。東星大学理学部出身で、信彦のサッカー部の先輩でもある元プロサッカー選手{{R|CHRONICLE12}}で、サッカー部時代の得意技「リュウシュート」でBLACKの危機を救った。第16話と第30話に登場。『[[仮面ライダー]]』に登場した[[連邦捜査局|FBI]] 捜査官・滝和也をオマージュしたキャラクター。 :* 演じた[[京本政樹]]はノーギャラで出演したとのこと。その代わりに「ライダーの正体を唯一知っている」「ライダーと同じくらいの働きをする」「正体は元FBI」という条件を挙げたそうである<ref>{{Cite book |和書 |editor=[[石井慎二]] |date=1989-12-24 |title=[[別冊宝島]]104 おたくの本 |publisher=[[宝島社]] |page=188 |chapter=未来のマニア像 京本政樹(俳優)の世界}}</ref>。 : ; {{読み仮名|南 正人|みなみ まさと}} : 光太郎の父で総一郎の学者仲間。光太郎が3歳の時、ゴルゴムメンバーになることを拒否したことで、ゴルゴムの仕組んだ飛行機事故によって死亡。 : ; {{読み仮名|南 友子|みなみ ともこ}} : 光太郎の母。夫と共に飛行機事故によって死亡。 : ; ゴルゴム少年戦士 : ゴルゴムによって育成されたが、ゴルゴムに反旗を翻しBLACKに味方する。高山により10歳のときに成長停止剤を投与されていたため、年齢は成人に達しているが肉体は少年のままである。リュウジ{{R|CHRONICLE66}}はシーラカンス怪人の生体電流により感電死し、残る4人は光太郎に見送られてどこかへ去って行った。第31話や第47話にも登場している。 == ゴルゴム(暗黒結社ゴルゴム) == [[有史]]以前から驕り高ぶる人類の発展した文明や文化を完全破壊と淘汰し、優れた人間だけを怪人にして、怪人だけの世界を創ろうと暗躍を続けていた創世王が統治する暗黒結社{{R|CHRONICLE14}}。組織には政財界の実力者や優秀な科学者も参加しており、世界を裏から操っている。5万年に一度、キングストーンを持つ2人の世紀王を闘わせ、勝った方を次期創世王にする。基本的に人間に対しては冷酷で、同族としての怪人を重んじる。人類を不良品種と考えているため、死の恐怖がない5万年以上の生命を持つ改造怪人だけの世界を創り、本能のままに生きさせようとする。物語終盤で大怪人ダロムが組織の理念を否定する発言を行い、クジラ怪人の離反を招いた。シャドームーン復活を機に人類に宣戦布告したことで、その存在が世界に知れ渡ることとなった。次回作『仮面ライダーBLACK RX』での歴代10人ライダーはゴルゴムの海外支部と各国で戦い、撃破したことが語られている。 === 創世王 === ゴルゴムの守護神にして総支配者で、代々5万年ごとに交代している。その姿は巨大な[[心臓]]そのもので、即に寿命が尽きようとしているが、それでも地球を破壊するほどの力を持つ。また、破壊光球{{R|映画大全集167}}{{efn|資料によっては、破壊光線と記述されている{{Sfn|超辞典|2011|p=455}}。}}を招来させたり、ロードセクターですら破れない強力なバリヤーを張り{{R|映画大全集167}}、シャドームーンにパワーを付与する能力を持つ。テレパシーによって世紀王や三神官と会話をする。 光太郎と信彦を世紀王ブラックサン・シャドームーンに選び、ブラックの脱走後はシャドームーンを次期創世王と定めた。しかし、シャドームーンの生命力が低下した際にはビルゲニアにサタンサーベルを与え世紀王昇格を暗示したこともあった。シャドームーン復活後は、太陽の黒点に自らの死期を見出し、ブラックサンとの戦い、最後の選別を迫り、自らの力を分け与えてブラックを倒させようとしたが、シャドームーンが敗れたためにブラックを次期創世王にしようとする。しかし、ブラックがそれを拒絶したために自らの命を引き換えにして地球を破壊しようとするが、ブラックが呼び寄せたサタンサーベルによって身体を刺し貫かれ、「人間の心に悪がある限り必ず甦る」と言い残しゴルゴム神殿と共に爆死した。 漫画『[[仮面ライダーSPIRITS]]』作者の[[村枝賢一]]によると、シャドームーンが緑色の仮面ライダーに、創世王{{efn|書籍ではゴルゴム大首領}}が金色の仮面ライダーになり、三つ巴の戦いを繰り広げるという展開も考案されていたとされている{{Sfn|超絶黙示録|2010|p=51|loc=「魂の言霊 仮面ライダーSPIRITSの秘密100 36」}}。 ; その他の登場作品 :; 映画『[[劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー]]』 :: シャドームーンが創世王として登場。詳しくは[[シャドームーン#平成仮面ライダーシリーズ関連作品]]を参照。 :; 小説『[[S.I.C.]] HERO SAGA MASKED RIDER BLACK RX EDITION -After0-』 :: シャドームーンに憑依しその体を乗っ取る。その後、月の力を得て[[シャドームーン#派生作品での派生形態|アナザーRX]]へと進化、さらに太陽の石を奪い取り[[シャドームーン#派生作品での派生形態|アナザーシャドームーン]]となる。詳しくは[[シャドームーン#派生作品での派生形態]]を参照。 :; ゲーム『仮面ライダー バトライド・ウォー創生』 :: 長い時を経て未来で復活、その後過去へ行き[[シャドームーン]]に憑依しその体を乗っ取る。詳しくは[[シャドームーン#平成仮面ライダーシリーズ関連作品]]を参照。 :; 漫画『宇宙の11 仮面ライダー銀河大戦』 :: マーダー帝国を支配し、歴代大幹部を復活させ地球を窮地に追い込む。 === 世紀王 === 次期創世王の候補である2人の戦士。その証としてキングストーンを持つ。次期創世王の後継者争いは5万年周期に、継承の儀式が行われ、皆既日食の日に誕生した人間を当代のゴルゴム最高の技術で互いに同格の力を持つ生体改造人間の戦士に改造し互いに競わせ、勝利した片方が創世王となる。 世紀王の証にして力の源となるのが「太陽の石」と「月の石」の2つの'''キングストーン'''である。後継者争いに勝ち抜き2つの石を両方手に入れたものが、名実ともに次期創世王となる。数々の奇跡を起こすもその力はあくまで石の力の一端で真の力は未知数であり、2つの石を揃えた時に真の力を発揮するとされる。 それぞれ、詳しくは個別の記事を参照。 ; [[仮面ライダーBLACK (キャラクター)#仮面ライダーBLACK|仮面ライダーBLACK / ブラックサン]] : 南光太郎が変身を遂げるキングストーン〈太陽の石〉を体内(変身ベルトに内蔵)に有した世紀王。生体改造人間の王に君臨する存在であり'''ブラックサン'''{{efn|作中ではシャドームーンと創世王のみが使用する名称(序盤は三神官も使用)。}}の名を取る。肉体への改造が施された後、信彦の実父・秋月総一郎の妨害によって脳改造の寸前で脱出に成功し、人類を護るため'''仮面ライダーBLACK'''{{efn|「仮面ライダー」を伴わない「BLACK」だけの名称は作中では未呼称。ただし第1話のタイトルに使われている。}}を名乗ってゴルゴムに孤独な闘いを挑む漆黒の騎士。詳しくは[[仮面ライダーBLACK (キャラクター)#仮面ライダーBLACK]]を参照。 ; [[シャドームーン]] : 秋月信彦が改造されたキングストーン〈月の石〉を体内(変身ベルトに内蔵)に有した世紀王。南光太郎と異なり手術時の事故により脱走に失敗し、対立関係にあたるBLACKの宿敵として立ちはだかる。詳しくは[[シャドームーン]]を参照。 === 剣聖ビルゲニア === {{キャラスペック |名称=剣聖ビルゲニア |身長=198{{nbsp}}[[センチメートル|cm]] |体重=88{{nbsp}}[[キログラム|kg]] |パンチ力=4{{nbsp}}[[トン|t]] |キック力=9{{nbsp}}t |ジャンプ力=ひと跳び30{{nbsp}}[[メートル|m]] }} 第18話より登場。古代甲冑魚[[ビルケニア]]の大怪人。三万年前の日食の日に生まれたが、創世王の全盛期であったためキングストーンを与えられず世紀王になれなかった。過去の横暴な態度のため創世王の怒りに触れ、封印の棺に封じ込められていたが、創世王の命によりBLACKを倒すため三神官が復活させた。復活後は創世王にこそ忠誠を示したが、三神官に対しては慇懃無礼かつ反抗的でありしばしば作戦の妨害もした。BLACKのキングストーンを奪って、世紀王になろうとする。 初戦では事前にクロネコ怪人を犠牲にして能力をリサーチしたこともあり、BLACKを敗退させ、以後も何度も激闘を繰り広げたが決着はつかなかった。復活してからしばらくは顔の色は肌色だったが、体調が戻ると本来の色である白色に戻る{{R|映画大全集167}}。 妖剣'''ビルセイバー'''と、ゴルゴムの紋章が刻まれた盾'''ビルテクター'''を武器に持ち剣技を誇る。また、ビルセイバーで斬った人間を操ったり、剣を投げつけることで追尾する炎の矢へと変える。ビルセイバーからは強力なエネルギー波'''プレッシャーウェーブ'''や秒速200メートルの旋風ダークストームなどを発生させたり、多数の分身を生成するデモントリックなどの多くの妖術や催眠術、変身能力、ビルケープで全身を包むと光の玉になり自在に飛行するなど、世紀王であるBLACKを凌ぐ特殊能力を発揮した。耐久力もライダーパンチやライダーキックを立て続けに受けても耐えられるほど高い。またロードセクターを開発した大門の教え子である江上の協力を得て自ら専用の超武装マシン・ヘルシューターを完成させ、ロードセクターを駆るBLACKと互角のマシン戦を展開した。バトルホッパーを奪おうと企んだこともあり、タマムシ怪人によって制御不能にされ暴走したところを乗っ取ろうとしたが、失敗している。 冷酷な性格ながら、黒松に変装して光太郎を殺そうとしたときには、人目を恐れて殺害を断念したり、BLACKは自分が倒すというプライドゆえにBLACKへの勝機を逃すこともしばしばあった。 その後シャドームーンとビルゲニアを天秤にかける創世王から次期創世王の剣サタンサーベルを与えられ、サタンサーベルとビルセイバーを併用し新必殺技サタンクロスを編み出したり、サタンサーベルの魔力で人々を洗脳して暴徒化するなどより強大な力を手に入れた。第35話でBLACKと戦闘中にシャドームーンが復活。サタンサーベルを奪われ、BLACKにライダーパンチとライダーキックの連打を受けて深手を負う。ゴルゴム神殿に帰還するもシャドームーンと戦わざるを得なくなり、サタンサーベルの一撃で斬り捨てられ倒された。 ; その他の登場作品 :; 『[[平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊]]』 :: 地下帝国バダンの幹部怪人として登場。 === 三神官(三大怪人) === ゴルゴムの活動を具体的に決め、実践する大役を負う。一般怪人の中で組織への功績の大なる者が先代の神官に選出・再改造され、命の石を得ることで誕生する。創世王の交代時期には世紀王の育成や作戦指揮を補佐する役目を持つ。BLACKのことを当初は「ブラックサン」と呼んでいたが第4話から世間での呼称に合わせ「仮面ライダーBLACK」と呼び名が変わった。またシャドームーンを当初は呼び捨てをしていたが、復活後からは様付けで呼んでいる。三神官は、全て空中浮遊術{{R|CHRONICLE14}}および人間に変身する能力、暗黒超力と呼ばれる邪悪な超能力を持っている。 ; {{Anchors|大神官ダロム}}大神官ダロム : 三神官のリーダー格で、智を司る大神官{{R|映画大全集167}}。小柄な老人の姿をしている。年齢は8万歳以上で、ゴルゴムの中では最古参のメンバーである。「智恵の大神官」と呼ばれており、キングストーンに次ぐ力を持つ青い'''天の石'''を所持している。 : 優れた頭脳の持ち主で、性格は冷静沈着で陰湿{{R|CHRONICLE14}}。右手から出す遺伝子操作ビーム{{R|映画大全集167}}で生体改造手術を行う。感情が高ぶると瞳が赤く染まる。 : 戦闘時には怪光線や催眠光波を放ち、念動力で相手を攻撃する。人類に激しい憎悪を抱いており、人類抹殺を目論む。 : 第36話でシャドームーン復活のために天の石の力を使い切り、本来の姿である大怪人ダロムに戻る。 :; 大怪人ダロム :: ダロムが天の石を失い、本来の姿である[[三葉虫]]の大怪人に戻った姿{{R|映画大全集167}}。大神官のときの冷静さはなくなり、攻撃的な性格になっているが、高い知能はそのままで、凶暴性と戦闘力が大幅にアップしている。 :: 大神官のときよりも強力な念動力{{R|映画大全集167}}と怪力と伸縮自在な頭部の触角、これからの捕獲光線{{Sfn|超辞典|2011|p=468}}などの光線{{R|映画大全集167}}、掌や鞭にもなる触角{{Sfn|オールライダー&全怪人昭和|2013|p=80}}{{R|CHRONICLE14}}からの破壊光線を武器にBLACKとも何度も激突した。手からも破壊光線を放つ{{R|映画大全集167}}。 :: 第49話で「命のエキス」によってパワーアップしたBLACKのキングストーンフラッシュで破壊ビームを押し返されて怯んだところを、ライダーパンチとライダーキックの連続攻撃により倒れた。 :; その他の登場作品 ::; 『[[仮面ライダー世界に駆ける]]』 ::: 声は[[依田英助]]。スーツアクターは[[渡辺実 (俳優)|渡辺実]]。 ::; 『[[オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー]]』 ::: 本作品と同じく、飯塚昭三が声を担当。 ::: ショッカーの同盟となったゴルゴム代表として登場し、前述の考えから[[ジャーク将軍]]共々ショッカーの考えに反対していたが、世界征服を優先させることを受け入れる。終盤は戦うことなく岩石大首領の起こした地割れに飲まれた。 ::; 『[[スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号]]』 ::: ショッカーの怪人として登場。 : ; {{Anchors|大神官バラオム}}大神官バラオム : 戦闘と力を司る大神官{{R|映画大全集167}}{{Sfn|超辞典|2011|p=470}}。顔が岩のようなクリスタル状の青い皮膚で包まれている。年齢は5万歳以上。「戦いの大神官」と呼ばれており、赤い'''海の石'''を所持している。 : 荒々しく好戦的な性格ではあるが、一方で餓えた怪人たちの仲間割れを仲裁する、身勝手な行動を行った怪人を叱り付けるなど、組織の調整役も務めていた。 : ビシュムが倒れた際にはBLACKへの怒りを見せ、海を汚染しようとするダロムを海棲怪人に悪影響が出ると諌めるなど仲間意識の強さを伺わせたり、部下を大事にする一面もある。 : 両手は機械化されており、怪人の頭も握り潰せるほどの力がある。指先から衝撃光波{{R|映画大全集167}}を発射したり、バリアを張って敵の攻撃を防ぐことも可能。また、両眼から白色光を放射し、周囲を照らす。 : 第36話でシャドームーン復活のために海の石の力を使い切り、本来の姿である大怪人バラオムに戻る。 :; 大怪人バラオム :: バラオムが海の石を失い、本来の姿である[[剣歯虎|サーベルタイガー]]の大怪人に戻った姿{{R|映画大全集167}}{{efn|書籍によっては、サーベルジャガーと記述している{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=155}}。}}。以前よりも怪力で、大神官時に使用していた両手から発射するショックビーム{{efn|人間にもあまり通用せず、作戦を失敗した部下の処罰の際に使用していた。}}は2色の破壊光線{{R|映画大全集167}}に変化しており、怪人やBLACKにすらダメージを与える威力を誇る。大神官時よりも、人間に変装したり{{efn|大怪人の人間態はマルチアイでも看破できない。}}、BLACKと直接対決する機会が多かった。破壊光線のほか、顎から生えた牙からコピーされた2本のサーベルや鋭い爪を武器にBLACKと戦う。 :: 第46話で特訓により超高速移動能力を体得。クジラ怪人を利用してBLACKを倒そうとするが、クジラ怪人の粘液を受けて動けなくなったところをライダーパンチとライダーキックの連続攻撃で倒された。 :; その他の登場作品 ::; 『[[仮面ライダー世界に駆ける]]』 ::: 本作品と同じく、高橋利道が声とスーツアクターを担当。 ::; 『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊』 ::: 地下帝国バダンの幹部怪人として登場。 : ; {{Anchors|大神官ビシュム}}大神官ビシュム : ゴルゴム三神官の一人で、右の目で未来を、左の目で過去を見ることができる。劇中ではフードの下は描写されなかったが、一部の資料には白髪を露わにした写真も掲載されている{{R|テレビランド198802}}。 : 巫女の役割を果たす予言の大神官で{{R|映画大全集167}}、「預言の大神官」と呼ばれており、紫の'''地の石'''を所持する。元々は怪人であったが、長きにわたる組織への貢献を評価され先代神官によって改造手術を受け神官に昇進した。ゴルゴム怪人たちからは「ゴルゴムの聖母」として崇められている{{Sfn|超辞典|2011|p=470}}。 : 目から発する灼熱光球{{R|映画大全集167}}で敵を焼き尽くす。鋭い爪を武器にするとの設定もある{{R|てれびくん198710}}。メンバーに対しては慈悲深いがそれ以外の人間には冷酷で、人間の作る美や愛を否定する作戦を行う。 : 第36話でシャドームーン復活のために地の石の力を使い切り、本来の姿である大怪人ビシュムに戻る。 :* 当初はマスクの切れ込みが小さく、息によって内側が曇ってしまうため、演じる好井の口に合わせて切れ込みの大きさを合わせている{{Sfn|超辞典|2011|p=470}}。 :; 大怪人ビシュム :: ビシュムが地の石を失い、本来の姿である[[翼竜]]の大怪人に戻った姿{{R|映画大全集167}}。以前よりも飛行能力とスピードが強化されており、両眼から発射する大神官時よりも強力な灼熱光球で敵を焼き尽くす。その他、身体を高速回転させることにより強力な竜巻を発生させることも可能で{{R|映画大全集167}}、BLACKとの[[一騎討ち]]でも苦戦させた。 :: 第45話でBLACKに挑戦、BLACKを道連れにしようとしてシャドームーンの放ったシャドービームに貫かれ、倒れる{{efn|この背後にシャドームーンの后になる野心をダロム、バラオムは見て取ったが、それが真意だったかどうかは定かではない。}}。なお、この際にシャドームーンが、乱入してきた杏子を傷つけるのを躊躇したため、BLACKは軽傷を負っただけで生還した。 :; その他の登場作品 ::; 『[[仮面ライダー世界に駆ける]]』 ::: 本作品と同様、好井ひとみが演じている。 ::; 『[[劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー]]』 ::: '''門矢小夜'''(演:[[荒井萌]])が変身する。 === ゴルゴム怪人 === 人間に動植物の遺伝子と能力を暗黒超力によって移植・融合させた改造人間で、5万年以上もの長い寿命を持つ。元が古代人であるため、人間態を持っている者もおり知能も高いが、ほとんどの者は怪人態では人語は話さない。アンモナイト怪人のように化石が怪人化した者も存在し、シーラカンス怪人のように現代人を改造した例も存在する。また、43話の描写から逆に動植物に直接人間の生体エネルギーを与えることで怪人にするケースもある模様。ゴルゴメスの実のタウリンを栄養源としているが、ゴルゴメスの実は地上世界でしか育たないため、多数の怪人が目覚めると不足をきたした。そのため、空中に無数の胞子を散布して人間に発芽させ培養、大量採取する作戦が採られたこともある(第11話)。 * 原案デザインは石ノ森章太郎が担当{{R|U17996}}。従来のライダー怪人のように、主に画面に映し出される上半身に各怪人固有のディテールを集中させ、下半身を共通のタイツ地とブーツでフォーマット化したタイツ怪人ではなく、仮面ライダーがグローブやブーツなど衣裳の要素を排したリアリティ重視でデザイン・造形されたことから、怪人たちのコンセプトも自ずと生体的なアプローチにシフトされ、全身にモチーフとなる生物のディテールや特徴をくまなく施している{{R|U17996}}。 * 怪人の声を担当した[[丸山詠二]]は、ただ唸り声をあげるだけのものが多く面白みがなかったと述べている<ref>{{Cite book|和書|date=1988-06-31|title=[[秘密戦隊ゴレンジャー]]大全集:[[ジャッカー電撃隊]]|series=[[テレビマガジン]]特別編集|pages=202-203|chapter=声優座談会 怪人こそ主役なり|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-178409-9}}</ref>。 ; コウモリ怪人 : 第1,4,11,12,19,20,29,34,37,43,46 - 49話に登場。他の怪人とは異なる特別な立場で、ゴルゴム神殿付きとなっている{{R|CHRONICLE80}}。脳波を発して目標をキャッチする能力を有し、主に偵察行動や誘拐任務などのスパイ工作を得意とする{{R|CHRONICLE80}}。人語を話し、人間界やゴルゴム神殿内の情報に通じている。三神官直属のスパイとして、常に光太郎を監視する。終盤になってからは大怪人ダロムと共に行動する。人間の生き血を好む。第49話でクジラ怪人の粘液とBLACKの回し蹴りで深手を負い、ダロムの死をシャドームーンに伝えた直後に息絶えた。武器は鋭い爪と目からの火炎弾。機動力と高い知性を持ち、飛行能力は空だけでなく大気圏外を飛ぶことができるが{{R|映画大全集167}}{{efn|第3話で、宇宙空間に飛ぶ人工衛星を持ち去る様子がテレビのニュースに映る場面がある。}}、戦闘能力は低い{{R|CHRONICLE80}}。他にも同族がいる。 :* 原案デザインとは異なり、大幅なアレンジが造形段階で加えられた{{R|U17996}}。 : ; クジラ怪人 : 第46,48 - 50話に登場。頭から噴射する白い粘液が武器で、口から超音波を発する。 : 海を死滅させようとするゴルゴムの作戦を密かに不満に思っており、組織への背信をしようとしたがその動きを察知され、大怪人バラオムによりBLACKと道連れにされかけるもBLACKに助けられる。バラオムが倒れた後は、光太郎の勧めもあって海に還っていった。シャドームーンとの決戦に敗れ、自らの住む海底に流れ着いたBLACKの遺体を見つけると、聖なる海の洞窟にて一族に伝わる再生治療用の秘薬である命のエキスを使い、BLACKを生き返らせた。その後、BLACKと共にゴルゴム神殿に向かうが、最終決戦を前にしてゴルゴムの'''トゲウオ怪人'''に処刑された。 :* 全体的に実際のクジラに則ったディテールが加味され、フジツボ状のディテールを下腹部から左脚にかけて追加し、腹部の延長のような白っぽい塗装を右脚に施すことで、シンメトリーなフォルムだが、アシンメトリーな見た目のディテールに仕上げられた{{R|U17996}}。 : ; 侍女怪人マーラ、侍女怪人カーラ : シャドームーンが両手から発した光線によって生み出された金銀の衣装を着た双子の侍女怪人。三大怪人よりも地位が高い。人語や意思を発さないうえ、戦闘に加わったことは全くなく、性格や能力は不詳。劇中でのめぼしい行動では、最終決戦でBLACKに追い詰められたシャドームーンを神殿に連れ帰る働きがあった程度である。最終話で神殿の崩壊に巻き込まれ運命をともにする<ref>『仮面ライダーDVDコレクション Vol.82』P4</ref>。 : ; ゴルゴム戦闘員 : 劇場版『仮面ライダーBLACK 恐怖!悪魔峠の怪人館』と第43話に登場したゴルゴムの戦闘員。黒いフルフェイスヘルメットを被っている。 : キャラクターショーではこれらとデザインの異なる戦闘員が登場している。 === ゴルゴムメンバー === 社会的に高い地位や名声を築いた者のみで構成され、傍ら彼らもゴルゴムに対して技術面や資金面における援助を行っている。様々な理由からゴルゴムの援助を受けている。一部のメンバーは暗黒超力によってある程度の知力や体力が大きく向上している。5万年以上の生命力を持つ怪人に憧れており、自らも怪人になることを望んでいる者もいれば、秋月総一郎のように恐怖のために仕方なく従っているメンバーも少数は存在している。 ; {{読み仮名|秋月 総一郎|あきづき そういちろう}} : 信彦と杏子の実父で、光太郎の養父。48歳。考古学者で、古代遺跡の発掘に必要な資金提供を受けるために、ゴルゴムのメンバーになった。妻の千恵は2年前に他界している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kamen-rider-official.com/zukan/characters/3297|title=秋月総一郎|work=仮面ライダー図鑑|publisher=東映|accessdate=2022-10-30}}</ref>。左腕にはゴルゴムメンバーの番号「1986EB」が刻まれている。ゴルゴムのメンバーになることを断った友人の南夫妻がゴルゴムに殺されたことから、内心ではゴルゴムに「悪魔の集団」と嫌悪を抱いていたが、自分と家族の身の安全のために仕方なく従っていた。光太郎と信彦が世紀王にされることも了承していたが、人間の記憶まで消されることには反対し、脳改造の寸前で三神官に抵抗。それにより、光太郎は脱出に成功するが、負傷した信彦は治療に専念することになる。その後、キャンプディアブロ跡地で光太郎にゴルゴムの秘密を明かし、ゴルゴムに従うしかないことを訴えるが、追っ手のクモ怪人に捕まり、鉄塔から落とされて致命傷を負い、光太郎に看取られながら息を引き取る{{efn|世界観は異なるが、石ノ森による漫画版では、総一郎がオニグモ怪人の正体として描かれていた。}}。 : ; {{読み仮名|大宮 幸一|おおみや こういち}}{{efn|書籍『全怪獣怪人 下巻』では、名称を'''大宮公一'''と記載している{{R|全怪獣111}}。}} : 大宮コンツェルンの会長。70歳。太平洋戦争以前からゴルゴムメンバーとして参加しており、三神官の暗黒超力によってその肉体を維持している。黒川という秘書がおり、自身の手足として作戦を遂行させている。サイ怪人と共同で作戦を実行した。金でゴルゴムや他のメンバーの活動を大宮基金を通じて援助している{{R|CHRONICLE14}}。EP党の支援をした後の動向は描写されていない。 : ; {{読み仮名|坂田 龍三郎|さかた りゅうざぶろう}}{{efn|書籍『全怪獣怪人 下巻』では、名称を'''坂田三郎'''と記載している{{R|全怪獣111}}。}} : 無所属のタカ派の代議士。59歳。世界各国に存在するゴルゴムメンバーと連携を取り、協力して社会を混乱に陥れる役割を担う。オオワシ怪人、セミ怪人、ネズミ怪人(岸本)と共同で社会的弱者を抹消する作戦を実行した{{R|CHRONICLE14}}。後にEP党なる政党を結成し、その党首に収まっている。部下に杉本綾子という女秘書がいる。第38話以降の動向は不明。 : ; {{読み仮名|黒松 英臣|くろまつ ひでおみ}} : 東都大学医学部教授および同附属病院院長、および聖和大学医学部部長で、精神医学と脳外科の世界的権威{{R|CHRONICLE14}}。52歳。過去に脳に寄生するウイルスの研究で、[[ノーベル医学賞]]を受賞したことがある。右手の取り外しが可能で、右目も機械化されている。三神官の暗黒超力の副作用で体の一部が獣化することもある。ノミ怪人・トカゲ怪人・マンモス怪人と共同で作戦を実行した。 : 失敗が続いたために一時期大宮基金で渡海、光太郎の追及を逃れた。最後は「当てにならない研究で怪人を死なせた」という理由で三神官に処刑されかかり、剣聖ビルゲニアの顔盗みの秘術を受け死亡。奥多摩山中の変死体として発見される末路を辿った。 : ; {{読み仮名|月影 ゆかり|つきかげ ゆかり}} : 光太郎がファンだった女優。27歳。バースデーパーティーで光太郎と信彦の運命を暗示しかけ、総一郎に窘められる。その後、口封じのためにヒョウ怪人に殺害される。 : ; {{読み仮名|大門 洋一|だいもん よういち}} : 機械工学博士。「オートバイの神様」と称されるオートバイ工学の世界的権威。息子に元レーサーの'''大門明'''がいる。ゴルゴムから資金提供を受けており、文明破壊用マシンである[[仮面ライダーBLACK (キャラクター)#ロードセクター|ロードセクター]]を製作した。ロードセクターの完成直後にゴルゴムによって抹殺されてしまう。 : ; {{読み仮名|高山教授|たかやまきょうじゅ}} : 東星大学教授。魚類の研究をしており、トンデモ学説に憑りつかれ、[[シーラカンス]]を人類以前に存在した高等な知的生命体だと信じていた。自らの研究の成果を証明するために改造を受けて'''シーラカンス怪人'''となるも、人間に未練があったのか普段は薬で人間の姿を保っていた。最期はBLACKのライダーキックで倒される。 == キャスト == === レギュラー・準レギュラー === * 南光太郎 / 仮面ライダーBLACK - [[倉田てつを]] * 秋月信彦 / シャドームーン<!--クレジットに表記--> - [[堀内孝人]] (1,2,12,17,35,37,41,47) * 秋月杏子 - [[井上明美]] (1 - 48,50) * 紀田克美 - [[田口萌|田口あゆみ]] (1 - 19,22 - 29,31 - 48,50) * 東堂勝 - [[星セント|セント]] (2,10) * 剣聖ビルゲニア - [[吉田淳]] (18 - 23,25 - 35) * 大神官ビシュム / 大怪人ビシュム - [[好井ひとみ]] (1 - 45) * 大神官バラオム / 大怪人バラオム - [[高橋利道]] (1 - 46) * 黒松教授 - [[黒部進]] (2 - 4,10,14,19) * 大宮幸一 - [[北見治一]] (2,3,7) * 坂田龍三郎 - [[久富惟晴]] (2,6,8,38) === 声の出演 === * 大神官ダロム / 大怪人ダロム - [[飯塚昭三]]{{efn|name="name"|クレジットではダロムと表記。}} (1 - 49) * 創世王 - [[渡部猛]](50,51) * シャドームーン - [[てらそままさき|寺杣昌紀]]{{efn|name="noname"|ノンクレジット。}} (35 - 51) * クジラ怪人 - [[依田英助]]{{efn|name="noname"|ノンクレジット。}} (46,48 - 50) * ナレーター - [[小林清志]](1 - 39)、[[政宗一成]](40 - 51) === 主なゲスト出演者 === ※ 参考文献:『[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]別冊・仮面ライダーBLACK』(朝日ソノラマ・1988年)、『仮面ライダー大図鑑(6) 』(バンダイ・1992年)、『仮面ライダー 昭和 Vol.10・仮面ライダーBLACK』(講談社・2016年) * 秋月総一郎 - [[菅貫太郎]](1,2) * 南教授 - [[土師孝也]] (1) * 南友子 - 遠藤英恵(1) * 月影ゆかり - [[泉じゅん]](2) * 陽一 - 直井健一郎(3) * 明子 - [[寺内よりえ]](3) * 速水徹 - [[広瀬裕|広瀬匠]](4) * 速水恵子 - [[曽根清美]](4) * 新藤浩{{efn|name="no"}} - 川岸晋也(4) * 島崎茜 - 佐藤やよい(5) * 島崎隆 - [[稲山玄]](5) * 高梨村長 - [[近藤宏]](5) * 高梨守 - [[石関賢太郎]](5) * 高野史郎 - [[井田國彦|井田弘樹]](6) * 塩見知子 - 貝ますみ(6) * 藤村浩 - [[上田忠好]](6) * 石田卓也 - [[長沢大]](6) * 森田良雄{{efn|name="no"}} - [[坂元亮介|阪本良介]](7) * 森田由紀子{{efn|name="no"}} - [[佐藤恵美 (俳優)|佐藤恵美]](7) * 黒川{{efn|name="no"}} - [[大谷朗]](7) * 広原百合 - 舟田めぐみ(8) * 英男 - 飯塚亮平(8) * 杉本綾子 - [[長門美由樹|長門硝子]](8) * 悦子 - 江馬小百合(9) * かおる - [[相原勇|小原靖子]](9) * 杉山茂{{efn|name="no"}} - [[中田譲治]](10) * 立花秘書{{efn|name="no"}} - [[中村孝雄]](10,38) * 水木{{efn|name="no"}} - 伊野口和也(10) * 坂本友紀 - [[岩間沙織]](11) * 大野勇作 - [[田村円]](11) * 駐在 - [[今西正男]](11) * バードウォッチャー - [[栗原敏]]、[[益田てつ|益田哲夫]](11) * 大門明 - [[伊吹剛]](12) * 大門洋一 - [[穂高稔]](12) * 大門輝一 - [[飯泉征貴]](12) * 本田太一{{efn|name="no"}} - 速水昌治(13) * 熊倉太助 - [[日吉としやす]](14) * 熊倉太郎 - [[青戸昭憲]](14) * 笠井教諭 - 藤堂貴也(15) * 滝竜介{{efn|name="no"}} - [[京本政樹]](16,30) ※友情出演 * 柳博士{{efn|name="no"}} - [[長谷川明男]](16) * スミス博士{{efn|name="no"}} - [[アイデン・ヤマンラール]](16) * 加藤ゆかり - 中川彩(20) * 坪田博士{{efn|name="no"}} - [[山口嘉三|山口将之]](22) * 坪田文彦{{efn|name="no"}} - 小日向範威(22) * 茂 - [[飯塚洋介]](23) * 帰宅途中の会社員 - [[甲斐道夫]](23) * 少年戦士{{efn|name="no"|オープニングテロップでは役名未表記。}} - 高橋竜次、中田武士、小林竜次、神林紀夫、加藤岳史(24)、佐藤雄二、今井洋平(31)、竹内純、[[中島義実]](47) * 江上卓也{{efn|name="no"}} - [[小野進也]](25) * 麻美 - [[湯原弘美]](26) * 久男 - 廣間享輔(27) * 聖和病院医師{{R|CHRONICLE66}} - [[山浦栄]](27) * 小山常吉{{efn|name="no"}} - [[赤塚真人]](28) * 小山陽子{{efn|name="no"}} - [[東啓子]](28) * 田所君枝 - [[西本ひろ子|西本浩子]](29) * 春日 - 甲斐道夫(29) * 三輪 - 真鍋敏<ref>{{Cite web|和書|url=http://salamiyazaki.com/index.php/2015-06-09-15-37-05/item/42-92|title=サラみやざき 講師紹介|accessdate=2021年9月27日|publisher=サラみやざき}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【真鍋敏】プロフィール(年齢)|url=https://www.excite.co.jp/news/dictionary/person/PE20b8d5a1c969cd10bbecea7739deb31f20af269b/|website=エキサイトニュース|accessdate=2021-09-28|language=ja}}</ref>(29) * 望月 - 五代哲(29) * 報道リポーター - 沢田祥二(29) * ラナ・カウアイ - [[田中美奈子]](30) * タロウ・カウアイ - [[加地健太郎]](30) * 岡祐次{{efn|name="no"}} - 河合要(31) * 度会少年{{efn|name="no"}} - 中島義実(31) * ユキ - [[本名陽子]](32) * 広瀬トオル - 中田貴裕(33) * トオルの父 - [[金尾哲夫]](33) * [[中田鉄治]](夕張市長・本人役)(37)※特別出演 * 圭子{{efn|name="no"}} - [[矢口美香|東城美帆]](37) * 圭子の新郎{{R|CHRONICLE66}}{{efn|name="no"}} - 高橋利道(37) * めぐみ{{efn|name="no"}} - [[吉田真弓 (女優)|吉田真弓]](37) * EP青少年部隊長 - [[林健樹]](38) * 直人 - [[石関賢太郎]](38) * 大井裕子([[Momoco#モモコクラブ|モモコクラブ]]・本人役)(39) * 高杉三郎 - [[石橋雅史]](40) * サトル - 工藤彰吾(40) * 太一、万作 - [[ゆーとぴあ]](41) * 福沢守 - 飯塚亮平(41) * 神野ユウキ - 片岡伸吾(42) * 神野マコト - 岡村康司 (42) * 青果店主{{R|CHRONICLE66}} - [[小野寺丈]](42) * 笹山教授 - [[若尾義昭]](42) * フランス料理の講師 - [[ドロテ]](45) * 広田由美子 - 山本恵美子(45) * 和也{{efn|name="no"}} - 松浦隆(48) * ゴルゴム親衛隊{{efn|name="no"}} - 高城富士美、[[北村隆幸]]、[[大林勝]] ほか(49) === スーツアクター === * 仮面ライダーBLACK{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|超全集|1992|p=109}}{{R|映画大全集112|JAE|仮面俳優47|THM6488}}}}、シャドームーン(代役){{R|仮面俳優47}}、倉田てつを(吹き替え){{R|CHRONICLE62|THM6488}} - [[岡元次郎]] * 仮面ライダーBLACK(代役)<ref>{{Cite web |url=https://twitter.com/or07pyqyzfg5xwq/status/1200819261314228227 |title=RXもBLACKも入った事ありますが、スーツをピッチリさせないとおかしいので・・・😅 どの時も、撮影の時間(陽が落ちてしまう・・・)の為、次郎さんの着替えの時間を省く為でした・・・ 次郎さんには大分怒られながらでしたが・・・😅 因みに、RXと戦うガイナジャグラムは北村です‼️ |access-date=2023/12/15 |publisher=X}}</ref>、コウモリ怪人<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸|user=or07pyqyzfg5xwq|number=1202231189777469441|title=@superonitan このコウモリ怪人は後輩だったかな・・・? でも、最初にやったコウモリ怪人は北村です‼️ ラウンジさらって飛んで行くやつとか・・・😁|date=2019-12-04|accessdate=2022-11-27}}</ref>{{R|h}}、怪人{{efn|ヒョウ怪人<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1189877371098161152 |title=@Tokusou1977 このシーンのヒョウ怪人か北村の怪人デビュー‼️🤗 |date=2019-10-31 |accessdate=2022-11-27 }}</ref>、クワゴ怪人<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1407975057545064454 |title=YouTubeで #仮面ライダーBLACK の無料配信が昨日更新されました‼️ 毎週水曜日更新‼️☝️ 3話 この回はまだ私怪人レギュラーではなく・・・ コウモリ怪人(ラウンジを持ち去る・・・)、クワゴ怪人は同期の阪上君だけど、ライダーパンチとキックを受けるアップのカットだけ私が怪人やってます。🤗 |date=2021-06-24 |accessdate=2022-11-27 }}</ref>、ノミ怪人{{R|h}}、オオワシ怪人<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1192779570631475201 |title=@tokiwadai1987 @POm9MGuJSMhUYLF 大手町の駅の地上出口付近で、オオワシ怪人飛んでました‼️😊 |date=2019-11-08 |accessdate=2022-11-27 }}</ref>{{R|h}}、サイ怪人<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1207437755271151619 |title=@yanagi1211 濡れ衣じゃ~~~~っ‼️ byサイ怪人 |date=2019-12-19 |accessdate=2022-11-27 }}</ref>、セミ怪人<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number= 1340469854042693633 |title= 正解ハッピョ~~~‼️🤣ヤナギさんももさんが正解‼️😊👍セミ怪人は、前の回の放送日当日に、放送で流すセミ怪人の予告用の映像を早朝撮影して、テレビ局に届けたと言うエピソードがあります‼️🤭ハチ怪人は、RXでゲドリアンのメインスーツアクター#渡辺実さんも一部演じてます‼️😊|date=2020-12-20 |accessdate=2023-06-30 }}</ref>、ハチ怪人{{R|h}}、サボテン怪人{{R|S}}、カニ怪人<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1189496608062230528 |title=@Tokusou1977 この、カニ怪人やるまで、北村はかなり周りから怒られてました❗ この回の蓑輪監督も最初 「北村芝居しろよ❗」って言ってましたが、カニ怪人で初めて「北村、お前変わったな‼️」って、ライダーの監督の中で最初に誉めて下さいました❗😁 記念すべきカニ怪人です‼️🤗 |date=2019-10-30 |accessdate=2022-11-27 }}</ref>、イワガメ怪人<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1190230208013430784 |title=@Tokusou1977 次郎さん、側中得意ですから❗ ライダー始まる前にJACのお仕事で、歌舞伎のなかで側中やってたそうです‼️ 後、イワガメ怪人のギミック(口、目のワイヤー)を丸めてお腹に入れて殺陣回りやって、ワイヤーのほつれで、お腹切っちいました‼️😅 ナイターシーンでは、ライトが反射して、全く見えなんだ・・・ |date=2019-11-01 |accessdate=2022-11-27 }}</ref>、ハサミムシ怪人<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1190943361122721793 |title=@Tokusou1977 勿論、ハサミムシ怪人も‼️😊 |date=2019-11-03 |accessdate=2022-11-27 }}</ref>、バク怪人<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1190940877788602368 |title=@Tokusou1977 バク怪人で、ナイターロケや、セットで夜中まで撮影したり・・・ BLACKはナイターや朝まで撮影多かったですけどね・・・(^^; |date=2019-11-03 |accessdate=2022-11-27 }}</ref>、クロネコ怪人{{R|kuro}}、オニザル怪人<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1258334674239098881 |title=@121372Kenji はい、オニザル怪人もやりましたよ❗😁 |date=2020-05-07 |accessdate=2022-11-27 }}</ref>{{R|h}}、アネモネ怪人<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1199309505558794240 |title=@smailkoneko @s0693102 アネモネ怪人の下ではこんなメイクしてました❗ 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|title=@014gama 全部有り難う御座います‼️ ただ、サンショウウオ怪人は怪人史上一番重くて、辛い怪人でした・・・ 一発目に水溜まりの池で殺陣回りの撮影だったので、撮影期間ずっと水が抜けなかったの・・・(..) |date=2019-10-27 |accessdate=2022-11-27 }}</ref>、ハエ怪人<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1196435089418149895 |title=@superonitan 目を出せるのは、目の芝居を目一杯やってます❗☺️ 目の芝居が好きでした❗☺️ コウモリ、ヒョウ、イラガ、シーラカンス、アネモネ、カニ、サボテン、ハエ、最初だけの大怪人ダロム等々・・・☺️ |date=2019-11-18 |accessdate=2022-11-27 }}</ref>、トゲウオ怪人<ref name="名前なし-1">{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1200013718509113344 |title=@KM26292059 @Tokusou1977 大事な場面はですね❗ クジラ怪人入ったりトゲウオ怪人入ったり・・・ 芝居がある方に入る感じてした❗f(^_^) |date=2019-11-28 |accessdate=2022-11-27 }}</ref>、クジラ怪人<ref name="名前なし-1"/>、ツノザメ怪人<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1200022408775663616 |title=@superonitan @Tokusou1977 ツノザメは割りと動きやすくて、良い怪人? でしたよ‼️🤗 |date=2019-11-28 |accessdate=2022-11-27 }}</ref>、大怪人ダロム<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1234083172993789952 |title=@Tokusou1977 ガンガディンも同じ方・・・ 因みに、大怪人ダロムやってた方です‼️ 更に言うと、大怪人ダロムの最初のカットだけ北村ですけどね・・・😅 |date=2020-03-01 |accessdate=2022-11-27 }}</ref>、大怪人バラオム{{R|h}}。}} - [[北村隆幸]] * バッタ男(1){{Refnest|group="出典"|<ref>『講談社コミックス デラックス KCDX3192 仮面ライダーをつくった男たち 1971・2011』 248P</ref>{{Sfn|仮面ライダー昭和10|2016|p=7}}{{R|CHRONICLE60}}}} - 倉田てつを * シャドームーン{{Sfn|超全集|1992|p=109}}{{R|映画大全集112}} - [[岩田時男]] * シャドームーン{{R|仮面俳優47}}、クモ怪人{{R|W}} - [[菊地寿幸]] * 大神官ダロム(1 - 35){{R|映画大全集167|CHRONICLE66}}、ノミ怪人<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1257950672558804992 |title=@tanarinko 多分ね、ノミはやってないんですよ・・・ 倉田さんはやってたって言うけど、あれ小さくて、庄司先輩だと思います・・・ 現場には北村は居たと思うけど、ヤギ怪人とノミ怪人・・・あの頃確か舞台掛け持ちしてました・・・😅 |date=2020-05-06 |accessdate=2022-11-27 }}</ref>、クロネコ怪人{{R|kuro}} - 庄司浩和 * 大怪人ダロム - 山本貴浩 * 大神官バラオム{{R|映画大全集167}} / 大怪人バラオム - [[高橋利道]] * 侍女怪人マーラ{{sfn|大図鑑|1992|p=143}} - 坂田佳枝{{efn|name="malakara"|クレジット上ではJACのメンバーとは別扱いで、ゲスト出演者扱い(役名表記なし)で表記された。}} * 侍女怪人カーラ{{sfn|大図鑑|1992|p=143}} - 神田真理{{efn|name="malakara"}} * クモ怪人{{R|K}} - [[蜂須賀祐一]] * クモ怪人{{R|W}}、ハチ怪人<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1415639079358664708 |title=今日もYouTube無料配信 #仮面ライダーBLACK 更新されたので‼️🤣 🤗✨ 9話 ↓ https://t.co/fsl4DL5efZ ハチ怪人のワンシーンだけ、先輩が演じて下さいました‼️ RXで #ゲドリアン をされる #渡辺実 さんです‼️🙇 後は全部北村ハチ怪人‼️😊 |date=2021-07-15 |accessdate=2022-11-27 }}</ref> - [[渡辺実 (俳優)|渡辺実]] * クワゴ怪人{{R|K}}、ヤギ怪人{{R|K}} - 阪上富男 * サボテン怪人<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1417878224533479429 |title=YouTubeの無料配信 #仮面ライダーBLACK が更新されました‼️🤗 11話 ↓ https://t.co/gyRcWNpvxo サボテン怪人の頃はまだ怒られっぱなしの北村です・・・😅 おそらく、勉強、見本の為に戦隊シリーズで活躍されてた #石垣広文 さん (#ジェットマンイエローオウル のスーツアクター等々・・・) が |date=2021-07-22 |accessdate=2022-11-27 }}</ref> - [[石垣広文]] * その他{{R|W}} - 出村達彦、[[山田一善]] == スタッフ == 第1話の監督の[[小林義明]]は当初は別の作品の準備に入る予定だったが、プロデューサーの吉川の依頼で同話のみ担当することとなった{{R|CHRONICLE58}}。 <!-- クレジット順 --> * プロデューサー - [[吉川進]]・[[堀長文]]([[東映]])、井口亮・山田尚良([[毎日放送]]) * 原作 - [[石ノ森章太郎]] * 連載 - [[週刊少年サンデー]]、[[小学館の学年別学習雑誌|小学館学習雑誌]]、[[月刊コロコロコミック|コロコロコミック]]、[[てれびくん]]、[[テレビランド]] * 脚本 - [[上原正三]]、[[宮下隼一]]、[[内藤誠]]、[[山田隆司]]、[[鷺山京子]]、[[杉村升]]、[[田口勝彦 (テレビドラマ監督)|山崎久]]、[[荒木憲一]]、山口竜、[[荒川稔久]] * 音楽 - [[川村栄二]] * アクション監督 - [[金田治]]・[[村上潤]]{{efn|第16話から}}([[ジャパンアクションエンタープライズ|ジャパン・アクション・クラブ]]) * 監督 - [[小林義明]]、[[辻理]]、北本弘、[[蔦林淳望]]、[[小西通雄]]、[[小笠原猛]]、[[蓑輪雅夫]] * 撮影 - [[松村文雄]]、工藤矩雄、岡部正治 * 照明 - 中川勇雄、神長倉孝明、嶋田宜代士、仲澤廣幸、清水達巳、渡辺康 * 美術 - 井上明、秋森直美、野本幸男、大橋豊一、稲野実 * 造型 - [[前澤範]] * 録音 - [[太田克己]] * 編集 - [[菅野順吉]] * 選曲 - 茶畑三男 * 効果 - [[大泉音映]] * 製作担当 - 寺崎英世 * 進行主任 - 竹内洪太、八鍬敏正、桐山勝、梶川雅也、千葉耕蔵 * 監督補 - 蔦林淳望{{efn|第1話のみ、ノンクレジット。シナリオには監督補としてスタッフ一覧に記載。}} * 助監督 - 吉野晴亮、蓑輪雅夫、[[岩原直樹]]、息邦夫、松本祐幸、松井昇、鎌田浩、関良平、安養寺工、[[石田秀範]]、[[田﨑竜太]]、竹内英孝 * 計測 - 岡部正治、斉藤健、西野高司、石山信夫、[[山本英夫 (映画カメラマン)|山本英夫]]、田中正博 * 記録 - 内藤美子、栗原節子、富田幸子、石川和枝、天池芳美、安藤豊子、高津省子、斉藤りさ、斉藤能子、甲斐哲子 * 製作デスク - 岩永恭一郎 * 装置 - 東映美術センター * 操演 - [[國米修市|国米修市]]、神尾悦郎 * 美粧 - サン・メイク * 衣裳 - 東京衣裳 * 装飾 - [[大晃商会]] * 撮影協力 - [[伊豆修善寺サイクルスポーツセンター]](第4話)、[[株式会社日立製作所]](第6話)、[[日本中央競馬会|JRA]][[東京競馬場]](第7話)、後楽園アイスパレス(第19話)、S.K.Y.山田医療照明(第27話)、OKI[[沖電気工業]]株式会社(第31話)、[[川口市立グリーンセンター]](第32話)、[[夕張市]](第37話)、ゆうばり[[石炭の歴史村]](第37話)、ANA[[全日空]](第37話)、札幌不二ホテル(第37話)、[[伊豆シャボテン公園]](第43話)、 * CGビデオ協力 - (株)コンピューター・グラフィック・ラボ(第12話) * 衣裳協力 - セ・ラ・ヴィ(第39話) * バイオリン指導 - 城戸喜代(第8話のみ) * ダンス指導 - 西原千雪(第9、48話) * 資料担当 - 小佐野聡([[石森プロ]]) * キャラクター製作 - [[レインボー造型企画]] * イラスト - [[野口竜]] * プロデューサー補 - [[髙寺成紀]] * 合成 - [[日本映像クリエイティブ|チャンネル16]] * 現像 - [[東映ラボ・テック|東映化学]] * オートバイ協力 - [[スズキ (企業)|スズキ自動車]] * ビデオ合成 - [[東通ecgシステム]](峰沢和夫、近藤弘志、前岡良徹、鈴木康夫) * (株)[[特撮研究所]] ** 操演 - [[鈴木昶]]、[[尾上克郎]] ** 撮影 - 高橋政千 ** 照明 - 加藤純弘 ** 美術 - [[佛田洋]] * 特撮監督 - [[矢島信男]] * 製作 - 東映、毎日放送 * 構成 - 蔦林淳望(これが仮面ライダーBLACKだ!)、[[折田至]](1号〜RX大集合) * 演出助手 - 畠山典久(これが仮面ライダーBLACKだ!) * VTR - 東映化学赤坂ビデオセンター(1号〜RX大集合) * 仕上担当 - 穴井俊雄(1号〜RX大集合) * 制作協力 - [[映広]]音響(これが仮面ライダーBLACKだ!) == 音楽 == BGMはのちに『[[仮面ライダーJ]]』、『[[五星戦隊ダイレンジャー]]』や『[[忍者戦隊カクレンジャー]]』を手掛けることになる川村栄二が作・編曲し、主題歌は[[歌謡曲]]界でヒットメーカーとして実績を挙げていた宇崎竜童・阿木燿子夫妻が作詩・作曲を手がけている。川村は、仮面ライダーBLACKのデザインを見てクールで都会的だと感じ、シンセサイザーを無機質に用いたと述べている{{R|20th94}}。 [[劇伴|挿入歌]]の作曲では渡辺宙明、同編曲では石田勝範がやはりシリーズ初参加となった。主題歌「仮面ライダーBLACK」と挿入歌「オレの青春」は主演を務めた倉田てつをが歌唱を担当した。 本作品のサウンドトラック・アルバム『仮面ライダーBLACK 音楽集』はLPレコードとカセットテープとCDの3種類が発売されたが、両者のキャパシティの差から、一部の曲はCDのみの収録となっている<ref>『[[仮面ライダー COMPLETE SONG COLLECTION SERIES]] 8 仮面ライダーBLACK』のライナーノーツより</ref>。また、収録された音源は、番組の本編ダビング用とは別にレコード・CD用にミックスされたものである<ref>『仮面ライダーBLACK SONG & BGM COLLECTION』のライナーノーツより</ref>。 === 主題歌 === ==== オープニングテーマ ==== ; 「[[仮面ライダーBLACK (曲)|仮面ライダーBLACK]]」 :* 作詩 - [[阿木燿子]] / 作曲 - [[宇崎竜童]] / 編曲 - 川村栄二 / 歌 - 倉田てつを{{efn|女性コーラスも入っているが、ノンクレジットとなっている。}} : 初代『仮面ライダー』同様{{R|CHRONICLE58}}、主演俳優による主題歌歌唱は4例目となる。 : フルサイズ音源には複数のバリエーションが存在し、それぞれイントロや倉田のボーカルやエコー処理、サビの「BLACK!」というシャウト部分のコーラスなどが異なっている<ref>{{Cite album-notes |和書|title=仮面ライダーBLACK SONG & BGM COLLECTION |others=川村栄二 |year=2015 |page=11 |type=CDライナー |publisher=[[日本コロムビア]] |id=COCX39041→3 }}</ref>。2015年発売の『仮面ライダーBLACK SONG & BGM COLLECTION』には3種類のフルサイズ音源が収録されており、それぞれ :# 「仮面ライダーBLACK」(1988年発売の企画盤『仮面ライダーBLACK 歌とアクション』に収録されたバージョン{{efn|1992年発売の『[[仮面ライダー COMPLETE SONG COLLECTION SERIES]] 8 仮面ライダーBLACK』の楽曲解説では、「On AirのTVサイズに(最も)近いバージョン」とされている。ただしそのアルバムでは誤ってシングルバージョンがこの曲として収録されてしまったため、長らく混乱を招く元となった。}}) :# 「仮面ライダーBLACK シングルバージョン」(シングル盤に収録されたバージョン) :# 「仮面ライダーBLACK アルバムバージョン」(『仮面ライダーBLACK ヒット曲集』などのアルバム盤に収録されたバージョン){{efn|第16話「友よ!海を越えて」において劇中使用されている。}} : と区別されている。 : 同様にTVサイズも2種類作られているが、実際に使われたのは1種類のみ。『SONG & BGM COLLECTION』では、本編使用バージョンを「TVサイズ」、本編未使用バージョンを「シングルバージョン TVサイズ{{efn|放送当時は『仮面ライダーBLACK 音楽集』(CD版)に「コーラス入りカラオケ」が収録されたのみで、歌入りのものは2001年発売の『TVサイズ!仮面ライダー全主題歌集』で初商品化された(特に注釈もないため、本編使用バージョンと誤認して収録された可能性あり)。なお前述のとおり音楽集ではシングルバージョンのTVサイズ「コーラス入りカラオケ」が収録されているが、インデックス表記上では(収録タイムの記載も含めて)フルサイズのカラオケが収録されていることになっている。}}」と区別し収録している。 : なお、[[藤井健 (歌手)|藤井健]]によるカバー版が存在する{{efn|[[キングレコード]]の「決定盤!最新テレビこどものうたベスト20」(K25X-310、1988年発売)に収録。}}。 : オープニング映像では第13話よりロードセクターのシーンが追加された{{R|CHRONICLE66}}。 :* プロデューサーの吉川は、阿木に「シンプルで子供たちが口ずさめるように、英語交じりの歌詞は控えて欲しい」と依頼したという{{R|CHRONICLE58}}。 ==== エンディングテーマ ==== ; 「Long Long Ago, 20th Century」 :* 作詩 - 阿木燿子 / 作曲 - 宇崎竜童 / 編曲 - 川村栄二 / 歌 - [[坂井紀雄]] : ライダーシリーズの主題歌としては初の「仮面ライダー」関係の詞が一切入らないJ-POP風の曲となった。 : 第14,35,47,48,50,51話では挿入歌として使用された。 : なお曲タイトルはオープニング映像におけるクレジットのほか、シングルレコードのジャケットの表1・表4のみ「LONG LONG AGO, 20TH CENTURY」と大文字表記されており、その歌詞カードやレコード盤面ラベルの表記、ならびにこれ以後のシングルCD(ジャケット・盤面表記とも)やアルバムへの収録においては、基本的に大文字表記されていない。 :* エンディング映像における陽炎はパイロット監督の小林が担当していた『[[Gメン'75]]』のオープニングのノウハウが活かされているといい、仮面ライダーの悲哀と悲しみの部分を表現した歩き方をしたという{{R|CHRONICLE60}}。スーツアクターの岡元は「戦いが終わったあと」の歩きをイメージしており、身体の軸をぶらさず、自然体で歩くようにイメージしているという{{R|CHRONICLE62}}。 === 挿入歌・イメージソング === ; 「仮面ライダーBLACK 〜星のララバイ〜」(第12,19,48,51話) :* 作詞 - 阿木燿子 / 作曲 - 宇崎竜童 / 編曲 - [[石田勝範]] / 歌 - [[五十嵐寿也]] : ; 「ブラックホール・メッセージ」(第12 - 16,18 - 21,23,27,28,31 - 33,40,44 - 46,48,49,51話・劇場版1,2) :* 作詞 - 阿木燿子 / 作曲 - 宇崎竜童 / 編曲 - 石田勝範 / 歌 - 五十嵐寿也 : ; 「変身!ライダーブラック」(第21 - 23,37話) :* 作詞 - 石ノ森章太郎 / 作曲 - [[渡辺宙明]] / 編曲 - 石田勝範 / 歌 - 五十嵐寿也 : ; 「BLACK ACTION」(第21,22,25,27 - 29,36,38,41,42,44,46 - 49話・劇場版1,2) :* 作詞 - 石ノ森章太郎 / 作曲 - 渡辺宙明 / 編曲 - 石田勝範 / 歌 - 五十嵐寿也 : ; 「レッツファイト・ライダー」(第48,50話) :* 作詞 - [[八手三郎]] / 作曲 - 渡辺宙明 / 編曲 - 石田勝範 / 歌 - 五十嵐寿也 : ; 「激走!二大マシン」(第50話) :* 作詞 - 八手三郎 / 作曲 - 渡辺宙明 / 編曲 - 石田勝範 / 歌 - 五十嵐寿也 : ; 「ゴールへ向かって走れ」(第51話・劇場版1) :* 作詞 - 石ノ森章太郎 / 作曲 - 渡辺宙明 / 編曲 - 石田勝範 / 歌 - 五十嵐寿也 : ; 「オレの青春」(第51話・劇場版1)<!--「俺の青春」表記もあるようです--> :* 作詞 - 石ノ森章太郎 / 作曲 - 渡辺宙明 / 編曲 - 石田勝範 / 歌 - 倉田てつを : ; 「MAゴコロあ・げ・る」(第39話) :* 作詞 - 山田隆司 / 作曲 - 小野寺丈 / 編曲・演奏 - 21-TWENTY ONE- / 歌 - 大井裕子 : 劇中でのタイトルは「MOG-ROG ―MAゴコロあ・げ・る―」。 このほかに、第14話では「[[ABC (少年隊の曲)|ABC]]」、第15話では「[[ガラスの十代]]」、第28話では「[[パラダイス銀河]]」が使用された。 == 制作 == === 企画の経緯 === 仮面ライダーシリーズの原作者である[[石ノ森章太郎]]と東映プロデューサーの[[平山亨]]は、『[[10号誕生!仮面ライダー全員集合!!]]』終了から2年経った1986年3月に新たな仮面ライダーシリーズを立ち上げるべく『'''キミは仮面ライダーをみたか?!'''』という企画書を制作した{{R|71-84}}。この企画は「原点回帰」をコンセプトに仮面ライダー1号の世界観を最新技術でリフレッシュするというもので、石ノ森の描きおろしイラストがふんだんに用いられるなど力の入れられたものであったが、当時は[[リアルロボット]]アニメが勢いづいている時期であり、関係各方面からは好意的な反応は受けられず実現に至らなかった{{R|71-84}}。その後、この企画は平山から[[メタルヒーローシリーズ]]を手がけていたプロデューサーの[[吉川進]]の手に渡り、本作品の原案となった{{R|71-84}}{{efn|[[髙寺成紀]]は「吉川の考え方から察すれば、この企画書が『BLACK』の企画の発端になったことはないと思う」と述べている{{Sfn|仮面ライダー昭和11|2016|p=33}}。}}。 平山亨から交替したプロデューサーの吉川進の指揮下で旧作から世界観と設定の一新が行われ{{efn|ただし、吉川は後年のインタビューでキャラクターコンセプトなどは自身ではなく、原作の石ノ森と作詞家の[[阿木燿子]]の二人が話し合って固まったものだと発言している{{R|CHRONICLE58}}。}}、過酷な運命を背負った主人公の苦悩と希望を中心に据えた物語づくりを目指して制作された。石ノ森は、原点に立ち返るつもりで「'''仮面ライダー0号'''」をイメージしたと語っている{{Sfn|超全集|1992|p=98|loc=スペシャルインタビュー 石ノ森章太郎}}{{efn|『特撮ニュータイプ』2011年6月号では、この点を「テレビシリーズではなく、原作者・石ノ森章太郎の作品への原点回帰と考えることができる」としている{{R|特撮ニュータイプ}}。}}。スタッフの多くは[[宇宙刑事シリーズ]]から共通している{{Sfn|全怪獣怪人 下|1990|p=39}}。ただし、脚本の[[鷺山京子]]、監督の[[小西通雄]]や撮影の[[松村文雄]]など、一部は過去のライダーシリーズに参加経験のあるスタッフも起用されていた。 本作品は[[小学館]]が出版権、すなわち雑誌連載などをほぼ独占的に行う権利を確保している。そのため、これまでのシリーズのグラフ記事では他社の追従を許さない立場にあった、『[[テレビマガジン]]』を始めとする[[講談社]]の児童グラフ誌には、本作品の情報や漫画は掲載されていない。当時講談社写真部のカメラマンであった大島康嗣も、本作品の撮影現場には一度も行っておらず、後年「本編で撮れなかったことが悔やまれてなりません」と語っている{{Sfn|仮面ライダー昭和10|2016|p=10}}。 吉川によれば、スタッフらは仮面ライダーの特徴として「主人公は悪の組織から脱出してきた」「改造人間」「バイクに乗る」「バッタがモチーフ」「正義のヒーロー」という5要素を取り上げた上で、これらを当時最新の技術でリメイクするのか、あるいはすべてを否定するのかを検討したという{{Sfn|超全集|1992|p=103|loc=スペシャルインタビュー 吉川進}}。結果として、本作品ではリメイク案が採用された。 === 特徴 === デザイン面においては、これまでのシリーズでは仮面ライダーのデザインは、石ノ森と東映側の意向が大きく反映されることが常だったものが、バンダイのディレクションが強く作用していることが特筆される。デザインのフィニッシュはバンダイ傘下の[[プレックス]]が手がけた。それまでのマフラーとスーツに、グローブとブーツといった「人が着ている」印象を排除し、生物的・外骨格的とも評されるソリッドな意匠は、裏を返せば玩具化を前提としたデザインということでもあるが、これまでの仮面ライダーとは異なるシャープなイメージを打ち出すだけでなく、後のライダーのデザインにも影響を与えている。 石ノ森によるラフデザインでは「バッタ男がスーツを着ている」というコンセプトのものもあり<ref>{{Cite book|和書|date=2013-09-10|title=甦る!石ノ森ヒーローファイル|series=Gakken Mook|publisher=[[学研ホールディングス|Gakken]]|page=28|chapter=ヒーローファイル 仮面ライダーシリーズ(昭和)|isbn=978-4-05-610166-9}}</ref>、この案は『[[真・仮面ライダー 序章]]』でも検討されている。 本放送当時に発行された特集ムック([[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]の別冊{{Full|date=2014年3月}})のスタッフへのインタビューによると、従来までの東映ヒーロー特撮作品ではヒーローのスーツを見栄えが良い[[繊維強化プラスチック|FRP]]製のアップ用と、動きやすい軟質ウレタン製のアクション用の2種類用意することが常だったものが、本作品では皺が寄り難い最新の軟質素材を採用したことで、アクション用がアップ用を兼ねられるようになったとある。この軟質素材製スーツが、ソリッド(外骨格的)ながらも生物的(柔らかい)というBLACKのビジュアルイメージと柔軟かつ頑強という設定上の特徴が一致することとなった。なお、NGデザインとして同じ形状ではあるが色がメタリックブルーのスーツが製作されている。また当初は間接部がメカニック的であったが、石ノ森の監修でNGとなり、筋肉と血管状の意匠に変更された。 テレビと視聴者である児童が一体となれるようにとの意向により{{Sfn|超全集|1992|p=102|loc=スペシャルインタビュー 渡邊亮徳}}、当時バンダイから発売されていた「テレビパワーシリーズ」(変身ベルトやBLACKのフィギュアなど)には、『[[キャプテンパワー]]』のグッズで導入された「テレビパワー」機能が搭載されていた。劇中の変身シーンや必殺技を繰り出すシーンなどでは、映像から白の閃光が連続的に発せられることにより画面が黒と白に明滅する効果(いわゆる[[パカパカ]]と呼ばれる技法)が画面に合成されており、グッズに内蔵された光センサーが点滅信号を受信して発光回転が作動するというギミックである{{R|マガジン202076}}{{Sfn|CHRONICLE|2020|p=63}}{{efn|後に[[ポケモンショック]]の騒動を受けて放送業界で「パカパカ」の技法に自主規制がかかったのに伴い、現在流通されている映像ソフトやネット配信では点滅箇所の映像の明るさを下げる処理がされている。また、[[2008年]]3月29日に[[NHK衛星第2テレビジョン|NHK BS2]]の特別番組『とことん!石ノ森章太郎』内で本作品の第47話が再放送された際にも、これらのシーンに減光処理が施される形で放送された。}}。ただし、当初期待していた業績には届かなかったため、挽回策としてパッケージの変更や、テレビパワーのギミックを省いた『バッテリーパワー変身ベルト』の発売、電気店店頭でサラリーマンがベルトを着用して変身ポーズを取るテレビCMなどが導入された{{R|マガジン202076}}。 === スタッフ・キャスト === 当初の脚本はメタルヒーローシリーズを降板してブランクを置いていた[[上原正三]]が担当した{{efn|当初、上原が書いたシナリオは段取りが長かったことから、子供番組のためにテンポ良く修正したという{{R|CHRONICLE58}}。}}。しかし、周囲からの意見がこれまでの作品に比べてあまりに多かったこともあって、上原はシリーズの序盤にて番組を降りた{{Sfn|仮面ライダー昭和10|2016|p=33}}。その後は[[宮下隼一]]、[[杉村升]]などの面々が脚本陣の中心的役割を担った。またベテランの[[長坂秀佳]]が偶然テレビで『BLACK』を見てその黒の佇まいにほれ込み旧知の東映・齋藤頼照プロデューサーを通して吉川に作品の参加を志願したものの、吉川は「ギャラが高すぎるから無理」と長坂に断りを入れたというエピソードもある。後に『[[仮面ライダークウガ]]』や「[[スーパー戦隊シリーズ]]」などを手掛ける[[荒川稔久]]は、本作品で初めて東映特撮作品に参加した{{R|20th93}}。当時の荒川はデビューしたてで仕事がなく、本作品にも参加していた脚本家の一人である[[山田隆司]]から紹介されたという{{R|20th93}}。 パイロット監督は仮面ライダーシリーズ初参加となる[[小林義明]]が担当。小林は第1話のみの参加となったが、[[倉田てつを]]によると第1話は撮影だけで丸1ヶ月掛かったという。また、序盤で夜の街を疾走するシーンだけで10日間を費やしていたといわれる。その他は[[小西通雄]]、[[小笠原猛]]、[[蓑輪雅夫]]といった面々が演出陣のローテーションを組み、小西と小笠原は劇場版のメガホンもそれぞれ担当している。 主役・南光太郎役のキャストについては、公開オーディションにより決定された{{R|映画大全集112}}{{efn|倉田は{{要検証|放送当時の東映専務であった|date=2021年9月}}草薙修平の家にデビュー前から居候しており、厳正にオーディションは行われたが、同社内では「倉田で決まりだろう」という草薙の思いもあった空気が漂っていたという{{R|CHRONICLE58}}。}}。秋月信彦役の堀内孝人は準入賞であった{{R|映画大全集112}}。このオーディションの告知ポスターには、バイクの反転写真と初代ライダーの横顔、そして「英雄(ヒーロー)は、誰だ!?」という[[キャッチコピー]]があしらわれていた。また、オーディションの模様は「これが仮面ライダーBLACKだ!」で放送された。 殺陣の担当がそれまでの[[大野剣友会]]から[[ジャパンアクションエンタープライズ|JAC]]へと変わり、BLACKの主な[[スーツアクター]]は当時若手の[[岡元次郎]]が担当した{{R|映画大全集112|仮面俳優47}}。従来のバトルシーンとは大きく変えたいという吉川の意向により、従来の空手や柔道技とトランポリンを組み合わせた「技のデパート」的なアクションや、見せ場の一つだった「戦闘員との立ち回り」も本作品では廃されている。『[[兄弟拳バイクロッサー]]』までスーツアクターを務めていた[[村上潤]]は、本作品でアクション監督としてデビューした{{R|20th95}}。 音楽も、初代から一貫してシリーズの劇伴を手がけていた[[菊池俊輔]]に代わり、[[川村栄二]]が担当することになった。声優はこれまでのシリーズの大半に関わっていた[[テアトル・エコー]]に代わり、[[東京俳優生活協同組合|俳協]]の所属声優が主に起用されていた。ただし、オープニングクレジットへの表記はダロム、創世王、ナレーションの声優のみとなっており、当時のスーパー戦隊やメタルヒーローと同様に主要レギュラーのみをクレジットする形となっていた。 吉川は、次番組の『RX』も含め、本作品のシリーズを3年間続けたかったというが、後年の『真』や『[[仮面ライダーZO]]』、『[[仮面ライダーJ]]』で後世にはない新たな仮面ライダー像を輩出し、それなりの存在感を持たせるようになったという{{R|CHRONICLE58}}。 == 放送日程 == {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small" !放送日!!放送回!!サブタイトル!!登場怪人!!脚本!!監督 |- |style="text-align:right"|1987年10月{{0}}4日 |1||BLACK!! 変身 |style="text-align:left"| * コウモリ怪人 * クモ怪人 |rowspan="4"|上原正三 |小林義明 |- |style="text-align:right"|10月11日 |2||怪人パーティー |style="text-align:left"| * ヒョウ怪人 |rowspan="2"|辻理 |- |style="text-align:right"|10月18日 |3||怪?怪・改造人間 |style="text-align:left"| * クワゴ怪人 * コウモリ怪人 |- |style="text-align:right"|10月25日 |4||悪魔の実験室 |style="text-align:left"| * コウモリ怪人 * ノミ怪人 |rowspan="2"|北本弘 |- |style="text-align:right"|11月{{0}}1日 |5||迷路を走る光太郎 |style="text-align:left"| * ヤギ怪人 |宮下隼一 |- |style="text-align:right"|11月8日 |6||秘密透視のなぞ |style="text-align:left"| * オオワシ怪人(声 - [[丸山詠二]]) |内藤誠 |rowspan="2"|辻理 |- |style="text-align:right"|11月15日 |7||復元する生体メカ |style="text-align:left"| * サイ怪人(声 - [[西尾徳]]) |山田隆司 |- |style="text-align:right"|11月22日 |8||悪魔のトリル |style="text-align:left"| * セミ怪人(声 - 丸山詠二) |鷺山京子 |rowspan="2"|蔦林淳望 |- |style="text-align:right"|11月29日 |9||ビシュムの紅い唇 |style="text-align:left"| * ハチ怪人 |宮下隼一 |- |style="text-align:right"|12月{{0}}6日 |10||信彦はどこに? |style="text-align:left"| * トカゲ怪人 |内藤誠 |rowspan="2"|北本弘 |- |style="text-align:right"|12月13日 |11||飢えた怪人たち |style="text-align:left"| * サボテン怪人 * カミキリ怪人 * カニ怪人 * イラガ怪人 * トゲウオ怪人 |山田隆司 |- |style="text-align:right"|12月20日 |12||超マシン伝説誕生 |style="text-align:left"| * カミキリ怪人 * コウモリ怪人 |上原正三 |rowspan="2"|小西通雄 |- |style="text-align:right"|12月27日 |13||ママは怪人養育係 |style="text-align:left"| * カニ怪人 |杉村升 |- |style="text-align:right"|1988年1月10日 |14||マグロが消えた日 |style="text-align:left"| * マンモス怪人(声 - 西尾徳) |山崎久 |rowspan="2"|小笠原猛 |- |style="text-align:right"|1月17日 |15||狙われた怪奇学園 |style="text-align:left"| * イワガメ怪人(声 - 丸山詠二) |宮下隼一 |- |style="text-align:right"|1月24日 |16||友よ!海を越えて |style="text-align:left"| * ハサミムシ怪人(声 - 丸山詠二) |rowspan="2"|鷺山京子 |rowspan="2"|蔦林淳望 |- |style="text-align:right"|1月31日 |17||杏子の不思議な夢 |style="text-align:left"| * バク怪人 |- |style="text-align:right"|2月{{0}}7日 |18||剣聖ビルゲニア!! |style="text-align:left"| * クロネコ怪人 |rowspan="2"|山田隆司 |rowspan="2"|小西通雄 |- |style="text-align:right"|2月14日 |19||息づまる地獄の罠 |style="text-align:left"| * オニザル怪人(声 - 丸山詠二) |- |style="text-align:right"|2月21日 |20||ライダーの墓場 |style="text-align:left"| * アネモネ怪人(人間態(花輪園子) - 呉恵美子、声 - [[太地琴恵]]) |rowspan="2"|杉村升<br/>荒木憲一 |rowspan="2"|小笠原猛 |- |style="text-align:right"|2月28日 |21||激突!二大マシン |style="text-align:left"| * タマムシ怪人(声 - [[新井一典]]) |- |style="text-align:right"|3月{{0}}6日 |22||パパを襲う黒い影 |style="text-align:left"| * ツルギバチ怪人 |宮下隼一 |rowspan="2"|蔦林淳望 |- |style="text-align:right"|3月13日 |23||マルモの魔法の力 |style="text-align:left"| * アンモナイト怪人(声 - 西尾徳) |鷺山京子 |- |style="text-align:right"|3月20日 |24||女子大生の悪夢 |style="text-align:left"| * シーラカンス怪人(人間態(高山教授) - [[井上高志]]、声 - [[岸野一彦]]) * 少年戦士 |山口竜 |rowspan="2"|小笠原猛 |- |style="text-align:right"|3月27日 |25||爆走する武装メカ |style="text-align:left"| * カマキリ怪人<br/>(声 - [[桑原たけし]]) * テストロイド |山崎久 |- |style="text-align:right"|4月{{0}}3日 |26||超能力少女を救え |style="text-align:left"| * バッファロー怪人(人間態(謎の男) - [[卯木浩二]]、声 - 丸山詠二) |杉村升 |rowspan="2"|蔦林淳望 |- |style="text-align:right"|{{efn|1988年4月10日は『JNN報道特別番組「本州・四国地続きに〜瀬戸大橋今開通」』放送のため休止。}}4月17日 |27||火を噴く危険道路 |style="text-align:left"| * イラガ怪人(声 - [[滝雅也]]) |鷺山京子 |- |style="text-align:right"|4月24日 |28||地獄へ誘う黄金虫 |style="text-align:left"| * コガネムシ怪人(声 - 西尾徳) |荒川稔久 |rowspan="2"|小笠原猛 |- |style="text-align:right"|5月{{0}}1日 |29||獲物はデスマスク |style="text-align:left"| * アルマジロ怪人(声 - 丸山詠二) |宮下隼一 |- |style="text-align:right"|5月{{0}}8日 |30||暗殺者にアロハ! |style="text-align:left"| * イカ怪人(声 - [[大山豊 (俳優)|大山豊]]) |鷺山京子 |rowspan="2"|小西通雄 |- |style="text-align:right"|5月15日 |31||燃えよ!少年戦士 |style="text-align:left"| * ヤマアラシ怪人(声 - 新井一典) * 少年戦士 |宮下隼一 |- |style="text-align:right"|5月22日 |32||夢少女・ユキ |style="text-align:left"| * キノコ怪人(声 - 西尾徳) |山口竜 |rowspan="2"|蓑輪雅夫 |- |style="text-align:right"|5月29日 |33||父と子の愛の河 |style="text-align:left"| * ベニザケ怪人 |宮下隼一 |- |style="text-align:right"|6月{{0}}5日 |34||復活?! 地獄王子 |rowspan="2"| |rowspan="3"|杉村升 |rowspan="2"|小西通雄 |- |style="text-align:right"|6月12日 |35||対決!二人の王子 |- |style="text-align:right"|6月19日 |36||愛と死の宣戦布告 |style="text-align:left"| * ケラ怪人 * ネズミ怪人 * ムカデ怪人 * クワガタ怪人 * トゲウオ怪人 |rowspan="2"|蔦林淳望 |- |style="text-align:right"|6月26日 |37||想い出は夕張の空 |style="text-align:left"| * ケラ怪人 * コウモリ怪人 |宮下隼一 |- |style="text-align:right"|7月{{0}}3日 |38||謎!? EP党少年隊 |style="text-align:left"| * ネズミ怪人(人間態(岸本) - 岡田祐一、声 - 新井一典) * ネズミ人間 |杉村升 |rowspan="2"|蓑輪雅夫 |- |style="text-align:right"|7月10日 |39||アイドルの毒牙 |style="text-align:left"| * ムカデ怪人(人間態 - 大井裕子、声 - 丸山詠二) |山田隆司 |- |style="text-align:right"|7月17日 |40||カラテ名人の秘密 |style="text-align:left"| * サンショウウオ怪人 |鷺山京子 |rowspan="2"|小西通雄 |- |style="text-align:right"|7月24日 |41||あぶない時間泥棒 |style="text-align:left"| * コブラ怪人(人間態(戦国時代の侍) - [[益田てつ|益田哲夫]]、声 - 桑原たけし) |宮下隼一 |- |style="text-align:right"|7月31日 |42||東京-怪人大集合 |style="text-align:left"| * ハエ怪人(声 - 西尾徳) * 亡霊怪人{{efn|クモ怪人、クワゴ怪人、サイ怪人、サボテン怪人、カミキリ怪人、シーラカンス怪人、イラガ怪人、キノコ怪人、ベニザケ怪人、ネズミ怪人。}} |山田隆司 |rowspan="2"|小笠原猛 |- |style="text-align:right"|8月7日 |43||怪人牧場の決闘! |style="text-align:left"| * クワガタ怪人(人間態(管理人) - [[うえだ峻]]、声 - 丸山詠二) * コウモリ怪人 |荒木憲一 |- |style="text-align:right"|8月14日 |44||タンスの中は海! |rowspan="2"| |鷺山京子 |rowspan="2"|蓑輪雅夫 |- |style="text-align:right"|8月21日 |45||妖花ビシュムの死 |宮下隼一 |- |style="text-align:right"|8月28日 |46||壮絶バラオムの死 |style="text-align:left"| * クジラ怪人 * コウモリ怪人 |rowspan="2"|杉村升 |rowspan="2"|小西通雄 |- |style="text-align:right"|9月4日 |47||ライダー死す! |style="text-align:left"| * コウモリ怪人 * 少年戦士 |- |style="text-align:right"|9月11日 |48||海に追憶の花束を |rowspan="2" style="text-align:left"| * クジラ怪人 * コウモリ怪人 |rowspan="2"|宮下隼一 |rowspan="2"|小笠原猛 |- |style="text-align:right"|9月18日 |49||激闘!ダロムの死 |- |style="text-align:right"|{{efn|<nowiki>1988年9月25日は、JNN緊急特番「[[昭和天皇]]容態急変報道最新情報」放送のため休止。</nowiki>}}10月2日 |50||創世王の正体は? |style="text-align:left"| * トゲウオ怪人(声 - 丸山詠二) * クジラ怪人 * 脱走怪人 * 創世王 |rowspan="2"|杉村升 |rowspan="2"|蓑輪雅夫 |- |style="text-align:right"|10月9日 |51||ゴルゴム最期の日 |style="text-align:left"| * トゲウオ怪人 * 創世王 |} == 放映ネット局 == * 近畿広域圏:[[毎日放送]] ※制作局 * 関東広域圏:東京放送(現・[[TBSテレビ]]) * 北海道:[[北海道放送]] * 青森県:[[青森テレビ]] * 岩手県:岩手放送(現・[[IBC岩手放送]]){{efn|[[仙台放送]]制作[[新・サンデートーク]]ネットのため、30分遅れネット、[[日曜日]]10時30分 - 11時放送。}} * 宮城県:[[東北放送]] * 秋田県:[[秋田放送]] * 山形県:[[山形放送]] * 福島県:[[テレビユー福島]] * 山梨県:[[テレビ山梨]] * 長野県:[[信越放送]] * 新潟県:[[新潟放送]]{{efn|name="sunday"|日曜日10時30分 - 11時放送。}} * 静岡県:[[静岡放送]]{{efn|途中からローカル番組編成の影響で、全国と同時放送でなく1週遅れになる。}} * 中京広域圏:中部日本放送(現・[[CBCテレビ]]){{efn|name="sunday"}} * 富山県:[[北日本放送]]{{efn|水曜日17時 - 17時30分放送、1988年1月20日ネット開始<ref>『北國新聞』1988年1月20日付朝刊、テレビ欄。</ref>}} * 石川県:[[北陸放送]] * 福井県:[[福井テレビジョン放送|福井テレビ]] * 鳥取県・島根県:[[山陰放送]] * 岡山県・香川県:[[RSKテレビ|山陽放送]] * 広島県:[[中国放送]] * 山口県:[[テレビ山口]] * 愛媛県:[[南海放送]] * 高知県:[[テレビ高知]]{{efn|JNN系列局でありながらネットセールス対象から外れ、夕方枠での番販扱い放送だった。}} * 福岡県:[[RKB毎日放送]] * 長崎県:[[長崎放送]] * 熊本県:[[熊本放送]] * 大分県:[[大分放送]]{{efn|name="sunday"}} * 宮崎県:[[宮崎放送]] * 鹿児島県:[[南日本放送]] * 沖縄県:[[琉球放送]] == 映画 == ; 『仮面ライダーBLACK』(1988年3月12日公開) : 監督 - 小西通雄 / 脚本 - 上原正三 / 登場怪人 - カメレオン怪人(人間態(バス添乗員) - 益田哲夫、声 - [[大宮悌二]]、スーツアクター - 北村隆幸<ref>{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1237757140086837248 |title=@stronger_0607 倉庫の中のビルゲニアでの殺陣回りはほとんど北村です‼️ 頑張った‼️😁 勿論緑色のカメレオン怪人も‼️☺️ |date=2020-03-12 |accessdate=2022-11-27 }}</ref>) : [[東映まんがまつり]]の一編として公開。上映時間は25分。劇場版第2作と区別するため、副題を冠した『'''仮面ライダーBLACK 鬼ヶ島へ急行せよ'''』の名が用いられる場合もある{{Sfn|映画大全集|1993|pp=66、136}}<ref>{{Cite book|和書|author = 石井博士ほか |year = 1997 |title = 日本特撮・幻想映画全集 |publisher = 勁文社 |page = 310 |isbn = 4-7669-2706-0}}</ref>{{efn|現在販売されている、同作品を収録したビデオソフト〈VCTM-00661、2000年10月発売〉およびDVDソフト〈DSTD-06550、2006年3月発売〉のパッケージなどにおいては、公開当時同様この副題は用いられていないが、Blu-rayソフト<BSTD-03367、2011年5月発売>は、副題は用いられている}}。 : 同作品のオープニングクレジットでは「仮面ライダーBLACK」ではなく「仮面ライダー」とキャスト紹介されている{{efn|劇場版第2弾の『仮面ライダーBLACK 恐怖!悪魔峠の怪人館』ではテレビシリーズと同じく「仮面ライダーBLACK」と紹介されている。}}。劇中では光太郎を船で鬼ヶ島まで送り届ける釣り人役で石ノ森章太郎も登場している{{R|映画大全集136}}。 : ; 『仮面ライダーBLACK 恐怖!悪魔峠の怪人館』(1988年7月9日公開) : 監督 - 小笠原猛 / 脚本 - 鷺山京子 / 登場怪人 - ツノザメ怪人(声 - [[西尾徳]])、亡霊怪人軍団{{efn|ノミ怪人、ヤギ怪人、オオワシ怪人、サイ怪人、イワガメ怪人、アネモネ怪人、ツルギバチ怪人、アンモナイト怪人、シーラカンス怪人、カマキリ怪人}} : 東映まんがまつりの一編として公開。上映時間は25分。[[北海道]][[夕張市]]とのタイアップにより同市を物語の舞台とし{{R|映画大全集136|CHRONICLE48}}、同じく夕張を舞台としたテレビシリーズ第37話と並行して制作された{{R|映画大全集136|CHRONICLE48}}。作中には[[石炭の歴史村]]やロボット大科学館、[[めろん城|ゆうばりめろん城]]といった市内の名所の他、ロボット大科学館の目玉であった巨大ロボット「[[新世紀ロボ ユーバロット|U-BAROT]]」も、ゴルゴムがある科学者を脅迫して作らせたものという設定のもと登場している{{R|映画大全集136}}。またゲストとして、当時の夕張市長である[[中田鉄治]]も特別出演している{{efn|テレビシリーズ第37話にも出演。この他、姪のアケミ役の東城美帆など一部のゲストキャストも同様に、テレビシリーズ第37話に別人の役で出演している。}}{{R|映画大全集136|CHRONICLE48}}。テレビシリーズに先駆けて、BLACKとシャドームーンの直接対決を披露している。 上記2作品は、VHSでは各単巻(2000年10月21日 - 11月21日発売)<ref>{{Cite book|和書|date = 2001-04-30|title = 宇宙船YEAR BOOK 2001|series = [[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]別冊|publisher = [[朝日ソノラマ]] |page = 67 |chapter = 2000TV・映画 特撮DVD・LD・ビデオ&CD |id = 雑誌コード:01844-04}}</ref>、DVDでは「仮面ライダーTHE MOVIE BOX」(2003年12月5日発売)および単巻の「仮面ライダーTHE MOVIE VOl.4」(2006年3月21日発売)、「仮面ライダーDVDコレクションVol.85」(2022年8月30日発売)、BDは「仮面ライダーTHE MOVIE BD BOX」(2011年5月21日発売)、「仮面ライダーTHE MOVIE1971-1988 4KリマスターBOX」(2021年11月10日発売)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toei-video.co.jp/special/ridermovie-4k/|title=仮面ライダーTHE MOVIE 4KリマスターBOX特集|accessdate=2021-05-19|publisher=東映ビデオ}}</ref>に収録されている。 : ; 『[[仮面ライダーワールド]]』 : シャドームーンとサイ怪人が登場。 ; 『[[劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー]]』(2009年8月8日公開) : 『[[仮面ライダーディケイド]]』の映画作品。南光太郎 / 仮面ライダーBLACKとシャドームーンと大神官ビシュム(演 - [[あらい美生|荒井萌]])が登場。 ; 『[[オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー]]』(2011年4月1日公開) : 『[[仮面ライダーオーズ/OOO]]』と『[[仮面ライダー電王]]』の映画作品。シャドームーンと仮面ライダーBLACKが登場。 ; スーパーヒーロー大戦シリーズ : いずれも[[仮面ライダーシリーズ]]と[[スーパー戦隊シリーズ]]のクロスオーバー作品。 :; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦]]』(2012年4月21日公開) :: シャドームーンと仮面ライダーBLACKが登場。 :; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊×宇宙刑事 スーパーヒーロー大戦Z]]』(2013年4月27日公開) :: 先の2シリーズと[[宇宙刑事シリーズ]]の映画作品。シャドームーンが登場。 :; 『[[平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊]]』(2014年3月29日公開) :: 仮面ライダーBLACKと大神官バラオムと剣聖ビルゲニアが登場。 :; 『[[スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号]]』(2015年3月21日公開) :: 南光太郎 / 仮面ライダーBLACKが登場<ref>{{Cite tweet|author=KamenRiderDrive |user=kamen_drive |number=548640235177799680 |title=3月21日(土)公開『スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号』の出演者発表第一弾! 仮面ライダーBLACK・南光太郎役、倉田てつをさん! 仮面ライダーギャレン・橘朔也役、天野浩成さん! 仮面ライダーゼロノス・桜井侑斗役、中村優一さん! 出演が大決定!! #仮面ライダードライブ |date=2014-12-16 |accessdate=2022-11-27 |archiveurl= https://archive.md/XPnnI |archivedate=2015-02-12 }}</ref>。 ; 『[[セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記]]』(2021年7月22日公開) : 仮面ライダー50周年×スーパー戦隊45作品記念作品。仮面ライダーBLACKが登場。 == 他媒体展開 == === 他テレビシリーズ === ; 『[[仮面ライダーBLACK RX]]』 : 本作品の続編。南光太郎とシャドームーンが登場。 ; 『[[仮面ライダーディケイド]]』 : 南光太郎 / 仮面ライダーBLACKとサイ怪人が登場。 === テレビスペシャル === 本作品の放送開始および終了に合わせて放送された、30分枠の特別番組。このうち東映特撮ファンクラブでは『仮面ライダー1号〜RX大集合』のみが、CS[[東映チャンネル]]やDVDではどちらもテレビシリーズと同等の扱いで収録・配信・放送されている。 ; 『これが仮面ライダーBLACKだ!』 : 本作品の放送開始前週に当たる、[[1987年]][[9月27日]]の10時30分から11時(JST)に放送された事前特別番組。[[小野寺丈]]と[[榎田路子]]をリポーターに、石ノ森や劇中キャラクターへのインタビュー、BLACKの能力解説や変身プロセス、「新・仮面ライダー(仮題)オーディション」最終審査会の模様、主題歌のレコーディング風景などで構成されており、第1・2話を補完するかのような内容もある。ナレーターは小林清志。構成・演出とも蔦林淳望。現在発売されているDVD版の『仮面ライダーBLACK vol.1』や「仮面ライダーDVDコレクションVol.75」およびBD-BOX1にも収録されている。 ; 『仮面ライダー1号〜RX大集合』 : 最終回の翌週、[[1988年]][[10月16日]]の10時から10時30分(JST)に放送{{efn|『仮面ライダー大図鑑』(6)など、同番組を「第52話」とする資料もある{{sfn|大図鑑|1992|pp=63,145}}。}}。本作品の完結を記念した番組であると共に、次回作『[[仮面ライダーBLACK RX]]』の事前特別番組としても位置づけられる(タイトルロゴは本作品のものを使用)。[[仮面ライダー|1号ライダー]]からBLACKまでの歴代ライダーの名場面集と、新ヒーロー・RXの紹介映像で構成されている。全体構成は[[折田至]]が担当。現在発売されているDVD版の『仮面ライダーBLACK Vol.5(最終巻)』、それに『仮面ライダーBLACK RX』BD-BOX1にも収録されている。 : [[テレビ高知]]などスポンサーネット対象外の時差ネット地域でも、本作品に続けて『RX』を放送する場合は、同番組も併せて放送された。 === 映像ソフト化 === 特記のない限り、いずれも発売元は[[東映ビデオ]]。 ; ビデオ([[VHS]]、セル・レンタル共通) :; テレビシリーズ :: [[1992年]][[8月]]から[[1993年]][[8月]]にかけて、全13巻(各巻4話、13巻のみ3話収録)が発売された。 :; 『東映テレビヒーロー図鑑 Vol.1 仮面ライダーBLACK』 :: 1993年4月に、ビデオ・LDとして同時リリース。本編時間は60分。新規撮影部分を含む、テレビシリーズの総集編で、政宗一成と倉田てつをがナレーションを担当。仮面ライダーBLACK Blu-ray BOX Vol.3にも特典映像として収録されている{{R|:0}}。 :; 『アクショントレーニングビデオ ビデオヒーロー・仮面ライダーBLACK』 :: [[1988年]]に[[バンダイ]]よりリリース。同社が発売していた玩具「テレビパワーシリーズ」販促の一環として発売されたもので、内容は第13話までの戦闘場面の総集編に、BLACKが視聴者に肉体の鍛錬と変身ベルトの常用を執拗に推奨するという新撮映像を加えたものとなっている{{sfn|大図鑑|1992|p=117}}。 ; [[レーザーディスク|LD]] : [[1997年]][[11月21日]]から[[1998年]][[11月21日]]にかけて、全7巻が発売された<ref>{{Cite book|和書 |date = 1998-04-10 |title = 宇宙船YEAR BOOK 1998 |series = [[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]別冊 |publisher = [[朝日ソノラマ]] |page = 61 |id = 雑誌コード:01844-04 }}</ref><ref>{{Cite book|和書 |date = 1999-05-01 |title = 宇宙船YEAR BOOK 1999 |series = 宇宙船別冊 |publisher = 朝日ソノラマ |page = 64 |id = 雑誌コード:01844-05 }}</ref>。 ; [[DVD]] : [[2004年]][[12月10日]]から[[2005年]][[4月21日]]にかけて、全5巻(レンタル版は単巻で全9巻)をリリース。各巻2枚組(Vol.5のみ1枚)・12話(Vol.1は11話、Vol.5は6話)収録。 : DVD収録分と本放送分では、一部の次回予告に違いがある。本放送と同様に、第22話、23話、38話、39話の予告後には、劇場版の予告、劇場招待券プレゼント告知が収録された{{efn|そのほかにBLACKの玩具、 RXポスターのプレゼント告知、仮面ライダーGP(グランプリ)コンテスト開催告知が本放送時にはあったが、いずれもDVD、Blu-ray版には未収録となっている。}}。第49話 - 第52話の予告後は、次作『仮面ライダーBLACK RX』の予告が収録されているが、この『RX』の新番組予告は、いずれも当初の放送開始予定日であった10月16日バージョンでの収録となっている{{efn|前述の通り放送が一週順延となった都合上、本放送時の第51話、52話の予告後では、延期後の放送開始日を読み上げる特別バージョンが放送された(ナレーションは別人で新規収録)が、こちらはDVD未収録となっている。}}。 : 上記の他、[[2008年]][[7月21日]]発売の「石ノ森章太郎 生誕70周年 DVD-BOX」に第1話が収録されている他、[[DeAGOSTINI]]より刊行されている『仮面ライダーDVDコレクション』でも、2022年4月12日刊行分(Vol.75)から8月30日刊行分(Vol.85)にかけて、本作品のテレビシリーズ各話が順次収録された(各号5話{{efn|(Vol.75のみ4話<ref>{{Cite web|和書|url=https://deagostini.jp/krd/backnumber.php?id=62969&issue=75|title=仮面ライダー DVDコレクション | 最新号・バックナンバー|accessdate=2022-08-13|publisher=[[デアゴスティーニ・ジャパン]]}}</ref>、Vol.85のみ2話<ref>{{Cite web|和書|url=https://deagostini.jp/krd/backnumber.php?id=62969&issue=85|title=仮面ライダー DVDコレクション | 最新号・バックナンバー|accessdate=2022-09-02|publisher=[[デアゴスティーニ・ジャパン]]}}</ref>収録。}}収録)。 ; [[Blu-ray Disc]] : [[2014年]][[12月5日]]から[[2015年]][[4月8日]]にかけて、Blu-ray BOXとして全3巻(各巻3枚組・17話収録)が発売された。映像特典として、全巻共通で新規収録の座談会を、BOX1に前述のテレビスペシャル『これが仮面ライダーBLACKだ!』を、BOX3に『東映テレビヒーロー図鑑 Vol.1 仮面ライダーBLACK』をそれぞれ収録。全巻の封入特典としてブックレット(16P)を封入。BOX1のみ初回限定特典として全巻収納BOXを同梱。また第22話、23話の本放送版予告はBOX2に、第38話、39話の本放送版予告、『仮面ライダーBLACK RX』の予告はBOX3に、それぞれ映像特典として収録されている{{R|:0}}。 === ゲーム === 発売元は[[バンダイナムコエンターテインメント|バンダイナムコゲームス→バンダイナムコエンターテインメント]](旧[[バンダイ]]レーベル、旧[[バンプレスト]]レーベル)による。 ; 仮面ライダーBLACK 対決シャドームーン : 1988年4月15日発売。対応機種は[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]。プレイヤーはBLACKを操作してゴルゴムの怪人を倒していくこととなる。ステージによってはバトルホッパーに乗ることもある。発売した時点でシャドームーンが復活していなかったのでシャドームーンは仮の姿として登場した。 : 登場怪人は初期に登場したものが多い。攻略本も発売された。 ; [[仮面ライダー 正義の系譜]] : 2003年11月27日発売。[[PlayStation 2]]用ソフト。 : 主役ライダーの1人としてBLACK=南光太郎が登場。声も倉田てつをが演じている。 ; [[仮面ライダー クライマックスヒーローズ|仮面ライダー クライマックスヒーローズ シリーズ]] : 2011年12月1日発売の『フォーゼ』、2012年11月29日発売の『超』に登場。対応機種は[[Wii]]および[[PlayStation Portable]]。 : 他の昭和シリーズと共に参加。BLACKとシャドームーンが登場するが、BLACKの声は代役の声優が演じている(シャドームーンの声は原作通りのてらそままさき)。 ; [[オール仮面ライダー ライダージェネレーション|オール仮面ライダー ライダージェネレーション シリーズ]] : 2011年8月4日発売。[[ニンテンドーDS]]専用ソフト。 : オールライダーが登場するクロスオーバー作品。2012年8月2日に発売された『2』、2016年12月1日に発売された『レボリューション』にも引き続き登場。第1作と『2』ではBLACKの声は代役声優だったが、『レボリューション』では倉田てつをとなった。 ; [[仮面ライダー バトライド・ウォー|仮面ライダー バトライド・ウォー創生]] : 2016年2月25日発売。対応機種は[[PlayStation 3]]、[[PlayStation 4]]、[[PlayStation Vita]]。 : BLACK(声:倉田てつを)、シャドームーン(声:てらそままさき)、創世王(声:[[飯塚昭三]])が登場。 ; [[仮面ライダー クライマックスファイターズ]] : 2017年12月7日発売。PlayStation 4用ソフト。 : BLACK(声:倉田てつを)が登場。放映30周年記念参戦となり、昭和ライダーからは唯一の出演となる。 === コミック === ==== 原作者自身による作品 ==== 『[[仮面ライダーBlack]]』のタイトルで、『[[週刊少年サンデー]]』にて[[1987年]]第41号 - [[1988年]]50号の間に連載された。 実写版と違い、姿はバッタ男のままで、体に埋め込まれた「[[賢者の石]]」により体が黒く変色し、絶大な力を得るという設定となっている。ストーリーも実写版とは異なる点が多く、実写版のプロデューサーの吉川はテレビと漫画では分けており、互いに干渉させることはしなかったという{{R|CHRONICLE58}}。 ==== 他の作家による作品 ==== * [[小林たつよし]]作画による作品 - 『[[月刊コロコロコミック]]』にて[[1987年]][[10月]]号から[[1988年]][[4月]]号まで、『[[てれびくん]]』にて[[1987年]][[11月]]号から連載された。単行本化はされていないが第3話が『[[熱血!!コロコロ伝説]]』に復刻掲載された。 :;月刊コロコロコミック :{| class="wikitable" font-size:smaller;" |- !掲載号!!サブタイトル(登場怪人) |- ||1987年10月号 ||不明記(クモ怪人) |- ||1987年11月号 ||不明記(コウモリ怪人、他) |- ||1987年12月号 ||龍神沼の怪人のまき |- ||1988年1月号 ||不明記(甲虫怪人) |- ||1988年2月号 ||不明記(女王蜂怪人、他) |- ||1988年3月号 ||不明記(カマキーラ、他) |- ||1988年4月号 ||不明記(ツノザメ怪人、他) |- |} :;てれびくん :{| class="wikitable" font-size:smaller;" |- !掲載号!!サブタイトル(登場怪人) |- ||1987年11月号 ||戦え!仮面ライダーブラック!! |- ||1987年12月号 ||対決!ヤギ怪人のまき |- ||1988年1月号 ||サボテン怪人をたおせのまき |- ||1988年2月号 ||バトルホッパーをとりもどせ!!のまき |- ||1988年3月号 ||剣聖ビルケニアあらわるのまき |- ||1988年4月号 ||げきとう!カメレオン怪人のまき |- ||1988年5月号 ||げきとつ!ゴルゴム2大マシン対ロードセクターのまき |- ||1988年6月号 ||対決!シャドームーン!!(前ぺん)のまき |- ||1988年7月号 ||対決!シャドームーン!!(後へん)のまき |- ||1988年8月号 ||不明記(シャドームーン) |- ||1988年9月号 ||げきとつ3大怪人のまき |- ||1988年10月号 ||勝て!ライダー!!そして・・・!?のまき |- |} * [[石川森彦]]作画による作品 - [[小学館の学年別学習雑誌|『小学一年生』・『小学二年生』]]にて連載。 :;小学一年生 :{| class="wikitable" font-size:smaller;" |- !掲載号!!サブタイトル(登場怪人) |- ||1987年12月号 ||不明記(サイ怪人) |- ||1988年1月号 ||不明記(ツノザメ怪人) |- ||1988年2月号 ||不明記(アンモナイト怪人、他) |- ||1988年3月号 ||不明記(マンモス怪人) |- ||1988年4月号 ||不明記(ツルギバチ怪人、他) |- ||1988年5月号 ||不明記(カメレオン怪人、他) |- |} :;小学二年生 :{| class="wikitable" font-size:smaller;" |- !掲載号!!サブタイトル(登場怪人) |- ||1987年12月号 ||不明記(セミ怪人) |- ||1988年1月号 ||不明記(カニ怪人) |- |} * 『たたかえ仮面ライダーBLACK』 - 松田辰吉作画による作品。[[学習幼稚園]]連載 :{| class="wikitable" font-size:smaller;" |- !掲載号!!サブタイトル(登場怪人) |- ||1988年1月号 ||不明記(ツノザメ怪人) |- ||1988年2月号 ||不明記(マンモス怪人) |- ||1988年3月号 ||不明記(イワガメ怪人) |- ||1988年4月号 ||不明記(ツルギバチ怪人) |- ||1988年5月号 ||不明記(カメレオン怪人) |- |} *[[シュガー佐藤 (漫画家)|シュガー佐藤]]による作品 [[テレビランド]]連載 :{| class="wikitable" font-size:smaller;" |- !掲載号!!サブタイトル(登場怪人) |- ||1987年11月号 ||不明記(クモ怪人) |- ||1987年12月号 ||不明記(サイ怪人) |- ||1988年1月号 ||不明記(サボテン怪人) |- ||1988年2月号 ||不明記(イワガメ怪人) |- ||1988年3月号 ||不明記(ビルケニア) |- ||1988年4月号 ||不明記(カメレオン怪人、他) |- ||1988年5月号 ||不明記(イラガ怪人) |- ||1988年6月号 ||不明記(イカ怪人) |- ||1988年7月号 ||不明記(シャドームーン) |- ||1988年8月号 ||不明記(ムカデ怪人) |- ||1988年9月号 ||不明記(コウモリ怪人) |- ||1988年10月号 ||不明記(創生王、他) |- |} * 『仮面ライダーBLACK 世紀王・南光太郎』・『仮面ライダーBLACK 信彦・鬼神の影!!』 - [[きむらひでふみ]]による短編作品。それぞれ[[勁文社|ケイブンシャ]]の大百科シリーズ『仮面ライダーBLACK大百科』、および『仮面ライダーBLACK大百科2』に収録。 * 『[[仮面ライダーBlack PART⊗ イミテーション・7]]』 - [[島本和彦]]によるオリジナルの読み切り作品。『週刊少年サンデー30周年記念増刊号』に掲載された。仮面ライダーBlackを倒すための実験体{{efn|怪人の訓練用として仮面ライダーBlackに似せて作られた改造人間で、ブラック・ダミーと呼ばれる。}}の一人として改造された男が主人公で、仮面ライダーBlackは脇役となっている。様々な事情から世界観は石ノ森の萬画版とテレビ版を折衷したものとなっていて、南光太郎の姿や彼が乗るバトルホッパーはテレビ版に準じて描かれる一方、仮面ライダーの姿はテレビと萬画それぞれのディテールをミックスしたものになるなどしている。 === 小説 === ; TVアニメブックス『[[仮面ライダーBLACK MADソルジャー計画]]』 : 作:西村光二 挿絵:[[新貝田鉄也郎|新貝鉄也]] : 小学生対象のレーベルだが文面にルビなどは添えられておらず、内容も一部に官能的かつ猟奇的な描写が見受けられる。[[魚類]]をベースにしたオリジナルの怪人が登場。 ; [[アドベンチャーヒーローブックス]]『仮面ライダーBLACK 魔軍のバトル』 : 作:[[滝沢一穂]] 編集:[[スタジオ・ハード]] : 『[[宇宙刑事シャイダー]] 挑戦者時空を越えて』に続く、ケイブンシャ特撮ヒーローゲームブック第2作。 === CDドラマ === ; 『仮面ライダーBLACK 歌とアクション』 : 脚本、構成:鷺山京子 登場怪人:サソリ怪人 : トラック1、3、5、7、8、10、12、14は主題歌、挿入歌だがドラマ部分とは独立しており、歌の途中に台詞が入ることは無い。ただし、トラック1、8の頭には効果音が入る。 === パチンコ === ; ぱちんこ仮面ライダー フルスロットル : 隠れキャラとして登場している(出現した時点で大当たり確定)。 == 仮面ライダーBLACK SUN == ; 『[[仮面ライダーBLACK SUN]]』{{R|50th}} : 2022年10月28日より[[Amazon Prime Video]]にて全10話が配信開始{{Refnest|group="出典"|<ref>{{Cite tweet|author=「仮面ライダーBLACK SUN」official |user=KR_BLACKSUN |number=1504970913577644036 |title=◆ #仮面ライダーBLACKSUN 最新情報◆ 仮面ライダーBLACK SUN、本日無事クランクアップ⚡️ 2022年秋に配信を開始します! #白石和彌 監督のコメントも到着! さらに #ブラックサン の全貌と #シャドームーン、#ロードセクター のビジュアルも初解禁! 詳しくはこちら |date=2022-03-19 |accessdate=2022-11-27 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://www.kamen-rider-official.com/blacksun/news/8/ |title= 『仮面ライダーBLACK SUN』、「Amazon Prime Video」での配信が決定! |website= 仮面ライダーWEB【公式】 |publisher= 東映 |date= 2022-06-12 |accessdate= 2022-11-27 }}</ref>{{R|cinemaN0132027}}}}{{efn|当初は2022年春に配信開始を予定していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0126294|title=『仮面ライダーBLACK SUN』配信作品として本格始動 樋口真嗣ら制作スタッフ発表|date=2021-10-04|accessdate=2021-10-04|publisher=シネマトゥデイ}}</ref>。}}された。 : 「仮面ライダー生誕50周年記念プロジェクト」のひとつとして、[[白石和彌]]のもとリブート作品として制作されることが、[[2021年]][[4月3日]]に発表された{{R|50th}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/423030|title=「仮面ライダーBLACK」がリブート、監督は「孤狼の血」の白石和彌|date=2021-04-03|accessdate=2021-04-03|publisher=映画ナタリー}}</ref>。同年11月21日に配信イベント「TAMASHII NATION ONLINE2021」にて、BLACK SUNとバトルホッパーのビジュアル<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0127185|title=『仮面ライダーBLACK SUN』デザイン発表!バトルホッパーの実機も公開|date=2021-11-21|accessdate=2021-11-21|publisher=シネマトゥデイ}}</ref>、光太郎と信彦を演じるキャストが[[西島秀俊]](南光太郎)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2214699/full/|title=『仮面ライダーBLACK SUN』南光太郎役は西島秀俊「自分にとってベストな形」ファンも納得の声「シロさんからBLACK SUN」|date=2021-11-21|accessdate=2021-11-21|publisher=ORICON NEWS}}</ref>、[[中村倫也 (俳優)|中村倫也]](秋月信彦)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2214698/full/|title=『BLACK SUN』SHADOW MOONに中村倫也「仮面ライダーをやることはないと思っていた」|date=2021-11-21|accessdate=2021-11-21|publisher=ORICON NEWS}}</ref>であることが発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0127184|title=西島秀俊&中村倫也『仮面ライダーBLACK SUN』光太郎・信彦役でダブル主演!|date=2021-11-21|accessdate=2021-11-21|publisher=シネマトゥデイ}}</ref>。 === スタッフ(仮面ライダーBLACK SUN) === * 監督 - [[白石和彌]] * 脚本 - [[髙橋泉]] * 音楽 - [[松隈ケンタ]] * 美術監督 - [[今村力]] * コンセプトビジュアル - [[樋口真嗣]] * 特撮監督 - [[田口清隆]] * 造型 - [[藤原カクセイ]] * キャラクターデザイン - [[小林大祐]] * スタイリスト - [[伊賀大介]] * 撮影 - 馬場元 * 照明 - 西村昌幸 * 整音 - [[浦田和治]] * 録音 - 三木雄次郎 * 美術 - [[福澤勝広]] * スタントコーディネーター - 吉田浩之 * 編集 - [[加藤ひとみ]] * 音響効果 - [[柴崎憲治]] * VFXスーパーバイザー - 福嶋瞬、[[カルロス]] * エグゼクティブ・プロデューサー - [[白倉伸一郎]] * 企画プロデュース - [[古谷大輔]] * プロデューサー - [[長谷川晴彦 (映画プロデューサー)|長谷川晴彦]]、椋樹弘尚、[[佐藤雅彦]] * 制作プロダクション - [[角川大映スタジオ]] * 製作 - [[東映|東映株式会社]]、「仮面ライダーBLACK SUN」PROJECT === 登場人物(仮面ライダーBLACK SUN) === * 仮面ライダーBLACK SUN / 南光太郎 - [[西島秀俊]] * 仮面ライダーSHADOWMOON / 秋月信彦 - [[中村倫也 (俳優)|中村倫也]] * 和泉葵 - [[平澤宏々路]] * 小松俊介(雀怪人) - 木村舷碁 * ダロム(三葉虫怪人) - [[中村梅雀 (2代目)|中村梅雀]] * ビシュム(翼竜怪人) - [[吉田羊]] * バラオム(剣歯虎怪人) - [[プリティ太田]] * ビルゲニア(古代甲冑魚怪人) - [[三浦貴大]] * コウモリ怪人(大蝙蝠怪人) - [[音尾琢真]] * クジラ怪人(白長須鯨怪人) - [[濱田岳]] * ノミ怪人(蚤怪人) - [[黒田大輔]] * アネモネ怪人(金鳳花怪人) - [[筧美和子]] * クモ怪人(蜘蛛怪人) - [[沖原一生]] * 総理大臣 / 堂波真一 - [[ルー大柴]] * 官房長官 / 仁村勲 - [[尾美としのり]] * 幹事長 - [[寺田農]] * 反怪人団体 井垣渉 - [[今野浩喜]] * 警察官(怪人犯罪課)黒川一也 - 川並淳一 * ニック - ジュア * 葵の父 川本英夫 - [[山本浩司]] * 葵の母 川本莉乃 - [[内田慈]] * 葵の養母 和泉美咲 - [[占部房子]] * 俊介の母 小松佐(雀怪人) - [[並木愛枝]] * 俊介の父 小松茂雄 - 野中隆光 * 南光太郎【1972年】 - [[中村蒼]] * 新城ゆかり - [[芋生悠]] * 堂波真一(総理大臣の孫)【1972年】 - [[前田旺志郎]] * オリバー・ジョンソン - [[モクタール]] * ダロム(三葉虫怪人)【1972年】 - [[岡部尚]] * ビシュム(翼竜怪人)【1972年】 - [[櫻井麻七]] * 南光太郎(11歳) - [[岩田琉聖]] * 秋月信彦(11歳) - 鈴木奏晴 * 南光三 - [[前原滉]] * 秋月総一郎 - [[上川周作]] == CS放送・ネット配信 == ; CS放送 * '''[[東映チャンネル]]''':[[2001年]][[6月]] - [[12月]]、[[2004年]][[1月]] - [[4月]]、[[2013年]][[2月]] - [[8月]]、[[2015年]]2月 - 8月 ** 2004年の放送時のみ「アンコールアワー」枠で、他はいずれも「石ノ森章太郎劇場」枠での放送。 ; ネット配信 * '''東映特撮 [[YouTube]] Official''':[[2011年]][[8月1日]] - [[2012年]][[1月22日]]、2013年[[12月23日]] - [[2014年]][[6月15日]]、[[2017年]][[5月6日]] - [[11月4日]]、[[2021年]][[6月16日]] - [[12月15日]] ** 2021年に実施された4度目の配信の際、9月29日より配信予定であった第32話について、現時点で諸事情につき配信困難であることがチャンネルよりアナウンスされた<ref>{{Cite web|title=東映特撮YouTube Official - YouTube|url=https://www.youtube.com/channel/UCEbPgdUbZgme40WpYmR0ocA/community?lb=UgzPKCWAiOp0g4x2pDR4AaABCQ|website=www.youtube.com|accessdate=2021-10-06}}</ref>。その後10月13日に2週遅れで第32話の配信が実施され、併せて前週配信分である第33・34話の配信期間も1週間延長された<ref>{{Cite web|title=東映特撮YouTube Official - YouTube|url=https://www.youtube.com/channel/UCEbPgdUbZgme40WpYmR0ocA/community?lb=UgxbHPEqlse5tRgt2RN4AaABCQ|website=www.youtube.com|accessdate=2021-10-13}}</ref>。また、11月24日に配信された48話、12月1日に配信された第49・50話、12月8日に配信された第51話の次回予告後に『RX』の新番組予告が挿入されたが、放送当初と同様に放送開始日が10月16日バージョンで配信された。 * '''東映特撮[[ニコニコ動画|ニコニコ]]おふぃしゃる''':[[2012年]][[5月6日]] - 2013年[[4月14日]] == 関連項目 == * [[勝手にしやがれヘイ!ブラザー]] - 本作品の終了後に日本テレビ系列で放送された、[[セントラル・アーツ]]制作のテレビドラマ。レギュラー出演者のひとりとして倉田も同作品に出演しており、同作品での主演であった[[柴田恭兵]]が本作品を知らなかったため、倉田が本作品の話をしたところ、柴田の提案で作中でBLACKの変身ポーズをするなどのセルフパロディが作中に盛り込まれている{{Sfn|フィギュア王273|2020|pp=14-15|loc=「君は見たか―!!S.H.Figuarts 真骨彫製法 仮面ライダーBLACK 倉田てつをインタビュー」}}。 * [[発表!全仮面ライダー大投票]] - 2021年11月6日に[[NHK BSプレミアム]]にて放送された特別番組。本作品は作品部門で17位、仮面ライダー部門ではBLACKが18位、シャドームーンは45位、音楽部門ではオープニングの「[[仮面ライダーBLACK (曲)|仮面ライダーBLACK]]」が29位、エンディングの「Long Long Ago, 20th Century」が45位にランクインした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/anime/kamen-rider/ranking/index.html|title=発表!全仮面ライダー大投票公式サイト|accessdate=2021-12-03|publisher=NHK}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist|2}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="てれびくん198710">{{Cite journal|和書 |editor=八巻孝夫 |title=仮面ライダーブラック特集 |journal=[[てれびくん]] |issue=1987年10月号 |page=24 |publisher=[[小学館]] |date=1987-10-01 |id = 雑誌 01017-10}}</ref> <ref name="テレビランド198802">{{Cite journal |和書 |editor= 佐々木崇夫|title= 仮面ライダーブラック ゴルゴム恐怖の暗殺指令!!|journal=[[テレビランド]] |issue= 1988年2月号 |publisher=[[徳間書店]] |date=1988-02-01 |page=45 }}</ref> <ref name="全怪獣111">{{Harvnb|全怪獣怪人 下|1990|p=111}}</ref> <ref name="映画大全集112">{{Harvnb|映画大全集|1993|pp=112-113|loc=「MASKED RIDER REALISTIC ALBUM 仮面ライダーBLACK」}}</ref> <ref name="映画大全集136">{{Harvnb|映画大全集|1993|p=136|loc=「仮面ライダー劇場用映画作品研究」}}</ref> <ref name="映画大全集167">{{Harvnb|映画大全集|1993|pp=160-167|loc=「仮面ライダー怪人大全集 PART II」}}</ref> <ref name="超人画報">{{Cite book|和書|editor=竹書房/イオン編|date=1995-11-30|title=超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み|publisher=[[竹書房]]|page=186|id=C0076|isbn=4-88475-874-9}}</ref> <ref name="JAE">{{Cite book|和書|date=2010-03-08|title=JAE NAKED HERO|publisher=[[太田出版]]|isbn=978-4-7783-1210-7|pages=34頁|chapter=LIST OF WORKS 岡元次郎}}</ref> <ref name="特撮ニュータイプ">{{Cite journal|和書 |date=2011-06-01 |editor=[[古林英明]] |id = 雑誌 17011-07 |journal=[[月刊ニュータイプ#姉妹誌|NEWTYPE THE LIVE 特撮ニュータイプ]] |pages=73 |publisher=[[角川書店]] |title= ライダー&戦隊、その歴史と未来 Chapter 2 |volume=2011年7月号}}</ref> <ref name="仮面俳優47">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=47-60|loc=「第2章 昭和から平成へ仮面の下のイノベーション 04 [[岡元次郎]]」(東映ヒーローMAX vol.31掲載)}}</ref> <ref name="71-84">{{Harvnb|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=486-489|loc=「幻のライダー」}}</ref> <ref name="20th93">{{Cite book|和書|date=2018-12-19|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1993 [[五星戦隊ダイレンジャー]]|publisher=講談社|series=講談社シリーズMOOK|page=32|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[荒川稔久]]|isbn=978-4-06-513704-8}}</ref> <ref name="20th94">{{Cite book|和書|date=2018-04-25|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1994 [[忍者戦隊カクレンジャー]]|publisher=講談社|series=講談社シリーズMOOK|page=33|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[川村栄二]]|isbn=978-4-06-509614-7}}</ref> <ref name="20th95">{{Cite book|和書|date=2019-04-10|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1995 [[超力戦隊オーレンジャー]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|page=33|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[村上潤]]|isbn=978-4-06-513710-9}}</ref> <ref name="マガジン202076">{{Harvnb|マガジン2020|2020|pp=76-77|loc=「オモチャの現場から 語る! 暴く!? 変身ベルト」}}</ref> <ref name="CHRONICLE12">{{Harvnb|CHRONICLE|2020|pp=12-13|loc=「秋月信彦/秋月杏子/秋月総一郎/紀田克美/滝竜介/東堂勝/ほか」}}</ref> <ref name="CHRONICLE14">{{Harvnb|CHRONICLE|2020|pp=14-16|loc=「暗黒結社ゴルゴム 三神官/大怪人/ゴルゴムメンバー/剣聖ビルゲニア/侍女怪人/ゴルゴム創世王」}}</ref> <ref name="CHRONICLE48">{{Harvnb|CHRONICLE|2020|pp=48-49|loc=「BLACK&RX劇場版エクセレントシアター」}}</ref> <ref 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|user=or07pyqyzfg5xwq |number=1256950298490200065 |title=@Grid_man クモには大先輩方、蜂須賀さん居たのは覚えてますが・・・ クワゴは同期の阪上、 ヤギも阪上だったかな・・・? |date=2020-05-03 |accessdate=2022-11-27 }}</ref> <ref name="S">{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1258391614008856576 |title=@utusemi20190512 有り難う御座います‼️🤗 そうなんです・・・ 植物系困りました‼️🤣 キノコは手のひら下にして、胞子飛ばすイメージのポーズとってます❗ サボテンはトゲトゲってイメージ⁉️て言っても分かりずらいですね?😅 クジラは手がヒレの形だったのと、手しか自由に動かないので、魚みたいにヒレ動かしました❗ |date=2020-05-07 |accessdate=2022-11-27 }}</ref> <ref name="W">{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1256958025861959680 |title=@Grid_man いや、名前はいい加減です・・・ やってた人皆の名前ではないです・・・ 出村君も、お手伝い、補助・・・ 実さんと、菊地さんはクモ入ってたかも・・・ パイロット版では先輩方が活躍してましたから❗😁 山田さんも居たかな・・・?😅 |date=2020-05-03 |accessdate=2022-11-27 }}</ref> <ref name="kuro">{{Cite tweet|author=北村隆幸 |user=or07pyqyzfg5xwq |number=1425487211546386435 |title=#バク怪人 の口に夢を吸い込むカットを、 口からシャボン玉を出して逆回(逆回し録画)する撮影に深夜まで・・・。 私、箱馬(椅子)に座って眠かった・・・😪 18話 ↓ https://t.co/jfThqFgbQ3 #クロ猫怪人 はほとんど庄司先輩だったかな?🤔 怪人の一部は私ですが、|date=2021-08-12 |accessdate=2022-11-27 }}</ref> <ref name="50th">{{Cite web|和書|publisher=東映|website=仮面ライダーWEB【公式】|url=https://www.kamen-rider-official.com/kr50th/blacksun|title=仮面ライダーBLACK SUN 制作決定! |date=2021-04-03 |accessdate=2022-11-27 |archiveurl= https://archive.md/Fftgc |archivedate= 2021-04-03}}</ref> <ref name="cinemaN0132027">{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0132027|title=西島秀俊×中村倫也「仮面ライダーBLACK SUN」10.28配信決定 レーティングは成人向け|website=シネマトゥデイ|date=2022-08-29|accessdate=2022-08-30}}</ref> <ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.toei-video.co.jp/special/black/|title=仮面ライダーBLACK Blu-ray BOX特集|accessdate=2020‐06‐28|publisher=東映ビデオ}}</ref> |2}} === 出典(リンク) === {{Reflist|group="出典"|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|date = 1990-11-30|title = [[全怪獣怪人]]|publisher = [[勁文社]]|volume = 下巻|id=C0676|isbn = 4-7669-1209-8|ref = {{SfnRef|全怪獣怪人 下|1990}}}} ** {{Cite book|和書|editor=井上嘉大|date = 2003-03-20|title = 全怪獣怪人大事典(上巻)東映篇|publisher = [[英知出版]]|isbn = 4-7542-2016-1|ref 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ホスト環境
ホスト環境(ホストかんきょう)は、以下に挙げるように、英語によるいくつかの原語と意味を持つコンピュータ関連用語である。 それぞれニュアンスおよび原義は異なるが、日本語では区別せず同一の「ホスト環境」という外来語カナ表記が定訳として割り当てられてしまっていることもある。 ハードウェア仮想化において、仮想化ソフトウェアが組み込まれるコンピュータの環境。その特性として、CPUの種類(32ビット/64ビット、仮想化支援機構の有無など)、メモリやストレージのサイズ、オペレーティングシステムなどが挙げられる。対義語はゲスト環境。 ホスト環境にインストールされ、仮想マシンのプログラム自体を動かすために使われるオペレーティングシステムをホストOSと呼ぶ。ホスト環境上で動作する仮想マシン(ゲスト環境)にインストールされたオペレーティングシステムをゲストOSと呼ぶ。 そのほか、X Window Systemでは、Xサーバーのためのリソースを提供するシステムのことをホストと呼ぶことがある。 C言語およびC++のプログラム実行環境の一種である。国際標準化機構による規格ISO/IEC 9899およびISO/IEC 14882で規定されており、ISO/IEC 9899:1999およびISO/IEC 14882:2003に相当する日本工業規格(現:日本産業規格)のJIS X 3010:2003およびJIS X 3014:2003では「ホスト環境」と訳されている。 C/C++におけるホスト環境とは、オペレーティングシステムの制御下でプログラムが実行されるシステムを指す。対義語はフリースタンディング環境で、C/C++の規定を満たすオペレーティングシステムの制御を受けることなくプログラムを実行するシステムを指す。フリースタンディング環境ではプログラムエントリポイントがmain関数でなくてよい、対応するライブラリが少なくてよいなど、小規模なオペレーティングシステムに向いた仕様であるため、フリースタンディング環境に対応したオペレーティングシステムもあることに留意が必要である。 実行環境を指定しない場合は、セルフ開発の場合には、ホスト環境を既定値にしている。組み込みシステムでは、ホスト環境のような大掛かりなシステムでない場合には、フリースタンディング環境を対象にすることがある。 WebサイトやWebサービスを構築してネットワークに公開するためのファイルなどを展開する環境のことである。Webホスティング環境とも呼ばれる。オンプレミスサーバーを用いることもあれば、クラウドを用いることもある。
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ホスト環境(ホストかんきょう)は、以下に挙げるように、英語によるいくつかの原語と意味を持つコンピュータ関連用語である。 host environment hosted environment hosting environment それぞれニュアンスおよび原義は異なるが、日本語では区別せず同一の「ホスト環境」という外来語カナ表記が定訳として割り当てられてしまっていることもある。
'''ホスト環境'''(ホストかんきょう)は、以下に挙げるように、英語によるいくつかの原語と意味を持つコンピュータ関連用語である。 * {{lang|en|host environment}} * {{lang|en|hosted environment}} * {{lang|en|hosting environment}} それぞれニュアンスおよび原義は異なるが、日本語では区別せず同一の「ホスト環境」という外来語カナ表記が定訳として割り当てられてしまっていることもある。 == host environment == [[ハードウェア仮想化]]において、仮想化ソフトウェアが組み込まれるコンピュータの環境。その特性として、[[CPU]]の種類(32ビット/64ビット、仮想化支援機構の有無など)、[[主記憶装置|メモリ]]や[[補助記憶装置|ストレージ]]のサイズ、[[オペレーティングシステム]]などが挙げられる<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%9B%E3%82%B9%E3%83%88%E7%92%B0%E5%A2%83-13614 ホスト環境(ほすとかんきょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク]</ref>。対義語はゲスト環境。 ホスト環境にインストールされ、仮想マシンのプログラム自体を動かすために使われるオペレーティングシステムをホストOSと呼ぶ<ref>[https://atmarkit.itmedia.co.jp/icd/root/40/60818040.html Insider's Computer Dictionary:ホストOS とは? - @IT]</ref>。ホスト環境上で動作する仮想マシン(ゲスト環境)にインストールされたオペレーティングシステムをゲストOSと呼ぶ。 そのほか、[[X Window System]]では、Xサーバーのためのリソースを提供するシステムのことをホストと呼ぶことがある<ref>[https://tldp.org/HOWTO/Xterminals/section2.html Host Environment | Connecting X Terminals to Linux Mini-HOWTO]</ref>。 == hosted environment == {{Wikibooks|C言語/基礎知識#ホスト環境|C言語}} [[C言語]]および[[C++]]のプログラム実行環境の一種である。[[国際標準化機構]]による規格ISO/IEC 9899およびISO/IEC 14882で規定されており、ISO/IEC 9899:1999およびISO/IEC 14882:2003に相当する[[日本工業規格]](現:[[日本産業規格]])のJIS X 3010:2003およびJIS X 3014:2003では「ホスト環境」と訳されている。 C/C++におけるホスト環境とは、[[オペレーティングシステム]]の制御下で[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]が実行されるシステムを指す。対義語は[[フリースタンディング環境]]で、C/C++の規定を満たすオペレーティングシステムの制御を受けることなくプログラムを実行するシステムを指す。フリースタンディング環境ではプログラムエントリポイントが<code>main</code>関数でなくてよい、対応するライブラリが少なくてよいなど、小規模なオペレーティングシステムに向いた仕様であるため、フリースタンディング環境に対応したオペレーティングシステムもあることに留意が必要である。 実行環境を指定しない場合は、{{要説明範囲|date=2023-08|セルフ開発}}の場合には、ホスト環境を既定値にしている。[[組み込みシステム]]では、ホスト環境のような大掛かりなシステムでない場合には、フリースタンディング環境を対象にすることがある。 == hosting environment == WebサイトやWebサービスを構築してネットワークに公開するためのファイルなどを展開する環境のことである。Webホスティング環境<ref>[https://www.ibm.com/docs/ja/tivoli-netcoolimpact/7.1?topic=SSSHYH_7.1.0/com.ibm.netcoolimpact.doc/solution/imsg_models_web_hosting_model_c.htm Web ホスティング・モデル - IBM Documentation]</ref>とも呼ばれる。[[オンプレミス]]サーバーを用いることもあれば、[[クラウドコンピューティング|クラウド]]を用いることもある。 {{see also|:en:Hosting environment}} == 脚注 == === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == * [[フリースタンディング環境]] * [[ホスト (ネットワーク)]] {{DEFAULTSORT:ほすとかんきよう}} [[Category:C言語]] [[Category:C++]] {{computer-stub}}
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指数関数
実解析における指数関数(しすうかんすう、英: exponential function)は、冪における指数 (exponent) を変数として、その定義域を主に実数の全体へ拡張して定義される初等超越関数の一種である。対数関数の逆関数であるため、逆対数 (anti-logarithm, inverse logarithm) と呼ばれることもある。自然科学において、指数関数は量の増加度に関する数学的な記述を与えるものとして用いられる(指数関数的増加や指数関数的減衰の項を参照)。 一般に、a > 0 かつ a ≠ 1 なる定数 a に関して、(主に実数の上を亙る)変数 x を a へ送る関数は、「a を底とする指数函数」と呼ばれる。「指数関数」との名称は、与えられた底に関して冪指数を変数とする関数であることを示唆するものであり、冪指数を固定して底を独立変数とする冪関数とは対照的である。 しばしば、より狭義の関数を意図して単に「指数関数」と呼ぶこともある。そのような標準的な (the) 指数関数(あるいはより明示的に「自然指数関数」)はネイピア数 e (= 2.718281828...) を底とする関数 x ↦ e である。これを exp x のようにも書く。この関数は、導関数が自分自身に一致するなど、他の指数関数と比べて著しく特異な性質を持つ。底 e を他の底 a に取り換えるには自然対数 ln x を用いて、等式 を適用すればよいから、以下本項では主に自然指数関数について記述し、多くの場合「指数関数」は自然指数関数の意味で用いる。 ある量の変化(増大または減少)率がその量の現在値に比例するというような状況において、指数関数は生じてくる(指数関数的増大または指数関数的減少)。 そのような例として、連続的複利計算があり、実はヤコブ・ベルヌイが (Bernoulli 1683) においてこのような複利計算から今日 e と書かれる数(ネイピア数) を導いている。後の1697年にヨハン・ベルヌイが指数関数の解析学を研究している。元本 1 に対して年 x の割合で金利を得る複利を考えると、得られる利息は毎月現在値に x/12 だから、総額は毎月 (1+x/12) 倍となり一年で (1+x/12) となる。あるいは、毎日金利を得るものとすれば (1+x/365) である。さらに間隔を短くして年間に金利を得る回数を限りなく増やした極限として、指数関数の定義 を与えた最初の人はオイラーである。これは数ある指数関数の特徴付けの一つであり、ほかにも冪級数や微分方程式を用いた定義などがある。 どの定義に従ったとしても、指数関数は以下の基本的な関係(指数法則) を満たすから、指数関数を e の冪乗とみなし、e と書くこともある。 指数関数の変化率、即ち導関数は指数関数自身に一致する。より一般に、変化率が自分自身と(そのものではなく)比例するという性質を持つ関数は、指数関数を用いて表すことができる。関数のこのような性質は指数関数的増加や指数関数的減少と呼ばれる。 指数関数は複素数平面上の整関数に拡張される。オイラーの公式は指数関数の純虚数における値と三角関数を関係付ける。同様に、指数関数は行列変数やより一般のバナッハ環に値を取る変数などに対しても定義される。あるいはリー理論における指数写像に一般化される。 指数関数 exp a ( x ) := a x ( a > 0 , a ≠ 1 ) {\displaystyle \exp _{a}(x):=a^{x}\ (a>0,\ a\neq 1)} は次の性質を持つ: 指数関数 exp ( x ) {\displaystyle \exp(x)} を一意的に定義するための特徴付けは、同値な方法がいくつも知られている。中でも以下の冪級数 で定義するのが典型的である。これは他の方法で指数関数を定義した場合に導くことのできる、指数関数のテイラー級数そのものである。 あまり典型的ではないが、自然対数関数の逆関数という意味で、指数関数 exp ( x ) {\displaystyle \exp(x)} を方程式 の解 y と定めることもできる。あるいはまた、以下の極限 によっても同じものが定まる。 底がネイピア数 e、すなわち である指数関数 e の導関数は e 自身となる。 解析学においてはこの性質を満たす関数として指数関数を定義する。つまり、指数関数 exp(x) とは、 を満たす関数のことである。この関数は代数的な定義で示される性質を満たし、両者は一致することが示される。 一般の指数関数 a の導関数は自然対数 ln を用いて、合成関数の微分公式より、 となる。a = e とすれば ln e = 1 なので最初の公式に戻る。 二重指数関数とは、f(x) = a の形で表現される関数のことである。 実変数の指数函数に対するテイラー級数において、変数をそのまま複素数に取り換えることによってガウス平面 C 上の複素函数が得られる。すなわち、複素指数函数は、任意の複素数 z に対して によって定まる整関数である。実指数関数について成り立つ性質のいくつかは複素指数関数に対してもそのまま成り立つ。また、実変数 x の純虚指数函数は で定義される実変数複素数値函数である(オイラーの公式の項も参照)。 複素指数函数の場合と同様に、テイラー級数表示における変数を p-進数とすることにより、p-進数の全体 Qp 上の関数として p-進指数関数が定義される。 上記のテイラー展開の x に任意の正方行列 X を代入することにより、行列の指数関数 exp X が定義される。 とくに、X が n 次の実一般線型群 GL(n, R) のリー環 gl(n, R) すなわち n 次の実正方行列全体を亘るとすれば、この指数関数 はリー環からリー群への指数写像の一つの例を与える。 行列の積の非可換性ゆえに、行列の指数函数は指数法則 e = e⋅e を一般には満たさない(もちろん、XY = YX であるような X, Y に対しては満たす)。この両辺の誤差についてはベイカー–キャンベル–ハウスドルフの公式(英語版)を参照せよ。 より一般に、テイラー級数による指数函数の定義は任意の単位的バナッハ環 B において意味を為す。この場合、B の零元 0 に対して e = 1 は乗法単位元であり、任意の x ∈ B に対し e は可逆元で e = 1/e を満たすが、指数法則 e = e⋅e(右辺は冪級数のコーシー積として定義できる)の成立には可換性 (xy = yx) が必要である。
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実解析における指数関数は、冪における指数 (exponent) を変数として、その定義域を主に実数の全体へ拡張して定義される初等超越関数の一種である。対数関数の逆関数であるため、逆対数 と呼ばれることもある。自然科学において、指数関数は量の増加度に関する数学的な記述を与えるものとして用いられる(指数関数的増加や指数関数的減衰の項を参照)。 一般に、a > 0 かつ a ≠ 1 なる定数 a に関して、(主に実数の上を亙る)変数 x を ax へ送る関数は、「a を底とする指数函数」と呼ばれる。「指数関数」との名称は、与えられた底に関して冪指数を変数とする関数であることを示唆するものであり、冪指数を固定して底を独立変数とする冪関数とは対照的である。 しばしば、より狭義の関数を意図して単に「指数関数」と呼ぶこともある。そのような標準的な (the) 指数関数(あるいはより明示的に「自然指数関数」)はネイピア数 e を底とする関数 x ↦ ex である。これを exp x のようにも書く。この関数は、導関数が自分自身に一致するなど、他の指数関数と比べて著しく特異な性質を持つ。底 e を他の底 a に取り換えるには自然対数 ln x を用いて、等式 を適用すればよいから、以下本項では主に自然指数関数について記述し、多くの場合「指数関数」は自然指数関数の意味で用いる。
[[Image:Exp.svg|thumb|240px|right|底が {{math|e}} である指数関数(グラフの 1 マスは {{math|1}})]] [[実解析]]における'''指数関数'''(しすうかんすう、{{lang-en-short|exponential function}})は、[[冪]]における[[冪指数|指数]] ({{en|exponent}}) を[[変数 (数学)|変数]]として、その定義域を主に[[実数]]の全体へ拡張して定義される[[関数一覧|初等超越関数]]の一種である。[[対数|対数関数]]の[[逆関数]]であるため、'''逆対数''' ({{en|anti-logarithm, inverse logarithm}}) と呼ばれることもある<ref>[http://msdn.microsoft.com/ja-jp/library/cc410227.aspx MSDN の <code>Exp</code> 関数の解説]</ref>{{efn|"Inverse Use of a Table of Logarithms; that is, given a logarithm, to find the number corresponding to it, (called its antilogarithm)…"<ref> – p.&nbsp;12 of {{citation|last1=Converse|last2=Durrell| title=Plane and spherical trigonometry| publisher= C.E. Merrill co.|year= 1911}}</ref>}}。[[自然科学]]において、指数関数は量の増加度に関する数学的な記述を与えるものとして用いられる([[指数関数的増加]]や[[指数関数的減衰]]の項を参照)。 一般に、{{math|''a'' &gt; 0}} かつ {{math|''a'' &ne; 1}} なる定数 {{mvar|a}} に関して、(主に実数の上を亙る)変数 {{mvar|x}} を {{mvar|a<sup>x</sup>}} へ送る関数は、「[[底に関する指数函数|{{mvar|a}} を'''底'''とする指数関数]]」と呼ばれる。「指数関数」との名称は、与えられた底に関して冪指数を変数とする関数であることを示唆するものであり、冪指数を固定して底を独立変数とする[[冪関数]]とは対照的である。 しばしば、より狭義の関数を意図して単に「指数関数」と呼ぶこともある。そのような標準的な (the) 指数関数(あるいはより明示的に「自然指数関数」){{efn|[[英語]]で {{en|exponential function}} と {{en|''the'' exponential function}} とを区別することがあるように、[[ドイツ語]]では一般の底に関する指数関数を {{lang|de|exponentiellen Funktionen}}(指数の関数)、自然指数関数を {{lang|de|Exponentialfunktion}} のように区別することもある。}}は[[ネイピア数]] {{math|1=''e'' (= {{val|2.718281828}}…)}} を底とする関数 {{math|''x'' ↦ ''e<sup>x</sup>''}} である。これを {{math|exp ''x''}} のようにも書く。この関数は、導関数が自分自身に一致するなど、他の指数関数と比べて著しく特異な性質を持つ。底 {{mvar|e}} を他の底 {{mvar|a}} に取り換えるには[[自然対数]] {{math|ln ''x''}} を用いて、等式 : <math>a^x = e^{x \cdot \ln a}</math> を適用すればよいから、以下本項では主に自然指数関数について記述し、多くの場合「指数関数」は自然指数関数の意味で用いる。 == 歴史と概観 == [[File:Animation of exponential function.gif|thumb|赤線(<span style="color:#ff0000">―</span>)は指数関数を表わす。黒い横線(<span style="color:#000000">―</span>)は指数関数の曲線が緑の縦線(<span style="color:#00ff00">―</span>)に交わる点を示している。緑の縦線を一定間隔で配置すると、黒の横線の間隔は急激に広がっていくことが分かる。]] ある量の変化(増大または減少)率がその量の現在値に[[比例]]するというような状況において、指数関数は生じてくる([[指数関数的増大]]または指数関数的減少)。 そのような例として、[[利子#連続複利と元利合計|連続的複利計算]]があり、実は[[ヤコブ・ベルヌーイ|ヤコブ・ベルヌイ]]が {{harv|Bernoulli|1683}}<ref name="mactutor">{{cite web |url=http://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/HistTopics/e.html |title=The number e |author=John J O'Connor; Edmund F Robertson |publisher=University of St Andrews, Scotland |work=School of Mathematics and Statistics |accessdate=2011-06-13}}</ref> においてこのような複利計算から今日 {{mvar|e}} と書かれる数([[ネイピア数]]) :<math>\lim_{n\to\infty}\left(1 + \frac{1}{n}\right)^{n}</math> を導いている。後の1697年に[[ヨハン・ベルヌーイ|ヨハン・ベルヌイ]]が指数関数の解析学を研究している<ref name="mactutor" />。元本 {{math|1}} に対して年 {{mvar|x}} の割合で金利を得る複利を考えると、得られる利息は毎月現在値に {{math|''x''/12}} だから、総額は毎月 {{math|(1+''x''/12)}} 倍となり一年で {{math|(1+''x''/12)<sup>12</sup>}} となる。あるいは、毎日金利を得るものとすれば {{math|(1+''x''/365)<sup>365</sup>}} である。さらに間隔を短くして年間に金利を得る回数を限りなく増やした極限として、指数関数の定義 :<math>\exp(x) = \lim_{n\to\infty}\left(1 + \frac{x}{n}\right)^{n}</math> を与えた最初の人は[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]である<ref name="autogenerated156" />。これは数ある指数関数の特徴付けの一つであり、ほかにも[[冪級数]]や[[微分方程式]]を用いた定義などがある。 どの定義に従ったとしても、指数関数は以下の基本的な関係([[指数法則]]) :<math>\exp(x + y) = \exp(x) \cdot \exp(y)</math> を満たすから、指数関数を {{mvar|e}} の[[冪乗]]とみなし、{{mvar|e{{exp|x}}}} と書くこともある。 指数関数の変化率、即ち[[導関数]]は指数関数自身に一致する。より一般に、変化率が自分自身と(そのものではなく)比例するという性質を持つ関数は、指数関数を用いて表すことができる。関数のこのような性質は指数関数的増加や指数関数的減少と呼ばれる。 指数関数は[[複素数平面]]上の[[整関数]]に拡張される。[[オイラーの公式]]は指数関数の純虚数における値と[[三角関数]]を関係付ける。同様に、指数関数は[[行列の指数函数|行列変数]]やより一般の[[バナッハ環]]に値を取る変数などに対しても定義される。あるいは[[リー代数|リー理論]]における[[リー環の指数写像|指数写像]]に一般化される。 == 性質 == 指数関数 <math>\exp_a(x):=a^x\ (a>0,\ a \neq1)</math> は次の性質を持つ: * <math>a>1</math> のとき狭義増加: <math>s>t \Rightarrow a^s>a^t.</math> * <math>0<a<1</math> のとき狭義減少: <math>s>t \Rightarrow a^s<a^t.</math> * <math>\exp_a \colon \mathbb{R} \to (0,\infty)</math> は各 <math>a</math> に対し全単射. よって <math>\exp_a</math> は各 <math>a</math> に対し可逆で, <math>\exp_a^{-1}=\log_a.</math> * <math>(a^x)'=a^x\log a.</math> 特に<math>(a^x)'|_{x=0}=1</math> となる <math>a</math> を <math>e</math> と書くと, <math>(e^x)'=e^x.</math> == 厳密な定義 == {{main|{{仮リンク|指数函数の特徴付け|en|Characterizations of the exponential function}}}} [[Image:Exp series.gif|right|thumb|指数関数(青線:<span style="color:#0000ff">―</span>)と、原点における指数関数の[[テイラー展開]]の第 {{math|''n'' + 1}} 項までの和(赤線:<span style="color:#ff0000">―</span>)。]] 指数関数 <math>\exp(x)</math> を一意的に定義するための特徴付けは、同値な方法がいくつも知られている。中でも以下の[[冪級数]] : <math>\exp(x) = \sum_{n = 0}^{\infty} {x^n \over n!} = 1 + x + {x^2 \over 2!} + {x^3 \over 3!} + {x^4 \over 4!} + \cdots</math> で定義するのが典型的である<ref name="rudin">{{cite book|last1=Rudin|first1=Walter|title=Real and complex analysis|date=1987|publisher=McGraw-Hill|location=New York|isbn=978-0-07-054234-1|page=1|edition=3rd}}</ref>。これは他の方法で指数[[関数 (数学)|関数]]を定義した場合に導くことのできる、指数関数の[[テイラー級数]]そのものである。 あまり典型的ではないが、[[自然対数]]関数の[[逆関数]]という意味で、指数関数 <math>\exp(x)</math> を[[方程式]] : <math>x = \int_1^y {dt \over t}</math> の解 {{mvar|y}} と定めることもできる。あるいはまた、以下の極限 : <math>\exp(x) = \lim_{n \to \infty} \left(1 + \frac{x}{n}\right)^n</math> によっても同じものが定まる<ref name="autogenerated156">[[Eli Maor]], ''e: the Story of a Number'', p.156.</ref>。 == 微分 == <!--{{expand|{{subst:DATE}}}}--> 底が[[ネイピア数]] {{mvar|e}}、すなわち :<math style="margin-left:2em">\lim_{h\rightarrow 0} \frac{e^h -1}{h} =1</math> である指数関数 {{mvar|e<sup>x</sup>}} の[[導関数]]は {{mvar|e<sup>x</sup>}} 自身となる。 :<math style="margin-left:2em">\frac{d}{dx} \, e^x = \lim_{h\rightarrow 0} \frac{e^{x+h} -e^x}{h} =e^x \lim_{h\rightarrow 0} \frac{e^h -1}{h} =e^x</math> 解析学においてはこの性質を満たす関数として指数関数を定義する。つまり、指数関数 {{math|exp(''x'')}} とは、 # <math>\exp(0) = 1</math> # <math>(d / dx - 1) \exp(x) = 0</math> を満たす関数のことである。この関数は[[#定義|代数的な定義]]で示される性質を満たし、両者は一致することが示される。 一般の指数関数 {{mvar|a<sup>x</sup>}} の導関数は[[自然対数]] {{math|ln}} を用いて、合成関数の微分公式より、 :<math>\frac{d}{dx}a^x = \frac{d}{dx}e^{x \ln a} = \frac{{d}(x \ln a)}{{d}x}\frac{{d}{e}^{x \ln a}}{{d}(x \ln a)} = (\ln a)a^x</math> となる。{{math|''a'' {{=}} ''e''}} とすれば {{math|ln ''e'' {{=}} 1}} なので最初の公式に戻る。 <!--双曲線函数, 連分数展開etc.--> == 一般化 == ===二重指数関数=== {{main|[[二重指数関数]]}} 二重指数関数とは、{{math|1=''f''(''x'') = ''a<sup>b<sup>x</sup></sup>''}} の形で表現される関数のことである。 === {{anchors|複素指数函数}} 複素指数関数 === {{main|複素指数函数}} 実変数の指数函数に対するテイラー級数において、変数をそのまま[[複素数]]に取り換えることによってガウス平面 {{mathbf|C}} 上の複素函数が得られる。すなわち、複素指数函数は、任意の[[複素数]] {{mvar|z}} に対して : <math>\exp z = \sum^{\infin}_{n=0}\frac{1}{n!}z^n</math> によって定まる[[整関数]]である。実指数関数について成り立つ性質のいくつかは複素指数関数に対してもそのまま成り立つ。また、実変数 {{mvar|x}} の[[純虚指数函数]]は : <math>\operatorname{cis}(x) := \exp(ix) (= \cos x + i\sin x)</math> で定義される実変数複素数値函数である([[オイラーの公式]]の項も参照)。 === {{anchors|p進指数函数|p進指数関数|p-進指数函数}}{{mvar|p}}-進指数関数 === {{main|{{仮リンク|p進指数函数|en|p-adic exponential function}}}} 複素指数函数の場合と同様に、テイラー級数表示における変数を [[p進数|{{mvar|p}}-進数]]とすることにより、{{mvar|p}}-進数の全体 {{math|'''Q'''<sub>''p''</sub>}} 上の関数として {{mvar|p}}-進指数関数が定義される。 === 行列の指数関数 === {{main|行列の指数関数}} 上記の[[テイラー展開]]の {{mvar|x}} に任意の[[正方行列]] {{mvar|X}} を代入することにより、[[行列の指数関数]] {{math|exp ''X''}} が定義される。 とくに、{{mvar|X}} が {{mvar|n}} 次の[[実数|実]][[一般線型群]] {{math|GL(''n'', '''R''')}} の[[リー代数|リー環]] {{math|gl(''n'', '''R''')}} すなわち {{mvar|n}} 次の実正方行列全体を亘るとすれば、この指数関数 :<math>\exp\colon \mathfrak{gl}(n, \mathbb{R}) \to {GL}(n, \mathbb{R})</math> はリー環から[[リー群]]への[[リー環の指数写像|指数写像]]の一つの例を与える。 [[行列の積]]の非可換性ゆえに、行列の指数函数は指数法則 {{math|1=''e''{{sup|''X''+''Y''}} = ''e{{sup|X}}&sdot;e{{sup|Y}}''}} を一般には満たさない(もちろん、{{math|1=''XY'' = ''YX''}} であるような {{mvar|X, Y}} に対しては満たす)。この両辺の誤差については{{ill2|ベイカー–キャンベル–ハウスドルフの公式|en|Baker–Campbell–Hausdorff formula}}を参照せよ。 === バナッハ環上の指数函数 === より一般に、テイラー級数による指数函数の定義は任意の単位的[[バナッハ環]] {{mvar|B}} において意味を為す。この場合、{{mvar|B}} の[[加法単位元|零元]] {{math|0}} に対して {{math|1=''e''{{exp|0}} = 1}} は[[乗法単位元]]であり、任意の {{math|''x'' ∈ ''B''}} に対し {{mvar|e{{exp|x}}}} は可逆元で {{math|1=''e''{{exp|&minus;''x''}} = 1/''e{{exp|x}}''}} を満たすが、指数法則 {{math|1=''e''{{sup|''x''+''y''}} = ''e{{exp|x}}&sdot;e{{exp|y}}''}}(右辺は冪級数の[[コーシー積]]として定義できる)の成立には可換性 ({{math|1=''xy'' = ''yx''}}) が必要である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Exponential functions}} * [[冪乗]] * [[対数]] * [[複素指数函数]] * [[行列指数関数]] * [[リー環の指数写像]] * {{仮リンク|リーマン多様体の指数写像|en|Exponential map (Riemannian geometry)}} * [[指数積分]] * [[指数分布]] * [[二重指数関数]] ** [[二重指数関数型数値積分公式]] * [[指数関数時間]] * [[0の0乗]] *チェスと小麦の問題 *[[曾呂利新左衛門]] *[[平均律]] == 外部リンク == * {{MathWorld|urlname=ExponentialFunction|title=Exponential Function}} * {{PlanetMath|urlname=exponentialfunction|title=exponential function}} * {{SpringerEOM|urlname=Exponential_function|title=Exponential function}} * {{SpringerEOM|urlname=Exponential_function,_real|title=Exponential function, real}} * {{SpringerEOM|urlname=Antilogarithm|title=Antilogarithm}} * {{nlab|id=exponential}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しすうかんすう}} [[Category:初等解析学]] [[Category:指数関数|*]] [[Category:初等関数]] [[Category:ネイピア数]] [[Category:数学に関する記事]]
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ジェームズ・T・カーク
ジェームズ・タイベリアス・カーク(James Tiberius Kirk)はSFドラマ『スタートレック』シリーズに登場する架空の人物である。『宇宙大作戦』(TOS)及び映画シリーズの主人公であり、小説やコミック、ゲームにも多数登場している。 長い歴史を持つスタートレックシリーズの最初の主人公。惑星連邦宇宙艦隊に所属するコンスティテューション級宇宙艦U.S.S.エンタープライズNCC-1701の3代目の船長である。『スタートレック(邦題:宇宙大作戦)』における彼の数々の冒険は、後のシリーズにおいても知らぬ者はいない伝説となっている。 兄のジョージ・サミュエル・カークも宇宙艦隊に所属し、『宇宙大作戦』でその死が描かれる。これ以前の時代を描く『スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールド』ではエンタープライズに科学士官(階級:大尉)として勤務している。 明るく楽天的で、行動力があり、直感的に物事を判断するリーダー。基本的には落ち着きがあり倫理的な行動規範を持つものの、しばしば激昂したりルールを無視する場面が見られる。 常に氷のように冷静なスポック副長、皮肉屋の旧友レナード・マッコイ船医との掛け合いはドラマの見どころのひとつとなっている。後のシリーズと異なり、率先して危険な惑星上陸任務に赴き、これを指揮する船長(宇宙艦隊の規約などの設定が固まっていなかったという点もある)。 「女性関係が多い」というイメージもあるが、これはシーズン3におけるプロデューサーからの「ロマンスシーンを多く入れろ」という要請からそうなってしまった経緯がある。そのためシーズン2までは別人のようにロマンスシーンがない。 2233年地球のアイオワ州リバーサイド出身。アイオワ州以外は正史では言及されていないが、公式ウェブサイトではそのように紹介されている。シリーズの生みの親ジーン・ロッデンベリーも「リバーサイドで生まれた」とする説をモチーフにしたとされる。先祖はアメリカ西部開拓者である(宇宙大作戦「危機一髪!OK牧場の決闘」)。 少年時代は本の虫でおとなしい性格であったが、なんらかのきっかけで奔放な青年へ成長する。この「きっかけ」のくだりは『スター・トレック (2009年の映画)』のDVD特典のカットされたシーンで描かれている。奔放な発想によって2254年には宇宙艦隊アカデミーに在籍中、決してクリアすることができない"コバヤシマル"テストをクリアした唯一の候補生となる。 2263年に30歳の若さで大佐に昇進、オーバーホールを終えたU.S.S.エンタープライズの船長として、5年間の深宇宙探査に赴く。(『スタートレック(邦題:宇宙大作戦)』) 2270年には提督(少将)に昇進し、宇宙艦隊司令部に所属するが、2272年に地球に襲来した謎の物体「ヴィジャー」を迎え撃つため、再びエンタープライズの指揮を執る。2285年に惑星ジェネシス~クジラ探査船の地球襲来事件により命令違反を問われて大佐に降格となり、U.S.S.エンタープライズAの船長に就任。2293年に惑星連邦とクリンゴン帝国との同盟の礎を築く。同年、U.S.S.エンタープライズBの処女航海に招待されるも、謎のエネルギーリボンに遭遇、エルオーリアの難民船を救助するも殉職したと思われていたが、そのエネルギーリボンが入口であったネクサスという時間の概念がない世界に入り込んでいたことが分かり、ピカードに協力するためにネクサスから出ることを選ぶも、結果的に殉職。ピカードによってヴェリディアン3号星に埋葬される。(スタートレック ジェネレーションズ) 遺体は回収されており、2401年時点でデイストローム研究所にて保管されてプロジェクト・フェニックスによって再生が試みられている。 劇場版第11作『スター・トレック (2009年の映画)』の舞台となる平行宇宙での時間軸。2233年4月に父であるジョージ・カーク大尉が勤務するU.S.S.ケルヴィンの脱出ポッドの中で生まれる。その後アイオワにある叔父の農場で幼年期を過ごす。「天才的頭脳を持つ問題児」な青年に成長した彼は、宇宙艦隊のクリストファー・パイク船長にスカウトされ、宇宙艦隊アカデミーに進学する。その後パイク船長の後任としてU.S.S.エンタープライズの船長となる。 2022年から配信されたドラマシリーズ『スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールド』では、クリストファー・パイクがエンタープライズ船長を勤める時期に宇宙艦隊の大尉であり、また、ロミュラン人が過去に飛んで歴史を改変した別時間軸では、惑星連邦は存在せずに地球連合の戦艦の艦長である。 本来の時間軸上でのカークはシーズン2の6話に登場し、U.S.S.ファラガットの副長への昇進が決定している(宇宙艦隊史上最年少(2233年生まれの為、23~24歳)での副長への昇進と言及されている)。 ジェイムズJamesの愛称がジムJimであることから、スポック、マッコイら親友からはジムと呼ばれる。このため、キャラクター紹介でもジム・カークとされることがある。 初登場となるパイロットフィルム"Where No Man Has Gone Before"(「光るめだま」)では、ミドルネームのイニシャルは「R」とされていた。 本放送では「ジェームズ・T・カーク」とされ、ミドルネームについては言及はされていなかったが、1974年のアニメシリーズ第16話"Bem"(「分解宇宙人ベム」)で初めて「T」が「タイベリアス」の略とされた。これが映画第1作の小説版でも踏襲されたため、事実上の標準的設定とされ、追随する多くの小説やファン・フィクションなどでもそのように扱われていった(小説版での表記は「ティベリウス」)。しかし、「正史」とされる実写作品での「タイベリアス」の登場は意外にも遅く、1991年の『未知の世界』が初めてである。「タイベリアス」が正統な設定となったのは、「ジェームズ・T・カーク」の初登場から25年も経ってからのことであった。 映画11作目では出産直後、母により祖父の名を受け継ぎ「Tiberius/タベリアス」と命名されるシーンがあるが、この作品内では度々自ら「Tiberius」を名乗っている。 小説や以降のテレビシリーズではCaptainを「艦長」と訳しているが、日本でテレビ放送した宇宙大作戦ではCaptainを「船長」と訳したため、日本ではカークのみ「船長」と呼び区別するのが慣例となっている(映画シリーズでは途中から「カーク艦長」と呼ばれるようになる)。宇宙大作戦以前の時代を描いた『スタートレック エンタープライズ』のジョナサン・アーチャーも「船長」と呼ばれることとなった。
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ジェームズ・タイベリアス・カークはSFドラマ『スタートレック』シリーズに登場する架空の人物である。『宇宙大作戦』(TOS)及び映画シリーズの主人公であり、小説やコミック、ゲームにも多数登場している。
{{物語世界内の観点|date=2020年1月}} [[ファイル:Star Trek William Shatner.JPG|thumb|200px|宇宙大作戦のジェームズ・T・カーク(演:ウィリアム・シャトナー)]] '''ジェームズ・タイベリアス・カーク'''('''James Tiberius Kirk''')は[[サイエンス・フィクション|SF]]ドラマ『[[スタートレック]]』シリーズに登場する架空の人物である。『[[宇宙大作戦]]』(TOS)及び映画シリーズの主人公であり、小説やコミック、ゲームにも多数登場している。 == 概要 == 長い歴史を持つスタートレックシリーズの最初の主人公。惑星連邦宇宙艦隊に所属するコンスティテューション級宇宙艦U.S.S.エンタープライズNCC-1701の3代目の船長である。『スタートレック(邦題:[[宇宙大作戦]])』における彼の数々の冒険は、後のシリーズにおいても知らぬ者はいない伝説となっている。 兄のジョージ・サミュエル・カークも宇宙艦隊に所属し、『宇宙大作戦』でその死が描かれる。これ以前の時代を描く『''[[スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールド]]』''ではエンタープライズに科学士官(階級:大尉)として勤務している。 == 性格 == 明るく楽天的で、行動力があり、直感的に物事を判断するリーダー。基本的には落ち着きがあり倫理的な行動規範を持つものの、しばしば激昂したりルールを無視する場面が見られる。 常に氷のように冷静なスポック副長、皮肉屋の旧友レナード・マッコイ船医との掛け合いはドラマの見どころのひとつとなっている。後のシリーズと異なり、率先して危険な惑星上陸任務に赴き、これを指揮する船長(宇宙艦隊の規約などの設定が固まっていなかったという点もある)。 「女性関係が多い」というイメージもあるが、これはシーズン3におけるプロデューサーからの「ロマンスシーンを多く入れろ」という要請からそうなってしまった経緯がある。そのためシーズン2までは別人のようにロマンスシーンがない。 == 経歴 == 2233年地球の[[アイオワ州]]リバーサイド出身。アイオワ州以外は正史では言及されていないが、公式ウェブサイトではそのように紹介されている。シリーズの生みの親[[ジーン・ロッデンベリー]]も「リバーサイドで生まれた」とする説をモチーフにしたとされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2599549 |title=スター・トレック、カーク船長の「未来の生まれ故郷」で町おこし、米アイオワ州 |accessdate=2021-02-22 |date=2009-05-04 |publisher=[https://www.afpbb.com/ AFPBB News] |language=ja}}</ref>。先祖はアメリカ西部開拓者である(宇宙大作戦「危機一髪!OK牧場の決闘」)。 少年時代は本の虫でおとなしい性格であったが、なんらかのきっかけで奔放な青年へ成長する。この「きっかけ」のくだりは『[[スター・トレック (2009年の映画)]]』のDVD特典のカットされたシーンで描かれている。奔放な発想によって2254年には宇宙艦隊アカデミーに在籍中、決してクリアすることができない"[[コバヤシマル]]"テストをクリアした唯一の候補生となる。 2263年に30歳の若さで大佐に昇進、オーバーホールを終えた[[エンタープライズ (スタートレック)|U.S.S.エンタープライズ]]の船長として、5年間の深宇宙探査に赴く。(『スタートレック(邦題:[[宇宙大作戦]])』) 2270年には提督(少将)に昇進し、宇宙艦隊司令部に所属するが、2272年に地球に襲来した謎の物体「ヴィジャー」を迎え撃つため、再びエンタープライズの指揮を執る。2285年に惑星ジェネシス~クジラ探査船の地球襲来事件により命令違反を問われて大佐に降格となり、U.S.S.エンタープライズAの船長に就任。2293年に惑星連邦とクリンゴン帝国との同盟の礎を築く。同年、U.S.S.エンタープライズBの処女航海に招待されるも、謎のエネルギーリボンに遭遇、エルオーリアの難民船を救助するも殉職したと思われていたが、そのエネルギーリボンが入口であったネクサスという時間の概念がない世界に入り込んでいたことが分かり、ピカードに協力するためにネクサスから出ることを選ぶも、結果的に殉職。ピカードによってヴェリディアン3号星に埋葬される。([[スタートレック ジェネレーションズ]]) 遺体は回収されており、2401年時点でデイストローム研究所にて保管されてプロジェクト・フェニックスによって再生が試みられている。 === ケルヴィン・タイムライン === 劇場版第11作『[[スター・トレック (2009年の映画)]]』の舞台となる平行宇宙での時間軸。2233年4月に父であるジョージ・カーク大尉が勤務するU.S.S.ケルヴィンの脱出ポッドの中で生まれる。その後アイオワにある叔父の農場で幼年期を過ごす。「天才的頭脳を持つ問題児」な青年に成長した彼は、宇宙艦隊のクリストファー・パイク船長にスカウトされ、宇宙艦隊アカデミーに進学する。その後パイク船長の後任としてU.S.S.エンタープライズの船長となる。 === シャトナーバース === : ウィリアム・シャトナー自身による続編小説シリーズにおいて『ジェネレーションズ』での死亡後、ロミュランとボーグによって復活、TNG、DS9、VOYのキャラを巻き込みながら活躍する事になる。このシリーズは通称シャトナーバースと呼ばれている。 :; オデッセイ :* STAR TREK: The Ashes of Eden(未訳) :* 新宇宙大作戦 カーク艦長の帰還 (The Return) :* 新宇宙大作戦 サレックへの挽歌 (Avenger) :; ミラー・ユニバース・トリロジー :* 新宇宙大作戦 鏡像世界からの侵略 (Spectre) :* 新宇宙大作戦 暗黒皇帝カーク (Dark Victory) :* 新宇宙大作戦 栄光のカーク艦長 (Preserver) :; トータリティ :* Captain's Peril :* Captain's Blood :* Captain's Glory === スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールド === 2022''年から配信されたドラマシリーズ『[[スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールド]]』''では、[[クリストファー・パイク]]がエンタープライズ船長を勤める時期に宇宙艦隊の大尉であり、また、ロミュラン人が過去に飛んで歴史を改変した別時間軸では、惑星連邦は存在せずに地球連合の戦艦の艦長である。 本来の時間軸上でのカークはシーズン2の6話に登場し、U.S.S.ファラガットの副長への昇進が決定している(宇宙艦隊史上最年少(2233年生まれの為、23~24歳)での副長への昇進と言及されている)。 == ネーミング == ジェイムズ''James''の愛称がジム''Jim''であることから、[[スポック]]、[[レナード・マッコイ|マッコイ]]ら親友からはジムと呼ばれる。このため、キャラクター紹介でも'''ジム・カーク'''とされることがある。 初登場となるパイロットフィルム"Where No Man Has Gone Before"(「光るめだま」)では、ミドルネームのイニシャルは「R」とされていた。 本放送では「ジェームズ・T・カーク」とされ、ミドルネームについては言及はされていなかったが、[[1974年]]の[[まんが宇宙大作戦|アニメシリーズ]]第16話"Bem"(「分解宇宙人ベム」)で初めて「T」が「タイベリアス」の略とされた。これが[[スタートレック (映画)|映画第1作]]の小説版でも踏襲されたため{{Efn|作品中では「カークの祖父サミュエルがローマ皇帝[[ティベリウス]]にちなんで名づけたが、カーク本人はこれを良しとせず、自ら略すことが多い」としている。}}、事実上の標準的設定とされ{{Efn|映画作品の小説版や[[マイケル・オクダ]]による設定資料などでは公式設定に準ずる扱いを受けることがあるが、あくまでも正統な設定の扱いはされない。}}、追随する多くの小説や[[ファン・フィクション]]などでもそのように扱われていった(小説版での表記は「ティベリウス」)。しかし、「正史」とされる実写作品{{Efn|name=canon|スタッフの間では、スタートレックの「正史」とされるのは実写映像化された作品のみであり、アニメシリーズや小説版は正統な設定とはされない。}}での「タイベリアス」の登場は意外にも遅く、[[1991年]]の『[[スタートレックVI 未知の世界|未知の世界]]』が初めてである。「タイベリアス」が正統な設定となったのは、「ジェームズ・T・カーク」の初登場から25年も経ってからのことであった。 映画11作目では出産直後、母により祖父の名を受け継ぎ「Tiberius/タベリアス」と命名されるシーンがあるが、この作品内では度々自ら「Tiberius」を名乗っている。 小説や以降のテレビシリーズではCaptainを「艦長」と訳しているが、日本でテレビ放送した[[宇宙大作戦]]ではCaptainを「船長」と訳したため、日本ではカークのみ「船長」と呼び区別するのが慣例となっている(映画シリーズでは途中から「カーク艦長」と呼ばれるようになる)。宇宙大作戦以前の時代を描いた『[[スタートレック エンタープライズ]]』の[[ジョナサン・アーチャー]]も「船長」と呼ばれることとなった。 == 演じた俳優と声優 == === 俳優 === * [[ウィリアム・シャトナー]] ** 『宇宙大作戦』~映画第7作 * [[サンドラ・スミス]] ** 『宇宙大作戦』(第79話「変身! カーク船長の危機」女性に変身してしまったカーク) * [[クリス・パイン]] ** 映画第11作~第13作 * [[ジミー・ベネット]] ** 映画第11作(少年時代) * [[ポール・ウェズレイ]] ** 『[[スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールド]]』 === 日本語版吹き替え === {{See also|スタートレック#日本語版の吹き替え}} * [[矢島正明]] ** 『宇宙大作戦』、映画第1作(テレビ朝日版)、映画第2作~第3作(日本テレビ版)、映画第7作(VHS版)、『ディープ・スペース・ナイン』、映画第1作~第7作(新録版) * [[野沢雅子]] ** 『宇宙大作戦』(第79話「変身! カーク船長の危機」女性に変身してしまったカーク) * [[ささきいさお|佐々木功]] ** 『まんが宇宙大作戦』 * [[大塚明夫]] ** 映画第4作(フジテレビ版)、映画第6作(VHS版) ** 大塚は『新スタートレック』で[[ウィリアム・T・ライカー]]役を演じている。 * [[筈見純]] ** 映画第5作(機内上映版) * [[阪口周平]] ** 映画第11作~第13作 ** 阪口は映画第3作(新録版)で青年期のスポックを演じている。 * [[浪川大輔]] ** 『[[スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールド|スタートレック:ストレンジ・ニューワールド]]』 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} {{スタートレック}} {{ささきいさお}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かあく しええむす}} [[Category:スタートレック:オリジナルシリーズの登場人物]] [[Category:新スタートレックの登場人物]] [[Category:スタートレック:ディープ・スペース・ナインの登場人物]] [[Category:スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールドの登場人物]] [[Category:架空の宇宙船の船長・艦長]] [[de:Figuren im Star-Trek-Universum#Captain James Tiberius Kirk]]
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冪乗
数学における冪乗(べきじょう、べき乗、英: 仏: 独: exponentiation)または冪演算(べきえんざん)は、底 (てい、英: base) および冪指数 (べきしすう、英: exponent) と呼ばれる二つの数に対して定まる数学的算法である。その結果は冪 (べき、英: power) と呼ばれる。自然数 n を冪指数とする冪演算は累乗 (るいじょう、英: repeated multiplication) に一致する。 底(英語版) b および冪指数 e をもつ冪は、底の右肩に冪指数を乗せて b のように書かれる。n が自然数(正の整数)のとき、自然数乗 b は底の累乗 であり、b は b の n-乗や、n-次の b-冪などと呼ばれる。 特定の冪指数に対して、固有の名前が付けられている。例えば、冪指数が 2 である冪(2 乗) b は「b の平方 (square of b)」または「b-自乗 (b-squared)」と呼ばれ、冪指数が 3 である冪(3 乗) b は「b の立方 (cube of b, b-cubed)」と呼ばれる。それ以降は 4 乗、5 乗、... というように「n 乗」という言い方が一般的である。 冪指数が −1 である冪 b は 1/b であり、「b の逆数」(または乗法逆元)と呼ばれる。一般に冪指数が負の整数 n である冪 b は、b × b = b という性質を保つように、底 b が 0 でないとき b := 1/b と定義される。 冪乗は、任意の実数または複素数を冪指数とするように定義を拡張することができる。底および冪指数が実数である冪において、底を固定して冪指数を変数と見なせば指数函数であり、冪指数を固定して底を変数と見なせば冪函数である。整数乗の冪に限れば、行列などを含めた多種多様な代数的対象に対してもそれを底とする冪を定義することができる。冪指数まで同種の対象に拡張すると、その上で定義された自然指数函数と自然対数函数をもつ完備ノルム環(例えば実数全体 R や複素数全体 C など)を想定するのが自然である。 歴史上に冪が現れたのは非常に古く、B.C.16世紀ごろに作成された粘土板には平方数表、平方根表、立方根表や三平方の定理について書かれており、エジプト、インド、ギリシアなどでも冪の概念は明示されている。一方で、指数法則に言明する文献は見当たらず「指数概念」には未だ到達していないと考えるべきであるが、冪を意味する英単語 "power" はギリシアの数学者エウクレイデス(ユークリッド)が直線の平方を表すのに用いた語に起源がある。また、「原論」において指数法則 a × a = a に相当する命題に言及しているが、この時代には算式は発明されておらず、すべて言葉で表現していた。 アルキメデスは 10 の冪を扱うために必要となる指数法則 10 • 10 = 10 を発見し、証明した。9世紀に、ペルシアの数学者アル゠フワーリズミは平方を mal, 立方を kab で表した。これを後に中世イスラムの数学者がそれぞれ m, k で表す記法として用いていることが、15世紀ごろのアル゠カラサディ(英語版)の仕事に見ることができる。 16世紀後半、ヨスト・ビュルギは冪指数をローマ数字を用いて表した。 17世紀初頭、今日用いられる現代的な冪記法の最初の形は、ルネ・デカルトが著書 La Géométrie の一巻において導入した。 アイザック・ニュートンなど一部の数学者は冪指数は 2 乗よりも大きな冪に対してだけ用い、平方は反復積として書き表した。例えば、多項式を ax + bxx + cx + d のように書いた。 15世紀にニコラ・ショケ(英語版)は冪記法の一種を用い、それは後の16世紀にハインリヒ・シュライベル(英語版)およびミハエル・スティーフェル(英語版)が用いている。 16世紀にロバート・レコードは、square(二次), cube(三次), zenzizenzic(四次), sursolid(五次), zenzicube(六次), second sursolid(七次), zenzizenzizenzic(八次(英語版))の語を用いた。4 乗については biquadrate(複二次)の語も用いられた。 歴史的には "involution" が冪の同義語として用いられていたが現在では稀であり、別の意味(対合)で用いられているので混同すべきではない。 冪指数を意味する用語として、英語ではしばしば exponent と index が同義語として用いられる。この用語選定は18世紀、19世紀を通じて極めて曖昧で個人の嗜好に委ねられていた。しかし、ガウスは、その著書 Disquisitiones Arithmeticae において通常の冪指数と数論的な指数を峻別する必要性から exponens は通常の冪指数、index は数論的な指数を表すものとして明確に区別し使い分けて解説に使用しており、この使い分けはディリクレ、デデキント、ヒルベルトを通じて数論の世界での標準となった。 もとをたどれば、1544年にミハエル・スティーフェルがラテン語: "exponens" を造語し、対して1586年にラザルス・シェーナーが数学者ペトルス・ラムスの書籍への補注としてラテン語: "index" を(スティーフェルが exponens と呼んだものと同じものを指す意味で)用いたのがそれぞれの語源と考えられる。exponent と index はこれらの英語翻訳であり、例えば index はサミュエル・ジーク(英語版)が1696年に導入した。 exponent と index の微妙な使い分けと併用の時代はここから始まり、その併用のされ方は国と時代だけでなく個人によっても異なった。イギリスは当初 index が優勢であり、これは聖バーソロミューの大虐殺で殉死したラムスの著作がプロテスタント諸国で非常に人気を集めたからだとの指摘がある。 『冪』の字義は「覆う、覆うもの」であって、『冖』と同音同義である。江戸時代の和算家は「冪」の略字として「巾」を用いていた。 第二次世界大戦後の漢字制限政策のもと、これらの字は常用漢字・当用漢字に含まれず、1950年代以降の学習参考書などの出版物では仮名書きで「べき乗」または「累乗」への書き換えが進められ、結果として初等数学の教科書ではもっぱら「累乗」が用いられた。「累乗」の字義は「重ね掛けた乗算」であり、自然数乗以外の冪に対して用いることは、字義からすればあまり自然でない。 「冪集合」、「冪級数」などの高等学校以下で扱われない多くの概念に対しては、「冪」の部分が置き換えられることはなく、例えば「べき乗集合」や「累乗集合」などといった表現はあまり生じていない。 実数(または積 × {\displaystyle \times } の定義された群、より一般には半群)において、元 x と自然数 n に対して x を で定義する(厳密には再帰的に定義する)。 上付きの n が書けない場合には、 x^n という表記を用いることが多い。 これを x の n 乗または x の n 乗冪と呼び、n を問題にしないときは x の累乗や x の冪という。 この操作を「x の n 乗を取る」などといい、特に n を固定して x を入力とする関数(特に実数 x の函数)と見るときは、冪関数という。 x の 2乗、3乗は特に、それぞれ x の平方 (へいほう、 英: square)、立方 (りっぽう、 英: cube) と呼ばれ、2乗を特に自乗という場合もある。 冪 x において、x を底(てい、英: base、 基数)と呼び、n を冪数、冪指数または単に指数(しすう、 英: exponent) と呼ぶ。必ずしも冪指数とは限らない添字 n をその基準となる文字 x の右肩に乗せる添字記法を指数表記・冪記法などとよぶ場合もある。 厳密には、x の n 乗冪は によって再帰的に定義される。 帰納的定義を見れば下のように拡張するのが自然である。 有理数の範囲で2の累乗数を例に取ると: ただし、底が 0 の場合は「0 で割れない」などの理由から定義しないか、または 0 については 1 と定義するのが一般的である。 自然数 m に対し、x の m 乗根すなわち m 乗して x になるような数 y がただ一つあるならば、その y を x とし、自然数または整数 n に対し と定めることによって、x を底とする冪乗の指数を有理数の範囲まで拡張することができる。 このとき、指数法則と呼ばれる下の関係式が成り立つ。 ここで、r と s は、冪が定義できる範囲の有理数である。つまり、x が逆元をもたないなら自然数、逆元はもつが冪根をもたないなら整数、m 乗根をもつが逆元をもたないならば m を分母とする正の有理数、逆元も m 乗根ももつならば m を分母とする有理数である。 x が正の実数ならば、上で制限されていた指数への条件は外れる。 正数ならば任意の自然数 m に対する正の m 乗根 x m {\displaystyle {\sqrt[{m}]{x}}} がただ一つ存在するので、正の有理数 n m {\displaystyle {\frac {n}{m}}} に対し と定めることができる。さらに、x が 0 でなければ逆元が存在するので、指数は有理数全体まで拡張される。 x (>0) の冪は、その指数に関して極限を取ることによって実数上の関数に拡張され、連続関数になる。連続な拡張は一意であり、これを x を底とする指数関数と呼ぶ。 複素数 z に対して、函数 exp を級数 で定義する。この級数は任意の複素数 z に対して収束する。特に exp(1) ≕ e は自然対数の底に等しく、任意の実数 x に対して exp(x) = e(右辺は実数 e の実数 x 乗の意)である(したがって任意の複素数に対して e ≔ exp(z) とも書かれる)。z ≔ x + iy (x, y は実数)と表すと、 が成り立つ(cis は純虚指数函数)。特に e = cos(y) + i⋅sin(y) はオイラーの公式と呼ばれる関係式である。 さらに、この関数の「逆関数」を log と書けば、一般の複素数 w ≠ 0 に対して と定義される。log が多価関数なので、一般には値が 1 つには定まらない。ただし、w = e の場合には、上の冪級数で定義したほうの意味で用いるのが普通である。 以下の一覧表において多重定義の虞を除くため、底は非零実数であるような冪のみを考える。ただし、正の冪のみを考えるならば、底が 0 でも各法則は成り立つ。また以下の一覧において、有理数について分母が奇数あるいは偶数であるというときは、常にその有理数の既約分数表示における分母のことを言っているものとする。 例えば、((−1)) = 1 および (−1) = −1 であるから、a < 0 に対して √a = (a) = −a = −a, したがって任意の実数 a に対して √a = |a| が成り立つ。 正の実数に対する冪および対数に関する等式のいくつかは、複素数冪や複素対数がどのように一価函数として定義されようとも、複素数に対しては成り立たないことが起こる。 は反例になる。複素対数のどの枝を用いたかに関わらず、この等式には同様の反例が存在する。(この結果のみを使うものとすれば) であるとまでしか言えない。 この等式は log を多価函数と考えるときでさえ成り立たない。log(w) の取り得る値は z⋅log(w) の取り得る値を部分集合として含む。log(w) の主値を Log(w) とし、m, n を任意の整数とすると、両辺の取り得る値は および が反例として示される。 他方、x が整数のときには任意の非零複素数に対して成り立つ。 という不合理が生じる。この推論にはいくつも問題がある: 冪演算は任意のモノイドにおいて定義できる。モノイドは単位元を持つ半群、すなわち適当な集合 X を台として合成あるいは乗法と呼ばれる二項演算が定義される代数系であって、その乗法が結合法則を満足し、かつ乗法単位元 1X を持つものを言う。モノイドにおける自然数冪は として帰納的に定義することができる(先の式の右辺(の 1)は X の単位元、後の式の左辺の 1 は自然数の 1 で、当然だがこれらは互いに別のものである)。特に先の式(零乗すること)は「単位元を持つ」ことによって初めて意味を成す規約であることに注意すべきである(空積も参照のこと)。 モノイドの例には群や環(の乗法モノイド)のような数学的に重要な多くの構造が含まれ、またより特定の例として行列環や体の場合について後述する。 正方行列 A に対して A 自身の n 個の積を行列の冪と呼ぶ。また A は単位行列に等しいものと定義され、さらに A が可逆ならば A ≔ (A) と定義する。 行列の冪は離散力学系(英語版)の文脈でしばしば現れる。そこでは行列 A は適当な系の状態ベクトル x を次の状態 Ax へ遷移させることを表す。これは例えばマルコフ連鎖の標準的な解釈である。これにより、Ax は二段階後の系の状態であり、以下同様に Ax は n 段階後の系の状態と理解される。つまり行列の冪 A は現在と n 段階後の状態の間の遷移行列であって、行列の冪を計算することはこの力学系の発展を解くことに等しい。便宜上、多くの場合において行列の冪は固有値と固有ベクトルを用いて計算することができる。 行列を離れてより一般の線型作用素にも冪演算は定められる。例えば微分積分学における微分演算 d / dx は函数 f に作用して別の函数 df / dx = f' を与える線型作用素であり、この作用素の n-乗は n-階微分 である。これは線型作用素の離散的な冪の例であるが、作用素の連続的な冪が定義できたほうがよい場面が多く存在する。C0-半群の数学的理論はこのような事情を出発点としている。離散冪指数に対する行列の冪の計算が離散力学系を解くことであったのと同様に、連続冪指数に対する作用素の冪の計算は連続力学系を解くことに等しい。そういった例として熱方程式、シュレーディンガー方程式、波動方程式あるいはもっとほかの時間発展を含む偏微分方程式を挙げることができる。このような冪演算の特別の場合として、微分演算の非整数乗は分数階微分と呼ばれ、分数階積分とともに、分数階微分積分学の基本演算の一つとなっている。 体は、四則演算が矛盾なく定義されそれらの馴染み深い性質が満足されるような代数的構造である。例えば実数全体は体を成す。複素数の全体、有理数の全体などもそうである。これら馴染み深い例が全て無限集合であるのと異なり、有限個の元しか持たない体も存在する。そのもっとも簡単な例が二元体 F2 = {0,1} で、加法は 0 + 1 = 1 + 0 = 1, 0 + 0 = 1 + 1 = 0 および乗法は 0 • 0 = 1 • 0 = 0 • 1 = 0, 1 • 1 = 1 で与えられる。 有限体における冪演算は公開鍵暗号に応用を持つ。例えばディフィー・ヘルマン鍵交換は、有限体における冪は計算量的にコストが掛からないのに対し、冪の逆である離散対数は計算量的にコストが掛かるという事実を用いている。 任意の有限体 F は、素数 p がただ一つ存在して、任意の x ∈ F に対して px = 0 が成り立つ(x を p 個加えれば零になる)という性質を持つ。例えば二元体 F2 では p = 2 である。この素数 p はその体の標数と呼ばれる。F を標数 p の体として F の各元を p-乗する写像 f(x) = x を考える。これは F のフロベニュース自己準同型と呼ばれる。新入生の夢(英語版)(幼稚な二項定理)とも呼ばれる等式 (x + y) = x + y がこの体においては成り立つため、フロベニュース自己準同型が実際に体の自己準同型を与えるものであることが確認できる。フロベニュース自己準同型は F の素体上のガロワ群の生成元であるため数論において重要である。 冪指数が整数であるような冪演算は抽象代数学における極めて一般の構造に対して定義することができる。 集合 X は乗法的に書かれた冪結合的(英語版)二項演算を持つもの: とするとき、任意の x ∈ X と任意の自然数 n に対して冪 x は、x の n 個のコピーの積を表すものとして のように帰納的に定義される。これは以下のような性質 を満足する。さらに、考えている演算が両側単位元 1 を持つ: ならば x は任意の x に対して 1 に等しいものと定義する。 さらにまた演算が両側逆元を持ち、なおかつ結合的 ならばマグマ X は群を成す。このとき x の逆元を x と書けば、冪演算に関する通常の規則 はすべて満足される。また(例えばアーベル群のように)乗法演算が可換ならば も満足される。(アーベル群が通常そうであるように)二項演算を加法的に書くならば、「冪演算は累乗(反復乗法)である」という主張は「乗法は累加(反復加法)である」という主張に引き写され、各指数法則は対応する乗法法則に引き写される。 一つの集合上に複数の冪結合的に項演算が定義されるときには、各演算に関して反復による冪演算を考えることができるから、どれに関する冪かを明示するために上付き添字に反復したい演算を表す記号を併置する方法がよく用いられる。つまり演算 ∗ および # が定義されるとき、x と書けば x ∗ ⋯ ∗ x を意味し、x と書けば x # ⋯ # x を意味するという具合である。 上付き添字記法は、特に群論において、共軛変換を表すのにも用いられる(即ち、g, h を適当な群の元として g = hgh)。この共軛変換は指数法則と同様の性質を一部満足するけれども、これはいかなる意味においても反復乗法としての冪演算の例ではない。カンドルはこれら共軛変換の性質が中心的な役割を果たす代数的構造である。 自然数 n と任意の集合 A に対して、式 A はしばしば A の元からなる順序 n-組全体の成す集合を表すのに用いられる。これは A は集合 {0, 1, 2, ..., n−1} から集合 A への写像全体の成す集合であると言っても同じことである(n-組 (a0, a1, a2, ..., an−1) は i を ai へ送る写像を表す)。 無限基数 κ と集合 A に対しても、記号 A は濃度 κ の集合から A への写像全体の成す集合を表すのに用いられる。基数の冪との区別のために A と書くこともある。 一般化された冪は、複数の集合上で定義される演算や追加の構造を持つ集合に対しても定義することができる。例えば、線型代数学において勝手な添字集合上でのベクトル空間の直和を考えることができる。つまり Vi をベクトル空間として を考えるとき、任意の i について Vi = V とすれば得られる直和を冪記法を用いて V あるいは直和の意味であることが明らかならば単に V のように書くことができる。ここで再び集合 N を基数 n で取り替えれば V を得る(濃度 n を持つ特定の標準的な集合を選ぶことなしに、これは同型を除いてのみ定義される)。V として実数体 R を(それ自身の上のベクトル空間と見て)とれば、n を適当な自然数として線型代数学でもっともよく調べられる実ベクトル空間 R を得る。 冪演算の底を集合とするとき、何も断りがなければ冪演算はデカルト積である。複数の集合のデカルト積は n-組を与え、n-組は適当な濃度を持つ集合上で定義された写像として表すことができるのだから、この場合冪 S は単に N から S への写像全体の成す集合 である。この定義は |S| = |S| が満たされるという意味で基数の冪と整合する。ただし |X| は X の濃度を表す。"2" を集合 {0, 1} として定義すれば |2| = 2 が得られる。ここに 2 は X の冪集合であり、普通は P(X) などで表される。 デカルト閉圏において、任意の対象に対して別の任意の対象を冪指数とする冪演算を冪対象によって与えることができる。集合の圏における冪対象は配置集合であるから、これはその一般化になっている。考えている圏に始対象 0 が存在するならば、冪対象 0 は任意の終対象 1 に同型である。 集合論では基数や順序数の冪演算も定義される。 基数 κ, λ に対して冪 κ は基数 λ の任意の集合から基数 κ の任意の集合への写像全体の成す集合の基数を表す。κ, λ がともに有限ならばこれは通常の算術的な(つまり自然数の)冪演算と一致する(たとえば、二元集合から元を取って得られる三つ組全体の成す集合の基数は 8 = 2 で与えられる)。基数の算術において κ は常に(特に κ が無限基数や 0 であるときでさえ)1 である。 基数の冪は順序数の冪とは異なる。後者は超限帰納法を含む過程の極限として定義される。 自然数冪が乗法の反復として考えられたことと同様に、冪演算を繰り返す演算というものを定義することもできる。それをまた反復すれば別の演算が定義され、同様に繰り返してハイパー演算の概念を得る。このようにして得られるハイパー演算の列において、次の演算は前の演算に対して急速に増大する。 写像の冪乗となるべきものとして、写像を表す符牒の直後に整数の上付き添字を添えたとき、それは(反復乗法ではなくて)反復合成冪の意味で用いることがよく行われる。つまり例えば f(x) は f(f(f(x))) の意味であり、また特に f(x) は f の逆写像を意味するのが普通である。反復合成写像はフラクタルや力学系の研究において興味を持たれる。チャールズ・バベッジは写像の平方根 f(x) を求める問題を研究した最初の人であった。 しかし歴史的経緯により、三角函数の場合には、函数の略号に正の冪指数を添えたときは函数の値に対して冪を取ることを意味する一方で、−1 を冪指数としたときは逆函数を意味するという特別な文法が適用される。つまり、 sin x は (sin x) を括弧を用いずに略記する方法に過ぎない一方、sin x は逆正弦函数 arcsin x を意味するのである。三角函数の逆数函数は(例えば 1/(sin x) = (sin x) = csc x のように)それぞれ固有の名前と略号が与えられているから、三角函数の逆数の略記法は無用である。同様の規約は対数函数にも適用され、log x はふつう (log x) の意味であって log log x の意味でない。 添字付けられた変数を考えるとき、その変数の添字を上付きにする場合があり、それはあたかも冪であるかのような印象を受けるかもしれないが混同するべきではない。これは特にテンソル解析においてベクトル場の座標表示などで現れる。あるいはまた数列の列のような、既にそれ自身添字付けられているような量に対してさらに添字付けを行う場合にもしばしば用いられる。 函数 f の n-階導函数はふつう f と書かれるように、冪記法は冪指数を括弧で囲んで書くこともある。 コンピュータ上で指数を自然数とする冪乗(累乗)を効率よく行う演算方法としてバイナリ法(二進数法; en:exponentiation by squaring) とも呼ばれる演算方法を示す。 RSA暗号や確率的素数判定法であるフェルマーテストなどでは、巨大な自然数を指数とする累乗を行う。この方法を使うと、指数がいかに巨大であっても高々そのビット数の2倍の回数の乗算で算出することが可能になり、繰り返し掛けるよりも大幅に効率がよくなる。特にRSA暗号やフェルマーテストなどにおいて各演算後に必要となる剰余演算(一般に最も計算時間がかかる)の回数を減らす効果がある。 一般に、コンピュータにとって標準的な(32ビットコンピュータならば約4億までの)自然数や浮動小数点数を底とする場合は下位桁から計算する方式を、前述のような巨大な自然数を底とする場合には上位桁から計算する方式を用いると効率が良い。 バイナリ法では、次の性質を利用する。 例えば (a) = a である。したがって、a(すなわち a)から始めて2乗を繰り返すと次行のとおりになる。 これらの数のうち、適切なものを選んで掛け合わせれば、任意の累乗を速く(すなわち少ない乗算回数で)計算することができる。例えば a は、指数法則によって、 として計算することができる。乗算回数は 8 回で済むので、a を 42 回繰り返し掛け合わせるのに比べて効率が良い。(下図で「→」は乗算を表し、「⇒」は2乗を表す。) コンピュータのアルゴリズムとして書くとこうなる。 整数の内部表現が二進法であるコンピュータなら、4. では除算の代わりにシフト演算を用いることができる。 この方式は a が浮動小数点数である場合や、最終結果がレジスタに収まることがわかっている場合に効率が良い。また乗算にモンゴメリ乗算などを用いて冪剰余を計算する場合も、この方式で充分な効率が得られる。 上の方式と同様に、次の性質を使う。 これに性質 a x + 1 = a x ⋅ a {\displaystyle a^{x+1}=a^{x}\cdot a} を組み合わせると、次の関係が成り立つ。 指数が偶数か奇数かによってこれら二つの式を使い分け、指数を順次約1/2にしていくことができる。例えば a 43 {\displaystyle a^{43}} は、 である。そして a 21 {\displaystyle a^{21}} も同様に、 である。 a 10 {\displaystyle a^{10}} はこうなる。 以下同様に、こうなる。 これを逆順にたどり、 として算出できる。(下図で「→」は乗算を表し、「⇒」は2乗を表す。) 2乗した後に a を乗算するか否かは、指数 n を二進表記したときの各ビットが1であるか否かと一致する。 コンピュータのアルゴリズムとして書くとこうなる。 この方式では、4. における乗数が常に a なので、下位桁から計算する方式に比べて乗数の桁数が小さくなり、計算時間がかからない。これは特に、レジスタに入りきらないような巨大な自然数を扱う場合に顕著となる。ただし(RSA暗号のように)冪乗の剰余を計算する場合であって法の大きさが a と同程度ならば、この効果はない。 また 4. における乗数が常に a なので、あらかじめ a が定数(2 や 10 など、またはディフィー・ヘルマン鍵共有の生成元 g など)であることがわかっている場合には、4. の乗算を最適化をすることができる。 巨大な自然数の汎用的な冪算ルーチン(a が小さい可能性が高い)や、a が小さかったり定数であることがわかっている場合、冪乗の剰余を計算する場合であってモンゴメリー演算を用いず別途剰余を計算する場合、数を保持するコストが高い場合など、指数を二進表記するコスト以上の効率が得られる場合に選択される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "数学における冪乗(べきじょう、べき乗、英: 仏: 独: exponentiation)または冪演算(べきえんざん)は、底 (てい、英: base) および冪指数 (べきしすう、英: exponent) と呼ばれる二つの数に対して定まる数学的算法である。その結果は冪 (べき、英: power) と呼ばれる。自然数 n を冪指数とする冪演算は累乗 (るいじょう、英: repeated multiplication) に一致する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "底(英語版) b および冪指数 e をもつ冪は、底の右肩に冪指数を乗せて b のように書かれる。n が自然数(正の整数)のとき、自然数乗 b は底の累乗", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "であり、b は b の n-乗や、n-次の b-冪などと呼ばれる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "特定の冪指数に対して、固有の名前が付けられている。例えば、冪指数が 2 である冪(2 乗) b は「b の平方 (square of b)」または「b-自乗 (b-squared)」と呼ばれ、冪指数が 3 である冪(3 乗) b は「b の立方 (cube of b, b-cubed)」と呼ばれる。それ以降は 4 乗、5 乗、... というように「n 乗」という言い方が一般的である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "冪指数が −1 である冪 b は 1/b であり、「b の逆数」(または乗法逆元)と呼ばれる。一般に冪指数が負の整数 n である冪 b は、b × b = b という性質を保つように、底 b が 0 でないとき b := 1/b と定義される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "冪乗は、任意の実数または複素数を冪指数とするように定義を拡張することができる。底および冪指数が実数である冪において、底を固定して冪指数を変数と見なせば指数函数であり、冪指数を固定して底を変数と見なせば冪函数である。整数乗の冪に限れば、行列などを含めた多種多様な代数的対象に対してもそれを底とする冪を定義することができる。冪指数まで同種の対象に拡張すると、その上で定義された自然指数函数と自然対数函数をもつ完備ノルム環(例えば実数全体 R や複素数全体 C など)を想定するのが自然である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "歴史上に冪が現れたのは非常に古く、B.C.16世紀ごろに作成された粘土板には平方数表、平方根表、立方根表や三平方の定理について書かれており、エジプト、インド、ギリシアなどでも冪の概念は明示されている。一方で、指数法則に言明する文献は見当たらず「指数概念」には未だ到達していないと考えるべきであるが、冪を意味する英単語 \"power\" はギリシアの数学者エウクレイデス(ユークリッド)が直線の平方を表すのに用いた語に起源がある。また、「原論」において指数法則 a × a = a に相当する命題に言及しているが、この時代には算式は発明されておらず、すべて言葉で表現していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "アルキメデスは 10 の冪を扱うために必要となる指数法則 10 • 10 = 10 を発見し、証明した。9世紀に、ペルシアの数学者アル゠フワーリズミは平方を mal, 立方を kab で表した。これを後に中世イスラムの数学者がそれぞれ m, k で表す記法として用いていることが、15世紀ごろのアル゠カラサディ(英語版)の仕事に見ることができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "16世紀後半、ヨスト・ビュルギは冪指数をローマ数字を用いて表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "17世紀初頭、今日用いられる現代的な冪記法の最初の形は、ルネ・デカルトが著書 La Géométrie の一巻において導入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "アイザック・ニュートンなど一部の数学者は冪指数は 2 乗よりも大きな冪に対してだけ用い、平方は反復積として書き表した。例えば、多項式を ax + bxx + cx + d のように書いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "15世紀にニコラ・ショケ(英語版)は冪記法の一種を用い、それは後の16世紀にハインリヒ・シュライベル(英語版)およびミハエル・スティーフェル(英語版)が用いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "16世紀にロバート・レコードは、square(二次), cube(三次), zenzizenzic(四次), sursolid(五次), zenzicube(六次), second sursolid(七次), zenzizenzizenzic(八次(英語版))の語を用いた。4 乗については biquadrate(複二次)の語も用いられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "歴史的には \"involution\" が冪の同義語として用いられていたが現在では稀であり、別の意味(対合)で用いられているので混同すべきではない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "冪指数を意味する用語として、英語ではしばしば exponent と index が同義語として用いられる。この用語選定は18世紀、19世紀を通じて極めて曖昧で個人の嗜好に委ねられていた。しかし、ガウスは、その著書 Disquisitiones Arithmeticae において通常の冪指数と数論的な指数を峻別する必要性から exponens は通常の冪指数、index は数論的な指数を表すものとして明確に区別し使い分けて解説に使用しており、この使い分けはディリクレ、デデキント、ヒルベルトを通じて数論の世界での標準となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "もとをたどれば、1544年にミハエル・スティーフェルがラテン語: \"exponens\" を造語し、対して1586年にラザルス・シェーナーが数学者ペトルス・ラムスの書籍への補注としてラテン語: \"index\" を(スティーフェルが exponens と呼んだものと同じものを指す意味で)用いたのがそれぞれの語源と考えられる。exponent と index はこれらの英語翻訳であり、例えば index はサミュエル・ジーク(英語版)が1696年に導入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "exponent と index の微妙な使い分けと併用の時代はここから始まり、その併用のされ方は国と時代だけでなく個人によっても異なった。イギリスは当初 index が優勢であり、これは聖バーソロミューの大虐殺で殉死したラムスの著作がプロテスタント諸国で非常に人気を集めたからだとの指摘がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "『冪』の字義は「覆う、覆うもの」であって、『冖』と同音同義である。江戸時代の和算家は「冪」の略字として「巾」を用いていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後の漢字制限政策のもと、これらの字は常用漢字・当用漢字に含まれず、1950年代以降の学習参考書などの出版物では仮名書きで「べき乗」または「累乗」への書き換えが進められ、結果として初等数学の教科書ではもっぱら「累乗」が用いられた。「累乗」の字義は「重ね掛けた乗算」であり、自然数乗以外の冪に対して用いることは、字義からすればあまり自然でない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "「冪集合」、「冪級数」などの高等学校以下で扱われない多くの概念に対しては、「冪」の部分が置き換えられることはなく、例えば「べき乗集合」や「累乗集合」などといった表現はあまり生じていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "実数(または積 × {\\displaystyle \\times } の定義された群、より一般には半群)において、元 x と自然数 n に対して x を", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "で定義する(厳密には再帰的に定義する)。 上付きの n が書けない場合には、 x^n という表記を用いることが多い。 これを x の n 乗または x の n 乗冪と呼び、n を問題にしないときは x の累乗や x の冪という。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "この操作を「x の n 乗を取る」などといい、特に n を固定して x を入力とする関数(特に実数 x の函数)と見るときは、冪関数という。 x の 2乗、3乗は特に、それぞれ x の平方 (へいほう、 英: square)、立方 (りっぽう、 英: cube) と呼ばれ、2乗を特に自乗という場合もある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "冪 x において、x を底(てい、英: base、 基数)と呼び、n を冪数、冪指数または単に指数(しすう、 英: exponent) と呼ぶ。必ずしも冪指数とは限らない添字 n をその基準となる文字 x の右肩に乗せる添字記法を指数表記・冪記法などとよぶ場合もある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "厳密には、x の n 乗冪は", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "によって再帰的に定義される。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "帰納的定義を見れば下のように拡張するのが自然である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "有理数の範囲で2の累乗数を例に取ると:", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ただし、底が 0 の場合は「0 で割れない」などの理由から定義しないか、または 0 については 1 と定義するのが一般的である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "自然数 m に対し、x の m 乗根すなわち m 乗して x になるような数 y がただ一つあるならば、その y を x とし、自然数または整数 n に対し", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "と定めることによって、x を底とする冪乗の指数を有理数の範囲まで拡張することができる。 このとき、指数法則と呼ばれる下の関係式が成り立つ。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ここで、r と s は、冪が定義できる範囲の有理数である。つまり、x が逆元をもたないなら自然数、逆元はもつが冪根をもたないなら整数、m 乗根をもつが逆元をもたないならば m を分母とする正の有理数、逆元も m 乗根ももつならば m を分母とする有理数である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "x が正の実数ならば、上で制限されていた指数への条件は外れる。 正数ならば任意の自然数 m に対する正の m 乗根 x m {\\displaystyle {\\sqrt[{m}]{x}}} がただ一つ存在するので、正の有理数 n m {\\displaystyle {\\frac {n}{m}}} に対し", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "と定めることができる。さらに、x が 0 でなければ逆元が存在するので、指数は有理数全体まで拡張される。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "x (>0) の冪は、その指数に関して極限を取ることによって実数上の関数に拡張され、連続関数になる。連続な拡張は一意であり、これを x を底とする指数関数と呼ぶ。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "複素数 z に対して、函数 exp を級数", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "で定義する。この級数は任意の複素数 z に対して収束する。特に exp(1) ≕ e は自然対数の底に等しく、任意の実数 x に対して exp(x) = e(右辺は実数 e の実数 x 乗の意)である(したがって任意の複素数に対して e ≔ exp(z) とも書かれる)。z ≔ x + iy (x, y は実数)と表すと、", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "が成り立つ(cis は純虚指数函数)。特に e = cos(y) + i⋅sin(y) はオイラーの公式と呼ばれる関係式である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "さらに、この関数の「逆関数」を log と書けば、一般の複素数 w ≠ 0 に対して", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "と定義される。log が多価関数なので、一般には値が 1 つには定まらない。ただし、w = e の場合には、上の冪級数で定義したほうの意味で用いるのが普通である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "以下の一覧表において多重定義の虞を除くため、底は非零実数であるような冪のみを考える。ただし、正の冪のみを考えるならば、底が 0 でも各法則は成り立つ。また以下の一覧において、有理数について分母が奇数あるいは偶数であるというときは、常にその有理数の既約分数表示における分母のことを言っているものとする。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "例えば、((−1)) = 1 および (−1) = −1 であるから、a < 0 に対して √a = (a) = −a = −a, したがって任意の実数 a に対して √a = |a| が成り立つ。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "正の実数に対する冪および対数に関する等式のいくつかは、複素数冪や複素対数がどのように一価函数として定義されようとも、複素数に対しては成り立たないことが起こる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "は反例になる。複素対数のどの枝を用いたかに関わらず、この等式には同様の反例が存在する。(この結果のみを使うものとすれば)", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "であるとまでしか言えない。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "この等式は log を多価函数と考えるときでさえ成り立たない。log(w) の取り得る値は z⋅log(w) の取り得る値を部分集合として含む。log(w) の主値を Log(w) とし、m, n を任意の整数とすると、両辺の取り得る値は", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "および", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "が反例として示される。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "他方、x が整数のときには任意の非零複素数に対して成り立つ。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "という不合理が生じる。この推論にはいくつも問題がある:", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "冪演算は任意のモノイドにおいて定義できる。モノイドは単位元を持つ半群、すなわち適当な集合 X を台として合成あるいは乗法と呼ばれる二項演算が定義される代数系であって、その乗法が結合法則を満足し、かつ乗法単位元 1X を持つものを言う。モノイドにおける自然数冪は", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "として帰納的に定義することができる(先の式の右辺(の 1)は X の単位元、後の式の左辺の 1 は自然数の 1 で、当然だがこれらは互いに別のものである)。特に先の式(零乗すること)は「単位元を持つ」ことによって初めて意味を成す規約であることに注意すべきである(空積も参照のこと)。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "モノイドの例には群や環(の乗法モノイド)のような数学的に重要な多くの構造が含まれ、またより特定の例として行列環や体の場合について後述する。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "正方行列 A に対して A 自身の n 個の積を行列の冪と呼ぶ。また A は単位行列に等しいものと定義され、さらに A が可逆ならば A ≔ (A) と定義する。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "行列の冪は離散力学系(英語版)の文脈でしばしば現れる。そこでは行列 A は適当な系の状態ベクトル x を次の状態 Ax へ遷移させることを表す。これは例えばマルコフ連鎖の標準的な解釈である。これにより、Ax は二段階後の系の状態であり、以下同様に Ax は n 段階後の系の状態と理解される。つまり行列の冪 A は現在と n 段階後の状態の間の遷移行列であって、行列の冪を計算することはこの力学系の発展を解くことに等しい。便宜上、多くの場合において行列の冪は固有値と固有ベクトルを用いて計算することができる。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "行列を離れてより一般の線型作用素にも冪演算は定められる。例えば微分積分学における微分演算 d / dx は函数 f に作用して別の函数 df / dx = f' を与える線型作用素であり、この作用素の n-乗は n-階微分", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "である。これは線型作用素の離散的な冪の例であるが、作用素の連続的な冪が定義できたほうがよい場面が多く存在する。C0-半群の数学的理論はこのような事情を出発点としている。離散冪指数に対する行列の冪の計算が離散力学系を解くことであったのと同様に、連続冪指数に対する作用素の冪の計算は連続力学系を解くことに等しい。そういった例として熱方程式、シュレーディンガー方程式、波動方程式あるいはもっとほかの時間発展を含む偏微分方程式を挙げることができる。このような冪演算の特別の場合として、微分演算の非整数乗は分数階微分と呼ばれ、分数階積分とともに、分数階微分積分学の基本演算の一つとなっている。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "体は、四則演算が矛盾なく定義されそれらの馴染み深い性質が満足されるような代数的構造である。例えば実数全体は体を成す。複素数の全体、有理数の全体などもそうである。これら馴染み深い例が全て無限集合であるのと異なり、有限個の元しか持たない体も存在する。そのもっとも簡単な例が二元体 F2 = {0,1} で、加法は 0 + 1 = 1 + 0 = 1, 0 + 0 = 1 + 1 = 0 および乗法は 0 • 0 = 1 • 0 = 0 • 1 = 0, 1 • 1 = 1 で与えられる。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "有限体における冪演算は公開鍵暗号に応用を持つ。例えばディフィー・ヘルマン鍵交換は、有限体における冪は計算量的にコストが掛からないのに対し、冪の逆である離散対数は計算量的にコストが掛かるという事実を用いている。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "任意の有限体 F は、素数 p がただ一つ存在して、任意の x ∈ F に対して px = 0 が成り立つ(x を p 個加えれば零になる)という性質を持つ。例えば二元体 F2 では p = 2 である。この素数 p はその体の標数と呼ばれる。F を標数 p の体として F の各元を p-乗する写像 f(x) = x を考える。これは F のフロベニュース自己準同型と呼ばれる。新入生の夢(英語版)(幼稚な二項定理)とも呼ばれる等式 (x + y) = x + y がこの体においては成り立つため、フロベニュース自己準同型が実際に体の自己準同型を与えるものであることが確認できる。フロベニュース自己準同型は F の素体上のガロワ群の生成元であるため数論において重要である。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "冪指数が整数であるような冪演算は抽象代数学における極めて一般の構造に対して定義することができる。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "集合 X は乗法的に書かれた冪結合的(英語版)二項演算を持つもの:", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "とするとき、任意の x ∈ X と任意の自然数 n に対して冪 x は、x の n 個のコピーの積を表すものとして", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "のように帰納的に定義される。これは以下のような性質", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "を満足する。さらに、考えている演算が両側単位元 1 を持つ:", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ならば x は任意の x に対して 1 に等しいものと定義する。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "さらにまた演算が両側逆元を持ち、なおかつ結合的", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ならばマグマ X は群を成す。このとき x の逆元を x と書けば、冪演算に関する通常の規則", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "はすべて満足される。また(例えばアーベル群のように)乗法演算が可換ならば", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "も満足される。(アーベル群が通常そうであるように)二項演算を加法的に書くならば、「冪演算は累乗(反復乗法)である」という主張は「乗法は累加(反復加法)である」という主張に引き写され、各指数法則は対応する乗法法則に引き写される。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "一つの集合上に複数の冪結合的に項演算が定義されるときには、各演算に関して反復による冪演算を考えることができるから、どれに関する冪かを明示するために上付き添字に反復したい演算を表す記号を併置する方法がよく用いられる。つまり演算 ∗ および # が定義されるとき、x と書けば x ∗ ⋯ ∗ x を意味し、x と書けば x # ⋯ # x を意味するという具合である。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "上付き添字記法は、特に群論において、共軛変換を表すのにも用いられる(即ち、g, h を適当な群の元として g = hgh)。この共軛変換は指数法則と同様の性質を一部満足するけれども、これはいかなる意味においても反復乗法としての冪演算の例ではない。カンドルはこれら共軛変換の性質が中心的な役割を果たす代数的構造である。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "自然数 n と任意の集合 A に対して、式 A はしばしば A の元からなる順序 n-組全体の成す集合を表すのに用いられる。これは A は集合 {0, 1, 2, ..., n−1} から集合 A への写像全体の成す集合であると言っても同じことである(n-組 (a0, a1, a2, ..., an−1) は i を ai へ送る写像を表す)。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "無限基数 κ と集合 A に対しても、記号 A は濃度 κ の集合から A への写像全体の成す集合を表すのに用いられる。基数の冪との区別のために A と書くこともある。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "一般化された冪は、複数の集合上で定義される演算や追加の構造を持つ集合に対しても定義することができる。例えば、線型代数学において勝手な添字集合上でのベクトル空間の直和を考えることができる。つまり Vi をベクトル空間として", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "を考えるとき、任意の i について Vi = V とすれば得られる直和を冪記法を用いて V あるいは直和の意味であることが明らかならば単に V のように書くことができる。ここで再び集合 N を基数 n で取り替えれば V を得る(濃度 n を持つ特定の標準的な集合を選ぶことなしに、これは同型を除いてのみ定義される)。V として実数体 R を(それ自身の上のベクトル空間と見て)とれば、n を適当な自然数として線型代数学でもっともよく調べられる実ベクトル空間 R を得る。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "冪演算の底を集合とするとき、何も断りがなければ冪演算はデカルト積である。複数の集合のデカルト積は n-組を与え、n-組は適当な濃度を持つ集合上で定義された写像として表すことができるのだから、この場合冪 S は単に N から S への写像全体の成す集合", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "である。この定義は |S| = |S| が満たされるという意味で基数の冪と整合する。ただし |X| は X の濃度を表す。\"2\" を集合 {0, 1} として定義すれば |2| = 2 が得られる。ここに 2 は X の冪集合であり、普通は P(X) などで表される。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "デカルト閉圏において、任意の対象に対して別の任意の対象を冪指数とする冪演算を冪対象によって与えることができる。集合の圏における冪対象は配置集合であるから、これはその一般化になっている。考えている圏に始対象 0 が存在するならば、冪対象 0 は任意の終対象 1 に同型である。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "集合論では基数や順序数の冪演算も定義される。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "基数 κ, λ に対して冪 κ は基数 λ の任意の集合から基数 κ の任意の集合への写像全体の成す集合の基数を表す。κ, λ がともに有限ならばこれは通常の算術的な(つまり自然数の)冪演算と一致する(たとえば、二元集合から元を取って得られる三つ組全体の成す集合の基数は 8 = 2 で与えられる)。基数の算術において κ は常に(特に κ が無限基数や 0 であるときでさえ)1 である。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "基数の冪は順序数の冪とは異なる。後者は超限帰納法を含む過程の極限として定義される。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "自然数冪が乗法の反復として考えられたことと同様に、冪演算を繰り返す演算というものを定義することもできる。それをまた反復すれば別の演算が定義され、同様に繰り返してハイパー演算の概念を得る。このようにして得られるハイパー演算の列において、次の演算は前の演算に対して急速に増大する。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "写像の冪乗となるべきものとして、写像を表す符牒の直後に整数の上付き添字を添えたとき、それは(反復乗法ではなくて)反復合成冪の意味で用いることがよく行われる。つまり例えば f(x) は f(f(f(x))) の意味であり、また特に f(x) は f の逆写像を意味するのが普通である。反復合成写像はフラクタルや力学系の研究において興味を持たれる。チャールズ・バベッジは写像の平方根 f(x) を求める問題を研究した最初の人であった。", "title": "写像の冪の記法に関する注意" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "しかし歴史的経緯により、三角函数の場合には、函数の略号に正の冪指数を添えたときは函数の値に対して冪を取ることを意味する一方で、−1 を冪指数としたときは逆函数を意味するという特別な文法が適用される。つまり、 sin x は (sin x) を括弧を用いずに略記する方法に過ぎない一方、sin x は逆正弦函数 arcsin x を意味するのである。三角函数の逆数函数は(例えば 1/(sin x) = (sin x) = csc x のように)それぞれ固有の名前と略号が与えられているから、三角函数の逆数の略記法は無用である。同様の規約は対数函数にも適用され、log x はふつう (log x) の意味であって log log x の意味でない。", "title": "写像の冪の記法に関する注意" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "添字付けられた変数を考えるとき、その変数の添字を上付きにする場合があり、それはあたかも冪であるかのような印象を受けるかもしれないが混同するべきではない。これは特にテンソル解析においてベクトル場の座標表示などで現れる。あるいはまた数列の列のような、既にそれ自身添字付けられているような量に対してさらに添字付けを行う場合にもしばしば用いられる。", "title": "写像の冪の記法に関する注意" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "函数 f の n-階導函数はふつう f と書かれるように、冪記法は冪指数を括弧で囲んで書くこともある。", "title": "写像の冪の記法に関する注意" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "コンピュータ上で指数を自然数とする冪乗(累乗)を効率よく行う演算方法としてバイナリ法(二進数法; en:exponentiation by squaring) とも呼ばれる演算方法を示す。", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "RSA暗号や確率的素数判定法であるフェルマーテストなどでは、巨大な自然数を指数とする累乗を行う。この方法を使うと、指数がいかに巨大であっても高々そのビット数の2倍の回数の乗算で算出することが可能になり、繰り返し掛けるよりも大幅に効率がよくなる。特にRSA暗号やフェルマーテストなどにおいて各演算後に必要となる剰余演算(一般に最も計算時間がかかる)の回数を減らす効果がある。", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "一般に、コンピュータにとって標準的な(32ビットコンピュータならば約4億までの)自然数や浮動小数点数を底とする場合は下位桁から計算する方式を、前述のような巨大な自然数を底とする場合には上位桁から計算する方式を用いると効率が良い。", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "バイナリ法では、次の性質を利用する。", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "例えば (a) = a である。したがって、a(すなわち a)から始めて2乗を繰り返すと次行のとおりになる。", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "これらの数のうち、適切なものを選んで掛け合わせれば、任意の累乗を速く(すなわち少ない乗算回数で)計算することができる。例えば a は、指数法則によって、", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "として計算することができる。乗算回数は 8 回で済むので、a を 42 回繰り返し掛け合わせるのに比べて効率が良い。(下図で「→」は乗算を表し、「⇒」は2乗を表す。)", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "コンピュータのアルゴリズムとして書くとこうなる。", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "整数の内部表現が二進法であるコンピュータなら、4. では除算の代わりにシフト演算を用いることができる。", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "この方式は a が浮動小数点数である場合や、最終結果がレジスタに収まることがわかっている場合に効率が良い。また乗算にモンゴメリ乗算などを用いて冪剰余を計算する場合も、この方式で充分な効率が得られる。", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "上の方式と同様に、次の性質を使う。", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "これに性質 a x + 1 = a x ⋅ a {\\displaystyle a^{x+1}=a^{x}\\cdot a} を組み合わせると、次の関係が成り立つ。", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "指数が偶数か奇数かによってこれら二つの式を使い分け、指数を順次約1/2にしていくことができる。例えば a 43 {\\displaystyle a^{43}} は、", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "である。そして a 21 {\\displaystyle a^{21}} も同様に、", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "である。 a 10 {\\displaystyle a^{10}} はこうなる。", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "以下同様に、こうなる。", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "これを逆順にたどり、", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "として算出できる。(下図で「→」は乗算を表し、「⇒」は2乗を表す。)", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "2乗した後に a を乗算するか否かは、指数 n を二進表記したときの各ビットが1であるか否かと一致する。", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "コンピュータのアルゴリズムとして書くとこうなる。", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "この方式では、4. における乗数が常に a なので、下位桁から計算する方式に比べて乗数の桁数が小さくなり、計算時間がかからない。これは特に、レジスタに入りきらないような巨大な自然数を扱う場合に顕著となる。ただし(RSA暗号のように)冪乗の剰余を計算する場合であって法の大きさが a と同程度ならば、この効果はない。", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "また 4. における乗数が常に a なので、あらかじめ a が定数(2 や 10 など、またはディフィー・ヘルマン鍵共有の生成元 g など)であることがわかっている場合には、4. の乗算を最適化をすることができる。", "title": "効率的な演算法" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "巨大な自然数の汎用的な冪算ルーチン(a が小さい可能性が高い)や、a が小さかったり定数であることがわかっている場合、冪乗の剰余を計算する場合であってモンゴメリー演算を用いず別途剰余を計算する場合、数を保持するコストが高い場合など、指数を二進表記するコスト以上の効率が得られる場合に選択される。", "title": "効率的な演算法" } ]
数学における冪乗または冪演算(べきえんざん)は、底 および冪指数 と呼ばれる二つの数に対して定まる数学的算法である。その結果は冪 と呼ばれる。自然数 n を冪指数とする冪演算は累乗 に一致する。
{{redirect|冪|この漢字の意味|wikt:冪}} {{Calculation results}}{{上付き文字}} [[数学]]における'''冪乗'''(べきじょう、べき乗、[[英語|英]]: [[フランス語|仏]]: [[ドイツ語|独]]: exponentiation)または'''冪演算'''(べきえんざん)は、'''底''' (てい、{{lang-en-short|base}}) および'''冪指数''' (べきしすう、{{lang-en-short|exponent}}) と呼ばれる二つの[[数]]に対して定まる[[数学]]的[[算法]]である。その結果は'''冪''' (べき、{{lang-en-short|power}}) と呼ばれる。<!--[[自然数]] {{mvar|n}} を冪指数とする冪演算は'''累[[乗法|乗]]''' (るいじょう、{{lang-en-short|repeated multiplication}}) に一致する。-->表現の揺れにより同じ概念は日本語で「累乗」とも表現されており、初等教育ではこちらの表現のほうが多くなっている(本文参照)。 ==概要== {{仮リンク|冪の底|en|Base (exponentiation)|label=底}} {{mvar|b}} および冪指数 {{mvar|e}} をもつ冪は、底の[[上付き文字|右肩]]に冪指数を乗せて {{mvar|b{{exp|e}}}} のように書かれる。<!--{{mvar|n}} が[[自然数]](正の整数)のとき、自然数乗 {{mvar|b{{exp|n}}}} は底の累乗{{efn|「累」=重ねる、「乗」=掛ける。}}--> : <math>b^n = \underbrace{b \times \cdots \times b}_{n\text{ 個}}</math> であり、{{mvar|b{{exp|n}}}} は {{mvar|b}} の {{mvar|n}}-乗や、{{mvar|n}}-次の {{mvar|b}}-冪などと呼ばれる。 特定の冪指数に対して、固有の名前が付けられている。例えば、冪指数が {{math|2}} である冪(2 乗) {{math|''b''{{exp|2}}}} は「{{mvar|b}} の'''[[平方数|平方]]''' (square of {{mvar|b}})」または「{{mvar|b}}-[[自乗]] ({{mvar|b}}-squared)」と呼ばれ、冪指数が {{math|3}} である冪(3 乗) {{math|''b''{{exp|3}}}} は「{{mvar|b}} の'''[[立方数|立方]]''' (cube of {{mvar|b}}, {{mvar|b}}-cubed)」と呼ばれる。それ以降は 4 乗、5 乗、… というように「{{mvar|n}} 乗」という言い方が一般的である。 冪指数が {{math|−1}} である冪 {{math|''b''{{exp|&minus;1}}}} は {{math|1/''b''}} であり、「{{mvar|b}} の[[逆数]]」(または[[乗法逆元]])と呼ばれる。一般に冪指数が負の整数 {{mvar|n}} である冪 {{mvar|b{{exp|n}}}} は、{{math|1=''b''<sup>''n''</sup> × ''b''<sup>''m''</sup> = ''b''<sup>''n'' + ''m''</sup>}} という性質を保つように、底 {{mvar|b}} が 0 でないとき {{math|''b''{{exp|''n''}} :{{=}} 1/''b''{{exp|−''n''}}}} と定義される。 冪乗は、任意の[[実数]]または[[複素数]]を冪指数とするように定義を拡張することができる。底および冪指数が実数である冪において、底を固定して冪指数を変数と見なせば[[指数函数]]であり、冪指数を固定して底を変数と見なせば[[冪函数]]である。整数乗の冪に限れば、[[行列]]などを含めた多種多様な代数的対象に対してもそれを底とする冪を定義することができる。冪指数まで同種の対象に拡張すると、その上で定義された自然指数函数と[[自然対数]]函数をもつ[[バナッハ環|完備ノルム環]](例えば実数全体 {{mathbf|R}} や複素数全体 {{mathbf|C}} など)を想定するのが自然である。 == 歴史 == 歴史上に冪が現れたのは非常に古く、B.C.16世紀ごろに作成された粘土板には平方数表、平方根表、立方根表や三平方の定理について書かれており{{sfn|鈴木|2013|p=319|loc=(PDF p. 5)}}、エジプト、インド、ギリシアなどでも冪の概念は明示されている。一方で、指数法則に言明する文献は見当たらず「指数概念」には未だ到達していないと考えるべきであるが、冪を意味する英単語 "power" は[[ギリシア数学|ギリシアの数学者]][[エウクレイデス]](ユークリッド)が直線の平方を表すのに用いた語に起源がある<ref name="MacTutor" />。また、「[[ユークリッド原論|原論]]」において指数法則 {{math|''a''<sup>''m''</sup> × ''a''<sup>''n''</sup> {{=}} ''a''<sup>''m''+''n''</sup>}} に相当する命題に言及している{{sfn|鈴木|2013|p=319|loc=(PDF p. 5)}}が、この時代には算式は発明されておらず、すべて言葉で表現していた{{sfn|鈴木|2013|p=319|loc=(PDF p. 5)}}。 === 記法 === [[アルキメデス]]は {{math|10}} の冪を扱うために必要となる指数法則 {{math|10{{exp|''a''}}{{*}}10{{exp|''b''}} {{=}} 10{{exp|''a''+''b''}}}} を発見し、証明した{{efn|For further analysis see [[The Sand Reckoner]].}}。9世紀に、ペルシアの数学者[[フワーリズミー|アル゠フワーリズミ]]は平方を {{mvar|mal}}, 立方を {{mvar|kab}} で表した。これを後に[[アラビア数学|中世イスラム]]の数学者がそれぞれ {{mvar|m, k}} で表す記法として用いていることが、15世紀ごろの{{仮リンク|アル゠カラサディ|en|Abū al-Hasan ibn Alī al-Qalasādī}}の仕事に見ることができる<ref>{{MacTutor|id=Al-Qalasadi|title= Abu'l Hasan ibn Ali al Qalasadi}}</ref>。 16世紀後半、[[ヨスト・ビュルギ]]は冪指数をローマ数字を用いて表した<ref>Cajori, Florian (2007). A History of Mathematical Notations, Vol I. Cosimo Classics. Pg 344. ISBN 1602066841</ref>。 17世紀初頭、今日用いられる現代的な冪記法の最初の形は、[[ルネ・デカルト]]が著書 ''La Géométrie'' の一巻において導入した<ref name="Descartes">René Descartes, ''Discourse de la Méthode'' ... (Leiden, (Netherlands): Jan Maire, 1637), appended book: ''La Géométrie'', book one, [http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b86069594/f383.image page 299.] From page 299: ''" ... Et ''aa'', ou ''a''<sup>2</sup>, pour multiplier ''a'' par soy mesme; Et ''a''<sup>3</sup>, pour le multiplier encore une fois par ''a'', & ainsi a l'infini ; ... "'' ( ... and ''aa'', or ''a''<sup>2</sup>, in order to multiply ''a'' by itself; and ''a''<sup>3</sup>, in order to multiply it once more by ''a'', and thus to infinity ; ... )</ref>。 [[アイザック・ニュートン]]など一部の数学者は冪指数は 2 乗よりも大きな冪に対してだけ用い、平方は反復積として書き表した。例えば、多項式を {{math|''ax'' + ''bxx'' + ''cx''<sup>3</sup> + ''d''}} のように書いた。 === 用語 === 15世紀に{{仮リンク|ニコラ・ショケ|en|Nicolas Chuquet}}は冪記法の一種を用い、それは後の16世紀に{{仮リンク|ハインリヒ・シュライベル|en|Henricus Grammateus}}および{{仮リンク|ミハエル・スティーフェル|en|Michael Stifel}}が用いている。 16世紀に[[ロバート・レコード]]は、square(二次), cube(三次), zenzizenzic([[二重平方数|四次]]), sursolid(五次), zenzicube(六次), second sursolid(七次), zenzizenzizenzic({{仮リンク|八乗|en|zenzizenzizenzic|label=八次}})の語を用いた<ref>{{Cite web|url=http://www.worldwidewords.org/weirdwords/ww-zen1.htm|title=Zenzizenzizenzic - the eighth power of a number|publisher=World Wide Words|first=Michael|last=Quinion|accessdate=2010-03-19}}</ref>。4 乗については biquadrate(複二次)の語も用いられた。 歴史的には "involution" が冪の同義語として用いられていた<ref>This definition of "involution" appears in the OED second edition, 1989, and Merriam-Webster online dictionary [http://www.m-w.com/dictionary/involution]. The most recent usage in this sense cited by the OED is from 1806.</ref>が現在では稀であり、別の意味([[対合]])で用いられているので混同すべきではない。 ==== 冪指数 ==== 冪の肩に書かれる数のことを冪指数と呼ぶ<ref>小学館デジタル大辞泉「冪指数」[https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%86%AA%E6%8C%87%E6%95%B0/#:~:text=%E3%81%B9%E3%81%8D%E2%80%90%E3%81%97%E3%81%99%E3%81%86%E3%80%90%C3%97%E5%86%AA%E6%8C%87%E6%95%B0%E3%80%91&text=%E5%86%AA%E3%81%AE%E8%82%A9%E3%81%AB%E6%9B%B8,%E7%B4%AF%E4%B9%97%E3%81%AE%E6%8C%87%E6%95%B0%E3%80%82]</ref>が、冪指数を意味する用語として、英語ではしばしば exponent と index が同義語として用いられる。この用語選定は18世紀、19世紀を通じて極めて曖昧で個人の嗜好に委ねられていた{{sfn|鈴木|2013|p=372|loc=(PDF p. 58)}}。しかし、[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]は、その著書 ''[[Disquisitiones Arithmeticae]]'' において通常の冪指数と[[指数 (初等整数論)|数論的な指数]]を峻別する必要性から exponens は通常の冪指数、index は数論的な指数を表すものとして明確に区別し使い分けて解説に使用しており、この使い分けはディリクレ、デデキント、ヒルベルトを通じて数論の世界での標準となった{{sfn|鈴木|2013|p=372|loc=(PDF p. 58)}}。 もとをたどれば、1544年にミハエル・スティーフェルが{{lang-la|"exponens"}} を造語し<ref>See: * [http://jeff560.tripod.com/e.html Earliest Known Uses of Some of the Words of Mathematics] * Michael Stifel, ''Arithmetica integra'' (Nuremberg ("Norimberga"), (Germany): Johannes Petreius, 1544), Liber III (Book 3), Caput III (Chapter 3): De Algorithmo numerorum Cossicorum. (On algorithms of algebra.), [https://books.google.co.jp/books?id=fndPsRv08R0C&vq=exponens&pg=RA7-PA231&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q&f=false page 236.] Stifel was trying to conveniently represent the terms of geometric progressions. He devised a cumbersome notation for doing that. On page 236, he presented the notation for the first eight terms of a geometric progression (using 1 as a base) and then he wrote: ''"Quemadmodum autem hic vides, quemlibet terminum progressionis cossicæ, suum habere exponentem in suo ordine (ut 1ze habet 1. 1ʓ habet 2 &c.) sic quilibet numerus cossicus, servat exponentem suæ denominationis implicite, qui ei serviat & utilis sit, potissimus in multiplicatione & divisione, ut paulo inferius dicam."'' (However, you see how each term of the progression has its exponent in its order (as 1ze has a 1, 1ʓ has a 2, etc.), so each number is implicitly subject to the exponent of its denomination, which [in turn] is subject to it and is useful mainly in multiplication and division, as I will mention just below.) [Note: Most of Stifel's cumbersome symbols were taken from [[Christoff Rudolff]], who in turn took them from Leonardo Fibonacci's ''Liber Abaci'' (1202), where they served as shorthand symbols for the Latin words ''res''/''radix'' (x), ''census''/''zensus'' (''x''<sup>2</sup>), and ''cubus'' (''x''<sup>3</sup>).]</ref>{{sfn|鈴木|2013|p=337|loc=(PDF p. 23)}}、対して1586年にラザルス・シェーナーが数学者ペトルス・ラムスの書籍への補注として{{lang-la|"index"}} を(スティーフェルが exponens と呼んだものと同じものを指す意味で)用いた{{sfn|鈴木|2013|p=348|loc=(PDF p. 34)}}のがそれぞれの語源と考えられる。exponent と index はこれらの英語翻訳であり、例えば index は{{仮リンク|サミュエル・ジーク|en|Samuel Jeake}}が1696年に導入した<ref name="MacTutor">{{MacTutor|class=Miscellaneous|id=Mathematical_notation|title=Etymology of some common mathematical terms}}</ref>。 exponent と index の微妙な使い分けと併用の時代はここから始まり、その併用のされ方は国と時代だけでなく個人によっても異なった。イギリスは当初 index が優勢であり、これは聖バーソロミューの大虐殺で殉死したラムスの著作がプロテスタント諸国で非常に人気を集めたからだとの指摘がある{{sfn|鈴木|2013|p=350|loc=(PDF p. 36)}}。 === 日本語「冪」 === {{wikt|冪}} 『冪』の字義は「覆う、覆うもの」であって、『[[冖部|冖]]』と同音同義である。[[江戸時代]]の[[和算]]家は「冪」の略字として「巾」を用いていた<ref>{{Cite book |和書 |title=「算木」を超えた男 |author=王青翔 |isbn=4-88595-226-3 |publisher=東洋書店 |place=東京 |year=1999}}</ref>。 第二次世界大戦後の漢字制限政策のもと、これらの字は[[常用漢字]]・[[当用漢字]]に含まれず、[[1950年代]]以降の学習参考書などの出版物では[[仮名 (文字)|仮名]]書きで「'''べき乗'''」または「累乗」への書き換えが進められ、結果として[[算数|初等数学]]の教科書ではもっぱら「累乗」が用いられた。<!--「累乗」の字義は「重ね掛けた乗算」であり、自然数乗以外の冪に対して用いることは、字義からすればあまり自然でない。--><!--要出典。自然数のものに「累乗」それ以外は「冪」と誘導するのは独自研究。--> 「[[冪集合]]」、「[[冪級数]]」などの高等学校以下で扱われない多くの概念に対しては、「冪」の部分が置き換えられることはなく、例えば「べき乗集合」や「累乗集合」などといった表現はあまり生じていない。 == 定義 == === 自然数乗冪 === [[実数]](または積 <math>\times</math> の定義された[[群 (数学)|群]]、より一般には[[半群]])において、元 {{mvar|''x''}} と[[自然数]] {{mvar|''n''}} に対して {{math|''x''<sup>''n''</sup>}} を :<math>x^n = \underbrace{x \times \cdots \times x}_{n\ \text{個}}</math> で定義する(厳密には再帰的に定義する)。 [[上付き文字|上付き]]の {{mvar|''n''}} が書けない場合には、''' ''x''^''n'' '''という表記を用いることが多い。 <!--これを''' ''x'' の ''n'' 乗'''または''' ''x'' の ''n'' 乗冪'''と呼び、''n'' を問題にしないときは''' ''x'' の累乗'''や''' ''x'' の冪'''という。--><!--「累乗」という表現が自然数乗冪「のみ」に限るとするのは独自研究--> この操作を「''x'' の ''n'' 乗を取る」などといい、特に ''n'' を固定して ''x'' を入力とする関数(特に実数 {{mvar|x}} の函数)と見るときは、[[冪関数]]という。 ''x'' の 2乗、3乗は特に、それぞれ ''x'' の'''平方''' (へいほう、 {{lang-en-short|''square''}})、'''立方''' (りっぽう、 {{lang-en-short|''cube''}}) と呼ばれ、2乗を特に'''自乗'''という場合もある。 冪 ''x''<sup>''n''</sup> において、''x'' を'''底'''(てい、{{lang-en-short|''base''}}、 '''基数''')と呼び、''n'' を'''冪数'''、'''冪指数'''または単に'''指数'''(しすう、 {{lang-en-short|''exponent''}}) と呼ぶ{{efn|単に「指数」と呼ぶ場合、"exponent" に限らず、(数学に限っても)種々の index を意味する場合も多く、文脈に注意を要する(たとえば[[部分群の指数]])。また、(必ずしも冪指数のことでない)"exponent" の訳として冪数が用いられることもある(たとえば[[群の冪数]])。}}。必ずしも冪指数とは限らない添字 ''n'' をその基準となる文字 ''x'' の右肩に乗せる[[添字記法]]を指数表記・冪記法などとよぶ場合もある。 厳密には、''x'' の ''n'' 乗冪は # ''x''<sup>1</sup> = ''x'', # ''x''<sup>''n''+1</sup> = ''x''<sup>''n''</sup> × ''x'' &nbsp; (''n'' ≥ 1) によって再帰的に定義される。 === 負の整数乗冪 === 帰納的定義を見れば下のように拡張するのが自然である。 有理数の範囲で[[2の冪]]を例に取ると: *2{{sup|4}} = [[16]] *2{{sup|3}} = [[8]] *2{{sup|2}} = [[4]] *2{{sup|1}} = [[2]] *2{{sup|0}} = [[1]] *2{{sup|&minus;1}} = [[1/2|{{sfrac|1|2}}]] *2{{sup|&minus;2}} = [[1/4|{{sfrac|1|4}}]] *2{{sup|&minus;3}} = [[1/8|{{sfrac|1|8}}]] *2{{sup|&minus;4}} = [[1/16|{{sfrac|1|16}}]] ただし、底が 0 の場合は「0 で割れない」などの理由から定義しないか、または 0{{sup|0}} については 1 と定義するのが一般的である。 {{Main|0の0乗}} === 有理数乗冪 === {{main|冪根}} 自然数 ''m'' に対し、''x'' の ''m'' [[冪根|乗根]]すなわち ''m'' 乗して ''x'' になるような数 ''y'' がただ一つあるならば、その ''y'' を ''x''<sup>1/''m''</sup> とし、自然数または整数 ''n'' に対し : ''x''<sup>''n''/''m''</sup> = (''x''<sup>1/''m''</sup>)<sup>''n''</sup> と定めることによって、''x'' を底とする冪乗の指数を[[有理数]]の範囲まで拡張することができる。 このとき、'''指数法則'''と呼ばれる下の関係式が成り立つ。 * ''x''<sup>''r''+''s''</sup> = ''x''<sup>''r''</sup> × ''x''<sup>''s''</sup> * ''x''<sup>''r''×''s''</sup> = (''x''<sup>''r''</sup>)<sup>''s''</sup> ここで、''r'' と ''s'' は、冪が定義できる範囲の有理数である。つまり、''x'' が逆元をもたないなら自然数、逆元はもつが冪根をもたないなら整数、''m'' 乗根をもつが逆元をもたないならば ''m'' を分母とする正の有理数、逆元も ''m'' 乗根ももつならば ''m'' を分母とする有理数である。 === 実数乗冪 === {{main|指数関数}} ''x'' が正の実数ならば、上で制限されていた指数への条件は外れる。 正数ならば任意の自然数 ''m'' に対する正の ''m'' 乗根 <math>\sqrt[m]{x}</math> がただ一つ存在するので、正の有理数 <math>\frac{n}{m}</math> に対し :<math>x^{\frac{n}{m}} = \bigl(\sqrt[m]{x}\bigr)^n = \sqrt[m]{x^n}</math> と定めることができる。さらに、''x'' が 0 でなければ逆元が存在するので、指数は有理数全体まで拡張される。 ''x'' (>0) の冪は、その指数に関して[[極限]]を取ることによって実数上の関数に拡張され、連続関数になる。連続な拡張は一意であり、これを ''x'' を底とする[[指数関数]]と呼ぶ。 === 複素数乗冪 === {{main|複素指数函数|複素対数函数}} 複素数 {{mvar|z}} に対して、函数 {{math|exp}} を級数 :<math>\exp(z):=\textstyle\sum\limits_{n=0}^\infty \dfrac{z^n}{n!}</math> で定義する。この級数は任意の複素数 {{mvar|z}} に対して収束する。特に {{math|exp(1) {{eqqcolon}} ''e''}} は[[ネイピア数|自然対数の底]]に等しく、任意の実数 {{mvar|x}} に対して {{math|1=exp(''x'') = ''e{{sup|x}}''}}(右辺は実数 {{mvar|e}} の実数 {{mvar|x}} 乗の意)である(したがって任意の複素数に対して {{math|''e{{sup|z}}'' {{coloneqq}} exp(''z'')}} とも書かれる{{efn|このような実函数の複素[[解析的延長]]は一意に定まる。}})。{{math|''z'' {{coloneqq}} ''x'' + ''iy''}} ({{mvar|x, y}} は実数)と表すと、 :<math>\exp(x+iy)=e^x(\cos y+i\sin y)=\exp(x)\operatorname{cis}(y)</math> が成り立つ({{math|cis}} は[[純虚指数函数]])。特に {{math|1=''e{{sup|iy}}'' = cos(''y'') + ''i''&sdot;sin(''y'')}} は[[オイラーの公式]]と呼ばれる関係式である。 さらに、この関数の「逆関数」を {{math|[[自然対数|log]]}} と書けば、一般の複素数 ''w'' ≠ 0 に対して :<math>w^z:=e^{z\log w}</math> と定義される。{{math|log}} が[[多価関数]]なので、一般には値が 1 つには定まらない。ただし、{{math|''w'' {{=}} ''e''}} の場合には、上の冪級数で定義したほうの意味で用いるのが普通である。 == 性質 == * 冪演算は[[交換法則|可換]]でない(たとえば {{math|1=2{{exp|3}} = 8 , 3{{exp|2}} = 9 , 8≠9.}})。また[[結合法則|結合的]]でない(たとえば {{math|1=(2{{exp|3}}){{exp|2}} = 64 , 512 = 2{{exp|(3{{exp|2}})}} , 64≠512.}})。 * 括弧を用いずに {{mvar|a{{exp|b{{exp|c}}}}}} と書いたときには、これはふつう {{math|''a''{{exp|(''b''{{exp|''c''}})}}}} を意味する。すなわち冪演算は右結合的である('''これは優先順位(precedence, [[演算子の優先順位]])ではなく'''、演算子の結合性(associativity, [[:en:Operator associativity]])のことである)。 === 指数法則 === 以下の一覧表において多重定義の虞を除くため、底は非零実数であるような冪のみを考える。ただし、正の冪のみを考えるならば、底が {{math|0}} でも各法則は成り立つ。また以下の一覧において、有理数について分母が奇数あるいは偶数であるというときは、常にその有理数の既約分数表示における分母のことを言っているものとする。 {| class="wikitable" style="margin: 1ex auto;" |+ 指数法則 ! 規則 !! 条件 |- | <math>a^0 = 1</math> | {{math|''a'' &ne; 0}} は任意 |- | <math> a^{-r} = \frac{1}{a^r}</math> | * {{math|''a'' > 0}} ならば {{mvar|r}} は任意の実数 * {{math|''a'' < 0}} ならば {{mvar|r}} は分母が奇数の任意の有理数 |- | <math>a^{\frac{m}{n}} = \sqrt[n]{a^m}=(\sqrt [n] a)^m</math> | * {{math|''a'' > 0}} ならば {{mvar|n}} は任意の自然数で {{mvar|m}} は任意の整数 * {{math|''a'' < 0}} ならば {{mvar|n}} は任意の奇数で {{mvar|m}} は任意の整数 |- | <math>a^{r+s} = a^r\cdot a^s</math> | * {{math|''a'' > 0}} ならば {{mvar|r, s}} は任意の実数 * {{math|''a'' < 0}} ならば {{mvar|r, s}} は分母が奇数の任意の有理数 |- | <math>a^{r-s}=\frac{a^r}{a^s}</math> | * {{math|''a'' > 0}} ならば {{mvar|r, s}} は任意の実数 * {{math|''a'' < 0}} ならば {{mvar|r, s}} は分母が奇数の任意の有理数 |- | <math>(a\cdot b)^r = a^r\cdot b^r</math> | * {{math|''a'' {{*}} ''b'' &ne; 0}} ならば {{mvar|r}} は任意の自然数、あるいは任意の整数 * {{math|''a'' > 0, ''b'' > 0}} ならば {{mvar|r}} は任意の実数 * {{mvar|a, b}} の少なくとも一方が負ならば {{mvar|r}} は分母が奇数の任意の有理数 |- | <math>\left(\frac{a}{b}\right)^r = \frac{a^r}{b^r}</math> | * 整数 {{mvar|r}} に対して、[{{math|''r'' &ge; 0}} かつ {{math|''b'' &ne; 0}}] または [{{math|''r'' &le; 0}} かつ {{math|''a'' &ne; 0}}] のとき * {{math|''a'' > 0, ''b'' > 0}} ならば {{mvar|r}} は任意の実数 * {{mvar|a, b}} の少なくとも一方が負ならば {{mvar|r}} は分母が奇数の任意の有理数 |- | <math>(a^r)^s = a^{r\cdot s}</math> | * {{math|''a'' &ne; 0}} ならば {{mvar|r, s}} は任意の整数 * {{math|''a'' > 0}} ならば {{mvar|r, s}} は任意の実数 * {{math|''a'' < 0}} ならば {{mvar|r, s}} は分母が奇数の任意の有理数 |- | <math>(a^r)^s =- a^{r\cdot s}</math> | {{math|''a'' < 0}} かつ有理数 {{mvar|r, s}} に対して、{{mvar|r}} および {{math|''r'' {{*}} ''s''}} は分母が奇数、かつ {{math|''r'' {{*}} ''s''}} の分子が奇数のとき |} ; {{math|(''a''{{exp|''r''}}){{exp|''s''}} {{=}} &plusmn;''a''{{exp|''r''{{*}}''s''}}}} に関して :* 冪指数 {{mvar|r, s}} の少なくとも一方が無理数であるとき、あるいはこれらの双方が有理数だが {{mvar|r}} または {{math|''r'' {{*}} ''s''}} の少なくとも一方の分母が偶数となるときには、{{math|''a'' < 0}} に対する {{math|(''a''{{exp|''r''}}){{exp|''s''}}}} または {{mvar|a{{exp|r{{*}}s}}}} は定義されない。それ以外のとき、この両者は定義されて[[符号]]の違いを除いて一致する。特に両者は {{math|''a'' > 0}} ならば任意の実数 {{mvar|r, s}} に対して一致し、また {{math|''a'' &ne; 0}} ならば任意の整数 {{mvar|r, s}} に対して一致する。 :* {{math|''a'' < 0}} かつ {{mvar|r, s}} が整数でない有理数であるときには可能性は二通り考えられ、どちらになるかは {{mvar|r}} の分子と {{mvar|s}} の分母の素因数分解が関係する。式 {{math|(''a''{{exp|''r''}}){{exp|''s''}} {{=}} &plusmn;''a''{{exp|''r''{{*}}''s''}}}} の右辺の符号は何れが正しいのかを知るには {{math|''a'' {{=}} &minus;1}} のときを見れば十分である(与えられた {{math|r, s}} に対して {{math|''a'' {{=}} &minus;1}} のとき正しくなる方の符号をとれば、任意の {{math|''a'' < 0}} についても成り立つ)。 :* {{math|''a'' < 0}} に対して {{math|(''a''{{exp|''r''}}){{exp|''s''}} {{=}} &minus;''a''{{exp|''r''{{*}}''s''}}}} が適用されるならば、{{math|''a'' &ne; 0}} に対して {{math|(''a''{{exp|''r''}}){{exp|''s''}} {{=}} {{abs|''a''}}{{exp|''r''{{*}}''s''}}}} が成り立つ(冪指数が正ならば {{math|''a'' {{=}} 0}} のときも成り立つ)。 例えば、{{math|((&minus;1){{exp|2}}){{exp|{{fraction|1|2}}}} {{=}} 1}} および {{math|(&minus;1){{exp|2{{*}}{{fraction|1|2}}}} {{=}} &minus;1}} であるから、{{math|''a'' < 0}} に対して {{math|{{sqrt |''a''{{exp|2}}}} {{=}} (''a''{{exp|2}}){{exp|{{fraction|1|2}}}} {{=}} &minus;''a''{{exp|2{{*}}{{fraction|1|2}}}} {{=}} &minus;''a''}}, したがって任意の実数 {{mvar|a}} に対して {{math|{{sqrt|''a''{{exp|2}}}} {{=}} {{abs|''a''}}}} が成り立つ。 === 指数・対数法則の不成立 === 正の実数に対する冪および対数に関する等式のいくつかは、複素数冪や複素対数がどのように{{underline|一価函数として}}定義されようとも、複素数に対しては成り立たないことが起こる。 {{ordered list |1= 等式 {{math|1=log(''b{{sup|x}}'') = ''x''&sdot;log(''b'')}} は {{mvar|b}} が正の実数で {{mvar|x}} が実数のときにはいつでも成り立つ。しかし、複素対数の{{仮リンク|主枝 (数学)|label=主枝|en|principal branch}}に対して : <math>i\pi=\log(-1)=\log\left[(-i)^2\right]\neq 2\log(-i)=2\left(-\frac{i\pi}{2}\right)=-i\pi</math> は反例になる。複素対数のどの枝を用いたかに関わらず、この等式には同様の反例が存在する。(この結果のみを使うものとすれば) : <math>\log(w^z)\equiv z \cdot\log(w)\pmod{2\pi i}</math> であるとまでしか言えない。 この等式は {{math|log}} を多価函数と考えるときでさえ成り立たない。{{math|log(''w{{sup|z}}'')}} の取り得る値は {{math|''z''&sdot;log(''w'')}} の取り得る値を部分集合として含む。{{math|log(''w'')}} の主値を {{math|Log(''w'')}} とし、{{mvar|m, n}} を任意の整数とすると、両辺の取り得る値は : <math>\{\log(w^z)\} = \{z\cdot\operatorname{Log}(w) + z\cdot 2\pi in+2\pi im\}</math> : <math>\{z\cdot\log w\} = \{z\cdot\operatorname{Log}(w) + z\cdot 2\pi in\}</math> である。 |2= 等式 {{math|1=(''bc''){{sup|''x''}} = ''b{{sup|x}}&sdot;c{{sup|x}}''}} および {{math|1=(''b''/''c''){{sup|''x''}} = ''b{{sup|x}}''/''c{{sup|x}}''}} は {{mvar|x}} が実数でさらに {{mvar|b}} と {{mvar|c}} が正の実数ならば成り立つ。しかし主枝を用いた計算で : <math>1=((-1)(-1))^\frac{1}{2} \ne (-1)^\frac{1}{2}(-1)^\frac{1}{2}=-1</math> および : <math>i=(-1)^\frac{1}{2}=\left(\frac{1}{-1}\right)^\frac{1}{2} \ne \frac{1^\frac{1}{2}}{(-1)^\frac{1}{2}}=\frac{1}{i}=-i</math> が反例として示される。 他方、{{mvar|x}} が整数のときには任意の非零複素数に対して成り立つ。 複素数冪を多価函数として考えれば、{{math|((&minus;1)(&minus;1)){{sup|1/2}}}} の取り得る値は {{math|{{mset|1, &minus;1}}}} で、等式は成り立つが {{math|{{mset|1}} {{=}} {{mset|((&minus;1)(&minus;1))<sup>1/2</sup>}}}} と言うことは間違っている。 |3= 等式 {{math|1=(''e{{sup|x}}''){{sup|''y''}} = ''e{{sup|xy}}''}} は {{mvar|x}} と {{mvar|y}} が実数であるときには成り立つが、任意の複素数に対して正しいと仮定すると、{{harvtxt|Clausen et al.|1827|ref=Clausen}}<ref>{{cite journal|author1=Steiner, J.|author2=Clausen, T.|author3=Abel, N. H.|title=Aufgaben und Lehrsatze, erstere aufzulosen, letztere zu beweisen|trans-title=Problems and propositions, the former to solve, the later to prove|url=http://gdz.sub.uni-goettingen.de/no_cache/dms/load/img/?IDDOC=270662|location=[[ベルリン|Berlin]]|publisher={{enlink|Walter de Gruyter|p=off|s=off}}|journal=[[クレレ誌|Journal für die reine und angewandte Mathematik]]|volume=2|year=1827|month=January|pages=286-287|issn=0075-4102|oclc=1782270|doi=10.1515/crll.1827.2.96|ref=ref={{SfnRef|Clausen et al.|1827}}}}</ref>の発見した{{quote|任意の整数 {{mvar|n}} に対して、 # <math>e^{1+2\pi in}=e^{1} e^{2\pi in}=e\cdot 1=e</math> # <math>(e^{1+2\pi in})^{1+2\pi in}=e</math> # <math>e^{1+4\pi in-4\pi^{2}n^{2}}=e</math> # <math>e^1e^{4\pi i n}e^{-4\pi^2n^2}=e</math> # <math>e^{-4\pi^2n^2}=1</math> を得るが、これは {{mvar|n}} が {{math|0}} でないとき誤りである。}} という[[誤った数学的推論|不合理]]が生じる。この推論にはいくつも問題がある: * 主な誤りは、二行目から三行目に行くときに冪の順番を変えることで選ばれる主値が変わることである。 * 多価函数の視点から見ると、最初の誤りは更に早く起きている。一行目で暗に {{mvar|e}} は実数としているにも拘らず、{{math|''e''{{sup|1+2''&pi;in''}}}} の結果は複素数であり、{{math|''e'' + 0''i''}} と書いたほうがよい。二行目を実数ではなくこの複素数で置き換えることで、そこでの冪が取れる値を複数持つようになる。二行目から三行目で指数の順番を変えたことも、取りうる値の数に影響を及ぼす。{{math|(''e{{sup|z}}''){{sup|''w''}} &ne; ''e{{sup|zw}}''}} だが、整数 {{mvar|n}} にわたって多価な意味で {{math|1=(''e{{sup|z}}''){{sup|''w''}} = ''e''{{sup|(''z''+2''&pi;in'')''w''}}}} としたほうがよい。 }} == 一般化 == === モノイドにおける冪 === 冪演算は任意の[[モノイド]]において定義できる<ref>{{cite book|author=Nicolas Bourbaki|title=Algèbre|year=1970|publisher=Springer}}, I.2</ref>。モノイドは単位元を持つ半群、すなわち適当な集合 {{mvar|X}} を台として合成あるいは乗法と呼ばれる[[二項演算]]が定義される[[代数系]]であって、その乗法が[[結合法則]]を満足し、かつ[[乗法単位元]] {{math|1{{sub|''X''}}}} を持つものを言う。モノイドにおける自然数冪は * <math>x^0:=1_X\quad (\forall x\in X),</math> * <math>x^{n+1}:=x^n \times x\quad (x\in X,\,n\in \mathbb{Z}_{\ge 0})</math> として帰納的に定義することができる(先の式の右辺(の 1)は {{mvar|X}} の単位元、後の式の左辺の 1 は自然数の [[1]] で、当然だがこれらは互いに別のものである)。特に先の式(零乗すること)は「単位元を持つ」ことによって初めて意味を成す規約であることに注意すべきである([[空積]]も参照のこと)。 モノイドの例には[[群 (数学)|群]]や[[環 (数学)|環]](の乗法モノイド)のような数学的に重要な多くの構造が含まれ、またより特定の例として[[行列環]]や[[可換体|体]]の場合について後述する。 === 行列および線型作用素の冪 === 正方行列 {{mvar|A}} に対して {{mvar|A}} 自身の {{mvar|n}} 個の[[行列の積|積]]を行列の冪と呼ぶ。また {{math|''A''{{exp|0}}}} は単位行列に等しいものと定義され<ref>Chapter 1, Elementary Linear Algebra, 8E, Howard Anton</ref>、さらに {{mvar|A}} が可逆ならば {{math|''A''{{exp|&minus;''n''}} {{coloneqq}} (''A''{{msup|&minus;1}}){{exp|''n''}}}} と定義する。 行列の冪は{{仮リンク|離散力学系|en|discrete dynamical system}}の文脈でしばしば現れる。そこでは行列 {{mvar|A}} は適当な系の状態ベクトル {{mvar|x}} を次の状態 {{mvar|Ax}} へ遷移させることを表す<ref>{{citation|first=Gilbert|last=Strang|title=Linear algebra and its applications|publisher=Brooks-Cole|year=1988|edition=3rd}}, Chapter 5.</ref>。これは例えば[[マルコフ連鎖]]の標準的な解釈である。これにより、{{math|''A''{{exp|2}}''x''}} は二段階後の系の状態であり、以下同様に {{mvar|A{{exp|n}}x}} は {{mvar|n}} 段階後の系の状態と理解される。つまり行列の冪 {{mvar|A{{exp|n}}}} は現在と {{mvar|n}} 段階後の状態の間の遷移行列であって、行列の冪を計算することはこの力学系の発展を解くことに等しい。便宜上、多くの場合において行列の冪は[[固有値]]と固有ベクトルを用いて計算することができる。 行列を離れてより一般の[[線型作用素]]にも冪演算は定められる。例えば微分積分学における[[微分]]演算 {{mvar|d{{\}}dx}} は函数 {{mvar|f}} に作用して別の函数 {{math|''df''{{\}}''dx'' {{=}} ''f{{'}}''}} を与える線型作用素であり、この作用素の {{mvar|n}}-乗は {{mvar|n}}-階微分 : <math>\Bigl(\frac{d}{dx}\Big)^{\!n}f(x) = \frac{d^n}{dx^n}f(x) = f^{(n)}(x)</math> である。これは線型作用素の離散的な冪の例であるが、作用素の連続的な冪が定義できたほうがよい場面が多く存在する。[[C0半群|{{math|''C''{{ind|0}}}}-半群]]の数学的理論はこのような事情を出発点としている<ref>E Hille, R S Phillips: ''Functional Analysis and Semi-Groups''. American Mathematical Society, 1975.</ref>。離散冪指数に対する行列の冪の計算が離散力学系を解くことであったのと同様に、連続冪指数に対する作用素の冪の計算は連続力学系を解くことに等しい。そういった例として[[熱方程式]]、[[シュレーディンガー方程式]]、[[波動方程式]]あるいはもっとほかの時間発展を含む偏微分方程式を挙げることができる。このような冪演算の特別の場合として、微分演算の非整数乗は[[分数階微分]]と呼ばれ、{{仮リンク|分数階積分|en|fractional integral}}とともに、[[分数階微分積分学]]の基本演算の一つとなっている。 === 有限体における冪 === {{seealso|冪剰余}} [[可換体|体]]は、四則演算が矛盾なく定義されそれらの馴染み深い性質が満足されるような代数的構造である。例えば[[実数]]全体は体を成す。複素数の全体、有理数の全体などもそうである。これら馴染み深い例が全て[[無限集合]]であるのと異なり、有限個の元しか持たない体も存在する。そのもっとも簡単な例が二元体 {{math|'''F'''{{ind|2}} {{=}} {{(}}0,1{{)}}}} で、加法は {{math| 0 + 1 {{=}} 1 + 0 {{=}} 1, 0 + 0 {{=}} 1 + 1 {{=}} 0}} および乗法は {{math|0 {{*}} 0 {{=}} 1 {{*}} 0 {{=}} 0 {{*}} 1 {{=}} 0, 1 {{*}} 1 {{=}} 1}} で与えられる。 有限体における冪演算は[[公開鍵暗号]]に応用を持つ。例えば[[ディフィー・ヘルマン鍵交換]]は、有限体における冪は計算量的にコストが掛からないのに対し、冪の逆である[[離散対数]]は計算量的にコストが掛かるという事実を用いている。 任意の有限体 {{mvar|F}} は、[[素数]] {{mvar|p}} がただ一つ存在して、任意の {{math|''x'' &isin; ''F''}} に対して {{math|''px'' {{=}} 0}} が成り立つ({{mvar|x}} を {{mvar|p}} 個加えれば零になる)という性質を持つ。例えば二元体 {{math|'''F'''{{ind|2}}}} では {{math|''p'' {{=}} 2}} である。この素数 {{mvar|p}} はその体の[[標数]]と呼ばれる。{{mvar|F}} を標数 {{mvar|p}} の体として {{mvar|F}} の各元を {{mvar|p}}-乗する写像 {{math|''f''(''x'') {{=}} ''x''{{exp|''p''}}}} を考える。これは {{mvar|F}} の[[フロベニュース自己準同型]]と呼ばれる。{{仮リンク|新入生の夢|en|Freshman's dream}}(幼稚な二項定理)とも呼ばれる等式 {{math|(''x'' + ''y''){{exp|''p''}} {{=}} ''x''{{exp|''p''}} + ''y''{{exp|''p''}}}} がこの体においては成り立つため、フロベニュース自己準同型が実際に体の自己準同型を与えるものであることが確認できる。フロベニュース自己準同型は {{mvar|F}} の素体上の[[ガロワ群]]の生成元であるため[[数論]]において重要である。 === 抽象代数学における冪 === 冪指数が整数であるような冪演算は[[抽象代数学]]における極めて一般の構造に対して定義することができる。 [[集合]] {{mvar|X}} は乗法的に書かれた{{仮リンク|冪結合性|label=冪結合的|en|power-associative}}[[二項演算]]を持つもの: : <math>(x^i x^j) x^k = x^i (x^j x^k) \quad (\forall x\in X)</math> とするとき、任意の {{math|''x'' &isin; ''X''}} と任意の[[自然数]] {{mvar|n}} に対して冪 {{mvar|x{{exp|n}}}} は、{{mvar|x}} の {{mvar|n}} 個のコピーの積を表すものとして : <math>\begin{align} x^1 &= x \\ x^n &= x^{n-1}x \quad(n > 1) \end{align}</math> のように帰納的に定義される。これは以下のような性質 : <math>\begin{align} x^{m+n} &= x^m x^n \\ (x^m)^n &= x^{mn} \end{align}</math> を満足する。さらに、考えている演算が両側[[単位元]] {{math|1}} を持つ: : <math>\exists! 1 \text{ s.t. } x1 = 1x = x \quad (\forall x\in X)</math> ならば {{math|''x''{{exp|0}}}} は任意の {{mvar|x}} に対して {{math|1}} に等しいものと定義する。{{citation needed|date=April 2014}} さらにまた演算が両側[[逆元]]を持ち、なおかつ結合的 : <math>\begin{align} x x^{-1} &= x^{-1} x = 1,\\ (x y) z &= x (y z) \end{align}</math> ならば[[マグマ (数学)|マグマ]] {{mvar|X}} は[[群 (数学)|群]]を成す。このとき {{mvar|x}} の逆元を {{math|''x''{{exp|−1}}}} と書けば、冪演算に関する通常の規則 :<math>\begin{align} x^{-n} &= \left(x^{-1}\right)^n \\ x^{m-n} &= x^m x^{-n} \end{align}</math> はすべて満足される。また(例えば[[アーベル群]]のように)乗法演算が[[交換法則|可換]]ならば : <math>(xy)^n = x^n y^n </math> も満足される。(アーベル群が通常そうであるように)二項演算を加法的に書くならば、「冪演算は累乗(反復乗法)である」という主張は「乗法は累加(反復加法)である」という主張に引き写され、各指数法則は対応する乗法法則に引き写される。 一つの集合上に複数の冪結合的に項演算が定義されるときには、各演算に関して反復による冪演算を考えることができるから、どれに関する冪かを明示するために上付き添字に反復したい演算を表す記号を併置する方法がよく用いられる。つまり演算 {{math|∗}} および {{math|#}} が定義されるとき、{{math|''x''{{exp|∗''n''}}}} と書けば {{math|''x'' ∗ ⋯ ∗ ''x''}} を意味し、{{math|''x''{{exp|#''n''}}}} と書けば {{math|''x'' # ⋯ # ''x''}} を意味するという具合である。 上付き添字記法は、特に[[群論]]において、共軛変換を表すのにも用いられる(即ち、{{mvar|g, h}} を適当な群の元として {{math|1=''g''<sup>''h''</sup> = ''h''<sup>−1</sup>''gh''}})。この共軛変換は指数法則と同様の性質を一部満足するけれども、これはいかなる意味においても反復乗法としての冪演算の例ではない。[[カンドル]]はこれら共軛変換の性質が中心的な役割を果たす代数的構造である。 === 集合の冪 === ==== デカルト冪 ==== {{Main|デカルト積}} 自然数 {{mvar|n}} と任意の集合 {{mvar|A}} に対して、式 {{mvar|A{{exp|n}}}} はしばしば {{mvar|A}} の元からなる順序 {{mvar|n}}-[[タプル|組]]全体の成す集合を表すのに用いられる。これは {{mvar|A{{exp|n}}}} は集合 {{math|{{mset|0, 1, 2, …, ''n''−1}}}} から集合 {{mvar|A}} への写像全体の成す集合であると言っても同じことである({{mvar|n}}-組 {{math|(''a''<sub>0</sub>, ''a''<sub>1</sub>, ''a''<sub>2</sub>, …, ''a''<sub>''n''−1</sub>)}} は {{mvar|i}} を {{mvar|a{{ind|i}}}} へ送る写像を表す)。 無限[[基数]] {{mvar|κ}} と集合 {{mvar|A}} に対しても、記号 {{mvar|A{{exp|κ}}}} は濃度 {{mvar|κ}} の集合から {{mvar|A}} への写像全体の成す集合を表すのに用いられる。基数の冪との区別のために {{mvar|{{exp|κ}}A}} と書くこともある。 ==== 反復直和 ==== {{Main|直和}} 一般化された冪は、複数の集合上で定義される演算や追加の[[数学的構造|構造]]を持つ集合に対しても定義することができる。例えば、[[線型代数学]]において勝手な添字集合上での[[ベクトル空間]]の[[加群の直和|直和]]を考えることができる。つまり {{mvar|V{{ind|i}}}} をベクトル空間として : <math>\bigoplus_{i \in \mathbb{N}} V_{i}</math> を考えるとき、任意の {{mvar|i}} について {{math|1=''V''<sub>''i''</sub> = ''V''}} とすれば得られる直和を冪記法を用いて {{math|''V''{{exp|⊕'''N'''}}}} あるいは直和の意味であることが明らかならば単に {{math|''V''{{exp|'''N'''}}}} のように書くことができる。ここで再び集合 {{math|'''N'''}} を基数 {{mvar|n}} で取り替えれば {{mvar|V{{exp|n}}}} を得る(濃度 {{mvar|n}} を持つ特定の標準的な集合を選ぶことなしに、これは[[同型を除いて]]のみ定義される)。{{mvar|V}} として実数体 {{math|'''R'''}} を(それ自身の上のベクトル空間と見て)とれば、{{mvar|n}} を適当な自然数として線型代数学でもっともよく調べられる実ベクトル空間 {{math|'''R'''{{exp|''n''}}}} を得る。 ==== 配置集合 ==== 冪演算の底を集合とするとき、何も断りがなければ冪演算は[[デカルト積]]である。複数の集合のデカルト積は {{mvar|n}}-組を与え、{{mvar|n}}-組は適当な濃度を持つ集合上で定義された写像として表すことができるのだから、この場合冪 {{mvar|S{{exp|N}}}} は単に {{mvar|N}} から {{mvar|S}} への[[配置集合|写像全体の成す集合]] : <math>S^N \equiv \{ f\colon N \to S \}</math> である。この定義は {{math|1={{abs|''S''<sup>''N''</sup>}} = {{abs|''S''}}<sup>{{abs|''N''}}</sup>}} が満たされるという意味で基数の冪と整合する。ただし {{mvar|{{abs|X}}}} は {{mvar|X}} の濃度を表す。"{{math|2}}" を集合 {{math|{{mset|0, 1}}}} として定義すれば {{math|1={{abs|2<sup>''X''</sup>}} = 2<sup>{{abs|''X''}}</sup>}} が得られる。ここに {{math|2{{exp|''X''}}}} は {{mvar|X}} の[[冪集合]]であり、普通は {{math|𝒫(''X'')}} などで表される。 === 圏論における冪対象 === {{Main|デカルト閉圏}} [[デカルト閉圏]]において、任意の対象に対して別の任意の対象を冪指数とする冪演算を[[冪対象]]によって与えることができる。[[集合の圏]]における冪対象は配置集合であるから、これはその一般化になっている。考えている圏に[[始対象]] {{math|0}} が存在するならば、冪対象 {{math|0{{exp|0}}}} は任意の[[終対象]] {{math|1}} に同型である。 === 順序数・基数の冪 === {{Main|基数#冪|l1=基数の冪|順序数#冪|l2=順序数の冪}} [[集合論]]では[[基数]]や[[順序数]]の冪演算も定義される。 基数 {{mvar|κ, λ}} に対して冪 {{mvar|κ{{exp|λ}}}} は基数 {{mvar|λ}} の任意の集合から基数 {{mvar|κ}} の任意の集合への写像全体の成す集合の基数を表す<ref name="Bourbaki">N. Bourbaki, Elements of Mathematics, Theory of Sets, Springer-Verlag, 2004, III.§3.5.</ref>。{{mvar|κ, λ}} がともに有限ならばこれは通常の算術的な(つまり自然数の)冪演算と一致する(たとえば、二元集合から元を取って得られる三つ組全体の成す集合の基数は {{math|1=8 = 2{{exp|3}}}} で与えられる)。基数の算術において {{math|κ{{exp|0}}}} は常に(特に {{mvar|κ}} が無限基数や {{math|0}} であるときでさえ){{math|1}} である。 基数の冪は順序数の冪とは異なる。後者は[[超限帰納法]]を含む過程の極限として定義される。 === 反復冪 === {{main|テトレーション}} 自然数冪が乗法の反復として考えられたことと同様に、冪演算を繰り返す演算というものを定義することもできる。それをまた反復すれば別の演算が定義され、同様に繰り返して[[ハイパー演算]]の概念を得る。このようにして得られるハイパー演算の列において、次の演算は前の演算に対して急速に増大する。 {{seealso|アッカーマン函数|クヌースの矢印記法|巨大数}} == 写像の冪の記法に関する注意 == === 合成冪 === {{seealso|反復合成写像}} 写像の冪乗となるべきものとして、写像を表す符牒の直後に整数の上付き添字を添えたとき、それは(反復乗法ではなくて)[[反復合成写像|反復合成冪]]の意味で用いることがよく行われる。つまり例えば {{math|''f''{{exp|3}}(''x'')}} は {{math|''f''(''f''(''f''(''x'')))}} の意味であり、また特に {{math|''f''{{exp|−1}}(''x'')}} は {{mvar|f}} の[[逆写像]]を意味するのが普通である。反復合成写像は[[フラクタル]]や[[力学系]]の研究において興味を持たれる。[[チャールズ・バベッジ]]は[[写像の平方根]] {{math|''f''<sup>&nbsp;1/2</sup>(''x'')}} を求める問題を研究した最初の人であった。 === 値ごとの冪 === {{seealso|[[点ごとの積]]}} しかし歴史的経緯により、[[三角函数]]の場合には、函数の略号に正の冪指数を添えたときは函数の値に対して冪を取ることを意味する一方で、{{math|&minus;1}} を冪指数としたときは逆函数を意味するという特別な文法が適用される。つまり、 {{math|sin{{exp|2}}&thinsp;''x''}} は {{math|(sin&thinsp;''x''){{exp|2}}}} を括弧を用いずに略記する方法に過ぎない一方、{{math|sin{{exp|−1}}&thinsp;''x''}} は[[逆正弦函数]] {{math|arcsin&thinsp;''x''}} を意味するのである。三角函数の逆数函数は(例えば {{math|1=1/(sin&thinsp;''x'') = (sin&thinsp;''x'')<sup>−1</sup> = csc&thinsp;''x''}} のように)それぞれ固有の名前と略号が与えられているから、三角函数の逆数の略記法は無用である。同様の規約は対数函数にも適用され、{{math|log{{exp|2}}&thinsp;''x''}} はふつう {{math|(log&thinsp;''x''){{exp|2}}}} の意味であって {{math|log&thinsp;log&thinsp;''x''}} の意味でない。 === 上付き添字 === {{seealso|添字表記法}} 添字付けられた変数を考えるとき、その変数の添字を[[上付き文字|上付き]]にする場合があり、それはあたかも冪であるかのような印象を受けるかもしれないが混同するべきではない。これは特に[[テンソル解析]]において[[ベクトル場]]の座標表示などで現れる。あるいはまた[[数列]]の[[列 (数学)|列]]のような、既にそれ自身添字付けられているような量に対してさらに添字付けを行う場合にもしばしば用いられる。 === 高階導函数 === 函数 {{mvar|f}} の {{mvar|n}}-階[[導函数]]はふつう {{math|''f''{{exp|(''n'')}}}} と書かれるように、冪記法は冪指数を[[パーレン|括弧]]で囲んで書くこともある。 == 効率的な演算法 == コンピュータ上で指数を自然数とする冪乗(累乗)を効率よく行う演算方法として'''バイナリ法'''([[二進法|二進数]]法; [[:en:exponentiation by squaring]]) とも呼ばれる演算方法を示す。 [[RSA暗号]]や[[素数判定#確率的素数判定法|確率的素数判定法]]である[[フェルマーの小定理#フェルマーテスト|フェルマーテスト]]などでは、巨大な自然数を指数とする累乗を行う。この方法を使うと、指数がいかに巨大であっても高々その[[ビット]]数の2倍の回数の[[乗算]]で算出することが可能になり、繰り返し掛けるよりも大幅に効率がよくなる。特にRSA暗号やフェルマーテストなどにおいて各演算後に必要となる[[剰余]]演算(一般に最も計算時間がかかる)の回数を減らす効果がある。 一般に、コンピュータにとって標準的な([[32ビット]]コンピュータならば約4億までの)自然数や浮動小数点数を底とする場合は下位桁から計算する方式を、前述のような巨大な自然数を底とする場合には上位桁から計算する方式を用いると効率が良い。 === 下位桁から計算する方式 === バイナリ法では、次の性質を利用する。 : <math>(a^x)^2 = a^{2x}</math> 例えば {{math|1=(''a''<sup>8</sup>)<sup>2</sup> {{=}} ''a''<sup>16</sup>}} である。したがって、{{mvar|a}}(すなわち {{math|''a''<sup>1</sup>}})から始めて2乗を繰り返すと次行のとおりになる。 : <math>a^1 \to a^2 \to a^4 \to a^8 \to a^{16} \to a^{32} \to \cdots</math> これらの数のうち、適切なものを選んで掛け合わせれば、任意の累乗を速く(すなわち少ない乗算回数で)計算することができる<ref name="algo">{{cite book | 1=和書 | title=C言語による最新アルゴリズム事典 | publisher=[[技術評論社]] | author=奥村晴彦 | authorlink=奥村晴彦 | year=1991 | page=304 | isbn=4-87408-414-1}}</ref>。例えば {{math|''a''<sup>43</sup>}} は、指数法則によって、 : <math>a^{43} = a^{32+8+2+1} = a^{32} \times a^8 \times a^2 \times a^1</math> として計算することができる。乗算回数は 8 回{{efn|乗算回数は、<math>a^{32}=</math> <math>((((a^2)^2)^2)^2)^2</math> を計算するのに 5 回、<math>a^1 \times a^2 \times a^8 \times a^{32}</math> に 3 回の、合計 8 回かかる。}}で済むので、{{mvar|a}} を 42 回繰り返し掛け合わせるのに比べて効率が良い。(下図で「→」は乗算を表し、「⇒」は2乗を表す。) <!-- 保守性のために、LaTeX の {matrix} を使わず、表にした --> {| border="0" cellspacing="0" cellpadding="1" style="border: solid thin #CCCCFF; padding: 0.5ex 1ex; margin-left: 1.2em;" <!-- |+ バイナリ法による高速な累乗 --> |- | align="right" style="width:13em;" | (十進表記): | &nbsp; | {{mvar|a}}<sup>1</sup> | | {{mvar|a}}<sup>2</sup> | | {{mvar|a}}<sup>4</sup> | | {{mvar|a}}<sup>8</sup> | | {{mvar|a}}<sup>16</sup> | | {{mvar|a}}<sup>32</sup> |- | align="right" | 2乗の繰返し([[二進法|二進表記]]): | &nbsp; | {{mvar|a}}<sup>1</sup> |⇒ | {{mvar|a}}<sup>10</sup> |⇒ | {{mvar|a}}<sup>100</sup> |⇒ | {{mvar|a}}<sup>1000</sup> |⇒ | {{mvar|a}}<sup>10000</sup> |⇒ | {{mvar|a}}<sup>100000</sup> |- | &nbsp; | &nbsp; | style="color: #9999FF" | ↓ | | ↓ | | &nbsp; | | ↓ | | &nbsp; | | ↓ |- | align="right" | 累乗の計算(二進表記): | &nbsp; | {{mvar|a}}<sup>1</sup> |→ | {{mvar|a}}<sup>11</sup> | style="color: #6666DD" |─ | style="color: #6666DD" | ── |→ | {{mvar|a}}<sup>1011</sup> | style="color: #6666DD" |─ | style="color: #6666DD" | ─── |→ | {{mvar|a}}<sup>101011</sup> |- | align="right" |(十進表記): | | {{mvar|a}}<sup>1</sup> | | {{mvar|a}}<sup>3</sup> | | | | {{mvar|a}}<sup>11</sup> | | | | {{mvar|a}}<sup>43</sup> |} [[コンピュータ]]の[[アルゴリズム]]として書くとこうなる。 # 指数を n とし、2乗していく値 p := {{mvar|a}}、結果値 v := 1 とする。 # n が 0 なら、v を出力して終了する。 # n の最下位桁が 1 なら、v := v * p とする。 # n := [n/2] とし(端数切捨て)、 p := p * p として、2. に戻る。 整数の内部表現が二進法であるコンピュータなら、4. では除算の代わりに[[ビット演算#シフト|シフト演算]]を用いることができる。 この方式は {{mvar|a}} が浮動小数点数である場合や、最終結果がレジスタに収まることがわかっている場合に効率が良い。また乗算に[[モンゴメリ乗算]]などを用いて[[冪剰余]]を計算する場合も、この方式で充分な効率が得られる。 === 上位桁から計算する方式 === 上の方式と同様に、次の性質を使う。 : <math>a^{2x} = (a^x)^2</math><!-- ←上にある式と同一 --> これに性質 <math>a^{x+1} = a^x \cdot a</math> を組み合わせると、次の関係が成り立つ。 : <math>a^{2x+1} = ( a^x )^2 \cdot a</math> 指数が偶数か奇数かによってこれら二つの式を使い分け、指数を順次約1/2にしていくことができる。例えば <math>a^{43}</math> は、 : <math>a^{43} = a^{21 \cdot 2 +1} = (a^{21})^2 \cdot a</math> である。そして <math>a^{21}</math> も同様に、 : <math>a^{21} = a^{10 \cdot 2 +1} = (a^{10})^2 \cdot a</math> である。<math>a^{10}</math> はこうなる。 : <math>a^{10} = a^{5 \cdot 2} = (a^{5})^2</math> 以下同様に、こうなる。 : <math>a^{5} = a^{2 \cdot 2 +1} = (a^{2})^2 \cdot a</math> : <math>a^{2} = a^{1 \cdot 2 } = (a^{1}) ^2</math> : <math>a^{1} = a</math> これを逆順にたどり、 : <math>a^{43} = ( ( ( ( ( a )^2 )^2 \cdot a )^2 )^2 \cdot a )^2 \cdot a </math> として算出できる{{efn|この場合の乗算回数も、下位桁から計算するのと同じく合計 8 回かかる。}}。(下図で「→」は乗算を表し、「⇒」は2乗を表す。) {| border="0" cellspacing="0" cellpadding="1" style="border: solid thin #CCCCFF; padding: 0.5ex 1ex; margin-left: 1.2em;" <!-- |+ バイナリ法による高速な累乗 --> |- | | | | | | | | | {{mvar|a}} | | | | | | {{mvar|a}} | | | | {{mvar|a}} |- | | | | | | | | | ↓ | | | | | | ↓ | | | | ↓ |- | align="right" style="width:5.5em;" | 二進表記: | &nbsp; | {{mvar|a}}<sup>1</sup> |⇒ | {{mvar|a}}<sup>10</sup> |⇒ | {{mvar|a}}<sup>100</sup> |→ | {{mvar|a}}<sup>101</sup> |⇒ | {{mvar|a}}<sup>1010</sup> |⇒ | {{mvar|a}}<sup>10100</sup> |→ | {{mvar|a}}<sup>10101</sup> |⇒ | {{mvar|a}}<sup>101010</sup> |→ | {{mvar|a}}<sup>101011</sup> |- | align="right" | 十進表記: | &nbsp; | {{mvar|a}}<sup>1</sup> | | {{mvar|a}}<sup>2</sup> | | {{mvar|a}}<sup>4</sup> | | {{mvar|a}}<sup>5</sup> | | {{mvar|a}}<sup>10</sup> | | {{mvar|a}}<sup>20</sup> | | {{mvar|a}}<sup>21</sup> | | {{mvar|a}}<sup>42</sup> | | {{mvar|a}}<sup>43</sup> |} 2乗した後に {{mvar|a}} を乗算するか否かは、指数 {{mvar|n}} を二進表記したときの各ビットが1であるか否かと一致する。 コンピュータのアルゴリズムとして書くとこうなる。 : 指数 {{mvar|n}} の二進表記を n とし、n の最下位桁を n[0]、最上位桁を n[m]、最下位から数えて k 桁目を n[k] と表記する。 # 結果値 v := 1 とし、 # k := m とする(最上位)。 # v := v * v # n[k] が 1 ならば v := v * {{mvar|a}} とする。 # k := k &minus; 1 # k ≧ 0 なら 3. に戻る。 この方式では、4. における乗数が常に {{mvar|a}} なので、下位桁から計算する方式に比べて乗数の桁数が小さくなり、計算時間がかからない。これは特に、レジスタに入りきらないような巨大な自然数を扱う場合に顕著となる。ただし(RSA暗号のように)冪乗の剰余を計算する場合であって法の大きさが {{mvar|a}} と同程度ならば、この効果はない。 また 4. における乗数が常に {{mvar|a}} なので、あらかじめ {{mvar|a}} が定数(2 や 10 など、または[[ディフィー・ヘルマン鍵共有]]の生成元 {{mvar|g}} など)であることがわかっている場合には、4. の乗算を最適化をすることができる。 巨大な自然数の汎用的な冪算ルーチン({{mvar|a}} が小さい可能性が高い)や、{{mvar|a}} が小さかったり定数であることがわかっている場合、冪乗の剰余を計算する場合であってモンゴメリー演算を用いず別途剰余を計算する場合、数を保持するコストが高い場合など、指数を二進表記するコスト以上の効率が得られる場合に選択される。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist|2}} === 出典 === {{reflist|3}} == 参考文献 == * {{citation |和書|last= 鈴木 | first= 真治 |title= 「指数」はなぜ指数と云うのか? : その概念と用語の歴史的変遷を巡って | series= 第24回数学史シンポジウム(2013) | journal= 津田塾大学数学・計算機科学研究所報 |volume= 35 |pages= 315-397 |publisher= 津田塾大学数学・計算機科学研究所 |year=2013 | url= https://ci.nii.ac.jp/naid/40020080419|ref=harv}}{{PDFlink|[http://www2.tsuda.ac.jp/suukeiken/math/suugakushi/sympo24/24_16suzukishinji.pdf PDFファイル]}} == 関連文献 == *高木貞治、1904、「第十一章 冪及對數」、『新式算術講義』 == 関連項目 == {{Div col}} * [[冪函数]] * [[指数関数]] * [[対数関数]] * [[平方数]] * [[立方数]] * [[2の冪]] * [[冪剰余]] * [[ゼロ除算]] * [[0の0乗]] * [[冪乗則]] {{Div col end}} == 外部リンク == {{Commonscat|Exponentiation}} * {{Wikisource-inline|新式算術講義/第十一章}} * {{MathWorld|urlname=Exponentiation|title=Exponentiation}} * {{nlab|urlname=exponentiation|title=exponentiation}} * {{PlanetMath|urlname=Exponentiation|title=exponentiation}} {{二項演算}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へきしよう}} [[Category:算術]] [[Category:指数関数]] [[Category:数学に関する記事]]
2003-08-09T03:01:29Z
2023-11-17T22:25:18Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%AA%E4%B9%97
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成東駅
成東駅(なるとうえき)は、千葉県山武市津辺にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。山武市のターミナル駅である。 総武本線を所属線としており、当駅が終点となる東金線を加えた2路線が乗り入れている。 駅舎に接して単式ホーム1面1線があり、その奥に島式ホーム1面2線がある。さらに単式ホームには切欠きホームがあるため、あわせて2面4線となる地上駅。互いのホームは跨線橋で連絡し、両端(単式ホーム側と島式ホーム側)はバリアフリー化の一環としてエレベーターが各1基設置されている。この跨線橋は2012年に設置され、以前使われていた跨線橋は撤去された。 直営駅であり、管理駅として日向駅 - 八日市場駅間の各駅を管理している。駅舎内にはみどりの窓口、自動改札機が設置されている。改札口横に待合室がある。 2008年(平成20年)3月に駅舎の一部改装が終了し、待合室のリニューアルがなされ、自動ドアが取り付けられた。また、かつての売店「KIOSK」は、コンビニエンスストア「NEWDAYS」に業態変更された。 トイレは改札内外の双方から入れる構造で、いずれも多機能トイレを併設した男女別で浄化槽による水洗式である。多機能トイレは当初改札外のみの設置だったことの名残で、改札内の通常のトイレには「多機能トイレ利用時は駅係員へお申し出ください」との但し書きが多機能トイレ増設後も撤去されずに残存していたが、現在は撤去されている。また、跨線橋のエレベーター付近には駅係員用のものと思われる仮設トイレが設置されている。現在のトイレが整備される前は、改札内外の双方から入れる構造で男女共用の汲み取り式であった。 (出典:JR東日本:駅構内図) 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は2,411人である。 近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。 山武市基幹バス・ちばフラワーバスが運行する路線が発着する。 ちばフラワーバスが運行する路線(主に高速バス)が発着する。 ※特急「しおさい」の隣の停車駅は列車記事を参照。
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成東駅(なるとうえき)は、千葉県山武市津辺にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。山武市のターミナル駅である。 総武本線を所属線としており、当駅が終点となる東金線を加えた2路線が乗り入れている。
{{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = 成東駅 |画像 = JR Sobu-Main-Line・Togane-Line Naruto Station building.jpg |pxl = 300 |画像説明= 駅舎(2021年5月) |地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|36|30.2|N|140|24|39|E}}}} |よみがな= なるとう |ローマ字= Narut&#333; |電報略号= ナル |所属事業者= [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |乗入路線数= 2 |所属路線1 = {{Color|#ffc20d|■}}[[総武本線]]<ref name="sobu-line-120-2014-2">{{Cite book|和書|author=三好好三|title=総武線 120年の軌跡|others=|publisher=[[JTBパブリッシング]]|date=2014-03-01|isbn=9784533096310|pages=106-107}}</ref> |前の駅1 = [[日向駅|日向]] |駅間A1 = 5.2 |駅間B1 = 5.6 |次の駅1 = [[松尾駅 (千葉県)|松尾]] |キロ程1 = 76.9 |起点駅1 = [[東京駅|東京]] |所属路線2 = {{Color|#ff6600|■}}[[東金線]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" /> |前の駅2 = [[求名駅|求名]] |駅間A2 = 4.2 |キロ程2 = 13.8 |起点駅2 = [[大網駅|大網]] |所在地 = [[千葉県]][[山武市]]津辺305 |座標 = {{coord|35|36|30.2|N|140|24|39|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 2面4線<ref name="sobu-line-120-2014-2" /> |開業年月日= [[1897年]]([[明治]]30年)[[5月1日]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" /> |廃止年月日= |乗車人員= 2,411 |統計年度= 2022年 |備考= [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])<br/>[[みどりの窓口]] 有 }} '''成東駅'''(なるとうえき)は、[[千葉県]][[山武市]]津辺にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" />である。山武市の[[ターミナル駅]]である。 [[総武本線]]を[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]としており<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTB 1998年</ref>、当駅が終点となる[[東金線]]を加えた2路線が乗り入れている。 == 歴史 == * [[1897年]]([[明治]]30年)[[5月1日]]:[[総武鉄道 (初代)|総武鉄道]]の駅として開業<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。 * [[1907年]](明治40年)[[9月1日]]:総武鉄道が[[鉄道国有法|買収]]され、[[帝国鉄道庁]]の駅となる<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。 * [[1911年]](明治44年)[[11月1日]]:東金線[[東金駅|東金]] - 当駅間開業<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。 * [[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月13日]]:[[太平洋戦争]]による[[空襲]]([[機銃掃射]])に遭い、駅に停車していた[[貨車]]に積まれていた[[高射砲]]4門と弾薬に引火する<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。[[駅員]]や[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[近衛師団|近衛第3師団]]将兵が消火作業に当たったものの、爆発・炎上し、駅舎およびホームが全壊<ref name="sobu-line-120-2014-2" />、また[[客車]]5両が焼失した<ref name="japan-railways-history-1986-5">[[野田正穂]]・原田勝正・青木栄一・[[老川 慶喜]] 『日本の鉄道 成立と展開』 [[日本経済評論社]]、1986年5月。ISBN 978-4818800984</ref>。この事故により駅員15名、将兵27名の計42名が死亡した<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。そのうち9名は十代だった<ref>[https://www.sankei.com/article/20200813-E3DL6MGEZFLITJFDCDNQLHDSR4/ 終戦2日前の惨事 成東駅爆発で42人が犠牲に 慰霊碑前で献花式] 産経ニュース 2020年8月13日</ref>。 * [[1957年]](昭和32年)[[8月]]:1945年に起きた成東駅空襲の慰霊碑が建立される<ref>{{Cite news |title=成東駅の慰霊碑に献花 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2017-08-17 |page=3 }}</ref>。 * [[1981年]](昭和56年)[[12月1日]]:貨物扱い廃止<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref name="sone 26">{{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線|page=27|date=2010-01-17}}</ref>。 * [[1995年]]([[平成]]7年)[[7月13日]]:[[自動改札機]]を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1996-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '96年版 |chapter=JR年表 |page=182 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-117-1}}</ref>。 * [[1999年]](平成11年)[[12月]]:[[総武快速線|総武線快速電車]]乗り入れ開始<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:千葉・大網方面において[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-30|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2008年]](平成20年)[[3月]]:リニューアルにより外観を洋風に改装<ref name="sobu-line-120-2014-2" /><ref name="sone 26"/>。 * [[2009年]](平成21年)[[3月14日]]:銚子方面においてICカード「Suica」の利用が可能となる<ref name="press-20081218">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf|format=PDF|language=日本語|title=Suicaをご利用いただけるエリアが広がります。|publisher=東日本旅客鉄道|date=2008-12-22|accessdate=2020-04-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190503211623/https://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf|archivedate=2019-05-03}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年)12月:跨線橋新設と同時にホームにエレベータ設置、旧跨線橋撤去。 * [[2016年]](平成28年)[[2月22日]]:[[指定席券売機]]営業終了。 * [[2018年]](平成30年):駅南口ターミナル整備完了。 == 駅構造 == 駅舎に接して[[単式ホーム]]1面1線があり、その奥に[[島式ホーム]]1面2線がある。さらに単式ホームには[[切欠きホーム]]があるため、あわせて2面4線となる[[地上駅]]。互いのホームは[[跨線橋]]で連絡し、両端(単式ホーム側と島式ホーム側)は[[バリアフリー]]化の一環として[[エレベーター]]が各1基設置されている。この跨線橋は2012年に設置され、以前使われていた跨線橋は撤去された<ref>[http://www.totetsu.co.jp/topics/2012doboku3.pdf 工事名称 総武本線 成東駅エレベーター新設] - 東鉄工業株式会社</ref><ref>[http://www.city.sammu.lg.jp/uploaded/attachment/5513.pdf 山武市議会だより 第23号 14ページ]</ref><ref>[http://www.city.sammu.lg.jp/uploaded/attachment/5514.pdf 山武市議会だより 第23号 15ページ]</ref>。 [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]であり、[[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]として[[日向駅]] - [[八日市場駅]]間の各駅を管理している。駅舎内には[[みどりの窓口]]、[[自動改札機]]が設置されている。改札口横に待合室がある。 [[2008年]]([[平成]]20年)3月に駅舎の一部改装が終了し、待合室のリニューアルがなされ、[[自動ドア]]が取り付けられた。また、かつての売店「[[キヨスク|KIOSK]]」は、[[コンビニエンスストア]]「[[NEWDAYS]]」に業態変更された。 [[便所|トイレ]]は改札内外の双方から入れる構造で、いずれも[[ユニバーサルデザイン|多機能トイレ]]を併設した男女別で[[浄化槽]]による[[水洗式便所|水洗式]]である。多機能トイレは当初改札外のみの設置だったことの名残で、改札内の通常のトイレには「多機能トイレ利用時は駅係員へお申し出ください」との但し書きが多機能トイレ増設後も撤去されずに残存していたが、現在は撤去されている。また、[[跨線橋]]のエレベーター付近には駅係員用のものと思われる[[仮設便所|仮設トイレ]]が設置されている。現在のトイレが整備される前は、改札内外の双方から入れる構造で男女共用の[[汲み取り式便所|汲み取り式]]であった。 === のりば === <!--行先欄は2019年6月時点での公式ホームページの案内を参考--> {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!行先!!備考 |- ! 0 |{{Color|#ff6600|■}}東金線 | style="text-align:center" rowspan="2" | 上り |[[東金駅|東金]]・[[大網駅|大網]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/estation/stations/1136.html|title=駅構内図(成東駅)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-08-04}}</ref> | 一部は3番線<!-- 2012年3月改正時点,3番線からの東金線は6:51発京葉線経由東京行,8:03発千葉行の2本のみ --> |- !rowspan=2| 1・2・3 |rowspan=2|{{Color|#ffc20d|■}}総武本線 |[[千葉駅|千葉]]方面<ref name="timetable/list1136">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast-timetable.jp/timetable/list1136.html|title=時刻表 成東駅|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-08-04}}</ref> | &nbsp; |- | style="text-align:center" | 下り |[[銚子駅|銚子]]方面<ref name="timetable/list1136" /><!-- 2012年3月改正時点,3番線からの下りは7:01発銚子行のみ --> | &nbsp; |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1136.html JR東日本:駅構内図]) * 東金線が使う0番線は[[切欠きホーム]]である。 * 総武本線の列車は、上下列車とも行き違いや特急の待ち合わせがない場合は駅舎側の1番線を使用することが多い。 * 現在、総武本線と東金線を直通する定期旅客列車は存在しない。 {| class="wikitable" !運転番線!!営業番線!!ホーム!!東金方面着発!!銚子方面着発!!佐倉方面着発!!備考 |- | style="text-align:center" colspan="2" |0|| style="text-align:right" |6両分||到着・出発可|| colspan="2" |不可|| |- | style="text-align:center" colspan="2" |1|| style="text-align:right" rowspan="2" |11両分||到着可|| rowspan="3" colspan="2" |到着・出発可||総武本線上り主本線、東金線下り主本線 |- | style="text-align:center" colspan="2" |2||出発可||総武本線下り主本線、東金線上り主本線 |- | style="text-align:center" colspan="2" |3|| style="text-align:right" |8両分||到着・出発可||一部東金線の列車が発着 |} * 主本線を発着する場合は通過が可能<ref name="vol4">{{Cite book|和書|author=今尾恵介|authorlink=今尾恵介|title=JR東日本全線【決定版】鉄道地図帳vol.4 水戸・千葉支社管内編|publisher=[[学研プラス]]|date=2010-03-19|isbn=978-4056057652}}</ref>。 * 夜間、2番線に銚子から回送されてくる[[特別急行列車|特急用車両]](翌朝の「[[しおさい_(列車)|しおさい2号]]」)が、0・3番線に普通列車がそれぞれ留置される。 * [[1997年]]まで設定されていた東金線経由[[外房線]][[新茂原駅]]への貨物列車は1・2番線を使用していた(外房線[[土気駅|土気]] - [[大網駅|大網]]間の急勾配を避けるため)。 * 総武快速線への直通列車は上り2本、下り1本が当駅まで乗り入れる。朝の上りはグリーン車付きの11両編成だが、夜の1往復は付属の4両編成である。 <gallery> NarutouSt.jpg|改装前の駅舎(2005年10月) JR Sobu-Main-Line・Togane-Line Naruto Station Gates.jpg|改札口(2021年5月) JR Sobu-Main-Line・Togane-Line Naruto Station Platform.jpg|ホーム(2021年5月) Narutou-ekimae2.JPG|成東駅空襲の慰霊碑 Narutou-ekimae.JPG|千葉県初の鉄道開設運動とその誘致に生涯を捧げた[[安井理民]]の功績をたたえた「魁の碑」 </gallery> == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''2,411人'''である。 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref> |- !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1990年(平成{{0}}2年) |3,206 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |3,419 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |3,560 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |3,573 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |3,484 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |3,528 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |3,503 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |3,444 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成10年)]</ref> |- |1998年(平成10年) |3,340 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成11年)]</ref> |- |1999年(平成11年) |3,283 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_02.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>3,250 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_02.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>3,313 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_02.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>3,251 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_02.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>3,228 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_02.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>3,141 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_02.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>3,128 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_02.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>3,152 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_02.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>3,105 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_02.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>3,065 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_02.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>2,973 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_02.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>2,943 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_02.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>2,903 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_04.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>2,956 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_04.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>2,954 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h26/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_04.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>2,829 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h27/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_04.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>2,890 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h28/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_04.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>2,890 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h29/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_04.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>2,892 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h30/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_04.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>2,846 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/index.html#a11 千葉県統計年鑑(令和元年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_04.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>2,783 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html#unyutuusin 千葉県統計年鑑(令和2年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_04.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - 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'''成東駅''' - [[松尾駅 (千葉県)|松尾駅]] : {{Color|#ff6600|■}}東金線 :: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速・{{Color|#339966|■}}快速(以上は東金線内各駅に停車)・{{Color|#ff6600|■}}普通(各駅停車)<!-- 房総地区では「普通」と「各駅停車」の表現が混用されているため併記 ---> ::: [[求名駅]] - '''成東駅''' == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === <!--==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} --> ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} ==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ==== {{Reflist|group="広報"}} === 利用状況 === {{Reflist|group="統計"}} ; JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 千葉県統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 関連項目 == {{commonscat|Narutō Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[千葉県道213号成東停車場線]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1136|name=成東}} {{総武本線}} {{東金線}} {{DEFAULTSORT:なるとう}} [[Category:千葉県の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 な|るとう]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:総武鉄道の鉄道駅]] [[Category:総武本線]] [[Category:東金線]] [[Category:1897年開業の鉄道駅]] [[Category:山武市の建築物|なるとうえき]]
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12,750
患者
患者(かんじゃ)とは、なんらかの健康上の問題のため、医師ないし歯科医師や専門の医療関係者の診断や治療、助言を受け、(広義な意での)医療サービスの対価を払う立場にある人。 英語で patient というところから、医療現場では、診療録などに Pt.(Pa.)という略記されることもある。 病院の患者には外来患者と入院患者がある。 外来患者のうち最初に新患として来院する患者を初診患者といい、その後治療のため継続的に来院する患者を再診患者という。一連の治療を終えて来院しなくなり、次に患った疾病により来院したときは再び初診患者となる。初診と再診の合計(外来患者数)に占める初診(初診患者数)の割合を初診率という。 入院患者の来院するルートには外来経由、救急経由、紹介経由の3つのパターンがある。外来経由は外来に通院していた患者の容体が悪化して検査目的または治療目的で入院するものをいう。救急経由は救急外来に直接あるいは救急車で到着しそのまま入院するものをいう。紹介経由は連携先の病院からの紹介で入院するものをいう。
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患者(かんじゃ)とは、なんらかの健康上の問題のため、医師ないし歯科医師や専門の医療関係者の診断や治療、助言を受け、(広義な意での)医療サービスの対価を払う立場にある人。 英語で patient というところから、医療現場では、診療録などに Pt.(Pa.)という略記されることもある。
[[Image:BloodPressure2.jpg|thumb|right|200px|医師による血圧測定を受ける患者]] '''患者'''(かんじゃ)とは、なんらかの[[健康]]上の問題のため、[[医師]]ないし[[歯科医師]]や専門の[[医療]]関係者の診断や治療、助言を受け、(広義な意での)医療サービスの対価を払う立場にある人。 英語で ''patient'' というところから、医療現場では、診療録などに Pt.(Pa.)という略記されることもある。 == 病院と患者 == [[病院]]の患者には外来患者と入院患者がある。 外来患者のうち最初に新患として来院する患者を初診患者といい、その後治療のため継続的に来院する患者を再診患者という<ref name="text6">{{Cite book |和書 |author1=大石佳能子|author2=小松大介|year=2015|title=病院経営の教科書|page=6|publisher=日本医事新報社}}</ref>。一連の治療を終えて来院しなくなり、次に患った疾病により来院したときは再び初診患者となる<ref name="text6" />。初診と再診の合計(外来患者数)に占める初診(初診患者数)の割合を初診率という<ref name="text6" />。 入院患者の来院するルートには外来経由、救急経由、紹介経由の3つのパターンがある<ref name="text10">{{Cite book |和書 |author1=大石佳能子|author2=小松大介|year=2015|title=病院経営の教科書|page=10|publisher=日本医事新報社}}</ref>。外来経由は外来に通院していた患者の容体が悪化して検査目的または治療目的で入院するものをいう<ref name="text10" />。救急経由は救急外来に直接あるいは救急車で到着しそのまま入院するものをいう<ref name="text10" />。紹介経由は連携先の病院からの紹介で入院するものをいう<ref name="text10" />。 == 出典 == <references /> ==関連項目== {{Commonscat|Patients}} {{Wiktionary|患者}} *[[患者の権利]] *[[医療]] *[[モンスターペイシェント]] *[[クライアント]] ==外部リンク== *[https://kotobank.jp/word/%E6%82%A3%E8%80%85-470046 コトバンク] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かんしや}} [[Category:患者|*]] [[Category:医療]]
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12,751
隠語
隠語(いんご、Jargon)とは、ある特定の専門家や仲間内だけで通じる言葉や言い回しや専門用語のこと。外部に秘密がもれないようにしたり、仲間意識を高めたりするために使われる。 隠語とは仲間内でのみ通用することを目的にした語である。暗語(あんご)、集団語(しゅうだんご)などともいう。 もともと特定の集団においては、細かな微妙な内容を効率的に表現するため、専門家の間では専門用語、特定の業界人の間では業界用語が用いられる。 「隠語」は英語ではsecret word、cant、jargon、secret languageなどと訳される。ただし、厳密にはジャーゴン(jargon)は客観的に専門家や業界人など限られた人間にしかわからない語をいい、回りくどい説明をしなくても特定の概念を表現することを目的としているのに対し、「隠語」はあえて仲間内にのみ通用することを目的として用いられる語であるとして、違いが指摘される。 隠語には次のような機能がある。 また、隠語には言葉遊びの性質もある。 隠語は内容がわかるか否かで内部と外部を分け、わからない人間は疎外感を味わうこともあるため、隠語は一般的には品位を伴うものとはみなされていない。 流通業や小売業などで使われる符丁(符牒)なども隠語の一種と考えられる。百貨店などの対面販売を重視する店舗では、顧客を尊重し不快な思いをさせないよう、「食事休憩」「トイレ」などの店員同士の会話・連絡の際に、各店舗ごとに異なる符丁でその事を伝える風習がある。また、得意客を一般客から区別するために特別な呼称を用い、これがある種のステータスともなり半ば伝統化している例もある。 犯罪者や警察官などが、集団外の人間に話している内容が知られては困る場合にわざと使う用語もこれに含まれる。法曹関係者、建設業従事者、芸能界関係者、マスメディア関係者、風俗業関係者などの間で用いられる、一般人には理解できないような言い回しなどもこれに入る。 医師や看護師などの医療関係者の場合、患者と家族の前で仕事を行うことになるため、あえて部外者には分からない言い回しを使うことによって、仕事を行いやすくする目的もある。例えば「エッセン」(食事休憩のこと。ドイツ語の essen(食べる)に由来)「拾う」(当直のさいに患者の死に遭遇すること。ドイツ語の sterben(死ぬ)から「シュテルベン→捨てる→拾う」という語呂合わせ)など。 日本の警察の場合「マル+漢字1文字」で表す隠語がよく使われることが知られている。「マル暴(暴力団、暴力団員)」「マル被(被疑者)」「マル害(被害者)」「マル目(目撃者)」「マル運(運転手)」「マルタイ(SPによる警護対象者・捜査機関による捜査対象者など、警察業務上何らかの対象となっている人物)」「マル走(暴走族)」「マル有(有線電話―警察無線に対して)」など。そのほか、短く略す「公妨(公務執行妨害)」などのように想像が付きやすい隠語もあるが、「ナシ割り(遺留品捜索)」「エス弾(煙状催涙ガス弾)」「ノビ(家宅侵入)」など一般人にはわかりにくい隠語もある。 業務無線では「通話コード」と呼ばれる、特定語に対応させた3桁の数字や3文字のアルファベットを用いて通信を行なう団体もある。 寄席芸人の隠語として「カゼ(扇子)」「マンダラ(手拭い)」「タロ(給料、金銭)」「タレ(女性)」「キン(観客)」「ドサ(田舎)」などがある。 客室乗務員の隠語では「UUU」というものがある。同じ便に乗り組む同僚に、注文の多い乗客についての注意喚起をするもので「Urusai」(うるさい)の3回繰り返しの頭字語。 旧日本海軍にも数多くの隠語が存在しており、「赤レンガ(霞が関にあった海軍省)」「レス(料亭)」「エス(芸者)」「ケップ(キャプテン・艦長)」「ケプガン(ガンルームすなわち士官次室の先任者)」「マリる(結婚する)」「CO(コーヒー)」「アドヴァンス(給料の前借り)」「マイナス(借金、付け。戦死した士官が料亭などに遺した「マイナス」は兵学校などの同期生が肩代わりして「マイナス」を支払うのが慣例で、戦争中は「○○(人名)のマイナス全部でいくつある?」になると「○○は戦死した」という婉曲表現にもなったという)」「ホワイト(芸者以外の、いわゆる素人女性。芸者などの「玄人」はブラックと呼んでいた)」「ウー(女性、ウーマンの略)」「手荒く(非常に・とても)」などの主に士官間で通じる士官用語や、「バス(風呂)」「オスタップ(桶)」「ジョンベラ(水兵服または水兵そのもの)」「楽長(進級が非常に遅い人)」「ジャクる(進級が遅れて拗ねてしまい極めて機嫌が悪いこと)」「司令官(立派なカイゼル髭を蓄えた古参兵)」「銀蠅(軍艦などに貯蔵している食糧や酒を拝借すること)」などの下士官・兵の間で用いられた用語、「陸さん・陸助・陸式・馬糞」(陸軍)、「修正(殴ってわからせる教育的指導)」などの共通用語があった。なお、旧海軍の事実上の後継者であり、慣習なども受け継いでいる海上自衛隊ではこれら隠語はあまり使用されていないようである。 鉄道でもJRを通じて全国で広く使われている隠語や各社で異なる隠語が存在する。「ラッチ(改札の鋏入れ)」「ナキヤ(アナウンス係)」「マグロ(轢死体)」など。電報略号から発生した略称もある。 相撲界、プロレス界では、「ちゃんこ(食事)」、「金星(美女)」、「お米(金)」、「ごっつあんです(ありがとうございます)」、「ガチンコ(真剣勝負)」、「タニマチ(スポンサー、支援者)」など。 インターネットでの言論を厳しく監視・規制している中国では、当局の検閲対象である「敏感詞」を回避するため隠語が生み出され、その隠語が新たに規制されるいたちごっこが続いている。隠語の例としては「デモ」→「散歩」、「習近平」→「くまのプーさん」「ジャイアン」、六四天安門事件関連におけるほぼ全ての隠語などがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "隠語(いんご、Jargon)とは、ある特定の専門家や仲間内だけで通じる言葉や言い回しや専門用語のこと。外部に秘密がもれないようにしたり、仲間意識を高めたりするために使われる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "隠語とは仲間内でのみ通用することを目的にした語である。暗語(あんご)、集団語(しゅうだんご)などともいう。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "もともと特定の集団においては、細かな微妙な内容を効率的に表現するため、専門家の間では専門用語、特定の業界人の間では業界用語が用いられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「隠語」は英語ではsecret word、cant、jargon、secret languageなどと訳される。ただし、厳密にはジャーゴン(jargon)は客観的に専門家や業界人など限られた人間にしかわからない語をいい、回りくどい説明をしなくても特定の概念を表現することを目的としているのに対し、「隠語」はあえて仲間内にのみ通用することを目的として用いられる語であるとして、違いが指摘される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "隠語には次のような機能がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、隠語には言葉遊びの性質もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "隠語は内容がわかるか否かで内部と外部を分け、わからない人間は疎外感を味わうこともあるため、隠語は一般的には品位を伴うものとはみなされていない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "流通業や小売業などで使われる符丁(符牒)なども隠語の一種と考えられる。百貨店などの対面販売を重視する店舗では、顧客を尊重し不快な思いをさせないよう、「食事休憩」「トイレ」などの店員同士の会話・連絡の際に、各店舗ごとに異なる符丁でその事を伝える風習がある。また、得意客を一般客から区別するために特別な呼称を用い、これがある種のステータスともなり半ば伝統化している例もある。", "title": "日本語の隠語の例" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "犯罪者や警察官などが、集団外の人間に話している内容が知られては困る場合にわざと使う用語もこれに含まれる。法曹関係者、建設業従事者、芸能界関係者、マスメディア関係者、風俗業関係者などの間で用いられる、一般人には理解できないような言い回しなどもこれに入る。", "title": "日本語の隠語の例" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "医師や看護師などの医療関係者の場合、患者と家族の前で仕事を行うことになるため、あえて部外者には分からない言い回しを使うことによって、仕事を行いやすくする目的もある。例えば「エッセン」(食事休憩のこと。ドイツ語の essen(食べる)に由来)「拾う」(当直のさいに患者の死に遭遇すること。ドイツ語の sterben(死ぬ)から「シュテルベン→捨てる→拾う」という語呂合わせ)など。", "title": "日本語の隠語の例" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本の警察の場合「マル+漢字1文字」で表す隠語がよく使われることが知られている。「マル暴(暴力団、暴力団員)」「マル被(被疑者)」「マル害(被害者)」「マル目(目撃者)」「マル運(運転手)」「マルタイ(SPによる警護対象者・捜査機関による捜査対象者など、警察業務上何らかの対象となっている人物)」「マル走(暴走族)」「マル有(有線電話―警察無線に対して)」など。そのほか、短く略す「公妨(公務執行妨害)」などのように想像が付きやすい隠語もあるが、「ナシ割り(遺留品捜索)」「エス弾(煙状催涙ガス弾)」「ノビ(家宅侵入)」など一般人にはわかりにくい隠語もある。", "title": "日本語の隠語の例" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "業務無線では「通話コード」と呼ばれる、特定語に対応させた3桁の数字や3文字のアルファベットを用いて通信を行なう団体もある。", "title": "日本語の隠語の例" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "寄席芸人の隠語として「カゼ(扇子)」「マンダラ(手拭い)」「タロ(給料、金銭)」「タレ(女性)」「キン(観客)」「ドサ(田舎)」などがある。", "title": "日本語の隠語の例" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "客室乗務員の隠語では「UUU」というものがある。同じ便に乗り組む同僚に、注文の多い乗客についての注意喚起をするもので「Urusai」(うるさい)の3回繰り返しの頭字語。", "title": "日本語の隠語の例" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "旧日本海軍にも数多くの隠語が存在しており、「赤レンガ(霞が関にあった海軍省)」「レス(料亭)」「エス(芸者)」「ケップ(キャプテン・艦長)」「ケプガン(ガンルームすなわち士官次室の先任者)」「マリる(結婚する)」「CO(コーヒー)」「アドヴァンス(給料の前借り)」「マイナス(借金、付け。戦死した士官が料亭などに遺した「マイナス」は兵学校などの同期生が肩代わりして「マイナス」を支払うのが慣例で、戦争中は「○○(人名)のマイナス全部でいくつある?」になると「○○は戦死した」という婉曲表現にもなったという)」「ホワイト(芸者以外の、いわゆる素人女性。芸者などの「玄人」はブラックと呼んでいた)」「ウー(女性、ウーマンの略)」「手荒く(非常に・とても)」などの主に士官間で通じる士官用語や、「バス(風呂)」「オスタップ(桶)」「ジョンベラ(水兵服または水兵そのもの)」「楽長(進級が非常に遅い人)」「ジャクる(進級が遅れて拗ねてしまい極めて機嫌が悪いこと)」「司令官(立派なカイゼル髭を蓄えた古参兵)」「銀蠅(軍艦などに貯蔵している食糧や酒を拝借すること)」などの下士官・兵の間で用いられた用語、「陸さん・陸助・陸式・馬糞」(陸軍)、「修正(殴ってわからせる教育的指導)」などの共通用語があった。なお、旧海軍の事実上の後継者であり、慣習なども受け継いでいる海上自衛隊ではこれら隠語はあまり使用されていないようである。", "title": "日本語の隠語の例" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "鉄道でもJRを通じて全国で広く使われている隠語や各社で異なる隠語が存在する。「ラッチ(改札の鋏入れ)」「ナキヤ(アナウンス係)」「マグロ(轢死体)」など。電報略号から発生した略称もある。", "title": "日本語の隠語の例" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "相撲界、プロレス界では、「ちゃんこ(食事)」、「金星(美女)」、「お米(金)」、「ごっつあんです(ありがとうございます)」、「ガチンコ(真剣勝負)」、「タニマチ(スポンサー、支援者)」など。", "title": "日本語の隠語の例" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "インターネットでの言論を厳しく監視・規制している中国では、当局の検閲対象である「敏感詞」を回避するため隠語が生み出され、その隠語が新たに規制されるいたちごっこが続いている。隠語の例としては「デモ」→「散歩」、「習近平」→「くまのプーさん」「ジャイアン」、六四天安門事件関連におけるほぼ全ての隠語などがある。", "title": "海外における隠語" } ]
隠語(いんご、Jargon)とは、ある特定の専門家や仲間内だけで通じる言葉や言い回しや専門用語のこと。外部に秘密がもれないようにしたり、仲間意識を高めたりするために使われる。
{{混同|x1=[[わいせつ|みだら]]な言葉|淫語}} '''隠語'''(いんご、Jargon)とは、ある特定の専門家や仲間内だけで通じる言葉や言い回しや[[専門用語]]のこと。外部に秘密がもれないようにしたり、仲間意識を高めたりするために使われる<ref>{{Cite web|和書|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%9A%A0%E8%AA%9E/|title= 日本大百科全書(小学館) 隠語|accessdate=2011-2-8}}</ref>。 == 概要 == 隠語とは仲間内でのみ通用することを目的にした語である<ref name="kato160" />。'''暗語'''(あんご)、'''集団語'''(しゅうだんご)などともいう。 もともと特定の集団においては、細かな微妙な内容を効率的に表現するため、専門家の間では専門用語、特定の業界人の間では'''[[業界用語]]'''が用いられる<ref name="kato160">加藤重広・町田健『日本語学のしくみ』研究社、2001年、160頁</ref>。 「隠語」は英語ではsecret word、cant、jargon、secret languageなどと訳される。ただし、厳密にはジャーゴン(jargon)は客観的に専門家や業界人など限られた人間にしかわからない語をいい、回りくどい説明をしなくても特定の概念を表現することを目的としているのに対し、「隠語」はあえて仲間内にのみ通用することを目的として用いられる語であるとして、違いが指摘される<ref name="kato160" />。 隠語には次のような機能がある。 # 外部の人間に話の内容を知られないよう隠蔽する機能<ref name="kato160" /> # 集団内で仲間意識を高める機能<ref name="kato160" /> また、隠語には[[言葉遊び]]の性質もある<ref name="kato160" />。 隠語は内容がわかるか否かで内部と外部を分け、わからない人間は疎外感を味わうこともあるため、隠語は一般的には[[品位]]を伴うものとはみなされていない<ref>加藤重広・町田健『日本語学のしくみ』、2001年、161頁</ref>。 == 日本語の隠語の例 == [[流通|流通業]]や[[小売|小売業]]などで使われる[[符牒|符丁(符牒)]]なども隠語の一種と考えられる。百貨店などの対面販売を重視する店舗では、顧客を尊重し不快な思いをさせないよう、「食事休憩」「トイレ」などの店員同士の会話・連絡の際に、各店舗ごとに異なる符丁でその事を伝える風習がある。また、得意客を一般客から区別するために特別な呼称を用い、これがある種の[[ステータス]]ともなり半ば伝統化している例もある。 [[犯罪者]]や[[警察官]]などが、集団外の人間に話している内容が知られては困る場合にわざと使う用語もこれに含まれる。[[法曹]]関係者、[[建設業]]従事者、[[芸能]]界関係者、[[マスメディア]]関係者、[[性風俗関連特殊営業|風俗業]]関係者などの間で用いられる、一般人には理解できないような言い回しなどもこれに入る。 [[医師]]や[[看護師]]などの医療関係者の場合、患者と家族の前で仕事を行うことになるため、あえて部外者には分からない言い回しを使うことによって、仕事を行いやすくする目的もある。例えば「エッセン」(食事休憩のこと。ドイツ語の [[Wikt:essen|essen]](食べる)に由来)「拾う」(当直のさいに患者の死に遭遇すること。ドイツ語の [[Wikt:sterben|sterben]](死ぬ)から「シュテルベン→捨てる→拾う」という語呂合わせ)など。 [[日本の警察]]の場合「マル+漢字1文字」で表す隠語がよく使われることが知られている。「マル暴([[暴力団]]、暴力団員)」「マル被(被疑者)」「マル害(被害者)」「マル目(目撃者)」「マル運(運転手)」「マルタイ(SPによる[[警護]]対象者・捜査機関による捜査対象者など、警察業務上何らかの対象となっている人物)」「マル走([[暴走族]])」「マル有(有線電話―[[警察無線]]に対して)」など。そのほか、短く略す「公妨([[公務の執行を妨害する罪|公務執行妨害]])」などのように想像が付きやすい隠語もあるが、「ナシ割り(遺留品捜索)」「エス弾(煙状[[催涙ガス弾]])」「ノビ(家宅侵入)」など一般人にはわかりにくい隠語もある。 [[業務無線]]では「通話コード」と呼ばれる、特定語に対応させた3桁の数字や3文字のアルファベットを用いて通信を行なう団体もある。 [[寄席]][[芸人]]の隠語として「カゼ(扇子)」「マンダラ(手拭い)」「タロ(給料、金銭)」「タレ(女性)」「キン(観客)」「ドサ(田舎)」などがある。 [[客室乗務員]]の隠語では「UUU」というものがある。同じ便に乗り組む同僚に、注文の多い乗客についての注意喚起をするもので「Urusai」(うるさい)の3回繰り返しの[[頭字語]]。 旧[[日本海軍]]にも数多くの隠語が存在しており、「赤レンガ([[霞が関]]にあった海軍省)」「レス(料亭)」「エス(芸者)」「ケップ(キャプテン・艦長)」「ケプガン(ガンルームすなわち士官次室の先任者)」「マリる(結婚する)」「CO(コーヒー)」「アドヴァンス(給料の前借り)」「マイナス(借金、付け。戦死した士官が料亭などに遺した「マイナス」は兵学校などの同期生が肩代わりして「マイナス」を支払うのが慣例で、戦争中は「○○(人名)のマイナス全部でいくつある?」になると「○○は戦死した」という婉曲表現にもなったという)」「ホワイト(芸者以外の、いわゆる素人女性。芸者などの「玄人」はブラックと呼んでいた)」「ウー(女性、ウーマンの略)」「手荒く(非常に・とても)」などの主に士官間で通じる士官用語や、「バス(風呂)」「オスタップ(桶)」「ジョンベラ(水兵服または水兵そのもの)」「楽長(進級が非常に遅い人)<ref group="注釈">他の兵科に比べて、軍楽隊は功績として評価される機会が乏しく、出世が遅れがちであったため</ref>」「ジャクる(進級が遅れて拗ねてしまい極めて機嫌が悪いこと)」「司令官(立派なカイゼル[[髭]]を蓄えた古参兵)」「銀蠅(軍艦などに貯蔵している食糧や酒を拝借すること)」などの下士官・兵の間で用いられた用語、「陸さん・陸助・陸式・馬糞」(陸軍)<ref group="注釈">海軍軍人はスマートさと粋が推奨され、武骨な陸軍の気風を軽侮する形容である。</ref>、「修正(殴ってわからせる教育的指導)」などの共通用語があった。なお、旧海軍の事実上の後継者であり、慣習なども受け継いでいる[[海上自衛隊]]ではこれら隠語はあまり使用されていないようである。 [[鉄道]]でもJRを通じて全国で広く使われている隠語や各社で異なる隠語が存在する。「ラッチ(改札の鋏入れ)」「ナキヤ(アナウンス係)」「[[マグロ (鉄道事故)|マグロ]](轢死体)」など。[[電報略号 (鉄道)|電報略号]]から発生した略称もある。 [[相撲]]界、[[プロレス]]界では、「[[ちゃんこ]](食事)」、「金星(美女)」、「お米(金)」、「[[ごっつあんです]](ありがとうございます)」、「[[ガチンコ]](真剣勝負)」、「[[タニマチ]](スポンサー、支援者)」など。 == 海外における隠語 == [[中国のネット検閲|インターネットでの言論を厳しく監視・規制している中国]]では、当局の[[検閲]]対象である「敏感詞」を回避するため隠語が生み出され、その隠語が新たに規制される[[いたちごっこ]]が続いている。隠語の例としては「[[デモ活動|デモ]]」→「散歩」、「[[習近平]]」→「くまのプーさん」「[[剛田武|ジャイアン]]」、[[六四天安門事件]]関連におけるほぼ全ての隠語などがある<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24481270R11C17A2TJQ000/ 「中国、強まるネット言論統制 検閲vs.隠語 やまぬ戦い」]『日本経済新聞』朝刊2017年12月12日(デジタルトレンド面)</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == * [[専門用語]] * [[業界用語]] * [[符牒|符丁(符牒)]] * [[女房言葉]] * [[性風俗用語一覧]] * [[若者言葉]] * [[廃語]](死語) * [[俗語]] * [[略語]] * [[スラング]] * [[卑語]] * [[ジャーゴンファイル]] * [[ケーフェイ]] * [[電報略号]] == 外部リンク == * [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&REFCODE=A03032014800 陸軍省朝鮮軍管区司令部築第12701部隊『地名等隠語集』1945年(国立公文書館)] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:いんこ}} [[Category:スラング|*いんこ]] [[Category:民俗学]] [[Category:セキュリティ技術]] [[Category:言葉の文化]] [[Category:侮蔑|*いんこ]]
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ACM国際大学対抗プログラミングコンテスト
ACM国際大学対抗プログラミングコンテスト (ACM International Collegiate Programming Contest、略称:ACM-ICPCまたは単にICPC) は、コンピュータープログラミングにおける勝ち抜き型のコンテストである。世界中の大学を対象として毎年開催されている。このコンテストはIBMにスポンサーとして協力を受けている。Executive DirectorのWilliam B. Poucher (大会本部であるベイラー大学に教授として在籍) のもと、ACMの後援によって六大州の各地で自律的に運営が行われている。 ACM国際大学対抗プログラミングコンテスト (ICPC) は1970年にテキサスA&M大学で開催されたコンテストがその始まりである。この年のコンテストはUpsilon Pi Epsilon Computer Science Honor Society (UPE) のAlpha Chapterが主催した。1977年にACM Computer Science Conferenceと併設して最初の決勝大会が行われ、この時から現在のような勝ち抜き型のコンテストとなった。 1977年から1989年の間は、主にアメリカ合衆国とカナダのチームを対象にして開催されていた。1989年からベイラー大学が大会本部となり、世界中の大学コミュニティの手で地区大会 (Regionals) が実施されるようになった。ACMの後援のもとで多くの企業のサポートを得て、2005年には84カ国からの参加がある世界的なコンテストに成長した。 1997年にIBMがスポンサーとなってから、コンテストの参加者は飛躍的に増大した。1997年の大会には560大学から840チームが、2007年には1,821大学から6,700チームが参加した。参加チーム数は毎年10-20%の割合で増え続けており、今後もさらに大規模になるだろうと考えられている。 ACM国際大学対抗プログラミングコンテストにおいて、世界大会 (ACM-ICPC World Finals) がその決勝戦である。歴史を振り返ると、世界各地の最高の開催地で4日間にわたるイベントが開催されている。このイベントで、Upsilon Pi Epsilonが全地区大会の優勝チームを表彰する。近年 (2009年時点) では、世界大会の優勝チームは自分たちの国の首脳から表彰を受け、毎年行われるACM Awards Ceremonyでも表彰されている。 日本では、国内で初めてとなるアジア地区予選大会が1998年に早稲田大学をホストとして東京で開催された。これ以降、会場を変えながら、日本国内でも毎年アジア地区予選が開催されている。 日本では国内での初開催以来、アジア地区予選大会に参加するチーム数を制限するため、アジア地区予選大会の前にインターネットを通して国内予選が行われている。例年、この国内予選で優秀な成績をおさめたチーム (近年は、上位に入った2大学の最上位チームであることが多い) は、日本以外で開催されるアジア地区予選大会へ金銭的な支援を受けて派遣される権利を得る。 2000年に筑波大学をホストとして開催されたアジア地区予選つくば大会では、国内予選への参加が88チーム、アジア地区予選への参加が34チームであった。2010年には、国内予選への参加が67大学287チーム、アジア地区予選大会への参加が30大学35チーム (国内予選に参加していない6チームの海外チームを含む) となっている。 ICPCはチーム戦であり、それぞれのチームは3人の学生から構成される。参加者は、国内予選前の時点で大学入学から5年(4月入学で1-3月生まれの場合は6年)に満たない大学生でなければならない。過去に世界大会に2年出場、もしくは地区予選大会に5年出場した学生は再び参加する権利を失う。 コンテストの間、チームは5時間で8-12問 (典型的には10問) のプログラミングの問題を解く。与えられた問題を解く順番は不問である。選手は回答のプログラムをC、C++、Javaのいずれかで書いて提出しなければならない。提出すると、プログラムはテストデータを入力として実行される。このテストデータは、コンテスト中は公開されない。プログラムが不正に終了した場合や、正しい解を出すことができなかった場合は選手にその旨が伝えられ、選手は何度でも回答プログラムを修正し、提出することができる。各問題ごとに規定された実行時間内にプログラムが実行を完了しなかった場合は、不正解の扱いとなる。 最も多くの問題を正解したチームが勝者となる。メダルや賞を与えるために引き分けのチームに順位をつける必要がある場合、コンテスト開始時から各問題に正解を提出した時点までの経過時間に最終的に正解した問題について不正解の提出ごとに20分が加算され、その総和によってチームの順位が決定される。 例えば2つのチームRedとBlueがそれぞれ2問を正解して引き分けとなっている状況を考える。チームRedは、コンテストの開始から1:00後と2:45後に、それぞれ問題AとBに解答を提出した。このチームは問題Cに対して不正解の通知を受けたが、最終的に問題Cを正解していないため、これは無視された。チームBlueは、コンテスト開始からそれぞれ1:20後と2:00後に、それぞれ問題AとCに解答を提出した。このチームは問題Cに対して1回不正解の通知を受けた。このとき、チームRedの総時間は1:00+2:45=3:45と、チームBlueの総時間は1:20+2:00+0:20=3:40となる。最終的にチームBlueの勝利となる。 他のプログラミングコンテスト (例えば国際情報オリンピック) と比較して、ICPCの特徴は問題数が多いこと (ちょうど5時間で8問以上) である。他の特徴として、チームには3人の学生がいるにもかかわらず、各チーム1台しかコンピュータを使うことができないということがある。このことが時間のプレッシャーをより大きなものにしている。勝つためには良いチームワークとプレッシャーに耐える能力が必要である。 日本におけるアジア地区予選大会のルールは、基本的にはコンテスト全体で定められている上記のルールと同様である。1998年-2003年のアジア地区予選大会では問題数が8問だったが、2004年-2006年は9問、2007-2011年は10問で行われている。国内予選は3時間の制限時間で行われ、2003年までは5問、2004年-2009年は6問、2010-2011年は7問用意されている。 このコンテストはいくつかの段階で構成される。多くの大学では地区予選レベルの大会に参加するチームを決定するためのローカルコンテストを開催する。それから大学(の代表チーム)が地区予選大会に参加し、競技を行う。地区予選大会の勝者が世界大会に進出する。ある1つの大学から複数のチームが地区予選大会に参加することはできるが、世界大会には1つの大学から1つのチームしか参加することができない。各地区予選大会から、最低でも1チームが世界大会に進出する。多くのチームが参加する地区予選大会からは、複数のチームが世界大会に進出することがある。 (1つの巨大な地区予選大会から6チームものチームが出場することも時々ある) 1人の選手は世界大会に2回までしか参加することができない。 巨大な地区予選大会では、大学ごとのローカルコンテストと地区予選大会の間に小地区予選大会 (もしくは予選大会) を開くことがある。 2006年時点では、アジア地区からの世界大会進出チーム決定のルールが毎年のように変更されており、大きく揺れ動いている。 日本で開催される地区予選大会から世界大会へ進出するチームの決定は、基本的にアジア地区全体のルールに則って行われる。 2022年時点で、世界大会に進出した日本の大学とその回数は、東京大学18回、京都大学16回、東京工業大学7回、筑波大学4回、会津大学4回、埼玉大学2回、電気通信大学2回、早稲田大学2回、慶應義塾大学2回、大阪大学1回である。このうち、日本チームの過去最高成績は2013, 2015, 2019, 2022年の東京大学チームの3位である。世界大会が日本で開催されるのは2007年が初となる。
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ACM国際大学対抗プログラミングコンテスト は、コンピュータープログラミングにおける勝ち抜き型のコンテストである。世界中の大学を対象として毎年開催されている。このコンテストはIBMにスポンサーとして協力を受けている。Executive DirectorのWilliam B. Poucher (大会本部であるベイラー大学に教授として在籍) のもと、ACMの後援によって六大州の各地で自律的に運営が行われている。
{{Refimprove|date=2009年3月}} <!-- Headquarter : 大会本部 / host : 主催 / auxpices (auspex) : 後援 --> <!-- この段落は英語版のほぼ一対一の対訳である -->'''ACM国際大学対抗プログラミングコンテスト''' ('''ACM''' '''I'''nternational '''C'''ollegiate '''P'''rogramming '''C'''ontest、略称:ACM-ICPCまたは単にICPC) は、コンピュータープログラミングにおける勝ち抜き型のコンテストである。世界中の大学を対象として毎年開催されている。このコンテストは[[IBM]]にスポンサーとして協力を受けている。Executive DirectorのWilliam B. Poucher (大会本部である[[ベイラー大学]]に教授として在籍) のもと、[[Association for Computing Machinery|ACM]]の後援によって六大州の各地で自律的に運営が行われている。 ==歴史==<!-- この項目は英語版のほぼ一対一の対訳である --> <!-- この段落は英語版のほぼ一対一の対訳である -->ACM国際大学対抗プログラミングコンテスト ([[ICPC]]) は1970年に[[テキサスA&M大学]]で開催されたコンテストがその始まりである。この年のコンテストは[[Upsilon Pi Epsilon]] Computer Science Honor Society (UPE) のAlpha Chapterが主催した。1977年に[[Association for Computing Machinery|ACM]] Computer Science Conferenceと併設して最初の決勝大会が行われ、この時から現在のような勝ち抜き型のコンテストとなった。 <!-- この段落は英語版のほぼ一対一の対訳である -->1977年から1989年の間は、主に[[アメリカ合衆国]]と[[カナダ]]のチームを対象にして開催されていた。1989年から[[ベイラー大学]]が大会本部となり、世界中の大学コミュニティの手で地区大会 (Regionals) が実施されるようになった。[[Association for Computing Machinery|ACM]]の後援のもとで多くの企業のサポートを得て、2005年には84カ国からの参加がある世界的なコンテストに成長した。 <!-- この段落は英語版のほぼ一対一の対訳である -->1997年に[[IBM]]がスポンサーとなってから、コンテストの参加者は飛躍的に増大した。1997年の大会には560大学から840チームが、2007年には1,821大学から6,700チームが参加した。参加チーム数は毎年10-20%の割合で増え続けており、今後もさらに大規模になるだろうと考えられている。 <!-- この段落は英語版のほぼ一対一の対訳である -->ACM国際大学対抗プログラミングコンテストにおいて、世界大会 (ACM-ICPC World Finals) がその決勝戦である。歴史を振り返ると、世界各地の最高の開催地で4日間にわたるイベントが開催されている。このイベントで、[[UPE|Upsilon Pi Epsilon]]が全地区大会の優勝チームを表彰する。近年 (<!-- 追記 -->2009年時点) では、世界大会の優勝チームは自分たちの国の首脳から表彰を受け、毎年行われる[[Association for Computing Machinery|ACM]] Awards Ceremonyでも表彰されている。 <!-- ===アジア地区における歴史 (未記述) === --> ===日本における歴史===<!-- この項目は日本語版のオリジナルである --> <!-- この段落は日本語版のオリジナルである -->日本では、国内で初めてとなるアジア地区予選大会が1998年に[[早稲田大学]]をホストとして東京で開催された。これ以降、会場を変えながら、日本国内でも毎年アジア地区予選が開催されている。 <!-- この段落は日本語版のオリジナルである -->日本では国内での初開催以来、アジア地区予選大会に参加するチーム数を制限するため、アジア地区予選大会の前にインターネットを通して国内予選が行われている。例年、この国内予選で優秀な成績をおさめたチーム (近年は、上位に入った2大学の最上位チームであることが多い) は、日本以外で開催されるアジア地区予選大会へ金銭的な支援を受けて派遣される権利を得る。 <!-- この段落は日本語版のオリジナルである -->2000年に[[筑波大学]]をホストとして開催されたアジア地区予選つくば大会では、国内予選への参加が88チーム、アジア地区予選への参加が34チームであった。2010年には、国内予選への参加が67大学287チーム、アジア地区予選大会への参加が30大学35チーム (国内予選に参加していない6チームの海外チームを含む) となっている。 ==コンテストのルール==<!-- この項目は英語版の日本語訳に一部加筆・修正したものである --> <!-- この段落は英語版の日本語訳に一部加筆・修正したものである -->ICPCはチーム戦であり、それぞれのチームは3人の学生から構成される。参加者は、国内予選前の時点で大学入学から5年(4月入学で1-3月生まれの場合は6年)に満たない大学生でなければならない。過去に世界大会に2年出場、もしくは地区予選大会に5年出場した学生は再び参加する権利を失う。 <!-- この段落は英語版の日本語訳に一部加筆・修正したものである -->コンテストの間、チームは5時間で8-12問 (典型的には10問) のプログラミングの問題を解く。与えられた問題を解く順番は不問である。選手は回答のプログラムを[[C言語|C]]、[[C++]]、[[Java]]のいずれかで書いて提出しなければならない。提出すると、プログラムはテストデータを入力として実行される。このテストデータは、コンテスト中は公開されない。プログラムが不正に終了した場合や、正しい解を出すことができなかった場合は選手にその旨が伝えられ、選手は何度でも回答プログラムを修正し、提出することができる。各問題ごとに規定された実行時間内にプログラムが実行を完了しなかった場合は、不正解の扱いとなる。 <!-- この段落は英語版のほぼ一対一の対訳である -->最も多くの問題を正解したチームが勝者となる。メダルや賞を与えるために引き分けのチームに順位をつける必要がある場合、コンテスト開始時から各問題に正解を提出した時点までの経過時間に最終的に正解した問題について不正解の提出ごとに20分が加算され、その総和によってチームの順位が決定される。 <!-- この段落は英語版のほぼ一対一の対訳である -->例えば2つのチームRedとBlueがそれぞれ2問を正解して引き分けとなっている状況を考える。チームRedは、コンテストの開始から1:00後と2:45後に、それぞれ問題AとBに解答を提出した。このチームは問題Cに対して不正解の通知を受けたが、最終的に問題Cを正解していないため、これは無視された。チームBlueは、コンテスト開始からそれぞれ1:20後と2:00後に、それぞれ問題AとCに解答を提出した。このチームは問題Cに対して1回不正解の通知を受けた。このとき、チームRedの総時間は1:00+2:45=3:45と、チームBlueの総時間は1:20+2:00+0:20=3:40となる。最終的にチームBlueの勝利となる。 <!-- この段落は英語版のほぼ一対一の対訳である -->他のプログラミングコンテスト (例えば[[国際情報オリンピック]]) と比較して、ICPCの特徴は問題数が多いこと (ちょうど5時間で8問以上) である。他の特徴として、チームには3人の学生がいるにもかかわらず、各チーム1台しかコンピュータを使うことができないということがある。このことが時間のプレッシャーをより大きなものにしている。勝つためには良いチームワークとプレッシャーに耐える能力が必要である。 <!-- ===アジア地区におけるコンテストのルール=== --> ===日本におけるコンテストのルール===<!-- この項目は日本語版のオリジナルである --> <!-- この段落は日本語版のオリジナルである -->日本におけるアジア地区予選大会のルールは、基本的にはコンテスト全体で定められている上記のルールと同様である。1998年-2003年のアジア地区予選大会では問題数が8問だったが、2004年-2006年は9問、2007-2011年は10問で行われている。国内予選は3時間の制限時間で行われ、2003年までは5問、2004年-2009年は6問、2010-2011年は7問用意されている。 ==地区予選と世界大会<!-- 加筆 --> (進出ルール) ==<!-- この項目は英語版の日本語訳に一部加筆したものである --> <!-- この段落は英語版の日本語訳に一部加筆したものである -->このコンテストはいくつかの段階で構成される。多くの大学では地区予選レベルの大会に参加するチームを決定するためのローカルコンテストを開催する。それから大学<!-- 加筆 -->(の代表チーム)が地区予選大会に参加し、競技を行う。地区予選大会の勝者が世界大会に進出する。ある1つの大学から複数のチームが地区予選大会に参加することはできるが、世界大会には1つの大学から1つのチームしか参加することができない。各地区予選大会から、最低でも1チームが世界大会に進出する。多くのチームが参加する地区予選大会からは、複数のチームが世界大会に進出することがある。 (1つの巨大な地区予選大会から6チームものチームが出場することも時々ある) <!-- この段落は英語版のほぼ一対一の対訳である -->1人の選手は世界大会に2回までしか参加することができない。 <!-- この段落は英語版の日本語訳に一部加筆したものである -->巨大な地区予選大会では、<!-- 加筆 -->大学ごとのローカルコンテストと地区予選大会の間に小地区予選大会 (もしくは予選大会) を開くことがある。 ===アジア地区における進出ルール===<!-- この項目は日本語版のオリジナルである --> <!-- この段落は日本語版のオリジナルである -->2006年時点では、アジア地区からの世界大会進出チーム決定のルールが毎年のように変更されており、大きく揺れ動いている。 ===日本における進出ルール===<!-- この項目は日本語版のオリジナルである --> <!-- この段落は日本語版のオリジナルである -->日本で開催される地区予選大会から世界大会へ進出するチームの決定は、基本的にアジア地区全体のルールに則って行われる。 <!-- この段落は日本語版のオリジナルである --><!--例年、日本では地区予選大会の前に国内予選が行われる。国内予選からアジア地区予選へ進出するチームの決定には、ここ数年 (2006年以前) は、以下のようなルールが用いられている。(未記述)--> == 歴代優勝校 == {| class="wikitable" |+Years !Year !Country !Institution |- |2022 |{{flag|United States}} |[[マサチューセッツ工科大学]] |- |2021 |{{flag|Russia}} |[[ニジニ・ノヴゴロド国立大学]] |- |2019 |{{flag|Russia}} |[[モスクワ大学]] |- |2018 |{{flag|Russia}} |[[モスクワ大学]] |- |2017 | {{flag|Russia}} | [[サンクトペテルブルク国立情報技術・機械・光学大学]] |- |2016 | {{flag|Russia}} | [[サンクトペテルブルク大学]] |- |2015 | {{flag|Russia}} | [[サンクトペテルブルク国立情報技術・機械・光学大学]] |- | 2014 | {{flag|Russia}} | [[サンクトペテルブルク大学]] |- |2013 | {{flag|Russia}} | [[サンクトペテルブルク国立情報技術・機械・光学大学]] |- |2012 | {{flag|Russia}} | [[サンクトペテルブルク国立情報技術・機械・光学大学]] |- |2011 | {{flag|China}} | [[浙江大学]] |- |2010 | {{flag|China}} | [[上海交通大学]] |- |2009 | {{flag|Russia}} | [[サンクトペテルブルク国立情報技術・機械・光学大学]] |- | 2008 | {{flag|Russia}} | [[サンクトペテルブルク国立情報技術・機械・光学大学]] |- |2007 | {{flag|Poland}} | [[ワルシャワ大学]] |- |2006 | {{flag|Russia}} | [[サラトフ国立大学]] |- | 2005 | {{flag|China}} | [[上海交通大学]] |- |2004 | {{flag|Russia}} | [[サンクトペテルブルク国立情報技術・機械・光学大学]] |- | 2003 | {{flag|Poland}} | [[ワルシャワ大学]] |- | 2002 | {{flag|China}} | [[上海交通大学]] |- | 2001 | {{flag|Russia}} | [[サンクトペテルブルク大学]] |- | 2000 | {{flag|Russia}} | [[サンクトペテルブルク大学]] |- | 1999 | {{flag|Canada}} | [[ウォータールー大学]] |- | 1998 | {{flag|Czech Republic}} | [[プラハ・カレル大学]] |- | 1997 | {{flag|United States}} | [[ハーベイ・マッド大学]] |- | 1996 | {{flag|United States}} | [[カリフォルニア大学バークレー校]] |- | 1995 | {{flag|Germany}} | [[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク]] |- |1994 | {{flag|Canada}} | [[ウォータールー大学]] |- | 1993 | {{flag|United States}} | 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Regional | 国際大学対抗プログラミングコンテスト2016アジア地区つくば大会]</ref> * 2015年度 つくば大会 [[筑波大学]]<ref group="※">[http://icpc.iisf.or.jp/2015-tsukuba/ ACM-ICPC 2015 Tsukuba | 国際大学対抗プログラミングコンテスト]</ref> * 2014年度 東京大会 [[早稲田大学]]<ref group="※">[http://icpc.iisf.or.jp/2014-waseda/ The 2014 ACM-ICPC Asia Tokyo Regional Contest The 2014 ACM-ICPC Asia Tokyo Regional Contest | ACM-ICPC 国際大学対抗プログラミングコンテスト]</ref> * 2013年度 会津大会 [[会津大学]]<ref group="※">[http://sparth.u-aizu.ac.jp/icpc2013/ The 2013 ACM-ICPC Asia Aizu Regional Contest :: Home]</ref> * 2012年度 東京大会 [[東京工業大学]]<ref group="※">[http://www.cs.titech.ac.jp/icpc2012/ ACM-ICPC 2012 in Tokyo]</ref> * 2011年度 福岡大会 [[九州大学]]<ref group="※">[http://icpc2011.ait.kyushu-u.ac.jp/ja]</ref> * 2010年度 東京大会 [[国立情報学研究所]]<ref group="※">[http://icpc2010.honiden.nii.ac.jp/]</ref> * 2009年度 東京大会 [[早稲田大学]]<ref group="※">[http://www.waseda.jp/assoc-icpc2009/jp/]</ref> * 2008年度 会津大会 [[会津大学]]<ref group="※">[http://sparth.u-aizu.ac.jp/icpc2008/index.php?lang=jp Aizu ACM/ICPC 2008 contest :: Home]</ref> * 2007年度 東京大会 [[東京大学]]<ref group="※">[http://www.logos.ic.i.u-tokyo.ac.jp/icpc2007/jp/index.html]</ref> * 2006年度 横浜大会 [[慶應義塾大学]]<ref group="※">[http://www.acm-japan.org/icpc2006/jp/]</ref> * 2005年度 東京大会 [[東京工科大学]]<ref group="※">[http://www.teu.ac.jp/icpc/jp/]</ref> * 2004年度 愛媛大会 [[愛媛大学]]<ref group="※">[http://www.ehime-u.ac.jp/ICPC/jp/]</ref> * 2003年度 会津大会 [[会津大学]]<ref group="※">[http://www.u-aizu.ac.jp/conference/ACM/j/ The 2003 ACM/ICPC Regional Programming Contest, Aizu-Wakamatsu, Japan]</ref> * 2002年度 金沢大会 [[金沢工業大学]]<ref group="※">[http://www.kitnet.jp/icpc/j/ Kanazawa Institute of Technology]</ref> * 2001年度 函館大会 [[公立はこだて未来大学]]<ref group="※">[http://www.fun.ac.jp/icpc/index-j.html]</ref> * 2000年度 筑波大会 [[つくば国際会議場]]<ref group="※">[http://icpc.score.is.tsukuba.ac.jp/index-j.html]</ref> * 1999年度 京都大会 [[京都リサーチパーク]] * 1998年度 東京大会 [[早稲田大学]] === 過去の世界大会 === 2022年時点で、世界大会に進出した日本の大学とその回数は、[[東京大学]]18回、[[京都大学]]16回、[[東京工業大学]]7回、[[筑波大学]]4回、[[会津大学]]4回、[[埼玉大学]]2回、[[電気通信大学]]2回、[[早稲田大学]]2回、[[慶應義塾大学]]2回、[[大阪大学]]1回である。このうち、日本チームの過去最高成績は2013, 2015, 2019, 2022年の東京大学チームの3位である。世界大会が日本で開催されるのは2007年が初となる。 {| class="wikitable" border="1" |+ 過去に世界大会に出場した日本チーム |- ! 年 ! 開催地 ! 大学 ! 順位 ! メダル ! メンバー |- | rowspan="4" | 2022 | rowspan="4" | Dhaka | 東京大学 | 3位/132チーム | style="background-color:#F5CE13" | 金 |Hirotaka Isa, Riku Kawasaki, Yuta Takaya | |- |東京工業大学 | 15位/132チーム |― |Mikihito Matsuura, Takuto Yoshida, Tatsuhito Yamagata | |- | 京都大学 | 23位/132チーム |― |Chuta Yamaoka, Tomohito Omori, Yuya Kadono | |- | 慶應義塾大学 | 42位/132チーム |― |Keita Murase, Ryuto Kojima, Tomohiro Nakayoshi |- | rowspan="1" | 2021 | rowspan="1" | Moscow | 会津大学 | 27位/117チーム |― |Aki Nakamura, Hiroki Ohashi, Hisato Matsukawa | |- | rowspan="4" | 2019 | rowspan="4" | Porto | 東京大学 | 3位/135チーム | style="background-color:#F5CE13" | 金 |Kohei Morita, Riku Kawasaki, Takuto Shigemura |- |筑波大学 |21位タイ/135チーム |― |Yuki Koike, Akio Matsuzaki, Nozomu Nakajima |- | 京都大学 | 41位タイ/135チーム |― |Go Kato, Ryoma Sato, Shunta Masuda |- | 早稲田大学 | 41位タイ/135チーム |― | Taiki Yamada, Ko Sato, Ryo Ishizuka |- | rowspan="3" | 2018 | rowspan="3" | Beijing | 東京大学 | 4位/135チーム | style="background-color:#F5CE13" | 金 |Kazumi Kasaura, Soh Kumabe, Kohji Liu |- | 東京工業大学 | 31位タイ/135チーム |― |Riki Fukunari, Mikito Ota, Takuto Yoshida |- | 筑波大学 | 順位無し |― | Haruka Iwaki, Yuuji Moroto, Yasuaki Rokugo |- | rowspan="4" | 2017 | rowspan="4" | Rapid City | 東京大学 | 12位/133チーム | style="background-color:#CC9966" | 銅 |Kazumi Kasaura, Soh Kumabe, Kohji Liu |- |東京工業大学 |34位タイ/133チーム |― |Ngoc Khanh Do, Hiroki Katsumata, Kohei Morita |- | 慶應義塾大学 | 56位タイ/133チーム |― |Kento Nikaido, Naoya Niwa, Tetsui Ohkubo |- | 会津大学 | 56位タイ/133チーム |― | Kazuya Watanabe, Tadamasa Yamaguchi, Takumi Yamashita |- |- | rowspan="4" | 2016 | rowspan="4" | Phuket | 東京大学 | 14位タイ/128チーム | | ― |Ikumi Hide, Shogo Murai, Shinya Shiroshita |- |京都大学 |28位タイ/128チーム |― |Akifumi Imanishi, Yuta Ojima, Kazuki Takise |- | 大阪大学 | 順位無し |― |Naohiro Kawamitsu, Kazuma Mikami, Yosuke Sameshima |- | 会津大学 | 順位無し |― |Kazuki Omomo, Tadamasa Yamaguchi, Takumi Yamashita |- | rowspan="3" | 2015 | rowspan="3" | Marrakesh | 東京大学 | 3位/128チーム | style="background-color:#F5CE13" | 金 | Kensuke Imanishi, Shogo Murai, Makoto Soejima |- | 京都大学 | 28位タイ/128チーム |― | Shogo Ehara, Shoichi Nishimura, Tomohiro Oka |- | 筑波大学 | 28位タイ/128チーム |― | Takaaki Hiragushi, Ryosuke Koyanagi, Nozomu Nakajima |- | rowspan="4" | 2014 | rowspan="4" | Ekaterinburg | 東京大学 | 7位/122チーム | style="background-color:#C0C0C0" | 銀 | Ikumi Hide, Kengo Nakasuka, Ryoga Tanaka |- | 京都大学 | 19位タイ/122チーム |― | Shogo Ehara, Shoichi Nishimura, Tomohiro Oka |- | 東京工業大学 | 45位タイ/122チーム |― | Shogo Kishimoto, Osamu Koga, Kotaro Osada |- | 筑波大学 | 45位タイ/122チーム |― | Takaaki Hiragushi, Isamu Takagi, Shunsuke Takano |- | rowspan="3" | 2013 | rowspan="3" | Saint Petersburg | 東京大学 | 3位/120チーム | style="background-color:#F5CE13" | 金 | 保坂和宏, Kensuke Imanishi, 副島真 |- | 電気通信大学 | 14位タイ/120チーム |― | Izuru Matsuura, Naoto Osaka, Masafumi Yabu |- | 東京工業大学 | 順位無し |― | Osamu Koga, Masaya Suzuki, Kohei Suzuki |- | rowspan="3" | 2012 | rowspan="3" | Warsaw | 東京大学 | 11位/112チーム | style="background-color:#CC9966" | 銅 | Takuya Akiba, Masaki Watanabe, Kota Yoshizato |- | 京都大学 | 18位タイ/112チーム |― | Kentaro Imajo, Mitsuru Kusumoto, Shingo Mori |- | 電気通信大学 | 順位無し |― | Ryota Fujii, Ryo Matsumiya, Masafumi Yabu |- | rowspan="2" | 2011 | rowspan="2" | Orlando | 東京大学 | 27位タイ/105チーム |― | Kazuhiro Hosaka, Eiichi Matsumoto, Yoko Oya |- | 京都大学 | 27位タイ/105チーム |― | Yasuharu Hirasawa, Norihiro Kamae, Shohei Nishida |- | rowspan="2" | 2010 | rowspan="2" | Harbin | 東京大学 | 14位タイ/103チーム |― | Yoichi Iwata, Masatoshi Kitagawa, Song Gi Ryang |- | 京都大学 | 14位タイ/103チーム |― | Yasuharu Hirasawa, Norihiro Kamae, Shohei Nishida |- | rowspan="3" | 2009 | rowspan="3" | Stockholm | 東京大学 | 20位タイ/100チーム |― | Yoichi Iwata, Masatoshi Kitagawa, Song Gi Ryang |- | 会津大学 | 49位タイ/100チーム |― | Yuki Hirano, Takashi Tayama, Nobuyuki Wachi |- | 埼玉大学 | 順位無し |― | Eiichiro Iwata, Junichi Tamura, Hiroshi Watabe |- | rowspan="2" | 2008 | rowspan="2" | Banff | 東京大学 | 13位タイ/100チーム |― | Kazuki Ohta, Shuhei Takahashi, Sukehide Ushioda |- | 京都大学 | 47位タイ/100チーム |― | Toshiyuki Hanaoka, Norihiro Katsumaru, Yuichi Yoshida |- | rowspan="3" | 2007 | rowspan="3" | Tokyo | 京都大学 | 14位タイ/88チーム |― | Toshiyuki Hanaoka, Norihiro Katsumaru, Yuichi Yoshida |- | 東京大学 | 26位タイ/88チーム |― | Nobuo Araki, Hiroshige Hayashizaki, Koichi Suematsu |- | 埼玉大学 | 44位タイ/88チーム |― | Masaya Kiwada, Kei Tateno, Hiroshi Watabe |- | rowspan="2" | 2006 | rowspan="2" | San Antonio | 京都大学 | 19位タイ/83チーム |― | Ryota Kinjo, Takayuki Muranushi, Hideyuki Tanaka |- | 東京大学 | 19位タイ/83チーム |― | Toru Nishikawa, Shun Sakuraba, Yu Sugawara |- | rowspan="2" | 2005 | rowspan="2" | Shanghai | 京都大学 | 29位タイ/78チーム |― | Ryota Kinjo, Takayuki Muranushi, Hideyuki Tanaka |- | 東京大学 | 順位無し |― | Kazuhiro Inaba, Shinya Kawanaka, Toshihiro Yoshino |- | 2004 | Prague | 東京工業大学 | 27位タイ/73チーム |― | Yusuke Izumi, Tomohiro Kaizu, Dai Mikurube |- | rowspan="2" | 2003 | rowspan="2" | Beverly Hills | 東京大学 | 11位/70チーム | style="background-color:#CC9966" | 銅 | Kazuhiro Inaba, Masahiro Kasahara, Toshihiro Yoshino |- | 東京工業大学 | 21位タイ/70チーム |― | Yusuke Izumi, Yusuke Kikuchi, Dai Mikurube |- | 2002 | Honolulu | 東京大学 | 18位タイ/64チーム |― | Tsuyoshi Ito, Masahiro Kasahara, Masashi Seiki |- | 2001 | Vancouver | 京都大学 | 14位タイ/64チーム | style="background-color:#CC9966" | 銅 | Yasutaka Atarashi, Tetsuo Ogino, Hiroki Yanagisawa |- | 2000 | Orlando | 京都大学 | 7位タイ/60チーム | style="background-color:#CC9966" | 銅 | Norimasa Fujita, Takashi Sumiyoshi, Satoshi Yamada |- | rowspan="2" | 1999 | rowspan="2" | Eindhoven | 京都大学 | 18位タイ/62チーム |― | Yasutaka Atarashi, Takashi Sumiyoshi, Hiroki Yanagisawa |- | 早稲田大学 | 順位無し |― | Shinya Cho, Masaya Kurisu, Yusuke Sato |- | 1998 | Atlanta | 京都大学 | 順位無し |― | Masashi Hayakawa, Ryo Yokoyama, Takuya Yoshihiro |} == 注釈 == {{Reflist|group="※"}} == 外部リンク == * [https://cphof.org/contest/icpc ICPC World Finals] * [https://web.archive.org/web/20121124072039/http://www.acm-japan.org/ ACM 日本支部] - 閉鎖。(2012年11月24日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) * [http://www.iisf.or.jp/ 公益財団法人情報科学国際交流財団] - 解散した ACM 日本支部に代わって日本国内のACM国際大学対抗プログラミングコンテスト開催を引き継ぐ * [https://corp.rakuten.co.jp/news/press/2009/0709.html 楽天、ACM国際大学対抗プログラミングコンテスト 東京大会に特別協賛] {{DEFAULTSORT:ACMこくさいたいかくたいこうふろくらみんくこんてすと}} [[Category:国際競技大会]] [[Category:学生大会]] [[Category:プログラミングコンテスト]] [[Category:Association for Computing Machinery|こくさいたいかくたいこうふろくらみんくこんてすと]]
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舞浜リゾートラインディズニーリゾートライン
ディズニーリゾートライン(Disney Resort Line)は、舞浜リゾートラインが運営するモノレール路線である。千葉県浦安市の東京ディズニーリゾート(TDR)内を運行している。 東日本旅客鉄道(JR東日本)京葉線舞浜駅とTDR内の各施設を連絡して入園客を輸送することを目的とする。路線は単線で環状となっており、反時計回りに進む列車のみ運行されている。1周の所要時間は約13分である。駅間の所要時間はベイサイド・ステーション駅 - 東京ディズニーシー・ステーション駅間約4分、それ以外の区間は約2 - 3分。 全駅のすべての出入口が舞浜リゾートラインの親会社でTDRの経営・運営を統括するオリエンタルランド(OLC)の所有地内にあり、公道とは直接接続されていない。ベイサイド・ステーション駅もTDRのリゾートパーキング内にあり、公道とは直接接続していない。 他のTDR構成施設と同様に従業員のことを「キャスト」と呼称しており、駅員を「ステーションキャスト」、車掌を「コンダクター」、運転士を「ドライバー」と呼称している。本項では以下この呼称を使用する。 アトラクションと捉えられる場合も多いが、TDRの園内鉄道である「ウエスタンリバー鉄道」や「ディズニーシー・エレクトリックレールウェイ」と異なり、公道上空を走っており、鉄道事業法に基づいた公共交通機関である。このため、東京ディズニーランドと東京ディズニーシーが休園していても運行される。駅と路線は全てパーク外の、入園料を払わなくても出入りできるエリアにあり、時刻表の路線図に掲載されている。 ディズニーリゾートラインは通常時は全列車において自動運転が行われ、環状の単線を反時計回りで運行する。そのため通常運転時にドライバーは乗務しないが、ドア扱い・安全監視・案内などを担当するコンダクターが乗務し、完全な無人運転とはしていない(IEC・JISが定める自動化レベル「GoA3」〈添乗員付き自動運転、DTO〉に該当)。 全ての駅にホームゲートが設置されているほか、車両のドアとホームゲートには戸先センサーが取り付けられており、閉まりかけたゲートに物などが触れると一旦開き、再び閉扉動作をする(3回この動作を繰り返すと、そのゲートは開放状態になる)仕組みになっており、列車は出発できないよう安全なシステムを取り入れている。また、各駅のホームには一部時間帯を除いて必ずステーションキャストが配置されており、列車到着時のホームにおける安全監視を行っている。列車到着時に柵やホームゲートに寄りかかっているとステーションキャストから離れるよう注意を受けたりするなど、運転士がいないことに加え、車掌の側面からの目視では安全性を確認するのが難しい路線構造をもつ特殊な運行形態から厳重な安全対策をとっている。 自動運転であるものの、運転台は両側の先頭車に設置されており、時計回り側(営業運転時の最後尾)は車掌室内に、反時計回り側(営業運転時の先頭車両)は、通常はクロスシートとして乗客に開放している。この座席の前には、マスコンハンドルや計器類がカバーの中に収められている。マスコンは左手ワンハンドルタイプで加速5段、減速7段。信号は、0,5,18,29,40,45,50の7段階である(いずれも速度の単位はkm/h)。 両先頭車の運転台とも、ATOの故障・地震などの突発事態発生時や、車庫内での車両転線時にドライバーにより手動運転するため設置されている(車庫の入庫も通常は運転台は使わず、自動運転で行う)。また、通常の営業運転時にも訓練として反時計回り側の運転台を使用して手動運転が行われる場合がある。その際、ドライバーの安全を確保するため最先頭クロスシート部は乗客が入れないようにロープが張られる(ただし、これは訓練運転時の対応であり、突発事態発生による手動運転時に同様の対応になるとは限らない)。運転間隔に余裕が取れる時などにはキャスト訓練用の試運転列車を走らせることもある。 各駅のコンコースに掲示してある時刻表は、6時台と23時台の時刻以外は掲示がなく、発車案内も列車の運転間隔のみを表示する。法令の規定により運転間隔を定めたダイヤグラムは存在するが、混雑状況に応じて随時運行パターンを変更するための措置である。最大で4編成が同時に運行され、3分15秒間隔の時は4編成、4分20秒間隔の時は3編成、6分30秒間隔の時は2編成、13分間隔の時は1編成が環状線上で運転している。なお、駅に掲示されている時刻表は閑散期(1 - 2月)のものであり、それ以外の期間は始発・終電の時刻は掲示よりもそれぞれ30分程度繰り上がり・繰り下がりする。また、大晦日は東京ディズニーランド・東京ディズニーシーの双方でカウントダウンイベント・オールナイト営業を行うため、終夜運転を実施する。 環状運転が基本だが、一部に東京ディズニーシー・ステーション駅止まりの列車があり、これらの列車は到着後車庫に入庫する。東京ディズニーシー・ステーション駅止まり列車の入庫回送時には、コンダクターのいない、完全な無人運転となる。また、最終列車の終点はリゾートゲートウェイ・ステーション駅となる。逆に車庫から出庫する列車はすべて同駅始発となる。 前述の東京ディズニーシー・ステーション駅およびリゾートゲートウェイ・ステーション駅は、混雑防止のため、乗車用ホームと降車用ホームが分離されている。乗車用ホームはどちらも進行方向の右側に設置されており、ドアは乗車用・降車用が交互に開く仕組みになっている。 なお、本路線において列車のことを「ライナー」と呼ぶ。また、運行車両については「リゾートライナー」(a resort liner)と呼んでいる。 運賃は、開業時から2007年3月31日まではおとな(中学生以上)200円・こども(小学生)100円、2007年4月1日から2014年3月31日まではおとな250円・こども130円、2014年4月1日以降はおとな260円・こども130円の均一運賃である。乗車券の印字は金額式で「...円区間」となっている。これは下記の他の乗車券類も同様である。幼児(小学生未満)はおとな・こどもに同伴の場合、1名につき2名まで無料。また、乳児(1才未満)も無料である。 2009年3月14日からは、ICカード「PASMO」(相互利用しているSuicaも)が利用できるようになった。また2013年3月23日から開始された交通系ICカードの全国相互利用にも対応している。 各駅の自動券売機と自動改札機はともに東芝製であり、他の鉄道事業者で使用されているものと同一タイプである。 普通乗車券と回数券類では1周を超えての重複乗車はできず、入場から1時間が経過すると出場の際自動改札機の扉が閉まる仕組みになっている(券面には「重複乗車不可」と記載されている)。開業当初は「普通乗車券での重複乗車はご遠慮ください」という車内アナウンスも行われていた。また、券面には表示されていないが他の鉄道事業者と同様に途中下車をした場合は前途無効となる。 フリーきっぷは磁気カード式で、1日用(おとな660円・こども330円)、2日用(おとな850円・こども430円)、3日用(おとな1,200円・こども600円)、4日用(おとな1,500円・こども750円)と4種類がある(2019年10月1日改定)。それぞれ指定日数の間に何回でも利用できる。デザインは下記の通り。 また、東京ディズニーシー・ホテルミラコスタおよび東京ディズニーランドホテルの宿泊者には、各駅で購入できるフリーきっぷとは異なる独自のデザインのものが宿泊日数に合わせて無料進呈されていた。このサービスは2023年3月31日のチェックイン分をもって終了した。有効日数によってデザインが異なり、クリスマス期間中は別のデザインになる場合がある。以前は各オフィシャルホテル、ディズニーアンバサダーホテルでも同様のサービスを行っていた。ただし「バケーションパッケージ」利用者であれば、すべてのディズニーホテル・オフィシャルホテル・パートナーホテル宿泊者にフリーきっぷが進呈される。 乗車券センターはリゾートゲートウェイ・ステーション駅の2階、舞浜駅側改札口の外側に位置していて以下の業務を取り扱っている。なお、乗車券センターの営業時間外は、障害者割引回数券の自動券売機販売認諾、領収書の発行を改札窓口で取り扱っている。 ディズニーリゾートラインの車両は「リゾートライナー」という名称で呼ばれている。 なお、全般検査が京成電鉄宗吾工場まで陸送して行われるなど、整備・検査の一部については京成のほか、新京成電鉄(くぬぎ山)や北総鉄道(印西牧の原)など京成グループ各社に委託する場合もある(いずれの場合も実際の作業は京成車両工業が行う)。 また、ディズニーリゾートアニバーサリーイベントが開催されている場合、期間限定ライナーが登場する。2013年4月15日から2014年3月20日まで行われていた東京ディズニーリゾート30周年“ザ・ハピネス・イヤー”の期間限定ライナーでは、外装は大きな30周年ロゴとバルーンがついたデコレーション、車内は30周年コスチュームを身に着けたディズニーキャラとバルーンがデザインされている。最近はアニバーサリーイベントだけではなくクリスマスやアトラクションオープン時にも不定期で期間限定ライナーが登場するようになった。 リゾートライナーのトミカが東京ディズニーリゾート内限定で販売されている。イベント時には限定モデルも発売されるがこのデザインは実物と異なったものになっている。プラレールも発売されている。 千葉県警察鉄道警察隊西船橋分駐隊の管轄となっているが、オリエンタルランドグループ会社であるMBMのセキュリティキャスト(コスチュームは同じだがオリエンタルランドに所属するキャストでは無い)が警備にあたることがもっぱらとなっている。
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ディズニーリゾートラインは、舞浜リゾートラインが運営するモノレール路線である。千葉県浦安市の東京ディズニーリゾート(TDR)内を運行している。
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[[ベイサイド・ステーション駅]]間:50 km/h(約3分) ** ベイサイド・ステーション駅 - [[東京ディズニーシー・ステーション駅]]間:40 – 50 km/hの間で区間により変動(約4分) ** 東京ディズニーシー・ステーション駅 - リゾートゲートウェイ・ステーション駅間:40 km/h(約3分) **: 実際の運転は、路面の速度制限の数字に従って運転する([[大阪高速鉄道大阪モノレール線|大阪モノレール]]等と同じ運転方法)。 * [[車両基地]]所在地:東京ディズニーシー・ステーション駅 - リゾートゲートウェイ・ステーション駅間 == 沿革 == * [[1997年]]([[平成]]9年) ** [[6月3日]] - [[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業]]免許申請事案として、運輸審議会件名表に登載された件につき[[官報]]告示<ref group="告示">{{cite wikisource|title=平成9年運輸省告示第348号「運輸審議会件名表に登載された件」|wslink=運輸審議会件名表に登載された件 (平成9年運輸省告示第348号)|wslanguage=ja}}</ref>。 ** [[6月24日]] - 第一種鉄道事業を免許することが妥当と、運輸審議会が[[運輸大臣]]へ答申<ref group="告示">{{cite wikisource|title=平成9年運輸省告示第436号「運輸審議会から答申があった件」|wslink=運輸審議会から答申があった件 (平成9年運輸省告示第436号)|wslanguage=ja}}</ref><ref name="chibanippo1996625">{{Cite news |title=TDLにモノレールの免許 |newspaper=千葉日報 |page=1 |publisher=千葉日報社 |date=1996-06-25}}</ref>。 ** [[6月27日]] - 第一種鉄道事業免許。 ** [[11月26日]] - [[加賀見俊夫]]社長がモノレール建設を記者発表<ref>{{Cite book|和書|author= |title=東京ディズニーリゾート クロニクル35年史 |publisher=[[講談社]] |date=2018 |page=71 |isbn=9784065120385}}</ref>。 * [[1998年]](平成10年) ** [[10月6日]] - 建設工事を開始。 ** [[10月8日]] - 「ディズニーリゾートライン」名称発表<ref>{{Cite book|和書|author= |title=東京ディズニーリゾート クロニクル35年史 |publisher=講談社 |date=2018 |page=75 |isbn=9784065120385}}</ref>。 * [[2000年]](平成12年)[[10月24日]] - 試運転を開始。 * [[2001年]](平成13年)[[7月27日]] - 開業<ref name="chibanippo2001727"/>。前日には出発式が開催され、[[ミッキーマウス|ミッキー]]・[[ミニーマウス|ミニー]]に加え、[[国土交通省|国土交通大臣]][[扇千景]](当時)や千葉県[[都道府県知事|知事]][[堂本暁子]](当時)などが参加した<ref name="chibanippo2001727"/>。 * [[2004年]](平成16年)[[10月22日]] - TDSで開業以来初となる大規模な[[停電]]が15時40分ごろ発生して復旧の目処が立たずに18時で臨時閉園し、「ディズニーリゾートライン」が無料で乗車できる措置が取られた{{Refnest|group="注釈"|入園客に対しては、直ちに入場料金の払い戻し、もしくは次回無料の優待パスポート提供の措置が行われた。また、併せてTDLへの入場無料の措置がとられ、東京ディズニーシー・ステーションから東京ディズニーランド・ステーションまでの区間で「ディズニーリゾートライン」が無料で乗車できる措置が取られた<ref>{{Cite news |title=ディズニーシーが大停電、繰り上げ閉園 |newspaper=nikkansports.com([[日刊スポーツ]]) |publisher=日刊スポーツ新聞社 |date=2004-10-23 |url=http://www.nikkansports.com/ns/general/f-so-tp0-041022-0014.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20041023153948/http://www.nikkansports.com/ns/general/f-so-tp0-041022-0014.html |archivedate=2004-10-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2004-10-23 |url=https://www.narinari.com/Sp/2004102345.html |title=東京ディズニーシー停電ドキュメント |publisher=Narinari.com |accessdate=2019-03-29}}</ref>。}}。 * [[2006年]](平成18年)[[12月13日]] - リゾートゲートウェイ・ステーション駅の改札を1億人目の利用者が通過{{Refnest|group="注釈"|{{要出典範囲|date=2016年8月|記念すべき1億人目となったのは、TDSへと向かうためにディズニーリゾートラインを利用しようとした若い夫婦と小さな女の子の3人家族であった。記念品として「[[パーム&ファウンテンテラスホテル]]」の宿泊券と、世界で1体しかないリゾートラインキャストの格好をしたミッキーの特大[[ぬいぐるみ]]などが贈られた。また1億人目のゲスト(先述の3人家族)のみが乗車できる特別列車(使用編成はピーチ)が1周運転された}}。}}。 * [[2007年]](平成19年) ** [[2月9日]] - [[国土交通省]]関東運輸局に運賃改定の認可申請が行われた。申請内容は、普通旅客運賃(大人)を200円から250円に50円値上げするというもの。沿線の集客施設であった「[[東京ベイNKホール]]」の閉鎖や、オフィシャルホテルが従業員の通勤用に特定輸送バスの運行を開始したこと、東京ディズニーシーへの来園客の大幅減少やアクセスの多様化に伴い輸送人員の減少が著しく進んでいること、昨今の海外情勢から警戒警備などの安全対策を強化しなければならないことなどから、現行運賃の25%値上げを国土交通大臣に申請した<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=http://www.olc.co.jp/ir/pdf/20070209_ir01.pdf |title=鉄道運賃改定の認可申請について |format=PDF |work=舞浜リゾートライン |publisher=オリエンタルランド |date=2007-02-09 |accessdate=2016-09-17}}</ref>。 ** [[4月1日]] - 2月9日の申請内容の通り、開業以来初の運賃改定を実施(2007年[[3月9日]]認可)<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=http://www.olc.co.jp/ir/pdf/20070313_ir01.pdf |title=旅客運賃の改定について |format=PDF |work=舞浜リゾートライン |publisher=オリエンタルランド |date=2007-03-13 |accessdate=2016-09-17}}</ref>。 * [[2008年]](平成20年) ** [[1月10日]] - [[パスネット]]カードの販売を終了。 ** [[4月10日]] - 東京ディズニーリゾート25周年にあわせ、キャストの着用しているコスチュームをリゾートライナーの車体基本カラーでもあるアイボリー色を基調とした、新しいコスチュームに変更。なお、女性のコスチュームは東京ディズニーリゾートのコスチュームでは初めて七分袖を採用した<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=http://www.olc.co.jp/news_parts/20080409_02.pdf |title=東京ディズニーリゾート25thアニバーサリー ディズニーリゾートラインの新しいコスチュームについて |format=PDF |work=舞浜リゾートライン |publisher=オリエンタルランド |date=2008-04-09 |accessdate=2016-09-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081031022334/http://www.olc.co.jp/news_parts/20080409_02.pdf |archivedate=2008-10-31}}</ref>。 * [[2009年]](平成21年)[[3月14日]] - [[ICカード]]「[[PASMO]]」を導入。 * [[2011年]](平成23年) ** [[3月11日]] - [[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])およびこれに伴う[[東日本大震災による電力危機|電力供給逼迫]]の影響で運行を休止。 ** [[4月2日]] - 運行再開<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=http://www.tokyodisneyresort.co.jp/drl/drl_pop03.html |title=ディズニーリゾートライン運行再開のお知らせ |publisher=東京ディズニーリゾート |accessdate=2015-07-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110407080118/http://www.tokyodisneyresort.co.jp/drl/drl_pop03.html |archivedate=2011-04-07}}</ref>。ただし<!--発電所停止に伴う電力事情悪化により、→左記出典では減便理由には触れていない。-->当面5割減便。 * [[2013年]](平成25年)[[12月13日]] - [[2014年]](平成26年)[[4月1日]]からの[[消費税率]]引き上げに伴う運賃上限変更認可を[[国土交通省]]に申請。改訂内容としては、通常の運賃が10円および定期旅客運賃が200円前後の値上げ。ただし、フリーきっぷは値上げはせず現在と同額での発売を継続するとしている<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=http://www.olc.co.jp/news/tdr_oth/%E9%89%84%E9%81%93%E9%81%8B%E8%B3%83%E6%94%B9%E5%AE%9A%E3%81%AE%E8%AA%8D%E5%8F%AF%E7%94%B3%E8%AB%8B%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.pdf |title=鉄道運賃改定の認可申請について |format=PDF |work=舞浜リゾートライン |publisher=オリエンタルランド |date=2013-12-13 |accessdate=2016-09-17}}</ref>。 * [[2014年]](平成26年)[[4月1日]] - 消費税率引き上げに伴い、開業以来2回目の運賃改定を実施(2014年[[3月4日]]認可)<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=http://www.olc.co.jp/news/tdr_oth/MRC20140306_01.pdf |title=鉄道運賃改定の認可について |format=PDF |work=舞浜リゾートライン |publisher=オリエンタルランド |date=2014-03-06 |accessdate=2016-09-17}}</ref>。 * [[2019年]]([[令和]]元年) ** 9月27日 - 新型車両「リゾートライナー(Type C)」を2020年春に導入と発表<ref>{{Cite web|和書|title=ディズニーリゾートライン、125億円で新型車両「リゾートライナー(Type C)」来春導入|url=https://www.kankokeizai.com/%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%ba%e3%83%8b%e3%83%bc%e3%83%aa%e3%82%be%e3%83%bc%e3%83%88%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%80%81125%e5%84%84%e5%86%86%e3%81%a7%e6%96%b0%e5%9e%8b%e8%bb%8a%e4%b8%a1%e3%80%8c/|website=観光経済新聞|publisher=観光経済新聞社|date=2019-09-27|accessdate=2021-05-12}}</ref><ref group="広報" name="tdl20190925" />。 ** [[10月1日]] - 消費税率引き上げに伴い、開業以来3回目の運賃改定を実施(2019年[[9月5日]]認可)<ref group="広報" name="olc20190909">{{Cite web|和書|url=http://www.olc.co.jp/ja/news/news_tdr/20190909_01/main/0/link/20190909_01.pdf |title=鉄道運賃改定の認可について |format=PDF |author=舞浜リゾートライン |publisher=オリエンタルランド |date=2019-09-09 |accessdate=2019-10-07}}</ref>。普通運賃は据置き、定期運賃・フリーきっぷは値上げ<ref group="広報" name="olc20190909" />。 * 2020年(令和2年) ** 2月6日 - 新型車両イエローの運行開始日を5月21日に決定と発表<ref>{{Cite web|和書|title=開業以来の新型「リゾートライナー(Type C)」5月運行開始 ディズニーリゾートライン|url=https://trafficnews.jp/post/93590|website=乗りものニュース|accessdate=2021-05-12|language=ja}}</ref>。 ** 4月13日 - 新型車両イエローの運行開始日を延期することを発表<ref group="広報" name="tdl20200625" />。 ** 7月3日 - 新型車両イエローの運行開始<ref name="sankei20200703">{{Cite web|和書|title=ミッキーカラーの新車両運行 ディズニーリゾートライン|url=https://www.sankei.com/article/20200703-IAQE7F7KEJM5TARPXFTT3LMC7Y/|website=[[産経デジタル|産経ニュース]]|date=2020-07-03|accessdate=2021-05-12|language=ja|publisher=産経新聞社}}</ref><ref group="広報" name="tdl20200625">{{Cite web|和書|title=ディズニーリゾートラインの新型車両「リゾートライナー(Type C)」 2020年7月3日(金)から運行開始! |url=https://www.tokyodisneyresort.jp/fantasy/resortline/pdf/newsrelease.pdf|publisher=舞浜リゾートライン|date=2020-06-25|accessdate=2021-05-12|language=ja|quote=2020年4月13日付の広報リリースにおいて、本車両の運行開始延期をお知らせしておりました。}}</ref>。 * 2021年(令和3年) ** 1月23日 - 新型車両ピンクの運行開始<ref>{{Cite web|和書|title=ディズニーリゾートライン、ピンクの新型車両「リゾートライナー(Type-C)」を1月23日運行開始|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1301831.html|website=トラベル Watch|publisher=インプレス|date=2021-01-22|accessdate=2021-05-12|language=ja}}</ref>。 ** 7月27日 - 開業20周年<ref group="広報" name="mrc20210715">{{Cite web|和書|url=http://www.mrc.olc.co.jp/news/pdf/news_20210715.pdf |title=ディズニーリゾートライン開業20周年のお知らせ |format=PDF |author=舞浜リゾートライン |publisher=舞浜リゾートライン|date=2021-07-15 |accessdate=2021-07-27}}</ref>。これにあわせ、リゾートライナーのカラフルなグラフィックを纏った新しいコスチュームへ変更<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyodisneyresort.jp/tdrblog/detail/210727/|title=東京ディズニーリゾート公式ブログ - ディズニーリゾートライン20周年!|accessdate=2021年7月31日|publisher=オリエンタルランド}}</ref>。 * 2022年(令和4年) ** 1月18日 - 新型車両ブルーの運行開始<ref>{{Cite web|和書|title=ディズニーリゾートライン、波をイメージしたブルーの新型車両を1月18日に運行開始|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1380322.html|website=トラベル Watch|publisher=インプレス|date=2022-01-13|accessdate=2022-01-19|language=ja}}</ref>。 ** 11月18日 - 新型車両パープルの運行開始<ref>{{Cite web|和書|title=2022年11月18日(金)「リゾートライナー(Type C)」にパープルの車両がデビュー!|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000030.000038492.html|website=PR TIMES|date=2022-11-01|accessdate=2023-03-28|language=ja}}</ref>。 * 2024年(令和6年)3月 - 開業以来4回目の運賃改定を実施予定。認可されれば、消費税率の引き上げを除く運賃改定は17年ぶりとなる<ref>{{Cite web|和書|title=「ディズニーリゾートライン」来年3月に40円値上げへ |url=https://news.ntv.co.jp/category/society/8a25ab2b6fcc45779b1563018b5eeee0 |website=日テレNEWS NNN |access-date=2023-11-04 |author=日本テレビ |date=2023-11-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ディズニーリゾート内のモノレール3月値上げへ 260円→300円 |url=https://www.asahi.com/articles/ASRC27JDKRC2UDCB00H.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞 |date=2023-11-03 |access-date=2023-11-04}}</ref>。 == 運行形態 == {{出典の明記|date=2019年6月|section=1}} ディズニーリゾートラインは通常時は全列車において自動運転が行われ、環状の単線を反時計回りで運行する。そのため通常運転時にドライバーは乗務しないが、ドア扱い・安全監視・案内などを担当するコンダクターが乗務し、完全な無人運転とはしていない([[国際電気標準会議|IEC]]・[[日本産業規格|JIS]]が定める自動化レベル「'''GoA3'''」〈添乗員付き自動運転、DTO〉に該当<ref>{{Cite web|和書|title=鉄道における自動運転技術検討会 第1回配布資料|publisher=[[国土交通省]]|date=2018-12-03|format=PDF|url=https://www.mlit.go.jp/common/001292666.pdf|accessdate=2021-04-09|archiveurl=https://warp.da.ndl.go.jp/collections/content/info:ndljp/pid/11630437/www.mlit.go.jp/common/001292666.pdf|archivedate=2019-08-17}}</ref>)。 全ての駅に[[ホームドア|ホームゲート]]が設置されているほか、車両のドアとホームゲートには戸先[[センサ|センサー]]が取り付けられており、閉まりかけたゲートに物などが触れると一旦開き、再び閉扉動作をする(3回この動作を繰り返すと、そのゲートは開放状態になる)仕組みになっており、列車は出発できないよう安全なシステムを取り入れている。また、各駅のホームには一部時間帯を除いて必ずステーションキャストが配置されており、列車到着時のホームにおける安全監視を行っている。列車到着時に柵やホームゲートに寄りかかっているとステーションキャストから離れるよう注意を受けたりするなど、運転士がいないことに加え、車掌の側面からの目視では安全性を確認するのが難しい路線構造をもつ特殊な運行形態から厳重な安全対策をとっている。 自動運転であるものの、[[操縦席|運転台]]は両側の先頭車に設置されており、時計回り側(営業運転時の最後尾)は車掌室内に、反時計回り側(営業運転時の先頭車両)は、通常は[[鉄道車両の座席#クロスシート(横座席)|クロスシート]]として乗客に開放している。この座席の前には、[[マスター・コントローラー|マスコンハンドル]]や計器類がカバーの中に収められている。マスコンは左手ワンハンドルタイプで加速5段、減速7段。信号は、0,5,18,29,40,45,50の7段階である(いずれも速度の単位はkm/h)。 両先頭車の運転台とも、ATOの故障・[[地震]]などの突発事態発生時や、[[車両基地|車庫]]内での車両転線時にドライバーにより手動運転するため設置されている(車庫の入庫も通常は運転台は使わず、自動運転で行う)。また、通常の営業運転時にも訓練として反時計回り側の運転台を使用して手動運転が行われる場合がある。その際、ドライバーの安全を確保するため最先頭クロスシート部は乗客が入れないようにロープが張られる(ただし、これは訓練運転時の対応であり、突発事態発生による手動運転時に同様の対応になるとは限らない)。運転間隔に余裕が取れる時などには[[習熟運転|キャスト訓練]]用の[[試運転]]列車を走らせることもある。 各駅のコンコースに掲示してある[[時刻表]]は、6時台と23時台の時刻以外は掲示がなく、発車案内も列車の運転間隔のみを表示する。[[法令]]の規定により運転間隔を定めた[[ダイヤグラム]]は存在するが、混雑状況に応じて随時運行パターンを変更するための措置である。最大で4編成が同時に運行され、3分15秒間隔の時は4編成、4分20秒間隔の時は3編成、6分30秒間隔の時は2編成、13分間隔の時は1編成が環状線上で運転している。なお、駅に掲示されている時刻表は閑散期(1 - 2月)のものであり、それ以外の期間は[[始発]]・[[終電]]の時刻は掲示よりもそれぞれ30分程度繰り上がり・繰り下がりする。また、大晦日は東京ディズニーランド・東京ディズニーシーの双方で[[カウントダウン|カウントダウンイベント]]・オールナイト営業を行うため、[[終夜運転]]を実施する。 [[環状運転]]が基本だが、一部に[[東京ディズニーシー・ステーション駅]]止まりの列車があり、これらの列車は到着後車庫に入庫する。東京ディズニーシー・ステーション駅止まり列車の入庫[[回送]]時には、コンダクターのいない、完全な無人運転となる。また、最終列車の終点は[[リゾートゲートウェイ・ステーション駅]]となる。逆に車庫から出庫する列車はすべて同駅始発となる。 前述の東京ディズニーシー・ステーション駅およびリゾートゲートウェイ・ステーション駅は、混雑防止のため、乗車用ホームと降車用ホームが分離されている。乗車用ホームはどちらも進行方向の右側に設置されており、ドアは乗車用・降車用が交互に開く仕組みになっている。 なお、本路線において[[列車]]のことを「ライナー」と呼ぶ。また、運行車両については「リゾートライナー」(a resort liner)と呼んでいる。 == 運賃 == [[運賃]]は、開業時から[[2007年]]3月31日まではおとな(中学生以上)200円・こども(小学生)100円、2007年4月1日から[[2014年]]3月31日まではおとな250円・こども130円、2014年4月1日以降はおとな260円・こども130円の均一運賃である。乗車券の印字は金額式で「…円区間」となっている。これは下記の他の乗車券類も同様である。幼児(小学生未満)はおとな・こどもに同伴の場合、1名につき2名まで無料。また、乳児(1才未満)も無料である<ref name="fare">{{Cite web|和書|publisher=オリエンタルランド |url=https://www.tokyodisneyresort.jp/tdr/resortline/fare.html |title=【公式】運賃・きっぷについて |website=東京ディズニーリゾート |accessdate=2018-04-13}}</ref>。 [[2009年]][[3月14日]]からは、[[ICカード]]「[[PASMO]]」(相互利用している[[Suica]]も)が利用できるようになった。また[[2013年]][[3月23日]]から開始された[[交通系ICカード全国相互利用サービス|交通系ICカードの全国相互利用]]にも対応している。 各駅の[[自動券売機]]と[[自動改札機]]はともに[[東芝]]製であり、他の鉄道事業者で使用されているものと同一タイプである。<!--券売機は最近のものにしては珍しく、現金またはICカードを投入してからでないとタッチパネルが押せない。--> [[普通乗車券]]と[[回数乗車券|回数券]]類では1周を超えての重複乗車はできず、入場から1時間が経過すると出場の際自動改札機の扉が閉まる仕組みになっている(券面には「重複乗車不可」と記載されている)。開業当初は「普通乗車券での重複乗車はご遠慮ください」という車内アナウンスも行われていた。また、券面には表示されていないが他の鉄道事業者と同様に[[途中下車]]をした場合は前途無効となる。 ; パスネット : 舞浜リゾートラインは開業当初から[[パスネット]]に参加しており、「[[ディズニーリゾートライン・カード]]」という名称で販売していた。自動券売機で販売されていたカードについては以前は販売駅ごとにデザインが異なっていたが、後期には単一絵柄に統一されていた。 : 2007年3月18日、パスネットと[[バス共通カード]]導入事業者は[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)などの「Suica」と相互利用ができるICカード「PASMO」を導入したが、舞浜リゾートラインはPASMO協議会には当初より参加していたもののPASMO導入に慎重な姿勢をとっていたことから、[[千葉都市モノレール]]や[[関東鉄道]]とともに導入が遅れたため(2009年3月14日より利用開始<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyodisneyresort.co.jp/drl/japanese/info_pasmo.html |title=ディズニーリゾートラインは「PASMO」のサービスを開始します |work=ディズニーリゾートライン情報 |publisher=東京ディズニーリゾート |accessdate=2016-09-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090626093913/http://www.tokyodisneyresort.co.jp/drl/japanese/info_pasmo.html |archivedate=2009-06-26}}</ref>)、カード自体は2008年1月10日をもって販売を終了したものの、同年3月14日のPASMO事業者の自動改札機の利用停止以降もPASMO導入前日の2009年3月13日までの間はディズニーリゾートラインに限り、自動改札機にてパスネットを利用することが可能であった。 ; 定期券 : 通勤[[定期乗車券|定期券]]は1か月7,850円・3か月22,380円・6か月42,390円、通学定期券は1か月4,720円・3か月13,460円・6か月25,490円となっている(2019年10月1日改定)<ref group="広報" name="olc20190909" />。通勤および通学定期券の需要は非常に少ないながら[[ベイサイド・ステーション駅]]周辺の[[東京ディズニーリゾート・オフィシャルホテル]]で勤務する旅客や実務実習を受ける[[ホテル科|ホテル専門学校]]の生徒などに利用されている。定期券類は、[[リゾートゲートウェイ・ステーション駅]]の[[#乗車券センター|乗車券センター]]で販売している。なお、前述の通り、[[2009年]][[3月14日]]よりPASMOを導入したが、PASMO定期券の取り扱いを行う予定はない。 ; 回数券 : 各駅で回数券を販売しており、均一制で11枚綴り2,600円(こども1,300円)となっている。 ; 障害者割引乗車券 : 障害者割引乗車券は、普通券おとな130円・こども70円、回数券おとな1,250円・こども650円となっている。販売はリゾートゲートウェイ・ステーション駅の乗車券センターで[[障害者手帳]](JRとは異なり[[精神障害者保健福祉手帳]]でも可)あるいは[[療育手帳]]を提示するか、または各駅の自動券売機で[[インターホン]]による購入意思表示の後に購入、その後[[改札]]に障害者手帳あるいは療育手帳を提示する形になっている。 ; 団体乗車券 : 団体乗車券には、普通団体と学校団体が設定されており、対象人数は普通団体は25名以上、学校団体は児童・生徒25名以上、教職員1名以上である。普通団体は1割引、学校団体は2割引になる。団体乗車券の申し込みは、乗車日の3か月前より受け付けている。 === フリーきっぷ === フリーきっぷは磁気カード式で、1日用(おとな660円・こども330円)、2日用(おとな850円・こども430円)、3日用(おとな1,200円・こども600円)、4日用(おとな1,500円・こども750円)と4種類がある(2019年10月1日改定)<ref name="fare" />。それぞれ指定日数の間に何回でも利用できる。デザインは下記の通り<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyodisneyresort.jp/tdr/resortline/ticket.html |title=フリーきっぷ(期間限定デザイン) |publisher=ディズニーリゾートライン |accessdate=2018-05-16}}</ref>。 ; 開業 - 時期不明 : 販売される駅ごとに異なるデザイン。その駅を表すような建物など([[シンデレラ城]]、プロメテウス火山など)のシルエットが描かれていた。 ; 時期不明 - 2008年4月14日、2013年3月15日-2013年4月10日 : 販売される駅ごとに異なるデザイン。先のものにディズニーキャラクターのイラストが加わっている。また、2013年3月15日(バレンタインとホワイトデー販売終了後)から2013年4月10日(ミッキーマウスとプルート販売開始前)までの間はこの切符が販売されていた。 :* [[リゾートゲートウェイ・ステーション駅]] = [[ミニーマウス]] :* [[東京ディズニーランド・ステーション駅]] = [[ミッキーマウス]] :* [[ベイサイド・ステーション駅]] = [[ドナルドダック]] :* [[東京ディズニーシー・ステーション駅]] = [[プルート (ディズニーキャラクター)|プルート]] ; 2008年4月15日 - 2009年4月14日 : 各駅で同じ東京ディズニーリゾート25周年を記念するデザインのものを販売するようになった。 : 発売時期によって、描かれるキャラクターが異なる。 :# ミッキーマウス :# ミニーマウス :# ドナルドダック :# [[グーフィー]] :# プルート ; 2009年4月15日 - 2010年3月31日 : 各駅で同じデザインを発売する。デザインはその期間中の新規オープンしたアトラクションや、期間中に開催されるイベントにちなんだもの。 :# [[モンスターズ・インク“ライド&ゴーシーク!”]] 2009年4月15日 - 7月7日 :# [[ウォータープログラム#2009年|ウォータープログラム]] 7月8日 - 8月31日 :# [[ディズニー・ハロウィーン#2009年|ディズニー・ハロウィーン]] 9月1日 - 11月3日 :# [[クリスマス・ファンタジー#2009年|クリスマス・ファンタジー]] / [[ハーバーサイド・クリスマス#2009年|ハーバーサイド・クリスマス]] 11月4日 - 2010年12月25日 :# [[ディズニー・パワー・オブ・ミュージック!]] 2010年1月6日 - 3月31日 :上記の発売期間の間は、2008年4月15日から2009年4月14日のものと同じデザインを販売していた。 ; 2010年4月1日 - 2011年3月31日 : 2009年度と同様に各駅で同じデザインを発売する。 :# [[東京ディズニーシー・スプリングカーニバル#2010年|東京ディズニーシー・スプリングカーニバル2010]] 2010年4月1日 - 6月30日 :# [[サマーナイトエンターテイメント#ミッドサマーナイト・パニック|ミッドサマーナイト・パニック]] 7月1日 - 8月31日 :# [[ディズニー・ハロウィーン]] 9月1日 - 10月31日 :# [[クリスマス・ファンタジー#2010年|クリスマス・ファンタジー]] 11月1日 - 12月25日 :# [[ミッキーのフィルハーマジック]] 12月26日 - 2011年3月31日 ; 2011年4月1日 - 2012年3月31日 : 各駅で同じデザインを発売する。 :# 東京ディズニーシー10thアニバーサリー 2011年7月27日 - 9月3日 :# [[Be Magical!]] 9月4日 - 10月31日 :# [[クリスマス・ウィッシュ]] 11月1日 - 12月25日 :# お正月のプログラム 12月26日 - 2012年1月5日 :# [[ファンタズミック!]] 2012年1月6日 - 3月31日 ; 2012年4月2日 - 2013年3月14日 : 各駅で同じデザインを発売する。 :# [[ミッキーとダッフィーのスプリングヴォヤッジ]] 2012年4月2日 - 6月30日 :# 七夕のプログラム 7月1日 - 7月7日 :# [[トイ・ストーリー・マニア!]] 7月8日 - 8月31日 :# [[ディズニー・ハロウィーン]] 9月1日 - 10月31日 :# [[クリスマス・ファンタジー#2012年|クリスマス・ファンタジー]] 11月1日 - 12月25日 :# お正月のプログラム 12月26日 - 2013年1月5日 :# バレンタインとホワイトデー 2013年1月6日 - 3月14日 ; 2013年4月11日 - 2014年3月20日 : 各駅で同じデザインを発売する。該当するそれぞれの期間のうち、3つの期間の使用済みフリーきっぷを集めると、「[[東京ディズニーリゾート30周年“ザ・ハピネス・イヤー”]]」柄のオリジナルピンをプレゼントするキャンペーンを行なった。 :# ミッキーマウスとプルート 2013年4月11日 - 7月7日 :# チップとデールとクラリス 7月8日 - 9月2日 :# ドナルドダックとグーフィー 9月3日 - 10月31日 :# ミニーマウスとデイジーダック 11月1日 - 12月25日 :# ミッキーマウスと仲間たち 12月26日 - 2014年3月20日 ; 2014年5月26日 - 2015年3月31日 : 各駅で同じデザインを発売する。期間中、使用開始日の異なる使用済みフリーきっぷ3枚を集めると、夜のシンデレラ城とリゾートライン柄のオリジナルピンをプレゼントするキャンペーンを行なった。 :# ワンス・アポン・ア・タイム(美女と野獣)2014年5月26日 - 2015年3月31日 :# ワンス・アポン・ア・タイム(不思議の国のアリス)2014年5月26日 - 2015年3月31日 :# ワンス・アポン・ア・タイム(塔の上のラプンツェル)2014年5月26日 - 2015年3月31日 :# ワンス・アポン・ア・タイム(シンデレラ)2014年5月26日 - 2015年3月31日 :# ワンス・アポン・ア・タイム(ピーターパン)2014年5月26日 - 2015年3月31日 :# [[アナとエルサのフローズンファンタジー]] 2015年1月13日 - 3月20日 :# ディズニーリゾートライン 謎解きプログラム 2015年1月13日 - 3月20日 ; 2015年4月1日 - 2016年3月31日 : 各駅で同じデザインを発売する。期間中、使用開始日の異なる使用済みフリーきっぷ3枚を集めると、つり革柄のオリジナルピンをプレゼントするキャンペーンを行なった。 :# 東京ディズニーランド「ディズニー・イースター 2015」2015年4月1日 - 2015年6月23日 :# 東京ディズニーシー「ディズニー・イースター 2015」2015年4月1日 - 2015年6月23日 :# 東京ディズニーランド「[[ディズニー夏祭り]] 2015」2015年7月9日 - 2015年8月31日 :# 東京ディズニーシー「[[ディズニー・サマーフェスティバル]] 2015」2015年7月9日 - 2015年8月31日 :# 東京ディズニーランド「ディズニー・ハロウィーン 2015」2015年9月7日 - 2015年10月31日 :# 東京ディズニーシー「ディズニー・ハロウィーン 2015」2015年9月7日 - 2015年10月31日 :# 東京ディズニーランド「クリスマス・ファンタジー 2015」2015年11月9日 - 2015年12月25日 :# 東京ディズニーシー「クリスマス・ウィッシュ 2015」2015年11月9日 - 2015年12月25日 :# 東京ディズニーランド「アナとエルサのフローズンファンタジー 2016」2016年1月11日 - 3月18日 :# ディズニーリゾートライン 謎解きプログラム 2016年1月12日 - 3月18日 :# 東京ディズニーシー「スウィート・ダッフィー」2016年1月13日 - 3月18日 :# スターウォーズ/フォースの覚醒(R2-D2&C-3PO)2016年2月1日 - 3月18日 :# スターウォーズ/フォースの覚醒(BB-8)2016年2月1日 - 3月18日 :# スターウォーズ/フォースの覚醒(カイロ・レン)2016年2月1日 - 3月18日 :# スターウォーズ/フォースの覚醒(レイ)2016年2月1日 - 3月18日 :# スターウォーズ/フォースの覚醒(フィン)2016年2月1日 - 3月18日 :# 東京ディズニーランド「ディズニー・イースター 2016」2016年3月24日 - 2015年6月23日 ; 2016年4月1日 - 2017年3月31日 : 各駅で同じデザインを発売する。期間中、使用開始日の異なる使用済みフリーきっぷ3枚を集めると、ディズニーリゾートライン15周年デザインのオリジナルピンをプレゼントするキャンペーンを行なった。 :# 東京ディズニーランド「ディズニー・イースター 2016」2016年3月24日 - 2015年6月23日 :# 東京ディズニーシー15周年アニバーサリー「[[東京ディズニーシー15周年“ザ・イヤー・オブ・ウィッシュ”|ザ・イヤー・オブ・ウィッシュ]]」(ミッキー&ミニー)2016年4月11日 - 2017年3月17日 :# 東京ディズニーシー15周年アニバーサリー「[[東京ディズニーシー15周年“ザ・イヤー・オブ・ウィッシュ”|ザ・イヤー・オブ・ウィッシュ]]」(グーフィー&ドナルド)2016年4月11日 - 2017年3月17日 :# 東京ディズニーシー15周年アニバーサリー「[[東京ディズニーシー15周年“ザ・イヤー・オブ・ウィッシュ”|ザ・イヤー・オブ・ウィッシュ]]」(デイジー、プルート、チップ&デール)2016年4月11日 - 2017年3月17日 :# 東京ディズニーランド「ディズニー夏祭り 2016」2016年7月8日 - 2016年8月31日 :# 東京ディズニーシー「ディズニー・サマーフェスティバル 2016」2016年7月8日 - 2016年8月31日 :# 東京ディズニーランド「ディズニー・ハロウィーン 2016」2016年9月1日 - 2016年10月31日 :# 東京ディズニーシー「ディズニー・ハロウィーン 2016」2016年9月1日 - 2016年10月31日 :# 東京ディズニーランド「クリスマス・ファンタジー 2016」2016年11月1日 - 2016年12月25日 :# 東京ディズニーシー「クリスマス・ウィッシュ 2016」2016年11月1日 - 2016年12月25日 :# 東京ディズニーランド「アナとエルサのフローズンファンタジー 2017」2017年1月12日 - 3月17日 :# 東京ディズニーシー「スウィート・ダッフィー 2017」2017年1月12日 - 3月17日 そのほか、数量限定で販売された、フリーきっぷ2枚セットもピンバッジの対象となった。 ; 2017年4月1日 - 2018年3月31日 : 各駅で同じデザインを発売する。期間中、使用開始日の異なる使用済みフリーきっぷ3枚を集めると、東京ディズニーランド・ステーションのミッキーの時計をモチーフにしたオリジナルピンをプレゼントするキャンペーンを行なった。 :# 東京ディズニーランド「ディズニー・イースター 2017」2017年4月4日 - 6月14日 :# 東京ディズニーシー「ディズニー・イースター 2017」2017年4月4日 - 6月14日 :# 東京ディズニーランド「ディズニー夏祭り 2017」2017年7月8日 - 8月31日 :# 東京ディズニーシー「[[ディズニー・パイレーツ・サマー]] 2017」2017年7月8日 - 8月31日 :# 東京ディズニーランド「ディズニー・ハロウィーン 2017 2017年9月1日 - 10月31日 :# 東京ディズニーシー「ディズニー・ハロウィーン 2017」2017年9月1日 - 10月31日 :# 東京ディズニーランド「クリスマス・ファンタジー 2017」2017年11月1日 - 12月25日 :# 東京ディズニーシー「クリスマス・ウィッシュ 2017」2017年11月1日 - 12月25日 :# 東京ディズニーランド「スター・ウォーズ・プログラム"フィール・ザ・フォース"」(レイ) 2017年12月1日 - 2018年3月19日 :# 東京ディズニーランド「スター・ウォーズ・プログラム"フィール・ザ・フォース"」(カイロ・レン)2017年12月1日 - 2018年3月19日 :# 東京ディズニーランド「アナとエルサのフローズンファンタジー 2018」2018年1月8日 - 3月19日 :# 東京ディズニーシー「[[ピクサー・プレイタイム]] 2018」 2018年1月8日 - 3月19日 :# 東京ディズニーシー「ダッフィーのハートウォーミング・デイズ 2018」2018年1月8日 - 3月19日 :# 東京ディズニーシー「ディズニー・イースター 2018」 2018年3月20日 - 6月6日 :この他、駅券売機での購入ができない、フリーきっぷもキャンペーン対象になる。 ; 2018年4月1日 - 2019年3月31日 : 各駅で同じデザインを発売する。 : 東京ディズニーリゾート35周年を記念したデザインのフリーきっぷ1枚につき1回「マイ・フリーきっぷフォト」が2018年4月28日 - 2019年3月25日に利用できる。ただし、販売期間中のデザインしか利用できない。 :1. 東京ディズニーシー「ディズニー・イースター 2018」2018年3月20日 - 6月6日 :2.「[[東京ディズニーリゾート35周年“Happiest Celebration!”]]」 :: 2018年4月10日 - 6月30日 ::* ミッキーマウス ::* ミニーマウス :: 2018年7月1日 - 9月30日 ::* グーフィー ::* ドナルドダックとデイジーダック :: 2018年10月1日 - 2019年1月10日 ::* ミッキーマウスとミニーマウス ::* チップとデール :: 2019年1月11日 - 3月25日 ::* ドナルドダック ::* プルート :3. 「[[ディズニー七夕デイズ]]」2018年6月7日 - 7月7日 :4. 東京ディズニーランド「[[Celebrate! Tokyo Disneyland]]」2018年7月10日 - 2018年12月24日 :5. 「ディズニー・ハロウィーン 2018」 2018年9月11日 - 2018年10月31日 :6.「90 years with Mickey」2018年11月1日 - :7. 東京ディズニーシー「[[ディズニー・クリスマス]] 2018」2018年11月1日 - 2018年12月25日 また、[[東京ディズニーシー・ホテルミラコスタ]]および[[東京ディズニーランドホテル]]の宿泊者には、各駅で購入できるフリーきっぷとは異なる独自のデザインのものが宿泊日数に合わせて無料進呈されていた。このサービスは2023年3月31日のチェックイン分をもって終了した<ref>{{Cite web|和書|title=ディズニーホテル、2023年3月31日のチェックイン分をもって特典の「ディズニーリゾートライン」乗車券配布を終了 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1439167.html |website=GAME Watch |date=2022-09-12 |access-date=2022-09-13}}</ref>。有効日数によってデザインが異なり、[[クリスマス]]期間中は別のデザインになる場合がある。以前は各[[東京ディズニーリゾート・オフィシャルホテル|オフィシャルホテル]]、[[ディズニーアンバサダーホテル]]でも同様のサービスを行っていた{{Refnest|group="注釈"|{{要出典範囲|date=2016年8月|オフィシャルホテルでの無料進呈を終えた時期は、各ホテルによって異なる。また、ディズニーアンバサダーホテルではフリーきっぷが廃止された代わりに、各パークまで「[[ディズニーリゾートクルーザー]]」という無料シャトルバスが運行されている}}。}}。ただし「バケーションパッケージ」利用者であれば、すべての[[ディズニーホテル]]・オフィシャルホテル・[[東京ディズニーリゾート・パートナーホテル|パートナーホテル]]宿泊者にフリーきっぷが進呈される。 * [[2006年]]の開業5周年を記念して、[[7月27日]](ブルー)・[[8月3日]](イエロー)・[[8月10日]](パープル)・[[8月17日]](グリーン)・[[8月24日]](ピーチ)の計5日にわたって、腕に着用する[[リストバンド]]型1日用フリーきっぷが各日1万個限定で販売された。各日によって色が異なり、改札はこの「色」によって行われた。また、2007年の開業6周年記念では販売日と色が同じだが[[キーチェーン]]型1日用フリーきっぷが各日8,000個限定で販売されたが、開業5周年記念のリストバンド型1日用フリーきっぷと違い、[[7月20日]]から[[7月26日]]に各色2,000個限定でリゾートゲートウェイ・ステーション駅にて前売りされた。 * TDSの新アトラクション『[[タートル・トーク]]』のオープンに先立ち、2009年8月1日から2009年8月31日の期間限定、限定2万枚で、『タートル・トーク』をデザインしたフリーきっぷ(1日用のみ)が販売された。2枚購入するごとに、『タートル・トーク』のプレビュー招待キャンペーンに応募できるハガキがもらえた。 * TDLの新アトラクション『ミッキーのフィルハーマジック』のオープンに先立ち、2010年11月1日から2010年12月25日のフリーきっぷを2枚購入するごとに、『ミッキーのフィルハーマジック』のプレビュー招待キャンペーンに応募できるハガキが配布された。 === 乗車券センター === 乗車券センターはリゾートゲートウェイ・ステーション駅の2階、舞浜駅側改札口の外側に位置していて以下の業務を取り扱っている。なお、乗車券センターの営業時間外は、障害者割引回数券の自動券売機販売認諾、領収書の発行を改札窓口で取り扱っている。 * 定期券の販売 * 回数券の販売 * 障害者割引回数券の販売 * フリー乗車券の販売 * [[領収書]]の発行 == 車両 == {{鉄道車両 | 車両名 =リゾートライナー | 背景色 = | 文字色 = | 画像 = File:DisneyResortLine31.jpg | 画像幅 = | 画像説明 = 10型「Type X」(2023年2月22日) | 運用者 = | 製造所 = [[日立製作所]] | 種車 = <!-- 改造・譲受車向け --> | 製造年 = | 製造数 = | 改造所 = <!-- 改造・譲受車向け --> | 改造年 = <!-- 改造車向け --> | 改造数 = <!-- 改造車向け --> | 導入年 = <!-- 改造・譲受車向け --> | 総数 = <!-- 改造・譲受車向け --> | 運用開始 = | 運用終了 = | 廃車 = | 消滅 = | 投入先 = | 編成 = 6両固定 | 軌間 = 800 mm | 電気方式 = 直流 1,500 V | 最高運転速度 = 50 km/h | 設計最高速度 = 70 km/h | 最高速度 = | 起動加速度 = 3.6 km/h/s | 常用減速度 = 4.0 km/h/s | 非常減速度 = 4.5 km/h/s | 減速度 = | 編成定員 = 537 人(Type X)、564人(TypeC) | 車両定員 = | 車両重量 = | 自重 = | 編成重量 = | 編成長 = 84,900 mm | 長さ = | 幅 = | 高さ = | 全長 = 先頭車 15,050 mm<br />中間車 13,700 mm | 全幅 = 2,980 mm | 全高 = 5,237 mm | 車体長 = 先頭車 14,350 mm<br />中間車 13,000 mm | 車体幅 = 2,900 mm | 車体高 = 3,807 mm | 床面高さ = 1,080 mm | 車体 = アルミニウム合金 | 台車 = | 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]] | 主電動機出力 = 100 kW | 駆動方式 = 2段減速TD継手式[[直角カルダン駆動|直角駆動]] | 歯車比 = 5.68 | 出力 = | 編成出力 = | 定格出力 = | 定格速度 = | 制御方式 = [[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]<br />(3レベル[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]][[半導体素子|素子]]) | 制御装置 = | 制動装置 = 電気指令式 | 保安装置 = | 備考 = 空調装置(2台/両) | 備考全幅 = }} ディズニーリゾートラインの車両は「'''リゾートライナー'''」という名称で呼ばれている。 ; Type X(10形)「リゾートライナー」<ref>[https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=13078 『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』30号]([[朝日新聞出版]]、2011年)</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.kotsu.co.jp/Contents/20191007/ca7f18dd-9729-414d-9290-962452c21378|title=舞浜リゾートライン 「ディズニーリゾートライン」に新型車両 20年春から導入|accessdate=2020-06-14|date=2019-10-07|website=[[交通新聞]]電子版|publisher=交通新聞社}}</ref> : 2001年の開業時に導入された車両。全長約84mの6両編成(定員537人)が5本(30両)在籍し、編成ごとに外装の塗色が異なる。[[日立製作所]]製。車内貫通路上に車両識別用番号が記載されている。編成中における[[動力車|電動車]]と[[付随車]]の比率([[MT比]])は4M2Tで、電動車は中間車のみで、先頭車は[[電動機|主電動機]]を搭載していない。編成は第1編成(11 - 16号車)ブルー、第2編成(21 - 26号車)イエロー、第3編成(31 - 36号車)パープル、第4編成(41 - 46号車)グリーン、第5編成(51 - 56号車)ピーチである。営業運転での最高速度は50km/hで、速度計は70km/hまでのものを採用している。 : 車内は他の鉄道とは一線を画し、鉄道車両としては非常に大胆なデザインになっている。車両の窓や[[つり革]]などの形状は[[ミッキーマウス]]の顔を象っており<ref>{{Cite journal|和書 |journal = RAIL FAN |date = 2002-04-01 |issue = 4 |volume = 49 |publisher = 鉄道友の会 |page = 8 }}</ref>、ロングシートの座席は中央部分が出っ張った珍しい形状になっている(これらの窓の大きさは法的に合致している大きさである)。また車内にはTDRのパーク内でも使われている[[背景音楽|BGM]]が常に流れている{{Refnest|group="注釈"|TDLエントランス、リゾートゲートウェイ・ステーション、ベイサイド・ステーションで流れているものとは異なる。}}。[[クリスマス]]期間にはクリスマスのBGMが流れる。ラッピングライナーの車両によっては、BGMを変更する場合がある。各車両の連結部付近には小型のショーケースが設置され、TDR公式ファンクラブ「[[ファンダフル・ディズニー]]」を紹介するディスプレイとして使用されている(以前は[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]のアンティークグッズが各種展示されていた)。安全のため[[網棚]]は設置されていない。近年、[[前照灯]]の[[発光ダイオード|LED]]化と[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]の[[液晶ディスプレイ|液晶画面]]への換装が行われたが、液晶画面の表示内容はLEDのものと変わりない。 ; Type C(100形)「リゾートライナー」 : 2020年7月3日、さらにバリアフリーを充実させた新型車両Type C(100形)「リゾートライナー」の運行を開始した。今後は既存車両全てを1編成ずつ2024年度までにこの新型車両に入れ替える<ref group="広報" name="tdl20190925">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyodisneyresort.jp/tdrblog/detail/pr190925/|title=ディズニーリゾートラインに 新型車両「リゾートライナー(Type C)」が2020年春デビュー!|accessdate=2021-05-13|date=2019-09-25|publisher=東京ディズニーリゾート}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2020/06/26/120000.html|title=ディズニーリゾートライン,新形車両「リゾートライナー(Type C)」の営業運転を7月3日から開始|accessdate=2020-07-04|date=2020-06-26|website=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン railf.jp]]|publisher=[[交友社]]}}</ref><ref name="sankei20200703" />。 : [[編成 (鉄道)|編成]]は2023年3月の時点で101編成(111 - 116号車)イエロー、102編成(121 - 126号車)ピンク、103編成(131 - 136号車)ブルー、104編成(141 - 146号車)パープルが導入されている。 : 「いつでも どこでも だれにでも ディズニーの世界観を提供したい」をコンセプトに、つり革の高さが3段階になったり、Type Xと比較し車両の窓が大きくなる、ロングシート部の出っ張りがなくなる等の変更がみられる。各車両には防犯カメラとフリースペースが、また3、4号車にはワイドフリースペースが設けられ防犯面やバリアフリー面が向上した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyodisneyresort.jp/tdrblog/detail/pr190925/ |title=ディズニーリゾートラインに 新型車両「リゾートライナー(Type C)」が2020年春デビュー! |access-date=2023年3月28日 |publisher=オリエンタルランド}}</ref>。車内案内表示器は字幕表示とアニメーション表示がされ、路線図やステーション間を走行するリゾートライナーが映し出される。ディズニーリゾートライン開業20周年に当たる2022年7月27日から、世界のディズニーテーマパークのモノレールとしては初のミッキーマウスによるアナウンスが行われている<ref name="mrc20210715" group="広報" />{{Refnest|group="注釈"|従来のアナウンスの後にミッキーマウスから利用客に向けたメッセージがアナウンスされる。リゾートゲートウェイ・ステーション、ベイサイド・ステーションの到着前、発車後にアナウンスされる。}}。 なお、全般検査が[[京成電鉄の車両検修施設|京成電鉄宗吾工場]]まで陸送して行われるなど、整備・検査の一部については京成のほか、[[新京成電鉄]]([[くぬぎ山車両基地|くぬぎ山]])や[[北総鉄道]]([[印旛車両基地|印西牧の原]])など[[京成グループ]]各社に委託する場合もある(いずれの場合も実際の作業は[[京成車両工業]]が行う)。 また、ディズニーリゾートアニバーサリーイベントが開催されている場合、期間限定ライナーが登場する。2013年4月15日から2014年3月20日まで行われていた[[東京ディズニーリゾート30周年“ザ・ハピネス・イヤー”]]の期間限定ライナーでは、外装は大きな30周年ロゴとバルーンがついたデコレーション、車内は30周年コスチュームを身に着けたディズニーキャラとバルーンがデザインされている。最近はアニバーサリーイベントだけではなくクリスマスやアトラクションオープン時にも不定期で期間限定ライナーが登場するようになった。 リゾートライナーの[[トミカ]]が東京ディズニーリゾート内限定で販売されている。イベント時には限定モデルも発売されるがこのデザインは実物と異なったものになっている。[[プラレール]]も発売されている<ref>[https://www.tokyodisneyresort.jp/goods/113008471/ トレイントイ〈プラレール〉] - 東京ディズニーリゾート</ref>。 == 警察 == [[千葉県警察]][[鉄道警察隊]]西船橋分駐隊の管轄となっているが、[[オリエンタルランド]]グループ会社である[[MBM (ビルメンテナンス会社)|MBM]]のセキュリティキャスト(コスチュームは同じだがオリエンタルランドに所属するキャストでは無い)が警備にあたることがもっぱらとなっている。 == 駅一覧 == * 全駅が[[千葉県]][[浦安市]][[舞浜]]に所在。各駅の「・ステーション」は駅名の一部{{Refnest|group="注釈"|国土交通省監修『[[鉄道要覧]]』([[電気車研究会]]・鉄道図書刊行会)では、区間表記が「リゾートゲートウェイ, リゾートゲートウェイ」ではなく「リゾートゲートウェイ・ステーション, リゾートゲートウェイ・ステーション」となっており、同書の路線図でも「リゾートゲートウェイ・ステーション」「東京ディズニーランド・ステーション」「ベイサイド・ステーション」「東京ディズニーシー・ステーション」という具合に「・ステーション」まで含めて書かれている。}}。営業キロは「リゾートゲートウェイ・ステーション駅」から起算。接続路線の駅名は⇒印で示す。 {| class="wikitable" rules="all" |- !駅名 !style="width:2.5em;"|営業キロ !接続路線・最寄施設 ![[プラットホーム|ホーム]]形式 |- |[[リゾートゲートウェイ・ステーション駅]] |style="text-align:right;"|0.0 | * [[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR_JE_line_symbol.svg|18px|JE]] [[京葉線]] ⇒[[舞浜駅]](JE 07)※ * 東京ディズニーリゾート・ウェルカムセンター * [[イクスピアリ]] * [[ディズニーアンバサダーホテル]] * [[舞浜アンフィシアター]] * [[ホテルドリームゲート舞浜]]※ |2面1線(特殊型) |- |[[東京ディズニーランド・ステーション駅]] |style="text-align:right;"|0.6 | * [[東京ディズニーランド]] * [[東京ディズニーランドホテル]] * [[ボン・ヴォヤージュ (ディズニーショップ)|ボン・ヴォヤージュ]] |1面1線([[単式ホーム]]) |- |[[ベイサイド・ステーション駅]] |style="text-align:right;"|1.8 | * [[東京ディズニーリゾート・トイ・ストーリーホテル]] * [[東京ディズニーリゾート・オフィシャルホテル]] ** [[東京ベイ舞浜ホテル ファーストリゾート]] ** [[グランドニッコー東京ベイ 舞浜]] ** [[ホテルオークラ東京ベイ]] ** [[ヒルトン東京ベイ]] ** [[シェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテル]] ** [[東京ベイ舞浜ホテル]] |1面1線(単式ホーム) |- |[[東京ディズニーシー・ステーション駅]] |style="text-align:right;"|3.7 | * [[東京ディズニーシー]] * [[東京ディズニーシー・ホテルミラコスタ]] |2面1線(特殊型) |- |リゾートゲートウェイ・ステーション駅 |style="text-align:right;"|5.0 |style="text-align:center;"colspan="2"|上記と同じ |} * ※=東京ディズニーリゾートの構成施設ではないもの。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} ==== 告示 ==== {{Reflist|group="告示"}} ==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ==== {{Reflist|group="広報"}} == 関連項目 == * [[ディズニーランド・モノレール]] - 米国[[アナハイム]]の[[ディズニーランド]]([[ディズニーランド・リゾート]])における交通機関。アトラクション扱い。 * [[ウォルト・ディズニー・ワールド・モノレール・システム]] - [[オーランド]]の[[ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート]]における交通機関。運賃は無料。 * [[迪士尼線]] - [[香港ディズニーランド]]への鉄道路線。 * [[東京都交通局上野懸垂線]] - [[恩賜上野動物園]]の敷地内に設置されていたモノレール路線([[廃線]])。鉄道事業法に基づく交通機関であり、舞浜ディズニーリゾートラインと同じく園内遊戯施設ではない点で共通する。 * [[環状運転]] - 他の環状運転路線の例。 * [[名鉄モンキーパークモノレール線]] - 同じく遊園地輸送([[日本モンキーパーク]])を目的としたモノレール路線(廃線)。 * [[ドリーム開発ドリームランド線]] - 同じく遊園地輸送([[横浜ドリームランド]])を目的としたモノレール路線(廃園・廃線)。 * [[千葉都市モノレール]] - 同じ千葉県内にあるモノレール路線を運営している会社(懸垂式)。 == 外部リンク == {{Commonscat|Disney Resort Line}} * [http://www.mrc.olc.co.jp/ 舞浜リゾートライン] * [https://www.tokyodisneyresort.jp/fantasy/resortline/ ディズニーリゾートライン] - 舞浜リゾートライン * [https://www.tokyodisneyresort.jp/tdr/resortline.html ディズニーリゾートライン] - 東京ディズニーリゾート * [http://www.olc.co.jp/ja/tdr/profile/resortline.html ディズニーリゾートライン] - オリエンタルランド {{日本のモノレール}} {{東京ディズニーリゾート}} {{東京ディズニーリゾートの施設}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まいはまりそおとらいんていすにいりそおとらいん}} [[Category:日本のモノレール路線]] [[Category:舞浜リゾートライン|路ていすにいりそおとらいん]] [[Category:東京ディズニーリゾートの交通]] [[Category:関東地方の鉄道路線|ていすにいりそおとらいん]] [[Category:浦安市の交通]] [[Category:跨座式モノレール]] [[Category:千葉県の交通|まいはまりそおとらいんていすにいりそおとらいん]]
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カンザス州
カンザス州(カンザスしゅう、英: State of Kansas [ˈkænzəs] ( 音声ファイル))は、アメリカ合衆国の中西部に位置する州。ネブラスカ州、オクラホマ州、コロラド州、ミズーリ州と隣接する。 全域がグレートプレーンズ(大平原)の真っ只中にあって土地が平坦であり、大規模農業に適しているため農業、また牧畜業が盛んである。反面、地形の変化に乏しく、州全体に単調な田園風景が延々と広がっている。 州都はトピカ市であり、州最大の人口を抱える都市はウィチタ市、次いでオーバーランドパーク市、カンザスシティ市、オレイサ市、州都トピカ市と続く。 現在のカンザス州となっている地域には、1000年以上にわたってインディアンが住んでいた(ミシシッピ文化)。「カンザス」は、この地に先住したインディアン部族のカンサ族に由来し、州内を流れるカンザス川に名付けられていたものが州名になった。部族名「カンサ」は「風の民」あるいは「南風の民」を意味しているが、この言葉の元々の意味するところとは異なっている可能性がある。 この地に最初に足を踏み入れたヨーロッパ人は、1541年の探検家フランシスコ・バスケス・デ・コロナドだった(コロナド遠征隊)。 1803年、現在のカンザス州の大半はルイジアナ買収の一部としてアメリカ合衆国の領土になった。しかし、州南西部はスペイン、続いてメキシコ、さらにテキサス共和国の一部である時代が続き、1848年に米墨戦争の終結によってアメリカ合衆国の領土になった。1812年から1821年まではミズーリ準州の一部になっていた。カンザスを横切るサンタフェ・トレイルでは、1821年から1880年まで、ミズーリ州から工業製品が、現在のニューメキシコ州サンタフェからは銀と毛皮が運ばれた。この道のプレーリー地域では荷車の轍が現在も見られる。 1827年レブンワース砦が白人アメリカ人の最初の恒久的開拓地になった。1854年5月30日に制定されたカンザス・ネブラスカ法で、ネブラスカ準州とカンザス準州が設立され、白人開拓者に広大な土地が開放された。この時のカンザス準州は西の大陸分水界まで伸びており、現在のコロラド州デンバー、コロラドスプリングス、プエブロがある地域が含まれていた。 ミズーリ州とアーカンソー州からはカンザスの東部境界にそって開拓者を送り出した。これらの開拓者は奴隷制度を州内に広げるために住民投票を支配しようとした。続いて州内に入ってきたのは、マサチューセッツ州など自由州からの奴隷制度廃止運動側開拓者であり、隣接するミズーリ州から奴隷制度が拡大されてくるのを止めようとした。これら開拓者が武力で衝突し、「血を流すカンザス」と呼ばれるようになる小競り合いの時代が続いた。これは南北戦争の前哨戦になった。 1861年1月29日、カンザスはアメリカ合衆国34番目の州として、奴隷を持たない自由州になった。この時点までに州内の暴力事件はほとんど沈静していた。しかし、南北戦争中の1863年8月21日、ウィリアム・クァントリルが数百人の男を率いてローレンス市を襲い、市街地の大半を破壊し、200人近い人々を殺した(ローレンスの虐殺)。クァントリルは、アメリカ連合国軍からも、ミズーリ州議会が任命したゲリラ的レンジャー部隊からも厳しく批判された。クァントリルはこれら部隊への任官を申請したが、戦前の犯罪記録があったために宜も無くはねつけられた。 南北戦争後、多くの退役兵がカンザスに農場を造った。多くのアフリカ系アメリカ人もカンザスを奴隷制度廃止運動家「ジョン・ブラウン」の土地とみなし、ベンジャミン・"パップ"・シングルトン(英語版)のような解放奴隷に導かれて、州内に黒人社会の建設を始めた。彼らは1870年代に人種差別が激しくなりつつあった南部を離れ、エクソダスター(英語版) と呼ばれるようになった。 これと同時期にチザム・トレイル(英語版)(サンアントニオからカンザス・パシフィック鉄道(英語版)の通じているアビリーンまでの牛道)が開通してロングドライブが始まり、カンザスでも西部開拓時代が始まった。ワイルド・ビル・ヒコックはライリー砦(英語版)で副保安官、ヘイズとアビリーンでは連邦保安官を務めた。1872年にはアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道がドッジシティまで開通し、カンザス・パシフィック鉄道と家畜輸送を巡る競争が始まった。ドッジシティも荒々しいカウボーイの町であり、バット・マスターソンやワイアット・アープが町の法執行者として働いた。テキサス州から追われてきた牛が1年間に800万頭もドッジシティで汽車に乗せられ、東部へ運ばれた。ドッジシティは「牛の町の女王」という渾名を貰った。 カウボーイによる暴力行為に対処するためもあり、カンザス州は1881年2月19日にアルコール飲料を全て禁止する憲法修正案を採択した最初の州になった。 カンザス州は北部でネブラスカ州、東部でミズーリ州、南部でオクラホマ州、及び西部でコロラド州と接している。105の郡に分割され、628の都市 がある。太平洋及び大西洋から等距離に位置している。北米の測地線の中心は1983年までオズボーン郡ミーズランチに位置していた。この地点は合衆国政府によって作成された北アメリカ地図すべての中心参照地点として使われていた。大陸48州の地理的中心はスミス郡レバノン近くに位置しており、カンザス州の地理的中心はバートン郡に位置している。 カンザス州はロッキー山脈の東手前にあるフロンティア・ストリップに位置する6つの州の1つである。 カンザス州の大地は水平方向から西向きに緩やかに沈む堆積岩の層でできている。州東部と南部にはミシシッピ紀、ペンシルベニア紀、ペルム紀の岩が層をなしている。州の西半分は白亜紀から第三紀の堆積物であり、西に隆起したロッキー山脈が浸食されて流れてきたものである。州北東隅は更新世の氷河作用を受けており、氷河礫と黄土に覆われている。 アメリカ合衆国の「大平原(グレートプレーンズ)」に展開するこの州は、西側3分の2が概して平坦または波打つように起伏しているのに対し、東側3分の1は多くの丘陵や森林である。東から西に向かうに連れて徐々に高度が上がり、海抜高度はモンゴメリー郡コフィービルのバーディグリス川沿い684フィート (208 m) から、コロラド州境から半マイル (800 m)、ウォレス郡内のサンフラワー山、標高4039フィート (1,231 m) まで変化している。国内では最も平坦な州として知られており、良く知られた2003年の調査では、カンザス州が「パンケーキより平坦な」ことになっている(パンケーキには「ぺちゃんこにする」という意味がある)。このことはその後も問題にされ、その測定方法の違いにより、カンザス州は20番目から30番目に平坦だとする科学者もいる。標高の平均値は2,000フィート (600 m) であり、50州の中では14番目である。 カンザス川は、ジャンクションシティ(英語版)というふさわしい名称の都市でスモーキーヒル川(英語版)とレパブリカン川(英語版)が合流して作られ、カンザス州の北東部を170 マイル (270 km) 流れた後、カンザスシティで、州の北東部境界線75 マイル (120 km) 近くを形づくっているミズーリ川と合流する。 コロラド州に水源があるアーカンザス川は、カンザス州西部と南部を500 マイル (800 km) 近く蛇行しながら流れており、その支流(リトルアーカンザス川(英語版)、ニネスカ川、ウォルナット川、カウクリーク、シマロン川(英語版)、バーディグリス川、及び ネオショ川(英語版))、と共にカンザス州の南部排水系を構成している。 その他の重要な河川として、スモーキーヒル川の支流であるセイリーン川とソロモン川、またビッグブルー川(英語版)、デラウェア川、およびカンザス川に流れ込むワカルーサ川がある。ミズーリ川にはメルダジーン川が流れ込んでいる。スプリング川(英語版)はリバートンとバクスタースプリングスの間を流れている。 アメリカ合衆国国立公園局の管理下にある地域は以下の通りである。 カンザス州はケッペンの気候区分で3つの地域に入っている。すなわち湿潤大陸性気候、亜乾燥気候、温暖湿潤気候である。東部3分の2(特に北東部)は湿潤大陸性気候であり、冷涼から寒気の強い冬と、暑く湿気が多い夏が特徴である。降水量の大半は夏と春に記録されている。西側3分の1、アメリカ国道281号線から西の回廊は、亜乾燥気候である。夏は暑く、酷暑になることも多いが概して湿度は低い。冬は温暖から酷寒まで変化が激しい。平均年間降水量は約16インチ (400 mm) である。冬季のチヌーク風で80°F (27°C) も気温を上昇させることがある。最南中部と南東部は温暖湿潤気候である。暑く湿度の高い夏と温暖な冬が特徴であり、他の地域よりも降水量が多い。3つの気候区分は厳密なものではなく、州内大半の地域で全ての気候区分の様相が現れることがあり、干ばつや乾燥と湿潤の間を変化する気象が珍しくない。また冬季には温暖と寒気が交互に現れる。 年間降水量は南東部の47インチ (1200 mm) から南西部の16インチ (400 mm) まで差がある。積雪は南部州境での5インチ (13 cm) から最北西部の35インチ (90 cm) まである。降霜の無い日は、南部で200日以上、北西部で130日となっている。日照に関しては資料により違いはあるが、カンザス州は国内でも多い方から9位ないし10位の州である。西部はカリフォルニア州やアリゾナ州と同じくらい日照が多い。 春と初夏は激しい気象に災いされやすい。州のほとんど全体で日照に恵まれてはいるものの、気候区分の境目にあるために多くの気団の発生によって激しい雷雨が起こりやすい。これらの嵐の多くはスーパーセルになる。さらに竜巻が生まれ、改良藤田スケールEF3以上のものが多い。国立気候データセンターの統計に拠れば、テキサス州に次いで竜巻発生数が多く(1950年1月1日から2006年10月31日の期間)、オクラホマ州より僅かに多い。またアラバマ州と共に、強度F5あるいはEF5の竜巻の発生数は最も多い。平均年間発生数は50個以上である。激しい雷雨では大変大きな雹を降らせることもある。また鉄砲水による洪水や突風をもたらすこともある。 国立海洋大気庁に拠れば、過去最高気温は1936年7月24日にアルトンで記録された121°F (49.4°C) であり、過去最低気温は1905年2月13日にレバノンで記録された-40°F (-40 °C) である。この過去最高気温を国内の州と比べると、ノースダコタ州とタイで第5位である。 2020年国勢調査時点でのカンザス州の人口は2,937,880人であり、2010年国勢調査時点より2.97%増加していた。人口密度は13.9人/km。カンザス州の人口重心はチェイス郡ストロングシティ付近となっている。約48.8%が男性で、51.2%が女性である。 2004年時点の人口には149,800人(州人口の5.5%)の外国生まれが含まれ、47,000人(州人口の1.7%)が不法在留外国人と見込まれている。 カンザス州の人種構成及び前の国勢調査との比較: カンザス州内で申告された祖先による構成比は:ドイツ系 (33.75%)、アイルランド系 (14.4%)、イギリス系 (14.1%)、アメリカ人 (7.5%)、フランス系 (4.4%)、スコットランド系 (4.2%)、オランダ系 (2.5%)、スウェーデン系 (2.4%)、イタリア系 (1.8%)、ポーランド系 (1.5%) となっている。ドイツ系アメリカ人は特に北西部で多く、他州から来たイギリス系は南東部で多い。メキシコ系が南西部に入っており、特定の郡では人口の半数近くになっている。アフリカ系アメリカ人の多くはエクソダスターの子孫である。 カンザス州は国内でも人口成長率が低い方の州である。過去数10年間、田園部から都市部に人口が移動し、田園部の過疎化が進んできた。 中西部にある全ての都市の中で、89%は人口3,000人未満であり、その中でも多くの都市が人口1,000人未満となっている。カンザス州の歴史家ダニエル・C・フィッツジェラルドに拠れば、カンザス州だけをとってみても、6,000以上のゴーストタウンや衰退するコミュニティがある。一方でカンザスシティ大都市圏に入るジョンソン郡の特定の町は国内でも有数の人口成長率となっている。 カンザス州の住民の宗教的関係は以下である: アラパホー族、シャイアン族、チッペワ族、ヒカリア・アパッチ族、フォックス族、イリニ族、イロコイ族、カンサ族、キカプー族、カイオワ族、カイオワ・アパッチ族、マイアミ族、マンシー族、ショーニー族、ワイアンドット族、クアポー族、ミズーリ族、オーセージ族、オート族、オタワ族、デラウェア族、ポーニー族、セネカ族、ソーク族などのインディアン部族が農耕、狩猟民併せて先住した。 チェロキー族は1835年の「新エコタ条約」で、カンザス州の南東から南の州境に、テネシー州から強制移住させられた。「チェロキー国家」として南北戦争にも寄与し、1866年に合衆国の黒人奴隷解放政策に賛同したのち、「自由身分の黒人」とは別に「自由身分の色つき」枠に振り分けられ、他のインディアン部族同様に「ジム・クロウ法」の対象となった。 この州のインディアン部族のほとんどは、19世紀初頭に、東部森林地帯からアメリカ政府によって強制移住させられてきたものである。こののち、オッタワ族、デラウェア族は1866年、クアポー族(アーカンサス族)、ソーク族、ワイアンドット族は1867年にオクラホマ州へ強制移住させられた。残る部族も1887年制定の「ドーズ法」で保留地を没収され、ほとんどが絶滅指定された。 州名の由来となったカンサ族(コー族)自体は、1872年にオクラホマ州へ強制移住させられ、部族としては同州にはいない。 アメリカ連邦政府から公認を打ち切られている部族は、条約で確約される保留地を持つことが出来ない。多くの部族が公式認定を求めアメリカ内務省と交渉中である。 同州では、5つの部族がインディアン・カジノを運営している。 ワイアンドット族(ヒューロン族)は、連邦から公認されていない部族であるが、2003年8月にカンザス市7番街にある部族共同体の伝統墓地の駐車場に移動型カジノの営業を始めた。2004年、州司法長官はカジノを強制閉鎖させ、152台のスロットマシンと50万ドルの現金を押収した。ワイアンドット族は州と関係当局を告訴し、これに完全勝訴。2007年より7番街のフリーメーソンの廃寺院を使って、部族カジノは再開された。連邦保留地を持たない部族が自前で建物を買い、カジノを開くという事例が実現することとなった。 カンザス州には627の法人化都市がある。州法で都市は「国勢調査目録によって」得られる人口によって3つのクラスに分けられている。第3級は人口5,000人未満であるが、2,000人以上に到達した都市は2級に分類される可能性がある。2級は人口25,000人未満で、15,000人以上になったときに1級に分類される可能性がある。1級と2級は郡区とは独立し、郡区の領域に含まれていない。 州北東部は、ミズーリ州との東部境界からジャンクションシティまで、かつネブラスカ州との北部境界から南のジョンソン郡までと定義され、ここに含まれるカンザスシティ、マンハッタン、ローレンスおよびトピカの都市圏には150万人以上が住んでいる。1960年に法人化された若い都市であるオーバーランドパーク市がジョンソン郡で人口も面積も最大の都市である。同市には州内最大のコミュニティカレッジであるジョンソン郡コミュニティカレッジがあり、また都市圏最大の民間企業雇用主である通信事業のスプリント・ネクステルが本社を構えている。2006年、オーバーランドパーク市はアメリカで住み良い都市第6位に選ばれ、隣接するオレイサ市も13位に入った。オレイサ市はジョンソン郡の郡庁所在地であり、ジョンソン郡幹部空港がある。オレイサ市、ショーニー市、ガードナー市は州内でも人口成長率の高い都市である。オーバーランドパーク市、レネックサ市、オレイサ市、およびガードナー市は、サンタフェ・トレイルの道筋にあることでも名高い。人口1,000人以上の都市の中で、ミッションヒルズ市は一人あたりの所得の中央値が州内で最も高い。 北東部には高等教育機関が幾つかある。ボールドウィンシティのベイカー大学は1858年に設立された州内最古の大学であり、メソジスト教会が運営している。アッチソン市にあるベネディクティン大学はセントベネディクト修道院とマウント・セント・スコラスティカ修道院が後援し、セントベネディクト・カレッジ(1858年設立)とマウント・セント・スコラスティカ・カレッジ(1923年設立)の合併で作られた。オレイサ市にはミッドアメリカ・ナザレン大学がある。オタワ市とオーバーランドパーク市にはオタワ大学がある。カンザスシティにはカンザスシティ・カンザス・コミュニティカレッジとカンザス大学医療センターがある。オーバーランドパーク市にはカンザス大学エドワーズキャンパスもある。車で西へ1時間弱のローレンス市には州内最大の州公立大学であるカンザス大学があり、他にハスケル・インディアン部族大学がある。 北のカンザスシティは州内で2番目に大きな陸地面積を持っており、多くの多様な民族の集まる地区がある。見所として、カーレース場のカンザス・スピードウェイ、アメリカンフットボールのカンザスシティ・ティーボーンズ、および小売業と娯楽のザ・リジェンド・アット・ビレッジウェストがある。ミズーリ川を北に遡ると、ランシング市には州で最初の最高度警備刑務所がある。1854年に設立された歴史あるレブンワース市は州内で最初に法人化された都市である。その北にレブンワース砦があり、ミシシッピ川より西では最古の現役陸軍基地である。アッチソン市は州内でも早くから商業中心となり、アメリア・イアハートの生誕地として知られている。 その西には25万人近くが住んでいるトピカ都市圏がある。トピカ市は州都であり、ウォッシュバーン大学がある。昔のオレゴン・トレイルのカンザス川渡し場に建設され、国指定歴史史跡が幾つかある。さらに西の州間高速道路70号線とカンザス川沿いにジャンクションシティがあり、石灰岩と煉瓦で造られた建物群があり、また近くには「ビッグレッドワン」と通称されるアメリカ陸軍第1歩兵師団が駐屯するライリー砦がある。さらに少し進んだ位置にマンハッタン市があり、州内で2番目に大きな公立大学で、1863年に国内でも最古の国有地認可大学となったカンザス州立大学がある。キャンパスの南には1889年からの歴史があるアジービルがあり、州内では最古の商店街がある。 カンザス州中南部にあるウィチタ都市圏は647,610人(2020年国勢調査)の人口を抱える。ウィチタ市は陸地面積でも人口でも州内最大の都市である。「エアー・キャピタル」とも呼ばれる航空機産業の中心であり、またウィチタ州立大学がある。国指定歴史史跡や博物館の他に娯楽施設も多く、中西部での文化のメッカになる望みを持っている。人口成長率は2桁の伸びを示しており、郊外都市は州内最大の成長率になっている。ゴッダード市は2000年からの人口成長率が11%だった。その他成長率の高い都市として、アンドーバー、メイズ、パークシティ、ダービー、ヘイズビルの各都市がある。 ウィチタからアーカンザス川を遡るとハッチンソン市がある。世界でも最大級の岩塩床の上に建設されており、また世界最大最長のコムギエレベーターがある。カンザス・コスモスフェア・アンド・スペースセンター、プレーリー・デューンズ・カントリークラブがあり、またカンザス州祭が開催されている。ウィチタから州間高速道路135号線を北に行くとニュートン市があり、元はサンタフェ鉄道の西側終着駅、かつチザム・トレイルの出発点だった。ウィチタの南東には歴史的な建築物があるウィンフィールド市とアーカンザスシティ市があり、アークシティにはチェロキー・ストリップ博物館がある。ユーダル市は1955年5月25日にカンザス州でも最も猛威を振るった竜巻が起こった場所である。市内とその近郷で80人が死亡した。ウィチタの南西には人口5人のフリーポートがあり、州内最小の都市である。 フリントヒルズのブルーステム地域の中心にあるカンザスシティ市、トピカ市とウィチタ市の中間にエンポリア市があり、幾つかの国指定歴史史跡と、著名な教員養成カレッジであるエンポリア州立大学がある。ここは新聞発行者ウィリアム・アレン・ホワイトの故郷でもあった。 州南東部では、炭田地域に多くの国指定歴史史跡があり、特徴ある歴史を持っている。クロウフォード郡(フライドチキンの首都と言われる)にあるピッツバーグ市は人口20,646人(2020年国勢調査)を抱える州南東部最大の都市であり、ピッツバーグ州立大学(ペンシルベニア州のピッツバーグ大学とは別物)がある。隣接するフロンテナック市は1888年に炭坑で爆発が起こり、死者47人を出すという最大の炭鉱事故が起きた。ウェストミネラル市の1.5マイル (2.4 km) 郊外には「ビッグ・ブルータス」がある。この改修された砦の側にある歴史あるフォートスコットには、リンカーン大統領が1862年に指定した国立墓地がある。 州中央部と北部ではサライナが最大の都市である。サライナの南にリンズボーグという小さな都市があり、多くのダーラヘスト(木工の馬)が飾られている。この町の建築物や装飾物の多くははっきりと分かるスウェーデン様式である。州間高速道路70号線にそって東に歴史あるアビリーン市があり、元はチザム・トレイルの始点であり、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が少年時代を過ごした町である。その西にはルーカスがあり、カンザス州では大衆芸術の首都とされている。 州間高速道路に沿って西方にラッセル市がある。昔から人口の少ない北西部の始まる所であり、元アメリカ合衆国上院議員ボブ・ドールの故郷、かつ同じく上院議員アーレン・スペクターが少年時代を過ごした町である。ヘイズ市は人口21,116人(2020年国勢調査)を数える州北西部最大の都市で、フォートヘイズ州立大学とスターンバーグ自然史博物館がある。エリス郡の小さな町には2つの目印となるものがある。「平原の大聖堂」はヘイズの10マイル (16 km) 東、ビクトリアにあり、ウォルター・クライスラーが少年時代を過ごした家はヘイズの15マイル (24 km) 西、エリスの町にある。ヘイズの西では州間高速道路70号線沿いであっても人口が急速に少なくなり、コルビーとグッドランドという人口が4,000人を超える唯一の町が州間高速道路70号線に沿って35マイル (56 km) 離れて位置している。 ドッジシティ市は19世紀後半の牛追いの時代で有名であり、サンタフェ・トレイルにそって建設された。リベラル市はサンタフェ・トレイル南側ルート上にある。州内で最初の風力発電所がモンテズマの東に建設された。ガーデンシティにはリー・リチャードソン動物園がある。 行政府:行政府には選挙で選ばれる6人の役人がいる。知事と副知事は同じ候補者名簿で選出される。検事総長、州務長官、州財務官、および州保険委員長は別々の選挙で選ばれる。2012年時点で6人の役人は全て共和党員である。知事サム・ブラウンバックと副知事ジェフ・コリアーの組み合わせは2010年に選出され、最大2期続けて務めることが可能である。2010年にはインデペンデンス市出身のデレク・シュミットが検事総長に、パイパー市のクリス・コバックが州務長官に、ウィチタ市のロン・エステスが州財務官に、トピカ市のサンディ・プレージャーが州保険委員長に選ばれた。 立法府:上院と下院の両院制である。下院議員は125人、上院議員は40人で、共に4年任期である。2012年時点で上院の32人、下院の92人が共和党員である。 司法府:行政府の頂点はカンザス州最高裁判所であり、判事は7人いる。空席が生じた場合、9人の判事予撰委員会が選出した3人の候補者から知事が1人を指名することになっている。この委員会は州内弁護士が選出した5人と知事が選出した4人で構成されている。 カンザス州は進歩的な州という評判があり、立法では多くの「初めて」がある。労働災害補償法を定めた最初の州であり(1910年)、証券業を規制したのも初めての州だった(1911年)。1912年には女性参政権を認めたが、これはアメリカ合衆国憲法でそれを認める修正が行われる10年近く前のことだった。女性参政権が全州で認められたのは、1920年にアメリカ合衆国憲法修正第19条が批准された時だった。第一次世界大戦後、州内の多くの都市で市政委員会・シティマネジャー方式が採用されたが、当時国内の多くの都市では政治マシーン、あるいは犯罪組織に牛耳られており、中でも有名なのがミズーリ州カンザスシティのペンダーガスト・マシーンだった。1954年、トピカ市で、「ブラウン対教育委員会事件」に対する最高裁判所判決が出て、国内の学校で人種差別を行うことを禁じたのも有名である。 フランクリン・ルーズベルト大統領は1932年から4期続けて大統領に当選したが、カンザス州はこれをあまり支持しなかったことで数少ない州の1つになっている。ルーズベルトがカンザス州を制したのは4回のうち2回のみだった。ただし、1936年の場合は、対抗馬のカンザス州知事アルフレッド・M・ランドンを大差で破って州を制した。1940年はウェンデル・L・ウィルキー、1944年はトマス・E・デューイと共に共和党候補が州を制した。1948年では現職のハリー・S・トルーマンがミズーリ州境から約15マイル (24 km) 東のインディペンデンス市出身であったにも拘わらず、共和党のデューイを支持した。ルーズベルトの後でカンザス州を制した民主党候補は1964年のリンドン・B・ジョンソン一人だけである。 過去40年間でカンザス州は国内の他の地域よりも社会的に保守的になっている。1990年代には人工中絶に新しい制限を課し、ダン・グリックマンなど著名な民主党員が敗北し、州教育委員会は1999年に教育指導標準から進化論を除外する判断をした。ただし教育委員会の判断は後に撤回された。2005年、州民は同性結婚を禁止する憲法修正条項を承認した。翌年、州議会は結婚を認める最少年齢を15歳に設定する法を成立させた。2008年、キャスリーン・セベリウス州知事は「地球温暖化ガスが気候の変動に影響していることを知っている。カンザス州は農業の州として、特に脆弱である。それ故に、公害を減らすことは短期間に我々の州に恩恵を及ぼすだけでなく、次の世代にも貴重なものになる」と言って、新しい石炭焚き火力発電所建設計画に拒否権を使った。しかし、2009年にセベリウスが辞任してマーク・パーキンソンが州知事に就任すると、パーキンソンは発電所建設を認めるための妥協案を発表した。 2010年、サム・ブラウンバックが総投票数の63%を得て、州知事に当選した。8年ぶりの共和党員知事になった。ブラウンバックは5項目の「カンザス州のためのロードマップ」を掲げて選挙運動を行った。それには以下のような定量化できる目標が挙げられていた。 ブラウンバックは2012年議会会期で、次のような5つの目標を明示した。 ブラウンバックは知事になる前のアメリカ合衆国上院議員時代は大変保守的な人物だったが、知事になってからは議論を呼ぶ決断を幾つか下してきた。2011年5月、州内の芸術面の指導者や支援者の大きな反対の声に対抗して、カンザス芸術委員会を閉鎖させ、芸術関連機関の無い初の州にした。2011年7月、費用削減の手段として、州社会復帰事業局のローレンス支所を閉鎖する計画を発表した。この計画には多くの反対の声が起こった。ローレンス市政委員会は支所を開設したままにするための予算を手当てすることを決めた。 カンザス州から連邦議会に送り出している議員は、上院2人、下院4人であり、2012年時点で全て共和党員である。 カンザス州は、準州時代に奴隷制度の拡張に反対した動きの中から共和党が生まれたアンテベラムの昔から、共和党の堅い地盤である。世界恐慌が起こったあと、1932年にフランクリン・ルーズベルトが初めて大統領に当選した時以来、上院議員選挙で民主党候補を選んだことがない。二大政党のどちらかが単一の州で上院議員選挙を連続して敗北した記録としては最長である。2008年の大統領選挙で、サム・ブラウンバック上院議員が共和党指名の候補だった。2010年の上院議員選挙でブラウンバックは3期目の候補者にならなかったが、その年の一般選挙で知事に当選した。2010年8月予備選挙では、ブラウンバックの後釜としてジェリー・モーランが共和党の指名を得て、一般選挙でも民主党候補に大勝した。 共和党候補ではない者が大統領選挙でカンザス州を制したのは、ポピュリスト党のジェイムズ・ウィーバー、民主党のウッドロウ・ウィルソン、フランクリン・ルーズベルト(2回)、リンドン・B・ジョンソンだけである。2004年の選挙では、ジョージ・W・ブッシュが総投票数の62%を獲得し、25%の大差を付けて6人の選挙人票を得た。このとき民主党のジョン・ケリーを支持したのは、カンザスシティのあるワイアンドット郡とカンザス大学のあるローレンス市を含むダグラス郡の2郡だった。2008年の選挙でも同様な結果であり、ジョン・マケインが57%を獲得した。ダグラス郡、ワイアンドット郡に加えて、クロウフォード郡がバラク・オバマを支持した。 1996年大統領選挙で、カンザス州の共和党上院議員ボブ・ドールが党の候補者指名を得たが、大統領にはなれなかった。カンザス州出身で敗北した大統領候補者として2人目となった。 カンザス州で飲酒が認められる年齢は21歳である。小売りに対する州消費税の代わりに、免許を得た店舗で消費される酒類には10%の飲食税、小売りされた酒類には8%の酒類販売実行税が課せられている。穀草類の麦芽酒(3.2ビールとも呼ばれる)の販売は1937年に合法化されたが、禁酒法が終わった後、カンザス州でアルコール飲料が合法化されたのは州憲法が修正された1948年になってからだった。翌年、州議会で酒類統制法が成立し、規制、免許、課税の方法が作られた。またアルコール飲料統制局が作られ、この法の執行に関わった。穀草類の麦芽酒を規制する権限は都市や郡に任されたままである。飲食店での酒の提供は1986年の憲法改正と翌年の規制法の成立で合法となった。2006年11月時点で、まだ州内29郡は酒類の販売を禁じる「ドライ郡」であり、17郡だけが食品の売り上げ規定無しに酒類販売を認めている。今日酒類では2,600店、穀草類の麦芽酒では4,000店以上の免許が降りている。 アメリカ合衆国商務省経済分析局によると、カンザス州の2008年の州総生産高は1,227億米ドルであり、全米の州の中では32位だった。2008年の一人当たりの収入は35,13米ドルだった。2012年3月時点の失業率は6.2%である。カンザス州の農業生産品は牛、羊、小麦、モロコシ種、大豆、綿、豚、トウモロコシ、及び塩である。州東部は、合衆国の大穀倉地帯であるグレインベルトの一部である。工業生産品は輸送設備、商業及び小型飛行機、食品加工、出版、化学製品、機械、衣服、石油及び鉱業である。 石油生産では全米50州で第8位である。長い期間を経て掘削が難しくなり、生産量は着実に減少している。1999年に原油価格が底をついて以来、2004年の月間生産量280万バーレル (445,000 kl) で安定している。近年の原油価格高騰により、二酸化炭素隔離など石油再生技術が経済的になってきた。 天然ガスの生産量でも全米8位である。1990年代半ばからヒューゴトン・ガス田が枯渇してきて生産量は減少している。ヒューゴトン・ガス田はオクラホマ州やテキサス州にも広がる州内最大のガス田である。2004年、天然ガスの減少が緩やかだったことと、炭層メタンの生産量増加で、全体としては減少率が鈍化された。平均月間生産量は320億立方フィート (0.9 km) である。 州経済は航空機産業からも大きな影響を受けている。ウィチタやカンザスシティには、スピリット・アエロシステムズ、ボーイング、セスナ、リアジェット、ホーカー・ビーチクラフト(旧レイセオン)など大規模航空機会社が製造設備を構えている。 州内に本社を構える主要企業としては、通信のスプリント・ネクステル(世界本社がオーバーランドパーク市にある)、同じく通信のエンバーク(国内本社がオーバーランドパーク市にある)、トラック運送のYRCワールドワイド(オーバーランドパーク市)、GPS技術のガーミン(オレイサ市)、靴製造のペイレスシューズ(国内本社と物流センターがトピカ市にある)、化学品のコッホ・インダストリーズ(ウィチタ市)などがある。 カンザス州の所得税は3.5% から 6.45% まで3段階ある。州の消費税は6.3%である。多くの都市や郡が付加消費税を徴収している。2001年の不景気時を除き、徴収率は経済が成長するに連れて高くなる傾向にあり、2回の課税率増が法制化された。2003年の消費税総額は16億ドルとなり、1990年の8億ドルから倍増している。 税収が予測を下回り、個人所得が低成長であったことからくる歳入不足で、州債の水準がかなり上がることになった。1998年の州債は11億6,000万ドルだったが、2006年には38億3,000万ドルにまでなった。1999年に州は包括的交通10年計画を策定したので負債の幾らかの増加は予測されていた。2004年6月時点で、ムーディーズ・インベスターズ・サービスは、一人当たり税負担州債額でカンザス州を第14位に位置づけた。個人収入に対する比率では3.8%であり、評価された州の中央値2.5%より高い。また1992年の1%未満からは上昇してきた。州法では会計年度末に歳出の7.5%以上の現金を残すことになっているが、議会はこの規則を投票で無効にすることができ、事実近年の予算審議ではこれを無効にしてきた。 2007年3月、カンザス州議員による「カンザス宝くじ委員会」が、4つの候補地での「リゾート・カジノ」の設立議案を可決。このカジノ開設の可否は州下の全郡での住民投票にゆだねられた。 結果、ワイアンドット郡では、有権者80%超の圧倒的賛成によって、同郡での賭博施設の新設を合法承認し、「カンザスシティー競馬場」でのスロットマシン設置を許可した。キャスリーン・セベリウス知事は「カジノ事業はカンザス州の雇用と州の収入源のチャンスである」と述べ、4月にこの新州法に調印した。 以後、クロフォード郡、サムナー郡、チェロキー郡での有権者投票でも、圧倒的賛成でカジノが承認された。「インディアン・カジノ」に後れをとった同州のカジノ事業は、今後本格化する模様である。 「ブーツヒル・カジノ&リゾート」は、2009年12月16日にオープンした。 州内を走る州間高速道路は、2本の本線、1本の環状路、2本の支線、および3本のバイパスがあり、総延長は874マイル (1,400 km) である。1956年11月14日に国内初の州間高速道路(70号線)の部分が、トピカ市のすぐ西に開通した。70号線は東のミズーリ州セントルイス市やカンザスシティ市と、西のコロラド州デンバー市を結ぶ幹線である。この道路が通過する州内の都市は、東からカンザスシティ、ローレンス、トピカ、ジャンクションシティ、サライナ、ヘイズ、コルビーの各都市である。州間高速道路35号線は南北方向の幹線であり、北のアイオワ州デモイン市と南のオクラホマ州オクラホマシティとを繋いでいる。この道路が通過する州内の都市は、北からカンザスシティ、オタワ、エンポリア、エルドラード、ウィチタの各市である。 支線は2本の幹線を繋ぐ役割を果たしている。南北方向の州間高速道路135号線はサライナで70号線と、ウィチタで35号線と接続する。北東から南西に走る州間高速道路335号線はトピカで70号線と、エンポリアで35号線と接続する。335号線と、35号線、70号線の部分がカンザス・ターンパイクを形成している。バイパスには、トピカ周辺の州間高速道路470号線と、ウィチタ周辺の州間高速道路235号線がある。州間高速道路435号線はカンザスシティを回る環状路であり、州間高速道路635号線はカンザスシティのバイパスになっている。 アメリカ国道69号線はミネソタ州からテキサス州を繋ぐ南北の幹線である。州内東部を通り、カンザスシティからルイバーグ、フォートスコット、フロンテナック、ピッツバーグおよびバクスタースプリングスの各市を抜け、オクラホマ州に入る。 カンザス州にはカリフォルニア州に次いで国内第2位の高規格道路体系がある。これは105郡という比較的多い郡と郡庁所在地があり、これら全てを結んでいるためである。 2004年1月、カンザス州交通省は新しく旅行者情報サービスを始めると宣言した。電話で511を呼ぶと、道路状態、工事、閉鎖、迂回路および気象条件を得ることができる。気象条件と道路状態は15分毎に更新されている。 州内唯一の主要商業空港(クラスC)はウィチタ・ミッドコンティネント空港であり、ウィチタ市の西外れ、アメリカ国道54号線沿いにある。マンハッタン地域空港からはダラス・フォートワース国際空港やシカゴのオヘア国際空港に毎日定期便が出ており、州内第2位の商業空港になっている。州内北東部の旅客はプラット郡にあるカンザスシティ国際空港を利用している。州内最西部の旅客はコロラド州のデンバー国際空港を利用している。ドッジシティ、ガーデンシティ、グレートベンド、ヘイズ、ハッチンソン、サライナにある小さな空港からは接続便が出ている。トピカ市にあるフォーブス飛行場は一時期アレジアント航空が就航していたが、2007年に打ち切られた。 カンザス州の教育は初等・中等教育までカンザス州教育委員会が管轄している。公立のカレッジと大学はカンザス州理事会が監督している。 1999年以降、教育委員会は知能設計の教育を奨励する科学教程の変更を2回承認してきた。2回共に、選挙で委員の構成が代わった後にその標準を元に戻してきた。 昔からカンザス州はアメリカにおける田舎の代名詞になっていた。「オズの魔法使い」で、主人公のドロシーの養父母はカンザス平原の僻地の農民としてのあまりにも単調で退屈な生活に、身も心も灰色になってしまうが、ドロシーだけが飼っている子犬のトトのおかげで快活さをなくさずに済む。 マイケル・サンデルはハーバード大学の公開講義において「余生をカンザスで農業をして暮らさなければならないとしたらその代償はいくらに値するか」という大恐慌時代に行った調査に対して、当時の人々が30万ドルに値すると答えた事例を示して、カンザスの農村を魅力に乏しくもっとも住みたくない鄙びた地域の典型として挙げている。ほかにも、スーパーマンが幼少期〜青年期を過ごした「スモールビル」も、ここカンザス州にあるとされている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "カンザス州(カンザスしゅう、英: State of Kansas [ˈkænzəs] ( 音声ファイル))は、アメリカ合衆国の中西部に位置する州。ネブラスカ州、オクラホマ州、コロラド州、ミズーリ州と隣接する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "全域がグレートプレーンズ(大平原)の真っ只中にあって土地が平坦であり、大規模農業に適しているため農業、また牧畜業が盛んである。反面、地形の変化に乏しく、州全体に単調な田園風景が延々と広がっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "州都はトピカ市であり、州最大の人口を抱える都市はウィチタ市、次いでオーバーランドパーク市、カンザスシティ市、オレイサ市、州都トピカ市と続く。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "現在のカンザス州となっている地域には、1000年以上にわたってインディアンが住んでいた(ミシシッピ文化)。「カンザス」は、この地に先住したインディアン部族のカンサ族に由来し、州内を流れるカンザス川に名付けられていたものが州名になった。部族名「カンサ」は「風の民」あるいは「南風の民」を意味しているが、この言葉の元々の意味するところとは異なっている可能性がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "この地に最初に足を踏み入れたヨーロッパ人は、1541年の探検家フランシスコ・バスケス・デ・コロナドだった(コロナド遠征隊)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1803年、現在のカンザス州の大半はルイジアナ買収の一部としてアメリカ合衆国の領土になった。しかし、州南西部はスペイン、続いてメキシコ、さらにテキサス共和国の一部である時代が続き、1848年に米墨戦争の終結によってアメリカ合衆国の領土になった。1812年から1821年まではミズーリ準州の一部になっていた。カンザスを横切るサンタフェ・トレイルでは、1821年から1880年まで、ミズーリ州から工業製品が、現在のニューメキシコ州サンタフェからは銀と毛皮が運ばれた。この道のプレーリー地域では荷車の轍が現在も見られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1827年レブンワース砦が白人アメリカ人の最初の恒久的開拓地になった。1854年5月30日に制定されたカンザス・ネブラスカ法で、ネブラスカ準州とカンザス準州が設立され、白人開拓者に広大な土地が開放された。この時のカンザス準州は西の大陸分水界まで伸びており、現在のコロラド州デンバー、コロラドスプリングス、プエブロがある地域が含まれていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ミズーリ州とアーカンソー州からはカンザスの東部境界にそって開拓者を送り出した。これらの開拓者は奴隷制度を州内に広げるために住民投票を支配しようとした。続いて州内に入ってきたのは、マサチューセッツ州など自由州からの奴隷制度廃止運動側開拓者であり、隣接するミズーリ州から奴隷制度が拡大されてくるのを止めようとした。これら開拓者が武力で衝突し、「血を流すカンザス」と呼ばれるようになる小競り合いの時代が続いた。これは南北戦争の前哨戦になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1861年1月29日、カンザスはアメリカ合衆国34番目の州として、奴隷を持たない自由州になった。この時点までに州内の暴力事件はほとんど沈静していた。しかし、南北戦争中の1863年8月21日、ウィリアム・クァントリルが数百人の男を率いてローレンス市を襲い、市街地の大半を破壊し、200人近い人々を殺した(ローレンスの虐殺)。クァントリルは、アメリカ連合国軍からも、ミズーリ州議会が任命したゲリラ的レンジャー部隊からも厳しく批判された。クァントリルはこれら部隊への任官を申請したが、戦前の犯罪記録があったために宜も無くはねつけられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "南北戦争後、多くの退役兵がカンザスに農場を造った。多くのアフリカ系アメリカ人もカンザスを奴隷制度廃止運動家「ジョン・ブラウン」の土地とみなし、ベンジャミン・\"パップ\"・シングルトン(英語版)のような解放奴隷に導かれて、州内に黒人社会の建設を始めた。彼らは1870年代に人種差別が激しくなりつつあった南部を離れ、エクソダスター(英語版) と呼ばれるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "これと同時期にチザム・トレイル(英語版)(サンアントニオからカンザス・パシフィック鉄道(英語版)の通じているアビリーンまでの牛道)が開通してロングドライブが始まり、カンザスでも西部開拓時代が始まった。ワイルド・ビル・ヒコックはライリー砦(英語版)で副保安官、ヘイズとアビリーンでは連邦保安官を務めた。1872年にはアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道がドッジシティまで開通し、カンザス・パシフィック鉄道と家畜輸送を巡る競争が始まった。ドッジシティも荒々しいカウボーイの町であり、バット・マスターソンやワイアット・アープが町の法執行者として働いた。テキサス州から追われてきた牛が1年間に800万頭もドッジシティで汽車に乗せられ、東部へ運ばれた。ドッジシティは「牛の町の女王」という渾名を貰った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "カウボーイによる暴力行為に対処するためもあり、カンザス州は1881年2月19日にアルコール飲料を全て禁止する憲法修正案を採択した最初の州になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "カンザス州は北部でネブラスカ州、東部でミズーリ州、南部でオクラホマ州、及び西部でコロラド州と接している。105の郡に分割され、628の都市 がある。太平洋及び大西洋から等距離に位置している。北米の測地線の中心は1983年までオズボーン郡ミーズランチに位置していた。この地点は合衆国政府によって作成された北アメリカ地図すべての中心参照地点として使われていた。大陸48州の地理的中心はスミス郡レバノン近くに位置しており、カンザス州の地理的中心はバートン郡に位置している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "カンザス州はロッキー山脈の東手前にあるフロンティア・ストリップに位置する6つの州の1つである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "カンザス州の大地は水平方向から西向きに緩やかに沈む堆積岩の層でできている。州東部と南部にはミシシッピ紀、ペンシルベニア紀、ペルム紀の岩が層をなしている。州の西半分は白亜紀から第三紀の堆積物であり、西に隆起したロッキー山脈が浸食されて流れてきたものである。州北東隅は更新世の氷河作用を受けており、氷河礫と黄土に覆われている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国の「大平原(グレートプレーンズ)」に展開するこの州は、西側3分の2が概して平坦または波打つように起伏しているのに対し、東側3分の1は多くの丘陵や森林である。東から西に向かうに連れて徐々に高度が上がり、海抜高度はモンゴメリー郡コフィービルのバーディグリス川沿い684フィート (208 m) から、コロラド州境から半マイル (800 m)、ウォレス郡内のサンフラワー山、標高4039フィート (1,231 m) まで変化している。国内では最も平坦な州として知られており、良く知られた2003年の調査では、カンザス州が「パンケーキより平坦な」ことになっている(パンケーキには「ぺちゃんこにする」という意味がある)。このことはその後も問題にされ、その測定方法の違いにより、カンザス州は20番目から30番目に平坦だとする科学者もいる。標高の平均値は2,000フィート (600 m) であり、50州の中では14番目である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "カンザス川は、ジャンクションシティ(英語版)というふさわしい名称の都市でスモーキーヒル川(英語版)とレパブリカン川(英語版)が合流して作られ、カンザス州の北東部を170 マイル (270 km) 流れた後、カンザスシティで、州の北東部境界線75 マイル (120 km) 近くを形づくっているミズーリ川と合流する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "コロラド州に水源があるアーカンザス川は、カンザス州西部と南部を500 マイル (800 km) 近く蛇行しながら流れており、その支流(リトルアーカンザス川(英語版)、ニネスカ川、ウォルナット川、カウクリーク、シマロン川(英語版)、バーディグリス川、及び ネオショ川(英語版))、と共にカンザス州の南部排水系を構成している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その他の重要な河川として、スモーキーヒル川の支流であるセイリーン川とソロモン川、またビッグブルー川(英語版)、デラウェア川、およびカンザス川に流れ込むワカルーサ川がある。ミズーリ川にはメルダジーン川が流れ込んでいる。スプリング川(英語版)はリバートンとバクスタースプリングスの間を流れている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国国立公園局の管理下にある地域は以下の通りである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "カンザス州はケッペンの気候区分で3つの地域に入っている。すなわち湿潤大陸性気候、亜乾燥気候、温暖湿潤気候である。東部3分の2(特に北東部)は湿潤大陸性気候であり、冷涼から寒気の強い冬と、暑く湿気が多い夏が特徴である。降水量の大半は夏と春に記録されている。西側3分の1、アメリカ国道281号線から西の回廊は、亜乾燥気候である。夏は暑く、酷暑になることも多いが概して湿度は低い。冬は温暖から酷寒まで変化が激しい。平均年間降水量は約16インチ (400 mm) である。冬季のチヌーク風で80°F (27°C) も気温を上昇させることがある。最南中部と南東部は温暖湿潤気候である。暑く湿度の高い夏と温暖な冬が特徴であり、他の地域よりも降水量が多い。3つの気候区分は厳密なものではなく、州内大半の地域で全ての気候区分の様相が現れることがあり、干ばつや乾燥と湿潤の間を変化する気象が珍しくない。また冬季には温暖と寒気が交互に現れる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "年間降水量は南東部の47インチ (1200 mm) から南西部の16インチ (400 mm) まで差がある。積雪は南部州境での5インチ (13 cm) から最北西部の35インチ (90 cm) まである。降霜の無い日は、南部で200日以上、北西部で130日となっている。日照に関しては資料により違いはあるが、カンザス州は国内でも多い方から9位ないし10位の州である。西部はカリフォルニア州やアリゾナ州と同じくらい日照が多い。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "春と初夏は激しい気象に災いされやすい。州のほとんど全体で日照に恵まれてはいるものの、気候区分の境目にあるために多くの気団の発生によって激しい雷雨が起こりやすい。これらの嵐の多くはスーパーセルになる。さらに竜巻が生まれ、改良藤田スケールEF3以上のものが多い。国立気候データセンターの統計に拠れば、テキサス州に次いで竜巻発生数が多く(1950年1月1日から2006年10月31日の期間)、オクラホマ州より僅かに多い。またアラバマ州と共に、強度F5あるいはEF5の竜巻の発生数は最も多い。平均年間発生数は50個以上である。激しい雷雨では大変大きな雹を降らせることもある。また鉄砲水による洪水や突風をもたらすこともある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "国立海洋大気庁に拠れば、過去最高気温は1936年7月24日にアルトンで記録された121°F (49.4°C) であり、過去最低気温は1905年2月13日にレバノンで記録された-40°F (-40 °C) である。この過去最高気温を国内の州と比べると、ノースダコタ州とタイで第5位である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2020年国勢調査時点でのカンザス州の人口は2,937,880人であり、2010年国勢調査時点より2.97%増加していた。人口密度は13.9人/km。カンザス州の人口重心はチェイス郡ストロングシティ付近となっている。約48.8%が男性で、51.2%が女性である。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2004年時点の人口には149,800人(州人口の5.5%)の外国生まれが含まれ、47,000人(州人口の1.7%)が不法在留外国人と見込まれている。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "カンザス州の人種構成及び前の国勢調査との比較:", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "カンザス州内で申告された祖先による構成比は:ドイツ系 (33.75%)、アイルランド系 (14.4%)、イギリス系 (14.1%)、アメリカ人 (7.5%)、フランス系 (4.4%)、スコットランド系 (4.2%)、オランダ系 (2.5%)、スウェーデン系 (2.4%)、イタリア系 (1.8%)、ポーランド系 (1.5%) となっている。ドイツ系アメリカ人は特に北西部で多く、他州から来たイギリス系は南東部で多い。メキシコ系が南西部に入っており、特定の郡では人口の半数近くになっている。アフリカ系アメリカ人の多くはエクソダスターの子孫である。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "カンザス州は国内でも人口成長率が低い方の州である。過去数10年間、田園部から都市部に人口が移動し、田園部の過疎化が進んできた。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "中西部にある全ての都市の中で、89%は人口3,000人未満であり、その中でも多くの都市が人口1,000人未満となっている。カンザス州の歴史家ダニエル・C・フィッツジェラルドに拠れば、カンザス州だけをとってみても、6,000以上のゴーストタウンや衰退するコミュニティがある。一方でカンザスシティ大都市圏に入るジョンソン郡の特定の町は国内でも有数の人口成長率となっている。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "カンザス州の住民の宗教的関係は以下である:", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "アラパホー族、シャイアン族、チッペワ族、ヒカリア・アパッチ族、フォックス族、イリニ族、イロコイ族、カンサ族、キカプー族、カイオワ族、カイオワ・アパッチ族、マイアミ族、マンシー族、ショーニー族、ワイアンドット族、クアポー族、ミズーリ族、オーセージ族、オート族、オタワ族、デラウェア族、ポーニー族、セネカ族、ソーク族などのインディアン部族が農耕、狩猟民併せて先住した。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "チェロキー族は1835年の「新エコタ条約」で、カンザス州の南東から南の州境に、テネシー州から強制移住させられた。「チェロキー国家」として南北戦争にも寄与し、1866年に合衆国の黒人奴隷解放政策に賛同したのち、「自由身分の黒人」とは別に「自由身分の色つき」枠に振り分けられ、他のインディアン部族同様に「ジム・クロウ法」の対象となった。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "この州のインディアン部族のほとんどは、19世紀初頭に、東部森林地帯からアメリカ政府によって強制移住させられてきたものである。こののち、オッタワ族、デラウェア族は1866年、クアポー族(アーカンサス族)、ソーク族、ワイアンドット族は1867年にオクラホマ州へ強制移住させられた。残る部族も1887年制定の「ドーズ法」で保留地を没収され、ほとんどが絶滅指定された。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "州名の由来となったカンサ族(コー族)自体は、1872年にオクラホマ州へ強制移住させられ、部族としては同州にはいない。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "アメリカ連邦政府から公認を打ち切られている部族は、条約で確約される保留地を持つことが出来ない。多くの部族が公式認定を求めアメリカ内務省と交渉中である。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "同州では、5つの部族がインディアン・カジノを運営している。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ワイアンドット族(ヒューロン族)は、連邦から公認されていない部族であるが、2003年8月にカンザス市7番街にある部族共同体の伝統墓地の駐車場に移動型カジノの営業を始めた。2004年、州司法長官はカジノを強制閉鎖させ、152台のスロットマシンと50万ドルの現金を押収した。ワイアンドット族は州と関係当局を告訴し、これに完全勝訴。2007年より7番街のフリーメーソンの廃寺院を使って、部族カジノは再開された。連邦保留地を持たない部族が自前で建物を買い、カジノを開くという事例が実現することとなった。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "カンザス州には627の法人化都市がある。州法で都市は「国勢調査目録によって」得られる人口によって3つのクラスに分けられている。第3級は人口5,000人未満であるが、2,000人以上に到達した都市は2級に分類される可能性がある。2級は人口25,000人未満で、15,000人以上になったときに1級に分類される可能性がある。1級と2級は郡区とは独立し、郡区の領域に含まれていない。", "title": "主要な都市及び町" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "州北東部は、ミズーリ州との東部境界からジャンクションシティまで、かつネブラスカ州との北部境界から南のジョンソン郡までと定義され、ここに含まれるカンザスシティ、マンハッタン、ローレンスおよびトピカの都市圏には150万人以上が住んでいる。1960年に法人化された若い都市であるオーバーランドパーク市がジョンソン郡で人口も面積も最大の都市である。同市には州内最大のコミュニティカレッジであるジョンソン郡コミュニティカレッジがあり、また都市圏最大の民間企業雇用主である通信事業のスプリント・ネクステルが本社を構えている。2006年、オーバーランドパーク市はアメリカで住み良い都市第6位に選ばれ、隣接するオレイサ市も13位に入った。オレイサ市はジョンソン郡の郡庁所在地であり、ジョンソン郡幹部空港がある。オレイサ市、ショーニー市、ガードナー市は州内でも人口成長率の高い都市である。オーバーランドパーク市、レネックサ市、オレイサ市、およびガードナー市は、サンタフェ・トレイルの道筋にあることでも名高い。人口1,000人以上の都市の中で、ミッションヒルズ市は一人あたりの所得の中央値が州内で最も高い。", "title": "主要な都市及び町" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "北東部には高等教育機関が幾つかある。ボールドウィンシティのベイカー大学は1858年に設立された州内最古の大学であり、メソジスト教会が運営している。アッチソン市にあるベネディクティン大学はセントベネディクト修道院とマウント・セント・スコラスティカ修道院が後援し、セントベネディクト・カレッジ(1858年設立)とマウント・セント・スコラスティカ・カレッジ(1923年設立)の合併で作られた。オレイサ市にはミッドアメリカ・ナザレン大学がある。オタワ市とオーバーランドパーク市にはオタワ大学がある。カンザスシティにはカンザスシティ・カンザス・コミュニティカレッジとカンザス大学医療センターがある。オーバーランドパーク市にはカンザス大学エドワーズキャンパスもある。車で西へ1時間弱のローレンス市には州内最大の州公立大学であるカンザス大学があり、他にハスケル・インディアン部族大学がある。", "title": "主要な都市及び町" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "北のカンザスシティは州内で2番目に大きな陸地面積を持っており、多くの多様な民族の集まる地区がある。見所として、カーレース場のカンザス・スピードウェイ、アメリカンフットボールのカンザスシティ・ティーボーンズ、および小売業と娯楽のザ・リジェンド・アット・ビレッジウェストがある。ミズーリ川を北に遡ると、ランシング市には州で最初の最高度警備刑務所がある。1854年に設立された歴史あるレブンワース市は州内で最初に法人化された都市である。その北にレブンワース砦があり、ミシシッピ川より西では最古の現役陸軍基地である。アッチソン市は州内でも早くから商業中心となり、アメリア・イアハートの生誕地として知られている。", "title": "主要な都市及び町" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "その西には25万人近くが住んでいるトピカ都市圏がある。トピカ市は州都であり、ウォッシュバーン大学がある。昔のオレゴン・トレイルのカンザス川渡し場に建設され、国指定歴史史跡が幾つかある。さらに西の州間高速道路70号線とカンザス川沿いにジャンクションシティがあり、石灰岩と煉瓦で造られた建物群があり、また近くには「ビッグレッドワン」と通称されるアメリカ陸軍第1歩兵師団が駐屯するライリー砦がある。さらに少し進んだ位置にマンハッタン市があり、州内で2番目に大きな公立大学で、1863年に国内でも最古の国有地認可大学となったカンザス州立大学がある。キャンパスの南には1889年からの歴史があるアジービルがあり、州内では最古の商店街がある。", "title": "主要な都市及び町" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "カンザス州中南部にあるウィチタ都市圏は647,610人(2020年国勢調査)の人口を抱える。ウィチタ市は陸地面積でも人口でも州内最大の都市である。「エアー・キャピタル」とも呼ばれる航空機産業の中心であり、またウィチタ州立大学がある。国指定歴史史跡や博物館の他に娯楽施設も多く、中西部での文化のメッカになる望みを持っている。人口成長率は2桁の伸びを示しており、郊外都市は州内最大の成長率になっている。ゴッダード市は2000年からの人口成長率が11%だった。その他成長率の高い都市として、アンドーバー、メイズ、パークシティ、ダービー、ヘイズビルの各都市がある。", "title": "主要な都市及び町" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ウィチタからアーカンザス川を遡るとハッチンソン市がある。世界でも最大級の岩塩床の上に建設されており、また世界最大最長のコムギエレベーターがある。カンザス・コスモスフェア・アンド・スペースセンター、プレーリー・デューンズ・カントリークラブがあり、またカンザス州祭が開催されている。ウィチタから州間高速道路135号線を北に行くとニュートン市があり、元はサンタフェ鉄道の西側終着駅、かつチザム・トレイルの出発点だった。ウィチタの南東には歴史的な建築物があるウィンフィールド市とアーカンザスシティ市があり、アークシティにはチェロキー・ストリップ博物館がある。ユーダル市は1955年5月25日にカンザス州でも最も猛威を振るった竜巻が起こった場所である。市内とその近郷で80人が死亡した。ウィチタの南西には人口5人のフリーポートがあり、州内最小の都市である。", "title": "主要な都市及び町" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "フリントヒルズのブルーステム地域の中心にあるカンザスシティ市、トピカ市とウィチタ市の中間にエンポリア市があり、幾つかの国指定歴史史跡と、著名な教員養成カレッジであるエンポリア州立大学がある。ここは新聞発行者ウィリアム・アレン・ホワイトの故郷でもあった。", "title": "主要な都市及び町" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "州南東部では、炭田地域に多くの国指定歴史史跡があり、特徴ある歴史を持っている。クロウフォード郡(フライドチキンの首都と言われる)にあるピッツバーグ市は人口20,646人(2020年国勢調査)を抱える州南東部最大の都市であり、ピッツバーグ州立大学(ペンシルベニア州のピッツバーグ大学とは別物)がある。隣接するフロンテナック市は1888年に炭坑で爆発が起こり、死者47人を出すという最大の炭鉱事故が起きた。ウェストミネラル市の1.5マイル (2.4 km) 郊外には「ビッグ・ブルータス」がある。この改修された砦の側にある歴史あるフォートスコットには、リンカーン大統領が1862年に指定した国立墓地がある。", "title": "主要な都市及び町" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "州中央部と北部ではサライナが最大の都市である。サライナの南にリンズボーグという小さな都市があり、多くのダーラヘスト(木工の馬)が飾られている。この町の建築物や装飾物の多くははっきりと分かるスウェーデン様式である。州間高速道路70号線にそって東に歴史あるアビリーン市があり、元はチザム・トレイルの始点であり、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が少年時代を過ごした町である。その西にはルーカスがあり、カンザス州では大衆芸術の首都とされている。", "title": "主要な都市及び町" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "州間高速道路に沿って西方にラッセル市がある。昔から人口の少ない北西部の始まる所であり、元アメリカ合衆国上院議員ボブ・ドールの故郷、かつ同じく上院議員アーレン・スペクターが少年時代を過ごした町である。ヘイズ市は人口21,116人(2020年国勢調査)を数える州北西部最大の都市で、フォートヘイズ州立大学とスターンバーグ自然史博物館がある。エリス郡の小さな町には2つの目印となるものがある。「平原の大聖堂」はヘイズの10マイル (16 km) 東、ビクトリアにあり、ウォルター・クライスラーが少年時代を過ごした家はヘイズの15マイル (24 km) 西、エリスの町にある。ヘイズの西では州間高速道路70号線沿いであっても人口が急速に少なくなり、コルビーとグッドランドという人口が4,000人を超える唯一の町が州間高速道路70号線に沿って35マイル (56 km) 離れて位置している。", "title": "主要な都市及び町" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ドッジシティ市は19世紀後半の牛追いの時代で有名であり、サンタフェ・トレイルにそって建設された。リベラル市はサンタフェ・トレイル南側ルート上にある。州内で最初の風力発電所がモンテズマの東に建設された。ガーデンシティにはリー・リチャードソン動物園がある。", "title": "主要な都市及び町" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "行政府:行政府には選挙で選ばれる6人の役人がいる。知事と副知事は同じ候補者名簿で選出される。検事総長、州務長官、州財務官、および州保険委員長は別々の選挙で選ばれる。2012年時点で6人の役人は全て共和党員である。知事サム・ブラウンバックと副知事ジェフ・コリアーの組み合わせは2010年に選出され、最大2期続けて務めることが可能である。2010年にはインデペンデンス市出身のデレク・シュミットが検事総長に、パイパー市のクリス・コバックが州務長官に、ウィチタ市のロン・エステスが州財務官に、トピカ市のサンディ・プレージャーが州保険委員長に選ばれた。", "title": "政治と法律" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "立法府:上院と下院の両院制である。下院議員は125人、上院議員は40人で、共に4年任期である。2012年時点で上院の32人、下院の92人が共和党員である。", "title": "政治と法律" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "司法府:行政府の頂点はカンザス州最高裁判所であり、判事は7人いる。空席が生じた場合、9人の判事予撰委員会が選出した3人の候補者から知事が1人を指名することになっている。この委員会は州内弁護士が選出した5人と知事が選出した4人で構成されている。", "title": "政治と法律" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "カンザス州は進歩的な州という評判があり、立法では多くの「初めて」がある。労働災害補償法を定めた最初の州であり(1910年)、証券業を規制したのも初めての州だった(1911年)。1912年には女性参政権を認めたが、これはアメリカ合衆国憲法でそれを認める修正が行われる10年近く前のことだった。女性参政権が全州で認められたのは、1920年にアメリカ合衆国憲法修正第19条が批准された時だった。第一次世界大戦後、州内の多くの都市で市政委員会・シティマネジャー方式が採用されたが、当時国内の多くの都市では政治マシーン、あるいは犯罪組織に牛耳られており、中でも有名なのがミズーリ州カンザスシティのペンダーガスト・マシーンだった。1954年、トピカ市で、「ブラウン対教育委員会事件」に対する最高裁判所判決が出て、国内の学校で人種差別を行うことを禁じたのも有名である。", "title": "政治と法律" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "フランクリン・ルーズベルト大統領は1932年から4期続けて大統領に当選したが、カンザス州はこれをあまり支持しなかったことで数少ない州の1つになっている。ルーズベルトがカンザス州を制したのは4回のうち2回のみだった。ただし、1936年の場合は、対抗馬のカンザス州知事アルフレッド・M・ランドンを大差で破って州を制した。1940年はウェンデル・L・ウィルキー、1944年はトマス・E・デューイと共に共和党候補が州を制した。1948年では現職のハリー・S・トルーマンがミズーリ州境から約15マイル (24 km) 東のインディペンデンス市出身であったにも拘わらず、共和党のデューイを支持した。ルーズベルトの後でカンザス州を制した民主党候補は1964年のリンドン・B・ジョンソン一人だけである。", "title": "政治と法律" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "過去40年間でカンザス州は国内の他の地域よりも社会的に保守的になっている。1990年代には人工中絶に新しい制限を課し、ダン・グリックマンなど著名な民主党員が敗北し、州教育委員会は1999年に教育指導標準から進化論を除外する判断をした。ただし教育委員会の判断は後に撤回された。2005年、州民は同性結婚を禁止する憲法修正条項を承認した。翌年、州議会は結婚を認める最少年齢を15歳に設定する法を成立させた。2008年、キャスリーン・セベリウス州知事は「地球温暖化ガスが気候の変動に影響していることを知っている。カンザス州は農業の州として、特に脆弱である。それ故に、公害を減らすことは短期間に我々の州に恩恵を及ぼすだけでなく、次の世代にも貴重なものになる」と言って、新しい石炭焚き火力発電所建設計画に拒否権を使った。しかし、2009年にセベリウスが辞任してマーク・パーキンソンが州知事に就任すると、パーキンソンは発電所建設を認めるための妥協案を発表した。", "title": "政治と法律" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2010年、サム・ブラウンバックが総投票数の63%を得て、州知事に当選した。8年ぶりの共和党員知事になった。ブラウンバックは5項目の「カンザス州のためのロードマップ」を掲げて選挙運動を行った。それには以下のような定量化できる目標が挙げられていた。", "title": "政治と法律" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ブラウンバックは2012年議会会期で、次のような5つの目標を明示した。", "title": "政治と法律" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ブラウンバックは知事になる前のアメリカ合衆国上院議員時代は大変保守的な人物だったが、知事になってからは議論を呼ぶ決断を幾つか下してきた。2011年5月、州内の芸術面の指導者や支援者の大きな反対の声に対抗して、カンザス芸術委員会を閉鎖させ、芸術関連機関の無い初の州にした。2011年7月、費用削減の手段として、州社会復帰事業局のローレンス支所を閉鎖する計画を発表した。この計画には多くの反対の声が起こった。ローレンス市政委員会は支所を開設したままにするための予算を手当てすることを決めた。", "title": "政治と法律" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "カンザス州から連邦議会に送り出している議員は、上院2人、下院4人であり、2012年時点で全て共和党員である。", "title": "政治と法律" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "カンザス州は、準州時代に奴隷制度の拡張に反対した動きの中から共和党が生まれたアンテベラムの昔から、共和党の堅い地盤である。世界恐慌が起こったあと、1932年にフランクリン・ルーズベルトが初めて大統領に当選した時以来、上院議員選挙で民主党候補を選んだことがない。二大政党のどちらかが単一の州で上院議員選挙を連続して敗北した記録としては最長である。2008年の大統領選挙で、サム・ブラウンバック上院議員が共和党指名の候補だった。2010年の上院議員選挙でブラウンバックは3期目の候補者にならなかったが、その年の一般選挙で知事に当選した。2010年8月予備選挙では、ブラウンバックの後釜としてジェリー・モーランが共和党の指名を得て、一般選挙でも民主党候補に大勝した。", "title": "政治と法律" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "共和党候補ではない者が大統領選挙でカンザス州を制したのは、ポピュリスト党のジェイムズ・ウィーバー、民主党のウッドロウ・ウィルソン、フランクリン・ルーズベルト(2回)、リンドン・B・ジョンソンだけである。2004年の選挙では、ジョージ・W・ブッシュが総投票数の62%を獲得し、25%の大差を付けて6人の選挙人票を得た。このとき民主党のジョン・ケリーを支持したのは、カンザスシティのあるワイアンドット郡とカンザス大学のあるローレンス市を含むダグラス郡の2郡だった。2008年の選挙でも同様な結果であり、ジョン・マケインが57%を獲得した。ダグラス郡、ワイアンドット郡に加えて、クロウフォード郡がバラク・オバマを支持した。", "title": "政治と法律" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1996年大統領選挙で、カンザス州の共和党上院議員ボブ・ドールが党の候補者指名を得たが、大統領にはなれなかった。カンザス州出身で敗北した大統領候補者として2人目となった。", "title": "政治と法律" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "カンザス州で飲酒が認められる年齢は21歳である。小売りに対する州消費税の代わりに、免許を得た店舗で消費される酒類には10%の飲食税、小売りされた酒類には8%の酒類販売実行税が課せられている。穀草類の麦芽酒(3.2ビールとも呼ばれる)の販売は1937年に合法化されたが、禁酒法が終わった後、カンザス州でアルコール飲料が合法化されたのは州憲法が修正された1948年になってからだった。翌年、州議会で酒類統制法が成立し、規制、免許、課税の方法が作られた。またアルコール飲料統制局が作られ、この法の執行に関わった。穀草類の麦芽酒を規制する権限は都市や郡に任されたままである。飲食店での酒の提供は1986年の憲法改正と翌年の規制法の成立で合法となった。2006年11月時点で、まだ州内29郡は酒類の販売を禁じる「ドライ郡」であり、17郡だけが食品の売り上げ規定無しに酒類販売を認めている。今日酒類では2,600店、穀草類の麦芽酒では4,000店以上の免許が降りている。", "title": "政治と法律" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国商務省経済分析局によると、カンザス州の2008年の州総生産高は1,227億米ドルであり、全米の州の中では32位だった。2008年の一人当たりの収入は35,13米ドルだった。2012年3月時点の失業率は6.2%である。カンザス州の農業生産品は牛、羊、小麦、モロコシ種、大豆、綿、豚、トウモロコシ、及び塩である。州東部は、合衆国の大穀倉地帯であるグレインベルトの一部である。工業生産品は輸送設備、商業及び小型飛行機、食品加工、出版、化学製品、機械、衣服、石油及び鉱業である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "石油生産では全米50州で第8位である。長い期間を経て掘削が難しくなり、生産量は着実に減少している。1999年に原油価格が底をついて以来、2004年の月間生産量280万バーレル (445,000 kl) で安定している。近年の原油価格高騰により、二酸化炭素隔離など石油再生技術が経済的になってきた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "天然ガスの生産量でも全米8位である。1990年代半ばからヒューゴトン・ガス田が枯渇してきて生産量は減少している。ヒューゴトン・ガス田はオクラホマ州やテキサス州にも広がる州内最大のガス田である。2004年、天然ガスの減少が緩やかだったことと、炭層メタンの生産量増加で、全体としては減少率が鈍化された。平均月間生産量は320億立方フィート (0.9 km) である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "州経済は航空機産業からも大きな影響を受けている。ウィチタやカンザスシティには、スピリット・アエロシステムズ、ボーイング、セスナ、リアジェット、ホーカー・ビーチクラフト(旧レイセオン)など大規模航空機会社が製造設備を構えている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "州内に本社を構える主要企業としては、通信のスプリント・ネクステル(世界本社がオーバーランドパーク市にある)、同じく通信のエンバーク(国内本社がオーバーランドパーク市にある)、トラック運送のYRCワールドワイド(オーバーランドパーク市)、GPS技術のガーミン(オレイサ市)、靴製造のペイレスシューズ(国内本社と物流センターがトピカ市にある)、化学品のコッホ・インダストリーズ(ウィチタ市)などがある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "カンザス州の所得税は3.5% から 6.45% まで3段階ある。州の消費税は6.3%である。多くの都市や郡が付加消費税を徴収している。2001年の不景気時を除き、徴収率は経済が成長するに連れて高くなる傾向にあり、2回の課税率増が法制化された。2003年の消費税総額は16億ドルとなり、1990年の8億ドルから倍増している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "税収が予測を下回り、個人所得が低成長であったことからくる歳入不足で、州債の水準がかなり上がることになった。1998年の州債は11億6,000万ドルだったが、2006年には38億3,000万ドルにまでなった。1999年に州は包括的交通10年計画を策定したので負債の幾らかの増加は予測されていた。2004年6月時点で、ムーディーズ・インベスターズ・サービスは、一人当たり税負担州債額でカンザス州を第14位に位置づけた。個人収入に対する比率では3.8%であり、評価された州の中央値2.5%より高い。また1992年の1%未満からは上昇してきた。州法では会計年度末に歳出の7.5%以上の現金を残すことになっているが、議会はこの規則を投票で無効にすることができ、事実近年の予算審議ではこれを無効にしてきた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2007年3月、カンザス州議員による「カンザス宝くじ委員会」が、4つの候補地での「リゾート・カジノ」の設立議案を可決。このカジノ開設の可否は州下の全郡での住民投票にゆだねられた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "結果、ワイアンドット郡では、有権者80%超の圧倒的賛成によって、同郡での賭博施設の新設を合法承認し、「カンザスシティー競馬場」でのスロットマシン設置を許可した。キャスリーン・セベリウス知事は「カジノ事業はカンザス州の雇用と州の収入源のチャンスである」と述べ、4月にこの新州法に調印した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "以後、クロフォード郡、サムナー郡、チェロキー郡での有権者投票でも、圧倒的賛成でカジノが承認された。「インディアン・カジノ」に後れをとった同州のカジノ事業は、今後本格化する模様である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "「ブーツヒル・カジノ&リゾート」は、2009年12月16日にオープンした。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "州内を走る州間高速道路は、2本の本線、1本の環状路、2本の支線、および3本のバイパスがあり、総延長は874マイル (1,400 km) である。1956年11月14日に国内初の州間高速道路(70号線)の部分が、トピカ市のすぐ西に開通した。70号線は東のミズーリ州セントルイス市やカンザスシティ市と、西のコロラド州デンバー市を結ぶ幹線である。この道路が通過する州内の都市は、東からカンザスシティ、ローレンス、トピカ、ジャンクションシティ、サライナ、ヘイズ、コルビーの各都市である。州間高速道路35号線は南北方向の幹線であり、北のアイオワ州デモイン市と南のオクラホマ州オクラホマシティとを繋いでいる。この道路が通過する州内の都市は、北からカンザスシティ、オタワ、エンポリア、エルドラード、ウィチタの各市である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "支線は2本の幹線を繋ぐ役割を果たしている。南北方向の州間高速道路135号線はサライナで70号線と、ウィチタで35号線と接続する。北東から南西に走る州間高速道路335号線はトピカで70号線と、エンポリアで35号線と接続する。335号線と、35号線、70号線の部分がカンザス・ターンパイクを形成している。バイパスには、トピカ周辺の州間高速道路470号線と、ウィチタ周辺の州間高速道路235号線がある。州間高速道路435号線はカンザスシティを回る環状路であり、州間高速道路635号線はカンザスシティのバイパスになっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "アメリカ国道69号線はミネソタ州からテキサス州を繋ぐ南北の幹線である。州内東部を通り、カンザスシティからルイバーグ、フォートスコット、フロンテナック、ピッツバーグおよびバクスタースプリングスの各市を抜け、オクラホマ州に入る。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "カンザス州にはカリフォルニア州に次いで国内第2位の高規格道路体系がある。これは105郡という比較的多い郡と郡庁所在地があり、これら全てを結んでいるためである。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2004年1月、カンザス州交通省は新しく旅行者情報サービスを始めると宣言した。電話で511を呼ぶと、道路状態、工事、閉鎖、迂回路および気象条件を得ることができる。気象条件と道路状態は15分毎に更新されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "州内唯一の主要商業空港(クラスC)はウィチタ・ミッドコンティネント空港であり、ウィチタ市の西外れ、アメリカ国道54号線沿いにある。マンハッタン地域空港からはダラス・フォートワース国際空港やシカゴのオヘア国際空港に毎日定期便が出ており、州内第2位の商業空港になっている。州内北東部の旅客はプラット郡にあるカンザスシティ国際空港を利用している。州内最西部の旅客はコロラド州のデンバー国際空港を利用している。ドッジシティ、ガーデンシティ、グレートベンド、ヘイズ、ハッチンソン、サライナにある小さな空港からは接続便が出ている。トピカ市にあるフォーブス飛行場は一時期アレジアント航空が就航していたが、2007年に打ち切られた。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "カンザス州の教育は初等・中等教育までカンザス州教育委員会が管轄している。公立のカレッジと大学はカンザス州理事会が監督している。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "1999年以降、教育委員会は知能設計の教育を奨励する科学教程の変更を2回承認してきた。2回共に、選挙で委員の構成が代わった後にその標準を元に戻してきた。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "昔からカンザス州はアメリカにおける田舎の代名詞になっていた。「オズの魔法使い」で、主人公のドロシーの養父母はカンザス平原の僻地の農民としてのあまりにも単調で退屈な生活に、身も心も灰色になってしまうが、ドロシーだけが飼っている子犬のトトのおかげで快活さをなくさずに済む。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "マイケル・サンデルはハーバード大学の公開講義において「余生をカンザスで農業をして暮らさなければならないとしたらその代償はいくらに値するか」という大恐慌時代に行った調査に対して、当時の人々が30万ドルに値すると答えた事例を示して、カンザスの農村を魅力に乏しくもっとも住みたくない鄙びた地域の典型として挙げている。ほかにも、スーパーマンが幼少期〜青年期を過ごした「スモールビル」も、ここカンザス州にあるとされている。", "title": "文化" } ]
カンザス州は、アメリカ合衆国の中西部に位置する州。ネブラスカ州、オクラホマ州、コロラド州、ミズーリ州と隣接する。 全域がグレートプレーンズ(大平原)の真っ只中にあって土地が平坦であり、大規模農業に適しているため農業、また牧畜業が盛んである。反面、地形の変化に乏しく、州全体に単調な田園風景が延々と広がっている。 州都はトピカ市であり、州最大の人口を抱える都市はウィチタ市、次いでオーバーランドパーク市、カンザスシティ市、オレイサ市、州都トピカ市と続く。
{{redirect|カンザス|その他|カンザス (曖昧さ回避)}} {{基礎情報 アメリカ合衆国の州 | 公式名称 = State of Kansas | 州旗 = Flag of Kansas.svg | 州章 = Seal of Kansas.svg | 地図 = Kansas in United States.svg | 愛称 = [[向日葵]]の州<br />The Sunflower State | モットー = 苦難を乗り越え栄光へ<br />{{lang-la|Ad astra per aspera}} | 州都 = [[トピカ (カンザス州)|トピカ]] | 最大都市 = [[ウィチタ]] | 州知事 = [[:en:Laura Kelly|ローラ・ケリー]] | 公用語 = [[アメリカ英語|英語]]<ref>{{cite web|url=http://www.us-english.org/inc/news/preleases/viewRelease.asp?ID=252|title=Governor’s Signature Makes English the Official Language of Kansas|publisher=Us-english.org|date=2007-05-11|accessdate=2008-08-06}}</ref> | 面積順位 = 15 | 総面積 = 213,096 | 面積大きさ = 1 E11 | 陸地面積 = 211,901 | 水域面積 = 1,197 | 水面積率 = 0.56 | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 35 | 人口値 = 2,937,880 | 人口大きさ = 1 E6 | 人口密度 = 13.9 | 加入順 = 34 | 加入日 = [[1861年]][[1月29日]] | 時間帯 = -6, -7 | 夏時間 = -5, -6 | 緯度 = 37° - 40° | 経度 = 94°35' - 102°3' | 幅 = 645 | 長さ = 340 | 最高標高 = 1,232 | 平均標高 = 610 | 最低標高 = 207 | ISOコード = US-KS | Website = www.kansas.gov | 上院議員 = [[:en:Roger Marshall (politician)|ロジャー・マーシャル]]<br />[[:en:Jerry Moran|ジェリー・モラン]] }} '''カンザス州'''(カンザスしゅう、{{lang-en-short|State of Kansas}} {{IPA-en|ˈkænzəs||en-us-Kansas.ogg}})は、[[アメリカ合衆国]]の中西部に位置する[[アメリカ合衆国の州|州]]<ref>http://www.census.gov/geo/www/us_regdiv.pdf</ref>。[[ネブラスカ州]]、[[オクラホマ州]]、[[コロラド州]]、[[ミズーリ州]]と隣接する。 全域が[[グレートプレーンズ]](大平原)の真っ只中にあって土地が平坦であり、大規模農業に適しているため農業、また牧畜業が盛んである。反面、地形の変化に乏しく、州全体に単調な田園風景が延々と広がっている。 [[州都]]は[[トピカ (カンザス州)|トピカ市]]であり、州内最多の人口を抱える都市は[[ウィチタ (カンザス州)|ウィチタ市]]、次いで[[オーバーランドパーク|オーバーランドパーク市]]、[[カンザスシティ (カンザス州)|カンザスシティ市]]、[[オレイサ (カンザス州)|オレイサ市]]、[[州都]][[トピカ (カンザス州)|トピカ市]]と続く。 {{bar box |title=家庭で話される言語(カンザス州) 2010<ref>[http://www.mla.org/map_data_results&state_id=23&mode=state_tops MLA Language Map Data Center". Modern Language Association.]</ref> |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[英語]]|red|89.48}} {{bar percent|[[スペイン語]]|Purple|7.01}} }} {{bar box |title=人種構成(カンザス州) 2010 |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[白人]]|blue|78.2}} {{bar percent|[[ヒスパニック]]|pink|10.5}} {{bar percent|[[アフリカ系アメリカ人|黒人]]|Purple|5.9}} {{bar percent|[[アジア系アメリカ人|アジア系]]|brown|2.4}} {{bar percent|[[インディアン]]|orange|1.0}} {{bar percent|[[混血]]|yellow|3.0}} }} == 歴史 == :''主要記事:[[カンザス州の歴史]]'' 現在のカンザス州となっている地域には、1000年以上にわたってインディアンが住んでいた([[ミシシッピ文化]])。「カンザス」は、この地に先住した[[インディアン]]部族の[[カンサ族]]に由来し<ref>John Koontz, p.c.</ref>、州内を流れるカンザス川に名付けられていたものが州名になった。部族名「カンサ」は「風の民」あるいは「南風の民」を意味しているが、この言葉の元々の意味するところとは異なっている可能性がある<ref>Rankin, Robert. 2005. "Quapaw." In ''Native Languages of the Southeastern United States'', eds. Heather K. Hardy and Janine Scancarelli. Lincoln:University of Nebraska Press, pg. 492</ref><ref>Connelley, William E. 1918. ''[http://skyways.lib.ks.us/genweb/archives/1918ks/v1/ch10p1.html Indians]''. A Standard History of Kansas and Kansans, ch. 10, vol. 1</ref>。 この地に最初に足を踏み入れたヨーロッパ人は、1541年の探検家[[フランシスコ・バスケス・デ・コロナド]]だった([[スペインによるアメリカ大陸の植民地化#コロナド遠征隊|コロナド遠征隊]])。 1803年、現在のカンザス州の大半は[[ルイジアナ買収]]の一部としてアメリカ合衆国の領土になった。しかし、州南西部は[[スペイン]]、続いて[[メキシコ]]、さらに[[テキサス共和国]]の一部である時代が続き、1848年に[[米墨戦争]]の終結によってアメリカ合衆国の領土になった。1812年から1821年までは[[ミズーリ準州]]の一部になっていた。カンザスを横切る[[サンタフェ・トレイル]]では、1821年から1880年まで、ミズーリ州から工業製品が、現在の[[ニューメキシコ州]][[サンタフェ (ニューメキシコ州)|サンタフェ]]からは銀と毛皮が運ばれた。この道の[[プレーリー]]地域では荷車の轍が現在も見られる。 1827年レブンワース砦が白人アメリカ人の最初の恒久的開拓地になった。1854年5月30日に制定された[[カンザス・ネブラスカ法]]で、[[ネブラスカ準州]]と[[カンザス準州]]が設立され、白人開拓者に広大な土地が開放された。この時のカンザス準州は西の大陸[[分水界]]まで伸びており、現在のコロラド州[[デンバー]]、[[コロラドスプリングス]]、[[プエブロ (コロラド州)|プエブロ]]がある地域が含まれていた。 [[ファイル:Battle of Lawrence.png|thumb|220px|left|[[ローレンス (カンザス州)|ローレンス市]]に対するクァントリルの襲撃。<br>[[1863年]][[8月21日]]、[[ローレンスの虐殺]]]] ミズーリ州と[[アーカンソー州]]からはカンザスの東部境界にそって開拓者を送り出した。これらの開拓者は[[奴隷制度]]を州内に広げるために住民投票を支配しようとした。続いて州内に入ってきたのは、[[マサチューセッツ州]]など自由州からの[[奴隷制度廃止運動]]側開拓者であり、隣接するミズーリ州から奴隷制度が拡大されてくるのを止めようとした。これら開拓者が武力で衝突し、「[[血を流すカンザス]]」と呼ばれるようになる小競り合いの時代が続いた。これは[[南北戦争]]の前哨戦になった。 1861年1月29日、カンザスはアメリカ合衆国34番目の州として、奴隷を持たない自由州になった。この時点までに州内の暴力事件はほとんど沈静していた。しかし、南北戦争中の[[1863年]][[8月21日]]、[[ウィリアム・クァントリル]]が数百人の男を率いて[[ローレンス (カンザス州)|ローレンス市]]を襲い、市街地の大半を破壊し、200人近い人々を殺した([[ローレンスの虐殺]])。クァントリルは、[[アメリカ連合国]]軍からも、ミズーリ州議会が任命したゲリラ的レンジャー部隊からも厳しく批判された。クァントリルはこれら部隊への任官を申請したが、戦前の犯罪記録があったために宜も無くはねつけられた<ref>Jones, ''Gray Ghosts and Rebel Riders'' Holt & Co. 1956, p.&nbsp;76</ref>。 南北戦争後、多くの退役兵がカンザスに農場を造った。多くの[[アフリカ系アメリカ人]]もカンザスを奴隷制度廃止運動家「[[ジョン・ブラウン (奴隷制度廃止運動家)|ジョン・ブラウン]]」の土地とみなし、{{仮リンク|ベンジャミン・"パップ"・シングルトン|en|Benjamin "Pap" Singleton}}のような解放奴隷に導かれて、州内に黒人社会の建設を始めた。彼らは1870年代に人種差別が激しくなりつつあった南部を離れ、{{仮リンク|エクソダスター|en|Exodusters}}<ref group="注">{{lang-en-short|Exoduster}}、集団移動の意</ref> と呼ばれるようになった。 [[ファイル:No. 8. Roundhouse at Armstrong, Kansas.jpg|thumb|220px|left|[[1873年]]に[[:en:Kansas Pacific Railway|Kansas Pacific Railway]]がカンザス-[[コロラド州|コロラド]]間に開通した。]] これと同時期に{{仮リンク|チザム・トレイル|en|Chisholm Trail}}([[サンアントニオ]]から{{仮リンク|カンザス・パシフィック鉄道|en|Kansas Pacific Railway}}の通じている[[アビリーン (カンザス州)|アビリーン]]までの[[:en:Cattle drive|牛道]])が開通して[[ロングドライブ]]が始まり、カンザスでも[[西部開拓時代]]が始まった。[[ワイルド・ビル・ヒコック]]は{{仮リンク|フォートライリー|en|Fort Riley|label=ライリー砦}}で副保安官、[[ヘイズ (カンザス州)|ヘイズ]]と[[アビリーン (カンザス州)|アビリーン]]では[[連邦保安官]]を務めた。[[1872年]]には[[アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道]]が[[ドッジシティ]]まで開通し、カンザス・パシフィック鉄道と家畜輸送を巡る競争が始まった。[[ドッジシティ]]も荒々しい[[カウボーイ]]の町であり、[[バット・マスターソン]]や[[ワイアット・アープ]]が町の法執行者として働いた。[[テキサス州]]から追われてきた牛が1年間に800万頭もドッジシティで汽車に乗せられ、東部へ運ばれた。ドッジシティは「牛の町の女王」という渾名を貰った。 カウボーイによる暴力行為に対処するためもあり、カンザス州は1881年2月19日にアルコール飲料を全て禁止する憲法修正案を採択した最初の州になった。 {{-}} == 地理 == カンザス州は北部で[[ネブラスカ州]]、東部で[[ミズーリ州]]、南部で[[オクラホマ州]]、及び西部で[[コロラド州]]と接している。105の[[カンザス州の郡一覧|郡]]に分割され、628の都市<ref>{{仮リンク|カンザス州の都市の一覧|en|List of cities in Kansas}}</ref> がある。[[太平洋]]及び[[大西洋]]から等距離に位置している。北米の[[測地学|測地線]]の中心は1983年まで[[オズボーン郡 (カンザス州)|オズボーン郡]]ミーズランチに位置していた。この地点は合衆国政府によって作成された北アメリカ地図すべての中心参照地点として使われていた。[[アメリカ合衆国本土|大陸48州]]の地理的中心は[[スミス郡 (カンザス州)|スミス郡]][[レバノン (カンザス州)|レバノン]]近くに位置しており、カンザス州の地理的中心は[[バートン郡 (カンザス州)|バートン郡]]に位置している。 カンザス州は[[ロッキー山脈]]の東手前にある[[フロンティア・ストリップ]]に位置する6つの州の1つである。 === 地質 === カンザス州の大地は水平方向から西向きに緩やかに沈む[[堆積岩]]の層でできている。州東部と南部にはミシシッピ紀、ペンシルベニア紀、[[ペルム紀]]の岩が層をなしている。州の西半分は[[白亜紀]]から[[第三紀]]の堆積物であり、西に隆起した[[ロッキー山脈]]が浸食されて流れてきたものである。州北東隅は[[更新世]]の[[氷食|氷河作用]]を受けており、[[モレーン|氷河礫]]と[[黄土]]に覆われている。 === 地形 === アメリカ合衆国の「大平原([[グレートプレーンズ]])」に展開するこの州は、西側3分の2が概して平坦または波打つように起伏しているのに対し、東側3分の1は多くの丘陵や森林である。東から西に向かうに連れて徐々に高度が上がり、海抜高度は[[モンゴメリー郡 (カンザス州)|モンゴメリー郡]]コフィービルのバーディグリス川沿い684フィート (208 m) から、コロラド州境から半マイル (800 m)、[[ウォレス郡 (カンザス州)|ウォレス郡]]内のサンフラワー山、標高4039フィート (1,231 m) まで変化している。国内では最も平坦な州として知られており、良く知られた2003年の調査では<ref>{{cite web|url=http://improbable.com/airchives/paperair/volume9/v9i3/kansas.html|title=Kansas Is Flatter Than a Pancake|publisher=Improbable.com|accessdate=2010-07-31}}</ref>、カンザス州が「パンケーキより平坦な」ことになっている(パンケーキには「ぺちゃんこにする」という意味がある)<ref>{{cite web|author=Bert Nash Community Mental Health Center 785-843-9192|url=http://www2.ljworld.com/news/2003/jul/27/holy_hotcakes_study/|title=Study finds Kansas Flatter Than Pancake|publisher=.ljworld.com|date=2003-07-27|accessdate=2010-07-31}}</ref>。このことはその後も問題にされ、その測定方法の違いにより、カンザス州は20番目から30番目に平坦だとする科学者もいる。標高の平均値は2,000フィート (600 m) であり、50州の中では14番目である<ref>{{cite web|url=http://www.geotimes.org/oct03/NN_pancake.html|title=Fracas over Kansas pancake flap|publisher=Geotimes.org|accessdate=2010-07-31}}</ref>。 ===河川=== [[ファイル:Kansasrivermap.png|thumb|220px|left|カンザス州の河川図]] [[ファイル:Spring River 2006-07-03 2104.jpg|thumb|{{仮リンク|スプリング川 (ミズーリ州)|en|Spring River (Missouri)|label=スプリング川}}]] [[カンザス川]]は、{{仮リンク|ジャンクションシティ (カンザス州)|en|Junction City, Kansas|label=ジャンクションシティ}}というふさわしい名称の都市で{{仮リンク|スモーキーヒル川|en|Smoky Hill River}}と{{仮リンク|レパブリカン川|en|Republican River}}が合流して作られ、カンザス州の北東部を170 マイル (270&nbsp;km) 流れた後、[[カンザスシティ (カンザス州)|カンザスシティ]]で、州の北東部境界線75 [[マイル]] (120&nbsp;km) 近くを形づくっている[[ミズーリ川]]と合流する。 [[コロラド州]]に水源がある[[アーカンザス川]]は、カンザス州西部と南部を500 マイル (800&nbsp;km) 近く蛇行しながら流れており、その支流({{仮リンク|リトルアーカンザス川|en|Little Arkansas River}}、ニネスカ川、ウォルナット川、カウクリーク、{{仮リンク|シマロン川|en|Cimarron River (Arkansas River tributary)}}、バーディグリス川、及び {{仮リンク|ネオショ川|en|Neosho River}})、と共にカンザス州の南部排水系を構成している。 その他の重要な河川として、スモーキーヒル川の支流であるセイリーン川とソロモン川、また{{仮リンク|ビッグブルー川 (ミズーリ州)|en|Blue River (Missouri)|label=ビッグブルー川}}、デラウェア川、およびカンザス川に流れ込むワカルーサ川がある。ミズーリ川にはメルダジーン川が流れ込んでいる。{{仮リンク|スプリング川 (ミズーリ州)|en|Spring River (Missouri)|label=スプリング川}}はリバートンとバクスタースプリングスの間を流れている。 {{-}} === 国立公園及び史跡 === [[アメリカ合衆国国立公園局]]の管理下にある地域は以下の通りである<ref>{{cite web|title = Kansas|publisher=National Park Service|accessdate = 2008-07-15|url = http://www.nps.gov/state/ks}}</ref>。 *[[ブラウン対教育委員会裁判|ブラウン対教育委員会事件国立歴史史跡]]、トピカ市 *[[カリフォルニア・トレイル|カリフォルニア国立歴史道]] *ラーニド砦国立歴史史跡、ラーニド市 *スコット砦国立歴史史跡 *[[ルイス・クラーク探検隊|ルイス・クラーク国立歴史道]] *ニコデムス国立歴史史跡、ニコデムス市 *[[オレゴン・トレイル|オレゴン国立歴史道]] *[[ポニー・エクスプレス|ポニー・エクスプレス国立歴史道]] *[[サンタフェ・トレイル|サンタフェ国立歴史道]] *背高草プレーリー国立保護区、ストロングシティ近郊 === 気候 === カンザス州は[[ケッペンの気候区分]]で3つの地域に入っている。すなわち[[湿潤大陸性気候]]、[[ステップ気候|亜乾燥気候]]、[[温暖湿潤気候]]である。東部3分の2(特に北東部)は湿潤大陸性気候であり、冷涼から寒気の強い冬と、暑く湿気が多い夏が特徴である。降水量の大半は夏と春に記録されている。西側3分の1、アメリカ国道281号線から西の回廊は、亜乾燥気候である。夏は暑く、酷暑になることも多いが概して湿度は低い。冬は温暖から酷寒まで変化が激しい。平均年間降水量は約16インチ (400&nbsp;mm) である。冬季の[[チヌーク]]風で80{{°F}} (27℃) も気温を上昇させることがある。最南中部と南東部は温暖湿潤気候である。暑く湿度の高い夏と温暖な冬が特徴であり、他の地域よりも降水量が多い。3つの気候区分は厳密なものではなく、州内大半の地域で全ての気候区分の様相が現れることがあり、干ばつや乾燥と湿潤の間を変化する気象が珍しくない。また冬季には温暖と寒気が交互に現れる。 年間降水量は南東部の47インチ (1200&nbsp;mm) から南西部の16インチ (400&nbsp;mm) まで差がある。積雪は南部州境での5インチ (13&nbsp;cm) から最北西部の35インチ (90&nbsp;cm) まである。降霜の無い日は、南部で200日以上、北西部で130日となっている。日照に関しては資料により違いはあるが、カンザス州は国内でも多い方から9位ないし10位の州である。西部はカリフォルニア州やアリゾナ州と同じくらい日照が多い。 春と初夏は激しい気象に災いされやすい。州のほとんど全体で日照に恵まれてはいるものの、気候区分の境目にあるために多くの気団の発生によって激しい雷雨が起こりやすい。これらの嵐の多くは[[スーパーセル (気象)|スーパーセル]]になる。さらに[[竜巻]]が生まれ、[[改良藤田スケール]]EF3以上のものが多い。国立気候データセンターの統計に拠れば、テキサス州に次いで竜巻発生数が多く(1950年1月1日から2006年10月31日の期間)、オクラホマ州より僅かに多い。また[[アラバマ州]]と共に、強度F5あるいはEF5の竜巻の発生数は最も多い。平均年間発生数は50個以上である<ref name="Annual average number of tornadoes">[http://www.ncdc.noaa.gov/img/climate/research/tornado/small/avgt5304.gif NOAA National Climatic Data Center]. Retrieved October 25, 2006.</ref>。激しい雷雨では大変大きな[[雹]]を降らせることもある。また鉄砲水による洪水や突風をもたらすこともある。 国立海洋大気庁に拠れば、過去最高気温は1936年7月24日にアルトンで記録された121{{°F}} (49.4℃) であり、過去最低気温は1905年2月13日に[[レバノン (カンザス州)|レバノン]]で記録された-40{{°F}} (-40 ℃) である。この過去最高気温を国内の州と比べると、[[ノースダコタ州]]とタイで第5位である。 {|class=wikitable |+カンザス州各都市の月別平均最高気温({{°F}})/最低気温({{°F}})<ref>[http://countrystudies.us/united-states/weather/kansas/goodland.htm]</ref><ref>[http://countrystudies.us/united-states/weather/kansas/concordia.htm]</ref><ref>[http://countrystudies.us/united-states/weather/kansas/dodge-city.htm]</ref><ref>[http://countrystudies.us/united-states/weather/kansas/topeka.htm]</ref><ref>[http://countrystudies.us/united-states/weather/kansas/wichita.htm]</ref> !rowspan=2 colspan=2| !colspan=12|月 |- !1月 !2月 !3月 !4月 !5月 !6月 !7月 !8月 !9月 !10月 !11月 !12月 |- !rowspan=5|都市 !nowrap style="text-align:left"|コンコーディア |36/17 |43/22 |54/31 |64/41 |74/52 |85/62 |91/67 |88/66 |80/56 |68/44 |51/30 |40/21 |- !nowrap style="text-align:left"|ドッジシティ |41/19 |48/24 |57/31 |67/41 |76/52 |87/62 |93/67 |91/66 |82/56 |70/44 |55/30 |44/22 |- !nowrap style="text-align:left"|グッドランド |39/16 |45/20 |53/26 |63/35 |72/46 |84/56 |89/61 |87/60 |78/50 |66/38 |50/25 |41/18 |- !nowrap style="text-align:left"|トピカ |37/17 |44/23 |55/33 |66/43 |75/53 |84/63 |89/68 |88/65 |80/56 |69/44 |53/32 |41/22 |- !nowrap style="text-align:left"|ウィチタ |40/20 |47/25 |57/34 |67/44 |76/54 |87/64 |93/69 |92/68 |82/59 |70/47 |55/34 |43/24 |} == 人口動態 == {{USCensusPop |1860 = 107206 |1870 = 364399 |1880 = 996096 |1890 = 1428108 |1900 = 1470495 |1910 = 1690949 |1920 = 1769257 |1930 = 1880999 |1940 = 1801028 |1950 = 1905299 |1960 = 2178611 |1970 = 2246578 |1980 = 2363679 |1990 = 2477574 |2000 = 2688418 |2010 = 2853116 |2020 = 2937880 |footnote = Source:1910–2010<ref>{{cite web|author=Resident Population Data|url=http://2010.census.gov/2010census/data/apportionment-pop-text.php|title=Resident Population Data - 2010 Census|publisher=2010.census.gov|date=|accessdate=2011-10-12}}</ref> }} 2020年国勢調査時点でのカンザス州の人口は2,937,880人であり、2010年国勢調査時点より2.97%増加していた<ref name="Census2020_QuickFacts">[https://www.census.gov/quickfacts/fact/table/US/POP010220 QuickFacts]. U.S. Census Bureau. 2020年.</ref>。人口密度は13.9人/km<sup>2</sup>。カンザス州の[[人口重心]]は[[チェイス郡 (カンザス州)|チェイス郡]][[ストロングシティ (カンザス州)|ストロングシティ]]付近となっている<ref>{{cite web|title = Population and Population Centers by State – 2000|publisher=United States Census Bureau|accessdate = 2008-12-05|url = http://www.census.gov/geo/www/cenpop/statecenters.txt}}</ref>。約48.8%が男性で、51.2%が女性である。 2004年時点の人口には149,800人(州人口の5.5%)の外国生まれが含まれ、47,000人(州人口の1.7%)が不法在留外国人と見込まれている。 === 人種及び祖先 === カンザス州の人種構成及び前の国勢調査との比較<ref group="注">混血は2000年の国勢調査で初めて報告された。</ref>: {|class=wikitable |+カンザス州の人種構成(%) !rowspan=2 colspan=2| !colspan=3|年 |- !2010年!!2000年!!1990年 |-align=right !rowspan=6|人種 !nowrap style="text-align:left"|白人 |83.8%||86.1%||90.1% |-align=right !nowrap style="text-align:left"|アフリカ系 |5.9%||5.7%||5.8% |-align=right !nowrap style="text-align:left"|アジア系 |2.4%||1.7%||1.3% |-align=right !nowrap style="text-align:left"|先住民族 |1.0%||0.9%||0.9% |-align=right !nowrap style="text-align:left"|その他 |3.8%||3.4%||2.0% |-align=right !nowrap style="text-align:left"|混血 |3.0%||2.1%||{{N/A}} |} カンザス州内で申告された祖先による構成比は:[[ドイツ系アメリカ人|ドイツ系]] (33.75%)、[[アイルランド系アメリカ人|アイルランド系]] (14.4%)、[[イギリス系アメリカ人|イギリス系]] (14.1%)、アメリカ人 (7.5%)、[[フランス系アメリカ人|フランス系]] (4.4%)、[[スコットランド系アメリカ人|スコットランド系]] (4.2%)、[[オランダ系アメリカ人|オランダ系]] (2.5%)、[[スウェーデン系アメリカ人|スウェーデン系]] (2.4%)、[[イタリア系アメリカ人|イタリア系]] (1.8%)、[[ポーランド系アメリカ人|ポーランド系]] (1.5%) となっている<ref>{{cite web|author=American Community Survey Office|url=http://www.census.gov/acs/www/Products/Profiles/Single/2003/ACS/Tabular/040/04000US202.htm|title=Kansas – Social demographics 2006|publisher=Census.gov|accessdate=2010-07-31|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080331102738/http://www.census.gov/acs/www/Products/Profiles/Single/2003/ACS/Tabular/040/04000US202.htm|archivedate = 2008-03-31}}</ref>。ドイツ系アメリカ人は特に北西部で多く、他州から来たイギリス系は南東部で多い。メキシコ系が南西部に入っており、特定の郡では人口の半数近くになっている。アフリカ系アメリカ人の多くはエクソダスターの子孫である。 === 過疎化 === {{Main|Rural flight}} カンザス州は国内でも人口成長率が低い方の州である。過去数10年間、田園部から都市部に人口が移動し、田園部の[[過疎化]]が進んできた。 中西部にある全ての都市の中で、89%は人口3,000人未満であり、その中でも多くの都市が人口1,000人未満となっている。カンザス州の歴史家ダニエル・C・フィッツジェラルドに拠れば、カンザス州だけをとってみても、6,000以上の[[ゴーストタウン]]や衰退するコミュニティがある<ref>http://www.danielcfitzgerald.com/kansasextinctlocations.html</ref>。一方で[[カンザスシティ都市圏|カンザスシティ大都市圏]]に入る[[ジョンソン郡 (カンザス州)|ジョンソン郡]]の特定の町は国内でも有数の人口成長率となっている。 === 宗教 === カンザス州の住民の宗教的関係は以下である: *[[キリスト教]] 86% **[[プロテスタント]] 53.7% ***[[メソジスト]] 13.3% ***[[バプテスト教会|バプティスト]] 12.8% ***[[ルター派教会]]([[アメリカ福音ルター派教会]]など) 5.9% ***[[長老派教会]] 4.3% ***他のプロテスタント 17% **[[カトリック教会|ローマ・カトリック]] 29% **他のキリスト教徒 3% *[[モルモン教]] 2% *[[エホバの証人]] 2% *他の宗教 2% *[[無宗教]] 9% == インディアン部族 == [[ファイル:Pawnee01.png|thumb|200px|かつてのインディアン部族の勢力区分(緑色)と、現在の保留地(橙色)]] [[アラパホ|アラパホー族]]、[[シャイアン族]]、[[オジブワ|チッペワ族]]、ヒカリア・[[アパッチ族]]、[[フォックス族]]、[[イリニ族]]、[[イロコイ族]]、[[カンサ族]]、[[キカプー|キカプー族]]、[[カイオワ族]]、[[カイオワ・アパッチ族]]、[[マイアミ族]]、[[マンシー族]]、[[ショーニー族]]、[[ワイアンドット族]]、[[クアポー族]]、[[ミズーリ族]]、[[オーセージ族]]、[[オート族]]、[[オタワ族]]、[[レナペ|デラウェア族]]、[[ポーニー族]]、[[セネカ族]]、[[ソーク族]]などの[[インディアン]]部族が農耕、狩猟民併せて先住した。 [[チェロキー族]]は1835年の「[[w:Treaty of New Echota|新エコタ条約]]」で、カンザス州の南東から南の州境に、[[テネシー州]]から強制移住させられた。「チェロキー国家」として南北戦争にも寄与し、1866年に合衆国の黒人奴隷解放政策に賛同したのち、「自由身分の黒人」とは別に「自由身分の色つき」枠に振り分けられ、他のインディアン部族同様に「[[ジム・クロウ法]]」の対象となった。 この州の[[インディアン]]部族のほとんどは、19世紀初頭に、東部森林地帯からアメリカ政府によって強制移住させられてきたものである。こののち、オッタワ族、デラウェア族は1866年、クアポー族(アーカンサス族)、ソーク族、ワイアンドット族は1867年に[[オクラホマ州]]へ強制移住させられた。残る部族も1887年制定の「[[ドーズ法]]」で保留地を没収され、ほとんどが絶滅指定された。 州名の由来となった[[カンサ族]](コー族)自体は、1872年にオクラホマ州へ強制移住させられ、部族としては同州にはいない。 アメリカ連邦政府から公認を打ち切られている部族は、条約で確約される[[インディアン居留地|保留地]]を持つことが出来ない。多くの部族が公式認定を求めアメリカ内務省と交渉中である。 {|class=wikitable !公式認定者 !該当する部族 |- |アメリカ合衆国政府 | *カンザス・[[キカプー]]族 *[[ポタワトミ族]]平原バンド *[[ソーク族]]、[[フォックス族]] *[[アイオワ族]] |- |なし | *「[[ワイアンドット族]]」 *[[レナペ|デラウェア族]]マンシー・トライブ *[[オジブワ|チッペワ族]]・スワンクリーク及びブラックリバー *[[ショーニー族]]部族連合 *[[カウェア族]] *[[チェロキー族]]レッド・ネーション *北部チェロキー族 |} === インディアン・カジノ === 同州では、5つの部族が[[インディアン・カジノ]]を運営している。 ワイアンドット族(ヒューロン族)は、連邦から公認されていない部族であるが、2003年8月にカンザス市7番街にある部族共同体の伝統墓地の駐車場に移動型カジノの営業を始めた。2004年、州司法長官はカジノを強制閉鎖させ、152台のスロットマシンと50万ドルの現金を押収した。ワイアンドット族は州と関係当局を告訴し、これに完全勝訴。2007年より7番街のフリーメーソンの廃寺院を使って、部族カジノは再開された。連邦保留地を持たない部族が自前で建物を買い、カジノを開くという事例が実現することとなった。 {|class=wikitable !部族 !カジノ |- |キカプー族 | *「黄金の鷲のカジノ」 |- |ワイアンドット族 | *「7番通りのカジノ」 |- |ポタワトミ族・平原バンド | *「平原バンド・カジノ」 *「平原バンド・ポタワトミ・ビンゴ場」 |- |ソーク族、フォックス族 | *「フォッサ・アンド・フォックス・カジノ」 |- |アイオワ族 | *「カジノ・白い雲」 |} == 主要な都市及び町 == :''関連項目:{{仮リンク|カンザス州の都市の一覧|en|List of cities in Kansas}} {|class="wikitable sortable" style="float:right;clear:right;margin-left:1em;" |+'''市域人口上位20都市''' |- ! !!都市!!人口*!!人口成長率**!!都市圏 |- |1||[[ウィチタ (カンザス州)|ウィチタ]]||align=right|397,532||align=center|+3.97%||ウィチタ |- |2||[[オーバーランドパーク (カンザス州)|オーバーランドパーク]]||align=right|197,238||align=center|+13.77%||カンザスシティ |- |3||[[カンザスシティ (カンザス州)|カンザスシティ]]||align=right|156,607||align=center|+7.42%||カンザスシティ |- |4||[[オレイサ (カンザス州)|オレイサ]]||align=right|141,290||align=center|+12.25%||カンザスシティ |- |5||[[トピカ (カンザス州)|トピカ]]||align=right|126,587||align=center|−0.70%||トピカ |- |6||[[ローレンス (カンザス州)|ローレンス]]||align=right|94,934||align=center|+8.32%||ローレンス |- |7||[[ショーニー (カンザス州)|ショーニー]]||align=right|67,311||align=center|+8.20%||カンザスシティ |- |8||[[レネックサ (カンザス州)|レネックサ]]||align=right|57,434||align=center|+19.18%||カンザスシティ |- |9||[[マンハッタン (カンザス州)|マンハッタン]]||align=right|54,100||align=center|+3.48%||マンハッタン |- |10||[[サライナ (カンザス州)|サライナ]]||align=right|46,889||align=center|−1.71%||‡ |- |11||[[ハッチンソン (カンザス州)|ハッチンソン]]||align=right|40,006||align=center|−4.93%||‡ |- |12||[[レブンワース (カンザス州)|レブンワース]]||align=right|37,351||align=center|+5.96%||カンザスシティ |- |13||[[リーウッド (カンザス州)|リーウッド]]||align=right|33,902||align=center|+6.39%||カンザスシティ |- |14||[[ガーデンシティ (カンザス州)|ガーデンシティ]]||align=right|28,151||align=center|+5.60%||‡ |- |15||[[ドッジシティ]]||align=right|27,788||align=center|+1.64%||‡ |- |16||[[ダービー (カンザス州)|ダービー]]||align=right|25,625||align=center|+15.65%||ウィチタ |- |17||[[エンポリア (カンザス州)|エンポリア]]||align=right|24,139||align=center|−3.12%||‡ |- |18||[[ガードナー (カンザス州)|ガードナー]]||align=right|23,287||align=center|+21.77%||カンザスシティ |- |19||[[プレーリービレッジ (カンザス州)|プレーリービレッジ]]||align=right|22,957||align=center|+7.04%||カンザスシティ |- |20||[[ジャンクションシティ (カンザス州)|ジャンクションシティ]]||align=right|22,932||align=center|−1.80%||マンハッタン |- |colspan = 5|*2020年国勢調査<ref name="Census2020_QuickFacts" /><br />**2000年から2010年の成長率<br />‡[[アメリカ合衆国小都市統計地域|小都市圏]]として定義 |} カンザス州には627の法人化都市がある。州法で都市は「国勢調査目録によって」得られる人口によって3つのクラスに分けられている。第3級は人口5,000人未満であるが、2,000人以上に到達した都市は2級に分類される可能性がある。2級は人口25,000人未満で、15,000人以上になったときに1級に分類される可能性がある。1級と2級は[[郡区 (アメリカ合衆国)|郡区]]とは独立し、郡区の領域に含まれていない。 === 州北東部 === [[ファイル:Kansas City Kansas aerial view.jpg|left|thumb|[[カンザスシティ (カンザス州)|カンザスシティ]]]] 州北東部は、ミズーリ州との東部境界からジャンクションシティまで、かつネブラスカ州との北部境界から南のジョンソン郡までと定義され、ここに含まれるカンザスシティ、マンハッタン、ローレンスおよびトピカの都市圏には150万人以上が住んでいる。1960年に法人化された若い都市であるオーバーランドパーク市がジョンソン郡で人口も面積も最大の都市である。同市には州内最大の[[コミュニティカレッジ]]であるジョンソン郡コミュニティカレッジがあり、また都市圏最大の民間企業雇用主である通信事業の[[スプリント・ネクステル]]が本社を構えている。2006年、オーバーランドパーク市はアメリカで住み良い都市第6位に選ばれ、隣接するオレイサ市も13位に入った<ref>{{cite web|url=http://money.cnn.com/magazines/moneymag/bplive/2006/top100/|title=Best places to live 2006|publisher=MONEY Magazine|accessdate=2006-12-09}}</ref>。オレイサ市はジョンソン郡の郡庁所在地であり、ジョンソン郡幹部空港がある。オレイサ市、ショーニー市、ガードナー市は州内でも人口成長率の高い都市である。オーバーランドパーク市、レネックサ市、オレイサ市、およびガードナー市は、[[サンタフェ・トレイル]]の道筋にあることでも名高い。人口1,000人以上の都市の中で、ミッションヒルズ市は一人あたりの所得の中央値が州内で最も高い。 北東部には高等教育機関が幾つかある。ボールドウィンシティのベイカー大学は1858年に設立された州内最古の大学であり、[[メソジスト]]教会が運営している。[[アッチソン (カンザス州)|アッチソン]]市にあるベネディクティン大学はセントベネディクト修道院とマウント・セント・スコラスティカ修道院が後援し、セントベネディクト・カレッジ(1858年設立)とマウント・セント・スコラスティカ・カレッジ(1923年設立)の合併で作られた。オレイサ市にはミッドアメリカ・ナザレン大学がある。オタワ市とオーバーランドパーク市にはオタワ大学がある。カンザスシティにはカンザスシティ・カンザス・コミュニティカレッジとカンザス大学医療センターがある。オーバーランドパーク市にはカンザス大学エドワーズキャンパスもある。車で西へ1時間弱のローレンス市には州内最大の[[州立大学|州公立大学]]である[[カンザス大学]]があり、他にハスケル・インディアン部族大学がある。 北のカンザスシティは州内で2番目に大きな陸地面積を持っており、多くの多様な民族の集まる地区がある。見所として、カーレース場の[[カンザス・スピードウェイ]]、[[アメリカンフットボール]]の[[カンザスシティ・ティーボーンズ]]、および小売業と娯楽のザ・リジェンド・アット・ビレッジウェストがある。ミズーリ川を北に遡ると、ランシング市には州で最初の最高度警備刑務所がある。1854年に設立された歴史あるレブンワース市は州内で最初に法人化された都市である。その北に[[レブンワース砦]]があり、[[ミシシッピ川]]より西では最古の現役陸軍基地である。アッチソン市は州内でも早くから商業中心となり、[[アメリア・イアハート]]の生誕地として知られている。 その西には25万人近くが住んでいるトピカ都市圏がある。トピカ市は[[州都]]であり、ウォッシュバーン大学がある。昔の[[オレゴン・トレイル]]のカンザス川渡し場に建設され、国指定歴史史跡が幾つかある。さらに西の州間高速道路70号線とカンザス川沿いにジャンクションシティがあり、石灰岩と煉瓦で造られた建物群があり、また近くには「ビッグレッドワン」と通称されるアメリカ陸軍第1歩兵師団が駐屯するライリー砦がある。さらに少し進んだ位置にマンハッタン市があり、州内で2番目に大きな公立大学で、1863年に国内でも最古の国有地認可大学となった[[カンザス州立大学]]がある。キャンパスの南には1889年からの歴史があるアジービルがあり、州内では最古の商店街がある。 === ウィチタ === [[ファイル:Wichita pan 1.jpg|thumb|400px|カンザス州最大の都市ウィチタ]] カンザス州中南部にあるウィチタ都市圏は647,610人(2020年国勢調査)<ref name="Census2020_QuickFacts" />の人口を抱える。ウィチタ市は陸地面積でも人口でも州内最大の都市である。「エアー・キャピタル」とも呼ばれる航空機産業の中心であり、またウィチタ州立大学がある。国指定歴史史跡や博物館の他に娯楽施設も多く、中西部での文化のメッカになる望みを持っている。人口成長率は2桁の伸びを示しており、郊外都市は州内最大の成長率になっている。ゴッダード市は2000年からの人口成長率が11%だった。その他成長率の高い都市として、アンドーバー、メイズ、パークシティ、ダービー、ヘイズビルの各都市がある。 ウィチタからアーカンザス川を遡るとハッチンソン市がある。世界でも最大級の岩塩床の上に建設されており、また世界最大最長のコムギ[[カントリーエレベーター|エレベーター]]がある。カンザス・コスモスフェア・アンド・スペースセンター、プレーリー・デューンズ・カントリークラブがあり、またカンザス州祭が開催されている。ウィチタから州間高速道路135号線を北に行くとニュートン市があり、元は[[アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道|サンタフェ鉄道]]の西側終着駅、かつチザム・トレイルの出発点だった。ウィチタの南東には歴史的な建築物があるウィンフィールド市とアーカンザスシティ市があり、アークシティにはチェロキー・ストリップ博物館がある。ユーダル市は1955年5月25日にカンザス州でも最も猛威を振るった竜巻が起こった場所である。市内とその近郷で80人が死亡した<ref>{{cite web|url=http://www.srh.noaa.gov/oun/wxevents/19550525/|title=The Blackwell Tornado of 25 May 1955|publisher=NWS Norman, Oklahoma|date=2006-06-13|accessdate=2007-01-28|archiveurl = https://web.archive.org/web/20061008140031/http://www.srh.noaa.gov/oun/wxevents/19550525/|archivedate = 2006-10-08}}</ref>。ウィチタの南西には人口5人のフリーポートがあり、州内最小の都市である。 === 州内の他地域 === [[ファイル:Kansas population map.png|thumb|カンザス州の人口密度図]] フリントヒルズのブルーステム地域の中心にあるカンザスシティ市、トピカ市とウィチタ市の中間にエンポリア市があり、幾つかの国指定歴史史跡と、著名な教員養成カレッジであるエンポリア州立大学がある。ここは新聞発行者ウィリアム・アレン・ホワイトの故郷でもあった。 ==== 南東部 ==== [[File:Downtown pittsburg ks.jpg|left|thumb|南東部の中心都市ピッツバーグ]] 州南東部では、炭田地域に多くの国指定歴史史跡があり、特徴ある歴史を持っている。[[クロウフォード郡 (カンザス州)|クロウフォード郡]](フライドチキンの首都と言われる)にある[[ピッツバーグ (カンザス州)|ピッツバーグ]]市は人口20,646人(2020年国勢調査)<ref name="Census2020_QuickFacts" />を抱える州南東部最大の都市であり、ピッツバーグ州立大学([[ペンシルベニア州]]の[[ピッツバーグ大学]]とは別物)がある。隣接するフロンテナック市は1888年に炭坑で爆発が起こり、死者47人を出すという最大の炭鉱事故が起きた。ウェストミネラル市の1.5マイル (2.4&nbsp;km) 郊外には「ビッグ・ブルータス」がある。この改修された砦の側にある歴史あるフォートスコットには、[[エイブラハム・リンカーン|リンカーン]]大統領が1862年に指定した国立墓地がある。 ==== 中央部と北部 ==== [[File:Swedish Pavilion - Lindsborg KS.jpg|thumb|リンズボーグのスウェーデン式の建物]] 州中央部と北部ではサライナが最大の都市である。サライナの南にリンズボーグという小さな都市があり、多くの[[ダーラヘスト]](木工の馬)が飾られている。この町の建築物や装飾物の多くははっきりと分かる[[スウェーデン]]様式である。州間高速道路70号線にそって東に歴史ある[[アビリーン (カンザス州)|アビリーン]]市があり、元はチザム・トレイルの始点であり、[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]大統領が少年時代を過ごした町である。その西にはルーカスがあり、カンザス州では大衆芸術の首都とされている。 ==== 北西部 ==== [[File:Hays KS, 10 x Main NW corner 1.JPG|left|thumb|北西部の中心都市ヘイズ]] 州間高速道路に沿って西方にラッセル市がある。昔から人口の少ない北西部の始まる所であり、元アメリカ合衆国上院議員[[ボブ・ドール]]の故郷、かつ同じく上院議員[[アーレン・スペクター]]が少年時代を過ごした町である。[[ヘイズ (カンザス州)|ヘイズ]]市は人口21,116人(2020年国勢調査)<ref name="Census2020_QuickFacts" />を数える州北西部最大の都市で、フォートヘイズ州立大学とスターンバーグ自然史博物館がある。エリス郡の小さな町には2つの目印となるものがある。「平原の大聖堂」はヘイズの10マイル (16&nbsp;km) 東、ビクトリアにあり、[[ウォルター・クライスラー]]が少年時代を過ごした家はヘイズの15マイル (24&nbsp;km) 西、エリスの町にある。ヘイズの西では州間高速道路70号線沿いであっても人口が急速に少なくなり、コルビーとグッドランドという人口が4,000人を超える唯一の町が州間高速道路70号線に沿って35マイル (56&nbsp;km) 離れて位置している。 ==== 南西部 ==== [[File:Dodge City Longhorn.jpg|thumb|ドッジシティのロングホーン像]] ドッジシティ市は19世紀後半の牛追いの時代で有名であり、サンタフェ・トレイルにそって建設された。リベラル市はサンタフェ・トレイル南側ルート上にある。州内で最初の風力発電所がモンテズマの東に建設された。ガーデンシティにはリー・リチャードソン動物園がある。 == 政治と法律 == :''関連項目:[[カンザス州知事の一覧]] {{See also|w:Government of Kansas|w:Political party strength in Kansas}} === 州と地方の政治 === [[ファイル:Kathleen Sebelius Secretary of Health and Human Services nomination.jpg|left|thumb|[[キャスリーン・セベリウス]]は[[バラク・オバマ]]大統領からの[[アメリカ合衆国保健福祉長官|保険福祉省長官]]指名を受け容れた]] '''[[行政府]]''':行政府には選挙で選ばれる6人の役人がいる。知事と副知事は同じ候補者名簿で選出される。検事総長、州務長官、州財務官、および州保険委員長は別々の選挙で選ばれる。2012年時点で6人の役人は全て共和党員である。知事[[サム・ブラウンバック]]と副知事ジェフ・コリアーの組み合わせは2010年に選出され、最大2期続けて務めることが可能である。2010年にはインデペンデンス市出身のデレク・シュミットが検事総長に、パイパー市のクリス・コバックが州務長官に、ウィチタ市のロン・エステスが州財務官に、トピカ市のサンディ・プレージャーが州保険委員長に選ばれた。 '''[[立法府]]''':上院と下院の両院制である。下院議員は125人、上院議員は40人で、共に4年任期である。2012年時点で上院の32人、下院の92人が共和党員である。 '''[[司法府]]''':行政府の頂点はカンザス州最高裁判所であり、判事は7人いる。空席が生じた場合、9人の判事予撰委員会が選出した3人の候補者から知事が1人を指名することになっている。この委員会は州内弁護士が選出した5人と知事が選出した4人で構成されている。 カンザス州は進歩的な州という評判があり、立法では多くの「初めて」がある。[[労働者災害補償保険|労働災害補償法]]を定めた最初の州であり(1910年)、証券業を規制したのも初めての州だった(1911年)。1912年には[[女性参政権]]を認めたが、これは[[アメリカ合衆国憲法]]でそれを認める修正が行われる10年近く前のことだった。女性参政権が全州で認められたのは、1920年に[[アメリカ合衆国憲法修正第19条]]が批准された時だった。[[第一次世界大戦]]後、州内の多くの都市で市政委員会・シティマネジャー方式が採用されたが、当時国内の多くの都市では[[マシーン (政治)|政治マシーン]]、あるいは[[組織犯罪|犯罪組織]]に牛耳られており、中でも有名なのがミズーリ州カンザスシティのペンダーガスト・マシーンだった。1954年、トピカ市で、「[[ブラウン対教育委員会裁判|ブラウン対教育委員会事件]]」に対する[[合衆国最高裁判所|最高裁判所]]判決が出て、国内の学校で[[人種差別]]を行うことを禁じたのも有名である。 [[フランクリン・ルーズベルト]]大統領は1932年から4期続けて大統領に当選したが、カンザス州はこれをあまり支持しなかったことで数少ない州の1つになっている。ルーズベルトがカンザス州を制したのは4回のうち2回のみだった。ただし、1936年の場合は、対抗馬のカンザス州知事[[アルフレッド・ランドン|アルフレッド・M・ランドン]]を大差で破って州を制した。1940年は[[ウェンデル・L・ウィルキー]]、1944年は[[トマス・E・デューイ]]と共に[[共和党 (アメリカ)|共和党]]候補が州を制した。1948年では現職のハリー・S・トルーマンがミズーリ州境から約15マイル (24&nbsp;km) 東の[[インディペンデンス (ミズーリ州)|インディペンデンス市]]出身であったにも拘わらず、共和党のデューイを支持した。ルーズベルトの後でカンザス州を制した[[民主党 (アメリカ)|民主党]]候補は1964年の[[リンドン・ジョンソン|リンドン・B・ジョンソン]]一人だけである。 過去40年間でカンザス州は国内の他の地域よりも社会的に保守的になっている。1990年代には人工中絶に新しい制限を課し、ダン・グリックマンなど著名な民主党員が敗北し、州教育委員会は1999年に教育指導標準から[[進化論]]を除外する判断をした。ただし教育委員会の判断は後に撤回された<ref>Los Angeles Times. [http://pqasb.pqarchiver.com/latimes/access/923599751.html?dids=923599751:923599751&FMT=ABS&FMTS=ABS:FT&type=current&date=Nov+9%2C+2005&author=Nicholas+Riccardi&pub=Los+Angeles+Times&edition=&startpage=A.14&desc=THE+NATION Vote by Kansas School Board Favors Evolution's Doubters]</ref>。2005年、州民は[[同性結婚]]を禁止する憲法修正条項を承認した。翌年、州議会は結婚を認める最少年齢を15歳に設定する法を成立させた。2008年、[[キャスリーン・セベリウス]]州知事は「地球温暖化ガスが気候の変動に影響していることを知っている。カンザス州は農業の州として、特に脆弱である。それ故に、公害を減らすことは短期間に我々の州に恩恵を及ぼすだけでなく、次の世代にも貴重なものになる」と言って、新しい石炭焚き火力発電所建設計画に拒否権を使った<ref>{{cite web|author=staff|url=http://www.ens-newswire.com/ens/mar2008/2008-03-21-01.asp|title=Kansas Governor Rejects Two Coal-Fired Power Plants|publisher=Ens-newswire.com|date=2008-03-21|accessdate=2010-07-31}}</ref>。しかし、2009年にセベリウスが辞任してマーク・パーキンソンが州知事に就任すると、パーキンソンは発電所建設を認めるための妥協案を発表した。 2010年、サム・ブラウンバックが総投票数の63%を得て、州知事に当選した。8年ぶりの共和党員知事になった。ブラウンバックは5項目の「カンザス州のためのロードマップ」を掲げて選挙運動を行った。それには以下のような定量化できる目標が挙げられていた。 # 個人収入の増加 # 民間企業による雇用の増加 # 小学校4年生で基準に合わせて読み書きできる者の比率の増加 # カレッジ進学や就職に進むことのできる高校卒業者比率の増加 # 貧困に沈む子供の比率の減少 ブラウンバックは2012年議会会期で、次のような5つの目標を明示した。 # カンザス州の失業率を減らす手段として税制の大きな改革 # 増加しつつあるメディケイドに対する支払額の減少 # 時代遅れで非効率になってきた学校関係予算割り当ての改定 # 州予算の出入りバランスを保つために政府支出を減らす目的での政府の構造改革 # 国内でも最大級に不安定なものになっている州の雇用年金計画で、手当されていない負債80億ドル以上の排除 ブラウンバックは知事になる前のアメリカ合衆国上院議員時代は大変保守的な人物だったが、知事になってからは議論を呼ぶ決断を幾つか下してきた。2011年5月、州内の芸術面の指導者や支援者の大きな反対の声に対抗して、カンザス芸術委員会を閉鎖させ、芸術関連機関の無い初の州にした<ref>{{cite web|author=May 31, 2011&nbsp;|&nbsp;12:50 pm|url=http://latimesblogs.latimes.com/culturemonster/2011/05/kansas-governor-eliminates-states-arts-funding.html|title=Kansas governor eliminates state's art funding|publisher=Latimesblogs.latimes.com|date=2011-05-31|accessdate=2011-10-12}}</ref>。2011年7月、費用削減の手段として、州社会復帰事業局のローレンス支所を閉鎖する計画を発表した。この計画には多くの反対の声が起こった<ref>{{cite web|last=Hittle|first=Shaun|url=http://www2.ljworld.com/news/2011/jul/16/hundreds-rally-against-closing-srs-office/|title=Hundreds rally against closing SRS office|publisher=.ljworld.com|date=2011-07-16|accessdate=2011-10-12}}</ref>。ローレンス市政委員会は支所を開設したままにするための予算を手当てすることを決めた<ref>{{cite web|url=http://www2.ljworld.com/news/2011/aug/09/lawrence-city-commission-approves-funding-srs-offi/|title=Lawrence City Commission approves funding for SRS office|publisher=.ljworld.com|date=2011-08-09|accessdate=2011-10-12}}</ref>。 === 連邦政府との関わり === {{See also|w:U.S. Congressional Delegations from Kansas}} カンザス州から連邦議会に送り出している議員は、上院2人、下院4人であり、2012年時点で全て共和党員である。 カンザス州は、準州時代に奴隷制度の拡張に反対した動きの中から共和党が生まれたアンテベラムの昔から、共和党の堅い地盤である。[[世界恐慌]]が起こったあと、1932年に[[フランクリン・ルーズベルト]]が初めて大統領に当選した時以来、上院議員選挙で民主党候補を選んだことがない。二大政党のどちらかが単一の州で上院議員選挙を連続して敗北した記録としては最長である。[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|2008年の大統領選挙]]で、サム・ブラウンバック上院議員が共和党指名の候補だった。2010年の上院議員選挙でブラウンバックは3期目の候補者にならなかったが、その年の一般選挙で知事に当選した。2010年8月予備選挙では、ブラウンバックの後釜としてジェリー・モーランが共和党の指名を得て、一般選挙でも民主党候補に大勝した。 共和党候補ではない者が大統領選挙でカンザス州を制したのは、[[人民党 (アメリカ)|ポピュリスト党]]のジェイムズ・ウィーバー、民主党の[[ウッドロウ・ウィルソン]]、フランクリン・ルーズベルト(2回)、[[リンドン・ジョンソン|リンドン・B・ジョンソン]]だけである。[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙|2004年の選挙]]では、[[ジョージ・W・ブッシュ]]が総投票数の62%を獲得し、25%の大差を付けて6人の選挙人票を得た。このとき民主党の[[ジョン・フォーブズ・ケリー|ジョン・ケリー]]を支持したのは、カンザスシティのある[[ワイアンドット郡 (カンザス州)|ワイアンドット郡]]と[[カンザス大学]]のあるローレンス市を含む[[ダグラス郡 (カンザス州)|ダグラス郡]]の2郡だった。2008年の選挙でも同様な結果であり、[[ジョン・マケイン]]が57%を獲得した。ダグラス郡、ワイアンドット郡に加えて、クロウフォード郡が[[バラク・オバマ]]を支持した<ref>{{cite news|url=https://edition.cnn.com/ELECTION/2008/results/individual/#mapPKS|title=2008 Election Results – Kansas|publisher=CNN|accessdate=2010-07-31}}</ref>。 [[1996年アメリカ合衆国大統領選挙|1996年大統領選挙]]で、カンザス州の共和党上院議員[[ボブ・ドール]]が党の候補者指名を得たが、大統領にはなれなかった。カンザス州出身で敗北した大統領候補者として2人目となった。 === 州法 === :{{See also|w:Alcohol laws of Kansas}} カンザス州で飲酒が認められる年齢は21歳である。小売りに対する州[[消費税]]の代わりに、免許を得た店舗で消費される酒類には10%の飲食税、小売りされた酒類には8%の酒類販売実行税が課せられている。穀草類の麦芽酒(3.2ビールとも呼ばれる)の販売は1937年に合法化されたが、[[アメリカ合衆国における禁酒法|禁酒法]]が終わった後、カンザス州でアルコール飲料が合法化されたのは州憲法が修正された1948年になってからだった。翌年、州議会で酒類統制法が成立し、規制、免許、課税の方法が作られた。またアルコール飲料統制局が作られ、この法の執行に関わった。穀草類の麦芽酒を規制する権限は都市や郡に任されたままである。飲食店での酒の提供は1986年の憲法改正と翌年の規制法の成立で合法となった。2006年11月時点で、まだ州内29郡は酒類の販売を禁じる「[[禁酒郡|ドライ郡]]」であり、17郡だけが食品の売り上げ規定無しに酒類販売を認めている。今日酒類では2,600店、穀草類の麦芽酒では4,000店以上の免許が降りている。 == 経済 == [[アメリカ合衆国商務省経済分析局]]によると、カンザス州の2008年の州総生産高は1,227億米ドルであり、全米の州の中では32位だった<ref>[http://www.bea.gov/regional/gsp/ Bea.gov];U.S. Bureau of Economic Analysis (BEA)</ref>。2008年の一人当たりの収入は35,13米ドルだった。2012年3月時点の失業率は6.2%である<ref>[http://www.bls.gov/lau/ Bls.gov];Local Area Unemployment Statistics, accessed 2012-04-21</ref>。カンザス州の農業生産品は牛、羊、小麦、モロコシ種、大豆、綿、豚、トウモロコシ、及び塩である。州東部は、合衆国の大穀倉地帯である[[グレインベルト]]の一部である。工業生産品は輸送設備、商業及び小型飛行機、食品加工、出版、化学製品、機械、衣服、石油及び鉱業である。 {|class=wikitable |+大規模雇用主(2007年時点)<ref>{{cite web|url=http://www.kansascommerce.com/LinkClick.aspx?fileticket=Shi9fz2NWS0%3d&tabid=72|title=Kansas Data Book|accessdate=2010-07-31}}</ref> |- !順位 !企業名 !従業員数 !所在地 !業種 |- |{{0}}1 |[[スプリント・ネクステル]] |12,000 |[[オーバーランドパーク (カンザス州)|オーバーランドパーク]] |通信 |- |{{0}}2 |[[セスナ]] |11,300 |[[ウィチタ]] |航空機 |- |{{0}}3 |スピリット・アエロシステムズ |10,900 |ウィチタ |航空機 |- |{{0}}4 |[[ホーカー・ビーチクラフト]] |6,767 |ウィチタ |航空機 |- |{{0}}5 |エンバーク |3,800 |オーバーランドパーク |通信 |- |{{0}}6 |ブラック・アンド・ビーチ |3,800 |オーバーランドパーク |エンジニアリング |- |{{0}}7 |[[ボーイング]] |3,005 |ウィチタ |航空機 |- |{{0}}8 |ファーマーズ・インシュアランス |3,000 |[[オレイサ (カンザス州)|オレイサ]] |保険 |- |{{0}}9 |YRCワールドワイド |2,600 |オーバーランドパーク |トラック運送 |- |10 |[[ガーミン]] |2,500 |オレイサ |GPS 技術 |- |11 |[[リアジェット]] |2,250 |ウィチタ |航空機 |- |12 |コッホ・インダストリーズ |2,000 |ウィチタ |化学/素材 |- |13 |シュワン・フードカンパニー |2,000 |[[サライナ (カンザス州)|サライナ]] |食品 |- |14 |コレクティブブランド |1,700 |[[トピカ (カンザス州)|トピカ]] |アパレル |- |15 |ブルークロス・アンド・ブルーシールド |1,603 |トピカ |保険 |} [[石油]]生産では全米50州で第8位である。長い期間を経て掘削が難しくなり、生産量は着実に減少している。1999年に原油価格が底をついて以来、2004年の月間生産量280万バーレル (445,000 kl) で安定している。近年の原油価格高騰により、[[二酸化炭素]]隔離など石油再生技術が経済的になってきた。 天然ガスの生産量でも全米8位である。1990年代半ばからヒューゴトン・ガス田が枯渇してきて生産量は減少している。ヒューゴトン・ガス田はオクラホマ州やテキサス州にも広がる州内最大のガス田である。2004年、天然ガスの減少が緩やかだったことと、[[コールベッドメタン|炭層メタン]]の生産量増加で、全体としては減少率が鈍化された。平均月間生産量は320億立方フィート (0.9&nbsp;km{{sup|3}}) である。 州経済は航空機産業からも大きな影響を受けている。ウィチタやカンザスシティには、スピリット・アエロシステムズ、[[ボーイング]]、[[セスナ]]、[[リアジェット]]、[[ホーカー・ビーチクラフト]](旧レイセオン)など大規模航空機会社が製造設備を構えている。 州内に本社を構える主要企業としては、通信の[[スプリント・ネクステル]](世界本社がオーバーランドパーク市にある)、同じく通信のエンバーク(国内本社がオーバーランドパーク市にある)、トラック運送のYRCワールドワイド(オーバーランドパーク市)、GPS技術の[[ガーミン]](オレイサ市)、靴製造のペイレスシューズ(国内本社と物流センターがトピカ市にある)、化学品のコッホ・インダストリーズ(ウィチタ市)などがある。 === 州税 === カンザス州の[[所得税]]は3.5% から 6.45% まで3段階ある。州の[[消費税]]は6.3%である。多くの都市や郡が付加消費税を徴収している。2001年の不景気時を除き、徴収率は経済が成長するに連れて高くなる傾向にあり、2回の課税率増が法制化された。2003年の消費税総額は16億ドルとなり、1990年の8億ドルから倍増している。 税収が予測を下回り、個人所得が低成長であったことからくる歳入不足で、州債の水準がかなり上がることになった。1998年の州債は11億6,000万ドルだったが、2006年には38億3,000万ドルにまでなった。1999年に州は包括的交通10年計画を策定したので負債の幾らかの増加は予測されていた。2004年6月時点で、[[ムーディーズ|ムーディーズ・インベスターズ・サービス]]は、一人当たり税負担州債額でカンザス州を第14位に位置づけた。個人収入に対する比率では3.8%であり、評価された州の中央値2.5%より高い。また1992年の1%未満からは上昇してきた。州法では会計年度末に歳出の7.5%以上の現金を残すことになっているが、議会はこの規則を投票で無効にすることができ、事実近年の予算審議ではこれを無効にしてきた。 === カジノ === 2007年3月、カンザス州議員による「カンザス宝くじ委員会」が、4つの候補地での「リゾート・カジノ」の設立議案を可決。このカジノ開設の可否は州下の全郡での住民投票にゆだねられた。 結果、ワイアンドット郡では、有権者80%超の圧倒的賛成によって、同郡での賭博施設の新設を合法承認し、「カンザスシティー競馬場」での[[スロットマシン]]設置を許可した。[[キャスリーン・セベリウス]]知事は「カジノ事業はカンザス州の雇用と州の収入源のチャンスである」と述べ、4月にこの新州法に調印した。 以後、クロフォード郡、サムナー郡、チェロキー郡での有権者投票でも、圧倒的賛成でカジノが承認された。「インディアン・カジノ」に後れをとった同州のカジノ事業は、今後本格化する模様である。 「ブーツヒル・カジノ&リゾート」は、2009年12月16日にオープンした。 ==== カンザスシティーのカジノ ==== [[ファイル:Terrible-st-jo-casino.jpg|thumb|300px|「テリブルズ・聖ジョセフ・フロンティア・カジノ」]] *「アメリスター・カジノ&ホテル」 *「アルゴシー・川沿いのカジノ・ホテル&温泉」 *「ハラーの北カンザスシティー・カジノ&ホテル」 *「イズレ・オブ・カプリ・カジノ」 *「テリブルズ・聖ジョセフ・フロンティア・カジノ」 ==== ドッジ・シティーのカジノ ==== *「ブーツヒル・カジノ&リゾート」 == 交通 == [[ファイル:I35Kansas.jpg|thumb|[[州間高速道路]]35号線でカンザス州に入るところ、ロースデール市]] 州内を走る[[州間高速道路]]は、2本の本線、1本の環状路、2本の支線、および3本のバイパスがあり、総延長は874マイル (1,400&nbsp;km) である。1956年11月14日に国内初の州間高速道路(70号線)の部分が、トピカ市のすぐ西に開通した。70号線は東のミズーリ州[[セントルイス]]市やカンザスシティ市と、西のコロラド州デンバー市を結ぶ幹線である。この道路が通過する州内の都市は、東からカンザスシティ、ローレンス、トピカ、ジャンクションシティ、サライナ、ヘイズ、コルビーの各都市である。州間高速道路35号線は南北方向の幹線であり、北の[[アイオワ州]][[デモイン (アイオワ州)|デモイン]]市と南のオクラホマ州[[オクラホマシティ]]とを繋いでいる。この道路が通過する州内の都市は、北からカンザスシティ、オタワ、エンポリア、エルドラード、ウィチタの各市である。 支線は2本の幹線を繋ぐ役割を果たしている。南北方向の州間高速道路135号線はサライナで70号線と、ウィチタで35号線と接続する。北東から南西に走る州間高速道路335号線はトピカで70号線と、エンポリアで35号線と接続する。335号線と、35号線、70号線の部分がカンザス・ターンパイクを形成している。バイパスには、トピカ周辺の州間高速道路470号線と、ウィチタ周辺の州間高速道路235号線がある。州間高速道路435号線はカンザスシティを回る環状路であり、州間高速道路635号線はカンザスシティのバイパスになっている。 [[アメリカ国道]]69号線はミネソタ州からテキサス州を繋ぐ南北の幹線である。州内東部を通り、カンザスシティからルイバーグ、フォートスコット、フロンテナック、ピッツバーグおよびバクスタースプリングスの各市を抜け、オクラホマ州に入る。 [[ファイル:National-atlas-kansas.PNG|thumb|カンザス州の道路体系図]] カンザス州には[[カリフォルニア州]]に次いで国内第2位の高規格道路体系がある。これは105郡という比較的多い郡と郡庁所在地があり、これら全てを結んでいるためである。 2004年1月、カンザス州交通省は新しく旅行者情報サービスを始めると宣言した。電話で511を呼ぶと、道路状態、工事、閉鎖、迂回路および気象条件を得ることができる。気象条件と道路状態は15分毎に更新されている。 州内唯一の主要商業空港(クラスC)は[[ウィチタ・ミッド・コンティエント空港|ウィチタ・ミッドコンティネント空港]]であり、ウィチタ市の西外れ、アメリカ国道54号線沿いにある。マンハッタン地域空港からは[[ダラス・フォートワース国際空港]]や[[シカゴ]]の[[シカゴ・オヘア国際空港|オヘア国際空港]]に毎日定期便が出ており、州内第2位の商業空港になっている<ref>{{cite web|title = Manhattan Airport Official Site|url = http://www.flymhk.com/|accessdate = 2010-07-14}}</ref>。州内北東部の旅客はプラット郡にある[[カンザスシティ国際空港]]を利用している。州内最西部の旅客はコロラド州の[[デンバー国際空港]]を利用している。ドッジシティ、ガーデンシティ、グレートベンド、ヘイズ、ハッチンソン、サライナにある小さな空港からは接続便が出ている。トピカ市にあるフォーブス飛行場は一時期アレジアント航空が就航していたが、2007年に打ち切られた。 == 教育 == カンザス州の教育は初等・中等教育までカンザス州教育委員会が管轄している。公立のカレッジと大学はカンザス州理事会が監督している。 1999年以降、教育委員会は知能設計の教育を奨励する科学教程の変更を2回承認してきた。2回共に、選挙で委員の構成が代わった後にその標準を元に戻してきた。 == 文化 == === スポーツチーム === *カンザスシティ・T-ボーンズ([[野球]]) *ウィチタ・ラングラーズ([[野球]]) *ウィチタ・サンダー([[アイスホッケー]]) *トピカ・レッドランナーズ([[アイスホッケー]]) *[[スポルティング・カンザスシティ]]([[メジャーリーグサッカー|サッカー]]) *多くの州民は[[カンザスシティ・ロイヤルズ]](野球)や[[カンザスシティ・チーフス]]([[アメリカンフットボール]])など、カンザスシティのミズーリ州側に所在するチームも応援している。 <!-- == 日本との関連 == --> === 文化の中のカンザス === 昔からカンザス州はアメリカにおける[[田舎]]の代名詞になっていた<ref>[https://fishand.tips/select/article/1347 アメリカの中で田舎の印象が強い州5選] Fish&Tips(2015年7月6日)2017年12月6日閲覧</ref>。「[[オズの魔法使い]]」で、主人公のドロシーの養父母はカンザス平原の僻地の農民としてのあまりにも単調で退屈な生活に、身も心も灰色になってしまうが、ドロシーだけが飼っている子犬のトトのおかげで快活さをなくさずに済む。 [[マイケル・サンデル]]は[[ハーバード大学]]の公開講義において「余生をカンザスで農業をして暮らさなければならないとしたらその代償はいくらに値するか」という[[大恐慌]]時代に行った調査に対して、当時の人々が30万ドルに値すると答えた事例を示して、カンザスの農村を魅力に乏しくもっとも住みたくない鄙びた地域の典型として挙げている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=0O2Rq4HJBxw Justice: What's The Right Thing To Do? Episode 02: "PUTTING A PRICE TAG ON LIFE"]</ref>。ほかにも、[[スーパーマン]]が幼少期〜青年期を過ごした「スモールビル」も、ここカンザス州にあるとされている。 == カンザス州出身の有名人 == {{Main|w:List of people from Kansas}} *[[カリ・ウォールグレン]] - 声優 *[[カンサス (バンド)|カンサス]] - ロック・バンド *[[バリー・サンダース]] - アメリカンフットボール選手 ([[プロフットボール殿堂]]表彰者) *[[ウォルター・ジョンソン]] - 野球選手・監督 ([[アメリカ野球殿堂]]表彰者) *[[ジョー・ティンカー]] - 野球選手 ([[アメリカ野球殿堂]]表彰者) *[[デニス・ホッパー]] - 俳優 *[[ジョン・ホーストン]] - 政治家 *[[ウィリアム・メレル・ヴォーリズ]] - 建築家・伝道師 === 州の象徴など === *州の鳥 - [[ニシマキバドリ]] *州の花 - [[ヒマワリ]] *州の木 - ハコヤナギ(''Populus sect. Aigeiros'') *州の歌 - [[峠の我が家]] *州の愛称 - ひまわりの州 *州のモットー - 困難を克服して星を目指そう(''Ad astra per aspera'') *自動車のナンバープレートのデザイン - 小麦の穂 === 姉妹都市 === *[[茨城県]][[小美玉市]] - (旧[[美野里町]])、主要産業が農業で平坦な土地が延々と広がっている点が類似 - [[アビリーン (カンザス州)|アビリーン市]] *[[神奈川県]][[平塚市]] - [[ローレンス (カンザス州)|ローレンス市]] *[[滋賀県]][[近江八幡市]] - [[レブンワース (カンザス州)|レブンワース市]] == カンザス州に因むもの == * [[カンザス (小惑星)]] - 発見者の出身地であるカンザス州にちなんで命名された<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=3124|title=(3124) Kansas = 1981 VB = 1997 HJ18|publisher=MPC|accessdate=2021-09-10}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *Wishart, David J. ed. ''Encyclopedia of the Great Plains'', University of Nebraska Press, 2004, ISBN 0-8032-4787-7. [http://plainshumanities.unl.edu/encyclopedia/ complete text online];900 pages of scholarly articles == 関連項目 == *[[カンザス州の都市圏の一覧]] *[[カンザス州の郡一覧]] == 外部リンク == {{commons|Category:Kansas}} * {{Official website}} * [http://www.travelks.com/ カンザス州観光局] * [https://www.chicago.us.emb-japan.go.jp/indexjp.html 在シカゴ日本国総領事館] * [http://www.kcjas.org/ 中西部日米協会] * {{Curlie|Regional/North_America/United_States/Kansas}} * [http://wikis.ala.org/godort/index.php/Kansas Kansas State Databases] – Annotated list of searchable databases produced by Kansas state agencies * [http://www.usgs.gov/state/state.asp?State=KS USGS real-time, geographic, and other scientific resources of Kansas] * [http://www.ksdot.org/maps.asp Kansas Department of Transportation maps] * [http://www.kancoll.org/books/cutler/ Cutler's History of Kansas] ;Maps * [http://www.ksdot.org/burtransplan/maps/state-pdf/2011-12Mapside.pdf 2011 Kansas Highway Map], KDOT * [http://www.ksdot.org/BurTransPlan/maps/SpecialInterestStateMaps/Railroad2011.pdf 2011 Kansas Railroad Map], KDOT * {{Osmrelation|161644}} * {{Googlemap|カンザス州}} * [http://www.lib.utexas.edu/maps/kansas.html Kansas Maps] from the Perry-Castañeda Library map collection at the University of Texas {{Coord|display=title|38.5|N|98|W|region:US-KS_type:adm1st_scale:3000000}} {{カンザス州}} {{アメリカ合衆国の州}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:かんさす}} [[Category:アメリカ合衆国の州]] [[Category:カンザス州|*]]
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マージソート
マージソートは、ソートのアルゴリズムで、既に整列してある複数個の列を1個の列にマージする際に、小さいものから先に新しい列に並べれば、新しい列も整列されている、というボトムアップの分割統治法による。大きい列を多数の列に分割し、そのそれぞれをマージする作業は並列化できる。 n個のデータを含む配列をソートする場合、最悪計算量O(n log n)である。分割と統合の実装にもよるが、一般に安定なソートを実装できる。インプレースな(すなわち入力の記憶領域を出力にも使うので、追加の作業記憶領域を必要としない)バリエーションも提案されているが、一般には、O(n)の追加の作業記憶領域を必要とする。 (ナイーブな)クイックソートと比べると、最悪計算量は少ない。ランダムなデータでは通常、クイックソートのほうが速い。 1945年、フォン・ノイマンによって考案された。 基本的な手順は以下の通りである。 ステップ1と2の途中(すなわち細分化するまでの部分)についてこのアルゴリズムの手順に含めず、あらかじめ局所的に整列されている多数の列が与えられるもの、とすることもある。後述する、テープをマージする手法の場合、最初のテープから主記憶を可能な限り全部使って整列できるだけ整列した部分列を、順次書き出したテープから始める。 ステップ3のマージでは、2本のデータ列の先頭同士を比べ小さい方をデータ列から取り出して出力し、残りのデータをもつ2本のデータ列に対して再帰的に同じ処理を、両方が空になるまで行う。ソートすべきデータ列が部分的に順次得られる場合、オンラインアルゴリズムとして、部分データ列をソートして後でマージするという変形も可能である。 クイックソート等と同様、完全に細分化せずにスレッショルドとして適度に大きい個数を設定し、それ以下になった時点でなんらかの「ごく少数の対象専用の高速なコードによるソート」を併用するという高速化手法がある。手順として書き出すと次のようになる。 他に特殊な応用例として、外部ソートの1手法でテープ(のようなシーケンシャルアクセスメディア)に収められたデータをソートする、というものがある。最も単純な、4本のテープを2本ずつ使う「平衡2系列マージ」を例に説明する。まず元のデータから、利用可能な内部記憶をできるだけ使って、部分的に整列されている列をテープに書き出す。この時、2本のテープに交互に書き出すようにする。 次に、2本のテープのそれぞれの先頭部分にある、それぞれの部分列をマージしながら、別の2本のテープに交互に書き出す。この操作により、より長い整列した列が得られる。全てのマージが終わったら、コピー元とコピー先を入れ替え、同様に繰り返す。繰返し毎に各部分列の長さは約2倍に、列の個数は約半分になると期待できる。 最終的に、テープを切り替えることなく、1本のテープに全てのデータが出力されたら完了である。この技法はコンピュータがまだ高価で、テープが大容量外部記憶の主力だった時代にさかんに研究され、さまざまなバリエーションが編み出された。『The Art of Computer Programming』の§5.4にそれらの詳細がある。 (※ Haskellのリストは「長さを測って半分ずつに分ける」という操作には適さないため、要素を1個ずつ振り分ける関数を使っている。この実装では安定ではない) 初期データ: 8 4 3 7 6 5 2 1
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マージソートは、ソートのアルゴリズムで、既に整列してある複数個の列を1個の列にマージする際に、小さいものから先に新しい列に並べれば、新しい列も整列されている、というボトムアップの分割統治法による。大きい列を多数の列に分割し、そのそれぞれをマージする作業は並列化できる。 n個のデータを含む配列をソートする場合、最悪計算量O(n log n)である。分割と統合の実装にもよるが、一般に安定なソートを実装できる。インプレースな(すなわち入力の記憶領域を出力にも使うので、追加の作業記憶領域を必要としない)バリエーションも提案されているが、一般には、O(n)の追加の作業記憶領域を必要とする。 (ナイーブな)クイックソートと比べると、最悪計算量は少ない。ランダムなデータでは通常、クイックソートのほうが速い。 1945年、フォン・ノイマンによって考案された。
{{Infobox algorithm |name= マージソート |class= ソート |image=[[File:Merge-sort-example-300px.gif]] |caption=マージソートの例。まずリストを小さな単位に分け、二つのリストをそれぞれの要素の先頭を比較してマージする。最後までこの操作をくり返すと、リストはソートされている。 |data=配列 |time= <math>O(n \log n)</math> |best-time=<math>O(n \log n)</math> typical, <math>O(n)</math> natural variant |average-time=<math>O(n \log n)</math> |space=<math>O(n)</math> 外部記憶 }} [[Image:Merge sort animation2.gif|right|thumb|マージソートの様子]] '''マージソート'''は、[[ソート]]の[[アルゴリズム]]で、既に整列してある複数個の列を1個の列にマージする際に、小さいものから先に新しい列に並べれば、新しい列も整列されている、というボトムアップの[[分割統治法]]による。大きい列を多数の列に分割し、そのそれぞれをマージする作業は[[並列コンピューティング|並列化]]できる。 n個のデータを含む配列をソートする場合、最悪[[計算複雑性理論|計算量]][[ランダウの記号|O]](n log n)である。分割と統合の実装にもよるが、一般に[[安定ソート|安定なソート]]を実装できる。[[In-placeアルゴリズム|インプレース]]な(すなわち入力の記憶領域を出力にも使うので、追加の作業記憶領域を必要としない)バリエーションも提案されているが、一般には、O(n)の追加の作業記憶領域を必要とする<ref name="algo">{{cite book | 1=和書 | title=C言語による最新アルゴリズム事典 | publisher=[[技術評論社]] | author=奥村晴彦 | authorlink=奥村晴彦 | year=1991 | page=267 | isbn=4-87408-414-1}}</ref>。 (ナイーブな)[[クイックソート]]と比べると、最悪計算量は少ない<ref name="algo" />。[[乱数|ランダム]]なデータでは通常、クイックソートのほうが速い。 1945年、[[ジョン・フォン・ノイマン|フォン・ノイマン]]によって考案された<ref>{{cite book | last = Knuth | first = Donald | authorlink = Donald Knuth | series = [[The Art of Computer Programming]] | volume= 3 | title= Sorting and Searching | edition = 2nd | publisher = Addison-Wesley | year= 1998 | chapter = Section 5.2.4: Sorting by Merging | pages = 158 | isbn = 0-201-89685-0 | ref = harv}}</ref>。 ==アルゴリズム== 基本的な手順は以下の通りである。 #データ列を分割する(通常、二等分する) #分割された各データ列で、含まれるデータが1個ならそれを返し、2個以上ならステップ1から3を[[再帰]]的に適用してマージソートする #二つのソートされたデータ列(1個であればそれ自身)を[[マージ]]する ステップ1と2の途中(すなわち細分化するまでの部分)についてこのアルゴリズムの手順に含めず、あらかじめ局所的に整列されている多数の列が与えられるもの、とすることもある。後述する、テープをマージする手法の場合、最初のテープから主記憶を可能な限り全部使って整列できるだけ整列した部分列を、順次書き出したテープから始める。 ステップ3のマージでは、2本のデータ列の先頭同士を比べ小さい方をデータ列から取り出して出力し、残りのデータをもつ2本のデータ列に対して再帰的に同じ処理を、両方が空になるまで行う。ソートすべきデータ列が部分的に順次得られる場合、[[オンラインアルゴリズム]]として、部分データ列をソートして後でマージするという変形も可能である。 クイックソート等と同様、完全に細分化せずにスレッショルドとして適度に大きい個数を設定し、それ以下になった時点でなんらかの「ごく少数の対象専用の高速なコードによるソート」を併用するという高速化手法がある<ref name="algo" />。手順として書き出すと次のようになる。 #データ列を分割する(通常、二等分する) #分割された各データ列で、含まれるデータが設定個数以下ならそれを別の高速なアルゴリズムでソートして返し、設定個数超ならステップ1から3を[[再帰]]的に適用してマージソートする #二つのソートされたデータ列を[[マージ]]する 他に特殊な応用例として、外部ソートの1手法でテープ(のようなシーケンシャルアクセスメディア)に収められたデータをソートする、というものがある。最も単純な、4本のテープを2本ずつ使う「平衡2系列マージ」を例に説明する。まず元のデータから、利用可能な内部記憶をできるだけ使って、部分的に整列されている列をテープに書き出す。この時、2本のテープに交互に書き出すようにする。 次に、2本のテープのそれぞれの先頭部分にある、それぞれの部分列をマージしながら、別の2本のテープに交互に書き出す。この操作により、より長い整列した列が得られる。全てのマージが終わったら、コピー元とコピー先を入れ替え、同様に繰り返す。繰返し毎に各部分列の長さは約2倍に、列の個数は約半分になると期待できる。 最終的に、テープを切り替えることなく、1本のテープに全てのデータが出力されたら完了である。この技法はコンピュータがまだ高価で、テープが大容量外部記憶の主力だった時代にさかんに研究され、さまざまなバリエーションが編み出された。『[[The Art of Computer Programming]]』の§5.4にそれらの詳細がある。 ===実装例=== ==== C ==== <syntaxhighlight lang="c"> #include <stdio.h> void merge(int A[], int B[], int left, int mid, int right) { int i = left; int j = mid; int k = 0; int l; while (i < mid && j < right) { if (A[i] <= A[j]) { B[k++] = A[i++]; } else { B[k++] = A[j++]; } } if (i == mid) { /* i側のAをBに移動し尽くしたので、j側も順番にBに入れていく */ while (j < right) { B[k++] = A[j++]; } } else { while (i < mid) { /* j側のAをBに移動し尽くしたので、i側も順番にBに入れていく */ B[k++] = A[i++]; } } for (l = 0; l < k; l++) { A[left + l] = B[l]; } } void merge_sort(int A[], int B[], int left, int right) { int mid; if (left == right || left == right - 1) { return; } mid = (left + right) / 2; merge_sort(A, B, left, mid); merge_sort(A, B, mid, right); merge(A, B, left, mid, right); } int main(void) { int a[10] = {8,4,7,2,1,3,5,6,9,10}; int b[10] = {0}; const int n = 10; int i; merge_sort(a, b, 0, n); for (i = 0; i < n; i++) { printf("%d ", a[i]); } printf("\n"); } </syntaxhighlight><!-- C99より前の規格でもコンパイルできるように記述している。 --> ====Ruby==== <syntaxhighlight lang="ruby"> def mergesort lst return _mergesort_ lst.dup # 副作用で配列が壊れるので、複製を渡す end def _mergesort_ lst if (len = lst.size) <= 1 then return lst end # pop メソッドの返す値と副作用の両方を利用して、lst を二分する lst2 = lst.pop(len >> 1) return _merge_(_mergesort_(lst), _mergesort_(lst2)) end def _merge_ lst1, lst2 len1, len2 = lst1.size, lst2.size result = Array.new(len1 + len2) a, b = lst1[0], lst2[0] i, j, k = 0, 0, 0 loop { if a <= b then result[i] = a i += 1 ; j += 1 break unless j < len1 a = lst1[j] else result[i] = b i += 1 ; k += 1 break unless k < len2 b = lst2[k] end } while j < len1 do result[i] = lst1[j] i += 1 ; j += 1 end while k < len2 do result[i] = lst2[k] i += 1 ; k += 1 end return result end </syntaxhighlight> ====Haskell==== (※ [[Haskell]]のリストは「長さを測って半分ずつに分ける」という操作には適さないため、要素を1個ずつ振り分ける関数を使っている。この実装では安定ではない) <syntaxhighlight lang="haskell"> mergesort :: Ord t => [t] -> [t] mergesort lst = case lst of [] -> lst [_] -> lst _ -> merge (mergesort a) (mergesort b) where (a, b) = split lst merge [] [] = [] merge xxs [] = xxs merge [] yys = yys merge xxs@(x : xs) yys@(y : ys) | x < y = x : (merge xs yys) | otherwise = y : (merge xxs ys) split [] = ([], []) split ~(x : xs) = (x : zs, ys) where (ys, zs) = split xs </syntaxhighlight> ==== Scheme ==== <syntaxhighlight lang="scheme"> ;; use-modules は 処理系 Guile 固有の機能である。 ;; SRFI 機能を使うための仕組み処理系に依る。 (use-modules (srfi srfi-1 )) ; split-at (use-modules (srfi srfi-11)) ; let-values (define (merge left-half right-half) (let loop ((ls left-half) (rs right-half) (result (list))) (cond ((null? rs) (append (reverse result) ls)) ((null? ls) (append (reverse result) rs)) (else (let ((l (car ls)) (r (car rs))) (if (<= l r) (loop (cdr ls) rs (cons l result)) (loop ls (cdr rs) (cons r result)))))))) (define (merge-sort xs) (cond ((null? xs ) xs) ((null? (cdr xs)) xs) (else (let-values (((left-half right-half) (split-at xs (quotient (length xs) 2)))) (merge (merge-sort left-half) (merge-sort right-half)))))) </syntaxhighlight> ==アルゴリズムの動作例== 初期データ: 8 4 3 7 6 5 2 1 # データ列を二分割する。 #: 8 4 3 7 | 6 5 2 1 # もう一度、二分割する。 #: 8 4 | 3 7 | 6 5 | 2 1 # 各データ列にデータ数が2以下になったところで、各データ列内のデータをソートする。 #: 4 8 | 3 7 | 5 6 | 1 2 # この例の場合は、右2つのデータ列、左2つのデータ列をそれぞれマージとソートし、2つのデータ列にする。 #: 3 4 7 8 | 1 2 5 6 # 2つのデータ列をマージとソートする。 #: 1 2 3 4 5 6 7 8 == 脚注 == <references/> == 関連項目 == * [[マージ]] == 外部リンク == *[http://www.codecodex.com/wiki/Merge_sort マージソートコード(英語)] {{ソート}} [[Category:ソート|まあしそおと]] [[no:Sorteringsalgoritme#Flettesortering]]
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フーリエ変換
数学においてフーリエ変換(フーリエへんかん、英: Fourier transform、FT)は、実変数の複素または実数値関数 f {\displaystyle f} を、別の同種の関数ˆfに写す変換である。 工学においては、変換後の関数ˆfはもとの関数 f {\displaystyle f} に含まれる周波数を記述していると考え、しばしばもとの関数 f {\displaystyle f} の周波数領域表現 (frequency domain representation) と呼ばれる。言い換えれば、フーリエ変換は関数 f {\displaystyle f} を正弦波・余弦波に分解するとも言える。 フーリエ変換 (FT) は他の多くの数学的な演算と同様にフーリエ解析の主題を成す。特別の場合として、もとの関数とその周波領域表現が連続かつ非有界である場合を考えることができる。「フーリエ変換」という言葉は関数の周波数領域表現のことを指すこともあるし、関数を周波数領域表現へ写す変換の過程・公式を言うこともある。なおこの呼称は、19世紀フランスの数学者・物理学者で次元解析の創始者とされるジョゼフ・フーリエに由来する。 絶対可積分関数 f: R → C のフーリエ変換の定義として、よく用いられるものにもいくつか異なる流儀がある。本項では f ^ ( ξ ) := ∫ − ∞ ∞ f ( x ) e − 2 π i x ξ d x {\displaystyle {\hat {f}}(\xi ):=\int _{-\infty }^{\infty }f(x)e^{-2\pi ix\xi }\,dx} を定義として用いる。ここでギリシャ文字小文字の ξ は任意の実数である。(他の流儀による定義については後述 → #その他の定義) 対象の関数における独立変数が物理量の場合、フーリエ変換は独立変数の次元をもとの逆数に移す。例えば、変換前の関数における独立変数 x が時間の次元をもつとき、変換後の独立変数 ξ は周波数の次元を持つ。あるいは、変換前の独立変数 x が長さの次元をもつとき、変換後の独立変数 ξ は波数の次元を持つ。この性質は定義より x ξ が無次元量であることから従う。 適当な条件のもと、f はその変換 ˆf からフーリエ逆変換 (inverse transform) f ( x ) := ∫ − ∞ ∞ f ^ ( ξ ) e 2 π i x ξ d ξ {\displaystyle f(x):=\int _{-\infty }^{\infty }{\hat {f}}(\xi )e^{2\pi ix\xi }\,d\xi } によって復元することができる(x は任意の実数)。 上記の絶対可積分関数の定義では、次のような関数は ∫ − ∞ ∞ | f ( x ) | d x = ∞ {\displaystyle \int _{-\infty }^{\infty }|f(x)|dx=\infty } のため絶対可積分ではなく、フーリエ変換が定義できない。 このように、周期関数のようなフーリエ級数展開が可能な関数が、絶対可積分関数の意味でフーリエ変換できないことは非常に不便であり、またフーリエ変換の理解を難しくしている。 そこで、フーリエ変換の定義を超関数に拡張することが行われる。 超関数とは、急減少関数(シュワルツ空間の元である関数)の列 { f n ( x ) } n = 1 ∞ {\displaystyle \{f_{n}(x)\}_{n=1}^{\infty }} であって、任意の急減少関数 φ ( x ) {\displaystyle \phi (x)} について lim n → ∞ ∫ − ∞ ∞ f n ( x ) φ ( x ) d x {\displaystyle \lim _{n\to \infty }\int _{-\infty }^{\infty }f_{n}(x)\phi (x)dx} が存在するものを言い、 2つの急減少関数の列 { f n ( x ) } n = 1 ∞ {\displaystyle \{f_{n}(x)\}_{n=1}^{\infty }} 、 { g n ( x ) } n = 1 ∞ {\displaystyle \{g_{n}(x)\}_{n=1}^{\infty }} が、任意の急減少関数 φ ( x ) {\displaystyle \phi (x)} について lim n → ∞ ∫ − ∞ ∞ f n ( x ) φ ( x ) d x = lim n → ∞ ∫ − ∞ ∞ g n ( x ) φ ( x ) d x {\displaystyle \lim _{n\to \infty }\int _{-\infty }^{\infty }f_{n}(x)\phi (x)dx=\lim _{n\to \infty }\int _{-\infty }^{\infty }g_{n}(x)\phi (x)dx} が成り立つとき、 { f n ( x ) } {\displaystyle \{f_{n}(x)\}} と { g n ( x ) } {\displaystyle \{g_{n}(x)\}} は同一の超関数を表すものとする。 イメージとしては、超関数は関数列の極限であるが、関数列自体が超関数であり、 lim n → ∞ f n ( x ) {\displaystyle \lim _{n\to \infty }f_{n}(x)} が収束値を持つ必要はない。 急減少関数は絶対可積分関数であるため、絶対可積分関数としてのフーリエ変換が定義されるが、急減少関数のフーリエ変換は急減少関数になるという性質がある。この性質を利用し、次のように超関数のフーリエ変換が定義される。 定義: 急減少関数の列である超関数 { f n ( x ) } n = 1 ∞ {\displaystyle \{f_{n}(x)\}_{n=1}^{\infty }} のフーリエ変換は、急減少関数の列 { ∫ − ∞ ∞ f n ( x ) e − 2 π i x ξ d x } n = 1 ∞ {\displaystyle \{\int _{-\infty }^{\infty }f_{n}(x)e^{-2\pi ix\xi }dx\}_{n=1}^{\infty }} からなる超関数と定義される。 この節の記載は、フーリエ変換の「動機」についてのものであるが、フーリエ変換の理解に必須のものではなく、むしろ理解を妨げる要因(数学的に不正確な内容を含む)もあるため、注意が必要である。フーリエ変換についてのイメージを掴むには有用であるが、この節の理解に拘泥するとむしろ本質的な理解が阻害されることになる。 フーリエ変換を考える動機はフーリエ級数の研究に始まる。フーリエ級数の研究において、複雑な周期関数は単純な波動の数学的な表現である正弦関数や余弦関数の和として表される。正弦や余弦の性質のおかげで、この和に現れる各波の量、フーリエ係数を積分によって計算することができる。 多くの場合に、 e 2 π i θ = cos 2 π θ + i sin 2 π θ {\textstyle e^{2\pi i\theta }=\cos {2\pi \theta }+i\sin {2\pi \theta }} (オイラーの公式)を用いて、正弦関数および余弦関数の代りに基本波動 e 2 π i θ {\textstyle e^{2\pi i\theta }} を用いた方が便利である。この場合には多くの公式が簡単化され、本項で後述するフーリエ変換のほかの類似の定式化をあたえるという点に優位性がある。この正弦・余弦から複素指数関数への移行にはフーリエ係数が複素数値であることを要する。この複素数は、関数に含まれる波動の振幅(あるいは大きさ)と、位相(あるいは初期角)の両方を与えているものと通常は解釈される。また、この移行に際して「負の周波数」も導入される。例えば、波動 e 2 π i θ {\textstyle e^{2\pi i\theta }} および e − 2 π i θ {\textstyle e^{-2\pi i\theta }} はともに周期1を持つが、複素フーリエ級数においては別々の成分として取り扱われる。したがって、周波数を単純に周期の逆数と考えることはできなくなる。 フーリエ級数を以下のようにしてフーリエ変換の動機付けに用いることができる。関数 ƒ をある区間 [−L/2, L/2] の外側で 0 となるようなものとすると、任意の T ≥ L に対して ƒ を区間 [−T /2, T /2] 上のフーリエ級数に拡張できる。ここで f のフーリエ級数に現れる波動 e 2 π i n x / T {\textstyle e^{2\pi inx/T}} の係数となる c n {\textstyle c_{n}} で表される「量」は で与えられ、ƒ は公式 で与えられなければならない。ξn = n/T とおき、Δξ = (n + 1)/T − n/T = 1/T とおくと、最後の和をリーマン和 として考えることができる。T → ∞ とすることにより、このリーマン和は定義節で与えられるフーリエ逆変換に収束する。適当な条件の下では、この議論をもっと明確化することができる。したがって、この場合はフーリエ級数だが、フーリエ変換は関数に含まれる個々の特定の周波数がどの程度あるかを測るものと考えることができ、それらの波動を積分(あるいは「連続和」)によって再結合して元の関数を復元することができる。 以下の画像はフーリエ変換が特定の関数に含まれる周波数を測る方法を視覚的に現したものである。関数として、(t が秒で測られる場合には)3 ヘルツで振動し、急速に 0 になる を描く。この関数は特に描画しやすい実フーリエ変換をもつものとして選ばれたものであり、最初の画像はそのグラフである。ˆf(3) を計算するために、eƒ(t) を積分する。二枚目の画像はこの被積分関数の実部および虚部である。被積分関数の実部は殆ど常に正となる。これは ƒ(t) が負であるときには e の実部が同様に負となることによる。それらは同じ比率で振動するから、ƒ(t) が正であるときも同様に e の実部も正になる。 この結果、被積分関数の実部のを積分すれば、比較的大きな数値(ここでの場合 0.5)を得ることになる。 一方、(ˆf(5) を見る場合のように)含まれない周波数を測れば、被積分関数は十分に振動し、それゆえにその積分はとても小さい値となる。一般の設定ではこれよりは少し複雑になるが、それでもフーリエ変換は関数 ƒ(t) に含まれる個々の周波数がどれくらいあるかを測るものという考え方に変わりはない。 実数直線上で定義される関数 f が絶対可積分であるとは、 を満たすルベーグ可測関数であることをいう。 絶対可積分関数 f(x), g(x), h(x) が与えられたとき、これらのフーリエ変換をそれぞれ ˆf(ξ), ˆg(ξ), ˆh(ξ)で表す。フーリエ変換は以下の基本性質を満たす。 絶対可積分関数のフーリエ変換は、常に成り立つというわけではない性質も持っている。絶対可積分関数 ƒ のフーリエ変換は一様連続で を満たす。絶対可積分関数のフーリエ変換は であることを述べたリーマン・ルベーグの補題をも満足する。絶対可積分函数 f のフーリエ変換 ˆf は有界連続だが絶対可積分であるとは限らず、その逆変換をルベーグ積分として書くことは一般にはできない。しかしながら、ƒ および ˆf がともに絶対可積分ならば、反転公式 が殆ど全ての x において成り立つ。つまり、ƒ は右辺で定義される連続関数と殆ど至る所等しい。特に ƒ が実数直線上の連続関数として与えられたならば全ての x において等式が成り立つ。 前述の結果としてわかることは、フーリエ変換が L(R) 上単射であることである。 f(x) および g(x) は絶対可積分であるとし、そのフーリエ変換をそれぞれ ˆf(ξ) および ˆg(ξ) と表す。f(x) および g(x) がともに自乗絶対可積分であるならばパーセバルの定理 が成立する。ここで上付きバーは複素共役を表す。 パーセバルの定理と同値なプランシュレルの定理によれば が成立する。プランシュレルの定理により、L(R) に属する関数の後述する意味でのフーリエ変換を定義することが可能になる。プランシュレルの定理は、フーリエ変換はもとの量のエネルギーを保存するという自然科学における解釈を持つ。著者によってはこれらの定理のどちらともをプランシュレルの定理あるいはパーセバルの定理と呼んでいる場合があるので注意を要する。 局所コンパクトアーベル群に関する文脈におけるフーリエ変換の概念の一般の定式化についてはポントリャーギン双対の項を参照されたい。 一般的に言って、f(x) が凝縮されればされるほどそのフーリエ変換 ˆf はより拡散される。特に、フーリエ変換のスケール性からわかることとして、関数を x において「圧搾」するならば、そのフーリエ変換は ξ において「伸展」される。したがって、関数とそのフーリエ変換の両方ともを勝手に凝縮させることはできない。 関数とそのフーリエ変換のコンパクト化のあいだの得失評価は不確定性関係の形で定式化することができる。ƒ(x) は絶対可積分かつ自乗絶対可積分であると仮定する。一般性を失うことなく関数 ƒ(x) は に正規化されているものと仮定してよい。このとき、プランシュレルの定理により ˆf(ξ) も同様に正規化される。 x = 0 の周りでの拡散を で定義される「0 の周りでの分散」(dispersion about zero) によって測ることにする。確率の言葉で言えば、これは |f(x)| の 0 の周りでの二次のモーメントである。 このとき不確定性原理は、関数 ƒ(x) が絶対連続で、関数 x·ƒ(x) および ƒ′(x) が自乗絶対可積分であるならば が成り立つことを述べる。等式が成立するのは したがって、 である場合に限る。ただし、定数 σ > 0 は任意であり、係数 C1 は ƒ を L-正規化する定数である。言い換えれば、 ƒ は 0 を中心に持つ(正規化)ガウス関数のとき等号が成り立つ。 事実として、この不等式は任意の x0, ξ0 ∈ R について が成立することをも含む。 量子力学において、運動量と位置の波動関数は(プランク定数を因子に持つ)フーリエ変換対である。プランク定数でスケールしなおせば、上述の不等式はロバートソンの不確定性関係を記述する。これは、ハイゼンベルグが構想した不確定性原理そのものではないが、深い関係がある。 ポアソン和公式はフーリエ変換とフーリエ級数の間の関連性を提供する。絶対可積分関数 ƒ ∈ L(R) が与えられたとき、ƒ の周期化が によって与えられる。このとき、ポアソン和公式は f のフーリエ級数を ƒ のフーリエ変換に結びつけるもので、特に f のフーリエ級数は で与えられることを述べるものである。ポアソン和公式を用いて、大きな次元のユークリッド球面における格子点の数に対するランダウの漸近公式を導出することができる。また、絶対可積分函数 f と ˆf がともにコンパクト台を持つならば ƒ = 0 を示すこともできる。 フーリエ変換は、関数の畳み込みと関数の(点毎の)積とを相互に変換する。ƒ(x) および g(x) が絶対可積分関数であるとし、そのフーリエ変換をそれぞれ ˆf(ξ) および ˆg(ξ) で表す。さらに ƒ と g との畳み込みが存在して絶対絶対可積分であるならば、この畳み込みのフーリエ変換はフーリエ変換 ˆf(ξ) と ˆg(ξ) との積で与えられる(ただし、フーリエ変換の定義の仕方によっては定数因子が現れる場合もある)。 これを式で表せば、∗ を畳み込みとして と表されるとき、 が成立することを意味する。線型時不変 (LTI) 系理論において、f(x) を単位インパルスで置き換えたものが h(x) = g(x) を与えることから、通例 g(x) は、入力 ƒ(x) と出力 h(x) に関する LTI 系のインパルス応答として解釈される。この場合、ˆg(ξ) はこの系の周波数応答を表す。 逆に、ƒ(x) がふたつの自乗絶対可積分函数 p(x) および q(x) の積に分解されるならば、 ƒ(x) のフーリエ変換は、各因子のフーリエ変換 ˆp(ξ) および ˆq(ξ) の畳み込みで与えられる。 同様の方法で、h(x) が ƒ(x) と g(x) との相互相関 であるならば h(x) のフーリエ変換が で与えられることが示される。 L(R) の正規直交基底の重要な一つはエルミート函数系 で与えられる。ここで Hn(x) は「確率論者の」エルミート多項式と呼ばれる、 H n ( x ) := ( − 1 ) n e x 2 / 2 D n e − x 2 / 2 {\displaystyle H_{n}(x):=(-1)^{n}e^{x^{2}/2}D^{n}e^{-x^{2}/2}} で定義される関数である。この規約の下、フーリエ変換は で与えられる。言い換えれば、エルミート関数系は L(R) 上のフーリエ変換の固有関数からなる完全正規直交系を成す。しかしながら、この固有関数系の選び方は一意ではなく、フーリエ変換の相異なる固有値は {±1, ±i} の 4 つしかなく、同じ固有値に属する固有関数の任意の線型結合はふたたび固有関数になる。この結果として L(R) を 4 つの空間 H0, H1, H2, H3 で、フーリエ変換が Hk 上で単に i-倍として作用するものの直和に分解することができる。この方法によるフーリエ変換の定義はウィーナーによる。エルミート関数を選ぶのが便利なのは、それらが周波数域と時間域の両方で指数関数的に局在することと、それゆえに時間周波数解析において用いられる非整数次フーリエ変換が得られることにある 。 A k {\displaystyle {\mathcal {A}}_{k}} で次数 k の斉次調和多項式全体の成す集合を表す。集合 A k {\displaystyle {\mathcal {A}}_{k}} は体球面調和関数系(英語版)として知られる。高次元において体球面調和関数系はエルミート多項式と同様の役割を演じる。具体的には、 A k {\displaystyle {\mathcal {A}}_{k}} の適当な P(x) に対し、f(x) = eP(x) のフーリエ変換は で与えられる。集合 H k {\displaystyle {\mathcal {H}}_{k}} を f(|x|)P(x) (P(x) ∈ A k {\displaystyle {\mathcal {A}}_{k}} ) の形の関数から作られる線型結合全体の成す集合の L(R) における閉包とする。このとき、空間 L(R) は空間 H k {\displaystyle {\mathcal {H}}_{k}} の直和に分解され、フーリエ変換は各空間 H k {\displaystyle {\mathcal {H}}_{k}} をそれ自身に移す。また、各空間 H k {\displaystyle {\mathcal {H}}_{k}} へのフーリエ変換の作用を特徴付けることができる。ƒ(x) = ƒ0(|x|)P(x) (P(x) ∈ A k {\displaystyle {\mathcal {A}}_{k}} ) と表される関数のフーリエ変換は となる。ただし、 であり、J(n + 2k − 2)/2 は次数 (n + 2k − 2)/2 の第一種ベッセル関数である。k = 0 のとき、これは動径関数のフーリエ変換に対する有用な公式を与える。 フーリエ変換の定義を他の函数空間に対するものへ拡張することができる。コンパクト台を持つ滑らかな函数は絶対可積分で、その全体は L(R) において稠密であるから、プランシュレルの定理を用いて、L(R) の一般の函数にまで(コンパクト台をもつ滑らかな函数によって近似して)フーリエ変換の定義を拡張することができる。さらに はユニタリ作用素である。フーリエ変換の多くの性質はこの場合にもそのまま成立する。ハウスドルフ・ヤング不等式を用いて 1 ≤ p ≤ 2 に対する L(R) の函数を含むようにフーリエ変換の定義を拡張することができる。 だが、さらなる拡張はもっと技巧的である。2 < p < ∞ の範囲でのL に属する函数のフーリエ変換には超函数の研究が必要である。事実として、p > 2 に関する L に属する函数のフーリエ変換は函数としては定義できないことを示すことができる 。 フーリエ変換は勝手な次元 n において考えることができる。1-次元の場合と同様にさまざまな流儀があるが、本項では絶対可積分函数 ƒ(x) に対して、 をフーリエ変換の定義とする。ここで、x および ξ は n-次元ベクトルであり、x · ξ はベクトルの点乗積である。点乗積はしばしば <x, ξ> とも書き表される。 プランシュレルの定理やパーセバルの定理がそうであるように、上述の基本性質は n-次元フーリエ変換においても成立する。函数が絶対可積分であるとき、フーリエ変換はやはり一様連続であり、リーマン・ルベーグの補題が成立する。 より高い次元ではフーリエ変換の制限問題の研究が興味深いものになる。絶対可積分函数のフーリエ変換は連続で、この函数の任意の集合への制限が定義される。しかし自乗絶対可積分函数のフーリエ変換は自乗絶対可積分函数の一般の類を成す。そのような L(R)-函数のフーリエ変換の制限は測度 0 の集合上では定義することができない。1 ≤ p ≤ 2 に対する L における制限問題の理解はいまだ活発な研究の行われる領域である。驚くべきことに、集合 S の曲率が非零であるようないくつかの場合には、フーリエ変換の S への制限を定義することができる。S が R における単位球面であるときが特に興味深い。この場合に、トマス-ステインの制限定理によれば、フーリエ変換の R における単位球面への制限は 1 ≤ p ≤ (2n + 2)/(n + 3) に対する L 上で有界作用素である。 1-次元の場合と多次元の場合とで、フーリエ変換の大きな違いは部分和作用素に関係する。与えられた絶対可積分函数 ƒ に対し で定義される函数 ƒR を考える。さらに ƒ が L(R) に属すると仮定する。n = 1 で 1 < p < ∞ とし、SR = (−R, R) と置くと、ヒルベルト変換の有界性から ƒR は R を無限大に飛ばす極限で ƒ に L 内で収束する。素朴に n > 1 の場合にも同様であることを期待するかもしれない。SR を一辺の長さが R の立方体とするならば、確かに部分和作用素はもとの函数に収束する。別の自然な候補としてユークリッド球体 SR = {ξ : |ξ| < R} をとると、部分和作用素が収束するためには単位球体に対するマルチプライヤーが L(R) において有界である必要がある。n ≥ 2 に対しては、単位球体に対するマルチプライヤーは p = 2 でない限り有界にはならないというよく知られたチャールズ・フェファーマンの定理がある。事実として、p ≠ 2 のときには ƒR が ƒ に L 内で収束しないだけではなく、函数 ƒ ∈ L(R) であっても ƒR が L の元でさえないようなものまでが存在する。 R 上の有限ボレル測度 μ のフーリエ変換は によって与えられる。この変換は絶対可積分函数のフーリエ変換がもつ多くの性質を引き続き満足する。大きな違いの一つに、測度に関してリーマン・ルベーグの補題が成り立たないことが挙げられる。dμ = ƒ(x)dx の場合には上述の定義式を f の通常のフーリエ変換の定義に簡約化することができる。 このフーリエ変換を用いて連続測度の特徴づけを与えることができる。ボホナーの定理(英語版)はそのような函数を測度のフーリエ・スティルチェス変換として得られるものとして特徴付ける。 さらに言えば、ディラックのデルタ函数は函数ではないが有限ボレル測度であり、そのフーリエ変換は定数函数となる(特殊値は用いるフーリエ変換の形に依存する)。 フーリエ変換はシュワルツ函数全体の成す空間(シュワルツ空間)をそれ自身に移す同相写像を与える。これにより、緩増加超函数のフーリエ変換を定義することができる。これには上述の絶対可積分函数が全て含まれ、それに加えて緩増加超函数のフーリエ変換がふたたび緩増加超函数となるという利点がある。 超函数のフーリエ変換を定義するいくつかの動機は、以下のふたつの事実に由来する。ひとつめは、ƒ と g が絶対可積分函数でそのフーリエ変換をそれぞれ ˆf, ˆg とするとき、フーリエ変換は乗法公式 に従うこと。ふたつめは、任意の絶対可積分函数 ƒ は、任意のシュワルツ函数 φ に対して を満たすという条件によって超函数 Tƒ を定めることである。これらの事実により、与えられた超函数 T に対してそのフーリエ変換を、任意のシュワルツ函数 φ に対して なる関係式によって定義する。これは ˆTf = Tf^ から従う。 超函数は微分可能であり、緩増加超函数のフーリエ変換と微分および畳み込みとはやはり上述の意味で両立する。 フーリエ変換を任意の局所コンパクトアーベル群に対して一般化することができる。局所コンパクトアーベル群とは、抽象アーベル群であると同時に局所コンパクトなハウスドルフ空間であって、なおかつその位相に関して群演算が連続となるものである。G が局所コンパクトアーベル群ならば、G はハール測度と呼ばれる平行移動不変な測度 μ を持つ。また、局所コンパクトアーベル群 G に対して、その位相を指標全体の成す集合 ˆG へ移行することができて、ˆG 自身も局所コンパクトアーベル群の構造を持つ。L(G) に属する函数 f に対して、そのフーリエ変換を によって定義することができる。 この一般化を概周期函数に適用した理論や、準周期函数に適用した理論が知られている。 フーリエ変換および近い関係にあるラプラス変換は微分方程式の解法において広く用いられる。f(x) を可微分函数で、そのフーリエ変換を ˆf(ξ) とすると、導函数のフーリエ変換が 2πiξˆf(ξ) で与えられるという意味でフーリエ変換と微分作用素は両立する。このことを用いて微分方程式を代数方程式に変換することができる。ただし、この手法は定義域が実数全体である場合にしか適用できないことに注意が必要である。これを拡張して、定義域が R であるような多変数函数に関する偏微分方程式を代数方程式に書き換えることもできる。 フーリエ変換を可能な限り最も一般な定義域上で考えることが望ましいことも多々ある。フーリエ変換を積分として定義すれば、定義域は絶対可積分函数全体の成す空間に自然に制限されてしまうが、不幸にして絶対可積分函数のフーリエ変換として得られる函数の簡単な特徴づけは知られていない。フーリエ変換の定義域の拡張は上述のようにいくつかの方法を用いて行うことができる。以下いくつか、フーリエ変換の定義されるより広範な定義域と領域について詳細を述べる。 フーリエ変換の記法として ˆf(ξ) 以外によく用いられるものに などがある。あるいはもっと他の記号を使うことも在りうる。たとえば、(f(x) と F(ξ) のように)もとの函数を表している文字の対応する大文字を用いてそのフーリエ変換を表すことは自然科学や工学においてとくによく用いられる記法である。 複素函数 ˆf(ξ) は、極座標に関してこれを表示することにより、振幅 および位相 と呼ばれるふたつの実函数 A(ξ) および φ(ξ) を用いて なる形に解釈することができる。 このとき逆変換は ƒ(x) の周波数成分すべての再結合として と書くことができる。各成分は振幅が A(ξ) で(x = 0 における)初期位相角が φ(ξ) であるような e のかたちの複素正弦曲線である。 フーリエ変換は函数空間の間の写像として考えることもできる。この写像はここでは F {\displaystyle {\mathcal {F}}} で表し、函数 f のフーリエ変換には F ( f ) {\displaystyle {\mathcal {F}}(f)} が用いられる。この写像 F {\displaystyle {\mathcal {F}}} は函数空間上の線型変換とみることができ、それによって F ( f ) {\displaystyle {\mathcal {F}}(f)} と書く代わりに、ベクトル(ここでは函数 f)の線型変換を表す線型代数学の標準的な記法で F f {\displaystyle {\mathcal {F}}f} と書くこともできる。函数にフーリエ変換を施した結果は再び函数となるから、この新たな函数の ξ における値というものには意味があり、それを F ( f ) ( ξ ) {\displaystyle {\mathcal {F}}(f)(\xi )} あるいは ( F f ) ( ξ ) {\displaystyle ({\mathcal {F}}f)(\xi )} などと表す。前者の場合には F {\displaystyle {\mathcal {F}}} はまず f に施されて、その後に得られた函数の ξ における値が評価されるものと暗黙に理解されているということに注意しなければならない。 数学や多くの応用科学において、函数 f それ自身と函数 f の変数 x における値 f(x) とを峻別しなければならないことがしばしばある。このことが意味するのは、たとえば F ( f ( x ) ) {\displaystyle {\mathcal {F}}(f(x))} のような記法は、形式的には f の x における「値」のフーリエ変換と解釈できてしまうということである。このような不具合にもかかわらず、特定の函数あるいは特定の変数の函数を頻繁に変換しなければならないような場合には、このような記法はよく用いられる。たとえば は矩形函数のフーリエ変換が sinc-函数であることを表すために用いられることがあり、またたとえば はフーリエ変換のシフト性を表すのに用いられることがある。最後の例は、変換される函数 f をx0 のではなく x の函数であるという前提のもとでのみ正しいということに注意を要する。 フーリエ変換の定義として慣習的によく用いられるものが3個ある。しばしば、フーリエ変換を毎秒ラジアンを単位とする角周波数 ω = 2πξ を用いて表す。ξ = ω/(2π) と置き換えれば、上述の定義式はこの規約の下 と書くことができ、また同じくこの規約の下で逆変換は となる。本項における定義とは異なり、この規約によって定義されるフーリエ変換はもはや L(R) 上の変換としてユニタリではなく、フーリエ変換と逆変換との間の対称性も失われている。 他によく用いられる流儀は (2π) の因子をフーリエ変換とその逆変換の間で均等に分割するもので、 という定義が導かれる。この規約のもとでは、フーリエ変換はふたたび L(R) 上のユニタリ変換となり、また フーリエ変換と逆変換の間の対称性も回復することができる。 これら三種類の定義はどれも、順変換逆変換ともに複素指数函数的な積分核を結びつけることによって形成されている。順変換と逆変換で肩に付く符合は反対でなければならないが、どちらがどちらの符号を持つべきであるかという選択は、やはり定義の仕方によるということになる。 以下にフーリエ変換の閉じた表示に関する表を掲げる(フーリエ変換はよく用いられる三種類を挙げてある)。函数 ƒ(x) , g(x), h(x) に対して、それらのフーリエ変換をそれぞれ ˆf, ˆg, ˆh で表す。 以下の表におけるフーリエ変換は (Erdélyi 1954) あるいは (Kammler 2000) の付録に見つけることができる。 以下の表におけるフーリエ変換は (Campbell & Foster 1948), (Erdélyi 1954) あるいは (Kammler 2000) の付録に見つけることができる。 以下の表におけるフーリエ変換は (Erdélyi 1954) あるいは (Kammler 2000) の付録に見つけることができる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "数学においてフーリエ変換(フーリエへんかん、英: Fourier transform、FT)は、実変数の複素または実数値関数 f {\\displaystyle f} を、別の同種の関数ˆfに写す変換である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "工学においては、変換後の関数ˆfはもとの関数 f {\\displaystyle f} に含まれる周波数を記述していると考え、しばしばもとの関数 f {\\displaystyle f} の周波数領域表現 (frequency domain representation) と呼ばれる。言い換えれば、フーリエ変換は関数 f {\\displaystyle f} を正弦波・余弦波に分解するとも言える。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "フーリエ変換 (FT) は他の多くの数学的な演算と同様にフーリエ解析の主題を成す。特別の場合として、もとの関数とその周波領域表現が連続かつ非有界である場合を考えることができる。「フーリエ変換」という言葉は関数の周波数領域表現のことを指すこともあるし、関数を周波数領域表現へ写す変換の過程・公式を言うこともある。なおこの呼称は、19世紀フランスの数学者・物理学者で次元解析の創始者とされるジョゼフ・フーリエに由来する。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "絶対可積分関数 f: R → C のフーリエ変換の定義として、よく用いられるものにもいくつか異なる流儀がある。本項では", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "f ^ ( ξ ) := ∫ − ∞ ∞ f ( x ) e − 2 π i x ξ d x {\\displaystyle {\\hat {f}}(\\xi ):=\\int _{-\\infty }^{\\infty }f(x)e^{-2\\pi ix\\xi }\\,dx}", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "を定義として用いる。ここでギリシャ文字小文字の ξ は任意の実数である。(他の流儀による定義については後述 → #その他の定義)", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "対象の関数における独立変数が物理量の場合、フーリエ変換は独立変数の次元をもとの逆数に移す。例えば、変換前の関数における独立変数 x が時間の次元をもつとき、変換後の独立変数 ξ は周波数の次元を持つ。あるいは、変換前の独立変数 x が長さの次元をもつとき、変換後の独立変数 ξ は波数の次元を持つ。この性質は定義より x ξ が無次元量であることから従う。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "適当な条件のもと、f はその変換 ˆf からフーリエ逆変換 (inverse transform)", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "f ( x ) := ∫ − ∞ ∞ f ^ ( ξ ) e 2 π i x ξ d ξ {\\displaystyle f(x):=\\int _{-\\infty }^{\\infty }{\\hat {f}}(\\xi )e^{2\\pi ix\\xi }\\,d\\xi }", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "によって復元することができる(x は任意の実数)。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "上記の絶対可積分関数の定義では、次のような関数は ∫ − ∞ ∞ | f ( x ) | d x = ∞ {\\displaystyle \\int _{-\\infty }^{\\infty }|f(x)|dx=\\infty } のため絶対可積分ではなく、フーリエ変換が定義できない。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "このように、周期関数のようなフーリエ級数展開が可能な関数が、絶対可積分関数の意味でフーリエ変換できないことは非常に不便であり、またフーリエ変換の理解を難しくしている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "そこで、フーリエ変換の定義を超関数に拡張することが行われる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "超関数とは、急減少関数(シュワルツ空間の元である関数)の列 { f n ( x ) } n = 1 ∞ {\\displaystyle \\{f_{n}(x)\\}_{n=1}^{\\infty }} であって、任意の急減少関数 φ ( x ) {\\displaystyle \\phi (x)} について lim n → ∞ ∫ − ∞ ∞ f n ( x ) φ ( x ) d x {\\displaystyle \\lim _{n\\to \\infty }\\int _{-\\infty }^{\\infty }f_{n}(x)\\phi (x)dx} が存在するものを言い、 2つの急減少関数の列 { f n ( x ) } n = 1 ∞ {\\displaystyle \\{f_{n}(x)\\}_{n=1}^{\\infty }} 、 { g n ( x ) } n = 1 ∞ {\\displaystyle \\{g_{n}(x)\\}_{n=1}^{\\infty }} が、任意の急減少関数 φ ( x ) {\\displaystyle \\phi (x)} について lim n → ∞ ∫ − ∞ ∞ f n ( x ) φ ( x ) d x = lim n → ∞ ∫ − ∞ ∞ g n ( x ) φ ( x ) d x {\\displaystyle \\lim _{n\\to \\infty }\\int _{-\\infty }^{\\infty }f_{n}(x)\\phi (x)dx=\\lim _{n\\to \\infty }\\int _{-\\infty }^{\\infty }g_{n}(x)\\phi (x)dx} が成り立つとき、 { f n ( x ) } {\\displaystyle \\{f_{n}(x)\\}} と { g n ( x ) } {\\displaystyle \\{g_{n}(x)\\}} は同一の超関数を表すものとする。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "イメージとしては、超関数は関数列の極限であるが、関数列自体が超関数であり、 lim n → ∞ f n ( x ) {\\displaystyle \\lim _{n\\to \\infty }f_{n}(x)} が収束値を持つ必要はない。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "急減少関数は絶対可積分関数であるため、絶対可積分関数としてのフーリエ変換が定義されるが、急減少関数のフーリエ変換は急減少関数になるという性質がある。この性質を利用し、次のように超関数のフーリエ変換が定義される。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "定義: 急減少関数の列である超関数 { f n ( x ) } n = 1 ∞ {\\displaystyle \\{f_{n}(x)\\}_{n=1}^{\\infty }} のフーリエ変換は、急減少関数の列 { ∫ − ∞ ∞ f n ( x ) e − 2 π i x ξ d x } n = 1 ∞ {\\displaystyle \\{\\int _{-\\infty }^{\\infty }f_{n}(x)e^{-2\\pi ix\\xi }dx\\}_{n=1}^{\\infty }} からなる超関数と定義される。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "この節の記載は、フーリエ変換の「動機」についてのものであるが、フーリエ変換の理解に必須のものではなく、むしろ理解を妨げる要因(数学的に不正確な内容を含む)もあるため、注意が必要である。フーリエ変換についてのイメージを掴むには有用であるが、この節の理解に拘泥するとむしろ本質的な理解が阻害されることになる。", "title": "導入" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "フーリエ変換を考える動機はフーリエ級数の研究に始まる。フーリエ級数の研究において、複雑な周期関数は単純な波動の数学的な表現である正弦関数や余弦関数の和として表される。正弦や余弦の性質のおかげで、この和に現れる各波の量、フーリエ係数を積分によって計算することができる。", "title": "導入" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "多くの場合に、 e 2 π i θ = cos 2 π θ + i sin 2 π θ {\\textstyle e^{2\\pi i\\theta }=\\cos {2\\pi \\theta }+i\\sin {2\\pi \\theta }} (オイラーの公式)を用いて、正弦関数および余弦関数の代りに基本波動 e 2 π i θ {\\textstyle e^{2\\pi i\\theta }} を用いた方が便利である。この場合には多くの公式が簡単化され、本項で後述するフーリエ変換のほかの類似の定式化をあたえるという点に優位性がある。この正弦・余弦から複素指数関数への移行にはフーリエ係数が複素数値であることを要する。この複素数は、関数に含まれる波動の振幅(あるいは大きさ)と、位相(あるいは初期角)の両方を与えているものと通常は解釈される。また、この移行に際して「負の周波数」も導入される。例えば、波動 e 2 π i θ {\\textstyle e^{2\\pi i\\theta }} および e − 2 π i θ {\\textstyle e^{-2\\pi i\\theta }} はともに周期1を持つが、複素フーリエ級数においては別々の成分として取り扱われる。したがって、周波数を単純に周期の逆数と考えることはできなくなる。", "title": "導入" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "フーリエ級数を以下のようにしてフーリエ変換の動機付けに用いることができる。関数 ƒ をある区間 [−L/2, L/2] の外側で 0 となるようなものとすると、任意の T ≥ L に対して ƒ を区間 [−T /2, T /2] 上のフーリエ級数に拡張できる。ここで f のフーリエ級数に現れる波動 e 2 π i n x / T {\\textstyle e^{2\\pi inx/T}} の係数となる c n {\\textstyle c_{n}} で表される「量」は", "title": "導入" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "で与えられ、ƒ は公式", "title": "導入" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "で与えられなければならない。ξn = n/T とおき、Δξ = (n + 1)/T − n/T = 1/T とおくと、最後の和をリーマン和", "title": "導入" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "として考えることができる。T → ∞ とすることにより、このリーマン和は定義節で与えられるフーリエ逆変換に収束する。適当な条件の下では、この議論をもっと明確化することができる。したがって、この場合はフーリエ級数だが、フーリエ変換は関数に含まれる個々の特定の周波数がどの程度あるかを測るものと考えることができ、それらの波動を積分(あるいは「連続和」)によって再結合して元の関数を復元することができる。", "title": "導入" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "以下の画像はフーリエ変換が特定の関数に含まれる周波数を測る方法を視覚的に現したものである。関数として、(t が秒で測られる場合には)3 ヘルツで振動し、急速に 0 になる", "title": "導入" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "を描く。この関数は特に描画しやすい実フーリエ変換をもつものとして選ばれたものであり、最初の画像はそのグラフである。ˆf(3) を計算するために、eƒ(t) を積分する。二枚目の画像はこの被積分関数の実部および虚部である。被積分関数の実部は殆ど常に正となる。これは ƒ(t) が負であるときには e の実部が同様に負となることによる。それらは同じ比率で振動するから、ƒ(t) が正であるときも同様に e の実部も正になる。", "title": "導入" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "この結果、被積分関数の実部のを積分すれば、比較的大きな数値(ここでの場合 0.5)を得ることになる。", "title": "導入" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "一方、(ˆf(5) を見る場合のように)含まれない周波数を測れば、被積分関数は十分に振動し、それゆえにその積分はとても小さい値となる。一般の設定ではこれよりは少し複雑になるが、それでもフーリエ変換は関数 ƒ(t) に含まれる個々の周波数がどれくらいあるかを測るものという考え方に変わりはない。", "title": "導入" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "実数直線上で定義される関数 f が絶対可積分であるとは、", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "を満たすルベーグ可測関数であることをいう。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "絶対可積分関数 f(x), g(x), h(x) が与えられたとき、これらのフーリエ変換をそれぞれ ˆf(ξ), ˆg(ξ), ˆh(ξ)で表す。フーリエ変換は以下の基本性質を満たす。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "絶対可積分関数のフーリエ変換は、常に成り立つというわけではない性質も持っている。絶対可積分関数 ƒ のフーリエ変換は一様連続で", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "を満たす。絶対可積分関数のフーリエ変換は", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "であることを述べたリーマン・ルベーグの補題をも満足する。絶対可積分函数 f のフーリエ変換 ˆf は有界連続だが絶対可積分であるとは限らず、その逆変換をルベーグ積分として書くことは一般にはできない。しかしながら、ƒ および ˆf がともに絶対可積分ならば、反転公式", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "が殆ど全ての x において成り立つ。つまり、ƒ は右辺で定義される連続関数と殆ど至る所等しい。特に ƒ が実数直線上の連続関数として与えられたならば全ての x において等式が成り立つ。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "前述の結果としてわかることは、フーリエ変換が L(R) 上単射であることである。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "f(x) および g(x) は絶対可積分であるとし、そのフーリエ変換をそれぞれ ˆf(ξ) および ˆg(ξ) と表す。f(x) および g(x) がともに自乗絶対可積分であるならばパーセバルの定理", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "が成立する。ここで上付きバーは複素共役を表す。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "パーセバルの定理と同値なプランシュレルの定理によれば", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "が成立する。プランシュレルの定理により、L(R) に属する関数の後述する意味でのフーリエ変換を定義することが可能になる。プランシュレルの定理は、フーリエ変換はもとの量のエネルギーを保存するという自然科学における解釈を持つ。著者によってはこれらの定理のどちらともをプランシュレルの定理あるいはパーセバルの定理と呼んでいる場合があるので注意を要する。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "局所コンパクトアーベル群に関する文脈におけるフーリエ変換の概念の一般の定式化についてはポントリャーギン双対の項を参照されたい。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "一般的に言って、f(x) が凝縮されればされるほどそのフーリエ変換 ˆf はより拡散される。特に、フーリエ変換のスケール性からわかることとして、関数を x において「圧搾」するならば、そのフーリエ変換は ξ において「伸展」される。したがって、関数とそのフーリエ変換の両方ともを勝手に凝縮させることはできない。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "関数とそのフーリエ変換のコンパクト化のあいだの得失評価は不確定性関係の形で定式化することができる。ƒ(x) は絶対可積分かつ自乗絶対可積分であると仮定する。一般性を失うことなく関数 ƒ(x) は", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "に正規化されているものと仮定してよい。このとき、プランシュレルの定理により ˆf(ξ) も同様に正規化される。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "x = 0 の周りでの拡散を", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "で定義される「0 の周りでの分散」(dispersion about zero) によって測ることにする。確率の言葉で言えば、これは |f(x)| の 0 の周りでの二次のモーメントである。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "このとき不確定性原理は、関数 ƒ(x) が絶対連続で、関数 x·ƒ(x) および ƒ′(x) が自乗絶対可積分であるならば", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "が成り立つことを述べる。等式が成立するのは", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "したがって、", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "である場合に限る。ただし、定数 σ > 0 は任意であり、係数 C1 は ƒ を L-正規化する定数である。言い換えれば、 ƒ は 0 を中心に持つ(正規化)ガウス関数のとき等号が成り立つ。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "事実として、この不等式は任意の x0, ξ0 ∈ R について", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "が成立することをも含む。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "量子力学において、運動量と位置の波動関数は(プランク定数を因子に持つ)フーリエ変換対である。プランク定数でスケールしなおせば、上述の不等式はロバートソンの不確定性関係を記述する。これは、ハイゼンベルグが構想した不確定性原理そのものではないが、深い関係がある。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ポアソン和公式はフーリエ変換とフーリエ級数の間の関連性を提供する。絶対可積分関数 ƒ ∈ L(R) が与えられたとき、ƒ の周期化が", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "によって与えられる。このとき、ポアソン和公式は f のフーリエ級数を ƒ のフーリエ変換に結びつけるもので、特に f のフーリエ級数は", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "で与えられることを述べるものである。ポアソン和公式を用いて、大きな次元のユークリッド球面における格子点の数に対するランダウの漸近公式を導出することができる。また、絶対可積分函数 f と ˆf がともにコンパクト台を持つならば ƒ = 0 を示すこともできる。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "フーリエ変換は、関数の畳み込みと関数の(点毎の)積とを相互に変換する。ƒ(x) および g(x) が絶対可積分関数であるとし、そのフーリエ変換をそれぞれ ˆf(ξ) および ˆg(ξ) で表す。さらに ƒ と g との畳み込みが存在して絶対絶対可積分であるならば、この畳み込みのフーリエ変換はフーリエ変換 ˆf(ξ) と ˆg(ξ) との積で与えられる(ただし、フーリエ変換の定義の仕方によっては定数因子が現れる場合もある)。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "これを式で表せば、∗ を畳み込みとして", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "と表されるとき、", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "が成立することを意味する。線型時不変 (LTI) 系理論において、f(x) を単位インパルスで置き換えたものが h(x) = g(x) を与えることから、通例 g(x) は、入力 ƒ(x) と出力 h(x) に関する LTI 系のインパルス応答として解釈される。この場合、ˆg(ξ) はこの系の周波数応答を表す。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "逆に、ƒ(x) がふたつの自乗絶対可積分函数 p(x) および q(x) の積に分解されるならば、 ƒ(x) のフーリエ変換は、各因子のフーリエ変換 ˆp(ξ) および ˆq(ξ) の畳み込みで与えられる。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "同様の方法で、h(x) が ƒ(x) と g(x) との相互相関", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "であるならば h(x) のフーリエ変換が", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "で与えられることが示される。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "L(R) の正規直交基底の重要な一つはエルミート函数系", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "で与えられる。ここで Hn(x) は「確率論者の」エルミート多項式と呼ばれる、 H n ( x ) := ( − 1 ) n e x 2 / 2 D n e − x 2 / 2 {\\displaystyle H_{n}(x):=(-1)^{n}e^{x^{2}/2}D^{n}e^{-x^{2}/2}} で定義される関数である。この規約の下、フーリエ変換は", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "で与えられる。言い換えれば、エルミート関数系は L(R) 上のフーリエ変換の固有関数からなる完全正規直交系を成す。しかしながら、この固有関数系の選び方は一意ではなく、フーリエ変換の相異なる固有値は {±1, ±i} の 4 つしかなく、同じ固有値に属する固有関数の任意の線型結合はふたたび固有関数になる。この結果として L(R) を 4 つの空間 H0, H1, H2, H3 で、フーリエ変換が Hk 上で単に i-倍として作用するものの直和に分解することができる。この方法によるフーリエ変換の定義はウィーナーによる。エルミート関数を選ぶのが便利なのは、それらが周波数域と時間域の両方で指数関数的に局在することと、それゆえに時間周波数解析において用いられる非整数次フーリエ変換が得られることにある 。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "A k {\\displaystyle {\\mathcal {A}}_{k}} で次数 k の斉次調和多項式全体の成す集合を表す。集合 A k {\\displaystyle {\\mathcal {A}}_{k}} は体球面調和関数系(英語版)として知られる。高次元において体球面調和関数系はエルミート多項式と同様の役割を演じる。具体的には、 A k {\\displaystyle {\\mathcal {A}}_{k}} の適当な P(x) に対し、f(x) = eP(x) のフーリエ変換は", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "で与えられる。集合 H k {\\displaystyle {\\mathcal {H}}_{k}} を f(|x|)P(x) (P(x) ∈ A k {\\displaystyle {\\mathcal {A}}_{k}} ) の形の関数から作られる線型結合全体の成す集合の L(R) における閉包とする。このとき、空間 L(R) は空間 H k {\\displaystyle {\\mathcal {H}}_{k}} の直和に分解され、フーリエ変換は各空間 H k {\\displaystyle {\\mathcal {H}}_{k}} をそれ自身に移す。また、各空間 H k {\\displaystyle {\\mathcal {H}}_{k}} へのフーリエ変換の作用を特徴付けることができる。ƒ(x) = ƒ0(|x|)P(x) (P(x) ∈ A k {\\displaystyle {\\mathcal {A}}_{k}} ) と表される関数のフーリエ変換は", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "となる。ただし、", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "であり、J(n + 2k − 2)/2 は次数 (n + 2k − 2)/2 の第一種ベッセル関数である。k = 0 のとき、これは動径関数のフーリエ変換に対する有用な公式を与える。", "title": "フーリエ変換の性質" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "フーリエ変換の定義を他の函数空間に対するものへ拡張することができる。コンパクト台を持つ滑らかな函数は絶対可積分で、その全体は L(R) において稠密であるから、プランシュレルの定理を用いて、L(R) の一般の函数にまで(コンパクト台をもつ滑らかな函数によって近似して)フーリエ変換の定義を拡張することができる。さらに", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "はユニタリ作用素である。フーリエ変換の多くの性質はこの場合にもそのまま成立する。ハウスドルフ・ヤング不等式を用いて 1 ≤ p ≤ 2 に対する L(R) の函数を含むようにフーリエ変換の定義を拡張することができる。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "だが、さらなる拡張はもっと技巧的である。2 < p < ∞ の範囲でのL に属する函数のフーリエ変換には超函数の研究が必要である。事実として、p > 2 に関する L に属する函数のフーリエ変換は函数としては定義できないことを示すことができる 。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "フーリエ変換は勝手な次元 n において考えることができる。1-次元の場合と同様にさまざまな流儀があるが、本項では絶対可積分函数 ƒ(x) に対して、", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "をフーリエ変換の定義とする。ここで、x および ξ は n-次元ベクトルであり、x · ξ はベクトルの点乗積である。点乗積はしばしば <x, ξ> とも書き表される。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "プランシュレルの定理やパーセバルの定理がそうであるように、上述の基本性質は n-次元フーリエ変換においても成立する。函数が絶対可積分であるとき、フーリエ変換はやはり一様連続であり、リーマン・ルベーグの補題が成立する。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "より高い次元ではフーリエ変換の制限問題の研究が興味深いものになる。絶対可積分函数のフーリエ変換は連続で、この函数の任意の集合への制限が定義される。しかし自乗絶対可積分函数のフーリエ変換は自乗絶対可積分函数の一般の類を成す。そのような L(R)-函数のフーリエ変換の制限は測度 0 の集合上では定義することができない。1 ≤ p ≤ 2 に対する L における制限問題の理解はいまだ活発な研究の行われる領域である。驚くべきことに、集合 S の曲率が非零であるようないくつかの場合には、フーリエ変換の S への制限を定義することができる。S が R における単位球面であるときが特に興味深い。この場合に、トマス-ステインの制限定理によれば、フーリエ変換の R における単位球面への制限は 1 ≤ p ≤ (2n + 2)/(n + 3) に対する L 上で有界作用素である。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1-次元の場合と多次元の場合とで、フーリエ変換の大きな違いは部分和作用素に関係する。与えられた絶対可積分函数 ƒ に対し", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "で定義される函数 ƒR を考える。さらに ƒ が L(R) に属すると仮定する。n = 1 で 1 < p < ∞ とし、SR = (−R, R) と置くと、ヒルベルト変換の有界性から ƒR は R を無限大に飛ばす極限で ƒ に L 内で収束する。素朴に n > 1 の場合にも同様であることを期待するかもしれない。SR を一辺の長さが R の立方体とするならば、確かに部分和作用素はもとの函数に収束する。別の自然な候補としてユークリッド球体 SR = {ξ : |ξ| < R} をとると、部分和作用素が収束するためには単位球体に対するマルチプライヤーが L(R) において有界である必要がある。n ≥ 2 に対しては、単位球体に対するマルチプライヤーは p = 2 でない限り有界にはならないというよく知られたチャールズ・フェファーマンの定理がある。事実として、p ≠ 2 のときには ƒR が ƒ に L 内で収束しないだけではなく、函数 ƒ ∈ L(R) であっても ƒR が L の元でさえないようなものまでが存在する。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "R 上の有限ボレル測度 μ のフーリエ変換は", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "によって与えられる。この変換は絶対可積分函数のフーリエ変換がもつ多くの性質を引き続き満足する。大きな違いの一つに、測度に関してリーマン・ルベーグの補題が成り立たないことが挙げられる。dμ = ƒ(x)dx の場合には上述の定義式を f の通常のフーリエ変換の定義に簡約化することができる。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "このフーリエ変換を用いて連続測度の特徴づけを与えることができる。ボホナーの定理(英語版)はそのような函数を測度のフーリエ・スティルチェス変換として得られるものとして特徴付ける。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "さらに言えば、ディラックのデルタ函数は函数ではないが有限ボレル測度であり、そのフーリエ変換は定数函数となる(特殊値は用いるフーリエ変換の形に依存する)。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "フーリエ変換はシュワルツ函数全体の成す空間(シュワルツ空間)をそれ自身に移す同相写像を与える。これにより、緩増加超函数のフーリエ変換を定義することができる。これには上述の絶対可積分函数が全て含まれ、それに加えて緩増加超函数のフーリエ変換がふたたび緩増加超函数となるという利点がある。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "超函数のフーリエ変換を定義するいくつかの動機は、以下のふたつの事実に由来する。ひとつめは、ƒ と g が絶対可積分函数でそのフーリエ変換をそれぞれ ˆf, ˆg とするとき、フーリエ変換は乗法公式", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "に従うこと。ふたつめは、任意の絶対可積分函数 ƒ は、任意のシュワルツ函数 φ に対して", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "を満たすという条件によって超函数 Tƒ を定めることである。これらの事実により、与えられた超函数 T に対してそのフーリエ変換を、任意のシュワルツ函数 φ に対して", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "なる関係式によって定義する。これは ˆTf = Tf^ から従う。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "超函数は微分可能であり、緩増加超函数のフーリエ変換と微分および畳み込みとはやはり上述の意味で両立する。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "フーリエ変換を任意の局所コンパクトアーベル群に対して一般化することができる。局所コンパクトアーベル群とは、抽象アーベル群であると同時に局所コンパクトなハウスドルフ空間であって、なおかつその位相に関して群演算が連続となるものである。G が局所コンパクトアーベル群ならば、G はハール測度と呼ばれる平行移動不変な測度 μ を持つ。また、局所コンパクトアーベル群 G に対して、その位相を指標全体の成す集合 ˆG へ移行することができて、ˆG 自身も局所コンパクトアーベル群の構造を持つ。L(G) に属する函数 f に対して、そのフーリエ変換を", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "によって定義することができる。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "この一般化を概周期函数に適用した理論や、準周期函数に適用した理論が知られている。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "フーリエ変換および近い関係にあるラプラス変換は微分方程式の解法において広く用いられる。f(x) を可微分函数で、そのフーリエ変換を ˆf(ξ) とすると、導函数のフーリエ変換が 2πiξˆf(ξ) で与えられるという意味でフーリエ変換と微分作用素は両立する。このことを用いて微分方程式を代数方程式に変換することができる。ただし、この手法は定義域が実数全体である場合にしか適用できないことに注意が必要である。これを拡張して、定義域が R であるような多変数函数に関する偏微分方程式を代数方程式に書き換えることもできる。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "フーリエ変換を可能な限り最も一般な定義域上で考えることが望ましいことも多々ある。フーリエ変換を積分として定義すれば、定義域は絶対可積分函数全体の成す空間に自然に制限されてしまうが、不幸にして絶対可積分函数のフーリエ変換として得られる函数の簡単な特徴づけは知られていない。フーリエ変換の定義域の拡張は上述のようにいくつかの方法を用いて行うことができる。以下いくつか、フーリエ変換の定義されるより広範な定義域と領域について詳細を述べる。", "title": "フーリエ変換の定義域と値域" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "フーリエ変換の記法として ˆf(ξ) 以外によく用いられるものに", "title": "その他の記法" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "などがある。あるいはもっと他の記号を使うことも在りうる。たとえば、(f(x) と F(ξ) のように)もとの函数を表している文字の対応する大文字を用いてそのフーリエ変換を表すことは自然科学や工学においてとくによく用いられる記法である。", "title": "その他の記法" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "複素函数 ˆf(ξ) は、極座標に関してこれを表示することにより、振幅", "title": "その他の記法" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "および位相", "title": "その他の記法" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "と呼ばれるふたつの実函数 A(ξ) および φ(ξ) を用いて", "title": "その他の記法" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "なる形に解釈することができる。", "title": "その他の記法" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "このとき逆変換は ƒ(x) の周波数成分すべての再結合として", "title": "その他の記法" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "と書くことができる。各成分は振幅が A(ξ) で(x = 0 における)初期位相角が φ(ξ) であるような e のかたちの複素正弦曲線である。", "title": "その他の記法" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "フーリエ変換は函数空間の間の写像として考えることもできる。この写像はここでは F {\\displaystyle {\\mathcal {F}}} で表し、函数 f のフーリエ変換には F ( f ) {\\displaystyle {\\mathcal {F}}(f)} が用いられる。この写像 F {\\displaystyle {\\mathcal {F}}} は函数空間上の線型変換とみることができ、それによって F ( f ) {\\displaystyle {\\mathcal {F}}(f)} と書く代わりに、ベクトル(ここでは函数 f)の線型変換を表す線型代数学の標準的な記法で F f {\\displaystyle {\\mathcal {F}}f} と書くこともできる。函数にフーリエ変換を施した結果は再び函数となるから、この新たな函数の ξ における値というものには意味があり、それを F ( f ) ( ξ ) {\\displaystyle {\\mathcal {F}}(f)(\\xi )} あるいは ( F f ) ( ξ ) {\\displaystyle ({\\mathcal {F}}f)(\\xi )} などと表す。前者の場合には F {\\displaystyle {\\mathcal {F}}} はまず f に施されて、その後に得られた函数の ξ における値が評価されるものと暗黙に理解されているということに注意しなければならない。", "title": "その他の記法" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "数学や多くの応用科学において、函数 f それ自身と函数 f の変数 x における値 f(x) とを峻別しなければならないことがしばしばある。このことが意味するのは、たとえば F ( f ( x ) ) {\\displaystyle {\\mathcal {F}}(f(x))} のような記法は、形式的には f の x における「値」のフーリエ変換と解釈できてしまうということである。このような不具合にもかかわらず、特定の函数あるいは特定の変数の函数を頻繁に変換しなければならないような場合には、このような記法はよく用いられる。たとえば", "title": "その他の記法" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "は矩形函数のフーリエ変換が sinc-函数であることを表すために用いられることがあり、またたとえば", "title": "その他の記法" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "はフーリエ変換のシフト性を表すのに用いられることがある。最後の例は、変換される函数 f をx0 のではなく x の函数であるという前提のもとでのみ正しいということに注意を要する。", "title": "その他の記法" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "フーリエ変換の定義として慣習的によく用いられるものが3個ある。しばしば、フーリエ変換を毎秒ラジアンを単位とする角周波数 ω = 2πξ を用いて表す。ξ = ω/(2π) と置き換えれば、上述の定義式はこの規約の下", "title": "その他の定義" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "と書くことができ、また同じくこの規約の下で逆変換は", "title": "その他の定義" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "となる。本項における定義とは異なり、この規約によって定義されるフーリエ変換はもはや L(R) 上の変換としてユニタリではなく、フーリエ変換と逆変換との間の対称性も失われている。", "title": "その他の定義" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "他によく用いられる流儀は (2π) の因子をフーリエ変換とその逆変換の間で均等に分割するもので、", "title": "その他の定義" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "という定義が導かれる。この規約のもとでは、フーリエ変換はふたたび L(R) 上のユニタリ変換となり、また フーリエ変換と逆変換の間の対称性も回復することができる。", "title": "その他の定義" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "これら三種類の定義はどれも、順変換逆変換ともに複素指数函数的な積分核を結びつけることによって形成されている。順変換と逆変換で肩に付く符合は反対でなければならないが、どちらがどちらの符号を持つべきであるかという選択は、やはり定義の仕方によるということになる。", "title": "その他の定義" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "以下にフーリエ変換の閉じた表示に関する表を掲げる(フーリエ変換はよく用いられる三種類を挙げてある)。函数 ƒ(x) , g(x), h(x) に対して、それらのフーリエ変換をそれぞれ ˆf, ˆg, ˆh で表す。", "title": "主なフーリエ変換の一覧" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "以下の表におけるフーリエ変換は (Erdélyi 1954) あるいは (Kammler 2000) の付録に見つけることができる。", "title": "主なフーリエ変換の一覧" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "以下の表におけるフーリエ変換は (Campbell & Foster 1948), (Erdélyi 1954) あるいは (Kammler 2000) の付録に見つけることができる。", "title": "主なフーリエ変換の一覧" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "以下の表におけるフーリエ変換は (Erdélyi 1954) あるいは (Kammler 2000) の付録に見つけることができる。", "title": "主なフーリエ変換の一覧" } ]
数学においてフーリエ変換は、実変数の複素または実数値関数 f を、別の同種の関数ˆfに写す変換である。 工学においては、変換後の関数ˆfはもとの関数 f に含まれる周波数を記述していると考え、しばしばもとの関数 f の周波数領域表現 と呼ばれる。言い換えれば、フーリエ変換は関数 f を正弦波・余弦波に分解するとも言える。 フーリエ変換 (FT) は他の多くの数学的な演算と同様にフーリエ解析の主題を成す。特別の場合として、もとの関数とその周波領域表現が連続かつ非有界である場合を考えることができる。「フーリエ変換」という言葉は関数の周波数領域表現のことを指すこともあるし、関数を周波数領域表現へ写す変換の過程・公式を言うこともある。なおこの呼称は、19世紀フランスの数学者・物理学者で次元解析の創始者とされるジョゼフ・フーリエに由来する。
{{出典の明記|date=2013年2月}} [[File:Fourier unit pulse.svg|thumb|250px|right|上は時間領域で表現された[[矩形関数]]{{math|''f''(''t'')}}(左)と、周波数領域で表現されたそのフーリエ変換{{math|''f̂''(''ω'')}}(右)。{{math|''f̂''(''ω'')}}は[[Sinc関数]]である。下は時間遅れのある矩形関数 {{math|''g''(''t'')}} と、そのフーリエ変換 {{math|''ĝ''(''ω'')}}。 時間領域における[[平行移動]] ([[ディレイ]])は、周波数領域では虚数部の位相シフトとして表現される。]] [[数学]]において'''フーリエ変換'''(フーリエへんかん、{{lang-en-short|Fourier transform}}、FT)は、[[実数|実]][[変数 (数学)|変数]]の[[複素数|複素]]または[[実数|実]]数値[[関数_(数学)|関数]]<math>f</math>を、別の同種の関数{{Math|{{Hat|''f''}}}}に写す[[変換 (数学)|変換]]である。 工学においては、変換後の関数{{Math|{{Hat|''f''}}}}はもとの関数<math>f</math>に含まれる周波数を記述していると考え、しばしばもとの関数<math>f</math>の[[周波数領域]]表現 (''{{en|frequency domain representation}}'') と呼ばれる。言い換えれば、フーリエ変換は関数<math>f</math>を[[正弦波|正弦波・余弦波]]に分解するとも言える。 フーリエ変換 (FT) は他の多くの数学的な演算と同様に[[フーリエ解析]]の主題を成す。特別の場合として、もとの関数とその周波領域表現が[[連続関数|連続]]かつ[[非有界関数|非有界]]である場合を考えることができる。「フーリエ変換」という言葉は関数の周波数領域表現のことを指すこともあるし、関数を周波数領域表現へ写す変換の過程・公式を言うこともある。なおこの呼称は、19世紀フランスの数学者・物理学者で[[次元解析]]の創始者とされる[[ジョゼフ・フーリエ]]に由来する。 == 定義 == === 絶対可積分関数に対する定義 === [[ルベーグ積分|絶対可積分]]関数 {{Math|''f'': '''R''' &rarr; '''C'''}} のフーリエ変換の定義として、よく用いられるものにもいくつか異なる流儀がある{{sfn|Kaiser|1994}}。本項では {{Indent|<math>\hat{f}(\xi) := \int_{-\infty}^{\infty} f(x)e^{- 2\pi i x \xi}\,dx</math>}} を定義として用いる。ここでギリシャ文字小文字の [[Ξ|{{Math|''&xi;''}}]] は任意の実数である。(他の流儀による定義については後述 → [[#その他の定義]]) 対象の関数における独立変数が[[物理量]]の場合、フーリエ変換は独立変数の[[量の次元|次元]]をもとの[[逆数]]に移す。例えば、変換前の関数における独立変数 {{Math|''x''}} が[[時間]]の次元をもつとき、変換後の独立変数 {{Math|''&xi;''}} は[[周波数]]の次元を持つ。あるいは、変換前の独立変数 {{Math|''x''}} が[[長さ]]の次元をもつとき、変換後の独立変数 {{Math|''&xi;''}} は[[波数]]の次元を持つ。この性質は定義より {{Math|''x &xi;''}} が[[無次元量]]であることから従う。 適当な条件のもと、{{Math|''f''}} はその変換 {{Math|{{Hat|''f''}}}} から'''フーリエ逆変換''' {{lang|en|(''inverse transform'')}} {{Indent|<math>f(x) := \int_{-\infty}^{\infty}\hat{f}(\xi)e^{2 \pi i x \xi}\,d\xi</math>}} によって復元することができる({{Math|''x''}} は任意の実数)。 === 超関数としての定義 === 上記の絶対可積分関数の定義では、次のような関数は<math>\int_{-\infty}^{\infty} |f(x)|dx=\infty</math>のため絶対可積分ではなく、フーリエ変換が定義できない。 :・<math>f(x)=c</math>(<math>c</math>はゼロ以外の定数) :・<math>f(x)=x^n</math>(<math>n</math>は自然数) :・周期関数(<math>f(x)=0</math>を除く) このように、周期関数のようなフーリエ級数展開が可能な関数が、絶対可積分関数の意味でフーリエ変換できないことは非常に不便であり、またフーリエ変換の理解を難しくしている。 そこで、フーリエ変換の定義を超関数に拡張することが行われる。 超関数とは、急減少関数([[シュワルツ空間]]の元である関数)の列<math>\{f_n(x)\}_{n=1}^\infty</math>であって、任意の急減少関数<math>\phi(x)</math>について<math>\lim_{n\to\infty}\int_{-\infty}^{\infty}f_n(x)\phi(x)dx</math>が存在するものを言い、 2つの急減少関数の列<math>\{f_n(x)\}_{n=1}^\infty</math>、<math>\{g_n(x)\}_{n=1}^\infty</math>が、任意の急減少関数<math>\phi(x)</math>について<math>\lim_{n\to\infty}\int_{-\infty}^{\infty}f_n(x)\phi(x)dx=\lim_{n\to\infty}\int_{-\infty}^{\infty}g_n(x)\phi(x)dx</math>が成り立つとき、<math>\{f_n(x)\}</math>と<math>\{g_n(x)\}</math>は同一の超関数を表すものとする。 イメージとしては、超関数は関数列の極限であるが、関数列自体が超関数であり、<math>\lim_{n\to\infty}f_n(x)</math>が収束値を持つ必要はない。 急減少関数は絶対可積分関数であるため、絶対可積分関数としてのフーリエ変換が定義されるが、急減少関数のフーリエ変換は急減少関数になるという性質がある。この性質を利用し、次のように超関数のフーリエ変換が定義される。 定義: 急減少関数の列である超関数<math>\{f_n(x)\}_{n=1}^\infty</math>のフーリエ変換は、急減少関数の列<math>\{\int_{-\infty}^{\infty} f_n(x)e^{- 2\pi i x \xi}dx\}_{n=1}^\infty</math>からなる超関数と定義される。 :・<math>f(x)=c</math>(<math>c</math>はゼロ以外の定数)については、急減少関数の列である超関数<math>\{c\exp(-x^2/n)\}</math>を考え(<math>\lim_{n\to\infty}c\exp(-x^2/n)=c</math>のため、任意の急減少関数<math>\phi(x)</math>について<math>\lim_{n\to\infty}\int_{-\infty}^{\infty}c\exp(-x^2/n)\phi(x)dx=\int_{-\infty}^{\infty}c\phi(x)dx</math>となり広い意味で同一視可能)、そのフーリエ変換は急減少関数の列である超関数<math>\{\int_{-\infty}^{\infty} c\exp(-x^2/n- 2\pi i x \xi)dx\}=\{c\exp(-n\pi^2\xi^2)\int_{-\infty}^{\infty} \exp(-(x+n\pi i\xi)^2/n)dx\}=\{c\sqrt{n\pi}\exp(-n\pi^2\xi^2)\}</math>となる。 :ここで、<math>\xi\ne 0</math>のときは<math>\lim_{n\to\infty}\sqrt{n\pi}\exp(-n\pi^2\xi^2)=0</math>、<math>\xi=0</math>のときは<math>\lim_{n\to\infty}\sqrt{n\pi}\exp(-n\pi^2\xi^2)=\infty</math>であり、<math>\int_{-\infty}^\infty\sqrt{n\pi}\exp(-n\pi^2\xi^2)d\xi=1</math>である。これはデルタ関数と言われ、<math>f(x)=c</math>のフーリエ変換は、<math>c\delta(\xi)</math>となる。 == 導入 == {{See also|フーリエ級数}} この節の記載は、フーリエ変換の「動機」についてのものであるが、フーリエ変換の理解に必須のものではなく、むしろ理解を妨げる要因(数学的に不正確な内容を含む)もあるため、注意が必要である。フーリエ変換についてのイメージを掴むには有用であるが、この節の理解に拘泥するとむしろ本質的な理解が阻害されることになる。 フーリエ変換を考える動機は[[フーリエ級数]]の研究に始まる。フーリエ級数の研究において、複雑な周期関数は単純な波動の数学的な表現である[[正弦関数]]や[[余弦関数]]の和として表される。正弦や余弦の性質のおかげで、この和に現れる各波の量、フーリエ係数を積分によって計算することができる。 多くの場合に、<math display="inline">e^{2\pi i\theta}=\cos{2\pi\theta}+i\sin{2\pi\theta}</math>([[オイラーの公式]])を用いて、正弦関数および余弦関数の代りに基本波動 <math display="inline">e^{2\pi i\theta}</math> を用いた方が便利である。この場合には多くの公式が簡単化され、本項で後述するフーリエ変換のほかの類似の定式化をあたえるという点に優位性がある。この正弦・余弦から[[指数関数#複素変数への拡張|複素指数関数]]への移行にはフーリエ係数が複素数値であることを要する。この複素数は、関数に含まれる波動の[[振幅]](あるいは大きさ)と、[[位相]](あるいは初期角)の両方を与えているものと通常は解釈される。また、この移行に際して「負の周波数」も導入される。例えば、波動 <math display="inline">e^{2\pi i\theta}</math> および <math display="inline">e^{-2\pi i\theta}</math> はともに周期1を持つが、複素フーリエ級数においては別々の成分として取り扱われる。したがって、周波数を単純に周期の[[逆数]]と考えることはできなくなる。 フーリエ級数を以下のようにしてフーリエ変換の動機付けに用いることができる。関数 ''ƒ'' をある区間 [&minus;''L''/2, ''L''/2] の外側で 0 となるようなものとすると、任意の ''T'' &ge; ''L'' に対して ''ƒ'' を区間 [&minus;''T'' /2, ''T'' /2] 上のフーリエ級数に拡張できる。ここで ''f'' のフーリエ級数に現れる波動 <math display="inline">e^{2\pi inx/T}</math> の係数となる <math display="inline">c_n</math> で表される「量」は :<math>\hat{f}\Big(\dfrac{n}{T}\Big)=c_n:=\int_{-T/2}^{T/2} e^{-2\pi i nx/T}f(x)\,dx</math> で与えられ、''ƒ'' は公式 :<math>f(x)=\frac{1}{T}\sum_{n=-\infty}^\infty \hat{f}\Big(\dfrac{n}{T}\Big) e^{2\pi i nx/T}</math> で与えられなければならない。&xi;<sub>''n''</sub> = ''n''/''T'' とおき、&Delta;&xi; = (''n'' + 1)/''T'' &minus; ''n''/''T'' = 1/''T'' とおくと、最後の和を[[リーマン和]] :<math>f(x)=\sum_{n=-\infty}^\infty \hat{f}\Big(\dfrac{n}{T}\Big) e^{2\pi i x\xi_n}\Delta\xi</math> として考えることができる。''T'' &rarr; &infin; とすることにより、このリーマン和は定義節で与えられるフーリエ逆変換に収束する。適当な条件の下では、この議論をもっと明確化することができる{{sfn|Stein|Shakarchi|2003}}。したがって、この場合はフーリエ級数だが、フーリエ変換は関数に含まれる個々の特定の周波数がどの程度あるかを測るものと考えることができ、それらの波動を積分(あるいは「連続和」)によって再結合して元の関数を復元することができる。 以下の画像はフーリエ変換が特定の関数に含まれる周波数を測る方法を視覚的に現したものである。関数として、(''t'' が秒で測られる場合には)3 ヘルツで振動し、急速に 0 になる :<math>f(t):=\cos(6\pi t)e^{-\pi t^2}</math> を描く。この関数は特に描画しやすい実フーリエ変換をもつものとして選ばれたものであり、最初の画像はそのグラフである。{{Math|{{Hat|''f''}}(3)}} を計算するために、''e''<sup>&minus;2&pi;''i''(3''t'')</sup>''ƒ''(''t'') を積分する。二枚目の画像はこの被積分関数の実部および虚部である。被積分関数の実部は殆ど常に正となる。これは ''ƒ''(''t'') が負であるときには ''e''<sup>&minus;2&pi;''i''(3''t'')</sup> の実部が同様に負となることによる。それらは同じ比率で振動するから、''ƒ''(''t'') が正であるときも同様に ''e''<sup>&minus;2&pi;''i''(3''t'')</sup> の実部も正になる。 この結果、被積分関数の実部のを積分すれば、比較的大きな数値(ここでの場合 0.5)を得ることになる。 一方、({{Math|{{Hat|''f''}}(5)}} を見る場合のように)含まれない周波数を測れば、被積分関数は十分に振動し、それゆえにその積分はとても小さい値となる。一般の設定ではこれよりは少し複雑になるが、それでもフーリエ変換は関数 ''ƒ''(''t'') に含まれる個々の周波数がどれくらいあるかを測るものという考え方に変わりはない。 <gallery> Image:Function ocsillating at 3 hertz.svg|3ヘルツの振動を示すもとの関数 Image:Onfreq.svg|3ヘルツにおけるフーリエ変換の被積分関数の実部および虚部 Image:Offfreq.svg|5ヘルツにおけるフーリエ変換の被積分関数の実部および虚部 Image:Fourier transform of oscillating function.svg|3ヘルツおよび5ヘルツでラベル付けされたフーリエ変換 </gallery> == フーリエ変換の性質 == 実数直線上で定義される関数 ''f'' が'''絶対可積分'''であるとは、 :<math>\int_{-\infty}^\infty |f(x)| \, dx < \infty</math> を満たす[[可測関数|ルベーグ可測関数]]であることをいう。 === 基本性質 === 絶対可積分関数 {{math|''f''(''x''), ''g''(''x''), ''h''(''x'')}} が与えられたとき、これらのフーリエ変換をそれぞれ {{Math|{{Hat|''f''}}(''&xi;'')}}, {{Math|{{Hat|''g''}}(''&xi;'')}}, {{Math|{{Hat|''h''}}(''&xi;'')}}で表す。フーリエ変換は以下の基本性質を満たす{{sfn|Pinsky|2002}}。 ; 線型性 : 任意の[[複素数]] {{mvar|a}}, {{mvar|b}} について {{math|''h''(''x'') {{=}} ''a&fnof;''(''x'') + ''bg''(''x'')}} であるならば ::<math>\hat{h}(\xi)=a\cdot \hat{f}(\xi) + b\cdot\hat{g}(\xi)</math> :が成り立つ。 ; 平行移動 : 任意の[[実数]] {{math|''x''{{sub|0}}}} に対して {{math|''h''(''x'') {{=}} ''&fnof;''(''x'' &minus; ''x''{{sub|0}})}} であるならば ::<math>\hat{h}(\xi)= e^{-2\pi i x_0\xi }\hat{f}(\xi)</math> :が成り立つ。 ; 変調 : 任意の実数 {{math|''&xi;''{{sub|0}}}} に対して {{math|''h''(''x'') {{=}} ''e''{{sup|2&pi;''ix&xi;''{{sub|0}}}}''&fnof;''(''x'')}} ならば :: <math>\hat{h}(\xi) = \hat{f}(\xi-\xi_{0})</math> : が成り立つ。 ; 定数倍 : 非零実数 {{mvar|a}} に対し、{{math|''h''(''x'') {{=}} ''&fnof;''(''ax'')}} ならば ::<math>\hat{h}(\xi)=\frac{1}{|a|}\hat{f}\Big(\frac{\xi}{a}\Big)</math> : が成り立つ。{{math|''a'' {{=}} &minus;1}} つまり {{math|''h''(''x'') {{=}} ''&fnof;''(&minus;''x'')}} の場合には、'''時間反転性''' ({{En|''time-reversal'' property}}) :: <math>\hat{h}(\xi)=\hat{f}(-\xi)</math> : が導かれる。 ; 複素共役 : {{math|''f''(''x'')}} の[[複素共役]] {{math|{{overline|''f''(''x'')}}}} について :: <math>\hat{\overline{f}}(\xi) = \overline{\hat{f}(-\xi)}</math> : が成り立つ。 ; 畳み込み : {{math|''h''(''x'') {{=}} (''f'' &lowast; ''g'')(''x'')}} ならば :: <math> \hat{h}(\xi)=\hat{f}(\xi)\cdot \hat{g}(\xi)</math> : が成り立つ。 === 一様連続性とリーマン・ルベーグの補題 === 絶対可積分関数のフーリエ変換は、常に成り立つというわけではない性質も持っている。絶対可積分関数 ''ƒ'' のフーリエ変換は一様連続で :<math>\|\hat{f}\|_{\infty}\leq \|f\|_1</math> を満たす{{sfn|Katznelson|1976}}。絶対可積分関数のフーリエ変換は :<math>\hat{f}(\xi)\to 0\text{ as }|\xi|\to \infty</math> であることを述べた'''[[リーマン・ルベーグの補題]]'''をも満足する{{sfn|Stein|Weiss|1971}}。絶対可積分函数 ''f'' のフーリエ変換 {{Math|{{Hat|''f''}}}} は有界連続だが絶対可積分であるとは限らず、その'''逆変換'''をルベーグ積分として書くことは一般にはできない。しかしながら、''ƒ'' および {{Math|{{Hat|''f''}}}} がともに絶対可積分ならば、反転公式 :<math>f(x) = \int_{-\infty}^\infty \hat f(\xi) e^{2 i \pi x \xi} \, d\xi</math> が殆ど全ての ''x'' において成り立つ。つまり、''ƒ'' は右辺で定義される連続関数と殆ど至る所等しい。特に ''ƒ'' が実数直線上の連続関数として与えられたならば全ての ''x'' において等式が成り立つ。 前述の結果としてわかることは、フーリエ変換が ''L''<sup>1</sup>('''R''') 上単射であることである。 === プランシュレルの定理とパーセバルの定理 === ''f''(''x'') および ''g''(''x'') は絶対可積分であるとし、そのフーリエ変換をそれぞれ {{Math|{{Hat|''f''}}(&xi;)}} および {{Math|{{Hat|''g''}}(&xi;)}} と表す。''f''(''x'') および ''g''(''x'') がともに自乗絶対可積分であるならば[[パーセバルの定理]] : <math>\int_{-\infty}^{\infty} f(x) \overline{g(x)} \, dx = \int_{-\infty}^\infty \hat{f}(\xi) \overline{{\hat{g}}(\xi)} \, d\xi</math> が成立する{{sfn|Rudin|1987|loc=p. 187}}。ここで上付きバーは複素共役を表す。 パーセバルの定理と同値な[[プランシュレルの定理]]によれば :<math>\int_{-\infty}^\infty | f(x) |^2\, dx = \int_{-\infty}^\infty | \hat{f}(\xi) |^2\, d\xi</math> が成立する{{sfn|Rudin|1987|loc=p. 186}}。プランシュレルの定理により、''L''<sup>2</sup>('''R''') に属する関数の[[#一般化|後述]]する意味でのフーリエ変換を定義することが可能になる。プランシュレルの定理は、フーリエ変換はもとの量のエネルギーを保存するという自然科学における解釈を持つ。著者によってはこれらの定理のどちらともをプランシュレルの定理あるいはパーセバルの定理と呼んでいる場合があるので注意を要する。 局所コンパクトアーベル群に関する文脈におけるフーリエ変換の概念の一般の定式化については[[ポントリャーギン双対]]の項を参照されたい。 === 不確定性関係 === {{main|不確定性原理|{{仮リンク|Hirschmanの不確定性原理|en|Hirschman uncertainty}}}} 一般的に言って、''f''(''x'') が凝縮されればされるほどそのフーリエ変換 {{Math|{{Hat|''f''}}}} はより拡散される。特に、フーリエ変換のスケール性からわかることとして、関数を ''x'' において「圧搾」するならば、そのフーリエ変換は &xi; において「伸展」される。したがって、関数とそのフーリエ変換の両方ともを勝手に凝縮させることはできない。 関数とそのフーリエ変換のコンパクト化のあいだの得失評価は'''不確定性関係'''の形で定式化することができる。''&fnof;''(''x'') は絶対可積分かつ[[自乗絶対可積分]]であると仮定する。一般性を失うことなく関数 ''&fnof;''(''x'') は :<math>\int_{-\infty}^\infty |f(x)|^2 \,dx=1</math> に正規化されているものと仮定してよい。このとき、プランシュレルの定理により {{Math|{{Hat|''f''}}(&xi;)}} も同様に正規化される。 ''x'' = 0 の周りでの拡散を :<math>D_0(f):=\int_{-\infty}^\infty x^2|f(x)|^2\,dx</math> で定義される「0 の周りでの分散」{{lang|en|(''dispersion about zero'')}} によって測ることにする{{sfn|Pinsky|2002}}。確率の言葉で言えば、これは |''f''(''x'')|<sup>2</sup> の 0 の周りでの二次の[[モーメント (数学)|モーメント]]である。 このとき不確定性原理は、関数 ''ƒ''(''x'') が絶対連続で、関数 ''x''·''ƒ''(''x'') および ''ƒ''&prime;(''x'') が自乗絶対可積分であるならば :<math>D_0(f)D_0(\hat{f}) \geq \frac{1}{16\pi^2}</math> が成り立つことを述べる{{sfn|Pinsky|2002}}。等式が成立するのは :<math>f(x)=C_1 \, e^{{- \pi x^2}/{\sigma^2}}</math> したがって、 :<math>\hat{f}(\xi)= \sigma C_1 \, e^{-\pi\sigma^2\xi^2}</math> である場合に限る。ただし、定数 &sigma; &gt; 0 は任意であり、係数 ''C''<sub>1</sub> は ''ƒ'' を ''L''<sup>2</sup>-正規化する定数である{{sfn|Pinsky|2002}}。言い換えれば、 ''ƒ'' は 0 を中心に持つ(正規化)[[ガウス関数]]のとき等号が成り立つ。 事実として、この不等式は任意の ''x''<sub>0</sub>, &xi;<sub>0</sub> &isin; '''R''' について :<math>\Big[\int_{-\infty}^\infty (x-x_0)^2|f(x)|^2\,dx\Big]\Big[\int_{-\infty}^\infty(\xi-\xi_0)^2|\hat{f}(\xi)|^2\,d\xi\Big]\geq \frac{1}{16\pi^2}</math> が成立することをも含む{{sfn|Stein|Shakarchi|2003}}。 [[量子力学]]において、[[運動量]]と[[位置]]の[[波動関数]]は([[プランク定数]]を因子に持つ)フーリエ変換対である。プランク定数でスケールしなおせば、上述の不等式はロバートソンの不確定性関係を記述する。これは、[[ハイゼンベルグ]]が構想した不確定性原理そのものではないが、深い関係がある。 === ポアソン和公式 === {{main|[[ポアソン和公式]]}} ポアソン和公式はフーリエ変換とフーリエ級数の間の関連性を提供する。絶対可積分関数 ''ƒ'' &isin; ''L''<sup>1</sup>('''R'''<sup>''n''</sup>) が与えられたとき、''ƒ'' の'''周期化'''が :<math>\bar f(x)=\sum_{k\in\mathbb{Z}^n} f(x+k)</math> によって与えられる。このとき、ポアソン和公式は <span style="text-decoration:overline;">''f''</span> のフーリエ級数を ''ƒ'' のフーリエ変換に結びつけるもので、特に <span style="text-decoration:overline;">''f''</span> のフーリエ級数は :<math>\bar f(x) \sim \sum_{k\in\mathbb{Z}^n} \hat{f}(k)e^{2\pi i k\cdot x}</math> で与えられることを述べるものである。ポアソン和公式を用いて、大きな次元のユークリッド球面における格子点の数に対するランダウの漸近公式を導出することができる。また、絶対可積分函数 ''f'' と {{Math|{{Hat|''f''}}}} がともにコンパクト台を持つならば ''&fnof;'' = 0 を示すこともできる{{sfn|Pinsky|2002}}。 === 畳み込み定理 === {{main|畳み込み定理}} フーリエ変換は、関数の[[畳み込み]]と関数の(点毎の)積とを相互に変換する。''ƒ''(''x'') および ''g''(''x'') が絶対可積分関数であるとし、そのフーリエ変換をそれぞれ {{Math|{{Hat|''f''}}(&xi;)}} および {{Math|{{Hat|''g''}}(&xi;)}} で表す。さらに ''ƒ'' と ''g'' との畳み込みが存在して絶対絶対可積分であるならば、この畳み込みのフーリエ変換はフーリエ変換 {{Math|{{Hat|''f''}}(&xi;)}} と {{Math|{{Hat|''g''}}(&xi;)}} との積で与えられる(ただし、フーリエ変換の定義の仕方によっては定数因子が現れる場合もある)。 これを式で表せば、&lowast; を畳み込みとして :<math>h(x) := (f*g)(x) := \int_{-\infty}^\infty f(y)g(x - y)\,dy</math> と表されるとき、 :<math>\hat{h}(\xi) = \hat{f}(\xi)\cdot \hat{g}(\xi)</math> が成立することを意味する。[[LTIシステム理論|線型時不変 (LTI) 系理論]]において、''f''(''x'') を[[ディラックのデルタ関数|単位インパルス]]で置き換えたものが ''h''(''x'') = ''g''(''x'') を与えることから、通例 ''g''(''x'') は、入力 ''ƒ''(''x'') と出力 ''h''(''x'') に関する LTI 系の[[インパルス応答]]として解釈される。この場合、{{Math|{{Hat|''g''}}(&xi;)}} はこの系の[[周波数応答]]を表す。 逆に、''ƒ''(''x'') がふたつの自乗絶対可積分函数 ''p''(''x'') および ''q''(''x'') の積に分解されるならば、 ''ƒ''(''x'') のフーリエ変換は、各因子のフーリエ変換 {{Math|{{Hat|''p''}}(&xi;)}} および {{Math|{{Hat|''q''}}(&xi;)}} の畳み込みで与えられる。 === 相互相関定理 === {{main|相互相関}} 同様の方法で、''h''(''x'') が ''ƒ(''x'') と ''g''(''x'') との相互相関 :<math>h(x):=(f\star g)(x) := \int_{-\infty}^\infty \overline{f(y)}\,g(x+y)\,dy</math> であるならば ''h''(''x'') のフーリエ変換が :<math>\hat{h}(\xi) = \overline{\hat{f}(\xi)}\,\hat{g}(\xi)</math> で与えられることが示される。 === 固有関数 === ''L''<sup>2</sup>('''R''') の正規直交基底の重要な一つはエルミート函数系 :<math>{\psi}_n(x) := \frac{\sqrt[4]{2}}{\sqrt{n!}} \, e^{-\pi x^2}H_n(2x\sqrt{\pi})</math> で与えられる。ここで ''H''<sub>''n''</sub>(''x'') は「確率論者の」[[エルミート多項式]]と呼ばれる、<math>H_n(x):=(-1)^ne^{x^2/2}D^ne^{-x^2/2}</math> で定義される関数である。この規約の下、フーリエ変換は : <math> \hat\psi_n(\xi) = (-i)^n {\psi}_n(\xi)</math> で与えられる。言い換えれば、エルミート関数系は ''L''<sup>2</sup>('''R''') 上のフーリエ変換の[[固有関数]]からなる[[正規直交系|完全正規直交系]]を成す{{sfn|Pinsky|2002}}。しかしながら、この固有関数系の選び方は一意ではなく、フーリエ変換の相異なる[[固有値]]は {&plusmn;1, &plusmn;''i''} の 4 つしかなく、同じ固有値に属する固有関数の任意の線型結合はふたたび固有関数になる。この結果として ''L''<sup>2</sup>('''R''') を 4 つの空間 ''H''<sub>0</sub>, ''H''<sub>1</sub>, ''H''<sub>2</sub>, ''H''<sub>3</sub> で、フーリエ変換が ''H''<sub>''k''</sub> 上で単に ''i''<sup>''k''</sup>-倍として作用するものの直和に分解することができる。この方法によるフーリエ変換の定義は[[ノーバート・ウィーナー|ウィーナー]]による{{sfn|Duoandikoetxea|2001}}。エルミート関数を選ぶのが便利なのは、それらが周波数域と時間域の両方で指数関数的に局在することと、それゆえに時間周波数解析において用いられる[[非整数次フーリエ変換]]が得られることにある {{要出典|date=2008年10月}}。 === 球面調和関数 === {{main|{{仮リンク|球面調和関数系|en|Solid harmonics}}}} <math>{\mathcal A}_k</math> で次数 ''k'' の[[斉次多項式|斉次]][[調和関数|調和]][[多項式]]全体の成す集合を表す。集合 <math>{\mathcal A}_k</math> は{{仮リンク|体球面調和関数系|en|solid spherical harmonics}}として知られる。高次元において体球面調和関数系はエルミート多項式と同様の役割を演じる。具体的には、<math>{\mathcal A}_k</math> の適当な ''P''(''x'') に対し、''f''(''x'') = ''e''<sup>&minus;&pi;|''x''|<sup>2</sup></sup>''P''(''x'') のフーリエ変換は :<math>\hat{f}(\xi)=i^{-k}f(\xi)</math> で与えられる。集合 <math>{\mathcal H}_k</math> を ''f''(|''x''|)''P''(''x'') (''P''(''x'') &isin; <math>{\mathcal A}_k</math>) の形の関数から作られる線型結合全体の成す集合の ''L''<sup>2</sup>('''R'''<sup>''n''</sup>) における閉包とする。このとき、空間 ''L''<sup>2</sup>('''R'''<sup>''n''</sup>) は空間 <math>{\mathcal H}_k</math> の直和に分解され、フーリエ変換は各空間 <math>{\mathcal H}_k</math> をそれ自身に移す。また、各空間 <math>{\mathcal H}_k</math> へのフーリエ変換の作用を特徴付けることができる{{sfn|Stein|Weiss|1971}}。''&fnof;''(''x'') = ''&fnof;''<sub>0</sub>(|''x''|)''P''(''x'') (''P''(''x'') &isin; <math>{\mathcal A}_k</math>) と表される関数のフーリエ変換は :<math>\hat{f}(\xi)=F_0(|\xi|)P(\xi)</math> となる。ただし、 :<math>F_0(r)=2\pi i^{-k}r^{-(n+2k-2)/2}\int_0^\infty f_0(s)J_{(n+2k-2)/2}(2\pi rs)s^{(n+2k)/2}\,ds</math> であり、''J''<sub>(''n'' + 2''k'' &minus; 2)/2</sub> は次数 (''n''&nbsp;+&nbsp;2''k''&nbsp;&minus;&nbsp;2)/2 の第一種[[ベッセル関数]]である。''k'' = 0 のとき、これは動径関数のフーリエ変換に対する有用な公式を与える{{sfn|Grafakos|2004}}。 == 一般化 == === 他の函数空間上のフーリエ変換 === フーリエ変換の定義を他の函数空間に対するものへ拡張することができる。[[コンパクト空間|コンパクト]]台を持つ滑らかな函数は絶対可積分で、その全体は ''L''<sup>2</sup>('''R''') において[[稠密集合|稠密]]であるから、[[プランシュレルの定理]]を用いて、''L''<sup>2</sup>('''R''') の一般の函数にまで(コンパクト台をもつ滑らかな函数によって近似して)フーリエ変換の定義を拡張することができる。さらに :<math> \mathcal{F}\colon L^2(\mathbb{R}) \to L^2(\mathbb{R})</math> は[[ユニタリ作用素]]である{{sfn|Stein|Weiss|1971|loc=Thm. 2.3}}。フーリエ変換の多くの性質はこの場合にもそのまま成立する。[[ハウスドルフ・ヤング不等式]]を用いて 1 &le; ''p'' &le; 2 に対する ''L''<sup>''p''</sup>('''R''') の函数を含むようにフーリエ変換の定義を拡張することができる。 だが、さらなる拡張はもっと技巧的である。2 &lt; ''p'' &lt; &infin; の範囲での''L''<sup>''p''</sup> に属する函数のフーリエ変換には超函数の研究が必要である{{sfn|Katznelson|1976}}。事実として、''p'' &gt; 2 に関する ''L''<sup>''p''</sup> に属する函数のフーリエ変換は函数としては定義できないことを示すことができる {{sfn|Stein|Weiss|1971}}。 === 多次元版 === フーリエ変換は勝手な次元 ''n'' において考えることができる。1-次元の場合と同様にさまざまな流儀があるが、本項では絶対可積分函数 ''&fnof;''(''x'') に対して、 :<math>\hat{f}(\xi) = \mathcal{F}(f)(\xi) = \int_{\R^n} f(x) e^{-2\pi i x\cdot\xi} \, dx</math> をフーリエ変換の定義とする。ここで、''x'' および ''ξ'' は ''n''-次元[[数ベクトル|ベクトル]]であり、''x'' &middot; ''ξ'' はベクトルの[[点乗積]]である。点乗積はしばしば &lt;''x'', &xi;&gt; とも書き表される。 プランシュレルの定理やパーセバルの定理がそうであるように、上述の基本性質は ''n''-次元フーリエ変換においても成立する。函数が絶対可積分であるとき、フーリエ変換はやはり一様連続であり、リーマン・ルベーグの補題が成立する{{sfn|Stein|Weiss|1971}}。 より高い次元ではフーリエ変換の制限問題の研究が興味深いものになる。絶対可積分函数のフーリエ変換は連続で、この函数の任意の集合への制限が定義される。しかし自乗絶対可積分函数のフーリエ変換は自乗絶対可積分函数の一般の類を成す。そのような ''L''<sup>2</sup>('''R'''<sup>''n''</sup>)-函数のフーリエ変換の制限は測度 0 の集合上では定義することができない。1 &le; ''p'' &le; 2 に対する ''L''<sup>''p''</sup> における制限問題の理解はいまだ活発な研究の行われる領域である。驚くべきことに、集合 ''S'' の曲率が非零であるようないくつかの場合には、フーリエ変換の ''S'' への制限を定義することができる。''S'' が '''R'''<sup>''n''</sup> における単位球面であるときが特に興味深い。この場合に、トマス-[[エリアス・ステイン|ステイン]]の制限定理によれば、フーリエ変換の '''R'''<sup>''n''</sup> における単位球面への制限は 1 &le; ''p'' &le; (2''n'' + 2)/(''n'' + 3) に対する ''L''<sup>''p''</sup> 上で有界作用素である。 1-次元の場合と多次元の場合とで、フーリエ変換の大きな違いは部分和作用素に関係する。与えられた絶対可積分函数 ''&fnof;'' に対し :<math>f_R(x) = \int_{S_R}\hat{f}(\xi) e^{2\pi ix\cdot\xi}\, d\xi, \quad x \in \mathbb{R}^n</math> で定義される函数 ''&fnof;''<sub>''R''</sub> を考える。さらに ''&fnof;'' が ''L''<sup>''p''</sup>('''R'''<sup>''n''</sup>) に属すると仮定する。''n'' = 1 で 1 &lt; ''p'' &lt; &infin; とし、''S''<sub>''R''</sub> = (&minus;''R'', ''R'') と置くと、[[ヒルベルト変換]]の有界性から ''&fnof;''<sub>''R''</sub> は ''R'' を無限大に飛ばす極限で ''&fnof;'' に ''L''<sup>''p''</sup> 内で収束する。素朴に ''n'' &gt; 1 の場合にも同様であることを期待するかもしれない。''S''<sub>''R''</sub> を一辺の長さが ''R'' の立方体とするならば、確かに部分和作用素はもとの函数に収束する。別の自然な候補としてユークリッド球体 ''S''<sub>''R''</sub> = {&xi; : |&xi;| &lt; ''R''} をとると、部分和作用素が収束するためには単位球体に対するマルチプライヤーが ''L<sup>p</sup>''('''R'''<sup>''n''</sup>) において有界である必要がある。''n'' &ge; 2 に対しては、単位球体に対するマルチプライヤーは ''p'' = 2 でない限り有界にはならないというよく知られた[[チャールズ・フェファーマン]]の定理がある{{sfn|Duoandikoetxea|2001}}。事実として、''p'' &ne; 2 のときには ''&fnof;''<sub>''R''</sub> が ''&fnof;'' に ''L''<sup>''p''</sup> 内で収束しないだけではなく、函数 ''&fnof;'' &isin; ''L''<sup>''p''</sup>('''R'''<sup>''n''</sup>) であっても ''&fnof;''<sub>''R''</sub> が ''L''<sup>''p''</sup> の元でさえないようなものまでが存在する。 === フーリエ・スティルチェス変換 === '''R'''<sup>''n''</sup> 上の有限ボレル測度 &mu; のフーリエ変換は :<math>\hat\mu(\xi)=\int_{\mathbb{R}^n} e^{-2\pi ix\cdot \xi}\,d\mu</math> によって与えられる{{sfn|Pinsky|2002}}。この変換は絶対可積分函数のフーリエ変換がもつ多くの性質を引き続き満足する。大きな違いの一つに、測度に関してリーマン・ルベーグの補題が成り立たないことが挙げられる{{sfn|Katznelson|1976}}。''d''μ = ''ƒ''(''x'')''dx'' の場合には上述の定義式を ''f'' の通常のフーリエ変換の定義に簡約化することができる。 このフーリエ変換を用いて連続測度の特徴づけを与えることができる。{{仮リンク|ボホナーの定理|en|Bochner's theorem}}はそのような函数を測度のフーリエ・スティルチェス変換として得られるものとして特徴付ける{{sfn|Katznelson|1976}}。 さらに言えば、[[ディラックのデルタ函数]]は函数ではないが有限ボレル測度であり、そのフーリエ変換は定数函数となる(特殊値は用いるフーリエ変換の形に依存する)。 === 緩増加超函数 === フーリエ変換は[[シュワルツ函数]]全体の成す空間([[シュワルツ空間]])をそれ自身に移す[[同相写像]]を与える{{sfn|Stein|Weiss|1971}}。これにより、[[緩増加超函数]]のフーリエ変換を定義することができる。これには上述の絶対可積分函数が全て含まれ、それに加えて緩増加超函数のフーリエ変換がふたたび緩増加超函数となるという利点がある。 超函数のフーリエ変換を定義するいくつかの動機は、以下のふたつの事実に由来する。ひとつめは、''ƒ'' と ''g'' が絶対可積分函数でそのフーリエ変換をそれぞれ {{Math|{{Hat|''f''}}}}, {{Math|{{Hat|''g''}}}} とするとき、フーリエ変換は乗法公式 :<math>\int_{\mathbb{R}^n}\hat{f}(x)g(x)\,dx=\int_{\mathbb{R}^n}f(x)\hat{g}(x)\,dx</math> に従うこと{{sfn|Stein|Weiss|1971}}。ふたつめは、任意の絶対可積分函数 ''ƒ'' は、任意のシュワルツ函数 &phi; に対して :<math>T_f(\varphi)=\int_{\mathbb{R}^n}f(x)\varphi(x)\,dx</math> を満たすという条件によって超函数 ''T''<sub>''ƒ''</sub> を定めることである。これらの事実により、与えられた超函数 ''T'' に対してそのフーリエ変換を、任意のシュワルツ函数 &phi; に対して :<math>\hat{T}(\varphi)=T(\hat{\varphi})</math> なる関係式によって定義する。これは {{Math|{{Hat|''T''}}}}<sub>''f''</sub> = ''T''<sub>''f''^</sub> から従う。 超函数は微分可能であり、緩増加超函数のフーリエ変換と微分および畳み込みとはやはり上述の意味で両立する。 === 局所コンパクトアーベル群 === フーリエ変換を任意の[[局所コンパクトアーベル群]]に対して一般化することができる。局所コンパクトアーベル群とは、抽象[[アーベル群]]であると同時に[[局所コンパクト]]な[[ハウスドルフ空間]]であって、なおかつその位相に関して群演算が連続となるものである。''G'' が局所コンパクトアーベル群ならば、''G'' は[[ハール測度]]と呼ばれる平行移動不変な測度 &mu; を持つ。また、局所コンパクトアーベル群 ''G'' に対して、その位相を[[指標群|指標全体の成す集合]] {{Math|{{Hat|''G''}}}} へ移行することができて、{{Math|{{Hat|''G''}}}} 自身も局所コンパクトアーベル群の構造を持つ。''L''<sup>1</sup>(''G'') に属する函数 ''f'' に対して、そのフーリエ変換を :<math>\hat{f}(\xi)=\int_G \xi(x)f(x)\,d\mu\qquad\left(\forall\ \xi\in\hat G\right)</math> によって定義することができる{{sfn|Katznelson|1976}}。 この一般化を[[概周期函数]]に適用した[[概周期函数#局所コンパクトアーベル群上の概周期函数|理論]]や、[[準周期函数]]に適用した[[概周期函数#音響および音楽合成における準周期信号|理論]]が知られている。 == 応用 == {{Main|フーリエ変換の応用}} === 微分方程式の解析学 === フーリエ変換および近い関係にある[[ラプラス変換]]は[[微分方程式]]の解法において広く用いられる。{{Math|''f''(''x'')}} を可微分函数で、そのフーリエ変換を {{Math|{{Hat|''f''}}(&xi;)}} とすると、導函数のフーリエ変換が {{Math|2&pi;''i''&xi;{{Hat|''f''}}(&xi;)}} で与えられるという意味でフーリエ変換と[[微分作用素]]は両立する。このことを用いて微分方程式を代数方程式に変換することができる。ただし、この手法は定義域が実数全体である場合にしか適用できないことに注意が必要である。これを拡張して、定義域が {{Math|'''R'''<sup>''n''</sup>}} であるような多変数函数に関する[[偏微分方程式]]を代数方程式に書き換えることもできる。 == フーリエ変換の定義域と値域 == フーリエ変換を可能な限り最も一般な定義域上で考えることが望ましいことも多々ある。フーリエ変換を積分として定義すれば、定義域は絶対可積分函数全体の成す空間に自然に制限されてしまうが、不幸にして絶対可積分函数のフーリエ変換として得られる函数の簡単な特徴づけは知られていない{{sfn|Stein|Weiss|1971}}。フーリエ変換の定義域の拡張は上述のようにいくつかの方法を用いて行うことができる。以下いくつか、フーリエ変換の定義されるより広範な定義域と領域について詳細を述べる。 * [[シュワルツ函数]]全体の成す空間([[シュワルツ空間]])はフーリエ変換の下で閉じている。シュワルツ函数は急減少函数であって、フーリエ変換の関連する函数すべてを含んでいるわけではない。より詳細は {{harv|Stein|Weiss|1971}} を参照せよ。 *ルベーグ絶対可積分函数全体の成す空間 ''L''<sup>1</sup> はフーリエ変換によって、無限遠で 0 に収束する連続函数全体の成す空間 ''C''<sub>0</sub> へ写される。 * 自乗絶対可積分函数全体の成す空間 ''L''<sup>2</sup> はフーリエ変換のもとで閉じている。しかしここでのフーリエ変換はもはや積分によって定義されるものではない。 * 空間 ''L''<sup>''p''</sup> は空間 ''L''<sup>''q''</sup> へ写る。ここに、 1/''p'' + 1/''q'' = 1 であり、 1 &le; ''p'' &le; 2 とする(ハウスドルフ・ヤング不等式)。 * [[緩増加超函数]]全体の成す集合はフーリエ変換の下で閉じている。緩増加超函数は函数の一般化ともなっている。この一般化では[[ディラックの櫛型函数]]のようなもののフーリエ変換も定義することができる。 == その他の記法 == フーリエ変換の記法として {{Math|{{Hat|''f''}}(&xi;)}} 以外によく用いられるものに : <math>F(\xi),\quad \mathcal{F}(f)(\xi),\quad (\mathcal{F}f)(\xi),\quad \mathcal{F}(f(t))</math> などがある。あるいはもっと他の記号を使うことも在りうる。たとえば、(''f''(''x'') と ''F''(&xi;) のように)もとの函数を表している文字の対応する大文字を用いてそのフーリエ変換を表すことは自然科学や工学においてとくによく用いられる記法である。 複素函数 {{Math|{{Hat|''f''}}(&xi;)}} は、[[極座標]]に関してこれを表示することにより、[[振幅]] : <math>A(\xi) = |\hat{f}(\xi)|,</math> および[[位相]] : <math>\varphi (\xi) = \arg(\hat{f}(\xi))</math> と呼ばれるふたつの実函数 ''A''(&xi;) および &phi;(&xi;) を用いて : <math>\hat{f}(\xi)=A(\xi)e^{i\varphi(\xi)}</math> なる形に解釈することができる。 このとき逆変換は ''ƒ''(''x'') の'''周波数成分'''すべての再結合として :<math>f(x) = \int_{-\infty}^{\infty} A(\xi)\, e^{ i(2\pi \xi x +\varphi (\xi))}\,d\nu</math> と書くことができる。各成分は[[振幅]]が ''A''(&xi;) で(''x'' = 0 における)初期[[位相角]]が &phi;(&xi;) であるような ''e''<sup>2&pi;''ix''&xi;</sup> のかたちの複素[[正弦曲線]]である。 フーリエ変換は函数空間の間の写像として考えることもできる。この写像はここでは <math>\mathcal{F}</math> で表し、函数 ''f'' のフーリエ変換には <math>\mathcal{F}(f)</math> が用いられる。この写像 <math>\mathcal{F}</math> は函数空間上の線型変換とみることができ、それによって <math>\mathcal{F}(f)</math> と書く代わりに、ベクトル(ここでは函数 ''f'')の線型変換を表す線型代数学の標準的な記法で <math>\mathcal{F}f</math> と書くこともできる。函数にフーリエ変換を施した結果は再び函数となるから、この新たな函数の &xi; における値というものには意味があり、それを <math>\mathcal{F}(f)(\xi)</math> あるいは <math>(\mathcal{F} f)(\xi)</math> などと表す。前者の場合には <math>\mathcal{F}</math> はまず ''f'' に施されて、その後に得られた函数の &xi; における値が評価されるものと暗黙に理解されているということに注意しなければならない。 数学や多くの応用科学において、函数 ''f'' それ自身と函数 ''f'' の変数 ''x'' における値 ''f''(''x'') とを峻別しなければならないことがしばしばある。このことが意味するのは、たとえば<math>\mathcal{F}(f(x))</math> のような記法は、形式的には ''f'' の ''x'' における「値」のフーリエ変換と解釈できてしまうということである。このような不具合にもかかわらず、特定の函数あるいは特定の変数の函数を頻繁に変換しなければならないような場合には、このような記法はよく用いられる。たとえば : <math>\mathcal{F}( \mathrm{rect}(x) ) = \mathrm{sinc}(\xi)</math> は矩形函数のフーリエ変換が sinc-函数であることを表すために用いられることがあり、またたとえば : <math>\mathcal{F}(f(x+x_{0})) = \mathcal{F}(f(x)) e^{2\pi i \xi x_{0}}</math> はフーリエ変換のシフト性を表すのに用いられることがある。最後の例は、変換される函数 ''f'' を''x''<sub>0</sub> のではなく ''x'' の函数であるという前提のもとでのみ正しいということに注意を要する。 == その他の定義 == フーリエ変換の定義として慣習的によく用いられるものが3個ある。しばしば、フーリエ変換を毎秒ラジアンを単位とする[[角周波数]] &omega; = 2&pi;&xi; を用いて表す。&xi; = &omega;/(2&pi;) と置き換えれば、上述の定義式はこの規約の下 :<math>\hat{f}(\omega) = \int_{\mathbb{R}^n} f(x) e^{- i\omega\cdot x}\,dx </math> と書くことができ、また同じくこの規約の下で逆変換は :<math>f(x) = \frac{1}{(2\pi)^n} \int_{\mathbb{R}^n} \hat{f}(\omega)e^{ i\omega \cdot x}\,d\omega</math> となる。本項における定義とは異なり、この規約によって定義されるフーリエ変換はもはや ''L''<sup>2</sup>('''R'''<sup>''n''</sup>) 上の変換として[[ユニタリ]]ではなく、フーリエ変換と逆変換との間の対称性も失われている。 他によく用いられる流儀は (2&pi;)<sup>''n''</sup> の因子をフーリエ変換とその逆変換の間で均等に分割するもので、 :<math> \hat{f}(\omega) = \frac{1}{(2\pi)^{n/2}} \int_{\mathbb{R}^n} f(x) e^{- i\omega\cdot x}\,dx,</math> :<math>f(x) = \frac{1}{(2\pi)^{n/2}} \int_{\mathbb{R}^n} \hat{f}(\omega) e^{ i\omega \cdot x}\,d\omega</math> という定義が導かれる。この規約のもとでは、フーリエ変換はふたたび ''L''<sup>2</sup>('''R'''<sup>''n''</sup>) 上の[[ユニタリ作用素|ユニタリ変換]]となり、また フーリエ変換と逆変換の間の対称性も回復することができる。 これら三種類の定義はどれも、順変換逆変換ともに複素指数函数的な[[積分核]]を結びつけることによって形成されている。順変換と逆変換で肩に付く符合は反対でなければならないが、どちらがどちらの符号を持つべきであるかという選択は、やはり定義の仕方によるということになる。 {|class="wikitable" |+ よく用いられる定義のまとめ |- ! 周波数 &xi;(ヘルツ) ! ユニタリ | <math> \hat{f}_1(\xi)\ \stackrel{\mathrm{def}}{=}\ \int_{\mathbb{R}^n} f(x) e^{-2 \pi i x\cdot\xi}\, dx = \hat{f}_2(2 \pi \xi)=(2 \pi)^{n/2}\hat{f}_3(2 \pi \xi) </math><br /> <math> f(x) = \int_{\mathbb{R}^n} \hat{f}_1(\xi) e^{2 \pi i x\cdot \xi}\, d\xi \ </math> |- ! rowspan="2" | 角周波数 &omega;(ラジアン毎秒) ! 非ユニタリ | <math> \hat{f}_2(\omega) \ \stackrel{\mathrm{def}}{=}\int_{\mathbb{R}^n} f(x) e^{-i\omega\cdot x} \, dx \ = \hat{f}_1 \left ( \frac{\omega}{2 \pi} \right ) = (2 \pi)^{n/2}\ \hat{f}_3(\omega) </math><br /> <math> f(x) = \frac{1}{(2 \pi)^n} \int_{\mathbb{R}^n} \hat{f}_2(\omega) e^{i \omega\cdot x} \, d \omega \ </math> |- ! ユニタリ | <math> \hat{f}_3(\omega) \ \stackrel{\mathrm{def}}{=}\ \frac{1}{(2 \pi)^{n/2}} \int_{\mathbb{R}^n} f(x) \ e^{-i \omega\cdot x}\, dx = \frac{1}{(2 \pi)^{n/2}} \hat{f}_1\left(\frac{\omega}{2 \pi} \right) = \frac{1}{(2 \pi)^{n/2}} \hat{f}_2(\omega) </math><br /> <math> f(x) = \frac{1}{(2 \pi)^{n/2}} \int_{\mathbb{R}^n} \hat{f}_3(\omega)e^{i \omega\cdot x}\, d \omega \ </math> |} == 主なフーリエ変換の一覧 == 以下にフーリエ変換の閉じた表示に関する表を掲げる(フーリエ変換はよく用いられる三種類を挙げてある)。函数 ''ƒ''(''x'') , ''g''(''x''), ''h''(''x'') に対して、それらのフーリエ変換をそれぞれ {{Math|{{Hat|''f''}}}}, {{Math|{{Hat|''g''}}}}, {{Math|{{Hat|''h''}}}} で表す。 === 函数の関係式 === 以下の表におけるフーリエ変換は {{harv|Erdélyi|1954}} あるいは {{harv|Kammler|2000}} の付録に見つけることができる。 {| class="wikitable" ! !! もとの函数 !! ユニタリ・周波に関するフーリエ変換 !! ユニタリ・角周波に関するフーリエ変換 !! 非ユニタリ・角周波に関するフーリエ変換 !! 備考 |- | |align="center"|<math> f(x)\,</math> |align="center"|<math> \hat{f}(\xi)=</math> <math>\int\limits_{-\infty}^{\infty}f(x) e^{-2\pi i x\xi}dx </math> |align="center"|<math> \hat{f}(\omega)=</math><math>\frac{1}{\sqrt{2 \pi}} \int\limits_{-\infty}^{\infty} f(x) e^{-i \omega x}dx </math> |align="center"|<math> \hat{f}(\nu)=</math> <math>\int\limits_{-\infty}^{\infty}f(x) e^{-i \nu x}dx </math> | |- | 101 |<math>af(x) + bg(x)\,</math> |<math>a\hat{f}(\xi) + b\hat{g}(\xi)\,</math> |<math>a\hat{f}(\omega) + b\hat{g}(\omega)\,</math> |<math>a\hat{f}(\nu) + b\hat{g}(\nu)\,</math> | [[線型性]] |- | 102 |<math>f(x - a)\,</math> |<math>e^{-2\pi i a \xi} \hat{f}(\xi)\,</math> |<math>e^{- i a \omega} \hat{f}(\omega)\,</math> |<math>e^{- i a \nu} \hat{f}(\nu)\,</math> | 時間領域シフト |- | 103 |<math>e^{ 2\pi iax} f(x)\,</math> |<math>\hat{f} \left(\xi - a\right)\,</math> |<math>\hat{f}(\omega - 2\pi a)\,</math> |<math>\hat{f}(\nu - 2\pi a)\,</math> | 周波数領域シフト<br />102の[[双対]] |- | 104 |<math>f(a x)\,</math> |<math>\frac{1}{|a|} \hat{f}\left( \frac{\xi}{a} \right)\,</math> |<math>\frac{1}{|a|} \hat{f}\left( \frac{\omega}{a} \right)\,</math> |<math>\frac{1}{|a|} \hat{f}\left( \frac{\nu}{a} \right)\,</math> | &#x007c;''a''&#x007c; が大きければ ''f''(''ax'') は 0 の周りに集中し <math>\frac{1}{|a|}\hat{f} \left( \frac{\omega}{a} \right)\,</math> は平らに広がる |- | 105 |<math>\hat{f}(x)\,</math> |<math>f(-\xi)\,</math> |<math>f(-\omega)\,</math> |<math>2\pi f(-\nu)\,</math> | ここで、<math>\hat{f}</math> は、それぞれの列で考えているフーリエ変換を施した結果の、変数を ''x'' に取替えたものである。 |- | 106 |<math>\frac{d^n f(x)}{dx^n}\,</math> |<math> (2\pi i\xi)^n \hat{f}(\xi)\,</math> |<math> (i\omega)^n \hat{f}(\omega)\,</math> |<math> (i\nu)^n \hat{f}(\nu)\,</math> | |- | 107 |<math>x^n f(x)\,</math> |<math>\left (\frac{i}{2\pi}\right)^n \frac{d^n \hat{f}(\xi)}{d\xi^n}\,</math> |<math>i^n \frac{d^n \hat{f}(\omega)}{d\omega^n}</math> |<math>i^n \frac{d^n \hat{f}(\nu)}{d\nu^n}</math> | 106の[[双対]] |- | 108 |<math>(f * g)(x)\,</math> |<math>\hat{f}(\xi) \hat{g}(\xi)\,</math> |<math>\sqrt{2\pi} \hat{f}(\omega) \hat{g}(\omega)\,</math> |<math>\hat{f}(\nu) \hat{g}(\nu)\,</math> | ''f'' &lowast; ''g'' は ''f'' と ''g'' との畳み込みである。この公式は畳み込み定理と呼ばれる。 |- | 109 |<math>f(x) g(x)\,</math> |<math>(\hat{f} * \hat{g})(\xi)\,</math> |<math>(\hat{f} * \hat{g})(\omega) \over \sqrt{2\pi}\,</math> |<math>\frac{1}{2\pi}(\hat{f} * \hat{g})(\nu)\,</math> |108の[[双対]] |- |110 |純実[[偶関数]]<math>f(x)</math> |colspan="3" align="center"|<math>\hat{f}(\omega),\,\hat{f}(\xi),\,\hat{f}(\nu)\,</math> はいずれも純実[[偶関数]] |[[正弦・余弦変換]]も参照 |- | 111 |純実[[奇関数]]<math>f(x)</math> |colspan="3" align="center"|<math>\hat{f}(\omega),\, \hat{f}(\xi),\, \hat{f}(\nu)</math> はいずれも純虚[[奇関数]] | |} === 自乗絶対可積分函数 === 以下の表におけるフーリエ変換は {{harv|Campbell|Foster|1948}}, {{harv|Erdélyi|1954}} あるいは {{harv|Kammler|2000}} の付録に見つけることができる。 {| class="wikitable" ! !! もとの函数 !! ユニタリ・周波に関するフーリエ変換 !! ユニタリ・角周波に関するフーリエ変換 !! 非ユニタリ・角周波に関するフーリエ変換 !! 備考 |- | |align="center"|<math> f(x)</math> |align="center"|<math> \hat{f}(\xi)=</math> <math>\int_{-\infty}^{\infty}f(x) e^{-2\pi ix\xi}\,dx</math> |align="center"|<math> \hat{f}(\omega)=</math> <math>\frac{1}{\sqrt{2 \pi}} \int_{-\infty}^{\infty} f(x) e^{-i \omega x}\, dx</math> |align="center"|<math> \hat{f}(\nu)=</math> <math>\int_{-\infty}^{\infty} f(x) e^{-i\nu x}\, dx</math> | |- | 201 |<math>\operatorname{rect}(a x) \,</math> |<math>\frac{1}{|a|}\cdot \operatorname{sinc}\left(\frac{\xi}{a}\right)</math> |<math>\frac{1}{\sqrt{2 \pi a^2}}\cdot \operatorname{sinc}\left(\frac{\omega}{2\pi a}\right)</math> |<math>\frac{1}{|a|}\cdot \operatorname{sinc}\left(\frac{\nu}{2\pi a}\right)</math> |[[矩形波]]と標準化された[[sinc関数]]で[[sinc関数]]はsinc(''x'') = sin(''πx'')/(''πx'')で表される |- | 202 |<math> \operatorname{sinc}(a x)\,</math> |<math>\frac{1}{|a|}\cdot \operatorname{rect}\left(\frac{\xi}{a} \right)\,</math> |<math>\frac{1}{\sqrt{2\pi a^2}}\cdot \operatorname{rect}\left(\frac{\omega}{2 \pi a}\right)</math> |<math>\frac{1}{|a|}\cdot \operatorname{rect}\left(\frac{\nu}{2 \pi a}\right)</math> |201の[[双対]]で矩形波は理想的な[[ローパスフィルター]]である。[[sinc関数]]はそのようなフィルターの非因果波応答である。 |- | 203 |<math> \operatorname{sinc}^2 (a x)</math> |<math> \frac{1}{|a|}\cdot \operatorname{tri} \left( \frac{\xi}{a} \right) </math> |<math> \frac{1}{\sqrt{2\pi a^2}}\cdot \operatorname{tri} \left( \frac{\omega}{2\pi a} \right) </math> |<math> \frac{1}{|a|}\cdot \operatorname{tri} \left( \frac{\nu}{2\pi a} \right) </math> | tri(''x'')は[[三角形関数]]である。 |- | 204 |<math> \operatorname{tri} (a x)</math> |<math>\frac{1}{|a|}\cdot \operatorname{sinc}^2 \left( \frac{\xi}{a} \right) \,</math> |<math>\frac{1}{\sqrt{2\pi a^2}} \cdot \operatorname{sinc}^2 \left( \frac{\omega}{2\pi a} \right) </math> |<math>\frac{1}{|a|} \cdot \operatorname{sinc}^2 \left( \frac{\nu}{2\pi a} \right) </math> | 203の双対 |- | 205 |<math> e^{- a x} u(x) \,</math> |<math>\frac{1}{a + 2 \pi i \xi}</math> |<math>\frac{1}{\sqrt{2 \pi} (a + i \omega)}</math> |<math>\frac{1}{a + i \nu}</math> | ''u''(''x'')はヘビサイドの単位ステップ関数であり、''a''&gt;0 |- | 206 |<math>e^{-\alpha x^2}\,</math> |<math>\sqrt{\frac{\pi}{\alpha}}\cdot e^{-\frac{(\pi \xi)^2}{\alpha}}</math> |<math>\frac{1}{\sqrt{2 \alpha}}\cdot e^{-\frac{\omega^2}{4 \alpha}}</math> |<math>\sqrt{\frac{\pi}{\alpha}}\cdot e^{-\frac{\nu^2}{4 \alpha}}</math> | これが示すものは、ガウス関数exp(&minus;''αx''<sup>2</sup>)で''α''を選んだ場合はユニタリフーリエ変換である。 Re(''α'')&gt;0で積分可能である |- | 207 |<math>\operatorname{e}^{-a|x|} \,</math> |<math> \frac{2 a}{a^2 + 4 \pi^2 \xi^2} </math> |<math> \sqrt{\frac{2}{\pi}} \cdot \frac{a}{a^2 + \omega^2} </math> |<math> \frac{2a}{a^2 + \nu^2} </math> |''a>0''である |- | 208 |<math> \frac{J_n (x)}{x} \,</math> |<math> \frac{2 i}{n} (-i)^n \cdot U_{n-1} (2 \pi \xi)\,</math><br> &nbsp; <math>\cdot \ \sqrt{1 - 4 \pi^2 \xi^2} \operatorname{rect}( \pi \xi ) </math> |<math> \sqrt{\frac{2}{\pi}} \frac{i}{n} (-i)^n \cdot U_{n-1} (\omega)\,</math><br> &nbsp; <math>\cdot \ \sqrt{1 - \omega^2} \operatorname{rect} \left( \frac{\omega}{2} \right) </math> |<math> \frac{2 i}{n} (-i)^n \cdot U_{n-1} (\nu)\,</math><br> &nbsp; <math>\cdot \ \sqrt{1 - \nu^2} \operatorname{rect} \left( \frac{\nu}{2} \right) </math> |関数''J<sub>n</sub>'' (''x'')は、''n''次の第1種ベッセル関数である。関数''U<sub>n</sub>'' (''x'')は第2種チェビシェフ多項式である。下記315と316を参照 |- | 209 |<math>\operatorname{sech}(a x) \,</math> |<math>\frac{\pi}{a} \operatorname{sech} \left( \frac{\pi^2}{ a} \xi \right)</math> |<math>\frac{1}{a}\sqrt{\frac{\pi}{2}}\operatorname{sech}\left( \frac{\pi}{2 a} \omega \right)</math> |<math>\frac{\pi}{a}\operatorname{sech}\left( \frac{\pi}{2 a} \nu \right)</math> |双曲線正割は自分自身をフーリエ変換したものである |} === 超函数 === 以下の表におけるフーリエ変換は {{harv|Erdélyi|1954}} あるいは {{harv|Kammler|2000}} の付録に見つけることができる。 {| class="wikitable" ! !! もとの函数 !! ユニタリ・周波に関するフーリエ変換 !! ユニタリ・角周波に関するフーリエ変換 !! 非ユニタリ・角周波に関するフーリエ変換 !! 備考 |- | |align="center"|<math> f(x)\,</math> |align="center"|<math> \hat{f}(\xi)=</math> <math>\int_{-\infty}^{\infty}f(x) e^{-2\pi ix\xi}\,dx</math> |align="center"|<math> \hat{f}(\omega)=</math> <math>\frac{1}{\sqrt{2 \pi}} \int_{-\infty}^{\infty} f(x) e^{-i \omega x}\, dx</math> |align="center"|<math> \hat{f}(\nu)=</math> <math>\int_{-\infty}^{\infty} f(x) e^{-i\nu x}\, dx</math> | |- | 301 |<math>1</math> |<math>\delta(\xi)\,</math> |<math>\sqrt{2\pi}\cdot \delta(\omega)</math> |<math>2\pi\delta(\nu)\,</math> |&delta;(&xi;) は[[ディラックのデルタ関数]] |- | 302 |<math>\delta(x)\,</math> |<math>1</math> |<math>\frac{1}{\sqrt{2\pi}}\,</math> |<math>1</math> |301の双対 |- | 303 |<math>e^{i a x}\,</math> |<math>\delta\left(\xi - \frac{a}{2\pi}\right)</math> |<math>\sqrt{2 \pi}\cdot \delta(\omega - a)</math> |<math>2 \pi\delta(\nu - a)\,</math> |103と301より導かれる。 |- | 304 |<math>\cos (a x)\,</math> |<math>\frac{\displaystyle \delta\left(\xi - \frac{a}{2\pi}\right)+\delta\left(\xi+\frac{a}{2\pi}\right)}{2}</math> |<math>\sqrt{2 \pi}\cdot\frac{\delta(\omega-a)+\delta(\omega+a)}{2}\,</math> |<math>\pi\left(\delta(\nu-a)+\delta(\nu+a)\right)</math> |101、303と[[オイラーの公式]]:<math>\displaystyle\cos(a x) = (e^{i a x} + e^{-i a x})/2.</math>より導かれる。 |- | 305 |<math>\sin( ax)\,</math> |<math>i\cdot\frac{\displaystyle\delta\left(\xi+\frac{a}{2\pi}\right)-\delta\left(\xi-\frac{a}{2\pi}\right)}{2}</math> |<math>i\sqrt{2 \pi}\cdot\frac{\delta(\omega+a)-\delta(\omega-a)}{2}</math> |<math>i\pi\left(\delta(\nu+a)-\delta(\nu-a)\right)</math> |101、303と <math>\displaystyle\sin(a x) = (e^{i a x} - e^{-i a x})/(2i).</math> より導かれる。 |- | 306 |<math>\cos ( a x^2 ) \,</math> |<math> \sqrt{\frac{\pi}{a}} \cos \left( \frac{\pi^2 \xi^2}{a} - \frac{\pi}{4} \right) </math> |<math> \frac{1}{\sqrt{2 a}} \cos \left( \frac{\omega^2}{4 a} - \frac{\pi}{4} \right) </math> |<math> \sqrt{\frac{\pi}{a}} \cos \left( \frac{\nu^2}{4 a} - \frac{\pi}{4} \right) </math> | |- | 307 |<math>\sin ( a x^2 ) \,</math> |<math> - \sqrt{\frac{\pi}{a}} \sin \left( \frac{\pi^2 \xi^2}{a} - \frac{\pi}{4} \right) </math> |<math> \frac{-1}{\sqrt{2 a}} \sin \left( \frac{\omega^2}{4 a} - \frac{\pi}{4} \right) </math> |<math>-\sqrt{\frac{\pi}{a}}\sin \left( \frac{\nu^2}{4 a} - \frac{\pi}{4} \right)</math> | |- | 308 |<math>x^n\,</math> |<math>\left(\frac{i}{2\pi}\right)^n \delta^{(n)} (\xi)\,</math> |<math>i^n \sqrt{2\pi} \delta^{(n)} (\omega)\,</math> |<math>2\pi i^n\delta^{(n)} (\nu)\,</math> |''n'' は[[自然数]]、 &delta;<sup>(''n'' )</sup>(&xi;) はディラックのデルタ関数の''n'' 階微分。107と301より導かれる。さらに101と組み合わせることで、任意の[[多項式]]を変換できる。 |- | 309 |<math>\frac{1}{x}\,</math> |<math>-i\pi\sgn(\xi)\,</math> |<math>-i\sqrt{\frac{\pi}{2}}\sgn(\omega)</math> |<math>-i\pi\sgn(\nu)\,</math> |sgn(&xi;) は[[符号関数]]。1/''x'' は超関数ではないことに注意。シュワルツ関数に対してテストするときに[[コーシーの主値]]を使用する必要がある。この規則は[[ヒルベルト変換]]を研究するとき有用である。 |- | 310 |<math>\frac{1}{x^n}</math> |<math>-i\pi \frac{(-2\pi i\xi)^{n-1}}{(n-1)!} \sgn(\xi)</math> |<math>-i\sqrt{\frac{\pi}{2}}\cdot \frac{(-i\omega)^{n-1}}{(n-1)!}\sgn(\omega)</math> |<math>-i\pi \frac{(-i\nu)^{n-1}}{(n-1)!}\sgn(\nu)</math> |309の一般化 |- | 311 |<math> \frac{1}{\sqrt{|x|}} \,</math> |<math> \frac{1}{\sqrt{|\xi|}} </math> |<math> \frac{1}{\sqrt{|\omega|}}</math> |<math> \frac{\sqrt{2\pi}}{\sqrt{|\nu|}} </math> | |- | 312 |<math>\sgn(x) \,</math> |<math>\frac{1}{i\pi \xi}</math> |<math>\sqrt{\frac{2}{\pi}}\cdot \frac{1}{i\omega }\,</math> |<math>\frac{2}{i\nu }</math> |309の双対。積分は[[コーシーの主値]]を考える。 |- | 313 |<math>u(x)\,</math> |<math>\frac{1}{2}\left(\frac{1}{i \pi \xi} + \delta(\xi)\right)</math> |<math>\sqrt{\frac{\pi}{2}} \left( \frac{1}{i \pi \omega} + \delta(\omega)\right)</math> |<math>\pi\left( \frac{1}{i \pi \nu} + \delta(\nu)\right)</math> |''u'' (''x'' ) は[[ヘヴィサイドの階段関数]]。101、301および312より導かれる。 |- | 314 |<math>\sum_{n=-\infty}^{\infty} \delta (x - n T)</math> |<math>\frac{1}{T} \sum_{k=-\infty}^{\infty} \delta \left( \xi -\frac{k }{T}\right)</math> |<math>\frac{\sqrt{2\pi }}{T}\sum_{k=-\infty}^{\infty} \delta \left( \omega -\frac{2\pi k}{T}\right)</math> |<math>\frac{2\pi}{T}\sum_{k=-\infty}^{\infty} \delta \left( \nu -\frac{2\pi k}{T}\right)</math> |この関数は[[くし型関数]]といわれる。302、102および、超関数として <math>\sum_{n=-\infty}^{\infty} e^{inx}=\sum_{k=-\infty}^{\infty} \delta(x+2\pi k)</math> であることから導かれる。 |- | 315 |<math> J_0 (x)\,</math> |<math> \frac{2\, \operatorname{rect}(\pi\xi)}{\sqrt{1 - 4 \pi^2 \xi^2}} </math> |<math> \sqrt{\frac{2}{\pi}} \cdot \frac{\operatorname{rect}\left( \displaystyle \frac{\omega}{2} \right)}{\sqrt{1 - \omega^2}} </math> |<math> \frac{2\,\operatorname{rect}\left(\displaystyle\frac{\nu}{2} \right)}{\sqrt{1 - \nu^2}}</math> |''J''<sub>0</sub> (''x'' ) は0次の第1種[[ベッセル関数]] |- | 316 |<math>J_n (x)\,</math> |<math> \frac{2 (-i)^n T_n (2 \pi \xi) \operatorname{rect}(\pi \xi)}{\sqrt{1 - 4 \pi^2 \xi^2}} </math> |<math> \sqrt{\frac{2}{\pi}} \frac{ (-i)^n T_n (\omega) \operatorname{rect} \left( \displaystyle\frac{\omega}{2} \right)}{\sqrt{1 - \omega^2}} </math> |<math> \frac{2(-i)^n T_n (\nu) \operatorname{rect} \left(\displaystyle \frac{\nu}{2} \right)}{\sqrt{1 - \nu^2}} </math> |315の一般化。''J<sub>n</sub>'' (''x'' ) は''n'' 次の第1種[[ベッセル関数]]、''T<sub>n</sub>'' (''x'' ) は第1種[[チェビシェフ多項式]]。 |} === 二変数函数 === {| class="wikitable" ! !! もとの函数 !! ユニタリ・周波に関するフーリエ変換 !! ユニタリ・角周波に関するフーリエ変換 !! 非ユニタリ・角周波に関するフーリエ変換 !! 備考 |- | |align="center"|<math> f(x,y)</math> |align="center"|<math> \hat{f}(\xi_x, \xi_y)=</math> <math>\iint f(x,y) e^{-2\pi i(\xi_x x+\xi_y y)}\,dxdy</math> |align="center"|<math> \hat{f}(\omega_x,\omega_y)=</math> <math>\frac{1}{2 \pi} \iint f(x,y) e^{-i (\omega_x x +\omega_y y)}\, dxdy</math> |align="center"|<math> \hat{f}(\nu_x,\nu_y)=</math> <math>\iint f(x,y) e^{-i(\nu_x x+\nu_y y)}\, dxdy</math> | &xi;''<sub>x</sub>'' , &xi;''<sub>y</sub>'' , &omega;''<sub>x</sub>'' , &omega;''<sub>y</sub>'' , &nu;''<sub>x</sub>'' , &nu;''<sub>y</sub>'' は実変数。積分領域は全平面である。 |- |401 |align="center"|<math>e^{-\pi\left(a^2x^2+b^2y^2\right)}</math> |align="center"|<math>\frac{1}{|ab|} e^{-\pi\left(\xi_x^2/a^2 + \xi_y^2/b^2\right)}</math> |align="center"|<math>\frac{1}{2\pi\cdot|ab|} e^{\frac{-\left(\omega_x^2/a^2 + \omega_y^2/b^2\right)}{4\pi}}</math> |align="center"|<math>\frac{1}{|ab|} e^{\frac{-\left(\nu_x^2/a^2 + \nu_y^2/b^2\right)}{4\pi}}</math> | 両方のガウス関数は規格化されている必要はない。 |- |402 |<math>\mathrm{circ}(\sqrt{x^2+y^2})</math> |align="center"|<math> \frac{J_1\left(2 \pi \sqrt{\xi_x^2+\xi_y^2}\right)}{\sqrt{\xi_x^2+\xi_y^2}}</math> |align="center"|<math> \frac{J_1\left(\sqrt{\omega_x^2+\omega_y^2}\right)}{\sqrt{\omega_x^2+\omega_y^2}}</math> |align="center"|<math> \frac{2\pi J_1\left(\sqrt{\nu_x^2+\nu_y^2}\right)}{\sqrt{\nu_x^2+\nu_y^2}}</math> | 元の函数は circ(''r'' ) = 1 (0&le;''r'' &le;1), and 0 (otherwise) で定義される。これはエアリー分布であり、1次の第1種ベッセル函数 ''J''<sub>1</sub> で表される{{sfn|Stein|Weiss|1971|loc=Thm. IV.3.3}}。 |} === 一般の ''n''-変数函数 === {| class="wikitable" ! !! もとの函数 !! ユニタリ・周波に関するフーリエ変換 !! ユニタリ・角周波に関するフーリエ変換 !! 非ユニタリ・角周波に関するフーリエ変換 !! 備考 |- | |align="center"|<math> f(x)\,</math> |align="center"|<math> \hat{f}(\xi)=</math> <math>\int_{\mathbb{R}^n}f(x) e^{-2\pi i x\cdot\xi }\, dx </math> |align="center"|<math> \hat{f}(\omega)=</math><math>\frac{1}{{(2 \pi)}^{(n/2)}} \int_{\mathbb{R}^n} f(x) e^{-i \omega\cdot x}\, dx </math> |align="center"|<math> \hat{f}(\nu)=</math> <math>\int_{\mathbb{R}^n}f(x) e^{-i x\cdot\nu }\, dx </math> | |- |501 |<math>\chi_{[0,1]}(|x|)(1-|x|^2)^\delta\,</math> |align="center"|<math>\pi^{-\delta}\Gamma(\delta+1)|\xi|^{-(n/2)-\delta}\,</math><br><math>\cdot J_{n/2+\delta}(2\pi|\xi|)</math> |align="center"|<math> 2^{-\delta}\Gamma(\delta+1)\left|\omega\right|^{-(n/2)-\delta}</math><br><math>\cdot J_{n/2+\delta}(|\omega|)</math> |align="center"|<math> \pi^{-\delta}\Gamma(\delta+1)\left|\frac{\nu}{2\pi}\right|^{-(n/2)-\delta}</math><br><math>\cdot J_{n/2+\delta}(|\nu|)</math> | &chi;<sub>[0,1]</sub> は区間 [0, 1] の[[指示関数]]、&Gamma;(''x'' ) はガンマ関数、''J''<sub>''n'' /2+&delta;</sub> は''n'' /2 + &delta;次の第1種ベッセル関数である。''n'' = 2 および&delta; = 0とすると402を得る{{sfn|Stein|Weiss|1971|loc=Thm. 4.13}}。 |} == 関連項目 == {{div col||30em}} *[[フーリエ級数]] *[[フーリエ級数の収束]] *[[フーリエ解析]] *[[微分方程式]] *[[高速フーリエ変換]] *[[ラプラス変換]] *[[離散フーリエ変換]] **[[DFT行列]] *[[離散時間フーリエ変換]] *[[分数階フーリエ変換]] *{{仮リンク|線型正準変換|en|Linear canonical transformation}} *[[フーリエ正弦変換]] *[[短時間フーリエ変換]] *{{仮リンク|量子フーリエ変換|en|Quantum Fourier transform}} *[[アナログ信号処理]] *[[変換 (数学)]] *[[擬微分作用素]] *{{仮リンク|フーリエ–ドリーニュ変換|en|Fourier–Deligne transform}} *{{仮リンク|フーリエ–向井変換|en|Fourier–Mukai transform}} *[[フーリエ–佐藤変換]] *[[量子フーリエ変換 (量子群)]] {{div col end}} == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|25em}} == 参考文献 == {{No footnotes|date=February 2008|section=1}} *{{cite book |last1 = Bochner |first1 = S.|authorlink1=サロモン・ボホナー|last2=Chandrasekharan |first2=K.|authorlink2=:en:K. S. Chandrasekharan| title=Fourier Transforms | publisher= [[:en:Princeton University Press|Princeton University Press]] | date=1949|ref=harv}} * {{citation|first=R. N.|last=Bracewell|title=The Fourier Transform and Its Applications|edition=3rd|publication-place=Boston|publisher=[[:en:McGraw-Hill|McGraw-Hill]]|year=2000}}. * {{citation|first1=George|last1=Campbell|first2=Ronald|last2=Foster|title=Fourier Integrals for Practical Applications|publication-place=New York|publisher=D. Van Nostrand Company, Inc.|year=1948}}. * {{citation|last=Duoandikoetxea|first=Javier|title=Fourier Analysis|publisher=[[American Mathematical Society]]|year=2001|isbn=0-8218-2172-5}}. * {{citation|last1=Dym|first1=H|first2=H|last2=McKean|authorlink1=Harry Dym|title=Fourier Series and Integrals|publisher=Academic Press|year=1985|isbn=978-0122264511}}. * {{citation|editor-last=Erdélyi|editor-first=Arthur|title=Tables of Integral Transforms|volume=1|publication-place=New Your|publisher=McGraw-Hill|year=1954}} * {{citation|first=Loukas|last=Grafakos|title=Classical and Modern Fourier Analysis|publisher=Prentice-Hall|year=2004|isbn=0-13-035399-X}}. * {{citation|first=L.|last=Hörmander|authorlink=jp:ラース・ヘルマンダー|title=Linear Partial Differential Operators, Volume 1|publisher=[[:de:Springer-Verlag|Springer-Verlag]]|year=1976|isbn=978-3540006626}}. *{{citation|first = J.F.|last = James|title=A Student's Guide to Fourier Transforms|edition=2nd|publication-place=New York|publisher=Cambridge University Press|year=2002|isbn=0-521-00428-4}}. * {{citation|first=Gerald|last=Kaiser|title=A Friendly Guide to Wavelets|year=1994|publisher=Birkhäuser|isbn=0-8176-3711-7}} * {{citation|first=David|last=Kammler|title=A First Course in Fourier Analysis|year=2000|publisher=Prentice Hall|isbn=0-13-578782-3}} * {{citation|first=Yitzhak|last=Katznelson|title=An introduction to Harmonic Analysis|year=1976|publisher=Dover|isbn=0-486-63331-4}} * {{citation|first=Mark|last=Pinsky|title=Introduction to Fourier Analysis and Wavelets|year=2002|publisher=Brooks/Cole|isbn=0-534-37660-6}} * {{citation|first1=A. D.|last1=Polyanin|first2=A. V.|last2=Manzhirov|title=Handbook of Integral Equations|publisher=CRC Press|publication-place=Boca Raton|year=1998|isbn=0-8493-2876-4}}. * {{citation|first=Walter|last=Rudin|title=Real and Complex Analysis| edition=Third|year=1987|isbn=0-07-100276-6|publisher=McGraw-Hill|location=Singapore}}. * {{citation|first1=Elias|last1=Stein|first2=Rami|last2=Shakarchi|title=Fourier Analysis: An introduction|publisher=Princeton University Press|year=2003|isbn=0-691-11384-X}}. * {{citation|last1=Stein|first1=Elias|first2=Guido|last2=Weiss|title=Introduction to Fourier Analysis on Euclidean Spaces |year=1971|isbn=978-0-691-08078-9|publisher=Princeton University Press|location=Princeton, N.J.}}. * {{citation|first=R. G.|last=Wilson|title=Fourier Series and Optical Transform Techniques in Contemporary Optics|year=1995|isbn=0471303577|publisher=Wiley|location=New York}}. * {{citation|first=K.|last=Yosida|authorlink=吉田耕作|title=Functional Analysis|publisher=Springer-Verlag|year=1968|isbn=3-540-58654-7}}. == 外部リンク == * [http://www.westga.edu/~jhasbun/osp/Fourier.htm Fourier Series Applet] (Tip: drag magnitude or phase dots up or down to change the wave form). * [http://eqworld.ipmnet.ru/en/auxiliary/aux-inttrans.htm Tables of Integral Transforms] at EqWorld: The World of Mathematical Equations. * {{MathWorld | urlname= FourierTransform | title= Fourier Transform}} * [http://math.fullerton.edu/mathews/c2003/FourierTransformMod.html Fourier Transform Module by John H. Mathews] * [http://www.dspdimension.com/admin/dft-a-pied/ The DFT “à Pied”: Mastering The Fourier Transform in One Day] at The DSP Dimension * [http://talkera.org.cp-in-1.webhostbox.net/wp/?p=89 FFT in Python] *{{britannica|topic|Fourier-transform|Fourier-transform (mathematics)}} *{{Kotobank|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}} {{Normdaten}} {{制御理論}} {{データ圧縮}} {{Analysis-footer}} {{DEFAULTSORT:ふうりえへんかん}} [[Category:フーリエ解析]] [[Category:積分変換]] [[Category:ユニタリ作用素]] [[Category:時系列分析]] [[Category:数理物理学]] [[Category:ジョゼフ・フーリエ]] [[Category:数学のエポニム]] [[Category:数学に関する記事]]
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数学的帰納法
数学的帰納法(すうがくてききのうほう、英: mathematical induction)は、数学における証明の手法の一つである。 例えば自然数に関する命題 P(n) が全ての自然数 n に対して成り立つことを証明するために、次のような手続きを行う。 自然数に関するペアノの公理の中に、ほぼ等価なものが含まれている。 なお、数学的「帰納」法という名前がつけられているが、数学的帰納法を用いた証明は帰納ではなく、純粋に自然数の構造に依存した演繹論理の一種である。2 により次々と命題の正しさが"伝播"されていき、任意の自然数に対して命題が証明されていく様子が帰納のように見えるためこのような名前がつけられた。ジョン・ウォリスによって、彼の著作Arithmetica Infinitorumの中で、この方法にinductionという名前が与えられたとされる。 高校の教科書等の初等的な解説書ではドミノ倒しに例えて数学的帰納法を説明しているものも多い。P(n) を「n 枚目のドミノが倒れる」の意味だとすれば、上の論法は以下のようになる: 数学的帰納法が成り立つ直観的理由は以下の通りである。まず1より が正しいことが分かる。次に k = 1, 2, ... に対して 2 を適用することで、 が分かる。(a), (b) より、P(2) が成り立ち、この事実と (c) を組み合わせることにより P(3) が従う。以下同様に P(4), P(5), ... も従い、結局3の が結論づけられる。 ただし、以上の議論はあくまで数学的帰納法が成り立つ理由の直観的説明であって、1, 2 と 3 の間にはギャップがある。詳しくは後述の「数学的帰納法の形式的な取り扱い」の項目を参照されたい。 数学的帰納法が成り立つことを数学的帰納法の原理といい、ペアノの公理Vが数学的帰納法の原理そのものを表している。もし、公理Vを用いて、数学的帰納法をあえて証明するならば、以下のように示すことができる。 自然数の集合を N {\displaystyle \mathbb {N} } とし、命題 P ( n ) {\displaystyle P(n)} が成り立つ n {\displaystyle n} の集合を M {\displaystyle M} とする。 M ≡ { n ∈ N ∣ P ( n ) } {\displaystyle M\equiv \{n\in \mathbb {N} \mid P(n)\}} (1) 数学的帰納法の仮定により、 1 {\displaystyle 1} は M {\displaystyle M} の要素である。 1 ∈ M {\displaystyle 1\in M} (2) 任意に自然数 r {\displaystyle r} をとる。 r ∈ M {\displaystyle r\in M} を仮定すると、 M {\displaystyle M} の定義によって P ( r ) {\displaystyle P(r)} が成り立つ。このとき、数学的帰納法の手順より、 P ( r + 1 ) {\displaystyle P(r+1)} も成り立つ。ふたたび、 M {\displaystyle M} の定義によって r + 1 ∈ M {\displaystyle r+1\in M} である。これにより ∀ r . r ∈ M ⇒ r + 1 ∈ M {\displaystyle \forall r.\,r\in M\Rightarrow r+1\in M} が示されたことになる。 (1) および (2) により、ペアノの公理Vによって N ⊆ M {\displaystyle \mathbb {N} \subseteq M} が得られる。部分集合の定義により、これは ∀ n ∈ N . P ( n ) {\displaystyle \forall n\in \mathbb {N} .\,P(n)} であることを意味する。(証明終) 数学的帰納法には次のようなバリエーションもあり、場合によってはこれらを用いる必要がある。これらのバリエーションの正しさは、上で述べた標準的な形の数学的帰納法を用いて示すことができる。 変数変換によって明らかなように、変数 n が表す範囲は n → n + 1 という操作で閉じていれば {1, 2, ...} である必要はなく、0 を自然数に含めることにしたり、あるいは任意の整数 m に関する {m, m + 1, ...} という範囲でもよいことになる。 例えば n → n + 1 ではなく、n → n + 2 で証明し、開始点が P(2) であれば、全ての正の偶数で証明できる。バリエーションとしては、P(2) から n → n + 2 で正の偶数を証明し、P(1) から n → n + 2 で正の奇数を証明し、よって全ての自然数で成立するという証明方法もある。他にも、P(0) から n → n + 1 と n → n − 1 を両方証明し、全ての整数で成立することを証明するという場合もある。 仮定として P(k) だけでなく P(1) から P(k − 1) までのすべて(もしくは一部)を用いる。これを完全帰納法(英: complete induction、これは同じく完全帰納法と訳される perfect induction とは別物)もしくは累積帰納法(英: course of values induction)という。 無限降下法とは、背理法を用いて ∀ n ∈ N . 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に見ることができる。通常とは逆に、パラメータとなる自然数が減少していく逐次的な論法は、砂山のパラドックスにみられる。つまり、10,000粒の砂粒が砂山を形成し、そこから一粒の砂を取り除いても砂山が残るならば、一粒だけ残った砂(或いは全ての粒を取り去った後)でもなお砂山を形成するといえる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "等差数列について暗黙に数学的帰納法を用いた証明は、紀元 1000年ごろにアル=カラジ(英語版)による \"al-Fakhri\" に扱われている。アル=カラジは二項定理やパスカルの三角形を示すのに数学的帰納法を用いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "しかし、これらの古代の数学者たちは帰納法の仮定を明示することはしていない。別の似た例としては(Freudenthal が注意深く示したように、Vacca が著したものとは対立するが)、フランチェスコ・マウロリコ(英語版)が 1575年の著作 \"Arithmeticorum libri duo\" にて最初の n 個の奇数の和が n に等しいことを示す際にこの技術を用いている。明示された形での数学的帰納法の原理はパスカルがその著作 \"Traité du triangle arithmétique\" (1655)にて与えた。フランス人フェルマーは、帰納法と関連する、無限降下法による間接的な証明をうまく使っている。帰納法の仮定はヤコブ・ベルヌーイによっても使われ、以後多少よく知られるようになった。現代的な厳密さをもち体系的な数学的帰納法の原理の扱いは 19世紀に入ってジョージ・ブール、オーガスタス・ド・モルガン、チャールズ・サンダース・パース、ジュゼッペ・ペアノ、 リヒャルト・デーデキントによって為された。", "title": "歴史" } ]
数学的帰納法は、数学における証明の手法の一つである。 例えば自然数に関する命題 P(n) が全ての自然数 n に対して成り立つことを証明するために、次のような手続きを行う。 P(1) が成り立つことを示す。 任意の自然数 k に対して、「P(k) ⇒ P(k + 1)」が成り立つことを示す。 1と2の議論から任意の自然数 n について P(n) が成り立つことを結論づける。
'''数学的帰納法'''(すうがくてききのうほう、{{lang-en-short|''mathematical induction''}})は、[[数学]]における[[証明 (数学)|証明]]の手法の一つである。 例えば[[自然数]]に関する命題 {{math|''P''(''n'')}} が全ての自然数 {{mvar|n}} に対して成り立つことを証明するために、次のような手続きを行う<ref group="注">自然数の定義は {{math|0}} を含む流儀とそうでない流儀があるが、ここでは後者を採用した。{{math|0}}を含むとする場合には、{{math|''P''(1)}} が成り立つことを示す代わりに{{math|''P''(0)}} が成り立つことを示す。</ref>。 # {{math|''P''(1)}} が成り立つことを示す。 # 任意の自然数 {{mvar|k}} に対して、「{{math|''P''(''k'') &rArr; ''P''(''k'' + 1)}}」が成り立つことを示す。 # 1と2の議論から任意の自然数 {{mvar|n}} について {{math|''P''(''n'')}} が成り立つことを結論づける。 == 概要 == [[自然数]]に関する[[ペアノの公理]]の中に、ほぼ等価なものが含まれている。 なお、数学的「帰納」法という名前がつけられているが、数学的帰納法を用いた証明は[[帰納]]ではなく、純粋に自然数の構造に依存した[[演繹]]論理の一種である。2 により次々と命題の正しさが"伝播"されていき、任意の自然数に対して命題が証明されていく様子が帰納のように見えるためこのような名前がつけられた<ref>[https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=68448?site=nli 「数学的帰納法」って何でしたっけ-「帰納法」と「演繹法」-] - [[ニッセイ基礎研究所]]</ref>。[[ジョン・ウォリス]]によって、彼の著作''Arithmetica Infinitorum''の中で、この方法にinductionという名前が与えられたとされる<ref>{{cite web|title=Mathematical Induction Provides A Tool For Proving Large Problems By Proceeding Through The Solution Of Smaller Increments |website= Encyclopedia.com |url=https://www.encyclopedia.com/science/encyclopedias-almanacs-transcripts-and-maps/mathematical-induction-provides-tool-proving-large-problems-proceeding-through-solution-smaller |accessdate=2020-09-08}}</ref><ref>{{Cite journal |title= Origin of the Name "Mathematical Induction" |author=Florian Cajori |publisher= Taylor & Francis, Ltd |url=https://www.jstor.org/stable/2972638?seq=2#page_scan_tab_contents |journal=The American Mathematical Monthly|volume= 25 |number=5 |year=1918 |doi=10.2307/2972638 |authorlink=フロリアン・カジョリ}}</ref>。<!-- 教科書ではないので、「高校生にわかるように」特定の情報を隠すべきではないと思う --> <!--これは誤解を招きかねないので、やめたほうがよい --> == 直観的説明 == 高校の教科書等の初等的な解説書では[[ドミノ倒し]]に例えて数学的帰納法を説明しているものも多い。{{math|''P''(''n'')}} を「{{mvar|n}} 枚目のドミノが倒れる」の意味だとすれば、上の論法は以下のようになる: # 1枚目のドミノが倒れることを示す。 # 任意の自然数 {{mvar|k}} に対して、「{{mvar|k}} 枚目のドミノが倒れるならば {{math|''k'' + 1}} 枚目のドミノが倒れる」ことを示す。 # 以上の議論から全てのドミノが倒れることが結論づけられる。 数学的帰納法が成り立つ直観的理由は以下の通りである。まず1より : (a) {{math|''P''(1)}} が正しいことが分かる。次に {{math|1=''k'' = 1, 2, ...}} に対して 2 を適用することで、 : (b) {{math|''P''(1) &rArr; ''P''(2)}}, : (c) {{math|''P''(2) &rArr; ''P''(3)}}, : … が分かる。(a), (b) より、{{math|''P''(2)}} が成り立ち、この事実と (c) を組み合わせることにより {{math|''P''(3)}} が従う。以下同様に {{math2|''P''(4), ''P''(5), …}} も従い、結局3の : 全ての自然数 {{mvar|n}} に対し {{math|''P''(''n'')}} が成り立つ が結論づけられる。 ただし、以上の議論はあくまで数学的帰納法が成り立つ理由の直観的説明であって、1, 2 と 3 の間にはギャップがある。詳しくは後述の「数学的帰納法の形式的な取り扱い」の項目を参照されたい。 == 証明 == 数学的帰納法が成り立つことを数学的帰納法の原理といい、[[ペアノの公理]]Ⅴ<ref group="注">リンク先のペアノの公理5.は数学的帰納法そのままの形をしているが、そうではなく、本稿で言うところの公理Vは原典に類似した次のような形式のものである:「集合 <math>M</math> が (1) <math>1\in M</math>、および (2) すべての自然数 <math>r</math> において、<math>r\in M \Rightarrow r+1 \in M</math>、を満たすならば <math>\mathbb{N}\subseteq M</math> である。」</ref>が数学的帰納法の原理そのものを表している。もし、公理Vを用いて、数学的帰納法をあえて証明するならば、以下のように示すことができる。  自然数の集合を <math>\mathbb{N}</math> とし、命題 <math>P(n)</math> が成り立つ <math>n</math> の集合を <math>M</math> とする。              <math>M \equiv \{ n \in \mathbb{N} \mid P(n) \}</math>  (1) 数学的帰納法の仮定により、<math>1</math> は <math>M</math> の要素である。              <math>1 \in M</math>  (2) 任意に自然数 <math>r</math> をとる。<math>r\in M</math> を仮定すると、<math>M</math> の定義によって <math>P(r)</math> が成り立つ。このとき、数学的帰納法の手順より、<math>P(r+1)</math> も成り立つ。ふたたび、<math>M</math> の定義によって <math>r+1\in M</math> である。これにより <math>\forall r.\,r\in M \Rightarrow r+1 \in M</math> が示されたことになる。  (1) および (2) により、ペアノの公理Vによって <math>\mathbb{N} \subseteq M</math> が得られる。部分集合の定義により、これは <math>\forall n\in\mathbb{N}.\, P(n)</math> であることを意味する。(証明終) == バリエーション == 数学的帰納法には次のようなバリエーションもあり、場合によってはこれらを用いる必要がある。これらのバリエーションの正しさは、上で述べた標準的な形の数学的帰納法を用いて示すことができる。 === 1以外から始める === 変数変換によって明らかなように、変数 {{mvar|n}} が表す範囲は {{math|''n'' &rarr; ''n'' + 1}} という操作で閉じていれば {{math|{{mset|1, 2, ...}}}} である必要はなく、{{math|0}} を自然数に含めることにしたり、あるいは任意の整数 {{mvar|m}} に関する {{math|{{mset|''m'', ''m'' + 1, ...}}}} という範囲でもよいことになる。 === +1以外 === 例えば {{math|''n'' &rarr; ''n'' + 1}} ではなく、{{math|''n'' &rarr; ''n'' + 2}} で証明し、開始点が {{math|''P''(2)}} であれば、全ての正の偶数で証明できる。バリエーションとしては、{{math|''P''(2)}} から {{math|''n'' &rarr; ''n'' + 2}} で正の偶数を証明し、{{math|''P''(1)}} から {{math|''n'' &rarr; ''n'' + 2}} で正の奇数を証明し、よって全ての自然数で成立するという証明方法もある。他にも、{{math|''P''(0)}} から {{math|''n'' &rarr; ''n'' + 1}} と {{math|''n'' &rarr; ''n'' &minus; 1}} を両方証明し、全ての整数で成立することを証明するという場合もある。 === 先立つすべての結果を用いる === 仮定として {{math|''P''(''k'')}} だけでなく {{math|''P''(1)}} から {{math|''P''(''k'' − 1)}} までのすべて(もしくは一部)を用いる。これを'''[[完全帰納法]]'''({{lang-en-short|complete induction}}、これは同じく完全帰納法と訳される [[:w:proof by exhaustion|perfect induction]] とは別物)もしくは'''[[累積帰納法]]'''({{lang-en-short|[[:w:Course-of-values recursion|course of values induction]]}})という。 :任意の自然数 {{mvar|k}} をとったとき、{{mvar|k}} より真に小さなすべての自然数 {{mvar|m}} に対して {{math|''P''(''m'')}} が真であれば、{{math|''P''(''k'')}} も真である<ref group="注">{{math|1=''k'' = 1}} のときは、{{mvar|k}} より真に小さい自然数は存在しないので、{{math|''P''(1)}} が真であることを意味する。</ref>。 :よって任意の自然数 {{mvar|n}} について {{math|''P''(''n'')}} は真である。 === 背理法を組み合わせたもの === {{main|無限降下法}} [[無限降下法]]とは、背理法を用いて <math>\forall n\in\mathbb{N}.\,P(n)</math> を証明する、次のようなパターンのことである。 :<math>P(n)</math> が成立しないような自然数 <math>n</math> が存在すると仮定し、その中で最小のものを <math>k</math> とする。次に、<math>P(k)</math> を仮定すると、「ある自然数 <math>k'<k</math> が存在して <math>P(k')</math> ではないこと」を導けることを示す。これは <math>k</math> の最小性に矛盾するから、背理法により、<math>P(n)</math> が成立しないような自然数 <math>n</math> は存在しない。すなわち、すべての自然数 <math>n</math> に対して <math>P(n)</math> が成り立つ。 この議論と前に述べた「先立つすべての結果を用いる」形の数学的帰納法の正しさは自然数全体の集合 <math>\mathbb{N}</math> が通常の大小関係 <math><</math> によって整列されていることによる。<math><</math> が <math>\mathbb{N}</math> 上の整列順序であることは、最初に述べた標準的な形の数学的帰納法を用いることで証明される。 === より一般の集合への拡張 === 数学的帰納法は自然数に関する論法だが、自然数以外の集合に対しても、集合の元を適切に順序づけることで数学的帰納法を適用できることがある。例えば[[直積集合]] {{math|'''N''' × '''N'''}} 上に[[辞書式順序]] : {{math|(''x'', ''y'') > (''x''&prime;, ''y''&prime;)}} : :⇔ ({{math2|''x'' > ''x''&prime;}}) または ({{math|1=''x'' = ''x''&prime;}} かつ {{math2|''y'' > ''y''&prime;}}) を入れることで {{math|'''N''' × '''N'''}} 上でも数学的帰納法が使える。 == 数学的帰納法の例 == 次の等式が成り立つという命題を {{math|''P''(''n'')}} とし、この命題が任意の自然数 {{mvar|n}} について成立することを数学的帰納法を用いて証明する。 : <math>1 + 2 + \cdots + n = \frac{n(n+1)}{2}.</math> まず、{{math|''P''(1)}} は右辺を計算することで、正しいことが確かめられる。 : 右辺 = (1(1+1))/2 = 1 = 左辺。 次に、任意の自然数 ''k'' をとる。''P''(''k'') は下記の通りであり、これが成立すると仮定する。 :<math>1 + 2 + \cdots + k = \frac{k(k+1)}{2}.</math> これが成立することを使い、 ''P''(''k'' + 1) の左辺を計算すると、''P''(''k'' + 1) も成立することが分かる。 :<math>1 + 2 + \cdots + k + (k+1) = (1 + 2 + \cdots + k) + (k+1) = \frac{k(k+1)}{2} + (k+1) = \frac{(k+1)(k+2)}{2}</math> 以上から、数学的帰納法により、任意の自然数 ''n'' について命題 ''P''(''n'') が成立する。(証明終) ==数学的帰納法の形式的な取り扱い== 数学的帰納法の原理を説明する前に、まず前述した直観的説明のどこにギャップがあったのかを説明する。前述の説明では、まず我々は ''P''(1) を結論づけ、次に (a), (b) から ''P''(2) を結論づけ、さらにそれと (c) を組み合わせることで ''P''(3) を結論づけ、さらにそれと(d)を組み合わせることで ''P''(4) を結論づけた。以上の議論から分かるように、''P''(2) を結論づける為には2ステップの推論、''P''(3) を結論づけるには3ステップの推論、…、''P''(100) を結論づけるには100ステップの推論が必要となる。 従って有限回のステップでは有限個の ''n'' に対してしか ''P''(''n'') を結論づけることができず、「無限個ある自然数全てに対して ''P''(''n'') が成り立つ」という数学的帰納法の結論について''有限の長さの証明''が与えられたとはいえない。これが前述した直観的説明におけるギャップである。 そこで、[[ペアノ算術]]などの形式的な体系では、数学的帰納法を証明に用いてよいことが'''[[公理]]として仮定される'''のが普通である。つまり、形式的には、自然数の性質から数学的帰納法の正しさが証明できるのではなく、逆に自然数の本質的な性質を与える推論規則として数学的帰納法が仮定される、ということになる。 === 同値な定式化 === [[集合論]]の枠組みでは、数学的帰納法の原理を次のように表すことができる<ref>Causey, Robert L., ''Logic, Sets, and Recursion'' (1994), pp. 223–224.</ref>。 : 自然数 '''N''' の部分集合 ''A'' が空でないとき、''A'' に属する最小の自然数が存在する。 この原理からもともとの形の数学的帰納法が導かれることは,次のようにして示せる。帰納法の仮定 1., 2. を満たす論理式 ''P''(''n'') が与えられたとする。自然数の部分集合 ''A'' を ''A'' = { ''n'' &isin; '''N''' : &not; ''P''(''n'') } によって定める。この ''A'' が空集合であるということを示したい。そうでないと仮定すると、''A''に属する最小の自然数 ''a'' を取ることができるが、''P''(0)は成り立っていることから ''a'' は0でない。従って、ある自然数 ''b'' について ''a'' = ''b'' + 1となっているが、''a'' は ''A'' に属する最小の自然数であったということから、''b'' &notin; ''A'' であり、''P''(''b'') は成り立つことになる。帰納法の仮定から ''P''(''a'') も成り立つことになり、これは矛盾である。 逆に、「''n'' 以下の任意の自然数 ''k'' について ''k'' &notin; ''A''」という形の命題 ''P''(''n'') を考えることで、数学的帰納法から上の原理を導くことができる。''A'' を自然数のある集合とし、''A'' に属する最小の自然数が存在しないと仮定する。もし ''P''(0) が成り立たないと、0 が ''A'' に属する最小の自然数となって仮定に反するから、''P''(0) は成り立つ。''P''(''n'') が成り立つとし、もし ''P''(''n'' + 1) が成り立たないとすると、''n'' + 1 が ''A'' の最小の自然数となって仮定に反するから、''P''(''n'' + 1) も成り立つ。よって数学的帰納法により ''A'' は空となる。 == 超限帰納法 == 上記の形で自然数について定式化された数学的帰納法は、任意の[[整列集合]]に対して次のように一般化することができる。この一般化を'''超限帰納法''' (ちょうげんきのうほう、'''{{lang-en-short|[[:en:transfinite induction|transfinite induction]]}}''')という。任意[[濃度 (数学)|濃度]]の集合は[[選択公理]]と同値な[[整列可能定理]]により整列順序を持つとすることができるので、選択公理を含む[[公理系]]であれば超限帰納法は任意濃度の集合に対して成立すると主張できる。 ;超限帰納法: {{math|(''A'' , &le;)}} を整列集合とし、{{math|''P''(''x'')}} を {{mvar|A}} 上で定義された命題関数とする。もし次の条件が成立するならば、任意の {{math|''x'' &isin; ''A''}} について {{math|''P''(''x'')}} は真である。 ;条件: {{mvar|a}} を {{mvar|A}} の任意の元とする。{{math|''x'' &lt; ''a''}} を満たす {{mvar|A}} の全ての元 {{mvar|x}} について {{math|''P''(''x'')}} が真ならば、{{math|''P''(''a'')}} も真である。 ただし、"{{math|&lt;}}" は {{math2|''a'' < ''b'' &hArr; ( ''a'' &le; ''b'' &and; ''a'' &ne; ''b'')}} で定義される[[二項関係]]とする。 === 証明 === {{Mvar|A}} を全体集合とする。{{Mvar|A}} の各元 {{Mvar|a}} に対して {{math|''A''(''a'')&nbsp;{{=}}&nbsp;{{mset|&nbsp;''x''∈''A''&nbsp;|&nbsp;''x''&nbsp;&lt;&nbsp;''a''&nbsp;}}}} とし、{{math|''A''<sub>1</sub>&nbsp;{{=}}&nbsp;{{mset|&nbsp;''x''∈''A''&nbsp;|&nbsp;''P''(''x'')&nbsp;}}}} とする。そのとき、超限帰納法の'''条件'''は {{NumBlk|:|<math>\forall a\in A(A(a)\subseteq A_1\Rightarrow a\in A_1)</math>|{{EquationRef|1}}}} と[[同値]]である。また、[[差集合|補集合に関する法則]]から ({{EquationNote|1}}) は {{NumBlk|:|<math>\forall a\in A(A(a)\cap A_1^c=\varnothing\Rightarrow a\in A_1)</math>|{{EquationRef|2}}}} と同値である。これらの条件が満たされているという前提の下で、{{math|''A''<sub>1</sub>&nbsp;{{=}}&nbsp;''A''}} すなわち {{math|''A''<sub>1</sub><sup>c</sup>&nbsp;{{=}}&nbsp;&empty;}} が成り立つことを示せばよい。 いま、{{math|''A''<sub>1</sub><sup>c</sup>&nbsp;≠&nbsp;&empty;}} と仮定して矛盾を導く。[[背理法]]の仮定と整列集合の定義より、{{math|min&nbsp;''A''<sub>1</sub><sup>c</sup>&nbsp;{{=}}&nbsp;''a''}} が存在する。この ''a'' について、[[最大と最小|最小元]]の定義より {{math|''A''(''a'')∩''A''<sub>1</sub><sup>c</sup>&nbsp;{{=}}&nbsp;&empty;}} が成り立つので、({{EquationNote|2}}) より {{math|''a'' ∈ ''A''<sub>1</sub>}} もまた成り立つ。しかし、これは {{math|''a'' ∈ ''A''<sub>1</sub><sup>c</sup>}} であることに反する。(証明終) == 整礎帰納法 == {{main|整礎帰納法}} 無限下降列が存在しない[[二項関係]]を'''[[整礎関係]]'''という。整礎関係が定義された集合に対して次が成り立つ。これを'''整礎帰納法'''({{lang-en-short|well-founded induction}})という。 : ''R'' を集合 ''A'' 上の整礎関係とし、''P''(''x'') を ''A'' の元 ''x'' に関する命題とする。もし次が成立するならば、任意の ''x'' &isin; ''A'' について ''P''(''x'') は真である。 ::任意の ''a'' &isin; ''A'' をとる。''x'' ''R'' ''a'' なる任意の ''A'' の元 ''x'' について ''P''(''x'') が真ならば、''P''(''a'') も真である。 超限帰納法は整礎帰納法の特殊な場合である。特に、超限帰納法においては、任意の空でない部分集合に'''最小元'''が存在する、という性質が、整礎帰納法においては、任意の空でない部分集合に'''極小元'''が存在する、という性質に対応している。 == ハゲ頭のパラドックス == 数学的帰納法を意図的に誤用したジョークとして、次のようなものがある<ref>例えば次の文献:草場公邦『数理と発想』創拓社、1978年</ref>: :髪の毛が一本もない人は[[ハゲ]]である。ハゲの人に髪の毛を一本足してもやっぱりハゲである<ref group="注">ここでは「髪の毛が少ない人」の意味で「ハゲ」という言葉を用いている。髪の毛の本数が0本である必要はない。</ref>。よって数学的帰納法により、全ての人はハゲている。 もちろんこの「証明」には理論上の根本的な問題点がある。この「証明」の問題点は、「ハゲ」の[[定義]]を厳密に毛が何本以下であるかで与えることができない点、もしくは「ハゲ」を定義できたとして、[[任意]]の「ハゲ」に髪の毛を一本足したときに、必ず「ハゲ」になるわけではない点にある。 以上のような論法の起源は、古代ギリシャの哲学者ミレトスの[[エウブリデス]] ([[:en:Eubulides|en]]) が作ったとされる'''ハゲ頭のパラドックス''' (Paradox of the Bald Man)<ref> Hyde, Dominic, [http://plato.stanford.edu/entries/sorites-paradox/ "Sorites Paradox"], [[The Stanford Encyclopedia of Philosophy ]](Fall 2005 Edition), [[エドワード・ザルタ|Edward N. Zalta]] (ed.)</ref>に帰せられる。これは[[砂山のパラドックス]]の起源としても知られる。 前述の[[ジョーク]]にはさまざまなバリエーションがあるが、いずれも「少量の増加程度では大差ない。よって数学的帰納法より沢山の増加でも差はない」という[[誤謬]]を利用している。<!-- この「証明」には「''P''(0)(もしくは ''P''(''a''))」が成り立つことを示しているものの、「''P''(''k'') が成り立つならば ''P''(''k'' + 1) でも成り立つ」ということを示していない。これが根本的に間違いである。 ↑ 一旦削除。「ハゲ」の定義が曖昧なことが根本原因だと思われるため。 たとえばハゲの定義として「全ての人はハゲ」を採用すれば、 「''P''(''k'') が成り立つならば ''P''(''k'' + 1)でも成り立つ」もちゃんと示される。--> == 歴史 == 初期の例としては、[[プラトン]]による[[パルメニデス]](紀元前 370年)において暗黙に帰納法を使用した証明がみられる<ref>Acerbi, F. (2000). ''Plato: Parmenides 149a7-c3. A Proof by Complete Induction?'', Archive for History of Exact Sciences 55: 57–76. doi:10.1007/s004070000020</ref>。また数学的帰納法としての痕跡は、素数が無限個あることを示した[[ユークリッド]]の証明や、[[バースカラ2世]]による "{{仮リンク|cyclic method|en|Chakravala method}}"<ref>Cajori, Florian (1918). ''Origin of the Name "Mathematical Induction"''. The American Mathematical Monthly '''25''' (5): 197–201. doi:10.2307/2972638. JSTOR 2972638.</ref> に見ることができる。通常とは逆に、パラメータとなる自然数が減少していく逐次的な論法は、[[砂山のパラドックス]]にみられる。つまり、10,000粒の砂粒が砂山を形成し、そこから一粒の砂を取り除いても砂山が残るならば、一粒だけ残った砂(或いは全ての粒を取り去った後)でもなお砂山を形成するといえる。 [[等差数列]]について暗黙に数学的帰納法を用いた証明は、紀元 1000年ごろに{{仮リンク|アブ・バクル・カラジ|en|al-Karaji|label=アル=カラジ}}による "''al-Fakhri''" に扱われている。アル=カラジは[[二項定理]]や[[パスカルの三角形]]を示すのに数学的帰納法を用いた。 しかし、これらの古代の数学者たちは帰納法の仮定を明示することはしていない。別の似た例としては(Freudenthal が注意深く示したように、Vacca が著したものとは対立するが)、{{仮リンク|フランチェスコ・マウロリコ|en|Francesco Maurolico}}が 1575年の著作 "''Arithmeticorum libri duo''" にて最初の ''n'' 個の奇数の和が ''n''{{sup|2}} に等しいことを示す際にこの技術を用いている。明示された形での数学的帰納法の原理は[[ブレーズ・パスカル|パスカル]]がその著作 "''Traité du triangle arithmétique''" (1655)にて与えた。フランス人[[ピエール・ド・フェルマー|フェルマー]]は、帰納法と関連する、無限降下法による間接的な証明をうまく使っている。帰納法の仮定は[[ヤコブ・ベルヌーイ]]によっても使われ、以後多少よく知られるようになった。現代的な厳密さをもち体系的な数学的帰納法の原理の扱いは 19世紀に入って[[ジョージ・ブール]]、[[オーガスタス・ド・モルガン]]、[[チャールズ・サンダース・パース]]、[[ジュゼッペ・ペアノ]]、 [[リヒャルト・デーデキント]]によって為された。 == 関連項目 == *[[構造的帰納法]] *[[帰納]] *[[演繹]] *[[自然数]] *[[整列集合]] *[[整礎関係]] *[[無限降下法]] *[[再帰]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すうかくてききのうほう}} [[Category:数学的帰納法|*]] [[Category:帰納]] [[Category:順序構造]] [[Category:自然数論]] [[Category:数学に関する記事]]
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12,762
安定ソート
安定ソート(あんていソート、stable sort)とは、ソート(並べ替え)のアルゴリズムのうち、順位が同等な複数のデータのソート前の前後関係が、ソート後も保存されるものをいう。つまり、ソート途中の各状態において、常に順位の位置関係を保っていることをいう。 たとえば、学生番号順に整列済みの学生データを、テストの点数順で安定ソートを用いて並べ替えたとき、ソート後のデータにおいて、同じ点数の学生は学生番号順で並ぶようになっている。 安定でないソート法を用いる場合でも、整列したいデータに元のデータ列の順序を追加しておき、ソートする際にその情報を参照するようにすれば、安定ソートに変更できる。形式的には、ソートしたい項目と元の順番を表す項目のペアを辞書式順序でソートする、ということである。この方法は(入力データ自体が元々順番を表す項目を含んでいるのでない限り)元の順番を表す情報を記憶する必要がある。すなわち、長さ n の入力に対し、0 から n-1 までの連番を一時的に記憶するのだから、 O ( n log n ) {\displaystyle O(n\log n)} の記憶容量を必要とする(必要となる一時変数の個数という意味では O ( n ) {\displaystyle O(n)} )。したがって内部ソートが必要な場合には使えない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "安定ソート(あんていソート、stable sort)とは、ソート(並べ替え)のアルゴリズムのうち、順位が同等な複数のデータのソート前の前後関係が、ソート後も保存されるものをいう。つまり、ソート途中の各状態において、常に順位の位置関係を保っていることをいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "たとえば、学生番号順に整列済みの学生データを、テストの点数順で安定ソートを用いて並べ替えたとき、ソート後のデータにおいて、同じ点数の学生は学生番号順で並ぶようになっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "安定でないソート法を用いる場合でも、整列したいデータに元のデータ列の順序を追加しておき、ソートする際にその情報を参照するようにすれば、安定ソートに変更できる。形式的には、ソートしたい項目と元の順番を表す項目のペアを辞書式順序でソートする、ということである。この方法は(入力データ自体が元々順番を表す項目を含んでいるのでない限り)元の順番を表す情報を記憶する必要がある。すなわち、長さ n の入力に対し、0 から n-1 までの連番を一時的に記憶するのだから、 O ( n log n ) {\\displaystyle O(n\\log n)} の記憶容量を必要とする(必要となる一時変数の個数という意味では O ( n ) {\\displaystyle O(n)} )。したがって内部ソートが必要な場合には使えない。", "title": null } ]
安定ソートとは、ソート(並べ替え)のアルゴリズムのうち、順位が同等な複数のデータのソート前の前後関係が、ソート後も保存されるものをいう。つまり、ソート途中の各状態において、常に順位の位置関係を保っていることをいう。 たとえば、学生番号順に整列済みの学生データを、テストの点数順で安定ソートを用いて並べ替えたとき、ソート後のデータにおいて、同じ点数の学生は学生番号順で並ぶようになっている。 生徒番号015が012の先に来ており、また014も010より先に来ている。 元の生徒番号順が保持されていないため不安定ソートとなる。 安定でないソート法を用いる場合でも、整列したいデータに元のデータ列の順序を追加しておき、ソートする際にその情報を参照するようにすれば、安定ソートに変更できる。形式的には、ソートしたい項目と元の順番を表す項目のペアを辞書式順序でソートする、ということである。この方法は(入力データ自体が元々順番を表す項目を含んでいるのでない限り)元の順番を表す情報を記憶する必要がある。すなわち、長さ n の入力に対し、0 から n-1 までの連番を一時的に記憶するのだから、 O の記憶容量を必要とする。したがって内部ソートが必要な場合には使えない。
{{出典の明記| date = 2022年5月}} '''安定ソート'''(あんていソート、stable sort)とは、[[ソート]](並べ替え)の[[アルゴリズム]]のうち、順位が同等な複数の[[データ構造|データ]]のソート前の前後関係が、ソート後も保存されるものをいう。つまり、ソート途中の各状態において、常に順位の位置関係を保っていることをいう。 たとえば、学生番号順に整列済みの学生データを、テストの点数順で安定ソートを用いて並べ替えたとき、ソート後のデータにおいて、同じ点数の学生は学生番号順で並ぶようになっている。 {| class="wikitable" |+ 例1:学生番号順 成績データ ! 学生番号 !! 生徒名 !! テスト成績 |- ! 010 | A子 || 419 |- ! 011 | B男 || 366 |- ! 012 | C美 || 402 |- ! 013 | D生 || 453 |- ! 014 | E上 || 419 |- ! 015 | F崎 || 402 |} {| class="wikitable" |+ 例2:成績順 安定ソート ! 学生番号 !! 生徒名 !! テスト成績 |- ! 011 | B男 || 366 |- ! 012 | C美 || 402 |- ! 015 | F崎 || 402 |- ! 010 | A子 || 419 |- ! 014 | E上 || 419 |- ! 013 | D生 || 453 |} {| class="wikitable" |+ 例3:成績順 不安定ソート ! 学生番号 !! 生徒名 !! テスト成績 |- ! 011 | B男 || 366 |- ! 015 | F崎 || 402 |- ! 012 | C美 || 402 |- ! 014 | E上 || 419 |- ! 010 | A子 || 419 |- ! 013 | D生 || 453 |} *生徒番号015が012の先に来ており、また014も010より先に来ている。 *元の生徒番号順が保持されていないため不安定ソートとなる。 安定でないソート法を用いる場合でも、整列したいデータに元のデータ列の順序を追加しておき、ソートする際にその情報を参照するようにすれば、安定ソートに変更できる。形式的には、ソートしたい項目と元の順番を表す項目のペアを[[辞書式順序]]でソートする、ということである。この方法は(入力データ自体が元々順番を表す項目を含んでいるのでない限り)元の順番を表す情報を記憶する必要がある。すなわち、長さ n の入力に対し、0 から n-1 までの連番を一時的に記憶するのだから、<math>O(n \log n)</math> の記憶容量を必要とする(必要となる一時変数の個数という意味では <math>O(n)</math>)。したがって[[内部ソート]]が必要な場合には使えない。 == 関連項目 == *[[基数ソート]](ラディックスソート) *[[逆写像ソート]] *[[シェーカーソート]] *[[挿入ソート]] *[[バケットソート]] *[[バブルソート]] *[[マージソート]] [[Category:ソート|あんていそおと]]
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12,763
階乗
数学において非負整数 n の階乗(かいじょう、英: factorial)n ! は、1 から n までの全ての整数の積である。例えば、 である。空積の規約のもと 0! = 1 と定義する。 階乗は数学の様々な場面に出現するが、特に組合せ論、代数学、解析学などが著しい。階乗の最も基本的な出自は n 個の相異なる対象を1列に並べる方法(対象の置換)の総数が n! 通りであるという事実である。 階乗の定義は、最も重要な性質を残したまま、非整数を引数とする函数に拡張することができる。そうすれば解析学における著しい手法などの進んだ数学を利用できるようになる。 いくつか同値な条件により定義することが可能である。 上記の何れの定義においても、 となることが織り込み済みである(最初の定義では「 0 項の積は 1 と定める」という規約によって)。このように定義することの理由は: であり、一般に n 元集合から n 個全ての元を選び出す方法の総数は など様々に挙げることができる。 より進んだ数学においては、引数が非整数の場合にも階乗函数を定義することができる(後述)。そういった一般化された定義のもとでの階乗は関数電卓や、Maple や Mathematica などの数学ソフトウェアで利用できる。 多くのプログラミング言語において、再帰的な定義を利用し、プロシージャの再帰呼び出しを用いた階乗の実装が可能である。 以下はC言語での例である。例示するコードではunsigned long long型を使用しているが、unsigned long long型では小さな階乗(21!)でもオーバーフローしてしまうため、大きな階乗については任意精度演算による実装を検討すべきである。 階乗を含む公式は数学の多くの分野に現れるけれども、階乗のおおもとの出自は組合せ論にある。相異なる n 個の対象の順列(k-順列)の総数は n! 通りである。 階乗はしばしば「順番を無視する」という事実を反映するものとして分母に現れる。古典的な例としては n 個の元から k 個の元を選ぶ組合せ(k-組合せ)の総数が挙げられる。このような組合せは順列から得ることができる。実際、k-順列の総数 において、順番のみが違う(k-組合せでは違いが無視される)k-順列が k ! 通りずつ存在するから、k-組合せの総数は となる。この数は、二項冪 (1 + X) における X の係数となることから、二項係数 ( n k ) {\displaystyle {\tbinom {n}{k}}} とも呼ばれる。 代数学に現れる階乗にはいくつも理由があるが、既述の如く二項展開の係数として現れたり、ある種の演算の対称化(英語版) において置換による平均化を行うなど、組合せ論的な理由で現れるものもある。 微分積分学においても階乗は例えばテイラー級数の分母として現れるが、これは冪函数 x の n 階導函数が n ! であることを補正する定数である。確率論でも階乗は用いられる。 階乗は数式操作にも有効である。例えば n の k-順列の総数を と書けば、(この数値を計算することを考えれば効率が悪くなるが)二項係数の対称性 を見るには都合がよい。 階乗は数論にも多くの応用を持つ。特に n ! は n 以下の全ての素数で整除されねばならない。このことの帰結として、n ≥ 5 が合成数となる必要十分条件は が満たされることである。より強い結果としてウィルソンの定理は が p が素数であるための必要十分条件であることを述べる。 ルジャンドルの公式は n ! の素因数分解に現れる p の重複度が であることを示す。これは と書いてもよい。ただし、sp(n) は n の p 進展開の係数の和である。 n ! が素数となる n は 2 のみである。n! ± 1 の形の素数は階乗素数と呼ばれる。 1! より大きな階乗は全て偶数である(これらは明らかに因数 2 を持ち、2 の倍数である)。同様に、5! より後の階乗は 10 の倍数(2 と 5 を因数に持つ)であり、十進展開の末尾には 0 が並ぶ(英語版)。 ブロカールの問題とは、 を満たす n, m は存在するか、という問題である。2015年9月現在、これを満たす (n, m) の組は しか見つかっていない。ABC予想が真であれば、解は有限個しかないことが、Marius Overholt により示されている。 階乗の逆数の総和は収束級数 を与える(ネイピア数を参照)。この和は無理数となるけれども、階乗に適当な正整数を掛けて和が有理数となるようにすることができる。例えば、 この級数の値が 1 となることを見るには、その部分和が 1 − 1/(n+2)! であることを確認すればよい。したがって、階乗数の全体は無理列(英語版)を成さない。 n が増えるにつれて、階乗 n ! は n を変数とする任意の多項式函数あるいは指数函数よりも早く増加する(ただし、二重指数関数よりは遅い)。 n ! の近似式の多くは自然対数 であることを利用する。もっとも単純に得られる log(n!) の近似値を評価する式は、上記の式と以下の積分: によって与えられる。積分を評価すれば を得る。これは、ランダウの記号を用いれば log(n!) のオーダーは Θ(n log n) であることを言っているのであり、この結果はソートアルゴリズムの計算量を測るのに重要な役割を果たす。さて上記の log(n!) の評価から がわかる。実用上はより弱い結果だがより評価のしやすいものを用いることもある。上記の式から簡単な評価をしてみると、任意の n に対して (n/3) < n! であり、また n ≥ 6 のとき n! < (n/2) であることなどが分かる。 大きな n に対して n ! をよりよく評価するにはスターリングの公式 を利用する。(ここで ∼ {\displaystyle \sim } は両辺の比が 1 に収束することを表す。)実は任意の n に対して であることが証明できる。 log(n !) の別な近似はシュリニヴァーサ・ラマヌジャンにより したがって と与えられている。この近似の誤差は、スターリングの公式よりも小さい。 負の整数を除けば、階乗関数は非整数の値に対しても定義することができるが、そのためには解析学の道具立てが必要である。そのように階乗の値を「補間」して得られるものの一つがガンマ函数 Γ(z) である(ただし引数が 1 だけずれる)。これは負の整数を除く任意の複素数 z に対して定義される。z の実部が正である場合には で与えられる。ガンマ函数と階乗との関係は、任意の自然数 n に対して が成り立つことである。オイラーのもともとの定義式は である。ガウスの導入した別表記として、負でない実数 z に対するパイ函数 Π(z) は を満たす。ガンマ函数との関係は である。非負整数 n に対し が成り立つことを思えば、こちらのほうが階乗を補完した函数としては適していると言えるかもしれない。さてパイ函数は階乗が満たすのと同じ漸化式 を、しかし定義される限り任意の複素数 z に対して満たす。事実としてはこれはもう漸化式ではなくて函数等式と見るべきものであるが。この函数等式をガンマ函数に関するものに書き換えれば となる。階乗を延長したものがパイ函数なのだから、定義可能な任意の複素数 z に対して と定めることは可能である。これらの補間函数を用いて半整数における階乗の値を定めるならば、例えば が成り立ち、さらに自然数 n ∈ N に対して が得られる。例えば 同様に n ∈ N に対して が成り立ち、例えば パイ函数が殆ど全ての複素数値に対して定義される階乗の延長として唯一のものでないことはもちろんである。それは定義域において解析的としても同じことである。しかし、ふつうはこれが階乗の複素函数への最も自然な延長であるものと考える。例えば、ボーア・モレルップの定理はガンマ函数が Γ(1) = 1 かつ函数等式 Γ(n + 1) = nΓ(n) を満足する、ガウス平面の全域で有理型かつ実軸の正の部分で対数凸(英語版)となるような唯一の函数であることを述べる。同様の主張はパイ函数に関しても、函数等式 Π(n) = nΠ(n − 1) に関して述べられる。 そうは言うものの、解析的函数論の意味で恐らくより簡明な、階乗の値を補間する複素函数は存在する。例えばアダマールの「ガンマ」函数はガンマ函数とは異なり整函数になる。 オイラーはまた非整数の階乗に対する近似無限乗積 についても考察している。これは上記のガンマ函数に関する公式と同じものと見做すことができる。しかしこの公式は収束が遅く、実用的な意味でパイ函数やガンマ函数の値を計算することに利用することはできない。 複素変数の階乗の値をガンマ函数による表現を通して評価することができる。絶対値 ρ と偏角 φ を用いて と書けば、絶対値一定曲線 ρ = (定数) と偏角一定曲線 φ = (定数) を等値線として格子を描くことができる。一定間隔で引いた等値線の間にさらに細かく等値線を引けば、それが補間で得られる値である。極である負の整数においては絶対値と偏角が定義できず、またその周辺で等値線は密になる。 |z| < 1 に対してはテイラー展開 が利用できる。この展開のより多くの項は、Sageのような計算機代数システムで計算できる。 大きな値に対する階乗の値の近似をディガンマ函数の積分を通じて連分数表示を用いて記述できる。この方法はスティルチェスによるもので、z! = exp(P(z)) と書けば P(z) は で、スティルチェスはこの第一項 p(z) の連分数展開 を与えた。 さて、任意の複素数 z ≠ 0 に対して log(z!) = P(z) あるいは log(Γ(z + 1)) = P(z) とするのは誤りであり、実際には実軸の近くの特定の範囲の z でしか成り立たない(一方 |I(Γ(z + 1))| < π である。引数の実部は大きいほど、虚部はより小さくなければならない。しかし逆の関係式 z! = exp(P(z)) は原点を除くガウス平面の全域で有効である。ただし実軸の負の部分では収束性は弱くなる(特異点の周辺ではどのような近似もよい収束性を得ることが難しい)。一方、|I(z)| > 2 または R(z) > 2 の範囲では上記の六つの係数は double 精度の複素数に対してその階乗の近似値を得るのに十分である。より高い精度でより多くの係数を計算するには rational QD-scheme (H. Rutishauser's QD algorithm)を用いる。 関係式 n! = n × (n − 1)! を使えばある整数に対する階乗をそれより「小さい」整数の階乗から計算できる。この関係式を逆に使えば、「大きい」整数に対して与えられた階乗から と計算することも可能である。しかし注意すべきは、これでは負の整数に関する階乗を計算することはできないということである(この式に従って (−1)! を計算するには零除算が必要となりこれ以下の負の整数における階乗の値の計算は不可能となる)。このことはガンマ函数においても同じことで、ガンマ函数は負の整数を除くガウス平面の全域において定義できるにも拘らず、負の整数における値だけは定義することができない。 多重指数 α = ( α 1 , α 2 , ... , α n ) {\displaystyle \alpha =(\alpha _{1},\alpha _{2},\ldots ,\alpha _{n})} に対し階乗は、 と定義できる。これは例えば、多変数関数の展開に使われる。 マンジュル・バルガヴァは階乗を一般のデデキント環上で定義し、いくつかの古典的な問題を解決するために用いた。それらの階乗は整数ではなく、イデアルとなる。 階乗の類似として、二重階乗 n!! は自然数 n に対し一つ飛ばしに積を取る。二重階乗 n!! は階乗 n! の二回反復合成 (n!)! とは異なる。 奇数 n = 1, 3, 5, 7, ... に対する二重階乗の最初の方の値は 偶数 n = 0, 2, 4, 6, 8, ... に対する二重階乗の値の最初の方は で与えられる。 負の奇数にも拡張される( ( − ( 2 n + 1 ) ) ! ! = ( − 1 ) n / ( 2 n − 1 ) ! ! {\displaystyle \left(-(2n+1)\right)!!={(-1)^{n}}/{(2n-1)!!}} )。また、複素数値への拡張として、以下が知られている。 z ! ! = 2 [ 1 + 2 z − cos ( π z ) ] / 4 π [ cos ( π z ) − 1 ] / 4 Γ ( 1 + 1 2 z ) {\displaystyle z!!={2}^{\left[1+2z-\cos(\pi z)\right]/4}{\pi }^{\left[\cos(\pi z)-1\right]/4}\Gamma \left(1+{\frac {1}{2}}z\right)} より一般に多重階乗 (multifactorial) は、連続した整数の積である通常の階乗 n!、一つ飛ばしの積である二重階乗 n!!、二つ飛ばしの積である三重階乗 n!!! または n!3、三つ飛ばしの四重階乗 n!!!! または n!4 などを総称して言う。 三重階乗の例 1、4、28、280、3640。 2、10、80、880、12320。 3、18、162、1944、29160。 4、28、280、3640、58240。 5、40、440、6160、104720。 6、54、648、9720、174960。 7、70、910、14560、276640。 8、88、1232、20944、418880。 9、108、1620、29160、612360。 10、130、2080、39520、869440。 四重階乗の例 1、5、45、585。 2、12、120、1680。 3、21、231、3465。 4、32、384、6144。 5、45、585、9945。 6、60、840、15120。 7、77、1155、21945。 8、96、1536、30720。 9、117、1989、41769。 10、140、2520、55440。 と定義できる。これと異なる定義として とするものもある。 自然数 n, k に対して、n の k-順列の総数 n は n から始めて上から k 個の連続する整数の積を取る(ある意味で不完全な階乗とも呼べる)階乗の類似物であった。これを下降階乗冪と呼ぶ。その反対に n から始めて下から k 個の連続する整数の積をとったもの n を上昇階乗冪といい、これら二つを総称して階乗冪と呼ぶ。ただし一般に自然数に限らず(実数や複素数などに値をとる)x を変数として を考えることが多い。明らかに自然数 n に対して また一般に実数 x ≠ 0 に対して と定義する(空積も参照)が x = 0 のときもそうであるかは規約による(例えば上記の関係式 n! = n は n = 0 のとき 1 = 0! = 0 で矛盾しない。0^0も参照)。 素数階乗 (Primorial) n# は最初の n-個の素数の総乗 である。オンライン整数列大辞典の数列 A002110。 これは、素数が無限に存在するという命題の証明に用いられることがある。 Pickover (1995) の超階乗(superfactorial)は、階乗を入れ子に拡張したものである。ドル記号$を用いて書かれる。またLawrence Hollom氏が開発した超階乗配列表記は階乗をベースとした配列表記で従来の階乗や超階乗より遥かに大きな増加速度を持つ。 nが3以上になると、非常に大きい値になる。 これとは異なる種類の超階乗の定義がある。Neil J. A. Sloane and Simon Plouffe (1995) The Encyclopedia of Integer Sequences は、超階乗(superfactorial)を定義した。例として、4の超階乗は次のようになる。 一般的にこの定義における超階乗は下の式で定義される。 これは以下と同値: 最初のいくつかの値は、次のようになる: 超階乗は、複素数値にも拡張できる。その結果はバーンズのG関数と呼ばれる。定義は次のようになる。 自然数に対しては、以下が成り立っている。 ハイパー階乗(hyperfactorial)は、以下で定義される。 これはとても大きくなっていく。最初のいくつかの値はつぎの通りである。 ハイパー階乗は定義域を複素数にまで拡張できる。それはK函数と呼ばれ、以下で定義される。 自然数nに対し、次が成り立つ。 以下、↑をクヌースの矢印表記とする。 階乗が連続する整数を順に「乗」じるのに対し、連続する整数を順に冪にする演算として階「冪」 (exponential factorial) n(感嘆符は右肩に添字として書く)は で与えられる。つまり、自然数 n に対して であり、最初の5つの値は次のようになる。 5 の値は十進展開で183231桁にも及ぶきわめて大きな自然数である。 これ以降は、グーゴルプレックス 10 10 100 {\displaystyle 10^{10^{100}}} より遥かに大きくなる(6 を計算すると、およそ 6 ≒ 10 となる)。 全ての自然数の exponential factorial の逆数の総和は、 となる。この数は、超越数であり、リウヴィル数である。 また、高次 exponential factorial が定義される。例として、二次 exponential factorial は、 となる。一般の m-次 exponential factorial は、 で与えられる。ただし、n, m は自然数である。 n 個の相異なる対象を1列に並べる方法の総数が n! 通りであるということは、少なくとも12世紀にはインドの学者によって知られていた。ファビアン・ステッドマン(英語版)は1677年にチェンジリンギング(英語版)への応用として階乗を記述した。再帰的な手法による記述の後、Stedman は(独自の言葉を用いて)階乗に関しての記述を与えている: 感嘆符(!)を用いた、この "n!" という表記は1808年にクリスチャン・クランプによって発明された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "数学において非負整数 n の階乗(かいじょう、英: factorial)n ! は、1 から n までの全ての整数の積である。例えば、", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "である。空積の規約のもと 0! = 1 と定義する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "階乗は数学の様々な場面に出現するが、特に組合せ論、代数学、解析学などが著しい。階乗の最も基本的な出自は n 個の相異なる対象を1列に並べる方法(対象の置換)の総数が n! 通りであるという事実である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "階乗の定義は、最も重要な性質を残したまま、非整数を引数とする函数に拡張することができる。そうすれば解析学における著しい手法などの進んだ数学を利用できるようになる。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "いくつか同値な条件により定義することが可能である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "上記の何れの定義においても、", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "となることが織り込み済みである(最初の定義では「 0 項の積は 1 と定める」という規約によって)。このように定義することの理由は:", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "であり、一般に n 元集合から n 個全ての元を選び出す方法の総数は", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "など様々に挙げることができる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "より進んだ数学においては、引数が非整数の場合にも階乗函数を定義することができる(後述)。そういった一般化された定義のもとでの階乗は関数電卓や、Maple や Mathematica などの数学ソフトウェアで利用できる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "多くのプログラミング言語において、再帰的な定義を利用し、プロシージャの再帰呼び出しを用いた階乗の実装が可能である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "以下はC言語での例である。例示するコードではunsigned long long型を使用しているが、unsigned long long型では小さな階乗(21!)でもオーバーフローしてしまうため、大きな階乗については任意精度演算による実装を検討すべきである。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "階乗を含む公式は数学の多くの分野に現れるけれども、階乗のおおもとの出自は組合せ論にある。相異なる n 個の対象の順列(k-順列)の総数は n! 通りである。", "title": "組合せ論" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "階乗はしばしば「順番を無視する」という事実を反映するものとして分母に現れる。古典的な例としては n 個の元から k 個の元を選ぶ組合せ(k-組合せ)の総数が挙げられる。このような組合せは順列から得ることができる。実際、k-順列の総数", "title": "組合せ論" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "において、順番のみが違う(k-組合せでは違いが無視される)k-順列が k ! 通りずつ存在するから、k-組合せの総数は", "title": "組合せ論" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "となる。この数は、二項冪 (1 + X) における X の係数となることから、二項係数 ( n k ) {\\displaystyle {\\tbinom {n}{k}}} とも呼ばれる。", "title": "組合せ論" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "代数学に現れる階乗にはいくつも理由があるが、既述の如く二項展開の係数として現れたり、ある種の演算の対称化(英語版) において置換による平均化を行うなど、組合せ論的な理由で現れるものもある。", "title": "組合せ論" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "微分積分学においても階乗は例えばテイラー級数の分母として現れるが、これは冪函数 x の n 階導函数が n ! であることを補正する定数である。確率論でも階乗は用いられる。", "title": "組合せ論" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "階乗は数式操作にも有効である。例えば n の k-順列の総数を", "title": "組合せ論" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "と書けば、(この数値を計算することを考えれば効率が悪くなるが)二項係数の対称性", "title": "組合せ論" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "を見るには都合がよい。", "title": "組合せ論" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "階乗は数論にも多くの応用を持つ。特に n ! は n 以下の全ての素数で整除されねばならない。このことの帰結として、n ≥ 5 が合成数となる必要十分条件は", "title": "数論における階乗" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "が満たされることである。より強い結果としてウィルソンの定理は", "title": "数論における階乗" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "が p が素数であるための必要十分条件であることを述べる。", "title": "数論における階乗" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ルジャンドルの公式は n ! の素因数分解に現れる p の重複度が", "title": "数論における階乗" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "であることを示す。これは", "title": "数論における階乗" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "と書いてもよい。ただし、sp(n) は n の p 進展開の係数の和である。", "title": "数論における階乗" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "n ! が素数となる n は 2 のみである。n! ± 1 の形の素数は階乗素数と呼ばれる。", "title": "数論における階乗" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1! より大きな階乗は全て偶数である(これらは明らかに因数 2 を持ち、2 の倍数である)。同様に、5! より後の階乗は 10 の倍数(2 と 5 を因数に持つ)であり、十進展開の末尾には 0 が並ぶ(英語版)。", "title": "数論における階乗" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ブロカールの問題とは、", "title": "数論における階乗" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "を満たす n, m は存在するか、という問題である。2015年9月現在、これを満たす (n, m) の組は", "title": "数論における階乗" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "しか見つかっていない。ABC予想が真であれば、解は有限個しかないことが、Marius Overholt により示されている。", "title": "数論における階乗" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "階乗の逆数の総和は収束級数", "title": "階乗の解析学" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "を与える(ネイピア数を参照)。この和は無理数となるけれども、階乗に適当な正整数を掛けて和が有理数となるようにすることができる。例えば、", "title": "階乗の解析学" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "この級数の値が 1 となることを見るには、その部分和が 1 − 1/(n+2)! であることを確認すればよい。したがって、階乗数の全体は無理列(英語版)を成さない。", "title": "階乗の解析学" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "n が増えるにつれて、階乗 n ! は n を変数とする任意の多項式函数あるいは指数函数よりも早く増加する(ただし、二重指数関数よりは遅い)。", "title": "階乗の解析学" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "n ! の近似式の多くは自然対数", "title": "階乗の解析学" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "であることを利用する。もっとも単純に得られる log(n!) の近似値を評価する式は、上記の式と以下の積分:", "title": "階乗の解析学" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "によって与えられる。積分を評価すれば", "title": "階乗の解析学" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "を得る。これは、ランダウの記号を用いれば log(n!) のオーダーは Θ(n log n) であることを言っているのであり、この結果はソートアルゴリズムの計算量を測るのに重要な役割を果たす。さて上記の log(n!) の評価から", "title": "階乗の解析学" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "がわかる。実用上はより弱い結果だがより評価のしやすいものを用いることもある。上記の式から簡単な評価をしてみると、任意の n に対して (n/3) < n! であり、また n ≥ 6 のとき n! < (n/2) であることなどが分かる。", "title": "階乗の解析学" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "大きな n に対して n ! をよりよく評価するにはスターリングの公式", "title": "階乗の解析学" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "を利用する。(ここで ∼ {\\displaystyle \\sim } は両辺の比が 1 に収束することを表す。)実は任意の n に対して", "title": "階乗の解析学" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "であることが証明できる。", "title": "階乗の解析学" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "log(n !) の別な近似はシュリニヴァーサ・ラマヌジャンにより", "title": "階乗の解析学" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "したがって", "title": "階乗の解析学" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "と与えられている。この近似の誤差は、スターリングの公式よりも小さい。", "title": "階乗の解析学" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "負の整数を除けば、階乗関数は非整数の値に対しても定義することができるが、そのためには解析学の道具立てが必要である。そのように階乗の値を「補間」して得られるものの一つがガンマ函数 Γ(z) である(ただし引数が 1 だけずれる)。これは負の整数を除く任意の複素数 z に対して定義される。z の実部が正である場合には", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "で与えられる。ガンマ函数と階乗との関係は、任意の自然数 n に対して", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "が成り立つことである。オイラーのもともとの定義式は", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "である。ガウスの導入した別表記として、負でない実数 z に対するパイ函数 Π(z) は", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "を満たす。ガンマ函数との関係は", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "である。非負整数 n に対し", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "が成り立つことを思えば、こちらのほうが階乗を補完した函数としては適していると言えるかもしれない。さてパイ函数は階乗が満たすのと同じ漸化式", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "を、しかし定義される限り任意の複素数 z に対して満たす。事実としてはこれはもう漸化式ではなくて函数等式と見るべきものであるが。この函数等式をガンマ函数に関するものに書き換えれば", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "となる。階乗を延長したものがパイ函数なのだから、定義可能な任意の複素数 z に対して", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "と定めることは可能である。これらの補間函数を用いて半整数における階乗の値を定めるならば、例えば", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "が成り立ち、さらに自然数 n ∈ N に対して", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "が得られる。例えば", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "同様に n ∈ N に対して", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "が成り立ち、例えば", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "パイ函数が殆ど全ての複素数値に対して定義される階乗の延長として唯一のものでないことはもちろんである。それは定義域において解析的としても同じことである。しかし、ふつうはこれが階乗の複素函数への最も自然な延長であるものと考える。例えば、ボーア・モレルップの定理はガンマ函数が Γ(1) = 1 かつ函数等式 Γ(n + 1) = nΓ(n) を満足する、ガウス平面の全域で有理型かつ実軸の正の部分で対数凸(英語版)となるような唯一の函数であることを述べる。同様の主張はパイ函数に関しても、函数等式 Π(n) = nΠ(n − 1) に関して述べられる。", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "そうは言うものの、解析的函数論の意味で恐らくより簡明な、階乗の値を補間する複素函数は存在する。例えばアダマールの「ガンマ」函数はガンマ函数とは異なり整函数になる。", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "オイラーはまた非整数の階乗に対する近似無限乗積", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "についても考察している。これは上記のガンマ函数に関する公式と同じものと見做すことができる。しかしこの公式は収束が遅く、実用的な意味でパイ函数やガンマ函数の値を計算することに利用することはできない。", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "複素変数の階乗の値をガンマ函数による表現を通して評価することができる。絶対値 ρ と偏角 φ を用いて", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "と書けば、絶対値一定曲線 ρ = (定数) と偏角一定曲線 φ = (定数) を等値線として格子を描くことができる。一定間隔で引いた等値線の間にさらに細かく等値線を引けば、それが補間で得られる値である。極である負の整数においては絶対値と偏角が定義できず、またその周辺で等値線は密になる。", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "|z| < 1 に対してはテイラー展開", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "が利用できる。この展開のより多くの項は、Sageのような計算機代数システムで計算できる。", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "大きな値に対する階乗の値の近似をディガンマ函数の積分を通じて連分数表示を用いて記述できる。この方法はスティルチェスによるもので、z! = exp(P(z)) と書けば P(z) は", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "で、スティルチェスはこの第一項 p(z) の連分数展開", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "を与えた。", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "さて、任意の複素数 z ≠ 0 に対して log(z!) = P(z) あるいは log(Γ(z + 1)) = P(z) とするのは誤りであり、実際には実軸の近くの特定の範囲の z でしか成り立たない(一方 |I(Γ(z + 1))| < π である。引数の実部は大きいほど、虚部はより小さくなければならない。しかし逆の関係式 z! = exp(P(z)) は原点を除くガウス平面の全域で有効である。ただし実軸の負の部分では収束性は弱くなる(特異点の周辺ではどのような近似もよい収束性を得ることが難しい)。一方、|I(z)| > 2 または R(z) > 2 の範囲では上記の六つの係数は double 精度の複素数に対してその階乗の近似値を得るのに十分である。より高い精度でより多くの係数を計算するには rational QD-scheme (H. Rutishauser's QD algorithm)を用いる。", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "関係式 n! = n × (n − 1)! を使えばある整数に対する階乗をそれより「小さい」整数の階乗から計算できる。この関係式を逆に使えば、「大きい」整数に対して与えられた階乗から", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "と計算することも可能である。しかし注意すべきは、これでは負の整数に関する階乗を計算することはできないということである(この式に従って (−1)! を計算するには零除算が必要となりこれ以下の負の整数における階乗の値の計算は不可能となる)。このことはガンマ函数においても同じことで、ガンマ函数は負の整数を除くガウス平面の全域において定義できるにも拘らず、負の整数における値だけは定義することができない。", "title": "連続変数への補間" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "多重指数 α = ( α 1 , α 2 , ... , α n ) {\\displaystyle \\alpha =(\\alpha _{1},\\alpha _{2},\\ldots ,\\alpha _{n})} に対し階乗は、", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "と定義できる。これは例えば、多変数関数の展開に使われる。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "マンジュル・バルガヴァは階乗を一般のデデキント環上で定義し、いくつかの古典的な問題を解決するために用いた。それらの階乗は整数ではなく、イデアルとなる。", "title": "一般化" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "階乗の類似として、二重階乗 n!! は自然数 n に対し一つ飛ばしに積を取る。二重階乗 n!! は階乗 n! の二回反復合成 (n!)! とは異なる。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "奇数 n = 1, 3, 5, 7, ... に対する二重階乗の最初の方の値は", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "偶数 n = 0, 2, 4, 6, 8, ... に対する二重階乗の値の最初の方は", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "で与えられる。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "負の奇数にも拡張される( ( − ( 2 n + 1 ) ) ! ! = ( − 1 ) n / ( 2 n − 1 ) ! ! {\\displaystyle \\left(-(2n+1)\\right)!!={(-1)^{n}}/{(2n-1)!!}} )。また、複素数値への拡張として、以下が知られている。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "z ! ! = 2 [ 1 + 2 z − cos ( π z ) ] / 4 π [ cos ( π z ) − 1 ] / 4 Γ ( 1 + 1 2 z ) {\\displaystyle z!!={2}^{\\left[1+2z-\\cos(\\pi z)\\right]/4}{\\pi }^{\\left[\\cos(\\pi z)-1\\right]/4}\\Gamma \\left(1+{\\frac {1}{2}}z\\right)}", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "より一般に多重階乗 (multifactorial) は、連続した整数の積である通常の階乗 n!、一つ飛ばしの積である二重階乗 n!!、二つ飛ばしの積である三重階乗 n!!! または n!3、三つ飛ばしの四重階乗 n!!!! または n!4 などを総称して言う。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "三重階乗の例", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "1、4、28、280、3640。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "2、10、80、880、12320。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "3、18、162、1944、29160。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "4、28、280、3640、58240。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "5、40、440、6160、104720。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "6、54、648、9720、174960。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "7、70、910、14560、276640。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "8、88、1232、20944、418880。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "9、108、1620、29160、612360。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "10、130、2080、39520、869440。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "四重階乗の例", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "1、5、45、585。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "2、12、120、1680。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "3、21、231、3465。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "4、32、384、6144。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "5、45、585、9945。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "6、60、840、15120。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "7、77、1155、21945。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "8、96、1536、30720。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "9、117、1989、41769。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "10、140、2520、55440。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "と定義できる。これと異なる定義として", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "とするものもある。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "自然数 n, k に対して、n の k-順列の総数 n は n から始めて上から k 個の連続する整数の積を取る(ある意味で不完全な階乗とも呼べる)階乗の類似物であった。これを下降階乗冪と呼ぶ。その反対に n から始めて下から k 個の連続する整数の積をとったもの n を上昇階乗冪といい、これら二つを総称して階乗冪と呼ぶ。ただし一般に自然数に限らず(実数や複素数などに値をとる)x を変数として", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "を考えることが多い。明らかに自然数 n に対して", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "また一般に実数 x ≠ 0 に対して", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "と定義する(空積も参照)が x = 0 のときもそうであるかは規約による(例えば上記の関係式 n! = n は n = 0 のとき 1 = 0! = 0 で矛盾しない。0^0も参照)。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "素数階乗 (Primorial) n# は最初の n-個の素数の総乗", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "である。オンライン整数列大辞典の数列 A002110。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "これは、素数が無限に存在するという命題の証明に用いられることがある。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "Pickover (1995) の超階乗(superfactorial)は、階乗を入れ子に拡張したものである。ドル記号$を用いて書かれる。またLawrence Hollom氏が開発した超階乗配列表記は階乗をベースとした配列表記で従来の階乗や超階乗より遥かに大きな増加速度を持つ。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "nが3以上になると、非常に大きい値になる。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "これとは異なる種類の超階乗の定義がある。Neil J. A. Sloane and Simon Plouffe (1995) The Encyclopedia of Integer Sequences は、超階乗(superfactorial)を定義した。例として、4の超階乗は次のようになる。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "一般的にこの定義における超階乗は下の式で定義される。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "これは以下と同値:", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "最初のいくつかの値は、次のようになる:", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "超階乗は、複素数値にも拡張できる。その結果はバーンズのG関数と呼ばれる。定義は次のようになる。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "自然数に対しては、以下が成り立っている。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "ハイパー階乗(hyperfactorial)は、以下で定義される。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "これはとても大きくなっていく。最初のいくつかの値はつぎの通りである。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "ハイパー階乗は定義域を複素数にまで拡張できる。それはK函数と呼ばれ、以下で定義される。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "自然数nに対し、次が成り立つ。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "以下、↑をクヌースの矢印表記とする。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "階乗が連続する整数を順に「乗」じるのに対し、連続する整数を順に冪にする演算として階「冪」 (exponential factorial) n(感嘆符は右肩に添字として書く)は", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "で与えられる。つまり、自然数 n に対して", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "であり、最初の5つの値は次のようになる。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "5 の値は十進展開で183231桁にも及ぶきわめて大きな自然数である。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "これ以降は、グーゴルプレックス 10 10 100 {\\displaystyle 10^{10^{100}}} より遥かに大きくなる(6 を計算すると、およそ 6 ≒ 10 となる)。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "全ての自然数の exponential factorial の逆数の総和は、", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "となる。この数は、超越数であり、リウヴィル数である。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "また、高次 exponential factorial が定義される。例として、二次 exponential factorial は、", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "となる。一般の m-次 exponential factorial は、", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "で与えられる。ただし、n, m は自然数である。", "title": "階乗に類似する概念" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "n 個の相異なる対象を1列に並べる方法の総数が n! 通りであるということは、少なくとも12世紀にはインドの学者によって知られていた。ファビアン・ステッドマン(英語版)は1677年にチェンジリンギング(英語版)への応用として階乗を記述した。再帰的な手法による記述の後、Stedman は(独自の言葉を用いて)階乗に関しての記述を与えている:", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "感嘆符(!)を用いた、この \"n!\" という表記は1808年にクリスチャン・クランプによって発明された。", "title": "歴史" } ]
数学において非負整数 n の階乗n ! は、1 から n までの全ての整数の積である。例えば、 である。空積の規約のもと 0! = 1 と定義する。 階乗は数学の様々な場面に出現するが、特に組合せ論、代数学、解析学などが著しい。階乗の最も基本的な出自は n 個の相異なる対象を1列に並べる方法(対象の置換)の総数が n! 通りであるという事実である。 階乗の定義は、最も重要な性質を残したまま、非整数を引数とする函数に拡張することができる。そうすれば解析学における著しい手法などの進んだ数学を利用できるようになる。
[[数学]]において[[非負整数]] '''{{mvar|n}} の階乗'''(かいじょう、{{lang-en-short|''factorial''}})'''{{math|{{mvar|n}}&thinsp;[[感嘆符#数学|!]]}}''' は、[[1]] から {{mvar|n}} までの全ての整数の[[総乗|積]]である<ref>{{Cite Kotobank |word=階乗 |encyclopedia=精選版 日本国語大辞典 |accessdate=2022-02-07}}</ref>。例えば、 :<math> 6! = 6 \times 5 \times 4 \times 3 \times 2 \times 1 = 720 </math> である。[[空積]]の規約のもと {{math|0! {{=}} 1}} と定義する<ref>{{harvnb|Graham|Knuth|Patashnik| p=111}}</ref>。 階乗は数学の様々な場面に出現するが、特に[[組合せ論]]、[[代数学]]、[[解析学]]などが著しい。階乗の最も基本的な出自は {{mvar|n}} 個の相異なる対象を1列に並べる方法(対象の[[置換 (数学)|置換]])の総数が {{math|''n''!}} 通りであるという事実である。 {|class="wikitable" style="margin: 1ex auto 1ex 1em; text-align: right; float: right;" |+ 階乗数 {{OEIS|id=A000142}} |- ! 0! | 1 |- ! 1! | 1 |- ! 2! | 2 |- ! 3! | 6 |- ! 4! | 24 |- ! 5! | 120 |- !6! |720 |- !7! | {{val|5040|fmt=space}} |- ! 8! | {{val|40320}} |- ! 9! | {{val|362880}} |- ! 10! | {{val|3628800}} |- ! 11! | {{val|39916800}} |- ! 12! | {{val|479001600}} |- ! 13! | {{val|6227020800}} |- ! 14! | {{val|87178291200}} |- ! 15! | {{val|1307674368000}} |- ! 16! | {{val|20922789888000}} |- ! 17! | {{val|355687428096000}} |- ! 18! | {{val|6402373705728000}} |- ! 19! | {{val|121645100408832000}} |- ! 20! | {{val|2432902008176640000}} |- ! 21! | {{val|51090942171709440000}} |- ! 22! | {{val|1124000727777607680000}} |- ! 23! | {{val|25852016738884976640000}} |} 階乗の定義は、最も重要な性質を残したまま、非整数を引数とする函数に[[#連続変数への補間|拡張]]することができる。そうすれば解析学における著しい手法などの進んだ数学を利用できるようになる。 == 定義 == いくつか同値な条件により定義することが可能である。 * <math>n!=\prod_{k=1}^n k=n\times\left(n-1\right)\times\cdots\times3\times2\times1</math> *[[再帰的定義|再帰的な定義]] *: <math> n! = \begin{cases} 1, & \text{if } n = 0 \\ n \times \left(n-1\right)!, & \text{if } n > 0 \end{cases} </math> *[[微分]]に関する「{{仮リンク|冪の微分法則|label=冪の法則|en|Power rule}}」を用いた定義 *: <math> n! = \frac{d^n}{dx^n}x^n \quad\left(n\geq 0\right)</math> * ''n''! = ( ''n'' 元集合の置換の総数 ) 上記の何れの定義においても、 : <math>0! = 1</math> となることが織り込み済みである(最初の定義では「[[零項積| 0 項の積]]は 1 と定める」という規約によって){{efn|[[空集合]]から空集合への全単射は[[空写像]]ただ1つ存在する。}}。このように定義することの理由は: {{ordered list |1= 零個の対象の置換は(「何もしない」という)ちょうど一通りであること。 |2= {{math|''n'' &gt; 0}} のとき有効な[[漸化式]] {{math|(''n'' + 1)! {{=}} ''n''! × (''n'' + 1)}}, が {{math|''n'' {{=}} 0}} の場合にも延長できること。 |3= [[指数函数]]などの冪級数としての表示 : <math> e^x = \sum_{n = 0}^{\infty}\frac{x^n}{n!}</math> など多くの公式が短く表せるようになること。 |4= [[組合せ論]]における多くの等式が任意のサイズに適用して意味を持つこと。例えば零個の元を[[空集合]]から選ぶ方法の総数は : <math>\binom{0}{0} = \frac{0!}{0!\,0!} = 1</math> であり、一般に {{mvar|n}} 元集合から {{mvar|n}} 個全ての元を選び出す方法の総数は : <math>\binom nn = \frac{n!}{n!\,0!} = 1</math> と書ける。 }} など様々に挙げることができる。 より進んだ数学においては、引数が非整数の場合にも階乗函数を定義することができる(後述)。そういった一般化された定義のもとでの階乗は[[関数電卓]]や、[[Maple]] や [[Mathematica]] などの[[数学ソフトウェア]]で利用できる。 === プログラミング言語における階乗 === 多くのプログラミング言語において、再帰的な定義を利用し、[[プロシージャ]]の[[再帰呼び出し]]を用いた階乗の実装が可能である。 以下は[[C言語]]での例である。例示するコードでは<code>unsigned long long</code>型を使用しているが、<code>unsigned long long</code>型では小さな階乗(21!)でも[[算術オーバーフロー|オーバーフロー]]してしまうため、大きな階乗については[[任意精度演算]]による実装を検討すべきである<ref>この記事の{{oldid|83023136|過去の版}}で「大きな階乗については<code>double</code>型のような[[浮動小数点数]]型を用いるなどの工夫が必要となる」との記述があったが、2021年時点の典型的な64ビットマイクロプロセッサでは、[[整数型]]のビット長 > [[浮動小数点数|浮動種数点型]]の[[仮数|仮数部]]のビット長 なのでこれはあたらない。</ref>。 {{See also|[[任意精度演算#例]]}} <syntaxhighlight lang="c"> unsigned long long factorial(unsigned int n) { if (n > 0) return n * factorial(n - 1); return 1; // 0! == 1 } </syntaxhighlight> == 組合せ論 == {{unreferenced section|date=May 2013}} 階乗を含む公式は数学の多くの分野に現れるけれども、階乗のおおもとの出自は[[組合せ論]]にある。相異なる {{mvar|n}} 個の対象の[[順列]]({{mvar|k}}-順列)の総数は {{math|''n''!}} 通りである。 階乗はしばしば「順番を無視する」という事実を反映するものとして[[分母]]に現れる。古典的な例としては {{mvar|n}} 個の元から {{mvar|k}} 個の元を選ぶ[[組合せ]]({{mvar|k}}-組合せ)の総数が挙げられる。このような組合せは順列から得ることができる。実際、{{mvar|k}}-順列の総数 :<math>n^{\underline k}=n(n-1)(n-2)\cdots(n-k+1)</math> において、順番のみが違う({{mvar|k}}-組合せでは違いが無視される){{mvar|k}}-順列が {{math|''k''&thinsp;!}} 通りずつ存在するから、{{mvar|k}}-組合せの総数は :<math>\frac{n^{\underline k}}{k!}=\frac{n(n-1)(n-2)\cdots(n-k+1)}{k(k-1)(k-2)\cdots1}</math> となる。この数は、二項冪 {{math|(1 + ''X'')<sup>''n''</sup>}} における {{mvar|X{{sup|k}}}} の係数となることから、[[二項係数]] <math>\tbinom nk</math> とも呼ばれる。 [[代数学]]に現れる階乗にはいくつも理由があるが、既述の如く[[二項定理|二項展開]]の係数として現れたり、ある種の演算の{{仮リンク|対称化|en|symmetrization}} において[[置換 (数学)|置換]]による平均化を行うなど、組合せ論的な理由で現れるものもある。 [[微分積分学]]においても階乗は例えば[[テイラー級数]]の分母として現れるが、これは冪函数 {{mvar|x{{sup|n}}}} の {{mvar|n}} 階導函数が {{math|''n''&thinsp;!}} であることを補正する定数である。[[確率論]]でも階乗は用いられる。 階乗は数式操作にも有効である。例えば {{mvar|n}} の {{mvar|k}}-順列の総数を : <math>n^{\underline k}=\frac{n!}{(n-k)!}</math> と書けば、(この数値を計算することを考えれば効率が悪くなるが)二項係数の対称性 : <math>\binom nk=\frac{n^{\underline k}}{k!}=\frac{n!}{(n-k)!k!}=\frac{n^{\underline{n-k}}}{(n-k)!}=\binom n{n-k}</math> を見るには都合がよい。 == 数論における階乗 == {{unreferenced section|date=May 2013}} 階乗は[[数論]]にも多くの応用を持つ。特に {{math|''n''&thinsp;!}} は {{mvar|n}} 以下の全ての[[素数]]で整除されねばならない。このことの帰結として、{{math|''n'' &ge; 5}} が[[合成数]]となる[[必要十分条件]]は : <math>(n-1)!\equiv 0 \pmod n</math> が満たされることである。より強い結果として[[ウィルソンの定理]]は : <math>(p-1)!\equiv -1 \pmod p</math> が {{mvar|p}} が素数であるための必要十分条件であることを述べる。 [[ルジャンドルの公式]]は {{math|''n''&thinsp;!}} の素因数分解に現れる {{mvar|p}} の重複度が : <math>\sum_{i=1}^{\infty} \left \lfloor \frac{n}{p^i} \right \rfloor</math> であることを示す。これは : <math>\frac{n - s_p(n)}{p - 1}</math> と書いてもよい。ただし、{{math|''s''{{sub|p}}(''n'')}} は {{mvar|n}} の {{mvar|p}} 進展開の係数の和である。 {{math|''n''&thinsp;!}} が素数となる {{mvar|n}} は {{math|2}} のみである。{{math|''n''! ± 1}} の形の素数は[[階乗素数]]と呼ばれる。 {{math|1!}} より大きな階乗は全て[[偶数]]である(これらは明らかに因数 {{math|2}} を持ち、{{math|2}} の倍数である)。同様に、{{math|5!}} より後の階乗は {{math|10}} の倍数({{math|2}} と {{math|5}} を因数に持つ)であり、十進展開の{{仮リンク|末尾の零|en|trailing zero|label=末尾には 0 が並ぶ}}。 === ブロカールの問題 === {{main|ブロカールの問題}} ブロカールの問題とは、 :<math>n!+1 = m^2</math> を満たす {{mvar|n, m}} は存在するか、という問題である。2015年9月現在、これを満たす {{math|(''n'', ''m'')}} の組{{efn|このような {{math|(''n'', ''m'')}} を、ブラウン数 ({{lang-en-short|'''Brown numbers'''}}) と呼ぶ。}}は :(4, 5), (5, 11), (7, 71) しか見つかっていない。[[ABC予想]]が真であれば、解は有限個しかないことが、Marius Overholt により示されている。 == 階乗の解析学 == === 階乗の逆数和 === 階乗の[[逆数]]の総和は[[収束級数]] : <math>\sum_{n=0}^{\infty} \frac{1}{n!} = \frac{1}{1} + \frac{1}{1} + \frac{1}{2} + \frac{1}{6} + \frac{1}{24} + \frac{1}{120} + \dotsb = e</math> を与える([[ネイピア数]]を参照)。この和は[[無理数]]となるけれども、階乗に適当な正整数を掛けて和が有理数となるようにすることができる。例えば、 :<math>\sum_{n=0}^{\infty} \frac{1}{ \left(n+2 \right)n!} = \frac{1}{2}+\frac{1}{3}+\frac{1}{8}+\frac{1}{30}+\frac{1}{144}+\dotsb=1.</math> この級数の値が 1 となることを見るには、その[[部分和]]が 1 &minus; 1/(''n''+2)! であることを確認すればよい。したがって、階乗数の全体は{{仮リンク|無理列|en|irrationality sequence}}を成さない<ref>{{harvnb|Guy|2004|p=346}}</ref>。 === 階乗の増大度 === {{seealso|スターリングの近似}} [[File:Log-factorial.svg|300px|thumb|right|階乗の自然対数 {{math|''f''(''n'') {{=}} log(''n''!)}} のグラフをプロットしたもの。このグラフは一見して適当に選び出した {{mvar|n}} に対する[[一次函数]]で近似できそうにも思えるが、そのような直観は誤りである。]] {{mvar|n}} が増えるにつれて、階乗 {{math|''n''&thinsp;!}} は {{mvar|n}} を変数とする任意の[[多項式函数]]あるいは[[指数函数]]よりも早く増加する(ただし、[[二重指数関数]]よりは遅い)。 {{math|''n''&thinsp;!}} の近似式の多くは[[自然対数]] :<math>\log n! = \sum_{x=1}^n \log x</math> であることを利用する。もっとも単純に得られる {{math|log(''n''!)}} の近似値を評価する式は、上記の式と以下の積分: : <math> \int_1^n \log x \, dx \leq \sum_{x=1}^n \log x \leq \int_0^n \log (x+1) \, dx</math> によって与えられる。積分を評価すれば : <math> n\log\left(\frac{n}{e}\right)+1 \leq \log n! \leq \left(n+1 \right)\log\left( \frac{n+1}{e} \right) + 1</math> を得る。これは、[[ランダウの記号]]を用いれば {{math|log(''n''!)}} のオーダーは {{math|Θ(''n'' log ''n'')}} であることを言っているのであり、この結果は[[ソート|ソートアルゴリズム]]の[[計算量]]を測るのに重要な役割を果たす。さて上記の {{math|log(''n''!)}} の評価から : <math>e\left(\frac ne\right)^n \leq n! \leq e\left(\frac{n+1}e\right)^{n+1}</math> がわかる。実用上はより弱い結果だがより評価のしやすいものを用いることもある。上記の式から簡単な評価をしてみると、任意の {{mvar|n}} に対して {{math|(''n''/3){{sup|''n''}} < ''n''! }} であり、また {{math|''n'' ≥ 6}} のとき {{math|''n''! < (''n''/2){{sup|''n''}}}} であることなどが分かる。 大きな {{mvar|n}} に対して {{math|''n''&thinsp;!}} をよりよく評価するには[[スターリングの公式]] : <math>n!\sim \sqrt{2\pi n}\left(\frac{n}{e}\right)^n</math> を利用する。(ここで <math>\sim</math> は両辺の比が {{math|1}} に収束することを表す。)実は任意の {{mvar|n}} に対して : <math>\sqrt{2\pi n}\left(\frac{n}{e}\right)^n < n! < \sqrt{2\pi n}\left(\frac{n}{e}\right)^n e^{1/12n}</math> であることが証明できる{{sfn|杉浦|1980|p=339|loc=定理 15.7}}。 {{math|log(''n''&thinsp;!)}} の別な近似は[[シュリニヴァーサ・ラマヌジャン]]により :<math>\log n! \approx n\log n - n + \frac {\log\left[n \left\{1+4n \left(1+2n \right) \right\} \right]} {6} + \frac {\log \pi} {2}</math> したがって :<math>n! \sim \sqrt{2\pi n}\left(\frac{n}{e}\right)^n \left( 1 + \frac{1}{2n} + \frac{1}{8n^2} \right)^{1/6} </math> と与えられている<ref>{{harvnb|Ramanujan|1988||p=339}}</ref>。この近似の誤差は、スターリングの公式よりも小さい。 == 連続変数への補間 == === ガンマ関数とパイ関数 === {{main|Γ関数}} [[File:Generalized factorial function.svg|thumb|right|325px|階乗函数は負の整数を除く任意の実数に対するものに一般化することができる。例えば * {{math|0! {{=}} 1! {{=}} 1}}, * {{math|(−1/2)! {{=}} {{sqrt|''π''}}}}, * {{math|(1/2)! {{=}} {{sfrac|{{sqrt|''π''}}|2}}}}. ]] 負の整数を除けば、階乗関数は非整数の値に対しても定義することができるが、そのためには[[解析学]]の道具立てが必要である。そのように階乗の値を「補間」して得られるものの一つが'''[[ガンマ函数]]''' {{math|Γ(''z'')}} である(ただし引数が 1 だけずれる)。これは負の整数を除く任意の複素数 {{mvar|z}} に対して定義される。{{mvar|z}} の実部が正である場合には :<math>\Gamma(z)=\int_0^\infty t^{z-1} e^{-t}\, dt</math> で与えられる。ガンマ函数と階乗との関係は、任意の自然数 {{mvar|n}} に対して :<math>n!=\Gamma(n+1)</math> が成り立つことである。[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]のもともとの定義式は : <math>\Gamma(z)=\lim_{n\to\infty}\frac{n^zn!}{\displaystyle\prod_{k=0}^n (z+k)}</math> である。[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]の導入した別表記として、負でない実数 {{mvar|z}} に対する'''パイ函数''' {{math|Π(''z'')}} は : <math>\Pi(z)=\int_0^\infty t^{z} e^{-t}\,dt</math> を満たす。ガンマ函数との関係は : <math>\Pi(z) = \Gamma(z+1)</math> である。非負整数 {{mvar|n}} に対し : <math>\Pi(n) = n!</math> が成り立つことを思えば、こちらのほうが階乗を補完した函数としては適していると言えるかもしれない。さてパイ函数は階乗が満たすのと同じ漸化式 : <math>\Pi(z) = z\Pi(z-1)</math> を、しかし定義される限り任意の複素数 {{mvar|z}} に対して満たす。事実としてはこれはもう漸化式ではなくて[[函数等式]]と見るべきものであるが。この函数等式をガンマ函数に関するものに書き換えれば : <math>\Gamma(n+1)=n\Gamma(n)</math> となる。階乗を延長したものがパイ函数なのだから、定義可能な任意の複素数 {{mvar|z}} に対して : <math>z! := \Pi(z)</math> と定めることは可能である。これらの補間函数を用いて[[半整数]]における階乗の値を定めるならば、例えば : <math>\Gamma\left (\frac{1}{2}\right )=\left (-\frac{1}{2}\right )!=\Pi\left (-\frac{1}{2}\right ) = \sqrt{\pi}</math> が成り立ち、さらに自然数 {{math|''n''&nbsp;∈&nbsp;'''N'''}} に対して : <math>\Gamma\left (\frac{1}{2}+n\right ) = \left (-\frac{1}{2}+n\right )! = \Pi\left (-\frac{1}{2}+n\right ) = \sqrt{\pi} \prod_{k=1}^n {2k - 1 \over 2} = {(2n)! \over 4^n n!} \sqrt{\pi} = {(2n-1)! \over 2^{2n-1}(n-1)!} \sqrt{\pi}</math> が得られる。例えば :<math>\Gamma\left (4.5 \right ) = 3.5! = \Pi\left (3.5\right ) = {1\over 2}\cdot{3\over 2}\cdot{5\over 2}\cdot{7\over 2} \sqrt{\pi} = {8! \over 4^4 4!} \sqrt{\pi} = {7! \over 2^7 3!} \sqrt{\pi} = {105 \over 16} \sqrt{\pi} \approx 11.63.</math> 同様に {{math|''n''&nbsp;∈&nbsp;'''N'''}} に対して : <math>\Gamma\left (\frac{1}{2}-n\right ) = \left (-\frac{1}{2}-n\right )! = \Pi\left (-\frac{1}{2}-n\right ) = \sqrt{\pi} \prod_{k=1}^n {2 \over 1 - 2k} = {(-4)^n n! \over (2n)!} \sqrt{\pi}</math> が成り立ち、例えば :<math>\Gamma\left (-2.5 \right ) = (-3.5)! = \Pi\left (-3.5\right ) = {2\over -1}\cdot{2\over -3}\cdot{2\over -5} \sqrt{\pi} = {(-4)^3 3! \over 6!} \sqrt{\pi} = -{8 \over 15} \sqrt{\pi} \approx -0.9453.</math> パイ函数が殆ど全ての複素数値に対して定義される階乗の延長として唯一のものでないことはもちろんである。それは定義域において[[解析函数|解析的]]としても同じことである。しかし、ふつうはこれが階乗の複素函数への最も自然な延長であるものと考える。例えば、[[ボーア・モレルップの定理]]はガンマ函数が {{math|Γ(1) {{=}} 1}} かつ函数等式 {{math|Γ(''n'' + 1) {{=}} ''n''Γ(''n'')}} を満足する、ガウス平面の全域で[[有理型函数|有理型]]かつ実軸の正の部分で{{仮リンク|対数凸|en|log-convex}}となるような唯一の函数であることを述べる。同様の主張はパイ函数に関しても、函数等式 {{math|Π(''n'') {{=}} ''n''Π(''n'' − 1)}} に関して述べられる。 そうは言うものの、解析的函数論の意味で恐らくより簡明な、階乗の値を補間する複素函数は存在する。例えば[[ジャック・アダマール|アダマール]]の「ガンマ」函数<ref name="名前なし-1">{{harvnb|Hadamard|1894}}</ref>はガンマ函数とは異なり[[整函数]]になる<ref>Peter Luschny, [http://www.luschny.de/math/factorial/hadamard/HadamardsGammaFunction.html ''Hadamard versus Euler - Who found the better Gamma function?''].</ref>。 オイラーはまた非整数の階乗に対する近似無限乗積 : <math>\begin{align}n! = \Pi(n) &= \prod_{k = 1}^\infty \left(\frac{k+1}{k}\right)^n\!\!\frac{k}{n+k} \\ &= \left[ \left(\frac{2}{1}\right)^n\frac{1}{n+1}\right]\left[ \left(\frac{3}{2}\right)^n\frac{2}{n+2}\right]\left[ \left(\frac{4}{3}\right)^n\frac{3}{n+3}\right]\cdots \end{align}</math> についても考察している。これは上記のガンマ函数に関する公式と同じものと見做すことができる。しかしこの公式は収束が遅く、実用的な意味でパイ函数やガンマ函数の値を計算することに利用することはできない。 === ガウス平面上での挙動 === [[File:Factorial05.jpg|400px|thumb|複素変数に対する階乗の絶対値と偏角を、単位長さ間隔で {{math|&minus;3 &le; ''x'' &le; 3}}, {{math|&minus;2 &le; ''y'' &le; 2}} の範囲で描いた等高線。太くなぞった等高線は {{math|&phi; {{=}} &plusmn;&pi;}} である。]] 複素変数の階乗の値をガンマ函数による表現を通して評価することができる。絶対値 {{math|&rho;}} と偏角 {{math|&phi;}} を用いて : <math>f=\rho \exp(i\varphi)=(x+iy)!=\Gamma(x+iy+1)</math> と書けば、絶対値一定曲線 {{math|&rho; {{=}} (定数)}} と偏角一定曲線 {{math|&phi; {{=}} (定数)}} を等値線として格子を描くことができる。一定間隔で引いた等値線の間にさらに細かく等値線を引けば、それが補間で得られる値である。極である負の整数においては絶対値と偏角が定義できず、またその周辺で等値線は密になる。 {{clear}} {| class="wikitable" style="mrgin: 1ex auto 1ex 1em; float: right;" |+ 展開の係数の最初の方 |- ! {{mvar|n}} ! {{mvar|g{{sub|n}}}} ! 近似値 |- | {{math|0}} | {{math|1}} | {{math|1}} |- | {{math|1}} | {{math|&minus;&gamma;}} | {{math|&minus;0.5772156649}} |- | {{math|2}} | <math>\frac{\pi^2}{12}+\frac{\gamma^2}{2}</math> | {{math|0.9890559955}} |- | {{math|3}} | <math>-\frac{\zeta(3)}{3}-\frac{\pi^2\gamma}{12}-\frac{\gamma^3}{6}</math> | {{math|&minus;0.9074790760}} |- | colspan="3" | {{math|&gamma;}} は[[オイラー・マスケローニ定数]]、{{math|&zeta;}} は[[リーマンゼータ函数]]である。 |} {{math|{{!}}''z''{{!}} < 1}} に対してはテイラー展開 : <math>z!=\sum_{n=0}^{\infty} g_n z^n</math> が利用できる。この展開のより多くの項は、[[Sage (数式処理システム)|Sage]]のような[[数式処理システム|計算機代数システム]]で計算できる。 {{clear}} === 階乗の近似 === {| class="wikitable" style="margin: 1ex auto 1ex 1em; float:right;" |+ 展開の係数 {{math|''a''{{sub|''n''}}}}<ref name="dlmf5.10" >Digital Library of Mathematical Functions, http://dlmf.nist.gov/5.10</ref> |- ! {{mvar|n}} ! {{mvar|a<sub>n</sub>}} |- | {{math|0}} | {{math|{{fraction|1|12}}}} |- | {{math|1}} | {{math|{{fraction|1|30}}}} |- | {{math|2}} | {{math|{{fraction|53|210}}}} |- | {{math|3}} | {{math|{{fraction|195|371}}}} |- | {{math|4}} | {{math|{{fraction|22999|22737}}}} |- | {{math|5}} | {{math|{{fraction|29944523|19733142}}}} |- | {{math|6}} | {{math|{{fraction|109535241009|48264275462}}}} |} 大きな値に対する階乗の値の近似を[[ディガンマ函数]]の積分を通じて[[連分数]]表示を用いて記述できる。この方法は[[トーマス・スティルチェス|スティルチェス]]による<ref name="名前なし-1"/>もので、{{math|''z''! {{=}} exp(''P''(''z''))}} と書けば {{math|''P''(''z'')}} は : <math> P(z) = p(z) + \log(2\pi)/2 - z + \left(z+\frac{1}{2}\right)\log(z)</math> で、スティルチェスはこの第一項 {{math|''p''(''z'')}} の連分数展開 : <math> p(z)=\cfrac{a_0}{z+ \cfrac{a_1}{z+ \cfrac{a_2}{z+ \cfrac{a_3}{z+\ddots}}}} </math> を与えた。 さて、任意の複素数 {{math|''z'' &ne; 0}} に対して {{math|log(''z''!) {{=}} ''P''(''z'')}} あるいは {{math|log(&Gamma;(''z'' + 1)) {{=}} ''P''(''z'')}} とするのは誤りであり{{cn|date=February 2015}}、実際には実軸の近くの特定の範囲の {{mvar|z}} でしか成り立たない(一方 {{math|{{!}}ℑ(&Gamma;(''z'' + 1)){{!}} < &pi;}} である。引数の実部は大きいほど、虚部はより小さくなければならない。しかし逆の関係式 {{math|''z''! {{=}} exp(''P''(''z''))}} は原点を除くガウス平面の全域で有効である。ただし実軸の負の部分では収束性は弱くなる{{cn|date=February 2015}}(特異点の周辺ではどのような近似もよい収束性を得ることが難しい)。一方、{{math|{{!}}ℑ(''z''){{!}} > 2}} または {{math|ℜ(''z'') > 2}} の範囲では上記の六つの係数は {{code|double}} 精度の複素数に対してその階乗の近似値を得るのに十分である。より高い精度でより多くの係数を計算するには rational QD-scheme ([[H. Rutishauser]]'s [[QD algorithm]])<ref>Peter Luschny, [http://www.luschny.de/math/factorial/approx/continuedfraction.html ''On Stieltjes' Continued Fraction for the Gamma Function.''].</ref>を用いる。 === 負の整数に対する拡張不能性 === 関係式 {{math|''n''! {{=}} ''n'' × (''n'' − 1)!}} を使えばある整数に対する階乗をそれより「小さい」整数の階乗から計算できる。この関係式を逆に使えば、「大きい」整数に対して与えられた階乗から : <math>(n-1)! = \frac{n!}{n}</math> と計算することも可能である。しかし注意すべきは、これでは負の整数に関する階乗を計算することはできないということである(この式に従って {{math|(−1)!}} を計算するには零除算が必要となりこれ以下の負の整数における階乗の値の計算は不可能となる)。このことはガンマ函数においても同じことで、ガンマ函数は負の整数を除くガウス平面の全域において定義できるにも拘らず、負の整数における値だけは定義することができない。 == 一般化 == === 多重指数記法 === [[多重指数]]<math>\alpha = (\alpha_1, \alpha_2,\ldots,\alpha_n)</math>に対し階乗は、 :<math>\alpha ! = \alpha_1! \cdot \alpha_2! \cdots \alpha_n!</math> と定義できる。これは例えば、多変数関数の展開に使われる。 === デデキント環への拡張 === [[マンジュル・バルガヴァ]]は階乗を一般の[[デデキント環]]上で定義し、いくつかの古典的な問題を解決するために用いた<ref>[http://www.math.upenn.edu/~ted/620F09/Notes/Bhargava/2695734.pdf The Factorial Function and Generalizations]</ref>。それらの階乗は整数ではなく、[[イデアル]]となる。 == 階乗に類似する概念 == {{main|{{ill2|階乗類似函数|fr|Analogues de la factorielle}}}} === 二重階乗 === {| class="wikitable" style="margin: 1ex 1em 1ex 1em; float: right;" |+ '''二重階乗の例''' |- ! {{math|(-9)<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} {{fraction|1|105}} }} |- ! {{math|(-7)<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} &minus;{{fraction|1|15}} }} |- ! {{math|(-5)<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} {{fraction|1|3}} }} |- ! {{math|(-3)<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} &minus;1}} |- ! {{math|(-1)<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 1}} |- ! {{math|0<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 1}} |- ! {{math|1<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 1}} |- ! {{math|2<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 2}} |- ! {{math|3<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 3}} |- ! {{math|4<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 8}} |- ! {{math|5<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 15}} |- ! {{math|6<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 48}} |- ! {{math|7<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 105}} |- ! {{math|8<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 384}} |- ! {{math|9<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 945}} |- ! {{math|10<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 3840}} |- ! {{math|11<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 10395}} |- ! {{math|12<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 46080}} |- ! {{math|13<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 135135}} |- ! {{math|14<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 645120}} |- ! {{math|15<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 2027025}} |- ! {{math|16<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 10321920}} |- ! {{math|17<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 34459425}} |- ! {{math|18<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 185794560}} |- ! {{math|19<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 654729075}} |- ! {{math|20<nowiki>!!</nowiki>}} | {{math|{{=}} 3715891200}} |} {{main|二重階乗}} 階乗の類似として、'''二重階乗 {{math|''n''!!}}''' は自然数 {{mvar|n}} に対し一つ飛ばしに積を取る。二重階乗 {{math|''n''!!}} は階乗 {{math|''n''!}} の二回[[反復合成写像|反復合成]] {{math|(''n''!)!}} とは異なる。 : <math>(2n)!!=(2n)(2n-2)\cdots(2)=2^n n!</math> : <math>(2n+1)!!=(2n+1)(2n-1)\cdots(1)=\frac{(2n+1)!}{(2n)!!}</math> 奇数 {{math|''n'' {{=}} 1, 3, 5, 7, …}} に対する二重階乗の最初の方の値は : {{math|1, 3, 15, 105, 945, 10395, 135135, …,}} ({{OEIS2C|id=A001147}}) 偶数 {{math|''n'' {{=}} 0, 2, 4, 6, 8, …}} に対する二重階乗の値の最初の方は : {{math|1, 2, 8, 48, 384, 3840, 46080, 645120, …}} ({{OEIS2C|id=A000165}}) で与えられる。 負の奇数にも拡張される(<math> \left(-(2n+1) \right)!! = {(-1)^n} / {(2n-1)!!}</math> )。また、複素数値への拡張として、以下が知られている<ref>{{MathWorld | urlname= DoubleFactorial | title= Double Factorial}}</ref>。 <math>z!!={2}^{ \left[1+2z-\cos(\pi z) \right]/4}{\pi}^{ \left[\cos (\pi z)-1 \right]/4}\Gamma \left(1+\frac{1}{2} z\right)</math> === 多重階乗 === より一般に'''多重階乗''' (''multifactorial'') は、連続した整数の積である通常の階乗 {{math|''n''!}}、一つ飛ばしの積である二重階乗 {{math|''n''!!}}、二つ飛ばしの積である'''三重階乗''' '''{{math|''n''!!!}}''' または '''{{math|''n''!{{sub|3}}}}'''、三つ飛ばしの'''四重階乗''' '''{{math|''n''!!!!}}''' または '''{{math|''n''!{{sub|4}}}}''' などを総称して言う。 '''三重階乗の例''' : {{math|1, 4, 28, 280, 3640, 58240, 1106560, …}} ({{OEIS2C|id=A007559}}) : {{math|2, 10, 80, 880, 12320, 209440, 4188800, …}} ({{OEIS2C|id=A008544}}) : {{math|3, 18, 162, 1944, 29160, 524880, …}} ({{OEIS2C|id=A032031}}) '''四重階乗の例''' : {{math|1, 5, 45, 585, 9945, 208845, 5221125, …}} ({{OEIS2C|id=A007696}}) : {{math|2, 12, 120, 1680, 30240, 665280, 17297280, …}} ({{OEIS2C|id=A001813}}) : {{math|3, 21, 231, 3465, 65835, 1514205, …}} ({{OEIS2C|id=A008545}}) : {{math|4, 32, 384, 6144, 122880, 2949120, …}} ({{OEIS2C|id=A047053}}) ; 定義 : 一般の '''{{mvar|k}}-重階乗''' {{math|''n''!{{sub|''k''}}}} は正整数 {{mvar|n}} に関して帰納的に ::<math> n!_k= \begin{cases} 1 &\text{if }n=0,\\ n &\text{if }0<n<k,\\ n\, \left((n-k)!_k \right) &\text{if }n\ge k. \end{cases}</math> と定義できる。これと異なる定義として ; 定義 ::<math>z!^{(k)} = z(z-k)\cdots (k+1) = k^{(z-1)/k}\left(\frac{z}{k}\right)\left(\frac{z-k}{k}\right)\cdots \left(\frac{k+1}{k}\right) = k^{(z-1)/k} \frac{\Gamma\left(\frac{z}{k}+1\right)}{\Gamma\left(\frac{1}{k}+1\right)}.</math> とするものもある。 === 階乗冪 === {{main|階乗冪}} 自然数 {{mvar|n, k}} に対して、{{mvar|n}} の {{mvar|k}}-順列の総数 {{math|''n''{{sup|{{underline|''k''}}}}}} は {{mvar|n}} から始めて上から {{mvar|k}} 個の連続する整数の積を取る(ある意味で不完全な階乗とも呼べる)階乗の類似物であった。これを'''下降階乗冪'''と呼ぶ。その反対に {{mvar|n}} から始めて下から {{mvar|k}} 個の連続する整数の積をとったもの {{math|''n''{{sup|{{overline|''k''}}}}}} を'''上昇階乗冪'''といい、これら二つを総称して階乗冪と呼ぶ。ただし一般に自然数に限らず(実数や複素数などに値をとる){{mvar|x}} を変数として : <math>\begin{align} x^{\underline{k}} & =\prod_{i=0}^{k-1}(x-i),\\ x^{\overline{k}} &=\prod_{i=0}^{k-1}(x+i) \end{align}</math> を考えることが多い。明らかに自然数 {{mvar|n}} に対して : <math>n^{\underline{k}} = \frac{n!}{(n-k)!},\quad n^{\overline{k}}=\frac{(n+k-1)!}{(n-1)!},</math> : <math> n!= n^{\underline{n}} = 1^{\overline{n}}.</math> また一般に実数 {{math|''x'' &ne; 0}} に対して : <math>x^{\underline{0}}=x^{\overline{0}}=1</math> と定義する([[空積]]も参照)が {{math|''x'' {{=}} 0}} のときもそうであるかは規約による(例えば上記の関係式 {{math|''n''! {{=}} ''n''{{exp|{{underline|''n''}}}}}} は {{math|''n'' {{=}} 0}} のとき {{math|1= 1 {{=}} 0! {{=}} 0{{exp|{{underline|0}}}}}} で矛盾しない。[[0^0]]も参照)。 === 素数階乗 === {{main|素数階乗}} '''素数階乗''' (''Primorial'') {{math|''n''[[番号記号|#]]}} は最初の {{mvar|n}}-個の素数の総乗 :<math>n\# = \prod_{i=1}^{n} p_i</math> である<ref name="mathworld">{{Mathworld | urlname=Primorial | title=Primorial}}</ref>。{{OEIS|id=A002110}}。 これは、素数が無限に存在するという[[命題]]の証明に用いられることがある。 === 超階乗 === {{Anchors|superfactorial (2)}} {{main|超階乗}} {{harvtxt|Pickover|1995}}<ref>{{cite book|first= Clifford A. | last= Pickover | title= Keys to Infinity |location= New York |publisher= John Wiley & Sons |year= 1995|jstor=2687608|doi=10.2307/2687608|ref=harv}}</ref> の'''超階乗'''(''superfactorial'')は、階乗を入れ子に拡張したものである。[[ドル記号]]$を用いて書かれる。またLawrence Hollom氏が開発した[[超階乗配列表記]]は階乗をベースとした配列表記で従来の階乗や超階乗より遥かに大きな増加速度を持つ。 ; 定義{{efn|name="sf"|両者は全く同値でない}} :<math>n\$={}^{n!}n! = \underbrace{n!^{n!^{\scriptstyle n!^{{\textstyle\,\cdot}^{{\textstyle\,\cdot}^{{\textstyle\,\cdot\,}^{\scriptstyle n!}}}}}}}_{n!}</math> nが3以上になると、非常に大きい値になる。 これとは異なる種類の超階乗の定義がある。{{harvs|txt|first1= Neil J. A. |last1=Sloane|author1-link=ニール・スローン |first2= Simon |last2= Plouffe |author2-link=サイモン・プラウフ |year=1995}} {{Lang|en|''The Encyclopedia of Integer Sequences''}}<ref>{{cite book|title=The Encyclopedia of Integer Sequences |first1= Neil J. A. |last1=Sloane |author1-link=ニール・スローン |first2= Simon |last2= Plouffe |author2-link=サイモン・プラウフ |publisher= Academic Press |location= San Diego |year= 1995 |isbn=0-12-558630-2|url= https://oeis.org/book.html}}</ref> は、'''超階乗'''(''superfactorial'')を定義した。例として、4の超階乗は次のようになる。 :<math> \mathrm{sf}(4)=1! \times 2! \times 3! \times 4!=288. \,</math> 一般的にこの定義における超階乗は下の式で定義される。 ; 定義{{efn|name="sf"}} :<math> \mathrm{sf}(n) =\prod_{k=1}^n k! =\prod_{k=1}^n k^{n-k+1} =1^n\cdot2^{n-1}\cdot3^{n-2}\cdot4^{n-3}\cdots(n-1)^2\cdot n^1. </math> これは以下と同値: :<math> \mathrm{sf}(n) =\prod_{0 \le i < j \le n} (j-i). </math> 最初のいくつかの値は、次のようになる: : {{math|1, 1, 2, 12, 288, 34560, 24883200, 125411328000, ……}} {{OEIS2C|id=A000178}} 超階乗は、複素数値にも拡張できる。その結果は[[バーンズのG関数]]と呼ばれる。定義は次のようになる。 :<math> G(z+1)=(2\pi)^{z/2} \text{exp}\left(- \frac{z+z^2(1+\gamma)}{2} \right) \, \prod_{k=1}^{\infty} \left\{ \left(1+\frac{z}{k}\right)^k \text{exp}\left(\frac{z^2}{2k}-z\right) \right\}</math> 自然数に対しては、以下が成り立っている。 :<math>G(n+2)= \mathrm{sf}(n)=\begin{cases} 0&\text{if }n=-1,-2,\dots\\ \prod_{i=0}^{n} i!&\text{if }n=0,1,2,\dots\end{cases}</math> === hyperfactorial === {{seealso|K函数}} '''ハイパー階乗'''(''hyperfactorial'')は、以下で定義される。 :<math> H(n)= \prod_{k=1}^n k^k= 1^1\cdot2^2\cdot3^3\cdots(n-1)^{n-1}\cdot n^n</math> これはとても大きくなっていく。最初のいくつかの値はつぎの通りである<ref>{{OEIS|id=A002109}}</ref>。 :[[1]], [[4]], [[108]], 27648, 86400000, …… ハイパー階乗は定義域を複素数にまで拡張できる。それは[[K函数]]と呼ばれ、以下で定義される。 :<math>K(z)=(2\pi)^{(-z+1)/2} \exp\left[\begin{pmatrix} z\\ 2\end{pmatrix}+\int_0^{z-1} \ln(t!)\,dt\right].</math> 自然数nに対し、次が成り立つ。 :<math>K(n+1)=1^1\, 2^2\, 3^3\, 4^4\, \cdots n^n.</math> === 階冪 === {{main|{{仮リンク|指数階乗|en|Exponential factorial}}}} {{Anchors|指数階乗}}以下、↑を[[クヌースの矢印表記]]とする。 階乗が連続する整数を順に「乗」じるのに対し、連続する整数を順に冪にする演算として階「冪」 (''exponential factorial'') {{efn|1=指数階乗<ref>[https://googology.fandom.com/ja/wiki/%E6%8C%87%E6%95%B0%E9%9A%8E%E4%B9%97 巨大数研究 Wiki 指数階乗]</ref>、{{lang-zh|阶幂}} }} {{math|''n''{{sup|!}}}}(感嘆符は右肩に添字として書く)は :<math>n^! = \begin{cases} 1 & (n = 0)\\ n^{{(n-1)}^!}= n \uparrow {(n-1)}^! & (n > 0) \end{cases}</math> で与えられる。つまり、自然数 {{mvar|n}} に対して : <math>n^! = n^{(n-1)^{(n-2)^{\cdot^{\cdot^{\cdot^{{3^{2^1}}}}}}}} = n \uparrow \left(n-1 \right) \uparrow \left(n-2 \right) \uparrow \cdots \cdots\uparrow3 \uparrow2 \uparrow1 </math> であり、最初の5つの値は次のようになる。 : {{math| 0{{sup|!}} {{=}} 1, 1{{sup|!}} {{=}} 1, 2{{sup|!}} {{=}} 2, 3{{sup|!}} {{=}} 9, 4{{sup|!}} {{=}} 262144, ……}} ({{OEIS|id=A049384}}) {{math|5{{sup|!}}}} の値は十進展開で183231桁にも及ぶきわめて大きな自然数である。 : <math>5^! = 5^{4^!} = 5^{262144} \approx 6.2 \times 10^{183230}.</math> これ以降は、[[グーゴルプレックス]] <math>10^{10^{100}}</math> より遥かに大きくなる({{math|6{{sup|!}}}} を計算すると、およそ 6<sup>6.2×10<sup>183230</sup></sup> ≒ 10<sup>4.8×10<sup>183230</sup></sup> となる)。 全ての自然数の exponential factorial の逆数の総和は、 :<math>\sum_{n=1}^{\infty} \frac{1}{n^!} =1.611114925808376736\underbrace{111\cdots111}_{\text {183213 digits}}272243\cdots</math> となる。この数は、[[超越数]]であり、[[リウヴィル数]]である<ref>{{MathWorld | urlname=ExponentialFactorial | title= Exponential Factorial | author=Sondow, Jonathan}}</ref>。 また、'''高次''' exponential factorial が定義される。例として、'''二次''' exponential factorial は、 :<math>\begin{align}n^{!!} = n^{{!}^{2}} = \left(n^{!}\right)^{(n-1)^{!^2}} &= \left(n^!\right)^{\left((n-1)^!\right)^{\left((n-2)^!\right){.^{.^{.^{{\left(3^!\right)^{\left(2^!\right)^{1^!}}}}}}}}}\\ &= n^! \uparrow (n-1)^! \uparrow(n-2)^! \uparrow \cdots \cdots \uparrow 3^! \uparrow 2^! \uparrow 1^! \end{align}</math> となる。一般の {{mvar|m}}-次 exponential factorial は、 :<math>\begin{align} n^{{!}^{m}} = \left(n^{{!}^{(m-1)}}\right)^{{(n-1)}^{!^m}} &= {n^{{!^{(m-1)}}{(n-1)^{{!^{(m-1)}}{{{{.}^{{.}^{{.}^{{{2^{{!^{(m-1)}}{1^{!^{(m-1)}}}}}}}}}}}}}}}} \\ &= n^{!^{(m-1)}} \uparrow (n-1)^{!^{(m-1)}} \uparrow \cdots \cdots \uparrow 2^{!^{(m-1)}} \uparrow 1^{!^{(m-1)}} \end{align}</math> で与えられる。ただし、{{mvar|n, m}} は自然数である。 == 歴史 == {{mvar|n}} 個の相異なる対象を1列に並べる方法の総数が {{math|''n''!}} 通りであるということは、少なくとも12世紀にはインドの学者によって知られていた<ref>{{harvnb|Biggs|pp=109&ndash;136}}</ref>。{{仮リンク|ファビアン・ステッドマン|en|Fabian Stedman}}は1677年に{{仮リンク|チェンジリンギング|en|change ringing}}への応用として階乗を記述した{{efn| The publisher is given as "W.S." who may have been William Smith, possibly acting as agent for the [[Ancient Society of College Youths|Society of College Youths]], to which society the "Dedicatory" is addressed.<ref>{{harvnb|Stedman|1677|pp=6–9}}</ref>}}。再帰的な手法による記述の後、Stedman は(独自の言葉を用いて)階乗に関しての記述を与えている: {{quotation | Now the nature of these methods is such, that the changes on one number comprehends [includes] the changes on all lesser numbers, ... insomuch that a compleat Peal of changes on one number seemeth to be formed by uniting of the compleat Peals on all lesser numbers into one entire body;{{sfn|Stedman|1677|p=8}} }} [[感嘆符]](!)を用いた、この "{{math|''n''!}}" という表記は[[1808年]]に[[クリスチャン・クランプ]]によって発明された<ref>{{harvnb|Higgins|p=12}}</ref>。 == 注 == === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == * [[ドナルド・クヌース|ドナルド・E・クヌース]]、ロナルド・L・グレアム・オーレン・パタシュニク 『コンピュータの数学』 有澤誠・ほか訳、共立出版、1993年8月。ISBN 4-320-02668-3 : 原著 {{citation | first1= Ronald L. | last1= Graham | first2= Donald E. | last2= Knuth | first3= Oren | last3= Patashnik | year=1988 | title= [[Concrete Mathematics]] | publisher= Addison-Wesley, Reading MA | isbn= 0-201-14236-8}} * Keith B. Oldham他 『関数事典(CD-ROM付)』 河村哲也監訳、朝倉書店、2013年12月、ISBN 978-4-254-11136-1。 * {{citation | first= N. L. | last= Biggs | title= The roots of combinatorics | series= Historia Math. 6 | year=1979}} * {{citation |last= Stedman | first= Fabian | title= Campanalogia | year= 1677| place= London}} * {{Citation |title= Number Story: From Counting to Cryptography | last= Higgins | first= Peter | year=2008 | publisher= Copernicus | location= New York | isbn= 978-1-84800-000-1 }} * {{citation |last=Guy | first=Richard K. | title=Unsolved problems in number theory | publisher=[[Springer-Verlag]] |edition=3rd | year=2004 |isbn=0-387-20860-7 | zbl=1058.11001 | contribution=E24 Irrationality sequences | url= https://books.google.co.jp/books?id=1AP2CEGxTkgC&pg=PA346&redir_esc=y&hl=ja }} * {{citation | first= Srinivasa | last= Ramanujan | title= The lost notebook and other unpublished papers | publisher= Springer Berlin | year= 1988 | isbn= 3-540-18726-X}} * {{citation | first= M. J. | last= Hadamard | title= Sur L’Expression Du Produit 1·2·3· · · · ·(n−1) Par Une Fonction Entière | publisher= ''OEuvres de Jacques Hadamard'', Centre National de la Recherche Scientifiques, Paris, 1968 | url= http://www.luschny.de/math/factorial/hadamard/HadamardFactorial.pdf | year= 1894 | language= French}} == 関連項目 == * [[巨大数]] * [[総乗]] * [[交互階乗]] * [[マンジュル・バルガヴァ]] * [[完全順列]] (subfactorial function) * [[階乗の交代和]] * [[ファクトリオン]] * {{仮リンク|末尾の零|en|Trailing zeros#Factorial|label=階乗の末尾のゼロの数}} * [[三角数]]: 階乗の加法的な対応物({{math|1}} から {{mvar|n}} までの[[自然数]]の[[加法|和]]) * [[階乗進法]] == 外部リンク == {{commonscat|Factorial (function)}} {{ウィキプロジェクトリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics blue-p.svg|34px|Project:数学]]}} {{ウィキポータルリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics-p.svg|34px|Portal:数学]]}} * {{SpringerEOM|title=Factorial|urlname=Factorial}} * {{MathWorld | urlname=Factorial | title=Factorial}} * {{PlanetMath | urlname=Factorial | title=factorial}} *http://factorielle.free.fr *[http://www.elektro-energetika.cz/calculations/faktorial.php?language=ja 階乗の計算] {{級数}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かいしよう}} [[Category:数学の表記法]] [[Category:組合せ論]] [[Category:特殊関数]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:積]]
2003-08-09T07:09:39Z
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OVA
OVA(オーブイエー)は、アニメのオリジナルビデオのこと。オリジナル・ビデオ・アニメの略称である。 テレビアニメやアニメ映画としてではなく、映像記録メディア(通称「ビデオ」)の形態でリリースされた商業アニメ作品として1983年に登場した。「ビデオ」とは、1980年代から1990年代にかけては主としてビデオテープ(VHS、ベータマックスなど)のことを指したが、本来の語義としては電気信号を用いた映像記録であるためLDやDVDなどのディスクメディアとしてリリースされたアニメもOVAと呼ばれる。ただし、テープメディアでは無いことを強調するためLD版しかリリースしないためOLA(オリジナル・レーザー・アニメーション)と呼称したり、ビデオテープが衰退した2000年代以後にDVD、BDにてOADと呼称することもある。 テレビアニメのパイロット版など本来ビデオ形態での販売を想定していなかったビデオスルーのアニメや自治体や教育機関向けを主としてビデオ機の普及以前は16mmフィルムの形態で販売されていた教育アニメなどは基本的にOVAには含まれない。 OVAとは、そのアニメの頒布メディアの形態から定義づけられた言葉であるが、OVAシリーズの刊行途中で話題となり全話劇場公開がなされた『トップをねらえ!』(1988年)のように、OVA作品の人気が出れば、後に劇場公開やテレビ放送がなされることもある。 OVAという概念が誕生した1983年当時は、ビデオソフトもビデオ再生機も高額で所有する層も限られており、高品質な作品ならば高額でも購入するような一部のアニメ愛好家(いわゆる「おたく」)への販売(セルビデオ)によって製作費を回収していたが、1980年代後半以後にビデオ機とレンタルビデオ店が一般層に普及すると、レンタルビデオ店を主たる販路とする作品も増加した。『メガゾーン23』(1985年)などのSF美少女アニメが売れ筋として当時のアニメ雑誌で特集され、1本1万円を超える販売価格でもおたくがこぞって買い求めたが、一方で『湘南爆走族』(1986年)のように一般層がレンタルビデオ店でこぞってレンタルしていたような作品も存在し、1980年代から1990年代にかけてのOVAは「ヒット作」と言っても作風に幅がある。 1980年代から1990年代にかけては、商業的・倫理的などの理由で「テレビアニメ」か「アニメ映画」のフォーマットを取れないアニメを頒布するには「OVA」という選択肢しか無かった。テレビでは見ることのできないアニメ、例えば『天使のたまご』(1985年)のような実験的アニメ、『くりいむレモン』(1984年)のようなアダルトアニメ、また『小学生の誘拐防止 ユミちゃん あぶないよ!』(1991年)のような児童向け教育アニメ、宗教団体の布教用アニメなどと言ったものがOVAの形態で盛んにリリースされ、1980年代から1990年代にかけてOVA特有のカルチャーを形成した。 1980年代から1990年代前半頃までは映像の放送チャンネルが少なく、テレビアニメの放映可能本数が限られていたため、「OVAの形態でしかリリースできない」という消極的な理由でOVAとなった作品が多かったが、1990年代中頃には深夜アニメの定着、衛星放送の開始といったテレビの多チャンネル化によって、アニメを頒布するチャンネルが増加した。そのため、アニメのビデオをリリースする前に、ビデオ版の宣伝もかねてまず放送料金の安価なUHF局や深夜帯で放送する作品が増え、テレビアニメに対するOVAのオリジナル性は薄れた。一方で、『神秘の世界エルハザード』(1995年)のようにOVA版・テレビアニメ版・ゲーム版が若干異なる設定で同時展開するなど、テレビなどの他の映像メディアと連動して多展開する「メディアミックス」のメディアの一つとしてOVAが位置づけられる例も登場した。 2000年代以降は、物理メディアの販促も兼ねて第1話など作品の一部がテレビで先行放送されることも増えた。また、2010年代以降にはネットによる動画配信サービスサービスの一般化に伴い、OVAの発売に先行して一部がネット配信が開始される場合も増え、初出が「ビデオ」ではないOVAが増えた。そのため、OVAの概念が曖昧になっているが、テレビ放送やネット配信が先行していても、OVAとして製作されたものはOVAとされる。 2010年代後半には動画配信サービスの普及に伴い、「OVA」が発売してしばらく後にネットの動画配信サービスでも配信されるのが普通となり、記録したメディアを買わなくても、ネットのビデオ・オン・デマンドサービスでいつでも見られるようになった。そのため、OVAの概念がさらに曖昧になっている。定額制動画配信サービスなどを提供する動画配信事業者においては、テレビアニメ、アニメ映画、OVA、といった初出メディアによる区別をせず、すべて「アニメ」として並列に提供していることも多い。あるいは、「テレビ番組」と「映画」とは別に「オリジナルビデオ」のカテゴリ分けしている場合でも、「書籍」の付録として発売されたOAD、ビデオスルー、配信サイトの自社制作アニメ、などといったものを全て「オリジナルビデオ」のアニメのカテゴリに入れている場合もある。 黎明期には「オリジナルビデオ」「ビデオアニメ」「アニメビデオ」「オリジナル・アニメーション・ビデオ」などと言った呼称が用いられた。しかし『月刊ニュータイプ』(角川書店)が1986年より「OVA」の呼称を積極的に使い始め、次第に一般化した。いわゆる「和製英語」であるが、海外でも「日本のアニメのオリジナルビデオ」という意味で使われる。 「オリジナル・ビデオ・アニメ」という呼称の初出は『ニュータイプ』誌以外の可能性もあるが、『ニュータイプ』誌における初出は創刊号(1985年3月発売)、「OVA」(読みは「オーブイエー」)という呼称の初出は1986年2月号「ビデオアニメ完全カタログ'86」である。同誌では1986年11月よりOVA評論コラム「秋姫のOVA放言録」が連載されており、「OVA」と書いて「オヴァ」と読むなどと小ネタを挟みつつも、「OVA」という呼称の普及に一役買った。 「OVA」という用語は『ニュータイプ』が広めたものであったため一般化するまで他誌では使われなかった。1980年代当時は、学習研究社の『アニメディア』および『アニメV』が提唱した「OAV」(オリジナル・アニメーション・ビデオの略称)という呼称も一般的であったが、「AV」が「アダルトビデオ」や「オーディオ・ビジュアル」の略称と間違われやすいため、次第に用いられなくなっていったが『アニメディア』は2014年時点でもまだ「OAV」の呼称を使っている。 「ビデオ」とは、1990年代にはVHSビデオテープのことを指すことが多かったため、2000年代にVHSの衰退によりDVD専売のOVAが登場すると、OVAは「オリジナル・ヴィジュアル・アニメーション」の略称ともされるようになった。『らき☆すたOVA』(2008年)が「オリジナルなビジュアルとアニメーション」を称している。 1983年12月、世界初のオリジナルアニメのビデオソフトである『ダロス』が発売される。元々制作されなかったテレビアニメの作品の企画を、ビデオ向けにストーリーを再構築した上でビデオ販売を目的に製作されたものである。当時はビデオ市場の黎明期ということもあって、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』(19,800円)など、1巻2万円近いアニメビデオが盛んにリリースされている中、『ダロス』は新作で1巻6,800円と買いやすい値段であったこともあり、全4巻で2万本を出荷するヒット作となった。 テレビアニメのようにスポンサーの資金に頼ることなく、ビデオの販売代金だけで製作費の回収が可能であることが判明すると、多くの発売・販売元が参入し、続々とオリジナルアニメのビデオが発売され始めた。OVAに限らず当時のビデオソフトはきわめて高価で、例えば『メガゾーン23』(1985年)は1巻13,800円、『幻夢戦記レダ』(1985年)は1巻12,000円であったが、それぞれ数万本を売り上げた。 1980年代中盤当時、ポストマクロス作品が不発に終わったことにより、高年齢層向けアニメが減少していた。そんな中、ビデオソフトとして展開されるオリジナル作品は、当時のテレビアニメが主な対象としていた少年層よりも年齢が高い、中高生以上のハイターゲット層向けアニメの発表の場として重要な位置を占めるようになった。 このようなムーブメントにアニメ雑誌の『アニメディア』(学研)が注目し、1985年6月、オリジナルアニメを専門に取り扱う『アニメV』が創刊された。1985年3月に創刊されたばかりの角川書店の『月刊ニュータイプ』も、1986年2月号で「OVA(オリジナル・ビデオ・アニメ)」の特集を組んだ。 OVAがブームとなったことから、アニメを作ったことのないメーカーの新規参入が相次いだ。1987年当時の売れ筋ジャンルは、半裸の女性が主人公で宇宙を背景に「おーばり」メカが出てくるような男性向けSFヒロイックファンタジーで、これは製作陣も設定などを全部自分の頭の中で作ればよくて資料を集める手間がかからなくて楽なので、たくさんリリースされた。アニメを作ったことのないメーカーでも、企画書と脚本と1350万円をもって当時のアニメ制作最大手であるAICに行けば3か月で作ってくれ、作画さえよければ脚本や演出がムタムタでもアニメファンに許され、そのような作品でもアニメ雑誌に広告を出しておけば悪い評価は受けず、ムービックに頼んでアニメイトでイベントを組んだりしておけばそこそこ売れたとのことで、アニメ雑誌の『月刊OUT』の連載漫画「魔法少女アンイーちゃん」(1987年)ではその安易さが指摘された。この連載漫画では、劇場版『プロジェクトA子』(1986年、2作目以降はOVA)が安易すぎて、『天空の城ラピュタ』(1986年)を製作中の宮崎駿に「セーラー服が機関銃撃って、走り回ってる様なもの」と怒られた件にも触れられている、『月刊OUT』自身も『活劇少女探偵団』(1986年)でOVAに手を出してそんな安易な作品を作り、不振の一因となったとのこと。 『月刊OUT』の連載漫画で揶揄された「おーばり」こと大張正己によると、当時の一般的なOVAの作監料はテレビアニメとは桁違いに高かったが、当時高評価を受けたAICの『戦え!!イクサー1』(1985年)は、自社をアピールするために、あえて安い予算でも良いものを作ろうと考えていたらしく実際に安かったという。しかし、企画から製作まで3か月というのは「夢がある」、AICなら「才能だけで監督まで登れる」と考え、参加したとのこと。大張は実際、22歳にして『バブルガムクライシス』(1988年)の監督を務め、当時の最年少アニメ監督となった。 大張以外にも、『戦え!!イクサー1』『メガゾーン23』(1985年)の平野俊弘、『吸血姫美夕』(1988年)の垣野内成美、『冥王計画ゼオライマー』(1988年)の菊池通隆、と言った新進のアニメーターがOVAで頭角を現した。平野いわく、「テレビでできないことをやろうよ」とのことで、ハイターゲット向けアニメは、基本的にテレビアニメよりもOVAとしてのリリースを主とするようになった。 OVAを盛り上げるイベントも盛んに開かれ、OVAがリリースされるたびに各地で試写会が行われた。特に1985年から1986年にかけて日本各地で行われた『幻夢戦記レダ』のイベントは、1985年末に大阪と東京で開催された『幻夢戦記レダ』&『吸血鬼ハンターD』試写会を中心として、『幻夢戦記レダ』のテーマソングを歌った新人アイドル歌手の秋本理央と、『吸血鬼ハンターD』のテーマソングを製作した無名時代のTMネットワークを起用した大々的なプロモーションが行われた。ただし、イベントなどは東京・大阪など都会で開かれることが多く、地方格差が大きかった。アニメイトでは定期的にイベントが行われていたが、そもそも地方にはアニメイトがなかった。 OVAのリリースタイトル数は右肩上がりに増え、1983年には1タイトルのみだったものが、1989年には300タイトルを超えるまでになった。 初期のOVAは、ほとんどが劇場アニメのフォーマットを模したもので、収録時間は60分から90分程度の内容のものが多かったが、1980年代後半になると、OVAもテレビアニメのように30分×数本のシリーズものが増えた。またシリーズ物はキャラクター、背景、音楽などの流用ができて製作費が抑えられるので、OVAの低価格化が進んだ。例えば『機動警察パトレイバー』(1988年-1989年)は、劇中に広告を入れたりメディアミックスの手法を取ることで、1巻4,800円の低価格を実現し、また『銀河英雄伝説』(1988年-1989年)は、テレビアニメの制作方法を模すことで、1巻2,500円の低価格を実現した。 OVAという概念が確立した1986年当時は、原作付きOVAは「オリジナル」ではないとして、アニメファンには受け入れがたいものであったが、OVAのリリースタイトル数の増加に伴い、次第に「原作付き」が増えた。1989年にリリースされた300タイトル超のOVAのうち、約40タイトルが原作付きとなった。原作付きは巻を重ねるものが多く、発売タイトル数ではなく巻数でカウントすると、「ビデオオリジナルタイトル」の比率はかなり少なくなった。 2000年代に入ると、完全新作のタイトルは少なくなり、昔から展開されているシリーズ作品の続刊がほとんどとなったが、シリーズ展開を打ち切る作品が年を追うごとに増えていったため、OVAのリリース本数も売り上げも少なくなった。 それまでならOVAとして展開されていたはずのアニメシリーズは、深夜アニメを主としたテレビアニメとして放送されることの方が多くなり、特に独立局のテレビアニメはほとんどが深夜帯で放送され、OVAはあくまで深夜アニメの続編やサブストーリーとして展開されるケースが多くみられるようになった。深夜アニメが放送されるのは三大都市圏を主とした主要都市圏の地上波局のみに限られることから、それらがテレビで視聴されることはあまり重視されておらず、視聴率も2%以上が高視聴率ラインとなっているように、平均的に低めである。玩具の販売促進を主とした子供向けアニメとは違い、深夜アニメは従来からのOVAの視聴層向けに、テレビ版にビデオオリジナルエピソードが追加された完全版DVD-BOXの購入や、単巻DVDの購入およびレンタルの促進を主とした宣伝戦略を取っていたので、バンダイビジュアルやアニプレックスなどといったビデオの販売元が必ずスポンサーについていた。 この時期のオリジナルOVAでも、『ファイナルファンタジーVII アドベントチルドレン』(2005年)のように、IPを所有するスクウェア・エニックスの自社製作作品となっているのを活かし、DVDショップだけでなくゲームショップにも流通したことで日本出荷枚数100万枚・海外140万枚の大ヒットとなった作品も存在する。 2010年代以降のOVAは、DVDやBDの売り上げ収入に加えて、dアニメストア(2012年7月開始)、バンダイチャンネル(2011年8月より月額見放題サービス開始)、Amazonプライム、ネットフリックスなどといった定額制動画配信サービスでの視聴を主としている。 名作童話をアニメ化した「子供向けOVA」が1980年代後半よりリリースされている。中でも、1988年よりウォーカーズカンパニーがリリースした『ビデオ絵本シリーズ』は、980円という発売年当時としては異例の廉価展開が功を奏し、通巻180万本を売り上げたという。 有名キャラクターを使ったものもあり、『スーパーマリオブラザーズ』のキャラクターを使って名作童話をアニメ化した「アマダアニメシリーズ」の『スーパーマリオブラザーズ』(1988年)は、任天堂の公式ライセンス作品として当時のマリオ公式声優であった古谷徹を起用するなど、声優陣こそ豪華であり、1,480円という低価格での提供となっている。当該作に限らず、他の外部版権もの子供向けOVAにも当てはまり、低価格での提供となっている分低予算による製作費の代償として総製作費からライセンス料が引かれている分、絵はほとんど動かず、尺が短いわりに使いまわしのシーンや無理矢理かつ露骨に尺を引き延ばしたシーンがやたらと多い。 DVDが普及する2002年ごろまでは、OVAはVHSとLDの両方で発売されるのが一般的だったが、子供向けのOVAはLDでの発売はほとんどなく、VHSのみでの展開で、かつハイターゲット向けよりも低価格での販売が主体であった。低予算であるため、声優陣も少ない上に端役の担当が主の無名声優を積極的に起用する傾向にある。 なお、サンリオも1989年から展開を開始したサンリオキャラクターを起用した子供向けOVAの製作に積極的であり、ハローキティなどのサンリオキャラクターそのものを主題としたものや、世界名作童話の登場人物をサンリオキャラクター化したOVAが展開されている。尺が短いことは他の低価格子供向けOVAと変わりがないが、自社でビデオグラム部門を有していることで、自社版権キャラクターを起用していることによって著作権料がかからないことを活かして著作権料にあたる部分もアニメ制作に回せることによって、子供向けテレビアニメと同じ制作手法が用いられていつつ低価格帯での提供が可能となっている。 教育アニメは、教育用のアニメである。小学校などの教育機関や自治体向けを主として頒布された。啓発アニメ、防犯アニメ、交通安全アニメ、などのサブジャンルがある(安全教育アニメも参照)。 教育映像はかなり市場が大きく、東映教育映像部や学研文教事業部など、大手映像会社には教育映像を製造する専門の部署が存在し、教育アニメもたくさん作られた。1980年代以前の教育機関には視聴覚教材として16mm映写機が普及していたため、小学校などの教育機関向けに16mmフィルムの形態で販売されるのが一般的だったが、ビデオ機が普及した1980年代以降はVHSの形態で、DVDプレーヤーが低価格化した2003年頃からDVDの形態で販売されるものも登場した。上映会などで使われる「業務用ビデオ」としての販売が主で、図書館などの公的機関に所蔵されており閲覧は容易だが、一般市場にはあまり出回らず、入手が非常に難しいものがほとんどである。 メーカーが制作した教育アニメは、教育用品ルートでの販路のみとなっているが故に尺が短いわりに非常に高価なのが特徴である。『ちびまる子ちゃんの交通安全』(1997年)のように有名な子供向けアニメを題材とした「版権もの」や、防災教育アニメ『稲むらの火』(1989年)のように児童文学を題材とした「原作付き」がほとんどで、完全なオリジナル・アニメは『空飛ぶうさぎの誘拐防止 ぼく、いやだよ!』(1990年)や『小学生の誘拐防止 ユミちゃん あぶないよ!』(1991年)など少ししかない。 政府・警察などの行政機関や東京都などの自治体が制作した教育アニメは、無料で頒布されるものもある。2000年代以降はビデオの形態で頒布されると同時に無料でインターネット公開されているものも多い。日本国政府が制作した北朝鮮による日本人拉致問題啓発アニメ『めぐみ』(2008年)は、ビデオグラムのDVD版が教育機関などに広範囲に頒布されると同時に、ネットで無料公開され、2011年にはレンタルDVD版もリリースされた。 世界初のOVA『ダロス』に続き、世界で2本目のOVA『ロリータアニメ 雪の紅化粧 少女薔薇刑』が1984年2月にリリースされた。これが世界初のアダルトOVAであるが、画風がエロ劇画であったため、アニメファンからは注目されなかった。しかし、1984年7月にリリースされたシリーズ第3弾『ロリータアニメIII 仔猫ちゃんのいる店』で、画風を当時のアニメ美少女に変更、アニメファンに注目される。そして、1984年8月にリリースされた『くりいむレモン』シリーズ第1作『媚・妹・Baby』が爆発的なヒットとなり、アダルトOVAがジャンルとして確立する。「くりいむレモン」シリーズだけで30本以上リリースされた。 アダルトアニメは18歳以上のみを対象とした成人指定であるため、アニメファンであっても未成年者は見られないことから、成人指定の『くりいむレモン』から性行シーンなどを大幅にカットして一般向けにした『くりいむレモン ジュニア』(1988年)など「ソフトアダルトOVA」も登場した。 アダルトOVAは、OVA黎明期には一般向けをしのぐ大量の本数がリリースされたが、1980年代中頃にはOVA全体の隆盛に押される形となり、1986年にはリリース本数が8本となり衰退する。 しかし1980年代後半にはアダルトOVAが盛り返す。特に『超神伝説うろつき童子』(1989年)は大ヒットとなり、海外へも輸出され、海外でも大きな人気を得て日本のアダルトアニメは「HENTAI」として知られるようになった。この頃のアダルトOVAは、最初から海外向け輸出を念頭に製作しており、日本版では製作陣がわざとモザイクをかけているものの、実は男女の性器ごとしっかりと描かれていた。 1980年代後半より、宗教団体も布教の為にビデオ産業に進出したが、その一環としてアニメも制作するようになった。 浄土真宗本願寺派が制作した『仏典物語』(1986年)は、ガイナックスやAICなど豪華な製作陣で知られる。 新宗教の制作したアニメとしては、創価学会名誉会長である池田大作の絵本を原作とした『ほしのゆうえんち』(1989年)、『アニメ人間革命』(1995年 - 2003年)、コスモメイトの代表である深見青山が原作・声優・主題歌を担当した『アニメ神頼み入門』(1989年)、などがある。 幸福の科学系列で、日本最大規模の宗教団体系出版社である幸福の科学出版が1991年に初めて製作した映像作品が、子供向けOVA『しあわせってなあに』シリーズである。同名の絵本作品のアニメ化であり、布教用ではなく教団内の子供向けOVAであった。1997年から劇場用アニメが3年ごとに公開される「幸福の科学アニメ」の標準的なフォーマットはこの作品の時点で確立された。 オウム真理教が製作した作品も存在する。一般的な布教アニメは「教団が制作した」といっても教団および関連会社がテレビアニメでいう広告代理店に準じた扱いで、実際にアニメを作っているのは既存のアニメ制作会社による外注で、声優を本職とする方が声を担当することが一般的なのだが、「オウムアニメ」は実際に教団内部の人間が自ら作っていた点、主要製作者である麻原彰晃が本人役で自ら声優として出演していたように教団所属者のみを声優陣として固めたのが特異である。「オウムアニメ」は1991年よりリリースされたが、一般に知られるのはテロ事件が明るみになった1995年以降にテレビ番組で素材が堂々と使われて以降となる。ガイナックス元社長の岡田斗司夫が1997年に制作者にインタビューを行い、製作の詳しい事情が明らかになっている。 不良少年を主題とした少年・青年漫画作品であるヤンキー漫画のアニメ化はテレビではなくOVAとして展開されるのが殆どであり、レンタル市場で特徴的なジャンルである。前述の『湘南爆走族』(1986年)がスマッシュヒットとなったのをきっかけに、レンタルビデオ向けに続々とヤンキーOVAがリリースされ、その多くがシリーズ化された。 1983年から連載が開始されたヤンキー漫画の看板作品である『ビー・バップ・ハイスクール』もヤンキーOVAのブームに便乗し、実写やゲーム作品といった他メディアミックス作品よりも遅れた頃の1990年から全作品の映像化権を独占していた東映グループの東映動画→東映アニメーションによる制作で、「東映Vアニメ」(東映ビデオ)のレーベルでOVA化された。 出版社が制作に関与したOVAが出版ビデオである。OVAの発展期である1985年、出版社13社によって「出版ビデオ懇談会」が結成されて以降、出版社による原作付きOVAの積極的展開が行われた。OVAなら旬を過ぎた原作や、マニアックな原作もアニメ化でき、例えば集英社は「ジャンプVIDEO」レーベルで、2巻打ち切りながら熱狂的ファンが付いた『バオー来訪者』(1989年)のOVAを製作(販売:東宝)するなどした。 映像ソフト販売会社によってビデオショップなどを通じて販売されたものとは別の流れとして、出版社によって雑誌を通じて通信販売されたものがあり、秋田書店「月刊プリンセス」の紙上通販でのみ販売された『ぴーひょろ一家』(1988年)が出版ビデオの通信販売の最初の例である。 「OVAの紙上通販」は、小学館の児童・少年向け雑誌では「応募者全員サービス」として2010年代まで積極的に展開された。『週刊少年サンデー』の応募者全員サービスとして販売された『名探偵コナン』のOVAは第1作『名探偵コナン コナンvsキッドvsヤイバ 宝刀争奪大決戦!』(2000年)から『『名探偵コナン えくすかりばあの奇跡』』(2012年)まで、ほぼ毎年販売されていた。『名探偵コナン コナンとキッドとクリスタル・マザー』(2004年)まではVHS、『名探偵コナン 消えたダイヤを追え! コナン・平次vsキッド!』(2006年)以降はDVDである。 小学館学年誌連合企画の応募者全員サービスとして1999年に販売された「とっとこハム太郎OVA」(『とっとこハム太郎 アニメでちゅ!』)(1999年)は、もともとテレビアニメ版のパイロット版として、開始前年に製作されたものをOVAに転用したもので設定も異なる。 OVAの発展はビデオ機の普及とも関係しており、1980年には2%だったビデオ機の家庭普及率は、1989年には70%に達するまでになったがそれを補完する物もあった。 アニメ映画やテレビアニメ同様に「フィルムコミック」が発売された。 1980年代当時、OVAは高価なため、安価でいろいろなOVAの映像を収録した「ビデオマガジン」が販売された。ビクターの「アニメビジョン」、バンダイの「電影帝国」などがある。 特に、LDの対抗メディアであったVHDを展開するビクターが、VHDの販促の為に販売した「アニメビジョン」は積極的で、独自に制作したOVAも収録していた。 劇場版『ニルスのふしぎな旅』(製作は1982年、ビデオ版は1985年)のような劇場公開を前提として製作されていたが公開中止されたもの、『セントエルモ 光の来訪者』(製作は1986年、ビデオ版は1987年)のような企業のPR用アニメ、『ルパン三世 パイロットフィルム』(製作は1969年、ビデオ版は1989年)のようなテレビアニメのパイロット版など、もともと別の用途で製作されたアニメが、何らかの理由で「ビデオ」の形態で最初にリリースされることになったものをビデオスルーと呼ぶ。最初からビデオ向けに制作されたOVAとは区別されることが多いが、「OVA」として販売される場合もあり、その区別は曖昧である。 ビデオ版の発売後にテレビ放送が予定されている作品もあり、その場合は「ビデオ先行作品」とも呼ばれる。『どうぶつ80日間世界一周』(スペインで1984年放送。日本のビデオ版は1985年、日本のテレビ版は『アニメ80日間世界一周』として1987年)や『宇宙伝説ユリシーズ31』(1981年にフランスで放送、日本のビデオ版は1986年、日本のテレビ版は1991年)のように、海外のテレビ放送向けに日本のメーカーが制作したものが多い。 1980年代当時、海外アニメは日本で人気が無かったため、日本ではほとんどがテレビ放送されず、ビデオスルーとなった。「ビデオ先行作品」のはずであった『マイティ・オーボッツ』(アメリカで1984年放送、日本のビデオ版は1985年)は日本のテレビでは放送されなかった。『トランスフォーマー ザ・ムービー』(1986年)のように、海外では劇場公開され高い評価を得たものも存在し、当時の他のOVAと比較しても遜色ないクオリティの作品も少なくない。 ネット配信が普及した2010年代以降のアニメは、ほぼすべてネット配信されることを前提として製作されており、特に「ビデオ先行作品」と明記されていなくても、OVA版が発売してしばらく後にネット配信されるのが普通である。 テレビ放送されたアニメのシリーズを編集して、1巻のビデオアニメに仕立てたもの。ビデオスルーの一種とされる。既存の映像を再利用した、単なるテレビアニメの総集編ではなく、総集編のつなぎとして新作のカットが追加されていることもあった。 『うる星やつら 了子の9月のお茶会』(『うる星やつら』のファンイベント向けに1985年に制作。ビデオ版も同年)のように、テレビアニメ版の素材を再編集して新たなストーリーを構築し、1本のビデオグラムに仕立てた作品もある。 『とんがり帽子のメモル マリエルの宝石箱』(1985年)に新作短編『土田勇のマイメモル 光と風の詩』が付属したように、新規に製作されたアニメがおまけで付いてくることもあり、「新作付きテレビ編集版」と呼ばれる。 なお、OVAをテレビ放送用に編集したものも「テレビ編集版」と呼ばれる。『同級生2 テレビ編集版』(1998年)は、『同級生2 OVA版』(1996年)を地上波で放送するために再編集したもので、もともとアダルトアニメであったOVA版の性行シーンなどがすべてカットされている。 OVA全盛期には、ハイターゲット向けに作られたテレビアニメやアニメ映画のビデオソフトも売れ行きが良く、例えばアニメ映画『天空の城ラピュタ』(1986年公開、配給収入5.8億円)は、1988年に12020円で発売されたVHS版が8万本売れるなど、ハイターゲット向けのアニメーション映画も、作品の配給収入よりもビデオグラム版の売上の方が上となる作品がほとんどであった。全日帯のハイターゲット向けテレビアニメでも、1991年に日本テレビ系列で放送された『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』や、1995年 - 1996年にテレビ東京系列で放送された『新世紀エヴァンゲリオン』などは、視聴率が低かったようにテレビ放送だけでは話題にならなかったが、レンタルやセル(VHS・LDとも)のビデオ版で人気に火が付いたのを機にメディアミックスへと発展し、後に展開される深夜アニメにおけるビジネスモデルの源流となった。これらはOVAとともに「VHSカルチャー」を形作った。 VHSテープが廃れてDVD時代となった2000年代中盤以降、雑誌の付録DVDにOVAを収録させる事例も見られるようになった。「まんがくらぶオリジナル」2008年10月号に『がんばれ!メメ子ちゃん』のアニメDVDが付属した例などがある。 地上波におけるOVAの代表的な放送枠としてよみうりテレビが関西ローカルで放送した「アニメだいすき!」(1987年~1995年)がある。当時同社のアニメ部門に所属していたプロデューサーである諏訪道彦の企画で学校の長期休暇期間の深夜枠を中心に人気の高いOVAの単発長編作品を主に編成された。 1980年代から2000年代にかけて、「ビデオ」というと主にビデオテープ(テープメディア)特にVHSを意味したため、それ以外のメディアのみで発売された作品は「OVA」以外の呼び名で呼ばれることもあった。 ポニーキャニオンが1991年にリリースした『炎の転校生』は、レーザーディスク(LD)のみでリリースされた作品であったため、「OLA」「オリジナル・レーザー・アニメーション」を称していた。LD専売とすることによる話題性を狙ったものだが、LDプレーヤーの普及率が低いこともあって商業的に成功せず、翌1992年にはVHS版も発売された。結局、『炎の転校生』がOVA史上唯一のOLAとなった。 2000年代に入ると、DVD再生機能を持つPlayStation 2の普及などにより、VHSに代わってDVDがアニメ映像記録用メディアの主流となり始めた。DVDの普及が始まってもしばらくはOVAのVHS版とDVD版が併売されていたが、2003年ごろよりVHS版が発売されないOVAが登場し、『オリジナルDVDアニメ いちご100%』(2005年)のように「オリジナルDVDアニメーション」「オリジナルDVDアニメ」を称するアニメビデオも登場した。 しかし、2000年代後半にはブルーレイディスクやHD DVDなどの次世代DVD規格の普及が始まり、2007年6月にはバンダイビジュアルがOVA『FREEDOM』1巻のHD DVD版を発売。旧作OVAが次々と次世代DVDで発売され始め、また2009年には『ハヤテのごとく!! アツがナツいぜ 水着編!』などDVD版とブルーレイ版が同時に発売されるOVAも登場し、オリジナルアニメはDVDだけで発売されるものではなくなったため、「オリジナルDVDアニメーション」という表現は使われなくなった。 「単行本のDVD付き限定版」に付属されるオリジナルアニメのこと。講談社の用語で、「オリジナルアニメーションDVD」の略である。「オリジナル・アニメーション・ディスク」の略とするメディアもあるが、少なくとも講談社ではそのような使用例はなく、また単行本にブルーレイなどDVD以外のディスクメディアを付属させた例もない。 2007年より講談社が行った「単行本のシリーズ最新刊と新作オリジナルニアニメのDVDを合わせて発売する」という企画に由来する。講談社によるオリジナルアニメDVDが封入された最初の製品である、『ツバサ』 21巻(2007年11月)/22巻(2007年1月)/23巻(2008年3月)が好評だったことから、『スクールランブル』21巻(2008年7月)/22巻(2008年9月)、『魔法先生ネギま!』23巻(2008年8月)でもDVDが封入されるなど、「講談社OADシリーズ」としてシリーズ化した。大手出版社がアニメDVD流通に進出するという、当時としては先駆的な例であった。これに集英社が2009年発売の「『To LOVEる -とらぶる-』13巻 アニメDVD付予約限定版」で追随するなど、以後他社でも「単行本のオリジナルアニメDVD付き限定版」を発売することが一般的となった。なお単行本の付録にオリジナルアニメDVDをつける企画は、各出版社で2007年頃より盛んになり始めており、2007年9月に『こどものじかん』4巻特別限定版を発売した双葉社の方が講談社より先行している。 OVAとの違いは、単行本とアニメDVDをセットで発売することで「書籍扱い」になるという点である。したがって、映像コンテンツ会社ではなく出版社が販売元となり、またDVD販売店ではなく書店で販売され、レンタルもない。「書籍扱いアニメDVD/BD」に関しては、DVD/BDが本体でおまけのブックレットが付属したような商品もあるが、OADに関してはあくまで単行本が本体で、アニメの原作となる漫画やライトノベルの単行本の限定版としてOADを収録したDVD/BDを付属させるケースが多く、単行本単体の通常版よりも高価格で販売されている。予約生産のものが多く、この場合、販売側には発売前に予約を受注するために生産数を把握しやすい利点があるが、初回限定生産の事例が多いため、発売時に買い逃すと入手困難になることも多い。 「OAD」という用語の初出は上記の『スクールランブル』21巻/22巻に封入された『スクールランブル 三学期』(2008年7月)である。『ツバサ』は21巻限定版(2007年11月)の時点では「オリジナルDVDアニメーション」と称していたが、『ツバサ』26巻限定版付属の『ツバサ 春雷記』(2009年3月)の時点では「OAD(オリジナルアニメーションDVD)」と称するようになった。 もともとは講談社の用語だったが、2009年以降は出版社を問わず単行本付録のアニメDVD/BDの名称として一般化しつつある。ただし、2018年時点でも「アニメDVD」「OVA付き特別版」と称する小学館のように、講談社が生み出した用語であるOADを用いない出版社もある。 リリース当時は単行本の限定版にのみ収録であっても、後にディスクパッケージとして単体で発売されることもある。また、テレビで放送されたり、ネットで配信されたりすることもある。逆のパターンとしては、『名探偵コナン』のスペシャルアニメ『名探偵コナン 江戸川コナン失踪事件 〜史上最悪の2日間〜』(2014年)のように、本作のアニメDVDが付属した単行本第86巻限定版に先行して『金曜ロードショー』枠での放送が行われるなど、収録される単行本の発売に先駆ける形で地上波の全国放送が行なわれる例も存在する。なお同作は2015年に単体のDVD版/ブルーレイ版も発売された。 放送事業者や配信事業者では初出がビデオグラムの単独販売作品だった作品を「OVA」とするが原作単行本の限定版付録作品だった作品を「OAD」と区別するとは限らず、『からかい上手の高木さん』第9巻 OVA付き特別版(2018年)に付属のオリジナルアニメは大手アニメ配信サイトのバンダイチャンネルではテレビアニメシリーズ第1期全12話に続く「13話(特別編)」として配信されているように必ずしも認知度のある用語ではない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "OVA(オーブイエー)は、アニメのオリジナルビデオのこと。オリジナル・ビデオ・アニメの略称である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "テレビアニメやアニメ映画としてではなく、映像記録メディア(通称「ビデオ」)の形態でリリースされた商業アニメ作品として1983年に登場した。「ビデオ」とは、1980年代から1990年代にかけては主としてビデオテープ(VHS、ベータマックスなど)のことを指したが、本来の語義としては電気信号を用いた映像記録であるためLDやDVDなどのディスクメディアとしてリリースされたアニメもOVAと呼ばれる。ただし、テープメディアでは無いことを強調するためLD版しかリリースしないためOLA(オリジナル・レーザー・アニメーション)と呼称したり、ビデオテープが衰退した2000年代以後にDVD、BDにてOADと呼称することもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "テレビアニメのパイロット版など本来ビデオ形態での販売を想定していなかったビデオスルーのアニメや自治体や教育機関向けを主としてビデオ機の普及以前は16mmフィルムの形態で販売されていた教育アニメなどは基本的にOVAには含まれない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "OVAとは、そのアニメの頒布メディアの形態から定義づけられた言葉であるが、OVAシリーズの刊行途中で話題となり全話劇場公開がなされた『トップをねらえ!』(1988年)のように、OVA作品の人気が出れば、後に劇場公開やテレビ放送がなされることもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "OVAという概念が誕生した1983年当時は、ビデオソフトもビデオ再生機も高額で所有する層も限られており、高品質な作品ならば高額でも購入するような一部のアニメ愛好家(いわゆる「おたく」)への販売(セルビデオ)によって製作費を回収していたが、1980年代後半以後にビデオ機とレンタルビデオ店が一般層に普及すると、レンタルビデオ店を主たる販路とする作品も増加した。『メガゾーン23』(1985年)などのSF美少女アニメが売れ筋として当時のアニメ雑誌で特集され、1本1万円を超える販売価格でもおたくがこぞって買い求めたが、一方で『湘南爆走族』(1986年)のように一般層がレンタルビデオ店でこぞってレンタルしていたような作品も存在し、1980年代から1990年代にかけてのOVAは「ヒット作」と言っても作風に幅がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1980年代から1990年代にかけては、商業的・倫理的などの理由で「テレビアニメ」か「アニメ映画」のフォーマットを取れないアニメを頒布するには「OVA」という選択肢しか無かった。テレビでは見ることのできないアニメ、例えば『天使のたまご』(1985年)のような実験的アニメ、『くりいむレモン』(1984年)のようなアダルトアニメ、また『小学生の誘拐防止 ユミちゃん あぶないよ!』(1991年)のような児童向け教育アニメ、宗教団体の布教用アニメなどと言ったものがOVAの形態で盛んにリリースされ、1980年代から1990年代にかけてOVA特有のカルチャーを形成した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1980年代から1990年代前半頃までは映像の放送チャンネルが少なく、テレビアニメの放映可能本数が限られていたため、「OVAの形態でしかリリースできない」という消極的な理由でOVAとなった作品が多かったが、1990年代中頃には深夜アニメの定着、衛星放送の開始といったテレビの多チャンネル化によって、アニメを頒布するチャンネルが増加した。そのため、アニメのビデオをリリースする前に、ビデオ版の宣伝もかねてまず放送料金の安価なUHF局や深夜帯で放送する作品が増え、テレビアニメに対するOVAのオリジナル性は薄れた。一方で、『神秘の世界エルハザード』(1995年)のようにOVA版・テレビアニメ版・ゲーム版が若干異なる設定で同時展開するなど、テレビなどの他の映像メディアと連動して多展開する「メディアミックス」のメディアの一つとしてOVAが位置づけられる例も登場した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2000年代以降は、物理メディアの販促も兼ねて第1話など作品の一部がテレビで先行放送されることも増えた。また、2010年代以降にはネットによる動画配信サービスサービスの一般化に伴い、OVAの発売に先行して一部がネット配信が開始される場合も増え、初出が「ビデオ」ではないOVAが増えた。そのため、OVAの概念が曖昧になっているが、テレビ放送やネット配信が先行していても、OVAとして製作されたものはOVAとされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2010年代後半には動画配信サービスの普及に伴い、「OVA」が発売してしばらく後にネットの動画配信サービスでも配信されるのが普通となり、記録したメディアを買わなくても、ネットのビデオ・オン・デマンドサービスでいつでも見られるようになった。そのため、OVAの概念がさらに曖昧になっている。定額制動画配信サービスなどを提供する動画配信事業者においては、テレビアニメ、アニメ映画、OVA、といった初出メディアによる区別をせず、すべて「アニメ」として並列に提供していることも多い。あるいは、「テレビ番組」と「映画」とは別に「オリジナルビデオ」のカテゴリ分けしている場合でも、「書籍」の付録として発売されたOAD、ビデオスルー、配信サイトの自社制作アニメ、などといったものを全て「オリジナルビデオ」のアニメのカテゴリに入れている場合もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "黎明期には「オリジナルビデオ」「ビデオアニメ」「アニメビデオ」「オリジナル・アニメーション・ビデオ」などと言った呼称が用いられた。しかし『月刊ニュータイプ』(角川書店)が1986年より「OVA」の呼称を積極的に使い始め、次第に一般化した。いわゆる「和製英語」であるが、海外でも「日本のアニメのオリジナルビデオ」という意味で使われる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「オリジナル・ビデオ・アニメ」という呼称の初出は『ニュータイプ』誌以外の可能性もあるが、『ニュータイプ』誌における初出は創刊号(1985年3月発売)、「OVA」(読みは「オーブイエー」)という呼称の初出は1986年2月号「ビデオアニメ完全カタログ'86」である。同誌では1986年11月よりOVA評論コラム「秋姫のOVA放言録」が連載されており、「OVA」と書いて「オヴァ」と読むなどと小ネタを挟みつつも、「OVA」という呼称の普及に一役買った。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "「OVA」という用語は『ニュータイプ』が広めたものであったため一般化するまで他誌では使われなかった。1980年代当時は、学習研究社の『アニメディア』および『アニメV』が提唱した「OAV」(オリジナル・アニメーション・ビデオの略称)という呼称も一般的であったが、「AV」が「アダルトビデオ」や「オーディオ・ビジュアル」の略称と間違われやすいため、次第に用いられなくなっていったが『アニメディア』は2014年時点でもまだ「OAV」の呼称を使っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "「ビデオ」とは、1990年代にはVHSビデオテープのことを指すことが多かったため、2000年代にVHSの衰退によりDVD専売のOVAが登場すると、OVAは「オリジナル・ヴィジュアル・アニメーション」の略称ともされるようになった。『らき☆すたOVA』(2008年)が「オリジナルなビジュアルとアニメーション」を称している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1983年12月、世界初のオリジナルアニメのビデオソフトである『ダロス』が発売される。元々制作されなかったテレビアニメの作品の企画を、ビデオ向けにストーリーを再構築した上でビデオ販売を目的に製作されたものである。当時はビデオ市場の黎明期ということもあって、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』(19,800円)など、1巻2万円近いアニメビデオが盛んにリリースされている中、『ダロス』は新作で1巻6,800円と買いやすい値段であったこともあり、全4巻で2万本を出荷するヒット作となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "テレビアニメのようにスポンサーの資金に頼ることなく、ビデオの販売代金だけで製作費の回収が可能であることが判明すると、多くの発売・販売元が参入し、続々とオリジナルアニメのビデオが発売され始めた。OVAに限らず当時のビデオソフトはきわめて高価で、例えば『メガゾーン23』(1985年)は1巻13,800円、『幻夢戦記レダ』(1985年)は1巻12,000円であったが、それぞれ数万本を売り上げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1980年代中盤当時、ポストマクロス作品が不発に終わったことにより、高年齢層向けアニメが減少していた。そんな中、ビデオソフトとして展開されるオリジナル作品は、当時のテレビアニメが主な対象としていた少年層よりも年齢が高い、中高生以上のハイターゲット層向けアニメの発表の場として重要な位置を占めるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "このようなムーブメントにアニメ雑誌の『アニメディア』(学研)が注目し、1985年6月、オリジナルアニメを専門に取り扱う『アニメV』が創刊された。1985年3月に創刊されたばかりの角川書店の『月刊ニュータイプ』も、1986年2月号で「OVA(オリジナル・ビデオ・アニメ)」の特集を組んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "OVAがブームとなったことから、アニメを作ったことのないメーカーの新規参入が相次いだ。1987年当時の売れ筋ジャンルは、半裸の女性が主人公で宇宙を背景に「おーばり」メカが出てくるような男性向けSFヒロイックファンタジーで、これは製作陣も設定などを全部自分の頭の中で作ればよくて資料を集める手間がかからなくて楽なので、たくさんリリースされた。アニメを作ったことのないメーカーでも、企画書と脚本と1350万円をもって当時のアニメ制作最大手であるAICに行けば3か月で作ってくれ、作画さえよければ脚本や演出がムタムタでもアニメファンに許され、そのような作品でもアニメ雑誌に広告を出しておけば悪い評価は受けず、ムービックに頼んでアニメイトでイベントを組んだりしておけばそこそこ売れたとのことで、アニメ雑誌の『月刊OUT』の連載漫画「魔法少女アンイーちゃん」(1987年)ではその安易さが指摘された。この連載漫画では、劇場版『プロジェクトA子』(1986年、2作目以降はOVA)が安易すぎて、『天空の城ラピュタ』(1986年)を製作中の宮崎駿に「セーラー服が機関銃撃って、走り回ってる様なもの」と怒られた件にも触れられている、『月刊OUT』自身も『活劇少女探偵団』(1986年)でOVAに手を出してそんな安易な作品を作り、不振の一因となったとのこと。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "『月刊OUT』の連載漫画で揶揄された「おーばり」こと大張正己によると、当時の一般的なOVAの作監料はテレビアニメとは桁違いに高かったが、当時高評価を受けたAICの『戦え!!イクサー1』(1985年)は、自社をアピールするために、あえて安い予算でも良いものを作ろうと考えていたらしく実際に安かったという。しかし、企画から製作まで3か月というのは「夢がある」、AICなら「才能だけで監督まで登れる」と考え、参加したとのこと。大張は実際、22歳にして『バブルガムクライシス』(1988年)の監督を務め、当時の最年少アニメ監督となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "大張以外にも、『戦え!!イクサー1』『メガゾーン23』(1985年)の平野俊弘、『吸血姫美夕』(1988年)の垣野内成美、『冥王計画ゼオライマー』(1988年)の菊池通隆、と言った新進のアニメーターがOVAで頭角を現した。平野いわく、「テレビでできないことをやろうよ」とのことで、ハイターゲット向けアニメは、基本的にテレビアニメよりもOVAとしてのリリースを主とするようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "OVAを盛り上げるイベントも盛んに開かれ、OVAがリリースされるたびに各地で試写会が行われた。特に1985年から1986年にかけて日本各地で行われた『幻夢戦記レダ』のイベントは、1985年末に大阪と東京で開催された『幻夢戦記レダ』&『吸血鬼ハンターD』試写会を中心として、『幻夢戦記レダ』のテーマソングを歌った新人アイドル歌手の秋本理央と、『吸血鬼ハンターD』のテーマソングを製作した無名時代のTMネットワークを起用した大々的なプロモーションが行われた。ただし、イベントなどは東京・大阪など都会で開かれることが多く、地方格差が大きかった。アニメイトでは定期的にイベントが行われていたが、そもそも地方にはアニメイトがなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "OVAのリリースタイトル数は右肩上がりに増え、1983年には1タイトルのみだったものが、1989年には300タイトルを超えるまでになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "初期のOVAは、ほとんどが劇場アニメのフォーマットを模したもので、収録時間は60分から90分程度の内容のものが多かったが、1980年代後半になると、OVAもテレビアニメのように30分×数本のシリーズものが増えた。またシリーズ物はキャラクター、背景、音楽などの流用ができて製作費が抑えられるので、OVAの低価格化が進んだ。例えば『機動警察パトレイバー』(1988年-1989年)は、劇中に広告を入れたりメディアミックスの手法を取ることで、1巻4,800円の低価格を実現し、また『銀河英雄伝説』(1988年-1989年)は、テレビアニメの制作方法を模すことで、1巻2,500円の低価格を実現した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "OVAという概念が確立した1986年当時は、原作付きOVAは「オリジナル」ではないとして、アニメファンには受け入れがたいものであったが、OVAのリリースタイトル数の増加に伴い、次第に「原作付き」が増えた。1989年にリリースされた300タイトル超のOVAのうち、約40タイトルが原作付きとなった。原作付きは巻を重ねるものが多く、発売タイトル数ではなく巻数でカウントすると、「ビデオオリジナルタイトル」の比率はかなり少なくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2000年代に入ると、完全新作のタイトルは少なくなり、昔から展開されているシリーズ作品の続刊がほとんどとなったが、シリーズ展開を打ち切る作品が年を追うごとに増えていったため、OVAのリリース本数も売り上げも少なくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "それまでならOVAとして展開されていたはずのアニメシリーズは、深夜アニメを主としたテレビアニメとして放送されることの方が多くなり、特に独立局のテレビアニメはほとんどが深夜帯で放送され、OVAはあくまで深夜アニメの続編やサブストーリーとして展開されるケースが多くみられるようになった。深夜アニメが放送されるのは三大都市圏を主とした主要都市圏の地上波局のみに限られることから、それらがテレビで視聴されることはあまり重視されておらず、視聴率も2%以上が高視聴率ラインとなっているように、平均的に低めである。玩具の販売促進を主とした子供向けアニメとは違い、深夜アニメは従来からのOVAの視聴層向けに、テレビ版にビデオオリジナルエピソードが追加された完全版DVD-BOXの購入や、単巻DVDの購入およびレンタルの促進を主とした宣伝戦略を取っていたので、バンダイビジュアルやアニプレックスなどといったビデオの販売元が必ずスポンサーについていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "この時期のオリジナルOVAでも、『ファイナルファンタジーVII アドベントチルドレン』(2005年)のように、IPを所有するスクウェア・エニックスの自社製作作品となっているのを活かし、DVDショップだけでなくゲームショップにも流通したことで日本出荷枚数100万枚・海外140万枚の大ヒットとなった作品も存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2010年代以降のOVAは、DVDやBDの売り上げ収入に加えて、dアニメストア(2012年7月開始)、バンダイチャンネル(2011年8月より月額見放題サービス開始)、Amazonプライム、ネットフリックスなどといった定額制動画配信サービスでの視聴を主としている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "名作童話をアニメ化した「子供向けOVA」が1980年代後半よりリリースされている。中でも、1988年よりウォーカーズカンパニーがリリースした『ビデオ絵本シリーズ』は、980円という発売年当時としては異例の廉価展開が功を奏し、通巻180万本を売り上げたという。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "有名キャラクターを使ったものもあり、『スーパーマリオブラザーズ』のキャラクターを使って名作童話をアニメ化した「アマダアニメシリーズ」の『スーパーマリオブラザーズ』(1988年)は、任天堂の公式ライセンス作品として当時のマリオ公式声優であった古谷徹を起用するなど、声優陣こそ豪華であり、1,480円という低価格での提供となっている。当該作に限らず、他の外部版権もの子供向けOVAにも当てはまり、低価格での提供となっている分低予算による製作費の代償として総製作費からライセンス料が引かれている分、絵はほとんど動かず、尺が短いわりに使いまわしのシーンや無理矢理かつ露骨に尺を引き延ばしたシーンがやたらと多い。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "DVDが普及する2002年ごろまでは、OVAはVHSとLDの両方で発売されるのが一般的だったが、子供向けのOVAはLDでの発売はほとんどなく、VHSのみでの展開で、かつハイターゲット向けよりも低価格での販売が主体であった。低予算であるため、声優陣も少ない上に端役の担当が主の無名声優を積極的に起用する傾向にある。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "なお、サンリオも1989年から展開を開始したサンリオキャラクターを起用した子供向けOVAの製作に積極的であり、ハローキティなどのサンリオキャラクターそのものを主題としたものや、世界名作童話の登場人物をサンリオキャラクター化したOVAが展開されている。尺が短いことは他の低価格子供向けOVAと変わりがないが、自社でビデオグラム部門を有していることで、自社版権キャラクターを起用していることによって著作権料がかからないことを活かして著作権料にあたる部分もアニメ制作に回せることによって、子供向けテレビアニメと同じ制作手法が用いられていつつ低価格帯での提供が可能となっている。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "教育アニメは、教育用のアニメである。小学校などの教育機関や自治体向けを主として頒布された。啓発アニメ、防犯アニメ、交通安全アニメ、などのサブジャンルがある(安全教育アニメも参照)。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "教育映像はかなり市場が大きく、東映教育映像部や学研文教事業部など、大手映像会社には教育映像を製造する専門の部署が存在し、教育アニメもたくさん作られた。1980年代以前の教育機関には視聴覚教材として16mm映写機が普及していたため、小学校などの教育機関向けに16mmフィルムの形態で販売されるのが一般的だったが、ビデオ機が普及した1980年代以降はVHSの形態で、DVDプレーヤーが低価格化した2003年頃からDVDの形態で販売されるものも登場した。上映会などで使われる「業務用ビデオ」としての販売が主で、図書館などの公的機関に所蔵されており閲覧は容易だが、一般市場にはあまり出回らず、入手が非常に難しいものがほとんどである。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "メーカーが制作した教育アニメは、教育用品ルートでの販路のみとなっているが故に尺が短いわりに非常に高価なのが特徴である。『ちびまる子ちゃんの交通安全』(1997年)のように有名な子供向けアニメを題材とした「版権もの」や、防災教育アニメ『稲むらの火』(1989年)のように児童文学を題材とした「原作付き」がほとんどで、完全なオリジナル・アニメは『空飛ぶうさぎの誘拐防止 ぼく、いやだよ!』(1990年)や『小学生の誘拐防止 ユミちゃん あぶないよ!』(1991年)など少ししかない。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "政府・警察などの行政機関や東京都などの自治体が制作した教育アニメは、無料で頒布されるものもある。2000年代以降はビデオの形態で頒布されると同時に無料でインターネット公開されているものも多い。日本国政府が制作した北朝鮮による日本人拉致問題啓発アニメ『めぐみ』(2008年)は、ビデオグラムのDVD版が教育機関などに広範囲に頒布されると同時に、ネットで無料公開され、2011年にはレンタルDVD版もリリースされた。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "世界初のOVA『ダロス』に続き、世界で2本目のOVA『ロリータアニメ 雪の紅化粧 少女薔薇刑』が1984年2月にリリースされた。これが世界初のアダルトOVAであるが、画風がエロ劇画であったため、アニメファンからは注目されなかった。しかし、1984年7月にリリースされたシリーズ第3弾『ロリータアニメIII 仔猫ちゃんのいる店』で、画風を当時のアニメ美少女に変更、アニメファンに注目される。そして、1984年8月にリリースされた『くりいむレモン』シリーズ第1作『媚・妹・Baby』が爆発的なヒットとなり、アダルトOVAがジャンルとして確立する。「くりいむレモン」シリーズだけで30本以上リリースされた。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アダルトアニメは18歳以上のみを対象とした成人指定であるため、アニメファンであっても未成年者は見られないことから、成人指定の『くりいむレモン』から性行シーンなどを大幅にカットして一般向けにした『くりいむレモン ジュニア』(1988年)など「ソフトアダルトOVA」も登場した。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "アダルトOVAは、OVA黎明期には一般向けをしのぐ大量の本数がリリースされたが、1980年代中頃にはOVA全体の隆盛に押される形となり、1986年にはリリース本数が8本となり衰退する。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "しかし1980年代後半にはアダルトOVAが盛り返す。特に『超神伝説うろつき童子』(1989年)は大ヒットとなり、海外へも輸出され、海外でも大きな人気を得て日本のアダルトアニメは「HENTAI」として知られるようになった。この頃のアダルトOVAは、最初から海外向け輸出を念頭に製作しており、日本版では製作陣がわざとモザイクをかけているものの、実は男女の性器ごとしっかりと描かれていた。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1980年代後半より、宗教団体も布教の為にビデオ産業に進出したが、その一環としてアニメも制作するようになった。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "浄土真宗本願寺派が制作した『仏典物語』(1986年)は、ガイナックスやAICなど豪華な製作陣で知られる。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "新宗教の制作したアニメとしては、創価学会名誉会長である池田大作の絵本を原作とした『ほしのゆうえんち』(1989年)、『アニメ人間革命』(1995年 - 2003年)、コスモメイトの代表である深見青山が原作・声優・主題歌を担当した『アニメ神頼み入門』(1989年)、などがある。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "幸福の科学系列で、日本最大規模の宗教団体系出版社である幸福の科学出版が1991年に初めて製作した映像作品が、子供向けOVA『しあわせってなあに』シリーズである。同名の絵本作品のアニメ化であり、布教用ではなく教団内の子供向けOVAであった。1997年から劇場用アニメが3年ごとに公開される「幸福の科学アニメ」の標準的なフォーマットはこの作品の時点で確立された。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "オウム真理教が製作した作品も存在する。一般的な布教アニメは「教団が制作した」といっても教団および関連会社がテレビアニメでいう広告代理店に準じた扱いで、実際にアニメを作っているのは既存のアニメ制作会社による外注で、声優を本職とする方が声を担当することが一般的なのだが、「オウムアニメ」は実際に教団内部の人間が自ら作っていた点、主要製作者である麻原彰晃が本人役で自ら声優として出演していたように教団所属者のみを声優陣として固めたのが特異である。「オウムアニメ」は1991年よりリリースされたが、一般に知られるのはテロ事件が明るみになった1995年以降にテレビ番組で素材が堂々と使われて以降となる。ガイナックス元社長の岡田斗司夫が1997年に制作者にインタビューを行い、製作の詳しい事情が明らかになっている。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "不良少年を主題とした少年・青年漫画作品であるヤンキー漫画のアニメ化はテレビではなくOVAとして展開されるのが殆どであり、レンタル市場で特徴的なジャンルである。前述の『湘南爆走族』(1986年)がスマッシュヒットとなったのをきっかけに、レンタルビデオ向けに続々とヤンキーOVAがリリースされ、その多くがシリーズ化された。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1983年から連載が開始されたヤンキー漫画の看板作品である『ビー・バップ・ハイスクール』もヤンキーOVAのブームに便乗し、実写やゲーム作品といった他メディアミックス作品よりも遅れた頃の1990年から全作品の映像化権を独占していた東映グループの東映動画→東映アニメーションによる制作で、「東映Vアニメ」(東映ビデオ)のレーベルでOVA化された。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "出版社が制作に関与したOVAが出版ビデオである。OVAの発展期である1985年、出版社13社によって「出版ビデオ懇談会」が結成されて以降、出版社による原作付きOVAの積極的展開が行われた。OVAなら旬を過ぎた原作や、マニアックな原作もアニメ化でき、例えば集英社は「ジャンプVIDEO」レーベルで、2巻打ち切りながら熱狂的ファンが付いた『バオー来訪者』(1989年)のOVAを製作(販売:東宝)するなどした。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "映像ソフト販売会社によってビデオショップなどを通じて販売されたものとは別の流れとして、出版社によって雑誌を通じて通信販売されたものがあり、秋田書店「月刊プリンセス」の紙上通販でのみ販売された『ぴーひょろ一家』(1988年)が出版ビデオの通信販売の最初の例である。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "「OVAの紙上通販」は、小学館の児童・少年向け雑誌では「応募者全員サービス」として2010年代まで積極的に展開された。『週刊少年サンデー』の応募者全員サービスとして販売された『名探偵コナン』のOVAは第1作『名探偵コナン コナンvsキッドvsヤイバ 宝刀争奪大決戦!』(2000年)から『『名探偵コナン えくすかりばあの奇跡』』(2012年)まで、ほぼ毎年販売されていた。『名探偵コナン コナンとキッドとクリスタル・マザー』(2004年)まではVHS、『名探偵コナン 消えたダイヤを追え! コナン・平次vsキッド!』(2006年)以降はDVDである。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "小学館学年誌連合企画の応募者全員サービスとして1999年に販売された「とっとこハム太郎OVA」(『とっとこハム太郎 アニメでちゅ!』)(1999年)は、もともとテレビアニメ版のパイロット版として、開始前年に製作されたものをOVAに転用したもので設定も異なる。", "title": "OVAの主なサブジャンル" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "OVAの発展はビデオ機の普及とも関係しており、1980年には2%だったビデオ機の家庭普及率は、1989年には70%に達するまでになったがそれを補完する物もあった。", "title": "周辺ジャンル" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "アニメ映画やテレビアニメ同様に「フィルムコミック」が発売された。", "title": "周辺ジャンル" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1980年代当時、OVAは高価なため、安価でいろいろなOVAの映像を収録した「ビデオマガジン」が販売された。ビクターの「アニメビジョン」、バンダイの「電影帝国」などがある。", "title": "周辺ジャンル" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "特に、LDの対抗メディアであったVHDを展開するビクターが、VHDの販促の為に販売した「アニメビジョン」は積極的で、独自に制作したOVAも収録していた。", "title": "周辺ジャンル" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "劇場版『ニルスのふしぎな旅』(製作は1982年、ビデオ版は1985年)のような劇場公開を前提として製作されていたが公開中止されたもの、『セントエルモ 光の来訪者』(製作は1986年、ビデオ版は1987年)のような企業のPR用アニメ、『ルパン三世 パイロットフィルム』(製作は1969年、ビデオ版は1989年)のようなテレビアニメのパイロット版など、もともと別の用途で製作されたアニメが、何らかの理由で「ビデオ」の形態で最初にリリースされることになったものをビデオスルーと呼ぶ。最初からビデオ向けに制作されたOVAとは区別されることが多いが、「OVA」として販売される場合もあり、その区別は曖昧である。", "title": "周辺ジャンル" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ビデオ版の発売後にテレビ放送が予定されている作品もあり、その場合は「ビデオ先行作品」とも呼ばれる。『どうぶつ80日間世界一周』(スペインで1984年放送。日本のビデオ版は1985年、日本のテレビ版は『アニメ80日間世界一周』として1987年)や『宇宙伝説ユリシーズ31』(1981年にフランスで放送、日本のビデオ版は1986年、日本のテレビ版は1991年)のように、海外のテレビ放送向けに日本のメーカーが制作したものが多い。", "title": "周辺ジャンル" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1980年代当時、海外アニメは日本で人気が無かったため、日本ではほとんどがテレビ放送されず、ビデオスルーとなった。「ビデオ先行作品」のはずであった『マイティ・オーボッツ』(アメリカで1984年放送、日本のビデオ版は1985年)は日本のテレビでは放送されなかった。『トランスフォーマー ザ・ムービー』(1986年)のように、海外では劇場公開され高い評価を得たものも存在し、当時の他のOVAと比較しても遜色ないクオリティの作品も少なくない。", "title": "周辺ジャンル" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ネット配信が普及した2010年代以降のアニメは、ほぼすべてネット配信されることを前提として製作されており、特に「ビデオ先行作品」と明記されていなくても、OVA版が発売してしばらく後にネット配信されるのが普通である。", "title": "周辺ジャンル" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "テレビ放送されたアニメのシリーズを編集して、1巻のビデオアニメに仕立てたもの。ビデオスルーの一種とされる。既存の映像を再利用した、単なるテレビアニメの総集編ではなく、総集編のつなぎとして新作のカットが追加されていることもあった。", "title": "周辺ジャンル" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "『うる星やつら 了子の9月のお茶会』(『うる星やつら』のファンイベント向けに1985年に制作。ビデオ版も同年)のように、テレビアニメ版の素材を再編集して新たなストーリーを構築し、1本のビデオグラムに仕立てた作品もある。", "title": "周辺ジャンル" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "『とんがり帽子のメモル マリエルの宝石箱』(1985年)に新作短編『土田勇のマイメモル 光と風の詩』が付属したように、新規に製作されたアニメがおまけで付いてくることもあり、「新作付きテレビ編集版」と呼ばれる。", "title": "周辺ジャンル" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "なお、OVAをテレビ放送用に編集したものも「テレビ編集版」と呼ばれる。『同級生2 テレビ編集版』(1998年)は、『同級生2 OVA版』(1996年)を地上波で放送するために再編集したもので、もともとアダルトアニメであったOVA版の性行シーンなどがすべてカットされている。", "title": "周辺ジャンル" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "OVA全盛期には、ハイターゲット向けに作られたテレビアニメやアニメ映画のビデオソフトも売れ行きが良く、例えばアニメ映画『天空の城ラピュタ』(1986年公開、配給収入5.8億円)は、1988年に12020円で発売されたVHS版が8万本売れるなど、ハイターゲット向けのアニメーション映画も、作品の配給収入よりもビデオグラム版の売上の方が上となる作品がほとんどであった。全日帯のハイターゲット向けテレビアニメでも、1991年に日本テレビ系列で放送された『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』や、1995年 - 1996年にテレビ東京系列で放送された『新世紀エヴァンゲリオン』などは、視聴率が低かったようにテレビ放送だけでは話題にならなかったが、レンタルやセル(VHS・LDとも)のビデオ版で人気に火が付いたのを機にメディアミックスへと発展し、後に展開される深夜アニメにおけるビジネスモデルの源流となった。これらはOVAとともに「VHSカルチャー」を形作った。", "title": "周辺ジャンル" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "VHSテープが廃れてDVD時代となった2000年代中盤以降、雑誌の付録DVDにOVAを収録させる事例も見られるようになった。「まんがくらぶオリジナル」2008年10月号に『がんばれ!メメ子ちゃん』のアニメDVDが付属した例などがある。", "title": "周辺ジャンル" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "地上波におけるOVAの代表的な放送枠としてよみうりテレビが関西ローカルで放送した「アニメだいすき!」(1987年~1995年)がある。当時同社のアニメ部門に所属していたプロデューサーである諏訪道彦の企画で学校の長期休暇期間の深夜枠を中心に人気の高いOVAの単発長編作品を主に編成された。", "title": "周辺ジャンル" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1980年代から2000年代にかけて、「ビデオ」というと主にビデオテープ(テープメディア)特にVHSを意味したため、それ以外のメディアのみで発売された作品は「OVA」以外の呼び名で呼ばれることもあった。", "title": "派生用語" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ポニーキャニオンが1991年にリリースした『炎の転校生』は、レーザーディスク(LD)のみでリリースされた作品であったため、「OLA」「オリジナル・レーザー・アニメーション」を称していた。LD専売とすることによる話題性を狙ったものだが、LDプレーヤーの普及率が低いこともあって商業的に成功せず、翌1992年にはVHS版も発売された。結局、『炎の転校生』がOVA史上唯一のOLAとなった。", "title": "派生用語" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2000年代に入ると、DVD再生機能を持つPlayStation 2の普及などにより、VHSに代わってDVDがアニメ映像記録用メディアの主流となり始めた。DVDの普及が始まってもしばらくはOVAのVHS版とDVD版が併売されていたが、2003年ごろよりVHS版が発売されないOVAが登場し、『オリジナルDVDアニメ いちご100%』(2005年)のように「オリジナルDVDアニメーション」「オリジナルDVDアニメ」を称するアニメビデオも登場した。", "title": "派生用語" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "しかし、2000年代後半にはブルーレイディスクやHD DVDなどの次世代DVD規格の普及が始まり、2007年6月にはバンダイビジュアルがOVA『FREEDOM』1巻のHD DVD版を発売。旧作OVAが次々と次世代DVDで発売され始め、また2009年には『ハヤテのごとく!! アツがナツいぜ 水着編!』などDVD版とブルーレイ版が同時に発売されるOVAも登場し、オリジナルアニメはDVDだけで発売されるものではなくなったため、「オリジナルDVDアニメーション」という表現は使われなくなった。", "title": "派生用語" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "「単行本のDVD付き限定版」に付属されるオリジナルアニメのこと。講談社の用語で、「オリジナルアニメーションDVD」の略である。「オリジナル・アニメーション・ディスク」の略とするメディアもあるが、少なくとも講談社ではそのような使用例はなく、また単行本にブルーレイなどDVD以外のディスクメディアを付属させた例もない。", "title": "派生用語" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2007年より講談社が行った「単行本のシリーズ最新刊と新作オリジナルニアニメのDVDを合わせて発売する」という企画に由来する。講談社によるオリジナルアニメDVDが封入された最初の製品である、『ツバサ』 21巻(2007年11月)/22巻(2007年1月)/23巻(2008年3月)が好評だったことから、『スクールランブル』21巻(2008年7月)/22巻(2008年9月)、『魔法先生ネギま!』23巻(2008年8月)でもDVDが封入されるなど、「講談社OADシリーズ」としてシリーズ化した。大手出版社がアニメDVD流通に進出するという、当時としては先駆的な例であった。これに集英社が2009年発売の「『To LOVEる -とらぶる-』13巻 アニメDVD付予約限定版」で追随するなど、以後他社でも「単行本のオリジナルアニメDVD付き限定版」を発売することが一般的となった。なお単行本の付録にオリジナルアニメDVDをつける企画は、各出版社で2007年頃より盛んになり始めており、2007年9月に『こどものじかん』4巻特別限定版を発売した双葉社の方が講談社より先行している。", "title": "派生用語" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "OVAとの違いは、単行本とアニメDVDをセットで発売することで「書籍扱い」になるという点である。したがって、映像コンテンツ会社ではなく出版社が販売元となり、またDVD販売店ではなく書店で販売され、レンタルもない。「書籍扱いアニメDVD/BD」に関しては、DVD/BDが本体でおまけのブックレットが付属したような商品もあるが、OADに関してはあくまで単行本が本体で、アニメの原作となる漫画やライトノベルの単行本の限定版としてOADを収録したDVD/BDを付属させるケースが多く、単行本単体の通常版よりも高価格で販売されている。予約生産のものが多く、この場合、販売側には発売前に予約を受注するために生産数を把握しやすい利点があるが、初回限定生産の事例が多いため、発売時に買い逃すと入手困難になることも多い。", "title": "派生用語" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "「OAD」という用語の初出は上記の『スクールランブル』21巻/22巻に封入された『スクールランブル 三学期』(2008年7月)である。『ツバサ』は21巻限定版(2007年11月)の時点では「オリジナルDVDアニメーション」と称していたが、『ツバサ』26巻限定版付属の『ツバサ 春雷記』(2009年3月)の時点では「OAD(オリジナルアニメーションDVD)」と称するようになった。", "title": "派生用語" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "もともとは講談社の用語だったが、2009年以降は出版社を問わず単行本付録のアニメDVD/BDの名称として一般化しつつある。ただし、2018年時点でも「アニメDVD」「OVA付き特別版」と称する小学館のように、講談社が生み出した用語であるOADを用いない出版社もある。", "title": "派生用語" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "リリース当時は単行本の限定版にのみ収録であっても、後にディスクパッケージとして単体で発売されることもある。また、テレビで放送されたり、ネットで配信されたりすることもある。逆のパターンとしては、『名探偵コナン』のスペシャルアニメ『名探偵コナン 江戸川コナン失踪事件 〜史上最悪の2日間〜』(2014年)のように、本作のアニメDVDが付属した単行本第86巻限定版に先行して『金曜ロードショー』枠での放送が行われるなど、収録される単行本の発売に先駆ける形で地上波の全国放送が行なわれる例も存在する。なお同作は2015年に単体のDVD版/ブルーレイ版も発売された。", "title": "派生用語" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "放送事業者や配信事業者では初出がビデオグラムの単独販売作品だった作品を「OVA」とするが原作単行本の限定版付録作品だった作品を「OAD」と区別するとは限らず、『からかい上手の高木さん』第9巻 OVA付き特別版(2018年)に付属のオリジナルアニメは大手アニメ配信サイトのバンダイチャンネルではテレビアニメシリーズ第1期全12話に続く「13話(特別編)」として配信されているように必ずしも認知度のある用語ではない。", "title": "派生用語" } ]
OVA(オーブイエー)は、アニメのオリジナルビデオのこと。オリジナル・ビデオ・アニメの略称である。
{{Otheruses|アニメの形態|言語の語順|OVS型|コンピュータファイル形式(拡張子)|オープン仮想化フォーマット}} {{Pathnav|アニメ|frame=1}} {{独自研究|date=2013年3月}} '''OVA'''('''オーブイエー''')は、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]の[[オリジナルビデオ]]のこと。'''オリジナル・ビデオ・アニメ'''{{efn|{{Lang-en-short|original video animation}}}}の略称である<ref>『月刊ニュータイプ』1986年2月号、p6、角川書店</ref>。 == 概要 == [[テレビアニメ]]や[[アニメ映画]]としてではなく、映像[[記録]][[電子媒体|メディア]](通称「'''ビデオ'''」)の形態でリリースされた商業[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]作品として1983年に登場した。「ビデオ」とは、1980年代から1990年代にかけては主として[[ビデオテープ]]([[VHS]]、[[ベータマックス]]など)のことを指したが、本来の語義としては電気信号を用いた映像記録であるため[[レーザーディスク|LD]]や[[DVD]]などのディスクメディアとしてリリースされたアニメもOVAと呼ばれる。ただし、テープメディアでは無いことを強調するためLD版しかリリースしないため'''OLA'''(オリジナル・レーザー・アニメーション)と呼称したり、ビデオテープが衰退した[[2000年代]]以後に[[DVD]]、[[Blu-ray Disc|BD]]にて'''OAD'''と呼称することもある。 テレビアニメのパイロット版など本来ビデオ形態での販売を想定していなかった[[ビデオスルー]]のアニメや自治体や教育機関向けを主としてビデオ機の普及以前は16mmフィルムの形態で販売されていた教育アニメなどは基本的にOVAには含まれない。 OVAとは、そのアニメの頒布メディアの形態から定義づけられた言葉であるが、OVAシリーズの刊行途中で話題となり全話劇場公開がなされた『[[トップをねらえ!]]』(1988年)のように、OVA作品の人気が出れば、後に劇場公開やテレビ放送がなされることもある。 OVAという概念が誕生した1983年当時は、ビデオソフトもビデオ再生機も高額で所有する層も限られており、高品質な作品ならば高額でも購入するような一部のアニメ愛好家(いわゆる「[[おたく]]」)への販売(セルビデオ)によって製作費を回収していたが、1980年代後半以後にビデオ機と[[レンタルビデオ]]店が一般層に普及すると、レンタルビデオ店を主たる販路とする作品も増加した。『[[メガゾーン23]]』(1985年)などのSF美少女アニメが売れ筋として当時のアニメ雑誌で特集され、1本1万円を超える販売価格でもおたくがこぞって買い求めたが、一方で『[[湘南爆走族]]』(1986年)のように一般層がレンタルビデオ店でこぞってレンタルしていたような作品も存在し、1980年代から1990年代にかけてのOVAは「ヒット作」と言っても作風に幅がある。 1980年代から1990年代にかけては、商業的・倫理的などの理由で「テレビアニメ」か「アニメ映画」のフォーマットを取れないアニメを頒布するには「OVA」という選択肢しか無かった。テレビでは見ることのできないアニメ、例えば『[[天使のたまご]]』(1985年)のような実験的アニメ、『[[くりいむレモン]]』(1984年)のような[[アダルトアニメ]]、また『小学生の誘拐防止 ユミちゃん あぶないよ!』(1991年)のような児童向け教育アニメ、宗教団体の布教用アニメなどと言ったものがOVAの形態で盛んにリリースされ、1980年代から1990年代にかけてOVA特有のカルチャーを形成した。 1980年代から1990年代前半頃までは映像の放送チャンネルが少なく、テレビアニメの放映可能本数が限られていたため、「OVAの形態でしかリリースできない」という消極的な理由でOVAとなった作品が多かったが、1990年代中頃には[[深夜アニメ]]の定着、[[日本における衛星放送|衛星放送]]の開始といったテレビの多チャンネル化によって、アニメを頒布するチャンネルが増加した。そのため、アニメのビデオをリリースする前に、ビデオ版の宣伝もかねてまず放送料金の安価なUHF局や深夜帯で放送する作品が増え、テレビアニメに対するOVAのオリジナル性は薄れた。一方で、『[[神秘の世界エルハザード]]』(1995年)のようにOVA版・テレビアニメ版・ゲーム版が若干異なる設定で同時展開するなど、テレビなどの他の映像メディアと連動して多展開する「メディアミックス」のメディアの一つとしてOVAが位置づけられる例も登場した。 2000年代以降は、物理メディアの販促も兼ねて第1話など作品の一部がテレビで先行放送されることも増えた。また、2010年代以降には[[ネット配信|ネット]]による[[動画配信サービス]]サービスの一般化に伴い、OVAの発売に先行して一部がネット配信が開始される場合も増え、初出が「ビデオ」ではないOVAが増えた。そのため、OVAの概念が曖昧になっているが、テレビ放送やネット配信が先行していても、OVAとして製作されたものはOVAとされる。 2010年代後半には動画配信サービスの普及に伴い、「OVA」が発売してしばらく後にネットの動画配信サービスでも配信されるのが普通となり、記録したメディアを買わなくても、ネットの[[ビデオ・オン・デマンド]]サービスでいつでも見られるようになった。そのため、OVAの概念がさらに曖昧になっている。[[定額制動画配信サービス]]などを提供する動画配信事業者においては、テレビアニメ、アニメ映画、OVA、といった初出メディアによる区別をせず、すべて「アニメ」として並列に提供していることも多い。あるいは、「テレビ番組」と「映画」とは別に「オリジナルビデオ」のカテゴリ分けしている場合でも、「書籍」の付録として発売されたOAD、ビデオスルー、配信サイトの自社制作アニメ、などといったものを全て「オリジナルビデオ」のアニメのカテゴリに入れている場合もある。 === 呼称 === 黎明期には「オリジナルビデオ」「ビデオアニメ」「アニメビデオ」「オリジナル・アニメーション・ビデオ」などと言った呼称が用いられた。しかし『[[月刊ニュータイプ]]』([[角川書店]])が1986年より「OVA」の呼称を積極的に使い始め、次第に一般化した。いわゆる「和製英語」であるが、海外でも「日本のアニメのオリジナルビデオ」という意味で使われる。 「オリジナル・ビデオ・アニメ」という呼称の初出は『ニュータイプ』誌以外の可能性もあるが、『ニュータイプ』誌における初出は創刊号(1985年3月発売)、「OVA」(読みは「オーブイエー」)という呼称の初出は1986年2月号「ビデオアニメ完全カタログ'86」である。同誌では1986年11月よりOVA評論コラム「秋姫のOVA放言録」が連載されており、「OVA」と書いて「オヴァ」と読むなどと小ネタを挟みつつも<ref>『月刊ニュータイプ』、1986年11月号、p.158、「秋姫のOVA放言録」</ref>、「OVA」という呼称の普及に一役買った。 「OVA」という用語は『ニュータイプ』が広めたものであったため一般化するまで他誌では使われなかった。1980年代当時は、[[学研ホールディングス|学習研究社]]の『[[アニメディア]]』および『[[アニメV]]』が提唱した「'''OAV'''」('''オリジナル・アニメーション・ビデオ'''の略称)という呼称も一般的であったが、「AV」が「[[アダルトビデオ]]」や「[[オーディオ・ビジュアル]]」の略称と間違われやすいため、次第に用いられなくなっていったが『アニメディア』は[[2014年]]時点でもまだ「OAV」の呼称を使っている。 「ビデオ」とは、1990年代にはVHSビデオテープのことを指すことが多かったため、2000年代にVHSの衰退によりDVD専売のOVAが登場すると、OVAは「オリジナル・ヴィジュアル・アニメーション」{{efn|{{Lang-en-short|original visual animation}}}}の略称ともされるようになった。『[[らき☆すた|らき☆すたOVA]]』(2008年)が「オリジナルなビジュアルとアニメーション」を称している。 == 歴史 == === 黎明期 === 1983年12月、世界初のオリジナルアニメのビデオソフトである『[[ダロス]]』が発売される。元々制作されなかったテレビアニメの作品の企画を、ビデオ向けにストーリーを再構築した上でビデオ販売を目的に製作されたものである。当時はビデオ市場の黎明期ということもあって、劇場版『[[宇宙戦艦ヤマト]]』(19,800円)など、1巻2万円近いアニメビデオが盛んにリリースされている中、『ダロス』は新作で1巻6,800円と買いやすい値段であったこともあり、全4巻で2万本を出荷するヒット作となった。 テレビアニメのようにスポンサーの資金に頼ることなく、ビデオの販売代金だけで製作費の回収が可能であることが判明すると、多くの発売・販売元が参入し、続々とオリジナルアニメのビデオが発売され始めた。OVAに限らず当時のビデオソフトはきわめて高価で、例えば『メガゾーン23』(1985年)は1巻13,800円、『[[幻夢戦記レダ]]』(1985年)は1巻12,000円であったが、それぞれ数万本を売り上げた。 1980年代中盤当時、ポスト[[超時空要塞マクロス|マクロス]]作品が不発に終わったことにより、高年齢層向けアニメが減少していた。そんな中、ビデオソフトとして展開されるオリジナル作品は、当時のテレビアニメが主な対象としていた少年層よりも年齢が高い、中高生以上のハイターゲット層向けアニメの発表の場として重要な位置を占めるようになった<ref>[https://note.com/found/n/neba42110b6bf?creator_urlname=found アニメブームを振り返る |アニメ評論家・藤津亮太 第1回|お金と社会のWEBメディア『FOUND』|note]</ref>。 このようなムーブメントにアニメ雑誌の『アニメディア』(学研)が注目し、1985年6月、オリジナルアニメを専門に取り扱う『アニメV』が創刊された。1985年3月に創刊されたばかりの角川書店の『[[月刊ニュータイプ]]』も、1986年2月号で「OVA(オリジナル・ビデオ・アニメ)」の特集を組んだ。 === 1980年代後期 === OVAがブームとなったことから、アニメを作ったことのないメーカーの新規参入が相次いだ。1987年当時の売れ筋ジャンルは、半裸の女性が主人公で宇宙を背景に「おーばり」メカが出てくるような男性向けSFヒロイックファンタジーで、これは製作陣も設定などを全部自分の頭の中で作ればよくて資料を集める手間がかからなくて楽なので<ref>『MINDYマガジン』みんだなお、1990年、ふゅーじょんプロダクト、p.90</ref>、たくさんリリースされた。アニメを作ったことのないメーカーでも、企画書と脚本と1350万円をもって当時のアニメ制作最大手である[[アニメインターナショナルカンパニー|AIC]]に行けば3か月で作ってくれ、作画さえよければ脚本や演出がムタムタでもアニメファンに許され、そのような作品でもアニメ雑誌に広告を出しておけば悪い評価は受けず、[[ムービック]]に頼んで[[アニメイト]]でイベントを組んだりしておけばそこそこ売れたとのことで、アニメ雑誌の『[[月刊OUT]]』の連載漫画「魔法少女アンイーちゃん」(1987年)ではその安易さが指摘された。この連載漫画では、劇場版『[[プロジェクトA子]]』(1986年、2作目以降はOVA)が安易すぎて、『[[天空の城ラピュタ]]』(1986年)を製作中の[[宮崎駿]]に「セーラー服が機関銃撃って、走り回ってる様なもの」と怒られた件にも触れられている、『月刊OUT』自身も『[[活劇少女探偵団]]』(1986年)でOVAに手を出してそんな安易な作品を作り、不振の一因となったとのこと。 『月刊OUT』の連載漫画で揶揄された「おーばり」こと[[大張正己]]によると、当時の一般的なOVAの作監料はテレビアニメとは桁違いに高かったが、当時高評価を受けたAICの『[[戦え!!イクサー1]]』(1985年)は、自社をアピールするために、あえて安い予算でも良いものを作ろうと考えていたらしく実際に安かったという。しかし、企画から製作まで3か月というのは「夢がある」、AICなら「才能だけで監督まで登れる」と考え、参加したとのこと<ref>『テープがヘッドに絡まる前に』113 - 114頁、「interview Talk about OVA 大張正己」</ref>。大張は実際、22歳にして『[[バブルガムクライシス]]』(1988年)の監督を務め、当時の最年少アニメ監督となった。 大張以外にも、『戦え!!イクサー1』『メガゾーン23』(1985年)の[[平野俊弘]]、『[[吸血姫美夕]]』(1988年)の[[垣野内成美]]、『[[冥王計画ゼオライマー (OVA)|冥王計画ゼオライマー]]』(1988年)の[[菊池通隆]]、と言った新進のアニメーターがOVAで頭角を現した。平野いわく、「テレビでできないことをやろうよ」<ref>『テープがヘッドに絡まる前に』71頁</ref>とのことで、ハイターゲット向けアニメは、基本的にテレビアニメよりもOVAとしてのリリースを主とするようになった。 OVAを盛り上げるイベントも盛んに開かれ、OVAがリリースされるたびに各地で試写会が行われた。特に1985年から1986年にかけて日本各地で行われた『幻夢戦記レダ』のイベントは、1985年末に大阪と東京で開催された『幻夢戦記レダ』&『[[吸血鬼ハンターD]]』試写会を中心として、『幻夢戦記レダ』のテーマソングを歌った新人アイドル歌手の[[秋本理央]]と、『吸血鬼ハンターD』のテーマソングを製作した無名時代の[[TMネットワーク]]を起用した大々的なプロモーションが行われた。ただし、イベントなどは東京・大阪など都会で開かれることが多く、地方格差が大きかった。アニメイトでは定期的にイベントが行われていたが、そもそも地方にはアニメイトがなかった。 === 1980年代末期〜1990年代 === OVAのリリースタイトル数は右肩上がりに増え、1983年には1タイトルのみだったものが、1989年には300タイトルを超えるまでになった。 初期のOVAは、ほとんどが劇場アニメのフォーマットを模したもので、収録時間は60分から90分程度の内容のものが多かったが、1980年代後半になると、OVAもテレビアニメのように30分×数本のシリーズものが増えた。またシリーズ物はキャラクター、背景、音楽などの流用ができて製作費が抑えられるので、OVAの低価格化が進んだ<ref>『テープがヘッドに絡まる前に』149頁</ref>。例えば『[[機動警察パトレイバー]]』(1988年-1989年)は、劇中に広告を入れたりメディアミックスの手法を取ることで、1巻4,800円の低価格を実現し、また『[[銀河英雄伝説]]』(1988年-1989年)は、テレビアニメの制作方法を模すことで、1巻2,500円の低価格を実現した<ref>『テープがヘッドに絡まる前に』132頁</ref>。 OVAという概念が確立した1986年当時は、原作付きOVAは「オリジナル」ではないとして、アニメファンには受け入れがたいものであったが<ref>『月刊ニュータイプ』1986年2月号、p12、角川書店</ref>、OVAのリリースタイトル数の増加に伴い、次第に「原作付き」が増えた。1989年にリリースされた300タイトル超のOVAのうち、約40タイトルが原作付きとなった。原作付きは巻を重ねるものが多く、発売タイトル数ではなく巻数でカウントすると、「ビデオオリジナルタイトル」の比率はかなり少なくなった。 === 2000年代 === [[2000年代]]に入ると、完全新作のタイトルは少なくなり、昔から展開されている[[シリーズ (作品)|シリーズ作品]]の続刊がほとんどとなったが、シリーズ展開を打ち切る作品が年を追うごとに増えていったため、OVAのリリース本数も売り上げも少なくなった。 それまでならOVAとして展開されていたはずのアニメシリーズは、深夜アニメを主としたテレビアニメとして放送されることの方が多くなり、特に[[UHFアニメ|独立局のテレビアニメ]]はほとんどが深夜帯で放送され、OVAはあくまで深夜アニメの[[続編]]やサブストーリーとして展開されるケースが多くみられるようになった。深夜アニメが放送されるのは[[三大都市圏]]を主とした主要[[都市圏]]の[[地上波]]局のみに限られることから、それらがテレビで視聴されることはあまり重視されておらず、[[視聴率]]も2%以上が高視聴率ラインとなっているように、平均的に低めである。[[玩具]]の販売促進を主とした子供向けアニメとは違い、深夜アニメは従来からのOVAの視聴層向けに、テレビ版にビデオオリジナルエピソードが追加された完全版[[ボックス・セット|DVD-BOX]]の購入や、単巻DVDの購入および[[レンタルビデオ|レンタル]]の促進を主とした[[宣伝]][[戦略]]を取っていたので、[[バンダイビジュアル]]や[[アニプレックス]]などといったビデオの販売元が必ずスポンサーについていた。 この時期のオリジナルOVAでも、『[[ファイナルファンタジーVII アドベントチルドレン]]』(2005年)のように、IPを所有する[[スクウェア・エニックス]]の自社製作作品となっているのを活かし、DVDショップだけでなくゲームショップにも[[流通]]したことで日本出荷枚数100万枚<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/games/articles/0601/16/news019.html 「ファイナルファンタジーVII アドベントチルドレン」出荷枚数が100万枚を突破] - ねとらぼ</ref>・海外140万枚<ref>[https://animeanime.jp/article/2006/06/20/931.html FFⅦアドベントチルドレン世界累計240万枚(6/20) ] アニメ!アニメ!</ref>の大ヒットとなった作品も存在する。 === 2010年代 === [[2010年代]]以降のOVAは、DVDやBDの売り上げ[[収入]]に加えて、[[ドコモ・アニメストア|dアニメストア]](2012年7月開始)、[[バンダイチャンネル]](2011年8月より月額見放題サービス開始)、[[Amazonプライム]]、[[ネットフリックス]]などといった[[定額制動画配信サービス]]での視聴を主としている。 == OVAの主なサブジャンル == === 子供向けアニメ === 名作[[童話]]をアニメ化した「子供向けOVA」が1980年代後半よりリリースされている。中でも、[[1988年]]より[[ウォーカーズカンパニー]]がリリースした『[[ビデオ絵本 (ウォーカーズカンパニー)|ビデオ絵本シリーズ]]』は、980円という発売年当時としては異例の廉価展開が功を奏し、通巻180万本を売り上げたという<ref>『テープがヘッドに絡まる前に』76頁</ref>。 有名キャラクターを使ったものもあり、『[[スーパーマリオブラザーズ]]』のキャラクターを使って名作[[童話]]をアニメ化した「アマダアニメシリーズ」の『スーパーマリオブラザーズ』(1988年)は、[[任天堂]]の公式ライセンス作品として当時の[[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]]公式声優であった[[古谷徹]]を起用するなど、声優陣こそ豪華であり、1,480円という低[[価格]]での提供となっている。当該作に限らず、他の外部版権もの子供向けOVAにも当てはまり、低価格での提供となっている分低[[予算]]による製作費の代償として総製作費からライセンス料が引かれている分、絵はほとんど動かず、尺が短いわりに使いまわしのシーンや無理矢理かつ露骨に尺を引き延ばしたシーンがやたらと多い。 DVDが普及する2002年ごろまでは、OVAはVHSとLDの両方で発売されるのが一般的だったが、[[子供向けアニメ|子供向けのOVA]]はLDでの発売はほとんどなく、VHSのみでの展開で、かつハイターゲット向けよりも低価格での販売が主体であった。低予算であるため、声優陣も少ない上に[[端役]]の担当が主の[[無名]]声優を積極的に起用する傾向にある。 なお、[[サンリオ]]も[[1989年]]から展開を開始した[[サンリオキャラクター]]を起用した子供向けOVAの製作に積極的であり、[[ハローキティ]]などのサンリオキャラクターそのものを主題としたものや、世界名作童話の登場人物をサンリオキャラクター化した世界戦略OVAが展開されている。尺が短いことは他の低価格子供向けOVAと変わりがないが、自社でビデオグラム部門{{efn|発売・販売とも。ビデオグラム普及初期の1980年代前期に参入し、元々自社で製作した『[[キタキツネ物語]]』や『[[ユニコ]]』などの非サンリオキャラクター系映画を売り込むために参入していた。[[原作]]者の[[やなせたかし]]とサンリオ[[創業者]]の[[辻信太郎]]との旧知の仲が縁で副[[版元]]([[知的財産権]]保有企業で主版元の[[フレーベル館]]は[[原作]]となる[[絵本]]などの[[乳幼児|幼年層]]向け書籍が主のため、[[漫画]][[単行本]]などの非幼年層向け書籍が中心)である『[[アンパンマン]]』シリーズでも、『[[それいけ!アンパンマン]]』(販売元は[[バップ]])以前におけるアニメ作品の16ミリフィルム以外におけるメディア版の販売元でもあった。一時期業績不振で事業撤退まで考えたことがあったが、サンリオキャラクターの世界的な人気の高まりと子供向けOVAの人気に乗じてサンリオキャラクター系子供向けアニメを軸にした展開に変更したことで業績が回復し、現在のような形となった。それ以前におけるサンリオキャラクター系作品は『[[夢の星のボタンノーズ]]』(1985年 - 1986年)といったテレビアニメや、自社製作子供向け映画作品における併映作品など、少数派であった。}}を有していることで、自社[[版権]]キャラクターを起用していることによって[[著作権]]料がかからないことを活かして著作権料にあたる部分もアニメ制作に回せることによって、子供向け[[テレビアニメ]]と同じ制作手法が用いられていつつ低価格帯での提供が可能となっている。 === 教育アニメ === 教育アニメは、教育用のアニメである。[[小学校]]などの[[教育機関]]や[[地方公共団体|自治体向け]]を主として頒布された。啓発アニメ、防犯アニメ、交通安全アニメ、などのサブジャンルがある([[安全教育アニメ]]も参照)。 [[教育映画|教育映像]]はかなり市場が大きく、東映教育映像部や学研文教事業部など、大手映像会社には教育映像を製造する専門の部署が存在し、教育アニメもたくさん作られた。1980年代以前の教育機関には視聴覚教材として16mm映写機が普及していたため、小学校などの教育機関向けに[[16mmフィルム]]の形態で販売されるのが一般的だったが、ビデオ機が普及した1980年代以降はVHSの形態で、[[DVDプレーヤー]]が低価格化した2003年頃からDVDの形態で販売されるものも登場した。上映会などで使われる「[[業務用]]ビデオ」としての販売が主で、[[図書館]]などの[[公的機関]]に所蔵されており閲覧は容易だが、一般市場にはあまり出回らず、入手が非常に難しいものがほとんどである。 メーカーが制作した教育アニメは、教育用品ルートでの販路のみとなっているが故に尺が短いわりに非常に高価なのが特徴である。『ちびまる子ちゃんの交通安全』(1997年)のように有名な子供向けアニメを題材とした「[[版権]]もの」や、防災教育アニメ『[[稲むらの火]]』(1989年)のように[[児童文学]]を題材とした「原作付き」がほとんどで、完全なオリジナル・アニメは『空飛ぶうさぎの誘拐防止 ぼく、いやだよ!』(1990年)や『小学生の誘拐防止 ユミちゃん あぶないよ!』(1991年)など少ししかない。 [[政府]]・[[警察]]などの[[行政機関]]や[[東京都]]などの自治体が制作した教育アニメは、無料で頒布されるものもある。2000年代以降はビデオの形態で頒布されると同時に無料でインターネット公開されているものも多い。[[日本国政府]]が制作した[[北朝鮮による日本人拉致問題]]啓発アニメ『[[めぐみ_(漫画)|めぐみ]]』(2008年)は、ビデオグラムのDVD版が教育機関などに広範囲に頒布されると同時に、ネットで無料公開され、2011年にはレンタルDVD版もリリースされた。 === アダルトアニメ === 世界初のOVA『ダロス』に続き、世界で2本目のOVA『[[ロリータアニメ|ロリータアニメ 雪の紅化粧 少女薔薇刑]]』が1984年2月にリリースされた。これが世界初のアダルトOVAであるが、画風が[[エロ劇画]]であったため、アニメファンからは注目されなかった。しかし、1984年7月にリリースされたシリーズ第3弾『ロリータアニメIII 仔猫ちゃんのいる店』で、画風を当時のアニメ美少女に変更、アニメファンに注目される。そして、1984年8月にリリースされた『[[くりいむレモン]]』シリーズ第1作『媚・妹・Baby』が爆発的なヒットとなり、アダルトOVAがジャンルとして確立する。「くりいむレモン」シリーズだけで30本以上リリースされた。 アダルトアニメは18歳以上のみを対象とした成人指定であるため、アニメファンであっても[[未成年者]]は見られないことから、成人指定の『くりいむレモン』から性行シーンなどを大幅にカットして一般向けにした『くりいむレモン ジュニア』(1988年)など「ソフトアダルトOVA」も登場した。 アダルトOVAは、OVA黎明期には一般向けをしのぐ大量の本数がリリースされたが、1980年代中頃にはOVA全体の隆盛に押される形となり、1986年にはリリース本数が8本となり衰退する。 しかし1980年代後半にはアダルトOVAが盛り返す。特に『[[超神伝説うろつき童子]]』(1989年)は大ヒットとなり、海外へも輸出され、海外でも大きな人気を得て日本のアダルトアニメは「[[ヘンタイ|HENTAI]]」として知られるようになった。この頃のアダルトOVAは、最初から海外向け輸出を念頭に製作しており、日本版では製作陣がわざと[[モザイク処理|モザイクをかけている]]ものの、実は男女の[[性器]]ごとしっかりと描かれていた<ref>『テープがヘッドに絡まる前に』158頁</ref>。 === 宗教アニメ === 1980年代後半より、[[宗教団体]]も[[布教]]の為にビデオ産業に進出したが、その一環としてアニメも制作するようになった。 [[浄土真宗本願寺派]]が制作した『仏典物語』(1986年)は、[[ガイナックス]]や[[アニメインターナショナルカンパニー|AIC]]など豪華な製作陣で知られる。 新宗教の制作したアニメとしては、[[創価学会]]名誉会長である[[池田大作]]の[[絵本]]を原作とした『ほしのゆうえんち』{{efn|VHS版は[[学研ホールディングス|学研ビデオ]]、DVD版は[[シナノ企画]]が販売。原作の絵本も[[Gakken|学研]]から[[絶版]]を経て[[聖教新聞社]]で[[復刊|引き継いだもの]]が既刊となっている。}}(1989年)、『[[人間革命#アニメ|アニメ人間革命]]』(1995年 - 2003年){{efn|聖教新聞社が[[版元]]の池田大作における[[小説]]作品を基にした[[メディアミックス]][[シリーズ (作品)|作品のシリーズ]]。このメディアミックスは創価学会系列の企業のみで手がけており、[[人間革命#映画|実写映画シリーズ]]と同じシナノ企画がVHS・DVD共々販売を担当した。}}、[[コスモメイト]]の代表である[[深見青山]]が原作・声優・主題歌を担当した『アニメ神頼み入門』(1989年)、などがある。 [[幸福の科学]]系列で、日本最大規模の宗教団体系[[出版社]]である[[幸福の科学出版]]が1991年に初めて製作した映像作品が、子供向けOVA『[[しあわせってなあに]]』シリーズ{{efn|[[京都アニメーション]]制作。全3巻の単巻売りのVHS版で、販売元は学研ビデオであった。}}である。同名の絵本作品のアニメ化であり、布教用ではなく教団内の子供向けOVAであった。1997年から劇場用アニメが3年ごとに公開される「幸福の科学アニメ」の標準的なフォーマットはこの作品の時点で確立された。 [[オウム真理教]]が[[オウム真理教のアニメ|製作した作品]]も存在する。一般的な布教アニメは「教団が制作した」といっても教団および関連会社がテレビアニメでいう[[広告代理店]]に準じた扱いで、実際にアニメを作っているのは既存の[[アニメ制作会社]]による外注で、[[声優]]を本職とする方が声を担当することが一般的なのだが、「オウムアニメ」は実際に教団内部の人間が自ら作っていた点、主要製作者である[[麻原彰晃]]が本人役で自ら声優として出演していたように教団所属者のみを声優陣として固めたのが特異である。「オウムアニメ」は1991年よりリリースされたが、一般に知られるのは[[オウム真理教事件|テロ事件]]が明るみになった1995年以降に[[テレビ番組]]で素材が堂々と使われて以降となる。ガイナックス元社長の[[岡田斗司夫]]が1997年に制作者にインタビューを行い、製作の詳しい事情が明らかになっている。 === ヤンキーアニメ === [[不良行為少年|不良少年]]を主題とした[[少年漫画|少年]]・[[青年漫画]]作品である[[ヤンキー漫画]]のアニメ化はテレビではなくOVAとして展開されるのが殆どであり、レンタル市場で特徴的なジャンルである<ref>『テープがヘッドに絡まる前に』63頁</ref>。前述の『湘南爆走族』(1986年)がスマッシュヒットとなったのをきっかけに、レンタルビデオ向けに続々とヤンキーOVAがリリースされ、その多くが[[シリーズ (作品)|シリーズ化]]された。 1983年から連載が開始されたヤンキー漫画の看板作品である『[[ビー・バップ・ハイスクール]]』もヤンキーOVAのブームに[[便乗商法|便乗]]し、[[実写]]や[[コンピュータゲーム|ゲーム作品]]といった他メディアミックス作品よりも遅れた頃の1990年から全作品の映像化権を[[独占]]していた[[東映]]グループの東映動画→[[東映アニメーション]]による制作で、「東映Vアニメ」([[東映ビデオ]])の[[ブランド|レーベル]]でOVA化された。 === 出版ビデオ === 出版社が制作に関与したOVAが出版ビデオである。OVAの発展期である1985年、出版社13社によって「出版ビデオ懇談会」が結成されて以降、出版社による原作付きOVAの積極的展開が行われた。OVAなら旬を過ぎた原作や、マニアックな原作もアニメ化でき、例えば[[集英社]]は「ジャンプVIDEO」レーベルで、2巻打ち切りながら熱狂的ファンが付いた『[[バオー来訪者]]』(1989年)のOVAを製作(販売:東宝)するなどした。 映像ソフト販売会社によってビデオショップなどを通じて販売されたものとは別の流れとして、出版社によって雑誌を通じて通信販売されたものがあり、[[秋田書店]]「[[月刊プリンセス]]」の紙上通販でのみ販売された『[[ぴーひょろ一家]]』(1988年)が出版ビデオの通信販売の最初の例である。 「OVAの紙上通販」は、[[小学館]]の児童・少年向け[[雑誌]]では「応募者全員サービス」として2010年代まで積極的に展開された。『[[週刊少年サンデー]]』の応募者全員サービスとして販売された[[名探偵コナンのOVA一覧|『名探偵コナン』のOVA]]は第1作『名探偵コナン コナンvsキッドvsヤイバ 宝刀争奪大決戦!』(2000年)から『『名探偵コナン えくすかりばあの奇跡』』(2012年)まで、ほぼ毎年販売されていた。『名探偵コナン コナンとキッドとクリスタル・マザー』(2004年)まではVHS、『名探偵コナン 消えたダイヤを追え! コナン・平次vsキッド!』(2006年)以降はDVDである。 小学館学年誌連合企画の応募者全員サービスとして1999年に販売された「とっとこハム太郎OVA」(『[[とっとこハム太郎 (アニメ)#とっとこハム太郎 アニメでちゅ!|とっとこハム太郎 アニメでちゅ!]]』)([[1999年]])は、もともとテレビアニメ版の[[パイロット版]]として、開始前年に製作されたものをOVAに転用したもので設定も異なる。 == 周辺ジャンル == OVAの発展はビデオ機の普及とも関係しており、1980年には2%だったビデオ機の家庭普及率は、1989年には70%に達するまでになったがそれを補完する物もあった。 === 書籍 === アニメ映画やテレビアニメ同様に「[[フィルムコミック]]」が発売された。 === ビデオマガジン === 1980年代当時、OVAは高価なため、安価でいろいろなOVAの映像を収録した「ビデオマガジン」が販売された。ビクターの「アニメビジョン」、バンダイの「電影帝国」などがある。 特に、LDの対抗メディアであった[[VHD]]を展開するビクターが、VHDの販促の為に販売した「アニメビジョン」は積極的で、独自に制作したOVAも収録していた。 === ビデオスルー === 劇場版『[[ニルスのふしぎな旅]]』(製作は1982年、ビデオ版は1985年)のような劇場公開を前提として製作されていたが公開中止されたもの、『[[セントエルモ 光の来訪者]]』(製作は1986年、ビデオ版は1987年)のような企業のPR用アニメ、『[[ルパン三世 パイロットフィルム]]』(製作は1969年、ビデオ版は1989年)のようなテレビアニメのパイロット版など、もともと別の用途で製作されたアニメが、何らかの理由で「ビデオ」の形態で最初にリリースされることになったものを[[ビデオスルー]]と呼ぶ。最初からビデオ向けに制作されたOVAとは区別されることが多いが、「OVA」として販売される場合もあり、その区別は曖昧である。 ビデオ版の発売後にテレビ放送が予定されている作品もあり、その場合は「ビデオ先行作品」とも呼ばれる。『どうぶつ80日間世界一周』(スペインで1984年放送。日本のビデオ版は1985年、日本のテレビ版は『[[アニメ80日間世界一周]]』として1987年)や『[[宇宙伝説ユリシーズ31]]』(1981年にフランスで放送、日本のビデオ版は1986年、日本のテレビ版は1991年)のように、海外のテレビ放送向けに日本のメーカーが制作したものが多い。 1980年代当時、海外アニメは日本で人気が無かったため、日本ではほとんどがテレビ放送されず、ビデオスルーとなった。「ビデオ先行作品」のはずであった『[[マイティ・オーボッツ]]』(アメリカで1984年放送、日本のビデオ版は1985年)は日本のテレビでは放送されなかった。『[[トランスフォーマー ザ・ムービー]]』(1986年)のように、海外では劇場公開され高い評価を得たものも存在し、当時の他のOVAと比較しても遜色ないクオリティの作品も少なくない。 ネット配信が普及した2010年代以降のアニメは、ほぼすべてネット配信されることを前提として製作されており、特に「ビデオ先行作品」と明記されていなくても、OVA版が発売してしばらく後にネット配信されるのが普通である。 === テレビ編集版 === テレビ放送されたアニメのシリーズを編集して、1巻のビデオアニメに仕立てたもの。ビデオスルーの一種とされる。既存の映像を再利用した、単なるテレビアニメの総集編ではなく、総集編のつなぎとして新作のカットが追加されていることもあった<ref>『テープがヘッドに絡まる前に』128頁</ref>。 『うる星やつら 了子の9月のお茶会』(『[[うる星やつら]]』のファンイベント向けに1985年に制作。ビデオ版も同年)のように、テレビアニメ版の素材を再編集して新たなストーリーを構築し、1本のビデオグラムに仕立てた作品もある。 『[[とんがり帽子のメモル|とんがり帽子のメモル マリエルの宝石箱]]』(1985年)に新作短編『土田勇のマイメモル 光と風の詩』が付属したように、新規に製作されたアニメがおまけで付いてくることもあり、「新作付きテレビ編集版」と呼ばれる。 なお、OVAをテレビ放送用に編集したものも「テレビ編集版」と呼ばれる。『[[同級生2]] テレビ編集版』(1998年)は、『同級生2 OVA版』(1996年)を地上波で放送するために再編集したもので、もともとアダルトアニメであったOVA版の性行シーンなどがすべてカットされている。 === テレビアニメ・アニメ映画のビデオ === OVA全盛期には、ハイターゲット向けに作られたテレビアニメやアニメ映画のビデオソフトも売れ行きが良く、例えばアニメ映画『[[天空の城ラピュタ]]』(1986年公開、配給収入5.8億円)は、1988年に12020円で発売されたVHS版が8万本売れるなど、ハイターゲット向けの[[アニメーション映画]]も、作品の[[興行収入|配給収入]]よりもビデオグラム版の売上の方が上となる作品がほとんどであった。[[全日]]帯のハイターゲット向け[[テレビアニメ]]でも、1991年に[[日本テレビ系列]]で放送された『[[新世紀GPXサイバーフォーミュラ]]』や、1995年 - 1996年に[[TXNネットワーク|テレビ東京系列]]で放送された『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』などは、[[視聴率]]が低かったようにテレビ放送だけでは話題にならなかったが、レンタルやセル(VHS・LDとも)のビデオ版で人気に火が付いたのを機に[[メディアミックス]]へと発展し、後に展開される深夜アニメにおける[[ビジネスモデル]]の源流となった。これらはOVAとともに「VHSカルチャー」を形作った。 === 雑誌の付録 === VHSテープが廃れてDVD時代となった2000年代中盤以降、雑誌の付録DVDにOVAを収録させる事例も見られるようになった。「[[まんがくらぶオリジナル]]」2008年10月号に『[[がんばれ!メメ子ちゃん]]』のアニメDVDが付属した例などがある。 === アニメだいすき! === [[地上波]]におけるOVAの代表的な放送枠として[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]が[[関西ローカル]]で放送した「[[アニメだいすき!]]」(1987年~1995年)がある。当時同社のアニメ部門に所属していた[[プロデューサー]]である[[諏訪道彦]]の[[企画]]で[[学校]]の長期休暇期間の[[深夜番組|深夜枠]]を中心に人気の高いOVAの単発長編作品を主に編成された。 == 派生用語 == 1980年代から2000年代にかけて、「ビデオ」というと主にビデオテープ(テープメディア)特にVHSを意味したため、それ以外のメディアのみで発売された作品は「OVA」以外の呼び名で呼ばれることもあった。 === オリジナル・レーザー・アニメーション(OLA) === ポニーキャニオンが1991年にリリースした『[[炎の転校生#OVA版|炎の転校生]]』は、[[レーザーディスク]](LD)のみでリリースされた作品であったため、「'''OLA'''」「'''オリジナル・レーザー・アニメーション'''」を称していた。LD専売とすることによる話題性を狙ったものだが、LDプレーヤーの普及率が低いこともあって商業的に成功せず、翌1992年にはVHS版も発売された。結局、『炎の転校生』がOVA史上唯一のOLAとなった。 === オリジナルDVDアニメーション === [[2000年代]]に入ると、DVD再生機能を持つ[[PlayStation 2]]の普及などにより、VHSに代わってDVDがアニメ映像記録用メディアの主流となり始めた。DVDの普及が始まってもしばらくはOVAのVHS版とDVD版が併売されていたが、2003年ごろよりVHS版が発売されないOVAが登場し、『[[いちご100%25#OVA|オリジナルDVDアニメ いちご100%]]』(2005年)のように「'''オリジナルDVDアニメーション'''」「'''オリジナルDVDアニメ'''」を称するアニメビデオも登場した。 しかし、2000年代後半には[[ブルーレイディスク]]や[[HD DVD]]などの次世代DVD規格の普及が始まり、2007年6月には[[バンダイビジュアル]]がOVA『[[FREEDOM-PROJECT|FREEDOM]]』1巻のHD DVD版を発売{{efn|2007年当時はブルーレイ規格とHD DVD規格が拮抗しており、バンダイビジュアルにおける次世代DVDの展開は、ブルーレイよりHD DVDの方が早かった}}。旧作OVAが次々と次世代DVDで発売され始め、また2009年には『[[ハヤテのごとく! (アニメ)|ハヤテのごとく!! アツがナツいぜ 水着編!]]』などDVD版とブルーレイ版が同時に発売されるOVAも登場し、オリジナルアニメはDVDだけで発売されるものではなくなったため、「オリジナルDVDアニメーション」という表現は使われなくなった。 === OAD === 「単行本のDVD付き限定版」に付属されるオリジナルアニメのこと。講談社の用語で、「'''オリジナルアニメーションDVD'''」{{efn|{{Lang-en-short|original animation DVD}}}}の略である<ref>[http://gentei.kodansha.co.jp/content/tsubaholi/rou/tsubasa/item.html 『ツバサ』商品紹介] 「ツバサ」「×××HOLiC」オリジナルアニメーション公式サイト</ref>。「オリジナル・アニメーション・ディスク」{{efn|{{Lang-en-short|original animation disk}}}}の略とするメディアもあるが、少なくとも講談社ではそのような使用例はなく、また単行本にブルーレイなどDVD以外のディスクメディアを付属させた例もない。 2007年より[[講談社]]が行った「単行本のシリーズ最新刊と新作オリジナルニアニメのDVDを合わせて発売する」という企画に由来する<ref>[https://animeanime.jp/article/2007/06/14/1911.html CLAMP×I.G×講談社 「ツバサ」新作OVAアニメ製作発表(6/14)] アニメ!アニメ!</ref>。講談社によるオリジナルアニメDVDが封入された最初の製品である、『[[ツバサ-RESERVoir CHRoNiCLE-|ツバサ]]』 21巻(2007年11月)/22巻(2007年1月)/23巻(2008年3月)が好評だったことから、『スクールランブル』21巻(2008年7月)/22巻(2008年9月)、『魔法先生ネギま!』23巻(2008年8月)でもDVDが封入されるなど、「講談社OADシリーズ」としてシリーズ化した<ref>[https://animeanime.jp/article/2009/03/15/4377.html OAD『ツバサ 春雷記』前編いよいよリリース アフレコ コメントも] アニメ!アニメ!</ref>。大手出版社がアニメDVD流通に進出するという、当時としては先駆的な例であった。これに集英社が2009年発売の「『[[To LOVEる]] -とらぶる-』13巻 アニメDVD付予約限定版」で追随するなど、以後他社でも「単行本のオリジナルアニメDVD付き限定版」を発売することが一般的となった。なお単行本の付録にオリジナルアニメDVDをつける企画は、各出版社で2007年頃より盛んになり始めており、2007年9月に『[[こどものじかん]]』4巻特別限定版を発売した[[双葉社]]の方が講談社より先行している。 OVAとの違いは、単行本とアニメDVDをセットで発売することで「書籍扱い」になるという点である。したがって、映像コンテンツ会社ではなく出版社が販売元となり、またDVD販売店ではなく書店で販売され<!--再販制度の拘束を受け https://times.abema.tv/articles/-/10017080 DVD同梱書籍は再販制度対象外の買切りのマルチメディア商品が殆ど-->、レンタルもない。「書籍扱いアニメDVD/BD」に関しては、DVD/BDが本体でおまけのブックレットが付属したような商品もあるが、OADに関してはあくまで単行本が本体で、アニメの[[原作]]となる[[漫画]]や[[ライトノベル]]の[[単行本]]の限定版としてOADを収録したDVD/BDを付属させるケースが多く、単行本単体の通常版よりも高価格で販売されている。予約生産のものが多く、この場合、販売側には発売前に予約を受注するために生産数を把握しやすい利点があるが、初回限定生産の事例が多いため、発売時に買い逃すと入手困難になることも多い。 「OAD」という用語の初出は上記の『スクールランブル』21巻/22巻に封入された『スクールランブル 三学期』(2008年7月)である<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20080521-a027/ 『スクールランブル』のコミックス第21、22巻は特典としてアニメDVDが付属 | マイナビニュース]</ref>。『ツバサ』は21巻限定版(2007年11月)の時点では「オリジナルDVDアニメーション」と称していたが、『ツバサ』26巻限定版付属の『ツバサ 春雷記』(2009年3月)の時点では「OAD(オリジナルアニメーションDVD)」と称するようになった。 もともとは[[講談社]]の用語だったが、2009年以降は出版社を問わず単行本付録のアニメDVD/BDの名称として一般化しつつある<ref>{{Cite news|url= https://natalie.mu/comic/news/18232 |title= 「藤田和日郎魂」付録にOAD「からくりの君」決定 |newspaper= コミックナタリー |publisher= ナターシャ |date= 2009-07-01 |accessdate= 2020-08-07 }}</ref><ref>{{Cite news|url= https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1273560070 |title= アニメ化決定の『今日、恋をはじめます』よりキャストインタビュー! |newspaper= アニメイトTV |publisher= |date= 2010-05-11 |accessdate= 2020-08-07 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20100514025612/http://www.animate.tv/news/details.php?id=1273560070 |archivedate= 2010-05-14 }}</ref>。ただし、2018年時点でも「アニメDVD」「OVA付き特別版」と称する小学館のように、講談社が生み出した用語であるOADを用いない出版社もある。 リリース当時は単行本の限定版にのみ収録であっても、後にディスクパッケージとして単体で発売されることもある。また、テレビで放送されたり、ネットで配信されたりすることもある。逆のパターンとしては、『[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]』のスペシャルアニメ『[[名探偵コナン 江戸川コナン失踪事件 〜史上最悪の2日間〜]]』(2014年)のように、本作のアニメDVDが付属した単行本第86巻限定版に先行して『[[金曜ロードショー]]』枠での放送が行われるなど、収録される単行本の発売に先駆ける形で[[地上波]]の[[ネットワーク (放送)|全国放送]]が行なわれる例も存在する。なお同作は2015年に単体のDVD版/ブルーレイ版も発売された。 放送事業者や配信事業者では初出が[[ビデオグラム]]の単独販売作品だった作品を「OVA」とするが[[原作]][[単行本]]の限定版付録作品だった作品を「OAD」と区別するとは限らず、『[[からかい上手の高木さん (アニメ)|からかい上手の高木さん]]』第9巻 OVA付き特別版(2018年)に付属のオリジナルアニメは大手アニメ配信サイトの[[バンダイチャンネル]]ではテレビアニメシリーズ第1期全12話に続く「13話(特別編)」として配信されているように必ずしも認知度のある用語ではない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|アニメ}} * [[日本のOVA作品一覧]] * [[アニメの話数一覧]] * [[アニメ関係者一覧]] {{DEFAULTSORT:おおふいえい}} [[Category:OVA|*]] [[Category:和製英語|O]]
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アントニー・ホーア
チャールズ・アントニー・リチャード・ホーア(Charles Antony Richard Hoare、1934年1月11日 - )は、イギリスの計算機科学者。通称はトニー・ホーア(Tony Hoare)またはC・A・R・ホーア。 クイックソート(一般的な場合には最も性能の良い実装ができるとされるソートアルゴリズム)の考案でも知られるが、専門的な業績としては、ホーア論理や、並行プロセスを形式記述するCommunicating Sequential Processes(CSP)などがある。CSPはプログラミング言語Occamに示唆を与えた。 イギリス領セイロンのコロンボにてイギリス人の両親の元に生まれた。1956年にオックスフォード大学にて西洋古典学の学士号を取得。 その後オックスフォード大に1年残って大学院相当の統計学を学ぶ。1956年から1958年までイギリス海軍で兵役に就く。そしてソビエト連邦のモスクワ大学にてロシア語を学ぶと同時に、自然言語の機械翻訳について研究を始める。 1960年、エリオット・ブラザーズ社という小さなコンピュータ製造会社にて仕事を始め、ここで ALGOL 60 を実装、各種アルゴリズムの開発に本格的に着手する。1968年にはクィーンズ大学ベルファスト校で計算機科学の教授となり、1977年にはオックスフォードに戻ってコンピューティングの教授となり、クリストファー・ストレイチーの死に伴ってオックスフォード大学コンピューティング研究所(現在の計算機科学科)プログラミング研究部門を指揮するようになった。現在彼は同大学の名誉教授であり、イギリスケンブリッジのマイクロソフト リサーチの主任研究者でもある。 主な研究業績としては、ソートアルゴリズム(クイックソート)、ホーア論理、並行プロセスの相互作用などを形式的に記述し、検証などを行える形式体系(formal system)であるCommunicating Sequential Processes(CSP)、モニタの概念を使った構造化オペレーティングシステム、プログラミング言語の公理的意味論などがある。 有名な「97%ぐらいの場合、小さな効率については考えるべきではない。早まった最適化は諸悪の根源だ。」という引用句はドナルド・クヌースのものであると考えられる 。クヌース自身はホーアの言葉だと述べているが、ホーア自身はそれを否定している。 また、複雑すぎないソフトウェアシステムを作成する困難さについて次のように述べている。 1995年には独自の考え方を考察している。 2009年のカンファレンスでNull参照を発明したことについて謝罪している。
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チャールズ・アントニー・リチャード・ホーアは、イギリスの計算機科学者。通称はトニー・ホーアまたはC・A・R・ホーア。 クイックソート(一般的な場合には最も性能の良い実装ができるとされるソートアルゴリズム)の考案でも知られるが、専門的な業績としては、ホーア論理や、並行プロセスを形式記述するCommunicating Sequential Processes(CSP)などがある。CSPはプログラミング言語Occamに示唆を与えた。
{{Infobox Scientist | name = チャールズ・アントニー・リチャード・ホーア | image = Sir Tony Hoare IMG 5125.jpg | image_size = | caption = [[スイス連邦工科大学ローザンヌ校|EPFL]]でのカンファレンスにて(2011年6月20日) | birth_date = {{生年月日と年齢|1934|1|11}} | birth_place = {{flagcountry2|Ceylon|colonial}} [[コロンボ]] | field = [[計算機科学]] | work_institution = [[エリオット・ブラザーズ]]<br />[[クイーンズ大学ベルファスト]]<br />[[オックスフォード大学]]<br />[[モスクワ大学]]<br />[[マイクロソフトリサーチ]] | alma_mater = [[オックスフォード大学]]<br />[[モスクワ大学]] | known_for = [[クイックソート]]<br />[[ホーア論理]]<br />[[Communicating Sequential Processes|CSP]] | prizes = [[チューリング賞]] (1980)<br />[[フォン・ノイマンメダル]](2011)<br>[[ロイヤル・メダル]](2023) | residence = {{GBR}} [[ケンブリッジ]] }} '''チャールズ・アントニー・リチャード・ホーア'''(Charles Antony Richard Hoare、[[1934年]][[1月11日]] - )<ref>{{Cite news| url = http://www.timesonline.co.uk/tol/life_and_style/court_and_social/article5484753.ece | accessdate = 2010-01-09 | location=London | work=[[タイムズ|The Times]] | title=Birthdays Jan 10 | date=10 January 2009}}</ref>は、[[イギリス]]の[[計算機科学|計算機科学者]]。通称は'''トニー・ホーア'''(Tony Hoare)または'''C・A・R・ホーア'''。 [[クイックソート]](一般的な場合には最も性能の良い実装ができるとされるソートアルゴリズム)の考案でも知られるが、専門的な業績としては、[[ホーア論理]]や、[[並行プロセス]]を形式記述する[[Communicating Sequential Processes]]('''CSP''')などがある。CSP<ref group="※">厳密にはCSPには2種類あり、こんにちこの専門分野で一般に言われているCSPは、TCSP(Theoretical CSP)などとも言われる、1985年の書籍で形式的な理論が展開されたものを指す。[[Occam]]への影響は、そちらが全てではなく、1978年にACMの学会誌CACMに掲載されたもの(Communications of the ACM 21(8), pp.666-677 (Aug.1978)、タイトルは書籍と同じ「 Communicating Sequential Processes」)からの影響もある。</ref>は[[プログラミング言語]][[Occam]]に示唆を与えた。 == 経歴 == [[イギリス領セイロン]]の[[コロンボ]]にて[[イギリス]]人の両親の元に生まれた。[[1956年]]に[[オックスフォード大学]]にて[[西洋古典学]]の学士号を取得。 その後オックスフォード大に1年残って大学院相当の統計学を学ぶ。1956年から1958年まで[[イギリス海軍]]で兵役に就く。そして[[ソビエト連邦]]の[[モスクワ大学]]にて[[ロシア語]]を学ぶと同時に、自然言語の[[機械翻訳]]について研究を始める。 [[1960年]]、[[エリオット・ブラザーズ]]社という小さなコンピュータ製造会社にて仕事を始め、ここで [[ALGOL|ALGOL 60]] を実装、各種アルゴリズムの開発に本格的に着手する<ref name="Hoare81">{{Cite journal|author=C.A.R. Hoare|year = 1981| month = February|title = The emperor's old clothes|journal = Communications of the ACM|volume=24|issue=2|pages=5–83|doi = 10.1145/358549.358561|id = {{ISSN|0001-0782}}|url= http://portal.acm.org/citation.cfm?id=358561|format=PDF}}</ref>。[[1968年]]には[[クイーンズ大学ベルファスト|クィーンズ大学ベルファスト校]]で[[計算機科学]]の教授となり、[[1977年]]にはオックスフォードに戻ってコンピューティングの教授となり、[[クリストファー・ストレイチー]]の死に伴ってオックスフォード大学コンピューティング研究所(現在の計算機科学科)プログラミング研究部門を指揮するようになった。現在彼は同大学の[[名誉教授]]であり、イギリス[[ケンブリッジ]]の[[マイクロソフト|マイクロソフト リサーチ]]の主任研究者でもある。 主な研究業績としては、ソートアルゴリズム([[クイックソート]])、[[ホーア論理]]、[[並行プロセス]]の相互作用などを形式的に記述し、検証などを行える形式体系(formal system)である[[Communicating Sequential Processes]](CSP)、[[モニタ (同期)|モニタ]]の概念を使った構造化[[オペレーティングシステム]]、[[プログラミング言語]]の[[公理的意味論]]などがある<ref name="ACM_Turing_Award_lecture"/><ref>[http://awards.acm.org/citation.cfm?id=4622167&srt=year&year=1980&aw=140&ao=AMTURING ACM Turing Award citation].</ref>。 == 語録 == {{Wikiquotelang|en|C. A. R. Hoare}} 有名な「97%ぐらいの場合、小さな効率については考えるべきではない。早まった[[最適化 (情報工学)|最適化]]は諸悪の根源だ。」という引用句は[[ドナルド・クヌース]]のものであると考えられる<ref>[[ドナルド・クヌース|Knuth, Donald]]: [http://pplab.snu.ac.kr/courses/adv_pl05/papers/p261-knuth.pdf Structured Programming with Goto Statements]. ''Computing Surveys'' '''6''':4 (1974), 261–301.</ref> 。クヌース自身はホーアの言葉だと述べているが<ref>''The Errors of Tex'', in ''Software—Practice & Experience'', Volume 19, Issue 7 (July 1989), pp. 607–685, reprinted in his book Literate Programming (p. 276)、『文芸的プログラミング』p. 356</ref>、ホーア自身はそれを否定している<ref>[http://hans.gerwitz.com/2004/08/12/premature-optimization-is-the-root-of-all-evil.html Hoare, a 2004 email].</ref>。 また、複雑すぎないソフトウェアシステムを作成する困難さについて次のように述べている。 {{Quote|ソフトウェアを設計するには、2通りの方法がある。1つは、とてもシンプルに設計して、'''明らかに'''欠陥がないようにすること。もう1つは、とても複雑に設計して'''明らかな'''欠陥がないようにすることだ。前者の方がはるかに困難である。<ref name="ACM_Turing_Award_lecture"/>}} 1995年には独自の考え方を考察している<ref>{{Cite conference |booktitle = Selected papers from the 11th Workshop on Specification of Abstract Data Types Joint with the 8th COMPASS Workshop on Recent Trends in Data Type Specification |title=Unification of Theories: A Challenge for Computing Science |publisher=Springer-Verlag |isbn=3-540-61629-2 |pages=49-57 |date=1996 |first=C. A. R.|last=Hoare}}</ref>。 {{Quote|10年前、形式手法の研究者ら(特に私)は、プログラムがより大きくなりかつ安全性に対する要求が増すに従って、形式手法が約束したプログラムの信頼性問題に対する解決手法が感謝をもって認められるだろうと予測していた。今日のプログラムは、形式手法が通用するスケールを遥かに越えて、非常に巨大化し重要になっている。多くの問題と失敗があったが、それらの多くは要求仕様の不十分な分析とマネジメントの不足に起因している。かつて我々が解決しようとしていた種類の問題は、世界にとって取るに足らない程度のものでしかなかったことがわかってきた。}} {{Quote|Ten years ago, researchers into formal methods (and I was the most mistaken among them) predicted that the programming world would embrace with gratitude every assistance promised by formalisation to solve the problems of reliability that arise when programs get large and more safety-critical. Programs have now got very large and very critical – well beyond the scale which can be comfortably tackled by formal methods. There have been many problems and failures, but these have nearly always been attributable to inadequate analysis of requirements or inadequate management control. It has turned out that the world just does not suffer significantly from the kind of problem that our research was originally intended to solve.}} 2009年のカンファレンスで[[Null]][[参照 (情報工学)|参照]]を発明したことについて謝罪している。<ref>{{Cite web|url= http://qconlondon.com/london-2009/presentation/Null+References:+The+Billion+Dollar+Mistake |title=Null References: The Billion Dollar Mistake |first=Tony |last=Hoare |location=QCon London |date=2009-03-09 |accessdate=2012-08-16}}</ref><ref>{{Cite web |url= http://www.infoq.com/presentations/Null-References-The-Billion-Dollar-Mistake-Tony-Hoare |title=Null References: The Billion Dollar Mistake |publisher=InfoQ.com |date=2009-08-25 |first=Tony |last=Hoare |accessdate=2012-08-16}}</ref> {{Quote|それは10億ドルにも相当する私の誤りだ。null参照を発明したのは1965年のことだった。当時、私はオブジェクト指向言語 (ALGOL W) における参照のための包括的型システムを設計していた。目標は、コンパイラでの自動チェックで全ての参照が完全に安全であることを保証することだった。しかし、私は単にそれが容易だというだけで、無効な参照を含める誘惑に抵抗できなかった。これは、後に数え切れない過ち、脆弱性、システムクラッシュを引き起こし、過去40年間で10億ドル相当の苦痛と損害を引き起こしたとみられる。}} {{Quote|I call it my billion-dollar mistake. It was the invention of the null reference in 1965. At that time, I was designing the first comprehensive type system for references in an object oriented language (ALGOL W). My goal was to ensure that all use of references should be absolutely safe, with checking performed automatically by the compiler. But I couldn't resist the temptation to put in a null reference, simply because it was so easy to implement. This has led to innumerable errors, vulnerabilities, and system crashes, which have probably caused a billion dollars of pain and damage in the last forty years.}} == 栄誉・受賞歴 == * 1980年 - "[[プログラミング言語]]の定義と設計に対する彼の基礎的な貢献"に対して[[Association for Computing Machinery|ACM]][[チューリング賞]]を受賞。同賞は1980年10月27日、[[テネシー州]][[ナッシュビル]]で開催されたACM大会にて、同賞の評議会議長である[[ウォルター・カールソン]]から授与された。受賞講演の記録<ref name="ACM_Turing_Award_lecture">{{Cite web| url= http://awards.acm.org/images/awards/140/articles/4622167.pdf | title= The Emperor's Old Clothes / The 1980 ACM Turing Award Lecture | date= 1980-10-27 | archiveurl = https://webcitation.org/65BW96PjQ | archivedate = 2012-02-03 | author= Hoare, Charles Anthony Richard | publisher= Association for Computing Machinery |accessdate=2012-08-16}}</ref>は、''[[:en:Communications of the ACM|Communications of the ACM]]'' 誌に掲載された<ref name="Hoare81"/>。 * 1981年 - Harry H. Goode Memorial Award ([[IEEE Computer Society]]) * 1982年 - [[王立協会]]フェロー<ref>{{Cite web| url= http://royalsociety.org/about-us/fellowship/fellows/ | title = Fellows | publisher = [[王立協会|Royal Society]] | accessdate= 2010-11-20}}</ref>。 * 1985年 - [[ファラデー・メダル (英国工学技術学会)|ファラデー・メダル]] * 1987年 - 名誉博士号([[クイーンズ大学ベルファスト]]) * 1993年 - 名誉博士号([[バース大学]])<ref>{{Cite web|url= http://www.bath.ac.uk/ceremonies/hongrads/ |title=Honorary Graduates 1989 to present | publisher = University of Bath |work=bath.ac.uk |accessdate=2012-02-18}}</ref> * 2000年 - [[ナイト]]に叙される。 * 2000年 - [[京都賞先端技術部門]] * 2005年 - {{仮リンク|英国王立工学アカデミー|en|Royal Academy of Engineering}}フェロー * 2006年 - [[コンピュータ歴史博物館]]フェロー * 2007年 - 名誉博士号(ギリシャの [[:en:Athens University of Economics and Business|Athens University of Economics and Business]]) * 2011年 - IEEE[[フォン・ノイマンメダル]]<ref>{{Cite web|url= http://www.ieee.org/documents/von_neumann_rl.pdf |title=IEEE John von Neumann Medal Recipients |publisher=IEEE |accessdate=2011-02-26}}</ref> * 2023年 - [[ロイヤル・メダル]]<ref>[https://royalsociety.org/people/antony-hoare-11627/ Antony Hoare]Royal Society</ref> == 著作 == * Structured Programming. (1972) [[オーレ=ヨハン・ダール]]、[[エドガー・ダイクストラ]] との共著、Academic Press. ISBN 0-12-200550-3. {{OCLC|23937947}} * Communicating Sequential Processes. (1985) (available online at http://www.usingcsp.com/ in PDF format). Prentice Hall International Series in Computer Science. ISBN 0-13-153271-5 hardback or {{ISBNT|0-13-153289-8}} paperback * Mechanised Reasoning and Hardware Design. (1992) {{仮リンク|Michael J. C. Gordon|en|Michael J. C. Gordon|label=M. J. C. Gordon}} との共著、Prentice Hall International Series in Computer Science. ISBN 0-13-572405-8. {{OCLC|25712842}} * Unifying Theories of Programming. (1998) {{仮リンク|He Jifeng|en|He Jifeng}} との共著、Prentice Hall International Series in Computer Science. ISBN 0-13-458761-8. {{OCLC|38199961}} == 注釈 == {{Reflist|group="※"}} == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite report| df= ja | url= http://archive.computerhistory.org/resources/access/text/Oral_History/102658017.05.01.acc.pdf | title=Oral History of Sir Antony Hoare |publisher=[[コンピュータ歴史博物館|Computer History Museum]] |first=Jonathan | last=Bowen | date=2006-09-08 | work=Hoare (Sir Antony, C.A.R.) Oral History, CHM Reference number: X3698.2007 | accessdate=2011-10-23}} * {{Cite journal| title=An Interview with C.A.R. Hoare | journal=Communications of the ACM | year=2009 | month=March | volume=52 | issue=3 | pages=38–41 | doi=10.1145/1467247.1467261 | editor=Shustek, Len}} == 外部リンク == * {{公式サイト|name=Tony Hoare {{!}} Department of Computer Science}} 公式ウェブサイト{{en icon}} * [http://research.microsoft.com/en-us/people/thoare/ Microsoft home page] — 略歴 * [http://purl.umn.edu/107362 Oral history interview with C. A. R. Hoare] at [[チャールズ・バベッジ研究所|Charles Babbage Institute]], University of Minnesota, Minneapolis. * [http://www.informatik.uni-trier.de/~ley/db/indices/a-tree/h/Hoare:C=_A=_R=.html List of publications] from the [[:en:DBLP|DBLP Bibliography Server]] * [http://academic.research.microsoft.com/Author/2542366 List of publications] from the [[Live Search Academic|Microsoft Academic Search]] * [http://portal.acm.org/citation.cfm?id=361161&dl=GUIDE&coll=GUIDE&CFID=81258100&CFTOKEN=30312375 モニタに関する古典的論文] — モニタについての最初の文論 * [http://www.csp-consortium.org CSPコンソーシアム] {{Commons category|C. A. R. Hoare}} {{チューリング賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほおあ あんとにい}} [[Category:イギリスのプログラミング言語研究者]] [[Category:チューリング賞受賞者]] [[Category:ロイヤル・メダル受賞者]] [[Category:京都賞先端技術部門受賞者]] [[Category:形式手法の人物]] [[Category:王立協会フェロー]] [[Category:米国科学アカデミー外国人会員]] [[Category:コンピュータ歴史博物館フェロー]] [[Category:ヨーロッパ・アカデミー会員]] [[Category:バイエルン科学アカデミー会員]] [[Category:クイーンズ大学ベルファストの教員]] [[Category:オックスフォード大学の教員]] [[Category:マイクロソフトリサーチの人物]] [[Category:コロンボ出身の人物]] [[Category:モスクワ大学出身の人物]] [[Category:オックスフォード大学マートン・カレッジ出身の人物]] [[Category:1934年生]] [[Category:存命人物]]
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サンフランシスコ国際空港
サンフランシスコ国際空港(サンフランシスコこくさいくうこう、英語: San Francisco International Airport) (IATA: SFO, ICAO: KSFO, FAA LID: SFO) は、アメリカ合衆国のカリフォルニア州サンフランシスコから約20km南に位置する国際空港である。 アメリカ西海岸における主要空港の1つで、ユナイテッド航空とアラスカ航空のハブ空港である。西海岸の玄関口の1つとして、アメリカ国内のみならず、アジア・ヨーロッパ・南アメリカ・オセアニアへの路線が就航している。 サンフランシスコ国際空港はベイエリア最大の空港であり、西海岸においてロサンゼルス国際空港(LAX)に次いで2番目に利用者の多い空港である。2017年の旅客数はアメリカの空港で7位であり、世界中で24位だった。 サンフランシスコは1927年に現在の空港の敷地で150エーカーをリースし、実験的な空港プロジェクトのためにそれを公式にミルズフィールド市営空港と名付けた。空港のための150エーカーの土地は、D.O.ミルズの遺産から購入された。土地の残りの部分はミルブレー町となった。1931年6月9日に名前がサンフランシスコ空港に変更され、その半年後には急速に成長する空港の管理が公共事業委員会に移された。1932年11月17日、サンフランシスコの市民は空港の開発のために26万ドルの債券を承認した。第二次世界大戦中に近くのオークランド空港に軍が基地を置いていたため、空港は急速に成長した。 最初は空港の成長についての懸念があったが、湿地の海岸部350エーカーを埋め立てることで問題が解決された。そして1935年11月、空港の滑走路Cが1,900フィートから3,000フィートに延長され、空港は急速に成長を続けた。パンアメリカン航空は、最初の定期的な大洋間航空サービスを行う場所としてサンフランシスコ空港を選んだ。飛行機はサンフランシスコ空港から離陸し、4回の停留地を経て59時間後にフィリピンのマニラに着陸した。その飛行機、チャイナ・クリッパーは瞬く間に有名になった。 1959年7月29日、アメリカで最初のボーディング・ブリッジがサンフランシスコ国際空港に設置された。 クロース・パラレル方式で2本×2組、計4本の滑走路が配置されているが、この近接した滑走路での同時離着陸が行われている世界でも珍しい空港である。 その理由はこの空港が一日1000を超える航空機の往来があるためで、同時着陸を行う際は接近を告げる機内アナウンスが放送される事が有る。並行する二本の滑走路が近接しているため、名物の霧がかかるなど気象条件が悪化すると片方の滑走路が閉鎖され到着遅れの原因となっている。 ターミナル1・2・3・国際線ターミナルの4つに分かれており、7つのボーディング・エリアがある。それぞれのターミナルは環状に配置されていて、ターミナル間の移動は徒歩で可能な他、ターミナル間を結ぶエアトレインが24時間運行しており、無料で利用できる。 2019年8月20日より、ターミナルビル内で使い捨てペットボトル入り飲料水の販売を禁止した。ゴミの最終処分場の残容量が逼迫していることから取られた措置。 旧サウス・ターミナルとして知られるターミナル1はボーディング・エリアB&Cから成り立っている。当初のターミナル(現在のボーディング・エリアB&C)は1963年に開業し、ボーディング・エリアAは1974年に開業した。ターミナルの改修工事は1988年に完了した。国際線ターミナルに新ボーディング・エリアAが設置されたため、旧Aは2007年に取り壊された。 旧セントラル・ターミナルとして知られるターミナル2は、1954年に開業した。現在の国際線ターミナルがオープンする前の国際線ターミナルとして知られている。このターミナルは2008年から2011年に改修工事が行われた。ボーディング・エリアDのみを有する。管制塔はターミナル2の上層階に位置している。出発・到着エリアはターミナル1とターミナル3を結ぶ通路としても機能している。 旧ノース・ターミナルとして知られるターミナル3は、1981年開業のボーディングエリアEと 1979年開業のボーディング・エリアFを有する。ユナイテッド航空の国内線はターミナル3を使用し、国際線は国際線ターミナルを使用する。一部の国内線はターミナル1を使用する。 2000年にオープンしたこのターミナルは、北米最大級の国際線ターミナルであり、耐震基礎絶縁体(免震構造)で建設された世界の中で最も大きな構造物である。このターミナルの完成前は、ターミナル2が国際線ターミナルであった。ボーディングエリアは上層部に商業施設、下層部に出発ロビーを配置した2層構造である。またボーディング・エリアG側の駐車場はバートの駅につながっている。 2003年6月22日にバート(BART)がSFO駅およびミルブレー駅(Millbrae)まで延伸されたため、サンフランシスコ市の中心部まで鉄道で行けるようになった。 また、ミルブレー駅ではカルトレインに接続しており、サンノゼ(San Jose)・ギルロイ(Gilroy)方面へも行くことが可能となった。ただし、SFO駅 - ミルブレー駅間はバートの利用が必要である。バートのSFO駅 - ミルブレー駅間の直通運転は平日夕方以降、週末および祝日のみであり、平日の日中はサンブルーノ駅(San Bruno)での乗り換えが必要となる。 サムトランス(英語版)が以下の5路線を運行している。 国道101号線に隣接している他、付近にある州間高速道380号線(英語版)とのジャンクションから州間高速道280号線(英語版)に接続されている。 空港の敷地内に短期用の駐車場がある他、敷地外には長期用の駐車場がある。また、各バート駅の駐車場は事前にオンラインで許可証を購入することで長期用の駐車場として利用できる。 オークランド国際空港やノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港と共にサンフランシスコ・ベイエリアの主要路線の空の玄関口として機能している。
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サンフランシスコ国際空港 は、アメリカ合衆国のカリフォルニア州サンフランシスコから約20km南に位置する国際空港である。 アメリカ西海岸における主要空港の1つで、ユナイテッド航空とアラスカ航空のハブ空港である。西海岸の玄関口の1つとして、アメリカ国内のみならず、アジア・ヨーロッパ・南アメリカ・オセアニアへの路線が就航している。 サンフランシスコ国際空港はベイエリア最大の空港であり、西海岸においてロサンゼルス国際空港(LAX)に次いで2番目に利用者の多い空港である。2017年の旅客数はアメリカの空港で7位であり、世界中で24位だった。
{{Infobox 空港 | 空港名 = サンフランシスコ国際空港 | 現地語名 = San Francisco International Airport | 画像 = San Francisco International Airport International Terminal.jpg | 画像サイズ = 300 | 画像説明 = 国際線ターミナル | 画像2 = SFO map.png | 画像サイズ2 = 200 | 画像説明2 = [[連邦航空局]]・空港図 | IATA = SFO | ICAO = KSFO | 国 = {{USA}} | 所在地 = {{flag|California}}[[サンマテオ郡]] | 母都市 = [[ファイル:Flag_of_San_Francisco.svg|border|25px]] [[サンフランシスコ]] | 種類 = 公共 | 所有者 = サンフランシスコ空港委員会 | 運営者 = | 運用時間 = | 開港 = | 閉鎖 = | ターミナル数 = | 拠点航空会社 = *[[ユナイテッド航空]] *[[アラスカ航空]] | 敷地面積 ha = 2107 | 標高 m = 4 | 標高 ft = 13 | 座標 = {{Coord|format=dms|region:US-CA_type:airport|display=inline,title}} | ウェブサイト = {{Official website}} | 緯度度 = | 緯度分 = | 緯度秒 = | 緯度NS = | 経度度 = | 経度分 = | 経度秒 = | 経度EW = | 座標地域 = | 地図名 = United States San Francisco#United States San Francisco Bay Area#USA California | 地図ラベル = SFO/KSFO | 地図サイズ = 240 | 地図説明 = 空港の位置 | 滑走路1方向 = 10L/28R | 滑走路1ILS = 有 | 滑走路1長さ m = 3,618 | 滑走路1幅 m = 61 | 滑走路1表面 = [[アスファルト]] | 滑走路2方向 = 10R/28L | 滑走路2ILS = 有 | 滑走路2長さ m = 3,469 | 滑走路2幅 m = 61 | 滑走路2表面 = [[アスファルト]] | 滑走路3方向 = 1R/19L | 滑走路3ILS = 有 | 滑走路3長さ m = 2,637 | 滑走路3幅 m = 61 | 滑走路3表面 = [[アスファルト]] | 滑走路4方向 = 1L/19R | 滑走路4ILS = 無 | 滑走路4長さ m = 2,332 | 滑走路4幅 m = 61 | 滑走路4表面 = [[アスファルト]] | 統計年 = 2019年 | 旅客数 = 57,488,023人 | 貨物取扱量 = | 発着回数 = | 脚注 = [[連邦航空局]]<ref name=FAA>{{FAA-airport|ID=SFO|use=PU|own=PU|site=02187.*A}}, effective 2007-12-20</ref><ref>{{cite web|title=Air Traffic Statistics|url=http://www.flysfo.com/media/facts-statistics/air-traffic-statistics|publisher=San Francisco International Airport|access-date=December 18, 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20160711100034/http://www.flysfo.com/media/facts-statistics/air-traffic-statistics|archive-date=2016-07-11|url-status=live}}</ref> }}'''サンフランシスコ国際空港'''(サンフランシスコこくさいくうこう、{{lang-en|San Francisco International Airport}}) ([[IATA]]: '''SFO''', [[ICAO]]: '''KSFO''', [[連邦航空局|FAA]] [[空港コード#FAA空港コード(3/4レターコード)|LID]]: '''SFO''') は、[[アメリカ合衆国]]の[[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]から約20km南に位置する[[国際空港]]である。 [[アメリカ西海岸]]における主要空港の1つで、[[ユナイテッド航空]]と[[アラスカ航空]]のハブ空港である。西海岸の玄関口の1つとして、アメリカ国内のみならず、[[アジア]]・[[ヨーロッパ]]・[[南アメリカ]]・[[オセアニア]]への路線が就航している。 サンフランシスコ国際空港は[[サンフランシスコ・ベイエリア|ベイエリア]]最大の空港であり、西海岸において[[ロサンゼルス国際空港|ロサンゼルス国際空港(LAX)]]に次いで2番目に利用者の多い空港である。2017年の旅客数はアメリカの空港で7位であり、世界中で24位だった<ref>{{Cite journal|last=none,|date=1990-05-01|title=St. Louis Airport site environmental report for calendar year 1989, St. Louis, Missouri|url=https://doi.org/10.2172/6401975}}</ref>。 == 歴史 == [[サンフランシスコ]]は1927年に現在の空港の敷地で150エーカーをリースし、実験的な空港プロジェクトのためにそれを公式にミルズフィールド市営空港と名付けた<ref>{{Cite web |title=A brief history of San Francisco International Airport |url=http://sfo.airportintel.com/history-of-san-francisco-international-airport/ |access-date=2023-06-19 |language=en-US}}</ref>。空港のための150エーカーの土地は、[[Darius Ogden Mills|D.O.ミルズ]]の遺産から購入された。土地の残りの部分は[[Milbrae|ミルブレー町]]となった。1931年6月9日に名前がサンフランシスコ空港に変更され、その半年後には急速に成長する空港の管理が公共事業委員会に移された。1932年11月17日、サンフランシスコの市民は空港の開発のために26万ドルの債券を承認した。[[第二次世界大戦]]中に近くの[[オークランド国際空港 (カリフォルニア州)|オークランド空港]]に軍が基地を置いていたため、空港は急速に成長した。 最初は空港の成長についての懸念があったが、湿地の海岸部350エーカーを埋め立てることで問題が解決された。そして1935年11月、空港の滑走路Cが1,900フィートから3,000フィートに延長され、空港は急速に成長を続けた。[[パンアメリカン航空]]は、最初の定期的な大洋間航空サービスを行う場所としてサンフランシスコ空港を選んだ。飛行機はサンフランシスコ空港から離陸し、4回の停留地を経て59時間後に[[フィリピン]]の[[マニラ]]に着陸した。その飛行機、[[マーチン M130|チャイナ・クリッパー]]は瞬く間に有名になった。 1959年7月29日、アメリカで最初の[[ボーディング・ブリッジ]]がサンフランシスコ国際空港に設置された。 == 滑走路 == [[クロース・パラレル]]方式で2本×2組、計4本の滑走路が配置されているが、この近接した滑走路での同時離着陸が行われている世界でも珍しい空港である。 その理由はこの空港が一日1000を超える航空機の往来があるためで、同時着陸を行う際は接近を告げる機内アナウンスが放送される事が有る。並行する二本の滑走路が近接しているため、名物の霧がかかるなど気象条件が悪化すると片方の滑走路が閉鎖され到着遅れの原因となっている。 == ターミナル == [[Image:San Francisco International Airport at night.jpg|right|thumb|250px|夜のターミナル]] ターミナル1・2・3・国際線ターミナルの4つに分かれており、7つのボーディング・エリアがある。それぞれのターミナルは環状に配置されていて、ターミナル間の移動は徒歩で可能な他、ターミナル間を結ぶ[[エアトレイン (サンフランシスコ国際空港)|エアトレイン]]が24時間運行しており、無料で利用できる。 2019年8月20日より、ターミナルビル内で使い捨て[[ペットボトル]]入り飲料水の販売を禁止した。ゴミの[[最終処分場]]の残容量が逼迫していることから取られた措置<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-03 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3238311?cx_part=outbrain |title=サンフランシスコ空港、飲料水入りペットボトルの販売禁止へ |publisher=AFP |accessdate=2019-10-12}}</ref>。[[ファイル:SFO Terminal Map.svg|thumb|right|ターミナル配置図|247x247ピクセル]] === ターミナル1([[ハーヴェイ・ミルク]]) === 旧サウス・ターミナルとして知られるターミナル1はボーディング・エリアB&Cから成り立っている。当初のターミナル(現在のボーディング・エリアB&C)は1963年に開業し、ボーディング・エリアAは1974年に開業した。ターミナルの改修工事は1988年に完了した。国際線ターミナルに新ボーディング・エリアAが設置されたため、旧Aは2007年に取り壊された。 === ターミナル2 === 旧セントラル・ターミナルとして知られるターミナル2は、1954年に開業した。現在の国際線ターミナルがオープンする前の国際線ターミナルとして知られている。このターミナルは2008年から2011年に改修工事が行われた。ボーディング・エリアDのみを有する。管制塔はターミナル2の上層階に位置している。出発・到着エリアはターミナル1とターミナル3を結ぶ通路としても機能している。 === ターミナル3 === 旧ノース・ターミナルとして知られるターミナル3は、1981年開業のボーディングエリアEと 1979年開業のボーディング・エリアFを有する。ユナイテッド航空の国内線はターミナル3を使用し、国際線は国際線ターミナルを使用する。一部の国内線はターミナル1を使用する。 === 国際線ターミナル === 2000年にオープンしたこのターミナルは、北米最大級の国際線ターミナルであり、耐震基礎絶縁体(免震構造)で建設された世界の中で最も大きな構造物である。このターミナルの完成前は、ターミナル2が国際線ターミナルであった。ボーディングエリアは上層部に商業施設、下層部に出発ロビーを配置した2層構造である。またボーディング・エリアG側の駐車場は[[バート (鉄道)|バート]]の駅につながっている。 == 主な就航路線 == [[ファイル:SFO Map.svg|サムネイル|252x252ピクセル|[[連邦航空局|FAA]]のSFO滑走路図(ターミナルと滑走路に色を追加した)]] {{空港就航地 |{{Flagicon|USA}}[[ユナイテッド航空]]                     | [[オースティン・バーグストロム国際空港|オースティン]]、[[ボルチモア・ワシントン国際空港|ボルチモア]]、[[ジェネラル・エドワード・ローレンス・ローガン国際空港|ボストン]]、[[シカゴ・オヘア国際空港|シカゴ/ORD]]、[[クリーブランド・ホプキンス国際空港|クリーブランド]]、[[ダラス・フォートワース国際空港|ダラス]]、[[デンバー国際空港|デンバー]]、[[フォートローダーデール・ハリウッド国際空港|フォートローダーデール]]、[[ヒロ国際空港|ヒロ]]、[[ホノルル国際空港|ホノルル]]、[[ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港|ヒューストン]]、[[インディアナポリス国際空港|インディアナポリス]]、[[カフルイ空港|カフルイ]]、[[コナ国際空港|コナ]]、[[マッカラン国際空港|ラスベガス]]、[[リフエ空港|リフエ]]、[[ロサンゼルス国際空港|ロサンゼルス/LAX]]、[[ジョン・ウェイン空港|ロサンゼルス/サンタアナ]]、[[ミネアポリス・セントポール国際空港|ミネアポリス=セントポール]]、[[ルイ・アームストロング・ニューオーリンズ国際空港|ニューオーリンズ]]、[[ジョン・F・ケネディ国際空港|ニューヨーク/JFK]]、[[ニューアーク国際空港|ニューアーク]]、[[オーランド・サンフォード国際空港|オーランド/サンフォード]]、[[フィラデルフィア国際空港|フィラデルフィア]]、[[フェニックス・スカイハーバー国際空港|フェニックス]]、[[ピッツバーグ国際空港|ピッツバーグ]]、[[ポートランド国際空港|ポートランド]](OR)、[[ローリー・ダーラム国際空港|ローリー/ダーラム]]、[[サンディエゴ国際空港|サンディエゴ]]、[[セントルイス・ランバート国際空港|セントルイス]]、[[シアトル・タコマ国際空港|シアトル]]、[[ワシントン・ダレス国際空港|ワシントン/ダレス]]、[[ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港|ワシントン/レーガン]]<br /> '''季節就航''': [[テッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港|アンカレッジ]] |{{Flagicon|USA}}[[ユナイテッド航空]](国際) | '''北米線''': [[メキシコ・シティ国際空港|メキシコシティ]]、[[カンクン国際空港|カンクン]]、[[ドン・ミゲル・イダルゴ・イ・コスティージャ国際空港|グアダラハラ]]<br /> '''カナダ線''': [[バンクーバー国際空港|バンクーバー]]、[[ビクトリア国際空港|ビクトリア]]、[[カルガリー国際空港|カルガリー]]、[[エドモントン国際空港|エドモントン]]<br /> '''ヨーロッパ線''': [[ロンドン・ヒースロー空港|ロンドン/LHR]]、[[パリ=シャルル・ド・ゴール空港|パリ/CDG]]、[[フランクフルト空港|フランクフルト]]、[[ミュンヘン国際空港|ミュンヘン]]、[[パペーテ国際空港|パペーテ]]<br /> '''中東線''': [[ベン・グリオン国際空港|テルアビブ]]<br /> '''東アジア線''': [[東京国際空港|東京/羽田]]、[[成田国際空港|東京/成田]]、[[関西国際空港|大阪/関西]]、[[仁川国際空港|ソウル/仁川]]、[[北京首都国際空港|北京/首都]]、[[上海浦東国際空港|上海/浦東]]、[[成都双流国際空港|成都]]、[[杭州蕭山国際空港|杭州]]、[[香港国際空港|香港]]、[[台湾桃園国際空港|台北/桃園]]、[[シンガポール・チャンギ国際空港|シンガポール]]<br /> '''太平洋・オセアニア線''': [[シドニー国際空港|シドニー]]、[[オークランド国際空港 (ニュージーランド)|オークランド]](NZL)<br /> '''季節就航''': [[西安咸陽国際空港|西安]]<ref>[http://flyteam.jp/news/article/55061 ユナイテッド航空、サンフランシスコ/西安線就航を申請 季節便を週3便] FlyTeam 2015年9月23日付</ref>、[[プエルト・バヤルタ国際空港|プエルト・バヤルタ]] |{{Flagicon|USA}}[[ユナイテッド・エクスプレス]] | [[アルバカーキ国際空港|アルバカーキ]]、[[オースティン・バーグストロム国際空港|オースティン]]、[[メドウ飛行場|ベーカーズフィールド]] 、[[ボイシ空港|ボイシ]]、[[ボウズマン・イエローストーン・インターナショナル・エアポート|ボーズマン(イエローストーン)]]、[[チコ市営空港|チコ]]、[[コロラドスプリングス空港|コロラドスプリングス]]、[[デルノルト・リージョナル空港|クレセント・シティ]]、[[ダラス・フォートワース国際空港|ダラス/フォートワース]]、[[ユージーン空港|ユージーン]]、[[カリフォルニアレッドウッドコーストフンボルト空港|ユーリカ]]、[[フレズノ・ヨセミテ国際空港|フレズノ]]、[[アイダホフォールズ地域空港|アイダホフォールス]]、[[カンザス・シティ国際空港|カンザスシティ]]、[[クラマスフォールズ空港|クラマスフォールス]]、[[マッカラン国際空港|ラスベガス]]、[[ローグ・バレー国際メッドフォード空港|メドフォード]]、[[モデストシティ空港|モデスト]]、[[モントレー・リージョナル空港|モントレー]]、[[サウスウエストオレゴン地域空港|ノースベンド]]、[[ウィル・ロジャース・ワールド空港|オクラホマシティ]]、[[オンタリオ国際空港|オンタリオ]](CA)、[[ハリウッド・バーバンク空港|ロサンゼルス/バーバンク]]、[[ジョン・ウェイン空港|ロサンゼルス/サンタアナ]]、[[パームスプリングス国際空港|パームスプリングス]]、[[トリシティズ空港|パスコ]]、[[フェニックス・スカイハーバー国際空港|フェニックス]]、[[ポートランド国際空港|ポートランド]](OR)、[[レディング市営空港|レディング]]、[[レドモンド空港|レドモンド/ベンド]]、[[リノ・タホ国際空港|リノ]]、[[サクラメント国際空港|サクラメント]]、[[ソルトレイクシティ国際空港|ソルトレークシティ]]、[[サンアントニオ国際空港|サンアントニオ]]、[[サンディエゴ国際空港|サンディエゴ]]、[[サンルイスオビスポリージョナル空港|サン・ルイ・オビスポ]]、[[サンタバーバラ空港|サンタバーバラ]]、[[シアトル・タコマ国際空港|シアトル]]、[[スポケーン国際空港|スポケーン]]、[[ツーソン国際空港|ツーソン]]<br /> '''季節就航''': [[アスペン・ピットキン郡空港|アスペン]]、[[ジャクソンホール空港|ジャクソンホール]]、[[マンモス・ヨセミテ空港|マンモスレイクス]]、[[ミズーラ国際空港|ミズーラ]]、[[フリードマンメモリアル空港|サンバレー]] |{{Flagicon|USA}}[[アラスカ航空]] | [[パームスプリングス国際空港|パームスプリングス]]、[[ポートランド国際空港|ポートランド]]、[[オースティン・バーグストロム国際空港|オースティン]]、[[ジェネラル・エドワード・ローレンス・ローガン国際空港|ボストン]]、[[シカゴ・オヘア国際空港|シカゴ/ORD]]、[[ダラス・フォートワース国際空港|ダラス/フォートワース]]、[[フォートローダーデール・ハリウッド国際空港|フォートローダーデール]]、[[マッカラン国際空港|ラスベガス]]、[[ロサンゼルス国際空港|ロサンゼルス/LAX]]、[[ジョン・F・ケネディ国際空港|ニューヨーク/JFK]]、[[ニューアーク国際空港|ニューアーク]]、[[フィラデルフィア国際空港|フィラデルフィア]]、[[サンディエゴ国際空港|サンディエゴ]]、[[シアトル・タコマ国際空港|シアトル]]、[[ワシントン・ダレス国際空港|ワシントン/ダレス]]、[[ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港|ワシントン/ナショナル]]<br /> '''季節就航''': [[テッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港|アンカレッジ]]、[[カンクン国際空港|カンクン]]、[[プエルト・バヤルタ国際空港|プエルト・バヤルタ]]、[[ロス・カボス国際空港|ロス・カボス]] |{{Flagicon|USA}}[[デルタ航空]]   | [[ハーツフィールド・ジャクソン・アトランタ国際空港|アトランタ]]、[[シンシナティ・ノーザンケンタッキー国際空港|シンシナティ]]、[[デトロイト・メトロポリタン国際空港|デトロイト]]、[[ホノルル国際空港|ホノルル]]、[[ロサンゼルス国際空港|ロサンゼルス/LAX]]、[[ミネアポリス・セントポール国際空港|ミネアポリス=セントポール]]、[[ジョン・F・ケネディ国際空港|ニューヨーク/JFK]]、[[ソルトレイクシティ国際空港|ソルトレイクシティ]]、[[シアトル・タコマ国際空港|シアトル]] |{{Flagicon|USA}}[[アメリカン航空]] | [[シャーロット・ダグラス国際空港|シャーロット]]、[[シカゴ・オヘア国際空港|シカゴ/ORD]]、[[ダラス・フォートワース国際空港|ダラス/フォートワース]]、[[ロサンゼルス国際空港|ロサンゼルス/LAX]]、[[マイアミ国際空港|マイアミ]]、[[ジョン・F・ケネディ国際空港|ニューヨーク/JFK]]、[[フィラデルフィア国際空港|フィラデルフィア]]、[[フェニックス・スカイハーバー国際空港|フェニックス]] |{{Flagicon|USA}}[[サウスウエスト航空]] | [[ハーツフィールド・ジャクソン・アトランタ国際空港|アトランタ]]、[[シカゴ・ミッドウェー国際空港|シカゴ/MDW]]、[[デンバー国際空港|デンバー]]、[[マッカラン国際空港|ラスベガス]]、[[ロサンゼルス国際空港|ロサンゼルス/LAX]]、[[ジョン・ウェイン空港|ロサンゼルス/サンタアナ]]、[[ジェネラル・ミッチェル国際空港|ミルウォーキー]]、[[フェニックス・スカイハーバー国際空港|フェニックス]]、[[サンディエゴ国際空港|サンディエゴ]] |{{Flagicon|USA}}[[ジェットブルー航空]] | [[オースティン・バーグストロム国際空港|オースティン]]、[[フォートローダーデール・ハリウッド国際空港|マイアミ/フォートローダーデール]]、[[ジェネラル・エドワード・ローレンス・ローガン国際空港|ボストン]]、[[ロングビーチ空港|ロサンゼルス/ロングビーチ]]、[[ジョン・F・ケネディ国際空港|ニューヨーク/JFK]]、[[マッカラン国際空港|ラスベガス]] |{{Flagicon|USA}}[[ハワイアン航空]] | [[ホノルル国際空港|ホノルル]]、[[カフルイ空港|カフルイ]] |{{Flagicon|USA}}[[フロンティア航空]] | [[デンバー国際空港|デンバー]]、[[ダラス・フォートワース国際空港|ダラス]]、[[アトランタ国際空港|アトランタ]] |{{Flagicon|USA}}[[サンカントリー航空]] | [[ミネアポリス・セントポール国際空港|ミネアポリス=セントポール]] |{{Flagicon|CAN}}[[エア・カナダ]] | 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|{{Flagicon|AUS}}[[カンタス航空]] | [[シドニー国際空港|シドニー]] |{{Flagicon|NZL}}[[ニュージーランド航空]] | [[オークランド国際空港 (ニュージーランド)|オークランド]](NZL) }} == 地上アクセス == === 鉄道 === [[2003年]][[6月22日]]に[[バート (鉄道)|バート]](BART)がSFO駅およびミルブレー駅(Millbrae)まで延伸されたため、サンフランシスコ市の中心部まで[[鉄道]]で行けるようになった。 また、ミルブレー駅では[[カルトレイン]]に接続しており、[[サンノゼ]](San Jose)・[[ギルロイ (カリフォルニア州)|ギルロイ]](Gilroy)方面へも行くことが可能となった。ただし、SFO駅 - ミルブレー駅間はバートの利用が必要である。バートのSFO駅 - ミルブレー駅間の直通運転は平日夕方以降、週末および祝日のみであり、平日の日中はサンブルーノ駅(San Bruno)での乗り換えが必要となる。 === バス === {{仮リンク|サムトランス|en|SamTrans}}が以下の5路線を運行している。 * '''ルート140''':サンブルーノ(San Bruno)、サウス・サンフランシスコ(South San Francisco)、パシフィカ(Pacifica)方面 * '''ルート292''':サンマテオ(San Mateo)、ヒルズデール・モール(Hillsdale Mall)方面 * '''ルート398''':サンブルーノ駅(バート)(San Bruno BART Station)方面、およびレッドウッド・シティ駅(カルトレイン)(Redwood City Caltrain Station)方面 * '''ルート397''':シビック・センター駅(バート)(Civic Center BART Station)方面、およびミルブレー駅、パロアルト駅(カルトレイン)(Palo Alto Caltrain Station)方面 * '''ルートKX''':速達タイプの路線であり、午前は北行き、午後は南行きのみ。レッドウッド・シティ方面およびサンフランシスコ方面 === 自動車 === [[国道101号線 (アメリカ合衆国)|国道101号線]]に隣接している他、付近にある{{仮リンク|州間高速道380号線 (カリフォルニア州)|label=州間高速道380号線|en|Interstate 380 (California)}}とのジャンクションから{{仮リンク|州間高速道280号線 (カリフォルニア州)|label=州間高速道280号線|en|Interstate 280 (California)}}に接続されている。 空港の敷地内に短期用の駐車場がある他、敷地外には長期用の駐車場がある。また、各バート駅の駐車場は事前にオンラインで許可証を購入することで長期用の駐車場として利用できる。 == 事故 == *[[1968年]][[11月22日]]、[[東京国際空港|羽田空港(東京国際空港)]]発[[日本航空]]002便([[ダグラス DC-8|ダグラス DC-8-62]] [[機体記号]]:JA8032、愛称:志賀 "SHIGA")が、サンフランシスコ国際空港への着陸操作を誤ったために、滑走路から5キロメートル、[[サンマテオ (カリフォルニア州)|サンマテオ市]]コヨーテ岬ヨットハーバーから500メートル沖合いの[[サンフランシスコ湾]]の海面に着水した。機体の損壊が少なく、また浅瀬であったために機体が完全に水没しなかったことから、乗員乗客107名全員が無傷で救助された。 {{main|日本航空サンフランシスコ湾着水事故}} *[[1971年]][[7月30日]]、[[ロサンゼルス国際空港]]発羽田空港行き[[パンアメリカン航空]]845便([[ボーイング747|ボーイング747-100]] 機体記号:N747PA、愛称:" Clipper America")が途中経由地のサンフランシスコ国際空港で、地上の運航管理者の勘違いや機長の錯誤からB747の離陸には短すぎる滑走路から離陸してしまったために、主脚を進入灯に衝突させた。機体が破損したものの引き返して緊急着陸することに成功し、死者は出なかったものの、重軽傷者が29人発生し、ボーイング747としては初めての人身事故となった。 {{main|パンアメリカン航空845便離陸衝突事故}} * [[2013年]][[7月6日]]午前11時36頃(日本時間午前3時ごろ)、[[仁川国際空港]]発[[アシアナ航空]]214便([[ボーイング777]]-200ER、機体番号:HL7742)が当空港への着陸に失敗し炎上した。搭乗していた乗員乗客307人のうち3人が死亡、日本人1人を含む130人以上が病院に運ばれた<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2954606?pid=11013250 韓国のアシアナ航空機が米サンフランシスコで着陸失敗、炎上] 2013年07月07日 10:17 AFPBB News</ref>。この事故の影響で、当空港の滑走路は一時閉鎖となり、[[ロサンゼルス国際空港]]など他空港への着陸や欠航・遅延が発生した。2014年6月15日に[[国家運輸安全委員会|米運輸安全委員会]] (NTSB) は、事故調査の公聴会を行い、操縦ミスを第一の原因にあげた。<ref>[http://www.ntsb.gov/news/events/2014/asiana214/abstract.html Crash of Asiana Flight 214 Accident Report Summary]</ref> <ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3018721 アシアナ機の着陸失敗事故、「自動操縦への頼り過ぎ」が一因]</ref> {{main|アシアナ航空214便着陸失敗事故}} == サンフランシスコ・ベイエリアの空港の位置関係 == [[オークランド国際空港 (カリフォルニア州)|オークランド国際空港]]や[[ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港]]と共に[[サンフランシスコ・ベイエリア]]の主要路線の空の玄関口として機能している。 [[File:San Francisco Bay Area Airport Locations.png|frame|center|サンフランシスコ・ベイエリアの空港の位置関係]] {{Clear}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[アメリカ合衆国の空港の一覧]] == 外部リンク == {{Commons&cat|San Francisco International Airport}} * {{Official website}} {{en icon}} * [http://www.sf-japan.or.jp/ サンフランシスコ観光局/国際空港] {{Ja icon}} * {{Googlemap|サンフランシスコ国際空港}} {{Airport-info|KSFO}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:さんふらんしすここくさいくうこう}} [[Category:カリフォルニア州の空港]] [[Category:サンフランシスコの交通|こくさいくうこう]] [[Category:サンフランシスコの建築物|こくさいくうこう]] [[Category:サンマテオ郡]] [[Category:クラスBの空港]]
2003-08-09T08:41:00Z
2023-10-16T07:01:07Z
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シリコンバレー
シリコンバレー(英語: Silicon Valley)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州北部のサンフランシスコ・ベイエリアの南部に位置しているサンタクララバレーおよびその周辺地域の名称。特定の一箇所を公的に指す地名ではなく、ある程度広い地域一帯の通称として使用される。 名称は、多数の半導体メーカー(半導体の主原料はケイ素、英: silicon)が集まっていたこと、および地形(渓谷、英: valley)に由来する。 この地域ではApple、インテル、ナショナル セミコンダクター、Google(Alphabet)、Facebook(Meta)、アプライド・マテリアルズ、Yahoo!、アドビ、シスコシステムズなどに代表されるソフトウェアやインターネット関連企業が多数生まれ、IT企業の一大拠点となっている。 具体的には、北はサンマテオ周辺からサンノゼまでの複数の市を指す。シリコンバレーの中心は、サンノゼ、マウンテンビュー、サニーベール、サンタクララ、クパティーノなどさまざまな都市である。 元々メンローパークにあるスタンフォード大学出の技術者がヒューレット・パッカードなどのエレクトロニクス、コンピュータ企業を設立し、この大学の敷地をスタンフォード・インダストリアル・パークとしてこうした新技術の会社を誘致したのが始まりともいわれている。また、トランジスタの発明者の一人であるウィリアム・ショックレーがこの地にショックレー半導体研究所を設立し、そこを辞めた8人(8人の反逆者)が設立したフェアチャイルドセミコンダクターや、更にそこからインテルをはじめとする多くの半導体企業が生まれたことにちなみシリコンバレーと呼ばれるようになった。 第二次世界大戦前には現在の繁栄からは想像することが困難なくらい、目ぼしい産業は現在のシリコンバレーの地域には存在しなかった。第二次世界大戦中にスタンフォード大学を中心として軍需関連の産業が勃興した。中心的な役割を果たしたのはリットンインダストリーズやアンペックス、ヴァリアン・アソシエイツ、ヒューレットパッカードでシリコンバレーの黎明期に地域の人材の受け皿になった。 その後、半導体産業の発展と共に株式公開が相次ぎ、それらの資金が地域のベンチャー企業に再投資され、正のフィードバックにより好循環が生まれ発展を続ける。 半導体は依然としてこの地域の経済の主要な構成要素で、シリコンバレーは、ソフトウェアとインターネットサービスの革新で近年最も有名になっている。シリコンバレーは、コンピュータのオペレーティングシステム、ソフトウェア、およびユーザーインターフェースに大きな影響を与えた。 発明家のダグラス・エンゲルバートは、NASA、アメリカ空軍、ARPAからの資金により、1960年代半ばと1970年代に、スタンフォード研究所(現在のSRIインターナショナル)でマウスとハイパーテキストベースのコラボレーションツールを発明した。現在、「すべてのデモの母」として知られている。SRIにあるエンゲルバートのオーグメンテイション研究センター(ARC)は、ARPANET(インターネットの前身)の立ち上げとネットワーク情報センター(現在はInterNIC)の立ち上げにも関わっていた。ゼロックスは、1970年代初頭から、エンゲルバートの最高の研究者を何人か雇い、次に、1970年代と1980年代に、ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)は、オブジェクト指向プログラミング、グラフィカルユーザーインターフェイス(GUI)、イーサネット、PostScript、およびレーザープリンターで中心的な役割を果した。 ゼロックスはその技術を使用して機器を販売していたが、ほとんどの場合、その技術は他の場所で繁栄していた。ゼロックスの発明のディアスポラは、直接スリーコムとアドビにつながり、間接的には、シスコ、アップル、およびマイクロソフトにつながった。アップルのMacintoshGUIは、主にスティーブ・ジョブズがPARCを訪問し、その後主要な担当者を雇用した結果であった。シスコの推進力は、スタンフォード大学のイーサネットキャンパスネットワークを介してさまざまなプロトコルをルーティングする必要性から生じた。 2010年代においても、起業志望者のほか、商機・人材の獲得やオープンイノベーションを目指す米国内外の企業が相次ぎ進出している。トヨタ自動車など日本企業も含まれる。 それに伴って転入・居住者が急増し、交通渋滞や住宅価格の上昇、それによるホームレス増加といった問題も起きている。こうした過密への対策と、自家用自動車を持ちたがらないミレニアル世代の就労者増加により、公共交通機関の便が良いサンノゼ・ディリドン駅周辺の南部へ向けてシリコンバレーが広がりつつある。 2020年代になっても住宅価格の高騰に歯止めがかからず、遠距離にある安価な住宅地からの通勤も増えている。このためテスラ、オラクル、ヒューレット・パッカード・エンタープライズ、トヨタ北米本社などがテキサス州へ移転している。 多くの先端IT企業がシリコンバレー内に本拠を置いている。以下はFortune 1000にリストされている企業である: 上記に加えてシリコンバレー内に本拠を置く著名な企業は(一部は現存しない): 正確には以下の大学はシリコンバレーに位置していないが、近隣の研究機関としてこの地に貢献している: シリコンバレーの成功は、アメリカ全土に知れ渡り、経済が停滞していたアメリカにとって、IT産業の隆盛は経済復活の狼煙となった。そのため、必然的に他地方でも大手、ベンチャー企業や大学、政府などの働きかけによってIT産業が成熟する基盤が築き上げられ、そのうちの幾つかは着実に成果を上げ、成長を遂げた。それに従い、シリコンバレー各地で、大成功の象徴であるシリコンバレーに肖り、愛称や俗称が付けられているようになっている。ここに挙げているのは一部だが、英語版wikipediaを確認すると実に50箇所以上の地域が存在しており、中には基盤や育成土壌は未熟であるが、優秀なベンチャー誘致の手段として名乗っていた例も見られる。 シリコンバレーの成功は世界的にも知れ渡り、各国でIT産業の突出した集積地に「○○○のシリコンバレー」あるいは「シリコン○○○」「○○○のバレー」異名が付けられている。自然発生的にそう呼ばれるようになった他称・通称もあれば、政府などがシリコンバレーをモデルにしていると明言している場合もある。IT以外で企業誘致や起業促進を図る地域も「○○○バレー」と呼ぶ例もある。 日本にはシリコンバレーに当たる確定した地区はないものの、IT企業が特に集積する地区が幾つかある。ニュアンスは違うが、三大電気街をシリコンバレーと呼ぶ向きもある。 尚、1980年代には東北地方の東北自動車道沿線をシリコンロード、熊本県を中心とする九州をシリコンアイランドと呼んでいたことがあり、IC製造など電子機器産業が発達した。しかし、後にNICS(後のNIES)諸国の台頭により、企業が相次いで工場閉鎖、それに伴う衰退により、今日この呼称が用いられることは極めて稀である。
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シリコンバレーは、アメリカ合衆国カリフォルニア州北部のサンフランシスコ・ベイエリアの南部に位置しているサンタクララバレーおよびその周辺地域の名称。特定の一箇所を公的に指す地名ではなく、ある程度広い地域一帯の通称として使用される。 名称は、多数の半導体メーカーが集まっていたこと、および地形に由来する。 この地域ではApple、インテル、ナショナル セミコンダクター、Google(Alphabet)、Facebook(Meta)、アプライド・マテリアルズ、Yahoo!、アドビ、シスコシステムズなどに代表されるソフトウェアやインターネット関連企業が多数生まれ、IT企業の一大拠点となっている。
{{otheruses||テレビドラマ|シリコンバレー (テレビドラマ)}} {{混同|シリコン・アレー}} {{Infobox settlement | name = シリコンバレー | nickname = | settlement_type = 地域 | image_skyline = {{Photomontage | photo1a = SJ_skyline_at_night_horizontal.jpg | photo2a = Silicon Valley, facing southward towards Downtown San Jose, 2014.jpg | photo3a = Stanford_Oval_May_2011_panorama.jpg | spacing = 2 | position = center | color_border = white | color = white | size = 275 | foot_montage = 上から[[サンノゼ]]、シリコンバレー南部地域上空、[[スタンフォード大学]] }} | image_map = | mapsize = | map_caption = | subdivision_type = [[国の一覧|国]] | subdivision_name = {{USA}} | subdivision_type1 = [[アメリカ合衆国の州|州]] | subdivision_name1 = {{Flagicon|California}} [[カリフォルニア州]] | subdivision_type2 = 地域 | subdivision_name2 = [[サンフランシスコ・ベイエリア]] | subdivision_type3 = 大地域 | subdivision_name3 = [[北カリフォルニア]] | parts_type = 都市 | p1 = [[アザートン]] | p2 = [[エメリービル (カリフォルニア州)|エメリービル]] | p3 = [[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]] | p4 = [[キャンベル (カリフォルニア州)|キャンベル]] | p5 = [[ギルロイ (カリフォルニア州)|ギルロイ]] | p6 = [[クパチーノ]] 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Valley'''}})は、[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[北カリフォルニア|北部]]の[[サンフランシスコ・ベイエリア]]の南部に位置しているサンタクララバレーおよびその周辺地域の名称。特定の一箇所を公的に指す地名ではなく、ある程度広い地域一帯の通称として使用される。 名称は、多数の[[半導体]]メーカー(半導体の主原料は[[ケイ素]]、{{lang-en-short|silicon}})が集まっていたこと、および地形([[渓谷]]、{{lang-en-short|valley}})に由来する。 この地域では[[Apple]]、[[インテル]]、[[ナショナル セミコンダクター]]、[[Google]]([[Alphabet]])、[[Facebook]]([[Meta (企業)|Meta]])、[[アプライド・マテリアルズ]]、[[Yahoo!]]、[[アドビ]]、[[シスコシステムズ]]などに代表される[[ソフトウェア]]や[[インターネット]]関連企業が多数生まれ、[[情報技術|IT]]企業の一大拠点となっている。 == 概要 == 具体的には、北は[[サンマテオ (カリフォルニア州)|サンマテオ]]周辺から[[サンノゼ]]までの複数の市を指す。シリコンバレーの中心は、[[サンノゼ]]、[[マウンテンビュー (カリフォルニア州)|マウンテンビュー]]、[[サニーベール (カリフォルニア州)|サニーベール]]、[[サンタクララ (カリフォルニア州)|サンタクララ]]、[[クパティーノ]]などさまざまな都市である。 元々[[メンローパーク (カリフォルニア州)|メンローパーク]]にある[[スタンフォード大学]]出の技術者が[[ヒューレット・パッカード]]などのエレクトロニクス、コンピュータ企業を設立し、この大学の敷地をスタンフォード・インダストリアル・パークとしてこうした新技術の会社を誘致したのが始まりともいわれている<ref>{{citation|title=アメリカ西海岸における新興企業投資組織の形成 |url=http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-18801536-0902.pdf |format=PDF}}</ref>。また、[[トランジスタ]]の発明者の一人である[[ウィリアム・ショックレー]]がこの地に[[ショックレー半導体研究所]]を設立し、そこを辞めた8人([[8人の反逆者]])が設立した[[フェアチャイルドセミコンダクター]]や、更にそこから[[インテル]]をはじめとする多くの半導体企業が生まれたことにちなみシリコンバレーと呼ばれるようになった<ref name="route128">{{citation|title=地域の優位性とは何か:シリコンバレーとルート128の文化と競争 |url=https://cruel.org/books/route128/route128.pdf |format=PDF}}</ref>。 == 歴史 == [[第二次世界大戦]]前には現在の繁栄からは想像することが困難なくらい、目ぼしい産業は現在のシリコンバレーの地域には存在しなかった。[[第二次世界大戦|第二次世界大戦中]]に[[スタンフォード大学]]を中心として軍需関連の産業が勃興した。中心的な役割を果たしたのはリットンインダストリーズや[[アンペックス]]、[[ヴァリアン・アソシエイツ]]、[[ヒューレットパッカード]]でシリコンバレーの[[黎明期]]に地域の人材の受け皿になった<ref>{{cite book|和書|title=シリコンバレー<small>スティーブ・ジョブズの揺りかご</small> |author=脇 英世 |publisher=東京電機大学出版局 |page=第3章 |date=2013年10月 |isbn=9784501552107}}</ref><ref>{{cite book|和書|title=シリコンバレー創世記<small>地域産業と大学の共進化</small> |author=磯辺 剛彦 |publisher=白桃書房 |page=第4章 |date=2000-01-16 |isbn=9784561510444}}</ref>。 その後、半導体産業の発展と共に[[株式公開]]が相次ぎ、それらの資金が地域の[[ベンチャー企業]]に再投資され、正のフィードバックにより好循環が生まれ発展を続ける。 半導体は依然としてこの地域の経済の主要な構成要素で、シリコンバレーは、ソフトウェアとインターネットサービスの革新で近年最も有名になっている。シリコンバレーは、コンピュータの[[オペレーティングシステム]]、[[ソフトウェア]]、および[[ユーザーインターフェース]]に大きな影響を与えた。 発明家の[[ダグラス・エンゲルバート]]は、[[NASA]]、[[アメリカ空軍]]、[[ARPA]]からの資金により、1960年代半ばと1970年代に、[[スタンフォード研究所]](現在の[[SRIインターナショナル]])で[[マウス (コンピュータ)|マウス]]と[[ハイパーテキスト]]ベースのコラボレーションツールを発明した。現在、「[[すべてのデモの母]]」として知られている。SRIにあるエンゲルバートの[[オーグメンテイション研究センター]](ARC)は、[[ARPANET]]([[インターネット]]の前身)の立ち上げとネットワーク情報センター(現在は[[InterNIC]])の立ち上げにも関わっていた。[[ゼロックス]]は、1970年代初頭から、エンゲルバートの最高の研究者を何人か雇い、次に、1970年代と1980年代に、ゼロックスの[[パロアルト研究所]](PARC)は、[[オブジェクト指向プログラミング]]、[[グラフィカルユーザーインターフェイス]](GUI)、[[イーサネット]]、[[PostScript]]、および[[レーザープリンター]]で中心的な役割を果した。 ゼロックスはその技術を使用して機器を販売していたが、ほとんどの場合、その技術は他の場所で繁栄していた。ゼロックスの発明のディアスポラは、直接[[スリーコム]]と[[アドビ]]につながり、間接的には、[[シスコシステムズ|シスコ]]、[[Apple Computer|アップル]]、および[[マイクロソフト]]につながった。アップルの[[Macintosh]]GUIは、主に[[スティーブ・ジョブズ]]がPARCを訪問し、その後主要な担当者を雇用した結果であった<ref>[http://apple-history.com/gui.html Graphical User Interface (GUI)] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20021001230844/http://www.apple-history.com/gui.html |date=October 1, 2002 }} from apple-history.com</ref>。シスコの推進力は、スタンフォード大学のイーサネットキャンパスネットワークを介してさまざまなプロトコルをルーティングする必要性から生じた<ref>{{cite book |first = John K. |last = Waters |date= 2002 |title= John Chambers and the Cisco Way: Navigating Through Volatility |publisher= John Wiley & Sons |isbn= 9780471273554| page = 28}}</ref>。 2010年代においても、[[起業]]志望者のほか、商機・人材の獲得や[[オープンイノベーション]]を目指す米国内外の企業が相次ぎ進出している。[[トヨタ自動車]]など日本企業も含まれる<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ12H3S_S7A710C1EAF000/ トヨタの米AI子会社、1億ドルでVC設立 ロボや自動運転で協業] 日本経済新聞ニュースサイト(2017年7月12日)2018年6月14日閲覧。</ref>。 それに伴って転入・居住者が急増し、交通[[渋滞]]や住宅価格の上昇、それによる[[ホームレス]]増加といった問題も起きている<ref>【新風シリコンバレー】住民が直面する生活危機『[[日経産業新聞]]』2018年6月12日(16面)。</ref>。こうした過密への対策と、[[自家用自動車]]を持ちたがらない[[ミレニアル世代]]の就労者増加により、公共交通機関の便が良い[[サンノゼ・ディリドン駅]]周辺の南部へ向けてシリコンバレーが広がりつつある<ref>{{Cite web|和書|title=「住」に悩むシリコンバレー 南部へ膨張、家賃高騰|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO33015950U8A710C1EA1000/|website=日本経済新聞|date=2018-07-14|accessdate=2021-10-08|language=ja}}</ref>。 2020年代になっても住宅価格の高騰に歯止めがかからず、遠距離にある安価な住宅地からの通勤も増えている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=テスラ本社、シリコンバレーからテキサスへ移転 マスクCEOが表明:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASPB83C27PB8UHBI009.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-10-08|language=ja}}</ref>。このため[[テスラ (会社)|テスラ]]、[[オラクル (企業)|オラクル]]、[[ヒューレット・パッカード・エンタープライズ]]、トヨタ北米本社などが[[テキサス州]]へ移転している<ref name=":0" />。 == 著名な企業 == 多くの先端IT企業がシリコンバレー内に本拠を置いている。以下は[[w:Fortune 1000|Fortune 1000]]にリストされている企業である: [[Image:Adobe HQ.jpg|thumb|right|アドビ]] [[Image:Amdheadquarters.jpg|thumb|right|アドバンスト・マイクロ・デバイセズ (AMD)]] [[Image:Applecomputerheadquarters.jpg|thumb|right|Apple(旧本社)]] [[Image:Ebayheadquarters.jpg|thumb|right|eBay]] [[Image:Googleplexsouthside.jpg|thumb|right|Googleの本社]] [[Image:Intelheadquarters.jpg|thumb|right|インテルの本社、ロバート・ノイスビル]] [[Image:Intuit headquarters.jpg|thumb|right|Intuit]] [[Image:Oracle Corporation HQ.png|thumb|right|オラクル]] [[Image:Yahoo Headquarters.jpg|thumb|right|Yahoo!]] * [[アドビ|アドビ (Adobe Inc.)]] * [[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ]] (AMD) * [[アジレント・テクノロジー|アジレント・テクノロジー (Agilent Technologies)]] * [[Apple]] * [[アプライド・マテリアルズ|アプライド・マテリアルズ (Applied Materials)]] * [[シスコシステムズ]] * [[eBay]](イーベイ) * [[エレクトロニック・アーツ]] * [[Google]](グーグル) * [[ケイデンス・デザイン・システムズ]] * [[ヒューレット・パッカード]] (HP) * [[インテル]] * {{仮リンク|インテュイット|en|Intuit}} * [[ジュニパーネットワークス]] * [[マックストア]] * [[ナショナル セミコンダクター]] * [[Facebook]](フェイスブック) * [[ネットアップ]] * [[NVIDIA]](エヌビディア) * [[オラクル (企業)|オラクル]] * [[サン・マイクロシステムズ]] * [[シマンテック]] * [[ザイリンクス]] * [[Yahoo!]](ヤフー・インク) 上記に加えてシリコンバレー内に本拠を置く著名な企業は(一部は現存しない): * [[テスラ (会社)|テスラ]] * [[スリーコム]](HPが買収) * [[アダプテック]] * [[アムダール]] * [[アタリ (企業)|アタリ]] * [[Atmel]](アトメル) * [[サイプレス・セミコンダクター]] * [[ファウンドリーネットワークス]] * [[w:Knight Ridder|Knight-Ridder]](ナイトライダー。[[w:The McClatchy Company|The McClatchy Company]](マクラシー社)が取得) * [[LSIコーポレーション]] (LSIC) * [[マカフィー]](インテルが買収) * [[ネットスケープコミュニケーションズ|ネットスケープ]]([[AOL]]が取得) * [[NeXT|NeXT Computer, Inc.]](ネクスト・コンピュータ。現Apple Inc.) * [[パーム (企業)|パーム]](HPが買収) * [[ACCESS Systems]](アクセスシステムズ) * [[PayPal]](ペイパル。eBayが取得) * [[Powerset]](パワーセット) * [[ラムバス]] * {{仮リンク|レッドバック・ネットワークス|en|Redback Networks}} * [[サンディスク]] * [[シリコングラフィックス]] * {{仮リンク|ソレクトロン|en|Solectron}} * [[ティーボ]] * [[VA Software]](VAソフトウェア。[[スラッシュドット]]) * [[ベリサイン]] * [[VERITAS]](シマンテックが取得) * [[VMware]](ブイエムウェア。[[EMCコーポレーション|EMC]]が取得) {{See also|en:Category:Companies based in Silicon Valley}} == 大学 == * [[スタンフォード大学]] * [[カーネギーメロン大学]](西海岸キャンパス) * [[サンノゼ州立大学]] * [[サンタクララ大学]] 正確には以下の大学はシリコンバレーに位置していないが、近隣の研究機関としてこの地に貢献している: * [[カリフォルニア州立大学イーストベイ校]] * [[カリフォルニア大学デービス校]] * [[カリフォルニア大学バークレー校]] * [[カリフォルニア大学サンタクルーズ校]] == シリコンバレー日系団体・組織 == * ジェトロ Business Innovation Center (BIC) * Silicon Valley Japanese Entrepreneur Network (SVJEN) * Silicon Valley Multimedia Forum (SVMF) *[http://www.jabi-sv.org/ Japan America Business Initiatives (JABI)] * Japanese Technology Professional Association (JTPA) * Japan Bio Community * Keizai Society == その他の最先端工業地域 == シリコンバレーの成功は、アメリカ全土に知れ渡り、経済が停滞していたアメリカにとって、IT産業の隆盛は経済復活の狼煙となった。そのため、必然的に他地方でも大手、ベンチャー企業や大学、政府などの働きかけによってIT産業が成熟する基盤が築き上げられ、そのうちの幾つかは着実に成果を上げ、成長を遂げた。それに従い、シリコンバレー各地で、大成功の象徴であるシリコンバレーに肖り、愛称や俗称が付けられているようになっている。ここに挙げているのは一部だが、英語版wikipediaを確認すると実に50箇所以上の地域が存在しており、中には基盤や育成土壌は未熟であるが、優秀なベンチャー誘致の手段として名乗っていた例も見られる。 * [[リサーチ・トライアングル・パーク]] ([[ノースカロライナ州]]の[[ローリー (ノースカロライナ州)|ラーリー]]、[[ダーラム (ノースカロライナ州)|ダーラム]]、[[チャペルヒル (ノースカロライナ州)|チャペルヒル]]を囲む地帯。シリコンバレーと並び、よく知られる場所である) * [[エレクトロニクスハイウェイ]] ([[マサチューセッツ州]]近辺) * [[エレクトロニクスベルト]] ([[フロリダ州]]中部、[[タンパ]] - [[オーランド]]に至る一帯) * [[シリコンコースト]] ([[マイアミ]]近辺) * [[リサーチインダストリアルパーク]] ([[ボストン (マサチューセッツ州)|ボストン市]]を中心とした[[ニューイングランド]]一帯。[[ルート128]]の愛称がある) * [[テックコースト]] ([[南カリフォルニア]]一帯) * [[シリコンデザート]] ([[アリゾナ州]][[フェニックス (アリゾナ州)|フェニックス]]都市圏一帯。安価な労働力と土地代、良好な環境で急成長) * [[シリコンプレーリー]] ([[テキサス州]][[ダラス・フォートワース複合都市圏]]、[[シカゴ都市圏]]など) * [[シリコンヒルズ]] ([[テキサス州]][[オースティン (テキサス州)|オースティン]]近辺) * [[シリコンマウンテン]] ([[コロラド州]][[デンバー (コロラド州)|デンバー]]周辺) * [[シリコンフォレスト]] ([[オレゴン州]][[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]] ) * [[シリコンアレー]] ([[ニューヨーク州]][[マンハッタン]]一帯) * [[ハドソンバレー]] (ニューヨーク州[[ハドソン川]]添い) * [[ボストン]]・[[ルート128]]沿い ([[マサチューセッツ州]]) == 世界のシリコンバレー == シリコンバレーの成功は世界的にも知れ渡り、各国でIT産業の突出した集積地に「○○○のシリコンバレー」あるいは「シリコン○○○」「○○○のバレー」異名が付けられている。自然発生的にそう呼ばれるようになった他称・通称もあれば、政府などがシリコンバレーをモデルにしていると明言している場合もある。IT以外で企業誘致や起業促進を図る地域も「○○○バレー」と呼ぶ例もある<ref>[http://www.city.nagoya.jp/shiminkeizai/page/0000056038.html なごやライフバレー(なごやサイエンスパーク Bゾーン)について] 愛知県名古屋市市民経済局産業部次世代産業振興課(2018年5月18日閲覧)</ref>。 === アジア === * [[中華人民共和国]] - [[北京市]]海淀区[[中関村]] * [[中華人民共和国]] - [[深圳市]] * [[台湾]] - [[新竹市]] * [[ベトナム]] - [[ハノイ]] * [[インド]] - [[バンガロール]] * [[イスラエル]] - [[テルアビブ]] (「シリコン・ワジ」) === ヨーロッパ === * [[ヨーロッパ]]全体 - [[アイルランド]] * [[イギリス]] - [[ロンドン]]・[[ショーディッチ]](「シリコン・ラウンドアバウト」)、<br>[[ケンブリッジ]](「シリコン・フェン」) * [[スコットランド]] - [[シリコングレン]] * [[ドイツ]] - [[イェーナ]] * [[フィンランド]] - [[オウル]] * [[ブルガリア]] - [[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200318/k10012334951000.html?utm_int=detail_contents_tokushu_003 WEB特集 ヨーグルトやドラキュラだけではないんです] - [[日本放送協会|NHK]]</ref> * [[ロシア連邦]] - [[スコルコヴォ|スコルコボ]](首都[[モスクワ]]郊外)<ref>[http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/011900003/ 世界を狙うロシアの技術革新拠点・スコルコボ][[日経ビジネス]]オンライン(2018年3月21日閲覧)</ref> === 北米・中南米 === * [[ブラジル]] - [[カンピーナス]] == 日本のシリコンバレー == 日本にはシリコンバレーに当たる確定した地区はないものの、IT企業が特に集積する地区が幾つかある。ニュアンスは違うが、三大[[電気街]]をシリコンバレーと呼ぶ向きもある。 尚、1980年代には東北地方の[[東北自動車道]]沿線をシリコンロード、[[熊本県]]を中心とする[[九州]]をシリコンアイランドと呼んでいたことがあり、IC製造など電子機器産業が発達した。しかし、後に[[新興工業経済地域|NICS(後のNIES)]]諸国の台頭により、企業が相次いで工場閉鎖、それに伴う衰退により、今日この呼称が用いられることは極めて稀である。 * [[北海道]][[札幌市]]:[[札幌駅]]北口、[[札幌テクノパーク]] * [[北海道]][[旭川市]]:[[旭川リサーチパーク]] * [[青森県]][[八戸市]]:[[八戸北インター工業団地]]八戸ハイテクパーク * [[岩手県]]:盛岡西リサーチパーク、花巻第一工業団地テクノパーク * [[宮城県]]:[[ミドリ安全|ミドリテクノパーク]] * [[東京都]][[渋谷区]]:IT産業の集積地であり、「渋谷」を1文字ずつ英語に訳した"bitter valley"と情報量の単位の「ビット」から「'''[[渋谷#IT|ビットバレー]]'''」と呼ばれている。特に渋谷区[[神泉町]]や、渋谷区[[渋谷]]を指す。 * [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]:[[渋谷駅]]に隣接する[[南青山]]([[表参道駅]])周辺や[[六本木ヒルズ]]などには[[ベンチャー]]系のIT企業が多い。 * [[神奈川県]][[川崎市]]:多摩川沿い一帯、特に[[中原区]]を中心とした[[南武線]]の沿線には国内大手のIT企業が密集する。また川崎市の北西部である[[麻生区]]の[[黒川駅 (神奈川県)|黒川駅]]周辺には「[[かわさきマイコンシティ]]」の名の商工業地帯がある。 * [[神奈川県]][[横浜市]]:[[金沢区]]にある、財団法人横浜産業振興公社が運営する[[横浜金沢ハイテクセンター]]周辺に新産業の集積した地域が作られ、[[京浜工業地帯]]のリニューアルがめざされている。 * 神奈川県[[横須賀市]]:[[NTTドコモ]]のR&Dセンター周辺 ([[横須賀リサーチパーク|YRP]]) * [[千葉県]]:[[浦安市]]・[[幕張新都心]]([[千葉市]])・[[千葉ニュータウン]]([[印西市]]) * [[茨城県]]:[[筑波研究学園都市]]([[つくば市]]) * [[栃木県]]:[[宝積寺駅]]周辺 * [[長野県]]:[[諏訪市]]を中心に、[[精密機械]]の工場が多数ある。 * [[京都府]]:[[京都リサーチパーク]]、[[長岡京市]]周辺、[[関西文化学術研究都市]]周辺など * [[奈良県]]:[[関西文化学術研究都市]]、[[天理市]]周辺 * [[大阪府]]:[[関西文化学術研究都市]](学研都市)周辺と、臨海部の[[神戸市|神戸]]へと続く[[阪神工業地帯]]が接続され、学研都市の成果によるリニューアルがめざされている。渋谷のビットバレーに連携して、ベタバレーという関西ネット系の集団も形成された。 * [[和歌山県]]:[[田辺市]]・白浜周辺。 * [[島根県]]:[[松江市]] * [[福岡県]]:[[飯塚市]] * [[熊本県]]:[[阿蘇山]]一体などに半導体メーカーの工場が多数ある。 * [[大分県]]:九州には半導体メーカーの工場が多数あり、1980年代から[[シリコンアイランド]]の名がある。 * [[鹿児島県]][[霧島市]]:交通の利便性から大手の半導体メーカーが拠点を置き、また旧[[国分市]]により[[上ノ原テクノパーク]]が設置されている。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考資料 == * 枝川公一「シリコン・ヴァレー物語」(中央公論新社・中公新書、1999) * 東一眞「シリコンバレーの作り方」(中央公論新社・中公新書ラクレ、2001) * アナリー・サクセニアン『現代の二都物語 なぜシリコンバレーは復活し、ボストン・ルート128は沈んだか』(講談社 1995) == 関連項目 == * [[ハイテクパーク]] * [[フードバレー]] * [[シリコンバレー (テレビドラマ)]] * [[:en:List of technology centers]] * [[:en:List of places with "Silicon" names]] * [[007 美しき獲物たち]] - シリコンバレー壊滅の陰謀が描かれる。 {{カリフォルニア州}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しりこんはれえ}} [[Category:コンピュータ史]] [[Category:サンタクララ郡]] [[Category:サンフランシスコ・ベイエリアの地理]] [[Category:サンフランシスコ・ベイエリアの経済]] [[Category:カリフォルニア州の経済]] [[Category:シリコンバレー|*]] [[Category:経済地理学]]
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三角関数
三角関数(さんかくかんすう、英: trigonometric function)とは、平面三角法における、角の大きさと線分の長さの関係を記述する関数の族、およびそれらを拡張して得られる関数の総称である。鋭角を扱う場合、三角関数の値は対応する直角三角形の二辺の長さの比(三角比)である。三角法に由来する三角関数という呼び名のほかに、単位円を用いた定義に由来する円関数(えんかんすう、circular function)という呼び名がある。 三角関数には以下の6つがある。 特に sin, cos は幾何学的にも解析学的にも良い性質をもっているので、様々な分野で用いられる。例えば、波や電気信号などは正弦関数と余弦関数とを組み合わせて表現することができる。この事実はフーリエ級数およびフーリエ変換の理論として知られ、音声などの信号の合成や解析の手段として利用されている。ベクトルの外積や内積は正弦関数および余弦関数を用いて表すことができ、ベクトルを図形に対応づけることができる。初等的には、三角関数は実数を変数とする1変数関数として定義される。三角関数の変数に対応するものとしては、図形のなす角度や、物体の回転角、波や信号のような周期的なものにおける位相などが挙げられる。 三角関数に用いられる独特な記法として、三角関数の累乗と逆関数に関するものがある。通常、関数 f(x) の累乗は (f(x)) = f(x)・f(x) や (f(x)) = 1/f(x) のように書くが、三角関数の累乗は sinx のように書かれることが多い。逆関数については通常の記法 (f(x)) と同じく、sinx などと表す(この文脈では、三角関数の逆数は分数を用いて 1/sin x または (sin x) のように表される)。文献または著者によっては、通常の記法と三角関数に対する特殊な記法との混同を避けるため、三角関数の累乗を通常の関数と同様にすることがある。また、三角関数の逆関数として −1 を添え字にする代わりに関数の頭に arc を付けることがある(たとえば sin の逆関数として sin の代わりに arcsin を用いる。Arc を付けて Arcsin と表すこともある)。 三角関数に似た性質をもつ関数として、指数関数、双曲線関数、ベッセル関数などがある。また、三角関数を利用して定義される関数としてしばしば応用されるものにsinc関数がある。 直角三角形において、1 つの鋭角の大きさが決まれば、三角形の内角の和は 180°であることから他の 1 つの鋭角の大きさも決まり、3 辺の比も決まる。ゆえに、角度に対して辺比(三角比)の値を与える関数を考えることができる。 ∠C を直角とする直角三角形 ABC において、それぞれの辺の長さを AB = h, BC = a, CA = b と表す(図を参照)。∠A = θ に対して三角形の辺の比 h : a : b が決まることから、 という 6 つの値が定まる。それぞれ正弦(sine; サイン)、余弦(cosine; コサイン)、正接(tangent; タンジェント)、正割(secant; セカント)、余割(cosecant; コセカント)、余接(cotangent; コタンジェント)と呼び、まとめて三角比と呼ばれる。ただし cosec は長いので csc と略記することも多い。ある角 ∠A に対する余弦、余割、余接はその角 ∠A の余角 (co-angle) に対する正弦、正割、正接として定義される。 三角比は平面三角法に用いられ、巨大な物の大きさや遠方までの距離を計算する際の便利な道具となる。角度 θ の単位は、通常度またはラジアンである。 三角比、すなわち三角関数の直角三角形を用いた定義は、直角三角形の鋭角に対して定義されるため、その定義域は θ が 0° から 90° まで(0 から π / 2 まで)の範囲に限られる。また、θ = 90° (= π / 2) の場合 sec, tan が、θ = 0°(= 0) の場合 csc, cot がそれぞれ定義されない。これは分母となる辺の比の大きさが 0 になるためゼロ除算が発生し、その除算自体が数学的に定義されないからである。一般の角度に対する三角関数を得るためには、三角関数について成り立つ何らかの定理を指針として、定義の拡張を行う必要がある。単位円による定義は初等幾何学におけるそのような拡張の例である。他に同等な方法として、正弦定理や余弦定理を用いる方法などがある。 2 次元ユークリッド空間 R における単位円 {x(t)} + {y(t)} = 1 上の点を A = (x(t), y(t)) とする。反時計回りを正の向きとして、原点と円周を結ぶ線分 OA と x 軸のなす角の大きさ ∠xOA を(媒介)変数 t として選ぶ。このとき実数の変数 t に対する三角関数は以下のように定義される。 これらは順に正弦関数 (sine function)、余弦関数 (cosine function)、正接関数(tangent function) と呼ばれる。さらにこれらの逆数として以下の 3 つの関数が定義される。 これらは順に余割関数 (cosecant function)、正割関数 (secant function)、余接関数 (cotangent function) と呼ばれ、sin, cos, tan と合わせて三角関数と総称される。特に csc, sec, cot は割三角関数(かつさんかくかんすう)と呼ばれることがある。 この定義は 0 < t < π / 2 の範囲では直角三角形による定義と一致する。 角度、辺の長さといった幾何学的な概念への依存を避けるため、また定義域を複素数に拡張するために、級数(他の定義を採用した三角関数のテイラー展開に一致する)を用いて定義することもできる。この定義は実数の範囲では単位円による定義と一致する。以下の級数は共に示される収束円内で収束する。 実関数 f(x) の二階線型常微分方程式の初期値問題 の解として cosx を定義し、sinx を −d (cosx)/dx として定義できる。 上記の式を 1 階の連立常微分方程式に書き換えると、g(x) = f '(x) として、 および初期条件 f(0) = 1, g(0) = 0 となる。 この他にも定積分による(逆三角関数を用いた)定義や複素平面の角の回転による定義などが知られている。 x 軸の正の部分となす角は と表すことができ、θ を偏角、t を一般角という。 一般角 t が 2π 進めば点 P(cost, sint) は単位円上を1周し元の位置に戻る。従って、 すなわち三角関数 cos, sin は周期 2π の周期関数である。 ほぼ同様に、tan, cot は周期 π の周期関数、sec, csc は周期 2π の周期関数である。 また、cosθ, sinθのグラフの形は正弦曲線である。 単位円上の点の座標の関数であることから、三角関数の間には多数の相互関係が存在する。 三角関数の間に成り立つ最も基本的な恒等式の 1 つとして が挙げられる。これはピタゴラスの基本三角関数公式 (Fundamental Pythagorean trigonometric identity) と呼ばれている。 上記の式を変形して整理すれば、以下の式が導かれる。 三角関数および指数関数は冪級数によって定義されているものとすると、負角公式と指数法則およびオイラーの公式より である。 sin および cos については、冪級数による表示から明らかである。また である。 オイラーの公式 と負角の公式から を得て、指数法則 を用いれば sin, cos の加法定理が得られる。これらから他の三角関数についての加法定理も得られる。 また、三平方の定理から加法定理を示す方法が挙げられる。この方法では、円周上の任意の 2 点間の距離を 2 通りの座標系について求めることで、両者が等しいことから加法定理を導く。2 点間の距離を求めるのに三平方の定理を用いる。以下では単位円のみを取り扱うが、円の半径によらずこの方法から加法定理を得ることができる。 単位円の周上に 2 点 P = (cosp, sinp), Q = (cosq, sinq) を取る。P と Q を結ぶ線分の長さを PQ として、その 2 乗 PQ を 2 通りの方法で求めることを考える(右図も参照)。 P と Q の x 座標の差と y 座標の差から、三平方の定理を用いて PQ を求める。 次に Q = (cos0, sin0) = (1, 0) となるような座標系を取り、同様に三平方の定理から PQ を求める。この座標系に対する操作は、x 軸および y 軸を角度 q だけ回転させる操作に相当するので、P = (cos(p − q), sin(p − q)) となる。従って、 となる。 (1) と (2) の右辺が互いに等しいことから、次の cos に関する加法定理が得られる。 三角関数の他の性質を利用することで、(3) から sin の加法定理なども導くことができる。 三角関数の微積分は、以下の表のとおりである。ただし、これらの結果には様々な(一見同じには見えない)表示が存在し、この表における表示はいくつかの例であることに注意されたい。 なお、以下の表の C は積分定数、ln(·) は自然対数である。 ただし、gdx はグーデルマン関数の逆関数である。(gdx = ln|sec x + tan x|) 三角関数の微分では、次の極限 の成立が基本的である。このとき、sinx の導関数が cosx であることは加法定理から従う(が、後述のようにこれは循環論法であると指摘される)。さらに余角公式 cosx = sin (π/2 − x) から cosx の導関数は −sinx である。すなわち、sinx は微分方程式 y''(x) + y(x) = 0 の特殊解である。また、他の三角関数の導関数も、上の事実から簡単に導ける。 sinx/x の x → 0 における極限が 1 であることを証明するときに、中心角 x ラジアンの扇形の面積を2つの三角形の面積ではさんだり、弧長を線分の長さではさんだりして、いわゆるはさみうちの原理から証明する方法がある。これは一般的な日本の高校の教科書にも載っているものであるが、循環論法であるため論理が破綻しているという主張がなされることがある。ここで問題となるのは、証明に面積やラジアン、弧長が利用されていることである。例えば面積について言えば、面積は積分によって定義されるものであるとすると、扇形の面積を求めるには三角関数の積分が必要となる。三角関数の積分をするには三角関数の微分ができなければならないが、三角関数を微分するにはもとの極限が必要になる。このことが循環論法と呼ばれているのである。 単位円板の面積が π であることを自明な概念と考えてしまえば循環論法にはならないが、これはいくつかの決められた公理・定義から論理的演繹のみによって証明されたものだけを正しいと考える現代数学の思想とは相反するものである。循環論法を回避する方法の 1 つは、正弦関数と余弦関数を上述のような無限級数で定義するものである(これは三角関数の標準的な定義の 1 つである。また、この無限級数の収束半径は無限大である(すなわち任意の実数や複素数で収束する))。この定義に基づいて を示すことができる。 しかしながら、このように定義された三角関数が、本来持つべき幾何学的な性質を有しているかどうかは全く明らかなことではない。これを確かめるためには、三角関数の諸公式(周期性やピタゴラスの基本三角関数公式等)を証明し、また円周率は、余弦関数の正の最小の零点(つまり、cosx = 0 となる正の最小の値)の存在を示し、その 2 倍と定義する。すると、 x ↦ ( cos x , sin x ) {\displaystyle x\mapsto (\cos x,\sin x)} が区間 [0, 2π) から単位円周への(「反時計まわりの」)全単射であることを示すことができる。(連続微分可能な)曲線の長さを積分によって定義すれば、単位円周の長さが 2π であることなどがわかり、上のように定義された三角関数や円周率は、初等幾何での三角関数や円周率の素朴な定義と同じものであることが分かった 。 三角関数は以下のように無限乗積として書ける。 三角関数は以下のように部分分数に展開される。 三角関数の定義域を適当に制限したものの逆関数を逆三角関数(ぎゃくさんかくかんすう、英: inverse trigonometric function)と呼ぶ。逆三角関数は逆関数の記法に則り、元の関数の記号に −1 を右肩に付して表す。たとえば逆正弦関数(ぎゃくせいげんかんすう、英: inverse sine; インバース・サイン)は sinx などと表す。arcsin, arccos, arctan などの記法もよく用いられる。数値計算などにおいては、これらの逆関数はさらに asin, acos, atan などと書き表される。 である。逆関数は逆数ではないので注意したい。逆数との混乱を避けるために、逆正弦関数 sinx を arcsinx と書く流儀もある。一般に周期関数の逆関数は多価関数になるので、通常は逆三角関数を一価連続なる枝に制限して考えることが多い。たとえば、便宜的に主値と呼ばれる枝を のように選ぶことが多い。またこのとき、制限があることを強調するために、Sinx, Arcsin x のように頭文字を大文字にした表記がよく用いられる。 exp z, cos z, sin z の級数による定義から、オイラーの公式 exp (iz) = cos z + i sin z を導くことができる。この公式から下記の 2 つの等式 が得られるから、これを連立させて解くことにより、正弦関数・余弦関数の指数関数を用いた表現が可能となる。すなわち、 が成り立つ。この事実により、級数によらずこの等式をもって複素変数の正弦・余弦関数の定義とすることもある。また、 が成り立つ。ここで cosh z, sinh z は双曲線関数を表す。この等式は三角関数と双曲線関数の関係式と捉えることもできる。複素数 z を z = x + iy (x, y ∈ R) と表現すると、加法定理より が成り立つ。 他の三角関数は cscz = 1 / sinz, secz = 1 / cosz, tanz = sinz / cosz, cotz = cosz / sinz によって定義できる。 球面の三角形 ABC の内角を a, b, c, 各頂点の対辺に関する球の中心角を α, β, γ とするとき、次のような関係が成立する。余弦公式や正弦余弦公式は式の対称性により各記号を入れ替えたものも成立する。 三角関数の英語の名称の語源について記す。 sineはもとはchord-half(半弦)を意味するサンスクリット語 jya ̄-ardha起源であり、省略形ji ̄va ̄がアラビア語に音訳されてjibaとなったが、1145年にチェスターのロバートがフワーリズミーのヒサーブ・アル=ジャブル・ワル=ムカーバラ(英語版)をラテン語に翻訳する際に、jaibと混同した事で胸、湾の意味のsinusと翻訳された。 tangentは”touching”を意味するラテン語tangens由来で、secantは”cutting”を意味するラテン語secans由来である。 cosine、cotangent、cosecantはそれぞれ接頭辞のco-がついた形であり、co-はcofunction(英語版)と共通し、これはcompliment angle(英語版)(直角三角形の直角でないもう一つの角、余角)に対するsine、tangent、secantという意味である。cosine、cotangentが初めて書かれた形で確認されるのは1620年のエドマンド・ガンターによる”Canon triangulorum”の中である。ラテン語のcosinusとして登場し、これはsinus complementiの略である。 日本語の正弦、余弦に関しては、徐光啓らが編纂した『崇禎暦書』の中で、羅雅谷(英語版)が1631年に著した『測量全義』の八線のうちに見られる。「正」の漢字には、「真向かいの」「主となるもの」という意味がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "三角関数(さんかくかんすう、英: trigonometric function)とは、平面三角法における、角の大きさと線分の長さの関係を記述する関数の族、およびそれらを拡張して得られる関数の総称である。鋭角を扱う場合、三角関数の値は対応する直角三角形の二辺の長さの比(三角比)である。三角法に由来する三角関数という呼び名のほかに、単位円を用いた定義に由来する円関数(えんかんすう、circular function)という呼び名がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "三角関数には以下の6つがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "特に sin, cos は幾何学的にも解析学的にも良い性質をもっているので、様々な分野で用いられる。例えば、波や電気信号などは正弦関数と余弦関数とを組み合わせて表現することができる。この事実はフーリエ級数およびフーリエ変換の理論として知られ、音声などの信号の合成や解析の手段として利用されている。ベクトルの外積や内積は正弦関数および余弦関数を用いて表すことができ、ベクトルを図形に対応づけることができる。初等的には、三角関数は実数を変数とする1変数関数として定義される。三角関数の変数に対応するものとしては、図形のなす角度や、物体の回転角、波や信号のような周期的なものにおける位相などが挙げられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "三角関数に用いられる独特な記法として、三角関数の累乗と逆関数に関するものがある。通常、関数 f(x) の累乗は (f(x)) = f(x)・f(x) や (f(x)) = 1/f(x) のように書くが、三角関数の累乗は sinx のように書かれることが多い。逆関数については通常の記法 (f(x)) と同じく、sinx などと表す(この文脈では、三角関数の逆数は分数を用いて 1/sin x または (sin x) のように表される)。文献または著者によっては、通常の記法と三角関数に対する特殊な記法との混同を避けるため、三角関数の累乗を通常の関数と同様にすることがある。また、三角関数の逆関数として −1 を添え字にする代わりに関数の頭に arc を付けることがある(たとえば sin の逆関数として sin の代わりに arcsin を用いる。Arc を付けて Arcsin と表すこともある)。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "三角関数に似た性質をもつ関数として、指数関数、双曲線関数、ベッセル関数などがある。また、三角関数を利用して定義される関数としてしばしば応用されるものにsinc関数がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "直角三角形において、1 つの鋭角の大きさが決まれば、三角形の内角の和は 180°であることから他の 1 つの鋭角の大きさも決まり、3 辺の比も決まる。ゆえに、角度に対して辺比(三角比)の値を与える関数を考えることができる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "∠C を直角とする直角三角形 ABC において、それぞれの辺の長さを AB = h, BC = a, CA = b と表す(図を参照)。∠A = θ に対して三角形の辺の比 h : a : b が決まることから、", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "という 6 つの値が定まる。それぞれ正弦(sine; サイン)、余弦(cosine; コサイン)、正接(tangent; タンジェント)、正割(secant; セカント)、余割(cosecant; コセカント)、余接(cotangent; コタンジェント)と呼び、まとめて三角比と呼ばれる。ただし cosec は長いので csc と略記することも多い。ある角 ∠A に対する余弦、余割、余接はその角 ∠A の余角 (co-angle) に対する正弦、正割、正接として定義される。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "三角比は平面三角法に用いられ、巨大な物の大きさや遠方までの距離を計算する際の便利な道具となる。角度 θ の単位は、通常度またはラジアンである。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "三角比、すなわち三角関数の直角三角形を用いた定義は、直角三角形の鋭角に対して定義されるため、その定義域は θ が 0° から 90° まで(0 から π / 2 まで)の範囲に限られる。また、θ = 90° (= π / 2) の場合 sec, tan が、θ = 0°(= 0) の場合 csc, cot がそれぞれ定義されない。これは分母となる辺の比の大きさが 0 になるためゼロ除算が発生し、その除算自体が数学的に定義されないからである。一般の角度に対する三角関数を得るためには、三角関数について成り立つ何らかの定理を指針として、定義の拡張を行う必要がある。単位円による定義は初等幾何学におけるそのような拡張の例である。他に同等な方法として、正弦定理や余弦定理を用いる方法などがある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2 次元ユークリッド空間 R における単位円 {x(t)} + {y(t)} = 1 上の点を A = (x(t), y(t)) とする。反時計回りを正の向きとして、原点と円周を結ぶ線分 OA と x 軸のなす角の大きさ ∠xOA を(媒介)変数 t として選ぶ。このとき実数の変数 t に対する三角関数は以下のように定義される。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "これらは順に正弦関数 (sine function)、余弦関数 (cosine function)、正接関数(tangent function) と呼ばれる。さらにこれらの逆数として以下の 3 つの関数が定義される。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "これらは順に余割関数 (cosecant function)、正割関数 (secant function)、余接関数 (cotangent function) と呼ばれ、sin, cos, tan と合わせて三角関数と総称される。特に csc, sec, cot は割三角関数(かつさんかくかんすう)と呼ばれることがある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "この定義は 0 < t < π / 2 の範囲では直角三角形による定義と一致する。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "角度、辺の長さといった幾何学的な概念への依存を避けるため、また定義域を複素数に拡張するために、級数(他の定義を採用した三角関数のテイラー展開に一致する)を用いて定義することもできる。この定義は実数の範囲では単位円による定義と一致する。以下の級数は共に示される収束円内で収束する。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "実関数 f(x) の二階線型常微分方程式の初期値問題", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "の解として cosx を定義し、sinx を −d (cosx)/dx として定義できる。 上記の式を 1 階の連立常微分方程式に書き換えると、g(x) = f '(x) として、", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "および初期条件 f(0) = 1, g(0) = 0 となる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "この他にも定積分による(逆三角関数を用いた)定義や複素平面の角の回転による定義などが知られている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "x 軸の正の部分となす角は", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "と表すことができ、θ を偏角、t を一般角という。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "一般角 t が 2π 進めば点 P(cost, sint) は単位円上を1周し元の位置に戻る。従って、", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "すなわち三角関数 cos, sin は周期 2π の周期関数である。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ほぼ同様に、tan, cot は周期 π の周期関数、sec, csc は周期 2π の周期関数である。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "また、cosθ, sinθのグラフの形は正弦曲線である。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "単位円上の点の座標の関数であることから、三角関数の間には多数の相互関係が存在する。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "三角関数の間に成り立つ最も基本的な恒等式の 1 つとして", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "が挙げられる。これはピタゴラスの基本三角関数公式 (Fundamental Pythagorean trigonometric identity) と呼ばれている。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "上記の式を変形して整理すれば、以下の式が導かれる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "三角関数および指数関数は冪級数によって定義されているものとすると、負角公式と指数法則およびオイラーの公式より", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "である。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "sin および cos については、冪級数による表示から明らかである。また", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "である。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "オイラーの公式", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "と負角の公式から", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "を得て、指数法則", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "を用いれば sin, cos の加法定理が得られる。これらから他の三角関数についての加法定理も得られる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また、三平方の定理から加法定理を示す方法が挙げられる。この方法では、円周上の任意の 2 点間の距離を 2 通りの座標系について求めることで、両者が等しいことから加法定理を導く。2 点間の距離を求めるのに三平方の定理を用いる。以下では単位円のみを取り扱うが、円の半径によらずこの方法から加法定理を得ることができる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "単位円の周上に 2 点 P = (cosp, sinp), Q = (cosq, sinq) を取る。P と Q を結ぶ線分の長さを PQ として、その 2 乗 PQ を 2 通りの方法で求めることを考える(右図も参照)。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "P と Q の x 座標の差と y 座標の差から、三平方の定理を用いて PQ を求める。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "次に Q = (cos0, sin0) = (1, 0) となるような座標系を取り、同様に三平方の定理から PQ を求める。この座標系に対する操作は、x 軸および y 軸を角度 q だけ回転させる操作に相当するので、P = (cos(p − q), sin(p − q)) となる。従って、", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "となる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "(1) と (2) の右辺が互いに等しいことから、次の cos に関する加法定理が得られる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "三角関数の他の性質を利用することで、(3) から sin の加法定理なども導くことができる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "三角関数の微積分は、以下の表のとおりである。ただし、これらの結果には様々な(一見同じには見えない)表示が存在し、この表における表示はいくつかの例であることに注意されたい。", "title": "微積分" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "なお、以下の表の C は積分定数、ln(·) は自然対数である。", "title": "微積分" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ただし、gdx はグーデルマン関数の逆関数である。(gdx = ln|sec x + tan x|)", "title": "微積分" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "三角関数の微分では、次の極限", "title": "微積分" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "の成立が基本的である。このとき、sinx の導関数が cosx であることは加法定理から従う(が、後述のようにこれは循環論法であると指摘される)。さらに余角公式 cosx = sin (π/2 − x) から cosx の導関数は −sinx である。すなわち、sinx は微分方程式 y''(x) + y(x) = 0 の特殊解である。また、他の三角関数の導関数も、上の事実から簡単に導ける。", "title": "微積分" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "sinx/x の x → 0 における極限が 1 であることを証明するときに、中心角 x ラジアンの扇形の面積を2つの三角形の面積ではさんだり、弧長を線分の長さではさんだりして、いわゆるはさみうちの原理から証明する方法がある。これは一般的な日本の高校の教科書にも載っているものであるが、循環論法であるため論理が破綻しているという主張がなされることがある。ここで問題となるのは、証明に面積やラジアン、弧長が利用されていることである。例えば面積について言えば、面積は積分によって定義されるものであるとすると、扇形の面積を求めるには三角関数の積分が必要となる。三角関数の積分をするには三角関数の微分ができなければならないが、三角関数を微分するにはもとの極限が必要になる。このことが循環論法と呼ばれているのである。", "title": "微積分" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "単位円板の面積が π であることを自明な概念と考えてしまえば循環論法にはならないが、これはいくつかの決められた公理・定義から論理的演繹のみによって証明されたものだけを正しいと考える現代数学の思想とは相反するものである。循環論法を回避する方法の 1 つは、正弦関数と余弦関数を上述のような無限級数で定義するものである(これは三角関数の標準的な定義の 1 つである。また、この無限級数の収束半径は無限大である(すなわち任意の実数や複素数で収束する))。この定義に基づいて", "title": "微積分" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "を示すことができる。", "title": "微積分" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "しかしながら、このように定義された三角関数が、本来持つべき幾何学的な性質を有しているかどうかは全く明らかなことではない。これを確かめるためには、三角関数の諸公式(周期性やピタゴラスの基本三角関数公式等)を証明し、また円周率は、余弦関数の正の最小の零点(つまり、cosx = 0 となる正の最小の値)の存在を示し、その 2 倍と定義する。すると、 x ↦ ( cos x , sin x ) {\\displaystyle x\\mapsto (\\cos x,\\sin x)} が区間 [0, 2π) から単位円周への(「反時計まわりの」)全単射であることを示すことができる。(連続微分可能な)曲線の長さを積分によって定義すれば、単位円周の長さが 2π であることなどがわかり、上のように定義された三角関数や円周率は、初等幾何での三角関数や円周率の素朴な定義と同じものであることが分かった 。", "title": "微積分" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "", "title": "微積分" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "三角関数は以下のように無限乗積として書ける。", "title": "無限乗積展開" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "三角関数は以下のように部分分数に展開される。", "title": "部分分数展開" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "三角関数の定義域を適当に制限したものの逆関数を逆三角関数(ぎゃくさんかくかんすう、英: inverse trigonometric function)と呼ぶ。逆三角関数は逆関数の記法に則り、元の関数の記号に −1 を右肩に付して表す。たとえば逆正弦関数(ぎゃくせいげんかんすう、英: inverse sine; インバース・サイン)は sinx などと表す。arcsin, arccos, arctan などの記法もよく用いられる。数値計算などにおいては、これらの逆関数はさらに asin, acos, atan などと書き表される。", "title": "逆三角関数" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "である。逆関数は逆数ではないので注意したい。逆数との混乱を避けるために、逆正弦関数 sinx を arcsinx と書く流儀もある。一般に周期関数の逆関数は多価関数になるので、通常は逆三角関数を一価連続なる枝に制限して考えることが多い。たとえば、便宜的に主値と呼ばれる枝を", "title": "逆三角関数" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "のように選ぶことが多い。またこのとき、制限があることを強調するために、Sinx, Arcsin x のように頭文字を大文字にした表記がよく用いられる。", "title": "逆三角関数" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "exp z, cos z, sin z の級数による定義から、オイラーの公式 exp (iz) = cos z + i sin z を導くことができる。この公式から下記の 2 つの等式", "title": "複素関数として" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "が得られるから、これを連立させて解くことにより、正弦関数・余弦関数の指数関数を用いた表現が可能となる。すなわち、", "title": "複素関数として" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "が成り立つ。この事実により、級数によらずこの等式をもって複素変数の正弦・余弦関数の定義とすることもある。また、", "title": "複素関数として" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "が成り立つ。ここで cosh z, sinh z は双曲線関数を表す。この等式は三角関数と双曲線関数の関係式と捉えることもできる。複素数 z を z = x + iy (x, y ∈ R) と表現すると、加法定理より", "title": "複素関数として" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "が成り立つ。", "title": "複素関数として" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "他の三角関数は cscz = 1 / sinz, secz = 1 / cosz, tanz = sinz / cosz, cotz = cosz / sinz によって定義できる。", "title": "複素関数として" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "球面の三角形 ABC の内角を a, b, c, 各頂点の対辺に関する球の中心角を α, β, γ とするとき、次のような関係が成立する。余弦公式や正弦余弦公式は式の対称性により各記号を入れ替えたものも成立する。", "title": "球面三角法" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "三角関数の英語の名称の語源について記す。", "title": "語源 " }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "sineはもとはchord-half(半弦)を意味するサンスクリット語 jya ̄-ardha起源であり、省略形ji ̄va ̄がアラビア語に音訳されてjibaとなったが、1145年にチェスターのロバートがフワーリズミーのヒサーブ・アル=ジャブル・ワル=ムカーバラ(英語版)をラテン語に翻訳する際に、jaibと混同した事で胸、湾の意味のsinusと翻訳された。", "title": "語源 " }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "tangentは”touching”を意味するラテン語tangens由来で、secantは”cutting”を意味するラテン語secans由来である。", "title": "語源 " }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "cosine、cotangent、cosecantはそれぞれ接頭辞のco-がついた形であり、co-はcofunction(英語版)と共通し、これはcompliment angle(英語版)(直角三角形の直角でないもう一つの角、余角)に対するsine、tangent、secantという意味である。cosine、cotangentが初めて書かれた形で確認されるのは1620年のエドマンド・ガンターによる”Canon triangulorum”の中である。ラテン語のcosinusとして登場し、これはsinus complementiの略である。", "title": "語源 " }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "日本語の正弦、余弦に関しては、徐光啓らが編纂した『崇禎暦書』の中で、羅雅谷(英語版)が1631年に著した『測量全義』の八線のうちに見られる。「正」の漢字には、「真向かいの」「主となるもの」という意味がある。", "title": "語源 " } ]
三角関数とは、平面三角法における、角の大きさと線分の長さの関係を記述する関数の族、およびそれらを拡張して得られる関数の総称である。鋭角を扱う場合、三角関数の値は対応する直角三角形の二辺の長さの比(三角比)である。三角法に由来する三角関数という呼び名のほかに、単位円を用いた定義に由来する円関数という呼び名がある。 三角関数には以下の6つがある。 正弦、sin(sine) 余弦、cos(cosine) 正接、tan(tangent) 正割、sec(secant) 余割、csc,cosec(cosecant) 余接、cot(cotangent) 特に sin, cos は幾何学的にも解析学的にも良い性質をもっているので、様々な分野で用いられる。例えば、波や電気信号などは正弦関数と余弦関数とを組み合わせて表現することができる。この事実はフーリエ級数およびフーリエ変換の理論として知られ、音声などの信号の合成や解析の手段として利用されている。ベクトルの外積や内積は正弦関数および余弦関数を用いて表すことができ、ベクトルを図形に対応づけることができる。初等的には、三角関数は実数を変数とする1変数関数として定義される。三角関数の変数に対応するものとしては、図形のなす角度や、物体の回転角、波や信号のような周期的なものにおける位相などが挙げられる。 三角関数に用いられる独特な記法として、三角関数の累乗と逆関数に関するものがある。通常、関数 f(x) の累乗は (f)2 = f(x)・f(x) や (f)−1 = 1/f(x) のように書くが、三角関数の累乗は sin2x のように書かれることが多い。逆関数については通常の記法 (f−1) と同じく、sin−1x などと表す。文献または著者によっては、通常の記法と三角関数に対する特殊な記法との混同を避けるため、三角関数の累乗を通常の関数と同様にすることがある。また、三角関数の逆関数として −1 を添え字にする代わりに関数の頭に arc を付けることがある。 三角関数に似た性質をもつ関数として、指数関数、双曲線関数、ベッセル関数などがある。また、三角関数を利用して定義される関数としてしばしば応用されるものにsinc関数がある。
{{redirect|タンジェント|バンド|タンジェント (バンド)}} {{混同|三角数}} '''三角関数'''(さんかくかんすう、{{lang-en-short|trigonometric function}})とは、平面[[三角法]]における、[[角度|角]]の大きさと[[線分]]の長さの関係を記述する[[関数_(数学)|関数]]の[[族 (数学)|族]]、およびそれらを拡張して得られる関数の総称である。[[鋭角]]を扱う場合、三角関数の値は対応する[[直角三角形]]の二辺の長さの比('''三角比''')である。三角法に由来する'''三角関数'''という呼び名のほかに、[[単位円]]を用いた定義に由来する'''円関数'''(えんかんすう、{{lang|en|circular function}})という呼び名がある。 三角関数には以下の6つがある。なお、正弦、余弦、正接の3つのみを指して三角関数と呼ぶ場合もある。 * '''正弦'''、{{math|sin}}({{en|<u>sin</u>e}}) * '''余弦'''、{{math|cos}}({{en|<u>cos</u>ine}}) * '''正接'''、{{math|tan}}({{en|<u>tan</u>gent}}) * '''正割'''、{{math|sec}}({{en|<u>sec</u>ant}}) * '''余割'''、{{math|csc,cosec}}({{en|<u>c</u>o<u>s</u>e<u>c</u>ant}}) * '''余接'''、{{math|cot}}({{en|<u>cot</u>angent}}) 特に {{math|sin, cos}} は[[幾何学]]的にも[[解析学]]的にも良い性質をもっているので、様々な分野で用いられる。例えば、[[波動|波]]や[[電気信号]]などは正弦関数と余弦関数とを組み合わせて表現することができる。この事実は[[フーリエ級数]]および[[フーリエ変換]]の理論として知られ、音声などの信号の合成や解析の手段として利用されている。[[空間ベクトル|ベクトル]]の[[クロス積|外積]]や[[ドット積|内積]]は正弦関数および余弦関数を用いて表すことができ、ベクトルを図形に対応づけることができる。初等的には、三角関数は[[実数]]を[[媒介変数|変数]]とする1変数関数として定義される。三角関数の変数に対応するものとしては、図形のなす角度や、物体の回転角、波や信号のような[[周期関数|周期的]]なものにおける[[位相]]などが挙げられる。 三角関数に用いられる独特な記法として、三角関数の[[累乗]]と[[逆関数]]に関するものがある。通常、関数 {{math|''f''(''x'')}} の累乗は {{math|(''f''(''x''))<sup>2</sup> {{=}} ''f''(''x'')・''f''(''x'')}} や {{math|(''f''(''x''))<sup>&minus;1</sup> {{=}} 1/''f''(''x'')}} のように書くが、三角関数の累乗は {{math|sin<sup>2</sup>''x''}} のように書かれることが多い。[[逆三角関数|逆関数]]については通常の記法 ({{math|''f''<sup>&minus;1</sup>(''x'')}}) と同じく、{{math|sin<sup>&minus;1</sup>''x''}} などと表す(この文脈では、三角関数の[[逆数]]は分数を用いて {{math|{{sfrac|1|sin ''x''}}}} または {{math|(sin ''x'')<sup>&minus;1</sup>}} のように表される)。文献または著者によっては、通常の記法と三角関数に対する特殊な記法との混同を避けるため、三角関数の累乗を通常の関数と同様にすることがある。また、三角関数の逆関数として {{math|&minus;1}} を添え字にする代わりに関数の頭に {{math|arc}} を付けることがある(たとえば {{math|sin}} の逆関数として {{math|sin<sup>&minus;1</sup>}} の代わりに {{math|arcsin}} を用いる。{{math|Arc}} を付けて {{math|Arcsin}} と表すこともある)。 三角関数に似た性質をもつ関数として、[[指数関数]]、[[双曲線関数]]、[[ベッセル関数]]などがある。また、三角関数を利用して定義される関数としてしばしば応用されるものに[[sinc関数]]がある。 == 定義 == === 直角三角形によるもの === [[ファイル:Trigonometry triangle.svg|thumb|250px|{{math|&ang;C}} を直角とする直角三角形ABC]] [[直角三角形]]において、1 つの[[鋭角]]の大きさが決まれば、[[三角形]]の[[角度|内角]]の和は {{math|180°}}であることから他の 1 つの鋭角の大きさも決まり、3 辺の比も決まる。ゆえに、角度に対して辺比(三角比)の値を与える関数を考えることができる。 {{math|∠C}} を直角とする直角三角形 ABC において、それぞれの辺の長さを {{math|AB {{=}} ''h'', BC {{=}} ''a'', CA {{=}} ''b''}} と表す(図を参照)。{{math|∠A {{=}} ''θ''}} に対して三角形の辺の比 {{math|''h'' : ''a'' : ''b''}} が決まることから、 :<math>\begin{align} \sin \theta &= \frac{a}{h} \\ \cos \theta &= \frac{b}{h} \\ \tan \theta &= \frac{a}{b} = \frac{\sin \theta}{\cos \theta} \\ \sec \theta &= \frac{h}{b} = \frac{1} {\cos \theta} \\ \operatorname{cosec} \theta &= \csc \theta = \frac{h}{a} = \frac{1} {\sin \theta} \\ \cot \theta &= \frac{b}{a} = \frac{1} {\tan \theta} \end{align}</math> という 6 つの値が定まる。それぞれ'''正弦'''({{en|<u>sin</u>e;}} サイン)、'''余弦'''({{en|<u>cos</u>ine;}} コサイン)、'''正接'''({{en|<u>tan</u>gent;}} タンジェント)、'''正割'''({{en|<u>sec</u>ant;}} セカント)、'''余割'''({{en|<u>cosec</u>ant;}} コセカント)、'''余接'''({{en|<u>cot</u>angent;}} コタンジェント)と呼び、まとめて'''三角比'''と呼ばれる。ただし {{math|cosec}} は長いので {{math|csc}} と略記することも多い。ある角 {{math|∠A}} に対する余弦、余割、余接はその角 {{math|∠A}} の[[余角]] {{en|(co-angle)}} に対する正弦、正割、正接として定義される。 :<math>\begin{align} \cos \theta &= \sin \left(90^\circ - \theta \right) = \sin \left(\frac{\pi}{2} - \theta \right)\\ \csc \theta &= \sec \left(90^\circ - \theta \right) = \sec \left(\frac{\pi}{2} - \theta \right)\\ \cot \theta &= \tan \left(90^\circ - \theta \right) = \tan \left(\frac{\pi}{2} - \theta \right) \end{align}</math> 三角比は平面[[三角法]]に用いられ、巨大な物の大きさや遠方までの距離を計算する際の便利な道具となる。角度 {{mvar|θ}} の[[物理単位|単位]]は、通常[[度 (角度)|度]]または[[ラジアン]]である。 三角比、すなわち三角関数の直角三角形を用いた定義は、直角三角形の鋭角に対して定義されるため、その定義域は {{math|''&theta;''}} が 0° から 90° まで(0 から &pi; / 2 まで)の範囲に限られる。また、{{math|''&theta;'' {{=}} 90° ({{=}} &pi; / 2)}} の場合 {{math|sec, tan}} が、{{math|''&theta;'' {{=}} 0°({{=}} 0)}} の場合 {{math|csc, cot}} がそれぞれ定義されない。これは分母となる辺の比の大きさが 0 になるため[[ゼロ除算]]が発生し、その除算自体が数学的に定義されないからである。一般の角度に対する三角関数を得るためには、三角関数について成り立つ何らかの定理を指針として、定義の拡張を行う必要がある。[[#単位円によるもの|単位円による定義]]は初等幾何学におけるそのような拡張の例である。他に同等な方法として、[[正弦定理]]や[[余弦定理]]を用いる方法などがある。 === 単位円によるもの === [[File:TrigFunctionDiagram.svg|thumb|6種類の三角関数、単位円、{{math|1=θ = 0.7}}ラジアンの角度に対する直線の図。直線の色が変わる点3点を考えたとき、{{color|#A00|1}}、{{color|#00A|Sec(θ)}}、{{color|#0A0|Csc(θ)}}については原点から各点への線分の長さを表し、{{color|#A00|Sin(θ)}}、{{color|#00A|Tan(θ)}}、{{color|#0A0|1}} は各点のy成分を表す。{{color|#A00|Cos(θ)}}、{{color|#00A|1}}、{{color|#0A0|Cot(θ)}}は各点の x 成分を表す。]] [[ファイル:Circle-trig6.svg|300px|thumb|right|単位円による、6つの三角関数が表す長さ]] 2 次元[[ユークリッド空間]] {{math|'''R'''<sup>2</sup>}} における[[単位円]] {{math|{''x''(''t'')}<sup>2</sup> + {''y''(''t'')}<sup>2</sup> {{=}} 1}} 上の点を {{math|A {{=}} (''x''(''t''), ''y''(''t''))}} とする。[[時計回り|反時計回り]]を正の向きとして、原点と円周を結ぶ線分 {{math|OA}} と {{mvar|x}} 軸のなす角の大きさ {{math|∠''x''OA}} を[[媒介変数|(媒介)変数]] {{mvar|t}} として選ぶ。このとき[[実数]]の変数 {{mvar|t}} に対する三角関数は以下のように定義される。 :<math>\begin{align} \sin t &= y\\ \cos t &= x\\ \tan t &= \frac{y}{x} = \frac{\sin t}{\cos t} \end{align}</math> これらは順に'''正弦関数''' {{en|(<u>sin</u>e function)}}、'''余弦関数''' {{en|(<u>cos</u>ine function)}}、'''正接関数'''{{en|(<u>tan</u>gent function)}} と呼ばれる。さらにこれらの[[逆数]]として以下の 3 つの関数が定義される。 :<math>\begin{align} \csc t &= \frac{1}{y} = \frac{1}{\sin t}\\ \sec t &= \frac{1}{x} = \frac{1}{\cos t}\\ \cot t &= \frac{x}{y} = \frac{1}{\tan t} \end{align}</math> これらは順に'''余割関数''' {{en|(<u>cosec</u>ant function)}}、'''正割関数''' {{en|(<u>sec</u>ant function)}}、'''余接関数''' {{en|(<u>cot</u>angent function)}} と呼ばれ、{{math|sin, cos, tan}} と合わせて'''三角関数'''と総称される。特に {{math|csc, sec, cot}} は'''割三角関数'''(かつさんかくかんすう)と呼ばれることがある。 この定義は {{math|0 &lt; ''t'' &lt; &pi; / 2}} の範囲では[[#直角三角形によるもの|直角三角形による定義]]と一致する。 === 級数によるもの === 角度、辺の長さといった幾何学的な概念への依存を避けるため、また[[定義域]]を[[複素数]]に拡張するために、[[級数]](他の定義を採用した三角関数の[[テイラー展開]]に一致する)を用いて定義することもできる。この定義は実数の範囲では単位円による定義と一致する。以下の級数は共に示される収束円内で[[収束]]する。 * {{mvar|z}} を[[複素数|複素変数]]、{{mvar|B<sub>n</sub>}} を[[ベルヌーイ数]]、{{mvar|E<sub>n</sub>}} を[[オイラー数]]とする。 :<math>\begin{align} \sin z &= \sum^{\infin}_{n=0} \frac{(-1)^n}{(2n+1)!} z^{2n+1}\quad \text{for all} \ z, \\ \cos z &= \sum^{\infin}_{n=0} \frac{ \left(-1 \right)^n}{ \left(2n \right)!} z^{2n}\quad \text{for all} \ z, \\ \tan z &= \sum^{\infin}_{n=1} \frac{ \left(-1 \right)^n 2^{2n} \left(1-2^{2n} \right) B_{2n}}{ \left(2n \right)!} z^{2n-1}\quad \text{for} \ |z| < \frac{\pi}{2}, \\ \cot z &= \sum^{\infin}_{n=0} \frac{ \left(-1 \right)^n 2^{2n} B_{2n}}{ \left(2n \right)!} z^{2n-1}\quad \text{for} \ 0 < |z| < \pi, \\ \sec z &= \sum^{\infin}_{n=0} \frac{ \left(-1 \right)^n E_{2n}}{ \left(2n \right)!} z^{2n} \quad \text{for} \ |z|<\frac{\pi}{2}, \\ \csc z &= \sum^{\infin}_{n=0} \frac{ \left(-1 \right)^{n} \left(2-2^{2n}\right) B_{2n}}{ \left(2n \right)!} z^{2n-1}\quad \text{for} \ 0 < |z|< \pi. \end{align}</math> === 微分方程式によるもの === 実関数 {{math|''f''(''x'')}} の二階線型[[常微分方程式]]の初期値問題 {{numBlk|:|<math>f''(x) = -f(x),\;f(0)=1,\;f'(0)=0</math>|{{equationRef|DE1|1}}}} の解として {{math|cos''x''}} を定義し、{{math|sin''x''}} を {{math|&minus;''d''&thinsp;(cos''x'')/''dx''}} として定義できる<ref name="三角関数の研究" /><ref name="NaitoFourierLecture1999" />。 上記の式を 1 階の連立常微分方程式に書き換えると、{{math|''g''(''x'') {{=}} ''f&thinsp;{{'}}''(''x'')}} として、 {{numBlk|:|<math>\begin{cases} f'(x) = g(x), \\ g'(x) = -f(x) \end{cases}</math>|{{equationRef|DE2|2}}}} および初期条件 {{math|1=''f''(0) = 1, ''g''(0) = 0}} となる。 === 他の定義 === この他にも定積分による(逆三角関数を用いた)定義や複素平面の角の回転による定義などが知られている<ref name="三角関数の研究" />{{Sfn|黒田成俊|2002|pp=176-183}}{{Sfn|高木貞治|2010|pp=202-206}}{{Sfn|小平邦彦|2003|pp=95-105}}<ref name="三角関数と円周率" /><ref name="三角関数のさまざまな定義" />。 == 性質 == {{main|三角関数の公式の一覧}} === 周期性 === [[ファイル:Circle_cos_sin.gif|thumb|300px|正円より得られる <span style="color:#00F">{{math|cos''θ''}}</span> と <span style="color:#F00">{{math|sin''θ''}}</span>]] [[ファイル:Sin and cos.png|thumb|300px|<span style="color:#A00">{{math|sin''x''}}</span> と <span style="color:#0A0">{{math|cos''x''}}</span> のグラフ。これらの関数の周期性が確認できる。]] {{mvar|x}} 軸の正の部分となす角は :<math>t=\theta +2\pi n\quad (0\le \theta <2\pi ,\,n\isin \mathbb{Z})</math> と表すことができ、{{mvar|θ}} を[[偏角]]、{{mvar|t}} を[[一般角]]という。 一般角 {{mvar|t}} が {{math|2π}} 進めば点 {{math|P(cos''t'', sin''t'')}} は単位円上を1周し元の位置に戻る。従って、 :<math>\begin{align} \cos (t+2\pi n ) &= \cos t \\ \sin (t+2\pi n ) &= \sin t \end{align}</math> すなわち三角関数 {{math|cos, sin}} は周期 {{math|2π}} の[[周期関数]]である。 ほぼ同様に、{{math|tan, cot}} は周期 {{math|π}} の周期関数、{{math|sec, csc}} は周期 {{math|2π}} の周期関数である。 また、{{math|cos''θ'', sin''θ''}}のグラフの形は[[正弦波|正弦曲線]]である。 [[Image:Trigonometric functions.svg|right|thumb|300px|三角関数のグラフ: Sine(<span style="color:#00A">青実線</span>)、 Cosine(<span style="color:#0A0">緑実線</span>)、 Tangent(<span style="color:#A00">赤実線</span>)、 Cosecant(<span style="color:#00A">青点線</span>)、 Secant(<span style="color:#0A0">緑点線</span>)、 Cotangent(<span style="color:#A00">赤点線</span>)]] === 相互関係 === 単位円上の点の座標の関数であることから、三角関数の間には多数の相互関係が存在する。 ==== 基本相互関係 ==== 三角関数の間に成り立つ最も基本的な恒等式の 1 つとして :<math>\sin^2 \theta + \cos^2 \theta = 1</math> が挙げられる。これは'''ピタゴラスの基本三角関数公式''' {{en|(Fundamental Pythagorean trigonometric identity)}} と呼ばれている<ref name="Leff" />。 上記の式を変形して整理すれば、以下の式が導かれる。 :<math>\begin{align} \sec^2 \theta - \tan^2 \theta &= \frac{1}{\cos^2 \theta} - \tan^2 \theta = 1, \\ \csc^2 \theta - \cot^2 \theta &= \frac{1}{\sin^2 \theta} - \frac{1}{\tan^2 \theta} = 1. \end{align}</math> ==== 負角・余角・補角公式 ==== ; 負角 :<math>\begin{align} \sin (-\theta ) &= -\sin\theta \\ \cos (-\theta ) &= \cos\theta \\ \tan (-\theta ) &= -\tan\theta \end{align}</math> ;余角 :<math>\begin{align} \sin \left( \frac{\pi}{2} - \theta \right) &= \cos \theta \\ \cos \left( \frac{\pi}{2} - \theta \right) &= \sin \theta \\ \tan \left( \frac{\pi}{2} - \theta \right) &= \cot \theta \end{align}</math> ;補角 :<math>\begin{align} \sin (\pi - \theta ) &= \sin\theta \\ \cos (\pi - \theta ) &= -\cos\theta \\ \tan (\pi - \theta ) &= -\tan\theta \end{align}</math> === 加法定理 === :<math>\begin{align} \sin (x \pm y ) &= \sin x \cos y \pm \cos x \sin y \\ \cos (x \pm y ) &= \cos x \cos y \mp \sin x \sin y \\ \tan (x \pm y ) &= \frac{\tan x \pm \tan y}{1 \mp \tan x \tan y} \end{align}</math> === 証明 === ==== [[ピタゴラス]]の基本三角公式 ==== 三角関数および指数関数は[[冪級数]]によって[[定義]]されているものとすると、負角公式と指数法則および[[オイラーの公式]]より :<math>\begin{align}1&=e^0=e^{i\theta-i\theta}=e^{i\theta}e^{-i\theta}\\ &= \left(\cos \theta+i\sin \theta \right) \left(\cos \theta-i\sin \theta \right)\\ &=\sin^2 \theta+\cos^2 \theta\end{align}</math> である。 ==== 負角 ==== {{math|sin}} および {{math|cos}} については、冪級数による表示から明らかである。また :<math>\tan (-\theta ) = \frac{\sin (-\theta )}{\cos (-\theta )} = \frac{-\sin \theta}{\cos \theta} = -\tan \theta</math> である。 ==== 加法定理 ==== [[オイラーの公式]] {{numBlk|:|<math>e^{iz} = \cos z + i\sin z</math>|{{equationRef|AT1-1|Euler's formula}}|RawN=.}} と負角の公式から :<math>\cos z=\frac{e^{iz}+e^{-iz}}{2}, \sin z=\frac{e^{iz}-e^{-iz}}{2i}</math> を得て、指数法則 :<math>e^{z+w}=e^ze^w</math> を用いれば {{math|sin, cos}} の加法定理が得られる。これらから他の三角関数についての加法定理も得られる。 [[ファイル:加法定理.png|218px|サムネイル|右|{{math|PQ}}(<span style="color:#00AA00">緑</span>の線分の長さ)を求める。]] また、[[ピタゴラスの定理|三平方の定理]]から加法定理を示す方法が挙げられる。この方法では、円周上の任意の 2 点間の距離を 2 通りの座標系について求めることで、両者が等しいことから加法定理を導く。2 点間の距離を求めるのに三平方の定理を用いる。以下では単位円のみを取り扱うが、円の半径によらずこの方法から加法定理を得ることができる。 単位円の周上に 2 点 {{math|P {{=}} (cos''p'', sin''p''), Q {{=}} (cos''q'', sin''q'')}} を取る。P と Q を結ぶ線分の長さを PQ として、その 2 乗 {{math|PQ<sup>2</sup>}} を 2 通りの方法で求めることを考える(右図も参照)。 P と Q の {{mvar|x}} 座標の差と {{mvar|y}} 座標の差から、三平方の定理を用いて {{math|PQ<sup>2</sup>}} を求める。 {{numBlk|:|<math>\begin{align} \mathrm{PQ}^2 &= \left(\cos p - \cos q\right)^2 + \left(\sin p - \sin q\right)^2 \\ &= \left(\cos^2 p + \sin^2 p\right) + \left(\cos^2 q + \sin^2 q\right) - 2 \left(\cos p \cos q + \sin p \sin q\right) \\ &= 2 - 2 \left(\cos p \cos q + \sin p \sin q\right). \end{align}</math>|{{equationRef|PYT1|1}}}} 次に {{math|Q {{=}} (cos0, sin0) {{=}} (1, 0)}} となるような座標系を取り、同様に三平方の定理から {{math|PQ<sup>2</sup>}} を求める。この座標系に対する操作は、{{mvar|x}} 軸および {{mvar|y}} 軸を角度 {{mvar|q}} だけ回転させる操作に相当するので、{{math|P {{=}} (cos(''p'' &minus; ''q''), sin(''p'' &minus; ''q''))}} となる。従って、 {{numBlk|:|<math>\begin{align} \mathrm{PQ}^2 &= \left(\cos(p - q) - 1\right)^2 + \left(\sin(p - q) - 0\right)^2 \\ &= 2 - 2\cos(p - q) \end{align}</math>|{{equationRef|PYT2|2}}}} となる。 {{equationNote|PYT1|(1)}} と {{equationNote|PYT2|(2)}} の右辺が互いに等しいことから、次の {{math|cos}} に関する加法定理が得られる。 {{numBlk|:|<math>\begin{align} \cos p \cos q + \sin p \sin q= \cos(p - q). \end{align}</math>|{{equationRef|PYT3|3}}}} [[#相互関係|三角関数の他の性質]]を利用することで、{{equationNote|PYT3|(3)}} から {{math|sin}} の加法定理なども導くことができる。 == 微積分 == 三角関数の[[微分積分学|微積分]]は、以下の表のとおりである。ただし、これらの結果には様々な(一見同じには見えない)表示が存在し、この表における表示はいくつかの例であることに注意されたい。 なお、以下の表の {{mvar|C}} は[[不定積分|積分定数]]、{{math|ln(&middot;)}} は[[自然対数]]である。 :{| class="wikitable" !<math>f(x)</math> ![[微分]] <math>f'(x)</math> ! [[積分法|不定積分]] <math>\int f(x)\,dx</math> |- |<math>\sin x</math> |<math>\cos x</math> |<math>-\cos x+C</math> |- |<math>\cos x</math> |<math>-\sin x</math> |<math>\sin x+C</math> |- |<math>\tan x</math> |<math>\sec^2 x=1+\tan^2 x</math> |<math>-\ln \left |\cos x\right| +C</math> |- |<math>\cot x</math> |<math>-\csc^2 x= - \left(1+\cot^2 x \right)</math> |<math>\ln \left |\sin x\right| +C</math> |- |<math>\sec x</math> |<math>\sec x\tan x</math> |<math>\ln \left| \sec x+\tan x\right| +C = \operatorname{gd}^{-1}x +C</math> |- |<math>\csc x</math> |<math>-\csc x\cot x</math> |<math>-\ln \left| \csc x+\cot x\right| +C = \ln \left |\tan \frac{x}{2} \right| + C</math> |} ただし、{{math|gd<sup>&minus;1</sup>''x''}} は[[グーデルマン関数]]の[[逆関数]]である。({{Math|1=gd<sup>-1</sup>''x'' = ln{{abs|sec&thinsp;''x'' + tan&thinsp;''x''}}}}) 三角関数の微分では、次の極限 :<math>\lim_{h\to 0} \frac{\sin h}{h} = 1</math> の成立が基本的である。このとき、{{math|sin''x''}} の[[導関数]]が {{math|cos''x''}} であることは加法定理から従う(が、後述のようにこれは循環論法であると指摘される)。さらに余角公式 {{math|1=cos''x'' = sin ({{sfrac|π|2}} &minus; ''x'')}} から {{math|cos''x''}} の導関数は {{math|&minus;sin''x''}} である。すなわち、{{math|sin''x''}} は[[微分方程式]] {{math|1=''y{{'}}{{'}}''(''x'') + ''y''(''x'') = 0}} の[[特殊解]]である。また、他の三角関数の導関数も、上の事実から簡単に導ける。 === {{math|{{Sfrac|sin''x''|''x''}}}} の {{math|''x'' &rarr; 0}} における極限 === {{math|{{Sfrac|sin''x''|''x''}}}} の {{math|''x'' &rarr; 0}} における極限が 1 であることを証明するときに、中心角 ''x'' ラジアンの扇形の面積を2つの三角形の面積ではさんだり<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.geisya.or.jp/~mwm48961/kou2/d_triangle2.html|title=面積による不等式からの証明|accessdate=2015-01-20}}</ref>、弧長を線分の長さではさんだりして<ref>{{Cite web|和書|url=http://mixedmoss.com/math_reading/limit/lecture2010.pdf|title=曲線の長さによる不等式からの証明|format=PDF|accessdate=2015-01-20|page=1}}</ref><ref name="数学・物理通信">{{Cite web|和書|title=数学・物理通信|author=新関章三(元高知大学),矢野 忠(元愛媛大学)|url=http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/math-phys/mathphys-1-5.pdf|format=PDF|accessdate=2015-01-21}}</ref>、いわゆる[[はさみうちの原理]]から証明する方法がある。これは一般的な日本の[[高等学校|高校]]の[[教科書]]<ref>{{Cite book|和書|author1=大矢雅則|authorlink1=大矢雅則|author2=岡部恒治 ほか13名|authorlink2=岡部恒治|title=新編 数学Ⅲ|edition=改訂版|date=2010-01-10|publisher=[[数研出版|数研出版株式会社]]|isbn=978-4-410-80166-2|oclc=676686067|ncid=BA89906770|page=53}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author1=飯高茂|authorlink1=飯高茂|author2=松本幸夫 ほか22名|title=数学Ⅲ|date=2008-02-10|publisher=[[東京書籍|東京書籍株式会社]]|isbn=4-487-15513-4|oclc=76931848|ncid=BA71854010|page=49}}ほか</ref>にも載っているものであるが、[[循環論法]]であるため論理が破綻しているという主張がなされることがある<ref name="A">{{Cite web|和書|url=http://sci-tech.ksc.kwansei.ac.jp/~kawanaka/sinx.pdf|title=循環論法で証明になっていない|accessdate=2015-01-18|author=川中宣明|format=PDF|page=1}}</ref>{{Sfn|杉浦光夫|1980|p=175}}。ここで問題となるのは、証明に面積やラジアン、弧長が利用されていることである。例えば面積について言えば、面積は積分によって定義されるものであるとすると、扇形の面積を求めるには三角関数の積分が必要となる。三角関数の積分をするには三角関数の微分ができなければならないが、三角関数を微分するにはもとの極限が必要になる。このことが循環論法と呼ばれているのである。 単位円板の面積が {{π}} であることを自明な概念と考えてしまえば循環論法にはならないが、これはいくつかの決められた公理・定義から論理的演繹のみによって証明されたものだけを正しいと考える現代数学の思想とは相反するものである。循環論法を回避する方法の 1 つは、正弦関数と余弦関数を上述のような無限級数で定義するものである(これは三角関数の標準的な定義の 1 つである。また、この無限級数の収束半径は無限大である(すなわち任意の実数や複素数で収束する))。この定義に基づいて :<math>\lim_{x \to 0}\frac{\sin\,x}{x}=1</math> を示すことができる。 しかしながら、このように定義された三角関数が、本来持つべき幾何学的な性質を有しているかどうかは全く明らかなことではない。これを確かめるためには、三角関数の諸公式(周期性やピタゴラスの基本三角関数公式等)を証明し、また円周率は、余弦関数の正の最小の零点(つまり、{{math|cos''x'' {{=}} 0}} となる正の最小の値)の存在を示し、その 2 倍と定義する。すると、<math>x\mapsto(\cos x, \sin x)</math> が区間 {{math|[0, 2{{π}})}} から単位円周への(「反時計まわりの」)[[全単射]]であることを示すことができる。([[連続微分可能]]な)曲線の長さを積分によって定義すれば、単位円周の長さが {{math|2{{π}}}} であることなどがわかり、上のように定義された三角関数や円周率は、初等幾何での三角関数や円周率の素朴な定義と同じものであることが分かった <ref group="注釈">三角関数、円周率、曲線の長さ等の定義の仕方は、複数の流儀がある。</ref>{{sfn|杉浦光夫|1980|pp=175-185}}。 == 無限乗積展開 == {{main|三角関数の無限乗積展開}} 三角関数は以下のように[[総乗|無限乗積]]として書ける。 :<math>\begin{align} \sin \pi z &= \pi z \prod_{n=1}^{\infty}{\left(1-\frac{z^2}{n^2} \right)} \\ \cos \pi z &= \prod_{n=1}^\infty \left\{ 1-\frac{z^2}{(n - \frac{1}{2})^2} \right\} \end{align}</math> == 部分分数展開 == {{main|三角関数の部分分数展開}} 三角関数は以下のように[[部分分数]]に展開される。 :<math>\begin{align} \pi \cot \pi z &= \lim_{N \to \infty} \sum_{n = -N}^N \frac{1}{z + n} = \frac{1}{z} + \sum_{n = 1}^\infty \frac{2z}{z^2 -n^2} \\ \pi \tan \pi z &= - \lim_{N \to \infty} \sum_{n = -N}^N \frac{1}{z + 1/2 + n} = -\sum_{n = 0}^\infty \frac{2z}{z^2 - (n + 1/2 )^2} \\ \frac{\pi}{\sin \pi z} &= \lim_{N \to \infty} \sum_{n = -N}^N \frac{(-1)^n}{z + n} = \frac{1}{z} + \sum_{n = 1}^\infty \frac{(-1)^n 2z}{z^2 - n^2} \\ \frac{\pi}{\cos \pi z} &= \lim_{N \to \infty} \sum_{n = -N}^N \frac{(-1)^n}{z + 1/2 +n} = -\sum_{n = 0}^\infty \frac{(-1)^n (2n + 1)}{z^2 - (n + 1/2 )^2} \end{align}</math> == 逆三角関数 == {{main|逆三角関数}} 三角関数の定義域を適当に制限したものの[[逆関数]]を'''逆三角関数'''(ぎゃくさんかくかんすう、{{lang-en-short|''inverse trigonometric function''}})と呼ぶ。逆三角関数は逆関数の記法に則り、元の関数の記号に {{math|&minus;1}} を右肩に付して表す。たとえば'''逆'''正弦関数(ぎゃくせいげんかんすう、{{lang-en-short|inverse sine;}} インバース・サイン)は {{math|sin<sup>&minus;1</sup>''x''}} などと表す。{{math|arcsin, arccos, arctan}} などの記法もよく用いられる。数値計算などにおいては、これらの逆関数はさらに {{math|asin, acos, atan}} などと書き表される。 :<math>\begin{align} x = \sin y &\iff y = \sin^{-1} x \\ x = \cos y &\iff y = \cos^{-1} x \\ x = \tan y &\iff y = \tan^{-1} x \\ x = \cot y &\iff y = \cot^{-1} x \\ x = \sec y &\iff y = \sec^{-1} x \\ x = \csc y &\iff y = \csc^{-1} x \end{align}</math> である。逆関数は'''[[逆数]]ではない'''ので注意したい。逆数との混乱を避けるために、逆正弦関数 '''{{math|sin<sup>&minus;1</sup>''x''}}''' を '''{{math|arcsin''x''}}''' と書く流儀もある。一般に周期関数の逆関数は[[関数 (数学)#多変数関数と多価関数|多価関数]]になるので、通常は逆三角関数を一価[[連続]]なる枝に制限して考えることが多い。たとえば、便宜的に'''[[主値]]'''と呼ばれる枝を :<math>\begin{align} -\frac{\pi}{2} &\le \sin^{-1} x \le \frac{\pi}{2} \\ 0 &\le \cos^{-1} x \le \pi \\ -\frac{\pi}{2} &< \tan^{-1} x < \frac{\pi}{2} \end{align}</math> のように選ぶことが多い。またこのとき、制限があることを強調するために、'''{{math|Sin<sup>&minus;1</sup>''x'', Arcsin ''x''}}''' のように頭文字を大文字にした表記がよく用いられる。 == 複素関数として == {{math|exp ''z'', cos ''z'', sin ''z''}} の[[#級数によるもの|級数による定義]]から、[[オイラーの公式]] {{math|exp (''iz'') {{=}} cos ''z'' + ''i''&thinsp;sin ''z''}} を導くことができる。この公式から下記の 2 つの等式 :<math>\begin{align} \exp(iz) &= e^{iz} = \cos z + i \sin z,\\ \exp(-iz) &= e^{-iz} = \cos z - i \sin z \end{align}</math> が得られるから、これを[[線型方程式系|連立]]させて解くことにより、正弦関数・余弦関数の[[指数関数]]を用いた表現が可能となる。すなわち、 :<math>\begin{align} \cos z &= \frac{e^{iz} + e^{-iz}}{2} ,\\ \sin z &= \frac{e^{iz} - e^{-iz}}{2i} \end{align}</math> が成り立つ。この事実により、級数によらずこの等式をもって[[複素数|複素変数]]の正弦・余弦関数の定義とすることもある。また、 :<math>\begin{align} \cos(iz) &= \frac{e^{-z} +e^z}{2} = \cosh z, \\ \sin(iz) &= \frac{e^{-z} -e^z}{2i} = i\sinh z \end{align}</math> が成り立つ。ここで {{math|cosh ''z'', sinh ''z''}} は[[双曲線関数]]を表す。この等式は三角関数と双曲線関数の関係式と捉えることもできる。[[複素数]] {{mvar|z}} を {{math|''z'' {{=}} ''x'' + ''iy'' (''x'', ''y'' &isin; '''R''')}} と表現すると、加法定理より :<math>\begin{align} \cos z &= \cos(x + iy) = \cos x \cosh y - i \sin x \sinh y, \\ \sin z &= \sin(x + iy) = \sin x \cosh y + i \cos x \sinh y \end{align}</math> が成り立つ。 他の三角関数は {{math|csc''z'' {{=}} 1&thinsp;/&thinsp;sin''z''}}, {{math|sec''z'' {{=}} 1&thinsp;/&thinsp;cos''z''}}, {{math|tan''z'' {{=}} sin''z''&thinsp;/&thinsp;cos''z''}}, {{math|cot''z'' {{=}} cos''z''&thinsp;/&thinsp;sin''z''}} によって定義できる。 <gallery perrow="2" widths="249px" heights="146px"> ファイル:Cos Re.png|{{math|cos(''x'' + ''iy'')}} の実部のグラフ ファイル:Cos Im.png|{{math|cos(''x'' + ''iy'')}} の虚部のグラフ ファイル:Sin Re.png|{{math|sin(''x'' + ''iy'')}} の実部のグラフ ファイル:Sin Im.png|{{math|sin(''x'' + ''iy'')}} の虚部のグラフ </gallery> == 球面三角法 == {{main|球面三角法}} 球面の三角形 ABC の内角を {{math|''a'', ''b'', ''c''}}, 各頂点の対辺に関する球の中心角を {{math|''α'', ''β'', ''γ''}} とするとき、次のような関係が成立する。余弦公式や正弦余弦公式は式の対称性により各記号を入れ替えたものも成立する。 ; 正弦公式 : {{math|sin''a'' : sin''b'' : sin''c'' {{=}} sin''α'' : sin''β'' : sin''γ''}} ; 余弦公式 : {{math|cos''a'' {{=}} &minus;cos''b'' cos''c'' + sin''b'' sin''c'' cos''α''}} ; 余弦公式 : {{math|cos''α'' {{=}} cos''β'' cos''γ'' + sin''β'' sinγ cos''a''}} ; 正弦余弦公式 : {{math|sin''a'' cos''β'' {{=}} cos''b'' sin''c'' &minus; sin''b'' cos''c'' cos''α''}} == 語源 == 三角関数の英語の名称の語源について記す。 sineはもとはchord-half(半弦)を意味する[[サンスクリット語]] jya ̄-ardha起源であり、省略形ji ̄va ̄が[[アラビア語]]に音訳されてjibaとなったが、[[1145年]]に[[チェスターのロバート]]が[[フワーリズミー]]の{{仮リンク|ヒサーブ・アル=ジャブル・ワル=ムカーバラ|en| The Compendious Book on Calculation by Completion and Balancing}}を[[ラテン語]]に翻訳する際に、jaibと混同した事で胸、湾の意味のsinusと翻訳された<ref>Victor J. Katz (2008), ''A History of Mathematics'', Boston: Addison-Wesley, 3rd. ed., p. 253, sidebar 8.1. {{cite web |url=http://deti-bilingual.com/wp-content/uploads/2014/06/3rd-Edition-Victor-J.-Katz-A-History-of-Mathematics-Pearson-2008.pdf |title=Archived copy |accessdate=2020-12-22 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150414065531/http://deti-bilingual.com/wp-content/uploads/2014/06/3rd-Edition-Victor-J.-Katz-A-History-of-Mathematics-Pearson-2008.pdf |archivedate=2015-04-14 }}</ref><ref>{{cite web|title=The Etymology of “Sine”|url= http://www-math.ucdenver.edu/~wcherowi/courses/history2/hmsine.html|website= Bill Cherowitzo's Home Page, Mathematical Department, University of Colorado at Denver|accessdate=December 22, 2020}}</ref>。 tangentは”touching”を意味するラテン語tangens由来で、secantは”cutting”を意味するラテン語secans由来である<ref>New Oxford American Dictionary</ref>。 cosine、cotangent、cosecantはそれぞれ[[接頭辞]]のco-がついた形であり、co-は{{仮リンク|cofunction|en|cofunction}}と共通し、これは{{仮リンク|compliment angle|en|complementary angle}}([[直角三角形]]の[[直角]]でないもう一つの角、[[余角]])に対するsine、tangent、secantという意味である。cosine、cotangentが初めて書かれた形で確認されるのは[[1620年]]の[[エドマンド・ガンター]]による”Canon triangulorum”の中である。ラテン語のcosinusとして登場し、これはsinus complementiの略である<ref>{{Cite journal |author=Roegel, Deni |year=2010 |title=A reconstruction of Gunter's Canon triangulorum (1620) |url=https://inria.hal.science/inria-00543938/document}}</ref>。 日本語の正弦、余弦に関しては、[[徐光啓]]らが編纂した『崇禎暦書』の中で、{{仮リンク|羅雅谷|en|Giacomo Rho}}が[[1631年]]に著した『測量全義』の八線のうちに見られる<ref>{{Cite journal|和書|author=杜石然 |date=2001-07 |url=https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_CB000100001982 |title=イエズス会士と西洋数学の伝入 |journal=中国言語文化研究 |ISSN=1346-6305 |publisher=佛教大学中国言語文化研究会 |volume=1 |pages=1-22 |naid=110007974156 |CRID=1050287838661758848 |ref=harv}}</ref><ref name="sitekikousatsu" >{{Cite journal|和書|author=伊達文治 |date=2015-03 |url=https://hdl.handle.net/10513/00006983 |title=三角法と対数の教材に関する史的考察 |journal=上越教育大学数学研究 |publisher=上越教育大学数学教室 |volume=30 |pages=13-22 |hdl=10513/00006983 |naid=120005703229 |CRID=1050845763704678656}}</ref>。「正」の漢字には、「真向かいの」「主となるもの」という意味がある<ref>角川新字源 改訂版 角川学芸出版</ref>。 {{see also|[[三角法#歴史|三角法の歴史]]}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="三角関数と円周率" >{{Cite web|和書|title=三角関数と円周率|author=幡谷泰史|coauthors=廣澤史彦<!--|first1=泰史|last1=幡谷|first2=史彦|last2=廣澤-->|url=https://ds0n.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~hirosawa/other/menkyo/text.pdf|format=PDF|accessdate=2023-09-20}}</ref> <ref name="三角関数のさまざまな定義" >{{Cite web|和書|title=三角関数のさまざまな定義|first=等|last=瓜生|url=http://staff.miyakyo-u.ac.jp/~h-uri/blog/archive/lecture/sugakuenshu/2000/sankaku.pdf|format=PDF|accessdate=2014-10-08}}{{404|date=2023-09}}</ref> <ref name="三角関数の研究">{{Cite journal|和書|author=山口格 |title=三角関数の研究 |journal=教授学の探究 |issn=0288-3511 |publisher=北海道大学教育学部教育方法学研究室 |year=1989 |month=mar |issue=7 |pages=1-23 |naid=120000962860 |url=https://hdl.handle.net/2115/13556}}</ref> <ref name="NaitoFourierLecture1999">{{Cite web|和書|first=久資|last=内藤|url=https://www.math.nagoya-u.ac.jp/~naito/lecture/1999/Fourier/note.pdf|format=PDF|title=1999年度後期「Fourier 変換とその応用 "403 Forbidden"|year=1999|accessdate=2014-10-17}}{{404|date=2023-09}}</ref> <ref name="Leff">{{Cite book|title=PreCalculus the Easy Way|first=Lawrence S.|last=Leff|url=https://books.google.co.jp/books?id=y_7yrqrHTb4C&pg=PA296&redir_esc=y&hl=ja|isbn=0-7641-2892-2|page=296|edition=7th|publisher=Barron's Educational Series|year=2005|ref=harv}}</ref> <!-- <ref name="指数函数の定義と基本的性質">{{cite web|url=http://www.math.sci.hokudai.ac.jp/~ozawa/pdf/sisu.pdf|format=PDF|title=指数函数の定義と基本的性質|accessdate=2015-3-27}}{{リンク切れ|date=2021年6月}}</ref> --> }} == 参考文献 == * {{cite book||first=Eli|last=Maor|authorlink=:en:Eli Maor|title=Trigonometric Delights|year=1998|publisher=[[プリンストン大学|Princeton University Press]]|isbn=978069105754-5|ref=harv}} * {{cite book|和書|author=志賀浩二|authorlink=志賀浩二|title=数の大航海―対数の誕生と広がり|date=1999-07|publisher=[[日本評論社]]|isbn=978-4-535-78289-1|ref=harv}} * {{cite book|和書|author=高瀬正仁|authorlink=高瀬正仁|title=古典的難問に学ぶ微分積分|date=2013-07|publisher=[[共立出版]]|isbn=978-4-320-11041-0|ref=harv}} * {{cite book||first=Ivan Matveyevich|last=Vinogradov|authorlink=:en:Ivan Matveyevich Vinogradov|title=The Method of Trigonometrical Sums in the Theory of Numbers|edition=revised|date=2004-09-10|publisher=Dover|isbn=978-048643878-8|ref=harv}} * {{cite book|和書|author1=黒川信重|authorlink1=黒川信重|author2=小山信也|authorlink2=小山信也|title=多重三角関数論講義|date=2010-11-08|publisher=[[日本評論社]]|isbn=978-4-535-785557|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=杉浦光夫|authorlink=杉浦光夫|title=解析入門I|year=1980|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4-13-062005-5|series=基礎数学2|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=黒田成俊|authorlink=黒田成俊|title= 微分積分|year=2002|publisher=共立出版|isbn=978-4320015531|series=共立講座21世紀の数学 第1巻|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=高木貞治|authorlink=高木貞治|title=定本 解析概論|year=2010|publisher=岩波書店|isbn=978-4000052092|edition=改訂第3版|ref=harv}} * {{Cite 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女真
女真(女眞、じょしん、満州語: ᠵᡠᡧᡝᠨ 転写:jušen)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満洲にかけて居住していたツングース系民族。民族の聖地を長白山とする。10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。 「女直」は遼王朝の興宗の諱(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになったといわれる。12世紀、女真族は中国東北部に金王朝を建てたが、金を滅ぼしたモンゴル帝国および元朝時代の漢文資料では「女直」の表記が多く見受けられ、同じくモンゴル帝国時代に編纂されたペルシア語の歴史書『集史』などでも金朝や女真人に言及する場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha が使用されている。 中国東北地方の諸民族については周代より記録があり、それによれば、そのころ「粛慎(しゅくしん)」と称される狩猟民が毛皮や青石製の石鏃、あるいは楛矢(こし)といった物産を中原の諸王朝に献上していた。貊(はく)という民族もあったが、戦国時代から漢代にかけての漢民族の進出と楽浪郡(前108年設置)以下4郡の設置という動きのなかで、貊のなかから夫余(ふよ)が起こり、紀元前後以降は、夫余、挹婁(ゆうろう)、勿吉(もっきつ)、靺鞨(まっかつ)といった諸民族が興亡したことが知られている。 夫余、勿吉、靺鞨などの集団は、狩猟・牧畜を生業としながらも、かなり早い段階から農耕を生活にとりいれていた。靺鞨は、農業を主な生業とする粟末靺鞨・白山靺鞨の2靺鞨と、純ツングース系で狩猟に多くを依存する安車骨靺鞨・伯咄靺鞨・払涅靺鞨・号室靺鞨・黒水靺鞨の5靺鞨が有力であった。高句麗を建国したのも韓族ではなく、ツングース系の貊族であった。粟末と白山の両靺鞨は、高句麗に従属したが、他はこれと対立した。7世紀後半、高句麗が滅び、7世紀末葉には粟末靺鞨に高句麗の遺民を加え、南満洲から現在の朝鮮半島北部にかけての地に、「海東の盛国」と称された渤海が建国された。渤海国に対しては、七靺鞨のうち黒水靺鞨以外の諸靺鞨が従った。渤海はまた、日本に一時朝貢し、渤海使を派遣した。以上のうち、貊、夫余、勿吉、靺鞨はツングース系の民族と考えられている。なお、靺鞨族の文化については、考古学的研究によってその多くが解明されてきている。 「女真」は本来、「黒水靺鞨」と呼ばれた集団による自称であるといわれ、唐の時代に入朝した靺鞨人の名乗りが「女真」の初見であると記録されている。モンゴル系契丹人の建てた遼の時代に入ると、松花江・豆満江流域、朝鮮半島北部の咸鏡南道・咸鏡北道方面に居住域を広げ、遼と高麗に朝貢し、「黒水女真」「東女真」と称された。女真族は、主として農耕・漁撈・牧畜・狩猟に従事し、中国内地との間で朝鮮人参(オタネニンジン)や獣の毛皮を交易していた。馬や金の産地でもあり、上記のものも含め高麗や契丹と交易し、武器などを得た。 10世紀後半から11世紀にかけて、西南日本では長徳の入寇など高麗人の入寇もあったが、1019年の刀伊の入寇において対馬と九州の大宰府を襲った「刀伊(とい)」という海賊集団は、女真系の一部族が主体だったと考えられている。刀伊とは、「東夷」の意味であるとも、朝鮮語で「外様」を意味するともいわれる。また、「刀伊」の構成員については高麗人や契丹人なども混じっていたといわれるが詳細は不明である。 契丹人王朝の支配が中国東北部におよぶと、黒水靺鞨を起源とする女真は、ツングース本来の漁撈や農耕、養豚、狩猟を生業としていた生女真と、遼にしたがい、その領土内に移されて遼の戸籍につけられていた熟女真に大別された。渤海は建国当初から唐の文化を導入しており、遼もまた中国内地への進出とともに政治・文化の漢化が進行したので熟女真の方がより漢化の度合いが大きかった。 「海東の盛国」渤海国は10世紀に滅亡するが、11世紀には満洲族の直接の祖先の一つと考えられる半農半猟の女真(女直)が文献に登場する。12世紀のはじめ、生女真の完顔氏(ワンヤン氏)から阿骨打(アクダ)が出て女真の統一を進め、1115年には契丹族による遊牧民王朝、遼から自立して金を建国した。完顔氏は現在の黒竜江省ハルビン市阿城区を中心として周辺の諸部をまとめ、次第に南北に勢力を拡大して満洲東部の女真族を統一した。金王朝の首府は、最初上京会寧府(ハルビン市阿城区)に置かれた。 遼代の女真族のなかでもさほど有力とはいえない完顔部が金王朝を樹立させるにいたった原因は、砂金を産する河川流域を支配地に収めたことによると考えられる。金は、遼を滅ぼし、さらに1126年、漢民族王朝の宋の徽宗・欽宗のニ帝および皇族・重臣らを捕らえて中国北半を支配して宋朝を南に追いやり、より漢化を進めようとしたワンヤン・テクナイ(海陵王)は1153年に燕京(いまの北京市)に都を移した。金は、漢字をもとにして女真文字という独特の文字体系を整備し、政府組織を中央、地方ともに中国風にして支配体制を整えたが、軍事権力を強く握って独占したのは女真族であり、政府首脳もまた女真族によって占められた。女真人には行政と軍事を兼ねた猛安・謀克の制度など独自の統治体制がとられて特別の保護を受け、漢化を防いだ。東北部(満洲)にあっては大部分が猛安・謀克制によって統治されたが、他民族の住む西部や南部では州県制による支配がつづいた。 金はしかし、1206年にチンギス・カンによって成立したモンゴル帝国の猛攻を受けて劣勢に立ち、都を開封に移したものの1232年にはその開封が包囲された。そして、1234年、オゴデイらの進撃で逃走していた哀宗が自殺して金は滅んだ。一方、これに先立ち、契丹の反乱鎮圧を称して挙兵していた金王朝の将領蒲鮮万奴は、1215年に金より自立して「天王」を名乗り、東夏国(大真国)を建国した。モンゴルに服属したり自立したりを繰り返していたが、この国もまた、1233年、オゴデイの子グユクによって滅ぼされた。 女真族は、金がモンゴル帝国に滅ぼされてからのちは、モンゴル帝国、大元、大明の支配下に置かれた。その間、金の時代に創始した女真文字もしだいに失って金建国以前の部族集団に後退した。女真族の家族は当時、主人と奴婢に完全に二分されており、主人は狩猟や採集、交易、戦争などの外仕事、奴婢は農耕やブタの飼養など食糧生産を担当するという分業体制が確立しており、その役割は世襲されていったが、起居や食事を代々ともにし、双方の物産・物資は分け隔てなく均等に分配されたから、両者の結びつきはきわめて緊密であった。 元代から明代にかけての女真人は、 の3種族に大別されて、モンゴル族や漢族の支配下にあった。 東北部に残留した女真(女直)は、元代には遼陽等処行中書省の管轄下に入ったが、その統制はゆるやかなもので、ほぼ完全な自治がゆるされていた。元代の女真は中国東北部から朝鮮半島北部にかけて居住して元の支配を受けており、元の日本侵攻(元寇)にも女真兵が加わっている。元の滅亡後、女真はモンゴルから離れ、小集団ごとに明に服属した。明帝国は、対モンゴル政策の一環として女真族を利用する政策を採用し、女真を部族ごとに衛所制によって編成し、部族長に官職を授け、それを示す勅書・印璽をあたえて間接統治を行った。そのうえで部族長に対し、朝貢・馬市にかかわる特権の付与に便宜を図ったのであったが、これは、自給自足の難しい女真族の社会に権威と利権をめぐる熾烈な争奪抗争を生むこととなって、結果的に女真族内に覇権闘争を生んだ。 宣徳9年(1434年)、明の支配下にあった東北部の女真族は飢饉に見舞われ、娘たちを奴隷として売ることを余儀なくされ、遼東に移って明王朝政府に援助と救済を求めた。 一方、朝鮮半島では高麗に代わって登場した李氏朝鮮が世宗の時代に北部の女真居住地域に進出した。1437年には東北六鎮(中国語版)、1443年には西北四郡(中国語版)が置かれ、それぞれ咸鏡道や平安道に組み込まれた。朝鮮半島北部からは女真人の姿は失われていったが、15世紀から16世紀にかけて、鴨緑江や豆満江流域の女真人たちは、たびたび李氏朝鮮に反撃して住地の奪還を図ったため、豆満江南岸地域は争奪の繰り返される地となった。 16世紀末葉、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)によって明朝の女真に対する統制がゆるみ、建州女直のスクスフ部から出た愛新覚羅氏のヌルハチが台頭、1588年には建州女真を統一した。その後、建州・海西女真に野人女真の一部を加えた女真族をほぼ統一し、1616年に後金王朝を建てた。1627年、後金は親明的な政策をとっていた朝鮮に侵入・制圧し(丁卯胡乱)、後金を兄、朝鮮を弟とすることなどを定めた和議を結んだ。 1635年にヌルハチの子息ホンタイジがモンゴルのチャハル部を下して元の玉璽を入手すると、漢字としては蔑称のニュアンスを含むうえ、モンゴル高原の契丹人に支配されていた当時の「女真」の民族名を嫌い、1635年11月22日(天聡9年十月庚寅)に民族名を満洲族に改めさせた。また、それまでは女真族王朝である金の後裔を名乗っていたが、1636年には国号も「清」に改めた。1636年、ホンタイジは朝鮮に対して臣従するよう要求したが、朝鮮の朝廷では斥和論(主戦論)が大勢を占め、仁祖は清を「蛮夷」と呼んで自尊心と名分を掲げ、臣従を拒絶した。清朝は謝罪がなければ攻撃すると威嚇したが、朝鮮側はこれを黙殺したためホンタイジは朝鮮侵攻を決意して丙子胡乱が起こり、1637年、朝鮮は三田渡の盟約を結ばされて清の属国となった。2度にわたる胡乱で、現在の北朝鮮北部に居た女真人は新たに入植していた朝鮮人とともに清領に連行された。当地は無人の地となったが、跡地には朝鮮人が入植した。 1644年、フリン (順治帝) 即位後の清は山海関を越えて万里の長城以南に進出し、李自成の乱で滅亡した明にかわって北京に入城、以後、1911年の辛亥革命に至るまで中国大陸に君臨した。清帝国は、中国の伝統的な統治機構を踏襲する一方で、満洲族独自の軍事・行政・生産機構である八旗制度を制定し、自らのヘアスタイルである辮髪を漢族にも強要し、東北地方への入植を禁ずるなどの非漢化政策を採用した。明滅亡後は、明の旧領を征服し、八旗を北京に集団移住させて漢人の土地を満洲人が支配する体制を築き上げた。 女真族の宗教は、婚姻儀礼や葬送儀礼などにおいて民族独自のシャーマニズムや祖先崇拝の要素が含まれていた。自然崇拝においては、火神・星神および神山・神石を尊崇し、とりわけ星神に対する信仰は最も普遍的なものであった。『吉林通志』にも「祭祀典礼は、満洲の最も重んずるは、一に祭星、二に祭祖」とある。星神とは、具体的には北斗七星であり、満洲語では「ナダン(七つ)ウシハ(星)」と称する。記録によれば、満洲族(女真族)の祭星は、多くは月が沈む後に行う背灯祭で、そこでは灯火がかき消され静寂のなかで執り行われ、通常は占卜や祟り祓い、病祓いなどの巫術と結びついた除災の祭りである。同じツングース系のホジェン族(赫哲族、ロシアでは「ナナイ」と称する)もまた、七星を除災の神とみなし、「吉星神」と呼称する。 長白山(朝鮮の呼称では「白頭山」)周辺は、もともと濊・貊・粛慎が居住しており、彼らの聖地だった。その後この地における濊貊の勢いが衰え、粛慎の流れを汲む女真がこの山を聖地とした。金は、1172年には山に住む神に「興国霊応王」の称号を贈り、1193年には「開天宏聖帝」と改めている。 『満文老檔』天命6年(1621年)条や満文『内国史院檔』天聰8年(1634年)条には、当時の女真族(満洲族)が日食や月食という天文現象を「天界の犬が太陽・月を食べること」であると考えていたことを示唆する記述が収載されており、こうした伝承は他のツングース系の諸民族や朝鮮民族、テュルク系民族、また、パレオアジア語系とみられるニヴフ(ギリヤーク)にもみられる。 また、『満洲実録』や『満文老檔』には、天命元年(1616年)、ヌルハチがダルハン・ヒヤとションコロ・バトゥルに命じてサハリヤン部を討伐させたとき、アムール川(黒竜江)の渡河に際して、往還ともに時ならぬ奇跡的な結氷に助けられて討伐を成功させたことが史実として記されている。これに似た説話として、イチェ・マンジュ(伊徹満洲 ice manju/ 新満洲)人の伝承として、1.背後に敵軍が迫り、2.行く手を大河が遮り滅亡の危機を迎えるが、3.大河に魚の浮き橋ができて難を逃れ、4.滅亡を免れる(新天地へ移住する)という4つのモチーフをともなう説話も伝わっている。この4モチーフは、夫余・高句麗の開国説話(東明王・朱蒙伝説)にも共通し、オロチョン族やナナイ族などツングース系民族の説話にもみられる。 女真族の社会には強い父系原理が働いており、「ハラ(hala)」または「ムクン(mukūn)」と呼ばれる父系氏族が主要な社会組織であり、父系拡大家族が主要な経済単位となった。ムクンはハラより派生したと考えられ、清代にあっては、ハラはすでに実体をともなった血縁組織とはみられず、ムクンだけがのこったが、野人女直と呼ばれた人びととその末裔にあってはハラ組織が濃厚に残存した。1個のハラは複数のムクンを包含しているのに対し、1個のムクンはただ1つのハラに帰属しており、当初はハラが族外婚の単位であると同時に族内への受け入れ機能を有し、血讐の義務をともない、また、精神生活の単位でもあった。それに対し、ムクンはハラの瓦解を受けて不断に分節化し、発展していったものであり、のちには同一ハラであっても異なるムクンであれば、通婚が可能となった。 女真族(満洲族)の伝統的な婚姻は、族外婚によって特徴づけられる。族外婚規制は、同じ氏族同士は結婚しないという原則である。上述した「ハラ(旧氏族)」は当初、族外婚の単位であったが、その分節化によって生じた「ムクン(新氏族)」が現代における族外婚単位となっている。女真族は古くは、子が継母を娶ったり、弟が嫂を娶ったりする収継婚も多かったが、ホンタイジの時代に入ると漢人的な観念が浸透して旧俗矯正が図られ、収継婚が禁止された。 女真族の旧俗では、火葬が行われていた。ヌルハチもホンタイジも火葬され、清朝3代フリン(順治帝)は火葬制度を詳細に定め、彼自身も火葬された。女真の人びとはまた、死者の葬送のために牛・馬を殺してこれを死者に捧げ、その肉を食すという旧俗をもっていた。このような習俗は康熙帝の頃まではつづいたが、やがて漢民族の習俗を取り入れ、紙馬をもって祭礼をおこなうようになった。殉死の風習も広く行われ、ヌルハチの妻の死去の際には4人の奴婢が、ヌルハチ自身の死去の際にも2人の側室が殉死した。ホンタイジは殉死の強制を禁止したが、禁止されたのは強制行為のみであって殉死そのものは否定されず、ホンタイジの死去の際には近侍2名が殉死した。殉死の旧俗が満洲族と改名してのちも続けられたのは、奴婢の制度と無関係ではないと考えられる。康熙帝が在位中に殉死の禁止を諭す命令を発し、以降は紙人を焼くことで死者の霊魂を祭ることとなった。 『松漠紀聞』『満洲源流考』などのいくつかの中国史料には、女真完顔部の先祖であり、金朝の始祖とされる函普が「新羅人」あるいは「高麗より来た」と記録されている。これを根拠に韓国・北朝鮮では女真のルーツは朝鮮民族であり、金・清の歴史を韓国・朝鮮の歴史に含めるべきだという主張がある。しかしながら、史料解釈に問題があり、中国・日本などの専門家からは信憑性が疑われている。
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"夫余、勿吉、靺鞨などの集団は、狩猟・牧畜を生業としながらも、かなり早い段階から農耕を生活にとりいれていた。靺鞨は、農業を主な生業とする粟末靺鞨・白山靺鞨の2靺鞨と、純ツングース系で狩猟に多くを依存する安車骨靺鞨・伯咄靺鞨・払涅靺鞨・号室靺鞨・黒水靺鞨の5靺鞨が有力であった。高句麗を建国したのも韓族ではなく、ツングース系の貊族であった。粟末と白山の両靺鞨は、高句麗に従属したが、他はこれと対立した。7世紀後半、高句麗が滅び、7世紀末葉には粟末靺鞨に高句麗の遺民を加え、南満洲から現在の朝鮮半島北部にかけての地に、「海東の盛国」と称された渤海が建国された。渤海国に対しては、七靺鞨のうち黒水靺鞨以外の諸靺鞨が従った。渤海はまた、日本に一時朝貢し、渤海使を派遣した。以上のうち、貊、夫余、勿吉、靺鞨はツングース系の民族と考えられている。なお、靺鞨族の文化については、考古学的研究によってその多くが解明されてきている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「女真」は本来、「黒水靺鞨」と呼ばれた集団による自称であるといわれ、唐の時代に入朝した靺鞨人の名乗りが「女真」の初見であると記録されている。モンゴル系契丹人の建てた遼の時代に入ると、松花江・豆満江流域、朝鮮半島北部の咸鏡南道・咸鏡北道方面に居住域を広げ、遼と高麗に朝貢し、「黒水女真」「東女真」と称された。女真族は、主として農耕・漁撈・牧畜・狩猟に従事し、中国内地との間で朝鮮人参(オタネニンジン)や獣の毛皮を交易していた。馬や金の産地でもあり、上記のものも含め高麗や契丹と交易し、武器などを得た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "10世紀後半から11世紀にかけて、西南日本では長徳の入寇など高麗人の入寇もあったが、1019年の刀伊の入寇において対馬と九州の大宰府を襲った「刀伊(とい)」という海賊集団は、女真系の一部族が主体だったと考えられている。刀伊とは、「東夷」の意味であるとも、朝鮮語で「外様」を意味するともいわれる。また、「刀伊」の構成員については高麗人や契丹人なども混じっていたといわれるが詳細は不明である。", "title": "歴史" }, { 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}, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "金はしかし、1206年にチンギス・カンによって成立したモンゴル帝国の猛攻を受けて劣勢に立ち、都を開封に移したものの1232年にはその開封が包囲された。そして、1234年、オゴデイらの進撃で逃走していた哀宗が自殺して金は滅んだ。一方、これに先立ち、契丹の反乱鎮圧を称して挙兵していた金王朝の将領蒲鮮万奴は、1215年に金より自立して「天王」を名乗り、東夏国(大真国)を建国した。モンゴルに服属したり自立したりを繰り返していたが、この国もまた、1233年、オゴデイの子グユクによって滅ぼされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "女真族は、金がモンゴル帝国に滅ぼされてからのちは、モンゴル帝国、大元、大明の支配下に置かれた。その間、金の時代に創始した女真文字もしだいに失って金建国以前の部族集団に後退した。女真族の家族は当時、主人と奴婢に完全に二分されており、主人は狩猟や採集、交易、戦争などの外仕事、奴婢は農耕やブタの飼養など食糧生産を担当するという分業体制が確立しており、その役割は世襲されていったが、起居や食事を代々ともにし、双方の物産・物資は分け隔てなく均等に分配されたから、両者の結びつきはきわめて緊密であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "元代から明代にかけての女真人は、", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "の3種族に大別されて、モンゴル族や漢族の支配下にあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "東北部に残留した女真(女直)は、元代には遼陽等処行中書省の管轄下に入ったが、その統制はゆるやかなもので、ほぼ完全な自治がゆるされていた。元代の女真は中国東北部から朝鮮半島北部にかけて居住して元の支配を受けており、元の日本侵攻(元寇)にも女真兵が加わっている。元の滅亡後、女真はモンゴルから離れ、小集団ごとに明に服属した。明帝国は、対モンゴル政策の一環として女真族を利用する政策を採用し、女真を部族ごとに衛所制によって編成し、部族長に官職を授け、それを示す勅書・印璽をあたえて間接統治を行った。そのうえで部族長に対し、朝貢・馬市にかかわる特権の付与に便宜を図ったのであったが、これは、自給自足の難しい女真族の社会に権威と利権をめぐる熾烈な争奪抗争を生むこととなって、結果的に女真族内に覇権闘争を生んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "宣徳9年(1434年)、明の支配下にあった東北部の女真族は飢饉に見舞われ、娘たちを奴隷として売ることを余儀なくされ、遼東に移って明王朝政府に援助と救済を求めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一方、朝鮮半島では高麗に代わって登場した李氏朝鮮が世宗の時代に北部の女真居住地域に進出した。1437年には東北六鎮(中国語版)、1443年には西北四郡(中国語版)が置かれ、それぞれ咸鏡道や平安道に組み込まれた。朝鮮半島北部からは女真人の姿は失われていったが、15世紀から16世紀にかけて、鴨緑江や豆満江流域の女真人たちは、たびたび李氏朝鮮に反撃して住地の奪還を図ったため、豆満江南岸地域は争奪の繰り返される地となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "16世紀末葉、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)によって明朝の女真に対する統制がゆるみ、建州女直のスクスフ部から出た愛新覚羅氏のヌルハチが台頭、1588年には建州女真を統一した。その後、建州・海西女真に野人女真の一部を加えた女真族をほぼ統一し、1616年に後金王朝を建てた。1627年、後金は親明的な政策をとっていた朝鮮に侵入・制圧し(丁卯胡乱)、後金を兄、朝鮮を弟とすることなどを定めた和議を結んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1635年にヌルハチの子息ホンタイジがモンゴルのチャハル部を下して元の玉璽を入手すると、漢字としては蔑称のニュアンスを含むうえ、モンゴル高原の契丹人に支配されていた当時の「女真」の民族名を嫌い、1635年11月22日(天聡9年十月庚寅)に民族名を満洲族に改めさせた。また、それまでは女真族王朝である金の後裔を名乗っていたが、1636年には国号も「清」に改めた。1636年、ホンタイジは朝鮮に対して臣従するよう要求したが、朝鮮の朝廷では斥和論(主戦論)が大勢を占め、仁祖は清を「蛮夷」と呼んで自尊心と名分を掲げ、臣従を拒絶した。清朝は謝罪がなければ攻撃すると威嚇したが、朝鮮側はこれを黙殺したためホンタイジは朝鮮侵攻を決意して丙子胡乱が起こり、1637年、朝鮮は三田渡の盟約を結ばされて清の属国となった。2度にわたる胡乱で、現在の北朝鮮北部に居た女真人は新たに入植していた朝鮮人とともに清領に連行された。当地は無人の地となったが、跡地には朝鮮人が入植した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1644年、フリン (順治帝) 即位後の清は山海関を越えて万里の長城以南に進出し、李自成の乱で滅亡した明にかわって北京に入城、以後、1911年の辛亥革命に至るまで中国大陸に君臨した。清帝国は、中国の伝統的な統治機構を踏襲する一方で、満洲族独自の軍事・行政・生産機構である八旗制度を制定し、自らのヘアスタイルである辮髪を漢族にも強要し、東北地方への入植を禁ずるなどの非漢化政策を採用した。明滅亡後は、明の旧領を征服し、八旗を北京に集団移住させて漢人の土地を満洲人が支配する体制を築き上げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "女真族の宗教は、婚姻儀礼や葬送儀礼などにおいて民族独自のシャーマニズムや祖先崇拝の要素が含まれていた。自然崇拝においては、火神・星神および神山・神石を尊崇し、とりわけ星神に対する信仰は最も普遍的なものであった。『吉林通志』にも「祭祀典礼は、満洲の最も重んずるは、一に祭星、二に祭祖」とある。星神とは、具体的には北斗七星であり、満洲語では「ナダン(七つ)ウシハ(星)」と称する。記録によれば、満洲族(女真族)の祭星は、多くは月が沈む後に行う背灯祭で、そこでは灯火がかき消され静寂のなかで執り行われ、通常は占卜や祟り祓い、病祓いなどの巫術と結びついた除災の祭りである。同じツングース系のホジェン族(赫哲族、ロシアでは「ナナイ」と称する)もまた、七星を除災の神とみなし、「吉星神」と呼称する。", "title": "宗教・精神文化" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "長白山(朝鮮の呼称では「白頭山」)周辺は、もともと濊・貊・粛慎が居住しており、彼らの聖地だった。その後この地における濊貊の勢いが衰え、粛慎の流れを汲む女真がこの山を聖地とした。金は、1172年には山に住む神に「興国霊応王」の称号を贈り、1193年には「開天宏聖帝」と改めている。", "title": "宗教・精神文化" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "『満文老檔』天命6年(1621年)条や満文『内国史院檔』天聰8年(1634年)条には、当時の女真族(満洲族)が日食や月食という天文現象を「天界の犬が太陽・月を食べること」であると考えていたことを示唆する記述が収載されており、こうした伝承は他のツングース系の諸民族や朝鮮民族、テュルク系民族、また、パレオアジア語系とみられるニヴフ(ギリヤーク)にもみられる。", "title": "宗教・精神文化" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また、『満洲実録』や『満文老檔』には、天命元年(1616年)、ヌルハチがダルハン・ヒヤとションコロ・バトゥルに命じてサハリヤン部を討伐させたとき、アムール川(黒竜江)の渡河に際して、往還ともに時ならぬ奇跡的な結氷に助けられて討伐を成功させたことが史実として記されている。これに似た説話として、イチェ・マンジュ(伊徹満洲 ice manju/ 新満洲)人の伝承として、1.背後に敵軍が迫り、2.行く手を大河が遮り滅亡の危機を迎えるが、3.大河に魚の浮き橋ができて難を逃れ、4.滅亡を免れる(新天地へ移住する)という4つのモチーフをともなう説話も伝わっている。この4モチーフは、夫余・高句麗の開国説話(東明王・朱蒙伝説)にも共通し、オロチョン族やナナイ族などツングース系民族の説話にもみられる。", "title": "宗教・精神文化" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "女真族の社会には強い父系原理が働いており、「ハラ(hala)」または「ムクン(mukūn)」と呼ばれる父系氏族が主要な社会組織であり、父系拡大家族が主要な経済単位となった。ムクンはハラより派生したと考えられ、清代にあっては、ハラはすでに実体をともなった血縁組織とはみられず、ムクンだけがのこったが、野人女直と呼ばれた人びととその末裔にあってはハラ組織が濃厚に残存した。1個のハラは複数のムクンを包含しているのに対し、1個のムクンはただ1つのハラに帰属しており、当初はハラが族外婚の単位であると同時に族内への受け入れ機能を有し、血讐の義務をともない、また、精神生活の単位でもあった。それに対し、ムクンはハラの瓦解を受けて不断に分節化し、発展していったものであり、のちには同一ハラであっても異なるムクンであれば、通婚が可能となった。", "title": "氏族制と社会文化" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "女真族(満洲族)の伝統的な婚姻は、族外婚によって特徴づけられる。族外婚規制は、同じ氏族同士は結婚しないという原則である。上述した「ハラ(旧氏族)」は当初、族外婚の単位であったが、その分節化によって生じた「ムクン(新氏族)」が現代における族外婚単位となっている。女真族は古くは、子が継母を娶ったり、弟が嫂を娶ったりする収継婚も多かったが、ホンタイジの時代に入ると漢人的な観念が浸透して旧俗矯正が図られ、収継婚が禁止された。", "title": "氏族制と社会文化" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "女真族の旧俗では、火葬が行われていた。ヌルハチもホンタイジも火葬され、清朝3代フリン(順治帝)は火葬制度を詳細に定め、彼自身も火葬された。女真の人びとはまた、死者の葬送のために牛・馬を殺してこれを死者に捧げ、その肉を食すという旧俗をもっていた。このような習俗は康熙帝の頃まではつづいたが、やがて漢民族の習俗を取り入れ、紙馬をもって祭礼をおこなうようになった。殉死の風習も広く行われ、ヌルハチの妻の死去の際には4人の奴婢が、ヌルハチ自身の死去の際にも2人の側室が殉死した。ホンタイジは殉死の強制を禁止したが、禁止されたのは強制行為のみであって殉死そのものは否定されず、ホンタイジの死去の際には近侍2名が殉死した。殉死の旧俗が満洲族と改名してのちも続けられたのは、奴婢の制度と無関係ではないと考えられる。康熙帝が在位中に殉死の禁止を諭す命令を発し、以降は紙人を焼くことで死者の霊魂を祭ることとなった。", "title": "氏族制と社会文化" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "『松漠紀聞』『満洲源流考』などのいくつかの中国史料には、女真完顔部の先祖であり、金朝の始祖とされる函普が「新羅人」あるいは「高麗より来た」と記録されている。これを根拠に韓国・北朝鮮では女真のルーツは朝鮮民族であり、金・清の歴史を韓国・朝鮮の歴史に含めるべきだという主張がある。しかしながら、史料解釈に問題があり、中国・日本などの専門家からは信憑性が疑われている。", "title": "女真の出自をめぐる論争" } ]
女真は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満洲にかけて居住していたツングース系民族。民族の聖地を長白山とする。10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。 「女直」は遼王朝の興宗の諱(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになったといわれる。12世紀、女真族は中国東北部に金王朝を建てたが、金を滅ぼしたモンゴル帝国および元朝時代の漢文資料では「女直」の表記が多く見受けられ、同じくモンゴル帝国時代に編纂されたペルシア語の歴史書『集史』などでも金朝や女真人に言及する場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha が使用されている。
{{Chinese |pic=[[ファイル:Jurchen woodblock print.png|230px]] |piccap= 「女真國」の人物:明代後期の木版画 |s=女真 |t=女眞 |p=Nǚzhēn |mon= {{mongol|ᠵᠥᠷᠴᡞᡨ}} Зүрчид (Jürchid) |lang1=juc |lang1_content=[[File:Jurchen.png|30px]] dʒu-ʃə<ref>[[#女真文辞典|『女真文辞典』(1984)p.1]]</ref> |lang2=zkt |lang2_content=dʒuuldʒi (女直)  |lang3=mnc |lang3_content={{mongol|ᠵᡠᡧᡝᠨ}} jušen |hangul=여진 (南)/ 녀진 (北) |hanja= |rr=Yeojin / Nyeojin |mr=Yŏjin / Nyŏjin }} '''女真'''(女眞、じょしん、{{lang-mnc|ᠵᡠᡧᡝᠨ}} 転写:jušen)は、'''女直'''(じょちょく)ともいい、[[満洲]]の[[松花江]]一帯から[[外興安嶺]](スタノヴォイ山脈)以南の[[外満洲]]にかけて居住していた[[ツングース系民族]]。民族の[[聖地]]を[[白頭山|長白山]]とする。[[10世紀]]ごろから記録に現れ、[[17世紀]]に「'''[[満洲民族|満洲]]'''」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は[[女真語]]の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。 「女直」は[[遼]]王朝の[[興宗 (遼)|興宗]]の[[諱]](耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた([[避諱]])ため用いられるようになったといわれる<ref name="joshin">{{kotobank|女真}}</ref>。[[12世紀]]、女真族は中国東北部に[[金 (王朝)|金王朝]]を建てたが、金を滅ぼした[[モンゴル帝国]]および[[元 (王朝)|元朝]]時代の[[漢文]][[文献資料 (歴史学)|資料]]では「女直」の表記が多く見受けられ、同じくモンゴル帝国時代に編纂された[[ペルシア語]]の歴史書『[[集史]]』などでも金朝や女真人に言及する場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha が使用されている。 == 歴史 == === 金代以前 === 中国東北地方の諸民族については[[周]]代より記録があり、それによれば、そのころ「[[粛慎 (中国)|粛慎]](しゅくしん)」と称される狩猟民が[[毛皮]]や青石製の[[石鏃]]、あるいは楛矢(こし)といった物産を中原の諸王朝に献上していた<ref name="manju" /><ref name="zoku226">[[#語|ブリタニカ小項目事典6「満州族」(1974)p.226]]</ref>。[[濊貊|貊]](はく)という民族もあったが<ref name="zoku226" />、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]から[[漢]]代にかけての漢民族の進出と[[楽浪郡]]([[紀元前108年|前108年]]設置)以下4郡の設置という動きのなかで、貊のなかから[[夫余]](ふよ)が起こり<ref name="zoku226" />、紀元前後以降は、夫余、[[挹婁]](ゆうろう)、[[勿吉]](もっきつ)、[[靺鞨]](まっかつ)といった諸民族が興亡したことが知られている<ref name="manju" /><ref name="zoku226" />。 * [[しゅくしん|粛慎]](- [[晋 (春秋)|晋]]) * [[夫余]]([[漢]] - [[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]) * [[挹婁]]([[後漢]] - [[三国時代 (中国)|三国時代]]) * [[勿吉]](南北朝時代) * [[靺鞨]]([[隋]] - [[唐]]) 夫余、勿吉、靺鞨などの集団は、[[狩猟]]・[[牧畜]]を生業としながらも、かなり早い段階から農耕を生活にとりいれていた<ref name="umemura415">[[#梅村|梅村(2008)pp.415-418]]</ref>。靺鞨は、[[農業]]を主な生業とする[[粟末靺鞨]]・[[白山靺鞨]]の2靺鞨と、純ツングース系で[[狩猟]]に多くを依存する[[安車骨靺鞨]]・[[伯咄靺鞨]]・[[払涅靺鞨]]・[[号室靺鞨]]・[[黒水部|黒水靺鞨]]の5靺鞨が有力であった<ref name="makkatsu">{{Kotobank|靺鞨}}</ref>。[[高句麗]]を建国したのも[[朝鮮民族|韓族]]ではなく、ツングース系の貊族であった<ref name="umemura415" />。粟末と白山の両靺鞨は、高句麗に従属したが、他はこれと対立した<ref name="makkatsu" />。[[7世紀]]後半、高句麗が滅び、7世紀末葉には[[粟末靺鞨]]に高句麗の遺民を加え、南満洲から現在の[[朝鮮半島]]北部にかけての地に、「海東の盛国」と称された[[渤海 (国)|渤海]]が建国された<ref name="manju">{{Kotobank|満洲族}}</ref><ref name="zoku226" />。渤海国に対しては、七靺鞨のうち黒水靺鞨以外の諸靺鞨が従った<ref name="joshin" />。渤海はまた、日本に一時朝貢し、[[渤海使]]を派遣した。以上のうち、貊、夫余、勿吉、靺鞨はツングース系の民族と考えられている<ref name="umemura415" /><ref name="manju" />。なお、靺鞨族の文化については、[[考古学]]的研究によってその多くが解明されてきている<ref name="ogihara55">[[#荻原|荻原(1989)p.55]]</ref>。 「女真」は本来、「黒水靺鞨」と呼ばれた集団による自称であるといわれ、唐の時代に入朝した靺鞨人の名乗りが「女真」の初見であると記録されている。[[モンゴル系民族|モンゴル系]][[契丹|契丹人]]の建てた[[遼]]の時代に入ると、[[松花江]]・[[豆満江]]流域、[[朝鮮半島]]北部の[[咸鏡南道]]・[[咸鏡北道]]方面に居住域を広げ、遼と[[高麗]]に朝貢し、「黒水女真」「東女真」と称された<ref name="joshin" />。女真族は、主として[[農耕]]・[[漁撈]]・[[牧畜]]・[[狩猟]]に従事し、中国内地との間で[[オタネニンジン|朝鮮人参]](オタネニンジン)や獣の[[毛皮]]を交易していた<ref name="ishibashi64" /><ref name="matsumura145" /><ref name="kishimoto239">[[#岸本宮嶋|岸本(2008)pp.239-242]]</ref>。馬や金の産地でもあり、上記のものも含め高麗や契丹と交易し、武器などを得た<ref name="umemura415" />。 {{multiple image | total_width = 420 | align = right | caption_align = left | image1 = Wanggiyan Aguda.jpg | caption1 = 金王朝を建国した[[阿骨打|完顔阿骨打]] | image2 = Wanyan Aguda.jpg | caption2 = [[金 (王朝)|金]][[上京会寧府|上京]]歴史博物館(ハルビン市)にある[[阿骨打]]の像 }} [[10世紀]]後半から[[11世紀]]にかけて、西南日本では[[新羅の入寇#長徳の入寇|長徳の入寇]]など高麗人の入寇もあったが、[[1019年]]の[[刀伊の入寇]]において[[対馬]]と[[九州]]の[[大宰府]]を襲った「刀伊(とい)」という海賊集団は、女真系の一部族が主体だったと考えられている<ref>[[#鈴木哲雄|鈴木哲雄(2005)]]</ref>。刀伊とは、「東夷」の意味であるとも、朝鮮語で「外様」を意味するともいわれる。また、「刀伊」の構成員については高麗人や契丹人なども混じっていたといわれるが詳細は不明である。 契丹人王朝の支配が中国東北部におよぶと、黒水靺鞨を起源とする女真は、ツングース本来の漁撈や農耕、養豚、狩猟を生業としていた'''生女真'''と、遼にしたがい、その領土内に移されて遼の[[戸籍]]につけられていた'''熟女真'''に大別された<ref name="joshin" /><ref name="umemura415" />。渤海は建国当初から唐の文化を導入しており、遼もまた中国内地への進出とともに政治・文化の漢化が進行したので熟女真の方がより漢化の度合いが大きかった。 === 金の興亡 === {{See also|金 (王朝)}} {{multiple image | total_width = 420 | align = right | caption_align = left | image1 = Am ma ni ba mi xu.svg | caption1 = [[女真文字]]による[[六字大明呪]] | image2 = 南宋疆域图(繁).png | caption2 = [[1142年]]における女真族王朝「金」と周辺諸王朝<br/>[[宋 (王朝)|宋]]([[南宋]])は漢民族王朝、[[西夏]]はチベット系[[タングート]]の王朝、[[大理国|大理]]はチベット系[[ペー族]]の王朝 }} 「海東の盛国」渤海国は[[10世紀]]に滅亡するが、[[11世紀]]には満洲族の直接の祖先の一つと考えられる半農半猟の女真(女直)が文献に登場する。[[12世紀]]のはじめ、生女真の[[完顔氏]](ワンヤン氏)から[[阿骨打]](アクダ)が出て女真の統一を進め、[[1115年]]には契丹族による遊牧民王朝、[[遼]]から自立して[[金 (王朝)|金]]を建国した<ref name="joshin" /><ref name="manju" /><ref name="umemura415" /><ref name="kawauchi230">[[#河内|河内(1989)pp.230-232]]</ref>。完顔氏は現在の[[黒竜江省]][[ハルビン市]][[阿城区]]を中心として周辺の諸部をまとめ、次第に南北に勢力を拡大して満洲東部の女真族を統一した<ref name="umemura415" />。金王朝の首府は、最初[[上京会寧府]](ハルビン市阿城区)に置かれた<ref name="umemura415" />。 遼代の女真族のなかでもさほど有力とはいえない[[完顔氏|完顔部]]が金王朝を樹立させるにいたった原因は、[[砂金]]を産する河川流域を支配地に収めたことによると考えられる<ref name="kawauchi230" />。金は、遼を滅ぼし、さらに[[1126年]]、[[漢民族]]王朝の[[宋 (王朝)|宋]]の[[徽宗]]・[[欽宗]]のニ帝および皇族・重臣らを捕らえて中国北半を支配して宋朝を南に追いやり<ref name="manju" /><ref name="mikami819">[[#三上|三上(1975)pp.819-823]]</ref><ref name="umemura423">[[#梅村|梅村(2008)pp.423-431]]</ref>、より漢化を進めようとしたワンヤン・テクナイ([[海陵王]])は[[1153年]]に燕京(いまの[[北京市]])に都を移した<ref name="manju" /><ref name="mikami819" /><ref name="umemura423" />。金は、[[漢字]]をもとにして[[女真文字]]という独特の文字体系を整備し、政府組織を中央、地方ともに中国風にして支配体制を整えたが、軍事権力を強く握って独占したのは女真族であり、政府首脳もまた女真族によって占められた<ref name="manju" /><ref name="mikami819" />。女真人には行政と軍事を兼ねた[[猛安・謀克]]の制度など独自の統治体制がとられて特別の保護を受け、漢化を防いだ<ref name="manju" /><ref name="mikami819" />。東北部(満洲)にあっては大部分が猛安・謀克制によって統治されたが、他民族の住む西部や南部では[[州県制]]による支配がつづいた<ref name="mikami819" /><ref name="umemura421">[[#梅村|梅村(2008)pp.421-423]]</ref>。 金はしかし、[[1206年]]に[[チンギス・カン]]によって成立した[[モンゴル帝国]]の猛攻を受けて劣勢に立ち、都を[[開封府|開封]]に移したものの[[1232年]]にはその開封が[[開封包囲戦|包囲]]された<ref name="kawauchi235">[[#河内|河内(1989)pp.235-237]]</ref>。そして、[[1234年]]、[[オゴデイ]]らの進撃で逃走していた[[哀宗 (金)|哀宗]]が自殺して金は滅んだ<ref name="manju" /><ref name="mikami819" /><ref name="kawauchi235" />。一方、これに先立ち、契丹の反乱鎮圧を称して挙兵していた金王朝の将領[[蒲鮮万奴]]は、[[1215年]]に金より自立して「天王」を名乗り、東夏国([[大真国]])を建国した<ref name="kawauchi235" />。モンゴルに服属したり自立したりを繰り返していたが、この国もまた、[[1233年]]、[[オゴデイ]]の子[[グユク]]によって滅ぼされた<ref name="mikami819" /><ref name="kawauchi235" />。 女真族は、金がモンゴル帝国に滅ぼされてからのちは、モンゴル帝国、[[元 (王朝)|大元]]、[[明|大明]]の支配下に置かれた<ref name="mikami819" /><ref name="ishibashi64">[[#石橋|石橋(2000)pp.64-66]]</ref>。その間、金の時代に創始した女真文字もしだいに失って金建国以前の部族集団に後退した<ref name="ishibashi64" />。女真族の家族は当時、主人と[[奴婢]]に完全に二分されており、主人は[[狩猟]]や採集、交易、戦争などの外仕事、奴婢は農耕や[[ブタ]]の飼養など食糧生産を担当するという分業体制が確立しており、その役割は世襲されていったが、起居や食事を代々ともにし、双方の物産・物資は分け隔てなく均等に分配されたから、両者の結びつきはきわめて緊密であった<ref name="matsumura145">[[#松村|松村(2006)pp.145-147]]</ref>。 <gallery widths="200px" heights="200px" perrow="6" caption="金代の女真関連画像"> ファイル:Wanyan Wuqimai.jpg|金朝第2代皇帝[[呉乞買|ウキマイ]]の銅像 ファイル:Ussuriysk-Stone-Tortoise-3815.jpg|[[ウスリースク]]にある[[12世紀]]の女真首長墓の[[贔屓]] ファイル:Shaigino-Jurchen-paizi.png|[[ナホトカ]]出土の金朝猛克の銀牌 ファイル:五贯宝卷.jpg|五貫宝券:金朝政府発行の交鈔 ファイル:金中都水关遗址.JPG|金の中都(北京)の水利施設遺構 ファイル:文姬歸漢圖.jpg|『文姫帰漢図』(1200年頃):女真族のファッションで描かれた[[蔡琰|蔡文姫]](才色兼備で有名な古代中国の女性) ファイル:Bataille entre mongols & chinois (1211).jpeg|1211年の[[野狐嶺の戦い]]での金軍とモンゴル軍 ファイル:Jin gold plates.JPG|金朝期の黄金製品 ファイル:Jade ornament grapes jin dynasty shanghai museum 2004 07 22.jpg|金朝の翡翠装飾 </gallery> === 元・明代の女真族 === 元代から明代にかけての女真人は、 * [[遼東半島]]の[[建州女直]]五部(自称「マンジュ」)…スクスフ・フネヘ・ワンギャ・ドンゴ・ジェチェンの5部 * [[松花江]]流域の[[海西女直]]四部(自称「フルン」)…[[ウラ (女真国家)|ウラ]]・[[ホイファ]]・[[ハダ (女真国家)|ハダ]]・[[イェヘ]]の4部 * 黒竜江([[アムール川]])方面の[[野人女直]]三部(「東海女真」、朝鮮からは[[ウリャンカイ]])…ウェジ・ワルカ・クルカの3部{{refnest|group="注釈"|現在、ロシア連邦の沿海州に住み、狩猟を主な生業としてきた少数民族[[ウデヘ]]は、このうちの野人女直の一派、ウェジの末裔と考えられる<ref>[[#松浦|松浦(2006)]]</ref>。}}。 の3種族に大別されて、モンゴル族や漢族の支配下にあった<ref name="manju" /><ref name="mikami819" /><ref name="ishibashi66">[[#石橋|石橋(2000)pp.66-67]]</ref>。 東北部に残留した女真(女直)は、元代には[[遼陽等処行中書省]]の管轄下に入ったが、その統制はゆるやかなもので、ほぼ完全な自治がゆるされていた<ref name="matsumura147">[[#松村|松村(2006)pp.147-149]]</ref>。元代の女真は中国東北部から朝鮮半島北部にかけて居住して元の支配を受けており、元の日本侵攻([[元寇]])にも女真兵が加わっている。元の滅亡後、女真はモンゴルから離れ、小集団ごとに[[明]]に服属した。明帝国は、対モンゴル政策の一環として女真族を利用する政策を採用し、女真を部族ごとに[[衛所制]]によって編成し、部族長に[[官職]]を授け、それを示す[[勅|勅書]]・[[封蝋|印璽]]をあたえて間接統治を行った<ref name="ishibashi64" />。そのうえで部族長に対し、[[朝貢]]・馬市にかかわる特権の付与に便宜を図ったのであったが、これは、自給自足の難しい女真族の社会に[[権威]]と[[利権]]をめぐる熾烈な争奪抗争を生むこととなって、結果的に女真族内に覇権闘争を生んだ<ref name="ishibashi64" /><ref name="ishibashi66" />{{refnest|group="注釈"|明朝の政策の根底には女真族分断の意図もあったが、ヌルハチはこうした覇権闘争を勝ち抜いたうえで明の対抗勢力となるまでに勢力を拡大させたのであるから、長期的に考えれば明にとって皮肉な結果だったといえる<ref name="ishibashi64" /><ref name="ishibashi66" />。}}。 [[宣徳]]9年([[1434年]])、明の支配下にあった東北部の女真族は飢饉に見舞われ、娘たちを奴隷として売ることを余儀なくされ、遼東に移って明王朝政府に援助と救済を求めた<ref>{{cite web |url=https://www.itsfun.com.tw/%E4%BA%A6%E5%A4%B1%E5%93%88/wiki-3774856-0311736 |title=亦失哈 |language=zh |trans-title=It's also lost |accessdate=2022-09-23|quote=宣德九年,女真地区灾荒,女真人被迫卖儿鬻女,四处流亡,逃向辽东的女真难民,希望得到官府的赈济。[In the ninth year of Xuande, the Jurchen region was famine, and the Jurchens were forced to sell their sons and wives and went into exile. They fled to the Jurchen refugees in Liaodong, hoping to get relief from the government.]}}</ref><ref>{{cite news |title=亦失哈八下东洋|date=2014-07-08|work=[[Ifeng.com]] |url=http://hlj.ifeng.com/culture/history/detail_2014_07/08/2559681_0.shtml|archive-url=https://web.archive.org/web/20150428053435/http://hlj.ifeng.com/culture/history/detail_2014_07/08/2559681_0.shtml|url-status=dead|archive-date=2015-04-28}}</ref>。 一方、朝鮮半島では[[高麗]]に代わって登場した[[李氏朝鮮]]が[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の時代に北部の女真居住地域に進出した。[[1437年]]には{{仮リンク|東北六鎮|zh|东北六镇}}、[[1443年]]には{{仮リンク|西北四郡|zh|西北四郡}}が置かれ、それぞれ[[咸鏡道]]や[[平安道]]に組み込まれた。朝鮮半島北部からは女真人の姿は失われていったが、[[15世紀]]から[[16世紀]]にかけて、[[鴨緑江]]や[[豆満江]]流域の女真人たちは、たびたび李氏朝鮮に反撃して住地の奪還を図ったため、豆満江南岸地域は争奪の繰り返される地となった。 <gallery widths="200px" heights="200px" perrow="6" caption="元・明代の女真関連画像"> ファイル:China and the Manchus Page ii.jpg|14世紀の女真族 ファイル:A Tartar Huntsmen on His Horse.jpg|馬上の女真人(15世紀、絹本著色) ファイル:太祖初舉下圖倫.png|[[1583年]]([[万暦]]11年)、ヌルハチのトゥーロン(図倫)での挙兵(『満洲実録』) ファイル:《孝烈武皇后朝服像》.jpg|[[アバハイ|孝烈武皇后アバハイ]] ファイル:MYK-1-长白山.png|『満洲実録』に描かれた長白山 ファイル:MYK-1-三仙女浴布勒瑚里泊.png|『満洲実録』に描かれた天女の三姉妹 </gallery> <gallery widths="250px" heights="250px" perrow="3" caption="高麗・朝鮮との境界紛争関連地図"> ファイル:강동6주.png|高麗と[[江東六州]](黄緑色部分) ファイル:東北9城推定図 (日本語版).png|東北九城推定図(主要3説を図示) ファイル:조선의 영토 확장.png|女真・朝鮮係争地(赤色部分が東北六鎮、白色部分が西北四郡) </gallery> === 満洲への改称 === {{See also|満洲民族}} [[ファイル:清 佚名 《清太祖天命皇帝朝服像》.jpg|180px|right|thumb|後金の太祖[[ヌルハチ]]]] 16世紀末葉、[[豊臣秀吉]]による朝鮮出兵([[文禄・慶長の役]])によって明朝の女真に対する統制がゆるみ<ref name="joshin" />、[[建州女直]]のスクスフ部から出た[[愛新覚羅氏]]の[[ヌルハチ]]が台頭、1588年には建州女真を統一した<ref name="kishimoto247">[[#岸本宮嶋|岸本(2008)pp.247-250]]</ref>。その後、建州・海西女真に野人女真の一部を加えた女真族をほぼ統一し、[[1616年]]に[[後金]]王朝を建てた<ref name="manju" /><ref name="mikami819" />。[[1627年]]、後金は親明的な政策をとっていた朝鮮に侵入・制圧し([[丁卯胡乱]])、後金を兄、朝鮮を弟とすることなどを定めた和議を結んだ<ref name="koran">{{Kotobank|丙子胡乱}}</ref>。 [[1635年]]にヌルハチの子息[[ホンタイジ]]が[[モンゴル]]の[[チャハル]]部を下して元の[[玉璽]]を入手すると、漢字としては蔑称のニュアンスを含むうえ、[[モンゴル高原]]の契丹人に支配されていた当時の「女真」の民族名を嫌い、1635年11月22日([[天聡]]9年十月[[庚寅]])に民族名を'''満洲族'''に改めさせた<ref name="manju" /><ref name="matsumura156">[[#松村|松村(2006)pp.156-159]]</ref>。また、それまでは女真族王朝である金の後裔を名乗っていたが、[[1636年]]には国号も「[[清]]」に改めた<ref name="manju" /><ref name="matsumura156" />。[[1636年]]、ホンタイジは朝鮮に対して臣従するよう要求したが、朝鮮の朝廷では斥和論(主戦論)が大勢を占め、[[仁祖]]は清を「蛮夷」と呼んで自尊心と名分を掲げ、臣従を拒絶した<ref name="koran" />。清朝は謝罪がなければ攻撃すると威嚇したが、朝鮮側はこれを黙殺したためホンタイジは朝鮮侵攻を決意して[[丙子の乱|丙子胡乱]]が起こり、[[1637年]]、朝鮮は[[三田渡の盟約]]を結ばされて清の属国となった<ref name="koran" />。2度にわたる胡乱で、現在の北朝鮮北部に居た女真人は新たに入植していた朝鮮人とともに清領に連行された。当地は無人の地となったが、跡地には朝鮮人が入植した。 [[1644年]]、フリン ([[順治帝]]) 即位後の清は[[山海関]]を越えて[[万里の長城]]以南に進出し、[[李自成|李自成の乱]]で滅亡した明にかわって[[北京市|北京]]に入城、以後、[[1911年]]の[[辛亥革命]]に至るまで中国大陸に君臨した<ref name="manju" />。清帝国は、中国の伝統的な統治機構を踏襲する一方で、満洲族独自の軍事・行政・生産機構である[[八旗]]制度を制定し、自らの[[ヘアスタイル]]である[[辮髪]]を漢族にも強要し、東北地方への入植を禁ずるなどの非漢化政策を採用した<ref name="manju" />。明滅亡後は、明の旧領を征服し、八旗を北京に集団移住させて漢人の土地を満洲人が支配する体制を築き上げた<ref name="ishibashi131">[[#石橋|石橋(2000)pp.131-132]]</ref>。 == 宗教・精神文化 == [[ファイル:Baitou Mountain Tianchi.jpg|270px|right|thumb|長白山頂の天池]] 女真族の宗教は、婚姻儀礼や葬送儀礼などにおいて民族独自の[[シャーマニズム]]や[[祖先崇拝]]の要素が含まれていた。自然崇拝においては、火神・星神および神山・神石を尊崇し、とりわけ星神に対する信仰は最も普遍的なものであった<ref name="riryu181">[[#李劉2|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.181-182]]</ref>。『吉林通志』にも「祭祀典礼は、満洲の最も重んずるは、一に祭星、二に祭祖」とある<ref name="riryu181" />。星神とは、具体的には[[北斗七星]]であり、満洲語では「ナダン(七つ)ウシハ(星)」と称する<ref name="riryu181" />。記録によれば、満洲族(女真族)の祭星は、多くは月が沈む後に行う背灯祭で、そこでは灯火がかき消され静寂のなかで執り行われ、通常は[[占い|占卜]]や祟り祓い、病祓いなどの巫術と結びついた除災の祭りである<ref name="riryu181" />。同じツングース系のホジェン族(赫哲族、ロシアでは「[[ナナイ]]」と称する)もまた、七星を除災の神とみなし、「吉星神」と呼称する<ref name="riryu181" />。 === 聖地長白山 === 長白山(朝鮮の呼称では「[[白頭山]]」)周辺は、もともと[[濊]]・貊・[[しゅくしん|粛慎]]が居住しており、彼らの聖地だった{{要出典|date=2014年1月}}。その後この地における[[濊貊]]の勢いが衰え、粛慎の流れを汲む女真がこの山を聖地とした<ref>[https://media.eurasia.co.jp/china/changbai#index_id0 噴火が創り出した神秘なる聖山・長白山(白頭山)(中国・北朝鮮)] - VOYAGE-世界見聞録-</ref>。[[金 (王朝)|金]]は、[[1172年]]には山に住む神に「興国霊応王」の称号を贈り、[[1193年]]には「開天宏聖帝」と改めている{{要出典|date=2014年1月}}。 === 神話・伝承 === 『満文老檔』[[天命 (後金)|天命]]6年([[1621年]])条や満文『内国史院檔』天聰8年([[1634年]])条には、当時の女真族(満洲族)が[[日食]]や[[月食]]という[[天文現象]]を「天界の犬が[[太陽]]・[[月]]を食べること」であると考えていたことを示唆する記述が収載されており、こうした伝承は他のツングース系の諸民族や[[朝鮮民族]]、[[テュルク系民族]]、また、[[古シベリア諸語|パレオアジア語系]]とみられる[[ニヴフ]](ギリヤーク)にもみられる<ref name="masui">{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.34382/00006190 |author=増井寛也 |year=2011 |title=<太陽を食べる犬>その他三則 : ジュシェン人とその近縁諸族の歴史・文化点描 |journal=立命館東洋史学 |volume=34 |pages=1-34 |doi=10.34382/00006190 |ISSN=1345-1073 |publisher=立命館東洋史學會}}</ref>。 また、『満洲実録』や『満文老檔』には、天命元年(1616年)、ヌルハチがダルハン・ヒヤとションコロ・バトゥルに命じてサハリヤン部を討伐させたとき、[[アムール川]](黒竜江)の渡河に際して、往還ともに時ならぬ奇跡的な[[結氷]]に助けられて討伐を成功させたことが史実として記されている<ref name="masui" />。これに似た[[説話]]として、イチェ・マンジュ(伊徹満洲 ice manju/ 新満洲)人の伝承として、1.背後に敵軍が迫り、2.行く手を大河が遮り滅亡の危機を迎えるが、3.大河に魚の浮き橋ができて難を逃れ、4.滅亡を免れる(新天地へ移住する)という4つの[[モチーフ (物語)|モチーフ]]をともなう説話も伝わっている<ref name="masui" />。この4モチーフは、夫余・高句麗の開国説話([[東明王]]・[[東明聖王|朱蒙]]伝説)にも共通し、[[オロチョン族]]や[[ナナイ|ナナイ族]]などツングース系民族の説話にもみられる<ref name="masui" />{{refnest|group="注釈"|浮き橋のモチーフは、説話によっては、魚ではなく[[カメ]]によってつくられる場合もある<ref name="masui" />。}}。 == 氏族制と社会文化 == === ムクンとハラ === 女真族の社会には強い[[父系制|父系原理]]が働いており、「ハラ(hala)」または「ムクン(mukūn)」と呼ばれる父系[[氏族]]が主要な社会組織であり、父系拡大家族が主要な経済単位となった<ref name="manju" /><ref name="riryu138">[[#李劉1|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.138-148]]</ref>。ムクンはハラより派生したと考えられ、清代にあっては、ハラはすでに実体をともなった血縁組織とはみられず、ムクンだけがのこったが、野人女直と呼ばれた人びととその末裔にあってはハラ組織が濃厚に残存した<ref name="riryu138" />。1個のハラは複数のムクンを包含しているのに対し、1個のムクンはただ1つのハラに帰属しており、当初はハラが[[族外婚]]の単位であると同時に族内への受け入れ機能を有し、血讐の義務をともない、また、精神生活の単位でもあった<ref name="riryu138" />。それに対し、ムクンはハラの瓦解を受けて不断に分節化し、発展していったものであり<ref name="riryu148">[[#李劉1|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.148-154]]</ref>、のちには同一ハラであっても異なるムクンであれば、通婚が可能となった<ref name="riryu148" />。 === 婚姻 === 女真族(満洲族)の伝統的な[[結婚|婚姻]]は、[[族外婚]]によって特徴づけられる<ref name="u47">[[#烏|烏丙安(1996)pp.47-48]]</ref><ref name="riryu171">[[#李劉2|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.171-175]]</ref>。族外婚規制は、同じ氏族同士は結婚しないという原則である。上述した「ハラ(旧氏族)」は当初、族外婚の単位であったが、その分節化によって生じた「ムクン(新氏族)」が現代における族外婚単位となっている<ref name="riryu138" /><ref name="riryu148" />。女真族は古くは、子が継母を娶ったり、弟が嫂を娶ったりする収継婚も多かったが、ホンタイジの時代に入ると漢人的な観念が浸透して旧俗矯正が図られ、収継婚が禁止された<ref name="riryu171" />。 === 葬送と殉死の風習 === 女真族の旧俗では、[[火葬]]が行われていた<ref name="riryu175">[[#李劉2|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.175-180]]</ref>。ヌルハチもホンタイジも火葬され、清朝3代フリン([[順治帝]])は火葬制度を詳細に定め、彼自身も火葬された<ref name="riryu175"/>。女真の人びとはまた、死者の葬送のために牛・馬を殺してこれを死者に捧げ、その肉を食すという旧俗をもっていた<ref name="riryu175"/>。このような習俗は[[康熙帝]]の頃まではつづいたが、やがて漢民族の習俗を取り入れ、紙馬をもって祭礼をおこなうようになった<ref name="riryu175"/>。[[殉死]]の風習も広く行われ、ヌルハチの妻の死去の際には4人の奴婢が、ヌルハチ自身の死去の際にも2人の側室が殉死した<ref name="riryu175"/>。ホンタイジは殉死の強制を禁止したが、禁止されたのは強制行為のみであって殉死そのものは否定されず、ホンタイジの死去の際には近侍2名が殉死した<ref name="riryu175"/>。殉死の旧俗が満洲族と改名してのちも続けられたのは、奴婢の制度と無関係ではないと考えられる<ref name="riryu175"/>。康熙帝が在位中に殉死の禁止を諭す命令を発し、以降は紙人を焼くことで死者の[[霊魂]]を祭ることとなった<ref name="riryu175"/>。 == 年表 == {{満洲の歴史}} * 313年 [[楽浪郡]]が高句麗によって滅ぼされる。 * 427年 高句麗の[[平壌直轄市|平壌]]遷都。 * 668年 高句麗が唐によって滅ぼされる。 * 698年 [[渤海 (国)|渤海]]の建国。 * 918年 高麗の建国。 * 926年 渤海の滅亡。 * 994年 高麗が女真を侵略し、[[江東6州|江東六州]]を占領。 * 1019年 [[刀伊の入寇]] * 1107年 高麗の[[尹瓘]]が女真を侵略し、[[東北九城|東北9城]]を築く。 * 1109年 高麗が女真に大敗し、講和。 * 1113年 女真の阿骨打(アクダ)が完顔部の長となる。 * 1114年 阿骨打が遼に反し、[[猛安・謀克]](ミンガン・ムクン)制を整える。 * 1115年 女真が[[金 (王朝)|金]]を建国。 * 1116年 金が遼東地域を領有。 * 1118年 遼、金に和平を申し出る。 * 1119年 金、女真文字を作成する。 * 1122年 金が遼の中京・西京・南京([[北京市|燕京]])を占領。 * 1125年 金が遼を滅ぼす。 * 1126年 金軍が大挙して開封を占領。高麗が金に服属する。 * 1127年 [[靖康の変]]。金が北宋を滅ぼす。 * 1131年 金、[[陝西省]]方面を征服して[[斉 (劉予)|斉]]国にあたえる。 * 1135年 金で[[熙宗 (金)|熙宗]]が即位。ボギレ制を廃して三省の制度を制定。 * 1137年 金が斉国を廃止し、華北の直接統治開始。 * 1153年 金の[[海陵王]]が燕京に遷都して中都とする。 * 1181年 金、貧窮女真人の救済策をとる。 * 1207年 宋・金の和約。 * 1215年 モンゴル軍、金の中都を陥落させる。蒲鮮万奴が金より自立して[[大真国]]を建国。 * 1225年 金・[[西夏]]の和議成立。 * 1227年 モンゴル、金に侵攻。西夏を滅ぼす。 * 1233年 大真国滅亡。 * 1234年 モンゴルが金を滅ぼす。 * 1267年 元朝、女真人を徴発。 * 1271年 元朝、女真人を徴発。 * 1274年 元軍の日本遠征([[元寇|文永の役]])に女真軍参加。 * 1281年 元軍の日本遠征([[元寇|弘安の役]])に女真軍参加。 * 1346年 [[海西女直]]が元に叛く。 * 1371年 明が遼陽に定遼都衛指揮使司を開設。 * 1384年 [[野人女直]]の[[ウェジ]]が明に来朝。 * 1411年 [[永楽帝]]が[[海西女直]]出身の[[宦官]][[イシハ]]に命じてアムール川河口の[[ヌルガン]]を遠征。 * 1413年 ヌルガンに永寧寺を建立。 * 1437年 [[李氏朝鮮]]が女真を侵略し、{{仮リンク|東北六鎮|zh|东北六镇}}を置く。 * 1443年 李氏朝鮮が女真を侵略し、{{仮リンク|西北四郡|zh|西北四郡}}を置く。 * 1583年 [[ヌルハチ]]が明より勅書を得て自立。 * 1588年 ヌルハチが[[建州女直]]を統一。 * 1601年 ヌルハチが[[八旗]]制度を創設。 * 1616年 ヌルハチがヘトゥアラでハン位に就き、[[後金]]を建国。 * 1618年 ヌルハチが明に侵攻し、撫順城を攻略。 * 1619年 [[サルフの戦い]]。ヌルハチが明・朝鮮連合軍を撃破。 * 1626年 [[ホンタイジ]]即位。 * 1634年 後金軍、モンゴルの一大拠点[[フフホト市|フフホト]]を占領。 * 1635年 [[ドルゴン]]がモンゴル帝国最後の君主[[エジェイ・ハーン]]を降伏させる。エジェイが大元伝国の璽をたずさえ、ホンタイジに献上。 * 1636年 後金が[[清]]に改名。民族名も「女真」の使用を禁じ「満洲(マンジュ)に改める。 == 女真の出自をめぐる論争 == {{Main|函普}} 『[[松漠紀聞]]』『[[満洲源流考]]』などのいくつかの[[中国]][[史料]]には、女真[[完顔氏|完顔部]]の[[先祖]]であり、[[金 (王朝)|金朝]]の始祖とされる[[函普]]が「[[新羅|新羅人]]」あるいは「[[高麗]]より来た」と記録されている。これを根拠に[[大韓民国|韓国]]・[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]では女真の[[先祖|ルーツ]]は[[朝鮮民族]]であり、金・清の歴史を韓国・朝鮮の歴史に含めるべきだという主張がある<ref>{{Cite news|url=http://japanese.donga.com/List/3/all/27/292170/1|title=韓・日・モンゴルの共通のルーツは「ジュシン族」|newspaper=[[東亜日報]]|publisher=|date=2006-03-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161130075135/http://japanese.donga.com/List/3/all/27/292170/1|archivedate=2016-11-30}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/01/23/2016012300446.html|title=【寄稿】「水」で見る北京・東京・ソウルの歴史|newspaper=[[朝鮮日報]]|publisher=|date=2016-01-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160126045005/http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/01/23/2016012300446.html|archivedate=2016-01-26}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/01/23/2016012300446_2.html|title=【寄稿】「水」で見る北京・東京・ソウルの歴史|newspaper=[[朝鮮日報]]|publisher=|date=2016-01-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160126045010/http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/01/23/2016012300446_2.html|archivedate=2016-01-26}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=79900|title=「金、清、韓国史に編入を」…東北工程対応策提案|newspaper=[[中央日報]]|publisher=|date=2006-09-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131005155738/http://japanese.joins.com/article/900/79900.html?sectcode=&servcode=|archivedate=2013-10-05}}</ref><ref>{{Cite news|author=|url=http://www.kbs.co.kr/1tv/sisa/historyspecial/view/vod/1605745_30885.html|title=특별기획 만주대탐사 2부작 2부 금나라를 세운 아골타, 신라의 후예였다!|newspaper=[[韓国放送公社]]|publisher=|date=2009-09-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091109220105/http://www.kbs.co.kr/1tv/sisa/historyspecial/view/vod/1605745_30885.html|archivedate=2009-11-09}}</ref>。しかしながら、史料解釈に問題があり、[[中華人民共和国|中国]]・[[日本]]などの専門家からは信憑性が疑われている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{reflist|35em}} == 参考書籍 == === 書籍 === * {{Cite book|和書|editor=[[愛新覚羅顕琦]]・[[江守五夫]]|year=1996|month=4|title=満族の家族と社会|publisher=[[第一書房]]|isbn=4-8042-0105-X}} ** {{Cite book|和書|author=烏丙安|translator=韓敏|year=1996|chapter=第1部第1章 満族発祥の揺籃の地|title=満族の家族と社会|publisher=第一書房|ref=烏}} ** {{Cite book|和書|author=李鴻彬・劉小萌|translator=柳沢明|year=1996|chapter=第2部第2章 満族の社会習俗|title=満族の家族と社会|publisher=第一書房|ref=李劉2}} * {{Cite book|和書|author=石橋崇雄|authorlink=石橋崇雄|year=2000|month=1|title=大清帝国|publisher=[[講談社]]|series=講談社選書メチエ|isbn=4-06-258174-4|ref=石橋}} * {{Cite book|和書|author=梅村坦|authorlink=梅村坦|year=2008|month=6|chapter=第2部 中央ユーラシアのエネルギー|title=世界の歴史7 宋と中央ユーラシア|publisher=[[中央公論新社]]|series=中公文庫|isbn=978-4-12-204997-0|ref=梅村}} * {{Cite book|和書|author1=岡田英弘|author2=神田信夫|author3=松村潤|year=2006|month=5|title=紫禁城の栄光|publisher=講談社|series=[[講談社学術文庫]]|isbn=4-06-159784-1}} ** {{Cite book|和書|author=松村潤|authorlink=松村潤|year=2006|chapter=第7章 大元伝国の璽|title=紫禁城の栄光|publisher=講談社|ref=松村}} * {{Cite book|和書|author1=岸本美緒|authorlink1=岸本美緒|author2=宮嶋博史|authorlink2=宮嶋博史|year=2008|month=9|title=世界の歴史12 明清と李朝の時代|publisher=[[中央公論新社]]|series=中公文庫|isbn=978-4-12-205054-9}} ** {{Cite book|和書|author1=岸本美緒|author2=宮嶋博史|year=2008|chapter=5章 華夷変態|title=世界の歴史12 明清と李朝の時代|publisher=中央公論新社|ref=岸本宮嶋}} * {{Cite book|和書|editor=フランク・B・ギブニー|year=1974|month=11|title=ブリタニカ国際大百科事典:小項目事典6 ホエ-ワン|publisher=[[ティビーエス・ブリタニカ]]}} ** {{Cite book|和書|year=1974|chapter=満州族|title=ブリタニカ国際大百科事典:小項目事典6|publisher=ティビーエス・ブリタニカ|ref=族}} * {{Cite 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Turbo Pascal
Turbo Pascal(ターボ パスカル)は、ボーランド社が発売していたPascalの統合開発環境である。 エディタ、コンパイラ、リンカを統合した、パーソナルコンピュータ向け統合開発環境の最も初期の製品のひとつである。 スイスのチューリッヒ工科大学でPascalの創始者であるニクラウス・ヴィルトのもとで学んだフィリップ・カーンが、その素晴らしさをアンダース・ヘルスバーグに説き、Turbo Pascal を開発したとされる。 Turbo Pascal の元になっているのはシングルボードコンピュータキット Nascom 用の Blue Label Software Pascal (BLS Pascal) で、デンマークのコペンハーゲンに本社を置く PolyData MicroCenter 社 (アンダース・ヘルスバーグが所属) が開発した。BLS Pascal は Pascal のサブセット実装だった。後に CP/M 用の Pascal フルセット実装である Compas Pascal がリリースされ、他プラットフォームにも対応した Poly Pascal がリリースされた。この Poly Pascal を Borland がライセンス供与を受け、メニューシステムと新しいエディタを組み込んだものが Turbo Pascal である。Poly Pascal と Turbo Pascal は数年間並行して販売されていた。 Turbo Pascal の開発者であるアンダース・ヘルスバーグはインタビューに対し、デンマークで開発を行いアメリカへ渡ったフィリップ・カーンのもとへ定期的に郵送でプログラムを送っていたと答えている。この時点でフィリップ・カーンは不法滞在であったが、ボーランド社を名乗り Turbo Pascal を売り歩いた。その後、Turbo Pascal の成功をうけ本物のボーランド・インターナショナル社を米国にて設立した。 1983年11月、CP/M版・MS-DOS版が販売開始され、その後、Microsoft Windows 版が販売された。1986年には Apple Macintosh 版が販売されたが、長くはサポートされなかった。 個人で買えるほどの安い価格、アセンブラで記述され、全ての動作をRAM内で行う高速なコンパイラ、フルスクリーンエディタを含む使いやすい統合開発環境は大きな衝撃を与えた。当時のメジャーなフルスクリーンエディタであったWordStarの編集操作用キーボードショートカットをそのまま利用できたのも魅力であった。 バージョン4からは、Modula-2で実現された特徴のいくつかをPascalに取り込み、ソフトウェアパーツのユニット化(分割コンパイル)やインラインアセンブラの利用、ハードウェアへの低レベルアクセス(メモリ、I/Oポート直接アクセス、割り込み処理の実装)を可能にし、通常のPascalは守備範囲としていないハードウェア制御やグラフィック等を含むより実践的なソフトウェア開発が可能になった点などをあげることができる。バージョン5.5からオブジェクト指向機能を持つまでに拡張された。 CP/M、MS-DOS 版の販売開始。メニューシステムとWordStar 互換のエディタが組み込まれている。 CP/M, MS-DOS 用。自動オーバーレイ機能の追加や、MS-DOS 向けにグラフィクス、サウンド、カラーサポートが行われた。 CP/M, MS-DOS 用。コンパイラの性能が向上。Intel 8087 数値演算コプロセッサに対応する初めてのバージョン。16bit バージョンでは BCD 演算にも対応。 MS-DOS 用。CP/M のサポートは打ち切られた。COM 形式だけでなく EXE 形式の実行ファイルを生成できるようなった。uses 句はこのバージョンから使えるようになった。日本語版では、PC-98 対応となった。 エディタやオーバーレイが EMS / XMS に対応。Turbo Debugger が使えるようになっている。日本語版では、PC-98 に加え、FMR に対応となった。 オブジェクト指向を取り入れ、言語仕様的には Object Pascal となった。日本語版では対象機種から FMR が外れ、PC-98 のみとなった。 インラインアセンブラが使えるようになった。Turbo Vision も利用可能。日本語版製品としては最後の MS-DOS 専用版。対応する機種は PC-98。 Windows で動作する Turbo Pascal。Turbo Pascal 6.0 がベースとなっている。対応する Windows は、3.0。対応する機種は、日本語版では PC-98。Windows 用クラスライブラリとして、ObjectWindows(OWL) が導入された。加えて、Borland C++ 2.0 より Resource Workshop 等の Windows 用ツールが導入された。日本語版製品としては最終版。 製品名が変更となった。ただし、バージョン番号は継承している。また、Turbo Assembler や Turbo Pascal をはじめとした多くの製品・ツール・サンプル等が同梱されており、Windows/MS-DOSどちらの開発もサポートされたスイート製品。英語版のみ。Windows 3.1 に対応。 Borland PascalとDelphiは、Turbo Pascalの後継ソフトウェアである。Turbo Pascal とDelphiの言語仕様はインテル系パーソナルコンピュータ上でのALGOL系言語ではデファクトスタンダードに近い存在となり、他のベンダからも(ソースレベルでの)Turbo PascalないしDelphi互換をうたう統合開発環境が数多く登場した。一方で、コード最適化の面では同じALGOL系各種言語を含む他の処理系に及ばない面もあった(ワンパスコンパイラの限界もあった)。 Windows対応に際して開発・導入された ObjectWindows (OWL) は、その後 Borland C++ 等他の言語製品でも使われるようになった。 2006年8月8日、ボーランド(現コードギア)は1995年(日本では1997年、または2001年)以降使われていなかった、Turbo ブランドを復活させた。 日本語版のTurbo Pascalは、マイクロソフトウェアアソシエイツとサザンパシフィックの2社が独自に日本語化を行なっており販売価格も違っていた。最終的にはマイクロソフトウェアアソシエイツに一本化され、後にボーランドジャパン(マイクロソフトウェアアソシエイツとボーランドインターナショナルの共同出資;後のボーランド株式会社)から発売された。 2000年から2002年 にかけて Borland は "アンティークソフトウェア"(アバンダンウェア)となっていた Turbo Pascal のいくつかのバージョンをフリーウェアとしてリリースした。現在、ダウンロードは後継の Embarcadero Technologies の Web サイトから行える。
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Turbo Pascalは、ボーランド社が発売していたPascalの統合開発環境である。
'''Turbo Pascal'''(ターボ パスカル)は、[[ボーランド]]社が発売していた[[Pascal]]の[[統合開発環境]]である。 == 概要 == [[エディタ]]、[[コンパイラ]]、[[リンケージエディタ|リンカ]]を統合した、[[パーソナルコンピュータ]]向け統合開発環境<ref>{{Cite journal|和書|author=岩橋俊哉 |year=1991 |title=バイオフィードバック・システムのためのプログラミング言語 : 新しいBASIC言語及び, pascal, Cの紹介 |journal=バイオフィードバック研究 |publisher=日本バイオフィードバック学会 |volume=18 |page=35 |naid=110003162565 |doi=10.20595/jjbf.18.0_33 |url=https://doi.org/10.20595/jjbf.18.0_33 |ISSN=0386-1856}}</ref>の最も初期の製品のひとつである。 == 歴史 == [[スイス]]の[[チューリッヒ工科大学]]でPascalの創始者である[[ニクラウス・ヴィルト]]のもとで学んだ[[フィリップ・カーン]]が、その素晴らしさを[[アンダース・ヘルスバーグ]]に説き、Turbo Pascal を開発したとされる。 Turbo Pascal の元になっているのはシングルボードコンピュータキット Nascom 用の Blue Label Software Pascal (BLS Pascal) で、[[デンマーク]]の[[コペンハーゲン]]に本社を置く PolyData MicroCenter 社 ([[アンダース・ヘルスバーグ]]が所属) が開発した。BLS Pascal は Pascal のサブセット実装だった。後に [[CP/M]] 用の Pascal フルセット実装である Compas Pascal がリリースされ、他プラットフォームにも対応した Poly Pascal がリリースされた。この Poly Pascal を Borland がライセンス供与を受け、メニューシステムと新しいエディタを組み込んだものが Turbo Pascal である。Poly Pascal と Turbo Pascal は数年間並行して販売されていた。 Turbo Pascal の開発者である[[アンダース・ヘルスバーグ]]はインタビューに対し、[[デンマーク]]で開発を行い[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ渡った[[フィリップ・カーン]]のもとへ定期的に郵送でプログラムを送っていたと答えている。この時点で[[フィリップ・カーン]]は不法滞在であったが、ボーランド社を名乗り Turbo Pascal を売り歩いた。その後、Turbo Pascal の成功をうけ本物のボーランド・インターナショナル社を米国にて設立した。 [[1983年]]11月、[[CP/M]]版・[[MS-DOS]]版が販売開始され、その後、[[Microsoft Windows]] 版が販売された。[[1986年]]には [[Apple Macintosh]] 版が販売されたが、長くはサポートされなかった。 個人で買えるほどの安い価格、[[アセンブリ言語|アセンブラ]]で記述され、全ての動作をRAM内で行う高速なコンパイラ、[[テキストエディタ|フルスクリーンエディタ]]を含む使いやすい統合開発環境は大きな衝撃を与えた。当時のメジャーなフルスクリーンエディタであった[[WordStar]]の編集操作用キーボードショートカットをそのまま利用できたのも魅力であった。 バージョン4からは、[[Modula-2]]で実現された特徴のいくつかをPascalに取り込み、ソフトウェアパーツの{{Anchors|ユニット}}ユニット化({{Anchors|分割コンパイル}}分割コンパイル)や[[インラインアセンブラ]]の利用、ハードウェアへの低レベルアクセス([[主記憶装置|メモリ]]、[[I/Oポート]]直接アクセス、[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]処理の実装)を可能にし、通常のPascalは守備範囲としていないハードウェア制御やグラフィック等を含むより実践的なソフトウェア開発が可能になった点などをあげることができる。バージョン5.5から[[オブジェクト指向]]機能を持つまでに拡張された。 == バージョン履歴 == === Turbo Pascal (1983年11月) === [[CP/M]]、[[MS-DOS]] 版の販売開始。メニューシステムと[[WordStar]] 互換のエディタが組み込まれている。 === Turbo Pascal 2.0 (1984年4月) === [[CP/M]], [[MS-DOS]] 用。自動[[オーバーレイ_(コンピュータ用語)|オーバーレイ]]機能の追加や、[[MS-DOS]] 向けにグラフィクス、サウンド、カラーサポートが行われた。 === Turbo Pascal 3.0 (1985年8月) === [[CP/M]], [[MS-DOS]] 用。コンパイラの性能が向上。Intel 8087 数値演算コプロセッサに対応する初めてのバージョン。16bit バージョンでは BCD 演算にも対応。 === Turbo Pascal 4.0 (1988年8月) === [[MS-DOS]] 用。[[CP/M]] のサポートは打ち切られた。COM 形式だけでなく EXE 形式の実行ファイルを生成できるようなった。uses 句はこのバージョンから使えるようになった。日本語版では、[[PC-9800シリーズ|PC-98]] 対応となった。 === Turbo Pascal 5.0 (1989年2月) === エディタや[[オーバーレイ_(コンピュータ用語)|オーバーレイ]]が [[Expanded_Memory_Specification|EMS]] / [[XMS]] に対応。Turbo Debugger が使えるようになっている。日本語版では、[[PC-9800シリーズ|PC-98]] に加え、[[FMRシリーズ|FMR]] に対応となった。 === Turbo Pascal 5.5 (1990年1月) === オブジェクト指向を取り入れ、言語仕様的には [[Object Pascal]] となった。日本語版では対象機種から [[FMRシリーズ|FMR]] が外れ、[[PC-9800シリーズ|PC-98]] のみとなった。 === Turbo Pascal 6.0 (1991年4月) === インラインアセンブラが使えるようになった。Turbo Vision も利用可能。日本語版製品としては最後の [[MS-DOS]] 専用版。対応する機種は [[PC-9800シリーズ|PC-98]]。 === Turbo Pascal for Windows (1991年11月) === Windows で動作する Turbo Pascal。Turbo Pascal 6.0 がベースとなっている。対応する Windows は、3.0。対応する機種は、日本語版では [[PC-9800シリーズ|PC-98]]。Windows 用クラスライブラリとして、[[ObjectWindows(OWL)]] が導入された。加えて、Borland C++ 2.0 より Resource Workshop 等の Windows 用ツールが導入された。日本語版製品としては最終版。 === Borland Pascal with Objects 7.0 (1992年10月) === 製品名が変更となった。ただし、バージョン番号は継承している。また、[[Turbo Assembler]] や Turbo Pascal をはじめとした多くの製品・ツール・サンプル等が同梱されており、Windows/MS-DOSどちらの開発もサポートされたスイート製品。英語版のみ。Windows 3.1 に対応。 == 後継 == [[Borland Pascal]]と[[Delphi]]は、Turbo Pascalの後継ソフトウェアである。Turbo Pascal とDelphiの[[言語仕様]]はインテル系パーソナルコンピュータ上での[[ALGOL]]系言語ではデファクトスタンダードに近い存在となり{{要出典|date=2009年5月}}、他のベンダからも(ソースレベルでの)Turbo PascalないしDelphi互換をうたう統合開発環境が数多く登場した。一方で、コード最適化の面では同じALGOL系各種言語を含む他の処理系に及ばない面もあった(ワンパスコンパイラの限界もあった)。 Windows対応に際して開発・導入された [[ObjectWindows (OWL)]] は、その後 Borland C++ 等他の言語製品でも使われるようになった。 [[2006年]][[8月8日]]、ボーランド(現[[コードギア]])は[[1995年]](日本では1997年<ref>Turbo C++ 5.0J が1996年9月に発売された。</ref>、または2001年<ref>2000年に発売された [[Borland C++ Suite]] には、[[Turbo Assembler]]、[[Turbo C]]、Turbo C++、Turbo Pascal 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name="tp10">{{cite web | url=https://cc.embarcadero.com/Item/26017 | title=Antique Software: Turbo Pascal v1.0 | first=Tim | last=DelChiaro | date=2008-09-02 |accessdate=2018-12-01| publisher=Embarcadero Technologies}}</ref><ref name="tp302">{{cite web | url=https://cc.embarcadero.com/Item/26016 | title=Antique Software: Turbo Pascal v3.02 | first=Tim | last=DelChiaro | date=2008-09-02 |accessdate=2018-12-01 | publisher=Embarcadero Technologies}}</ref><ref name="tp55">{{cite web | url=https://cc.embarcadero.com/Item/26015 | title=Antique Software: Turbo Pascal v5.5 | first=Tim | last=DelChiaro | date=2008-09-02 |accessdate=2018-12-01 | publisher=Embarcadero Technologies}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==関連項目== * [[C Sharp|C#]] * [[Delphi]] * [[Pascal]] * [[Object Pascal]] * [[Turbo Assembler]] * [[Turbo C]] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:TURBO PASCAL}} [[Category:コンパイラ|TURBOPASCAL]] [[Category:統合開発環境|TURBOPASCAL]] [[Category:Pascal|TURBO]] [[Category:コードギアの開発ツール]] [[Category:DOSのソフトウェア]] [[Category:Windowsのソフトウェア]] [[Category:1983年のソフトウェア]]
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直角三角形
直角三角形(、英: right triangle)とは、2つの辺が直角をなす三角形である。記号⊿ を使って表すことがある。 直角三角形においては、直角である内角は、他の2つの内角よりも大きくなる。直角三角形の直角以外の2つの角を、直角三角形の鋭角と呼ぶ。直角三角形の2つの鋭角の和は、直角に等しい。 直角三角形の直角の対辺を斜辺と言い、残りの2辺を、直角をはさむ2辺または単に隣辺と言う。 直角三角形の3辺の間には、長さについて三平方の定理の関係がある。 直角の頂点を直角頂と呼ぶ。直角頂は垂心に等しい。 直角三角形の定義は 1つの内角が直角(90°)であることであるが、内角の和は 180°であるから、直角である内角はその1つだけである。直角でない2つの内角はどちらも鋭角(90°未満の角)であり、それらの和は直角に等しい。 直角三角形の斜辺の中点は、3頂点まで等しい距離にある(外心)。このことと三角不等式から、直角三角形の斜辺は、3辺のうち最も長いことが導かれる。 直角三角形の斜辺の長さは、外接円の直径に等しく、また、直角をはさむ2辺の長さの和から、内接円の直径を引いた差に等しい。 合同な2つの直角三角形から、斜辺だけ重ねると、長方形ができる。直角三角形は面積 ab の長方形を1本の対角線で区切って2等分した図形なので、面積は 1/2ab である。 また、合同な2つの直角三角形を、隣辺の1つずつだけ重ねると二等辺三角形ができる。2つの合同な三角形を1辺ずつだけ重ねて別の三角形ができるのはこの場合に限られる。 直角三角形の面積は、直角をはさむ2辺の長さの積の 1/2 に等しい。 直角三角形の斜辺を一辺とする正方形の面積と、直角をはさむ2辺をそれぞれ一辺とする正方形 2個の面積の和は等しい。すなわち、斜辺の長さを c、直角をはさむ2辺の長さをそれぞれ a, b とすると、それらの2乗について以下の等式が成り立つ: この定理は三平方の定理として知られている。 三平方の定理は逆も成り立つ。すなわち、上記の等式を満たす三角形は直角三角形に限られる。 三角関数を幾何学的に定義するには、直角三角形を利用する。鋭角 A に対する斜辺 c、隣辺 a、対辺 b により で定義する。 三角定規は直角三角形であり、2つの鋭角が 30°, 60°の半正三角形(正三角形を半分にしたもの)と底角がともに 45°である直角二等辺三角形の2枚が1組となっているのが一般的である。半正三角形の長い方の隣辺と、直角二等辺三角形の斜辺の長さは同じ場合が多い。これらを使って平行線や垂線を容易に作図できる。 直角三角形の3辺の長さになる3整数の組をピタゴラス数という。ピタゴラス数は (ka, kb, kc) (a + b = c, (a, b, c) はどの2つも互いに素、k は自然数) の形になり、下の式で表される: ここで m, n は自然数で を満たす。 自然数 m, n が上記の3条件を満たせば、重複なく全てのピタゴラス数を導出できる。上記の3条件を満たす自然数 m, n は無数にあるため、(a, b, c) は(つまりピタゴラス数は本質的に)無数にある。 明治初期の日本では、直角三角形は「勾股弦の形」と呼ばれていた。この名の起源は漢の『九章算術』「勾股」章にまで遡ることができる。なお、『九章算術』は現代の中国はもちろんのこと、日本の和算にも引き継がれている。また「勾股弦」の語は現在の日本の伝統建築の規矩術でも用いられている。(斜辺を「玄」、隣辺を「勾」、「殳」と表す。)
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直角三角形(ちょっかくさんかくけい、とは、2つの辺が直角をなす三角形である。記号⊿ を使って表すことがある。 直角三角形においては、直角である内角は、他の2つの内角よりも大きくなる。直角三角形の直角以外の2つの角を、直角三角形の鋭角と呼ぶ。直角三角形の2つの鋭角の和は、直角に等しい。 直角三角形の直角の対辺を斜辺と言い、残りの2辺を、直角をはさむ2辺または単に隣辺と言う。 直角三角形の3辺の間には、長さについて三平方の定理の関係がある。 直角の頂点を直角頂と呼ぶ。直角頂は垂心に等しい。
{{Infobox polygon |name = 直角三角形 |image = Rtriangle.svg |caption = 点 {{math2|A, B, C}} からなる直角三角形 {{math|⊿ABC}}。<br>隣辺 {{math2|1=BC = ''a''}} と {{math2|1=CA = ''b''}} が直角をなす。<br>直角の対辺 {{math2|1=AB = ''c''}} は斜辺と呼ばれる。 |area = <math>S = \frac{1}{2}ab</math> |perimeter = {{math|1=C = 2πR}} |type = [[三角形]] }} {{読み仮名|'''直角三角形'''|ちょっかくさんかくけい|{{lang-en-short|right triangle}}}}とは、2つの[[辺]]が[[直角]]をなす[[三角形]]である。記号[[三角 (記号)#直角三角|⊿]] を使って表すことがある。 直角三角形においては、直角である内角は、他の2つの内角よりも大きくなる。直角三角形の直角以外の2つの角を、直角三角形の鋭角と呼ぶ。直角三角形の2つの鋭角の和は、直角に等しい。 直角三角形の直角の対辺を[[斜辺]]と言い、残りの2辺を、直角をはさむ2辺または単に[[隣辺]]と言う。 直角三角形の3辺の間には、長さについて[[ピタゴラスの定理|三平方の定理]]の関係がある。 直角の頂点を直角頂と呼ぶ。直角頂は[[三角形#垂心|垂心]]に等しい。 == 直角三角形の角 == 直角三角形の定義は 1つの内角が直角(90°)であることであるが、内角の和は 180°であるから、直角である内角はその1つだけである。直角でない2つの内角はどちらも鋭角(90°未満の角)であり、それらの和は直角に等しい。 == 直角三角形の斜辺 == 直角三角形の斜辺の[[中点]]は、3頂点まで等しい[[距離]]にある([[三角形#外心|外心]])。このことと[[三角不等式]]から、直角三角形の斜辺は、3辺のうち最も長いことが導かれる。 直角三角形の斜辺の長さは、[[外接円]]の直径に等しく、また、直角をはさむ2辺の長さの和から、[[内接円]]の直径を引いた差に等しい。 [[図形の合同|合同]]な2つの直角三角形から、斜辺だけ重ねると、[[長方形]]ができる。直角三角形は[[面積]] {{mvar|ab}} の長方形を1本の[[対角線]]で区切って2等分した図形なので、面積は {{math2|{{sfrac|1|2}}''ab''}} である。 また、合同な2つの直角三角形を、隣辺の1つずつだけ重ねると[[二等辺三角形]]ができる。2つの合同な三角形を1辺ずつだけ重ねて別の三角形ができるのはこの場合に限られる。 == 直角三角形の面積 == 直角三角形の面積は、直角をはさむ2辺の長さの積の {{math|{{sfrac|1|2}}}} に等しい。 == {{vanc|三平方の定理|ピタゴラスの定理|勾股定理}} == {{main|ピタゴラスの定理}} 直角三角形の斜辺を一辺とする[[正方形]]の[[面積]]と、直角をはさむ2辺をそれぞれ一辺とする正方形 2個の面積の和は等しい。すなわち、斜辺の長さを {{mvar|c}}、直角をはさむ2辺の長さをそれぞれ {{math2|''a'', ''b''}} とすると、それらの[[自乗|2乗]]について以下の[[等式]]が成り立つ: :<math>a^2+b^2=c^2 \,.</math> この[[定理]]は[[ピタゴラスの定理|三平方の定理]]として知られている。 三平方の定理は[[逆]]も成り立つ。すなわち、上記の等式を満たす三角形は直角三角形に限られる。 == 三角関数 == [[三角関数]]を幾何学的に定義するには、直角三角形を利用する。鋭角 {{mvar|A}} に対する斜辺 {{mvar|c}}、隣辺 {{mvar|a}}、対辺 {{mvar|b}} により :<math>\sin A = \frac{a}{c}</math> :<math>\cos A = \frac{b}{c}</math> :<math>\tan A = \frac{a}{b}</math> で定義する。 {{main2|三角関数の諸公式|三角関数の公式の一覧}} == 三角定規 == [[三角定規]]は直角三角形であり、2つの鋭角が 30°, 60°の半正三角形([[正三角形]]を半分にしたもの)と底角がともに 45°である[[直角二等辺三角形]]の2枚が1組となっているのが一般的である。半正三角形の長い方の隣辺と、直角二等辺三角形の斜辺の長さは同じ場合が多い。これらを使って[[平行]]線や[[垂直|垂線]]を容易に[[作図]]できる。 == 三辺の長さが整数になる直角三角形 == {{main|ピタゴラス数}} 直角三角形の3辺の長さになる3整数の組を'''ピタゴラス数'''という。ピタゴラス数は {{math2|1=(''ka'', ''kb'', ''kc'') (''a''{{sup|2}} + ''b''{{sup|2}} = ''c''{{sup|2}}}}, {{math2|(''a'', ''b'', ''c'')}} はどの2つも[[互いに素 (整数論)|互いに素]]、{{mvar|k}} は自然数) の形になり、下の式で表される: : <math> a = k\cdot(m^2 - n^2) ,\ \, b = k\cdot (2mn) ,\ \, c = k\cdot(m^2 + n^2)</math> :({{math2|''a'', ''b''}} は順不同) ここで {{math2|''m'', ''n''}} は自然数で * {{math|''m'', ''n''}} は互いに素 * {{math|''m'' > ''n''}} * {{mvar|m}} と {{mvar|n}} の奇偶は異なる(一方が[[奇数]]で他方が[[偶数]]) を満たす。 自然数 {{math2|''m'', ''n''}} が上記の3条件を満たせば、重複なく全てのピタゴラス数を導出できる。上記の3条件を満たす自然数 {{math2|''m'', ''n''}} は無数にあるため、{{math2|(''a'', ''b'', ''c'')}} は(つまりピタゴラス数は本質的に)無数にある。 <gallery> TomoyukiMogi(FormationOfPythagoreanTriple).gif|色付きの正方形群で三辺の長さが整数の直角三角形を表した例。正方形の合計数は図中右上のように1つの長方形内に余白なく収まるものとなっている。 TomoyukiMogiIntegralTriangle2.gif|三辺の長さが整数となる直角三角形を2つの整数(紫色の長方形の幅と高さ)を基に作成できることを示した図。桃色の三角形の三辺の長さがいずれも整数となっている。 TomoyukiMogiSimilarOfPythagoreanTriples.gif|互いに相似となる三辺の長さが整数の直角三角形の生成例。青の長方形の各辺の長さを整数とすれば、その長辺と短辺の和と差で辺が構成される緑の長方形の各辺の長さも整数となり、青と緑の長方形から同様の手順で生成される直角三角形(黄と赤)は互いに相似となる。 </gallery> == 名称の変遷 == [[明治]]初期の日本では、直角三角形は「勾股弦の形<ref>久米邦武 編『米欧回覧実記・5』田中彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、247頁</ref>」と呼ばれていた。この名の起源は[[漢]]の『[[九章算術]]』「勾股」章にまで遡ることができる。なお、『九章算術』は現代の[[中国]]はもちろんのこと、日本の[[和算]]にも引き継がれている。また「勾股弦」の語は現在の日本の伝統建築の[[規矩術]]<ref>[https://tyouken.tendon.bz/sumigi/koukogen.htm 規矩術指金使いの基本、勾殳玄の図、解勾股弦] 大工さんが作ったホームページ</ref>でも用いられている。(斜辺を「玄」、隣辺を「勾」、「殳」と表す。) == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{高校数学の美しい物語|2048|直角三角形の定義とさまざまな公式}} {{Commonscat|Right triangles}} {{ウィキポータルリンク|数学}} {{多角形}} {{DEFAULTSORT:ちよつかくさんかくけい}} [[Category:三角形]] [[Category:数学に関する記事]]
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満洲民族
満洲民族(まんしゅうみんぞく、マンジュみんぞく)、満洲族(まんしゅうぞく、マンジュぞく、満洲語: ᠮᠠᠨᠵᡠᡠᡴ᠋ᠰᡠᡵᠠ, manju uksura)、満族(まんぞく、マンぞく)は、ツングース系民族の一つで、中国東北部、ロシア沿海地方(旧満洲)などに発祥し、現在は中国各地に散在している民族。同じく中国東北部に興り、かつて金を建国した女真を祖先とする。17世紀に現在の中華人民共和国およびモンゴル国の全土を支配する清を興した。清朝では、民族全体が八旗(ᠵᠠᡴᡡᠨᡤᡡᠰᠠ, jakūn gūsa、八つの旗)に組織され(満洲八旗)、蒙古八旗、漢軍八旗と呼ばれる主にモンゴル人や漢人によって構成された軍事集団八旗のメンバーとともに旗人とも呼ばれた。同系の民族にシベ、ウデヘ、ナナイ、ウリチ、ウィルタなどがある。中華人民共和国による民族識別工作では、蒙古八旗や漢軍八旗も含む「旗人の末裔」全体が「満族」に「識別」(=区分)され、「55の少数民族」の一つとされた。2010年の中国の国勢調査では人口1,038万人とされ、「少数民族」としてはチワン族・回族に次ぐ人口である。 「満洲」の漢字は満洲語の民族名ᠮᠠᠨᠵᡠ、manju(マンジュ)の当て字で、元来は「満洲」であるが、現在の日本では一般に常用漢字をもって「満州」と表記することが多い。 満洲については「洲」の文字が含まれていることから、満洲民族の興った地域は、現在でも英語では満洲民族の土地という意味でマンチュリア(“Manchuria”)のように地域呼称として用いられ、これに対応して日本語でも「中国東北部」を指す広域地名「満洲(満州)」と呼ばれたり、国境の町「満洲里」など地域名称のイメージが強い。特に民族のことを指す場合は、満洲民族、満洲族、満洲人、満人などと表記する。しかし、中国語においてはあくまでも民族名であり、土地の名前ではない。満洲語においても "ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ, manju" は専ら満洲族を指し、「満洲語 (ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠᡤᡳᠰᡠᠨ, manju gisun) 」、「満洲文字 (ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠᡥᡝᡵᡤᡝᠨ, manju hergen)」なども「満洲人の言葉」「満洲人の文字」と解される。 民族名である 満洲/マンジュの起源については諸説あり、今のところ不明である。しばしば、サンスクリット語のマンジュシュリー(文殊師利、文殊菩薩のこと)に由来するともいわれるが、元来は16世紀までに女真の名の下に括られていた人々のうち、建州女直に属する5つの部族(スクスフ、フネヘ、ワンギャ、ドンゴ、ジェチェン)を一括する呼称であった。日本の東洋史学者である岡田英弘は清朝時代のダライ・ラマが「マンジュと言われるからには、清朝皇帝は文殊菩薩の化身である」と宣伝したものを第6代皇帝の乾隆帝が政治的に利用したところから、文殊菩薩が民族名の由来となったという俗説が生まれたのではないかとしている。 現在の中華人民共和国のもとでは、モンゴル人・漢人の末裔の一部(旧「蒙古八旗」、旧「漢軍八旗」の末裔ら)と合わせて「満族」(Mănzú)としてひとくくりにされ、中華人民共和国の55の少数民族の一つと位置付けられている。1911年の辛亥革命による清朝崩壊後は排斥を受けた過去を持ち、1949年に中華人民共和国が成立した後には他の少数民族と同じく区域自治権が与えられ、合計11の自治県がある(一覧は後述)。映画『ラストエンペラー』で知られる清朝最後の皇帝である溥儀や、戯曲『茶館』などの作品で有名な作家老舎も満洲人の出身である。 満洲族は、かつて中国を支配した清朝旗人の末裔であり、中国全土に散在する。過半数は、遼寧省に居住しており、河北省、吉林省、黒竜江省、内モンゴル自治区、新疆ウイグル自治区、甘粛省、山東省にも分布し、北京、天津、成都、西安、広州、銀川などの大都市やその他中小都市にも居住する。清朝前期の公文書や民間史料は満洲語だけで記されているが、人びとの満洲語に対する意識は薄れており、満洲語は危機に瀕している。『朝日新聞』の報道によれば2013年時点で、中国国内で満洲語を解し、古文献も読めるレベルの学者は決して多くないという。一方で黒竜江大学、中央民族大学、北京市社会科学院などをはじめとする大学・研究機関によっても満洲語に関する研究が行われている。満洲文字はモンゴル文字を起源とするアルファベットであり、満洲文字を解すモンゴル族の研究者(哈斯巴特爾(ハスバートル)氏など)もおられる。日本でも有名な『論語』『孟子』『 詩経』『孫子兵法』など中国の伝統文化を代表する著作にも満洲語の訳本が存在し、満洲文字が漢文と併記されている。研究機関以外の場所で自学や授業を通じて満洲語を習得した学習者の人数を除いても、満洲語を解し、古文献を読むことができるレベルの学者が10名ほどに過ぎないのは疑わしい。。 清朝発祥の地といわれているのが、遼寧省の撫順市の新賓満族自治県である。しかし、そこにあっても満洲民族の小学校は1校しかなく、満洲族固有の姓を用いる児童もいない。一方で、ヌルハチが城や寺を築いて最初の根拠地としたヘトゥアラ(ᡥᡝᡨᡠ᠋ᠠᠯᠠ、hetu ala、赫図阿拉)、すなわち、同自治県の西方、永陵鎮老城村はヌルハチ即位の地であり、ヌルハチの祖先の陵墓である永陵があり、太陰暦4月18日に各地の満洲族が集まる祭礼の地となっている。 満洲民族の人口は清朝の時代には200万人ほどとされていたが、清朝滅亡後は迫害を恐れたため、続いて行われた中華民国初期の国勢調査で自らを満洲族としたのは約50万人にすぎなかったという。しかし、少数民族の権利が謳われるようになると、その人口は一気に500万人に増えたといわれている。 文献上によれば、狩猟民と称さるそれ製の石を、あるいは以降、物産といった。貊(はく)という民族もあったが、戦国時代から漢代にかけての漢民族の進出と楽浪郡(前108年設置)以下4郡の設置という動きのなかで、貊のなかから夫余が起こった。 高句麗を建国したのも韓族ではなく、貊族であった。7世紀末葉、粟末靺鞨に高句麗の遺民を加え、南満洲から現在の朝鮮半島北部にかけての地に、「海東の盛国」と称された渤海が建国された。 半農半猟の女真族が完顔阿骨打(ワンヤン・アクダ)により統一された。女真は、靺鞨七部のうち、黒水靺鞨と呼ばれた集団だと考えられる。金は、渤海を滅ぼしたモンゴル系契丹族による遊牧民王朝の遼を滅ぼし、さらに1126年、漢民族王朝の宋の徽宗・欽宗のニ帝および皇族・重臣らを捕らえて中国北半を支配し、燕京(いまの北京市)に都を移して宋朝を南へと追いやった。体系を整備し、政府組織を中央、地方ともに中国風にして支配体制を整えたが、軍事権力を強く握って独占したのは女真族であり、政府首脳もまた女真族によって占められた。女真人には行政と軍事を兼ねたミンガン・ムクンの制度などがとられ特別の保護を受けた。東北部(満洲)にあっては大部分が猛安・謀克制によって統治されたが、他民族の住む西部や南部では州県制が採用された。 金はしかし、1206年にチンギス・カンによって成立したモンゴル帝国の猛攻を受けて劣勢に立ち、都を開封に移したものの1232年にはその開封が包囲された。そして、1234年、オゴデイらの進撃により、逃走していた哀宗が自殺して金は滅んだ。一方、これに先立って、契丹の反乱鎮圧を称して挙兵していた金王朝の将の蒲鮮万奴は、1215年に金より自立して「天王」を名乗り、東夏国(大真国)を建国していた。東夏は、モンゴルに服属したり自立したりを繰り返していたが、この国もまた、1233年、オゴデイの子のグユクによって滅ぼされた。 女真族は、金がモンゴル帝国に滅ぼされてからのちは、モンゴル帝国、大元、大明の支配下に置かれた。その間、金の時代に創始した女真文字もしだいに失われ、金建国以前の部族集団に後退した。当時の女真族の家族は、主人と奴婢に完全に二分されており、主人は狩猟や採集、交易、戦争などの外仕事、奴婢は農耕やブタの飼養など食糧生産を担当するという分業体制が確立していた。その役割は固定し、世襲されていったが、代々起居や食事をともにし、双方の物産・物資は分け隔てなく均等に分配されたから、両者の結びつきはきわめて緊密であった。東北部に残留した女真(女直)は、元代には遼陽等処行中書省の管轄下に入ったが、その統制はゆるやかなもので、ほぼ完全な自治がゆるされていた。代からにかけて人は、半島族の下にあった。 とりわけながら中国本土に相対的に近い建州女直からスクスフ部の有力な氏族だった英傑で拡大した。ヌルハチの支配する領域は、一方では「マンジュ国」(ᠮᠠᠨᠵᡠᡤᡠᡵᡠᠨ, manju gurun, 満洲国)と称されるようになったが、マンジュ国がさらに海西女真四部(マンジュ政権からは「フルン四部」)、野人女真四部(同じく「東海四部」)を統合していく過程で、「マンジュ」が広く女真全体の総称として用いられるようになった。なお、建州・海西・野人の各女真には、それぞれ内部的に何らかの結合関係があったと考えられがちだが、実際はそうではなかった。建州女真のなかの五部もまた、それぞれ別個に建てられた5つの国のような様相を呈しており、それを越えてのまとまりはなかった。「マンジュ国」は、その意味で複合部族国家であった。 金の滅亡後、女真文字は失われ、女真族はモンゴル文や漢文に翻訳して文書をつくるようになっていたが、「マンジュ国」の勢威が拡大し、民族統合を進めるなかで民族的自覚は高まり、その長であるヌルハチは自分たちの文書を外国語に翻訳して記述している状況を不自然だと感じるようになっていた。ヌルハチは、学者エルデニ・バクシ(中国語版)に命じて文字をつくらせた。1599年のこととされている。すなわち、広大な地域で話されるようになった「マンジュ国」の言語を表記するため、アラム文字をルーツにするモンゴル文字(縦書きのウイグル文字を応用したもの)を改良させて無圏点満洲文字をつくり、当時の女真語(満洲語)を表記することとしたのである。さらに、無圏点文字では区別することのできないha(ᡥᠠ)とga(ᡤᠠ)、de(ᡩ᠋ᡝ᠋)とte (ᡨᡝ᠋)などを識別するため、ヌルハチの子のホンタイジは、17世紀にダハイ・バクシに有圏点満洲文字をつくらせた。満洲文字の資料は有圏点満洲文字で書かれたものが圧倒的に多い。 ヌルハチは、中国のほぼ全域を領有して、これは、数百年の空白を隔てて、2度にわたり歴史に名を残す統一国家を樹立して中国内地を支配した、稀有な例であった。後金はヌルハチ没後も発展し、子息ホンタイジは内モンゴルを併合し、李氏朝鮮を属国となして国号を「清」に改め、また、民族名も「女真」を民族名として用いることを禁じ、"マンジュ"と改め、それに「満洲」の字を当てた。 女真族出身のホンタイジは女真の概念を捨て、女真人、蒙古人、遼東漢人等の北方諸族を満洲(人)と統合し、国号を「大清」に改めた。ちなみに、民族の名称を表す“満”と“洲”、そして政権の名称を表す“清”のいずれにも“氵(さんずい)”が付いているのは、五行の火徳に結び付く“明”を“以水克火”するという陰陽五行思想に基づいているとされる。ホンタイジは、1636年、清の国号を称したとき、満、漢、モンゴルの三勢力に推戴され、多民族国家の君主としてハーンであると同時に皇帝でもあるということを、内外に宣言した。多民族王朝となった清のもと、満洲人は、八旗と称する8グループに編成され、王朝を支える支配層を構成する主要民族のひとつとなり、軍人・官僚を輩出した。 1644年、清は山海関を越えて万里の長城以南に進出し、李自成の乱で滅亡した明にかわって北京に入城した。明滅亡後は、明の旧領を征服し、八旗を北京に集団移住させて漢人の土地を満洲人が支配する体制を築き上げた。なお、漂着により朝鮮に抑留されていたヘンドリック・ハメルによれば、満洲人支配下の17世紀初期の朝鮮では、朝鮮国王は国内では絶対的権力をもっているものの、後継者を決める際は満洲人のハーンの同意を得なければならず、また、満洲人の勅使やウリャンカイ(野人女真)は、年に3回朝鮮から貢物を徴収し、朝鮮高官は満洲人に怯えきっていたという。 歴代の清朝皇帝は、同時に、満洲やモンゴルなど北方民族社会の長としてのハーンでもあった。その意味で清朝は、非漢族のハンが中国皇帝でもあるという「夷」と「華」が同居する二重性を有していたが、日本の東洋史学者石橋崇雄は、さらにこれに「旗=満(東北部での満・蒙・漢)」の体系を加えた「三重の帝国」であったとしている。首都北京は中国内地の華北に、副都盛京(現、瀋陽)は中国東北部に、行在所「避暑山荘」は熱河(現、承徳)にそれぞれ位置しており、いずれも清朝のハン(大清皇帝)が政治の実務を執り行った場所という点では共通しているが、実際はこの3か所の性格はまったく異質であった。清朝の皇帝は、北京にいるときは中華世界の天子として君臨していたが、長城外に位置する熱河の離宮(「避暑山荘」)では、内陸アジア世界におけるモンゴル族の首長、ボグド=セチェン=ハンとして行動し、熱河は、モンゴル族やチベット族のみならず、ウイグルの王公、チュルク系民族の首長(ベグ)、朝鮮(李朝)および大南(阮朝)・タイ王国(アユタヤ王朝、トンブリー王朝、チャクリー王朝)・ビルマ(コンバウン王朝)といった東南アジアにおける朝貢国の使節、さらにイギリスの使節までも朝覲する非漢族世界「藩」の中心であった。一方、瀋陽の奉天行宮(瀋陽故宮)東郭には右翼王および左翼王の執務室と八旗それぞれの建造物をともなう、旗人の部族長会議を反映した十王亭がある。 清朝期の建築物は、複数言語で表記される「合璧形式」の額が掲げられることを一大特徴としているが、ここでは満・漢合璧であるだけでなく、満・漢・蒙の合璧、それにチベットを加えた四体合璧、さらにウイグルを加えた五体完璧もある。清朝の記録はまた、『満洲実録(中国語版)』をはじめとする実録類が原則として満文本・漢文本・蒙古文本の三種類によって編纂されており、満・漢・蒙の各語を担当する翻訳官がおり、そのための科挙もあった。これにチベットやウイグルなどの諸語も含めた官撰・私撰の辞書が多く作られたのも清朝文化の特徴となっている。大清帝国は、満・漢・蒙の三重構造を基本としており、瀋陽・北京・熱河にあった3政務所はそれを象徴するものというとらえ方ができるのである。 中国を扱った映画などにみられる辮髪や両把頭、チーパオ(チャイナドレス)は、本来は満洲人の習俗であったものが清代に漢人の社会に持ち込まれたものである。明との戦争に際しては占領地の男性住民に辮髪を命じ、明の滅亡は満洲族の髪型と服装を漢族にも強制して漢人の服飾を身に付けることを禁止し、漢民族の伝統文化を抑圧する態度をとった。これを「剃髪易服」(髪を剃り、服を替えるの意)という。一方、科挙の実施や中央に内閣、六部、地方に総督、巡撫を設置して軍事・政治を管轄させるなど、明朝の行政制度を存続させて強硬政策と懐柔政策を併用した。また、指導理念として朱子学をはじめとする儒家の思想も取り入れていた。 17世紀、コサック(カザク)によるシベリアへの東進が著しいロシア・ツァーリ国と清とが国境をめぐって対立した(清露国境紛争)。1650年代初頭、エロフェイ・ハバロフ率いるコサックの一派はアムール川に臨む清側の拠点ヤクサ(雅克薩)を奪い、同地をアルバジンと改めて東方進出への拠点とした。ロシア人はアムール川を下りながら先住民からヤサク(毛皮税)を徴収した。1652年、現在のハバロフスク周辺とみられるアチャンスクで清露の戦闘が起こった。1658年には朝鮮国軍も動員した清国側が勝利し、アムール川流域からロシア人勢力を駆逐したが、1665年、シベリアに追放されていたポーランド貴族のニキフォール・チェルノゴフスキー(英語版)がイリムスク(英語版)のヴォイヴォダ(軍司令官)を殺害して逃走、ヤクサ国(英語版)を建国して先住民から毛皮税を徴収した。清露国境紛争は再燃し、1683年、アルバジン戦争が勃発、戦況は清側優勢で推移し、1689年、清露両国はネルチンスク条約を結んで講和した。その結果、外満洲を含めた満洲全体が清の領土と確定した。なお、この時のロシア人捕虜は「ニル」に編成され鑲黄旗満洲に配属された。 清の歴代の皇帝は、漢人が圧倒的多数を占める中国を支配するにあたっても、満洲語をはじめとする独自の民族文化の維持・発展に努めていた。しかし、次第に満洲語は廃れ、満洲人の間でも漢語が話されるようになり、習俗もしだいに漢化していった。清代中期の北京の満洲人によって編まれた「子弟書」という俗曲集には、漢語と満洲語を交ぜてできている曲があり、当時の満洲人の言語状況の一端がかいまみえる。 清朝によって優遇された満洲族は清朝発展にともない中国本土に移住する者が増加した一方、満洲人の故地である満洲では人口が減り、荒廃したため、1653年から1668年まで遼東招民開墾令を出して漢人の移住を勧めた。しかし、18世紀に入ると東北部(満洲)に自発的に移住する漢人の数が急増したため、1740年には移住禁止令を出して満洲人の生活を保護しようとした。 1735年から1795年まで治世60年におよぶ第6代乾隆帝は、45年にわたる外征を「十全武功」と称し、晩年好んで用いた玉璽にも「十全老人」の文字を彫らせた。1750年代の後半には、清は乾隆帝の外征により中国東北部、中国内地、モンゴル高原、東トルキスタンを含むテンシャン山脈の南北両側、チベットより構成される最大版図を築いた。1759年にはテンシャンの南北両側地域を「新彊」と命名した。現代の中国の骨格は、乾隆帝によってかたちづくられたということができる。 1840年以降、清がアヘン戦争やアロー戦争に敗北し、大規模な農民反乱である太平天国の乱が起こって弱体化すると、ロシアは清に対して武力による威圧を強め、1858年にはアイグン条約を結んで、清領とされてきた外満洲のうちに割譲し、両国の共同管理することとなった。さらに2年後の1860年には北京条約によって、この地も正式にロシア領となった。 一方、皇帝の故郷の満洲は1860年までは保護され、漢人の移住はある程度制限されていたが、特普欽らの献策を容れて開放策に転じ、漢人農民の移住が急増した。中国史ではこれを「闖関東」と呼んでいる。漢人人口はさらに急増して満洲人人口を上回り、その生活域は蚕食された。また、イギリス領事館が営口に置かれるなど外国人勢力が満洲の南方からも入り込んで、満洲人の故郷は大きな変貌を遂げた。アヘン戦争の敗北後、清国は海禁政策を放棄して欧米列強に門戸を開いたが、日清戦争(1894-1895)や北清事変(1900)の敗北などによって深刻な半植民地状態に陥った。1911年の辛亥革命の際には「滅満興漢」がスローガンとして掲げられた。 1932年には日本の手によって、清の最後の皇帝だった宣統帝溥儀を執政(のちに皇帝)として満洲国が建てられた。満洲国は日・満・蒙・漢・朝の五民族による「五族協和」「王道楽土」を理念としており、国名に「満洲」を含むものの、満洲人がこの国を自分たちの民族国家として意識していたわけではない。しかし、建国後の満洲族には帝政期成運動を起こすなど、この国に民族の復権を期待する傾向も一部ではみられた。満洲国の建国宣言は、溥儀を担いだ旧清朝帝政派の人びとの主導によってなされ、それを関東軍が承認したものだが、そこには「礼教(儒教とほぼ同じだが、道徳秩序や祭礼面を前面に立てる)」を国教とすることが謳われていた。1934年の皇帝即位式において溥儀は、満洲族の民族衣装である竜袍の着用を、関東軍は「五族協和」の見地からこれを許されず、満洲国軍大総帥服を着用するよう求められた。溥儀はこれに従ったが、それに先立って祖霊に報告の開催を主張し、関東軍はその開催と着用を認めた。なお、満洲国における筆頭公用語は中国語(漢語)であり、第二公用語は日本語であった。ただし、筆頭公用語は中国語とも漢語(シナ語)とも称されず「満洲語」もしくは「満語」と称され、満洲国の住人は満族・漢族とわず「満人」と称された。 第二次世界大戦後に成立した中華人民共和国は、愛新覚羅溥儀を「思想改造」したのち満洲族代表として中国人民政治協商会議全国委員に任命し、「民族識別工作」を行って国内の少数民族を一定の権利を有する民族として公認していった。清代の旗人たちは、主にマンジュたちにより構成された満洲八旗のほか、蒙古八旗・漢軍八旗など3つの集団から構成されていたが、この「民族識別工作」では、蒙古八旗や漢軍八旗の末裔たちを「蒙古族」や「漢族」に区分するのではなく、「旗人」全体をまとめて「満族」と区分した。 満洲八旗に属していた錫伯(シベ)族、達斡爾(ダウール)族などについては、それぞれ56の民族の一員である独自の民族として識別されている。 なお、満洲族は、清代に支配者階級として長城以南に移住した経緯上から都市住民が多いため、漢民族に比べて教育水準が高い。1990年の人口調査資料によれば満洲族人口1万人当たりの大学進学者数は1,652.2人で、全国平均水準139.0人、漢族平均水準143.1人に比べて遥かに高かった。また、15歳以上で非識字・半非識字が占める比率は、満族は1.41パーセントで、全国22.21パーセント、漢族21.53パーセントよりも遥かに低く、中国国内の各民族の中で非識字率(半非識字率を含む)が最も低い。 さて依然中国にいたるまではいうにとってが主な生業。農耕はムギ、アワ、ヒエ、キビなど穀類を中心とする天水農業であった。狩猟はテン、キツネ、ミンク、リスなど毛皮目的であり、中華料理の食材となるキクラゲ、キノコ類、松の実、薬用として知られる朝鮮人参(オタネニンジン)の採集などもおこなわれた。清朝の軍事組織として知られる八旗も、その編成方法は元来、満洲族の狩猟生活からあみだされた巻狩の制を応用したものだったといわれる。 明代後期の遼東地方で当時高額で取引された二大商品といえば、クロテンの毛皮と山岳地帯に自生する薬用人参であった。こうした産物は現地で消費されず、奥地からリレー式に遼陽にもたらされ、さらに北京方面へと送られて、穀物、織物、金属製品といった中国内地の商品と交換される。ヌルハチはこうした特産品のルートを掌握して交易の利益を得ていた氏族長のひとりであった。 ヌルハチの故地に関して言えば、その地は山がちで大小の河川が縦横に流れ、斜面や点在する平地ではコーリャンなどが栽培されていたが、農地としては必ずしも恵まれていなかった。したがって、西方に隣接する肥沃で広大な遼東平野の農地は、彼にすれば垂涎の的であった。ヌルハチは遼東に進出するや女真人(満洲人)をこの地に続々と移住させ、農耕国家として発展する基礎を固めた。 またブタ養がなされており、産地としても有名であった。ただし、こうした生業のみで十分な自給自足ができるというほどの経済的基盤を有していたわけではなかった。なお、吉林省吉林市の鷹屯は、鷹狩に従事する八旗の兵士が代々居住し、鷹匠を数多く輩出した地であり、古い狩猟文化を今日に伝えている。 漢民族に見られる纏足の習慣は満洲族女性にはなかった。女性の服飾は、上述したチーパオまたはベストを着用することが多く、男性は伝統的に筒袖のチョッキとズボンという服飾を好んだ。 対して、満洲族男性のヘアスタイルであった。1644年の北京入城直後、清の第3代皇帝フリン(順治帝)の摂政ドルゴンは、清に服属するか逆らうかを区別するため、漢族に対しても「薙髪令」を発令した。この際は、中華思想の根強い抵抗のため強制できなかった。しかし、1645年、「薙髪令」を再発令し、辮髪を強制した。このとき、辮髪を拒否する者には死刑を以て臨んだ。儒教の伝統的な考えでは、毛髪を含む身体を傷付けることは「不孝」とされ、タブーであったため、抵抗する者も多かったが、清朝は辮髪を行った者に対しては「髪を切って我に従うものには、すべてもとどおり安堵する」として従来の生活や慣習が行えることを保証した。清朝は、漢族が辮髪を死ぬほど嫌い抜いていることを承知したうえで、あえて「薙髪令」を再発令したのであり、ある意味、清朝の敵味方の識別のためには、これ以上効果的な策はなかった。 やがて、19世紀には辮髪が完全に普及し、僧侶と道士と女性のほかはことごとく辮髪するようになり、中国のものと見なされるようになった。 満洲族「哈喇(ᡥᠠᠯᠠ,)」または「ムクン(mukūn)」と呼ばれる父系氏族とした。ロシアのセルゲイ・シロコゴロフ(英語版)はかつて、ハラが基本的な血縁組織であり、その後、血縁組織の発展にともないガルガン(garugan)、ムクンの2層が生じたと論じ、中国の莫東寅はこれを継承して、ハラ(部族)、ガルガン(胞族)、ムクン(氏族)の三層構造を唱えた。しかし、シロコゴルフ・莫東寅の説は、今西春秋が指摘しているように何ら史料的根拠を有しない。これに対し、三田村泰助は、詳細な検討の結果、ムクンをハラから派生した地域関係を基とする血族集団とみなす見解を示した。ムクンがハラより発生したとする説は、現在、多くの専門家の支持する定説となっている。ムクンは、金代女真族の「謀克」を原義としているとみられ、一義的には「族」、二義的には「氏」を表しており、一方、ハラには「姓」の字があてられる。清代にあっては、ハラはもはや実体をともなった血縁組織とはいえず、ムクンだけがのこったが、野人女直と呼ばれた人びととその末裔にあってはハラ組織が濃厚に残存したのだった。 明・清両王朝の皇宮となった紫禁城では、明が内廷(後宮)と外廷の間に塀を設け、その区別が厳格であったのに対し、清朝ではその塀を撤去して両者の区別は緩やかなものとなり、また、内廷においても男子禁制が明ほどには厳しくなかった。このことは、漢族の家族制と満洲族の氏族制の相違が反映しているものととらえることができる。 1個のハラは複数のムクンを包含するが、1個のムクンはただ1つのハラに帰属しており、ハラ組織は元来、地域的同一性を有していた。女真族(満洲民族)のハラの由来は、次の2種に大別できる。 ハラは、当初は族外婚の単位であると同時に族内への受け入れ機能を有し、血讐の義務をともない、また、精神生活の単位でもあった。それに対し、ムクンはハラの瓦解を受けて不断に分節化し、発展していったもので、その過程も示していた。たとえば、ギョロ(覚羅)というハラは、『氏族通譜』によれば、イルゲンギョロ(伊爾根覚羅)、シュシュギョロ(舒舒覚羅)、シリンギョロ(西林覚羅)、トゥンギャンギョロ(通顔覚羅)、アヤンギョロ(阿顔覚羅)、フルンギョロ(呼倫覚羅)、アハギョロ(阿哈覚羅)、チャラギョロ(察喇覚羅)という8つのムクンに分かれ、さらにそれぞれが多数の分枝を持っていた。ハラからムクンが生じた理由のひとつは族外婚規制の機能緩和であって、すでに明代女真族において婚姻禁忌が破られていたことにある。すなわち、同一ハラ内の異ムクンとの通婚を可としたのである。太祖ヌルハチはアイシンギョロ(愛新覚羅)氏出身であったが、その妻にはイルゲンギョロ氏2名、シリンギョロ氏1名、ギャムフギョロ(嘉穆瑚覚羅)1名、計4人の異ムクンの妻女が含まれていた。 満洲民族の姓氏は本来、アイシンギョロ(愛新覚羅、ᠠᡳ᠌ᠰᡳ᠍ᠨᡤᡳᠣᡵᠣ, aisin gioro)、イェヘナラ(葉赫那拉、ᠶᡝᡥᡝᠨᠠᡵᠠ, yehe nara)、ヒタラ(喜塔臘、ᡥᡳᡨ᠋ᠠᡵᠠ, hitara) 等にみられるように満洲語に基づいたものであった。しかし、現代満族の多くは、漢民族の姓氏になぞらえて主に一文字の「漢姓」を用いている。これは、清末期の辛亥革命の風潮、第二次世界大戦後の「漢奸」狩り、中華人民共和国成立後の文化大革命など、中国当局の弾圧を避けるための一方策であったと考えられる。しかしながら、その場合であっても、 というように、改姓の際にも一定の原則に従っている。現代満族は、「氏族 ― 哈喇(姓)漢訳表」と照らし合わせることによって自分の本来の姓氏を知ることができるようになっている。 満洲民族はもともとモンゴル人の影響を受けて、漢民族のように姓氏と名を同時に呼ぶ習慣はなく、名前のみを呼ぶか、名前の前に爵位や官職名を付けて呼んでいた(例:睿親王ドルゴン)。あえて姓氏と名を続けて呼ぶ場合は、例えば「グワルギャ姓のオボイ(満洲語: ᡤᡡᠸᠠᠯᡤᡳᠶᠠᡥᠠᠯᠠ ᡳᠣᠪᠣᡳ , gūwalgiya hala-i oboi) 」のような呼び方をしていた。 伝統的な婚姻は、族外婚と満漢不婚によって特徴づけられる。族外婚規制は、同じ氏族同士は結婚しないという原則であり、現代においても濃厚に確認でき、しかも、その規制の強さは漢族以上である。上述した「ハラ(旧氏族)」は当初、族外婚の単位であったが、その分節化によって生じた「ムクン(新氏族)」が現代における族外婚単位となっている。 満漢不婚は、満族と漢族の婚姻禁止の慣習であったが、現代においては守られていない。かつて満洲族は全体が八旗の組織に入る旗人であり、入旗していない漢族との通婚は許されていなかったが、入旗している漢族(漢軍八旗)との結婚は可能であった。なお、彼らが女真族と称していた時代にあっては、子が継母を娶ったり、弟が嫂を娶ったりする収継婚も多かったが、ホンタイジの時代に入ると漢人的な観念が浸透して旧俗矯正が図られ、収継婚は禁止された。 満洲族の婚姻の旧俗では、子女が成年に達すると双方の両親または仲人の話し合いを経て、双方の「門戸帳」(本人の生辰八字(生年月日)と姓氏三代(曾祖父母・祖父母・父母の姓名)が記されている)を交換し、これが適合すれば婚約できるなど、おびただしい数のしきたりと規制があった。 女真族の旧俗では、火葬が行われていた。ヌルハチもホンタイジも火葬され、3代順治帝は火葬制度を詳細に定め、彼自身も火葬された。順治年間以降、北京の満洲族はしだいに土葬を行うようになったが、清朝は漢化を防止する観点から、各地に駐防する旗人の行動に厳しい制限を課し、死後、現地に墳墓を設けることを許さず、必ず京旗に帰葬することとした。そのため、火葬の風習は各地の駐防にたずさわる旗人の間で保たれた。しかし、乾隆年間になると、各地の戦役も収まり、火葬を不孝・不道とみなす漢族の儒家思想の影響も受けていたので、乾隆帝は死後に現地で土葬することを許可し、帰葬を一律に禁止した。 女真の人びとはまた、死者の葬送のために牛・馬を殺してこれを死者に捧げ、その肉を食すという旧俗をもっていた。このような習俗は康熙帝の頃まではつづいたが、やがて漢民族の習俗を取り入れ、紙馬をもって祭礼をおこなうようになった。 殉死の風習も広く行われ、ヌルハチの妻の死去の際には4人の奴婢が、ヌルハチ自身の死去の際にも正妃アバハイと2人の側室が殉死した。ホンタイジは殉死の強制を禁止したが、禁止されたのは強制行為のみであって殉死そのものは否定されなかった。ホンタイジの死去の際には近侍2名が殉死している。殉死の旧俗が満洲族の社会で連綿と続いてきたのは、奴婢の制度と無関係ではないと考えられる。康熙帝が在位中に殉死の禁止を諭す命令を発し、以降は紙人を焼くことで死者の霊魂を祭ることとなった。 なかの言語も概ね他の諸語において顕に。語彙ではとくに、モンゴル語、漢語からの借用語も多い。清朝にあっては第一公用語の地位にあった。満洲語は、その話者が北京はじめ中国全土に居住するようになり、言語分布は拡大したが、漢人に比較すると人口の絶対数がきわめて少なかったので、満洲族の文化は漢化し、言語も漢語を話すようになり、満洲語はしだいに使わなくなっていった。満洲語使用は、すでに清朝中期の隆盛期には衰微の兆候を示していたという。現代、満洲語は中国東北部のごく一部でしか話されなくなっている。なお、乾隆年間中期にイリ地方へ移住したシベ族の末裔は今日でも満洲語を話している。これをシベ語といい、シベ語(シベ文字)の新聞や書籍も発行されている。 満洲文語の資料には、『満文老檔』をはじめとする記録類、満洲・モンゴル・漢・チベット・ウイグル5族の言語を対照させた『御製五体清文鑑(中国語版)』などの辞書類、『大蔵経』、漢文古典その他大量の翻訳文献などがある。また、文語資料にはあたらないが17世紀の日本越前国の船乗りが漂流した際の記録、『韃靼漂流記(異国物語)』には当時の満洲語が仮名文字で収録されている。満洲語についての情報の大半はこの種の文書記録から得られたものであり、この文語の基盤となった南部方言の直接的な記録は乏しい。満洲語について近代的な記録が行われ始めた19世紀には、満洲語はほとんど少数の知識人や官吏に依って用いられる人工的に整えられた形体となっており、西洋人による構造や文法についての記録が高い一貫性を持つ一方で、発音についての記録はしばしば混乱している。 満洲文字に先立つ女真文字については、金石文の発見や辞書に収録されたにおける。完顔希尹(中国語版)や完顔葉魯(耶魯)らによって1119年に創成された女真大字は表意文字、1138年に金の第3代皇帝熙宗が制定し、1145年に公布したと記される女真小字は表音文字であった。大字のみで表記、小字のみで表記、という三様の表記法があった。女真語は満洲語に近い言語だとみられる。両者は姉妹語関係にあったというよりは、むしろ方言的関係にあって、女真語は広義の満洲語のなかに没していったものと考えられる。 満洲文字は、左から縦書きで右に改行する。ホンタイジが、ギョルチャ氏の満洲旗人に命じて改良させた。新疆ウイグル自治区に在住するシベ族は、満洲文字を改良したシベ文字を使用している。 自然崇拝においては、火神・星神および神山・神石を尊崇し、とりわけ星神に対する信仰は最も普遍的なものであった。『吉林通志』にも「祭祀典礼は、満洲の最も重んずるは、一に祭星、二に祭祖」とある。星神とは、具体的には北斗七星であり、満洲語では「ᠨᠠᡩ᠋ᠠᠨᡠᠰᡳᡥᠠ, nadan usiha, ナダン(七つ)ウシハ(星)」と称する。記録によれば、満洲族の祭星は、多くは月が沈む後に行う背灯祭で、そこでは灯火がかき消され静寂のなかで執り行われ、通常は占卜や祟り祓い、病祓いなどの巫術と結びついた除災の祭りである。満洲族に近い、同じツングース系のホジェン族もまた、七星を除災の神とみなし、「吉星神」と呼称する。満洲族の七星神は、のちに祭礼が固定的なものに整備されていき、それにともない人格神化していった。 満洲族は鳥・鵲(カササギ)・イヌを崇拝した。鳥・鵲の崇拝は満洲族のシャーマニズム信仰の古層をなしており、長白山で水浴びをしていた天女(三仙女の末娘)フォクレン(仏庫倫)が神鵲がくわえてきた朱果を食して感精し、満洲の始祖のブクリヨンション(中国語版)(布庫里雍順、愛新覚羅氏)を産んだという伝説がのこる。『満洲実録』でも鳥や鵲に関するいくつかの伝承が記述されており、同著の満文本では満洲人の後裔はカササギを祖としたことを伝えている。また、ヘトゥアラに抑留されていた朝鮮人李民煥の著述した『建州聞見録』では、建州女真がイヌを自分たちの祖先と見なしていて、イヌを殺したり食べたり、イヌ皮を使用することを決して許さないという習俗をもっていたことにふれている。こうした習俗は、清朝を通じて変わらなかった。 満洲族は元来、自身を地上に降臨した天上界に住む神々の子孫であると信じ、自身の氏神を中心として団結した。虎神、人面豹身の神、大鳥神(人面怪鳥の神)、突忽到瑪法(海獣の形象から変化した神)、鹿神などは、満洲の各氏族における保護神や祖神などとして崇められた。彼らは森林地帯での狩猟や採集に際して、しばしば各種の猛獣の襲撃に直面し、予期せぬ災禍や不幸に見舞われ、あるいは漁撈に際しても数々の危険や事故に遭遇し、自分たちの無力さを悟ることも多かったと考えられる。そこで鳥獣を神格化して祭祀し、その勇気や能力を借りて災厄を逃れようと願ったところから動物崇拝が始まったのだろうと推測される。ここにおいてシャーマンが憑依して、たとえば、虎の各種の動作を真似て病人に災いをなす妖魔を威嚇することにより、病気が治癒されるものと信じられた。鹿神は、ウジャラ(烏扎拉)氏が鹿の角を採取する際に祭った神であったが、ここではシャーマンが帽子の上に一対の鹿の角を挿し、鹿神に憑依するものとされた。 女真族(満洲族)は、仏教、とりわけモンゴル族の影響でチベット仏教になじんでいき、漢民族との交流を通じて彼らの民間信仰、とくに道教からの影響も受けていった。1616年の後金建国の際、ヌルハチはヘトゥアラ城東の山上に仏教寺院、玉皇廟、十王殿などを建設して、これを「七大廟」と称した。関帝(関羽)、仏祖(釈迦)、観世音菩薩はしだいにシャーマニズムの神祇の列に加えられ、清朝宮廷や一般満洲族から尊崇されるようになり、満洲古来の神々よりも篤い崇拝を受けた。 1626年、ホンタイジが即位した直後の儀礼では、最後に支配領域における弓の達人らに弓を射させる「射柳の儀式」が執行されたが、これは金時代の女真がシャーマニズムの拝天の祭儀に付属して行った儀式を継承したものであった。北京の紫禁城内廷の坤寧宮、盛京(現在の瀋陽)の奉天行宮の清寧宮は、ともに、中国皇帝を兼ねる満洲族のハーンが、シャーマンの祭祀を行った祭神殿として独特の設計が施されており、その入り口の南には神杆(しんかん)、すなわち神鳥の止まり木が建てられていた。坤寧宮では元旦行礼などの特別な祭祀のほか、常祭である朝・夕の祭りが毎日行われ、ブタが生贄として供えられた。また、神々の前で「薩満太々(サマンタイタイ)」と称される巫女が満洲語の神歌を唱え、跳ね回ったという。シャーマニズムの伝統は、満洲族が中国内地の支配的地位に立ってからも温存されたのであった。 『満文老檔』天命6年(1621年)条や満文『内国史院檔』天聡8年(1634年)条には、当時の女真族(満洲族)が日食や月食という天文現象を「天界の犬が太陽・月を食べること」であると考えていたことを示唆する記述が収載されており、こうした伝承は他のツングース系の諸民族や朝鮮民族、チュルク系民族、また、パレオアジア語系とみられるニヴフ(ギリヤーク)にもみられる。 また、これに似た説話として、イチェ・マンジュ(伊徹満洲 ice manju/ 新満洲)人の伝承として、1.背後に敵軍が迫り、2.行く手を大河が遮り滅亡の危機を迎えるが、3.大河に魚の浮き橋ができて難を逃れ、4.滅亡を免れる(新天地へ移住する)という4つのモチーフをともなう説話も伝わっている。この4モチーフは、夫余・高句麗の開国説話(東明王・朱蒙伝説)にも共通し、オロチョン族やナナイ族などツングース系民族の説話にもみられる。 満洲族は、歌舞に長けた民族として知られており、そこには鮮やかな民族的個性と独特の品格がみられる。満洲族のなかで最もさかんに行われたのは、莽勢舞(莽式舞)と称する歌舞で、別名を「空斉」といった。莽勢舞は、集団のなかの1人が歌い、他の衆は「空斉」を以てこれに和し、正月や祝祭日に男女が相対して舞うというものであった。この舞には「九折十八式」と称される、漁撈・狩猟・騎射などの生活を反映した9つの舞のかたち、身体部位を用いた18の所作があったと伝わっている。清朝の北京入城後は宮廷に取り入れられて大規模化し、慶隆舞へと発展した。慶隆舞は、揚列舞(武舞)と喜起舞(文舞)の二部で構成された。 習武に関しては、満洲族は古来騎馬・射猟を得意とし、清朝建国後はこれを満洲の根本とみなして狩猟や軍事に活用するのみならず、競技化した。ヌルハチは、その趣味が弓の試合であり、すぐれた射手と技を競って負けなかったという弓の名手であったし、ホンタイジも飛翔する一羽の鳥をただの一矢で射落とすほどの腕前であった。競技種目としては歩射と騎射があり、弓術は、近代に至るまで満洲民族の伝統として受け継がれた。 スケートも満洲族が得意とするスポーツで、これまた初期の生業や軍事活動と結びついていた。冬季における酷寒の東北部では河川や湖沼が凍結して天然のスケートリンクとなった。スケートはスポーツであると同時に軍事訓練でもあり、乾隆帝はこれを「国俗」と称した。氷上で行われた競技としては他に、王などのリーダーが侍衛を率いて鞠(ボール)を蹴りながら氷上を走り、次いで諸貴族・官員の妻女たちが氷上で競争し、先に終点に着いたものを勝ちとする「踢行頭」などがあった。 満洲人たちはまた、相撲(角觝)をことのほか愛好し、それは満洲語で「布庫(プク)」と称された。すでに入関前の宮廷で弓試合や宴会の際に、相撲の実演が催されている。ホンタイジの時代にモンゴルとの関係が深まると、朝貢に訪れたモンゴル族の力士たちはしばしば宮廷内で技を披露し、満洲族の力士と勝負した。幼くして帝位に就き、権臣オボイの専横に苦しんだ康熙帝は若年の際、相撲好きと称して旗人より強壮な少年たちを選抜して密かに親衛隊をつくり、日々これを鍛錬させて、機が熟したときにオボイを逮捕、その腹心たちを一網打尽にして親政を開始したという逸話をもっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "満洲民族(まんしゅうみんぞく、マンジュみんぞく)、満洲族(まんしゅうぞく、マンジュぞく、満洲語: ᠮᠠᠨᠵᡠᡠᡴ᠋ᠰᡠᡵᠠ, manju uksura)、満族(まんぞく、マンぞく)は、ツングース系民族の一つで、中国東北部、ロシア沿海地方(旧満洲)などに発祥し、現在は中国各地に散在している民族。同じく中国東北部に興り、かつて金を建国した女真を祖先とする。17世紀に現在の中華人民共和国およびモンゴル国の全土を支配する清を興した。清朝では、民族全体が八旗(ᠵᠠᡴᡡᠨᡤᡡᠰᠠ, jakūn gūsa、八つの旗)に組織され(満洲八旗)、蒙古八旗、漢軍八旗と呼ばれる主にモンゴル人や漢人によって構成された軍事集団八旗のメンバーとともに旗人とも呼ばれた。同系の民族にシベ、ウデヘ、ナナイ、ウリチ、ウィルタなどがある。中華人民共和国による民族識別工作では、蒙古八旗や漢軍八旗も含む「旗人の末裔」全体が「満族」に「識別」(=区分)され、「55の少数民族」の一つとされた。2010年の中国の国勢調査では人口1,038万人とされ、「少数民族」としてはチワン族・回族に次ぐ人口である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「満洲」の漢字は満洲語の民族名ᠮᠠᠨᠵᡠ、manju(マンジュ)の当て字で、元来は「満洲」であるが、現在の日本では一般に常用漢字をもって「満州」と表記することが多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "満洲については「洲」の文字が含まれていることから、満洲民族の興った地域は、現在でも英語では満洲民族の土地という意味でマンチュリア(“Manchuria”)のように地域呼称として用いられ、これに対応して日本語でも「中国東北部」を指す広域地名「満洲(満州)」と呼ばれたり、国境の町「満洲里」など地域名称のイメージが強い。特に民族のことを指す場合は、満洲民族、満洲族、満洲人、満人などと表記する。しかし、中国語においてはあくまでも民族名であり、土地の名前ではない。満洲語においても \"ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ, manju\" は専ら満洲族を指し、「満洲語 (ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠᡤᡳᠰᡠᠨ, manju gisun) 」、「満洲文字 (ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠᡥᡝᡵᡤᡝᠨ, manju hergen)」なども「満洲人の言葉」「満洲人の文字」と解される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "民族名である 満洲/マンジュの起源については諸説あり、今のところ不明である。しばしば、サンスクリット語のマンジュシュリー(文殊師利、文殊菩薩のこと)に由来するともいわれるが、元来は16世紀までに女真の名の下に括られていた人々のうち、建州女直に属する5つの部族(スクスフ、フネヘ、ワンギャ、ドンゴ、ジェチェン)を一括する呼称であった。日本の東洋史学者である岡田英弘は清朝時代のダライ・ラマが「マンジュと言われるからには、清朝皇帝は文殊菩薩の化身である」と宣伝したものを第6代皇帝の乾隆帝が政治的に利用したところから、文殊菩薩が民族名の由来となったという俗説が生まれたのではないかとしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "現在の中華人民共和国のもとでは、モンゴル人・漢人の末裔の一部(旧「蒙古八旗」、旧「漢軍八旗」の末裔ら)と合わせて「満族」(Mănzú)としてひとくくりにされ、中華人民共和国の55の少数民族の一つと位置付けられている。1911年の辛亥革命による清朝崩壊後は排斥を受けた過去を持ち、1949年に中華人民共和国が成立した後には他の少数民族と同じく区域自治権が与えられ、合計11の自治県がある(一覧は後述)。映画『ラストエンペラー』で知られる清朝最後の皇帝である溥儀や、戯曲『茶館』などの作品で有名な作家老舎も満洲人の出身である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "満洲族は、かつて中国を支配した清朝旗人の末裔であり、中国全土に散在する。過半数は、遼寧省に居住しており、河北省、吉林省、黒竜江省、内モンゴル自治区、新疆ウイグル自治区、甘粛省、山東省にも分布し、北京、天津、成都、西安、広州、銀川などの大都市やその他中小都市にも居住する。清朝前期の公文書や民間史料は満洲語だけで記されているが、人びとの満洲語に対する意識は薄れており、満洲語は危機に瀕している。『朝日新聞』の報道によれば2013年時点で、中国国内で満洲語を解し、古文献も読めるレベルの学者は決して多くないという。一方で黒竜江大学、中央民族大学、北京市社会科学院などをはじめとする大学・研究機関によっても満洲語に関する研究が行われている。満洲文字はモンゴル文字を起源とするアルファベットであり、満洲文字を解すモンゴル族の研究者(哈斯巴特爾(ハスバートル)氏など)もおられる。日本でも有名な『論語』『孟子』『 詩経』『孫子兵法』など中国の伝統文化を代表する著作にも満洲語の訳本が存在し、満洲文字が漢文と併記されている。研究機関以外の場所で自学や授業を通じて満洲語を習得した学習者の人数を除いても、満洲語を解し、古文献を読むことができるレベルの学者が10名ほどに過ぎないのは疑わしい。。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "清朝発祥の地といわれているのが、遼寧省の撫順市の新賓満族自治県である。しかし、そこにあっても満洲民族の小学校は1校しかなく、満洲族固有の姓を用いる児童もいない。一方で、ヌルハチが城や寺を築いて最初の根拠地としたヘトゥアラ(ᡥᡝᡨᡠ᠋ᠠᠯᠠ、hetu ala、赫図阿拉)、すなわち、同自治県の西方、永陵鎮老城村はヌルハチ即位の地であり、ヌルハチの祖先の陵墓である永陵があり、太陰暦4月18日に各地の満洲族が集まる祭礼の地となっている。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "満洲民族の人口は清朝の時代には200万人ほどとされていたが、清朝滅亡後は迫害を恐れたため、続いて行われた中華民国初期の国勢調査で自らを満洲族としたのは約50万人にすぎなかったという。しかし、少数民族の権利が謳われるようになると、その人口は一気に500万人に増えたといわれている。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "文献上によれば、狩猟民と称さるそれ製の石を、あるいは以降、物産といった。貊(はく)という民族もあったが、戦国時代から漢代にかけての漢民族の進出と楽浪郡(前108年設置)以下4郡の設置という動きのなかで、貊のなかから夫余が起こった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "高句麗を建国したのも韓族ではなく、貊族であった。7世紀末葉、粟末靺鞨に高句麗の遺民を加え、南満洲から現在の朝鮮半島北部にかけての地に、「海東の盛国」と称された渤海が建国された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "半農半猟の女真族が完顔阿骨打(ワンヤン・アクダ)により統一された。女真は、靺鞨七部のうち、黒水靺鞨と呼ばれた集団だと考えられる。金は、渤海を滅ぼしたモンゴル系契丹族による遊牧民王朝の遼を滅ぼし、さらに1126年、漢民族王朝の宋の徽宗・欽宗のニ帝および皇族・重臣らを捕らえて中国北半を支配し、燕京(いまの北京市)に都を移して宋朝を南へと追いやった。体系を整備し、政府組織を中央、地方ともに中国風にして支配体制を整えたが、軍事権力を強く握って独占したのは女真族であり、政府首脳もまた女真族によって占められた。女真人には行政と軍事を兼ねたミンガン・ムクンの制度などがとられ特別の保護を受けた。東北部(満洲)にあっては大部分が猛安・謀克制によって統治されたが、他民族の住む西部や南部では州県制が採用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "金はしかし、1206年にチンギス・カンによって成立したモンゴル帝国の猛攻を受けて劣勢に立ち、都を開封に移したものの1232年にはその開封が包囲された。そして、1234年、オゴデイらの進撃により、逃走していた哀宗が自殺して金は滅んだ。一方、これに先立って、契丹の反乱鎮圧を称して挙兵していた金王朝の将の蒲鮮万奴は、1215年に金より自立して「天王」を名乗り、東夏国(大真国)を建国していた。東夏は、モンゴルに服属したり自立したりを繰り返していたが、この国もまた、1233年、オゴデイの子のグユクによって滅ぼされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "女真族は、金がモンゴル帝国に滅ぼされてからのちは、モンゴル帝国、大元、大明の支配下に置かれた。その間、金の時代に創始した女真文字もしだいに失われ、金建国以前の部族集団に後退した。当時の女真族の家族は、主人と奴婢に完全に二分されており、主人は狩猟や採集、交易、戦争などの外仕事、奴婢は農耕やブタの飼養など食糧生産を担当するという分業体制が確立していた。その役割は固定し、世襲されていったが、代々起居や食事をともにし、双方の物産・物資は分け隔てなく均等に分配されたから、両者の結びつきはきわめて緊密であった。東北部に残留した女真(女直)は、元代には遼陽等処行中書省の管轄下に入ったが、その統制はゆるやかなもので、ほぼ完全な自治がゆるされていた。代からにかけて人は、半島族の下にあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "とりわけながら中国本土に相対的に近い建州女直からスクスフ部の有力な氏族だった英傑で拡大した。ヌルハチの支配する領域は、一方では「マンジュ国」(ᠮᠠᠨᠵᡠᡤᡠᡵᡠᠨ, manju gurun, 満洲国)と称されるようになったが、マンジュ国がさらに海西女真四部(マンジュ政権からは「フルン四部」)、野人女真四部(同じく「東海四部」)を統合していく過程で、「マンジュ」が広く女真全体の総称として用いられるようになった。なお、建州・海西・野人の各女真には、それぞれ内部的に何らかの結合関係があったと考えられがちだが、実際はそうではなかった。建州女真のなかの五部もまた、それぞれ別個に建てられた5つの国のような様相を呈しており、それを越えてのまとまりはなかった。「マンジュ国」は、その意味で複合部族国家であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "金の滅亡後、女真文字は失われ、女真族はモンゴル文や漢文に翻訳して文書をつくるようになっていたが、「マンジュ国」の勢威が拡大し、民族統合を進めるなかで民族的自覚は高まり、その長であるヌルハチは自分たちの文書を外国語に翻訳して記述している状況を不自然だと感じるようになっていた。ヌルハチは、学者エルデニ・バクシ(中国語版)に命じて文字をつくらせた。1599年のこととされている。すなわち、広大な地域で話されるようになった「マンジュ国」の言語を表記するため、アラム文字をルーツにするモンゴル文字(縦書きのウイグル文字を応用したもの)を改良させて無圏点満洲文字をつくり、当時の女真語(満洲語)を表記することとしたのである。さらに、無圏点文字では区別することのできないha(ᡥᠠ)とga(ᡤᠠ)、de(ᡩ᠋ᡝ᠋)とte (ᡨᡝ᠋)などを識別するため、ヌルハチの子のホンタイジは、17世紀にダハイ・バクシに有圏点満洲文字をつくらせた。満洲文字の資料は有圏点満洲文字で書かれたものが圧倒的に多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ヌルハチは、中国のほぼ全域を領有して、これは、数百年の空白を隔てて、2度にわたり歴史に名を残す統一国家を樹立して中国内地を支配した、稀有な例であった。後金はヌルハチ没後も発展し、子息ホンタイジは内モンゴルを併合し、李氏朝鮮を属国となして国号を「清」に改め、また、民族名も「女真」を民族名として用いることを禁じ、\"マンジュ\"と改め、それに「満洲」の字を当てた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "女真族出身のホンタイジは女真の概念を捨て、女真人、蒙古人、遼東漢人等の北方諸族を満洲(人)と統合し、国号を「大清」に改めた。ちなみに、民族の名称を表す“満”と“洲”、そして政権の名称を表す“清”のいずれにも“氵(さんずい)”が付いているのは、五行の火徳に結び付く“明”を“以水克火”するという陰陽五行思想に基づいているとされる。ホンタイジは、1636年、清の国号を称したとき、満、漢、モンゴルの三勢力に推戴され、多民族国家の君主としてハーンであると同時に皇帝でもあるということを、内外に宣言した。多民族王朝となった清のもと、満洲人は、八旗と称する8グループに編成され、王朝を支える支配層を構成する主要民族のひとつとなり、軍人・官僚を輩出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1644年、清は山海関を越えて万里の長城以南に進出し、李自成の乱で滅亡した明にかわって北京に入城した。明滅亡後は、明の旧領を征服し、八旗を北京に集団移住させて漢人の土地を満洲人が支配する体制を築き上げた。なお、漂着により朝鮮に抑留されていたヘンドリック・ハメルによれば、満洲人支配下の17世紀初期の朝鮮では、朝鮮国王は国内では絶対的権力をもっているものの、後継者を決める際は満洲人のハーンの同意を得なければならず、また、満洲人の勅使やウリャンカイ(野人女真)は、年に3回朝鮮から貢物を徴収し、朝鮮高官は満洲人に怯えきっていたという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "歴代の清朝皇帝は、同時に、満洲やモンゴルなど北方民族社会の長としてのハーンでもあった。その意味で清朝は、非漢族のハンが中国皇帝でもあるという「夷」と「華」が同居する二重性を有していたが、日本の東洋史学者石橋崇雄は、さらにこれに「旗=満(東北部での満・蒙・漢)」の体系を加えた「三重の帝国」であったとしている。首都北京は中国内地の華北に、副都盛京(現、瀋陽)は中国東北部に、行在所「避暑山荘」は熱河(現、承徳)にそれぞれ位置しており、いずれも清朝のハン(大清皇帝)が政治の実務を執り行った場所という点では共通しているが、実際はこの3か所の性格はまったく異質であった。清朝の皇帝は、北京にいるときは中華世界の天子として君臨していたが、長城外に位置する熱河の離宮(「避暑山荘」)では、内陸アジア世界におけるモンゴル族の首長、ボグド=セチェン=ハンとして行動し、熱河は、モンゴル族やチベット族のみならず、ウイグルの王公、チュルク系民族の首長(ベグ)、朝鮮(李朝)および大南(阮朝)・タイ王国(アユタヤ王朝、トンブリー王朝、チャクリー王朝)・ビルマ(コンバウン王朝)といった東南アジアにおける朝貢国の使節、さらにイギリスの使節までも朝覲する非漢族世界「藩」の中心であった。一方、瀋陽の奉天行宮(瀋陽故宮)東郭には右翼王および左翼王の執務室と八旗それぞれの建造物をともなう、旗人の部族長会議を反映した十王亭がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "清朝期の建築物は、複数言語で表記される「合璧形式」の額が掲げられることを一大特徴としているが、ここでは満・漢合璧であるだけでなく、満・漢・蒙の合璧、それにチベットを加えた四体合璧、さらにウイグルを加えた五体完璧もある。清朝の記録はまた、『満洲実録(中国語版)』をはじめとする実録類が原則として満文本・漢文本・蒙古文本の三種類によって編纂されており、満・漢・蒙の各語を担当する翻訳官がおり、そのための科挙もあった。これにチベットやウイグルなどの諸語も含めた官撰・私撰の辞書が多く作られたのも清朝文化の特徴となっている。大清帝国は、満・漢・蒙の三重構造を基本としており、瀋陽・北京・熱河にあった3政務所はそれを象徴するものというとらえ方ができるのである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "中国を扱った映画などにみられる辮髪や両把頭、チーパオ(チャイナドレス)は、本来は満洲人の習俗であったものが清代に漢人の社会に持ち込まれたものである。明との戦争に際しては占領地の男性住民に辮髪を命じ、明の滅亡は満洲族の髪型と服装を漢族にも強制して漢人の服飾を身に付けることを禁止し、漢民族の伝統文化を抑圧する態度をとった。これを「剃髪易服」(髪を剃り、服を替えるの意)という。一方、科挙の実施や中央に内閣、六部、地方に総督、巡撫を設置して軍事・政治を管轄させるなど、明朝の行政制度を存続させて強硬政策と懐柔政策を併用した。また、指導理念として朱子学をはじめとする儒家の思想も取り入れていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "17世紀、コサック(カザク)によるシベリアへの東進が著しいロシア・ツァーリ国と清とが国境をめぐって対立した(清露国境紛争)。1650年代初頭、エロフェイ・ハバロフ率いるコサックの一派はアムール川に臨む清側の拠点ヤクサ(雅克薩)を奪い、同地をアルバジンと改めて東方進出への拠点とした。ロシア人はアムール川を下りながら先住民からヤサク(毛皮税)を徴収した。1652年、現在のハバロフスク周辺とみられるアチャンスクで清露の戦闘が起こった。1658年には朝鮮国軍も動員した清国側が勝利し、アムール川流域からロシア人勢力を駆逐したが、1665年、シベリアに追放されていたポーランド貴族のニキフォール・チェルノゴフスキー(英語版)がイリムスク(英語版)のヴォイヴォダ(軍司令官)を殺害して逃走、ヤクサ国(英語版)を建国して先住民から毛皮税を徴収した。清露国境紛争は再燃し、1683年、アルバジン戦争が勃発、戦況は清側優勢で推移し、1689年、清露両国はネルチンスク条約を結んで講和した。その結果、外満洲を含めた満洲全体が清の領土と確定した。なお、この時のロシア人捕虜は「ニル」に編成され鑲黄旗満洲に配属された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "清の歴代の皇帝は、漢人が圧倒的多数を占める中国を支配するにあたっても、満洲語をはじめとする独自の民族文化の維持・発展に努めていた。しかし、次第に満洲語は廃れ、満洲人の間でも漢語が話されるようになり、習俗もしだいに漢化していった。清代中期の北京の満洲人によって編まれた「子弟書」という俗曲集には、漢語と満洲語を交ぜてできている曲があり、当時の満洲人の言語状況の一端がかいまみえる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "清朝によって優遇された満洲族は清朝発展にともない中国本土に移住する者が増加した一方、満洲人の故地である満洲では人口が減り、荒廃したため、1653年から1668年まで遼東招民開墾令を出して漢人の移住を勧めた。しかし、18世紀に入ると東北部(満洲)に自発的に移住する漢人の数が急増したため、1740年には移住禁止令を出して満洲人の生活を保護しようとした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1735年から1795年まで治世60年におよぶ第6代乾隆帝は、45年にわたる外征を「十全武功」と称し、晩年好んで用いた玉璽にも「十全老人」の文字を彫らせた。1750年代の後半には、清は乾隆帝の外征により中国東北部、中国内地、モンゴル高原、東トルキスタンを含むテンシャン山脈の南北両側、チベットより構成される最大版図を築いた。1759年にはテンシャンの南北両側地域を「新彊」と命名した。現代の中国の骨格は、乾隆帝によってかたちづくられたということができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1840年以降、清がアヘン戦争やアロー戦争に敗北し、大規模な農民反乱である太平天国の乱が起こって弱体化すると、ロシアは清に対して武力による威圧を強め、1858年にはアイグン条約を結んで、清領とされてきた外満洲のうちに割譲し、両国の共同管理することとなった。さらに2年後の1860年には北京条約によって、この地も正式にロシア領となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "一方、皇帝の故郷の満洲は1860年までは保護され、漢人の移住はある程度制限されていたが、特普欽らの献策を容れて開放策に転じ、漢人農民の移住が急増した。中国史ではこれを「闖関東」と呼んでいる。漢人人口はさらに急増して満洲人人口を上回り、その生活域は蚕食された。また、イギリス領事館が営口に置かれるなど外国人勢力が満洲の南方からも入り込んで、満洲人の故郷は大きな変貌を遂げた。アヘン戦争の敗北後、清国は海禁政策を放棄して欧米列強に門戸を開いたが、日清戦争(1894-1895)や北清事変(1900)の敗北などによって深刻な半植民地状態に陥った。1911年の辛亥革命の際には「滅満興漢」がスローガンとして掲げられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1932年には日本の手によって、清の最後の皇帝だった宣統帝溥儀を執政(のちに皇帝)として満洲国が建てられた。満洲国は日・満・蒙・漢・朝の五民族による「五族協和」「王道楽土」を理念としており、国名に「満洲」を含むものの、満洲人がこの国を自分たちの民族国家として意識していたわけではない。しかし、建国後の満洲族には帝政期成運動を起こすなど、この国に民族の復権を期待する傾向も一部ではみられた。満洲国の建国宣言は、溥儀を担いだ旧清朝帝政派の人びとの主導によってなされ、それを関東軍が承認したものだが、そこには「礼教(儒教とほぼ同じだが、道徳秩序や祭礼面を前面に立てる)」を国教とすることが謳われていた。1934年の皇帝即位式において溥儀は、満洲族の民族衣装である竜袍の着用を、関東軍は「五族協和」の見地からこれを許されず、満洲国軍大総帥服を着用するよう求められた。溥儀はこれに従ったが、それに先立って祖霊に報告の開催を主張し、関東軍はその開催と着用を認めた。なお、満洲国における筆頭公用語は中国語(漢語)であり、第二公用語は日本語であった。ただし、筆頭公用語は中国語とも漢語(シナ語)とも称されず「満洲語」もしくは「満語」と称され、満洲国の住人は満族・漢族とわず「満人」と称された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後に成立した中華人民共和国は、愛新覚羅溥儀を「思想改造」したのち満洲族代表として中国人民政治協商会議全国委員に任命し、「民族識別工作」を行って国内の少数民族を一定の権利を有する民族として公認していった。清代の旗人たちは、主にマンジュたちにより構成された満洲八旗のほか、蒙古八旗・漢軍八旗など3つの集団から構成されていたが、この「民族識別工作」では、蒙古八旗や漢軍八旗の末裔たちを「蒙古族」や「漢族」に区分するのではなく、「旗人」全体をまとめて「満族」と区分した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "満洲八旗に属していた錫伯(シベ)族、達斡爾(ダウール)族などについては、それぞれ56の民族の一員である独自の民族として識別されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "なお、満洲族は、清代に支配者階級として長城以南に移住した経緯上から都市住民が多いため、漢民族に比べて教育水準が高い。1990年の人口調査資料によれば満洲族人口1万人当たりの大学進学者数は1,652.2人で、全国平均水準139.0人、漢族平均水準143.1人に比べて遥かに高かった。また、15歳以上で非識字・半非識字が占める比率は、満族は1.41パーセントで、全国22.21パーセント、漢族21.53パーセントよりも遥かに低く、中国国内の各民族の中で非識字率(半非識字率を含む)が最も低い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "さて依然中国にいたるまではいうにとってが主な生業。農耕はムギ、アワ、ヒエ、キビなど穀類を中心とする天水農業であった。狩猟はテン、キツネ、ミンク、リスなど毛皮目的であり、中華料理の食材となるキクラゲ、キノコ類、松の実、薬用として知られる朝鮮人参(オタネニンジン)の採集などもおこなわれた。清朝の軍事組織として知られる八旗も、その編成方法は元来、満洲族の狩猟生活からあみだされた巻狩の制を応用したものだったといわれる。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "明代後期の遼東地方で当時高額で取引された二大商品といえば、クロテンの毛皮と山岳地帯に自生する薬用人参であった。こうした産物は現地で消費されず、奥地からリレー式に遼陽にもたらされ、さらに北京方面へと送られて、穀物、織物、金属製品といった中国内地の商品と交換される。ヌルハチはこうした特産品のルートを掌握して交易の利益を得ていた氏族長のひとりであった。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ヌルハチの故地に関して言えば、その地は山がちで大小の河川が縦横に流れ、斜面や点在する平地ではコーリャンなどが栽培されていたが、農地としては必ずしも恵まれていなかった。したがって、西方に隣接する肥沃で広大な遼東平野の農地は、彼にすれば垂涎の的であった。ヌルハチは遼東に進出するや女真人(満洲人)をこの地に続々と移住させ、農耕国家として発展する基礎を固めた。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "またブタ養がなされており、産地としても有名であった。ただし、こうした生業のみで十分な自給自足ができるというほどの経済的基盤を有していたわけではなかった。なお、吉林省吉林市の鷹屯は、鷹狩に従事する八旗の兵士が代々居住し、鷹匠を数多く輩出した地であり、古い狩猟文化を今日に伝えている。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "漢民族に見られる纏足の習慣は満洲族女性にはなかった。女性の服飾は、上述したチーパオまたはベストを着用することが多く、男性は伝統的に筒袖のチョッキとズボンという服飾を好んだ。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "対して、満洲族男性のヘアスタイルであった。1644年の北京入城直後、清の第3代皇帝フリン(順治帝)の摂政ドルゴンは、清に服属するか逆らうかを区別するため、漢族に対しても「薙髪令」を発令した。この際は、中華思想の根強い抵抗のため強制できなかった。しかし、1645年、「薙髪令」を再発令し、辮髪を強制した。このとき、辮髪を拒否する者には死刑を以て臨んだ。儒教の伝統的な考えでは、毛髪を含む身体を傷付けることは「不孝」とされ、タブーであったため、抵抗する者も多かったが、清朝は辮髪を行った者に対しては「髪を切って我に従うものには、すべてもとどおり安堵する」として従来の生活や慣習が行えることを保証した。清朝は、漢族が辮髪を死ぬほど嫌い抜いていることを承知したうえで、あえて「薙髪令」を再発令したのであり、ある意味、清朝の敵味方の識別のためには、これ以上効果的な策はなかった。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "やがて、19世紀には辮髪が完全に普及し、僧侶と道士と女性のほかはことごとく辮髪するようになり、中国のものと見なされるようになった。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "満洲族「哈喇(ᡥᠠᠯᠠ,)」または「ムクン(mukūn)」と呼ばれる父系氏族とした。ロシアのセルゲイ・シロコゴロフ(英語版)はかつて、ハラが基本的な血縁組織であり、その後、血縁組織の発展にともないガルガン(garugan)、ムクンの2層が生じたと論じ、中国の莫東寅はこれを継承して、ハラ(部族)、ガルガン(胞族)、ムクン(氏族)の三層構造を唱えた。しかし、シロコゴルフ・莫東寅の説は、今西春秋が指摘しているように何ら史料的根拠を有しない。これに対し、三田村泰助は、詳細な検討の結果、ムクンをハラから派生した地域関係を基とする血族集団とみなす見解を示した。ムクンがハラより発生したとする説は、現在、多くの専門家の支持する定説となっている。ムクンは、金代女真族の「謀克」を原義としているとみられ、一義的には「族」、二義的には「氏」を表しており、一方、ハラには「姓」の字があてられる。清代にあっては、ハラはもはや実体をともなった血縁組織とはいえず、ムクンだけがのこったが、野人女直と呼ばれた人びととその末裔にあってはハラ組織が濃厚に残存したのだった。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "明・清両王朝の皇宮となった紫禁城では、明が内廷(後宮)と外廷の間に塀を設け、その区別が厳格であったのに対し、清朝ではその塀を撤去して両者の区別は緩やかなものとなり、また、内廷においても男子禁制が明ほどには厳しくなかった。このことは、漢族の家族制と満洲族の氏族制の相違が反映しているものととらえることができる。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1個のハラは複数のムクンを包含するが、1個のムクンはただ1つのハラに帰属しており、ハラ組織は元来、地域的同一性を有していた。女真族(満洲民族)のハラの由来は、次の2種に大別できる。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ハラは、当初は族外婚の単位であると同時に族内への受け入れ機能を有し、血讐の義務をともない、また、精神生活の単位でもあった。それに対し、ムクンはハラの瓦解を受けて不断に分節化し、発展していったもので、その過程も示していた。たとえば、ギョロ(覚羅)というハラは、『氏族通譜』によれば、イルゲンギョロ(伊爾根覚羅)、シュシュギョロ(舒舒覚羅)、シリンギョロ(西林覚羅)、トゥンギャンギョロ(通顔覚羅)、アヤンギョロ(阿顔覚羅)、フルンギョロ(呼倫覚羅)、アハギョロ(阿哈覚羅)、チャラギョロ(察喇覚羅)という8つのムクンに分かれ、さらにそれぞれが多数の分枝を持っていた。ハラからムクンが生じた理由のひとつは族外婚規制の機能緩和であって、すでに明代女真族において婚姻禁忌が破られていたことにある。すなわち、同一ハラ内の異ムクンとの通婚を可としたのである。太祖ヌルハチはアイシンギョロ(愛新覚羅)氏出身であったが、その妻にはイルゲンギョロ氏2名、シリンギョロ氏1名、ギャムフギョロ(嘉穆瑚覚羅)1名、計4人の異ムクンの妻女が含まれていた。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "満洲民族の姓氏は本来、アイシンギョロ(愛新覚羅、ᠠᡳ᠌ᠰᡳ᠍ᠨᡤᡳᠣᡵᠣ, aisin gioro)、イェヘナラ(葉赫那拉、ᠶᡝᡥᡝᠨᠠᡵᠠ, yehe nara)、ヒタラ(喜塔臘、ᡥᡳᡨ᠋ᠠᡵᠠ, hitara) 等にみられるように満洲語に基づいたものであった。しかし、現代満族の多くは、漢民族の姓氏になぞらえて主に一文字の「漢姓」を用いている。これは、清末期の辛亥革命の風潮、第二次世界大戦後の「漢奸」狩り、中華人民共和国成立後の文化大革命など、中国当局の弾圧を避けるための一方策であったと考えられる。しかしながら、その場合であっても、", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "というように、改姓の際にも一定の原則に従っている。現代満族は、「氏族 ― 哈喇(姓)漢訳表」と照らし合わせることによって自分の本来の姓氏を知ることができるようになっている。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "満洲民族はもともとモンゴル人の影響を受けて、漢民族のように姓氏と名を同時に呼ぶ習慣はなく、名前のみを呼ぶか、名前の前に爵位や官職名を付けて呼んでいた(例:睿親王ドルゴン)。あえて姓氏と名を続けて呼ぶ場合は、例えば「グワルギャ姓のオボイ(満洲語: ᡤᡡᠸᠠᠯᡤᡳᠶᠠᡥᠠᠯᠠ ᡳᠣᠪᠣᡳ , gūwalgiya hala-i oboi) 」のような呼び方をしていた。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "伝統的な婚姻は、族外婚と満漢不婚によって特徴づけられる。族外婚規制は、同じ氏族同士は結婚しないという原則であり、現代においても濃厚に確認でき、しかも、その規制の強さは漢族以上である。上述した「ハラ(旧氏族)」は当初、族外婚の単位であったが、その分節化によって生じた「ムクン(新氏族)」が現代における族外婚単位となっている。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "満漢不婚は、満族と漢族の婚姻禁止の慣習であったが、現代においては守られていない。かつて満洲族は全体が八旗の組織に入る旗人であり、入旗していない漢族との通婚は許されていなかったが、入旗している漢族(漢軍八旗)との結婚は可能であった。なお、彼らが女真族と称していた時代にあっては、子が継母を娶ったり、弟が嫂を娶ったりする収継婚も多かったが、ホンタイジの時代に入ると漢人的な観念が浸透して旧俗矯正が図られ、収継婚は禁止された。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "満洲族の婚姻の旧俗では、子女が成年に達すると双方の両親または仲人の話し合いを経て、双方の「門戸帳」(本人の生辰八字(生年月日)と姓氏三代(曾祖父母・祖父母・父母の姓名)が記されている)を交換し、これが適合すれば婚約できるなど、おびただしい数のしきたりと規制があった。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "女真族の旧俗では、火葬が行われていた。ヌルハチもホンタイジも火葬され、3代順治帝は火葬制度を詳細に定め、彼自身も火葬された。順治年間以降、北京の満洲族はしだいに土葬を行うようになったが、清朝は漢化を防止する観点から、各地に駐防する旗人の行動に厳しい制限を課し、死後、現地に墳墓を設けることを許さず、必ず京旗に帰葬することとした。そのため、火葬の風習は各地の駐防にたずさわる旗人の間で保たれた。しかし、乾隆年間になると、各地の戦役も収まり、火葬を不孝・不道とみなす漢族の儒家思想の影響も受けていたので、乾隆帝は死後に現地で土葬することを許可し、帰葬を一律に禁止した。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "女真の人びとはまた、死者の葬送のために牛・馬を殺してこれを死者に捧げ、その肉を食すという旧俗をもっていた。このような習俗は康熙帝の頃まではつづいたが、やがて漢民族の習俗を取り入れ、紙馬をもって祭礼をおこなうようになった。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "殉死の風習も広く行われ、ヌルハチの妻の死去の際には4人の奴婢が、ヌルハチ自身の死去の際にも正妃アバハイと2人の側室が殉死した。ホンタイジは殉死の強制を禁止したが、禁止されたのは強制行為のみであって殉死そのものは否定されなかった。ホンタイジの死去の際には近侍2名が殉死している。殉死の旧俗が満洲族の社会で連綿と続いてきたのは、奴婢の制度と無関係ではないと考えられる。康熙帝が在位中に殉死の禁止を諭す命令を発し、以降は紙人を焼くことで死者の霊魂を祭ることとなった。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "なかの言語も概ね他の諸語において顕に。語彙ではとくに、モンゴル語、漢語からの借用語も多い。清朝にあっては第一公用語の地位にあった。満洲語は、その話者が北京はじめ中国全土に居住するようになり、言語分布は拡大したが、漢人に比較すると人口の絶対数がきわめて少なかったので、満洲族の文化は漢化し、言語も漢語を話すようになり、満洲語はしだいに使わなくなっていった。満洲語使用は、すでに清朝中期の隆盛期には衰微の兆候を示していたという。現代、満洲語は中国東北部のごく一部でしか話されなくなっている。なお、乾隆年間中期にイリ地方へ移住したシベ族の末裔は今日でも満洲語を話している。これをシベ語といい、シベ語(シベ文字)の新聞や書籍も発行されている。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "満洲文語の資料には、『満文老檔』をはじめとする記録類、満洲・モンゴル・漢・チベット・ウイグル5族の言語を対照させた『御製五体清文鑑(中国語版)』などの辞書類、『大蔵経』、漢文古典その他大量の翻訳文献などがある。また、文語資料にはあたらないが17世紀の日本越前国の船乗りが漂流した際の記録、『韃靼漂流記(異国物語)』には当時の満洲語が仮名文字で収録されている。満洲語についての情報の大半はこの種の文書記録から得られたものであり、この文語の基盤となった南部方言の直接的な記録は乏しい。満洲語について近代的な記録が行われ始めた19世紀には、満洲語はほとんど少数の知識人や官吏に依って用いられる人工的に整えられた形体となっており、西洋人による構造や文法についての記録が高い一貫性を持つ一方で、発音についての記録はしばしば混乱している。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "満洲文字に先立つ女真文字については、金石文の発見や辞書に収録されたにおける。完顔希尹(中国語版)や完顔葉魯(耶魯)らによって1119年に創成された女真大字は表意文字、1138年に金の第3代皇帝熙宗が制定し、1145年に公布したと記される女真小字は表音文字であった。大字のみで表記、小字のみで表記、という三様の表記法があった。女真語は満洲語に近い言語だとみられる。両者は姉妹語関係にあったというよりは、むしろ方言的関係にあって、女真語は広義の満洲語のなかに没していったものと考えられる。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "満洲文字は、左から縦書きで右に改行する。ホンタイジが、ギョルチャ氏の満洲旗人に命じて改良させた。新疆ウイグル自治区に在住するシベ族は、満洲文字を改良したシベ文字を使用している。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "自然崇拝においては、火神・星神および神山・神石を尊崇し、とりわけ星神に対する信仰は最も普遍的なものであった。『吉林通志』にも「祭祀典礼は、満洲の最も重んずるは、一に祭星、二に祭祖」とある。星神とは、具体的には北斗七星であり、満洲語では「ᠨᠠᡩ᠋ᠠᠨᡠᠰᡳᡥᠠ, nadan usiha, ナダン(七つ)ウシハ(星)」と称する。記録によれば、満洲族の祭星は、多くは月が沈む後に行う背灯祭で、そこでは灯火がかき消され静寂のなかで執り行われ、通常は占卜や祟り祓い、病祓いなどの巫術と結びついた除災の祭りである。満洲族に近い、同じツングース系のホジェン族もまた、七星を除災の神とみなし、「吉星神」と呼称する。満洲族の七星神は、のちに祭礼が固定的なものに整備されていき、それにともない人格神化していった。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "満洲族は鳥・鵲(カササギ)・イヌを崇拝した。鳥・鵲の崇拝は満洲族のシャーマニズム信仰の古層をなしており、長白山で水浴びをしていた天女(三仙女の末娘)フォクレン(仏庫倫)が神鵲がくわえてきた朱果を食して感精し、満洲の始祖のブクリヨンション(中国語版)(布庫里雍順、愛新覚羅氏)を産んだという伝説がのこる。『満洲実録』でも鳥や鵲に関するいくつかの伝承が記述されており、同著の満文本では満洲人の後裔はカササギを祖としたことを伝えている。また、ヘトゥアラに抑留されていた朝鮮人李民煥の著述した『建州聞見録』では、建州女真がイヌを自分たちの祖先と見なしていて、イヌを殺したり食べたり、イヌ皮を使用することを決して許さないという習俗をもっていたことにふれている。こうした習俗は、清朝を通じて変わらなかった。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "満洲族は元来、自身を地上に降臨した天上界に住む神々の子孫であると信じ、自身の氏神を中心として団結した。虎神、人面豹身の神、大鳥神(人面怪鳥の神)、突忽到瑪法(海獣の形象から変化した神)、鹿神などは、満洲の各氏族における保護神や祖神などとして崇められた。彼らは森林地帯での狩猟や採集に際して、しばしば各種の猛獣の襲撃に直面し、予期せぬ災禍や不幸に見舞われ、あるいは漁撈に際しても数々の危険や事故に遭遇し、自分たちの無力さを悟ることも多かったと考えられる。そこで鳥獣を神格化して祭祀し、その勇気や能力を借りて災厄を逃れようと願ったところから動物崇拝が始まったのだろうと推測される。ここにおいてシャーマンが憑依して、たとえば、虎の各種の動作を真似て病人に災いをなす妖魔を威嚇することにより、病気が治癒されるものと信じられた。鹿神は、ウジャラ(烏扎拉)氏が鹿の角を採取する際に祭った神であったが、ここではシャーマンが帽子の上に一対の鹿の角を挿し、鹿神に憑依するものとされた。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "女真族(満洲族)は、仏教、とりわけモンゴル族の影響でチベット仏教になじんでいき、漢民族との交流を通じて彼らの民間信仰、とくに道教からの影響も受けていった。1616年の後金建国の際、ヌルハチはヘトゥアラ城東の山上に仏教寺院、玉皇廟、十王殿などを建設して、これを「七大廟」と称した。関帝(関羽)、仏祖(釈迦)、観世音菩薩はしだいにシャーマニズムの神祇の列に加えられ、清朝宮廷や一般満洲族から尊崇されるようになり、満洲古来の神々よりも篤い崇拝を受けた。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1626年、ホンタイジが即位した直後の儀礼では、最後に支配領域における弓の達人らに弓を射させる「射柳の儀式」が執行されたが、これは金時代の女真がシャーマニズムの拝天の祭儀に付属して行った儀式を継承したものであった。北京の紫禁城内廷の坤寧宮、盛京(現在の瀋陽)の奉天行宮の清寧宮は、ともに、中国皇帝を兼ねる満洲族のハーンが、シャーマンの祭祀を行った祭神殿として独特の設計が施されており、その入り口の南には神杆(しんかん)、すなわち神鳥の止まり木が建てられていた。坤寧宮では元旦行礼などの特別な祭祀のほか、常祭である朝・夕の祭りが毎日行われ、ブタが生贄として供えられた。また、神々の前で「薩満太々(サマンタイタイ)」と称される巫女が満洲語の神歌を唱え、跳ね回ったという。シャーマニズムの伝統は、満洲族が中国内地の支配的地位に立ってからも温存されたのであった。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "『満文老檔』天命6年(1621年)条や満文『内国史院檔』天聡8年(1634年)条には、当時の女真族(満洲族)が日食や月食という天文現象を「天界の犬が太陽・月を食べること」であると考えていたことを示唆する記述が収載されており、こうした伝承は他のツングース系の諸民族や朝鮮民族、チュルク系民族、また、パレオアジア語系とみられるニヴフ(ギリヤーク)にもみられる。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "また、これに似た説話として、イチェ・マンジュ(伊徹満洲 ice manju/ 新満洲)人の伝承として、1.背後に敵軍が迫り、2.行く手を大河が遮り滅亡の危機を迎えるが、3.大河に魚の浮き橋ができて難を逃れ、4.滅亡を免れる(新天地へ移住する)という4つのモチーフをともなう説話も伝わっている。この4モチーフは、夫余・高句麗の開国説話(東明王・朱蒙伝説)にも共通し、オロチョン族やナナイ族などツングース系民族の説話にもみられる。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "満洲族は、歌舞に長けた民族として知られており、そこには鮮やかな民族的個性と独特の品格がみられる。満洲族のなかで最もさかんに行われたのは、莽勢舞(莽式舞)と称する歌舞で、別名を「空斉」といった。莽勢舞は、集団のなかの1人が歌い、他の衆は「空斉」を以てこれに和し、正月や祝祭日に男女が相対して舞うというものであった。この舞には「九折十八式」と称される、漁撈・狩猟・騎射などの生活を反映した9つの舞のかたち、身体部位を用いた18の所作があったと伝わっている。清朝の北京入城後は宮廷に取り入れられて大規模化し、慶隆舞へと発展した。慶隆舞は、揚列舞(武舞)と喜起舞(文舞)の二部で構成された。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "習武に関しては、満洲族は古来騎馬・射猟を得意とし、清朝建国後はこれを満洲の根本とみなして狩猟や軍事に活用するのみならず、競技化した。ヌルハチは、その趣味が弓の試合であり、すぐれた射手と技を競って負けなかったという弓の名手であったし、ホンタイジも飛翔する一羽の鳥をただの一矢で射落とすほどの腕前であった。競技種目としては歩射と騎射があり、弓術は、近代に至るまで満洲民族の伝統として受け継がれた。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "スケートも満洲族が得意とするスポーツで、これまた初期の生業や軍事活動と結びついていた。冬季における酷寒の東北部では河川や湖沼が凍結して天然のスケートリンクとなった。スケートはスポーツであると同時に軍事訓練でもあり、乾隆帝はこれを「国俗」と称した。氷上で行われた競技としては他に、王などのリーダーが侍衛を率いて鞠(ボール)を蹴りながら氷上を走り、次いで諸貴族・官員の妻女たちが氷上で競争し、先に終点に着いたものを勝ちとする「踢行頭」などがあった。", "title": "生業と文化・習俗" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "満洲人たちはまた、相撲(角觝)をことのほか愛好し、それは満洲語で「布庫(プク)」と称された。すでに入関前の宮廷で弓試合や宴会の際に、相撲の実演が催されている。ホンタイジの時代にモンゴルとの関係が深まると、朝貢に訪れたモンゴル族の力士たちはしばしば宮廷内で技を披露し、満洲族の力士と勝負した。幼くして帝位に就き、権臣オボイの専横に苦しんだ康熙帝は若年の際、相撲好きと称して旗人より強壮な少年たちを選抜して密かに親衛隊をつくり、日々これを鍛錬させて、機が熟したときにオボイを逮捕、その腹心たちを一網打尽にして親政を開始したという逸話をもっている。", "title": "生業と文化・習俗" } ]
満洲民族(まんしゅうみんぞく、マンジュみんぞく)、満洲族、満族(まんぞく、マンぞく)は、ツングース系民族の一つで、中国東北部、ロシア沿海地方(旧満洲)などに発祥し、現在は中国各地に散在している民族。同じく中国東北部に興り、かつて金を建国した女真を祖先とする。17世紀に現在の中華人民共和国およびモンゴル国の全土を支配する清を興した。清朝では、民族全体が八旗に組織され(満洲八旗)、蒙古八旗、漢軍八旗と呼ばれる主にモンゴル人や漢人によって構成された軍事集団八旗のメンバーとともに旗人とも呼ばれた。同系の民族にシベ、ウデヘ、ナナイ、ウリチ、ウィルタなどがある。中華人民共和国による民族識別工作では、蒙古八旗や漢軍八旗も含む「旗人の末裔」全体が「満族」に「識別」(=区分)され、「55の少数民族」の一つとされた。2010年の中国の国勢調査では人口1,038万人とされ、「少数民族」としてはチワン族・回族に次ぐ人口である。
{{表記揺れ案内|表記1=満洲民族|表記2=滿洲民族|表記3=満州民族|議論ページ=[[プロジェクト‐ノート:中国#記事名に「満州」を含むページの改名提案|詳細]]}} {{Infobox 民族 |group = 満洲民族 |民族語名称 = {{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨᠵᡠ<br>ᡠᡴ᠋ᠰᡠᡵᠠ}}</span> |image = [[ファイル:Manchu celeb 2.jpg|350px]]<small><br/>[[ヌルハチ|ヌルハチ(愛新覚羅氏)]]、[[ホンタイジ|ホンタイジ(愛新覚羅氏)]]、[[康熙帝|玄燁(愛新覚羅氏)]]、[[雍正帝|胤禛(愛新覚羅氏)]]<br>[[乾隆帝|弘暦(愛新覚羅氏)]]、[[西太后|西太后(イェホナラ氏)]]、[[光緒帝|載湉(愛新覚羅氏)]]、[[愛新覚羅溥儀|溥儀(愛新覚羅氏)]]<br/>[[ドルゴン|ドルゴン(愛新覚羅氏)]]、[[オボイ|オボイ(グヮルギャ氏)]]、[[ヘシェン|ヘシェン(ニオフル氏)]]、[[愛新覚羅溥傑|溥傑(愛新覚羅氏)]]<br>[[老舎]]、[[川島芳子|顯玗(愛新覚羅氏)]]、[[關之琳|ロザムンド・クワン]]、[[ラン・ラン|郎朗]]</small> |人口 = '''10,700,000'''<br>全人類の0.15%<br>{{smaller|(見積)}} |Population = *{{PRC}}<br>*{{HKG}}<br>*{{MAC}}<br>*{{ROC}}<br>*{{USA}}<br>*{{CAN}}<br>*{{JPN}} |region1 = <span style="font-size:105%;">'''少数者として'''</span> |region2 = {{flag|PRC}} |pop2 = 10,682,263<ref name="chinaorgcn">{{Cite web|url=http://www.china.org.cn/e-groups/shaoshu/shao-manchu.htm|title=Ethnic Groups - china.org.cn - The Manchu ethnic minority|accessdate=2008-09-26}}</ref> |region3 = {{flag|HKG}} |pop3 = 288<ref>{{Cite journal|和書|title=我所認識的香港民族問題|periodical=民族団結|date=1996年第8期}}</ref> |region4 = {{flag|ROC}} |pop4 = 12,000<ref name="Manchusoc">{{Cite web|url=http://www.manchusoc.org/contents/history.htm|title=Manchusoc:The origins of Manchu people in Taiwan(Chinese simplified)|accessdate={{?}}}}</ref> |region5 = {{flag|USA}} |pop5 = 379<ref name="census2000">{{Cite web|url=https://www2.census.gov/programs-surveys/decennial/2000/phc/phc-t-43/tab01.pdf|title=Census 2000 PHC-T-43. Census: Table 1. 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name="asahi20130906">{{Cite news|和書|title=消えゆく満州語守れ|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2013年9月6日}}</ref>{{refnest|group="注釈"|[[2010年]]の人口調査では満族人口は10,387,958人であった<ref name="kotobank" />。}}。 == 概要 == [[ファイル:Foochow Manchu.jpg|360px|right|thumb|[[福州市|福州]]の満洲民族(1915年)]] 「満洲」の漢字は'''[[満洲語]]'''の民族名'''{{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨᠵᡠ}}、{{Lang|la|manju}}'''(マンジュ)の当て字で、元来は「'''満洲'''」であるが、現在の[[日本]]では一般に[[常用漢字]]をもって「満州」と表記することが多い<ref name="kotobank" />。 満洲については「洲」の文字が含まれていることから、満洲民族の興った地域は、現在でも[[英語]]では満洲民族の土地という意味でマンチュリア(“[[:en:Manchuria|{{Lang|en|Manchuria}}]]”)のように地域呼称として用いられ、これに対応して[[日本語]]でも「[[中国東北部]]」を指す広域地名「'''満洲'''(満州)」と呼ばれたり、国境の町「[[満洲里市|満洲里]]」など地域名称のイメージが強い。特に民族のことを指す場合は、'''満洲民族'''、'''満洲族'''、'''満洲人'''、'''満人'''などと表記する。しかし、中国語においてはあくまでも民族名であり、土地の名前ではない。満洲語においても "{{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ}}, {{Lang|la|manju}}" は専ら満洲族を指し、「満洲語 ({{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ<br>ᡤᡳᠰᡠᠨ}}, {{Lang|la|manju gisun}}) 」、「満洲文字 ({{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ<br>ᡥᡝᡵᡤᡝᠨ}}, {{Lang|la|manju hergen}})」なども「満洲人の言葉」「満洲人の文字」と解される。 民族名である 満洲/マンジュの起源については諸説あり、今のところ不明である。しばしば、[[サンスクリット|サンスクリット語]]のマンジュシュリー(文殊師利、[[文殊菩薩]]のこと)に由来するともいわれるが<ref name="mitamura197">[[#三田村|三田村(1975)pp.197-199]]</ref>、元来は[[16世紀]]までに女真の名の下に括られていた人々のうち、'''[[建州女直]]'''{{refnest|group="注釈"|建州女真、「女直」は明側の呼称である。}}に属する5つの部族(スクスフ、フネヘ、ワンギャ、ドンゴ、ジェチェン)を一括する呼称であった<ref name="ishibashi66">[[#石橋|石橋(2000)pp.66-67]]</ref>。日本の東洋史学者である[[岡田英弘]]は清朝時代の[[ダライ・ラマ]]が「マンジュと言われるからには、清朝皇帝は文殊菩薩の化身である」と宣伝したものを第6代皇帝の[[乾隆帝]]が政治的に利用したところから、文殊菩薩が民族名の由来となったという俗説が生まれたのではないかとしている<ref name="okada">[[#岡田編|岡田編(2009)]]{{要ページ番号|date=2023-03}}</ref>。 現在の中華人民共和国のもとでは、モンゴル人・漢人の末裔の一部(旧「蒙古八旗」、旧「漢軍八旗」の末裔ら)と合わせて「'''満族'''」({{Lang|la|Mănzú}})としてひとくくりにされ、中華人民共和国の[[中国の少数民族|55の少数民族]]の一つと位置付けられている。[[1911年]]の[[辛亥革命]]による清朝崩壊後は排斥を受けた過去を持ち、[[1949年]]に中華人民共和国が成立した後には他の少数民族と同じく区域自治権が与えられ、合計11の自治県がある(一覧は後述)。映画『[[ラストエンペラー]]』で知られる清朝最後の皇帝である[[溥儀]]や、[[戯曲]]『茶館』などの作品で有名な作家[[老舎]]も満洲人の出身である<ref name="asahi20130906"/>。 == 分布 == {{multiple image | total_width = 600 | align = right | caption_align = left | image1 = Yongling Tomb of Qing Dynasty - 0.JPG | caption1 = 永陵の四祖碑亭 | image2 = Yongling Tomb of Qing Dynasty - 1.JPG | caption2 = 永陵の龍壁 }} 満洲族は、かつて中国を支配した[[清]]朝'''[[旗人]]'''の末裔であり、中国全土に散在する<ref name="kotobank" />。過半数は、[[遼寧省]]に居住しており<ref name="asahi20130906"/>、[[河北省]]、[[吉林省]]、[[黒竜江省]]、[[内モンゴル自治区]]、[[新疆ウイグル自治区]]、[[甘粛省]]、[[山東省]]にも分布し、[[北京市|北京]]、[[天津市|天津]]、[[成都市|成都]]、[[西安市|西安]]、[[広州市|広州]]、[[銀川市|銀川]]などの大都市やその他中小都市にも居住する。清朝前期の公文書や民間史料は[[満洲語]]だけで記されているが、人びとの満洲語に対する意識は薄れており、満洲語は危機に瀕している<ref name="asahi20130906"/>。『[[朝日新聞]]』の報道によれば[[2013年]]時点で、中国国内で満洲語を解し、古文献も読めるレベルの学者は決して多くないという<!--は10名ほどにすぎない-->。一方で[[黒竜江大学]]、[[中央民族大学]]、北京市社会科学院などをはじめとする大学・研究機関によっても満洲語に関する研究が行われている。'''[[満洲文字]]'''は[[モンゴル文字]]を起源とするアルファベットであり、満洲文字を解すモンゴル族の研究者(哈斯巴特爾(ハスバートル)氏など)もおられる。日本でも有名な『論語』『孟子』『 詩経』『孫子兵法』など中国の伝統文化を代表する著作にも満洲語の訳本が存在し、満洲文字が漢文と併記されている。研究機関以外の場所で自学や授業を通じて満洲語を習得した学習者の人数を除いても、満洲語を解し、古文献を読むことができるレベルの学者が10名ほどに過ぎないのは疑わしい。<ref name="asahi20130906"/>。 清朝発祥の地といわれているのが、遼寧省の[[撫順市]]の[[新賓満族自治県]]である<ref name="asahi20130906"/>。しかし、そこにあっても満洲民族の小学校は1校しかなく、満洲族固有の姓を用いる児童もいない<ref name="asahi20130906"/>。一方で、ヌルハチが城や寺を築いて最初の根拠地とした[[ヘトゥアラ]]({{ManchuSibeUnicode|ᡥᡝᡨᡠ᠋<br>ᠠᠯᠠ}}、{{Lang|la|hetu ala}}、赫図阿拉){{refnest|group="注釈"|太祖ヌルハチの事績をまとめた『満洲実録』によれば地名「ヘトゥアラ」は「横岡」という意味である<ref>[[#満洲実録|『満和蒙和対訳満洲実録』]]</ref>。}}、すなわち、同自治県の西方、永陵鎮老城村はヌルハチ即位の地であり、ヌルハチの祖先の陵墓である[[永陵 (清)|永陵]]があり、[[太陰暦]][[4月18日 (旧暦)|4月18日]]に各地の満洲族が集まる祭礼の地となっている<ref>{{Cite news|和書|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S14025696.html|title=祖先への祈り 遼寧省で満洲族|newspaper=朝日新聞|edition=朝刊|date=2019年5月23日|page=国際面|accessdate=2019年6月13日}}</ref>{{refnest|group="注釈"|ヘトゥアラで生まれたヌルハチは、モンゴルの[[ハルハ|ハルハ部]]と友好関係を結ぶことに成功し、[[1616年]]、同地で明朝からの独立とアイシン(後金)の建国、自身の即位を宣したという<ref name="ishibashi79">[[#石橋|石橋(2000)pp.79-80]]</ref>。}}。 満洲民族の人口は清朝の時代には200万人ほどとされていたが、清朝滅亡後は迫害を恐れたため、続いて行われた[[中華民国]]初期の国勢調査で自らを満洲族としたのは約50万人にすぎなかったという。しかし、少数民族の権利が謳われるようになると、その人口は一気に500万人に増えたといわれている。 === 主要分布域 === {{multiple image | total_width = 900 | align = left | caption_align = left | image1 = Manchu autonomous prefectures and counties in China.png | caption1 = 満洲族の自治県 | image2 = Xibe autonomous prefectures and counties in China.png | caption2 = シベ族の自治県 }} {{Clear}} === 自治県・民族鎮・民族郷 === {{col-begin}} {{col-break}} ;自治県 満洲族には11の自治県がある。 * [[遼寧省]] ** [[新賓満族自治県]] ** [[清原満族自治県]] ** [[岫岩満族自治県]] ** [[寛甸満族自治県]] ** [[本渓満族自治県]] ** [[桓仁満族自治県]] * [[吉林省]] ** [[伊通満族自治県]] * [[河北省]] ** [[青竜満族自治県]] ** [[寛城満族自治県]] ** [[豊寧満族自治県]] ** [[囲場満族モンゴル族自治県]] {{col-break}} ;民族鎮 * [[興城市]] ** 沙後所満族鎮 ** 東辛荘満族鎮 ** 郭家満族鎮 ** 高家嶺満族鎮 * [[四平市]][[鉄東区 (四平市)|鉄東区]] ** 葉赫満族鎮 * [[ハルビン市]][[双城区]] ** 農豊満族シベ族鎮 * [[五常市]] ** 拉林満族鎮 ** 牛家満族鎮 * [[チチハル市]][[昂昂渓区]] ** 水師営満族鎮 * [[綏化市]][[北林区]] ** 綏勝満族鎮 ** 永安満族鎮 * [[望奎県]] ** 恵七満族鎮 {{col-break}} ;民族郷 * [[北京市]][[懐柔区]] ** 長哨営満族郷 ** 喇叭溝門満族郷 * [[遵化市]] ** 西下営満族郷 ** 湯泉満族郷 ** 東陵満族郷 * [[平泉市]] ** 七家岱満族郷 ** 茅蘭溝満族モンゴル族郷 * [[承徳県]] ** 崗子満族郷 ** 両家満族郷 * [[灤平県]] ** 安純溝門満族郷 ** 平坊満族郷 ** 西溝満族郷 ** 鄧廠満族郷 ** 五道営子満族郷 ** 馬営子満族郷 ** 付家店満族郷 * [[興隆県]] ** 南天門満族郷 ** 八卦嶺満族郷 * [[隆化県]] ** 偏坡営満族郷 ** 尹家営満族郷 ** 廟子溝モンゴル族満族郷 ** 太平荘満族郷 ** 旧屯満族郷 ** 西阿超満族モンゴル族郷 * [[文安県]] ** 大囲河回族満族郷 * [[赤峰市]][[松山区 (赤峰市)|松山区]] ** 当鋪地満族郷 {{col-break}} {{Clear}}: * [[カラチン旗]] ** 十家満族郷 * [[涼城県]] ** 曹碾満族郷 * [[ホルチン右翼前旗]] ** 満族屯満族郷 * [[康平県]] ** 沙金台モンゴル族満族郷 ** 柳樹屯モンゴル族満族郷 ** 西関屯モンゴル族満族郷 ** 東昇満族モンゴル族郷 * [[瓦房店市]] ** 三台満族郷 ** 楊家満族郷 * [[荘河市]] ** 太平嶺満族郷 ** 桂雲花満族郷 * [[撫順市]][[望花区]] ** 拉古満族郷 * [[撫順県]] ** 湯図満族郷 * [[東港市]] ** 合隆満族郷 * [[義県]] ** 地蔵寺満族郷 ** 大定堡満族郷 * [[遼陽県]] ** 吉洞峪満族郷 ** 甜水満族郷 * [[鉄嶺市]][[清河区 (鉄嶺市)|清河区]] ** 聶家満族郷 * [[開原市]] ** 林豊満族郷 * [[鉄嶺県]] ** 白旗寨満族郷 {{col-break}} {{Clear}}: * [[西豊県]] ** 徳興満族郷 ** 明徳満族郷 ** 成平満族郷 ** 和隆満族郷 ** 営廠満族郷 ** 金星満族郷 * [[興城市]] ** 羊安満族郷 ** 元台子満族郷 ** 白塔満族郷 ** 望海満族郷 ** 劉台子満族郷 ** 大寨満族郷 ** 南大満族郷 ** 囲屏満族郷 ** 鹸廠満族郷 ** 三道溝満族郷 ** 旧門満族郷 ** 薬王満族郷 * [[綏中県]] ** 西平坡満族郷 ** 葛家満族郷 ** 高甸子満族郷 ** 范家満族郷 ** 網戸満族郷 ** 明水満族郷 * [[長春市]][[九台区]] ** 莽卡満族郷 * [[吉林市]][[昌邑区]] ** 両家子満族郷 ** 土城子満族朝鮮族郷 * [[東豊県]] ** 三合満族朝鮮族郷 * [[梅河口市]] ** 小楊満族朝鮮族郷 {{col-break}} {{Clear}}: * [[通化県]] ** 大泉源満族朝鮮族郷 ** 金斗朝鮮族満族郷 * [[扶余市]] ** 三駿満族モンゴル族シベ族郷 * 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name="kotobank" /><ref name="zoku226" />{{refnest|group="注釈"|靺鞨族の文化については、[[考古学]]的研究によってその多くが解明されてきている<ref name="ogihara55" />。}}。 === 金王朝と女真族 === {{see also|女真|金 (王朝)}} {{multiple image | total_width = 550 | align = right | caption_align = left | image1 = Am ma ni ba mi xu.svg | caption1 = [[女真文字]]{{refnest|group="注釈"|女真文字による六字真言([[六字大明呪]])である。}} | image2 = 南宋疆域图(繁).png | caption2 = [[1142年]]における女真族王朝「金」と周辺諸王朝<br/>[[宋 (王朝)|宋]]([[南宋]])は漢民族王朝、[[西夏]]はチベット系[[タングート]]の王朝、[[大理国|大理]]はチベット系[[ペー族]]の王朝 }} 半農半猟の女真族が[[阿骨打|完顔阿骨打]](ワンヤン・アクダ)<ref name="kawauchi230">[[#河内|河内(1989)pp.230-232]]</ref>{{refnest|group="注釈"|遼代の女真族のなかでもさほど有力とはいえない[[完顔氏|完顔部]]が金王朝を樹立させるにいたった原因は、[[砂金]]を産する河川流域を支配地に収めたことによると考えられる<ref name="kawauchi230" />。}}により統一された。女真は、靺鞨七部のうち、[[黒水部|黒水靺鞨]]と呼ばれた集団だと考えられる<ref>{{kotobank|女真}}</ref>。金は、渤海を滅ぼしたモンゴル系[[契丹|契丹族]]による遊牧民王朝の[[遼]]を滅ぼし、さらに[[1126年]]、[[漢民族]]王朝の[[宋 (王朝)|宋]]の[[徽宗]]・[[欽宗]]のニ帝および皇族・重臣らを捕らえて中国北半を支配し、燕京(いまの[[北京市]])に都を移して宋朝を南へと追いやった<ref name="kotobank" /><ref name="mikami819">[[#三上|三上(1975)pp.819-823]]</ref>。体系を整備し、政府組織を中央、地方ともに中国風にして支配体制を整えたが、軍事権力を強く握って独占したのは女真族であり、政府首脳もまた女真族によって占められた<ref name="kotobank" /><ref name="mikami819" />。女真人には行政と軍事を兼ねたミンガン・ムクンの制度などがとられ特別の保護を受けた<ref name="mikami819" />。東北部(満洲)にあっては大部分が猛安・謀克制によって統治されたが、他民族の住む西部や南部では[[州県制]]が採用された<ref name="mikami819" />。 金はしかし、[[1206年]]に[[チンギス・カン]]によって成立した[[モンゴル帝国]]の猛攻を受けて劣勢に立ち、都を[[開封府|開封]]に移したものの[[1232年]]にはその開封が包囲された<ref name="kawauchi235">[[#河内|河内(1989)pp.235-237]]</ref>。そして、[[1234年]]、[[オゴデイ]]らの進撃により、逃走していた[[哀宗 (金)|哀宗]]が自殺して金は滅んだ<ref name="kotobank" /><ref name="mikami819" /><ref name="kawauchi235" />。一方、これに先立って、契丹の反乱鎮圧を称して挙兵していた金王朝の将の[[蒲鮮万奴]]は、[[1215年]]に金より自立して「天王」を名乗り、東夏国([[大真国]])を建国していた<ref name="kawauchi235" />。東夏は、モンゴルに服属したり自立したりを繰り返していたが、この国もまた、[[1233年]]、オゴデイの子の[[グユク]]によって滅ぼされた<ref name="mikami819" /><ref name="kawauchi235" />。 女真族は、金がモンゴル帝国に滅ぼされてからのちは、モンゴル帝国、[[元 (王朝)|大元]]、[[明|大明]]の支配下に置かれた<ref name="mikami819" /><ref name="ishibashi64">[[#石橋|石橋(2000)pp.64-66]]</ref>。その間、金の時代に創始した女真文字もしだいに失われ、金建国以前の部族集団に後退した<ref name="ishibashi64" />。当時の女真族の家族は、主人と[[奴婢]]に完全に二分されており、主人は[[狩猟]]や採集、交易、戦争などの外仕事、奴婢は農耕や[[ブタ]]の飼養など食糧生産を担当するという分業体制が確立していた<ref name="matsumura145">[[#松村|松村(2006)pp.145-147]]</ref>。その役割は固定し、世襲されていったが、代々起居や食事をともにし、双方の物産・物資は分け隔てなく均等に分配されたから、両者の結びつきはきわめて緊密であった<ref name="matsumura145">[[#松村|松村(2006)pp.145-147]]</ref>。東北部に残留した女真(女直)は、元代には[[遼陽等処行中書省]]の管轄下に入ったが、その統制はゆるやかなもので、ほぼ完全な自治がゆるされていた<ref name="matsumura147">[[#松村|松村(2006)pp.147-149]]</ref>。代からにかけて人は、半島族の下にあった<ref name="ishibashi66" /><ref name="mikami819" />{{refnest|group="注釈"|現在、ロシア連邦の沿海州に住み、狩猟を主な生業としてきた少数民族[[ウデヘ]]は、このうちの野人女直の末裔と考えられる<ref>[[#松浦|松浦(2006)]]{{要ページ番号|date=2023-03}}</ref>。}}。 === 女真族から満洲族へ === [[ファイル:Manchu chinese.jpg|right|thumb|300px|[[満洲文字]](右)と[[漢字]](左) ---- [[紫禁城]](北京)乾清門の額]] とりわけながら中国本土に相対的に近い建州女直からスクスフ部の有力な氏族だった英傑で拡大した<ref name="mikami819" />。ヌルハチの支配する領域は、一方では「マンジュ国」({{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨᠵᡠ<br>ᡤᡠᡵᡠᠨ}}, {{Lang|la|manju gurun}}, 満洲国)と称されるようになったが、マンジュ国がさらに海西女真四部(マンジュ政権からは「フルン四部」)、野人女真四部(同じく「東海四部」)を統合していく過程で、「マンジュ」が広く女真全体の総称として用いられるようになった<ref name="ishibashi66" />。なお、建州・海西・野人の各女真には、それぞれ内部的に何らかの結合関係があったと考えられがちだが、実際はそうではなかった<ref name="ishibashi66" />。建州女真のなかの五部もまた、それぞれ別個に建てられた5つの国のような様相を呈しており、それを越えてのまとまりはなかった<ref name="ishibashi66" />。「マンジュ国」は、その意味で複合部族国家であった<ref name="ishibashi66" />。 金の滅亡後、女真文字は失われ、女真族はモンゴル文や漢文に翻訳して文書をつくるようになっていたが、「マンジュ国」の勢威が拡大し、民族統合を進めるなかで民族的自覚は高まり、その長であるヌルハチは自分たちの文書を外国語に翻訳して記述している状況を不自然だと感じるようになっていた<ref name="ishibashi39">[[#石橋|石橋(2000)pp.39-40]]</ref>。ヌルハチは、学者{{仮リンク|エルデニ|zh|额尔德尼 (满族)|label=エルデニ・バクシ}}に命じて文字をつくらせた<ref name="ishibashi39">[[#石橋|石橋(2000)pp.39-40]]</ref>。[[1599年]]のこととされている<ref name="ishibashi39" />。すなわち、広大な地域で話されるようになった「マンジュ国」の言語を表記するため、[[アラム文字]]をルーツにする[[モンゴル文字]](縦書きの[[ウイグル文字]]を応用したもの)を改良させて無圏点[[満洲文字]]をつくり、当時の女真語(満洲語)を表記することとしたのである<ref name="ishibashi39" />。さらに、無圏点文字では区別することのできない{{Lang|la|ha}}({{ManchuSibeUnicode|ᡥᠠ}})と{{Lang|la|ga}}({{ManchuSibeUnicode|ᡤᠠ}})、{{Lang|la|de}}({{ManchuSibeUnicode|ᡩ᠋ᡝ᠋}})と{{Lang|la|te}} ({{ManchuSibeUnicode|ᡨᡝ᠋}})などを識別するため、ヌルハチの子の[[ホンタイジ]]は、17世紀に[[ダハイ|ダハイ・バクシ]]に有圏点満洲文字をつくらせた<ref name="ishibashi39" />{{refnest|group="注釈"|「バクシ」とは、書記官の意であるとも<ref name="kishimoto250">[[#岸本宮嶋|岸本(2008)pp.250-253]]</ref>、学者・博士の意であるともいわれる。}}。満洲文字の資料は有圏点満洲文字で書かれたものが圧倒的に多い。 ヌルハチは、中国のほぼ全域を領有して、<ref name="mikami819" />これは、数百年の空白を隔てて、2度にわたり歴史に名を残す統一国家を樹立して中国内地を支配した、稀有な例であった<ref name="ishibashi64" />。後金はヌルハチ没後も発展し、子息ホンタイジは内モンゴルを併合し、[[李氏朝鮮]]を属国となして国号を「[[清]]」に改め、また、民族名も「女真」を民族名として用いることを禁じ、"マンジュ"と改め、それに「満洲」の字を当てた<ref name="kotobank" /><ref name="matsumura156">[[#松村|松村(2006)pp.156-159]]</ref>{{refnest|group="注釈"|[[1634年]]、後金軍はモンゴルの一大拠点の[[フフホト市|フフホト]]を占領し、[[ドルゴン]]らを派遣して[[リンダン・ハーン]]の息子を捜索させた<ref name="matsumura156" />。[[1635年]]、ドルゴンはモンゴル帝国最後の君主となった[[エジェイ・ハーン]]を降伏させ、彼をともなって都の[[瀋陽市|瀋陽]]に帰還した<ref name="matsumura159">[[#松村|松村(2006)pp.159-160]]</ref>。エジェイは、「制誥之宝」と刻まれた大元伝国の璽をたずさえ、ホンタイジにこれを献上した<ref name="matsumura159" />。元朝の皇帝権を象徴する印璽がホンタイジの手に入ったということは、彼が全中国の支配権を元から継承したことを意味していた<ref name="matsumura159" />。}}。 * ジュシェン({{ManchuSibeUnicode|ᠵᡠᡧᡝᠨ}}, {{Lang|la|jušen}}, 女真) 1635年11月22日([[天聡]]9年十月庚寅)まで。 * マンジュ({{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨᠵᡠ}}, {{Lang|la|manju}}, 満洲) [[1636年]]([[崇徳]]に[[改元]])以降。ホンタイジによる改称{{refnest|group="注釈"|これにより「満洲」の名が定着するが、東方世界を支配するとされる仏である[[文殊菩薩]]と満洲の語を結びつける説明については、当時の[[チベット仏教]]の指導者の発言を乾隆帝が利用したところから生じた俗説だという見解もある<ref name="okada"/>。満州語の史書『満文原檔』はヌルハチによる国家建設を「漢人の国(ニカン=グルン)から東のかた日の浮かぶ海(日本海)に至るまでの、高麗国(ソルホ=グルン)以北、モンゴル国(モンゴ=グルン)以南のジュシェン語の国(グルン)をみな討ち従え尽した」と記すように女真人は自分たちの世界を言語によって周囲から区別される「ジュシェン国(女真国)」というまとまりとして理解していた<ref name="sugiyama310">[[#杉山|杉山 (2019)]] p. 310</ref>。ホンタイジは「われらがくにたみ(グルン)の名は元来マンジュ、ハダ・ウラ・イェヘ・ホイファであるぞ。それを理解しない者がジュシェンという。...これからはいずれの者もわれらの本来のマンジュという名で呼べ。ジュシェンと呼んだときは罪とする。」「くにたみの名をマンジュと言う。旗の諸王に千束させた属下(ジュシェン)を、その王の族下(ジュシェン)という。」(『満文原檔』)という勅令を下し、単なる金国の後継に留まらない新たな自意識を示した<ref name="sugiyama324">[[#杉山|杉山 (2019)]] p. 324</ref>。}}。 === 清朝の中国支配 === {{see also|清#政治}} 女真族出身のホンタイジは女真の概念を捨て、女真人、蒙古人、遼東漢人等の北方諸族を満洲(人)と統合し、国号を「大清」に改めた。ちなみに、民族の名称を表す“満”と“洲”、そして政権の名称を表す“清”のいずれにも“[[水部|氵(さんずい)]]”が付いているのは、[[五行思想|五行]]の火徳に結び付く“明”を“以水克火”するという[[陰陽五行思想]]に基づいているとされる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nxnet.net/shouye/zktj/shxb/200901/t20090107_414004.htm|title={{lang|cn|清朝为什么叫大清}}|accessdate={{?}}}}</ref>{{refnest|group="注釈"|満州人(族)は当時東北アジアに住んでいた様々な集団の複合・統合を経て形成されたものである。「南方ツングースを中心とする満洲族は女真族の末裔を母体とし、蒙古族、朝鮮族、錫伯族、[[ダウール族|ダウール]](達斡爾)族を吸収し、長期の雑居を経て新しい共同体を形成、今日見られる独特の民族誌的複合を形成したものである」(畑中)<ref name="hatanaka217">[[#畑中|畑中 (1991) p. 217]]</ref>。}}。ホンタイジは、[[1636年]]、清の国号を称したとき、満、漢、モンゴルの三勢力に推戴され、[[多民族国家]]の君主として[[ハーン]]であると同時に皇帝でもあるということを、内外に宣言した<ref name="1kishimoto348">[[#岸本1|岸本(2008)pp.348-349]]</ref>。多民族王朝となった清のもと、満洲人は、[[八旗]]と称する8グループに編成され、王朝を支える支配層を構成する主要民族のひとつとなり、軍人・官僚を輩出した。 [[ファイル:Yonghe Gong sign.jpg|280px|right|thumb|[[雍和宮]](北京)昭泰門に掲げられた扁額。左からモンゴル文、チベット文、漢文、満洲文の四体合璧となっている。]] <!--カナダの写真家によるものであり、被写体も満洲民族であるか確認できず不適切[[ファイル:Z2a1 (3986226178).jpg|180px|right|thumb|チーパオを着た女性]]--> [[1644年]]、清は[[山海関]]を越えて[[万里の長城]]以南に進出し、[[李自成|李自成の乱]]で滅亡した明にかわって[[北京市|北京]]に入城した。明滅亡後は、明の旧領を征服し、八旗を北京に集団移住させて漢人の土地を満洲人が支配する体制を築き上げた<ref name="ishibashi131">[[#石橋|石橋(2000)pp.131-132]]</ref>。なお、漂着により[[李氏朝鮮|朝鮮]]に抑留されていた[[ヘンドリック・ハメル]]によれば、満洲人支配下の17世紀初期の朝鮮では、[[李氏朝鮮の君主の廟号と諡号の一覧|朝鮮国王]]は国内では絶対的権力をもっているものの、後継者を決める際は満洲人のハーンの同意を得なければならず、また、満洲人の[[勅使]]や[[ウリャンカイ]](野人女真)は、年に3回朝鮮から貢物を徴収し、朝鮮高官は満洲人に怯えきっていたという<ref>[[#ハメル|ハメル]]{{要ページ番号|date=2023-03}}</ref>。 歴代の清朝皇帝は、同時に、満洲やモンゴルなど北方民族社会の長としてのハーンでもあった<ref name="1kishimoto348" /><ref name="ishibashi40">[[#石橋|石橋(2000)pp.40-48]]</ref>。その意味で清朝は、非漢族のハンが中国皇帝でもあるという「夷」と「華」が同居する二重性を有していたが<ref name="1kishimoto348" />、日本の東洋史学者[[石橋崇雄]]は、さらにこれに「旗=満(東北部での満・蒙・漢)」の体系を加えた「三重の帝国」であったとしている<ref name="ishibashi40" />。首都[[北京市|北京]]は中国内地の[[華北]]に、副都盛京(現、[[瀋陽市|瀋陽]])は中国東北部に、行在所「[[避暑山荘]]」は[[承徳市|熱河]](現、[[承徳避暑山荘と外八廟|承徳]])にそれぞれ位置しており、いずれも清朝のハン(大清皇帝)が政治の実務を執り行った場所という点では共通しているが、実際はこの3か所の性格はまったく異質であった<ref name="ishibashi40" />。清朝の皇帝は、北京にいるときは中華世界の[[天子]]として君臨していたが、長城外に位置する熱河の[[離宮]](「避暑山荘」)では、内陸アジア世界におけるモンゴル族の首長、ボグド=セチェン=ハンとして行動し、熱河は、モンゴル族や[[チベット民族|チベット族]]のみならず、[[ウイグル]]の王公、[[チュルク系民族]]の首長([[ベグ]])、[[朝鮮の歴史|朝鮮]]([[李氏朝鮮|李朝]])および[[ベトナムの歴史|大南]]([[阮朝]])・[[タイ王国]]([[アユタヤ王朝]]、[[トンブリー王朝]]、[[チャクリー王朝]])・[[ミャンマーの歴史|ビルマ]]([[コンバウン王朝]])といった[[東南アジア]]における[[冊封国|朝貢国]]の使節、さらに[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]の使節までも[[朝覲]]する非漢族世界「藩」の中心であった<ref name="ishibashi40" />{{refnest|group="注釈"|[[1793年]]、[[ジョージ・マカートニー (初代マカートニー伯爵)|初代マカートニー伯爵ジョージ・マカートニー]]はイギリス王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の派遣した乾隆帝の80歳を祝う使節団として熱河に赴き、[[三跪九叩頭の礼]]を拒否した(のちに清側が妥協して英国流に膝をつき皇帝の手に接吻することで事態を収拾した)ことで知られる<ref name="ishibashi40" />。}}。一方、瀋陽の[[瀋陽故宮|奉天行宮]](瀋陽故宮)東郭には右翼王および左翼王の執務室と八旗それぞれの建造物をともなう、旗人の部族長会議を反映した十王亭がある<ref name="ishibashi40" />{{refnest|group="注釈"|清朝の皇帝が皇帝であるためには、満洲人、モンゴル人、漢人の支配権を確立しなければならなかった<ref name="okada213">[[#岡田|岡田(2006)pp.213-214]]</ref>。モンゴル人に対しては大元伝国の玉璽を有して最後のハーンからその権利を譲られ、漢人に対しては大明の帝位を継承したとしてその支配権を主張できたのであるが、実のところ、肝心の満洲人に対しては本来独裁の権限はなく、部族長会議の議長にすぎない存在であり、当初は皇帝自身がその部族長会議で軍事・外交のリーダーとして[[選挙]]で選ばれた存在だった<ref name="okada213" />。}}。 清朝期の建築物は、複数言語で表記される「[[合璧]]形式」の額が掲げられることを一大特徴としているが、ここでは満・漢合璧であるだけでなく、満・漢・蒙の合璧、それにチベットを加えた四体合璧、さらにウイグルを加えた五体完璧もある<ref name="ishibashi40" />。清朝の記録はまた、『{{仮リンク|満洲実録|zh|满洲实录}}』をはじめとする実録類が原則として満文本・漢文本・蒙古文本の三種類によって編纂されており、満・漢・蒙の各語を担当する翻訳官がおり、そのための科挙もあった<ref name="ishibashi40" />。これにチベットやウイグルなどの諸語も含めた官撰・私撰の[[辞典|辞書]]が多く作られたのも清朝文化の特徴となっている<ref name="ishibashi40" />。大清帝国は、満・漢・蒙の三重構造を基本としており、瀋陽・北京・熱河にあった3政務所はそれを象徴するものというとらえ方ができるのである<ref name="ishibashi40" />。 中国を扱った映画などにみられる[[辮髪]]や[[両把頭]]、チーパオ('''[[チャイナドレス]]''')は、本来は満洲人の習俗であったものが清代に漢人の社会に持ち込まれたものである<ref name="ishibashi13" />{{refnest|group="注釈"|チーパオ(旗袍)は本来、清朝旗人社会の婦人のうち、冬の綿入れの形を普遍化したものであるが、現在のようなかたちで統一・普及するのは、[[中華民国]]成立以降のことである<ref name="ishibashi13">[[#石橋|石橋(2000)pp.13-15]]</ref>。清朝では、支配者である旗人と一般漢人とは厳格に区別されていたため、漢人女性がチーパオを着用することは認められていなかった<ref name="ishibashi13" />。このことが逆に女性の憧れとなったのか、政治とは別次元として満洲民族の服が元になって「チャイナドレス」として独り歩きし、[[ボディコン|ボディコンシャス]]な[[ワンピース]]として広く愛用されることになった<ref name="ishibashi13" />。}}。明との戦争に際しては占領地の男性住民に辮髪を命じ、明の滅亡は満洲族の髪型と服装を漢族にも強制して漢人の服飾を身に付けることを禁止し、漢民族の伝統文化を抑圧する態度をとった<ref name="ishibashi13" />{{refnest|group="注釈"|辮髪は、満洲族(女真族)に限らず、北アジア系諸民族のあいだに古くから広くみられる風習である<ref name="ishibashi13" />。}}。これを「剃髪易服」(髪を剃り、服を替えるの意)という。一方、[[科挙]]の実施や中央に[[内閣大学士|内閣]]、[[三省六部|六部]]、地方に[[総督]]、[[巡撫]]を設置して軍事・政治を管轄させるなど、明朝の行政制度を存続させて強硬政策と懐柔政策を併用した<ref name="ishibashi120">[[#石橋|石橋(2000)pp.120-121]]</ref>。また、指導理念として[[朱子学]]をはじめとする[[儒教|儒家]]の思想も取り入れていた<ref name="ishibashi120" />。 {{Wide image|Macang Lays Low the Enemy Ranks.jpg|1300px|[[乾隆帝]]時代の大臣であるマチャン|dir=rtl}} === 盛期の清王朝と満洲人 === {{see also|清露国境紛争}} {{multiple image | total_width = 380 | align = right | caption_align = left | image1 = 清 郎世宁绘《清高宗乾隆帝朝服像》.jpg | caption1 = 史上最大版図をきずいた乾隆帝の肖像([[ジュゼッペ・カスティリオーネ]]画、1736年) | image2 = Portrait of the Imperial Bodyguard Zhanyinbao.jpg | caption2 = 乾隆帝に仕えた満洲族衛兵フルチャ・バトゥル占音保(ジャンインボー) 紫禁城の紫光閣に掲げられていた[[:zh:紫光閣功臣像|武功臣の肖像画]](作者不明、1760年)。満洲語と漢文で彼に対する賛が書かれている。彼には名誉称号である[[バトゥル]]が与えられている。 }} [[17世紀]]、[[コサック]](カザク)によるシベリアへの東進が著しい[[ロシア・ツァーリ国]]と清とが国境をめぐって対立した([[清露国境紛争]])<ref name="89katoh454">[[#加藤3|加藤(1989)pp.454-456]]</ref>。[[1650年代]]初頭、[[エロフェイ・ハバロフ]]率いるコサックの一派は[[アムール川]]に臨む清側の拠点ヤクサ(雅克薩)を奪い、同地を[[アルバジン]]と改めて東方進出への拠点とした<ref name="89katoh454" />。ロシア人はアムール川を下りながら先住民からヤサク(毛皮税)を徴収した<ref name="89katoh454" />。[[1652年]]、現在の[[ハバロフスク]]周辺とみられるアチャンスクで清露の戦闘が起こった。[[1658年]]には[[李氏朝鮮|朝鮮国]]軍も動員した清国側が勝利し、アムール川流域からロシア人勢力を駆逐したが、[[1665年]]、シベリアに追放されていた[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]][[シュラフタ|貴族]]の{{仮リンク|ニキフォール・チェルノゴフスキー|en|Nikifor Chernigovsky}}が{{仮リンク|イリムスク|en|Ilimsk}}の[[ヴォイヴォダ]](軍司令官)を殺害して逃走、{{仮リンク|ヤクサ国|en|Jaxa (state)}}を建国して先住民から毛皮税を徴収した。清露国境紛争は再燃し、[[1683年]]、アルバジン戦争が勃発、戦況は清側優勢で推移し、[[1689年]]、清露両国は[[ネルチンスク条約]]を結んで講和した<ref name="89katoh454" />。その結果、[[外満洲]]を含めた満洲全体が清の領土と確定した<ref name="ishibashi25">[[#石橋|石橋(2000)pp.25-27]]</ref>{{refnest|group="注釈"|ネルチンスク条約は、東アジア史上はじめて[[ヨーロッパ]]の一国と結んだ[[条約|国際条約]]であった<ref name="ishibashi25" />。}}。なお、この時のロシア人[[捕虜]]は「ニル」に編成され[[鑲黄旗]]満洲に配属された{{refnest|group="注釈"|ニル({{Lang|la|niru}}、「矢」の意)とは、八旗制において有事の際に兵士となる成年男子300人を供出しうる集団を指す<ref name="kishimoto250" />。清朝は、5ニルをジャラン(jalan、1,500人)とし、5ジャランをグサ(gūsa、25ニル、7,500人)として、1グサ(7,500人)をもって一旗とした<ref name="kishimoto250" /><ref name="matsumura152">[[#松村|松村(2006)pp.152-154]]</ref>。「旗」は[[本籍]]の所在をもあらわしており、単なる兵制上の単位ではなく、旗人の基本的な帰属先を示す社会組織であった<ref name="kishimoto250" />。}}。 清の歴代の皇帝は、漢人が圧倒的多数を占める中国を支配するにあたっても、満洲語をはじめとする独自の民族文化の維持・発展に努めていた。しかし、次第に満洲語は廃れ、満洲人の間でも[[中国語|漢語]]が話されるようになり、習俗もしだいに[[漢化]]していった。清代中期の北京の満洲人によって編まれた「子弟書」という俗曲集には、漢語と満洲語を交ぜてできている曲があり、当時の満洲人の言語状況の一端がかいまみえる<ref>[[#池上2|池上(1975)p.823]]</ref>。 清朝によって優遇された満洲族は清朝発展にともない中国本土に移住する者が増加した一方、満洲人の故地である満洲では人口が減り、荒廃したため、[[1653年]]から[[1668年]]まで[[遼東招民開墾令]]を出して漢人の移住を勧めた<ref name="mikami819" />。しかし、18世紀に入ると東北部(満洲)に自発的に移住する漢人の数が急増したため、[[1740年]]には移住禁止令を出して満洲人の生活を保護しようとした<ref name="mikami819" />。 [[1735年]]から[[1795年]]まで治世60年におよぶ第6代乾隆帝は、45年にわたる外征を「十全武功」と称し、晩年好んで用いた[[玉璽]]にも「十全老人」の文字を彫らせた<ref name="ishibashi170">[[#石橋|石橋(2000)pp.170-172]]</ref>。[[1750年代]]の後半には、清は乾隆帝の外征により中国東北部、中国内地、[[モンゴル高原]]、[[東トルキスタン]]を含む[[天山山脈|テンシャン山脈]]の南北両側、チベットより構成される最大版図を築いた<ref name="ishibashi182">[[#石橋|石橋(2000)pp.182-183]]</ref>。[[1759年]]にはテンシャンの南北両側地域を「新彊」と命名した<ref name="ishibashi182" />。現代の中国の骨格は、乾隆帝によってかたちづくられたということができる<ref name="ishibashi170" />。 === 列強の進出と満洲族 === {{see also|滅満興漢|満洲国}} [[ファイル:Manchu Soldiers.jpg|thumb|right|250px|清朝末期の満洲族の武人たち]] [[ファイル: Manchukuo map.png|thumb|right|250px|満洲国(1932-1945)の地図]] [[1840年]]以降、清が[[アヘン戦争]]や[[アロー戦争]]に敗北し、大規模な農民反乱である[[太平天国の乱]]が起こって弱体化すると、ロシアは清に対して武力による威圧を強め、[[1858年]]には[[アイグン条約]]を結んで、清領とされてきた外満洲のうちに割譲し、両国の共同管理することとなった。さらに2年後の[[1860年]]には[[北京条約]]によって、この地も正式にロシア領となった<ref name="peking">{{kotobank|北京条約}}</ref>{{refnest|group="注釈"|北京条約は[[アロー戦争]]終結のための[[イギリス]]・[[フランス]]との講和条約である。}}。 一方、皇帝の故郷の満洲は[[1860年]]までは保護され、漢人の移住はある程度制限されていたが、[[特普欽]]らの献策を容れて開放策に転じ、漢人農民の移住が急増した。[[中国の歴史|中国史]]ではこれを「[[闖関東]]」と呼んでいる{{refnest|group="注釈"|[[1931年]]の[[満洲事変]]までに、数百万規模の人々が関内から移動したといわれている。}}。漢人人口はさらに急増して満洲人人口を上回り、その生活域は蚕食された。また、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]領事館が[[営口市|営口]]に置かれるなど外国人勢力が満洲の南方からも入り込んで、満洲人の故郷は大きな変貌を遂げた<ref name="mikami819" />。アヘン戦争の敗北後、清国は[[海禁|海禁政策]]を放棄して欧米列強に門戸を開いたが、[[日清戦争]](1894-1895)や[[北清事変]](1900)の敗北などによって深刻な半植民地状態に陥った。[[1911年]]の[[辛亥革命]]の際には「[[滅満興漢]]」がスローガンとして掲げられた{{refnest|group="注釈"|太平天国では反清の意思として辮髪を廃止したが、清朝はこのような反政府勢力を「長髪賊」と呼んだ。}}。 [[1932年]]には[[大日本帝国|日本]]の手によって、清の最後の皇帝だった[[愛新覚羅溥儀|宣統帝溥儀]]を執政(のちに皇帝)として[[満洲国]]が建てられた<ref name="mikami819" /><ref name="mans">{{kotobank|満州国}}</ref><ref name="suzuki34">[[#鈴木|鈴木(2021)p.34]]</ref>{{refnest|group="注釈"|愛新覚羅溥儀は、[[1917年]]7月、軍閥の指導者[[張勲 (清末民初)|張勲]]によって13日間だけだが、帝位に就いたことがあった([[張勲復辟]])<!--リンク切れ<ref>{{kotobank|張勲復辟}}</ref>-->。}}。満洲国は[[大和民族|日]]・'''満'''・[[モンゴル系民族|蒙]]・[[漢民族|漢]]・[[朝鮮民族|朝]]の五民族による「[[五族協和 (満洲国)|五族協和]]」「[[王道楽土]]」を理念としており<ref name="mans" />、国名に「満洲」を含むものの、満洲人がこの国を自分たちの民族国家として意識していたわけではない。しかし、建国後の満洲族には帝政期成運動を起こすなど、この国に民族の復権を期待する傾向も一部ではみられた。満洲国の建国宣言は、溥儀を担いだ旧清朝帝政派の人びとの主導によってなされ、それを関東軍が承認したものだが、そこには「礼教(儒教とほぼ同じだが、[[道徳]]秩序や祭礼面を前面に立てる)」を国教とすることが謳われていた<ref name="suzuki16">[[#鈴木|鈴木(2021)pp.16-17]]</ref>。[[1934年]]の皇帝即位式において溥儀は、満洲族の民族衣装である竜袍の着用を、関東軍は「五族協和」の見地からこれを許されず、[[満洲国軍]]大総帥服を着用するよう求められた<ref name="huffpo">[[#吉川|吉川]]</ref>。溥儀はこれに従ったが、それに先立って祖霊に報告の開催を主張し、関東軍はその開催と着用を認めた<ref name="huffpo" />。なお、満洲国における筆頭公用語は中国語(漢語)であり、第二公用語は[[日本語]]であった<ref name="suzuki157">[[#鈴木|鈴木(2021)pp.157-159]]</ref>。ただし、筆頭公用語は中国語とも漢語(シナ語)とも称されず「満洲語」もしくは「満語」と称され{{refnest|group="注釈"|満洲族に固有の言語(本来の満洲語)は「固有満洲語」と称された<ref name="suzuki157" />。}}、満洲国の住人は満族・漢族とわず「満人」と称された<ref name="suzuki157" />。 === 現代の満族 === {{see also|民族識別工作}} [[第二次世界大戦]]後に成立した[[中華人民共和国]]は、愛新覚羅溥儀を「思想改造」したのち満洲族代表として[[中国人民政治協商会議]]全国委員に任命し<ref name="huffpo" />、「[[民族識別工作]]」を行って国内の少数民族を一定の権利を有する民族として公認していった。清代の[[旗人]]たちは、主にマンジュたちにより構成された[[満洲八旗]]のほか、[[蒙古八旗]]・[[漢軍八旗]]など3つの集団から構成されていたが、この「民族識別工作」では、蒙古八旗や漢軍八旗の末裔たちを「[[蒙古族]]」や「[[漢族]]」に区分するのではなく、「旗人」全体をまとめて「満族」と区分した{{refnest|group="注釈"|しかし、「中国的夢」を掲げる[[習近平]]政権に入ってからは、以前にも増していっそう抑圧的な少数民族政策がとられるようになっている<ref name="hirano">[[#平野|平野]]{{要ページ番号|date=2023-03}}</ref>。}}。 [[満洲八旗]]に属していた[[シベ族|錫伯(シベ)族]]、[[ダウール族|達斡爾(ダウール)族]]などについては、それぞれ[[中華民族|56の民族]]の一員である独自の民族として識別されている。 なお、満洲族は、清代に支配者階級として[[万里の長城|長城]]以南に移住した経緯上から都市住民が多いため、漢民族に比べて教育水準が高い。[[1990年]]の人口調査資料によれば満洲族人口1万人当たりの大学進学者数は1,652.2人で、全国平均水準139.0人、漢族平均水準143.1人に比べて遥かに高かった。また、15歳以上で非識字・半非識字が占める比率は、満族は1.41パーセントで、全国22.21パーセント、漢族21.53パーセントよりも遥かに低く、中国国内の各民族の中で非識字率(半非識字率を含む)が最も低い<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.1news1.cn/news/minzufengqing/2008/11/081125162351619_3.html|title=焦点中国網「民族風情 - 満族」|accessdate={{?}}}}</ref>。 == 生業と文化・習俗 == === 伝統的生業 === さて依然中国にいたるまではいうにとってが主な生業。農耕は[[ムギ]]、[[アワ]]、[[ヒエ]]、[[キビ]]など穀類を中心とする[[乾燥農業|天水農業]]であった<ref name="matsumura145" />。狩猟は[[テン]]、[[キツネ]]、[[ミンク]]、[[リス]]など[[毛皮]]目的であり、[[中華料理]]の食材となる[[キクラゲ]]、[[キノコ]]類、[[松の実]]、薬用として知られる[[オタネニンジン|朝鮮人参]](オタネニンジン)の採集などもおこなわれた<ref name="ishibashi64" /><ref name="matsumura145" /><ref name="kishimoto239">[[#岸本宮嶋|岸本(2008)pp.239-242]]</ref>。清朝の軍事組織として知られる八旗も、その編成方法は元来、満洲族の狩猟生活からあみだされた[[巻狩]]の制を応用したものだったといわれる<ref name="mitamura197" /><ref name="kishimoto250" />。 明代後期の遼東地方で当時高額で取引された二大商品といえば、[[クロテン]]の毛皮と山岳地帯に自生する薬用人参であった<ref name="kishimoto239" />{{refnest|group="注釈"|クロテンの毛皮は冬の厳しい[[華北]]地方で人びとの耳当てとして大量の需要があったほか、明や朝鮮での奢侈の風潮からも人気があった<ref name="kishimoto239" />。オタネニンジン(朝鮮人参)は、上等なものだと[[銀]]に匹敵するといわれたほど高価であったが、これを採集するには夏の数か月、[[猛獣]]の多く棲む高山地帯で集団生活を送る必要があった<ref name="kishimoto239" />。}}。こうした産物は現地で消費されず、奥地から[[リレー走|リレー]]式に遼陽にもたらされ、さらに北京方面へと送られて、[[穀物]]、[[織物]]、[[金属]]製品といった中国内地の商品と交換される<ref name="matsumura145" />。ヌルハチはこうした特産品のルートを掌握して交易の利益を得ていた氏族長のひとりであった<ref name="kishimoto239" />。 ヌルハチの故地に関して言えば、その地は山がちで大小の河川が縦横に流れ、斜面や点在する平地では[[モロコシ|コーリャン]]などが栽培されていたが、農地としては必ずしも恵まれていなかった<ref name="kanda258">[[#神田|神田(1989)pp.258-262]]</ref>。したがって、西方に隣接する肥沃で広大な[[遼河平原|遼東平野]]の農地は、彼にすれば垂涎の的であった<ref name="kanda258" />。ヌルハチは遼東に進出するや女真人(満洲人)をこの地に続々と移住させ、農耕国家として発展する基礎を固めた<ref name="kanda258" />。 またブタ養がなされており、産地としても有名であった{{refnest|group="注釈"|「ツングース」の名前の由来も、[[トルコ語]]のトングス(=ブタ)の訛ったものといわれている<ref name="matsumura145" />。}}。ただし、こうした生業のみで十分な[[自給自足]]ができるというほどの経済的基盤を有していたわけではなかった<ref name="ishibashi64" />{{refnest|group="注釈"|明帝国は、対モンゴル政策の一環として女真族を利用する政策を採用し、[[衛所]]の制度を適用して各地の女真族の部族長に[[官職]]を授け、それを示す[[勅|勅書]]・[[封蝋|印璽]]をあたえて、[[朝貢]]・馬市にかかわる特権の付与に便宜を図った<ref name="ishibashi64" />。これは、自給自足の難しい女真族の社会に[[権威]]と[[利権]]をめぐる熾烈な争奪抗争を生むこととなって、結果的に女真族内に覇権闘争を生んだ<ref name="ishibashi66" /><ref name="ishibashi64" />。明朝の政策の根底には女真族分断の意図もあったが、ヌルハチはこうした覇権闘争を勝ち抜いたうえで明の対抗勢力となるまでに勢力を拡大させたのであるから、長期的に考えれば明にとって皮肉な結果だったといえる<ref name="ishibashi66" /><ref name="ishibashi64" />。}}。なお、[[吉林省]][[吉林市]]の鷹屯{{refnest|group="注釈"|ヌルハチはここを「打漁楼」と名付けた。}}は、[[鷹狩]]に従事する八旗の兵士が代々居住し、鷹匠を数多く輩出した地であり、古い狩猟文化を今日に伝えている<ref name="people">{{Cite web|和書|url=http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/2014/ji_lin/html/photo.html|title=人民中国・文化観光"吉林省"|accessdate={{?}}}}</ref>。 === 習俗と生活文化 === {{see also|辮髪}} [[ファイル:Travelling barber.jpg|300px|right|thumb|辮髪にカットする巡回理髪者(19世紀、{{仮リンク|トーマス・アロム|en|Thomas Allom}}画)]] 漢民族に見られる[[纏足]]の習慣は満洲族女性にはなかった。女性の服飾は、上述したチーパオまたは[[ベスト]]を着用することが多く<ref name="people" />、男性は伝統的に[[筒袖]]の[[ウェストコート|チョッキ]]と[[ズボン]]という服飾を好んだ<ref>[[#三田村|三田村(1975)p.208]]</ref>。 対して、満洲族男性のヘアスタイルであった<ref name="2kanda186">[[#神田2|神田(2006)pp.186-188]]</ref>。1644年の北京入城直後、清の第3代皇帝フリン([[順治帝]])の摂政[[ドルゴン]]は、清に服属するか逆らうかを区別するため、漢族に対しても「薙髪令」を発令した<ref name="2kanda186" /><ref name="ishibashi118" />。この際は、[[中華思想]]の根強い抵抗のため強制できなかった<ref name="ishibashi118" />{{refnest|group="注釈"|清朝の北京入城は、概ね人民の歓迎を受けたが、辮髪の強制はこれに対する裏切り行為として受け止められた<ref name="ishibashi118" />。}}。しかし、[[1645年]]、「薙髪令」を再発令し、辮髪を強制した<ref name="2kanda186" /><ref name="tifa">{{kotobank|薙髪令}}</ref>。このとき、辮髪を拒否する者には[[死刑]]を以て臨んだ<ref name="2kanda186" /><ref name="ishibashi118" />。[[儒教]]の伝統的な考えでは、毛髪を含む身体を傷付けることは「不孝」とされ、[[タブー]]であったため、抵抗する者も多かったが、清朝は辮髪を行った者に対しては「髪を切って我に従うものには、すべてもとどおり安堵する」として従来の生活や慣習が行えることを保証した<ref name="ishibashi118">[[#石橋|石橋(2000)pp.118-120]]</ref>。清朝は、漢族が辮髪を死ぬほど嫌い抜いていることを承知したうえで、あえて「薙髪令」を再発令したのであり、ある意味、清朝の敵味方の識別のためには、これ以上効果的な策はなかった<ref name="ishibashi118" />。 やがて、[[19世紀]]には辮髪が完全に普及し、[[僧侶]]と[[道士]]と女性のほかはことごとく辮髪するようになり<ref name="2kanda186" />、中国のものと見なされるようになった。 === 氏族制と社会文化 === [[ファイル:A Manchu young man dressed in traditional clothes.jpg|170px|right|thumb|伝統衣装を着た現代の満族男性(2012年)]] 満洲族「哈喇({{ManchuSibeUnicode|ᡥᠠᠯᠠ}},)」または「ムクン({{Lang|la|mukūn}})」と呼ばれる父系[[氏族]]とした<ref name="riryu138">[[#李劉1|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.138-148]]</ref>。ロシアの{{仮リンク|セルゲイ・シロコゴロフ|en|S. M. Shirokogoroff}}はかつて、ハラが基本的な血縁組織であり、その後、血縁組織の発展にともないガルガン({{Lang|la|garugan}})、ムクンの2層が生じたと論じ、中国の莫東寅はこれを継承して、ハラ(部族)、ガルガン(胞族)、ムクン(氏族)の三層構造を唱えた<ref name="riryu138" />。しかし、シロコゴルフ・莫東寅の説は、[[今西春秋]]が指摘しているように何ら[[史料]]的根拠を有しない<ref name="riryu138" />。これに対し、[[三田村泰助]]は、詳細な検討の結果、ムクンをハラから派生した地域関係を基とする血族集団とみなす見解を示した<ref name="riryu138" />。ムクンがハラより発生したとする説は、現在、多くの専門家の支持する定説となっている<ref name="riryu138" />。ムクンは、金代女真族の「謀克」を原義としているとみられ、一義的には「族」、二義的には「氏」を表しており、一方、ハラには「姓」の字があてられる<ref name="riryu138" />。清代にあっては、ハラはもはや実体をともなった血縁組織とはいえず、ムクンだけがのこったが、野人女直と呼ばれた人びととその末裔にあってはハラ組織が濃厚に残存したのだった<ref name="riryu138" />。 明・清両王朝の皇宮となった[[紫禁城]]では、明が内廷([[後宮]])と外廷の間に塀を設け、その区別が厳格であったのに対し、清朝ではその塀を撤去して両者の区別は緩やかなものとなり、また、内廷においても男子禁制が明ほどには厳しくなかった<ref name="2mitamura169">[[#三田村2|三田村(1991)pp.169-173]]</ref>。このことは、漢族の家族制と満洲族の氏族制の相違が反映しているものととらえることができる<ref name="2mitamura169" />{{refnest|group="注釈"|清朝にあっては、明代には顕著だった後宮勢力を背景とする宦官の専権という現象はあまりみられなかった。}}。 ==== 満洲族の姓氏 ==== 1個のハラは複数のムクンを包含するが、1個のムクンはただ1つのハラに帰属しており、ハラ組織は元来、地域的同一性を有していた<ref name="riryu138" />。女真族(満洲民族)のハラの由来は、次の2種に大別できる<ref name="riryu138" />。 # 地名や河川名を姓とするもの … グワルギャ({{仮リンク|瓜爾佳氏|zh|瓜尔佳氏|label=瓜爾佳}})、トゥンギャ(佟佳)、ドンゴ(董鄂)、マギャ(馬佳)など。 # 古来の[[トーテム]]を姓とするもの … ニョフル({{仮リンク|鈕祜禄氏|zh|钮祜禄氏|label=鈕祜禄}}、原義は「[[オオカミ]]」)、サクダ(薩克達、原義は「[[イノシシ]]」)、ニマチャ(尼馬察、原義は「[[魚類|魚]]」)、ショムル(舒穆禄)など<ref name="riryu138" />。 ハラは、当初は[[族外婚]]の単位であると同時に族内への受け入れ機能を有し、血讐の義務をともない、また、精神生活の単位でもあった<ref name="riryu138" />。それに対し、ムクンはハラの瓦解を受けて不断に分節化し、発展していったもので、その過程も示していた<ref name="riryu148">[[#李劉1|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.148-154]]</ref>。たとえば、ギョロ(覚羅)というハラは、『氏族通譜』によれば、イルゲンギョロ([[伊爾根覚羅氏|伊爾根覚羅]])、シュシュギョロ(舒舒覚羅)、シリンギョロ(西林覚羅)、トゥンギャンギョロ(通顔覚羅)、アヤンギョロ(阿顔覚羅)、フルンギョロ(呼倫覚羅)、アハギョロ(阿哈覚羅)、チャラギョロ(察喇覚羅)という8つのムクンに分かれ、さらにそれぞれが多数の分枝を持っていた<ref name="riryu148" />。ハラからムクンが生じた理由のひとつは族外婚規制の機能緩和であって、すでに明代女真族において婚姻禁忌が破られていたことにある<ref name="riryu148" />。すなわち、同一ハラ内の異ムクンとの通婚を可としたのである<ref name="riryu148" />。太祖ヌルハチは[[アイシンギョロ]](愛新覚羅)氏出身であったが、その妻にはイルゲンギョロ氏2名、シリンギョロ氏1名、ギャムフギョロ(嘉穆瑚覚羅)1名、計4人の異ムクンの妻女が含まれていた<ref name="riryu148" />。 満洲民族の姓氏は本来、アイシンギョロ(愛新覚羅、{{ManchuSibeUnicode|ᠠᡳ᠌ᠰᡳ᠍ᠨ<br>ᡤᡳᠣᡵᠣ}}, {{Lang|la|aisin gioro}})、[[葉赫那拉氏|イェヘナラ]](葉赫那拉、{{ManchuSibeUnicode|ᠶᡝᡥᡝ<br>ᠨᠠᡵᠠ}}, {{Lang|la|yehe nara}})、ヒタラ(喜塔臘、{{ManchuSibeUnicode|ᡥᡳᡨ᠋ᠠᡵᠠ}}, {{Lang|la|hitara}}) 等にみられるように[[満洲語]]に基づいたものであった。しかし、現代満族の多くは、漢民族の姓氏になぞらえて主に一文字の「漢姓」を用いている。これは、清末期の[[辛亥革命]]の風潮、[[第二次世界大戦]]後の「[[漢奸]]」狩り、[[中華人民共和国]]成立後の[[文化大革命]]など、中国当局の弾圧を避けるための一方策であったと考えられる。しかしながら、その場合であっても、 * アイシンギョロ(愛新覚羅) → 「[[金 (姓)|金]]」「[[羅 (姓)|羅]]」または「[[趙 (姓)|趙]]」に * グワルギャ({{仮リンク|瓜爾佳氏|label=瓜爾佳|zh|瓜尔佳氏}}、{{ManchuSibeUnicode|ᡤᡡᠸᠠᠯᡤᡳᠶᠠ}}, {{Lang|la|gūwalgiya}}) → 「[[関 (姓)|関]]」に * イェヘナラ(葉赫那拉) → 「[[葉 (姓)|葉]]」または「{{仮リンク|那 (姓)|label=那|zh|那姓}}」に * イルゲンギョロ(伊爾根覚羅、{{ManchuSibeUnicode|ᡳᡵᡤᡝᠨ<br>ᡤᡳᠣᡵᠣ}}, {{Lang|la|irgen gioro}}) → 「趙」または「[[佟]]」に * ニョフル(鈕祜禄) → 「[[郎]]」または「[[浪 (姓)|浪]]」に<ref name="riryu138" /> * フチャ(富察、{{ManchuSibeUnicode|ᡶ᠋ᡠᠴᠠ}}, {{Lang|la|fuca}}) → 「{{仮リンク|富 (姓)|label=富|zh|富姓}}」または「[[傅 (姓)|傅]]」に * ヘシェリ(赫舎里、{{ManchuSibeUnicode|ᡥᡝᡧᡝᡵᡳ}}, {{Lang|la|hešeri}}) →「{{仮リンク|赫 (姓)|label=赫|zh|赫姓}}」「[[何]]」または「{{仮リンク|英 (姓)|label=英|zh|英姓}}」に * トゥンギャ(佟佳 {{ManchuSibeUnicode|ᡨᡠ᠋ᡢᡤᡳᠶᠠ}}, {{Lang|la|tunggiya}}) → 「[[佟]]」に * [[完顔氏|ワンギャ]](完顔、{{ManchuSibeUnicode|ᠸᠠᠩᡤᡳᠶᠠ}}, {{Lang|la|wanggiya}}) → 「[[王氏|王]]」に というように、改姓の際にも一定の原則に従っている。現代満族は、「氏族 ― 哈喇(姓)漢訳表」と照らし合わせることによって自分の本来の姓氏を知ることができるようになっている。 満洲民族はもともとモンゴル人の影響を受けて、漢民族のように姓氏と名を同時に呼ぶ習慣はなく、名前のみを呼ぶか、名前の前に爵位や官職名を付けて呼んでいた(例:睿親王ドルゴン)。あえて姓氏と名を続けて呼ぶ場合は、例えば「グワルギャ姓の[[オボイ]](満洲語: {{ManchuSibeUnicode|ᡤᡡᠸᠠᠯᡤᡳᠶᠠ<br>ᡥᠠᠯᠠ ᡳ<br>ᠣᠪᠣᡳ}} , {{Lang|la|gūwalgiya hala-i oboi}}) 」のような呼び方をしていた。 ==== 婚姻 ==== 伝統的な[[結婚|婚姻]]は、[[族外婚]]と満漢不婚によって特徴づけられる<ref name="u47">[[#烏|烏丙安(1996)pp.47-48]]</ref><ref name="riryu171">[[#李劉2|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.171-175]]</ref>。族外婚規制は、同じ氏族同士は結婚しないという原則であり、現代においても濃厚に確認でき、しかも、その規制の強さは漢族以上である<ref name="u47" /><ref name="riryu171" />{{refnest|group="注釈"|漢族にあっては、同姓であっても同祖でなければ通婚は制限されないし、同姓同祖であっても五服親([[続柄#高祖父|高祖父]]を同じくする三従兄弟姉妹までの親族)の範囲を越えれば結婚は可能である<ref name="riryu171" />。満族にあっては、かつては禁忌とされた、同姓であるが同祖でない男女、同祖であるが五服親の範囲外にある男女の結婚がみられるようになったというものの、特に老人たちはそのことに否定的である<ref name="riryu171" />。}}。上述した「ハラ(旧氏族)」は当初、族外婚の単位であったが、その分節化によって生じた「ムクン(新氏族)」が現代における族外婚単位となっている<ref name="riryu138" /><ref name="riryu148" />。 満漢不婚は、満族と漢族の婚姻禁止の[[慣習]]であったが、現代においては守られていない<ref name="u47" /><ref name="riryu171" />。かつて満洲族は全体が八旗の組織に入る旗人であり、入旗していない漢族との通婚は許されていなかったが、入旗している漢族(漢軍八旗)との結婚は可能であった<ref name="u47" /><ref name="riryu171" />。なお、彼らが女真族と称していた時代にあっては、子が継母を娶ったり、弟が嫂を娶ったりする収継婚も多かったが、ホンタイジの時代に入ると漢人的な観念が浸透して旧俗矯正が図られ、収継婚は禁止された<ref name="riryu171" />。 満洲族の婚姻の旧俗では、子女が成年に達すると双方の両親または仲人の話し合いを経て、双方の「門戸帳」(本人の生辰八字([[誕生日|生年月日]])と姓氏三代(曾祖父母・祖父母・父母の姓名)が記されている)を交換し、これが適合すれば婚約できるなど、おびただしい数のしきたりと規制があった<ref name="riryu171" />。 ==== 葬送と殉死の風習 ==== [[ファイル:《孝烈武皇后朝服像》.jpg|130px|right|thumb|太祖ヌルハチに殉死した夫人、アバハイ(孝烈武皇后)]] 女真族の旧俗では、[[火葬]]が行われていた<ref name="riryu175">[[#李劉2|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.175-180]]</ref>。ヌルハチもホンタイジも火葬され、3代[[順治帝]]は火葬制度を詳細に定め、彼自身も火葬された<ref name="riryu175"/>。[[順治]]年間以降、北京の満洲族はしだいに[[土葬]]を行うようになったが、清朝は漢化を防止する観点から、各地に駐防する旗人の行動に厳しい制限を課し、死後、現地に[[墓|墳墓]]を設けることを許さず、必ず京旗に帰葬することとした<ref name="riryu175"/>。そのため、火葬の風習は各地の駐防にたずさわる旗人の間で保たれた<ref name="riryu175"/>。しかし、[[乾隆]]年間になると、各地の戦役も収まり、火葬を不孝・不道とみなす漢族の[[儒教|儒家]]思想の影響も受けていたので、乾隆帝は死後に現地で土葬することを許可し、帰葬を一律に禁止した<ref name="riryu175"/>。 女真の人びとはまた、死者の葬送のために牛・馬を殺してこれを死者に捧げ、その肉を食すという旧俗をもっていた<ref name="riryu175"/>。このような習俗は[[康熙帝]]の頃まではつづいたが、やがて漢民族の習俗を取り入れ、紙馬をもって祭礼をおこなうようになった<ref name="riryu175"/>。 [[殉死]]の風習も広く行われ、ヌルハチの妻の死去の際には4人の奴婢が、ヌルハチ自身の死去の際にも正妃[[アバハイ]]と2人の側室が殉死した<ref name="riryu175"/>。ホンタイジは殉死の強制を禁止したが、禁止されたのは強制行為のみであって殉死そのものは否定されなかった<ref name="riryu175"/>。ホンタイジの死去の際には近侍2名が殉死している<ref name="riryu175"/>。殉死の旧俗が満洲族の社会で連綿と続いてきたのは、奴婢の制度と無関係ではないと考えられる<ref name="riryu175"/>。康熙帝が在位中に殉死の禁止を諭す命令を発し、以降は紙人を焼くことで死者の[[霊魂]]を祭ることとなった<ref name="riryu175"/>。 === 言語・文字 === {{see also|満洲語|満洲文字}} [[ファイル:Sealeg25.png|170px|right|thumb|満州文字の朱印 ---- 「白山黒水、源遠流長」の満洲語 "{{Lang|la|Šanyan alin, sahaliyan muke, sekiyen goro, eyen golmin}}" を満文で示している。]] なかの言語も概ね他の諸語において顕に<ref name="ogihara55">[[#荻原|荻原(1989)p.55]]</ref>。語彙ではとくに、[[モンゴル語]]、[[漢語]]からの借用語も多い<ref name="linga">{{kotobank|満州語}}</ref>。清朝にあっては第一公用語の地位にあった<ref name="ishibashi38">[[#石橋|石橋(2000)pp.38-40]]</ref>。満洲語は、その話者が北京はじめ中国全土に居住するようになり、言語分布は拡大したが、漢人に比較すると人口の絶対数がきわめて少なかったので、満洲族の文化は漢化し、言語も漢語を話すようになり、満洲語はしだいに使わなくなっていった<ref name="ikegami157">[[#池上|池上(1989)pp.157-159]]</ref><ref name="go226">[[#語|ブリタニカ小項目事典6「満州語」(1974)p.226]]</ref><ref name="ramsay274">[[#ラムゼイ|ラムゼイ (1990)]] p. 274</ref>。満洲語使用は、すでに清朝中期の隆盛期には衰微の兆候を示していたという<ref name="ikegami157" />。現代、満洲語は中国東北部のごく一部でしか話されなくなっている<ref name="linga" />{{refnest|group="注釈"|[[嫩江]]沿岸やアイグン([[黒竜江省]][[黒河市]])周辺などの少数の集落では、満洲語が口頭語として用いられている<ref name="ogihara132">[[#荻原|荻原(1989)pp.132-133]]</ref>。}}。なお、乾隆年間中期に[[イリ地方]]へ移住した[[シベ族]]の末裔は今日でも満洲語を話している<ref name="linga" /><ref name="go226" />。これを'''[[シベ語]]'''といい、シベ語('''シベ文字''')の[[新聞]]や[[本|書籍]]も発行されている<ref name="linga" />。 満洲[[文語]]の資料には、『[[満文老檔]]』をはじめとする記録類<ref name="routou">{{kotobank|満文老檔}}</ref>、満洲・モンゴル・漢・[[チベット民族|チベット]]・[[ウイグル]]5族の言語を対照させた『{{仮リンク|御製五体清文鑑|zh|御製五體清文鑑}}』などの辞書類、『[[仏典|大蔵経]]』、漢文古典その他大量の翻訳文献などがある<ref name="go226" />{{refnest|group="注釈"|『満文老檔』文献の題名であり、内藤の命名による<ref name="routou" />。}}。また、文語資料にはあたらないが17世紀の日本[[越前国]]の船乗りが漂流した際の記録、『[[韃靼漂流記]](異国物語)』には当時の満洲語が[[仮名 (文字)|仮名文字]]で収録されている<ref name="go226" />。満洲語についての情報の大半はこの種の文書記録から得られたものであり、この文語の基盤となった南部方言の直接的な記録は乏しい。満洲語について近代的な記録が行われ始めた19世紀には、満洲語はほとんど少数の知識人や官吏に依って用いられる人工的に整えられた形体となっており、西洋人による構造や文法についての記録が高い一貫性を持つ一方で、発音についての記録はしばしば混乱している<ref name="ramsay276">[[#ラムゼイ|ラムゼイ (1990)]] p. 276</ref>。 満洲文字に先立つ[[女真文字]]については、[[金石文]]の発見や[[辞典|辞書]]に収録されたにおける<ref name="umemura464">[[#梅村|梅村(2008)pp.464-465]]</ref>。{{仮リンク|完顔希尹|zh|完顏希尹}}や完顔葉魯(耶魯)らによって[[1119年]]に創成された女真大字は表意文字、[[1138年]]に金の第3代皇帝[[熙宗 (金)|熙宗]]が制定し、[[1145年]]に公布したと記される女真小字は表音文字であった<ref name="umemura465">[[#梅村|梅村(2008)pp.465-469]]</ref>。大字のみで表記、小字のみで表記、という三様の表記法があった<ref name="umemura465" />。[[女真語]]は満洲語に近い言語だとみられる<ref name="go226" />。両者は姉妹語関係にあったというよりは、むしろ[[方言]]的関係にあって、女真語は広義の満洲語のなかに没していったものと考えられる<ref name="umemura464" />。 [[満洲文字]]は、左から縦書きで右に改行する<ref name="ishibashi38" />。ホンタイジが、ギョルチャ氏の満洲旗人に命じて改良させた<ref name="ishibashi38" /><ref>[[#文字|ブリタニカ小項目事典6「満洲文字」(1974)p.226]]</ref>{{refnest|group="注釈"|無圏点文字と有圏点文字は明瞭に区別され、満洲文[[史料]]の年代を検討する際の重要な指標のひとつとなっている<ref name="ishibashi38" />。}}。[[新疆ウイグル自治区]]に在住するシベ族は、満洲文字を改良したシベ文字を使用している<ref name="ishibashi38" />。 === 宗教 === [[ファイル:MYK-1-三仙女浴布勒瑚里泊.png|170px|right|thumb|水浴びをする三仙女(『満洲実録』)]] 自然崇拝においては、火神・星神および神山・神石を尊崇し、とりわけ星神に対する信仰は最も普遍的なものであった<ref name="riryu181">[[#李劉2|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.181-182]]</ref>。『吉林通志』にも「祭祀典礼は、満洲の最も重んずるは、一に祭星、二に祭祖」とある<ref name="riryu181" />。星神とは、具体的には[[北斗七星]]であり、満洲語では「{{ManchuSibeUnicode|ᠨᠠᡩ᠋ᠠᠨ<br>ᡠᠰᡳᡥᠠ}}, nadan usiha, ナダン(七つ)ウシハ(星)」と称する<ref name="riryu181" />。記録によれば、満洲族の祭星は、多くは月が沈む後に行う背灯祭で、そこでは灯火がかき消され静寂のなかで執り行われ、通常は[[占い|占卜]]や祟り祓い、病祓いなどの巫術と結びついた除災の祭りである<ref name="riryu181" />。満洲族に近い、同じツングース系のホジェン族{{refnest|group="注釈"|赫哲族、ロシアでは「[[ナナイ]]」と称する。}}もまた、七星を除災の神とみなし、「吉星神」と呼称する<ref name="riryu181" />。満洲族の七星神は、のちに祭礼が固定的なものに整備されていき、それにともない人格神化していった<ref name="riryu181" />。 [[ファイル:沈阳故宫.JPG|170px|right|thumb|[[瀋陽故宮]](旧、奉天行宮)の神杆(神鳥の止まり木)]] 満洲族は鳥・鵲([[カササギ]])・[[イヌ]]を崇拝した<ref name="riryu182">[[#李劉2|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.182-184]]</ref>。鳥・鵲の崇拝は満洲族のシャーマニズム信仰の古層をなしており、[[白頭山|長白山]]で水浴びをしていた[[天女]](三仙女の末娘)フォクレン(仏庫倫)が神鵲がくわえてきた朱果を食して感精し、満洲の始祖の{{仮リンク|ブクリヨンション|zh|布庫里雍順}}(布庫里雍順、愛新覚羅氏)を産んだという[[伝説]]がのこる<ref name="riryu182" />。『満洲実録』でも鳥や鵲に関するいくつかの伝承が記述されており、同著の満文本では満洲人の後裔はカササギを祖としたことを伝えている<ref name="riryu182" />。また、ヘトゥアラに抑留されていた朝鮮人[[李民煥]]の著述した『建州聞見録』では、建州女真がイヌを自分たちの祖先と見なしていて、イヌを殺したり食べたり、イヌ皮を使用することを決して許さないという[[風俗|習俗]]をもっていたことにふれている<ref name="riryu182" />。こうした習俗は、清朝を通じて変わらなかった<ref name="riryu182" />。 満洲族は元来、自身を地上に降臨した天上界に住む神々の子孫であると信じ、自身の[[氏神]]を中心として団結した<ref name="mitamura197" />。[[トラ|虎]]神、人面[[ヒョウ|豹]]身の神、大鳥神(人面怪鳥の神)、突忽到瑪法([[海獣]]の形象から変化した神)、[[シカ|鹿]]神などは、満洲の各氏族における保護神や[[祖神]]などとして崇められた<ref name="riryu182" />。彼らは森林地帯での狩猟や採集に際して、しばしば各種の猛獣の襲撃に直面し、予期せぬ災禍や不幸に見舞われ、あるいは[[漁撈]]に際しても数々の危険や事故に遭遇し、自分たちの無力さを悟ることも多かったと考えられる<ref name="riryu182" />。そこで鳥獣を神格化して祭祀し、その勇気や能力を借りて災厄を逃れようと願ったところから動物崇拝が始まったのだろうと推測される<ref name="riryu182" />。ここにおいてシャーマンが[[憑依]]して、たとえば、虎の各種の動作を真似て病人に災いをなす妖魔を威嚇することにより、[[病気]]が治癒されるものと信じられた<ref name="riryu182" />。鹿神は、ウジャラ(烏扎拉)氏が鹿の角を採取する際に祭った神であったが、ここではシャーマンが帽子の上に一対の鹿の角を挿し、鹿神に憑依するものとされた<ref name="riryu182" />。 女真族(満洲族)は、[[仏教]]、とりわけモンゴル族の影響で[[チベット仏教]]になじんでいき、漢民族との交流を通じて彼らの[[民間信仰]]、とくに[[道教]]からの影響も受けていった<ref name="kotobank" /><ref name="riryu184">[[#李劉2|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.184-185]]</ref>。1616年の後金建国の際、ヌルハチはヘトゥアラ城東の山上に[[仏教寺院]]、玉皇廟、十王殿などを建設して、これを「七大廟」と称した<ref name="riryu184" />。[[関帝]]([[関羽]])、仏祖([[釈迦]])、[[観音菩薩|観世音菩薩]]はしだいにシャーマニズムの[[神祇]]の列に加えられ、清朝宮廷や一般満洲族から尊崇されるようになり、満洲古来の神々よりも篤い崇拝を受けた<ref name="riryu184" />。 [[1626年]]、ホンタイジが即位した直後の儀礼では、最後に支配領域における弓の達人らに弓を射させる「射柳の儀式」が執行されたが、これは金時代の女真がシャーマニズムの拝天の祭儀に付属して行った儀式を継承したものであった<ref name="ishibashi31">[[#石橋|石橋(2000)pp.31-40]]</ref>。北京の[[紫禁城]]内廷の坤寧宮、[[奉天市|盛京]](現在の[[瀋陽市|瀋陽]])の[[瀋陽故宮|奉天行宮]]の清寧宮は、ともに、中国皇帝を兼ねる満洲族のハーンが、シャーマンの祭祀を行った祭神殿として独特の設計が施されており、その入り口の南には神杆(しんかん)、すなわち神鳥の止まり木が建てられていた<ref name="ishibashi31" />。坤寧宮では[[元日|元旦]]行礼などの特別な祭祀のほか、常祭である朝・夕の祭りが毎日行われ、ブタが生贄として供えられた<ref name="ishibashi31" />。また、神々の前で「薩満太々(サマンタイタイ)」と称される[[巫女]]が満洲語の神歌を唱え、跳ね回ったという<ref name="ishibashi31" />。シャーマニズムの伝統は、満洲族が中国内地の支配的地位に立ってからも温存されたのであった。 === 神話・伝承 === 『満文老檔』[[天命 (後金)|天命]]6年([[1621年]])条や満文『内国史院檔』天聡8年([[1634年]])条には、当時の女真族(満洲族)が[[日食]]や[[月食]]という[[天文現象]]を「天界の犬が[[太陽]]・[[月]]を食べること」であると考えていたことを示唆する記述が収載されており、こうした伝承は他のツングース系の諸民族や[[朝鮮民族]]、[[チュルク系民族]]、また、[[古シベリア諸語|パレオアジア語系]]とみられる[[ニヴフ]](ギリヤーク)にもみられる<ref name="masui">[[#増井|増井]]{{要ページ番号|date=2023-03}}</ref>。 また、これに似た[[説話]]として、イチェ・マンジュ(伊徹満洲 {{Lang|la|ice manju}}/ 新満洲)人の伝承として、1.背後に敵軍が迫り、2.行く手を大河が遮り滅亡の危機を迎えるが、3.大河に魚の浮き橋ができて難を逃れ、4.滅亡を免れる(新天地へ移住する)という4つの[[モチーフ (物語)|モチーフ]]をともなう説話も伝わっている<ref name="masui" />。この4モチーフは、夫余・高句麗の開国説話([[東明王]]・[[東明聖王|朱蒙]]伝説)にも共通し、[[オロチョン族]]や[[ナナイ|ナナイ族]]などツングース系民族の説話にもみられる<ref name="masui" />{{refnest|group="注釈"|浮き橋のモチーフは、説話によっては、魚ではなく[[カメ]]によってつくられる場合もある<ref name="masui" />。}}。 === 歌舞と武術 === [[ファイル:Hyouki-zu.jpg|350px|right|thumb|金昆・程志道・福隆安「氷嬉図」(『清代宮廷生活』より ---- 厳寒期の北京でスケートをしながら矢を射る技を披露する八旗軍人 ]] 満洲族は、[[舞|歌舞]]に長けた民族として知られており、そこには鮮やかな民族的個性と独特の品格がみられる<ref name="riryu185">[[#李劉2|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.185-187]]</ref>。満洲族のなかで最もさかんに行われたのは、莽勢舞(莽式舞)と称する歌舞で、別名を「空斉」といった<ref name="riryu185" />。莽勢舞は、集団のなかの1人が歌い、他の衆は「空斉」を以てこれに和し、正月や祝祭日に男女が相対して舞うというものであった<ref name="riryu185" />。この舞には「九折十八式」と称される、漁撈・狩猟・騎射などの生活を反映した9つの舞のかたち、身体部位を用いた18の所作があったと伝わっている<ref name="riryu185" />。清朝の北京入城後は宮廷に取り入れられて大規模化し、[[慶隆舞]]へと発展した<ref name="riryu185" />。慶隆舞は、揚列舞(武舞)と喜起舞(文舞)の二部で構成された<ref name="riryu185" />。 習武に関しては、満洲族は古来[[騎兵|騎馬]]・射猟を得意とし、清朝建国後はこれを満洲の根本とみなして狩猟や軍事に活用するのみならず、[[競技]]化した<ref name="riryu187">[[#李劉2|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.187-191]]</ref>。ヌルハチは、その趣味が弓の試合であり、すぐれた射手と技を競って負けなかったという弓の名手であったし、ホンタイジも飛翔する一羽の鳥をただの一矢で射落とすほどの腕前であった<ref name="riryu187" />。競技種目としては歩射と騎射があり、[[弓術]]は、近代に至るまで満洲民族の伝統として受け継がれた<ref name="riryu187" />。 [[スケート]]も満洲族が得意とする[[スポーツ]]で、これまた初期の生業や軍事活動と結びついていた<ref name="riryu187" />。冬季における酷寒の東北部では[[川|河川]]や[[湖沼]]が凍結して天然の[[スケートリンク]]となった<ref name="riryu187" />。スケートはスポーツであると同時に軍事訓練でもあり、乾隆帝はこれを「国俗」と称した<ref name="riryu187" />。氷上で行われた競技としては他に、王などのリーダーが侍衛を率いて鞠([[ボール]])を蹴りながら氷上を走り、次いで諸貴族・官員の妻女たちが氷上で競争し、先に終点に着いたものを勝ちとする「踢行頭」などがあった<ref name="riryu187" />。 満洲人たちはまた、[[相撲]](角觝)をことのほか愛好し、それは満洲語で「布庫(プク)」と称された<ref name="riryu187" />。すでに入関前の[[宮殿|宮廷]]で弓試合や[[宴会]]の際に、相撲の実演が催されている<ref name="riryu187" />。ホンタイジの時代にモンゴルとの関係が深まると、[[朝貢]]に訪れたモンゴル族の[[力士]]たちはしばしば宮廷内で技を披露し、満洲族の力士と勝負した<ref name="riryu187" />。幼くして帝位に就き、権臣[[オボイ]]の専横に苦しんだ[[康熙帝]]は若年の際、相撲好きと称して旗人より強壮な少年たちを選抜して密かに[[親衛隊]]をつくり、日々これを鍛錬させて、機が熟したときにオボイを逮捕、その腹心たちを一網打尽にして[[親政]]を開始したという[[逸話]]をもっている<ref name="okada213" /><ref name="riryu187" />。 == 満洲族出身の著名人 == {{col-begin}} {{col-break}} * [[愛新覚羅溥儀|溥儀(愛新覚羅氏)]] * [[愛新覚羅溥傑|溥傑(愛新覚羅氏)]] * [[愛新覚羅慧生|慧生(愛新覚羅氏)]] * [[愛新覚羅顕琦|顕琦(愛新覚羅氏)]] * [[婉容]] - ゴブロ氏([[郭布羅氏]])出身。 * [[ヘシェン]] - 清朝の政治家。ニョフル氏(鈕祜禄氏)出身 * [[西太后]] - [[同治帝]]の母。イェヘナラ氏([[葉赫那拉氏]])出身 * [[崇厚]] - 清朝の官僚。ワンギャ氏([[完顔氏]])出身 * [[川島芳子]](顯㺭) - アイシンギョロ氏(愛新覚羅氏)出身 * [[老舎]] - 中国の作家、「人民芸術家」とも称される。 * [[常書鴻]] - 画家。イルゲンギョロ氏(伊爾根覚羅氏)出身 {{col-break}} * [[英若誠]] - ヘシェリ氏({{仮リンク|赫舎里氏|zh|赫舍里氏}})出身。中国の俳優。映画『[[ラストエンペラー]]』で収容所所長を演じ、音訳でイン・ルオ・チェンとも表記される。 * {{仮リンク|英達|zh|英达}} - 中国の俳優・演出家。英若誠の息子 * [[郎雄]] - 俳優 * [[ラン・ラン|郎朗]] - 中国のピアニスト * [[那英]] - 中国の歌手 * [[佟健]] - 中国のフィギュアスケート選手 * [[關之琳|關之琳(ロザムンド・クワン)]] - グワルギャ氏({{仮リンク|瓜爾佳氏|zh|瓜尔佳氏}})出身。[[イギリス領香港]]→中国・香港の女優。 * [[金大偉]] - ミュージシャン、作曲家、映像作家、演出家、[[インスタレーション]]作家、画家。[[日本人|日]]満混血。映画『ロスト マンチュリア サマン』({{ManchuSibeUnicode|ᠠᡴᡡ<br>ᠣᡥᠣ<br>ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ<br>ᠰᠠᠮᠠᠨ}}, {{Lang|la|akū oho manju saman}})の監督 * {{仮リンク|南仁東|zh|南仁东}} - 中国の科学者。[[500メートル球面電波望遠鏡]]の開発者<ref>{{cite web|url=http://www.most.gov.cn/tztg/201705/W020170516443986711308.doc|title =全国創新争先奨章擬表彰名単|publisher= [[中華人民共和国科学技術部]]|accessdate=2018-03-18}}</ref>。 * [[呉京 (俳優)|呉京]] - 中国の俳優 * [[李文亮]] - 中国の医師 {{col-end}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈|2}} === 出典 === {{reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor1=愛新覚羅顕琦|editor1-link=愛新覚羅顕琦|editor2=江守五夫|editor2-link=江守五夫|year=1996|month=4|title=満族の家族と社会|publisher=[[第一書房]]|isbn=4-8042-0105-X}} ** {{Citation|和書|author=烏丙安|translator=韓敏|year=1996|chapter=第1部第1章 満族発祥の揺籃の地|title=満族の家族と社会|publisher=第一書房|ref=烏}} ** {{Citation|和書|author1=李鴻彬|author2=劉小萌|translator=柳沢明|year=1996|chapter=第2部第1章 女真(満族)のハラとムクン|title=満族の家族と社会|publisher=第一書房|ref=李劉1}} ** {{Citation|和書|author1=李鴻彬|author2=劉小萌|translator=柳沢明|year=1996|chapter=第2部第2章 満族の社会習俗|title=満族の家族と社会|publisher=第一書房|ref=李劉2}} * {{Cite book|和書|author=石橋崇雄|authorlink=石橋崇雄|year=2000|month=1|title=大清帝国|publisher=[[講談社]]|series=講談社選書メチエ|isbn=4-06-258174-4|ref=石橋}} * {{Cite book|和書|translator=今西春秋|year=1992|month=3|title=満和蒙和対訳満洲実録|publisher=[[刀水書房]]|isbn=978-4887081321|ref=満洲実録}} * {{Citation|和書|author=梅村坦|authorlink=梅村坦|year=2008|month=6|chapter=第2部 中央ユーラシアのエネルギー|title=世界の歴史7 宋と中央ユーラシア|publisher=[[中央公論新社]]|series=中公文庫|isbn=978-4-12-204997-0|ref=梅村}} * {{Cite book|和書|editor=岡田英弘|editor1-link=岡田英弘|year=2009|month=5|title=清朝とは何か|publisher=[[藤原書店]]|series=別冊環16|isbn=978-4894346826|ref=岡田編}} * {{Cite book|和書|author1=岡田英弘|author2=神田信夫|author3=松村潤|year=2006|month=5|title=紫禁城の栄光|publisher=講談社|series=[[講談社学術文庫]]|isbn=4-06-159784-1}} ** {{Citation|和書|author=松村潤|authorlink=松村潤|year=2006|chapter=第7章 大元伝国の璽|title=紫禁城の栄光|publisher=講談社|ref=松村}} ** {{Citation|和書|author=神田信夫|authorlink=神田信夫|chapter=第9章 国性爺合戦|year=2006|title=紫禁城の栄光|publisher=講談社|ref=神田2}} ** {{Citation|和書|author=岡田英弘|year=2006|chapter=第10章 康熙大帝|title=紫禁城の栄光|publisher=講談社|ref=岡田}} * {{Cite book|和書|author1=岸本美緒|authorlink1=岸本美緒|author2=宮嶋博史|authorlink2=宮嶋博史|year=2008|month=9|title=世界の歴史12 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|pages=1-34 |doi=10.34382/00006190 |naid=120006733512 |CRID=1390009224894409088 |ref=増井}} == 関連項目 == * [[満漢全席]] == 登場作品 == * [[韃靼疾風録]] - [[明清交替|明から清への興亡]]を、[[平戸藩]]出身の桂庄助の目を通し描いた[[司馬遼太郎]]の小説。 {{Commonscat|Manchu_people}} == 外部リンク == * [http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/manzu/01.htm 満州族](朝鮮族ネット){{Ja icon}} {{ツングース系民族}} {{中華民族}} {{Normdaten}} {{Good article}} {{デフォルトソート:まんしゆうみんそく}} [[Category:満洲民族|*]] [[Category:中国の民族]]
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選択ソート
選択ソート(英: selection sort)は、ソートのアルゴリズムの一つ。 配列から最小値を探し、配列の先頭要素と入れ替えていくことで並べ替える。 最良時間計算量は O(n) と遅いため、一般にはクイックソートなどのより高速な方法が利用される。しかし、空間計算量が限られるため他の高速な手法が使えない場合や、ソートする配列が充分小さく、選択ソートが高速に動作することが保証されている場合に利用されることがある。 選択ソートは内部ソートである。また、安定ソートではない。 選択ソートの改良として、ヒープソートが挙げられる。 選択ソートは以下の手順で行う: 上記は昇順への並べ替えだが、降順の場合も同様に、最小値でなく最大値を検索することで実現できる。 また、各ループ毎に最小値と最大値との両方を探し、両端の要素を同時に確定させる手法もあり、double selection sortと呼ばれる。 初期データ: 8 4 3 7 6 5 2 1 太字はソート完了した部分 以下、ソートする配列の要素数を n とする。 要素の比較に関して、各ループで n − 1 回、n − 2 回、......と行われ、処理全体としては ∑ k = 1 n − 1 k = n ( n − 1 ) 2 {\displaystyle \sum _{k=1}^{n-1}k={\frac {n(n-1)}{2}}} 回行われる。 要素の交換に関して、各ループで最大1回行われ、処理全体では多くとも n − 1 回となる。 バブルソートと比較すると、要素の比較回数は同じだが交換回数が少ないため、選択ソートの方が高速である。 選択ソートは安定ソートではなく、複数の同値の要素を持つ配列に対して、同値の要素同士の順序は保存されない。 例えば配列 (2a 2b 1) に対して選択ソートを行うと、 となる(2a, 2b は同値とする)。ソートの前後で 2a, 2bの順序が変更されており、安定でないことが確かめられる。 Python での実装例を示す。 In-place 版の実装は以下の通り。 非 in-place 版は上記に配列のコピーを渡すことで実現できるが、例えば以下のように直接実装することもできる。 C# での実装は以下の通り。 Scheme での実装を以下に示す。
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選択ソートは、ソートのアルゴリズムの一つ。 配列から最小値を探し、配列の先頭要素と入れ替えていくことで並べ替える。 最良時間計算量は O(n2) と遅いため、一般にはクイックソートなどのより高速な方法が利用される。しかし、空間計算量が限られるため他の高速な手法が使えない場合や、ソートする配列が充分小さく、選択ソートが高速に動作することが保証されている場合に利用されることがある。 選択ソートは内部ソートである。また、安定ソートではない。 選択ソートの改良として、ヒープソートが挙げられる。
{{Infobox algorithm |class=[[ソート]] |image=[[Image:Selection sort animation.gif|none|288px|Selection Sort Animation]] |data=[[配列]] |time=''О(n²)'' |best-time=''О(n²)'' |average-time=''О(n²)'' |space=''О(n)'' total, ''O(1)'' auxiliary |optimal=No }} '''選択ソート'''({{lang-en-short|selection sort}})は、[[ソート]]の[[アルゴリズム]]の一つ。 [[配列]]から[[最小値]]を探し、配列の先頭要素と入れ替えていくことで並べ替える。 [[計算複雑性|最良時間計算量]]は {{math|[[ランダウの記号|O]](''n''<sup>2</sup>)}} と遅いため、一般には[[クイックソート]]などのより高速な方法が利用される。しかし、空間計算量が限られるため他の高速な手法が使えない場合や、ソートする配列が充分小さく、選択ソートが高速に動作することが保証されている場合に利用されることがある。 選択ソートは内部ソートである。また、[[安定ソート]]ではない。 選択ソートの改良として、[[ヒープソート]]が挙げられる。 ==アルゴリズム== [[File:Selection-Sort-Animation.gif|thumb|Selection-Sort-Animation]] 選択ソートは以下の手順で行う: # 1 番目の要素から最後尾の要素までで最も値の小さいものを探し、それを 1 番目の要素と交換する(1番目の要素までソート済みとなる) # 以降同様に、未ソート部分の最小要素を探索し、未ソート部分の先頭要素と交換する # すべての要素がソート済みになったら処理を終了する 上記は[[昇順]]への並べ替えだが、[[降順]]の場合も同様に、最小値でなく最大値を検索することで実現できる。 また、各ループ毎に最小値と最大値との両方を探し、両端の要素を同時に確定させる手法もあり、'''{{en|double selection sort}}'''と呼ばれる。 === 擬似コード === <syntaxhighlight lang="text"> for I := 1 to N min := I for J := I+1 to N if data[J] < data[min] then min := J end if end for swap(data[I], data[min]) end for </syntaxhighlight> ===動作例=== 初期データ: 8 4 3 7 6 5 2 1  太字はソート完了した部分 : '''1''' 4 3 7 6 5 2 8 (1回目のループ終了時) : '''1 2''' 3 7 6 5 4 8 (2回目のループ終了時) : '''1 2 3''' 7 6 5 4 8 (3回目のループ終了時) : '''1 2 3 4''' 6 5 7 8 (4回目のループ終了時) : '''1 2 3 4 5''' 6 7 8 (5回目のループ終了時) ::この例では、一見して、この時点で既にソート完了したとわかる。しかしデータが多数の場合はそうはいかないし、アルゴリズムで「一見して」ソート完了か否か判断できない。アルゴリズム通りに最後まで処理する必要がある。 : '''1 2 3 4 5 6''' 7 8 (6回目のループ終了時) : '''1 2 3 4 5 6 7 8''' (7回目のループ終了時) ==計算時間== 以下、ソートする配列の要素数を {{mvar|n}} とする。 要素の比較に関して、各ループで {{math|''n'' &minus; 1}} 回、{{math|''n'' &minus; 2}} 回、……と行われ、処理全体としては <math>\sum_{k=1}^{n - 1} k = \frac{n(n - 1)}{2}</math> 回行われる。 要素の交換に関して、各ループで最大1回行われ、処理全体では多くとも {{math|''n'' &minus; 1}} 回となる。 [[バブルソート]]と比較すると、要素の比較回数は同じだが交換回数が少ないため、選択ソートの方が高速である。 ==安定性== 選択ソートは[[安定ソート]]ではなく、複数の同値の要素を持つ配列に対して、同値の要素同士の順序は保存されない。 例えば配列 (2a 2b 1) に対して選択ソートを行うと、 : 2a 2b 1 (初期状態) : '''1''' 2b 2a (1回目のループ終了時) : '''1 2b''' 2a (2回目のループ終了時) : '''1 2b 2a''' (終了状態) となる(2a, 2b は同値とする)。ソートの前後で 2a, 2bの順序が変更されており、安定でないことが確かめられる。 == 実装 == === Python === [[Python]] での実装例を示す。 [[In-placeアルゴリズム|In-place]] 版の実装は以下の通り。 <syntaxhighlight lang="python"> def minIndex(x, i): mi = i for j in range(i + 1, len(x)): if x[j] < x[mi]: mi = j return mi def swap(x, i, j): x[i], x[j] = x[j], x[i] def inplaceSelectionSort(seq): for i in range(len(seq)): mi = minIndex(seq, i) swap(seq, i, mi) </syntaxhighlight> 非 in-place 版は上記に配列のコピーを渡すことで実現できるが、例えば以下のように直接実装することもできる。 <syntaxhighlight lang="python"> def nonInplaceSelectionSort(seq): ind = [*range(len(seq))] res = [] for i in range(len(seq)): k = 0 for j in range(len(ind)): if seq[ind[j]] < seq[ind[k]]: k = j res.append(ind.pop(k)) return [seq[i] for i in res] </syntaxhighlight> === C# === [[C Sharp|C#]] での実装は以下の通り。 <syntaxhighlight lang="csharp"> namespace Algorithms { class SelectionSort { static void sort(int[] x) { for(int i = 0; i < x.Length; i++) { int min = i; for(int j = i + 1; j < x.Length; j++) { if(x[j] < x[min]) { min = j; } } int t = x[i]; x[i] = x[min]; x[min] = t; } } } } </syntaxhighlight> ===Scheme=== [[Scheme]] での実装を以下に示す。 <syntaxhighlight lang="scheme"> (require-extension srfi-1) ; 実装依存。SRFI-1 と言うライブラリを用いる。 (define (selection-sort ls) (let loop ((ls ls) (acc '())) (if (null? ls) (reverse acc) (let ((x (apply min ls))) (loop (remove (lambda (y) (= y x)) ls) (cons x acc)))))) </syntaxhighlight> {{ソート}} [[Category:ソート|せんたくそおと]]
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石津彩
石津 彩(いしづ あや、1972年2月22日 - )は、日本の女優、声優。テアトル・エコー所属。東京都出身。 小さい頃から学芸会などたくさんの人物の前に立って何かに表現することが好きで、小学校時代から高校時代まで演劇部で活動していた。 女子美術大学附属高等学校で油絵、水彩等絵画を学ぶ。当時は美術を専攻していたが、結果として本当にやりたかった演劇の道を選ぶ。家族も皆「ほんとうにやりたいのなら」と希望を認めてくれて応援してくれたという。「本格的に演劇をやりたい」と思い始めた時、親しい人物に相談していたところ、その人物から「きちんと劇団の養成所に入って演技の勉強をした方が良い」というアドバイスをくれたという。親切に色々な劇団を紹介してくれたが、そのうちの一つがテアトル・エコーであり、劇団員の募集に応募していたという。元々「喜劇をやりたい」という気持ちもあったため、方向性と劇団のイメージがぴったり合ったというのがテアトル・エコーを目指すきっかけになったという。同美術大学附属高等学校卒業後にテアトル・エコー付属養成所(16期生)に入り、後にテアトル・エコー所属となる。 初舞台は外部の劇団の芝居で、養成所の講師から誘われたのがきっかけで面接で決まったという。 父は作家の磐紀一郎、近所に漫画家のすがやみつるが住んでいたことから、すがやとは幼少時から交流がある。 趣味は食玩コレクション、ぴちょんくんコレクション。特技は初段、ヘアメイク。 太字はメインキャラクター。 1995年 1996年 1998年 2000年 2001年 2002年 2003年 2004年 2008年 1992年 1996年 1996年 2003年 2005年 2006年
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石津 彩は、日本の女優、声優。テアトル・エコー所属。東京都出身。
{{存命人物の出典明記|date=2017-09-07}} {{声優 | 名前 = 石津 彩 | ふりがな = いしづ あや | 画像ファイル = | 画像サイズ = | 画像コメント = | 本名 = 同じ<ref>{{Cite book|和書|author=|title=日本タレント名鑑(2015年版)|page=450|publisher=VIPタイムズ社 |isbn=978-4-904674-06-2|date=2015-01-28}}</ref> | 愛称 = | 性別 = [[女性]] | 出生地 = | 出身地 = {{JPN}}・[[東京都]]<ref name="t-echo.co">{{Cite web|和書|date=|url=https://houei.t-echo.co.jp/?page_id=2753|title=石津彩|publisher=テアトル・エコー|accessdate=2021-03-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211121041848/https://houei.t-echo.co.jp/?page_id=2753l|archivedate=2021-11-21}}</ref> | 死没地 = | 生年 = 1972 | 生月 = 2 | 生日 = 22 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 血液型 = [[ABO式血液型|B型]]<ref name="archive">{{Cite web|和書|date=|url=http://www.t-echo.co.jp/renmei/actress/ishizu.html|title=石津彩|publisher=テアトル・エコー|accessdate=2021-03-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160825151608/http://www.t-echo.co.jp/renmei/actress/ishizu.html|archivedate=2016-08-25}}</ref> | 身長 = 153 [[センチメートル|cm]]{{R|t-echo.co}} | 職業 = [[俳優|女優]]、[[声優]] | 事務所 = [[テアトル・エコー]]{{R|t-echo.co}} | 配偶者 = | 著名な家族 = [[磐紀一郎|石津嵐]](実父) | 公式サイト = | 活動期間 = [[1992年]] - | デビュー作 = }} '''石津 彩'''(いしづ あや、[[1972年]][[2月22日]]<ref> 『日本音声製作者名鑑2007』、147頁、[[小学館]]、2007年、ISBN 978-4095263021</ref> - )は、[[日本]]の[[俳優|女優]]、[[声優]]。[[テアトル・エコー]]所属{{R|t-echo.co}}。[[東京都]]出身{{R|t-echo.co}}。 == 略歴 == 小さい頃から学芸会などたくさんの人物の前に立って何かに表現することが好きで、小学校時代から高校時代まで演劇部で活動していた<ref name="劇団">{{Cite book|和書|editor= |title=知りたい!なりたい!職業ガイド 劇団にかかわる仕事|pages=40-47|publisher=[[ほるぷ出版]]|chapter= 劇団員にもとめられること 石津彩さん(テアトル・エコー 演技部劇団員)|isbn=978-4-593-57230-4|year=2010}}</ref>。 [[女子美術大学付属高等学校・中学校|女子美術大学附属高等学校]]で油絵、水彩等絵画を学ぶ{{R|archive}}。当時は美術を専攻していたが、結果として本当にやりたかった演劇の道を選ぶ{{R|劇団}}。家族も皆「ほんとうにやりたいのなら」と希望を認めてくれて応援してくれたという{{R|劇団}}。「本格的に演劇をやりたい」と思い始めた時、親しい人物に相談していたところ、その人物から「きちんと劇団の養成所に入って演技の勉強をした方が良い」というアドバイスをくれたという{{R|劇団}}。親切に色々な劇団を紹介してくれたが、そのうちの一つがテアトル・エコーであり、劇団員の募集に応募していたという{{R|劇団}}。元々「喜劇をやりたい」という気持ちもあったため、方向性と劇団のイメージがぴったり合ったというのがテアトル・エコーを目指すきっかけになったという{{R|劇団}}。同美術大学附属高等学校卒業後にテアトル・エコー付属養成所(16期生)に入り、後にテアトル・エコー所属となる{{R|archive}}。 初舞台は外部の劇団の芝居で、養成所の講師から誘われたのがきっかけで面接で決まったという{{R|劇団}}。 == 人物 == 父は作家の[[磐紀一郎]]、近所に漫画家の[[すがやみつる]]が住んでいたことから、すがやとは幼少時から交流がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.m-sugaya.jp/blog/archives/000139.html|title=すがやみつるの雑記帳:石津嵐生誕記念パーティー|author=すがやみつる|date=2004-12-25|accessdate=2017-09-07}}</ref>。 趣味は食玩コレクション、ぴちょんくんコレクション{{R|archive}}。特技は初段、ヘアメイク{{R|archive}}。 == 出演 == '''太字'''はメインキャラクター。 === テレビアニメ === '''1995年''' * [[ぼのぼの (1995年のテレビアニメ)|ぼのぼの]](コヒグマくん、コクジラくん) * [[ロミオの青い空]](ニキータ) '''1996年''' * [[魔法少女プリティサミー]](美由紀〈ミセス・ワン〉) '''1998年''' * [[MASTERキートン]](アベック〈女〉) '''2000年''' * [[ワイルドアームズ トワイライトヴェノム]](ジュリエッタ) '''2001年''' * [[GALS!|超GALS! 寿蘭]](本多マミ) '''2002年''' * [[十二国記]](杉本優香、幼少の六太) '''2003年''' * [[鋼の錬金術師 (アニメ)|鋼の錬金術師]](バリー〈女装〉) '''2004年''' * [[MONSTER (漫画)|MONSTER]](ルンゲの娘) '''2008年''' * [[秘密 -トップ・シークレット-#テレビアニメ|秘密 〜The Revelation〜]](浅見さち絵) === OVA === '''1992年''' * [[世界の光 親鸞聖人]](鈴虫) '''1996年''' * [[同級生2]](水野友美) === 劇場アニメ === '''1996年''' * [[APO APOワールド ジャイアント馬場90分一本勝負]](女の子) === ゲーム === '''2003年''' * [[十二国記 -紅蓮の標 黄塵の路-]](杉本優香) '''2005年''' * [[うるるんクエスト恋遊記]]('''朱華''') '''2006年''' * [[ラスト・エスコート|ラスト・エスコート〜深夜の黒蝶物語〜]](西園寺絢子) * ラスト・エスコート〜黒蝶スペシャルナイト〜(西園寺絢子) === ドラマCD === * [[クラッシャーズ Knight&Ran|クラッシャーズ Knight&Ran II 〜海に眠る夢〜]](2000年、水原孝) === 吹き替え === ==== 担当女優 ==== {{dl2 | [[レスリー・マン]] | * [[フィリップ、きみを愛してる!]]('''デビー・ラッセル''') * [[ブルー 初めての空へ]]('''リンダ''') * ブルー2 トロピカル・アドベンチャー(リンダ) }} ==== 映画 ==== * [[アナコンダ3]] * [[オーシャンズ11]] - フジテレビ版 * [[オフロでGO!!!!! タイムマシンはジェット式]] * [[ガリバー旅行記 (2010年の映画)|ガリバー旅行記]] * [[パブリック・エネミーズ]]('''ビリー・フレシェット'''〈[[マリオン・コティヤール]]〉) ==== ドラマ ==== * [[ER緊急救命室|ER XI 緊急救命室]] #7(トリナ〈[[アレクサンドラ・クロスニー]]〉) * ER XIV 緊急救命室 #8(マーカス・ファネカ〈[[ディラン・マクラフリン]]〉) * [[エイリアス (テレビドラマ)|エイリアス]](ルネ・リエンヌ〈[[エロディ・ブシェーズ]]〉) * [[NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班]] * [[新ビバリーヒルズ青春白書]] * [[パワーレンジャー|パワーレンジャーシリーズ]] ** [[マイティ・モーフィン・パワーレンジャー|パワーレンジャー]](シルビア) * [[アガサ・クリスティー ミス・マープル|ミス・マープル2 動く指]](ジョアナ・バートン) * [[アガサ・クリスティー ミス・マープル|ミス・マープル4 ポケットにライ麦を]](グラディス・マーティン) ==== アニメ ==== * [[ザ・シンプソンズ]](少女) * [[トイ・ストーリー]](アンディの友達、女) * [[ドン・キホーテ (アニメ)|ドン・キホーテ]](レアンドロ、女の子) === 舞台 === * ダニエルのとんだ休日(イザベル) * リチャード三世(小エリザベス) * ちぇんじ!(三の姫) * ちゃんとした道(若い女) * ブローニュの森は大騒ぎ(ニッキー) * 影武者騒動(小四郎) === その他 === * [[衛星アニメ劇場]]([[NHK衛星第2テレビジョン|NHK-BS2]]) * [[こどもにんぎょう劇場]]「そりすべり」(ウサギ、カラス)([[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]) * [[たっくんのオモチャ箱]](たっくん〈山本拓也〉の声〈2代目〉)(NHK教育) * [[コメディーお江戸でござる]]([[日本放送協会|NHK]]:出演) == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://ayakkumakuma.way-nifty.com/ayamaniacs/ aya-maniacs(オフィシャルブログ)]{{リンク切れ|date=2019年10月}} * [https://houei.t-echo.co.jp/?page_id=2753 テアトル・エコーによる紹介] {{actor-stub}} {{DEFAULTSORT:いしつ あや}} [[Category:日本の女優]] [[Category:日本の舞台女優]] [[Category:日本の女性声優]] [[Category:テアトル・エコー]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1972年生]] [[Category:存命人物]]
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挿入ソート
挿入ソート(そうにゅうソート、英: insertion sort)あるいは基本挿入法は、ソートのアルゴリズムの一つ。整列してある配列に追加要素を適切な場所に挿入すること。 時間計算量は平均・最悪ケースでともに Ο(n) であり、クイックソートやマージソートなどと比べれば遅い。しかし、 などの特徴から利用されることがある。 挿入ソートを高速化したソート法として、シェルソートが知られている。 まず0番目と1番目の要素を比較し、順番が逆であれば入れ換える。次に、2番目の要素が1番目までの要素より小さい場合、正しい順に並ぶように「挿入」する(配列の場合、前の要素を後ろに一つずつずらす)。この操作で、2番目までのデータが整列済みとなる(ただし、さらにデータが挿入される可能性があるので確定ではない)。このあと、3番目以降の要素について、整列済みデータとの比較と適切な位置への挿入を繰り返す。 整列された部分(確定とは限らない)をアンダーライン、挿入する部分を太字で表す。 バブルソートと比較すると、「交換回数」は等しくなる。しかし、「比較回数」は、バブルソートでは必ずn(n-1) / 2回必要だったが、挿入ソートはこれ以下で済むため、挿入ソートの方が高速である。また、ほとんど整列済みのデータに対しては高速という特徴を持っている。 なお交換回数に関しても、前記実装例のように一連の交換の途中の特定処理を省略することができるので交換一回が高速になる。また、特にデータが連結リストで格納されている場合には、バブルソートと比較して大幅な高速化が図れる。これは配列における「挿入」が一連の交換(の途中の特定処理を省略した処理)によって実現されるのに対し、連結リストでは文字通りの「挿入」が可能であるので、交換回数が大幅に減少するからである。 挿入ソートの改良で、挿入するデータの前ではソートが済んでいるという性質を利用して、挿入する箇所を二分探索するというものである。データの量が少ないときにはあまり効果がないが、多いときには比較回数が少なくなる。探索アルゴリズムによっては不安定なソートになるが、工夫により安定させることが可能である。
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挿入ソートあるいは基本挿入法は、ソートのアルゴリズムの一つ。整列してある配列に追加要素を適切な場所に挿入すること。 時間計算量は平均・最悪ケースでともに Ο(n2) であり、クイックソートやマージソートなどと比べれば遅い。しかし、 アルゴリズムが単純で実装が容易 小さな配列に対しては高速 安定 in-placeアルゴリズム オンラインアルゴリズム などの特徴から利用されることがある。 挿入ソートを高速化したソート法として、シェルソートが知られている。
{{出典の明記|date=2023年10月}} {{Infobox algorithm |class=[[ソート]] |image=<!--[[File:Insertionsort-edited.png|none|280px|Example of insertion sort sorting a list of random numbers.]]--> |caption=<!--Example of insertion sort sorting a list of random numbers.--> |data=[[配列]] |time=<math>O(n^2)</math> |best-time=<math>O(n)</math> |average-time=<math>O(n^2)</math> |space=<math>O(n)</math> total, <math>O(1)</math> auxiliary |optimal=No }} '''挿入ソート'''(そうにゅうソート、{{lang-en-short|insertion sort}})あるいは'''基本挿入法'''は、[[ソート]]の[[アルゴリズム]]の一つ。整列してある配列に追加要素を適切な場所に挿入すること。 [[計算複雑性|時間計算量]]は平均・最悪ケースでともに {{math|[[ランダウの記号|Ο]](''n''<sup>2</sup>)}} であり、[[クイックソート]]や[[マージソート]]などと比べれば遅い。しかし、 * アルゴリズムが単純で実装が容易 * 小さな配列に対しては高速 * [[安定ソート|安定]] * [[in-placeアルゴリズム]] * [[オンラインアルゴリズム]] などの特徴から利用されることがある。 挿入ソートを高速化したソート法として、[[シェルソート]]が知られている。 ==アルゴリズム== まず0番目と1番目の要素を比較し、順番が逆であれば入れ換える。次に、2番目の要素が1番目までの要素より小さい場合、正しい順に並ぶように「挿入」する(配列の場合、前の要素を後ろに一つずつずらす)。この操作で、2番目までのデータが整列済みとなる(ただし、さらにデータが挿入される可能性があるので確定ではない)。このあと、3番目以降の要素について、整列済みデータとの比較と適切な位置への挿入を繰り返す。 ===動作例=== 整列された部分(確定とは限らない)をアンダーライン、挿入する部分を太字で表す。 {| |- || 8 || 4 || 3 || 7 || 6 || 5 || 2 || 1 ||(初期データ) |- | style="text-decoration:underline" | 4 || style="text-decoration:underline" | 8 || '''3''' || 7 || 6 || 5 || 2 || 1 ||(1回目のループ終了時) |- | style="text-decoration:underline" | 3 || style="text-decoration:underline" | 4 || style="text-decoration: underline" | 8 || '''7''' || 6 || 5 || 2 || 1 ||(2回目のループ終了時) |- | style="text-decoration:underline" | 3 || style="text-decoration:underline" | 4 || style="text-decoration:underline" | 7 || style="text-decoration:underline" | 8 || '''6''' || 5 || 2 || 1 ||(3回目のループ終了時) |- | style="text-decoration:underline" | 3 || style="text-decoration:underline" | 4 || style="text-decoration:underline" | 6 || style="text-decoration:underline" | 7 || style="text-decoration:underline" | 8 || '''5''' || 2 || 1 ||(4回目のループ終了時) |- | style="text-decoration:underline" | 3 || style="text-decoration:underline" | 4 || style="text-decoration:underline" | 5 || style="text-decoration:underline" | 6 || style="text-decoration:underline" | 7 || style="text-decoration:underline" | 8 || '''2''' || 1 ||(5回目のループ終了時) |- | style="text-decoration:underline" | 2 || style="text-decoration:underline" | 3 || style="text-decoration:underline" | 4 || style="text-decoration:underline" | 5 || style="text-decoration:underline" | 6 || style="text-decoration:underline" | 7 || style="text-decoration:underline" | 8 || '''1''' ||(6回目のループ終了時) |- | style="text-decoration:underline" | 1 || style="text-decoration:underline" | 2 || style="text-decoration:underline" | 3 || style="text-decoration:underline" | 4 || style="text-decoration:underline" | 5 || style="text-decoration:underline" | 6 || style="text-decoration:underline" | 7 || style="text-decoration:underline" | 8 ||(7回目のループ終了時。ソート完了) |} == 実装 == ===C言語=== <syntaxhighlight lang="c"> void insertion_sort(int data[], size_t n) { for (size_t i = 1; i < n; i++) { if (data[i - 1] > data[i]) { size_t j = i; int tmp = data[i]; do { data[j] = data[j - 1]; j--; } while (j > 0 && data[j - 1] > tmp); data[j] = tmp; } } } </syntaxhighlight> ===Scheme=== <syntaxhighlight lang="scheme"> (define (insertion-sort ls) (define (insert x ls) (let loop ((ls ls) (acc '())) (if (null? ls) (append acc (cons x ls)) (let ((y (car ls))) (if (< x y) (append (reverse acc) (cons x ls)) (loop (cdr ls) (cons y acc))))))) (let loop ((ls ls) (acc '())) (if (null? ls) acc (let ((x (car ls))) (loop (cdr ls) (insert x acc)))))) </syntaxhighlight> ==計算時間== [[バブルソート]]と比較すると、「交換回数」は等しくなる。しかし、「比較回数」は、バブルソートでは必ずn(n-1) / 2回必要だったが、挿入ソートはこれ以下で済むため、挿入ソートの方が高速である。また、ほとんど整列済みのデータに対しては高速という特徴を持っている。 なお交換回数に関しても、前記実装例のように一連の交換の途中の特定処理を省略することができるので交換一回が高速になる。また、特にデータが[[連結リスト]]で格納されている場合には、バブルソートと比較して大幅な高速化が図れる。これは[[配列]]における「挿入」が一連の交換(の途中の特定処理を省略した処理)によって実現されるのに対し、連結リストでは文字通りの「挿入」が可能であるので、交換回数が大幅に減少するからである。 ==二分挿入ソート== 挿入ソートの改良で、挿入するデータの前ではソートが済んでいるという性質を利用して、挿入する箇所を[[二分探索]]するというものである。データの量が少ないときにはあまり効果がないが、多いときには比較回数が少なくなる。探索アルゴリズムによっては不安定なソートになるが、工夫により安定させることが可能である。 {{ソート}} [[Category:ソート|そうにゆうそおと]] [[no:Sorteringsalgoritme#Innstikksortering]]
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12,777
女房言葉
女房言葉(にょうぼうことば、女房詞)とは、室町時代初期頃から宮中や院に仕える女房が使い始め、その一部は現在でも用いられる隠語的な言葉である。語頭に「お」を付けて丁寧さをあらわすものや、語の最後に「もじ」を付けて婉曲的に表現する文字詞()などがある。女中詞(じょちゅうことば)とも。 省略形や擬態語・擬音語、比喩などの表現を用いる。優美で上品な言葉遣いとされ、主に衣食住に関する事物について用いられた。のちに将軍家に仕える女性・侍女に伝わり、武家や町家の女性へ、さらに男性へと広まった。 有職故実書『海人藻芥』や『日葡辞書』・『日本大文典』などのキリスト教宣教師による日本語本にも一部が記されている。 言葉によっては、ごが付く場合もある。
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女房言葉(にょうぼうことば、女房詞)とは、室町時代初期頃から宮中や院に仕える女房が使い始め、その一部は現在でも用いられる隠語的な言葉である。語頭に「お」を付けて丁寧さをあらわすものや、語の最後に「もじ」を付けて婉曲的に表現する文字詞などがある。女中詞(じょちゅうことば)とも。 省略形や擬態語・擬音語、比喩などの表現を用いる。優美で上品な言葉遣いとされ、主に衣食住に関する事物について用いられた。のちに将軍家に仕える女性・侍女に伝わり、武家や町家の女性へ、さらに男性へと広まった。 有職故実書『海人藻芥』や『日葡辞書』・『日本大文典』などのキリスト教宣教師による日本語本にも一部が記されている。
{{No footnotes|date=2019-01-08}} '''女房言葉'''(にょうぼうことば、'''女房詞''')とは、[[室町時代]]初期頃から[[宮中]]や[[院]]に仕える[[女房]]が使い始め、その一部は現在でも用いられる[[隠語]]的な言葉である。[[語頭]]に「お」を付けて丁寧さをあらわすものや、[[語尾|語の最後]]に「もじ」を付けて[[婉曲]]的に表現する{{読み仮名|'''文字詞'''|もじことば}}などがある。'''女中詞'''(じょちゅうことば)とも<ref>{{kotobank|女中詞}}</ref>。 省略形や[[擬態語]]・[[擬音語]]、[[比喩]]などの表現を用いる。[[優美]]で上品な言葉遣いとされ、主に[[衣食住]]に関する[[wikt:事物|事物]]について用いられた。のちに[[将軍家]]に仕える[[女性]]・[[侍女]]に伝わり、[[武家]]や[[町民|町家]]の女性へ、さらに[[男性]]へと広まった。 [[有職故実書]]『[[海人藻芥]]』や『[[日葡辞書]]』・『[[日本大文典]]』などのキリスト教宣教師による日本語本にも一部が記されている。 == 女房言葉の事例 ==<!--今後、Wiktionaryの[[古語]]・[[雅語]]として、採り上げられた場合は、Project間linkを貼って行きます --> === 語頭に「お」が付く === * おかか([[カツオ|鰹]]の削り節) ** 「お」+「[[鰹節]]」の「か」を2回重ねたものか。 * [[おかき]](欠餅) ** 当初は「鏡餅」を砕いて焼いて食べたことから。 * [[おかず]](御菜) ** [[惣菜]]は数々取り揃えるものであることから。 * おかべ([[豆腐]]) * おかちん([[餅]] [[江戸時代]]) ** 「お」+餅を意味する古語「搗飯(かちいい)」が訛った「かちん」。[[内親王]]が初経を迎えると「赤のおかちん」を食べて祝った。 * [[おから]] ** [[大豆]]から[[豆乳]]を絞った後の残りかす。 * [[おこわ]](強飯:こわめし) * おさつ(薩摩芋:[[サツマイモ|さつまいも]]) * [[おじや]](雑炊) ** 「じやじや」という煮える時の音からというが、語源不明。 * おすもじ([[寿司]]) * おだい([[飯]]) ** 「御台盤」の略語。食器を載せる脚付きの台の意から、転じてご飯の意になった。 * おつけ([[吸い物]]、[[味噌汁]])、おみおつけ(味噌汁) ** 「付け」は飯に付けて出すもののことを言う。本来は吸い物の意であったが、味噌汁のことを、味噌の女房言葉である「おみ」と合わせて「おみおつけ」というようになり、それが略されて特に京阪神で「おつけ」で味噌汁の意としても使われるようになったものである。 * おでき([[癤|できもの]]) * [[おでん]]([[味噌田楽]]、煮込み田楽) ** おでんは本来は[[豆腐]]などを串に挿して味噌などを付けて焼く[[田楽 (料理)|田楽]]の意であるが、焼かずに煮て調理する煮込み田楽が普及し、煮込み田楽の意で使われるようになった。 *おなか([[腹]]) * おなら([[屁]]) ** 「鳴らす」から来た語。 * [[おにぎり]]・おむすび(握り飯) * [[おはぎ]](牡丹餅) ** [[アズキ|小豆]]の粒を萩の花に見立てた表現。 * [[お歯黒|おはぐろ]] ** 元は「歯黒め」と言った。 * おひや([[水]]) ** お冷。冷水のこと。 * おひろい(歩行)動詞「拾う」から変化。 * おまる([[便器]]) ** 「放る(まる、ほまる)」は排泄を意味する動詞(例:放屁)。あるいは、衛生を保つ魔除けの「[[丸]]」の意味か。 * おまわり ** 副食物。 * おめぐり ** 副食物。主食を取り巻くように皿を並べることからか。 * おまん([[饅頭]]) * およる(寝るの尊敬語)「御夜」の動詞化。 言葉によっては、'''ご'''が付く場合もある。 * ごん([[ごぼう]]) === 語尾に「もじ」が付く(文字詞) === * おくもじ(奥さん) ** 「奥様」+文字 * おくもじ([[酒]]、[[漬物]]、[[苦労]]) ** 「お」は接頭語「御」 ** 「九献(くこん)」の「く」+文字→お酒 ** 「茎(くき)」+文字→漬物 ** 「苦労」+文字→苦労 * おめもじ(御目にかかる) ** 「御目にかかる」の「おめ」+文字 * かもじ ** 母または妻「かか」+文字、付け髪の場合は「髪文字」 * くろもじ(植物名及びそれで作った楊枝) * こもじ(鯉) ** 「鯉(こい)」の「こ」+文字 * しゃもじ(杓子) ** 「杓子(しゃくし)」の「しゃ」+文字 * すもじ(寿司) ** 「寿司(すし)」の「す」+文字 * そもじ ** 「そなた」の「そ」+文字 * にもじ(大蒜) ** 「大蒜(にんにく)」の「に」+文字 * はもじい ** 「恥ずかしい」の「は」+文字 * ひともじ([[ネギ|ねぎ]]) ** 当時「葱」と書いて「き」と一音で読んでいたことから * ひもじい ** 「空腹である」という意味の「ひだるい」の「ひ」+文字 * ふたもじ([[ニラ|にら]]) ** 「葱(き)」が一文字であるのに対し、「韮(にら)」が二文字であることから。 * ゆもじ([[浴衣]]) ** 「浴衣(ゆかた)」の「ゆ」+文字 === その他 === * こうこ([[沢庵漬け|たくあん]]) * こん([[肴]]) * いしいし([[団子]]) * 青物([[野菜]]) * なみのはな、波の花([[塩]]) * なす、[[ナス]](旧名は奈須比) * みずのはな、水の花、水の華(鮎、鱸) * [[ヘチマ|へちま]](糸瓜、旧名はいとうり→とうり) * [[くノ一|くのいち]](女の漢字、女性の[[忍者|忍び]]) * まけ([[月経]]) == 脚注 == <references /> == 典拠・資料 == * 日本語解釈活用事典([[渡辺富美雄]]・[[村石昭三]]・[[加部佐助]]、共編著/[[ぎょうせい]])1993年、ISBN 4-324-03707-8<!--図書館にも在り得る。現行本では無い--> * 古典文学レトリック事典 (國文学編集部[編]/[[學燈社]])1993年、ISBN 4-312-10038-1<!--絶版--> * 思わず人に話したくなる続・日本語知識辞典(学研辞典編集部)2003年、ISBN 4-05-401927-7<!--流通在り--> == 関連項目 == {{Wiktionary|女房詞}} * [[御湯殿上日記]] == 外部リンク == * [http://motokiyama.art.coocan.jp/kotoba/kotoba1.html もじことば……文字詞] * {{kotobank}} {{日本語}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にようほうことは}} [[Category:日本語の歴史]] [[Category:日本語の言語変種]] [[Category:室町時代の文化]] [[Category:言語におけるジェンダー]]
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12,778
PC-UNIX
PC-UNIXとは、パソコン(PC)で動作するUNIX互換オペレーティングシステムの総称である。 1980年代終盤まで、UNIXは複数人が利用する高速な汎用計算機か、個人用としてはかなり高価なワークステーションでしか動作しないOSと見られていたが、90年代初頭には一般家庭で使われるようなパーソナルコンピュータの処理能力がUNIXの機能を動作させるためには最低限度の機能を備えたため、UNIXを実装して動作させることが出来るようになった。そのため、高価な汎用計算機のUNIXとの対比という意味でこの名称が用いられている。 ただ、PC-UNIXが提供され始めた頃は、PCの方にUNIXを動かすのに必要な機能(メモリ管理機能)がない場合があり、そのような場合にはメモリ管理機能をハードウェアで提供するための専用ボードが必要な場合もあった。PC9800シリーズ用のPC-UX Ver 1.0はそのような方式であった。 PC-UNIXは、オープンソースソフトウェアあるいはフリーソフトウェアとして提供される物が多いが、プロプライエタリソフトウェアのものも存在する。
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PC-UNIXとは、パソコン(PC)で動作するUNIX互換オペレーティングシステムの総称である。 1980年代終盤まで、UNIXは複数人が利用する高速な汎用計算機か、個人用としてはかなり高価なワークステーションでしか動作しないOSと見られていたが、90年代初頭には一般家庭で使われるようなパーソナルコンピュータの処理能力がUNIXの機能を動作させるためには最低限度の機能を備えたため、UNIXを実装して動作させることが出来るようになった。そのため、高価な汎用計算機のUNIXとの対比という意味でこの名称が用いられている。 ただ、PC-UNIXが提供され始めた頃は、PCの方にUNIXを動かすのに必要な機能(メモリ管理機能)がない場合があり、そのような場合にはメモリ管理機能をハードウェアで提供するための専用ボードが必要な場合もあった。PC9800シリーズ用のPC-UX Ver 1.0はそのような方式であった。 PC-UNIXは、オープンソースソフトウェアあるいはフリーソフトウェアとして提供される物が多いが、プロプライエタリソフトウェアのものも存在する。
'''PC-UNIX'''とは、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]](PC)で動作する[[UNIX]]互換[[オペレーティングシステム]]の総称である。 1980年代終盤まで、UNIXは複数人が利用する高速な汎用計算機か、個人用としてはかなり高価な[[ワークステーション]]でしか動作しないOSと見られていたが、90年代初頭には一般家庭で使われるような[[パーソナルコンピュータ]]の処理能力がUNIXの機能を動作させるためには最低限度の機能を備えたため、UNIXを実装して動作させることが出来るようになった。そのため、高価な汎用計算機のUNIXとの対比という意味でこの名称が用いられている。 ただ、PC-UNIXが提供され始めた頃は、PCの方にUNIXを動かすのに必要な機能(メモリ管理機能)がない場合があり、そのような場合にはメモリ管理機能をハードウェアで提供するための専用ボードが必要な場合もあった。PC9800シリーズ用のPC-UX Ver 1.0はそのような方式であった。 PC-UNIXは、[[オープンソースソフトウェア]]あるいは[[フリーソフトウェア]]として提供される物が多いが、[[プロプライエタリソフトウェア]]のものも存在する。 == PC-UNIXの例 == *[[MINIX]] *[[CentOS]] *[[Debian]] *[[Linux]] *[[Ubuntu]] *[[FreeBSD]] *[[NetBSD]] *[[OpenBSD]] *[[PANIX]] *[[XENIX]] *[[Solaris]]/[[OpenSolaris]] *[[macOS]] *[[QNX]] [[Category:UNIX]]
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12,779
シェルソート
シェルソート(改良挿入ソート、英語: Shellsort, Shell sort, Shell's method)は、1959年にドナルド・シェルが開発したソートのアルゴリズム。挿入ソートの一般化であり、配列の中である程度間隔が離れた要素の組ごとに挿入ソートを行い、間隔を小さくしながら同様のソートを繰り返すことで高速化するアルゴリズムである。ただし、挿入ソートと異なり、安定ソートではなくなる。 アルゴリズムの基本は挿入ソートと同じである。挿入ソートは「ほとんど整列されたデータに対しては高速」という長所を持つが、隣接した要素同士しか比較・交換を行わないため、あまり整列されていないデータに対しては低速であった。 シェルソートは、「飛び飛びの列を繰り返しソートして、配列を大まかに整列された状態に近づけていく」ことにより、挿入ソートの長所を活かしたものである。 アルゴリズムの概略は次のとおりである。 初期データ: この例では、間隔hを4→2→1(2の累乗)とする。 まず、h=4とする。色の同じ部分は、同じグループのデータ列である。 同じグループ内で挿入ソートし、h=2にする。 同じグループ内で挿入ソートし、h=1にする。 間隔が1ということは、全体が同じ1つのグループということである。これを挿入ソートする。 シェルソートの実行時間(時間計算量)は、比較時に選ぶ間隔hによって大きく異なる。 前節の例ではhを2の累乗としたが、この場合、最悪計算量が O ( n 2 ) {\displaystyle \mathrm {O} (n^{2})} となってしまう。各周回で同じ位置の要素ばかりが比較交換されるため、h=1となった段階で「全体が大まかに整列されている」という仮定が成り立たなくなるためである。 より効率の良い(計算量の少ない)ソートを行うために、様々な間隔が提案されてきた。以下の表は、間隔を決定するための数列の例である。( n {\displaystyle n} は要素数) これらの数列をソートの間隔として利用する際は、(要素数以内で)大きな数字から狭めていく。 3 k − 1 2 {\displaystyle {\frac {3^{k}-1}{2}}} を使う場合、間隔hを121→40→13→4→1とする(hを3で整数除算していけばよい)。 様々な間隔の計算量について理論的に考察されているが、現状、どのような間隔が最適か(例えば、平均 O ( n log n ) {\displaystyle \mathrm {O} (n\log n)} 時間となる数列があるか)は未解決問題である。
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シェルソートは、1959年にドナルド・シェルが開発したソートのアルゴリズム。挿入ソートの一般化であり、配列の中である程度間隔が離れた要素の組ごとに挿入ソートを行い、間隔を小さくしながら同様のソートを繰り返すことで高速化するアルゴリズムである。ただし、挿入ソートと異なり、安定ソートではなくなる。
{{Infobox algorithm |class=[[ソート]] |image=[[File:Sorting shellsort anim.gif|Step-by-step visualisation of Shellsort]]<br/><small>間隔 23, 10, 4, 1 でのシェルソートの実行</small> |caption= |data=[[配列]] |best-time=<math>\Omicron(n\log n)</math><ref>{{cite web|title=Shellsort & Comparisons|url=http://www.cs.wcupa.edu/rkline/ds/shell-comparison.html|accessdate=2016-3-20}}</ref> |average-time=間隔に依存<br />間隔については[[#間隔の決め方|後述]] |time=間隔に依存 |space=<math>\Omicron(1)</math>([[In-placeアルゴリズム|in-place]]) |optimal=No }} [[File:Shell sorting algorithm color bars.svg|thumb|間隔5, 3, 1のシェルソートにおける要素の交換を示した図]] '''シェルソート'''('''改良挿入ソート'''、{{Lang-en|Shellsort, Shell sort, Shell's method}})は、[[1959年]]に[[ドナルド・シェル]]が開発した<ref name="Shell">{{Cite journal|last = Shell|first = D. L.|year = 1959|title = A High-Speed Sorting Procedure|url = http://penguin.ewu.edu/cscd300/Topic/AdvSorting/p30-shell.pdf|journal = Communications of the ACM|volume = 2|issue = 7|pages = 30–32|doi = 10.1145/368370.368387}}</ref>[[ソート]]の[[アルゴリズム]]。[[挿入ソート]]の一般化<ref name="Knuth">{{Cite book|last = Knuth|first = Donald E.|title = The Art of Computer Programming. Volume 3: Sorting and Searching|edition = 2nd|year = 1997|publisher = Addison-Wesley|pages = 83–95|chapter = Shell's method|author-link = Donald Knuth|location = Reading, Massachusetts|isbn = 0-201-89685-0}}</ref>であり、[[配列]]の中である程度間隔が離れた要素の組ごとに挿入ソートを行い、間隔を小さくしながら同様のソートを繰り返すことで高速化するアルゴリズムである。ただし、挿入ソートと異なり、[[安定ソート]]ではなくなる。 ==アルゴリズム== アルゴリズムの基本は[[挿入ソート]]と同じである。挿入ソートは「ほとんど整列されたデータに対しては高速」という長所を持つが、隣接した要素同士しか比較・交換を行わないため、あまり整列されていないデータに対しては低速であった。<br /> シェルソートは、「飛び飛びの列を繰り返しソートして、配列を大まかに整列された状態に近づけていく」ことにより、挿入ソートの長所を活かしたものである。<br /> アルゴリズムの概略は次のとおりである。 # 適当な間隔 <math>h</math> を決める(hの決め方については[[#間隔の決め方|後述]]) # 間隔 <math>h</math> をあけて取り出したデータ列に挿入ソートを適用する # 間隔 <math>h</math> を狭めて、2.を適用する操作を繰り返す # <math>h = 1</math> になったら、最後に挿入ソートを適用して終了 ==動作例== 初期データ: {| class="wikitable" style="font-family:monospace" | 8 || 3 || 1 || 2 || 7 || 5 || 6 || 4 |} この例では、間隔hを4→2→1(2の[[累乗]])とする。<br /> まず、h=4とする。色の同じ部分は、同じグループのデータ列である。 {| class="wikitable" style="font-family:monospace" | style="background-color: white" | 8 | style="background-color: silver" | {{Underline|3}} | style="background-color: red" | {{Underline2|1|double}} | style="background-color: yellow" | {{Underline2|2|dotted}} | style="background-color: white" | 7 | style="background-color: silver" | {{Underline|5}} | style="background-color: red" | {{Underline2|6|double}} | style="background-color: yellow" | {{Underline2|4|dotted}} |} 同じグループ内で挿入ソートし、h=2にする。 {| class="wikitable" style="font-family:monospace" | style="background-color: red" | {{Underline|7}} | style="background-color: white" | 3 | style="background-color: red" | {{Underline|1}} | style="background-color: white" | 2 | style="background-color: red" | {{Underline|8}} | style="background-color: white" | 5 | style="background-color: red" | {{Underline|6}} | style="background-color: white" | 4 |} 同じグループ内で挿入ソートし、h=1にする。 {| class="wikitable" style="font-family:monospace" | 1 || 2 || 6 || 3 || 7 || 4 || 8 || 5 |} 間隔が1ということは、全体が同じ1つのグループということである。これを挿入ソートする。 {| class="wikitable" style="font-family:monospace" | 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 |} ==間隔の決め方== シェルソートの実行時間([[時間計算量]])は、比較時に選ぶ間隔hによって大きく異なる。<br /> 前節の例ではhを2の累乗としたが、この場合、最悪計算量が<math>\Omicron( n^2 )</math>となってしまう。<ref name="Shell"/>各周回で同じ位置の要素ばかりが比較交換されるため、h=1となった段階で「全体が大まかに整列されている」という仮定が成り立たなくなるためである。<ref name="watanobe">{{cite book |author=渡部有隆、 秋葉拓哉 |year=2015 |title=プログラミングコンテスト攻略のためのアルゴリズムとデータ構造 |publisher=マイナビ |isbn=978-4-83995-295-2 |page=77}}</ref><br /> より効率の良い(計算量の少ない)ソートを行うために、様々な間隔が提案されてきた。<ref name="Sedgewickweb">{{Cite web | url = https://www.cs.princeton.edu/~rs/shell/paperF.pdf | title = Analysis of Shellsort and Related Algorithms | date = 1996 |access-date = 2021-08-05 | last = Sedgewick | first = Robert |author-link=:en:Robert Sedgewick (computer scientist)}}</ref>以下の表は、間隔を決定するための数列の例である。(<math>n</math>は要素数) :{| class="wikitable" |- style="background-color: #efefef;" ! 数列の一般項 (''k'' ≥ 1) ! 実際の数列 ! 最悪計算時間 ! 備考 |---- | <math>\left\lfloor\frac{n}{2^k}\right\rfloor</math> | <math>\left\lfloor\frac{n}{2}\right\rfloor, \left\lfloor\frac{n}{4}\right\rfloor, \ldots, 1 </math> | <math>\Omicron(n^2)</math> | [[ドナルド・シェル]]が最初に考案した数列。<ref name="Shell"/> <math>n</math>が2の累乗の時、上記動作例と同一。 |---- | <math>\frac{3^k - 1}{2}</math> (<math>\left\lceil\frac{n}{3}\right\rceil</math>以下) | <math>1, 4, 13, 40, 121, \ldots </math> | <math>\Omicron\left(n^\frac{3}{2}\right){{=}}\Omicron(n^{1.5})</math> | [[ドナルド・クヌース]]、 1973<ref name="Knuth"/><br /> Pratt, 1971<ref name="Pratt">{{Cite book |last=Pratt |first=Vaughan Ronald |author-link=:en:Vaughan Pratt |year=1979 |publisher=Garland |title=Shellsort and Sorting Networks (Outstanding Dissertations in the Computer Sciences) |url=http://www.dtic.mil/get-tr-doc/pdf?AD=AD0740110 |isbn=978-0-8240-4406-0}}</ref>に基づく。<br /> 平均計算時間は <math>\Omicron(n^{1.25})</math>。<ref name="Knuth"/><ref name="watanobe"/> |---- | <math>A_0{{=}}1 , A_k{{=}}4^k + 3 \cdot 2^{k-1} + 1</math> | <math>1, 8, 23, 77, 281, \ldots</math> | <math>\Omicron\left(n^\frac{4}{3}\right){{=}}\Omicron(n^{1.33\ldots})</math> | Sedgewick, 1982<ref name="Sedgewick"> {{Cite book |last=Sedgewick |first=Robert |author-link=:en:Robert Sedgewick (computer scientist) |title=Algorithms in C |edition=3rd |volume=1 |publisher=Addison-Wesley |year=1998 |pages=[https://archive.org/details/algorithmsinc00sedg/page/273 273–281] |isbn=978-0-201-31452-6 |url-access=registration |url=https://archive.org/details/algorithmsinc00sedg/page/273}}</ref> |---- | <math>2^p 3^q</math> (<math>p \ge 0 ,q \ge 0</math>) | <math>1, 2, 3, 4, 6, 8, 9, 12, \ldots</math> | <math>\Omicron\left(n \log^2 n\right)</math> | Pratt, 1971<ref name="Pratt"/><br />既知の数列で最悪計算時間が最小となるもの。<br />間隔の狭め方が細かすぎるため、実用性は低い。<ref name="Sedgewickweb"/> |} これらの数列をソートの間隔として利用する際は、(要素数以内で)大きな数字から狭めていく。<math>\frac{3^k - 1}{2}</math>を使う場合、間隔hを121→40→13→4→1とする(hを3で整数除算していけばよい)。 <br />様々な間隔の計算量について理論的に考察されているが、現状、どのような間隔が最適か(例えば、平均<math>\Omicron(n\log n)</math>時間となる数列があるか)は[[未解決問題]]である<ref name="Sedgewickweb"/>。 ==C++による実装例== <syntaxhighlight lang="cpp"> template <typename RandomAccessIterator, typename Compare> void shellsort(RandomAccessIterator first, RandomAccessIterator last, Compare comp, const double sk = 3.14159265358979323846264338327950, const short m = 5) { if(first == last) return; double gap = distance(first, last); std::ptrdiff_t h; do { gap /= sk; h = (std::ptrdiff_t)(gap + 0.5); if(h < m) h = 1; RandomAccessIterator H = first + h; for(RandomAccessIterator i = H; i < last; ++i) { if(comp(*i, *(i - h))) { auto t = std::move(*i); RandomAccessIterator j = i; do { *j = std::move(*(j - h)); j -= h; }while(H <= j && comp(t, *(j - h))); *j = std::move(t); } } }while(1 < h); } </syntaxhighlight> == 脚注 == {{reflist}} {{ソート}} [[Category:ソート|しえるそおと]]
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OpenBSD
OpenBSD(オープンビーエスディー)は、セキュリティや正当性(correctness)などを特に重視した、BSDをベースにして開発された、オープンソースの、Unix系オペレーティングシステム (OS)。NetBSDの主要開発者のひとりであるテオ・デ・ラート(Theo de Raadt)が、1995年にNetBSDからフォークさせる形で開発が始まったものであり、BSDの子孫のひとつである。 目標としているのは「正しい思想」(correctness) と「先制的なセキュリティ」(proactive security) である。オープンソースおよびドキュメンテーションの重視、ソフトウェアライセンスに妥協しない姿勢でも知られている。テオ・デ・ラートの自宅がアルバータ州カルガリーということで、暗号の輸出制限がないカナダを開発の本拠地としている。ロゴおよびマスコットはフグのPuffy。 OpenBSDの目指す「正しい思想」には、GPLより制限の少ないBSD/ISCライセンスこそ真にフリーであるという意見や、正しく設計されたOSは移植が容易であるはずだという理念などが含まれる。もともとNetBSDから派生したため移植性は高いレベルにあったが、新しいプラットフォームへの移植のたびにコードが洗練されセキュリティの向上につながってきたとして、NetBSDとは別の観点から移植の意義を強調している。 また「先制的なセキュリティ」とは、脆弱性が発見されてから問題を修正するのではなく、問題の起こりにくい設計や徹底したコード監査によって、事前にあらゆる危険性を排除しようとすることを意味する。 そのため、通常のインストールではほとんどのサービスが起動しないようになっており、これまでに「デフォルトインストールでのリモートセキュリティホールが2つしか発見されていない」ことを売り文句にしている。 その2つとは、2002年に発見されたOpenSSHの桁あふれ問題と、2007年に発見されたIPv6スタックのバッファオーバーフローである。 設計や仕様は文書化され、コーディングと同時にマニュアル (man) が更新されている。実態に即したマニュアルを保証することにより、管理者や開発者の無知・不注意に起因するセキュリティ問題を防止している。 他のOSでも標準的に使われているSSHの代表的実装OpenSSHの他、C言語で文字列を安全に扱うためのstrlcpyとstrlcat、IPパケットをフィルタリングするPF(パケットフィルタ)、BSD系OSで暗号化ハードウェアサポートを可能にするOpenBSD Cryptographic Framework(英語版) (OCF) などは他のBSDの子孫達にも取り込まれている。 CVSリポジトリを外部に公開したのはOpenBSDが最初だが、その後anonymous cvsはSubversionやGitなどの普及前の時期においてオープンソースプロジェクトの標準的な開発基盤となっていた。 1994年12月、NetBSDの立ち上げ時のメンバーでもあったテオ・デ・ラートは、上級開発者の地位とNetBSD中核チームメンバーという立場から退くよう要求され、ソースコードへのアクセスもできないようにされた。そうなった経緯は明らかではないが、NetBSDプロジェクトおよびメーリングリストでの性格の不一致が原因と言われている。テオはそれまでも周囲と衝突の絶えない性格を批判されていた。Peter Waynerは自著Free For Allの中でテオがNetBSDを離脱する直前「何人かの人々の気持ちを逆なでしはじめた」と書いている。リーナス・トーバルズはテオを「気難しい」と評している。あるインタビュアーは彼と会う前に「不安だ」ともらしている。しかし、そのように思わない人も多い。件のインタビュアーはテオがOpenBSDを立ち上げる際に「変化」し「チームの面倒を見ることを望んでいる」と述べた。彼が有能なプログラマであり、セキュリティに関する第一人者のひとりであることを否定する者はほとんどいない。 1995年10月、テオはNetBSD 1.0からのフォークとしてOpenBSDプロジェクトを立ち上げた。最初のリリースは1996年7月のOpenBSD 1.2であり、同年10月にはOpenBSD 2.0をリリース。約半年ごとに新リリースが公開され、各リリースについて1年間サポートと保守を行う。ただし、開発者はシステム全体の整合性を保つ範囲でのみコードに変更を加えなくてはならないため、常時更新されているスナップショット版も安定して動作することが期待されている。2007年11月1日に公開されたOpenBSD 4.2は直前に急逝した萩野純一郎に捧げられている。 2007年7月25日、OpenBSD開発者Bob BeckはOpenBSD Foundationの創設を発表した。これはカナダの非営利団体で「個人や法人がOpenBSDをサポートしたい場合に対応する窓口として働く」ものである。 OpenBSDがどれほど使われているかは確認が難しい。開発者側でも把握していないし統計も公表していないが、他の情報源が若干存在する。2005年9月、創設間もない BSD Certification Groupが利用状況の調査を行い、BSD系OS利用者の32.8%(4330件の回答のうち1420件)がOpenBSDを使っているという結果が得られた。同調査ではFreeBSDは77%、NetBSDは16.3%であり、OpenBSDは2位だった。DistroWatchというウェブサイトはLinuxコミュニティではよく知られているが、各Linuxディストリビューションと他のOSのサイトのヒット数を公表している。それによると2018年7月22日現在、OpenBSDのサイトには1日146ヒットがあり、79位となっている。ちなみにFreeBSDは1日295ヒットで33位、NetBSDは1日101ヒットで107位である。 2016年9月1日の6.0のリリースに伴いEFIブートローダーを追加し、FATまたはextファイルシステムに代わって、FFSからU-Bootヘッダなしにカーネルを読み込めるようになった。 OpenBSDプロジェクトが生まれた当時は、オープンソースプロジェクトであっても、ソースのリポジトリにアクセスできるのは選ばれた少人数の開発者チームだけというのが普通だった。この方式では、外部のコントリビュータは最新の開発状況を直接知ることができないため、貢献しようとしても作業がダブってしまい無駄になることが多かった。テオ・デ・ラートはソースを誰でもいつでも読めるようにすべきだと考え、Chuck Cranorの支援を求めた。Cranorは公開の匿名CVSサーバを立ち上げた。これはソフトウェア開発の世界で初の試みであり、この決断によりOpenBSDという名称が生まれ、ソースコードと文書へのアクセスをオープンにするという姿勢を表すようになった。 OpenBSDのオープン性についての方針は、ハードウェアに関しても適用される。テオは2006年12月のプレゼンテーション用スライドで、ハードウェア仕様の詳細を示す文書が公開されていなければ「開発者がドライバを書く際に間違うことが多い」とし、「(やった、動いたぞ、という)快感を味わうことは難しく、開発者によってはあきらめてしまう」と説明している。更に、OpenBSDプロジェクトにとってベンダーの提供するバイナリドライバは信用できないし、「問題が生じても...修正する方法がない」ため、許容できないとした。また、ベンダーによるソースは「若干受け入れ可能」だが、依然として問題発生時に修正が困難だとしている。 このような方針を示す出来事として、2005年3月、テオがopenbsd-miscというメーリングリストにポストしたメッセージを端緒とする議論がある。メッセージの中でテオは、アダプテックのAAC RAIDコントローラ用のデバイスドライバを改良するために、同社に必要な文書を開示してくれるよう4カ月に渡って交渉してきたが、開示されなかったことを明らかにし、OpenBSDコミュニティ全体に対して、アダプテックに彼らの意見を表明することを奨励した(このような行動はこれ以前にも行われている)。その直後、アダプテック元従業員で FreeBSD版AAC RAIDサポートの作者でもあるFreeBSDのコミッター Scott Long が、テオがアダプテックとのこの問題について彼に直接コンタクトを取らなかったとして、テオを酷評する文章をOSNewsというサイトで発表した。この件でfreebsd-questionsメーリングリストは議論が紛糾し、そこでOpenBSDプロジェクトのリーダーはScott Longから支援の申し出は全くなかったし、アダプテックからもLongを紹介されなかったと反論した。議論は、バイナリ・ブロブと秘密保持契約 (NDA) の使用を許容するかしないかという2派に分かれての激論に発展した。OpenBSDの開発者らは、ソースツリー内にプロプライエタリなバイナリドライバの存在を許さない立場で、NDAにも消極的である。これに対してFreeBSDプロジェクトの方針は異なり、Scott LongがOpenBSDへの支援として提案したアダプテックのRAID用コードの多くは、クローズドソースかNDA契約に基づいて書かれている。結局OpenBSD 3.7の締め切りまでの文書は提供されず、アダプテックのAAC RAIDコントローラサポートは、標準のOpenBSDカーネルからは削除された。 OpenBSDプロジェクトの目標のひとつとして、「元々のバークレー版Unixの著作権の精神を保ち」、それによって「相対的に邪魔されることのないUnixソースのディストリビューション」を可能にすることを掲げている。このため、ベルヌ条約によって不要となる言い回しをBSDライセンスから削除して単純化したISCライセンスを新規コードに適用することを基本としているが、MITおよびBSDライセンスも許容している。広く使われているGNU General Public Licenseは、それらに比べると制限が厳しすぎると見なされている。不適切と見なされたライセンスで提供されているコードは、現在では基本システムには追加しない方針となっている。既存コードでそのようなライセンスで提供されているものは、可能な限り置換したりライセンスを変更しているが、適当な代替物がない場合や新たな開発に時間がかかる場合はそのままとなっている。ライセンス問題から開発したものとしてOpenSSHがある。元々の SSHスイートをベースとしてOpenBSDチームが開発したもので、OpenBSD 2.6で最初に登場し、今では最も広く使われているSSHの実装になっており、様々なOS上で利用可能である。同様なライセンス問題はIPFilterにもあり、その代替物としてPFパケットフィルタを開発した。OpenBSD 3.0で最初に登場し、現在ではDragonFly BSD、NetBSD、FreeBSD でも使える。最近ではGPLでライセンスされたdiff、grep、gzip、pkg-configなどのツールをBSDライセンスの代替物で置き換えている。また、新プロジェクトとしてOpenBGPD、OpenNTPD、OpenOSPFD、OpenSMTPDなども立ち上げている。2007年9月、OpenBSDチームはGNUコンパイラコレクション (GCC) を置き換える作業に乗りだし、手始めにAnders MagnussonによるBSDライセンスのPortable C Compiler (PCC) を導入した。 2001年6月、Darren Reedがライセンスの文言を変えたことで懸念が生じ、OpenBSDの全Portsとソースツリーについての体系的なライセンスの監査が行われた。システム全体で100以上のファイルのコードについて、ライセンスが不明であるか、ライセンスに反した使い方をしていることが判明した。全てのライセンスを適切に遵守することを保証するため、それぞれの著作権者に連絡をとろうと試みた。結果として一部のコードは削除され、多くは置き換えられた。他に、ゼロックスが研究用途にのみライセンスしていたマルチキャストルーティングツール mrinfo と map-mbone などがあったが、ライセンスの変更を著作権者が受け入れたため、そのままOpenBSDで使うことができるようになった。この監査作業で削除されたソフトウェアとして、ダニエル・バーンスタインの作った全ソフトウェアがある。このときバーンスタインは、彼のコードの修正版を再配布する前に彼の承認を得ることを要求していたが、OpenBSDチームはそのための時間がないとしてその要求を退けたためである。これに対して、バーンスタインはいわれなく削除されたとして憤慨した。彼はもっとフリーでないライセンスで提供されているウェブブラウザNetscapeを引き合いに出し、彼のソフトウェアを削除しておいてNetscapeをそのままにしておくのは偽善だとOpenBSD開発者らを非難した。OpenBSDプロジェクトのスタンスは、Netscapeはオープンソースではないが、そのライセンス条件はプロジェクトの方針に適合しているというものだった。彼らは、派生物を制御しようとするバーンスタインの要求を受け入れると多大な労力が付随して必要になるため、削除が最も適切な対応だったとしている。 OpenBSDを始めた直後、テオ・デ・ラートはSecure Networks, Inc. (SNI) というソフトウェア企業からの接触を受けた。SNIは「ネットワークセキュリティ監査ツール」Ballista(SNIがマカフィーに買収された後にはCybercop Scannerと改称)を開発しており、それはソフトウェアのセキュリティ上の欠陥を見つけ出し利用できるか確認するというものだった。これはテオ自身のセキュリティへの関心と共通していたので、両者は協力することに合意し、その関係はOpenBSD 2.3のリリースまで続き、プロジェクトの方向性に影響を与えた。OpenBSDの開発者は、容易さや性能や機能を犠牲にしてでも、正しく適切でセキュアな方法を選択しようとする。OpenBSDの中のバグは見つかったとしてもセキュリティホールとして利用しづらいものになっていき、SNIはOpenBSDを使った確認が困難になってきた。数年の協力の後、両者は目標としていたレベルに到達したと判断し、協力関係を解消した。 2002年6月まで、OpenBSDは次のようなスローガンをウェブサイトに掲げていた。 2002年6月、Internet Security Systems の Mark Dowd はチャレンジ-レスポンス型認証を実装したOpenSSHのコードにバグを見つけた。このセキュリティホールは、OpenBSDのデフォルトのインストールでも利用でき、攻撃者がリモートからのアクセスでroot特権を得ることができる。これはOpenBSDだけの問題ではなく、当時OpenSSHを利用していた他のOSにとっても大きな問題だった。このため、OpenBSDのウェブサイトでもスローガンを次のように変更せざるを得なくなった。 しばらくはこのスローガンで推移したが、2007年3月13日、Core Security Technologies の Alfredo Ortega ネットワーク関連の脆弱性を発見した。スローガンは次のように変更された。 このスローガンについては、OpenBSDのデフォルトのインストールではほとんど何もできないし、リリースに含まれているソフトウェアには他にもセキュリティホールが見つかったものがあると批判されている。しかしプロジェクト側は、デフォルトのインストールであることを強調しているのだから間違いではないとしている。OpenBSDの基本的考え方として、システムをシンプルでクリーンでsecure by defaultに保つという方向性がある。例えばOpenBSDの最小のデフォルト構成では、ごく一部のサービスしか有効にしない。このプロジェクトはまた、セキュリティシステムの重要な要素とされているオープンソースとコード監査手法を使っている。 OpenBSDにはセキュリティ強化のための設計変更がいくつも加えられている。例えば、APIとツールチェーンの変更としては、arc4random、issetugid、strlcat、strlcpy、strtonumといった関数の修正がある。他にも静的境界チェック機構、不正アクセスからの保護のためのメモリ保護技法として、ProPolice、StackGhost、W^Xによるページ保護機能、mallocの修正などがある。また、暗号およびランダム化機能として、プロトコルスタックの強化やパスワード暗号化へのBlowfish暗号の追加などがある。 特権昇格を可能にするような設定ミスや脆弱性の危険を低減させるため、一部のプログラムでは特権分離、特権放棄、chrootの使用といった手法を採用している。このうち特権分離はOpenBSDでいち早く採用した技法で、最小特権の原則に基づいてプログラムを複数の部分に分け、一部にだけ特権の必要な操作を受け持たせて、他の大部分は特権なしで実行するという技法である。特権放棄も同様の技法で、必要なときだけ特権を得て操作を行い、その操作が終わったら特権を放棄するという技法である。chrootを使った技法は、アプリケーションがファイルシステムの一部だけを使って動作するようにし、個人的なファイルやシステムファイルのある部分にアクセスできないようにする。開発者らは一般的なアプリケーションのOpenBSD版にこのような技法を適用しており、例えばtcpdumpやApache Webサーバなどがそうなっている(Apacheについてはバージョン2.xではライセンス問題があるため、1.3.29に巨大なパッチをあてている)。なお、OpenBSD 6.0ではhttpdとしてApacheは実装されなくなり、nginxが採用された。 プロジェクトは問題に対して継続的にコード監査する方針を採用しており、開発者Marc Epsieはこの作業を「特定のバグを見つけ出すというよりもプロセス自体への問いかけともいうべきもので...決して終わらない」と評した。彼はバグが見つかったときのいくつかの典型的工程を示しているが、その中には、同じまたは類似の問題がないかソースツリー全体を調査すること、「ドキュメンテーションを改正すべきかどうかを見つけ出すこと」、「この問題について警告を表示するようコンパイラを強化できないか」を調査すること、などが含まれる。標準の字下げスタイルはKernel Normal Formだが、これはコードの保守を容易にするための規定である。そのためコードをOSのベースに組み込む際には必ず守る必要がある。既存のコードもスタイルの要求仕様に合うように適宜書き換えられている。 Linuxカーネルの創始者であるリーナス・トーバルズはこれについて、開発というものは大きな問題に対処することに注力すべきで、バグはセキュリティ関連以外にも山ほどあるのだから、セキュリティ問題だけに注力すべきでないと述べている(「全ての平凡なバグは、単にそれらが数が多いというだけでも、より重要である」)。2008年7月15日、彼はOpenBSDの方針を批判し「彼らはセキュリティに専念することを大々的に宣言することで、他のことは彼らにとって重要でないと認めているようなものだ」と述べた。これに対してOpenBSDの開発者Marc Espieは「これは全くの誤解だ...(通常のバグ修正は)OpenBSDプロジェクトで人々が常にやっていることそのものだ」と応答した。開発者Artur Grabowskiも驚きを表明し「この中で最もおかしな部分は...(トーバルズが)言っていることが我々の言っていることと同じだという点だ」と述べた。 暗号を組み込みファイアウォールスイートPFを備えるといったOpenBSDのセキュリティ強化により、セキュリティ関連での利用に適しており、ファイアウォール、侵入検知システム、VPNゲートウェイなどで特に利用されている。また、DoS攻撃やクラッキングへの耐性が必要なサーバでもよく使われており、spamdデーモンが含まれていることから電子メールフィルタリング用途にも使われることがある。 OpenBSDに基づいたプロプライエタリシステムもいくつかの業者が製品化している。例えば、Calyptix Security、GeNUA mbH、RTMX Inc、.vantronix GmbHなどがある。GeNUAは、i386プラットフォームでのSMP機能の開発に寄与し、RTMXはシステムをPOSIX準拠に近づけるためのパッチを送り、.vantronixはネットワークや負荷分散機能の追加に寄与した。OpenBSDのシステムツールのコードの多くは、マイクロソフトのServices for UNIXにも使われている(元々は4.4BSD-LiteをベースとしたUnix系機能をWindowsに提供する拡張)。Core Force はWindows向けのセキュリティ製品だが、OpenBSDのPFファイアウォールをベースにしている。組み込みシステム関係でOpenBSDを一部に利用しているプロジェクトとして、OpenSoekris、flashdist、flashrdなどがある。 OpenBSDにはX Window Systemが含まれている。そのためデスクトップあるいはワークステーションとしても利用でき、様々なデスクトップ環境やウィンドウマネージャを利用できる。Portsツリーにはデスクトップ用の各種ツールが含まれており、デスクトップ環境としてはLumina、GNOME、KDE、Xfce、ウェブブラウザとしてはKonqueror、Mozilla Firefox、Opera、マルチメディア関連ではMPlayer、VLCメディアプレーヤー、xineなどがある。互換レイヤーも利用可能で、Linux、FreeBSD、SunOS、HP-UX などの他のOS向けにコンパイルされたバイナリを実行できる。 OpenBSDは性能やユーザビリティの面で批判されることがある。Felix von Leitnerの性能/スケーラビリティのテストによれば、他のOSに比べて性能が低い。これに対してOpenBSD関係者はvon Leitnerの客観性と技法を批判しつつ、性能は確かに考慮に値するが、セキュリティの良さと正しい設計によって正当化されるとし、開発者Nick Hollandは「それは結局のところ、何を重要と考えるかに帰着する」とコメントした。また、OpenBSDはFreeBSDやLinuxに比べるとプロジェクトの規模が小さく、開発者の時間は性能の最適化よりもセキュリティ強化に費やされているように見える。ユーザビリティの批判としては、OpenBSDにはユーザーフレンドリーな設定ツールがない点、デフォルトのインストールがほぼ裸状態である点、インストーラが「簡素」で「威嚇的」な点を挙げることがある。これに対する反論も性能の場合とほぼ同じで、簡潔性、信頼性、セキュリティを重視した結果だという。あるレビューでは「極めてセキュアなOSを動作させることは、ちょっとした仕事と言えるかもしれない」と評している。 OpenBSDは様々な方法で無料で入手可能である。ソースは匿名CVSまたはCVSupで入手でき、バイナリ版リリースや開発スナップショットはFTPまたはHTTPでダウンロード可能である。CD-ROMのパッケージ版はわずかな代金でオンラインで注文でき、おまけとしてステッカーやリリースのテーマ曲が付いてくる。その収入やアート作品の代価や寄付金でプロジェクトが運営されており、ハードウェアなどのサイト運営費用を賄っている。OpenBSD 4.2までは、完全版のCD-ROMセットの売り上げを確保するため、小さなインストール用ISOイメージしかダウンロードできないようにしていた。OpenBSD 4.2から、完全版のISOイメージがダウンロードできるようになった。 他のいくつかのオペレーティングシステムと同様、OpenBSDではプログラムのインストールと管理を容易にするためにPortsとパッケージシステムを使っており、それらはOS本体の一部ではない。元々はFreeBSDのPortsツリーに基づいていたが、現在のシステムは全く異なる。さらに3.6のリリースで大きな変更が加えられ、特にパッケージツールをMarc EspieがPerlで書いた高機能なツールに置き換えた。FreeBSDとは対照的に、OpenBSDのPortsシステムは製品版のパッケージを生成することを意図している。Portをインストールするとパッケージが生成され、パッケージツールを使ってそれをインストールすることになる。リリースの度にOpenBSDチームがまとめてパッケージを作り、ダウンロード用に提供している。他のBSDの子孫と比較してユニークな点として、PortsとOS本体が各バージョンで共に開発されている点が挙げられる。すなわち、例えば3.7でリリースされたPortsやパッケージは3.6で使うのには適していない(逆も同様)。このポリシーによって開発プロセスの安定性が確保されているが、OpenBSDの最新リリースのPortsにあるソフトウェアは、そのソフトウェアの原作者の最新バージョンより若干遅れることがある。 OpenBSD 2.7がリリースされたころ、それまでのBSDデーモンに代わってオリジナルのマスコット Puffy を登場させた。これはフグ (pufferfish) とされている。実際のフグの多くはトゲがなく、Puffyの絵はどちらかといえばハリセンボンに近い。これは、OpenSSHがBlowfish(フグの意)暗号を使っていることと、ハリセンボンのトゲが外敵を防ぐイメージを表しているという。Puffyは OpenBSD 2.6 で最初に登場し、その後Tシャツやポスターに様々な姿で登場した。例えば、Puffiana Jonesはハッカー学者にして冒険家であり、Lost RAIDを追い求めている。Puffathyはアルバータの少女で、Taiwanと共に冒険する。Puff Daddyは有名なラッパーであり、政治的偶像である。 OpenBSDは、リリースごとに覚えやすいテーマ曲やコミカルなアート作品を生み出してきたことでも有名になった。初期のOpenBSDのリリースには統一感のあるプロモーション用素材はなかったが、OpenBSD 3.0のCD-ROM版以降、テーマ曲、ポスター、Tシャツなどをリリースごとに統一的に生み出しており、時にはカナダの音楽グループPlaid Tongued DevilsのTy Semakaが協力している。元々は単にユーモアを加えるだけの軽い意図だったが、コンセプトが成長するに従いそれらがOpenBSDの一部となり、パロディの形でプロジェクトの理念を表すようになっていった。例えば、OpenBSD 3.8 のテーマは Hackers of the Lost RAID、すなわちインディアナ・ジョーンズのパロディであり、新RAIDツールがリリースに加わったことと連携している。OpenBSD 3.7のテーマはThe Wizard of OSで、ピンク・フロイドの作品や『オズの魔法使』のパロディであり、無線通信関連のプロジェクトと連携している。OpenBSD 3.3のテーマPuff the Barbarianは80年代のロックや英雄コナンのパロディを含み、オープンドキュメンテーションを示唆している。 リリースごとのTシャツやポスターに書かれたスローガンに加え、プロジェクトは、"Sending script kiddies to /dev/null since 1995"、"Functional, secure, free — choose 3"、"Secure by default" といった様々なキャッチフレーズも生み出し、開発者のみの会合で配布されるTシャツに書かれた内部スローガンとして "World class security for much less than the price of a cruise missile" とか、"Shut up and hack!" といった言葉も生み出している。 順番は公式サイトに従う。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "OpenBSD(オープンビーエスディー)は、セキュリティや正当性(correctness)などを特に重視した、BSDをベースにして開発された、オープンソースの、Unix系オペレーティングシステム (OS)。NetBSDの主要開発者のひとりであるテオ・デ・ラート(Theo de Raadt)が、1995年にNetBSDからフォークさせる形で開発が始まったものであり、BSDの子孫のひとつである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "目標としているのは「正しい思想」(correctness) と「先制的なセキュリティ」(proactive security) である。オープンソースおよびドキュメンテーションの重視、ソフトウェアライセンスに妥協しない姿勢でも知られている。テオ・デ・ラートの自宅がアルバータ州カルガリーということで、暗号の輸出制限がないカナダを開発の本拠地としている。ロゴおよびマスコットはフグのPuffy。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "OpenBSDの目指す「正しい思想」には、GPLより制限の少ないBSD/ISCライセンスこそ真にフリーであるという意見や、正しく設計されたOSは移植が容易であるはずだという理念などが含まれる。もともとNetBSDから派生したため移植性は高いレベルにあったが、新しいプラットフォームへの移植のたびにコードが洗練されセキュリティの向上につながってきたとして、NetBSDとは別の観点から移植の意義を強調している。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "また「先制的なセキュリティ」とは、脆弱性が発見されてから問題を修正するのではなく、問題の起こりにくい設計や徹底したコード監査によって、事前にあらゆる危険性を排除しようとすることを意味する。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "そのため、通常のインストールではほとんどのサービスが起動しないようになっており、これまでに「デフォルトインストールでのリモートセキュリティホールが2つしか発見されていない」ことを売り文句にしている。 その2つとは、2002年に発見されたOpenSSHの桁あふれ問題と、2007年に発見されたIPv6スタックのバッファオーバーフローである。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "設計や仕様は文書化され、コーディングと同時にマニュアル (man) が更新されている。実態に即したマニュアルを保証することにより、管理者や開発者の無知・不注意に起因するセキュリティ問題を防止している。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "他のOSでも標準的に使われているSSHの代表的実装OpenSSHの他、C言語で文字列を安全に扱うためのstrlcpyとstrlcat、IPパケットをフィルタリングするPF(パケットフィルタ)、BSD系OSで暗号化ハードウェアサポートを可能にするOpenBSD Cryptographic Framework(英語版) (OCF) などは他のBSDの子孫達にも取り込まれている。", "title": "成果" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "CVSリポジトリを外部に公開したのはOpenBSDが最初だが、その後anonymous cvsはSubversionやGitなどの普及前の時期においてオープンソースプロジェクトの標準的な開発基盤となっていた。", "title": "成果" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1994年12月、NetBSDの立ち上げ時のメンバーでもあったテオ・デ・ラートは、上級開発者の地位とNetBSD中核チームメンバーという立場から退くよう要求され、ソースコードへのアクセスもできないようにされた。そうなった経緯は明らかではないが、NetBSDプロジェクトおよびメーリングリストでの性格の不一致が原因と言われている。テオはそれまでも周囲と衝突の絶えない性格を批判されていた。Peter Waynerは自著Free For Allの中でテオがNetBSDを離脱する直前「何人かの人々の気持ちを逆なでしはじめた」と書いている。リーナス・トーバルズはテオを「気難しい」と評している。あるインタビュアーは彼と会う前に「不安だ」ともらしている。しかし、そのように思わない人も多い。件のインタビュアーはテオがOpenBSDを立ち上げる際に「変化」し「チームの面倒を見ることを望んでいる」と述べた。彼が有能なプログラマであり、セキュリティに関する第一人者のひとりであることを否定する者はほとんどいない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1995年10月、テオはNetBSD 1.0からのフォークとしてOpenBSDプロジェクトを立ち上げた。最初のリリースは1996年7月のOpenBSD 1.2であり、同年10月にはOpenBSD 2.0をリリース。約半年ごとに新リリースが公開され、各リリースについて1年間サポートと保守を行う。ただし、開発者はシステム全体の整合性を保つ範囲でのみコードに変更を加えなくてはならないため、常時更新されているスナップショット版も安定して動作することが期待されている。2007年11月1日に公開されたOpenBSD 4.2は直前に急逝した萩野純一郎に捧げられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2007年7月25日、OpenBSD開発者Bob BeckはOpenBSD Foundationの創設を発表した。これはカナダの非営利団体で「個人や法人がOpenBSDをサポートしたい場合に対応する窓口として働く」ものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "OpenBSDがどれほど使われているかは確認が難しい。開発者側でも把握していないし統計も公表していないが、他の情報源が若干存在する。2005年9月、創設間もない BSD Certification Groupが利用状況の調査を行い、BSD系OS利用者の32.8%(4330件の回答のうち1420件)がOpenBSDを使っているという結果が得られた。同調査ではFreeBSDは77%、NetBSDは16.3%であり、OpenBSDは2位だった。DistroWatchというウェブサイトはLinuxコミュニティではよく知られているが、各Linuxディストリビューションと他のOSのサイトのヒット数を公表している。それによると2018年7月22日現在、OpenBSDのサイトには1日146ヒットがあり、79位となっている。ちなみにFreeBSDは1日295ヒットで33位、NetBSDは1日101ヒットで107位である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2016年9月1日の6.0のリリースに伴いEFIブートローダーを追加し、FATまたはextファイルシステムに代わって、FFSからU-Bootヘッダなしにカーネルを読み込めるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "OpenBSDプロジェクトが生まれた当時は、オープンソースプロジェクトであっても、ソースのリポジトリにアクセスできるのは選ばれた少人数の開発者チームだけというのが普通だった。この方式では、外部のコントリビュータは最新の開発状況を直接知ることができないため、貢献しようとしても作業がダブってしまい無駄になることが多かった。テオ・デ・ラートはソースを誰でもいつでも読めるようにすべきだと考え、Chuck Cranorの支援を求めた。Cranorは公開の匿名CVSサーバを立ち上げた。これはソフトウェア開発の世界で初の試みであり、この決断によりOpenBSDという名称が生まれ、ソースコードと文書へのアクセスをオープンにするという姿勢を表すようになった。", "title": "「オープン」という姿勢" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "OpenBSDのオープン性についての方針は、ハードウェアに関しても適用される。テオは2006年12月のプレゼンテーション用スライドで、ハードウェア仕様の詳細を示す文書が公開されていなければ「開発者がドライバを書く際に間違うことが多い」とし、「(やった、動いたぞ、という)快感を味わうことは難しく、開発者によってはあきらめてしまう」と説明している。更に、OpenBSDプロジェクトにとってベンダーの提供するバイナリドライバは信用できないし、「問題が生じても...修正する方法がない」ため、許容できないとした。また、ベンダーによるソースは「若干受け入れ可能」だが、依然として問題発生時に修正が困難だとしている。", "title": "「オープン」という姿勢" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "このような方針を示す出来事として、2005年3月、テオがopenbsd-miscというメーリングリストにポストしたメッセージを端緒とする議論がある。メッセージの中でテオは、アダプテックのAAC RAIDコントローラ用のデバイスドライバを改良するために、同社に必要な文書を開示してくれるよう4カ月に渡って交渉してきたが、開示されなかったことを明らかにし、OpenBSDコミュニティ全体に対して、アダプテックに彼らの意見を表明することを奨励した(このような行動はこれ以前にも行われている)。その直後、アダプテック元従業員で FreeBSD版AAC RAIDサポートの作者でもあるFreeBSDのコミッター Scott Long が、テオがアダプテックとのこの問題について彼に直接コンタクトを取らなかったとして、テオを酷評する文章をOSNewsというサイトで発表した。この件でfreebsd-questionsメーリングリストは議論が紛糾し、そこでOpenBSDプロジェクトのリーダーはScott Longから支援の申し出は全くなかったし、アダプテックからもLongを紹介されなかったと反論した。議論は、バイナリ・ブロブと秘密保持契約 (NDA) の使用を許容するかしないかという2派に分かれての激論に発展した。OpenBSDの開発者らは、ソースツリー内にプロプライエタリなバイナリドライバの存在を許さない立場で、NDAにも消極的である。これに対してFreeBSDプロジェクトの方針は異なり、Scott LongがOpenBSDへの支援として提案したアダプテックのRAID用コードの多くは、クローズドソースかNDA契約に基づいて書かれている。結局OpenBSD 3.7の締め切りまでの文書は提供されず、アダプテックのAAC RAIDコントローラサポートは、標準のOpenBSDカーネルからは削除された。", "title": "「オープン」という姿勢" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "OpenBSDプロジェクトの目標のひとつとして、「元々のバークレー版Unixの著作権の精神を保ち」、それによって「相対的に邪魔されることのないUnixソースのディストリビューション」を可能にすることを掲げている。このため、ベルヌ条約によって不要となる言い回しをBSDライセンスから削除して単純化したISCライセンスを新規コードに適用することを基本としているが、MITおよびBSDライセンスも許容している。広く使われているGNU General Public Licenseは、それらに比べると制限が厳しすぎると見なされている。不適切と見なされたライセンスで提供されているコードは、現在では基本システムには追加しない方針となっている。既存コードでそのようなライセンスで提供されているものは、可能な限り置換したりライセンスを変更しているが、適当な代替物がない場合や新たな開発に時間がかかる場合はそのままとなっている。ライセンス問題から開発したものとしてOpenSSHがある。元々の SSHスイートをベースとしてOpenBSDチームが開発したもので、OpenBSD 2.6で最初に登場し、今では最も広く使われているSSHの実装になっており、様々なOS上で利用可能である。同様なライセンス問題はIPFilterにもあり、その代替物としてPFパケットフィルタを開発した。OpenBSD 3.0で最初に登場し、現在ではDragonFly BSD、NetBSD、FreeBSD でも使える。最近ではGPLでライセンスされたdiff、grep、gzip、pkg-configなどのツールをBSDライセンスの代替物で置き換えている。また、新プロジェクトとしてOpenBGPD、OpenNTPD、OpenOSPFD、OpenSMTPDなども立ち上げている。2007年9月、OpenBSDチームはGNUコンパイラコレクション (GCC) を置き換える作業に乗りだし、手始めにAnders MagnussonによるBSDライセンスのPortable C Compiler (PCC) を導入した。", "title": "ライセンス" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2001年6月、Darren Reedがライセンスの文言を変えたことで懸念が生じ、OpenBSDの全Portsとソースツリーについての体系的なライセンスの監査が行われた。システム全体で100以上のファイルのコードについて、ライセンスが不明であるか、ライセンスに反した使い方をしていることが判明した。全てのライセンスを適切に遵守することを保証するため、それぞれの著作権者に連絡をとろうと試みた。結果として一部のコードは削除され、多くは置き換えられた。他に、ゼロックスが研究用途にのみライセンスしていたマルチキャストルーティングツール mrinfo と map-mbone などがあったが、ライセンスの変更を著作権者が受け入れたため、そのままOpenBSDで使うことができるようになった。この監査作業で削除されたソフトウェアとして、ダニエル・バーンスタインの作った全ソフトウェアがある。このときバーンスタインは、彼のコードの修正版を再配布する前に彼の承認を得ることを要求していたが、OpenBSDチームはそのための時間がないとしてその要求を退けたためである。これに対して、バーンスタインはいわれなく削除されたとして憤慨した。彼はもっとフリーでないライセンスで提供されているウェブブラウザNetscapeを引き合いに出し、彼のソフトウェアを削除しておいてNetscapeをそのままにしておくのは偽善だとOpenBSD開発者らを非難した。OpenBSDプロジェクトのスタンスは、Netscapeはオープンソースではないが、そのライセンス条件はプロジェクトの方針に適合しているというものだった。彼らは、派生物を制御しようとするバーンスタインの要求を受け入れると多大な労力が付随して必要になるため、削除が最も適切な対応だったとしている。", "title": "ライセンス" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "OpenBSDを始めた直後、テオ・デ・ラートはSecure Networks, Inc. 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"特権昇格を可能にするような設定ミスや脆弱性の危険を低減させるため、一部のプログラムでは特権分離、特権放棄、chrootの使用といった手法を採用している。このうち特権分離はOpenBSDでいち早く採用した技法で、最小特権の原則に基づいてプログラムを複数の部分に分け、一部にだけ特権の必要な操作を受け持たせて、他の大部分は特権なしで実行するという技法である。特権放棄も同様の技法で、必要なときだけ特権を得て操作を行い、その操作が終わったら特権を放棄するという技法である。chrootを使った技法は、アプリケーションがファイルシステムの一部だけを使って動作するようにし、個人的なファイルやシステムファイルのある部分にアクセスできないようにする。開発者らは一般的なアプリケーションのOpenBSD版にこのような技法を適用しており、例えばtcpdumpやApache Webサーバなどがそうなっている(Apacheについてはバージョン2.xではライセンス問題があるため、1.3.29に巨大なパッチをあてている)。なお、OpenBSD 6.0ではhttpdとしてApacheは実装されなくなり、nginxが採用された。", "title": "セキュリティとコード監査" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "プロジェクトは問題に対して継続的にコード監査する方針を採用しており、開発者Marc Epsieはこの作業を「特定のバグを見つけ出すというよりもプロセス自体への問いかけともいうべきもので...決して終わらない」と評した。彼はバグが見つかったときのいくつかの典型的工程を示しているが、その中には、同じまたは類似の問題がないかソースツリー全体を調査すること、「ドキュメンテーションを改正すべきかどうかを見つけ出すこと」、「この問題について警告を表示するようコンパイラを強化できないか」を調査すること、などが含まれる。標準の字下げスタイルはKernel Normal Formだが、これはコードの保守を容易にするための規定である。そのためコードをOSのベースに組み込む際には必ず守る必要がある。既存のコードもスタイルの要求仕様に合うように適宜書き換えられている。", "title": "セキュリティとコード監査" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "Linuxカーネルの創始者であるリーナス・トーバルズはこれについて、開発というものは大きな問題に対処することに注力すべきで、バグはセキュリティ関連以外にも山ほどあるのだから、セキュリティ問題だけに注力すべきでないと述べている(「全ての平凡なバグは、単にそれらが数が多いというだけでも、より重要である」)。2008年7月15日、彼はOpenBSDの方針を批判し「彼らはセキュリティに専念することを大々的に宣言することで、他のことは彼らにとって重要でないと認めているようなものだ」と述べた。これに対してOpenBSDの開発者Marc Espieは「これは全くの誤解だ...(通常のバグ修正は)OpenBSDプロジェクトで人々が常にやっていることそのものだ」と応答した。開発者Artur Grabowskiも驚きを表明し「この中で最もおかしな部分は...(トーバルズが)言っていることが我々の言っていることと同じだという点だ」と述べた。", "title": "セキュリティとコード監査" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "暗号を組み込みファイアウォールスイートPFを備えるといったOpenBSDのセキュリティ強化により、セキュリティ関連での利用に適しており、ファイアウォール、侵入検知システム、VPNゲートウェイなどで特に利用されている。また、DoS攻撃やクラッキングへの耐性が必要なサーバでもよく使われており、spamdデーモンが含まれていることから電子メールフィルタリング用途にも使われることがある。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "OpenBSDに基づいたプロプライエタリシステムもいくつかの業者が製品化している。例えば、Calyptix Security、GeNUA mbH、RTMX Inc、.vantronix GmbHなどがある。GeNUAは、i386プラットフォームでのSMP機能の開発に寄与し、RTMXはシステムをPOSIX準拠に近づけるためのパッチを送り、.vantronixはネットワークや負荷分散機能の追加に寄与した。OpenBSDのシステムツールのコードの多くは、マイクロソフトのServices for UNIXにも使われている(元々は4.4BSD-LiteをベースとしたUnix系機能をWindowsに提供する拡張)。Core Force はWindows向けのセキュリティ製品だが、OpenBSDのPFファイアウォールをベースにしている。組み込みシステム関係でOpenBSDを一部に利用しているプロジェクトとして、OpenSoekris、flashdist、flashrdなどがある。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "OpenBSDにはX Window Systemが含まれている。そのためデスクトップあるいはワークステーションとしても利用でき、様々なデスクトップ環境やウィンドウマネージャを利用できる。Portsツリーにはデスクトップ用の各種ツールが含まれており、デスクトップ環境としてはLumina、GNOME、KDE、Xfce、ウェブブラウザとしてはKonqueror、Mozilla Firefox、Opera、マルチメディア関連ではMPlayer、VLCメディアプレーヤー、xineなどがある。互換レイヤーも利用可能で、Linux、FreeBSD、SunOS、HP-UX などの他のOS向けにコンパイルされたバイナリを実行できる。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "OpenBSDは性能やユーザビリティの面で批判されることがある。Felix von Leitnerの性能/スケーラビリティのテストによれば、他のOSに比べて性能が低い。これに対してOpenBSD関係者はvon Leitnerの客観性と技法を批判しつつ、性能は確かに考慮に値するが、セキュリティの良さと正しい設計によって正当化されるとし、開発者Nick Hollandは「それは結局のところ、何を重要と考えるかに帰着する」とコメントした。また、OpenBSDはFreeBSDやLinuxに比べるとプロジェクトの規模が小さく、開発者の時間は性能の最適化よりもセキュリティ強化に費やされているように見える。ユーザビリティの批判としては、OpenBSDにはユーザーフレンドリーな設定ツールがない点、デフォルトのインストールがほぼ裸状態である点、インストーラが「簡素」で「威嚇的」な点を挙げることがある。これに対する反論も性能の場合とほぼ同じで、簡潔性、信頼性、セキュリティを重視した結果だという。あるレビューでは「極めてセキュアなOSを動作させることは、ちょっとした仕事と言えるかもしれない」と評している。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "OpenBSDは様々な方法で無料で入手可能である。ソースは匿名CVSまたはCVSupで入手でき、バイナリ版リリースや開発スナップショットはFTPまたはHTTPでダウンロード可能である。CD-ROMのパッケージ版はわずかな代金でオンラインで注文でき、おまけとしてステッカーやリリースのテーマ曲が付いてくる。その収入やアート作品の代価や寄付金でプロジェクトが運営されており、ハードウェアなどのサイト運営費用を賄っている。OpenBSD 4.2までは、完全版のCD-ROMセットの売り上げを確保するため、小さなインストール用ISOイメージしかダウンロードできないようにしていた。OpenBSD 4.2から、完全版のISOイメージがダウンロードできるようになった。", "title": "ディストリビューションとマーケティング" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "他のいくつかのオペレーティングシステムと同様、OpenBSDではプログラムのインストールと管理を容易にするためにPortsとパッケージシステムを使っており、それらはOS本体の一部ではない。元々はFreeBSDのPortsツリーに基づいていたが、現在のシステムは全く異なる。さらに3.6のリリースで大きな変更が加えられ、特にパッケージツールをMarc EspieがPerlで書いた高機能なツールに置き換えた。FreeBSDとは対照的に、OpenBSDのPortsシステムは製品版のパッケージを生成することを意図している。Portをインストールするとパッケージが生成され、パッケージツールを使ってそれをインストールすることになる。リリースの度にOpenBSDチームがまとめてパッケージを作り、ダウンロード用に提供している。他のBSDの子孫と比較してユニークな点として、PortsとOS本体が各バージョンで共に開発されている点が挙げられる。すなわち、例えば3.7でリリースされたPortsやパッケージは3.6で使うのには適していない(逆も同様)。このポリシーによって開発プロセスの安定性が確保されているが、OpenBSDの最新リリースのPortsにあるソフトウェアは、そのソフトウェアの原作者の最新バージョンより若干遅れることがある。", "title": "ディストリビューションとマーケティング" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "OpenBSD 2.7がリリースされたころ、それまでのBSDデーモンに代わってオリジナルのマスコット Puffy を登場させた。これはフグ (pufferfish) とされている。実際のフグの多くはトゲがなく、Puffyの絵はどちらかといえばハリセンボンに近い。これは、OpenSSHがBlowfish(フグの意)暗号を使っていることと、ハリセンボンのトゲが外敵を防ぐイメージを表しているという。Puffyは OpenBSD 2.6 で最初に登場し、その後Tシャツやポスターに様々な姿で登場した。例えば、Puffiana Jonesはハッカー学者にして冒険家であり、Lost RAIDを追い求めている。Puffathyはアルバータの少女で、Taiwanと共に冒険する。Puff Daddyは有名なラッパーであり、政治的偶像である。", "title": "ディストリビューションとマーケティング" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "OpenBSDは、リリースごとに覚えやすいテーマ曲やコミカルなアート作品を生み出してきたことでも有名になった。初期のOpenBSDのリリースには統一感のあるプロモーション用素材はなかったが、OpenBSD 3.0のCD-ROM版以降、テーマ曲、ポスター、Tシャツなどをリリースごとに統一的に生み出しており、時にはカナダの音楽グループPlaid Tongued DevilsのTy Semakaが協力している。元々は単にユーモアを加えるだけの軽い意図だったが、コンセプトが成長するに従いそれらがOpenBSDの一部となり、パロディの形でプロジェクトの理念を表すようになっていった。例えば、OpenBSD 3.8 のテーマは Hackers of the Lost RAID、すなわちインディアナ・ジョーンズのパロディであり、新RAIDツールがリリースに加わったことと連携している。OpenBSD 3.7のテーマはThe Wizard of OSで、ピンク・フロイドの作品や『オズの魔法使』のパロディであり、無線通信関連のプロジェクトと連携している。OpenBSD 3.3のテーマPuff the Barbarianは80年代のロックや英雄コナンのパロディを含み、オープンドキュメンテーションを示唆している。", "title": "ディストリビューションとマーケティング" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "リリースごとのTシャツやポスターに書かれたスローガンに加え、プロジェクトは、\"Sending script kiddies to /dev/null since 1995\"、\"Functional, secure, free — choose 3\"、\"Secure by default\" といった様々なキャッチフレーズも生み出し、開発者のみの会合で配布されるTシャツに書かれた内部スローガンとして \"World class security for much less than the price of a cruise missile\" とか、\"Shut up and hack!\" といった言葉も生み出している。", "title": "ディストリビューションとマーケティング" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "順番は公式サイトに従う。", "title": "対応プラットフォーム" } ]
OpenBSD(オープンビーエスディー)は、セキュリティや正当性(correctness)などを特に重視した、BSDをベースにして開発された、オープンソースの、Unix系オペレーティングシステム (OS)。NetBSDの主要開発者のひとりであるテオ・デ・ラートが、1995年にNetBSDからフォークさせる形で開発が始まったものであり、BSDの子孫のひとつである。
{{Infobox OS |name = OpenBSD |logo = [[File:OpenBSD textual logo.svg|250px|ロゴ]] |screenshot = OpenBSD 7.0 fvwm screenshot.png |caption = OpenBSD 7.0 [[FVWM]]環境 |developer = OpenBSD プロジェクト |family = [[Berkeley Software Distribution|BSD]] |source_model = [[オープンソース]] |frequently_updated = yes <!-- バージョンを更新するときはこのページを編集せず、番号部分をクリックしてその先のテンプレートで番号と日付を更新して下さい --> |kernel_type = [[モノリシックカーネル|モノリシック]] |ui = 変更の入った[[KornShell|pdksh]]、[[X Window System|X11]]上の[[FVWM]] 2.2.5 |licence = [[BSDライセンス|BSD]]、[[ISCライセンス|ISC]]、[[パーミッシブ・ライセンス|パーミッシブ]] |working_state = 開発中 |supported_platforms = [[#対応プラットフォーム|後述]] |package_manager = OpenBSD のパッケージツールおよび [[Ports]] |website = {{URL|https://www.openbsd.org/}} }} '''OpenBSD'''(オープンビーエスディー)は、セキュリティや正当性({{lang|en|correctness}})などを特に重視した、[[BSDの子孫|BSDをベースにして開発された]]、[[オープンソース]]の、[[Unix系]][[オペレーティングシステム]] (OS)。[[NetBSD]]の主要開発者のひとりである[[テオ・デ・ラート]](Theo de Raadt)が、[[1995年]]にNetBSDから[[フォーク (ソフトウェア開発)|フォーク]]させる形で開発が始まったものであり、[[BSDの子孫]]のひとつである。 == 特徴 == 目標としているのは「正しい思想」(correctness) と「先制的なセキュリティ」(proactive security) である。[[オープンソース]]および[[ドキュメンテーション]]の重視、[[ソフトウェアライセンス]]に妥協しない姿勢でも知られている。テオ・デ・ラートの自宅が[[アルバータ州]][[カルガリー]]ということで、[[暗号]]の輸出制限がない[[カナダ]]を開発の本拠地としている。ロゴおよびマスコットは[[フグ]]のPuffy。 OpenBSDの目指す「正しい思想」には、[[GNU General Public License|GPL]]より制限の少ない[[BSDライセンス|BSD]]/[[ISCライセンス|ISC]]ライセンスこそ真にフリーであるという意見や、正しく設計されたOSは移植が容易であるはずだという理念などが含まれる。もともとNetBSDから派生したため移植性は高いレベルにあったが、新しいプラットフォームへの移植のたびにコードが洗練されセキュリティの向上につながってきたとして、NetBSDとは別の観点から移植の意義を強調している。 また「先制的なセキュリティ」とは、[[セキュリティホール#脆弱性|脆弱性]]が発見されてから問題を修正するのではなく、問題の起こりにくい設計や徹底したコード監査によって、事前にあらゆる危険性を排除しようとすることを意味する。 そのため、通常のインストールではほとんどのサービスが起動しないようになっており、これまでに「デフォルトインストールでのリモート[[セキュリティホール]]が2つしか発見されていない」{{efn|この数には、[[DoS攻撃]]やデフォルトで起動しない[[デーモン (ソフトウェア)|デーモン]]の脆弱性は含まれていない。}}ことを売り文句にしている。 その2つとは、[[2002年]]に発見された[[OpenSSH]]の桁あふれ問題<ref>[http://www.iss.net/threats/advise123.html]</ref>と、[[2007年]]に発見された[[IPv6]]スタックの[[バッファオーバーラン|バッファオーバーフロー]]<ref>[http://www.coresecurity.com/?action=item&id=1703]</ref>である。 設計や仕様は文書化され、コーディングと同時に[[UNIXマニュアル|マニュアル]] (man) が更新されている。実態に即したマニュアルを保証することにより、管理者や開発者の無知・不注意に起因するセキュリティ問題を防止している。 == 成果 == 他のOSでも標準的に使われている[[Secure Shell|SSH]]の代表的実装[[OpenSSH]]の他、[[C言語]]で文字列を安全に扱うための[[strlcpy]]と[[strlcat]]、IPパケットをフィルタリングする[[PF (ファイアウォール)|PF]](パケットフィルタ)、BSD系OSで暗号化ハードウェアサポートを可能にする{{仮リンク|OpenBSD Cryptographic Framework|en|OpenBSD Cryptographic Framework}} (OCF) などは他の[[BSDの子孫]]達にも取り込まれている。 [[Concurrent Versions System|CVS]][[リポジトリ]]を外部に公開したのはOpenBSDが最初だが、その後anonymous cvsは[[Subversion]]や[[Git]]などの普及前の時期においてオープンソースプロジェクトの標準的な開発基盤となっていた。 == 歴史 == 1994年12月、NetBSDの立ち上げ時のメンバーでもあった[[テオ・デ・ラート]]は、上級開発者の地位とNetBSD中核チームメンバーという立場から退くよう要求され、ソースコードへのアクセスもできないようにされた。そうなった経緯は明らかではないが、NetBSDプロジェクトおよび[[メーリングリスト]]での性格の不一致が原因と言われている<ref>Glass, Adam. Message to netbsd-users: ''[http://mail-index.netbsd.org/netbsd-users/1994/12/23/0000.html Theo De Raadt(sic)],'' December 23, 1994. Visited January 8, 2006.</ref>。テオはそれまでも周囲と衝突の絶えない性格を批判されていた。Peter Waynerは自著''Free For All''の中でテオがNetBSDを離脱する直前「何人かの人々の気持ちを逆なでしはじめた」と書いている<ref>Wayner, Peter. ''Free For All: How Linux and the Free Software Movement Undercut the High Tech Titans,'' [http://www.jus.uio.no/sisu/free_for_all.peter_wayner/18.html#987 18.3 Flames, Fights, and the Birth of OpenBSD], 2000. Visited January 6, 2006.</ref>。[[リーナス・トーバルズ]]はテオを「気難しい」と評している<ref>Forbes. ''[http://www.forbes.com/intelligentinfrastructure/2005/06/16/linux-bsd-unix-cz_dl_0616theo.html Is Linux For Losers?]'' June 16, 2005. Visited January 8, 2006.</ref>。あるインタビュアーは彼と会う前に「不安だ」ともらしている<ref>NewsForge. ''[http://www.linux.com/archive/articles/7543 Theo de Raadt gives it all to OpenBSD],'' January 30, 2001. Visited January 8, 2006.</ref>。しかし、そのように思わない人も多い。件のインタビュアーはテオがOpenBSDを立ち上げる際に「変化」し「チームの面倒を見ることを望んでいる」と述べた。彼が有能な[[プログラマ]]であり{{efn|[http://mail-index.netbsd.org/netbsd-users/1994/12/23/0000.html このメール]内でNetBSD中核チームは、テオ自身がどうであれ、彼が多大な貢献をしたことを認めている。}}、セキュリティに関する第一人者のひとり<ref>Tux Journal. ''[http://www.unixuser.org/~euske/doc/openssh/theointerview2005.html A good morning with: Theo de Raadt(日本語訳)],'' June 2, 2005.(原文) 2009年11月13日閲覧</ref>であることを否定する者はほとんどいない。 [[ファイル:Bsd distributions usage.svg|right|thumb|各種BSD系OSのユーザー数を比較した[[棒グラフ]]。複数回答あり。2005 BSD usage survey<ref name=survey />]] 1995年10月、テオはNetBSD 1.0からのフォークとしてOpenBSDプロジェクトを立ち上げた。最初のリリースは1996年7月のOpenBSD 1.2であり、同年10月にはOpenBSD 2.0をリリース<ref>de Raadt, Theo. Mail to openbsd-announce: ''[http://www.monkey.org/openbsd/archive2/announce/199610/msg00001.html The OpenBSD 2.0 release],'' October 18, 1996. Visited December 10, 2005.</ref>。約半年ごとに新リリースが公開され、各リリースについて1年間サポートと保守を行う。ただし、開発者はシステム全体の整合性を保つ範囲でのみコードに変更を加えなくてはならないため、常時更新されているスナップショット版も安定して動作することが期待されている。[[2007年]][[11月1日]]に公開されたOpenBSD 4.2は直前に急逝した[[萩野純一郎]]に捧げられている[ftp://ftp.openbsd.org/pub/OpenBSD/4.2/ANNOUNCEMENT]。 [[File:OpenBSD hackers at c2k++ at MIT.jpg|thumb|left|[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]で開催されたc2k1の[[ハッカソン]]イベントに参加するOpenBSDの開発者たち(2006年)]] 2007年7月25日、OpenBSD開発者Bob Beckは[[OpenBSD Foundation]]の創設を発表した<ref>[http://www.openbsdfoundation.org Official OpenBSD Foundation site.]</ref>。これはカナダの[[非営利団体]]で「個人や法人がOpenBSDをサポートしたい場合に対応する窓口として働く」ものである<ref>Beck, Bob. Mail to openbsd-misc: ''[http://www.nabble.com/Announcing%3A-The-OpenBSD-Foundation-p11801927.html Announcing: The OpenBSD Foundation],'' July 25, 2007. Visited July 26, 2007.</ref>。 OpenBSDがどれほど使われているかは確認が難しい。開発者側でも把握していないし統計も公表していないが、他の情報源が若干存在する。2005年9月、創設間もない BSD Certification Groupが利用状況の調査を行い、BSD系OS利用者の32.8%(4330件の回答のうち1420件)がOpenBSDを使っているという結果が得られた<ref name=survey>[http://www.bsdcertification.org/ The BSD Certification Group.]; [[Portable Document Format|PDF]] of [http://www.bsdcertification.org/downloads/pr_20051031_usage_survey_en_en.pdf usage survey results].</ref>。同調査では[[FreeBSD]]は77%、NetBSDは16.3%であり、OpenBSDは2位だった{{efn|複数回答が可能なため、複数種類のBSD系OSを使っているユーザーもいる。}}。[[DistroWatch]]という[[ウェブサイト]]は[[Linux]]コミュニティではよく知られているが、各[[Linuxディストリビューション]]と他のOSのサイトのヒット数を公表している。それによると2018年7月22日現在、OpenBSDのサイトには1日146ヒットがあり、79位となっている。ちなみにFreeBSDは1日295ヒットで33位、NetBSDは1日101ヒットで107位である。 2016年9月1日の6.0のリリースに伴い[[Unified Extensible Firmware Interface|EFI]]ブートローダーを追加し、[[File Allocation Table|FAT]]または[[ext|extファイルシステム]]に代わって、[[Unix File System|FFS]]から[[Das U-Boot|U-Boot]]ヘッダなしにカーネルを読み込めるようになった<ref name="6.0_release">{{Cite web|和書|url=https://mag.osdn.jp/16/09/02/150000 |title=「OpenBSD 6.0」が公開 |author=末岡洋子 |publisher=OSDN Corporation |date=2016-09-02 |accessdate=2016-09-02}}</ref>。 == 「オープン」という姿勢 == OpenBSDプロジェクトが生まれた当時は、オープンソースプロジェクトであっても、ソースのリポジトリにアクセスできるのは選ばれた少人数の開発者チームだけというのが普通だった。この方式では、外部のコントリビュータは最新の開発状況を直接知ることができないため、貢献しようとしても作業がダブってしまい無駄になることが多かった。テオ・デ・ラートはソースを誰でもいつでも読めるようにすべきだと考え、Chuck Cranorの支援を求めた<ref>[http://chuck.cranor.org/ Chuck Cranor's site].</ref>。Cranorは公開の匿名[[Concurrent Versions System|CVS]]サーバを立ち上げた。これはソフトウェア開発の世界で初の試みであり、この決断により''OpenBSD''という名称が生まれ、ソースコードと文書へのアクセスをオープンにするという姿勢を表すようになった。 OpenBSDのオープン性についての方針は、ハードウェアに関しても適用される。テオは2006年12月のプレゼンテーション用スライドで、ハードウェア仕様の詳細を示す文書が公開されていなければ「開発者がドライバを書く際に間違うことが多い」とし、「(やった、動いたぞ、という)快感を味わうことは難しく、開発者によってはあきらめてしまう」と説明している<ref>de Raadt, Theo. ''[http://www.openbsd.org/papers/opencon06-docs/index.html Presentation at OpenCON],'' December 2006. Visited December 7, 2006.</ref>。更に、OpenBSDプロジェクトにとってベンダーの提供するバイナリドライバは信用できないし、「問題が生じても…修正する方法がない」ため、許容できないとした。また、ベンダーによるソースは「若干受け入れ可能」だが、依然として問題発生時に修正が困難だとしている。 このような方針を示す出来事として、2005年3月、テオが''openbsd-misc''というメーリングリストにポストしたメッセージ<ref>de Raadt, Theo. Mail to openbsd-misc: ''[http://marc.theaimsgroup.com/?l=openbsd-misc&m=111118558813932 Adaptec AAC raid support],'' March 18, 2005. Visited December 9, 2005.</ref>を端緒とする議論がある。メッセージの中でテオは、[[アダプテック]]のAAC [[RAID]]コントローラ用の[[デバイスドライバ]]を改良するために、同社に必要な文書を開示してくれるよう4カ月に渡って交渉してきたが、開示されなかったことを明らかにし、OpenBSDコミュニティ全体に対して、アダプテックに彼らの意見を表明することを奨励した(このような行動はこれ以前にも行われている)。その直後、アダプテック元従業員で FreeBSD版AAC RAIDサポートの作者でもあるFreeBSDの[[コミッター]] Scott Long<ref>[http://people.freebsd.org/~scottl/ Scott Long's site].</ref> が、テオがアダプテックとのこの問題について彼に直接コンタクトを取らなかったとして、テオを酷評する文章を[[:en:OSNews|OSNews]]というサイトで発表した<ref>Long, Scott. Post to OSNews: ''[http://osnews.com/comment.php?news_id=10032&offset=15&rows=28#350222 From a BSD and former Adaptec person...],'' March 19, 2005. Visited December 9, 2005.</ref>。この件で''freebsd-questions''メーリングリストは議論が紛糾し、そこでOpenBSDプロジェクトのリーダーはScott Longから支援の申し出は全くなかったし、アダプテックからもLongを紹介されなかったと反論した<ref>de Raadt, Theo. Mail to freebsd-questions: ''[http://lists.freebsd.org/pipermail/freebsd-questions/2005-March/081294.html aac support],'' March 19, 2005. Visited December 9, 2005.</ref>。議論は、[[バイナリ・ブロブ]]と[[秘密保持契約]] (NDA) の使用を許容するかしないかという2派に分かれての激論に発展した<ref>de Raadt, Theo. Mail to freebsd-questions: ''[http://lists.freebsd.org/pipermail/freebsd-questions/2005-March/081313.html aac support],'' March 19, 2005. Visited December 9, 2005.</ref>。OpenBSDの開発者らは、ソースツリー内に[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]なバイナリドライバの存在を許さない立場で、NDAにも消極的である。これに対してFreeBSDプロジェクトの方針は異なり、Scott LongがOpenBSDへの支援として提案したアダプテックのRAID用コードの多くは、クローズドソースかNDA契約に基づいて書かれている。結局OpenBSD 3.7の締め切りまでの文書は提供されず、アダプテックのAAC RAIDコントローラサポートは、標準のOpenBSDカーネルからは削除された。 == ライセンス == [[ファイル:Openbsd37withjwm.png|thumb|250px|right|OpenBSD 3.7 で動作中の[[X.Org Server|X.Org]]。[[ウィンドウマネージャ]]は[[Jwm|JWM]]]] OpenBSDプロジェクトの目標のひとつとして、「元々のバークレー版Unixの[[著作権]]の精神を保ち」、それによって「相対的に邪魔されることのないUnixソースのディストリビューション」を可能にすることを掲げている<ref>OpenBSD.org. ''[http://www.openbsd.org/policy.html Copyright Policy].'' Visited January 7, 2006.</ref>。このため、[[文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約|ベルヌ条約]]によって不要となる言い回しをBSDライセンスから削除して単純化した[[ISCライセンス]]を新規コードに適用することを基本としているが、[[MIT License|MIT]]および[[BSDライセンス]]も許容している。広く使われている[[GNU General Public License]]は、それらに比べると制限が厳しすぎると見なされている<ref>Linux.com. ''[http://www.linux.com/archive/feature/45572 BSD cognoscenti on Linux],'' June 15, 2005. Visited January 7, 2006.</ref>。不適切と見なされたライセンスで提供されているコードは、現在では基本システムには追加しない方針となっている。既存コードでそのようなライセンスで提供されているものは、可能な限り置換したりライセンスを変更しているが、適当な代替物がない場合や新たな開発に時間がかかる場合はそのままとなっている。ライセンス問題から開発したものとして[[OpenSSH]]がある。元々の [[Secure Shell|SSH]]スイートをベースとしてOpenBSDチームが開発したもので、OpenBSD 2.6で最初に登場し、今では最も広く使われているSSHの実装になっており、様々なOS上で利用可能である。同様なライセンス問題は[[IPFilter]]にもあり、その代替物として[[PF (ファイアウォール)|PF]][[ファイアウォール|パケットフィルタ]]を開発した<ref>Hartmeier, Daniel. [http://www.benzedrine.cx/pf-paper.html Design and Performance of the OpenBSD Stateful Packet Filter (pf)]. Visited December 9, 2005.</ref>。OpenBSD 3.0で最初に登場し、現在では[[DragonFly BSD]]、NetBSD、FreeBSD でも使える。最近ではGPLでライセンスされた[[diff]]、[[grep]]、[[gzip]]、[[pkg-config]]などのツールをBSDライセンスの代替物で置き換えている。また、新プロジェクトとして[[OpenBGPD]]、[[OpenNTPD]]、OpenOSPFD、OpenSMTPDなども立ち上げている。2007年9月、OpenBSDチームは[[GNUコンパイラコレクション]] (GCC) を置き換える作業に乗りだし、手始めにAnders MagnussonによるBSDライセンスの[[Portable C Compiler]] (PCC) を導入した<ref>CVS [http://marc.info/?l=openbsd-cvs&m=118988004013923&w=2 log message] of the import. Visited September 21, 2007.</ref>。 2001年6月、Darren Reedがライセンスの文言を変えたことで懸念が生じ、OpenBSDの全[[Ports]]とソースツリーについての体系的なライセンスの監査が行われた<ref>Linux.com. ''[http://www.linux.com/feature/12774 OpenBSD and ipfilter still fighting over license disagreement],'' June 06, 2001. Visited May 4, 2009.</ref>。システム全体で100以上のファイルのコードについて、ライセンスが不明であるか、ライセンスに反した使い方をしていることが判明した。全てのライセンスを適切に遵守することを保証するため、それぞれの著作権者に連絡をとろうと試みた。結果として一部のコードは削除され、多くは置き換えられた。他に、[[ゼロックス]]が研究用途にのみライセンスしていた[[マルチキャスト]][[ルーティング]]ツール mrinfo と map-mbone<ref>Man pages: [http://www.openbsd.org/cgi-bin/man.cgi?query=mrinfo mrinfo] and [http://www.openbsd.org/cgi-bin/man.cgi?query=map-mbone map-mbone].</ref> などがあったが、ライセンスの変更を著作権者が受け入れたため、そのままOpenBSDで使うことができるようになった。この監査作業で削除されたソフトウェアとして、[[ダニエル・バーンスタイン]]の作った全ソフトウェアがある。このときバーンスタインは、彼のコードの修正版を再配布する前に彼の承認を得ることを要求していたが、OpenBSDチームはそのための時間がないとしてその要求を退けたためである<ref>de Raadt, Theo. Mail to openbsd-misc: ''[http://archives.neohapsis.com/archives/openbsd/2001-08/2544.html Re: Why were all DJB's ports removed? No more qmail?],'' August 24, 2001. Visited December 9, 2005.</ref>。これに対して、バーンスタインはいわれなく削除されたとして憤慨した。彼はもっとフリーでないライセンスで提供されている[[ウェブブラウザ]][[Netscapeシリーズ|Netscape]]を引き合いに出し、彼のソフトウェアを削除しておいてNetscapeをそのままにしておくのは偽善だとOpenBSD開発者らを非難した<ref>Bernstein, DJ. Mail to openbsd-misc: ''[http://archives.neohapsis.com/archives/openbsd/2001-08/2812.html Re: Why were all DJB's ports removed? No more qmail?],'' August 27, 2001. Visited December 9, 2005.</ref>。OpenBSDプロジェクトのスタンスは、Netscapeはオープンソースではないが、そのライセンス条件はプロジェクトの方針に適合しているというものだった<ref>Espie, Marc. Mail to openbsd-misc: ''[http://archives.neohapsis.com/archives/openbsd/2001-08/2864.html Re: Why were all DJB's ports removed? No more qmail?],'' August 28, 2001. Visited December 9, 2005.</ref>。彼らは、派生物を制御しようとするバーンスタインの要求を受け入れると多大な労力が付随して必要になるため、削除が最も適切な対応だったとしている。 == セキュリティとコード監査 == OpenBSDを始めた直後、テオ・デ・ラートはSecure Networks, Inc. (SNI) というソフトウェア企業からの接触を受けた<ref>The Age. ''[http://www.theage.com.au/articles/2004/10/07/1097089476287.html Staying on the cutting edge],'' October 8, 2004. Visited January 8, 2006.</ref><ref>ONLamp.com. Interview with OpenBSD developers: ''[http://www.onlamp.com/pub/a/bsd/2003/07/17/openbsd_core_team.html The Essence of OpenBSD],'' July 17, 2003. Visited December 18, 2005.</ref>。SNIは「ネットワークセキュリティ監査ツール」Ballista(SNIが[[マカフィー]]に買収された後にはCybercop Scannerと改称)を開発しており、それはソフトウェアのセキュリティ上の欠陥を見つけ出し[[エクスプロイト|利用]]できるか確認するというものだった。これはテオ自身のセキュリティへの関心と共通していたので、両者は協力することに合意し、その関係はOpenBSD 2.3のリリースまで続き<ref>Theo de Raadt on SNI: "Without their support at the right time, this release probably would not have happened." From the [http://www.monkey.org/openbsd/archive/misc/9805/msg00308.html 2.3 release announcement]. Visited December 19, 2005.</ref>、プロジェクトの方向性に影響を与えた。OpenBSDの開発者は、容易さや性能や機能を犠牲にしてでも、正しく適切でセキュアな方法を選択しようとする。OpenBSDの中のバグは見つかったとしてもセキュリティホールとして利用しづらいものになっていき、SNIはOpenBSDを使った確認が困難になってきた。数年の協力の後、両者は目標としていたレベルに到達したと判断し、協力関係を解消した。 2002年6月まで、OpenBSDは次のようなスローガンをウェブサイトに掲げていた。 {{cquote|Five years without a remote hole in the default install!(5年間、デフォルトのインストールでセキュリティホールが見つかっていない)}} 2002年6月、[[:en:IBM Internet Security Systems|Internet Security Systems]] の Mark Dowd は[[チャレンジ-レスポンス型認証|チャレンジ-レスポンス型]][[認証]]を実装した[[OpenSSH]]のコードにバグを見つけた<ref>Internet Security Systems. [http://www.iss.net/threats/advise123.html OpenSSH Remote Challenge Vulnerability], June 26, 2002. Visited December 17, 2005.</ref>。この[[セキュリティホール]]は、OpenBSDのデフォルトのインストールでも[[エクスプロイト|利用]]でき、攻撃者がリモートからのアクセスで[[スーパーユーザー|root]]特権を得ることができる。これはOpenBSDだけの問題ではなく、当時OpenSSHを利用していた他のOSにとっても大きな問題だった<ref>[http://xforce.iss.net/xforce/xfdb/9169 A partial list of affected operating systems].</ref>。このため、OpenBSDのウェブサイトでもスローガンを次のように変更せざるを得なくなった。 {{cquote|One remote hole in the default install, in nearly 6 years!(6年間弱で、デフォルトのインストールでのセキュリティホールは1件)}} しばらくはこのスローガンで推移したが、2007年3月13日、Core Security Technologies<ref>[http://www.coresecurity.com Core Security Technologies' homepage].</ref> の Alfredo Ortega ネットワーク関連の脆弱性を発見した<ref>Core Security Technologies. ''[http://www.coresecurity.com/content/open-bsd-advisorie OpenBSD's IPv6 mbufs remote kernel buffer overflow.]'' March 13, 2007. Visited March 13, 2007.</ref>。スローガンは次のように変更された。 {{cquote|Only two remote holes in the default install, in a heck of a long time!(ものすごい長期間で、デフォルトのインストールでのセキュリティホールはたったの2件)}} このスローガンについては、OpenBSDのデフォルトのインストールではほとんど何もできないし、リリースに含まれているソフトウェアには他にもセキュリティホールが見つかったものがあると批判されている。しかしプロジェクト側は、デフォルトのインストールであることを強調しているのだから間違いではないとしている。OpenBSDの基本的考え方として、システムをシンプルでクリーンで[[:en:secure by default|secure by default]]に保つという方向性がある。例えばOpenBSDの最小のデフォルト構成では、ごく一部のサービスしか有効にしない。このプロジェクトはまた、セキュリティシステムの重要な要素とされているオープンソースとコード監査手法を使っている<ref>Wheeler, David A. Secure Programming for Linux and Unix HOWTO, [http://www.dwheeler.com/secure-programs/Secure-Programs-HOWTO/open-source-security.html 2.4. Is Open Source Good for Security?], March 3, 2003. Visited December 10, 2005.</ref>。 [[ファイル:OpenBSD 7.0 boot screenshot.png|thumb|250px|right|OpenBSD 7.0の[[ブート]]画面。]] OpenBSDにはセキュリティ強化のための設計変更がいくつも加えられている。例えば、[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]と[[ツールチェーン]]の変更としては、''arc4random''、''issetugid''、''strlcat''、''strlcpy''、''strtonum''といった[[サブルーチン|関数]]の修正がある。他にも[[静的コード解析|静的境界チェック機構]]、不正アクセスからの保護のためのメモリ保護技法として、ProPolice、StackGhost、[[NXビット#W^X|W^X]]による[[ページング方式|ページ]]保護機能、''[[malloc]]''の修正などがある。また、[[暗号]]およびランダム化機能として、[[プロトコルスタック]]の強化や[[パスワード]]暗号化への[[Blowfish]]暗号の追加などがある。 [[特権昇格]]を可能にするような設定ミスや脆弱性の危険を低減させるため、一部のプログラムでは[[特権分離]]、[[特権放棄]]、[[chroot]]の使用といった手法を採用している。このうち特権分離はOpenBSDでいち早く採用した技法で、[[最小特権の原則]]に基づいてプログラムを複数の部分に分け、一部にだけ特権の必要な操作を受け持たせて、他の大部分は特権なしで実行するという技法である<ref>Provos, Niels. [http://www.citi.umich.edu/u/provos/ssh/privsep.html Privilege Separated OpenSSH]. Visited January 30, 2006.</ref>。特権放棄も同様の技法で、必要なときだけ特権を得て操作を行い、その操作が終わったら特権を放棄するという技法である。chrootを使った技法は、アプリケーションが[[ファイルシステム]]の一部だけを使って動作するようにし、個人的なファイルやシステムファイルのある部分にアクセスできないようにする。開発者らは一般的なアプリケーションのOpenBSD版にこのような技法を適用しており、例えば[[tcpdump]]や[[Apache HTTP Server|Apache]] [[Webサーバ]]などがそうなっている(Apacheについてはバージョン2.xではライセンス問題があるため、1.3.29に巨大な[[パッチ]]をあてている)。なお、OpenBSD 6.0ではhttpdとしてApacheは実装されなくなり、[[nginx]]が採用された。 プロジェクトは問題に対して継続的にコード監査する方針を採用しており、開発者Marc Epsieはこの作業を「特定のバグを見つけ出すというよりもプロセス自体への問いかけともいうべきもので…決して終わらない」と評した<ref>O'Reilly Network. ''[http://www.onlamp.com/pub/a/bsd/2004/03/18/marc_espie.html An Interview with OpenBSD's Marc Espie],'' March 18, 2004. Visited January 24, 2006.</ref>。彼はバグが見つかったときのいくつかの典型的工程を示しているが、その中には、同じまたは類似の問題がないかソースツリー全体を調査すること、「ドキュメンテーションを改正すべきかどうかを見つけ出すこと」、「この問題について警告を表示するよう[[コンパイラ]]を強化できないか」を調査すること、などが含まれる。標準の[[字下げスタイル]]は[[字下げスタイル#BSD/KNFスタイル|Kernel Normal Form]]だが、これはコードの保守を容易にするための規定である。そのためコードをOSのベースに組み込む際には必ず守る必要がある。既存のコードもスタイルの要求仕様に合うように適宜書き換えられている。 [[Linuxカーネル]]の創始者である[[リーナス・トーバルズ]]はこれについて、開発というものは大きな問題に対処することに注力すべきで、バグはセキュリティ関連以外にも山ほどあるのだから、セキュリティ問題だけに注力すべきでないと述べている(「全ての平凡なバグは、単にそれらが数が多いというだけでも、より重要である」<ref name="Linus200807">Torvalds, Linus. Mail to linux-kernel: ''[http://thread.gmane.org/gmane.linux.kernel/701694/focus=706950 Re: <nowiki>[stable]</nowiki> Linux 2.6.25.10],'' July 15, 2008. Visited July 20, 2008.</ref>)。2008年7月15日、彼はOpenBSDの方針を批判し「彼らはセキュリティに専念することを大々的に宣言することで、他のことは彼らにとって重要でないと認めているようなものだ」と述べた<ref name="Linus200807" />。これに対してOpenBSDの開発者Marc Espieは「これは全くの誤解だ…(通常のバグ修正は)OpenBSDプロジェクトで人々が常にやっていることそのものだ」と応答した<ref>Espie, Marc. Mail to openbsd-misc: ''[https://archive.is/20120529013443/kerneltrap.org/mailarchive/openbsd-misc/2008/7/16/2536484 Re: This is what Linus Torvalds calls openBSD crowd],'' July 16, 2008. Visited July 20, 2008.</ref>。開発者Artur Grabowskiも驚きを表明し「この中で最もおかしな部分は…(トーバルズが)言っていることが我々の言っていることと同じだという点だ」と述べた<ref>Grabowski, Artur. Mail to openbsd-misc: ''[https://archive.is/20120529013443/kerneltrap.org/mailarchive/openbsd-misc/2008/7/17/2545214 Re: This is what Linus Torvalds calls openBSD crowd],'' July 16, 2008. Visited July 20, 2008.</ref>。 == 利用 == 暗号を組み込み[[ファイアウォール]]スイート[[PF (ファイアウォール)|PF]]を備えるといったOpenBSDのセキュリティ強化により、セキュリティ関連での利用に適しており、ファイアウォール、[[侵入検知システム]]、[[Virtual Private Network|VPN]][[ゲートウェイ]]などで特に利用されている。また、[[DoS攻撃]]や[[クラッキング (コンピュータ)|クラッキング]]への耐性が必要なサーバでもよく使われており、[[:en:spamd|spamd]][[デーモン (ソフトウェア)|デーモン]]が含まれていることから[[電子メールフィルタリング]]用途にも使われることがある。 [[ファイル:Openbsd38defaultwm.png|thumb|250px|right|OpenBSD 3.8上の[[X.Org Server|X.Org]]。デフォルトの[[FVWM]] 2.2.5[[ウィンドウマネージャ]]が動作中]] [[ファイル:Xfce-openbsd.png|thumb|250px|right|OpenBSD 4.4で動作中の[[Xfce]]]] OpenBSDに基づいた[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]システムもいくつかの業者が製品化している。例えば、Calyptix Security<ref>[http://www.calyptix.com/ Calyptix Security's website].</ref>、GeNUA mbH<ref>[http://www.genua.de/ GeNUA mbH's homepage].</ref>、RTMX Inc<ref>[http://www.rtmx.com/ RTMX Inc homepage].</ref>、.vantronix GmbH<ref>[http://www.vantronix.com/ .vantronix GmbH's homepage].</ref>などがある。GeNUAは、i386プラットフォームでの[[対称型マルチプロセッシング|SMP]]機能の開発に寄与し、RTMXはシステムを[[POSIX]]準拠に近づけるためのパッチを送り、.vantronixはネットワークや[[サーバロードバランス|負荷分散]]機能の追加に寄与した。OpenBSDのシステムツールのコードの多くは、[[マイクロソフト]]の[[Microsoft Windows Services for UNIX|Services for UNIX]]にも使われている(元々は[[Berkeley Software Distribution|4.4BSD-Lite]]をベースとしたUnix系機能を[[Microsoft Windows|Windows]]に提供する拡張)。[[:en:Core Force|Core Force]] はWindows向けのセキュリティ製品だが、OpenBSDのPFファイアウォールをベースにしている。[[組み込みシステム]]関係でOpenBSDを一部に利用しているプロジェクトとして、OpenSoekris、flashdist、flashrdなどがある。 OpenBSDには[[X Window System]]が含まれている。そのためデスクトップあるいはワークステーションとしても利用でき、様々な[[デスクトップ環境]]や[[ウィンドウマネージャ]]を利用できる。Portsツリーにはデスクトップ用の各種ツールが含まれており、デスクトップ環境としては[[Lumina]]、[[GNOME]]、[[KDE]]、[[Xfce]]、ウェブブラウザとしては[[Konqueror]]、[[Mozilla Firefox]]、[[Opera]]、[[マルチメディア]]関連では[[MPlayer]]、[[VLCメディアプレーヤー]]、[[xine]]などがある。[[互換レイヤー]]も利用可能で、Linux、FreeBSD、[[SunOS]]、[[HP-UX]] などの他のOS向けにコンパイルされたバイナリを実行できる。 OpenBSDは性能やユーザビリティの面で批判されることがある。Felix von Leitnerの性能/[[スケーラビリティ]]のテスト<ref>[http://bulk.fefe.de/scalability/ Scalability test results and conclusions].</ref>によれば、他のOSに比べて性能が低い。これに対してOpenBSD関係者はvon Leitnerの客観性と技法を批判しつつ、性能は確かに考慮に値するが、セキュリティの良さと正しい設計によって正当化されるとし、開発者Nick Hollandは「それは結局のところ、何を重要と考えるかに帰着する」とコメントした<ref>Holland, Nick. Mail to openbsd-misc: ''[http://groups.google.co.uk/group/lucky.openbsd.misc/msg/2b6f9d5bf42b712a Re: OpenBSD Benchmarked... results: poor!],'' October 19, 2003. Visited January 8, 2006.</ref>。また、OpenBSDはFreeBSDやLinuxに比べるとプロジェクトの規模が小さく、開発者の時間は性能の最適化よりもセキュリティ強化に費やされているように見える。ユーザビリティの批判としては、OpenBSDにはユーザーフレンドリーな設定ツールがない点、デフォルトのインストールがほぼ裸状態である点<ref>Linux.com. ''[http://www.linux.com/archive/feature/49451 Trying out the new OpenBSD 3.8],'' November 2, 2005. Visited January 8, 2006.</ref>、インストーラが「簡素」で「威嚇的」な点<ref>Linux.com. ''[http://www.linux.com/archive/feature/37599 Review: OpenBSD 3.5],'' July 22, 2004. Visited January 8, 2006.</ref>を挙げることがある。これに対する反論も性能の場合とほぼ同じで、簡潔性、信頼性、セキュリティを重視した結果だという。あるレビューでは「極めてセキュアなOSを動作させることは、ちょっとした仕事と言えるかもしれない」と評している<ref>DistroWatch. ''[http://distrowatch.com/dwres.php?resource=review-openbsd OpenBSD - For Your Eyes Only],'' 2004. Visited January 8, 2006.</ref>。 == ディストリビューションとマーケティング == OpenBSDは様々な方法で無料で入手可能である。ソースは匿名CVSまたは[[CVSup]]で入手でき、バイナリ版リリースや開発スナップショットは[[File Transfer Protocol|FTP]]または[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]でダウンロード可能である。[[CD-ROM]]のパッケージ版はわずかな代金でオンラインで注文でき、おまけとしてステッカーやリリースのテーマ曲が付いてくる。その収入やアート作品の代価や寄付金でプロジェクトが運営されており、ハードウェアなどのサイト運営費用を賄っている。OpenBSD 4.2までは、完全版のCD-ROMセットの売り上げを確保するため、小さなインストール用[[ISOイメージ]]しかダウンロードできないようにしていた。OpenBSD 4.2から、完全版のISOイメージがダウンロードできるようになった。 他のいくつかのオペレーティングシステムと同様、OpenBSDではプログラムのインストールと管理を容易にするためにPortsとパッケージシステムを使っており、それらはOS本体の一部ではない。元々はFreeBSDのPortsツリーに基づいていたが、現在のシステムは全く異なる。さらに3.6のリリースで大きな変更が加えられ、特にパッケージツールをMarc Espieが[[Perl]]で書いた高機能なツールに置き換えた。FreeBSDとは対照的に、OpenBSDのPortsシステムは製品版のパッケージを生成することを意図している。Portをインストールするとパッケージが生成され、パッケージツールを使ってそれをインストールすることになる。リリースの度にOpenBSDチームがまとめてパッケージを作り、ダウンロード用に提供している。他のBSDの子孫と比較してユニークな点として、PortsとOS本体が各バージョンで共に開発されている点が挙げられる。すなわち、例えば3.7でリリースされたPortsやパッケージは3.6で使うのには適していない(逆も同様)。このポリシーによって開発プロセスの安定性が確保されているが、OpenBSDの最新リリースのPortsにあるソフトウェアは、そのソフトウェアの原作者の最新バージョンより若干遅れることがある。 [[ファイル:Puffy.png|thumb|left|150px|Puffy]] OpenBSD 2.7がリリースされたころ、それまでの[[BSDデーモン]]に代わってオリジナルのマスコット Puffy を登場させた。これは[[フグ]] (pufferfish) とされている。実際のフグの多くはトゲがなく、Puffyの絵はどちらかといえば[[ハリセンボン]]に近い。これは、OpenSSHが[[Blowfish]](フグの意)暗号を使っていることと、ハリセンボンのトゲが外敵を防ぐイメージを表しているという。Puffyは OpenBSD 2.6 で最初に登場し、その後[[Tシャツ]]や[[ポスター]]に様々な姿で登場した。例えば、''Puffiana Jones''は[[ハッカー]]学者にして冒険家であり、Lost RAIDを追い求めている。''Puffathy''はアルバータの少女で、[[台湾|Taiwan]]と共に冒険する。''Puff Daddy''は有名なラッパーであり、政治的偶像である。 OpenBSDは、リリースごとに覚えやすいテーマ曲やコミカルなアート作品を生み出してきたことでも有名になった。初期のOpenBSDのリリースには統一感のあるプロモーション用素材はなかったが、OpenBSD 3.0のCD-ROM版以降、テーマ曲、ポスター、Tシャツなどをリリースごとに統一的に生み出しており、時にはカナダの音楽グループPlaid Tongued DevilsのTy Semakaが協力している。元々は単にユーモアを加えるだけの軽い意図だったが、コンセプトが成長するに従いそれらがOpenBSDの一部となり、[[パロディ]]の形でプロジェクトの理念を表すようになっていった。例えば、OpenBSD 3.8 のテーマは ''Hackers of the Lost RAID''、すなわち[[インディアナ・ジョーンズ]]のパロディであり、新RAIDツールがリリースに加わったことと連携している。OpenBSD 3.7のテーマは''The Wizard of OS''で、[[ピンク・フロイド]]の作品や『[[オズの魔法使]]』のパロディであり、[[無線通信]]関連のプロジェクトと連携している。OpenBSD 3.3のテーマ''Puff the Barbarian''は80年代のロックや[[英雄コナン]]のパロディを含み、オープンドキュメンテーションを示唆している。 リリースごとのTシャツやポスターに書かれたスローガンに加え、プロジェクトは、"Sending [[スクリプトキディ|script kiddie]]s to [[/dev/null]] since 1995"、"Functional, secure, free&nbsp;— choose 3"、"Secure by default" といった様々な[[キャッチフレーズ]]も生み出し、開発者のみの会合で配布されるTシャツに書かれた内部スローガンとして "World class security for much less than the price of a [[巡航ミサイル|cruise missile]]" とか、"Shut up and hack!" といった言葉も生み出している。 == 対応プラットフォーム == 順番は公式サイトに従う<ref name="openbsd_platforms">[http://www.openbsd.org/plat.html OpenBSD: Platforms](OpenBSDがサポートするプラットフォーム一覧)</ref>。 === 開発中 === {{Colbegin|2}} *[[DEC Alpha]] (<code>alpha</code>) *[[x64]] (<code>amd64</code>) *[[ARM64]] (<code>arm64</code>) *[[ARMアーキテクチャ|ARM]] (<code>armv7</code>) *[[PA-RISC]] (<code>hppa</code>) *[[IA-32|i386]] *landisk{{efn|[[SuperH|SH-4]]を搭載した[[IO-DATA]]製NAS}} *[[Luna (ワークステーション)|luna88k]] *macppc{{efn|[[PowerPC]]を搭載した[[Macintosh]]}} *octeon *[[PowerPC]] (<code>powerpc64</code>) *riscv64 *[[SPARC]] (<code>sparc64</code>) {{Colend|2}} === 開発終了 === *[[Amiga]] *[[Advanced RISC Computing|ARC]] *armish *{{仮リンク|Aviion|en|Aviion}} *cats *[[HP 9000|HP300]] *HPPA64 *mac68k{{efn|[[MC68000]]を搭載した[[Macintosh]]}} *[[MC68000|mvme68k]] *[[MC88000|mvme88k]] *[[Loongson]] *[[Palm (PDA)|Palm]] *{{仮リンク|Pegasos|en|Pegasos}} *pmax *sgi *socppc *{{仮リンク|Solbourne|en|Solbourne Computer}} *[[SPARC]] *[[Sun-3]] *[[VAX]] *[[ザウルス]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist|2}} ==関連項目== {{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px]]}} *[[フリーソフトウェアライセンス]] *[[BSDの子孫]] **[[Lumina]] - [[Berkeley Software Distribution|BSD]]([[BSDの子孫]])向けに開発された軽量[[デスクトップ環境]] *[[KAMEプロジェクト]] *[[LibreSSL]] *[[河豚板]] *[[Bitrig]] == 参考文献 == *''[http://www.devguide.net/books/obclc1 The OpenBSD Command-Line Companion, 1st ed.]'' by Jacek Artymiak. ISBN 83-916651-8-6. *''[http://www.devguide.net/books/bfwoap2 Building Firewalls with OpenBSD and PF: Second Edition]'' by Jacek Artymiak. ISBN 83-916651-1-9. *''[http://www.oreilly.com/catalog/mfreeopenbsd/ Mastering FreeBSD and OpenBSD Security]'' by Yanek Korff, Paco Hope and Bruce Potter. ISBN 0-596-00626-8. *''[http://www.nostarch.com/frameset.php?startat=openbsd Absolute OpenBSD, Unix for the Practical Paranoid]'' by Michael W. Lucas. ISBN 1-886411-99-9. *''[http://cseng.aw.com/catalog/academic/product/0,1144,0321193660,00.html Secure Architectures with OpenBSD]'' by Brandon Palmer and Jose Nazario. ISBN 0-321-19366-0. *''[http://www.reedmedia.net/books/pf-book/ The OpenBSD PF Packet Filter Book: PF for NetBSD, FreeBSD, DragonFly and OpenBSD]'' published by Reed Media Services. ISBN 0-9790342-0-5. *''[http://www.wiley.com/legacy/compbooks/catalog/35366-3.htm Building Linux and OpenBSD Firewalls]'' by Wes Sonnenreich and Tom Yates. ISBN 0-471-35366-3. *''[http://www.oreilly.com/catalog/openbsd4/ The OpenBSD 4.0 Crash Course]'' by Jem Matzan. ISBN 0-596-51015-2. *''[http://nostarch.com/pf.htm The Book of PF A No-Nonsense Guide to the OpenBSD Firewall]'' by Peter N.M. Hansteen ISBN 978-1-59327-165-7. == 外部リンク == {{Commonscat|OpenBSD}} {{ウィキポータルリンク|オペレーティングシステム|[[ファイル:Alternative virtual machine host.svg|36px|ウィキポータル オペレーティングシステム]]}} * {{Official website}} * [https://srad.jp/story/04/01/02/1655202/ スラッシュドット・ジャパンでのテオ・デ・ラートへのインタビューの翻訳] * [https://srad.jp/story/05/10/19/1254231/ スラッシュドット・ジャパンOpenBSD 10周年の記事] * [http://www.undeadly.org/ OpenBSD journal] * [http://ports.openbsd.nu/ OpenBSD ports] * [http://www.freebsd.nfo.sk/ One Floppy OpenBSD MP3 Player and One Floppy Router] {{OpenBSD}} {{Unix-like}} {{FOSS}} {{Normdaten}} [[Category:OpenBSD|*]] [[Category:BSD]] [[Category:オープンソースソフトウェア]] [[Category:1996年のソフトウェア]]
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W3m
w3m(ダブリューサンエム または ダブリュースリーエム)は、2021年1月11日時点で東北大学教授である伊藤彰則によって開発された、ページャ兼テキストベースのウェブブラウザである。WWW-wo-Miru(WWWを見る)ということから、名付けられた。 2021年1月11日現在、本家は2011年1月15日が最後のリリースであるが、Debian版の開発が続いている。 動作環境は一般的なUnix系オペレーティングシステムであるが、WindowsでもCygwinを用いることにより動作可能である。 テキストブラウザでありながら、タブブラウジング機能を備え、マウスによる操作、テーブル、フレームの描写などにも対応。また画像ファイルのインライン表示にも対応している。 一風変わった機能としては、WebサーバなしでCGIスクリプトを起動するLocal CGI機能や、読み込んだHTML文書をプレーンテキストに整形して出力する機能などを備える。またEmacsから起動するEmacs-w3mモードがある。
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w3mは、2021年1月11日時点で東北大学教授である伊藤彰則によって開発された、ページャ兼テキストベースのウェブブラウザである。WWW-wo-Miru(WWWを見る)ということから、名付けられた。 2021年1月11日現在、本家は2011年1月15日が最後のリリースであるが、Debian版の開発が続いている。 動作環境は一般的なUnix系オペレーティングシステムであるが、WindowsでもCygwinを用いることにより動作可能である。
{{小文字}} {{Infobox Software | 名称 = w3m | ロゴ = | スクリーンショット = [[Image:W3m-wikipedia.png|300px]] | 説明文 = | 開発元 = | 最新版 = 0.5.3-37 (Debian版) | 最新版発表日 = {{release date|2019|1|5}}<ref>[https://github.com/tats/w3m/releases Releases · tats/w3m]</ref> | 最新評価版 = | 最新評価版発表日 = | 対応OS = [[Unix系]]、[[OS/2]]、[[Microsoft Windows|Windows]] | 対応プラットフォーム = | 種別 = [[ページャ]]/[[ウェブブラウザ]] | ライセンス = [[MIT License]] | 公式サイト = [http://w3m.sourceforge.net/ w3m Homepage] }} '''w3m'''(ダブリューサンエム または ダブリュースリーエム)は、2021年1月11日時点で[[東北大学]][[教授]]である伊藤彰則によって開発された、[[ページャ]]兼[[キャラクタユーザインタフェース|テキストベース]]の[[ウェブブラウザ]]である。WWW-wo-Miru([[World Wide Web|WWW]]を見る)<ref>[https://github.com/tats/w3m/blob/master/README w3m/README at master · tats/w3m]</ref>ということから、名付けられた。 2021年1月11日現在、本家は[[2011年]][[1月15日]]が最後のリリースであるが、[[Debian]]版<ref>[https://github.com/tats/w3m tats/w3m: Debian's w3m: WWW browsable pager]</ref>の開発が続いている。 動作環境は一般的な[[Unix系]][[オペレーティングシステム]]であるが、[[Microsoft Windows|Windows]]でも[[Cygwin]]を用いることにより動作可能である。 == 特徴 == テキストブラウザでありながら、[[タブブラウザ|タブブラウジング]]機能を備え、マウスによる操作、テーブル、フレームの描写などにも対応。また画像ファイルのインライン表示にも対応している。 一風変わった機能としては、[[Webサーバ]]なしで[[Common Gateway Interface|CGI]]スクリプトを起動するLocal CGI機能や、読み込んだ[[HyperText Markup Language|HTML]]文書を[[プレーンテキスト]]に整形して出力する<ref>-dumpオプション</ref>機能などを備える。また[[Emacs]]から起動するEmacs-w3mモードがある。 == 他のテキストブラウザ == * [[Lynx (ウェブブラウザ)|Lynx]] * [[Links]] * [[ELinks]] == 脚注 == <references/> == 外部リンク == * [http://w3m.sourceforge.net/ w3m Homepage] * [https://github.com/tats/w3m tats/w3m: Debian's w3m: WWW browsable pager - GitHub] - Debian 版 w3m {{ウェブブラウザ}} [[Category:テキストブラウザ]] [[Category:オープンソースソフトウェア]] [[Category:1995年のソフトウェア]]
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12,783
バケットソート
バケットソート(英: bucket sort)は、ソートのアルゴリズムの一つ。バケツソート、ビンソート(英: bin sort)などともいう。バケツ数 k 個使った場合、オーダーはO(n + k)となり、ソートする要素数nとk を無関係にできる場合線形時間ソートとなるが、要素間の全順序関係を用いるソートとは異なり、キーの取りうる値がk種類である、という入力により強い制限を要求するソートである。 整列したいデータの取りうる値がm種類であるとき、m個のバケツを用意しておき、値ごとに1個のバケツを対応づける。元のデータ列を走査して、各データを対応するバケツに入れていく。この処理が終わった後、整列したい順序に従ってバケツから値を取り出せば、データをソートすることができる。 安定ソートを実現するためには、同じバケツに入っているデータは入れたときと同じ順序で取り出す必要がある。順序が保存されない場合は、ソートはできるが、安定ソートではなくなる。後述するように基数ソートと組み合わせて使うためには、安定ソートになっている必要がある。 バケットソートには、大きく分けて2種類の実装がある。 まずひとつは、可変個の要素を保持できるデータ構造を使ってバケツを表現する方法である。簡単な例としては、m個の線形リストを使う実装が考えられる。直感的に理解しやすい実装だが、単純な配列だけではなく可変長のデータ構造が必要になるため、可変長のデータ構造がない言語の場合、その実装コストを考慮しておく必要がある。 もうひとつは、いったん整列対象のデータを走査して値ごとの出現回数を数えておき、それに応じてひとつの配列の中を値ごとに分割する方法である。 この実装によるバケットソートのみを指して特に分布数えソート、計数ソート(Counting Sort)などと言う。 たとえば以下の入力が与えられたとする。 昇順にソートした結果は以下のようになるはずである。 さて値ごとの出現分布を調べると、1が3個、2が5個、3が4個出現していることがわかる(ソートしなくても元のデータ列に一通りアクセスすればわかる)。出現個数がわかれば、1は結果列の1番から、2は4番から、3は9番から始まることがわかる。 Javaによるサンプルコードは以下のようになる。 仮に32ビット整数をソートする場合に、約43億個のバケツを持つことは非現実的である。 バケツは1つの値に対して1つのバケツを用意する必要はなく、範囲を持ったバケツが矛盾なくソートされていれば良い。 この時、各バケツの中身は別ソートアルゴリズムでソートしてやるか、再度バケットソートを適用する必要がある。 冒頭の32ビット整数を1ビットずつ再帰的にバケットソートすると、32階層のバケットソートが必要になる。 これは約43億個に対してのlogであり、バケットソートもまたlogのオーダーから抜け出せていないことが分かる。 (2ビットずつ処理しても4ビットずつ処理しても、やはりlogは消えない。) 通常、各値の取りうる範囲よりも、ソートすべき配列サイズの方が小さいため、バケットソートはO(nlogn)ソートよりも実質低速であることが多い。 また、文字列に対しても、頭から1文字ずつ再帰的にバケットソートを行うことができる。 32ビット整数のソートは、長さ32の1ビット文字からなる文字列をソートしているとみなすこともできる。 計算量の種明かしは「バケットソートの分割統治」の項で行ったとおりで、利点とはなっていない。 比較を行なわずにソートできる点は利点となる。 しかしながら、その裏返しとして、ソート対象の値のモデルに合わせてプログラムを書く必要が生じてしまう。 バケットソートのバケツをメモリ空間の代わりに時間に置き換えたもので、もともと掲示板4chanに投稿されたアイデアである。 「全要素の最大値×スリープさせる単位時間」で実際にソートできてしまう。それが役に立つ事例は例題程度であろう。 面白いジョークであるが、実際のコンピュータシステムでは、起動したプロセスが意図した時間にピタリと正確に終了するという保証はない。すなわち、非同期に複数プロセスを起動したとき、混雑やOSの制御のために値が返ってくる順序が意図した時刻にこないことがあるのはもちろん、ソートで期待する順序とは異なった順序で返ってくる恐れさえある。したがって、デモや冗談ならともかく、実用には絶対使ってはいけない。 OSは、実は一定時間後に起動する要求を到来時間順の待ち行列につないで管理している。そのとき当然到来時間の大小比較が行われる。タイマで見張り、時間の到来した要求を行列から外して要求元の待ちを解除し結果を通知しているのが実体である。ソートアルゴリズムに不可欠のこの“計算”のコストが計算量に算入されていないので、一見計算が要らないように見えるというトリックがある。時間順に並んだ「バケツ」を用意してデータを出し入れしてくれている“裏方さん”がいるのである。 bashによる実装 使用例: 上の結果は正しい。 ところが処理系(Windows 10, Cygwin bash)で何度か実行しただけで、通常の数倍の時間経過したあと、たとえば以下のように一部追い抜きがあったり入力順そのままだったりと、誤った結果が出てくる例が見られた。
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バケットソートは、ソートのアルゴリズムの一つ。バケツソート、ビンソートなどともいう。バケツ数 k 個使った場合、オーダーはO(n + k)となり、ソートする要素数nとk を無関係にできる場合線形時間ソートとなるが、要素間の全順序関係を用いるソートとは異なり、キーの取りうる値がk種類である、という入力により強い制限を要求するソートである。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2017年12月9日 (土) 12:05 (UTC) | 独自研究 = 2017年12月9日 (土) 12:05 (UTC) }} {{Infobox algorithm |class=[[ソート]] |image= |caption= |data=[[配列]] |best-time= <math>O(n)</math> |average-time= <math>O(n+k)</math> |time=<math>O(n^2)</math> |space=<math>O(n\cdot k)</math> |optimal=<math>O(''n'')</math> }} '''バケットソート'''({{lang-en-short|bucket sort}})は、[[ソート]]の[[アルゴリズム]]の一つ。'''バケツソート'''、'''ビンソート'''({{lang-en-short|bin sort}})などともいう。バケツ数 k 個使った場合、オーダーは[[ランダウの記号|O]](''n + k'')となり、ソートする要素数nとk を無関係にできる場合線形時間ソートとなるが、要素間の全順序関係を用いるソートとは異なり、キーの取りうる値がk種類である、という入力により強い制限を要求するソートである。 ==概念== [[画像:Bucket sort concept.svg|thumb|256px|right|バケットソートの概念]] 整列したいデータの取りうる値がm種類であるとき、m個の[[バケツ]]を用意しておき、値ごとに1個のバケツを対応づける。元のデータ列を走査して、各データを対応するバケツに入れていく。この処理が終わった後、整列したい順序に従ってバケツから値を取り出せば、データをソートすることができる。 安定ソートを実現するためには、同じバケツに入っているデータは入れたときと同じ順序で取り出す必要がある。順序が保存されない場合は、ソートはできるが、安定ソートではなくなる。後述するように[[基数ソート]]と組み合わせて使うためには、安定ソートになっている必要がある。 {{clear}} ==実装== バケットソートには、大きく分けて2種類の実装がある。 まずひとつは、可変個の要素を保持できるデータ構造を使ってバケツを表現する方法である。簡単な例としては、m個の[[線形リスト]]を使う実装が考えられる。直感的に理解しやすい実装だが、単純な配列だけではなく可変長のデータ構造が必要になるため、可変長のデータ構造がない言語の場合、その実装コストを考慮しておく必要がある。 もうひとつは、いったん整列対象のデータを走査して値ごとの出現回数を数えておき、それに応じてひとつの配列の中を値ごとに分割する方法である。 この実装によるバケットソートのみを指して特に'''分布数えソート'''、'''計数ソート'''(Counting Sort)などと言う。 たとえば以下の入力が与えられたとする。 3 2 2 1 2 2 1 3 3 1 2 3 昇順にソートした結果は以下のようになるはずである。 1 1 1 2 2 2 2 2 3 3 3 3 さて値ごとの出現分布を調べると、1が3個、2が5個、3が4個出現していることがわかる(ソートしなくても元のデータ列に一通りアクセスすればわかる)。出現個数がわかれば、1は結果列の1番から、2は4番から、3は9番から始まることがわかる。 [[Java]]によるサンプルコードは以下のようになる。 <syntaxhighlight lang=java> /** * 配列 src 内をバケットソートして配列 dst にコピーする。 * @param src ソート対象となるデータの配列。 * @param dst ソート結果を書き込む配列。 * @param len ソート対象となるデータの個数。src および dst の長さ以下であること。 * @param range とり得る値の範囲。対象の各データは 0 以上 range 未満の値をとる。 */ public static void bucketsort(int[] src, int[] dst, int len, int range) { /** 値ごとの出現回数 */ int[] count = new int[range]; /** ソート後配列における値ごとの開始位置 */ int[] offset = new int[range]; /** ループ制御用 */ int i; /* 出現回数を数える */ for (i = 0; i < len; i++) { count[ src[i] ]++; } /* 開始位置計算 */ offset[0] = 0; for (i = 1; i < range; i++) { offset[i] = offset[i-1] + count[i-1]; } /* ソート処理 */ for (i = 0; i < len; i++) { int target = src[i]; dst[ offset[target] ] = target; offset[target]++; } } </syntaxhighlight> ==バケットソートの分割統治== 仮に32ビット整数をソートする場合に、約43億個のバケツを持つことは非現実的である。 バケツは1つの値に対して1つのバケツを用意する必要はなく、範囲を持ったバケツが矛盾なくソートされていれば良い。 この時、各バケツの中身は別ソートアルゴリズムでソートしてやるか、再度バケットソートを適用する必要がある。 冒頭の32ビット整数を1ビットずつ再帰的にバケットソートすると、32階層のバケットソートが必要になる。 これは約43億個に対してのlogであり、バケットソートもまたlogのオーダーから抜け出せていないことが分かる。 (2ビットずつ処理しても4ビットずつ処理しても、やはりlogは消えない。) 通常、各値の取りうる範囲よりも、ソートすべき配列サイズの方が小さいため、バケットソートはO(''n''log''n'')ソートよりも実質低速であることが多い。 また、文字列に対しても、頭から1文字ずつ再帰的にバケットソートを行うことができる。 32ビット整数のソートは、長さ32の1ビット文字からなる文字列をソートしているとみなすこともできる。 ==利点と欠点== 計算量の種明かしは「バケットソートの分割統治」の項で行ったとおりで、利点とはなっていない。 比較を行なわずにソートできる点は利点となる。 しかしながら、その裏返しとして、ソート対象の値のモデルに合わせてプログラムを書く必要が生じてしまう。 ==スリープソート== {{独自研究|section=1|date=2017年12月9日 (土) 12:05 (UTC)}} バケットソートのバケツをメモリ空間の代わりに時間に置き換えたもので、もともと掲示板[[4chan]]に投稿されたアイデアである。 「全要素の最大値×スリープさせる単位時間」で実際にソートできてしまう。それが役に立つ事例は例題程度であろう。 面白いジョークであるが、実際のコンピュータシステムでは、起動したプロセスが意図した時間にピタリと正確に終了するという保証はない。すなわち、非同期に複数プロセスを起動したとき、混雑やOSの制御のために値が返ってくる順序が意図した時刻にこないことがあるのはもちろん、ソートで期待する順序とは異なった順序で返ってくる恐れさえある。したがって、デモや冗談ならともかく、実用には絶対使ってはいけない。 [[オペレーティングシステム|OS]]は、実は一定時間後に起動する要求を到来時間順の[[キュー (コンピュータ)|待ち行列]]につないで管理している。そのとき当然到来時間の大小比較が行われる。タイマで見張り、時間の到来した要求を行列から外して要求元の待ちを解除し結果を通知しているのが実体である。ソートアルゴリズムに不可欠のこの“計算”のコストが計算量に算入されていないので、一見計算が要らないように見えるというトリックがある。時間順に並んだ「バケツ」を用意してデータを出し入れしてくれている“裏方さん”がいるのである。 [[bash]]による実装<!-- (リンク切れ)><ref>*[http://dis.4chan.org/read/prog/1295544154 Genius sorting algorithm: Sleep sort ]</ref>< --><ref>[http://qiita.com/snsk/items/33c01951ef27bbd2b093 スリープソート]</ref> <syntaxhighlight lang=bash> #!/bin/bash function f() { sleep "$1" echo "$1" } while [ -n "$1" ] do f "$1" & shift done wait</syntaxhighlight> 使用例: <syntaxhighlight lang="console"> $ ./sleepsort.bash 5 3 6 3 6 3 1 4 7 1 3 3 3 4 5 6 6 7 </syntaxhighlight> 上の結果は正しい。 ところが処理系(Windows 10, Cygwin bash)で何度か実行しただけで、通常の数倍の時間経過したあと、たとえば以下のように一部追い抜きがあったり入力順そのままだったりと、誤った結果が出てくる例が見られた。 <syntaxhighlight lang="console"> $ ./sleepsort.bash 5 3 6 3 6 3 1 4 7 3 5 6 3 3 6 1 4 7 </syntaxhighlight> == 出典 == {{reflist}} {{ソート}} {{DEFAULTSORT:はけつとそおと}} [[Category:ソート]] [[Category:アルゴリズム]] [[Category:数学に関する記事]]
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ワイド文字
ワイド文字(ワイドもじ、英: wide character)とは、主にC言語およびC++における文法要素で、1文字あたりのバイト数を通常より多くしたデータ型である。 C言語やC++の基本実行文字集合は通常、ASCIIのサブセットの文字種からなる。ただし実際の文字コードが何であるかは規定されていない。 漢字のような拡張実行文字集合は、通常マルチバイト文字として扱われるが、1文字を構成するバイト数が可変長であり、本来1つの文字でありながら複数の文字の組(あるいは文字列)として扱わなければならないなどの不便がある。そうした問題を解消するために、1文字を1つの整数値で扱えるようにすることを目指したのがワイド文字である。 C言語では1995年の ISO/IEC 9899/AMD1:1995 より、wchar_t 型や <wchar.h>、<wctype.h> などのヘッダーファイルが追加になった。ワイド文字は wchar_t というデータ型で表現する。char型を用いた文字および文字列の場合、文字定数および文字列リテラルはソースコード中で、例えばそれぞれ「'c'」および「"str"」と表記する。これに対応するように、ワイド文字定数は大文字のエルによるプレフィックスLを付けて「L'c'」と表記する。同様に、ワイド文字から構成される文字列をワイド文字列と呼び、そのリテラルは「L"str"」と表記する。 C言語での wchar_t は単なるtypedefによるエイリアス(他の型の別名として定義されている)であるが、C++においてはキーワード(予約語)である。コンパイラによっては、「wchar_t」を組み込みの型とみなすか否かをコンパイラの設定で切り替えられるものもある。 C99 規格や C++98 規格の場合、ワイド文字定数・文字列リテラルには ISO 10646 文字集合の数値で表現するユニバーサル文字名を使用することもできる。 char型のサイズは常に1バイトであることがC/C++規格で保証される。つまり、sizeof(char) == 1は常に真である。 一方、wchar_t 型は C および C++ 双方の標準規格において、符号付きの場合は少なくとも-127から+127まで、符号無しの場合は少なくとも0から255までの範囲を表現できる数値型、ということのみ定められている(少なくともchar型と同じ大きさが必要)。charがASCIIであるとは限らなかったり、floatやdoubleがIEEE 754の単精度・倍精度であるとは限らなかったりすることと同様に、wchar_tの内部表現もUnicodeである必要はない。本来はCode Set Independent(符号化集合に独立)なのである。 wchar_t 型のサイズと符号化形式は、例えばWindowsでは2バイト (16ビット) のUTF-16であり、LinuxやmacOSでは4バイト (32ビット) のUTF-32である。しかし、その他の環境でもUnicodeを用いた符号化形式であると誤解されて、あるいは仮定してプログラムが作られることがある。そのようなプログラムは、Unicodeを用いた符号化形式とは限らない一般のUnixなどへの移植の際に問題が表面化する。なお、C99より、wchar_tがUnicodeと互換性のある場合、__STDC_ISO_10646__が事前定義されると定められている。 ワイド文字の問題は、前述のように型のサイズや符号化形式が規定されておらず、プラットフォームおよび処理系依存であることである。Unicodeが普及するにつれて、移植性の問題が表面化してきた。 2011年に改訂された C/C++ の標準規格、C11 と C++11 では、新たに2つの文字型 char16_t と char32_t が導入された。これらはそれぞれ UTF-16 と UTF-32 を内部表現とする。u'c' や U'c' あるいは u"str" や U"str" のように小文字の u あるいは大文字の U を前置することで、それぞれ char16_t と char32_t の文字定数・文字列リテラルを表現する。また、u8 を前置することで UTF-8 の文字列リテラルを表現するが、char8_t 型は存在せず、従来の char 型で代用する。C++17ではUTF-8の文字リテラルをサポートするようになった。C++20ではchar8_t型がサポートされるようになる予定である。 C言語の場合char16_tおよびchar32_tはそれぞれuint_least16_tおよびuint_least32_tのtypedefエイリアスであるが、C++の場合char16_tおよびchar32_tはキーワードであり、それぞれstd::uint_least16_tおよびstd::uint_least32_tと同じサイズではあるものの、別の型として規定されている。 いずれの言語においても、char16_t型のサイズは16ビットよりも大きい可能性があるが、格納される値は16ビット幅である。同様に、char32_t型のサイズは32ビットよりも大きい可能性があるが、格納される値は32ビット幅である。 D言語では、charと別に、次の2つの文字型が用意されている。
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ワイド文字とは、主にC言語およびC++における文法要素で、1文字あたりのバイト数を通常より多くしたデータ型である。
'''ワイド文字'''(ワイドもじ、{{lang-en-short|wide character}})とは、主に[[C言語]]および[[C++]]における文法要素で、1文字あたりの[[バイト (情報)|バイト]]数を通常より多くした[[データ型]]である。 == 概要 == C言語やC++の基本実行[[文字集合]]は通常、[[ASCII]]のサブセットの文字種からなる。ただし実際の[[文字コード]]が何であるかは規定されていない。 [[漢字]]のような拡張実行文字集合は、通常[[マルチバイト文字]]として扱われるが、1文字を構成するバイト数が可変長であり、本来1つの文字でありながら複数の文字の組(あるいは[[文字列]])として扱わなければならないなどの不便がある。そうした問題を解消するために、1文字を1つの整数値で扱えるようにすることを目指したのがワイド文字である。 == wchar_t型 == [[C言語]]では[[1995年]]の ISO/IEC 9899/AMD1:1995 より、<code>wchar_t</code> 型や &lt;wchar.h&gt;、&lt;wctype.h&gt; などの[[ヘッダーファイル]]が追加になった。ワイド文字は <code>wchar_t</code> というデータ型で表現する。<code>char</code>型を用いた文字および文字列の場合、文字[[定数]]および文字列[[リテラル]]は[[ソースコード]]中で、例えばそれぞれ「<code>'c'</code>」および「<code>"str"</code>」と表記する。これに対応するように、ワイド文字[[定数]]は大文字のエルによるプレフィックス<code>L</code>を付けて「<code>L'c'</code>」と表記する。同様に、ワイド文字から構成される[[文字列]]をワイド文字列と呼び、その[[リテラル]]は「<code>L"str"</code>」と表記する。 C言語での <code>wchar_t</code> は単なる<code>[[typedef]]</code>による[[エイリアス]](他の型の別名として定義されている)であるが、C++においてはキーワード([[予約語]])である。コンパイラによっては、「<code>wchar_t</code>」を組み込みの型とみなすか否かをコンパイラの設定で切り替えられるものもある<ref>[https://docs.microsoft.com/en-us/cpp/build/reference/zc-wchar-t-wchar-t-is-native-type /Zc:wchar_t (wchar_t Is Native Type) | Microsoft Docs]</ref>。 [[C99]] 規格や [[C++]]98 規格の場合、ワイド文字定数・文字列リテラルには [[ISO 10646]] 文字集合の数値で表現する[[ユニバーサル文字名]]を使用することもできる。 == 内部表現 == <code>char</code>型のサイズは常に1バイトであることがC/C++規格で保証される<ref>ただし1バイトが8ビットであることは保証されない。バイトあたりのビット数は、&lt;limits.h&gt;/&lt;climits&gt;にてマクロ定数 <code>CHAR_BIT</code> として定義される。</ref>。つまり、<code>sizeof(char) == 1</code>は常に真である。 一方、<code>wchar_t</code> 型は C および C++ 双方の標準規格において、符号付きの場合は少なくとも-127から+127まで、符号無しの場合は少なくとも0から255までの範囲を表現できる数値型<ref>JIS X 3010:2003「プログラム言語C」§7.18.3「他の整数型の限界値」WCHAR_MIN, WCHAR_MAX</ref>、ということのみ定められている(少なくとも<code>char</code>型と同じ大きさが必要)。<code>char</code>がASCIIであるとは限らなかったり、<code>float</code>や<code>double</code>が[[IEEE 754]]の[[単精度浮動小数点数|単精度]]・[[倍精度浮動小数点数|倍精度]]であるとは限らなかったりすることと同様に、<code>wchar_t</code>の内部表現も[[Unicode]]である必要はない。本来は[[Code Set Independent]](符号化集合に独立)なのである。 <code>wchar_t</code> 型のサイズと符号化形式は、例えば[[Microsoft Windows|Windows]]では2バイト (16ビット) の[[UTF-16]]であり、[[Linux]]や[[macOS]]では4バイト (32ビット) の[[UTF-32]]である。しかし、{{要出典範囲|date=2018年10月|その他の環境でもUnicodeを用いた符号化形式であると誤解されて、あるいは仮定してプログラムが作られることがある}}。そのようなプログラムは、Unicodeを用いた符号化形式とは限らない一般の[[Unix]]などへの移植の際に問題が表面化する。なお、C99より、<code>wchar_t</code>が[[Unicode]]と互換性のある場合、<code>__STDC_ISO_10646__</code>が事前定義されると定められている。 == char16_t, char32_t型 == ワイド文字の問題は、前述のように型のサイズや符号化形式が規定されておらず、プラットフォームおよび処理系依存であることである。[[Unicode]]が普及するにつれて、[[移植性]]の問題が表面化してきた。 [[2011年]]に改訂された C/C++ の標準規格、[[C11 (C言語)|C11]] と [[C++11]] では、新たに2つの文字型 <code>char16_t</code> と <code>char32_t</code> が導入された。これらはそれぞれ [[UTF-16]] と [[UTF-32]] を内部表現とする。<code>u'c'</code> や <code>U'c'</code> あるいは <code>u"str"</code> や <code>U"str"</code> のように小文字の <code>u</code> あるいは大文字の <code>U</code> を前置することで、それぞれ <code>char16_t</code> と <code>char32_t</code> の文字定数・文字列リテラルを表現する。また、<code>u8</code> を前置することで [[UTF-8]] の文字列リテラルを表現する<ref>[https://ja.cppreference.com/w/cpp/language/string_literal 文字列リテラル - cppreference.com]</ref>が、<code>char8_t</code> 型は存在せず、従来の <code>char</code> 型で代用する。[[C++17]]ではUTF-8の文字リテラルをサポートするようになった<ref>[https://ja.cppreference.com/w/cpp/language/character_literal 文字リテラル - cppreference.com]</ref>。C++20では<code>char8_t</code>型がサポートされるようになる予定である。 C言語の場合<code>char16_t</code>および<code>char32_t</code>はそれぞれ<code>uint_least16_t</code>および<code>uint_least32_t</code>のtypedefエイリアスであるが、C++の場合<code>char16_t</code>および<code>char32_t</code>はキーワードであり、それぞれ<code>std::uint_least16_t</code>および<code>std::uint_least32_t</code>と同じサイズではあるものの、別の型として規定されている<ref>[https://ja.cppreference.com/w/cpp/language/types 基本型 - cppreference.com]</ref>。 いずれの言語においても、<code>char16_t</code>型のサイズは16ビットよりも大きい可能性があるが、格納される値は16ビット幅である<ref>[https://ja.cppreference.com/w/c/string/multibyte/char16_t char16_t - cppreference.com]</ref>。同様に、<code>char32_t</code>型のサイズは32ビットよりも大きい可能性があるが、格納される値は32ビット幅である<ref>[https://ja.cppreference.com/w/c/string/multibyte/char32_t char32_t - cppreference.com]</ref>。 == D言語 == [[D言語]]では、charと別に、次の2つの文字型が用意されている。 ;wchar :UTF-16を格納する16ビットの文字型 ;dchar :UTF-32を格納する32ビットの文字型 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[文字符号化方式]] * [[キーワード (C++)]] [[Category:C言語|わいともし]] [[Category:C++|わいともし]] [[Category:プログラミング言語の構文|わいともし]] [[Category:文字コード|わいともし]]
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コムソート
コムソート(英: comb sort)やコームソートや櫛(くし)ソートは、ソートのアルゴリズムの一つ。1980年に Włodzimierz Dobosiewicz が発表し、1991年に Stephen Lacey と Richard Box が再発見しコムソートと命名した。 バブルソートの改良版。内部ソートだが、安定ソートではない。実行速度は、ほぼO(n log n)になる。 挿入ソートをシェルソートに改良したときと同様の改良を施す。適当な間隔で整列後、間隔を少しずつ狭めて整列していく。 動作例として という数列を昇順に整列してみる。 このとき n=8 だから h=8÷1.3≒6 から始める。 8と2、4と1を比較して2回交換を行う。 次は h = 6÷1.3 ≒ 4。2と6、1と5のように比較してゆき、7と4のみが交換される。 以下 h は 3 → 2 → 1 の順に減っていくので h=3:交換なし h=2:交換なし h=1:交換3回 この例では6回の交換で整列が終了した。 h=9,10となったとき、強制的にh=11とすることで高速化したアルゴリズムを、Comb sort 11と呼ぶ。 hが9→6→4→3→2→1や10→7→5→3→2→1と遷移するよりも、11→8→6→4→3→2→1と遷移する方がうまく櫛が梳けるためである。
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コムソートやコームソートや櫛(くし)ソートは、ソートのアルゴリズムの一つ。1980年に Włodzimierz Dobosiewicz が発表し、1991年に Stephen Lacey と Richard Box が再発見しコムソートと命名した。 バブルソートの改良版。内部ソートだが、安定ソートではない。実行速度は、ほぼO(n log n)になる。
{{Infobox algorithm |class=[[ソート]] |image=[[File:comb_sort_demo.gif|Visualisation of comb sort]] |data=[[配列]] |time=<math>\Omega(n^2)</math><ref name=BB/> |average-time=<math>\Omega(n^2/2^p)</math>, {{math|''p''}} は増加数<ref name=BB/> |best-time=<math>O(n)</math> |space=<math>O(1)</math> |optimal= }} '''コムソート'''({{lang-en-short|comb sort}})や'''コームソート'''や'''櫛(くし)ソート'''は、[[ソート]]の[[アルゴリズム]]の一つ。1980年に Włodzimierz Dobosiewicz が発表し<ref>{{Cite journal |title=An efficient variation of bubble sort |author=Włodzimierz Dobosiewicz |journal=Information Processing Letters |volume=11 |year=1980 |pages=5-6 |doi=10.1016/0020-0190(80)90022-8 }}</ref><ref name="BB">{{Cite journal | doi = 10.1016/S0020-0190(00)00223-4 | title = Analyzing variants of Shellsort | journal = Information Processing Letters | volume = 79 | issue = 5 | pages = 223–227 | year=2001 | month=September | last1 = Brejová | first1 = B. }}</ref>、1991年に Stephen Lacey と Richard Box が再発見しコムソートと命名した<ref>[http://cs.clackamas.cc.or.us/molatore/cs260Spr03/combsort.htm "A Fast Easy Sort"], [[Byte Magazine|''Byte'' Magazine]], April 1991</ref>。 [[バブルソート]]の改良版。内部ソートだが、[[安定ソート]]ではない。実行速度は、ほぼ[[ランダウの記号|O]](n log n)になる。 ==アルゴリズム== [[挿入ソート]]を[[シェルソート]]に改良したときと同様の改良を施す。適当な間隔で整列後、間隔を少しずつ狭めて整列していく。 # 総数 n を 1.3 で割り、小数点以下を切り捨てた数を間隔 h とする。 # i=0 とする。 # i 番目と i+h 番目を比べ、i+h 番目が小さい場合入れ替える。 # i=i+1 とし、i+h>n となるまで3を繰り返す。 # hがすでに1になっている場合は入れ替えが発生しなくなるまで上の操作を繰り返す。 # h を 1.3 で割り、小数点以下を切り捨てた数を新たに間隔 h とし、操作を繰り返す。 === Javaによる実装例 === <syntaxhighlight lang="java"> public static void combSort(int[] data) { int h = data.length * 10 / 13; while (true) { int swaps = 0; for (int i = 0; i + h < data.length; ++i) { if (data[i] > data[i + h]) { swap(data, i, i + h); ++swaps; } } if (h == 1) { if (swaps == 0) { break; } } else { h = h * 10 / 13; } } } private static void swap(int[] a, int i, int j) { int t = a[i]; a[i] = a[j]; a[j] = t; } </syntaxhighlight> ===C言語による実装例=== <syntaxhighlight lang="c"> void comb_sort(int* array, int size) { int h = size; bool is_swapped = false; while (h > 1 || is_swapped) { if (h > 1) { h = (h * 10) / 13; } is_swapped = false; for (int i = 0; i < size - h; ++i) { if (array[i] > array[i + h]) { // swap int temp = array[i]; array[i] = array[i + h]; array[i + h] = temp; is_swapped = true; } } } } </syntaxhighlight> === 動作例 === 動作例として : 8 4 3 7 6 5 2 1 という数列を昇順に整列してみる。 このとき n=8 だから h=8÷1.3≒6 から始める。 8と2、4と1を比較して2回交換を行う。 : '''8''' 4 3 7 6 5 '''2''' 1 : 2 '''4''' 3 7 6 5 8 '''1''' : 2 1 3 7 6 5 8 4 次は h = 6÷1.3 ≒ 4。2と6、1と5のように比較してゆき、7と4のみが交換される。 : 2 1 3 '''7''' 6 5 8 '''4''' : 2 1 3 4 6 5 8 7 以下 h は 3 → 2 → 1 の順に減っていくので h=3:交換なし : 2 1 3 4 6 5 8 7 h=2:交換なし : 2 1 3 4 6 5 8 7 h=1:交換3回 : '''2''' '''1''' 3 4 6 5 8 7 : 1 2 3 4 '''6''' '''5''' 8 7 : 1 2 3 4 5 6 '''8''' '''7''' : 1 2 3 4 5 6 7 8 この例では6回の交換で整列が終了した。 ==改良版アルゴリズム== h=9,10となったとき、強制的にh=11とすることで高速化したアルゴリズムを、'''Comb sort 11'''と呼ぶ。 hが9→6→4→3→2→1や10→7→5→3→2→1と遷移するよりも、11→8→6→4→3→2→1と遷移する方がうまく櫛が梳けるためである。 == 参照 == {{reflist}} {{ソート}} [[Category:ソート|こむそおと]]
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デスラー
デスラーは、「宇宙戦艦ヤマトシリーズ」の登場人物。 本項では、企画途中で頓挫したデスラーを主人公とするアニメ『デスラーズ・ウォー』についても記述する。 大マゼラン星雲と小マゼラン星雲に跨る星間国家ガミラス帝国の総統。ガミラス本星消失後、ガルマン・ガミラス帝国を建国し総統に就任した。 傲慢で冷徹な統治者、反対者を躊躇なく粛清する冷酷な独裁者として描かれているが、その行動は私利私欲のためではなく、危機に瀕した自国の繁栄・自民族の存続のためである。第1作では純然たる敵キャラクターとしての活躍だったが、続編である『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』『宇宙戦艦ヤマト2』では、地球の存亡に命をかけるヤマトとガミラスのために戦う自分を重ね合わせて共感し始め、沖田十三や古代進に敬意と友情を感じるようになってゆく。そして、次第にヤマトとともに戦う場面が増えていく。 容姿は金髪に青い顔色だが、第1作第10話までは髪は栗毛色で顔は肌色だった。ガミラス人の肌の色の変更に関してはガミラス帝国#ガミラス人を参照。 デスラーのスペルは『さらば』の音楽集では「Desler」、海外版では「Desslar」、宮武一貴のデスラー艦の設定画では「Deathlagh」となっていて、統一されていない。 彼のマントは宇宙空間上でも常にはためいており、一部の考察本において本シリーズ揶揄の材料とされることがある。また、『宇宙戦艦ヤマトIII』制作時には、これに関して西崎義展と出渕裕の間で討論が繰り広げられたこともあったという。 ヤマトシリーズのほぼ全てに登場する主要人物であり、バラエティ番組『笑う犬の冒険』にて、『デスラー』というコントにされたり、『パタリロ!』(花とゆめコミックス第10巻にて)などの他作品でもパロディとなっている。 性格は冷徹ではあるが紳士的であり、言葉遣いも慇懃無礼ではあるが丁寧である。 演ずる伊武は役作りの際、それまでの悪役といえばマッドサイエンティストが「ヒヒヒヒ...」と笑うようなカン高い声が多かったため、逆に低くつぶやくスタイルにしてみようと思ったという。 初期作品では、たった1回の失敗に対しても戦って死ぬか自決かデスラーによる処刑しか選べなかったが、『宇宙戦艦ヤマトIII』第4話ではヒステンバーガーの失敗を「あと2回で死刑」とするなど、少しは寛容になったところを見せた。ただし、配下が自分以外の対象を崇拝することを極端に嫌う傾向があり、『ヤマトIII』第13話においてシャルバート信仰の信者の幕僚・ハイゲルを「ガルマンに神は二人はいらぬ」と言い、その場で射殺したことがある。 『2199』においては、冥王星基地を喪ったシュルツに対しては、挽回のチャンスを与えたほか、部下と共に戦死時に全員を2階級特進させた上、残された遺族を名誉ガミラス臣民に昇格させる命令を出すなど、旧作よりも寛容さを示している。一方で、下品な言動を取った部下に対して問答無用で処刑した件では、旧作同様の冷酷さを示した。帝都バレラスの民を全員葬ろうとした事もある一方、その自らの行動を罪と認識しそれを背負っていく決意も示すなど、二律背反した性格の持ち主として描かれている。 松本零士によるコミカライズの番外編『宇宙戦艦ヤマト 永遠のジュラ編』では結婚していて、サイレン人の妻・メラと娘・ジュラが存在している。妻が相手の心を読みそれを相手に投影する能力を持っていて、娘もその能力を引き継いでいるため、嫌がったデスラーにより幽閉されて、ヤマト乗組員の精神情報を探らされている。この作品におけるデスラーは、愛する妻子の困った能力をヒスに愚痴る、意外に卑小な人間臭さを見せている。 「名前はアドルフ・ヒトラーをもじったものである」とかつては説明されていた。 しかし後年、1990年代後半に入ると松本零士は、「デスラー」は松本がよく使う「ラー」(ラーメタル、ラー・アンドロメダ・プロメシュームなど)と「デス」を組合わせたもので、前者はエジプト神話の太陽神ラーに由来し太陽やそれに象徴されるパワーを、後者は死を意味する英語であり、すなわち「デスラー」とは「死の太陽」を意味すると説明するようになった。ヒトラーとの類似は第一作段階での絶対悪的位置づけから。後の展開(ヤマトとの共闘)を受け、偶然の一致と説明を変更するようになった。 なお、ヤマトブーム期において、デスラーのモデルはヒトラーか、との問いに対し、プロデューサーの西崎義展は「あんな卑小な男ではない。ローマ帝国の皇帝をイメージしたキャラクター」と語っている。そして『宇宙戦艦ヤマト』のアメリカ公開版『Star Blazers』において、デスラーこと Desslok は、退廃的ローマ貴族風にオカマ言葉で喋るような演出が施されていた。 性格は西崎をモデルとしたといわれている。ゼネラルプロデューサーならぬガミラスプロデューサーを自称していた西崎はデスラーにのめり込むようになり、『宇宙戦艦ヤマト完結編』の後には後述のデスラーを主人公とするアニメ『デスラーズ・ウォー』を企画したが、制作には至らなかった。 本作でのデスラーは、原作の様な人類と似通った社会構成を持つガミラス帝国の中での一ガミラス人ではなく、「母星の寿命に際し、地球を攻撃・改造し移住を目論む」意思の集まりであり、劇中でも「我々は個であり全体である」と語った。「デスラー」という名は、この集合体が自称するものであると設定されている。 そして「デスラー」は、自らを超巨大戦艦兼超巨大ミサイルと化して地球到着寸前のヤマトを奇襲して大破させ、「我々は、屈辱を忘れぬ種族だ」「地球は、お前たちにも渡さない」と言い残して、ヤマトの眼前で地球を破壊しようとした。 ヤマトのブリッジに姿を現した際は人型に近い形状になっていた。声は原作アニメと同様に伊武が担当。 『宇宙戦艦ヤマト』(以下、旧作)のリメイク作品である『宇宙戦艦ヤマト2199』では、「アベルト・デスラー」というフルネームが設定されており、肩書きも「大ガミラス帝星永世総統」という正式名称が設定されている。容姿については、やや顎が細く、目つきが鋭くなっている。また、年齢は地球年齢に換算して32歳相当と設定され、容姿も旧作よりも若々しいものとなっている。これは、旧作シリーズでライバルだった古代と対等に近づけるため、デザイン担当の結城が若くしようと提案したためであり、一時は古代と同年代のデザイン案も存在した。 本作では大ガミラス帝星の前身「ガミラス大公国」を統べていた叔父・エーリク・ヴァム・デスラーの死後、内乱状態となったガミラスを武力で再統一を果たしたという設定となっており、軍事独裁制を敷いて領土の拡大を行っている。 圧倒的なカリスマで国民から支持されているが、本人は「人間とは愚かで従順な存在で、この上もなく退屈な生き物」と評し、帝星についても「この星にしがみついて、何になる」と呟いている。実際の支配体制の維持についても投げやりであり、帝都バレラスですら反体制派の活動が行われるような状況であることから、全権を任されたハイドム・ギムレーが、時には惑星をまるごと消滅させるほどの圧政を敷いている。 一方、スターシャには愛情を向けるなど『新たなる旅立ち』以降の設定が反映されており、思想の違いを超えたガミラスとイスカンダルの大統合、ガミラスが星々を支配することによる平和を夢見ている。 続編『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』では、幼少期からの過去と『2199』における行動の真意や胸中の思いなどが描写されている。 幼少時、エーリクとその重臣達の間で公然の秘密となっていたガミラス星の寿命の事実を聞いてしまったためにエーリクに処断されそうになるが、兄マティウスの取り成しで「血の誓い」を立てた事で、同じく秘密を共有する者となる。その後マティウス、エーリクが相次いで死に、混乱するガミラスを統一してガミラス帝国を作り、兄と交わした「ガミラスの移住先となる惑星を生涯かけて見つける」という約束を果たし、滅びの淵に立つ民族を救うため、武力による惑星併合を推し進めた。太陽系への侵攻も、地球が移住先の候補地だったからであり、遊星爆弾による攻撃も星の環境を改造してガミラス人を移住させるためだったことが明かされた。 幼少時は、周囲から「統一戦争の英雄」と讃えられていた兄マティウスと比較され、「兄が陽なら弟は陰」「器が違いすぎる」などと言われていた。マティウスが亡くなった際には「偉大なマティウスの弟」と呼ばれる事が無くなることに安堵する一方、重大な秘密と責務を自分に背負わせ、死によって自身はおろか母アデルシアの心さえあの世に連れて行った彼を「ずるい」と思うなど複雑な心境を抱いていた。それでも身内としての情を抱いており、総統時代、マティウスの妻であるエリザに暗殺されかかるも、処刑したように見せかけて彼女とその子供ランハルト(キーマン)を追放するに留めた。 『完結編』公開後、デスラーを主役として製作予定であった作品。正式タイトルは『DESLAER'S WAR I 戦艦スターシャ』で、当初は『キング・オブ・デスラー』や『エンペラー・オブ・ガルマンガミラス』などとも呼ばれていた。「OVA3本と劇場版」「各60分OVA6本とテレビスペシャル」など、企画が二転三転した末に頓挫した。『完結編』からヤマトの第2部誕生編(後の『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』)の間を繋ぐ内容だったが、頓挫してから年数が経過したため2009年に実際に公開された『復活篇』とは矛盾する点がある。 ストーリー案も遷移しており、当時の資料で紹介されたものは以下の2つがある。 最終的に日の目を見ずに頓挫した本作だが、本作の戦艦スターシャの流れを受け継いだ艦船は、小林誠によってデザインされたものや、松本零士・板橋克己によってデザインされた「ガルマンガミラス戦略指揮旗艦<G・スターシア>」などが存在する。また、ほかにも松本・板橋は三段空母の新デザインなども行っており、デストロイヤー艦と合わせて「ネオガミラス艦隊」を結成している。 2007年12月20日、バンダイネットワークスは『宇宙戦艦ヤマト』劇場公開30周年記念として限定商品「デスラー総統ワインセット」の受注を開始。2008年3月下旬より出荷された。購入特典として、デスラー勲章およびデスラー総統特製リーフレットが付属する。価格は税込み13,650円で、完売した。
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復活篇』)の間を繋ぐ内容だったが、頓挫してから年数が経過したため2009年に実際に公開された『復活篇』とは矛盾する点がある。", "title": "デスラーズ・ウォー" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ストーリー案も遷移しており、当時の資料で紹介されたものは以下の2つがある。", "title": "デスラーズ・ウォー" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "最終的に日の目を見ずに頓挫した本作だが、本作の戦艦スターシャの流れを受け継いだ艦船は、小林誠によってデザインされたものや、松本零士・板橋克己によってデザインされた「ガルマンガミラス戦略指揮旗艦<G・スターシア>」などが存在する。また、ほかにも松本・板橋は三段空母の新デザインなども行っており、デストロイヤー艦と合わせて「ネオガミラス艦隊」を結成している。", "title": "デスラーズ・ウォー" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2007年12月20日、バンダイネットワークスは『宇宙戦艦ヤマト』劇場公開30周年記念として限定商品「デスラー総統ワインセット」の受注を開始。2008年3月下旬より出荷された。購入特典として、デスラー勲章およびデスラー総統特製リーフレットが付属する。価格は税込み13,650円で、完売した。", "title": "関連商品" } ]
デスラーは、「宇宙戦艦ヤマトシリーズ」の登場人物。 本項では、企画途中で頓挫したデスラーを主人公とするアニメ『デスラーズ・ウォー』についても記述する。
{{Infobox animanga character | name = デスラー / アベルト・デスラー | series = [[宇宙戦艦ヤマトシリーズ]] | first = 『[[宇宙戦艦ヤマト]]』第2話「号砲一発!!宇宙戦艦ヤマト始動!!」 | creator = | voiced by = [[#担当声優]] を参照 | nickname = | alias = | age = 地球換算で32歳相当(『2199』) | gender = 男 | species = ガミラス人 | nationality = [[ガミラス帝国]]<br />[[ガミラス帝国#宇宙戦艦ヤマト2199|大ガミラス帝星]](『2199』) | title = 総統 | relatives = }} '''デスラー'''は、「[[宇宙戦艦ヤマトシリーズ]]」の登場人物。 本項では、企画途中で頓挫したデスラーを主人公とするアニメ『[[#デスラーズ・ウォー|デスラーズ・ウォー]]』についても記述する。 == キャラクター設定 == [[大マゼラン銀河|大マゼラン星雲]]と[[小マゼラン銀河|小マゼラン星雲]]に跨る星間国家[[ガミラス帝国]]の[[総統]]。[[ガミラス|ガミラス本星]]消失後、[[ガルマン・ガミラス帝国]]を建国し総統に就任した。 傲慢で冷徹な統治者、反対者を躊躇なく[[粛清]]する冷酷な[[独裁者]]として描かれているが、その行動は私利私欲のためではなく、危機に瀕した自国の繁栄・自民族の存続のためである。第1作では純然たる敵キャラクターとしての活躍だったが、続編である『[[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]]』『[[宇宙戦艦ヤマト2]]』では、地球の存亡に命をかけるヤマトとガミラスのために戦う自分を重ね合わせて共感し始め、[[沖田十三]]や[[古代進]]に敬意と[[友情]]を感じるようになってゆく。そして、次第にヤマトとともに戦う場面が増えていく。 容姿は金髪に青い顔色だが、第1作第10話までは髪は栗毛色で顔は肌色だった。ガミラス人の肌の色の変更に関しては[[ガミラス帝国#ガミラス人]]を参照。 デスラーのスペルは『さらば』の[[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち 音楽集|音楽集]]では「Desler」、海外版では「Desslar」、[[宮武一貴]]の[[デスラー艦]]の設定画では「Deathlagh」<ref>表題やメモなどの書き込みが<!--書籍掲載にあたって-->切り取られていない状態のデスラー艦の設定画は「保存版 さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち (秘) 設定資料集 メカ設定・白色彗星軍」『ロードショー特別編集 さらば宇宙戦艦ヤマト VOL.2決定版!!』([[集英社]]、1978年11月20日)<!--本誌はページ番号が振られていない。一応、標題紙(ステッカーの次頁)から数えるとp. 84(途中の中折りを1枚4頁と数える)-->などに掲載されている。</ref>となっていて、統一されていない。 彼のマントは宇宙空間上でも常にはためいており、一部の考察本{{誰|date=2017年3月4日 (土) 09:43 (UTC)}}において本シリーズ揶揄の材料とされることがある。また、『[[宇宙戦艦ヤマトIII]]』制作時には、これに関して[[西崎義展]]と[[出渕裕]]の間で討論が繰り広げられたこともあったという<ref>『「宇宙戦艦ヤマト2199 第一章 遥かなる旅立ち」劇場パンフレット』宇宙戦艦ヤマト2199製作委員会(発行)、[[松竹]](販売)、2012年4月、p.27。</ref>。 ヤマトシリーズのほぼ全てに登場する主要人物であり、バラエティ番組『[[笑う犬|笑う犬の冒険]]』にて、『デスラー』というコント<ref group=注>[[内村光良]]扮するデスラーがヤマトの乗組員にメッセージを送るが、[[名倉潤]]扮する「母ちゃん」が横で掃除をしていたりしているというものである。</ref>にされたり、『[[パタリロ!]]』([[花とゆめ]]コミックス第10巻にて)などの他作品でもパロディとなっている。 === 性格・言動 === 性格は冷徹ではあるが紳士的であり、言葉遣いも慇懃無礼ではあるが丁寧である。 演ずる伊武は[[役作り]]の際、それまでの悪役といえば[[マッドサイエンティスト]]が「ヒヒヒヒ…」と笑うようなカン高い声が多かったため、逆に低くつぶやくスタイルにしてみようと思ったという{{要出典|date=2017年11月20日 (月) 06:23 (UTC)}}。 初期作品では、たった1回の失敗に対しても戦って死ぬか自決かデスラーによる処刑しか選べなかったが、『[[宇宙戦艦ヤマトIII]]』第4話では[[ヒステンバーガー]]の失敗を「あと2回で死刑」とするなど、少しは寛容になったところを見せた。ただし、配下が自分以外の対象を崇拝することを極端に嫌う傾向があり、『ヤマトIII』第13話においてシャルバート信仰の信者の幕僚・[[宇宙戦艦ヤマトシリーズの登場人物一覧#ハイゲル|ハイゲル]]を「ガルマンに神は二人はいらぬ」と言い、その場で射殺したことがある。 『2199』においては、冥王星基地を喪ったシュルツに対しては、挽回のチャンスを与えたほか、部下と共に戦死時に全員を2階級特進させた上、残された遺族を名誉ガミラス臣民に昇格させる命令を出すなど、旧作よりも寛容さを示している。一方で、下品な言動を取った部下に対して問答無用で処刑した件では、旧作同様の冷酷さを示した。帝都バレラスの民を全員葬ろうとした事もある一方、その自らの行動を罪と認識しそれを背負っていく決意も示すなど、二律背反した性格の持ち主として描かれている。 松本零士による[[コミカライズ]]の番外編『宇宙戦艦ヤマト 永遠のジュラ編』<ref>松本零士『宇宙戦艦ヤマト (2) 永遠のヤマト』(初版、秋田書店〈秋田文庫〉、1994年、ISBN 978-4253170185)pp. 289-323に収録。</ref>では結婚していて、サイレン人の妻・メラと娘・ジュラが存在している。妻が相手の心を読みそれを相手に投影する能力を持っていて、娘もその能力を引き継いでいるため、嫌がったデスラーにより幽閉されて、ヤマト乗組員の精神情報を探らされている。この作品におけるデスラーは、愛する妻子の困った能力を[[ヒス]]に愚痴る、意外に卑小な人間臭さを見せている<ref group=注>椅子に座って頭の後ろで手を組んで愚痴り始め、ヒスが「お察しします」と同情の意を表すと、「当事者にしか分からんことだ口をだすなっ!!」と激怒して杯をヒスの頭に投げ付け追い払っている。</ref>。 === モデル === 「名前は[[アドルフ・ヒトラー]]をもじったものである」とかつては説明されていた<ref>「松本零士 夢のANIMATION WORLD」『[[アニメージュ]]』1980年7月号、[[徳間書店]]、p.48。松本のコメント。</ref>。 しかし後年、1990年代後半に入ると[[松本零士]]は、「デスラー」は松本がよく使う「ラー」([[ラーメタル]]、[[ラー・アンドロメダ・プロメシューム]]など)と「デス」を組合わせたもので、前者は[[エジプト神話]]の太陽神[[ラー]]に由来し[[太陽]]やそれに象徴されるパワーを、後者は[[死]]を意味する[[英語]]であり、すなわち「デスラー」とは「死の太陽」を意味すると説明するようになった。ヒトラーとの類似は第一作段階での絶対悪的位置づけから。後の展開(ヤマトとの共闘)を受け、偶然の一致と説明を変更するようになった<ref>『コミック・ゴン』第2号、[[大洋図書]]、1998年。松本零士インタビューより。</ref>。 なお、ヤマトブーム期において、デスラーのモデルはヒトラーか、との問いに対し、プロデューサーの[[西崎義展]]は「あんな卑小な男ではない。[[ローマ帝国]]の皇帝をイメージしたキャラクター」と語っている<ref>[[ニッポン放送]]『[[オールナイトニッポン]]宇宙戦艦ヤマト・スペシャル』より。</ref>{{信頼性要検証|date=2017年11月20日 (月) 06:23 (UTC)}}。そして『宇宙戦艦ヤマト』のアメリカ公開版『Star Blazers』において、デスラーこと Desslok は、退廃的ローマ貴族風にオカマ言葉で喋るような演出が施されていた<ref>パトリック・マシアス著、[[町山智浩]]訳『オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史』[[太田出版]]、2006年、p. 93。</ref>。 性格は西崎をモデルとしたといわれている<ref>{{Cite book|和書|author=阿呆生研粋|year=2009|title=誰も知らない人気アニメ&マンガの謎|publisher=コアマガジン|isbn=978-4-86252-720-2}}</ref>。ゼネラルプロデューサーならぬガミラスプロデューサーを自称していた<ref>[[石黒昇]]、[[小原乃梨子]]『私説・アニメ17年史』[[大和書房]]、1980年、p. 202。</ref>西崎はデスラーにのめり込むようになり<ref>Web現代「ガンダム者」取材班編集「第1章 アニメーションディレクター 安彦良和 《ヤマト、ガンダム》」『ガンダム者 ガンダムを創った男たち』[[講談社]]、2002年10月9日、p. 66。ISBN 4-06-330181-8。</ref>、『宇宙戦艦ヤマト完結編』の後には後述のデスラーを主人公とするアニメ『[[#デスラーズ・ウォー|デスラーズ・ウォー]]』を企画したが、制作には至らなかった。 == 劇中での活躍 == ; [[宇宙戦艦ヤマト]] : 第2話から登場。ガミラスが[[惑星]]としての寿命が尽きようとしていたため、移住先として[[地球]]に狙いを定めて[[侵略]]を開始し、地球人類に絶滅か奴隷かの選択を迫った。 : [[ヤマト (宇宙戦艦ヤマト)|ヤマト]]のことを当初は過小評価していたが、[[冥王星]][[宇宙戦艦ヤマトシリーズの天体#冥王星|前線基地]]の壊滅など予想外の善戦を受け、関心を持つようになる。 : 第11話でヤマトが[[デスラー機雷]]網を突破した際には、[[電報|祝電]]を送る度量を見せている。逆に、第12話において自らが立案した[[宇宙戦艦ヤマトシリーズの天体#オリオン座アルファ星|オリオン座アルファ星]]域でのヤマト撃滅作戦が失敗し、副総統[[ヒス]]から祝電の有無を尋ねられた際には、「君は馬鹿かね?」と返している(この違いの理由は不明)。 : ヤマトが[[大マゼラン雲|大マゼラン星雲]]まで到達すると、ガミラス本星での本土決戦を立案して指揮する。ガミラス本星にヤマトを引き込み、[[硫酸|希硫酸]]の[[雨]]と濃硫酸の[[海]]で苦しめるが、[[海底火山]]脈を海中から[[波動砲]]で撃つという沖田の作戦で、形勢は逆転する。地球との[[和平]]を提案するヒスを銃殺して戦闘を継続した末、天井の崩落によって圧死したかに思われたが、総統府([[デスラー艦#初代|デスラー艦]])で脱出し、帰路のヤマトに[[白兵戦]]を挑む。失敗して退却した後、[[デスラー砲]]をヤマトに発射するも[[空間磁力メッキ]]で反射され、爆散していくデスラー艦と運命を共にする。 ; [[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]] : [[タラン]]と2人だけで生き延びて[[白色彗星帝国]]へ身を寄せ、敗軍の将として帝国の一将軍たるに甘んじて行動する。 : [[デスラー艦#二代目|デスラー艦]]に乗艦し、[[瞬間物質移送器#デスラー戦法|デスラー戦法]]と[[デスラー砲]]によってヤマト殲滅を謀るも、ヤマトが小ワープでデスラー艦へ接舷してきたため、白兵戦となる。戦いの終盤には爆発に巻き込まれてタランが戦死し、自身も負傷する。見守る[[森雪]]の前で古代との銃による[[一騎討ち]]となるが、前述の負傷が影響して銃を落として膝を突き、敗北を悟る。最後は自分の心が地球人の心に近い旨を述べ、[[白色彗星帝国#白色彗星|白色彗星]]の攻略方法を示して生身のまま宇宙空間へ身を投じる<ref>{{Cite news|url = https://dot.asahi.com/photogallery/archives/2017022000067/9/ |title = 白色彗星のもとにいたデスラーはヤマトに戦いを挑むも、またも敗れた。死の間際に、古代に白色彗星の攻略法を伝え、自らハッチを開けて宇宙の藻屑と消えた dot.フォトギャラリー | 蘇る「愛の戦士たち」 |newspaper = dot. |publisher = [[朝日新聞出版]] |accessdate=2017-03-04}}</ref>。 ; [[宇宙戦艦ヤマト2]] : 第1話から登場。死亡して宇宙を漂っていたところを、白色彗星帝国に回収されて蘇生医療を施され、復活する。敗軍の客将という身分の『さらば』とは違って彗星帝国からある程度の援助こそ受けているが、基本的には対等な同盟関係を結び、[[要人|賓客]]として迎えられている。生き延びていたタラン以下の腹心たちの尽力で再集結したガミラス残存艦隊を率い、白色彗星帝国軍の同盟軍としてヤマトと対峙する。 : [[ズォーダー]]からは「本物の武人」と高評されるが、立場を失うという懸念を抱く[[サーベラー]]を筆頭とした幹部や、[[ゴーランド]]など外様を嫌う生え抜き軍人とは折り合いが悪い。サーベラーたちの陰謀で一度は逮捕・監禁されるも脱出し、再びヤマトとの戦いにおもむく。地球周辺宙域の戦闘は『さらば』と同様の白兵戦になるが、古代との一騎討ちの際に負傷しているのは雪ではなく古代となっている。ヤマトとの戦いには事実上勝利するが、雪が古代を庇う姿からその愛を感じ取るとともに、地球のために必死に戦う彼らの姿を見て、民族の存亡をかけて戦ってきた自分の心が[[白色彗星帝国|ガトランティス人]]よりも地球人に近いことを悟り、積年の怨恨も潰える。最後はガミラス本星での戦いを引き合いに出すと、彗星帝国の弱点を暗示した言葉を雪に託し、タランを伴って残存艦隊とともに戦場から撤退する。 ; [[宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち]] : 本作では事実上の主人公に等しい<ref>『いま語るべき宇宙戦艦ヤマト ロマン宇宙戦記 40年の軌跡』p. 091。</ref>。ガミラス再建を目指して残存艦隊と共に新天地探索の旅へ出発する前に、今一度故郷をとガミラス星に戻るが、そこは[[暗黒星団帝国]]に蹂躙されており、激怒して攻撃を仕掛けるも、その戦闘の過程でガミラス星は爆発して消滅する。それにより、二重惑星である[[イスカンダル (宇宙戦艦ヤマト)|イスカンダル星]]も[[重力]]バランスを失い、暴走する。イスカンダル星と[[スターシャ]]の危機的状況を地球に通信し、ヤマトに救援を要請する。 : その後、暗黒星団帝国艦隊の襲撃を受けて絶体絶命に陥るが、駆けつけたヤマトによって救われる。しかし、そこに敵要塞の[[自動惑星ゴルバ]]が出現したため、故郷の仇としてデスラー砲を放つも効果はなく、ゴルバによるイスカンダル星への攻撃が開始される。スターシャの生命の危機を見て取ると[[デスラー戦闘空母]]をゴルバ砲口に突貫させて阻止し、ヤマトに自分ごと波動砲で撃つよう迫る。この危機はスターシャの自爆によって救われたものの、イスカンダル星とスターシャをも失ったことに、ひどく狼狽する。最後は古代にガミラス再建をどれだけ歳月が掛かろうと成し遂げると言い残し、何処へともなく去っていく。 ; [[ヤマトよ永遠に]] : 未登場だが、暗黒星団本星において古代たちが見せられる偽りのヤマトの戦史映像に、ガミラス本星での戦闘シーン(指揮を取るデスラーの姿)が映っている。回想シーンゆえに映像は第1作の流用であり、セリフも一切ない。なお、[[藤堂平九郎|司令長官]]との二役を演ずる伊武は「今回はデスラーが出なくて寂しい」と述べている<ref>『ロマンアルバムデラックス36 ヤマトよ永遠に』[[徳間書店]]、1980年、p. 76。</ref>。 ; [[宇宙戦艦ヤマトIII]] : 第4話から登場。ゴルバとの戦いの後、旅の末に[[銀河系]]中心部でガミラス人の遠い先祖であるガルマン民族の住む[[二重惑星]]を発見する。そこでガルマン民族を奴隷にしていた[[ボラー連邦]]を放逐し、解放されたガルマン民族から総統に選ばれてガルマン・ガミラス帝国を建国する。その後、建国1周年を迎えるまでの間に帝国はボラー連邦と銀河系を二分する勢力にまで成長する。 : 周囲には「[[オリオン腕]]最辺境の[[惑星系|恒星系]](地球)には手を出すな」と厳命していたが、部下の独断で自軍はヤマトや地球と敵対していく。そして、ヤマトの鹵獲成功との報告を受けた際に初めてヤマトとの交戦を知って激怒し、詫びとしてヤマトを帝国に招待する。そして、自軍が原因で太陽系が危機にあることを知ると償いに協力を申し出て、地球に似た環境の[[宇宙戦艦ヤマトシリーズの天体#惑星ファンタム|惑星ファンタム]]の情報を提供する。しかし、ファンタムが幻影を見せるコスモ生命体であることが判明すると、帝国への冒涜行為に激怒して破壊させる。 : その後、かつて銀河系を支配していたと云われる[[シャルバート]]星の王女[[宇宙戦艦ヤマトシリーズの登場人物一覧#ルダ|ルダ]]がヤマトに乗艦したことを知ると、確認させるよう命じて自ら艦隊を率い、ヤマトを追跡した末にシャルバート星まで辿り着くが、古代からシャルバートは戦いを放棄し、すべての武力・科学力を封印したという事実を聞かされると、「丸腰(無抵抗)の者を攻めたりはしない」と述べ、シャルバート星を去る。 : 最終話では、太陽系内でヤマトがボラー首相[[宇宙戦艦ヤマトシリーズの登場人物一覧#ベムラーゼ|ベムラーゼ]]率いる大艦隊と[[宇宙戦艦ヤマトシリーズの宇宙要塞#機動要塞ゼスパーゼ|機動要塞]]の襲撃を受けた際に艦隊を率いて現れ、ボラーとの交戦の末に[[ハイパーデスラー砲]]で敵要塞をベムラーゼもろとも撃破する。ヤマトの太陽制御が成功すると、古代に地球が甦ったことへの祝辞を述べ、将来の再会を約束してガルマン・ガミラス本星へ帰還していく。 : 第1作の頃のように各方面への侵略を行っているが、第1作とは異なり、自民族のみの繁栄ではなく、自身による支配で全宇宙に永遠の平和をもたらそうという思想がある。 : 当初の全52話のシリーズ構成では、シリーズ中盤でヤマトと再び対立することになる展開だった<ref>「宇宙戦艦ヤマトIII DVD MEMORIAL BOX」([[バンダイビジュアル]]、2001年、BCBA-0532)付録解説小冊子『宇宙戦艦ヤマトIII DVDメモリアルボックス 保完ファイル』pp. 20-21。</ref>。 ; [[宇宙戦艦ヤマト 完結編]] : 銀河系と赤色銀河の交錯によってガルマン・ガミラス本星が壊滅し、調査に訪れたヤマト乗組員らに死亡したと思われ、花を手向けられる。しかし、実際は国境の巡視中だったために難を逃れており、終盤にヤマトが[[ディンギル帝国|ディンギル]]艦隊に撃沈されそうになったところへ間一髪で駆けつけ、ディンギル艦隊を一掃して大神官大総統[[宇宙戦艦ヤマトシリーズの登場人物一覧#ルガール|ルガール]]座乗の旗艦をデスラー砲で撃沈する。その後、ヤマトが自爆(自沈)する光景を見届け、涙を流す。 : なお、[[ひおあきら]]の漫画版ではヤマトが自沈する直前にルガール艦をデスラー砲で攻撃している<ref>ひおあきら『宇宙戦艦ヤマト 完結編』[[メディアファクトリー]]([[MFコミックス]])、2010年2月28日、pp. 376-378。</ref>。 == SPACE BATTLESHIP ヤマト == {{See also|ガミラス帝国#SPACE BATTLESHIP ヤマト|SPACE BATTLESHIP ヤマト#異星人}} 本作でのデスラーは、原作の様な人類と似通った社会構成を持つガミラス帝国の中での一ガミラス人ではなく、「母星の寿命に際し、地球を攻撃・改造し移住を目論む」意思の集まりであり、劇中でも「我々は個であり全体である」と語った。「デスラー」という名は、この集合体が自称するものであると設定されている<ref group=注>ちなみにイスカンダルは、その意思の集まりの中で「母星の寿命に際し、星と運命を共にする事を決めたもう一つの側面」と設定されており、「スターシャ」を自称する。</ref>。 そして「デスラー」は、自らを超巨大戦艦兼超巨大ミサイルと化して地球到着寸前のヤマトを奇襲して大破させ、「我々は、屈辱を忘れぬ種族だ」「地球は、お前たちにも渡さない」と言い残して、ヤマトの眼前で地球を破壊しようとした。 ヤマトのブリッジに姿を現した際は人型に近い形状になっていた。声は原作アニメと同様に伊武が担当。 == リメイクアニメ == 『[[宇宙戦艦ヤマト]]』(以下、旧作)の[[リメイク]]作品である『[[宇宙戦艦ヤマト2199]]』では、「アベルト・デスラー」というフルネームが設定されており、肩書きも「大ガミラス帝星永世総統」という正式名称が設定されている。容姿については、やや顎が細く、目つきが鋭くなっている。また、年齢は地球年齢に換算して32歳相当と設定され、容姿も旧作よりも若々しいものとなっている。これは、旧作シリーズでライバルだった古代と対等に近づけるため、デザイン担当の結城が若くしようと提案したためであり<ref>『宇宙戦艦ヤマト2199 公式設定資料集 [EARTH]』[[マッグガーデン]]、2013年8月、p. 256。ISBN 978-4800001924。</ref>、一時は古代と同年代のデザイン案も存在した<ref>『宇宙戦艦ヤマト2199 公式設定資料集 [EARTH]』[[マッグガーデン]]、2013年8月、p. 261。ISBN 978-4800001924。</ref>。 本作では大ガミラス帝星の前身「ガミラス大公国」を統べていた叔父・'''[[宇宙戦艦ヤマト2199の登場人物#エーリク・ヴァム・デスラー|エーリク・ヴァム・デスラー]]'''の死後、内乱状態となったガミラスを武力で再統一を果たしたという設定となっており、軍事独裁制を敷いて領土の拡大を行っている。 圧倒的なカリスマで国民から支持されているが、本人は「人間とは愚かで従順な存在で、この上もなく退屈な生き物」と評し、帝星についても「この星にしがみついて、何になる」と呟いている。実際の支配体制の維持についても投げやりであり、帝都バレラスですら反体制派の活動が行われるような状況であることから、全権を任された[[宇宙戦艦ヤマト2199の登場人物#ハイドム・ギムレー|ハイドム・ギムレー]]が、時には惑星をまるごと消滅させるほどの圧政を敷いている。 一方、スターシャには愛情を向けるなど『新たなる旅立ち』以降の設定が反映されており、思想の違いを超えたガミラスとイスカンダルの大統合、ガミラスが星々を支配することによる平和を夢見ている。 === 過去 === 続編『[[宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち]]』では、幼少期からの過去と『2199』における行動の真意や胸中の思いなどが描写されている。 幼少時、エーリクとその重臣達の間で公然の秘密となっていたガミラス星の寿命の事実を聞いてしまったためにエーリクに処断されそうになるが、兄[[宇宙戦艦ヤマト2199の登場人物#マティウス・デスラー|マティウス]]の取り成しで「血の誓い」を立てた事で、同じく秘密を共有する者となる。その後マティウス、エーリクが相次いで死に、混乱するガミラスを統一してガミラス帝国を作り、兄と交わした「ガミラスの移住先となる惑星を生涯かけて見つける」という約束を果たし、滅びの淵に立つ民族を救うため、武力による惑星併合を推し進めた。太陽系への侵攻も、地球が移住先の候補地だったからであり、遊星爆弾による攻撃も星の環境を改造してガミラス人を移住させるためだったことが明かされた。 幼少時は、周囲から「統一戦争の英雄」と讃えられていた兄マティウスと比較され、「兄が陽なら弟は陰」「器が違いすぎる」などと言われていた。マティウスが亡くなった際には「偉大なマティウスの弟」と呼ばれる事が無くなることに安堵する一方、重大な秘密と責務を自分に背負わせ、死によって自身はおろか母[[宇宙戦艦ヤマト2199の登場人物#アデルシア・デスラー|アデルシア]]の心さえあの世に連れて行った彼を「ずるい」と思うなど複雑な心境を抱いていた。それでも身内としての情を抱いており、総統時代、マティウスの妻である[[宇宙戦艦ヤマト2199の登場人物#エリザ・デスラー|エリザ]]に暗殺されかかるも、処刑したように見せかけて彼女とその子供[[宇宙戦艦ヤマト2199の登場人物#クラウス・キーマン|ランハルト(キーマン)]]を追放するに留めた。 === 劇中での活躍(リメイクアニメ) === ; [[宇宙戦艦ヤマト2199]] : 第6話から登場。第8話において、自らが立案したテロン艦(ヤマト)撃滅作戦を閣僚達に披露するが、ヤマトはこれを突破する。これによりヤマトに少なからず興味を抱き、後にその目的と目的地を看破し、ドメルを討伐に差し向ける。 : 第15話において[[宇宙戦艦ヤマト2199の登場人物#ヘルム・ゼーリック|ヘルム・ゼーリック]]の策謀により座乗艦「デウスーラI世」を爆沈させられて暗殺されたかに見えたが、暗殺計画はミーゼラ・セレステラが事前に察知しており、影武者を身代わりにして暗殺から逃れる。その後、第18話でゼーリックがバラン星での観艦式において大演説を行う中、通信に割り込んでゼーリックが暗殺計画の首謀者であることを暴露する。 : イスカンダルとの大統合を成し遂げるために帝都バレラスの破壊を画策し、第23話においてヤマトのガミラス星への突入後、自分は新たな座乗艦「デウスーラII世」のコアシップで総統府から脱出し、空間機動要塞都市「第二バレラス」の一部区画を切り離して帝都へ落下させ、ヤマトともどもバレラスを葬り去ろうとする。さらに、ヤマトが波動砲で落下区画を粉砕すると、今度は出力を絞ったデスラー砲によるピンポイント攻撃でヤマトもろともバレラスを破壊しようとするが、雪とノランによって直前に波動コアが暴走した結果、第二バレラスが爆発・崩壊し、公的には死亡したと見なされた。 : しかし、直前にゲシュタムジャンプ([[ワープ]])して生き延びた後、バラン星の亜空間ゲート内にてヤマトを待ち受け、多数のガミロイド兵を率いてヤマトに白兵戦を仕掛けるが、失敗に終わる。最後はデスラー砲によるヤマト撃沈を試みて発射体勢を整える中、乗艦がヤマトの三式弾の連射を浴びて中破し、波動エネルギーの誘爆によって爆沈する。なお、その寸前には艦橋部が本体から離脱する描写がある。 :; 小説版([[豊田巧]]) :: デスラーが帝都を破壊しようと思い至った経緯が若干異なっている。アニメ版では大統合を最終目的とし、そのためにイスカンダルの使命を引き受けようと拡大政策を行っていたが、小説版では全宇宙の恒久平和のための拡大政策という点では共通しているものの、果てなき「勝利」によってのみ人心を束ねる拡大政策に限界を感じ、大統合によってイスカンダルという新たな象徴を建てようとしており、アニメ版とは手段と目的が逆転している。 :<!-- バグ回避のための行「Help:箇条書き#定義の箇条書き中の箇条書き」参照 --> ; [[宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち]] : 第10話から登場。前作での爆沈から生き延びて帝星ガトランティスに迎えられているという点は『さらば』『ヤマト2』と同様である。しかし、本作では旧作と違いガトランティスに従う気は最初からなく、ヤマトに対する怨恨も抱いていない。ズォーダーとの関係も旧作と異なり、一国の王としてある程度の敬意を払われているが、いずれ離反する事を見抜かれている。ヤマトが見せた「執念」を知るために、ズォーダーより[[デスラー艦#ノイ・デウスーラ|ノイ・デウスーラ]]を始めとする艦艇を与えられ、監視役の[[ミル (宇宙戦艦ヤマト)#宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち|ミル]]を伴ったうえでヤマトに差し向けられる。 : 第11話において、感情に支配されて独断行動を起こした[[宇宙戦艦ヤマト2199の登場人物#メーザー|メーザー]]を艦隊もろともデスラー砲で粛清したのち、物質転送機でヤマトにミサイルの波状攻撃を仕掛け、緊急ワープで離脱したヤマトを追って古代アケーリアスの空洞惑星が生み出す異空間に入り込む。しかし、デスラーの真の目的は、ヤマトとの戦闘を隠れ蓑にしてこの空間に入り込み、コスモウェーブによるミルとズォーダーの通信を遮断、ガトランティスの監視下から逃れる事であり、この戦いに乗じて下賜された艦隊を殲滅。戦いの直後、[[タラン#ガデル・タラン|ガデル・タラン]]率いるガミラスの旧体制派の艦隊と合流し、ミルを拘束したうえでガトランティスから離反して独自に行動を始める。 : 第14話において、テレサから「ヤマトと縁を結んだ者の一人」として終盤、テレサと古代たちの前に姿を現し、続く第15話で、テレサの力を手中に収め、ガトランティスと交渉することが目的であると明かし、古代たちと交戦する。乱入してきたキーマンと[[宇宙戦艦ヤマト2199の登場人物#永倉志織|永倉]]によって不利になるが、自身の行動の真意を知ったキーマンが土壇場で古代たちを裏切った事で危機を脱し、古代たち四人を捕らえる。第16話では、ズォーダーとの交渉のためにミルを解放する一方、デスラー体制派の黒幕とされるギムレーとも会話する。その後、テレザリアムにてキーマンと対話し、彼に第二バレラスの一件に対する自身の胸中を明かし、仮に人々が自分の復権を望んでも、戻る気がない事を伝える。キーマンを見届けた後、テレサから「誰かを自分以上に大切に思う気持ちがある限り、民を率いる資格がある」と伝えられる。キーマンの造反とヤマトの離脱を黙認し、テレザート星の消失と地球への帰路につくヤマトを見届けると、新たなデスラー体制派の艦隊と合流する。第17話では、ミルから条件次第で協力すると伝えられる。「ガトランティスの傀儡に成り下がる気はない」と一蹴するも、ガミラス民族を救いたいという本心を指摘され、協力の条件として、ヤマトを倒せと命じられる。 : 第22話にてノイ・デウスーラ単独で三度ヤマトに立ちはだかる。事前に密かに発光信号をキーマンに送ることで、ヤマトが白兵戦に持ち込むよう誘導し、自艦の艦橋内でキーマンと対峙する。キーマンから地球と手を組むべきだと説得されるが、直後にミルに銃撃されて負傷し、キーマンに対する選択の材料とされてしまう。第23話では彼に自分を撃つよう促すが、艦橋に潜伏していた古代が制止したため、撃たれずに済み、彼と共に古代とミルのやり取りを見届ける。しかし、自身の救出に来たガミラス兵がミルを殺してしまった際には、「何と愚かな……」と嘆息の言葉をつぶやいた。戦闘後、キーマンからガミラスの命運を託され、自身はトランジット波動砲による輻射からヤマトを守るためにノイ・デウスーラの艦体を提供し、救出部隊の艦艇と共にその場を去って行った。 ; [[宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち]] : 第1話から登場。幼少期のマティウス、および前作でのキーマンとの約束を果たすため、ガミラス民族を救うことに命を懸けている。『2202』の第23話&#x301C;最終話の期間にガミラス民主政府と接触し、ガミラス星の寿命問題を共有して協力関係を築いた<ref>『「宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち 前章 -TAKE OFF-」劇場パンフレット』宇宙戦艦ヤマト2205製作委員会(発行)、バンダイナムコアーツ(販売)、2021年10月、p. 05。</ref>。そして本作第1話にて銀河系の一画にて発見したガルマン星を移住先として見出し、支配していた[[ボラー連邦#リメイクアニメ|ボラー連邦]]を武力で放逐する。 : ガルマン解放後、移住計画支援のためにガミラス星へ帰還するが、ガミラス星は謎の勢力[[暗黒星団帝国#リメイクアニメ|デザリアム]]の攻撃により消滅してしまう。7割近い国民の命が失われ絶望するも、生き残ったわずかな移民者を救うために行動していく。 == デスラーズ・ウォー == 『完結編』公開後、デスラーを主役として製作予定であった作品。正式タイトルは『DESLAER'S WAR I 戦艦スターシャ』で、当初は『キング・オブ・デスラー』や『エンペラー・オブ・ガルマンガミラス』などとも呼ばれていた。「OVA3本と劇場版」「各60分OVA6本とテレビスペシャル」など、企画が二転三転した末に頓挫した<ref name="いま語るべきP137">『いま語るべき宇宙戦艦ヤマト ロマン宇宙戦記 40年の軌跡』p. 137。</ref>。『完結編』からヤマトの第2部誕生編(後の『[[宇宙戦艦ヤマト 復活篇]]』)の間を繋ぐ内容だったが、頓挫してから年数が経過したため2009年に実際に公開された『復活篇』とは矛盾する点がある。 ストーリー案も遷移しており、当時の資料で紹介されたものは以下の2つがある<ref>『いま語るべき宇宙戦艦ヤマト ロマン宇宙戦記 40年の軌跡』p. 137-139。</ref>。 ; その1(「宇宙戦艦ヤマトファンクラブ本部」機関誌38、39号で紹介<ref name="いま語るべきP137"/>) : ヤマトの自沈を涙を流し眺めていたデスラーであったが、その最期を惜しみ、アクエリアス水塊からヤマトの第一艦橋部分と沖田の遺骸を回収し、ガルマン・ガミラス残存艦隊をまとめかつての故郷大マゼランへ向かう。しかし、大マゼランには謎の異星人の国家が既に侵略を進めており、その手は小マゼランにも伸びていた。 : その戦いに巻き込まれる中、宇宙要塞クラスの新たな御座艦「戦艦スターシャ」を建造、その艦内にヤマト第一艦橋と沖田の遺骸を安置した。ドメル将軍の息子ドメルJrも駆けつけ戦いを進めていったが、敵異星人はデスラーと古代の友情関係に目をつけ、地球にも侵略を開始。デスラーは自軍を守るのに専念するか、地球を守るかに苦悩する。 : 会報に書かれているストーリーはここまでである。なお、この時期、古代と雪は結婚し、子供も生まれているが『復活篇』の古代美雪に該当するかは不明。古代は真田と共に太陽系パトロールの任に就いていた。また、敵の異星人は会報には「星間国家連合」と記載されているが、こちらも『復活篇』に登場する大ウルップ星間国家連合との関連性は不明である。また、紹介された内容では、古代が死ぬことを示唆する文も存在した<ref name="いま語るべきP138">『いま語るべき宇宙戦艦ヤマト ロマン宇宙戦記 40年の軌跡』p. 138。</ref>。 ; その2(「宇宙戦艦ヤマトファンクラブ本部」機関誌49号で紹介<ref name="いま語るべきP138"/>) : デスラーは過去からの救援メッセージを受けとる。はるか数十億年の過去の世界では、イスカンダル星とガミラス星に分かれる前の星「ガイア」が存在しており、若き日のデスラーとスターシャの生き写しともいえる王と王妃によって治められていた。しかしガイアは、ウラン性[[放射性物質|放射物質]]でできているため他の生命と決して共存できない生命体「ディスラプター」の攻撃によって滅亡の危機に瀕していた。そして、ガイアに伝わる「母星に危機が訪れたとき戦士が現れる」という伝説に従い、未来へとメッセージを送られた。デスラーはガイアのある過去へとタイムワープを行い、ガイアを舞台に物語を紡いでいく。 : 「ガミラス人とイスカンダル人が同根」「ガミラス人は放射能の中で生きる」という第1作の設定が踏襲され、なぜそうなったのかが明かされる内容だったと推測されている<ref name="いま語るべきP138"/>。また、この案は没になって当初のその1案に戻った模様<ref name="いま語るべきP139">『いま語るべき宇宙戦艦ヤマト ロマン宇宙戦記 40年の軌跡』p. 139。</ref>。 最終的に日の目を見ずに頓挫した本作だが、本作の戦艦スターシャの流れを受け継いだ艦船は、[[小林誠 (イラストレーター)|小林誠]]によってデザインされたもの<ref>『[[ハイパーウェポン|HYPERWEAPON]]2009 宇宙戦艦と宇宙空母』モデルアート社、2009年{{要ページ番号|date=2015年2月}}。</ref>や、松本零士・[[板橋克己]]によってデザインされた「ガルマンガミラス戦略指揮旗艦<G・スターシア>」<ref>『宇宙戦艦ヤマト 大クロニクル』[[大洋図書]]、2010年{{要ページ番号|date=2015年2月}}。</ref>などが存在する<ref name="いま語るべきP139"/>。また、ほかにも松本・板橋は三段空母の新デザインなども行っており、デストロイヤー艦と合わせて「ネオガミラス艦隊」を結成している<ref name="いま語るべきP139"/>。 == 担当声優 == * [[伊武雅刀|伊武雅刀(伊武雅之)]](オリジナルシリーズ<ref group=注>シリーズ途中で「雅之」から「雅刀」に改名している。</ref><ref>『宇宙戦艦ヤマト画報 ロマン宇宙戦記二十五年の歩み』[[竹書房]]、2001年3月、pp. 202-211。ISBN 978-4-8124-0700-4。</ref>、実写映画版) * [[西崎義展]](伊武の代役で一声のみ<ref>「西崎義展Producerがはじめて語るキャラへの熱き想い ヤマトと初恋」『アニメージュ』1982年9月号、徳間書店、p.38。</ref>) * [[石塚運昇]]([[全日本空輸|ANA]]「旅割」[[コマーシャルメッセージ|CM]]<ref group=注>当時伊武がライバルにあたる[[日本航空|JAL]]がスポンサーを務めていた『[[JET STREAM]]』に出演していたこともあり、石塚による代演となった。</ref>〈2006年〉、パチンコ『CR宇宙戦艦ヤマト』〈[[藤商事]]、2007年〉) * [[若本規夫]](PCソフト『特打ヒーローズ 宇宙戦艦ヤマト タイピング波動砲』〈[[ソースネクスト]]、2003年〉) * [[山寺宏一]](リメイクアニメシリーズ<ref>『宇宙戦艦ヤマト2199 公式設定資料集 [GARMILLAS]』[[マッグガーデン]]、2013年10月、p. 262。ISBN 978-4-80-000193-1。</ref><ref>{{Cite web|和書|url = http://yamato2202.net/staff/ |title = STAFF & CAST 宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち |publisher = 宇宙戦艦ヤマト2202製作委員会 |accessdate = 2017-11-20}}</ref>) == 関連商品 == 2007年12月20日、バンダイネットワークスは『宇宙戦艦ヤマト』劇場公開30周年記念として限定商品「デスラー総統ワインセット」の受注を開始。2008年3月下旬より出荷された。購入特典として、デスラー勲章およびデスラー総統特製リーフレットが付属する。価格は税込み13,650円で、完売した<ref>[https://web.archive.org/web/20100619133644/http://lalabitmarket.channel.or.jp/site/feature/deslar_wine.html 宇宙戦艦ヤマト デスラー総統 ワインセット] LaLaBit Market(インターネットアーカイブ2010年6月19日分キャッシュ)</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * M.TAKEHARA、Agila、M.D『いま語るべき宇宙戦艦ヤマト ロマン宇宙戦記 40年の軌跡』[[竹書房]]、2014年。ISBN 978-4801900752。 == 外部リンク == * {{Cite web|和書|url = http://yamato.channel.or.jp/info/chara_8.html |title = 情報班資料室 デスラー |work = 宇宙戦艦ヤマト発信! |publisher = [[東北新社]]、[[バンダイネットワークス]] |accessdate = 2017-03-04 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20051227020543/http://yamato.channel.or.jp/info/chara_8.html |archivedate = 2005年12月27日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}画像は[[宇宙戦艦ヤマトシリーズ (PlayStation)|PSゲーム版]]のもの。 * {{Cite web|和書|url = http://yamato2199.net/character_desler.html |title = アベルト・デスラー キャラクター|宇宙戦艦ヤマト2199 |work = 宇宙戦艦ヤマト2199 先行上映版公式サイト |publisher = 宇宙戦艦ヤマト2199製作委員会 |accessdate = 2017-03-04}} * {{Cite web|和書|url = http://yamato2202.net/character_mechanic/ |title = CHARACTER & MECHANIC 宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち |work = 宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 公式サイト |publisher = 宇宙戦艦ヤマト2202製作委員会 |accessdate = 2017-11-20}} {{宇宙戦艦ヤマトシリーズの登場人物}} {{山寺宏一}} {{DEFAULTSORT:てすらあ}} [[Category:宇宙戦艦ヤマトシリーズの異星人の登場人物]] [[Category:架空の独裁者]]
2003-08-09T14:09:43Z
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ノベル (企業)
ノベル (Novell, Inc. [noʊˈvɛl]) は、かつて存在したソフトウェアとサービスの会社である。本社はユタ州プロボに存在した。ノベルの助けによりユタバレー(英語版)は技術とソフトウェア開発の中心となった。ノベルの技術はLocal Area Network (LAN) の出現に貢献し、LANは支配的なメインフレームコンピューティングモデルを置き換えて世界中のコンピューティングを変えていった。 The Attachmate Group(英語版)に買収されてその完全子会社となるまで、ノベルは元々独立した法人であった。The Attachmate Groupは後の2014年にマイクロフォーカスに買収され、ノベルは現在マイクロフォーカスの一部門となっている。 日本法人のノベル株式会社は1990年に日本ソフトバンクとの合弁で設立され、初代社長に渡辺和也が就任した。 1979年、ノベルの前身企業であるNovell Data Systems Inc. (NDSI) が、ユタ州オレムでCP/Mベースのシステムを製造するハードウェアマニファクチャとして開始された。Novell Data Systemsを開始したオリジナルチームのメンバーであるDennis Faircloughは、以前はEyring Research Institute(英語版) (ERI) の従業員であった。NDSIはGeorge Canova、Darin Field、およびJack Davisにより共同で設立された。Victor V. Vurpillatは、Safeguard Scientifics, Inc.の取締役会会長であったPete Musserにこの取引を持ち掛け、Peteはシードファンディングを提供した Novell Data Systemsにより製造されたマイクロコンピュータは競合他社のものと比べてパフォーマンスが劣っていたため、Novell Data Systemsは最初はうまくいかなかった。 システムの販売で競争するため、Novell Data Systemsは1台以上のマイクロコンピュータを一緒に動作させるためにリンクするプログラムを計画した。SuperSet Softwareグループとして知られる、以前はERIの従業員であったDrew Major、Dale Neibaur、およびKyle Powellは、この仕事のために雇われた。 Fairclough、Major、NeibaurおよびPowellはERIにおいて、政府からの請負でIntelligent Systems Technology Projectのために働いていた。それにより、ARPANETとその関連技術への深い洞察力と、後のノベルの基盤として欠かせないものとなるアイデアを手に入れた。 Safeguard boardはその後、MusserにNovell Data Systemsの閉鎖を命じたが、MusserはBarry RubensteinとFred Dolinの2人に連絡した。彼らは2人ともSafeguardの投資家兼投資銀行家であり、Novell Data Systemsのネットワークプログラムを他社製コンピュータで動作させるというやり方により、Novell Data Systemsがソフトウェア会社としてビジネスを継続できるよう必要な資金の調達を保証した。 Davisは1981年11月にNovell Data Systemsを去り、1982年3月にCanovaもそれに続いた。 RubinsteinとDolinはJack Messmanと協力し、レイ・ノーダ(英語版)と面談してRaymondを雇った。必要な資金はSafeguard株主に提供される権利を通じて獲得された。その資金はCleveland仲介業者、Prescott、Ball、そしてTurbenにより監視され、RubensteinとDolinが保証人となった。 Major、Neibaur、およびPowellは、彼ら自身によるSuperSet Software Groupを通じてノベルをサポートし続けた。 1983年にNovell Data Systemsは名前をNovell, Inc.と短縮し、レイ・ノーダが会社の長となった。同年の後半、ノベルはNetWareを披露した。これはマルチプラットフォームのネットワークオペレーティングシステム (NOS) で、ノベルの最も重要な製品である。 最初のノベル製品は、モトローラの68000CPUをベースとしたプロプライエタリハードウェアサーバであった。このサーバはツイストペアケーブルを使うスター型トポロジーを利用して、1台あたり最大4つのボードをサポートしており、ネットワークインタフェースカード (NIC) はIBM PCのIndustry Standard Architecture (ISA) バス用に開発されたものであった。このサーバはShareNetと呼ばれたネットワークオペレーティングシステムを主に使用していたが、その後ShareNetはインテルプラットフォームで実行できるように移植され、NetWareに改名された。NetWareの最初の商用リリースはバージョン1.5である。 ノベルはXerox Network Systems (XNS) をNetWare通信プロトコルの基盤として、IDPとSPPからNetWareの独自規格を作成した。その規格はInternetwork Packet Exchange (IPX) およびSequenced Packet Exchange (SPX) と名付けられた。ファイルと印刷サービスは、Routing Information Protocol (RIP) やService Advertising Protocol(英語版) (SAP) により動作するのと同様にして、IPX上のNetWare Core Protocol (NCP) によっても動作した。 NetWareはブートローダにNovell DOS(以前はDR-DOSであった)を使用する。Novell DOSはMS-DOSやIBM PC DOSと似ているが、DOSのために必要な追加ライセンスは要求されない。Novell DOSは1991年におけるノベルのデジタルリサーチ買収に由来する。さらにノベルはデジタルリサーチ買収前に、Kanwal Rekhiの会社であるExcelanを既に買収していた。Excelanは小型イーサネットカードを製造してインターネットプロトコルTCP/IPを商用化した。Excelanの買収は、ニッチな分野でのノベルの存在を強固にした。 1980年代の最初から最後まで、ノベルは非常に好調であった。ノベルは高価なイーサネットカードを原価販売することで、積極的にマーケットシェアを拡張した。1990年まで、ノベルはネットワークが必要なあらゆるビジネス用NOSにおいて、ほぼ独占的な地位にいた。 ビジネス用NOSマーケットのリーダーシップにより、ノベルはそのNetWareオペレーティングプラットフォームの頂点でサービスを獲得し構築し始めた。これらのサービスは、SAA、Novellマルチプロトコルルーター、GroupWise、そしてBorderManager(英語版)などの製品により、NetWareの能力を拡張した。 しかしながらノベルも多様化したため、大企業をターゲットにするために小規模ユーザーから離れたが、その後ノベルはNetWare for Small Businessで小規模ユーザーに再び焦点を当てようとした。ノベルは研究への投資を減らしたため製品管理ツールの改善が遅れたが、ノベルの製品は通常全く「改造」を必要とせず、それでも動作したという事実により助けられた。 ノベルはノーダの下で、マイクロソフトに挑戦するためと多くの人に解釈されている、一連の買収を行った。1993年6月、ノベルはAT&TコーポレーションからUNIX Systems Laboratoriesを買収し、UNIXオペレーティングシステムの権利を獲得した。さらにノベルは1994年にWordPerfect Corporationを買収し、ボーランドからQuattro Proを手に入れた。 当時のノベルの主要な革新の1つはNovell Directory Services (NDS) であり、これは現在ではeDirectoryとして知られている。1993年にNetWare v4.0が導入されると、NDSは古いBinderyサーバとNetWare 3.x以前にあったユーザー管理技術に取って代わられた。 ノベルは新しい競争に直面したため、1994年にノーダはRobert Frankenbergと交代された。ノーダ時代の買収は短命であった。1995年、ノベルはUNIXビジネスの一部をSanta Cruz Operation(英語版)に譲渡し、WordPerfectとQuattro Proは1996年にコーレルに売却された。1996年にはNovell DOSもカルデラ(英語版)に売却された。 1996年、ノベルはネイティブTCP/IPスタックを利用するプロプライエタリなIPXプロトコルへの依存をやめてインターネット対応製品に移行し始めた。前年に辞任したFrankenbergの後継者であるエリック・シュミットがCEOになった1997年に、この移行が推進された。さらにシュミット配下のChristopher Stoneが、シニア・バイス・プレジデントとして戦略と企業開発担当に就任した。 その成果が1998年10月にリリースされたNetWare v5.0である。NetWare v5.0はeDirectory上で利用および構築され、Novell Cluster Services (NCS、SFT-IIIの代替) やNovell Storage Services (NSS) などの新しい機能が導入された。NSSは、NetWareの初期バージョンで使用されたTraditional/FATファイルシステムの代替である。NetWare v5.0はNOSにネイティブTCP/IPサポートを導入したがIPXは依然としてサポートされていた。これは環境間のスムーズな移行ができるようにし、さらに環境の競合によりしばしば要求される「フォークリフトアップグレード」を避けるためである。同様に、Traditional/FATファイルシステムも依然としてサポートされるオプションのままであった。 1995年以降、コアシステムコンポーネントとしてネットワークが主流であるPCオペレーティングシステムの全てに含まれるようになったため、ノベルのマーケットシェアは急落するようになった。Windows 3.0以前のOSとは異なり、Windows 3.1 for Workgroup、OS/2、およびLinuxには全てネットワーク機能が標準で含まれていたため、この領域におけるサードパーティー製品に対する需要が大幅に減少した。 エリック・シュミットの支配下でノベルの衰えとマーケットシェアの喪失が加速し、ノベルはNetWareの売上と購入の全てに渡る減少と、シェアの値段が1シェアあたりUS$40.00からUS$7.00へ落ち込んだことを経験した。アナリスト達は、ノベルの崩壊の主な理由はシュミットの下におけるノベルのチャネル戦略とチャネルパートナーの誤った管理と関係があるとコメントした。 レイ・ノーダの支配下においては、ノベルはリセラーと顧客に、新規購入版NetWareのコピーと同じパッケージであるアップグレードを3分の1の価格で提供した。これにより、NetWareのリセラーが定期的にアップグレードをフルプライズの新規購入版NetWareのバージョンとして販売することが可能になるという、「グレーマーケット」を作り出すことになったが、ノベルは意図的に追及しなかった。レイ・ノーダは、前線のリセラーがTech DataやIngramなどの代理店を「突き抜けて」、割引価格でNetWareのバージョンを購入できるようにしたこの戦略を自分が考案したが、ノベルは「他の観点から見ていた」と、数人のアナリスト達にコメントした。これによりNovell Field Support Technician達の給料が補助された。Novell Field Support Technicianの大半は、Novell CNE (Certified NetWare Engineers) として前線のリセラーのために働く従業員であった。 リセラーが「他人の製品よりもあなたの製品からより多くのお金を稼ぐ」ことを可能とするこの戦略は、輸入家電製品と競合する場合にゼネラル・エレクトリックでエグゼクティブとして学んだうちの1つである、とノーダはコメントした。 エリック・シュミットはノベルのチャネルの原動力を理解せず、完全な製品をアップグレードとすることをやめるという悲惨な戦略に乗り出し、いつも通りに新規購入版NetWareとして購入したアップグレードを販売している非常に多くのノベルのレセラーに対して訴訟を起こすという一般的な忠告をした。 この動きにより、ノベルの収益は数四半期の間増加したが、後に訴訟への恐れからNetWareから手を引いたノベルのリセラーの大半は崩壊した。 1999年まで、ノベルはその支配的なマーケットポジションを失った。マイクロソフトは技術的スタッフを迂回して法人の管理職へ直接販売することで、法人のデータセンターへのアクセスを得られたため、ノベルはNetWareから手を引いたリセラーのように、マイクロソフトによって引き続き市場の外へと押しやられた。 その後、ほとんどのリセラーはNovell CNE従業員を再認証した。Novell CNE従業員はMicrosoft MSCEテクニシャンのように、その分野におけるノベルの直接顧客の第一級連絡先となるサポート技術者であり、さらにループポリシーや、キャラクターベースであるノベルのインタフェースよりも近 代的とされたマイクロソフトのGUIなどのWindows 2000機能の下位としてNetWareを置くことを奨励していた。収益の低下により、ノベルはネットサービスとプラットフォーム相互運用に注力した。eDirectoryやGroupWiseなどの製品はマルチプラットフォームで作成された。 2000年10月、ノベルは "DirXML" という愛称の新しい製品をリリースした。DirXMLは異なるディレクトリとデータベースシステムどの間でデータ(通常はユーザー情報)を同期するよう設計された。DirXMLは情報をストアしてeDirectoryの速度と機能をレバレッジし、後にノベル内のコア製品セット基盤を形成する、Novell Identity Manager(英語版)となった。 ノベルはサービス販売を拡充するため、John J. Donovanがマサチューセッツ州ケンブリッジ (マサチューセッツ州)で創設したコンサルティング企業であるケンブリッジ・テクノロジー・パートナーズ (CTP) を2001年6月に買収した。ノベルはソリューション(ソフトウェアとサービスのコンビ)を提供する能力が顧客満足を満たす鍵となると感じていた。この統合は明らかに同社のソフトウェア開発文化に反しており、会社の財務担当者もそれに反対した。 CTPのCEOであるJack Messmanは、自身のノベルの役員としてのポジションを利用して当初から統合を工作し、取引の一部としてノベルのCEOとなった。1999年に辞任していたChris Stoneが、オープンソースと企業Linuxにおけるノベルの戦略進路を定めるために副会長として再雇用された。CTPの買収により、ノベルは本社をマサチューセッツに移転した。 ノベルはWebサービス指向アプリケーションのリーダーではあるが市場では出遅れていた、SilverStream Softwareを2002年6月に買収した。SilverStream SoftwareはNovell exteNd(英語版)に改名され、そのプラットフォームにはJava EEベースのXMLとWebサービスツールなどがあった。 ノベルはオープンソースLinuxアプリケーション(Evolution、Red Carpet、およびMono)の開発企業であるXimianを2003年8月に買収した。この買収は、Linuxカーネル上に集めた製品セットへと移行するというノベルの合図であった。 ノベルはLinuxディストリビューションへと力を大がかりに移行することを率いていたLinux OS開発企業である、SuSEを2003年11月に買収した。IBMもSuSE買収の支援を示すために5,000万ドルを投資した。 ノベルは "Novell Enterprise Linux Services" (NNLS) を2003年中期にリリースした。 NNLSはSUSE Linux Enterprise Server (SLES) version 8に、以前からNetWareに関連していたサービスのいくつかを移植したものである。 ノベルはXimian DesktopとSUSE Linux Professional 9.1をベースとした、Linuxベースの企業デスクトップであるNovell Linux Desktop v9を2004年11月にリリースした。これは企業デスクトップ市場を得るためのノベルの最初の試みであった。 NetWareの後継製品であるOpen Enterprise Server (OES) は2005年3月にリリースされた。OESは前身のNetWare v6.5によりホストされた全てのサービスを提供し、NetWare v6.5カーネルかSUSE Linux Enterprise Server v9カーネルのどちらかを使って、選んだ方のサービスを届けるという選択肢を追加した。このリリースは、NetWareの顧客を説得してLinuxへ移行させることを狙いとしていた。 ノベルはSUSE ProfessionalをベースとしたopenSUSEプロジェクトを2005年8月に作成した。openSUSEは自由にダウンロードでき、箱入りの小売商品としても利用可能である。 ノベルは2003年から2005年の間、ポートフォリオにまたがり多くの製品をリリースした。これは市場シェアの低下を阻止するつもりで、この間にリリースしたもの以外のノベル製品依存から脱却するためである。しかしこれを開始してもノベルの望みほどには成功しなかった。Chris Stoneは、当時のCEOであるJack Messmanとの統率における明らかな問題の結果として、2004年後半に再びノベルを去った。コスト削減のため、ノベルは2005年後半にレイオフする予定をアナウンスした。Linux事業からの収益は成長を続けたが、NetWareの収益による減少を相殺するほどその成長は早くなかった。ノベルの収益は急激に落ち込むことはなかったが、成長もしなかった。明確な方向性や効果的な管理の欠如は、ノベルがリストラを完了するまでに予想以上に時間を費やすことを意味していた。 最高経営責任者Jack MessmanとチーフファイナンスオフィサーJoseph Tibbettsは2006年6月に解雇された。ノベルの社長兼最高執行責任者であるRonald Hovsepianが最高経営責任者に指名され、財務および企業統括担当副社長であるDana Russellが暫定CFOに指名された。 ノベルはSUSE Linux Enterprise 10 (SLE 10) シリーズを2006年8月にリリースした。SUSE Linux Enterprise Serverは、Xenハイパーバイザをベースとした仮想化を提供する最初の企業クラスLinuxサーバであった。SUSE Linux Enterprise Desktop(SLEDとして良く知られる)は新しいユーザーフレンドリーなGUIとXglベースの3Dディスプレイ表示能力を特徴とした。SLE 10のリリースはノベルのLinux製品が企業向けに準備されていることを伝える、"Your Linux is Ready" というフレーズを伴って販売された。ノベルは "SUSE Linux Enterprise Real Time" (SLERT) と呼ばれる、Concurrent Computer Corporation由来の技術をベースとしたSLESのリアルタイムバージョンを2006年9月後半にアナウンスした。 ノベルは1994年から1996年の間、ノベルのWordPerfectビジネスに関する独占禁止法違反に関与していたと主張してマイクロソフトを2004年に訴えた。後に合衆国地方裁判所はノベルの訴えを道理にかなってないとして、2012年6月に退けた。 これにもかかわらず、ノベルとマイクロソフトの2社は互いの顧客のため、それぞれの製品のカバレッジなどで、互いに協力することに合意したことを2006年11月2日にアナウンスした。また、ソフトウェアの互換性を向上させるためにより密接に協力し、共同研究施設を設置することを約束した。両社の経営幹部は、このような協調によりMicrosoft OfficeとOpenOffice.orgとの間の互換性と仮想化技術をさらに向上させることについての希望を表明した。 当時マイクロソフトのCEOであったスティーブ・バルマーはこの取引について、「これらの一連の同意により、オープンソースソフトウェアとプロプライエタリソースソフトウェアとの分裂に橋渡しをするとして本当に役立つだろう」と語った。 この契約にはマイクロソフトからノベルに対し、特許協力とSLESのサブスクリプションとして3億4800万ドルの前払いが含まれていた。加えて、SLES/Windowsサーバ製品とそれに関連する仮想化ソリューションとの組み合わせのマーケティングと販売のため、マイクロソフトは今後5年間で年間約4600万ドルを費やすことに同意した。その一方で、同じ期間にノベルは毎年少なくとも4000万ドルをマイクロソフトへ払った。 このパートナーシップの最初の成果の1つは、ノベルがOpenOffice.orgで使えるを採用したことであった。 マイクロソフトは、Microsoft Silverlightリッチメディアプラットフォームの作業者でありオープンソースであるMoonlightランタイムのユーザーが特許侵害で訴えられないように、2つの公開誓約をリリースした。各誓約に共通の条項の1つは、GPLv3の元でのMoonlightの実装はリリースしないことであった。 ノベルが「裏切って」、GNU GPLがLinuxカーネルを含む排他的な契約の下でコードの配布を許可することを疑問に思うと懸念を表明したことで、特許保護に従事するFOSSコミュニティのメンバーからの最初の反応は非常に批判的なものであった。 Software Freedom Law Center (SFLC) のCTOであるブラッドリー・M・クーンは2006年11月9日のFOSS開発への手紙の中に、この契約は「役に立たないよりもさらに悪い」と記していた。SFLCのチェアマンであるエベン・モグレンは、ノベルがFOSSから引き離された開発において、信頼できる審査によりGPL(バージョン2)による契約を遵守しているかどうかを決められるようにするため、SFLCとの協力を申し出ていると報告した。フリーソフトウェア財団の創設者であるリチャード・ストールマンは、GPLのバージョン3でもたらされた変更によりそのような取引をできなくすると2006年11月に語った。GPLのバージョン3の最後の改定版が決まった時、マイクロソフトとノベルの間の取引は既得権益となっていた。GPLv3における条項では、たとえ過去にこのような特許提携を結んでいても、2007年3月28日以前にパートナーシップを行っている限り企業はGPLv3ソフトウェアを配布できる (GPLv3 Section 11 paragraph 7)。 Sambaチームはアナウンスへの強い不満を2006年11月12日に表明し、ノベルに再考を要望した。Sambaチームにはノベルの従業員であったジェレミー・アリソンもいた。彼はこの声明にチームの全メンバーが合意したことをスラッシュドットのコメントで確認し、後に抗議のためノベルを退職した。 ロイターは2007年2月初期、フリーソフトウェア財団がLinuxバージョンを販売するノベルの権利を批評し、Linux販売からのノベルの追放を検討していることをアナウンスしたと報じた However, spokesman Eben Moglen later said that he was quoted out of context,。しかしながら、スポークスマンであるEben Moglenは後に、これは前後関係を省いて引用され、将来における類似の取引を締め出すためにGPLバージョン3を設計したと述べただけであると語った。 ノベルは混成されたデータセンター内における様々な仕事量を管理するよう設計された製品により、Intelligent workload management(英語版)市場をリードするつもりであることを2009年12月にアナウンスした。 ノベルは永らく他の様々な企業による買収のターゲットになっていると噂されていた。ノベルの約8.5%の株式保有機関投資家であるElliott Associates L.P.(英語版)は、現金で1株当たり5.75ドル、10億ドルでノベルを買収する提案を2010年3月に行った。ノベルは提案が不十分であり、ノベルのフランチャイズおよび成長見通しを過小評価していると述べ提案を拒否した。 ノベルは2010年11月、Attachmate(英語版)による買収に同意し、ノベルを2つの部署で運用し、かつその1つをSUSEとすることを計画しているとアナウンスした。取引の一環として、ノベルが所有する882の特許を、Apple、EMC、およびオラクルを含みマイクロソフトが率いる企業コンソーシアムであるCPTN Holdings(英語版) LLCに売却した。ノベルのSECファイリングによると、この特許は「アイデンティティとセキュリティ管理ビジネスに関連するだけではなく、主にエンタープライズレベルのコンピュータシステム管理ソフトウェア、エンタープライズレベルのファイル管理およびコラボレーションソフトウェアに関連する特許である。ただしこのように発行された特許と特許出願の一部は、様々なソフトウェア製品で読むことができる」というものである。Attachmateはこの取引終了に先立って、SUSEビジネスとopenSUSEプロジェクトとの関係を変えるつもりはないと述べた。この統合は2011年8月に完了し、Attachmateはノベルを買収するために現金で1株につき$6.10を支払った。ノベルは完全にThe Attachmate Groupの所有となり、Attachmate Corporationを親会社とする子会社となった。 買収の完了と同時に、ノベルの製品やブランドの一部はAttachmateグループ(英語版)ビジネスユニットの別会社であるNetIQ(英語版)に移行され、SUSE Linuxブランドは独自の事業単位として分割された。その4つのビジネスユニットは直接買収による影響は受けなかった。 合併が確定する直前、ノベルは4億5000万ドルでCPTN Holdingsへの特許販売を終えた。アメリカ合衆国司法省は、CPTNとの取引は彼らが元々提案していたが、この取引によってサーバ、デスクトップ、およびモバイルの各オペレーティングシステム、ミドルウェア、そして仮想化製品の開発や配布において、Linuxなどのオープンソースソフトウェアの革新と参加を継続することを脅かされるとアナウンスした。その部門における独占禁止法違反の懸念が提出されたため、CPTNとそのオーナーは元々の契約を以下のように変更した : Attachmateは、プロボのユタバレーセンター出身の多数の従業員を含む、ノベルの全従業員のレイオフを2011年4月にアナウンスし、Monoなどのオープンソースプロジェクトの将来に疑問を提起した。 メインフレームソフトウェア企業であるマイクロフォーカスは、ノベルを含むAttachmate Groupを1億2000万ドルで買収したことを2014年9月にアナウンスした。 ノベルは自社製品のサーティフィケーションを提供した、最初のコンピュータ企業の1つである。これらには以下があった : ノベルが販売した製品を以下に示す :
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ノベル (Novell, Inc. [noʊˈvɛl]) は、かつて存在したソフトウェアとサービスの会社である。本社はユタ州プロボに存在した。ノベルの助けによりユタバレー(英語版)は技術とソフトウェア開発の中心となった。ノベルの技術はLocal Area Network (LAN) の出現に貢献し、LANは支配的なメインフレームコンピューティングモデルを置き換えて世界中のコンピューティングを変えていった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "The Attachmate Group(英語版)に買収されてその完全子会社となるまで、ノベルは元々独立した法人であった。The Attachmate Groupは後の2014年にマイクロフォーカスに買収され、ノベルは現在マイクロフォーカスの一部門となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本法人のノベル株式会社は1990年に日本ソフトバンクとの合弁で設立され、初代社長に渡辺和也が就任した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1979年、ノベルの前身企業であるNovell Data Systems Inc. (NDSI) が、ユタ州オレムでCP/Mベースのシステムを製造するハードウェアマニファクチャとして開始された。Novell Data Systemsを開始したオリジナルチームのメンバーであるDennis Faircloughは、以前はEyring Research Institute(英語版) (ERI) の従業員であった。NDSIはGeorge Canova、Darin Field、およびJack Davisにより共同で設立された。Victor V. Vurpillatは、Safeguard Scientifics, Inc.の取締役会会長であったPete Musserにこの取引を持ち掛け、Peteはシードファンディングを提供した", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "Novell Data Systemsにより製造されたマイクロコンピュータは競合他社のものと比べてパフォーマンスが劣っていたため、Novell Data Systemsは最初はうまくいかなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "システムの販売で競争するため、Novell Data Systemsは1台以上のマイクロコンピュータを一緒に動作させるためにリンクするプログラムを計画した。SuperSet Softwareグループとして知られる、以前はERIの従業員であったDrew Major、Dale Neibaur、およびKyle Powellは、この仕事のために雇われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "Fairclough、Major、NeibaurおよびPowellはERIにおいて、政府からの請負でIntelligent Systems Technology Projectのために働いていた。それにより、ARPANETとその関連技術への深い洞察力と、後のノベルの基盤として欠かせないものとなるアイデアを手に入れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "Safeguard boardはその後、MusserにNovell Data Systemsの閉鎖を命じたが、MusserはBarry RubensteinとFred Dolinの2人に連絡した。彼らは2人ともSafeguardの投資家兼投資銀行家であり、Novell Data Systemsのネットワークプログラムを他社製コンピュータで動作させるというやり方により、Novell Data Systemsがソフトウェア会社としてビジネスを継続できるよう必要な資金の調達を保証した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "Davisは1981年11月にNovell Data Systemsを去り、1982年3月にCanovaもそれに続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "RubinsteinとDolinはJack Messmanと協力し、レイ・ノーダ(英語版)と面談してRaymondを雇った。必要な資金はSafeguard株主に提供される権利を通じて獲得された。その資金はCleveland仲介業者、Prescott、Ball、そしてTurbenにより監視され、RubensteinとDolinが保証人となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "Major、Neibaur、およびPowellは、彼ら自身によるSuperSet Software Groupを通じてノベルをサポートし続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1983年にNovell Data Systemsは名前をNovell, Inc.と短縮し、レイ・ノーダが会社の長となった。同年の後半、ノベルはNetWareを披露した。これはマルチプラットフォームのネットワークオペレーティングシステム (NOS) で、ノベルの最も重要な製品である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "最初のノベル製品は、モトローラの68000CPUをベースとしたプロプライエタリハードウェアサーバであった。このサーバはツイストペアケーブルを使うスター型トポロジーを利用して、1台あたり最大4つのボードをサポートしており、ネットワークインタフェースカード (NIC) はIBM PCのIndustry Standard Architecture (ISA) 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"1980年代の最初から最後まで、ノベルは非常に好調であった。ノベルは高価なイーサネットカードを原価販売することで、積極的にマーケットシェアを拡張した。1990年まで、ノベルはネットワークが必要なあらゆるビジネス用NOSにおいて、ほぼ独占的な地位にいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ビジネス用NOSマーケットのリーダーシップにより、ノベルはそのNetWareオペレーティングプラットフォームの頂点でサービスを獲得し構築し始めた。これらのサービスは、SAA、Novellマルチプロトコルルーター、GroupWise、そしてBorderManager(英語版)などの製品により、NetWareの能力を拡張した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "しかしながらノベルも多様化したため、大企業をターゲットにするために小規模ユーザーから離れたが、その後ノベルはNetWare for Small Businessで小規模ユーザーに再び焦点を当てようとした。ノベルは研究への投資を減らしたため製品管理ツールの改善が遅れたが、ノベルの製品は通常全く「改造」を必要とせず、それでも動作したという事実により助けられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ノベルはノーダの下で、マイクロソフトに挑戦するためと多くの人に解釈されている、一連の買収を行った。1993年6月、ノベルはAT&TコーポレーションからUNIX Systems Laboratoriesを買収し、UNIXオペレーティングシステムの権利を獲得した。さらにノベルは1994年にWordPerfect Corporationを買収し、ボーランドからQuattro Proを手に入れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "当時のノベルの主要な革新の1つはNovell Directory Services (NDS) 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v5.0はNOSにネイティブTCP/IPサポートを導入したがIPXは依然としてサポートされていた。これは環境間のスムーズな移行ができるようにし、さらに環境の競合によりしばしば要求される「フォークリフトアップグレード」を避けるためである。同様に、Traditional/FATファイルシステムも依然としてサポートされるオプションのままであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1995年以降、コアシステムコンポーネントとしてネットワークが主流であるPCオペレーティングシステムの全てに含まれるようになったため、ノベルのマーケットシェアは急落するようになった。Windows 3.0以前のOSとは異なり、Windows 3.1 for Workgroup、OS/2、およびLinuxには全てネットワーク機能が標準で含まれていたため、この領域におけるサードパーティー製品に対する需要が大幅に減少した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "エリック・シュミットの支配下でノベルの衰えとマーケットシェアの喪失が加速し、ノベルはNetWareの売上と購入の全てに渡る減少と、シェアの値段が1シェアあたりUS$40.00からUS$7.00へ落ち込んだことを経験した。アナリスト達は、ノベルの崩壊の主な理由はシュミットの下におけるノベルのチャネル戦略とチャネルパートナーの誤った管理と関係があるとコメントした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "レイ・ノーダの支配下においては、ノベルはリセラーと顧客に、新規購入版NetWareのコピーと同じパッケージであるアップグレードを3分の1の価格で提供した。これにより、NetWareのリセラーが定期的にアップグレードをフルプライズの新規購入版NetWareのバージョンとして販売することが可能になるという、「グレーマーケット」を作り出すことになったが、ノベルは意図的に追及しなかった。レイ・ノーダは、前線のリセラーがTech DataやIngramなどの代理店を「突き抜けて」、割引価格でNetWareのバージョンを購入できるようにしたこの戦略を自分が考案したが、ノベルは「他の観点から見ていた」と、数人のアナリスト達にコメントした。これによりNovell Field Support Technician達の給料が補助された。Novell Field Support Technicianの大半は、Novell CNE (Certified NetWare Engineers) として前線のリセラーのために働く従業員であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "リセラーが「他人の製品よりもあなたの製品からより多くのお金を稼ぐ」ことを可能とするこの戦略は、輸入家電製品と競合する場合にゼネラル・エレクトリックでエグゼクティブとして学んだうちの1つである、とノーダはコメントした。 エリック・シュミットはノベルのチャネルの原動力を理解せず、完全な製品をアップグレードとすることをやめるという悲惨な戦略に乗り出し、いつも通りに新規購入版NetWareとして購入したアップグレードを販売している非常に多くのノベルのレセラーに対して訴訟を起こすという一般的な忠告をした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "この動きにより、ノベルの収益は数四半期の間増加したが、後に訴訟への恐れからNetWareから手を引いたノベルのリセラーの大半は崩壊した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1999年まで、ノベルはその支配的なマーケットポジションを失った。マイクロソフトは技術的スタッフを迂回して法人の管理職へ直接販売することで、法人のデータセンターへのアクセスを得られたため、ノベルはNetWareから手を引いたリセラーのように、マイクロソフトによって引き続き市場の外へと押しやられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "その後、ほとんどのリセラーはNovell CNE従業員を再認証した。Novell CNE従業員はMicrosoft MSCEテクニシャンのように、その分野におけるノベルの直接顧客の第一級連絡先となるサポート技術者であり、さらにループポリシーや、キャラクターベースであるノベルのインタフェースよりも近 代的とされたマイクロソフトのGUIなどのWindows 2000機能の下位としてNetWareを置くことを奨励していた。収益の低下により、ノベルはネットサービスとプラットフォーム相互運用に注力した。eDirectoryやGroupWiseなどの製品はマルチプラットフォームで作成された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2000年10月、ノベルは \"DirXML\" という愛称の新しい製品をリリースした。DirXMLは異なるディレクトリとデータベースシステムどの間でデータ(通常はユーザー情報)を同期するよう設計された。DirXMLは情報をストアしてeDirectoryの速度と機能をレバレッジし、後にノベル内のコア製品セット基盤を形成する、Novell Identity Manager(英語版)となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ノベルはサービス販売を拡充するため、John J. Donovanがマサチューセッツ州ケンブリッジ (マサチューセッツ州)で創設したコンサルティング企業であるケンブリッジ・テクノロジー・パートナーズ (CTP) を2001年6月に買収した。ノベルはソリューション(ソフトウェアとサービスのコンビ)を提供する能力が顧客満足を満たす鍵となると感じていた。この統合は明らかに同社のソフトウェア開発文化に反しており、会社の財務担当者もそれに反対した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "CTPのCEOであるJack Messmanは、自身のノベルの役員としてのポジションを利用して当初から統合を工作し、取引の一部としてノベルのCEOとなった。1999年に辞任していたChris Stoneが、オープンソースと企業Linuxにおけるノベルの戦略進路を定めるために副会長として再雇用された。CTPの買収により、ノベルは本社をマサチューセッツに移転した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ノベルはWebサービス指向アプリケーションのリーダーではあるが市場では出遅れていた、SilverStream Softwareを2002年6月に買収した。SilverStream SoftwareはNovell exteNd(英語版)に改名され、そのプラットフォームにはJava EEベースのXMLとWebサービスツールなどがあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ノベルはオープンソースLinuxアプリケーション(Evolution、Red Carpet、およびMono)の開発企業であるXimianを2003年8月に買収した。この買収は、Linuxカーネル上に集めた製品セットへと移行するというノベルの合図であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ノベルはLinuxディストリビューションへと力を大がかりに移行することを率いていたLinux OS開発企業である、SuSEを2003年11月に買収した。IBMもSuSE買収の支援を示すために5,000万ドルを投資した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ノベルは \"Novell Enterprise Linux Services\" (NNLS) を2003年中期にリリースした。 NNLSはSUSE Linux Enterprise Server (SLES) version 8に、以前からNetWareに関連していたサービスのいくつかを移植したものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ノベルはXimian DesktopとSUSE Linux Professional 9.1をベースとした、Linuxベースの企業デスクトップであるNovell Linux Desktop v9を2004年11月にリリースした。これは企業デスクトップ市場を得るためのノベルの最初の試みであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "NetWareの後継製品であるOpen Enterprise Server (OES) は2005年3月にリリースされた。OESは前身のNetWare v6.5によりホストされた全てのサービスを提供し、NetWare v6.5カーネルかSUSE Linux Enterprise Server v9カーネルのどちらかを使って、選んだ方のサービスを届けるという選択肢を追加した。このリリースは、NetWareの顧客を説得してLinuxへ移行させることを狙いとしていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ノベルはSUSE ProfessionalをベースとしたopenSUSEプロジェクトを2005年8月に作成した。openSUSEは自由にダウンロードでき、箱入りの小売商品としても利用可能である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ノベルは2003年から2005年の間、ポートフォリオにまたがり多くの製品をリリースした。これは市場シェアの低下を阻止するつもりで、この間にリリースしたもの以外のノベル製品依存から脱却するためである。しかしこれを開始してもノベルの望みほどには成功しなかった。Chris Stoneは、当時のCEOであるJack Messmanとの統率における明らかな問題の結果として、2004年後半に再びノベルを去った。コスト削減のため、ノベルは2005年後半にレイオフする予定をアナウンスした。Linux事業からの収益は成長を続けたが、NetWareの収益による減少を相殺するほどその成長は早くなかった。ノベルの収益は急激に落ち込むことはなかったが、成長もしなかった。明確な方向性や効果的な管理の欠如は、ノベルがリストラを完了するまでに予想以上に時間を費やすことを意味していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "最高経営責任者Jack MessmanとチーフファイナンスオフィサーJoseph Tibbettsは2006年6月に解雇された。ノベルの社長兼最高執行責任者であるRonald Hovsepianが最高経営責任者に指名され、財務および企業統括担当副社長であるDana Russellが暫定CFOに指名された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ノベルはSUSE Linux Enterprise 10 (SLE 10) シリーズを2006年8月にリリースした。SUSE Linux Enterprise Serverは、Xenハイパーバイザをベースとした仮想化を提供する最初の企業クラスLinuxサーバであった。SUSE Linux Enterprise Desktop(SLEDとして良く知られる)は新しいユーザーフレンドリーなGUIとXglベースの3Dディスプレイ表示能力を特徴とした。SLE 10のリリースはノベルのLinux製品が企業向けに準備されていることを伝える、\"Your Linux is Ready\" というフレーズを伴って販売された。ノベルは \"SUSE Linux Enterprise Real Time\" (SLERT) と呼ばれる、Concurrent Computer Corporation由来の技術をベースとしたSLESのリアルタイムバージョンを2006年9月後半にアナウンスした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ノベルは1994年から1996年の間、ノベルのWordPerfectビジネスに関する独占禁止法違反に関与していたと主張してマイクロソフトを2004年に訴えた。後に合衆国地方裁判所はノベルの訴えを道理にかなってないとして、2012年6月に退けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "これにもかかわらず、ノベルとマイクロソフトの2社は互いの顧客のため、それぞれの製品のカバレッジなどで、互いに協力することに合意したことを2006年11月2日にアナウンスした。また、ソフトウェアの互換性を向上させるためにより密接に協力し、共同研究施設を設置することを約束した。両社の経営幹部は、このような協調によりMicrosoft OfficeとOpenOffice.orgとの間の互換性と仮想化技術をさらに向上させることについての希望を表明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "当時マイクロソフトのCEOであったスティーブ・バルマーはこの取引について、「これらの一連の同意により、オープンソースソフトウェアとプロプライエタリソースソフトウェアとの分裂に橋渡しをするとして本当に役立つだろう」と語った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "この契約にはマイクロソフトからノベルに対し、特許協力とSLESのサブスクリプションとして3億4800万ドルの前払いが含まれていた。加えて、SLES/Windowsサーバ製品とそれに関連する仮想化ソリューションとの組み合わせのマーケティングと販売のため、マイクロソフトは今後5年間で年間約4600万ドルを費やすことに同意した。その一方で、同じ期間にノベルは毎年少なくとも4000万ドルをマイクロソフトへ払った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "このパートナーシップの最初の成果の1つは、ノベルがOpenOffice.orgで使えるを採用したことであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "マイクロソフトは、Microsoft Silverlightリッチメディアプラットフォームの作業者でありオープンソースであるMoonlightランタイムのユーザーが特許侵害で訴えられないように、2つの公開誓約をリリースした。各誓約に共通の条項の1つは、GPLv3の元でのMoonlightの実装はリリースしないことであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ノベルが「裏切って」、GNU GPLがLinuxカーネルを含む排他的な契約の下でコードの配布を許可することを疑問に思うと懸念を表明したことで、特許保護に従事するFOSSコミュニティのメンバーからの最初の反応は非常に批判的なものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "Software Freedom Law Center (SFLC) のCTOであるブラッドリー・M・クーンは2006年11月9日のFOSS開発への手紙の中に、この契約は「役に立たないよりもさらに悪い」と記していた。SFLCのチェアマンであるエベン・モグレンは、ノベルがFOSSから引き離された開発において、信頼できる審査によりGPL(バージョン2)による契約を遵守しているかどうかを決められるようにするため、SFLCとの協力を申し出ていると報告した。フリーソフトウェア財団の創設者であるリチャード・ストールマンは、GPLのバージョン3でもたらされた変更によりそのような取引をできなくすると2006年11月に語った。GPLのバージョン3の最後の改定版が決まった時、マイクロソフトとノベルの間の取引は既得権益となっていた。GPLv3における条項では、たとえ過去にこのような特許提携を結んでいても、2007年3月28日以前にパートナーシップを行っている限り企業はGPLv3ソフトウェアを配布できる (GPLv3 Section 11 paragraph 7)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "Sambaチームはアナウンスへの強い不満を2006年11月12日に表明し、ノベルに再考を要望した。Sambaチームにはノベルの従業員であったジェレミー・アリソンもいた。彼はこの声明にチームの全メンバーが合意したことをスラッシュドットのコメントで確認し、後に抗議のためノベルを退職した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ロイターは2007年2月初期、フリーソフトウェア財団がLinuxバージョンを販売するノベルの権利を批評し、Linux販売からのノベルの追放を検討していることをアナウンスしたと報じた However, spokesman Eben Moglen later said that he was quoted out of context,。しかしながら、スポークスマンであるEben Moglenは後に、これは前後関係を省いて引用され、将来における類似の取引を締め出すためにGPLバージョン3を設計したと述べただけであると語った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ノベルは混成されたデータセンター内における様々な仕事量を管理するよう設計された製品により、Intelligent workload management(英語版)市場をリードするつもりであることを2009年12月にアナウンスした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ノベルは永らく他の様々な企業による買収のターゲットになっていると噂されていた。ノベルの約8.5%の株式保有機関投資家であるElliott Associates L.P.(英語版)は、現金で1株当たり5.75ドル、10億ドルでノベルを買収する提案を2010年3月に行った。ノベルは提案が不十分であり、ノベルのフランチャイズおよび成長見通しを過小評価していると述べ提案を拒否した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ノベルは2010年11月、Attachmate(英語版)による買収に同意し、ノベルを2つの部署で運用し、かつその1つをSUSEとすることを計画しているとアナウンスした。取引の一環として、ノベルが所有する882の特許を、Apple、EMC、およびオラクルを含みマイクロソフトが率いる企業コンソーシアムであるCPTN Holdings(英語版) LLCに売却した。ノベルのSECファイリングによると、この特許は「アイデンティティとセキュリティ管理ビジネスに関連するだけではなく、主にエンタープライズレベルのコンピュータシステム管理ソフトウェア、エンタープライズレベルのファイル管理およびコラボレーションソフトウェアに関連する特許である。ただしこのように発行された特許と特許出願の一部は、様々なソフトウェア製品で読むことができる」というものである。Attachmateはこの取引終了に先立って、SUSEビジネスとopenSUSEプロジェクトとの関係を変えるつもりはないと述べた。この統合は2011年8月に完了し、Attachmateはノベルを買収するために現金で1株につき$6.10を支払った。ノベルは完全にThe Attachmate Groupの所有となり、Attachmate Corporationを親会社とする子会社となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "買収の完了と同時に、ノベルの製品やブランドの一部はAttachmateグループ(英語版)ビジネスユニットの別会社であるNetIQ(英語版)に移行され、SUSE Linuxブランドは独自の事業単位として分割された。その4つのビジネスユニットは直接買収による影響は受けなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "合併が確定する直前、ノベルは4億5000万ドルでCPTN Holdingsへの特許販売を終えた。アメリカ合衆国司法省は、CPTNとの取引は彼らが元々提案していたが、この取引によってサーバ、デスクトップ、およびモバイルの各オペレーティングシステム、ミドルウェア、そして仮想化製品の開発や配布において、Linuxなどのオープンソースソフトウェアの革新と参加を継続することを脅かされるとアナウンスした。その部門における独占禁止法違反の懸念が提出されたため、CPTNとそのオーナーは元々の契約を以下のように変更した :", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "Attachmateは、プロボのユタバレーセンター出身の多数の従業員を含む、ノベルの全従業員のレイオフを2011年4月にアナウンスし、Monoなどのオープンソースプロジェクトの将来に疑問を提起した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "メインフレームソフトウェア企業であるマイクロフォーカスは、ノベルを含むAttachmate Groupを1億2000万ドルで買収したことを2014年9月にアナウンスした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ノベルは自社製品のサーティフィケーションを提供した、最初のコンピュータ企業の1つである。これらには以下があった :", "title": "サーティフィケーション" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ノベルが販売した製品を以下に示す :", "title": "製品" } ]
ノベル は、かつて存在したソフトウェアとサービスの会社である。本社はユタ州プロボに存在した。ノベルの助けによりユタバレーは技術とソフトウェア開発の中心となった。ノベルの技術はLocal Area Network (LAN) の出現に貢献し、LANは支配的なメインフレームコンピューティングモデルを置き換えて世界中のコンピューティングを変えていった。 The Attachmate Groupに買収されてその完全子会社となるまで、ノベルは元々独立した法人であった。The Attachmate Groupは後の2014年にマイクロフォーカスに買収され、ノベルは現在マイクロフォーカスの一部門となっている。 日本法人のノベル株式会社は1990年に日本ソフトバンクとの合弁で設立され、初代社長に渡辺和也が就任した。
{{Infobox company | name = Novell, Inc. | logo = [[Image:Novell.svg|225px]] | image = Novell Provo headquarters.jpg | image_caption = [[ユタ州]][[プロボ (ユタ州)|プロボ]]の旧本社 | type = [[事業部制|事業部]] | founder = <!-- To be sorted out: {{ubl|[[Dennis Fairclough]]|George Canova| Darin Field|Jack Davis|[[Drew Major]]|Dale Neibaur|Kyle Powell}} --> | fate = [[マイクロフォーカス]]により買収 | defunct = {{end date|2014|11}} | industry = [[ソフトウェア]] | products = {{unbulleted list|[[Open Enterprise Server|Novell Open Enterprise Server]]|[[GroupWise|Novell GroupWise]]|[[Novell Vibe]]|[[ZENworks|Novell ZENworks]]}} | parent = マイクロフォーカス | foundation = {{start date and age|1979}}<br>[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[ユタ州]][[プロボ (ユタ州)|プロボ]] | location_city = ユタ州プロボ | location_country = アメリカ | homepage = {{URL|www.novell.com}} }} '''ノベル''' ('''Novell, Inc.''' {{IPAc-en|n|oʊ|ˈ|v|ɛ|l}}) は、かつて存在したソフトウェアとサービスの会社である。本社は[[ユタ州]][[プロボ (ユタ州)|プロボ]]に存在した。ノベルの助けにより{{仮リンク|ユタバレー|en|Utah Valley}}は技術とソフトウェア開発の中心となった。ノベルの技術は[[Local Area Network]] (LAN) の出現に貢献し、LANは支配的な[[メインフレーム]]コンピューティングモデルを置き換えて世界中のコンピューティングを変えていった。 {{仮リンク|The Attachmate Group|en|The Attachmate Group}}に買収されてその完全子会社となるまで、ノベルは元々独立した法人であった。The Attachmate Groupは後の2014年に[[マイクロフォーカス]]に買収され、ノベルは現在マイクロフォーカスの一部門となっている。 {{要出典範囲|日本法人の'''ノベル株式会社'''は1990年に[[日本ソフトバンク]]との合弁で設立され、初代社長に[[渡辺和也 (コンピュータ技術者)|渡辺和也]]が就任した|date=2023年12月}}。 == 歴史 == 1979年、ノベルの前身企業である'''Novell Data Systems Inc.''' ('''NDSI''') が、ユタ州[[オレム (ユタ州)|オレム]]で[[CP/M]]ベースのシステムを製造する[[ハードウェア]]マニファクチャとして開始された<ref>{{cite web |url=http://www.novell.com/news/press/pressroom/milestones2001.pdf |title=Novell Execution of "one Net" – Critical Corporate Milestones |accessdate=2017-01-11 }}</ref>。Novell Data Systemsを開始したオリジナルチームのメンバーである[[:en:Dennis Fairclough|Dennis Fairclough]]は、以前は{{仮リンク|Eyring Research Institute|en|Eyring Research Institute}} (ERI) の従業員であった。NDSIはGeorge Canova、Darin Field、およびJack Davisにより共同で設立された<ref>{{cite web|url=https://books.google.com/books?id=XrcKBwAAQBAJ&pg=PT12&lpg=PT12&source=bl&ots=Inh29dAGmA&sig=eKM6fCau8ey99a5aDVNYZgMfoFw&hl=en&sa=X&ei=y2pBVd7QB7b7sATMpoHICg&ved=0CDAQ6AEwBA#v=onepage&f=false |title=Archived copy |accessdate=2015-04-29 |deadurl=no |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160430221247/https://books.google.com/books?id=XrcKBwAAQBAJ&pg=PT12&lpg=PT12&dq=george+canova+darin+field+jack+davis&source=bl&ots=Inh29dAGmA&sig=eKM6fCau8ey99a5aDVNYZgMfoFw&hl=en&sa=X&ei=y2pBVd7QB7b7sATMpoHICg&ved=0CDAQ6AEwBA |archivedate=2016-04-30 |df= }}</ref>。Victor V. Vurpillatは、Safeguard Scientifics, Inc.の取締役会会長であった[[:en:Pete Musser|Pete Musser]]にこの取引を持ち掛け、Peteはシードファンディングを提供した Novell Data Systemsにより製造されたマイクロコンピュータは競合他社のものと比べてパフォーマンスが劣っていたため、Novell Data Systemsは最初はうまくいかなかった。 システムの販売で競争するため、Novell Data Systemsは1台以上のマイクロコンピュータを一緒に動作させるためにリンクするプログラムを計画した。SuperSet Softwareグループとして知られる、以前はERIの従業員であった[[:en:Drew Major|Drew Major]]、Dale Neibaur、およびKyle Powellは、この仕事のために雇われた。 Fairclough、Major、NeibaurおよびPowellはERIにおいて、政府からの請負でIntelligent Systems Technology Projectのために働いていた。それにより、[[ARPANET]]とその関連技術への深い洞察力と、後のノベルの基盤として欠かせないものとなるアイデアを手に入れた。 Safeguard boardはその後、MusserにNovell Data Systemsの閉鎖を命じたが、MusserはBarry RubensteinとFred Dolinの2人に連絡した。彼らは2人ともSafeguardの投資家兼投資銀行家であり、Novell Data Systemsのネットワークプログラムを他社製コンピュータで動作させるというやり方により、Novell Data Systemsがソフトウェア会社としてビジネスを継続できるよう必要な資金の調達を保証した。 Davisは1981年11月にNovell Data Systemsを去り、1982年3月にCanovaもそれに続いた。 RubinsteinとDolinはJack Messmanと協力し、{{仮リンク|レイ・ノーダ|en|Ray Noorda}}と面談してRaymondを雇った。必要な資金はSafeguard株主に提供される権利を通じて獲得された。その資金はCleveland仲介業者、Prescott、Ball、そしてTurbenにより監視され、RubensteinとDolinが保証人となった。 Major、Neibaur、およびPowellは、彼ら自身によるSuperSet Software Groupを通じてノベルをサポートし続けた。 1983年にNovell Data Systemsは名前を'''Novell, Inc.'''と短縮し、レイ・ノーダが会社の長となった。同年の後半、ノベルは[[NetWare]]を披露した。これは[[クロスプラットフォーム|マルチプラットフォーム]]の[[ネットワークオペレーティングシステム]] (NOS) で、ノベルの最も重要な製品である。 === NetWare === {{main article|NetWare}} 最初のノベル製品は、[[モトローラ]]の[[MC68000|68000]]{{要出典|date=2017年6月}}[[CPU]]をベースとしたプロプライエタリハードウェアサーバであった。このサーバは[[ツイストペアケーブル]]を使うスター型[[ネットワーク・トポロジー|トポロジー]]を利用して、1台あたり最大4つのボードをサポートしており、[[ネットワークカード|ネットワークインタフェースカード]] (NIC) は[[IBM PC]]の[[Industry Standard Architecture]] (ISA) バス用に開発されたものであった。このサーバはShareNetと呼ばれたネットワークオペレーティングシステムを主に使用していたが、その後ShareNetは[[インテル]]プラットフォームで実行できるように移植され、''NetWare''に改名された。NetWareの最初の商用リリースはバージョン1.5である。 ノベルは[[ゼロックス・ネットワーク・システム|Xerox Network Systems]] (XNS) をNetWare[[通信プロトコル]]の基盤として、IDPとSPPからNetWareの独自規格を作成した。その規格は[[IPX/SPX|Internetwork Packet Exchange (IPX) およびSequenced Packet Exchange (SPX)]] と名付けられた。ファイルと印刷サービスは、[[Routing Information Protocol]] (RIP) や{{仮リンク|Service Advertising Protocol|en|Service Advertising Protocol}} (SAP) により動作するのと同様にして、IPX上の[[NetWare Core Protocol]] (NCP) によっても動作した。 NetWareは[[ブート|ブートローダ]]にNovell DOS(以前は[[DR-DOS]]であった)を使用する。Novell DOSは[[MS-DOS]]や[[IBM PC DOS]]と似ているが、DOSのために必要な追加ライセンスは要求されない。Novell DOSは1991年におけるノベルの[[デジタルリサーチ]]買収に由来する。さらにノベルはデジタルリサーチ買収前に、[[:en:Kanwal Rekhi|Kanwal Rekhi]]の会社である[[:en:Excelan|Excelan]]を既に買収していた。Excelanは小型[[イーサネット]]カードを製造してインターネットプロトコル[[TCP/IP]]を商用化した。Excelanの買収は、ニッチな分野でのノベルの存在を強固にした。 1980年代の最初から最後まで、ノベルは非常に好調であった。ノベルは高価なイーサネットカードを原価販売することで、積極的にマーケットシェアを拡張した。1990年まで、ノベルはネットワークが必要なあらゆるビジネス用NOSにおいて、ほぼ[[独占]]的な地位にいた。 ビジネス用NOSマーケットのリーダーシップにより、ノベルはそのNetWareオペレーティングプラットフォームの頂点でサービスを獲得し構築し始めた。これらのサービスは、SAA、Novellマルチプロトコルルーター、[[GroupWise]]、そして{{仮リンク|Novell BorderManager|en|Novell BorderManager|label=BorderManager}}などの製品により、NetWareの能力を拡張した。 === NetWareを超えて === しかしながらノベルも多様化したため、大企業をターゲットにするために小規模ユーザーから離れたが、その後ノベルはNetWare for Small Businessで小規模ユーザーに再び焦点を当てようとした。ノベルは研究への投資を減らしたため製品管理ツールの改善が遅れたが、ノベルの製品は通常全く「改造」を必要とせず、それでも動作したという事実により助けられた。 ノベルはノーダの下で、[[マイクロソフト]]に挑戦するためと多くの人に解釈されている、一連の買収を行った<ref>{{cite news | first1 = Doug | last1 = Barney | first2 = Doug | last2 = van Kirk | title = Novell promises fair play in new climate of competition, support | url = https://books.google.com/books?id=EjsEAAAAMBAJ&lpg=PA6&pg=PA6#v=onepage&f=false | work = {{仮リンク|InfoWorld|en|InfoWorld}} | publisher = | pages = 6 | date = 1994-03-28 | accessdate = 2017-01-10 | quote = }}</ref>。1993年6月、ノベルは[[AT&Tコーポレーション]]から[[UNIX Systems Laboratories]]を買収し<ref>{{cite press release |url = http://tech-insider.org/unix/research/1993/0614.html |title = Novell completes acquisition of UNIX System Laboratories from AT&T |agency = [[ビジネスワイヤ]] |accessdate = 2017-01-13 |date = 1993-06-14 }}</ref>、[[UNIX]][[オペレーティングシステム]]の権利を獲得した。さらにノベルは1994年に[[WordPerfect|WordPerfect Corporation]]を買収し、[[ボーランド]]から[[Quattro Pro]]を手に入れた。 当時のノベルの主要な革新の1つはNovell Directory Services (NDS) であり、これは現在では[[NetIQ eDirectory|eDirectory]]として知られている。1993年にNetWare v4.0が導入されると、NDSは古いBinderyサーバとNetWare 3.x以前にあったユーザー管理技術に取って代わられた。 ノベルは新しい競争に直面したため、1994年にノーダは[[:en:Robert Frankenberg|Robert Frankenberg]]と交代された<ref name="fisher1994">Fisher, Lawrence M. (April 6, 1994). Longtime Hewlett Executive Named Novell Chief. ''[[ニューヨーク・タイムズ]]''</ref>。ノーダ時代の買収は短命であった。1995年、ノベルはUNIXビジネスの一部を{{仮リンク|Santa Cruz Operation|en|Santa Cruz Operation}}に譲渡し、WordPerfectとQuattro Proは1996年に[[コーレル]]に売却された。1996年にはNovell DOSも{{仮リンク|カルデラ (企業)|en|Caldera (company)|label=カルデラ}}に売却された。 [[File:Eric Schmidt at the 37th G8 Summit in Deauville 037.jpg|thumb|180px|[[エリック・シュミット]]]] 1996年、ノベルはネイティブTCP/IPスタックを利用するプロプライエタリなIPXプロトコルへの依存をやめて[[インターネット]]対応製品に移行し始めた。前年に辞任したFrankenbergの後継者である[[エリック・シュミット]]がCEOになった1997年に、この移行が推進された。さらにシュミット配下のChristopher Stoneが、シニア・バイス・プレジデントとして戦略と企業開発担当に就任した。 その成果が1998年10月にリリースされたNetWare v5.0である。NetWare v5.0はeDirectory上で利用および構築され、Novell Cluster Services (NCS、SFT-IIIの代替) やNovell Storage Services (NSS) などの新しい機能が導入された。NSSは、NetWareの初期バージョンで使用されたTraditional/FAT[[ファイルシステム]]の代替である。NetWare v5.0はNOSにネイティブTCP/IPサポートを導入したがIPXは依然としてサポートされていた。これは環境間のスムーズな移行ができるようにし、さらに環境の競合によりしばしば要求される「フォークリフトアップグレード」を避けるためである。同様に、Traditional/FATファイルシステムも依然としてサポートされるオプションのままであった。 === 低下 === 1995年以降、コアシステムコンポーネントとして[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]が主流であるPCオペレーティングシステムの全てに含まれるようになったため、ノベルのマーケットシェアは急落するようになった。[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.0]]以前のOSとは異なり、[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1 for Workgroup]]、[[OS/2]]、および[[Linux]]には全てネットワーク機能が標準で含まれていたため、この領域における[[サードパーティー]]製品に対する需要が大幅に減少した。 エリック・シュミットの支配下でノベルの衰えとマーケットシェアの喪失が加速し、ノベルはNetWareの売上と購入の全てに渡る減少と、シェアの値段が1シェアあたり{{US$|40.00|link=yes}}から{{US$|7.00}}へ落ち込んだことを経験した。アナリスト達は、ノベルの崩壊の主な理由はシュミットの下におけるノベルのチャネル戦略とチャネルパートナーの誤った管理と関係があるとコメントした<ref>{{cite web|url=http://www.zdnet.com/article/novell-stock-down-after-revenue-decline/|title=Novell stock down after revenue decline - ZDNet|first=Stephen|last=Shankland|publisher=|accessdate=2017-10-16}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.wsj.com/articles/SB943454047812142120|title=Shares of Novell Decline As Analysts Cut Ratings|first=Marcelo|last=Prince|date=26 November 1999|publisher=|via=www.wsj.com|accessdate=2017-10-16}}</ref><ref>{{cite web|url=http://money.cnn.com/2000/05/02/technology/novell/|title=Novell warns on earnings - May 2, 2000|website=money.cnn.com|accessdate=2017-10-16}}</ref>。 レイ・ノーダの支配下においては、ノベルはリセラーと顧客に、新規購入版NetWareのコピーと同じパッケージであるアップグレードを3分の1の価格で提供した。これにより、NetWareのリセラーが定期的にアップグレードをフルプライズの新規購入版NetWareのバージョンとして販売することが可能になるという、「グレーマーケット」を作り出すことになったが、ノベルは意図的に追及しなかった。レイ・ノーダは、前線のリセラーがTech DataやIngramなどの代理店を「突き抜けて」、割引価格でNetWareのバージョンを購入できるようにしたこの戦略を自分が考案したが、ノベルは「他の観点から見ていた」と、数人のアナリスト達にコメントした。これによりNovell Field Support Technician達の給料が補助された。Novell Field Support Technicianの大半は、Novell CNE (Certified NetWare Engineers) として前線のリセラーのために働く従業員であった。 リセラーが「他人の製品よりもあなたの製品からより多くのお金を稼ぐ」ことを可能とするこの戦略は、輸入家電製品と競合する場合に[[ゼネラル・エレクトリック]]でエグゼクティブとして学んだうちの1つである、とノーダはコメントした。 エリック・シュミットはノベルのチャネルの原動力を理解せず、完全な製品をアップグレードとすることをやめるという悲惨な戦略に乗り出し、いつも通りに新規購入版NetWareとして購入したアップグレードを販売している非常に多くのノベルのレセラーに対して訴訟を起こすという一般的な忠告をした。 この動きにより、ノベルの収益は数四半期の間増加したが、後に訴訟への恐れからNetWareから手を引いたノベルのリセラーの大半は崩壊した<ref>{{cite web|url=http://www.novell.com/news/press/archive/1997/03/pr97025.html|title=Novell Files Lawsuits Against Two Resellers|archive-url=https://web.archive.org/web/20160303213756/http://www.novell.com/news/press/archive/1997/03/pr97025.html|archive-date=March 3, 2016|publisher=Novell.com|date=1997-03-04|access-date=2013-07-17}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.novell.com/news/press/archive/1995/08/pr00195.html|title=Novell Receives Settlement From Aqua Systems, Inc. in Improper Upgrade Lawsuit|archive-url=https://web.archive.org/web/20160503093612/http://www.novell.com/news/press/archive/1995/08/pr00195.html|archive-date=May 3, 2016|publisher=Novell.com|date=1995-08-22|access-date=2013-07-17}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.deseretnews.com/article/648788/Novell-lawsuit-charges-PMI-with-infringement.html?pg=all|title=Novell lawsuit charges PMI with infringement|archive-url=https://web.archive.org/web/20160303232707/http://www.deseretnews.com/article/648788/Novell-lawsuit-charges-PMI-with-infringement.html?pg=all|archive-date=March 3, 2016|publisher=Deseret News|date=1998-08-27|access-date=2013-07-17}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.crn.com/news/channel-programs/18804418/reseller-files-5m-lawsuit-against-ingram-micro.htm|title=Reseller Files $5M Lawsuit Against Ingram Micro|archive-url=https://web.archive.org/web/20160104184935/http://www.crn.com/news/channel-programs/18804418/reseller-files-5m-lawsuit-against-ingram-micro.htm|archive-date=January 4, 2016|publisher=Crn.com|access-date=2013-07-17}}</ref>。 1999年まで、ノベルはその支配的なマーケットポジションを失った。マイクロソフトは技術的スタッフを迂回して法人の管理職へ直接販売することで、法人のデータセンターへのアクセスを得られたため、ノベルはNetWareから手を引いたリセラーのように、マイクロソフトによって引き続き市場の外へと押しやられた。 その後、ほとんどのリセラーはNovell CNE従業員を再認証した。Novell CNE従業員はMicrosoft MSCEテクニシャンのように、その分野におけるノベルの直接顧客の第一級連絡先となるサポート技術者であり、さらにループポリシーや、キャラクターベースであるノベルのインタフェースよりも近 代的とされたマイクロソフトの[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]などの[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]機能の下位としてNetWareを置くことを奨励していた{{誰2|date=2017年5月}}。収益の低下により、ノベルはネットサービスとプラットフォーム相互運用に注力した。eDirectoryやGroupWiseなどの製品はマルチプラットフォームで作成された。 2000年10月、ノベルは "DirXML" という愛称の新しい製品をリリースした。DirXMLは異なるディレクトリとデータベースシステムどの間でデータ(通常はユーザー情報)を同期するよう設計された。DirXMLは情報をストアしてeDirectoryの速度と機能をレバレッジし、後にノベル内のコア製品セット基盤を形成する、{{仮リンク|NetIQ Identity Manager|en|NetIQ Identity Manager|label=Novell Identity Manager}}となった。 ノベルはサービス販売を拡充するため、[[:en:John J. Donovan|John J. Donovan]]が[[マサチューセッツ州]][[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)]]で創設したコンサルティング企業である[[ケンブリッジ・テクノロジー・パートナーズ]] (CTP) を2001年6月に買収した。ノベルはソリューション(ソフトウェアとサービスのコンビ)を提供する能力が顧客満足を満たす鍵となると感じていた。この統合は明らかに同社のソフトウェア開発文化に反しており、会社の財務担当者もそれに反対した。 CTPのCEOであるJack Messmanは、自身のノベルの役員としてのポジションを利用して当初から統合を工作し、取引の一部としてノベルのCEOとなった。1999年に辞任していたChris Stoneが、[[オープンソース]]と企業[[Linux]]におけるノベルの戦略進路を定めるために副会長として再雇用された。CTPの買収により、ノベルは本社を[[マサチューセッツ州|マサチューセッツ]]に移転した<ref>{{cite news|url=http://www.bizjournals.com/boston/stories/2002/04/29/story5.html |title=Cambridge-bound Novell pins recovery on CTP buy&nbsp;— Boston Business Journal: |publisher=Bizjournals.com |date= April 29, 2002|accessdate=November 4, 2008 |first=Phil |last=Sweeney}}</ref>。 ノベルは[[Webサービス]]指向アプリケーションのリーダーではあるが市場では出遅れていた、SilverStream Softwareを2002年6月に買収した。SilverStream Softwareは{{仮リンク|Novell exteNd|en|Novell exteNd}}に改名され、そのプラットフォームには[[Jakarta EE|Java EE]]ベースの[[Extensible Markup Language|XML]]とWebサービスツールなどがあった。 === Linux === ノベルはオープンソースLinuxアプリケーション([[Evolution (ソフトウェア)|Evolution]]、[[Red Carpet (ソフトウェア)|Red Carpet]]、および[[Mono (ソフトウェア)|Mono]])の開発企業である[[Ximian]]を2003年8月に買収した。この買収は、[[Linuxカーネル]]上に集めた製品セットへと移行するというノベルの合図であった。 ノベルは[[Linuxディストリビューション]]へと力を大がかりに移行することを率いていたLinux OS開発企業である、[[SUSE|SuSE]]を2003年11月に買収した。[[IBM]]もSuSE買収の支援を示すために5,000万ドルを投資した。 ノベルは "Novell Enterprise Linux Services" (NNLS) を2003年中期にリリースした。 NNLSは[[SUSE Linux Enterprise Server]] (SLES) version 8に、以前からNetWareに関連していたサービスのいくつかを移植したものである。 ノベルはXimian DesktopとSUSE Linux Professional 9.1をベースとした、Linuxベースの企業デスクトップである[[SUSE Linux Enterprise Desktop|Novell Linux Desktop]] v9を2004年11月にリリースした。これは企業デスクトップ市場を得るためのノベルの最初の試みであった。 NetWareの後継製品である[[Open Enterprise Server]] (OES) は2005年3月にリリースされた。OESは前身のNetWare v6.5によりホストされた全てのサービスを提供し、NetWare v6.5カーネルかSUSE Linux Enterprise Server v9カーネルのどちらかを使って、選んだ方のサービスを届けるという選択肢を追加した。このリリースは、NetWareの顧客を説得してLinuxへ移行させることを狙いとしていた。 ノベルはSUSE Professionalをベースとした[[openSUSEプロジェクト]]を2005年8月に作成した<ref>{{cite web |url = http://os.newsforge.com/os/05/08/03/1246236.shtml |title = Novell frees SUSE Professional under new branding |accessdate = 2017-01-10 |first = Tina |last = Gasperson |date = 2005-08-03 |archive-url = https://web.archive.org/web/20050805004552/http://os.newsforge.com/os/05/08/03/1246236.shtml |archive-date = 2005-08-05 |publisher = [[NewsForge]] }}</ref>。openSUSEは自由にダウンロードでき、箱入りの小売商品としても利用可能である<ref>{{cite web|url=http://en.opensuse.org/Buy_openSUSE|title=Buy openSUSE - openSUSE|publisher=En.opensuse.org|date=2013-03-20|access-date=2013-07-17}}</ref>。 === 停滞 === ノベルは2003年から2005年の間、[[ポートフォリオ]]にまたがり多くの製品をリリースした。これは市場シェアの低下を阻止するつもりで、この間にリリースしたもの以外のノベル製品依存から脱却するためである。しかしこれを開始してもノベルの望みほどには成功しなかった。Chris Stoneは、当時のCEOであるJack Messmanとの統率における明らかな問題の結果として、2004年後半に再びノベルを去った<ref>{{cite web|url=http://www.businessweek.com/magazine/content/05_44/b3957125.htm |title=Cold Realities For Novell |publisher=Businessweek.com |date= |accessdate=November 4, 2008}}</ref>。コスト削減のため、ノベルは2005年後半にレイオフする予定をアナウンスした。Linux事業からの収益は成長を続けたが、NetWareの収益による減少を相殺するほどその成長は早くなかった。ノベルの収益は急激に落ち込むことはなかったが、成長もしなかった。明確な方向性や効果的な管理の欠如は、ノベルがリストラを完了するまでに予想以上に時間を費やすことを意味していた。 最高経営責任者Jack MessmanとチーフファイナンスオフィサーJoseph Tibbettsは2006年6月に解雇された。ノベルの社長兼最高執行責任者である[[:en:Ronald Hovsepian|Ronald Hovsepian]]が最高経営責任者に指名され、財務および企業統括担当副社長であるDana Russellが暫定CFOに指名された。 === "Your Linux is Ready" === ノベルはSUSE Linux Enterprise 10 (SLE 10) シリーズを2006年8月にリリースした。SUSE Linux Enterprise Serverは、[[Xen (仮想化ソフトウェア)|Xen]][[ハイパーバイザ]]をベースとした[[仮想化]]を提供する最初の企業クラスLinuxサーバであった。SUSE Linux Enterprise Desktop(SLEDとして良く知られる)は新しいユーザーフレンドリーなGUIと[[Xgl]]ベースの3Dディスプレイ表示能力を特徴とした。SLE 10のリリースはノベルのLinux製品が企業向けに準備されていることを伝える、"Your Linux is Ready" というフレーズを伴って販売された。ノベルは "SUSE Linux Enterprise Real Time" (SLERT) と呼ばれる、Concurrent Computer Corporation由来の技術をベースとしたSLESの[[リアルタイムオペレーティングシステム|リアルタイム]]バージョンを2006年9月後半にアナウンスした。 === マイクロソフトとの訴訟 === ノベルは1994年から1996年の間、ノベルの[[WordPerfect]]ビジネスに関する独占禁止法違反に関与していたと主張してマイクロソフトを2004年に訴えた。後に[[アメリカ合衆国連邦裁判所#地方裁判所|合衆国地方裁判所]]はノベルの訴えを道理にかなってないとして、2012年6月に退けた<ref>{{cite web|last=Rosenblatt|first=Joel|date=2012-07-16|url=http://seattletimes.com/html/businesstechnology/2018702942_microsoftnovell17.html|archive-url=https://archive.is/20130630083938/http://seattletimes.com/html/businesstechnology/2018702942_microsoftnovell17.html|dead-url=yes|archive-date=2013-06-30|title=Microsoft wins dismissal of Novell's antitrust lawsuit {{!}} Business & Technology|publisher=The Seattle Times|access-date=2013-07-17}}</ref>。 これにもかかわらず、ノベルとマイクロソフトの2社は互いの顧客のため、それぞれの製品のカバレッジなどで、互いに協力することに合意したことを2006年11月2日にアナウンスした<ref>{{cite web|url=http://news.microsoft.com/2006/11/02/microsoft-and-novell-announce-broad-collaboration-on-windows-and-linux-interoperability-and-support/ |title=Microsoft and Novell Announce Broad Collaboration on Windows and Linux Interoperability and Support |publisher=Microsoft.com |date= |accessdate=2017-01-10}}</ref><ref>{{cite web|url=http://news.microsoft.com/speeches/steve-ballmer-microsoft-and-novell-collaboration-announcement/ |title=Steve Ballmer: Microsoft and Novell Collaboration Announcement |publisher=Microsoft.com |date= |accessdate=2017-01-10}}</ref>。また、ソフトウェアの互換性を向上させるためにより密接に協力し、共同研究施設を設置することを約束した。両社の経営幹部は、このような協調により[[Microsoft Office]]と[[OpenOffice.org]]との間の互換性と仮想化技術をさらに向上させることについての希望を表明した。 当時マイクロソフトのCEOであった[[スティーブ・バルマー]]はこの取引について、「これらの一連の同意により、[[オープンソースソフトウェア]]と[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリソースソフトウェア]]との分裂に橋渡しをするとして本当に役立つだろう」と語った<ref>{{cite web|url=http://news.cnet.com/Microsoft+makes+Linux+pact+with+Novell/2100-1016_3-6132119.html?tag=nefd.lede |title=Microsoft makes Linux pact with Novell&nbsp;— CNET News.com |publisher=News.com.com |date= |accessdate=November 4, 2008}}</ref>。 この契約にはマイクロソフトからノベルに対し、特許協力と[[SUSE Linux Enterprise Server|SLES]]のサブスクリプションとして3億4800万ドルの前払いが含まれていた。加えて、SLES/Windowsサーバ製品とそれに関連する仮想化ソリューションとの組み合わせのマーケティングと販売のため、マイクロソフトは今後5年間で年間約4600万ドルを費やすことに同意した。その一方で、同じ期間にノベルは毎年少なくとも4000万ドルをマイクロソフトへ払った<ref>{{cite web|url=http://www.linux-watch.com/news/NS7235986827.html |title=Novell gets $348 million from Microsoft |publisher=Linux-watch.com |date= |accessdate=November 4, 2008}}</ref>。 このパートナーシップの最初の成果の1つは、ノベルがOpenOffice.orgで使える<ref>{{cite web|url=http://download.novell.com/SummaryFree.jsp?buildid%3DESrjfdE4U58%7E|title=Novell Downloads|archive-url=https://web.archive.org/web/20141119192949/http://download.novell.com/SummaryFree.jsp?buildid%3DESrjfdE4U58%7E|dead-url=no|archive-date=2014-11-19|accessdate=2017-10-16}}</ref>を採用したことであった。 マイクロソフトは、[[Microsoft Silverlight]]リッチメディアプラットフォームの作業者でありオープンソースである[[Moonlight (ソフトウェア)|Moonlight]]ランタイムのユーザーが特許侵害で訴えられないように、2つの公開誓約をリリースした。各誓約に共通の条項の1つは、[[GNU General Public License#バージョン3|GPLv3]]の元でのMoonlightの実装はリリースしないことであった<ref>{{cite web |url=http://www.microsoft.com/interop/msnovellcollab/newmoonlight.mspx |title=Covenant to End Users of Moonlight 3 and 4 |publisher=Microsoft.com |date=December 18, 2009 |archive-url = https://web.archive.org/web/20100301183139/http://www.microsoft.com/interop/msnovellcollab/newmoonlight.mspx |archive-date = 2010-03-01 |accessdate=February 23, 2012 }}</ref><ref>{{cite web |url = http://www.microsoft.com/interop/msnovellcollab/moonlight.mspx |title = Covenant to Downstream Recipients of Moonlight – Microsoft & Novell Interoperability Collaboration |publisher = Microsoft |date = |accessdate = February 23, 2012 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20100923213336/http://www.microsoft.com/interop/msnovellcollab/moonlight.mspx |archivedate = 2010年9月23日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 ==== FOSSコミュニティの反応 ==== ノベルが「裏切って」、[[GNU General Public License|GNU GPL]]がLinuxカーネルを含む排他的な契約の下でコードの配布を許可することを疑問に思うと懸念を表明したことで、特許保護に従事する[[FLOSS|FOSS]]コミュニティのメンバーからの最初の反応は非常に批判的なものであった<ref>{{cite web|url=http://www.groklaw.net/article.php?story=20061102175508403 |title=Groklaw&nbsp;— Novell Sells Out |publisher=Groklaw.net |date= |accessdate=November 4, 2008}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.groklaw.net/article.php?story=20061103073628401 |title=Groklaw&nbsp;— The Morning After&nbsp;— Reactions to Novell-MS&nbsp;— Updated 2xs |publisher=Groklaw.net |date= |accessdate=November 4, 2008}}</ref><ref>{{cite web|url=https://lwn.net/Articles/207559/ |title=Various responses to Microsoft/Novell [LWN.net&#93; |publisher=Lwn.net |date= November 3, 2006 |author=corbet |accessdate=November 4, 2008}}</ref>。 [[Software Freedom Law Center]] (SFLC) のCTOである[[ブラッドリー・M・クーン]]は2006年11月9日のFOSS開発への手紙の中に、この契約は「役に立たないよりもさらに悪い」と記していた<ref>{{cite web|url=http://www.softwarefreedom.org/news/20061109a.html |title=Bradley M. Kuhn's Letter to the FOSS Development Community Regarding Microsoft's Patent Promise&nbsp;— Software Freedom Law Center |publisher=Softwarefreedom.org |date=November 9, 2006 |accessdate=November 4, 2008}}</ref>。SFLCのチェアマンである[[エベン・モグレン]]は、ノベルがFOSSから引き離された開発において、信頼できる審査によりGPL(バージョン2)による契約を遵守しているかどうかを決められるようにするため、SFLCとの協力を申し出ていると報告した<ref>{{cite web|url=http://www.vnunet.com/vnunet/news/2168151/novells-opens-microsoft |title=Novell opens legal books to GPL pundits&nbsp;— vnunet.com |publisher=Vnunet.com |first=Tom |last=Sanders |location=California |date= |accessdate=November 4, 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070930201102/http://www.vnunet.com/vnunet/news/2168151/novells-opens-microsoft|archivedate=September 30, 2007}}</ref>。[[フリーソフトウェア財団]]の創設者である[[リチャード・ストールマン]]は、GPLのバージョン3でもたらされた変更によりそのような取引をできなくすると2006年11月に語った<ref>{{cite web|url=http://www.fsfeurope.org/projects/gplv3/tokyo-rms-transcript.en.html#novell-ms |title=GPLv3&nbsp;— Transcript of Richard Stallman from the fifth international GPLv3 conference, Tokyo, Japan; 2006-11-21 |publisher=Fsfeurope.org |date= |accessdate=November 4, 2008}}</ref>。GPLのバージョン3の最後の改定版が決まった時、マイクロソフトとノベルの間の取引は既得権益となっていた。GPLv3における条項では、たとえ過去にこのような特許提携を結んでいても、2007年3月28日以前にパートナーシップを行っている限り企業はGPLv3ソフトウェアを配布できる (GPLv3 Section 11 paragraph 7<ref>{{cite web|url=https://www.gnu.org/licenses/gpl-3.0-standalone.html |title=GNU GENERAL PUBLIC LICENSE Version 3 |publisher=fsf.org |date= |accessdate=June 3, 2009}}</ref>)。 [[Samba]]チームはアナウンスへの強い不満を2006年11月12日に表明し、ノベルに再考を要望した<ref>{{cite web |url=http://news.samba.org/announcements/team_to_novell/ |title=Samba Team Asks Novell to Reconsider |publisher=News.samba.org |date= |accessdate=November 4, 2008 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081005113356/http://news.samba.org/announcements/team_to_novell/ |archivedate=2008年10月5日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。Sambaチームにはノベルの従業員であった[[ジェレミー・アリソン]]もいた。彼はこの声明にチームの全メンバーが合意したことを[[スラッシュドット]]のコメントで確認し<ref>{{cite web|url=http://slashdot.org/comments.pl?sid=206202&cid=16817478 |title=Samba Team Urges Novell To Reconsider |publisher=Slashdot.org |date= |accessdate=November 4, 2008}}</ref>、後に抗議のためノベルを退職した<ref>{{cite web|url=http://www.groklaw.net/article.php?story=20061221081000710 |title=Groklaw&nbsp;— Jeremy Allison Has Resigned from Novell to Protest MS Patent Deal |publisher=Groklaw.net |date=June 29, 2007 |accessdate=November 4, 2008}}</ref>。 [[ロイター]]は2007年2月初期、フリーソフトウェア財団がLinuxバージョンを販売するノベルの権利を批評し、Linux販売からのノベルの追放を検討していることをアナウンスしたと報じた<ref>{{cite web|last=Finkle|first=Jim|title=Novell could be banned from selling Linux: group|quote=The community of people wants to do anything they can to interfere with this deal and all deals like it. They have every reason to be deeply concerned that this is the beginning of a significant patent aggression by Microsoft|url=http://today.reuters.com/misc/PrinterFriendlyPopup.aspx?type=technologyNews&storyID=2007-02-02T230933Z_01_N02280856_RTRUKOC_0_US-NOVELL-LINUX.xml|archive-url=https://web.archive.org/web/20070213003247/http://today.reuters.com/misc/PrinterFriendlyPopup.aspx?type=technologyNews&storyID=2007-02-02T230933Z_01_N02280856_RTRUKOC_0_US-NOVELL-LINUX.xml|archive-date=February 13, 2007|accessdate=2017-10-16}}</ref> However, spokesman Eben Moglen later said that he was quoted out of context,<ref>{{cite web|url=http://www.linuxfordevices.com/c/s/News/|archiveurl=https://archive.is/20120529141859/http://www.linuxfordevices.com/c/s/News/|deadurl=yes|title=News - Linux for Devices|date=29 May 2012|archivedate=29 May 2012|publisher=|accessdate=2017-10-16}}</ref>。しかしながら、スポークスマンであるEben Moglenは後に、これは前後関係を省いて引用され<ref>[https://archive.is/20120529141859/http://www.linux-watch.com/news/NS6837365670.html Linux-Watch]</ref>、将来における類似の取引を締め出すためにGPLバージョン3を設計したと述べただけであると語った。 === Intelligent workload management === ノベルは混成されたデータセンター内における様々な仕事量を管理するよう設計された製品により、{{仮リンク|Intelligent workload management|en|Intelligent workload management}}市場をリードするつもりであることを2009年12月にアナウンスした<ref>{{cite web |url=http://itmanagement.earthweb.com/features/article.php/3851851/Novell-Delivers-Workload-Automation-Strategy-Tools |title=Novell Delivers Workload Automation Strategy, Tools |archive-url = https://web.archive.org/web/20110927232620/http://itmanagement.earthweb.com/features/article.php/3851851/Novell-Delivers-Workload-Automation-Strategy-Tools |archive-date = 2011-09-27 |date=December 8, 2009 |publisher=Datamation |accessdate=2017-01-10}}</ref>。 === Attachmateによる買収 === ノベルは永らく他の様々な企業による買収のターゲットになっていると噂されていた。ノベルの約8.5%の株式保有機関投資家である{{仮リンク|Elliott Management Corporation|en|Elliott Management Corporation|label=Elliott Associates L.P.}}は、現金で1株当たり5.75ドル、10億ドルでノベルを買収する提案を2010年3月に行った<ref>{{cite web|url=http://www.prnewswire.com/news-releases/elliott-offers-to-acquire-novell-86009382.html|title=Elliott Offers to Acquire Novell|date=March 2, 2010|publisher=PR Newswire|accessdate=2017-06-28}}</ref>。ノベルは提案が不十分であり、ノベルのフランチャイズおよび成長見通しを過小評価していると述べ提案を拒否した<ref>{{cite web|url=http://www.networkworld.com/news/2010/032010-novell-rejects-takeover.html|title=Novell rejects "inadequate" $2B takeover bid|date=March 20, 2010|publisher=Networkworld|accessdate=March 20, 2010 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100324121049/http://www.networkworld.com/news/2010/032010-novell-rejects-takeover.html |archivedate=2010-03-24}} </ref>。 ノベルは2010年11月、{{仮リンク|Attachmate|en|Attachmate}}による買収に同意し、ノベルを2つの部署で運用し、かつその1つを[[SUSE]]とすることを計画しているとアナウンスした。取引の一環として、ノベルが所有する882の[[ソフトウェア特許|特許]]を、[[Apple]]、[[Dell EMC|EMC]]、および[[オラクル (企業)|オラクル]]を含みマイクロソフトが率いる企業コンソーシアムである{{仮リンク|CPTN Holdings|en|CPTN Holdings}} LLCに売却した<ref>{{cite web |url=http://www.sec.gov/Archives/edgar/data/758004/000119312510265964/d8k.htm |title=FORM 8-K — Novell Inc. |date=November 21, 2010 |accessdate=November 27, 2010 |publisher=[[U.S. Securities and Exchange Commission]] |quote=Also on November 21, 2010, Novell entered into a Patent Purchase Agreement (the "Patent Purchase Agreement") with CPTN Holdings LLC, a Delaware limited liability company and consortium of technology companies organized by Microsoft Corporation ("CPTN"). The Patent Purchase Agreement provides that, upon the terms and subject to the conditions set forth in the Patent Purchase Agreement, Novell will sell to CPTN all of Novell's right, title and interest in 882 patents (the "Assigned Patents") for $450&nbsp;million in cash (the "Patent Sale"). }}</ref><ref>{{Cite journal |url=http://www.novell.com/news/press/novell-agrees-to-be-acquired-by-attachmate-corporation/ |title=Novell Agrees to be Acquired by Attachmate Corporation |date=November 22, 2010 |accessdate=November 22, 2010 |publisher=Novell }}</ref><ref>{{cite web|url=http://fosspatents.blogspot.com/2010/12/cptn-holdings-llc-acquirer-of-882.html|title=CPTN Holdings LLC (acquirer of 882 Novell patents): Microsoft, Apple, EMC and Oracle are the partners according to German antitrust notification|date=December 16, 2010|accessdate=January 3, 2011}}</ref>。ノベルのSECファイリングによると、この特許は「アイデンティティとセキュリティ管理ビジネスに関連するだけではなく、主にエンタープライズレベルのコンピュータシステム管理ソフトウェア、エンタープライズレベルのファイル管理およびコラボレーションソフトウェアに関連する特許である。ただしこのように発行された特許と特許出願の一部は、様々なソフトウェア製品で読むことができる」というものである<ref>{{cite web |url=http://www.sec.gov/Archives/edgar/data/758004/000119312511008402/ddefm14a.htm |title=SCHEDULE 14-A — Novell Inc. |date=January 14, 2011 |accessdate=January 18, 2011 |publisher=[[U.S. Securities and Exchange Commission]]}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.pcworld.com/article/216931/details_emerge_of_patents_novell_is_selling_to_microsoft.html |title=Details Emerge of Patents Novell Is Selling to Microsoft |date=January 18, 2011 |accessdate=January 18, 2011 |publisher=PCWorld }}</ref>。Attachmateはこの取引終了に先立って、SUSEビジネスとopenSUSEプロジェクトとの関係を変えるつもりはないと述べた<ref>{{Cite journal |url=http://www.attachmate.com/Press/PressReleases/nov-22-2010-SUSE.htm |title=Attachmate Corporation Statement on openSUSE project |date=November 22, 2010 |accessdate=November 23, 2010 |publisher=Attachmate Corporation }}</ref>。この統合は2011年8月に完了し、Attachmateはノベルを買収するために現金で1株につき$6.10を支払った。ノベルは完全にThe Attachmate Groupの所有となり、Attachmate Corporationを親会社とする子会社となった。 買収の完了と同時に、ノベルの製品やブランドの一部は{{仮リンク|The Attachmate Group|en|The Attachmate Group|label=Attachmateグループ}}ビジネスユニットの別会社である{{仮リンク|NetIQ|en|NetIQ}}に移行され、[[SUSE Linux]]ブランドは独自の事業単位として分割された。その4つのビジネスユニットは直接買収による影響は受けなかった。 ==== CPTN Holdings契約 ==== 合併が確定する直前、ノベルは4億5000万ドルでCPTN Holdingsへの特許販売を終えた<ref>{{cite web|title=Novell Completes Merger with Attachmate and Patent Sale to CPTN Holdings LLC|url=http://www.novell.com/news/press/2011/4/novell-completes-merger-with-attachmate-and-patent-sale-to-cptn-holdings-llc.html|publisher=Novell|accessdate=April 28, 2011}}</ref>。[[アメリカ合衆国司法省]]は、CPTNとの取引は彼らが元々提案していたが、この取引によってサーバ、デスクトップ、およびモバイルの各オペレーティングシステム、ミドルウェア、そして仮想化製品の開発や配布において、Linuxなどのオープンソースソフトウェアの革新と参加を継続することを脅かされるとアナウンスした。その部門における独占禁止法違反の懸念が提出されたため、CPTNとそのオーナーは元々の契約を以下のように変更した : *ノベルの特許は全てGPLv2オープンソースライセンスと[[Open Invention Network]] (OIN) ライセンスの対象となる。 *CPTNはどの特許も制限する権利を持たない。もしそのような権利が存在した場合、OINライセンスの元で利用可能である。 *CPTNをそのオーナーのどちらも、ノベルやAttachmateのいずれかがOINライセンスの下で利用可能な特許の修正に影響を及ぼしたり奨励したりするための声明を出したり、そのためのアクションを起こすことはない。 === 2011年のレイオフ === Attachmateは、プロボのユタバレーセンター出身の多数の従業員を含む、ノベルの全従業員のレイオフを2011年4月にアナウンスし<ref>{{cite web | url=http://www.ksl.com/?nid=148&sid=15382738 | title=Employees say hundreds laid off at Novell's Provo office | last=Koep|first=Paul | publisher=[[KSL-TV]] | date=May 2, 2011 | accessdate=May 7, 2011}}</ref>、Monoなどのオープンソースプロジェクトの将来に疑問を提起した<ref>{{cite web | url=http://www.zdnet.com/blog/open-source/is-mono-dead-is-novell-dying/8821 | title=Is Mono dead? Is Novell dying? | last=J. Vaughan-Nichols|first=Steven | publisher=[[ZDNet]] | date=May 4, 2011 | accessdate=May 7, 2011}}</ref><ref>{{cite web | url=http://www.theregister.co.uk/2011/05/03/novell_mono_layoffs/ | title=.NET Android and iOS clones stripped by Attachmate | last=Clarke|first=Gavin | publisher=The Register | date=May 3, 2011 | accessdate=May 7, 2011}}</ref>。 === マイクロフォーカスによる買収 === メインフレームソフトウェア企業である[[マイクロフォーカス]]は、ノベルを含むAttachmate Groupを1億2000万ドルで買収したことを2014年9月にアナウンスした<ref>{{cite news | author = Joab Jackson | title = Micro Focus buying Novell, Suse Linux owner for $1.2 billion | url = http://www.networkworld.com/article/2684353/micro-focus-buying-novell-suse-linux-owner-for-12-billion.html | work = | publisher = | pages = | page = | date = | accessdate = 2017-01-10 | quote = }}</ref>。 == 買収 == {{Div col|3}} * Santa Clara Systems, Inc.(1986年) * Cache Data Product(1986年) * Softcraft(1987年) * CXI(1988年) * Excelan(1989年) * [[デジタルリサーチ]](1991年) * International Business Software Ltd.(1992年) * {{仮リンク|AppWare|en|AppWare|label=Serius}} (1993) * [[Unix System Laboratories]](1993年) * [[WordPerfect|WordPerfect Corporation]](1994年) * [[Quattro Pro]]([[ボーランド]])(1994年) * Netoria(1999年) * Novetrix(1999年) * JustOn(1999年) * PGSoft(2000年) * Novetrix(2001年) * [[ケンブリッジ・テクノロジー・パートナーズ]](2001年) * Callisto Software, Inc.(2001年) * SilverStream Software(2002年) * [[Ximian]](2003年) * [[SUSE]](2003年) *Salmon(2004年) *Tally System(2005年) *Immunix(2005年) *e-Security, Inc(2006年) *RedMojo(2007年) *Senforce<ref>[http://www.senforce.com/ Senforce] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20081113130251/http://www.senforce.com/ |date=November 13, 2008 }}</ref>(2007年) *{{仮リンク|PlateSpin|en|PlateSpin}}(2008年) *SiteScape(2008年) *Command ControlおよびCompliance Auditor (Fortefi)(2008年) *Managed Objects, Inc.(2008年) {{Div col end}} == サーティフィケーション == ノベルは自社製品のサーティフィケーションを提供した、最初のコンピュータ企業の1つである。これらには以下があった : {{Div col}} *Certified Novell Administrator (CNA) *Certified Novell Engineer (CNE) *Certified Linux Professional 10 (CLP 10) *Certified Linux Engineer 10 (CLE 10) {{Div col end}} == 製品 == ノベルが販売した製品を以下に示す : * Novell iPrint Appliance - 印刷においてモビリティをサポートするネットワークプリントサーバ。ユーザーは世界中の任意の場所で、任意のデバイスから印刷できる。 * {{仮リンク|Novell BorderManager|en|Novell BorderManager|label=BorderManager}} - NetWare上におけるインターネットアクセス制御、セキュアなVPN、および[[ファイアウォール]]を提供する。 * Business Continuity Clustering - 高可用な設定と管理を自動化するクラスタサーバ。 * Client for Linux - Linuxデスクトップユーザーに対して、NetWareやOpen Enterprise Serverのサービスやアプリケーションへのアクセスを可能にする。 * Novell Client|Client for Windows - Windowsユーザーに対して、NetWareやOpen Enterprise Serverのサービスやアプリケーションへのアクセスを可能にする。 * Cluster Services for Open Enterprise Server - Storage Area Network (SAN) 上のリソース管理を容易にし、高可用を可能にする。 * Data Synchronizer - アプリケーションとモバイルデバイスを常に同期し、有名なCRMシステムへのコネクタを提供する。 * Endpoint Lifecycle Management Suite - アプリケーション、デバイス、およびサーバをライフサイクルを通じて管理する。 * Endpoint Protection Suite - エンドポイント保護スイート。 * {{仮リンク|Novell File Management Suite|en|Novell File Management Suite|label=File Management Suite}} - ビジネスポリシーに基づくファイルストレージの発見、分析、準備、再配置、および最適化をまとめて行うための、3つのノベル製品を統合する。 * {{仮リンク|Novell File Reporter|en|Novell File Reporter|label=File Reporter}} - 構造化されていないファイルデータや、ストレージの成長予測をテラバイトで調査し報告する。 * [[GroupWise]] - セキュアな電子メール、カレンダー、連絡先の管理と、モバイル同期を伴うタスク管理を提供する。 * [[Ifolder]] - システムやウェブを横断する、オンラインおよびオフラインのセキュアなアクセスに対してファイルを供給する。 * NFS Gateway for NetWare 6.5 - NetWare 6.5サーバがUNIXやLinuxのNFS拡張ファイルシステムへアクセスできるようにする。 * [[Open Enterprise Server]] - 中央集権化されたサーバ管理やセキュアなファイルストレージなどのNetWareサービスを提供する。SUSE Linux Enterprise Serverで起動する。 * Open Workgroup Suite - 低コストなMicrosoft Professional Desktop Platformの代替ソフト。ワークグループサービスやコラボレーションツールが特徴。 * Open Workgroup Suite for Small Business - Linuxで起動する、デスクトップ-サーバ間におけるフル機能を搭載したソリューション。中小企業ユーザーのサポートをするために設計されている。 * Service Desk - ITサービスの合理化と提供を自動化する。LiveTime Software制作のOEM製品<ref>{{cite web|url=http://www.livetime.com/novell-service-desk/|title=LiveTime and Novell partner for Novell Service|date=October 12, 2010|accessdate=October 12, 2010}}</ref>。 * {{仮リンク|Novell Storage Manager|en|Novell Storage Manager|label=Storage Manager}} - ユーザーやワークグループにファイルストレージ管理の自動化を提供する。 *Total Endpoint Management Suite - 企業全体のセキュリティと生産性のバランスを効率的に取る。 * {{仮リンク|Novell Vibe|en|Novell Vibe|label=Vibe}} - 既存のインターネットシステムを置き換えることが可能なドキュメント管理とワークフロー機能により、セキュアなチームコラボレーションを提供する。 * [[ZENworks]] - システム管理をサポートするためのソフトウェアスイート。 ** {{仮リンク|ZENworks Application VIrtualization|en|Novell ZENworks Application VIrtualization|label=ZENworks Application Virtualization}} - アプリケーションを配信するアプリケーションストリーミングをユーザーの振る舞いに基づいて予測的に行うことで、仮想化されたアプリケーションのパッケージ化と配備を可能にする。 ** ZENworks Asset Management - ハードウェアとソフトウェアの報告、統合されたライセンス管理、インストール、および使用データを提供する。 ** ZENworks Configuration Management - 自動化されたエンドポイント管理、ソフトウェア配布、ユーザーサポート、およびより早いWindows 7マイグレーションを提供する。 ** ZENworks Endpoint Security Management<ref>{{cite web | url = https://www.novell.com/documentation/zenworks113/zen11_quickstart/data/booezfv.html# | title = Endpoint Security Management | website = Novell Doc | publisher = Novell | accessdate = 2014-10-20 | quote = ZENworks 11 SP3 Endpoint Security Management simplifies endpoint security by providing centralized management of security policies for your managed devices. }} </ref><ref> {{cite web | url = http://www.novell.com/products/zenworks/endpointsecuritymanagement/features/security-client.html | title = Novell ZENworks Endpoint Security Management | year = 2014 | website = www.novell.com | publisher = Novell | accessdate = 2014-09-25 | quote = Novell ZENworks Endpoint Security Management utilizes an installed client application to enforce complete security on the endpoint itself. }} </ref> (ZES) - ラップトップ、スマートフォン、そしてサムドライブなどのクライアント{{仮リンク|通信エンドポイント|en|Communication endpoint|label=エンドポイント}}に対してアイデンティティに基づく保護を提供する。ドライバレベルのファイアウォールを提供する。 ** ZENworks Full Disk Encryption - ラップトップやデスクトップのデータを保護する。 ** ZENworks Handheld Management - 盗難にあった[[携帯機器|ハンドヘルド]]の確保、ユーザーデータの保護、パスワードポリシーの強化、および紛失や盗難にあったデバイスのロックを可能にする。 ** ZENworks Linux Management - Linuxリソースの配備、管理、および維持のためのポリシードリブン自動化を使い、Linuxデスクトップやサーバの制御を容易にする。 ** ZENworks Mobile Management - 法人支給と個人所有の両方 ([[BYOD]]) において、モバイルデバイスをセキュアにして管理する。 ** ZENworks Patch Management - パッチ評価、監視、および修復を自動化する。セキュリティ脆弱性を検知するため、パッチが適用されているかどうかを監視する。 ** ZENworks Virtual Appliance - 自己完結型''[[プラグアンドプレイ]]''設定管理、資産管理、およびパッチ管理を提供する。 == 関連項目 == *{{仮リンク|Novell BrainShare|en|Novell BrainShare}} == 脚注 == {{Reflist|35em}} == 外部リンク == *[http://www.novell.com/ ノベル] *[http://forums.novell.com/ ノベルのフォーラム] *[http://www.novell.com/coolblogs/ ノベルのブログ] *[http://wiki.novell.com/ ノベルのWiki] *[http://www.open-horizons.net/ Open Horizons&nbsp;— A co-operative EMEA body of international Novell User Groups] *[http://www.open-horizons.co.uk/ Open Horizons UK&nbsp;— An active Novell User Group for UK customers] {{Novell}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:のへる}} [[Category:ノベル|*]] [[Category:かつて存在したアメリカ合衆国のコンピュータ企業]] [[Category:1983年設立の企業]] [[Category:2011年の合併と買収]]
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12,790
1708年
1708年(1708 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。 日本でのできごとは宝永#宝永年間の出来事の宝永5年も参照
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1708年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1708}} {{year-definition|1708}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[戊子]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[宝永]]5年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2368年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]47年 *** [[銭宝通]] : [[永興 (銭宝通)|永興]]元年 *** [[張念一]] : [[天徳 (張念一)|天徳]]元年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]34年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4041年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[永盛 (黎朝)|永盛]]4年 * [[仏滅紀元]] : 2250年 - 2251年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1119年 - 1120年 * [[ユダヤ暦]] : 5468年 - 5469年 * [[ユリウス暦]] : 1707年12月21日 - 1708年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1708}} == できごと == 日本でのできごとは[[宝永#宝永年間の出来事]]の宝永5年も参照 * [[3月11日]] - [[アン (イギリス女王)]]が[[スコットランド民兵法]]の裁可について拒否権を発動{{要出典|date=2021-03}}。 * [[4月30日]]-[[7月7日]]、イギリスで{{仮リンク|1708年イングランド総選挙|label=総選挙|en|British general election, 1708}}。[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]が大勝{{要出典|date=2021-03}}。 * [[アウデナールデの戦い]]([[7月11日]]、[[スペイン継承戦争]]) * [[ヴィエンチャン王国]]でセーターティラート2世が即位。 * [[ダホメ王国]]でアガジャ王が即位。 * [[マントヴァ公国]]が[[オーストリア]]に併合。 * [[筑後川]]で[[洪水|大洪水]]が発生<ref>{{Cite book|和書|title=明日の[[防災]]に活かす[[災害]]の歴史〈3〉[[安土桃山時代]]~[[江戸時代]]|date=2020年4月7日|publisher=[[小峰書店]]|isbn=978-4-338-33703-8|author=[[伊藤和明]]|page=22}}</ref>。 == 誕生 == {{see also|Category:1708年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[8月31日]]([[宝永]]5年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]) - [[青山忠朝]]、[[大名]](+ [[1760年]]) * [[11月15日]] - [[チャタム伯]][[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|ウィリアム・ピット]]、[[貴族]]及び[[政治家]](+ [[1778年]]) * [[12月8日]] - [[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]] - [[神聖ローマ帝国]]の[[皇帝]](+ [[1765年]]) * 月日不明 - [[織田信義]]、[[旗本]](+ [[1787年]]) * 月日不明 - [[本多忠方]]、[[山崎藩]]藩主(+ [[1731年]]) * 月日不明 - [[本多忠央]]、[[挙母藩]]及び[[相良藩]]藩主(+ [[1802年]]) == 死去 == {{see also|Category:1708年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月3日]](宝永4年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]) - [[岩城重隆 (亀田藩主)|岩城重隆]]、[[亀田藩]]藩主(* [[1628年]]) * [[2月18日]](宝永5年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]) - [[田村建顕]]、[[岩沼藩]]および[[一関藩]]藩主(* [[1656年]]) * [[4月1日]](宝永5年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]) - [[浅野綱長]]、[[広島藩]]藩主(* [[1659年]]) * [[4月5日]](宝永5年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[前田利英]]、[[七日市藩]]藩主(* [[1689年]]) * [[5月21日]](宝永5年[[4月2日 (旧暦)|4月2日]]) - [[山田宗徧]]、茶人(* [[1627年]]) * [[8月11日]](宝永5年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]) - [[那須資徳]]、[[烏山藩]]藩主(* [[1672年]]) * [[10月1日]] - [[ジョン・ブロウ]]、[[作曲家]](* [[1649年]]) * [[11月15日]](宝永5年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]) - [[安藤直名]]、[[紀伊田辺藩|田辺藩]]藩主(* [[1680年]]) * [[11月20日]](宝永5年[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]) - [[藤堂高睦]]、[[津藩]]の第4代藩主(* [[1667年]]) * [[11月30日]](宝永5年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]) - [[京極高規]]、[[高家 (江戸時代)|高家]][[旗本]](* [[1643年]]) * [[12月5日]](宝永5年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]) - [[関孝和]]、和算家(* [[1642年]]) * [[12月10日]](宝永5年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]) - [[松浦邑]]、[[平戸藩]]藩主(* [[1670年]]) * 月日不明 - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ドラーギ|ジョヴァンニ・ドラーギ]]、作曲家(* [[1640年]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|1708}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1708ねん}} [[Category:1708年|*]]
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1566年
1566年(1566 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1566年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1566}} {{year-definition|1566}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙寅]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[永禄]]9年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2226年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[嘉靖]]45年 *** [[蔡伯貫]] : [[大宝 (蔡伯貫)|大宝]]元年12月 - 2年正月 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[明宗 (朝鮮王)|明宗]]21年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3899年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[莫朝]] : [[崇康]]元年 ** [[黎朝|後黎朝]] : [[正治 (黎朝)|正治]]9年 * [[仏滅紀元]] : 2108年 - 2109年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 973年 - 974年 * [[ユダヤ暦]] : 5326年 - 5327年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1566|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[1月7日]] - [[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]が教皇に選出された{{要出典|date=2021-03}}。 * [[徳川家康|松平家康]]が[[三河国|三河]]を平定したことにより、[[朝廷 (日本)|朝廷]]より三河守を拝命した{{要出典|date=2021-04}}。 *[[1566年のバーゼル上空の天文現象]]{{要出典|date=2021-04}} == 誕生 == {{see also|Category:1566年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月]] - [[戸沢盛安]]、[[安土桃山時代]]の[[大名]]、[[戸沢氏]]18代当主(+ [[1590年]]) * [[6月19日]] - [[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]、[[スコットランド王国]]・[[イングランド王国]]・[[アイルランド王国]]の[[国王]](+ [[1625年]]) * [[6月20日]] - [[ジグムント3世 (ポーランド王)|ジグムント3世]]<ref>{{Cite web|和書 |url = https://kotobank.jp/word/ジグムント3世ワーザ-72868 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2021-05-01 }}</ref>、[[ポーランド王国]]・[[スウェーデン|スウェーデン王国]]の国王(+ [[1632年]]) == 死去 == {{see also|Category:1566年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月22日]]([[永禄]]9年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[宇山久兼]]、[[尼子氏]]の家臣(* [[1511年]]) * [[2月24日]](永禄9年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]) - [[三村家親]]、[[備中国|備中]]の[[戦国大名]](* [[1517年]]) * [[3月19日]](永禄9年[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]) - [[有馬晴純]]、[[肥前国|肥前]]の戦国大名(* [[1483年]]) * [[4月4日]] - [[ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ]]、[[画家]]・[[彫刻家]](* [[1509年]]頃) * [[7月2日]] - [[ノストラダムス]]、[[医師]]・[[占星術|占星術師]](* [[1503年]]) * [[9月2日]] - [[タッデオ・ツッカリ]]、画家(* [[1529年]]) * [[9月6日]] - [[スレイマン1世]]、[[オスマン帝国]]第10代[[君主]](* [[1494年]]) * [[11月10日]](永禄9年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]) - [[長野業盛]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将(* [[1546年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1566}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1566ねん}} [[Category:1566年|*]]
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1728年
1728年(1728 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる閏年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1728年(1728 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる閏年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "死去" } ]
1728年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1728}} {{year-definition|1728}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[戊申]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[享保]]13年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2388年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[雍正]]6年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]4年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4061年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[保泰]]9年 * [[仏滅紀元]] : 2270年 - 2271年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1140年 - 1141年 * [[ユダヤ暦]] : 5488年 - 5489年 * [[ユリウス暦]] : 1727年12月21日 - 1728年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1728}} == できごと == * [[デンマーク人]]探検家[[ヴィトゥス・ベーリング|ベーリング]]、[[ベーリング海峡]]到達。 * [[清]]、[[阮朝]]との[[国境]]画定。 === 日本 === * 日本に[[コーヒー]]伝来([[ジャマイカ]][[総督]][[ニコラス・ローズ]]卿)。 * [[徳川吉宗]]の要望により、[[長崎県|長崎]]に[[ゾウ|象]]が運び込まれる。 * 日本で初めて[[乳牛]]が輸入される。 * 井上左太夫貞高([[江戸幕府|幕府]]鉄炮方)が、[[享保の改革]]の一環として、[[湘南海岸]]に[[相州炮術調練場]](鉄炮場)を設置。 == 誕生 == {{see also|Category:1728年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[8月26日]] - [[ヨハン・ハインリッヒ・ランベルト]]、[[数学者]]・[[物理学者]]・[[天文学者]](+ [[1777年]]) * [[10月27日]] - [[ジェームズ・クック]]、探検家(+ [[1779年]]) * [[11月29日]] - [[ヨハン・ゲルハルト・ケーニヒ]]、[[医師]]・[[植物学者]](+ [[1785年]]) == 死去 == {{see also|Category:1728年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月28日]](享保13年[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]) - [[荻生徂徠]]、[[江戸時代]]中期の[[儒学者]]・[[思想家]]・[[文献学]]者(* [[1666年]]) * [[5月21日]](享保13年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]) - [[藤堂高敏]]、[[伊勢国]][[津藩]]の第5代藩主(* [[1693年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1728}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1728ねん}} [[Category:1728年|*]]
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1521年
1521年(1521 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1521年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1521}} {{year-definition|1521}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[辛巳]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[永正]]18年、[[大永]]元年8月23日 - ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2181年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[正徳 (明)|正徳]]16年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[中宗 (朝鮮王)|中宗]]16年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3854年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[光紹]]6年 *** [[陳昇]] : [[宣和 (陳昇)|宣和]]6年? * [[仏滅紀元]] : 2063年 - 2064年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 927年 - 928年 * [[ユダヤ暦]] : 5281年 - 5282年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1521|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[5月17日]] - 大司馬バッキンガム公エドワード・スタフォードが反逆の容疑で処刑。{{要出典|date=2021-04}} * [[8月13日]] - [[スペイン]]の[[エルナン・コルテス]]がアステカ帝国皇帝クアウテモク王を捕らえ[[アステカ]]を滅ぼした{{要出典|date=2021-05}}。 * [[9月23日]](永正18年[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]) - 日本、[[改元]]して[[大永]]元年。 * [[ヴォルムス]]帝国議会召集、[[マルティン・ルター]]破門。 * 第一次[[イタリア戦争]]勃発。 * [[モスクワ大公国]]の[[ヴァシーリー3世]]による[[リャザン公国]]併合。 * 旧暦2月 - [[越後国]][[守護代]]の[[長尾為景]]が、[[一向宗]]禁止の命令を出す。 == 誕生 == {{see also|Category:1521年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月12日]](正徳16年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[徐渭]]、画家・書家・劇作家(+ [[1593年]]) * [[3月21日]] - [[モーリッツ (ザクセン選帝侯)|モーリッツ]]、[[ザクセン選帝侯]](+ [[1553年]]) * [[8月4日]] - [[ウルバヌス7世 (ローマ教皇)|ウルバヌス7世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Urban-VII Urban VII pope] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、第228代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1590年]]) * [[12月1日]](大永元年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]) - [[武田信玄]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[大名]](+ [[1573年]]) * [[クリスティーヌ・ド・ダヌマルク]]、[[ロレーヌ公]][[フランソワ1世 (ロレーヌ公)|フランソワ1世]]の妃(+ 1590年) * [[陶晴賢]]、戦国時代の[[武将]](+ [[1555年]]) * [[フィリップ・デ・モンテ]]、[[フランドル]]出身の[[ルネサンス音楽]]の[[作曲家]]、[[声楽|声楽家]](+ [[1603年]]) == 死去 == {{see also|Category:1521年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月20日]]([[正徳 (明)|正徳]]16年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]) - [[正徳帝]]{{要出典|date=2021-04}}、[[明]]の第11代[[皇帝]](* [[1491年]]) * [[4月27日]] - [[フェルディナンド・マゼラン]]、[[ポルトガル]]の探検家(* [[1480年]]?) * [[6月21日]] - [[レオナルド・ロレダン]]、[[ヴェネツィア共和国]]の[[ドージェ]](* [[1436年]]) * [[8月23日]] - [[ジョスカン・デ・プレ]]、[[作曲家]](* [[1450年]]/[[1455年]]頃) * [[10月17日]]([[永正]]18年[[9月17日 (旧暦)|9月17日]]) - [[赤松義村]]、[[播磨国]]の[[戦国大名]](* 生年不詳) * [[12月1日]] - [[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]、第217代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1475年]]) * [[12月8日]] - [[クリスティーナ・フォン・ザクセン (1461-1521)|クリスティーナ・フォン・ザクセン]]、[[ハンス (デンマーク王)|デンマーク王ハンス]]の妃(* [[1461年]]) * [[12月13日]] - [[マヌエル1世 (ポルトガル王)|マヌエル1世]]、ポルトガル王(* [[1469年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1521}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1521ねん}} [[Category:1521年|*]]
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12,794
70年
70年(70 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "70年(70 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。", "title": null } ]
70年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{yearbox| 前世紀={{紀元前/世紀|1}} | 世紀=1 | 次世紀=2 | 前10年紀2=50 | 前10年紀1=60 | 10年紀=70 | 次10年紀1=80 | 次10年紀2=90 | 3年前=67 | 2年前=68 | 1年前=69 | 年=70 | 1年後=71 | 2年後=72 | 3年後=73 | }} {{year-definition|70}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚午]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[垂仁天皇]]99年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]730年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[後漢]] : [[永平 (漢)|永平]]13年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高句麗]] : [[太祖大王|太祖王]]18年 ** [[新羅]] : [[脱解尼師今|脱解王]]14年 ** [[百済]] : [[多婁王]]43年 ** [[檀君紀元|檀紀]]2403年 * [[仏滅紀元]] : 613年 * [[ユダヤ暦]] : 3830年 - 3831年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=70|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[ウェスパシアヌス]]、ローマに入る。[[フラウィウス朝]]始まる(-[[96年]])。 * [[9月7日]] - [[エルサレム攻囲戦 (70年)|エルサレム攻囲戦]]で都市と[[エルサレム神殿]]が破壊される。([[ユダヤ戦争]]) * [[コロッセオ]]の建設が始まる(他説あり)。 * [[ドミティアヌス]]、[[グナエウス・ドミティウス・コルブロ|コルブロ]]の娘と結婚。 == 誕生 == {{see also|Category:70年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 死去 == {{see also|Category:70年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[8月8日]](垂仁天皇99年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]) - [[垂仁天皇]]、第11代[[天皇]](* [[紀元前69年]]) * [[アレクサンドリアのヘロン]]、古代ギリシアの[[数学者]] * [[コルメラ]]、古代ローマの著述家(*[[4年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|70}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=1|年代=0}} {{デフォルトソート:70ねん}} [[Category:70年|*]] [[als:70er#Johr 70]]
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12,795
圧縮
圧縮(あっしゅく)
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圧縮(あっしゅく) 圧力をかけて、その圧力の軸方向に材料が小さくなるように形状を変化させること。(en)反対語:引張り。応力、法線応力参照。 データ圧縮(特に不可逆圧縮のこと) 音声信号処理の一種で、信号の強弱差(ダイナミックレンジ)を圧縮し均一に近づける処理。コンプレッサー (音響機器) の記事を参照。 圧縮 (関数解析学)
'''圧縮'''(あっしゅく) #[[圧力]]をかけて、その圧力の軸方向に材料が小さくなるように形状を変化させること。([[:en:Compression (physics)|en]])反対語:[[引張り]]。[[応力]]、[[法線応力]]参照。 #[[データ圧縮]](特に不可逆圧縮のこと) #[[音声]]信号処理の一種で、信号の強弱差(ダイナミックレンジ)を圧縮し均一に近づける処理。[[コンプレッサー (音響機器)]] の記事を参照。 #[[圧縮 (関数解析学)]] {{aimai}} {{DEFAULTSORT:あつしゆく}}
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1717年
1717年(1717 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
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1717年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1717}} {{year-definition|1717}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丁酉]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[享保]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2377年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]56年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]43年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4050年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[永盛 (黎朝)|永盛]]13年 * [[仏滅紀元]] : 2259年 - 2260年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1129年 - 1130年 * [[ユダヤ暦]] : 5477年 - 5478年 * [[ユリウス暦]] : 1716年12月21日 - 1717年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1717}} == できごと == * [[ロンドン]]に[[フリーメイソン]]のグランドロッジが設立される * [[アントワーヌ・ヴァトー]]、『シテール島の巡礼』を発表 * [[清]]の[[康熙帝]]、[[チベット]]に[[親征]]する * 京都に[[大丸]]の前身である呉服店大文字屋が開業 * [[小野薬品工業]]創業 * [[沢の鶴]]創業 == 誕生 == {{see also|Category:1717年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[5月13日]] - [[マリア・テレジア]]、[[神聖ローマ皇帝]][[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世シュテファン]]の皇后(+ [[1780年]]) == 死去 == {{see also|Category:1717年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[5月5日]] - [[フランソワ・ド・カリエール]]、[[外交官]]・[[言語学者]]・[[文芸評論家]](* [[1645年]]) * [[5月30日]](享保2年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]) - [[井伊直興]]、[[大老]]、[[近江国|近江]][[彦根藩]]第4代藩主(* [[1656年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1717}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1717ねん}} [[Category:1717年|*]]
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1718年
1718年(1718 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
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1718年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1718}} {{year-definition|1718}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[戊戌]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[享保]]3年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2378年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]57年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]44年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4051年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[永盛 (黎朝)|永盛]]14年 * [[仏滅紀元]] : 2260年 - 2261年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1130年 - 1131年 * [[ユダヤ暦]] : 5478年 - 5479年 * [[ユリウス暦]] : 1717年12月21日 - 1718年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1718}} == できごと == * [[イギリス]]で[[囚人移送法]]制定。 * [[ドイツ]]で[[聖母マリアの泉]]が完成。 * [[フランス]]・[[パリ]]で[[エリゼ宮殿]]創建。 * [[物部神社 (大田市)|物部神社]]([[島根県]][[大田市]])が焼失。 * [[フランス]]、[[ニューオーリンズ]]建設。 * [[オスマン帝国]]と[[オーストリア]]などの間で[[パッサロヴィッツ条約]]締結。 == 誕生 == {{see also|Category:1718年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月29日]](享保2年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]) - [[伊勢貞丈]]、[[旗本]]・[[有職故実]]研究家(+ [[1784年]]) == 死去 == {{see also|Category:1718年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月16日]](康熙57年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[孔尚任]]、劇作家(* [[1648年]]) * [[6月10日]](享保3年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[立花北枝]]、[[俳人]](* 生年不詳) * [[11月30日]] - [[カール12世]]、プファルツ朝[[スウェーデン]]国王(* [[1682年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1718}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1718ねん}} [[Category:1718年|*]]
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622年
622年(622 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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622年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|622}} {{year-definition|622}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[壬午]] * [[日本]] ** [[推古天皇]]30年 ** [[皇紀]]1282年 * [[中国]] ** [[唐]] : [[武徳]]5年 * [[朝鮮]] ** [[高句麗]]:[[栄留王]]5年 ** [[百済]]:[[武王 (百済)|武王]]23年 ** [[新羅]]:(王)[[真平王]]44年、(元号)[[建福 (新羅)|建福]]39年 ** [[檀紀]]2955年 * [[ベトナム]] : * [[仏滅紀元]] : * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=622|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[7月16日]] - [[ヒジュラ暦]]元年1月1日<ref>{{Cite book|和書|author = 渡邊敏夫|authorlink = 渡邊敏夫|title = 暦入門―暦のすべて|edition = 初版|date = 1994-04|publisher = 雄山閣出版|location = 東京都|isbn = 978-4639012191|page=76|ref = harv}}</ref>。 * この年、[[橘大郎女]]ら[[天寿国繡帳]]を作る。 == 誕生 == {{see also|Category:622年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[李鳳]]、[[中国]]の[[唐]]の高祖[[李淵]]の十五男 (+ [[674年]]) == 死去 == {{see also|Category:622年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月7日]](推古天皇29年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]) - [[穴穂部間人皇女]]、[[欽明天皇]]の皇女、[[用明天皇]]の皇后、[[聖徳太子]]の母(* 生年不詳) * [[4月8日]](推古天皇30年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]) - [[聖徳太子]]、[[飛鳥時代]]の皇族(* [[574年]]) * [[劉武周]]、[[中国]]の[[隋]]末に割拠した群雄(* 生年不詳) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|622}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=7|年代=600}} {{デフォルトソート:622ねん}} [[Category:622年|*]]
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1212年
1212年(1212 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1212年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|1212}} {{year-definition|1212}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[壬申]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[建暦]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1872年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[南宋]] : [[嘉定 (南宋)|嘉定]]5年 ** [[金 (王朝)|金]] : [[崇慶]]元年 * 中国周辺 ** [[西夏]]{{Sup|*}} : [[光定 (西夏)|光定]]2年 ** [[モンゴル帝国]]{{Sup|*}} : 太祖([[チンギス・カン|チンギス・ハーン]])7年 ** [[大理国]] : [[天開 (大理)|天開]]8年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[康宗 (高麗王)|康宗]]元年 ** [[檀君紀元|檀紀]] : 3545年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[建嘉]]2年 * [[仏滅紀元]] : 1754年 - 1755年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 608年 - 609年 * [[ユダヤ暦]] : 4972年 - 4973年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1212|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[4月22日]](建暦2年[[3月30日 (旧暦)|3月30日]]) - [[鴨長明]]の[[随筆]]「[[方丈記]]」が完成{{要出典|date=2021-04}}。 * [[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]が[[ドイツ]]王として戴冠。 * [[オルレアン]]近郊の村の少年・エティエンヌが[[少年十字軍]]を率いて[[エルサレム]]へ旅立つ。 * [[トーマス教会少年合唱団]]創設。 * カトリック諸国軍がイベリア半島において[[ムワッヒド朝]]を破る([[ナバス・デ・トロサの戦い]])。 == 誕生 == {{see also|Category:1212年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月22日]] (建暦2年[[2月18日 (旧暦)|2月18日]]) - [[後堀河天皇]]、第86代[[天皇]] (+ [[1234年]]) * [[姉小路顕朝]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]] (+ [[1266年]]) * [[金方慶]]、[[高麗]]の将軍 (+ [[1300年]]) * [[長井泰秀]]、鎌倉時代の[[武士]] (+ [[1254年]]) * [[北条時実]]、鎌倉時代の武士 (+ [[1227年]]) * [[無関普門]]、鎌倉時代の[[臨済宗]]の[[僧]] (+ [[1292年]]) * [[ムスタアスィム]]、[[バグダード・アッバース朝]]の第37代[[カリフ]] (+ [[1258年]]) == 死去 == {{see also|Category:1212年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月29日]] (建暦2年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[法然]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[僧]]、[[浄土宗]]の開祖 (* [[1133年]]) * [[3月26日]] - [[サンシュ1世 (ポルトガル王)|サンシュ1世]]、[[ポルトガル王国]][[ブルゴーニュ王朝]]の第2代国王 (* [[1154年]]) * [[4月15日]] - [[フセヴォロド3世]]、[[ウラジーミル大公国|ウラジーミル大公]] (* [[1154年]]) * [[8月11日]] - [[ベアトリクス・フォン・ホーエンシュタウフェン]]、[[神聖ローマ皇帝]][[オットー4世 (神聖ローマ皇帝)|オットー4世]]の皇后 (* [[1198年]]) * [[マリー・ド・モンフェラート]]、[[エルサレム王国]]の女王 (* [[1192年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1212}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=13|年代=1200}} {{デフォルトソート:1212ねん}} [[Category:1212年|*]]
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1626年
1626年(1626 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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1626年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1626}} {{year-definition|1626}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙寅]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛永]]3年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2286年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[天啓 (明)|天啓]]6年 ** [[後金]]{{Sup|*}} : [[天命 (後金)|天命]]11年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[仁祖]]4年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3959年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[永祚 (黎朝)|永祚]]8年 * [[仏滅紀元]] : 2168年 - 2169年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1035年 - 1036年 * [[ユダヤ暦]] : 5386年 - 5387年 * [[ユリウス暦]] : 1625年12月22日 - 1626年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1626}} == できごと == * [[ヌルハチ]]が死去し、[[ホンタイジ]]が[[清]]朝の第2代皇帝として即位。 * [[バチカン]]で[[サン・ピエトロ大聖堂]]の献納式が行われる。 * [[寛永通宝]]の鋳造が始まる(この時点ではまだ官銭ではない)。 * [[王恭廠大爆発]] == 誕生 == {{see also|Category:1626年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月5日]] - [[セヴィニエ侯爵夫人マリー・ド・ラビュタン=シャンタル]]、[[書簡]][[作家]](+ [[1696年]]) * [[2月18日]] - [[フランチェスコ・レディ]]、[[医学者]](+ [[1697年]]) * [[3月12日]] - [[ジョン・オーブリー]]、[[好古家]](+ [[1697年]]) * [[8月12日]] - [[ジョヴァンニ・レグレンツィ]]、作曲家・オルガニスト(+ [[1690年]]) * [[10月4日]] - [[リチャード・クロムウェル]]、[[オリバー・クロムウェル]]の息子、[[護国卿]](+ [[1712年]]) * [[12月8日]] - [[クリスティーナ (スウェーデン女王)|クリスティーナ]]、スウェーデン[[女王]](+ [[1689年]]) * 月日不明 - [[ルイ・クープラン]]、作曲家、オルガニスト(+ [[1661年]]) * 月日不明 - [[ヤン・ステーン]]、[[画家]](+ [[1679年]]) == 死去 == {{see also|Category:1626年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月9日]] - [[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]<ref>{{Cite web |url= http://www.thepeerage.com/p12827.htm#i128270|title= Francis Bacon, 1st and last Viscount Saint Alban1 |accessdate= 2021-04-28 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>、[[イングランド]]の[[神学]]者、[[哲学]]者、[[法律]]家(* [[1561年]]) * [[5月17日]] - [[ジョアン・パウ・プジョル]]、作曲家、オルガニスト(* [[1570年]]) * [[6月16日]] - [[クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル]]、[[三十年戦争]]における[[プロテスタント]]指導者(* [[1599年]]) * [[9月26日]](寛永3年[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]) - [[脇坂安治]]、[[大名]]、賤ヶ岳の七本槍のひとり(* [[1554年]]) * [[9月30日]](天命11年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]) - [[ヌルハチ]]、[[清]]([[後金]])初代皇帝(* [[1559年]]) * [[10月30日]] - [[ヴィレブロルト・スネル]]、天文学者、数学者(* [[1580年]]) * [[11月3日]]([[寛永]]3年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]) - [[崇源院]](お江)、[[徳川秀忠]]の[[正室]]([[継室]])(* [[1573年]]) * 月日不明 - [[内藤如安]]、[[キリシタン]]武将(* [[1550年]]?) * 月日不明 - [[ジョン・コプラリオ]]、作曲家、[[弦楽器]]奏者(* [[1570年]]頃) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1626}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1626ねん}} [[Category:1626年|*]]
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1740年
1740年(1740 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。
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1740年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1740}} {{year-definition|1740}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚申]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[元文]]5年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2400年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[乾隆]]5年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]16年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4073年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[永佑]]6年、[[景興]]元年5月 - * [[仏滅紀元]] : 2282年 - 2283年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1152年 - 1153年 * [[ユダヤ暦]] : 5500年 - 5501年 * [[ユリウス暦]] : 1739年12月21日 - 1740年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1740}} == できごと == * [[2月11日]] - [[日本神話]]に基づく建国2400周年{{要出典|date=2021-02}}。 * [[5月31日]] - [[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]が[[崩御]]し、[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]が[[プロイセン王国|プロイセン]]王に即位 *[[8月1日]] - 『[[ルール・ブリタニア]]』初演 * [[乾隆帝]]、「[[満洲]]根本の地」である[[山海関]]外への入植を禁ずる{{Sfn|谷井|2022|p=288}}。 * [[マリア・テレジア]]が[[ハプスブルク家]]を相続、[[オーストリア継承戦争]]が勃発 * [[ベネディクトゥス14世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス14世]]、[[ローマ教皇]]に選出される == 誕生 == {{see also|Category:1740年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月17日]] - [[オラス=ベネディクト・ド・ソシュール]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Horace-Benedict-de-Saussure Horace Bénédict de Saussure Swiss physicist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[科学者]](+ [[1799年]]) * [[6月2日]] - [[マルキ・ド・サド]]、フランスの[[小説家]]、貴族(+ [[1814年]]) * [[6月26日]]([[元文]]5年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - [[岡部長住]]、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]の第6代藩主(+[[1809年]]) * [[9月23日]](元文5年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]) - [[後桜町天皇]]、第117代[[天皇]](+ [[1813年]]) == 死去 == {{see also|Category:1740年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月6日]] - [[クレメンス12世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Clement-XII Clement XII pope] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[教皇|ローマ教皇]](* [[1652年]]) * [[10月20日]] - [[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]、[[神聖ローマ皇帝]](*[[1685年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |title=アジア人物史 第8巻 アジアのかたちの完成 |date=2022-12-01 |publisher=集英社 |page=288 |isbn=978-4081571086 |ref={{SfnRef|谷井|2022}} |editor=姜 尚中 |editor-link=姜尚中 |chapter=第6章 比類なき盛世の果てに――清朝全盛期 |author=谷井陽子}} == 関連項目 == {{Commonscat|1740}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1740ねん}} [[Category:1740年|*]]
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12,804
1629年
1629年(1629 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
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1629年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1629}} {{year-definition|1629}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[己巳]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛永]]6年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2289年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[崇禎]]2年 ** [[後金]]{{Sup|*}} : [[天聡]]3年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[仁祖]]7年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3962年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[永祚 (黎朝)|永祚]]11年、[[徳隆]]元年4月 - * [[仏滅紀元]] : 2171年 - 2172年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1038年 - 1039年 * [[ユダヤ暦]] : 5389年 - 5390年 * [[ユリウス暦]] : 1628年12月22日 - 1629年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1629}} == できごと == * [[チャールズ1世 (イングランド王)|イングランド王チャールズ1世]]が議会を解散し、以後11年間議会は開催されず( - 1640年){{要出典|date=2021-03}}。 * [[ジョン・ウィンスロップ (マサチューセッツ湾植民地知事)|ウィンスロップ]]らの[[ピューリタン]]が[[マサチューセッツ湾植民地]]を建設{{要出典|date=2021-03}}。 === 日本 === * [[紫衣事件]]([[1627年]])に抗議した[[大徳寺]]の[[沢庵宗彭|沢庵]]らが処罰される。 * [[後水尾天皇]]が譲位し、第109代[[明正天皇]]が即位。 * [[江戸幕府]]が女[[歌舞伎]]を禁止したため、[[女形|女形(おやま)]]がおこる。 * [[10月 (旧暦)|10月]] - [[春日局]]が後水尾天皇に拝謁する。 == 誕生 == {{see also|Category:1629年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月19日]](ユリウス暦[[3月9日]]) - [[アレクセイ (モスクワ大公)|アレクセイ・ミハイロヴィチ]]、[[ツァーリ|ロシア皇帝]](+ [[1676年]]) * [[4月1日]] - [[ジャン=アンリ・ダングルベール]]、作曲家、[[チェンバロ|クラヴサン]]奏者(+ [[1691年]]) * [[4月14日]] - [[クリスティアーン・ホイヘンス]]、数学者、物理学者、天文学者(+ [[1695年]]) * [[5月29日]] - [[ヴィルヘルム6世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム6世]]、[[ヘッセン=カッセル方伯]](+ [[1663年]]) * [[7月9日]](寛永6年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[戸田茂睡]]、歌学者(+ [[1706年]]) * [[8月17日]] - [[ヤン3世 (ポーランド王)|ヤン3世ソビエツキ]]、[[ポーランド王国|ポーランド]]王(+ [[1696年]]) * [[10月1日]](崇禎2年8月15日) - [[尚質王]]、[[琉球王国]][[国王]](+ [[1668年]]) * [[11月20日]] - [[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|エルンスト・アウグスト]]、初代[[ハノーファー選帝侯]](+ [[1698年]]) * [[12月20日]]受洗 - [[ピーテル・デ・ホーホ]]<ref>{{Cite web |url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/271165/Pieter-de-Hooch |title=Pieter de Hooch (Dutch painter) |publisher=Encyclopædia Britannica, Inc. |accessdate=2021-04-21}}</ref>、[[画家]](+ [[1684年]]) == 死去 == {{see also|Category:1629年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月19日]] - [[アッバース1世]]、[[サファーヴィー朝]]第5代皇帝(* [[1571年]]) * [[1月27日]] - [[ヒエロニムス・プレトリウス]]、作曲家、オルガニスト(* [[1560年]]) * [[3月1日]](寛永6年[[2月7日_(旧暦)|2月7日]]) - [[丸目長恵]]、剣術家(* [[1540年]]) * [[4月19日]] - [[シジズモンド・ディンディア]]、作曲家(* [[1582年]]頃) * [[5月16日]](寛永6年[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]) - [[土居清良]]、武将(* [[1546年]]) * [[5月29日]](寛永6年[[4月7日 (旧暦)|4月7日]]) - [[八条宮智仁親王]]、皇族・歌人、八条宮([[桂宮]])家の初代(* [[1579年]]) * [[10月23日]](寛永6年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]) - [[原マルティノ]]、[[天正遣欧少年使節]]副使(* [[1569年]]頃) * [[11月1日]] - [[ヘンドリック・テル・ブルッヘン]]、[[画家]](* [[1588年]]) * [[チェーターティラート]]、アユタヤ王朝第25代国王(* 生年不詳) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1629}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1629ねん}} [[Category:1629年|*]]
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597年
597年(597 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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597年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|597}} {{year-definition|597}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[丁巳]] * [[日本]] ** [[推古天皇]]5年 ** [[皇紀]]1257年 * [[中国]] ** [[隋]] : [[開皇]]17年 * [[朝鮮]] ** [[高句麗]]:[[嬰陽王]]8年 ** [[百済]]:[[威徳王 (百済)|威徳王]]44年 ** [[新羅]]:(王)[[真平王]]19年、(元号)[[建福 (新羅)|建福]]14年 ** [[檀紀]]2930年 * [[ベトナム]] : * [[仏滅紀元]] : * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=597|Type=J|表題=可視}} == できごと == == 誕生 == {{see also|Category:597年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[韋貴妃]]、[[唐]]の第2代[[皇帝]][[太宗 (唐)|太宗]]の妃(+ [[665年]]) == 死去 == {{see also|Category:597年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[6月9日]] - [[コルンバ|聖コルンバ]]、[[アイルランド]]出身の[[修道士|修道僧]](* [[521年]]) * [[11月24日]] - [[智顗]]、[[中国]]の[[僧侶]]、[[天台宗]]の実質的な開祖(* [[538年]]) * [[虞慶則]]、中国の[[隋]]の[[軍人]](* 生年未詳) * [[チェオル (ウェセックス王)|チェオル]]、[[ウェセックス|ウェセックス王国]]の王(* 生年未詳) * [[豆盧通]]、中国の[[北周]]、隋の軍人(* [[539年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|597}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=6|年代=500}} {{デフォルトソート:597ねん}} [[Category:597年|*]]
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1520年
1520年(1520 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1520年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|1520}} {{year-definition|1520}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚辰]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[永正]]17年 - 戦国時代 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2180年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[正徳 (明)|正徳]]15年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[中宗 (朝鮮王)|中宗]]15年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3853年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[光紹]]5年 *** [[陳㫒]] : [[宣和 (陳昇)|宣和]]5年? * [[仏滅紀元]] : 2062年 - 2063年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 926年 - 927年 * [[ユダヤ暦]] : 5280年 - 5281年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1520|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[4月1日]] - [[フェルディナンド・マゼラン]]艦隊の元船長、[[フアン・デ・カルタヘナ]]らが反乱を起こす。翌日に鎮圧。 * [[4月4日]](永正17年3月7日) - [[永正地震]] * [[4月23日]] - [[コムネロスの反乱]]。スペインの自治都市運動。王軍により翌年鎮圧 * [[5月31日]](永正17年5月5日) - [[等持院の戦い]] * [[6月7日]] - [[金襴の陣]]、英仏王の会見 * [[7月1日]] - [[悲しき夜|ノチェ・トリステ(悲しき夜)]]。[[エルナン・コルテス]]の[[メキシコ]]侵略に対する[[アステカ人]]による最大の反撃戦。コルテス側に多数の死者が出たことからスペインでは「悲しき夜」と呼ぶ。翌年[[アステカ帝国]]滅亡。 * [[7月]]上旬(永正17年6月中旬) - [[神保慶宗]]、[[守山城 (越中国)|守山城]]にて[[長尾為景]]に敗れる。翌年自死。 * [[7月]](永正17年6月) - [[武田信虎]]、[[要害山城]]築城 * [[8月]] - [[マルチン・ルター]]、教会批判の『ドイツのキリスト者貴族に与える書』刊行。翌年、カトリックより破門される。 * [[9月30日]] - [[オスマン帝国]]第10代皇帝[[スレイマン1世]]即位 * [[10月21日]] - マゼラン艦隊が[[マゼラン海峡]]に到達。同日、[[ポルトガル]]の探検家[[ジョアン・アルヴァレス・ファグンデス]]、アメリカ先住民の島(のちの[[サンピエール島・ミクロン島]])発見。 * [[10月26日]] - [[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]戴冠式 * [[11月7日]] - [[クリスチャン2世 (デンマーク王)|クリスチャン2世]]による[[ストックホルムの血浴]] * [[11月28日]] - マゼラン艦隊が海峡を抜け、太平洋に到達。 * 『清水寺縁起絵巻』(国重要文化財)完成 == 誕生 == {{see also|Category:1520年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[8月1日]] - [[ジグムント2世 (ポーランド王)|ジグムント2世]]、[[ポーランド王国|ポーランド王]]、[[リトアニア大公国|リトアニア大公]](+ [[1572年]]) * [[8月10日]] - [[マデリン・オブ・ヴァロワ]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王[[ジェームズ5世 (スコットランド王)|ジェームズ5世]]の王妃(+ [[1537年]]) * [[9月13日]] - [[ウィリアム・セシル (初代バーリー男爵)|ウィリアム・セシル]]、[[イングランド王国|イングランド]]女王[[エリザベス1世]]の宰相、初代バーリー男爵(+ [[1598年]]) * [[10月5日]] - [[アレッサンドロ・ファルネーゼ (枢機卿)|アレッサンドロ・ファルネーゼ]]、[[イタリア]]の[[枢機卿]]、[[外交官]](+ [[1589年]]) * [[12月6日]] - [[バルバラ・ラジヴィウヴナ]]、ポーランド王ジグムント2世の2番目の王妃(+ [[1551年]]) * [[12月13日]] - [[シクストゥス5世 (ローマ教皇)|シクストゥス5世]]、第227代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1590年]]) * [[ヴィンチェンツォ・ガリレイ]]、イタリアの[[リュート]]奏者、[[作曲家]]、[[音楽理論]]家。[[ガリレオ・ガリレイ]]の父(+ [[1591年]]) * [[クリストフ・プランタン]]、[[フランス]]出身の[[出版]]業者(+ [[1589年]]) * [[アントニス・モル]]、[[オランダ]]出身の肖像画家(+ [[1578年]]?) == 死去 == {{see also|Category:1520年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月6日]] - [[ラファエロ・サンティ]]、[[ルネサンス]]期の[[画家]]、[[建築家]](* [[1483年]]) * [[6月6日]](永正17年5月11日) - [[三好之長]]、武将 * [[6月24日]](永正17年6月10日) - [[細川澄元]]、武将、第30代[[室町幕府]][[管領]] * [[7月1日]] - [[モクテスマ2世]]、[[アステカ|アステカ王国]]の第9代国王(* [[1466年]]) * [[8月6日]] - [[クニグンデ・フォン・エスターライヒ]]、[[バイエルン大公|バイエルン公]][[アルブレヒト4世 (バイエルン公)|アルブレヒト4世]]の妃(* [[1465年]]) * [[9月22日]] - [[セリム1世]]、[[オスマン帝国]]の第9代[[皇帝]](* [[1465年]]) * [[10月]] - [[クィトラワク]]、アステカ王国の第10代国王(* [[1476年]]?) * [[ペドロ・アルヴァレス・カブラル]]、[[ポルトガル]]の[[探検家]](* [[1467年]]) * [[フアン・デ・カルタヘナ]]、[[スペイン]]の航海者(* 生年不詳) <!--== 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}}--> <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1520}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1520ねん}} [[Category:1520年|*]]
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1608年
1608年(1608 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる閏年。
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1608年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1608}} {{year-definition|1608}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]]:[[戊申]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[慶長]]13年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2268年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]]:[[万暦]]36年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]]:[[宣祖]]41年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3941年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]]:[[弘定]]9年 *** [[莫朝|高平莫氏]]:[[乾統 (莫朝)|乾統]]16年 * [[仏滅紀元]]:2150年 - 2151年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1016年 - 1017年 * [[ユダヤ暦]]:5368年 - 5369年 * [[ユリウス暦]]:1607年12月22日 - 1608年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1608}} == できごと == * [[オランダ]]の眼鏡職人、[[ハンス・リッペルハイ]]による[[ガリレオ式望遠鏡]]の発明{{要出典|date=2021-04}}。 * [[カルヴィン対スミス|カルヴィン裁判]]。 * [[フランス]]の[[サミュエル・ド・シャンプラン]]、[[ケベック州|ケベック植民地]]創設。 * [[ライン宮中伯|ファルツ選帝侯]]を盟主として[[プロテスタント同盟|プロテスタント諸侯同盟]]結成。 * [[タタル部]]、華北侵入。 === 日本 === * [[永楽通宝]]の通用禁止。[[永高]]が消滅。 * [[伊勢物語]]の刊行。 * [[岩国城]]竣工。 * [[江戸幕府]]、[[薩摩藩]]に[[琉球王国|琉球]]出兵を指示する。 * [[池上本門寺]]の[[五重塔]]建立。 * [[伊東マンショ]]、[[原マルティノ]]、[[中浦ジュリアン]]が[[司祭]]に[[叙階]]。 == 誕生 == {{see also|Category:1608年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月28日]] - [[ジョヴァンニ・ボレリ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Giovanni-Alfonso-Borelli Giovanni Alfonso Borelli Italian physiologist and physicist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[物理学者]]、[[生理学]]者(+ [[1679年]]) * [[4月21日]](慶長13年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]) - [[中江藤樹]]、[[陽明学]]者(+ [[1648年]]) * [[7月13日]] - [[フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント3世]]、[[ハプスブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]](+ [[1657年]]) * [[10月15日]] - [[エヴァンジェリスタ・トリチェリ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Evangelista-Torricelli Evangelista Torricelli Italian physicist and mathematician] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[イタリア]]の[[物理学者]](+ [[1647年]]) * [[12月9日]] - [[ジョン・ミルトン]] 、[[イングランド王国|イングランド]]の[[詩人]](+ [[1674年]]) == 死去 == {{see also|Category:1608年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月9日]](慶長12年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]) - [[宇都宮国綱]]、[[宇都宮氏]]22代目(* [[1568年]]) * [[1月22日]](慶長12年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]) - [[津軽為信]]、[[陸奥国|陸奥]][[弘前藩]]の初代藩主(* [[1550年]]) * [[1月29日]](慶長12年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]) - [[稲葉道通]]、[[伊勢国|伊勢]][[伊勢岩手藩|岩手藩]]の第2代藩主、伊勢[[田丸藩]]の初代藩主(* [[1570年]]) * [[2月13日]](慶長12年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]) - [[西笑承兌]]、[[臨済宗]]の[[僧]](* [[1548年]]) * [[3月7日]](慶長13年[[1月21日 (旧暦)|1月21日]]) - [[松前盛広]]、[[蝦夷地|蝦夷]][[松前藩]]の初代藩主(* [[1571年]]) * [[3月12日]](慶長13年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]) - [[高力清長]]、[[徳川氏]]家臣(* [[1530年]]) * [[3月17日]](万暦36年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]) - [[宣祖]]、[[李氏朝鮮]]の第14代[[国王]](* [[1552年]]) * [[4月11日]](慶長13年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]) - [[堀直政]]、[[武将]](* [[1547年]]) * [[6月30日]](慶長13年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]) - [[北条氏盛]]、[[河内国|河内]][[狭山藩]]の初代藩主(* [[1577年]]) * [[7月15日]](慶長13年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]) - [[狩野光信]]、[[狩野派]]の[[絵師]](* [[1565年]]) * [[9月20日]](慶長13年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]) - [[金森長近]]、徳川氏家臣(* [[1524年]]) * [[10月4日]](慶長13年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]) - [[木下家定]]、[[高台院]]の兄(* [[1543年]]) * [[11月8日]](慶長13年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]) - [[木食応其]]、[[真言宗]]の僧(* [[1536年]]) * [[11月27日]](慶長13年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]) - [[内藤清成]]、徳川氏家臣(* [[1555年]]) * [[12月19日]](慶長13年[[11月12日 (旧暦)|11月12日]]) - [[土方雄久]]、[[武将]](* [[1553年]]) * 月日不詳 - [[春日元忠]]、[[武田氏]]、[[上杉氏]]家臣(* [[1559年]]) * 月日不詳 - [[新納忠増]]、武将(* 生年不詳) * 月日不詳 - [[福島正之]]、武将(* [[1585年]]) * 月日不詳 - [[屋代景頼]]、[[伊達氏]]家臣(* [[1563年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1608}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1608ねん}} [[Category:1608年|*]]
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1304年
1304年(1304 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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{{年代ナビ|1304}} {{year-definition|1304}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[甲辰]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[嘉元]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1964年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[元 (王朝)|元]] : [[大徳 (元)|大徳]]8年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[忠烈王]]30年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3637年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[陳朝]] : [[興隆]]12年 * [[仏滅紀元]] : 1846年 - 1847年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 703年 - 704年 * [[ユダヤ暦]] : 5064年 - 5065年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1304|Type=J|表題=可視}} == できごと == == 誕生 == {{see also|Category:1304年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月24日]] - [[イブン・バットゥータ]]、[[モロッコ]]出身の[[イスラム法学者]]、[[旅行|旅行家]](+ [[1368年]]<ref>{{Harvnb|家島|2013|pp=29-30}}</ref>) * [[7月20日]] - [[ペトラルカ]]、[[イタリア]]の[[詩人]]、[[学者]]、[[人文主義者]](+ [[1374年]]) * [[イブン・シャーティル]]、[[マムルーク朝]]の[[天文学者]](+ [[1375年]]) * [[ギュンター・フォン・シュヴァルツブルク]]、[[神聖ローマ帝国]]の[[対立王]](+ [[1349年]]) * [[トク・テムル]]、[[モンゴル帝国]]の第12代[[ハーン|カアン]](+ [[1332年]]) * [[細川頼春]]、[[鎌倉時代]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]](+ [[1352年]]) * [[マリー・ド・リュクサンブール]]、[[フランス王国|フランス]]王[[シャルル4世 (フランス王)|シャルル4世]]の2度目の王妃(+ [[1324年]]) == 死去 == {{see also|Category:1304年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月7日]](嘉元2年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[頼瑜]]、[[鎌倉時代]]の[[真言宗]]の[[僧]](* [[1226年]]) * [[3月6日]](嘉元2年[[1月21日 (旧暦)|1月21日]]) - [[西園寺公子]]、後深草天皇の[[中宮]](* [[1232年]]) * [[5月17日]] - [[ガザン・ハン]]、[[イルハン朝]]の第7代君主(* [[1271年]]) * [[5月21日]](嘉元2年[[4月16日 (旧暦)|4月16日]])? - [[国分胤光]]、鎌倉時代の[[武将]](* [[1241年]]?) * [[5月23日]] - [[ジャンノ・ド・レスキュレル]]、[[フランス]]の[[詩人]]、[[作曲家]]、[[トルヴェール]](* 生年未詳) * [[6月11日]](嘉元2年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[佐々木貞宗]]、鎌倉時代の[[御家人]](* [[1285年]]?) * [[7月7日]] - [[ベネディクトゥス11世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス11世]]、第194代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1240年]]) * [[8月17日]](嘉元2年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]) - [[後深草天皇]]、第89代[[天皇]](* [[1243年]]) * [[8月22日]] - [[ジャン2世 (エノー伯)|ジャン2世]]、[[エノー伯]]、[[ホラント伯]]、[[ゼーラント伯]](* [[1247年]]) * [[9月23日]] - [[エルジュビェタ・ボレスワヴヴナ]]、[[レグニツァ公国|レグニツァ]]=[[ヴロツワフ]]公[[ヘンリク5世ブジュハティ|ヘンリク5世]]の妃(* [[1263年]]) * [[アンドレイ・アレクサンドロヴィチ (ウラジーミル大公)|アンドレイ・アレクサンドロヴィチ]]、[[ウラジーミル大公国|ウラジーミル大公]](* [[1255年]]?) * [[菊池時隆]]、鎌倉時代の武将(* [[1287年]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1304}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=14|年代=1300}} {{デフォルトソート:1304ねん}} [[Category:1304年|*]]
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12,810
1305年
1305年(1305 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1305年(1305 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "死去" } ]
1305年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1305}} {{year-definition|1305}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]]:[[乙巳]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[嘉元]]3年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1965年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[元 (王朝)|元]]:[[大徳 (元)|大徳]]9年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]]:[[忠烈王]]31年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3638年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[陳朝]]:[[興隆]]13年 * [[仏滅紀元]]:1847年 - 1848年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:704年 - 705年 * [[ユダヤ暦]]:5065年 - 5066年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1305|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[4月 (旧暦)|4月]] - [[嘉元の乱]]により、[[連署]]の[[北条時村]]が[[北条宗方]]により[[暗殺]]される。 * [[5月 (旧暦)|5月]] - [[北条貞時]]・[[北条宗宣]]らにより、北条宗方が討たれる。 * [[イングランド]]によるスコットランド支配に抵抗したウィリアム・ウォレスがロンドンで処刑。 == 誕生 == {{see also|Category:1305年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[8月18日]](嘉元3年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]) - [[足利尊氏]]、[[室町幕府]]初代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1358年]]) * [[9月29日]] - [[ハインリヒ14世 (バイエルン公)|ハインリヒ14世]]、[[バイエルン大公|下バイエルン公]](+ [[1339年]]) * [[足利尊氏]]、[[室町幕府]]初代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1358年]]) * [[斯波高経|足利高経]](斯波高経)、[[鎌倉時代]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]、[[守護大名]]、[[斯波氏]]の第4代当主(+ [[1367年]]) * [[アネシュカ・プシェミスロヴナ]]、ヤヴォル公[[ヘンリク1世 (ヤヴォル公)|ヘンリク1世]]の妃(+ [[1337年]]) * [[エルジュビェタ・ウォキェトクヴナ]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[カーロイ1世 (ハンガリー王)|カーロイ1世]]の3番目の妃(+ [[1380年]]) * [[ピエトロ2世 (シチリア王)|ピエトロ2世]]、[[トリナクリア]]王、[[シチリア王国|シチリア王]](+ [[1342年]]) * [[ベアトリクス・フォン・ルクセンブルク]]、ハンガリー王カーロイ1世の2番目の王妃(+ [[1319年]]) * [[細川師氏]]、鎌倉時代、南北朝時代の武将(+ [[1348年]]) * [[脇屋義助]]、鎌倉時代、南北朝時代の武将(+ [[1342年]]) == 死去 == {{see also|Category:1305年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月13日]](嘉元2年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]) - [[一条内実]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]](* [[1276年]]) * [[4月4日]] - [[フアナ1世 (ナバラ女王)|フアナ1世]]、[[ナバラ王国|ナバラ女王]]、[[シャンパーニュ伯|シャンパーニュ女伯]]、[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]の王妃(* [[1271年]]?) * [[5月17日]](嘉元3年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]) - [[北条時村 (政村流)|北条時村]]、[[鎌倉幕府]]第7代[[執権]]・[[北条政村]]の嫡男(* [[1242年]]) * [[5月27日]](嘉元3年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]]) - [[北条宗方]]、鎌倉時代の[[武将]](* [[1278年]]) * [[6月21日]] - [[ヴァーツラフ2世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ2世]]、[[プシェミスル朝]]の[[ボヘミア]]王、[[ポーランド王国|ポーランド]]王(* [[1271年]]) * [[8月23日]] - [[ウィリアム・ウォレス]]、[[スコットランド]]の[[軍人]](* [[1272年]]?) * [[10月4日]](嘉元3年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]) - [[亀山天皇]]、第90代[[天皇]](* [[1249年]]) * [[ヨハネス4世ラスカリス]]、[[ニカイア帝国]]の最後の[[皇帝]](* [[1250年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1305}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=14|年代=1300}} {{デフォルトソート:1305ねん}} [[Category:1305年|*]]
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12,811
1758年
1758年(1758 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
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1758年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1758}} {{year-definition|1758}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[戊寅]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[宝暦]]8年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2418年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[乾隆]]23年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]34年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4091年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]19年 * [[仏滅紀元]] : 2300年 - 2301年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1171年 - 1172年 * [[ユダヤ暦]] : 5518年 - 5519年 * [[ユリウス暦]] : 1757年12月21日 - 1758年12月20日 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1758}} == できごと == * [[3月13日]] - [[フレンチ・インディアン戦争]]: [[かんじきの戦い (1758年)|かんじきの戦い]]でフランスが勝利。 * [[6月8日]] - フレンチ・インディアン戦争: [[ルイブールの戦い (1758年)|ルイブールの戦い]]はじまる。 * [[7月6日]] - フレンチ・インディアン戦争: [[カリヨンの戦い]]はじまる。 * 7月6日 - [[クレメンス13世 (ローマ教皇)|クレメンス13世]]が[[ローマ教皇]]に即位。 * [[8月25日]] - [[七年戦争]]: [[ツォルンドルフの戦い]]でプロイセンが勝利。 * [[9月14日]] - フレンチ・インディアン戦争: [[デュケーヌ砦の戦い]]でデュケーヌ砦をイギリスが占領。 * [[10月14日]] - 七年戦争: [[ホッホキルヒの戦い]]でオーストリアが勝利。 * [[宝暦事件]]起きる。 == 誕生 == {{see also|Category:1758年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 人物 === * [[1月3日]]([[宝暦]]7年[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]) - [[蜂須賀治昭]]、第11代[[徳島藩|徳島藩主]](+ [[1814年]]) * [[1月4日]](宝暦7年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[閑院宮美仁親王]]、[[江戸時代]]の[[皇族]](+ [[1818年]]) * [[1月17日]](宝暦7年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]) - [[植田孟縉]]、[[八王子千人同心]]組頭(+ [[1844年]]) * [[4月4日]] - [[ピエール=ポール・プリュードン]]、[[画家]](+ [[1823年]]) * [[4月28日]] - [[ジェームズ・モンロー]]、第5代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1831年]]) * [[5月6日]] - [[マクシミリアン・ロベスピエール]]、[[フランス革命]][[ジャコバン派]]の指導者(+ [[1794年]]) * 5月6日 - [[アンドレ・マッセナ]]、[[ナポレオン戦争]]期のフランス軍元帥(+ [[1817年]]) * [[5月31日]](宝暦8年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]) - [[細川治年]]、第7代[[熊本藩|熊本藩主]](+ [[1787年]]) * [[8月5日]](宝暦8年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]) - [[後桃園天皇]]、第118代[[天皇]](+ [[1779年]]) * [[9月20日]] - [[ジャン=ジャック・デサリーヌ]]、[[ハイチ]]の独立運動指導者(+ [[1806年]]) * [[9月29日]] - [[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]、[[イギリス海軍]]の[[提督]](+ [[1805年]]) * [[10月11日]] - [[ヴィルヘルム・オルバース]]、[[天文学者]](+ [[1840年]]) * [[10月26日]] - [[ノア・ウェブスター]]、[[辞書]]編纂者(+ [[1843年]]) * [[11月2日]](宝暦8年[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]) - [[良寛]]、[[曹洞宗]]の[[僧]]・[[歌人]](+ [[1831年]]) * [[小野川喜三郎]]、[[大相撲]]第5代[[横綱]](+ [[1806年]]) * [[チャールズ・リー (司法長官)|チャールズ・リー]]、第3代[[アメリカ合衆国司法長官]](+ [[1815年]]) * [[申潤福]]、風俗画家 * [[徳本]]、[[浄土宗]]の僧(+ [[1818年]]) * [[稲村三伯]]、[[蘭学|蘭学者]](+ [[1811年]]) === 人物以外(動物など) === * [[ヘロド (競走馬)|ヘロド]]、[[競走馬]](+ [[1780年]]) == 死去 == {{see also|Category:1758年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月9日]]([[宝暦]]7年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[久留島喜内]](久留島義太)<ref>{{Cite web|和書 |url=https://kotobank.jp/word/%E4%B9%85%E7%95%99%E5%B3%B6%E7%BE%A9%E5%A4%AA-486459 |title=久留島義太|publisher=[[コトバンク]] |author=[[小学館]]デジタル大辞泉|accessdate=2021年2月26日 }}</ref>、[[和算]]家(* [[1690年]]頃) * [[3月22日]] - [[ジョナサン・エドワーズ (神学者)|ジョナサン・エドワーズ]]、[[神学者]](* [[1703年]]) * [[4月25日]](宝暦8年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]) - [[佐竹義明]]、第7代[[久保田藩|久保田藩主]](* [[1723年]]) * 4月25日(宝暦8年3月18日) - [[松平重昌]]、第9代[[福井藩|福井藩主]](* [[1743年]]) * [[4月30日]] - [[フランソワ・ダジャンクール]]、[[作曲家]](* [[1684年]]) * [[5月3日]] - [[ベネディクトゥス14世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス14世]]、第247代[[ローマ教皇]](* [[1675年]]) * [[6月12日]] - [[アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1722-1758)|アウグスト]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]の王族(* [[1722年]]) * [[6月27日]](乾隆23年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[恵棟]]、[[儒学者]](* [[1697年]]) * [[8月27日]] - [[バルバラ・デ・ブラガンサ]]、[[スペイン]]王[[フェルナンド6世 (スペイン王)|フェルナンド6世]]の妃(* [[1711年]]) * [[10月6日]](宝暦8年[[9月5日 (旧暦)|9月5日]]) - [[柳沢淇園]]、[[文人画|文人画家]](* [[1704年]]) * [[10月14日]] - [[ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン (1709-1758)|ヴィルヘルミーネ]]、[[バイロイト侯領|ブランデンブルク=バイロイト]]辺境伯[[フリードリヒ3世 (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯)|フリードリヒ3世]]の妃(* [[1709年]]) * [[10月23日]](宝暦8年[[9月22日 (旧暦)|9月22日]]) - [[吉子内親王]]、[[江戸時代]]の[[皇族]](* [[1714年]]) * [[10月25日]](宝暦8年[[9月24日 (旧暦)|9月24日]]) - [[市川團十郎 (2代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1688年]]) * [[10月27日]](宝暦8年[[9月26日 (旧暦)|9月26日]]) - [[奥平昌敦]]、第2代[[中津藩|中津藩主]](* [[1724年]]) * [[11月20日]] - [[ユハン・ヘルミク・ルーマン]]、作曲家(* [[1694年]]) * [[12月5日]] - [[ヨハン・フリードリヒ・ファッシュ]]、作曲家(* [[1688年]]) * [[フランソワ・マッカンダル]]、[[ハイチ]]の[[マルーン]]指導者 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1758}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1758ねん}} [[Category:1758年|*]]
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12,812
1636年
1636年(1636 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる閏年。
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1636年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1636}} {{year-definition|1636}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙子]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛永]]13年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2296年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[崇禎]]9年 ** [[後金]]{{Sup|*}} : [[天聡]]10年 ** [[清]]{{Sup|*}} : [[崇徳]]元年4月 - * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[仁祖]]14年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3969年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[陽和]]2年 * [[仏滅紀元]] : 2178年 - 2179年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1045年 - 1046年 * [[ユダヤ暦]] : 5396年 - 5397年 * [[ユリウス暦]] : 1635年12月22日 - 1636年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1636}} == できごと == * 1月 - [[イングランド]]で[[ジョン・ハムデン|ハムデン]]が[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]による船舶税の支払いを拒否。 * [[3月26日]] - [[ユトレヒト大学]]創設。 * [[5月15日]](崇徳元年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]])- [[中国]]:[[後金]]が国名を[[清]]に改める。 * [[7月3日]](寛永13年[[6月1日 (旧暦)|6月1日]])- [[江戸幕府]]が[[寛永通宝]]創鋳、[[浅草]]・[[芝 (東京都港区)|芝]]・[[近江国]][[坂本 (大津市)|坂本]]に[[銭座]]が設置。 * [[9月18日]] - マサチューセッツ湾植民地に、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]最初の高等教育機関が設立される([[1639年]]に[[ハーバード大学]]と命名)。 * [[長崎市|長崎]]の[[出島]]が完成。 == 誕生 == {{see also|Category:1636年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月19日]](寛永13年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - [[卍山道白]]、[[曹洞宗]]の[[僧]](+ [[1715年]]) * [[4月18日]](寛永13年[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]) - [[狩野常信]]、[[画家]](+ [[1713年]]) * [[11月1日]] - [[ニコラ・ボアロー=デプレオー]]、[[フランス]]の[[詩人]]、[[評論家|批評家]](+ [[1711年]]) * [[ニコラエ・ミレスク]]、[[モルドバ]]出身の文人・政治家(+ [[1708年]]) * [[大橋宗桂 (5代)|五代大橋宗桂]]、[[将棋指し]]、四世[[名人 (将棋)|名人]](+ [[1713年]]) == 死去 == {{see also|Category:1636年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月21日]](寛永13年)[[田宮お岩]](1600年) * [[2月16日]](寛永13年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]) - [[徳姫]]、[[織田信長]]の長女(* [[1559年]]) * [[2月22日]] - [[サントーリオ・サントーリオ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Santorio-Santorio Santorio Santorio Italian physician] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[医学者]](* [[1561年]]) * [[6月27日]](寛永13年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]) - [[伊達政宗]]、[[伊達氏|伊達家]]第17代当主、[[陸奥国]][[仙台藩]]藩主(* [[1567年]]) * [[7月31日]](寛永13年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]) - [[蘇我理右衛門]]、[[住友財閥]]業祖(* [[1572年]]) * [[9月17日]] - [[ステファーノ・マデルノ]]([[w:Stefano Maderno|Stefano Maderno]])、[[彫刻家]](* [[1576年]]) * [[12月8日]](崇禎9年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[董其昌]]、明末の文人・[[書画]]家(* [[1555年]]) * [[ヨハネス・メッセニウス]]([[w:Johannes Messenius|Johannes Messenius]])、[[歴史家]]、[[劇作家]](* [[1579年]]) * [[ロドリゴ・デ・ビベロ]]、[[スペイン]]の[[フィリピン]]臨時総督(* [[1579年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1636}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1636ねん}} [[Category:1636年|*]]
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12,813
1525年
1525年(1525 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1525年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1525}} {{year-definition|1525}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[乙酉]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[大永]]5年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2185年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[嘉靖]]4年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[中宗 (朝鮮王)|中宗]]20年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3858年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[統元]]4年 * [[仏滅紀元]] : 2067年 - 2068年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 931年 - 932年 * [[ユダヤ暦]] : 5285年 - 5286年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1525|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[2月24日]] - [[パヴィアの戦い]]。 == 誕生 == {{see also|Category:1525年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[8月24日]] - [[ラヴィニア・フォンターナ]]、[[画家]](+ [[1614年]]) == 死去 == {{see also|Category:1525年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月24日]] - [[フランチャビージオ]]、[[画家]](* [[1482年]]) * [[8月4日]] - [[アンドレア・デッラ・ロッビア]]、[[彫刻家]](* [[1435年]]) <!--== 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1525}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1525ねん}} [[Category:1525年|*]]
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ノベル
ノベル、ノヴェル
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ノベル、ノヴェル
'''ノベル'''、'''ノヴェル''' == Novelまたはnovel == * 英語で[[小説]]のこと。「[[ライトノベル]]」などのように小説におけるジャンルを指す、もしくは「(出版社名)ノベルズ」のように[[出版社]]が自社発行[[単行本]]レーベルを示す際に、そのレーベルが小説作品を中心としたものであることを強調する、などの場合において使われることが多い。また、[[映画]]や[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]を原作として、それを[[小説化]]することを「ノベライゼーション」または「ノベライズ」とも言う。 * 狭義には[[長編小説]]のこと。[[中編小説]](ノベラ)、[[短編小説]](ノベレット、ショート・ストーリー)に対する語。 == その他 == * [[ノベル (企業)]] (Novell) - かつて存在した、アメリカ合衆国のネットワーク関連のソフトウェア会社。 * [[ノヴェル・マウンテンパーク]] - 北海道にあるスキー場。旧コバワールド。 * [[NOBELU -演-]] - [[野島伸司]]原作、[[吉田譲 (漫画家)|吉田譲]]作画による漫画。 * NOVEL - [[Kis-My-Ft2]]のシングル「[[AAO (Kis-My-Ft2の曲)|AAO]]」収録曲。[[コーワ]]『ホッカイロぬくぬく当番』のCMソング。 == 関連項目 == * [[ノーベル]] {{Aimai}} {{デフォルトソート:のへる}} [[Category:英語の語句]]
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民主党 (日本 1947-1950)
日本民主党(にほんみんしゅとう)、略称で民主党(みんしゅとう)は、かつて存在した日本の政党。1947年に日本進歩党を中心に結成された保守政党である。 1954年から一年間だけ存在し、自由党と合同して自民党の前身となった日本民主党とは別の政党と考えられている。 公職追放令で幹部を多数失った日本進歩党と吉田茂総裁に不満を抱く日本自由党の芦田均系が合同して結成され、芦田を初代総裁とした。片山内閣で日本社会党、国民協同党と共に連立与党に、芦田内閣で連立首班となった。 結党直後から前進歩党総裁幣原喜重郎を中心とする党内右派と、日本自由党から入党した芦田均を中心とする党内左派との対立があり、片山内閣の目玉政策であった炭鉱国家管理問題に関し、臨時石炭鉱業管理法の成立を巡って党内右派は野党自由党とともに同法案に反対、同年末には芦田に総裁を降ろされる形となった幣原喜重郎(名誉総裁)が田中角栄・原健三郎らとともに同志クラブを結成した。翌1948年1月には小平久雄・中山マサら残留した中堅・若手の党内右派議員が太陽会と名乗るグループを結成し、その一部は太陽会の顧問的な存在であった田中万逸・斎藤隆夫らとともに芦田の首班指名に反対して同志クラブと合同して民主クラブを結成した。 更に10月には昭和電工事件による芦田内閣総辞職により下野、1949年1月の総選挙で大敗。2月に芦田均、北村徳太郎、中曽根康弘らの野党派と犬養健、保利茂、木村小左衛門らの連立派とに分裂した。連立派は1950年2月に民主自由党に入党して自由党を結成。民主党野党派は1950年4月に国民協同党と合同して国民民主党を結成して解散した。 民主党(野党派)1949年2月16日~1949年3月9日 民主党(野党派)1949年3月9日~1950年4月28日 (参考文献:村川一郎・石上泰州『日本の政党』1995年3月、丸善株式会社・丸善ライブラリー、ISBN 4-621-05153-9,衆議院・参議院『議会制度百年史 院内会派編貴族院・参議院の部』1990年11月、大蔵省印刷局、ISBN 4-17-164809-2) ※1949年(昭和24年)2月16日 - 1950年(昭和25年)2月10日は連立派総裁。 (参考文献:村川一郎・石上泰州『日本の政党』1995年3月、丸善株式会社・丸善ライブラリー、ISBN 4-621-05153-9) (参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
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日本民主党(にほんみんしゅとう)、略称で民主党(みんしゅとう)は、かつて存在した日本の政党。1947年に日本進歩党を中心に結成された保守政党である。 1954年から一年間だけ存在し、自由党と合同して自民党の前身となった日本民主党とは別の政党と考えられている。
{{政党 |国名 = {{JPN}} |党名 = 日本民主党 |公用語名 = |色相 = {{Democratic Party (Japan, 1947)/meta/color}} |画像 = Hitoshi Ashida.jpg |画像サイズ = 160px |画像説明 = 初代総裁・[[芦田均]] |成立年月日 = [[1947年]][[3月31日]]<ref name="zenshi1092">[[宇野俊一]]ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 [[講談社]]、1991年、1092頁。ISBN 4-06-203994-X。</ref> |前身政党 = [[日本進歩党]]<ref name="zenshi1092"/><ref name="hyakka"/><br/>[[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]{{small|(脱党者)}}<ref name="zenshi1092"/><br/>[[国民協同党]]{{small|(脱党者)}}<ref name="zenshi1092"/> |解散年月日 = [[1950年]][[4月28日]] |解散理由 = 党内対立の激化<ref name="hyakka">[https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A-174573#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 百科事典マイペディア] [[コトバンク]]. 2018年11月23日閲覧。</ref><br/>分裂<ref name="digi">[https://kotobank.jp/word/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A-182034#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 デジタル大辞泉] [[コトバンク]]. 2018年11月23日閲覧。</ref> |後継政党 = [[民主自由党 (日本)|民主自由党]]<ref name="hyakka"/><br/>(のち[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]<ref name="digi"/>)<br/>[[国民民主党 (日本 1950)|国民民主党]]<ref name="hyakka"/><ref name="digi"/> |郵便番号 = |本部所在地 = |政治的思想・立場 = [[保守]]<ref name="sekai">[https://kotobank.jp/word/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A-182034#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 世界大百科事典 第2版] [[コトバンク]]. 2018年8月8日閲覧。</ref><br />[[修正資本主義]]<ref name="sekai"/><br />[[官僚制|官僚主義]]打破<ref name="sekai"/> |機関紙 = |シンボル = |国際組織 = |その他 = }} '''日本民主党'''(にほんみんしゅとう)<ref name="sekai"/>、[[略称]]で'''民主党'''(みんしゅとう)は、かつて存在した[[日本の政党]]。[[1947年]]に[[日本進歩党]]を中心に結成された[[保守政党]]である<ref name="sekai"/>。 1954年から一年間だけ存在し、[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]と合同して[[自由民主党 (日本)|自民党]]の前身となった[[日本民主党]]とは別の政党と考えられている。 == 沿革 == [[公職追放|公職追放令]]で幹部を多数失った日本進歩党と[[吉田茂]]総裁に不満を抱く[[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]の[[芦田均]]系が合同して結成され、芦田を初代[[総裁]]とした。[[片山内閣]]で[[日本社会党]]、[[国民協同党]]と共に[[連立政権|連立与党]]に、[[芦田内閣]]で連立首班となった。 結党直後から前進歩党総裁[[幣原喜重郎]]を中心とする党内右派と、日本自由党から入党した芦田均を中心とする党内左派との対立があり、片山内閣の目玉政策であった[[炭鉱国家管理問題]]に関し、[[臨時石炭鉱業管理法]]の成立を巡って党内右派は野党自由党とともに同法案に反対、同年末には芦田に総裁を降ろされる形となった幣原喜重郎(名誉総裁)が[[田中角栄]]・[[原健三郎]]らとともに[[同志クラブ]]を結成した。翌[[1948年]]1月には[[小平久雄]]・[[中山マサ]]ら残留した中堅・若手の党内右派議員が太陽会と名乗るグループを結成し、その一部は太陽会の顧問的な存在であった[[田中万逸]]・[[斎藤隆夫]]らとともに芦田の[[内閣総理大臣指名選挙|首班指名]]に反対して同志クラブと合同して[[同志クラブ|民主クラブ]]を結成した。 更に10月には[[昭和電工事件]]による芦田[[内閣総辞職]]により下野、[[1949年]][[第24回衆議院議員総選挙|1月の総選挙]]で大敗。2月に芦田均、[[北村徳太郎]]、[[中曽根康弘]]らの[[野党]]派と[[犬養健]]、[[保利茂]]、[[木村小左衛門]]らの[[連立政権|連立]]派とに分裂した。連立派は[[1950年]]2月に民主自由党に入党して[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]を結成。民主党野党派は[[1950年]]4月に[[国民協同党]]と合同して[[国民民主党 (日本 1950)|国民民主党]]を結成して解散した。 == 役職 == === 歴代執行部役員表 民主党→民主党連立派 === {| border="1" frame="box" rules="all" cellspacing="0" cellpadding="3" |- style="background:#eee" !width="20%"|総裁 !width="20%"|幹事長 !width="20%"|総務会長 !width="20%"|政務調査会長 !width="20%"|参議院議員会長 |- | rowspan="3" | |[[石黒武重]] | rowspan="6" | | rowspan="3" |[[矢野庄太郎]] |&nbsp; |- |[[地崎宇三郎 (二代)|地崎宇三郎]] |&nbsp; |- |[[芦田均]] |&nbsp; |- | rowspan="5" |芦田均 | rowspan="3" |[[竹田儀一]] | rowspan="3" |[[北村徳太郎]] |&nbsp; |- |[[木檜三四郎]] |- | rowspan="2" |[[鬼丸義斉]] |- | rowspan="4" |[[保利茂]] | rowspan="2" |[[佐々木鹿蔵]] | rowspan="2" |[[小坂善太郎]] |- | rowspan="2" |[[桜内辰郎]] |- | rowspan="2" |[[犬養健]] | rowspan="2" |[[稲垣平太郎]] |[[千葉三郎]] |- | | |- |} '''民主党(野党派)[[1949年]][[2月16日]]~1949年[[3月9日]]''' {| border="1" frame="box" rules="all" cellspacing="0" cellpadding="3" |- style="background:#eee" !width="20%"|総裁代行委員 !width="20%"|幹事長 !width="20%"|総務会長 !width="20%"|政務調査会長 !width="20%"|参議院議員会長 |- |[[苫米地義三]]<br />鬼丸義斉<br />北村徳太郎<br />桜内辰郎 |北村徳太郎 |鬼丸義斉 |千葉三郎 |桜内辰郎 |- |} '''民主党(野党派)1949年3月9日~[[1950年]][[4月28日]]''' {| border="1" frame="box" rules="all" cellspacing="0" cellpadding="3" |- style="background:#eee" !width="16%"|最高委員長 !width="16%"|最高委員 !width="16%"|幹事長 !width="17%"|総務委員会長 !width="17%"|政務調査会長 !width="18%"|参議院議員会長 |- | |苫米地義三 |北村徳太郎 |鬼丸義斉 |千葉三郎 |桜内辰郎 |- | |苫米地義三<br />鬼丸義斉<br />北村徳太郎<br />桜内辰郎<br /> | rowspan="2" |千葉三郎 | rowspan="5" |[[木内四郎]] | rowspan="2" |[[荒木万寿夫]] | rowspan="2" |[[中井光次]] |- | rowspan="4" |苫米地義三 | rowspan="4" |北村徳太郎<br />鬼丸義斉<br />桜内辰郎<br />[[楢橋渡]] |- |北村徳太郎 |千葉三郎 | rowspan="2" |[[林屋亀次郎]] |- | rowspan="2" |千葉三郎 | rowspan="2" |荒木万寿夫 |- |中井光次 |- |} (参考文献:[[村川一郎]]・[[石上泰州]]『日本の政党』[[1995年]][[3月]]、[[丸善|丸善株式会社]]・丸善ライブラリー、ISBN 4-621-05153-9,[[衆議院]]・[[参議院]]『議会制度百年史 院内会派編貴族院・参議院の部』[[1990年]][[11月]]、[[大蔵省印刷局]]、ISBN 4-17-164809-2) === 歴代総裁一覧 === {| class="wikitable" |+ 民主党総裁 |- ! 代 !! colspan="2" | 総裁 !! 在任期間 |- ! 1 | [[ファイル:Hitoshi Ashida.jpg|60px]] || [[芦田均]] || [[1947年]](昭和22年)[[5月18日]] - [[1948年]](昭和23年)[[12月16日]] |- ! 2 | [[ファイル:Takeru inukai.jpg|60px]] || [[犬養健]]※ || 1948年(昭和23年)12月16日 - [[1950年]](昭和25年)[[2月10日]] |} ※[[1949年]](昭和24年)[[2月16日]] - 1950年(昭和25年)2月10日は連立派総裁。 {| class="wikitable" |+ 民主党総裁代行委員(野党派) |- ! 代 !! colspan="2" | 総裁代行委員 !! 在任期間 |- ! rowspan="4" | - | [[ファイル:TOMABECHI Gizo.jpg|60px]] || [[苫米地義三]] || rowspan="4" | 1949年(昭和24年)2月16日 - 1949年(昭和23年)[[3月9日]] |- | [[ファイル:Onimaru Gisai.jpg|60px]] || [[鬼丸義斎]] |- | [[ファイル:Kitamura Tokutaro.JPG|60px]] || [[北村徳太郎]] |- | [[ファイル:Replace this image JA.svg|60px]] || [[櫻内辰郎]] |} {| class="wikitable" |+ 民主党最高委員(野党派) |- ! 代 !! colspan="2" | 最高委員 !! 在任期間 |- ! - | [[ファイル:TOMABECHI Gizo.jpg|60px]] || 苫米地義三 || 1949年(昭和24年)3月9日 - 1949年(昭和23年)[[3月16日]] |- ! rowspan="5" | - | [[ファイル:TOMABECHI Gizo.jpg|60px]] || 苫米地義三 || rowspan="5" | 1949年(昭和24年)3月16日 - 1949年(昭和23年)[[3月17日]] |- | [[ファイル:Onimaru Gisai.jpg|60px]] || 鬼丸義斎 |- | [[ファイル:Kitamura Tokutaro.JPG|60px]] || 北村徳太郎 |- | [[ファイル:Replace this image JA.svg|60px]] || 櫻内辰郎 |- | [[ファイル:Narahashi Wataru.JPG|60px]] || [[楢橋渡]] |} {| class="wikitable" |+ 民主党最高委員長(野党派) |- ! 代 !! colspan="2" | 最高委員長 !! 在任期間 |- ! 1 | [[File:TOMABECHI Gizo.jpg|60px]] || 苫米地義三 || 1949年(昭和24年)3月17日 - 1950年(昭和24年)[[4月28日]] |} (参考文献:[[村川一郎]]・[[石上泰州]]『日本の政党』[[1995年]][[3月]]、[[丸善|丸善株式会社]]・丸善ライブラリー、ISBN 4-621-05153-9) == 党勢の推移 == === 衆議院 === <table border="1" cellpadding="2" cellspacing="1" style="border-collapse: collapse;"> <tr bgcolor="efefef"> <th>選挙</th><th>当選/候補者</th><th>定数</th><th>備考</th></tr> <tr><td>(結党時)</td><td>134/-</td><td align="right">466</td><td> </td></tr> <tr><td>[[第23回衆議院議員総選挙|第23回総選挙]]</td><td>124/350</td><td align="right">466</td><td>[[追加公認]]+8</td></tr> <tr><td>[[第24回衆議院議員総選挙|第24回総選挙]]</td><td>69/208</td><td align="right">466</td><td>追加公認+1</td></tr> </table> === 参議院 === <table border=1 cellpadding=2 cellspacing=1 style="border-collapse: collapse;"> <tr bgcolor="efefef"> <th>選挙 </th><th>当選/候補者</th><th>非改選</th><th>定数</th><th>備考</th></tr> <tr><td>(結党時)</td><td>-/-</td><td align="right">-</td><td align="right">2</td><td>参議院は存在せず</td></tr> <tr><td>[[第1回参議院議員通常選挙|第1回通常選挙]]</td><td>30/54</td><td align="right">-</td><td align="right">250</td><td>第1回のみ全員選挙、追加公認+11</td></tr> </table> (参考文献:[[石川真澄]](一部[[山口二郎]]による加筆)『戦後政治史』2004年8月、[[岩波書店]]・[[岩波新書]]、ISBN 4-00-430904-2) *当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[民主党]] *[[日本の政党一覧]] {{自由民主党 (日本)}} {{Poli-stub}} {{デフォルトソート:みんしゆとう}} [[Category:かつて存在した日本の政党]] [[Category:日本の保守政党]] [[Category:1947年設立の政党・政治団体]] [[Category:1950年廃止の政党・政治団体]] [[Category:芦田均]] [[Category:犬養健]] [[Category:保利茂]]
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Trivial File Transfer Protocol
Trivial File Transfer Protocol(トリビアル ファイル トランスファー プロトコル、TFTP)は、UDPを用いてコンピュータ間でファイルを転送するためのプロトコルである。FTPに比べて軽量・単純なプロトコルである。認証機能が無いためにユーザ名やパスワードを必要としない。ポート番号69をデフォルトとして使用する。 Remote Installation Services(英語版)(RIS)やPreboot Execution Environment(PXE)などのネットワーク・ブート環境において、ディスクレスマシンがブートする際、BOOTPやDHCPで構成情報を取得した後に、実際のOSコードをサーバから取得する際に利用される。また、ルータなどの設定の読み取りや書き込みなどにも用いられる。 TFTPは1981年に初めて標準化され、最新のプロトコルの仕様は RFC 1350 で確認できる。 TFTPはシンプルな設計であるため、小さなメモリー・フットプリントのコードで簡単に実装できる。そのため、BOOTP、PXE、BSDP(英語版)などのネットワークブートの最初のステージのプロトコルとして採用されている。リソースが潤沢なコンピュータから、 シングルボードコンピュータ(Single-board computers; SBC)やSystem on a Chip(SoC)などのリソースが非常に制限されたコンピュータに至るまで、幅広い対象で使われている。また、ファームウェアイメージの転送や、ルーター、ファイアウォール、IP電話などのネットワーク機器に設定ファイルを転送するためにも使用される。今日では、事実上、インターネット上のデータ転送の用途には使用されていない。 TFTPの設計は、それ以前からある、PUP(英語版)プロトコル・スイートの一部であるEFTP(英語版)プロトコルに影響を受けている。TFTPは1980年にIEN 133によって定義された。1981年6月、TFTPプロトコル(Revision 2)がRFC783として公開され、その後、1992年7月に公開されたRFC1350でアップデートされ、特に、魔法使いの弟子症候群が修正された。1995年3月、TFTP Option Extension RFC 1782が1998年5月にRFC 2347によってアップデートされ、TFTPの元の仕様と一致する、オプションのネゴシエーションメカニズムを定義した。このメカニズムを使用することで、転送に先立って、ネゴシエーションされるべきファイル転送オプションのためのフレームワークを確立することができる。 TFTPは、well-knownポート番号69を使用してUDP/IPプロトコル上に実装された、ファイル転送用のシンプルなプロトコルである。TFTPは、小型で実装が容易なように設計されているため、その他のより堅牢なファイル転送プロトコルで提供される高度な機能のほとんどが存在しない。TFTPはリモートサーバ間で個々のファイルの読み書きのみを行うため、ファイルやディレクトリを一覧表示、削除、名前変更することはできない。また、ユーザー認証に関しても規定されていない。そのため、現在では、TFTPは通常、ローカルエリアネットワーク(LAN)でのみ使用される。 TFTPでは、転送はクライアントがサーバ上の特定のファイルを読み書きする要求を発行することによって開始される。要求には、 RFC 2347 で指定された条件の下で、転送パラメータをオプションで含むことができる。サーバが要求を承認すると、クライアントはファイルを送信する。ファイルは、デフォルトで512バイトの固定長ブロック、または RFC 2348 で定義されているblocksize negotiatedオプションで指定されたバイト数で送信される。IPフラグメンテーションを回避するために、通常、単一のIPパケット内で搬送される転送データの各ブロックは、次のブロックが送信される前に確認パケットによって確認応答されなければならない。512バイト(またはオプションで指定されたブロックサイズ)未満のデータパケットを送信することにより、転送の終了を知らせる。パケットがネットワーク内で紛失した場合には、再送処理が行われる。送信側でデータ転送後に確認パケットの受信がタイムアウトした場合、直前のデータブロックを再送する。受信側で確認パケット送信後に次のデータブロックの受信がタイムアウトした場合、直前の確認応答を再送する。このようなロックステップ(英語版)の確認応答によって、それまでに送信した全てのパケットが正しく受信されたことが保証される。送信側は再送信用に1つのパケットのみを保持する必要がある。TFTPにおいては、転送に関与する両方のデバイスが、送信者・受信者のどちらの立場にもなる。一方はデータを送信して確認応答を受信し、もう一方は確認応答を送信してデータを受信する。 TFTPでは、netascii、octet、mailの3つの転送モードを定義する。 TFTPはトランスポート層プロトコルとしてUDPを使用する。転送要求は常にポート69を対象として開始されるが、データ転送に使用するポートは、転送の初期化中に送信側と受信側によって個別に選択される。ポート番号は、ネットワーキングスタックのパラメータに従って、通常はエフェメラルポートの範囲からランダムに選択される。 TFTPは常にネットワーク起動に関連付けられている。1984年に公開されたTFTP標準を使用したブートストラップロード RFC 906 では、1981年に公開されたTrivial File Transfer Protocol標準 RFC 783をブートストラップロードの標準ファイル転送プロトコルとして使用することを定めている。1985年に公開されたBootstrap Protocol(BOOTP)標準 RFC 951により、ディスクレスクライアントマシンが自身のIPアドレス、TFTPサーバのアドレス、ネットワークブートストラッププログラム(NBP)の名前をTFTP転送し、メモリにロードして実行することができるようになった。1997年に発行されたDynamic Host Configuration Protocol(DHCP)標準 RFC 2131では、BOOTP機能を改善した。最後に、Preboot Execution Environment(PXE)バージョン2.0が1998年12月にリリースされ、ファイル転送プロトコルとしてTFTPを利用するアップデート2.1が1999年9月に公表された。インテルは最近、新しいUEFIの仕様内でPXEを広くサポートすることを決定した。これは、TFTPへの対応を全てのEFI/UEFI環境に拡張するものである。 元のプロトコルでは、転送ファイルサイズの上限は512バイト/ブロック×65535ブロック = 32 MBである。1998年には、TFTP Blocksize Option RFC 2348 によってこの制限は65535バイト/ブロック×65535ブロック = 4.294 GBに拡張された。定義されたブロックサイズがネットワークパスにおける最小のMTUを超えるIPパケットサイズを生成する場合、IPの断片化と再構成が発生し、オーバーヘッドが増えるだけでなく、ホストのBOOTPに最小のIPスタックが実装されたかPXE ROMがIPの断片化と再構成を実装していないときに転送が失敗する。 TFTPパケットを標準のイーサネットMTU(1500)以内に保持する必要がある場合、ブロック値は1500からTFTPのヘッダ(4バイト)、UDPヘッダ(8バイト)、IPヘッダ(20バイト)を引いて1468バイト/ブロックと計算され、制限は1468バイト/ブロック×65535ブロック = 92 MBとなる。今日、ほとんどのサーバとクライアントはブロック番号のロールオーバー(65535の後にブロックカウンタが0または1に戻る)に対応しており、これにより、本質的に無制限の転送ファイルサイズを与えることができる。 TFTPはUDPを利用するため、独自のトランスポート層およびセッション層のサポートを提供する必要がある。TFTPを介して転送された各ファイルは、独立した交換を構成する。古典的には、この転送はロックステップで実行され、1つのパケット (データブロックまたは確認応答)だけがネットワーク上を随時送信される。大量のデータブロックを送信してから転送を一時停止して確認応答を待つ(ウィンドウイング)のではなく、単一のデータブロック戦略を取ることにより、TFTPではスループットが低くレイテンシが大きくなる。Microsoftは、Windows 2008にWindows展開サービス(WDS)の一部としてウィンドウ化TFTPを導入し、2015年1月にTFTP Windowsize Option RFC 7440 が公開された。これにより、Blocksize Option RFC 2348 で時々見られるIPフラグメンテーションの副作用なしに、PXEブートなどをする際のパフォーマンスをかなり改善する。 TFTPにはログインやアクセスのコントロールを行うメガニズムが実装されていない。TFTPでファイル転送する際に、認証、アクセスコントロール、秘密保持、完全性のチェックが必要な場合には、補助的な処理が必要になる。こうした機能は、TFTPが実行される上下のいずれかのレイヤーで実装することは可能ではあるが、TFTPは通常、パブリックな読み込みアクセスが可能なファイルのインストールにしか使われない。また、ファイルの一覧、削除、名前変更、書き込みは通常不可能である。プロトコル固有の制限が問題となる場合には、TFTPを使用したファイル転送は推奨されない。
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"TFTPにはログインやアクセスのコントロールを行うメガニズムが実装されていない。TFTPでファイル転送する際に、認証、アクセスコントロール、秘密保持、完全性のチェックが必要な場合には、補助的な処理が必要になる。こうした機能は、TFTPが実行される上下のいずれかのレイヤーで実装することは可能ではあるが、TFTPは通常、パブリックな読み込みアクセスが可能なファイルのインストールにしか使われない。また、ファイルの一覧、削除、名前変更、書き込みは通常不可能である。プロトコル固有の制限が問題となる場合には、TFTPを使用したファイル転送は推奨されない。", "title": "セキュリティ上の注意点" } ]
Trivial File Transfer Protocolは、UDPを用いてコンピュータ間でファイルを転送するためのプロトコルである。FTPに比べて軽量・単純なプロトコルである。認証機能が無いためにユーザ名やパスワードを必要としない。ポート番号69をデフォルトとして使用する。 Remote Installation Services(RIS)やPreboot Execution Environment(PXE)などのネットワーク・ブート環境において、ディスクレスマシンがブートする際、BOOTPやDHCPで構成情報を取得した後に、実際のOSコードをサーバから取得する際に利用される。また、ルータなどの設定の読み取りや書き込みなどにも用いられる。 TFTPは1981年に初めて標準化され、最新のプロトコルの仕様は RFC 1350 で確認できる。
{{IPstack}} <!-- Edit the stack image at: Template:IPstack --> '''Trivial File Transfer Protocol'''(トリビアル ファイル トランスファー プロトコル、'''TFTP''')は、[[User Datagram Protocol|UDP]]を用いてコンピュータ間で[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]を転送するための[[プロトコル]]である。[[File Transfer Protocol|FTP]]に比べて軽量・単純なプロトコルである。[[認証]]機能が無いためにユーザ名やパスワードを必要としない。[[ポート番号]]69を[[デフォルト (コンピュータ)|デフォルト]]として使用する。 {{仮リンク|Remote Installation Services|en|Remote Installation Services}}(RIS)や[[Preboot Execution Environment]](PXE)などのネットワーク・ブート環境において、ディスクレスマシンがブートする際、[[Bootstrap Protocol|BOOTP]]や[[Dynamic Host Configuration Protocol|DHCP]]で構成情報を取得した後に、実際のOSコードをサーバから取得する際に利用される。また、ルータなどの設定の読み取りや書き込みなどにも用いられる。 TFTPは1981年に初めて標準化され<ref>{{IETF RFC|783}}</ref>、最新のプロトコルの仕様は {{IETF RFC|1350}} で確認できる。 == 概要 == TFTPはシンプルな設計であるため、小さな[[メモリー・フットプリント]]のコードで簡単に実装できる。そのため、[[BootP|BOOTP]]、[[PXE]]、{{仮リンク|Boot Service Discovery Protocol|en|Boot Service Discovery Protocol|label=BSDP}}などの[[ネットワークブート]]の最初のステージのプロトコルとして採用されている。リソースが潤沢なコンピュータから、 [[シングルボードコンピュータ]](Single-board computers; SBC)や[[System-on-a-chip|System on a Chip]](SoC)などのリソースが非常に制限されたコンピュータに至るまで、幅広い対象で使われている。また、[[ファームウェア]]イメージの転送や、[[ルーター]]、[[ファイアウォール]]、[[IP電話]]などのネットワーク機器に設定ファイルを転送するためにも使用される。今日では、事実上、インターネット上のデータ転送の用途には使用されていない。 TFTPの設計は、それ以前からある、{{仮リンク|PARC Universal Packet|en|PARC_Universal_Packet|label=PUP}}[[プロトコル・スイート]]の一部である{{仮リンク|EFTP|en|EFTP}}プロトコルに影響を受けている。TFTPは1980年に[[Internet_Experiment_Note|IEN]] 133によって定義された<ref>{{cite IETF | title = The TFTP Protocol | ien = 133 | author = Karen R. Sollins | date = 1980-01-29 | publisher = [[Internet Engineering Task Force|IETF]] | accessdate = 2010-05-01 | autolink = no | url = http://www.rfc-editor.org/ien/ien133.txt }}</ref>。1981年6月、TFTPプロトコル(Revision 2)がRFC783として公開され、その後、1992年7月に公開されたRFC1350でアップデートされ、特に、[[魔法使いの弟子症候群]]が修正された。1995年3月、TFTP Option Extension <nowiki>RFC 1782</nowiki>が1998年5月に<nowiki>RFC 2347</nowiki>によってアップデートされ、TFTPの元の仕様と一致する、オプションのネゴシエーションメカニズムを定義した。このメカニズムを使用することで、転送に先立って、ネゴシエーションされるべきファイル転送オプションのためのフレームワークを確立することができる。 TFTPは、{{仮リンク|well-knownポート|en|Well-known port}}番号69を使用して[[UDP/IP]]プロトコル上に実装された、ファイル転送用のシンプルなプロトコルである。TFTPは、小型で実装が容易なように設計されているため、その他のより堅牢なファイル転送プロトコルで提供される高度な機能のほとんどが存在しない。TFTPはリモートサーバ間で個々のファイルの読み書きのみを行うため、ファイルやディレクトリを一覧表示、削除、名前変更することはできない。また、ユーザー認証に関しても規定されていない。そのため、現在では、TFTPは通常、[[Local Area Network|ローカルエリアネットワーク]](LAN)でのみ使用される。 == 詳細 == [[File:Tftp-wrq.svg|thumb|(W1) ホストAは書き込みを要求する]] [[File:Tftp-ack0.svg|thumb|(W2) サーバSは要求を承認する]] [[File:Tftp-dat1-up.svg|thumb|(W3) ホストAは番号付きのデータパケットを送信する]] [[File:Tftp-rrq.svg|thumb|(R1) ホストAは読み取りを要求する]] [[File:Tftp-dat1-dwn.svg|thumb|(R2) サーバSはデータパケット1を送信する]] [[File:Tftp-ack1.svg|thumb|(R3) ホストAはデータパケット1を確認する]] TFTPでは、転送はクライアントがサーバ上の特定のファイルを読み書きする要求を発行することによって開始される。要求には、 {{IETF RFC|2347}} で指定された条件の下で、転送パラメータをオプションで含むことができる。サーバが要求を承認すると、クライアントはファイルを送信する。ファイルは、デフォルトで512バイトの固定長ブロック、または {{IETF RFC|2348}} で定義されているblocksize negotiatedオプションで指定されたバイト数で送信される。[[IPフラグメンテーション]]を回避するために、通常、単一のIPパケット内で搬送される転送データの各ブロックは、次のブロックが送信される前に確認パケットによって確認応答されなければならない。512バイト(またはオプションで指定されたブロックサイズ)未満のデータパケットを送信することにより、転送の終了を知らせる。パケットがネットワーク内で紛失した場合には、再送処理が行われる。送信側でデータ転送後に確認パケットの受信がタイムアウトした場合、直前のデータブロックを再送する。受信側で確認パケット送信後に次のデータブロックの受信がタイムアウトした場合、直前の確認応答を再送する。このような{{仮リンク|ロックステップ|en|Lockstep (computing)}}の確認応答によって、それまでに送信した全てのパケットが正しく受信されたことが保証される。送信側は再送信用に1つのパケットのみを保持する必要がある。TFTPにおいては、転送に関与する両方のデバイスが、送信者・受信者のどちらの立場にもなる。一方はデータを送信して確認応答を受信し、もう一方は確認応答を送信してデータを受信する。 TFTPでは、netascii、octet、mailの3つの転送モードを定義する。 # netascii転送モードは、 {{IETF RFC|764}} で定義されている[[ASCII]]の修正形式である。これは、0x20から0x7Fまでの7ビットASCII文字空間の8ビット拡張(印刷可能文字とスペース)および8つの[[制御文字]]で構成されている。許容される制御文字には、ヌル(0x00)、改行(LF、0x0A)、キャリッジリターン(CR、0x0D)がある。netasciiでは、ホスト上の行末マーカーを転送のために"CR LF"に変換し、すべてのCRの後にLFまたはヌルを付ける必要がある。 # octet転送モードは、任意の生の8ビットバイトの転送を可能にし、受信ファイルは結果として送信されたものとバイト対バイトで同じになる。より正確には、ホストがオクテットファイルを受信してそれを返した場合、返されたファイルは元のファイルと同一でなければならない<ref>{{IETF RFC|1350}}, page 5.</ref>。 # mail転送モードはnetascii転送を使用するが、ファイル名として受信者のEメールアドレスを指定することで、ファイルはEメール受信者に送信される。 {{IETF RFC|1350}} では、この転送モードは廃止したと宣言された。 TFTPは[[トランスポート層]]プロトコルとして[[User Datagram Protocol|UDP]]を使用する。転送要求は常に[[ポート (コンピュータネットワーク)|ポート]]69を対象として開始されるが、データ転送に使用するポートは、転送の初期化中に送信側と受信側によって個別に選択される。ポート番号は、ネットワーキングスタックのパラメータに従って、通常は[[エフェメラルポート]]の範囲からランダムに選択される<ref>{{cite IETF | title = The TFTP Protocol (Revision 2) | rfc = 1350 | author = Karen R.Sollins |date=July 1992 | publisher = [[Internet Engineering Task Force|IETF]] | accessdate = 2010-05-01 }}</ref>。 # 開始ホストAは、ポート番号69でホスト名SにRRQ(読み取り要求)またはWRQ(書き込み要求)パケットを送信する。このパケットには、ファイル名、転送モードのほか、オプションで {{IETF RFC|2347}} の規定に基づく任意のネゴシエーションオプションが含まれる。 # Sは、オプションが使用された場合にはオプションACK、WRQに対してはACK(確認応答)パケットを送信し、RRQに対しては直接データパケットを送信することで応答する。パケットはランダムに割り当てられたエフェメラルポートから送信され、これ以降のホストSへのパケットは全てこのポートに転送される。 # 送信元ホストは、番号付きのデータパケットを送信先ホストに送信する。最後のパケット以外には、フルサイズのデータブロック(デフォルトでは512バイト)が含まれている。宛先ホストは、すべてのデータパケットに対して番号付きのACKパケットで応答する。 # 最後のデータパケットは、フルサイズ未満のデータブロックでなければならない。これによって、それが最後のデータパケットであることを相手に知らせる。転送されたファイルのサイズがブロックサイズの正確な倍数である場合は、送信元は最後に0バイトのデータを含むデータパケットを送信する。 # 受信側は、対応するデータパケットと同じ番号をつけたACKパケットを送信することで、データパケットに対し確認応答する。送信側は、受信したACKパケットに対し、次のデータパケットを送信することで確認応答する。 # ACKパケットが受信されず、再送信タイマーがタイムアウトした場合、データパケットを再送信する。 TFTPは常にネットワーク起動に関連付けられている。1984年に公開されたTFTP標準を使用したブートストラップロード {{IETF RFC|906}} では、1981年に公開されたTrivial File Transfer Protocol標準 {{IETF RFC|783}}をブートストラップロードの標準ファイル転送プロトコルとして使用することを定めている。1985年に公開された[[Bootstrap Protocol]](BOOTP)標準 {{IETF RFC|951}}により、ディスクレスクライアントマシンが自身のIPアドレス、TFTPサーバのアドレス、ネットワークブートストラッププログラム(NBP)の名前をTFTP転送し、メモリにロードして実行することができるようになった。1997年に発行された[[Dynamic Host Configuration Protocol]](DHCP)標準 {{IETF RFC|2131}}では、BOOTP機能を改善した。最後に、[[Preboot Execution Environment]](PXE)バージョン2.0が1998年12月にリリースされ、ファイル転送プロトコルとしてTFTPを利用するアップデート2.1が1999年9月に公表された<ref name="pxespec">{{cite web |url = http://download.intel.com/design/archives/wfm/downloads/pxespec.pdf |title = Preboot Execution Environment (PXE) Specification - Version 2.1 |publisher = Intel Corporation |date = 1999-09-20 |accessdate = 2014-02-08 |deadurl = yes |archiveurl = https://web.archive.org/web/20131102003141/http://download.intel.com/design/archives/wfm/downloads/pxespec.pdf |archivedate = 2013-11-02 |df = }}</ref>。インテルは最近、新しい[[Unified Extensible Firmware Interface|UEFI]]の仕様内でPXEを広くサポートすることを決定した。これは、TFTPへの対応を全てのEFI/UEFI環境に拡張するものである<ref name="2_4_Errata_A">{{cite web | url = http://www.uefi.org/sites/default/files/resources/2_4_Errata_A.pdf | title = Unified Extensible Firmware Interface Specification | publisher = UEFI | date = 2013-12-02 | accessdate = 2014-04-04 }}</ref><ref name="Intel_UEFI_PXE_Boot_Performance_Analysis">{{cite web |url = https://uefidk.com/sites/default/files/Intel_UEFI_PXE_Boot_Performance_Analysis.pdf |title = UEFI PXE Boot Performance Analysis |publisher = Intel Corporation |date = 2014-02-02 |accessdate = 2014-04-04 |deadurl = yes |archiveurl = https://web.archive.org/web/20140808044632/https://uefidk.com/sites/default/files/Intel_UEFI_PXE_Boot_Performance_Analysis.pdf |archivedate = 2014-08-08 |df = }}</ref>。 元のプロトコルでは、転送ファイルサイズの上限は512バイト/ブロック×65535ブロック = 32 MBである。1998年には、TFTP Blocksize Option {{IETF RFC|2348}} によってこの制限は65535バイト/ブロック×65535ブロック = 4.294 GBに拡張された。定義されたブロックサイズがネットワークパスにおける最小の[[Maximum transmission unit|MTU]]を超えるIPパケットサイズを生成する場合、IPの断片化と再構成が発生し、オーバーヘッドが増える<ref>{{IETF RFC|2348}}, page 3.</ref>だけでなく、ホストのBOOTPに最小のIPスタックが実装されたかPXE ROMがIPの断片化と再構成を実装していないときに転送が失敗する<ref>{{IETF RFC|5505}}, page 7.</ref>。 TFTPパケットを標準のイーサネットMTU(1500)以内に保持する必要がある場合、ブロック値は1500からTFTPのヘッダ(4バイト)、UDPヘッダ(8バイト)、IPヘッダ(20バイト)を引いて1468バイト/ブロックと計算され、制限は1468バイト/ブロック×65535ブロック = 92 MBとなる。今日、ほとんどのサーバとクライアントはブロック番号のロールオーバー(65535の後にブロックカウンタが0または1に戻る<ref name="compuphase_extending">{{cite web | url = https://www.compuphase.com/tftp.htm | title = Extending TFTP | publisher = CompuPhase | accessdate = 2018-12-12 }}</ref>)に対応しており、これにより、本質的に無制限の転送ファイルサイズを与えることができる。 TFTPはUDPを利用するため、独自のトランスポート層およびセッション層のサポートを提供する必要がある。TFTPを介して転送された各ファイルは、独立した交換を構成する。古典的には、この転送はロックステップで実行され、1つのパケット (データブロックまたは確認応答)だけがネットワーク上を随時送信される。大量のデータブロックを送信してから転送を一時停止して確認応答を待つ(ウィンドウイング)のではなく、単一のデータブロック戦略を取ることにより、TFTPでは[[スループット]]が低く[[レイテンシ]]が大きくなる。Microsoftは、Windows 2008にWindows展開サービス(WDS)の一部としてウィンドウ化TFTPを導入し、2015年1月にTFTP Windowsize Option {{IETF RFC|7440}} が公開された。これにより、Blocksize Option {{IETF RFC|2348}} <ref>{{IETF RFC|7440}}, page 1.</ref>で時々見られるIPフラグメンテーションの副作用なしに、PXEブートなどをする際のパフォーマンスをかなり改善する。 == セキュリティ上の注意点 == TFTPにはログインやアクセスのコントロールを行うメカニズムが実装されていない。TFTPでファイル転送する際に、認証、アクセスコントロール、秘密保持、完全性のチェックが必要な場合には、補助的な処理が必要になる。こうした機能は、TFTPが実行される上下のいずれかのレイヤーで実装することは可能ではあるが、TFTPは通常、パブリックな読み込みアクセスが可能なファイルのインストールにしか使われない。また、ファイルの一覧、削除、名前変更、書き込みは通常不可能である。プロトコル固有の制限が問題となる場合には、TFTPを使用したファイル転送は推奨されない<ref>{{IETF RFC|7440}}, page 7.</ref>。 == IETF標準ドキュメント == {| class="wikitable" !RFC番号 !タイトル !公開日 !著者 !廃止・更新情報 |- style="color:#777" |{{IETF RFC|783}} |The TFTP Protocol (Revision 1) |1981年6月 |K. Sollins |{{IETF RFC|1350}} により廃止された |- |{{IETF RFC|906}} |Bootstrap Loading using TFTP |1984年6月 |Ross Finlayson | - |- |{{IETF RFC|951}} |Bootstrap Protocol |1985年9月 |Bill Croft |{{IETF RFC|1395}}、{{IETF RFC|1497}}、{{IETF RFC|1532}}、{{IETF RFC|1542}}、{{IETF RFC|5494}} により更新された |- |{{IETF RFC|1350}} |The TFTP Protocol (Revision 2) |1992年7月 |K. Sollins |{{IETF RFC|1782}}、{{IETF RFC|1783}}、{{IETF RFC|1784}}、{{IETF RFC|1785}}、{{IETF RFC|2347}}、{{IETF RFC|2348}}、{{IETF RFC|2349}} により更新された |- style="color:#777" |{{IETF RFC|1782}} |TFTP Option Extension |1995年3月 |G. Malkin |{{IETF RFC|2347}} により廃止された |- |{{IETF RFC|2131}} |Dynamic Host Configuration Protocol |1997年3月 |R. Droms |{{IETF RFC|3396}}、{{IETF RFC|4361}}、{{IETF RFC|5494}}、{{IETF RFC|6842}} により更新された |- |{{IETF RFC|2347}} |TFTP Option Extension |1998年5月 |G. Malkin | - |- |{{IETF RFC|2348}} |TFTP Blocksize Option |1998年5月 |G. Malkin | - |- |{{IETF RFC|2349}} |TFTP Timeout Interval and Transfer Size Options |1998年5月 |G. Malkin | - |- |{{IETF RFC|5505}} |Principles of Internet Host Configuration |2009年5月 |B. Aboba | - |- |{{IETF RFC|7440}} |TFTP Windowsize Option |2015年1月 |P. Masotta | - |- |} == 関連項目 == * {{仮リンク|Simple File Transfer Protocol|en|Simple File Transfer Protocol}} * [[Preboot Execution Environment]] == RFCへのリンク == * {{IETF RFC|1350}} - THE TFTP PROTOCOL (REVISION 2) ({{IETF RFC|783}} を廃止) * {{IETF RFC|1785}} - TFTP Option Negotiation Analysis * {{IETF RFC|2347}} - TFTP Option Extension ({{IETF RFC|1782}} を廃止) * {{IETF RFC|2348}} - TFTP Blocksize Option ({{IETF RFC|1783}} を廃止) * {{IETF RFC|2349}} - TFTP Timeout Interval and Transfer Size Options ({{IETF RFC|1784}} を廃止) == 出典 == <references /> [[Category:RFC|0783]] [[Category:ファイル転送プロトコル]]
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Internet Control Message Protocol
Internet Control Message Protocol(インターネット制御通知プロトコル、ICMP)とは、通信処理で使われるプロトコルのひとつで、Internet Protocolのデータグラム処理における誤りの通知や通信に関する情報の通知などのために使用される。ICMPに関するICMP通知は、通知が無限ループに陥るのを防ぐために送られない。 IPv4(Internet Protocol version 4)のための ICMP (ICMPv4) は RFC 792 によって規定され、IPv6(Internet Protocol version 6)のための ICMP (ICMPv6) は RFC 4443 によって規定されている。ICMP は TCP、UDP などと同様にInternet Protocolの上位のプロトコルであるが、Internet Protocolと同様のインターネット層のプロトコルであるかのような特別の処理をされる。 ICMPを利用しているツールにpingやtracerouteなどがある。 ICMPヘッダは以下のようにMACヘッダ・IPヘッダの後ろにある。 ICMPヘッダは一般的に以下の通りとなる。 データグラムのデータ部分の最初のオクテットはICMPタイプフィールドであり、このフィールドの値は、以降のICMP通知の書式を決定する。「未使用」とラベル付けされているフィールドは今後の拡張のために予約されており、送信時には0を入れなければならないが、受信者はこれらのフィールドを(チェックサムに含めることを除いて)使用すべきではない。チェックサムは、ICMPヘッダの先頭から(すなわちタイプから)データの末尾までを対象に、16ビット単位で算出される。チェックサムフィールド自身も計算対象に入っているが、計算時には0として扱う。バイト数が奇数の場合は末尾に0のバイトがあるものとして計算する。 また、いくつかのタイプでは、ICMP通知が発生する原因となった元データグラムの先頭部分をコピーしている。この種のタイプは以下の形式をとる。 RFC 792では長さフィールドは未使用で、元データグラムの先頭部分は64ビット(8オクテット)と決まっていた。その後RFC 1812およびRFC 4443において、MTUの最小限として保障されるサイズ(IPv4は576オクテット、IPv6は1280オクテット)まで拡張された。RFC 4884において長さフィールドが追加され、この可変長領域の長さを32ビット単位で記述することになった。 ICMP通知は基礎的なIPヘッダーを使用して送られる。個々の型式記述の下で違った形で言及されない限り、ICMPヘッダに先行するIPヘッダーフィールドの値は以下の通りとなる。 以下の種類がある。 (通知の後ろの () 内は和訳の一例であり、一般的な言い方でない可能性がある) エコー要求はタイプ=8で送信される。現在のところ定義されているコードは0だけである。識別子は送信元で適当な値を決める。要求したプロセスのプロセスIDなどが使われる。シーケンス番号は、同じ識別子で繰り返しエコー要求を送信した場合の通し番号である。 宛先となっているホストがエコー要求を受け取ると、発信元と宛先のアドレスを入れ替え、タイプを0(エコー応答)に書き換え、チェックサムを再計算する。識別子とシーケンス番号はエコー要求で指定された値をそのまま返し、どの要求に対応する応答なのかを発信元で判別する際に使う。また、データフィールドも要求の内容をそのまま返す。 ネットワーク診断用コマンドpingは、このEcho / Echo Replyメッセージを使っている。 コードは状況に応じて以下の値をとる。 RFC 1122において、以下のコードが追加されている。 さらにRFC 1812では、以下のコードが追加されている。 コード9および10は特殊な用途のために定義されており、通常のルーターは13を発生させるよう求めている。 次HopのMTUはRFC 1191で導入された。コード=4のときに設定され、経路MTU探索のために使われる。タイプ=3、コード=4のICMPパケットをファイアウォール等でフィルタしてしまうと、経路MTU探索ブラックホールと呼ばれる問題が発生する。 また、RFC 792 (ICMPプロトコル本体の)Destination Unreachable Messageをみると次HopのMTUの項目はなく、未使用のみとなっている。 受信能力を超えた早さでデータグラムが届き、破棄してしまったことを通知する。ゲートウェイおよび宛先ホストのどちらでも発生する可能性がある。 ゲートウェイから送信元に対して、今後は他のゲートウェイを使うよう指示する。元のデータグラムも破棄せずに転送する。経路変更要求ICMPメッセージを受け取ったホストはルーティングテーブルに追記し、該当する次のデータグラムからは指示されたゲートウェイへ送るようになる。 コードは以下の値をとる。 Router Advertisement Messageおよび次のRouter Solicitation Messageは、RFC 1256で追加された。 デフォルトゲートウェイのアドレスを通知する。ルーターアドレス数で指定した数だけ列挙することができ、優先度(2の補数表現による符号付き32ビット整数)が大きいものほど優先度が高い。1アドレスあたりの長さは32ビット単位で指定し、このバージョンの形式では2(すなわち1エントリあたり64ビット)となる。有効期限は応答時点からの秒単位で指定する。 コード0は、IPヘッダのTime to live(TTL;存在回数)が0になっても宛先ホストに到達しなかったことを通知する。コード1は、断片の再統合を行う際、制限時間内に断片が揃わなかったことを通知する。 ネットワーク診断用コマンドtracerouteは、TTLを1から順に増やして行き、各中継点からの時間切れ通知から経路を調べる。 パラメータに問題があって、元のデータグラムを破棄したことを通知する。ポインタは元データのうち問題となった箇所を、先頭からのオクテット数で指定する。 タイムスタンプ要求はタイプ=13で送信される。現在のところ定義されているコードは0だけである。識別子およびシーケンス番号はエコー要求と同じ要領で使う。起点タイムスタンプには要求時のタイムスタンプを、UTC 0:00からの経過ミリ秒で設定する。日付は含まれておらず、毎日0に戻ることに注意。 宛先となったホストはタイムスタンプ要求を受け取ると、タイプ=14で応答する。識別子、シーケンス番号、起点タイムスタンプは、要求にセットされていた値をそのままコピーする。また要求を受信した際のタイムスタンプを受信タイムスタンプに、応答を送信する際のタイムスタンプを送信タイムスタンプにセットする。 要求を送信したホストは、応答を受信した際のタイムスタンプと、格納されている起点タイムスタンプを比較することで、往復に要した時間を知ることができる。 タイプ=15の情報要求通知はアドレス0に対して送られる。要求を受信した各ホストおよびゲートウェイは、タイプ=16の情報応答通知を返す。 Address Mask Request MessageおよびAddress Mask Reply Messageは、RFC 950で追加された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Internet Control Message Protocol(インターネット制御通知プロトコル、ICMP)とは、通信処理で使われるプロトコルのひとつで、Internet Protocolのデータグラム処理における誤りの通知や通信に関する情報の通知などのために使用される。ICMPに関するICMP通知は、通知が無限ループに陥るのを防ぐために送られない。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "IPv4(Internet Protocol version 4)のための ICMP (ICMPv4) は RFC 792 によって規定され、IPv6(Internet Protocol version 6)のための ICMP (ICMPv6) は RFC 4443 によって規定されている。ICMP は TCP、UDP などと同様にInternet Protocolの上位のプロトコルであるが、Internet Protocolと同様のインターネット層のプロトコルであるかのような特別の処理をされる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ICMPを利用しているツールにpingやtracerouteなどがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ICMPヘッダは以下のようにMACヘッダ・IPヘッダの後ろにある。", "title": "通知書式" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ICMPヘッダは一般的に以下の通りとなる。", "title": "通知書式" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": 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内は和訳の一例であり、一般的な言い方でない可能性がある)", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "エコー要求はタイプ=8で送信される。現在のところ定義されているコードは0だけである。識別子は送信元で適当な値を決める。要求したプロセスのプロセスIDなどが使われる。シーケンス番号は、同じ識別子で繰り返しエコー要求を送信した場合の通し番号である。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "宛先となっているホストがエコー要求を受け取ると、発信元と宛先のアドレスを入れ替え、タイプを0(エコー応答)に書き換え、チェックサムを再計算する。識別子とシーケンス番号はエコー要求で指定された値をそのまま返し、どの要求に対応する応答なのかを発信元で判別する際に使う。また、データフィールドも要求の内容をそのまま返す。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ネットワーク診断用コマンドpingは、このEcho / Echo Replyメッセージを使っている。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "コードは状況に応じて以下の値をとる。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "RFC 1122において、以下のコードが追加されている。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "さらにRFC 1812では、以下のコードが追加されている。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "コード9および10は特殊な用途のために定義されており、通常のルーターは13を発生させるよう求めている。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "次HopのMTUはRFC 1191で導入された。コード=4のときに設定され、経路MTU探索のために使われる。タイプ=3、コード=4のICMPパケットをファイアウォール等でフィルタしてしまうと、経路MTU探索ブラックホールと呼ばれる問題が発生する。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また、RFC 792 (ICMPプロトコル本体の)Destination Unreachable Messageをみると次HopのMTUの項目はなく、未使用のみとなっている。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "受信能力を超えた早さでデータグラムが届き、破棄してしまったことを通知する。ゲートウェイおよび宛先ホストのどちらでも発生する可能性がある。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ゲートウェイから送信元に対して、今後は他のゲートウェイを使うよう指示する。元のデータグラムも破棄せずに転送する。経路変更要求ICMPメッセージを受け取ったホストはルーティングテーブルに追記し、該当する次のデータグラムからは指示されたゲートウェイへ送るようになる。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "コードは以下の値をとる。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "Router Advertisement Messageおよび次のRouter Solicitation Messageは、RFC 1256で追加された。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "デフォルトゲートウェイのアドレスを通知する。ルーターアドレス数で指定した数だけ列挙することができ、優先度(2の補数表現による符号付き32ビット整数)が大きいものほど優先度が高い。1アドレスあたりの長さは32ビット単位で指定し、このバージョンの形式では2(すなわち1エントリあたり64ビット)となる。有効期限は応答時点からの秒単位で指定する。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "コード0は、IPヘッダのTime to live(TTL;存在回数)が0になっても宛先ホストに到達しなかったことを通知する。コード1は、断片の再統合を行う際、制限時間内に断片が揃わなかったことを通知する。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ネットワーク診断用コマンドtracerouteは、TTLを1から順に増やして行き、各中継点からの時間切れ通知から経路を調べる。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "パラメータに問題があって、元のデータグラムを破棄したことを通知する。ポインタは元データのうち問題となった箇所を、先頭からのオクテット数で指定する。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "タイムスタンプ要求はタイプ=13で送信される。現在のところ定義されているコードは0だけである。識別子およびシーケンス番号はエコー要求と同じ要領で使う。起点タイムスタンプには要求時のタイムスタンプを、UTC 0:00からの経過ミリ秒で設定する。日付は含まれておらず、毎日0に戻ることに注意。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "宛先となったホストはタイムスタンプ要求を受け取ると、タイプ=14で応答する。識別子、シーケンス番号、起点タイムスタンプは、要求にセットされていた値をそのままコピーする。また要求を受信した際のタイムスタンプを受信タイムスタンプに、応答を送信する際のタイムスタンプを送信タイムスタンプにセットする。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "要求を送信したホストは、応答を受信した際のタイムスタンプと、格納されている起点タイムスタンプを比較することで、往復に要した時間を知ることができる。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "タイプ=15の情報要求通知はアドレス0に対して送られる。要求を受信した各ホストおよびゲートウェイは、タイプ=16の情報応答通知を返す。", "title": "通知の種類" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "Address Mask Request MessageおよびAddress Mask Reply Messageは、RFC 950で追加された。", "title": "通知の種類" } ]
Internet Control Message Protocol(インターネット制御通知プロトコル、ICMP)とは、通信処理で使われるプロトコルのひとつで、Internet Protocolのデータグラム処理における誤りの通知や通信に関する情報の通知などのために使用される。ICMPに関するICMP通知は、通知が無限ループに陥るのを防ぐために送られない。 IPv4のための ICMP (ICMPv4) は RFC 792 によって規定され、IPv6のための ICMP (ICMPv6) は RFC 4443 によって規定されている。ICMP は TCP、UDP などと同様にInternet Protocolの上位のプロトコルであるが、Internet Protocolと同様のインターネット層のプロトコルであるかのような特別の処理をされる。 ICMPを利用しているツールにpingやtracerouteなどがある。
{{IPstack}} '''Internet Control Message Protocol'''(インターネット制御通知プロトコル、ICMP)とは、通信処理で使われる[[プロトコル]]のひとつで、[[Internet Protocol]]のデータグラム処理における誤りの通知や通信に関する情報の通知などのために使用される。ICMPに関するICMP通知は、通知が無限ループに陥るのを防ぐために送られない。 [[IPv4]](Internet Protocol version 4)のための ICMP (ICMPv4) は {{IETF RFC|792}} によって規定され、[[IPv6]](Internet Protocol version 6)のための ICMP ([[Internet Control Message Protocol for IPv6|ICMPv6]]) は {{IETF RFC|4443}} によって規定されている。ICMP は TCP、UDP などと同様にInternet Protocolの上位のプロトコルであるが、Internet Protocolと同様の[[インターネット層]]のプロトコルであるかのような特別の処理をされる。 ICMPを利用しているツールに[[ping]]や[[traceroute]]<ref>[[traceroute]]は、ICMPではなく[[User Datagram Protocol|UDP]]を使った実装もある。</ref>などがある。 == 通知書式 == ICMPヘッダは以下のようにMACヘッダ・IPヘッダの後ろにある。 +------------+-----------+-------------+----------- | [[媒体アクセス制御|MAC]]ヘッダ | [[Internet Protocol|IP]]ヘッダ | ICMPヘッダ | データ... +------------+-----------+-------------+----------- === ICMPヘッダ === ICMPヘッダは一般的に以下の通りとなる。 {| class="wikitable" width="100%" style="text-align:center" ! style="width:3.125%;" | 0 ! style="width:3.125%;" | 1 ! style="width:3.125%;" | 2 ! style="width:3.125%;" | 3 ! style="width:3.125%;" | 4 ! style="width:3.125%;" | 5 ! style="width:3.125%;" | 6 ! style="width:3.125%;" | 7 ! style="width:3.125%;" | 8 ! style="width:3.125%;" | 9 ! style="width:3.125%;" | 10 ! style="width:3.125%;" | 11 ! style="width:3.125%;" | 12 ! style="width:3.125%;" | 13 ! style="width:3.125%;" | 14 ! style="width:3.125%;" | 15 ! style="width:3.125%;" | 16 ! style="width:3.125%;" | 17 ! style="width:3.125%;" | 18 ! style="width:3.125%;" | 19 ! style="width:3.125%;" | 20 ! style="width:3.125%;" | 21 ! style="width:3.125%;" | 22 ! style="width:3.125%;" | 23 ! style="width:3.125%;" | 24 ! style="width:3.125%;" | 25 ! style="width:3.125%;" | 26 ! style="width:3.125%;" | 27 ! style="width:3.125%;" | 28 ! style="width:3.125%;" | 29 ! style="width:3.125%;" | 30 ! style="width:3.125%;" | 31 |- | colspan="8" | タイプ | colspan="8" | コード | colspan="16" | [[チェックサム]] |- | colspan="32" | データ<br /><br /> |} データグラムのデータ部分の最初の[[オクテット (コンピュータ)|オクテット]]はICMPタイプフィールドであり、このフィールドの値は、以降のICMP通知の書式を決定する。「未使用」とラベル付けされているフィールドは今後の拡張のために予約されており、送信時には0を入れなければならないが、受信者はこれらのフィールドを(チェックサムに含めることを除いて)使用すべきではない。チェックサムは、ICMPヘッダの先頭から(すなわちタイプから)データの末尾までを対象に、16ビット単位で算出される。チェックサムフィールド自身も計算対象に入っているが、計算時には0として扱う。バイト数が奇数の場合は末尾に0のバイトがあるものとして計算する。 また、いくつかのタイプでは、ICMP通知が発生する原因となった元データグラムの先頭部分をコピーしている。この種のタイプは以下の形式をとる。 {| class="wikitable" width="100%" style="text-align:center" ! style="width:3.125%;" | 0 ! style="width:3.125%;" | 1 ! style="width:3.125%;" | 2 ! style="width:3.125%;" | 3 ! style="width:3.125%;" | 4 ! style="width:3.125%;" | 5 ! style="width:3.125%;" | 6 ! style="width:3.125%;" | 7 ! style="width:3.125%;" | 8 ! style="width:3.125%;" | 9 ! style="width:3.125%;" | 10 ! style="width:3.125%;" | 11 ! style="width:3.125%;" | 12 ! style="width:3.125%;" | 13 ! style="width:3.125%;" | 14 ! style="width:3.125%;" | 15 ! style="width:3.125%;" | 16 ! style="width:3.125%;" | 17 ! style="width:3.125%;" | 18 ! style="width:3.125%;" | 19 ! style="width:3.125%;" | 20 ! style="width:3.125%;" | 21 ! style="width:3.125%;" | 22 ! style="width:3.125%;" | 23 ! style="width:3.125%;" | 24 ! style="width:3.125%;" | 25 ! style="width:3.125%;" | 26 ! style="width:3.125%;" | 27 ! style="width:3.125%;" | 28 ! style="width:3.125%;" | 29 ! style="width:3.125%;" | 30 ! style="width:3.125%;" | 31 |- | colspan="8" | タイプ | colspan="8" | コード | colspan="16" | チェックサム |- | colspan="8" | 未使用 | colspan="8" | 長さ | colspan="16" | 未使用 |- | colspan="32" | IPヘッダ + 元データグラムの先頭部分<br /><br /> |} {{IETF RFC|792}}<nowiki/>では長さフィールドは未使用で、元データグラムの先頭部分は64[[ビット]](8オクテット)と決まっていた。その後{{IETF RFC|1812}}および{{IETF RFC|4443}}において、MTUの最小限として保障されるサイズ(IPv4は576オクテット、IPv6は1280オクテット)まで拡張された。{{IETF RFC|4884}}において長さフィールドが追加され、この可変長領域の長さを32ビット単位で記述することになった。 ICMP通知は基礎的なIPヘッダーを使用して送られる。個々の型式記述の下で違った形で言及されない限り、ICMPヘッダに先行するIPヘッダーフィールドの値は以下の通りとなる。 ; バージョン : 4 ; IHL : 32ビット[[ワード]]でのインターネット・ヘッダー長である。 ; サービスの形式 : 0 ; 合計長 : オクテット単位での、インターネット・ヘッダーとデータの合計の長さである。識別、フラグ、断片化オフセット、断片化の中で使用される。 ; 存在回数 : 存在保持回数ともいい、このフィールドはデータグラムが処理されるマシンを通る度に1ずつ減らされる。そのためこのフィールドの値は少なくともこのデータグラムが通るゲートウェイの数と同じ大きさでなければならない。 ; プロトコル : ICMP = 1 ; ヘッダー・チェックサム : ; 送信元アドレス : ICMP通知を構成する[[ゲートウェイ]]か[[ホスト (ネットワーク)|ホスト]]の[[IPアドレス|アドレス]]である。違った形で言及されない限り、これは何らかのゲートウェイのアドレスとなる。 ; 宛先アドレス : 通知が送られるべきゲートウェイかホストのアドレスである。 == 通知の種類 == 以下の種類がある。 {{Indent|(通知の後ろの () 内は和訳の一例であり、一般的な言い方でない可能性がある)}} {| class="wikitable" |+制御メッセージ一覧<ref>{{cite web|url=http://www.iana.org/assignments/icmp-parameters |title=IANA ICMP Parameters |publisher=Iana.org |date=2012-09-21 |accessdate=2013-01-07}}</ref><ref>''Computer Networking - A Top-Down Approach'' by Kurose and Ross</ref> ! Type !! Code !! 状態 !! 説明 |- ||0 - [[ICMP Echo Reply|Echo Reply Message]](エコー応答通知){{rp|14}} | 0 || || Echo応答([[ping]]) |- ||1 および 2 | || 未割当 || ''予約済み'' |- |rowspan=16|3 - [[ICMP Destination Unreachable|Destination Unreachable Message]]<br />(宛先到達不可能通知){{rp|4}} | 0 || || Destination network unreachable |- | 1 || || Destination host unreachable |- | 2 || || Destination protocol unreachable |- | 3 || || Destination port unreachable |- | 4 || || Fragmentation required, and [[IPv4 packet|DF flag]] set |- | 5 || || Source route failed |- | 6 || || Destination network unknown |- | 7 || || Destination host unknown |- | 8 || || Source host isolated |- | 9 || || Network administratively prohibited |- | 10 || || Host administratively prohibited |- | 11 || || Network unreachable for TOS |- | 12 || || Host unreachable for TOS |- | 13 || || Communication administratively prohibited |- | 14 || || Host Precedence Violation |- | 15 || || Precedence cutoff in effect |- | 4 - [[ICMP Source Quench|Source Quench Message]]<br />(送出抑制要求通知) | 0 || 非推奨 || Source quench (congestion control) |- |rowspan=4| 5 - [[ICMP Redirect|Redirect Message]]<br />(経路変更要求通知) | 0 || || Redirect Datagram for the Network |- | 1 || || Redirect Datagram for the Host |- | 2 || || Redirect Datagram for the TOS & network |- | 3 || || Redirect Datagram for the TOS & host |- | 6 || || 非推奨 || Alternate Host Address |- | 7 || || 未割当 || ''予約済み'' |- | 8 - [[ICMP Echo|Echo Message]](エコー要求通知) | 0 || || Echo request (used to ping) |- | 9 - [[ICMP Router Advertisement|Router Advertisement Message]](ルーター広告通知) | 0 || || Router Advertisement |- | 10 - [[ICMP Router Solicitation|Router Solicitation Message]](ルーター要請通知) | 0 || || Router discovery/selection/solicitation |- |rowspan=2| 11 - [[ICMP Time Exceeded|Time Exceeded Message]](時間切れ通知)<br />{{rp|6}} | 0 || || TTL expired in transit |- | 1 || || Fragment reassembly time exceeded |- |rowspan=3| 12 - [[ICMP Parameter Problem|Parameter Problem Message]](不正引数通知) | 0 || || Pointer indicates the error |- | 1 || || Missing a required option |- | 2 || || Bad length |- | 13 - [[ICMP Timestamp|Timestamp Message]]<br />(タイムスタンプ要求通知) | 0 || || Timestamp |- | 14 - [[ICMP Timestamp Reply|Timestamp Reply Message]]<br />(タイムスタンプ応答通知) | 0 || || Timestamp reply |- | 15 - [[ICMP Information Request|Information Request Message]](情報要求通知) | 0 || 非推奨 || Information Request |- | 16 - [[ICMP Information Reply|Information Reply Message]](情報応答通知) | 0 || 非推奨 || Information Reply |- | 17 - [[ICMP Address Mask Request|Address Mask Request Message]]<br />(アドレスマスク要求通知) | 0 || 非推奨 || Address Mask Request |- | 18 - [[ICMP Address Mask Reply|Address Mask Reply Message]]<br />(アドレスマスク応答通知) | 0 || 非推奨 || Address Mask Reply |- | 19 || || 予約済み || セキュリティ向けに予約済み |- | 20から29まで|| || 予約済み || robustness experiment向けに予約済み |- | 30 [[Traceroute]] | 0 || 非推奨 || Information Request |- | 31 || || 非推奨 || Datagram Conversion Error |- | 32 || || 非推奨 || Mobile Host Redirect |- | 33 || || 非推奨 || [[Where-Are-You]] (originally meant for [[IPv6]]) |- | 34 || || 非推奨 || [[Where-Are-You|Here-I-Am]] (originally meant for IPv6) |- | 35 || || 非推奨 || Mobile Registration Request |- | 36 || || 非推奨 || Mobile Registration Reply |- | 37 || || 非推奨 || Domain Name Request |- | 38 || || 非推奨 || Domain Name Reply |- | 39 || || 非推奨 || SKIP Algorithm Discovery Protocol, [[Simple Key-Management for Internet Protocol]] |- | 40 || || || [[Photuris (protocol)|Photuris]], Security failures |- | 41 || || 実験的 || ICMP for experimental mobility protocols such as [[Seamoby]] [RFC4065] |- | 42から252まで || || 未割当 || 予約済み |- | 253 || || 未割当 || RFC3692-style Experiment 1 ({{IETF RFC|4727}}) |- | 254 || || 未割当 || RFC3692-style Experiment 2 ({{IETF RFC|4727}}) |- | 255 || || 予約済み || 予約済み |} === {{Anchors|Echo|Echo Reply}}Echo Message(エコー要求通知)・Echo Reply Message(エコー応答通知) === {| class="wikitable" width="100%" style="text-align:center" ! style="width:3.125%;" | 0 ! style="width:3.125%;" | 1 ! style="width:3.125%;" | 2 ! style="width:3.125%;" | 3 ! style="width:3.125%;" | 4 ! style="width:3.125%;" | 5 ! style="width:3.125%;" | 6 ! style="width:3.125%;" | 7 ! style="width:3.125%;" | 8 ! style="width:3.125%;" | 9 ! style="width:3.125%;" | 10 ! style="width:3.125%;" | 11 ! style="width:3.125%;" | 12 ! style="width:3.125%;" | 13 ! style="width:3.125%;" | 14 ! style="width:3.125%;" | 15 ! style="width:3.125%;" | 16 ! style="width:3.125%;" | 17 ! style="width:3.125%;" | 18 ! style="width:3.125%;" | 19 ! style="width:3.125%;" | 20 ! style="width:3.125%;" | 21 ! style="width:3.125%;" | 22 ! style="width:3.125%;" | 23 ! style="width:3.125%;" | 24 ! style="width:3.125%;" | 25 ! style="width:3.125%;" | 26 ! style="width:3.125%;" | 27 ! style="width:3.125%;" | 28 ! style="width:3.125%;" | 29 ! style="width:3.125%;" | 30 ! style="width:3.125%;" | 31 |- | colspan="8" | タイプ(0または8) | colspan="8" | コード (0) | colspan="16" | チェックサム |- | colspan="16" | 識別子 | colspan="16" | シーケンス番号 |- | colspan="32" | データ(可変長)<br /><br /> |} エコー要求はタイプ=8で送信される。現在のところ定義されているコードは0だけである。識別子は送信元で適当な値を決める。要求したプロセスのプロセスIDなどが使われる。シーケンス番号は、同じ識別子で繰り返しエコー要求を送信した場合の通し番号である。 宛先となっているホストがエコー要求を受け取ると、発信元と宛先のアドレスを入れ替え、タイプを0(エコー応答)に書き換え、チェックサムを再計算する。識別子とシーケンス番号はエコー要求で指定された値をそのまま返し、どの要求に対応する応答なのかを発信元で判別する際に使う。また、データフィールドも要求の内容をそのまま返す。 ネットワーク診断用コマンド[[ping]]は、このEcho / Echo Replyメッセージを使っている。 === {{Anchors|Destination Unreachable}}Destination Unreachable Message(宛先到達不可能通知) === {| class="wikitable" width="100%" style="text-align:center" ! style="width:3.125%;" | 0 ! style="width:3.125%;" | 1 ! style="width:3.125%;" | 2 ! style="width:3.125%;" | 3 ! style="width:3.125%;" | 4 ! style="width:3.125%;" | 5 ! style="width:3.125%;" | 6 ! style="width:3.125%;" | 7 ! style="width:3.125%;" | 8 ! style="width:3.125%;" | 9 ! style="width:3.125%;" | 10 ! style="width:3.125%;" | 11 ! style="width:3.125%;" | 12 ! style="width:3.125%;" | 13 ! style="width:3.125%;" | 14 ! style="width:3.125%;" | 15 ! style="width:3.125%;" | 16 ! style="width:3.125%;" | 17 ! style="width:3.125%;" | 18 ! style="width:3.125%;" | 19 ! style="width:3.125%;" | 20 ! style="width:3.125%;" | 21 ! style="width:3.125%;" | 22 ! style="width:3.125%;" | 23 ! style="width:3.125%;" | 24 ! style="width:3.125%;" | 25 ! style="width:3.125%;" | 26 ! style="width:3.125%;" | 27 ! style="width:3.125%;" | 28 ! style="width:3.125%;" | 29 ! style="width:3.125%;" | 30 ! style="width:3.125%;" | 31 |- | colspan="8" | タイプ (3) | colspan="8" | コード | colspan="16" | チェックサム |- | colspan="16" | 未使用 | colspan="16" | 次Hopの[[Maximum Transmission Unit|MTU]] |- | colspan="32" | IPヘッダ + 元データのデータグラムの先頭部分<br /><br /> |} コードは状況に応じて以下の値をとる。 * 0 - ネットワーク到達不能 * 1 - ホスト到達不能 * 2 - プロトコル到達不能 * 3 - ポート到達不能 * 4 - 断片化が必要だがDFフラグが設定されている * 5 - 送信元ルーティング失敗 {{IETF RFC|1122}}<nowiki/>において、以下のコードが追加されている。 * 6 - 宛先ネットワーク不明 * 7 - 宛先ホスト不明 * 8 - 発信元ホストが孤立している * 9 - 宛先ネットワークとの通信が管理上禁止 * 10 - 宛先ホストとの通信が管理上禁止 * 11 - [[Type of Service]]に対してネットワーク到達不能 * 12 - Type of Serviceに対してホスト到達不能 さらに{{IETF RFC|1812}}では、以下のコードが追加されている。 * 13 - 通信が管理上禁止 * 14 - ホスト優先度違反 * 15 - 優先度が低すぎる コード9および10は特殊な用途のために定義されており、通常のルーターは13を発生させるよう求めている。 次Hopの[[Maximum Transmission Unit|MTU]]は{{IETF RFC|1191}}で導入された。コード=4のときに設定され、[[経路MTU探索]]のために使われる。タイプ=3、コード=4のICMPパケットを[[ファイアウォール]]等でフィルタしてしまうと、経路MTU探索ブラックホールと呼ばれる問題が発生する。 また、{{IETF RFC|792}} (ICMPプロトコル本体の)Destination Unreachable Messageをみると次HopのMTUの項目はなく、未使用のみとなっている。 === {{Anchors|Source Quench}}Source Quench Message(送出抑制要求通知) === {| class="wikitable" width="100%" style="text-align:center" ! style="width:3.125%;" | 0 ! style="width:3.125%;" | 1 ! style="width:3.125%;" | 2 ! style="width:3.125%;" | 3 ! style="width:3.125%;" | 4 ! style="width:3.125%;" | 5 ! style="width:3.125%;" | 6 ! style="width:3.125%;" | 7 ! style="width:3.125%;" | 8 ! style="width:3.125%;" | 9 ! style="width:3.125%;" | 10 ! style="width:3.125%;" | 11 ! style="width:3.125%;" | 12 ! style="width:3.125%;" | 13 ! style="width:3.125%;" | 14 ! style="width:3.125%;" | 15 ! style="width:3.125%;" | 16 ! style="width:3.125%;" | 17 ! style="width:3.125%;" | 18 ! style="width:3.125%;" | 19 ! style="width:3.125%;" | 20 ! style="width:3.125%;" | 21 ! style="width:3.125%;" | 22 ! style="width:3.125%;" | 23 ! style="width:3.125%;" | 24 ! style="width:3.125%;" | 25 ! style="width:3.125%;" | 26 ! style="width:3.125%;" | 27 ! style="width:3.125%;" | 28 ! style="width:3.125%;" | 29 ! style="width:3.125%;" | 30 ! style="width:3.125%;" | 31 |- | colspan="8" | タイプ (4) | colspan="8" | コード (0) | colspan="16" | チェックサム |- | colspan="8" | 未使用 | colspan="8" | 長さ | colspan="16" | 未使用 |- | colspan="32" | IPヘッダ + 元データのデータグラムの先頭部分<br /><br /> |} 受信能力を超えた早さでデータグラムが届き、破棄してしまったことを通知する。ゲートウェイおよび宛先ホストのどちらでも発生する可能性がある。 === {{Anchors|Redirect}}Redirect Message(経路変更要求通知) === {| class="wikitable" width="100%" style="text-align:center" ! style="width:3.125%;" | 0 ! style="width:3.125%;" | 1 ! style="width:3.125%;" | 2 ! style="width:3.125%;" | 3 ! style="width:3.125%;" | 4 ! style="width:3.125%;" | 5 ! style="width:3.125%;" | 6 ! style="width:3.125%;" | 7 ! style="width:3.125%;" | 8 ! style="width:3.125%;" | 9 ! style="width:3.125%;" | 10 ! style="width:3.125%;" | 11 ! style="width:3.125%;" | 12 ! style="width:3.125%;" | 13 ! style="width:3.125%;" | 14 ! style="width:3.125%;" | 15 ! style="width:3.125%;" | 16 ! style="width:3.125%;" | 17 ! style="width:3.125%;" | 18 ! style="width:3.125%;" | 19 ! style="width:3.125%;" | 20 ! style="width:3.125%;" | 21 ! style="width:3.125%;" | 22 ! style="width:3.125%;" | 23 ! style="width:3.125%;" | 24 ! style="width:3.125%;" | 25 ! style="width:3.125%;" | 26 ! style="width:3.125%;" | 27 ! style="width:3.125%;" | 28 ! style="width:3.125%;" | 29 ! style="width:3.125%;" | 30 ! style="width:3.125%;" | 31 |- | colspan="8" | タイプ (5) | colspan="8" | コード | colspan="16" | チェックサム |- | colspan="32" | ゲートウェイのIPアドレス |- | colspan="32" | IPヘッダ + 元データのデータグラムの先頭部分<br /><br /> |} ゲートウェイから送信元に対して、今後は他のゲートウェイを使うよう指示する。元のデータグラムも破棄せずに転送する。経路変更要求ICMPメッセージを受け取ったホストはルーティングテーブルに追記し、該当する次のデータグラムからは指示されたゲートウェイへ送るようになる。 コードは以下の値をとる。 * 0 - ネットワークに関する経路変更要求 * 1 - ホストに関する経路変更要求 * 2 - Type of Serviceとネットワークに関する経路変更要求 * 3 - Type of Serviceとホストに関する経路変更要求 === {{Anchors|Router Advertisement}}Router Advertisement Message(ルーター広告通知) === {| class="wikitable" width="100%" style="text-align:center" ! style="width:3.125%;" | 0 ! style="width:3.125%;" | 1 ! style="width:3.125%;" | 2 ! style="width:3.125%;" | 3 ! style="width:3.125%;" | 4 ! style="width:3.125%;" | 5 ! style="width:3.125%;" | 6 ! style="width:3.125%;" | 7 ! style="width:3.125%;" | 8 ! style="width:3.125%;" | 9 ! style="width:3.125%;" | 10 ! style="width:3.125%;" | 11 ! style="width:3.125%;" | 12 ! style="width:3.125%;" | 13 ! style="width:3.125%;" | 14 ! style="width:3.125%;" | 15 ! style="width:3.125%;" | 16 ! style="width:3.125%;" | 17 ! style="width:3.125%;" | 18 ! style="width:3.125%;" | 19 ! style="width:3.125%;" | 20 ! style="width:3.125%;" | 21 ! style="width:3.125%;" | 22 ! style="width:3.125%;" | 23 ! style="width:3.125%;" | 24 ! style="width:3.125%;" | 25 ! style="width:3.125%;" | 26 ! style="width:3.125%;" | 27 ! style="width:3.125%;" | 28 ! style="width:3.125%;" | 29 ! style="width:3.125%;" | 30 ! style="width:3.125%;" | 31 |- | colspan="8" | タイプ (9) | colspan="8" | コード (0) | colspan="16" | チェックサム |- | colspan="8" | ルーターアドレス数 | colspan="8" | 1エントリあたりの長さ | colspan="16" | 有効期限 |- | colspan="32" | ルーターアドレスその1 |- | colspan="32" | 優先度その1 |- | colspan="32" | ルーターアドレスその2 |- | colspan="32" | 優先度その2 |- | colspan="32" | …<br /><br /> |} Router Advertisement Messageおよび次のRouter Solicitation Messageは、{{IETF RFC|1256}}で追加された。 デフォルトゲートウェイのアドレスを通知する。ルーターアドレス数で指定した数だけ列挙することができ、優先度([[2の補数]]表現による符号付き32ビット整数)が大きいものほど優先度が高い。1アドレスあたりの長さは32ビット単位で指定し、このバージョンの形式では2(すなわち1エントリあたり64ビット)となる。有効期限は応答時点からの秒単位で指定する。 === {{Anchors|Router Solicitation}}Router Solicitation Message(ルーター要請通知) === {| class="wikitable" width="100%" style="text-align:center" ! style="width:3.125%;" | 0 ! style="width:3.125%;" | 1 ! style="width:3.125%;" | 2 ! style="width:3.125%;" | 3 ! style="width:3.125%;" | 4 ! style="width:3.125%;" | 5 ! style="width:3.125%;" | 6 ! style="width:3.125%;" | 7 ! style="width:3.125%;" | 8 ! style="width:3.125%;" | 9 ! style="width:3.125%;" | 10 ! style="width:3.125%;" | 11 ! style="width:3.125%;" | 12 ! style="width:3.125%;" | 13 ! style="width:3.125%;" | 14 ! style="width:3.125%;" | 15 ! style="width:3.125%;" | 16 ! style="width:3.125%;" | 17 ! style="width:3.125%;" | 18 ! style="width:3.125%;" | 19 ! style="width:3.125%;" | 20 ! style="width:3.125%;" | 21 ! style="width:3.125%;" | 22 ! style="width:3.125%;" | 23 ! style="width:3.125%;" | 24 ! style="width:3.125%;" | 25 ! style="width:3.125%;" | 26 ! style="width:3.125%;" | 27 ! style="width:3.125%;" | 28 ! style="width:3.125%;" | 29 ! style="width:3.125%;" | 30 ! style="width:3.125%;" | 31 |- | colspan="8" | タイプ (10) | colspan="8" | コード (0) | colspan="16" | チェックサム |- | colspan="32" | 未使用 |} === {{Anchors|Time Exceeded}}Time Exceeded Message(時間切れ通知) === {| class="wikitable" width="100%" style="text-align:center" ! style="width:3.125%;" | 0 ! style="width:3.125%;" | 1 ! style="width:3.125%;" | 2 ! style="width:3.125%;" | 3 ! style="width:3.125%;" | 4 ! style="width:3.125%;" | 5 ! style="width:3.125%;" | 6 ! style="width:3.125%;" | 7 ! style="width:3.125%;" | 8 ! style="width:3.125%;" | 9 ! style="width:3.125%;" | 10 ! style="width:3.125%;" | 11 ! style="width:3.125%;" | 12 ! style="width:3.125%;" | 13 ! style="width:3.125%;" | 14 ! style="width:3.125%;" | 15 ! style="width:3.125%;" | 16 ! style="width:3.125%;" | 17 ! style="width:3.125%;" | 18 ! style="width:3.125%;" | 19 ! style="width:3.125%;" | 20 ! style="width:3.125%;" | 21 ! style="width:3.125%;" | 22 ! style="width:3.125%;" | 23 ! style="width:3.125%;" | 24 ! style="width:3.125%;" | 25 ! style="width:3.125%;" | 26 ! style="width:3.125%;" | 27 ! style="width:3.125%;" | 28 ! style="width:3.125%;" | 29 ! style="width:3.125%;" | 30 ! style="width:3.125%;" | 31 |- | colspan="8" | タイプ (11) | colspan="8" | コード | colspan="16" | チェックサム |- | colspan="8" | 未使用 | colspan="8" | 長さ | colspan="16" | 未使用 |- | colspan="32" | IPヘッダ + 元データのデータグラムの先頭部分<br /><br /> |} コード0は、IPヘッダの[[Time to live]](TTL;存在回数)が0になっても宛先ホストに到達しなかったことを通知する。コード1は、断片の再統合を行う際、制限時間内に断片が揃わなかったことを通知する。 ネットワーク診断用コマンド[[traceroute]]は、TTLを1から順に増やして行き、各中継点からの時間切れ通知から経路を調べる。 === {{Anchors|Parameter Problem}}Parameter Problem Message(不正引数通知) === {| class="wikitable" width="100%" style="text-align:center" ! style="width:3.125%;" | 0 ! style="width:3.125%;" | 1 ! style="width:3.125%;" | 2 ! style="width:3.125%;" | 3 ! style="width:3.125%;" | 4 ! style="width:3.125%;" | 5 ! style="width:3.125%;" | 6 ! style="width:3.125%;" | 7 ! style="width:3.125%;" | 8 ! style="width:3.125%;" | 9 ! style="width:3.125%;" | 10 ! style="width:3.125%;" | 11 ! style="width:3.125%;" | 12 ! style="width:3.125%;" | 13 ! style="width:3.125%;" | 14 ! style="width:3.125%;" | 15 ! style="width:3.125%;" | 16 ! style="width:3.125%;" | 17 ! style="width:3.125%;" | 18 ! style="width:3.125%;" | 19 ! style="width:3.125%;" | 20 ! style="width:3.125%;" | 21 ! style="width:3.125%;" | 22 ! style="width:3.125%;" | 23 ! style="width:3.125%;" | 24 ! style="width:3.125%;" | 25 ! style="width:3.125%;" | 26 ! style="width:3.125%;" | 27 ! style="width:3.125%;" | 28 ! style="width:3.125%;" | 29 ! style="width:3.125%;" | 30 ! style="width:3.125%;" | 31 |- | colspan="8" | タイプ (12) | colspan="8" | コード (0) | colspan="16" | チェックサム |- | colspan="8" | ポインタ | colspan="8" | 長さ | colspan="16" | 未使用 |- | colspan="32" | IPヘッダ + 元データのデータグラムの先頭部分<br /><br /> |} パラメータに問題があって、元のデータグラムを破棄したことを通知する。ポインタは元データのうち問題となった箇所を、先頭からのオクテット数で指定する。 === {{Anchors|Timestamp|Timestamp Reply}}Timestamp Message(タイムスタンプ要求通知)・Timestamp Reply Message(タイムスタンプ応答通知) === {| class="wikitable" width="100%" style="text-align:center" ! style="width:3.125%;" | 0 ! style="width:3.125%;" | 1 ! style="width:3.125%;" | 2 ! style="width:3.125%;" | 3 ! style="width:3.125%;" | 4 ! style="width:3.125%;" | 5 ! style="width:3.125%;" | 6 ! style="width:3.125%;" | 7 ! style="width:3.125%;" | 8 ! style="width:3.125%;" | 9 ! style="width:3.125%;" | 10 ! style="width:3.125%;" | 11 ! style="width:3.125%;" | 12 ! style="width:3.125%;" | 13 ! style="width:3.125%;" | 14 ! style="width:3.125%;" | 15 ! style="width:3.125%;" | 16 ! style="width:3.125%;" | 17 ! style="width:3.125%;" | 18 ! style="width:3.125%;" | 19 ! style="width:3.125%;" | 20 ! style="width:3.125%;" | 21 ! style="width:3.125%;" | 22 ! style="width:3.125%;" | 23 ! style="width:3.125%;" | 24 ! style="width:3.125%;" | 25 ! style="width:3.125%;" | 26 ! style="width:3.125%;" | 27 ! style="width:3.125%;" | 28 ! style="width:3.125%;" | 29 ! style="width:3.125%;" | 30 ! style="width:3.125%;" | 31 |- | colspan="8" | タイプ(13または14) | colspan="8" | コード (0) | colspan="16" | チェックサム |- | colspan="16" | 識別子 | colspan="16" | シーケンス番号 |- | colspan="32" | 起点タイムスタンプ |- | colspan="32" | 受信タイムスタンプ |- | colspan="32" | 送信タイムスタンプ |} タイムスタンプ要求はタイプ=13で送信される。現在のところ定義されているコードは0だけである。識別子およびシーケンス番号はエコー要求と同じ要領で使う。起点タイムスタンプには要求時のタイムスタンプを、[[協定世界時|UTC]] 0:00からの経過ミリ秒で設定する。日付は含まれておらず、毎日0に戻ることに注意。 宛先となったホストはタイムスタンプ要求を受け取ると、タイプ=14で応答する。識別子、シーケンス番号、起点タイムスタンプは、要求にセットされていた値をそのままコピーする。また要求を受信した際のタイムスタンプを受信タイムスタンプに、応答を送信する際のタイムスタンプを送信タイムスタンプにセットする。 要求を送信したホストは、応答を受信した際のタイムスタンプと、格納されている起点タイムスタンプを比較することで、往復に要した時間を知ることができる。 === {{Anchors|Information Request|Information Reply}}Information Request Message(情報要求通知)・Information Reply Message(情報応答通知) === {| class="wikitable" width="100%" style="text-align:center" ! style="width:3.125%;" | 0 ! style="width:3.125%;" | 1 ! style="width:3.125%;" | 2 ! style="width:3.125%;" | 3 ! style="width:3.125%;" | 4 ! style="width:3.125%;" | 5 ! style="width:3.125%;" | 6 ! style="width:3.125%;" | 7 ! style="width:3.125%;" | 8 ! style="width:3.125%;" | 9 ! style="width:3.125%;" | 10 ! style="width:3.125%;" | 11 ! style="width:3.125%;" | 12 ! style="width:3.125%;" | 13 ! style="width:3.125%;" | 14 ! style="width:3.125%;" | 15 ! style="width:3.125%;" | 16 ! style="width:3.125%;" | 17 ! style="width:3.125%;" | 18 ! style="width:3.125%;" | 19 ! style="width:3.125%;" | 20 ! style="width:3.125%;" | 21 ! style="width:3.125%;" | 22 ! style="width:3.125%;" | 23 ! style="width:3.125%;" | 24 ! style="width:3.125%;" | 25 ! style="width:3.125%;" | 26 ! style="width:3.125%;" | 27 ! style="width:3.125%;" | 28 ! style="width:3.125%;" | 29 ! style="width:3.125%;" | 30 ! style="width:3.125%;" | 31 |- | colspan="8" | タイプ(15または16) | colspan="8" | コード (0) | colspan="16" | チェックサム |- | colspan="16" | 識別子 | colspan="16" | シーケンス番号 |} タイプ=15の情報要求通知はアドレス0に対して送られる。要求を受信した各ホストおよびゲートウェイは、タイプ=16の情報応答通知を返す。 === {{Anchors|Address Mask Request|Address Mask Reply}}Address Mask Request Message(アドレスマスク要求通知)・Address Mask Reply Message(アドレスマスク応答通知) === {| class="wikitable" width="100%" style="text-align:center" ! style="width:3.125%;" | 0 ! style="width:3.125%;" | 1 ! style="width:3.125%;" | 2 ! style="width:3.125%;" | 3 ! style="width:3.125%;" | 4 ! style="width:3.125%;" | 5 ! style="width:3.125%;" | 6 ! style="width:3.125%;" | 7 ! style="width:3.125%;" | 8 ! style="width:3.125%;" | 9 ! style="width:3.125%;" | 10 ! style="width:3.125%;" | 11 ! style="width:3.125%;" | 12 ! style="width:3.125%;" | 13 ! style="width:3.125%;" | 14 ! style="width:3.125%;" | 15 ! style="width:3.125%;" | 16 ! style="width:3.125%;" | 17 ! style="width:3.125%;" | 18 ! style="width:3.125%;" | 19 ! style="width:3.125%;" | 20 ! style="width:3.125%;" | 21 ! style="width:3.125%;" | 22 ! style="width:3.125%;" | 23 ! style="width:3.125%;" | 24 ! style="width:3.125%;" | 25 ! style="width:3.125%;" | 26 ! style="width:3.125%;" | 27 ! style="width:3.125%;" | 28 ! style="width:3.125%;" | 29 ! style="width:3.125%;" | 30 ! style="width:3.125%;" | 31 |- | colspan="8" | タイプ(17または18) | colspan="8" | コード (0) | colspan="16" | チェックサム |- | colspan="16" | 識別子 | colspan="16" | シーケンス番号 |- | colspan="32" | アドレスマスク |} Address Mask Request MessageおよびAddress Mask Reply Messageは、{{IETF RFC|950}}で追加された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author=W・リチャード・スティーヴンス |authorlink=W・リチャード・スティーヴンス |others=橘康雄訳、井上尚司監訳 |title=詳解TCP/IP Vol.1 プロトコル |origyear=1994 |date=2000-12-20 |edition=新装版 |publisher=ピアソン・エデュケーション |isbn=4-89471-320-9 }} == 関連項目 == * [[Internet Control Message Protocol for IPv6]] == 外部リンク == * {{IETF RFC|792}} - Internet Control Message Protocol * {{IETF RFC|950}} - Internet Standard Subnetting Procedure * {{IETF RFC|1122}} - Requirements for Internet Hosts -- Communication Layers * {{IETF RFC|1191}} - Path MTU Discovery * {{IETF RFC|1256}} - ICMP Router Discovery Messages * {{IETF RFC|1812}} - Requirements for IP Version 4 Routers * {{IETF RFC|4884}} - Extended ICMP to Support Multi-Part Messages {{OSI}} {{Computer-stub}} {{Normdaten}} [[Category:インターネット層プロトコル]] [[Category:インターネット標準]] [[Category:RFC|0792]] [[Category:ネットワーク層プロトコル]] [[Category:長大な項目名]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Internet_Control_Message_Protocol
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モナーフォント
モナーフォント (Mona Font) は、匿名掲示板2ちゃんねるで用いられるアスキーアートをX Window System上で見るために作られた、フリーのプロポーショナルフォントである。Windowsで良く使われているMSゴシックファミリを用いたワードドキュメントなどの類をずれること無く見るためにも使われている。 2ちゃんねるでは、アスキーアートはフォントが「MS Pゴシック 12ポイント」という前提で作られている。そのため、その他のフォントでは上手く見ることが出来ない。MS PゴシックはWindows付属のフォントであり、これはLinuxやFreeBSDなどのPC-UNIXの利用者には使用できないフォントであった。これを解決するために、フリーの東雲フォントをMS Pゴシックの文字幅に合わせたモナーフォントが作成された。 基本的にPC-UNIX用だが、macOSやWindowsなどでも使用することができる。 2ちゃんねる発祥ということもあり、作者への質問・要望等も2ちゃんねるの当該スレッドで行われている。 2007年10月現在、モナーフォントは開発中止の状態であり、別プロジェクトとしてIPAモナーフォントが開発されている。
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モナーフォント は、匿名掲示板2ちゃんねるで用いられるアスキーアートをX Window System上で見るために作られた、フリーのプロポーショナルフォントである。Windowsで良く使われているMSゴシックファミリを用いたワードドキュメントなどの類をずれること無く見るためにも使われている。 2ちゃんねるでは、アスキーアートはフォントが「MS Pゴシック 12ポイント」という前提で作られている。そのため、その他のフォントでは上手く見ることが出来ない。MS PゴシックはWindows付属のフォントであり、これはLinuxやFreeBSDなどのPC-UNIXの利用者には使用できないフォントであった。これを解決するために、フリーの東雲フォントをMS Pゴシックの文字幅に合わせたモナーフォントが作成された。 基本的にPC-UNIX用だが、macOSやWindowsなどでも使用することができる。 2ちゃんねる発祥ということもあり、作者への質問・要望等も2ちゃんねるの当該スレッドで行われている。 2007年10月現在、モナーフォントは開発中止の状態であり、別プロジェクトとしてIPAモナーフォントが開発されている。
[[Image:Mona_Regular.png|360px|right]] '''モナーフォント''' (Mona Font) は、[[匿名掲示板]][[2ちゃんねる]]で用いられる[[アスキーアート]]を[[X Window System]]上で見るために作られた、フリーの[[プロポーショナルフォント]]である。[[Microsoft Windows|Windows]]で良く使われているMSゴシックファミリを用いたワードドキュメントなどの類をずれること無く見るためにも使われている。 2ちゃんねるでは、アスキーアートはフォントが「[[MS ゴシック|MS Pゴシック]] 12ポイント」という前提で作られている。そのため、その他のフォントでは上手く見ることが出来ない。MS PゴシックはWindows付属のフォントであり、これは[[Linux]]や[[FreeBSD]]などの[[PC-UNIX]]の利用者には使用できないフォントであった。これを解決するために、フリーの[[東雲フォント]]をMS Pゴシックの文字幅に合わせたモナーフォントが作成された。 基本的にPC-UNIX用だが、[[macOS]]やWindowsなどでも使用することができる。 2ちゃんねる発祥ということもあり、作者への質問・要望等も2ちゃんねるの当該スレッドで行われている。 [[2007年]][[10月]]現在、モナーフォントは開発中止の状態であり、別プロジェクトとして[[IPAモナーフォント]]が開発されている。 == 関連項目 == * [[日本語フォントの比較]] * [[フォント]] * [[プロポーショナルフォント]] * [[IPAフォント]] * [[モナー]] == 外部リンク == * [http://monafont.sourceforge.net/index.html モナーフォント](現在は下記のIPAモナーフォントへ移行) * {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/ipa_mona/ |title=IPAモナーフォント}}([[IPAフォント]]を利用したモナーフォント) {{アスキーアート}} {{デフォルトソート:もなあふおんと}} [[Category:アスキーアート]] [[Category:書体]]
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逆数
逆数(ぎゃくすう、英: reciprocal)とは、ある数に掛け算した結果が 1 となる数である。すなわち、数 x の逆数 y とは次のような関係を満たす。 通常、x の逆数は分数の記法を用いて 1/x のように表されるか、冪の記法を用いて x のように表される。 1 を乗法に関する単位元と見れば、逆数とは乗法逆元(じょうほうぎゃくげん、英: multiplicative inverse)の一種であり、乗法逆元とは一般化された逆数である。 上述の式から明らかなように、x と y の役割を入れ替えれば、x は y の逆数であると言える。従って、x の逆数が y であるとき y の逆数は x である。 x が 0 である場合、任意の数との積は 0 になるため、(0 ≠ 1 であれば)0 に対する逆数は存在しない。 また、任意の x について必ずしもその逆数が存在するとは限らない。たとえば、自然数の範囲では上述の関係を満たす数は x = y = 1 以外には存在しない。0 を除く任意の数 x について逆数が常に存在するようなものには、有理数や実数、複素数がある。これらのように四則演算が自由にできる集合を体と呼ぶ。 逆数は乗法における逆元であるが、加法における逆元として反数がある。 1つの二項演算を持つ集合であって左右の逆元が常に存在するもの(代数的構造)はループと呼ばれる。 以下に具体例をいくつか挙げる。ここで e はネイピア数、i は虚数単位、r は複素数の絶対値、θ は複素数の偏角を表す。また、z は複素数 z の共役複素数、|a| は数 a の絶対値を表す。 合同式において逆数を考えることができる。a × b を m で割ると 1 余るとき、b を a の m を法とする逆数と呼ぶ。合同式で表すと以下のようになる。 例えば、4 × 2 ≡ 1 (mod 7) となるので、法 7 において 2 は 4 の逆数である。通常の逆数と同様、逆数の逆数は同じ数であり、0 の逆数は存在せず、1 や −1 の逆数はそれ自身である。合同式の性質から、m の倍数の逆数は存在せず、(km ± 1) の逆数はそれ自身になる。 定義上、a は m と互いに素である必要がある。つまり、一般に合同式での逆数は存在するとは限らない。例えば、7 × b ≡ 1 (mod 42) や 12 × b ≡ 1 (mod 4) を満たす b は存在しない。 素数 p を法とする場合、0 以外の全ての元が逆数を持つ。法 17 を例とすると次のようになる。 合同式での逆数はオイラーの定理によって計算できる。a に逆数 b が存在するならば なので、 (ここで φ はオイラーのφ関数)であり、逆に a と m が互いに素であれば、この式によって逆数が与えられる。特に、m が素数の場合以下のようになる(フェルマーの小定理から直接導かれる)。 また、ユークリッドの互除法によっても効率的に求めることができる。定義式は、以下のベズーの等式(ディオファントス方程式の一種)が b と n について整数解を持つことと同値である。 この式の解は、a と m が互いに素である場合、かつその場合に限り存在する。 日本の小学校では、小学6年生で分数の掛け算・割り算について学習する際に、逆数について学習し、x(実際には具体的な数を用いる)で割ることと 1/x を掛けることが同じ結果を得ることなどを学ぶ。この事は中学校の課程で、加法における逆元、つまり負の数について学ぶ準備になっている。
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逆数とは、ある数に掛け算した結果が 1 となる数である。すなわち、数 x の逆数 y とは次のような関係を満たす。 通常、x の逆数は分数の記法を用いて 1/x のように表されるか、冪の記法を用いて x−1 のように表される。 1 を乗法に関する単位元と見れば、逆数とは乗法逆元の一種であり、乗法逆元とは一般化された逆数である。 上述の式から明らかなように、x と y の役割を入れ替えれば、x は y の逆数であると言える。従って、x の逆数が y であるとき y の逆数は x である。 x が 0 である場合、任意の数との積は 0 になるため、0 に対する逆数は存在しない。 また、任意の x について必ずしもその逆数が存在するとは限らない。たとえば、自然数の範囲では上述の関係を満たす数は x = y = 1 以外には存在しない。0 を除く任意の数 x について逆数が常に存在するようなものには、有理数や実数、複素数がある。これらのように四則演算が自由にできる集合を体と呼ぶ。 逆数は乗法における逆元であるが、加法における逆元として反数がある。 1つの二項演算を持つ集合であって左右の逆元が常に存在するもの(代数的構造)はループと呼ばれる。
[[Image:Hyperbola one over x.svg|thumb|right|300px| 関数 {{math|1=''y'' = {{sfrac|1|''x''}}}} のグラフ。{{math|0}} を除くすべての {{mvar|x}} について {{mvar|y}} はその逆数を表している。]] '''逆数'''(ぎゃくすう、{{lang-en-short|reciprocal}})とは、ある数に[[乗法|掛け算]]した結果が {{math|[[1]]}} となる数である。すなわち、数 {{mvar|x}} の逆数 {{mvar|y}} とは次のような関係を満たす。 :<math>x \times y = y \times x = 1.</math> 通常、{{mvar|x}} の逆数は[[分数]]の記法を用いて {{math|{{sfrac|1|''x''}}}} のように表されるか、[[冪]]の記法を用いて {{math|''x''<sup>&minus;1</sup>}} のように表される。 {{math|1}} を乗法に関する[[単位元]]と見れば、逆数とは'''[[乗法逆元]]'''(じょうほうぎゃくげん、{{lang-en-short|multiplicative inverse}})の一種であり、乗法逆元とは一般化された逆数である。 上述の式から明らかなように、{{mvar|x}} と {{mvar|y}} の役割を入れ替えれば、{{mvar|x}} は {{mvar|y}} の逆数であると言える。従って、{{mvar|x}} の逆数が {{mvar|y}} であるとき {{mvar|y}} の逆数は {{mvar|x}} である。 {{mvar|x}} が {{math|[[0]]}} である場合、任意の数との積は {{math|0}} になるため、({{math|0 ≠ 1}} であれば){{math|0}} に対する逆数は存在しない。 また、任意の {{mvar|x}} について必ずしもその逆数が存在するとは限らない。たとえば、[[自然数]]の範囲では上述の関係を満たす数は {{math|1=''x'' = ''y'' = 1}} 以外には存在しない。{{math|0}} を除く任意の数 {{mvar|x}} について逆数が常に存在するようなものには、[[有理数]]や[[実数]]、[[複素数]]がある。これらのように[[四則演算]]が自由にできる集合を[[可換体|体]]と呼ぶ。 逆数は乗法における[[逆元]]であるが、[[加法]]における逆元として[[反数]]がある。 1つの[[二項演算]]を持つ[[集合]]であって左右の逆元が常に存在するもの([[代数的構造]])は[[準群#ループ|ループ]]と呼ばれる。 == 例 == 以下に具体例をいくつか挙げる。ここで {{math|e}} は[[ネイピア数]]、{{mvar|i}} は[[虚数単位]]、{{mvar|r}} は[[複素数]]の[[絶対値]]、{{mvar|&theta;}} は複素数の偏角を表す。また、{{math|{{overline|''z''}}}} は複素数 {{mvar|z}} の[[共役複素数]]、{{math|{{mabs|''a''}}}} は数 {{mvar|a}} の絶対値を表す。 * {{math|9}} の逆数は {{math|{{sfrac|1|9}}}}。同様に {{math|{{sfrac|1|9}}}} の逆数は {{math|9}}。 * {{math|{{sfrac|2|3}}}} の逆数は {{math|{{sfrac|3|2}}}}。同様に {{math|{{sfrac|3|2}}}} の逆数は {{math|{{sfrac|2|3}}}}。 * {{math|0.3}} の逆数は {{math|{{sfrac|1|0.3}} {{=}} {{sfrac|10|3}}}}。同様に {{math|{{sfrac|10|3}}}} の逆数は {{math|{{sfrac|3|10}} {{=}} 0.3}}。 * {{math|&minus;5}} の逆数は {{math|{{sfrac|1|&minus;5}} {{=}} &minus;{{sfrac|1|5}} {{=}} &minus;0.2}}。 * {{math|&minus;{{mabs|''a''}}}} の逆数は {{math|{{sfrac|1|&minus;{{mabs|''a''}}}} {{=}} &minus;{{sfrac|1|{{mabs|''a''}}}}}}。 * {{math|''i''}} の逆数は {{math|{{sfrac|1|''i''}}}} {{=}} {{math|''i''<sup>&minus;1</sup>}} {{=}} {{math|&minus;''i''}}。 * {{math|3 + 4''i''}} の逆数は {{math|{{sfrac|1|3 + 4''i''}} {{=}} {{sfrac|3 &minus; 4''i''|25}}}}。 * {{math|x + y''i''}} の逆数は {{math| {{sfrac|1| x + y''i''}} {{=}} {{sfrac|x &minus; y''i''|x <sup>2</sup> + y <sup>2</sup>}}}}。 * {{math|''r''e<sup>''i&theta;''</sup>}} の逆数は {{math|(''r''e<sup>''i&theta;''</sup>)<sup>&minus;1</sup> {{=}} {{sfrac|1|''r''}}e<sup>&minus;''i&theta;''</sup>}}。 * 複素数 {{mvar|z}} の逆数は {{math|{{sfrac|1|''z''}} {{=}} {{sfrac|1|{{mabs|''z''}}<sup>2</sup>}}{{overline|''z''}}}}。 == 合同式での逆数 == {{Main|モジュラ逆数}} [[合同式]]において逆数を考えることができる。{{math|''a'' × ''b''}} を {{mvar|m}} で割ると {{math|1}} 余るとき、{{mvar|b}} を {{mvar|a}} の {{mvar|m}} を法とする逆数と呼ぶ。合同式で表すと以下のようになる。 :<math>a \times b \equiv 1 \pmod{m}.</math> 例えば、{{math|4 × 2 &equiv; 1 (mod 7)}} となるので、法 {{math|7}} において {{math|2}} は {{math|4}} の逆数である。通常の逆数と同様、逆数の逆数は同じ数であり、{{math|0}} の逆数は存在せず、{{math|1}} や {{math|&minus;1}} の逆数はそれ自身である。合同式の性質から、{{mvar|m}} の倍数の逆数は存在せず、{{math|(''km'' &plusmn; 1)}} の逆数はそれ自身になる。 定義上、{{mvar|a}} は {{mvar|m}} と[[互いに素 (整数論)|互いに素]]である必要がある。つまり、一般に[[合同式]]での逆数は存在するとは限らない。例えば、{{math|7 × ''b'' &equiv; 1 (mod 42)}} や {{math|12 × ''b'' &equiv; 1 (mod 4)}} を満たす {{mvar|b}} は存在しない。 素数 {{mvar|p}} を法とする場合、{{math|0}} 以外の全ての元が逆数を持つ。法 {{math|17}} を例とすると次のようになる。 {| class="wikitable sortable" |- ! scope="row" | 元 | 0 || 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || 10 || 11 || 12 || 13 || 14 || 15 || 16 |- ! scope="row" | 逆数 | なし || 1 || 9 || 6 || 13 || 7 || 3 || 5 || 15 || 2 || 12 || 14 || 10 || 4 || 11 || 8 || 16 |} 合同式での逆数は[[オイラーの定理 (数論)|オイラーの定理]]によって計算できる。{{mvar|a}} に逆数 {{mvar|b}} が存在するならば :<math>a \times b \equiv 1 \equiv a^{\varphi (m)} = a \times a^{\varphi (m) - 1} \pmod{m}</math> なので、 :<math>b \equiv a^{\varphi (m) - 1} \pmod{m}</math> (ここで {{mvar|&phi;}} は[[オイラーのφ関数]])であり、逆に {{mvar|a}} と {{mvar|m}} が互いに素であれば、この式によって逆数が与えられる。特に、{{mvar|m}} が素数の場合以下のようになる([[フェルマーの小定理]]から直接導かれる)。 :<math>b \equiv a^{m - 2} \pmod{m}.</math> また、[[ユークリッドの互除法#拡張された互除法|ユークリッドの互除法]]によっても効率的に求めることができる。定義式は、以下の[[ベズーの等式]]([[ディオファントス方程式]]の一種)が {{mvar|b}} と {{mvar|n}} について整数解を持つことと同値である。 :<math>a \times b + m \times n = 1.</math> この式の解は、{{mvar|a}} と {{mvar|m}} が[[互いに素 (整数論)|互いに素]]である場合、かつその場合に限り存在する。 == 日本における学校教育 == 日本の[[小学校]]では、小学6年生で[[分数]]の掛け算・割り算について学習する際に、逆数について学習し、{{mvar|x}}(実際には具体的な数を用いる)で割ることと {{math|{{sfrac|1|''x''}}}} を掛けることが同じ結果を得ることなどを学ぶ。この事は[[中学校]]の課程で、加法における[[逆元]]、つまり負の数について学ぶ準備になっている。 == 関連項目 == * [[反比例]] * [[エジプト式分数]] * [[反数]] * [[逆元]] * [[単位元]] * [[吸収元]] * [[逆行列]] * [[群 (数学)|群]] * [[準群#ループ|ループ]] {{DEFAULTSORT:きやくすう}} [[Category:算数]] [[Category:算術]] [[Category:代数学]] [[Category:初等数学]] [[Category:数学に関する記事]]
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標準偏差
標準偏差(、英: standard deviation, SD)とは、データや確率変数の、平均値からの散らばり具合(ばらつき)を表す指標の一つである。偏差ベクトルと、値が標準偏差のみであるベクトルは、ユークリッドノルムが等しくなる。 標準偏差を2乗したのが分散であり、従って、標準偏差は分散の非負の平方根である。標準偏差が 0 であることは、データの値が全て等しいことと同値である。 母集団や確率変数の標準偏差を σ で、標本の標準偏差を s で表すことがある。 二乗平均平方根 (RMS) を用いると、標準偏差は偏差の二乗平均平方根に等しくなる。 データ x1, x2, ..., xn の平均値からの散らばり具合を数値にした標準偏差は、次の式で定義される: ここで x は平均値を表す。この定義は、データを数ベクトルと見て、「散らばり具合」を偏差ベクトルのユークリッドノルムととらえる考えに基づく(このことより平均偏差でなく自乗平均をとる)。 標準偏差は平方根を取るため、簡単な計算法則が成り立ちにくいという特徴がある。そこで分散 s を で定義する。分散には簡単な計算法則がいくつか成り立つことから、種々の標準偏差ができるようになる。 標準偏差の概念は、イギリスの統計学者フランシス・ゴルトンにより、親子の身長の相関関係を調べる中で初めて見出された。データを数ベクトルと見る考え方は相関係数の導入と命名につながった。ゴルトンはこれらの研究により平均への回帰という現象を見出した。 ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンのゴルトン研究室を継承したカール・ピアソンはゴルトンの研究を定式化、体系化し、初めて "standard deviation"(「標準偏差」)と名付けた。 確率分布において最も基本となる正規分布曲線において、変曲点の x座標と平均の絶対差は標準偏差に等しくなる。このことから、標準偏差は信頼区間の基本的な単位となる。 日本の受験業界で広く使われている学力偏差値は標準偏差の応用例の一つで、異なる試験でも、平均点よりどれだけ離れているかをある統一した尺度でとらえることができるようになっている。 金融工学においては、株式のリスクを確率分布の標準偏差でとらえることがある。 母集団全てのデータ x1, x2, ..., xn に対して、平均値 x は次の式で定義される: この平均値 x を使って得られる分散 σ を次の式で定義する: σ を母分散と言うこともある。 この分散の非負の平方根 σ を、母集団の標準偏差と定義する。分散もデータの散らばり具合を表す統計量であるが、分散と違い標準偏差はデータの値と次元が等しくなる。偏差は平均的には標準偏差の分だけ離れていると考えることができる。 母集団の中から、大きさ n(母集団の大きさよりはるかに小さい)の標本 x1, x2, ..., xn を抽出したとする。このとき、標本平均は次の式で表される: この標本平均を使って次式で定義される量を標本分散と呼ぶ: 標本分散の平方根 s を標本標準偏差と呼ぶ。 σ を母分散、s を標本分散とすると、標本分散の期待値 E[s] は、 となることが示される。つまり、標本分散は母分散よりも少し小さくなる。そのため、標本分散は母分散の不偏推定量ではない。そこで、 を考えると、この量の期待値は母分散に等しく、母分散の不偏推定量になっている。 こうして定義される v を不偏分散という。v を不偏標準偏差という。 紛らわしいが、 v を標本分散と呼ぶこともある。さらに v の平方根 v を標本標準偏差ということもある。名称の混乱については後述する。 前述のように不偏分散は、母分散の不偏推定量である(標本から測定した推定量の期待値が母分散に等しい)。しかし、不偏分散の平方根 v は、母集団の標準偏差の不偏推定量ではない。 母集団が正規分布に従う場合、母集団の標準偏差の不偏推定量 D は次式で与えられる: ここで、Γ はガンマ関数、v は不偏分散である。 標本の大きさが大きくなれば、母集団の標準偏差の不偏推定量 D は、近似的に、平均からの偏差平方和を n − 1.5 で割った値の平方根として求められる: 統計の教科書によっては、不偏分散(分母が n − 1 の方)を「標本分散」と呼んでいる場合もあり、用語が混乱して使用されている場合がある。母平均が不明で、代わりに標本平均を使用する場合には、期待値が母分散となる不偏分散を使用することが多い。 英語では不偏分散による標準偏差のことを「sample standard deviation」(標本標準偏差)と呼ぶことが多い。この語はカール・ピアソンによって1893年に導入された。ただし不偏分散による標準偏差を意味する英語の表現には混乱がある。 日本語の「不偏標準偏差」という語にも混乱がある。日本の大学教授の間でも、不偏分散 v の平方根を、不偏標準偏差だと教える大学教員も多いが、母集団の標準偏差の不偏推定量 D を不偏標準偏差だと教える教員もいる。 このように、同じ用語でも話者によって定義が異なる場合がある。 表計算ソフトでは次のようなワークシート関数が用意されている。 X を離散型確率変数とする。X のとりうる値を x1, x2, ..., xn, ... とし、X が xi をとる確率を pi で表す。このとき である。このとき を確率変数 X の期待値という。また、 を確率変数 X の分散という。この分散の非負の平方根を標準偏差という。 X を連続型確率変数とする。X の値が区間 [x1, x2] に属する確率が、連続関数 f(x) を用いて と表せるとき、f(x) を X の確率密度関数という。このとき である。このとき を確率変数 X の期待値という。また、 を確率変数 X の分散という。この分散の非負の平方根を標準偏差という。 母標準偏差が未知のときは、標本から得られた標本標準偏差から推定することができる。母標準偏差を σ、大きさ N の標本の標準偏差を s とすると、母集団分布が正規分布ならば σ は次の自由度 N − 1 の χ 分布に従う。 σ の95%信頼区間は P = 0.975 の χ から P = 0.025 の χ までの範囲で、s と σ の比は N = 5 では 0.31 から 1.49、N = 20 では 0.67 から 1.28 となり、標本が小さい場合はかなり範囲が広いことに留意すべきである。
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標準偏差(ひょうじゅんへんさ、とは、データや確率変数の、平均値からの散らばり具合を表す指標の一つである。偏差ベクトルと、値が標準偏差のみであるベクトルは、ユークリッドノルムが等しくなる。 標準偏差を2乗したのが分散であり、従って、標準偏差は分散の非負の平方根である。標準偏差が 0 であることは、データの値が全て等しいことと同値である。 母集団や確率変数の標準偏差を σ で、標本の標準偏差を s で表すことがある。 二乗平均平方根 を用いると、標準偏差は偏差の二乗平均平方根に等しくなる。
[[画像:Comparison standard deviations.svg|350px|thumb|[[算術平均|平均]]は同じであるが標準偏差が大きく異なる[[データ]]の[[ヒストグラム]]の例。赤で示されたデータの方が青で示されたデータよりも標準偏差が小さい。]] [[画像:Standard deviation diagram.svg|350px|thumb|平均 {{math|0}}, 標準偏差 {{mvar|σ}} の[[正規分布]]の[[確率密度関数]]。この分布に従う確率変数が {{math2|0 ± ''σ''}} の間に値をとる確率はおよそ 68[[パーセント|%]] であることが読み取れる。]] {{読み仮名|'''標準偏差'''|ひょうじゅんへんさ|{{Lang-en-short|standard deviation}}, {{lang|en|SD}}}}とは、[[データ]]や[[確率変数]]の、[[算術平均|平均値]]からの[[統計的ばらつき|散らばり具合(ばらつき)]]を表す指標の一つである。[[偏差]][[数ベクトル空間|ベクトル]]と、値が標準偏差のみであるベクトルは、[[ノルム#有限次元ベクトルのノルム|ユークリッドノルム]]が等しくなる。 標準偏差を2乗したのが[[分散 (統計学)|分散]]であり、従って、標準偏差は分散の非負の[[平方根]]である{{sfn|JIS Z 8101-1:1999|loc=1.13 分散}}。標準偏差が {{math|0}} であることは、データの値が全て等しいことと[[同値]]である。 [[母集団]]や確率変数の標準偏差を {{mvar|σ}} で、[[標本 (統計学)|標本]]の標準偏差を {{mvar|s}} で表すことがある。 [[二乗平均平方根]] (RMS) を用いると、標準偏差は偏差の二乗平均平方根に等しくなる。 == 概要 == データ {{math2|''x''{{sub|1}}, ''x''{{sub|2}}, …, ''x{{sub|n}}''}} の[[算術平均|平均値]]からの[[統計的ばらつき|散らばり具合]]を数値にした'''標準偏差'''は、次の式で定義される: :<math>s=\sqrt{\frac{1}{n} \textstyle\sum\limits_{i=1}^n (x_i -\overline{x})^2}</math> ここで {{math|{{overline|''x''}}}} は平均値を表す。この定義は、データを[[数ベクトル空間|数ベクトル]]と見て、「散らばり具合」を[[偏差]]ベクトルの[[ノルム#有限次元ベクトルのノルム|ユークリッドノルム]]ととらえる考えに基づく(このことより[[偏差#平均偏差・平均絶対偏差|平均偏差]]でなく[[自乗]]平均をとる)。 :もとのデータ {{mvar|'''x'''}} を、平均値、「散らばり具合」を変えず、偏差が全て同じであるように取り直したデータ {{mvar|'''y'''}} を考える。 :{{mvar|'''x'''}} の大きさが奇数のときは、{{mvar|'''x'''}} を、自分自身2個を併せたデータ(大きさは偶数)に取り直す(そうしても平均値、「散らばり具合」は変わらない)。 :{{mvar|'''y'''}} の偏差ベクトルは {{math2|(±''s'', ±''s'', …, ±''s'') (''s'' ≥ 0)}} の形になる。{{mvar|'''x'''}} と {{mvar|'''y'''}} の「散らばり具合」が等しいことから、 :<math>\| \boldsymbol{x} - \overline{\boldsymbol{x}} \| = \| (\pm s, \cdots, \pm s) \|</math> :<math>ns^2 = \textstyle\sum\limits_{i=1}^n (x_i -\overline{x})^2</math> :<math>s=\sqrt{\frac{1}{n} \textstyle\sum\limits_{i=1}^n (x_i -\overline{x})^2}</math> // 標準偏差は[[平方根]]を取るため、簡単な計算法則が成り立ちにくいという特徴がある。そこで'''[[分散 (統計学)|分散]]''' {{math|''s''{{sup|2}}}} を :<math>s^2 = \frac{1}{n} \textstyle\sum\limits_{i=1}^n (x_i -\overline{x})^2</math> で定義する。分散には簡単な計算法則がいくつか成り立つことから、種々の標準偏差ができるようになる。 {{main|分散 (統計学)}} 標準偏差の概念は、[[イギリス]]の[[統計学]]者[[フランシス・ゴルトン]]により、親子の身長の相関関係を調べる中で初めて見出された<ref name="soumu">[https://www.soumu.go.jp/main_content/000607858.pdf#page=37 高校からの統計・データサイエンス活用 総務省政策統括官(統計基準担当)p.34]</ref>。データを数ベクトルと見る考え方は[[相関係数]]の導入と命名につながった。ゴルトンはこれらの研究により[[平均への回帰]]という現象を見出した<ref>[https://bellcurve.jp/statistics/blog/13987.html 平均への回帰、相関係数―統計学史(2) ブログ 統計WEB]</ref>。 [[ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン]]のゴルトン研究室を継承した<ref>[http://www.naro.affrc.go.jp/archive/niaes/magazine/158/mgzn15803.html 農環研ウェブ高座 「農業環境のための統計学」 第10回 (農業と環境 No.158 2013.6)]</ref>[[カール・ピアソン]]はゴルトンの研究を定式化<ref name="soumu"/>、体系化し<ref>{{Cite journal|和書|author=酒井弘憲 |title=第5回 統計学の巨人:ゴルトンとピアソン |journal=ファルマシア |issn=0014-8601 |publisher=日本薬学会 |year=2016 |volume=52 |issue=2 |pages=164-165 |naid=130005127751 |doi=10.14894/faruawpsj.52.2_164 |url=https://doi.org/10.14894/faruawpsj.52.2_164}}</ref>、初めて "standard deviation"(「標準偏差」)と名付けた<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%20%E3%83%94%E3%82%A2%E3%82%BD%E3%83%B3-1628766 カール ピアソンとは - コトバンク]</ref><ref>[http://www.ariga-kagakushi.info/portrait/Pearson.html 【科学史の肖像】Karl Pearson, 1857-1936]</ref><ref>[https://biolab.sakura.ne.jp/standard-deviation.html 標準偏差の名付け親は,相関係数で有名なピアソン,不偏標準偏差の話題と共に] 生物科学研究所 井口研究室</ref>。 [[確率分布]]において最も基本となる[[正規分布]]曲線において、[[変曲点]]の {{mvar|x}}座標と平均の絶対差は標準偏差に等しくなる。このことから、標準偏差は[[信頼区間]]の基本的な[[単位]]となる。 日本の受験業界で広く使われている[[学力偏差値]]は標準偏差の応用例の一つで、異なる試験でも、平均点よりどれだけ離れているかをある統一した尺度でとらえることができるようになっている。 [[金融工学]]においては、[[株式]]の[[リスク]]を[[確率分布]]の標準偏差でとらえることがある<ref>[https://www.gpif.go.jp/gpif/diversification2.html 分散投資の意義② 投資のリスクとは|年金積立金管理運用独立行政法人]</ref><ref>[https://www.nomura.co.jp/terms/japan/hi/A02397.html 標準偏差・分散|証券用語解説集|野村證券]</ref>。 == 母集団の標準偏差 == 母集団全てのデータ {{math2|''x''{{sub|1}}, ''x''{{sub|2}}, …, ''x{{sub|n}}''}} に対して、[[算術平均|平均値]] {{math|{{overline|''x''}}}} は次の式で定義される: :<math>\overline{x} = \frac{1}{n} \textstyle\sum\limits_{i=1}^n x_i</math> この平均値 {{math|{{overline|''x''}}}} を使って得られる[[分散 (統計学)|分散]] {{math|''σ''{{sup|2}}}} を次の式で定義する: :<math>\sigma^2 = \frac{1}{n} \textstyle\sum\limits_{i=1}^n (x_i - \overline{x})^2 = \dfrac{1}{n} \sum\limits_{i=1}^n {x_i}^2 - \overline{x}^2</math> {{math|''σ''{{sup|2}}}} を母分散と言うこともある。 この分散の非負の[[平方根]] {{mvar|σ}} を、母集団の'''標準偏差'''と定義する<ref name="K">{{harvnb|栗原|2011|p={{google books quote|id=r5JIE8QbPbAC|page=47|47}}}}</ref>。分散もデータの[[統計的ばらつき|散らばり具合]]を表す[[統計量]]であるが、分散と違い標準偏差はデータの値と[[量の次元|次元]]が等しくなる。偏差は平均的には標準偏差の分だけ離れていると考えることができる{{sfn|稲垣|1990|p=21}}。 == 標本の標準偏差 == === 標本標準偏差 === [[母集団]]の中から、大きさ {{mvar|n}}(母集団の大きさよりはるかに小さい)の[[標本]] {{math2|''x''{{sub|1}}, ''x''{{sub|2}}, …, ''x{{sub|n}}''}} を抽出したとする。このとき、標本平均は次の式で表される: :<math>\bar{x} = \frac{1}{n} \textstyle\sum\limits_{i=1}^n x_i</math> この標本平均を使って次式で定義される量を'''標本分散'''と呼ぶ: :<math>s^2 = \frac{1}{n}\textstyle\sum\limits_{i=1}^n (x_i - \bar{x})^2 = \dfrac{1}{n} \sum\limits_{i=1}^n {x_i}^2 - \bar{x}^2</math> 標本分散の平方根 {{mvar|s}} を'''標本標準偏差'''と呼ぶ<ref name="K" />。 === 不偏標準偏差 === {{math|''σ''{{sup|2}}}} を母分散、{{math|''s''{{sup|2}}}} を標本分散とすると、標本分散の期待値 {{math|''E''[''s''{{sup|2}}]}} は、 :<math>E[s^2] = \frac{n-1}{n} \sigma^2</math> となることが示される。つまり、標本分散は母分散よりも少し小さくなる<ref group="注釈">極端な例として、標本の大きさが {{math|1}} の場合、ばらつきがないので標本の分散は必ず {{math|0}} となるが、母集団のばらつきは通常 {{math|0}} ではない。</ref>。そのため、標本分散は母分散の[[偏り#推定量の偏り|不偏推定量]]ではない。そこで、 :<math>v^2 = \frac{1}{n-1} \textstyle\sum\limits_{i=1}^n (x_i - \bar{x})^2 = \dfrac{1}{n-1} \sum\limits_{i=1}^n {x_i}^2 - \dfrac{n}{n-1}\bar{x}^2</math> を考えると、この量の期待値は母分散に等しく、母分散の不偏推定量になっている。 こうして定義される {{math|''v''{{sup|2}}}} を[[分散 (統計学)#標本分散・不偏標本分散|不偏分散]]という。{{mvar|v}} を'''不偏標準偏差'''という。 紛らわしいが、 {{math|''v''{{sup|2}}}} を'''標本分散'''と呼ぶこともある。さらに {{math|''v''{{sup|2}}}} の[[平方根]] {{mvar|v}} を'''標本標準偏差'''ということもある。名称の混乱については後述する。 === 母集団の標準偏差の不偏推定量 === 前述のように不偏分散は、母分散の不偏推定量である(標本から測定した推定量の期待値が母分散に等しい)。しかし、不偏分散の平方根 {{mvar|v}} は、母集団の標準偏差の不偏推定量ではない。 母集団が[[正規分布]]に従う場合、母集団の標準偏差の不偏推定量 {{mvar|D}} は次式で与えられる{{sfn|吉澤|1989|pp=78–79}}: :<math>D= \sqrt{\frac{n-1}{2}} \frac{\Gamma \left( \frac{n-1}{2} \right)}{ \Gamma \left( \frac{n}{2} \right)} v</math> ここで、{{mvar|Γ}} は[[ガンマ関数]]、{{math|''v''{{sup|2}}}} は不偏分散である。 標本の大きさが大きくなれば、母集団の標準偏差の不偏推定量 {{mvar|D}} は、近似的に、平均からの偏差平方和を {{math2|''n'' &minus; 1.5}} で割った値の平方根として求められる{{sfn|Brugger|1969|p=32}}: :<math>D \approx \sqrt{\frac{1}{n-1.5} \textstyle\sum\limits_{i=1}^n(x_i - \bar{x})^2} =\sqrt{\dfrac{1}{n-1.5} \textstyle\sum\limits_{i=1}^n {x_i}^2 - \dfrac{n}{n-1.5}\bar{x}^2}</math> === 名称の混乱 === 統計の教科書によっては、不偏分散(分母が {{math2|''n'' &minus; 1}} の方)を「標本分散」と呼んでいる場合もあり<ref>例:{{harv|東京大学教養学部統計学教室編|1991}}。</ref>、用語が混乱して使用されている場合がある。母平均が不明で、代わりに標本平均を使用する場合には、期待値が母分散となる不偏分散を使用することが多い<ref>分散または標準偏差の図による解説と具体例は、{{Harv|村瀬|高田|廣瀬|2007|pp=52–53}}などを参照。</ref>。 ==== 英語 ==== 英語では不偏分散による標準偏差のことを「{{en|sample standard deviation}}」(標本標準偏差)と呼ぶことが多い。この語は[[カール・ピアソン]]によって1893年に導入された<ref>{{Cite web |url = http://jeff560.tripod.com/s.html |title = Earliest Known Uses of Some of the Words of Mathematics (S) |accessdate = 2016-01-30 }}</ref>。ただし不偏分散による標準偏差を意味する英語の表現には混乱がある。 *英語版ウィキペディアの「[[:en:standard deviation|{{lang|en|standard deviation}}]]」という記事では、不偏分散による標準偏差(平均からの偏差平方和を {{math2|''n'' &minus; 1}} で割った値の平方根)のことを「{{en|corrected sample standard deviation}}」と表記し、平均からの偏差平方和を {{mvar|n}} で割った値の平方根を「{{en|uncorrected sample standard deviation}}」や「{{en|the standard deviation of the sample}}」と表記している<!--英語版ウィキペディアでは、{{Interlang|en|Unbiased estimation of standard deviation}}の項目で、標準偏差の不偏推定量が説明されている。-->{{出典無効|date=2016-01|title=WP:CIRCULAR参照}}<!-- 出典というよりは補足だけれども、あまり良い記述の仕方ではない -->。 *アメリカの {{en|Fundamentals of Engineering (FE)}} の試験問題での「{{lang|en|sample standard deviation}}」は {{math2|''n'' &minus; 1}} で割る方を意味する。 *アメリカ・ユタ大学の[http://www.psych.utah.edu/malloy/ トム・マロイ]は、統計学の学習者向けウェブページ<ref>「[http://www.psych.utah.edu/aoce/web-text/Estimating-Parameters99-12-15/ Estimating Parameters Web Page]」</ref>では、「{{lang|en|sample standard deviation}}」を平均からの偏差平方和を {{mvar|n}} で割った値の平方根だと解説している。 ==== 日本語 ==== 日本語の「不偏標準偏差」という語にも混乱がある。日本の大学教授の間でも、不偏分散 {{math|''v''{{sup|2}}}} の平方根を、不偏標準偏差だと教える大学教員も多いが、母集団の標準偏差の不偏推定量 {{mvar|D}} を不偏標準偏差だと教える教員もいる。 * 兵庫大学の河野稔によるウェブページ<ref>「[http://arena.hyogo-dai.ac.jp/~kawano/HStat/?2013%2F3rd%2FDispersion 健康統計学-散布度]」</ref>や神戸大学の中澤港によるウェブページ<ref>「[http://minato.sip21c.org/oldlec/social_stat.html 高崎経済大学非常勤講義 第4回「記述統計(2):代表値」]」</ref>では前者である。 * 東北学院大学の根市一志による資料<ref>「[http://www.tscc.tohoku-gakuin.ac.jp/~neichi/lectures/statistics/estimate.pdf 標準偏差の不偏性]」</ref>では後者である。 このように、同じ用語でも話者によって定義が異なる場合がある。 ==== 表計算ソフト ==== [[表計算ソフト]]では次のようなワークシート関数が用意されている。 {|class=wikitable style="font-size:small" !分母!![[Microsoft Excel]]<br />[[Google ドキュメント#歴史|Googleスプレッドシート]]!![[Lotus 1-2-3]] |- |{{mvar|n}}||<code>STDEVP</code>, <code>STDEVPA</code>, <code>STDEV.P</code>||<center>-</center> |- |{{math2|''n'' &minus; 1}}||<code>STDEV</code>, <code>STDEVA</code>, <code>STDEV.S</code>||<code>@STD</code>, <code>@STDS</code> |} == 確率変数の標準偏差 == === 離散型確率変数 === {{mvar|X}} を離散型[[確率変数]]とする。{{mvar|X}} のとりうる値を {{math2|''x''{{sub|1}}, ''x''{{sub|2}}, …, ''x{{sub|n}}'', …}} とし、{{mvar|X}} が {{mvar|x{{sub|i}}}} をとる確率を {{mvar|p{{sub|i}}}} で表す。このとき :<math>\textstyle\sum\limits_{i=1}^{\infty} p_i = 1 \quad (p_i \geq 0)</math> である。このとき :<math>E[X] = \textstyle\sum\limits_{i=1}^{\infty} p_i x_i</math> を確率変数 {{mvar|X}} の[[期待値]]という。また、 :<math>V[X] = E \Bigl[ \bigl( X-E[X] \bigr)^2 \Bigr] = \textstyle\sum\limits_{i=1}^{\infty} p_i \bigl( x_i - E[X] \bigr)^2 = E[X^2]-(E[X])^2</math> を確率変数 {{mvar|X}} の[[分散 (統計学)|分散]]という。この分散の非負の[[平方根]]を'''標準偏差'''という。 === 連続型確率変数 === {{mvar|X}} を連続型[[確率変数]]とする。{{mvar|X}} の値が区間 {{math2|[''x''{{sub|1}}, ''x''{{sub|2}}]}} に属する確率が、[[連続写像|連続関数]] {{math|''f''(''x'')}} を用いて :<math>\int_{x_1}^{x_2} \! f(x) \, dx</math> と表せるとき、{{math|''f''(''x'')}} を {{mvar|X}} の[[確率密度関数]]という。このとき :<math>f(x) \geq 0, \quad \int_{-\infty}^{\infty} \! f(x) \, dx = 1</math> である。このとき :<math>E[X] = \int_{-\infty}^{\infty} \! xf(x) \, dx</math> を確率変数 {{mvar|X}} の[[期待値]]という。また、 :<math>V[X] = \int_{-\infty}^{\infty} \! \big(x - E[X]\big)^{2}f(x) \, dx</math> を確率変数 {{mvar|X}} の[[分散 (統計学)|分散]]という。この分散の非負の[[平方根]]を'''標準偏差'''という。 == 標準偏差の推定 == 母標準偏差が未知のときは、標本から得られた標本標準偏差から推定することができる。母標準偏差を {{mvar|σ}}、大きさ {{mvar|N}} の標本の標準偏差を {{mvar|s}} とすると、母集団分布が正規分布ならば {{math|σ{{sup|2}}}} は次の自由度 {{math2|''N'' &minus; 1}} の [[カイ二乗分布|{{math|''χ''{{sup|2}}}} 分布]]に従う。 :<math>\chi^2 = \frac{Ns^2}{\sigma^2}</math> {{mvar|σ}} の95%[[信頼区間]]は {{math2|''P'' {{=}} 0.975}} の {{math|''χ''{{sup|2}}}} から {{math2|''P'' {{=}} 0.025}} の {{math|''χ''{{sup|2}}}} までの範囲で、{{mvar|s}} と {{mvar|σ}} の比は {{math2|''N'' {{=}} 5}} では 0.31 から 1.49、{{math2|''N'' {{=}} 20}} では 0.67 から 1.28 となり、標本が小さい場合はかなり範囲が広いことに留意すべきである。 [[File:Confidence interval by Standard deviation.svg|thumb|{{mvar|z}} → {{mvar|p}}]] [[File:Standard deviation by Confidence interval.svg|thumb|{{mvar|p}} → {{mvar|z}}]] {|class="wikitable" style="font-size:small" !rowspan="2"|信頼区間 !信頼度 !colspan="2"|不信頼度 |- !百分率!!百分率!!分数 |- |style="text-align:right"|{{val|0.318639}}{{mvar|σ}} |25% |75% |{{sfrac|3|4}} |- |style="text-align:right"|{{val|0.674490}}{{mvar|σ}} |50% |50% |{{sfrac|1|2}} |- |style="text-align:right"|{{val|0.994458}}{{mvar|σ}} |68% |32% |{{sfrac|1|{{val|3.125}}}} |- |style="text-align:right"|1{{mvar|σ}} |{{val|68.2689492}}% |{{val|31.7310508}}% |{{sfrac|1|{{val|3.1514872}}}} |- |style="text-align:right"|{{val|1.281552}}{{mvar|σ}} |80% |20% |{{sfrac|1|5}} |- |style="text-align:right"|{{val|1.644854}}{{mvar|σ}} |90% |10% |{{sfrac|1|10}} |- |style="text-align:right"|{{val|1.959964}}{{mvar|σ}} |95% |5% |{{sfrac|1|20}} |- |style="text-align:right"|2{{mvar|σ}} |{{val|95.4499736}}% |{{val|4.5500264}}% |{{sfrac|1|{{val|21.977895}}}} |- |style="text-align:right"|{{val|2.575829}}{{mvar|σ}} |99% |1% |{{sfrac|1|100}} |- |style="text-align:right"|3{{mvar|σ}} |{{val|99.7300204}}% |{{val|0.2699796}}% |{{sfrac|1|370.398}} |- |style="text-align:right"|{{val|3.290527}}{{mvar|σ}} |99.9% |0.1% |{{sfrac|1|1000}} |- |style="text-align:right"|{{val|3.890592}}{{mvar|σ}} |99.99% |0.01% |{{sfrac|1|10000}} |- |style="text-align:right"|4{{mvar|σ}} |{{val|99.993666}}% |{{val|0.006334}}% |{{sfrac|1|{{val|15787}}}} |- |style="text-align:right"|{{val|4.417173}}{{mvar|σ}} |99.999% |0.001% |{{sfrac|1|{{val|100000}}}} |- |style="text-align:right"|4.5{{mvar|σ}} |{{val|99.9993204653751}}% |{{val|0.0006795346249}}% |{{sfrac|1|{{val|147159.5358}}}} = {{sfrac|3.4|{{val|1000000}}}} |- |style="text-align:right"|{{val|4.891638}}{{mvar|σ}} |{{val|99.9999}}% |{{val|0.0001}}% |{{sfrac|1|{{val|1000000}}}} |- |style="text-align:right"|5{{mvar|σ}} |{{val|99.9999426697}}% |{{val|0.0000573303}}% |{{sfrac|1|{{val|1744278}}}} |- |style="text-align:right"|{{val|5.326724}}{{mvar|σ}} |{{val|99.99999}}% |{{val|0.00001}}% |{{sfrac|1|{{val|10000000}}}} |- |style="text-align:right"|{{val|5.730729}}{{mvar|σ}} |{{val|99.999999}}% |{{val|0.000001}}% |{{sfrac|1|{{val|100000000}}}} |- |style="text-align:right"|[[シックス・シグマ|6{{mvar|σ}}]] |{{val|99.9999998027}}% |{{val|0.0000001973}}% |{{sfrac|1|{{val|506797346}}}} |- |style="text-align:right"|{{val|6.109410}}{{mvar|σ}} |{{val|99.9999999}}% |{{val|0.0000001}}% |{{sfrac|1|{{val|1000000000}}}} |- |style="text-align:right"|{{val|6.466951}}{{mvar|σ}} |{{val|99.99999999}}% |{{val|0.00000001}}% |{{sfrac|1|{{val|10000000000}}}} |- |style="text-align:right"|{{val|6.806502}}{{mvar|σ}} |{{val|99.999999999}}% |{{val|0.000000001}}% |{{sfrac|1|{{val|100000000000}}}} |- |style="text-align:right"|7{{mvar|σ}} |{{gaps|99.999|999|999|7440%}} |{{val|0.000000000256}}% |{{sfrac|1|390682215445}} |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{refbegin|2}} *{{Cite journal |first=Richard M |last=Brugger |date=1969-10 |title=A Note on Unbiased Estimation of the Standard Deviation |publisher=[[アメリカ統計学会]] |journal=The American statistician |volume=23 |number=4 |issn=0003-1305 |page=32 |ref=harv}} *{{Cite book|和書 |author=吉澤康和 |title=新しい誤差論 - 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BSE
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BSE 牛海綿状脳症 ボンベイ証券取引所 ブダペスト証券取引所 北京証券取引所 ブラック・サン・エンパイア 後方散乱電子 地殻とマントル Bulk Silicate Earth)
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虚数単位
虚数単位(きょすうたんい、英: imaginary unit)とは、2乗して −1 になる数のことである。そのような数は2つだけあり、その内の一つを記号 i を用いて表す(どちらかに特定することはできない): 虚数単位 i は −1 の平方根の一つである。 i は実数でない。実数単位 1, 虚数単位 i は R 上線型独立である。 実数体に虚数単位 i を添加すると、四則演算ができる数の体系が得られる。この拡大体の元を複素数という。 虚数単位 i は実数でないため、感覚的には存在しない数ととらえられがちであるが、実数 C の直積集合の元として、実数の対(ハミルトンの定義)、行列表現、多項式環の剰余環などにより実現できる。 複素数平面では、虚数単位 i は、直交座標表示すると (0, 1) に当たる数である。 複素数に i を(左から)作用させると、複素数平面上で原点中心の 90° 回転になる。特に、虚数単位 i は、複素数平面上で実数単位 1 を原点中心に 90° 回転させたものである。 虚数単位を i で表したのはオイラーで、1770年頃である。i はラテン語の imaginarius の頭文字から採られている。 なお、文字 i が虚数単位以外の意味(電流など)として使われる場合に、重複を避けるべくj など別の文字で虚数単位を表すことがある。 積の交換法則などが成り立たないことを許容すると、相異なる3個以上の虚数単位からなる数の体系を考えることができる。3個の虚数単位(四元数)の場合は i , j , k {\displaystyle i,j,k} , 7個以上の虚数単位の組には i 1 , i 2 , ⋯ {\displaystyle i_{1},i_{2},\cdots } といったように一つずつ添字を付けて表すことが多い。 虚数単位 i とは、二次方程式 x + 1 = 0 の解の一つのことである: 二次方程式 x + 1 = 0 の解は、(x + i)(x − i) = 0 より、x = ±i。ゆえに、虚数単位の値の指定は、互いに反数である2つの値の違いでしかない。 虚数単位 i は −1 の平方根の一つであり、1の原始4乗根でもある。 虚数単位 i は実数でない。実数単位 1, 虚数単位 i は実数 R 上線型独立である。 −1 以外の負の数の平方根の値は、虚数単位 i を用いて、次により指定する: 実数体に虚数単位 i を添加して得られる拡大体の元(要素)を複素数という。特に実数でない複素数を虚数という。 虚数単位 i の導入は、実係数の三次方程式が相異なる 3 個の実数解を持つ場合、係数の加減乗除と実冪根では解が表せず(還元不能)、負の数の平方根を取ることが必要になることが分かる過程で行われていった。 複素数全体 C に、さらに複素数でない新たな虚数単位 j を添加した体の元を四元数という。このとき、ij = k とおくと、k も虚数単位である。すなわち k = −1 を満たす。この i, j, k をそのまま虚数単位とすることもできるが、複素数体の場合に −i を i と置き直しても同じ構造であるのと同じように、四元数体 H においても、虚数単位を取り直すことができる。すなわち、R の正規直交基底を一組選び、 によって写した像を新たに i, j, k とおいて虚数単位としてもよい。基底を左手系に取ると ij = −k となってしまうので、数学的な必然性はないが、慣習として右手系が選ばれる。 つまり虚数単位は、複素数・四元数の範囲を、実数部分と虚数部分に分けた時の、後者の方の基本単位である。八元数・十六元数はさらに多くの虚数単位を持つ。 虚数は、16世紀のイタリアで、三次方程式を解く過程で発見された。 1637年、ルネ・デカルトは、複素数の虚部を "仏: Nombre imaginaire"(「想像上の数」)と名付けた。負の数でさえあまり認められていない時代に、実数直線上にない数の導入には懐疑的であった。 1770年頃、オイラーは虚数単位を i と表した。i はラテン語の imaginarius の頭文字から採られている。 直積集合、剰余環などの概念により、負の数の平方根を用いない複素数の構成ができる。 実数体 R の直積集合 R に和、積を で入れると、(a, b) は複素数 a + bi に対応する。この対応で、虚数単位 i は (0, 1) である。 四元数 は R の元に対応し、実数単位 1, 3個の虚数単位 i, j, k は R の正規直交基底に対応する。 実数体 R 上の多項式環 R[X] に対して、X + 1 で割った剰余環 R[X]/(X + 1) は、複素数体 C と体同型である。 この対応で、虚数単位は同値類 [X] である。 複素数を C 上の作用と見ると、複素数は R 上での一次変換に対応し、その一次変換の表現行列に対応する。この対応より、虚数単位は実二次正方行列 に対応する。このとき J = −E(E は 2 次単位行列)である。 四元数についても同様に、四元数体 H における積を C に対して引き起こされる一次変換と見なすことにより という三つの虚数単位の行列表現を考えることができる。ここで σ k ( k = 1 , 2 , 3 ) {\displaystyle \sigma _{k}\ (k=1,2,3)} はパウリ行列である。また、C と見なすのでなく R と見なせば、実4次正方行列として表現することもできる。詳しくは四元数の項を参照されたい。 行列の積は結合的であるので、八元数や十六元数は(結合法則を満たさないため)行列表現できない。 n を整数、e をネイピア数とする。 ここまで複素数の虚数単位について述べてきた。複素数を一般化した二元数、分解型複素数や二重数についても、 j = +1 や ε = 0 を満たす要素を虚数単位ということもある。
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虚数単位とは、2乗して −1 になる数のことである。そのような数は2つだけあり、その内の一つを記号 i を用いて表す(どちらかに特定することはできない): 虚数単位 i は −1 の平方根の一つである。 i は実数でない。実数単位 1, 虚数単位 i は R 上線型独立である。 実数体に虚数単位 i を添加すると、四則演算ができる数の体系が得られる。この拡大体の元を複素数という。 虚数単位 i は実数でないため、感覚的には存在しない数ととらえられがちであるが、実数 C の直積集合の元として、実数の対(ハミルトンの定義)、行列表現、多項式環の剰余環などにより実現できる。 複素数平面では、虚数単位 i は、直交座標表示すると に当たる数である。 複素数に i を(左から)作用させると、複素数平面上で原点中心の 90° 回転になる。特に、虚数単位 i は、複素数平面上で実数単位 1 を原点中心に 90° 回転させたものである。 虚数単位を i で表したのはオイラーで、1770年頃である。i はラテン語の imaginarius の頭文字から採られている。 なお、文字 i が虚数単位以外の意味(電流など)として使われる場合に、重複を避けるべくj など別の文字で虚数単位を表すことがある。 積の交換法則などが成り立たないことを許容すると、相異なる3個以上の虚数単位からなる数の体系を考えることができる。3個の虚数単位(四元数)の場合は i , j , k , 7個以上の虚数単位の組には i 1 , i 2 , ⋯ といったように一つずつ添字を付けて表すことが多い。
[[画像:ImaginaryUnit5.svg|thumb|[[複素数平面]]において、虚数単位 {{mvar|i}} は、原点中心の90°回転の[[作用 (数学)|作用]]を表し、[[自乗|2乗]]すると {{math|&minus;1}} になる。]] '''虚数単位'''(きょすうたんい、{{lang-en-short|imaginary unit}})とは、[[自乗|2乗]]して {{math|[[&minus;1]]}} になる[[数]]のことである。そのような[[数]]は2つだけあり、その内の一つを記号 {{mvar|[[i]]}} を用いて表す(どちらかに特定することはできない): :<math>i^2 =-1</math> 虚数単位 {{mvar|i}} は {{math|&minus;1}} の[[平方根]]の一つである。 {{mvar|i}} は実数でない。[[実数]]単位 {{math|1}}, 虚数単位 {{mvar|i}} は {{mathbf|R}} 上[[線型独立]]である。 実数[[可換体|体]]に虚数単位 {{mvar|i}} を添加すると、[[算術#四則演算|四則演算]]ができる数の体系が得られる。この[[体の拡大|拡大体]]の[[元 (数学)|元]]を'''[[複素数]]'''という。 虚数単位 {{mvar|i}} は実数でないため、感覚的には存在しない数ととらえられがちであるが、実数 {{mathbf|C}} の[[直積集合]]の元として、実数の対([[ウィリアム・ローワン・ハミルトン|ハミルトン]]の定義)、[[行列]]表現、[[多項式環]]の[[剰余環]]などにより実現できる。 {{See also|複素数#形式的構成}} [[複素数平面]]では、虚数単位 {{mvar|i}} は、[[直交座標系|直交座標]]表示すると {{math|(0, 1)}} に当たる数である。 複素数に {{mvar|i}} を(左から)[[作用 (数学)|作用]]させると、複素数平面上で原点中心の {{math|90°}} [[回転 (数学)|回転]]になる。特に、虚数単位 {{mvar|i}} は、複素数平面上で実数単位 {{math|1}} を原点中心に {{math|90°}} 回転させたものである。 虚数単位を {{mvar|i}} で表したのは[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]で、1770年頃である<ref name="katano">{{Cite book|和書 |author=片野善一郎 |title=数学用語と記号ものがたり |publisher=[[裳華房]] |date=2003-08-25 |page=60}}</ref>。{{mvar|i}} は[[ラテン語]]の ''imaginarius'' の頭文字から採られている<ref name="visual">{{Cite book|和書 |author=クリフォード・ピックオーバー |translator=根上生也・水原文|title=ビジュアル数学全史 人類誕生前から多次元宇宙まで |publisher=[[岩波書店]] |date=2017-05-26 |isbn=978-4-00-006327-2|page=54}}</ref>。 なお、文字 {{mvar|i}} が虚数単位以外の意味([[電流]]など)として使われる場合に、重複を避けるべく{{mvar|j}} など別の文字で虚数単位を表すことがある。 [[積]]の[[交換法則]]などが成り立たないことを許容すると、相異なる3個以上の虚数単位からなる数の体系を考えることができる。3個の虚数単位([[四元数]])の場合は <math>i,j,k</math>, 7個以上の虚数単位の組には <math>i_1 ,i_2 ,\cdots</math> といったように一つずつ添字を付けて表すことが多い。 == 定義 == 虚数単位 {{mvar|i}} とは、[[二次方程式]] {{math2|''x''{{sup|2}} + 1 {{=}} 0}} の[[多項式の根|解]]の一つのことである: :<math>i^2 =-1</math> 二次方程式 {{math2|''x''{{sup|2}} + 1 {{=}} 0}} の解は、{{math2|(''x'' + ''i'')(''x'' &minus; ''i'') {{=}} 0}} より、{{math|1=''x'' = ±''i''}}。ゆえに、虚数単位の値の指定は、互いに[[反数]]である2つの値の違いでしかない。 虚数単位 {{mvar|i}} は [[-1|{{math|&minus;1}}]] の[[平方根]]の一つであり、[[1]]の原始4乗根でもある。 虚数単位 {{mvar|i}} は実数でない。実数単位 {{math|1}}, 虚数単位 {{mvar|i}} は[[実数]] {{mathbf|R}} 上[[線型独立]]である。 {{math|&minus;1}} 以外の負の数の平方根の値は、虚数単位 {{mvar|i}} を用いて、次により指定する: :{{math|''a'' > 0}} に対して、'''{{math|1={{sqrt|''a''}}''i''}}''' [[実数]][[可換体|体]]に虚数単位 {{mvar|i}} を添加して得られる[[体の拡大|拡大体]]の[[元 (数学)|元(要素)]]を'''[[複素数]]'''という。特に実数でない複素数を'''[[虚数]]'''という。 虚数単位 {{mvar|i}} の導入は、実係数の[[三次方程式]]が相異なる 3 個の実数解を持つ場合、係数の[[算術|加減乗除]]と実[[冪根]]では解が表せず([[還元不能]])、負の数の平方根を取ることが必要になることが分かる過程で行われていった。 複素数全体 {{mathbf|C}} に、さらに複素数でない新たな虚数単位 {{mvar|j}} を添加した体の元を[[四元数]]という。このとき、{{math|''ij'' {{=}} ''k''}} とおくと、{{mvar|k}} も虚数単位である。すなわち {{math|''k''{{sup|2}} {{=}} &minus;1}} を満たす。この {{math2|''i'', ''j'', ''k''}} をそのまま虚数単位とすることもできるが、複素数体の場合に {{math|&minus;''i''}} を {{mvar|i}} と置き直しても同じ構造であるのと同じように、四元数体 '''H''' においても、虚数単位を取り直すことができる。すなわち、'''R'''{{sup|3}} の[[正規直交基底]]を一組選び、 :<math>f : \mathbb{R}^3 \to \mathbb{H} \quad ((a,b,c)\mapsto ai+bj+ck)</math> によって写した像を新たに {{math2|''i'', ''j'', ''k''}} とおいて虚数単位としてもよい。基底を[[左手系]]に取ると {{math2|''ij'' {{=}} &minus;''k''}} となってしまうので、数学的な必然性はないが、慣習として右手系が選ばれる。 つまり虚数単位は、複素数・四元数の範囲を、実数部分と虚数部分に分けた時の、後者の方の基本単位である。[[八元数]]・[[十六元数]]はさらに多くの虚数単位を持つ。 == 負の数の平方根を用いない表現 == [[虚数]]は、[[16世紀]]のイタリアで、[[三次方程式]]を解く過程で発見された。 [[1637年]]、[[ルネ・デカルト]]は、複素数の虚部を "{{lang-fr-short|Nombre imaginaire}}"(「想像上の数」)と名付けた。負の数でさえあまり認められていない時代に、[[実数直線]]上にない数の導入には懐疑的であった。 {{main|複素数#歴史|三次方程式#概要|虚数#歴史}} 1770年頃、[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]は虚数単位を {{mvar|i}} と表した<ref name="katano"/>。{{mvar|i}} は[[ラテン語]]の ''imaginarius'' の頭文字から採られている<ref name="visual" />。 [[直積集合]]、剰余環などの概念により、負の数の平方根を用いない複素数の構成ができる。 === ハミルトンの定義 === {{main|複素数#実数の対として}} 実数体 {{mathbf|R}} の直積集合 {{math|'''R'''{{sup|2}}}} に和、積を :{{math2|1=(''a'', ''b'') + (''c'', ''d'') = (''a'' + ''c'', ''b'' + ''d'')}} :{{math2|1=(''a'', ''b'') × (''c'', ''d'') = (''ac'' &minus; ''bd'', ''ad'' + ''bc'')}} で入れると、{{math|(''a'', ''b'')}} は複素数 {{math|''a'' + ''bi''}} に対応する。この対応で、虚数単位 {{mvar|i}} は {{math|(0, 1)}} である。 [[四元数]] は {{math|'''R'''{{sup|4}}}} の元に対応し、実数単位 {{math|1}}, 3個の虚数単位 {{math2|''i'', ''j'', ''k''}} は {{math|'''R'''{{sup|4}}}} の[[正規直交基底]]に対応する。 === 多項式環からの構成 === 実数体 {{mathbf|R}} 上の[[多項式環]] {{math|'''R'''[''X'']}} に対して、{{math|''X''{{sup|2}} + 1}} で割った[[剰余環]] {{math|'''R'''[''X'']/(''X''{{sup|2}} + 1)}} は、複素数体 {{mathbf|C}} と体[[同型写像|同型]]である。 この対応で、虚数単位は[[同値類]] {{math|[''X'']}} である。 === 行列表現 === {{main|複素数#行列表現}} [[複素数]]を {{mathbf|C}} 上の[[作用 (数学)|作用]]と見ると、複素数は {{math|'''R'''{{sup|2}}}} 上での[[線形写像|一次変換]]に対応し、その一次変換の[[線型写像#行列表現|表現行列]]に対応する。この対応より、虚数単位は[[実二次正方行列]] :<math>J = \begin{pmatrix} 0 &-1 \\ 1 &0 \end{pmatrix}</math> に対応する。このとき {{math2|''J''{{sup|2}} {{=}} &minus;''E''}}({{mvar|E}} は 2 次[[単位行列]])である。 四元数についても同様に、四元数体 {{mathbf|H}} における積を {{math|'''C'''{{sup|2}}}} に対して引き起こされる一次変換と見なすことにより :<math> J_1 =i\sigma_3 = \begin{pmatrix} i &0 \\ 0 &-i \end{pmatrix} ,\quad J_2 =i\sigma_2 = \begin{pmatrix} 0 &1 \\ -1 &0 \end{pmatrix} ,\quad J_3 =i\sigma_1 = \begin{pmatrix} 0 &i \\ i &0 \end{pmatrix} </math> という三つの虚数単位の行列表現を考えることができる。ここで <math>\sigma_k \ (k=1,2,3) </math> は[[パウリ行列]]である。また、{{math|'''C'''{{sup|2}}}} と見なすのでなく {{math|'''R'''{{sup|4}}}} と見なせば、実{{math|4}}次[[正方行列]]として表現することもできる。詳しくは[[四元数]]の項を参照されたい。 行列の積は[[結合法則|結合的]]であるので、八元数や十六元数は([[結合法則]]を満たさないため)行列表現できない。 == 虚数単位の演算 == {{mvar|n}} を整数、{{mvar|e}} を[[ネイピア数]]とする。 ;虚数単位の累乗 :<math>i^{\,n} = \begin{cases} 1 &\text{if }n\equiv 0\pmod4\\ i &\text{if }n\equiv 1\pmod4\\ -1 &\text{if }n\equiv 2\pmod4\\ -i & \text{if }n\equiv 3\pmod4 \end{cases}</math> :虚数単位 {{mvar|i}} は、{{mathbf|C}} 上の[[作用 (数学)|作用]]としては[[複素数平面]]上での原点中心の {{math|90°}} 回転に当たる。 ;[[Iのi乗|虚数単位の虚数単位乗]] :<math>i^{\,i} =e^{-\left( \frac{1}{\,2\,} +2n\right) \pi}</math><ref name="imgnum">ポール・J・ナーイン『虚数の話』pp.270-271, [[青土社]]、2008年。</ref> ::[[主値]]での値は {{math|1=''i'' {{sup|''i''}} = e{{sup|&minus;{{sfrac|π|2}}}} = 0.20787957…}}({{OEIS|A049006}}) ;1の虚数単位乗 :<math>1^i =e^{-2n\pi}</math><ref name="imgf1">表実『理工系の数学入門コース5 複素関数』p.115, [[岩波書店]]、1988年。</ref><!-- ;変数の虚数単位乗 :<math>x^{ni} =\cos (\ln x^n )+i\sin (\ln x^n )</math>--> ;虚数単位の自然対数 :<math>\log i=\left( \frac{1}{\,2\,} +2n\right) \pi i</math><ref name="imgf2">岸正倫・藤本担孝『複素関数論』p.45, [[学術図書出版社]]、1980年。</ref><!-- ;底が虚数単位の変数 :<math>\log_i x=\frac{2\ln x}{i\pi}</math> ;変数の虚数単位累乗根 :<math>\sqrt[ni]{x} =\cos (\ln \sqrt[n]{x} )-i\sin (\ln \sqrt[n]{x} )</math>--> ;虚数単位の逆数 :<math>\frac{1}{i}=-i</math> ;虚数単位の平方根(1の原始8乗根) [[画像:Imaginary2Root.svg|200px|thumb|{{mvar|i}} の平方根 {{math|{{sqrt|''i''}}}} の複素数平面上における点]] :<math>\sqrt{i} = \pm \frac{\sqrt{2}}{2} (1+i) = \pm \frac{1+i}{\sqrt{2}}</math> ;虚数単位の立方根(1の原始12乗根) [[画像:Imaginary3Root.svg|200px|thumb|{{mvar|i}} の立方根{{mvar|i}}の立方根 {{math|{{radic|''i''|3}}}} の複素数平面上における点]] :<math>\sqrt[3]{i} = -i\,,\,\frac{\pm \sqrt{3} + i}{2}</math> == 一般化 == ここまで複素数の虚数単位について述べてきた。複素数を一般化した[[二元数]]、[[分解型複素数]]や[[二重数]]についても、 {{math|1= ''j''{{sup|2}} = +1}} や {{math|1= ''ε''{{sup|2}} = 0}} を満たす(実数でない)要素を虚数単位ということもある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author=ポール・J・ナーイン |title=虚数の話 |publisher=[[青土社]] |others=好田順治(監修)|translator=久保儀明 |date=2008-07 |isbn=978-4791763962}} == 関連項目 == *[[数学定数]] *[[冪根]] *[[iのi乗]] *[[オイラーの等式]] <!-- {{複素数}}--> {{DEFAULTSORT:きよすうたんい}} [[Category:複素数]] [[Category:代数的数]] [[Category:数学定数]] [[Category:初等数学]] [[Category:数学に関する記事]]
2003-08-09T19:00:17Z
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私を月まで連れてって!
『私を月まで連れてって!』(わたしをつきまでつれてって)は、竹宮惠子作の漫画作品。2005年には全6巻の完全版が刊行された。 1977年『SFファンタジア 地上編』に掲載された「夢見るマーズポート」を元に1981年より小学館の『ビッグコミックフォアレディ』誌、1985年9月号から1986年9月号まで『プチフラワー』誌に連載。 『Fly Me to the Moon』の曲名から着想を得て創作された。 特徴として、古今東西のさまざまな文学作品をモチーフあるいはパロディにした回が多数あり、SF初心者などにとっては導入にもなっている。 21世紀後半のアメリカを舞台にしたSFラブコメディ、かつホームコメディ。NASAに勤める優秀なA級宇宙飛行士でレトロ趣味を持つダン・マイルド、超能力を持つ少女ニナ・フレキシブルの17歳離れた二人の関係を中心に描く。 ニナの兄で少年科学者のアーチボルト、平安時代から続く京都の旧家の出である天才ハウスキーパー:温泉八重、巨大企業「シェラトン・グループ」の若き総帥ハリアン・シェラトンなどが、愉快でちょっとほろ苦いドタバタ活劇を繰り広げる。
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『私を月まで連れてって!』(わたしをつきまでつれてって)は、竹宮惠子作の漫画作品。2005年には全6巻の完全版が刊行された。 1977年『SFファンタジア 地上編』に掲載された「夢見るマーズポート」を元に1981年より小学館の『ビッグコミックフォアレディ』誌、1985年9月号から1986年9月号まで『プチフラワー』誌に連載。
{{出典の明記|date=2015-12-27}} {{Infobox animanga/Header |タイトル=私を月まで連れてって! |ジャンル=[[超能力]]、[[SF漫画]] }} {{Infobox animanga/Manga |作者=[[竹宮惠子]] |出版社=[[小学館]] |掲載誌=SFファンタジア 地上編→<br />[[ビッグコミックフォアレディ]]→<br />[[プチフラワー]] |開始号=[[1977年]] |終了号=1977年(SFファンタジア 地上編)<br />[[1981年]]2月号 - [[1985年]]4月号(フォアレディ)<br />1985年9月号 - [[1986年]]9月号(プチフラワー) |開始日= |終了日= |巻数=全6巻(フォアレディコミックス)<br />全4巻(文庫版)<br />全6巻([[完全版コミックス|完全版]]) }} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:漫画|漫画]] |ウィキポータル=[[Portal:漫画|漫画]] }} 『'''私を月まで連れてって!'''』(わたしをつきまでつれてって)は、[[竹宮惠子]]作の[[漫画]]作品。[[2005年]]には全6巻の[[完全版コミックス|完全版]]が刊行された。 [[1977年]]『SFファンタジア 地上編』に掲載された「夢見るマーズポート」を元に[[1981年]]より[[小学館]]の『[[ビッグコミックフォアレディ]]』誌、[[1985年]]9月号から[[1986年]]9月号まで『[[プチフラワー]]』誌に連載。 == 概要 == 『[[フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン|Fly Me to the Moon]]』の曲名から着想を得て創作された<ref>[[中央公論新社|中公]]愛蔵版「私を月まで連れてって!」作者まえがきより。</ref>。 特徴として、古今東西のさまざまな文学作品をモチーフあるいは[[パロディ]]にした回が多数あり、SF初心者などにとっては導入にもなっている。 == あらすじ == 21世紀後半<ref>ただし作品中で複数の設定が出てきている。</ref>のアメリカを舞台にしたSFラブコメディ、かつホームコメディ。[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]に勤める優秀なA級[[宇宙飛行士]]で[[レトロ]]趣味を持つダン・マイルド、[[超能力]]を持つ少女ニナ・フレキシブルの17歳離れた二人の関係を中心に描く。 ニナの兄で少年科学者のアーチボルト、平安時代から続く京都の旧家の出である天才[[家政婦|ハウスキーパー]]:温泉八重、巨大企業「シェラトン・グループ」の若き[[総帥]]ハリアン・シェラトンなどが、愉快でちょっとほろ苦いドタバタ活劇を繰り広げる。 == 登場人物 == ; ダン・マイルド : 本作の主人公。[[アメリカ空軍]][[少佐]]<ref>NASAの機材には全て「U.S.AIR FORCE」の銘が入っている。</ref>でNASAのA級<ref>ランクは他に中堅の「B級」、新米の「C級」がある。</ref>パイロット。[[ヒューストン]]郊外のメゾン(2階建てアパート)に住む独身。最先端の職業にいながら、レトロなものや古典(=20世紀の)SF、ファンタジーをこよなく愛する遊び心ある男。任務外では弛みっぱなしだが、緊急事態に際しては軍人らしく機敏な反応を見せる。ESP(超能力者)ではないが、ニナとの間では以心伝心。軍人かつ宇宙飛行士なので宇宙ステーションへの出張は度々<ref>本作当時では[[スペースシャトル]]が現役運用されている。</ref>。 ; ニナ・フレキシブル : 本作の主人公。ダンのメゾンの階下に住むフレキシブル家の娘。ESP(超能力者)で、ダンを恋人として慕っているが、歳の差なんと17歳。 ; アーチボルト(アーチー)・フレキシブル : ニナの兄。フレキシブル家の長男。度の強い眼鏡をかけたSC(特別教育クラス)の自ら認める天才児<ref>もっともSC選抜は、自分と兄のSC選抜テストの答案をすり替えた結果とニナが語っている。</ref>で、近視眼の少年ながら、ニナやダン他の人々と付き合ううちに、[[フレドリック・ブラウン]]などSFも読むように多少くだけていっているらしい。彼の発明品にまつわるエピソードは多い。 ; フレキシブル夫人 : ニナとアーチーの母親。掃除、洗濯他家事が苦手な平凡な主婦で、超[[ハウスキーパー]]のおヤエさんを頼りにしている。なぜか、フレキシブル家の人々は、ダンが家族同然に出入りしていることに疑問を持っている様子があまりない。 ; スタンダード・フレキシブル : フレキシブル家のご主人。ニナとアーチーの父親。子供たちや夫人の騒動に時々巻き込まれる商社マン。若い頃は詩人になりたかったらしい。 ; 温泉八重(おんぜいやえ) : 通称おヤエさん。マイルド家、フレキシブル家他多数の家をかけもちするスーパー・ハウスキーパー・レディ。Vol.2より、マイルド家のハウスキーパーとして登場しているが、複数の[[学位]]と各種の資格多数を所持し、[[平安時代]](9世紀頃?)から続く名家の[[お嬢様]]にして当主である等、徐々に人物像が明らかにされ、シリーズ後半は主役級の大活躍を見せる。 ; ハリアン・シェラトン : Vol.33「宇宙に書いたラブレター」より登場するおヤエさんの熱烈な求婚者。シェラトン財閥総帥の多忙な身ながらも、おヤエさん目当てに、マイルド家やフレキシブル家に足繁く通う。ダンのレトロ趣味をヒントに新ビジネスを開拓したりもする。 ; SABURINA : アーチーが製作したハウスキーパー・ロボット。市販のハウスキーパー・ロボットほど洗練された姿ではなく、命令者の言葉を字義通りに解釈して重大事故を起こしかけたなどの欠点から廃棄されるものの、おヤエさんに拾われ、晴れて活躍の場を得た。おヤエさんの好みで、[[劣等感|コンプレックス]]を持つ人格をプログラミングされ、おヤエさんの代理を務めるほどの成長ぶりを見せる。 ; ガイア : NASAの実験により製作された四次元コンピュータ。実用化の実験台に昇ったダンがイマジネーション豊か過ぎたため、計画中止・廃棄のやむなきに至るが、そのままダンのメゾンに棲み着いて、時々いたずらで時空混乱を起こしたりする。「ダンを愛する女性」の一人(名は[[ガイア]]にちなむ)。 ; ベンガル : アーチーが虎をイメージして作った失敗作(スタイルはどう見ても犬)のペットロボットに、エイリアン(燐光を発する宇宙生物)が取り憑いて誕生したフレキシブル家のペット。寂しい心に反応して、慰めてくれる。作中では、地球人と[[宇宙人|地球外知的生命体]]との交流が実現しているわけではないが、存在は確認されており、ストーリーに時々絡むことがある。 == サブタイトル == # 夢みるマーズポート(1977年『SFファンタジア 地上編』) # ダン・マイルド氏はご機嫌ななめ(『フォアレディ』創刊号〈1981年2月号〉) # 浪漫的家屋(『フォアレディ』3月号) # パラドックスの匣(『フォアレディ』4月号) # 麗しのSABURINA(『フォアレディ』5月号) # ヘラクレス病原体(『フォアレディ』6月号) # ザ・クローン(『フォアレディ』7月号) # スーパーカー・グラフィティ(『フォアレディ』9月号) # ジャバーウォックとお茶会を(『フォアレディ』10月号) # オリオン座は笑う(『フォアレディ』11月号) # 永遠のミストレル(『フォアレディ』1982年1月号) # エビデ・バイデ・ウー(『フォアレディ』1982年2月号) # アンソニーとクレオパトラ(『フォアレディ』1982年3月号) # エスパー戦記(『フォアレディ』1982年4月号) # アイドルを捜せ(『フォアレディ』1982年5月号) # 何かが道をやってくる?(『フォアレディ』1982年7月号) # オートマチックの虎(『フォアレディ』1982年8月号) # ひと目あなたに(『フォアレディ』1983年3月号) # 夢魔=ナイト・メア(『フォアレディ』1982年9月号) # ここより永遠に(『フォアレディ』1982年10月号) # スーパー・コミュニケーション(『フォアレディ』1982年11月号) # 家路(『フォアレディ』1983年1月号) # 彼方からの手紙(『フォアレディ』1983年2月号) # 黒い瞳(『フォアレディ』1983年4月号) # コンピュータの憂ウツ(『フォアレディ』1983年5月号) # もう一人の私(『フォアレディ』1983年6月号) # ビタミンZ(『フォアレディ』1983年7月号) # 金魚鉢の恋(『フォアレディ』1983年8月号) # 白いドレス(『フォアレディ』1983年12月号) # 牡丹灯籠(『フォアレディ』1983年9月号) # バミューダ・ハリケーン(『フォアレディ』1983年10月号) # 人形の夢と目覚め(『フォアレディ』1983年11月号) # 宇宙に書いたラブレター(『フォアレディ』1984年1月号) # 想像的犯罪(『フォアレディ』1984年2月号) # 天使の気分(『フォアレディ』1984年3月号) # ロイヤル・ストレート・フラッシュ(『フォアレディ』1984年4・5月号) # くれない症候群(『フォアレディ』1984年6月号) # E=MC^2(『フォアレディ』1984年9月号) # オリエント急行殺人未遂事件(『フォアレディ』1984年7月号) # ヤセた〜い、でも食べたい!(『フォアレディ』1984年8月号) # タイム・スキャンダル(『フォアレディ』1984年10月号) # ティー・タイム・プレイ(『フォアレディ』1984年11月号) # 先生のお気に入り(『フォアレディ』1984年12月号) # ラビング・ジ・エイリアン(『フォアレディ』1985年1月号) # ニュアンスしましょ(『フォアレディ』1985年2月号) # 完全なる結婚(『フォアレディ』1985年3月号) # おヤエさんの結婚(『フォアレディ』1985年4月号) # ハリアンさんの日曜日(『プチフラワー』1986年3月号) # Do it フレキシブル!(『プチフラワー』1985年9月号) # 隣は何をする人ぞ(『プチフラワー』1985年11月号) # 赤いガラスの宮殿(『プチフラワー』1986年1月号) # カルチャークラブ(『プチフラワー』1986年7月号) # lonely around(『プチフラワー』1986年5月号) # 諸行無常(『プチフラワー』1986年9月号) * 地球(テラ)フォーミング(『[[毎日新聞]]』2001年1月11日夕刊) == 関連作品 == *「[[エデン2185]]」 - 第38話「E=MC^2」に登場するシド・ヨーハンを主人公とするSF作品。植民惑星「エデン2185」にたどり着く事を目的として[[2085年]]に打ち上げられる光子ロケットの船名にちなむ。 *「[[ブライトの憂鬱]]」 - 八重とハリアンの長男が主人公の続編。 *「[[地球へ…]]」- テレビアニメ化の際のオリジナルキャラクターとして、本作のキャラクターを基にした者が登場。 == 関連商品 == === イメージアルバムLPレコード === ; 私を月まで連れてって!(1983年3月21日、日本コロムビア) ; Side-A # Fly Me To The Moon(フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン)作詞・作曲:BART HOWARD / 編曲:川村栄二 / 歌:鈴木博 # Nostalgic Spaceman(ノスタルジック・スペースマン)作詞:松下誠 / 作曲・編曲:川村栄二 / 歌:上野千佳子 # Saburina(麗わしのサブリナ)作曲・編曲:川村栄二 # Wings(ウイングス)作詞:竹宮恵子 / 作曲・編曲:川村栄二 / 歌:上野千佳子、三浦義和 # Space Flight(宇宙飛行)作曲・編曲:松下誠 ; Side-B # Journey To The Starry Night(星明かりのジャーニー)作曲・編曲:川村栄二 # Time Trip(タイム・トリップ)作詞・竹宮恵子 / 作曲・編曲:川村栄二 / 歌:上野千佳子、川村栄二 # Paradox's Box(パラドックスの匣)作曲・編曲:川村栄二 # Midnight Merry-go-round(真夜中のメリーゴラウンド)作曲・編曲:松下誠 # Theme From "FLY ME TO THE MOON"「私を月まで連れてって!」のテーマ 作曲・編曲:川村栄二 #* 英訳協力:青木由起子(A-4、B-2) ; 私を月まで連れてって!Ⅱ(1984年12月21日、日本コロムビア) ; Side-A # Claire de Lune(月の光)作曲:Claude Dedussy / 編曲:川村栄二 / ピアノソロ:深町純 # It's Only Paper Moon(イッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーン)作詞:Billy Rose&E.Y.Harburg / 作曲:Harold Arlen / 歌:木村真紀 # Bengal in Love(ベンガル・イン・ラブ)作曲:田中公平 # Nostalgic Spaceman(ノスタルジック・スペースマン)作曲:川村栄二 # Moon River(ムーン・リバー)作曲:Henry Mancini ; Side-B # Fly Me To The Moon(フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン)作詞・作曲:Bart Howard / 歌:木村真紀 # Another Me(アナザー・ミー)作曲:田中公平 # Moonlight Serenade(ムーンライト・セレナーデ)作曲:Glenn Miller # Time Trip(タイム・トリップ)作曲:川村栄二 # Honeymoon at 2034(2034年のハネムーン)作曲:田中公平 # Fly Me To The Moon(フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン)作曲:Bart Howard / ピアノソロ:深町純 #* 演奏:コロムビア・オーケストラ、編曲:青木望・田中公平  == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{竹宮惠子}} {{デフォルトソート:わたしをつきまてつれてつて}} [[Category:竹宮惠子の漫画作品]] [[Category:漫画作品 わ|たしをつきまてつれてつて]] [[Category:1981年の漫画]] [[Category:女性漫画雑誌掲載漫画]] [[Category:月刊フラワーズ]] [[Category:SF漫画作品]] [[Category:恋愛漫画]] [[Category:超能力を題材とした漫画作品]] [[Category:宇宙飛行士を題材とした漫画作品]] [[Category:家政婦を題材とした作品]] [[Category:アメリカ合衆国を舞台とした漫画作品]] [[Category:イメージ・アルバム]]
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沢たまき
沢 たまき(さわ たまき、本名:山本 昌子(やまもと まさこ)、1937年〈昭和12年〉1月2日 ‐ 2003年〈平成15年〉8月9日)は、日本の歌手、女優、政治家。歌手や女優などの芸能活動の後、政界に転身し参議院議員を務めた。 神奈川県川崎市出身。ラジオ番組「大学勝ち抜き歌合戦」での優勝を機に、山脇学園短期大学在学中の1956年にテイチクより歌手デビュー。このジャズ・シンガー時代に、TBSのプロデューサーと熱い討論をしたというエピソードがある。 1966年にビクターへ移籍。移籍第一弾『ベッドで煙草を吸わないで』が大ヒットする。 1969年から1974年まで東京12チャンネルで放映された「プレイガール」への出演(沢村たまき=オネエ役)など、女優としても活躍。異色なところでは、「独占!おとなの時間」(テレビ東京系)など主に深夜番組の司会で活躍。また、「クイズダービー」では、五月みどりの後を受けて2代目2枠レギュラー解答者を担当した。正答率は3割5分7厘(平均3勝6敗~4勝5敗ペース)と決して悪くはなかったものの、歴代ワースト6位の17連敗を記録した。 1995年5月、『リングの魂』(テレビ朝日系)の企画で、「憧れの人に会いたい」という企画で元プロレスラーでトレーニングジムを経営するアニマル浜口の憧れの女優として沢との一日デートが実現した。この時の浜口は、いつもの気合は何処へやら、終始デレデレしており、意外な一面を見せたという。 晩年には、新宿のホストを買春したという記事が「週刊宝石」に掲載されたが、後に週刊宝石側はこの記事の虚偽を認めた。過去に、メルシャンのCMに出演していたが、実際には下戸だった。 小沢一郎の要請もあり1995年頃より政治活動に転向、翌1996年第41回衆議院議員総選挙に新進党公認で東京12区から出馬するも約1200票差の次点で落選(当選者は同じく元タレント・参議院議員で自由民主党公認の八代英太)。1998年第18回参議院議員選挙(比例区・公明)で初当選。同年11月の公明党再結成に参加し、厚生労働委員会委員などを務める。 しかし在任中の2003年8月9日、居住先の議員宿舎での入浴中、虚血性心不全により急逝。66歳没。同年8月20日、新宿区・落合斎場にて “沢たまきを偲ぶ会” が催された。 創価学会員であった。1967年11月25日に入会し、組織内では「婦人部副本部長」を務めた。
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沢 たまきは、日本の歌手、女優、政治家。歌手や女優などの芸能活動の後、政界に転身し参議院議員を務めた。
{{政治家 | 各国語表記 = さわ たまき | 画像 = | 画像説明 = | 国略称 = {{JPN}} | 生年月日 = [[1937年]][[1月2日]] | 出生地 = [[神奈川県]][[川崎市]] | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1937|1|2|2003|8|9}} | 死没地 = [[東京都]] | 出身校 = [[山脇学園短期大学]] | 所属政党 = ([[新進党]]→)<br />(公明→)<br />[[公明党]] | 現職 = | 家族 = | サイン = | ウェブサイト = | サイトタイトル = | 国旗 = JPN | 職名 = [[参議院議員]] | 選挙区 = [[参議院比例区|比例区]] | 当選回数 = 1回 | 就任日 = [[1998年]] | 退任日 = [[2003年]][[8月9日]] | 退任理由 = 急死 }} '''沢 たまき'''(さわ たまき、本名:山本 昌子<ref>[https://www.sangiin.go.jp/japanese/san60/giin/pdf/2019giin_list.pdf 歴代参議院議員一覧]、[[参議院]]。</ref>(やまもと まさこ)、[[1937年]]〈[[昭和]]12年〉[[1月2日]] ‐ [[2003年]]〈[[平成]]15年〉[[8月9日]])は、[[日本]]の[[歌手]]、[[俳優|女優]]、[[政治家]]。歌手や女優などの芸能活動の後、政界に転身し[[参議院議員]]を務めた。 == 来歴 == [[神奈川県]][[川崎市]]出身。[[ラジオ番組]]「大学勝ち抜き歌合戦」での優勝を機に、[[山脇学園短期大学]]在学中の[[1956年]]に[[テイチク]]より[[歌手]]デビュー。この[[ジャズ・シンガー]]時代に、[[TBSテレビ|TBS]]のプロデューサーと熱い討論をしたというエピソードがある<ref>[[なかにし礼]]の小説『[[世界は俺が回してる]]』に書かれている</ref>。 [[1966年]]に[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター]]へ移籍。移籍第一弾『[[ベッドで煙草を吸わないで]]』が[[ヒット曲|大ヒット]]する。 [[1969年]]から[[1974年]]まで[[テレビ東京|東京12チャンネル]]で放映された「[[プレイガール (テレビドラマ)|プレイガール]]」への出演(沢村たまき=オネエ役)など、女優としても活躍。異色なところでは、「[[独占!おとなの時間]]」(テレビ東京系)など主に深夜番組の司会で活躍。また、「[[クイズダービー]]」では、[[五月みどり]]の後を受けて2代目2枠レギュラー解答者を担当した。正答率は3割5分7厘(平均3勝6敗~4勝5敗ペース)と決して悪くはなかったものの、歴代ワースト6位の17連敗を記録した。 [[1995年]]5月、『[[リングの魂]]』([[テレビ朝日]]系)の企画で、「憧れの人に会いたい」という企画で元[[プロレスラー]]でトレーニングジムを経営する[[アニマル浜口]]の憧れの女優として沢との一日デートが実現した。この時の浜口は、いつもの気合は何処へやら、終始デレデレしており、意外な一面を見せたという。 晩年には、新宿のホストを買春したという記事が「[[週刊宝石]]」に掲載されたが、後に週刊宝石側はこの記事の虚偽を認めた。過去に、[[メルシャン]]の[[コマーシャルメッセージ|CM]]に出演していたが、実際には下戸だった。 [[小沢一郎]]の要請もあり[[1995年]]頃より政治活動に転向、翌[[1996年]]第41回[[衆議院議員総選挙]]に[[新進党]]公認で[[東京都第12区|東京12区]]から出馬するも約1200票差の次点で落選(当選者は同じく元[[タレント]]・参議院議員で[[自由民主党_(日本)|自由民主党]]公認の[[八代英太]])。[[1998年]][[第18回参議院議員通常選挙|第18回参議院議員選挙]]([[参議院比例区|比例区]]・公明)で初当選。同年11月の[[公明党]]再結成に参加し、[[厚生労働委員会]]委員などを務める。 しかし在任中の[[2003年]][[8月9日]]、居住先の議員宿舎での入浴中、虚血性[[心不全]]により急逝。{{没年齢|1937|1|2|2003|8|9}}<ref>[https://www.nikkansports.com/ns/general/personal/2003/pe-030809.html 女優で公明党参院議員の沢たまきさんが虚血性心不全で急死]</ref>。同年[[8月20日]]、[[新宿区]]・[[落合斎場]]にて “沢たまきを偲ぶ会” が催された。 [[創価学会]]員であった。[[1967年]][[11月25日]]に入会し、組織内では「婦人部副本部長」を務めた。 == 出演作品 == === テレビドラマ === * [[月曜日の男]](1961年 - 1964年、[[TBSテレビ|TBS]] / [[松竹]]) * [[廃虚の唇#テレビドラマ版|廃虚の唇]](1964年、[[テレビ朝日|NET]] / [[東映|東映テレビプロ]]) - 草川秋子 * [[東京警備指令 ザ・ガードマン|ザ・ガードマン]](TBS / [[大映テレビ|大映テレビ室]]) ** 第14話「殺人者」(1965年) ** 第49話「子羊の肉」(1966年) ** 第62話「大犯罪作戦」(1966年) ** 第77話「鍵のなかの死刑台」(1966年) * [[黄色い風土#テレビドラマ|黄色い風土]](1965年 - 1966年、NET / 東映テレビプロ) ※主題歌「黄色い風土のブルース」も担当 * [[悪の紋章#1965年版|悪の紋章]](1965年 - 1966年、NET / 東映テレビプロ) - 小原恵美子 * [[ある勇気の記録#「ある勇気の記録」|ある勇気の記録]] 第24話「夜は誰のもの」(1967年、NET / 東映) * [[特別機動捜査隊]] 第316話「北国の女」(1967年、NET / 東映テレビプロ) - 淳子 * [[とぼけた奴ら]] (1967年、NET / 東映テレビプロ) * プレイガールシリーズ([[テレビ東京|東京12チャンネル]] / 東映) - 沢村たまき(レギュラー) ** [[プレイガール (テレビドラマ)|プレイガール]](1969年 - 1974年) ** [[プレイガール (テレビドラマ)#プレイガールQ|プレイガールQ]](1974年 - 1976年) * [[花は花よめ]](1971年 - 1973年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) - 和子 * [[追跡 (1973年のテレビドラマ)|追跡]] 第3話「黒い天使」(1973年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]] / [[C.A.L]]) * [[非情のライセンス]] 第1シリーズ 第46話「兇悪のヘッドライト」(1974年、NET / 東映) - マダム * [[華麗なる刑事]](1977年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]] / [[東宝]]) - 園山巡査部長(レギュラー) * [[熱中時代]] 第10話「やって来たガキ大将」(1978年、日本テレビ) - 中島キョウコ * [[土曜ワイド劇場]] ** [[混浴露天風呂連続殺人#放映リスト(ピンクハンター)|ピンクハンター・日本に1人しかいない刑事]](1979年、[[朝日放送テレビ|朝日放送]]) ** 切り札をもつ女(1985年、[[テレビ朝日]]) * [[プロハンター]] 第12話「黒い薔薇は死の匂い」(1981年、日本テレビ) - 田宮聖子 * [[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]] / [[五木寛之]]シリーズ 横浜物語(1982年、[[日本放送協会|NHK]]) - 酒場のママ * [[火曜サスペンス劇場]] / 寂しすぎた女(1983年、日本テレビ) * [[月曜ワイド劇場]] / [[深川通り魔殺人事件#テレビドラマ化|深川通り魔殺人事件]](1983年、テレビ朝日) * [[月曜ドラマランド]] / 奥さまは不良少女!? おさな妻2(1986年、フジテレビ) * [[アイラブユーからはじめよう]](1989年、TBS) * [[華麗なる追跡 THE CHASER]](1989年、日本テレビ) * [[太平記 (NHK大河ドラマ)|太平記]](1991年、NHK) - [[覚海円成|覚海尼]] * [[鬼平犯科帳 (中村吉右衛門)|鬼平犯科帳]] 第2シリーズ 第10話「女賊」(1991年、フジテレビ / 松竹) - 猿塚のお千代 * [[名奉行 遠山の金さん]] 第4シリーズ 第6話「大奥騒乱!千両箱の罠」(1991年、テレビ朝日 / 東映) - 重ノ井 * [[プレイガール (テレビドラマ)#プレイガール'92 嵐を呼ぶハイレグ軍団 黒真珠殺人事件|プレイガール'92 嵐を呼ぶハイレグ軍団 黒真珠殺人事件]](1992年、[[テレビ東京|TX]]) - 沢田たまき * [[ドラマ新銀河]](NHK) ** [[魚河岸のプリンセス]](1995年) - 小出八重子 役 * [[ドラマ30]]([[CBCテレビ|CBC]]) ** [[風たちの遺言]](1995年) * 艶姿! ナニワの光三郎 七変化(1997年、KTV) === 映画 === * [[暗黒の旅券]]([[1959年]]、[[日活]]) * [[ギャング対Gメン]]([[1962年]]、[[東映]]) * [[嵐来たり去る]]([[1967年]]、日活)- 料亭の女将八重 * [[みな殺しの拳銃]](1967年、日活) * [[嵐の果し状]] (1968年、日活) * [[密告〜たれこみ〜]]([[1968年]]、東映) * [[徳川女刑罰史]](1968年、東映) * [[白昼の死角#映画|白昼の死角]]([[1979年]]、東映) - クラブのママ * [[薔薇の標的 (1980年の映画)|薔薇の標的]]([[1980年]]、東映) - 柴田加世 * [[黒い雨 (映画)|黒い雨]]([[1989年]]、東映) === 吹き替え === * [[紳士は金髪がお好き]](1953年) - ドロシー・ジョー:[[ジェーン・ラッセル]] ※NET版 * [[007 ゴールドフィンガー]](1964年) - プッシー・ガロア:[[オナー・ブラックマン]] ※NET版 === バラエティ・情報番組 === * [[クイズダービー]](1977年、TBS) {{main2|詳細は[[クイズダービー#解答者の各種記録]]を}} * [[独占!おとなの時間]](1977年 - 1981年、東京12チャンネル) - 司会 * [[テレビ東京系列平日午前の情報番組枠|お昼だドン!]](1985年、テレビ東京)- 司会 * [[クイズ!年の差なんて]](1988年、フジテレビ) * [[ダウンタウンのごっつええ感じ]](1992年、フジテレビ) === NHK紅白歌合戦出場歴 === {|class="wikitable" style="background:" ! 年度/放送回 !! 曲目 !! 対戦相手 !! 備考 |- |1958年(昭和33年)/[[第9回NHK紅白歌合戦|第9回]] |[[アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド]] |rowspan="2"|[[ダークダックス]] |ヴォーカル・トリオとして、[[水谷良重]]、[[東郷たまみ]]と共唱。 |- |1960年(昭和35年)/[[第11回NHK紅白歌合戦|第11回]] |或る恋の物語 |[[有明ユリ]]、[[小割まさ江]]、[[高美アリサ]]との混合で歌唱。 |- |} === ビデオ === * [[すばらしきわが人生]] Part2(1993年、[[シナノ企画]]) == 音楽作品 == === シングル(テイチク) === * (アナスタジア:石原裕次郎) / さらばジャマイカ(1957年6月) * パンパラム / (リコール・ツー・マイ・メモリー:石原裕次郎)(1957年10月) * ロッカ・チッカ / フジヤマ・ママ(1958年) === シングル(ビクター) === * [[ベッドで煙草を吸わないで|教えて頂だい / ベッドで煙草を吸わないで]](1966年4月) * 凍原(ツンドラ) / 女の夜(1967年1月) * [[カスバの女]] / 赤い夜(1967年5月) * 秘密 / 恋のハンカチ(1967年8月) * 昨日のあなた / 恋する東京(1968年1月) * 流れ花 / 終局(フィナーレ)(1968年5月) * そんなに耳をかまないで / あなたの子守唄(1968年9月) * 今にわかるわ / 夜の終りに(1969年8月) * [[東京プレイ・マップ]] / インスピレーション(1970年5月) * その時あなたは何をしていた? / 女の意地は私の命(1970年9月) * 流れ者ブルース / 明日から何を(1971年9月) * さすらい / わかれ雨のブルース(1972年1月) * [[愛のテーマ (ゴッドファーザー)|ゴッドファーザー]] / [[ある愛の詩 (フランシス・レイとアンディ・ウイリアムスの曲)|ある愛の詩]](1972年8月) * あなた / お別れブルース(1973年5月) * ラスト・テーマ / 女は恋に生きるもの(1974年7月) * [[街灯 (沢たまきの曲)|街灯]] / 原宿あたり(1975年6月) * 初めての日のように / 男友達(1978年5月) * 欲望の街 / ワン・ナイト・ジャム・セッション(1979年3月) * 横浜ナイト・クラブ / たそがれ挽歌(1981年6月) * 雨のジャマイカ / 虹の向うから(1984年12月) === CDシングル(日本エンカフォン) === * 花、匂うが如く / ベッドで煙草を吸わないで '97([[1997年]][[9月20日]]) === アルバム(ビクター) === * ベッドで煙草を吸わないで(1968年) * ため息のとき(1968年) * あなたへのブルース * 男と女の別れ * 爪/沢たまき夜のムードを唄う(1971年4月) * ベッド・イン・ミュージック/新婚編(1971年) * [[わが恋はここに ~沢たまきスタンダード・ジャズを歌う~]](1973年7月) * [[乱れ髪 ~プレイガールの十二章~]](1974年8月) * [[夜のためいき]](1975年8月) * [[東京プレイ・マップ (沢たまきのアルバム)|東京プレイ・マップ]](1977年4月) === ベストアルバム === * [[沢たまき&プレイガール ミュージックコレクション]]([[2004年]][[4月21日]]) == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20030618044048/http://www.takarabune.or.jp/sawa/ SUNNY SIDE]公式サイト * {{IMDb name|0767976|Tamaki Sawa}} {{比例区選出参議院議員(1983-)}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:さわ たまき}} [[Category:日本の女性ポップ歌手]] [[Category:日本の女性ジャズ歌手]] [[Category:日本の女優]] [[Category:ビクターエンタテインメントのアーティスト]] [[Category:テイチクエンタテインメントのアーティスト]] [[Category:NHK紅白歌合戦出演者]] [[Category:日本の俳優出身の政治家]] [[Category:女性参議院議員]] [[Category:比例区選出の参議院議員]] [[Category:新進党の参議院議員]] [[Category:公明党の参議院議員]] [[Category:平成時代の参議院議員]] [[Category:在職中に死去した参議院議員]] [[Category:山脇学園短期大学出身の人物]] [[Category:川崎市出身の人物]] [[Category:1937年生]] [[Category:2003年没]]
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蓮如
蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。本願寺中興の祖。同宗旨では、蓮如上人と尊称される。1882年(明治15年)に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。文献によっては「蓮如」と「辶 」(二点之繞)で表記される場合がある。真宗大谷派では「蓮如」と表記するのが正式である 。父は第7世存如。公家の広橋兼郷の猶子。第9世実如は5男。子に順如、蓮淳など。 親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。 年齢は、数え年。日付は、『御文』(『御文章』)などの文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示とする(生歿年月日を除く)。 応永22年2月25日(1415年4月13日)、京都東山の生誕当時に天台宗青蓮院の末寺であった大谷本願寺(現在の知恩院塔頭崇泰院〈そうたいいん〉付近)で、本願寺第7世存如の長子として生まれる。母は存如の母に給仕した女性と伝えられているが、詳細は不明。一説には、信太(現在の大阪府和泉市)の被差別部落出身だったともいう。童名を幸亭、あるいは布袋と称した。 応永27年(1420年)、蓮如6歳の時、生母は本願寺を退去し、存如が海老名氏の娘・如円尼を正室として迎える。生母のその後の行方は分かっていない。蓮如幼年期の本願寺は、佛光寺の隆盛に比し衰退の極にあり、参拝者(後に蓮如の支援者となった堅田・本福寺の法住ら)が余りにも寂れた本願寺の有様を見て呆れ、佛光寺へ参拝したほどであった。 永享3年(1431年)17歳の時中納言広橋兼郷の猶子となって青蓮院で得度し、実名を兼郷の一字を受け兼壽、仮名を兼郷の官途名である中納言と称し、法名は蓮如と名乗った。その後、本願寺と姻戚関係にあった大和・興福寺大乗院の門跡経覚について修学。父を補佐し門末へ下付するため、多くの聖教を書写した。永享6年(1434年)5月12日の識語をもつ『浄土文類聚鈔』が、蓮如により書写された現存する最古のものである。永享8年(1436年)、祖父の第6世巧如が住持職を父に譲り、4年後の永享12年10月14日(1440年11月17日)に死去した。 嘉吉2年(1442年)に第1子(長男)順如が誕生する。文安4年(1447年)父と共に関東を訪ね、また宝徳元年(1449年)父と北国で布教する。康正元年(1455年)11月23日、最初の夫人、如了尼が死去する。長禄元年(1457年)6月17日、父の死去に伴い本願寺第8代を継ぐ。留主職(本願寺派における法主)継承にあたり、異母弟蓮照(応玄)を擁立する動きもあったが、叔父で越中国瑞泉寺住持如乗(宣祐)の主張により蓮如の就任裁定となった。なお、歴代住職が後継者にあてる譲状の存如筆が現存しないことから、この裁定は如乗によるクーデターともされる。この裁定に対して、蓮照と継母如円尼は怒りの余り本願寺財物を持ち出したと伝えられる。 この頃の本願寺は多難で、宗派の中心寺院としての格を失い、青蓮院の一末寺に転落しており、青蓮院の本寺であった比叡山延暦寺からは、宗旨についても弾圧が加えられた。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。 長禄2年(1458年)8月10日、第8子(5男)実如誕生(寛正5年(1464年)とも)。寛正6年(1465年)1月8日、 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定、1月10日、同寺西塔の衆徒は大谷本願寺を破却する。3月21日、再度これを破却。蓮如は祖像の親鸞御影を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とする。さらに蓮如と親友の間柄であった専修寺(真宗高田派)の真慧が、自己の末寺を本願寺に引き抜かれたことに抗議して絶縁した(寛正の法難)。文正2年(1467年)3月、延暦寺と和議。条件として、蓮如の隠居と順如の廃嫡が盛り込まれた。廃嫡後も有能な順如は蓮如を助けて行動する。 応仁2年(1468年)、北国、東国の親鸞遺跡を訪ね、三河に本宗寺を建立する。応仁3年(1469年)、延暦寺と敵対している園城寺の庇護を受け、園城寺子院の万徳院住持で叔父の長命阿闍梨の斡旋もあり、別所近松寺の敷地の一部を譲り受けて大津南別所に顕証寺(後の本願寺近松別院)となる堂を建立、順如を住持として祖像を同寺に置く。文明2年(1470年)12月5日、第二夫人蓮祐尼が死去する。 文明3年(1471年)4月上旬、越前吉崎に赴く。付近の河口荘は経覚の領地で、朝倉孝景の横領に対抗するため蓮如を下向させたとされる。7月27日、同所に吉崎御坊を建立し、荒地であった吉崎は急速に発展した。一帯には坊舎や多屋(門徒が参詣するための宿泊所)が立ち並び、寺内町が形成されていった。信者は奥羽からも集まった。 文明6年(1474年)、加賀守護富樫氏の内紛で富樫政親から支援の依頼を受ける。蓮如は対立する富樫幸千代が真宗高田派と組んだことを知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。この文明6年一揆は、本願寺系の門末を主力とし、攻戦的な面を帯びる初めての一向一揆であった。加賀国額田荘(石川県加賀市・小松市)の人びとは、世俗の戦いでなくあくまで「仏法ノ当敵」に対する「聖戦」と認識して一揆に加わっている。だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まることを政親が危惧して軋轢を生じた。さらに蓮如の配下だった下間蓮崇が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った(ただし、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して全く関知していなかったのかどうかについては意見が分かれている)。 文明7年(1475年)8月21日、吉崎を退去。一揆を扇動した下間蓮崇を破門。小浜、丹波、摂津を経て河内出口(後の光善寺)に居を定めた。文明10年(1478年)1月29日、山科に坊舎の造営を開始。8月17日、第三夫人如勝尼が死去。文明13年(1481年)、真宗佛光寺派佛光寺の法主であった経豪が佛光寺派の48坊のうちの42坊を引き連れて蓮如に合流。蓮如から蓮教という名を与えられて改名し、興正寺(真宗興正派)を建立する。これによって佛光寺派は大打撃を受けた。 文明14年(1482年)には真宗出雲路派毫摂寺第8世で真宗山元派證誠寺の住持でもあった善鎮が門徒を引き連れて合流してきた。 文明15年(1483年)8月22日、山科本願寺が落成する。同年、長男順如が死去。 文明18年(1486年)、紀伊に下向。後の鷺森別院の基礎(了賢寺)ができる。同年、第四夫人宗如尼が死去。 長享2年(1488年)5月、加賀一向一揆が国人層と結びついて決起。同年6月9日、加賀の宗徒は守護富樫政親を高尾城において包囲し、自刃に追い込む。7月、蓮如は消息を送って一揆を諌めた。延徳元年(1489年)、75歳。寺務を5男の実如に譲り、実如が本願寺第9世となる。 明応2年(1493年)、真宗木辺派錦織寺の第7代慈賢の孫勝恵が伊勢国・伊賀国・大和国の40か所の門徒を引き連れて本願寺に合流した。 蓮如は山科南殿に隠居して「信證院」と号する。明応5年(1496年)9月、大坂石山の地に大坂御坊を建立し、居所とした(後の大坂本願寺(石山本願寺))。 明応8年(1499年)2月20日、死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参。3月20日、下間蓮崇を許す。3月25日(1499年5月14日)、山科本願寺において85歳で没した。 妻の死別を4回に渡り経験し、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人の計27子を儲ける。死の直前まで公私共に多忙を極めた。 蓮如の布教は、教義を消息(手紙)の形で分かりやすく説いた『御文』(『御文章』)を中心に行われた。後に蓮如の孫、円如がこれを収集して五帖80通(『五帖御文』)にまとめた。これに含まれない消息は『帖外御文』と言われ、倍くらいの数の消息が数えられている。 また、これまで本願寺は毎日の勤行に善導著作の『往生礼讃』を用い、1日を6つに分けてそれぞれの時間帯に読経を行う六時礼讃を行っていた。しかし、蓮如は吉崎滞在中に越前で三門徒が親鸞著作の『三帖和讃』を頻繁に唱えていた事からこれを取り入れると同時に、勤行のやり方を全面的に改正し、朝・夕に親鸞著作の『正信念仏偈』(『正信偈』)と『三帖和讃』を唱える方式に制定、一般の門徒に広く受け入れられるようにした。こうして文明5年(1473年)3月、吉崎にて『正信念仏偈』・『三帖和讃』の開版、印刷が行われ、さらなる布教に邁進していった。 また、門徒個人が所有する「道場」、村落ごとに形成された「惣道場」の本尊に「十字名号」(文明期以降は、「六字名号」や「阿弥陀如来絵像」)を与えた。 その他の著作に『正信偈大意』『正信偈証註釈』、信仰生活の規範を示した「改悔文」(「領解文」)などがある。 また蓮如の死後、弟子達が蓮如の言行録を写し継いだ書物として『蓮如上人御一代記聞書』(『蓮如上人御一代聞書』)全316箇条が残されている。 5人の妻との間に27子をもうけた。末子の3子は80代になってからの子。 大阪府八尾市の顕証寺に「蓮如上人ご救済の大蛇骨」と呼ばれる頭骨が伝わっている。伝承では蓮如の夢に女性が現れ「龍女に変えられて苦しんでいる」と訴えた。蓮如はこれを供養したところ、海にその死体が上がったとされ、その龍(大蛇)の骨を大切に祀った。 2018年(平成30年)、大阪大学総合学術博物館の伊藤謙特任講師らがこの顕証寺に伝わる骨を調査したところ、完新世期(約1万年前から現在)シャチの頭骨で、頭骨の全長は1.6メートル、推定される全長は7メートルである。しかも普通のシャチの頭骨ではなく、化石化した可能性が高いものであることが判明した。この骨は石山本願寺創設後の(1496年)頃、真宗大谷派難波別院(現・大阪府大阪市中央区久太郎町)付近で発掘されたものとも伝わり、同地では地下鉄工事の際にクジラ類の化石が大量に発見されている。 蓮如を描いた歴史小説
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"2018年(平成30年)、大阪大学総合学術博物館の伊藤謙特任講師らがこの顕証寺に伝わる骨を調査したところ、完新世期(約1万年前から現在)シャチの頭骨で、頭骨の全長は1.6メートル、推定される全長は7メートルである。しかも普通のシャチの頭骨ではなく、化石化した可能性が高いものであることが判明した。この骨は石山本願寺創設後の(1496年)頃、真宗大谷派難波別院(現・大阪府大阪市中央区久太郎町)付近で発掘されたものとも伝わり、同地では地下鉄工事の際にクジラ類の化石が大量に発見されている。", "title": "成仏させた大蛇の骨" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "蓮如を描いた歴史小説", "title": "関連作品" } ]
蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。本願寺中興の祖。同宗旨では、蓮如上人と尊称される。1882年(明治15年)に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。文献によっては「蓮如」と「辶 」(二点之繞)で表記される場合がある。真宗大谷派では「蓮如」と表記するのが正式である。父は第7世存如。公家の広橋兼郷の猶子。第9世実如は5男。子に順如、蓮淳など。 親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。
{{Infobox Buddhist |名前 = <span style="font-size:120%;">蓮如</span><ref name="nitenshinnyou">文献によっては、「蓮」の「{{JIS2004フォント|&#xFA66;}}」(一点之繞)の部分が「{{JIS2004フォント|辶}}」(二点之繞)で「{{JIS2004フォント|&#xF999;}}如」と表記される場合もある。([[辵部#一点之繞と二点之繞|一点之繞と二点之繞]]を参照。)</ref> |生没年 = [[応永]]22年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]] - [[明応]]8年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]<ref>{{Kotobank|蓮如}}</ref><br /> <span style="font-size:90%;">1415年[[4月13日]] - 1499年[[5月14日]]</span><br /> <span style="font-size:90%;">[[1415年]][[4月4日]] - [[1499年]][[5月5日]]</span><br /> <span style="font-size:90%;">上段・[[宣明暦|旧暦]] 中段・[[グレゴリオ暦]]換算</span><ref name="guregorioreki">[[グレゴリオ暦]]換算。本願寺派では、グレゴリオ暦に換算した生没年を用いる。</ref><span style="font-size:90%;">下段・[[ユリウス暦]]</span> |幼名 = 布袋丸 |名 = |法名 = 蓮如 |号 = |院号 = 信證院 |諱 = 兼壽 |諡号 = 慧燈大師 |尊称 = 蓮如上人 |生地 = [[京都]]・[[大谷廟堂|大谷本願寺]]<br />(現・[[知恩院]][[塔頭]][[崇泰院]]) |没地= [[京都]]・[[山科本願寺]] |画像 = [[ファイル:Rennyo5.1.JPG|250px]] |説明文 = 蓮如影像(室町時代作) |宗旨 = [[浄土真宗]] |宗派 = 本願寺派(後の[[浄土真宗本願寺派]]、後の[[真宗大谷派]]) |寺院 = 大谷本願寺、[[吉崎御坊]]、山科本願寺、<br />[[石山本願寺|大坂御坊(後の大坂本願寺)]] |師 = [[存如]] |弟子 = [[実如]]、[[順如]]、[[蓮淳]]ほか |著作 = 『[[御文]]』、『正信偈大意』 |廟 = 蓮如上人廟所([[京都市]][[山科区]])、<br />[[大谷祖廟]] (真宗大谷派)他 }} '''蓮如'''(れんにょ)は、[[室町時代]]の[[浄土真宗]]の[[僧]]。[[浄土真宗本願寺派]]第8世宗主・[[真宗大谷派]]第8代門首。[[大谷廟堂|大谷本願寺]]住職。[[諱]]は兼壽。[[院号]]は信證院。[[法印]][[僧綱|権大僧都]]。本願寺[[中興の祖]]。同宗旨<ref>[[浄土真宗#真宗十派(真宗教団連合)|真宗十派]]の内、本願寺派・大谷派のみ蓮如を歴代とする。</ref>では、'''蓮如上人'''と尊称される。[[1882年]]([[明治]]15年)に、[[明治天皇]]より'''慧燈大師'''の[[諡|諡号]]を追贈されている。しばしば'''本願寺蓮如'''と呼ばれる。文献によっては「'''{{JIS2004フォント|&#xF999;}}如'''」と[[辵部#一点之繞と二点之繞|「{{JIS2004フォント|辶}} 」(二点之繞)]]で表記される場合がある。[[真宗大谷派]]では「{{JIS2004フォント|&#xF999;}}如」と表記するのが正式である<ref>{{JIS2004フォント|&#xF999;}}如…大谷派では、「[[ハス|{{JIS2004フォント|&#xF999;}}]]」の字は「{{JIS2004フォント|辶}}」(二点之繞)を用いて表記するのが正式であるため、「{{JIS2004フォント|&#xF999;}}如」と表記するのが正式である。</ref> 。父は第7世[[存如]]。[[公家]]の[[広橋兼郷]]の[[猶子]]。第9世[[実如]]は5男。子に[[順如]]、[[蓮淳]]など。 [[親鸞]]の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、[[青蓮院]]の末寺に過ぎなかった。他宗や[[浄土真宗]]他派、特に[[真宗佛光寺派|佛光寺教団]]の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団([[浄土真宗本願寺派|本願寺派]]・[[真宗大谷派|大谷派]])の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。 == 生涯 == === 誕生から得度まで === <span style="font-size:90%;">年齢は、[[数え年]]。日付は、『'''[[御文]]'''』(『'''御文章'''』)などの文献との整合を保つため、いずれも[[旧暦]](宣明暦)表示とする(生歿年月日を除く)。</span> [[ファイル:Rennyo6700.JPG|thumb|蓮如上人御誕生之地<br />崇泰院]] [[応永]]22年2月25日([[1415年]][[4月13日]]<ref name="guregorioreki" />)、[[京都]][[東山 (京都府)|東山]]の生誕当時に[[天台宗]][[青蓮院]]の末寺であった[[大谷廟堂|大谷本願寺]](現在の[[知恩院]][[塔頭]]崇泰院〈そうたいいん〉付近)で、本願寺第7世[[存如]]の長子として生まれる{{sfn|草野顕之|1998a|p=14}}。母は存如の母に給仕した女性と伝えられているが{{sfn|草野顕之|1998a|p=14}}、詳細は不明。一説には、信太(現在の[[大阪府]][[和泉市]])の[[部落問題|被差別部落]]出身だったともいう<ref>[[東上高志]]『川端分館の頃』p.154。</ref><ref>高山秀夫『江戸から東京へ 物語でつづる部落の歴史』p.6(文理閣、1977年)</ref>。童名を'''幸亭'''、あるいは'''布袋'''と称した{{sfn|草野顕之|1998a|p=14}}。 応永27年([[1420年]])、蓮如6歳の時、生母は本願寺を退去し、存如が海老名氏の娘・如円尼を正室として迎える{{sfn|草野顕之|1998a|p=14}}。生母のその後の行方は分かっていない。蓮如幼年期の本願寺は、[[佛光寺]]の隆盛に比し衰退の極にあり、参拝者(後に蓮如の支援者となった[[堅田 (大津市)|堅田]]・[[本福寺 (大津市)|本福寺]]の[[法住]]ら)が余りにも寂れた本願寺の有様を見て呆れ、佛光寺へ参拝したほどであった。 [[永享]]3年([[1431年]])17歳の時[[中納言]][[広橋兼郷]]の[[猶子]]となって青蓮院で[[得度]]し、実名を兼郷の一字を受け'''兼壽'''、仮名を兼郷の官途名である'''中納言'''と称し、法名は'''蓮如'''と名乗った{{sfn|草野顕之|1998a|p=14}}。その後、本願寺と姻戚関係にあった[[大和国|大和]]・[[興福寺]][[大乗院 (門跡寺院)|大乗院]]の[[門跡]][[経覚]]<ref>母が[[大谷家]](本願寺)の出とされ、父存如の従兄弟と推定されている。</ref>について修学{{sfn|草野顕之|1998a|p=14}}。父を補佐し門末へ下付するため、多くの聖教を書写した。永享6年([[1434年]])[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]の識語をもつ『'''浄土文類聚鈔'''』が、蓮如により書写された現存する最古のものである。永享8年([[1436年]])、祖父の第6世[[巧如]]が住持職を父に譲り、4年後の永享12年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]([[1440年]][[11月17日]])に死去した。 === 本願寺継承 === [[嘉吉]]2年([[1442年]])に第1子(長男)[[順如]]が誕生する。[[文安]]4年([[1447年]])父と共に[[関東]]を訪ね、また[[宝徳]]元年([[1449年]])父と北国で布教する。[[康正]]元年([[1455年]])[[11月23日 (旧暦)|11月23日]]、最初の夫人、如了尼が死去する。[[長禄]]元年([[1457年]])[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]、父の死去に伴い本願寺第8代を継ぐ。[[留主職]](本願寺派における[[法主]])継承にあたり、異母弟[[蓮照]](応玄)を擁立する動きもあったが、叔父で[[越中国]][[真宗大谷派井波別院瑞泉寺|瑞泉寺]]住持[[如乗]](宣祐)の主張により蓮如の就任裁定となった。なお、歴代住職が後継者にあてる[[譲状]]の存如筆が現存しないことから、この裁定は如乗によるクーデターともされる。この裁定に対して、蓮照と継母如円尼は怒りの余り本願寺財物を持ち出したと伝えられる。 この頃の本願寺は多難で、宗派の中心寺院としての格を失い、青蓮院の一末寺に転落しており、青蓮院の本寺であった[[比叡山]][[延暦寺]]からは、宗旨についても弾圧が加えられた。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。 === 大谷本願寺破却 === 長禄2年([[1458年]])[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]、第8子(5男)[[実如]]誕生([[寛正]]5年([[1464年]])とも)。[[寛正]]6年([[1465年]])[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]、 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定、[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]、同寺西塔の衆徒は大谷本願寺を破却する{{sfn|草野顕之|1998a|p=16}}。[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]、再度これを破却。蓮如は祖像の[[親鸞]]御影を奉じて[[近江国|近江]]の[[金森 (守山市)|金森]]、堅田、[[大津市|大津]]を転々とする。さらに蓮如と親友の間柄であった[[専修寺]]([[真宗高田派]])の[[真慧]]が、自己の末寺を本願寺に引き抜かれたことに抗議して絶縁した([[寛正の法難]])。[[文正]]2年([[1467年]])3月、延暦寺と和議<ref>青蓮院は延暦寺大衆による本願寺の破却に反対して仲裁に奔走したが両者の折り合いが付かず、本願寺を延暦寺西寺塔の末寺とする契約を結ばせることで事態の収拾を図った([[大田壮一郎]]「初期本願寺と天台門跡寺院」大阪真宗史研究会 編『真宗教団の構造と地域社会』(清文堂出版、2005年)) ISBN 4-7924-0589-0 p15-17)。</ref>。条件として、蓮如の隠居と順如の廃嫡が盛り込まれた。廃嫡後も有能な順如は蓮如を助けて行動する。 [[応仁]]2年([[1468年]])、北国、東国の親鸞遺跡を訪ね、[[三河国|三河]]に[[本宗寺]]を建立する。応仁3年([[1469年]])、延暦寺と敵対している[[園城寺]]の庇護を受け、園城寺子院の万徳院住持で叔父の長命[[阿闍梨]]の斡旋もあり、別所[[近松寺]]の敷地の一部を譲り受けて大津南別所に顕証寺(後の[[本願寺近松別院]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www5.city.otsu.shiga.jp/kankyou/content.asp?key=0402000000&skey=30|title=近松別院(札の辻)|website=大津のかんきょう宝箱|publisher=大津市|accessdate=2019-08-12}}</ref>となる堂を建立、順如を住持として祖像を同寺に置く。[[文明 (日本)|文明]]2年([[1470年]])[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]、第二夫人蓮祐尼が死去する。 === 吉崎時代 === 文明3年([[1471年]])4月上旬、[[越前国|越前]]吉崎に赴く。付近の[[河口荘]]は経覚の領地で、[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]の横領に対抗するため蓮如を下向させたとされる。[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]、同所に[[吉崎御坊]]を建立し、荒地であった吉崎は急速に発展した。一帯には坊舎や多屋(門徒が参詣するための宿泊所)が立ち並び、[[寺内町]]が形成されていった。信者は[[奥羽]]からも集まった。 文明6年([[1474年]])、[[加賀国|加賀]][[守護]][[富樫氏]]の内紛で[[富樫政親]]から支援の依頼を受ける。蓮如は対立する[[富樫幸千代]]が真宗高田派と組んだことを知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。この文明6年一揆は、本願寺系の門末を主力とし、攻戦的な面を帯びる初めての[[一向一揆]]であった。[[加賀国]]額田荘([[石川県]]加賀市・[[小松市]])の人びとは、世俗の戦いでなくあくまで「仏法ノ当敵」に対する「[[聖戦]]」と認識して[[一揆]]に加わっている。だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まることを政親が危惧して軋轢を生じた。さらに蓮如の配下だった[[下間蓮崇]]が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った(ただし、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して全く関知していなかったのかどうかについては意見が分かれている)。 === 本願寺再興 === [[ファイル:Tyoufukuj3.jpg|thumb|蓮如上人(銅像)<br />真宗大谷派山科別院長福寺境内]] 文明7年([[1475年]])[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]、吉崎を退去。一揆を扇動した下間蓮崇を破門。[[小浜市|小浜]]、[[丹波国|丹波]]、[[摂津国|摂津]]を経て[[河内国|河内]]出口(後の[[光善寺 (枚方市)|光善寺]])に居を定めた。文明10年([[1478年]])[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]、山科に坊舎の造営を開始。[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]、第三夫人如勝尼が死去。文明13年([[1481年]])、[[真宗佛光寺派]][[佛光寺]]の法主であった[[蓮教|経豪]]が佛光寺派の48坊のうちの42坊を引き連れて蓮如に合流。蓮如から蓮教という名を与えられて改名し、[[興正寺]]([[真宗興正派]])を建立する。これによって佛光寺派は大打撃を受けた。 文明14年([[1482年]])には[[真宗出雲路派]][[毫摂寺]]第8世で[[真宗山元派]][[證誠寺 (鯖江市)|證誠寺]]の住持でもあった[[善鎮]]が門徒を引き連れて合流してきた。 文明15年([[1483年]])[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]、[[山科本願寺]]が落成する。同年、長男順如が死去。 === 本願寺の発展 === 文明18年([[1486年]])、[[紀伊国|紀伊]]に下向。後の[[本願寺鷺森別院|鷺森別院]]の基礎([[了賢寺]])ができる。同年、第四夫人宗如尼が死去。 [[長享]]2年([[1488年]])5月、[[加賀一向一揆]]が国人層と結びついて決起。同年6月9日、加賀の宗徒は守護富樫政親を[[高尾城 (加賀国)|高尾城]]において包囲し、自刃に追い込む。7月、蓮如は消息<ref>消息…「御叱りの御書」、「騒動しずめの御書」と呼ばれる。([[#参考文献|参考文献]]『蓮如上人の生涯と教え』57 - 58頁)</ref>を送って一揆を諌めた。[[延徳]]元年([[1489年]])、75歳。寺務を5男の実如に譲り、実如が本願寺第9世となる。 [[明応]]2年([[1493年]])、[[真宗木辺派]][[錦織寺]]の第7代[[慈賢]]の孫[[勝恵]]が[[伊勢国]]・[[伊賀国]]・[[大和国]]の40か所の門徒を引き連れて本願寺に合流した。 蓮如は山科南殿に隠居して「信證院」と号する。明応5年([[1496年]])9月、大坂石山の地に大坂御坊<ref>[https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/080.html 第80話 蓮如 (1415 〜 1499年) ] - 関西・大阪21世紀協会</ref>を建立し、居所とした(後の[[石山本願寺|大坂本願寺(石山本願寺)]])。 === 示寂 === [[ファイル:Rennyo3.jpg|thumb|蓮如上人御廟所]] 明応8年(1499年)[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]、死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参。[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]、下間蓮崇を許す。3月25日(1499年5月14日<ref name="guregorioreki" />)、山科本願寺において85歳で没した。 妻の死別を4回に渡り経験し、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人の計27子を儲ける。死の直前まで公私共に多忙を極めた。 == 布教 == 蓮如の布教は、教義を消息(手紙)の形で分かりやすく説いた『'''御文'''』(『'''御文章'''』)<ref>『御文』という呼び方は、[[真宗大谷派|大谷派]]にて用いられ、『御文章』という呼び方は[[浄土真宗本願寺派|本願寺派]]にて用いられる。</ref>を中心に行われた。後に蓮如の孫、[[円如]]がこれを収集して五帖80通(『'''五帖御文'''』)にまとめた。これに含まれない消息は『帖外御文』と言われ、倍くらいの数の消息が数えられている。 また、これまで本願寺は毎日の[[勤行]]に[[善導]]著作の『[[往生礼讃]]』を用い、1日を6つに分けてそれぞれの時間帯に読経を行う[[六時礼讃]]を行っていた。しかし、蓮如は吉崎滞在中に越前で三門徒が親鸞著作の『'''[[三帖和讃]]'''』を頻繁に唱えていた事からこれを取り入れると同時に、勤行のやり方を全面的に改正し、朝・夕に親鸞著作の『'''[[正信念仏偈]]'''』(『'''正信偈'''』)と『'''三帖和讃'''』を唱える方式に制定、一般の門徒に広く受け入れられるようにした。こうして文明5年([[1473年]])3月、吉崎にて『'''正信念仏偈'''』・『'''三帖和讃'''』の開版、印刷が行われ、さらなる布教に邁進していった。 また、門徒個人が所有する「道場」、村落ごとに形成された「惣道場」の本尊に「十字名号」(文明期以降は、「六字名号」や「阿弥陀如来絵像」)を与えた<ref>本尊に関する[[#参考文献|参考文献]]『蓮如上人の生涯と教え』67~68頁、『蓮如上人ものがたり』105~109頁</ref>。 その他の著作に『'''正信偈大意'''』『正信偈証註釈』、信仰生活の規範を示した[[改悔文|「改悔文」(「領解文」)]]などがある。 また蓮如の死後、弟子達が蓮如の言行録を写し継いだ書物として『'''蓮如上人御一代記聞書'''』(『蓮如上人御一代聞書』)全316箇条が残されている。 == 妻子 == 5人の妻との間に27子をもうけた。末子の3子は80代になってからの子。 * 第1夫人:[[如了]](1424年 - 1455年) - [[伊勢貞房]]の娘 ** 1男:[[順如]](1442年 - 1483年) - [[河内国|河内]]出口[[光善寺 (枚方市)|光善寺]]開基 ** 1女:如慶(1446年 - 1471年) - 京都[[常楽寺 (下京区)|常楽寺]][[蓮覚|蓮覚光信]]<ref>常楽寺[[空覚|空覚光崇]]の子。</ref>[[室]] ** 2男:[[蓮乗]](1446年 - 1504年) - 兼鎮、[[越中国|越中]][[真宗大谷派井波別院瑞泉寺|井波瑞泉寺]]・[[加賀国|加賀]]若松[[本泉寺]] ** 2女:見玉(1448年 - 1472年) - 出家・京都摂受庵見秀尼弟子 ** 3男:[[蓮綱]](1450年 - 1531年) - 兼祐、加賀波佐谷[[松岡寺]]開基、鮎蔵坊開基 ** 3女:寿尊(1453年 - 1516年) - 出家・京都摂受庵見秀尼弟子、後に[[摂津富田]][[教行寺 (高槻市)|教行寺]] ** 4男:[[蓮誓]](1455年 - 1521年) - 加賀滝野坊、九谷坊、山田[[光教寺]]、越中中田坊開基 * 第2夫人:[[蓮祐]](1438年 - 1470年) - 伊勢貞房の娘・如了<span style="font-size:80%;">(第1夫人)</span>妹 ** 5男:'''[[実如]]'''(1458年 - 1525年) - '''本願寺第9世''' ** 4女:妙宗(1459年 - 1537年) - 出家・知恩院椿性禅尼弟子、左京義政[[妾]] ** 5女:妙意(1460年 - 1471年) - 早逝 ** 6女:[[如空]](1462年 - 1492年) - [[越前国|越前]]大谷興行寺[[蓮助|蓮助兼孝]]<ref>興行寺[[周覚|周覚玄真]]の孫、興行寺蓮実の子。</ref>室 ** 7女:[[祐心 (資氏王室)|祐心]](1463年 - 1490年) - [[白川資氏王]]室 ** 6男:[[蓮淳]](1464年 - 1550年) - [[近江国|近江]]大津顕証寺、河内久宝寺[[顕証寺 (八尾市)|顕証寺]]・[[伊勢国|伊勢]]長島[[願証寺]]開基 ** 8女:了忍(1466年 - 1472年) - 早逝 ** 9女:[[了如]](1467年 - 1541年) - 越中井波瑞泉寺[[蓮欽]]<ref>興行寺周覚玄真の孫。</ref>妾 ** 7男:[[蓮悟]](1468年 - 1543年) - 加賀崎田坊、中頭坊、清沢坊、若松本泉寺創建 ** 10女:[[祐心 (中山宣親室)|祐心]](1469年 - 1540年) - [[中山宣親]]室、第11世[[顕如]]の曽祖母<ref>祐心が生んだ男子の1人が[[庭田家]]を継承して[[庭田重親]]と名乗ったが、彼の娘(顕能尼)が第10世[[証如]]の正室となって顕如を生んだ。</ref> * 第3夫人:[[如勝]](1448年 - 1478年) ** 11女:[[妙勝]](1477年 - 1500年) - [[山城国|山城]]勝林坊[[勝恵|勝林坊勝恵]]妾 * 第4夫人:[[宗如]](? - 1484年) - [[姉小路昌家]]の娘、[[姉小路基綱]]の妹 ** 12女:[[蓮周]](1482年 - 1503年) - 越前超勝寺[[蓮超]]<ref>超勝寺[[頓円|頓円鸞芸]]の曾孫、超勝寺如遵の孫、超勝寺功遵の子。</ref>室 ** 8男:[[蓮芸]](1484年 - 1523年) - 摂津富田教行寺・摂津名塩教行寺 * 第5夫人:[[蓮能]](1465年 - 1518年) - [[畠山政栄]]の娘、[[畠山家俊]]の姉 ** 13女:[[妙祐]](1487年 - 1512年) - 山城勝林坊勝恵室 ** 9男:[[実賢]](1490年 - 1523年) - 近江[[堅田 (大津市)|堅田]][[称徳寺]] ** 10男:[[実悟]](1492年 - 1583年) - 河内古橋[[願得寺]] ** 11男:[[実順]](1494年 - 1518年) - 河内久宝寺[[顕証寺 (八尾市)|西証寺]] ** 12男:[[実孝]](1495年 - 1553年) - [[大和国|大和]]飯貝[[本善寺 (奈良県吉野町)|本善寺]] ** 14女:妙宗(1497年 - 1518年) - 京都常楽寺[[実乗|実乗光恵]]<ref>常楽寺蓮覚光信の孫、常楽寺如覚兼忠の子。</ref>室 ** 13男:[[実従]](1498年 - 1564年) - 河内枚方[[順興寺]] == 成仏させた大蛇の骨 == [[大阪府]][[八尾市]]の[[顕証寺 (八尾市)|顕証寺]]に「蓮如上人ご救済の大蛇骨」と呼ばれる頭骨が伝わっている。伝承では蓮如の夢に女性が現れ「[[竜|龍女]]に変えられて苦しんでいる」と訴えた。蓮如はこれを供養したところ、海にその死体が上がったとされ、その龍(大蛇)の骨を大切に祀った。 [[2018年]]([[平成]]30年)、[[大阪大学総合学術博物館]]の伊藤謙特任講師らがこの顕証寺に伝わる骨を調査したところ、[[完新世]]期(約1万年前から現在)[[シャチ]]の頭骨で、頭骨の全長は1.6メートル、推定される全長は7メートルである。しかも普通のシャチの頭骨ではなく、[[化石]]化した可能性が高いものであることが判明した。この骨は[[石山本願寺]]創設後の([[1496年]])頃、[[真宗大谷派難波別院]](現・大阪府[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]][[久太郎町]])付近で発掘されたものとも伝わり、同地では地下鉄工事の際に[[クジラ]]類の化石が大量に発見されている<ref>{{Cite news|title=蓮如上人ゆかりの伝承頭骨はシャチだった 大阪・八尾の顕証寺|url=https://www.sankei.com/article/20180623-ZMBPZKBY5RNGTL4YYZD6KUR3XY/|date=2018-06-23|accessdate=2019-07-23|newspaper=産経新聞電子版|publisher=産経新聞社}}</ref>。 == 関連作品 == === 歴史小説 === 蓮如を描いた[[歴史小説]] *[[五木寛之]]『蓮如 -われ深き淵より-』 *五木寛之『蓮如物語』 - [[松方弘樹]]プロデュース、主演、[[東映アニメーション|東映動画]]制作でアニメ映画化 *[[丹羽文雄]]『蓮如』全8巻 *[[岳宏一郎]]『蓮如 夏の嵐』上・下 === 映画 === *[[川本喜八郎]]監督『蓮如とその母』(「蓮如とその母」映画製作推進委員会、1981年) - 母が被差別部落民と伝えられる蓮如の生涯を部落問題を背景に描いた作品。 *アニメ『なぜ生きる -蓮如上人と吉崎炎上-』(2016年) - [[明橋大二]]と伊藤健太郎の共著(監修:[[高森顕徹]])が原作。蓮如の声は[[里見浩太朗]]が演じる。 == 関連書籍 == *{{Cite book|和書|editor=大谷暢順|editor-link=大谷暢順|year=1989|title=蓮如上人全集 言行篇|publisher=[[中央公論新社]]}} *{{Cite book|和書|author=大谷暢順編|date=1998年 - 2001年|title=蓮如上人全集|publisher=[[河出書房新社]]|volume=全5巻}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == <!-- 本項目を編集する際に出典として用いた文献 --> *{{Cite book|和書|author=浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会編|year=1999|title=蓮如上人御一代記聞書|publisher=本願寺出版社|series=浄土真宗聖典|isbn=978-4-89416-641-7 |volume=現代語版}} *{{Cite book|和書|author=真宗大谷派教学研究所編|year=1994|title=<small>真宗再興の人</small> 蓮如上人の生涯と教え|publisher=真宗大谷派宗務所出版部|isbn=4-8341-0225-4}} *{{Cite book|和書|author=青木馨|authorlink=青木馨|year=1995|title=蓮如上人ものがたり|publisher=真宗大谷派宗務所出版部|isbn=978-4-8341-0227-7}} *{{Cite book|和書|author=東澤眞静|authorlink=東澤眞静|year=1986|title=蓮如の生涯|publisher=[[法藏館]]|isbn=4-8318-2302-3}} *{{Cite book|和書|editor=京都国立博物館|editor-link=京都国立博物館|date=1998-03-24|year=1998|title=蓮如と本願寺:その歴史と美術:蓮如上人500回忌記念東西合同特別展覧会|publisher=[[毎日新聞社]]|ref=harv|id={{全国書誌番号|99003391}}}} **{{Cite book|和書|title=蓮如と本願寺|chapter=蓮如の生涯|author=草野顕之|authorlink=草野顕之|publisher=毎日新聞社|date=1998-03-24|year=1998a|ref=harv}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Rennyo}} *[[吉崎御坊]] *[[名号]] *[[一休宗純]] *[[白骨 (御文)|『御文(御文章)』「白骨」]] *[[蓮如賞]] == 外部リンク == * [https://www.honganjifoundation.org/rennyo/ 吉崎御坊蓮如上人記念館] * [http://www.saginomori.or.jp/index.htm 鷺森別院]([[本願寺鷺森別院]]〈本願寺派〉) * {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/suiun_an/newpage275.html |title=本願寺蓮如の略歴 |date=20190330043727}} * [http://kimassi.net/rennyo/rennyo.html 蓮如上人墓] {{本願寺}} {{浄土教2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:れんによ}} [[Category:蓮如|*]] [[Category:15世紀日本の僧]] [[Category:浄土教]] [[Category:浄土真宗]] [[Category:浄土真宗の僧]] [[Category:真宗関連の人物]] [[Category:室町・安土桃山時代の僧]] [[Category:大谷家]] [[Category:1415年生]] [[Category:1499年没]]
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2の補数
2の補数(、英: two's complement)は、2 を位取り記数法の基数とした場合の基数の補数である。すなわち、整数 x との和が基数 2 の冪 2 となる数 xc = 2 − x のことをいう(例:2 = 16 について、5 に対応する2の補数は 11 = 16 − 5)。 数 x とその2の補数 xc を二進法で表せば、2の補数 xc は x との和が n + 1 桁に繰り上がる最小の数といえる(例:2 = 100002 = (1111 + 1)2 について、510 = 01012 に対応する2の補数は 1110 = 10112 = (1111 − 0101 + 1)2)。 2の補数を得る手順は、基数の補数および減基数の補数の定義から、1の補数に 1 を足す操作となる。1の補数は二進表示された数の各位の値(ビット)を 0 から 1、また 1 から 0 に置き換える操作(ビット反転)によって得られるため(例:0101 → 1010)、2の補数はしばしば元の数をビット反転して1を足したものとして定義される。 ある数の2の補数を反数と見なせば、二進法において決まった桁数を持った数をそれぞれ非負の数と負の数に対応づけられる(#負の数の表現)。 特に n 桁の二進数について 0 から 2 − 1(例:n = 8 なら 0 から 127)の範囲で符号なし表現と一致させたものは2の補数表現(、英: two's complement representation)または2の補数表記(、英: two's complement notation)と呼ばれる(#2の補数表現)。 2の補数表現はコンピュータの分野において、固定長の符号付きの整数型や固定小数点数の表現に利用されている。 また2の補数表現は加算器で減算をするために使われる。 以下に#2の補数表現における計算例を示す。 例えば、4桁の二進数 00102 (= 2) に対する2の補数は 11102 である。実際、これらを足し算は以下のようになる: 結果は 100002 = 2 = 16 になっており、11102 が 00102 の 100002 に対する補数になっていることが確かめられる。また5桁目以降を無視し下4桁だけ取り出せば、結果は 00002 となる。つまり、00102 にその2の補数 11102 を足すということは 0010 から 0010 自身を引くということと同じ意味を持つ。言い換えれば、 11102 は負数 −2 を表している。 例えば、二進数 01012 (= 5) から二進数 00112 (= 3) を引く場合、以下のように計算できる: 一方、二進数 00112 の2の補数 11012 を足す計算は、以下のようになる: 5桁目以降を無視し下4桁を取り出せば、こちらも結果は 00102 (= 2) になり、引き算の場合と一致する。また、11012 は負数 −3 を表していることが分かる。 足し算の結果、算術オーバーフローが起きることがある。 例えば、二進数 01012 (= 5) と二進数 00112 (= 3) の足し算は以下のように計算できる: 結果は 10002 となるが、これは2の補数表現において負の整数 −8 に対応し、通常の足し算で期待される結果 5 + 3 = 8 と一致しない。 同様に、二進数 11012 (= −3) と二進数 10102 (= −6) の足し算は期待する結果を与えない: 結果は 01112 (= 7) となり、通常の足し算で期待される結果 (−3) + (−6) = −9 と一致しない。 2の補数を用いて、二進法で表された数(二進数)を負の整数に対応づけられる。2の補数の定義より、n 桁の二進数 x とその補数 xc は以下の関係を満たす: 冪 2 の倍数を 0 と同一視すれば、上記の補数の関係は 2 を法とする合同式に置き換えられる: これは x の補数 xc を x の反数 −x と見なすことを意味する。すなわち、数 y から x を引く操作は、数 y と補数 xc のたし算に置き換えられる: 同様に反数 −x のかけ算は補数の積に置き換えられる: #負の数の表現節の方法で負の数の計算を行えるが、具体的な数値計算を行うには、どの二進数(ビット列)がどの数値を表すかという対応関係を定義しなければならない。0 から 2 − 1 までの非負整数をそのまま通常の位取り記数法における二進表示、 に対応づければ、これらの数の補数として負の整数に対する2の補数表現が得られる: 具体例として、n = 4 桁の二進数における対応表を示す: 結局、n 桁の二進数の k + 1 桁目の値を bk ∈ {0, 1} とすれば、2の補数表現は以下のように表せる: 最上位ビット bn−1 は符号ビット(、英: sign bit)と呼ばれ、数値の正負を決定する。すなわち、符号ビットが 0 なら非負の数値を表し、1 なら負の数値を表す。 上記の数の補数は、以下のように表せる: 等比数列の和 ∑ k = 0 n − 2 2 k = 2 n − 1 − 1 {\textstyle \sum _{k=0}^{n-2}2^{k}=2^{n-1}-1} を用いれば、上記の補数は以下のようにも表せる: これは結局、元の数に負符号を付けた形となっている(ただし元の数が −2 の場合は算術オーバーフローが発生する。オーバーフローをチェックせずラップアラウンドする場合、−2 自身へ写る)。 2の補数表現は、符号ビットが 0 なら符号なし整数表現(つまり通常の二進法)に一致する。この性質は符号・絶対値表現や1の補数表現も持っている。 2の補数表現において、n 桁(n 個のビット)の二進数で表せる数値の範囲は −2 から +(2 − 1) までである(例: n = 8 の場合、−2 = −128 から +(2 − 1) = +127)。最小値と最大値の絶対値を比較すると、負の数の範囲は正の数の範囲に対して 1 だけ大きく、非対称になっている。そのため、最小値の補数を求めようとすると算術オーバーフローが生じる(汎整数拡張によって型が格上げされる場合は除く)。この性質は符号・絶対値表現や1の補数表現にはなく、符号・絶対値表現および1の補数表現での数値の範囲は −(2 − 1) から +(2 − 1) までと対称的になっている。 2の補数表現において、整数の偶奇性を判定するには最下位の桁(最下位ビット)が偶数か奇数かを判定すればよい。すなわち二進数表示の最下位の値 b0 が 0 なら偶数であり 1 なら奇数であることが示せる。同じ性質は符号・絶対値表現も持つが、1の補数表現においては最上位の桁(最上位ビット)の検査が必要であり、最上位ビットが 1 なら最下位ビットが 1、最上位ビットが 0 なら最下位ビットが 0 の場合に偶数となる。 2の補数で表される数は、符号ビット(最上位ビット) bn−1 が 0 なら非負の値を取り 1 なら負の値を取る。すなわち、負値か非負値かの判定は符号ビットのみから判別できる。符号・絶対値表現や1の補数表現ではゼロを表す二進数が一意でなく、符号ビットが 0 の +0 と符号ビットが 1 の −0 があるため、−0 が許容される限り、これらの表現では符号ビットのみから負数か非負数かを判定できない。 2の補数表現において、−1 は常にすべての位の値が 1 の二進数 111...112 に対応づけられる。従って、数をビット列とみなせば、ビット列 x とそのビットを反転させたビット列 x は常に以下を満たす: 上記より、x の2の補数は xc = x + 1 と表せる。従って減法は、 と書き換えられる。ビット反転はまた1の補数を得る操作でもある。 右辺の (2 − 1) − x は x に対する1の補数そのものであるから、ビット反転は1の補数を得る操作になっている。 x の n 桁の二進数表示の下位 m − 1 桁目まで位の値が 0 だった場合、2の補数 x + 1 を求める際、ビット反転した値が桁上りによって再び反転するため、下位 M = min(m, n)桁まで元の数とその2の補数の値が一致する。また残りの上位 n − M 桁は、ビット反転 x の上位 n − M 桁に一致する。例えば、補数と元の数の位の値が一致する部分に下線を引けば、x = 0100 のビット反転は x = 1011 であり、2の補数は x + 1 = 1100 となる。同様に、1000 および 0000 のビット反転はそれぞれ 0111, 1111 であり、2の補数はそれぞれ 1000, 0000 となる(表も参照)。
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"paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2の補数で表される数は、符号ビット(最上位ビット) bn−1 が 0 なら非負の値を取り 1 なら負の値を取る。すなわち、負値か非負値かの判定は符号ビットのみから判別できる。符号・絶対値表現や1の補数表現ではゼロを表す二進数が一意でなく、符号ビットが 0 の +0 と符号ビットが 1 の −0 があるため、−0 が許容される限り、これらの表現では符号ビットのみから負数か非負数かを判定できない。", "title": "2の補数表現の性質" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2の補数表現において、−1 は常にすべての位の値が 1 の二進数 111...112 に対応づけられる。従って、数をビット列とみなせば、ビット列 x とそのビットを反転させたビット列 x は常に以下を満たす:", "title": "2の補数表現の性質" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "上記より、x の2の補数は xc = x + 1 と表せる。従って減法は、", "title": "2の補数表現の性質" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "と書き換えられる。ビット反転はまた1の補数を得る操作でもある。", "title": "2の補数表現の性質" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "右辺の (2 − 1) − x は x に対する1の補数そのものであるから、ビット反転は1の補数を得る操作になっている。", "title": "2の補数表現の性質" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "x の n 桁の二進数表示の下位 m − 1 桁目まで位の値が 0 だった場合、2の補数 x + 1 を求める際、ビット反転した値が桁上りによって再び反転するため、下位 M = min(m, n)桁まで元の数とその2の補数の値が一致する。また残りの上位 n − M 桁は、ビット反転 x の上位 n − M 桁に一致する。例えば、補数と元の数の位の値が一致する部分に下線を引けば、x = 0100 のビット反転は x = 1011 であり、2の補数は x + 1 = 1100 となる。同様に、1000 および 0000 のビット反転はそれぞれ 0111, 1111 であり、2の補数はそれぞれ 1000, 0000 となる(表も参照)。", "title": "2の補数表現の性質" } ]
2の補数(にのほすう、は、2 を位取り記数法の基数とした場合の基数の補数である。すなわち、整数 x との和が基数 2 の冪 2n となる数 xc = 2n − x のことをいう。 数 x とその2の補数 xc を二進法で表せば、2の補数 xc は x との和が n + 1 桁に繰り上がる最小の数といえる。 2の補数を得る手順は、基数の補数および減基数の補数の定義から、1の補数に 1 を足す操作となる。1の補数は二進表示された数の各位の値を 0 から 1、また 1 から 0 に置き換える操作によって得られるため、2の補数はしばしば元の数をビット反転して1を足したものとして定義される。 ある数の2の補数を反数と見なせば、二進法において決まった桁数を持った数をそれぞれ非負の数と負の数に対応づけられる。 特に n 桁の二進数について 0 から 2n−1 − 1の範囲で符号なし表現と一致させたものは2の補数表現(にのほすうひょうげん、または2の補数表記(にのほすうひょうき、と呼ばれる。 2の補数表現はコンピュータの分野において、固定長の符号付きの整数型や固定小数点数の表現に利用されている。 また2の補数表現は加算器で減算をするために使われる。
{{読み仮名|'''2の補数'''|にのほすう|{{Lang-en-short|two's complement}}}}は、{{math|2}} を[[位取り記数法]]の基数とした場合の[[補数#定義|基数の補数]]である{{sfn|JIS X 0005:2002|2002|loc=05.08.04 2の補数}}{{sfn|ISO/IEC 2382:2015|2015|loc=2. Terms and definition. 2121100. twos complement}}{{sfn|JIS X 0005:2002|2002|loc=05.08.02 基数の補数}}{{sfn|ISO/IEC 2382:2015|2015|loc=2. Terms and definition. 2121098. radix complement}}{{sfn|JIS X 0005:2002|2002|loc=05.08.01 補数}}{{sfn|ISO/IEC 2382:2015|2015|loc=2. Terms and definition. 2121097. complement}}{{efn2|[[三進法]]における[[補数#定義|減基数の補数]](基数マイナス1の補数)も「2の補数」と呼ばれるが([[補数#呼称]]を参照)、本項では扱わない。}}。すなわち、[[整数]] {{mvar|x}} との[[加法|和]]が基数 {{math|2}} の[[冪乗|冪]] {{math|2{{sup|''n''}}}} となる数 {{math2|1=''x''{{sub|c}} = 2{{sup|''n''}} &minus; ''x''}} のことをいう{{efn2|name=notation-complement|本項では数 {{mvar|x}} の補数を下付きの添字 c を用いて {{math|''x''{{sub|c}}}} と表す(例:{{math2|1=(0111{{sub|2}}){{sub|c}} = 1001{{sub|2}}}}{{efn2|name=notation-radix}})。添字 c は {{en|complement}} の頭文字である。}}(例:{{math2|1=2{{sup|4}} = 16}} について、{{math|5}} に対応する2の補数は {{math2|1=11 = 16 &minus; 5}})。 数 {{mvar|x}} とその2の補数 {{math|''x''{{sub|c}}}} を[[二進法]]で表せば、2の補数 {{math|''x''{{sub|c}}}} は {{mvar|x}} との和が {{math2|''n'' + 1}} 桁に繰り上がる最小の数といえる(例:{{math2|1=2{{sup|4}} = 10000{{sub|2}} = (1111 + 1){{sub|2}}}} について{{efn2|name=notation-radix|下付きの添字は[[位取り記数法]]の基数を表す。基数自身の表記には[[十進法]]を用いる。}}、{{math2|1=5{{sub|10}} = 0101{{sub|2}}}} に対応する2の補数は {{math2|1=11{{sub|10}} = 1011{{sub|2}} = (1111 &minus; 0101 + 1){{sub|2}}}})。 2の補数を得る手順は、基数の補数および減基数の補数の定義から、[[1の補数]]に {{math|1}} を足す操作となる。1の補数は二進表示された数の各位の値([[ビット]])を {{math|0}} から {{math|1}}、また {{math|1}} から {{math|0}} に置き換える操作([[ビット演算#NOT|ビット反転]])によって得られるため(例:{{math2|0101 &rarr; 1010}})、2の補数はしばしば元の数をビット反転して1を足したものとして定義される。 ある数の2の補数を[[反数]]と見なせば、二進法において決まった桁数を持った数をそれぞれ[[正の数と負の数|非負]]の数と負の数に対応づけられる([[#負の数の表現]])。 特に {{mvar|n}} 桁の二進数について {{math|0}} から {{math|2{{sup|''n''&minus;1}} &minus; 1}}(例:{{math|1=''n'' = 8}} なら {{math|0}} から {{math|127}})の範囲で符号なし表現と一致させたものは{{読み仮名|'''2の補数表現'''|にのほすうひょうげん|{{lang-en-short|two's complement representation}}}}または{{読み仮名|'''2の補数表記'''|にのほすうひょうき|{{lang-en-short|two's complement notation}}}}と呼ばれる([[#2の補数表現]])。 2の補数表現は[[コンピュータ]]の分野において、[[整数型#固定長|固定長]]の[[符号 (数学)|符号]]付きの[[整数型]]や[[固定小数点数]]の表現に利用されている。 また2の補数表現は[[加算器]]で減算をするために使われる。 == 計算例 == 以下に[[#2の補数表現]]における計算例を示す。 === 補数であることの確認 === 例えば、4桁の[[二進数]] {{math2|1=0010{{sub|2}} (= 2)}} に対する2の補数は {{math|1110{{sub|2}}}} である。実際、これらを[[加法|足し算]]は以下のようになる: :<math display="block"> \begin{array}{lrrrrr} & & 0 & 0 & 1 & 0 \\ {}+{} & & 1 & 1 & 1 & 0 \\ \hline & \cancel{1} & 0 & 0 & 0 & 0 \end{array} </math> 結果は {{math2|1=10000{{sub|2}} = 2{{sup|4}} = 16}} になっており、{{math|1110{{sub|2}}}} が {{math|0010{{sub|2}}}} の {{math2|1=10000{{sub|2}}}} に対する補数になっていることが確かめられる。また5桁目以降を無視し下4桁だけ取り出せば、結果は {{math|0000{{sub|2}}}} となる。つまり、{{math|0010{{sub|2}}}} にその2の補数 {{math|1110{{sub|2}}}} を足すということは {{math|0010}} から {{math|0010}} 自身を引くということと同じ意味を持つ。言い換えれば、 {{math2|1110{{sub|2}}}} は負数 {{math|&minus;2}} を表している。 === 引き算と補数の足し算の比較 === 例えば、二進数 {{math2|1=0101{{sub|2}} (= 5)}} から二進数 {{math2|1=0011{{sub|2}} (= 3)}} を引く場合、以下のように計算できる: :<math display="block"> \begin{array}{lrrrrr} & & 0 & 1 & 0 & 1 \\ {}-{} & & 0 & 0 & 1 & 1 \\ \hline & & 0 & 0 & 1 & 0 \end{array} </math> 一方、二進数 {{math|0011{{sub|2}}}} の2の補数 {{math|1101{{sub|2}}}} を足す計算は、以下のようになる: :<math display="block"> \begin{array}{lrrrrr} & & 0 & 1 & 0 & 1 \\ {}+{} & & 1 & 1 & 0 & 1 \\ \hline & \cancel{1} & 0 & 0 & 1 & 0 \end{array} </math> 5桁目以降を無視し下4桁を取り出せば、こちらも結果は {{math2|1=0010{{sub|2}} (= 2)}} になり、引き算の場合と一致する。また、{{math|1101{{sub|2}}}} は負数 {{math|&minus;3}} を表していることが分かる。 === 算術オーバーフローの例 === 足し算の結果、[[算術オーバーフロー]]が起きることがある。 例えば、二進数 {{math2|1=0101{{sub|2}} (= 5)}} と二進数 {{math2|1=0011{{sub|2}} (= 3)}} の足し算は以下のように計算できる: :<math display="block"> \begin{array}{lrrrrr} & & 0 & 1 & 0 & 1 \\ {}+{} & & 0 & 0 & 1 & 1 \\ \hline & & 1 & 0 & 0 & 0 \end{array} </math> 結果は {{math2|1=1000{{sub|2}}}} となるが、これは2の補数表現において負の整数 {{math|&minus;8}} に対応し、通常の足し算で期待される結果 {{math2|1=5 + 3 = 8}} と一致しない。 同様に、二進数 {{math2|1=1101{{sub|2}} (= &minus;3)}} と二進数 {{math2|1=1010{{sub|2}} (= &minus;6)}} の足し算は期待する結果を与えない: :<math display="block"> \begin{array}{lrrrrr} & & 1 & 1 & 0 & 1 \\ {}+{} & & 1 & 0 & 1 & 0 \\ \hline & \cancel{1} & 0 & 1 & 1 & 1 \end{array} </math> 結果は {{math2|1=0111{{sub|2}} (= 7)}} となり、通常の足し算で期待される結果 {{math2|1=(&minus;3) + (&minus;6) = &minus;9}} と一致しない。 == 負の数の表現 == 2の補数を用いて、[[二進法]]で表された数(二進数)を[[正の数と負の数|負]]の[[整数]]に対応づけられる。2の補数の[[定義]]より、{{mvar|n}} 桁{{efn2|name=digits|ここでは {{mvar|n}} 桁目の値が {{math|0}} となるものも {{mvar|n}} 桁の数と呼んでいる。例えば {{math|0001}} は 4 桁の数である。}}の二進数 {{mvar|x}} とその補数 {{math|''x''{{sub|c}}}} は以下の関係を満たす{{sfn|水谷『数の補数表現』|pp=2&ndash;3|loc=2.2 符号ビットと 2 の補数}}: :<math display="block"> x + x_\mathrm{c} = 2^n \quad(\iff x_\mathrm{c} = 2^n - x )\,. </math> [[冪乗|冪]] {{math|2{{sup|''n''}}}} の[[倍数]]を {{math|0}} と同一視すれば、上記の補数の関係は {{math|2{{sup|''n''}}}} を法とする[[整数の合同|合同式]]に置き換えられる{{sfn|西村『論理(スイッチング)回路と計算』|p=14|loc=2の補数表現でなぜうまく行くのか?}}: :<math display="block"> x + x_\mathrm{c} \equiv 0 \pmod {2^n} \,. </math> これは {{mvar|x}} の補数 {{math|''x''{{sub|c}}}} を {{mvar|x}} の[[反数]] {{math|&minus;''x''}} と見なすことを意味する。すなわち、数 {{mvar|y}} から {{mvar|x}} を引く操作は、数 {{mvar|y}} と補数 {{math|''x''{{sub|c}}}} の[[加法|たし算]]に置き換えられる{{sfn|水谷『数の補数表現』|p=2|loc=2.1 補数}}{{sfn|中野『代数入門』|p=18|loc=5.1 合同式, 命題5.2}}: :<math display="block"> y - x \equiv y + 2^n - x \equiv y + x_\mathrm{c} \pmod {2^n} \,. </math> 同様に反数 {{math|&minus;''x''}} の[[乗法|かけ算]]は補数の積に置き換えられる{{sfn|中野『代数入門』|p=18|loc=5.1 合同式, 命題5.2}}: :<math display="block"> y \cdot (- x) \equiv y \cdot 2^n + y \cdot (- x) \equiv y \cdot x_\mathrm{c} \pmod {2^n} \,. </math> == {{vanc|2の補数表現|2の補数表記}} == [[#負の数の表現]]節の方法で負の数の計算を行えるが、具体的な数値計算を行うには、どの[[二進法|二進数]]([[ビット]]列)がどの数値を表すかという対応関係を[[定義]]しなければならない。{{math|0}} から {{math|2{{sup|''n''&minus;1}} &minus; 1}} までの非負整数をそのまま通常の[[位取り記数法]]における二進表示、 : <math display="block"> \begin{align} 0 &\mapsto 0_2, \\ 1 &\mapsto 1_2, \\ 2 &\mapsto {10}_2, \\ & \;\; \vdots \\ 2^{n-1}-2 &\mapsto {011\cdots10}_2, \\ 2^{n-1}-1 &\mapsto \underbrace{011\cdots11}_{n \text{桁}}{}_{2} \end{align} </math> に対応づければ、これらの数の[[補数]]として[[正の数と負の数|負]]の[[整数]]に対する2の補数表現が得られる: : <math display="block"> \begin{alignat}{2} 2^{n-1} &\equiv -2^{n-1} &&\mapsto {100 \cdots 00}_2, \\ 2^{n-1} + 1 &\equiv 1 - 2^{n-1} &&\mapsto {100 \cdots 01}_2, \\ & \;\; \vdots && \;\; \vdots \\ 2^{n} - 2 &\equiv -2 &&\mapsto {111 \cdots 10}_2, \\ 2^{n} - 1 &\equiv -1 &&\mapsto {111 \cdots 11}_2 \,. \end{alignat} </math> 具体例として、{{math|1=''n'' = 4}} 桁{{efn2|name=digits}}の二進数における対応表を示す: {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ {{math|2{{sup|4}}}} についての2の補数表現における、二進数(ビット列)と対応する数値の一覧 |- ! 対応する数値 !! 二進数 !! 対応する数値 !! 二進数 |- | {{math|0}} || {{math|0000{{sub|2}}}} | - || - |- | {{math|1}} || {{math|0001{{sub|2}}}} | {{math|&minus;1}} || {{math|1111{{sub|2}}}} |- | {{math|2}} || {{math|0010{{sub|2}}}} | {{math|&minus;2}} || {{math|1110{{sub|2}}}} |- | {{math|3}} || {{math|0011{{sub|2}}}} | {{math|&minus;3}} || {{math|1101{{sub|2}}}} |- | {{math|4}} || {{math|0100{{sub|2}}}} | {{math|&minus;4}} || {{math|1100{{sub|2}}}} |- | {{math|5}} || {{math|0101{{sub|2}}}} | {{math|&minus;5}} || {{math|1011{{sub|2}}}} |- | {{math|6}} || {{math|0110{{sub|2}}}} | {{math|&minus;6}} || {{math|1010{{sub|2}}}} |- | {{math|7}} || {{math|0111{{sub|2}}}} | {{math|&minus;7}} || {{math|1001{{sub|2}}}} |- | - || - | {{math|&minus;8}} || {{math|1000{{sub|2}}}} |} 結局、{{mvar|n}} 桁の二進数の {{math|1=''k'' + 1}} 桁目の値を {{math|''b{{sub|k}}'' &isin; {{mset|0, 1}}}} とすれば、2の補数表現は以下のように表せる{{sfn|水谷『数の補数表現』|p=3|loc=2.2 符号ビットと 2 の補数}}: : <math display="block"> {b_{n-1} b_{n-2} \cdots b_1 b_0}_{(2)} \mapsto - b_{n-1} \cdot 2^{n-1} + \sum_{k=0}^{n-2} {b_k \cdot 2^k} \,. </math> [[最上位ビット]] {{math|''b''{{sub|''n''&minus;1}}}} は{{読み仮名|'''符号ビット'''|ふごうビット|{{lang-en-short|sign bit}}}}と呼ばれ、数値の正負を決定する。すなわち、符号ビットが {{math|0}} なら非負の数値を表し、{{math|1}} なら負の数値を表す。 上記の数の補数は、以下のように表せる: : <math display="block"> \left({b_{n-1} b_{n-2} \cdots b_1 b_0}_{(2)}\right)_\mathrm{c} \mapsto 1 - (1 - b_{n-1})\cdot 2^{n-1} + \sum_{k=0}^{n-2} {(1 - b_k) \cdot 2^k} \,. </math> [[等比数列]]の和 <math display="inline"> \sum_{k=0}^{n-2} 2^k = 2^{n-1} - 1</math> を用いれば、上記の補数は以下のようにも表せる{{sfn|水谷『数の補数表現』|p=3|loc=2.2 符号ビットと 2 の補数}}: : <math display="block"> \left({b_{n-1} b_{n-2} \cdots b_1 b_0}_{(2)}\right)_\mathrm{c} \mapsto b_{n-1} \cdot 2^{n-1} - \sum_{k=0}^{n-2} {b_k \cdot 2^k} \,. </math> これは結局、元の数に負符号を付けた形となっている(ただし元の数が {{math|&minus;2{{sup|''n''&minus;1}}}} の場合は[[算術オーバーフロー]]が発生する。オーバーフローをチェックせずラップアラウンドする場合、{{math|&minus;2{{sup|''n''&minus;1}}}} 自身へ写る{{efn2|実際、[[Java]]の <code>java.lang.Math.abs(int)</code> などは符号付き整数型の最小値に対して引数の値をそのまま結果として与える{{sfn|Java SE &amp; JDK API Specification|loc=java.lang.Math#abs(int)}}。また、組み込みの整数演算は算術オーバーフローを検出しない{{sfn|Java Language Specification|loc=4.2.2. Integer Operations}}。一方で[[C言語]]や[[C++]]において、2の補数表現による符号付き整数の最小値(例:<code>INT_MIN</code>)に単項マイナス演算子を作用させる(例:<code>-INT_MIN</code>)と、[[汎整数拡張]]により結果の型がオペランドの型より大きくなる場合を除き、[[算術オーバーフロー]]が発生する。符号付き整数の算術オーバーフローは[[未定義動作]]を引き起こす。算術オーバーフローの例に関しては例えば {{harvnb|INT32-C}} を参照。}})。 == 2の補数表現の性質 == === 符号なし整数との一致 === 2の補数表現は、符号ビットが {{math|0}} なら符号なし整数表現(つまり通常の[[二進法]])に一致する{{sfn|西村『論理(スイッチング)回路と計算』|p=18|loc=2の補数表現の性質}}。この性質は[[符号付数値表現#符号・絶対値表現|符号・絶対値表現]]や[[1の補数]]表現も持っている。 === 最小値と最大値の非対称性 === 2の補数表現において、{{mvar|n}} 桁({{mvar|n}} 個の[[ビット]])の二進数で表せる数値の範囲は {{math2|&minus;2{{sup|''n''&minus;1}}}} から {{math2|+(2{{sup|''n''&minus;1}} &minus; 1)}} までである{{sfn|西村『論理(スイッチング)回路と計算』|p=18|loc=2の補数表現の性質}}(例: {{math2|1=''n'' = 8}} の場合、{{math2|1=&minus;2{{sup|7}} = &minus;128}} から {{math2|1=+(2{{sup|7}} &minus; 1) = +127}})。最小値と最大値の絶対値を比較すると、負の数の範囲は正の数の範囲に対して {{math|1}} だけ大きく、非対称になっている。そのため、最小値の補数を求めようとすると[[算術オーバーフロー]]が生じる([[汎整数拡張]]によって型が格上げされる場合は除く)。この性質は[[符号付数値表現#符号・絶対値表現|符号・絶対値表現]]や[[1の補数]]表現にはなく、符号・絶対値表現および1の補数表現での数値の範囲は {{math2|&minus;(2{{sup|''n''&minus;1}} &minus; 1)}} から {{math2|+(2{{sup|''n''&minus;1}} &minus; 1)}} までと対称的になっている。 === 偶奇性の判定 === 2の補数表現において、[[整数]]の[[偶奇性]]を判定するには最下位の桁([[最下位ビット]])が[[偶数]]か[[奇数]]かを判定すればよい。すなわち二進数表示の最下位の値 {{math|''b''{{sub|0}}}} が {{math|0}} なら偶数であり {{math|1}} なら奇数であることが示せる{{sfn|西村『論理(スイッチング)回路と計算』|p=18|loc=2の補数表現の性質}}。同じ性質は[[符号付数値表現#符号・絶対値表現|符号・絶対値表現]]も持つが、[[1の補数]]表現においては最上位の桁([[最上位ビット]])の検査が必要であり、最上位ビットが {{math|1}} なら最下位ビットが {{math|1}}、最上位ビットが {{math|0}} なら最下位ビットが {{math|0}} の場合に偶数となる。 === 正負の判定 === 2の補数で表される数は、符号ビット([[最上位ビット]]) {{math|''b''{{sub|''n''&minus;1}}}} が {{math|0}} なら非負の値を取り {{math|1}} なら負の値を取る{{sfn|西村『論理(スイッチング)回路と計算』|p=18|loc=2の補数表現の性質}}。すなわち、負値か非負値かの判定は符号ビットのみから判別できる。符号・絶対値表現や1の補数表現ではゼロを表す二進数が一意でなく、符号ビットが {{math|0}} の {{math|+0}} と符号ビットが {{math|1}} の {{math|&minus;0}} があるため、{{math|&minus;0}} が許容される限り、これらの表現では符号ビットのみから負数か非負数かを判定できない。 === 1の補数との関係 === 2の補数表現において、{{math|&minus;1}} は常にすべての位の値が {{math|1}} の二進数 {{math|111...11{{sub|2}}}} に対応づけられる。従って、数を[[ビット]]列とみなせば、ビット列 {{mvar|x}} とその[[ビット演算#NOT|ビットを反転]]{{efn2|ここで[[ビット演算#NOT|ビット反転]]とは各ビットに対する否定演算を指す。すなわち入力が {{math|0}} なら {{math|1}} を出力し、入力が {{math|1}} なら {{math|0}} を出力する。}}させたビット列 {{math|{{sup|f}}''x''}} は常に以下を満たす: : <math display="block"> x + {}^\mathrm{f}x \equiv -1 \pmod{2^n} \,. </math> 上記より、{{mvar|x}} の2の補数は {{math|1=''x''{{sub|c}} = {{sup|f}}''x'' + 1}} と表せる。従って[[減法]]は、 :<math display="block"> y - x \equiv y + {}^\mathrm{f}x + 1 \pmod{2^n} </math> と書き換えられる。ビット反転はまた[[1の補数]]を得る操作でもある。 : <math display="block"> {}^\mathrm{f}x \equiv -1 - x \equiv \left(2^n - 1\right) - x \pmod{2^n} \,. </math> 右辺の {{math2|1=(2{{sup|''n''}} &minus; 1) &minus; ''x''}} は {{mvar|x}} に対する1の補数そのものであるから、ビット反転は1の補数を得る操作になっている。 === 元の数とのビットの一致 === {{mvar|x}} の {{mvar|n}} 桁の二進数表示の下位 {{math2|''m'' &minus; 1}} 桁目まで位の値が {{math|0}} だった場合、2の補数 {{math2|{{sup|f}}''x'' + 1}} を求める際、ビット反転した値が桁上りによって再び反転するため、下位 {{math2|1=''M'' = min(''m'', ''n'')}}{{efn2|{{math|min}} はここで、与えられた数の中で[[最大と最小|最小]]の数を表す。}}桁まで元の数とその2の補数の値が一致する。また残りの上位 {{math2|''n'' &minus; ''M''}} 桁は、ビット反転 {{math|{{sup|f}}''x''}} の上位 {{math2|''n'' &minus; ''M''}} 桁に一致する。例えば、補数と元の数の位の値が一致する部分に下線を引けば、{{math|1=''x'' = 0{{underline|100}}}} のビット反転は {{math2|1={{sup|f}}''x'' = 1{{underline|011}}}} であり、2の補数は {{math2|1={{sup|f}}''x'' + 1 = 1{{underline|100}}}} となる。同様に、{{math|{{underline|1000}}}} および {{math|{{underline|0000}}}} のビット反転はそれぞれ {{math|{{underline|0111}}}}, {{math|{{underline|1111}}}} であり、2の補数はそれぞれ {{math|{{underline|1000}}}}, {{math|{{underline|0000}}}} となる(表も参照)。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ {{math|2{{sup|4}}}} についての2の補数表現における、補数と元の数との下位ビットの一致{{efn2|上位ビットの {{math|B}} は任意の値を表す。また、{{math|{{overline|B}}}} は {{math|B}} のビット反転である。下線で示す部分は元の数と対応する2の補数で一致する下位ビットの範囲を示している。}} |- ! 元の数と一致する下位ビットの桁数({{mvar|M}}) | 1 || 2 || 3 || 4 || 4 |- ! 元の数({{mvar|x}}) | {{math|B{{sub|3}}B{{sub|2}}B{{sub|1}}{{underline|1}}}} || {{math|B{{sub|3}}B{{sub|2}}{{underline|10}}}} || {{math|B{{sub|3}}{{underline|100}}}} || {{math|{{underline|1000}}}} || {{math|{{underline|0000}}}} |- ! ビット反転({{math|{{sup|f}}''x''}}) | {{math|{{overline|B}}{{sub|3}}{{overline|B}}{{sub|2}}{{overline|B}}{{sub|1}}{{underline|0}}}} || {{math|{{overline|B}}{{sub|3}}{{overline|B}}{{sub|2}}{{underline|01}}}} || {{math|{{overline|B}}{{sub|3}}{{underline|011}}}} || {{math|{{underline|0111}}}} || {{math|{{underline|1111}}}} |- ! 2の補数({{math|{{sup|f}}''x'' + 1}}) | {{math|{{overline|B}}{{sub|3}}{{overline|B}}{{sub|2}}{{overline|B}}{{sub|1}}{{underline|1}}}} || {{math|{{overline|B}}{{sub|3}}{{overline|B}}{{sub|2}}{{underline|10}}}} || {{math|{{overline|B}}{{sub|3}}{{underline|100}}}} || {{math|{{underline|1000}}}} || {{math|{{underline|0000}}}} |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * {{cite book|和書 |title=JIS X 0005:2002 情報処理用語(データの表現) |publisher=日本規格協会 |editor1=日本規格協会 |editor2=情報処理学会 |date=2002-08-31 |ref={{sfnref|JIS X 0005:2002|2002}} }} * {{cite book |title=ISO/IEC 2382:2015 Information technology — Vocabulary |publisher=ISO/IEC |editor1=ISO |editor2=IEC |date=2015-05 |ref={{sfnref|ISO/IEC 2382:2015|2015}} }} * {{cite book |title=IBM System/360 Principles of Operation |url=https://dl.acm.org/doi/10.5555/1102026 |doi=10.5555/1102026 |publisher=IBM |editor1=IBM |date=1964-01-01 |ref={{sfnref|IBM System/360 Principles of Operation|1964}} }} * {{cite web2 |title=数の補数表現 ― コンピュータは数値をどのように保持しているのか? |website=www.edu.tuis.ac.jp/~mackin |url=http://www.edu.tuis.ac.jp/~mackin/programming/bit.pdf |url-status=live |first=正大 |last=水谷 |accessdate=2023-05-11 |ref={{sfnref|水谷『数の補数表現』}} }} * {{cite web2 |title=基礎情報処理 ― 論理(スイッチング)回路と計算 |website=www.math.kyoto-u.ac.jp/~susumu |url=https://www.math.kyoto-u.ac.jp/~susumu/lecture/digital11.pdf |url-status=live |first=進 |last=西村 |accessdate=2023-05-11 |ref={{sfnref|西村『論理(スイッチング)回路と計算』}} }} * {{cite web2 |title=代数入門 |website=pc1.math.gakushuin.ac.jp/~shin |url=https://pc1.math.gakushuin.ac.jp/~shin/html-files/Algebra_Introduction/2022/book.pdf |url-status=live |first=伸 |last=中野 |date=2022-04-01 |accessdate=2023-05-11 |ref={{sfnref|中野『代数入門』}} }} * {{cite web2 |title=CERT C Coding Standard: INT32-C. Ensure that operations on signed integers do not result in overflow |website=wiki.sei.cmu.edu |url=https://wiki.sei.cmu.edu/confluence/x/UtYxBQ |url-status=live |first=Robert |last=Seacord |accessdate=2023-05-13 |ref={{sfnref|INT32-C}} }} * {{cite web2 |title=CERT C コーディングスタンダード: INT32-C. 符号付き整数演算がオーバーフローを引き起こさないことを保証する |website=www.jpcert.or.jp/sc-rules/ |url=https://www.jpcert.or.jp/sc-rules/c-int32-c.html |url-status=live |publisher=JPCERT/CC |date=2020-06-16 |accessdate=2023-05-14 |ref={{sfnref|INT32-C(和訳)}} }} * {{cite web2 |title=Chapter 4. Types, Values, and Variables ― Java Language Specification |website=docs.oracle.com/javase/specs/jls/ |url=https://docs.oracle.com/javase/specs/jls/se20/html/jls-4.html#jls-4.2 |url-status=live |publisher=Oracle |date=2023-03-03 |accessdate=2023-05-13 |ref={{sfnref|Java Language Specification}} }} * {{cite web2 |title=Class Math ― Java SE 20 &amp; JDK 20 |website=docs.oracle.com/en/java/javase/20/docs/api/ |url=https://docs.oracle.com/en/java/javase/20/docs/api/java.base/java/lang/Math.html |url-status=live |publisher=Oracle |accessdate=2023-05-13 |ref={{sfnref|Java SE &amp; JDK API Specification}} }} == 関連項目 == * [[符号付数値表現]] * [[コンピュータの数値表現]] * [[補数]] * [[1の補数]] * [[整数型]] * [[ブースの乗算アルゴリズム]] {{DEFAULTSORT:にのほすう}} [[Category:コンピュータの算術]] [[Category:コンピュータのデータ]] [[Category:プログラミング]] [[Category:数の表現]] [[Category:数学に関する記事|/2にのほすう]]
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1535年
1535年(1535 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1535年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1535}} {{year-definition|1535}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[乙未]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[天文 (元号)|天文]]4年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2195年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[嘉靖]]14年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[中宗 (朝鮮王)|中宗]]30年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3868年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[莫朝]] : [[大正 (莫朝)|大正]]6年 ** [[黎朝|後黎朝]] : [[元和 (黎朝)|元和]]3年 * [[仏滅紀元]] : 2077年 - 2078年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 941年 - 942年 * [[ユダヤ暦]] : 5295年 - 5296年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1535|Type=J|表題=可視}} == できごと == * 松平清康が誅殺された。「森山崩れ」{{要出典|date=2021-03}} == 誕生 == {{see also|Category:1535年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[8月21日]]([[天文 (元号)|天文]]4年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]) - [[島津義弘]]、[[武将]](+ [[1619年]]) * [[10月16日]](天文4年[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]) - [[丹羽長秀]]、武将(+ [[1585年]]) * [[荒木村重]]、武将(+ [[1586年]]) == 死去 == {{see also|Category:1535年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月18日]] - [[ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ]]、[[魔術師]]・[[カバラ]]研究家・[[神学者]]・[[法律家]](* [[1486年]]) * [[3月5日]] - [[ロレンツォ・コスタ]]、[[画家]](* [[1460年]]) * [[7月6日]] - [[トマス・モア]]、[[政治家]]・[[イギリス]]・[[ルネサンス]]を代表する[[人文学者]](* [[1478年]]) <!--== 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1535}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1535ねん}} [[Category:1535年|*]]
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経 (仏教)
経(きょう、梵: sūtra、巴: sutta)とは、仏典のひとつであり、釈迦が説いた教え(法)を記録した聖典のこと。三蔵を構成する、律(ヴィヤナ)、経(スートラ)、論(アビダルマ)の一つをなす。 仏教においては、厳密には、元来「経」(梵: sūtra, スートラ、巴: sutta, スッタ)とは、「三蔵」(巴: Tipitaka, ティピタカ、梵: Tripiṭaka, トリピタカ)として構成される「仏典」の3分類の内の1つ、「経蔵」、「我は(釈迦から)こう聞いた」(如是我聞)で始まる「釈迦の口説」文献群の範疇を指す言葉だった。「三蔵」は以下の構成をもつ。{ 後に大乗仏教経典群が数多く作製されて追加されていき、「三蔵」構造が崩れてしまったことや、漢字で「経」と訳され、「スートラ」「三蔵」との対応関係が意識されづらくなってしまったことから、北伝仏教・漢字文化圏においては、「仏典」全体を漠然と「経」「経典」と表現するようにもなっていった。 そのため北伝仏教・漢字文化圏では、「三蔵」に代わる「仏典」全般の総称として、「大蔵経」(だいぞうきょう)・「一切経」(いっさいきょう)という呼称・概念が、新たに形成・普及された。 このように、北伝仏教・漢字文化圏における「経」「経典」という語には、 という2つの意味が混在しており、文脈によってどちらの意味で用いられているか注意する必要がある。 sūtraの原義は「糸」のことで、元々はバラモン教において『ヴェーダ』のためにまとめられた散文綱要書を指して呼んでいたが、後にバラモン教・ヒンドゥー教の様々な文献や仏教の文献にも、この呼称が採用されていった。 Normanによれば仏教用語の sutta, sutraはサンスクリット語の sūkta (su + ukta)に由来しており、「よく話されている」ことを意味し、これは「仏陀によって説かれたものはすべてよく説かれた」との信念からであるという。
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経とは、仏典のひとつであり、釈迦が説いた教え(法)を記録した聖典のこと。三蔵を構成する、律(ヴィヤナ)、経(スートラ)、論(アビダルマ)の一つをなす。
{{Redirect|スートラ|ドノヴァンのアルバム|スートラ〜教典}} {{Infobox Buddhist term | title = 経 | en = thread | pi = sutta (スッタ) | sa = sūtra (スートラ) | my = | my-Latn = | zh = 契經 | zh-Latn = | ja = 経 | ja-Latn = }} [[File:A Sanskrit manuscript of Lotus Sutra in South Turkestan Brahmi script.jpg|thumb|upright=1.2|[[ブラーフミー文字]]で記された、[[法華経]]の[[サンスクリット語]]写本]] '''経'''(きょう、{{lang-sa-short|sūtra}}、{{lang-pi-short|sutta}})とは、[[仏典]]のひとつであり、[[釈迦]]が説いた教え([[法 (仏教)|法]])を記録した聖典のこと。[[三蔵]]を構成する、[[律 (仏教)|律]](ヴィヤナ)、経(スートラ)、[[論 (仏教)|論]](アビダルマ)の一つをなす。 ==定義== 仏教においては、厳密には、元来「経」({{lang-sa-short|sūtra}}, スートラ、{{lang-pi-short|sutta}}, スッタ)とは、「'''[[三蔵]]'''」({{lang-pi-short|Tipitaka}}, [[ティピタカ]]、{{lang-sa-short|Tripiṭaka}}, トリピタカ)として構成される「[[仏典]]」の3分類の内の1つ、「経蔵」、「我は(釈迦から)こう聞いた」(如是我聞)で始まる「釈迦の口説」文献群の範疇を指す言葉だった。「'''[[三蔵]]'''」は以下の構成をもつ。{ * [[律蔵]]([[パーリ語|巴]]・[[サンスクリット|梵]]: Vinaya pitaka(ヴィナヤ・ピタカ)) --- [[僧伽]](僧団)規則・道徳・生活様相などをまとめたもの * [[経蔵]]({{lang-pi-short|Sutta pitaka(スッタ・ピタカ)}}、{{lang-sa-short|Sūtra pitaka}}(スートラ・ピタカ)) --- [[釈迦]]の説いたとされる教えをまとめたもの * [[論蔵]]({{lang-pi-short|Abhidhamma pitaka(アビダンマ・ピタカ)}}、[[サンスクリット|梵]]: Abhidharm pitaka(アビダルマ・ピタカ)) --- 上記の注釈、解釈などを集めたもの ===北伝仏教・漢字文化圏における「経」「経典」=== 後に[[大乗仏教]]経典群が数多く作製されて追加されていき、「三蔵」構造が崩れてしまったことや、漢字で「経」と訳され、「スートラ」「三蔵」との対応関係が意識されづらくなってしまったことから、北伝仏教・漢字文化圏においては、「仏典」全体を漠然と「経」「経典」と表現するようにもなっていった。 そのため北伝仏教・漢字文化圏では、「三蔵」に代わる「仏典」全般の総称として、「'''大蔵経'''」(だいぞうきょう)・「'''一切経'''」(いっさいきょう)という呼称・概念が、新たに形成・普及された。 このように、北伝仏教・漢字文化圏における「経」「経典」という語には、 *狭義の「経」「経典」 - 「スートラ」。三蔵の一。釈迦の直接の教説。 *広義の「経」「経典」 - 「仏典」全般。「大蔵経」「一切経」。 という2つの意味が混在しており、文脈によってどちらの意味で用いられているか注意する必要がある。 == 語源 == {{lang|sa|sūtra}}の原義は「糸」のことで、元々は[[バラモン教]]において『[[ヴェーダ]]』のためにまとめられた散文綱要書を指して呼んでいたが、後にバラモン教・[[ヒンドゥー教]]の様々な文献や仏教の文献にも、この呼称が採用されていった<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9-84351 スートラとは] - [[世界大百科事典]]/[[コトバンク]]</ref>。 Normanによれば仏教用語の ''sutta'', ''sutra''はサンスクリット語の ''sūkta'' (''su'' + ''ukta'')に由来しており、「よく話されている」ことを意味し、これは「仏陀によって説かれたものはすべてよく説かれた」との信念からであるという<ref name=norman1997p104>K. R. Norman (1997), ''A philological approach to Buddhism: the Bukkyo Dendo Kyokai Lectures 1994''. (Buddhist Forum, Vol. v.)London: School of Oriental and African Studies,p. 104</ref>。 == 現存するもの == * [[部派仏教]] ** [[上座部]]大寺派 - [[経蔵 (パーリ)]] ([[長部 (パーリ)|長部]], [[中部 (パーリ)|中部]], [[相応部]], [[増支部]]) ** [[法蔵部]] - [[長阿含経]], [[中阿含経]], [[雑阿含経]] == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == {{tipitaka}} {{仏教典籍}} {{Buddhism2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きようてん}} [[Category:仏典]] [[Category:経|*]]
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オイラーの公式
数学の複素解析におけるオイラーの公式(オイラーのこうしき、英: Euler's formula)とは、複素指数関数と三角関数の間に成り立つ、以下の恒等式のことである: ここで z {\displaystyle z} は任意の複素数、 e {\displaystyle e} はネイピア数、 i {\displaystyle i} は虚数単位、 cos {\displaystyle \cos } は余弦関数、 sin {\displaystyle \sin } は正弦関数である。 特に、 z = φ ( ∈ R ) {\displaystyle z=\varphi (\in \mathbb {R} )} とする場合がよく使われ、この場合、 e i φ {\displaystyle e^{i\varphi }} は、絶対値 構文解析に失敗 (SVG(ブラウザのプラグインで MathML を有効にすることができます): サーバー「http://localhost:6011/ja.wikipedia.org/v1/」から無効な応答 ("Math extension cannot connect to Restbase."):): 1 , 偏角 φ [ r a d ] {\displaystyle \varphi [\mathrm {rad} ]} の複素数に等しい。 オイラーの公式は、複素解析をはじめとする数学の様々な分野や、電気工学・物理学などで現れる微分方程式の解析において重要である。物理学者のリチャード・P・ファインマンはこの公式を評して「我々の至宝」かつ「すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式」 だと述べている。 この公式の名前は、18世紀の数学者レオンハルト・オイラーに因むが、最初の発見者はロジャー・コーツとされる。コーツは1714年に を発見したが、三角関数の周期性による対数関数の多価性を見逃した。1740年頃、オイラーは、コーツの公式を基に、指数関数と三角関数の級数展開を比較することによって、オイラーの公式を証明し、1748年に発表した。 オイラーの公式を導入することにより、極形式の複素数は、より簡素な表記に変換することができる。すなわち、複素数の極形式 z = r(cos θ + i sin θ) は z = re に等しい。また、特に、θ = π のとき、 が導かれる。この関係式はオイラーの等式 (Euler's identity) と呼ばれる。 オイラーの公式により、余弦関数および正弦関数は、双曲線関数に変換することができる: 応用上では、三角関数を複素指数関数に置き換えることで、微分方程式やフーリエ級数などが利用しやすくなる。 実関数としての指数関数 e, 三角関数 cos x, sin x をそれぞれマクローリン展開すると となる。これらの冪級数の収束半径が ∞ であることは、ダランベールの収束判定法によって確認することができる。従ってこれらの級数は、変数 x を複素数全体に拡張することができ、広義一様収束する。つまりこれらの級数によって表される関数は整関数である。解析接続すると、一致の定理より、複素数全体での正則関数としての拡張は一意であり、この収束冪級数で表される。 ここで、 e の x を ix に置き換え、e の冪級数が絶対収束することより級数の項の順序は任意に交換可能であることを考慮すれば が得られる。 この公式は、歴史的には全く起源の異なる指数関数と三角関数が、複素数の世界では密接に結びついていることを表している。例えば、三角関数の加法定理は、指数法則 ee = eに対応していることが分かる。 オイラーの公式により、三角関数を複素指数関数で表すことができる。余弦関数、正弦関数は となる。 この公式には、上記の冪級数展開による証明の他にも異なる幾通りかの証明が知られている。ここにいくつかの例を挙げる。ただし、以下の微分を用いた証明については、実変数を複素数変数におき換えても、これらの議論が成立していることを、別途で証明する必要がある(複素関数論)。 証明 — 関数の微分を用いた証明を示す。実変数 x の関数 f (x) を次のように定義する。 f (x) を形式的に微分すると以下のようになる。 したがって、すべての実数 x について f' (x) = 0 が成り立つ。これは f (x) が定数関数であることと同値である。よって f (x) = f (0) より、 となる。(2) を (1) に代入すると次のようになる。 ここで (3) の両辺に、(cos x - i sin x) の複素共役 (cos x + i sin x) を掛ければ、三角関数に関するピタゴラスの定理 sinx + cosx = 1 よりオイラーの公式が得られる。 証明 — 別の証明として、実変数 x の関数 f (x) を次のように定義する。 f (x) を x について微分すると以下のようになる。 したがって、すべての実数 x について f' (x) = 0 が成り立つ。 ゆえに f (x) は定数である。 よって f (x) = f (0) より が成り立つ。 (5) を (4) に代入すると が導出される。この両辺に e を掛け、任意の複素数 a, b に対して成り立つ指数法則 ee = e を利用すれば 以上より 証明 — 微分方程式を用いた証明を示す。x を実数、x の関数 f (x) を以下のように定義する。 また記法を簡潔にするために補助的な方程式 によって y を定める。これらをまとめると以下の方程式を得る。 (1) に x = 0 を代入すると を得る。(1) の両辺を x について微分し、両辺に虚数単位 i を掛けると以下のようになる。 (3) と (1) より を得る。任意の 0 でない複素数 α について、関数 e は次の関係を満たす。 (4) と (5) を見比べ、α = i と置き換えれば、f(0) = 1 より が成り立つ。最後に (1) および (6) から y を消去すればオイラーの公式が得られる。 証明 — 2階線型微分方程式を用いた証明を示す。実数 x を変数とする関数 はいずれも以下の2階の線型常微分方程式の解である。 (2) は斉次な方程式なので、一般解は基本解の線型結合として表すことができる。 cos x と sin x は (2) の基本解である。実際、ロンスキー行列式 は 0 にならない。よって、(1) および (2) より が成立する。また、(3) の両辺を微分したものは となる。(3), (4) に x = 0 を代入したものはそれぞれ、 となるので、(5) より (3) の線型結合はオイラーの公式を与える。 証明 — として cos x + i sin x と e が線型従属であることを確認する。 ここで、ある定数 C について が成立する。ここで x = 0 を代入すると C = 1 となり が得られる。 証明 — ド・モアブルの定理を用いた証明を示す。 ド・モアブルの定理より 辺々加えて 右辺の 2 つの項を二項定理によって展開すれば、i の奇数乗の項は相殺し、i の偶数乗の項だけを二重に加えることになるので を得る。これが cos θ の n 倍角の公式の閉じた表示式である([s] は s の整数部分)。 この式において nθ = x と置き換えると 和の上端を ∞ に書き直したが、k > n/2 のとき二項係数の部分が 0 になるので、これは n/2 までの和に等しい。 n → ∞ の極限においては となり、各項目において漸近的に等しいことが確認できる。 したがって となる。よって が得られる。 同様に sin x について考えれば より が得られる。 ここで、n → ∞ の極限を取った際の誤差項の挙動を考えると とおけば であるから、an が小さいとき、n 乗すると誤差はおよそ n 倍されるが、an が 1/n よりも早く 0 に近づくときには、極限に影響しない。 本議論において であるから となる。 したがって、ランダウの記号を用いて漸近挙動を示せば ゆえに ここで、ド・モアブルの定理に立ち返って 上記式において nθ = x とおくと ここで、n → ∞ の極限をとったとき であるから よって が得られる。
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数学の複素解析におけるオイラーの公式とは、複素指数関数と三角関数の間に成り立つ、以下の恒等式のことである: ここで z は任意の複素数、 e はネイピア数、 i は虚数単位、 cos は余弦関数、 sin は正弦関数である。 特に、 z = φ とする場合がよく使われ、この場合、 e i φ は、絶対値 構文解析に失敗: 1, 偏角 φ [ r a d ] の複素数に等しい。 オイラーの公式は、複素解析をはじめとする数学の様々な分野や、電気工学・物理学などで現れる微分方程式の解析において重要である。物理学者のリチャード・P・ファインマンはこの公式を評して「我々の至宝」かつ「すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式」 だと述べている。
[[数学]]の[[複素解析]]における'''オイラーの公式'''(オイラーのこうしき、{{lang-en-short|Euler's formula}})とは、[[複素指数関数]]と[[三角関数]]の間に成り立つ、以下の[[恒等式]]のことである: :<math>e^{iz} = \cos z +i\sin z</math> ここで <math>z</math> は任意の[[複素数]]、 <math>e</math> は[[ネイピア数]]、 <math>i</math> は[[虚数単位]]、 <math>\cos</math> は[[余弦関数]]、 <math>\sin</math> は[[正弦関数]]である。 特に、 <math>z = \varphi (\in \R)</math> とする場合がよく使われ、この場合、<math>e^{i\varphi}</math> は、[[複素数の絶対値|絶対値]] <math>1</math>, [[複素数の偏角|偏角]] <math>\varphi [\mathrm{rad}]</math>の複素数に等しい。 [[画像:Euler's Formula J.svg|225px|thumb|オイラーの公式の図形的な表現。複素数平面において、複素数 {{mvar|e{{sup|iθ}}}} は、単位円周上の偏角 {{math|''θ'' [rad]}} の点を表す。]] オイラーの公式は、複素解析をはじめとする数学の様々な分野や、[[電気工学]]・[[物理学]]などで現れる微分方程式の解析において重要である。物理学者の[[リチャード・P・ファインマン]]はこの公式を評して''「我々の至宝」かつ「すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式」'' だと述べている{{sfn|ファインマン|1977|pp=294, 307}}{{sfn|吉田|2021|p=230}}。 == 概要 == この公式の名前は、18世紀の数学者[[レオンハルト・オイラー]]に因むが、最初の発見者は[[ロジャー・コーツ]]とされる。コーツは[[1714年]]に :<math> \log\left(\cos x + i\sin x \right)=ix \ </math> を発見した<ref name="Stillwell">{{Cite book |author=John Stillwell |title=Mathematics and Its History |publisher=Springer |year=2002 |url=https://books.google.co.jp/books?id=V7mxZqjs5yUC&pg=PA315&redir_esc=y&hl=ja}}</ref>が、三角関数の周期性による対数関数の[[多価関数|多価性]]を見逃した。1740年頃、オイラーは、コーツの公式を基に、指数関数と三角関数の級数展開を比較することによって、オイラーの公式を証明し、1748年に発表した<ref name="Stillwell" />。 オイラーの公式を導入することにより、極形式の複素数は、より簡素な表記に変換することができる。すなわち、複素数の極形式 {{math2|''z'' {{=}} ''r''(cos ''θ'' + ''i'' sin ''θ'')}} は {{math2|''z'' {{=}} ''re{{sup|iθ}}''}} に等しい。また、特に、{{math2|''θ'' {{=}} {{π}}}} のとき、 :<math>e^{i\pi} +1=0</math> が導かれる。この関係式は'''[[オイラーの等式]]''' {{en|(Euler's identity)}} と呼ばれる。 オイラーの公式により、余弦関数および正弦関数は、[[双曲線関数]]に変換することができる: :<math>\cos \theta = \cosh i \theta</math> :<math>\sin \theta = \tfrac{1}{i} \sinh i \theta</math> 応用上では、三角関数を複素指数関数に置き換えることで、[[微分方程式]]や[[フーリエ級数]]などが利用しやすくなる。 == 指数関数と三角関数 == 実関数としての[[指数関数]] {{math|''e''{{sup|''x''}}}}, [[三角関数]] {{math|cos ''x''}}, {{math|sin ''x''}} をそれぞれ[[テイラー展開|マクローリン展開]]すると {{numBlk|:|<math>e^x = \textstyle\sum\limits_{n=0}^{\infin} \dfrac{x^n}{n!} \quad (x \in \mathbb{R} )</math>|{{equationRef|Macl1|1}}}} {{numBlk|:|<math>\cos x = \textstyle\sum\limits_{n=0}^{\infin} \dfrac{(-1)^n}{(2n)!} \, x^{2n} \quad (x \in \mathbb{R} )</math>|{{equationRef|Macl2|2}}}} {{numBlk|:|<math>\sin x = \textstyle\sum\limits_{n=0}^{\infin} \dfrac{(-1)^n}{(2n+1)!} \, x^{2n+1} \quad (x \in \mathbb{R} )</math>|{{equationRef|Macl3|3}}}} となる。これらの[[冪級数]]の[[収束半径]]が {{math|∞}} であることは、[[ダランベールの収束判定法]]によって確認することができる<ref group="注">冪級数 <math>\scriptstyle \sum\limits_{n=0}^\infty a_n x^n</math> の収束半径 {{mvar|R}} は、極限 :<math>\scriptstyle r=\lim\limits_{n \to \infty} \left| \frac{a_n}{a_{n+1}} \right|</math> が存在すれば、{{math|''R'' {{=}} ''r''}} である。(極限が存在しない場合、収束半径はこの方法では求まらない。) {{mvar|e{{sup|x}}}} の収束半径は :<math>\begin{align}\scriptstyle \lim\limits_{n\to\infty} \left|\frac{1/n!}{1/(n+1)!} \right| &\scriptstyle = \lim\limits_{n\to\infty} (n+1) \\ \scriptstyle &\scriptstyle = \infty \end{align}</math> となる。{{math|cos ''x''}} の収束半径は、{{math|''x''{{sup|2}}}} についての級数と考えたときの収束半径に等しい。 :<math>\begin{align} \scriptstyle \lim\limits_{n\to\infty} \left| \frac{(-1)^n/(2n)!}{(-1)^{n+1}/\{ 2(n+1) \}!} \right| &\scriptstyle = \lim\limits_{n\to\infty} \frac{\{2(n+1)\}!}{(2n)!} \\ \scriptstyle &\scriptstyle = \lim\limits_{n\to\infty} (2n+2)(2n+1) \\ \scriptstyle &\scriptstyle = \infty \end{align}</math> {{math|sin ''x''}} の収束半径は、同様に :<math>\begin{align} \scriptstyle \lim\limits_{n\to\infty} \left| \frac{(-1)^n/(2n+1)!}{(-1)^{n+1}/\{ 2(n+1)+1 \}!} \right| &\scriptstyle = \lim\limits_{n\to\infty} \frac{(2n+3)!}{(2n+1)!} \\ \scriptstyle &\scriptstyle = \lim\limits_{n\to\infty} (2n+3)(2n+2) \\ \scriptstyle &\scriptstyle =\infty \end{align}</math> 以上で {{equationNote|Macl1|(1)}}, {{equationNote|Macl2|(2)}}, {{equationNote|Macl3|(3)}} の右辺の収束半径が {{math|∞}} であることが証明された。</ref>。従ってこれらの級数は、変数 {{mvar|x}} を複素数全体に拡張することができ、[[コンパクト一様収束|広義一様収束]]する。つまりこれらの級数によって表される関数は[[整関数]]である<ref group="注">これらは多項式でないので超越整関数であり、[[無限遠点]]を[[真性特異点]]に持つ</ref>。[[解析接続]]すると、[[一致の定理]]より、複素数全体での[[正則関数]]としての拡張は一意であり、この収束冪級数で表される。 ここで、 {{mvar|e{{sup|x}}}} の {{mvar|x}} を {{mvar|ix}} に置き換え、{{mvar|e{{sup|ix}}}} の冪級数が絶対収束することより級数の項の順序は任意に交換可能であることを考慮すれば :<math>\begin{align} e^{ix} &= \textstyle\sum\limits^{\infin}_{n=0} \dfrac{i^n}{n!} x^n \\ &= \textstyle\sum\limits^{\infin}_{n=0} \dfrac{i^{2n}}{(2n)!}x^{2n} + \sum\limits_{n=0}^{\infin} \dfrac{i^{2n+1}}{(2n+1)!} x^{2n+1} \\ &= \textstyle\sum\limits_{n=0}^{\infin} \dfrac{(-1)^n}{(2n)!} x^{2n} + i \sum\limits_{n=0}^{\infin} \dfrac{(-1)^n}{(2n+1)!} x^{2n+1} \\ &= \cos x + i\sin x \end{align}</math> が得られる。 この公式は、歴史的には全く起源の異なる指数関数と三角関数が、[[複素数]]の世界では密接に結びついていることを表している。例えば、三角関数の加法定理は、指数法則 {{math|''e{{sup|a}}e{{sup|b}}'' {{=}} ''e''{{sup|''a''+''b''}}}}<ref group="注"> :<math>\begin{align}\scriptstyle e^{a+b} &\scriptstyle = \sum\limits_{n=0}^{\infin} \frac{(a+b)^n}{n!} \\ &\scriptstyle = \sum\limits_{n=0}^{\infin} \frac{1}{n!} \sum\limits_{r=0}^n \frac{n!}{r!(n-r)!} a^r b^{n-r} \\ &\scriptstyle = \sum\limits_{n=0}^{\infin} \sum\limits_{r=0}^n \frac{a^r b^{n-r}}{r!(n-r)!} \\ &\scriptstyle = \sum\limits_{r=0}^{\infin} \sum\limits_{n=r}^{\infin} \frac{a^r b^{n-r}}{r!(n-r)!} \\ &\scriptstyle = \sum\limits_{r=0}^{\infin} \frac{a^r}{r!} \sum\limits_{n=r}^{\infin} \frac{b^{n-r}}{(n-r)!} \ (m \, \equiv \, n-r) \\ &\scriptstyle = \sum\limits_{r=0}^{\infin} \frac{a^r}{r!} \sum\limits_{m=0}^{\infin} \frac{b^m}{m!} \\ &\scriptstyle = e^a e^b \quad // \end{align}</math></ref>に対応していることが分かる<ref name="複素関数を学ぶ人のために" />。 オイラーの公式により、三角関数を複素指数関数で表すことができる。余弦関数、正弦関数は :<math>\begin{align} \cos z &= \frac{e^{iz} + e^{-iz}}{2}, \\ \sin z &= \frac{e^{iz} -e^{-iz}}{2i} \end{align}</math> となる。 == 証明 == この公式には、[[#指数関数と三角関数|上記の冪級数展開による証明]]の他にも異なる幾通りかの証明が知られている。ここにいくつかの例を挙げる。ただし、以下の[[微分]]を用いた証明については、実変数を複素数変数におき換えても、これらの議論が成立していることを、別途で証明する必要がある([[複素関数論]])。 === 微分による証明 === {{math proof| 関数の[[微分]]を用いた証明を示す。実変数 {{mvar|x}} の関数 {{math|''f''&thinsp;(''x'')}} を次のように定義する。 {{numBlk|:|<math>f(x) := (\cos x-i\sin x)\cdot e^{ix}.</math>|{{equationRef|D1|1}}}} {{math|''f''&thinsp;(''x'')}} を形式的に微分すると以下のようになる。 :<math> \begin{align} f'(x)&= (\cos x-i\sin x)'\cdot e^{ix} +(\cos x-i\sin x)\cdot (e^{ix})' \qquad \mbox{(Leibniz's rule)} \\ &= (-\sin x-i\cos x)\cdot e^{ix} +(\cos x-i\sin x)\cdot ie^{ix} \\ &= \left\{(-\sin x-i\cos x) +(i\cos x + \sin x)\right\}\cdot e^{ix} \qquad (i^2 = -1)\\ &= 0 \end{align}</math> したがって、すべての実数 {{mvar|x}} について {{math|''f{{'}}''&thinsp;(''x'') {{=}} 0}} が成り立つ。これは {{math|''f''&thinsp;(''x'')}} が[[定数関数]]であることと[[同値]]である。よって {{math|''f''&thinsp;(''x'') {{=}} ''f''&thinsp;(0)}} より、 {{numBlk|:|<math>f(x)=(\cos 0-i\sin 0)\cdot e^{i\cdot 0}=1</math>|{{equationRef|D2|2}}}} となる。{{equationNote|D2|(2)}} を {{equationNote|D1|(1)}} に代入すると次のようになる。 {{numBlk|:|<math>(\cos x-i\sin x)\cdot e^{ix} =1.</math>|{{equationRef|D3|3}}}} ここで {{equationNote|D3|(3)}} の両辺に、{{math|(cos&thinsp;''x'' - ''i''&thinsp;sin&thinsp;''x'')}} の[[複素共役]] {{math|(cos&thinsp;''x'' + ''i''&thinsp;sin&thinsp;''x'')}} を掛ければ、三角関数に関するピタゴラスの定理 {{math|sin{{sup|2}}''x'' + cos{{sup|2}}''x'' {{=}} 1}} よりオイラーの公式が得られる<ref name="複素数の取り扱い" />。 :<math>e^{ix} =\cos x+i\sin x.</math> |drop=no}}{{math proof| 別の証明として、実変数 {{mvar|x}} の関数 {{math|''f''&thinsp;(''x'')}} を次のように定義する。 {{numBlk|:|<math>f(x) := (\cos x+i\sin x)\cdot e^{-ix}.</math>|{{equationRef|D4|4}}}} {{math|''f''&thinsp;(''x'')}} を ''x'' について微分すると以下のようになる。 :<math> \begin{align} f'(x)&= (\cos x+i\sin x)'\cdot e^{-ix} +(\cos x+i\sin x)\cdot (e^{-ix})' \qquad \mbox{(Leibniz's rule)} \\ &= (-\sin x+i\cos x)\cdot e^{-ix} -(\cos x+i\sin x)\cdot ie^{-ix} \\ &= (-\sin x+i\cos x-i\cos x+\sin x)\cdot e^{-ix} \qquad (i^2 = -1)\\ &= 0. \end{align}</math> したがって、すべての実数 {{mvar|x}} について {{math|''f{{'}}''&thinsp;(''x'') {{=}} 0}} が成り立つ。 ゆえに {{math|''f''&thinsp;(''x'')}} は定数である。 よって {{math|''f''&thinsp;(''x'') {{=}} ''f''&thinsp;(0)}} より {{numBlk|:|<math>f(x)=(\cos 0+i\sin 0)\cdot e^{-i\cdot 0}=1</math>|{{equationRef|D5|5}}}} が成り立つ。 {{equationNote|D5|(5)}} を {{equationNote|D4|(4)}} に代入すると :<math>(\cos x+i\sin x)\cdot e^{-ix} =1</math> が導出される。この両辺に {{math|''e''{{sup|''ix''}}}} を掛け、任意の複素数 ''a'', ''b'' に対して成り立つ指数法則 {{math|''e''{{sup|''a''}}''e''{{sup|''b''}} {{=}} ''e''{{sup|''a'' + ''b''}}}} を利用すれば<ref name="複素関数を学ぶ人のために"/> :<math>\begin{align} e^{ix} &=(\cos x+i\sin x)\cdot e^{ix}e^{-ix}\\ &=(\cos x+i\sin x)\cdot e^{(ix-ix)}\\ &=(\cos x+i\sin x)\cdot e^0\\ &=(\cos x+i\sin x)\cdot 1. \end{align}</math> 以上より :<math>e^{ix} =\cos x+i\sin x.</math>{{sfn|藤田|1999}} |drop=no}} === 微分方程式による証明 === {{math proof|continue= [[微分方程式]]を用いた証明を示す。{{mvar|x}} を実数、{{mvar|x}} の関数 {{math|''f''&thinsp;(''x'')}} を以下のように定義する。 :<math>f(x) := \cos x + i\sin x.</math> また記法を簡潔にするために補助的な方程式 :<math>y = f(x)</math> によって {{mvar|y}} を定める。これらをまとめると以下の方程式を得る。 {{numBlk|:|<math>y = \cos x+ i\sin x.</math>|{{equationRef|DE1|1}}}} {{equationNote|DE1|(1)}} に {{math|''x'' {{=}} 0}} を代入すると {{numBlk|:|<math>y = \cos 0 + i\sin 0 = 1</math>|{{equationRef|DE2|2}}}} を得る。{{equationNote|DE1|(1)}} の両辺を {{mvar|x}} について微分し、両辺に虚数単位 {{mvar|i}} を掛けると以下のようになる。 {{numBlk|:|<math>i\frac{\mathrm{d}y}{\mathrm{d}x} = \underbrace{-i\sin x}_{\frac{\mathrm{d}\cos x}{\mathrm{d}x} = -\sin x} - \underbrace{\cos x}_{\frac{\mathrm{d}\sin x}{\mathrm{d}x} = \cos x}</math>|{{equationRef|DE3|3}}}} {{equationNote|DE3|(3)}} と {{equationNote|DE1|(1)}} より {{numBlk|:|<math>\frac{\mathrm{d}y}{\mathrm{d}x} =iy</math>|{{equationRef|DE4|4}}}} を得る<ref group="注">{{math|''i''{{sup|2}} {{=}} &minus;1}} より {{math|''i'' {{=}} &minus;{{sfrac|1|''i''}}}} であることを利用した。</ref>。任意の 0 でない複素数 {{mvar|&alpha;}} について、関数 {{math|''e''{{sup|''&alpha;x''}}}} は次の関係を満たす。 {{numBlk|:|<math>\frac{\mathrm d}{\mathrm{d}(\alpha x)}e^{\alpha x} = e^{\alpha x}.</math>|{{equationRef|DE5|5}}}} {{equationNote|DE4|(4)}} と {{equationNote|DE5|(5)}} を見比べ、{{math|''&alpha;'' {{=}} ''i''}} と置き換えれば、''f''(0) = 1 より {{numBlk|:|<math>y=e^{ix}</math>|{{equationRef|DE6|6}}}} が成り立つ。最後に {{equationNote|DE1|(1)}} および {{equationNote|DE6|(6)}} から {{mvar|y}} を消去すればオイラーの公式が得られる。 :<math>e^{ix} = \cos x + i\sin x.</math> |drop=no}} === 2階線型微分方程式による証明 === {{math proof| 2階[[線型微分方程式]]を用いた証明を示す。実数 {{mvar|x}} を変数とする関数 {{numBlk|:|<math>\begin{cases} \displaystyle y = e^{ix} \\ \displaystyle y = \cos x \\ \displaystyle y = \sin x \end{cases}</math>|{{equationRef|2DE1|1}}}} はいずれも以下の2階の線型常微分方程式の解である。 {{numBlk|:|<math>\frac{\mathrm{d}^2y}{{\mathrm{d}x}^2} + y = 0.</math>|{{equationRef|2DE2|2}}}} {{equationNote|2DE2|(2)}} は斉次な方程式なので、一般解は[[基本解]]の[[線型結合]]として表すことができる。 {{math|cos&thinsp;''x''}} と {{math|sin&thinsp;''x''}} は {{equationNote|2DE2|(2)}} の基本解である。実際、[[ロンスキー行列式]] :<math>\begin{vmatrix} \cos x & \sin x\\ -\sin x & \cos x \end{vmatrix} = \cos^2x + \sin^2x = 1</math> は 0 にならない。よって、{{equationNote|2DE1|(1)}} および {{equationNote|2DE2|(2)}} より {{numBlk|:|<math>e^{ix} = C_1 \cos x + C_2 \sin x</math>|{{equationRef|2DE3|3}}}} が成立する。また、{{equationNote|2DE3|(3)}} の両辺を微分したものは {{numBlk|:|<math>ie^{ix}=-C_1\sin x + C_2 \cos x</math>|{{equationRef|2DE4|4}}}} となる。{{equationNote|2DE3|(3)}}, {{equationNote|2DE4|(4)}} に {{math|''x'' {{=}} 0}} を代入したものはそれぞれ、 {{numBlk|:|<math>\begin{align} 1 = C_1\\ i = C_2 \end{align}</math>|{{equationRef|2DE5|5}}}} となるので<ref group="注">{{math|''e''{{sup|0}} {{=}} 1}} および {{math|sin&thinsp;0 {{=}} 0, cos&thinsp;0 {{=}} 1}} を利用した。</ref>、{{equationNote|2DE5|(5)}} より {{equationNote|2DE3|(3)}} の線型結合はオイラーの公式を与える<ref name="kwansei-univ-euler" />。 :<math>e^{ix} = \cos x + i\sin x.</math> |drop=no}} === ロンスキー行列による証明 === {{math proof| :<math>|W|=\begin{vmatrix} e^{ix} & \cos x +i\sin x \\ ie^{ix} & -\sin x+i\cos x \end{vmatrix}=e^{ix}(-\sin x + i\cos x) - e^{ix}(i\cos x - \sin x)=0</math> として {{math|cos&thinsp;''x'' + ''i''&thinsp;sin&thinsp;''x''}} と {{math|''e''{{sup|''ix''}}}} が線型従属であることを確認する。 ここで、ある定数 {{mvar|C}} について :<math>e^{ix} = C(\cos x + i\sin x)</math> が成立する<ref group="注">{{math|cos&thinsp;''x'' + ''i''&thinsp;sin&thinsp;''x''}} は関数として 0 でないので。</ref>。ここで {{math|''x'' {{=}} 0}} を代入すると {{math|''C'' {{=}} 1}} となり :<math>e^{ix} = \cos x + i\sin x</math> が得られる<ref>[http://www.is.oit.ac.jp/~shinkai/lecture/diffeq09b/deq2009_sol_3.pdf 2階微分方程式]</ref>。 |drop=no}} === ド・モアブルの定理による証明 === {{math proof| [[ド・モアブルの定理]]を用いた証明を示す<ref name="野海正俊" />。 ド・モアブルの定理より :<math>\begin{align} \cos n\theta+i\sin n\theta &=(\cos \theta+i\sin \theta)^n,\\ \cos n\theta-i\sin n\theta &=(\cos \theta-i\sin \theta)^n. \end{align}</math> 辺々加えて :<math>2\cos n\theta = (\cos \theta+i\sin \theta)^n+(\cos \theta-i\sin \theta)^n.</math> 右辺の 2 つの項を[[二項定理]]によって展開すれば、{{mvar|i}} の[[奇数]]乗の項は[[相殺]]し、{{mvar|i}} の[[偶数]]乗の項だけを二重に加えることになるので :<math>\begin{align} \cos n\theta &=\sum_{k=0}^{\left[\tfrac{n}{2}\right]} (-1)^k\binom{n}{2k}\ (\cos \theta)^{n-2k}(\sin \theta)^{2k}\\ &=\sum_{k=0}^{\left[\tfrac{n}{2}\right]} (-1)^k\binom{n}{2k}\ (\cos \theta)^n (\tan \theta)^{2k} \end{align}</math> を得る。これが {{math|cos&thinsp;''θ''}} の [[三角関数の公式の一覧#倍角公式|{{mvar|n}} 倍角の公式]]の閉じた表示式である({{math|[''s'']}} は {{mvar|s}} の[[整数部分]])。 この式において {{math|''nθ'' {{=}} ''x''}} と置き換えると :<math>\cos x = \sum_{k=0}^{\infty} (-1)^k\binom{n}{2k} \left(\cos \frac{x}{n}\right)^n \left(\tan \frac{x}{n}\right)^{2k}.</math> [[加法|和]]の上端を {{math|&infin;}} に書き直したが、{{math|''k'' &gt; ''n''/2}} のとき[[二項係数]]の部分が {{math|0}} になるので、これは {{math|{{sfrac|''n''|2}}}} までの和に等しい。 {{math|''n'' → &infin;}} の[[極限]]においては :<math>\cos \frac{x}{n} \sim 1\ ,\ \sin \frac{x}{n} \sim \frac{x}{n}\ ,\ \tan \frac{x}{n} \sim \frac{x}{n}</math> となり、各項目において[[ランダウの記号|漸近的に等しい]]ことが確認できる。 したがって :<math>\binom{n}{2k} \sim \frac{n^{2k}}{(2k)!}\ ,\ \left(\cos \frac{x}{n}\right)^n \sim 1\ ,\ \left(\tan \frac{x}{n}\right)^{2k} \sim \frac{x^{2k}}{n^{2k}}</math> となる。よって :<math>\cos x = \sum^{\infin}_{k=0} \frac{(-1)^k}{(2k)!} x^{2k}</math> が得られる。 同様に {{math|sin&thinsp;''x''}} について考えれば :<math> \sin x = \sum_{k=0}^{\infty} (-1)^k\binom{n}{2k+1} \left (\cos \frac{x}{n}\right)^n \left (\tan \frac{x}{n} \right)^{2k+1} </math> より :<math>\sin x = \sum^{\infin}_{k=0} \frac{(-1)^k}{(2k+1)!} x^{2k+1}</math> が得られる。 ここで、{{math|''n'' → &infin;}} の極限を取った際の誤差項の挙動を考えると :<math>\cos \frac{x}{n} = 1+a_n</math> とおけば :<math>\begin{align} \left(\cos \frac{x}{n} \right)^n &= \left(1+a_{n} \right)^n\\ &= 1+na_n +\binom{n}{2} {a_n}^2+ \dotsb \end{align}</math> であるから、{{mvar|a{{sub|n}}}} が小さいとき、{{mvar|n}} 乗すると誤差はおよそ {{mvar|n}} 倍されるが、{{mvar|a{{sub|n}}}} が {{math|{{sfrac|1|n}}}} よりも早く {{math|0}} に近づくときには、極限に影響しない。 本議論において :<math>\begin{align} a_n &=\cos \frac{x}{n}-1\\ &=-2\sin^2 \frac{x}{2n} \end{align}</math><ref group="注">三角関数の半角公式を利用した。</ref> であるから :<math>a_n \sim -\frac{x^2}{2n^2}</math> となる。 したがって、[[ランダウの記号]]を用いて漸近挙動を示せば :<math>\cos \frac{x}{n}=1+O\left(\frac{1}{n^2}\right).</math> ゆえに :<math>\lim_{n\rightarrow \infty}\left(\cos \frac{x}{n} \right)^n=1.</math> ここで、ド・モアブルの定理に立ち返って :<math>\cos n\theta+i\sin n\theta = (\cos \theta+i\sin \theta)^n.</math> 上記式において {{math|''nθ'' {{=}} ''x''}} とおくと :<math>\cos x+i\sin x = \left(\cos \frac{x}{n}+i\sin \frac{x}{n}\right)^n.</math> ここで、{{math|''n'' → &infin;}} の極限をとったとき :<math>\cos \frac{x}{n}+i\sin \frac{x}{n}=1+\frac{ix}{n}+O\left(\frac{1}{n^2}\right)</math> であるから :<math>\lim_{n\rightarrow \infty}\left(\cos \frac{x}{n}+i\sin \frac{x}{n}\right)^n = \lim_{n\rightarrow \infty}\left(1+\frac{ix}{n}\right)^n = e^{ix}.</math> よって :<math>e^{ix} = \cos x + i\sin x</math> が得られる。 |drop=no}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 参照 === {{Reflist|refs= <ref name="野海正俊">[http://www.sci.kobe-u.ac.jp/old/seminar/pdf/noumi2007.pdf オイラーの数学から — 『無限解析序説』への招待 - 野海 正俊]</ref> <ref name="複素数の取り扱い">[https://web.archive.org/web/20141014004043/http://www.kutl.kyushu-u.ac.jp/~member/noro/KikanButsuri_IA/4_keiji.pdf 複素数の取り扱いとオイラーの公式]</ref> <ref name="kwansei-univ-euler">[http://sci-tech.ksc.kwansei.ac.jp/~shimeno/math/euler/euler.pdf {{math|e{{sup|π''i''}} + 1 {{=}} 0}}]</ref> <ref name="複素関数を学ぶ人のために">[http://collie.low-temp.sci.yamaguchi-u.ac.jp/~ashida/work/comp.pdf 複素関数を学ぶ人のために - 山口大学 理学部 物理・情報科学科 - 芦田 正巳]</ref> }} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} == 参考文献 == {{commonscat|Euler's formula}} <!--著者名の50音順--> *{{Cite book|和書 |author = 小笠英志 |date = 2011-01-20 |title = 相対性理論の式を導いてみよう、そして、人に話そう |publisher = ベレ出版 |pages = 165-171 |isbn = 978-486064-267-9 |ref = {{harvid|小笠|2011}} }} * {{Cite book|和書 |author=杉浦光夫|authorlink=杉浦光夫 |title = 解析入門I |date = 1980-03-31 |publisher = [[東京大学出版会]] |isbn = 978-4-13-062005-5 |series = 基礎数学2 |ref = {{harvid|杉浦|1980}} }} * {{Cite book|和書 |author=田村二郎|authorlink=田村二郎 |title = 解析関数 |edition = 新版 |date = 1983-11-15 |publisher = [[裳華房]] |isbn = 978-4-7853-1307-4 |series = 数学選書3 |ref = {{harvid|田村|1983}} }} * {{Citation| |last = Dunham |first = William |title = Euler: The Master of Us All |url = http://paginas.fisica.uson.mx/horacio.munguia/Personal/Documentos/Libros/Euler%20The_Master%20of%20Us.pdf<!--これは著作権的に問題ないものですか?--> |year = 1999 |publisher = The Mathematical Association of America |isbn = 978-0-88385-328-3 }} **{{Cite book|和書 |author=W. ダンハム |translator=[[黒川信重]]、[[若山正人]]、百々谷哲也 |date=2019-04 |title=オイラー入門 |series=シュプリンガー数学リーディングス 第1巻 |publisher=丸善出版 |isbn=978-4-621-06568-6 |ref={{Harvid|ダンハム|2019}} }} - 注記:2004年6月にシュプリンガー・ジャパンより出版された同名書籍の再出版。 *{{Cite book|和書 |author=ファインマン、リチャード|authorlink=リチャード・P・ファインマン |coauthors = レイトン、サンズ |translator = [[坪井忠二]] |year = 1977 |title = 力学 |series = ファインマン物理学 |volume = I |publisher = [[岩波書店]] |pages = 294,307 |isbn = 978-4-00-007711-8 |oclc = 47339138 |ref = {{harvid|ファインマン|1977}} }} * {{Cite book|和書 |author=藤田宏|authorlink=藤田宏 |title = 応用数学 |series = 放送大学教材 |date = 1999-03 |publisher = 放送大学教育振興会 |isbn = 978-4-595-56042-2 |ref = {{harvid|藤田|1999}} }} * {{Cite book|和書 |author=吉田武|authorlink=吉田武 (サイエンスライター) |title = オイラーの贈物 人類の至宝 {{math|''e{{sup|iπ}}'' {{=}} &minus;1}} を学ぶ |edition = 新装版 |date = 2021-01 |publisher = 東海教育研究所 |isbn = 978-4-924523-14-2 |ref = {{harvid|吉田|2021}} }} **{{Cite book|和書 |author=吉田武 |date=2001-11 |title=オイラーの贈物 人類の至宝 {{math|''e{{sup|iπ}}'' {{=}} &minus;1}} を学ぶ |series=ちくま学芸文庫 |publisher=筑摩書房 |isbn=978-4-480-08675-4 |ref={{Harvid|吉田|2001}} }} == 関連項目 == <!--項目名の50音順--> *[[オイラーの等式]] *[[極座標系]] *[[純虚指数函数]](複素指数函数を使わないで極形式を表示する) *[[ド・モアブルの定理]](指数法則の一つが成り立つことを表している) *[[微分方程式]] *[[フーリエ級数]] *[[複素指数函数]] *[[複素対数函数]](オイラーの公式は複素数の対数関数に関する研究から発見された) == 外部リンク == * {{高校数学の美しい物語|585|オイラーの公式と複素指数関数}} * {{Kotobank|オイラーの公式}} {{DEFAULTSORT:おいらあのこうしき}} [[Category:ネイピア数]] [[Category:複素解析の定理]] [[Category:複素数]] [[Category:レオンハルト・オイラー]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:数学のエポニム]] [[Category:証明を含む記事]]
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12,848
さめがめ
さめがめは、コンピュータゲームの一種である。 名前の由来は、ゲームタイトル「SAME GAME(セイムゲーム)」の英語表記を日本語ローマ字読みしたもの(#歴史を参照)。 1985年に森辺訓章(もりすけ)が「月刊ASCII」に投稿した「ChainShot!」が元となっている。 ソースが公開されているため、タイムアタック制やステージ制を盛り込んだものなどさまざまなバージョンが存在する。 160*64ドット(駒ひとつは32*32ドット)のビットマップデーターを駒として使用することができるため、駒データーのみを公開している作者も多数存在する。 画面は升目状に区切られており、いくつかの種類の駒が配置されている。プレイヤーは、画面上の駒を一つずつ選んで消していき、得点を競う。駒の消え方には、以下のようなルールがある。 森辺訓章(もりすけ)がルールを考案し、本人作のコンピュータゲームが「月刊ASCII」に投稿された。 1985年11月号に「ChainShot!(もりすけ作、FM-8用)」「ChainShot!(小日向敏行によるPC-9800シリーズ移植版)」が掲載された。 その後、地道な移植作業を経て1992年に福本栄治(響人)がUNIX版(HIUXM版)『SAME GAME』をフリーウェアとして公開。 同年11月には、Macintosh版「ChainShot!」がDA(デスクアクセサリ)として馬渡栄一郎(K&M Software Corp.)から発売されている。 同年12月、吉岡わたる(W.Yossy)がPC9801版を公開したことを契機に、 草の根BBSを中心に日本各地に広がっていった。 1993年にはWindows版が、1994年には高橋健(KEN Takahashi)によるMacintosh版「まきがめ」、An More Night☆によるFMTOWNS版『猿亀(さるがめ)』が公開された。 1996年には『鮫亀』の名称でゲームメーカーのハドソンによってスーパーファミコンにも移植された。「鮫亀」発売前にコマがマリオキャラクターになった『UNDAKE30 鮫亀大作戦マリオバージョン』がパイロット版として作られ、初心会などで使われた。コマはマリオ・タマゴ・コイン・キノコ・ファイアフラワーの5種類。販売店対抗鮫亀コンテスト参加店に配られ、ハイスコア大会の商品としてプレゼントもされた。また、サテラビューでも配信された。 1997年にはゲームボーイ版が『SAME GAME』の名称でハドソンから発売。2001年に同社から発売されたNINTENDO64ソフト『ボンバーマン64』、2003年に同社から発売された『ボンバーマンランド2 ゲーム史上最大のテーマパーク』にも「さめがめ」として収録されている。 2007年4月12日にロケットカンパニーより発売されたニンテンドーDS用ゲーム『わたしのリラックマ』に、さめがめの駒をリラックマのキャラクターにした「リラがめ」というミニゲームが収録されている。 2009年1月13日にハドソンからWii用サービスWiiウェア専用ソフトとして『さめがめWii』が配信された。 Swell Foopというクローンゲームが作られており、UbuntuなどLinuxディストリビューションの一部がバンドルしている。 そのほかにもYahoo!ゲームで公開されていた『ブロキシー(あにがめ)』、ハンゲームの『セイムパズル』、アニマロッタの『チェーンボンバー』など数多くのアレンジが存在する。
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さめがめは、コンピュータゲームの一種である。 名前の由来は、ゲームタイトル「SAME GAME(セイムゲーム)」の英語表記を日本語ローマ字読みしたもの(#歴史を参照)。 1985年に森辺訓章(もりすけ)が「月刊ASCII」に投稿した「ChainShot!」が元となっている。 ソースが公開されているため、タイムアタック制やステージ制を盛り込んだものなどさまざまなバージョンが存在する。 160*64ドット(駒ひとつは32*32ドット)のビットマップデーターを駒として使用することができるため、駒データーのみを公開している作者も多数存在する。
[[File:Samegame-macos9.png|thumb|すみやたかひろによる[[Mac OS]]版]] '''さめがめ'''は、[[コンピュータゲーム]]の一種である。 名前の由来は、ゲームタイトル「SAME GAME(セイムゲーム)」の英語表記を日本語ローマ字読みしたもの([[#歴史]]を参照)。 [[1985年]]に森辺訓章(もりすけ)が「月刊ASCII」に投稿した「ChainShot!」が元となっている<ref>{{Cite web|和書|title=「CHAINSHOT」誕生まで|url=https://www.asahi-net.or.jp/~ky6k-mrb/cs031122.htm |access-date=2023-04-18 |website=www.asahi-net.or.jp}}</ref>。 ソースが公開されているため、タイムアタック制やステージ制を盛り込んだものなどさまざまなバージョンが存在する。 160*64[[画面解像度|ドット]](駒ひとつは32*32ドット)のビットマップデーターを駒として使用することができるため、駒データーのみを公開している作者も多数存在する。 ==ルール== 画面は升目状に区切られており、いくつかの種類の駒が配置されている。プレイヤーは、画面上の駒を一つずつ選んで消していき、得点を競う。駒の消え方には、以下のようなルールがある。 *プレイヤーが選んだ駒に接する同じ種類の駒は、同時に消える。(逆に言えば、同じ種類の駒が接していない、孤立した駒は消すことができない) *同時に消える駒が多ければ多いほど、得点が大きくなる。 *消えた駒の上にあった駒は、下に落ちてくる。 *縦一列の駒が消えると、その右隣の列の駒は、左に移動する。 *消せる駒がなくなった時点でゲーム終了となる。 <pre> ┌───┐ │○▲□│ │○▲▲│ │□▲□│ └───┘  ↓▲を選択 ┌───┐ │○   │ │○□ │ │□□ │ └───┘ </pre> ==歴史== 森辺訓章(もりすけ)がルールを考案し、本人作のコンピュータゲームが「[[月刊ASCII]]」に投稿された。 [[1985年]][[11月]]号に「ChainShot!(もりすけ作、[[FM-8]]用)」「ChainShot!(小日向敏行による[[PC-9800シリーズ]]移植版)」が掲載された。 その後、地道な移植作業を経て[[1992年]]に福本栄治(響人)が[[UNIX]]版(HIUXM版)『SAME GAME』をフリーウェアとして公開。 同年11月には、[[Classic_Mac_OS#特徴|Macintosh]]版「ChainShot!」が[[Classic Mac OS#特徴|DA(デスクアクセサリ)]]として馬渡栄一郎(K&M Software Corp.)から発売されている。<ref>{{Cite web|和書|title=ChainShotの詳細情報 : Vector ソフトを探す! |url=https://www.vector.co.jp/soft/mac/game/se034256.html |website=www.vector.co.jp |access-date=2023-05-09 |date=1992-11-08 |author=馬渡栄一郎 |language=ja |coauthors=森辺訓章}}</ref> 同年12月、吉岡わたる(W.Yossy)が[[PC9801]]版を公開したことを契機に、 [[草の根BBS]]を中心に日本各地に広がっていった。 [[1993年]]には[[Microsoft Windows|Windows]]版が、[[1994年]]には高橋健(KEN Takahashi)による[[Macintosh]]版「まきがめ」、An More Night☆による[[FMTOWNS]]版『猿亀(さるがめ)』が公開された。 [[1996年]]には『[[鮫亀 (スーパーファミコン)|鮫亀]]』の名称でゲームメーカーの[[ハドソン]]によって[[スーパーファミコン]]にも移植された。「鮫亀」発売前にコマがマリオキャラクターになった『UNDAKE30 鮫亀大作戦マリオバージョン』が[[パイロット版]]として作られ、初心会などで使われた。コマはマリオ・タマゴ・コイン・キノコ・ファイアフラワーの5種類。販売店対抗鮫亀コンテスト参加店に配られ、ハイスコア大会の商品としてプレゼントもされた。また、[[サテラビュー]]でも配信された。 [[1997年]]には[[ゲームボーイ]]版が『[[鮫亀 (スーパーファミコン)#SAME GAME(GB)|SAME GAME]]』の名称でハドソンから発売。2001年に同社から発売された[[NINTENDO64]]ソフト『[[ボンバーマン64]]』、2003年に同社から発売された『[[ボンバーマンランド2 ゲーム史上最大のテーマパーク]]』にも「さめがめ」として収録されている。 [[2007年]][[4月12日]]に[[ロケットカンパニー]]より発売された[[ニンテンドーDS]]用ゲーム『わたしの[[リラックマ]]』に、さめがめの駒をリラックマのキャラクターにした「リラがめ」というミニゲームが収録されている。 [[2009年]][[1月13日]]にハドソンから[[Wii]]用サービスWiiウェア専用ソフトとして『[[鮫亀_(スーパーファミコン)#さめがめWii|さめがめWii]]』が配信された。 [[GNOME Games|Swell Foop]]というクローンゲームが作られており、[[Ubuntu]]など[[Linuxディストリビューション]]の一部がバンドルしている。 そのほかにも[[Yahoo!ゲーム]]で公開されていた『ブロキシー(あにがめ)』、[[ハンゲーム]]の『セイムパズル』、[[アニマロッタ]]の『チェーンボンバー』など数多くのアレンジが存在する。 == 脚注 == {{reflist}} ==外部リンク== *[http://www.asahi-net.or.jp/~ky6k-mrb/index.htm インターもりすけ](ルールの考案者のページ) *[http://hp.vector.co.jp/authors/VA001976/ うさちゃんのページ](漢字Talk 7.6版のソース公開) [[Category:パズルゲーム|さめかめ]] [[Category:日本で開発されたコンピュータゲーム]] [[Category:マリオシリーズのパズルゲーム]] [[Category:スーパーマリオワールド]]
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志摩スペイン村
志摩スペイン村(しまスペインむら)は、三重県志摩市磯部町坂崎にある複合リゾート施設。 近畿日本鉄道(近鉄)が、総合保養地域整備法(通称:リゾート法)の施行に合わせ1988年に策定された「三重サンベルトゾーン」構想に基づき、三重県志摩郡磯部町(現・志摩市)の協力を得て開発した施設で、テーマパーク「パルケエスパーニャ」を中核施設に、ホテル志摩スペイン村、天然温泉「ひまわりの湯」の3施設で構成されている。 開発当初は、リゾートマンションやコテージ等を多層的に展開するレジデンシャルゾーンの開発計画もあったが現在は凍結されている。 近鉄が志摩半島での観光開発に着手したのは、伊勢志摩エリアが1946年に国立公園に指定されたのがきっかけである。1951年には戦後初のリゾートホテルである志摩観光ホテルを賢島に開業、そして1960年代初期には東京オリンピック開催に合わせ、ゴルフ場や別荘地等を開発するために広大な土地の取得を始めていた。 しかし、本格的に開発が始まったのは1967年に策定された第3次輸送力増強5箇年計画発表以降である。この計画は、1970年の大阪万博の来場者を伊勢志摩まで誘致する目的で、当時孤立線であった近鉄志摩線 (25.4km) と大阪・名古屋方面と直結している近鉄山田線とを接続する鳥羽線 (13.2km) を新たに建設し、合わせて志摩線を標準軌化することで、大阪・京都・名古屋から賢島まで特急列車の直通運転を可能にするものであった。この工事は1970年1月に完成し、同年3月に開通した。 これにより、大阪万博からの周遊客などの利用により、近鉄特急の利用者数は大幅に増加した。しかし、1973年の伊勢神宮式年遷宮以降は、期待されたほど特急利用者数は増えず、伊勢志摩への観光入込客数も、1,300万人から1,400万人で停滞していた。このため、近鉄は1970年代半ばから、伊勢志摩の観光入込客数の活性化策として、大規模なリゾート開発の策定に着手した。近鉄は、観光入込客数の停滞の要因を「伊勢神宮や鳥羽水族館、ミキモト真珠島という観光資源に過度に依存し、海産物をはじめとする食の豊かさに安堵し観光開発を怠ったため、若年層やファミリー層の観光ニーズに合わない旧来の観光地とイメージされていることに起因する」と分析し、これらの層も含め、集客力の強いテーマパークを中心とした大規模なリゾート開発を決定した。 当初、近鉄は志摩半島に点在する4ヶ所の社有地(合計開発敷地面積:522ヘクタール)を利用して、志摩線の複線化を軸とした、複数のリゾートを開発する計画を持っていた。 鳥羽市畔蛸(あだこ)町と相差(おおさつ)町にまたがる南鳥羽地区の社有地には分譲別荘・リゾートマンション・ペンション・コンドミニアム・ショッピングセンター・アミューズメント施設を、磯部町坂崎地区の社有地にはテーマパークを、阿児町横山地区の社有地にはゴルフ場を、阿児町国府地区の社有地には既存のゴルフコース沿いにマリーナやサーフスポット等の海洋レジャー施設の建設を、それぞれ予定していた。 この計画に基づき、近鉄は1988年2月には、三重県と国土庁に開発計画を届け出ている。そして地元との調整が整った場所から順次着工し、21世紀初めまでには、志摩半島に「一大リゾート」を完成させる構想を抱いていた。 しかし、バブル景気の崩壊と共に、景気動向の先行きが不透明となったことから、まずはリゾート法の適用を受け、地元との調整も整っていた志摩スペイン村から開発することになった。志摩スペイン村計画自体も縮小化され、テーマパーク「パルケエスパーニャ」の開発事業費は、当初発表された680億円から、いったんは480億円へ、最終的には600億円へと変更されており、ホテル志摩スペイン村も客室数500室(100室を会員制/1200人収容)規模から約半分の252室に縮小された。また、開発事業費約500億円規模に及ぶレジデンシャルゾーンの同時開発も一旦は延期となったものの、1992年の雑誌のインタビュー記事で、当時の近畿日本鉄道鉄道総局業務局長であった荻巣は、開発計画の見直しはしないのかという問いに対し、「それはありません。(中略)当初の計画通り進めています」と述べている。しかしその後レジデンシャルゾーンは建設されることなく現在に至っている。 志摩スペイン村開発計画にあたっては、自然環境の保全を原則に、基本理念を「こころの再発見」におき、テーマをスペインとした。 バブル崩壊の社会情勢から「もの」から「こころ」へ。経済優先からゆとりという流れの中で、「伸びやかな空間のなかでゆったりとした時間を楽しく過ごす」ことのできる場所が求められるとし、これをスペインの人々のゆとりやおおらかさと、スペインの大地の豊かさ。これらの体験、共感を通して、「人間らしさの回復」や「こころの再発見」をすることを全体コンセプトとした。 月刊レジャー産業やアミューズメント産業等の業界誌に掲載された開業当時の志摩スペイン村経営陣のコメント等によれば下記のような理由が上げられている。 月刊レジャー産業(1994年6月号)に掲載された初代志摩スペイン村取締役社長である谷原武夫へのインタビュー記事によれば、志摩スペイン村開業当時の近鉄社長で志摩スペイン村開発推進者であった金森茂一郎(初代志摩スペイン村取締役会長)がテーマパークの開発にあたって文化性を強く出す方向性を示唆した。これに基づきコンセプトを策定した結果、日本ではスペインはあまり紹介されていないが、カルメン、ドンファン、闘牛、ドン・キホーテ等日本人になじみのある話題が意外に多い点に着目し、スペインという国をテーマとし文化性の強いテーマパークを作り上げようと結論づけた。ただし谷原は「それじゃなぜスペインかということですが、ほかではあまり取り上げられていないからというだけではちょっと説得力が弱いかと思いますが、一番ポピュラーな説明としましては、スペインに関して日本人が持つイメージはというのは、明るい太陽と海辺というものが一つのイメージだろう。志摩というイメージが大体合致している。そういうことで良いのではないか思いました。」とも述べている。 志摩スペイン村の開発エリアは全て伊勢志摩国立公園内で、自然公園法による「規制計画」等で無秩序な開発や利用を防ぐ特別地域に指定されていた。このため、開発当初に開発できたのは開発面積全体の約30%程度で、一時的に工事で伐採した緑地についても新たに植栽し緑地に戻したほか、テーマパークでは第1駐車場の一部(現在のピレネー部分)を芝生化した駐車区画を設けたり、コロシアムの座席周りに芝生を張るなどして緑地化率を高める工夫がされた。また、先のスペインをテーマに選定した過程を述べた月刊レジャー産業のインタビューで「この地域全般の特色ですが漁業権が非常に確立しています。畑のような感覚ですね。畑の中にむやみに立ち入れば叱られる。養殖漁業のために海が使えない傾向をもっていますが、なんとか漁業権との調整をとって将来的にはマリンレジャーも提供できればありがたい」と述べている。 しかし、当初計画案があった近鉄志摩磯部駅から志摩スペイン村への定期航路計画は頓挫し、ひまわりの湯を開業するにあたっても海洋への温泉の排水が及ぼす海水濃度への影響で、養殖をはじめとする漁業補償問題のため本来は掛け流しが可能な湯量があるひまわりの湯だが循環ろ過式での営業となるなど現在でもマリンレジャーを開発できる状況には至っていない。 志摩スペイン村の全体開発面積は113haで、東京ドーム(建設面積4.67554ha/グラウンド面積1.3ha)に換算すると約24個分(テーマパーク部分だけでも約7.2個分)にも相当する広大なもので、その内100haについては近鉄が1960年代初期に取得した物である。しかし、上下水道や道路などインフラストラクチャーが未整備のため非常に簿価が低い社有地であり開発が中止されていた(志摩スペイン村開発にあたっては、取得済みの社有地100haの他に、周辺の13ha程の敷地を、国土法の特定民間施設の申請をして新たに取得している)。 全体計画面積 113ha 伊勢志摩国立公園内に立地するため、開発段階から高度の生活処理排水施設やゴミ焼却施設を導入し環境対策が行なわれているが、近年は環境対策について地球温暖化対策推進法や食品リサイクル法をはじめ、ごみ焼却時のダイオキシン処理、2003年のロンドン条約(日本国内では2007年度に廃棄物処理法が改定される。)で禁止される汚泥の海洋投棄など、開業当初より高い基準に対応するため新たな処理施設が導入されている。また、三重県生活環境の保全に関する条例第9条第1項に基づく地球温暖化対策計画書を2005年7月1日に県に提出し、三重県地球温暖化対策推進計画の2010年度までに温室効果ガスの排出量を基準年度(2000年度)から14%削減を目指している。 生活排水については公共機関と同様の第3次処理まで行って無公害の水に処理しており、処理された排水の汚染濃度は国や県の排水許可基準を大幅に下回っている。また、処理水はトイレの洗浄水や緑地への散水処理等に2次利用し海洋への排水はほとんどされていない。 ※水質汚濁防止法 : BOD、CODは120ppm以下、SSは150ppm以下(三重県の条例は、BOD、CODは20ppm以下、SSは70ppm以下)。 開業当初より稼動しているごみ焼却施設については、2001年にバグフィルターを導入しダイオキシン濃度を大幅に減少させている。 ※ダイオキシン対策特別措置法による排ガス濃度基準:10ng-TEO/3N以下 志摩スペイン村内で使用する年間消費電気量の60%程度を自家発電しており、電力会社からの送電より電力消費ロスが少なく、発電効力が大きいため、使用電力量の削減も可能となった。また廃熱は隣接するシーズンインアミーゴスの温水に利用されており、二酸化炭素の排出量を年間で約250t前後削減している。 施設が出来るまでは志摩スペイン村内で廃棄される年間約500tの生ごみは焼却処理されていたが、生ごみは通常のごみ焼却より燃焼効率が落ちるため重油消費量が多かった。しかし、施設完成により重油消費量が削減できたため、燃焼に伴うダイオキシンの発生や二酸化炭素の発生を低くすることが可能となった。また、生活廃水処理の際に発生する汚泥(排水処理工程で発生するバクテリアの死骸。)についても、汚泥脱水処理機を導入しスポンジ状の脱水ケーキとし、ゴミ堆肥プラントにてバクテリアとあわせて肥料とし村内の植栽の土壌改良剤として使用されている。 1995年11月に発表された三菱総合研究所による、志摩スペイン村の社会・経済効果についてのレポートでは、開業後1年間の生産誘発額は全国で9,854億円とされている。 志摩スペイン村建設費、鉄道投資などを含む開業1年後までの総投資額は2,824 億円で、開業前に第二次産業を中心に4,578億円、開業後にサービス業、商業を中心に5,276億円の生産が全国で誘発されたとしている。そのうち、三重県内への生産誘発額は6,164億円で、三重県の1992年度産出額15兆2千億円の4.0%を占めた。 三重県観光レクリエーション入込客数推計書によれば、1994年度の伊勢志摩国立公園の入込客数は、志摩スペイン村の開業と伊勢市で開催された「まつり博・三重」による入込客増で1千953万7千人と前年より445万7千人も増えたが、翌年には1千416万9千人まで減少し、1999年度以降は約1千万人程度に落ち込んでいる。 2005年度の県全体での観光レクリエーション入込客数は4千469万5千人(2004年度:4千396万4千人)で、伊勢志摩国立公園は23.4%(2004年度:23.1%)にあたる1千45万6千人(2004年度:1千17万3千人)を集客している。その内訳は、伊勢神宮が565万9千人(2004年度:546万人)で54.1%(2004年度:53.7%)、志摩スペイン村が156万8千人(2004年度:179万8千人)で15%(2004年度:17.7%)、鳥羽水族館が87万7千人(2004年度:95万1千人)で8.4%(2004年度:9.3%)を集客しており、愛知万博の影響で伊勢神宮を除き入込客数が減少したが、それでもこの3施設で伊勢志摩国立公園の入込客の77.5%(2004年度:80.7%)を集客している。また、県内の主要有料観光施設で百万人以上集客しているのは、長島温泉の448万5,000人(2004年度:446万人)をトップに、鈴鹿サーキットの245万3千人(2004年度:246万3千人)、志摩スペイン村の156万8千人(2004年度:179万8千人)までとなっている。 ※ 志摩スペイン村、長島温泉、鈴鹿サーキット等の入込数が、季刊エンターテインメントビジネスや三菱UFJリサーチ&コンサルティングによる「東海3県主要集客施設・集客実態調査」等と異なるのは、県観光レクリエーションのみ集計期間が1月から12月までの年度単位で集計するのに対し、民間企業の発表数は事業年度の4月から翌年3月(志摩スペインは3月から翌年2月)までで集計しているため。 近鉄は2006年7月25日に「近畿日本鉄道・志摩スペイン村関連事業の再編」を発表したが、内容は減損処理会計導入に伴う資産の買上げ等の支援策の際に複雑化した志摩スペイン村関連資産(テーマパーク、ホテル、温泉)の所有権と経営主体を整理し事業の効率化と債務の分離を目指したもので、テーマパークに関する資産を旧運営会社(株)志摩スペイン村から商号変更し、債務も含め資産管理会社となる志摩スペイン村土地建物(株)と近鉄に移譲し、ホテル関連資産および経営事業についても、2006年10月1日に(株)近鉄志摩ホテルリゾート(同年11月に解散)から近鉄レジャーサービス(株)に譲渡された。これにより志摩スペイン村関連事業の経営は全て近鉄グループのレジャー事業の中核企業である近鉄レジャーサービス(株)が受持つこととなり、同社が志摩エリアで経営する賢島宝生苑や志摩マリンランド等との効率的な運営を図れる体制が整った。近鉄レジャーサービス(株)は志摩スペイン村の中に実質的な本社を構えている(登記上本店は大阪上本町駅内)。なお志摩スペイン村の運営は新たに設立された運営会社(株)志摩スペイン村が近鉄レジャーサービス(株)から全面委託され従業員も全員転籍している。 なお、志摩スペイン村土地建物株式会社は2009年10月29日付けで解散となった。 集計期間:2009年度までは3月から翌年2月末までの事業年度ベースで集計されていたが、2010年度からは2月の休園日あけから翌年の休園日前日までの事業年度ベースでの集計に変更されている。 入園者数データは、(株)志摩スペイン村広報資料および季刊エンターテインメントビジネス(旧AMビジネス)、全国レジャー・集客施設運営実績&動向調査を参照。 スペイン語で「パルケ」は公園、「エスパーニャ」はスペインの意味で、直訳すればスペイン公園。パーク内は4つのエリアで構成され、スペイン各地の建物をモチーフとした街並みやアトラクションが配置されており、スペイン人エンターテイナーによるショーやパレードもある。 2023年8月現在休止中。 スペインの代表的な文芸作品『ドン・キホーテ』をベースに、動物達をモチーフにした新しい物語を設定。メインキャラクターは、勇気と冒険心にあふれるドンキホーテとそのパートナーであるサンチョパンサ、その他に5人のファミリーキャラクターが設定されている。製作は当初、バルセロナオリンピックのマスコットキャラクター・コビーをデザインしたスペイン人画家のハビエル・マリスカルを予定していたが、スケジュール面で折り合わず、アメリカ・ロサンジェルス在住のデザイナーのトビー・シェルトンに依頼した。トビー・シェルトンは現在はディズニーのOVA製作にも参加しており、オリジナルDVDアニメ『アラジン〜ジャファーの逆襲〜』では、監督として製作の指揮を取っている。 なお、1996年から数年の間、親会社・近畿日本鉄道(近鉄バス)の高速バスにもキャラクターが描かれていたが、2000年代に順次塗装変更され使用をやめている。三重交通は開業時に運行開始した東京 - 志摩スペイン村線(現在は鳥羽までに短縮)にキャラクターを描いたバスを運行していた。防長交通や名阪近鉄バスの高速バスにも描かれた。 シンボルマークはフラメンコの踊り子をモチーフとしており、躍動感あふれる力強い線で描かれている。パークを構成する4つのエリアを、それぞれのイメージカラーである「シウダート(赤)」「ティエラ(緑)」「マール(青)」「フィエスタ(橙)」で表現している。 日本語ロゴタイプは、様々なスペインのイメージの中から、「太陽」、「海」、「陽気さ」、「人間的」、「躍動感」をイメージし、フリーハンドのシンボルマークに合わせ躍動感ある手書き文字が使用されている。また、スペイン語ロゴタイプは、クラシックで伝統的なスペイン書体が用いられている。 シンボルマークおよびスペイン語ロゴタイプの製作者は、ホセ・マリア・トリアス・フォルク(クォドデザイン・マーケティング社代表。バルセロナ美術工芸学校・芸術学院卒、バルセロナオリンピックのシンボルマークをはじめ、企業のCI、VI(企業デザイン)やパッケージデザインなどを手掛ける、スペインを代表するデザイナー)。また、日本語ロゴタイプは、村禎介(株)デザインマック代表取締役社長。金沢工芸美術大学卒、ニューヨーク・プラットインスティテュート大学卒、独自のパッケージデザイン理論を基に、AGI(国際グラフィック連盟)など数多くのCI、VI、商品開発を手掛けている。 白壁・オレンジ色の屋根という、アンダルシア地方をイメージした外観のリゾートホテル。パティオ(中庭)を取り囲み、ロビー・宴会場棟と、3つの客室棟がロの字に建つ。また、コルドバ、セビリア、グラナダと名づけられた各客室棟にもパティオがあり、客室は全て40m以上で、リゾートホテルにふさわしくゆとりをもった作りとなっている。 開業から1997年3月までは志摩観光ホテル(株)が営業権をもち運営していたが、1997年4月に旧(株)志摩スペイン村に営業権が譲受される。この直営化により、テーマパークとホテル間に直接往来ができる連絡ゲートが開設されるが、2003年に近鉄によるホテル志摩スペイン村の減損処理に伴い、新たに設立された(株)近鉄志摩ホテルリゾートが経営し旧(株)志摩スペイン村が経営受託した。しかし、2006年7月25日に発表された近鉄による志摩スペイン村事業再編により、(株)近鉄志摩ホテルリゾートは2006年10月1日をもって事業を近鉄レジャーサービス(株)に譲渡し11月で解散した。現在のホテル運営は新たに設立された運営会社(株)志摩スペイン村に委託されている。 低料金のB&B形式(Bed and Breakfast)のホテルとして、駐車場そばに「シーズンインアミーゴス」がある。その名のとおり季節営業であり、利用の際は営業カレンダーを確認した方がよい。過去には近鉄志摩磯部駅前に「リゾートイン磯部」があったが、2020年1月に閉館した。両ホテルとも従業員寮として建設された物である。 その他、同じ近鉄グループの志摩観光ホテル・賢島宝生苑が、2005年よりオフィシャルホテルに指定される。 ボーリングにより地下約1,800mから湧き出す38.6度の温泉で、泉質はアルカリ性単純温泉。1分間に160リットルの湧出量がある。露天風呂やサウナ(女湯は塩サウナ)もある(加温・循環ろ過式)。当初は、セルフサービス式のレストランも運営されていたが、現在は閉鎖されている。 2003年からホテル志摩スペイン村と共に、新たに設立された(株)近鉄志摩ホテルリゾートが経営し(株)志摩スペイン村が経営受託していた。2006年7月25日に発表された近鉄による志摩スペイン村事業再編により、(株)近鉄志摩ホテルリゾートは2006年10月1日をもって事業を近鉄レジャーサービス(株)に譲渡し11月で解散した。現在の温泉運営は新たに設立された運営会社(株)志摩スペイン村に委託されている。 再編に伴い、テーマパーク事業、ホテル・温泉事業の運営委託を担う新会社として、近鉄レジャーサービス(株)の完全子会社として設立された。 志摩スペイン村「パルケエスパーニャ」、ホテル志摩スペイン村、伊勢志摩温泉 志摩スペイン村「ひまわりの湯」、シーズンイン アミーゴスの運営受託を行っている。 株式会社志摩スペイン村が運営を行っていたが、再編に伴い、2006年10月1日に志摩スペイン村土地建物株式会社へ商号変更を行い、近鉄レジャーサービス株式会社へテーマパーク運営事業を譲渡した。2007年10月29日付で解散した。 ※1 - 投資有価証券の売却益で最収益を計上。 ※データは、(株)志摩スペイン村広報資料および近畿日本鉄道(株)IR資料、日経テレコン21、帝国データバンクを参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "志摩スペイン村(しまスペインむら)は、三重県志摩市磯部町坂崎にある複合リゾート施設。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "近畿日本鉄道(近鉄)が、総合保養地域整備法(通称:リゾート法)の施行に合わせ1988年に策定された「三重サンベルトゾーン」構想に基づき、三重県志摩郡磯部町(現・志摩市)の協力を得て開発した施設で、テーマパーク「パルケエスパーニャ」を中核施設に、ホテル志摩スペイン村、天然温泉「ひまわりの湯」の3施設で構成されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "開発当初は、リゾートマンションやコテージ等を多層的に展開するレジデンシャルゾーンの開発計画もあったが現在は凍結されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "近鉄が志摩半島での観光開発に着手したのは、伊勢志摩エリアが1946年に国立公園に指定されたのがきっかけである。1951年には戦後初のリゾートホテルである志摩観光ホテルを賢島に開業、そして1960年代初期には東京オリンピック開催に合わせ、ゴルフ場や別荘地等を開発するために広大な土地の取得を始めていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "しかし、本格的に開発が始まったのは1967年に策定された第3次輸送力増強5箇年計画発表以降である。この計画は、1970年の大阪万博の来場者を伊勢志摩まで誘致する目的で、当時孤立線であった近鉄志摩線 (25.4km) と大阪・名古屋方面と直結している近鉄山田線とを接続する鳥羽線 (13.2km) を新たに建設し、合わせて志摩線を標準軌化することで、大阪・京都・名古屋から賢島まで特急列車の直通運転を可能にするものであった。この工事は1970年1月に完成し、同年3月に開通した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "これにより、大阪万博からの周遊客などの利用により、近鉄特急の利用者数は大幅に増加した。しかし、1973年の伊勢神宮式年遷宮以降は、期待されたほど特急利用者数は増えず、伊勢志摩への観光入込客数も、1,300万人から1,400万人で停滞していた。このため、近鉄は1970年代半ばから、伊勢志摩の観光入込客数の活性化策として、大規模なリゾート開発の策定に着手した。近鉄は、観光入込客数の停滞の要因を「伊勢神宮や鳥羽水族館、ミキモト真珠島という観光資源に過度に依存し、海産物をはじめとする食の豊かさに安堵し観光開発を怠ったため、若年層やファミリー層の観光ニーズに合わない旧来の観光地とイメージされていることに起因する」と分析し、これらの層も含め、集客力の強いテーマパークを中心とした大規模なリゾート開発を決定した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "当初、近鉄は志摩半島に点在する4ヶ所の社有地(合計開発敷地面積:522ヘクタール)を利用して、志摩線の複線化を軸とした、複数のリゾートを開発する計画を持っていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "鳥羽市畔蛸(あだこ)町と相差(おおさつ)町にまたがる南鳥羽地区の社有地には分譲別荘・リゾートマンション・ペンション・コンドミニアム・ショッピングセンター・アミューズメント施設を、磯部町坂崎地区の社有地にはテーマパークを、阿児町横山地区の社有地にはゴルフ場を、阿児町国府地区の社有地には既存のゴルフコース沿いにマリーナやサーフスポット等の海洋レジャー施設の建設を、それぞれ予定していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "この計画に基づき、近鉄は1988年2月には、三重県と国土庁に開発計画を届け出ている。そして地元との調整が整った場所から順次着工し、21世紀初めまでには、志摩半島に「一大リゾート」を完成させる構想を抱いていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "しかし、バブル景気の崩壊と共に、景気動向の先行きが不透明となったことから、まずはリゾート法の適用を受け、地元との調整も整っていた志摩スペイン村から開発することになった。志摩スペイン村計画自体も縮小化され、テーマパーク「パルケエスパーニャ」の開発事業費は、当初発表された680億円から、いったんは480億円へ、最終的には600億円へと変更されており、ホテル志摩スペイン村も客室数500室(100室を会員制/1200人収容)規模から約半分の252室に縮小された。また、開発事業費約500億円規模に及ぶレジデンシャルゾーンの同時開発も一旦は延期となったものの、1992年の雑誌のインタビュー記事で、当時の近畿日本鉄道鉄道総局業務局長であった荻巣は、開発計画の見直しはしないのかという問いに対し、「それはありません。(中略)当初の計画通り進めています」と述べている。しかしその後レジデンシャルゾーンは建設されることなく現在に至っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "志摩スペイン村開発計画にあたっては、自然環境の保全を原則に、基本理念を「こころの再発見」におき、テーマをスペインとした。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "バブル崩壊の社会情勢から「もの」から「こころ」へ。経済優先からゆとりという流れの中で、「伸びやかな空間のなかでゆったりとした時間を楽しく過ごす」ことのできる場所が求められるとし、これをスペインの人々のゆとりやおおらかさと、スペインの大地の豊かさ。これらの体験、共感を通して、「人間らしさの回復」や「こころの再発見」をすることを全体コンセプトとした。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "月刊レジャー産業やアミューズメント産業等の業界誌に掲載された開業当時の志摩スペイン村経営陣のコメント等によれば下記のような理由が上げられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "月刊レジャー産業(1994年6月号)に掲載された初代志摩スペイン村取締役社長である谷原武夫へのインタビュー記事によれば、志摩スペイン村開業当時の近鉄社長で志摩スペイン村開発推進者であった金森茂一郎(初代志摩スペイン村取締役会長)がテーマパークの開発にあたって文化性を強く出す方向性を示唆した。これに基づきコンセプトを策定した結果、日本ではスペインはあまり紹介されていないが、カルメン、ドンファン、闘牛、ドン・キホーテ等日本人になじみのある話題が意外に多い点に着目し、スペインという国をテーマとし文化性の強いテーマパークを作り上げようと結論づけた。ただし谷原は「それじゃなぜスペインかということですが、ほかではあまり取り上げられていないからというだけではちょっと説得力が弱いかと思いますが、一番ポピュラーな説明としましては、スペインに関して日本人が持つイメージはというのは、明るい太陽と海辺というものが一つのイメージだろう。志摩というイメージが大体合致している。そういうことで良いのではないか思いました。」とも述べている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "志摩スペイン村の開発エリアは全て伊勢志摩国立公園内で、自然公園法による「規制計画」等で無秩序な開発や利用を防ぐ特別地域に指定されていた。このため、開発当初に開発できたのは開発面積全体の約30%程度で、一時的に工事で伐採した緑地についても新たに植栽し緑地に戻したほか、テーマパークでは第1駐車場の一部(現在のピレネー部分)を芝生化した駐車区画を設けたり、コロシアムの座席周りに芝生を張るなどして緑地化率を高める工夫がされた。また、先のスペインをテーマに選定した過程を述べた月刊レジャー産業のインタビューで「この地域全般の特色ですが漁業権が非常に確立しています。畑のような感覚ですね。畑の中にむやみに立ち入れば叱られる。養殖漁業のために海が使えない傾向をもっていますが、なんとか漁業権との調整をとって将来的にはマリンレジャーも提供できればありがたい」と述べている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "しかし、当初計画案があった近鉄志摩磯部駅から志摩スペイン村への定期航路計画は頓挫し、ひまわりの湯を開業するにあたっても海洋への温泉の排水が及ぼす海水濃度への影響で、養殖をはじめとする漁業補償問題のため本来は掛け流しが可能な湯量があるひまわりの湯だが循環ろ過式での営業となるなど現在でもマリンレジャーを開発できる状況には至っていない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "志摩スペイン村の全体開発面積は113haで、東京ドーム(建設面積4.67554ha/グラウンド面積1.3ha)に換算すると約24個分(テーマパーク部分だけでも約7.2個分)にも相当する広大なもので、その内100haについては近鉄が1960年代初期に取得した物である。しかし、上下水道や道路などインフラストラクチャーが未整備のため非常に簿価が低い社有地であり開発が中止されていた(志摩スペイン村開発にあたっては、取得済みの社有地100haの他に、周辺の13ha程の敷地を、国土法の特定民間施設の申請をして新たに取得している)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "全体計画面積 113ha", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "伊勢志摩国立公園内に立地するため、開発段階から高度の生活処理排水施設やゴミ焼却施設を導入し環境対策が行なわれているが、近年は環境対策について地球温暖化対策推進法や食品リサイクル法をはじめ、ごみ焼却時のダイオキシン処理、2003年のロンドン条約(日本国内では2007年度に廃棄物処理法が改定される。)で禁止される汚泥の海洋投棄など、開業当初より高い基準に対応するため新たな処理施設が導入されている。また、三重県生活環境の保全に関する条例第9条第1項に基づく地球温暖化対策計画書を2005年7月1日に県に提出し、三重県地球温暖化対策推進計画の2010年度までに温室効果ガスの排出量を基準年度(2000年度)から14%削減を目指している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "生活排水については公共機関と同様の第3次処理まで行って無公害の水に処理しており、処理された排水の汚染濃度は国や県の排水許可基準を大幅に下回っている。また、処理水はトイレの洗浄水や緑地への散水処理等に2次利用し海洋への排水はほとんどされていない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "※水質汚濁防止法 : BOD、CODは120ppm以下、SSは150ppm以下(三重県の条例は、BOD、CODは20ppm以下、SSは70ppm以下)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "開業当初より稼動しているごみ焼却施設については、2001年にバグフィルターを導入しダイオキシン濃度を大幅に減少させている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "※ダイオキシン対策特別措置法による排ガス濃度基準:10ng-TEO/3N以下", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "志摩スペイン村内で使用する年間消費電気量の60%程度を自家発電しており、電力会社からの送電より電力消費ロスが少なく、発電効力が大きいため、使用電力量の削減も可能となった。また廃熱は隣接するシーズンインアミーゴスの温水に利用されており、二酸化炭素の排出量を年間で約250t前後削減している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "施設が出来るまでは志摩スペイン村内で廃棄される年間約500tの生ごみは焼却処理されていたが、生ごみは通常のごみ焼却より燃焼効率が落ちるため重油消費量が多かった。しかし、施設完成により重油消費量が削減できたため、燃焼に伴うダイオキシンの発生や二酸化炭素の発生を低くすることが可能となった。また、生活廃水処理の際に発生する汚泥(排水処理工程で発生するバクテリアの死骸。)についても、汚泥脱水処理機を導入しスポンジ状の脱水ケーキとし、ゴミ堆肥プラントにてバクテリアとあわせて肥料とし村内の植栽の土壌改良剤として使用されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1995年11月に発表された三菱総合研究所による、志摩スペイン村の社会・経済効果についてのレポートでは、開業後1年間の生産誘発額は全国で9,854億円とされている。", "title": "志摩スペイン村の社会・経済効果" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "志摩スペイン村建設費、鉄道投資などを含む開業1年後までの総投資額は2,824 億円で、開業前に第二次産業を中心に4,578億円、開業後にサービス業、商業を中心に5,276億円の生産が全国で誘発されたとしている。そのうち、三重県内への生産誘発額は6,164億円で、三重県の1992年度産出額15兆2千億円の4.0%を占めた。", "title": "志摩スペイン村の社会・経済効果" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "三重県観光レクリエーション入込客数推計書によれば、1994年度の伊勢志摩国立公園の入込客数は、志摩スペイン村の開業と伊勢市で開催された「まつり博・三重」による入込客増で1千953万7千人と前年より445万7千人も増えたが、翌年には1千416万9千人まで減少し、1999年度以降は約1千万人程度に落ち込んでいる。", "title": "志摩スペイン村の社会・経済効果" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2005年度の県全体での観光レクリエーション入込客数は4千469万5千人(2004年度:4千396万4千人)で、伊勢志摩国立公園は23.4%(2004年度:23.1%)にあたる1千45万6千人(2004年度:1千17万3千人)を集客している。その内訳は、伊勢神宮が565万9千人(2004年度:546万人)で54.1%(2004年度:53.7%)、志摩スペイン村が156万8千人(2004年度:179万8千人)で15%(2004年度:17.7%)、鳥羽水族館が87万7千人(2004年度:95万1千人)で8.4%(2004年度:9.3%)を集客しており、愛知万博の影響で伊勢神宮を除き入込客数が減少したが、それでもこの3施設で伊勢志摩国立公園の入込客の77.5%(2004年度:80.7%)を集客している。また、県内の主要有料観光施設で百万人以上集客しているのは、長島温泉の448万5,000人(2004年度:446万人)をトップに、鈴鹿サーキットの245万3千人(2004年度:246万3千人)、志摩スペイン村の156万8千人(2004年度:179万8千人)までとなっている。", "title": "志摩スペイン村の社会・経済効果" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "※ 志摩スペイン村、長島温泉、鈴鹿サーキット等の入込数が、季刊エンターテインメントビジネスや三菱UFJリサーチ&コンサルティングによる「東海3県主要集客施設・集客実態調査」等と異なるのは、県観光レクリエーションのみ集計期間が1月から12月までの年度単位で集計するのに対し、民間企業の発表数は事業年度の4月から翌年3月(志摩スペインは3月から翌年2月)までで集計しているため。", "title": "志摩スペイン村の社会・経済効果" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "近鉄は2006年7月25日に「近畿日本鉄道・志摩スペイン村関連事業の再編」を発表したが、内容は減損処理会計導入に伴う資産の買上げ等の支援策の際に複雑化した志摩スペイン村関連資産(テーマパーク、ホテル、温泉)の所有権と経営主体を整理し事業の効率化と債務の分離を目指したもので、テーマパークに関する資産を旧運営会社(株)志摩スペイン村から商号変更し、債務も含め資産管理会社となる志摩スペイン村土地建物(株)と近鉄に移譲し、ホテル関連資産および経営事業についても、2006年10月1日に(株)近鉄志摩ホテルリゾート(同年11月に解散)から近鉄レジャーサービス(株)に譲渡された。これにより志摩スペイン村関連事業の経営は全て近鉄グループのレジャー事業の中核企業である近鉄レジャーサービス(株)が受持つこととなり、同社が志摩エリアで経営する賢島宝生苑や志摩マリンランド等との効率的な運営を図れる体制が整った。近鉄レジャーサービス(株)は志摩スペイン村の中に実質的な本社を構えている(登記上本店は大阪上本町駅内)。なお志摩スペイン村の運営は新たに設立された運営会社(株)志摩スペイン村が近鉄レジャーサービス(株)から全面委託され従業員も全員転籍している。 なお、志摩スペイン村土地建物株式会社は2009年10月29日付けで解散となった。", "title": "関連事業の再編と現状" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "集計期間:2009年度までは3月から翌年2月末までの事業年度ベースで集計されていたが、2010年度からは2月の休園日あけから翌年の休園日前日までの事業年度ベースでの集計に変更されている。", "title": "入園者数データ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "入園者数データは、(株)志摩スペイン村広報資料および季刊エンターテインメントビジネス(旧AMビジネス)、全国レジャー・集客施設運営実績&動向調査を参照。", "title": "入園者数データ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "スペイン語で「パルケ」は公園、「エスパーニャ」はスペインの意味で、直訳すればスペイン公園。パーク内は4つのエリアで構成され、スペイン各地の建物をモチーフとした街並みやアトラクションが配置されており、スペイン人エンターテイナーによるショーやパレードもある。", "title": "テーマパーク「パルケエスパーニャ」" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2023年8月現在休止中。", "title": "テーマパーク「パルケエスパーニャ」" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "スペインの代表的な文芸作品『ドン・キホーテ』をベースに、動物達をモチーフにした新しい物語を設定。メインキャラクターは、勇気と冒険心にあふれるドンキホーテとそのパートナーであるサンチョパンサ、その他に5人のファミリーキャラクターが設定されている。製作は当初、バルセロナオリンピックのマスコットキャラクター・コビーをデザインしたスペイン人画家のハビエル・マリスカルを予定していたが、スケジュール面で折り合わず、アメリカ・ロサンジェルス在住のデザイナーのトビー・シェルトンに依頼した。トビー・シェルトンは現在はディズニーのOVA製作にも参加しており、オリジナルDVDアニメ『アラジン〜ジャファーの逆襲〜』では、監督として製作の指揮を取っている。", "title": "テーマパーク「パルケエスパーニャ」" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "なお、1996年から数年の間、親会社・近畿日本鉄道(近鉄バス)の高速バスにもキャラクターが描かれていたが、2000年代に順次塗装変更され使用をやめている。三重交通は開業時に運行開始した東京 - 志摩スペイン村線(現在は鳥羽までに短縮)にキャラクターを描いたバスを運行していた。防長交通や名阪近鉄バスの高速バスにも描かれた。", "title": "テーマパーク「パルケエスパーニャ」" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "シンボルマークはフラメンコの踊り子をモチーフとしており、躍動感あふれる力強い線で描かれている。パークを構成する4つのエリアを、それぞれのイメージカラーである「シウダート(赤)」「ティエラ(緑)」「マール(青)」「フィエスタ(橙)」で表現している。", "title": "テーマパーク「パルケエスパーニャ」" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "日本語ロゴタイプは、様々なスペインのイメージの中から、「太陽」、「海」、「陽気さ」、「人間的」、「躍動感」をイメージし、フリーハンドのシンボルマークに合わせ躍動感ある手書き文字が使用されている。また、スペイン語ロゴタイプは、クラシックで伝統的なスペイン書体が用いられている。", "title": "テーマパーク「パルケエスパーニャ」" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "シンボルマークおよびスペイン語ロゴタイプの製作者は、ホセ・マリア・トリアス・フォルク(クォドデザイン・マーケティング社代表。バルセロナ美術工芸学校・芸術学院卒、バルセロナオリンピックのシンボルマークをはじめ、企業のCI、VI(企業デザイン)やパッケージデザインなどを手掛ける、スペインを代表するデザイナー)。また、日本語ロゴタイプは、村禎介(株)デザインマック代表取締役社長。金沢工芸美術大学卒、ニューヨーク・プラットインスティテュート大学卒、独自のパッケージデザイン理論を基に、AGI(国際グラフィック連盟)など数多くのCI、VI、商品開発を手掛けている。", "title": "テーマパーク「パルケエスパーニャ」" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "白壁・オレンジ色の屋根という、アンダルシア地方をイメージした外観のリゾートホテル。パティオ(中庭)を取り囲み、ロビー・宴会場棟と、3つの客室棟がロの字に建つ。また、コルドバ、セビリア、グラナダと名づけられた各客室棟にもパティオがあり、客室は全て40m以上で、リゾートホテルにふさわしくゆとりをもった作りとなっている。", "title": "ホテル志摩スペイン村(都ホテルズ&リゾーツ)" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "開業から1997年3月までは志摩観光ホテル(株)が営業権をもち運営していたが、1997年4月に旧(株)志摩スペイン村に営業権が譲受される。この直営化により、テーマパークとホテル間に直接往来ができる連絡ゲートが開設されるが、2003年に近鉄によるホテル志摩スペイン村の減損処理に伴い、新たに設立された(株)近鉄志摩ホテルリゾートが経営し旧(株)志摩スペイン村が経営受託した。しかし、2006年7月25日に発表された近鉄による志摩スペイン村事業再編により、(株)近鉄志摩ホテルリゾートは2006年10月1日をもって事業を近鉄レジャーサービス(株)に譲渡し11月で解散した。現在のホテル運営は新たに設立された運営会社(株)志摩スペイン村に委託されている。", "title": "ホテル志摩スペイン村(都ホテルズ&リゾーツ)" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "低料金のB&B形式(Bed and Breakfast)のホテルとして、駐車場そばに「シーズンインアミーゴス」がある。その名のとおり季節営業であり、利用の際は営業カレンダーを確認した方がよい。過去には近鉄志摩磯部駅前に「リゾートイン磯部」があったが、2020年1月に閉館した。両ホテルとも従業員寮として建設された物である。", "title": "その他の宿泊施設" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "その他、同じ近鉄グループの志摩観光ホテル・賢島宝生苑が、2005年よりオフィシャルホテルに指定される。", "title": "その他の宿泊施設" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ボーリングにより地下約1,800mから湧き出す38.6度の温泉で、泉質はアルカリ性単純温泉。1分間に160リットルの湧出量がある。露天風呂やサウナ(女湯は塩サウナ)もある(加温・循環ろ過式)。当初は、セルフサービス式のレストランも運営されていたが、現在は閉鎖されている。", "title": "志摩スペイン村天然温泉「ひまわりの湯」" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2003年からホテル志摩スペイン村と共に、新たに設立された(株)近鉄志摩ホテルリゾートが経営し(株)志摩スペイン村が経営受託していた。2006年7月25日に発表された近鉄による志摩スペイン村事業再編により、(株)近鉄志摩ホテルリゾートは2006年10月1日をもって事業を近鉄レジャーサービス(株)に譲渡し11月で解散した。現在の温泉運営は新たに設立された運営会社(株)志摩スペイン村に委託されている。", "title": "志摩スペイン村天然温泉「ひまわりの湯」" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "再編に伴い、テーマパーク事業、ホテル・温泉事業の運営委託を担う新会社として、近鉄レジャーサービス(株)の完全子会社として設立された。", "title": "株式会社志摩スペイン村" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "志摩スペイン村「パルケエスパーニャ」、ホテル志摩スペイン村、伊勢志摩温泉 志摩スペイン村「ひまわりの湯」、シーズンイン アミーゴスの運営受託を行っている。", "title": "株式会社志摩スペイン村" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "株式会社志摩スペイン村が運営を行っていたが、再編に伴い、2006年10月1日に志摩スペイン村土地建物株式会社へ商号変更を行い、近鉄レジャーサービス株式会社へテーマパーク運営事業を譲渡した。2007年10月29日付で解散した。", "title": "株式会社志摩スペイン村" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "※1 - 投資有価証券の売却益で最収益を計上。", "title": "株式会社志摩スペイン村" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "※データは、(株)志摩スペイン村広報資料および近畿日本鉄道(株)IR資料、日経テレコン21、帝国データバンクを参照。", "title": "株式会社志摩スペイン村" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "", "title": "交通アクセス" } ]
志摩スペイン村(しまスペインむら)は、三重県志摩市磯部町坂崎にある複合リゾート施設。 近畿日本鉄道(近鉄)が、総合保養地域整備法の施行に合わせ1988年に策定された「三重サンベルトゾーン」構想に基づき、三重県志摩郡磯部町(現・志摩市)の協力を得て開発した施設で、テーマパーク「パルケエスパーニャ」を中核施設に、ホテル志摩スペイン村、天然温泉「ひまわりの湯」の3施設で構成されている。 開発当初は、リゾートマンションやコテージ等を多層的に展開するレジデンシャルゾーンの開発計画もあったが現在は凍結されている。
{{脚注の不足|date=2017年1月}} {{混同|志摩地中海村}} {{基礎情報 テーマパーク | 名称 = 志摩スペイン村 | 画像 = File:La Villa Española de Shima, Parque España - Plaza de Mayor.jpg | 画像説明 = 志摩スペイン村・マヨール広場 {{Infobox mapframe|tyep=shape|zoom=13|frame-width=300}} | 愛称 = パルケ・エスパーニャ | テーマ = [[スペイン]] | キャッチコピー = “心の再発見”を求め、新しいライフスタイルを提案。 | 事業主体 = 近鉄レジャーサービス株式会社 | 管理運営 = 株式会社志摩スペイン村 | 面積 = 113ha(うちテーマパーク:34[[ヘクタール|ha]]、ホテルゾーン8ha) | 来園者数 = 1,227,000人(2017年度) | 開園 = 1994年(平成6年)4月22日<ref name="交通1993-4">{{Cite news |title=「志摩スペイン村」開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1994-04-25 |page=1 }}</ref>。 | 所在地郵便番号 = 517-0292 | 所在地= 三重県志摩市[[磯部町坂崎]]字下山952-4 | 緯度度 = 34 | 緯度分 = 21 | 緯度秒 = 42.5 | N(北緯)及びS(南緯) = N | 経度度 = 136 |経度分 = 50 | 経度秒 = 39.4 | E(東経)及びW(西経) = E | 地図国コード = JP | 位置= | 公式サイト= [http://www.parque-net.com/ 志摩スペイン村] }} {{Location map|Japan Mapplot|coordinates={{Coord|34.361806|136.844278}}|caption=志摩スペイン村の位置|width=256}} '''志摩スペイン村'''(しまスペインむら)は、[[三重県]][[志摩市]][[磯部町坂崎]]にある複合[[リゾート]]施設。 [[近畿日本鉄道]](近鉄)が、[[総合保養地域整備法]](通称:リゾート法)の施行に合わせ[[1988年]]に策定された「三重サンベルトゾーン」構想に基づき、三重県[[志摩郡 (三重県)|志摩郡]][[磯部町 (三重県)|磯部町]](現・志摩市)の協力を得て[[開発]]した[[施設]]で、[[テーマパーク]]'''「パルケエスパーニャ」'''を中核施設に、[[ホテル]]志摩スペイン村、[[天然]][[温泉]]「ひまわりの湯」の3施設で構成されている。 開発当初は、[[リゾートマンション]]や[[コテージ]]等を多層的に展開するレジデンシャルゾーンの開発計画もあったが現在は凍結されている。 == 概要 == === 開発経緯 === 近鉄が[[志摩半島]]での観光開発に着手したのは、伊勢志摩エリアが1946年に[[国立公園]]に指定されたのがきっかけである。1951年には戦後初のリゾートホテルである[[志摩観光ホテル]]を賢島に開業、そして1960年代初期には[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]開催に合わせ、[[ゴルフ場]]や[[別荘]]地等を開発するために広大な土地の取得を始めていた。 しかし、本格的に開発が始まったのは1967年に策定された第3次輸送力増強5箇年計画発表以降である。この計画は、1970年の[[日本万国博覧会|大阪万博]]の来場者を伊勢志摩まで誘致する目的で、当時孤立線であった[[近鉄志摩線]] (25.4km) と大阪・名古屋方面と直結している[[近鉄山田線]]とを接続する[[近鉄鳥羽線|鳥羽線]] (13.2km) を新たに建設し、合わせて志摩線を[[標準軌]]化することで、[[大阪市|大阪]]・[[京都市|京都]]・[[名古屋市|名古屋]]から賢島まで特急列車の直通運転を可能にするものであった。この工事は1970年1月に完成し、同年3月に開通した。 これにより、大阪万博からの周遊客などの利用により、[[近鉄特急]]の利用者数は大幅に増加した。しかし、1973年の[[神宮式年遷宮|伊勢神宮式年遷宮]]以降は、期待されたほど特急利用者数は増えず、伊勢志摩への観光入込客数も、1,300万人から1,400万人で停滞していた。このため、近鉄は[[1970年代]]半ばから、伊勢志摩の観光入込客数の活性化策として、大規模な[[リゾート]]開発の策定に着手した。近鉄は、観光入込客数の停滞の要因を「[[伊勢神宮]]や[[鳥羽水族館]]、[[ミキモト真珠島]]という観光資源に過度に依存し、海産物をはじめとする食の豊かさに安堵し観光開発を怠ったため、若年層やファミリー層の観光ニーズに合わない旧来の[[観光地]]とイメージされていることに起因する」と分析し、これらの層も含め、集客力の強いテーマパークを中心とした大規模なリゾート開発を決定した。 当初、近鉄は志摩半島に点在する4ヶ所の社有地(合計開発敷地面積:522[[ヘクタール]])を利用して、[[近鉄志摩線|志摩線]]の複線化を軸とした、複数のリゾートを開発する計画を持っていた。 鳥羽市畔蛸(あだこ)町と相差(おおさつ)町にまたがる南鳥羽地区の社有地には分譲別荘・リゾートマンション・ペンション・コンドミニアム・ショッピングセンター・アミューズメント施設を、[[磯部町 (三重県)|磯部町]]坂崎地区の社有地にはテーマパークを、[[阿児町]][[横山展望台|横山]]地区の社有地には[[近鉄賢島カンツリークラブ|ゴルフ場]]を、[[阿児町国府]]地区の社有地には既存の[[ゴルフコース]]沿いにマリーナや[[サーフスポット]]等の海洋レジャー施設の建設を、それぞれ予定していた。 この計画に基づき、近鉄は1988年2月には、三重県と[[国土庁]]に開発計画を届け出ている。そして地元との調整が整った場所から順次着工し、[[21世紀]]初めまでには、志摩半島に「一大リゾート」を完成させる構想を抱いていた。 しかし、[[バブル景気]]の崩壊と共に、景気動向の先行きが不透明となったことから、まずはリゾート法の適用を受け、地元との調整も整っていた志摩スペイン村から開発することになった。志摩スペイン村計画自体も縮小化され、テーマパーク「パルケエスパーニャ」の開発事業費は、当初発表された680億円から、いったんは480億円へ、最終的には600億円へと変更されており、ホテル志摩スペイン村も客室数500室(100室を会員制/1200人収容)規模から約半分の252室に縮小された。また、開発事業費約500億円規模に及ぶレジデンシャルゾーンの同時開発も一旦は延期となったものの、1992年の雑誌のインタビュー記事で、当時の近畿日本鉄道鉄道総局業務局長であった荻巣は、開発計画の見直しはしないのかという問いに対し、「それはありません。(中略)当初の計画通り進めています」と述べている<ref>『鉄道ピクトリアル』(第569号)1992年12月増刊号、54頁</ref>。しかしその後レジデンシャルゾーンは建設されることなく現在に至っている。 [[ファイル:Shima-spain-mura_01.JPG|thumb|600px|center|志摩スペイン村遠景]] === 基本理念 === 志摩スペイン村開発計画にあたっては、[[自然]][[環境]]の保全を原則に、基本理念を「こころの再発見」におき、テーマを[[スペイン]]とした{{R|交通1993-4}}。 [[バブル崩壊]]の社会情勢から「もの」から「こころ」へ。経済優先からゆとりという流れの中で、「伸びやかな[[空間]]のなかでゆったりとした時間を楽しく過ごす」ことのできる場所が求められるとし、これをスペインの人々のゆとりやおおらかさと、スペインの大地の豊かさ。これらの体験、共感を通して、「人間らしさの回復」や「こころの再発見」をすることを全体[[概念|コンセプト]]とした。 ==== テーマとしてスペインが選ばれた理由 ==== [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - "Sol de España" - Obra de Santiago de Santiago.jpg|thumb|200px|入口前の石彫『スペインの太陽』(サンチャゴ・デ・サンチャゴ作)]] [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - Museo "Castillo de Xavier" - Don Quijote y Sancho Panza.jpg|thumb|250px|ドンキホーテとサンチョパンサ像(ハビエル城博物館内)]] [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - Salón del Carmen - Bata de cora.jpg|thumb|190px|カルメンの衣装『バタデコーラ』]] 月刊レジャー産業やアミューズメント産業等の業界誌に掲載された開業当時の志摩スペイン村経営陣のコメント等によれば下記のような理由が上げられている。 * 「三重サンベルトゾーン」計画そのものがスペインをイメージしていたこと。 * 三重県は観光立県だが、スペインも人口約4千万人に対して約5千万人あまりの観光客がある観光立国であること。 * スペインの北部[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]は[[巡礼]]の地であり、[[お蔭参り|お伊勢まいり]]と相通するものがあること<ref name="mn3">岡田(2015):53ページ</ref>。(ただし[[岡田登]]はこの説は誤りであると記している<ref name="mn3"/>。) * 計画当時、[[バルセロナオリンピック]]と[[セビリア万博]]の開催にあたり、日本でもスペインへの関心が高まっていたこと。 * [[志摩半島]]の[[海岸]]は[[リアス式海岸]]だが、リアス式海岸のリアスとはスペイン北西部の[[ガリシア州|ガリシア]]地方でリア(入り江)が多く見られることから命名されたこと([[スペイン語]]でリア(ria) は入り江を意味する)<ref>岡田(2015):52ページ</ref>。 月刊レジャー産業(1994年6月号)に掲載された初代志摩スペイン村[[取締役]][[社長]]である谷原武夫へのインタビュー記事によれば、志摩スペイン村開業当時の近鉄社長で志摩スペイン村開発推進者であった[[金森茂一郎]](初代志摩スペイン村取締役[[会長]])がテーマパークの開発にあたって文化性を強く出す方向性を示唆した。これに基づきコンセプトを策定した結果、日本ではスペインはあまり紹介されていないが、[[カルメン]]、ドンファン、[[闘牛]]、[[ドン・キホーテ]]等日本人になじみのある話題が意外に多い点に着目し、スペインという国をテーマとし文化性の強いテーマパークを作り上げようと結論づけた。ただし谷原は「それじゃなぜスペインかということですが、ほかではあまり取り上げられていないからというだけではちょっと説得力が弱いかと思いますが、一番ポピュラーな説明としましては、スペインに関して日本人が持つイメージはというのは、明るい太陽と海辺というものが一つのイメージだろう。志摩というイメージが大体合致している。そういうことで良いのではないか思いました。」とも述べている。 === 開発エピソード === 志摩スペイン村の開発エリアは全て[[伊勢志摩国立公園]]内で、[[自然公園法]]による「規制計画」等で無秩序な開発や利用を防ぐ特別地域に指定されていた。このため、開発当初に開発できたのは開発面積全体の約30%程度で、一時的に工事で伐採した緑地についても新たに植栽し緑地に戻したほか、テーマパークでは第1駐車場の一部(現在のピレネー部分)を芝生化した駐車区画を設けたり、[[コロシアム]]の[[座席]]周りに芝生を張るなどして緑地化率を高める工夫がされた。また、先のスペインをテーマに選定した過程を述べた月刊レジャー産業のインタビューで「この地域全般の特色ですが[[漁業権]]が非常に確立しています。畑のような感覚ですね。畑の中にむやみに立ち入れば叱られる。[[養殖]][[漁業]]のために海が使えない傾向をもっていますが、なんとか漁業権との調整をとって将来的にはマリンレジャーも提供できればありがたい」と述べている。 しかし、当初計画案があった近鉄[[志摩磯部駅]]から志摩スペイン村への定期航路計画は頓挫し、ひまわりの湯を開業するにあたっても海洋への温泉の排水が及ぼす海水濃度への影響で、養殖をはじめとする漁業補償問題のため本来は[[掛け流し]]が可能な湯量があるひまわりの湯だが循環[[ろ過]]式での営業となるなど現在でもマリンレジャーを開発できる状況には至っていない。 === 敷地面積 === 志摩スペイン村の全体開発面積は113haで、[[東京ドーム]](建設面積4.67554ha/グラウンド面積1.3ha)に換算すると約24個分(テーマパーク部分だけでも約7.2個分)にも相当する広大なもので、その内100haについては近鉄が1960年代初期に取得した物である。しかし、上下水道や道路など[[インフラストラクチャー]]が未整備のため非常に簿価が低い社有地であり開発が中止されていた(志摩スペイン村開発にあたっては、取得済みの社有地100haの他に、周辺の13ha程の敷地を、[[国土法]]の特定民間施設の申請をして新たに取得している)。 全体計画面積 113ha * テーマパークゾーン 34ha * ホテルゾーン 8ha(温泉ゾーン含む)※延べ床面積:ホテル/約3.1ha、温泉/約0.21ha * 保存緑地ほか 71ha === 事業費 === ==== 開園時の総事業費 ==== {| class="wikitable" style="white-space: nowrap; font-size: smaller;" |- | rowspan="2" | テーマパーク総事業費 | rowspan="2" | 約600億円 | 内約300億円 - 近畿日本鉄道(株):土地造成・基盤整備、主要建物建設 |- | 内約300億円 - (株)志摩スペイン村:付帯施設建設・内装工事 |- | ホテル総事業費 | colspan="2" | 約200億円 |- | 温泉総事業費 | colspan="2" | 約11億円 |- |} * 注1 - (株)志摩スペイン村の300億円については、公共性を持つ事業として[[日本開発銀行]]のNTT無利子融資や[[地域総合整備財団]](ふるさと財団)のふるさと融資など受けている。また、三重県と磯部町(現志摩市磯部町)の出資は各1500万円((株)志摩スペイン村設立時の[[資本金]]3億円の10%)であるが、その他、県道の改修、[[バイパス道路|バイパス]]工事等の側面でのバックアップがあった。 * 注2 - 近鉄は、志摩スペイン村開業にあたり志摩線の複線化に約350億円、[[志摩磯部駅]]および[[鵜方駅]]の改良等に約70億円、新型特急「[[近鉄23000系電車|伊勢志摩ライナー]]」の新造に約60億円と合計で約480億円を投資しており、志摩スペイン村の初期投資と合わせて約1,280億円を投資している。 ==== 開園後の主な大型設備投資額 ==== {| class="wikitable" style="white-space: nowrap; font-size: smaller;" |- | 「クエントスの森」(1996年) | colspan="2" | 約2億4千万円 |- | rowspan="4" | 第一次営業施設増強(1996年 - 1997年) | rowspan="4" | 総事業費 約70億円 | 内約31億円 - 「ピレネー」 |- | 内約26億円 - 「ドンキホーテ冒険の旅」 |- | 内約6億円 - 「コロシアム可動式[[屋根]]」 |- | 内約7億円 - 「エンバシーホール」 |- | rowspan="3" | 第二時営業施設増強(1999年) | rowspan="3" | 総事業費 約49億円 | 内約30億円 - 「ロストレジェンド」 |- | 内約15億円 - 「エスパーニャカーニバル」 |- | 内約4億円 - 「[[サンタクルス]]通り延伸」 |- | 植栽増強(1997年 - 1999年) | colspan="2" | 約3億円 |- | 「ドンキホーテバルーン」(2000年) | colspan="2" | 約2億円 |- | 「太陽の洞窟」、「ドンキホーテのからくり時計」等(2002年) | colspan="2" | 約1億4千万円 |- | 「マタドール」、「光の宮殿」、「氷の城」およびカンブロン劇場新ソフト導入等(2004年) | colspan="2" | 約2億円 |- | 「不思議の国のアリス」、新スパニッシュミュージカル「マルクの恋人」導入等(2007年) | colspan="2" | 約1億4千万円 |- | 「ピエロ・ザ・サーカス」(2008年) | colspan="2" | 約8億円 |- |} === 環境対策 === 伊勢志摩国立公園内に立地するため、開発段階から高度の生活処理排水施設やゴミ焼却施設を導入し環境対策が行なわれているが、近年は環境対策について[[地球温暖化対策推進法]]や食品リサイクル法をはじめ、ごみ焼却時のダイオキシン処理、2003年のロンドン条約(日本国内では2007年度に[[廃棄物の処理及び清掃に関する法律|廃棄物処理法]]が改定される。)で禁止される汚泥の海洋投棄など、開業当初より高い基準に対応するため新たな処理施設が導入されている。また、三重県生活環境の保全に関する条例第9条第1項に基づく地球温暖化対策計画書を2005年7月1日に県に提出し、三重県地球温暖化対策推進計画の2010年度までに温室効果ガスの排出量を基準年度(2000年度)から14%削減を目指している<ref group="広報">{{Cite press release|和書|title=株式会社志摩スペイン村地球温暖化対策計画書|format=PDF|publisher= |date= |url=http://www.eco.pref.mie.lg.jp/ondanka/02/sakutei2011-2013/pdf-energy1/06ise/02_0122151.pdf|accessdate=2007-04-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150315120745/http://www.eco.pref.mie.lg.jp/ondanka/02/sakutei2011-2013/pdf-energy1/06ise/02_0122151.pdf|archivedate=2015-03-15}}</ref>。 ==== 生活廃水処理施設 ==== 生活排水については公共機関と同様の第3次処理まで行って無公害の水に処理しており、処理された排水の汚染濃度は国や県の排水許可基準を大幅に下回っている。また、処理水はトイレの洗浄水や緑地への散水処理等に2次利用し海洋への排水はほとんどされていない。 * 処理能力 : 2250t/日 * 処理方法 : 標準活性汚泥法+触媒酸化法+凝集沈殿法+砂ろ過法+活性炭吸着法([[生物化学的酸素要求量]](BOD)5ppm以下、[[化学的酸素要求量]](COD)3ppm以下、浮遊物質量(SS)3ppm以下までに処理されている。) * 施設竣工 : 1993年(平成5年)12月 ※[[水質汚濁防止法]] : BOD、CODは120ppm以下、SSは150ppm以下(三重県の条例は、BOD、CODは20ppm以下、SSは70ppm以下)。 ==== ごみ焼却施設 ==== 開業当初より稼動しているごみ焼却施設については、2001年にバグフィルターを導入しダイオキシン濃度を大幅に減少させている。 * 燃焼能力 : 10t/日(8時間)×2焼却炉(焼却炉はごみの性質に合わせ燃焼用空気がコントロールされ完全燃焼している。/排ガス濃度は3から4ng-TEO/3N以下) * 施設竣工 : 1994年(平成6年)3月 ※[[ダイオキシン]]対策特別措置法による排ガス濃度基準:10ng-TEO/3N以下 ==== 自家用発電施設 ==== 志摩スペイン村内で使用する年間消費電気量の60%程度を自家発電しており、[[電力会社]]からの[[送電]]より電力消費ロスが少なく、発電効力が大きいため、使用電力量の削減も可能となった。また廃熱は隣接するシーズンインアミーゴスの温水に利用されており、[[二酸化炭素]]の排出量を年間で約250t前後削減している。 * 発電機 : 1400kW×3台 * エンジン : 2050馬力、140,000cc、720回転 * 施設竣工 : 2000年(平成12年)3月 ==== 生ごみ処理施設 ==== 施設が出来るまでは志摩スペイン村内で廃棄される年間約500tの生ごみは焼却処理されていたが、生ごみは通常のごみ焼却より燃焼効率が落ちるため重油消費量が多かった。しかし、施設完成により重油消費量が削減できたため、燃焼に伴うダイオキシンの発生や二酸化炭素の発生を低くすることが可能となった。また、生活廃水処理の際に発生する汚泥(排水処理工程で発生するバクテリアの死骸。)についても、汚泥脱水処理機を導入しスポンジ状の脱水ケーキとし、ゴミ堆肥プラントにてバクテリアとあわせて肥料とし村内の植栽の土壌改良剤として使用されている。 * 処理能力 : 1t/日 * 施設竣工 : 2001年(平成13年)10月 === スポンサー企業 === ==== 現在のスポンサー企業(2023年4月現在) ==== : ◎印は開業時から10年間(2004年)のスポンサー契約満了時に契約を更新したスポンサー企業 * [[伊藤園|株式会社伊藤園]] ** 提供:アミーゴバルーン * [[伊藤ハム|伊藤ハム株式会社]]◎ ** 提供:アルカサルの戦い * [[近畿日本鉄道|近畿日本鉄道株式会社]] ** 提供:パルケエスパーニャパレード "エスパーニャカーニバル アデランテ"、ハビエル城博物館、ピエロ・ザ・サーカス、ナイトパレード&花火 * [[アソビュー|アソビュー株式会社]](2022年11月1日 -) **提供:ドラゴン城の宝さがし * [[カゴメ|カゴメ株式会社]]◎ ** 提供:トマティーナ * [[KDDI|KDDI株式会社]]◎ ** 提供:カンブロン劇場/開業時は[[第二電電|第二電電(株)]]との契約だったが、その後の[[国際電信電話|国際電信電話(株)]]と[[日本移動通信|日本移動通信(株)]]との合併により契約社名が変更されている。 * [[コカ・コーラボトラーズジャパン|コカ・コーライーストジャパン株式会社]]◎ ** 提供:スプラッシュモンセラー/開業時は中京コカ・コーラボトリング(株)との契約だったが、富士コカ・コーラボトリング(株)の合併により契約社名がコカ・コーラセントラルジャパン(株)に変更され、2013年7月に社名が変更され現在に至る。 * [[アサヒビール|アサヒビール株式会社]] ** 提供:イルミネーションライド「くるみわり人形」、レストラン「エル パティオ」、ワインとビールの欧州紀行 * [[森永乳業|森永乳業株式会社]] ** 提供:ガウディカルーセル * [[中部電力ミライズ|中部電カミライズ株式会社]](2019年5月1日 -) ** 提供:ピレネー/開業時は[[中部電力|中部電力(株)]]との契約だったが、同社と[[中部電力パワーグリッド|中部電力パワーグリッド(株)]]との体制へ移行し、契約者名が変更された。 * [[東京海上日動火災保険|東京海上日動火災株式会社]]◎ ** 提供:コロシアム/開業時は東京海上保険(株)との契約だったが日動火災海上保険(株)との合併により契約社名が変更されている。 * [[日清オイリオグループ|日清オイリオグループ株式会社]] ** 提供:キャラクターカフェ「チィコ チィコ」 * [[ブリヂストン|株式会社ブリヂストン]]◎ ** 提供:グランモンセラー * [[御木本真珠島|株式会社御木本真珠島]]◎ ** 提供:パールギャラリー「マルガリタ」 * [[三井住友カード|三井住友カード株式会社]] ** 提供:カルメンホール * [[三菱電機|三菱電機株式会社]]◎ ** 提供:ドンキホーテ冒険の旅/フライングドンキホーテの営業終了に伴い移行している。 * [[山崎製パン|山崎製パン株式会社]]◎ ** 提供:カフェ「ミカサ」 * [[UCC上島珈琲|UCC上島珈琲株式会社]]◎ ** 提供:カフェテリア「サルー」 ==== 契約が終了したスポンサー ==== * [[イベリア航空|イベリア・スペイン航空]](提供:スペインプロモーションセンター/閉鎖に伴いエンバシーホールへ移行/イベリア航空は1998年11月30日で日本路線を撤退したため中途契約解消となった。) * [[小学館|株式会社小学館]](提供:クエントスの森) * [[新日本石油|新日本石油株式会社]](現・[[ENEOS]]株式会社)(提供:アルカサルの戦い/開業時は三菱石油との契約だがその後の日本石油との合併により契約社名が変更されていた) * [[コダック|コダック株式会社]](提供:フォトハウス「フォト ファンタスティカ」) * [[日本生命保険|日本生命保険相互会社]](提供:ハビエル城博物館) * [[福寿園|株式会社福寿園]](提供:アミーゴバルーン) * [[クボタ|株式会社クボタ]](提供:太陽の洞窟、ウォーターシンフォニー、ドンキホーテとサンチョパンサ像、シベレス像、フェリペ3世騎馬像、コロンブス像、幸せの鐘、ローマの遺跡) * [[サントリー|サントリー酒類株式会社]](提供:きらめく光のファンタジー"光の宮殿"、花とワインのギャラリー、レストラン「エル パティオ」/開業時はサントリー(株)との契約だったが、[[2009年]][[4月1日]]に持株会社制の移行により契約社名が変更されている。) * [[シチズン時計|シチズン時計株式会社]](提供:ガウディカルーセル/開業時はシチズン商事(株)との契約だったが、シチズン時計(株)への吸収合併により契約社名が変更されている。) * [[リヤドロ|リヤドロジャパン株式会社]](提供:遊覧タクシー/開業時は物産リヤドロ(株)との契約だったが現在はリヤドロジャパン(株)に移行している。) * [[明治乳業|明治乳業株式会社]](提供:チョッキーの不思議な館/契約更新時にカーニバルハウスから移行している。) * [[オリックス・バファローズ|オリックス野球クラブ株式会社]](提供:パルケエスパーニャパレード "エスパーニャカーニバル" 表記名は「オリックス・バファローズ」、2006年ごろ。) * [[大正製薬|大正製薬株式会社]](- 2016年3月18日)(提供:アルカサルの戦い) * [[ブラザー工業|ブラザー販売株式会社]](- 2016年9月16日)(提供:エンバシーホール) * [[江崎グリコ|江崎グリコ株式会社]](- 2018年7月23日)(提供:ドラゴン城の宝さがし) * [[大日本印刷|大日本印刷株式会社]]◎(- 2019年6月27日)(提供:クエントスの森/契約更新時にカルメンホールから移行している。) * [[富士フイルム|富士フイルム株式会社]](- 2019年9月26日)(提供:フォトハウス「フォト ファンタスティカ」/開業時は富士写真フイルム(株)との契約であったが、事業持株会社制の移行により富士フイルムイメージング(株)に契約会社が変更されたものの、[[2009年]][[2月1日]]に富士フイルム(株)に吸収される形で再度変更された) * [[富士通|富士通株式会社]]◎(- 2022年10月31日)(提供:フィエスタトレイン) == 沿革 == [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - Museo "Castillo de Xavier" - Don Quijote y Sancho Panza.jpg|thumb|220px|入口(ドンキホーテとサンチョパンサ像)]] [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - El bosque de Cuentos - La entrada.jpg|thumb|220px|クエントスの森]] [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - Casa de la Embajada.jpg|thumb|220px|エバンシーホール]] [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - La Iglesia de la Santa Cruz - Andalucía.jpg|thumb|180px|アンダルシア地方のサンタクルス教会]] [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - La tomatina.jpg|thumb|220px|20thアニバサリの新アトラクション、トマティーナ]] * [[1987年]](昭和62年)[[6月]] - [[総合保養地域整備法]](通称 リゾート法)が[[施行]]。 * [[1988年]](昭和63年) ** [[2月]] - 近畿日本鉄道から4地区(南鳥羽、磯部、横山、国府)の開発計画を三重県に提出。 ** [[7月]] - 国が三重県の基本構想を承認。 ** [[10月]] - 近畿日本鉄道企画室に志摩スペイン村建設計画[[プロジェクト]]チーム発足。 * [[1989年]](平成元年) ** [[1月]] - 志摩スペイン村[[環境アセスメント]]調査を開始。 ** [[4月]] - 土地利用対策委員会幹事会、土地利用計画を承認。 ** [[5月]] - 知事より大規模土地取引[[事前協議]]の結果通知。 ** [[6月]] - 志摩スペイン村建設計画プロジェクトチームが発展解消し近畿日本鉄道伊勢志摩開発室設立。 * [[1990年]](平成2年) ** [[3月]] - 開発申請に関する覚書を磯部町と交換。 ** [[7月]] - 環境アセスメント[[調査]]に関する「評価準備書」公告縦覧。 ** [[12月]] - 同上、「評価書」[[公告]]縦覧、開発申請。 * [[1991年]](平成3年) ** [[5月]] - 資本金3億円で株式会社志摩スペイン村を設立。 ** [[6月]] - 開発許可。 ** [[7月]] - 土木工事に着工。 * [[1992年]](平成4年) ** [[6月]] - 建築工事に着工。 ** [[10月]] - [[資本金]]を12億円に[[増資]]。 * [[1993年]](平成5年)[[12月]] - 資本金を24億円に増資。生活廃水処理施設完成。 * [[1994年]](平成6年) ** [[3月]] - ごみ焼却施設完成。 ** [[4月22日]] - パルケエスパーニャ開園、ホテル志摩スペイン村開業{{R|交通1993-4}}。 ** [[6月17日]] - パルケエスパーニャ入園者100万人(開業から59日)を達成。 ** [[11月5日]] - パルケエスパーニャ入園者300万人(開業から198日)を達成。 * [[1995年]](平成7年) ** [[2月]] - 資本金を48億円に増資。 ** [[3月]] - エントランス内にドンキホーテ&サンチョパンサのグリーテイングカルーセル、フラワーワゴン、ドンキホーテ&サンチョパンサの顔花花壇を新設。 ** [[6月1日]] - 年間[[パスポート]]の発売を開始。 ** [[7月]] - パルケエスパーニャ入園者500万人を達成。 ** [[9月8日]] - [[近鉄百貨店]]阿部野店にパイロットショップがオープン(現在は閉店)。 * [[1996年]](平成8年) ** [[2月]] - スペイン・[[ガリシア州]][[フェア]]「フィエスタ・デ・ガリシア」を開催(2月27日 - 5月31日)。 ** [[3月22日]] - [[日本経済新聞社]]「地域活性化貢献大賞」受賞。 ** [[4月19日]] - 公式[[ウェブサイト|サイト]]公開<ref>{{cite news |和書|title=志摩スペイン村がホームページ開設 |newspaper=交通新聞 |date=1996-04-24 |publisher=交通新聞社 |page=3 }}</ref>。 ** [[4月22日]] - 幸せの[[鐘]]を新設。 ** [[7月20日]] - クエントスの森を新設。 ** [[11月23日]] - コロシアムに可動式屋根を新設。 * [[1997年]](平成9年) ** [[3月1日]] - [[ピレネー]]、ドンキホーテ冒険の旅、エンバシーホールを新設<ref>{{Cite news |title=志摩スペイン村の新遊戯施設 3月1日から営業開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-01-31 |page=2 }}</ref>。 ** [[4月1日]] - ホテル志摩スペイン村の営業権が志摩観光ホテル株式会社から株式会社志摩スペイン村に譲受され直営化。 ** [[4月24日]] - パーク・ホテル間の連絡通路開設、パルケエスパーニャで初の[[チャペル]]ウエディングを挙行。 ** [[6月4日]] - パルケエスパーニャ入園者1千万人(開業から1099日)を達成。 ** [[10月]] - ドラ・カタリネウ展開催(10月1日 - 11月30日)。 * [[1998年]](平成10年) ** [[3月]] - スペイン[[サロン]]を新設(現在は閉鎖)、カスティリャ・イ・レオン料理フェア開催(3月1日 - 7日)、[[パブロ・ピカソ|ピカソ]][[版画]]「スイット・ヴォラール」展を開催(3月1日 - 19日)。 ** [[4月]] - スペイン通貨・ペセタ建ての入園券、パスポートの発売開始(通貨がユーロに移行したのに伴い中止)。 ** [[4月10日]] - カンブロン劇場でニュープログラム「ディスカバラーズ」上映開始(現在は上映中止)。 ** [[4月24日]] - フィエスタ噴水がオープン。 ** [[6月10日]] - リゾートイン磯部が開業。 ** [[7月]] - 「キャラクター展」〜ドンキホーテとその仲間たち〜を開催(7月18日 - 9月27日)、さよならストリートパーティーキャンペーン開催(7月18日 - 1999年1月31日)。 ** [[10月]] - スペイン・[[マドリード州]]フェア「マドリード・マドリード」を開催(10月1日 - 12月25日)。 *[[1999年]](平成11年)[[3月1日]] - 開業5周年、新[[パレード]]エスパーニャ[[謝肉祭|カーニバル]]がスタート、ロストレジェンド広場を新設、サンタクルス通り延伸、株式会社近鉄百貨店と近観フーズ株式会社に委託していた物販、料飲部門を直営化。 *[[2000年]](平成12年) ** [[3月]] - 自家用発電施設完成。 ** [[4月22日]] - ドンキホーテバルーンが営業開始。 ** [[7月]] - スペイン・[[アンダルシア州]]フェア・スペインフェア2000「アンダルシア!」を開催(7月20日 - 10月9日)。 *[[2001年]](平成13年) ** [[4月22日]] - ひまわりの湯が開業。 ** [[10月]] - 生ゴミ堆肥化施設が完成。 *[[2002年]](平成14年) ** [[2月8日]] - マール[[エスカレータ]]内に太陽の洞窟を増設。 ** [[3月23日]] - シベレス[[時計台]]にからくり時計を増設。 ** [[6月23日]] - パルケエスパーニャ入園者2千万人(2891日)を達成。 ** [[7月10日]] - 汚泥脱水処理設備が完成。 *[[2003年]](平成15年) ** [[2月]] - 資本金を120億円に増資。 ** [[3月21日]] - ウォーターシンフォニー、チョッキーの不思議な館、花とワインのギャラリーを新設。 *[[2004年]](平成16年) ** [[3月1日]] - 開業10周年、[[闘牛士|マタドール]]、光の宮殿を新設、氷の城を常設。 ** [[10月11日]] - ひまわりの湯入館者百万人を達成。 *[[2006年]](平成18年) ** [[2月]] - 資本金を9千万円に[[減資]]。 ** [[9月1日]] - 資本金1千万円で株式会社志摩スペイン村を新規に設立。 ** [[9月17日]] - ひまわりの湯入館者150万人を達成。 ** [[10月1日]] - テーマパーク運営事業を近鉄レジャーサービス株式会社に譲渡。株式会社志摩スペイン村は志摩スペイン村土地建物株式会社に商号変更。また新規に設立された株式会社志摩スペイン村が近鉄レジャーサービス株式会社から志摩スペイン村(パーク・ホテル・ひまわりの湯)の運営管理業務を受託。 *[[2007年]](平成19年)[[3月1日]] - 不思議の国のアリスを新設。 *[[2008年]](平成20年)[[3月1日]] - ピエロ・ザ・サーカスを新設。 *[[2009年]](平成21年)[[7月11日]] - 開業15周年、ダルのファンタジーワールド360を新設。 *[[2010年]](平成22年)[[2月19日]] - イルミネーションライド“くるみわり人形”を新設。 *[[2014年]](平成26年)[[3月1日]] - 開業20周年、「ときめをいつまでも」をスローガンに20thアニバサリ展開。 ** パレードをリニューアル、エスパーニャカーニバル「アデランテ」に変更。 ** アルカサルの戦いを増設。 ** アトラクション、トマティーナを新設。 ** フラメンコショーを「コルトバ」に変更。 *[[2017年]](平成29年)[[2月4日]] - 屋内型ジェットコースター「アイアンブル」を新設<ref name="chunichi201724">{{Cite news | title = きょうから営業再開 志摩スペイン村で内覧会 | newspaper = [[中日新聞]] | date = 2017-02-04 | author = 安永陽祐 | publisher = 中日新聞社 | page = 朝刊 広域三重版 21 }}</ref>。 *[[2019年]](平成31年・令和元年)[[3月1日]] - 開業25周年。 == 志摩スペイン村の社会・経済効果 == === 開業効果 === 1995年11月に発表された[[三菱総合研究所]]による、志摩スペイン村の社会・経済効果についてのレポートでは、開業後1年間の[[生産]]誘発額は全国で9,854億円とされている。 志摩スペイン村建設費、鉄道投資などを含む開業1年後までの総投資額は2,824 億円で、開業前に[[第二次産業]]を中心に4,578億円、開業後に[[サービス]]業、[[商業]]を中心に5,276億円の生産が全国で誘発されたとしている。そのうち、三重県内への生産誘発額は6,164億円で、三重県の1992年度産出額15兆2千億円の4.0%を占めた。 === 伊勢志摩の観光入込客数への波及効果 === 三重県観光[[レクリエーション]]入込客数推計書によれば、1994年度の[[伊勢志摩国立公園]]の入込客数は、志摩スペイン村の開業と伊勢市で開催された「[[世界祝祭博覧会|まつり博・三重]]」による入込客増で1千953万7千人と前年より445万7千人も増えたが、翌年には1千416万9千人まで減少し、1999年度以降は約1千万人程度に落ち込んでいる。 2005年度の県全体での観光レクリエーション入込客数は4千469万5千人(2004年度:4千396万4千人)で、伊勢志摩国立公園は23.4%(2004年度:23.1%)にあたる1千45万6千人(2004年度:1千17万3千人)を集客している。その内訳は、伊勢神宮が565万9千人(2004年度:546万人)で54.1%(2004年度:53.7%)、志摩スペイン村が156万8千人(2004年度:179万8千人)で15%(2004年度:17.7%)、鳥羽水族館が87万7千人(2004年度:95万1千人)で8.4%(2004年度:9.3%)を集客しており、愛知万博の影響で伊勢神宮を除き入込客数が減少したが、それでもこの3施設で伊勢志摩国立公園の入込客の77.5%(2004年度:80.7%)を集客している。また、県内の主要有料観光施設で百万人以上集客しているのは、[[長島温泉]]の448万5,000人(2004年度:446万人)をトップに、[[鈴鹿サーキット]]の245万3千人(2004年度:246万3千人)、志摩スペイン村の156万8千人(2004年度:179万8千人)までとなっている。 ※ 志摩スペイン村、長島温泉、鈴鹿サーキット等の入込数が、季刊エンターテインメントビジネスや[[三菱UFJリサーチ&コンサルティング]]による「東海3県主要集客施設・集客実態調査」等と異なるのは、県観光レクリエーションのみ集計期間が1月から12月までの年度単位で集計するのに対し、民間企業の発表数は事業年度の4月から翌年3月(志摩スペインは3月から翌年2月)までで集計しているため。<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.mie.jp/TOPICS/2006060101.htm|title=県観光レクリエーション入込客数推計書|publisher=三重県|date=2006-06-09|accessdate=2007-04-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120306041314/http://www.pref.mie.lg.jp/TOPICS/2006060101.htm|archivedate=2012-03-06}}</ref> == 関連事業の再編と現状 == === 関連事業の再編 === 近鉄は2006年7月25日に「近畿日本鉄道・志摩スペイン村関連事業の再編」を発表した<ref group="広報" name="saihen" />が、内容は[[減損処理]]会計導入に伴う資産の買上げ等の支援策の際に複雑化した志摩スペイン村関連資産(テーマパーク、ホテル、温泉)の所有権と経営主体を整理し事業の効率化と債務の分離を目指したもので、テーマパークに関する資産を旧運営会社(株)志摩スペイン村から商号変更し、債務も含め資産管理会社となる志摩スペイン村土地建物(株)と近鉄に移譲し、ホテル関連資産および経営事業についても、2006年10月1日に(株)近鉄志摩ホテルリゾート(同年11月に解散)から近鉄レジャーサービス(株)に譲渡された。これにより志摩スペイン村関連事業の経営は全て[[近鉄グループ]]のレジャー事業の中核企業である近鉄レジャーサービス(株)が受持つこととなり、同社が志摩エリアで経営する賢島宝生苑や志摩マリンランド等との効率的な運営を図れる体制が整った。近鉄レジャーサービス(株)は志摩スペイン村の中に実質的な本社を構えている(登記上本店は[[大阪上本町駅]]内)。なお志摩スペイン村の運営は新たに設立された運営会社(株)志摩スペイン村が近鉄レジャーサービス(株)から全面委託され従業員も全員転籍している<ref group="広報" name="saihen">{{Cite press release|和書|title=志摩スペイン村関連事業の再編に関するお知らせ|format=PDF|publisher=近畿日本鉄道(株)|date=2006-07-25|url=http://www.kintetsu.jp/kouhou/syokenkaiji/files/060725supeinmurasaihen.pdf|accessdate=2007-04-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131020174524/http://www.kintetsu.jp/kouhou/syokenkaiji/files/060725supeinmurasaihen.pdf|archivedate=2013-10-20}}</ref>。 なお、志摩スペイン村土地建物株式会社は2009年10月29日付けで解散となった<ref group="広報">{{Cite press release|和書|title=子会社の解散および清算に関するお知らせ|format=PDF|publisher=近畿日本鉄道(株)|date=2009-09-25|url=http://www.kintetsu.jp/kouhou/syokenkaiji/files/20070925spain.pdf|accessdate=2006-10-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071030003316/http://www.kintetsu.jp/kouhou/syokenkaiji/files/20070925spain.pdf|archivedate=2007-10-30}}</ref>。 === 現状 === * かつては[[三重交通]]にて[[大宮・東京 - 鳥羽・南紀線|東京 - 志摩スペイン村線]]の高速バスが2002年12月まで存在した<ref>{{Cite web|和書|url=http://iseshima-kotsu.sanco.co.jp/company/index.html|title=会社情報-会社沿革|publisher=三交伊勢志摩交通株式会社|accessdate=2022-05-25}}</ref>。 * 開園初年度の1994年度2月期は単年度[[黒字]]だったが翌年からは8年連続の[[黒字と赤字|赤字]]に陥っていた。しかし、2001年度に近鉄が2006年度3月期から導入される[[減損会計|減損処理会計]]導入を見据え、志摩スペイン村より[[アトラクション (遊園地)|アトラクション]]施設等の一部を167億円で買い取る支援策を実施。これにより[[資産]]評価および償却負担の減少、借入金の[[金利]]も軽減したのに加え[[人件費]](早期退職制度導入等)や外注費、広告宣伝費を削減し[[コスト]]も抑えた。また、新規施設として天然温泉「ひまわりの湯」を建設にあわせテーマパークのコンセプトテーマを「スペイン」から[[南アメリカ|南米]]等を含む「[[スペイン語]]文化圏」までに要素を拡大し物販アイテムの拡充を図るなどした結果、2004年度2月期は単年度黒字となったが、[[帝国データバンク]]の[[企業]]データによれば売上高は1994年度に約293億円あったものが2005年度には約48億円まで落ち込んでいる(近鉄に買い取られた施設については、現在は賃借で使用している)。 * 開業10周年の2004年度には、ゲストに不評であった「スペイン語文化圏」からコンセプトテーマを原点の「スペイン」に戻し、[[闘牛]]と[[フラメンコ]]をテーマにアトラクションも新設されスペインを感じさせる[[イベント]]も多く開催された。 * 2005年度は、2004年に実施された10周年イベントの反動と9月まで開催された[[2005年日本国際博覧会|愛知万博]]の影響で上期の入園者が減少しており、[[UFJ総合研究所]](現[[三菱UFJリサーチ&コンサルティング]])がまとめた「2005年・[[東海]]3県主要集客施設・夏休み集客実態調査」によれば、夏休み期間の入園者については前年の52万7千人から43万5千人のマイナス17.5%と報告されており、最終的に発表されて2005年度の入園者数は156万6千人で対前年度マイナス13.5%と大幅な減少となった。 * 2006年度の入園者目標数は170万人と発表されており、「今しかない家族の時間」をキャッチコピーに、[[小学館]]とのタイアップにより「[[ドラえもん]]」関連イベント等が春から開催されており、三菱UFJリサーチ&コンサルティングによる「2006年・東海3県主要集客施設・GW集客実態調査結果」によれば、[[ゴールデンウィーク|GW]]期間(4/29 - 5/7:9日間)の入園者数は13万4千人と、2005年度GW期間(4/29 - 5/8:10日間/12万2千人)より期間が1日短かったにもかかわらず9.8%増と好調であった。また夏休み期間(7/21 - 8/31:42日間)についても三菱UFJリサーチ&コンサルティングの「2006年・東海3県主要集客施設・夏休み集客実態調査結果」によれば44万5千人と11%増と好調を維持していたが、季刊エンターテインメントビジネスによる月別入園者数の発表では9月以降の入園者数は対前年度割れとなっており、日経新聞等の報道によれば最終的には約158万人と辛うじて前年を上回る数字で終わった。 * 2007年度は年間テーマを「マジック(魔法)」とし、体験イベントを通して「驚き」「感動」「楽しさ」を届けたいとしており、3年ぶりに約1億4千万円を投資し新アトラクション「不思議の国のアリス」や新エンターテインメントも導入され、年間入園者目標数は前年増7%の170万人と発表されている。また、2007年3月1日より志摩スペイン村への路線バスの発着駅が近鉄鵜方駅に変更されたことで志摩市内の観光施設へのアクセスの利便性が高まったことと、志摩スペイン村の経営が2006年10月に近鉄レジャーサービス(株)に譲渡されたことにより、「志摩マリンランド」や「賢島エスパーニャクルーズ」等の同社経営の観光施設との積極的なタイアップが可能となったことから、これらの施設とパルケエスパーニャが利用できる[[周遊パスポート あそばんせ|周遊パスポート「あそばんせ」]]も発売された。 * 「ピエロ・ザ・サーカス」を2008年3月1日にオープンさせると発表。空中ブランコのようなゴンドラに乗って光線銃を撃つ「空中サーカス・アドベンチャー」・消防車のはしごを上下するゴンドラに乗って、炎の標的に銃で水を当てる「ファイヤー・シュート」・3つのアトラクションとゲーム館・そして無料で観覧できる大道芸人らのショーを行うステージや遊具室も併設。投資額は8億円。同時に新キャラクターも登場予定である。 * [[2011年]]の大晦日からはカウントダウンイベントが中止された、今後もカウントダウンイベントは行わないとしている<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=http://www.parque-net.com/news/11092977/11092977.html|title=年末年始の営業について|publisher=志摩スペイン村|date= |accessdate=2012-01-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111211051137/http://www.parque-net.com/news/11092977/11092977.html|archivedate=2011-12-11}}</ref>。 == 入園者数データ == === 入園者数 === 集計期間:2009年度までは3月から翌年2月末までの事業年度ベースで集計されていたが、2010年度からは2月の休園日あけから翌年の休園日前日までの事業年度ベースでの集計に変更されている。 {| class="wikitable" style="white-space: nowrap; font-size: smaller; text-align:left;" ! 年度 ! 入園者数 ! 対前年度 ! 新規大型投資/イベント |- | 1994 | 3,755,500人(※1) | &nbsp; | &nbsp; |- | 1995 | 3,014,500人 | {{Color|red|△19.7%}} | &nbsp; |- | 1996 | 2,457,000人 | {{Color|red|△18.5%}} | クエントスの森/ガリシア州フェア |- | 1997 | 2,473,000人 | 0.7% | ピレネー、ドンキホーテ冒険の旅、エンバシーホール |- | 1998 | 2,031,500人 | {{Color|red|△17.9%}} | キャラクター展/マドリード州フェア |- | 1999 | 2,313,000人 | 13.9% | エスパーニャカーニバル、ロストレジェンド、サンタクルス通り延伸 |- | 2000 | 1,907,000人 | {{Color|red|△17.6%}} | ドンキホーテバルーン/アンダルシア州フェア |- | 2001 | 1,580,000人 | {{Color|red|△17.1%}} | ひまわりの湯 |- | 2002 | 1,861,000人(※2) | 17.8% | 太陽の洞窟、ドンキホーテのからくり時計 |- | 2003 | 1,838,000人 | {{Color|red|△1.2%}} | ウォーターシンフォニー、チョッキーの不思議な館、花とワインのギャラリー、ドラゴン城の宝さがし |- | 2004 | 1,804,000人 | {{Color|red|△1.8%}} | マタドール、光の宮殿を新設、氷の城/開園10周年 |- | 2005 | 1,562,000人 | {{Color|red|△13.4%}} | &nbsp; |- | 2006 | 1,589,000人 | 1.7% | &nbsp; |- | 2007 | 1,579,000人 | {{Color|red|△0.6%}} |不思議の国のアリス |- | 2008 | 1,630,000人 | 3.2% |ピエロ・ザ・サーカス |- | 2009 | 1,562,000人 | {{Color|red|△13.4%}} |ダルのファンタジーワールド360 |- | 2010 | 1,462,000人 | {{Color|red|△7.2%}} |イルミネーションライド“くるみわり人形” |- | 2011 | 1,437,000人 | {{Color|red|△1.7%}} |- | 2012 | 1,330,000人 | {{Color|red|△7.2%}} |冒険大迷路-謎の黄金遺跡- |- | 2013 | 1,410,000人 | 1.6% |フェリスクルーズ、チャプチャプラグーン、アルカサルの戦いをリニューアル |- | 2014 | 1,339,000人 | {{Color|red|△5.6%}} | |- | 2015 | | |ランキング圏外 |- | 2016 | 1,227,000人 | {{Color|red|△4.3%}} | |- | 2017 | 1,197,000人 | {{Color|red|△2.4%}} |屋内型ジェットコースター「アイアンブル」を新設 |- | 2018 | 1,229,000人 | 2.7% | |- | 2019 | 1,118,000人 | {{Color|red|△9.0%}} |開業25周年 |- | 2020 | 745,000人 | {{Color|red|△33.4%}} |新型コロナウイルス感染症拡大のため一時休園 |- | 2021 | 864,000人 | 16.0% | |- |} 入園者数データは、(株)志摩スペイン村広報資料および季刊エンターテインメントビジネス(旧AMビジネス)、全国レジャー・集客施設運営実績&動向調査を参照。 : ※1 - 開業1年間(1994年4月22日 - 1995年4月21日)では4,265,500人 : ※2 - 2002年度より、複合リゾート志摩スペイン村(テーマパーク、ホテル、温泉)として3施設合計の入込み客数発表となっている。 === 最多入園者数各種データ === * 1日最多来園者数:53,500人(1994年5月3日) * 月間最多来園者数:657,000人(1994年8月) * 最多ゴールデンウィーク期間入園者数:260,000人(1994年4月29日から5月5日) * 最多夏休み期間入園者数:835,500人(1994年7月21日から8月31日) * 最多正月期間入園者数:67,500人(1995年1月1日から1月3日)※カウントダウンイベント入園者数含む。 == テーマパーク「パルケエスパーニャ」 == [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - Avenida de España.jpg|thumb|220px|エスパーニャ通り]] スペイン語で「パルケ」は公園、「エスパーニャ」はスペインの意味で、直訳すればスペイン公園。パーク内は4つのエリアで構成され、スペイン各地の建物をモチーフとした街並みやアトラクションが配置されており、スペイン人エンターテイナーによるショーやパレードもある。 * 遊戯施設:24(アトラクション:21施設、展示施設:3施設)※1994年開園時/アトラクション:15施設、展示施設:1施設 * エンターテイメント施設:3(うち1施設は夏休みのみ営業) * [[レストラン]]・[[ファーストフード]]:24(レストラン・FF:16店舗、フードスタンド:8店舗) * ショップ:20 * [[駐車場]]:約6,400台(臨時駐車場2,600台含む) ; シウダード:都市のスペイン : エントランス周辺の一帯にあり、[[バルセロナ]]のランブラス通りや、マドリードのマヨール広場をそれぞれエスパーニャ通りやマヨール広場として、都市の広場を再現している。[[ギリシャ神話]]の[[女神]]シベレスの噴水のあるシベレス広場からパレードはスタートする。 ; ティエラ:大地のスペイン : テーマパークの中央部にあり、ハビエル城博物館では[[ナバーラ州]]にある[[フランシスコ・ザビエル]]の生まれ育った城の概観を再現。旧石器文明の「[[アルタミラ洞窟|アルタミラ洞窟の壁画]]」の実物大レプリカをメインにスペインの文化・歴史・風俗を展示している。 ; マール:海のスペイン : スペインの海洋リゾート地コスタ・デ・ソルの中心で[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]が生まれた[[マラガ]]をイメージして再現されたコロンブス広場には、第1回目の航海から帰ってきた[[クリストファー・コロンブス|コロンブス]]が、イザベル女王のもとへ新大陸発見の報告にやってきたことを記念として建てられた塔をモチーフにしたコロンブス像がある。 ; フィエスタ:祝祭のスペイン : アトラクションが集中するアミューズメントエリアで、[[バルセロナ]]にある[[アントニ・ガウディ|ガウディ]]が作ったグエル広場がモチーフである。 === アトラクション === ==== 稼動中のアトラクション ==== [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - La montaña rusa "Los Pirineos".jpg|thumb|220px|ピレネー]] [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - Montaña Rusa de Toreo "Matador".jpg|thumb|220px|スチームコースターアイアンブル]] [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - Viaje Aventurero de Don Quijote.jpg|thumb|220px|ドンキーホーテ冒険の旅]] [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - Teatro "Puerta del Cambrón".jpg|thumb|220px|カンブロン劇場]] [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - El Circo Pierrot.jpg|thumb|220px|ピエロ・ザ・サーカス]] ; ピレネー{{see also|en:Pyrenees (roller coaster)}} : 設備投資額約31億円、コース全長1,234m、最高地点45m、最高速度100km/h、最高重力加速度4.3G、ライド定員32名(4席×8両×3編成)、乗車時間3分15秒、製造メーカーBolliger & Mabillard社(スイス)。インバーテッド(吊り下げ型)コースターで開業当時は同型のコースターとしては、世界最長、最速、最高だったが現在はコース全長のみ世界一(国内では現在もフルスペックNO1)。製造メーカーであるBolliger & Mabillard社の特徴で、1両の全長が短い車両なので高速での回転が可能で、定員も多いため回転率も高い。[[フランス]]との[[国境]]にある[[ピレネー山脈]]をイメージしている(ピレネー山脈はスペイン語で忠実に発音するとピリネオス/Pirineosだが日本人に一般的なフランス語の発音のピレネー/Pyrénéesが採用された)。 ; グランモンセラー : コース全長815m、最高地点20m、最高速度85km/h、最高重力加速度3.8G、ライド定員16名(2席×8両×3編成)、乗車時間2分20秒、製造メーカーMack社(ドイツ)。「モンセラー」とはスペイン語でのこぎりの歯という意味で、バルセロナ郊外にある岩山のモンセラー山脈をイメージしている。コースレイアウトが特徴的で、アップダウンやドロップーオフ等の高低差を利用した構成は少ないが水平ループが非常に多い旋回系が売りのコースター。ライドを発進させるためのゴム製のタイヤが雨が降るとスリップしやすいためショーダウンしやすい。 ; スチームコースターアイアンブル : 闘牛コースターマタドールの内部およびコースターを改修して2017年2月に新設された闘牛をモチーフとした屋内型コースター。外観[[ファサード]]はカスティーリャ高原のアランフェス離宮をモチーフにしている。 ; スプラッシュモンセラー : コース全長446m、最高地点12.5m、最高速度47km/h、最高重力加速度1.96G、ライド定員5名、乗車時間3分20秒。急流下りタイプのウォーターライド。 ; フィエスタトレイン : チャーミングな踏切を通りながらフィエスタ広場を一周する汽車。 ;ダルのファンタジーワールド360 :360度[[3次元映像|3D]]映像を上映する3つの円形劇場から構成されている。 ; アミーゴバルーン : 設備投資額約8千万円。回転する風船型ライド。 ; ガウディカルーセル : 設備投資額約2億円。ガウディ風のデザインのメリーゴーラウンド。 ; アルカサルの戦い : ライド(4人乗り×20台)に乗り4つのシーンからなる舞台上の敵をレーザー銃で攻撃して得点を競うシューティング型アトラクション。「アルカサル」は[[トレド]]にある要塞の名称。 ; スウィングサンタマリア : 設備投資額約1億7千円。バイキング。「サンタマリア」はコロンブスが[[アメリカ合衆国|アメリカ]]発見の航海で使用した船名。 ; イルミネーションライド・くるみ割り人形 :童話の「[[くるみ割り人形]]」をテーマとし、イルミネーションの中をライドに乗って体験する。 ; [[ドン・キホーテ|ドンキホーテ]]冒険の旅 : 設備投資額約26億円。空飛ぶ帆船型ライド。外観ファサードの風車はスペイン東部の地中海に浮かぶマヨルカ島の風車をイメージしている。 ; 氷の城 : 2002年に期間限定のアトラクションとしてオープンしたが、2004年に場所を元の花とワインのギャラリーに移し常設された。室温は-30℃で、氷の家具や氷の中の花などがある。 ; カンブロン劇場 : 設備投資額約7億円。外観ファサードは、1576年[[西ゴート族]]によって[[トレド]]作られたカンブロン(枸杞/くこ)の門をモチーフに再現。館内は大画面シアター(大型映像システム・アイマックスを使用した上映は2004年2月で終了)。「”ビバ・ブランカ・パロマ」はアイマックスでは初の本格的ドキュメンタリー作品だった。有料アトラクションだったが1999年3月に無料化された。現在上映されている作品は、ビバ・ラ・ブランカ・パロマ(約25分)、プラド美術館への招待(約15分)、スペイン絵画の巨匠たち(約15分)、ドンキホーテの夢みる騎士(約15分)、空とぶドンキホーテ(約20分) ; チョッキーの不思議な館 : アクセサリーショップ「アルコイリス」を改装して2003年3月に新設されたミステリーハウス。 ; [[ドラゴン]]城の宝探し : 2003年にキャラクター館を改修して期間限定宝のアトラクションとしてオープンしたが、好評のため常設されたウオークスルー型アトラクション。 ; クエントスの森 : 設備投資額約2億4千円。「オオカミと3匹の子ヤギ」、「キツネがつくった王様のおふれ」、「働き者のガチョウと怠け者のキツネ」、「月をチーズだと思ったオオカミ」の4つの童話を聞きながら散策できる全長305mの散歩道。 2023年8月現在休止中。 ; 不思議の国のアリス : カーニバルハウスの内部を改修して2007年3月に新設されたウオークスルー型アトラクション。入り口で渡される「魔法の杖」で、炎や光をあやつり迫り来るゴーストを退治でき、魔法使いになったような体験ができる。 ; キャラクターランド「ダルシネアの"パーティー・パーティー・パーティー"」 : 多目的イベントホールであるエンバーシーホールに近年常設されているプレイランド型アトラクション。 ; ピエロ・ザ・サーカス : 全天候型アミューズメントゾーン。幻想的で楽しいサーカスをイメージした屋内に、3つのライドアトラクションやゲームアトラクションがある。ショーステージや自由に遊べる広場も設置。 ; フェリスクルーズ : アドベンチャーラグーンの一部を改修して2013年3月に新設されたアトラクション。ボートに乗ってのんびりと巡り、スペインの風景をかたどったミニチュアや噴水、「幸せのイルカ」探しなどが楽しめる。 ; キディーモンセラー :2016年2月に登場したジェットコースター。身長制限が90cm以上でコースも短いため、子供から大人まで気軽に楽しめる。スペイン・バルセロナのアートがモチーフ。コース全長216メートル、最高地点8.5メートル、最高走行速度約35キロ。 ; 3Dトリックツアー :キッチンがテーマの「コシーナ(サンタクルス通り)」、航海がテーマの「コロン(コロンブス広場)」、闘牛がテーマの「トロス(マヨール広場)」の3館を巡り、スペインを舞台にした3Dアートや不思議なトリックが体験できるウォークスルー型のアトラクション。 ; トマティーナ :2014年の20thアニバーサリーよりオープンした、パルケエスパーニャで最も新しいアトラクション。トマトをかたどった[[コーヒーカップ (遊具)|コーヒーカップ]]タイプのライドで、遊具が8の字を描くように回転する。[[バレンシア州]]のトマト祭り([[トマティーナ]])をイメージして作られている。 ==== 終了したアトラクション ==== ;闘牛コースター『マタドール』 :幻のイベリア超特急からのリニューアル後、さらに2017年2月には『スチームコースターアイアンブル』にリニューアルされた。内容は大きくは変わっていない。 ; 幻のイベリア超特急 : 設備投資額約15億円、コース全長400m、最高地点13m、最高速度52km/h、最高重力加速度2.7G、ライド定員24名(2席×12両×2編成)、乗車時間2分43秒、製造メーカー泉陽興業(株)並びに三精輸送機(株)。のちに闘牛コースター「マタドール」へ改修され(幻のイベリア超特急からマタドールへの改装企画は(株)ドリームスタジオ)、2017年には更にリニューアルを経て「スチームコースターアイアンブル」となった。 ; ドンキーズシェリー : 設備投資額約18億円。外観は[[シェリー (ワイン)|シェリー]]の産地ヘレス・デ・ラ・フロンテラに数多く集まるボデーガと呼ばれる酒造工場をイメージしていた。シェリーという名称は、地名のヘレス(jeres)が英語訛りになって「シェリー」になったものに由来している。その後、光の宮殿へ改修された。 ; 光の宮殿 : ドンキーズシェリーの内部を改修して2004年3月に新設されたアトラクション。フラメンコと花をテーマに、約10万個のカラフルな[[イルミネーション]]で彩られた光のトンネルや赤いバラのアーチ、フラメンコシーンなどを走行した。その後、イルミネーションライド・くるみ割り人形に改修された。 ; カジノハウス : 現在はキャラクターカフェ「チィコ チィコ」へ改修されている。 ; カーニバルハウス : 現在は不思議の国のアリスへ改修されている。 ; フライングドンキホーテ : 高さ45mまで上昇する展望型アトラクション。2008年1月14日をもって終了。撤去された。 ; ミュージカルサーカス : 設備投資額約18億円、コース全長48m、ライド定員60名(60席×3台)、乗車時間12分(乗降時間含む)。ミュージカル仕立てのアトラクションで、3D映像も取り入れられている4つの不思議の森をイメージした円形ステージを日本初の60人乗りの移動式客席で移動した。音楽はロックグループ・[[ゴダイゴ]]の[[タケカワユキヒデ]]、演出はゴダイゴの主な曲の作詞を手掛けた[[奈良橋陽子]]が担当した。その後、ダルのファンタジーワールド360へ改修された。 ; アドベンチャーラグーン : 設備投資額約36億円(躯体建設費除く)。インドアとアウトドアの双方向に渡る日本初のウォーターライド。パルケエスパーニャでは一番設備投資額が高額なアトラクション。かつて世界の海を制覇した海洋国家スペインの大航海時代の海洋冒険がテーマ。2012年1月29日をもって終了。船など一部はフェリスクルーズに転用されたが、インドア施設は2017年現在も閉鎖されたまま残っている。なお、屋上部に設けられた「ローマの遺跡」(立ち入り不可)は園路から見ることができる。 === 展示施設 === ==== 稼動中の展示施設 ==== [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - Museo "Castillo de Xavier".jpg|thumb|220px|ハビエル城博物館]] ; ハビエル城[[博物館]] : 設備投資額約11億。[[フランシスコ・ザビエル]](ハビエルはザビエルのスペイン語読み)の生家ハビエル城を再現し内部をミュージアムとしている。スペインの歴史をはじめ、独特の文化や生活を知ることができる。また、「[[アルタミラ洞窟]]の壁画」の実物大レプリカが展示されているが、これはハビエル城博物館以外ではアルタミラ博物館(スペイン現地)、国立考古学博物館(スペイン・マドリード市)にしかない大変貴重なものである。 ; エンバーシーホール : 設備投資額約7億。外観はスペイン北部に見られる建物がモチーフとされ、内部はイベントホールとして多目的に利用できるスペースになっている。<!--2012年度限定の迷路のアトラクション「冒険大迷路〜謎の黄金遺跡」として利用されている。--> ; 花とワインのギャラリー : ドンキーズシェリーショップ「ビバ・ドンキー」を改装して作られた[[ワイン]]の産地や醸造工程などの基礎知識を紹介するギャラリーだったが、2004年に行なわれた氷の城の常設工事に伴い展示場所をサンタクルス通りの元スペイン工芸館「アルテ」に移設された。 ==== 終了した展示施設 ==== ; キャラクター館 : ドラゴン城の宝探しへ改修。同名の施設は移転・縮小のうえで園内に存続している。 === エンターテイメント施設 === [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - El Coliseo.jpg|thumb|220px|コロシアム]] ; [[コロシアム]] : [[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]郊外のカルデロナ山脈のすそ野サグントに残る古代ローマの円形劇場イメージ。キャラクターショーやスペイン人エンターテイナーによるショー等を上演。 ; カルメンホール : [[カタルーニャ州|カタルーニャ]]地方タラゴナのバルモル村にある[[教会 (キリスト教)|教会]]をモチーフとしたホールで、フラメンコを上演している。「カルメン」は有名な[[オペラ]]の題名およびその主人公の名。ホールロビーには、1992年にスペインで開催された[[セビリア万博]]の日本館に展示されていた「日西同時代史当陶板画」が移設され展示されている。 ; ロストレジェンド広場 : 炎・洪水・爆発など映画のワンシーンに迷い込んだような臨場感が体験できるスペクタクルショー「ロストレジェンド〜失われた大陸の伝説〜」を上演していたが、廃止後は立ち入り禁止となっており入り口の像のみが残る。2016年にリニューアルされ、「ロストレジェンド~シルコ・デ・ティエラ~」として上演されたが、2018年に上演を終了した。 === エンターテイメント === ==== 上演中のエンターテイメント ==== ; パルケエスパーニャパレード「エスパーニャカーニバル」 [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - El carnaval.jpg|thumb|220px|エスパーニャカーニバル]] [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - 2014 Paso3.jpg|thumb|220px|20thアニバサリの「アデランテ」の山車]] : スペインの祭りや文化をモチーフにした8つのフロート([[山車]])を飾るファージャ人形は、バレンシアの火祭りで使用される物と同じでスペインで製作された。また、フロートには仕掛けもあり、見るだけではなく、ゲストも参加できる演出があり、有料でフロートに乗車してパレードに参加することも出来る。※2002年に、オープニング、ルーティーン(行進)、プロダクションナンバーの音楽、およびフロートの並び順等の演出の変更が行われた。また、2006年3月よりアルタミラフロートが廃止され、フロート数が9台から8台に変更された。2006年7月(夏季営業)より、ナイトパレード用に各フロートのイルミネーションがLED(発光ダイオード)照明や光ファイバー等により八万個に増強された。2007年3月より一部フロートのカラーリングが変更された。 :2014年リニューアル ; キャラクターショー「パティオ・デル・カント」 :{{節スタブ}} ; スパニッシュミュージカル「バイレデルカピタン」 :{{節スタブ}} ;フラメンコショー :{{節スタブ}} ; 「歌って!踊ろう!からくりダンス」 : ※季節限定 : シベレス広場でからくり時計の音楽にあわせてキャラクター達がダンスを踊る冬季限定で実施されるショー。 ==== 上演終了したエンターテイメント ==== * パルケエスパーニャ・パレード「ストリートパーティー」 - 1994年初演。1995年の夏季のみ、ナイトパレードの変形バージョンとしてスペイン風提灯でフロートを彩った「フェリア・ア・デ・ラ・ノチェ」が上演された。 * ミュージカルレビュー「ラダンサ」 - 1994年初演。 * パフォーマンスショー「パルケーニャ・フィエスタ」 - 1994年初演。 * スパニッシュミュージカル「ビバ!エスパーニャ」 - 1999年初演。 * ミュージカルバラエティー「シルコ・デ・ラ・バンバ」 - 2002年初演。 * スパニッシュ・バラエティ「ビバ!パエリア」(2004年初演) *スパニッシュミュージカル「マルクの恋人」 * ミュージカルショー「フィエスタ・デ・インビエルノ」 - 1994年初演。 * ミュージカルショー「ファンタシア・デ・ラプリマベラ」 - 1995年初演。 * ミュージカルショー「ミステリアス・エポカス」 - 1996年初演。 * セレブレーション「ドンキホーテのフェリアマヒカ」 - 1994年初演。 * キャラクターショー「アモールカンパーナ」 - 1994年初演。 * キャラクターショー「ドンキホーテのダンキー!ファンキー!ドンキー!」 - 1996年初演。 * キャラクターショー「ドンキホーテのゴーゴー!アドベンチャー」 - 1999年初演。 * キャラクターショー「ドンキホーテのバンドdeゴー!」 - 2002年初演。 *キャラクター・ファンタジーショー「アレハンドロの真実の勇気」 *キャラクター・ファンタジーショー「チョッキーとドリームステッキ」 *キャラクター・ファンタジーショー「ドン・キホーテとみんなの大時計」 * キャラクターショー「ドン・キホーテのアーベーセーデーエスパーニャ」 * キャラクターショー・ダルシネアの「みんなで愉快にあ・そ・ぼ・う・ニャン!」 - 2003年初演。 * ウインターステージショー「ドンキホーテのワンダフルドリーム」 - 2006年12月23日から2007年1月3日の期間限定で実施。 * タブラオショー「フラメンコファンタジー」 - 1994年初演。 * タブラオショー「コラソンフラメンコ」 - 2000年初演。 * スパニッシュレビュー「ブライト・エンジェル」 - 2002年初演。 * フラメンコレビュー「ブライト・エンジェル」 - 2003年初演。 * フラメンコレビュー「ブライト・エンジェル2004」 - 2004年初演。 * パイレーツショー「スペインの大海賊」 - 1994年初演。 * グランテアトロ - 1994年初演。 * シルコマヒコ - 1994年初演。 * トゥナ - 1995年初演。 * ソレア・エン・フロール - 1995年初演。 * ルンバ・カランバ * エスパーニャコンボ * 1994年から2001年までは、パレードやショーなどで活躍したマーチングバンドが編成されていた。 * 1994年から2002年までは、レギュラーエンターテイメントショーの出演者として[[OSK日本歌劇団]]から団員が派遣されており、2002年には特別公演ラテン・レビューとして団員だけによる「トロピカル・フェアリー」(7月20日 - 8月31日)もカルメンホール公演された。また、2003年夏季限定のロストレジェンドでは、主役のガーサムとエイゲルを元団員が演じた。 ==== 上演終了と再開が繰り返されたエンターテイメント ==== * スペクタクルショー「ロストレジェンド〜失われた大陸の伝説〜」 - 1999年初演。ユニバーサルスタジオが設計を担当した。日本初の本格的な特殊効果“爆発”“炎上”“大洪水”を最大のポイントとしたスペクタクルショーとして上演が開始され、2002年にはスタントアクション、2004年からはワイヤーアクションも導入されるなど、年を追うごとに改良がなされてきた。2003年より通年上演から夏季限定上演の有料のショーへ変更。BGMはミュージシャンの[[平沢進]]が制作し、サウンドトラックも発売された。 **2011年の[[東日本大震災]]の発生を受け自粛となり、そのまま上演終了となった。その後、公式サイトに掲載されている園内マップからも、ロストレジェンド広場の部分は削除された。 **2016年に6年ぶりに「ロストレジェンド~シルコ・デ・ティエラ~」として再開される旨が公式ブログで発表され<ref group="広報">[https://www.parque-net.com/blog/?p=2765 この夏登場!「ロストレジェンド」、「エスティバル フェスティバル」の予告動画を公開!]</ref>、それに伴い園内マップも修正された。 **2018年の夏をもって最後の公演とアナウンスされ、再び上演終了となった<ref group="広報">[https://www.parque-net.com/blog/?p=4637 「ロストレジェンド~シルコ・デ・ティエラ~」は8月31日まで!]</ref>。 === カウントダウンイベント === ; カウントダウン・フィエスタ'95〜2002 : カウントダウンショーは初年度はメイン会場がコロシアムに設けられた特設ステージで実施され、[[テレビ東京]]の年越し番組内で生中継も行われた。翌年からはメイン会場をシベレス広場に移し闘牛コースター・マタドール(旧幻のイベリア超特急)前に特設ステージが設けられて実施されていた。カウントダウンショーは基本的にはその年に公演したエンターテイメントショーをオムニバス形式で再構成した物にカウントダウンを盛り込んだもので、新年を迎える際に鐘の音と共に花火が打ちあがる演出となっていた。またこの際、午前零時の鐘の音に合わせ「12粒のブドウを食べて健康を祈る」スペインの新年を迎える風習をまねて、入園時に渡される12粒のチョコレートをゲストは食べる演出となっていた。その他、特別ゲストが参加する年もあり「カウントダウン・フィエスタ'96」には[[オルケスタ・デ・ラ・ルス]]、「カウントダウン・フィエスタ2000」にはディアマンテスが参加した。 ; カウントダウン・フィエスタ2003〜2006 : 冬季期間の一部を除くエンターテイメントショーの休演に伴い、カウントダウンショーでエンターテイメントショーをオムニバス形式で上演することが不可能となったため、この年から外部からタレントを招聘したカウントダウンショーに変更され、「カウントダウン・フィエスタ2003〜[[baseよしもと]]が占領するでぇ〜」で初めて志摩スペイン村と[[吉本興業]]とのコラボレーション企画が始まった。翌年は[[ホリプロダクション]]とのコラボレーション企画で、「カウントダウン・フィエスタ2004〜[[ホリプロ]]祭りだ!全員集合」が行われたが女性アイドルが全面の企画のため、通常のパルケエスパーニャの客層とは大きく異なる10代後半から20代前半の男性が主なターゲットとなったため集客面では非常に苦戦した。このため、開園以来実施してきたカウントダウンイベントは2004年度は中止されてしまった。2005年度は再び吉本興業とのコラボレーションで、「カウントダウン・フィエスタ2006爆笑!!よしもと男祭りin志摩スペイン村」が開催され、人気絶頂期だった[[レイザーラモンHG]]を初めbaseよしもとの人気若手お笑い芸人が多数出演したため、カウントダウンイベントとしては最大の集客となった。 ; カウントダウン・フィエスタ2007 : 「カウントダウン・フィエスタ2007in志摩スペイン村〜アディオス(さようなら)'06 オラ(こんにちは)'07」として、この年から冬季限定ショーを実施したため年末でもある程度エンターテイナーを確保できたため、外部からタレントを招聘しない形でのカウントダウンショーとなった。しかし内容は、カウントダウン・パレードとシベレス広場時計台前に組んだミニステージでの簡単なカウントダウンショーだけであった。このため、これまでカウントダウンショーは特別営業日として特別パスポートでの入園だったものを、このカウントダウン営業では通常のパスポートで入園可能とし、オフィシャルホテルの2dayパスポート等も利用可能と割安感をアピールしPRしたが、やはりイベント内容が弱く魅力に欠けたため前年のよしもと男祭りには遠く及ばない集客となってしまった。 === キャラクター === [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - Las estatuas - Dulcinea y Choquyvivito.jpg|thumb|220px|ダルとチョッキー]] スペインの代表的な文芸作品『[[ドン・キホーテ]]』をベースに、動物達をモチーフにした新しい物語を設定。メインキャラクターは、勇気と冒険心にあふれるドンキホーテとそのパートナーであるサンチョパンサ、その他に5人のファミリーキャラクターが設定されている。製作は当初、バルセロナオリンピックのマスコットキャラクター・コビーをデザインしたスペイン人画家のハビエル・マリスカルを予定していたが、スケジュール面で折り合わず、アメリカ・ロサンジェルス在住のデザイナーのトビー・シェルトンに依頼した。トビー・シェルトンは現在はディズニーのOVA製作にも参加しており、オリジナルDVDアニメ『アラジン〜ジャファーの逆襲〜』では、監督として製作の指揮を取っている。 ; ドンキホーテ(ドンキー) : 声 - [[富山敬]]→[[山崎たくみ]](富山が1995年9月に急逝したため)、[[歌]] - 不詳<ref name="名前なし-1">「パティオ デル カント~ダルシネアの秘密の花園~」</ref> : モチーフは[[犬]]。[[10月10日]]生まれ。村のリーダーである騎士。勇敢で優しいリーダーであるが、少しお調子者。ダルに好意を抱いているがなかなか気づいてもらえず、彼女のことになると周りが見えなくなってしまう。一人称は「我輩」または「ワシ」。 ; サンチョパンサ(サンチョ) : 声 - [[桜井敏治]]、歌 - 不詳<ref name="名前なし-1"/> : モチーフは[[ハリネズミ]]&[[熊|小熊]]。[[7月24日]]生まれ。ドンキーの家来で良きパートナー、彼を「だんな」または「ご主人様」と呼んでいる。いつもダルに思いを寄せる彼には散々振り回されている。一人称は「オイラ」または「僕」。 ; ヒロイン・ダルシネア(ダル) : 声 - [[冬馬由美]]、歌 - [[若井久美子]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://kumiko.jp/|title=志摩スペイン村・パルケエスパーニャの新キャラクター・ミュージカル「パティオ・デル・カント〜ダルシネアの秘密の花園〜」にヒロイン・ダルシネア役で歌唱参加しました|accessdate=2021/11/29|publisher=若井久美子}}</ref> : モチーフは[[白猫]]。[[8月22日]]生まれ。 : ガート村の領主の一人娘であるお姫様。大きな瞳が特徴の美人でドンキーは彼女には目がない。天真爛漫でちょっと子供っぽくわがまま。一人称は「私」。 ; チョッキービビート(チョッキー) : 声 - 冬馬由美、歌 - 不詳<ref name="名前なし-1"/> : モチーフは[[ロップイヤー|ロップイヤー兎]]。[[5月2日]]生まれ。一番の最年少。いたずら好きのひょうきん者。トロヴァールと共に村へやってきた。今はドンキーが彼の親代わりであり、トロヴァールのもとで大工見習いとなっている。頭がよくドンキーがピンチの時に救ったこともある。一人称は「僕」。 ; フリオラニャーナ(フリオ) : 声 - [[三ツ矢雄二]]、歌 - 不詳<ref name="名前なし-1"/> : モチーフは[[蛙]]。[[6月6日]]生まれ。吟遊詩人でダルの執事のような存在。彼女のそばにいることが多く、いつも彼女のわがままには苦労している。しかし、楽器の演奏や歌が大の得意。一人称は「僕」。 ; アレハンドロ : 声 - [[置鮎龍太郎]]、歌 - 不詳<ref name="名前なし-1"/> : モチーフは[[狼]]。[[9月12日]]生まれ。ローボ村出身の魔法使い。ダルのことが大好きで、ドンキーとは恋を争うライバルである。メカや薬などの発明をしていつもドンキーたちの妨害をするが、失敗ばかり。しかし、本当は寂しがりやでドンキーたちとただ仲良くしたいだけであり、何かと彼らに協力したり一緒にいたりしている。一人称は「オレ様」だが、ダルなどの女性の前では「私」。 ; トロヴァール : 声 - [[銀河万丈]]、歌 - 不詳<ref name="名前なし-1"/> : モチーフは[[牛]]。[[11月6日]]生まれ。元船乗りの大工。一番体が大きく、のんびり屋で力持ち。普段はおとなしいが、怒ると止まらなくなる。時々、自分の馬鹿力が仇になることもある。一人称は「ワシ」。 ; モックン : ピエロ・ザ・サーカス団長。 なお、1996年から数年の間、親会社・近畿日本鉄道([[近鉄バス]])の[[高速バス]]にもキャラクターが描かれていたが、2000年代に順次塗装変更され使用をやめている。[[三重交通]]は開業時に運行開始した[[大宮・東京 - 鳥羽・南紀線|東京 - 志摩スペイン村線]](現在は鳥羽までに短縮)にキャラクターを描いたバスを運行していた。[[防長交通]]や[[名阪近鉄バス]]の高速バスにも描かれた。 === シンボルマークおよびロゴタイプ === [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - Salón del Carmen.jpg|thumb|220px|カルメン・ホール]] [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - Salón del Carmen - El abanico y los palillos.jpg|thumb|220px|フラメンコを演出するアバニコとパリージョ]] [[シンボル]][[マーク]]は[[フラメンコ]]の踊り子をモチーフとしており、躍動感あふれる力強い線で描かれている。パークを構成する4つのエリアを、それぞれのイメージカラーである「シウダート([[赤]])」「ティエラ([[緑]])」「マール([[青]])」「フィエスタ([[橙色|橙]])」で表現している。 日本語[[ロゴタイプ|ロゴ]]タイプは、様々なスペインのイメージの中から、「太陽」、「海」、「陽気さ」、「人間的」、「躍動感」をイメージし、フリーハンドのシンボルマークに合わせ躍動感ある手書き文字が使用されている。また、スペイン語ロゴタイプは、クラシックで伝統的なスペイン書体が用いられている。 シンボルマークおよびスペイン語ロゴタイプの製作者は、ホセ・マリア・トリアス・フォルク(クォドデザイン・マーケティング社代表。バルセロナ美術工芸学校・芸術学院卒、バルセロナオリンピックのシンボルマークをはじめ、企業の[[コーポレートアイデンティティ|CI]]、VI(企業デザイン)やパッケージデザインなどを手掛ける、スペインを代表するデザイナー)。また、日本語ロゴタイプは、村禎介(株)デザインマック代表取締役社長。金沢工芸美術大学卒、ニューヨーク・プラットインスティテュート大学卒、独自のパッケージデザイン理論を基に、<!--AGI, CI, VI と英語で略さず、日本語表記に出来ないでしょうか-->AGI(国際グラフィック連盟)など数多くのCI、VI、商品開発を手掛けている。 == ホテル志摩スペイン村(都ホテルズ&リゾーツ) == [[画像:La Villa Española de Shima, Parque España - El hotel "Shima-spain-mura".jpg|thumb|220px|ホテル志摩スペイン村]] 白壁・オレンジ色の屋根という、[[アンダルシア州|アンダルシア]]地方をイメージした外観のリゾートホテル。パティオ(中庭)を取り囲み、ロビー・宴会場棟と、3つの客室棟がロの字に建つ。また、[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]、[[セビリャ|セビリア]]、[[グラナダ]]と名づけられた各客室棟にもパティオがあり、客室は全て40m<sup>2</sup>以上で、リゾートホテルにふさわしくゆとりをもった作りとなっている。 開業から1997年3月までは[[志摩観光ホテル]](株)が営業権をもち運営していたが、1997年4月に旧(株)志摩スペイン村に営業権が譲受される。この直営化により、テーマパークとホテル間に直接往来ができる連絡ゲートが開設されるが、2003年に近鉄によるホテル志摩スペイン村の減損処理に伴い、新たに設立された(株)近鉄志摩ホテルリゾートが経営し旧(株)志摩スペイン村が経営受託した。しかし、2006年7月25日に発表された近鉄による志摩スペイン村事業再編により、(株)近鉄志摩ホテルリゾートは2006年10月1日をもって事業を近鉄レジャーサービス(株)に譲渡し11月で解散した。現在のホテル運営は新たに設立された運営会社(株)志摩スペイン村に委託されている。 * 客室:252室(ツインルーム:246室、ツインルーム(テラス付):3室、スイートルーム:3室) * 料飲施設:5ヶ所(カフェ&スペイン料理「ヒラソル」、フランス料理「アルカサル」、日本料理「志摩」、バル「カルメン」、ロビーラウンジ「フエンテ」)※中華料理の「四川」もあったが、2003年に営業を中止した。 * 宴会場:5室(大宴会場「エスパーニャ」(700m<sup>2</sup>/2分割可):1室、中宴会場「アンダルシア」(176m<sup>2</sup>/2分割化)、「カディス」(128m<sup>2</sup>):2室、小宴会場「マラガ」(70m<sup>2</sup>)、「ミハス」(40m<sup>2</sup>):2室) * 付帯施設:ガーデンプール(夏季のみ営業)、インドアプール(20m×8m・4コース)、テニスコート2面(ナイター施設付)、ゲームコーナー、スーベニアショップ、カラオケバー&ルーム * 駐車場:約170台(天然温泉「ひまわりの湯」駐車場兼用) == その他の宿泊施設 == 低料金のB&B形式(Bed and Breakfast)のホテルとして、駐車場そばに「シーズンインアミーゴス」がある。その名のとおり季節営業であり、利用の際は営業カレンダーを確認した方がよい。過去には近鉄志摩磯部駅前に「リゾートイン磯部」があったが、2020年1月に閉館した。両ホテルとも従業員寮として建設された物である。 その他、同じ[[近鉄グループ]]の[[志摩観光ホテル]]・[[賢島宝生苑]]が、2005年よりオフィシャルホテルに指定される。 == 志摩スペイン村天然温泉「ひまわりの湯」 == ボーリングにより地下約1,800mから湧き出す38.6度の温泉で、泉質は[[アルカリ性]]単純温泉。1分間に160リットルの湧出量がある。[[露天風呂]]や[[サウナ]](女湯は塩サウナ)もある(加温・循環ろ過式)。当初は、セルフサービス式のレストランも運営されていたが、現在は閉鎖されている。 2003年からホテル志摩スペイン村と共に、新たに設立された(株)近鉄志摩ホテルリゾートが経営し(株)志摩スペイン村が経営受託していた。2006年7月25日に発表された近鉄による志摩スペイン村事業再編により、(株)近鉄志摩ホテルリゾートは2006年10月1日をもって事業を近鉄レジャーサービス(株)に譲渡し11月で解散した。現在の温泉運営は新たに設立された運営会社(株)志摩スペイン村に委託されている。 * 屋内風呂:男女各約200m<sup>2</sup> * 露天風呂:サウナ(男女各約140m<sup>2</sup>) * 脱衣所:男女各200人分ロッカー設置 * 売店:和式宴会場兼休憩室(120畳) == 株式会社志摩スペイン村 == {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社志摩スペイン村 | 種類 = 株式会社 | 本社郵便番号 = 517-0292 | 本社所在地 = 三重県志摩市磯部町坂崎字下山952-4 | 設立 = 2006年9月1日 | 業種 = サービス業 | 事業内容 = テーマパーク事業およびホテル、温泉事業の運営受託 | 資本金 = 1,000万円 | 主要株主 = 近鉄レジャーサービス(株) 100% }} 再編に伴い、テーマパーク事業、ホテル・温泉事業の運営委託を担う新会社として、近鉄レジャーサービス(株)の完全子会社として設立された。 志摩スペイン村「パルケエスパーニャ」、ホテル志摩スペイン村、伊勢志摩温泉 志摩スペイン村「ひまわりの湯」、シーズンイン アミーゴスの運営受託を行っている。 === 旧運営会社 === {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社志摩スペイン村(初代) | 種類 = 株式会社 | 本社郵便番号 = 517-0292 | 本社所在地 = 三重県志摩市磯部町坂崎字下山952-4 | 設立 = 1991年5月15日 | 業種 = サービス業 | 事業内容 = テーマパークの経営、ホテル・温泉施設の運営受託 | 資本金 = 9000万円(2006年2月) | 主要株主 = 近畿日本鉄道株式会社:86.35% | 法人番号 = - }} 株式会社志摩スペイン村が運営を行っていたが、再編に伴い、2006年10月1日に志摩スペイン村土地建物株式会社へ商号変更を行い、近鉄レジャーサービス株式会社へテーマパーク運営事業を譲渡した。2007年10月29日付で解散した。 ; 売上高 {| class="wikitable" style="white-space: nowrap; font-size: smaller; text-align:right;" ! 年度 ! 売上高 ! 営業利益 ! 経常利益 ! 当期純利益 |- | 2005 | 48億5,678万<!--4千-->円 | style="color:red"|△6,757万<!--9千-->円 | style="color:red"|△3億91万<!--6千-->円 | (※1) 3億4,918万<!--3千-->円 |- | 2004 | 55億1,130万<!--3千-->円 | 3億6,383万<!--3千-->円 | 2億3,824万<!--3千-->円 | 2億3,444万<!--3千-->円 |- | 2003 | 59億8,430万<!--1千-->円 | 5億 823万<!--7千-->円 | 4億 662万円 | 4億 282万円 |- | 2002 | 86億4,500万円 | style="color:red"|△19億1,000万円 | style="color:red"|△22億5,300万円 | style="color:red"|△109億6,100万円 |- |} ※1 - 投資有価証券の売却益で最収益を計上。 ; 決算 : 2月 ; 株主 : [[近畿日本鉄道|近畿日本鉄道株式会社]]:86.35% ほか 近鉄グループ7社:3.65% ※データは、(株)志摩スペイン村広報資料および近畿日本鉄道(株)IR資料、日経テレコン21、帝国データバンクを参照。 == 交通アクセス == [[File:Miekotsu U-LV771R fuzizyuu 7S paruke.jpg|thumb|220px|パルケエスパーニャのキャラクターがペイントされた夜行高速バス(廃車済)]] * [[近鉄志摩線]]・[[鵜方駅]]から直通バス。所要約12分<ref group="広報">{{Cite press release|和書|title=賢島・鵜方から志摩スペイン村へのアクセスが向上|format=PDF|publisher=三重交通、近鉄レジャーサービス、志摩スペイン村|date=2007-02-27|url=http://www.sanco.co.jp/company/news/img/release0702_2.pdf|accessdate=2007-03-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121115235652/http://www.sanco.co.jp/company/news/img/release0702_2.pdf|archivedate=2012-11-15}}</ref>。直通バスはかつて[[志摩磯部駅]]発着で、所要時間は現在より2分長い14分だった。2007年2月限りで志摩磯部駅からの直通バスが廃止、同年3月から鵜方駅からの運行に一本化された{{Refnest|group="注釈"|それ以前からも鵜方駅からのバスは少数ながら運行されていた。}}{{Refnest|group="注釈"|{{要出典範囲|date=2017年5月|距離的には同線[[穴川駅 (三重県)|穴川駅]]が近いが、普通電車のみの停車で、バス路線・タクシー常駐ともないため、徒歩(30分以上かかる)移動となり、元からアクセス駅としては機能していない}}。}}。 * 志摩市内のホテル、旅館などの送迎あり * 鳥羽方面からは、リアス式海岸美が楽しめる[[パールロード]]が魅力のあるアクセス道路。2003年4月から無料の 鳥羽 - [[磯部町的矢|的矢]]間の18.3kmに続き、2006年7月1日から 的矢 - 鵜方間も無料化され全線が無料化された。 * 伊勢方面からは[[三重県道32号伊勢磯部線|伊勢道路]]でのアクセスが容易。 * 2002年12月16日までは、三重交通と[[西武バス]]による共同運行で東京池袋 - 志摩スペイン村間で高速夜行バスが運行されていた。それ以降は三重県側は鳥羽発着に短縮されたが、2020年6月1日以降は横浜を経由しない便について[[磯部バスセンター]]まで延長されている([[大宮・東京 - 鳥羽線・南紀勝浦線|大宮・池袋・新宿・立川 - 鳥羽・磯部]])。 == 広報・広告 == * 2000年代前半までは、一般のゲスト向けにはパルケエスパーニャ情報誌『チャチャラ』が、キャスト(従業員)向けには社内報『コモエスタ』が発行されていたが、現在は両誌とも廃刊されている。 * CM等で使用されているテーマソングは『きっとパルケエスパーニャ』(作詞・作曲 / Don Harper)。近鉄特急([[近鉄50000系電車|しまかぜ]]含む)が鵜方駅に到着する前の[[車内チャイム]]もこの曲である。三重県民の間では広く知られた曲で、志摩スペイン村に行ったことがなくてもこの曲は歌えるという人が多い<ref>金木(2014):17ページ</ref><ref>岡田(2015):81ページ</ref><ref>三重県地位向上委員会 編(2015):69 - 70ページ</ref>。 ** 2019年の25周年記念CMには[[ヤバイTシャツ屋さん]]による「きっとパルケエスパーニャ」のカバーが使用された。<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=GCdsn2afPZA 【志摩スペイン村】25thアニバーサリー夏CM ♪ヤバイTシャツ屋さん]志摩スペイン村 2019年7月17日閲覧</ref> * 1996年秋季から1997年夏季までの1年間、宣伝イメージキャラクターとして女優の[[岩下志麻]]を起用。 ** 平面ビジュアルでは「岩下、志摩へ」、「もうのらへんで」、「ノリノリ」のコピータイトルで3作品が作られた。 ** 志摩スペイン村のCM放送エリアは通常は中部・関西地区だけだが、1997年の夏季期間は関東エリアでも「どないするつもりや」編、「もうのらへんで / お茶室」編、「ノリノリ」編の岩下CM3部作(企画 / [[電通]]、制作 / [[電通テック]])が[[極道の妻たち|極妻]]のパロディーCMとして放映され、視聴者に強烈なインパクトを与えた。なお、「ノリノリ」編はこの年のACC賞地域CM部門のACC賞(スポットCM)を、「どないするつもりや」編、「もうのらへんで / お茶室」編は地域CM部門の奨励賞(シリーズ)を受賞している。また、1999年にはロストレジェンド「学校」編(企画 / 電通、制作 / 電通テック)、「パルケの一日」(企画 / 大広、制作 / 創造)でも地域CM部門の奨励賞を受賞している。 ** 岩下は「岩下、志摩へ」でフラメンコ衣装を着用しているが、1975年に発売したLPアルバム『炎のごとく』の中に『恋のアランフェス』を収録するほど昔からスペインが好きで、このアルバムのジャケット写真のポーズもフラメンコの振りをイメージさせるものとなっている。 * [[三重テレビ放送|三重テレビ]]・[[テレビ大阪]]・[[テレビ愛知]]の3局では、志摩スペイン村の様々なキャラクターが登場する子供向け番組『ゴーゴー!!パルケキッズ』が2000年4月から2002年9月まで放送された。番組放送末期に当たる2002年4月以降の放送では、[[双生児|双子]]のタレントとして有名な[[マナカナ|三倉茉奈・三倉佳奈]]が番組の司会を務めていた。 * [[TBSテレビ|TBS]]のテレビ番組『[[はなまるマーケット]]』では、1999年の視聴者から寄せられた『気になるおめざ』リクエストベスト10の下期ベスト8に、菓子工房「ポルボロン」のスペイン伝統菓子ポルボロンが選ばれている。なお、はなまるカフェのおめざでポルボロンを紹介したのは、女優の[[黒田福美]]である。 * 2000年に公開されたアニメ映画『[[名探偵コナン 瞳の中の暗殺者]]』の舞台となっているトロピカルランドは、パルケエスパーニャへの取材をベースにその他の遊園地も取材し描かれている架空のテーマパークで、美術監督が発案したオリジナルアトラクションもいくつか配置して描かれている。このため、エンドクレジットには取材協力・志摩スペイン村と表記されている。また、劇中には当時取材対応をした(株)志摩スペイン村の広報担当者がゲスト出演している<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=http://www.tms-e.com/on_air/conan/geki04ura_01.html|title=名探偵コナン・劇場第4弾を100倍楽しむ〜今だから話せる裏話|publisher=トムス・エンタテインメント|date= |accessdate=2007-04-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120514024615/http://www.tms-e.com/on_air/conan/geki04ura_01.html|archivedate=2012-05-14}}</ref>。 * 志摩スペイン村初のオフィシャルガイドブック「志摩スペイン村まるごとパルケエスパーニャ」は1995年5月に発売(1999年7月に一度だけ改訂版が発売されている)。 * 1995年12月にパルケエスパーニャ初のオリジナルCD『きっとパルケエスパーニャ』が、1996年7月に『パルケエスパーニャ・ベスト・オブ・エンターテイメント(MAX)』、ドンキホーテの『ダンキ!ファンキー!ドンキー!』が発売された。 * 1996年4月にパルケエスパーニャ初のオリジナル絵本『げんきにごあいさつ』、『みんなでおてつだい』、『じゃぶじゃぶこのきょうりゅう』、『ドンキホーテむらへようこそ!』が発売。 * 2011年2月から映画監督の[[井筒和幸]]がCM出演している。 * 2010年代からは[[ブログ]]や[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]]([[YouTube]]、[[Facebook]]、[[LINE (アプリケーション)|LINE]]、[[Instagram]]、[[Twitter]])を活用している<ref>{{Cite web|和書|title=公式SNS・アプリ|publisher=志摩スペイン村|url=https://www.parque-net.com/sns/|accessdate=2023-04-11}}</ref>。2019年9月に開設されたTwitterアカウントは後述の周央サンゴとのタイアップのきっかけにもなった<ref>{{Cite tweet|author=志摩スペイン村|user=SSV__official|number=1171983493099687936|title=Hola!|accessdate=2023-04-11}}</ref><ref name="sendenkaigi" />。 * [[バーチャルYouTuber]]の[[周央サンゴ]]が志摩スペイン村を訪れた体験を語ったことをきっかけに、2022年5月にTwitterを中心としたインターネット上で話題となった<ref name="sendenkaigi">{{Cite magazine|title=志摩スペイン村を「周央サンゴ一色」にはしなかった理由|magazine=宣伝会議|issue=978|date=2023-03-01|language=ja|url=https://www.advertimes.com/20230302/article413086/|accessdate=2023-04-11}}</ref>。この縁から周央サンゴが志摩スペイン村を訪れる様子を収録した動画がタイアップとして製作され、8月に公開された<ref name="nikkeimj">{{Cite news|title=「並ばない」スペイン村が盛況 Vチューバーとコラボ企画 閑散期に入園者数2.4倍|magazine=日経MJ|publisher=日本経済新聞社|date=2023-04-10|page=7|language=ja|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO69998290X00C23A4H53A00/|accessdate=2023-04-11}}</ref>。さらに2023年2月11日から4月2日にかけて周央サンゴとのコラボイベントを開催<ref name="nikkeimj" />。体験談で話題に挙がったものを中心に、スタンプラリーや周央の副音声付きアニメーションの上映、コラボフードやコラボグッズの販売が行われた<ref name="nikkeimj" />。初日の2月11日には通常の同じ時期の倍以上である約7000人が来園、周央サンゴが話題に挙げた[[チュロス]]の販売本数が通常の25倍の1000本以上となったり、Twitterトレンドに関連ワードがランクインしたほか、2月17日時点で地元局・[[キー局|在京キー局]]合わせてテレビ局8社に取り上げられるなどの反響があり<ref>{{Cite web|和書|title=〝周央サンゴ効果〟さく裂! 「志摩スペイン村」に通常の倍以上7000人来場 |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/253815 |website=東京スポーツ |date=2023-02-12 |access-date=2023-02-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=かつて“待ち時間なし”自虐PR 志摩スペイン村に客殺到…立役者は「ンゴちゃん」? |url=https://news.ntv.co.jp/category/economy/85c56ff8a49545c1855ab08f78c2e725 |website=日テレNEWS |access-date=2023-02-20 |author=中京テレビ |date=2023-02-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=周央サンゴ効果で爆売れモード! 志摩スペイン村「世界一おいしい」チュロス売り上げ25倍 |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/254392 |publisher=東京スポーツ |website=東スポWEB |date=2023-02-18 |access-date=2023-02-23}}</ref>、近年の志摩スペイン村=閑散としているというイメージを覆す盛況ぶりが再び話題となった。 *2022年8月より、[[近鉄5800系電車|近鉄5800系]]一編成(5801F)を使用した志摩スペイン村ラッピング電車が走り始めた。 == その他 == * 1994年度の[[ヒット商品番付]]([[SMBCコンサルティング]](当時は住友ビジネスコンサルティング)/[[三井住友銀行]]グループ)では、東の前頭6番目に、日経トレンディのヒット商品ベスト30では27位に選ばれている。 * 東京・名古屋・大阪に営業所があったが、2002年末で廃止されている。 * 志摩スペイン村を中心会場に[[近鉄グループ]]の[[近鉄百貨店]]や[[都ホテルズ&リゾーツ]]でスペイン・17州を紹介する州フェア・イベントを行なっていたが、2000年に開催されたアンダルシア州フェア・スペインフェア2000『アンダルシア!』(1996年にガリシア州フェア、1998年にはマドリード州フェア開催を済み)を最後に開催されていない。 * スペイン国元首相[[ホセ・マリア・アスナール]]や元副首相のマヌエル・フラガ・イリバルネをはじめ、スペインが生んだ20世紀後半のもっとも偉大なリリコ・テノール歌手とされている[[アルフレード・クラウス]]など多くのスペイン政府の要人や文化人が来日の際には来園していたが、近年は稀である。 *[[アナ・ボテーリャ]](スペイン国元首相[[ホセ・マリア・アスナール]]夫人)がファーストレディ期間だった1997年10月30日に来園記念としてオリーブの樹を植えている。 * 国賓クラスの要人やスポンサー企業が自社の招待者を接待する際などに利用できるVIPルーム(一般のゲストの利用は不可)がマヨール広場の2Fに4部屋用意されている(グレード別にA、B、C、Dと部屋の内装が異なる)。 * 駐日スペイン大使夫人が志摩スペイン村の名誉村長を歴任しており、2006年10月に5代名誉村長にリディア・カルメン・セビリア夫人(ミゲル・アンヘル・カリエド駐日スペイン大使夫人)が就任している。また、名誉村長の権威を表す儀仗(ぎじょう)がホテル志摩スペイン村ロビーに展示されている。 == ギャラリー「ハビエル城博物館の展示物」 == <gallery widths="180" perrow="5"> File:La Villa Española de Shima, Parque España - Museo "Castillo de Xavier" - La cueva de Altamira - Réplica.jpg|アルタミラ洞窟の壁画(複製) File:La Villa Española de Shima, Parque España - Museo "Castillo de Xavier" - Acueductos de Roma - El modelo - Segovia.jpg|ローマの水道橋(模型・縮尺1:55、セゴビア市) File:La Villa Española de Shima, Parque España - Museo "Castillo de Xavier" - Gaita.jpg|ガイタ File:La Villa Española de Shima, Parque España - Museo "Castillo de Xavier" - Cocina en Valencia.jpg|バレンシアの台所 File:La Villa Española de Shima, Parque España - Museo "Castillo de Xavier" - Cerámica Bisbal - Cataluña2.jpg|陶器 ビスバル焼(カタルーニャ地方) File:La Villa Española de Shima, Parque España - Museo "Castillo de Xavier" - La decoración de la Navidad - "Belén".jpg|クリスマス飾り『ベレン』 File:La Villa Española de Shima, Parque España - Museo "Castillo de Xavier" - La estatua de Fernando II de Aragón - Gigantes.jpg|アラゴンの王 フェルナンド2世([[ヒガンテスとカベスドス|ヒガンテス]]) File:La Villa Española de Shima, Parque España - Museo "Castillo de Xavier" - La estatua de un hombre de Cataluña.jpg|カタルーニャの男性(ヒガンテス) File:La Villa Española de Shima, Parque España - Museo "Castillo de Xavier" - La vestimenta tradicional - "Charro" - Salamanca, Castilla y León.jpg|伝統衣装『チャラ』(カスティーリャ・レオン州、サラマンカ) File:La Villa Española de Shima, Parque España - Museo "Castillo de Xavier" - La vestimenta tradicional - "Valenciana" - Valencia.jpg|伝統衣装『バレンシアーナ』(バレンシア州、バレンシア) </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ==== {{Reflist|group="広報"}} == 参考文献 == * 月刊レジャー産業/綜合ユニコム株式会社 * 季刊エンターテインメントビジネス(旧AMビジネス)/綜合ユニコム株式会社 * レジャーランド&レクパーク総覧 /綜合ユニコム株式会社 * 月刊アミューズメント産業/株式会社アミューズメント産業出版 * COSMOSNET2000/株式会社帝国データバンク * 日経テレコン21/株式会社日本経済新聞 * 三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社/東海3県主要集客施設・GW集客実態調査結果/夏休み集客実態調査結果 * 三重県観光レクリエーション入込客数推計書 * 株式会社志摩スペイン村広報資料 * 近畿日本鉄道株式会社広報資料 * 岡田登『意外と知らない三重県の歴史を読み解く! 三重「地理・地名・地図」の謎』じっぴコンパクト新書251、[[実業之日本社]]、2015年3月19日、191p. ISBN 978-4-408-45546-4 * 金木有香『三重あるある』[[ティー・オーエンタテインメント|TOブックス]]、2014年10月31日、159p. ISBN 978-4-86472-300-8 * 三重県地位向上委員会 編『三重のおきて ミエを楽しむための48のおきて』[[アース・スター エンターテイメント]]、2015年1月25日、174p. ISBN 978-4-8030-0657-5 == 関連項目 == * [[伊勢志摩国立公園]] * [[志摩ロードパーティ]] * [[志摩地中海村]] == 外部リンク == {{Commonscat|Shima-spain-mura}} * [http://www.parque-net.com/ 公式ウェブサイト] * [http://www.fmmie.jp/parque/puerta/ FM三重・オラ!エスパーニャHP/志摩スペイン村提供番組(2007年2月で終了)] * [http://www.kinls.co.jp/ 近鉄レジャーサービス(志摩スペイン村経営会社)] * {{OSM|w|183170616}} {{日本のテーマパーク}} {{近鉄グループ}} {{デフォルトソート:しますへいんむら}} [[Category:日本のテーマパーク]] [[Category:三重県の遊園地]] [[Category:三重県の観光地]] [[Category:志摩市の企業]] [[Category:志摩市の建築物]] [[Category:近鉄グループ]] [[Category:都ホテルズ&リゾーツのホテル]] [[Category:日本のホテル運営会社]] [[Category:日本の土地開発計画]] [[Category:1994年開業の施設]] [[Category:1994年竣工の日本の建築物]] [[Category:1991年設立の企業]]
2003-08-10T02:52:43Z
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ワーテルローの戦い
ワーテルローの戦い(ワーテルローのたたかい、仏: Bataille de Waterloo、英: Battle of Waterloo、蘭: Slag bij Waterloo、独: Schlacht bei Waterloo 地名の「ワーテルロー」はフランス語の発音に基づく。明治期の日本の書ではウオトルロー・ウオートルロー)は、1815年6月18日、ベルギー(当時ネーデルラント連合王国領)のワーテルロー近郊においてイギリス・オランダをはじめとする連合軍およびプロイセン軍と、フランス皇帝ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)率いるフランス軍(大陸軍=グランダルメ)との間で行われた一連の戦闘を指す名称である。フランス軍が敗北し、ナポレオンにとって最後の戦いとなった。ラ・ベル=アリアンスの戦い (独: Schlacht bei Belle-Alliance) ともいう。 1815年にエルバ島から帰還し皇帝の座に返り咲いたナポレオンは、第七次対仏大同盟の態勢が整う前にこれを撃破することを企図。フランス国境北東部付近に位置していた初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー麾下の英蘭連合軍とゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル元帥のプロイセン軍を打倒すべく、自ら12万の兵力を率いて出陣した。両勢力は1815年6月16日から3日間に渡り交戦し、ナポレオンは前哨戦となるリニーの戦いでブリュッヘルのプロイセン軍に勝利したものの、6月18日の戦いで大敗し潰走を余儀なくされる。連合軍はこれを追撃してフランスに侵攻し、ルイ18世を復位させた。退位したナポレオンはイギリスに降伏してセントヘレナ島に流され、1821年にこの地で死去した。 ナポレオンの敗因は、一軍を委ねたエマニュエル・ド・グルーシー元帥との連携に失敗したうえ、天候の都合で攻撃開始を遅らせたことが裏目に出て敵勢力の結集を許してしまったことが挙げられる。なお、実際に主戦場となったのは現在のベルギー国内のラ・ベル・アリアンスで、ブリュッセルからおよそ13km南東にあり、ワーテルローの町からは1.6kmほど離れている。この古戦場には「ライオンの丘(英語版)」と呼ばれる巨大な記念碑がそびえ立っている。 1812年6月、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトは64万の大軍を率いてロシア遠征を開始するが、結果は兵力の大部分を失う惨敗に終わった。1813年、ナポレオン率いるフランス軍(大陸軍)はドイツにおいてロシア、プロイセンを中心とする反仏諸国と解放戦争(諸国民戦争)を戦うことになり、連合軍にスウェーデンそしてオーストリアが参加したことでナポレオンはこの戦いでも敗退した。1814年、フランス国内に侵攻する連合軍との戦いで劣勢な兵力のナポレオンは巧みな指揮ぶりを示して善戦するが、パリが開城したことで4月6日にナポレオンは退位を余儀なくされ、地中海のエルバ島に流された。 戦勝した列強国が開催したウィーン会議の取り決めによってフランスではルイ18世が即位してブルボン王朝が復活した。だが、この王政復古は人気がなく、国内では不満が高まった。1815年2月26日、エルバ島から脱出したナポレオンはフランスのジュアン湾(英語版)に上陸し、パリへ進軍した。途中、ミシェル・ネイ元帥を従え、7,000にふくれ上がった軍隊を率いて3月20日パリに入城し再び皇帝となった。 ナポレオンがパリに到着する6日前の3月13日、ウィーン会議の列強国は彼を無法者であると宣告した。4日後、イギリス、ロシア、オーストリアそしてプロイセンはナポレオンを倒すべく動員を開始する。ナポレオンは連合軍を国内で迎え撃つ守勢戦略も考慮していたが、王党派を勢いづかせる危険があり、連合国の準備が遅れていると看破した彼は機先を制することにした。 ナポレオンはイギリス・オランダ連合軍とプロイセン軍がまだ合流しないうちに各個撃破を計画し、12万の兵を率いて連合軍に戦いを挑むべくベルギーへ向かった。ベルギーに駐留していたのはウェリントン公率いるイギリス・オランダ連合軍の11万とブリュッヘル元帥率いるプロイセン軍12万であった。ブリュッセル南方に駐屯する連合軍を増援が到着する前に撃破できればイギリス軍を海に追いやり、プロイセンを戦争から脱落させられる。これに加えてベルギー南部にはフランス語圏の親仏派住民が多く、フランス軍の勝利は当地の革命の引き金になるであろうことも考慮された。またイギリス軍はスペインの半島戦争で鍛えられたベテラン兵の大半を米英戦争のため北米へ送っており、ベルギー駐留軍のほとんどは二線級の兵士であった。 ウェリントンの当初の配置はモンスを経てブリュッセル南西に進出して連合軍の包囲を図るであろうナポレオンの脅威に対処することを意図していた。これはウェリントンの策源地であるオーステンデとの連絡線が失われることになるが、彼の軍はプロイセン軍に近づくことにもなる。ナポレオンは誤った情報により、ウェリントンは海峡諸港との補給線が断たれることを恐れていると計算していた。ナポレオンは左翼をネイ元帥、右翼をグルーシー元帥におのおの指揮させ、予備軍は自ら率い、これら三軍は相互支援が可能な距離に展開させた。フランス軍は6月15日明け方にシャルルロワから国境を越えて連合軍の前哨部隊を蹂躙し、フランス軍を英蘭軍とプロイセン軍との中間に進出させた。 6月15日深夜にウェリントンはシャルルロワの攻撃がフランス軍の主攻勢であることを確信した。6月16日夜明け前にブリュッセルのリッチモンド公爵夫人の舞踏会 (英語版) に出席していたウェリントンはオラニエ公からの急報を受け取り、フランス軍の進撃の速さに驚愕させられた。彼は自軍に対し急ぎカトル・ブラに集結するよう命じた。ここではオラニエ公がザクセン=ヴァイマル公ベルンハルトの旅団とともにネイ元帥の左翼部隊と対峙していた。ネイ元帥が受けた命令はカトル・ブラの交差路を確保し、後に必要になれば東に旋回してナポレオンの本隊に増援できるようにしておくことであった。 ナポレオンはまずは集結していたプロイセン軍に向かった。6月16日、予備軍の一部と右翼軍を率いるナポレオンはリニーの戦いでブリュッヘルのプロイセン軍と戦い、死傷者16,000の損害を与えたが、完全な撃滅はできなかった。プロイセンの中央軍はフランス軍の猛攻の前に敗退したが、両翼は持ちこたえた。前線に出たブリュッヘル元帥が一時行方不明になったため、参謀長のグナイゼナウ中将が代わりに後退の指揮を取った。 一方、ネイ元帥はカトル・ブラの交差路を守る少数のオラニエ公の部隊と対戦した。ネイが逡巡したためフランス軍の攻撃は遅れてイギリス・オランダ連合軍に兵力を増強する猶予を与えてしまい、オラニエ公はネイの攻撃を凌ぐことができた。やがて、増援の第一陣とウェリントン自身が到着し、ネイを後退させて夕刻までに交差路を確保したが、既にプロイセン軍はリニーの戦いで敗れており、彼らを救援することはできなかった(カトル・ブラの戦い)。プロイセン軍の敗北により、ウェリントンが守るカトル・ブラは非常に危険な場所となった。このため、翌日になって彼は北方へと退却し、この年の春に個人的に視察しておいた場所、モン・サン・ジャン(英語版)の低い尾根、ワーテルロー村とソワヌの森(英語版) の南に防御陣地を築いた。 プロイセン軍はフランス軍に遮られることなく、恐らくは気付かれもせずにリニーから撤退した。後衛部隊の大部分は真夜中まで持ち場を守っており、一部は翌朝まで動いておらず、フランス軍に完全に見過ごされていた。ナポレオンは敗走したプロイセン軍は連絡線を辿って北東方向に退却すると考えていたが、プロイセン軍はウェリントンの進軍路と並行する北方に向かっており、支援可能な距離を保ち、終始連絡を取り合っていた。プロイセン軍はリニーの戦いに参加せず無傷のビューロー将軍の第4軍団が位置するワーヴル南方に集結した。 かつてナポレオンは「私は戦陣に敗れることはあるかもしれないが、自信過剰や怠慢によって数分たりとも浪費することはない」と語っていたが、この戦役での彼は時間を浪費しがちだった。リニーで勝利したナポレオンは緩慢に時を過ごし、翌6月17日11時にようやく各隊に命令を下すと進発し、13時にカトル・ブラのネイの軍と合流をして英蘭軍を攻撃しようとしたものの、既に敵陣はもぬけの殻だった。フランス軍はウェリントンを追撃したが、ジュナップ(英語版)で騎兵同士の小競り合いが起こっただけで、その日の夜は土砂降りとなった。リニーを出立する際にナポレオンは右翼軍司令のグルーシー元帥に兵33,000をもってプロイセン軍を追撃するよう命じた。遅すぎる出発、プロイセン軍の針路が不明なこと、そして命令の意味が曖昧だったことで、グルーシーがプロイセン軍のワーヴル到着を阻止するには手遅れだった。 6月17日の終わりに英蘭軍はワーテルローに到着し、ナポレオン軍の本隊がこれに続いた。この頃、ブリュッヘルのプロイセン軍はワーヴルの町から東へ13kmの位置に集結していた。ラ・ベル・アリアンスで、ナポレオン率いるフランス軍72,000とイギリス・オランダ連合軍68,000と、ほぼ互角の勢力同士が対峙した。 復位したナポレオンの戦略は英蘭軍とプロイセン軍を分断し、各個撃破することであった。ワーテルローの戦いに参加したナポレオンの北部方面軍(Armée du Nord)は72,000人で歩兵57,000、騎兵15,000、大砲250門からなっている。ナポレオンは政権を奪取すると18万人のルイ18世の軍隊に加えて緊縮財政のために長期休暇や非公式に除隊させられていた兵や1814年戦役で脱走していた者たちといった実戦経験のある兵をかき集めており、彼ら古参兵を中核に訓練未熟な新兵を合わせたものがワーテルローの戦いのナポレオンの軍隊だった。古参兵たちの士気は高く「前年の恥辱を晴らすべく、狂信的な熱意を示していた」と伝えられる。兵器は比較的充足していたが、多年の戦乱によって軍馬が著しく不足しており、馬術も不十分だった。この戦いのフランス軍騎兵は14個胸甲騎兵連隊、7個槍騎兵連隊からなっていた。 この戦いの1年前の1814年のフランス戦役ではナポレオンは圧倒的に不利な状況の中、彼の最高傑作といわれる程の戦術的技量を示した。だが、この1815年戦役では肉体的な衰えを見せており、何よりも時間を浪費しがちで戦機を幾度も失っている。長年、ナポレオンの参謀総長を務めたベルティエがナポレオンの復位に馳せ参ぜずドイツで自殺しており、代わってスールト元帥が総参謀長に就任したことも打撃となった。スールトは優れた野戦指揮官であったが、参謀畑には不慣れであり、ナポレオンの簡潔にすぎかつしばしば意味不明瞭な命令を適確に解釈して完璧な命令文書に仕上げるベルティエの特別な能力も持ち合わせていなかった。この結果、スールトは幾度も不手際や意味不明瞭な命令文書伝達を繰り返し、その度にフランス軍の作戦行動を鈍らせている。戦後、ナポレオンはスールトを「よい参謀長ではなかった」と述懐している。 北部方面軍の左翼を任され、ワーテルロー会戦では実戦指揮を執ることになるネイ元帥はナポレオンから「勇者の中の勇者」と呼ばれた歴戦の猛将であったが、ロシア遠征以後は移り気になり、気力の衰えを見せていた。前哨戦のカトル・ブラの戦いでは徒に逡巡して英蘭軍に決定的打撃を与える機会を逃している。ナポレオンもネイの戦略能力は低く評価していたが、ネイが兵士たちからカリスマ的人気を得ていたことが軍の一翼を任せた理由だった。 英蘭連合軍を指揮したウェリントン公は半島戦争における歴戦の将軍であった。ウェリントンは自らの軍について「ひどい軍隊、とても弱く装備も劣り、参謀たちはまったく経験不足だった」と述べている。ワーテルローの戦いに参加した68,000人の彼の軍隊は歩兵50,000、騎兵12,000、砲兵6,000、砲156門で構成されていた。このうち24,000人がイギリス兵であり、6,000人は国王直属ドイツ人部隊(英語版)(King's German Legion:KGL)の兵士であった。イギリス軍の全員が正規兵であったが、半島戦争に従軍した古参兵は7,000人に過ぎなかった。これに加えて、17,000人のオランダ人とベルギー人の兵隊がおり、ハノーファー兵11,000、ブラウンシュヴァイク兵6,000、ナッサウ兵3,000からなっていた。 連合軍兵士の多くが戦闘未経験だった。オランダ軍は先年のナポレオンの敗北を受けて1815年に再編されたものであった。スペインでの半島戦争に従軍したイギリス兵およびイギリス軍に加わった一部のハノーファー兵とブラウンシュヴァイク兵を除き、連合軍の職業軍人の多くがナポレオン体制下でフランス軍の同盟軍としてともに戦った経験を持っていた。ウェリントンは騎兵も不足しており、イギリス軍騎兵7個連隊、オランダ軍騎兵3個連隊しかいなかった。ヨーク公は自分の参謀将校の多くをウェリントンに押しつけており、この中には副司令のアックスブリッジ将軍も含まれる。アックスブリッジは騎兵を指揮しており、彼はウェリントンから指揮下の部隊の行動の自由を認められていた。ウェリントンは13km西方のハレ(英語版)に兵17,000を後置させており、この兵力は戦闘に参加させず、敗北した場合の退却援護として用いることになっており、オラニエ公の弟のフレデリックが指揮するオランダ兵であった。 司令官のブリュッヘル元帥はライプツィヒの戦いでナポレオンを撃破した連合軍のうちのプロイセン軍を率いていた。参謀長のグナイゼナウ中将はプロイセンの軍制改革を推進した中心的人物である。 プロイセン軍は困難な再編成の途上にあった。1815年時点で、以前の予備連隊、外人部隊そして1813年から1814年にかけて編成された義勇軍(Freikorps)は正規軍や多数の後備兵(ラントヴェーア:民兵)連隊に統合される過程にあった。ベルギーに到着した時点ではラントヴェーアのほとんどは未訓練かつ兵器も支給されていなかった。プロイセン軍の騎兵も同様の状態だった。砲兵隊も再編中であり、万全に行動しうる状態になく、砲や装備は会戦中そして後に到着する有り様だった。しかしながら、これらの不利も戦役中にプロイセン軍参謀部の見せた見事な指揮統率によって埋め合わされた。これらの将校は参謀教育のためにつくられた四つの学校の出身者であり、共通した基準の訓練を受け任務についていた。このシステムは、矛盾し曖昧な命令を発しがちだったフランス軍のそれとは対照的なものであった。この参謀システムによってプロイセン軍はリニーの戦いの前に僅か24時間で兵力の4分の3を集結することを可能にさせた。リニーの戦いの後も、プロイセン軍は敗北はしたものの補給段列を再調整し、自軍を再編成し、48時間以内にワーテルローの戦場に駆けつけることが可能であった。プロイセンの2個半の軍団48,000人がワーテルローの戦いに参戦した。ビューロー第4軍団長の率いる2個旅団が16時30分にロバウ(英語版)のフランス軍第6軍団に攻撃をかけ、ツィーテンの第1軍団とピルヒの第2軍団の一部は18時に来援した。 ワーテルローは要害堅固な場所だった。ここはブリュッセルに至る主要街道に対して垂直に切り立ち、かつ横切られている長い尾根が東西に走っていた。尾根の頂きに沿って深い窪んだ小道 (英語版) のオヘイン(英語版)道が通っている。ブリュッセル街道との交差点の近くには大きな楡の木があり、ここはウェリントンの布陣のほぼ中央に位置し、会戦中のほとんどの時間、この場所を本営とした。ウェリントンはオヘイン道に沿った尾根の頂の背後に歩兵を一線状に布陣させた。彼が過去の戦闘で幾度も行ってきたように、今回も反対斜面(英語版)を活用して敵軍から(散兵や砲兵を除く)自軍の兵力を隠した。戦場の幅は比較的狭く4kmであり、これによって彼はブレーヌ・ラルー(英語版)村までの範囲に布陣させた(プロイセン軍がこの日のうちに来援することになっている左翼を除く)中央および右翼の部隊に縦深を持たせることができた。 尾根の前面には陣地化が可能な三つの場所があった。右端にはウーグモン(英語版)の館と庭園そして果樹園があった。ここは広くしっかりした造りの邸宅であり、当初は木々で隠されていた。家の北側には窪んで隠された小道があり(イギリスでは「窪み道」(the hollow-way)と呼ばれている)、これを使って補給ができた。左端にはパプロットの小集落があった。ウーグモンとパプロットは陣地化されて守備兵が配置され、英蘭軍の側面を確保していた。パプロットはまた英蘭軍を救援に来るプロイセン軍が通るワーヴルへの道を見おろしていた。残りの英蘭軍の布陣の前面にあたる主要街道の西側にはラ・エー・サント(英語版)の農場と果樹園があり、国王直属ドイツ人部隊(英語版)(KGL)の軽歩兵400人が守備に置かれた。道路の反対側には閉鎖された砂坑があり、ここには第95ライフル連隊(英語版)が射撃兵として配置された。 これらの場所は攻撃側にとって厄介な障害となった。ウェリントンの右側面を攻撃すれば陣地化されたウーグモンからの攻撃を引き起こし、中央右側を進撃すればウーグモンとラ・エー・サントからの縦射 (英語版) に曝されることになる。中央左側からではラ・エー・サントと隣接する砂坑から縦射を受けることになり、左側面を突こうにも地面はぬかるんでおり、パプロット集落の通りや生け垣に配置された兵からの銃撃を受けることになる フランス軍は南方の別の尾根の斜面に布陣した。ナポレオンは英蘭軍の布陣を視認することができず、ブリュッセル街道に対するかたちで布陣を行った。右翼はデルロン率いる第1軍団で歩兵13,000、騎兵1,300、予備騎兵4,700からなっていた。左翼はレイユ(英語版)の第2軍団で兵力は歩兵13,000、騎兵1,300、予備騎兵4,600であった。街道の南側、宿場ラ・ベル・アリアンス(英語版)の周辺にはロバウの第6軍団(兵6,000)、皇帝近衛隊(英語版)(歩兵13,000)そして予備騎兵2,000が置かれた。フランス軍の右翼後方にはプランスノワ(英語版)の集落があり、右端には「パリの森」(Bois de Paris)があった。当初、ナポレオンは戦場を見渡すことができるロッサム農場に本営を置いていたが、午後になってラ・ベル・アリアンスに移っている。(ナポレオンのいる場所からは見渡せなくなったために)戦場での統率はネイ元帥に委ねられることになった。 ウェリントンは2時から3時頃に起床し、夜明けまで手紙を書いている。彼はブリュッヘルに対して「少なくとも1個軍団を送ってくれればモン・サン・ジャンで戦うが、そうでなければブリュッセルまで後退する」と書き送った。6時にウェリントンは自軍の布陣を視察した。 その日の未明の軍議でブリュッヘルの参謀長グナイゼナウはウェリントンの作戦に対して不信感を示していたが、ブリュッヘルはウェリントンの軍を救援せねばならないと彼を説得した。ワーヴルでは、ビューローの第4軍団がワーテルローの戦場に向けて先発しており、この軍団はリニーの戦いに参加しておらず無傷の状態であった。もっとも、第4軍団は犠牲者は出ていなかったが、プロイセン軍のリニーからの撤退援護のための2日間に渡る行軍で疲労していた。彼らは戦場からはるか東方に位置しており、進軍は遅々としたものだった。前夜の豪雨によって道路の状態は悪く、ビューローの兵と88門の大砲はワーヴルの渋滞した道路を通らねばならなかった。ワーヴルでの戦闘が始まったことにより事態はさらに悪化し、ビューローの軍が通過する予定だった道のいくつかが閉鎖されている。しかしながら、10時には行軍も順調になり、この頃、先発した部隊は英蘭軍左翼から8kmのところまで進んでいた。ビューローの兵に続いて、第1軍団と第2軍団がワーテルローに向かった。 ナポレオンは前夜を過ごしたル・カイユー(Le Caillou)の館で朝食をとった。スールトがグルーシーの軍を呼び戻して本隊と合流させるべきではないかと意見具申をするとナポレオンは「卿はウェリントンに負け続けているから、彼を買い被っているのではないか。余に言わせれば、ウェリントンは愚将であり、イギリス人は弱兵だ。連中を打ち負かすなぞ朝飯前だ」と言い返した。しかしながら、このナポレオンのひどく侮蔑的な言葉を額面通りに取るべきではないだろう。彼の格言のひとつに「戦場においては士気がすべてである」という言葉があり、敵を称賛することは常に誤りであり、いたずらに自軍の士気を低下させることにつながる。実際、彼は過去のいくつもの会戦の前に士気を高揚させる演説を行っており、このワーテルローの戦いの前の朝も幕僚たちの悲観論や臆病に対処せねばならず、一部の将官たちからの執拗かつほとんど敗北主義的な反対論に対抗しなければならなかった。 この後、ナポレオンは末弟のジェロームから、宿屋の給仕がジュナッペの旅館「キング・オブ・スペイン(King of Spain)」で食事をとったイギリス軍将校から漏れ聞いたプロイセン軍がワーヴルから行軍中であるという噂話が伝えられたものの、ナポレオンはプロイセン軍が再起するには少なくとも2日は必要であり、グルーシー元帥が対処するだろうと断言した。驚くべきことに、このジェロームの噂話を別にすると、この日のル・カイユーの軍議に出席したフランス軍の指揮官たちは誰もプロイセン軍が危険なほど近づいている情報を持っておらず、この僅か5時間後にワーテルローの戦場になだれ込むべく進発することを想像もしていなかった。 戦闘開始は9時と計画されていたが、前夜の豪雨で地面が水浸しになり、騎兵と砲兵の移動が困難になっていたためナポレオンは戦闘開始を13時まで遅らせた。結果的には、この攻撃開始の遅延により、プロイセン軍の戦場への来援が間に合い、ナポレオンにとって致命的となった。10時、彼は6時間前にグルーシーから受けた急報への返信を発し、「(グルーシーの現在位置から南方の)ワーヴルへ向かい、(グルーシーから西方の)我々との接触を維持する場所に位置し」それからプロイセン軍を「押し出せ」と命じた。その内容は曖昧であり、グルーシーは合流すべきなのか独自の行動をすべきなのか分かりにくいものだった。 11時にナポレオンは全体命令を発し、左翼はレイユ将軍の第2軍団で、右翼はデルロン将軍の第1軍団が担いモン・サン・ジャン村にある主要街道の十字路を確保することになった。この命令は英蘭軍の戦線は尾根ではなくその奥の村にあると想定していた。これを行うためにジェロームの師団がウーグモンへの先制攻撃を行い、ナポレオンは(ここを失えば海への連絡線が断たれるために)英蘭軍の予備兵力を誘い込むことができると見込んでいた。作戦は13時頃に第1、第2そして第6軍団の大砲列(grande batterie)が英蘭軍中央への砲撃を開始し、その後、デルロンの軍団が英蘭軍の左翼を攻撃して突破し、東から西に旋回して包囲する計画になっていた。ナポレオンの手記によれば、彼は英蘭軍をプロイセン軍から分断して海に叩き落とすことを企図していた。 「ワーテルローの戦いにおける奇妙な事実はこの戦いがいつ始まったのか確証できる者が誰もいないことである」と歴史家アンドリュー・ロバートは述べている。ウェリントンは公文書で「10時頃にナポレオンが我が軍の拠点が置かれたウーグモンに対して熾烈な攻撃を仕掛けてきた」と記録している。その他の史料は11時30分に攻撃が始まったと述べている。 ウーグモンの館とその周辺は近衛軽歩兵4個中隊、果樹園と庭園はハノーファー軍猟兵およびナッサウ軍第2連隊第1大隊がおのおの守備についていた。ジェローム・ボナパルトの第6師団が攻撃の口火を切り、麾下のボードワン将軍の第1旅団が突入して果樹園と庭園の守備隊を駆逐したものの、指揮官のボードワンが戦死する。ジェロームは騎馬砲兵の支援のもとでソワイエ将軍の第2旅団を投入して攻撃を続けさせるが、イギリス軍王室騎馬砲兵の曲射砲の砲撃を受けて進撃が鈍ってしまう。フランス軍砲兵が前進して対砲兵射撃によって英軍砲兵が制圧されると、ソワイエは兵を進めて館の北門を打ち壊して内部に突入した。フランス兵の一部は中庭までたどり着くが、イギリス兵に門を奪回されて閉じ込められ全滅してしまった。ジェロームは主攻勢前の牽制攻撃の役割は果たしたのだが、なおも攻撃を続け、フォワ将軍の第9師団までこの戦いに巻き込み、一方、ウェリントンも第2近衛歩兵連隊と第3近衛歩兵連隊の一部をウーグモンに送り込んだ。 ウーグモンでの戦闘は午後いっぱい続いた。その周囲はフランス軍軽歩兵によって幾重にも取り囲まれ、連携した攻撃がウーグモン内の部隊に仕掛けられた。英蘭軍は館と北へ通じる窪み道を守った。午後になってナポレオンは砲撃によって家に火をかけるよう命じ、その結果、礼拝堂を除くすべての建物が破壊された。国王直属ドイツ人部隊のデュ・プラの旅団は窪み道の防御に差し向けられ、高級士官を欠いた状態でこの任務を果たさねばならなかった。最終的に彼らは英軍の第71歩兵連隊(英語版)の応援を受けた。アダム将軍のイギリス軍第3旅団はヒュー・ハケット(英語版)のハノーファー軍第3旅団によって増強され、レイユによって差し向けられたフランス軍歩兵および騎兵のさらなる攻撃を撃退することに成功した。結局、ウーグモンはこの会戦の間中、持ちこたえた。 ウーグモンでの戦いはもともとはウェリントンの予備兵力を誘引するための陽動攻撃であったものが終日の戦闘にエスカレートし、逆にフランス軍の予備兵力が消耗させられる結果となったとしばしば言われる。しかしながら、実際はナポレオンとウェリントンの双方がウーグモンの確保が会戦の勝利のカギであったと考えていたとする見方もある。ウーグモンはナポレオンから良く見渡すことができた場所であり、彼は午後の間中、兵力をこことその周辺に送り続けている(総計で33個大隊、14,000人)。同じようにウェリントンも、本来なら大兵力を収容することができないこの邸宅に21個大隊(12,000人)を投入し、窪み道を守り通せたため補充兵や弾薬を邸宅内の建物に供給し続けることができた。戦闘中、ウェリントンは敵軍からの激しい圧力を受けている中央部から砲兵隊を引き抜いてウーグモンを支援させており、後になって彼は「会戦の勝利はウーグモンの門を閉じ続けることにかかっていた」と述べている フランス軍の大砲列(grande batterie)80門が中央部に整列した。砲撃の開始は英蘭軍第2軍団長ローランド・ヒル(英語版)によれば11時50分、その他の史料では正午から13時30分の間となっている。大砲列は正確な照準を付けるには遠すぎる位置に布陣しており、目視できたのはオランダ軍師団の一部だけであり、その他の英蘭軍の部隊は反対斜線に布陣していた。それでも砲撃は多大な損害を与えた。地面が軟弱で砲撃による跳弾効果が妨げられていたが、さらにフランス軍砲兵は英蘭軍の布陣全域をカバーせねばならず、砲撃の集弾性が低くなった。しかしながら、この時のナポレオンの命令は「敵を驚かせ、士気を萎えさせる」ことであり、敵に大きな物理的損害を出させることではなかった。 およそ13時頃、ナポレオンはフランス軍右側面から4-5マイルほど(3時間程度の行軍距離)の場所にあるラスン=シャペル=サン=ランベール(英語版)村周辺にいるプロイセン軍の第一陣を目にした。ナポレオンは参謀長のスールトに対して「ただちに戦場に駆けつけプロイセン軍を攻撃せよ」との伝令をグルーシー元帥へ送るように命じた。だが、この時のグルーシーは「(プロイセン軍を追撃して)貴官の剣をもって敵の背後を突け」との以前のナポレオンの命令を遂行するためワーヴルに向かっており、6月18日の朝には決戦場のモン・サン・ジャンから20kmも離れた場所にいた。 モン・サン・ジャンの方向からの砲声はグルーシーの司令部でも聞かれ、グルーシーは部下のジェラール(英語版)将軍から「砲声の方角へ進軍すべきです」との進言を受けていたが、彼は以前に受けた命令に固執してヨハン・フォン・ティールマン(英語版)中将率いるプロイセン軍第3軍団後衛部隊とのワーヴルの戦い(英語版)を始めた。このグルーシーの判断により、彼の麾下の33,000人ものフランス軍がワーテルローの戦いに参戦できなくなり、作家シュテファン・ツヴァイクは「世界の運命を決定した世界史的瞬間」と呼んだ。さらに不味いことに、13時にスールトがグルーシーに宛てた「直ちに移動して本隊と合流し、ビューローを叩け」とのナポレオンの命令を携えた伝令は道に迷い、19時になるまで到着しなかった。 13時過ぎにデルロンの第1軍団が攻撃を開始した。左翼をキオ将軍の第1師団、中央をドンズロ(英語版)将軍の第2師団・マルコニェ将軍の第3師団そして右翼をデュリット将軍の第4師団が受け持ったが、第1・第2・第3師団は「大隊編成の師団縦隊」と呼ばれる密集隊形をとり、この隊形は戦術的融通性がなく敵砲兵の格好の的になった。デュリット将軍の第4師団のみは「分割された大隊縦隊」と呼ばれる縦深の深い隊形で進軍している。これは本来「分割」を意味していたdivision を「師団」の意味と取り違えた命令が司令部から伝達される不手際だったと考えられている。後に軍事学者ジョミニは第1軍団のこの隊形を「信じがたい」と酷評している。 ドンズロ将軍率いる左端の第2師団がラ・エー・サントに進撃した。1個大隊が正面の守備隊と交戦する間に後続の大隊が両側に展開し、いくつかの胸甲騎兵大隊の支援を受けつつ、農場の孤立化に成功する。ラ・エー・サントが分断されたと見たオラニエ公はハノーファー・リューネブルク大隊を投入してこれを救出しようと試みた。だが、地面の窪みに隠れていた胸甲騎兵がこれを捕捉して瞬時に撃破してしまい、それからラ・エー・サントを通り越して尾根の頂にまで進出し、進撃を続けるデルロンの左側面を守った。 13時30分頃、デルロンは残る3個師団に前進を命じ、14,000人以上のフランス軍兵士が英蘭軍左翼の守るおよそ1,000mの戦線に展開した。彼らが対する英蘭軍は6,000人であり、第一線はバイラント(英語版)率いるオランダ=ベルギー軍第2師団第1旅団によって構成されていた。第二線はトマス・ピクトン(英語版)中将率いるイギリスおよびハノーファー兵の部隊であり、尾根の背後の死角に伏せていた。これらの部隊はいずれもカトル・ブラの戦いで大きな損害を出していた。加えて、戦場のほぼ中央部に配置されたバイラントの旅団は砲撃に身をさらす斜面前方に布陣していた。命令を受けていなかった彼らは危険な場所に留まっていた。 砲撃によって大打撃を受けていたバイラントの旅団はフランス軍の攻撃に抗しきれずに窪み道へ退却し、将校のほとんどが戦死するか負傷し兵力の40%を失ってしまい、ベルギー第7大隊を残して戦場から離脱した。 デルロンの兵は斜面を駆け上がり、そこにピクトンの兵が立ち上がって銃撃を浴びせた。フランス歩兵も応戦し、8,000対2,000と数に勝る彼らはイギリス兵を圧迫した。デルロンの攻撃は英蘭軍中央部をたじろがせることに成功し、デルロンの左側の英蘭軍戦列が崩れはじめた。ピクトンは再集結を命じた直後に戦死し、敵の数に圧倒された英蘭軍の兵士たちも挫けかけていた。 この決定的な時点で、英蘭軍の騎兵軍団を指揮するアックスブリッジは過大な重圧を受けている歩兵部隊を救援すべく、敵から見えない尾根の背後で整列していた近衛騎兵旅団(Household Brigade)の名で知られる第1騎兵旅団(英語版)(エドワード・サマセット少将)と連合騎兵旅団(Union Brigade)の名で知られる第2騎兵旅団(英語版)(ウィリアム・ポンソビー(英語版)少将)の2個重騎兵旅団に突撃を命じた。 およそ20年におよぶ戦乱により、ヨーロッパ大陸では騎乗に適した馬が激減しており、この結果、1815年戦役に参加したイギリス軍重騎兵は同時代の欧州諸国の騎兵部隊の中でも最も優れた馬を用いており、彼らはまた優れた馬上剣術の訓練を受けてもいた。しかしながら、彼らは大部隊での機動についてフランス騎兵に劣り、態度は尊大であり、歩兵と違って実戦経験が不足していた。ウェリントンの言によれば、彼らは戦術能力も思慮分別もほとんどなかった。 2個の騎兵旅団の兵力はおよそ2,000騎(定数2,651騎)であり、47歳になるアックスブリッジが率いていたが、彼は不適切な数の予備兵力しか用意しておかなかった。会戦の日の朝、アックスブリッジは配下の騎兵旅団長たちに対して戦場では自分の命令が常に届くとは限らないので、おのおの自らの判断で行動するよう告げ、「前線に対して支援する運動をせよ」と命じていた。この際、アックスブリッジはヴァンドルー少将、ヴィヴィアン少将そしてオランダ=ベルギーの各騎兵隊がイギリス重騎兵隊を支援することを期待していた。後にアックスブリッジは前進に際して十分な数の予備隊を編成させなかったことに関して「私は大きな誤りを犯した」と後悔の念を吐露している。 近衛騎兵旅団は尾根の頂の連合軍布陣地を越えて丘の下へと突撃した。デルロンの左翼を守っていた胸甲騎兵は散開しており、深く窪んだ街道へと追いやられ、総崩れになった。窪み道は罠と化し、イギリス軍騎兵に追われた胸甲騎兵たちを彼らの右方向へと押し流した。胸甲騎兵たちの一部は窪み道の急勾配と前方の混乱した友軍歩兵の集団との間に挟まれてしまい、そこへ英軍第95歩兵連隊が窪み道の北側から銃撃をし、サマセットの重騎兵が背後から彼らを押し続けた。この装甲化した敵とのもの珍しい戦闘はイギリス騎兵たちに強い印象を与えており、近衛騎兵旅団長はこう記録している。 近衛騎兵旅団左翼の大隊は戦闘を続け、フランス軍第2師団第2旅団(オーラール少将)を撃破した。司令部は彼らを呼び戻そうと試みたものの、彼らは前進を続けてしまい、ラ・エー・サントを通り過ぎて丘の下に出たところで方陣を組む第1旅団(シュミット少将)と出くわした。 左翼では連合騎兵旅団が自軍の歩兵の隊列をすり抜けて突撃しており、この際に第92歩兵連隊(英語版)(Gordon Highlanders)の兵士の幾人かが馬の鐙金にしがみついて突撃に参加したとの伝説が生まれている。中央左側では第2竜騎兵連隊(Scots Greys)が第1師団第2旅団(ブルジョワ少将)の第105連隊を撃破して鷲章旗を奪取した。第6竜騎兵連隊(Inniskillings)はその他のフランス軍第1師団(キオ少将)の旅団を敗走させ、第2竜騎兵連隊は第3師団第2旅団(クルニエ少将)も叩きのめして第45連隊の鷲章旗を奪い取っている。だが、英蘭軍の左端ではデュリット(英語版)将軍のフランス軍第4師団が方陣を組む時間的余裕を得て、第2竜騎兵連隊を追い払った。 近衛騎兵旅団と同様、連合騎兵旅団の将校たちも部隊の統率が失われていたために兵を引くことが難しくなっていた。第2竜騎兵連隊の指揮官ジェームズ・ハミルトン(英語版)は攻撃続行を命じ、フランス軍砲兵隊列に突進した。第2竜騎兵連隊は大砲を使用不能にしたり鹵獲する道具も時間的余裕もなかったが、彼らが砲兵たちを殺すか逃亡させたため結果的に大砲のほとんどが無力化された。 この様子を見ていたナポレオンは即座にフラリンヌとトラバーサーの2個胸甲騎兵旅団そして第1軍団の軽騎兵師団に所属する2個槍騎兵(Chevau-léger)連隊に反撃を命じた。イギリス軍騎兵はすでに疲労困憊しており、そこをフランス騎兵に突かれ、連合騎兵旅団は叩きのめされ、近衛騎兵旅団は包囲され、たちまち危機に陥った。ウェリントンはヴァンドルー少将率いるイギリス軍軽竜騎兵隊、ヴィヴィアン少将のオランダ=ベルギー軽竜騎兵および驃騎兵そしてトリップ少将のオランダ=ベルギー騎銃兵(英語版)を救出に差し向けたが、英蘭軍の騎兵隊はこの突撃で2,500騎を失う甚大な被害を蒙ることになった。 連合騎兵旅団は将校と兵士が多数戦死傷し、旅団長のウィリアム・ポンソビーと第2竜騎兵連隊長のハミルトン大佐が戦死している。近衛騎兵旅団の第2近衛騎兵連隊(Life Guards)と近衛竜騎兵連隊もまた近衛竜騎兵連隊長フラー大佐の戦死を含む大損害を出した。 この一方で突撃の最右翼にいた第1近衛騎兵連隊(Life Guards)と予備に控置された王室近衛騎兵連隊(Blues)は統率を保つことができ、犠牲者数はごく少数だった。第8ベルギー軽騎兵連隊の戦いぶりを見た、この突撃の目撃者による手記は「気違いじみた勇敢さ」と回想している 20,000以上のフランス軍将兵がこの攻撃に加わった。この失敗は多数の犠牲者(捕虜3,000を出している)だけでなく、ナポレオンに貴重な時間を失わせることになり、今やプロイセン軍が戦場の右手に姿を現し始めていた。ナポレオンはプロイセン軍を押し止めるべく、ロバウの第6軍団と2個騎兵師団の兵15,000の予備兵力を割かざる得なくなった。これにより、ナポレオンは近衛軍団を除く予備の歩兵戦力を全て投入したことになり、今や彼は劣勢な兵力をもって英蘭軍を速やかに打ち破らねばならなくなった。 15時30分、ナポレオンはネイ元帥に対してラ・エー・サントの奪取を厳命し、ネイはデルロンの第1軍団から引き抜いた2個旅団の兵力を持ってラ・エー・サントへの攻撃を開始した。 この戦闘が行われていた16時少し前、ネイは英蘭軍中央部に後退の動きがあると感じ取った。彼はこの機を逃さず突破口にしようと考えたが、実際には彼は負傷兵や捕虜の後送を撤退の兆候であると誤解していた。デルロンの敗退の後、ネイの手元には僅かな数の歩兵予備戦力しか残されておらず、他は実りのないウーグモン攻撃か、右翼の防衛に回されていた。このためネイ元帥は英蘭軍中央部を騎兵戦力のみで突破しようとした。 第一次攻撃はミヨー(英語版)将軍の第4騎兵軍団の胸甲騎兵とデヌエット(英語版)将軍の近衛軽騎兵師団の合わせて4,800騎をもって敢行された。この攻撃はあまりに性急に組織されたものであり、掩護の歩兵も砲兵もなく決行された。 英蘭軍の歩兵は20個の方陣(四角形の陣形)を組んでこれに対抗した。方陣は戦闘を題材とした絵画によく描かれるものよりも小さめで、500人の大隊方陣は18m四方程度である。方陣は砲撃や歩兵に対しては脆弱だが騎兵にとっては致命的だった。方陣には側面攻撃ができず、馬は銃剣の矢ぶすまの中に突入できない。ウェリントンは砲兵に対して敵騎兵が近づいたら方陣の中に逃げ込み、敵が退却したら再び大砲に戻り戦うように命令していた。 フランス軍騎兵の攻撃を目撃したイギリス軍近衛歩兵将校はその印象を非常に明快かつ幾分か詩的に書き残している。 このタイプの騎兵による集団攻撃は心理的衝撃効果の有無にほとんど完全に依存していた。砲兵による近接支援が歩兵の方陣を崩して騎兵の突入を可能にするが、ワーテルローの戦いにおいてはフランス軍騎兵と砲兵の協同は拙劣なものだった。英蘭軍歩兵を叩ける距離まで近づいた砲兵の数は十分ではなかった。 この突撃に際してフランス軍の砲撃は英蘭軍に死傷者を出させた。イギリス軍は稜線の内側に後退していたので、フランス軍砲兵士官は稜線上からイギリス軍を視認することが出来、効果的に砲撃を行ったためである。もしも、攻撃を受けた歩兵が方陣防御の陣形をしっかり保ち、パニックに陥らなければ、騎兵それ自体では歩兵に対してほんの僅かな被害しか与えられない。フランス軍騎兵の突撃は不動の歩兵方陣によって繰り返し撃退され、イギリス砲兵の絶え間ない砲撃によってフランス騎兵は再編成のために斜面を下ることを強いられ、そしてイギリス軍軽騎兵連隊、オランダ軍重騎兵旅団そして近衛騎兵旅団の生き残りによる果断な反撃を受けることになった。 少なくとも一人の砲兵士官は突撃を受けたときに最寄りの方陣に逃げ込めとのウェリントンの命令に従わなかった。王室騎馬砲兵(Royal Horse Artillery)のマーサー大尉(英語版)は両側で方陣を組むブラウンシュヴァイク兵は当てにならないと考え、この戦闘の間中、9門の6ポンド砲を敵に向けて戦い続け、多大な戦果をあげた。 理由は定かではないが、フランス軍が英蘭連合軍の砲兵隊列を制圧しても、砲尾に穴を開けて使用不能にしておかなかった。そのため、方陣に逃げ込んでいた英蘭軍砲兵たちはフランス騎兵が撃退されると大砲のあった場所に戻り、再び彼らに砲撃を浴びせることができた。 ネイは4度の突撃を敢行させたが、遂に英蘭軍の方陣を突破することはできなかった。 ナポレオンはネイの攻撃は時期尚早にすぎ失策であるとは思っていたが、一方でプロイセン軍が右側面から迫っている状況でもあり、まずは早急に英蘭軍を撃破すべきであり、中央部への攻撃を続行させる決断をした。 ミヨーとデヌエットの残存兵力にケレルマン将軍の第3騎兵軍団とギヨー(英語版)将軍の近衛重騎兵師団が加えられ、総兵力は67個騎兵大隊9,000騎となった。この攻撃は無意味であると認識していたケレルマンは精鋭の銃騎兵旅団を予備として控えさせ、戦闘に参加させなかったが、このことを見抜いたネイが彼らの投入を要求している。 8度の突撃が行われ、ある方陣は23度も攻撃を受けたが、今回も砲兵は1個中隊しか加わっておらず、英蘭軍は一つの方陣も崩壊せず、ネイの攻撃はまたも頓挫した。 被害の大きい、だが実りのない攻撃がモン・サン・ジャン尾根に繰り返された末にフランス軍騎兵は消耗し尽くしてしまった。フランス軍の高級騎兵将校、とりわけ将官は大きな損失を被った。勇敢さゆえ、そして指揮官が部隊の先頭に立つ習慣のために、フランス軍の師団長4人が負傷し、旅団長は9人が負傷し、1人が戦死した。死傷者数は簡単には見積もれないが、例として、6月15日時点で796人いた近衛擲弾騎兵連隊(Grenadiers à Cheval )は6月19日には462人になっており、近衛竜騎兵連隊(l'Impératrice Dragons)は同じ期間に816人中416人を失った。 ここに至り、騎兵単独では僅かしか成し得ないと、ネイ元帥もようやく悟った。遅まきながら彼は諸兵科連合での攻撃を組織することにし、レイユ将軍の第2軍団からバシュルュ将軍の第5師団とフォワ将軍の第9師団からティソ大佐の連隊を抽出させて兵6,500を集め、これに騎兵のうち未だに戦闘可能なものたちを加えさせた。今回の攻撃もそれまでの重騎兵による攻撃と同じ経路が用いられた 。この攻撃はアックスブリッジ率いる近衛騎兵旅団によって止められた。だが、イギリス騎兵の攻撃はフランス軍歩兵を突破することができず、銃撃の損害により後退を強いられている。バシュルュとティソの歩兵と彼らを支援する騎兵たちは砲撃とアダム将軍のイギリス軍第3旅団の銃撃にひどく叩かれ、後退を余儀なくされた。フランス騎兵自体は英蘭軍中央部に僅かな死傷者しか与えられなかったが、方陣に対する砲撃は多数の犠牲者を出させていた。最左翼に布陣していたヴァンドルーの第4騎兵旅団とヴィヴィアンの第6騎兵旅団を除く、英蘭軍の騎兵はこの戦闘に投入されて、多大な損害を受けていた。英蘭軍にとっても危険な状態であり、カンバーランド驃騎兵連隊(この戦いに参加した唯一のハノーファー騎兵)は戦場から逃げ出し、ブリュッセルまでの道中で敗戦の噂をまき散らしている ネイの諸兵科連合攻撃が決行されたと時を同じくして、デルロンの第1軍団も兵を集結させ、第13歩兵連隊を先鋒にラ・エー・サントへの攻撃を再開した。ラ・エー・サントは国王直属ドイツ人部隊(KGL)が守備していたが、英蘭軍は他の方面での戦闘に忙殺されてここへの弾薬の補給が滞っており、フランス軍の猛攻を受けた国王直属ドイツ人部隊は支えきれずに退却し、400人いた兵士は僅か42人に減っていた。 ラ・エー・サントを占領したネイは騎馬砲兵を英蘭軍中央部に向けて移動させると歩兵の方陣に対して短射程のぶどう弾を用いた砲撃を加えた。これによって目に付きやすい方陣を組んでいた第27歩兵連隊(Inniskilling)そして第30および第73歩兵連隊は多数の犠牲者を出して撃破された。 この時、英蘭軍の中央部は危険なほど手薄になっており、もう一撃でネイは中央部を突破しえるところまで来たが、彼にはそれを実行する予備兵力がなかった。ネイはナポレオンの本営に増援を求めたものの、この時すでにプランスノワでプロイセン軍との戦闘が始まっている状況でありその余裕はなく、使者に対してナポレオンは「もっと兵隊をよこせだと!?どこからそんなものが手に入る?奴は私が兵士をつくれるとでも思ってるのか?」と言い放った。 実際にはナポレオンの手元には皇帝近衛軍団の15個大隊の無傷の兵力が残されていたが、彼はこの最後の予備戦力を投入する決断ができなかった。 ウェリントンは兵力をかき集めて戦線の穴を塞ぐよう努め、「最後の一兵まで戦場に踏みとどまれ、今少しで救済は得られる」と兵を叱咤した。 16時頃、ビューロー中将のプロイセン軍第4軍団がフランス軍の前哨部隊と接触し始めた。彼の目標はプランスノワであり、プロイセン軍はここをフランス軍の背後に回り込む跳躍台に使うことを計画していた。ブリュッヘル元帥はパリの森の道を通過する自軍の右側面を守るためにフリシェルモンの集落を確保することを考えている。ブリュッヘルとウェリントンはこの日の10時から連絡を取り合っており、もしも英蘭軍の中央部が攻撃されていたら、フリシェルモンへ進出することになっていた。 プランスノワへの道が空いているとビューロー将軍が気づいたのは16時30分のことだった。この時はフランス軍騎兵による攻撃が最高潮に達しており、英蘭軍の左側面を守るナッサウ軍と連携すべくフリシェルモン=ラ・エイ間の地域へ第15旅団が派遣された。ナポレオンはプランスノワへ向けて進軍中のビューローの第4軍団を迎撃すべく、ロバウ将軍の第6軍団を差し向けた。プロイセン軍第15旅団は決死の銃剣突撃でフリシェルモンにいたロバウの兵を追い払い、そのままフリシェルモンの高地に進出して12ポンド砲でフランス軍猟兵を打ちのめすとプランスノワへ向かった。これによってロバウの軍団はプランスノワ方面へ退却させられ、結果的にロバウはフランス軍の右翼後方を通り過ぎることになり、唯一の退却路であるシャルルロワ―ブリュッセル街道が直接脅かされることになる。 ヒラー将軍のプロイセン軍第16旅団もまた6個大隊をもってプランスノワへと進撃していた。ナポレオンは押しまくられているロバウへの増援として新規近衛隊の全力である8個大隊を送った。新規近衛隊は反撃を行い、激戦の末にいったんはプランスノワを確保したものの、プロイセン軍の逆襲を受けて駆逐されてしまう。ナポレオンは更に中堅近衛隊と古参近衛隊から2個大隊を派遣し、熾烈な銃剣戦闘の末に村を奪回した。頑強なプロイセン軍は未だ打ち倒されてはおらず、18時30分にはピルヒの第2軍団の兵15,000も来着し、ビューローの第1軍団主力とともにプランスノワ攻撃を準備した。 18時頃、ツィーテン将軍の第1軍団20,000がオアンに到着した。ウェリントンとの連絡将校を務めるミュッフリンクが第1軍団のもとを訪れた。この時、ツィーテンは既に第1旅団を繰り出していたが、英蘭軍左翼のナッサウ軍部隊やプロイセン軍第15旅団の戦いぶりと犠牲者数を見て憂慮するようになっていた。これらの部隊は退却しているように見受けられ、自分の部隊が総崩れに巻き込まれるのではないかと恐れたツィーテンは英蘭軍の側面から離れてプロイセン軍の主力がいるプランスノワへ向かおうとしていた。この動きを知ったミュッフリンクは英蘭軍の退却は事実無根であり、彼らの左翼を支援するようツィーテンを説得した。ツィーテンは当初の方針通りに英蘭軍を直接支援することにし、彼の軍団の到着により、ウェリントンは左翼の騎兵を崩壊しかけていた中央へ振り向けることができた。 第1軍団はパプロット前面でフランス軍を攻撃し、19時30分にはフランス軍の戦線は馬蹄型へねじ曲げられてしまう。戦線の左端はウーグモン、右がプランスノワ、中央はラ・エイとなった。一連の攻撃を受けたデュリュットのフランス軍第4師団はラ・エイとパプロットに陣取っていたが、プロイセン軍第24連隊に抵抗することなくソムランの背後にまで後退した。第24連隊は新たなフランス軍の布陣地を攻撃したが撃退され、シュレジェン・ライフル兵(Schützen )連隊と第1後備兵(Landwehr)連隊の支援を受けて再度攻撃を仕掛けた。この再攻撃を受けフランス軍はいったんは後退させられたものの、激しく抵抗し始め、ソムラン奪回を図り、尾根やパプロットの集落の最後の数軒に立て籠もって死守した。第24連隊は右側でイギリス軍ハイランダー大隊と結びつき、第13後備兵連隊や騎兵の支援を受けてこの場所からフランス軍の兵士を追い立てた。第13後備兵連隊と第15旅団の攻撃により、フランス軍はフリシェルモンから駆逐された。デュリュットの師団はツィーテンの第1軍団騎兵予備から大規模な突撃を受けかねないと考え、戦場から退却した。これにより、第1軍団はフランス軍の唯一の退路だったブリュッセル街道へ前進した。 この一方、ラ・エー・サントが陥ちたことで英蘭軍中央部がむき出しになり、プランスノワの戦線は一時的に小康を得た。ナポレオンはこれまで無敵を誇ってきた皇帝近衛隊の投入を決めた。19時30分に決行されたこの攻撃は英蘭軍の中央を突破してその戦線をプロイセン軍から引き離すことにあった。この突撃は軍事史上名高い出来事の一つではあるが、具体的にどの部隊が参加したのかは不明確である。この攻撃は古参近衛隊の擲弾兵や猟歩兵ではなく、中堅近衛隊5個大隊によって行われたと見られる。古参近衛隊3個大隊は前進し、攻撃の第二陣を構成したものの、彼らは予備のまま留め置かれ英蘭軍に対する攻撃には直接加わっていない。 ぶどう弾による砲撃や散兵からの銃撃を受けつつ、およそ3,000の中堅近衛兵はラ・エー・サントの西側にまで前進し、攻撃のために三方向に別たれた。2個中堅近衛擲弾兵大隊からなる集団はイギリス、ブラウンシュヴァイクそしてナッサウ兵からなる第一線を突破し、比較的損害の少ないシャッセ(英語版)将軍のオランダ=ベルギー軍第3師団が彼らに対するべく差し向けられ、英蘭軍の砲兵が勝ち誇る中堅近衛擲弾兵の側面を攻撃した。これでもなお中堅近衛隊の前進を止められなかったために、シャッセは自らの第1旅団に数に劣る中堅近衛隊に対する突撃を命じ、中堅近衛隊はひるみそして粉砕された。 西側ではメイトランド(英語版)少将のイギリス軍第1近衛旅団1500人がフランス軍の砲撃から身を守るために伏せていた。フランス軍第二波である2個中堅近衛猟歩兵大隊が接近するとメイトランドの近衛歩兵は立ち上がり、猛烈な一斉射撃を浴びせた。中堅近衛隊の猟歩兵はこれに応戦すべく展開したが、浮き足立ち始めた。イギリス軍近衛歩兵隊による銃剣突撃がこれを打ち破った。無傷の近衛猟歩兵大隊からなる第三波が支援のために駆けつけた。イギリス軍近衛兵は後退し、フランス軍の中堅近衛猟歩兵がこれを追うが、ジョン・コルボーン(英語版)中佐率いる第52軽歩兵連隊(英語版)が彼らの側面に回りこみ強烈的な射撃を浴びせかけ、突撃した。この猛攻により、フランス軍第三波も撃破された。 最後の皇帝近衛隊が一目散に退却すると、フランス軍の前線に仰天すべき知らせが駆け巡り、パニックが巻き起こった。「近衛隊が退却した。我が身を守れ!」( "La Garde recule. Sauve qui peut!" )。一方、愛馬のコペンハーゲン号に跨ったウェリントンは帽子を頭上に振って総進撃を命じ、「始めたからにはやり通せ」("In for a penny, in for a pound")と言った。陣地から飛び出した彼の軍隊は、退却するフランス軍に襲いかかった。 生き残った皇帝近衛隊の兵士たちは最後の抵抗の場所 (英語版) とすべく予備としてラ・エー・サント南側に後置されていた3個大隊(いくつかの史料は4個としている)のもとに集まった。アダム(英語版)少将の第3旅団とハノーファー軍後備兵連隊オスナブリュック大隊に加えてヴァンドルー少将とヴィヴィアン少将の比較的傷が浅い騎兵旅団が右側から突撃し、皇帝近衛隊を混乱に陥れた。ある程度統率を保っていた左側の皇帝近衛隊はラ・ベル・アリアンスの方向へ退却した。この退却のさなか、皇帝近衛隊の一部が降伏を勧告され、有名な返答をしている。皇帝近衛隊の指揮官は「近衛兵は死ぬ。降伏などしない!」("La Garde meurt, elle ne se rend pas!")またはただ一言「くそったれ!」("Merde!")と叫んだという。 同じ頃、プロイセン軍第5、第14そして第16旅団がこの日三度目となるプランスノワへの攻撃を開始した。村の教会は炎上し、フランス軍の抵抗の中心となっていた墓地では「竜巻が起きたよう」に死体が撒き散らされた。新規近衛隊を支援するために中堅近衛隊5個大隊が展開したものの、実際上、彼らの全てがロバウの軍団の残余とともに防戦を行っていた。プランスノワ攻防の要は南側にあるシャトレの森であり、ピルヒの第2軍団に所属する2個旅団が到着して、この森を突破しようとする第4軍団を増強した。プロイセン軍第25連隊マスケット銃大隊は第1古参近衛擲弾兵連隊第2大隊をシャトレの森から逐うとプランスノワの側面を攻撃し、フランス軍に退却を強いた。これはこの日、プランスノワの持ち主が変わる5度目にして最後のことだった。古参近衛隊は整然と退却したが、パニック状態で退却する友軍の群れに巻き込まれて、彼らもその一部となってしまった。 プロイセン第4軍団がプランスノワを越えて前進するとイギリス軍の追撃を受けて無秩序に敗走するフランス軍の群れに遭遇した。プロイセン軍は英蘭軍部隊にあたることを恐れて発砲を控えた。皇帝近衛隊とともに退却しなかったフランス軍部隊は持ち場で降伏して殺害され、その際、双方とも慈悲を求めも申し出もしなかった。プランスノワの攻防の死傷者数に関する資料は存在しないが、この戦いに参加したフランス軍第6軍団と新規近衛師団の将校のうち3分の1が死傷していることが戦いの激しさを物語っている。 今やフランス軍の右翼と左翼そして中央はすべて瓦解した。ラ・ベル・アリアンスに布陣している古参近衛隊の2個大隊が未だ統制を維持している最後のフランス軍であり、彼らは最後の予備兵力そしてナポレオンの護衛として残されていた。ナポレオンはフランス軍を彼らの背後で再集結させようと望んだが、後退は敗走となり、古参近衛隊もまた撤退を余儀なくされ、連合軍の騎兵隊からの防御のためにラ・ベル・アリアンスの両側に1個大隊づつが方陣を組んだ。もはやこの戦いには敗れており、ここを去るべきだと説得されたナポレオンは皇帝近衛隊の方陣にここの宿場を離れるよう命じた。 アダム少将の第3旅団が突撃をかけて皇帝近衛隊の方陣は後退を余儀なくされ、プロイセン軍はその他の部隊と交戦した。夕闇が降りるとともに二つの方陣は比較的整然と撤退したが、フランス軍の大砲やその他の装備は連合軍の手に落ちた。撤退する皇帝近衛隊は何千人もの逃げ惑い支離滅裂となったフランス軍兵士たちの群れに飲み込まれた。追撃は比較的消耗の少ないプロイセン軍が受け持ち、プロイセン軍参謀長グナイゼナウは「月光下の狩猟」と称して、夜更けまで敗残兵たちを追い回した。追撃戦でフランス軍の大砲78門が鹵獲され、多数の将軍を含む2,000人が捕虜になっている。 ウェリントン公とブリュッヘル元帥との会見は21時頃にナポレオンの本営があったラ・ベル・アリアンスで行われた。ブリュッヘルはこの戦いをナポレオンの本営があった戦場の中心地であり、両軍の「同盟」(alliance)の意味にもかけた「ラ・ベル・アリアンスの戦い」(直訳すると「良き同盟の戦い」)と命名したいとウェリントンに通達したが、ウェリントンは英語での発音を気にかけて戦場とはやや離れた場所にあるワーテルロー村(英語の発音はウォータールー)の地名に拠るワーテルローの戦い(Battle of Waterloo)と命名して報告書を本国に送った。このため、ドイツではこの戦いはラ・ベル・アリアンスの戦い(Schlacht bei Belle-Alliance)とも呼ばれる。 ワーテルローの戦いでウェリントンの英蘭軍は戦死傷約17,000人・行方不明10,000人を出しており、ブリュッヘルのプロイセン軍のそれは約7,000人であり、そのうち810人はフリシェルモンとプランスノワの両方の攻防戦に参加したビューローの第4軍団に所属する第18連隊のみから出ており、連隊は33個もの鉄十字章を得ている。ナポレオンのフランス軍は約40,000人の死傷・捕虜・逃亡を出し、砲220門を失った。 ナポレオンから受けていた命令を遵守したグルーシー元帥はティーレマン将軍のプロイセン軍をワーヴル(英語版)で撃破し、6月19日の10時30分に整然と撤退できたが、その代償は33,000人のフランス軍将兵がワーテルローの主戦場に来着できなかったことであった。 ナポレオンはシャルルロワを経てフィリップヴィルまで逃れ、そこから留守政府を預かる元スペイン王の兄ジョゼフ・ボナパルトに楽観的な内容の報告書を送り、軍隊の再建を指示したが、彼の命運はすでに尽きていた。6月20日にナポレオンは幕僚に促され、軍隊を置き去りにしてパリに帰還したが、プロイセンの軍事学者クラウゼヴィッツはこれを大きな誤りだったと非難している。ナポレオンはなお政権維持に希望を持ち、議会を解散して独裁権を獲得しようと画策したが、議会はこれに反対して国家反逆罪にあたるとナポレオンを非難し、ついには退位をも要求しはじめた。 一方、ウェリントンは6月19日に戦闘の詳細について報告する急報を本国に送り、6月21日に到着して翌22日にロンドン・ガゼッタ紙で告知された。ワーテルローの戦いの帰趨はロンドンの株式市場も注視しており、カトル・ブラの戦いの敗報によってコンソル公債は下落していたが、ワーテルローの勝報をいち早く手に入れた銀行家ネイサン・メイアー・ロスチャイルドはすぐに買いを入れずに意図的に公債を投げ売りして暴落させ、二束三文になったところで大量買いをし、そして公式な報道により大暴騰したあとで、高値で売った。後に「ネイサンの逆売り」と呼ばれる株式売買でロスチャイルド家は巨額の利益を獲得した。 ウェリントン公とブリュッヘル元帥そしてその他の連合国軍はパリへ向けて進撃した。6月24日、ナポレオンは2度目の退位(英語版)を宣言し、フーシェを首班とする臨時政府がつくられた。7月3日、ナポレオン戦争の最後の会戦としてイシーの戦い(英語版)が起こり、ナポレオンに戦争大臣に任命されていたダヴーがブリュッヘルのプロイセン軍に敗れている。 ナポレオンは北アメリカへ逃亡を図るが、イギリス海軍はこの動きを予見しておりフランスの港を封鎖していた。結局、ナポレオンは7月15日にイギリス海軍の戦列艦ベレロフォン号のメイトランド(英語版)艦長に投降した。 一部のフランス軍要塞は降伏を拒んでおり、9月13日にロンウィが降伏して、すべての抵抗が終わった。11月20日に連合国とフランスとの間でパリ条約が締結されルイ18世が復位した。ナポレオンはイギリスのプリマスへの上陸を求めたが、ヨーロッパの混乱の元凶はナポレオンにあるとされ、ベルトラン、モントロン、グールゴの3人の将軍とともにセントヘレナ島に流されて1821年5月5日に死去した。 王党派が復帰したフランスではナポレオンの部下たちに対する報復が行われた。ネイ元帥は12月に銃殺刑となり、参謀長のスールト、戦争大臣のダヴーの両元帥をはじめ30人以上の将官が投獄または流刑に処されている。 イギリスではこの戦いの後、ウォータールー(Waterloo)の単語はスラングとして英語の語彙に組み込まれ、「惨敗」の喩えとなった。 皇帝近衛隊の擲弾兵を撃破した(実際には猟歩兵部隊だった)イギリス軍第1近衛旅団所属第1近衛歩兵連隊(ヘンリー・アスキン中佐)はその功績が認められて「擲弾兵近衛連隊」(Grenadier Guards)の称号が与えられ、擲弾兵の様式の毛皮製高帽が採用された。イギリス近衛騎兵旅団もフランス軍の胸甲騎兵を撃破した功績が認められて1821年に胸甲の使用が認められた。この戦いに参加した者たちに槍騎兵の有効さが印象づけられ、その後、ヨーロッパ中で採用されるようになり、1816年にイギリス軍は軽騎兵4個連隊を槍騎兵に改編させている。 戦後、ウェリントンは軍の重鎮となって陸軍総司令官に2度就任し、政治家としても要職を歴任して外交使節としても活動しており、首相を2度務めている(任期:1828年 - 1830年、1834年 - 1834年)。英蘭軍の騎兵部隊を任されたアックスブリッジは会戦の終盤に負傷して片脚を失ったが、その後は要職を歴任し1846年に元帥に叙された。また、英蘭軍第1軍団長を務めたオラニエ公は1840年にオランダ王ウィレム2世として即位している。 この会戦中戦場を駆け巡ったウェリントンの幕僚のほとんどが死傷しており、その一人でウェリントンの秘書官を務めていたラグラン男爵フィッツロイ・サマセットは、この戦いで右腕を負傷し切断を余儀なくされた(ラグラン袖は彼の失われた右腕に合わせて作られたものである)。彼は後に陸軍最高司令官となり、クリミア戦争(1853年 - 1856年)の総指揮を執ることになる。 1848年に開業したロンドンの複合ターミナル駅であるウォータールー駅(ワーテルローの英語読み)はワーテルローの戦いが由来である。1994年に英仏海峡トンネルが完成し、パリとロンドンを結ぶ高速列車ユーロスターが運行を開始した際、ロンドン側ターミナルが皮肉にもここであった。このため、フランス側は、幾度となく駅の改名や変更を求めている。2007年にはイギリス国内の高速新線が完成し、ターミナルもセント・パンクラス駅に変更された。 プロイセン軍司令官のブリュッヘル元帥は既に高齢であり、この年のうちに退役し、1819年に77歳で死去した。プロイセン軍に参謀本部組織を確立させこの戦いでも参謀長として重要な役割を果たしたグナイゼナウ中将は後に元帥に列せられたが、進歩的な考えの彼はプロイセンの保守的な体質によって戦後は権力からは遠ざけられている。『戦争論』で知られるプロイセン軍のクラウゼヴィッツはこの戦役では第3軍団の参謀を務めており、後にこの戦いを研究した『1815年のフランス戦役』を著し、後世に資することになる。 19世紀の著名な軍事学者ジョミニ将軍はナポレオン時代の戦略戦術に関する主導的研究者の一人でもあり、ワーテルローの戦いにおけるナポレオンの敗因をいくつか提示している。 戦場の地形の一部は1815年当時ものから変えられている。観光は会戦の翌日から始まっており、6月19日付の書簡でメーサー大尉は「一台の荷馬車がブリュッセルからやって来て、その乗客たちが戦場を見て回っていた」と書き残している。1820年、オランダ王ウィレム1世は彼の息子のオラニエ公が負傷したとされる場所に記念碑を建てるよう命じた。イギリス軍戦線中央部があった尾根の地域の300,000立方メートル相当の土壌を用いて「ライオンの丘(英語版)」と呼ばれる小山がここに造られており、これによって英蘭軍の窪み道の南側の土手が取り除かれてしまった。 ヴィクトル・ユーゴーは小説『レ・ミゼラブル』の中でこう述べている。 その他の地形や会戦に関係する場所は当時からほとんど変わっていない。この中にはブリュッセル=シャルルロワ街道東側のなだらかに起伏する農地やウーグモン、ラ・エー・サントそしてラ・ベル・アリアンスといった建物も含まれる。 「ライオンの丘」の他にも古戦場にはいくつもの記念碑が存在する。ブリュッセル=シャルルロワ街道とブレン・ラルー =オヘイン街道の十字路にはイギリス兵、オランダ兵、ハノーファー兵そしてドイツ人義勇兵の集団墓地がある。フランス軍戦死者に対する記念碑は「傷ついた鷲」("The Wounded Eagle")と名づけられ、ここは戦いの終盤に皇帝近衛隊が最後の方陣を組んだ場所とされる。プロイセン軍戦死者の記念碑はプランスノワにあり、ここはプロイセン軍の砲兵隊が布陣したとされる場所である。ブリュッセル市内のウェイ(オランダ語版)のマルティン教会にはデュエズム(英語版)将軍の墓所がある。エベレのブリュッセル墓地には「イギリス人の碑」("British Monument")と呼ばれる戦死した17人のイギリス軍士官の墓所がある。 「ライオンの丘」のふもとにある「ワーテルロー・パノラマ館」(Panorama de la Bataille de Waterloo)の内部には1912年にルイ・デュムーランが描いた周囲110m、高さ12mものワーテルローの戦いのパノラマ画が展示されており、また館内では20分のワーテルローの戦いの映画も上映されている。この古戦場では毎年、ワーテルローの戦いの再現イベントが行われている。ワーテルローは小牧・長久手の戦いの古戦場がある日本の長久手市と姉妹都市提携している。 19世紀の激動のフランスを時代背景としたヴィクトル・ユーゴーの長編小説 『レ・ミゼラブル』第二部コゼット第一編の主題はワーテルローであり、1861年5月に物語の著者(ユーゴー)がベルギーの戦場跡を訪れる場面から始まり、ワーテルローの戦いの詳細な戦場描写からナポレオンの没落までが語られている。『レ・ミゼラブル』の作中では本筋とはあまり関係のない歴史挿話やユーゴーの歴史考察が交えられており、第二部第一編もそのひとつである。 ユーゴーは、レ・ミゼラブルにて「季節外れの雲に覆われた空が、世界の崩壊をもたらした」と記しているが、これはタンボラ山の大噴火によって引き起こされた異常気象について間接的に言及したものである。 ユーゴーは手がけている大作にこの世紀の一戦を挿入したいと考えており、1861年3月から喉の病気の転地療養を兼ねてワーテルローに滞在し、古戦場を散策しながら『レ・ミゼラブル』の執筆を行い、6月30日にいちおうの完成をみた。彼は作品の完成を知らせる友人に宛てた手紙で「偶然にもワーテルローの古戦場で、私は自分の戦いを戦った」と書き送っている。その後もユーゴーは加筆と修正を続けており、第二部第一編「ワーテルロー」は12月21日に書き上げている。『レ・ミゼラブル』は1862年3月と4月にベルギーとフランスで出版され、爆発的な売れ行きとなった。『レ・ミゼラブル』完成の地となったベルギーのワーテルローにはヴィクトル・ユーゴーの記念柱が建立されている。 アーサー・コナン・ドイルの『勇将ジェラールの回想』、『勇将ジェラールの冒険』の2部作はナポレオンに忠誠を尽くす騎兵将校エティエンヌ・ジェラールを主人公とした冒険小説であり、『勇将ジェラールの冒険』に収録される中編「准将がワーテルローで奮戦した顛末」はこの戦いにおける彼の活躍を描いている。日本人の作家によるワーテルローの戦いを主題とした作品としては柘植久慶の『逆撃 ナポレオン ワーテルロー会戦』上下巻がある。これは現代の日本人御厩太郎がナポレオンの将軍となって歴史改編を試みる架空戦記的な作品である。 ナポレオン戦争の時代を扱った映像作品ではワーテルローの戦いも数多く登場するが、会戦自体を主題とした作品には1928年のドイツ映画『ワーテルロー(英語版)』と1970年のイタリア・ソ連合作映画『ワーテルロー』とがある。後者は監督をソ連のセルゲイ・ボンダルチュクが務める製作費1200万ドルの大作映画であり、ソ連軍の協力を受けて2万人の兵士を使って会戦を大規模に再現した。また、日本のアニメ『ヤッターマン』の最終回は「アワテルローの戦いだコロン」であり、この戦いのパロディとなっている(1979年1月27日放映)。 ワーテルローの戦いは音楽の題材ともなっており、イギリスの女流作曲家ウィルマ・アンダーソン・ギルマンのピアノ曲『ウォータールーの戦い』は描写音楽風に戦いの始まりから終わりまで8つの接続曲のスタイルで作曲されており、発表会でもしばしば取り上げられる。本曲では「ワーテルロー」より「ウォータールー」の表記が定着されている。1974年にスウェーデンの音楽グループABBAがリリースした『恋のウォータールー』は全英ヒット・チャートで2週1位、ビルボードで6位を獲得し、フランスでもシングル・チャートでは3位となる大ヒットとなった。この曲では「惨敗」を意味する英語の俗語としての「ウォータールー」(Waterloo)がかけられている。 欧米圏で知名度の高いワーテルローの戦いは当然のごとくボード・シミュレーションゲームの題材として取り上げられており、アバロンヒル社の最初期の作品『Waterloo』やSPI社の『Napoleon at Waterloo』そして爆発的に売れた『Wellington's Victory』(SPI/TSR)をはじめ非常に多くのゲームが製作されている。日本製のゲームには『ワーテルロー』(翔企画)や『ワーテルローの落日』(Gamejournal No.41)がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ワーテルローの戦い(ワーテルローのたたかい、仏: Bataille de Waterloo、英: Battle of Waterloo、蘭: Slag bij Waterloo、独: Schlacht bei Waterloo 地名の「ワーテルロー」はフランス語の発音に基づく。明治期の日本の書ではウオトルロー・ウオートルロー)は、1815年6月18日、ベルギー(当時ネーデルラント連合王国領)のワーテルロー近郊においてイギリス・オランダをはじめとする連合軍およびプロイセン軍と、フランス皇帝ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)率いるフランス軍(大陸軍=グランダルメ)との間で行われた一連の戦闘を指す名称である。フランス軍が敗北し、ナポレオンにとって最後の戦いとなった。ラ・ベル=アリアンスの戦い (独: Schlacht bei Belle-Alliance) ともいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1815年にエルバ島から帰還し皇帝の座に返り咲いたナポレオンは、第七次対仏大同盟の態勢が整う前にこれを撃破することを企図。フランス国境北東部付近に位置していた初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー麾下の英蘭連合軍とゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル元帥のプロイセン軍を打倒すべく、自ら12万の兵力を率いて出陣した。両勢力は1815年6月16日から3日間に渡り交戦し、ナポレオンは前哨戦となるリニーの戦いでブリュッヘルのプロイセン軍に勝利したものの、6月18日の戦いで大敗し潰走を余儀なくされる。連合軍はこれを追撃してフランスに侵攻し、ルイ18世を復位させた。退位したナポレオンはイギリスに降伏してセントヘレナ島に流され、1821年にこの地で死去した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ナポレオンの敗因は、一軍を委ねたエマニュエル・ド・グルーシー元帥との連携に失敗したうえ、天候の都合で攻撃開始を遅らせたことが裏目に出て敵勢力の結集を許してしまったことが挙げられる。なお、実際に主戦場となったのは現在のベルギー国内のラ・ベル・アリアンスで、ブリュッセルからおよそ13km南東にあり、ワーテルローの町からは1.6kmほど離れている。この古戦場には「ライオンの丘(英語版)」と呼ばれる巨大な記念碑がそびえ立っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1812年6月、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトは64万の大軍を率いてロシア遠征を開始するが、結果は兵力の大部分を失う惨敗に終わった。1813年、ナポレオン率いるフランス軍(大陸軍)はドイツにおいてロシア、プロイセンを中心とする反仏諸国と解放戦争(諸国民戦争)を戦うことになり、連合軍にスウェーデンそしてオーストリアが参加したことでナポレオンはこの戦いでも敗退した。1814年、フランス国内に侵攻する連合軍との戦いで劣勢な兵力のナポレオンは巧みな指揮ぶりを示して善戦するが、パリが開城したことで4月6日にナポレオンは退位を余儀なくされ、地中海のエルバ島に流された。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "戦勝した列強国が開催したウィーン会議の取り決めによってフランスではルイ18世が即位してブルボン王朝が復活した。だが、この王政復古は人気がなく、国内では不満が高まった。1815年2月26日、エルバ島から脱出したナポレオンはフランスのジュアン湾(英語版)に上陸し、パリへ進軍した。途中、ミシェル・ネイ元帥を従え、7,000にふくれ上がった軍隊を率いて3月20日パリに入城し再び皇帝となった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ナポレオンがパリに到着する6日前の3月13日、ウィーン会議の列強国は彼を無法者であると宣告した。4日後、イギリス、ロシア、オーストリアそしてプロイセンはナポレオンを倒すべく動員を開始する。ナポレオンは連合軍を国内で迎え撃つ守勢戦略も考慮していたが、王党派を勢いづかせる危険があり、連合国の準備が遅れていると看破した彼は機先を制することにした。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ナポレオンはイギリス・オランダ連合軍とプロイセン軍がまだ合流しないうちに各個撃破を計画し、12万の兵を率いて連合軍に戦いを挑むべくベルギーへ向かった。ベルギーに駐留していたのはウェリントン公率いるイギリス・オランダ連合軍の11万とブリュッヘル元帥率いるプロイセン軍12万であった。ブリュッセル南方に駐屯する連合軍を増援が到着する前に撃破できればイギリス軍を海に追いやり、プロイセンを戦争から脱落させられる。これに加えてベルギー南部にはフランス語圏の親仏派住民が多く、フランス軍の勝利は当地の革命の引き金になるであろうことも考慮された。またイギリス軍はスペインの半島戦争で鍛えられたベテラン兵の大半を米英戦争のため北米へ送っており、ベルギー駐留軍のほとんどは二線級の兵士であった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ウェリントンの当初の配置はモンスを経てブリュッセル南西に進出して連合軍の包囲を図るであろうナポレオンの脅威に対処することを意図していた。これはウェリントンの策源地であるオーステンデとの連絡線が失われることになるが、彼の軍はプロイセン軍に近づくことにもなる。ナポレオンは誤った情報により、ウェリントンは海峡諸港との補給線が断たれることを恐れていると計算していた。ナポレオンは左翼をネイ元帥、右翼をグルーシー元帥におのおの指揮させ、予備軍は自ら率い、これら三軍は相互支援が可能な距離に展開させた。フランス軍は6月15日明け方にシャルルロワから国境を越えて連合軍の前哨部隊を蹂躙し、フランス軍を英蘭軍とプロイセン軍との中間に進出させた。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "6月15日深夜にウェリントンはシャルルロワの攻撃がフランス軍の主攻勢であることを確信した。6月16日夜明け前にブリュッセルのリッチモンド公爵夫人の舞踏会 (英語版) に出席していたウェリントンはオラニエ公からの急報を受け取り、フランス軍の進撃の速さに驚愕させられた。彼は自軍に対し急ぎカトル・ブラに集結するよう命じた。ここではオラニエ公がザクセン=ヴァイマル公ベルンハルトの旅団とともにネイ元帥の左翼部隊と対峙していた。ネイ元帥が受けた命令はカトル・ブラの交差路を確保し、後に必要になれば東に旋回してナポレオンの本隊に増援できるようにしておくことであった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ナポレオンはまずは集結していたプロイセン軍に向かった。6月16日、予備軍の一部と右翼軍を率いるナポレオンはリニーの戦いでブリュッヘルのプロイセン軍と戦い、死傷者16,000の損害を与えたが、完全な撃滅はできなかった。プロイセンの中央軍はフランス軍の猛攻の前に敗退したが、両翼は持ちこたえた。前線に出たブリュッヘル元帥が一時行方不明になったため、参謀長のグナイゼナウ中将が代わりに後退の指揮を取った。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "一方、ネイ元帥はカトル・ブラの交差路を守る少数のオラニエ公の部隊と対戦した。ネイが逡巡したためフランス軍の攻撃は遅れてイギリス・オランダ連合軍に兵力を増強する猶予を与えてしまい、オラニエ公はネイの攻撃を凌ぐことができた。やがて、増援の第一陣とウェリントン自身が到着し、ネイを後退させて夕刻までに交差路を確保したが、既にプロイセン軍はリニーの戦いで敗れており、彼らを救援することはできなかった(カトル・ブラの戦い)。プロイセン軍の敗北により、ウェリントンが守るカトル・ブラは非常に危険な場所となった。このため、翌日になって彼は北方へと退却し、この年の春に個人的に視察しておいた場所、モン・サン・ジャン(英語版)の低い尾根、ワーテルロー村とソワヌの森(英語版) の南に防御陣地を築いた。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "プロイセン軍はフランス軍に遮られることなく、恐らくは気付かれもせずにリニーから撤退した。後衛部隊の大部分は真夜中まで持ち場を守っており、一部は翌朝まで動いておらず、フランス軍に完全に見過ごされていた。ナポレオンは敗走したプロイセン軍は連絡線を辿って北東方向に退却すると考えていたが、プロイセン軍はウェリントンの進軍路と並行する北方に向かっており、支援可能な距離を保ち、終始連絡を取り合っていた。プロイセン軍はリニーの戦いに参加せず無傷のビューロー将軍の第4軍団が位置するワーヴル南方に集結した。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "かつてナポレオンは「私は戦陣に敗れることはあるかもしれないが、自信過剰や怠慢によって数分たりとも浪費することはない」と語っていたが、この戦役での彼は時間を浪費しがちだった。リニーで勝利したナポレオンは緩慢に時を過ごし、翌6月17日11時にようやく各隊に命令を下すと進発し、13時にカトル・ブラのネイの軍と合流をして英蘭軍を攻撃しようとしたものの、既に敵陣はもぬけの殻だった。フランス軍はウェリントンを追撃したが、ジュナップ(英語版)で騎兵同士の小競り合いが起こっただけで、その日の夜は土砂降りとなった。リニーを出立する際にナポレオンは右翼軍司令のグルーシー元帥に兵33,000をもってプロイセン軍を追撃するよう命じた。遅すぎる出発、プロイセン軍の針路が不明なこと、そして命令の意味が曖昧だったことで、グルーシーがプロイセン軍のワーヴル到着を阻止するには手遅れだった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "6月17日の終わりに英蘭軍はワーテルローに到着し、ナポレオン軍の本隊がこれに続いた。この頃、ブリュッヘルのプロイセン軍はワーヴルの町から東へ13kmの位置に集結していた。ラ・ベル・アリアンスで、ナポレオン率いるフランス軍72,000とイギリス・オランダ連合軍68,000と、ほぼ互角の勢力同士が対峙した。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "復位したナポレオンの戦略は英蘭軍とプロイセン軍を分断し、各個撃破することであった。ワーテルローの戦いに参加したナポレオンの北部方面軍(Armée du Nord)は72,000人で歩兵57,000、騎兵15,000、大砲250門からなっている。ナポレオンは政権を奪取すると18万人のルイ18世の軍隊に加えて緊縮財政のために長期休暇や非公式に除隊させられていた兵や1814年戦役で脱走していた者たちといった実戦経験のある兵をかき集めており、彼ら古参兵を中核に訓練未熟な新兵を合わせたものがワーテルローの戦いのナポレオンの軍隊だった。古参兵たちの士気は高く「前年の恥辱を晴らすべく、狂信的な熱意を示していた」と伝えられる。兵器は比較的充足していたが、多年の戦乱によって軍馬が著しく不足しており、馬術も不十分だった。この戦いのフランス軍騎兵は14個胸甲騎兵連隊、7個槍騎兵連隊からなっていた。", "title": "軍隊" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "この戦いの1年前の1814年のフランス戦役ではナポレオンは圧倒的に不利な状況の中、彼の最高傑作といわれる程の戦術的技量を示した。だが、この1815年戦役では肉体的な衰えを見せており、何よりも時間を浪費しがちで戦機を幾度も失っている。長年、ナポレオンの参謀総長を務めたベルティエがナポレオンの復位に馳せ参ぜずドイツで自殺しており、代わってスールト元帥が総参謀長に就任したことも打撃となった。スールトは優れた野戦指揮官であったが、参謀畑には不慣れであり、ナポレオンの簡潔にすぎかつしばしば意味不明瞭な命令を適確に解釈して完璧な命令文書に仕上げるベルティエの特別な能力も持ち合わせていなかった。この結果、スールトは幾度も不手際や意味不明瞭な命令文書伝達を繰り返し、その度にフランス軍の作戦行動を鈍らせている。戦後、ナポレオンはスールトを「よい参謀長ではなかった」と述懐している。", "title": "軍隊" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "北部方面軍の左翼を任され、ワーテルロー会戦では実戦指揮を執ることになるネイ元帥はナポレオンから「勇者の中の勇者」と呼ばれた歴戦の猛将であったが、ロシア遠征以後は移り気になり、気力の衰えを見せていた。前哨戦のカトル・ブラの戦いでは徒に逡巡して英蘭軍に決定的打撃を与える機会を逃している。ナポレオンもネイの戦略能力は低く評価していたが、ネイが兵士たちからカリスマ的人気を得ていたことが軍の一翼を任せた理由だった。", "title": "軍隊" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "", "title": "軍隊" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "英蘭連合軍を指揮したウェリントン公は半島戦争における歴戦の将軍であった。ウェリントンは自らの軍について「ひどい軍隊、とても弱く装備も劣り、参謀たちはまったく経験不足だった」と述べている。ワーテルローの戦いに参加した68,000人の彼の軍隊は歩兵50,000、騎兵12,000、砲兵6,000、砲156門で構成されていた。このうち24,000人がイギリス兵であり、6,000人は国王直属ドイツ人部隊(英語版)(King's German Legion:KGL)の兵士であった。イギリス軍の全員が正規兵であったが、半島戦争に従軍した古参兵は7,000人に過ぎなかった。これに加えて、17,000人のオランダ人とベルギー人の兵隊がおり、ハノーファー兵11,000、ブラウンシュヴァイク兵6,000、ナッサウ兵3,000からなっていた。", "title": "軍隊" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "連合軍兵士の多くが戦闘未経験だった。オランダ軍は先年のナポレオンの敗北を受けて1815年に再編されたものであった。スペインでの半島戦争に従軍したイギリス兵およびイギリス軍に加わった一部のハノーファー兵とブラウンシュヴァイク兵を除き、連合軍の職業軍人の多くがナポレオン体制下でフランス軍の同盟軍としてともに戦った経験を持っていた。ウェリントンは騎兵も不足しており、イギリス軍騎兵7個連隊、オランダ軍騎兵3個連隊しかいなかった。ヨーク公は自分の参謀将校の多くをウェリントンに押しつけており、この中には副司令のアックスブリッジ将軍も含まれる。アックスブリッジは騎兵を指揮しており、彼はウェリントンから指揮下の部隊の行動の自由を認められていた。ウェリントンは13km西方のハレ(英語版)に兵17,000を後置させており、この兵力は戦闘に参加させず、敗北した場合の退却援護として用いることになっており、オラニエ公の弟のフレデリックが指揮するオランダ兵であった。", "title": "軍隊" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "", "title": "軍隊" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "", "title": "軍隊" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "司令官のブリュッヘル元帥はライプツィヒの戦いでナポレオンを撃破した連合軍のうちのプロイセン軍を率いていた。参謀長のグナイゼナウ中将はプロイセンの軍制改革を推進した中心的人物である。", "title": "軍隊" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "プロイセン軍は困難な再編成の途上にあった。1815年時点で、以前の予備連隊、外人部隊そして1813年から1814年にかけて編成された義勇軍(Freikorps)は正規軍や多数の後備兵(ラントヴェーア:民兵)連隊に統合される過程にあった。ベルギーに到着した時点ではラントヴェーアのほとんどは未訓練かつ兵器も支給されていなかった。プロイセン軍の騎兵も同様の状態だった。砲兵隊も再編中であり、万全に行動しうる状態になく、砲や装備は会戦中そして後に到着する有り様だった。しかしながら、これらの不利も戦役中にプロイセン軍参謀部の見せた見事な指揮統率によって埋め合わされた。これらの将校は参謀教育のためにつくられた四つの学校の出身者であり、共通した基準の訓練を受け任務についていた。このシステムは、矛盾し曖昧な命令を発しがちだったフランス軍のそれとは対照的なものであった。この参謀システムによってプロイセン軍はリニーの戦いの前に僅か24時間で兵力の4分の3を集結することを可能にさせた。リニーの戦いの後も、プロイセン軍は敗北はしたものの補給段列を再調整し、自軍を再編成し、48時間以内にワーテルローの戦場に駆けつけることが可能であった。プロイセンの2個半の軍団48,000人がワーテルローの戦いに参戦した。ビューロー第4軍団長の率いる2個旅団が16時30分にロバウ(英語版)のフランス軍第6軍団に攻撃をかけ、ツィーテンの第1軍団とピルヒの第2軍団の一部は18時に来援した。", "title": "軍隊" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "", "title": "軍隊" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ワーテルローは要害堅固な場所だった。ここはブリュッセルに至る主要街道に対して垂直に切り立ち、かつ横切られている長い尾根が東西に走っていた。尾根の頂きに沿って深い窪んだ小道 (英語版) のオヘイン(英語版)道が通っている。ブリュッセル街道との交差点の近くには大きな楡の木があり、ここはウェリントンの布陣のほぼ中央に位置し、会戦中のほとんどの時間、この場所を本営とした。ウェリントンはオヘイン道に沿った尾根の頂の背後に歩兵を一線状に布陣させた。彼が過去の戦闘で幾度も行ってきたように、今回も反対斜面(英語版)を活用して敵軍から(散兵や砲兵を除く)自軍の兵力を隠した。戦場の幅は比較的狭く4kmであり、これによって彼はブレーヌ・ラルー(英語版)村までの範囲に布陣させた(プロイセン軍がこの日のうちに来援することになっている左翼を除く)中央および右翼の部隊に縦深を持たせることができた。", "title": "戦場" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "尾根の前面には陣地化が可能な三つの場所があった。右端にはウーグモン(英語版)の館と庭園そして果樹園があった。ここは広くしっかりした造りの邸宅であり、当初は木々で隠されていた。家の北側には窪んで隠された小道があり(イギリスでは「窪み道」(the hollow-way)と呼ばれている)、これを使って補給ができた。左端にはパプロットの小集落があった。ウーグモンとパプロットは陣地化されて守備兵が配置され、英蘭軍の側面を確保していた。パプロットはまた英蘭軍を救援に来るプロイセン軍が通るワーヴルへの道を見おろしていた。残りの英蘭軍の布陣の前面にあたる主要街道の西側にはラ・エー・サント(英語版)の農場と果樹園があり、国王直属ドイツ人部隊(英語版)(KGL)の軽歩兵400人が守備に置かれた。道路の反対側には閉鎖された砂坑があり、ここには第95ライフル連隊(英語版)が射撃兵として配置された。", "title": "戦場" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "これらの場所は攻撃側にとって厄介な障害となった。ウェリントンの右側面を攻撃すれば陣地化されたウーグモンからの攻撃を引き起こし、中央右側を進撃すればウーグモンとラ・エー・サントからの縦射 (英語版) に曝されることになる。中央左側からではラ・エー・サントと隣接する砂坑から縦射を受けることになり、左側面を突こうにも地面はぬかるんでおり、パプロット集落の通りや生け垣に配置された兵からの銃撃を受けることになる", "title": "戦場" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "フランス軍は南方の別の尾根の斜面に布陣した。ナポレオンは英蘭軍の布陣を視認することができず、ブリュッセル街道に対するかたちで布陣を行った。右翼はデルロン率いる第1軍団で歩兵13,000、騎兵1,300、予備騎兵4,700からなっていた。左翼はレイユ(英語版)の第2軍団で兵力は歩兵13,000、騎兵1,300、予備騎兵4,600であった。街道の南側、宿場ラ・ベル・アリアンス(英語版)の周辺にはロバウの第6軍団(兵6,000)、皇帝近衛隊(英語版)(歩兵13,000)そして予備騎兵2,000が置かれた。フランス軍の右翼後方にはプランスノワ(英語版)の集落があり、右端には「パリの森」(Bois de Paris)があった。当初、ナポレオンは戦場を見渡すことができるロッサム農場に本営を置いていたが、午後になってラ・ベル・アリアンスに移っている。(ナポレオンのいる場所からは見渡せなくなったために)戦場での統率はネイ元帥に委ねられることになった。", "title": "戦場" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ウェリントンは2時から3時頃に起床し、夜明けまで手紙を書いている。彼はブリュッヘルに対して「少なくとも1個軍団を送ってくれればモン・サン・ジャンで戦うが、そうでなければブリュッセルまで後退する」と書き送った。6時にウェリントンは自軍の布陣を視察した。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "その日の未明の軍議でブリュッヘルの参謀長グナイゼナウはウェリントンの作戦に対して不信感を示していたが、ブリュッヘルはウェリントンの軍を救援せねばならないと彼を説得した。ワーヴルでは、ビューローの第4軍団がワーテルローの戦場に向けて先発しており、この軍団はリニーの戦いに参加しておらず無傷の状態であった。もっとも、第4軍団は犠牲者は出ていなかったが、プロイセン軍のリニーからの撤退援護のための2日間に渡る行軍で疲労していた。彼らは戦場からはるか東方に位置しており、進軍は遅々としたものだった。前夜の豪雨によって道路の状態は悪く、ビューローの兵と88門の大砲はワーヴルの渋滞した道路を通らねばならなかった。ワーヴルでの戦闘が始まったことにより事態はさらに悪化し、ビューローの軍が通過する予定だった道のいくつかが閉鎖されている。しかしながら、10時には行軍も順調になり、この頃、先発した部隊は英蘭軍左翼から8kmのところまで進んでいた。ビューローの兵に続いて、第1軍団と第2軍団がワーテルローに向かった。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ナポレオンは前夜を過ごしたル・カイユー(Le Caillou)の館で朝食をとった。スールトがグルーシーの軍を呼び戻して本隊と合流させるべきではないかと意見具申をするとナポレオンは「卿はウェリントンに負け続けているから、彼を買い被っているのではないか。余に言わせれば、ウェリントンは愚将であり、イギリス人は弱兵だ。連中を打ち負かすなぞ朝飯前だ」と言い返した。しかしながら、このナポレオンのひどく侮蔑的な言葉を額面通りに取るべきではないだろう。彼の格言のひとつに「戦場においては士気がすべてである」という言葉があり、敵を称賛することは常に誤りであり、いたずらに自軍の士気を低下させることにつながる。実際、彼は過去のいくつもの会戦の前に士気を高揚させる演説を行っており、このワーテルローの戦いの前の朝も幕僚たちの悲観論や臆病に対処せねばならず、一部の将官たちからの執拗かつほとんど敗北主義的な反対論に対抗しなければならなかった。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "この後、ナポレオンは末弟のジェロームから、宿屋の給仕がジュナッペの旅館「キング・オブ・スペイン(King of Spain)」で食事をとったイギリス軍将校から漏れ聞いたプロイセン軍がワーヴルから行軍中であるという噂話が伝えられたものの、ナポレオンはプロイセン軍が再起するには少なくとも2日は必要であり、グルーシー元帥が対処するだろうと断言した。驚くべきことに、このジェロームの噂話を別にすると、この日のル・カイユーの軍議に出席したフランス軍の指揮官たちは誰もプロイセン軍が危険なほど近づいている情報を持っておらず、この僅か5時間後にワーテルローの戦場になだれ込むべく進発することを想像もしていなかった。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "戦闘開始は9時と計画されていたが、前夜の豪雨で地面が水浸しになり、騎兵と砲兵の移動が困難になっていたためナポレオンは戦闘開始を13時まで遅らせた。結果的には、この攻撃開始の遅延により、プロイセン軍の戦場への来援が間に合い、ナポレオンにとって致命的となった。10時、彼は6時間前にグルーシーから受けた急報への返信を発し、「(グルーシーの現在位置から南方の)ワーヴルへ向かい、(グルーシーから西方の)我々との接触を維持する場所に位置し」それからプロイセン軍を「押し出せ」と命じた。その内容は曖昧であり、グルーシーは合流すべきなのか独自の行動をすべきなのか分かりにくいものだった。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "11時にナポレオンは全体命令を発し、左翼はレイユ将軍の第2軍団で、右翼はデルロン将軍の第1軍団が担いモン・サン・ジャン村にある主要街道の十字路を確保することになった。この命令は英蘭軍の戦線は尾根ではなくその奥の村にあると想定していた。これを行うためにジェロームの師団がウーグモンへの先制攻撃を行い、ナポレオンは(ここを失えば海への連絡線が断たれるために)英蘭軍の予備兵力を誘い込むことができると見込んでいた。作戦は13時頃に第1、第2そして第6軍団の大砲列(grande batterie)が英蘭軍中央への砲撃を開始し、その後、デルロンの軍団が英蘭軍の左翼を攻撃して突破し、東から西に旋回して包囲する計画になっていた。ナポレオンの手記によれば、彼は英蘭軍をプロイセン軍から分断して海に叩き落とすことを企図していた。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "「ワーテルローの戦いにおける奇妙な事実はこの戦いがいつ始まったのか確証できる者が誰もいないことである」と歴史家アンドリュー・ロバートは述べている。ウェリントンは公文書で「10時頃にナポレオンが我が軍の拠点が置かれたウーグモンに対して熾烈な攻撃を仕掛けてきた」と記録している。その他の史料は11時30分に攻撃が始まったと述べている。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ウーグモンの館とその周辺は近衛軽歩兵4個中隊、果樹園と庭園はハノーファー軍猟兵およびナッサウ軍第2連隊第1大隊がおのおの守備についていた。ジェローム・ボナパルトの第6師団が攻撃の口火を切り、麾下のボードワン将軍の第1旅団が突入して果樹園と庭園の守備隊を駆逐したものの、指揮官のボードワンが戦死する。ジェロームは騎馬砲兵の支援のもとでソワイエ将軍の第2旅団を投入して攻撃を続けさせるが、イギリス軍王室騎馬砲兵の曲射砲の砲撃を受けて進撃が鈍ってしまう。フランス軍砲兵が前進して対砲兵射撃によって英軍砲兵が制圧されると、ソワイエは兵を進めて館の北門を打ち壊して内部に突入した。フランス兵の一部は中庭までたどり着くが、イギリス兵に門を奪回されて閉じ込められ全滅してしまった。ジェロームは主攻勢前の牽制攻撃の役割は果たしたのだが、なおも攻撃を続け、フォワ将軍の第9師団までこの戦いに巻き込み、一方、ウェリントンも第2近衛歩兵連隊と第3近衛歩兵連隊の一部をウーグモンに送り込んだ。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ウーグモンでの戦闘は午後いっぱい続いた。その周囲はフランス軍軽歩兵によって幾重にも取り囲まれ、連携した攻撃がウーグモン内の部隊に仕掛けられた。英蘭軍は館と北へ通じる窪み道を守った。午後になってナポレオンは砲撃によって家に火をかけるよう命じ、その結果、礼拝堂を除くすべての建物が破壊された。国王直属ドイツ人部隊のデュ・プラの旅団は窪み道の防御に差し向けられ、高級士官を欠いた状態でこの任務を果たさねばならなかった。最終的に彼らは英軍の第71歩兵連隊(英語版)の応援を受けた。アダム将軍のイギリス軍第3旅団はヒュー・ハケット(英語版)のハノーファー軍第3旅団によって増強され、レイユによって差し向けられたフランス軍歩兵および騎兵のさらなる攻撃を撃退することに成功した。結局、ウーグモンはこの会戦の間中、持ちこたえた。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ウーグモンでの戦いはもともとはウェリントンの予備兵力を誘引するための陽動攻撃であったものが終日の戦闘にエスカレートし、逆にフランス軍の予備兵力が消耗させられる結果となったとしばしば言われる。しかしながら、実際はナポレオンとウェリントンの双方がウーグモンの確保が会戦の勝利のカギであったと考えていたとする見方もある。ウーグモンはナポレオンから良く見渡すことができた場所であり、彼は午後の間中、兵力をこことその周辺に送り続けている(総計で33個大隊、14,000人)。同じようにウェリントンも、本来なら大兵力を収容することができないこの邸宅に21個大隊(12,000人)を投入し、窪み道を守り通せたため補充兵や弾薬を邸宅内の建物に供給し続けることができた。戦闘中、ウェリントンは敵軍からの激しい圧力を受けている中央部から砲兵隊を引き抜いてウーグモンを支援させており、後になって彼は「会戦の勝利はウーグモンの門を閉じ続けることにかかっていた」と述べている", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "フランス軍の大砲列(grande batterie)80門が中央部に整列した。砲撃の開始は英蘭軍第2軍団長ローランド・ヒル(英語版)によれば11時50分、その他の史料では正午から13時30分の間となっている。大砲列は正確な照準を付けるには遠すぎる位置に布陣しており、目視できたのはオランダ軍師団の一部だけであり、その他の英蘭軍の部隊は反対斜線に布陣していた。それでも砲撃は多大な損害を与えた。地面が軟弱で砲撃による跳弾効果が妨げられていたが、さらにフランス軍砲兵は英蘭軍の布陣全域をカバーせねばならず、砲撃の集弾性が低くなった。しかしながら、この時のナポレオンの命令は「敵を驚かせ、士気を萎えさせる」ことであり、敵に大きな物理的損害を出させることではなかった。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "およそ13時頃、ナポレオンはフランス軍右側面から4-5マイルほど(3時間程度の行軍距離)の場所にあるラスン=シャペル=サン=ランベール(英語版)村周辺にいるプロイセン軍の第一陣を目にした。ナポレオンは参謀長のスールトに対して「ただちに戦場に駆けつけプロイセン軍を攻撃せよ」との伝令をグルーシー元帥へ送るように命じた。だが、この時のグルーシーは「(プロイセン軍を追撃して)貴官の剣をもって敵の背後を突け」との以前のナポレオンの命令を遂行するためワーヴルに向かっており、6月18日の朝には決戦場のモン・サン・ジャンから20kmも離れた場所にいた。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "モン・サン・ジャンの方向からの砲声はグルーシーの司令部でも聞かれ、グルーシーは部下のジェラール(英語版)将軍から「砲声の方角へ進軍すべきです」との進言を受けていたが、彼は以前に受けた命令に固執してヨハン・フォン・ティールマン(英語版)中将率いるプロイセン軍第3軍団後衛部隊とのワーヴルの戦い(英語版)を始めた。このグルーシーの判断により、彼の麾下の33,000人ものフランス軍がワーテルローの戦いに参戦できなくなり、作家シュテファン・ツヴァイクは「世界の運命を決定した世界史的瞬間」と呼んだ。さらに不味いことに、13時にスールトがグルーシーに宛てた「直ちに移動して本隊と合流し、ビューローを叩け」とのナポレオンの命令を携えた伝令は道に迷い、19時になるまで到着しなかった。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "13時過ぎにデルロンの第1軍団が攻撃を開始した。左翼をキオ将軍の第1師団、中央をドンズロ(英語版)将軍の第2師団・マルコニェ将軍の第3師団そして右翼をデュリット将軍の第4師団が受け持ったが、第1・第2・第3師団は「大隊編成の師団縦隊」と呼ばれる密集隊形をとり、この隊形は戦術的融通性がなく敵砲兵の格好の的になった。デュリット将軍の第4師団のみは「分割された大隊縦隊」と呼ばれる縦深の深い隊形で進軍している。これは本来「分割」を意味していたdivision を「師団」の意味と取り違えた命令が司令部から伝達される不手際だったと考えられている。後に軍事学者ジョミニは第1軍団のこの隊形を「信じがたい」と酷評している。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ドンズロ将軍率いる左端の第2師団がラ・エー・サントに進撃した。1個大隊が正面の守備隊と交戦する間に後続の大隊が両側に展開し、いくつかの胸甲騎兵大隊の支援を受けつつ、農場の孤立化に成功する。ラ・エー・サントが分断されたと見たオラニエ公はハノーファー・リューネブルク大隊を投入してこれを救出しようと試みた。だが、地面の窪みに隠れていた胸甲騎兵がこれを捕捉して瞬時に撃破してしまい、それからラ・エー・サントを通り越して尾根の頂にまで進出し、進撃を続けるデルロンの左側面を守った。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "13時30分頃、デルロンは残る3個師団に前進を命じ、14,000人以上のフランス軍兵士が英蘭軍左翼の守るおよそ1,000mの戦線に展開した。彼らが対する英蘭軍は6,000人であり、第一線はバイラント(英語版)率いるオランダ=ベルギー軍第2師団第1旅団によって構成されていた。第二線はトマス・ピクトン(英語版)中将率いるイギリスおよびハノーファー兵の部隊であり、尾根の背後の死角に伏せていた。これらの部隊はいずれもカトル・ブラの戦いで大きな損害を出していた。加えて、戦場のほぼ中央部に配置されたバイラントの旅団は砲撃に身をさらす斜面前方に布陣していた。命令を受けていなかった彼らは危険な場所に留まっていた。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "砲撃によって大打撃を受けていたバイラントの旅団はフランス軍の攻撃に抗しきれずに窪み道へ退却し、将校のほとんどが戦死するか負傷し兵力の40%を失ってしまい、ベルギー第7大隊を残して戦場から離脱した。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "デルロンの兵は斜面を駆け上がり、そこにピクトンの兵が立ち上がって銃撃を浴びせた。フランス歩兵も応戦し、8,000対2,000と数に勝る彼らはイギリス兵を圧迫した。デルロンの攻撃は英蘭軍中央部をたじろがせることに成功し、デルロンの左側の英蘭軍戦列が崩れはじめた。ピクトンは再集結を命じた直後に戦死し、敵の数に圧倒された英蘭軍の兵士たちも挫けかけていた。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "この決定的な時点で、英蘭軍の騎兵軍団を指揮するアックスブリッジは過大な重圧を受けている歩兵部隊を救援すべく、敵から見えない尾根の背後で整列していた近衛騎兵旅団(Household Brigade)の名で知られる第1騎兵旅団(英語版)(エドワード・サマセット少将)と連合騎兵旅団(Union Brigade)の名で知られる第2騎兵旅団(英語版)(ウィリアム・ポンソビー(英語版)少将)の2個重騎兵旅団に突撃を命じた。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "およそ20年におよぶ戦乱により、ヨーロッパ大陸では騎乗に適した馬が激減しており、この結果、1815年戦役に参加したイギリス軍重騎兵は同時代の欧州諸国の騎兵部隊の中でも最も優れた馬を用いており、彼らはまた優れた馬上剣術の訓練を受けてもいた。しかしながら、彼らは大部隊での機動についてフランス騎兵に劣り、態度は尊大であり、歩兵と違って実戦経験が不足していた。ウェリントンの言によれば、彼らは戦術能力も思慮分別もほとんどなかった。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2個の騎兵旅団の兵力はおよそ2,000騎(定数2,651騎)であり、47歳になるアックスブリッジが率いていたが、彼は不適切な数の予備兵力しか用意しておかなかった。会戦の日の朝、アックスブリッジは配下の騎兵旅団長たちに対して戦場では自分の命令が常に届くとは限らないので、おのおの自らの判断で行動するよう告げ、「前線に対して支援する運動をせよ」と命じていた。この際、アックスブリッジはヴァンドルー少将、ヴィヴィアン少将そしてオランダ=ベルギーの各騎兵隊がイギリス重騎兵隊を支援することを期待していた。後にアックスブリッジは前進に際して十分な数の予備隊を編成させなかったことに関して「私は大きな誤りを犯した」と後悔の念を吐露している。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "近衛騎兵旅団は尾根の頂の連合軍布陣地を越えて丘の下へと突撃した。デルロンの左翼を守っていた胸甲騎兵は散開しており、深く窪んだ街道へと追いやられ、総崩れになった。窪み道は罠と化し、イギリス軍騎兵に追われた胸甲騎兵たちを彼らの右方向へと押し流した。胸甲騎兵たちの一部は窪み道の急勾配と前方の混乱した友軍歩兵の集団との間に挟まれてしまい、そこへ英軍第95歩兵連隊が窪み道の北側から銃撃をし、サマセットの重騎兵が背後から彼らを押し続けた。この装甲化した敵とのもの珍しい戦闘はイギリス騎兵たちに強い印象を与えており、近衛騎兵旅団長はこう記録している。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "近衛騎兵旅団左翼の大隊は戦闘を続け、フランス軍第2師団第2旅団(オーラール少将)を撃破した。司令部は彼らを呼び戻そうと試みたものの、彼らは前進を続けてしまい、ラ・エー・サントを通り過ぎて丘の下に出たところで方陣を組む第1旅団(シュミット少将)と出くわした。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "左翼では連合騎兵旅団が自軍の歩兵の隊列をすり抜けて突撃しており、この際に第92歩兵連隊(英語版)(Gordon Highlanders)の兵士の幾人かが馬の鐙金にしがみついて突撃に参加したとの伝説が生まれている。中央左側では第2竜騎兵連隊(Scots Greys)が第1師団第2旅団(ブルジョワ少将)の第105連隊を撃破して鷲章旗を奪取した。第6竜騎兵連隊(Inniskillings)はその他のフランス軍第1師団(キオ少将)の旅団を敗走させ、第2竜騎兵連隊は第3師団第2旅団(クルニエ少将)も叩きのめして第45連隊の鷲章旗を奪い取っている。だが、英蘭軍の左端ではデュリット(英語版)将軍のフランス軍第4師団が方陣を組む時間的余裕を得て、第2竜騎兵連隊を追い払った。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "近衛騎兵旅団と同様、連合騎兵旅団の将校たちも部隊の統率が失われていたために兵を引くことが難しくなっていた。第2竜騎兵連隊の指揮官ジェームズ・ハミルトン(英語版)は攻撃続行を命じ、フランス軍砲兵隊列に突進した。第2竜騎兵連隊は大砲を使用不能にしたり鹵獲する道具も時間的余裕もなかったが、彼らが砲兵たちを殺すか逃亡させたため結果的に大砲のほとんどが無力化された。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "この様子を見ていたナポレオンは即座にフラリンヌとトラバーサーの2個胸甲騎兵旅団そして第1軍団の軽騎兵師団に所属する2個槍騎兵(Chevau-léger)連隊に反撃を命じた。イギリス軍騎兵はすでに疲労困憊しており、そこをフランス騎兵に突かれ、連合騎兵旅団は叩きのめされ、近衛騎兵旅団は包囲され、たちまち危機に陥った。ウェリントンはヴァンドルー少将率いるイギリス軍軽竜騎兵隊、ヴィヴィアン少将のオランダ=ベルギー軽竜騎兵および驃騎兵そしてトリップ少将のオランダ=ベルギー騎銃兵(英語版)を救出に差し向けたが、英蘭軍の騎兵隊はこの突撃で2,500騎を失う甚大な被害を蒙ることになった。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "連合騎兵旅団は将校と兵士が多数戦死傷し、旅団長のウィリアム・ポンソビーと第2竜騎兵連隊長のハミルトン大佐が戦死している。近衛騎兵旅団の第2近衛騎兵連隊(Life Guards)と近衛竜騎兵連隊もまた近衛竜騎兵連隊長フラー大佐の戦死を含む大損害を出した。 この一方で突撃の最右翼にいた第1近衛騎兵連隊(Life Guards)と予備に控置された王室近衛騎兵連隊(Blues)は統率を保つことができ、犠牲者数はごく少数だった。第8ベルギー軽騎兵連隊の戦いぶりを見た、この突撃の目撃者による手記は「気違いじみた勇敢さ」と回想している", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "20,000以上のフランス軍将兵がこの攻撃に加わった。この失敗は多数の犠牲者(捕虜3,000を出している)だけでなく、ナポレオンに貴重な時間を失わせることになり、今やプロイセン軍が戦場の右手に姿を現し始めていた。ナポレオンはプロイセン軍を押し止めるべく、ロバウの第6軍団と2個騎兵師団の兵15,000の予備兵力を割かざる得なくなった。これにより、ナポレオンは近衛軍団を除く予備の歩兵戦力を全て投入したことになり、今や彼は劣勢な兵力をもって英蘭軍を速やかに打ち破らねばならなくなった。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "15時30分、ナポレオンはネイ元帥に対してラ・エー・サントの奪取を厳命し、ネイはデルロンの第1軍団から引き抜いた2個旅団の兵力を持ってラ・エー・サントへの攻撃を開始した。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "この戦闘が行われていた16時少し前、ネイは英蘭軍中央部に後退の動きがあると感じ取った。彼はこの機を逃さず突破口にしようと考えたが、実際には彼は負傷兵や捕虜の後送を撤退の兆候であると誤解していた。デルロンの敗退の後、ネイの手元には僅かな数の歩兵予備戦力しか残されておらず、他は実りのないウーグモン攻撃か、右翼の防衛に回されていた。このためネイ元帥は英蘭軍中央部を騎兵戦力のみで突破しようとした。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "第一次攻撃はミヨー(英語版)将軍の第4騎兵軍団の胸甲騎兵とデヌエット(英語版)将軍の近衛軽騎兵師団の合わせて4,800騎をもって敢行された。この攻撃はあまりに性急に組織されたものであり、掩護の歩兵も砲兵もなく決行された。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "英蘭軍の歩兵は20個の方陣(四角形の陣形)を組んでこれに対抗した。方陣は戦闘を題材とした絵画によく描かれるものよりも小さめで、500人の大隊方陣は18m四方程度である。方陣は砲撃や歩兵に対しては脆弱だが騎兵にとっては致命的だった。方陣には側面攻撃ができず、馬は銃剣の矢ぶすまの中に突入できない。ウェリントンは砲兵に対して敵騎兵が近づいたら方陣の中に逃げ込み、敵が退却したら再び大砲に戻り戦うように命令していた。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "フランス軍騎兵の攻撃を目撃したイギリス軍近衛歩兵将校はその印象を非常に明快かつ幾分か詩的に書き残している。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "このタイプの騎兵による集団攻撃は心理的衝撃効果の有無にほとんど完全に依存していた。砲兵による近接支援が歩兵の方陣を崩して騎兵の突入を可能にするが、ワーテルローの戦いにおいてはフランス軍騎兵と砲兵の協同は拙劣なものだった。英蘭軍歩兵を叩ける距離まで近づいた砲兵の数は十分ではなかった。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "この突撃に際してフランス軍の砲撃は英蘭軍に死傷者を出させた。イギリス軍は稜線の内側に後退していたので、フランス軍砲兵士官は稜線上からイギリス軍を視認することが出来、効果的に砲撃を行ったためである。もしも、攻撃を受けた歩兵が方陣防御の陣形をしっかり保ち、パニックに陥らなければ、騎兵それ自体では歩兵に対してほんの僅かな被害しか与えられない。フランス軍騎兵の突撃は不動の歩兵方陣によって繰り返し撃退され、イギリス砲兵の絶え間ない砲撃によってフランス騎兵は再編成のために斜面を下ることを強いられ、そしてイギリス軍軽騎兵連隊、オランダ軍重騎兵旅団そして近衛騎兵旅団の生き残りによる果断な反撃を受けることになった。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "少なくとも一人の砲兵士官は突撃を受けたときに最寄りの方陣に逃げ込めとのウェリントンの命令に従わなかった。王室騎馬砲兵(Royal Horse Artillery)のマーサー大尉(英語版)は両側で方陣を組むブラウンシュヴァイク兵は当てにならないと考え、この戦闘の間中、9門の6ポンド砲を敵に向けて戦い続け、多大な戦果をあげた。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "理由は定かではないが、フランス軍が英蘭連合軍の砲兵隊列を制圧しても、砲尾に穴を開けて使用不能にしておかなかった。そのため、方陣に逃げ込んでいた英蘭軍砲兵たちはフランス騎兵が撃退されると大砲のあった場所に戻り、再び彼らに砲撃を浴びせることができた。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ネイは4度の突撃を敢行させたが、遂に英蘭軍の方陣を突破することはできなかった。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ナポレオンはネイの攻撃は時期尚早にすぎ失策であるとは思っていたが、一方でプロイセン軍が右側面から迫っている状況でもあり、まずは早急に英蘭軍を撃破すべきであり、中央部への攻撃を続行させる決断をした。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ミヨーとデヌエットの残存兵力にケレルマン将軍の第3騎兵軍団とギヨー(英語版)将軍の近衛重騎兵師団が加えられ、総兵力は67個騎兵大隊9,000騎となった。この攻撃は無意味であると認識していたケレルマンは精鋭の銃騎兵旅団を予備として控えさせ、戦闘に参加させなかったが、このことを見抜いたネイが彼らの投入を要求している。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "8度の突撃が行われ、ある方陣は23度も攻撃を受けたが、今回も砲兵は1個中隊しか加わっておらず、英蘭軍は一つの方陣も崩壊せず、ネイの攻撃はまたも頓挫した。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "被害の大きい、だが実りのない攻撃がモン・サン・ジャン尾根に繰り返された末にフランス軍騎兵は消耗し尽くしてしまった。フランス軍の高級騎兵将校、とりわけ将官は大きな損失を被った。勇敢さゆえ、そして指揮官が部隊の先頭に立つ習慣のために、フランス軍の師団長4人が負傷し、旅団長は9人が負傷し、1人が戦死した。死傷者数は簡単には見積もれないが、例として、6月15日時点で796人いた近衛擲弾騎兵連隊(Grenadiers à Cheval )は6月19日には462人になっており、近衛竜騎兵連隊(l'Impératrice Dragons)は同じ期間に816人中416人を失った。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ここに至り、騎兵単独では僅かしか成し得ないと、ネイ元帥もようやく悟った。遅まきながら彼は諸兵科連合での攻撃を組織することにし、レイユ将軍の第2軍団からバシュルュ将軍の第5師団とフォワ将軍の第9師団からティソ大佐の連隊を抽出させて兵6,500を集め、これに騎兵のうち未だに戦闘可能なものたちを加えさせた。今回の攻撃もそれまでの重騎兵による攻撃と同じ経路が用いられた 。この攻撃はアックスブリッジ率いる近衛騎兵旅団によって止められた。だが、イギリス騎兵の攻撃はフランス軍歩兵を突破することができず、銃撃の損害により後退を強いられている。バシュルュとティソの歩兵と彼らを支援する騎兵たちは砲撃とアダム将軍のイギリス軍第3旅団の銃撃にひどく叩かれ、後退を余儀なくされた。フランス騎兵自体は英蘭軍中央部に僅かな死傷者しか与えられなかったが、方陣に対する砲撃は多数の犠牲者を出させていた。最左翼に布陣していたヴァンドルーの第4騎兵旅団とヴィヴィアンの第6騎兵旅団を除く、英蘭軍の騎兵はこの戦闘に投入されて、多大な損害を受けていた。英蘭軍にとっても危険な状態であり、カンバーランド驃騎兵連隊(この戦いに参加した唯一のハノーファー騎兵)は戦場から逃げ出し、ブリュッセルまでの道中で敗戦の噂をまき散らしている", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "ネイの諸兵科連合攻撃が決行されたと時を同じくして、デルロンの第1軍団も兵を集結させ、第13歩兵連隊を先鋒にラ・エー・サントへの攻撃を再開した。ラ・エー・サントは国王直属ドイツ人部隊(KGL)が守備していたが、英蘭軍は他の方面での戦闘に忙殺されてここへの弾薬の補給が滞っており、フランス軍の猛攻を受けた国王直属ドイツ人部隊は支えきれずに退却し、400人いた兵士は僅か42人に減っていた。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ラ・エー・サントを占領したネイは騎馬砲兵を英蘭軍中央部に向けて移動させると歩兵の方陣に対して短射程のぶどう弾を用いた砲撃を加えた。これによって目に付きやすい方陣を組んでいた第27歩兵連隊(Inniskilling)そして第30および第73歩兵連隊は多数の犠牲者を出して撃破された。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "この時、英蘭軍の中央部は危険なほど手薄になっており、もう一撃でネイは中央部を突破しえるところまで来たが、彼にはそれを実行する予備兵力がなかった。ネイはナポレオンの本営に増援を求めたものの、この時すでにプランスノワでプロイセン軍との戦闘が始まっている状況でありその余裕はなく、使者に対してナポレオンは「もっと兵隊をよこせだと!?どこからそんなものが手に入る?奴は私が兵士をつくれるとでも思ってるのか?」と言い放った。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "実際にはナポレオンの手元には皇帝近衛軍団の15個大隊の無傷の兵力が残されていたが、彼はこの最後の予備戦力を投入する決断ができなかった。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ウェリントンは兵力をかき集めて戦線の穴を塞ぐよう努め、「最後の一兵まで戦場に踏みとどまれ、今少しで救済は得られる」と兵を叱咤した。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "16時頃、ビューロー中将のプロイセン軍第4軍団がフランス軍の前哨部隊と接触し始めた。彼の目標はプランスノワであり、プロイセン軍はここをフランス軍の背後に回り込む跳躍台に使うことを計画していた。ブリュッヘル元帥はパリの森の道を通過する自軍の右側面を守るためにフリシェルモンの集落を確保することを考えている。ブリュッヘルとウェリントンはこの日の10時から連絡を取り合っており、もしも英蘭軍の中央部が攻撃されていたら、フリシェルモンへ進出することになっていた。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "プランスノワへの道が空いているとビューロー将軍が気づいたのは16時30分のことだった。この時はフランス軍騎兵による攻撃が最高潮に達しており、英蘭軍の左側面を守るナッサウ軍と連携すべくフリシェルモン=ラ・エイ間の地域へ第15旅団が派遣された。ナポレオンはプランスノワへ向けて進軍中のビューローの第4軍団を迎撃すべく、ロバウ将軍の第6軍団を差し向けた。プロイセン軍第15旅団は決死の銃剣突撃でフリシェルモンにいたロバウの兵を追い払い、そのままフリシェルモンの高地に進出して12ポンド砲でフランス軍猟兵を打ちのめすとプランスノワへ向かった。これによってロバウの軍団はプランスノワ方面へ退却させられ、結果的にロバウはフランス軍の右翼後方を通り過ぎることになり、唯一の退却路であるシャルルロワ―ブリュッセル街道が直接脅かされることになる。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ヒラー将軍のプロイセン軍第16旅団もまた6個大隊をもってプランスノワへと進撃していた。ナポレオンは押しまくられているロバウへの増援として新規近衛隊の全力である8個大隊を送った。新規近衛隊は反撃を行い、激戦の末にいったんはプランスノワを確保したものの、プロイセン軍の逆襲を受けて駆逐されてしまう。ナポレオンは更に中堅近衛隊と古参近衛隊から2個大隊を派遣し、熾烈な銃剣戦闘の末に村を奪回した。頑強なプロイセン軍は未だ打ち倒されてはおらず、18時30分にはピルヒの第2軍団の兵15,000も来着し、ビューローの第1軍団主力とともにプランスノワ攻撃を準備した。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "18時頃、ツィーテン将軍の第1軍団20,000がオアンに到着した。ウェリントンとの連絡将校を務めるミュッフリンクが第1軍団のもとを訪れた。この時、ツィーテンは既に第1旅団を繰り出していたが、英蘭軍左翼のナッサウ軍部隊やプロイセン軍第15旅団の戦いぶりと犠牲者数を見て憂慮するようになっていた。これらの部隊は退却しているように見受けられ、自分の部隊が総崩れに巻き込まれるのではないかと恐れたツィーテンは英蘭軍の側面から離れてプロイセン軍の主力がいるプランスノワへ向かおうとしていた。この動きを知ったミュッフリンクは英蘭軍の退却は事実無根であり、彼らの左翼を支援するようツィーテンを説得した。ツィーテンは当初の方針通りに英蘭軍を直接支援することにし、彼の軍団の到着により、ウェリントンは左翼の騎兵を崩壊しかけていた中央へ振り向けることができた。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "第1軍団はパプロット前面でフランス軍を攻撃し、19時30分にはフランス軍の戦線は馬蹄型へねじ曲げられてしまう。戦線の左端はウーグモン、右がプランスノワ、中央はラ・エイとなった。一連の攻撃を受けたデュリュットのフランス軍第4師団はラ・エイとパプロットに陣取っていたが、プロイセン軍第24連隊に抵抗することなくソムランの背後にまで後退した。第24連隊は新たなフランス軍の布陣地を攻撃したが撃退され、シュレジェン・ライフル兵(Schützen )連隊と第1後備兵(Landwehr)連隊の支援を受けて再度攻撃を仕掛けた。この再攻撃を受けフランス軍はいったんは後退させられたものの、激しく抵抗し始め、ソムラン奪回を図り、尾根やパプロットの集落の最後の数軒に立て籠もって死守した。第24連隊は右側でイギリス軍ハイランダー大隊と結びつき、第13後備兵連隊や騎兵の支援を受けてこの場所からフランス軍の兵士を追い立てた。第13後備兵連隊と第15旅団の攻撃により、フランス軍はフリシェルモンから駆逐された。デュリュットの師団はツィーテンの第1軍団騎兵予備から大規模な突撃を受けかねないと考え、戦場から退却した。これにより、第1軍団はフランス軍の唯一の退路だったブリュッセル街道へ前進した。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "この一方、ラ・エー・サントが陥ちたことで英蘭軍中央部がむき出しになり、プランスノワの戦線は一時的に小康を得た。ナポレオンはこれまで無敵を誇ってきた皇帝近衛隊の投入を決めた。19時30分に決行されたこの攻撃は英蘭軍の中央を突破してその戦線をプロイセン軍から引き離すことにあった。この突撃は軍事史上名高い出来事の一つではあるが、具体的にどの部隊が参加したのかは不明確である。この攻撃は古参近衛隊の擲弾兵や猟歩兵ではなく、中堅近衛隊5個大隊によって行われたと見られる。古参近衛隊3個大隊は前進し、攻撃の第二陣を構成したものの、彼らは予備のまま留め置かれ英蘭軍に対する攻撃には直接加わっていない。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "ぶどう弾による砲撃や散兵からの銃撃を受けつつ、およそ3,000の中堅近衛兵はラ・エー・サントの西側にまで前進し、攻撃のために三方向に別たれた。2個中堅近衛擲弾兵大隊からなる集団はイギリス、ブラウンシュヴァイクそしてナッサウ兵からなる第一線を突破し、比較的損害の少ないシャッセ(英語版)将軍のオランダ=ベルギー軍第3師団が彼らに対するべく差し向けられ、英蘭軍の砲兵が勝ち誇る中堅近衛擲弾兵の側面を攻撃した。これでもなお中堅近衛隊の前進を止められなかったために、シャッセは自らの第1旅団に数に劣る中堅近衛隊に対する突撃を命じ、中堅近衛隊はひるみそして粉砕された。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "西側ではメイトランド(英語版)少将のイギリス軍第1近衛旅団1500人がフランス軍の砲撃から身を守るために伏せていた。フランス軍第二波である2個中堅近衛猟歩兵大隊が接近するとメイトランドの近衛歩兵は立ち上がり、猛烈な一斉射撃を浴びせた。中堅近衛隊の猟歩兵はこれに応戦すべく展開したが、浮き足立ち始めた。イギリス軍近衛歩兵隊による銃剣突撃がこれを打ち破った。無傷の近衛猟歩兵大隊からなる第三波が支援のために駆けつけた。イギリス軍近衛兵は後退し、フランス軍の中堅近衛猟歩兵がこれを追うが、ジョン・コルボーン(英語版)中佐率いる第52軽歩兵連隊(英語版)が彼らの側面に回りこみ強烈的な射撃を浴びせかけ、突撃した。この猛攻により、フランス軍第三波も撃破された。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "最後の皇帝近衛隊が一目散に退却すると、フランス軍の前線に仰天すべき知らせが駆け巡り、パニックが巻き起こった。「近衛隊が退却した。我が身を守れ!」( \"La Garde recule. Sauve qui peut!\" )。一方、愛馬のコペンハーゲン号に跨ったウェリントンは帽子を頭上に振って総進撃を命じ、「始めたからにはやり通せ」(\"In for a penny, in for a pound\")と言った。陣地から飛び出した彼の軍隊は、退却するフランス軍に襲いかかった。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "生き残った皇帝近衛隊の兵士たちは最後の抵抗の場所 (英語版) とすべく予備としてラ・エー・サント南側に後置されていた3個大隊(いくつかの史料は4個としている)のもとに集まった。アダム(英語版)少将の第3旅団とハノーファー軍後備兵連隊オスナブリュック大隊に加えてヴァンドルー少将とヴィヴィアン少将の比較的傷が浅い騎兵旅団が右側から突撃し、皇帝近衛隊を混乱に陥れた。ある程度統率を保っていた左側の皇帝近衛隊はラ・ベル・アリアンスの方向へ退却した。この退却のさなか、皇帝近衛隊の一部が降伏を勧告され、有名な返答をしている。皇帝近衛隊の指揮官は「近衛兵は死ぬ。降伏などしない!」(\"La Garde meurt, elle ne se rend pas!\")またはただ一言「くそったれ!」(\"Merde!\")と叫んだという。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "同じ頃、プロイセン軍第5、第14そして第16旅団がこの日三度目となるプランスノワへの攻撃を開始した。村の教会は炎上し、フランス軍の抵抗の中心となっていた墓地では「竜巻が起きたよう」に死体が撒き散らされた。新規近衛隊を支援するために中堅近衛隊5個大隊が展開したものの、実際上、彼らの全てがロバウの軍団の残余とともに防戦を行っていた。プランスノワ攻防の要は南側にあるシャトレの森であり、ピルヒの第2軍団に所属する2個旅団が到着して、この森を突破しようとする第4軍団を増強した。プロイセン軍第25連隊マスケット銃大隊は第1古参近衛擲弾兵連隊第2大隊をシャトレの森から逐うとプランスノワの側面を攻撃し、フランス軍に退却を強いた。これはこの日、プランスノワの持ち主が変わる5度目にして最後のことだった。古参近衛隊は整然と退却したが、パニック状態で退却する友軍の群れに巻き込まれて、彼らもその一部となってしまった。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "プロイセン第4軍団がプランスノワを越えて前進するとイギリス軍の追撃を受けて無秩序に敗走するフランス軍の群れに遭遇した。プロイセン軍は英蘭軍部隊にあたることを恐れて発砲を控えた。皇帝近衛隊とともに退却しなかったフランス軍部隊は持ち場で降伏して殺害され、その際、双方とも慈悲を求めも申し出もしなかった。プランスノワの攻防の死傷者数に関する資料は存在しないが、この戦いに参加したフランス軍第6軍団と新規近衛師団の将校のうち3分の1が死傷していることが戦いの激しさを物語っている。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "今やフランス軍の右翼と左翼そして中央はすべて瓦解した。ラ・ベル・アリアンスに布陣している古参近衛隊の2個大隊が未だ統制を維持している最後のフランス軍であり、彼らは最後の予備兵力そしてナポレオンの護衛として残されていた。ナポレオンはフランス軍を彼らの背後で再集結させようと望んだが、後退は敗走となり、古参近衛隊もまた撤退を余儀なくされ、連合軍の騎兵隊からの防御のためにラ・ベル・アリアンスの両側に1個大隊づつが方陣を組んだ。もはやこの戦いには敗れており、ここを去るべきだと説得されたナポレオンは皇帝近衛隊の方陣にここの宿場を離れるよう命じた。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "アダム少将の第3旅団が突撃をかけて皇帝近衛隊の方陣は後退を余儀なくされ、プロイセン軍はその他の部隊と交戦した。夕闇が降りるとともに二つの方陣は比較的整然と撤退したが、フランス軍の大砲やその他の装備は連合軍の手に落ちた。撤退する皇帝近衛隊は何千人もの逃げ惑い支離滅裂となったフランス軍兵士たちの群れに飲み込まれた。追撃は比較的消耗の少ないプロイセン軍が受け持ち、プロイセン軍参謀長グナイゼナウは「月光下の狩猟」と称して、夜更けまで敗残兵たちを追い回した。追撃戦でフランス軍の大砲78門が鹵獲され、多数の将軍を含む2,000人が捕虜になっている。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "ウェリントン公とブリュッヘル元帥との会見は21時頃にナポレオンの本営があったラ・ベル・アリアンスで行われた。ブリュッヘルはこの戦いをナポレオンの本営があった戦場の中心地であり、両軍の「同盟」(alliance)の意味にもかけた「ラ・ベル・アリアンスの戦い」(直訳すると「良き同盟の戦い」)と命名したいとウェリントンに通達したが、ウェリントンは英語での発音を気にかけて戦場とはやや離れた場所にあるワーテルロー村(英語の発音はウォータールー)の地名に拠るワーテルローの戦い(Battle of Waterloo)と命名して報告書を本国に送った。このため、ドイツではこの戦いはラ・ベル・アリアンスの戦い(Schlacht bei Belle-Alliance)とも呼ばれる。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "ワーテルローの戦いでウェリントンの英蘭軍は戦死傷約17,000人・行方不明10,000人を出しており、ブリュッヘルのプロイセン軍のそれは約7,000人であり、そのうち810人はフリシェルモンとプランスノワの両方の攻防戦に参加したビューローの第4軍団に所属する第18連隊のみから出ており、連隊は33個もの鉄十字章を得ている。ナポレオンのフランス軍は約40,000人の死傷・捕虜・逃亡を出し、砲220門を失った。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ナポレオンから受けていた命令を遵守したグルーシー元帥はティーレマン将軍のプロイセン軍をワーヴル(英語版)で撃破し、6月19日の10時30分に整然と撤退できたが、その代償は33,000人のフランス軍将兵がワーテルローの主戦場に来着できなかったことであった。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "ナポレオンはシャルルロワを経てフィリップヴィルまで逃れ、そこから留守政府を預かる元スペイン王の兄ジョゼフ・ボナパルトに楽観的な内容の報告書を送り、軍隊の再建を指示したが、彼の命運はすでに尽きていた。6月20日にナポレオンは幕僚に促され、軍隊を置き去りにしてパリに帰還したが、プロイセンの軍事学者クラウゼヴィッツはこれを大きな誤りだったと非難している。ナポレオンはなお政権維持に希望を持ち、議会を解散して独裁権を獲得しようと画策したが、議会はこれに反対して国家反逆罪にあたるとナポレオンを非難し、ついには退位をも要求しはじめた。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "一方、ウェリントンは6月19日に戦闘の詳細について報告する急報を本国に送り、6月21日に到着して翌22日にロンドン・ガゼッタ紙で告知された。ワーテルローの戦いの帰趨はロンドンの株式市場も注視しており、カトル・ブラの戦いの敗報によってコンソル公債は下落していたが、ワーテルローの勝報をいち早く手に入れた銀行家ネイサン・メイアー・ロスチャイルドはすぐに買いを入れずに意図的に公債を投げ売りして暴落させ、二束三文になったところで大量買いをし、そして公式な報道により大暴騰したあとで、高値で売った。後に「ネイサンの逆売り」と呼ばれる株式売買でロスチャイルド家は巨額の利益を獲得した。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "ウェリントン公とブリュッヘル元帥そしてその他の連合国軍はパリへ向けて進撃した。6月24日、ナポレオンは2度目の退位(英語版)を宣言し、フーシェを首班とする臨時政府がつくられた。7月3日、ナポレオン戦争の最後の会戦としてイシーの戦い(英語版)が起こり、ナポレオンに戦争大臣に任命されていたダヴーがブリュッヘルのプロイセン軍に敗れている。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "ナポレオンは北アメリカへ逃亡を図るが、イギリス海軍はこの動きを予見しておりフランスの港を封鎖していた。結局、ナポレオンは7月15日にイギリス海軍の戦列艦ベレロフォン号のメイトランド(英語版)艦長に投降した。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "一部のフランス軍要塞は降伏を拒んでおり、9月13日にロンウィが降伏して、すべての抵抗が終わった。11月20日に連合国とフランスとの間でパリ条約が締結されルイ18世が復位した。ナポレオンはイギリスのプリマスへの上陸を求めたが、ヨーロッパの混乱の元凶はナポレオンにあるとされ、ベルトラン、モントロン、グールゴの3人の将軍とともにセントヘレナ島に流されて1821年5月5日に死去した。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "王党派が復帰したフランスではナポレオンの部下たちに対する報復が行われた。ネイ元帥は12月に銃殺刑となり、参謀長のスールト、戦争大臣のダヴーの両元帥をはじめ30人以上の将官が投獄または流刑に処されている。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "イギリスではこの戦いの後、ウォータールー(Waterloo)の単語はスラングとして英語の語彙に組み込まれ、「惨敗」の喩えとなった。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "皇帝近衛隊の擲弾兵を撃破した(実際には猟歩兵部隊だった)イギリス軍第1近衛旅団所属第1近衛歩兵連隊(ヘンリー・アスキン中佐)はその功績が認められて「擲弾兵近衛連隊」(Grenadier Guards)の称号が与えられ、擲弾兵の様式の毛皮製高帽が採用された。イギリス近衛騎兵旅団もフランス軍の胸甲騎兵を撃破した功績が認められて1821年に胸甲の使用が認められた。この戦いに参加した者たちに槍騎兵の有効さが印象づけられ、その後、ヨーロッパ中で採用されるようになり、1816年にイギリス軍は軽騎兵4個連隊を槍騎兵に改編させている。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "戦後、ウェリントンは軍の重鎮となって陸軍総司令官に2度就任し、政治家としても要職を歴任して外交使節としても活動しており、首相を2度務めている(任期:1828年 - 1830年、1834年 - 1834年)。英蘭軍の騎兵部隊を任されたアックスブリッジは会戦の終盤に負傷して片脚を失ったが、その後は要職を歴任し1846年に元帥に叙された。また、英蘭軍第1軍団長を務めたオラニエ公は1840年にオランダ王ウィレム2世として即位している。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "この会戦中戦場を駆け巡ったウェリントンの幕僚のほとんどが死傷しており、その一人でウェリントンの秘書官を務めていたラグラン男爵フィッツロイ・サマセットは、この戦いで右腕を負傷し切断を余儀なくされた(ラグラン袖は彼の失われた右腕に合わせて作られたものである)。彼は後に陸軍最高司令官となり、クリミア戦争(1853年 - 1856年)の総指揮を執ることになる。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "1848年に開業したロンドンの複合ターミナル駅であるウォータールー駅(ワーテルローの英語読み)はワーテルローの戦いが由来である。1994年に英仏海峡トンネルが完成し、パリとロンドンを結ぶ高速列車ユーロスターが運行を開始した際、ロンドン側ターミナルが皮肉にもここであった。このため、フランス側は、幾度となく駅の改名や変更を求めている。2007年にはイギリス国内の高速新線が完成し、ターミナルもセント・パンクラス駅に変更された。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "プロイセン軍司令官のブリュッヘル元帥は既に高齢であり、この年のうちに退役し、1819年に77歳で死去した。プロイセン軍に参謀本部組織を確立させこの戦いでも参謀長として重要な役割を果たしたグナイゼナウ中将は後に元帥に列せられたが、進歩的な考えの彼はプロイセンの保守的な体質によって戦後は権力からは遠ざけられている。『戦争論』で知られるプロイセン軍のクラウゼヴィッツはこの戦役では第3軍団の参謀を務めており、後にこの戦いを研究した『1815年のフランス戦役』を著し、後世に資することになる。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "19世紀の著名な軍事学者ジョミニ将軍はナポレオン時代の戦略戦術に関する主導的研究者の一人でもあり、ワーテルローの戦いにおけるナポレオンの敗因をいくつか提示している。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "戦場の地形の一部は1815年当時ものから変えられている。観光は会戦の翌日から始まっており、6月19日付の書簡でメーサー大尉は「一台の荷馬車がブリュッセルからやって来て、その乗客たちが戦場を見て回っていた」と書き残している。1820年、オランダ王ウィレム1世は彼の息子のオラニエ公が負傷したとされる場所に記念碑を建てるよう命じた。イギリス軍戦線中央部があった尾根の地域の300,000立方メートル相当の土壌を用いて「ライオンの丘(英語版)」と呼ばれる小山がここに造られており、これによって英蘭軍の窪み道の南側の土手が取り除かれてしまった。", "title": "古戦場" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "ヴィクトル・ユーゴーは小説『レ・ミゼラブル』の中でこう述べている。", "title": "古戦場" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "その他の地形や会戦に関係する場所は当時からほとんど変わっていない。この中にはブリュッセル=シャルルロワ街道東側のなだらかに起伏する農地やウーグモン、ラ・エー・サントそしてラ・ベル・アリアンスといった建物も含まれる。", "title": "古戦場" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "「ライオンの丘」の他にも古戦場にはいくつもの記念碑が存在する。ブリュッセル=シャルルロワ街道とブレン・ラルー =オヘイン街道の十字路にはイギリス兵、オランダ兵、ハノーファー兵そしてドイツ人義勇兵の集団墓地がある。フランス軍戦死者に対する記念碑は「傷ついた鷲」(\"The Wounded Eagle\")と名づけられ、ここは戦いの終盤に皇帝近衛隊が最後の方陣を組んだ場所とされる。プロイセン軍戦死者の記念碑はプランスノワにあり、ここはプロイセン軍の砲兵隊が布陣したとされる場所である。ブリュッセル市内のウェイ(オランダ語版)のマルティン教会にはデュエズム(英語版)将軍の墓所がある。エベレのブリュッセル墓地には「イギリス人の碑」(\"British Monument\")と呼ばれる戦死した17人のイギリス軍士官の墓所がある。", "title": "古戦場" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "「ライオンの丘」のふもとにある「ワーテルロー・パノラマ館」(Panorama de la Bataille de Waterloo)の内部には1912年にルイ・デュムーランが描いた周囲110m、高さ12mものワーテルローの戦いのパノラマ画が展示されており、また館内では20分のワーテルローの戦いの映画も上映されている。この古戦場では毎年、ワーテルローの戦いの再現イベントが行われている。ワーテルローは小牧・長久手の戦いの古戦場がある日本の長久手市と姉妹都市提携している。", "title": "古戦場" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "19世紀の激動のフランスを時代背景としたヴィクトル・ユーゴーの長編小説 『レ・ミゼラブル』第二部コゼット第一編の主題はワーテルローであり、1861年5月に物語の著者(ユーゴー)がベルギーの戦場跡を訪れる場面から始まり、ワーテルローの戦いの詳細な戦場描写からナポレオンの没落までが語られている。『レ・ミゼラブル』の作中では本筋とはあまり関係のない歴史挿話やユーゴーの歴史考察が交えられており、第二部第一編もそのひとつである。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "ユーゴーは、レ・ミゼラブルにて「季節外れの雲に覆われた空が、世界の崩壊をもたらした」と記しているが、これはタンボラ山の大噴火によって引き起こされた異常気象について間接的に言及したものである。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "ユーゴーは手がけている大作にこの世紀の一戦を挿入したいと考えており、1861年3月から喉の病気の転地療養を兼ねてワーテルローに滞在し、古戦場を散策しながら『レ・ミゼラブル』の執筆を行い、6月30日にいちおうの完成をみた。彼は作品の完成を知らせる友人に宛てた手紙で「偶然にもワーテルローの古戦場で、私は自分の戦いを戦った」と書き送っている。その後もユーゴーは加筆と修正を続けており、第二部第一編「ワーテルロー」は12月21日に書き上げている。『レ・ミゼラブル』は1862年3月と4月にベルギーとフランスで出版され、爆発的な売れ行きとなった。『レ・ミゼラブル』完成の地となったベルギーのワーテルローにはヴィクトル・ユーゴーの記念柱が建立されている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "アーサー・コナン・ドイルの『勇将ジェラールの回想』、『勇将ジェラールの冒険』の2部作はナポレオンに忠誠を尽くす騎兵将校エティエンヌ・ジェラールを主人公とした冒険小説であり、『勇将ジェラールの冒険』に収録される中編「准将がワーテルローで奮戦した顛末」はこの戦いにおける彼の活躍を描いている。日本人の作家によるワーテルローの戦いを主題とした作品としては柘植久慶の『逆撃 ナポレオン ワーテルロー会戦』上下巻がある。これは現代の日本人御厩太郎がナポレオンの将軍となって歴史改編を試みる架空戦記的な作品である。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "ナポレオン戦争の時代を扱った映像作品ではワーテルローの戦いも数多く登場するが、会戦自体を主題とした作品には1928年のドイツ映画『ワーテルロー(英語版)』と1970年のイタリア・ソ連合作映画『ワーテルロー』とがある。後者は監督をソ連のセルゲイ・ボンダルチュクが務める製作費1200万ドルの大作映画であり、ソ連軍の協力を受けて2万人の兵士を使って会戦を大規模に再現した。また、日本のアニメ『ヤッターマン』の最終回は「アワテルローの戦いだコロン」であり、この戦いのパロディとなっている(1979年1月27日放映)。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "ワーテルローの戦いは音楽の題材ともなっており、イギリスの女流作曲家ウィルマ・アンダーソン・ギルマンのピアノ曲『ウォータールーの戦い』は描写音楽風に戦いの始まりから終わりまで8つの接続曲のスタイルで作曲されており、発表会でもしばしば取り上げられる。本曲では「ワーテルロー」より「ウォータールー」の表記が定着されている。1974年にスウェーデンの音楽グループABBAがリリースした『恋のウォータールー』は全英ヒット・チャートで2週1位、ビルボードで6位を獲得し、フランスでもシングル・チャートでは3位となる大ヒットとなった。この曲では「惨敗」を意味する英語の俗語としての「ウォータールー」(Waterloo)がかけられている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "欧米圏で知名度の高いワーテルローの戦いは当然のごとくボード・シミュレーションゲームの題材として取り上げられており、アバロンヒル社の最初期の作品『Waterloo』やSPI社の『Napoleon at Waterloo』そして爆発的に売れた『Wellington's Victory』(SPI/TSR)をはじめ非常に多くのゲームが製作されている。日本製のゲームには『ワーテルロー』(翔企画)や『ワーテルローの落日』(Gamejournal No.41)がある。", "title": "作品" } ]
ワーテルローの戦いは、1815年6月18日、ベルギー(当時ネーデルラント連合王国領)のワーテルロー近郊においてイギリス・オランダをはじめとする連合軍およびプロイセン軍と、フランス皇帝ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)率いるフランス軍(大陸軍=グランダルメ)との間で行われた一連の戦闘を指す名称である。フランス軍が敗北し、ナポレオンにとって最後の戦いとなった。ラ・ベル=アリアンスの戦い ともいう。
{{Battlebox |battle_name=ワーテルローの戦い<br />{{lang|fr|Bataille de Waterloo}}/{{lang|en|Battle of Waterloo}} |campaign= |image=[[ファイル:Battle of Waterloo 1815.PNG|320px|ウィリアム・サドラー『ワーテルローの戦い』]] |caption=「ワーテルローの戦い」({{仮リンク|ウィリアム・サドラー (画家)|en|William Sadler (painter)|label=ウィリアム・サドラー}}画) |conflict='''[[ナポレオン戦争]]'''、[[第七次対仏大同盟#1815年フランス戦役|1815年フランス戦役]] |date=[[1815年]][[6月18日]] |place= [[ワーテルロー]]近郊、ラ・ベル=アリアンス周辺 |result='''英蘭連合軍・プロイセン軍の勝利''' {{plainlist | ** [[百日天下]]の終結(ナポレオン敗北) ** ナポレオンの[[セントヘレナ島]]流刑 }} |combatant1='''{{FRA1804}}''' |combatant2={{plainlist | * '''{{GBR3}}''' * '''{{NLD}}''' * {{HNV}} * {{flagicon image|Flagge_Herzogtum_Nassau_(1806-1866).svg}} [[ナッサウ公国|ナッサウ]] * {{BRS}} }} ---- '''{{PRU1803}}''' |commander1='''{{FRA1804}}軍''' {{plainlist | * [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]] <small>北部方面軍総司令官</small> * [[ミシェル・ネイ]] <small>左翼軍司令</small> }} など |commander2='''{{Flagicon|UK}} 英蘭連合軍''' {{plainlist | 初代[[ウェリントン公爵]]<br />[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]] <small>低地方面軍司令官</small> }} など ---- '''{{PRU1803}}軍''' {{plainlist | * [[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル]] <small>低ライン方面軍司令官</small> }} など |strength1='''{{FRA1804}}軍'''<br /> 72,000<ref name=matumura1999>[[#松村 2006|松村 2006]],p.199;[[#大橋 1983|大橋 1983]],p.412.</ref><br /> ([[#フランス軍]]も参照) |strength2='''{{Flagicon|UK}} 英蘭連合軍'''<br /> 68,000<ref name=ohashi412>[[#大橋 1983|大橋 1983]],p.412.</ref><br /> ([[#英蘭連合軍]]も参照)<br /> '''{{PRU1803}}軍'''<br /> 50,000<ref>{{Harvnb|Chesney|1907|p=4}}.</ref><br /> ([[#プロイセン軍]]も参照) |casualties1=死傷者・捕虜計 約40,000<ref name=nofi255>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.255.</ref> |casualties2=死傷者・行方不明計<br>英蘭軍 27,000<ref name=nofi255/><br>プロイセン軍 7,000<ref name=nofi255/> |}} '''ワーテルローの戦い'''(ワーテルローのたたかい、{{lang-fr-short|Bataille de Waterloo}}、{{lang-en-short|Battle of Waterloo}}、{{lang-nl-short|Slag bij Waterloo}}、{{lang-de-short|Schlacht bei Waterloo}} 地名の「ワーテルロー」はフランス語の発音に基づく。明治期の日本の書ではウオトルロー・ウオートルロー)は、[[1815年]][[6月18日]]、[[ベルギー]](当時[[ネーデルラント連合王国]]領)の[[ワーテルロー]]近郊において[[イギリス帝国|イギリス]]・[[ネーデルラント連合王国|オランダ]]をはじめとする連合軍および[[プロイセン王国|プロイセン]]軍と、[[フランス皇帝]][[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)]]率いるフランス軍([[大陸軍 (フランス)|大陸軍=グランダルメ]])との間で行われた一連の戦闘を指す名称である。フランス軍が敗北し<ref>{{Cite news|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4d57ba83d5e41aac42e5017f84dc3147e53dc0ff|title=19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫) |newspaper=Yahoo!ニュース|date=2020-08-24|accessdate=2020-12-02}}</ref>、ナポレオンにとって最後の戦いとなった。'''ラ・ベル=アリアンスの戦い''' ({{lang-de-short|Schlacht bei Belle-Alliance}}) ともいう。 == 概要 == [[1815年]]に[[エルバ島]]から帰還し皇帝の座に返り咲いたナポレオンは、[[第七次対仏大同盟]]の態勢が整う前にこれを撃破することを企図。フランス国境北東部付近に位置していた初代[[ウェリントン公爵]][[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]麾下の英蘭連合軍と[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル]]元帥のプロイセン軍を打倒すべく、自ら12万の兵力を率いて出陣した。両勢力は1815年6月16日から3日間に渡り交戦し、ナポレオンは前哨戦となる[[リニーの戦い]]でブリュッヘルのプロイセン軍に勝利したものの、6月18日の戦いで大敗し潰走を余儀なくされる。連合軍はこれを追撃してフランスに侵攻し、[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]を復位させた。退位したナポレオンはイギリスに降伏して[[セントヘレナ|セントヘレナ島]]に流され、[[1821年]]にこの地で死去した。 ナポレオンの敗因は、一軍を委ねた[[エマニュエル・ド・グルーシー]]元帥との連携に失敗したうえ、天候の都合で攻撃開始を遅らせたことが裏目に出て敵勢力の結集を許してしまったことが挙げられる。なお、実際に主戦場となったのは現在の[[ベルギー]]国内のラ・ベル・アリアンスで、[[ブリュッセル]]からおよそ13km南東にあり、[[ワーテルロー]]の町からは1.6kmほど離れている。この[[古戦場]]には「{{仮リンク|ライオンの丘|en|Butte du Lion}}」と呼ばれる巨大な記念碑がそびえ立っている。 ==背景== === ナポレオンの帰還 === {{Main|百日天下|第七次対仏大同盟}} 1812年6月、[[フランス皇帝]][[ナポレオン・ボナパルト]]は64万の大軍を率いて[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]を開始するが、結果は兵力の大部分を失う惨敗に終わった<ref>{{Cite web|和書|title=モスクワ遠征- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF%E9%81%A0%E5%BE%81/|author=[[栗生沢猛夫]]|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年9月1日}}{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>。1813年、ナポレオン率いるフランス軍([[大陸軍 (フランス)|大陸軍]])はドイツにおいて[[ロシア帝国|ロシア]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]を中心とする反仏諸国と[[解放戦争 (ドイツ)|解放戦争]](諸国民戦争)を戦うことになり、連合軍に[[スウェーデン]]そして[[オーストリア帝国|オーストリア]]が参加したことでナポレオンはこの戦いでも敗退した。1814年、フランス国内に侵攻する連合軍との戦いで劣勢な兵力のナポレオンは巧みな指揮ぶりを示して善戦するが<ref>[[#大橋 1983|大橋 1983]],pp.394-395.</ref>、[[パリ]]が開城したことで4月6日にナポレオンは退位を余儀なくされ、[[地中海]]の[[エルバ島]]に流された。 [[File:Napoleon returned.jpg|thumb|300px|ナポレオンの帰還。<br>[[シャルル・ド・スチューベン]]画。1818年。]] 戦勝した[[列強|列強国]]が開催した[[ウィーン会議]]の取り決めによってフランスでは[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]が即位して[[ブルボン朝|ブルボン王朝]]が復活した。だが、この[[フランス復古王政|王政復古]]は人気がなく、国内では不満が高まった<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],pp.215,223-224.</ref>。1815年2月26日、エルバ島から脱出したナポレオンはフランスの{{仮リンク|ジュアン湾|en|Golfe-Juan}}に上陸し、パリへ進軍した。途中、[[ミシェル・ネイ]]元帥を従え<ref group="注釈">ルイ18世からナポレオン討伐を命じられたネイ元帥は「ナポレオンを鉄の檻に入れてパリに連れ帰りましょう」と豪語して出立したが、ナポレオンから手紙を受け取ると態度を豹変させ兵士たちに「皇帝万歳!」と叫び、彼に帰順した。[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],pp.265-266</ref>、7,000にふくれ上がった軍隊を率いて3月20日パリに入城し再び皇帝となった。 ナポレオンがパリに到着する6日前の3月13日、ウィーン会議の列強国は[[:en:s:Declaration at the Congress of Vienna|彼を無法者であると宣告した]]<ref>[http://dl.lib.brown.edu/napoleon/time7.html Timeline: The Congress of Vienna, the Hundred Days, and Napoleon's Exile on St Helena], Center of Digital Initiatives, [[Brown University]] Library</ref>。4日後、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]、ロシア、オーストリアそしてプロイセンはナポレオンを倒すべく動員を開始する<ref>[[#Hamilton-Williams(1994)|Hamilton-Williams(1994)]],p.59.</ref>。ナポレオンは連合軍を国内で迎え撃つ守勢戦略も考慮していたが、王党派を勢いづかせる危険があり、連合国の準備が遅れていると看破した彼は機先を制することにした<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],pp.227-228;[[#大橋 1983|大橋 1983]],pp.399-400.</ref>。 ナポレオンはイギリス・[[オランダ]]連合軍とプロイセン軍がまだ合流しないうちに各個撃破を計画し、12万の兵を率いて連合軍に戦いを挑むべくベルギーへ向かった。ベルギーに駐留していたのは[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公]]率いるイギリス・オランダ連合軍の11万と[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]元帥率いるプロイセン軍12万であった。[[ブリュッセル]]南方に駐屯する連合軍を増援が到着する前に撃破できればイギリス軍を海に追いやり、プロイセンを戦争から脱落させられる。これに加えてベルギー南部にはフランス語圏の親仏派住民が多く、フランス軍の勝利は当地の革命の引き金になるであろうことも考慮された。またイギリス軍はスペインの[[半島戦争]]で鍛えられたベテラン兵の大半を[[米英戦争]]のため北米へ送っており、ベルギー駐留軍のほとんどは二線級の兵士であった<ref>{{Harvnb|Chandler|1966|pp=1016, 1017, 1093}}</ref>。 ウェリントンの当初の配置は[[モンス]]を経てブリュッセル南西に進出して連合軍の包囲を図るであろうナポレオンの脅威に対処することを意図していた<ref>{{Harvnb|Siborne|1990|p=82}}.</ref>。これはウェリントンの策源地である[[オーステンデ]]との連絡線が失われることになるが、彼の軍はプロイセン軍に近づくことにもなる。ナポレオンは誤った情報により、ウェリントンは海峡諸港との補給線が断たれることを恐れていると計算していた<ref>{{Harvnb|Hofschröer|2005|pp= 136–160}}</ref>。ナポレオンは左翼をネイ元帥、右翼を[[エマニュエル・ド・グルーシー|グルーシー]]元帥におのおの指揮させ、予備軍は自ら率い、これら三軍は相互支援が可能な距離に展開させた。フランス軍は6月15日明け方に[[シャルルロワ]]から国境を越えて連合軍の前哨部隊を蹂躙し、フランス軍を英蘭軍とプロイセン軍との中間に進出させた。 === 前哨戦:リニーの戦いとカトル・ブラの戦い === {{main|リニーの戦い|カトル・ブラの戦い}} [[File:The Duchess of Richmond's Ball by Robert Alexander Hillingford.jpg|thumb|left|250px|ウェリントンはリッチモンド公爵夫人の舞踏会でナポレオン軍来襲の急報を受けた。<br>Robert Alexander Hillingford画。1870年代。]] 6月15日深夜にウェリントンはシャルルロワの攻撃がフランス軍の主攻勢であることを確信した。6月16日夜明け前にブリュッセルのリッチモンド公爵夫人の舞踏会{{enlink|Duchess of Richmond's ball|英語版}}に出席していたウェリントンは[[ウィレム2世 (オランダ王)|オラニエ公]]からの急報を受け取り、フランス軍の進撃の速さに驚愕させられた<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],pp.234-235.</ref>。彼は自軍に対し急ぎ[[カトル・ブラ]]に集結するよう命じた。ここではオラニエ公が[[カール・ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ|ザクセン=ヴァイマル公ベルンハルト]]の旅団とともにネイ元帥の左翼部隊と対峙していた<ref>{{Harvnb|Longford|1971|p=508}}</ref>。ネイ元帥が受けた命令はカトル・ブラの交差路を確保し、後に必要になれば東に旋回してナポレオンの本隊に増援できるようにしておくことであった。 ナポレオンはまずは集結していたプロイセン軍に向かった。6月16日、予備軍の一部と右翼軍を率いるナポレオンは[[リニーの戦い]]でブリュッヘルのプロイセン軍と戦い、死傷者16,000の損害を与えたが、完全な撃滅はできなかった。プロイセンの中央軍はフランス軍の猛攻の前に敗退したが、両翼は持ちこたえた。前線に出たブリュッヘル元帥が一時行方不明になったため、参謀長の[[アウグスト・フォン・グナイゼナウ|グナイゼナウ]]中将が代わりに後退の指揮を取った<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],p.238;[[#大橋 1983|大橋 1983]],pp.406-407.</ref>。 [[File:Wollen, Battle of Quatre Bras.jpg|thumb|250px|ワーテルローの戦いの前哨戦となったカトル・ブラの戦い。<br>[[ウィリアム・バーンズ・ウォーレン]]画。]] 一方、ネイ元帥はカトル・ブラの交差路を守る少数のオラニエ公の部隊と対戦した。ネイが逡巡したためフランス軍の攻撃は遅れてイギリス・オランダ連合軍に兵力を増強する猶予を与えてしまい、オラニエ公はネイの攻撃を凌ぐことができた<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],p.236;[[#大橋 1983|大橋 1983]],pp.407-408.</ref>。やがて、増援の第一陣とウェリントン自身が到着し、ネイを後退させて夕刻までに交差路を確保したが、既にプロイセン軍はリニーの戦いで敗れており、彼らを救援することはできなかった([[カトル・ブラの戦い]])。プロイセン軍の敗北により、ウェリントンが守るカトル・ブラは非常に危険な場所となった。このため、翌日になって彼は北方へと退却し、この年の春に個人的に視察しておいた場所、{{仮リンク|モン・サン・ジャン (ベルギー)|label=モン・サン・ジャン|en|Mont-Saint-Jean, Belgium}}の低い尾根、[[ワーテルロー]]村と{{仮リンク|フォレ・ド・ソワヌ|label=ソワヌの森|en|Sonian Forest}} の南に防御陣地を築いた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.182.{{Harvnb|Longford|1971|p=527}}.</ref>。 プロイセン軍はフランス軍に遮られることなく、恐らくは気付かれもせずにリニーから撤退した<ref name=Chesney-136>{{Harvnb|Chesney|1907|p=136}}.</ref>。後衛部隊の大部分は真夜中まで持ち場を守っており、一部は翌朝まで動いておらず、フランス軍に完全に見過ごされていた<ref name=Chesney-136/>。ナポレオンは敗走したプロイセン軍は連絡線を辿って北東方向に退却すると考えていたが、プロイセン軍はウェリントンの進軍路と並行する北方に向かっており、支援可能な距離を保ち、終始連絡を取り合っていた<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],pp.238-239.</ref>。プロイセン軍はリニーの戦いに参加せず無傷の[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ビューロー|ビューロー]]将軍の第4軍団が位置する[[ワーヴル]]南方に集結した<ref name=Chesney-136/>。 かつてナポレオンは「私は戦陣に敗れることはあるかもしれないが、自信過剰や怠慢によって数分たりとも浪費することはない」と語っていたが、この戦役での彼は時間を浪費しがちだった<ref name=foffrin238>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],p.238;[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],pp.282-283.</ref>。リニーで勝利したナポレオンは緩慢に時を過ごし、翌6月17日11時にようやく各隊に命令を下すと進発し、13時にカトル・ブラのネイの軍と合流をして英蘭軍を攻撃しようとしたものの、既に敵陣はもぬけの殻だった<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],pp.239-240;[[#大橋 1983|大橋 1983]],pp.408-410.</ref>。フランス軍はウェリントンを追撃したが、{{仮リンク|ジュナップ|en|Genappe}}で騎兵同士の小競り合いが起こっただけで、その日の夜は土砂降りとなった<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],pp.240-241.</ref>。リニーを出立する際にナポレオンは右翼軍司令のグルーシー元帥に兵33,000をもってプロイセン軍を追撃するよう命じた。遅すぎる出発、プロイセン軍の針路が不明なこと、そして命令の意味が曖昧だったことで、グルーシーがプロイセン軍のワーヴル到着を阻止するには手遅れだった。 6月17日の終わりに英蘭軍はワーテルローに到着し、ナポレオン軍の本隊がこれに続いた。この頃、ブリュッヘルのプロイセン軍はワーヴルの町から東へ13kmの位置に集結していた。ラ・ベル・アリアンスで、ナポレオン率いるフランス軍72,000<ref name=matumura1999/>とイギリス・オランダ連合軍68,000<ref name=ohashi412/>と、ほぼ互角の勢力同士が対峙した。 {| |- ! 1815年戦役の戦略状況 |- | style="font-size:small" | {{color|Aqua|■}}:フランス軍、 {{color|#f36|■}}:英蘭連合軍、 {{color|#C0C0C0|■}}:プロイセン軍、 □:オーストリア・ドイツ諸国・イタリア諸国軍、 {{color|#0F0|■}}:ロシア軍、 {{color|yellow|■}}:スペイン軍<br />参考文献 -{{Cite book|和書|author=アルバート・A.ノフィ|translator=諸岡良史|editor=|year=2004|title=ワーテルロー戦役|series=|publisher=コイノニア社|isbn=978-4901943055|pages=301-340}} |- | {| border="0" align="left" cellpadding="0" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 2px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;" |<div style="position: relative">[[File:Strategic Situation of Western Europe 1815.jpg|800px|center]] <!--地名--> <div style="position:absolute;font-size:100%;left:415px;top:120px"> [[ファイル:Battle icon active (crossed swords).svg|25px]] </div> <div style="position:absolute;font-size:90%;left:300px;top:130px;background-color:#FFFFFF;line-height: 100%"><center>'''ワーテルローの戦い'''<br>1815.6.18</center></div> <!--フランス軍--> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:352px;top:160px;line-height: 100%"> {| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:Aqua" |- |xxxx<br>{{big|'''北部方面軍'''}}<br>ナポレオン<br>122,600人 |} </div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:436px;top:231px;line-height: 100%"> {| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:Aqua" |- |xxxx<br>'''ライン方面軍'''<br>ラップ<br>24,400人 |} </div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:342px;top:409px;line-height: 100%"> {| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:Aqua" |- |xxxx<br>'''アルプス方面軍'''<br>スュシェ<br>25,100人 |} </div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:390px;top:310px;line-height: 100%"> {| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:Aqua" |- |xxx<br>'''第1監視軍団'''<br>ル・クールブ<br>14,800人 |} </div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:415px;top:494px;line-height: 100%"> {| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:Aqua" |- |xxx<br>'''第2監視軍団'''<br>ブリューヌ<br>10,000人 |} </div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:262px;top:500px;line-height: 100%"> {| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:Aqua" |- |xxx<br>'''第3監視軍団'''<br>ドゥカン<br>15,000人 |} </div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:156px;top:460px;line-height: 100%"> {| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:Aqua" |- |xxx<br>'''第4監視軍団'''<br>クローゼ<br>15,000人 |} </div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:208px;top:205px;line-height: 100%"> {| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:Aqua" |- |xxxx<br>'''西部方面軍'''<br>ラマルク<br>1,500人 |} </div> <!--英蘭連合軍--> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:382px;top:47px;line-height: 100%"> {| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:#ff3366" |- |xxxx<br>{{big|'''低地方面軍'''}}<br>ウェリントン<br>112,000人 |} </div> <!--プロイセン軍--> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:451px;top:110px;line-height: 100%"> {| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:#C0C0C0" |- |xxxx<br>'''低ライン方面軍'''<br>ブリュッヘル<br>123,000人 |} </div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:531px;top:159px;line-height: 100%"> {| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:#C0C0C0" |- |xxx<br>'''北ドイツ軍団'''<br>クライスト<br>26,200人 |} </div> <!--その他--> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:552px;top:230px;line-height: 100%"> {| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:#FFFFFF" |- |xxxx<br>{{big|'''ライン方面軍'''}}<br>シュヴァルツェンベルク<br>272,700人 |} </div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:532px;top:402px;line-height: 100%"> {| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:#FFFFFF" |- |xxxx<br>'''オーストリア=<br>ピエモンテ連合軍'''<br>フリモント<br>62,000人 |} </div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:654px;top:105px;line-height: 100%"> {| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:#00FF00" |- |xxxx<br>{{big|'''ロ シ ア 軍'''}}<br>バルクライ<br>157,000人 |} </div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:42px;top:502px;line-height: 100%"> {| class="wikitable" style="border-width:2px;border-color:black;text-align:center;background-color:yellow" |- |xxxx<br>{{big|'''スペイン軍'''}}<br>カスターニョス<br>24,000人 |} </div> </div> |} |} [[File:Waterloo Campaign map-alt3.svg|thumb|500px|center|ベルギーでのワーテルロー戦役(6月15日 - 18日){{en icon}}]] ==軍隊== {{Main|[[:en:Order of Battle of the Waterloo Campaign]]}} === フランス軍 === 復位したナポレオンの戦略は英蘭軍とプロイセン軍を分断し、各個撃破することであった。ワーテルローの戦いに参加したナポレオンの北部方面軍(''Armée du Nord'')は72,000人で歩兵57,000、騎兵15,000、大砲250門からなっている<ref>[[#大橋 1983|大橋 1983]],p.414</ref><ref group="注釈">総兵力69,000人、歩兵48,000、騎兵14,000、砲兵7,000、大砲250門とする資料もある。{{Harvnb|Barbero|2005|p=75}}.</ref>。ナポレオンは政権を奪取すると18万人のルイ18世の軍隊に加えて緊縮財政のために長期休暇や非公式に除隊させられていた兵や1814年戦役で脱走していた者たちといった実戦経験のある兵をかき集めており<ref name=nofi25>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.25.</ref>、彼ら古参兵を中核に訓練未熟な新兵を合わせたものがワーテルローの戦いのナポレオンの軍隊だった<ref name=nofi314>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.314.</ref>。古参兵たちの士気は高く「前年の恥辱を晴らすべく、狂信的な熱意を示していた」と伝えられる<ref>[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],p.267.</ref>。兵器は比較的充足していたが、多年の戦乱によって軍馬が著しく不足しており<ref name=nofi25/>、馬術も不十分だった<ref name=nofi314/>。この戦いのフランス軍騎兵は14個[[胸甲騎兵]]連隊、7個[[槍騎兵]]連隊からなっていた。 この戦いの1年前の1814年のフランス戦役ではナポレオンは圧倒的に不利な状況の中、彼の最高傑作といわれる程の戦術的技量を示した<ref>[[#松村 2005|松村 2005]],p.194;[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.268-269.</ref>。だが、この1815年戦役では肉体的な衰えを見せており<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.269-270.</ref><ref>{{Harvnb|Wootten|1992|p=10}}.</ref>、何よりも時間を浪費しがちで戦機を幾度も失っている<ref name=foffrin238/>。長年、ナポレオンの参謀総長を務めた[[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ|ベルティエ]]がナポレオンの復位に馳せ参ぜずドイツで自殺しており、代わって[[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト|スールト]]元帥が総参謀長に就任したことも打撃となった<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],pp.229-230;[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.262-263.</ref>。スールトは優れた野戦指揮官であったが、参謀畑には不慣れであり、ナポレオンの簡潔にすぎかつしばしば意味不明瞭な命令を適確に解釈して完璧な命令文書に仕上げるベルティエの特別な能力も持ち合わせていなかった<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.262.</ref><ref>{{Harvnb|Wootten|1992|p=11}}.</ref>。この結果、スールトは幾度も不手際や意味不明瞭な命令文書伝達を繰り返し、その度にフランス軍の作戦行動を鈍らせている<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],pp.231,237-238.</ref><ref group="注釈">スールトは6月17日午後10時のグルーシーへの命令伝達に一人の伝令を出していたが、これを知ったナポレオンから「ベルティエなら百人の伝令を送っていたぞ」と叱責されている。[[#長塚 1986|長塚 1986]],p.565.<br>ベルティエは特別に編成された伝騎の小集団を組織しており、伝令も6人を出していた。[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.262.</ref>。戦後、ナポレオンはスールトを「よい参謀長ではなかった」と述懐している<ref>[[#マルロー 2004|マルロー 2004]],p.431.</ref>。 北部方面軍の左翼を任され、ワーテルロー会戦では実戦指揮を執ることになるネイ元帥はナポレオンから「勇者の中の勇者」と呼ばれた歴戦の猛将であったが、ロシア遠征以後は移り気になり、気力の衰えを見せていた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.114-115;[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],pp.267-268.</ref>。前哨戦のカトル・ブラの戦いでは徒に逡巡して英蘭軍に決定的打撃を与える機会を逃している<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],p.236.</ref>。ナポレオンもネイの戦略能力は低く評価していたが、ネイが兵士たちからカリスマ的人気を得ていたことが軍の一翼を任せた理由だった<ref>{{Harvnb|Wootten|1992|p=12}}.</ref>。 ==== フランス軍戦闘序列 ==== <div style="overflow: auto;white-space:nowrap; font-size:70%"> {{familytree/start}} {{familytree | | | | |NA| | | | | | | | | | | | | | | | |NA={{big|'''北部方面軍'''}}<BR>''L'Armée du Nord'' |boxstyle_NA =background-color: #aaf; }} {{familytree | | | | |NA| | | | | | | | | | | | | | | | |NA=総司令官 - [[フランス皇帝|皇帝]][[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]<span style="color:White">あ</span><br>総参謀長 - [[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト|スールト]]元帥<span style="color:White">ああ</span><br>左翼軍司令 - [[ミシェル・ネイ|ネイ]]元帥<span style="color:White">あああ</span><br>右翼軍司令 - [[エマニュエル・ド・グルーシー|グルーシー]]元帥<br>122,600名、砲368門}}<!--「あ」は文字を揃えるためのダミー--> {{familytree | |,|-|-|-|+|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|.| | | | | |}} {{familytree |GD| |C1| |C2| |C6| |!| | | | | | | |C1='''第1軍団'''|C2='''第2軍団'''|C6='''第6軍団'''|GD='''皇帝近衛軍団''' |boxstyle_C1 =background-color: #aaf; |boxstyle_C2 =background-color: #aaf; |boxstyle_C6 =background-color: #aaf; |boxstyle_GD =background-color: #aaf; }} {{familytree |GD| |C1| |C2| |C6| |!| | | | | | | |C1=[[ジャン=バティスト・ドルーエ (エルロン伯爵)|デルロン]]中将<br>19,800名、砲46門|C2={{仮リンク|オノレ・シャルル・レイユ|label=レイユ|en|Honoré Charles Reille}}中将<br>25,150名、砲46門|C6={{仮リンク|ジョルジュ・ムートン|label=ロバウ|en|Georges Mouton, Count de Lobau}}中将<br>10,450名、砲38門|GD={{仮リンク|アントワーヌ・ドルーオ|label=ドルーオ|en|Antoine Drouot}}中将<br>20,700名、砲110門 }} {{familytree |GD| |C1| |C2| |C6| |!| | | | | | | |C1=第1師団(キオ少将)<br>第2師団({{仮リンク|フランソワ=グザヴィエ・ドンズロ|label=ドンズロ|en|François-Xavier Donzelot}}中将)<br>第3師団({{仮リンク|ピエール・ルイ・ビネー・マルコニェ|label=マルコニェ|en|Pierre-Louis Binet de Marcognet}}中将)<br>第4師団({{仮リンク|ピエール・フランソワ・ジョセフ・デュリット|label=デュリット|en|Pierre François Joseph Durutte}}中将)<br>第1騎兵師団(ジャノッキ中将)|C2=第5師団(バシュリュ中将)<br>第6師団([[ジェローム・ボナパルト]]師団将軍)<br>第7師団({{仮リンク|ジャン・バティスト・ジラール|label=ジラール|en|Jean-Baptiste Girard (soldier)}}師団将軍)<br>第9師団([[マクシミリアン・セバスティアン・フォワ|フォワ]]中将)<br>第2騎兵師団(ピレ中将)|C6=第19師団(サンメ中将)<br>第20師団({{仮リンク|ジャン=バティスト・ジャナン|label=ジャナン|en|Jean-Baptiste Jeanin}}中将)<br>第21師団(テスト中将)<br>第4軍団予備砲兵(ヌーリー中将)|GD=近衛擲弾歩兵師団({{仮リンク|ルイ・フィリアン|label=フィリアン|en|Louis Friant}}中将)<br>近衛猟歩兵師団({{仮リンク|シャルル・アントワーヌ・モラン|label=モラン|en|Charles Antoine Morand}}中将)<br>新規近衛歩兵師団({{仮リンク|ギヨーム・フィリベール・デュエーム|label=デュエーム|en|Guillaume Philibert Duhesme}}中将)<br>近衛重騎兵師団({{仮リンク|クロード=エティエンヌ・ギヨー|label=ギヨー|en|Claude-Étienne Guyot}}中将)<br>近衛軽騎兵師団({{仮リンク|シャルル・ルフェーブル=デヌエット|label=ルフェーブル=デヌエット|en|Charles Lefebvre-Desnouettes}}中将)<br>近衛砲兵隊(デヴォー・ドゥ・サン=モーリス中将) |boxstyle_C1 =text-align:left;vertical-align:top; |boxstyle_C2 =text-align:left;vertical-align:top; |boxstyle_C6 =text-align:left;vertical-align:top; |boxstyle_GD =text-align:left;vertical-align:top; }} {{familytree | |,|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|(| | | | | |}} {{familytree |C3| |C4| | | | | | | | | |:| | | |C3='''第3騎兵軍団'''|C4='''第4騎兵軍団''' |boxstyle_C3 =background-color: #aaf; |boxstyle_C4 =background-color: #aaf; }} {{familytree |C3| |C4| | | | | | | | | |:| | | |C3=[[フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン|ケレルマン]]中将<br>3,900名、砲12門|C4={{仮リンク|エドゥアール・ジャン・バプティスト・ミヨー|label=ミヨー|en|Edouard Jean Baptiste Milhaud}}中将<br>3,100名、砲12門 }} {{familytree |C3| |C4| | | | | | | | | |:| | | |C3=第11騎兵師団({{仮リンク|サミュエル=フランシス・レリティエ|label=レリティエ|en|Samuel-François Lhéritier}}中将)<br>第12騎兵師団({{仮リンク|ルーセル・デュルバル|label=デュルバル|en|Nicolas-François Roussel d'Hurbal}}中将)|C4=第13騎兵師団(ワティエ中将)<br>第14騎兵師団(ドゥロール中将) |boxstyle_C3 =text-align:left;vertical-align:top; |boxstyle_C4 =text-align:left;vertical-align:top; }} {{familytree | |F|~|~|~|V|~|~|~|V|~|~|~|V|~|~|J| | | | | |}} {{familytree |C3| |C4| |C1| |C2| | | | | | | | | |C3='''第3軍団'''|C4='''第4軍団'''|C1='''第1騎兵軍団'''|C2='''第2騎兵軍団''' |boxstyle_C3 =background-color: #dfd;border:2px dashed |boxstyle_C4 =background-color: #dfd;border:2px dashed |boxstyle_C1 =background-color: #dfd;border:2px dashed |boxstyle_C2 =background-color: #dfd;border:2px dashed }} {{familytree |C3| |C4| |C1| |C2| | | | | | | | | |C3=[[ドミニク・ヴァンダム|ヴァンダム]]中将<br>17,600名、砲38門|C4={{仮リンク|エティエンヌ・ジェラール|label=ジェラール|en|Étienne Maurice Gérard}}中将<br>14,874名、砲30門|C1={{仮リンク|クロード・ピエール・パジョール|label=パジョール|en|Claude Pierre Pajol}}中将<br>3,000名、砲12門|C2={{仮リンク|レミ・ジョセフ・イシドール・エグゼルマン|label=エグゼルマン|en|Rémi Joseph Isidore Exelmans}}中将<br>3,400名、砲12門 |boxstyle_C3 =border:2px dashed; |boxstyle_C4 =border:2px dashed; |boxstyle_C1 =border:2px dashed; |boxstyle_C2 =border:2px dashed; }} {{familytree/end}} </div> <BR> {| class="wikitable" |- | *参考文献 - *{{Cite book|和書|author=アルバート・A.ノフィ|translator=諸岡良史|editor=|year=2004|title=ワーテルロー戦役|series=|publisher=コイノニア社|isbn=978-4901943055|pages=301-314}} ※兵員数・砲数は戦役の始まる前の数値であり、6月18日の会戦で実際に戦った人数とは異なる。点線の枠はグルーシー元帥の部隊でワーテルローの戦いには不在。 |} <gallery caption="フランス軍主要将帥" widths="150px" perrow="8"> File:Napoleon at Fontainebleau, 31 March 1814 by Paul Hippolyte Delaroche (Paris 1797-1856).jpg|フランス皇帝ナポレオン1世 File:Nicolas Soult.jpg|総参謀長スールト元帥 File:Marechal Ney.jpg|ネイ元帥 File:General Antoine Drouot.jpg|皇帝近衛軍団長ドルーオ中将 File:Général Jean Baptiste Drouet.jpg|第1軍団長デルロン中将 File:Général Honoré Charles Michel Joseph Reille.jpg|第2軍団長レイユ中将 File:Général GEORGES MOUTON, CAPITAINE AU 9E BATAILLON DE LA MEURTHE EN 1792 (1770-1838).jpg|第6軍団長ロバウ中将 File:Kellermann, Francois Etienne.jpg|第3騎兵軍団長ケレルマン中将 File:Jean Baptiste Milhaud.jpg|第4騎兵軍団長ミヨー中将 File:Jérôme Bonaparte - Sophie Lienard.png|第6師団長ジェローム・ボナパルト中将 File:Donzelot par Dutertre.jpg|第2師団長ドンズロ中将 File:Général Durutte(1767-1827).jpg|第4師団長デュリット中将 File:Louis Friant.JPG|近衛擲弾歩兵師団長フィリアン中将 File:Général Charles Antoine Louis Alexis Morand1.jpg|近衛猟歩兵師団長モラン中将 File:Général Claude Etienne Guyot.jpg|近衛重騎兵師団長ギヨー中将 File:Lefebvre Desnouettes.jpg|近衛軽騎兵師団長ルフェーブル=デヌエット中将 </gallery> === 英蘭連合軍 === 英蘭連合軍を指揮したウェリントン公は[[半島戦争]]における歴戦の将軍であった。ウェリントンは自らの軍について「ひどい軍隊、とても弱く装備も劣り、参謀たちはまったく経験不足だった」と述べている<ref>{{Harvnb|Longford|1971|p=485}}</ref>。ワーテルローの戦いに参加した68,000人の彼の軍隊は歩兵50,000、騎兵12,000、砲兵6,000、砲156門で構成されていた<ref name=ohashi412/>。このうち24,000人がイギリス兵であり、6,000人は{{仮リンク|国王直属ドイツ人部隊|en|King's German Legion}}(''King's German Legion'':KGL)の兵士であった<ref name=ohashi412/>。[[イギリス陸軍|イギリス軍]]の全員が正規兵であったが、半島戦争に従軍した古参兵は7,000人に過ぎなかった<ref>{{Harvnb|Longford|1971|p=484}}</ref>。これに加えて、17,000人のオランダ人と[[ベルギー人]]の兵隊がおり、[[ハノーファー朝|ハノーファー]]兵11,000、[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国|ブラウンシュヴァイク]]兵6,000、[[ナッサウ公国|ナッサウ]]兵3,000からなっていた<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=75–76}}.</ref>。 連合軍兵士の多くが戦闘未経験だった<ref group="注釈">マーサー砲兵大尉はブラウンシュヴァイク兵について「完全に子供だ」と評した。{{Harv|Mercer|1870|loc=}}.</ref><ref group="注釈">6月13日、{{仮リンク|アト (ベルギー)|label=アト|en|Ath}}に駐屯するハノーファー予備連隊の兵士は火薬と薬包を要求したが、彼らは一度も発砲したことがなかった。 {{Harv|Longford|1971|p=486}}.</ref>。オランダ軍は先年のナポレオンの敗北を受けて1815年に再編されたものであった。スペインでの半島戦争に従軍したイギリス兵およびイギリス軍に加わった一部のハノーファー兵と[[ブラウンシュヴァイク近衛大隊|ブラウンシュヴァイク兵]]を除き、連合軍の職業軍人の多くがナポレオン体制下でフランス軍の同盟軍としてともに戦った経験を持っていた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.323.</ref>。ウェリントンは騎兵も不足しており、イギリス軍騎兵7個連隊、オランダ軍騎兵3個連隊しかいなかった。[[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク公]]は自分の参謀将校の多くをウェリントンに押しつけており、この中には副司令の[[ヘンリー・パジェット (初代アングルシー侯爵)|アックスブリッジ]]将軍も含まれる。アックスブリッジは騎兵を指揮しており、彼はウェリントンから指揮下の部隊の行動の自由を認められていた。ウェリントンは13km西方の{{仮リンク|ハレ (ベルギー)|label=ハレ|en|Halle, Belgium}}に兵17,000を後置させており、この兵力は戦闘に参加させず、敗北した場合の退却援護として用いることになっており、オラニエ公の弟の[[フレデリック・ファン・オラニエ=ナッサウ (1797-1881)|フレデリック]]が指揮するオランダ兵であった<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.323-324.</ref>。 ==== 英蘭連合軍戦闘序列 ==== <div style="overflow: auto;white-space:nowrap; font-size:70%"> {{familytree/start}} {{familytree | | | | |HQ| | | | | | | | | | | | | | | | |HQ={{big|'''低地方面軍'''}} |boxstyle_HQ =background-color: #fdd; }} {{familytree | | | | |HQ| | | | | | | | | | | | | | | | |HQ=[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン]]元帥<br>122,000名、砲203門}} {{familytree | |,|-|-|-|+|-|-|-|v|-|-|-|.| | | | | | | | |}} {{familytree |C1| |C2| |CC| | |!| | | | | | | | |C1='''第1軍団'''|C2='''第2軍団'''|CC='''騎兵軍団''' |boxstyle_C1 =background-color: #fdd; |boxstyle_C2 =background-color: #fdd; |boxstyle_CC =background-color: #fdd; }} {{familytree |C1| |C2| |CC| | |!| | | | | | | | |C1=[[ウィレム2世 (オランダ王)|オラニエ公ウィレム]]大将<br>38,400名、砲56門|C2={{仮リンク|ローランド・ヒル (ヒル子爵)|label=ヒル|en|Rowland Hill, 1st Viscount Hill}}中将<br>27,300名、砲40門|CC=[[ヘンリー・パジェット_(初代アングルシー侯爵)|アクスブリッジ]]中将<br>16,500名、砲43門 }} {{familytree |C1| |C2| |CC| | |!| | | | | | | | |C1=第1近衛師団({{仮リンク|ジョージ・クック (軍人)|label=クック|en|George Cooke (British Army officer)}}少将)<br>第3師団({{仮リンク|チャールズ・アルテン|label=アルテン|en|Charles Alten}}中将)<br>オランダ軍第2師団(ペルポンシェ=セドルニッツキ中将)<br>オランダ軍第3師団({{仮リンク|ダヴィット・ヘンドリック・シャッセ|label=シャッセ|en|David Hendrik Chassé}}中将)|C2=第2師団({{仮リンク|ヘンリー・クリントン (ナポレオン戦争)|label=クリントン|en|Henry Clinton (Napoleonic Wars)}}中将)<br>第4師団({{仮リンク|チャールズ・コルヴィール|label=コルヴィール|en|Charles Colville}}少将)<br>オランダ軍第1師団({{仮リンク|ヨハン・ステッドマン|label=ステッドマン|en|John Andrew Stedman}}中将 )|CC=近衛騎兵旅団([[エドワード・サマセット]]少将)<br>連合騎兵旅団({{仮リンク|ウィリアム・ポンソンビー (イギリス陸軍)|label=ポンソンビー|en|William Ponsonby (British Army officer)}}少将)<br>第3騎兵旅団({{仮リンク|ヴィルヘルム・フォン・ドルンベルク|label=ドルンベルク|en|Wilhelm von Dörnberg}}少将)<br>第4騎兵旅団(ヴァンドルー少将)<br>第5騎兵旅団({{仮リンク|コフーン・グラント (イギリス軍人)|label=グラント|en|Colquhoun Grant (British cavalry general)}}少将)<br>第6騎兵旅団({{仮リンク|ハッセー・ヴィヴィアン (初代ヴィヴィアン伯爵)|label=ヴィヴィアン|en|Hussey Vivian, 1st Baron Vivian}}少将)<br>第7騎兵旅団(アレントシルト名誉大佐)<br>ハノーファー軍第1騎兵旅団(エルストッフ少将)<br>オランダ軍騎兵師団(コラエール中将 )<br>予備騎馬砲兵隊({{仮リンク|アウグスト・サイモン・フレイザー|label=フレイザー|en|Augustus Simon Frazer}}中佐) |boxstyle_C1 =text-align:left;vertical-align:top; |boxstyle_C2 =text-align:left;vertical-align:top; |boxstyle_CC =text-align:left;vertical-align:top; }} {{familytree | |,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|'| | | | | | | | |}} {{familytree |CR| | | | | | | | | | | | | | | |CR='''予備軍団''' |boxstyle_CR =background-color: #fdd; }} {{familytree |CR| | | | | | | | | | | | | | | |CR=ウェリントン元帥<br>36,900名、砲64門 }} {{familytree |CR| | | | | | | | | | | | | | | |CR=第5師団({{仮リンク|トーマス・ピクトン|label=ピクトン|en|Thomas Picton}}中将)<br>第6師団({{仮リンク|ローリー・コール|label=コール|en|Lowry Cole}}中将)<br>ブラウンシュヴァイク師団<br>ハノーファー軍予備師団(デッケン中将)※不在<br>予備砲兵隊(ドルモント少将)|boxstyle_C1 =text-align:left;vertical-align:top; |boxstyle_CR =text-align:left;vertical-align:top; }} {{familytree/end}} </div> <BR> {| class="wikitable" |- |*参考文献 - *{{Cite book|和書|author=アルバート・A.ノフィ|translator=諸岡良史|editor=|year=2004|title=ワーテルロー戦役|series=|publisher=コイノニア社|isbn=978-4901943055|pages=314-324}} ※兵員数・砲数は戦役の始まる前の数値であり、6月18日の会戦で実際に戦った人数とは異なる。イギリス軍師団にはハノーファー兵、ブラウンシュヴァイク兵、ナッサウ兵の部隊も含まれる。第1軍団のオランダ=ベルギー軍部隊の多くは会戦には不参加だった。 |} <gallery caption="英蘭連合軍主要将帥" widths="150px" perrow="8"> Lord Arthur Wellesley the Duke of Wellington.jpg|ウェリントン公 YoungwilliamII.jpg|第1軍団長オラニエ公ウィレム File:General Sir Rowland Hill (1815).jpg|第2軍団長ヒル中将 File:Henry William Paget, 1st Marquess of Anglesey by George Dawe.jpg|騎兵軍団長[[ヘンリー・パジェット_(初代アングルシー侯爵)|アクスブリッジ中将]] File:Sir Thomas Picton.jpg|第5師団長ピクトン中将 File:Lord Robert Edward Somerset by William Salter.jpg|近衛騎兵旅団長サマセット少将 File:Major General William Ponsonby, Lt Coll of the Fifth Dragoon Guards.jpg|連合騎兵旅団長ポンゾビー少将 File:General D H Chassé.jpg|オランダ軍第3師団長シャッセ中将 </gallery> === プロイセン軍 === 司令官の[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]元帥は[[ライプツィヒの戦い]]でナポレオンを撃破した連合軍のうちのプロイセン軍を率いていた。参謀長の[[アウグスト・フォン・グナイゼナウ|グナイゼナウ]]中将はプロイセンの軍制改革を推進した中心的人物である<ref>{{Cite web|和書|title=プロイセン改革- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E6%94%B9%E9%9D%A9/|author=[[岡崎勝世]]|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年9月17日}}{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>。 プロイセン軍は困難な再編成の途上にあった。1815年時点で、以前の予備連隊、外人部隊そして1813年から1814年にかけて編成された[[ドイツ義勇軍|義勇軍]](''Freikorps'')は正規軍や多数の後備兵([[ラントヴェーア (軍事)|ラントヴェーア]]:民兵)連隊に統合される過程にあった。ベルギーに到着した時点ではラントヴェーアのほとんどは未訓練かつ兵器も支給されていなかった。プロイセン軍の騎兵も同様の状態だった<ref>{{Harvnb|Hofschröer|2005|p=59}}.</ref>。砲兵隊も再編中であり、万全に行動しうる状態になく、砲や装備は会戦中そして後に到着する有り様だった。しかしながら、これらの不利も戦役中にプロイセン軍参謀部の見せた見事な指揮統率によって埋め合わされた。これらの将校は参謀教育のためにつくられた四つの学校の出身者であり、共通した基準の訓練を受け任務についていた。このシステムは、矛盾し曖昧な命令を発しがちだったフランス軍のそれとは対照的なものであった。この参謀システムによってプロイセン軍はリニーの戦いの前に僅か24時間で兵力の4分の3を集結することを可能にさせた。リニーの戦いの後も、プロイセン軍は敗北はしたものの補給段列を再調整し、自軍を再編成し、48時間以内にワーテルローの戦場に駆けつけることが可能であった<ref>{{Harvnb|Hofschröer|2005|pp=60–62}}.</ref>。プロイセンの2個半の軍団48,000人がワーテルローの戦いに参戦した。ビューロー第4軍団長の率いる2個旅団が16時30分に{{仮リンク|ジョルジュ・ムートン|label=ロバウ|en|Georges Mouton}}のフランス軍第6軍団に攻撃をかけ、[[ハンス・エルンスト・カール・フォン・ツィーテン|ツィーテン]]の第1軍団とピルヒの第2軍団の一部は18時に来援した。 ==== プロイセン軍戦闘序列 ==== <div style="overflow: auto;white-space:nowrap; font-size:70%"> {{familytree/start}} {{familytree | | | | |HQ| | | | | | | | | | | | | | | | |HQ={{big|'''低ライン方面軍'''}} |boxstyle_HQ =background-color: #b8b8b8; }} {{familytree | | | | |HQ| | | | | | | | | | | | | | | | |HQ=司令官 - [[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]元帥<br>参謀長 - [[アウグスト・フォン・グナイゼナウ|グナイゼナウ]]中将<br>123,000名、砲296門}} {{familytree | |,|-|-|-|+|-|-|-|v|-|-|-|.| | | | | | | | |}} {{familytree |C1| |C2| |C4| | |:| | | | | | | | |C1='''第1軍団'''|C2='''第2軍団'''|C4='''第4軍団''' |boxstyle_C1 =background-color: #b8b8b8; |boxstyle_C2 =background-color: #b8b8b8; |boxstyle_C4 =background-color: #b8b8b8; }} {{familytree |C1| |C2| |C4| | |:| | | | | | | | |C1=[[ハンス・エルンスト・カール・フォン・ツィーテン|ツィーテン]]中将<br>31,800名、砲80門|C2=ピルヒ中将<br>35,100名、砲80門|C4=[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ビューロー|ビューロー]]中将<br>31,900名、砲88門 }} {{familytree |C1| |C2| |C4| | |:| | | | | | | | |C1=第1旅団(シュタインメッツ少将)<br>第2旅団(ピルヒ少将)<br>第3旅団(ヤゴウ少将)<br>第4旅団({{仮リンク|ヘンケル=ドナーススマルク|label=ヘンケル=ドナーススマルク|en|Wilhelm Ludwig Viktor Henckel von Donnersmarck}}少将)<br>予備騎兵(レーダー中将)<br>予備砲兵(レーマン少将)|C2=第5旅団(ティペルスキルヒ少将)<br>第6旅団(クラフト少将)<br>第7旅団(ブラウゼ少将)<br>第8旅団(ボーゼ少将)<br>予備騎兵(ヴァーレン=ユルガス少将)<br>予備砲兵(ロール)|C4=第13旅団(ハッケ)<br>第14旅団(ライセル)<br>第15旅団(ロシュッティン)<br>第16旅団(ヒラー)<br>予備騎兵([[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム大公]])<br>予備砲兵(ブライオン) |boxstyle_C1 =text-align:left;vertical-align:top; |boxstyle_C2 =text-align:left;vertical-align:top; |boxstyle_C4 =text-align:left;vertical-align:top; }} {{familytree | |F|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|J| | | | | | | | |}} {{familytree |C3| | | | | | | | | | | | | | | |C3='''第3軍団''' |boxstyle_C3 =background-color: #b8b8b8;border:2px dashed; }} {{familytree |C3| | | | | | | | | | | | | | | |C3={{仮リンク|ヨハン・フォン・ティールマン|label=ティールマン|en|Johann von Thielmann}}中将<br>27,925名、砲64門 |boxstyle_C3 =vertical-align:top;border:2px dashed; }} {{familytree |C3| | | | | | | | | | | | | | | |C3=第9旅団(ボルッケ)<br>第10旅団(カンプフェン)<br>第11旅団(ルック)<br>第12旅団(シュトゥルプナゲル)<br>予備騎兵(ホーベ)<br>予備砲兵(モンハウプト) |boxstyle_C3 =text-align:left;vertical-align:top;border:2px dashed; }} {{familytree/end}} </div> <BR> {| class="wikitable" |- |*参考文献 - *{{Cite book|和書|author=アルバート・A.ノフィ|translator=諸岡良史|editor=|year=2004|title=ワーテルロー戦役|series=|publisher=コイノニア社|isbn=978-4901943055|pages=324-331}} ※兵員数・砲数は戦役の始まる前の数値であり、6月18日の会戦で実際に戦った人数とは異なる。点線の枠はティールマン中将の第3軍団でワーテルローの戦いには不参加。 |} <gallery caption="プロイセン軍主要将帥" widths="150px" perrow="8"> Blücher (nach Gebauer).jpg|ブリュッヘル元帥 File:Bundesarchiv Bild 183-R06118, August Graf Neidhardt von Gneisenau (Zeichnung).jpg|参謀長グナイゼナウ中将 File:Zieten-by-Kruger.jpg|第1軍団長ツィーテン中将 File:Friedrich Wilhelm Freiherr von Bulow.jpg|第4軍団長ビューロー中将 </gallery> ==戦場== ワーテルローは要害堅固な場所だった。ここはブリュッセルに至る主要街道に対して垂直に切り立ち、かつ横切られている長い尾根が東西に走っていた。尾根の頂きに沿って深い窪んだ小道{{enlink|sunken lane|英語版}}の{{仮リンク|オヘイン|en|Ohain, Belgium}}道が通っている。ブリュッセル街道との交差点の近くには大きな楡の木があり、ここはウェリントンの布陣のほぼ中央に位置し、会戦中のほとんどの時間、この場所を本営とした。ウェリントンはオヘイン道に沿った尾根の頂の背後に歩兵を一線状に布陣させた。彼が過去の戦闘で幾度も行ってきたように、今回も{{仮リンク|反対斜面戦術|label=反対斜面|en|Reverse slope defence}}を活用して敵軍から(散兵や砲兵を除く)自軍の兵力を隠した<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=78,79}}.</ref>。戦場の幅は比較的狭く4kmであり、これによって彼は{{仮リンク|ブレーヌ・ラルー|en|Braine-l'Alleud}}村までの範囲に布陣させた(プロイセン軍がこの日のうちに来援することになっている左翼を除く)中央および右翼の部隊に縦深を持たせることができた<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=80}}.</ref>。 {{Wide image|Panorama waterloo.jpg|1000px|現在のワーテルローの風景。東(EST) - 南(SUD) - 西(OUEST)}} 尾根の前面には陣地化が可能な三つの場所があった。右端には{{仮リンク|ウーグモン|en|Hougoumont (farmhouse)}}の館と庭園そして果樹園があった。ここは広くしっかりした造りの邸宅であり、当初は木々で隠されていた。家の北側には窪んで隠された小道があり(イギリスでは「窪み道」(''the hollow-way'')と呼ばれている)、これを使って補給ができた。左端にはパプロットの小集落があった。ウーグモンとパプロットは陣地化されて守備兵が配置され、英蘭軍の側面を確保していた。パプロットはまた英蘭軍を救援に来るプロイセン軍が通るワーヴルへの道を見おろしていた。残りの英蘭軍の布陣の前面にあたる主要街道の西側には{{仮リンク|ラ・エー・サント|en|La Haye Sainte}}の農場と果樹園があり、{{仮リンク|国王直属ドイツ人部隊|en|King's German Legion}}(KGL)の軽歩兵400人が守備に置かれた<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=149}}.</ref>。道路の反対側には閉鎖された砂坑があり、ここには{{仮リンク|第95ライフル連隊|en|95th Rifles}}が射撃兵として配置された<ref>{{Harvnb|Parry|1900|p=58}}.</ref>。 これらの場所は攻撃側にとって厄介な障害となった。ウェリントンの右側面を攻撃すれば陣地化されたウーグモンからの攻撃を引き起こし、中央右側を進撃すればウーグモンとラ・エー・サントからの縦射{{enlink|Enfilade and defilade|英語版}}に曝されることになる。中央左側からではラ・エー・サントと隣接する砂坑から縦射を受けることになり、左側面を突こうにも地面はぬかるんでおり、パプロット集落の通りや生け垣に配置された兵からの銃撃を受けることになる<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=141,235}}.</ref> フランス軍は南方の別の尾根の斜面に布陣した。ナポレオンは英蘭軍の布陣を視認することができず、ブリュッセル街道に対するかたちで布陣を行った。右翼は[[ジャン=バティスト・ドルーエ_(エルロン伯爵)|デルロン]]率いる第1軍団で歩兵13,000、騎兵1,300、予備騎兵4,700からなっていた。左翼は{{仮リンク|オノレ・シャルル・レイユ|label=レイユ|en|Honoré Charles Reille}}の第2軍団で兵力は歩兵13,000、騎兵1,300、予備騎兵4,600であった。街道の南側、宿場{{仮リンク|ラ・ベル・アリアンス|en|La Belle Alliance}}の周辺にはロバウの第6軍団(兵6,000)、{{仮リンク|近衛隊 (ナポレオン)|label=皇帝近衛隊|en|Imperial Guard (Napoleon I)}}(歩兵13,000)そして予備騎兵2,000が置かれた<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=83–85}}.</ref>。フランス軍の右翼後方には{{仮リンク|プランスノワ|en|Plancenoit}}の集落があり、右端には「パリの森」(''Bois de Paris'')があった。当初、ナポレオンは戦場を見渡すことができるロッサム農場に本営を置いていたが、午後になってラ・ベル・アリアンスに移っている。(ナポレオンのいる場所からは見渡せなくなったために)戦場での統率はネイ元帥に委ねられることになった<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=91}}.</ref>。 {| |- |style="vertical-align:top"| {| border="0" align="left" cellpadding="0" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 2px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;" |<div style="position: relative">[[File:Battle of Waterloo.svg|800px|center]] <!--地名--> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:329px;top:245px;background-color: #ffffff">'''ラ・エー・サント'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:230px;top:122px;background-color: #ffffff">'''モン・サン・ジャン'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:379px;top:369px;background-color: #ffffff">'''ラ・ベル・アリアンス'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:217px;top:315px;background-color: #ffffff">'''ウーグモン'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:44px;top:185px;background-color: #ffffff">'''ブレーヌ・ラルー'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:143px;top:84px;background-color: #ffffff">'''ル・メニル'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:152px;top:165px;background-color: #ffffff">'''ブレーヌ'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:448px;top:237px;background-color: #ffffff">'''パプロット'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:572px;top:221px;background-color: #ffffff">'''フリシェルモン'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:514px;top:210px;background-color: #ffffff">'''ラ・エイ'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:441px;top:473px;background-color: #ffffff">'''プランスノワ'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:388px;top:510px;background-color: #ffffff">'''ロッサム'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:730px;top:235px;background-color: #ffffff">'''パリの森'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:657px;top:19px;background-color: #ffffff">'''オアンの森'''</div> <!--フランス軍--> <div style="position:absolute;font-size:100%;left:445px;top:320px;background-color: #ffffff"><span style="color:blue">'''デルロン'''</span></div> <div style="position:absolute;font-size:100%;left:244px;top:393px;background-color: #ffffff"><span style="color:blue">'''レイユ'''</span></div> <div style="position:absolute;font-size:100%;left:340px;top:405px;background-color: #ffffff"><span style="color:blue">'''ロバウ'''</span></div> <div style="position:absolute;font-size:100%;left:356px;top:460px;background-color: #ffffff"><span style="color:blue">'''皇帝近衛隊'''</span></div> <div style="position:absolute;font-size:100%;left:278px;top:480px;background-color: #ffffff"><span style="color:blue">'''ケレルマン'''</span></div> <div style="position:absolute;font-size:100%;left:497px;top:389px;background-color: #ffffff"><span style="color:blue">'''ミヨー'''</span></div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:92px;top:455px;background-color: #ffffff"><span style="color:blue">フランス軍(歩兵/騎兵/砲兵)</span></div> <!--英蘭連合軍--> <div style="position:absolute;font-size:100%;left:410px;top:207px;background-color: #ffffff"><span style="color:red">'''ピクトン'''</span></div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:300px;top:227px;background-color: #ffffff"><span style="color:red">'''アルテン'''</span></div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:248px;top:280px;background-color: #ffffff"><span style="color:red">'''クック'''</span></div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:147px;top:236px;background-color: #ffffff"><span style="color:red">'''クリントン'''</span></div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:77px;top:255px;background-color: #ffffff"><span style="color:red">'''オランダ軍'''</span></div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:92px;top:475px;background-color: #ffffff"><span style="color:red">英蘭連合軍(歩兵/騎兵/砲兵)</span></div> <!--プロイセン軍--> <div style="position:absolute;font-size:100%;left:669px;top:175px;background-color: #ffffff"><span style="color:gray">'''ビューロー'''</span></div> <div style="position:absolute;font-size:100%;left:530px;top:13px;background-color: #ffffff"><span style="color:gray">'''ツィーテン'''</span></div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:92px;top:495px;background-color: #ffffff"><span style="color:gray">プロイセン軍団</span></div> </div> |} |} <gallery widths="200" heights="150"> File:Belle-Alliance.jpg|ナポレオンが本営を置いたラ・ベル・アリアンス。1880年代撮影 File:Zuidpoort hougoumont.jpg|ウーグモン。戦場西側の激戦地となった。 File:La Haye Sainte.jpg|ラ・エー・サント<br>戦場中央部の要衝であり、熾烈な攻防戦が行われた。 </gallery> ==開戦== === 戦闘準備 === [[File:Hillingford - Wellington and Blucher Meeting Before the Battle of Waterloo.jpg|thumb|200px|left|ワーテルローの戦いの前に会談を行うウェリントンとブリュッヘル。<br>Robert Alexander Hillingford画。]] ウェリントンは2時から3時頃に起床し、夜明けまで手紙を書いている。彼はブリュッヘルに対して「少なくとも1個軍団を送ってくれればモン・サン・ジャンで戦うが、そうでなければブリュッセルまで後退する」と書き送った。6時にウェリントンは自軍の布陣を視察した。 その日の未明の軍議でブリュッヘルの参謀長グナイゼナウはウェリントンの作戦に対して不信感を示していたが、ブリュッヘルはウェリントンの軍を救援せねばならないと彼を説得した<ref>{{Harvnb|Longford|1971|pp=535,536}}</ref>。ワーヴルでは、ビューローの第4軍団がワーテルローの戦場に向けて先発しており、この軍団はリニーの戦いに参加しておらず無傷の状態であった。もっとも、第4軍団は犠牲者は出ていなかったが、プロイセン軍のリニーからの撤退援護のための2日間に渡る行軍で疲労していた。彼らは戦場からはるか東方に位置しており、進軍は遅々としたものだった。前夜の豪雨によって道路の状態は悪く、ビューローの兵と88門の大砲はワーヴルの渋滞した道路を通らねばならなかった。ワーヴルでの戦闘が始まったことにより事態はさらに悪化し、ビューローの軍が通過する予定だった道のいくつかが閉鎖されている。しかしながら、10時には行軍も順調になり、この頃、先発した部隊は英蘭軍左翼から8kmのところまで進んでいた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.187.</ref>。ビューローの兵に続いて、第1軍団と第2軍団がワーテルローに向かった<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=141}}.</ref>。 [[File:NapoleonsHeadquartersAtWaterloo.jpg|thumb|200px|会戦前夜にナポレオンの司令部が置かれたル・カイユー(''Le Caillou'')農場]] ナポレオンは前夜を過ごしたル・カイユー(''Le Caillou'')の館で朝食をとった。スールトがグルーシーの軍を呼び戻して本隊と合流させるべきではないかと意見具申をするとナポレオンは「卿はウェリントンに負け続けているから、彼を買い被っているのではないか。余に言わせれば、ウェリントンは愚将であり、イギリス人は弱兵だ。連中を打ち負かすなぞ朝飯前だ」と言い返した<ref>{{Harvnb|Longford|1971|p=547}}</ref>。しかしながら、このナポレオンのひどく侮蔑的な言葉を額面通りに取るべきではないだろう。彼の格言のひとつに「戦場においては士気がすべてである」という言葉があり、敵を称賛することは常に誤りであり、いたずらに自軍の士気を低下させることにつながる。実際、彼は過去のいくつもの会戦の前に士気を高揚させる演説を行っており、このワーテルローの戦いの前の朝も幕僚たちの悲観論や臆病に対処せねばならず、一部の将官たちからの執拗かつほとんど敗北主義的な反対論に対抗しなければならなかった<ref>{{Harvnb|Roberts|2001|pp=163–166}}.</ref>。 この後、ナポレオンは末弟の[[ジェローム・ボナパルト|ジェローム]]から、宿屋の給仕がジュナッペの旅館「キング・オブ・スペイン(King of Spain)」で食事をとったイギリス軍将校から漏れ聞いたプロイセン軍がワーヴルから行軍中であるという噂話が伝えられたものの、ナポレオンはプロイセン軍が再起するには少なくとも2日は必要であり、グルーシー元帥が対処するだろうと断言した<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=73}}.</ref>。驚くべきことに、このジェロームの噂話を別にすると、この日のル・カイユーの軍議に出席したフランス軍の指揮官たちは誰もプロイセン軍が危険なほど近づいている情報を持っておらず、この僅か5時間後にワーテルローの戦場になだれ込むべく進発することを想像もしていなかった<ref>{{Harvnb|Roberts|2001|p=xxxii}}.</ref>。 戦闘開始は9時と計画されていたが、前夜の豪雨で地面が水浸しになり、騎兵と砲兵の移動が困難になっていたためナポレオンは戦闘開始を13時まで遅らせた<ref name=nofi191>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.191.</ref>。結果的には、この攻撃開始の遅延により、プロイセン軍の戦場への来援が間に合い、ナポレオンにとって致命的となった<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]];[[#松村 2005|松村 2005]],p.199;pp.243-244;[[#大橋 1983|大橋 1983]],p.415.</ref>。10時、彼は6時間前にグルーシーから受けた急報への返信を発し、「(グルーシーの現在位置から南方の)ワーヴルへ向かい、(グルーシーから西方の)我々との接触を維持する場所に位置し」それからプロイセン軍を「押し出せ」と命じた<ref>{{Harvnb|Longford|1971|p=548}}</ref>。その内容は曖昧であり、グルーシーは合流すべきなのか独自の行動をすべきなのか分かりにくいものだった<ref name=nofi191/>。 11時にナポレオンは全体命令を発し、左翼はレイユ将軍の第2軍団で、右翼はデルロン将軍の第1軍団が担いモン・サン・ジャン村にある主要街道の十字路を確保することになった<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.192-193.</ref>。この命令は英蘭軍の戦線は尾根ではなくその奥の村にあると想定していた<ref>{{harvnb|Bonaparte|1869|pp=292,293}}.</ref>。これを行うためにジェロームの師団がウーグモンへの先制攻撃を行い、ナポレオンは(ここを失えば海への連絡線が断たれるために)英蘭軍の予備兵力を誘い込むことができると見込んでいた{{sfn|Fletcher|1994|p=[https://books.google.com/books?id=US-QQxjHnn8C&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false 20]}}。作戦は13時頃に第1、第2そして第6軍団の[[大砲列]]([[:en:Grand Battery|''grande batterie'']])が英蘭軍中央への砲撃を開始し、その後、デルロンの軍団が英蘭軍の左翼を攻撃して突破し、東から西に旋回して包囲する計画になっていた。ナポレオンの手記によれば、彼は英蘭軍をプロイセン軍から分断して海に叩き落とすことを企図していた<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=95–98}}.</ref>。 ===ウーグモン=== [[File:Andrieux - La bataille de Waterloo.jpg|thumb|left|300px|ワーテルローの戦い。<br>Clément-Auguste Andrieux画、1852年。]] 「ワーテルローの戦いにおける奇妙な事実はこの戦いがいつ始まったのか確証できる者が誰もいないことである」と歴史家アンドリュー・ロバートは述べている<ref>{{Harvnb|Roberts|2005|p=55}}.</ref>。ウェリントンは公文書で「10時頃にナポレオンが我が軍の拠点が置かれたウーグモンに対して熾烈な攻撃を仕掛けてきた」と記録している<ref>{{Harvnb|Wellesley|1815|loc=}}</ref>。その他の史料は11時30分に攻撃が始まったと述べている<ref>{{Harvnb|Fitchett|2006|loc=Chapter: King-making Waterloo}}.</ref>。 ウーグモンの館とその周辺は近衛軽歩兵4個中隊、果樹園と庭園はハノーファー軍[[猟兵]]およびナッサウ軍第2連隊第1大隊がおのおの守備についていた<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=113–114}}.</ref>。ジェローム・ボナパルトの第6師団が攻撃の口火を切り、麾下のボードワン将軍の第1旅団が突入して果樹園と庭園の守備隊を駆逐したものの、指揮官のボードワンが戦死する<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.193.</ref>。ジェロームは騎馬砲兵の支援のもとでソワイエ将軍の第2旅団を投入して攻撃を続けさせるが、イギリス軍王室騎馬砲兵の曲射砲の砲撃を受けて進撃が鈍ってしまう<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.194-195.</ref>。フランス軍砲兵が前進して対砲兵射撃によって英軍砲兵が制圧されると、ソワイエは兵を進めて館の北門を打ち壊して内部に突入した<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.195.</ref>。フランス兵の一部は中庭までたどり着くが、イギリス兵に門を奪回されて閉じ込められ全滅してしまった<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.197-198.</ref>。ジェロームは主攻勢前の牽制攻撃の役割は果たしたのだが、なおも攻撃を続け、フォワ将軍の第9師団までこの戦いに巻き込み、一方、ウェリントンも[[コールドストリームガーズ|第2近衛歩兵連隊]]と第3近衛歩兵連隊の一部をウーグモンに送り込んだ<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.198.</ref>。 [[File:Hougemont engraving by William Miller after Turner R520.jpg|thumb|ウーグモン。<br>William Miller画、1836年。]] ウーグモンでの戦闘は午後いっぱい続いた。その周囲はフランス軍軽歩兵によって幾重にも取り囲まれ、連携した攻撃がウーグモン内の部隊に仕掛けられた。英蘭軍は館と北へ通じる窪み道を守った。午後になってナポレオンは砲撃によって家に火をかけるよう命じ<ref name=Barbero298 group="注釈">火災を見たウェリントンは館の守備隊長にいかなる犠牲を払ってもその場所を死守せよと命じた。{{Harvnb|Barbero|2005|p=298}}.</ref>、その結果、礼拝堂を除くすべての建物が破壊された。国王直属ドイツ人部隊のデュ・プラの旅団は窪み道の防御に差し向けられ、高級士官を欠いた状態でこの任務を果たさねばならなかった。最終的に彼らは英軍の{{仮リンク|第71歩兵連隊 (ハイランド)|label=第71歩兵連隊|en|71st (Highland) Regiment of Foot}}の応援を受けた。アダム将軍のイギリス軍第3旅団は{{仮リンク|ヒュー・ハケット|en|Hugh Halkett}}のハノーファー軍第3旅団によって増強され、レイユによって差し向けられたフランス軍歩兵および騎兵のさらなる攻撃を撃退することに成功した。結局、ウーグモンはこの会戦の間中、持ちこたえた。 {{Quotation|遺棄されたロイズ隊の大砲にたどり着くと、私は状況を視察するためにおよそ1分間ここに立ち止った。それは想像を越えた光景だった。ウーグモンとそこの木々は炎と戦場にたちこめる黒煙の中にそびえ立っていた。この煙の下にフランス兵たちがぼんやりと見えた。そこには揺れ動く長く赤い羽根飾りの集団を見ることができた。鋼の板の煌めきは重騎兵が移動していることを示しており、400門の大砲による砲撃によって双方に死者を出していた。怒号と悲鳴が区別つかなく混じり合い、これらはわたしに活動する火山を思い起こさせた。歩兵と騎兵の死体が我々の周りに散らばっており、そして私は視察を終えるべきと思い、方陣で踏みとどまっている我が軍部隊の方へ向かった。|マクリーディ少佐、イギリス軍第30連隊|<ref name=Creasy-XV>{{Harvnb|Creasy|1877|loc=[http://www.standin.se/fifteen15a.htm Chapter XV]}}</ref>}} ウーグモンでの戦いはもともとはウェリントンの予備兵力を誘引するための陽動攻撃であったものが終日の戦闘にエスカレートし、逆にフランス軍の予備兵力が消耗させられる結果となったとしばしば言われる<ref>[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],p.277.</ref><ref>{{Harvnb|Longford|1971|pp=552–554}}.</ref>。しかしながら、実際はナポレオンとウェリントンの双方がウーグモンの確保が会戦の勝利のカギであったと考えていたとする見方もある。ウーグモンはナポレオンから良く見渡すことができた場所であり、彼は午後の間中、兵力をこことその周辺に送り続けている(総計で33個大隊、14,000人)。同じようにウェリントンも、本来なら大兵力を収容することができないこの邸宅に21個大隊(12,000人)を投入し、窪み道を守り通せたため補充兵や弾薬を邸宅内の建物に供給し続けることができた。戦闘中、ウェリントンは敵軍からの激しい圧力を受けている中央部から砲兵隊を引き抜いてウーグモンを支援させており<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=305,306}}.</ref>、後になって彼は「会戦の勝利はウーグモンの門を閉じ続けることにかかっていた」と述べている<ref>{{Harvnb|Roberts|2005|p=57}}.</ref> {{Quotation|私はこの拠点をここの背後に布陣していたビング将軍の近衛旅団の分遣隊によって占拠させ、指揮はマクドナルド中佐、次いでホーム大佐が執った。そして、大規模な敵軍がここを奪取しようと幾度も試みたが、これらの勇敢な兵士たちが最大限の勇気を示して、この日の間中、守り通したと付け加えられることを嬉しく思う。|ウェリントン|<ref name=Booth-10>{{Harvnb|Booth|1815|p=10}}</ref>}} ===フランス軍歩兵の第一次攻撃=== {{multiple image | align = | direction = vertical | width = 200 | image1 = French 6 pounder field gun cast 1813 in Metz captured at Waterloo by the Duke of Wellington.jpg | caption1 = フランス軍の6ポンド野砲{{enlink|Canon de 6 système An XI}}。1813年に[[メス (フランス)|メス]]で鋳造。ワーテルローの戦いでウェリントン公に鹵獲された。[[ロンドン塔]]蔵。 | image2 = Crofts Ernest The Battle Of Ligny.jpg | caption2 = ワーテルローの戦場を進むフランス軍歩兵。<br>Ernest Crofts画、19世紀から20世紀初頭。 }} フランス軍の大砲列(''grande batterie'')80門が中央部に整列した。砲撃の開始は英蘭軍第2軍団長{{仮リンク|ローランド・ヒル (初代ヒル子爵)|label=ローランド・ヒル|en|Rowland Hill, 1st Viscount Hill}}によれば11時50分<ref>{{Harvnb|Fitchett|2006|loc=Chapter: King-making Waterloo}}</ref>、その他の史料では正午から13時30分の間となっている<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=131}}.</ref>。大砲列は正確な照準を付けるには遠すぎる位置に布陣しており、目視できたのはオランダ軍師団の一部だけであり、その他の英蘭軍の部隊は反対斜線に布陣していた<ref name=Barbero-130>{{Harvnb|Barbero|2005|p=130}}.</ref>。それでも砲撃は多大な損害を与えた。地面が軟弱で砲撃による跳弾効果が妨げられていたが<ref group="注釈">フランス軍砲兵は砲弾を直接命中させるのではなく、地表に命中させて周囲の岩や土塊を跳ね飛ばして殺傷範囲を広げる跳弾戦術を用いていた。[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.201.</ref>、さらにフランス軍砲兵は英蘭軍の布陣全域をカバーせねばならず、砲撃の集弾性が低くなった。しかしながら、この時のナポレオンの命令は「敵を驚かせ、士気を萎えさせる」ことであり、敵に大きな物理的損害を出させることではなかった<ref name="Barbero-130" />。 [[File:Emmanuel de Grouchy 2.jpg|thumb|200px|left|グルーシー元帥。<br>優れた騎兵指揮官であったが、ワーテルロー戦役では臨機応変の対応ができず、ナポレオンの敗戦の原因となった。<br>Jean-Sébastien Rouillard画、1835年。]] およそ13時頃、ナポレオンはフランス軍右側面から4-5マイルほど(3時間程度の行軍距離)の場所にある{{仮リンク|ラスン|label=ラスン=シャペル=サン=ランベール|en|Lasne}}村周辺にいるプロイセン軍の第一陣を目にした<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=136}}.</ref>。ナポレオンは参謀長のスールトに対して「ただちに戦場に駆けつけプロイセン軍を攻撃せよ」との伝令をグルーシー元帥へ送るように命じた<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=145}}.</ref>。だが、この時のグルーシーは「(プロイセン軍を追撃して)貴官の剣をもって敵の背後を突け」との以前のナポレオンの命令を遂行するためワーヴルに向かっており、6月18日の朝には決戦場のモン・サン・ジャンから20kmも離れた場所にいた<ref>[[#長塚 1986|長塚 1986]],p.565.</ref>。 モン・サン・ジャンの方向からの砲声はグルーシーの司令部でも聞かれ、グルーシーは部下の{{仮リンク|エンティエンヌ・モーリス・ジェラール|label=ジェラール|en|Étienne Maurice Gérard}}将軍から「砲声の方角へ進軍すべきです」との進言を受けていたが、彼は以前に受けた命令に固執して{{仮リンク|ヨハン・フォン・ティールマン|label=|en|Johann von Thielmann}}中将率いるプロイセン軍第3軍団後衛部隊との{{仮リンク|ワーヴルの戦い|en|Battle of Wavre}}を始めた<ref>[[#ジョフラン 2011|ジョフラン 2011]],pp.216-220;[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],pp.280-281.</ref>。このグルーシーの判断により、彼の麾下の33,000人ものフランス軍がワーテルローの戦いに参戦できなくなり、作家[[シュテファン・ツヴァイク]]は「世界の運命を決定した世界史的瞬間」と呼んだ<ref>[[#長塚 1986|長塚 1986]],pp.565-566.</ref>。さらに不味いことに、13時にスールトがグルーシーに宛てた「直ちに移動して本隊と合流し、ビューローを叩け」とのナポレオンの命令を携えた伝令は道に迷い、19時になるまで到着しなかった<ref>[[#長塚 1986|長塚 1986]],p.566.</ref>。 13時過ぎにデルロンの第1軍団が攻撃を開始した。左翼をキオ将軍の第1師団、中央を{{仮リンク|フランソワ=グザヴィエ・ドンズロ|label=ドンズロ|en|François-Xavier Donzelot}}将軍の第2師団・マルコニェ将軍の第3師団そして右翼をデュリット将軍の第4師団が受け持ったが、第1・第2・第3師団は「大隊編成の師団縦隊」と呼ばれる密集隊形をとり、この隊形は戦術的融通性がなく敵砲兵の格好の的になった<ref name=nofi202>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.202.</ref>。デュリット将軍の第4師団のみは「分割された大隊縦隊」と呼ばれる縦深の深い隊形で進軍している。これは本来「分割」を意味していた''division'' を「師団」の意味と取り違えた命令が司令部から伝達される不手際だったと考えられている<ref name=nofi202/>。後に[[軍事学者]][[アントワーヌ=アンリ・ジョミニ|ジョミニ]]は第1軍団のこの隊形を「信じがたい」と酷評している<ref name=Jomini223224/>。 ドンズロ将軍率いる左端の第2師団がラ・エー・サントに進撃した。1個大隊が正面の守備隊と交戦する間に後続の大隊が両側に展開し、いくつかの胸甲騎兵大隊の支援を受けつつ、農場の孤立化に成功する。ラ・エー・サントが分断されたと見たオラニエ公はハノーファー・リューネブルク大隊を投入してこれを救出しようと試みた。だが、地面の窪みに隠れていた胸甲騎兵がこれを捕捉して瞬時に撃破してしまい、それからラ・エー・サントを通り越して尾根の頂にまで進出し、進撃を続けるデルロンの左側面を守った。 13時30分頃、デルロンは残る3個師団に前進を命じ、14,000人以上のフランス軍兵士が英蘭軍左翼の守るおよそ1,000mの戦線に展開した。彼らが対する英蘭軍は6,000人であり、第一線は{{仮リンク|ウィレム・フレデリク・バイラント|label=バイラント|en|willem Frederik van Bylandt}}率いるオランダ=ベルギー軍第2師団第1旅団によって構成されていた。第二線は{{仮リンク|トマス・ピクトン|en|Thomas Picton}}中将率いるイギリスおよびハノーファー兵の部隊であり、尾根の背後の死角に伏せていた。これらの部隊はいずれもカトル・ブラの戦いで大きな損害を出していた。加えて、戦場のほぼ中央部に配置されたバイラントの旅団は砲撃に身をさらす斜面前方に布陣していた<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=166-168}}.</ref>。命令を受けていなかった彼らは危険な場所に留まっていた<ref group="注釈">これはオランダ側の史料、特にオランダ軍第2師団の戦闘詳報と矛盾する。; 右を参照せよ。[http://home.tiscali.nl/erwinmuilwijk/pdf-files/18-2-1.pdf Erwin Muilwijk,Bylandt's brigade during the morning]</ref>。 砲撃によって大打撃を受けていたバイラントの旅団はフランス軍の攻撃に抗しきれずに窪み道へ退却し、将校のほとんどが戦死するか負傷し兵力の40%を失ってしまい<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.205.</ref>、ベルギー第7大隊を残して戦場から離脱した<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=177}}.</ref><ref group="注釈">戦場を離脱したことによりオランダは友軍部隊から非難を受けたが、これに同意せず、彼らは臆病なのではなくボナパルティストだったのだろうとする意見もある。{{Harvnb|Longford|1971|p=556}}</ref>。 デルロンの兵は斜面を駆け上がり、そこにピクトンの兵が立ち上がって銃撃を浴びせた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.207.</ref>。フランス歩兵も応戦し、8,000対2,000と数に勝る彼らはイギリス兵を圧迫した<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.207.</ref>。デルロンの攻撃は英蘭軍中央部をたじろがせることに成功し<ref>第92高地歩兵連隊所属ホープ中尉の書簡 ({{Harvnb|Glover|2004}})</ref>、デルロンの左側の英蘭軍戦列が崩れはじめた。ピクトンは再集結を命じた直後に戦死し<ref name=nofi208>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.208.</ref>、敵の数に圧倒された英蘭軍の兵士たちも挫けかけていた。 {{-}} ===イギリス騎兵の突撃=== {{Quotation|我が軍の騎兵将校たちは馬を疾走させる悪ふざけに夢中になってしまった。彼らは置かれた状況を考慮せず、敵前で機動していると思ってもおらず、自制することも予備を控置することもしなかった。|ウェリントン|<ref name="WellingtonCavalry" />}} [[File:Butler Lady Scotland for Ever.jpg|thumb|left|300px|『スコットランドよ永遠なれ』<br>第2竜騎兵連隊(''Scots Greys'')の突撃。<br>[[エリザベス・トンプソン]]画]] この決定的な時点で、英蘭軍の騎兵軍団を指揮するアックスブリッジは過大な重圧を受けている歩兵部隊を救援すべく、敵から見えない尾根の背後で整列していた近衛騎兵旅団(''Household Brigade'')の名で知られる{{仮リンク|第1騎兵旅団 (イギリス)|label=第1騎兵旅団|en|1st Cavalry Brigade (United Kingdom)}}(エドワード・サマセット少将)と連合騎兵旅団(''Union Brigade'')の名で知られる{{仮リンク|第2騎兵旅団 (イギリス)|label=第2騎兵旅団|en|1st Cavalry Brigade (United Kingdom)}}({{仮リンク|ウィリアム・ポンソビー|en|William Ponsonby (general)}}少将)の2個重騎兵旅団に突撃を命じた。 およそ20年におよぶ戦乱により、ヨーロッパ大陸では騎乗に適した馬が激減しており、この結果、1815年戦役に参加したイギリス軍重騎兵は同時代の欧州諸国の騎兵部隊の中でも最も優れた馬を用いており、彼らはまた優れた馬上剣術の訓練を受けてもいた<ref>{{Harvnb|Wootten|1992|p=51}}.</ref>。しかしながら、彼らは大部隊での機動についてフランス騎兵に劣り、態度は尊大であり、歩兵と違って実戦経験が不足していた<ref group="注釈">例えば第2竜騎兵連隊(''Scots Greys'')は1801年以降実戦経験がなかった。{{Harvnb|Wootten|1992|p=21}}.</ref>。ウェリントンの言によれば、彼らは戦術能力も思慮分別もほとんどなかった<ref name="WellingtonCavalry">{{Harvnb|Barbero|2005|pp= 85–187}}.</ref>。 [[File:Sunken-road-at-waterloo.jpg|thumb|300px|窪み道に落ちるフランス騎兵。<br>Stanley Berkley画、1902年。<br>この伝説は後に[[ヴィクトル・ユーゴー]]の小説『[[レ・ミゼラブル]]』で用いられ有名になったが、実際の窪み道の高低差は大きなものではなく、影響は僅かだった<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.220.</ref>。]] 2個の騎兵旅団の兵力はおよそ2,000騎(定数2,651騎)であり、47歳になるアックスブリッジが率いていたが、彼は不適切な数の予備兵力しか用意しておかなかった<ref group="注釈">{{Harvnb|Barbero|2005|p=188}}. <br>近衛騎兵旅団(9-10個大隊)からは近衛騎兵2個大隊が予備とされたが、連合騎兵旅団(9個大隊)は予備をつくらなかった。({{Harvnb|Siborne|1993|loc=Letter 5}},および、{{Harvnb|Glover|2004|loc=Letter 16}})<br>総兵力はおよそらく18個大隊だが、近衛竜騎兵連隊が3個大隊なのか4個なの確定する史料が存在しない。アックスブリッジは4個大隊と述べているものの({{Harvnb|Siborne|1993|loc=Letter 5}})、連隊の中央部の大隊を指揮したネイラー大尉は3個大隊だったと述べている({{Harvnb|Siborne|1993|loc=Letter 21}})。</ref>。会戦の日の朝、アックスブリッジは配下の騎兵旅団長たちに対して戦場では自分の命令が常に届くとは限らないので、おのおの自らの判断で行動するよう告げ、「前線に対して支援する運動をせよ」と命じていた<ref>Frederick Stovin (ADC to Sir Thomas Picton){{Harvnb|Glover|2004|loc=Letter 16}},</ref>。この際、アックスブリッジはヴァンドルー少将、ヴィヴィアン少将そしてオランダ=ベルギーの各騎兵隊がイギリス重騎兵隊を支援することを期待していた。後にアックスブリッジは前進に際して十分な数の予備隊を編成させなかったことに関して「私は大きな誤りを犯した」と後悔の念を吐露している<ref>{{Harvnb|Siborne|1993|loc=Letter 5}}.</ref>。 近衛騎兵旅団は尾根の頂の連合軍布陣地を越えて丘の下へと突撃した。デルロンの左翼を守っていた胸甲騎兵は散開しており、深く窪んだ街道へと追いやられ、総崩れになった<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=426}}.</ref>。窪み道は罠と化し、イギリス軍騎兵に追われた胸甲騎兵たちを彼らの右方向へと押し流した。胸甲騎兵たちの一部は窪み道の急勾配と前方の混乱した友軍歩兵の集団との間に挟まれてしまい、そこへ英軍第95歩兵連隊が窪み道の北側から銃撃をし、サマセットの重騎兵が背後から彼らを押し続けた<ref>{{Harvnb|Siborne|1990|pp=410,411}}.</ref>。この装甲化した敵とのもの珍しい戦闘はイギリス騎兵たちに強い印象を与えており、近衛騎兵旅団長はこう記録している。 {{Quotation|胸甲騎兵へのサーベルの一撃は火鉢を叩くのと同じ音がした。|エドワード・サマセット卿|<ref>{{Harvnb|Houssaye|1900|p=182}}</ref>}} 近衛騎兵旅団左翼の大隊は戦闘を続け、フランス軍第2師団第2旅団(オーラール少将)を撃破した。司令部は彼らを呼び戻そうと試みたものの、彼らは前進を続けてしまい、ラ・エー・サントを通り過ぎて丘の下に出たところで[[方陣]]を組む第1旅団(シュミット少将)と出くわした。 [[File:Richard_Ansdell_—_The_Fight_For_The_Standard.jpg|thumb|upright|200px|第45連隊の鷲章旗を奪取するスコットランド騎兵の{{仮リンク|チャールズ・エドワード|label=エドワード軍曹|en|Charles Ewart}}。<br>[[リチャード・アンズデル]]画、1847年。]] 左翼では連合騎兵旅団が自軍の歩兵の隊列をすり抜けて突撃しており、この際に{{仮リンク|第92歩兵連隊(ゴードン・ハイランダーズ)|label=第92歩兵連隊|en|92nd (Gordon Highlanders) Regiment of Foot}}(''Gordon Highlanders'')の兵士の幾人かが馬の[[鐙|鐙金]]にしがみついて突撃に参加したとの伝説が生まれている<ref name=nofi208/><ref group="注釈">この逸話はE・ブルース・ローの''The Waterloo Papers''に見られる。これは突撃に参加した最後の生き残り兵士であるディクソン曹長に由来する話である。''With Napoleon at Waterloo,'' MacBride, M., (editor), London 1911. </ref>。中央左側では第2竜騎兵連隊(''Scots Greys'')が第1師団第2旅団(ブルジョワ少将)の第105連隊を撃破して鷲章旗を奪取した。第6竜騎兵連隊(''Inniskillings'')はその他のフランス軍第1師団(キオ少将)の旅団を敗走させ、第2竜騎兵連隊は第3師団第2旅団(クルニエ少将)も叩きのめして第45連隊の鷲章旗を奪い取っている<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=198–204}}.</ref>。だが、英蘭軍の左端では{{仮リンク|ピエール・フランソワ・ジョセフ・デュリット|label=デュリット|en|Pierre François Joseph Durutte}}将軍のフランス軍第4師団が方陣を組む時間的余裕を得て、第2竜騎兵連隊を追い払った。 [[File:Napoleon French Lancer by Bellange.jpg|thumb|left|175px|フランス軍の槍騎兵(''Chevau-légers'')]] 近衛騎兵旅団と同様、連合騎兵旅団の将校たちも部隊の統率が失われていたために兵を引くことが難しくなっていた。第2竜騎兵連隊の指揮官{{仮リンク|ジェームズ・ハミルトン (イギリス陸軍将校)|label=ジェームズ・ハミルトン|en|James Hamilton (British Army officer, born 1777)}}は攻撃続行を命じ、フランス軍砲兵隊列に突進した。第2竜騎兵連隊は大砲を使用不能にしたり鹵獲する道具も時間的余裕もなかったが、彼らが砲兵たちを殺すか逃亡させたため結果的に大砲のほとんどが無力化された<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|p=211}}.</ref>。 この様子を見ていたナポレオンは即座にフラリンヌとトラバーサーの2個胸甲騎兵旅団そして第1軍団の軽騎兵師団に所属する2個槍騎兵(''[[:en:Chevau-léger|Chevau-léger]]'')連隊に反撃を命じた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.208.</ref>。イギリス軍騎兵はすでに疲労困憊しており、そこをフランス騎兵に突かれ、連合騎兵旅団は叩きのめされ、近衛騎兵旅団は包囲され、たちまち危機に陥った<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.209.</ref>。ウェリントンはヴァンドルー少将率いるイギリス軍軽竜騎兵隊、ヴィヴィアン少将のオランダ=ベルギー軽竜騎兵および[[ユサール|驃騎兵]]そしてトリップ少将のオランダ=ベルギー{{仮リンク|騎銃兵|en|carabinier}}を救出に差し向けたが、英蘭軍の騎兵隊はこの突撃で2,500騎を失う甚大な被害を蒙ることになった<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.209</ref><ref group="注釈">犠牲者数はこの戦いの後に会戦全体のものとして集計されたものしかなく、この突撃の結果生じた騎兵旅団の損害に関する数値は全て推定である。会戦後に作成された報告書によると損害は次の通り。近衛騎兵旅団:初期戦力1,319人、戦死&nbsp;–&nbsp;95人、戦傷&nbsp;–&nbsp;248人、 行方不明&nbsp;–&nbsp;250人、合計&nbsp;–&nbsp;593人, 軍馬喪失&nbsp;–&nbsp;672頭。 連合騎兵旅団:初期戦力1,332人、戦死&nbsp;–&nbsp;264人、戦傷&nbsp;–&nbsp;310人、行方不明&nbsp;–&nbsp;38人 合計&nbsp;–&nbsp;612人, 軍馬喪失&nbsp;–&nbsp;631.<br>{{Harvnb|Adkin|2001|p=217}} (初期戦力),{{Harvnb|Smith|1998|p=544}} (損害)</ref>。 連合騎兵旅団は将校と兵士が多数戦死傷し、旅団長のウィリアム・ポンソビーと第2竜騎兵連隊長のハミルトン大佐が戦死している。近衛騎兵旅団の第2近衛騎兵連隊(''Life Guards'')と近衛竜騎兵連隊もまた近衛竜騎兵連隊長フラー大佐の戦死を含む大損害を出した。 この一方で突撃の最右翼にいた第1近衛騎兵連隊(''Life Guards'')と予備に控置された王室近衛騎兵連隊(''Blues'')は統率を保つことができ、犠牲者数はごく少数だった。第8ベルギー軽騎兵連隊の戦いぶりを見た、この突撃の目撃者による手記は「気違いじみた勇敢さ」と回想している<ref>{{Harvnb|Barbero|2005|pp=219–223}}.</ref><ref>{{Harvnb|Siborne|1990|pp=329,349}} (composition of brigades), pp. 422–424 (actions of brigades)</ref> 20,000以上のフランス軍将兵がこの攻撃に加わった。この失敗は多数の犠牲者(捕虜3,000を出している)だけでなく、ナポレオンに貴重な時間を失わせることになり、今やプロイセン軍が戦場の右手に姿を現し始めていた。ナポレオンはプロイセン軍を押し止めるべく、ロバウの第6軍団と2個騎兵師団の兵15,000の予備兵力を割かざる得なくなった。これにより、ナポレオンは近衛軍団を除く予備の歩兵戦力を全て投入したことになり、今や彼は劣勢な兵力をもって英蘭軍を速やかに打ち破らねばならなくなった<ref name=Hofschroer-122/>。 {{-}} ===ネイ元帥の騎兵攻撃=== [[File:Grande Armée - 10th Regiment of Cuirassiers - Colonel.jpg|thumb|175px|フランス軍の胸甲騎兵。<br>[[カルル・ヴェルネ]]画、1812年]] 15時30分、ナポレオンはネイ元帥に対してラ・エー・サントの奪取を厳命し、ネイはデルロンの第1軍団から引き抜いた2個旅団の兵力を持ってラ・エー・サントへの攻撃を開始した<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.214-215.</ref>。 この戦闘が行われていた16時少し前、ネイは英蘭軍中央部に後退の動きがあると感じ取った。彼はこの機を逃さず突破口にしようと考えたが、実際には彼は負傷兵や捕虜の後送を撤退の兆候であると誤解していた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.215.</ref>。デルロンの敗退の後、ネイの手元には僅かな数の歩兵予備戦力しか残されておらず、他は実りのないウーグモン攻撃か、右翼の防衛に回されていた。このためネイ元帥は英蘭軍中央部を騎兵戦力のみで突破しようとした<ref name=Siborne439>{{Harvnb|Siborne|1990|p=439}}.</ref>。 第一次攻撃は{{仮リンク|エドアルド=ジャン=パプディスト・ミヨー|label=ミヨー|en|Édouard Jean Baptiste Milhaud}}将軍の第4騎兵軍団の胸甲騎兵と{{仮リンク|シャルル・ルフェーヴル=デヌエット|label=デヌエット|en|Charles Lefebvre-Desnouettes}}将軍の近衛軽騎兵師団の合わせて4,800騎をもって敢行された。この攻撃はあまりに性急に組織されたものであり、掩護の歩兵も砲兵もなく決行された<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.216.</ref>。 英蘭軍の歩兵は20個の[[方陣]](四角形の陣形)を組んでこれに対抗した<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.218.</ref>。方陣は戦闘を題材とした絵画によく描かれるものよりも小さめで、500人の大隊方陣は18m四方程度である。方陣は砲撃や歩兵に対しては脆弱だが騎兵にとっては致命的だった。方陣には側面攻撃ができず、馬は銃剣の矢ぶすまの中に突入できない。ウェリントンは砲兵に対して敵騎兵が近づいたら方陣の中に逃げ込み、敵が退却したら再び大砲に戻り戦うように命令していた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.219.</ref>。 フランス軍騎兵の攻撃を目撃したイギリス軍近衛歩兵将校はその印象を非常に明快かつ幾分か詩的に書き残している。 {{Quotation|午後4時頃、敵軍の砲撃が突然止み、我々は騎兵の大集団の進撃を目にした。この場にいて生き残った者は恐ろしい程に壮観なこの突撃を生涯忘れることはないだろう。圧倒的な、長く揺れ動く戦列が現れ、彼らはさらに前進し、陽光を浴びた海の大波のごとくに煌めいた。彼らが近づくにつれて雷鳴のような馬蹄の響きによって地面が揺れ動くようだった。この恐ろしい動く集団の衝撃に抗しうると考えるものは誰もいなかったろう。彼らは有名な胸甲騎兵、そのほとんどがヨーロッパの数々の戦場でその名をはせた古参兵たちだった。驚くほど短い時間で彼らは20ヤードにまで迫り、「皇帝陛下万歳」("''Vive l'Empereur!''")と叫んだ。「騎兵に備えよ」と命令が下り、最前列の兵たちが跪き、そして鋼鉄の棘が逆立ったひとつの壁となり、団結して、怒り狂う胸甲騎兵に立ち向かった。|リース・ハウエル・グロノウ近衛歩兵大尉|<ref>{{Harvnb|Gronow|1862|loc=}}</ref>}} [[File:Wellington at Waterloo Hillingford.jpg|thumb|300px|戦場を巡り兵を鼓舞するウェリントン。<br>Robert Alexander Hillingford画。]] このタイプの騎兵による集団攻撃は心理的衝撃効果の有無にほとんど完全に依存していた<ref>{{Harvnb|Weller|1992|pp=211,212}}</ref>。砲兵による近接支援が歩兵の方陣を崩して騎兵の突入を可能にするが、ワーテルローの戦いにおいてはフランス軍騎兵と砲兵の協同は拙劣なものだった。英蘭軍歩兵を叩ける距離まで近づいた砲兵の数は十分ではなかった<ref>{{Harvnb|Adkin|2001|pp=252,361}}.</ref>。 この突撃に際してフランス軍の砲撃は英蘭軍に死傷者を出させた。イギリス軍は稜線の内側に後退していたので、フランス軍砲兵士官は稜線上からイギリス軍を視認することが出来、効果的に砲撃を行ったためである。もしも、攻撃を受けた歩兵が方陣防御の陣形をしっかり保ち、パニックに陥らなければ、騎兵それ自体では歩兵に対してほんの僅かな被害しか与えられない。フランス軍騎兵の突撃は不動の歩兵方陣によって繰り返し撃退され、イギリス砲兵の絶え間ない砲撃によってフランス騎兵は再編成のために斜面を下ることを強いられ、そしてイギリス軍軽騎兵連隊、オランダ軍重騎兵旅団そして近衛騎兵旅団の生き残りによる果断な反撃を受けることになった。 少なくとも一人の砲兵士官は突撃を受けたときに最寄りの方陣に逃げ込めとのウェリントンの命令に従わなかった。[[王室騎馬砲兵]](''[[:en:Royal Horse Artillery|Royal Horse Artillery]]'')の{{仮リンク|キャヴァリエ・マーサー|label=マーサー大尉|en|Cavalié Mercer}}は両側で方陣を組むブラウンシュヴァイク兵は当てにならないと考え、この戦闘の間中、9門の6ポンド砲を敵に向けて戦い続け、多大な戦果をあげた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.219-220.</ref>。 {{Quotation|私は彼らの縦隊の先頭が50から60ヤードに近づくまで、彼らを前進するにまかせ、それから「撃て!」と命じた。その効果は恐るべきものだった。先鋒のほとんど全員が一度に倒れ、縦隊を突き抜ける砲弾は全体に混乱を引き起こした&nbsp;…&nbsp;すべての大砲からの砲撃が続けられ、人や馬を倒し、それはまるで草刈鎌で雑草を薙ぎ払うようだった。 |キャヴァリエ・マーサー、王室騎馬砲兵(RHA)|<ref name="M70">{{Harvnb|Mercer|1870|loc=}}</ref>}} [[File:Charge of the French Cuirassiers at Waterloo.jpg|left|thumb|300px|英蘭軍の方陣はフランス軍騎兵の突撃に対して頑強に抵抗した。<br>[[アンリ・フェリックス・エマニュエル・フィリッポトー]]画、19世紀。]] 理由は定かではないが、フランス軍が英蘭連合軍の砲兵隊列を制圧しても、砲尾に穴を開けて使用不能にしておかなかった。そのため、方陣に逃げ込んでいた英蘭軍砲兵たちはフランス騎兵が撃退されると大砲のあった場所に戻り、再び彼らに砲撃を浴びせることができた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.222-223.</ref>。 ネイは4度の突撃を敢行させたが、遂に英蘭軍の方陣を突破することはできなかった<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.223.</ref>。 ナポレオンはネイの攻撃は時期尚早にすぎ失策であるとは思っていたが、一方でプロイセン軍が右側面から迫っている状況でもあり、まずは早急に英蘭軍を撃破すべきであり、中央部への攻撃を続行させる決断をした<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.224.</ref>。 ミヨーとデヌエットの残存兵力に[[フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン|ケレルマン]]将軍の第3騎兵軍団と{{仮リンク|クロード・エティエンヌ・ギヨー|label=ギヨー|en|Claude-Étienne Guyot}}将軍の近衛重騎兵師団が加えられ、総兵力は67個騎兵大隊9,000騎となった<ref>{{Harvnb|Adkin|2001|p=356}}.</ref>。この攻撃は無意味であると認識していたケレルマンは精鋭の銃騎兵旅団を予備として控えさせ、戦闘に参加させなかったが、このことを見抜いたネイが彼らの投入を要求している<ref name=Adkin359>{{Harvnb|Adkin|2001|p=359}}.</ref>。 8度の突撃が行われ、ある方陣は23度も攻撃を受けたが、今回も砲兵は1個中隊しか加わっておらず、英蘭軍は一つの方陣も崩壊せず、ネイの攻撃はまたも頓挫した<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.225,227.</ref><ref group="注釈">アンドレ・マルローは騎兵部隊の攻撃がイギリス軍の方陣をいくつか破壊したと主張している。[[#マルロー 2004|マルロー 2004]],pp.424-425.</ref>。 被害の大きい、だが実りのない攻撃がモン・サン・ジャン尾根に繰り返された末にフランス軍騎兵は消耗し尽くしてしまった<ref>{{Harvnb|Weller|1992|p=114}}</ref>。フランス軍の高級騎兵将校、とりわけ将官は大きな損失を被った。勇敢さゆえ、そして指揮官が部隊の先頭に立つ習慣のために、フランス軍の師団長4人が負傷し、旅団長は9人が負傷し、1人が戦死した<ref name=Adkin359/>。死傷者数は簡単には見積もれないが、例として、6月15日時点で796人いた近衛擲弾騎兵連隊(''Grenadiers à Cheval'' )は6月19日には462人になっており、近衛竜騎兵連隊(''l'Impératrice Dragons'')は同じ期間に816人中416人を失った<ref>{{Harvnb|Houssaye|1900|p=522}}</ref>。 ここに至り、騎兵単独では僅かしか成し得ないと、ネイ元帥もようやく悟った。遅まきながら彼は[[諸兵科連合]]での攻撃を組織することにし、レイユ将軍の第2軍団からバシュルュ将軍の第5師団とフォワ将軍の第9師団からティソ大佐の連隊を抽出させて兵6,500を集め、これに騎兵のうち未だに戦闘可能なものたちを加えさせた。今回の攻撃もそれまでの重騎兵による攻撃と同じ経路が用いられた<ref name=Adkin361>{{Harvnb|Adkin|2001|p=361}}.</ref> 。この攻撃はアックスブリッジ率いる近衛騎兵旅団によって止められた。だが、イギリス騎兵の攻撃はフランス軍歩兵を突破することができず、銃撃の損害により後退を強いられている<ref>{{Harvnb|Siborne|1993|pp=14,38–39}}.</ref>。バシュルュとティソの歩兵と彼らを支援する騎兵たちは砲撃とアダム将軍のイギリス軍第3旅団の銃撃にひどく叩かれ、後退を余儀なくされた<ref name=Adkin361/>。フランス騎兵自体は英蘭軍中央部に僅かな死傷者しか与えられなかったが、方陣に対する砲撃は多数の犠牲者を出させていた。最左翼に布陣していたヴァンドルーの第4騎兵旅団とヴィヴィアンの第6騎兵旅団を除く、英蘭軍の騎兵はこの戦闘に投入されて、多大な損害を受けていた。英蘭軍にとっても危険な状態であり、カンバーランド驃騎兵連隊(この戦いに参加した唯一のハノーファー騎兵)は戦場から逃げ出し、ブリュッセルまでの道中で敗戦の噂をまき散らしている<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.234.</ref><ref group="注釈">その後、連隊長は軍法会議にかけられて除隊させられている。この際、彼は部下の兵士(全員が裕福な若いハノーファー人)たちは自らの馬で参戦しており、彼らに戦場に留まるよう命じられなかったと主張している。戦いの後に連隊は解散させられ、兵士たちは彼らが不名誉と考える任務に就かされた。({{Harvnb|Siborne|1990|p=465}})4名がマーサー大尉の騎馬砲兵隊に配属されたが、大尉は彼らを「どいつもこいつも呆れるほど怒りっぽく、すねている」と評した。 ({{Harvnb|Mercer|1870|loc=}}).</ref> [[File:Knotel - The storming of La Haye Sainte.jpg|right|thumb|300px|alt=The storming of La Haye Sainte by Knötel|ラ・エー・サントへの突入。<br>Knötel画。]] ネイの諸兵科連合攻撃が決行されたと時を同じくして、デルロンの第1軍団も兵を集結させ、第13歩兵連隊を先鋒にラ・エー・サントへの攻撃を再開した<ref>{{Harvnb|Beamish|1995|p=367}}.</ref>。ラ・エー・サントは国王直属ドイツ人部隊(KGL)が守備していたが、英蘭軍は他の方面での戦闘に忙殺されてここへの弾薬の補給が滞っており<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.235.</ref>、フランス軍の猛攻を受けた国王直属ドイツ人部隊は支えきれずに退却し、400人いた兵士は僅か42人に減っていた<ref>[[#Wootten 1992|Wootten 1992]],pp.73.</ref>。 ラ・エー・サントを占領したネイは[[騎馬砲兵]]を英蘭軍中央部に向けて移動させると歩兵の方陣に対して短射程の[[ぶどう弾]]を用いた砲撃を加えた<ref name=Siborne439/>。これによって目に付きやすい方陣を組んでいた第27歩兵連隊(''Inniskilling'')そして第30および第73歩兵連隊は多数の犠牲者を出して撃破された。 この時、英蘭軍の中央部は危険なほど手薄になっており、もう一撃でネイは中央部を突破しえるところまで来たが、彼にはそれを実行する予備兵力がなかった<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.237;[[#Wootten 1992|Wootten 1992]],pp.73.</ref>。ネイはナポレオンの本営に増援を求めたものの、この時すでにプランスノワでプロイセン軍との戦闘が始まっている状況でありその余裕はなく、使者に対してナポレオンは「もっと兵隊をよこせだと!?どこからそんなものが手に入る?奴は私が兵士をつくれるとでも思ってるのか?」と言い放った<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.205;[[#Wootten 1992|Wootten 1992]],pp.73.</ref>。 実際にはナポレオンの手元には皇帝近衛軍団の15個大隊の無傷の兵力が残されていたが、彼はこの最後の予備戦力を投入する決断ができなかった<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.237-238.</ref>。 ウェリントンは兵力をかき集めて戦線の穴を塞ぐよう努め、「最後の一兵まで戦場に踏みとどまれ、今少しで救済は得られる」と兵を叱咤した<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.237-239.</ref>。 {{-}} ===プロイセン軍の来援=== [[File:Prussian Attack Plancenoit by Adolf Northern.jpg|thumb|300px|プロイセン軍のプランスノワ攻撃。<br>Adolph Northern画、1863年。]] 16時頃、ビューロー中将のプロイセン軍第4軍団がフランス軍の前哨部隊と接触し始めた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.227.</ref>。彼の目標はプランスノワであり、プロイセン軍はここをフランス軍の背後に回り込む跳躍台に使うことを計画していた。ブリュッヘル元帥はパリの森の道を通過する自軍の右側面を守るためにフリシェルモンの集落を確保することを考えている<ref name="Hofschroer-116">{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=116}}</ref>。ブリュッヘルとウェリントンはこの日の10時から連絡を取り合っており、もしも英蘭軍の中央部が攻撃されていたら、フリシェルモンへ進出することになっていた<ref name="Hofschroer-95">{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=95}};{{Harvnb|Chesney|1907|p=165}}</ref>。 プランスノワへの道が空いているとビューロー将軍が気づいたのは16時30分のことだった<ref name="Hofschroer-116"/>。この時はフランス軍騎兵による攻撃が最高潮に達しており、英蘭軍の左側面を守るナッサウ軍と連携すべくフリシェルモン=ラ・エイ間の地域へ第15旅団が派遣された<ref name="Hofschroer-117">{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=117}}</ref>。ナポレオンはプランスノワへ向けて進軍中のビューローの第4軍団を迎撃すべく、ロバウ将軍の第6軍団を差し向けた。プロイセン軍第15旅団は決死の銃剣突撃でフリシェルモンにいたロバウの兵を追い払い、そのままフリシェルモンの高地に進出して12ポンド砲でフランス軍猟兵を打ちのめすとプランスノワへ向かった。これによってロバウの軍団はプランスノワ方面へ退却させられ、結果的にロバウはフランス軍の右翼後方を通り過ぎることになり、唯一の退却路であるシャルルロワ―ブリュッセル街道が直接脅かされることになる<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.228.</ref>。 ヒラー将軍のプロイセン軍第16旅団もまた6個大隊をもってプランスノワへと進撃していた。ナポレオンは押しまくられているロバウへの増援として新規近衛隊の全力である8個大隊を送った。新規近衛隊は反撃を行い、激戦の末にいったんはプランスノワを確保したものの、プロイセン軍の逆襲を受けて駆逐されてしまう<ref name="Hofschroer-122">{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=122}}</ref>。ナポレオンは更に中堅近衛隊と古参近衛隊から2個大隊を派遣し、熾烈な銃剣戦闘の末に村を奪回した<ref name="Hofschroer-122"/>。頑強なプロイセン軍は未だ打ち倒されてはおらず、18時30分にはピルヒの第2軍団の兵15,000も来着し、ビューローの第1軍団主力とともにプランスノワ攻撃を準備した<ref name=nofi232>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.232.</ref>。 18時頃、ツィーテン将軍の第1軍団20,000がオアンに到着した<ref name=nofi230>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.230.</ref>。ウェリントンとの連絡将校を務めるミュッフリンクが第1軍団のもとを訪れた。この時、ツィーテンは既に第1旅団を繰り出していたが、英蘭軍左翼のナッサウ軍部隊やプロイセン軍第15旅団の戦いぶりと犠牲者数を見て憂慮するようになっていた。これらの部隊は退却しているように見受けられ、自分の部隊が総崩れに巻き込まれるのではないかと恐れたツィーテンは英蘭軍の側面から離れてプロイセン軍の主力がいるプランスノワへ向かおうとしていた<ref name=nofi230/>。この動きを知ったミュッフリンクは英蘭軍の退却は事実無根であり、彼らの左翼を支援するようツィーテンを説得した<ref name=nofi230/>。ツィーテンは当初の方針通りに英蘭軍を直接支援することにし、彼の軍団の到着により、ウェリントンは左翼の騎兵を崩壊しかけていた中央へ振り向けることができた<ref>{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=125}}</ref>。 第1軍団はパプロット前面でフランス軍を攻撃し、19時30分にはフランス軍の戦線は馬蹄型へねじ曲げられてしまう。戦線の左端はウーグモン、右がプランスノワ、中央はラ・エイとなった<ref name=Hofschroer-139>{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=139}}</ref>。一連の攻撃を受けたデュリュットのフランス軍第4師団はラ・エイとパプロットに陣取っていたが<ref name=Hofschroer-139/>、プロイセン軍第24連隊に抵抗することなくソムランの背後にまで後退した。第24連隊は新たなフランス軍の布陣地を攻撃したが撃退され、シュレジェン・ライフル兵(''Schützen'' )連隊と第1後備兵(''Landwehr'')連隊の支援を受けて再度攻撃を仕掛けた<ref name=Hofschroer-140>{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=140}}</ref>。この再攻撃を受けフランス軍はいったんは後退させられたものの、激しく抵抗し始め、ソムラン奪回を図り、尾根やパプロットの集落の最後の数軒に立て籠もって死守した<ref name=Hofschroer-140/>。第24連隊は右側でイギリス軍ハイランダー大隊と結びつき、第13後備兵連隊や騎兵の支援を受けてこの場所からフランス軍の兵士を追い立てた。第13後備兵連隊と第15旅団の攻撃により、フランス軍はフリシェルモンから駆逐された<ref>{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=141}}.</ref>。デュリュットの師団はツィーテンの第1軍団騎兵予備から大規模な突撃を受けかねないと考え、戦場から退却した。これにより、第1軍団はフランス軍の唯一の退路だったブリュッセル街道へ前進した。 ===皇帝近衛隊の突撃=== {{multiple image | align = | direction = vertical | width = 300 | image1 = Crofts-Napoleon's last grand attack at Waterloo.jpg | caption1 = [[古参近衛隊]]に英蘭連合軍への攻撃準備を命じるナポレオン。<br>William M. Sloane画、1895年。 | image2 = Plas Newydd (Anglesey) - Waterloo 1.jpg | caption2 = 戦闘の最終局面でフランス兵を攻撃するイギリス軍第10軽騎兵連隊。<br>Wolfgang Sauber画。 }} この一方、ラ・エー・サントが陥ちたことで英蘭軍中央部がむき出しになり、プランスノワの戦線は一時的に小康を得た。ナポレオンはこれまで無敵を誇ってきた皇帝近衛隊の投入を決めた。19時30分に決行されたこの攻撃は英蘭軍の中央を突破してその戦線をプロイセン軍から引き離すことにあった。この突撃は軍事史上名高い出来事の一つではあるが、具体的にどの部隊が参加したのかは不明確である。この攻撃は古参近衛隊の擲弾兵や猟歩兵ではなく、中堅近衛隊5個大隊によって行われたと見られる<ref name=Adkin391 group="注釈"/>。古参近衛隊3個大隊は前進し、攻撃の第二陣を構成したものの、彼らは予備のまま留め置かれ英蘭軍に対する攻撃には直接加わっていない<ref name=Adkin391 group="注釈">攻撃を敢行したのは第1中堅近衛擲弾兵連隊の第3および第4大隊、第1中堅近衛猟歩兵連隊第3大隊、第2中堅近衛猟歩兵連隊第3および第4大隊であり、第2古参近衛擲弾兵連隊第24大隊、第2古参近衛猟歩兵連隊第1および第2大隊は予備となった。{{Harvnb|Adkin|2001|p=391}}</ref>。 {{Quotation|……私は皇帝によって指揮される近衛隊の4個連隊の到着を目にした。これらの部隊をもって、皇帝は攻撃を再開し、敵軍中央部を突破することを望んだ。皇帝は私に彼らを率いるよう命じ、将軍、将校そして兵士たちはみな、非の打ちどころのない豪胆さを示して見せた。だが、この一群の兵士たちは、敵に対して長きに渡って抵抗するには弱すぎた。そして、この攻撃が(ほんの僅かな間ではあったが)奮い立たせた希望をすぐに捨てざる得なくなった。|ネイ元帥|<ref name=Booth-73-74>{{Harvnb|Booth|1815|pp=73,74}}</ref>}} [[File:Grenadier-a-pied-de-la-Vieille-Garde.png|thumb|140px|left|古参近衛隊の擲弾兵。<br>[[エドゥアール・デタイユ]]画。]] ぶどう弾による砲撃や散兵からの銃撃を受けつつ、およそ3,000の中堅近衛兵はラ・エー・サントの西側にまで前進し、攻撃のために三方向に別たれた。2個中堅近衛擲弾兵大隊からなる集団はイギリス、ブラウンシュヴァイクそしてナッサウ兵からなる第一線を突破し<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.245-246.</ref>、比較的損害の少ない{{仮リンク|ダビッド・ヘンドリック・シャッセ|label=シャッセ|en|David Hendrik Chassé}}将軍のオランダ=ベルギー軍第3師団が彼らに対するべく差し向けられ、英蘭軍の砲兵が勝ち誇る中堅近衛擲弾兵の側面を攻撃した。これでもなお中堅近衛隊の前進を止められなかったために、シャッセは自らの第1旅団に数に劣る中堅近衛隊に対する突撃を命じ、中堅近衛隊はひるみそして粉砕された<ref name=Chesney-178>{{Harvnb|Chesney|1907|pp=178,179}}</ref>。 西側では{{仮リンク|ペレグリン・メイトランド|label=メイトランド|en|Peregrine Maitland}}少将のイギリス軍第1近衛旅団1500人がフランス軍の砲撃から身を守るために伏せていた。フランス軍第二波である2個中堅近衛猟歩兵大隊が接近するとメイトランドの近衛歩兵は立ち上がり、猛烈な一斉射撃を浴びせた<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.246.</ref>。中堅近衛隊の猟歩兵はこれに応戦すべく展開したが、浮き足立ち始めた。イギリス軍近衛歩兵隊による銃剣突撃がこれを打ち破った。無傷の近衛猟歩兵大隊からなる第三波が支援のために駆けつけた。イギリス軍近衛兵は後退し、フランス軍の中堅近衛猟歩兵がこれを追うが、{{仮リンク|ジョン・コルボーン|en|John Colborne}}中佐率いる{{仮リンク|第52歩兵連隊 (オックスフォードシャー)|label=第52軽歩兵連隊|en|52nd (Oxfordshire) Regiment of Foot}}が彼らの側面に回りこみ強烈的な射撃を浴びせかけ、突撃した<ref name=Chesney-178/><ref name=Parry-70>{{Harvnb|Parry|1900|p=70}}</ref>。この猛攻により、フランス軍第三波も撃破された<ref name=Parry-70/>。 最後の皇帝近衛隊が一目散に退却すると、フランス軍の前線に仰天すべき知らせが駆け巡り、パニックが巻き起こった。「近衛隊が退却した。我が身を守れ!」( "''La Garde recule. Sauve qui peut''!" )。一方、愛馬の[[コペンハーゲン (軍馬)|コペンハーゲン号]]に跨ったウェリントンは帽子を頭上に振って総進撃を命じ、「始めたからにはやり通せ」(''"[[:en:wikt:in for a penny, in for a pound|In for a penny, in for a pound]]"'')と言った<ref>[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],p.287.</ref>。陣地から飛び出した彼の軍隊は、退却するフランス軍に襲いかかった<ref name=Chesney-178/>。 生き残った皇帝近衛隊の兵士たちは最後の抵抗の場所{{enlink|last stand|英語版}}とすべく予備としてラ・エー・サント南側に後置されていた3個大隊(いくつかの史料は4個としている)のもとに集まった。{{仮リンク|フレデリック・アダム|label=アダム|en|Frederick Adam}}少将の第3旅団とハノーファー軍後備兵連隊オスナブリュック大隊に加えてヴァンドルー少将とヴィヴィアン少将の比較的傷が浅い騎兵旅団が右側から突撃し、皇帝近衛隊を混乱に陥れた。ある程度統率を保っていた左側の皇帝近衛隊はラ・ベル・アリアンスの方向へ退却した。この退却のさなか、皇帝近衛隊の一部が降伏を勧告され、有名な返答をしている。皇帝近衛隊の指揮官は「近衛兵は死ぬ。降伏などしない!」("''La Garde meurt, elle ne se rend pas!''")<ref group="注釈">この発言は一般に[[ピエール・カンブロンヌ]]旅団将軍のものとされ、1815年6月24日に出版された"Journal General"誌の"journalist Balison de Rougemont"が原典であるが (Shapiro (2006) [https://books.google.co.uk/books?id=w5-GR-qtgXsC&pg=PA128&dq=Rougemont+Waterloo&hl=en p. 128])、 カンブロンヌ自身は「くそったれ!」( "''Merde!''" )と言ったと主張している(Boller [https://books.google.co.uk/books?id=NCOEYJ0q-DUC&printsec=frontcover&hl=en#PPA12,M1 p. 12])。『[[ザ・タイムズ]]』1932年6月号に掲載された書簡によるとカンブロンヌはこれ以前に既にヒューグ・ハケット大佐の捕虜になっており、もしも本当にこの言葉が発せられたとするならば、それはクロード=エティエンヌ・ミシェル将軍のものとなる(White, and {{Harvnb|Parry|1900|p=p. 70}})</ref>またはただ一言「[[メルド (フランス語)|くそったれ!]]」(''"Merde!"'')と叫んだという<ref group="注釈">「近衛兵は死ぬ。降伏などしない!」は後世に創作された歴史上の発言の一つであるとする見方もある。この言葉を発したとするカンブロンヌ将軍はこんなことを言ってはいなかった。ビクトル・ユゴーが『レ・ミゼラブル』の文中で本当の言葉を再現している。それはたった一言「メルド(フランス語で「糞便」の意味)」("''Merde!''")だった。 (David Masson, ''et al''. ''Macmillan's magazine'', Volume 19, Macmillan and Co., 1869, [https://books.google.co.uk/books?id=xt76rS3-RbwC&q=fictitious+The+Guard+dies,+it+does+not+surrender&dq=fictitious+The+Guard+dies,+it+does+not+surrender&hl=en p. 164])</ref>。 {{-}} ===プランスノワ奪取=== [[File:Ludwig Elsholtz Erstürmung von Planchenois.jpg|thumb|300px|プランスノワ突入。<br>Ludwig Elsholtz画、1843年。]] 同じ頃、プロイセン軍第5、第14そして第16旅団がこの日三度目となるプランスノワへの攻撃を開始した<ref name=Hofschroer-144/>。村の教会は炎上し、フランス軍の抵抗の中心となっていた墓地では「竜巻が起きたよう」に死体が撒き散らされた<ref name=Hofschroer-144>Hofschröer, pp. 144,145 </ref>。新規近衛隊を支援するために中堅近衛隊5個大隊が展開したものの、実際上、彼らの全てがロバウの軍団の残余とともに防戦を行っていた<ref name=Hofschroer-144/>。プランスノワ攻防の要は南側にあるシャトレの森であり、ピルヒの第2軍団に所属する2個旅団が到着して、この森を突破しようとする第4軍団を増強した。プロイセン軍第25連隊マスケット銃大隊は第1古参近衛擲弾兵連隊第2大隊をシャトレの森から逐うとプランスノワの側面を攻撃し、フランス軍に退却を強いた。これはこの日、プランスノワの持ち主が変わる5度目にして最後のことだった。古参近衛隊は整然と退却したが、パニック状態で退却する友軍の群れに巻き込まれて、彼らもその一部となってしまった<ref name=Hofschroer-144/>。 プロイセン第4軍団がプランスノワを越えて前進するとイギリス軍の追撃を受けて無秩序に敗走するフランス軍の群れに遭遇した<ref name=Hofschroer-144/>。プロイセン軍は英蘭軍部隊にあたることを恐れて発砲を控えた。皇帝近衛隊とともに退却しなかったフランス軍部隊は持ち場で降伏して殺害され、その際、双方とも慈悲を求めも申し出もしなかった。プランスノワの攻防の死傷者数に関する資料は存在しないが、この戦いに参加したフランス軍第6軍団と新規近衛師団の将校のうち3分の1が死傷していることが戦いの激しさを物語っている<ref name=nofi232/>。 {{Quotation|偉大な勇気と粘り強さにも関わらず、村で戦っていた皇帝近衛隊は動揺の兆しを見せ始めた。教会はすでに炎上しており、赤い火柱が窓や側廊そして扉から吹き上がっていた。いまだに激しい白兵戦闘が行われている集落の家々も燃えており、混乱を増させた。しかしながら、フォン・ヴィッツレーベン少佐の機動が完了して皇帝近衛隊の側面と背面が脅かされると、彼らも撤退を始めた。{{仮リンク|ジャン=ジャック•ジェルマン・ペレテ=クリュゾー|label=ペレテ|en|Jean-Jacques Germain Pelet-Clozeau}}将軍の率いる近衛猟歩兵が殿(しんがり)を務めた。残りの皇帝近衛隊は大慌てで撤退し、大量の大砲、その他の装備と弾薬輸送馬車が遺棄された。プランスノワからの脱出はシャルルロワへのフランス軍の退路を守る場所を失うことを意味していた。戦場のその他の場所とは異なり、ここでは「わが身を守れ!」("''Sauve qui peut!''")との悲鳴は聞かれなかった。その代わりに「我らが軍旗を守れ!」("''Sauvons nos aigles!''" )との雄叫びが聞こえた。|プロイセン軍第4軍団所属第25連隊公刊戦史<ref>{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=145}}</ref>}} {{-}} ===崩壊=== [[File:Dernier carre de la Garde - gen Hill.png|thumb|300px|皇帝近衛隊の最後の残兵に降伏を勧告する{{仮リンク|ローランド・ヒル (初代ヒル子爵)|label=ヒル|en|Rowland Hill, 1st Viscount Hill}}将軍。 <br>Robert Alexander Hillingford画。]] 今やフランス軍の右翼と左翼そして中央はすべて瓦解した<ref name=Hofschroer-144/>。ラ・ベル・アリアンスに布陣している古参近衛隊の2個大隊が未だ統制を維持している最後のフランス軍であり、彼らは最後の予備兵力そしてナポレオンの護衛として残されていた。ナポレオンはフランス軍を彼らの背後で再集結させようと望んだが<ref>{{cite web|title=Waterloo, 18 June 1815: The Finale.|url=http://home.iprimus.com.au/cpcook/letters/pages/waterfini.htm|publisher=|author=Kincaid, Captain J., Rifle Brigade|page=|accessdate=2007年9月14日}}</ref>、後退は敗走となり、古参近衛隊もまた撤退を余儀なくされ、連合軍の騎兵隊からの防御のためにラ・ベル・アリアンスの両側に1個大隊づつが方陣を組んだ。もはやこの戦いには敗れており、ここを去るべきだと説得されたナポレオンは皇帝近衛隊の方陣にここの宿場を離れるよう命じた<ref name=Creasy-XV/><ref>{{Harvnb|Comte d'Erlon|1815|loc=}}</ref>。 アダム少将の第3旅団が突撃をかけて皇帝近衛隊の方陣は後退を余儀なくされ<ref name=Parry-70/><ref name=Hofschroer-149>{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=149}}</ref>、プロイセン軍はその他の部隊と交戦した。夕闇が降りるとともに二つの方陣は比較的整然と撤退したが、フランス軍の大砲やその他の装備は連合軍の手に落ちた。撤退する皇帝近衛隊は何千人もの逃げ惑い支離滅裂となったフランス軍兵士たちの群れに飲み込まれた。追撃は比較的消耗の少ないプロイセン軍が受け持ち、プロイセン軍参謀長グナイゼナウは「月光下の狩猟」と称して、夜更けまで敗残兵たちを追い回した<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.252.</ref>。追撃戦でフランス軍の大砲78門が鹵獲され、多数の将軍を含む2,000人が捕虜になっている<ref name=Hofschroer-150>{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=150}}</ref>。 {{Quotation|我々には後退を援護するための四つの古参近衛隊による方陣がまだ残されていた。軍から選ばれた彼ら勇敢な擲弾兵は数に圧倒されて次々と後退を強いられ、次第々々に地面を明け渡していき、彼らはほぼ完全に殲滅された。この時から兵たちは背を向けて逃げ始め、軍隊は単なる混乱した群衆と化した。しかしながら、これは総崩れではなく、また巷間で中傷的に言われているような「わが身を守れ!」(''sauve qui peut'')との悲鳴は聞かれなかった。|ネイ元帥|<ref name=Booth-74>{{Harvnb|Booth|1815|p=74}}</ref>}} {{-}} ==戦後== {{multiple image | align = | direction = vertical | width = 300 | image1 = Morgen nach der Schlacht967b.jpg | caption1 = 『戦いから一夜明けたワーテルロー』<br>John Heaviside Clark画、1816年。 | image2 = David Wilkie Chelsea Pensioners Reading the Waterloo Dispatch.jpg | caption2 = ワーテルローの戦勝報を読む{{仮リンク|ロイヤル・ホスピタル・チェルシー|en|Royal Hospital, Chelsea}}(退役軍人用の病院)の入居者たち。<br>[[デイヴィッド・ウィルキー (画家)|デイヴィッド・ウィルキー]]画、1882年。 }} {{Quotation|フランス軍の布陣のほぼ中央、高地の上にある建物が、ラ・ベル・アリアンス(''La Belle Alliance'')と呼ばれる農場だった。すべてのプロイセン軍は、この戦場のあらゆる場所から見ることができる、この農場へ向けて進軍した。ここはこの会戦中にナポレオンがいた場所であり、ここで彼は命令を下し、勝利の希望に自惚れていた。そして、ここが彼の破滅が決定的となる場所となった。夜の闇の中、幸運にも、この場所でブリュッヘル元帥とウェリントン公が会見する機会が得られ、彼らは勝者として敬礼しあった。|グナイゼナウ将軍|<ref name=Booth-23>{{Harvnb|Booth|1815|p=23}}</ref>}} ウェリントン公とブリュッヘル元帥との会見は21時頃にナポレオンの本営があったラ・ベル・アリアンスで行われた<ref>[http://www2.army.mod.uk/infantry/regts/the_rifles/history_traditions/ Regimental history of the Rifles]: [http://www2.army.mod.uk/infantry/regts/the_rifles/history_traditions/origins_campaigns/the_battle_of_waterloo.htm Battle of Waterloo] on an old website of the [[:en:British Ministry of Defence<!-- リダイレクト先の「[[:en:Ministry of Defence (United Kingdom)]]」は、[[:ja:国防省 (イギリス)]] とリンク -->]]. See the link near the bottom called [http://www2.army.mod.uk/linkedfiles/lightinfantry/regimental_downloads/the_battle_of_waterloo.ppt "here" (ppt)] Slide 39</ref><ref group="注釈">歴史家[[:en:Peter Hofschröer|Peter Hofschröer]]は会見は22時頃にジュナップで行われ、会戦の終了を確認しあったとしている。{{Harvnb|Hofschröer|1999|p=151}}</ref>。ブリュッヘルはこの戦いをナポレオンの本営があった戦場の中心地であり、両軍の「同盟」(''alliance'')の意味にもかけた「ラ・ベル・アリアンスの戦い」(直訳すると「良き同盟の戦い」)と命名したいとウェリントンに通達したが、ウェリントンは英語での発音を気にかけて戦場とはやや離れた場所にあるワーテルロー村(英語の発音はウォータールー)の地名に拠る'''ワーテルローの戦い'''(''Battle of Waterloo'')と命名して報告書を本国に送った<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.253.</ref>。このため、ドイツではこの戦いは'''ラ・ベル・アリアンスの戦い'''(''Schlacht bei Belle-Alliance'')とも呼ばれる。 ワーテルローの戦いでウェリントンの英蘭軍は戦死傷約17,000人・行方不明10,000人を出しており<ref name=nofi255/>、ブリュッヘルのプロイセン軍のそれは約7,000人であり<ref name=nofi255/>、そのうち810人はフリシェルモンとプランスノワの両方の攻防戦に参加したビューローの第4軍団に所属する第18連隊のみから出ており、連隊は33個もの[[鉄十字章]]を得ている<ref>''Prussian Reserve Infantry 1813–1815'', Robert Mantle, Napoleonic Association, 1977 [http://www.napoleon-series.org/military/organization/c_resinf2.html Napolean-series.org]</ref>。ナポレオンのフランス軍は約40,000人の死傷・捕虜・逃亡を出し、砲220門を失った<ref name=nofi255/>。 {{Quotation|6月22日の朝、私は戦場を見に行った。そこはワーテルローの村から少し先にあるモン・サン・ジャンの台地にあった。だが、そこに到着するとその光景は身の毛もよだつものだった。私は胃が痛くなり、この場から帰ることを願いたい気持ちになった。それは私が生涯忘れることのない惨状であり、大量の死体、大勢の負傷者、彼らは足を砕かれて歩くこともできない。彼らは負傷によるものだけでなく飢えによっても非業の最期を迎えようとしており、連合軍は(当然のことだか)彼らのもとに外科医と荷馬車を連れて来なければならない。連合軍とフランス軍双方の負傷者たちは、等しく悲惨な状態にあった。|W・E・フライ少佐|After Waterloo: Reminiscences of European Travel 1815–1819.<ref>{{Harvnb|Frye|2004|loc=}}</ref>}} ナポレオンから受けていた命令を遵守したグルーシー元帥はティーレマン将軍のプロイセン軍を{{仮リンク|ワーヴルの戦い|label=ワーヴル|en|Battle of Wavre}}で撃破し、6月19日の10時30分に整然と撤退できたが、その代償は33,000人のフランス軍将兵がワーテルローの主戦場に来着できなかったことであった。 ナポレオンはシャルルロワを経てフィリップヴィルまで逃れ、そこから留守政府を預かる元[[スペイン王]]の兄[[ジョゼフ・ボナパルト]]に楽観的な内容の報告書を送り、軍隊の再建を指示したが、彼の命運はすでに尽きていた<ref>[[#マルロー 2004|マルロー 2004]],pp.425-427;[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],pp.254-255.</ref>。6月20日にナポレオンは幕僚に促され、軍隊を置き去りにしてパリに帰還したが、プロイセンの軍事学者[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]]はこれを大きな誤りだったと非難している<ref>[[#長塚 1986|長塚 1986]],pp.567-568.</ref>。ナポレオンはなお政権維持に希望を持ち、議会を解散して独裁権を獲得しようと画策したが、議会はこれに反対して国家反逆罪にあたるとナポレオンを非難し、ついには退位をも要求しはじめた<ref>[[#長塚 1986|長塚 1986]],pp.568-569.</ref>。 一方、ウェリントンは6月19日に戦闘の詳細について報告する急報を本国に送り、6月21日に到着して翌22日に[[ロンドン・ガゼッタ]]紙で告知された<ref>{{London Gazette|issue=17028|page=1213|date=22 June 1815|accessdate=19 May 2010}}</ref>。ワーテルローの戦いの帰趨はロンドンの株式市場も注視しており、カトル・ブラの戦いの敗報によって[[コンソル公債]]は下落していたが、ワーテルローの勝報をいち早く手に入れた銀行家[[ネイサン・メイアー・ロスチャイルド]]はすぐに買いを入れずに意図的に公債を投げ売りして暴落させ、二束三文になったところで大量買いをし、そして公式な報道により大暴騰した<ref>[[#モートン 1975|モートン 1975]],pp.51-52.</ref>あとで、高値で売った。後に「ネイサンの逆売り」と呼ばれる株式売買でロスチャイルド家は巨額の利益を獲得した。 ウェリントン公とブリュッヘル元帥そしてその他の連合国軍はパリへ向けて進撃した。6月24日、ナポレオンは2度目の{{仮リンク|ナポレオンの退位 (1815年)|en|Abdication of Napoleon, 1815|label=退位}}を宣言し、[[ジョゼフ・フーシェ|フーシェ]]を首班とする臨時政府がつくられた。7月3日、ナポレオン戦争の最後の会戦として{{仮リンク|イシーの戦い|en|Battle of Issy}}が起こり、ナポレオンに戦争大臣に任命されていた[[ルイ=ニコラ・ダヴー|ダヴー]]がブリュッヘルのプロイセン軍に敗れている<ref>[http://www.fromoldbooks.org/Wood-NuttallEncyclopaedia/i/issy.html Nuttal Encyclopaedia: Issy]</ref>。 [[File:Napoleon on Board the Bellerophon - Sir William Quiller Orchardson.jpg|thumb|left|300px|ベレロフォン号の甲板に立つナポレオン。<br>[[ウィリアム・オーチャードソン]] 画、1880年。]] ナポレオンは北アメリカへ逃亡を図るが、イギリス海軍はこの動きを予見しておりフランスの港を封鎖していた。結局、ナポレオンは7月15日にイギリス海軍の[[戦列艦]][[ベレロフォン (戦列艦)|ベレロフォン号]]の{{仮リンク|フレデリック・ルイス・メイトランド|label=メイトランド|en|Frederick Lewis Maitland (Rear Admiral)}}艦長に投降した。 {{Quotation|王太子殿下 – 我が国を分裂させた諸党派そしてヨーロッパ列強諸国の敵とみなされ、私は政治的経歴を終えました故に、私は[[テミストクレス]](古代[[アテネ]]の政治家)の如く、英国民の保護(''m'asseoir sur le foyer'')の下に身を投じます。私は王太子殿下からの法の下の保護を求め、我が敵国の中で最も強大で最も志操堅固で最も高貴な貴国に身を寄せます。|ナポレオン| 英国摂政太子<ref group="注釈">イギリス王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の精神異常により、1811年以降、王太子(後の[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]])が摂政に就任していた。<br>{{Cite web|和書|title=ジョージ(3世)- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%EF%BC%883%E4%B8%96%EF%BC%89/|author=青木康|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年9月18日}}{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>への降伏書簡<ref name=Booth-57>{{Harvnb|Booth|1815|p=57}}</ref>}} 一部のフランス軍要塞は降伏を拒んでおり、9月13日に[[ロンウィ]]が降伏して、すべての抵抗が終わった。11月20日に連合国とフランスとの間で[[パリ条約 (1815年)|パリ条約]]が締結されルイ18世が復位した。ナポレオンはイギリスの[[プリマス]]への上陸を求めたが、ヨーロッパの混乱の元凶はナポレオンにあるとされ、[[アンリ・ガティアン・ベルトラン|ベルトラン]]、[[シャルル=トリスタン・ド・モントロン|モントロン]]、[[ガスパール・グールゴ|グールゴ]]の3人の将軍とともに[[セントヘレナ島]]に流されて1821年5月5日に死去した<ref>[[#長塚 1986|長塚 1986]],pp.573-576.</ref><ref name=Hofschroer-274-276-320>{{Harvnb|Hofschröer|1999|pp=274–276,320}}</ref>。 王党派が復帰したフランスではナポレオンの部下たちに対する報復が行われた。ネイ元帥は12月に銃殺刑となり、参謀長のスールト、戦争大臣のダヴーの両元帥をはじめ30人以上の将官が投獄または流刑に処されている<ref>[[#長塚 1986|長塚 1986]],pp.574-575.</ref>。 [[File:Waterloomedaille 1816 Verenigd Koninkrijk.jpg|thumb|150px|ワーテルロー戦役に従軍した英蘭軍将兵に贈られたワーテルロー・メダル。]] イギリスではこの戦いの後、ウォータールー(''Waterloo'')の単語はスラングとして英語の語彙に組み込まれ、「惨敗」の喩えとなった<ref>{{Cite web|和書|title=Waterloo の意味とは - Yahoo!辞書|url=http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=Waterloo&dtype=1&dname=1na&stype=0&pagenum=1&index=079564000|publisher=eプログレッシブ英和中辞|author=|page=|accessdate=2012年9月13日}}{{リンク切れ|date=2019年6月}}</ref>。 皇帝近衛隊の擲弾兵を撃破した(実際には猟歩兵部隊だった)イギリス軍第1近衛旅団所属第1近衛歩兵連隊(ヘンリー・アスキン中佐)はその功績が認められて「[[グレナディアガーズ|擲弾兵近衛連隊]]」(''Grenadier Guards'')の称号が与えられ、擲弾兵の様式の毛皮製高帽が採用された。イギリス近衛騎兵旅団もフランス軍の胸甲騎兵を撃破した功績が認められて1821年に胸甲の使用が認められた。この戦いに参加した者たちに槍騎兵の有効さが印象づけられ、その後、ヨーロッパ中で採用されるようになり、1816年にイギリス軍は軽騎兵4個連隊を槍騎兵に改編させている<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.256.</ref>。 戦後、ウェリントンは軍の重鎮となって陸軍総司令官に2度就任し<ref>[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],pp.319,339-342.</ref>、政治家としても要職を歴任して外交使節としても活動しており<ref>[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],pp.321-322,326-328.</ref>、[[イギリス首相|首相]]を2度務めている(任期:1828年 - 1830年、1834年 - 1834年)<ref>[[#ストローソン 1998|ストローソン 1998]],pp.328-331.</ref>。英蘭軍の騎兵部隊を任されたアックスブリッジは会戦の終盤に負傷して片脚を失ったが、その後は要職を歴任し1846年に元帥に叙された<ref>[[#バーソープ 2001|バーソープ 2001]],p.9.</ref>。また、英蘭軍第1軍団長を務めたオラニエ公は1840年にオランダ王[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]として即位している。 この会戦中戦場を駆け巡ったウェリントンの幕僚のほとんどが死傷しており<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.239,255.</ref>、その一人でウェリントンの秘書官を務めていた[[フィッツロイ・サマセット (初代ラグラン男爵)|ラグラン男爵フィッツロイ・サマセット]]は、この戦いで右腕を負傷し切断を余儀なくされた([[ラグラン袖]]は彼の失われた右腕に合わせて作られたものである)。彼は後に陸軍最高司令官となり、[[クリミア戦争]](1853年 - 1856年)の総指揮を執ることになる<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.285.</ref>。 1848年に開業したロンドンの複合[[ターミナル駅]]である[[ウォータールー駅]](ワーテルローの英語読み)はワーテルローの戦いが由来である<ref name=bbc/>。[[1994年]]に[[英仏海峡トンネル]]が完成し、[[パリ]]と[[ロンドン]]を結ぶ高速列車[[ユーロスター]]が運行を開始した際、ロンドン側ターミナルが皮肉にもここであった。このため、フランス側は、幾度となく駅の改名や変更を求めている<ref name=bbc>{{cite web|title=BBC News-UK-Waterloo insult to French visitors|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/208881.stm|publisher=BBC|author=|page=|accessdate=2012年9月13日}}</ref>。[[2007年]]には[[CTRL|イギリス国内の高速新線]]が完成し、ターミナルも[[セント・パンクラス駅]]に変更された。 プロイセン軍司令官の[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]元帥は既に高齢であり、この年のうちに退役し、1819年に77歳で死去した。プロイセン軍に参謀本部組織を確立させこの戦いでも参謀長として重要な役割を果たした[[アウグスト・フォン・グナイゼナウ|グナイゼナウ]]中将は後に元帥に列せられたが、進歩的な考えの彼はプロイセンの保守的な体質によって戦後は権力からは遠ざけられている<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.116</ref>。『[[戦争論]]』で知られるプロイセン軍の[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]]はこの戦役では第3軍団の参謀を務めており、後にこの戦いを研究した『1815年のフランス戦役』を著し、後世に資することになる。 19世紀の著名な[[軍事学者]][[アントワーヌ=アンリ・ジョミニ|ジョミニ]]将軍はナポレオン時代の戦略戦術に関する主導的研究者の一人でもあり、ワーテルローの戦いにおけるナポレオンの敗因をいくつか提示している。 {{Quotation|私が考えるに、四つの主な要因が彼に破滅をもたらした。<BR>第一のそして最も重要な要因は絶妙な連携によるブリュッヘルの到着とこの到着を利させた(グルーシーの)拙い行軍である。第二の要因はイギリス歩兵の賞賛すべき粘り強さ、そして指揮官たちの冷静さである。第三はひどい天候であり、これによって地面がぬかるみ、行軍が非常に困難になり、さらにその日の朝に行われるはずであった攻撃開始が午後1時にまで遅延することになった。第四は第1軍団の信じがたい隊形であり、彼らはあまりにも密集しすぎており、第一次攻撃を成功させることは難しかった。|アントワーヌ=アンリ・ジョミニ|<ref name=Jomini223224>{{Harvnb|Jomini|1864|pp=223,224}}</ref>}} ==古戦場== [[File:Waterloo Lion.jpg|thumb|ライオンの丘]] 戦場の地形の一部は1815年当時ものから変えられている。観光は会戦の翌日から始まっており、6月19日付の書簡でメーサー大尉は「一台の荷馬車がブリュッセルからやって来て、その乗客たちが戦場を見て回っていた」と書き残している<ref name="M70"/>。1820年、オランダ王[[ウィレム1世 (オランダ王)|ウィレム1世]]は彼の息子の[[ウィレム2世 (オランダ王)|オラニエ公]]が負傷したとされる場所に記念碑を建てるよう命じた。イギリス軍戦線中央部があった尾根の地域の300,000立方メートル相当の土壌を用いて「{{仮リンク|ライオンの丘|en|Lion's Hillock}}」と呼ばれる小山がここに造られており、これによって英蘭軍の窪み道の南側の土手が取り除かれてしまった。 [[ヴィクトル・ユーゴー]]は小説『[[レ・ミゼラブル]]』の中でこう述べている。 {{Quotation|ナポレオンとウェリントンとの会戦の場所である種々の勾配をなした平地の起伏は、人の知るとおり、一八一五年六月十八日とは今日大いにそのありさまを異にしている。その災厄の場所から、すべて記念となるものを人々は奪い去ってしまって、実際の形態はそこなわれたのである。そしてその歴史も面目を失って、もはやそこに痕跡を認め難くなっている。その地に光栄を与えんために、人々はその地のありさまを変えてしまった。二年後にウェリントンは再びワーテルローを見て叫んだ、「私の戦場は形が変えられてしまった。」今日獅子の像の立っている大きな土盛りのある場所には、その当時一つの丘があってニヴェルの道の方へは上れるくらいの傾斜で低くなっていたが、ジュナップの道路の方ではほとんど断崖をなしていた。その断崖の高さは、ジュナップからブラッセルへ行く道をはさんでいる二つの大きな墳墓の丘の高さによって、今日なお測ることができる。その一つはイギリス兵の墓であって左手にあり、も一つはドイツ兵のであって右手にある。フランス兵の墓はない。フランスにとっては、その平原すべてが墓地である。|ヴィクトル・ユーゴー, 『レ・ミゼラブル』|[[豊島与志雄]]訳(1918年)<ref name="Hugo">{{Cite web|和書|title=ビクトル・ユーゴー Victor Hugo [[豊島与志雄]]訳 レ・ミゼラブル LES MISERABLES 第二部 コゼット|url=http://www.aozora.gr.jp/cards/001094/files/42601_25759.html|publisher=[[青空文庫]]|author=|page=|accessdate=2012年9月14日}}</ref>}} その他の地形や会戦に関係する場所は当時からほとんど変わっていない。この中にはブリュッセル=シャルルロワ街道東側のなだらかに起伏する農地やウーグモン、ラ・エー・サントそしてラ・ベル・アリアンスといった建物も含まれる<ref>[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.297.</ref>。 「ライオンの丘」の他にも古戦場にはいくつもの記念碑が存在する。ブリュッセル=シャルルロワ街道とブレン・ラルー =オヘイン街道の十字路にはイギリス兵、オランダ兵、ハノーファー兵そしてドイツ人義勇兵の集団墓地がある。フランス軍戦死者に対する記念碑は「傷ついた鷲」("The Wounded Eagle")と名づけられ、ここは戦いの終盤に皇帝近衛隊が最後の方陣を組んだ場所とされる。プロイセン軍戦死者の記念碑はプランスノワにあり、ここはプロイセン軍の砲兵隊が布陣したとされる場所である。ブリュッセル市内の{{仮リンク|ウェイ (ベルギー)|nl|Ways|label=ウェイ}}のマルティン教会には{{仮リンク|ギヨーム・フィリベール・デュエズム|label=デュエズム|en|Guillaume Philibert Duhesme}}将軍の墓所がある。[[エベレ]]の[[エヴェレ#名所|ブリュッセル墓地]]には「イギリス人の碑」("British Monument")と呼ばれる戦死した17人のイギリス軍士官の墓所がある<ref>C Van Hoorebeeke ''Blackman, John-Lucie : pourquoi sa tombe est-elle à Hougomont?'' Bulletin de l'Association belge napoléonienne, n° 118, septembre – octobre 2007, pages 6 à 21)</ref>。 「ライオンの丘」のふもとにある「ワーテルロー・パノラマ館」(Panorama de la Bataille de Waterloo)の内部には1912年にルイ・デュムーランが描いた周囲110m、高さ12mものワーテルローの戦いのパノラマ画が展示されており<ref> {{cite web|title=Voile acté-Champ de bataille de Waterloo : la dernière bataille de Napoléon, Waterloo - Géré par Culturespaces|url=http://www.waterloo1815.be/fr/evenements/voile-acte|publisher=Panorama de la Bataille de Waterloo|author=|page=|accessdate=2012年9月13日}}</ref>、また館内では20分のワーテルローの戦いの映画も上映されている<ref>{{Cite web|和書|title=ワーテルロー・パノラマ館(Panorama de la Bataille de Waterloo)|url=http://www.belgium-travel.jp/opt/elems/detail/688|publisher=ベルギー観光局ワロン・ブリュッセル公式サイト|author=|page=|accessdate=2012年9月13日}}</ref>。この古戦場では毎年、ワーテルローの戦いの再現イベントが行われている<ref>{{cite web|title=History fans recreate Waterloo|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4110194.stm|publisher=[[BBC NEWS]]|author=|page=|accessdate=2012年9月13日}}</ref>。ワーテルローは[[小牧・長久手の戦い]]の古戦場がある日本の[[長久手市]]と[[姉妹都市]]提携している<ref>{{Cite web|和書|title=ワーテルローの紹介|url=http://www.city.nagakute.lg.jp/bunka/kokusaikoryu/kyodo/simaitoshi_waterloo.html |publisher=[[長久手市]]役所公式サイト|author=|page=|accessdate=2012年9月15日}}</ref>。 <Center> <gallery> Image:Dernier QG Napoleon.JPG|ナポレオンの戦闘前夜の本営。(博物館になっている<ref>{{cite web|title=ワーテルロー&#91;WATERLOO&#93;ミニ観光ガイド|url=http://www.waterloo-tourisme.com/Public1/doc/pdf/petit-guide-visite-JPN-light.pdf|publisher=ワーテルロー観光局|author=|page=|accessdate=2012年9月13日}}</ref>。) Image:Belgium-Waterloo-The-Thombs-1900.jpg|国王直属ドイツ人部隊(KGL)(左)と英軍士官ゴードン(右)の記念碑。背後は「ライオンの丘」。 Image:Waterloo JPG01 (9).jpg| ナポレオンの鷲 Image:Waterloo JPG01 (10).jpg|ナポレオン像。 ''Bivouac de l'Empereur'' ホテル、ワーテルロー。 Image:8 ligne infanterie stele.jpg|第8歩兵連隊:この場所でデュリットの師団に所属する第8歩兵連隊はフォン・オンプテダ大佐のプロイセン部隊への攻撃に成功した。KGLの記念碑のそば。 Image:Braine-l'Alleud CF1aJPG.jpg|ウーグモン農場の南玄関。 Image:Waterloo derniers combattants.JPG|大陸軍軍最後の戦士の記念碑。 (傷ついた鷲:The Wounded Eagle) Image:Mausolée Duhesme 2011.jpg|デュエズム将軍の墓所。ブリュッセル、ウェイ。 Image:Cimetière_de_Bruxelles_02b.jpg|ブリュッセル墓地のワーテルロー戦役の記念碑。 </gallery></center> <Center> <gallery widths="200px"> File:Waterloo - Juin 2012 (17).JPG|2012年の再現イベント File:Bataille Waterloo 1815 reconstitution 2011 cuirassier.jpg|フランス軍の胸甲騎兵。<br>2011年の再現イベント File:Bataille Waterloo 1815 reconstitution 2011 3.jpg|プロイセン歩兵の一斉射撃。<br>2011年の再現イベント File:Reenactment of the Battle of Waterloo, 2010.jpg|2010年の再現イベント </gallery></center> == 作品 == [[Image:Monument Hugo Waterloo.jpg|thumb|200px|ヴィクトル・ユーゴーの記念柱の肖像。<br>ベルギー、ワーテルロー。]] 19世紀の激動のフランスを時代背景とした[[ヴィクトル・ユーゴー]]の長編小説 『[[レ・ミゼラブル]]』第二部コゼット第一編の主題はワーテルローであり、1861年5月に物語の著者(ユーゴー)がベルギーの戦場跡を訪れる場面から始まり、ワーテルローの戦いの詳細な戦場描写からナポレオンの没落までが語られている。『レ・ミゼラブル』の作中では本筋とはあまり関係のない歴史挿話やユーゴーの歴史考察が交えられており、第二部第一編もそのひとつである<ref>{{Cite web|和書|title=レ・ミゼラブル- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%82%BC%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AB/|author=佐藤実枝|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年9月13日}}{{リンク切れ|date=2013年12月}}</ref>。 ユーゴーは、レ・ミゼラブルにて「季節外れの雲に覆われた空が、世界の崩壊をもたらした」と記しているが、これは[[タンボラ山]]の[[1815年のタンボラ山噴火|大噴火]]によって引き起こされた[[異常気象]]について間接的に言及したものである<ref name="D">{{Cite web|和書|title=ナポレオンを敗戦に追い込んだ「世界最大級の火山噴火」 |url=https://forbesjapan.com/articles/detail/27989 |website=Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン) |date=2019-06-29 |accessdate=2022-04-12 |language=ja}}</ref>。 ユーゴーは手がけている大作にこの世紀の一戦を挿入したいと考えており、1861年3月から喉の病気の転地療養を兼ねてワーテルローに滞在し、古戦場を散策しながら『レ・ミゼラブル』の執筆を行い、6月30日にいちおうの完成をみた<ref>[[#金柿 1976|金柿 1976]],pp.656-657.</ref>。彼は作品の完成を知らせる友人に宛てた手紙で「偶然にもワーテルローの古戦場で、私は自分の戦いを戦った」と書き送っている<ref name="名前なし-1">[[#金柿 1976|金柿 1976]],p.657.</ref>。その後もユーゴーは加筆と修正を続けており、第二部第一編「ワーテルロー」は12月21日に書き上げている<ref name="名前なし-1"/>。『レ・ミゼラブル』は1862年3月と4月にベルギーとフランスで出版され、爆発的な売れ行きとなった<ref>[[#金柿 1976|金柿 1976]],pp.660-661</ref>。『レ・ミゼラブル』完成の地となったベルギーのワーテルローにはヴィクトル・ユーゴーの記念柱が建立されている。 [[アーサー・コナン・ドイル]]の『勇将ジェラールの回想』、『勇将ジェラールの冒険』の2部作はナポレオンに忠誠を尽くす騎兵将校エティエンヌ・ジェラールを主人公とした冒険小説であり、『勇将ジェラールの冒険』に収録される中編「准将がワーテルローで奮戦した顛末」はこの戦いにおける彼の活躍を描いている。日本人の作家によるワーテルローの戦いを主題とした作品としては[[柘植久慶]]の『逆撃 ナポレオン ワーテルロー会戦』上下巻がある。これは現代の日本人御厩太郎がナポレオンの将軍となって歴史改編を試みる[[架空戦記]]的な作品である。 ナポレオン戦争の時代を扱った映像作品ではワーテルローの戦いも数多く登場するが<ref name="nofi296">[[#ノフィ 2004|ノフィ 2004]],p.296.</ref>、会戦自体を主題とした作品には1928年の[[ドイツ映画]]『{{仮リンク|ワーテルロー (1928年映画)|label=ワーテルロー|en|Waterloo (1929 film)}}』<ref>{{Movie Walker|mv14905|ワーテルロー}}</ref>と1970年の[[イタリア映画|イタリア]]・[[ロシア映画|ソ連]]合作映画『[[ワーテルロー (映画)|ワーテルロー]]』とがある。後者は監督をソ連の[[セルゲイ・ボンダルチュク]]が務める製作費1200万ドルの大作映画であり、[[ソ連軍]]の協力を受けて2万人の兵士を使って会戦を大規模に再現した<ref>『ワーテルロー 劇場パンフレット』[解説]、1970年。</ref>。また、日本のアニメ『[[ヤッターマン]]』の最終回は「アワテルローの戦いだコロン」であり、この戦いのパロディとなっている([[1979年]][[1月27日]]放映)<ref>{{Cite web|和書|title=タイムボカンシリーズ ヤッターマン 最終回 アワテルローの戦いだコロン|url=http://www.wowow.co.jp/pg_info/detail/100834/index.php|publisher=[[WOWOW]]オンライン|author=|page=|accessdate=2012年10月26日}}</ref>。 ワーテルローの戦いは音楽の題材ともなっており、イギリスの女流作曲家[[ウィルマ・アンダーソン・ギルマン]]のピアノ曲『[[ウォータールーの戦い (ピアノ曲)|ウォータールーの戦い]]』は描写音楽風に戦いの始まりから終わりまで8つの接続曲のスタイルで作曲されており、発表会でもしばしば取り上げられる<ref>[[#青山 2008|青山 2008]],p.266.</ref>。本曲では「ワーテルロー」より「ウォータールー」の表記が定着されている。[[1974年]]に[[スウェーデン]]の音楽グループ[[ABBA]]がリリースした『[[恋のウォータールー]]』は全英ヒット・チャートで2週1位、[[ビルボード]]で6位を獲得し<ref>{{Cite web|和書|title=Waterloo の意味とは - Yahoo!辞書|url=http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=Waterloo&dtype=1&dname=1na&stype=0&pagenum=1&index=T14359000|publisher=eプログレッシブ英和中辞|author=|page=|accessdate=2012年9月13日}}{{リンク切れ|date=2019年6月}}</ref>、フランスでもシングル・チャートでは3位となる大ヒットとなった。この曲では「惨敗」を意味する英語の[[俗語]]としての「ウォータールー」(''Waterloo'')がかけられている。 欧米圏で知名度の高いワーテルローの戦いは当然のごとく[[ウォー・シミュレーションゲーム|ボード・シミュレーションゲーム]]の題材として取り上げられており、[[アバロンヒル]]社の最初期の作品『''Waterloo''』や[[シミュレーションズ・パブリケイションズ|SPI]]社の『''Napoleon at Waterloo''』そして爆発的に売れた『''Wellington's Victory''』(SPI/[[TSR]])をはじめ非常に多くのゲームが製作されている<ref name=nofi296/>。日本製のゲームには『ワーテルロー』([[翔企画]])や『ワーテルローの落日』([[ゲームジャーナル|Gamejournal]] No.41)<ref>{{Cite web|和書|title=ワーテルローの落日 - GameJournal.net|url=http://www.gamejournal.net/bknmbr/gj41/gj41.htm|publisher=ゲームジャーナル|author=|page=|accessdate=2012年9月14日}}</ref>がある。 {{-}} == 関連項目 == * [[1815年のタンボラ山噴火]] - ナポレオンがワーテルローの戦いで敗戦に追い込まれた原因の一つは、この大噴火によって引き起こされた豪雨であると言われている<ref name="D"/>。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"|2}} ===出典=== {{reflist|colwidth=25em}} ==参考文献== {{Refbegin|colwidth=30em}} *{{Citation|last=Adkin |first=Mark |year=2001| title=The Waterloo Companion |publisher=Aurum |isbn=1-85410-764-X}} *{{Citation|last=Barbero |first=Alessandro |year=2005 |title=The Battle: A New History of Waterloo |publisher=Atlantic Books |isbn=1-84354-310-9}} *{{Citation| last=Beamish |first=N. Ludlow |year=1995 |origyear=1832 |title=History of the King's German Legion |publisher=Dallington: Naval and Military Press |isbn=0-9522011-0-0}} *{{Citation|last=Bonaparte |first=Napoleon |year=1869 |editor1-last=Polon |editor1-first=Henri |editor2-last=Dumaine |editor2-first=J. |title=Correspondance de Napoléon Ier; publiée par ordre de l'empereur Napoléon III (1858)|url=https://archive.org/stream/correspondancede28napouoft#page/292/mode/1up |chapter=No. 22060|volume=28 |pages=292, 293}}. *{{Citation |last=Booth |first=John |year=1815 |title=The Battle of Waterloo: Containing the Accounts Published by Authority, British and Foreign, and Other Relevant Documents, with Circumstantial Details, Previous and After the Battle, from a Variety of Authentic and Original Sources |url=https://books.google.co.jp/books?id=9IIBAAAAYAAJ&redir_esc=y&hl=ja |edition=2 |publisher=London: printed for J. Booth and T. Ergeton; Military Library, Whitehall}} *{{Citation |last=Chandler |first=David |year=1966 |title=The Campaigns of Napoleon |publisher=New York: Macmillan}} *{{Citation |last=Chesney |first=Charles C. |year=1907 |title=Waterloo Lectures: A Study Of The Campaign Of 1815 |publisher=Longmans, Green, and Co |isbn=1-4286-4988-3}} *{{Citation| last=Creasy |first=Sir Edward |year=1877 |url=http://www.gutenberg.org/etext/4061 |title=The Fifteen Decisive Battles of the World: from Marathon to Waterloo |publisher=London: Richard Bentley & Son |isbn=0-306-80559-6}} *{{Citation| last=Fitchett |first=W. H. |year=2006 |origyear=1897 |title=Deeds that Won the Empire. Historic Battle Scenes |url=http://www.gutenberg.org/etext/19255 |place=London |publisher=John Murray ([[Project Gutenberg]]). |chapter-url=http://www.gutenberg.org/files/19255/19255-h/19255-h.htm#chap1900 |chapter=Chapter: King-making Waterloo}} *{{Citation|last=Fletcher |first=Ian |year=1994 |title=Wellington's Foot Guards |volume=52 of Elite Series |edition=illustrated |publisher=Osprey Publishing|isbn=1-85532-392-3}} *{{Citation| last=Frye |first=W. E. |year=2004 |origyear=1908 |url=http://infomotions.com/etexts/gutenberg/dirs/1/0/9/3/10939/10939.htm |title=After Waterloo: Reminiscences of European Travel 1815–1819| publisher=[[:en:Project Gutenberg]]}} *{{Citation| authorlink=:en:Rees Howell Gronow |last=Gronow |first=R. H. |year=1862 |url=http://www.gutenberg.org/etext/3798 |title=Reminiscences of Captain Gronow|publisher=London |isbn=1-4043-2792-4}} *{{Citation| authorlink=:en:Peter Hofschröer |last=Hofschröer| first=Peter |year=1999|title=1815: The Waterloo Campaign. The German Victory |volume=2 |publisher=London: Greenhill Books |isbn=978-1-85367-368-9}} *{{Citation| last=Hofschröer| first=Peter |year=2005 |title=Waterloo 1815: Quatre Bras and Ligny |publisher=London: Leo Cooper |isbn=978-1-84415-168-4}} *{{Citation |last=Houssaye |first=Henri |year=1900 |title=Waterloo (translated from the French)|publisher=London}} *{{Citation| authorlink=:en:Antoine-Henri Jomini |last=Jomini |first=Antoine-Henri |year=1864 |url=https://books.google.co.jp/books?id=FVdEAAAAIAAJ&printsec=frontcover&dq=Jomini+Waterloo+Campaign&redir_esc=y&hl=ja |title=The Political and Military History of the Campaign of Waterloo| edition=3 |publisher=New York; D. Van Nostrand }} (Translated by Benet S.V.) *{{Citation|authorlink=:en:Elizabeth Longford |last=Longford |first=Elizabeth |year=1971 |title=Wellington the Years of the Sword |publisher=London: Panther| isbn=0-586-03548-6}} *{{Citation|last=Mercer |first=A.C. |year=1870 |chapter=Waterloo, 18 June 1815: The Royal Horse Artillery Repulse Enemy Cavalry, late afternoon |chapterurl=http://home.iprimus.com.au/cpcook/letters/pages/waterloorha.htm |accessdate=14 September 2007 |title=Journal of the Waterloo Campaign: Kept Throughout the Campaign of 1815|volume=2 |url=https://books.google.co.jp/books?id=KDwQAAAAYAAJ&q=Mercer+Cavalie&dq=Mercer+Cavalie&pgis=1&redir_esc=y&hl=ja}} *{{Citation |last=Parry |first=D.H. |year=1900 |chapterurl=http://gaslight.mtroyal.ab.ca/waterloo.htm |chapter=Waterloo| title=Battle of the nineteenth century|volume=1 |publisher=London: Cassell and Company| accessdate=14 September 2007}} *{{Citation|last=Roberts |first=Andrew |year=2001 |title=Napoleon and Wellington| publisher=London: Phoenix Press| isbn=1-84212-480-3}} *{{Citation|last=Roberts |first=Andrew |year=2005 |title=Waterloo: 18 June 1815, the Battle for Modern Europe| publisher=New York: HarperCollins| isbn=0-06-008866-4}} *{{Citation| authorlink=:en:H. T. Siborne |last=Siborne |first=H.T. |year=1993 |origyear=1891 |title=The Waterloo Letters |publisher=New York & London: Cassell & Greenhill Books| isbn=1-85367-156-8}} *{{Citation| authorlink=:en:William Siborne |last=Siborne |first=William |year=1990 |origyear=1844 |title=The Waterloo Campaign| edition=4 |publisher=London: Greenhill Books|isbn=1-85367-069-3}} *{{Citation| last=Smith |first=Digby |year=1998 |title=The Greenhill Napoleonic Wars Data Book |publisher=London & Pennsylvania: Greenhill Books & Stackpole Books |isbn=1-85367-276-9}} *{{Citation|last=Wootten|first=Geoffrey |year=1992 |title=Waterloo 1815: The Birth of Modern Europe|volume=Campaign|edition=|publisher=Osprey Publishing|isbn=978-1855322103|ref=Wootten 1992}} *{{Citation| last=Weller |first=J. |year=1992 |title=Wellington at Waterloo |publisher=London: Greenhill Books |isbn=1-85367-339-0}} *{{Citation|authorlink=:en:Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington| last=Wellesley| first=Arthur|year=1815|chapterurl=http://www.wtj.com/archives/wellington/1815_06f.htm |chapter=Wellington's Dispatches 19 June 1815 |publisher=[http://www.wtj.com/information.htm War Times Journal (Archives)]}} *{{Cite book|和書|author=アルバート・A.ノフィ|translator=諸岡良史|editor=|year=2004|title=ワーテルロー戦役|series=|publisher=コイノニア社|isbn=978-4901943055|ref=ノフィ 2004}} *{{Cite book|和書|author=アンドレ・マルロー|translator=小宮正弘|editor=|year=2004|title=ナポレオン自伝|series=|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=978-4022579119|ref=マルロー 2004}} *{{Cite book|和書|author=エミール・ブカーリ|translator=小牧大介 |editor=|year=2001|title=ナポレオンの元帥たち―フランス帝国の群雄伝|series=オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ|publisher=[[新紀元社]]|isbn=978-4883178865|ref=ブカーリ 2001}} *{{Cite book|和書|author=ジョン・ストローソン|translator=[[城山三郎]] |editor=|year=1998|title=公爵(ウエリントン)と皇帝(ナポレオン) |series=|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4105371012|ref=ストローソン 1998}} *{{Cite book|和書|author=フレデリック・モートン|translator=高原富保 |editor=|year=1975|title=ロスチャイルド王国|series=|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4106001758|ref=モートン 1975}} *{{Cite book|和書|author=マイケル・バーソープ|translator=堀和子 |editor=|year=2001|title=ウェリントンの将軍たち―ナポレオン戦争の覇者|series=オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ|publisher=新紀元社|isbn=978-4775300022 |ref=バーソープ 2001}} *{{Cite book|和書|author=ローラン・ジョフラン|translator=渡辺格|editor=|year=2011|title=ナポレオンの戦役|series=|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4120041907|ref=ジョフラン 2011}} *{{Cite book|和書|author=青島広志|authorlink=青島広志|translator=|editor=|year=2008|title=あなたも弾ける!ピアノ曲ガイド―青島広志のアナリーゼ付き!|series=|publisher=[[学習研究社]]|isbn=978-4054037199|ref=青山 2008}} *{{Cite book|和書|author=大橋武夫|authorlink=大橋武夫|translator=|editor=|year=1983|title=兵法 ナポレオン―命令戦法で勝ち訓令戦法に敗れた天才的指導者|series=|publisher=マネジメント社|isbn=978-4837801221|ref=大橋 1983}} *{{Cite book|和書|author=金柿宏典|chapter=解説 ユゴー|translator=|editor=|year=1976|title=世界文学全集 13 レ・ミゼラブルII|series=|publisher=[[集英社]]|isbn=|ref=金柿 1976}} *{{Cite book|和書|author=長塚隆二|authorlink=長塚隆二|translator=|editor=|year=1986|title=ナポレオン〈下〉―覇者専横の末路|series=|publisher=[[読売新聞社]]|isbn=978-4643746501|ref=長塚 1986}} *{{Cite book|和書|author=松村劭|authorlink=松村劭|translator=|editor=|year=2005|title=ナポレオン戦争全史|series=|publisher=[[原書房]] |isbn=978-4562039531 |ref=松村 2005}} {{Refend}} ==関連図書== *{{Citation|last=Boller, Jr.|first=Paul F.|last2=George |first2=John |year=1989 |title=They Never Said It: A Book of Fake Quotes, Misquotes, and Misleading Attributions |publisher=New York: Oxford University Press|isbn=0-19-505541-1}} *{{Citation |last=Cotton |first=Edward |year=1849 |title=A voice from Waterloo. A history of the battle, on 18 June&nbsp;1815.| publisher=London: B.L. Green}} *{{Citation| last=Comte d'Erlon |first=Jean-Baptiste Drouet| authorlink=:en:Jean-Baptiste Drouet, Comte d'Erlon| year=1815 |title=Drouet's account of Waterloo to the French Parliament |url=http://www.napoleonbonaparte.nl/newspaper/dedham/drouet.html| publisher=[http://www.napoleonbonaparte.nl/ Napoleon Bonaparte Internet Guid] | accessdate=14 September 2007}} *Glover, G. (2004) ''Letters From The Battle of Waterloo – Unpublished Correspondence by Allied Officers from the Siborne Papers.'' Greenhill Books. ISBN 978-1-85367-597-3 *{{Citation| authorlink=:en:|last=Hamilton-Williams| first=David |year=1994|title=Waterloo: New Perspectives: The Great Battle Reappraised|volume= |publisher=Wiley|isbn=0-47105-225-6|ref=Hamilton-Williams(1994)}} *{{Citation| authorlink=:en:Victor Hugo |last=Hugo |first=Victor |year=1862|title=Les Miserables| url=http://www.online-literature.com/victor_hugo/les_miserables/77/ |chapter=Chapter VII: Napoleon in a Good Humor | publisher=The Literature Network |accessdate=14 September 2007}} *{{Cite web| last=Lozier |first=J.F.|url=http://www.napoleon-series.org/faq/c_horses.html |title=What was the name of Napoleon's horse? |publisher=[http://www.napoleon-series.org/ The Napoleon Series]|accessdate=29 March 2009}} *{{Citation| last=Summerville |first=Christopher J |year=2007 |title=Who was who at Waterloo: a biography of the battle |publisher=Pearson Education|id=ISBN 0582784050, ISBN 978-0-582-78405-5}} *{{Citation|last=White |first=John |url=http://www.napoleon-series.org/research/miscellaneous/c_cambronne.html |title=Cambronne's Words, Letters to ''The Times'' (June&nbsp;1932)|publisher=[http://www.napoleon-series.org/ the Napoleon Series] |editor-first=Robert |editor-last=Burnham |accessdate=14 September 2007}} *{{Citation| last=Bonaparte| first=Napoleon |year=1995 |editor1-last=Chandler |editor1-first=David G. | editor2-last=Cairnes |editor2-first=William E. |title=The Military Maxims of Napoleon|publisher=Da Capo Press |id=ISBN 0306806185, ISBN 978-0-306-80618-6}} *{{Citation |last=Chandler |first=David G. |year=1973 |title=Campaigns of Napoleon |publisher=New York: Scribner |isbn=0-02-523660-1}} *{{Citation |last=Cookson |first=John E. |year=1996| url=https://books.google.co.uk/books?id=xiV5Q7uupVUC&hl=en |title=The British Armed Nation, 1793–1815 | publisher=Oxford University Press |isbn=0-19-820658-5}} *{{Citation | last = Fletcher | first = Ian | publication-date = 2001 | year = 2001 | title = A Desperate Business: Wellington, the British Army and the Waterloo Campaign | publisher=Spellmount Publishers Ltd | isbn = 1-86227-118-6}}; *{{Citation| editor-last=Gleig |editor-first=George Robert |year=1845 |url=http://www.napoleonic-literature.com/Book_24/Book24.htm |title=The Light Dragoon |publisher=London: George Routledge & Co.}} *{{Citation| last=Glover | first= Michael| year=1973| title=The Napoleonic Wars: An Illustrated History, 1792–1815| publisher=Hippocrene Books New York| isbn=0-88254-473-X}} *{{Citation | last=Hofschröer| first=Peter |year=1998 |title=1815: The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras |volume=1 |publisher=London: Greenhill Books.|isbn=978-1-85367-304-7}} *{{Citation| last=Hofschröer |first=Peter |year=2004 |title=Wellington's Smallest Victory: The Duke, the Model Maker and the Secret of Waterloo |publisher=London: Faber & Faber |isbn=0-571-21769-9}} *{{Citation |last=Howarth |first=David |year=1997 |origyear=1968|title=Waterloo a Near Run Thing |publisher=London: Phoenix/Windrush Press |isbn=1-84212-719-5}} *{{Citation| last=Keegan| first=John|title=The Face of Battle}} == 外部リンク == {{Commonscat|Battle of Waterloo}} * ワーテルローの戦いでのフランス軍、プロイセン軍そして英蘭軍の軍服 : [http://centjours.mont-saint-jean.com/unites.php Mont-Saint-Jean] (FR) {{ナポレオン戦争}} {{Good article}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:わあてるろおのたたかい}} [[Category:ナポレオン戦争の戦闘]] [[Category:イギリスの戦闘]] [[Category:プロイセンの戦闘]] [[Category:1815年の戦闘]] [[Category:1815年のヨーロッパ]] [[Category:ブラバン・ワロン州]] [[Category:アーサー・ウェルズリー]] [[Category:ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル]] [[Category:アウグスト・フォン・グナイゼナウ]] [[Category:ミシェル・ネイ]] [[Category:ウィレム2世 (オランダ王)]]
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窒化アルミニウム
窒化アルミニウム(ちっかアルミニウム, aluminum nitride, AlN)はアルミニウムの窒化物であり、無色透明のセラミックスである。アルミナイトライドともいう。 結晶構造はウルツ鉱構造(六方晶系)と閃亜鉛鉱構造(立方晶系)の2種類を取りうるが、前者がエネルギー的に安定である。ウルツ鉱構造の格子定数は、a軸が約 3.11 Å、c軸が約 4.98 Å である。 バンドギャップは約 6.3 eV と非常に大きく、絶縁体である。そのため窒化ガリウムを発光デバイスとして用いる際の障壁層として用いられる。 化学的には非常に安定した物質であり、一般的な酸(塩酸、硫酸、硝酸など)や塩基には溶けない。しかし、粉末状態の窒化アルミニウムは空気中の水と容易に反応して、 という反応を起こす。従って粉末は乾燥空気または高純度窒素ガス中で保管する必要がある。 アルミニウムは地金を新造する際に「電気の缶詰」といわれるほど多量の電気を消費するが、再生する場合には新造時の約 3% のエネルギーしか要さないためリサイクルの優等生と言われる。しかし、実際には融解時に空気中の窒素と反応して窒化アルミニウムとして一部が失われる。 この窒化物は融解時にるつぼの表面に浮かぶのでスカムとして捨てられるが、上記のように空気中の水分と徐々に反応してアンモニアを生じ、結晶性物質が残る。 セラミックの中では熱伝導率が高く電気絶縁性が高いため、ヒートシンク部材として使われる。圧電素子やSAWフィルタや深紫外発光ダイオードの材料としても有望で開発が進められる。羽鳥雅一氏らのチームによって半導体基板として実用化された。
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窒化アルミニウムはアルミニウムの窒化物であり、無色透明のセラミックスである。アルミナイトライドともいう。
{{Chembox | verifiedrevid = 446888761 | Name = 窒化アルミニウム | ImageFile = Aluminium Nitride.jpg | ImageName = Aluminum Nitride powder | ImageFile1 = Wurtzite polyhedra.png | OtherNames = Aluminum nitride | Reference =<ref>{{cite web | url = http://accuratus.com/alumni.html | title = Aluminum Nitride | publisher = Accuratus |accessdate=22 April 2008}}</ref> | Section1 = {{Chembox Identifiers | ChemSpiderID_Ref = {{chemspidercite|correct|chemspider}} | ChemSpiderID = 81668 | InChI = 1/Al.N/rAlN/c1-2 | ChEBI_Ref = {{ebicite|correct|EBI}} | ChEBI = 50884 | SMILES = [Al]#N | InChIKey = PIGFYZPCRLYGLF-PXKYIXAJAH | StdInChI_Ref = {{stdinchicite|correct|chemspider}} | StdInChI = 1S/Al.N | StdInChIKey_Ref = {{stdinchicite|correct|chemspider}} | StdInChIKey = PIGFYZPCRLYGLF-UHFFFAOYSA-N | CASNo = 24304-00-5 | CASNo_Ref = {{cascite|correct|CAS}} | PubChem = 90455 }} | Section2 = {{Chembox Properties | Formula = AlN | MolarMass = 40.9882 g/mol | MolarMass_notes = | Appearance = 白色から薄い黄色の固体 | Density = 3.260 g/cm<sup>3</sup> | MeltingPt = 2200 {{℃}} | Melting_notes = | BoilingPt = 2517 {{℃}} (分解) | Boiling_notes = | SublimationConditions = | Solubility = 分解 | SolubilityProduct = | SolubilityProductAs = | SolubilityOther = | Solvent = | pKa = | pKb = | IsoElectricPt = | LambdaMax = | Absorbance = | BandGap = 6.2 eV (direct) | ElectronMobility = ~300 cm<sup>2</sup>/(V·s) | SpecRotation = | MagSus = | ThermalConductivity = 285 W/(m·K) | RefractIndex = 1.9–2.2 | Viscosity = | CriticalRelativeHumidity = | Dipole = | CoefficientThermalExpansion = 4.5{{e|–6}}/{{℃}} }} | Section3 = {{Chembox Structure | MolShape = | CrystalStruct = [[ウルツ鉱]] | SpaceGroup = ''C''<sub>6v</sub><sup>4</sup>-''P''6<sub>3</sub>''mc'' | Coordination = 四面体 | Dipole = }} | Section4 = {{Chembox Thermochemistry | DeltaHf = | DeltaHc = | Entropy = | HeatCapacity = 740 J·Kg<sup>-1</sup> K<sup>-1</sup> }} }} '''窒化アルミニウム'''(ちっかアルミニウム, aluminum nitride, AlN)は[[アルミニウム]]の[[窒化物]]であり、無色透明の[[セラミックス]]である。'''アルミナイトライド'''ともいう。 == 物理的性質 == [[結晶構造]]は[[ウルツ鉱構造]](六方晶系)と[[閃亜鉛鉱構造]](立方晶系)の2種類を取りうるが、前者がエネルギー的に安定である。ウルツ鉱構造の[[格子定数]]は、a軸が約 3.11 &Aring;、c軸が約 4.98 &Aring; である。 [[バンドギャップ]]は約 6.3 [[電子ボルト|eV]] と非常に大きく、[[絶縁体]]である。そのため[[窒化ガリウム]]を発光デバイスとして用いる際の[[障壁層]]として用いられる。 == 化学的性質 == 化学的には非常に安定した物質であり、一般的な酸([[塩酸]]、[[硫酸]]、[[硝酸]]など)や塩基には溶けない。しかし、粉末状態の窒化アルミニウムは空気中の水と容易に反応して、 : <chem>AlN + 3 H2O -> Al(OH)3 + NH3</chem> という反応を起こす。従って粉末は乾燥空気または高純度窒素ガス中で保管する必要がある。 アルミニウムは地金を新造する際に「電気の缶詰」といわれるほど多量の電気を消費するが、再生する場合には新造時の約 3% のエネルギーしか要さないためリサイクルの優等生と言われる。しかし、実際には融解時に空気中の窒素と反応して窒化アルミニウムとして一部が失われる。 : <chem>2 Al + N2 -> 2 AlN</chem> この窒化物は融解時にるつぼの表面に浮かぶのでスカムとして捨てられるが、上記のように空気中の水分と徐々に反応してアンモニアを生じ、結晶性物質が残る。 == 用途 == セラミックの中では[[熱伝導率]]が高く[[絶縁 (電気)|電気絶縁性]]が高いため、[[ヒートシンク]]部材として使われる。[[圧電素子]]や[[SAWフィルタ]]や深紫外発光ダイオードの材料としても有望で開発が進められる<ref>{{Cite web|和書| url =http://web.tuat.ac.jp/~koukai/gakuho/2012/529/news2_siryou.pdf | title =世界トップレベルの高性能深紫外線発光ダイオード(LED)の作製に成功紫外線LEDの応用技術開発を加速 | publisher = |accessdate=2020-0912 }}</ref><ref>{{Cite web|和書| url =http://ex-press.jp/wp-content/uploads/2016/12/LEDJ_Dec16_interview.pdf | title =窒化アルミニウム 深紫外LEDの展望 |filetype=PDF| publisher = |accessdate=2020-0912 }}</ref>。羽鳥雅一氏らのチームによって半導体基板として実用化された。 == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[窒化物半導体]] * [[窒化ケイ素]] * [[:en:Transparent ceramics|Transparent ceramics(英語版)]] * [[:en:Aluminium_oxynitride|Aluminium_oxynitride(英語版)]] {{アルミニウムの化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちつかあるみにうむ}} [[Category:無機化合物]] [[Category:アルミニウムの化合物]] [[Category:窒化物]] [[Category:半導体材料]] [[Category:セラミックス]]
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小林光恵
小林 光恵(こばやし みつえ、1960年12月8日 - )は、茨城県行方市出身の作家。元看護師。 茨城県立鉾田第一高等学校在学中は地学部やチアリーダーで活動をしていた。1982年に東京警察病院看護専門学校卒業後、看護師、編集者などの経験を経て、著述業となる。 漫画『おたんこナース』の原作者として一躍脚光を浴び、その原作を自ら小説化した『ぼけナース』を3巻まで出している。 また『ナースマン 新米看護士物語』は、2002年の日本テレビ系列のテレビドラマ『ナースマン』の原作にもなった。 最近は、看護エッセイ、看護と医療現場の評論から、女性とその生き方をテーマに小説も含めた幅広い著述へと仕事の芸域を広げつつある。臨床の看護技術、特にターミナルケアやエンジェルメイクについては、継続的な関心を持っている。林みつえこの名前で「未来」短歌会笹公人選歌欄に所属し、短歌も作る。現在、茨城県つくば市在住。
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小林 光恵は、茨城県行方市出身の作家。元看護師。
'''小林 光恵'''(こばやし みつえ、[[1960年]][[12月8日]] - )は、[[茨城県]][[行方市]]出身の[[作家]]。元看護師。 == 経歴 == [[茨城県立鉾田第一高等学校・附属中学校|茨城県立鉾田第一高等学校]]在学中は地学部や[[チアリーダー]]で活動をしていた。[[1982年]]に[[東京警察病院]][[看護専門学校]]卒業後<ref>[https://www.facebook.com/mitsue.kobayashi1 小林光恵facebook]</ref>、[[看護師]]、編集者などの経験を経て、著述業となる。 漫画『[[おたんこナース]]』の原作者として一躍脚光を浴び、その原作を自ら小説化した『[[ぼけナース]]』を3巻まで出している。 また『ナースマン 新米看護士物語』は、[[2002年]]の[[日本テレビ系列]]の[[テレビドラマ]]『[[ナースマン]]』の原作にもなった。 最近は、看護エッセイ、看護と医療現場の評論から、[[女性]]とその生き方をテーマに小説も含めた幅広い著述へと仕事の芸域を広げつつある。臨床の[[看護技術]]、特に[[ターミナルケア]]や[[エンジェルメイク]]については、継続的な関心を持っている。'''林みつえこ'''の名前で「[[未来 (短歌結社)|未来]]」短歌会[[笹公人]]選歌欄に所属し、[[短歌]]も作る。現在、茨城県[[つくば市]]在住。 == 作品リスト == *[[おたんこナース]](原作) 全6巻 *[[ぼけナース]] 全3巻 **ときどきナミダ編 (文庫)角川文庫 ISBN 4-04-352601-6 **たまにオトボケ編 (文庫)角川文庫 ISBN 4-04-352602-4 **いつもオドロキ編 (文庫)角川文庫 ISBN 4-04-352603-2 *[[かんトモ!]] (文庫)作品社 ISBN 4-87893-555-3 *[[ナースがまま]] 全3巻 **ぴかっと新米編 (文庫)幻冬舎文庫 ISBN 4-344-40065-8 **ぽろっと本音編 (文庫)幻冬舎文庫 ISBN 4-344-40114-X **じわっと愛情編 (文庫)幻冬舎文庫 ISBN 4-344-40192-1 *[[ナースマン 新米看護士物語]] (ドラマ『[[ナースマン]]』原作) (文庫)角川書店 ISBN 4-04-352604-0 **[[ナースマンがゆく]] (文庫)幻冬舎文庫 ISBN 4-344-40322-3 *[[ケアとしての死化粧]](編著) (単行本)日本看護協会出版会 2004年4月 ISBN 4-8180-1072-3 *[[死化粧-最期の看取り-]] (単行本)宝島社 2005年6月10日 ISBN 4-7966-4665-5 *[[「片づけられない女」は太る]] (単行本)新講社 2005年11月15日 ISBN 4-86081-095-3 *[[こちら、ナース休憩室。]] (文庫)PHP研究所 2006年8月25日 ISBN 4-569-65453-3 *[[進め天然ぼけナース]] (文庫)幻冬舎文庫 ISBN 4-344-40598-6 *[[小悩みさん]] (文庫)幻冬舎文庫 ISBN 4-344-40369-X *[[伊勢丹セラピー]] (文庫)新講社 2006年11月16日 ISBN 4-86081-134-8 *[[限りなくキョウダイに近いフウフ]] (単行本)作品社 ISBN 4-87893-481-6 *[[そんなこんなで書いてます]] (単行本)学研 ISBN 4-05-152122-2 *[[ナース志願バイブル]] (単行本)メディアワークス ISBN 4-8402-1309-7 *[[ナース川柳 看護婦七転八倒]] (文庫)幻冬舎文庫 ISBN 4-87728-876-7 *[[気分よく病院へ行こう]] (文庫)集英社文庫 ISBN 4-08-747049-0 *[[まるごとナース]] (文庫)ちくま文庫 ISBN 4-480-03700-4 *[[看護婦の愛情いっぱいおしゃべりカルテ]] (単行本)ぴいぷる社 ISBN 4-89374-078-4 *[[ナースのおしゃべりカルテ]] (文庫)幻冬舎文庫 ISBN 4-87728-603-9 *[[愉快なナースのないしょ話]] (文庫)幻冬舎文庫 ISBN 4-87728-841-4 *[[病院はいつもパラダイス]] (文庫)幻冬舎文庫 ISBN 4-87728-560-1 *[[ときどき、陰性感情]] (文庫)集英社文庫 ISBN 4-08-747347-3 *[[12人の不安な患者たち]] (文庫)集英社 ISBN 4-08-747255-8 *[[ナースをねらえ!]] (文庫)幻冬舎文庫 ISBN 4-87728-690-X *そんな日もある〜ほのぼのナースたちの日常〜 (電子書籍)あの出版 ISBN 978-4-907373-29-0 *人が人を看取る時 (電子書籍)あの出版 ISBN 978-4-907373-63-4 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部サイト == * [https://web.archive.org/web/20210126062306/http://www003.upp.so-net.ne.jp/furakoko/ 小林光恵のホームページ] * [https://web.archive.org/web/20160318050211/http://thepublishers.jp/archives/1458 小林光恵のインタビュー(2015.10.28)] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こはやし みつえ}} [[Category:20世紀日本の女性随筆家]] [[Category:21世紀日本の女性随筆家]] [[Category:日本の漫画原作者]] [[Category:女性の漫画原作者]] [[Category:日本の看護師]] [[Category:茨城県出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]]
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ターミナルケア
ターミナルケア(英: End-of-life care)または終末期医療(しゅうまつきいりょう)とは、終末期の医療および看護のことである。 終末期という概念や言葉については、日本の法律、国際連合で採択された条約、日本の厚生労働省、世界保健機関、医学学会などによる、公的に明確な統一された定義はしていない。 そのため、終末期の意味は論者によって異なる。一般的には老衰・病気・障害の進行により死に至ることを回避するいかなる方法もなく、予想される余命が3~6ヶ月以内程度の意味で表現されている。 事故・災害・急性疾患により突然死した場合や、急性期の病気で発症から数時間~数何日間程度で死に至った場合は、死亡日以前に余命3ヶ月などと予想される状況ではないので、死亡日から逆算して3ヶ月以内を終末期とは表現しない。 終末期の患者は、老衰、ガン、アルツハイマー型認知症、レビー小体型認知症、筋萎縮性側索硬化症、筋ジストロフィー、パーキンソン病など疾病の進行、交通事故や災害などによる重大な負傷により、特定又は全身の臓器の機能不全または多臓器不全になっているので、医学的・生物的に救命や延命は不可能であり延命治療は行なわず、病気や障害からの回復や、病気や障害の進行の遅延や、心身の機能の維持を目的とする医療も不可能であり行なわない。 終末期の患者に対して身体的苦痛や精神的苦痛を緩和・軽減することによって、人生の質、クオリティ・オブ・ライフ(QOL)を維持・向上することを目的として、医療的処置(緩和医療)に加え、精神的側面を重視した総合的な措置がとられる。 厚生労働省は「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」(平成19年5月策定、改訂平成27年3月)を策定していて、平成30年の診療報酬・介護報酬改定において、地域包括ケア病棟を有する保険医療機関等においては同ガイドライン等の内容を踏まえ、看取りに関する指針を定めていることが診療実績の評価に係る要件として明示されることとなった。 ターミナルケアを行う施設としては、終末期の緩和ケア病床、慢性期の療養病床、老人介護施設、障害者介護施設などがある。ターミナルケアを専門に行う医療施設はホスピスとも呼ばれる。この外来語の語源である英語「hospice」の原義は、聖地への巡礼者や旅行者を、小さな礼拝堂を持つような教会が泊めた巡礼教会であった。患者や家族が在宅生活を希望する場合は、訪問医療・訪問看護による在宅での見取りケアという方法もある。 日本の医療制度・介護制度としては、ターミナルケアを行う施設として、健康保険が適用される施設として、ホスピス、医療療養病床、介護保険が適用される施設として介護療養病床、介護療養型老人保健施設、特別養護老人ホームがある。 一般の人々の終末期に関する情報と認識を向上させることで、誤解(社会的スティグマ)を減らすことが可能である。OECD22カ国を対象とした調査では、83%において緩和ケアについての情報提供プログラムが、国もしくは地方自治体レベルで存在する。リビング・ウイルについては45%、DNARについては14%であった。 2007年5月、厚生労働省は「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」の初版を公表した。 2012年6月、社会保障制度改革推進法が成立。その第6条3では「個人の尊厳が重んぜられ、患者の意思がより尊重されるよう必要な見直しを行い、特に人生の最終段階(ターミナルケア)を穏やかに過ごすことができる環境を整備する」と定められた。 2018年3月、11年ぶりに『人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン』の指針が左記のポイントで改訂が行われた。まず名称の変更 『人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」』から『人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン』に名称の変更。医療ケアーチームに加えて介護従事者も参加。本人の意思は変化しうるものであり、医療・ケアの方針や、どのような生き方を望むか等を、日頃から繰り返し話し合うことが強調されている。また本人が意志を伝えられないときは家族等の信頼できる者を決めたり、単身者は親しい友人に拡大している。話し合った内容はその都度文書に残し、本人、家族等、医療・介護チームが共有し、ACPの取組の重要性を強調している。 2018年11月、厚生労働省は、終末期の患者が家族や医師と話し合って治療方針を決める「アドバンス・ケア・プランニング」(ACP)の国内普及を図っており、その愛称を「人生会議」として公表した。 2019年11月、同省は「人生会議」の啓発ポスターを作成(吉本興業に発注)したが、批判を受け、地方公共団体への発送を中止した。
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ターミナルケアまたは終末期医療(しゅうまつきいりょう)とは、終末期の医療および看護のことである。
'''ターミナルケア'''({{lang-en-short|End-of-life care}})または'''終末期医療'''(しゅうまつきいりょう)とは、終末期の[[医療]]および[[看護]]のことである。 == 終末期の定義 == [[終末期]]という概念や言葉については、[[日本]]の[[法律]]、[[国際連合]]で採択された[[条約]]<ref>[http://treaties.un.org/ United Nations>Treaty Collection]</ref>、日本の[[厚生労働省]]<ref>[https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/ 厚生労働省>政策について>分野別の政策一覧>健康・医療]</ref>、[[世界保健機関]]<ref>[http://www.who.int/en/ World Health Organization]</ref>、[[医学]][[学会]]<ref>[http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed National Center for Biotechnology Information U.S. National Library of Medicine>PubMed]</ref><ref>[http://jams.med.or.jp/index.html 日本医学会]</ref>などによる、公的に明確な統一された[[定義]]はしていない。 そのため、終末期の意味は論者によって異なる。一般的には[[老衰]]・[[病気]]・[[障害]]の進行により死に至ることを回避するいかなる方法もなく<ref>[http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?dtype=0&dname=0na&index=20238500 小学館国語辞典>終末医療]</ref><ref>[http://www.excite.co.jp/dictionary/japanese/?search=%E7%B5%82%E6%9C%AB%E5%8C%BB%E7%99%82&match=beginswith&itemid=DJR_syuumatu_-010-_iryou_-01 三省堂国語辞典>終末医療]</ref>、予想される余命が3~6ヶ月以内程度の意味で表現されている{{要出典|date=2020-12}}。 事故・災害・[[急性疾患]]により突然死した場合や、急性期の病気で発症から数時間~数何日間程度で死に至った場合は、死亡日以前に余命3ヶ月などと予想される状況ではないので、死亡日から逆算して3ヶ月以内を終末期とは表現しない。 == ターミナルケアの目的 == 終末期の患者は、[[老衰]]、[[悪性腫瘍|ガン]]、[[アルツハイマー型認知症]]、[[レビー小体型認知症]]、[[筋萎縮性側索硬化症]]、[[筋ジストロフィー]]、[[パーキンソン病]]など疾病の進行、[[交通事故]]や災害などによる重大な負傷により、特定又は全身の[[臓器]]の機能不全または[[多臓器不全]]になっているので、医学的・生物的に[[救命]]や[[延命]]は不可能であり[[延命治療]]は行なわず、[[病気]]や[[障害]]からの回復や、病気や障害の進行の遅延や、心身の機能の維持を目的とする医療も不可能であり行なわない。 終末期の患者に対して身体的苦痛や精神的苦痛を緩和・軽減することによって、人生の質、[[クオリティ・オブ・ライフ]](QOL)を維持・向上することを目的として、医療的処置([[緩和医療]])に加え、精神的側面を重視した総合的な措置がとられる。 厚生労働省は「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」(平成19年5月策定、改訂平成27年3月)を策定していて、平成30年の[[診療報酬]]・[[介護報酬]]改定において、地域包括ケア病棟を有する[[保険医療機関]]等においては同ガイドライン等の内容を踏まえ、看取りに関する指針を定めていることが診療実績の評価に係る要件として明示されることとなった。 == ターミナルケアを行う施設 == ターミナルケアを行う施設としては、終末期の緩和ケア病床、慢性期の療養病床、老人介護施設、障害者介護施設などがある。ターミナルケアを専門に行う医療施設は'''[[ホスピス]]'''とも呼ばれる。この外来語の語源である英語「{{lang|en|hospice}}」の原義は、[[聖地]]への巡礼者や旅行者を、小さな[[礼拝堂]]を持つような[[教会 (キリスト教)|教会]]が泊めた巡礼教会であった。患者や家族が在宅生活を希望する場合は、訪問医療・訪問看護による在宅での見取りケアという方法もある。 日本の医療制度・介護制度としては、ターミナルケアを行う施設として、健康保険が適用される施設として、ホスピス、[[医療療養病床]]、介護保険が適用される施設として[[介護療養病床]]、[[介護療養型老人保健施設]]、[[特別養護老人ホーム]]がある。 == リテラシー向上 == {| class="wikitable floatright" style="font-size:75%; margin-left:1em" |+ 各国の終末期に関する意識と知識を向上させるプログラム {{Sfn|OECD|2023|loc=Appendix. 3.A.}} ! 国 !! 年 !! キャンペーン名 |- | オーストラリア || 2015 || ダイイング・トゥ・トーク |- | オーストラリア || 2017 || 在宅緩和ケアの選択肢が広がる |- | オーストラリア || 2017 || 専門家による緩和ケアとアドバンス |- | オーストラリア || 2017 || 私の終末期ケア |- | オーストラリア || 2018 || 最も重要なこと |- | オーストラリア || 2019 || 高齢者介護対策における包括的緩和ケア |- | オーストラリア || 2020 || 全国緩和ケア |- | オーストラリア || 2020 || 緩和ケア |- | アイスランド || 2015 || 死ぬ術 |- | アイスランド || 2016 || 死ぬ術 |- | アイスランド || 2016 || 死のカフェ |- | アイスランド || 2016 || アイスランド北部の緩和ケアサービス |- | アイスランド || 2016 || アイスランド北部でのPCセミナー |- | アイスランド || 2021 || 誰もが死ぬ |- | アイルランド || 2010<br>2014-2020 || 緩和ケア週間 |- | 日本 || 2014 || EOLC強化イニシアチブ |- | 日本 || 2017 || オレンジバルーンプロジェクト |- | 日本 || 2020 || 人生会議(アドバンス・ケア・プランニング) |- | 韓国 || 2007 || 疼痛管理キャンペーン |- | 韓国 || 2013 || ホスピスデーキャンペーン |- | ルクセンブルク || 2009 || 緩和ケアの手引き |- | ルクセンブルク || 2019 || 人生の終わりの私の意志 |- | ノルウェー || 1999 || キャンペーン:価値委員会 |- | ノルウェー || 2013 || キャンペーン: 死のカフェ |- | ノルウェー || N/A || キャンペーン: 死は私たち全員を揺るがす |- | ノルウェー || 2021 || 死についての開放性 |- | スロベニア || 2012 || キャンペーン:自宅で |- | スロベニア || 2018 || キャンペーン: 最後の援助 |- | アメリカ || 2010 || 緩和ケア |- | アメリカ || 2014 || NIHSeniorHealth.gov |- | アメリカ || 2014 || 会話プロジェクト |} 一般の人々の終末期に関する情報と認識を向上させることで、誤解([[社会的スティグマ]])を減らすことが可能である{{Sfn|OECD|2023|loc=Chapt.3.3}}。OECD22カ国を対象とした調査では、83%において緩和ケアについての情報提供プログラムが、国もしくは地方自治体レベルで存在する{{Sfn|OECD|2023|loc=Chapt.3.3}}。[[リビング・ウイル]]については45%、[[蘇生措置拒否|DNAR]]については14%であった{{Sfn|OECD|2023|loc=Chapt.3.3}}。 {|class="wikitable" style="font-size:80%; margin:1em" |+人々や家族が健康状態について医療専門家と繰り返し話し合い、終末期に受けるべき健康管理と支援に関する決定に関与することを要求する規制またはガイドラインはあるか?{{Sfn|OECD|2023|loc=Chapt.3.3}} |- |{{rh}}| 規制あり || デンマーク、エストニア、ギリシャ、リトアニア、ノルウェー、メキシコ、スロベニア、米国 |- |{{rh}}| ガイドラインあり ||ベルギー、日本、ノルウェー、オランダ、英国イングランド |- |{{rh}}| 規制および<br>ガイドラインあり || コスタリカ、フランス、ハンガリー、アイスランド、イタリア、ラトビア、ポーランド、イギリス |- |{{rh}}| いいえ || ポルトガル、アイルランド、チェコ |- |{{rh}}| 地方に任せられる || オーストラリア、カナダ、スウェーデン |} == 日本における歴史 == 2007年5月、厚生労働省は「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」の初版を公表した。 2012年6月、[[社会保障制度改革推進法]]が成立。その第6条3では「個人の尊厳が重んぜられ、患者の意思がより尊重されるよう必要な見直しを行い、特に人生の最終段階(ターミナルケア)を穏やかに過ごすことができる環境を整備する」と定められた。 2018年3月、11年ぶりに『人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン』の指針が左記のポイントで改訂が行われた。まず名称の変更 『人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」』から『人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン』に名称の変更。医療ケアーチームに加えて介護従事者も参加。本人の意思は変化しうるものであり、医療・ケアの方針や、どのような生き方を望むか等を、日頃から繰り返し話し合うことが強調されている。また本人が意志を伝えられないときは家族等の信頼できる者を決めたり、単身者は親しい友人に拡大している。話し合った内容はその都度文書に残し、本人、家族等、医療・介護チームが共有し、ACPの取組の重要性を強調している<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000197665.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201202095435/https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000197665.html|language=日本語|title=「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」の改訂について|publisher=厚生労働省|date=2018-03-14|accessdate=2020-12-02|archivedate=2020-12-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-10802000-Iseikyoku-Shidouka/0000197701.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201101004213/https://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-10802000-Iseikyoku-Shidouka/0000197701.pdf|title=人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン|date=2018-03|archivedate=2020-11-01|accessdate=2020-12-02|publisher=厚生労働省|format=PDF|language=日本語}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-10802000-Iseikyoku-Shidouka/0000197702.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200930094756/https://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-10802000-Iseikyoku-Shidouka/0000197702.pdf|title=人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン 解説編|date=2018-03|archivedate=2020-09-30|accessdate=2020-12-02|publisher=人生の最終段階における医療の普及・啓発の 在り方に関する検討会|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 2018年11月、厚生労働省は、終末期の患者が家族や医師と話し合って治療方針を決める「アドバンス・ケア・プランニング」(ACP)の国内普及を図っており、その愛称を「人生会議」として公表した<ref>[https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_02615.html ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の愛称を「人生会議」に決定しました]厚生労働省 報道発表資料(2018年11月30日)2018年12月3日閲覧。</ref>。 2019年11月、同省は「人生会議」の啓発[[ポスター]]を作成([[吉本興業]]に発注)したが、批判を受け、[[地方公共団体]]への発送を中止した<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASMCV5R5YMCVULBJ01G.html 小籔さん起用の「人生会議」ポスター、批判受け発送中止 - 朝日新聞デジタル]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 出典 == * {{Cite |author=OECD |title=Time for Better Care at the End of Life |date=2023-02 |doi=10.1787/722b927a-en |ref=harv}} == 関連項目 == * [[緩和医療]] * [[延命治療]] * [[尊厳死]] / [[安楽死]] * [[死生学]] * [[終活]] * [[臨終]] * [[臨死体験]] * [[お迎え現象]] * [[死ぬ瞬間]] - [[エリザベス・キューブラー=ロス]]の著書。 == 外部リンク == * [https://hospdb.ganjoho.jp/kyotendb.nsf/xpPalliativeSearchTop.xsp 緩和ケア病棟のある病院(国立研究開発法人国立がん研究センター・がん対策情報センター「がん情報サービス」)] * [http://www.hospat.org/ 日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団] * [http://www5.airnet.ne.jp/shimin/ ホスピスを考える横浜市民の会] * [http://www.luther.ac.jp/news/121127/index.html ルーテル学院大学 ターミナルケア・グリーフワークのトレーニングプログラム] * [https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000079283.html 「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」の普及啓発リーフレットを作成しました]厚生労働省 {{死}} {{介護サービス}} {{医療}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たあみなるけあ}} [[Category:看護学]] [[Category:緩和医療|*]] [[Category:医療倫理]] [[Category:生命倫理学]] [[Category:加齢学]] [[Category:ホスピス]] [[Category:英語の成句]]
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配列
この記事では、コンピュータ・プログラムにおいて配列(はいれつ、英: array)と呼ばれているデータ構造およびデータ型について説明する。計算科学方面ではベクトルという場合もある。また、リストも参照。一般に、添え字で個々の要素を区別する。 複数の要素(値)の集合を格納・管理するのに用いられるデータ構造が配列である。数学のベクトルおよび行列に近い概念であり、実際にベクトルおよび行列をプログラム上で表現する場合に配列が使われることが多い。同様に複数要素の集合を管理するデータ構造(コレクションあるいはコンテナ)には連結リストやハッシュテーブルなどがあるが、通常はメモリアドレス上での連続性の違いなどから配列とは区別される。1次元の配列は特に線形配列 (linear array) とも呼ばれる。 ここでは例示にC言語 (C99) を使う。 例えば、6人の生徒の平均点を計算するプログラムを書くとする。配列を使わない方法では、それぞれの生徒に対応する変数を、次のように個別に用意することだろう。 しかし、この方法では生徒数が増減したときに、変更や拡張が大変になってしまう。より良い解は6要素の配列を使うことである。 配列を用いることで、添え字演算子による統一的なアクセスおよび一括処理が可能となる。また、処理すべきデータ個数が増減したときにも対応しやすくなる。 前述の例では、プログラム中で宣言時に指定した固定のサイズ(整数定数)による配列確保(静的確保)であった。実用的には、配列の要素数が宣言時(あるいはコンパイル時)に静的に決まってしまうよりも、実行時に要素数を動的に指定して配列を確保できたほうが便利なことがある。例えば、縦横任意サイズの画像ファイルから全画素情報を読み出す場合や、コンピュータで利用可能な空きメモリ量に合わせて扱うデータ個数上限を変化させたい場合などである。 多くのプログラミング言語では、配列のサイズをプログラム実行時に指定して配列を生成する(動的に確保する)手段が用意されている。例えばC言語ではmalloc関数やcalloc関数を利用する。確保に成功するとメモリブロック(配列先頭要素)へのポインタが返却され、このポインタ経由で配列を操作する。 C++などの後発の言語では、動的メモリ確保のために通例new演算子が用意されていることが多く、配列の動的確保には型と要素数を指定するnew[]演算子を使用する。 いずれにせよ、C/C++ではmallocあるいはnewによってヒープ領域から確保したメモリは明示的に解放する必要があり、解放を忘れるとメモリリークの原因となる。プログラミングの煩雑さを解消するため、C++ではコンストラクタ・デストラクタを使ったメモリ寿命管理手法 (RAII) が使われることが多い。Javaなどの後発の言語ではガベージコレクションによる自動解放を導入していることが多く、また配列の確保に関して静的確保・動的確保といった区別をしない(配列の確保はすべて動的確保である)ことが多い。 通例、上記のようにして「動的に確保された配列」は、後述の「動的配列」とは異なり、要素の追加時に自動的にサイズを増加させるようなことはできない。 なお、C言語には後述する可変長配列も言語機能として備わっているが、メモリの生存期間などの面で違いがある。 「配列」という語は、抽象データ型というよりも、添え字をオフセットとしてメモリのアドレスにマップすることで、Ο(1) でアクセスできる具象あるいは実装を特に指す場合がある(その意味では、次節の連想配列などは「配列」ではない、ということになる)。 配列に要素を挿入/削除する際、要素間に「隙間」が無いようにするには、線形リストと異なり、挿入/削除位置から後ろの領域にあるすべてのデータの移動(コピー)が必要となる。そのため、挿入/削除にO(n)時間かかる。さらに配列は連続領域を必要とするため、挿入時に領域が不足した場合に拡張する際のメモリ再確保のコストが高い。 探索は一般的には線型探索になるためΟ(n)だが、データがソート済みであれば二分探索を使うことでΟ(log n)に軽減することもできる(抽象データ型としては、sorted array などの名前で別のデータ構造と考える場合もある。en:Sorted array を参照)。 添え字は一般に通例0か1始まりの (非負) 整数である。一方、文字列など他のデータ型を添え字のように使用できる配列を連想配列という。 要素数によって自動的にサイズが拡張される配列を、動的配列 (dynamic array) あるいは可変長配列 (variable-length array) と呼ぶ。メモリが許す限り、要素の末尾追加や途中挿入がいくらでもできる。ライブラリで提供されるもの(C++のstd::vector、Javaのjava.util.ArrayList、.NETのSystem.Collections.ArrayListやSystem.Collections.Generic.Listなど)と、言語に組み込まれているもの(PerlやDなど)がある。またPerlなど、言語によっては、最初に配列を生成する際に指定されたサイズからはみ出してアクセス(範囲外アクセス)しても、自動的に拡大されるような配列を持っているものもある。 逆に決まった要素数しか格納できない配列を、静的配列 (static array) あるいは固定長配列 (fixed length array) と呼ぶ。 なおC言語では、下記のように、実行時に(整数定数式ではない)要素数を指定してスタック上に自動変数として確保することのできる静的配列を可変長配列 (variable-length array) と呼んでいる。GCCに拡張として実装されていたが、C99以降で標準化された。この可変長配列は後から要素を追加したりすることはできない。 動的配列の拡大などの場合には、最悪の場合、メモリ上の別の場所が確保されて、そこに全体をコピーする、というような時間のかかる操作が起きる可能性があるものもある(そのシステムの設計次第で、配列の内部にあるものが他からポインタで指されていて、それを更新できないなど、そういうことができない場合もある)。最悪ではなく償却計算量でNにならなければ良い、という考え方もある。 1次元だけではなく2次元・3次元などの多次元配列 (multidimensional array) を備える言語もある。 マトリックスやグリッドのような矩形構造を持ったデータ構造であることから、矩形配列 (rectangular array) と呼ばれることもある。 C#やFORTRANなど、一部の言語には「真の」多次元配列があり、a[i, j] などといったような構文でアクセスする。 C#による多次元配列の例を示す。 C#には、後述するジャグ配列となる「配列の配列」もある。 C言語は規格で多次元配列に関する言及があるが、実際にサポートされているのは「配列の配列」であって、真の多次元配列ではない。次のようなコードのことを考えてみればわかる。 ここで arr5_arr3 は「『intの3要素の配列』の5要素の配列」である。そして、関数fに渡される際には、C言語の「配列は引数として渡される際は、その先頭要素を指すポインタに縮退する」というルールにより、その先頭の「intの3要素の配列」を指すポインタがp_arr3に渡される。 もし仮にC言語で真の多次元配列がサポートされているならば、それぞれ「intの5x3要素の配列」「『intの5x3要素』を指すポインタ」(あるいは、単にintを指すポインタに縮退するかもしれない)などがサポートされるはずだが、実際にはサポートされない。 Javaの「配列の配列」はC言語よりもさらに緩く、Javaの型システムにおける「配列の配列」では、外側の配列は、内側の配列のサイズを固定しない(C言語では、内側の配列のサイズは固定である)。さらに、Javaにはプリミティブ型と参照型があり、参照型は一種のポインタだが、配列は参照型であるので、Javaの「配列の配列」は後述の「ジャグ配列」になっており、やはり真の多次元配列がサポートされているとは言えない。もちろん、1次元配列に対し多次元配列風にアクセスする機能を提供するようなクラスを実装することはできるが、それでは言語レベルで真の多次元配列がサポートされているとは言えない。 「配列の配列」の場合、内側の配列について、要素数が揃っていることを要求しないデータ構造であることもある。ジャグ配列 (jagged array)、不規則配列などと言う。これに対し、内側の配列の要素数が揃った配列を矩形配列 (rectangular array) などと言う。Javaにおける配列の配列はジャグ配列である。C#には前述の通り、「真の多次元配列」もあるが、それとは別に配列の配列もあり、そちらはJavaと同様のジャグ配列である。 Javaによるジャグ配列の例を示す。 C#によるジャグ配列の例を示す。 要素のアドレスを指定するための参照の展開は、ジャグ配列では次元の数だけ必要なのに対し、矩形配列では1回で済む。また配列の領域を確保する際、ジャグ配列では次元ごとに領域確保を繰り返す必要があるのに対し、矩形配列では1回のnew演算子の使用で領域が確保できる。ただし矩形配列は全要素が収まる連続領域を確保しなければならず、疎行列などのまばらな配列には空間的オーバーヘッドが大きくなってしまうことから向いていない。また、.NET Frameworkの中間言語には1次元配列の要素アクセスに関する専用命令が存在するため、矩形配列よりもジャグ配列のほうが速度性能面で有利になるケースも存在する。 C言語では、配列を指すポインタは、その配列のサイズを固定しなければならない。配列を指すポインタではなく、「『配列の先頭要素を指すポインタ』の配列」によって、次のようにしてジャグ配列のようなデータ構造を作ることができる。 例示したように、「配列の配列」と同様の構文でアクセスできるが、データ構造としては異なっている。当然、(生成されるコードを読めばわかるが)意味的に違うものであって、混同してはならない。ましてや「多次元配列がサポートされていると考えるべき」などと考えるのは、混乱の元でしかない。 「ジャグ配列と同様な構造で実装された、多次元配列」という意味の、Iliffe vector という語がある("Iliffe" は、人名 John K. Iliffe に由来)。それに対し、連続した領域を多次元配列として扱うデータ構造を指す dope vector(en:Dope vector)という語がある。
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"前述の例では、プログラム中で宣言時に指定した固定のサイズ(整数定数)による配列確保(静的確保)であった。実用的には、配列の要素数が宣言時(あるいはコンパイル時)に静的に決まってしまうよりも、実行時に要素数を動的に指定して配列を確保できたほうが便利なことがある。例えば、縦横任意サイズの画像ファイルから全画素情報を読み出す場合や、コンピュータで利用可能な空きメモリ量に合わせて扱うデータ個数上限を変化させたい場合などである。", "title": "配列とは" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "多くのプログラミング言語では、配列のサイズをプログラム実行時に指定して配列を生成する(動的に確保する)手段が用意されている。例えばC言語ではmalloc関数やcalloc関数を利用する。確保に成功するとメモリブロック(配列先頭要素)へのポインタが返却され、このポインタ経由で配列を操作する。", "title": "配列とは" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "C++などの後発の言語では、動的メモリ確保のために通例new演算子が用意されていることが多く、配列の動的確保には型と要素数を指定するnew[]演算子を使用する。", "title": "配列とは" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "いずれにせよ、C/C++ではmallocあるいはnewによってヒープ領域から確保したメモリは明示的に解放する必要があり、解放を忘れるとメモリリークの原因となる。プログラミングの煩雑さを解消するため、C++ではコンストラクタ・デストラクタを使ったメモリ寿命管理手法 (RAII) が使われることが多い。Javaなどの後発の言語ではガベージコレクションによる自動解放を導入していることが多く、また配列の確保に関して静的確保・動的確保といった区別をしない(配列の確保はすべて動的確保である)ことが多い。", "title": "配列とは" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": 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"要素数によって自動的にサイズが拡張される配列を、動的配列 (dynamic array) あるいは可変長配列 (variable-length array) と呼ぶ。メモリが許す限り、要素の末尾追加や途中挿入がいくらでもできる。ライブラリで提供されるもの(C++のstd::vector、Javaのjava.util.ArrayList、.NETのSystem.Collections.ArrayListやSystem.Collections.Generic.Listなど)と、言語に組み込まれているもの(PerlやDなど)がある。またPerlなど、言語によっては、最初に配列を生成する際に指定されたサイズからはみ出してアクセス(範囲外アクセス)しても、自動的に拡大されるような配列を持っているものもある。", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "逆に決まった要素数しか格納できない配列を、静的配列 (static array) あるいは固定長配列 (fixed length array) と呼ぶ。", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "なおC言語では、下記のように、実行時に(整数定数式ではない)要素数を指定してスタック上に自動変数として確保することのできる静的配列を可変長配列 (variable-length array) と呼んでいる。GCCに拡張として実装されていたが、C99以降で標準化された。この可変長配列は後から要素を追加したりすることはできない。", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "動的配列の拡大などの場合には、最悪の場合、メモリ上の別の場所が確保されて、そこに全体をコピーする、というような時間のかかる操作が起きる可能性があるものもある(そのシステムの設計次第で、配列の内部にあるものが他からポインタで指されていて、それを更新できないなど、そういうことができない場合もある)。最悪ではなく償却計算量でNにならなければ良い、という考え方もある。", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1次元だけではなく2次元・3次元などの多次元配列 (multidimensional array) を備える言語もある。 マトリックスやグリッドのような矩形構造を持ったデータ構造であることから、矩形配列 (rectangular array) と呼ばれることもある。", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "C#やFORTRANなど、一部の言語には「真の」多次元配列があり、a[i, j] などといったような構文でアクセスする。", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "C#による多次元配列の例を示す。", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "C#には、後述するジャグ配列となる「配列の配列」もある。", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "C言語は規格で多次元配列に関する言及があるが、実際にサポートされているのは「配列の配列」であって、真の多次元配列ではない。次のようなコードのことを考えてみればわかる。", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ここで arr5_arr3 は「『intの3要素の配列』の5要素の配列」である。そして、関数fに渡される際には、C言語の「配列は引数として渡される際は、その先頭要素を指すポインタに縮退する」というルールにより、その先頭の「intの3要素の配列」を指すポインタがp_arr3に渡される。", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "もし仮にC言語で真の多次元配列がサポートされているならば、それぞれ「intの5x3要素の配列」「『intの5x3要素』を指すポインタ」(あるいは、単にintを指すポインタに縮退するかもしれない)などがサポートされるはずだが、実際にはサポートされない。", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "Javaの「配列の配列」はC言語よりもさらに緩く、Javaの型システムにおける「配列の配列」では、外側の配列は、内側の配列のサイズを固定しない(C言語では、内側の配列のサイズは固定である)。さらに、Javaにはプリミティブ型と参照型があり、参照型は一種のポインタだが、配列は参照型であるので、Javaの「配列の配列」は後述の「ジャグ配列」になっており、やはり真の多次元配列がサポートされているとは言えない。もちろん、1次元配列に対し多次元配列風にアクセスする機能を提供するようなクラスを実装することはできるが、それでは言語レベルで真の多次元配列がサポートされているとは言えない。", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "「配列の配列」の場合、内側の配列について、要素数が揃っていることを要求しないデータ構造であることもある。ジャグ配列 (jagged array)、不規則配列などと言う。これに対し、内側の配列の要素数が揃った配列を矩形配列 (rectangular array) などと言う。Javaにおける配列の配列はジャグ配列である。C#には前述の通り、「真の多次元配列」もあるが、それとは別に配列の配列もあり、そちらはJavaと同様のジャグ配列である。", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "Javaによるジャグ配列の例を示す。", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "C#によるジャグ配列の例を示す。", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "要素のアドレスを指定するための参照の展開は、ジャグ配列では次元の数だけ必要なのに対し、矩形配列では1回で済む。また配列の領域を確保する際、ジャグ配列では次元ごとに領域確保を繰り返す必要があるのに対し、矩形配列では1回のnew演算子の使用で領域が確保できる。ただし矩形配列は全要素が収まる連続領域を確保しなければならず、疎行列などのまばらな配列には空間的オーバーヘッドが大きくなってしまうことから向いていない。また、.NET Frameworkの中間言語には1次元配列の要素アクセスに関する専用命令が存在するため、矩形配列よりもジャグ配列のほうが速度性能面で有利になるケースも存在する。", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "C言語では、配列を指すポインタは、その配列のサイズを固定しなければならない。配列を指すポインタではなく、「『配列の先頭要素を指すポインタ』の配列」によって、次のようにしてジャグ配列のようなデータ構造を作ることができる。", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "例示したように、「配列の配列」と同様の構文でアクセスできるが、データ構造としては異なっている。当然、(生成されるコードを読めばわかるが)意味的に違うものであって、混同してはならない。ましてや「多次元配列がサポートされていると考えるべき」などと考えるのは、混乱の元でしかない。", "title": "さまざまな配列" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "「ジャグ配列と同様な構造で実装された、多次元配列」という意味の、Iliffe vector という語がある(\"Iliffe\" は、人名 John K. Iliffe に由来)。それに対し、連続した領域を多次元配列として扱うデータ構造を指す dope vector(en:Dope vector)という語がある。", "title": "さまざまな配列" } ]
この記事では、コンピュータ・プログラムにおいて配列と呼ばれているデータ構造およびデータ型について説明する。計算科学方面ではベクトルという場合もある。また、リストも参照。一般に、添え字で個々の要素を区別する。
{{出典の明記|date=2017年9月}} {{観点|date=2018年11月}}<!-- コメントアウトされている記述も、コメントアウトされていない記述も、言語による多次元配列のサポートに関するヒステリックで感情的・教条的な記述が目立つ。 --> <!--{{Otheruses|プログラミング言語の配列|DNAの配列|塩基配列|タンパク質の配列|アミノ酸配列|コンピュータのキーボードにおける配列|キー配列}}--> {{Dablink|この項目では、コンピュータ・プログラムにおける配列について説明しています。DNAの配列については「[[塩基配列]]」を、タンパク質の配列については「[[アミノ酸配列]]」を、コンピュータのキーボードにおける配列については「[[キー配列]]」をご覧ください。また「配列」は、英語では array 以外に arrangement のこともあります。}} この記事では、[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータ・プログラム]]において'''配列'''(はいれつ、{{lang-en-short|array}})と呼ばれている[[データ構造]]および[[データ型]]について説明する。[[計算科学]]方面ではベクトルという場合もある。また、[[リスト (抽象データ型)|リスト]]も参照。一般に、添え字で個々の要素を区別する。<!--古典的な[[プログラミング言語]]では同じ[[データ型]]の集合に限定されるが、比較的新しい言語や多くの[[高水準言語]]では異なった型も格納することができる。例えば[[JavaScript]]では一般的な[[オブジェクト (プログラミング)|オブジェクト]]も一種の[[連想配列]]である。--><!-- 「古典的 / 新しい・高水準」の問題ではない。古くても型にルーズな言語であればなんでも一緒の配列になるし、新しい言語でも例えばHaskellなど(型クラスなどにより総称的に扱うことはできるが)、型にやかましい言語の場合は型は限定される。 --> == 配列とは == <!--通常、[[変数 (プログラミング)|変数]]には1つの値しか格納できない。しかし、ときには、ある関係を持つ複数の値を格納できる変数があると都合の良いことがある。その場合--><!-- ←「配列変数」という「変数」に縛られるのはFORTRANのような{{疑問点範囲|date=2017年9月|固定的}}言語に縛られた、いまや腐敗した考え方です。変数はメモリオブジェクトを指すものであって、メモリオブジェクトそのものではない -->複数の要素(値)の集合を格納・管理するのに用いられるデータ構造が配列である。数学のベクトルおよび[[行列 (数学)|行列]]に近い概念であり、実際にベクトルおよび行列をプログラム上で表現する場合に配列が使われることが多い。同様に複数要素の集合を管理するデータ構造(コレクションあるいはコンテナ)には[[連結リスト]]や[[ハッシュテーブル]]などがあるが、通常はメモリアドレス上での連続性の違いなどから配列とは区別される。1次元の配列は特に線形配列 (linear array) とも呼ばれる。 ここでは例示に[[C言語]] ([[C99]]) を使う。 例えば、6人の生徒の平均点を計算するプログラムを書くとする。配列を使わない方法では、それぞれの生徒に対応する変数を、次のように個別に用意することだろう。 <syntaxhighlight lang="c"> int score1; int score2; int score3; int score4; int score5; int score6; // 例えば標準入力経由で各生徒の得点を各変数に読み込んだとする。 double mean = (double)(score1 + score2 + score3 + score4 + score5 + score6) / 6; </syntaxhighlight> しかし、この方法では生徒数が増減したときに、変更や拡張が大変になってしまう。より良い解は6要素の配列<!--変数-->を使うことである。 <syntaxhighlight lang="c"> int score[6]; // 6要素の配列が作られる。 // 例えば標準入力経由で各生徒の得点を配列scoreに読み込んだとする。 double mean = 0; for (int i = 0; i < 6; ++i) { mean += score[i]; // 配列の各要素へは、変数scoreを通してscore[0]からscore[5]のようにしてアクセスする。 } mean /= 6; </syntaxhighlight><!-- 本来は要素数の定数シンボルを定義して再利用すべきだが、例示のためにあえて定義していない。 --> 配列を用いることで、[[添字表記法|添え字演算子]]による統一的なアクセスおよび一括処理が可能となる。また、処理すべきデータ個数が増減したときにも対応しやすくなる。 === 配列の動的確保 === {{see also|動的メモリ確保}} 前述の例では、プログラム中で宣言時に指定した固定のサイズ(整数定数)による配列確保(静的確保)であった。実用的には、配列の要素数が宣言時(あるいはコンパイル時)に静的に決まってしまうよりも、実行時に要素数を動的に指定して配列を確保できたほうが便利なことがある。例えば、縦横任意サイズの画像ファイルから全画素情報を読み出す場合や、コンピュータで利用可能な空きメモリ量に合わせて扱うデータ個数上限を変化させたい場合などである。 多くのプログラミング言語では、配列のサイズをプログラム実行時に指定して配列を生成する(動的に確保する)手段が用意されている。例えばC言語では[[malloc]]関数やcalloc関数を利用する。確保に成功するとメモリブロック(配列先頭要素)へのポインタが返却され、このポインタ経由で配列を操作する。 <syntaxhighlight lang="c"> int numStudents; // 例えば標準入力経由でnumStudentsに生徒数 (> 0) を読み込んだとする。 int* score = calloc(numStudents, sizeof(int)); // 要素数がnumStudents、各要素のサイズがint型のサイズであるような配列を動的に確保し、0で初期化する。 // 例えば標準入力経由で各生徒の得点を配列scoreに読み込んだとする。 double mean = 0; for (int i = 0; i < numStudents; ++i) { mean += score[i]; // 動的に確保した場合でも、配列の添え字シンタックスは同じ。 } mean /= numStudents; free(score); // 使い終わった配列のメモリ領域を解放する。 </syntaxhighlight> [[C++]]などの後発の言語では、動的メモリ確保のために通例[[new演算子]]が用意されていることが多く、配列の動的確保には型と要素数を指定する<code>new[]</code>演算子を使用する。 <syntaxhighlight lang="c++"> int numStudents; // 例えば標準入力経由でnumStudentsに生徒数 (> 0) を読み込んだとする。 int* score = new int[numStudents](); // 要素数がnumStudentsであるようなint型の配列を動的に確保し、0で初期化する。 // 例えば標準入力経由で各生徒の得点を配列scoreに読み込んだとする。 double mean = 0; for (int i = 0; i < numStudents; ++i) { mean += score[i]; // 動的に確保した場合でも、配列の添え字シンタックスは同じ。 } mean /= numStudents; delete[] score; // 使い終わった配列のメモリ領域を解放する。 </syntaxhighlight> いずれにせよ、C/C++ではmallocあるいはnewによって[[ヒープ領域]]から確保したメモリは明示的に解放する必要があり、解放を忘れると[[メモリリーク]]の原因となる。プログラミングの煩雑さを解消するため、[[C++]]では[[コンストラクタ]]・[[デストラクタ]]を使ったメモリ寿命管理手法 ([[RAII]]) が使われることが多い。[[Java]]などの後発の言語では[[ガベージコレクション]]による自動解放を導入していることが多く、また配列の確保に関して静的確保・動的確保といった区別をしない(配列の確保はすべて動的確保である)ことが多い。 通例、上記のようにして「動的に確保された配列」は、後述の「動的配列」とは異なり、要素の追加時に自動的にサイズを増加させるようなことはできない。 なお、C言語には後述する可変長配列も言語機能として備わっているが、メモリの生存期間などの面で違いがある。 == 計算オーダー == 「配列」という語は、抽象データ型というよりも、添え字をオフセットとしてメモリのアドレスにマップすることで、[[O記法|''Ο'']](1) でアクセスできる具象あるいは実装を特に指す場合がある(その意味では、次節の[[連想配列]]などは「配列」ではない、ということになる)。 配列に要素を挿入/削除する際、要素間に「隙間」が無いようにするには、[[連結リスト|線形リスト]]と異なり、挿入/削除位置から後ろの領域にあるすべてのデータの移動(コピー)が必要となる。そのため、挿入/削除に''O''(n)時間かかる。さらに配列は連続領域を必要とするため、挿入時に領域が不足した場合に拡張する際のメモリ再確保のコストが高い。 探索は一般的には[[線型探索]]になるため''Ο''(n)だが、データが[[ソート]]済みであれば[[二分探索]]を使うことで''Ο''(log n)に軽減することもできる(抽象データ型としては、sorted array などの名前で別のデータ構造と考える場合もある。[[:en:Sorted array]] を参照)。 == さまざまな配列 == === 連想配列 === {{main|連想配列}} 添え字は一般に通例0か1始まりの (非負) 整数である。一方、文字列など他の[[データ型]]を添え字のように使用できる配列を[[連想配列]]という。 === 動的配列 === 要素数によって自動的にサイズが拡張される配列を、動的配列 (dynamic array) あるいは[[可変長配列]] (variable-length array) と呼ぶ。メモリが許す限り、要素の末尾追加や途中挿入がいくらでもできる。ライブラリで提供されるもの([[C++]]のstd::vector、[[Java]]のjava.util.ArrayList、[[.NET Framework|.NET]]のSystem.Collections.ArrayListやSystem.Collections.Generic.List<ref group="注釈">リンクリストではなく、メモリ上で連続しているため、ランダムアクセスは定数時間の''O''(1)となる。</ref>など)と、言語に組み込まれているもの([[Perl]]や[[D言語|D]]など)がある。またPerlなど、言語によっては、最初に配列を生成する際に指定されたサイズからはみ出してアクセス(範囲外アクセス)しても、自動的に拡大されるような配列を持っているものもある。 逆に決まった要素数しか格納できない配列を、静的配列 (static array) あるいは固定長配列 (fixed length array) と呼ぶ。 なおC言語では、下記のように、実行時に(整数定数式ではない)要素数を指定してスタック上に自動変数として確保することのできる静的配列を[[可変長配列]] (variable-length array) と呼んでいる<ref>[https://www.jpcert.or.jp/sc-rules/c-arr32-c.html ARR32-C. 可変長配列のサイズ引数は適切な範囲内にあることを保証する]</ref>。[[GNUコンパイラコレクション|GCC]]に拡張として実装されていたが、[[C99]]以降で標準化された。この可変長配列は後から要素を追加したりすることはできない。 <syntaxhighlight lang="c"> void func(size_t n) { int data[n]; } </syntaxhighlight> 動的配列の拡大などの場合には、最悪の場合、メモリ上の別の場所が確保されて、そこに全体をコピーする、というような時間のかかる操作が起きる可能性があるものもある(そのシステムの設計次第で、配列の内部にあるものが他からポインタで指されていて、それを更新できないなど、そういうことができない場合もある)。最悪ではなく償却計算量でNにならなければ良い、という考え方もある。 === 多次元配列 === 1次元だけではなく2次元・3次元などの多次元配列 (multidimensional array) を備える言語もある。<!--つくることができる。<code>a[i][j]</code>、<code>a[i, j]</code>などの方式で添字を指定する。--><!-- ←構文と意味の話を混同しないように --> マトリックスやグリッドのような矩形構造を持ったデータ構造であることから、矩形配列 (rectangular array) と呼ばれることもある<ref>[http://smdn.jp/programming/netfx/arrays/1_multidimensional/ 多次元配列・ジャグ配列 - Programming/.NET Framework/配列 - 総武ソフトウェア推進所]</ref>。 [[C Sharp|C#]]や[[FORTRAN]]など、一部の言語には「真の」多次元配列があり、<code>a[i, j]</code> などといったような構文でアクセスする。 C#による多次元配列の例を示す。 <syntaxhighlight lang="csharp"> int[,] array2d = { {0, 1, 2, 3}, {4, 5, 6, 7}, {8, 9, 10, 11}, }; System.Console.WriteLine(array2d[2, 3]); </syntaxhighlight> C#には、後述するジャグ配列となる「配列の配列」もある。 ==== C言語の場合 ==== [[C言語]]は規格で多次元配列に関する言及があるが、実際にサポートされているのは「配列の配列」であって、真の多次元配列ではない<ref>[http://www.open-std.org/jtc1/sc22/wg14/www/docs/n1256.pdf ISO/IEC 9899:1999 - n1256.pdf]</ref>。次のようなコードのことを考えてみればわかる。 <syntaxhighlight lang="c"> void f(int (*p_arr3)[3]) { …… } int main(void) { int arr5_arr3[5][3]; f(arr5_arr3); return 0; } </syntaxhighlight> ここで <code>arr5_arr3</code> は「『intの3要素の配列』の5要素の配列」である。そして、関数fに渡される際には、C言語の「配列は引数として渡される際は、その先頭要素を指すポインタに縮退する」というルールにより、その先頭の「intの3要素の配列」を指すポインタが<code>p_arr3</code>に渡される。 もし仮にC言語で真の多次元配列がサポートされているならば、それぞれ「intの5x3要素の配列」「『intの5x3要素』を指すポインタ」(あるいは、単にintを指すポインタに縮退するかもしれない)などがサポートされるはずだが、実際にはサポートされない。 ==== Javaの場合 ==== [[Java]]の「配列の配列」はC言語よりもさらに緩く、Javaの型システムにおける「配列の配列」では、外側の配列は、内側の配列のサイズを固定しない(C言語では、内側の配列のサイズは固定である)。さらに、Javaにはプリミティブ型と参照型があり、参照型は一種のポインタだが、配列は参照型であるので、Javaの「配列の配列」は後述の「ジャグ配列」になっており、やはり真の多次元配列がサポートされているとは言えない。もちろん、1次元配列に対し多次元配列風にアクセスする機能を提供するようなクラスを実装することはできるが、それでは言語レベルで真の多次元配列がサポートされているとは言えない。 <!-- 多次元配列がサポートされていないと誤解されることが多いが、CやJavaで多次元配列を定義したとき(配列の中に配列を定義したとき)には、C言語は行×列の要素のメモリが連続的に確保されJavaは[[ヒープ領域]]にオブジェクトとして複数の異なる配列を一つの配列の要素が参照する形をとるので、サポートされていると考えるべきである。 この際、要素へのアクセスは<code>a[i][j]</code>のように「配列の配列」として記述する。ただし「配列の配列」は言語によっては「ジャグ配列 (jagged arrays)」として理解され、「多次元配列」という言葉とは明確に区別される場合がある。 さらに、Cでは用途に応じて「配列へのポインタの配列」を用意するなどして、擬似的に多次元配列を実現することもある。この場合も、<code>a[i][j]</code>のように要素にアクセスするが、<code>sizeof (a)</code>の結果の比較からも分かるように、両者の内部構造はまったく異なる。以下の図はこのようにして擬似的に実現した多次元配列の例である。 --> === ジャグ配列 === [[ファイル:ジャグ配列.svg|thumb|ジャグ配列のイメージ]] 「配列の配列」の場合、内側の配列について、要素数が揃っていることを要求しないデータ構造であることもある。ジャグ配列 (jagged array)、不規則配列などと言う。これに対し、内側の配列の要素数が揃った配列を矩形配列 (rectangular array) などと言う。Javaにおける配列の配列はジャグ配列である。C#には前述の通り、「真の多次元配列」もあるが、それとは別に配列の配列もあり、そちらはJavaと同様のジャグ配列である。<!--特に[[C Sharp|C#]]では通常の配列と区別する表記を言語が直接用意している。イメージ的にはより「配列の配列」に近い。--> <!-- {| class="wikitable" style="empty-cells:hide" |+'''ジャグ配列のイメージ''' | {| class="wikitable" |●||●||●||●||● |} |- | {| class="wikitable" |●||●||●||● |} |- | {| class="wikitable" |●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||● |} |- | {| class="wikitable" |●||●||●||●||●||● |} |} : 縦軸を1次元目、横軸を2次元目とし、●を配列に格納されている要素とする。 --> Javaによるジャグ配列の例を示す。 <syntaxhighlight lang="java"> int[][] numArr = new int[3][]; numArr[0] = new int[]{1, 2, 3}; numArr[1] = new int[]{4, 5, 6, 7}; numArr[2] = new int[]{8, 9}; System.out.println(numArr[1][1]); </syntaxhighlight> C#によるジャグ配列の例を示す。 <syntaxhighlight lang="csharp"> int[][] numArr = new int[3][]; numArr[0] = new int[]{1, 2, 3}; numArr[1] = new int[]{4, 5, 6, 7}; numArr[2] = new int[]{8, 9}; System.Console.WriteLine(numArr[1][1]); </syntaxhighlight> 要素のアドレスを指定するための参照の展開は、ジャグ配列では次元の数だけ必要なのに対し、矩形配列では1回で済む。また配列の領域を確保する際、ジャグ配列では次元ごとに領域確保を繰り返す必要があるのに対し、矩形配列では1回の[[new演算子]]の使用で領域が確保できる。ただし矩形配列は全要素が収まる連続領域を確保しなければならず、[[疎行列]]などのまばらな配列には空間的オーバーヘッドが大きくなってしまうことから向いていない。また、[[共通中間言語|.NET Frameworkの中間言語]]には1次元配列の要素アクセスに関する専用命令が存在するため、矩形配列よりもジャグ配列のほうが速度性能面で有利になるケースも存在する<ref>[https://ufcpp.net/study/csharp/st_array.html 配列 - C# によるプログラミング入門 | ++C++; // 未確認飛行 C]</ref>。 C言語では、配列を指すポインタは、その配列のサイズを固定しなければならない。配列を指すポインタではなく、「『配列の先頭要素を指すポインタ』の配列」によって、次のようにしてジャグ配列のようなデータ構造を作ることができる。 <syntaxhighlight lang="c"> int *numArr[3]; int tmp0[] = {1, 2, 3}; int tmp1[] = {4, 5, 6, 7}; int tmp2[] = {8, 9}; numArr[0] = tmp0; numArr[1] = tmp1; numArr[2] = tmp2; printf("%d\n", numArr[1][1]); // print "5" </syntaxhighlight> 例示したように、「配列の配列」と同様の構文でアクセスできるが、{{要追加記述範囲|date=2017年9月|データ構造としては異なっている}}。当然、({{要追加記述範囲|date=2017年9月|生成されるコード}}を読めばわかるが)意味的に違うものであって、混同してはならない。ましてや「多次元配列がサポートされていると考えるべき」などと考えるのは、混乱の元でしかない。 ==== Iliffe vector ==== {{see|[[:en:Iliffe vector]]}} [[ファイル:Iliffe Vector.svg|thumb|Iliffe Vectorのイメージ]] 「ジャグ配列と同様な構造で実装された、多次元配列」という意味の、Iliffe vector という語がある("Iliffe" は、人名 John K. Iliffe に由来)。それに対し、連続した領域を多次元配列として扱うデータ構造を指す dope vector([[:en:Dope vector]])という語がある。 == 脚注 == ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== <div class="references-small"><references/></div> <!-- == 外部リンク == --> {{データ構造}} {{データ型}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はいれつ}} [[Category:データ構造]] <!--[[Category:プログラミング言語の構文]]--><!--構文(シンタックス)は、この記事の(主たる)テーマではない-->
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%8D%E5%88%97
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木構造 (データ構造)
木構造(きこうぞう)とは、グラフ理論の木の構造をしたデータ構造のこと。 木構造は、一般のグラフ構造と同様の、ノード(節点、頂点)とノード間を結ぶエッジ(枝、辺)あるいはリンクで表すこともできるが、木構造専用の、特に有向の根付き木となるような表現が使われることも多い。 データ構造として使われる木は、ほとんどの場合、根となるノードが決められた根付き木である。さらに、有向木であることも多い。 ノード間の関係は家系図に見立てた用語で表現される。木構造内の各ノードは、0個以上の子ノード (英: child node) を持ち、子ノードは木構造内では下方に存在する(木構造の成長方向は下とするのが一般的である)。子ノードを持つノードは、子ノードから見れば親ノード (英: parent node) である。あるノードから見て、同じ親を持つノードを兄弟ノード (英: sibling node) という。あるノードから見て、その子ノードやそこから先の子ノード全てのいずれかを子孫ノード (英: descendant node) と呼び、その親ノードやそこから先の親ノードの全てのいずれかを先祖ノード (英: ancestor node) と呼ぶ。ノードは高々1個の親ノードを持つ。 根ノード (英: root node) とは、親ノードを持たないノードのこと。根ノードは木構造の最上位にあるノードであり、1つの木構造に高々1つしか存在しない。根ノードからスタートして、親から子へ、またその子へ、とエッジを辿っていくと、あらゆるノードへ必ず到達でき、そのような(根から特定ノードまでの)経路は常に一意である。図で示す場合、根ノードが一番上に描かれるのが普通である。二分ヒープなどの木構造では、根ノードは特別な属性を持つ。木構造内の全てのノードは、そのノードを頂点とする部分木の根ノードと見なすことができる。 葉ノード (英: leaf node) とは、子ノードを持たないノードのこと。葉ノードは木構造の下位の末端にあるノードであり、ひとつの木に複数存在しうる。 内部ノード (英: internal node、inner node) とは、子ノードを持つノード、すなわち葉ノード以外のノードのこと。 高さ (英: height) とは、あるノードについて、そのノードからその子孫である葉ノードへのエッジ数の最大値のこと。 根ノードの高さはその木構造の高さである。 深さ (英: depth) とは、逆に、あるノードについて、そのノードから根ノードまでのエッジ数のこと。根ノードの深さは 0 である。 部分木 (英: subtree) は、木構造の一部であり、それ自身も完全な木構造となっている部分を指す。木構造 T の任意のノードは、その配下の全ノードと共に T の部分木を構成する。根ノードを頂点とする部分木は、その木構造全体と等しい。根ノード以外を頂点とする部分木は真部分木 (英: proper subtree) と呼ばれる(部分集合と真部分集合とのアナロジー)。 森 (英: forest) とは、木の集合のこと。グラフ理論では、森は閉路をもたない(連結とは限らない)グラフである。 森が順序木の順序集合である場合、これを木の木と考えることで前順、間順、後順の走査法を再帰的に定義できる。 あるノードの子ノード群の間に順序が存在しない木と、順序が存在する木がある。順序性のある木を実装するには、子ノードをリストに入れたり、各エッジ(枝)に異なる自然数を付与するなどして子ノード間に順序を入れる。これが順序付き木 (英: ordered tree) である。順序付き木の応用としては2分探索木などがある。コンピュータ中のデータ構造としては、順序が存在しないデータ構造といったものは(セット型のように存在はするが)あまり一般的ではないため、普通の実装では自然に順序付き木となる。 コンピュータで利用する場合にはいくつかの実装方法がある。典型的な実装としては、動的メモリ確保でノードを表す構造体の領域を確保し、ポインタで親ノードや子ノードを参照できるようにする。 他にも、配列を使った実装(ポインタではなく、インデックスによって親子関係が決定される)などがある(例えば、二分ヒープ)。 木構造の走査 (英: traverse) とは、木構造にある全ノードを一回ずつ体系的に調査する処理である。連結リストや1次元の配列のような線形性のあるデータ構造では、走査は普通は前から順番に行われる(後ろからたどる方法などもある)。木構造の走査には下記の方法などがある。以下のアルゴリズムは二分木に関するものだが、多分木にも応用可能である。 深さ優先探索は、現在のノードを調査し、その子ノードに対して同じことを繰り返す。従って、再帰呼び出しで容易に表現できる(ループでも実装可能)。走査法は、ノードを調査する順序によって以下の3つに分類される(いずれの方法も、根から探索を開始する)。 これらの実装では、木構造の高さのぶんだけコールスタック領域を必要とする。平衡が保たれていない木では、これが深刻な問題となる場合もある。各ノードの親ノードの位置を覚えておくことでスタックを使わないようにもできる。 下記はレベル順の擬似コード。 また、糸付き2分木(英語版) (英: threaded binary tree) を使う方法もある。Joseph M. Morris が1979年に発表した。糸付き2分木は、子ノードがない場合に間順の前と後ろをそれぞれ左の子ポインタと右の子ポインタに設定しておいた木構造である。この場合、子ノードの有無はポインタ以外のフィールドで示す必要がある。これを使うと、間順走査の効率が非常によくなるが、前順や後順は通常のスタックを使った実装の方がよい。 糸付き2分木を間順走査するコードは次のようになる。 木構造は主に以下のような用途で使われる
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "木構造(きこうぞう)とは、グラフ理論の木の構造をしたデータ構造のこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "木構造は、一般のグラフ構造と同様の、ノード(節点、頂点)とノード間を結ぶエッジ(枝、辺)あるいはリンクで表すこともできるが、木構造専用の、特に有向の根付き木となるような表現が使われることも多い。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "データ構造として使われる木は、ほとんどの場合、根となるノードが決められた根付き木である。さらに、有向木であることも多い。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ノード間の関係は家系図に見立てた用語で表現される。木構造内の各ノードは、0個以上の子ノード (英: child node) を持ち、子ノードは木構造内では下方に存在する(木構造の成長方向は下とするのが一般的である)。子ノードを持つノードは、子ノードから見れば親ノード (英: parent node) である。あるノードから見て、同じ親を持つノードを兄弟ノード (英: sibling node) という。あるノードから見て、その子ノードやそこから先の子ノード全てのいずれかを子孫ノード (英: descendant node) と呼び、その親ノードやそこから先の親ノードの全てのいずれかを先祖ノード (英: ancestor node) と呼ぶ。ノードは高々1個の親ノードを持つ。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "根ノード (英: root node) とは、親ノードを持たないノードのこと。根ノードは木構造の最上位にあるノードであり、1つの木構造に高々1つしか存在しない。根ノードからスタートして、親から子へ、またその子へ、とエッジを辿っていくと、あらゆるノードへ必ず到達でき、そのような(根から特定ノードまでの)経路は常に一意である。図で示す場合、根ノードが一番上に描かれるのが普通である。二分ヒープなどの木構造では、根ノードは特別な属性を持つ。木構造内の全てのノードは、そのノードを頂点とする部分木の根ノードと見なすことができる。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "葉ノード (英: leaf node) とは、子ノードを持たないノードのこと。葉ノードは木構造の下位の末端にあるノードであり、ひとつの木に複数存在しうる。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "内部ノード (英: internal node、inner node) とは、子ノードを持つノード、すなわち葉ノード以外のノードのこと。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "高さ (英: height) とは、あるノードについて、そのノードからその子孫である葉ノードへのエッジ数の最大値のこと。 根ノードの高さはその木構造の高さである。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "深さ (英: depth) とは、逆に、あるノードについて、そのノードから根ノードまでのエッジ数のこと。根ノードの深さは 0 である。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "部分木 (英: subtree) は、木構造の一部であり、それ自身も完全な木構造となっている部分を指す。木構造 T の任意のノードは、その配下の全ノードと共に T の部分木を構成する。根ノードを頂点とする部分木は、その木構造全体と等しい。根ノード以外を頂点とする部分木は真部分木 (英: proper subtree) と呼ばれる(部分集合と真部分集合とのアナロジー)。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "森 (英: forest) とは、木の集合のこと。グラフ理論では、森は閉路をもたない(連結とは限らない)グラフである。 森が順序木の順序集合である場合、これを木の木と考えることで前順、間順、後順の走査法を再帰的に定義できる。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "あるノードの子ノード群の間に順序が存在しない木と、順序が存在する木がある。順序性のある木を実装するには、子ノードをリストに入れたり、各エッジ(枝)に異なる自然数を付与するなどして子ノード間に順序を入れる。これが順序付き木 (英: ordered tree) である。順序付き木の応用としては2分探索木などがある。コンピュータ中のデータ構造としては、順序が存在しないデータ構造といったものは(セット型のように存在はするが)あまり一般的ではないため、普通の実装では自然に順序付き木となる。", "title": "子ノードの順序性" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "コンピュータで利用する場合にはいくつかの実装方法がある。典型的な実装としては、動的メモリ確保でノードを表す構造体の領域を確保し、ポインタで親ノードや子ノードを参照できるようにする。", "title": "実装方法" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "他にも、配列を使った実装(ポインタではなく、インデックスによって親子関係が決定される)などがある(例えば、二分ヒープ)。", "title": "実装方法" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "木構造の走査 (英: traverse) とは、木構造にある全ノードを一回ずつ体系的に調査する処理である。連結リストや1次元の配列のような線形性のあるデータ構造では、走査は普通は前から順番に行われる(後ろからたどる方法などもある)。木構造の走査には下記の方法などがある。以下のアルゴリズムは二分木に関するものだが、多分木にも応用可能である。", "title": "走査法" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "深さ優先探索は、現在のノードを調査し、その子ノードに対して同じことを繰り返す。従って、再帰呼び出しで容易に表現できる(ループでも実装可能)。走査法は、ノードを調査する順序によって以下の3つに分類される(いずれの方法も、根から探索を開始する)。", "title": "走査法" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "これらの実装では、木構造の高さのぶんだけコールスタック領域を必要とする。平衡が保たれていない木では、これが深刻な問題となる場合もある。各ノードの親ノードの位置を覚えておくことでスタックを使わないようにもできる。", "title": "走査法" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "下記はレベル順の擬似コード。", "title": "走査法" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また、糸付き2分木(英語版) (英: threaded binary tree) を使う方法もある。Joseph M. Morris が1979年に発表した。糸付き2分木は、子ノードがない場合に間順の前と後ろをそれぞれ左の子ポインタと右の子ポインタに設定しておいた木構造である。この場合、子ノードの有無はポインタ以外のフィールドで示す必要がある。これを使うと、間順走査の効率が非常によくなるが、前順や後順は通常のスタックを使った実装の方がよい。", "title": "走査法" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "糸付き2分木を間順走査するコードは次のようになる。", "title": "走査法" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "木構造は主に以下のような用途で使われる", "title": "コンピュータにみる木構造" } ]
木構造(きこうぞう)とは、グラフ理論の木の構造をしたデータ構造のこと。
{{脚注の不足|date=2023年1月}} [[ファイル:Tree_structure(data)_01.png|thumb|200px|親子構造]] '''木構造'''(きこうぞう)とは、[[グラフ理論]]における[[木 (数学)|木]]に対応づけられる[[データ構造]]である。 {{Main2|数字的な木の扱い|木 (数学)}} == 用語 == 木構造は、一般のグラフ構造と同様の、ノード(節点、頂点)とノード間を結ぶエッジ(枝、辺)あるいはリンクで表すこともできるが、木構造専用の、特に有向の根付き木となるような表現が使われることも多い。<!--ノードには何らかのデータ(値、条件、別のデータ構造、別の木構造)が付属している。--> データ構造として使われる木は、ほとんどの場合、根となるノードが決められた根付き木である。さらに、有向木であることも多い。<ref group="注">一般に無向木は、それに含まれる任意のノードを根として解釈可能な非根付き木である。有向木は、エッジが、葉から根に向かう向きの場合と、根から葉に向う向きの場合があるが、いずれにしても根となるノードが決められた根付き木となる。</ref> ノード間の関係は家系図に見立てた用語で表現される。木構造内の各ノードは、0個以上の'''子ノード''' ({{lang-en-short|child node}}) を持ち、子ノードは木構造内では下方に存在する(木構造の成長方向は下とするのが一般的である)。子ノードを持つノードは、子ノードから見れば'''親ノード''' ({{lang-en-short|parent node}}) である。あるノードから見て、同じ親を持つノードを'''兄弟ノード''' ({{lang-en-short|sibling node}}) という。あるノードから見て、その子ノードやそこから先の子ノード全てのいずれかを'''子孫ノード''' ({{lang-en-short|descendant node}}) と呼び、その親ノードやそこから先の親ノードの全てのいずれかを'''先祖ノード''' ({{lang-en-short|ancestor node}}) と呼ぶ。ノードは高々1個の親ノードを持つ。 '''根ノード''' ({{lang-en-short|root node}}) とは、親ノードを持たないノードのこと。根ノードは木構造の最上位にあるノードであり、1つの木構造に高々1つしか存在しない。<!--木構造に対する各種操作は、一般に根ノードを出発点とする(アルゴリズムによっては、葉ノードから開始して根ノードに到達して完了するものもある)。-->根ノードからスタートして、親から子へ、またその子へ、とエッジを辿っていくと、あらゆるノードへ必ず到達でき、そのような(根から特定ノードまでの)経路は常に一意である。図で示す場合、根ノードが一番上に描かれるのが普通である。[[二分ヒープ]]などの木構造では、根ノードは特別な属性を持つ。木構造内の全てのノードは、そのノードを頂点とする部分木の根ノードと見なすことができる。 '''葉ノード''' ({{lang-en-short|leaf node}}) とは、子ノードを持たないノードのこと。葉ノードは木構造の下位の末端にあるノードであり、ひとつの木に複数存在しうる。 '''内部ノード''' ({{lang-en-short|internal node}}、{{lang|en|inner node}}) とは、子ノードを持つノード、すなわち葉ノード以外のノードのこと。 '''高さ''' ({{lang-en-short|height}}) とは、あるノードについて、そのノードからその子孫である葉ノードへのエッジ数の最大値のこと。 根ノードの高さはその木構造の高さである。 '''深さ''' ({{lang-en-short|depth}}) とは、逆に、あるノードについて、そのノードから根ノードまでのエッジ数のこと。根ノードの深さは 0 である。 '''部分木''' ({{lang-en-short|subtree}}) は、木構造の一部であり、それ自身も完全な木構造となっている部分を指す。木構造 ''T'' の任意のノードは、その配下の全ノードと共に ''T'' の部分木を構成する。根ノードを頂点とする部分木は、その木構造全体と等しい。根ノード以外を頂点とする部分木は'''真部分木''' ({{lang-en-short|proper subtree}}) と呼ばれる([[部分集合]]と真部分集合とのアナロジー)。 '''森''' ({{lang-en-short|forest}}) とは、木の集合のこと。グラフ理論では、森は閉路をもたない(連結とは限らない)グラフである。 森が順序木の順序集合である場合、これを木の木と考えることで前順、間順、後順の走査法を再帰的に定義できる。 == 子ノードの順序性 == あるノードの子ノード群の間に順序が存在しない木と、順序が存在する木がある。順序性のある木を実装するには、子ノードを[[リスト (抽象データ型)|リスト]]に入れたり、各エッジ(枝)に異なる[[自然数]]を付与するなどして子ノード間に順序を入れる。これが'''順序付き木''' ({{lang-en-short|ordered tree}}) である。順序付き木の応用としては[[2分探索木]]などがある。コンピュータ中のデータ構造としては、順序が存在しないデータ構造といったものは([[セット (抽象データ型)|セット型]]のように存在はするが)あまり一般的ではないため、普通の実装では自然に順序付き木となる。 == 実装方法 == [[コンピュータ]]で利用する場合にはいくつかの実装方法がある。典型的な実装としては、[[動的メモリ確保]]でノードを表す構造体の領域を確保し、[[ポインタ (プログラミング)|ポインタ]]で親ノードや子ノードを[[参照 (情報工学)|参照]]できるようにする。 * 各ノードが子ノードへのポインタのリストを持つ * 各ノードが親ノードへのポインタを持つ * 各ノードが親ノードへのポインタと子ノードへのポインタのリストを持つ * 各ノードが長男ノードへのポインタと弟ノードへのポインタを持つ 他にも、[[配列]]を使った実装(ポインタではなく、インデックスによって親子関係が決定される)などがある(例えば、[[二分ヒープ]])。 == 走査法 == [[File:Sorted binary tree preorder.svg|thumb|前順: F, B, A, D, C, E, G, I, H]] [[File:Sorted binary tree inorder.svg|thumb|間順: A, B, C, D, E, F, G, H, I]] [[File:Sorted binary tree postorder.svg|thumb|後順: A, C, E, D, B, H, I, G, F]] [[File:Sorted binary tree breadth-first traversal.svg|thumb|レベル順: F, B, G, A, D, I, C, E, H]] 木構造の'''走査''' ({{lang-en-short|traverse}}) とは、木構造にある全ノードを一回ずつ体系的に調査する処理である。[[連結リスト]]や1次元の[[配列]]のような線形性のあるデータ構造では、走査は普通は前から順番に行われる(後ろからたどる方法などもある)。木構造の走査には下記の方法などがある。以下のアルゴリズムは[[二分木]]に関するものだが、多分木にも応用可能である。 === 深さ優先探索 === [[深さ優先探索]]は、現在のノードを調査し、その子ノードに対して同じことを繰り返す。従って、[[再帰呼び出し]]で容易に表現できる([[ループ (プログラミング)|ループ]]でも実装可能)。走査法は、ノードを調査する順序によって以下の3つに分類される(いずれの方法も、根から探索を開始する)。 ; 前順・先行順・前置順・行きがけ順 ({{lang-en-short|pre-order}}) :# 根ノードを調査する。 :# もしあれば、左の部分木を前順走査する。 :# もしあれば、右の部分木を前順走査する。 : [[2分探索木]]のコピーを作る際によく利用される。また、数式の[[構文木]]から[[ポーランド記法]]の表現を得るのにも利用される。 ; 間順・中間順・通りがけ順 ({{lang-en-short|in-order}}) :# もしあれば、左の部分木を間順走査する。 :# 根ノードを調査する。 :# もしあれば、右の部分木を間順走査する。 : 多分木では定義されない。[[2分探索木]]では、間順走査によって走査する順がソートされた順序になるため、よく使われる。 ; 後順・後行順・後置順・帰りがけ順 ({{lang-en-short|post-order}}) :# もしあれば、左の部分木を後順走査する。 :# もしあれば、右の部分木を後順走査する。 :# 根ノードを調査する。 === 幅優先探索 === ; レベル順 ({{lang-en-short|level-order}}) : [[幅優先探索]]は、深さが同じノードを浅い方から順に走査していく。 === 走査例 === {| |[[ファイル:Sorted binary tree.svg|250px|2分探索木]] |この[[2分探索木]]において、 * 前順走査での調査順: F, B, A, D, C, E, G, I, H * 間順走査での調査順: A, B, C, D, E, F, G, H, I ** 2分探索木での間順走査は、ソートされた順となる。 * 後順走査での調査順: A, C, E, D, B, H, I, G, F * レベル順走査での調査順: F, B, G, A, D, I, C, E, H |} === 擬似コード === 前順('''n''') n を処理 for each (n の子ノード i) 前順(i) 間順('''n''') if (n に左の子ノードがあれば) 間順(n の左の子ノード) n を処理 if (n に右の子ノードがあれば) 間順(n の右の子ノード) 後順('''n''') for each (n の子ノード i) 後順(i) n を処理 これらの実装では、木構造の高さのぶんだけ[[コールスタック]]領域を必要とする。平衡が保たれていない木では、これが深刻な問題となる場合もある。各ノードの親ノードの位置を覚えておくことでスタックを使わないようにもできる。 下記はレベル順の擬似コード。 レベル順('''n''') n をキューに追加 while (キューに要素を含むなら) n ← キューから取り出す n を処理 for each (n の子ノード i) i をキューに追加 === 糸付き2分木 === [[Image:Threaded tree.svg|right|400px|thumb|糸付き2分木]] また、{{仮リンク|糸付き2分木|en|threaded binary tree}} ({{lang-en-short|threaded binary tree}}) を使う方法もある。Joseph M. Morris が1979年に発表した<ref>{{Cite journal |first=Joseph M. |last=Morris |title=Traversing binary trees simply and cheaply |journal=Information Processing Letters |volume=9 |issue=5 |year=1979 |month=December |pages=197-200 |doi=10.1016/0020-0190(79)90068-1 }}</ref>。糸付き2分木は、子ノードがない場合に間順の前と後ろをそれぞれ左の子ポインタと右の子ポインタに設定しておいた木構造である。この場合、子ノードの有無はポインタ以外のフィールドで示す必要がある。これを使うと、間順走査の効率が非常によくなるが、前順や後順は通常のスタックを使った実装の方がよい。 糸付き2分木を間順走査するコードは次のようになる。 <syntaxhighlight lang="text"> Sub inorder(n∈node) Do While hasLeftChild(n) Let node ← node.left Loop Do visit(n) If hasRightChild(n) Then Let n ← n.right Do While hasLeftChild(n) Let n ← n.left Loop Else Let n ← n.right End If Loop While n ≠ Null End Sub </syntaxhighlight> == 主な操作 == * アイテム(データを持つノード)数を数え上げる。 * あるアイテムを探索する。 * 新たなアイテムを木構造の特定の位置に追加する。 * アイテムを削除する。 * 部分木を削除する(枝刈り) * 部分木を追加する(接ぎ木) * 任意のノードから根ノードを探す。 == 木構造の種類 == * 子ノード数での分類 ** [[二分木]] - 各ノードが子ノードを最大2つしかもたない木 *** [[2分探索木]] ** 多分木 - 子ノードを3つ以上持つノードを含む木。二分木でない木 *** [[四分木]] *** [[八分木]] * [[平衡木]](バランス木) - すべての葉について、深さがほぼ等しい木 ** [[平衡2分探索木]] - 平衡木であり、同時に2分探索木でもある木 *** [[AA木]] *** [[AVL木]](一般に平衡2分木と呼ばれるが、平衡2分探索木と紛らわしいので注意) *** [[スケープゴート木]] *** [[赤黒木]](2色木) *** [[T木]] ([[:en:T-tree|T-tree]]) *** [[スプレー木]] (splay tree) *** [[Treap]] ** 多分木 *** [[B木]] (B-tree) **** [[B+木]]、[[B*木]] *** [[2-3木]]、[[2-3-4木]] * [[ヒープ]] ** [[二分ヒープ]](バイナリヒープ) ** [[二項ヒープ]] ** [[フィボナッチヒープ]] * [[デジタル木]] - 主に[[文字列]]の格納のためにつかわれる木 ** [[トライ木]] ** [[パトリシア木]](基数木) ** [[接尾辞木]] (Suffix tree) * その他 ** [[領域探索木]] (range tree) ** [[区分木]] (segment tree) ** [[区間木]] (interval tree) ** [[R木]] (Rectangle tree) ** [[kd木]] == コンピュータにみる木構造 == 木構造は主に以下のような用途で使われる * [[階層構造]]のあるデータを操作する。[[ディレクトリツリー]]、[[ドメイン名]]、[[構文木]]、[[制御構造]]、[[決定木]]、[[Document Object Model|XML DOM]]ツリーなど。 * 情報を[[探索]]しやすくする。[[索引|データベースのインデックス]] など。この用途の木構造を'''探索木'''とも呼ぶ。 * データの[[ソート]]のために使用する。[[ヒープソート]]など。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == * [[バイナリ空間分割]] (BSP) * [[木 (数学)]] * [[二分木]] * [[DSWアルゴリズム]] == 参考文献 == * [[ドナルド・クヌース|Donald Knuth]]. ''The Art of Computer Programming: Fundamental Algorithms'', Third Edition. Addison-Wesley, 1997. ISBN 0-201-89683-4 . Section 2.3: Trees, pp.308&ndash;423. * Thomas H. Cormen, Charles E. Leiserson, [[ロナルド・リベスト|Ronald L. Rivest]], and Clifford Stein. ''Introduction to Algorithms'', Second Edition. MIT Press and McGraw-Hill, 2001. ISBN 0-262-03293-7 . Section 10.4: Representing rooted trees, pp.214&ndash;217. Chapters 12&ndash;14 (Binary Search Trees, Red-Black Trees, Augmenting Data Structures), pp.253&ndash;320. * Dale, Nell. Lilly, Susan D. "Pascal Plus Data Structures". D. C. Heath and Company. Lexington, MA. 1995. Fourth Edition. * Drozdek, Adam. "Data Structures and Algorithms in C++". Brook/Cole. Pacific Grove, CA. 2001. Second edition. == 外部リンク == {{commonscat|Tree structures}} * [http://www.nist.gov/dads/HTML/tree.html Description] from the Dictionary of Algorithms and Data Structures * [http://www2.informatik.uni-halle.de/lehre/leda/MANUAL/List_data_structures.html List of data structures] from LEDA * [http://www.sitepoint.com/article/hierarchical-data-database Storing Hierarchical Data in a Database] PHP による走査コード例がある * [http://www.artfulsoftware.com/mysqlbook/sampler/mysqled1ch20.html Working with Graphs in MySQL] * [http://www.cosc.canterbury.ac.nz/people/mukundan/dsal/BTree.html Animation Applet of Binary Tree Traversal] * [http://www.math.northwestern.edu/~mlerma/courses/cs310-05s/notes/dm-treetran discmath_dvi]:8.4. Tree Transversal {{データ構造}} {{木構造 (データ構造)}} {{DEFAULTSORT:きこうそう}} [[Category:ツリー (データ構造)]] [[Category:データ構造]] [[Category:抽象データ型]] [[Category:再帰]] [[Category:反復処理]] [[Category:構造]] [[Category:数学に関する記事]] [[de:Datenstruktur#Baum]]
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日本の政党一覧
日本の政党一覧(にほんのせいとういちらん、にっぽんのせいとういちらん)では、日本の政党および主な政治団体の一覧を示す。 衆議院 参議院 政治資金規正法における政党ではないが、国会に議席を有する政党 沖縄社会大衆党(1950-)国会議員1名、沖縄県議会に議員2名、市議会などに議員4名(党委員長は参議院議員の高良鉄美) 国会に議席はないが、現時点で複数の地方議会に公認で当選した議員がいる政党・政治団体の一覧(☆印は全国市民政治ネットワークの地域政党) 過去に国会に議席を有したことのある政党のうち、現存し、かつ、現時点で地方議会に議席のない政党・政治団体の一覧。
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日本の政党一覧(にほんのせいとういちらん、にっぽんのせいとういちらん)では、日本の政党および主な政治団体の一覧を示す。
{{出典の明記|date=2022年5月23日 (月) 09:12 (UTC)}} {{日本の統治機構}} '''日本の政党一覧'''(にほんのせいとういちらん、にっぽんのせいとういちらん)では、[[日本の政党]]および主な[[政治]][[団体]]の一覧を示す。 == 現在活動している政党 == === 国会に議席を有する政党<!-- 必ず衆議院計が465、参議院計が248、総計が713になっているか確認する -->=== * [[2023年]](令和5年)12月14日時点。'''太字'''表記は、[[与党|政権与党]]。 <!-- ** 衆議院解散後の衆議院議員については[[政治資金規正法]]に則り、解散時の在院議員を対象とすること。 --> * [[院内会派]]の人数とは一致しない。 {| class="sortable wikitable" ! colspan="2" |名称<br />(英語名称)!!設立年月日!!届出上の<br />代表者<!-- 公平を期すため政治資金収支報告書上の氏名のみ -->!![[衆議院]]<br />議席数!![[参議院]]<br />議席数!![[国会 (日本)|国会]]<br>計 |- | style="background-color: {{Liberal Democratic Party (Japan)/meta/color}};" | |'''{{Display none|しゆうみんしゆとう/}}[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]<br />Liberal Democratic Party'''||1955年11月15日||{{Display none|きした/}}[[岸田文雄]]|| style="text-align:right;" |261|| style="text-align:right;" |118|| style="text-align:right;" |379 |- | style="background-color: {{Constitutional Democratic Party of Japan/meta/color}};" | |{{Display none|りつけんみんしゆとう/}}[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]<br />The Constitutional Democratic Party of Japan||2020年{{0}}9月15日||{{Display none|/いすみ}}[[泉健太]]||style="text-align:right;"|95||style="text-align:right;"|38|| style="text-align:right;" |133 |- | style="background-color: {{Japan Restoration Party/meta/color}};" | |{{Display none|につほんいしんのかい/}}[[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]]<br /> Japan Innovation Party||2015年11月{{0}}2日<ref group="注">2016年8月23日に、おおさか維新の会から党名変更。</ref>||{{Display none|はは/}}[[馬場伸幸]]||style="text-align:right;"|41||style="text-align:right;"|20|| style="text-align:right;" |61 |- | style="background-color: {{New Komeito Party/meta/color}};" | | '''{{Display none|こうめいとう/}}[[公明党]]<br />Komeito '''||1964年11月17日<ref group="注">1998年11月7日に再結成。</ref>||{{Display none|やまくち/}}[[山口那津男]]||style="text-align:right;"|32||style="text-align:right;"|27|| style="text-align:right;" |59 |- | style="background-color: {{Japanese Communist Party/meta/color}};" | |{{Display none|にほんきようさんとう/}}[[日本共産党]]<br />Japanese Communist Party||1922年{{0}}7月15日<ref group="注">1945年12月に、合法化。</ref>||{{Display none|しい/}}[[志位和夫]]||style="text-align:right;"|10||style="text-align:right;"|11|| style="text-align:right;" |21 |- | style="background-color: {{Democratic Party for the People/meta/color}};" | |{{Display none|こくみんみんしゆとう/}}[[国民民主党 (日本 2020)|国民民主党]]<br />Democratic Party For the People||2020年{{0}}9月11日||{{Display none|たまき/}}[[玉木雄一郎]]|| style="text-align:right;" |7||style="text-align:right;"|10|| style="text-align:right;" |17 |- | style="background-color: {{Reiwa Shinsengumi/meta/color}};" | |{{Display none|れいわしんせんくみ/}}[[れいわ新選組]]<br />Reiwa Shinsengumi||2019年{{0}}4月{{0}}1日||{{Display none|やまもと/}}[[山本太郎]]||style="text-align:right;"|3||style="text-align:right;"|5|| style="text-align:right;" |8 |- | style="background-color:#0205d4;" | |{{Display none|きよういくむしようかをしつけんするかい/}}[[教育無償化を実現する会]]<br />Association for Realizing Free Education||2023年12月13日||{{Display none|まえはら/}}[[前原誠司]]||style="text-align:right;"|4||style="text-align:right;"|1|| style="text-align:right;" |5 |- | style="background-color: {{Social Democratic Party of Japan/meta/color}};" | |{{Display none|しやかいみんしゆとう/}}[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]<br />Social Democratic Party||1945年11月{{0}}2日<ref group="注">1996年1月19日に、[[日本社会党]]から党名変更。</ref>||{{Display none|ふくしま/}}[[福島瑞穂]]||style="text-align:right;"|1||style="text-align:right;"|2||style="text-align:right;"|3 |- | style="background-color: {{The Party to Protect the People from NHK/meta/color}};" | |{{Display none|みんなてつくるとう/}}[[みんなでつくる党]]<br />The Collaborative Party||2013年{{0}}6月17日<ref group="注">2023年11月14日に、政治家女子48党から党名変更。</ref>||{{Display none|おおつ/}}[[大津綾香]]|| style="text-align:right;" |0|| style="text-align:right;" |2|| style="text-align:right;" |2 |- | style="background-color: {{Sanseito/meta/color}};" | |{{Display none|さんせいとう/}}[[参政党]]<br />Party of Do It Yourself||2020年{{0}}3月17日||{{Display none|かみや/}}[[神谷宗幣]] ||style="text-align:right;"|0|| style="text-align:right;" |1|| style="text-align:right;" |1 |- | style="background-color: #DDDDDD;" | | colspan="3" |{{Display none|ん1/}}[[無所属]](※ - )|| style="text-align:right;" |10|| style="text-align:right;" |12|| style="text-align:right;" |22 |- | style="background-color: #FFFFFF;" | | colspan="3" |{{Display none|ん2/}}欠員(※ - )||style="text-align:right;"|1||style="text-align:right;"|1||style="text-align:right;"|2 |- ! colspan="4" |{{Display none|ん3/}}計(定数) |style="text-align:right;"|465||style="text-align:right;"|248||style="text-align:right;"|713 |} * 無所属議員は以下の通り。 '''衆議院''' {{Col| * [[秋本真利]] * [[緒方林太郎]] * [[柿沢未途]] * [[北神圭朗]] * [[吉良州司]] | * [[福島伸享]] * [[松原仁]] * [[三反園訓]] * [[吉川赳]] * [[吉田豊史]] | * | * | }} '''参議院''' {{Col| * [[伊波洋一]] * [[上田清司]] * [[鈴木宗男]] * [[須藤元気]] * [[高良鉄美]] * [[寺田静]] | * [[堂込麻紀子]] * [[永江孝子]] * [[芳賀道也]] * [[平山佐知子]] * [[広田一]] * [[三上絵里]] | * | * | }} * 結党後に名称変更があった政党は以下の通り。 ** 日本維新の会:おおさか維新の会→日本維新の会 ** 社会民主党:[[日本社会党]]→社会民主党 ** みんなでつくる党:NHK受信料不払い党→NHKから国民を守る党→NHKから自国民を守る党→NHK受信料を支払わない方法を教える党→古い政党から国民を守る党→嵐の党→NHKと裁判してる党弁護士法72条違反で→NHK受信料を支払わない国民を守る党→NHK党→政治家女子48党→みんなでつくる党 '''政治資金規正法における政党ではないが、国会に議席を有する政党''' [[沖縄社会大衆党]](1950-)国会議員1名、[[沖縄県議会]]に議員2名、市議会などに議員4名(党委員長は参議院議員の[[高良鉄美]])<!--; 注釈 {{Reflist|group="注"}} --> === 複数の地方議会に議席を有する政党 === 国会に議席はないが、現時点で複数の地方議会に公認で当選した議員がいる政党・政治団体の一覧(☆印は[[全国市民政治ネットワーク]]の地域政党) {{main2|地域政党については[[地域政党#日本の主な地域政党一覧]]も}} ==== 都道府県議会に議席を有する政党 ==== * [[都民ファーストの会]](2017-)[[東京都議会]]に議員31名、特別区議会に議員19名、市議会などに議員6名(創設者は[[東京都知事]]の[[小池百合子]]) * [[減税日本]](2010-)[[愛知県議会]]に議員2名、[[名古屋市会]]に議員12名、その他市議会に議員2名(党代表は[[名古屋市長]]の[[河村たかし]]) * ☆[[東京・生活者ネットワーク]](1977-)東京都議会に議員1名、特別区議会に議員14名、市議会に議員27名 * [[新社会党]](1996-)[[熊本県議会]]に議員1名(ただし[[新潟県議会]]に党籍を持つ議員がいる)、市区町村議会に議員15名(結党時には日本社会党時代に当選した国会議員が所属していた) * ☆[[神奈川ネットワーク運動]](1984-)[[神奈川県議会]]に議員1名、[[横浜市会]]に議員1名、[[川崎市議会]]に議員2名、その他市議会などに議員11名 * ☆[[市民ネットワーク千葉県]](1993-)[[千葉県議会]]に議員1名、[[千葉市議会]]に議員3名、その他市議会に議員5名 * ☆[[埼玉県市民ネットワーク]](1997-)[[埼玉県議会]]に議員1名、市議会に議員6名 * ☆[[つくば・市民ネットワーク]](2003-)[[茨城県議会]]に議員1名、[[つくば市議会]]に議員4名 * [[自由を守る会]](2014-)東京都議会に議員1名、特別区議会に議員3名、市議会に議員2名 * [[ふくいの党]](2023-)[[福井県議会]]に議員2名、市議会に議員4名 ==== その他複数の地方議会に議席を有する政党 ==== * [[新党大地]](2005-)北海道の市町村議会に議員6名(党代表は参議院議員の[[鈴木宗男]]) * [[あたらしい党]](2018-)特別区議会に議員6名、市議会に1名(初代党代表は参議院議員の[[音喜多駿]]、現在は日本維新の会政調会長) * [[緑の党グリーンズジャパン]](2012-)市区町村議会に議員6名(ほかに東京都議会議員の[[漢人明子]]と[[兵庫県議会]]議員の丸尾牧が党員) * ☆[[市民ネットワーク北海道]](1990-)[[札幌市議会]]に議員1名、[[北広島市]]議会に議員2名(ほかに[[北海道議会]]議員の石川佐和子が党員) * [[幸福実現党]](2009-)市町村議会に議員49名(2010年には[[大江康弘|一時的に所属していた参議院議員]]がいた) * ☆[[ふくおか市民政治ネットワーク]](1989-)市議会などに議員5名 === 現存する国会に議席を有したことのある政党 === 過去に国会に議席を有したことのある政党のうち、現存し、かつ、現時点で地方議会に議席のない政党・政治団体の一覧。 * [[第二院クラブ]](1983-) * [[政党そうぞう]](2005-) == かつて存在した政党 == === 第二次世界大戦前に創設された政党 === ==== 保守系政党(民党・有産政党) ==== * [[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]](1881-1884)→[[大同倶楽部]](1889-1890)/[[自由党 (日本 1890)|自由党]](1890)/[[愛国公党]](1890)→ [[自由党 (日本 1890-1898)|立憲自由党]](1890-1891)→自由党(1891-1898)→''(憲政党へ参加→憲政党分裂)''→[[憲政党#自由派憲政党|憲政党]](1898-1900)→[[立憲政友会]](1900-1940)→''(分裂/解党)'' ** ''(自由党より分裂)''→[[東洋自由党]](1892-1893)→''(解党)'' ** ''(立憲政友会より分裂)''→[[中正会]](1913-1916)→''(憲政会へ参加)'' ** ''(立憲政友会より分裂)''→[[政友本党]](1924-1927)→''(立憲民政党へ参加)'' * [[立憲改進党]](1882-1896)→[[進歩党 (日本 1896-1898)|進歩党]](1896-1898)→''(憲政党へ参加→憲政党分裂)''→[[憲政本党]](1898-1910)→[[立憲国民党]](1910-1922)→''(解党)'' ** ''(立憲改進党より分裂)''→[[中国進歩党]](1894-1896)→''(進歩党へ参加)'' ** [[革新倶楽部]](1922-1925)→''(解党)'' *** [[革新党]](1927-1932)→''(国民同盟へ参加)'' * [[帝国財政革新会]](1894-1896)→''(進歩党へ参加)'' * [[大手倶楽部]](1894-1896)→''(進歩党へ参加)'' * [[立憲革新党]](1894-1896)→''(進歩党へ参加)'' * [[憲政党]](1896)→''(自由派憲政党、進歩派憲政本党へ分裂)'' * [[猶興会]](1906-1908)→又新会(1908-1910)→''(解党)'' * [[立憲同志会]](1913-1916)→[[憲政会]](1916-1927)→''(立憲民政党へ参加)'' * 無所属団(1914-1915)→[[公友倶楽部]](1915-1916)→''(憲政会へ合流)'' ** ''(公友倶楽部より分裂)''→[[公正会]](1916-1917)→''(解党)'' * [[実業同志会]](1923-1929)→国民同志会(1929-1932)→''(解党)'' * [[立憲養正會]](1923-1942)→''(結社禁止)''→立憲養正會(1946-?) * [[立憲民政党]](1927-1940)→''(解党)'' ==== 革新系政党(無産政党) ==== * [[車会党]](1882-1883)→''(結社禁止)'' * [[東洋社会党]](1882-1883)→''(結社禁止)'' * [[社会民主党 (日本 1901年)|社会民主党]](1901)→''(結社禁止)''→[[社会平民党]](1901)→''(結社禁止)''→[[日本社会党 (1906)|日本社会党]](1906-1907)→''(結社禁止)'' * [[第一次共産党 (日本)|日本共産党]](1921/22-1924)→''(結社禁止)''→[[第二次共産党 (日本)|日本共産党]](1926-1929/1935)→''(活動停止)'' * [[農民労働党]](1925)→''(結社禁止)''→[[労働農民党]](1926-1928)→''(結社禁止)'' ** [[無産大衆党]](1928)→''(日本大衆党へ参加)'' ** [[労農党 (1929-1931)|労農党]](1929-1931)→''(全国労農大衆党へ参加)'' * [[日本農民党 (1926-1928)|日本農民党]](1926-1928)→''(解党)'' * [[社会民衆党]](1926-1931)→''(全国労農大衆党へ参加)'' ** ''(社会民衆党より分裂)''→[[日本社会主義研究所]](1931-1937)→[[日本革新党]](1937-1940)→''(解党)'' * [[日本労農党]](1926-1928)→''(日本大衆党へ参加)'' * [[日本大衆党]](1928-1930)→''(全国大衆党へ参加)'' * [[労働者農民党 (1928)|労働者農民党]](1928)→''(結社禁止)'' * [[全国大衆党]](1930-1931)→''(全国労農大衆党へ参加)'' * [[全国労農大衆党]](1931-1932)→''(社会大衆党へ参加)'' * [[社会大衆党]](1932-1940)→''(解党)'' ** ''(社会大衆党より分裂)''→[[勤労国民党]](1940)→''(結社禁止)'' * [[日本無産党]](1937)→''(結社禁止)'' ==== 国粋系政党(吏党) ==== * [[立憲帝政党]](1882-1883)→''(解党)'' * [[国民自由党 (日本)|国民自由党]](1890-1891)→''(解党)'' * [[国民協会 (日本 1892-1899)|国民協会]](1892-1899)→[[帝国党]](1899-1905)→大同倶楽部(1906-1910)→[[中央倶楽部]](1910-1913)→''(立憲同志会へ参加、民党系へ)'' * [[戊申倶楽部]](1908-1910)→''(中央倶楽部と立憲国民党に分裂)'' * [[国民同盟 (日本)|国民同盟]](1932-1940)→''(解党)'' * ''(立憲政友会より分裂)''→[[昭和会]](1935-1937)→''(解党)'' * [[東方会]](1936-1944)→''(解党)'' ==== 系譜図 ==== <div style="font-size:x-small"> {{familytree/start}} {{familytree | LPJ | | | | | | | | | | | | | | CRP | | | | | | CIP | | | | | | CSP | | OSP | | | | |LPJ=[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]|CRP=[[立憲改進党]]|CIP=[[立憲帝政党]]|CSP=[[車会党]]|OSP=[[東洋社会党]]}} {{familytree | |D|~|~|~|V|~|~|~|7| | | | | | | |!| | | | | | | |:| | | | | | | |:| | | |:| | | | | |}} {{familytree | |:| | | DDK | | DDC | | | | | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |DDK=[[自由党 (日本 1890)|大同協和会]]|DDC=[[大同倶楽部]]}} {{familytree | |:| | | |!| | | |!| | | | | | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |}} {{familytree | PPP | | LPJ | | |!| | | | | | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |PPP=[[愛国公党]]|LPJ=自由党}} 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''(日本共産党より分裂)''→[[共産主義者同盟]](一次:1958-1960、二次:1966-1970)→''(分裂)'' *** ''(共産主義者同盟より分裂)''→[[社会主義労働者党 (日本)|社会主義労働者党]](1984-2002) →[[マルクス主義同志会]](2002-2017)→[[労働の解放をめざす労働者党]](2017-) * 日本社会党(1945-1996) ** ''(日本社会党より分裂)''→民主社会党(1960-1969)→[[民社党]](1969-1994) ** ''(日本社会党より分裂)''→社会市民連合(1977-1978)→[[社会民主連合]](1978-1994) ** ''(日本社会党より分裂)''→社会クラブ(1977-1978)→''(社会民主連合へ参加)'' **[[第16回参議院議員通常選挙#概説|護憲・ヒロシマの会]]→''(栗原君子は新社会党・平和連合へ)'' * [[自由民主党 (日本)|自由民主党]](1955-) ** ''(自由民主党より分裂)''→革新自由民主党(1958)→''(消滅)'' ** ''(自由民主党より分裂)''→[[新自由クラブ]](1976-1986)→''(自由民主党へ合流)'' *** ''(新自由クラブより分裂)''→[[税金党]](1983-1990)→''(自由民主党へ合流)'' *** ''(新自由クラブより分裂)''→[[進歩党 (日本 1987-1993)|進歩党]](1987-1993)→''(解党)'' **** ''(進歩党より分裂)''→[[進歩自由連合]](1992-1993)→''(消滅)'' * [[公明党]](1964-) * 琉球民主党(1952-1959)→沖縄自由民主党(1959-1964)→民主党(1964-1967)→[[沖縄自由民主党]](1967-1970)→''(自由民主党へ合流)'' ** ''(沖縄自由民主党より分裂)''→民政クラブ(1964)→沖縄自由党(1964)→''(民主党へ合流)'' * 宮古革新党(1951-1952)→''(琉球民主党へ合流)'' * 八重山民主党(1948-1952)→''(琉球民主党へ合流)'' * 八重山農本党(1946-1948)→''(八重山民主党へ合流)'' * [[沖縄人民党]](1947-1973)→''(日本共産党へ合流)'' * [[奄美共産党]](1947-1950)→奄美大島社会民主党(1950-1951)→''(沖縄人民党へ合流)'' * [[沖縄社会大衆党]](1950-) ** ''(沖縄社会大衆党より分裂)''→[[沖縄社会党]](1958-1962)→''(日本社会党へ合流)'' ==== 55年体制崩壊から民由合併まで(1993-2005) ==== * 日本共産党(1945-) * 日本社会党(1945-1996)→[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]](1996-) ** ''(日本社会党より分裂)''→[[新党護憲リベラル]](1994-1995)→''(分裂)'' ***[[平和・市民]](1995)→''(解散、田英夫、阿部知子は社民党へ)'' ***[[憲法みどり農の連帯]](1995-?)→''(翫正敏は新社会党へ)'' ** ''(日本社会党より分裂)''→[[市民リーグ]](1995-1996)→''(民主党へ参加)'' ** ''(日本社会党より分裂)''→[[護憲新党あかつき]](1994-2009)→''(上田哲はスポーツ平和党や[[社会党 (2000年)]]に同時に参加)→ (解散)'' * 自由民主党(1955-) ** ''(自由民主党より分裂)''→[[新党さきがけ]](1993-1998)→[[さきがけ]](1998-2002)→''(民主党に大半が移籍)''→[[みどりの会議]](2002-2004)→''(解散)'' *** ''(みどりの会議より分裂)''→[[みどりのテーブル]](2004-2008)→[[みどりの未来]](2008-2012)→[[緑の党グリーンズジャパン]](2012-) ** ''(自由民主党より分裂)''→[[新生党]](1993-1994)→''(新進党へ参加)'' ** ''(自由民主党より分裂)''→[[自由党 (日本 1994)|自由党]](1994)→''(新進党へ参加)'' ** ''(自由民主党より分裂)''→[[新党みらい]](1994)→''(新進党へ参加)'' ** ''(自由民主党より分裂)''→[[高志会]](1994)→''(新進党へ参加)'' * 民社党(1960-1994)→''(新進党へ参加)'' * 公明党(1964-1994)→''(分裂)'' ** 公明新党(1994)→''(新進党へ参加)'' ** 公明(1994-1998)→公明党(1998-) * 社会民主連合(1978-1994)→''(日本新党へ合流)'' * [[日本新党]](1992-1994)→''(新進党へ参加)'' * (連合の会(1989-1993))→[[民主改革連合]](1994-1998)→''(民主党へ参加)'' * [[新進党]](1994-1997)→''(解党)'' ** [[太陽党]](1996-1998)→''(民政党へ参加)'' ** [[フロム・ファイブ]](1997-1998)→''(民政党へ参加)'' ** [[国民の声]](1998)→''(民政党へ参加)'' ** [[新党友愛]](1998)→''(民主党へ参加)'' ** [[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]](1998-2003)→''(民主党へ合流)'' *** ''(自由党より分裂)''→[[保守新党|保守党]](2000-2002)→保守新党(2002-2003)→''(自由民主党へ合流)'' **** ''(保守党より分裂)''→保守クラブ(2002)→''(自由民主党へ合流)'' ** [[改革クラブ (1998-2002)|改革クラブ]](1998-2002)→''(解党)'' ** 新党平和(1998)→''(公明党へ参加)'' ** 黎明クラブ(1998)→''(公明へ合流)'' * [[民主党 (日本 1996-1998)|民主党]](1996-1998)→[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]](1998-2016) * [[民政党]](1998)→''(民主党へ参加)'' ==== 2005年以降 ==== * '''[[日本共産党]]'''(1945-) * '''[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]'''(1955-) ** ''(自由民主党より分裂)''→[[国民新党]](2005-2013)→''(解党)'' ** ''(自由民主党より分裂)''→[[新党日本]](2005-2015)→''(政党要件喪失、解党)'' ** 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'''[[公明党]]'''(1998-) * [[新党大地]](2005-) * [[みんなの党]](2009-2014)→''(解党)''→[[日本を元気にする会]](2015-2018)→''(解党)'' ** ''(みんなの党より分裂)''→[[結いの党]](2013-2014)→''(維新の党へ参加)'' * [[日本創新党]](2010-2012)→''(日本維新の会へ合流)'' * [[減税日本]](2010-)→''(国政部分が減税日本・反TPP・脱原発を実現する党へ参加)'' * [[日本維新の会 (2012-2014)]]→[[維新の党]](2014-2016)→''(民進党へ参加)'' ** ''(日本維新の会より分裂)''→次世代の党(2014-2015)→日本のこころを大切にする党(2015-2017)→[[日本のこころ (政党)|日本のこころ]](2017-2018)→''(自由民主党へ合流)'' ** ''(維新の党より分裂)''→おおさか維新の会(2015-2016)→'''[[日本維新の会 (2016-)]]''' ** ''(維新の党より分裂)''→[[改革結集の会]](2015-2016)→''(民進党へ参加)'' * 反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党(2012)→[[減税日本・反TPP・脱原発を実現する党]](2012)→''(日本未来の党へ合流)'' * [[日本未来の党]](2012)→''(分裂)'' ** 生活の党(2012-2014)→生活の党と山本太郎となかまたち(2014-2016)→[[自由党 (日本 2016-2019)|自由党 (2016-2019)]]→''(国民民主党へ合流)'' *** ''(自由党より分裂)''→'''[[れいわ新選組]]'''(2019-) ** [[日本未来の党 (政治団体)|日本未来の党]](2012-2014)→''(みどりの風へ合流)'' *[[希望の党 (日本 2017)|希望の党]](2017-2018)→''(分裂)'' ** [[希望の党 (日本 2017)#国民党の結成|国民党]](2018)→''(国民民主党 (2018-2020)へ合流)'' ** [[希望の党 (日本 2018)|希望の党]] (2018-2021)→''(解党)'' * NHK受信料不払い党(2013)→NHKから国民を守る党(2013-2020)(※2019年に政党化)→NHKから自国民を守る党(2020-2021)→NHK受信料を支払わない方法を教える党(2021)→古い政党から国民を守る党(2021)→嵐の党(2021)→NHKと裁判してる党弁護士法72条違反で(2021-2022)→ NHK受信料を支払わない国民を守る党(2022)→NHK党(2022-2023)→政治家女子48党(2023)→'''[[みんなでつくる党]]'''(2023-) * '''[[参政党]]'''(2020-)(※2022年に政党化) ==== 系譜図 ==== <div style="font-size:x-small;"> {{familytree/start}} {{familytree | JLP | | | | | | JPP | | CPJ | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | JSP | | JCP |JLP=[[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]|JPP=[[日本進歩党]]|CPJ=[[日本協同党]]|JSP=[[日本社会党]]|JCP=[[日本共産党]]}} {{familytree | |!| | | | | | | |!| | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | |!| |}} {{familytree | |!| | | | | | | |!| | | CDP | | NPJ | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | |!| |CDP=[[協同民主党]]|NPJ=[[国民党 (日本)|国民党]]}} {{familytree | |]|~|~|~|7| | | |!| | | |!| | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | |!| |}} {{familytree | |!| | | |L|~|~| DPJ | | NCP |-|-|'| | | GBS | | JFP | | | | | | | | | | | | | | |!| | | |!| |DPJ=[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]|NCP=[[国民協同党]]|GBS=[[緑風会]]|JFP=[[日本農民党 (1947-1949)|日本農民党]]}} {{familytree | |!| | | |F|~|~|~|[| | | |!| | | | | | | |!| | | |!| | | |F|~|~|~|~|~|~|~|V|~|~|~|[| | | |!| |}} {{familytree | DLP |~|~|J| | | |!| | | |!| | | | | | | |!| | | NFP | | SRP | | | | | | LFP | | |!| | | |!| |DLP=[[民主自由党 (日本)|民主自由党]]|NFP=[[農民新党]]|SRP=[[社会革新党]]|LFP=[[労働者農民党]]}} {{familytree | |!| | | |F|~|~|~|[| | | |!| | | | | | | |!| | | |!| | | |!| | | | | | | |!| | | |!| | | |!| |}} {{familytree | LPJ |~|~|J| | | NDP |-|-|'| | | | | | | |!| | | FCP | | SDP | | | | | | |!| | | |!| | | |!| |LPJ=[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]|NDP=[[国民民主党 (日本 1950)|国民民主党]]|FCP=[[農民協同党]]|SDP=[[社会民主党 (日本 1951-1952)|社会民主党]]}} {{familytree | |!| | | | | | | |!| | | | | | | |,|-|-|-|#|-|-|-|(| | | |!| | | |,|-|-|-|#|-|-|-|(| | | |!| |}} {{familytree | |]|~|~|~|7| | | RPJ |-|-|-|-|-|-|'| | | |!| | | |`|-|-| CPJ | | RSP | | |!| | | LSP | | |!| |RPJ=[[改進党]]|CPJ=[[協同党]]|RSP=[[社会党右派|右派社会党]]|LSP=[[社会党左派|左派社会党]]}} {{familytree | |!| | | LPH | | |!| | | | | | | | | | | |!| | | | | | | |`|-|-|-|(| | | |!| | | |!| | | |!| |LPH=[[日本自由党 (1953-1954)|分党派自由党]]}} {{familytree | |!| |,|-|(| | | |!| | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | | |!| IPC |!| | | |!| | | |!| |IPC=無所属クラブ|border_ IPC=0|boxstyle_ IPC=border-width:1px;border-style:dashed;}} {{familytree | |)|-|'| JLP | | |!| | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | | |!| |!| |!| | | |!| | | |!| |JLP=日本自由党}} {{familytree | |]|~|7| |!| | | |!| | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | | |!| |!| |!| | | |!| | | |!| |}} {{familytree | |!| |L|~|^|-|-| JDP | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | | |!| |!| |!| | | |!| | | |!| |JDP=[[日本民主党]]}} {{familytree | LDP |-|-|-|-|-|-|'| | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | | |`|-|#|-|#|-|-| JSP | | |!| |LDP=[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]|JSP=日本社会党}} {{familytree | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | | | | |!| |`|-|-|-|(| | | |!| |}} {{familytree | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | |F|~|~|~|~|~|#|~|~|~|~|~|[| | | |!| |}} {{familytree | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | FTA | | CGL | | DSP | | | | |!| | | | | |!| | | |!| |FTA=参議院同志会|CGL=公明政治連盟|DSP=[[民社党|民主社会党]]}} {{familytree | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | |`|-|-|-|#|-|-|-|#|-|-|-|-| SCC | | | | |!| | | |!| |SCC=[[第二院クラブ]]}} {{familytree | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | |,|-|-|-|#|-|-|-|#|-|-|-|-|-|(| | | | | |!| |F|~|[| |}} {{familytree | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | GBS | | KMP | | |!| | | | | |!| | | | | |!| VOJ |!| |GBS=緑風会|KMP=[[公明党]]|VOJ=[[日本共産党(日本のこえ)|日本のこえ]]|border_ VOJ=0|boxstyle_ VOJ=border-width:1px;border-style:dashed;}} {{familytree | |]|~|~|~|~|~|~|~|7| | | | | | | | | | | |:| | | |!| | | DSP | | | | |!| |F|~|~|~|[| |:| |!| |DSP=民社党}} {{familytree | |!| | | | | | | NLC | | | | | | | | | | | | | | |!| | | |!| | | RLF |!| SCF | | |!| | | |!| |NLC=[[新自由クラブ]]|RLF=[[革新自由連合]]|SCF=社会市民連合}} {{familytree | |!| | | | | | | |!| | | | | | | | | | | | | | | |!| | | |!| | | |!| |!| |!| |F|~|[| | | |!| |}} {{familytree | |!| | | | | | | |]|~|~|~|7| | | | | | | | | | | |!| | | |!| | | |!| |!| SDF |J| |!| | | |!| |SDF=[[社会民主連合]]}} {{familytree | |!| | | RPJ | | |!| | | TPJ | | SNP | | | | | | |!| | | |!| | | ICF |!| |!| | | |!| | | |!| |RPJ=[[福祉党]]|TPJ=[[税金党]]|SNP=[[サラリーマン新党|サラリーマン<br />新党]]|ICF=無党派<br />市民連合|border_ ICF=0|boxstyle_ ICF=border-width:1px;border-style:dashed;}} {{familytree | |!| |F|~|[| | | |!| | | |!| | | |!| | | | | | | |!| | | |!| | | |:| |!| |!| | | |!| | | |!| |}} {{familytree | |]|~|J| |:| |,|-|(| | | |!| | | |!| | | | | | | |!| | | |!| | | | | |!| |!| | | |!| | | |!| |}} {{familytree | |)|-|-|-|-|-|'| PPJ | | |!| | | |!| | | | | | | |!| | | |!| | | | | |!| |!| | | |!| | | |!| |PPJ=[[進歩党 (日本 1987-1993)|進歩党]]|border_ PPJ=0|boxstyle_ PPJ=border-width:1px;border-style:dashed;}} {{familytree | |!| | | | | | | |!| | | |!| |F|~|[| SPP | | | | |!| | | |!| | | FPJ |!| |!| | | |!| | | |!| |SPP=[[スポーツ平和党|スポーツ<br />平和党]]|FPJ=連合の会}} {{familytree | |)|-|-|-|-|-|-|-|#|-|-|-|^|~|J| |:| |!| | | | | |!| | | |!| | | |!| |!| |!| | | |!| | | |!| |}} {{familytree | |]|~|V|~|V|~|V|~|#|~|~|~|V|~|~|~|~|~|#|~|7| | | |!| | | |!| | | |!| |!| |!| | | |!| | | |!| |}} {{familytree | |!| LPJ |:| NPF |:| | | JRP | | JNP |!| NPS | | |!| | | |!| | | DRP |!| |:| | | |!| | | |!| |LPJ=[[自由党 (日本 1994)|自由党]]|NPF=[[新党みらい]]|JRP=[[新生党]]|JNP=[[日本新党]]|NPS=[[新党さきがけ]]|DRP=[[民主改革連合]]}} {{familytree | |]|7|!| |:| |!| | | | | |!| | | |]|7|!| |!| |,|-|(| | | |!| | | |!| |!| |F|~|~|~|[| | | |!| |}} {{familytree | |!|L|^| ULR |'| | | | | |!| | | |!|L|#|~|[| |!| KMP | | |!| | | |!| |!| NPL | | |!| | | |!| |ULR=[[自由改革連合]]|border_ ULR=0|boxstyle_ ULR=border-width:1px;border-style:dashed;|KMP=公明|NPL=[[新党護憲リベラル|新党護憲<br />リベラル]]}} {{familytree | |!| | | |`|-|-|-|j|-|-| NFP |-|-|^|-|#|-|#|-|^|-|#|-|-|-|'| | | |!| |!| |!| | | |!| | | |!| |NFP=[[新進党]]}} {{familytree | |!| | | | | | | LLJ | | |!| | | | | |!| |!| | | |!| | | | | | | |!| |!| PAC | | |!| | | |!| |LLJ=[[自由連合 (日本)|自由連合]]|PAC=平和・市民}} {{familytree | |!| | | |F|~|~|~|[| | | |!| |F|~|~|~|[| |!| | | |!| |F|~|~|~|~|~|#|~|#|~|C| | | |!| | | |!| |}} {{familytree | |]|~|~|~|J| | | |]|~|~|~|#|~|J| | | |:| |]|~|~|~|#|~|J| |F|~|~|~|#|V|#|~|V|~|~|~|[| | | |!| |}} {{familytree | |!| | | | | | | |!| | | |!| | | | | | | |!| | | |!| | | CLJ | | |]|J|!| NSP | | SDP | | |!| |CLJ=[[市民リーグ]]|NSP=[[新社会党]]|SDP=[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]}} {{familytree | |!| | | |F|~|~|~|#|~|~|~|#|~|~|~|7| | | |)|-|-|-|#|-|.| |!| |,|-|#|-|#|-|#|-|-|-|(| | | |!| |}} {{familytree | |]|~|~|~|J| | | LLJ |F|~|[| | | SPJ | | |!| | | |!| |`| DPJ |'| |!| |!| |!| | | |!| | | |!| |LLJ=自由の会|SPJ=[[太陽党]]|DPJ=[[民主党 (日本 1996-1998)|民主党]]}} {{familytree | |!| |F|~|v|-|-|-|#|-|*|-|+|-|j|-|#|-|v|-|#|-|v|-|#|-|v|-|#|-|.| |!| |!| |!| | | |!| | | |!| |}} {{familytree | |]|~|J| RCJ | | FFV |J| LPJ |:| |!| VOP |!| NPP |!| RMC |!| NFP |!| |!| |!| | | |!| | | |!| |RCJ=[[改革クラブ (1998-2002)|改革クラブ]]|FFV=[[フロム・ファイブ|フロム・<br />ファイブ]]|LPJ=[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]|VOP=[[国民の声]]|NPP=新党平和|RMC=黎明クラブ|NFP=[[新党友愛]]}} {{familytree | |!| | | |!| | | |)|-|.| |!| |:| |!| |!| |!| |!| |)|-|'| |!| |!| |!| |!| |!| | | |!| | | |!| |}} {{familytree | |!| | | |!| | | |:| |`|-|#|-|*| GGP |'| |!| |!| |!| | | |!| |!| |!| |!| |!| | | |!| | | |!| |GGP=[[民政党]]}} {{familytree | |!| | | |!| | | LLJ | | |!| |:| |`|-|-|-|#|-|#|-|#|-|-| DPJ |^|-|'| |!| |!| | | |!| | | |!| |LLJ=自由連合|DPJ=[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]}} {{familytree | |!| | | |!| | | |!| | | |!| |:| | | |F|~|[| |!| |!| | | |!| | | | | |!| |:| | | |!| | | |!| |}} {{familytree | |!| | | |!| | | |!| | | |!| |D| HCC |J| NPS |`| NKP | | |!| | | | | |!| | | | | |!| | | |!| |HCC=参議院クラブ|NPS=さきがけ|NKP=公明党}} {{familytree | |!| |F|~|[| |,|-|#|-|-|-|(| |:| |!| | | |!| | | |!| | | |!| | | | | |!| | | | | |!| | | |!| |}} {{familytree | |]|~|J| |:| NCP |!| | | |!| |L| AOI | | |]|~|~|~|#|~|7| |!| |F|~|~|~|[| | | | | |!| | | |!| |NCP=[[保守新党|保守党]]|AOI=[[無所属の会 (1999)|無所属の会]]}} {{familytree | |!| |F|~|~|~|#|~|#|~|~|~|#|~|~|~|[| | | GCJ | | |!| |L|~|#|~|J| | | |:| | | | | |!| | | |!| |GCJ=[[みどりの会議]]|border_ GCJ=0|boxstyle_ GCJ=border-width:1px;border-style:dashed;}} {{familytree | |]|~|J| |F|~|[| |!| | | |!| | | |!| | | |!| | | |!| |F|~|[| | | | | | | | | | | |!| | | |!| |}} {{familytree | |]|~|~|~|J| NCP |#|~|~|~|#|~|~|~|#|~|~|~|#|~|~|~|#|~|J| |!| | | | | | | | | | | |!| | | |!| |NCP=保守新党}} {{familytree | |)|-|-|-|-|-|'| |!| | | |`|-|-|-|*|-|-|-|*|-|-|-|#|-|-|-|(| | | | | | | | | | | |!| | | |!| |}} {{familytree | |]|~|~|~|~|~|~|~|#|~|~|~|~|~|~|~|~|~|V|~|~|~|V|~|#|~|~|~|#|~|~|~|~|~|~|~|~|~|7| |!| | | |!| |}} {{familytree | |!| | | |F|~|~|~|[| | | | | | | | | PNP | | NPD |!| | | |!| | | | | | | | | NPN |!| | | |!| |PNP=[[国民新党]]|NPD=[[新党大地]]|border_ NPD=0|boxstyle_ NPD=border-width:1px;border-style:dashed;|NPN=[[新党日本]]}} {{familytree | |]|~|~|~|J| | | |:| | | | | | | |F|~|#|~|~|~|#|~|#|~|~|~|[| | | | | | | | | |!| |!| | | |!| |}} {{familytree | |!| | | | | | | | | | | | | | | JRP |]|~|7| |!| |!| | | |!| | | | | | | | | |!| |!| | | |!| |JRP=[[新党改革|改革クラブ]]}} {{familytree | |]|~|~|~|V|~|~|~|V|~|~|~|V|~|7| |!| |!| |L|~|#|~|#|~|~|~|[| | | | | | | | | |!| |!| | | |!| |}} {{familytree | |!| | | SPJ | | ORA | | YPJ |L| NRP |!| | | |!| |!| TRJ |!| | | | | | | | | |!| |!| | | |!| |SPJ=[[たちあがれ日本|たちあがれ<br />日本]]|ORA=[[大阪維新の会]]|border_ ORA=0|boxstyle_ ORA=border-width:1px;border-style:dashed;|YPJ=[[みんなの党]]|NRP=新党改革|TRJ=[[減税日本]]|border_ TRJ=0|boxstyle_ TRJ=border-width:1px;border-style:dashed;}} {{familytree | |!| | | |!| | | |!| | | |!| | | |!| |!| | | |!| |!| |!|F|#|~|7| | | | | | | |!| |!| | | |!| |}} {{familytree | |!| | | |!| | | |!| | | |!| | | |!| |!| | | NPD |#|~|#|J|!| NPK | | | | | | |!| |!| | | |!| |NPD=[[新党大地 (2012-)|新党大地・<br />真民主]]|NPK=[[新党きづな]]}} {{familytree | |!| | | |!| | | |!| |F|~|[| | | |!| |!| | | |!| |!|F|#|V|#|~|#|~|V|~|~|~|7| |!| |!| | | |!| |}} {{familytree | |]|~|7| SPJ | | JRP 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* [[肥後亨事務所]](1963年衆院選) * 沖縄人の沖縄をつくる会(1968-1970)→琉球独立党(1970-2008)→[[かりゆしクラブ]](2008-) * [[日本女性党]](1977年参院選) * [[雑民党]](1983?-1995?) * [[日本世直し党]](1983-1995) * [[教育党]](1983-1998) * [[真理党]](1990年衆院選) * [[地球維新党]](1990年衆院選・1992年参院選) * [[中松義郎|発明政治]](1992年参院選) * [[日本愛酢党]](1992年参院選) * [[維新政党・新風]](1995-) ** ''(維新政党・新風より分裂)''→[[日本国民党]](2017-) * [[世界経済共同体党]](1997-2018) * [[新党・自由と希望]](2001-2019) * [[市民の党]] * [[共生新党]](2007年参院選) * [[9条ネット]](2007年参院選) * [[アイヌ民族党]](2011-) * [[明石市民の会]](2011-) * 新しい時代をつくる党(1993-1996)→女性党(1996-2011)→''(解党)''→[[なかよしの党]](2013-2016) * [[家入一真#インターネッ党|インターネッ党]](2014) * [[小林節|国民怒りの声]](2016-2018) * 都政を国民の手に取り戻す会→[[日本第一党]]<ref>{{Cite web|和書|title=日本第一党|url=https://japan-first.net/|website=日本第一党|accessdate=2021-10-31|language=ja|publisher=桜井誠}}</ref>(2016-) * [[頑張れ日本!全国行動委員会|新党くにもり]](2021-) * [[ごぼうの党]](2022-) == 国政政党の党首(2024年現在) == <gallery class="center" widths="145px"> File:Fumio Kishida 20211004 (cropped).jpg| [[File:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.svg|25px]] '''[[自由民主党 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日本社会党
日本社会党(にっぽんしゃかいとう、にほんしゃかいとう、英語: The Social Democratic Party of Japan、Japan Socialist Party、略称: JSP)は、かつて存在した日本の政党。社会主義を掲げる革新政党である。 略称は社会党、社会。新聞やメディアでは民社党と混同しないよう社党と記される場合もある。 1945年に新生日本を社会主義によって切り開いていくべく、第二次世界大戦中に身を潜めていた社会大衆党を中心とする戦前の無産政党や労働運動関係者、社会運動家らが安部磯雄らに呼応して結集し結成された。1960年に党内の右派が離党し、民主社会党(のちの民社党)を結成。本党は1996年に社会民主党に改名した。 全日本自治団体労働組合(自治労)、日本教職員組合(日教組)等の官公庁労働組合(官公労)を中心とした日本労働組合総評議会(総評)が最大の支持基盤だった。これらの支持基盤は、2022年現在も立憲民主党を中心に、社会民主党や新社会党にも引き継がれている。 1945年11月2日、第二次世界大戦前の非共産党系の合法社会主義勢力が大同団結する形で結成された。右派の社会民衆党(社民)系、中間派の日本労農党(日労)系、左派の日本無産党(日無)系などが合同したもので、右派、中間派は民主社会主義的な社会主義観を、左派は労農派マルクス主義的な社会主義観をもち、後に分裂して民主社会党(後の民社党)を結成していく右派は反共主義でもあった。日労系の中心的メンバーは、戦前、社会主義運動の行き詰まりを打開するために、天皇を中心とした社会主義の実現を求めて軍部に積極的に協力し、護国同志会出身者を中心に、大政翼賛会への合流を推進した議員が多かった。一方、左派は天皇制打倒を目指そうとした者が多かった。なお最初の結党の動きは、終戦の翌日に西尾末広(後の民社党初代委員長)と水谷長三郎が上京に向けて動き出すところから始まり、旧社会民衆党の議員が中心となって動き出した。 結党当初、党名は「日本社会党」か「社会民主党」かで議論となり、日本語名を「日本社会党」、英語名称を「Social Democratic Party of Japan」(SDPJ、直訳は日本社会民主党)とすることで決着した。後に左派が主導権を握るにつれ次第に「Japanese Socialist Party」(JSP、直訳は日本社会党)の英語名称が使われるようになった。その後再び右派の発言力が強くなり社会民主主義が党の路線となると、SDPJの略称が再確認された。 このように社民系、日労系、日無系の3派の対立を戦前から引きずり、たびたび派閥対立を起こした。社会党結成に加わった左派の荒畑寒村は後に「社会主義とはまるで縁のない分子と、情実と、便宜のために作られたに過ぎなかった」と評しており、事実として結成懇談会では社会主義について全く触れられてはいなかった。ただこの派閥対立は後述するように1959年の右派(後の民社党)離脱とベ平連運動後は自衛隊と日米安保への賛否の対立はなくなっていくこととなり、この2つには反対で一致して行き、マルクス・レーニン主義か社会民主主義かを巡るものに収斂していった。 なお、日労系は戦争に協力したとして、指導者の多くが公職追放され、結党当初は影響力を持つことが出来なかった。革新華族として知られた徳川義親侯爵など名望家を担ぐ思惑から、当初は委員長は空席とされ、初代の書記長に片山哲が就任した(後に委員長に就任)。 ポツダム宣言受諾により、大日本帝国憲法の改正が必要になると、各党から改憲案が出され、社会党も1946年2月23日「社會黨 憲法改正要綱」を発表した。民間の憲法研究会案の作成にも加わった高野岩三郎、森戸辰男等が起草委員となったが、3派の妥協の産物といえる内容だった。社会主義経済の断行を宣言する一方、天皇制を存置する代わりに実権を内閣と議会に移す、国民の生存権を保証し、労働を義務とするなど、社会主義を別にすれば、実際にできた新憲法にかなり近い内容であった。また、新憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の規定および、27条で「休息」に言及したのは、帝国議会の審議で社会党の主張が反映された修正という。社会党案の独自性としては、社会主義経済を明記してあるほか、国民投票による衆議院解散、内閣総辞職を可能にし、直接民主制の要素を強めていること、議会を通年とすること、死刑廃止を明記したことなどが挙げられる。 新憲法下最初の総選挙である1947年第23回総選挙で比較第1党となり、その結果民主党・国民協同党との3党連立内閣である片山内閣が成立したが、右派の重鎮であった平野力三農相の公職追放を巡って右派の一部が社会革新党を結成して脱党したり、党内左派が公然と内閣の施政方針を批判したり党内対立はやまず、このため翌1948年に片山内閣は瓦解した。 西尾末広内閣官房長官は左派の入閣を認めず、左派は事実上の党内野党となっていた。それに続く芦田内閣でも社会党は与党となり、左派の一部も入閣したが、最左派の黒田寿男ら6人が予算案に反対して除名されるなど、最右派と最左派を切り捨てる結果になった。昭和電工事件で芦田や西尾副総理が逮捕されると下野に追い込まれた。12月3日、除名された黒田らは労働者農民党を結成。1949年1月の第24回総選挙では、48名に激減して委員長の片山も落選した。 総選挙敗北後の第4回大会で、国民政党か階級政党かをめぐって森戸辰男と稲村順三との間でおこなわれた森戸・稲村論争は、その後の左右対立の原型となった。なおこの時には、社会党の性格は「階級的大衆政党」と定義されて、決着した。1949年8月には、さらに左派から足立梅市らが除名され、社会党再建派を組織した。 1950年(昭和25年)1月16日、社会党左派と社会党右派の対立激化で一旦分裂する。この時には75日後の4月3日の党大会にて統一し、対立は収まったに見えたが、サンフランシスコ講和条約への賛否を巡って再び左右両派が対立し、1951年(昭和26年)10月24日再分裂する。左右両派が対立するなか、1950年(昭和25年)に日本労働組合総評議会(総評)が結成される(武藤武雄議長、島上善五郎事務局長)。総評は労働組合から日本共産党の影響を排除しようとするGHQの肝いりで結成された。 しかし、国内で再軍備論争が過熱するようになると、総評内では再軍備反対派が台頭し、第二回大会では「平和四原則」(全面講和・中立堅持・軍事基地反対・再軍備反対)が決定された。第二代事務局長の高野実も反米・反政府の姿勢を強めた。1951年(昭和26年)には山川均・大内兵衛・向坂逸郎など戦前の労農派マルクス主義の活動家が中心となって社会主義協会が結成されるなど、その後社会党を支える組織的、理論的背景がこの頃に形成されていった。この西欧社会民主主義と異なる日本社会党の性格を、日本型社会民主主義と呼ぶ見解もある。 1951年(昭和26年)、分裂直前に委員長に就任した鈴木茂三郎は「青年よ再び銃をとるな」と委員長就任演説で訴え、非武装中立論を唱えた。この考え方は厭戦感情の強かった当時の若者などにアピールして、分裂以後も非武装中立論を唱えた左派社会党は党勢を伸ばした。左派社会党躍進の背景には、総評の支援もあった。一方、右派社会党は再軍備に積極的な西尾末広と消極的な河上丈太郎の対立もあって、再軍備に対して明確な姿勢を打ち出すことが出来ず、さらに労組の支援も十分にうけられなかったために伸び悩んだ。こうして、左派優位の体制が確立した。この間、1952年(昭和27年)には、社会革新党の後身である協同党が右派に合流している。 左派社会党は1954年(昭和29年)に、向坂逸郎らが作成に関与し社会主義革命を明記した綱領(左社綱領)を決定した。作成の過程で清水慎三から民族独立闘争を重視した「清水私案」が提出されたが、綱領委員会で討議の結果否決された。左社綱領は、労農派マルクス主義の主張が体系的に述べられたものであったが、左右社会党が再統一を果たすと、折衷的な内容の綱領である「統一社会党綱領」がつくられた。 社会党、特に左派は再軍備反対と共に、護憲を公約に掲げるようになった。1955年(昭和30年)の第27回総選挙では、左右社会党と労農、共産の4党で、改憲に必要な2/3議席獲得を阻止する1/3の議席を確保したため注目された。 日本国憲法は社会党案に近い内容で、そのため制定当初から社会党は好意的であった。しかし、左派には社会主義憲法の制定、天皇制廃止を求める意見があり、一方の右派には再軍備賛成など、いずれも改憲が必要となる意見が存在した。そのため、左派は護憲派と名乗りながら実際の憲法の内容を必ずしも支持せず、逆に右派で後に分裂して民社党を結党していく勢力は、次第に明文・解釈改憲 に傾いていった。 1955年10月13日、左右両派は神田共立講堂で党大会を開き社会党再統一を果たした(鈴木茂三郎委員長・浅沼稲次郎書記長)。1950年代の躍進により、再統一時の社会党の衆議院での議席は156にまで拡大した。同年11月には保守合同で自由民主党が結成され、両党を合わせて55年体制とも呼ばれるようになった。 当時は二大政党制を理想とする考え方が強く、社会党自身も政権獲得は間近いと考えていた。1956年3月には、最高裁判所機構改革に並行し、違憲裁判手続法の法案を衆議院法務委員会へ提出した。また、7月の第4回参議院選挙では、自民61議席に対し、社会49議席と健闘した。そのため、社会党の総選挙にかける期待は大きかった。 1957年1月には労働者農民党が合流し、ようやく社会党勢力の分裂は完全に解消された。この時点で衆議院160議席となっていた。 しかし、1958年の第28回総選挙では社会166、自民287と保守の議席に迫ることができなかった。得票数は伸びたが、保守合同で候補者の乱立を抑えた自民の前に伸び悩んだのである。ただし、後から見れば社会党にとっては最高記録であり、また唯一 1/3 を超す議席を獲得した選挙だった。 1959年第5回参議院選挙では東京選挙区で公認候補が全滅するなど党勢が伸び悩んだ。最右派の西尾末広は、階級政党論、容共、親中ソ路線が敗因と批判した。さらに、安保改定に反対するなら安保条約に代わる安全保障政策を明確にすること、安保改定阻止国民会議の主導権を総評から社会党に移し、国民会議から共産党を追放するよう要求した。逆に、総評の太田薫と岩井章は、共産党との共闘(社共共闘)を原則にするよう主張し、両者は真っ向から対立した。 これ以前の1956年、総評に批判的な右派労組が全日本労働組合会議(全労会議)を結成し、三井三池争議では会社側と協調する動きを見せるなどした(第二組合、左派から見た御用組合)。全労会議と密接な関係を持っていた西尾末広派と河上丈太郎派の一部は、1959年に相次いで脱党し翌年民主社会党(後の民社党)を結成する。 当時、日米安全保障条約の改定が迫りつつあり、社会党は安保条約の廃棄を争点に政権獲得を狙った。福岡県大牟田市の三井三池争議も泥沼化し、この三池争議と安保闘争を社会党は全精力を傾けて戦うことになる。このなかから、社会党青年部を基礎に社青同(日本社会主義青年同盟)が1960年に結成された。三池争議も労働側に著しく不利な中労委の斡旋案が出されるに至り敗北が決定的となり、新安保条約も結局自然成立してしまった。 民社党が分裂したものの野党第1党の地位を維持しながら、保守勢力に対する革新勢力の中心として存続した。浅沼稲次郎委員長刺殺事件直後の1960年第29回総選挙では、145議席を獲得。民社党参加者の分を18議席奪い返したが、民社との潰し合いもあり、自民は296議席と逆に議席を増やした。 1958年総選挙直後から、党内では党組織の改革運動が始まり、中心人物の江田三郎は、若手活動家の支持によって指導者の地位を確立した。江田は安保闘争と三池争議挫折の反省から、漸進的な改革の積み重ねによって社会主義を実現しようという構造改革論を提唱するが、江田の台頭に警戒心を抱いた佐々木更三との派閥対立を激化させる結果に終わった。また、佐々木と手を結んだ社会主義協会の発言力も上昇した。党の「大衆化」の掛け声とは裏腹に、指導者たちは派閥抗争に明け暮れ、社会党は専ら総評の組織力に依存する体質に陥った。1964年には、社会主義協会の影響が強い綱領的文書「日本における社会主義への道」(通称「道」)が決定され、事実上の綱領となった。「道」は1966年の補訂で、事実上プロレタリア独裁を肯定する表現が盛り込まれた。 社会党は社会民主主義政党による社会主義インターナショナルに加盟していたが(民社党も分裂後に別個に加盟)、社民主義については、資本主義体制を認めた上の「改良主義」に過ぎないと、左派を中心に非常に敵視した。左派は、現体制の改良ではなく資本主義体制そのものを打倒する革命を志向し、社民主義への転換は資本主義への敗北だと受け止めたのである。民社党の離反による左派勢力増大もあり、党内右派も積極的に社民主義を主張できなくなった。その結果、社会主義インター加盟政党でありながら、ソ連・中国や東欧諸国など東側の共産主義陣営に親近感を示す特異な綱領をもつ政党となった。この間、社会党幹部はソ連や中国に友好訪問を繰り返す一方、アメリカについては、1957年に訪米団を派遣してから、18年間も訪米団が派遣されないなど疎遠な関係が続き、共産主義の東側諸国に傾斜した外交政策がとられた。なお、社会主義インターは日本社会党が反対する米国の「ベトナム戦争」を支持したため、社会党はしばらくの間、会費を滞納していたという。しかし退会はしなかった。 この時期、日本共産党が第6回全国協議会(六全協)を開催し、混乱要因であった武装闘争路線を放棄し、ソ連・中国と決別し自主独立路線を採用した。日本共産党は日本社会のマイノリティーとも一線を引くことになり、部落解放同盟や朝鮮総連は日本共産党と距離をおき、日本社会党との距離を縮めていくことになる。 党内の派閥対立は、民社党として右派が離脱後は安全保障(自衛隊、日米安保を認めるか)を巡るものはほぼ解消され、マルクス・レーニン主義路線の是非を問うものに変わっていった。 この間、1963年の第30回総選挙では前回比1議席減の144議席、1967年第31回総選挙では同4議席減の140議席と、予想に反して社会党の党勢は停滞・微減した。高度経済成長の中、人口の農村から都市への移動は続いており、労働組合を支持基盤とする社会党の議席は本来増加するはずであった。社会党自身も、この時期は政権獲得に必要な過半数の候補者を擁立しなかったものの、後年の長期低落にみられるような候補者数の絞り込みはしていなかった。 社会党議員団の中に、労組への過剰依存に対する懸念がなかったわけではない。1964年には、成田書記長によって、「日常活動の不足、議員党的体質、労組依存」が社会党の弱点として指摘されている。いわゆる「成田三原則」と呼ばれるものであり、停滞克服の一定の努力はした。要するに大衆的基盤の欠如が問題視されたのであるが、この点は以後も結局改善されず、また成田が指摘した三原則の克服は、党官僚の跳梁跋扈や、党活動家の左傾化、議員や議員後援会から党が遊離することなど、後に江田離党問題に浮上するような、世間から社会党が遊離する原因ともなった。更に社会党は、社会変化に適応した政策策定の不十分さと内部の派閥抗争により、結果的に有効な対策を打ち出せなかった。これについて、石川真澄は、新たな都市流入人口は、相当部分が「常時棄権層」に回る一方、一部は公明党や日本共産党など、地域の世話役活動に熱心な政党に吸引され社会党には流入せず、社会党の支持層は、旧支持層の加齢に並行して高齢化していき、都市部では次第に多党化現象が顕著になっていったと指摘している。また、田中善一郎などは、この時期の自民党の候補者減と野党の候補者増で、結果的に野党票が増えたと分析している。これらの指摘は、都市部で社会党支持者が離れたとの分析という点で共通している。 1969年の第32回総選挙では候補者を26人も絞ったが、140から90へと大きく議席を減らす。特に都市部での落ち込みは決定的で、東京都では13から2議席に激減した。この原因について石川真澄は、選挙の投票率が前回から大きく下落し、その下落幅が社会党候補の絶対得票率の下落にほぼ等しいこと、新聞各紙による社会党候補者の当選者数の予想の失敗(朝日新聞はこの選挙での社会党の当選者数を118名前後と予想していた)から、前回選挙までは社会党に投票していた旧来の支持層の多くが棄権し、投票所に行けば社会党候補に投票するはずであった有権者の相当部分が実際には投票所に行かなかったため、社会党候補の得票数が減少し、その結果として各選挙区で当落線上にあった社会党候補の大部分が落選したためであるとの見解を示している。そして、この時に社会党にとって特に不利になるような社会構造の変化が突然起こったわけではない以上、当時の政治的な問題が原因だとしか考えられず、その原因として考えられるのは、この時期に起きた社会主義に幻滅を与える数々の事件(新左翼による暴力的な全国学生闘争/70年安保闘争やそれに伴う内部暴力抗争=内ゲバ)、中華人民共和国の文化大革命の混乱、チェコスロバキアへのソ連率いるワルシャワ条約機構軍の侵攻(チェコ事件)などについて、社会党がはっきりと批判的な態度を取らず曖昧な態度に終始していたこと、文革やソ連の侵攻について党内には理解を示す動きすらあったことではないかと推測している。また、この時から各種世論調査で「支持政党なし」層が急増することにも注目し、社会党を支持していた層のうち、69年総選挙で一旦棄権した後、社会党支持には戻らず「支持政党なし」に移行した有権者が多数存在していたのではないかとも述べている。 しかし、自主独立路線を確立しソ連や中国への批判姿勢を強めた日本共産党は、この時期から議席が拡大傾向を示すようになり、社会党の側からも脅威と見られるようになった(これが社共共闘が壊れた理由の一つでもある)。また新左翼に対する若年層の支持はそれなりにあったし、中華人民共和国の文化大革命の実態はこの時点ではほとんど知られておらず、「ベトナム戦争はアメリカ帝国主義の不正義性とアジア各国の非ソ連型社会主義の優越性を示すもの」として、社会主義への期待は一部に残っていた。 社会党の財政は弱体で、所属議員数に応じて会派に支給される立法事務費を党財政の足しにしていた。そのため、50議席減による減収によって、 本部書記局員、機関紙局員の約1/3にあたる67人が整理(自主退職含む)されることとなった。指名解雇者の反発は大きく本部内部に多数のアジビラが貼られたほか、外部には解雇を非難する立て看板も立てられる事態になった。また、人員整理は再就職の当てがある人材を対象としていたため、優秀な職員を手放すことになったことは痛手となった。 1972年の第33回総選挙では、成田知巳委員長、石橋政嗣書記長(成田-石橋体制)のもとで前回の90から118へ戻し、ある程度の議席を回復したものの、得票数では前回失った票数の約半分を取り戻すにとどまり、完全に議席を取り戻すまでには行かなかった。 55年体制の成立当初は、社会党は政権獲得を目指したが、地域などへの利益誘導を武器とする自民党の一党優位体制が長く続くなかで、これに対抗するための地域の世話役活動が衰弱し、公明党や共産党に支持基盤を奪われることとなった。さらには中選挙区制のもとで、個々の選挙区の獲得議席を安定化させるために候補者絞り込みを行ってきたため、社会党は議席の現状維持を容認し長期低落傾向を示すようになった。社会党は「万年野党」と呼ばれ、支持者にも自民党政権の永続を前提とする認識が広がり始めた。 特に都市部での凋落はひどかった。東京都議会ではその傾向がひどく、1969年東京都議会議員選挙で、公明党に抜かれ第3党となり、1973年東京都議会議員選挙では共産党にも追い抜かれ、第4党に転落した。その一方、地方では自民党と社会党で議席を分け合う構図はほとんど変わらなかった。(ただし、圧倒的に自民党の議席が多く、北海道など一定の地盤のある県を除き、2:1以上に議席の格差があった)後述する革新自治体を都市部に誕生させる実績は残したものの、全体として社会党は都市型政党から次第に農村型政党に変貌していった。 1960年代後半から1970年代の社会党は日本共産党も含む全野党共闘路線をとり、自治体首長選挙では共産党と共闘し(社共共闘)、東京都、大阪府など各地で革新首長を誕生させた。四日市ぜんそくや川崎公害など昭和40年代に公害問題や社会福祉の充実など一定の成果を残したが、財政悪化を招いたとの批判がいわゆる「保守政党」からされることがある。 この時期には、社青同内の解放派(のちの革命的労働者協会(革労協))など極左派が排除される一方、社会主義協会の影響力が組織的にも強まった。向坂逸郎を総帥とする当時の社会主義協会は、マルクス・レーニンの「古典」の解釈ドグマを絶対視し(安東仁兵衛は協会派のイデオロギーを、ベルンシュタインを修正主義と批判し、レーニン主義を極左主義と批判し、社会主義への移行を歴史の必然的法則であると主張するカウツキー主義=西欧における正統派マルクス主義に近いと評している)ソ連を社会主義の祖国と仰ぎ、チェコ事件でソ連の軍事介入を公然と支持するなど、社会党の党是である中立政策を逸脱する路線をとっていた。また組織的にも独自の綱領と地方組織をもち、所属議員はほとんど持たない一方で、社会党の地方組織の活動家や労働組合の専従活動家などの中心的党員を会員とし、党組織での影響力を強めていた。 1976年の第34回総選挙で初めて自民党が過半数割れ(ただし追加公認で過半数確保)すると、政権交代は現実のものとして論議に上った。しかし党の内紛は続き、江田三郎は1977年党大会で協会派が代議員の多数を制し、副委員長を解任されたことで社会党に絶望したと述べて離党し、社会市民連合(後の社会民主連合)を結成した。経済問題に強い江田及び構造改革派の失脚により、護憲と国労の比重が増していくことになる。 江田離党と1977年参院選敗北が契機となり、成田委員長らは辞職し、協会規制がおこなわれ、社会主義協会の活動に一定の歯止めがかけられた。これ以降、総評の変化もあり1980年代以降の社会党は、飛鳥田一雄委員長、平林剛書記長の指導の下、日本共産党を除き、民社党や公明党などの中道政党と連立政権を作ろうという構想(社公民路線)をとった。 1970年代後半からは議席数では与野党が伯仲したが、有権者の意識の上では、自民党政権はむしろ安定性を増していた。1980年の衆参ダブル選挙(第36回総選挙・第12回参議院選挙)で自民党は大勝したが、1983年の第37回総選挙で再び与野党の議席は伯仲した。しかし社会党の議席は微増(107から112)にとどまった。公明・民社は表向き社公民路線を取りつつも、自民との政策協議を重視するようになった(自公民路線)。さらに労働界も、政府に対する政策要求の効果を高める目的で、IMF-JCを中心に社会党支持労組の中からも政策協議路線を後押しする動きが強まり、自民党を中心に政策決定していくことを前提にした政党間関係を構築していくようになる。こうした動きは日本共産党から「国政もオール与党化」「大政翼賛会の二の舞」などとの批判が浴びせかけられる。一方では、1960年代から続く、自民党との国対政治が常態となっており、自公民+社の政策協議路線と、自社両党の国対政治が交差しながら、低落した党勢の中で最大限に政策実現を図ろうとしていた。 1985年、社会主義協会の指導者であった向坂逸郎が死去し、その前後から社会主義協会内も現実路線と原則路線との対立が始まった。1986年、激しい論争を経て、石橋政嗣委員長のもと、「道」は「歴史的文書」として棚上げされ、新しい綱領的文書である「日本社会党の新宣言」が決定された。これは従来の、平和革命による社会主義建設を否定し、自由主義経済を認め、党の性格も「階級的大衆政党」から「国民の党」に変更するなど、西欧社会民主主義政党の立場を確立したものである。ただし採決による決着を回避し社会主義協会派代議員を含めた全会一致の採択を実現するための妥協策として、旧路線を継承するとも取れる付帯決議を付加したため、路線転換は明確とはならなかった。 「新宣言」決定後も退潮はとまらず、1986年夏の衆参ダブル選挙(第38回総選挙・第14回参議院選挙)は大敗(衆院で112から85)し、退任した石橋委員長の後継に土井たか子が就任、議会政党としては日本初の女性党首が誕生した。土井社会党は土井の個人人気と女性候補(「マドンナ」と呼ばれた)を積極的擁立など女性層を中心とする選挙戦術を展開し、消費税導入やリクルート事件、農業政策に対する不満を吸収した「激サイティング!社会党」のキャッチコピーを掲げ、1989年の第15回参議院選挙では46議席を獲得。自民党は36議席しか獲得できず、連合の会と共に、自民党を非改選を含めても過半数割れに追い込み、改選議席で自民党を上回った。土井の個人的人気による選挙結果のため、土井ブームと呼ばれた。このとき土井は開票速報番組の中で、「山は動いた」という名言を残している。この時の候補者の多くが消費税撤廃を公約としたため、参議院において消費税廃止法案を提出・可決したが、衆議院において廃案になったため実現しなかった。 1990年の第39回総選挙でも60年代後半並みの136議席(公認漏れなどを含めると140)を回復し前進を示した。しかし、自民党は追加公認を含めて安定多数の286議席を獲得して底力を見せ、社会党がこの選挙で掲げていた政権交代の実現は頓挫した。つまり、社会党の議席増の相当部分は、自民党からでなく、他の野党から奪ったものであり、別の見方をすれば、この時期は日本社会党が西欧諸国の社民主義政党のように保守主義政党と政権交代を繰り返すような勢力となる、「保守政党と社民政党による二大政党制」へと発展できる最大の好機でもあった。 しかし、社会党にとって最大の好機にもかかわらず、この選挙で社会党は定数512に対し149人しか擁立できなかった。社会党内の激しい派閥抗争に加え、長年続いた各選挙区における消極策が今回もあらわれたのだった。それは社会党の体力が奪われていることを示していた。土井執行部は180人擁立を目標にしていたが、無所属候補や他党系無所属候補の推薦を含めても160人にとどまった。本来なら陣頭指揮をとるべき書記長の山口鶴男さえ、自分の選挙区での2人目の候補擁立を暗に妨害する始末だった。さらに、資金難も候補擁立の障害となった。土井によれば、落選した場合の生活保障ができなかったことを理由に、勧誘を断られるケースが多かったという。しかし、社会党内部では、政権奪取に失敗にもかかわらず議席数の回復への安堵感が強かったため、社会党は政権獲得の意志を持たない万年野党に満足する政党だとの批判を受けた。さらに、社会党の一人勝ちに、社会党と共闘路線をとっていた民社党・公明党の離反を招く結果となり、社会党の右派はこれを理由に「社会党の一人勝ち」を内部から非難さえした。 なお、この選挙で特筆すべきは公認候補だけで56人という空前の数の新人が誕生したことである。後述のように、この後社会党は政権参加を経ながらも、曲折の後に凋落の一途を辿り、中堅・若手議員の多くが民主党に参加する。社会党出身議員はその重要な母体となるが、中でも90年初当選組は大きな役割を担い、やがて2009年に実現する民主党政権でも、政権中枢の要職に就くことになる(この選挙での初当選議員として、仙谷由人、松本龍、岡崎トミ子、赤松広隆、細川律夫、輿石東、大畠章宏、鉢呂吉雄らがいる。但し鉢呂は当選時無所属)。 いっぽう社会党の最大の支持基盤であった総評は槙枝元文議長、富塚三夫事務局長のもとで同盟、中立労連、新産別の労働4団体との「労働戦線統一」に向けて大きく舵をきり、1982年12月14日の全民労協の結成から、官公労も合流して1989年11月21日、日本労働組合総連合会(連合)の結成大会が開催された。これにともない総評は1989年11月に解散した。連合の初代会長には情報通信労連委員長・山岸章が選出された。これは総評の労使協調路線への転換によって、それまで対立してきた同盟との和解が可能になったことによって実現したものである。 1990年に発生した湾岸危機で政治課題となった自衛隊の派遣では、日本社会党は憲法9条堅持の立場から、「自衛隊海外派遣に反対」を主張し、民社党・公明党との関係は冷え込んだ。これと並行して民社党・公明党との協調を重視する連合など労組幹部などとの摩擦も強まり、土井執行部の求心力は急速に低下した。1991年の統一地方選挙で社会党は敗北、土井は責任を取って委員長を退いた。 なお、この年の東京都知事選では連合の山岸会長が公明党・民社党と共に磯村尚徳を担ぐよう社会党執行部に働きかけた。これは、山岸会長の持論である社公民路線の定着を狙ったものである。自民党の小沢一郎幹事長も磯村を自民党本部の候補として推薦した。社公民3党に小沢など自民党の一部が乗る形で実現した細川護熙内閣の構図はこのとき、既に出来ていたといえる。一方、社会党の独自性を強調する土井を中心とするグループは独自候補にこだわる一方で、なかなか候補者を決められず迷走した。土井を都知事候補に擁立し、土井人気を復活させようという動きも社会党の一部にあったが、土井が決断できず、水泡に帰した。社会党は選挙直前にようやく候補者(大原光憲)を決定したが、供託金没収点(法定得票数、全有効票の10%)にも満たない惨敗に終わった。 後任の委員長には、田邊誠と上田哲が立候補し、全党員投票による選挙となった。有力支持労組をバックにした田邊有利との観測が強かったが、湾岸危機による安全保障論議を背景に左傾化する党内世論のもと、護憲平和路線の維持を訴える上田が左派主体の一般党員に支持を広げ、田邊は労組からの集団入党者の票でようやく勝利した。この選挙結果は、田邊執行部に大きな足枷となり、後の党運営を縛るものとなった。 後任の田邊誠委員長は、自民党の金丸信に近く、右派・水曜会のリーダーとして現実路線を期待された。しかしそのことがかえって党内活動家やそれらと連携する党外の平和運動活動家などの警戒的世論にさらされ、1992年のPKO法案の審議では牛歩戦術を連発するなど、強硬な対決姿勢を取った。社会党はPKOを自衛隊とは別組織にすることを条件にPKO法案を受け入れようとし、自民・公明・民社(自公民)の3党は一度は文民による別組織を作ることで合意しており、PKO法案はすんなり成立するかに見えた。しかし、自民党の本心はあくまでも自衛隊によるPKOであった。そのため、民社党・公明党の同意を取り付けるとたちまち別組織案を反故にした(ただし民社党は、公明党を味方につけるため別組織案に合意したのであり、本心は自民党と同じであった)。このため、社会党はPKO法案そのものに反対な強硬派が主導権を握ったのである。 一方、民社党・公明党は自民党と共に内閣信任決議を可決させるなど、実質的に与党となっていた(自公民路線)。社会党は全衆議院議員の辞職まで打ちだしたが、最終的には抵抗を諦めた。その直後、7月26日投開票の第16回参議院選挙は自民党の勝利に終わり、社会党・連合は大敗した。社会党執行部は、改選議席を確保できたことのみに着目してまずまずの結果と強弁し敗北を認めなかったが、結局、田邊執行部は退陣し、書記長の山花貞夫が後任の委員長となった。 1990年9月26日、北朝鮮有数の景勝地、妙香山の招待所で自民党の金丸信、社会党の田辺誠、北朝鮮主席の金日成(キム・イルソン)が顔を合わせた。訪朝は北朝鮮に拘束されていた第18富士山丸の船長、紅粉勇ら日本人2人の釈放と、日朝友好親善が主目的だった。訪朝団に対する金日成の歓待ぶりはすさまじかった。2万人が動員されたマスゲームは代表例で「金丸信先生と田辺誠先生の引率する日本使節を熱烈に歓迎する!」という人文字が表示された。9月28日自民党、社会党、朝鮮労働党の3党共同宣言がなされたが、その中に記された「戦後45年間の謝罪、十分な償い」が、戦後における北朝鮮への戦後賠償の表明とみなされたため、後に大きな批判にさらされることとなった。 1989年に『在日韓国人政治犯の釈放に関する要望』に多数の社会党議員が署名したが、この釈放対象に北朝鮮による日本人拉致事件の実行犯、工作員・辛光洙(シンガンス)らが含まれていたことが後に問題となる。前年の1988年3月26日の第112回国会予算委員会で梶山静六国家公安委員長が拉致を北朝鮮の犯行が濃厚と認めていた。 1993年の第40回総選挙で社会党は新党ブームに埋没し、改選前の136議席から70議席と議席をほぼ半減させた。社会党の有力支持母体であった連合は政権交代を重視し、加盟産別労組の一部は、これを阻害する社会党の護憲派・左派候補を露骨に排除する「選別推薦」を行い、新党候補などに票を回した(この「選別推薦」により連合の推薦を受けられなかった議員には、元党首の土井や岩垂寿喜男や上田哲がいる。なお、後に民主党の都議会議員となった真木茂は、選別の第一次案を自分が作ったと書いている)。特に都市部では、東京都で11議席から1議席に激減するなど、土井ブームで得た議席を失い、55年体制以来最低の議席数となった。長年の宿敵であった自民党が大敗した選挙であるにもかかわらず、社会党は却ってその存在感を失うこととなり、後のことを考えれば皮肉にもこれが社会党にとっての"終わりの始まり”であったとも言える。 総選挙後に非自民・非共産連立政権の細川内閣に与党として参加。社会党は与党第1党ではあったが、総選挙で一人負けの状態(他党は共産党が1議席を減らした他は、自民党も含めて全党が現状維持か議席増)だったため、与党第1党にもかかわらず首相を出すことができなかったが、一方で無視できるほど力は小さくないという、連立与党内でも微妙な立場となった。閣僚人事においても、主要閣僚は新生党や公明党、日本新党等、細川護熙をはじめ羽田孜、小沢一郎、市川雄一ら旧与党内の実力者に独占された。また、総選挙敗北の責任を取って山花が委員長を辞任、9月に村山富市が委員長に就任した。 1994年、小選挙区制導入に反対した一部議員や党員が離党し、新党護憲リベラルや護憲新党あかつきを結成したことで党の弱体化に拍車がかかった(96年には社民党離党者が新社会党も結成)。細川首相退陣後、新生党・公明党との対立から社会党の連立離脱も取りざたされたが、結局は同じ枠組みでの羽田孜政権参加に合意した。しかし首班選挙直後、日本社会党を除く与党各派の統一会派「改新」の結成呼びかけに反発した村山は羽田連立内閣から離脱を決め、羽田政権は少数与党として発足した。 1994年6月、羽田連立与党は自民党の海部俊樹元首相を首班選に擁立、自民党内の分裂を狙ったが、自民党は村山委員長を首班とする自社連立政権樹立を決定。羽田連立与党との連携を重視する社会党議員も、自党党首首班には抗しきれず、海部に投じた議員はごくわずかにとどまった。政権奪回に執念を燃やす自民党も同様で、決選投票の結果村山の首班指名が決定し、自由民主党、新党さきがけと連立した、自社さ政権である村山政権が発足した。村山首相は、就任直後の国会演説で、安保条約肯定、原発肯定、自衛隊合憲など、旧来の党路線の180度の変更を一方的に宣言した(後に1994年9月3日開催第61回臨時党大会で追認)。この結果、社会党の求心力は大きく低下し、その後分党・解党をめぐる論議が絶えなかった。1994年12月には新進党結党により、衆議院で第2党から第3党に転落した。また消費税の税率を3%から5%にすることを閣議決定した。その後の1995年の第17回参議院選挙では16議席しか獲得できず、2年前の衆議院選挙に続く大敗北に終わった。 1996年1月の村山内閣総辞職後、同月社会民主党に改称し、3月には新党として第1回大会を開催、日本社会党の名称は消滅した。小選挙区比例代表並立制のもとでは、社民党単独での衆議院議席獲得は至難であることが予想されたため、新党さきがけとの合併や、鳩山由紀夫・船田元らが提唱した新党構想への合流などの議論が絶えなかった。現在の社民党は日本社会党との連続性を標榜しているが、成立当時は逆に社会党との断絶を強調していた。 新党構想は結局、鳩山由紀夫・邦夫兄弟や菅直人らが中心となり同年衆議院解散直前に結成された民主党として現実のものとなった。社民党は一旦、民主党への丸ごと参加を決定したが、鳩山由紀夫の「排除の論理」に反発して、すぐに撤回。現職の幹事長であった佐藤観樹を含め約半数の党所属国会議員が「個々人の決断」のもと社民党を去り、民主党結成に参加した。幹部候補生と目された前北海道知事横路孝弘も民主党を選んだ。一方、村山ら約半数の議員は社民党に残留し、土井たか子を党首に復帰させ、第41回総選挙に臨んだ。支持労組の大半は民主党支持に転じたが、地方組織のかなりの部分は社民党に残った。村山内閣時の路線転換に批判的な議員や党員の一部は、離党して1996年に新社会党を結成した。また、山花貞夫・土肥隆一ら野党再編派は1995年に社会党を離党し院内会派「民主の会」を結成していたが、山花らは同年に市民リーグを結成後、民主党の結成に参加。土肥らは民主改革連合に合流し、民改連は1998年に民主党や旧新進党の一部などと合流し(新)民主党を結成した。結果的に大きくは民主党、社民党、新社会党の3つに分裂したことになる。 2017年9月、民主党が改称した民進党は第48回衆議院議員総選挙に向けて小池百合子代表率いる希望の党との合流方針を決定したが、今度は小池がリベラル派の議員を受け入れないとする「排除の論理」を主張し、反発した旧社会党グループに所属する議員の多くは枝野幸男率いる立憲民主党に参加した。旧総評系労組の組織内議員の大半が参加したことや党職員も社会党系が多いことから立憲民主党が日本社会党の系譜を継ぐ政党であるという見方もある。 この総選挙後時点で社会党所属経験のある国会議員は6人(衆院5人、参院1人)であった。衆院では佐々木隆博(社会党時代は北海道議)、赤松広隆および横光克彦の3人は立憲民主党、吉川元(社会党時代は党員として社青同勤務)は社会民主党、谷畑孝は日本維新の会に所属しており、参院では鉢呂吉雄が立憲民主党に所属していた。このうち、社会党での国会議員経験があるのは赤松、横光、谷畑、鉢呂の4名であったが、谷畑は2020年4月に辞職した。2019年12月には立憲民主党が社民党などに対し合流を打診し、55年体制の一翼を担った老舗政党がその歴史に幕を下ろすのかが注目されたが、最終的に合流賛成派と合流反対派で党が分裂することとなり、反対派の残留により社民党も存続することとなった。この過程で、吉川が社民党を離党し立憲民主党へ入党したことにより、社会党所属経験のある現職国会議員は全員が立憲民主党所属となっている。その後、2021年の総選挙で佐々木と赤松は引退、横光は落選して、社会党での国会議員経験がある現職議員は鉢呂ただ一人のみとなった。その鉢呂も、2022年の参院選には立候補しなかったたため、国会議員として社会党所属歴がある現職の議員は姿を消した。 日本社会党に関する主な批評、批判には以下がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日本社会党(にっぽんしゃかいとう、にほんしゃかいとう、英語: The Social Democratic Party of Japan、Japan Socialist Party、略称: JSP)は、かつて存在した日本の政党。社会主義を掲げる革新政党である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "略称は社会党、社会。新聞やメディアでは民社党と混同しないよう社党と記される場合もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1945年に新生日本を社会主義によって切り開いていくべく、第二次世界大戦中に身を潜めていた社会大衆党を中心とする戦前の無産政党や労働運動関係者、社会運動家らが安部磯雄らに呼応して結集し結成された。1960年に党内の右派が離党し、民主社会党(のちの民社党)を結成。本党は1996年に社会民主党に改名した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "全日本自治団体労働組合(自治労)、日本教職員組合(日教組)等の官公庁労働組合(官公労)を中心とした日本労働組合総評議会(総評)が最大の支持基盤だった。これらの支持基盤は、2022年現在も立憲民主党を中心に、社会民主党や新社会党にも引き継がれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1945年11月2日、第二次世界大戦前の非共産党系の合法社会主義勢力が大同団結する形で結成された。右派の社会民衆党(社民)系、中間派の日本労農党(日労)系、左派の日本無産党(日無)系などが合同したもので、右派、中間派は民主社会主義的な社会主義観を、左派は労農派マルクス主義的な社会主義観をもち、後に分裂して民主社会党(後の民社党)を結成していく右派は反共主義でもあった。日労系の中心的メンバーは、戦前、社会主義運動の行き詰まりを打開するために、天皇を中心とした社会主義の実現を求めて軍部に積極的に協力し、護国同志会出身者を中心に、大政翼賛会への合流を推進した議員が多かった。一方、左派は天皇制打倒を目指そうとした者が多かった。なお最初の結党の動きは、終戦の翌日に西尾末広(後の民社党初代委員長)と水谷長三郎が上京に向けて動き出すところから始まり、旧社会民衆党の議員が中心となって動き出した。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "結党当初、党名は「日本社会党」か「社会民主党」かで議論となり、日本語名を「日本社会党」、英語名称を「Social Democratic Party of Japan」(SDPJ、直訳は日本社会民主党)とすることで決着した。後に左派が主導権を握るにつれ次第に「Japanese Socialist Party」(JSP、直訳は日本社会党)の英語名称が使われるようになった。その後再び右派の発言力が強くなり社会民主主義が党の路線となると、SDPJの略称が再確認された。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "このように社民系、日労系、日無系の3派の対立を戦前から引きずり、たびたび派閥対立を起こした。社会党結成に加わった左派の荒畑寒村は後に「社会主義とはまるで縁のない分子と、情実と、便宜のために作られたに過ぎなかった」と評しており、事実として結成懇談会では社会主義について全く触れられてはいなかった。ただこの派閥対立は後述するように1959年の右派(後の民社党)離脱とベ平連運動後は自衛隊と日米安保への賛否の対立はなくなっていくこととなり、この2つには反対で一致して行き、マルクス・レーニン主義か社会民主主義かを巡るものに収斂していった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なお、日労系は戦争に協力したとして、指導者の多くが公職追放され、結党当初は影響力を持つことが出来なかった。革新華族として知られた徳川義親侯爵など名望家を担ぐ思惑から、当初は委員長は空席とされ、初代の書記長に片山哲が就任した(後に委員長に就任)。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ポツダム宣言受諾により、大日本帝国憲法の改正が必要になると、各党から改憲案が出され、社会党も1946年2月23日「社會黨 憲法改正要綱」を発表した。民間の憲法研究会案の作成にも加わった高野岩三郎、森戸辰男等が起草委員となったが、3派の妥協の産物といえる内容だった。社会主義経済の断行を宣言する一方、天皇制を存置する代わりに実権を内閣と議会に移す、国民の生存権を保証し、労働を義務とするなど、社会主義を別にすれば、実際にできた新憲法にかなり近い内容であった。また、新憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の規定および、27条で「休息」に言及したのは、帝国議会の審議で社会党の主張が反映された修正という。社会党案の独自性としては、社会主義経済を明記してあるほか、国民投票による衆議院解散、内閣総辞職を可能にし、直接民主制の要素を強めていること、議会を通年とすること、死刑廃止を明記したことなどが挙げられる。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "新憲法下最初の総選挙である1947年第23回総選挙で比較第1党となり、その結果民主党・国民協同党との3党連立内閣である片山内閣が成立したが、右派の重鎮であった平野力三農相の公職追放を巡って右派の一部が社会革新党を結成して脱党したり、党内左派が公然と内閣の施政方針を批判したり党内対立はやまず、このため翌1948年に片山内閣は瓦解した。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "西尾末広内閣官房長官は左派の入閣を認めず、左派は事実上の党内野党となっていた。それに続く芦田内閣でも社会党は与党となり、左派の一部も入閣したが、最左派の黒田寿男ら6人が予算案に反対して除名されるなど、最右派と最左派を切り捨てる結果になった。昭和電工事件で芦田や西尾副総理が逮捕されると下野に追い込まれた。12月3日、除名された黒田らは労働者農民党を結成。1949年1月の第24回総選挙では、48名に激減して委員長の片山も落選した。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "総選挙敗北後の第4回大会で、国民政党か階級政党かをめぐって森戸辰男と稲村順三との間でおこなわれた森戸・稲村論争は、その後の左右対立の原型となった。なおこの時には、社会党の性格は「階級的大衆政党」と定義されて、決着した。1949年8月には、さらに左派から足立梅市らが除名され、社会党再建派を組織した。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1950年(昭和25年)1月16日、社会党左派と社会党右派の対立激化で一旦分裂する。この時には75日後の4月3日の党大会にて統一し、対立は収まったに見えたが、サンフランシスコ講和条約への賛否を巡って再び左右両派が対立し、1951年(昭和26年)10月24日再分裂する。左右両派が対立するなか、1950年(昭和25年)に日本労働組合総評議会(総評)が結成される(武藤武雄議長、島上善五郎事務局長)。総評は労働組合から日本共産党の影響を排除しようとするGHQの肝いりで結成された。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "しかし、国内で再軍備論争が過熱するようになると、総評内では再軍備反対派が台頭し、第二回大会では「平和四原則」(全面講和・中立堅持・軍事基地反対・再軍備反対)が決定された。第二代事務局長の高野実も反米・反政府の姿勢を強めた。1951年(昭和26年)には山川均・大内兵衛・向坂逸郎など戦前の労農派マルクス主義の活動家が中心となって社会主義協会が結成されるなど、その後社会党を支える組織的、理論的背景がこの頃に形成されていった。この西欧社会民主主義と異なる日本社会党の性格を、日本型社会民主主義と呼ぶ見解もある。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1951年(昭和26年)、分裂直前に委員長に就任した鈴木茂三郎は「青年よ再び銃をとるな」と委員長就任演説で訴え、非武装中立論を唱えた。この考え方は厭戦感情の強かった当時の若者などにアピールして、分裂以後も非武装中立論を唱えた左派社会党は党勢を伸ばした。左派社会党躍進の背景には、総評の支援もあった。一方、右派社会党は再軍備に積極的な西尾末広と消極的な河上丈太郎の対立もあって、再軍備に対して明確な姿勢を打ち出すことが出来ず、さらに労組の支援も十分にうけられなかったために伸び悩んだ。こうして、左派優位の体制が確立した。この間、1952年(昭和27年)には、社会革新党の後身である協同党が右派に合流している。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "左派社会党は1954年(昭和29年)に、向坂逸郎らが作成に関与し社会主義革命を明記した綱領(左社綱領)を決定した。作成の過程で清水慎三から民族独立闘争を重視した「清水私案」が提出されたが、綱領委員会で討議の結果否決された。左社綱領は、労農派マルクス主義の主張が体系的に述べられたものであったが、左右社会党が再統一を果たすと、折衷的な内容の綱領である「統一社会党綱領」がつくられた。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "社会党、特に左派は再軍備反対と共に、護憲を公約に掲げるようになった。1955年(昭和30年)の第27回総選挙では、左右社会党と労農、共産の4党で、改憲に必要な2/3議席獲得を阻止する1/3の議席を確保したため注目された。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "日本国憲法は社会党案に近い内容で、そのため制定当初から社会党は好意的であった。しかし、左派には社会主義憲法の制定、天皇制廃止を求める意見があり、一方の右派には再軍備賛成など、いずれも改憲が必要となる意見が存在した。そのため、左派は護憲派と名乗りながら実際の憲法の内容を必ずしも支持せず、逆に右派で後に分裂して民社党を結党していく勢力は、次第に明文・解釈改憲 に傾いていった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1955年10月13日、左右両派は神田共立講堂で党大会を開き社会党再統一を果たした(鈴木茂三郎委員長・浅沼稲次郎書記長)。1950年代の躍進により、再統一時の社会党の衆議院での議席は156にまで拡大した。同年11月には保守合同で自由民主党が結成され、両党を合わせて55年体制とも呼ばれるようになった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "当時は二大政党制を理想とする考え方が強く、社会党自身も政権獲得は間近いと考えていた。1956年3月には、最高裁判所機構改革に並行し、違憲裁判手続法の法案を衆議院法務委員会へ提出した。また、7月の第4回参議院選挙では、自民61議席に対し、社会49議席と健闘した。そのため、社会党の総選挙にかける期待は大きかった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1957年1月には労働者農民党が合流し、ようやく社会党勢力の分裂は完全に解消された。この時点で衆議院160議席となっていた。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし、1958年の第28回総選挙では社会166、自民287と保守の議席に迫ることができなかった。得票数は伸びたが、保守合同で候補者の乱立を抑えた自民の前に伸び悩んだのである。ただし、後から見れば社会党にとっては最高記録であり、また唯一 1/3 を超す議席を獲得した選挙だった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1959年第5回参議院選挙では東京選挙区で公認候補が全滅するなど党勢が伸び悩んだ。最右派の西尾末広は、階級政党論、容共、親中ソ路線が敗因と批判した。さらに、安保改定に反対するなら安保条約に代わる安全保障政策を明確にすること、安保改定阻止国民会議の主導権を総評から社会党に移し、国民会議から共産党を追放するよう要求した。逆に、総評の太田薫と岩井章は、共産党との共闘(社共共闘)を原則にするよう主張し、両者は真っ向から対立した。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "これ以前の1956年、総評に批判的な右派労組が全日本労働組合会議(全労会議)を結成し、三井三池争議では会社側と協調する動きを見せるなどした(第二組合、左派から見た御用組合)。全労会議と密接な関係を持っていた西尾末広派と河上丈太郎派の一部は、1959年に相次いで脱党し翌年民主社会党(後の民社党)を結成する。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "当時、日米安全保障条約の改定が迫りつつあり、社会党は安保条約の廃棄を争点に政権獲得を狙った。福岡県大牟田市の三井三池争議も泥沼化し、この三池争議と安保闘争を社会党は全精力を傾けて戦うことになる。このなかから、社会党青年部を基礎に社青同(日本社会主義青年同盟)が1960年に結成された。三池争議も労働側に著しく不利な中労委の斡旋案が出されるに至り敗北が決定的となり、新安保条約も結局自然成立してしまった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "民社党が分裂したものの野党第1党の地位を維持しながら、保守勢力に対する革新勢力の中心として存続した。浅沼稲次郎委員長刺殺事件直後の1960年第29回総選挙では、145議席を獲得。民社党参加者の分を18議席奪い返したが、民社との潰し合いもあり、自民は296議席と逆に議席を増やした。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1958年総選挙直後から、党内では党組織の改革運動が始まり、中心人物の江田三郎は、若手活動家の支持によって指導者の地位を確立した。江田は安保闘争と三池争議挫折の反省から、漸進的な改革の積み重ねによって社会主義を実現しようという構造改革論を提唱するが、江田の台頭に警戒心を抱いた佐々木更三との派閥対立を激化させる結果に終わった。また、佐々木と手を結んだ社会主義協会の発言力も上昇した。党の「大衆化」の掛け声とは裏腹に、指導者たちは派閥抗争に明け暮れ、社会党は専ら総評の組織力に依存する体質に陥った。1964年には、社会主義協会の影響が強い綱領的文書「日本における社会主義への道」(通称「道」)が決定され、事実上の綱領となった。「道」は1966年の補訂で、事実上プロレタリア独裁を肯定する表現が盛り込まれた。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "社会党は社会民主主義政党による社会主義インターナショナルに加盟していたが(民社党も分裂後に別個に加盟)、社民主義については、資本主義体制を認めた上の「改良主義」に過ぎないと、左派を中心に非常に敵視した。左派は、現体制の改良ではなく資本主義体制そのものを打倒する革命を志向し、社民主義への転換は資本主義への敗北だと受け止めたのである。民社党の離反による左派勢力増大もあり、党内右派も積極的に社民主義を主張できなくなった。その結果、社会主義インター加盟政党でありながら、ソ連・中国や東欧諸国など東側の共産主義陣営に親近感を示す特異な綱領をもつ政党となった。この間、社会党幹部はソ連や中国に友好訪問を繰り返す一方、アメリカについては、1957年に訪米団を派遣してから、18年間も訪米団が派遣されないなど疎遠な関係が続き、共産主義の東側諸国に傾斜した外交政策がとられた。なお、社会主義インターは日本社会党が反対する米国の「ベトナム戦争」を支持したため、社会党はしばらくの間、会費を滞納していたという。しかし退会はしなかった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "この時期、日本共産党が第6回全国協議会(六全協)を開催し、混乱要因であった武装闘争路線を放棄し、ソ連・中国と決別し自主独立路線を採用した。日本共産党は日本社会のマイノリティーとも一線を引くことになり、部落解放同盟や朝鮮総連は日本共産党と距離をおき、日本社会党との距離を縮めていくことになる。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "党内の派閥対立は、民社党として右派が離脱後は安全保障(自衛隊、日米安保を認めるか)を巡るものはほぼ解消され、マルクス・レーニン主義路線の是非を問うものに変わっていった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "この間、1963年の第30回総選挙では前回比1議席減の144議席、1967年第31回総選挙では同4議席減の140議席と、予想に反して社会党の党勢は停滞・微減した。高度経済成長の中、人口の農村から都市への移動は続いており、労働組合を支持基盤とする社会党の議席は本来増加するはずであった。社会党自身も、この時期は政権獲得に必要な過半数の候補者を擁立しなかったものの、後年の長期低落にみられるような候補者数の絞り込みはしていなかった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "社会党議員団の中に、労組への過剰依存に対する懸念がなかったわけではない。1964年には、成田書記長によって、「日常活動の不足、議員党的体質、労組依存」が社会党の弱点として指摘されている。いわゆる「成田三原則」と呼ばれるものであり、停滞克服の一定の努力はした。要するに大衆的基盤の欠如が問題視されたのであるが、この点は以後も結局改善されず、また成田が指摘した三原則の克服は、党官僚の跳梁跋扈や、党活動家の左傾化、議員や議員後援会から党が遊離することなど、後に江田離党問題に浮上するような、世間から社会党が遊離する原因ともなった。更に社会党は、社会変化に適応した政策策定の不十分さと内部の派閥抗争により、結果的に有効な対策を打ち出せなかった。これについて、石川真澄は、新たな都市流入人口は、相当部分が「常時棄権層」に回る一方、一部は公明党や日本共産党など、地域の世話役活動に熱心な政党に吸引され社会党には流入せず、社会党の支持層は、旧支持層の加齢に並行して高齢化していき、都市部では次第に多党化現象が顕著になっていったと指摘している。また、田中善一郎などは、この時期の自民党の候補者減と野党の候補者増で、結果的に野党票が増えたと分析している。これらの指摘は、都市部で社会党支持者が離れたとの分析という点で共通している。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1969年の第32回総選挙では候補者を26人も絞ったが、140から90へと大きく議席を減らす。特に都市部での落ち込みは決定的で、東京都では13から2議席に激減した。この原因について石川真澄は、選挙の投票率が前回から大きく下落し、その下落幅が社会党候補の絶対得票率の下落にほぼ等しいこと、新聞各紙による社会党候補者の当選者数の予想の失敗(朝日新聞はこの選挙での社会党の当選者数を118名前後と予想していた)から、前回選挙までは社会党に投票していた旧来の支持層の多くが棄権し、投票所に行けば社会党候補に投票するはずであった有権者の相当部分が実際には投票所に行かなかったため、社会党候補の得票数が減少し、その結果として各選挙区で当落線上にあった社会党候補の大部分が落選したためであるとの見解を示している。そして、この時に社会党にとって特に不利になるような社会構造の変化が突然起こったわけではない以上、当時の政治的な問題が原因だとしか考えられず、その原因として考えられるのは、この時期に起きた社会主義に幻滅を与える数々の事件(新左翼による暴力的な全国学生闘争/70年安保闘争やそれに伴う内部暴力抗争=内ゲバ)、中華人民共和国の文化大革命の混乱、チェコスロバキアへのソ連率いるワルシャワ条約機構軍の侵攻(チェコ事件)などについて、社会党がはっきりと批判的な態度を取らず曖昧な態度に終始していたこと、文革やソ連の侵攻について党内には理解を示す動きすらあったことではないかと推測している。また、この時から各種世論調査で「支持政党なし」層が急増することにも注目し、社会党を支持していた層のうち、69年総選挙で一旦棄権した後、社会党支持には戻らず「支持政党なし」に移行した有権者が多数存在していたのではないかとも述べている。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "しかし、自主独立路線を確立しソ連や中国への批判姿勢を強めた日本共産党は、この時期から議席が拡大傾向を示すようになり、社会党の側からも脅威と見られるようになった(これが社共共闘が壊れた理由の一つでもある)。また新左翼に対する若年層の支持はそれなりにあったし、中華人民共和国の文化大革命の実態はこの時点ではほとんど知られておらず、「ベトナム戦争はアメリカ帝国主義の不正義性とアジア各国の非ソ連型社会主義の優越性を示すもの」として、社会主義への期待は一部に残っていた。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "社会党の財政は弱体で、所属議員数に応じて会派に支給される立法事務費を党財政の足しにしていた。そのため、50議席減による減収によって、 本部書記局員、機関紙局員の約1/3にあたる67人が整理(自主退職含む)されることとなった。指名解雇者の反発は大きく本部内部に多数のアジビラが貼られたほか、外部には解雇を非難する立て看板も立てられる事態になった。また、人員整理は再就職の当てがある人材を対象としていたため、優秀な職員を手放すことになったことは痛手となった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1972年の第33回総選挙では、成田知巳委員長、石橋政嗣書記長(成田-石橋体制)のもとで前回の90から118へ戻し、ある程度の議席を回復したものの、得票数では前回失った票数の約半分を取り戻すにとどまり、完全に議席を取り戻すまでには行かなかった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "55年体制の成立当初は、社会党は政権獲得を目指したが、地域などへの利益誘導を武器とする自民党の一党優位体制が長く続くなかで、これに対抗するための地域の世話役活動が衰弱し、公明党や共産党に支持基盤を奪われることとなった。さらには中選挙区制のもとで、個々の選挙区の獲得議席を安定化させるために候補者絞り込みを行ってきたため、社会党は議席の現状維持を容認し長期低落傾向を示すようになった。社会党は「万年野党」と呼ばれ、支持者にも自民党政権の永続を前提とする認識が広がり始めた。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "特に都市部での凋落はひどかった。東京都議会ではその傾向がひどく、1969年東京都議会議員選挙で、公明党に抜かれ第3党となり、1973年東京都議会議員選挙では共産党にも追い抜かれ、第4党に転落した。その一方、地方では自民党と社会党で議席を分け合う構図はほとんど変わらなかった。(ただし、圧倒的に自民党の議席が多く、北海道など一定の地盤のある県を除き、2:1以上に議席の格差があった)後述する革新自治体を都市部に誕生させる実績は残したものの、全体として社会党は都市型政党から次第に農村型政党に変貌していった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1960年代後半から1970年代の社会党は日本共産党も含む全野党共闘路線をとり、自治体首長選挙では共産党と共闘し(社共共闘)、東京都、大阪府など各地で革新首長を誕生させた。四日市ぜんそくや川崎公害など昭和40年代に公害問題や社会福祉の充実など一定の成果を残したが、財政悪化を招いたとの批判がいわゆる「保守政党」からされることがある。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "この時期には、社青同内の解放派(のちの革命的労働者協会(革労協))など極左派が排除される一方、社会主義協会の影響力が組織的にも強まった。向坂逸郎を総帥とする当時の社会主義協会は、マルクス・レーニンの「古典」の解釈ドグマを絶対視し(安東仁兵衛は協会派のイデオロギーを、ベルンシュタインを修正主義と批判し、レーニン主義を極左主義と批判し、社会主義への移行を歴史の必然的法則であると主張するカウツキー主義=西欧における正統派マルクス主義に近いと評している)ソ連を社会主義の祖国と仰ぎ、チェコ事件でソ連の軍事介入を公然と支持するなど、社会党の党是である中立政策を逸脱する路線をとっていた。また組織的にも独自の綱領と地方組織をもち、所属議員はほとんど持たない一方で、社会党の地方組織の活動家や労働組合の専従活動家などの中心的党員を会員とし、党組織での影響力を強めていた。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1976年の第34回総選挙で初めて自民党が過半数割れ(ただし追加公認で過半数確保)すると、政権交代は現実のものとして論議に上った。しかし党の内紛は続き、江田三郎は1977年党大会で協会派が代議員の多数を制し、副委員長を解任されたことで社会党に絶望したと述べて離党し、社会市民連合(後の社会民主連合)を結成した。経済問題に強い江田及び構造改革派の失脚により、護憲と国労の比重が増していくことになる。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "江田離党と1977年参院選敗北が契機となり、成田委員長らは辞職し、協会規制がおこなわれ、社会主義協会の活動に一定の歯止めがかけられた。これ以降、総評の変化もあり1980年代以降の社会党は、飛鳥田一雄委員長、平林剛書記長の指導の下、日本共産党を除き、民社党や公明党などの中道政党と連立政権を作ろうという構想(社公民路線)をとった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1970年代後半からは議席数では与野党が伯仲したが、有権者の意識の上では、自民党政権はむしろ安定性を増していた。1980年の衆参ダブル選挙(第36回総選挙・第12回参議院選挙)で自民党は大勝したが、1983年の第37回総選挙で再び与野党の議席は伯仲した。しかし社会党の議席は微増(107から112)にとどまった。公明・民社は表向き社公民路線を取りつつも、自民との政策協議を重視するようになった(自公民路線)。さらに労働界も、政府に対する政策要求の効果を高める目的で、IMF-JCを中心に社会党支持労組の中からも政策協議路線を後押しする動きが強まり、自民党を中心に政策決定していくことを前提にした政党間関係を構築していくようになる。こうした動きは日本共産党から「国政もオール与党化」「大政翼賛会の二の舞」などとの批判が浴びせかけられる。一方では、1960年代から続く、自民党との国対政治が常態となっており、自公民+社の政策協議路線と、自社両党の国対政治が交差しながら、低落した党勢の中で最大限に政策実現を図ろうとしていた。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1985年、社会主義協会の指導者であった向坂逸郎が死去し、その前後から社会主義協会内も現実路線と原則路線との対立が始まった。1986年、激しい論争を経て、石橋政嗣委員長のもと、「道」は「歴史的文書」として棚上げされ、新しい綱領的文書である「日本社会党の新宣言」が決定された。これは従来の、平和革命による社会主義建設を否定し、自由主義経済を認め、党の性格も「階級的大衆政党」から「国民の党」に変更するなど、西欧社会民主主義政党の立場を確立したものである。ただし採決による決着を回避し社会主義協会派代議員を含めた全会一致の採択を実現するための妥協策として、旧路線を継承するとも取れる付帯決議を付加したため、路線転換は明確とはならなかった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "「新宣言」決定後も退潮はとまらず、1986年夏の衆参ダブル選挙(第38回総選挙・第14回参議院選挙)は大敗(衆院で112から85)し、退任した石橋委員長の後継に土井たか子が就任、議会政党としては日本初の女性党首が誕生した。土井社会党は土井の個人人気と女性候補(「マドンナ」と呼ばれた)を積極的擁立など女性層を中心とする選挙戦術を展開し、消費税導入やリクルート事件、農業政策に対する不満を吸収した「激サイティング!社会党」のキャッチコピーを掲げ、1989年の第15回参議院選挙では46議席を獲得。自民党は36議席しか獲得できず、連合の会と共に、自民党を非改選を含めても過半数割れに追い込み、改選議席で自民党を上回った。土井の個人的人気による選挙結果のため、土井ブームと呼ばれた。このとき土井は開票速報番組の中で、「山は動いた」という名言を残している。この時の候補者の多くが消費税撤廃を公約としたため、参議院において消費税廃止法案を提出・可決したが、衆議院において廃案になったため実現しなかった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1990年の第39回総選挙でも60年代後半並みの136議席(公認漏れなどを含めると140)を回復し前進を示した。しかし、自民党は追加公認を含めて安定多数の286議席を獲得して底力を見せ、社会党がこの選挙で掲げていた政権交代の実現は頓挫した。つまり、社会党の議席増の相当部分は、自民党からでなく、他の野党から奪ったものであり、別の見方をすれば、この時期は日本社会党が西欧諸国の社民主義政党のように保守主義政党と政権交代を繰り返すような勢力となる、「保守政党と社民政党による二大政党制」へと発展できる最大の好機でもあった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "しかし、社会党にとって最大の好機にもかかわらず、この選挙で社会党は定数512に対し149人しか擁立できなかった。社会党内の激しい派閥抗争に加え、長年続いた各選挙区における消極策が今回もあらわれたのだった。それは社会党の体力が奪われていることを示していた。土井執行部は180人擁立を目標にしていたが、無所属候補や他党系無所属候補の推薦を含めても160人にとどまった。本来なら陣頭指揮をとるべき書記長の山口鶴男さえ、自分の選挙区での2人目の候補擁立を暗に妨害する始末だった。さらに、資金難も候補擁立の障害となった。土井によれば、落選した場合の生活保障ができなかったことを理由に、勧誘を断られるケースが多かったという。しかし、社会党内部では、政権奪取に失敗にもかかわらず議席数の回復への安堵感が強かったため、社会党は政権獲得の意志を持たない万年野党に満足する政党だとの批判を受けた。さらに、社会党の一人勝ちに、社会党と共闘路線をとっていた民社党・公明党の離反を招く結果となり、社会党の右派はこれを理由に「社会党の一人勝ち」を内部から非難さえした。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "なお、この選挙で特筆すべきは公認候補だけで56人という空前の数の新人が誕生したことである。後述のように、この後社会党は政権参加を経ながらも、曲折の後に凋落の一途を辿り、中堅・若手議員の多くが民主党に参加する。社会党出身議員はその重要な母体となるが、中でも90年初当選組は大きな役割を担い、やがて2009年に実現する民主党政権でも、政権中枢の要職に就くことになる(この選挙での初当選議員として、仙谷由人、松本龍、岡崎トミ子、赤松広隆、細川律夫、輿石東、大畠章宏、鉢呂吉雄らがいる。但し鉢呂は当選時無所属)。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "いっぽう社会党の最大の支持基盤であった総評は槙枝元文議長、富塚三夫事務局長のもとで同盟、中立労連、新産別の労働4団体との「労働戦線統一」に向けて大きく舵をきり、1982年12月14日の全民労協の結成から、官公労も合流して1989年11月21日、日本労働組合総連合会(連合)の結成大会が開催された。これにともない総評は1989年11月に解散した。連合の初代会長には情報通信労連委員長・山岸章が選出された。これは総評の労使協調路線への転換によって、それまで対立してきた同盟との和解が可能になったことによって実現したものである。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1990年に発生した湾岸危機で政治課題となった自衛隊の派遣では、日本社会党は憲法9条堅持の立場から、「自衛隊海外派遣に反対」を主張し、民社党・公明党との関係は冷え込んだ。これと並行して民社党・公明党との協調を重視する連合など労組幹部などとの摩擦も強まり、土井執行部の求心力は急速に低下した。1991年の統一地方選挙で社会党は敗北、土井は責任を取って委員長を退いた。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "なお、この年の東京都知事選では連合の山岸会長が公明党・民社党と共に磯村尚徳を担ぐよう社会党執行部に働きかけた。これは、山岸会長の持論である社公民路線の定着を狙ったものである。自民党の小沢一郎幹事長も磯村を自民党本部の候補として推薦した。社公民3党に小沢など自民党の一部が乗る形で実現した細川護熙内閣の構図はこのとき、既に出来ていたといえる。一方、社会党の独自性を強調する土井を中心とするグループは独自候補にこだわる一方で、なかなか候補者を決められず迷走した。土井を都知事候補に擁立し、土井人気を復活させようという動きも社会党の一部にあったが、土井が決断できず、水泡に帰した。社会党は選挙直前にようやく候補者(大原光憲)を決定したが、供託金没収点(法定得票数、全有効票の10%)にも満たない惨敗に終わった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "後任の委員長には、田邊誠と上田哲が立候補し、全党員投票による選挙となった。有力支持労組をバックにした田邊有利との観測が強かったが、湾岸危機による安全保障論議を背景に左傾化する党内世論のもと、護憲平和路線の維持を訴える上田が左派主体の一般党員に支持を広げ、田邊は労組からの集団入党者の票でようやく勝利した。この選挙結果は、田邊執行部に大きな足枷となり、後の党運営を縛るものとなった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "後任の田邊誠委員長は、自民党の金丸信に近く、右派・水曜会のリーダーとして現実路線を期待された。しかしそのことがかえって党内活動家やそれらと連携する党外の平和運動活動家などの警戒的世論にさらされ、1992年のPKO法案の審議では牛歩戦術を連発するなど、強硬な対決姿勢を取った。社会党はPKOを自衛隊とは別組織にすることを条件にPKO法案を受け入れようとし、自民・公明・民社(自公民)の3党は一度は文民による別組織を作ることで合意しており、PKO法案はすんなり成立するかに見えた。しかし、自民党の本心はあくまでも自衛隊によるPKOであった。そのため、民社党・公明党の同意を取り付けるとたちまち別組織案を反故にした(ただし民社党は、公明党を味方につけるため別組織案に合意したのであり、本心は自民党と同じであった)。このため、社会党はPKO法案そのものに反対な強硬派が主導権を握ったのである。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "一方、民社党・公明党は自民党と共に内閣信任決議を可決させるなど、実質的に与党となっていた(自公民路線)。社会党は全衆議院議員の辞職まで打ちだしたが、最終的には抵抗を諦めた。その直後、7月26日投開票の第16回参議院選挙は自民党の勝利に終わり、社会党・連合は大敗した。社会党執行部は、改選議席を確保できたことのみに着目してまずまずの結果と強弁し敗北を認めなかったが、結局、田邊執行部は退陣し、書記長の山花貞夫が後任の委員長となった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1990年9月26日、北朝鮮有数の景勝地、妙香山の招待所で自民党の金丸信、社会党の田辺誠、北朝鮮主席の金日成(キム・イルソン)が顔を合わせた。訪朝は北朝鮮に拘束されていた第18富士山丸の船長、紅粉勇ら日本人2人の釈放と、日朝友好親善が主目的だった。訪朝団に対する金日成の歓待ぶりはすさまじかった。2万人が動員されたマスゲームは代表例で「金丸信先生と田辺誠先生の引率する日本使節を熱烈に歓迎する!」という人文字が表示された。9月28日自民党、社会党、朝鮮労働党の3党共同宣言がなされたが、その中に記された「戦後45年間の謝罪、十分な償い」が、戦後における北朝鮮への戦後賠償の表明とみなされたため、後に大きな批判にさらされることとなった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1989年に『在日韓国人政治犯の釈放に関する要望』に多数の社会党議員が署名したが、この釈放対象に北朝鮮による日本人拉致事件の実行犯、工作員・辛光洙(シンガンス)らが含まれていたことが後に問題となる。前年の1988年3月26日の第112回国会予算委員会で梶山静六国家公安委員長が拉致を北朝鮮の犯行が濃厚と認めていた。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1993年の第40回総選挙で社会党は新党ブームに埋没し、改選前の136議席から70議席と議席をほぼ半減させた。社会党の有力支持母体であった連合は政権交代を重視し、加盟産別労組の一部は、これを阻害する社会党の護憲派・左派候補を露骨に排除する「選別推薦」を行い、新党候補などに票を回した(この「選別推薦」により連合の推薦を受けられなかった議員には、元党首の土井や岩垂寿喜男や上田哲がいる。なお、後に民主党の都議会議員となった真木茂は、選別の第一次案を自分が作ったと書いている)。特に都市部では、東京都で11議席から1議席に激減するなど、土井ブームで得た議席を失い、55年体制以来最低の議席数となった。長年の宿敵であった自民党が大敗した選挙であるにもかかわらず、社会党は却ってその存在感を失うこととなり、後のことを考えれば皮肉にもこれが社会党にとっての\"終わりの始まり”であったとも言える。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "総選挙後に非自民・非共産連立政権の細川内閣に与党として参加。社会党は与党第1党ではあったが、総選挙で一人負けの状態(他党は共産党が1議席を減らした他は、自民党も含めて全党が現状維持か議席増)だったため、与党第1党にもかかわらず首相を出すことができなかったが、一方で無視できるほど力は小さくないという、連立与党内でも微妙な立場となった。閣僚人事においても、主要閣僚は新生党や公明党、日本新党等、細川護熙をはじめ羽田孜、小沢一郎、市川雄一ら旧与党内の実力者に独占された。また、総選挙敗北の責任を取って山花が委員長を辞任、9月に村山富市が委員長に就任した。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1994年、小選挙区制導入に反対した一部議員や党員が離党し、新党護憲リベラルや護憲新党あかつきを結成したことで党の弱体化に拍車がかかった(96年には社民党離党者が新社会党も結成)。細川首相退陣後、新生党・公明党との対立から社会党の連立離脱も取りざたされたが、結局は同じ枠組みでの羽田孜政権参加に合意した。しかし首班選挙直後、日本社会党を除く与党各派の統一会派「改新」の結成呼びかけに反発した村山は羽田連立内閣から離脱を決め、羽田政権は少数与党として発足した。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1994年6月、羽田連立与党は自民党の海部俊樹元首相を首班選に擁立、自民党内の分裂を狙ったが、自民党は村山委員長を首班とする自社連立政権樹立を決定。羽田連立与党との連携を重視する社会党議員も、自党党首首班には抗しきれず、海部に投じた議員はごくわずかにとどまった。政権奪回に執念を燃やす自民党も同様で、決選投票の結果村山の首班指名が決定し、自由民主党、新党さきがけと連立した、自社さ政権である村山政権が発足した。村山首相は、就任直後の国会演説で、安保条約肯定、原発肯定、自衛隊合憲など、旧来の党路線の180度の変更を一方的に宣言した(後に1994年9月3日開催第61回臨時党大会で追認)。この結果、社会党の求心力は大きく低下し、その後分党・解党をめぐる論議が絶えなかった。1994年12月には新進党結党により、衆議院で第2党から第3党に転落した。また消費税の税率を3%から5%にすることを閣議決定した。その後の1995年の第17回参議院選挙では16議席しか獲得できず、2年前の衆議院選挙に続く大敗北に終わった。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1996年1月の村山内閣総辞職後、同月社会民主党に改称し、3月には新党として第1回大会を開催、日本社会党の名称は消滅した。小選挙区比例代表並立制のもとでは、社民党単独での衆議院議席獲得は至難であることが予想されたため、新党さきがけとの合併や、鳩山由紀夫・船田元らが提唱した新党構想への合流などの議論が絶えなかった。現在の社民党は日本社会党との連続性を標榜しているが、成立当時は逆に社会党との断絶を強調していた。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "新党構想は結局、鳩山由紀夫・邦夫兄弟や菅直人らが中心となり同年衆議院解散直前に結成された民主党として現実のものとなった。社民党は一旦、民主党への丸ごと参加を決定したが、鳩山由紀夫の「排除の論理」に反発して、すぐに撤回。現職の幹事長であった佐藤観樹を含め約半数の党所属国会議員が「個々人の決断」のもと社民党を去り、民主党結成に参加した。幹部候補生と目された前北海道知事横路孝弘も民主党を選んだ。一方、村山ら約半数の議員は社民党に残留し、土井たか子を党首に復帰させ、第41回総選挙に臨んだ。支持労組の大半は民主党支持に転じたが、地方組織のかなりの部分は社民党に残った。村山内閣時の路線転換に批判的な議員や党員の一部は、離党して1996年に新社会党を結成した。また、山花貞夫・土肥隆一ら野党再編派は1995年に社会党を離党し院内会派「民主の会」を結成していたが、山花らは同年に市民リーグを結成後、民主党の結成に参加。土肥らは民主改革連合に合流し、民改連は1998年に民主党や旧新進党の一部などと合流し(新)民主党を結成した。結果的に大きくは民主党、社民党、新社会党の3つに分裂したことになる。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2017年9月、民主党が改称した民進党は第48回衆議院議員総選挙に向けて小池百合子代表率いる希望の党との合流方針を決定したが、今度は小池がリベラル派の議員を受け入れないとする「排除の論理」を主張し、反発した旧社会党グループに所属する議員の多くは枝野幸男率いる立憲民主党に参加した。旧総評系労組の組織内議員の大半が参加したことや党職員も社会党系が多いことから立憲民主党が日本社会党の系譜を継ぐ政党であるという見方もある。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "この総選挙後時点で社会党所属経験のある国会議員は6人(衆院5人、参院1人)であった。衆院では佐々木隆博(社会党時代は北海道議)、赤松広隆および横光克彦の3人は立憲民主党、吉川元(社会党時代は党員として社青同勤務)は社会民主党、谷畑孝は日本維新の会に所属しており、参院では鉢呂吉雄が立憲民主党に所属していた。このうち、社会党での国会議員経験があるのは赤松、横光、谷畑、鉢呂の4名であったが、谷畑は2020年4月に辞職した。2019年12月には立憲民主党が社民党などに対し合流を打診し、55年体制の一翼を担った老舗政党がその歴史に幕を下ろすのかが注目されたが、最終的に合流賛成派と合流反対派で党が分裂することとなり、反対派の残留により社民党も存続することとなった。この過程で、吉川が社民党を離党し立憲民主党へ入党したことにより、社会党所属経験のある現職国会議員は全員が立憲民主党所属となっている。その後、2021年の総選挙で佐々木と赤松は引退、横光は落選して、社会党での国会議員経験がある現職議員は鉢呂ただ一人のみとなった。その鉢呂も、2022年の参院選には立候補しなかったたため、国会議員として社会党所属歴がある現職の議員は姿を消した。", "title": "党史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "日本社会党に関する主な批評、批判には以下がある。", "title": "批評、批判" } ]
日本社会党は、かつて存在した日本の政党。社会主義を掲げる革新政党である。 略称は社会党、社会。新聞やメディアでは民社党と混同しないよう社党と記される場合もある。 1945年に新生日本を社会主義によって切り開いていくべく、第二次世界大戦中に身を潜めていた社会大衆党を中心とする戦前の無産政党や労働運動関係者、社会運動家らが安部磯雄らに呼応して結集し結成された。1960年に党内の右派が離党し、民主社会党(のちの民社党)を結成。本党は1996年に社会民主党に改名した。 全日本自治団体労働組合(自治労)、日本教職員組合(日教組)等の官公庁労働組合(官公労)を中心とした日本労働組合総評議会(総評)が最大の支持基盤だった。これらの支持基盤は、2022年現在も立憲民主党を中心に、社会民主党や新社会党にも引き継がれている。
{{otheruses|第二次世界大戦後の政党|明治時代の政党|日本社会党 (1906)}} {{政党 |国名 = {{JPN}} |党名 = 日本社会党 |公用語名 = {{Lang|en|Japan Socialist Party}} |色相 = {{Japan Socialist Party/meta/color}} |ロゴ = [[File:日本社会党ロゴ.svg|170px]] |画像 = |画像サイズ = 240px |画像説明 = <small>1945年11月2日に行われた結成式</small> |成立年月日 = 1945年11月2日<ref name="政治年鑑">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1438969/87 議会政治研究会編『政党年鑑 昭和22年版』ニュース社、1947年、pp.157-187.]</ref><ref>[[宇野俊一]]ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 [[講談社]]、1991年、1084頁。ISBN 4-06-203994-X。</ref> |前身政党 = [[社会大衆党]]など<ref name="seisen">[https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%9A-110180#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 精選版 日本国語大辞典 - にっぽん‐しゃかいとう ‥シャクヮイタウ【日本社会党】]. [[コトバンク]]. 2019年4月6日閲覧。</ref> |解散年月日 = 1996年1月19日<ref name="britannica">[https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%9A-110180#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 日本社会党]. [[コトバンク]]. 2019年4月6日閲覧。</ref> |解散理由 = [[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]への党名変更<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A-181170#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 精選版 日本国語大辞典 - しゃかいみんしゅ‐とう シャクヮイタウ【社会民主党】]. [[コトバンク]]. 2019年2月27日閲覧。</ref> |後継政党 = [[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]<sup>※</sup><br />[[民主党 (日本 1996-1998)|民主党]](一部)<br />[[新社会党]](一部) |郵便番号 = 100-0014 |本部所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[永田町]]1丁目8番1号 社会文化会館<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%96%87%E5%8C%96%E4%BC%9A%E9%A4%A8-190564#E7.9F.A5.E6.81.B5.E8.94.B5mini 知恵蔵mini - 社会文化会館]. [[コトバンク]]. (2013年1月29日) 2019年4月6日閲覧。</ref><br><small>{{coord|35|40|45.3|N|139|44|43.1|E|region:JP|display=inline}}</small> |政治的思想・立場= {{Nowrap|[[左翼|左派]]<ref name="britannica.com">{{Cite web |url=https://www.britannica.com/topic/Social-Democratic-Party-of-Japan |title=Social Democratic Party of Japan &#124; political party, Japan |accessdate=2020-11-24 |author=The Editors of Encyclopaedia Britannica |website=Encyclopædia Britannica Online |work=ブリタニカ百科事典 |publisher=[[:en:Encyclopædia Britannica, Inc.|Encyclopædia Britannica, Inc.]] |quote=Social Democratic Party of Japan (SDPJ), formerly Japan Socialist Party, Japanese Nihon (or Nippon) Shakaitō, '''leftist party''' in Japan that supports an evolving socialized economy and a '''neutralist''' foreign policy. |language=en }}</ref><br/>[[革新]]<ref name="nipponica" /><br />[[社会主義]]<ref name="政治年鑑"/><ref name="zenshi1088">[[宇野俊一]]ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 [[講談社]]、1991年、1088頁。ISBN 4-06-203994-X。</ref><ref name="daijirin">[https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%9A-110180#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 大辞林 第三版 - にほんしゃかいとう【日本社会党】]. [[コトバンク]]. 2019年4月6日閲覧。</ref><ref name="digi">[https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%9A-110180#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 デジタル大辞泉 - にっぽん‐しゃかいとう〔‐シヤクワイタウ〕【日本社会党】]. [[コトバンク]]. 2019年4月6日閲覧。</ref><br />[[社会民主主義]]<ref name="政治年鑑"/><ref name="seisen"/><ref>田口富久治. [https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%9A-110180#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ) - 日本社会党]. コトバンク. 2018年12月31日閲覧。</ref><ref name="hyakka">[https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%9A-110180#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 百科事典マイペディア - 日本社会党【にほんしゃかいとう】]. コトバンク. 2018年12月31日閲覧。</ref>{{small|([[社会党右派|右派]])}}<br />[[労農派]][[マルクス主義]]<ref name="britannica"/>{{small|([[社会党左派|左派]])}}<br />[[護憲]]・[[平和主義]]<ref name="britannica"/><ref>田口富久治. [https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%9A-110180#第二期 日本大百科全書(ニッポニカ) - 日本社会党 #第二期]. [[コトバンク]]. 2019年4月6日閲覧。</ref><br>[[非武装中立]]<ref name="britannica"/><ref name="yougoshu">政治・経済教育研究会 編 『政治・経済用語集 第2版』 [[山川出版社]]、2019年、76頁。ISBN 978-4-634-05113-3</ref>・[[中立主義]]<ref name="britannica.com"/><br />[[民主主義|民主]][[リベラル]]<ref name="britannica"/>{{#tag:ref|[[村山内閣]]以降の路線<ref name="britannica"/>。|group="注"}}<br>[[民主社会主義]]<ref>{{Cite web|和書|author=安世舟 |authorlink=安世舟 |url=https://kotobank.jp/word/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9-140065#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 |title=民主社会主義とは § 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 |accessdate=2020-11-12 |website=[[コトバンク]] |work=[[小学館]]『日本大百科全書』 |publisher=[[朝日新聞社]] |quote=日本では民主社会主義を標榜する政党は民社党であったが、同党が1994年(平成6)に解党して以降は、末期の日本社会党や96年に発足した社会民主党にその傾向がみられる程度である。 |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200622084644/https://kotobank.jp/word/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9-140065#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 |archivedate=2020-06-22 }}</ref>}} |機関紙=『[[社会新報]]』<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%96%B0%E5%A0%B1-75618#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 社会新報]. [[コトバンク]]. 2019年4月6日閲覧。</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%96%B0%E5%A0%B1-75618#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 デジタル大辞泉 - しゃかいしんぽう〔シヤクワイシンポウ〕【社会新報】]. [[コトバンク]]. 2019年4月6日閲覧。</ref> |国際組織=[[社会主義インターナショナル]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB-75597#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 社会主義インターナショナル]. [[コトバンク]]. 2019年4月6日閲覧。</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB-75597#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 社会主義インターナショナル【しゃかいしゅぎインターナショナル】]. [[コトバンク]]. 2019年4月6日閲覧。</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB-75597#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 世界大百科事典 第2版 - しゃかいしゅぎインターナショナル【社会主義インターナショナル Socialist International】]. [[コトバンク]]. 2019年4月6日閲覧。</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB-75597#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 大辞林 第三版 - しゃかいしゅぎインターナショナル【社会主義インターナショナル】]. [[コトバンク]]. 2019年4月6日閲覧。</ref><ref>加藤哲郎. [https://kotobank.jp/word/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB-75597#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ) - 社会主義インターナショナル]. [[コトバンク]]. 2019年4月6日閲覧。</ref> | 党旗 = [[File:Flag of the Japan Socialist Party.svg|160px|党旗]] |法人番号=3010005002277 |その他=※ [[デ・ジュリ|法規上]]は同一政党 }} {{社会民主主義}} {{社会主義}} '''日本社会党'''(にっぽんしゃかいとう、にほんしゃかいとう{{refnest|group="注"|正しい読み方は「'''にっぽん'''しゃかいとう」(『大辞林』)。広辞苑では「にほん」を見出しに取っているが、同辞書で「日本」を引くと、「''本辞典においては、特にニッポンとよみならわしている場合以外はニホンとよませることにした。''」と書いてあり、実態に即した読みにしたことがわかる。なお、点訳における表記は「'''ニッポン'''□シャカイトー」としている。<ref>『点字表記辞典』改訂新版 第5版第4刷、博文館新社</ref>}}、{{lang-en|The Social Democratic Party of Japan}}<ref name="政治年鑑"/>、{{lang|en|Japan Socialist Party}}<ref>[https://www.britannica.com/topic/Social-Democratic-Party-of-Japan Social Democratic Party of Japan political party, Japan]. {{en icon}} [[Encyclopædia Britannica|Britannica.com]]. 2019年4月6日閲覧。</ref>、略称: '''JSP''')は、かつて存在した[[日本]]の[[政党]]。[[社会主義]]を掲げる<ref name="政治年鑑"/><ref name="zenshi1088">[[宇野俊一]]ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 [[講談社]]、1991年、1088頁。ISBN 4-06-203994-X。</ref><ref name="daijirin">[https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%9A-110180#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 大辞林 第三版 - にほんしゃかいとう【日本社会党】]. [[コトバンク]]. 2019年4月6日閲覧。</ref><ref name="digi">[https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%9A-110180#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 デジタル大辞泉 - にっぽん‐しゃかいとう〔‐シヤクワイタウ〕【日本社会党】]. [[コトバンク]]. 2019年4月6日閲覧。</ref>[[革新政党]]である<ref name="nipponica">[https://kotobank.jp/word/%E9%9D%A9%E6%96%B0%E6%94%BF%E5%85%9A-460397#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ) - 革新政党]. [[コトバンク]]. 2019年4月6日閲覧。</ref>。 略称は'''社会党'''<ref name="yougoshu"/>、'''社会'''。新聞やメディアでは[[民社党]]と混同しないよう'''社党'''と記される場合もある。 1945年に[[戦後|新生日本]]を[[社会主義]]によって切り開いていくべく<ref name="zenshi1088"/>、[[第二次世界大戦]]中に身を潜めていた[[社会大衆党]]を中心とする戦前の[[無産政党]]や[[労働運動]]関係者、社会運動家らが[[安部磯雄]]らに呼応して結集し結成された<ref name="seisen"/><ref name="britannica"/><ref name="zenshi1088"/><ref name="daijirin"/><ref name="digi"/><ref name="hyakka"/>。[[1960年]]に党内の[[社会党右派|右派]]が離党し、[[民社党|民主社会党(のちの民社党)]]を結成。本党は1996年に[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]に改名した。 [[全日本自治団体労働組合]](自治労)、[[日本教職員組合]](日教組)等の官公庁労働組合(官公労)を中心とした[[日本労働組合総評議会]](総評)が最大の支持基盤だった。これらの支持基盤は、2022年現在も[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]を中心に<ref>{{Cite news|url= https://www.sankei.com/article/20210702-II77BUUKOVN3FCCSV64LUVQ4UI/ |title= 自民、引退議員続出で〝空白苦〟に 立民も重鎮らが引退 |newspaper= 産経新聞 |date= 2021-07-02 }}</ref>、社会民主党や[[新社会党]]にも引き継がれている。 == 党史 == === 結党から片山内閣へ === 1945年11月2日、[[第二次世界大戦]]前の非[[日本共産党|共産党]]系の合法社会主義勢力が大同団結する形で結成された。[[右翼|右派]]の[[社会民衆党]](社民)系、中間派の[[日本労農党]](日労)系、[[左翼|左派]]の[[日本無産党]](日無)系などが合同したもので、右派、中間派は'''[[民主社会主義]]'''的な社会主義観を、左派は'''[[労農派]][[マルクス主義]]'''的な社会主義観をもち、後に分裂して民主社会党(後の民社党)を結成していく右派は[[反共主義]]でもあった。日労系の中心的メンバーは、[[戦前]]、社会主義運動の行き詰まりを打開するために、[[天皇]]を中心とした社会主義の実現を求めて軍部に積極的に協力し、[[護国同志会]]出身者を中心に、[[大政翼賛会]]への合流を推進した議員が多かった。一方、左派は[[天皇制]]打倒を目指そうとした者が多かった。なお最初の結党の動きは、終戦の翌日に[[西尾末広]](後の民社党初代委員長)と[[水谷長三郎]]が上京に向けて動き出すところから始まり、旧社会民衆党の議員が中心となって動き出した。 結党当初、党名は「日本社会党」か「社会民主党」かで議論となり、日本語名を「日本社会党」、英語名称を「Social Democratic Party of Japan」(SDPJ、直訳は日本社会民主党)とすることで決着した。後に左派が主導権を握るにつれ次第に「Japanese Socialist Party」(JSP、直訳は日本社会党)の英語名称が使われるようになった。その後再び右派の発言力が強くなり社会民主主義が党の路線となると、SDPJの略称が再確認された。 このように社民系、日労系、日無系の3派の対立を戦前から引きずり、たびたび派閥対立を起こした。社会党結成に加わった左派の[[荒畑寒村]]は後に「社会主義とはまるで縁のない分子と、情実と、便宜のために作られたに過ぎなかった」と評しており、事実として結成懇談会では社会主義について全く触れられてはいなかった<ref>『日本政党史』 武田知己・季武嘉也 180頁 2011年 吉川弘文館</ref>。ただこの派閥対立は後述するように1959年の右派(後の民社党)離脱と[[ベトナムに平和を!市民連合|ベ平連]]運動後は[[自衛隊]]と[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保]]への賛否の対立はなくなっていくこととなり、この2つには反対で一致して行き、[[マルクス・レーニン主義]]か社会民主主義かを巡るものに収斂していった。 なお、日労系は[[戦争]]に協力したとして、指導者の多くが[[公職追放]]され、結党当初は影響力を持つことが出来なかった。革新華族として知られた[[徳川義親]][[侯爵]]など名望家を担ぐ思惑から、当初は[[日本社会党委員長|委員長]]は空席とされ、初代の[[書記長]]に[[片山哲]]が就任した(後に委員長に就任)。 [[ポツダム宣言]]受諾により、[[大日本帝国憲法]]の改正が必要になると、各党から改憲案が出され、社会党も1946年2月23日「'''社會黨 憲法改正要綱'''」を発表した<ref>[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/084/084tx.html 社会黨 憲法改正要綱(テキスト)] 本文には2月24日発表とあるが、実際は1日前。</ref>。民間の[[憲法研究会]]案の作成にも加わった[[高野岩三郎]]、[[森戸辰男]]等が起草委員となったが、3派の妥協の産物といえる内容だった。社会主義経済の断行を宣言する一方、天皇制を存置する代わりに実権を内閣と議会に移す、[[国民]]の[[生存権]]を保証し、労働を義務とするなど、社会主義を別にすれば、実際にできた[[日本国憲法|新憲法]]にかなり近い内容であった<ref group="注">なお、高野が個人的に作成した「日本共和国憲法私案要綱」では天皇制廃止と[[大統領制]]導入を盛り込んでいた。</ref>。また、新憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の規定および、27条で「休息」に言及したのは、[[帝国議会]]の審議で社会党の主張が反映された修正という<ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi090.pdf/$File/shukenshi090.pdf 衆憲資第90号「日本国憲法の制定過程」に関する資料] - 衆議院[[憲法審査会]]</ref>。社会党案の独自性としては、[[計画経済|社会主義経済]]を明記してあるほか、[[国民投票]]による[[衆議院解散]]、[[内閣総辞職]]を可能にし、[[直接民主主義|直接民主制]]の要素を強めていること、[[通年国会|議会を通年]]とすること、[[死刑存廃問題|死刑廃止]]を明記したことなどが挙げられる。 新憲法下最初の[[衆議院議員総選挙|総選挙]]である1947年[[第23回衆議院議員総選挙|第23回総選挙]]で比較第1党となり、その結果[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]・[[国民協同党]]との3党[[連立政権|連立内閣]]である'''[[片山内閣]]'''が成立したが、右派の重鎮であった[[平野力三]][[農林水産大臣|農相]]の公職追放を巡って右派の一部が[[社会革新党]]を結成して脱党したり、党内左派が公然と内閣の施政方針を批判したり党内対立はやまず、このため翌1948年に片山内閣は瓦解した。 西尾末広[[内閣官房長官]]は左派の入閣を認めず、左派は事実上の党内[[野党]]となっていた。それに続く[[芦田内閣]]でも社会党は[[与党]]となり、左派の一部も入閣したが、最左派の[[黒田寿男]]ら6人が予算案に反対して除名されるなど、最右派と最左派を切り捨てる結果になった。[[昭和電工事件]]で芦田や西尾副総理が[[逮捕]]されると下野に追い込まれた。12月3日、除名された黒田らは[[労働者農民党#歴史|労働者農民党]]を結成。1949年1月の[[第24回衆議院議員総選挙|第24回総選挙]]では、48名に激減して委員長の片山も落選した。 総選挙敗北後の第4回大会で、[[国民政党]]か[[階級政党]]かをめぐって森戸辰男と[[稲村順三]]との間でおこなわれた[[森戸・稲村論争]]は、その後の左右対立の原型となった。なおこの時には、社会党の性格は「'''[[階級的大衆政党]]'''」と定義されて、決着した。1949年8月には、さらに左派から足立梅市らが除名され、[[社会党再建全国連絡会|社会党再建派]]を組織した。 === 左右の分裂と総評、社会主義協会の結成 === {{see also|日本社会党の派閥}} [[1950年]](昭和25年)1月16日、社会党左派と社会党右派の対立激化で一旦分裂する。この時には75日後の4月3日の党大会にて統一し、対立は収まったに見えたが、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]への賛否を巡って再び左右両派が対立し、[[1951年]](昭和26年)10月24日再分裂する。左右両派が対立するなか、1950年(昭和25年)に[[日本労働組合総評議会]](総評)が結成される([[武藤武雄]]議長、[[島上善五郎]]事務局長)。総評は[[労働組合]]から日本共産党の影響を排除しようとする[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の肝いりで結成された。 しかし、国内で[[再軍備]]論争が過熱するようになると、総評内では再軍備反対派が台頭し、第二回大会では「平和四原則」([[日本国との平和条約#単独講和と全面講和論|全面講和]]・[[中立#国際政治上の中立|中立]]堅持・[[軍事基地]]反対・再軍備反対)が決定された。第二代事務局長の[[高野実]]も[[反米]]・反政府の姿勢を強めた。1951年(昭和26年)には[[山川均]]・[[大内兵衛]]・[[向坂逸郎]]など戦前の[[労農派]]マルクス主義の活動家が中心となって'''[[社会主義協会]]'''が結成されるなど、その後社会党を支える組織的、理論的背景がこの頃に形成されていった。この[[西ヨーロッパ|西欧]][[社会民主主義]]と異なる日本社会党の性格を、[[日本型社会民主主義]]と呼ぶ見解もある。 1951年(昭和26年)、分裂直前に委員長に就任した[[鈴木茂三郎]]は「'''青年よ再び銃をとるな'''」と委員長就任[[演説]]で訴え、'''[[非武装中立]]'''論を唱えた。この考え方は厭戦感情の強かった当時の若者などにアピールして、分裂以後も非武装中立論を唱えた左派社会党は党勢を伸ばした。左派社会党躍進の背景には、総評の支援もあった。一方、右派社会党は再軍備に積極的な西尾末広と消極的な[[河上丈太郎]]の対立もあって、再軍備に対して明確な姿勢を打ち出すことが出来ず、さらに労組の支援も十分にうけられなかったために伸び悩んだ。こうして、左派優位の体制が確立した。この間、1952年(昭和27年)には、社会革新党の後身である[[協同党]]が右派に合流している。 左派社会党は[[1954年]](昭和29年)に、向坂逸郎らが作成に関与し[[共産主義革命|社会主義革命]]を明記した綱領([[左社綱領]])を決定した。作成の過程で[[清水慎三]]から民族独立闘争を重視した「清水私案」が提出されたが、綱領委員会で討議の結果否決された。左社綱領は、労農派マルクス主義の主張が体系的に述べられたものであったが、左右社会党が'''再統一'''を果たすと、折衷的な内容の綱領である「統一社会党綱領」がつくられた。 社会党、特に左派は再軍備反対と共に、'''[[護憲]]'''を[[マニフェスト|公約]]に掲げるようになった。[[1955年]](昭和30年)の[[第27回衆議院議員総選挙|第27回総選挙]]では、左右社会党と労農、共産の4党で、改憲に必要な2/3議席獲得を阻止する1/3の議席を確保したため注目された。 日本国憲法は社会党案に近い内容で、そのため制定当初から社会党は好意的であった。しかし、左派には社会主義憲法の制定、[[天皇制廃止論|天皇制廃止]]を求める意見があり、一方の右派には再軍備賛成など、いずれも改憲が必要となる意見が存在した。そのため、左派は護憲派と名乗りながら実際の憲法の内容を必ずしも支持せず、逆に右派で後に分裂して民社党を結党していく勢力は、次第に明文・解釈改憲<ref>{{Cite web|和書|author=[[デジタル大辞泉]]、[[百科事典マイペディア]]、[[大辞林]] 第三版ほか |date=2019 |url=https://kotobank.jp/word/%E8%A7%A3%E9%87%88%E6%94%B9%E6%86%B2-688238 |title=解釈改憲 |website=[[コトバンク]] |publisher=[[朝日新聞社]]・[[VOYAGE GROUP]] |accessdate=2019-10-19}}</ref> に傾いていった''。 === 再統一と60年安保闘争・三池争議 === [[File:Twenty-Years-After-the-War-1.png|thumb|210px|1955年10月13日、左右両派は党大会を開き、[[社会党再統一]]を果たした。]] 1955年10月13日、左右両派は[[共立女子大学#共立講堂|神田共立講堂]]で党大会を開き'''[[社会党再統一]]'''を果たした(鈴木茂三郎委員長・[[浅沼稲次郎]]書記長)<ref>{{Cite web|和書| author=神沢和敬、横山翼 | url=https://www.asahi.com/articles/ASQ6K74FSQ69UTFK00C.html | title=政権交代、他弱…与野党区別できない時代に? 戦後政治、野党の歩み | publisher=朝日新聞 | date=2022-6-19 | accessdate=2023-10-22 }}</ref>。1950年代の躍進により、再統一時の社会党の衆議院での議席は156にまで拡大した。同年11月には[[保守合同]]で[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]が結成され、両党を合わせて'''[[55年体制]]'''とも呼ばれるようになった。 当時は[[二大政党制]]を理想とする考え方が強く、社会党自身も政権獲得は間近いと考えていた。1956年3月には、[[最高裁判所機構改革]]に並行し、違憲裁判手続法の法案を衆議院法務委員会へ提出した<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102405206X01619560312 1956年3月12日衆議院議事録第16号] - 国会議事録検索システム。[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=103115261X00919590312 なお、1959年3月12日参議院議事録第9号] によれば、当時の首相[[岸信介]]は、「単純な違憲を理由として出訴できるかどうか、その手続問題については議論があるようであり、改正されるべき節があると思われる」という旨を答弁しているが、法案は成立に至らなかった。</ref>。また、7月の[[第4回参議院議員通常選挙|第4回参議院選挙]]では、自民61議席に対し、社会49議席と健闘した。そのため、社会党の総選挙にかける期待は大きかった。 1957年1月には[[労働者農民党]]が合流し、ようやく社会党勢力の分裂は完全に解消された。この時点で衆議院160議席となっていた。 しかし、1958年の[[第28回衆議院議員総選挙|第28回総選挙]]では社会166、自民287と保守の議席に迫ることができなかった。得票数は伸びたが、保守合同で候補者の乱立を抑えた自民の前に伸び悩んだのである。ただし、後から見れば社会党にとっては最高記録であり、また唯一 1/3 を超す議席を獲得した選挙だった。 1959年[[第5回参議院議員通常選挙|第5回参議院選挙]]では東京選挙区で公認候補が全滅するなど党勢が伸び悩んだ。最右派の西尾末広は、[[階級政党]]論、[[容共]]、親[[中華人民共和国|中]][[ソビエト連邦|ソ]]路線が敗因と批判した。さらに、安保改定に反対するなら安保条約に代わる安全保障政策を明確にすること、安保改定阻止国民会議の主導権を総評から社会党に移し、国民会議から共産党を追放するよう要求した。逆に、総評の[[太田薫]]と[[岩井章]]は、共産党との共闘([[社共共闘]])を原則にするよう主張し、両者は真っ向から対立した。 これ以前の1956年、総評に批判的な右派労組が[[全日本労働組合会議]](全労会議)を結成し、[[三井三池争議]]では会社側と協調する動きを見せるなどした(第二組合、左派から見た[[御用組合]])。全労会議と密接な関係を持っていた西尾末広派と河上丈太郎派の一部は、1959年に相次いで脱党し翌年民主社会党(後の'''民社党''')を結成する。 当時、日米安全保障条約の改定が迫りつつあり、社会党は安保条約の廃棄を争点に[[政権]]獲得を狙った。[[福岡県]][[大牟田市]]の'''三井三池争議'''も泥沼化し、この三池争議と'''[[安保闘争]]'''を社会党は全精力を傾けて戦うことになる。このなかから、社会党青年部を基礎に社青同([[日本社会主義青年同盟]])が1960年に結成された。三池争議も労働側に著しく不利な中労委の斡旋案が出されるに至り敗北が決定的となり、新安保条約も結局自然成立してしまった。 === 構造改革論争と「道」の策定 === 民社党が分裂したものの野党第1党の地位を維持しながら、[[保守政党|保守勢力]]に対する[[革新政党|革新勢力]]の中心として存続した。'''[[浅沼稲次郎暗殺事件|浅沼稲次郎委員長刺殺事件]]'''直後の1960年[[第29回衆議院議員総選挙|第29回総選挙]]では、145議席を獲得。民社党参加者の分を18議席奪い返したが、民社との潰し合いもあり、自民は296議席と逆に議席を増やした。 1958年総選挙直後から、党内では党組織の改革運動が始まり、中心人物の[[江田三郎]]は、若手活動家の支持によって指導者の地位を確立した。江田は安保闘争と三池争議挫折の反省から、漸進的な改革の積み重ねによって社会主義を実現しようという[[構造改革|構造改革論]]を提唱するが、江田の台頭に警戒心を抱いた[[佐々木更三]]との派閥対立を激化させる結果に終わった。また、佐々木と手を結んだ社会主義協会の発言力も上昇した。党の「大衆化」の掛け声とは裏腹に、指導者たちは派閥抗争に明け暮れ、社会党は専ら総評の組織力に依存する体質に陥った。1964年には、社会主義協会の影響が強い綱領的文書「'''[[日本における社会主義への道]]'''」(通称「道」)が決定され、事実上の綱領となった。「道」は1966年の補訂で、事実上[[プロレタリア独裁]]を肯定する表現が盛り込まれた。 社会党は社会民主主義政党による社会主義インターナショナルに加盟していたが(民社党も分裂後に別個に加盟)、社民主義については、[[資本主義]]体制を認めた上の「[[社会改良主義|改良主義]]」に過ぎないと、左派を中心に非常に敵視した。左派は、現体制の改良ではなく資本主義体制そのものを打倒する[[革命]]を志向し、社民主義への転換は資本主義への敗北だと受け止めたのである。民社党の離反による左派勢力増大もあり、党内右派も積極的に社民主義を主張できなくなった。その結果、社会主義インター加盟政党でありながら、ソ連・中国や[[東ヨーロッパ|東欧]]諸国など東側の共産主義陣営に親近感を示す特異な綱領をもつ政党となった。この間、社会党幹部はソ連や中国に友好訪問を繰り返す一方、アメリカについては、1957年に訪米団を派遣してから、18年間も訪米団が派遣されないなど疎遠な関係が続き、共産主義の[[東側諸国]]に傾斜した外交政策がとられた。なお、社会主義インターは日本社会党が反対する米国の「[[ベトナム戦争]]」を支持したため、社会党はしばらくの間、会費を滞納していたという。しかし退会はしなかった。 この時期、日本共産党が[[日本共産党第6回全国協議会|第6回全国協議会]](六全協)を開催し、混乱要因であった[[武装闘争]]路線を放棄し、ソ連・中国と決別し[[自主独立路線]]を採用した。日本共産党は日本社会のマイノリティーとも一線を引くことになり、[[部落解放同盟]]や[[在日本朝鮮人総聯合会|朝鮮総連]]は日本共産党と距離をおき、日本社会党との距離を縮めていくことになる。 党内の派閥対立は、民社党として右派が離脱後は安全保障(自衛隊、日米安保を認めるか)を巡るものはほぼ解消され、マルクス・レーニン主義路線の是非を問うものに変わっていった。 === 党勢の停滞 === この間、1963年の[[第30回衆議院議員総選挙|第30回総選挙]]では前回比1議席減の144議席、1967年[[第31回衆議院議員総選挙|第31回総選挙]]では同4議席減の140議席と、予想に反して社会党の党勢は停滞・微減した。[[高度経済成長]]の中、人口の農村から都市への移動は続いており、労働組合を支持基盤とする社会党の議席は本来増加するはずであった。社会党自身も、この時期は政権獲得に必要な過半数の候補者を擁立しなかったものの、後年の長期低落にみられるような候補者数の絞り込みはしていなかった。 社会党議員団の中に、労組への過剰依存に対する懸念がなかったわけではない。1964年には、[[成田知巳|成田]][[書記長]]によって、「日常活動の不足、議員党的体質、労組依存」が社会党の弱点として指摘されている<ref name="戦後">『戦後日本政治史-占領期から「ネオ55年体制」まで』p82、境家史郎著、[[中公新書]]</ref>。いわゆる「成田三原則」と呼ばれるものであり、停滞克服の一定の努力はした。要するに大衆的基盤の欠如が問題視されたのであるが、この点は以後も結局改善されず<ref name="戦後" />、また成田が指摘した三原則の克服は、党官僚の跳梁跋扈や、党活動家の左傾化、議員や議員後援会から党が遊離することなど、後に江田離党問題に浮上するような、世間から社会党が遊離する原因ともなった。更に社会党は、社会変化に適応した政策策定の不十分さと内部の派閥抗争により、結果的に有効な対策を打ち出せなかった。これについて、[[石川真澄]]は、新たな都市流入人口は、相当部分が「常時棄権層」に回る一方、一部は[[公明党]]や日本共産党など、地域の世話役活動に熱心な政党に吸引され社会党には流入せず、社会党の支持層は、旧支持層の加齢に並行して高齢化していき、都市部では次第に多党化現象が顕著になっていったと指摘している。また、[[田中善一郎]]などは、この時期の自民党の候補者減と野党の候補者増で、結果的に野党票が増えたと分析している。これらの指摘は、都市部で社会党支持者が離れたとの分析という点で共通している。 === 低落を決定づけた1969年の総選挙 === 1969年の[[第32回衆議院議員総選挙|第32回総選挙]]では候補者を26人も絞ったが、140から90へと大きく議席を減らす。特に都市部での落ち込みは決定的で、東京都では13から2議席に激減した<ref group="注">この後、東京で二桁議席を得たのは1990年の[[第39回衆議院議員総選挙|第39回総選挙]]で12議席を得た時だけである。</ref>。この原因について石川真澄は、選挙の投票率が前回から大きく下落し、その下落幅が社会党候補の絶対得票率の下落にほぼ等しいこと、新聞各紙による社会党候補者の当選者数の予想の失敗(朝日新聞はこの選挙での社会党の当選者数を118名前後と予想していた)から、前回選挙までは社会党に投票していた旧来の支持層の多くが棄権し、投票所に行けば社会党候補に投票するはずであった有権者の相当部分が実際には投票所に行かなかったため、社会党候補の得票数が減少し、その結果として各選挙区で当落線上にあった社会党候補の大部分が落選したためであるとの見解を示している。そして、この時に社会党にとって特に不利になるような社会構造の変化が突然起こったわけではない以上、当時の政治的な問題が原因だとしか考えられず、その原因として考えられるのは、この時期に起きた社会主義に幻滅を与える数々の事件([[日本の新左翼|新左翼]]による暴力的な全国[[学生闘争]]/70年安保闘争やそれに伴う内部暴力抗争=内ゲバ)、中華人民共和国の[[文化大革命]]の混乱、[[チェコスロバキア]]へのソ連率いる[[ワルシャワ条約機構]]軍の侵攻([[チェコ事件]])などについて、社会党がはっきりと批判的な態度を取らず曖昧な態度に終始していたこと、文革やソ連の侵攻について党内には理解を示す動きすらあったことではないかと推測している。また、この時から各種世論調査で「支持政党なし」層が急増することにも注目し、社会党を支持していた層のうち、69年総選挙で一旦棄権した後、社会党支持には戻らず「支持政党なし」に移行した有権者が多数存在していたのではないかとも述べている。 しかし、自主独立路線を確立しソ連や中国への批判姿勢を強めた日本共産党は、この時期から議席が拡大傾向を示すようになり、社会党の側からも脅威と見られるようになった(これが社共共闘が壊れた理由の一つでもある)。また[[新左翼]]に対する若年層の支持はそれなりにあったし、中華人民共和国の文化大革命の実態はこの時点ではほとんど知られておらず、「ベトナム戦争はアメリカ帝国主義の不正義性と[[アジア]]各国の非ソ連型社会主義の優越性を示すもの」として、社会主義への期待は一部に残っていた。 社会党の財政は弱体で、所属議員数に応じて[[院内会派|会派]]に支給される[[立法事務費]]を党財政の足しにしていた<ref group="注">現在の社会民主党も、立法事務費に加え、[[政党交付金]]に頼る部分が大きい。[[国会における各会派に対する立法事務費の交付に関する法律]]も参照。</ref>。そのため、50議席減による減収によって、 本部書記局員、機関紙局員の約1/3にあたる67人が整理(自主退職含む)されることとなった。指名解雇者の反発は大きく本部内部に多数の[[アジビラ]]が貼られたほか、外部には解雇を非難する立て看板も立てられる事態になった<ref>人員整理で内ゲバ 社党本部に造反ムード『朝日新聞』1970年(昭和45年)3月20日夕刊 3版 10面</ref>。また、人員整理は再就職の当てがある人材を対象としていたため、優秀な職員を手放すことになったことは痛手となった。 1972年の[[第33回衆議院議員総選挙|第33回総選挙]]では、[[成田知巳]]委員長、[[石橋政嗣]]書記長(成田-石橋体制)のもとで前回の90から118へ戻し、ある程度の議席を回復したものの、得票数では前回失った票数の約半分を取り戻すにとどまり、完全に議席を取り戻すまでには行かなかった。 === 都市部での退潮と万年野党化 === 55年体制の成立当初は、社会党は政権獲得を目指したが、地域などへの利益誘導を武器とする自民党の[[一党優位政党制|一党優位体制]]が長く続くなかで、これに対抗するための地域の世話役活動が衰弱し、公明党や共産党に支持基盤を奪われることとなった。さらには中選挙区制のもとで、個々の選挙区の獲得議席を安定化させるために候補者絞り込みを行ってきたため、社会党は議席の現状維持を容認し長期低落傾向を示すようになった。社会党は「万年野党」と呼ばれ、支持者にも自民党政権の永続を前提とする認識が広がり始めた。 特に都市部での凋落はひどかった。[[東京都議会]]ではその傾向がひどく、[[1969年東京都議会議員選挙]]で、公明党に抜かれ第3党となり、[[1973年東京都議会議員選挙]]では共産党にも追い抜かれ、第4党に転落した。その一方、地方では自民党と社会党で議席を分け合う構図はほとんど変わらなかった。(ただし、圧倒的に自民党の議席が多く、[[北海道]]など一定の[[三バン#地盤|地盤]]のある県を除き、2:1以上に議席の格差があった)後述する[[革新自治体]]を都市部に誕生させる実績は残したものの、全体として社会党は都市型政党から次第に農村型政党{{要出典|date=2012年8月}}に変貌していった。 === 革新自治体と社会主義協会派の台頭 === 1960年代後半から1970年代の社会党は日本共産党も含む'''全野党共闘'''路線をとり、自治体首長選挙では共産党と共闘し(社共共闘)、東京都、大阪府など各地で革新首長を誕生させた。[[四日市ぜんそく]]や[[川崎公害]]など昭和40年代に[[公害問題]]や[[福祉|社会福祉]]の充実など一定の成果を残したが、財政悪化を招いたとの批判がいわゆる「保守政党」からされることがある。 この時期には、社青同内の解放派(のちの[[革命的労働者協会(社会党社青同解放派)|革命的労働者協会]](革労協))など極左派が排除される一方、社会主義協会の影響力が組織的にも強まった。向坂逸郎を総帥とする当時の社会主義協会は、マルクス・レーニンの「古典」の解釈ドグマを絶対視し(安東仁兵衛は協会派のイデオロギーを、ベルンシュタインを修正主義と批判し、レーニン主義を極左主義と批判し、社会主義への移行を歴史の必然的法則であると主張するカウツキー主義=西欧における正統派マルクス主義に近いと評している)ソ連を社会主義の祖国と仰ぎ、チェコ事件でソ連の軍事介入を公然と支持するなど、社会党の党是である中立政策を逸脱する路線をとっていた。また組織的にも独自の綱領と地方組織をもち、所属議員はほとんど持たない一方で、社会党の地方組織の活動家や労働組合の専従活動家などの中心的党員を会員とし、党組織での影響力を強めていた。 === 協会規制と「新宣言」=== 1976年の[[第34回衆議院議員総選挙|第34回総選挙]]で初めて自民党が過半数割れ(ただし追加公認で過半数確保)すると、政権交代は現実のものとして論議に上った。しかし党の内紛は続き、[[江田三郎]]は1977年党大会で協会派が代議員の多数を制し、副委員長を解任されたことで社会党に絶望したと述べて離党し、'''社会市民連合'''(後の[[社会民主連合]])を結成した。経済問題に強い江田及び[[構造改革派]]の失脚により、護憲と[[国労]]の比重が増していくことになる<ref>北田 暁大/白井 聡/五野井 郁夫『リベラル再起動のために』 p.32</ref>。 江田離党と1977年参院選敗北が契機となり、成田委員長らは辞職し、協会規制がおこなわれ、社会主義協会の活動に一定の歯止めがかけられた。これ以降、総評の変化もあり1980年代以降の社会党は、[[飛鳥田一雄]]委員長、[[平林剛]]書記長の指導の下、日本共産党を除き、民社党や公明党などの[[中道政治|中道政党]]と[[連立政権]]を作ろうという構想('''[[社公民路線]]''')をとった。 1970年代後半からは議席数では与野党が伯仲したが、有権者の意識の上では、自民党政権はむしろ安定性を増していた。1980年の[[衆参同日選挙|衆参ダブル選挙]]([[第36回衆議院議員総選挙|第36回総選挙]]・[[第12回参議院議員通常選挙|第12回参議院選挙]])で自民党は大勝したが、1983年の[[第37回衆議院議員総選挙|第37回総選挙]]で再び与野党の議席は伯仲した。しかし社会党の議席は微増(107から112)にとどまった。公明・民社は表向き社公民路線を取りつつも、自民との政策協議を重視するようになった('''[[自公民路線]]''')。さらに労働界も、政府に対する政策要求の効果を高める目的で、[[全日本金属産業労働組合協議会|IMF-JC]]を中心に社会党支持労組の中からも政策協議路線を後押しする動きが強まり、自民党を中心に政策決定していくことを前提にした政党間関係を構築していくようになる。こうした動きは日本共産党から「国政も[[オール与党]]化」「[[大政翼賛会]]の二の舞」などとの批判が浴びせかけられる。一方では、1960年代から続く、自民党との国対政治が常態となっており、自公民+社の政策協議路線と、自社両党の国対政治が交差しながら、低落した党勢の中で最大限に政策実現を図ろうとしていた。 1985年、社会主義協会の指導者であった向坂逸郎が死去し、その前後から社会主義協会内も現実路線と原則路線との対立が始まった。1986年、激しい論争を経て、石橋政嗣委員長のもと、「道」は「歴史的文書」として棚上げされ、新しい綱領的文書である「'''[[日本社会党の新宣言]]'''」が決定された。これは従来の、[[平和革命]]による社会主義建設を否定し、[[自由主義]]経済を認め、党の性格も「階級的大衆政党」から「国民の党」に変更するなど、西欧社会民主主義政党の立場を確立したものである。ただし採決による決着を回避し社会主義協会派代議員を含めた全会一致の採択を実現するための妥協策として、旧路線を継承するとも取れる付帯決議を付加したため、路線転換は明確とはならなかった。 === 土井ブームの盛り上がりと凋落 === 「新宣言」決定後も退潮はとまらず、1986年[[夏]]の衆参ダブル選挙([[第38回衆議院議員総選挙|第38回総選挙]]・[[第14回参議院議員通常選挙|第14回参議院選挙]])は大敗(衆院で112から85)し、退任した石橋委員長の後継に[[土井たか子]]が就任、議会政党としては日本初の女性党首が誕生した。土井社会党は土井の個人人気と女性候補(「マドンナ」と呼ばれた)を積極的擁立など女性層を中心とする選挙戦術を展開し、[[消費税法|消費税]]導入や[[リクルート事件]]、農業政策に対する不満を吸収した「激サイティング!社会党」のキャッチコピーを掲げ、1989年の[[第15回参議院議員通常選挙|第15回参議院選挙]]では46議席を獲得。自民党は36議席しか獲得できず、[[民主改革連合|連合の会]]と共に、自民党を非改選を含めても過半数割れに追い込み、改選議席で自民党を上回った。土井の個人的人気による選挙結果のため、'''[[土井ブーム]]'''と呼ばれた。このとき土井は開票速報番組の中で、「山は動いた」という名言を残している。この時の候補者の多くが消費税撤廃を公約としたため、[[参議院]]において[[消費税廃止法案]]を提出・可決したが、[[衆議院]]において廃案になったため実現しなかった。 1990年の第39回総選挙でも60年代後半並みの136議席(公認漏れなどを含めると140)を回復し前進を示した。しかし、自民党は追加公認を含めて[[安定多数]]の286議席を獲得して底力を見せ、社会党がこの選挙で掲げていた[[政権交代]]の実現は頓挫した。つまり、社会党の議席増の相当部分は、自民党からでなく、他の野党から奪ったものであり、別の見方をすれば、この時期は日本社会党が西欧諸国の社民主義政党のように保守主義政党と政権交代を繰り返すような勢力となる、「[[保守政党]]と社民政党による二大政党制」へと発展できる最大の好機でもあった。 しかし、社会党にとって最大の好機にもかかわらず、この選挙で社会党は定数512に対し149人しか擁立できなかった。社会党内の激しい派閥抗争に加え、長年続いた各選挙区における消極策が今回もあらわれたのだった。それは社会党の体力が奪われていることを示していた。土井執行部は180人擁立を目標にしていたが、[[無所属]]候補や他党系無所属候補の推薦を含めても160人にとどまった。本来なら陣頭指揮をとるべき書記長の[[山口鶴男]]さえ、自分の選挙区での2人目の候補擁立を暗に妨害する始末だった<ref group="注">最終的には2人目として、連合から白石健一を無所属として擁立したが、落選している。</ref>。さらに、資金難も候補擁立の障害となった。土井によれば、落選した場合の生活保障ができなかったことを理由に、勧誘を断られるケースが多かったという<ref>土井たか子 『せいいっぱい 土井たか子半自伝』 [[朝日新聞社]] pp84,129</ref>。しかし、社会党内部では、政権奪取に失敗にもかかわらず議席数の回復への安堵感が強かったため、社会党は政権獲得の意志を持たない万年野党に満足する政党だとの批判を受けた。さらに、社会党の一人勝ちに、社会党と共闘路線をとっていた民社党・公明党の離反を招く結果となり、社会党の右派はこれを理由に「社会党の一人勝ち」を内部から非難さえした。 なお、この選挙で特筆すべきは公認候補だけで56人という空前の数の新人が誕生したことである。後述のように、この後社会党は政権参加を経ながらも、曲折の後に凋落の一途を辿り、中堅・若手議員の多くが民主党に参加する。社会党出身議員はその重要な母体となるが、中でも90年初当選組は大きな役割を担い、やがて2009年に実現する民主党政権でも、政権中枢の要職に就くことになる(この選挙での初当選議員として、[[仙谷由人]]、[[松本龍 (政治家)|松本龍]]、[[岡崎トミ子]]、[[赤松広隆]]、[[細川律夫]]、[[輿石東]]、[[大畠章宏]]、[[鉢呂吉雄]]らがいる。但し鉢呂は当選時無所属)。 いっぽう社会党の最大の支持基盤であった総評は[[槙枝元文]]議長、富塚三夫事務局長のもとで同盟、中立労連、新産別の労働4団体との「労働戦線統一」に向けて大きく舵をきり、1982年12月14日の[[全日本民間労働組合協議会|全民労協]]の結成から、官公労も合流して1989年11月21日、'''日本労働組合総連合会'''(連合)の結成大会が開催された。これにともない総評は1989年11月に解散した。連合の初代会長には情報通信労連委員長・[[山岸章]]が選出された。これは総評の労使協調路線への転換によって、それまで対立してきた同盟との和解が可能になった{{要出典|date=2012年8月}}ことによって実現したものである。 1990年に発生した[[湾岸戦争#湾岸危機(開戦までの経緯)|湾岸危機]]で政治課題となった[[自衛隊ペルシャ湾派遣|自衛隊の派遣]]では、日本社会党は[[日本国憲法第9条|憲法9条]]堅持の立場から、「[[自衛隊海外派遣]]に反対」を主張し、民社党・公明党との関係は冷え込んだ。これと並行して民社党・公明党との協調を重視する連合など労組幹部などとの摩擦も強まり、土井執行部の求心力は急速に低下した。1991年の統一地方選挙で社会党は敗北、土井は責任を取って委員長を退いた。 なお、この年の[[1991年東京都知事選挙|東京都知事選]]では連合の山岸会長が公明党・民社党と共に[[磯村尚徳]]を担ぐよう社会党執行部に働きかけた。これは、山岸会長の持論である社公民路線の定着を狙ったものである。自民党の[[小沢一郎]]幹事長も磯村を自民党本部の候補として推薦した。社公民3党に小沢など自民党の一部が乗る形で実現した[[細川護熙]]内閣の構図はこのとき、既に出来ていたといえる。一方、社会党の独自性を強調する土井を中心とするグループは独自候補にこだわる一方で、なかなか候補者を決められず迷走した。土井を都知事候補に擁立し、土井人気を復活させようという動きも社会党の一部にあったが、土井が決断できず、水泡に帰した。社会党は選挙直前にようやく候補者([[大原光憲]])を決定したが、供託金没収点(法定得票数、全有効票の10%)にも満たない惨敗に終わった。 後任の委員長には、[[田邊誠]]と[[上田哲]]が立候補し、全党員投票による選挙となった。有力支持労組をバックにした田邊有利との観測が強かったが、湾岸危機による安全保障論議を背景に左傾化する党内世論のもと、護憲平和路線の維持を訴える上田が左派主体の一般党員に支持を広げ、田邊は労組からの集団入党者の票でようやく勝利した。この選挙結果は、田邊執行部に大きな足枷となり、後の党運営を縛るものとなった。 === 田邊執行部とPKO法案 === 後任の田邊誠委員長は、自民党の[[金丸信]]に近く、右派・水曜会のリーダーとして現実路線を期待された。しかしそのことがかえって党内活動家やそれらと連携する党外の平和運動活動家などの警戒的世論にさらされ、1992年の'''[[国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律|PKO法案]]'''の審議では[[牛歩戦術]]を連発するなど、強硬な対決姿勢を取った。社会党は[[国連平和維持活動|PKO]]を自衛隊とは別組織にすることを条件にPKO法案を受け入れようとし、自民・公明・民社(自公民)の3党は一度は[[文民]]による別組織を作ることで合意しており、PKO法案はすんなり成立するかに見えた。しかし、自民党の本心はあくまでも自衛隊によるPKOであった。そのため、民社党・公明党の同意を取り付けるとたちまち別組織案を反故にした(ただし民社党は、公明党を味方につけるため別組織案に合意したのであり、本心は自民党と同じであった)。このため、社会党はPKO法案そのものに反対な強硬派が主導権を握ったのである。 一方、民社党・公明党は自民党と共に[[内閣不信任決議#内閣信任決議|内閣信任決議]]を可決させるなど、実質的に与党となっていた(自公民路線)。社会党は全衆議院議員の辞職まで打ちだしたが、最終的には抵抗を諦めた。その直後、7月26日投開票の[[第16回参議院議員通常選挙|第16回参議院選挙]]は自民党の勝利に終わり、社会党・連合は大敗した。社会党執行部は、改選議席を確保できたことのみに着目してまずまずの結果と強弁し敗北を認めなかったが、結局、田邊執行部は退陣し、書記長の[[山花貞夫]]が後任の委員長となった。 === 金丸訪朝団 === 1990年9月26日、北朝鮮有数の景勝地、妙香山の招待所で自民党の金丸信、社会党の[[田邊誠|田辺誠]]、北朝鮮主席の[[金日成]](キム・イルソン)が顔を合わせた。訪朝は北朝鮮に拘束されていた第18富士山丸の船長、紅粉勇ら[[日本人]]2人の釈放と、日朝友好親善が主目的だった。訪朝団に対する金日成の歓待ぶりはすさまじかった。2万人が動員されたマスゲームは代表例で「金丸信先生と田辺誠先生の引率する日本使節を熱烈に歓迎する!」という人文字が表示された。9月28日自民党、社会党、[[朝鮮労働党]]の3党共同宣言がなされたが、その中に記された「戦後45年間の謝罪、十分な償い」が、戦後における北朝鮮への戦後賠償の表明とみなされたため、後に大きな批判にさらされることとなった<ref>{{Cite news|url= http://www.sankei.com/politics/news/140802/plt1408020026-n1.html |title= 日朝関係 金丸訪朝団 正常化目前「償い」で禍根 |newspaper= 産経ニュース |date= 2014-08-02 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20141019162358/http://www.sankei.com/politics/news/140802/plt1408020026-n1.html |archivedate= 2014-10-19}}</ref>。 1989年に『在日韓国人政治犯の釈放に関する要望』に多数の社会党議員が署名したが、この釈放対象に北朝鮮による日本人拉致事件の実行犯、工作員・[[辛光洙]](シンガンス)らが含まれていたことが後に問題となる。前年の1988年3月26日の第112回国会予算委員会で[[梶山静六]][[国家公安委員長]]が拉致を北朝鮮の犯行が濃厚と認めていた。 ===細川連立内閣の誕生から村山内閣へ=== 1993年の[[第40回衆議院議員総選挙|第40回総選挙]]で社会党は新党ブームに埋没し、改選前の136議席から70議席と議席をほぼ半減させた。社会党の有力支持母体であった連合は政権交代を重視し、加盟産別労組の一部は、これを阻害する社会党の護憲派・左派候補を露骨に排除する「選別推薦」を行い、新党候補などに票を回した(この「選別推薦」により連合の推薦を受けられなかった議員には、元党首の土井や[[岩垂寿喜男]]や上田哲がいる。なお、後に[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の都議会議員となった真木茂は、選別の第一次案を自分が作ったと書いている<ref>「[https://web.archive.org/web/20041026060220/http://www.smaki.com/other_page/backnumber_050.htm 20代の仕事を振り返って 「天下国家」と「都議会議員 真木茂」]」</ref>)。特に都市部では、東京都で11議席から1議席に激減するなど、土井ブームで得た議席を失い、55年体制以来最低の議席数となった。長年の宿敵であった自民党が大敗した選挙であるにもかかわらず、社会党は却ってその存在感を失うこととなり、後のことを考えれば皮肉にもこれが社会党にとっての"終わりの始まり”であったとも言える。 総選挙後に[[非自民・非共産連立政権]]の'''[[細川内閣]]'''に与党として参加。社会党は与党第1党ではあったが、総選挙で一人負けの状態(他党は共産党が1議席を減らした他は、自民党も含めて全党が現状維持か議席増)だったため、与党第1党にもかかわらず首相を出すことができなかったが、一方で無視できるほど力は小さくないという、連立与党内でも微妙な立場となった。閣僚人事においても、主要閣僚は[[新生党]]や公明党、[[日本新党]]等、細川護熙をはじめ[[羽田孜]]、小沢一郎、[[市川雄一]]ら旧与党内の実力者に独占された。また、総選挙敗北の責任を取って山花が委員長を辞任、9月に[[村山富市]]が委員長に就任した。 1994年、[[小選挙区制]]導入に反対した一部議員や党員が離党し、[[新党護憲リベラル]]や[[護憲新党あかつき]]を結成したことで党の弱体化に拍車がかかった(96年には社民党離党者が新社会党も結成)。細川首相退陣後、新生党・公明党との対立から社会党の連立離脱も取りざたされたが、結局は同じ枠組みでの羽田孜政権参加に合意した。しかし首班選挙直後、日本社会党を除く与党各派の統一会派「[[改新]]」の結成呼びかけに反発した村山は羽田連立内閣から離脱を決め、'''[[羽田内閣|羽田政権]]'''は少数与党として発足した。 1994年6月、羽田連立与党は自民党の[[海部俊樹]]元首相を首班選に擁立、自民党内の分裂を狙ったが、自民党は村山委員長を首班とする自社連立政権樹立を決定。羽田連立与党との連携を重視する社会党議員も、自党党首首班には抗しきれず、海部に投じた議員はごくわずかにとどまった。政権奪回に執念を燃やす自民党も同様で、決選投票の結果村山の首班指名が決定し、自由民主党、[[新党さきがけ]]と連立した、[[自社さ連立政権|自社さ政権]]である'''[[村山内閣|村山政権]]'''が発足した。村山首相は、就任直後の国会演説で、安保条約肯定、原発肯定、自衛隊合憲など、旧来の党路線の180度の変更を一方的に宣言した(後に1994年9月3日開催第61回臨時党大会で追認)。この結果、社会党の求心力は大きく低下し、その後分党・解党をめぐる論議が絶えなかった。1994年12月には[[新進党]]結党により、衆議院で第2党から第3党に転落した。また消費税の税率を3%から5%にすることを[[閣議 (日本)|閣議]]決定した。その後の1995年の[[第17回参議院議員通常選挙|第17回参議院選挙]]では16議席しか獲得できず、2年前の衆議院選挙に続く大敗北に終わった。 === 社会民主党への改称 === [[File:1990年代の政党の離合集散.jpg|thumb|right|1990年代の政党の離合集散]] 1996年1月の村山内閣総辞職後、同月'''[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]に改称'''し、3月には新党として第1回大会を開催、日本社会党の名称は消滅した。[[小選挙区比例代表並立制]]のもとでは、社民党単独での衆議院議席獲得は至難であることが予想されたため、新党さきがけとの合併や、[[鳩山由紀夫]]・[[船田元]]らが提唱した新党構想への合流などの議論が絶えなかった。{{要出典|範囲=現在の社民党は日本社会党との連続性を標榜しているが、成立当時は逆に社会党との断絶を強調していた。|date=2023年6月}} === その後 === 新党構想は結局、鳩山由紀夫・邦夫兄弟や[[菅直人]]らが中心となり同年衆議院解散直前に結成された'''[[民主党 (日本 1996-1998)|民主党]]'''として現実のものとなった。社民党は一旦、民主党への丸ごと参加を決定したが、鳩山由紀夫の「[[民主党 (日本 1996-1998)#排除の論理|排除の論理]]」に反発して、すぐに撤回。現職の[[幹事長]]であった[[佐藤観樹]]を含め約半数の党所属国会議員が「個々人の決断」のもと社民党を去り、民主党結成に参加した。幹部候補生と目された前[[北海道知事一覧|北海道知事]][[横路孝弘]]も民主党を選んだ。一方、村山ら約半数の議員は社民党に残留し、土井たか子を党首に復帰させ、[[第41回衆議院議員総選挙|第41回総選挙]]に臨んだ。支持労組の大半は民主党支持に転じたが、地方組織のかなりの部分は社民党に残った。村山内閣時の路線転換に批判的な議員や党員の一部は、離党して1996年に'''[[新社会党]]'''を結成した。また、[[山花貞夫]]・[[土肥隆一]]ら野党再編派は1995年に社会党を離党し院内会派「民主の会」を結成していたが、山花らは同年に[[市民リーグ]]を結成後、民主党の結成に参加。土肥らは[[民主改革連合]]に合流し、民改連は1998年に民主党や旧新進党の一部などと合流し[[民主党 (日本 1998-2016)|(新)民主党]]を結成した。結果的に大きくは民主党、社民党、新社会党の3つに分裂したことになる。 2017年9月、民主党が改称した[[民進党]]は[[第48回衆議院議員総選挙]]に向けて[[小池百合子]]代表率いる[[希望の党 (日本 2017)|希望の党]]との合流方針を決定したが、今度は小池がリベラル派の議員を受け入れないとする「排除の論理」を主張し、反発した旧社会党グループに所属する議員の多くは[[枝野幸男]]率いる'''[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]'''に参加した。旧総評系労組の組織内議員の大半が参加したことや党職員も社会党系が多いことから立憲民主党が日本社会党の系譜を継ぐ政党であるという見方もある<ref>[http://biz-journal.jp/2017/12/post_21890.html 立憲民主党、報じられない火種] Business Journal2017年12月29日付</ref>。 この総選挙後時点で社会党所属経験のある国会議員は6人(衆院5人、参院1人)であった。衆院では[[佐々木隆博]](社会党時代は北海道議)、赤松広隆および[[横光克彦]]の3人は立憲民主党、[[吉川元 (政治家)|吉川元]](社会党時代は党員として[[日本社会主義青年同盟|社青同]]勤務)は社会民主党、[[谷畑孝]]は日本維新の会に所属しており、参院では鉢呂吉雄が立憲民主党に所属していた。このうち、社会党での国会議員経験があるのは赤松、横光、谷畑、鉢呂の4名であったが、谷畑は[[2020年]]4月に辞職した。2019年12月には立憲民主党が社民党などに対し合流を打診し、55年体制の一翼を担った老舗政党がその歴史に幕を下ろすのかが注目されたが、最終的に合流賛成派と合流反対派で党が分裂することとなり、反対派の残留により社民党も存続することとなった。この過程で、吉川が社民党を離党し[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]へ入党したことにより、社会党所属経験のある現職国会議員は全員が立憲民主党所属となっている。その後、2021年の[[第49回衆議院議員総選挙|総選挙]]で佐々木と赤松は引退、横光は落選して、社会党での国会議員経験がある現職議員は鉢呂ただ一人のみとなった。その鉢呂も、[[第26回参議院議員通常選挙|2022年の参院選]]には立候補しなかったたため、国会議員として社会党所属歴がある現職の議員は姿を消した。 [[File:The History of Japan Socialist Party - ja.png|thumb|center|600px|日本社会党の歴史]] == 役職 == === 歴代の中央執行委員長(党首)=== {{see|日本社会党委員長}} === 歴代の中央執行委員会、執行部役員表 === {{節stub}} {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- ! colspan="8" |日本社会党中央執行委員会<br />(1946 - 1950) |- ! width="5.5%" | 大会 ! width="13.5%" | 中央執行委員長 ! width="13.5%" | 中央執行<br />副委員長 ! width="13.5%" | 執行部書記長 ! width="13.5%" | 政務調査会長<br />政策審議会長 ! width="13.5%" | 選挙委員長<br />選挙対策委員長 ! width="13.5%" | 議会委員長<br />国会対策委員長 ! width="13.5%" | 参議院議員会長 |- ! 1 | colspan="2" rowspan="2" |&mdash;|| rowspan="2" |[[片山哲]]|| colspan="3" |&mdash;|| rowspan="3" |&mdash; |- ! | rowspan="2" |[[森戸辰男]]||[[平野力三]]||[[水谷長三郎]] |- ! 2 | rowspan="4" |片山哲|| rowspan="7" |&mdash;|| rowspan="2" |[[西尾末広]]|| rowspan="3" |[[伊藤卯四郎]]|| rowspan="2" |[[正木清]] |- ! | rowspan="4" |[[鈴木茂三郎]]|| rowspan="2" |[[小泉秀吉]] |- ! 3 |[[浅沼稲次郎]]||[[米窪満亮]] |- ! 4 | rowspan="2" |鈴木茂三郎|| rowspan="2" |?|| rowspan="3" |[[八百板正]]|| rowspan="4" |? |- ! 5 |(片山哲) |- ! 6 |&mdash;|| rowspan="2" |浅沼稲次郎||[[勝間田清一]]||[[伊藤修]] |- ! 7 |鈴木茂三郎||[[水谷長三郎]]||?||[[三宅正一]] |- ! colspan="8" |右派・日本社会党中央執行委員会<br />(1951 - 1955) |- ! 大会 ! 中央執行委員長 ! 中央執行<br />副委員長 ! 執行部書記長 ! 政策審議会長 ! 選挙対策委員長 ! 政治局長<br />国会対策委員長 ! 参議院議員会長 |- ! 8 | colspan="2" rowspan="2" |&mdash;|| rowspan="5" |浅沼稲次郎|| rowspan="5" |水谷長三郎||&mdash;|| rowspan="3" |三宅正一|| rowspan="5" |? |- ! 9 | rowspan="3" |片山哲 |- ! 10 | rowspan="3" |[[河上丈太郎]]|| rowspan="3" |&mdash; |- ! 11 | rowspan="2" |[[加藤勘十]] |- ! 12 |[[三輪寿壮]] |- ! colspan="8" |左派・日本社会党中央執行委員会<br />(1951 - 1955) |- ! 大会 ! 中央執行委員長 ! 中央執行<br />副委員長 ! 執行部書記長 ! 政策審議会長 ! 組織局長 ! 国会対策委員長 ! 参議院議員会長 |- ! 8 | rowspan="5" |鈴木茂三郎|| colspan="2" |&mdash;|| rowspan="4" |[[和田博雄]]||[[野溝勝]]||[[内村清次]]|| rowspan="5" |? |- ! 9 | rowspan="4" |&mdash;|| rowspan="3" |野溝勝||[[岡田宗司]]||[[赤松勇]] |- ! 10 | rowspan="3" |[[安平鹿一]]|| rowspan="2" |勝間田清一 |- ! 11 |- ! 12 |和田博雄||[[伊藤好道]]||八百板正 |- ! colspan="8" |日本社会党中央執行委員会<br />(1955 - 1996) |- ! 大会 ! 中央執行委員長 ! 中央執行<br />副委員長 ! 執行部書記長 ! 政策審議会長 ! 選挙対策委員長 ! 国会対策委員長 ! 参議院議員会長 |- ! 統一 | rowspan="4" | 鈴木茂三郎 | rowspan="10" | &mdash; | rowspan="4" | 浅沼稲次郎 | 伊藤好道 | rowspan="3" | [[佐々木更三]] | 勝間田清一 | rowspan="6" | [[岡田宗司]] |- ! 13 | 和田博雄 | [[細迫兼光]] |- ! 14 | 勝間田清一 | [[河野密]] |- ! 16 | rowspan="4" | [[成田知巳]] | rowspan="3" | 八百板正 | rowspan="5" | [[山本幸一]] |- ! 17 | 浅沼稲次郎 | rowspan="4" | [[江田三郎]] |- ! 19 | (江田三郎) |- ! 20 | rowspan="5" | 河上丈太郎 | [[山花秀雄]] | rowspan="4" | [[千葉信]] |- ! 21 | rowspan="3" | 勝間田清一 | rowspan="2" | 江田三郎 |- ! 22 | rowspan="6" | 成田知巳 | [[島上善五郎]] |- ! 23 | [[滝井義高]] | rowspan="3" | [[横路節雄]] |- ! 24 | 佐々木更三<br />和田博雄 | rowspan="2" | | rowspan="4" | 赤松勇 | rowspan="3" | [[羽生三七]] |- ! 25 | rowspan="3" | 佐々木更三 | rowspan="2" | 八百板正 |- ! 27 | 横路節雄 | [[柳田秀一]] |- ! 28 | 河野密<br>勝間田清一<br />山本幸一 | rowspan="3" | [[木村禧八郎]] | 山花秀雄 | rowspan="3" | [[椿繁夫]] |- ! 29 | rowspan="2" | 勝間田清一 | rowspan="2" | 河野密<br />江田三郎 | 山本幸一 | rowspan="2" | [[大柴滋夫]] | rowspan="3" | 柳田秀一 |- ! - | ([[石橋政嗣]]) |- ! 31 | rowspan="6" | 成田知巳 | 三宅正一<br>山花秀雄 | 江田三郎 | [[多賀谷真稔]] | [[藤田進 (政治家)|藤田進]] | rowspan="2" | [[加瀬完]] |- ! 34 | 赤松勇<br>[[日野吉夫]] | rowspan="5" | 石橋政嗣 | [[北山愛郎]] | rowspan="2" | [[横山利秋]] | rowspan="2" | [[楯兼次郎]] |- ! 36 | [[永井勝次郎]]<br />[[下平正一]] | rowspan="2" | [[堀昌雄]] | rowspan="2" | 藤田進 |- ! 38 | 赤松勇<br />江田三郎<br />[[飛鳥田一雄]] | 大柴滋夫 | rowspan="3" | [[平林剛]] |- ! 40 | rowspan="2" | [[安井吉典]]<br />山本幸一<br />[[高沢寅男]] | rowspan="2" | 多賀谷真稔 | rowspan="2" | [[角屋堅次郎]] | 小柳勇 |- ! - | [[秋山長造]] |- ! 41 | rowspan="4" | 飛鳥田一雄 | 下平正一<br />北山愛郎<br />[[阿具根登]] | rowspan="2" | 多賀谷真稔 | rowspan="2" | [[武藤山治]] | rowspan="2" | [[宮之原貞光]] | rowspan="2" | [[田邊誠]] | rowspan="2" | 阿具根登(兼) |- ! 44 | [[下平正一]]<br>北山愛郎<br>阿具根登<br />[[田中寿美子]] |- ! 46 | 石橋政嗣<br />田中寿美子 | [[馬場昇]] | rowspan="4" | [[嶋崎譲]] | rowspan="2" | 角屋堅次郎 | [[村山喜一]] | rowspan="2" | 藤田進 |- ! 47 | 田邊誠<br/>村山喜一<br/>[[小柳勇]]<br/>田中寿美子 | 平林剛 | rowspan="3" | [[山口鶴男]] |- ! 48 | rowspan="2" | 石橋政嗣 | [[堀昌雄]]<br/>[[山本政弘]]<br/>小柳勇<br />[[土井たか子]] | rowspan="2" | 田邊誠 | rowspan="2" | [[安恒良一]] | rowspan="2" | [[瀬谷英行]] |- ! 50 | [[武藤山治 (日本社会党)|武藤山治]]<br>[[小野明]]<br>土井たか子 |- ! 51 | rowspan="2" | 土井たか子 | 岡田利春<br />小野明<br />[[山本政弘]]<br />[[金子みつ]] | rowspan="2" | 山口鶴男 | rowspan="2" | [[伊藤茂]] | [[大森昭]] | rowspan="2" | [[大出俊 (政治家)|大出俊]] | 小野明 |- ! 55 | [[田邊誠|田辺誠]]<br>山本政弘<br>[[久保亘]]<br>[[久保田真苗]] | [[佐藤観樹]] | [[赤桐操]] |- ! 57 | rowspan="2" | 田辺誠 | rowspan="2" | [[伊藤茂]]<br />[[渋沢利久]]<br />高沢寅男<br />[[糸久八重子]] | rowspan="2" | [[山花貞夫]] | rowspan="2" | [[早川勝 (政治家)|早川勝]] | | rowspan="3" | [[村山富市]] | [[対馬孝且]] |- ! | | rowspan="2" | [[矢田部理]] |- ! 59 | 山花貞夫 | 嶋崎譲<br/>佐藤観樹<br/>[[和田静夫]]<br />久保亘<br />糸久八重子 | [[赤松広隆]] | [[日野市朗]] | [[阿部未喜男]] |- ! 60 | rowspan="3" | 村山富市 | [[井上一成]]<br />大出俊<br />[[千葉景子]] | rowspan="3" | 久保亘 | rowspan="3" | [[関山信之]] | rowspan="2" | [[志苫裕]] | [[野坂浩賢]] | [[浜本万三]] |- ! 61 | 井上一成<br />[[上原康助]]<br />[[千葉景子]] | [[森井忠良]] | rowspan="2" | [[青木薪次]] |- ! 63 | [[佐藤観樹]]<br />上原康助<br />千葉景子 | [[渕上貞雄]] | [[永井孝信]] |- |} === 閣僚経験者等 === :()内は入閣直前の党役職 ; [[片山内閣]] * [[内閣総理大臣]]:片山哲(中央執行委員長) * 国務大臣 :: [[法務大臣|司法大臣]]:[[鈴木義男]] :: [[文部大臣]]:森戸辰男(政務調査会長) :: [[農林水産大臣|農林大臣]]:平野力三→[[波多野鼎]] :: [[商工省#歴代の商工大臣等|商工大臣]]:水谷長三郎 :: 国務大臣:[[米窪満亮]]{{efn2|9月1日に新設の労働大臣を辞令。}} :: 国務大臣兼内閣官房長官:西尾末広(書記長)<!--当時の官房長官は内閣法じゃなく前身の行政官庁法に基づいた職で、国務大臣の格下の「充て職」でなく別枠の「兼官」レベルの職だったので「兼」の字を用いて並べるのが正確。官報の辞令でもそうなっている。--> * 政務次官他 :: 内閣官房次長:[[曽祢益]] ; [[芦田内閣]] * 国務大臣 :: 国務大臣([[副総理]]):西尾末広(右派) :: 法務総裁:鈴木義男(右派) :: 文部大臣:森戸辰男(右派) :: 農林大臣:[[永江一夫]](右派) :: 商工大臣:水谷長三郎(右派) :: [[逓信大臣]]:[[冨吉榮二]](右派) :: 労働大臣:[[加藤勘十]](左派) :: 地方財政委員会委員長:[[野溝勝]](左派) ; [[細川内閣]] * 国務大臣 :: [[運輸大臣]]:伊藤茂 :: [[建設大臣]]:[[五十嵐広三]] :: [[自治大臣]]兼[[国家公安委員会委員長]]:佐藤観樹(中央執行副委員長) :: [[北海道開発庁|北海道開発庁長官]]兼[[沖縄振興局#歴代の沖縄開発庁長官等|沖縄開発庁長官]]兼[[国土庁|国土庁長官]]:上原康助 :: [[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済企画庁長官]]:久保田真苗(参議院) :: [[政治改革協議会#政治改革担当大臣|政治改革担当大臣]]:山花貞夫(中央執行委員長) ; [[村山内閣]] * 内閣総理大臣:村山富市(中央執行委員長) * 国務大臣 :: [[郵政大臣]]:大出俊(中央執行副委員長) :: 労働大臣:浜本万三(参議院議員会長) :: 建設大臣:野坂浩賢(国会対策委員長) :: 内閣官房長官:五十嵐広三 :: [[総務庁#国務大臣総務庁長官|総務庁長官]]:山口鶴男 ; [[村山内閣 (改造)|村山改造内閣]] * 内閣総理大臣:村山富市(中央執行委員長) * 国務大臣 :: 厚生大臣:森井忠良(国会対策委員長) :: 郵政大臣:井上一成(中央執行副委員長) :: 労働大臣:青木薪次(参議院議員会長) :: 内閣官房長官:野坂浩賢 :: 国土庁長官:[[池端清一]] ; [[第1次橋本内閣]] * 国務大臣 :: 大蔵大臣(副総理):久保亘(書記長) :: 郵政大臣:日野市朗 :: 労働大臣:[[永井孝信]](国会対策委員長) :: 総務庁長官:[[中西績介]] :: [[環境大臣|環境庁長官]]:岩垂寿喜男 :: 国土庁長官:[[鈴木和美]] == 党勢の推移 == === 衆議院 === [[ファイル:Two Major Parties in House of Representatives of Japan.png|thumb|400px|right|[[衆議院議員総選挙|衆院選]]における自由民主党(左、下目盛り)とそれに対抗する主要政党(右、上目盛り)の議席占有率(棒グラフ)と得票率(折れ線グラフ)を示したグラフ。 ---- 日本社会党(紫)は、1955年の再統一後、1993年まで常に第2党の地位を維持し続けてきた。しかし党勢は、土井ブームが来た1990年の第39回総選挙を除いて概ね下落傾向にあった。1996年に社会党が社会民主党に改称し、さらに衆院選で小選挙区比例代表並立制が導入されると、社民党の党勢は以前ほどには振るわず、代わって新進党(ピンク)や民主党(赤)が自民党(緑)に対抗する勢力となった。]] {| class="wikitable" style="text-align:center;" ! 選挙 !! 当選/候補者 !! 定数 !! colspan="2" | 備考 |- | (結党時)|| 18/-- || rowspan="2" | 468 || colspan="2" | [[公職追放]]-7 |- | [[第22回衆議院議員総選挙|第22回総選挙]] || 93/330 || colspan="2" | [[追加公認]]+3 |- | [[第23回衆議院議員総選挙|第23回総選挙]] || 143/289 || rowspan="2" | 466 || colspan="2" | 追加公認+1 |- | [[第24回衆議院議員総選挙|第24回総選挙]] || 48/187 || colspan="2" | |- ! colspan="6" | 左右分裂 |- | rowspan="2" | [[第25回衆議院議員総選挙|第25回総選挙]] || 57/109 || rowspan="2" | 466 || 追加公認+3 ! 右派社会党 |- | 54/96 || 追加公認+2 ! 左派社会党 |- | rowspan="2" | [[第26回衆議院議員総選挙|第26回総選挙]] || 66/117 || rowspan="2" | 466 || ! 右派社会党 |- | 72/108 || ! 左派社会党 |- | rowspan="2" | [[第27回衆議院議員総選挙|第27回総選挙]] || 67/122 || rowspan="2" | 467 || ! 右派社会党 |- | 89/121 || ! 左派社会党 |- ! colspan="6" | 再統一後 |- | [[第28回衆議院議員総選挙|第28回総選挙]]|| 166/246 || rowspan="3" | 467 || colspan="2" | 追加公認+1 |- | [[第29回衆議院議員総選挙|第29回総選挙]] || 145/186 || colspan="2" | 離党-1 |- | [[第30回衆議院議員総選挙|第30回総選挙]] || 144/198 || colspan="2" | |- | [[第31回衆議院議員総選挙|第31回総選挙]] || 140/209 || rowspan="2" | 486 || colspan="2" | 追加公認+1 |- | [[第32回衆議院議員総選挙|第32回総選挙]] || 90/183 || colspan="2" | |- | [[第33回衆議院議員総選挙|第33回総選挙]] || 118/161 || 491 || colspan="2" | |- | [[第34回衆議院議員総選挙|第34回総選挙]] || 123/162 || rowspan="4" | 511 || colspan="2" | 繰上当選+1 |- | [[第35回衆議院議員総選挙|第35回総選挙]] || 107/157 || colspan="2" | |- | [[第36回衆議院議員総選挙|第36回総選挙]] || 107/149 || colspan="2" | |- | [[第37回衆議院議員総選挙|第37回総選挙]] || 112/144 || colspan="2" rowspan="2" | 追加公認+1 |- | [[第38回衆議院議員総選挙|第38回総選挙]] || 85/138 || rowspan="2" | 512 |- | [[第39回衆議院議員総選挙|第39回総選挙]] || 136/149 || colspan="2" rowspan="2" | 追加公認+3 |- | [[第40回衆議院議員総選挙|第40回総選挙]] || 70/142 || 511 |- |} === 参議院 === {| class="wikitable" style="text-align:center;" ! 選挙 !! 当選/候補者 !! 非改選 !! 定数 !! colspan="2" | 備考 |- | (結党時) || - || -/- || - || colspan="2" | 参議院未設置 |- | [[第1回参議院議員通常選挙|第1回通常選挙]] || 47/101 || - || rowspan="2" | 250 || colspan="2" | 第1回のみ全員選挙 |- | [[第2回参議院議員通常選挙|第2回通常選挙]] || 36/75 || 25 || colspan="2" | 追加公認+1 |- ! colspan="7" | 左右分裂 |- | rowspan="2" | [[第3回参議院議員通常選挙|第3回通常選挙]] || 10/40 || 16 || rowspan="2" | 250 || ! 右派社会党 |- | 18/50 || 22 || 追加公認+3 ! 左派社会党 |- ! colspan="7" | 再統一後 |- | [[第4回参議院議員通常選挙|第4回通常選挙]] || 49/85 || 32 || rowspan="5" | 250 || colspan="2" | |- | [[第5回参議院議員通常選挙|第5回通常選挙]] || 38/78 || 47 || colspan="2" | 離党-1 |- | [[第6回参議院議員通常選挙|第6回通常選挙]] || 37/69 || 29 || colspan="2" | |- | [[第7回参議院議員通常選挙|第7回通常選挙]] || 36/66 || rowspan="2" | 37 || colspan="2" | |- | [[第8回参議院議員通常選挙|第8回通常選挙]] || 28/62 || colspan="2" | |- | [[第9回参議院議員通常選挙|第9回通常選挙]] || 39/60 || 27 || rowspan="9" | 252 || colspan="2" | 死去-1 |- | [[第10回参議院議員通常選挙|第10回通常選挙]] || 28/57 || 34 || colspan="2" | |- | [[第11回参議院議員通常選挙|第11回通常選挙]] || 27/59 || 29 || colspan="2" | |- | [[第12回参議院議員通常選挙|第12回通常選挙]] || 22/49 || 25 || colspan="2" | |- | [[第13回参議院議員通常選挙|第13回通常選挙]] || 22/64 || 22 || colspan="2" | |- | [[第14回参議院議員通常選挙|第14回通常選挙]] || 20/58 || 21 || colspan="2" | 追加公認+1 |- | [[第15回参議院議員通常選挙|第15回通常選挙]] || 46/55 || 22 || colspan="2" | 追加公認+6 |- | [[第16回参議院議員通常選挙|第16回通常選挙]] || 22/43 || 49 || colspan="2" | 追加公認+2 |- | [[第17回参議院議員通常選挙|第17回通常選挙]] || 16/40 || 21 || colspan="2" | |- |} :(参考文献:石川真澄(一部[[山口二郎]]による加筆)『戦後政治史』2004年8月、[[岩波書店]]・[[岩波新書]]、ISBN 4-00-430904-2) * 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。 * 第22回総選挙の定数には、選挙を実施できなかった[[沖縄県|沖縄]]選挙区(定数2)含む。 * 第22回総選挙では、他に[[法定得票]]不足で定数を満たせなかった選挙区の再選挙で当選者1。 * 以下、記事「[[社会民主党 (日本 1996-)]]」の節「[[社会民主党 (日本 1996-)#党勢|党勢の推移]]」に続く == 批評、批判 == 日本社会党に関する主な批評、批判には以下がある。 *日本共産党は日本社会党に対して、前身政党は[[侵略戦争]]に加担したため名称変更した<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-07-22/2006072217_01_0.html 日本共産党創立84周年記念講演会 - 日本共産党]</ref>、1946年の憲法案は「主権は国家に在り」として[[国民主権|主権在民]]に触れなかった<ref>[http://www.jcp.or.jp/jcp/78th_koen/fuwa_78th_point.html 日本共産党創立78周年記念講演会 - 日本共産党]</ref><ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-07-29/20090729faq16_01_0.html 憲法制定にいたる時期の政党状況は? - 日本共産党]</ref>、新左翼などの「暴力集団」を「同盟軍」と位置づけた<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-06-14/20060614faq12_01_0.html 中核・革マルは共産党の分派なの? - 日本共産党]</ref>、1980年の[[社公連合政権構想|社公合意]]で従来の社共共闘から社公民路線に転じた<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-12-20/ftp20071220faq12_01_0.html 1980年の「社公合意」とは? - 日本共産党]</ref>、などと批判している。 * [[丸山眞男]]は著作で、日本社会党が国会で「三分の一のカベ」を超えられない理由として「保守党の大企業偏重を裏返しにした形で、社会党は大労組偏重に陥っている」と記した<ref>「丸山眞男集 第八巻」(丸山眞男、岩波書店、2003年)424p</ref>。 * [[原彬久]]は2000年の著作「戦後史のなかの日本社会党:その理想主義とは何であったのか」で、日本社会党は「社会主義国日本」との理想を目指して結党したが<ref>「戦後史のなかの日本社会党:その理想主義とは何であったのか」(原彬久、中央公論新社、2000年)2p</ref>、労農派マルクス主義を中心とする社会党左派は国際組織の社会主義インターナショナルと温度差があり<ref>「戦後史のなかの日本社会党:その理想主義とは何であったのか」(原彬久、中央公論新社、2000年)273p</ref>、ソ連・中国・北朝鮮との交流を重視し<ref>「戦後史のなかの日本社会党:その理想主義とは何であったのか」(原彬久、中央公論新社、2000年)263p</ref>、「理想主義」により[[極左|急進左派]]とも接近したが<ref>「戦後史のなかの日本社会党:その理想主義とは何であったのか」(原彬久、中央公論新社、2000年)336p</ref>、その理想主義は脆弱で体力と戦略が不足していた<ref>「戦後史のなかの日本社会党:その理想主義とは何であったのか」(原彬久、中央公論新社、2000年)347p</ref>、と記した。 * [[森裕城]]は2002年の著作「日本社会党の研究 - 路線転換の政治過程」の中で、「現実主義化」の効果は民社党の停滞を見ても疑問だが、日本社会党は自民党政治の「牽制政党化」し、「新宣言」での西欧的な社会民主主義路線も政治的スローガンの転換以上の意味を持たず、「政権獲得へ向けて社会党が戦略的な行動をとりえなかった」と記した<ref>「日本社会党の研究 - 路線転換の政治過程」(森裕城、木鐸社、2002年)p10-12, p43, p141, p210等</ref>。 * [[依田博]]は上記の「日本社会党の研究 - 路線転換の政治過程」の書評の中で、日本社会党は政権担当政党としての信頼を有権者から得られなかったが、自由民主党と同様に「一枚岩ではない組織構造を持った政党」としては有権者の共感を得ていた、と記した<ref>[http://www.cs.kyoto-wu.ac.jp/bulletin/4/review.pdf 書評・日本社会党の研究書 - 路線転換の政治過程」(森裕城) - 依田博] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121115124217/http://www.cs.kyoto-wu.ac.jp/bulletin/4/review.pdf |date=2012年11月15日 }}</ref>。 * 木下真志は2003年の著作「転換期の戦後政治と政治学:社会党の動向を中心として」で、1950年代には[[逆コース]]や再軍備への国民の広範な反対があり、社会党左派・総評左派・社会主義協会の「左派連合」の結束によって躍進したが、1960年代にはこれらが争点ではなくなり社会党は衰退した、と記した<ref>「転換期の戦後政治と政治学:社会党の動向を中心として」([[木下真志]]、[[敬文堂]]、2003年) 第二部</ref>。 * 山口二郎・石川真澄らによる2003年の共著「日本社会党 - 戦後革新の思想と行動」では、社会党の衰退原因として、戦前からの[[講座派]]と労農派の対立<ref>「日本社会党―戦後革新の思想と行動」(山口二郎・石川真澄 編、日本経済評論社、2003年)p5-7</ref>、末端の党組織の弱さ<ref>「日本社会党―戦後革新の思想と行動」(山口二郎・石川真澄 編、日本経済評論社、2003年)p55</ref>、中国・北朝鮮などとの「片面」的な関係<ref>「日本社会党―戦後革新の思想と行動」(山口二郎・石川真澄 編、日本経済評論社、2003年)p18</ref>、自衛隊廃止の具体的なプログラムを提示できなかったこと<ref>「日本社会党―戦後革新の思想と行動」(山口二郎・石川真澄 編、日本経済評論社、2003年)p132</ref>、「批判政党」との自己規定への満足<ref>「日本社会党―戦後革新の思想と行動」(山口二郎・石川真澄 編、日本経済評論社、2003年)p138</ref>、1980年代の連合成立と社会民主主義勢力の結集の期待の際に、社会党も民社党も有効な連合政権構想を提示できなかったこと<ref>「日本社会党―戦後革新の思想と行動」(山口二郎・石川真澄 編、日本経済評論社、2003年)p45</ref>、1990年代前期にも明確な政権構想を打ち出せず古い55年体制の既成事実に屈服したと受け止められたこと<ref>「日本社会党―戦後革新の思想と行動」(山口二郎・石川真澄 編、日本経済評論社、2003年)p131</ref>、などを挙げた。 * [[岡田一郎]]は2005年の著作「日本社会党:その組織と衰亡の歴史」で、社会党の衰退原因として労組依存体質と党組織の脆弱さ、左派と右派による不毛な派閥対立、構造改革論への反発、野党陣営の多党化、[[中ソ対立]]の影響、組織論なき路線転換、などを挙げている<ref>「日本社会党:その組織と衰亡の歴史」(岡田一郎、新時代社、2005年)</ref>。 * [[片岡鉄哉]]は、[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]といつでも昼飯を食える立場にありながら、おっかなびっくりで、護憲のマッカーサーを敵だと思っていた片山哲の例を挙げて、権力にうとく、外交にうとい政党であったと評する<ref>「日本永久占領―日米関係、隠された真実」(片岡鉄哉、講談社+α文庫、1999年)p120-121、p261</ref>。社会党が一番敏感なのは内政面での逆コース反対で、国内で既得権益の現状維持ができれば、外交なんかどうでもかまわない、という無茶な姿勢になるのだという<ref>「日本永久占領―日米関係、隠された真実」(片岡鉄哉、講談社+α文庫、1999年)p261</ref>。マッカーサーが、憲法を守る母体としての芦田・社会党連立内閣を、左(共産党)からの脅威から守るために出したマッカーサー書簡と[[政令201号]]を非難する社会党を「親の心、子知らず」と評する<ref>「日本永久占領―日米関係、隠された真実」(片岡鉄哉、講談社+α文庫、1999年)p123</ref>。 * 保守系の[[知識人]]としては、[[渡部昇一]]が「自民党の政治家は戦前の人たちと同じ普通の[[日本人]]だが、野党の政治家はそうではなく[[イデオロギー]]にとらわれた人々という感じがあった」と述べている<ref>渡部昇一「裸の総理たち32人の正体 渡部昇一の人物戦後史」冒頭 フォレスト出版、2010年</ref>。 * [[屋山太郎]]は[[1966年]]に[[ストックホルム]]で開かれた[[社会主義インターナショナル]]大会で休憩していた際、記者室に顔を出した[[ブルーノ・ピッターマン]]会長に「日本の社会党は社会主義インターへの参加資格は無いのだと伝えてくれ」と言われ、理由を尋ねると「社会主義インターは、自由主義を通じ民主体制を守る集団で、革命を目指す共産党は敵だ。その敵と常時組んでいる政党はインターに参加する資格は無い」と言われた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == === 社会党の文献 === *{{Cite book|和書|author=月刊社会党編集部|title=日本社会党の三十年|publisher=日本社会党中央本部機関紙局|date=1976-01-15|id={{NDLJP|11924406}}}} *{{Cite book|和書|editor=日本社会党結党四十周年記念出版刊行委員会|title=資料日本社会党四十年史|publisher=日本社会党中央本部|date=1985-11-02|id={{NDLJP|11926543}}}} *日本社会党五〇年史編纂委員会編『日本社会党史』社会民主党全国連合(1996年9月) === それ以外の文献 === *上住充弘『日本社会党興亡史』自由社(1992年9月)ISBN 4-915237-09-5 *名越健郎『クレムリン秘密文書は語る 闇の日ソ関係史』中央公論新社(1994年10月)ISBN 4-12-101207-0 *原彬久『戦後史のなかの日本社会党―その理想主義とは何であったのか』中央公論新社(2000年3月)ISBN 4-12-101522-3 *山口二郎・石川真澄編『日本社会党-戦後革新の思想と行動』日本経済評論社(2003年10月)ISBN 4-8188-1550-0 *岡田一郎『日本社会党-その組織と衰亡の歴史-』新時代社(2005年4月)ISBN 4-7874-9106-7 *境家史郎『戦後日本政治史-占領期から「ネオ55年体制」まで』[[中公新書]](2023年5月)ISBN 4121027523 == 関連項目 == {{Commonscat|Social Democratic Party of Japan|日本社会党}} *[[日本の政党一覧]] *[[社会党右派]] *[[社会党左派]] *[[日本社会党の派閥]] *[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]] *[[新社会党]] *[[社会主義協会]] *[[労働者運動資料室]] == 外部リンク == *[http://www5.sdp.or.jp/ 社民党OfficialWeb] *[http://www.sinsyakai.or.jp/ 新社会党公式ホームページ] *[http://www.kyokai.gr.jp/ 社会主義協会(社会主義協会 向坂派)] *[http://www.s-kaikaku.com/ 進歩と改革研究会(社会主義協会 太田派)] *[http://roudousyaundou.que.jp/ 労働者運動資料室] *[https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/nihonshakaitokokuminundokyoku.html 国立国会図書館 憲政資料室 日本社会党国民運動局旧蔵資料] *[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030011_00000 保守合同と社会党統一] - NHKアーカイブス {{社会民主党}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:にほんしやかいとう}} [[Category:日本社会党|*]]
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連想配列
連想配列(れんそうはいれつ、英語: associative array)とは、コンピュータプログラミングにおいて、添え字にスカラー数値以外のデータ型(文字列型等)も使用できる配列である。抽象データ型のひとつ。連想リスト、連想コンテナ、辞書(あるいはカタカナでディクショナリ 英語: dictionary)、ハッシュ(英語: hash)、マップ(英語: map)とも呼ばれる。 歴史的には、最初に LISP の連想リストとして広く認知された。その後、SNOBOL で table として、AWK で連想配列として実装したことで、その潜在能力がさらに広く知られるようになった。現在、Ruby など一部の言語では、添え字にはどのようなデータでも使えるものもある。 プログラミングにおける単純な配列は、特定のアドレスからのオフセット(ずれ)をインデックスとして、アドレスとオフセットによって目的の値を得る。これに対し連想配列では、要素とそれを紐付けできるような値(キーと呼ぶ)のペアで表され、キーによって目的の値を求める。辞書やディクショナリという呼び方は、要素を本文、キーを見出しになぞらえたものと言える。ハッシュという呼び名はハッシュテーブルによって実装されることによる。 連想配列の実装に使われるデータ構造としては、主に平衡2分探索木(赤黒木やAVL木など)やハッシュテーブルがある。ほかにはB木や連想リスト、トライ木、基数木などが利用されることもある。純粋な連想配列においてはキーの重複があってはならない。マップ(連想配列)を拡張したマルチマップはキーが重複したデータも上書きせずに保持できるデータ構造である。 連想配列を一般化したデータ構造のひとつにマルチマップ(英語: multimap)があり、一つのキーに対して複数の値を格納することができる。また別の一般化である双方向マップ(英語: bidirectional map、bidimap、double ordered map)はバインディング操作を双方向で行う(キーと値に全単射関係をもたせる)データコンテナである。双方向マップの値それぞれが重複のないキーに関連付けられなければならない。キーを引数に取る通常の連想配列におけるlookup操作の他に値を引数にとるlookup操作が追加され、この操作は引数として与えられた値に関連付けられたキーを検索する。 純粋な連想配列でのキー–値間の参照を束縛(またはバインディングとも)と呼ぶ。「束縛」という語は新たな参照を作る過程に対しても用いられる。 しばしば定義される操作は以下のようなものが挙げられる: また、連想配列はここで上げた以外の操作も含む。それは例えばキーの束縛数を特定したりすべてのキーを調べるための反復子を作成したりといったものである。この反復子によって得られる参照の順序はしばしば不定となる。
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連想配列とは、コンピュータプログラミングにおいて、添え字にスカラー数値以外のデータ型(文字列型等)も使用できる配列である。抽象データ型のひとつ。連想リスト、連想コンテナ、辞書、ハッシュ、マップとも呼ばれる。 歴史的には、最初に LISP の連想リストとして広く認知された。その後、SNOBOL で table として、AWK で連想配列として実装したことで、その潜在能力がさらに広く知られるようになった。現在、Ruby など一部の言語では、添え字にはどのようなデータでも使えるものもある。
'''連想配列'''(れんそうはいれつ、{{lang-en| associative array}})とは、[[プログラミング (コンピュータ)|コンピュータプログラミング]]において、添え字に[[スカラー (数学)|スカラー]]数値以外の[[データ型]]([[文字列|文字列型]]等)も使用できる[[配列]]である。[[抽象データ型]]のひとつ。'''連想リスト'''、'''連想コンテナ'''、'''辞書'''(あるいはカタカナで'''ディクショナリ''' {{lang-en|dictionary}})、'''ハッシュ'''({{lang-en|hash}})、'''マップ'''({{lang-en|map}})とも呼ばれる。 歴史的には、最初に {{lang|en|LISP}} の'''連想リスト'''として広く認知された。その後、{{lang|en|[[SNOBOL]]}} で <code>table</code> として、{{lang|en|[[AWK]]}} で連想配列として実装したことで、その潜在能力がさらに広く知られるようになった。現在、{{lang|en|[[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]}} など一部の言語では、添え字にはどのようなデータでも使えるものもある。 == 概要 == プログラミングにおける単純な配列は、特定のアドレスからのオフセット(ずれ)をインデックスとして、アドレスとオフセットによって目的の値を得る。これに対し連想配列では、要素とそれを紐付けできるような値(キーと呼ぶ)のペアで表され、キーによって目的の値を求める。'''辞書'''や'''ディクショナリ'''という呼び方は、要素を本文、キーを見出しになぞらえたものと言える。'''ハッシュ'''という呼び名は[[ハッシュテーブル]]によって実装されることによる。 == データ構造 == 連想配列の実装に使われるデータ構造としては、主に[[平衡2分探索木]]([[赤黒木]]や[[AVL木]]など)やハッシュテーブルがある。ほかには[[B木]]や連想リスト、[[トライ木]]、[[基数木]]などが利用されることもある。純粋な連想配列においてはキーの重複があってはならない。マップ(連想配列)を拡張したマルチマップはキーが重複したデータも上書きせずに保持できるデータ構造である。 連想配列を一般化したデータ構造のひとつに'''マルチマップ'''({{lang-en|multimap}})があり、一つのキーに対して複数の値を格納することができる<ref>{{harvtxt|Goodrich|Tamassia|2006}}, pp. 389–397.</ref>。また別の一般化である'''双方向マップ'''({{lang-en|bidirectional map}}、{{lang|en|bidimap}}、{{lang|en|double ordered map}})はバインディング操作を双方向で行う(キーと値に[[全単射]]関係をもたせる)データコンテナである。双方向マップの値それぞれが重複のないキーに関連付けられなければならない。キーを引数に取る通常の連想配列におけるlookup操作の他に値を引数にとるlookup操作が追加され、この操作は引数として与えられた値に関連付けられたキーを検索する。 == よく用意される命令 == 純粋な連想配列でのキー&ndash;値間の参照を[[束縛 (情報工学)|束縛]](またはバインディングとも)と呼ぶ。「束縛」という語は新たな参照を作る過程に対しても用いられる。 しばしば定義される操作は以下のようなものが挙げられる:<ref name="gt">{{citation|contribution=9.1 The Map Abstract Data Type|title=Data Structures & Algorithms in Java|last1=Goodrich|first1=Michael T.|author1-link=Michael T. Goodrich|last2=Tamassia|first2=Roberto|author2-link=Roberto Tamassia|publisher=Wiley|edition=4th|year=2006|pages=368–371}}.</ref><ref name="ms">{{citation|contribution=4 Hash Tables and Associative Arrays|title=Algorithms and Data Structures: The Basic Toolbox|first1=Kurt|last1=Mehlhorn|author1-link=Kurt Mehlhorn|first2=Peter|last2=Sanders|publisher=Springer|year=2008|pages=81–98}}.</ref> ; 追加・挿入: 新しいキー&ndash;値対を配列に追加し、キーと値の間への新たな参照を生成する。この操作(を行なう関数)の引数はキーとそれに紐付くべき値である。 ; 再配置・置換: 既存のキー&ndash;値対の値を書き換え、キーからの古い参照を新たな値への参照に再生成する。引数は元のキーと新たな値である。 ; 除去・削除: キー&ndash;値対を配列から削除し、キーから値への参照を消去する。引数は配列から削除するキー。 ; 検索・参照: キーに束縛されている値を取り出す。引数はキーであり、キー束縛された値が戻り値となる。紐付いた値が見付からない場合に[[例外処理|例外]]を投げる実装もある。 また、連想配列はここで上げた以外の操作も含む。それは例えばキーの束縛数を特定したりすべてのキーを調べるための[[イテレータ|反復子]]を作成したりといったものである。この反復子によって得られる参照の順序はしばしば不定となる。 == 連想配列を標準で提供する主な言語 == * {{lang|en|[[AWK]]}}{{---}}{{code|lang=awk|greetings["en"] {{=}} "Hello"; greetings["fr"] {{=}} "Bonjour"}}のような形式で宣言し,{{code|lang=awk|print greetings["fr"]}}のように参照する<ref group="註">実際には{{code|lang=awk|BEGIN}}アクションの内部などで行なう必要がある。</ref><ref>{{cite web | url = http://pubs.opengroup.org/onlinepubs/9699919799/utilities/awk.html#tag_20_06_13_16 | title = awk | accessdate = 2018-11-02 | year = 2017 | publisher = IEEE and The Open Group }}</ref>。 * {{lang|en|[[Bash|GNU Bash]]}}{{---}}{{code|lang=bash|declare -A greetings{{=}}(["en"]{{=}}"Hello" ["fr"]{{=}}"Bonjour")}}のような形式で宣言し,{{code|lang=bash|echo ${greetings["fr"]{{)}}}}のように参照する。<ref>{{cite web | url = https://www.gnu.org/software/bash/manual/html_node/Arrays.html#Arrays | title = Bash Reference Manual: Arrays | accessdate = 2018-11-02 | year = 2008 | publisher = LFree Software Foundation, Inc. }}</ref> * {{lang|en|[[C++]]}}{{---}}標準ライブラリのクラス<code>std::map</code>として提供されている{{---}}{{code|lang=d|std::map<std::string, int, std::less<>> m;}}。これはハッシュではなく[[二分木]]により実装されている。ハッシュを用いた <code>std::unordered_map</code> も提供される{{---}}{{code|lang=d|std::unordered_map<std::string, int> um;}}。 * [[D言語]]{{---}}{{code|lang=d|int[string] b;}}が、文字列をキーとして整数を値とする連想配列<var>b</var>の宣言である。 * {{lang|en|[[ECMAScript]]}} ({{lang|en|[[JavaScript]]}}){{---}}すべてのObjectが、文字列あるいはシンボルをキーとする連想配列として扱われる。MapとWeakMap型だとキーを任意のオブジェクトにすることができる。 * [[Go (プログラミング言語)|Go]]{{---}}{{code|lang=go|map[string]int}}が、文字列をキーとして整数を値とする連想配列の型定義である。 * [[Interactive Data Language]] * [[korn]] * {{lang|en|[[Icon言語|Icon]]}} * {{lang|en|[[Java]]}}{{---}}{{lang|en|[[Java Platform, Standard Edition]]}}標準パッケージの<code>{{Javadoc:SE|java/util|Map}}</code>, <code>{{Javadoc:SE|java/util|HashMap}}</code>, <code>{{Javadoc:SE|java/util|TreeMap}}</code>, <code>{{Javadoc:SE|java/util|LinkedHashMap}}</code>, <code>{{Javadoc:SE|java/util|Hashtable}}</code> で提供。その他 {{lang|en|[[Apache Commons Collections]]}} などでも提供。 * {{lang|en|[[LISP]]}}{{---}}古典的にはキーとデータで構成された cons セル<ref><code>car</code>, <code>cdr</code>と呼ばれる二つデータが組になった、2-[[タプル]]のデータ構造</ref>のリスト、たとえば {{code|lang=lisp|(list (cons 'en "Hello") (cons 'fr "Bonjour"))}}、を連想配列として利用した(<code>car</code>部をキーに<code>cdr</code>部をデータ、またはその逆)。これを便利に扱うための関数(<code>assoc</code>, <code>rassoc</code>)が提供されている。[[Common Lisp]]においてはハッシュ関数を利用した連想配列が提供されており、<code>make-hash-table</code>関数によってオブジェクトを生成でき、<code>gethash</code>関数とと<code>setf</code>マクロの組み合わせによってキーと値のペアを操作できる。 * {{lang|pt|[[Lua]]}}{{---}}表{{code|lang=lua|tbl {{=}} {{(}}en {{=}} "Hello", fr {{=}} "Bonjour"{{)}}}}として宣言し,{{code|lang=lua|print(tbl["idx1"])}}のように参照する<ref>{{cite web | url = https://www.lua.org/manual/5.3/manual.html#3.4.9 | title = Lua 5.3 Reference Manual | accessdate = 2018-11-02 | year = 2018 | publisher = Lua.org, PUC-Rio. }}</ref>。 * {{lang|en|[[.NET Framework]]}} ([[C Sharp|C#]],[[Microsoft Visual Basic .NET|VB.NET]],[[F Sharp|F#]]) - <code>System.Collections.Hashtable</code>, <code>System.Collections.Specialized.ListDictionary</code>, <code>System.Collections.Specialized.HybridDictionary</code>, <code>System.Collections.Generic.Dictionary</code>にて提供。(ただし <code>Dictionary</code> は CLR 2.0 以降) * {{lang|en|[[PL/SQL]]}}{{---}}結合配列 ([[Oracle Database]] 9i 以降) * [[PHP (プログラミング言語)|PHP]] - 配列と連想配列の区別がない * {{lang|en|[[Python]]}}{{---}}辞書{{code|lang=python|dict {{=}} {{(}}"en": "Hello", "fr": "Bonjour"{{)}}}}として宣言し,{{code|lang=python|print(dict["idx1"])}}のように参照する<ref>{{Cite web|和書 | url = https://docs.python.org/ja/3/tutorial/datastructures.html#dictionaries | title = 5. データ構造 — Python 3.7.1 ドキュメント | accessdate = 2018-11-02 | year = 2018 | publisher = Python Software Foundation }}</ref>。 * {{lang|en|[[Perl]]}}{{---}}<code>%</code>ではじまる変数が連想配列だが、個別の要素には{{code|lang=perl|$hash{$key{{)}}}}で参照する。同言語で連想配列を([[ハッシュ値]]を使うその実装方法にちなんで)「ハッシュ」と呼び始めたことから、「ハッシュ」が連想配列の別名として定着した。 * {{lang|en|[[REXX]]}} * {{lang|en|[[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]}}{{---}}組み込みのクラス <code>Hash</code> で提供 * {{lang|en|[[Smalltalk]]}} * {{lang|en|[[SNOBOL]]}} * {{lang|en|[[Swift (プログラミング言語)|Swift]]}} * {{lang|en|[[Microsoft Visual Basic|Visual Basic]]}}{{---}}<code>Scripting.Dictionary</code>で提供 * {{lang|en|[[Visual Basic for Applications]]}}{{---}}<code>Scripting.Dictionary</code>で提供<ref>{{Cite web|和書 | date=2019-04-02 | url = https://docs.microsoft.com/ja-jp/office/vba/language/reference/user-interface-help/dictionary-object | title = Dictionary オブジェクト | work=Office デベロッパー センター | accessdate = 2020-01-06 }}</ref> == 脚注 == === 註釈 === {{Reflist|group="註"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ルックアップテーブル]] * [[メモ化]] {{データ構造}} {{データ型}} {{デフォルトソート:れんそうはいれつ}} [[Category:抽象データ型]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E6%83%B3%E9%85%8D%E5%88%97
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バルカン半島
バルカン半島(バルカンはんとう、Balkan Peninsula)、またはバルカン(Balkans)は、東南ヨーロッパにある地理的領域であり、地理的・歴史的に様々な意味合いと定義付けの下で使用される概念である。名称はバルカン山脈からきている。この山脈はセルビアとブルガリアの国境から黒海沿岸まで、ブルガリア全土を横断している。バルカン半島は北西をアドリア海に、南西をイオニア海に、南と南東をエーゲ海に、そして東と北東を黒海によって区切られている。北側の境界は論者と文脈によって様々に定義されていて不定である。バルカン半島の最高地点はリラ山地(英語版)にあるムサラ山(2925メートル)である。 バルカン半島という概念はドイツの地理学者アウグスト・ツォイネ(英語版)によって1808年に創り出された。彼はバルカン山脈がディナル・アルプス山脈と共にアドリア海から黒海まで東南ヨーロッパを区分していると誤認していた。この地域はかつてオスマン帝国の属領であり、バルカン半島という用語は19世紀にはヨーロッパ・トルコ(European Turkey)の同義語であった。バルカン半島という言葉は地理学的というよりもむしろ地政学的定義を持っており、この傾向は20世紀初頭にユーゴスラヴィア王国が成立するとさらに増した。バルカン半島を定義する自然境界が「半島」の学術的定義と一致していないため、現代の地理学者は「バルカン半島」という考え方を拒絶しており、通常はバルカンを「地域」として議論を行っている。この言葉には(特に1990年代以降)バルカニゼーション(バルカン化)のプロセスと関連して徐々に否定的・侮蔑的意味合いを含むようになっており、そのために東南ヨーロッパ(南東ヨーロッパ)という別の用語が使用されている。 バルカン(Balkan)という言葉はオスマン語のbalkan(森深い山の連なり)から来ている。これに関連する用語は他のテュルク系言語でも見られる。このテュルク語の単語の語源ははっきりしないが、恐らくペルシア語のbālk(泥)とテュルク語の接尾辞an(湿地の森)、またはペルシア語のbalā-khāna(巨大で高い家)と結びつけられるだろう。 古典古代から中世までを通じて、バルカン山脈は現地のトラキア語名であるハイモスという名前で呼ばれていた。ギリシャ神話によれば、このトラキアの王ハイモスはゼウスによって罰として山に変えられ、その山に彼の名前が残されたという。語源説も提案されており、D. Dechevはこのハイモス(Haimus、Αἵμος)はトラキア語の*saimon(山の尾根)から派生したと主張している。ハイモスがギリシャ語のhaima(αἷμα、血液)から派生したという説もある。この神話はゼウスと怪物/巨人のテュポーンとの戦いに関するもので、ゼウスは雷撃によってテュポーンを負傷させ、その血が山の上に落ちたため、血を意味する単語から山の名前がつけられたという。 バルカンという地名への言及の最も早い例は14世紀のアラブの地図に見られ、ハイモス山地(英語版)がバルカン(Balkan)という名前で示されている。西欧において「バルカン」という名称でこのブルガリアにある山地を指して使用していることが証明される最初の用例は、1490年にイタリアの人文学者・作家・外交官であるBuonaccorsi Callimacoが教皇インノケンティウス8世へ向けて送った手紙の中にあるものである。オスマン帝国による最初の用例は1565年の日付を持つ文書にあるものである。他のテュルク系部族が既にこの半島に居住するか、あるいは通過していたが、バルカンという用語でこの地域をさしたこれよりも古い文書は存在しない。バルカンの名はまた、初期のブルガール人のテュルク語に起源をもつという説も主張され、ブルガリアで人気がある。しかし、これは非学術的な俗説に過ぎない。バルカンという名称はオスマン帝国のルメリアで使用されており、Kod̲j̲a-Balkan、Čatal-Balkan、Ungurus-Balkani̊のように山一般を示す意味で使用されていたが、特にハイモス山地を指して使用される場合が多かった。この名前は中央アジアにもBalkan Daglary(バルカン山地)、およびトルクメニスタンのバルカン州の名称として残存している。イギリス人旅行者ジョン・モリット(英語版)はこの名称を18世紀の終わりにイギリス文学に導入し、またほかの著作家もアドリア海と黒海の間の広い地域を指す名称として使用するようになった。「バルカン」の概念はドイツの地理学者アウグスト・ツォイネ(英語版)によって1808年に創り出された。彼はバルカン山脈がアドリア海から黒海まで延びる東南ヨーロッパの中核的山岳地形であると誤って認識していた。1820年代の間に「イギリスの旅行者の間で、なおハイモスと併用されている状況ではあったものの、バルカンという名称は優先的に使用される地名となった。...古典的な地名に慣れ親しんでいないロシア人旅行者の間ではバルカンは好んで使用された用語であった。」 バルカンという用語は19世紀半ばまで一般的に地理学的文献では使用されていなかった。これはカール・リッターのような科学者たちが、バルカン山脈より南側だけが半島と考えることが可能であり、これは「ギリシャ半島」と改名されるだろうという注意喚起を行っていたためである。ツォイネに同意しない他の目立った地理学者たちにはヘルマン・ワーグナー(英語版)、テオバルド・フィッシャー(英語版)、マリオン・ニュービアン(英語版)、アルブレヒト・ペンクがおり、同時にオーストリアの外交官ヨハン・ゲオルク・フォン・ハーン(英語版)は1869年にバルカン地域を「Südostereuropäische Halbinsel(南東ヨーロッパ半島)」という言葉で表した。バルカンという用語が一般的に受け入れられなかった別の理由には、ヨーロッパ・トルコという用語が同一の領域を定義していたことがある。しかし、ベルリン会議(1878年)の後には新たな用語が政治的に必要とされ、徐々にバルカンという用語が定着していった。だが、バルカンの地図上の北境はセルビアとモンテネグロにあり、ギリシャは含まれていなかった(バルカンとはヨーロッパのオスマン帝国支配下にある部分のみを描写するものであった)。また、ユーゴスラヴィアの地図ではクロアチアとボスニアが含まれていた。バルカン半島という用語はヨーロッパ・トルコの同義語であり、その政治的境界はかつてのオスマン帝国の属領のものであった。 バルカンという言葉の使用法は19世紀末から20世紀の始まり頃に変化し、その用法はセルビアの地理学者たち(最も注目されるのはヨヴァン・ツヴィイッチ(英語版))によって受け入れられた。これは南スラヴの領域全てに対する権利を主張するセルビア民族主義を背景とした政治的理由からくるものであった。セルビア民族主義においては南スラヴの人類学的、民族学的研究も通して様々な民族主義的・人種主義的理論が展開された。このような政策とユーゴスラヴィアの地図を通して、バルカンという用語は現代のような地理的領域を説明する用語として確立された。この用語は19世紀後半から第一次世界大戦後のユーゴスラヴィア(1918年当初はセルブ・クロアート・スロヴェーン王国)の建設にいたる政治的変動を受けて、初期の地理的意味合いから遠く離れた政治的・民族主義的意味を獲得した。1991年6月から始まったユーゴスラヴィア崩壊の後、「バルカン」という用語は(特にクロアチアとスロヴェニアにおいて)ネガティブな政治的意味合いを持つようになり、世界的にも武力衝突と領土の断片化を指して自然に使用されるようになった(バルカニゼーションを参照)。 「バルカン」という言葉が内包する歴史的・政治的意味合いなどのために、特にバルカンの西半で争われた1990年代のユーゴスラビアの紛争のために、「東南ヨーロッパ」という用語がますます好まれるようになっている。1999年のヨーロッパ連合(EU)のイニシアティブは南東欧安定化協定と呼ばれ、オンライン紙『バルカン・タイムズ(Balkan Times)』は2003年に『サウスイースト・ヨーロピアン・タイムス(英語版)(Southeast European Times)』に改名した。 各国の言語でこの地域(半島)は以下のように呼ばれている。 バルカン半島は西をアドリア海、南を地中海(イオニア海とエーゲ海を含む)とマルマラ海に、東を黒海によって区切られている。北側の境界は常に論争の種であり、文脈により論者により様々な定義が用いられる。20世紀初頭のセルビア人地理学者・民族学者ヨヴァン・ツヴィイッチ(英語版)はドナウ川とサヴァ川を北限とし、ツォイネはバルカン山脈(彼の考えではディナル・アルプス山脈まで続いていた)を北限としていた。現代のハンガリーとルーマニア、そしてスロベニアをバルカン半島(あるいはバルカン)に含めるかどうかも重要な問題であるが一定の基準は存在しない。バルカンと呼ばれる領域は、多少の違いはあるものの、東南ヨーロッパとして知られる領域とほぼ同じである。 1920年から第二次世界大戦まで、イタリアはイストリアとダルマツィアの複数の地域(ザラ、現:ザダルなど)といったバルカン半島の一般的な定義の中に含まれる領域を保有していた。現代のイタリアの領土ではトリエステ近郊の極小さな領域だけがバルカン半島の中にある。しかし、イタリアの地理学者たちは通常バルカンの西の境界をクパ川と定義し、トリエステおよびイストリア地域をバルカンの一部とはみなしていない。 ドナウ川-サヴァ川を境界とした時の各国の自国領土総面積に対するバルカン半島のシェア(括弧内は比率)。ブルガリアとギリシャでほぼバルカン半島の半分の領域を占める。 全領土がバルカン半島内: 大部分・または一部のみバルカン半島内 「バルカン諸国(the Balkans)」はより一般的にこの地域を指す用語として用いられる。この言葉で呼ばれる地域は「バルカン半島」の領域を越えて広がっており、また半島自体の地理によって定義されていない。 バルカン諸国には通常アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリア、クロアチア、コソボ、北マケドニア、モンテネグロ、ルーマニア、セルビア、ギリシャ、そしてスロベニアが含まれると言われている。これらの総面積は普通、666,700平方キロメートル(257,400平方マイル)とされており、総人口は59,297,000人(2002年推計)である。 イタリアはバルカン半島の極一部を保有しているが、「バルカン諸国」の範囲に含まれることはない。 「東南ヨーロッパ」という用語もまたこの地域を指して使われ、多様な定義を持つ。個々のバルカン諸国もまた南ヨーロッパや東ヨーロッパといった他の地域の一部であるともみなされている。クロアチア、ルーマニア、セルビア、スロベニアはまた頻繁に中央ヨーロッパの一部ともみなされる。トルコはしばしばヨーロッパの一部に含まれるが、同時に西アジアまたは西南アジアの一部でもある。 西バルカン諸国(Western Balkans)はスロベニアを除く旧ユーゴスラビア諸国とアルバニアを指し示すために作られた政治的な新語であり、1996年頃から使用されている。 ヨーロッパ連合(EU)の諸機関は一般に「西バルカン諸国(Western Balkans)」という用語をEUに加盟していないバルカン地域という意味で使用しており、それ以外では地理的側面において使用されている。 西バルカン諸国はそれぞれ、将来のヨーロッパ連合の拡大(英語版)の対象となることを目標に、民主主義と情報伝達の得点目標(transmission score)を達成することを目指している。しかし、それが達成されるまでに、これらの国々はEU加盟前のプログラムであるCEFTAで強く結びつけられるであろう。西バルカン諸国の一部と考えられていたクロアチアは2013年7月にEUに加盟した。 バルカン半島という用語はヨーロッパ南東部の多民族の政治的領域を指し示す用語として、地理的ではなく地政学的に定義されているという批判がある。地理学的用語としての半島は水域による境界が陸地境界よりも長くなければならず、また陸地側の境界はそれを構成する三角形の中で最短でなければならない。だが、これはバルカン半島に当てはまらない。オデッサからマタパン岬(約1230-1350キロメートル)と、トリエステからマタパン岬まで(約1270-1285キロメートル)という東と西の水域の隣辺はトリエステからオデッサに至る陸地の隣片(約1330-1365キロメートル)よりも短い。学術的に半島であると言い切るには大陸とつながる陸地の境界線が長すぎる。オデッサからの距離はトリエステよりもバルト海沿岸のシュテッティン(920キロメートル)やロストック(950キロメートル)が近いが、それでもその西側の陸地は別個のヨーロッパ半島とはみなされていない。19世紀末-20世紀初頭の文献においては、半島と大陸の間の正確な境界が知られていなかったので,、河川がそれを定義しているものとみなしてよいかどうかという問題もある。研究においては、バルカンの自然境界、特にその北部の境界はしばしば言及を避けられ、André Blancは『バルカンの地理(Geography of the Balkans)』(1965年)で「厄介な問題」としている。また、ジョン・ランプ(John Lampe)とマーヴィン・ジャックマン(Marvin Jackman)は『バルカン経済史(Balkan Economic History)』(1971年)において、「現代の地理学者たちは『バルカン半島』という古い考え方を捨て去ることに合意していると思われる」と述べている。バルカン山脈の大部分が北部ブルガリアに位置していることからバルカンという名前には別の問題がある。この山脈はディナル・アルプス山脈と異なり、その長さと領域において地域を支配するような地形ではない。最終的な結論としてバルカン半島は「ギリシャ=アルバニア半島(Greek-Albanian Peninsula)」と名付けられ得るであろうバルカン山脈の南側の領域と考えることができるが、しかしギリシャは地理学的にも国際関係においてもバルカンとは別枠で取り扱われることも珍しくない。バルカン半島という用語は「東南ヨーロッパ」の意味に影響を与えているが、この用語もまた地理的要因による明確な定義はされておらず、その境界はつまるところバルカンの歴史的な境界である。 クロアチアの地理学者とアカデミズムはバルカンの地理学的、社会政治学的、歴史学的文脈の中にクロアチアを包含することについて極めて批判的であり、同時に「西バルカン諸国」という新造語はヨーロッパの政治権力によるクロアチアへの侮辱として認識されている。M. S. Altićによれば、この「西バルカン諸国」という用語には2つの異なる意味があり、「1つは地理学的意味であって、これは究極的には未だ定義されていない。もう1つは文化的意味であって、これは極めてネガティヴであり、また近年の政治的状況に強い影響を受けている」という。クロアチア大統領コリンダ・グラバル=キタロヴィッチは2018年に、「西バルカンという用語は地理的意味だけではなく、ネガティヴな意味合いを含むため使用しない。西バルカンと呼ばれる地域はヨーロッパの一部であり東南ヨーロッパと呼ぶべきことが知覚されねばならない」と声明を出した。 バルカンの大部分は北西から南東に向けて走る山岳地帯に覆われている。主たる山地はバルカン山脈であり、ブルガリアの黒海沿岸からセルビアの国境線まで伸びる。ロドピ山脈がブルガリア南部と北部ギリシャに、ディナルアルプス山脈がボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、そしてモンテネグロに伸びている。シャル山脈(英語版)の山地がアルバニアから北マケドニアにかけて、ピンドス山脈が南アルバニアから中央ギリシャにかけて、プロクレティエ山地(英語版)(アルバニア・アルプス)まで広がっている。バルカンの最も高い山はブルガリアのリラ山脈(英語版)のムサラ山であり、標高は2925メートルである。ギリシャにあるオリンポス山は標高2917メートルで第二位であり、ブルガリアのヴィフレン山(英語版)が標高2914メートルで第3位である。カルスト地形またはポリエはバルカンの山地の景観における一般的な特徴である。 バルカンのアドリア海とエーゲ海の沿岸の気候は地中海性であり、黒海沿岸では温暖湿潤気候と海洋性気候、内陸部では湿潤大陸性気候となる。バルカン半島の北部と山岳地帯では冬は冷え込み降雪がある。一方で夏は暑く乾燥している。南部の冬は穏やかである。具体的には、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、北部クロアチア、ブルガリア、コソヴォ、北マケドニア、北部モンテネグロ、アルバニア内陸部、そしてセルビアは湿潤大陸性気候が優勢であるが、それ以外の地域ではそうではない。温暖湿潤気候と海洋性気候の地域はブルガリアとヨーロッパ・トルコの黒海沿岸で見られる。アルバニア沿岸部とクロアチア沿岸部、ギリシャ、南部モンテネグロ、ヨーロッパ・トルコのエーゲ海沿岸部は地中海性気候である。 数世紀に渡り森林の伐採が進み、植生は低木に切り替わった。バルカン南部と沿岸部では常緑樹の植生がある。内陸部の木々は典型的な中央ヨーロッパのそれ(オークとブナ、山地ではトウヒとモミ、そしてマツ)である。山地の森林限界線は標高1800メートルから2300メートルにある。バルカンの土地は多くの固有種の生息地となっている。また極めて豊富な昆虫と爬虫類の生息地ともなっており、多様な猛禽類と貴重なハゲタカの食糧源となっている。 土壌は一般的に痩せている。天然の草原が広がる平野部は例外で、肥えた土壌と温暖な夏のため耕作に適している。それ以外の土地では、山地、酷暑、土壌の貧困のために農業はほとんど成立しないが、オリーヴやブドウなど特定種の生産は栄えている。 相当量の石炭、鉛、亜鉛、クロム、そして銀の鉱床があるコソヴォを例外として、エネルギー資源は乏しい。炭鉱は他の地域、特にブルガリア、セルビア、ボスニアにも存在する。亜炭の鉱床はギリシャに広く存在する。ギリシャ、セルビア、アルバニアの石油埋蔵量は少ない。天然ガスのガス田もまた乏しい。水力は広く利用され、1,000以上のダムが存在する。しばしば吹き付けるボーラ(この地域で北、北東から吹く滑降風)も風力発電に活用されている。 その他の資源と比べ金属資源はより豊富である。鉄鉱石は希少であるが、いくつかの国には多量の銅、亜鉛、スズ、クロム鉄鉱、マンガン、マグネシウム、そしてボーキサイトが存在する。これらの一部は輸出されている。 バルカン地方は新石器時代の農耕文化がヨーロッパで最初に到来した地方である。バルカンには旧石器時代から人類が居住しており、新石器時代(紀元前7千年紀)の間に中東からヨーロッパへバルカンを経路として農業が伝わった。穀物を栽培し家畜を育てる習慣は肥沃な三日月地帯からアナトリアを経てバルカンに伝わり、特にこの半島を通じてさらに西と北へ、中央ヨーロッパへと広がった。スタルチェヴォ文化(英語版)とビンチャ文化(英語版)という、二つの初期の文化的複合体がバルカンで発達した。バルカンはまた、最初の先進的な文明を育んだ場所でもある。ビンチャ文化はシュメール文明とミノア文明以前に原文字の形態を発達させた。これはOld European scriptとして知られている。これに使用されるシンボルの大半は前4500年から前4000年の間に創られたが、タルタリアの粘土板にあるものは前5300年頃まで遡る。 バルカンという概念の素性(identity)はその地理的位置によって支配されている。歴史的にこの地域は文化の十字路であった。この地はローマ帝国におけるラテンとギリシャの境界であり、異教徒ブルガール人とスラヴ人の大規模な移住先でもあった。同時に正教会とカトリックという2つのキリスト教宗派が向き合う場であり、イスラーム教とキリスト教の間の邂逅の場でもあった。 前古典期と古典古代にはバルカン地域はギリシャ人、イリュリア人、パエオニア人(英語版)、トラキア人、ダキア人、そして他の古代の「民族」の居住地であった。ハカーマニシュ朝(アケメネス朝)の版図には前6世紀末と前5世紀前半の間バルカンのマケドニア、トラキア、ブルガリア、そしてルーマニアの黒海沿岸地方が含まれていた。ローマ帝国による征服の後半にはローマ文化とラテン語がバルカンの大部分に普及したが、重要な部分ではなお古代ギリシャの影響の下にあった。ローマ帝国はロドピ山脈をハエムス半島の北限だと考えており、ラテン語とギリシャ語の使用も同じ境界が適用される(後にイレチェク線(英語版)と呼ばれた)。しかし、イレチェク線の南側の空間の大部分に過去も現在もロマンス語話者のヴラフ人(アルーマニア人)が居住している。ブルガール人とスラヴ人は6世紀頃に到来して1つに同化し始め、なおかつ既に(ローマ化とヘレニズム化を通じて)一体化していたバルカン北部と中央部の古い住民たちを追放し、ブルガリア帝国を形成した。中世の間、バルカンは東ローマ帝国とブルガリア人の帝国の一連の戦争の舞台となった。 16世紀の終わりまでに、オスマン帝国はアナトリアからトラキアを経由してバルカンに拡張し、この地域の支配権力となった。バルカンの多くの住民はこのオスマン帝国の拡張と後退の時代に偉大な民族的英雄を置いている。例えば、ギリシャ人はコンスタンティノス11世パレオロゴスとテオドロス・コロコトロニス(英語版)。セルビアはミロシュ・オビリッチとラザル・フレベリャノヴィチ、モンテネグロ人はĐurađ I Balšićとイヴァン・ツルノイェヴィチ(英語版)、アルバニア人はジェルジ・カストリオティ・スカンデルベグ、マケドニア人はNikola Karev、とゴツェ・デルチェフ、ブルガリア人はヴァシル・レフスキ、Georgi Sava Rakovski、フリスト・ボテフ、そしてクロアチア人はニコラ・シュビッチ・ズリンスキと言った具合である。 過去数世紀に渡り、頻繁にヨーロッパ内でのオスマン帝国の戦争(英語版)がバルカン及びその周辺で戦われたことと、オスマン帝国がヨーロッパの商業的発展の中枢から(ヨーロッパの商業と政治の中心が徐々に大西洋に移動したことを反映して)比較的孤立していたために、バルカン諸国はヨーロッパの中でも発展が遅れた地方となった。Halil İnalcıkによれば、「バルカン諸国の人口はある推計によれば、16世紀後半にはピークの800万人から減少し、18世紀半ばには300万人しかいなかった。この推計はオスマン帝国の文書史料に基づいている。」 バルカンの国民国家の大部分は19世紀から20世紀初頭にかけてオスマン帝国かオーストリア=ハンガリー二重帝国から独立して登場した。ギリシャは1821年、セルビアとモンテネグロは1878年、ルーマニアは1881年、ブルガリアは1908年、アルバニアは1912年である 1912年から1913年にかけて第一次バルカン戦争が勃発し、ブルガリア、セルビア、ギリシャ、そしてモンテネグロは一致してオスマン帝国に対するバルカン同盟を結んでいた。この戦争の結果、オスマン帝国がヨーロッパに未だ保持していた残存領土の大部分が占領され、同盟諸国に分割された。講和交渉の過程で独立したアルバニア人国家の創設が決まったが、アルバニア併合を期待していたセルビアとギリシャはその代償としてマケドニアの領有を要求した。ブルガリアは露土戦争 (1877年-1878年)以来マケドニア領有を追求し、戦時中にこれを占領していたブルガリアはこれに反発した。セルビアとギリシャは秘密同盟を締結してブルガリアを攻撃し、第2次バルカン戦争が開始された。モンテネグロ、ルーマニアもブルガリアを攻撃し、ブルガリア軍は崩壊した。オスマン帝国もこの機会を捉え東トラキアを再占領し新たな西方の境界線を確立した。この線はトルコの国境の一部となっている。 1914年に主にセルビア人とユーゴスラヴの賛同者を中心とする革命組織青年ボスニア(英語版)のメンバーがオーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子フランツ・フェルディナンドをボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで暗殺した時、第一次世界大戦が勃発した。この事件によって両国間の戦争が引き起こされ、当時存在していた二つの同盟関係の鎖を通じて第一次世界大戦に至った。オスマン帝国はすぐに中央同盟国に加わり、この同盟に参加する3つの帝国の1つとなった。翌年にはブルガリアが中央同盟国に加わり、1年にわたりオーストリア=ハンガリー二重帝国との戦いで成功を収めていたセルビアを攻撃した。これはセルビアの敗北と連合国のバルカン諸国への介入に繋がり、連合国は新たな戦線、特にマケドニア戦線を構築するために軍を派遣した。これは第一次世界大戦における第3の戦線となり、東西の戦線と同じくすぐに膠着した。開戦から3年後、ギリシャが協商側に立ってこの大戦に加わり、これは1918年に最終的にドイツ-ブルガリアの共同戦線を崩壊させ、両軍の軍事バランスを変更させることに繋がった。これがブルガリアの大戦からの離脱を引き起こし、更にはオーストリア=ハンガリー二重帝国の崩壊と第一次世界大戦の終結へと繋がった。 第二次世界大戦の開始とともに、ギリシャを例外として全てのバルカン諸国はナチス・ドイツと同盟を結び、二間軍事協定を結ぶか枢軸国の一部として加わった。ファシスト・イタリアはアルバニア保護領をギリシャへの侵攻拠点として利用し、この戦争をバルカンで拡大させた。この攻撃を撃退した後、ギリシャ人は反撃に出てイタリアが保有していたアルバニアに侵入したが、イタリアを助けてナチス・ドイツがバルカンへ介入した。ドイツの侵攻前に、ベオグラードでクーデターが成功し、中立派の軍人が権力を握った。新政府は枢軸国の一員としての義務を全うするというセルビアの意向を再確認したものの、ドイツはブルガリアと共にギリシャとユーゴスラヴィアに侵攻した。セルビア王の臣下とクロアチアの部隊が離反するとユーゴスラビアはたちまち崩壊した。ギリシャは抵抗したが、2ヶ月間戦った後に崩壊し占領された。この両国はブルガリア、ドイツ、イタリアという3つの枢軸国及び、イタリアとドイツの傀儡国家クロアチア独立国によって分割された。 占領下において人々は抑圧と飢餓によって大きな苦難を体験し、これに対して大規模な抵抗運動(レジスタンス)が組織された。その年の初頭の厳冬(これは栄養失調の間で数十万人の死者を出した)は、ドイツのロシア侵攻計画のタイムテーブルを大幅に遅延させ、ドイツの侵攻に重大な影響を及ぼした。この遅れは戦争の経過に重大な影響を及ぼした。 最終的に、1944年の終わりにソビエト軍がルーマニアとブルガリアに入り、ドイツ軍をバルカンから蹴散らした。ドイツ軍による戦時中の搾取の結果として、大部分が荒廃した地域が残された。 冷戦の最中、バルカン諸国の大半は共産主義政権によって統治された。ギリシャは最初の冷戦の舞台となった。トルーマン・ドクトリンは1944年から1949年まで荒れ狂ったギリシャ内戦に対するアメリカの反応であった。隣接する諸国(アルバニア、ブルガリア、ユーゴスラビア)の共産主義者の義勇兵によって支援されたギリシャ共産党によって解き放たれたこの内戦は、アメリカに非共産主義ギリシャ政府への大規模な支援を促した。この支援を受けてギリシャはパルチザンを撃破することに成功し、最終的にこの地域におけるただ一つの非共産主義国家として残存した。 しかしながら、共産主義政権下にあるにもかかわらず、ユーゴスラヴィア(1948年)とアルバニア(1961年)はソヴィエト連邦から離反した。ヨシップ・ブロズ・チトー(1892年-1980年)政権下のユーゴスラヴィアは最初に支援を受け、その後ブルガリアと合併するという案を拒否し、むしろ西側との緊密な関係を求め、率先してインドやエジプトと共に非同盟運動を主導することさえした。他方でアルバニアは共産主義中国に引き寄せられ、後に孤立主義を採用した。 唯一の非共産主義国としてギリシャ、トルコは(今なお)NATOの一部としてこの同盟の南東翼を形成している。 1990年代、この地域の国々はユーゴスラビアを除き旧ソビエト圏から自由経済社会へと平和的に移行した。スロベニアとクロアチアが自由選挙を実施し、国民投票で独立が決定された後、旧ユーゴスラヴィア諸国の間の戦争が勃発した。次いでセルビアは連邦の解消は違憲であると宣言し、ユーゴスラビア連邦軍が現状維持を試みたが成功しなかった。スロベニアとクロアチアは1991年7月25日に独立を宣言し、続いて十日間戦争がスロベニアで戦われた。1991年10月までに連邦軍はスロヴェニアとクロアチアから撤退したが、クロアチア独立戦争は継続し、1995年まで続いた。続く10年間の武力紛争の中で次第に他の全ての共和国が独立を宣言していった。一連の紛争で最大の影響を被ったのはボスニアである。長期に渡る戦争の結果、国連が介入と、陸・空からのNATOによるボスニア介入(英語版)が行われ、ボスニア・ヘルツェゴビナとセルビアのセルビア軍に対して空爆が実施された。 ユーゴスラヴィアの崩壊により、6つの共和国が主権国家として国際的な承認を得た。これらの国々、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、モンテネグロ、そしてセルビアは伝統的にバルカン諸国の中に含まれている。2008年、国連の管理下においてコソヴォが独立宣言を行った(セルビアの公式見解ではコソボは今なお同国の自治区である)。2010年7月、国際司法裁判所はこの独立宣言は合法であるという判決を出した。大部分の国連加盟国がコソボを承認している。一連の戦争の終結後、セルビアで革命(英語版)が起き、セルビア共産党のリーダー、スロボダン・ミロシェヴィッチ(1989から2000年まで大統領を務めた)はユーゴスラビア内戦中の人道に対する罪で国際戦犯法廷に送られ裁判にかけられた。ミロシェヴィッチは判決が下されるより先に、2006年に心臓発作で死亡した。2001年、マケドニア共和国で発生したアルバニア人の蜂起によってセルビアは北マケドニアにおけるアルバニア人(英語版)の支配地域に自治権を与えることを余儀なくされた。 ユーゴスラビアの崩壊と共に旧連邦構成国であったマケドニア共和国が国際的に承認される際の名称を巡る問題がマケドニア共和国とギリシャの間で浮かび上がった。マケドニア共和国がユーゴスラヴィアの一部(北マケドニアを参照)であったことから、この旧連邦共和国はユーゴスラヴ人意識の下でマケドニア社会主義共和国という名前を持ち、その名前で1991年に独立を宣言した。ギリシャは同一の名前を持つ広大な領土を保持していた(マケドニア (ギリシャ)を参照)。そしてマケドニアという名称はギリシャに帰属することを主張し、また新マケドニア国家が在外マケドニア人の保護規定を憲法に設けたことから、「解決済み」の領土問題や「存在しない」民族問題を提起するものであるという懸念を示し、国家性(nationality)を示す名称としてこれを使用することに反対した。このマケドニア名称論争は長らく膠着状態に陥っていたが、2018年6月12日に国名を北マケドニア共和国とすることでギリシャと合意し、両国の議会承認等を経て2019年2月12日に改名が発効した。 1981年、ギリシャは欧州諸共同体(現在の欧州連合の前身)に加盟した。その後長らくバルカン地域の国々は欧州統合プロセスとは距離があったが、2004年にスロベニアが、2007年にブルガリアとルーマニアが、2013年にクロアチアが欧州連合(EU)に加盟した。2020年5月現在、トルコ、北マケドニア、モンテネグロ、セルビア、アルバニアがEUの正式な加盟候補国として認定されており、ボスニア・ヘルツェゴビナとコソボがEUの潜在的加盟候補国とみなされている。 ギリシャとトルコは共に1952年からNATOの加盟国である。その後、2004年にブルガリア、ルーマニア、スロベニアが、2009年にアルバニアとクロアチアが、2017年にモンテネグロが、2020年に北マケドニアがNATOに加盟した。 現在、バルカン諸国は全て共和制国家であるが、第二次世界大戦までは全て君主国であった。大部分の共和国は議会共和制を採用しているが、ルーマニアとボスニアは半大統領制である。全ての国が自由市場経済である。大部分が中堅上位の所得水準(一人当たりGNI4,000-12,000米ドル)にあり、クロアチア、ルーマニア、ギリシャ、スロヴェニアは高所得経済(英語版)(一人当たりGNI12,000米ドル以上)である。バルカン諸国は人間開発指数がHighに分類されているが、これら4か国はとりわけ人間開発指数(HDI)がVery Highに分類されている。かつて計画経済を採用していた旧東側諸国とトルコは毎年緩やかに経済成長を遂げていたが、2008年の経済危機(リーマン・ショック)は各国の経済に深刻な影響をもたらし、失業率の急上昇、給与の引き下げ、社会経済システムの混乱が生じた。旧社会主義国ではなく、最も経済的に豊かな国の1つであったギリシャもこれを切っ掛けに深刻な経済・財政危機に陥り、EUやIMFによる救済を受けなければならなかった。その後の混乱のために経済の多くの部分が地下経済へと移行し、その規模は2017年現在、同国のGDPの3分の1にも相当するとも言われている。2012年にギリシャ経済だけは縮小に転じた。 一人当たりGDP(購買力平価)はスロヴェニアが最も高く(36,000米ドル以上)、続いてギリシャ(29,000米ドル)、クロアチアとルーマニア(25,000米ドル)、トルコ、ブルガリア、モンテネグロ、セルビア、北マケドニア(10,000-15,000米ドル)、そしてボスニア、アルバニア、コソヴォ(10,000米ドル以下)の順となる。 1990年代にバルカン諸国で共産主義体制による計画経済が終わりを告げた後、それまで表面化していなかった(あるいは隠されていた)貧困問題が噴出した。体制転換による国家機構の問題がこれに拍車をかけた。ブルガリアやルーマニアなどでは平均寿命が短くなり、貧困線以下の経済水準で暮らす人の数は激増した。21世紀に入った後は一般的にバルカン諸国は経済成長を続けており、こうした問題は若干緩和され、平均寿命も延びつつある。しかし、各国の国内の経済格差は大きく、ルーマニアなどではむしろ日々拡大している。 失業率が最も低いのはルーマニア(10%以下)であり、続いてブルガリア、トルコ、アルバニア(10-15%)、ギリシャ(15-20%)、モンテネグロ、セルビア、ボスニア(20-30%)、北マケドニア(30%以上)、そしてコソヴォ(40%以上)となっている。 黒海も参照 バルカンにはアルバニア人、アルーマニア人、ブルガリア人、ボスニャク人、クロアチア人、ゴーラ人、ギリシャ人、マケドニア人、モンテネグロ人、セルビア人、スロヴェニア人、ルーマニア人、トルコ人が居住し、さらにロマ人やアッシュカリーのようなその他の民族集団が現在、ある国で少数民族として存在している。 バルカンは正教会とイスラーム教、ローマ・カトリックの接点である。正教会はバルカン半島・バルカン地域の最大宗派である。多様な信仰がそれぞれに異なる伝統を実践しており、正教会系の国々は各国が自身の国の教会(national church)を持っている。住民の一部には無宗教を自任するものもいる。 バルカンにおけるユダヤ人のコミュニティ、特に今日のギリシャ地方のそれはヨーロッパで最も古いもので古代にまで遡る。トランシルヴァニア、クロアチア、スロヴェニアのユダヤ人コミュニティはアシュケナジー(東欧系)のものである。バルカンの多くの地域のユダヤ人はセファルディム(スファラディム、レコンキスタ後のスペインから追放、脱出したユダヤ人に起源を持つ)系である。古くからバルカンに居住しギリシャ語を使用していたユダヤ人たちはロマニオテスと呼ばれたが、彼らの多くはセファルディムに同化した。ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは小さく密接に絡み合ったユダヤ人のコミュニティは90%がセファルディムであり、ラディーノ語(Ladino)は今なお高齢者の間で使用されている。サライェヴォにあるセファルディム系ユダヤ人の墓地は独特の形状の墓石を持っており、古代のラディーノ語が刻まれている。セファルディム系ユダヤ人はかつてはテッサロニキで大きな存在感を有しており、1900年までは約80,000人、人口の半分以上がユダヤ人であった。バルカンのユダヤ人コミュニティは第二次世界大戦の間、大きな苦しみを味わい、ホロコーストによって大部分が殺害された。例外はブルガリア系ユダヤ人で、彼らの大部分は強制収容所にユダヤ人を送ることに反対しアドルフ・ヒトラーに抵抗するブルガリア王ボリス3世によって保護された。バルカンのユダヤ人の僅かな生存者たちは(その後)ほとんどが新たに建国されたイスラエルかその他の地域に移住した。今日のバルカン諸国の大部分は重要性のあるユダヤ人少数派はほとんど存在しない。 バルカン地方は今日、民族・言語的に非常に多様な地域であり、複数のスラヴ語とロマンス語を話す人々が住み、またアルバニア語、ギリシャ語、トルコ語、更にその他の言語も使用されている。ロマ語はバルカン諸国全体に居住するロマ人の大部分によって使用されている。歴史を通じて、多くの異なる民族的グループが自身の言語を用いてバルカンに居住していた。そうした人々にはトラキア人、イリュリア人、ローマ人、ケルト人、様々なゲルマン人の部族がいた。テュルク系言語を例外として、過去から現在に至る前述の言語群の全てが、より大きな括りではインド・ヨーロッパ語族に属する(テュルク系言語にはトルコ語、ガガウズ語がある)。 バルカンの国々のほとんどは大部分都市化されており、総人口に対する都市人口の比率が最も低い諸国はコソヴォ(40%以下)、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(40%)、スロヴェニア(50%)である。 各国の大都市の一覧: バルカンのタイムゾーンは以下の通りに定められている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "バルカン半島(バルカンはんとう、Balkan Peninsula)、またはバルカン(Balkans)は、東南ヨーロッパにある地理的領域であり、地理的・歴史的に様々な意味合いと定義付けの下で使用される概念である。名称はバルカン山脈からきている。この山脈はセルビアとブルガリアの国境から黒海沿岸まで、ブルガリア全土を横断している。バルカン半島は北西をアドリア海に、南西をイオニア海に、南と南東をエーゲ海に、そして東と北東を黒海によって区切られている。北側の境界は論者と文脈によって様々に定義されていて不定である。バルカン半島の最高地点はリラ山地(英語版)にあるムサラ山(2925メートル)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "バルカン半島という概念はドイツの地理学者アウグスト・ツォイネ(英語版)によって1808年に創り出された。彼はバルカン山脈がディナル・アルプス山脈と共にアドリア海から黒海まで東南ヨーロッパを区分していると誤認していた。この地域はかつてオスマン帝国の属領であり、バルカン半島という用語は19世紀にはヨーロッパ・トルコ(European Turkey)の同義語であった。バルカン半島という言葉は地理学的というよりもむしろ地政学的定義を持っており、この傾向は20世紀初頭にユーゴスラヴィア王国が成立するとさらに増した。バルカン半島を定義する自然境界が「半島」の学術的定義と一致していないため、現代の地理学者は「バルカン半島」という考え方を拒絶しており、通常はバルカンを「地域」として議論を行っている。この言葉には(特に1990年代以降)バルカニゼーション(バルカン化)のプロセスと関連して徐々に否定的・侮蔑的意味合いを含むようになっており、そのために東南ヨーロッパ(南東ヨーロッパ)という別の用語が使用されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "バルカン(Balkan)という言葉はオスマン語のbalkan(森深い山の連なり)から来ている。これに関連する用語は他のテュルク系言語でも見られる。このテュルク語の単語の語源ははっきりしないが、恐らくペルシア語のbālk(泥)とテュルク語の接尾辞an(湿地の森)、またはペルシア語のbalā-khāna(巨大で高い家)と結びつけられるだろう。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "古典古代から中世までを通じて、バルカン山脈は現地のトラキア語名であるハイモスという名前で呼ばれていた。ギリシャ神話によれば、このトラキアの王ハイモスはゼウスによって罰として山に変えられ、その山に彼の名前が残されたという。語源説も提案されており、D. Dechevはこのハイモス(Haimus、Αἵμος)はトラキア語の*saimon(山の尾根)から派生したと主張している。ハイモスがギリシャ語のhaima(αἷμα、血液)から派生したという説もある。この神話はゼウスと怪物/巨人のテュポーンとの戦いに関するもので、ゼウスは雷撃によってテュポーンを負傷させ、その血が山の上に落ちたため、血を意味する単語から山の名前がつけられたという。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "バルカンという地名への言及の最も早い例は14世紀のアラブの地図に見られ、ハイモス山地(英語版)がバルカン(Balkan)という名前で示されている。西欧において「バルカン」という名称でこのブルガリアにある山地を指して使用していることが証明される最初の用例は、1490年にイタリアの人文学者・作家・外交官であるBuonaccorsi Callimacoが教皇インノケンティウス8世へ向けて送った手紙の中にあるものである。オスマン帝国による最初の用例は1565年の日付を持つ文書にあるものである。他のテュルク系部族が既にこの半島に居住するか、あるいは通過していたが、バルカンという用語でこの地域をさしたこれよりも古い文書は存在しない。バルカンの名はまた、初期のブルガール人のテュルク語に起源をもつという説も主張され、ブルガリアで人気がある。しかし、これは非学術的な俗説に過ぎない。バルカンという名称はオスマン帝国のルメリアで使用されており、Kod̲j̲a-Balkan、Čatal-Balkan、Ungurus-Balkani̊のように山一般を示す意味で使用されていたが、特にハイモス山地を指して使用される場合が多かった。この名前は中央アジアにもBalkan Daglary(バルカン山地)、およびトルクメニスタンのバルカン州の名称として残存している。イギリス人旅行者ジョン・モリット(英語版)はこの名称を18世紀の終わりにイギリス文学に導入し、またほかの著作家もアドリア海と黒海の間の広い地域を指す名称として使用するようになった。「バルカン」の概念はドイツの地理学者アウグスト・ツォイネ(英語版)によって1808年に創り出された。彼はバルカン山脈がアドリア海から黒海まで延びる東南ヨーロッパの中核的山岳地形であると誤って認識していた。1820年代の間に「イギリスの旅行者の間で、なおハイモスと併用されている状況ではあったものの、バルカンという名称は優先的に使用される地名となった。...古典的な地名に慣れ親しんでいないロシア人旅行者の間ではバルカンは好んで使用された用語であった。」", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "バルカンという用語は19世紀半ばまで一般的に地理学的文献では使用されていなかった。これはカール・リッターのような科学者たちが、バルカン山脈より南側だけが半島と考えることが可能であり、これは「ギリシャ半島」と改名されるだろうという注意喚起を行っていたためである。ツォイネに同意しない他の目立った地理学者たちにはヘルマン・ワーグナー(英語版)、テオバルド・フィッシャー(英語版)、マリオン・ニュービアン(英語版)、アルブレヒト・ペンクがおり、同時にオーストリアの外交官ヨハン・ゲオルク・フォン・ハーン(英語版)は1869年にバルカン地域を「Südostereuropäische Halbinsel(南東ヨーロッパ半島)」という言葉で表した。バルカンという用語が一般的に受け入れられなかった別の理由には、ヨーロッパ・トルコという用語が同一の領域を定義していたことがある。しかし、ベルリン会議(1878年)の後には新たな用語が政治的に必要とされ、徐々にバルカンという用語が定着していった。だが、バルカンの地図上の北境はセルビアとモンテネグロにあり、ギリシャは含まれていなかった(バルカンとはヨーロッパのオスマン帝国支配下にある部分のみを描写するものであった)。また、ユーゴスラヴィアの地図ではクロアチアとボスニアが含まれていた。バルカン半島という用語はヨーロッパ・トルコの同義語であり、その政治的境界はかつてのオスマン帝国の属領のものであった。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "バルカンという言葉の使用法は19世紀末から20世紀の始まり頃に変化し、その用法はセルビアの地理学者たち(最も注目されるのはヨヴァン・ツヴィイッチ(英語版))によって受け入れられた。これは南スラヴの領域全てに対する権利を主張するセルビア民族主義を背景とした政治的理由からくるものであった。セルビア民族主義においては南スラヴの人類学的、民族学的研究も通して様々な民族主義的・人種主義的理論が展開された。このような政策とユーゴスラヴィアの地図を通して、バルカンという用語は現代のような地理的領域を説明する用語として確立された。この用語は19世紀後半から第一次世界大戦後のユーゴスラヴィア(1918年当初はセルブ・クロアート・スロヴェーン王国)の建設にいたる政治的変動を受けて、初期の地理的意味合いから遠く離れた政治的・民族主義的意味を獲得した。1991年6月から始まったユーゴスラヴィア崩壊の後、「バルカン」という用語は(特にクロアチアとスロヴェニアにおいて)ネガティブな政治的意味合いを持つようになり、世界的にも武力衝突と領土の断片化を指して自然に使用されるようになった(バルカニゼーションを参照)。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「バルカン」という言葉が内包する歴史的・政治的意味合いなどのために、特にバルカンの西半で争われた1990年代のユーゴスラビアの紛争のために、「東南ヨーロッパ」という用語がますます好まれるようになっている。1999年のヨーロッパ連合(EU)のイニシアティブは南東欧安定化協定と呼ばれ、オンライン紙『バルカン・タイムズ(Balkan Times)』は2003年に『サウスイースト・ヨーロピアン・タイムス(英語版)(Southeast European Times)』に改名した。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "各国の言語でこの地域(半島)は以下のように呼ばれている。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "バルカン半島は西をアドリア海、南を地中海(イオニア海とエーゲ海を含む)とマルマラ海に、東を黒海によって区切られている。北側の境界は常に論争の種であり、文脈により論者により様々な定義が用いられる。20世紀初頭のセルビア人地理学者・民族学者ヨヴァン・ツヴィイッチ(英語版)はドナウ川とサヴァ川を北限とし、ツォイネはバルカン山脈(彼の考えではディナル・アルプス山脈まで続いていた)を北限としていた。現代のハンガリーとルーマニア、そしてスロベニアをバルカン半島(あるいはバルカン)に含めるかどうかも重要な問題であるが一定の基準は存在しない。バルカンと呼ばれる領域は、多少の違いはあるものの、東南ヨーロッパとして知られる領域とほぼ同じである。", "title": "定義と境界" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1920年から第二次世界大戦まで、イタリアはイストリアとダルマツィアの複数の地域(ザラ、現:ザダルなど)といったバルカン半島の一般的な定義の中に含まれる領域を保有していた。現代のイタリアの領土ではトリエステ近郊の極小さな領域だけがバルカン半島の中にある。しかし、イタリアの地理学者たちは通常バルカンの西の境界をクパ川と定義し、トリエステおよびイストリア地域をバルカンの一部とはみなしていない。", "title": "定義と境界" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ドナウ川-サヴァ川を境界とした時の各国の自国領土総面積に対するバルカン半島のシェア(括弧内は比率)。ブルガリアとギリシャでほぼバルカン半島の半分の領域を占める。", "title": "定義と境界" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "全領土がバルカン半島内:", "title": "定義と境界" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "大部分・または一部のみバルカン半島内", "title": "定義と境界" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "「バルカン諸国(the Balkans)」はより一般的にこの地域を指す用語として用いられる。この言葉で呼ばれる地域は「バルカン半島」の領域を越えて広がっており、また半島自体の地理によって定義されていない。", "title": "定義と境界" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "バルカン諸国には通常アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリア、クロアチア、コソボ、北マケドニア、モンテネグロ、ルーマニア、セルビア、ギリシャ、そしてスロベニアが含まれると言われている。これらの総面積は普通、666,700平方キロメートル(257,400平方マイル)とされており、総人口は59,297,000人(2002年推計)である。", "title": "定義と境界" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "イタリアはバルカン半島の極一部を保有しているが、「バルカン諸国」の範囲に含まれることはない。", "title": "定義と境界" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "「東南ヨーロッパ」という用語もまたこの地域を指して使われ、多様な定義を持つ。個々のバルカン諸国もまた南ヨーロッパや東ヨーロッパといった他の地域の一部であるともみなされている。クロアチア、ルーマニア、セルビア、スロベニアはまた頻繁に中央ヨーロッパの一部ともみなされる。トルコはしばしばヨーロッパの一部に含まれるが、同時に西アジアまたは西南アジアの一部でもある。", "title": "定義と境界" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "西バルカン諸国(Western Balkans)はスロベニアを除く旧ユーゴスラビア諸国とアルバニアを指し示すために作られた政治的な新語であり、1996年頃から使用されている。", "title": "定義と境界" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ連合(EU)の諸機関は一般に「西バルカン諸国(Western Balkans)」という用語をEUに加盟していないバルカン地域という意味で使用しており、それ以外では地理的側面において使用されている。", "title": "定義と境界" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "西バルカン諸国はそれぞれ、将来のヨーロッパ連合の拡大(英語版)の対象となることを目標に、民主主義と情報伝達の得点目標(transmission score)を達成することを目指している。しかし、それが達成されるまでに、これらの国々はEU加盟前のプログラムであるCEFTAで強く結びつけられるであろう。西バルカン諸国の一部と考えられていたクロアチアは2013年7月にEUに加盟した。", "title": "定義と境界" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "バルカン半島という用語はヨーロッパ南東部の多民族の政治的領域を指し示す用語として、地理的ではなく地政学的に定義されているという批判がある。地理学的用語としての半島は水域による境界が陸地境界よりも長くなければならず、また陸地側の境界はそれを構成する三角形の中で最短でなければならない。だが、これはバルカン半島に当てはまらない。オデッサからマタパン岬(約1230-1350キロメートル)と、トリエステからマタパン岬まで(約1270-1285キロメートル)という東と西の水域の隣辺はトリエステからオデッサに至る陸地の隣片(約1330-1365キロメートル)よりも短い。学術的に半島であると言い切るには大陸とつながる陸地の境界線が長すぎる。オデッサからの距離はトリエステよりもバルト海沿岸のシュテッティン(920キロメートル)やロストック(950キロメートル)が近いが、それでもその西側の陸地は別個のヨーロッパ半島とはみなされていない。19世紀末-20世紀初頭の文献においては、半島と大陸の間の正確な境界が知られていなかったので,、河川がそれを定義しているものとみなしてよいかどうかという問題もある。研究においては、バルカンの自然境界、特にその北部の境界はしばしば言及を避けられ、André Blancは『バルカンの地理(Geography of the Balkans)』(1965年)で「厄介な問題」としている。また、ジョン・ランプ(John Lampe)とマーヴィン・ジャックマン(Marvin Jackman)は『バルカン経済史(Balkan Economic History)』(1971年)において、「現代の地理学者たちは『バルカン半島』という古い考え方を捨て去ることに合意していると思われる」と述べている。バルカン山脈の大部分が北部ブルガリアに位置していることからバルカンという名前には別の問題がある。この山脈はディナル・アルプス山脈と異なり、その長さと領域において地域を支配するような地形ではない。最終的な結論としてバルカン半島は「ギリシャ=アルバニア半島(Greek-Albanian Peninsula)」と名付けられ得るであろうバルカン山脈の南側の領域と考えることができるが、しかしギリシャは地理学的にも国際関係においてもバルカンとは別枠で取り扱われることも珍しくない。バルカン半島という用語は「東南ヨーロッパ」の意味に影響を与えているが、この用語もまた地理的要因による明確な定義はされておらず、その境界はつまるところバルカンの歴史的な境界である。", "title": "地理的定義に対する批判" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "クロアチアの地理学者とアカデミズムはバルカンの地理学的、社会政治学的、歴史学的文脈の中にクロアチアを包含することについて極めて批判的であり、同時に「西バルカン諸国」という新造語はヨーロッパの政治権力によるクロアチアへの侮辱として認識されている。M. S. Altićによれば、この「西バルカン諸国」という用語には2つの異なる意味があり、「1つは地理学的意味であって、これは究極的には未だ定義されていない。もう1つは文化的意味であって、これは極めてネガティヴであり、また近年の政治的状況に強い影響を受けている」という。クロアチア大統領コリンダ・グラバル=キタロヴィッチは2018年に、「西バルカンという用語は地理的意味だけではなく、ネガティヴな意味合いを含むため使用しない。西バルカンと呼ばれる地域はヨーロッパの一部であり東南ヨーロッパと呼ぶべきことが知覚されねばならない」と声明を出した。", "title": "地理的定義に対する批判" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "バルカンの大部分は北西から南東に向けて走る山岳地帯に覆われている。主たる山地はバルカン山脈であり、ブルガリアの黒海沿岸からセルビアの国境線まで伸びる。ロドピ山脈がブルガリア南部と北部ギリシャに、ディナルアルプス山脈がボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、そしてモンテネグロに伸びている。シャル山脈(英語版)の山地がアルバニアから北マケドニアにかけて、ピンドス山脈が南アルバニアから中央ギリシャにかけて、プロクレティエ山地(英語版)(アルバニア・アルプス)まで広がっている。バルカンの最も高い山はブルガリアのリラ山脈(英語版)のムサラ山であり、標高は2925メートルである。ギリシャにあるオリンポス山は標高2917メートルで第二位であり、ブルガリアのヴィフレン山(英語版)が標高2914メートルで第3位である。カルスト地形またはポリエはバルカンの山地の景観における一般的な特徴である。", "title": "自然と天然資源" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "バルカンのアドリア海とエーゲ海の沿岸の気候は地中海性であり、黒海沿岸では温暖湿潤気候と海洋性気候、内陸部では湿潤大陸性気候となる。バルカン半島の北部と山岳地帯では冬は冷え込み降雪がある。一方で夏は暑く乾燥している。南部の冬は穏やかである。具体的には、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、北部クロアチア、ブルガリア、コソヴォ、北マケドニア、北部モンテネグロ、アルバニア内陸部、そしてセルビアは湿潤大陸性気候が優勢であるが、それ以外の地域ではそうではない。温暖湿潤気候と海洋性気候の地域はブルガリアとヨーロッパ・トルコの黒海沿岸で見られる。アルバニア沿岸部とクロアチア沿岸部、ギリシャ、南部モンテネグロ、ヨーロッパ・トルコのエーゲ海沿岸部は地中海性気候である。", "title": "自然と天然資源" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "数世紀に渡り森林の伐採が進み、植生は低木に切り替わった。バルカン南部と沿岸部では常緑樹の植生がある。内陸部の木々は典型的な中央ヨーロッパのそれ(オークとブナ、山地ではトウヒとモミ、そしてマツ)である。山地の森林限界線は標高1800メートルから2300メートルにある。バルカンの土地は多くの固有種の生息地となっている。また極めて豊富な昆虫と爬虫類の生息地ともなっており、多様な猛禽類と貴重なハゲタカの食糧源となっている。", "title": "自然と天然資源" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "土壌は一般的に痩せている。天然の草原が広がる平野部は例外で、肥えた土壌と温暖な夏のため耕作に適している。それ以外の土地では、山地、酷暑、土壌の貧困のために農業はほとんど成立しないが、オリーヴやブドウなど特定種の生産は栄えている。 相当量の石炭、鉛、亜鉛、クロム、そして銀の鉱床があるコソヴォを例外として、エネルギー資源は乏しい。炭鉱は他の地域、特にブルガリア、セルビア、ボスニアにも存在する。亜炭の鉱床はギリシャに広く存在する。ギリシャ、セルビア、アルバニアの石油埋蔵量は少ない。天然ガスのガス田もまた乏しい。水力は広く利用され、1,000以上のダムが存在する。しばしば吹き付けるボーラ(この地域で北、北東から吹く滑降風)も風力発電に活用されている。", "title": "自然と天然資源" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "その他の資源と比べ金属資源はより豊富である。鉄鉱石は希少であるが、いくつかの国には多量の銅、亜鉛、スズ、クロム鉄鉱、マンガン、マグネシウム、そしてボーキサイトが存在する。これらの一部は輸出されている。", "title": "自然と天然資源" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "バルカン地方は新石器時代の農耕文化がヨーロッパで最初に到来した地方である。バルカンには旧石器時代から人類が居住しており、新石器時代(紀元前7千年紀)の間に中東からヨーロッパへバルカンを経路として農業が伝わった。穀物を栽培し家畜を育てる習慣は肥沃な三日月地帯からアナトリアを経てバルカンに伝わり、特にこの半島を通じてさらに西と北へ、中央ヨーロッパへと広がった。スタルチェヴォ文化(英語版)とビンチャ文化(英語版)という、二つの初期の文化的複合体がバルカンで発達した。バルカンはまた、最初の先進的な文明を育んだ場所でもある。ビンチャ文化はシュメール文明とミノア文明以前に原文字の形態を発達させた。これはOld European scriptとして知られている。これに使用されるシンボルの大半は前4500年から前4000年の間に創られたが、タルタリアの粘土板にあるものは前5300年頃まで遡る。", "title": "歴史と地政学的重要性" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "バルカンという概念の素性(identity)はその地理的位置によって支配されている。歴史的にこの地域は文化の十字路であった。この地はローマ帝国におけるラテンとギリシャの境界であり、異教徒ブルガール人とスラヴ人の大規模な移住先でもあった。同時に正教会とカトリックという2つのキリスト教宗派が向き合う場であり、イスラーム教とキリスト教の間の邂逅の場でもあった。", "title": "歴史と地政学的重要性" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "前古典期と古典古代にはバルカン地域はギリシャ人、イリュリア人、パエオニア人(英語版)、トラキア人、ダキア人、そして他の古代の「民族」の居住地であった。ハカーマニシュ朝(アケメネス朝)の版図には前6世紀末と前5世紀前半の間バルカンのマケドニア、トラキア、ブルガリア、そしてルーマニアの黒海沿岸地方が含まれていた。ローマ帝国による征服の後半にはローマ文化とラテン語がバルカンの大部分に普及したが、重要な部分ではなお古代ギリシャの影響の下にあった。ローマ帝国はロドピ山脈をハエムス半島の北限だと考えており、ラテン語とギリシャ語の使用も同じ境界が適用される(後にイレチェク線(英語版)と呼ばれた)。しかし、イレチェク線の南側の空間の大部分に過去も現在もロマンス語話者のヴラフ人(アルーマニア人)が居住している。ブルガール人とスラヴ人は6世紀頃に到来して1つに同化し始め、なおかつ既に(ローマ化とヘレニズム化を通じて)一体化していたバルカン北部と中央部の古い住民たちを追放し、ブルガリア帝国を形成した。中世の間、バルカンは東ローマ帝国とブルガリア人の帝国の一連の戦争の舞台となった。", "title": "歴史と地政学的重要性" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "16世紀の終わりまでに、オスマン帝国はアナトリアからトラキアを経由してバルカンに拡張し、この地域の支配権力となった。バルカンの多くの住民はこのオスマン帝国の拡張と後退の時代に偉大な民族的英雄を置いている。例えば、ギリシャ人はコンスタンティノス11世パレオロゴスとテオドロス・コロコトロニス(英語版)。セルビアはミロシュ・オビリッチとラザル・フレベリャノヴィチ、モンテネグロ人はĐurađ I Balšićとイヴァン・ツルノイェヴィチ(英語版)、アルバニア人はジェルジ・カストリオティ・スカンデルベグ、マケドニア人はNikola Karev、とゴツェ・デルチェフ、ブルガリア人はヴァシル・レフスキ、Georgi Sava Rakovski、フリスト・ボテフ、そしてクロアチア人はニコラ・シュビッチ・ズリンスキと言った具合である。", "title": "歴史と地政学的重要性" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "過去数世紀に渡り、頻繁にヨーロッパ内でのオスマン帝国の戦争(英語版)がバルカン及びその周辺で戦われたことと、オスマン帝国がヨーロッパの商業的発展の中枢から(ヨーロッパの商業と政治の中心が徐々に大西洋に移動したことを反映して)比較的孤立していたために、バルカン諸国はヨーロッパの中でも発展が遅れた地方となった。Halil İnalcıkによれば、「バルカン諸国の人口はある推計によれば、16世紀後半にはピークの800万人から減少し、18世紀半ばには300万人しかいなかった。この推計はオスマン帝国の文書史料に基づいている。」", "title": "歴史と地政学的重要性" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "バルカンの国民国家の大部分は19世紀から20世紀初頭にかけてオスマン帝国かオーストリア=ハンガリー二重帝国から独立して登場した。ギリシャは1821年、セルビアとモンテネグロは1878年、ルーマニアは1881年、ブルガリアは1908年、アルバニアは1912年である", "title": "歴史と地政学的重要性" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1912年から1913年にかけて第一次バルカン戦争が勃発し、ブルガリア、セルビア、ギリシャ、そしてモンテネグロは一致してオスマン帝国に対するバルカン同盟を結んでいた。この戦争の結果、オスマン帝国がヨーロッパに未だ保持していた残存領土の大部分が占領され、同盟諸国に分割された。講和交渉の過程で独立したアルバニア人国家の創設が決まったが、アルバニア併合を期待していたセルビアとギリシャはその代償としてマケドニアの領有を要求した。ブルガリアは露土戦争 (1877年-1878年)以来マケドニア領有を追求し、戦時中にこれを占領していたブルガリアはこれに反発した。セルビアとギリシャは秘密同盟を締結してブルガリアを攻撃し、第2次バルカン戦争が開始された。モンテネグロ、ルーマニアもブルガリアを攻撃し、ブルガリア軍は崩壊した。オスマン帝国もこの機会を捉え東トラキアを再占領し新たな西方の境界線を確立した。この線はトルコの国境の一部となっている。", "title": "歴史と地政学的重要性" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1914年に主にセルビア人とユーゴスラヴの賛同者を中心とする革命組織青年ボスニア(英語版)のメンバーがオーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子フランツ・フェルディナンドをボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで暗殺した時、第一次世界大戦が勃発した。この事件によって両国間の戦争が引き起こされ、当時存在していた二つの同盟関係の鎖を通じて第一次世界大戦に至った。オスマン帝国はすぐに中央同盟国に加わり、この同盟に参加する3つの帝国の1つとなった。翌年にはブルガリアが中央同盟国に加わり、1年にわたりオーストリア=ハンガリー二重帝国との戦いで成功を収めていたセルビアを攻撃した。これはセルビアの敗北と連合国のバルカン諸国への介入に繋がり、連合国は新たな戦線、特にマケドニア戦線を構築するために軍を派遣した。これは第一次世界大戦における第3の戦線となり、東西の戦線と同じくすぐに膠着した。開戦から3年後、ギリシャが協商側に立ってこの大戦に加わり、これは1918年に最終的にドイツ-ブルガリアの共同戦線を崩壊させ、両軍の軍事バランスを変更させることに繋がった。これがブルガリアの大戦からの離脱を引き起こし、更にはオーストリア=ハンガリー二重帝国の崩壊と第一次世界大戦の終結へと繋がった。", "title": "歴史と地政学的重要性" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦の開始とともに、ギリシャを例外として全てのバルカン諸国はナチス・ドイツと同盟を結び、二間軍事協定を結ぶか枢軸国の一部として加わった。ファシスト・イタリアはアルバニア保護領をギリシャへの侵攻拠点として利用し、この戦争をバルカンで拡大させた。この攻撃を撃退した後、ギリシャ人は反撃に出てイタリアが保有していたアルバニアに侵入したが、イタリアを助けてナチス・ドイツがバルカンへ介入した。ドイツの侵攻前に、ベオグラードでクーデターが成功し、中立派の軍人が権力を握った。新政府は枢軸国の一員としての義務を全うするというセルビアの意向を再確認したものの、ドイツはブルガリアと共にギリシャとユーゴスラヴィアに侵攻した。セルビア王の臣下とクロアチアの部隊が離反するとユーゴスラビアはたちまち崩壊した。ギリシャは抵抗したが、2ヶ月間戦った後に崩壊し占領された。この両国はブルガリア、ドイツ、イタリアという3つの枢軸国及び、イタリアとドイツの傀儡国家クロアチア独立国によって分割された。", "title": "歴史と地政学的重要性" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "占領下において人々は抑圧と飢餓によって大きな苦難を体験し、これに対して大規模な抵抗運動(レジスタンス)が組織された。その年の初頭の厳冬(これは栄養失調の間で数十万人の死者を出した)は、ドイツのロシア侵攻計画のタイムテーブルを大幅に遅延させ、ドイツの侵攻に重大な影響を及ぼした。この遅れは戦争の経過に重大な影響を及ぼした。", "title": "歴史と地政学的重要性" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "最終的に、1944年の終わりにソビエト軍がルーマニアとブルガリアに入り、ドイツ軍をバルカンから蹴散らした。ドイツ軍による戦時中の搾取の結果として、大部分が荒廃した地域が残された。", "title": "歴史と地政学的重要性" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "冷戦の最中、バルカン諸国の大半は共産主義政権によって統治された。ギリシャは最初の冷戦の舞台となった。トルーマン・ドクトリンは1944年から1949年まで荒れ狂ったギリシャ内戦に対するアメリカの反応であった。隣接する諸国(アルバニア、ブルガリア、ユーゴスラビア)の共産主義者の義勇兵によって支援されたギリシャ共産党によって解き放たれたこの内戦は、アメリカに非共産主義ギリシャ政府への大規模な支援を促した。この支援を受けてギリシャはパルチザンを撃破することに成功し、最終的にこの地域におけるただ一つの非共産主義国家として残存した。 しかしながら、共産主義政権下にあるにもかかわらず、ユーゴスラヴィア(1948年)とアルバニア(1961年)はソヴィエト連邦から離反した。ヨシップ・ブロズ・チトー(1892年-1980年)政権下のユーゴスラヴィアは最初に支援を受け、その後ブルガリアと合併するという案を拒否し、むしろ西側との緊密な関係を求め、率先してインドやエジプトと共に非同盟運動を主導することさえした。他方でアルバニアは共産主義中国に引き寄せられ、後に孤立主義を採用した。", "title": "歴史と地政学的重要性" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "唯一の非共産主義国としてギリシャ、トルコは(今なお)NATOの一部としてこの同盟の南東翼を形成している。", "title": "歴史と地政学的重要性" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1990年代、この地域の国々はユーゴスラビアを除き旧ソビエト圏から自由経済社会へと平和的に移行した。スロベニアとクロアチアが自由選挙を実施し、国民投票で独立が決定された後、旧ユーゴスラヴィア諸国の間の戦争が勃発した。次いでセルビアは連邦の解消は違憲であると宣言し、ユーゴスラビア連邦軍が現状維持を試みたが成功しなかった。スロベニアとクロアチアは1991年7月25日に独立を宣言し、続いて十日間戦争がスロベニアで戦われた。1991年10月までに連邦軍はスロヴェニアとクロアチアから撤退したが、クロアチア独立戦争は継続し、1995年まで続いた。続く10年間の武力紛争の中で次第に他の全ての共和国が独立を宣言していった。一連の紛争で最大の影響を被ったのはボスニアである。長期に渡る戦争の結果、国連が介入と、陸・空からのNATOによるボスニア介入(英語版)が行われ、ボスニア・ヘルツェゴビナとセルビアのセルビア軍に対して空爆が実施された。", "title": "歴史と地政学的重要性" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ユーゴスラヴィアの崩壊により、6つの共和国が主権国家として国際的な承認を得た。これらの国々、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、モンテネグロ、そしてセルビアは伝統的にバルカン諸国の中に含まれている。2008年、国連の管理下においてコソヴォが独立宣言を行った(セルビアの公式見解ではコソボは今なお同国の自治区である)。2010年7月、国際司法裁判所はこの独立宣言は合法であるという判決を出した。大部分の国連加盟国がコソボを承認している。一連の戦争の終結後、セルビアで革命(英語版)が起き、セルビア共産党のリーダー、スロボダン・ミロシェヴィッチ(1989から2000年まで大統領を務めた)はユーゴスラビア内戦中の人道に対する罪で国際戦犯法廷に送られ裁判にかけられた。ミロシェヴィッチは判決が下されるより先に、2006年に心臓発作で死亡した。2001年、マケドニア共和国で発生したアルバニア人の蜂起によってセルビアは北マケドニアにおけるアルバニア人(英語版)の支配地域に自治権を与えることを余儀なくされた。", "title": "歴史と地政学的重要性" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ユーゴスラビアの崩壊と共に旧連邦構成国であったマケドニア共和国が国際的に承認される際の名称を巡る問題がマケドニア共和国とギリシャの間で浮かび上がった。マケドニア共和国がユーゴスラヴィアの一部(北マケドニアを参照)であったことから、この旧連邦共和国はユーゴスラヴ人意識の下でマケドニア社会主義共和国という名前を持ち、その名前で1991年に独立を宣言した。ギリシャは同一の名前を持つ広大な領土を保持していた(マケドニア (ギリシャ)を参照)。そしてマケドニアという名称はギリシャに帰属することを主張し、また新マケドニア国家が在外マケドニア人の保護規定を憲法に設けたことから、「解決済み」の領土問題や「存在しない」民族問題を提起するものであるという懸念を示し、国家性(nationality)を示す名称としてこれを使用することに反対した。このマケドニア名称論争は長らく膠着状態に陥っていたが、2018年6月12日に国名を北マケドニア共和国とすることでギリシャと合意し、両国の議会承認等を経て2019年2月12日に改名が発効した。", "title": "歴史と地政学的重要性" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1981年、ギリシャは欧州諸共同体(現在の欧州連合の前身)に加盟した。その後長らくバルカン地域の国々は欧州統合プロセスとは距離があったが、2004年にスロベニアが、2007年にブルガリアとルーマニアが、2013年にクロアチアが欧州連合(EU)に加盟した。2020年5月現在、トルコ、北マケドニア、モンテネグロ、セルビア、アルバニアがEUの正式な加盟候補国として認定されており、ボスニア・ヘルツェゴビナとコソボがEUの潜在的加盟候補国とみなされている。", "title": "歴史と地政学的重要性" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ギリシャとトルコは共に1952年からNATOの加盟国である。その後、2004年にブルガリア、ルーマニア、スロベニアが、2009年にアルバニアとクロアチアが、2017年にモンテネグロが、2020年に北マケドニアがNATOに加盟した。", "title": "歴史と地政学的重要性" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "現在、バルカン諸国は全て共和制国家であるが、第二次世界大戦までは全て君主国であった。大部分の共和国は議会共和制を採用しているが、ルーマニアとボスニアは半大統領制である。全ての国が自由市場経済である。大部分が中堅上位の所得水準(一人当たりGNI4,000-12,000米ドル)にあり、クロアチア、ルーマニア、ギリシャ、スロヴェニアは高所得経済(英語版)(一人当たりGNI12,000米ドル以上)である。バルカン諸国は人間開発指数がHighに分類されているが、これら4か国はとりわけ人間開発指数(HDI)がVery Highに分類されている。かつて計画経済を採用していた旧東側諸国とトルコは毎年緩やかに経済成長を遂げていたが、2008年の経済危機(リーマン・ショック)は各国の経済に深刻な影響をもたらし、失業率の急上昇、給与の引き下げ、社会経済システムの混乱が生じた。旧社会主義国ではなく、最も経済的に豊かな国の1つであったギリシャもこれを切っ掛けに深刻な経済・財政危機に陥り、EUやIMFによる救済を受けなければならなかった。その後の混乱のために経済の多くの部分が地下経済へと移行し、その規模は2017年現在、同国のGDPの3分の1にも相当するとも言われている。2012年にギリシャ経済だけは縮小に転じた。", "title": "政治と経済" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "一人当たりGDP(購買力平価)はスロヴェニアが最も高く(36,000米ドル以上)、続いてギリシャ(29,000米ドル)、クロアチアとルーマニア(25,000米ドル)、トルコ、ブルガリア、モンテネグロ、セルビア、北マケドニア(10,000-15,000米ドル)、そしてボスニア、アルバニア、コソヴォ(10,000米ドル以下)の順となる。", "title": "政治と経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1990年代にバルカン諸国で共産主義体制による計画経済が終わりを告げた後、それまで表面化していなかった(あるいは隠されていた)貧困問題が噴出した。体制転換による国家機構の問題がこれに拍車をかけた。ブルガリアやルーマニアなどでは平均寿命が短くなり、貧困線以下の経済水準で暮らす人の数は激増した。21世紀に入った後は一般的にバルカン諸国は経済成長を続けており、こうした問題は若干緩和され、平均寿命も延びつつある。しかし、各国の国内の経済格差は大きく、ルーマニアなどではむしろ日々拡大している。", "title": "政治と経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "失業率が最も低いのはルーマニア(10%以下)であり、続いてブルガリア、トルコ、アルバニア(10-15%)、ギリシャ(15-20%)、モンテネグロ、セルビア、ボスニア(20-30%)、北マケドニア(30%以上)、そしてコソヴォ(40%以上)となっている。", "title": "政治と経済" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "黒海も参照", "title": "政治と経済" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "バルカンにはアルバニア人、アルーマニア人、ブルガリア人、ボスニャク人、クロアチア人、ゴーラ人、ギリシャ人、マケドニア人、モンテネグロ人、セルビア人、スロヴェニア人、ルーマニア人、トルコ人が居住し、さらにロマ人やアッシュカリーのようなその他の民族集団が現在、ある国で少数民族として存在している。", "title": "人口統計" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "バルカンは正教会とイスラーム教、ローマ・カトリックの接点である。正教会はバルカン半島・バルカン地域の最大宗派である。多様な信仰がそれぞれに異なる伝統を実践しており、正教会系の国々は各国が自身の国の教会(national church)を持っている。住民の一部には無宗教を自任するものもいる。", "title": "人口統計" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "バルカンにおけるユダヤ人のコミュニティ、特に今日のギリシャ地方のそれはヨーロッパで最も古いもので古代にまで遡る。トランシルヴァニア、クロアチア、スロヴェニアのユダヤ人コミュニティはアシュケナジー(東欧系)のものである。バルカンの多くの地域のユダヤ人はセファルディム(スファラディム、レコンキスタ後のスペインから追放、脱出したユダヤ人に起源を持つ)系である。古くからバルカンに居住しギリシャ語を使用していたユダヤ人たちはロマニオテスと呼ばれたが、彼らの多くはセファルディムに同化した。ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは小さく密接に絡み合ったユダヤ人のコミュニティは90%がセファルディムであり、ラディーノ語(Ladino)は今なお高齢者の間で使用されている。サライェヴォにあるセファルディム系ユダヤ人の墓地は独特の形状の墓石を持っており、古代のラディーノ語が刻まれている。セファルディム系ユダヤ人はかつてはテッサロニキで大きな存在感を有しており、1900年までは約80,000人、人口の半分以上がユダヤ人であった。バルカンのユダヤ人コミュニティは第二次世界大戦の間、大きな苦しみを味わい、ホロコーストによって大部分が殺害された。例外はブルガリア系ユダヤ人で、彼らの大部分は強制収容所にユダヤ人を送ることに反対しアドルフ・ヒトラーに抵抗するブルガリア王ボリス3世によって保護された。バルカンのユダヤ人の僅かな生存者たちは(その後)ほとんどが新たに建国されたイスラエルかその他の地域に移住した。今日のバルカン諸国の大部分は重要性のあるユダヤ人少数派はほとんど存在しない。", "title": "人口統計" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "バルカン地方は今日、民族・言語的に非常に多様な地域であり、複数のスラヴ語とロマンス語を話す人々が住み、またアルバニア語、ギリシャ語、トルコ語、更にその他の言語も使用されている。ロマ語はバルカン諸国全体に居住するロマ人の大部分によって使用されている。歴史を通じて、多くの異なる民族的グループが自身の言語を用いてバルカンに居住していた。そうした人々にはトラキア人、イリュリア人、ローマ人、ケルト人、様々なゲルマン人の部族がいた。テュルク系言語を例外として、過去から現在に至る前述の言語群の全てが、より大きな括りではインド・ヨーロッパ語族に属する(テュルク系言語にはトルコ語、ガガウズ語がある)。", "title": "人口統計" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "バルカンの国々のほとんどは大部分都市化されており、総人口に対する都市人口の比率が最も低い諸国はコソヴォ(40%以下)、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(40%)、スロヴェニア(50%)である。", "title": "人口統計" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "各国の大都市の一覧:", "title": "人口統計" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "バルカンのタイムゾーンは以下の通りに定められている。", "title": "タイムゾーン" } ]
バルカン半島、またはバルカン(Balkans)は、東南ヨーロッパにある地理的領域であり、地理的・歴史的に様々な意味合いと定義付けの下で使用される概念である。名称はバルカン山脈からきている。この山脈はセルビアとブルガリアの国境から黒海沿岸まで、ブルガリア全土を横断している。バルカン半島は北西をアドリア海に、南西をイオニア海に、南と南東をエーゲ海に、そして東と北東を黒海によって区切られている。北側の境界は論者と文脈によって様々に定義されていて不定である。バルカン半島の最高地点はリラ山地にあるムサラ山(2925メートル)である。 バルカン半島という概念はドイツの地理学者アウグスト・ツォイネによって1808年に創り出された。彼はバルカン山脈がディナル・アルプス山脈と共にアドリア海から黒海まで東南ヨーロッパを区分していると誤認していた。この地域はかつてオスマン帝国の属領であり、バルカン半島という用語は19世紀にはヨーロッパ・トルコの同義語であった。バルカン半島という言葉は地理学的というよりもむしろ地政学的定義を持っており、この傾向は20世紀初頭にユーゴスラヴィア王国が成立するとさらに増した。バルカン半島を定義する自然境界が「半島」の学術的定義と一致していないため、現代の地理学者は「バルカン半島」という考え方を拒絶しており、通常はバルカンを「地域」として議論を行っている。この言葉には(特に1990年代以降)バルカニゼーション(バルカン化)のプロセスと関連して徐々に否定的・侮蔑的意味合いを含むようになっており、そのために東南ヨーロッパ(南東ヨーロッパ)という別の用語が使用されている。
{{Infobox peninsulas |local_name= |image_name=Karte Suedosteuropa 03 01.png |image_caption=[[ブリタニカ百科事典|エンサイクロペディア・ブリタニカ]]が示すバルカン諸国。<br />{{legend-line|solid darkblue 8px|[[ドナウ川]]・[[サヴァ川]]・[[イゾンツォ川]]を境界としたバルカン半島の地図。}}{{Color square|#ff7b4d}}通常、バルカン諸国に含まれる政治的コミュニティ{{citation needed|date=May 2017}}。<br />{{Color square|#ffbd59}}しばしばバルカン諸国に含まれる政治的コミュニティ{{citation needed|date=November 2016}}。 |image_alt=The Balkan region according to Prof R. J. Crampton |locator_map= |location=[[東南ヨーロッパ]] |coordinates=|area_km2=|highest_mount=[[ムサラ山]] ([[ブルガリア]])|elevation_m=2925|country=[[#定義と境界|以下を参照]]|demonym=バルカン|population=}} '''バルカン半島'''(バルカンはんとう、''Balkan Peninsula'')、または'''バルカン'''(''Balkans'')は、東南[[ヨーロッパ]]にある地理的領域であり、地理的・歴史的に様々な意味合いと定義付け<ref>{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=7BakAgAAQBAJ&pg=PA116 |authors=Colin S. Gray, Geoffrey Sloan |title=Geopolitics, Geography and Strategy |accessdate=10 November 2014|isbn=9781135265021 |date=2014-01-14}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.britannica.com/place/Balkans|title=Balkans|work=Encyclopedia Britannica|access-date=2017-12-13|language=en}}</ref>の下で使用される概念である<ref name="Schaefer2008">{{cite book|author=Richard T. Schaefer|title=Encyclopedia of Race, Ethnicity, and Society|url=https://books.google.com/books?id=YMUola6pDnkC|year=2008|publisher=SAGE|isbn=978-1-4129-2694-2|page=129}}</ref>。名称は[[バルカン山脈]]からきている。この山脈は[[セルビア]]と[[ブルガリア]]の国境から[[黒海]]沿岸まで、ブルガリア全土を横断している。バルカン半島は北西を[[アドリア海]]に、南西を[[イオニア海]]に、南と南東を[[エーゲ海]]に、そして東と北東を[[黒海]]によって区切られている<ref name="DaskalovMishkova2017">{{cite book|author=Alexander Vezenkov|editor=Roumen Dontchev Daskalov, Tchavdar Marinov|title=Entangled Histories of the Balkans - Volume Four: Concepts, Approaches, and (Self-)Representations|chapter-url=https://books.google.com/books?id=R3cEDgAAQBAJ&pg=PA141|year=2017|publisher=BRILL|isbn=978-90-04-33782-4|pages=115–256|chapter=Entangled Geographies of the Balkans: The Boundaries of the Region and the Limits of the Discipline}}</ref>。北側の境界は論者と文脈によって様々に定義されていて不定である。バルカン半島の最高地点は{{仮リンク|リラ山地|en|Rila}}にある[[ムサラ山]](2925メートル)である。 バルカン半島という概念はドイツの地理学者{{仮リンク|アウグスト・ツォイネ|en|August Zeune}}によって1808年に創り出された<ref name="柴1998p5">[[#柴 1998|柴 1998]], p. 5</ref><ref name="Tomic2006">{{cite book|author=Olga M. Tomic|title=Balkan Sprachbund Morpho-Syntactic Features|url=https://books.google.com/books?id=MFWOYUHULgsC|year=2006|publisher=Springer Science & Business Media|isbn=978-1-4020-4488-5|page=35}}</ref>。彼は[[バルカン山脈]]が[[ディナル・アルプス山脈]]と共に[[アドリア海]]から[[黒海]]まで[[東南ヨーロッパ]]を区分していると誤認していた<ref name="柴1998p5"/>。この地域はかつてオスマン帝国の属領であり、バルカン半島という用語は19世紀にはヨーロッパ・トルコ(European Turkey)の同義語であった<ref name="マゾワー2017p6">[[#マゾワー 2017|マゾワー 2017]], p. 6</ref>。バルカン半島という言葉は地理学的というよりもむしろ[[地政学]]的定義を持っており、この傾向は20世紀初頭に[[ユーゴスラヴィア王国]]が成立するとさらに増した。バルカン半島を定義する自然境界が「[[半島]]」の学術的定義と一致していないため、現代の地理学者は「バルカン半島」という考え方を拒絶しており、通常はバルカンを「地域」として議論を行っている。この言葉には(特に1990年代以降)[[バルカニゼーション]](バルカン化)のプロセスと関連して徐々に否定的・侮蔑的意味合いを含むようになっており<ref name="DaskalovMishkova2017"/><ref name="BideleuxJeffries2007">{{cite book|author1=Robert Bideleux|author2=Ian Jeffries|title=The Balkans: A Post-Communist History|url=https://books.google.com/books?id=G6iBAgAAQBAJ|year=2007|publisher=Routledge|isbn=978-1-134-58328-7|pages=1–3}}</ref>、そのために[[東南ヨーロッパ]](南東ヨーロッパ)という別の用語が使用されている。 == 名称 == === 地名学 === '''バルカン'''(''Balkan'')という言葉は[[オスマン語]]の''{{lang|tr|balkan}}''(森深い山の連なり)から来ている<ref name="Balkan.">{{cite encyclopedia|url=http://encarta.msn.com/dictionary_/balkan.html |title=Balkan |work=Encarta World English Dictionary |publisher=Microsoft Corporation |accessdate=31 March 2008 |archiveurl=https://webcitation.org/5kwPqi7mD?url=http://encarta.msn.com/dictionary_/balkan.html |archivedate=31 October 2009 |deadurl=yes |df=dmy }}</ref><ref>{{cite encyclopedia|encyclopedia=Büyük Türkçe Sözlük |title=balkan |publisher=Türk Dil Kurumu |url=http://www.tdkterim.gov.tr/bts/ |quote=Sarp ve ormanlık sıradağ |language=Turkish |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110825034714/http://www.tdkterim.gov.tr/bts/ |archivedate=25 August 2011 }}</ref>。これに関連する用語は他のテュルク系言語でも見られる<ref name="oed">''Oxford English Dictionary'', 2013, [http://www.oed.com/view/Entry/14891 ''s.v.'']</ref>。このテュルク語の単語の語源ははっきりしないが、恐らく[[ペルシア語]]の''bālk''(泥)とテュルク語の接尾辞''an''(湿地の森)<ref>Current Trends in Altaic Linguistics; European Balkan(s), Turkic bal(yk) and the Problem of Their Original Meanings, Marek Stachowski, Jagiellonian University, p. 618.</ref>、またはペルシア語の''balā-khāna''(巨大で高い家)<ref name="Todorova 1997 27" />と結びつけられるだろう。 === 歴史的地名と意味 === ==== 古典古代と中世初期 ==== [[古典古代]]から[[中世]]までを通じて、バルカン山脈は現地の[[トラキア語]]名<ref>{{cite web |url=https://books.google.com/?id=VDoQAQAAMAAJ&q=hemus+thracian+name&dq=hemus+thracian+name&cd=6 |title= Bulgaria |page= 54 |work= Hemus – a Thracian name |publisher= Indiana University|year= 1986 |accessdate=2019-03-5}}</ref>である[[ハイモス]]という名前で呼ばれていた。ギリシャ神話によれば、この[[トラキア]]の王ハイモスは[[ゼウス]]によって罰として山に変えられ、その山に彼の名前が残されたという。語源説も提案されており、D. Dechevはこのハイモス({{ラテン翻字|el|Haimus}}、{{lang|grc|Αἵμος}})は[[トラキア語]]の''*saimon''(山の尾根)から派生したと主張している<ref>{{cite book|last1=Decev|first1=D|title=Balkan Studies|date=1986|publisher=University of Michigan|url=https://books.google.com/?id=UEJpAAAAMAAJ&q=thracian+sama+greek+haemus&dq=thracian+sama+greek+haemus|accessdate=20 June 2015}}</ref>。ハイモスがギリシャ語の''haima''({{lang|grc|αἷμα}}、血液)から派生したという説もある。この神話は[[ゼウス]]と怪物/巨人の[[テュポーン]]との戦いに関するもので、ゼウスは雷撃によってテュポーンを負傷させ、その血が山の上に落ちたため、血を意味する単語から山の名前がつけられたという<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=3cmSa4H_C0oC&pg=PA20&dq=Haemus%20bloody%20zeus%20typhon#v=onepage&q=Haemus%20bloody%20zeus%20typhon|title=Gods and Heroes of the Greeks: The Library of Apollodorus|accessdate=12 September 2014|isbn=978-0870232060|last1=Apollodorus|year=1976}}</ref>。 ==== 中世後期とオスマン帝国時代 ==== バルカンという地名への言及の最も早い例は14世紀のアラブの地図に見られ、{{仮リンク|ハイモス山地|en|Haemus Mons}}がバルカン(''Balkan'')という名前で示されている<ref name="Dobrev 1989">{{cite book | title = Проиcхождение географического названия Балкан – Sixieme Congres international d'etudes du Sud-Est Europeen |language=French | first= Ivan | last = Dobrev | publisher = Ed.de l'Académie bulgare des Sciences | year = 1989 | location = Sofia | url = https://books.google.com/books/about/?id=jxYZnQEACAAJ }}</ref>。西欧において「バルカン」という名称でこの[[ブルガリア]]にある山地を指して使用していることが証明される最初の用例は、1490年にイタリアの人文学者・作家・外交官であるBuonaccorsi Callimacoが教皇[[インノケンティウス8世]]へ向けて送った手紙の中にあるものである<ref>{{cite book|last=Todorova|first=Maria|title=Imagining the Balkans|page=22|publisher=Oxford University Press US|year=2009|isbn=978-0-19-538786-5}}</ref>。[[オスマン帝国]]による最初の用例は1565年の日付を持つ文書にあるものである<ref name="Todorova 1997 27" />。他のテュルク系部族が既にこの半島に居住するか、あるいは通過していたが、バルカンという用語でこの地域をさしたこれよりも古い文書は存在しない<ref name="Todorova 1997 27">{{cite book | title = Imagining the Balkans | first=Maria N. | last =Todorova | publisher = Oxford University Press, Inc. | year = 1997 | location = New York | url = https://books.google.com/books?id=-EuFwLQhvYMC&pg=PA27 | page=27| isbn=9780195087512 }}</ref>。バルカンの名はまた、初期の[[ブルガール人]]のテュルク語に起源をもつという説も主張され、ブルガリアで人気がある。しかし、これは非学術的な俗説に過ぎない<ref name="Todorova 1997 27" />。バルカンという名称はオスマン帝国の[[ルメリア]]で使用されており、''Kod̲j̲a-Balkan''、''Čatal-Balkan''、''Ungurus-Balkani̊''のように山一般を示す意味で使用されていたが、特にハイモス山地を指して使用される場合が多かった<ref>Encyclopaedia of Islam, Second Edition, Editors: P. Bearman, Th. Bianquis, C.E. Bosworth, E. van Donzel and W.P. Heinrichs. Brill Online Reference Works.</ref><ref>{{cite journal|url=http://referenceworks.brillonline.com/entries/encyclopaedia-of-islam-2/balkan-SIM_1152?s.num=309&s.start=300|title=Balkan – Brill Reference|journal=Brillonline.com|date=2012-04-24|last1=Inalcık|first1=Halil}}</ref>。この名前は[[中央アジア]]にも[[:en:Balkan Daglary|Balkan Daglary]](バルカン山地)<ref>{{cite web|url=http://land.worldcitydb.com/balkhan_mountains_3522246.html |title=Balkhan Mountains |work=World Land Features Database |publisher=Land.WorldCityDB.com |accessdate=31 March 2008 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080228223148/http://land.worldcitydb.com/balkhan_mountains_3522246.html |archivedate=28 February 2008 |deadurl=yes }}</ref>、および[[トルクメニスタン]]の[[バルカン州]]の名称として残存している。イギリス人旅行者{{仮リンク|ジョン・モリット|en|John Morritt}}はこの名称を18世紀の終わりにイギリス文学に導入し、またほかの著作家もアドリア海と黒海の間の広い地域を指す名称として使用するようになった。「バルカン」の概念はドイツの地理学者{{仮リンク|アウグスト・ツォイネ|en|August Zeune}}によって1808年に創り出された<ref>{{cite web|last=Pavic|first=Silvia|url=http://geography.about.com/library/misc/ucbalkans.htm|title=Some Thoughts About The Balkans.|publisher=About, Inc.|date=22 November 2000|accessdate=31 March 2008| archiveurl= https://web.archive.org/web/20080228230925/http://geography.about.com/library/misc/ucbalkans.htm| archivedate= 28 February 2008 | deadurl= no}}</ref>。彼は[[バルカン山脈]]が[[アドリア海]]から[[黒海]]まで延びる[[東南ヨーロッパ]]の中核的山岳地形であると誤って認識していた<ref name="Somek15"/><ref name="Altić11"/><ref name="DaskalovMishkova2017">{{cite book|author=Alexander Vezenkov|editor=Roumen Dontchev Daskalov, Tchavdar Marinov|title=Entangled Histories of the Balkans - Volume Four: Concepts, Approaches, and (Self-)Representations|chapter-url=https://books.google.com/books?id=R3cEDgAAQBAJ&pg=PA141|year=2017|publisher=BRILL|isbn=978-90-04-33782-4|pages=115–256|chapter=Entangled Geographies of the Balkans: The Boundaries of the Region and the Limits of the Discipline}}</ref>。1820年代の間に「イギリスの旅行者の間で、なおハイモスと併用されている状況ではあったものの、バルカンという名称は優先的に使用される地名となった。...古典的な地名に慣れ親しんでいないロシア人旅行者の間ではバルカンは好んで使用された用語であった<ref>Maria Todorova Gutgsell, ''Imagining the Balkans'' (Oxford University Press, 2009; {{ISBN2|0-19-972838-0}}), p. 24.</ref>。」 === 19世紀と20世紀における概念の進化 === バルカンという用語は19世紀半ばまで一般的に地理学的文献では使用されていなかった。これは[[カール・リッター]]のような科学者たちが、バルカン山脈より南側だけが半島と考えることが可能であり、これは「ギリシャ半島」と改名されるだろうという注意喚起を行っていたためである。ツォイネに同意しない他の目立った地理学者たちには{{仮リンク|ヘルマン・ワーグナー (地理学者)|label=ヘルマン・ワーグナー|en|Hermann Wagner (geographer)}}、{{仮リンク|テオバルド・フィッシャー|en|Theobald Fischer}}、{{仮リンク|マリオン・ニュービアン|en|Marion Newbigin}}、[[アルブレヒト・ペンク]]がおり、同時にオーストリアの外交官{{仮リンク|ヨハン・ゲオルク・フォン・ハーン|en|Johann Georg von Hahn}}は1869年にバルカン地域を「''Südostereuropäische Halbinsel''(南東ヨーロッパ半島)」という言葉で表した。バルカンという用語が一般的に受け入れられなかった別の理由には、[[東トラキア|ヨーロッパ・トルコ]]という用語が同一の領域を定義していたことがある。しかし、[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]](1878年)の後には新たな用語が政治的に必要とされ、徐々にバルカンという用語が定着していった。だが、バルカンの地図上の北境はセルビアとモンテネグロにあり、ギリシャは含まれていなかった(バルカンとはヨーロッパのオスマン帝国支配下にある部分のみを描写するものであった)。また、ユーゴスラヴィアの地図ではクロアチアとボスニアが含まれていた。バルカン半島という用語はヨーロッパ・トルコの同義語であり、その政治的境界はかつてのオスマン帝国の属領のものであった<ref name="DaskalovMishkova2017"/><ref name="Altić11"/><ref name="VezenkovIWM06">{{cite journal |last=Vezenkov |first=Alexander |date=2006 |title=History against Geography: Should We Always Think of the Balkans As Part of Europe? |url=http://www.iwm.at/publications/5-junior-visiting-fellows-conferences/vol-xxi/alexander-vezenkov/ |journal=Junior Visiting Fellows' Conferences |volume=XXI |issue=4 |access-date=5 January 2018}}</ref>。 バルカンという言葉の使用法は19世紀末から20世紀の始まり頃に変化し、その用法はセルビアの地理学者たち(最も注目されるのは{{仮リンク|ヨヴァン・ツヴィイッチ|en|Jovan Cvijić}})によって受け入れられた<ref name="Somek15"/>。これは[[南スラヴ]]の領域全てに対する権利を主張する[[セルビア民族主義]]を背景とした政治的理由からくるものであった。セルビア民族主義においては南スラヴの人類学的、民族学的研究も通して様々な民族主義的・人種主義的理論が展開された<ref name="Somek15"/>。このような政策とユーゴスラヴィアの地図を通して、バルカンという用語は現代のような地理的領域を説明する用語として確立された<ref name="Altić11"/>。この用語は19世紀後半から[[第一次世界大戦]]後の[[ユーゴスラヴィア]](1918年当初は[[セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]])の建設にいたる政治的変動を受けて<ref name="Altić11"/>、初期の地理的意味合いから遠く離れた政治的・民族主義的意味を獲得した<ref name="DaskalovMishkova2017"/>。1991年6月から始まった[[ユーゴスラヴィア崩壊]]の後、「バルカン」という用語は(特にクロアチアとスロヴェニアにおいて)ネガティブな政治的意味合いを持つようになり、世界的にも武力衝突と領土の断片化を指して自然に使用されるようになった([[バルカニゼーション]]を参照)<ref name="Somek15"/><ref name="Altić11"/>。 === 東南ヨーロッパ === {{Main|東南ヨーロッパ}} 「バルカン」という言葉が内包する歴史的・政治的意味合いなどのために<ref>{{cite web|url=http://www.merriam-webster.com/dictionary/balkanize|title=Balkanize|publisher=merriam-webster.com|accessdate=2019-03-07}}</ref>、特にバルカンの西半で争われた1990年代の[[ユーゴスラビア]]の紛争のために、「'''[[東南ヨーロッパ]]'''」という用語がますます好まれるようになっている<ref name="Altić11"/><ref>{{cite book |title=A history of Eastern Europe |last=Bideleux |first=Robert |authorlink= |author2=Ian Jeffries |year=2007 |publisher=Taylor & Francis |location= |isbn=978-0-415-36627-4 |page=37 |url=https://books.google.com/?id=PTB0gn_qwTcC&printsec=frontcover}}</ref>。1999年の[[ヨーロッパ連合]](EU)のイニシアティブは[[南東欧安定化協定]]と呼ばれ、オンライン紙『バルカン・タイムズ(''Balkan Times'')』は2003年に『{{仮リンク|サウスイースト・ヨーロピアン・タイムス|en|Southeast European Times}}(''Southeast European Times'')』に改名した。 === 現在 === 各国の言語でこの地域(半島)は以下のように呼ばれている。 * [[インド・ヨーロッパ語族]] ** [[スラヴ語派]] *** {{lang-bg|Балкански полуостров}}、ラテン文字翻字:''{{lang|bg|Balkanski poluostrov}}'' *** {{lang-mk|Балкански Полуостров}}、ラテン文字翻字:''{{lang|mk|Balkanski Poluostrov}}'' *** {{lang-sh|Balkansko poluostrvo}}, Балканско полуострво; Balkanski poluotok, Балкански полуоток *** {{lang-sl|Balkanski polotok}} ** [[ロマンス語派]] *** {{lang-ro|Peninsula Balcanică}} ** その他の語派 *** {{lang-sq|Gadishulli Ballkanik}}、および''{{lang|sq|Siujdhesa e Ballkanit}}'' *** {{lang-el|Βαλκανική χερσόνησος}}、ラテン文字翻字:''{{lang|el|Valkaniki chersonisos}}'' * [[テュルク語族]] ** {{lang-tr|Balkan Yarımadası}}、または''Balkanlar'' == 定義と境界 == === バルカン半島 === [[File:Balkan topo en.jpg|thumb|[[イゾンツォ川]]-{{仮リンク|ヴィパヴァ川|en|Vipava (river)}}-[[クルカ川]]-[[サヴァ川]]-[[ドナウ川]]の線を境界として定義づけられたバルカン半島]]バルカン半島は西を[[アドリア海]]、南を[[地中海]]([[イオニア海]]と[[エーゲ海]]を含む)と[[マルマラ海]]に、東を[[黒海]]によって区切られている。北側の境界は常に論争の種であり、文脈により論者により様々な定義が用いられる<ref name="柴1998p9">[[#柴 1998|柴 1998]], p. 9</ref>。20世紀初頭の[[セルビア人]]地理学者・民族学者{{仮リンク|ヨヴァン・ツヴィイッチ|en|Jovan Cvijić}}は[[ドナウ川]]と[[サヴァ川]]を北限とし、ツォイネはバルカン山脈(彼の考えではディナル・アルプス山脈まで続いていた)を北限としていた<ref name="柴1998p9"/>。現代の[[ハンガリー]]と[[ルーマニア]]、そして[[スロベニア]]をバルカン半島(あるいはバルカン)に含めるかどうかも重要な問題であるが一定の基準は存在しない<ref name="柴1998p9"/>。バルカンと呼ばれる領域は、多少の違いはあるものの、[[東南ヨーロッパ]]として知られる領域とほぼ同じである<ref>{{cite book |last=Hajdú |first=Zoltán |year=2007 |title=Southeast-Europe: State Borders, Cross-border Relations, Spatial Structures |url=https://books.google.com/?id=Ajvwx3OSE2AC&printsec=frontcover#v=onepage |location=[[ペーチ|Pécs]], [[ハンガリー|Hungary]] |publisher=[[:en:Hungarian Academy of Sciences|Hungarian Academy of Sciences]] |isbn=978-963-9052-65-9 |accessdate=8 June 2015}}</ref><ref>{{cite book |last=Lampe |first=John R.|year=2014 |title=Balkans Into Southeastern Europe, 1914–2014: A Century of War and Transition |url=https://books.google.com/?id=tAMdBQAAQBAJ&printsec=frontcover#v=onepage |location=[[ロンドン|London]], [[イギリス|United Kingdom]] |publisher=[[:en:Palgrave Macmillan|Palgrave Macmillan]] |isbn=978-1-137-01907-3 |accessdate=8 June 2015}}</ref><ref>{{cite book |editor=Švob-Ðokic, Nada |year=2001 |title=Redefining Cultural Identities: Southeastern Europe |url=http://www.culturelink.org/publics/joint/cultid04/Svob-Djokic_Redefining_Cultid_SE.pdf |location=[[ザグレブ|Zagreb]], [[クロアチア|Croatia]] |publisher=[[:en:National and University Library in Zagreb|National and University Library in Zagreb]] |isbn=978-953-6096-22-0 |accessdate=8 June 2015}}</ref>。 1920年から[[第二次世界大戦]]まで、イタリアは[[イストリア]]と[[ダルマツィア]]の複数の地域(ザラ、現:[[ザダル]]など)といったバルカン半島の一般的な定義の中に含まれる領域を保有していた。現代のイタリアの領土では[[トリエステ]]近郊の極小さな領域だけがバルカン半島の中にある。しかし、イタリアの地理学者たちは通常バルカンの西の境界をクパ川と定義し、トリエステおよびイストリア地域をバルカンの一部とはみなしていない<ref name="Agostini, 2004, p.78">Istituto Geografico De Agostini, ''L'Enciclopedia Geografica – Vol.I – Italia'', 2004, Ed. De Agostini p.78</ref>。 [[ファイル:Balkan6.png|サムネイル|バルカン半島の最も広く通用している定義では、3辺が海域によって区切られ、残る4番目の辺は線で接続して区切られている。]] [[ドナウ川]]-[[サヴァ川]]を境界とした時の各国の自国領土総面積に対するバルカン半島のシェア(括弧内は比率)。[[ブルガリア]]と[[ギリシャ]]でほぼバルカン半島の半分の領域を占める。 全領土がバルカン半島内: * {{ALB}}: 28,749&nbsp;km<sup>2</sup> (100%) * {{BIH}}: 51,180&nbsp;km<sup>2</sup> (100%) * {{BUL}} : 110,993.6<ref name="Penin">{{cite book |last=Penin|first=Rumen|title=Природна география на България|trans-title=Natural Geography of Bulgaria|publisher=Bulvest 2000|page=18|year=2007|isbn=978-954-18-0546-6|language=Bulgarian}}</ref><ref>{{cite web |url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/rankorder/2147rank.html?countryName=Bulgaria&countryCode=bu&regionCode=eur&rank=105#bu|title=Country comparison: Area|website=[[・ワールド・ファクトブック|The World Factbook]]|publisher=[[中央情報局|Central Intelligence Agency]]|accessdate=4 December 2011}}</ref>&nbsp;km<sup>2</sup> (100%) (108,596<ref>{{cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2147.html#bu|title=Field listing: Area|website=[[The World Factbook]] |publisher= [[Central Intelligence Agency]]|accessdate=2019-03-05}}</ref>&nbsp;km<sup>2</sup> (100%)) * {{KOS}}*{{ref label|status|a}}: 10,908&nbsp;km<sup>2</sup> (100%) *{{NMK}}: 25,710&nbsp;km<sup>2</sup> (100%) * {{MNE}}: 13,810&nbsp;km<sup>2</sup> (100%) 大部分・または一部のみバルカン半島内 * {{CRO}}([[クロアチアの地域区分|本土南部]]): 24,013&nbsp;km<sup>2</sup> (46%)<ref>{{cite web|url=http://proleksis.lzmk.hr/27193/|title=Proleksis encyclopedia|accessdate=22 July 2018}}</ref><ref name="Pavić Radovan">Geographical horizon (Scientific and Professional magazine of the Croatian Geographical Society), article; ''On the north border and confine of the Balkan Peninsula'', No1/2008, year LIV, ISSN 0016-7266, p.30-33</ref> * {{GRE}}([[ギリシャの地理]]): 110,496&nbsp;km<sup>2</sup> (83%) (103,410&nbsp;km<sup>2</sup><ref>{{cite book|title=The Law of the Sea|url=https://books.google.com/books?id=x4uZat_RmpUC&pg=PA226&dq=greece+mainland+km2#v=onepage&q=greece%20mainland%20km2|isbn=978-9041103260|last1=Treves|first1=Tullio|last2=Pineschi|first2=Laura|date=1997-01-01}}</ref> (80%)) * {{ITA}}([[トリエステ]] および [[モンファルコーネ]]): 200&nbsp;km<sup>2</sup> (0.1%) * {{ROU}}([[北ドブロジャ|ドブルジャ主要部]]): 11,000&nbsp;km<sup>2</sup> (5%) * {{SRB}}({{仮リンク|中央セルビア|en|Central Serbia}}) 51,000&nbsp;km<sup>2</sup> (65%) * {{SLO}}([[スロベニアの地方行政区画|南東部]]): 5,000&nbsp;km<sup>2</sup> (25%) * {{TUR}}([[東トラキア|ヨーロッパ部]]): 22,764&nbsp;km<sup>2</sup> (3%) === バルカン諸国 === 「バルカン諸国(''the Balkans'')」はより一般的にこの地域を指す用語として用いられる。この言葉で呼ばれる地域は「バルカン半島」の領域を越えて広がっており、また半島自体の地理によって定義されていない。 バルカン諸国には通常[[アルバニア]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[ブルガリア]]、[[クロアチア]]、[[コソボ]]{{ref label|status|a|}}、[[北マケドニア]]、[[モンテネグロ]]、[[ルーマニア]]、[[セルビア]]、[[ギリシャ]]、そして[[スロベニア]]が含まれると言われている。これらの総面積は普通、666,700平方キロメートル(257,400平方マイル)とされており、総人口は59,297,000人(2002年推計)である<ref name="EB">{{cite web | url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/50325/Balkans | title=Balkans | publisher=[[Encyclopædia Britannica]] | access-date=2015-05-03 | quote=}}バルカンは通常、アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリア、クロアチア、コソボ、マケドニア、モンテネグロ、セルビア、そしてスロベニアから構成されるとみなされる。これらの国々はそれぞれ全域、もしくは一部がバルカン半島内に位置している。ギリシャ、およびトルコの一部も一般的にバルカン半島に定義づけられる地理的領域に位置している。文化的、歴史的用語によって定義される地域もあれば地理的に定義される地域もある。歴史学者と地理学者の間においてさえ異なる解釈がされるが...一般的に、バルカン諸国は北西をイタリアに、北をハンガリー、北と北東をモルドバとウクライナによって、南をギリシャとトルコ、または(領域の定義によって)エーゲ海によって区切られる...物理的、および人文地理的議論と地域の国々のそれぞれの歴史については、アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリア、クロアチア、ギリシャ、コソボ、マケドニア、モルドバ、モンテネグロ、ルーマニア、セルビア、スロベニア、そしてトルコを参照のこと。面積は257,400平方マイル(666,700平方キロメートル)、人口(2002年推計)は59,297,000人。</ref><ref>初期のバージョンの『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、バルカン諸国はアルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリア、クロアチア、ギリシャ、コソボ{{ref label|status|a|}}、北マケドニア、モンテネグロ、セルビア、スロベニア、そしてトルコの[[ヨーロッパ・トルコ|ヨーロッパ部]]の各国の領土で構成されている。同時に、トルコは非バルカン諸国であり、スロベニアとルーマニアの[[トランシルヴァニア]]部がバルカンに含まれるかは疑わしいと付記している</ref>。 イタリアはバルカン半島の極一部を保有しているが、「バルカン諸国」の範囲に含まれることはない。 「[[東南ヨーロッパ]]」という用語もまたこの地域を指して使われ、多様な定義を持つ。個々のバルカン諸国もまた[[南ヨーロッパ]]や[[東ヨーロッパ]]といった他の地域の一部であるともみなされている。クロアチア、ルーマニア、セルビア、スロベニアはまた頻繁に[[中央ヨーロッパ]]の一部ともみなされる。トルコはしばしばヨーロッパの一部に含まれるが、同時に[[西アジア]]または[[西南アジア]]の一部でもある。 === 西バルカン === {{further|{{仮リンク|ヴィエンナにおける西バルカン諸国サミット (2015年)|en|2015 Western Balkans Summit, Vienna}}}} [[File:Western Balkans.PNG|thumb|西バルカン諸国 - [[アルバニア]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[クロアチア]]、[[北マケドニア]]、[[モンテネグロ]]、[[セルビア]]。一部の国から承認されている[[コソボ]]も含まれている。クロアチアは2013年にEUに加わった。]] '''西バルカン諸国'''(''Western Balkans'')はスロベニアを除く旧ユーゴスラビア諸国とアルバニアを指し示すために作られた政治的な新語であり、1996年頃から使用されている<ref name="柴2016p334">[[#柴 2016|柴 2016]], p. 334</ref><ref name="Altić11"/><ref>{{cite book|title=Endgame in the Balkans: Regime Change, European Style|first=Elizabeth|last=Pond|publisher=Brookings Institution|location=Washington, D.C.|year=2006|page=5|isbn=978-0-8157-7160-9|url=https://books.google.com/?id=JlgHH1dUKj0C&pg=PA5&dq=western%20balkans%20%22minus%20slovenia%22#v=onepage}}</ref><ref name="Centre for Regional Studies" /><ref name="eesc.europa.eu" /><ref name="eeas.europa.eu">{{cite web|url=http://eeas.europa.eu/western_balkans/index_en.htm|title=European Union External Action – EU relations with the Western Balkans|publisher=|accessdate=12 September 2014}}</ref><ref name="Redaktion: PT-DLR">{{cite web|url=http://www.internationales-buero.de/en/2114.php|title=Federal Ministry of Education and Research of Germany – Western Balkan Countries|author=Redaktion: PT-DLR|publisher=|accessdate=12 September 2014}}</ref><ref name="wbif.eu" /><ref name="ec.europa.eu" /><ref name="auto" />。 [[ヨーロッパ連合]](EU)の諸機関は一般に「西バルカン諸国(''Western Balkans'')」という用語をEUに加盟していないバルカン地域という意味で使用しており、それ以外では地理的側面において使用されている<ref name="WBSummit">{{cite web |url=http://www.bmeia.gv.at/en/european-foreign-policy/foreign-policy/western-balkans-summit/|title=Western Balkans Summit|accessdate=11 August 2015 |author=[[:en:Federal Ministry for Europe, Integration and Foreign Affairs|Federal Ministry for Europe, Integration and Foreign Affairs]]}}</ref><ref>{{cite web|url=http://ec.europa.eu/trade/policy/countries-and-regions/regions/western-balkans/|title=Western Balkans – Trade – European Commission|work=europa.eu|accessdate=2019-03-07}}</ref><ref name="Centre for Regional Studies">{{cite book|authorlink=:en:Pamer|editor=Zoltan Hajdu|others=Ivan Illes, Zoltan Raffay|title=Southeast-Europe: state borders, cross-border relations, spatial structures|chapter-url=https://books.google.com/books?id=Ajvwx3OSE2AC&pg=PA141|accessdate=18 October 2014|year=2007|publisher=Centre for Regional Studies|isbn=978-963-9052-65-9|page=141|chapter=The European integration and regional policy of the West Balkans}}</ref><ref name="eesc.europa.eu">{{cite web|url=http://www.eesc.europa.eu/?i=portal.en.western-balkans|title=European Economic and Social Committee – Western Balkans|work=European Economic and Social Committee|accessdate=12 September 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20141006203429/http://www.eesc.europa.eu/?i=portal.en.western-balkans|archive-date=6 October 2014|dead-url=yes|df=dmy-all}}</ref><ref name="wbif.eu">{{cite web|url=http://www.wbif.eu/Stakeholders|title=WBIF – Western Balkans Investment Framework – Stakeholders|publisher=|accessdate=12 September 2014}}</ref><ref name="ec.europa.eu">{{cite web|url=http://ec.europa.eu/trade/policy/countries-and-regions/regions/western-balkans/|title=European Commission – Trade – Countries and regions – Western Balkans|publisher=|accessdate=12 September 2014}}</ref><ref name="auto">{{cite web|url=http://ec.europa.eu/enlargement/pdf/balkans_communication/western_balkans_communication_050308_en.pdf|title=Western Balkans: Enhancing the European Perspective|publisher=Communication from the Commission to the European Parliament and the Council|date=5 March 2008|accessdate=8 April 2008| archiveurl= https://web.archive.org/web/20080409004701/http://ec.europa.eu/enlargement/pdf/balkans_communication/western_balkans_communication_050308_en.pdf| archivedate= 9 April 2008|deadurl=no}}</ref>。 西バルカン諸国はそれぞれ、{{仮リンク|将来のヨーロッパ連合の拡大|en|future enlargement of the European Union}}の対象となることを目標に、民主主義と情報伝達の得点目標{{訳語疑問点|date=2019年2月}}(transmission score)を達成することを目指している。しかし、それが達成されるまでに、これらの国々はEU加盟前のプログラムである[[中欧自由貿易協定|CEFTA]]で強く結びつけられるであろう<ref>{{cite web |url=http://transatlantic.sais-jhu.edu/publications/books/Unfinished%20Business%20Pdf/ch01_Bieber.pdf |title=Perspectives on the Region |accessdate=19 July 2013}}</ref>。西バルカン諸国の一部と考えられていたクロアチアは2013年7月にEUに加盟した<ref>{{cite web|url=http://www.europarl.europa.eu/atyourservice/en/displayFtu.html?ftuId=FTU_6.5.2.html|title=Fact Sheets on the European Union:The Western Balkans|publisher=European Parliament|first=André|last=De Munter|date=December 2016|accessdate=22 March 2017}}</ref>。 == 地理的定義に対する批判 == バルカン半島という用語はヨーロッパ南東部の多民族の政治的領域を指し示す用語として、地理的ではなく地政学的に定義されているという批判がある<ref name="Altić11"/>。地理学的用語としての[[半島]]は水域による境界が陸地境界よりも長くなければならず、また陸地側の境界はそれを構成する三角形の中で最短でなければならない。だが、これはバルカン半島に当てはまらない<ref name="Somek15"/><ref name="Altić11"/>。[[オデッサ]]から[[マタパン岬]](約1230-1350キロメートル)と、[[トリエステ]]からマタパン岬まで(約1270-1285キロメートル)という東と西の水域の隣辺はトリエステからオデッサに至る陸地の隣片(約1330-1365キロメートル)よりも短い<ref name="Somek15"/><ref name="Altić11"/>。学術的に半島であると言い切るには大陸とつながる陸地の境界線が長すぎる。オデッサからの距離はトリエステよりも[[バルト海]]沿岸の[[シュテッティン]](920キロメートル)や[[ロストック]](950キロメートル)が近いが、それでもその西側の陸地は別個のヨーロッパ半島とはみなされていない<ref name="Somek15"/>。19世紀末-20世紀初頭の文献においては、半島と大陸の間の正確な境界が知られていなかったので,<ref name="Somek15"/><ref name="Altić11"/>、河川がそれを定義しているものとみなしてよいかどうかという問題もある<ref name="DaskalovMishkova2017"/>。研究においては、バルカンの自然境界、特にその北部の境界はしばしば言及を避けられ、André Blancは『バルカンの地理(''Geography of the Balkans'')』(1965年)で「厄介な問題」としている。また、ジョン・ランプ(John Lampe)とマーヴィン・ジャックマン(Marvin Jackman)は『バルカン経済史(''Balkan Economic History'')』(1971年)において、「現代の地理学者たちは『バルカン半島』という古い考え方を捨て去ることに合意していると思われる」と述べている<ref name="DaskalovMishkova2017"/>。[[バルカン山脈]]の大部分が北部ブルガリアに位置していることからバルカンという名前には別の問題がある。この山脈は[[ディナル・アルプス山脈]]と異なり、その長さと領域において地域を支配するような地形ではない<ref name="Somek15"/>。最終的な結論としてバルカン半島は「ギリシャ=アルバニア半島(Greek-Albanian Peninsula)」と名付けられ得るであろうバルカン山脈の南側の領域と考えることができるが、しかしギリシャは地理学的にも国際関係においてもバルカンとは別枠で取り扱われることも珍しくない<ref name="DaskalovMishkova2017"/><ref name="Altić11"/>。バルカン半島という用語は「[[東南ヨーロッパ]]」の意味に影響を与えているが、この用語もまた地理的要因による明確な定義はされておらず、その境界はつまるところバルカンの歴史的な境界である<ref name="Altić11"/>。 クロアチアの地理学者とアカデミズムはバルカンの地理学的、社会政治学的、歴史学的文脈の中にクロアチアを包含することについて極めて批判的であり、同時に「西バルカン諸国」という新造語はヨーロッパの政治権力によるクロアチアへの侮辱として認識されている<ref name="Somek15">{{cite magazine |last=Somek |first=Petra |date=29 October 2015 |title=Hrvatska nije na „zapadnom Balkanu“ |trans-title=Croatia is not on "Western Balkans" |url=http://www.matica.hr/vijenac/565/hrvatska-nije-na-zapadnom-balkanu-24991/ |language=Croatian |magazine=[[Vijenac]] |location=Zagreb |publisher=[[Matica hrvatska]] |access-date=31 December 2018}}</ref>。M. S. Altićによれば、この「西バルカン諸国」という用語には2つの異なる意味があり、「1つは地理学的意味であって、これは究極的には未だ定義されていない。もう1つは文化的意味であって、これは極めてネガティヴであり、また近年の政治的状況に強い影響を受けている」という<ref name="Altić11">{{cite journal |last=Altić |first=Mirela Slukan |date=2011 |title=Hrvatska kao zapadni Balkan - geografska stvarnost ili nametnuti identitet? |trans-title=Croatia as a Part of the Western Balkans – Geographical Reality or Enforced Identity? |url=https://hrcak.srce.hr/index.php?show=clanak&id_clanak_jezik=103699&lang=en |language=Croatian |journal=Društvena Istraživanja |volume=20 |issue=2 |pages=401–413 |doi=10.5559/di.20.2.06 |access-date=31 December 2018}}</ref>。[[クロアチアの大統領|クロアチア大統領]][[コリンダ・グラバル=キタロヴィッチ]]は2018年に、「西バルカンという用語は地理的意味だけではなく、ネガティヴな意味合いを含むため使用しない。西バルカンと呼ばれる地域はヨーロッパの一部であり'''東南ヨーロッパ'''と呼ぶべきことが知覚されねばならない」と声明を出した<ref>{{cite news|date=27 September 2018|title=Predsjednica objasnila zašto izbjegava izraz 'zapadni Balkan'|trans-title=The presidents explained why it avoids the term "Western Balkans"|url=https://www.vecernji.hr/vijesti/predsjednica-objasnila-zasto-izbjegava-izraz-zapadni-balkan-1272691|language=Croatian|work=[[Večernji list]]|location=Zagreb|accessdate=31 December 2018}}</ref>。 == 自然と天然資源 == [[File:Todorini kukli north.jpg|thumb|[[バルカン山脈]](Stara Planina)のパノラマ。最高地点は標高2,376メートルの{{仮リンク|ボテフ峰|en|Botev Peak}}。]] [[File:Marichin cirkus IMG 1452.jpg|thumb|バルカンで最も高い山、{{仮リンク|リラ山脈|en|Rila}}の方角を見る。標高は2,925メートルに達する。]] [[File:Голубачка тврђава.jpg|thumb|セルビアの{{仮リンク|ゴルバツ要塞|en|Golubac Fortress}}。バルカンの[[ドナウ川]]前線を守る。]] バルカンの大部分は北西から南東に向けて走る山岳地帯に覆われている。主たる山地は[[バルカン山脈]]であり、ブルガリアの[[黒海]]沿岸から[[セルビア]]の国境線まで伸びる。[[ロドピ山脈]]がブルガリア南部と北部[[ギリシャ]]に、[[ディナルアルプス山脈]]が[[ボスニア・ヘルツェゴヴィナ]]、[[クロアチア]]、そして[[モンテネグロ]]に伸びている。{{仮リンク|シャル山脈|en|Šar Mountains}}の山地が[[アルバニア]]から[[北マケドニア]]にかけて、[[ピンドス山脈]]が南アルバニアから中央ギリシャにかけて、{{仮リンク|プロクレティエ山地|en|Prokletije}}(アルバニア・アルプス)まで広がっている。バルカンの最も高い山はブルガリアの{{仮リンク|リラ山脈|en|Rila}}の[[ムサラ山]]であり、標高は2925メートルである。ギリシャにある[[オリンポス山]]は標高2917メートルで第二位であり、ブルガリアの{{仮リンク|ヴィフレン山|en|Vihren}}が標高2914メートルで第3位である。[[カルスト地形]]または[[ポリエ]]はバルカンの山地の景観における一般的な特徴である。 バルカンの[[アドリア海]]と[[エーゲ海]]の沿岸の気候は[[地中海性気候|地中海性]]であり、黒海沿岸では[[温暖湿潤気候]]と[[海洋性気候]]、内陸部では[[湿潤大陸性気候]]となる。バルカン半島の北部と山岳地帯では冬は冷え込み降雪がある。一方で夏は暑く乾燥している。南部の冬は穏やかである。具体的には、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、北部クロアチア、ブルガリア、[[コソヴォ]]、北マケドニア、北部モンテネグロ、アルバニア内陸部、そしてセルビアは湿潤大陸性気候が優勢であるが、それ以外の地域ではそうではない。温暖湿潤気候と海洋性気候の地域はブルガリアと[[東トラキア|ヨーロッパ・トルコ]]の黒海沿岸で見られる。アルバニア沿岸部とクロアチア沿岸部、ギリシャ、南部モンテネグロ、[[東トラキア|ヨーロッパ・トルコ]]のエーゲ海沿岸部は地中海性気候である{{clarify|date=February 2016}}{{citation needed|date=February 2016}}。 数世紀に渡り森林の伐採が進み、植生は<!--原文に無い語を補う-->[[低木]]に切り替わった。バルカン南部と沿岸部では[[常緑樹]]の植生がある。内陸部の木々は典型的な中央ヨーロッパのそれ([[オーク]]と[[ブナ]]、山地では[[トウヒ]]と[[モミ]]、そして[[マツ]])である。山地の[[森林限界]]線は標高1800メートルから2300メートルにある。バルカンの土地は多くの[[固有種]]の[[生息地]]となっている。また極めて豊富な昆虫と爬虫類の生息地ともなっており、多様な[[猛禽類]]と貴重な[[ハゲタカ]]の食糧源となっている。 土壌は一般的に痩せている。天然の草原が広がる[[平野]]部は例外で、肥えた土壌と温暖な夏のため耕作に適している。それ以外の土地では、山地、酷暑、土壌の貧困のために農業はほとんど成立しないが、[[オリーヴ]]や[[ブドウ]]など特定種の生産は栄えている。 相当量の[[石炭]]、[[鉛]]、[[亜鉛]]、[[クロム]]、そして[[銀]]の鉱床がある[[コソヴォ]]を例外として、エネルギー資源は乏しい<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/country_profiles/3524092.stm |title=Regions and territories: Kosovo |publisher=BBC News |date=20 November 2009 |accessdate=17 April 2010 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090214231712/http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/country_profiles/3524092.stm |archivedate=14 February 2009 |deadurl=no }}</ref>。[[炭鉱]]は他の地域、特にブルガリア、セルビア、ボスニアにも存在する。[[亜炭]]の鉱床はギリシャに広く存在する。ギリシャ、セルビア、アルバニアの[[石油]]埋蔵量は少ない。天然ガスのガス田もまた乏しい。[[水力]]は広く利用され、1,000以上のダムが存在する。しばしば吹き付ける[[ボーラ]](この地域で北、北東から吹く[[滑降風]])も風力発電に活用されている。 その他の資源と比べ金属資源はより豊富である。鉄鉱石は希少であるが、いくつかの国には多量の銅、亜鉛、[[スズ]]、[[クロム鉄鉱]]、[[マンガン]]、[[マグネシウム]]、そして[[ボーキサイト]]が存在する。これらの一部は輸出されている。 == 歴史と地政学的重要性 == [[File:Bgiusca Jirecek Line.jpg|thumb|{{仮リンク|イレチェク線|en|Jireček Line}}]] [[File:Appolonia Albania.jpg|thumb|[[アポロニア]]の遺跡。アルバニア、[[フィエル]]近郊。]] [[File:Gamzigrad - Felix Romuliana (by Pudelek) 7.JPG|thumb|ローマ時代の宮殿[[フェリクス・ロムリアーナ]]の遺跡。[[ユネスコ|UNESCO]]、セルビア。]] {{Main|バルカンの歴史}} === 古典古代 === バルカン地方は[[新石器時代]]の農耕文化がヨーロッパで最初に到来した地方である。バルカンには[[旧石器時代]]から人類が居住しており、[[新石器時代]](紀元前7千年紀)の間に[[中東]]からヨーロッパへバルカンを経路として農業が伝わった<ref name="Borza">{{Citation | last = Borza | first = EN | title = In the Shadow of Olympus: The Emergence of Macedon | page = 58 | url = https://books.google.com/?id=614pd07OtfQC&pg=PA58&dq=petralona+cave+oldest#v=onepage&q=petralona%20cave%20oldest | publisher = Princeton University Press | year = 1992| isbn = 978-0691008806 }}</ref><ref>{{Citation | last = Perlès | first = Catherine | title = The Early Neolithic in Greece: The First Farming Communities in Europe | page = 1 | url = https://books.google.com/?id=LQQ3tx5_t7QC&printsec=frontcover&dq=perles+greece+farming+europe+neolithic#v=onepage&q=sesklo | publisher = Cambridge University Press | year = 2001| isbn = 9780521000277 }}</ref>。穀物を栽培し家畜を育てる習慣は[[肥沃な三日月地帯]]から[[アナトリア]]を経てバルカンに伝わり、特にこの[[半島]]を通じてさらに西と北へ、中央ヨーロッパへと広がった。{{仮リンク|スタルチェヴォ文化|en|Starčevo culture}}と{{仮リンク|ビンチャ文化|en|Vinča culture}}という、二つの初期の文化的複合体がバルカンで発達した。バルカンはまた、最初の先進的な文明を育んだ場所でもある。ビンチャ文化は[[シュメール]]文明と[[ミノア文明]]以前に[[文字の歴史#原文字|原文字]]の形態を発達させた。これは[[:en:Old European script|Old European script]]として知られている。これに使用されるシンボルの大半は前4500年から前4000年の間に創られたが、[[タルタリア]]の粘土板にあるものは前5300年頃まで遡る<ref name="GdS">{{cite book |last=Haarmann |first=Harald |title=Geschichte der Schrift |publisher=C.H. Beck |year=2002 |isbn=978-3-406-47998-4 |pp=20 |language=German}}</ref>。 バルカンという概念の素性(identity)はその地理的位置によって支配されている。歴史的にこの地域は文化の十字路であった。この地は[[ローマ帝国]]における[[ラテン語|ラテン]]と[[ギリシャ語|ギリシャ]]の境界であり、異教徒[[ブルガール人]]と[[スラヴ人]]の大規模な移住先でもあった。同時に[[正教会]]と[[カトリック]]という2つのキリスト教宗派が向き合う場であり<ref>{{cite book |author=Goldstein, I. |title=Croatia: A History |publisher=McGill-Queen's University Press |year=1999}}</ref>、[[イスラーム教]]とキリスト教の間の邂逅の場でもあった。 前古典期と[[古典古代]]にはバルカン地域は[[ギリシャ人]]、[[イリュリア人]]、{{仮リンク|パエオニア王国|label=パエオニア人|en|Paeonia (kingdom)}}、[[トラキア人]]、[[ダキア人]]、そして他の古代の「民族」の居住地であった。[[アケメネス朝|ハカーマニシュ朝]](アケメネス朝)の版図には前6世紀末と前5世紀前半の間バルカンの[[マケドニア]]、[[トラキア]]、[[ブルガリア]]、そして[[ルーマニア]]の黒海沿岸地方が含まれていた<ref>Joseph Roisman, Ian Worthington [https://books.google.com/books?id=QsJ183uUDkMC&pg=PA345#v=onepage ''A Companion to Ancient Macedonia''] pp 135–138, 342–345 John Wiley & Sons, 7 Jul. 2011 {{ISBN2|978-1-4443-5163-7}}</ref>。[[ローマ帝国]]による征服の後半にはローマ文化と[[ラテン語]]がバルカンの大部分に普及したが、重要な部分ではなお[[古代ギリシャ]]の影響の下にあった。[[ローマ帝国]]は[[ロドピ山脈]]をハエムス半島の北限だと考えており、ラテン語とギリシャ語の使用も同じ境界が適用される(後に{{仮リンク|イレチェク線|en|Jireček Line}}と呼ばれた)<ref>{{cite web|url=https://www.jstor.org/pss/3063446%7ctitle=JSTOR%7cwork=jstor.org|title=JSTOR|work=jstor.org|accessdate=2019-03-07}} ※リンク切れのため未確認</ref>。しかし、イレチェク線の南側の空間の大部分に過去も現在もロマンス語話者の[[ヴラフ人]]([[アルーマニア人]])が居住している<ref>Kahl, Thede - "Istoria aromânilor", Editura Tritonic, București, 2006</ref><ref>A.N. Haciu - "Aromânii. Comerț, industrie, arte, expansiune, civilizație", ediția I, 1936; ediția a II-a, Editura Cartea Armână, Constanța, 2003, 598 p.; {{ISBN2|973-8299-25-X}}</ref>。[[ブルガール人]]と[[南スラヴ人|スラヴ人]]は6世紀頃に到来して1つに同化し始め、なおかつ既に(ローマ化とヘレニズム化を通じて)一体化していたバルカン北部と中央部の古い住民たちを追放し、[[ブルガリア帝国]]を形成した<ref>''[https://books.google.com/books?id=f1F39vRlERAC&pg=PA125 Twenty Years of Balkan Tangle]''. Mary Edith Durham (2007). p.125. {{ISBN2|1-4346-3426-4}}</ref>。[[中世]]の間、バルカンは[[東ローマ帝国]]と[[ブルガリア帝国|ブルガリア人]]の帝国の一連の戦争の舞台となった。 === 近代 === 16世紀の終わりまでに、オスマン帝国はアナトリアから[[トラキア]]を経由してバルカンに拡張し、この地域の支配権力となった。バルカンの多くの住民はこのオスマン帝国の拡張と後退の時代に偉大な民族的英雄を置いている{{citation needed|date=June 2014}}。例えば、ギリシャ人は[[コンスタンティノス11世パレオロゴス]]と{{仮リンク|テオドロス・コロコトロニス|en|Theodoros Kolokotronis}}。[[セルビア]]は[[ミロシュ・オビリッチ]]と[[ラザル・フレベリャノヴィチ (セルビアの侯)|ラザル・フレベリャノヴィチ]]、[[モンテネグロ人]]は[[:en:Đurađ I Balšić|Đurađ I Balšić]]と{{仮リンク|イヴァン・ツルノイェヴィチ|en|Ivan Crnojević}}、[[アルバニア人]]は[[スカンデルベグ|ジェルジ・カストリオティ・スカンデルベグ]]、[[マケドニア人]]は[[:en:Nikola Karev|Nikola Karev]]<ref name="Considered a Bulgarian in Bulgaria">ブルガリアではブルガリア人と見做されている。</ref>、と[[ゴツェ・デルチェフ(1872年 - 1903年)|ゴツェ・デルチェフ]]<ref name="Considered a Bulgarian in Bulgaria" />、[[ブルガリア人]]は[[ヴァシル・レフスキ]]、[[Georgi Sava Rakovski]]、[[フリスト・ボテフ]]、そして[[クロアチア人]]は[[ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ]]と言った具合である。 [[File:Balkans Animation 1800-2008.gif|thumb|left|1796年以降のバルカンの政治的境界線の変遷]] [[File:Hagia Sophia 81.JPG|thumb|6世紀に[[コンスタンティノープル]](現在のトルコ領[[イスタンブル]])に建設された[[正教会]]の[[アヤ・ソフィア]]寺院。後にスルタンのモスクとなり、現在は博物館である。]] 過去数世紀に渡り、頻繁に{{仮リンク|ヨーロッパにおけるオスマン帝国の戦争|label=ヨーロッパ内でのオスマン帝国の戦争|en|Ottoman wars in Europe}}がバルカン及びその周辺で戦われたことと、オスマン帝国がヨーロッパの商業的発展の中枢から(ヨーロッパの商業と政治の中心が徐々に[[大西洋]]に移動したことを反映して)比較的孤立していたために、バルカン諸国はヨーロッパの中でも発展が遅れた地方となった。[[:en:Halil İnalcık|Halil İnalcık]]によれば、「バルカン諸国の人口はある推計によれば、16世紀後半にはピークの[[人口減少社会|800万人から減少し]]、18世紀半ばには300万人しかいなかった。この推計はオスマン帝国の文書史料に基づいている<ref>''[https://books.google.com/books?id=c00jmTrjzAoC&pg=PA652 An economic and social history of the Ottoman Empire]''. Suraiya Faroqhi, Donald Quataert (1997). [[Cambridge University Press]]. p.652. {{ISBN2|0-521-57455-2}}</ref>。」 バルカンの国民国家の大部分は19世紀から20世紀初頭にかけてオスマン帝国かオーストリア=ハンガリー二重帝国から独立して登場した。ギリシャは1821年、セルビアとモンテネグロは1878年、ルーマニアは1881年、ブルガリアは1908年、アルバニアは1912年である === 現代史 === [[File:Tsarevets.JPG|thumb|{{仮リンク|ツァレヴェッツ要塞|en|Tsarevets (fortress)}}。中世には[[ブルガリア帝国]]の首都にある要塞であった。[[ヴェリコ・タルノヴォ]]]] [[File:Ohrid Lake.jpg|thumb|13世紀に建造された、{{仮リンク|カエノの聖ヨハネ教会|en|church of St. John at Kaneo}}とマケドニアの[[オフリド湖]]。この湖と都市は1980年にUNESCOの{{仮リンク|世界遺産の国別の一覧|label=世界遺産|en|Table of World Heritage Sites by country}}に登録された。]] ==== 世界大戦 ==== [[File:Austrians executing Serbs 1917.JPG|thumb |セルビアの民間人を処刑するオーストリア=ハンガリー二重帝国軍の兵士。1914年。[[セルビア王国|セルビア]]は第一次世界大戦中に約850,000人の人口を失った。これは戦前の人口の4分の1に相当する<ref>"[https://archive.org/stream/PAM550-99/PAM550-99_djvu.txt The Balkan Wars and World War I]". p. 28. ''[[:en:Library of Congress Country Studies|Library of Congress Country Studies]]''.</ref>。]] 1912年から1913年にかけて[[第一次バルカン戦争]]が勃発し、[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア]]、[[セルビア王国 (近代)|セルビア]]、[[ギリシャ王国|ギリシャ]]、そして[[モンテネグロ王国|モンテネグロ]]は一致して[[オスマン帝国]]に対する[[バルカン同盟]]を結んでいた。この戦争の結果、[[オスマン帝国]]がヨーロッパに未だ保持していた残存領土の大部分が占領され、同盟諸国に分割された<ref name="木村1998p239">[[#木村 1998|木村 1998]], p. 239</ref>。講和交渉の過程で独立した[[アルバニア]]人国家の創設が決まったが、アルバニア併合を期待していたセルビアとギリシャはその代償としてマケドニアの領有を要求した<ref name="木村1998p239"/>。ブルガリアは[[露土戦争 (1877年-1878年)]]以来マケドニア領有を追求し、戦時中にこれを占領していたブルガリアはこれに反発した<ref name="木村1998p239"/>。セルビアとギリシャは秘密同盟を締結してブルガリアを攻撃し、[[第2次バルカン戦争]]が開始された<ref name="木村1998p239"/>。モンテネグロ、ルーマニアもブルガリアを攻撃し、ブルガリア軍は崩壊した<ref name="木村1998p239"/>。オスマン帝国もこの機会を捉え[[東トラキア]]を再占領し新たな西方の境界線を確立した<ref name="木村1998p239"/>。この線はトルコの国境の一部となっている。 1914年に主にセルビア人とユーゴスラヴの賛同者を中心とする革命組織{{仮リンク|青年ボスニア|en|Mlada Bosna}}のメンバーがオーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナンド]]をボスニア・ヘルツェゴビナの首都[[サラエボ]]で[[サラエボ事件|暗殺]]した時、[[第一次世界大戦]]が勃発した。この事件によって両国間の戦争が引き起こされ、当時存在していた二つの[[連合国 (第一次世界大戦)|同盟関係の鎖]]を通じて第一次世界大戦に至った。オスマン帝国はすぐに[[中央同盟国]]に加わり、この同盟に参加する3つの帝国の1つとなった。翌年にはブルガリアが[[中央同盟国]]に加わり、1年にわたりオーストリア=ハンガリー二重帝国との戦いで成功を収めていたセルビアを攻撃した。これはセルビアの敗北と[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]のバルカン諸国への介入に繋がり、連合国は新たな戦線、特に[[マケドニア戦線]]を構築するために軍を派遣した。これは第一次世界大戦における第3の戦線となり、東西の戦線と同じくすぐに膠着した。開戦から3年後、ギリシャが協商側に立ってこの大戦に加わり、これは1918年に最終的にドイツ-ブルガリアの共同戦線を崩壊させ、両軍の軍事バランスを変更させることに繋がった。これがブルガリアの大戦からの離脱を引き起こし、更にはオーストリア=ハンガリー二重帝国の崩壊と第一次世界大戦の終結へと繋がった<ref>Encyclopedia of World War I, Spencer Tucker, Priscilla Mary Roberts, p.242</ref>。 [[第二次世界大戦]]の開始とともに、ギリシャを例外として全てのバルカン諸国は[[ナチス・ドイツ]]と同盟を結び、二間軍事協定を結ぶか[[日独伊三国同盟|枢軸国]]の一部として加わった。[[イタリア王国|ファシスト・イタリア]]はアルバニア保護領を[[ギリシャ・イタリア戦争|ギリシャへの侵攻拠点として利用]]し、この戦争をバルカンで拡大させた。この攻撃を撃退した後、ギリシャ人は反撃に出てイタリアが保有していたアルバニアに侵入したが、イタリアを助けてナチス・ドイツがバルカンへ介入した<ref>Europe in Flames, J. Klam, 2002, p.41</ref>。ドイツの侵攻前に、ベオグラードでクーデターが成功し、中立派の軍人が権力を握った<ref>Russia's life-saver, Albert Loren Weeks, 2004, p.98</ref>。新政府は枢軸国の一員としての義務を全うするというセルビアの意向を再確認したものの{{sfn | Schreiber, Stegemann and Vogel | 1995 | p=484}}、ドイツはブルガリアと共にギリシャとユーゴスラヴィアに侵攻した。セルビア王の臣下とクロアチアの部隊が離反するとユーゴスラビアはたちまち崩壊した{{sfn | Schreiber, Stegemann and Vogel | 1995 | p=521}}。ギリシャは抵抗したが、2ヶ月間戦った後に崩壊し占領された。この両国はブルガリア、ドイツ、イタリアという3つの枢軸国及び、イタリアとドイツの傀儡国家[[クロアチア独立国]]によって分割された。 占領下において人々は抑圧と飢餓によって大きな苦難を体験し、これに対して大規模な抵抗運動(レジスタンス)が組織された<ref>Inside Hitler's Greece:The Experience of Occupation, Mark Mazower, 1993</ref>。その年の初頭の厳冬(これは栄養失調の間で数十万人の死者を出した)は、ドイツの[[バルバロッサ作戦|ロシア侵攻]]計画のタイムテーブルを大幅に遅延させ、ドイツの侵攻に重大な影響を及ぼした<ref>Hermann Goring: Hitler's Second-In-Command, Fred Ramen, 2002, p.61</ref>。この遅れは戦争の経過に重大な影響を及ぼした<ref>The encyclopedia of codenames of World War II#Marita, Christopher Chant, 1986, p. 125–6</ref>。 最終的に、1944年の終わりにソビエト軍がルーマニアとブルガリアに入り、ドイツ軍をバルカンから蹴散らした。ドイツ軍による戦時中の搾取の結果として、大部分が荒廃した地域が残された。 ==== 冷戦 ==== [[冷戦]]の最中、バルカン諸国の大半は共産主義政権によって統治された。ギリシャは最初の冷戦の舞台となった。[[トルーマン・ドクトリン]]は1944年から1949年まで荒れ狂った[[ギリシャ内戦]]に対するアメリカの反応であった。隣接する諸国(アルバニア、ブルガリア、ユーゴスラビア)の共産主義者の義勇兵によって支援された[[ギリシャ共産党]]によって解き放たれたこの内戦は、アメリカに非共産主義ギリシャ政府への大規模な支援を促した。この支援を受けてギリシャはパルチザンを撃破することに成功し、最終的にこの地域におけるただ一つの非共産主義国家として残存した。 しかしながら、共産主義政権下にあるにもかかわらず、[[ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国|ユーゴスラヴィア]](1948年)と[[アルバニア社会主義人民共和国|アルバニア]](1961年)はソヴィエト連邦から離反した。[[チトー|ヨシップ・ブロズ・チトー]](1892年-1980年)政権下のユーゴスラヴィアは最初に支援を受け、その後[[ブルガリア]]と合併するという案を拒否し、むしろ西側との緊密な関係を求め、率先してインドやエジプトと共に[[非同盟運動]]を主導することさえした。他方でアルバニアは[[中華人民共和国|共産主義中国]]に引き寄せられ、後に[[孤立主義]]を採用した。 唯一の非共産主義国として[[ギリシャ]]、[[トルコ]]は(今なお)[[北大西洋条約機構|NATO]]の一部としてこの同盟の南東翼を形成している。 ==== 冷戦後 ==== 1990年代、この地域の国々はユーゴスラビアを除き旧ソビエト圏から自由経済社会へと平和的に移行した。スロベニアとクロアチアが自由選挙を実施し、国民投票で独立が決定された後、[[ユーゴスラヴィア内戦|旧ユーゴスラヴィア諸国の間の戦争]]が勃発した。次いでセルビアは連邦の解消は違憲であると宣言し、[[ユーゴスラビア人民軍|ユーゴスラビア連邦軍]]が現状維持を試みたが成功しなかった。スロベニアとクロアチアは1991年7月25日に独立を宣言し、続いて[[十日間戦争]]がスロベニアで戦われた。1991年10月までに連邦軍はスロヴェニアとクロアチアから撤退したが、[[クロアチア紛争|クロアチア独立戦争]]は継続し、[[嵐作戦|1995年まで続いた]]。続く10年間の武力紛争の中で次第に他の全ての共和国が独立を宣言していった。一連の紛争で最大の影響を被ったのは[[ボスニア紛争|ボスニア]]である。長期に渡る戦争の結果、国連が介入と、陸・空からの{{仮リンク|NATOによるボスニア介入|en|NATO intervention in Bosnia and Herzegovina}}が行われ、[[NATOによるボスニア・ヘルツェゴビナ空爆 (1995年)|ボスニア・ヘルツェゴビナ]]と[[アライド・フォース作戦|セルビア]]のセルビア軍に対して[[NATOによるボスニア・ヘルツェゴビナ空爆 (1995年)|空爆]]が実施された。 [[File:Former Yugoslavia 2008.PNG|upright=1.15|thumb|旧[[ユーゴスラビア]]の領土に存在する国々。2008年]] ユーゴスラヴィアの崩壊により、6つの共和国が主権国家として国際的な承認を得た。これらの国々、[[スロベニア]]、[[クロアチア]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[北マケドニア|マケドニア]]、[[モンテネグロ]]、そして[[セルビア]]は伝統的にバルカン諸国の中に含まれている。2008年、国連の管理下においてコソヴォが[[コソボ独立宣言|独立宣言]]を行った(セルビアの公式見解ではコソボは今なお同国の自治区である)。2010年7月、[[国際司法裁判所]]はこの独立宣言は合法であるという判決を出した<ref>{{cite news|title=Kosovo independence declaration deemed legal|url=https://www.reuters.com/article/2010/07/22/us-serbia-kosovo-idUSTRE66L01720100722|accessdate=16 February 2014|newspaper=Reuters|date=22 July 2010}}</ref>。大部分の国連加盟国がコソボを承認している。一連の戦争の終結後、セルビアで{{仮リンク|スラボダン・ミロシェヴィッチの打倒|label=革命|en|Overthrow of Slobodan Milošević}}が起き、セルビア共産党のリーダー、[[スロボダン・ミロシェヴィッチ]](1989から2000年まで大統領を務めた)はユーゴスラビア内戦中の[[国際人道法|人道に対する罪]]で[[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷|国際戦犯法廷]]に送られ裁判にかけられた。ミロシェヴィッチは判決が下されるより先に、2006年に心臓発作で死亡した。2001年、[[北マケドニア|マケドニア共和国]]で発生した[[マケドニア紛争|アルバニア人の蜂起]]によってセルビアは{{仮リンク|北マケドニアにおけるアルバニア人|en|Albanians in North Macedonia}}の支配地域に自治権を与えることを余儀なくされた。 [[ユーゴスラビア]]の崩壊と共に旧連邦構成国であったマケドニア共和国が国際的に承認される際の名称を巡る問題がマケドニア共和国とギリシャの間で浮かび上がった。[[北マケドニア|マケドニア共和国]]がユーゴスラヴィアの一部([[北マケドニア]]を参照)であったことから、この旧連邦共和国はユーゴスラヴ人意識の下で[[マケドニア社会主義共和国]]という名前を持ち、その名前で1991年に独立を宣言した。ギリシャは同一の名前を持つ広大な領土を保持していた([[マケドニア (ギリシャ)]]を参照)。そしてマケドニアという名称はギリシャに帰属することを主張し、また新マケドニア国家が在外マケドニア人の保護規定を憲法に設けたことから、「解決済み」の領土問題や「存在しない」民族問題を提起するものであるという懸念を示し、国家性(nationality)を示す名称としてこれを使用することに反対した<ref name="木村2016p171">[[#木村 2016|木村 2016]], p. 171</ref>。この[[マケドニア名称論争]]は長らく膠着状態に陥っていたが、2018年6月12日に国名を'''北マケドニア共和国'''とすることでギリシャと合意し<ref>{{Cite web|和書|title=マケドニア国名変更で合意、四半世紀の対立解消へ|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO31713600T10C18A6FF1000/|website=日本経済新聞|date=2018-06-13|accessdate=2020-05-17|language=ja}}</ref>、両国の議会承認等を経て2019年2月12日に改名が発効した<ref>{{Cite web|和書|title=「北マケドニア」改名発効|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41199040T10C19A2000000/|website=日本経済新聞|date=2019-02-13|accessdate=2020-05-17|language=ja}}</ref>。 [[1981年]]、[[ギリシャ]]は[[欧州諸共同体]](現在の欧州連合の前身)に加盟した。その後長らくバルカン地域の国々は[[欧州統合]]プロセスとは距離があったが、[[2004年]]に[[スロベニア]]が、[[2007年]]に[[ブルガリア]]と[[ルーマニア]]が、[[2013年]]に[[クロアチア]]が[[欧州連合]](EU)に加盟した。2020年5月現在、[[トルコ]]、[[北マケドニア]]、[[モンテネグロ]]、[[セルビア]]、[[アルバニア]]がEUの正式な加盟候補国として認定されており、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]と[[コソボ]]がEUの潜在的加盟候補国とみなされている<ref>{{Cite web|和書|title=欧州連合(EU)|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/eu/index.html|website=Ministry of Foreign Affairs of Japan|accessdate=2020-05-17|language=ja}}</ref>。 [[ギリシャ]]と[[トルコ]]は共に[[1952年]]から[[北大西洋条約機構|NATO]]の加盟国である。その後、[[2004年]]に[[ブルガリア]]、[[ルーマニア]]、[[スロベニア]]が、[[2009年]]に[[アルバニア]]と[[クロアチア]]が、[[2017年]]に[[モンテネグロ]]が<ref>{{cite web|url=https://europeanwesternbalkans.com/2017/04/20/darmanovic-montenegro-becomes-eu-member-in-2022/|title=Darmanović: Montenegro becomes EU member in 2022 - European Western Balkans|first=EWB|last=Archives|date=20 April 2017|publisher=|accessdate=2019-03-06}}</ref>、[[2020年]]に[[北マケドニア]]が<ref>{{Cite web|和書|title=北マケドニアがNATO加盟 30カ国体制に|url=https://mainichi.jp/articles/20200328/k00/00m/030/078000c|website=毎日新聞|accessdate=2020-05-17|language=ja}}</ref>NATOに加盟した。 == 政治と経済 == [[File:Oia, Santorini HDR sunset.jpg|thumb|ギリシャ[[サントリーニ島]]からの眺め。[[ギリシャの観光|観光]]はギリシャ経済の重要な構成要素である。]] [[File:Dubrovnik june 2011..JPG|thumb|クロアチアの[[ドゥブロブニク]]。1979年からUNESCOの[[世界遺産]]に登録されている。]] [[File:Drvengrad.jpg|thumb|[[セルビア]]の民族村(ethno village){{仮リンク|ドルヴェングラード|en|Drvengrad}}(MećavnikまたはKüstendorfとも)は毎年開催される[[エミール・クストリッツァ|クストリッツァ]]映画祭の開催地である。]] 現在、バルカン諸国は全て共和制国家であるが、第二次世界大戦までは全て君主国であった。大部分の共和国は[[議会共和制]]{{訳語疑問点|date=2019年3月}}を採用しているが、ルーマニアとボスニアは[[半大統領制]]である。全ての国が[[自由経済|自由]][[市場経済]]である。大部分が中堅上位の所得水準(一人当たりGNI4,000-12,000米ドル)にあり、[[クロアチア]]、[[ルーマニア]]、[[ギリシャ]]、[[スロヴェニア]]は{{仮リンク|高所得経済|en|High income economy}}(一人当たりGNI12,000米ドル以上)である。バルカン諸国は[[人間開発指数]]がHighに分類されているが、これら4か国はとりわけ[[人間開発指数]](HDI)がVery Highに分類されている。かつて[[計画経済]]を採用していた旧[[東側諸国]]とトルコは毎年緩やかに経済成長を遂げていたが、2008年の経済危機([[リーマン・ショック]])は各国の経済に深刻な影響をもたらし、失業率の急上昇、給与の引き下げ、社会経済システムの混乱が生じた<ref name="バルカンハンドブックp74"/>。旧社会主義国ではなく、最も経済的に豊かな国の1つであったギリシャもこれを切っ掛けに深刻な経済・財政危機に陥り、EUや[[国際通貨基金|IMF]]による救済を受けなければならなかった<ref name="バルカンハンドブックp74"/>。その後の混乱のために経済の多くの部分が地下経済へと移行し、その規模は2017年現在、同国のGDPの3分の1にも相当するとも言われている<ref name="バルカンハンドブックp75">[[#カッタルッツァ、サンテス、フーシェ 2017|カッタルッツァ、サンテス、フーシェ 2017]], p. 75</ref>。2012年にギリシャ経済だけは縮小に転じた。 一人当たりGDP([[購買力平価]])はスロヴェニアが最も高く(36,000米ドル以上)、続いてギリシャ(29,000米ドル)、クロアチアとルーマニア(25,000米ドル)、トルコ、ブルガリア、モンテネグロ、セルビア、北マケドニア(10,000-15,000米ドル)、そしてボスニア、アルバニア、コソヴォ(10,000米ドル以下)の順となる<ref>{{cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2011/02/weodata/weorept.aspx?sy=2009&ey=2016&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=914%2C962%2C943%2C963%2C918%2C960%2C968%2C942%2C961%2C174%2C186%2C967&s=PPPPC&grp=0&a=&pr1.x=41&pr1.y=12|title=Report for Selected Countries and Subjects|publisher=International Monetary Fund|year=2009–2016|accessdate=2019-03-05}}</ref>。 1990年代にバルカン諸国で[[共産主義]]体制による[[計画経済]]が終わりを告げた後、それまで表面化していなかった(あるいは隠されていた)[[貧困]]問題が噴出した<ref name="バルカンハンドブックp72">[[#カッタルッツァ、サンテス、フーシェ 2017|カッタルッツァ、サンテス、フーシェ 2017]], p. 72</ref>。体制転換による国家機構の問題がこれに拍車をかけた<ref name="バルカンハンドブックp72"/>。ブルガリアやルーマニアなどでは[[平均寿命]]が短くなり、[[貧困線]]以下の経済水準で暮らす人の数は激増した<ref name="バルカンハンドブックp73">[[#カッタルッツァ、サンテス、フーシェ 2017|カッタルッツァ、サンテス、フーシェ 2017]], p. 73</ref>。21世紀に入った後は一般的にバルカン諸国は[[経済成長]]を続けており、こうした問題は若干緩和され、平均寿命も延びつつある<ref name="バルカンハンドブックp73"/>。しかし、各国の国内の経済格差は大きく、ルーマニアなどではむしろ日々拡大している<ref name="バルカンハンドブックp74">[[#カッタルッツァ、サンテス、フーシェ 2017|カッタルッツァ、サンテス、フーシェ 2017]], p. 74</ref>。 失業率が最も低いのはルーマニア(10%以下)であり、続いてブルガリア、トルコ、アルバニア(10-15%)、ギリシャ(15-20%)、モンテネグロ、セルビア、ボスニア(20-30%)、北マケドニア(30%以上)、そしてコソヴォ(40%以上)となっている。 *政治的、社会的、そして経済的な分類は以下の通りである。 ** [[ヨーロッパ連合]]地域[[欧州連合加盟国|加盟国]]:ブルガリア、クロアチア、ギリシャ、ルーマニア、スロヴェニア ** 現在{{仮リンク|将来のヨーロッパ連合の拡大|label=ヨーロッパ連合と加盟交渉中の国|en|future enlargement of the European Union}}:モンテネグロ、セルビア、トルコ * 公式なヨーロッパ連合{{仮リンク|将来のヨーロッパ連合の拡大|label=加盟候補国|en|future enlargement of the European Union}}:アルバニア、北マケドニア ** 潜在的なヨーロッパ連合{{仮リンク|将来のヨーロッパ連合の拡大|label=加盟候補国|en|future enlargement of the European Union}}:ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、コソヴォ * 国境管理、および貿易による分類は以下の通りである。 ** [[シェンゲン圏]]である地域:ギリシャ、北マケドニア ** [[シェンゲン圏]]に加わることが法的に決定されている地域:ブルガリア、クロアチア、ルーマニア ** [[欧州連合関税同盟|ヨーロッパ連合と関税同盟を結ぶ]]国:トルコ ** [[中欧自由貿易協定]]加盟国:アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、コソヴォ、北マケドニア、モンテネグロ、セルビア * 通貨においては以下のように分類される。 ** [[ユーロ圏]]:ギリシャ、スロヴェニア ** [[ユーロ]]をEUの許可を得ずに使用している地域:コソヴォ、北マケドニア ** 自国通貨を使用し、[[ユーロ圏]]に{{仮リンク|ユーロ圏の拡大|label=将来的に加わる|en|Enlargement of the eurozone}}候補の地域:ブルガリア([[レフ (通貨)|レフ]])、クロアチア([[クーナ]])、ルーマニア([[ルーマニア・レウ|レウ]]) ** 自国通貨を使用している地域:アルバニア([[レク (通貨)|レク]])、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ([[兌換マルク]])、セルビア([[セルビア・ディナール|ディナール]])、北マケドニア([[マケドニア・ディナール|ディナール]])、トルコ([[トルコ・リラ|リラ]]) * 軍事的分類は以下の通りである。[[File:Camp bondsteel kosovo.jpg|thumb|[[ボンドスティール基地]]の空中写真。[[アメリカ陸軍]]の主要基地であり[[コソヴォ]]の[[KFOR]](コソヴォ軍)の指揮下にある。]] ** [[北大西洋条約機構]]{{仮リンク|北大西洋条約機構加盟国|label=加盟国|en|Member states of NATO}}:アルバニア、ブルガリア、クロアチア、ギリシャ、モンテネグロ、ルーマニア、スロヴェニア、トルコ ** 北大西洋条約機構との間に[[:en:Individual Partnership Action Plan|Individual Partnership Action Plan]]と[[:en:Membership Action Plan|Membership Action Plan]]を締結し、[[平和のためのパートナーシップ]]に加盟している地域:ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、北マケドニア ** [[平和のためのパートナーシップ]]に加盟している地域:セルビア * 直近の政治的、社会的、経済的分類。この地域の国々を2つのグループに分けている。 ** 旧共産主義諸国:アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ブルガリア、クロアチア、コソヴォ、北マケドニア、モンテネグロ、ルーマニア、セルビア、スロヴェニア ** 従来より資本主義体制を取っていた地域:ギリシャ、トルコ ** 冷戦の間、バルカン諸国は二つのブロックに分かれて争った。ギリシャとトルコは[[北大西洋条約機構]](NATO)に加盟し、ブルガリアとルーマニアは[[ワルシャワ条約機構]]に加盟していた。一方でユーゴスラヴィアは第三世界を提唱し、[[非同盟諸国]]の創設メンバーであった。ユーゴスラヴィア崩壊の後もセルビアとボスニア・ヘルツェゴヴィナは非同盟諸国でオブザーバーの地位を保持していた。 === 地域組織 === {| style="width:500px" |- |[[File:Southeast European Cooperation Process Map.svg|thumb|upright=1.25|[[南東欧協力プロセス]](SEECP)加盟諸国]] || [[File:SP for SEE members.png|thumb|upright=1.25|[[南東欧安定化協定]] {{legend|#ff7f40|加盟国}}{{legend|#00ff00|オブザーバー}} {{legend|#007fff|支援パートナー}}]] |- |[[File:SECI members.png|right|thumb|upright=1.25|[[南東欧協力イニシアティヴ]](SECI){{legend|#ff7f40|加盟国}} {{legend|#00ff00|オブザーバー}}]] || [[File:BSEC members.png|right|thumb|upright=1.25|[[黒海経済協力機構]](BSEC){{legend|#ff7f40|加盟国}} {{legend|#00ff00|オブザーバー}}]] |} [[黒海]]も参照<!--See also the [[Black Sea#Trans-sea cooperation|Black Sea regional organizations]]--> == 統計 == {| class=wikitable border="2" cellpadding="5" style="margin:auto; border-collapse:collapse;" |- ! ! [[アルバニア]] ! [[ボスニア・ヘルツェゴヴィナ]] ! [[ブルガリア]] ! [[クロアチア]] ! [[ギリシャ]] ! [[コソヴォ]]*{{ref label|status|a}} ! [[モンテネグロ]] ! [[北マケドニア]] ! [[ルーマニア]] ! [[セルビア]] ! [[スロヴェニア]] ! [[トルコ]] |- ! 国旗 | style="text-align:center" | {{Flagicon|Albania|size=45px|text=none}} | style="text-align:center" | {{Flagicon|Bosnia and Herzegovina|size=45px|text=none}} | style="text-align:center" | {{Flagicon|Bulgaria|size=60px|text=none}} | style="text-align:center" | {{Flagicon|Croatia|size=45px|text=none}} | style="text-align:center" | {{Flagicon|Greece|size=50px|text=none}} | style="text-align:center" | {{Flagicon|Kosovo|size=45px|text=none}} | style="text-align:center" | {{Flagicon|Montenegro|size=45px|text=none}} | style="text-align:center" | {{Flagicon|Macedonia|size=45px|text=none}} | style="text-align:center" | {{Flagicon|Romania|size=45px|text=none}} | style="text-align:center" | {{Flagicon|Serbia|size=45px|text=none}} | style="text-align:center" | {{Flagicon|Slovenia|size=45px|text=none}} | style="text-align:center" | {{Flagicon|Turkey|size=40px|text=none}} |- ! 紋章 | style="text-align:center" | {{Coat of arms|Albania|size=45px|text=none}} | style="text-align:center" | {{Coat of arms|Bosnia and Herzegovina|size=45px|text=none}} | style="text-align:center" | {{Coat of arms|Bulgaria|size=45px|text=none}} | style="text-align:center" | [[File:Coat of arms of Croatia.svg|54x54px]] | style="text-align:center" | {{Coat of arms|Greece|size=45px|text=none}} | style="text-align:center" | {{Coat of arms|Kosovo|size=45px|text=none}} | style="text-align:center" | {{Coat of arms|Montenegro|size=45px|text=none}} | style="text-align:center" | [[File:Coat of arms of the Republic of Macedonia.svg|45px]] | style="text-align:center" | {{Coat of arms|Romania|size=45px|text=none}} | style="text-align:center" | {{Coat of arms|Serbia|size=45px|text=none}} | style="text-align:center" | {{Coat of arms|Slovenia|size=45px|text=none}} | style="text-align:center" | [[File:TurkishEmblem.svg|27x27px]] |- ! 首都 | [[ティラナ]] | [[サライェヴォ]] | [[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]] | [[ザグレブ]] | [[アテネ]] | [[プリシュティナ]] | [[ポドゴリツァ]] | [[スコピエ]] | [[ブカレスト]] | [[ベオグラード]] | [[リュブリャナ]] | [[アンカラ]] |- ! 独立 | 1912年11月28日 | 1992年3月3日 | 1908年10月5日 | 1991年7月26日 | 1821年3月25日 | 2008年2月17日 | 2006年7月3日 | 1991年10月17日 | 1878年5月9日 | 1878年7月13日 | 1991年6月25日 | 1923年10月29日 |- ! 現職大統領 | [[バイラム・ベガイ]] | [[ジェリカ・ツヴィヤノヴィッチ]]<br/>[[ジェリコ・コムシッチ]]<br/>{{仮リンク|デニス・ベチロヴィッチ|en|Denis Bećirović}} | [[ルメン・ラデフ]] | {{仮リンク|ボリャナ・クリシュト|en|Borjana Krišto}} | [[カテリナ・サケラロプル]] | [[ヴィヨサ・オスマニ]] | [[ミロ・ジュカノヴィチ]] | [[ステボ・ペンダロフスキ]] | [[クラウス・ヨハニス]] | [[アレクサンダル・ヴチッチ]] | [[ボルト・パホル]] | [[レジェップ・タイイップ・エルドアン]] |- ! 現職首相 | [[エディ・ラマ]] | {{仮リンク|ゾラン・テゲルティヤ|en|Zoran Tegeltija}} | {{仮リンク|ガラブ・ドネフ|en|Galab Donev}} | [[アンドレイ・プレンコビッチ]] | [[キリアコス・ミツォタキス]] | [[アルビン・クルティ]] | [[ドリタン・アバゾヴィチ]] | [[ディミタル・コバチェフスキ]] | [[ニコライ・チューカ]] | [[アナ・ブルナビッチ]] | [[ロベルト・ゴロブ]] | 2018年に首相職廃止 |- ! 人口(2019年)<ref>{{cite web |url=https://ec.europa.eu/eurostat/tgm/table.do?tab=table&init=1&language=en&pcode=tps00001&plugin=1 |title=Population on 1 January |publisher=[[Eurostat]] |website=ec.europa.eu/eurostat |access-date=21 December 2019}}</ref> | 2,862,427 | 3,502,550 (2018) | 7,000,039 | 4,076,246 | 10,722,287 | 1,795,666 | 622,182 | 2,077,132 | 19,401,658 | 6,963,764<ref name="Without Kosovo and Metohija">Without Kosovo and Metohija</ref> | 2,080,908 | 82,003,882 |- ! 面積 | 28,749&nbsp;km{{sup|2}} | 51,197&nbsp;km{{sup|2}} | 111,900&nbsp;km{{sup|2}} | 56,594&nbsp;km{{sup|2}} | 131,117&nbsp;km{{sup|2}} | 10,908&nbsp;km{{sup|2}} | 13,812&nbsp;km{{sup|2}} | 25,713&nbsp;km{{sup|2}} | 238,391&nbsp;km{{sup|2}} | 77,474&nbsp;km{{sup|2}} | 20,273&nbsp;km{{sup|2}} | 781,162&nbsp;km{{sup|2}} |- ! 人口密度 | 100/km{{sup|2}} | 69/km{{sup|2}} | 97/km{{sup|2}} | 74/km{{sup|2}} | 82/km{{sup|2}} | 159/km{{sup|2}} | 45/km{{sup|2}} | 81/km{{sup|2}} | 83/km{{sup|2}} | 91/km{{sup|2}} | 102/km{{sup|2}} | 101/km{{sup|2}} |- ! 水域(%) | 4.7% | 0.02% | 2.22% | 1.1% | 0.99% | 1.00% | 2.61% | 1.09% | 2.97% | 0.13% | 0.6% | 1.3% |- ! 名目GDP(2018年、単位:10億米ドル) | $12.269 | $16.324 | $95.995 | $57.868 | $194.594 | $66.715 | $41.182 | $45.424 | $181.944 | $42.139 | $43.791 | $751 |- ! GDP (PPP) per capita (2018) | $13,274 | $12,986 | $23,207 | $25,807 | $29,090 | $11,505 | $18,261 | $15,977 | $25,533 | $16,063 | $36,566 | $28,270 |- ! [[ジニ係数]](2018年<ref>[[国の所得格差順リスト|GINI index]]</ref>) | 29.0 | 33.0 | 39.1 | 29.7 | 36.7 | 23.2 | 33.2 | 43.2 | 27.3 | 29.7 | 25.6 | 40.0 |- ! [[人間開発指数|HDI]](2018年) | 0.714 ([[先進国|High]]) | 0.750 ([[先進国|High]]) | 0.813 ([[先進国|Very High]]) | 0.831 ([[先進国|Very High]]) | 0.870 ([[先進国|Very High]]) | 0.786 ([[先進国|High]]) | 0.807 ([[先進国|Very High]]) | 0.748 ([[先進国|High]]) | 0.802 ([[先進国|Very High]]) | 0.776 ([[先進国|High]]) | 0.896 ([[先進国|Very High]]) | 0.707 ([[先進国|High]]) |- ! Internet [[Country code top-level domain|TLD]] | .al | .ba | .bg | .hr | .gr | .xk | .me | .mk | .ro | .rs | .si | .tr |- ! [[:en:List of country calling codes|Calling code]] | +355 | +387 | +359 | +385 | +30 | +383 | +382 | +389 | +40 | +381 | +386 | +90 |} == 人口統計 == バルカンには[[アルバニア人]]、[[アルーマニア人]]、[[ブルガリア人]]、[[ボスニャク人]]、[[クロアチア人]]、[[ゴーラ人]]、[[ギリシャ人]]、[[マケドニア人]]、[[モンテネグロ人]]、[[セルビア人]]、[[スロヴェニア人]]、[[ルーマニア人]]、[[トルコ人]]が居住し、さらに[[ロマ人]]や[[アッシュカリー]]のようなその他の民族集団が現在、ある国で少数民族として存在している<ref name="EB" />。{{failed verification|date=May 2016}} {| class="wikitable sortable" style="font-size:95%" |- ! 国 !! 人口(2018)<ref name="epp.eurostat.ec.europa.eu">{{cite web|url=http://epp.eurostat.ec.europa.eu/tgm/table.do?tab=table&init=1&language=en&pcode=tps00001&plugin=1|title=Eurostat – Tables, Graphs and Maps Interface (TGM) table|work=europa.eu|accessdate=2019-03-05}}</ref>!! 人口密度/km2 (2018)<ref>{{cite web|title=List of Countries by Population Density|url=http://statisticstimes.com/population/countries-by-population-density.php|accessdate=2019-03-05}}</ref>!! 平均寿命(2018)<ref>{{cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/rankorder/2102rank.html|work=CIA: The World Factbook|author=|date=|title=Country Comparison: Life Expectancy at Birth|accessdate=20 January 2016}}</ref> |- |{{flagu|Albania}} |2,870,324 |100 |78.34歳 |- |{{flagu|Bosnia and Herzegovina}} |3,502,550 |69 |77.2歳 |- |{{flagu|Bulgaria}} |7,050,034 |64 |79.9歳 |- |{{flagu|Croatia}} |4,105,493 |73 |76.2歳 |- |{{flagu|Greece}} |10,768,193 |82 |80.1歳 |- |{{flagu|Kosovo}}*{{ref label|status|a}} |1,798,506 |165 |77.7歳 |- |{{flagu|Montenegro}} |622,359 |45 |76.4歳 |- |{{flagu|Macedonia}} |2,075,301 |81 |76.2歳 |- |{{flagu|Romania}} |19,523,621 |82 |76.3歳 |- |{{flagu|Serbia}} |7,001,444 |90 |76.5歳 |- |{{flagu|Slovenia}} |2,066,880 |102 |78.2歳 |- |{{flagu|Turkey}} | 10,201,115<ref>{{cite web|url=http://tuikapp.tuik.gov.tr/adnksdagitapp/adnks.zul?dil=2 |title=Turkish Statistical Institute. Registered population as of 2012 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121010171803/http://tuikapp.tuik.gov.tr/adnksdagitapp/adnks.zul?dil=2 |archivedate=10 October 2012 |accessdate=2019-03-05}}</ref>{{ref label|European Turkey|c}} |101 |71.1歳 |} === 宗教 === [[File:AtlBalkrelig.jpg|thumb|upright=1.15|right|宗教各派の分布地図]] バルカンは[[正教会]]と[[イスラーム教]]、[[ローマ・カトリック]]の接点である<ref name="okey">{{cite book | first=Robin |last=Okey | title=Taming Balkan Nationalism | publisher=Oxford University Press | year=2007}}</ref>。正教会はバルカン半島・バルカン地域の最大宗派である。多様な信仰がそれぞれに異なる伝統を実践しており、正教会系の国々は各国が自身の国の教会(national church)を持っている。住民の一部には無宗教を自任するものもいる。 [[File:Albania confessional map with regions circa 1900.PNG|thumb|[[アルバニア]]におけるおおよその宗教分布]] {| class="wikitable" style="font-size: 90%;" |- ![[正教会]]が主要な宗教である地域(括弧内は国の教会)<ref name=religion>{{cite web|title=FIELD LISTING :: RELIGIONS|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2122.html|publisher=CIA|accessdate=2019-03-05}}※リンク切れのため未確認</ref> ! それらの地域の少数派宗教<ref name=religion /> |- | ブルガリア:94%([[ブルガリア正教会]]) | [[ブルガリアのイスラム教|イスラーム]](2%)未申告(22%) |- | ギリシャ:98%([[ギリシャ正教会]]) | [[ギリシャのイスラム教|イスラーム]](1%)、{{仮リンク|ギリシャのカトリック|label=カトリック|en|Roman Catholicism in Greece}}、その他・未申告 |- | モンテネグロ: 72% ([[セルビア正教会]]) | [[モンテネグロのイスラム教|イスラーム]](19%)、{{仮リンク|モンテネグロのカトリック|label=カトリック|en|Roman Catholicism in Montenegro}}(3%)、その他・未申告 (5%) |- | 北マケドニア:64%([[マケドニア正教会]]) | [[北マケドニアのイスラム教|イスラーム]](33%)、{{仮リンク|マケドニアのカトリック|label=カトリック|en|Roman Catholicism in Macedonia}} |- | ルーマニア:81%([[ルーマニア正教会]]) | プロテスタント(6%)、{{仮リンク|ルーマニアのカトリック|label=カトリック|en|Catholic Church in Romania}}(5%)、その他・未申告(8%) |- | セルビア:84%([[セルビア正教会]]) | {{仮リンク|セルビアのカトリック|label=カトリック|en|Roman Catholicism in Serbia}}(5%)、[[セルビアのイスラム教|イスラーム]](3%)、{{仮リンク|セルビアのプロテスタント|label=プロテスタント|en|Protestantism in Serbia}}(1%)、その他・未申告(6%) |- ! [[カトリック]]が主要な宗教である地域<ref name=religion /> ! それらの地域の少数派宗教<ref name=religion /> |- | [[クロアチアのカトリック|カトリック]](86%) | {{仮リンク|クロアチアの正教会|en|Orthodoxy in Croatia}}(4%)、[[クロアチアのイスラム教|イスラーム]](1%)、その他・未申告(7%) |- | {{仮リンク|スロヴェニアのカトリック|label=カトリック|en|Roman Catholicism in Slovenia}}(57%) | [[スロヴェニアのイスラム教|イスラーム]](2%)、正教会(2%)、その他・未申告(36%) |- ! [[イスラーム教]]が主要な宗教である地域<ref name=religion /> ! それらの地域の少数派宗教<ref name=religion /> |- | [[アルバニアのイスラム教|アルバニア]](58%) | {{仮リンク|アルバニアのカトリック|label=カトリック|en|Roman Catholicism in Albania}}(10%)、{{仮リンク|アルバニアの正教会|en|Orthodoxy in Albania}}(7%)、その他・未申告(24%) |- | [[ボスニア・ヘルツェゴヴィナのイスラム教|ボスニア・ヘルツェゴヴィナ]] (51%) | {{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴヴィナの正教会|label=正教会|en|Orthodoxy in Bosnia and Herzegovina}}(31%)、{{仮リンク|ボスニア・ヘルツェゴヴィナのカトリック|label=カトリック|en|Roman Catholicism in Bosnia and Herzegovina}}(15%)、その他・未申告(4%) |- | [[コソヴォのイスラム教|コソヴォ]](95%) | {{仮リンク|コソヴォのカトリック|label=カトリック|en|Roman Catholicism in Kosovo}}(2%)、正教会(2%)、その他・未申告(1%) |- | [[トルコのイスラム教|トルコ]](99%) | [[コンスタンティノープル総主教庁|正教会]] |- |} バルカンにおける[[ユダヤ人]]のコミュニティ、特に今日のギリシャ地方のそれはヨーロッパで最も古いもので古代にまで遡る<ref name="村田2016p101">[[#村田 2016|村田 2016]], p. 101</ref>。トランシルヴァニア、クロアチア、スロヴェニアのユダヤ人コミュニティは[[アシュケナジー]](東欧系)のものである。バルカンの多くの地域のユダヤ人は[[セファルディム]](スファラディム、[[レコンキスタ]]後の[[スペイン]]から追放、脱出したユダヤ人に起源を持つ<ref name="村田2016p100">[[#村田 2016|村田 2016]], p. 100</ref>)系である<ref name="村田2016p101"/>。古くからバルカンに居住しギリシャ語を使用していたユダヤ人たちは[[ロマニオテス]]と呼ばれたが、彼らの多くはセファルディムに同化した<ref name="村田2016p101"/>。[[ボスニア・ヘルツェゴヴィナ]]では小さく密接に絡み合ったユダヤ人のコミュニティは90%が[[セファルディム]]であり、[[ラディーノ語]](Ladino)は今なお高齢者の間で使用されている。[[サライェヴォ]]にあるセファルディム系ユダヤ人の墓地は独特の形状の墓石を持っており、古代のラディーノ語が刻まれている<ref>[https://web.archive.org/web/20090126185330/http://www.eurojewcong.org/ejc/news.php?id_article=59 European Jewish Congress – Bosnia-Herzegovina], Accessed 15 July 2008.</ref>。セファルディム系ユダヤ人はかつては[[テッサロニキ]]で大きな存在感を有しており、1900年までは約80,000人、人口の半分以上がユダヤ人であった<ref>"[https://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/vjw/Greece.html Greece]". [[:en:Jewish Virtual Library|Jewish Virtual Library]].</ref>。バルカンのユダヤ人コミュニティは[[第二次世界大戦]]の間、大きな苦しみを味わい、[[ホロコースト]]によって大部分が殺害された。例外は[[ブルガリア系ユダヤ人]]で、彼らの大部分は[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]にユダヤ人を送ることに反対し[[アドルフ・ヒトラー]]に抵抗する[[ボリス3世 (ブルガリア王)|ブルガリア王ボリス3世]]によって保護された。バルカンのユダヤ人の僅かな生存者たちは(その後)ほとんどが新たに建国された[[イスラエル]]かその他の地域に移住した。今日のバルカン諸国の大部分は重要性のあるユダヤ人少数派はほとんど存在しない。 === 言語 === [[File:Bulgarians in 1912.jpg|thumb|right|upright=0.9|バルカンの民族構成地図(1912)]] [[File:Ethnographic map Ami Boué, 1847.jpg|thumb|right|upright=0.9|バルカンの民族構成地図(1847)]] [[File:Ernst-Ravenstein-Balkans-Ethnic-Map-1880.jpg|thumb|right|upright=0.9|バルカン半島の民族構成地図(1880)]] {{Main|{{仮リンク|バルカン半島の言語|en|Languages of the Balkans}}|バルカン言語連合}} バルカン地方は今日、民族・言語的に非常に多様な地域であり、複数の[[スラヴ語派|スラヴ語]]と[[ロマンス語派|ロマンス語]]を話す人々が住み、また[[アルバニア語]]、[[ギリシャ語]]、[[トルコ語]]、更にその他の言語も使用されている。[[ロマ語]]はバルカン諸国全体に居住する[[ロマ人]]の大部分によって使用されている。歴史を通じて、多くの異なる民族的グループが自身の言語を用いてバルカンに居住していた。そうした人々には[[トラキア人]]、[[イリュリア人]]、[[ローマ人]]、[[ケルト人]]、様々な[[ゲルマン人|ゲルマン人の部族]]がいた。テュルク系言語を例外として、過去から現在に至る前述の言語群の全てが、より大きな括りでは[[インド・ヨーロッパ語族]]に属する(テュルク系言語には[[トルコ語]]、[[ガガウズ語]]がある)。 {| class="wikitable" style="font-size: 90%;" |- ! 国 !!第一言語<ref name=languages>{{cite web|title=FIELD LISTING :: LANGUAGES|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2098.html|publisher=CIA|accessdate=2019-03-05}}※リンク切れのため未確認</ref> ! 少数派言語<ref name=languages /> |- |{{flagu|Albania}} | 98% [[アルバニア語]] | 2% その他 |- |{{flagu|Bosnia and Herzegovina}} | 53% [[ボスニア語]] | 31% セルビア語、15% クロアチア語、2% その他 |- |{{flagu|Bulgaria}} | 94% [[ブルガリア語]] | 2% トルコ語、2% ロマ語、1% その他、1% 不明 |- |{{flagu|Croatia}} | 96% [[クロアチア語]] | 1% セルビア語、3% その他 |- |{{flagu|Greece}} | 99% [[ギリシャ語]] | 1% その他 |- |{{flagu|Kosovo}}*{{ref label|status|a}} | 94% アルバニア語 | 2% ボスニア語、2% セルビア語、1% トルコ語、1% その他 |- |{{flagu|Montenegro}} | 43% [[セルビア語]] | 37% [[モンテネグロ語]](公用語)、5% ボスニア語、5% アルバニア語、5% その他、4% 不明 |- |{{flagu|Macedonia}} | 67% [[マケドニア語]] | 25% アルバニア語、4% トルコ語、2% ロマ語、1% セルビア語、2% その他 |- |{{flagu|Romania}} | 91% [[ルーマニア語]] | 7% [[ハンガリー語]]、1% [[ロマ語]] |- |{{flagu|Serbia}} | 88% セルビア語 | 3% ハンガリー語、2% ボスニア語、1% ロマ語、3% その他、2% 不明 |- |{{flagu|Slovenia}} | 91% [[スロヴェニア語]] | 5% セルボ・クロアチア語、4% その他 |- |{{flagu|Turkey}} | 81% [[トルコ語]] | 15% [[クルド語]]、4% その他・不明 |- |} === 都市化 === バルカンの国々のほとんどは大部分都市化されており、総人口に対する都市人口の比率が最も低い諸国はコソヴォ(40%以下)、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(40%)、スロヴェニア(50%)<ref>{{cite web|url=http://data.worldbank.org/indicator/SP.URB.TOTL.IN.ZS|title=Data: Urban population (% of total)|publisher= The World Bank|year=1960–2016|accessdate=2019-03-06}}</ref>である。 {{wide image|Istanbul panorama and skyline.jpg|500px|イスタンブルのパノラマ}} 各国の大都市の一覧: {| class="wikitable sortable" |- ! 都市 !! 国 !!data-sort-type="number"| 人口 !!data-sort-type="number"| 都市圏人口 !! 年次 |- | [[イスタンブル]]* || {{TUR}} || 9,000,000 || 10,000,000 || 2018<ref name="Crampton" /> |- | [[ブカレスト]] || {{ROM}} || 1,887,485 ||2,272,163 || 2018<ref name="Romanian">{{cite web |url=http://www.citypopulation.de/Romania.html|title=ROMANIA: Counties and Major Cities |accessdate=9 November 2015}}</ref> |- | [[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]] || {{BGR}} || 1,313,595 || 1,995,950|| 2018<ref name="Bulgarian">{{cite web |url=http://www.citypopulation.de/Bulgaria-Cities.html|title=BULGARIA: Major Cities|accessdate=9 November 2015}}</ref> |- | [[ベオグラード]] || {{SRB}} || 1,119,696 || 1,659,440 || 2018<ref>[http://pod2.stat.gov.rs/ObjavljenePublikacije/Popis2011/Knjiga20.pdf Statistical Officeof the Republic of Serbia] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140714191241/http://pod2.stat.gov.rs/ObjavljenePublikacije/Popis2011/Knjiga20.pdf |date=14 July 2014 }} page 32</ref> |- | [[ザグレブ]] || {{CRO}} || 792,875 || 1,113,111 || 2018<ref>{{cite web |url=http://www.citypopulation.de/Croatia-Cities.html|title=CROATIA: Counties and Major Cities |accessdate=9 November 2015}}</ref> |- | [[アテネ]] || {{GRE}} || 664,046 || 3,753,783 || 2018<ref name="Greek">{{cite web |url=http://www.citypopulation.de/Greece-Agglo.html|title=GREECE: Regions and Agglomerations |accessdate=9 November 2015}}</ref> |- | [[スコピエ]] || {{MKD}} || 444,800 || 506,926 || 2018<ref name="Macedonian">{{cite web |url=http://www.citypopulation.de/Macedonia.html|title=MACEDONIA |accessdate=9 November 2015}}</ref> |- | [[ティラナ]] || {{ALB}} || 418,495 || 800,986 || 2018<ref>{{cite web|url=https://citypopulation.de/Albania-Cities.html|title=Albania: Prefectures and Major Cities - Population Statistics in Maps and Charts|website=citypopulation.de|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- | [[プロヴディフ]] || {{BGR}} || 411,567 || 396,092 || 2018<ref name="Bulgarian" /> |- | [[ヴァルナ]] || {{BGR}} || 395,949 || 383,075 || 2018<ref name="Bulgarian" /> |- | [[テッサロニキ]] || {{GRE}} || 325,182 ||1,012,297 || 2018<ref name="Greek" /> |- | [[クルジュ=ナポカ]] || {{ROM}} || 324,576 || 411,379 || 2018<ref name="Romanian" /> |- | [[ティミショアラ]] || {{ROM}} || 319,279 || 356,443 || 2018<ref name="Romanian" /> |- | [[ヤシ (ルーマニア)|ヤシ]] || {{ROM}} || 290,422 || 382,484 || 2018<ref name="Romanian" /> |- | [[コンスタンツァ]] || {{ROM}} || 283,872 || 425,916 || 2018<ref name="Romanian" /> |- | [[リュブリャナ]] || {{SLO}} || 279,756 || 279,756 || 2018<ref>{{cite web |url=http://www.citypopulation.de/Slovenia-Cities.html|title=SLOVENIA: Major Cities|accessdate=9 November 2015}}</ref> |- | [[ノヴィ・サド]] || {{SRB}} || 277,522 || 341,625 || 2018<ref name="Serbian">{{cite web|url=http://www.citypopulation.de/Serbia-Cities.html |title=SERBIA: Regions, Districts and Major Cities |accessdate=9 November 2015 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151108005723/http://www.citypopulation.de/Serbia-Cities.html |archivedate=8 November 2015 |df=dmy }}</ref> |- | [[サライェヴォ]] || {{BIH}} || 275.524 || 413,593 || 2018{{citation needed|date=November 2018}} |- | [[クラヨーヴァ]] || {{ROM}} ||269,506 || 420,000 || 2018<ref name="Romanian" /> |- | {{仮リンク|チョルル|en|Çorlu}} || {{TUR}} ||253,500 || 273,362 || 2018<ref>{{cite web|url=http://www.citypopulation.de/php/turkey-tekirdag.php?cityid=677|title=Çorlu (Tekirdağ, Turkey) – Population Statistics and Location in Maps and Charts|website=www.citypopulation.de|accessdate=21 January 2016}}</ref> |- | [[ブラショヴ]] || {{ROM}} ||253,200 || 369,896 || 2018<ref name="Romanian" /> |} :<nowiki>*</nowiki> イスタンブルのヨーロッパ部分だけがバルカンに属する<ref name="Crampton">{{cite book|last1=Crampton|title=The Balkans Since the Second World War|url=https://books.google.com/books?id=z9AFBAAAQBAJ&pg=PT14#v=onepage|isbn=9781317891161|date=2014-07-15}}</ref>。イスタンブルの人口15,987,888人のうち3分の2がヨーロッパ部に居住している。 == タイムゾーン == バルカンのタイムゾーンは以下の通りに定められている。 * [[UTC+01:00]]: アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、コソボ、北マケドニア、モンテネグロ、セルビア、スロベニア * [[UTC+02:00]]: ブルガリア、ギリシャ、ルーマニア、トルコ == 文化 == * {{仮リンク|バルカン半島の料理|en|Balkan cuisine}} * [[バルカン半島の音楽]] == 関連項目 == {{colbegin}} * {{仮リンク|バルカン・インサイト|en|Balkan Insight}} * [[:en:Balkan Universities Network|Balkan Universities Network]] * [[バルカニゼーション]](バルカン化) * [[バルカンの歴史]] ** [[バルカン戦争]] * {{仮リンク|バルカン半島の言語|en|Languages of the Balkans}} ** [[Balkan sprachbund]] * {{仮リンク|バルカンのカトリック教区の一覧|en|List of Roman Catholic dioceses in the Balkans}} * [[バルカン半島の音楽]] * [[オリエント・エクスプレス]] {{colend}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{reflist|group=note}} {| style="margin-left:13px; line-height:150%" |align="right" valign="top"|a.&nbsp;&nbsp; |{{note|status}}{{Kosovo-note}} |} {| style="margin-left:13px; line-height:150%" |align="right" valign="top"|b.&nbsp;&nbsp; |{{note|location}} トルコと南東ヨーロッパについて''The World Factbook'' が[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/tu.html 述べる]ように、「トルコのボスポラス海峡西側部分は地理的にヨーロッパの一部である。」 |} {{reflist|group=note}} {| style="margin-left:13px; line-height:150%" |align="right" valign="top"|c.&nbsp;&nbsp; |{{note|European Turkey}} [[東トラキア|トルコのヨーロッパ部分]]のみの人口。[[アナトリア半島]]の人口は75,627,384人、人口密度は1平方キロメートルあたり97人である。 |} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == === 和書 === * {{Cite book |和書 |author=木村真|authorlink= |editor=柴宜弘|editor-link=柴宜弘 |chapter=第六章 ナショナリズムの展開と第一次世界大戦 |title=バルカン史 |publisher=[[山川出版社]] |series=世界各国史 18 |date=1998-10 |isbn=978-4-634-41480-8 |ref=木村 1998 }} * {{Cite book |和書 |author=木村真|authorlink= |editor=柴宜弘|editor-link=柴宜弘 |chapter=第30章 領土拡大の野心が交錯する地域 近代マケドニア|title=バルカンを知るための66章 【第2版】 |publisher=[[明石書店]] |series=エリア・スタディーズ 48 |pages=167-171 |date=2016-1 |isbn=978-4-7503-4298-6 |ref=木村 2016 }} * {{Cite book |和書 |author=柴宜弘|authorlink=柴宜弘 |editor=柴宜弘|editor-link=柴宜弘|chapter=序章 バルカン史の前提 |title=バルカン史 |publisher=[[山川出版社]] |series=世界各国史 18 |date=1998-10 |isbn=978-4-634-41480-8 |ref=柴 1998 }} * {{Cite book |和書 |author=柴宜弘|authorlink=柴宜弘 |editor=柴宜弘|editor-link=柴宜弘|chapter=第63章 ヨーロッパ統合とバルカン 取り残される「西バルカン」|title=バルカンを知るための66章 【第2版】 |publisher=[[明石書店]] |series=エリア・スタディーズ 48 |pages=334-339 |date=2016-1 |isbn=978-4-7503-4298-6 |ref=柴 2016 }} * {{Cite book |和書 |author=村田奈々子|authorlink=村田奈々子 |editor=柴宜弘|editor-link=柴宜弘|chapter=第16章 ユダヤ人の町 テッサロニキとサラエヴォ|title=バルカンを知るための66章 【第2版】 |publisher=[[明石書店]] |series=エリア・スタディーズ 48 |pages=100-104 |date=2016-1 |isbn=978-4-7503-4298-6 |ref=村田 2016 }} * {{Cite book |和書 |author=マーク・マゾワー|authorlink=マーク・マゾワー |translator=[[井上廣美]] |title=バルカン 「ヨーロッパの火薬庫」の歴史 |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公新書]] 2440 |date=2017-6 |isbn=978-4-12-102440-4 |ref=マゾワー 2017 }} * {{Cite book |和書 |author1=アマエル・カッタルッツァ|authorlink1=アマエル・カッタルッツァ|author2=ピエール・サンテス|authorlink2=ピエール・サンテス|author3=ミシェル・フーシェ|authorlink3=ミシェル・フーシェ|translator=[[太田佐絵子]] |title=地図で見るバルカン半島ハンドブック |publisher=[[原書房]] |date=2017-11 |isbn=978-4-562-05427-5 |ref=カッタルッツァ、サンテス、フーシェ 2017 }} === 洋書 === * {{cite book |last=Gray |first=Colin S. |title=Geopolitics, Geography and Strategy |year=1999 |publisher=Routledge |location=London, United Kingdom |isbn=978-0-7146-8053-8}} * {{cite journal |last=Banac |first=Ivo |authorlink=:en:Ivo Banac |date = October 1992|title=Historiography of the Countries of Eastern Europe: Yugoslavia |journal=[[American Historical Review]] |volume=97 |issue=4 |pages=1084–1104 |doi=10.2307/2165494 |jstor=2165494}} * {{cite book |last=Banac |first=Ivo |title=The National Question in Yugoslavia: Origins, History, Politics |year=1984 |publisher=Cornell University Press |location=Ithaca, N.Y. |isbn=978-0-8014-9493-2}} * {{cite book |author=Goldstein |first=Ivo |title=Croatia: A History |publisher=McGill-Queen's University Press |location=Montreal, Quebec, Canada |isbn=978-0-7735-2017-2 |year=1999}} * Carter, Francis W., ed. 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S. |authorlink=:en:L. S. Stavrianos |others=with Traian Stoianovich |title=The Balkans since 1453 |date=1 May 2000 |origyear=1958 |publisher=NYU Press |location=New York |isbn=978-0-8147-9766-2}} [https://archive.org/details/balkanssince145300lsst online free to borrow] * {{cite book |last=Stoianovich |first=Traian |title=Balkan Worlds: The First and Last Europe |date=September 1994 |series=Sources and Studies in World History |publisher=M.E. Sharpe |location=New York |isbn=978-1-56324-032-4}} * Zametica, John. ''Folly and malice: the Habsburg empire, the Balkans and the start of World War One'' (London: Shepheard–Walwyn, 2017). 416pp. == 外部リンク == {{Sister project links |wikt=Balkans |commonscat=yes |n=no |q=1911 Encyclopædia Britannica/Balkan|b=no |v=no |voy=Balkans}} * [https://balkaninsight.com/ Balkan Insight – Analysis from Balkans] * [http://www.balkanalysis.com/ Balkanalysis, in-depth research on Balkan geopolitics]{{リンク切れ|date=2022年2月}} * [https://www.facebook.com/WesternBalkans Western Balkans Photo impression] * [https://www.academia.edu/18698805/Shared_Pasts_in_Central_and_Southeast_Europe_17th_21st_Centuries_Hungarian_and_Bulgarian_Approaches._Eds._G%C3%A1bor_Demeter_Penka_Peykovska._Sofia-Budapest_2015_440_p/ Shared Pasts in Central and Southeast Europe, 17th–21st Centuries. Eds. G.Demeter, P. Peykovska. 2015] <!-- {{Balkan Countries}} {{Europe topics (small)|state=autocollapse}} {{Countries of Europe}} {{Regions of the world}}--> {{coord|42|N|22|E|source:wikidata|display=title}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はるかんはんとう}} [[Category:バルカン|*]] [[Category:ヨーロッパの半島]] [[Category:ヨーロッパの地域]]
2003-08-10T09:03:06Z
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