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大地丙太郎
大地 丙太郎(だいち あきたろう、1956年1月13日 - )は、日本のアニメーション監督、演出家、撮影監督である。 群馬県高崎市出身。別名義に小池 彰(こいけ あきら)。 1976年育英工業高専グラフィック工学科、1978年東京写真大学短期大学部写真応用科卒業後、舞台写真家志望だったが、同年に清水達正の東京アニメーションフィルム(アニメーション撮影会社)に入社、初仕事は『未来少年コナン』の撮影で、アニメの撮影の仕事を5年ほど続けるが、一時転職してビデオ制作会社で実写のカラオケビデオ等を撮影していた時期もあった。 1991年、夢がないと絶望して勤め先を退社、ゲーム制作会社に勤めるが半年で元の会社に出戻る。アニメ業界に復帰してからは同じくアニメーション監督のやすみ哲夫に師事。制作進行を経て、演出に進出。演出を担当することに妻は本当は反対していたが「やるなら3年は頑張ってみなさい」と言われ始めると面白かった。1994年の『赤ずきんチャチャ』演出において、佐藤竜雄・桜井弘明と共に注目を浴びる。1995年の『ナースエンジェルりりかSOS』で監督デビューを果たした。最初は監督は自分には合わないと考えたが演出より面白いと感じる。1998年より放映の『おじゃる丸』で監督をつとめ代表作となる。 2015年にはかつてアニメ版の監督も務めた『こどものおもちゃ』の舞台版の脚本・演出も務めるなど、アニメ以外にも活動の場を広げている。 ハイテンションなコメディを得意とし『赤ずきんチャチャ』以降どんなにシリアスなストーリーでも、ほとんどでギャグ・日常描写をカット毎に入れ替える様に差し込む方針を貫いている。その際にはセオリーである「段階を踏む」展開や「間合いを取る」様なシチュエーションを省略し、その代わりにワイプ・字幕で緩急をつけて、内容を詰め込む様に構築していく。 「間合いを取る」演出を嫌い、キャラクターの台詞も絵コンテの段階で大量に増やしている。その結果、AR台本が普通の作品の2倍の厚さになる。周囲からは「キャラクターが話さないカットがありません」とよく言われているが、大地は「じっくり見せて結局何がやりたいんだ。そういう緊張感の伴った感情的なシーンは数話に1話でいい」と話している。 一方で『今、そこにいる僕』、シリアスな少女コミックを原作とした『僕等がいた』などギャグがほとんど皆無の作品も手掛けている。自身の監督作において実写の映像や過去の本編の映像などを僅かに(数秒程度)挟み込んだり新規のアニメーションと合わせて別窓で流す演出を多くとる。 山本はるきちとの仕事が多く見られる。 自分が関わった作品にカメオ出演することが多い。 ギャグテイストが主になるアニメにおいては、元になったキャラクターデザインからは考えられない、ともすれば作画崩壊とも受け取れるデフォルメを起こし、それを滑らかに動かす演出がよくみられる。これは大地が「小2に影響を受けた」と公言している赤塚不二夫の手法を模したものである。子供時代から好きであった近衛十四郎の出演映画作品の影響を深く受けており、『風まかせ月影蘭』は、近衛十四郎が主演したTV時代劇『素浪人 月影兵庫』『素浪人 花山大吉』のリスペクト作品であり、『十兵衛ちゃん』などの異色の時代劇系作品を制作している。『十兵衛ちゃん2 -シベリア柳生の逆襲-』においては、青年時代の柳生十兵衛役に、近衛の息子である目黒祐樹を声優として出演させている。他にも『妖精姫レーン』、『こどものおもちゃ』、『レジェンズ 甦る竜王伝説』ではサブタイトルの形にその名残がある。 監督にあたり声優にこだわりを見せており、大地が見出した声優としては小西寛子、安原麗子、名塚佳織、齋藤彩夏、ささきのぞみ、三森すずこなどがいる。うえだゆうじ、竹本英史、岡村明美、神谷明などは作品を超えて、常連で出演していることが多い。 『赤ずきんチャチャ』『はれときどきぶた』等には絵コンテ及び演出担当で参加している。 アニメーション神戸・デジタルクリエーターズアワード審査委員長を務めている。 2002年9月、自身がパーソナリティを務めるラジオ大阪系ラジオ番組『大地ラヂオ』にアニメ監督の佐藤順一をゲストで迎えた際「(佐藤が監督をした)『ストレンジドーン』のアフレコ現場を訪問して、佐藤監督が音響監督も兼任しているのを見て自身の作品『フルーツバスケット』では音響監督にも挑戦したがすぐに挫折した。「もう二度とやらない。」と語っていたが、『迷い猫オーバーラン!』の第4話で再び音響監督を務めている。 江口寿史・田村信とギャグ集団「E.T.T」を結成して、トークイベントなどで活動している。2005年8月には舞台劇『風まかせ けやき十四(じゅうよつ)』を初めて作・演出した。 『あたしンち』の監督を初回から第5回まで担当していたが、プロデューサーとの意見の違いで自主降板した。その後、やすみ哲夫が監督したのは第9回以降なので第6回、第7回、第8は監督不在だった。
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大地 丙太郎は、日本のアニメーション監督、演出家、撮影監督である。 群馬県高崎市出身。別名義に小池 彰。
{{存命人物の出典明記|date=2012年9月}} {{ActorActress | 芸名 = 大地 丙太郎 | ふりがな = だいち あきたろう | 出生地 = {{JPN}} [[群馬県]][[高崎市]] | 死没地 = | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1956 | 生月 = 1 | 生日 = 13 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 職業 = [[アニメーション監督]]、[[演出家]]、[[撮影監督]] | ジャンル = | 活動期間 = [[1978年]] - | 主な作品 = 『[[ナースエンジェルりりかSOS#テレビアニメ|ナースエンジェルりりかSOS]]』<br/>『[[おじゃる丸]]』<br/> 『[[ギャグマンガ日和#テレビアニメ|ギャグマンガ日和]]』<br/>『[[浦安鉄筋家族#テレビアニメ|浦安鉄筋家族]]』 }} '''大地 丙太郎'''(だいち あきたろう、[[1956年]][[1月13日]] - )は、[[日本]]の[[アニメ監督|アニメーション監督]]、[[演出家]]、[[撮影監督]]である。 [[群馬県]][[高崎市]]出身<ref>{{Cite web|和書|url=http://style.fm/gonta/profile.html |title=大地丙太郎監督プロフィール |publisher=アニメスタイル |accessdate=2019-1-2}}</ref>。別名義に'''小池 彰'''<ref>[http://www5c.biglobe.ne.jp/~akitaroh/profile/profile.html 大地丙太郎公式サイトのプロフィールページ]にて、小池彰撮影監督作品を自身の作品として挙げている。</ref>(こいけ あきら)。 == 来歴 == [[1976年]][[サレジオ高専|育英工業高専グラフィック工学科]]、[[1978年]][[東京工芸大学短期大学部|東京写真大学短期大学部]]写真応用科卒業後、舞台写真家志望だったが、同年に[[清水達正]]の[[アニメフィルム|東京アニメーションフィルム]](アニメーション撮影会社)に入社、初仕事は『[[未来少年コナン]]』の撮影で<ref name="asahi">仕事を選ぶ 先輩が語る働く現場64 51ページ 朝日ウイークリー編集部 [[朝日学生新聞社]] 2014年</ref>、アニメの撮影の仕事を5年ほど続けるが、一時転職してビデオ制作会社で実写の[[カラオケ]]ビデオ等を撮影していた時期もあった。 [[1991年]]、夢がないと絶望して勤め先を退社、ゲーム制作会社に勤めるが半年で元の会社に出戻る<ref name="asahi" />。アニメ業界に復帰してからは同じくアニメーション監督の[[やすみ哲夫]]に師事。[[制作進行]]を経て、[[演出]]に進出。演出を担当することに妻は本当は反対していたが「やるなら3年は頑張ってみなさい」と言われ始めると面白かった<ref name="rooftop">[https://rooftop1976.com/interview/150701122900.php 大地丙太郎(アニメーション監督)(Rooftop2015年7月号) - インタビュー | Rooftop]</ref>。[[1994年]]の『[[赤ずきんチャチャ]]』演出において、[[佐藤竜雄]]・[[桜井弘明]]と共に注目を浴びる。[[1995年]]の『[[ナースエンジェルりりかSOS]]』で監督デビューを果たした。最初は監督は自分には合わないと考えたが演出より面白いと感じる<ref name="rooftop" />。[[1998年]]より放映の『[[おじゃる丸]]』で監督をつとめ代表作となる。 [[2015年]]にはかつてアニメ版の監督も務めた『[[こどものおもちゃ]]』の舞台版の脚本・演出も務めるなど、アニメ以外にも活動の場を広げている<ref>[http://www.nelke.co.jp/stage/kodocha/ りぼん60周年記念公演『こどものおもちゃ』]</ref>。 == 作風 == ハイテンションな[[コメディ]]を得意とし『赤ずきんチャチャ』以降どんなにシリアスなストーリーでも、ほとんどでギャグ・日常描写をカット毎に入れ替える様に差し込む方針を貫いている。その際にはセオリーである「段階を踏む」展開や「間合いを取る」様なシチュエーションを省略し、その代わりに[[ワイプ]]・字幕で緩急をつけて、内容を詰め込む様に構築していく<ref name="anime967">[[徳間書店]]刊「[[アニメージュ]]」1996年7月号「大地監督のお話」p.27より。</ref>。 「間合いを取る」演出を嫌い、キャラクターの台詞も絵コンテの段階で大量に増やしている。その結果、AR台本が普通の作品の2倍の厚さになる。周囲からは「キャラクターが話さないカットがありません」とよく言われているが、大地は「じっくり見せて結局何がやりたいんだ。そういう緊張感の伴った感情的なシーンは数話に1話でいい」と話している<ref name="anime967"/>。 一方で『[[今、そこにいる僕]]』、シリアスな少女コミックを原作とした『[[僕等がいた]]』などギャグがほとんど皆無の作品も手掛けている。自身の監督作において実写の映像や過去の本編の映像などを僅かに(数秒程度)挟み込んだり新規のアニメーションと合わせて別窓で流す演出を多くとる。 [[山本はるきち]]との仕事が多く見られる。 自分が関わった作品に[[カメオ出演]]することが多い。 ギャグテイストが主になるアニメにおいては、元になったキャラクターデザインからは考えられない、ともすれば[[作画崩壊]]とも受け取れる[[デフォルメ]]を起こし、それを滑らかに動かす演出がよくみられる。これは大地が「小2に影響を受けた」と公言している[[赤塚不二夫]]の手法を模したものである。子供時代から好きであった[[近衛十四郎]]の出演映画作品の影響を深く受けており、『[[風まかせ月影蘭]]』は、近衛十四郎が主演したTV[[時代劇]]『[[素浪人 月影兵庫]]』『[[素浪人 花山大吉]]』のリスペクト作品であり、『[[十兵衛ちゃん]]』などの異色の時代劇系作品を制作している。『[[十兵衛ちゃん|十兵衛ちゃん2 -シベリア柳生の逆襲-]]』においては、青年時代の[[柳生三厳|柳生十兵衛]]役に、近衛の息子である[[目黒祐樹]]を声優として出演させている。他にも『[[妖精姫レーン]]』、『[[こどものおもちゃ]]』、『[[レジェンズ 甦る竜王伝説]]』ではサブタイトルの形にその名残がある。 監督にあたり[[声優]]にこだわりを見せており、大地が見出した声優としては[[小西寛子]]、[[安原麗子]]、[[名塚佳織]]、[[齋藤彩夏]]、[[ささきのぞみ]]、[[三森すずこ]]などがいる。[[うえだゆうじ]]、[[竹本英史]]、[[岡村明美]]、[[神谷明]]などは作品を超えて、常連で出演していることが多い。その中の[[小西寛子]]からはTwitterで過去に告発を受けている。 == エピソード == 『[[赤ずきんチャチャ]]』『[[はれときどきぶた (テレビアニメ)|はれときどきぶた]]』等には[[絵コンテ]]及び演出担当で参加している。 アニメーション神戸・デジタルクリエーターズアワード審査委員長を務めている。 2002年9月、自身がパーソナリティを務めるラジオ大阪系ラジオ番組『大地ラヂオ』にアニメ監督の[[佐藤順一]]をゲストで迎えた際「(佐藤が監督をした)『[[ストレンジドーン]]』のアフレコ現場を訪問して、佐藤監督が音響監督も兼任しているのを見て自身の作品『[[フルーツバスケット (漫画)|フルーツバスケット]]』では音響監督にも挑戦したがすぐに挫折した。「もう二度とやらない。」と語っていたが、『[[迷い猫オーバーラン!]]』の第4話で再び音響監督を務めている。 [[江口寿史]]・[[田村信]]とギャグ集団「E.T.T」を結成して、トークイベントなどで活動している。[[2005年]]8月には舞台劇『風まかせ けやき十四(じゅうよつ)』を初めて作・演出した。 『[[あたしンち]]』の監督を初回から第5回まで担当していたが、プロデューサーとの意見の違いで自主降板した。その後、やすみ哲夫が監督したのは第9回以降なので第6回、第7回、第8は監督不在だった。 == 受賞等 == * 『[[おじゃる丸]]』で平成11年度[[文化庁メディア芸術祭アニメーション部門]]優秀賞を受賞 * 自身原作による[[OVA]]『[[まかせてイルか!]]』で平成16年度文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞を受賞。[[富野由悠季]]から「元気がいい、イキがいい」と評された。 * [[2002年]][[東京アニメアワード]]監督賞受賞。 * 『[[ギャグマンガ日和]]』で平成17年度[[文化庁メディア芸術祭アニメーション部門]]推薦 * 第4回[[アニメーション神戸]]・個人賞受賞 == 監督作品 == {{dl2 | 1995年 | * [[ナースエンジェルりりかSOS]] * [[妖精姫レーン]] | 1996年 | * [[こどものおもちゃ]]( - 1998年) * [[トイレの花子さん]] | 1997年 | * 魔法学園ルナ [[LUNAR]]! 青い竜の秘密スッポコ魔法作戦!([[新世紀エヴァンゲリオン|春エヴァ]]と同時上映) | 1998年 | * [[セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん]] * [[浦安鉄筋家族]] * [[世紀末リーダー外伝たけし!]] | 1998年- | * [[おじゃる丸]] | 1999年 | * [[十兵衛ちゃん]] * [[今、そこにいる僕]]( - 2000年) | 2000年 | * [[映画おじゃる丸 約束の夏 おじゃるとせみら]] * [[風まかせ月影蘭]] | 2001年 | * 美少女生活( - 2002年) * [[アニメーション制作進行くろみちゃん]] * [[フルーツバスケット (漫画)|フルーツバスケット]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/program/101777/|title=フルーツバスケット(2001) :作品情報|publisher=アニメハック|accessdate=2020-05-24}}</ref> | 2002年 | * [[あたしンち]] - (第1 - 5話・番組初期EDの作詞) * [[ギャグマンガ日和|ギャグマンガ日和 - ジャンプフェスタ2002版 -]] | 2004年 | * [[十兵衛ちゃん|十兵衛ちゃん2]] * [[レジェンズ 甦る竜王伝説]]( - 2005年) * [[まかせてイルか!]] * アニメーション制作進行くろみちゃん 日本のアニメは私が作る!2 | 2005年 | * [[ギャグマンガ日和]] | 2006年 | * [[僕等がいた]] * [[ギャグマンガ日和2]] | 2008年 | * [[ギャグマンガ日和3]] | 2009年 | * [[夢をかなえるゾウ]] * [[くるねこ]]( - 2011年){{efn|クレジット上は「演出」。}} | 2010年 | * [[迷い猫オーバーラン!]](第4話) * [[ギャグマンガ日和+]] | 2012年 | * [[ポヨポヨ観察日記]] * [[神様はじめました]] | 2013年 | * [[よってこ てんてこ め江戸かふぇ]]([[時代劇]]ドラマ) * [[DD北斗の拳]] * [[花のずんだ丸]](Webアニメ) | 2014年 | * [[毎度!浦安鉄筋家族]] | 2015年 | * [[神様はじめました◎]] * [[DD北斗の拳2]] | 2016年 | * [[とんかつDJアゲ太郎]] * [[信長の忍び]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/program/105105/|title=信長の忍び 作品情報|publisher=アニメハック|accessdate=2020-09-01}}</ref> | 2017年 | * 佐賀県を巡るアニメーション「ただいま 思い出の佐賀」(Webアニメ) * [[信長の忍び〜伊勢・金ヶ崎篇〜]] | 2018年 | * [[信長の忍び〜姉川・石山篇〜]] | 2019年 | * [[臨死!!江古田ちゃん]](第1話) * [[明治東亰恋伽]] | 2022年 | * [[名探偵コナン 犯人の犯沢さん]]{{efn|本編ナレーションも兼任。}} * [[僕とロボコ]] }} == 撮影監督作品 == * [[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)#キャッチフレーズ|ドラえもん]]([[1979年]]版〈第2作1期〉、「宇宙救命ボート」[[絵コンテ]]も担当) * [[ドラえもん のび太の宇宙開拓史]]([[1981年]]) * [[ドラえもん ぼく、桃太郎のなんなのさ]](1981年) * [[ドラえもん のび太の大魔境]]([[1982年]]) * [[プロゴルファー猿]]TVスペシャル(1982年) * [[ドラえもん のび太の海底鬼岩城]]([[1983年]]) * [[パーマン バードマンがやって来た!!]](1983年) * [[強殖装甲ガイバー]]([[1986年]]版) * [[禁断の黙示録 クリスタル・トライアングル]]([[1987年]]) * [[うる星やつら 完結篇]]([[1988年]]) == 絵コンテ・演出・撮影・その他参加作品 == {{dl2 | 1980年代 | * [[さすがの猿飛]](撮影) * [[ブラックマジック M-66]](撮影) * [[まんがことわざ事典]](撮影助手) * [[11人いる!]](撮影) * [[火垂るの墓]](撮影) * [[つるピカハゲ丸|つるピカハゲ丸くん]](制作デスク) * [[おぼっちゃまくん]](制作デスク・[[演出]]・絵コンテ) * [[ゲームセンターあらし]](撮影) | 1990年代 | * [[桃太郎伝説 (アニメ)|桃太郎伝説]](第26・32話演出・絵コンテ) * [[どろろんぱっ!]](演出・絵コンテ) * [[笑ゥせぇるすまん]](第2・3期、スペシャル版演出・絵コンテ) * [[ミラクル☆ガールズ]](演出・絵コンテ) * [[ヤダモン]](第68、81、95、100、107、124、139、158、163話演出・第95、107、139、158、163話絵コンテ) * [[お〜い!竜馬]](第31・36話演出・絵コンテ) * [[YAIBA|剣勇伝説Y∀IBA]](演出・絵コンテ) * [[名犬ジョリィ]](撮影) * [[忍たま乱太郎]](第3期72話絵コンテ) * [[ポコニャン|ポコニャン!]](演出・絵コンテ) * [[3丁目のタマ うちのタマ知りませんか?]](第7話演出・第7話A絵コンテ) * [[ジャングルの王者ターちゃん|ジャングルの王者ターちゃん♡]](第17・24話演出・第17・24・36話絵コンテ) * [[赤ずきんチャチャ]](演出・絵コンテ) * [[カラオケ戦士マイク次郎]](演出・絵コンテ) * [[学校のコワイうわさ 花子さんがきた!!]](第1期演出・絵コンテ) * [[中崎タツヤ スーパーギャグシアター|超世紀末ギャグアニメ〜中崎タツヤ傑作選〜]](演出・絵コンテ) * [[Jリーグを100倍楽しく見る方法!!]](演出・絵コンテ) * [[大淀川危機一髪]](演出・絵コンテ) * [[宮ヶ瀬ダムマン]](演出・絵コンテ) * 水虫(演出・絵コンテ) * [[気分は形而上|気分は形而上 実在OL物語]](演出・絵コンテ) * [[クマのプー太郎]](第1・5・6話絵コンテ) * [[天地無用!]](絵コンテ) * [[沈黙の艦隊]](絵コンテ) * [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)|るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]](第3話絵コンテ) * [[セイバーマリオネット|セイバーマリオネットJ]](絵コンテ) * [[HAUNTEDじゃんくしょん]](第2・6話絵コンテ) * [[こちら葛飾区亀有公園前派出所 (アニメ)|こちら葛飾区亀有公園前派出所]](スペシャル版「部長よ!あれがパリの灯だ」絵コンテ) * [[はれときどきぶた (テレビアニメ)|はれときどきぶた]](第2話、第13話絵コンテ) * [[吸血姫美夕 (テレビアニメ)|吸血姫美夕]](第十五話絵コンテ) | 2001年 | * [[Di Gi Charat (ワンダフル版)|デ・ジ・キャラット]](サマースペシャル「夏の虫」脚本・演出・絵コンテ) | 2002年 | * [[ぷちぷり*ユーシィ]](第13話絵コンテ) * [[シスター・プリンセス RePure]](第8話演出・絵コンテ) | 2003年 | * [[カレイドスター]](エンディングディレクター) * カレイドスター 新たなる翼( - 2004年、エンディングディレクター) * [[魁!!クロマティ高校]]( - 2004年、第7話・第26話「ゲロタン」ナレーション) | 2004年 | * [[スウィート・ヴァレリアン]](OP絵コンテ) * [[ナースウィッチ小麦ちゃんマジカルて|ナースウィッチ小麦ちゃんマジカルてZ]](おぺ.1OP絵コンテ) | 2005年 | * [[魔女っ娘つくねちゃん]]( - 2006年、#2・#6脚本・絵コンテ) | 2006年 | * [[蟲師]](第19話絵コンテ) | 2007年 | * [[ケンコー全裸系水泳部 ウミショー]](第11話絵コンテ) | 2008年 | * [[カンフーくん]](脚本) * [[フルタイムシステム]](CM絵コンテ・演出×3本、原画・[[大島りえ]]、キャスト・齋藤彩夏・名塚佳織・[[前田剛]]、大地(主婦・赤ちゃん)) | 2009年 | * [[VOMIC]]版[[いぬまるだしっ]](演出) | 2010年 | * [[迷い猫オーバーラン!]](第4話[[音響監督]]) | 2011年 | * [[豆富小僧]](絵コンテ) * [[バカとテストと召喚獣|バカとテストと召喚獣にっ!]](第13話絵コンテ) * [[NARUTO -ナルト- 疾風伝]](OP10絵コンテ・演出) | 2012年 | * [[BRAVE10]](第3・7話絵コンテ) | 2014年 | * [[のうりん]](第3話絵コンテ) * [[異能バトルは日常系のなかで]](第2・4話絵コンテ) * [[蟲師|蟲師 続章]](第16話絵コンテ) | 2015年 | * [[ハッカドール|ハッカドール THE あにめ〜しょん]](第5話絵コンテ) | 2017年 | * [[リトルウィッチアカデミア]](第9話絵コンテ) | 2018年 | * [[超回転 寿司ストライカー The Way of Sushido]](アニメパート監督)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/201806/01158187.html?page=3|title=任天堂から生まれた『超回転 寿司ストライカー』なぜこんなゲームができちゃった!?|work=ファミ通.com|date=2018-06-01|accessdate=2018-06-02}}</ref> | 2019年 | * [[まちカドまぞく]](第5・9話絵コンテ、ダンゴゴン太原画(9話)) * [[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]](SPECIAL85・1084話Cパート絵コンテ、1084話Cパート演出) * [[からかい上手の高木さん (アニメ)|からかい上手の高木さん2]](第11話絵コンテ) * [[ONE PIECE (アニメ)|ONE PIECE]](絵コンテ) | 2020年 | * [[ミュークルドリーミー]](OP演出、第3話絵コンテ) * [[かくしごと]](第6・11話絵コンテ) | 2021年 | * [[デジモンアドベンチャー:]](第29・35話絵コンテ) * [[トロピカル〜ジュ!プリキュア]](OP絵コンテ・演出、第5・10・32話絵コンテ) * [[ましろのおと]](OP絵コンテ・演出、第10話絵コンテ) * [[イジらないで、長瀞さん]](第4話絵コンテ) | 2022年 | * [[からかい上手の高木さん3]](絵コンテ) | 2023年 | * [[僕の心のヤバイやつ]](OP絵コンテ<ref>{{Twitter status2|akitaroh_le|1642898748845223936|2023年4月3日|accessdate=2023-04-04}}</ref>) }} == 舞台 == * [[こどものおもちゃ#舞台|こどものおもちゃ]](脚本・演出) == 出演番組 == * [[大地ラヂオ2 アニメっていいよね!]] ** [[杉並区]]の[[ケーブルテレビ#コミュニティチャンネル(自主放送)|コミュニティチャンネル]]で声優の[[伊東久美子]]とともにMCを担当している情報番組。 * [[イクシオン サーガ DT]]×[[神様はじめました]] 秋アニメ直前スペシャル!!(2012年09月24日、テレビ東京系) * [[Rの法則]] ** 声優オーディションの企画時に審査員として登場。 == 著書など == * コラム「私の人生ギャグだった」 月刊[[アニメージュ]]連載 * 小説『十兵衛ちゃんラブリー眼帯の秘密 上巻・下巻』ソニー・マガジンズ 2000-2001年 {{ISBN2|4-7897-1637-6}} {{ISBN2|4-7897-1659-7}} * コミック『[[まかせてイルか!]]』(1巻・2巻)原作・大地丙太郎、作画・[[たかしたたかし]] アニメージュコミックス [[徳間書店]] 2000年 - 2001年 {{ISBN2|4-19-770081-4}} {{ISBN2|4-19-770087-3}} * 新書『これが「演出」なのだっ 天才アニメ監督のノウハウ』[[講談社]]アフタヌーン新書 2009年8月11日 {{ISBN2|4063647811}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[イージー・フイルム]]<!--「フィルム」ではないとのことです。リンク先参照--> == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20011225103359/http://www5c.biglobe.ne.jp/~akitaroh/ 大地丙太郎Web E.T.T] * [http://daichistyle.jugem.jp/ 大地丙太郎スタイル] * [http://hibitano.jugem.jp/ 日々は楽しい♪] * [https://twitter.com/akitaroh_le 大地丙太郎] - [[Twitter]] ** {{Wayback|url=https://twitter.com/akitaroh|title=大地丙太郎(@akitaroh) - Twitter|date=20210122174011}} * {{Wayback|url=http://www.netpassport.or.jp/~wtakakut/daichi/index.html|title=オフィシャル大地丙太郎ハンドブック|date=20011202150522}} {{大地丙太郎監督作品}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいち あきたろう}} [[Category:日本のアニメーション監督]] [[Category:1956年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:群馬県出身の人物]] [[Category:東京工芸大学短期大学部出身の人物]]
2003-08-04T07:27:46Z
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世界名作劇場
世界名作劇場(せかいめいさくげきじょう)は、主に日本アニメーション(以下、日アニ)が制作して『カルピスこども名作劇場』や『ハウス食品・世界名作劇場』といった名称で放送されているテレビアニメシリーズである。 世界名作アニメ、世界名作アニメ劇場とも呼ばれる。 作数は解釈によって異なり、最広義には1969年の『ムーミン』を、日本アニメーションの公式では同社制作の1975年の『フランダースの犬』を第1作と数える。 これまで約26作(数え方によって異なる)が製作・放送され、日本を代表するテレビアニメシリーズの一つとされている。中でも『アルプスの少女ハイジ』『フランダースの犬』『あらいぐまラスカル』の3作は、放送終了後もCMキャラクターとしての使用や公認のスピンオフ・パロディ作品が製作されるなど、シリーズの中でも圧倒的な知名度を誇っている。音楽面でも渡辺岳夫などの著名な作曲家が多数参加しており、主題歌群も家族向けのアニメソングコンサートなどでしばしば歌われている。 すべての作品はフジテレビ系列で毎週日曜日の夜19時30分より本放送されていたため、かつてはフジテレビを代表するアニメ番組と認識されていた時期もある。また、フジテレビ系列局のない県を中心に、他系列局やクロスネット局で時差ネットされていた県も多い。 どの作品以後を『世界名作劇場』シリーズに含めるのかは、諸説ある。 『世界名作劇場』という名前がついたのは1979年放送の『赤毛のアン』からであり、それまでは『カルピスこども劇場』や『カルピスファミリー劇場』という名前がついていた。『赤毛のアン』以降は提供がカルピスの一社だけで無くなったためシリーズ名を何度か変更している。その後ハウス食品工業が単独スポンサーとなって「ハウス世界名作劇場」と称した時期もあった。後にBSフジで新作を放送される際、冒頭にも「ハウス食品世界名作劇場」と冠された映像が付いている。なお本項では、日アニが公式にシリーズの総称としており一般的にも認知されている『世界名作劇場』を項目名とした。 オリジナル作品である『七つの海のティコ』を除けば、本放送時に原作者が既に故人であることが多く、放送期間中に原作者が存命だった作品では『南の虹のルーシー』、『アルプス物語 わたしのアンネット』、『大草原の小さな天使 ブッシュベイビー』、『こんにちは アン 〜Before Green Gables』の4作のみである。 基本的には世界中で古くから親しまれてきた小説・童話などを選び、ファミリー向けアニメとするための脚色を加えてアニメ化している。主な視聴者である子供たちからの共感が得やすいという理由から、原則として主人公が子供の原作が選ばれている。主人公の年齢が原作から改変されることもある。少女が主人公の作品が多いのも特徴で、原作と異って少女が主人公になるように改変されたり、原作に登場しない少女が主人公になっていたりするケースもある。題名には主人公の名前が使われることが多く、原題+主人公の名前という題名も多い。 ほとんどの作品で、小動物が主人公のペット・マスコットキャラクターとして登場している。このことに関してはマーチャンダイジングの項を参照のこと。 放送時期の初期である1970年代から人気番組で、日曜日宵の幼い子供のいる家庭の定番番組だった。 1997年3月に『家なき子レミ』の放送終了をもって『フランダースの犬』から続いた世界名作劇場の地上波シリーズは全23作、22年3か月の歴史に幕を閉じた。 2002年、日アニは『少女コゼット(邦題)』の制作を発表した。この報道後、世界名作劇場として10年ぶりの新作となる第24作『レ・ミゼラブル 少女コゼット』、第25作『ポルフィの長い旅』、第26作『こんにちは アン 〜Before Green Gables』の計3作が、2007年から2009年までにBSフジで放送された。 地上波では現時点で『こんにちは アン』のみ、各地方局でも放送開始された(詳しくは同アニメの放送局を参照)。新作が『家なき子レミ』以来、約12年ぶりに地上波での放送となった。 作品の時代設定としては、19世紀から現代まで幅広く、特に19世紀後半が比較的多い。 1819年の件から始まる『レ・ミゼラブル 少女コゼット』が最も古く、19世紀前半を舞台とした作品では他に『トム・ソーヤーの冒険』、『南の虹のルーシー』がある。 19世紀後半を舞台とするのは、『フランダースの犬』、『ペリーヌ物語』、『家族ロビンソン漂流記 ふしぎな島のフローネ』、『小公女セーラ』、『愛の若草物語』など。 20世紀前半は『あらいぐまラスカル』、『私のあしながおじさん』、『愛少女ポリアンナ物語』、『牧場の少女カトリ』など。 第二次世界大戦以降を舞台とする作品は『ポルフィの長い旅』、『大草原の小さな天使 ブッシュベイビー』、『七つの海のティコ』の3作品のみである。 まずは本放送を行うフジテレビとその系列局が始めた。名作劇場の人気が全盛だった時期には、系列局において初期 - 中期の作品の再放送が一社提供で行われた例も多い。 約10年間新作が作られなくなった時期からフジテレビ以外の民放系列局・NHKのBS2ほか様々なメディアで再放送されるようになった。 本シリーズの初DVDビデオ化作品は松竹映画版の「THE DOG OF FLANDERS(劇場版 フランダースの犬)」であり、1998年に東芝デジタルフロンティアコンテンツ事業部から発売、2007年以降バンダイビジュアルが再発売している。 テレビアニメの『フランダースの犬』から『家なき子レミ』については全作品全話をバンダイビジュアルが順送りでセルDVD(DVDビデオ)化し、1999年から2002年11月にかけてほぼ毎月のペースで発売された(各巻4-6話収録で3980円)。2001年頃発売タイトルからレーベルがBANDAIからEMOTIONへ変更された。2009年4月に初期作品を1890円の廉価版として再発売したり、一部作品で描き下ろしジャケットイラストによる廉価版DVD-BOXを新たに発売している。 『コゼット』以降の再開後3作品は、初回放送月から約6-8ヶ月遅れで同じくEMOTIONからリリースされたが、『こんにちは アン』のみ当初から1890円の価格で発売された。 日本アニメーション関係会社のJanime.comの配給により、2004年からインターネットテレビのGYAO!(旧:Yahoo!動画)で世界名作劇場全作品の全話が有料動画配信されている。その後、U-NEXTやdアニメストアなど月額制の各動画見放題サービスでも全26作品が公開された。また、一部サービスでは『山ねずみロッキーチャック』、『アルプスの少女ハイジ』などカルピスまんが劇場の作品も配信されている。2021年8月をもって『南の虹のルーシー』、『わたしのアンネット』、『牧場の少女カトリ』、『トラップ一家物語』、『ブッシュベイビー』、『名犬ラッシー』、『少女コゼット』、『ポルフィの長い旅』、『こんにちはアン』の9作品は各月額制サービスでの配信を終了し、2023年8月現在は上記9作品を除く17作品が配信されている。このため、現在上記9作品を見るにはDVDの購入またはオンラインレンタルが必要である。 YouTubeでは、公式チャンネル「日本アニメーションチャンネル」上で、各有料動画サービスの宣伝も兼ねて2009年12月より『こんにちはアン』を除く各作品の第1話が公開された(上記9作品の有料サイトでの配信終了に伴い2023年8月現在は残る17作品のみ公開)。また、周年記念やミュージカル上映などに伴い期間限定で全話無料配信されることがある。このほか、2020年8月に開設され株式会社アナライズログが運営しているチャンネル「アニメログ」において、『赤毛のアン』、『小公女セーラ』、『愛の若草物語』、『名犬ラッシー』、『こんにちはアン』(第38話のみ公開)を除く21作品が全話無料公開された。一部作品は半年から1年程度の期間限定での配信となっており、2023年8月現在同チャンネルでは『ふしぎな島のフローネ』、『愛少女ポリアンナ物語』、『小公子セディ』、『ピーターパンの冒険』、『私のあしながおじさん』、『ナンとジョー先生』、『家なき子レミ』の7作品のみ公開されている。 BSフジ開局記念の一環で2000年12月から2001年8月にかけ、23作品について45分の前後編2部構成の総集編とした「世界名作劇場 完結版」が、番組としてBSフジと日本アニメーションの制作により放送された。新たに収録したナレーション解説が追加されており、冒頭部の概要説明は藤田淑子、本編中は登場キャラクターを演じた声優もしくはその母をたずねて三千里での高乃麗など声質に近い声優が担当している。 本放送の後、順次バンダイビジュアルから描き下ろしのカラーイラストをジャケットに使用し「ばっちしV」としてVHSやDVDソフト化されている他、CS放送局のキッズステーション(番組名は改題)、アニマックス、カートゥーン ネットワーク(ポップコーンスペシャル内)でも再放送された。2006年末には『レ・ミゼラブル 少女コゼット』放送決定記念企画として、BIGLOBEで23作品が期間限定で動画配信された。 また、完全版の構成を基に、2001年から2003年にかけて23作品がぎょうせいの「絵本アニメ 世界名作劇場」というアニメ絵本で出版されており、DVDのジャケットイラストを表紙として使用している。 2011年にOVAとして先の23作と同じスタイルで日本アニメーション単独で制作され、同年7月22日に単巻のDVDソフトと、先の23作を合わせた「―完結編」DVD-BOXがバンダイビジュアルから発売されている。 テレビ放送については「ポルフィ」の完結版を除く2作品が、それぞれ2011年8月にCS放送局のアニマックスでテレビ初放送され、後に2013年ではカートゥーン ネットワークでも何度か再放送された(放送月については、各作品を参照)。 作品中には動物が登場することが多く、原作に存在しなくてもアニメオリジナルで登場させることも多い。これはぬいぐるみなどの商品化が目的の一つである。嚆矢は『母をたずねて三千里』のアメデオである。日本アニメーションの松土隆二は「うちもやっぱりマーチャン必要で、制作費の補填をしたい」と述べている。 松土によると『トム・ソーヤの冒険』ではミシシッピ川にいるワニを出そうとしたが没になったそうである。『私のあしながおじさん』と『トラップ一家物語』では会社から小動物を出すよう指示を受けたが、既に会社を辞めるつもりだった松土は拒否したそうである。 番組と連動して指定の電話番号に電話をかけると自動音声が流れ作品のキャラクターたちが織り成すテレビ未放送のチェインエピソードを聞くことができた。 世界名作劇場が始まった頃は虫プロの倒産、東映動画の累積赤字などアニメ業界の景気が悪かった。このため各社は制作費回収のため、作品を海外に輸出することを前提として制作していた。 名作劇場も同様に海外市場を睨んで制作され、一度も日本国外への輸出がされていない『名犬ラッシー』を除き、韓国・台湾・中国・フィリピンなどの東・東南アジアやヨーロッパ諸国・中東など世界各地で放送された。特にフィリピンとイタリアではほぼ全作品が放送されており、韓国では『家なき子レミ』『ポルフィの長い旅』を除く全作品が放送されている。また、台湾と香港では『レ・ミゼラブル 少女コゼット』まで放送(ただし、台湾では『大草原の小さな天使 ブッシュベイビー』を除く)、ドイツについても『小公子セディ』を除いて『ロミオの青い空』まで放送されている。 一方、アメリカ合衆国では『トム・ソーヤーの冒険』『ふしぎな島のフローネ』と『若草物語』の数話分しか紹介されておらず、イギリスでは『ピーターパンの冒険』しか放送されていない。 『ペリーヌ物語』はフランスの建物、街並み他の風景が明らかに現実とかけ離れていたため、フランスでは放送されなかった。また、『フランダースの犬』は舞台であるベルギーでは放送されなかった。 1995年に「世界名作劇場」のタイトルでキッズコンピュータ・ピコ用絵本ソフトがセガ・エンタープライゼス(現・セガトイズ)より発売。4作品を題材としており、1ページ目は『母をたずねて三千里』、2ページ目は『トム・ソーヤーの冒険』、3ページ目は『フランダースの犬』、4ページ目は『七つの海のティコ』、5ページ目は名作劇場を自分で作っていくという内容である。いずれも劇中にはそれぞれの主題歌がインストゥルメンタルで流れている。 2008年、銀座からパチンコ「CRフランダースの犬と世界名作劇場」が発売された。表題にもある「フランダースの犬」の他、「母をたずねて三千里」・「ふしぎな島のフローネ」が演出のベースとなっている。 ただし、子供向けの作品である本作群が、ギャンブルのイメージが強いパチンコとしてデビューしたことや、ネロが天に召されると大当たりという演出に対し、かなりの批判も見られた。 2016年11月には、日アニ本社(多摩市)近くのアリオ橋本に『世界名作劇場 Fan Fun Kitchen』がオープンした。赤毛のアン、母を訪ねて三千里、フランダースの犬、あらいぐまラスカルのキャラクターをあしらったスイーツや軽食を提供。2019年1月20日をもって閉店。 2017年12月18日よりNHN comico運営のコミック・ラノベアプリであるcomico・comico PLUSにて世界名作劇場学院のタイトルでコミカライズが配信開始、2018年7月2日に最終回の24話が配信された。作者は早乙女智美/sunbird。 以下は地上波フジテレビで、1975年1月から1997年3月まで放送された23作品を記述する。裏番組にクイズ面白ゼミナール(NHK)や、象印クイズ ヒントでピント(テレビ朝日)などがあったものの、視聴率は健闘していた。 『フランダースの犬』から『家なき子レミ』まで。系列は当シリーズ終了時(1997年3月)のもの。
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"以下は地上波フジテレビで、1975年1月から1997年3月まで放送された23作品を記述する。裏番組にクイズ面白ゼミナール(NHK)や、象印クイズ ヒントでピント(テレビ朝日)などがあったものの、視聴率は健闘していた。", "title": "シリーズ一覧" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "『フランダースの犬』から『家なき子レミ』まで。系列は当シリーズ終了時(1997年3月)のもの。", "title": "放送局" } ]
世界名作劇場(せかいめいさくげきじょう)は、主に日本アニメーション(以下、日アニ)が制作して『カルピスこども名作劇場』や『ハウス食品・世界名作劇場』といった名称で放送されているテレビアニメシリーズである。 世界名作アニメ、世界名作アニメ劇場とも呼ばれる。 作数は解釈によって異なり、最広義には1969年の『ムーミン』を、日本アニメーションの公式では同社制作の1975年の『フランダースの犬』を第1作と数える。
{{pp|small=yes}} {{Otheruses|[[フジテレビジョン|フジテレビ]]のアニメシリーズ|[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[特別番組]]|あらすじで楽しむ世界名作劇場|[[テレビ朝日]]の子ども向けドラマシリーズ「ハウス世界名作劇場」|ハウスこども劇場}} {{ウィキプロジェクトリンク|世界名作劇場}} {{出典の明記|date=2008年6月}} '''世界名作劇場'''(せかいめいさくげきじょう)は、主に[[日本アニメーション]](以下、日アニ)が制作して『[[カルピス]]こども名作劇場』や『[[ハウス食品]]・世界名作劇場』といった名称で放送されている[[テレビアニメ]]シリーズである。 '''世界名作アニメ'''、'''世界名作アニメ劇場'''とも呼ばれる。<!--[[1999年]]に『名作アニメ主題歌ベスト20』(『フランダースの犬』から『ロミオの青い空』までの主題歌を収録)、[[2004年]]に『フジテレビ 世界名作アニメ主題歌ベスト』(『ムーミン』から『ロミオの青い空』までの主題歌を収録)という[[コンピレーション・アルバム]]が発売されている。--> 作数は解釈によって異なり、最広義には[[1969年]]の『[[ムーミン (アニメ)|ムーミン]]』を、日本アニメーションの公式では同社制作の[[1975年]]の『[[フランダースの犬 (アニメ)|フランダースの犬]]』を第1作と数える。 == 概要 == これまで約26作(数え方によって異なる)が製作・放送され、日本を代表するテレビアニメシリーズの一つとされている。中でも『[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]』『[[フランダースの犬 (アニメ)|フランダースの犬]]』『[[あらいぐまラスカル]]』の3作は、放送終了後もCMキャラクターとしての使用や公認のスピンオフ・パロディ作品が製作されるなど、シリーズの中でも圧倒的な知名度を誇っている。音楽面でも[[渡辺岳夫]]などの著名な作曲家が多数参加しており、主題歌群も家族向けの[[アニメソング]]コンサートなどでしばしば歌われている。 すべての作品は[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]で毎週[[日曜日]]の夜19時30分より本放送されていたため、かつてはフジテレビを代表するアニメ番組と認識されていた時期もある。また、フジテレビ系列局のない県を中心に、他系列局や[[クロスネット局]]で時差ネットされていた県も多い。 どの作品以後を『世界名作劇場』シリーズに含めるのかは、諸説ある<ref>[http://www.style.fm/as/13_special/qa_051114.shtml WEBアニメスタイル 特別企画 第1回「世界名作劇場って何本あるの?」]、[[アニメスタイル|WEBアニメスタイル]]、2005年11月14日。</ref>。 * シリーズ定着後に原作を持たずに作られた『[[七つの海のティコ]]』を例外とし「原作が日本国外の文学作品」という基準で、[[1969年]]の『[[ムーミン (アニメ)|ムーミン]]』以後の作品を指す{{Refnest|group="注釈"|1988年12月10日付の[[読売新聞]]の記事では、『世界名作劇場』シリーズの開始を1969年の『ムーミン』としている<ref>「アニメ『世界名作劇場』20年 年間通して一作品 じっくりペース守る」『読売新聞』1988年12月10日付夕刊、6頁。</ref>。}}。 * 厳密には例外もあるが「日常を舞台にした作品」という基準で、[[1974年]]の『アルプスの少女ハイジ』以後の作品を指す。 * 「日本アニメーションの制作」という基準で、[[1975年]]の『フランダースの犬』以後の作品を指す。 『世界名作劇場』という名前がついたのは[[1979年]]放送の『赤毛のアン』からであり、それまでは『'''[[カルピス]]こども劇場'''』や『'''カルピスファミリー劇場'''』という名前がついていた。『赤毛のアン』以降は提供がカルピスの一社だけで無くなったためシリーズ名を何度か変更している。その後[[ハウス食品|ハウス食品工業]](現・[[ハウス食品グループ本社]])が単独スポンサーとなって「ハウス世界名作劇場」と称した時期もあった。後にBSフジで新作を放送される際、冒頭にも「ハウス食品世界名作劇場」と冠された映像が付いている。なお本項では、日アニが公式にシリーズの総称としており一般的にも認知されている『世界名作劇場』を項目名とした。 オリジナル作品である『[[七つの海のティコ]]』を除けば、本放送時に原作者が既に故人であることが多く、放送期間中に原作者が存命だった作品では『[[南の虹のルーシー]]』、『[[アルプス物語 わたしのアンネット]]』、『[[大草原の小さな天使 ブッシュベイビー]]』、『[[こんにちは アン 〜Before Green Gables]]』の4作のみである。 == 作風 == 基本的には世界中で古くから親しまれてきた小説・童話などを選び、[[ファミリー・一般向けアニメ|ファミリー向けアニメ]]とするための脚色を加えてアニメ化している。主な視聴者である子供たちからの共感が得やすいという理由から、原則として主人公が子供の原作が選ばれている。主人公の年齢が原作から改変されることもある。少女が主人公の作品が多いのも特徴で<!--主な視聴層が女児であるためと思われますが、出典を提示できないのでコメントアウトします-->、原作と異って少女が主人公になるように改変されたり、原作に登場しない少女が主人公になっていたりするケースもある。題名には主人公の名前が使われることが多く、原題+主人公の名前という題名も多い。 ほとんどの作品で、小動物が主人公のペット・[[マスコットキャラクター]]として登場している。このことに関しては[[#マーチャンダイジング|マーチャンダイジングの項]]を参照のこと。 <!--独自研究的と見られるためコメントアウト 以下、おおまかではあるが全作品の物語の傾向を数パターンに分類したので参考にされたい。 ; 不幸もの : 孤児になったり、奉公に出されたり、不幸な状況にある少年少女が自らの力で困難に立ち向かうというパターンである。 : 『[[フランダースの犬 (アニメ)|フランダースの犬]]』、『[[母をたずねて三千里]]』、『[[ペリーヌ物語]]』、『[[小公女セーラ]]』、『[[牧場の少女カトリ]]』、『[[ロミオの青い空]]』、『[[家なき子レミ]]』、『[[レ・ミゼラブル 少女コゼット]]』など。 ; 冒険もの : その名のとおり、主人公たちが冒険をする、というパターン。 : 『[[トム・ソーヤーの冒険 (アニメ)|トム・ソーヤーの冒険]]』、『[[家族ロビンソン漂流記 ふしぎな島のフローネ]]』、『[[ピーターパンの冒険]]』、『[[七つの海のティコ]]』、『[[大草原の小さな天使 ブッシュベイビー]]』など。 ; 家族もの : 家族愛に満ちたホームドラマ的な内容に仕上がっているパターン。 : 『[[あらいぐまラスカル]]』、『[[赤毛のアン]]』、『[[南の虹のルーシー]]』、『[[アルプス物語 わたしのアンネット]]』、『[[愛少女ポリアンナ物語]]』、『[[小公子セディ]]』、『[[愛の若草物語]]』、『[[私のあしながおじさん]]』、『[[トラップ一家物語]]』、『[[若草物語 ナンとジョー先生]]』、『[[名犬ラッシー (世界名作劇場)|名犬ラッシー]]』など。 --> <!--推測のためコメントアウト == 歴史 == 一説には[[毎日放送|MBS]]([[テレビ朝日|NETテレビ]]系列→[[TBSテレビ|TBS]]系列)の『[[まんが日本昔ばなし]]』に対抗して作られた番組とも言われているが、『まんが日本昔ばなし』の放送開始は1975年1月、すなわち『アルプスの少女ハイジ』の翌年の『フランダースの犬』と同時期であるため、これは正しくない。 --> === 初期 === 放送時期の初期である[[1970年代]]から人気番組で、日曜日宵の幼い子供のいる家庭の定番番組だった。 [[1997年]]3月に『[[家なき子レミ]]』の放送終了をもって『フランダースの犬』から続いた世界名作劇場の地上波シリーズは全23作、22年3か月の歴史に幕を閉じた。<!--後番組は同じく日アニ製作のテレビアニメ『[[中華一番!]]』で、その後もアニメ数作品が放送されたが、[[2006年]]の『[[ONE PIECE]]』の時間帯移動をもって、フジ日曜19時台のアニメ枠は完全に消滅した。--> === 2007年から2009年までの復活作 === ==== BSフジでの放送 ==== [[2002年]]、日アニは『少女コゼット(邦題)』の制作を発表した<ref group="注釈">[[中華人民共和国|中国]]・[[中国中央電視台]]とテレビ向け番組の共同制作として提携、[[日本経済新聞]] [[2002年]][[11月23日]] 「中国では2003年秋の放送は決定しており、日本でも主要なテレビ局に売り込む」と発表された。<!--修正お願いします--></ref>。この報道後、世界名作劇場として10年ぶりの新作となる第24作『[[レ・ミゼラブル 少女コゼット]]』<ref group="注釈">報道ではフジテレビと中国中央電視台の共同製作とされているが、日本での放送ではそのことについて特に言及されていない。当初予定されていた2003年の中国での放送は実現せず、2007年にようやく放送された作品では制作に中国中央電視台がクレジットされていなかった。</ref>、第25作『[[ポルフィの長い旅]]』、第26作『[[こんにちは アン 〜Before Green Gables]]』の計3作が、[[2007年]]から[[2009年]]までに[[BSフジ]]で放送された。 ==== 地上波での放送 ==== 地上波では現時点で『こんにちは アン』のみ、各地方局でも放送開始された(詳しくは同アニメの[[こんにちは アン 〜Before Green Gables#放送局|放送局]]を参照)。新作が『家なき子レミ』以来、約12年ぶりに地上波での放送となった。 === 時代設定 === 作品の時代設定としては、19世紀から現代まで幅広く、特に19世紀後半が比較的多い。 [[1819年]]の件から始まる『[[レ・ミゼラブル 少女コゼット]]』が最も古く、19世紀前半を舞台とした作品では他に『[[トム・ソーヤーの冒険 (アニメ)|トム・ソーヤーの冒険]]』、『[[南の虹のルーシー]]』がある。 19世紀後半を舞台とするのは、『[[フランダースの犬 (アニメ)|フランダースの犬]]』、『[[ペリーヌ物語]]』、『[[家族ロビンソン漂流記 ふしぎな島のフローネ]]』、『[[小公女セーラ]]』、『[[愛の若草物語]]』など。 20世紀前半は『[[あらいぐまラスカル]]』、『[[私のあしながおじさん]]』、『[[愛少女ポリアンナ物語]]』、『[[牧場の少女カトリ]]』など。 第二次世界大戦以降を舞台とする作品は『[[ポルフィの長い旅]]』、『[[大草原の小さな天使 ブッシュベイビー]]』、『[[七つの海のティコ]]』の3作品のみである。 ==== 1810年から1860年 ==== *[[レ・ミゼラブル 少女コゼット]] *[[南の虹のルーシー]] *[[トム・ソーヤーの冒険 (アニメ)|トム・ソーヤーの冒険]] *[[フランダースの犬 (アニメ)|フランダースの犬]] *[[家族ロビンソン漂流記 ふしぎな島のフローネ]] *[[ロミオの青い空]] ==== 1860年から1890年 ==== *[[愛の若草物語]] *[[家なき子レミ]] *[[母をたずねて三千里]] *[[ナンとジョー先生]] *[[小公女セーラ]] *[[小公子セディ]] ==== 1890年から1910年 ==== *[[ペリーヌ物語]] *[[こんにちは アン 〜Before Green Gables]] *[[赤毛のアン (アニメ)|赤毛のアン]] *[[わたしのアンネット]] *[[ピーターパンの冒険]] ==== 1910年から1945年 ==== *[[あらいぐまラスカル]] *[[牧場の少女カトリ]] *[[愛少女ポリアンナ物語]] *[[私のあしながおじさん]] *[[名犬ラッシー (世界名作劇場)|名犬ラッシー]] *[[トラップ一家物語]] ==== 1945年から現代 ==== *[[ポルフィの長い旅]] *[[大草原の小さな天使 ブッシュベイビー]] *[[七つの海のティコ]] == 再放送 == === 初期から中断前まで === まずは本放送を行うフジテレビとその[[フジネットワーク|系列局]]が始めた。名作劇場の人気が全盛だった時期には、系列局において初期 - 中期の作品の再放送が[[一社提供]]で行われた例も多い。 === 本放送中断時期以後 === 約10年間新作が作られなくなった時期からフジテレビ以外の民放系列局・[[日本放送協会|NHK]]の[[NHK衛星第2テレビジョン|BS2]]ほか様々なメディアで再放送されるようになった。 * 放送を最も多く実施しているのは[[NHK BSプレミアム]]でアナログ放送の [[NHK衛星第2テレビジョン|BS2]]の実質的な後継でアナログ本放送開始より放送され[[BS名作アニメ劇場]]、「[[衛星アニメ劇場]]」の看板作品となっていた時期もある。 * [[衛星放送|CS]]放送局の[[ファミリー劇場]]や[[キッズステーション]]、[[フジテレビTWO]]で頻繁に放送され、「[[GLC24時間英会話ch|GLC24時間英会話チャンネル]]」では英語吹き替え版が放送されている。 * 地上波局では[[全国独立放送協議会|独立局]]の[[テレビ埼玉|テレ玉]]・[[とちぎテレビ]]・[[千葉テレビ放送|チバテレビ]]・[[テレビ神奈川|tvk]]・[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]において頻繁に放送されている。その他の局では[[テレビ北海道]]([[おはようまんが]]枠)と[[サガテレビ]]で頻繁に放送されている。 * 日アニ作品(『[[フランダースの犬 (アニメ)|フランダースの犬]]』から『[[家なき子レミ]]』)が地上波などで放送の時は、OP・EDにクレジットされる「'''制作 フジテレビ 日本アニメーション'''」の部分が、フジテレビ系列以外の局での放送時を中心に「'''制作 日本アニメーション'''」に差し替えられることが多い。その差し替え方は、『フランダースの犬』から『[[七つの海のティコ]]』までは、画像はそのままにCG加工で差し替える方式だが、『[[ロミオの青い空]]』から『家なき子レミ』までは、提供用の描き下ろし映像の部分に制作名のテロップを合成する方式だった。なお、移行期にあたる『ティコ』は2種類有るが、前者の物に統一している。 **差し替え済のデジタル素材が用意される以前は、フィルムネットによる再放送実施局側で、音声のみそのまま流したうえで制作クレジットのみブルーバックや静止画フリップなどの映像で日本アニメーション単独名義に差し替えた例もある<ref group="注釈">1980年代から90年代中頃に[[広島ホームテレビ]](テレビ朝日系列)が本シリーズ作品を含むテレビ東京系以外の系列外アニメ・ドラマを再放送した際にこうした措置が取られていた。</ref>。 * タイトル冒頭の『世界名作劇場』等の部分にスポンサー名が作画に含まれている一社提供時代の作品は<ref group="注釈">『小公女セーラ』などハウス食品提供時代初期では、アバンタイトルのアニメ「世界名作劇場」の文字の上に「ハウス食品」のロゴをテロップで別乗せしていたため、番組販売時の流用ができた。</ref>再放送や本放送でも番組販売扱いで提供なしあるいはスポンサーが異なった他系列局<ref group="注釈">一社提供スポンサーとローカルスポンサーの共同提供となった場合を含む。</ref><ref group="注釈">この場合提供ベースがキャラクターによる提供読みの企業名入りアニメーションの場合はブルーバックによるローカルスポンサー名かスポットCMに差し替えていた。</ref>では冒頭をカットして番組タイトルから放送する例が大半だが音楽をそのまま流し映像のみ差し替えた例も若干ある<ref group="注釈">『アンデルセン物語』を[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]が[[関東ローカル]]で再放送した際には、冒頭の音楽(作曲:[[宇野誠一郎]])をそのまま流し、映像のみ番組枠名『[[おーい!まんがだヨー]]』の手書きタイトルカードに差し替えた。</ref>。また、『若草物語 ナンとジョー先生』の様に冒頭のスポンサー名部分から主題歌のイントロが始まっていたために再放送用素材では再加工を要した例もある。 == DVDビデオソフト == 本シリーズの初DVDビデオ化作品は松竹映画版の「[[フランダースの犬 (アニメ)#劇場映画版|THE DOG OF FLANDERS]](劇場版 フランダースの犬)」であり、1998年に[[ショウゲート|東芝デジタルフロンティアコンテンツ事業部]]から発売、2007年以降[[バンダイビジュアル]]が再発売している。 テレビアニメの『[[フランダースの犬 (アニメ)|フランダースの犬]]』から『[[家なき子レミ]]』については全作品全話を[[バンダイビジュアル]]が順送りで[[セルビデオ|セルDVD]](DVDビデオ)化し、1999年から2002年11月にかけてほぼ毎月のペースで発売された(各巻4-6話収録で3980円)。2001年頃発売タイトルからレーベルがBANDAIから[[エモーション (バンダイナムコグループ)|EMOTION]]へ変更された。2009年4月に初期作品を1890円の廉価版として再発売したり、一部作品で描き下ろしジャケットイラストによる廉価版DVD-BOXを新たに発売している。 『コゼット』以降の再開後3作品は、初回放送月から約6-8ヶ月遅れで同じくEMOTIONからリリースされたが、『こんにちは アン』のみ当初から1890円の価格で発売された。 == インターネット配信 == 日本アニメーション関係会社のJanime.comの配給により、2004年から[[インターネットテレビ]]の[[GYAO!]](旧:[[Yahoo!動画]])で世界名作劇場全作品の全話が有料動画配信されている。その後、[[U-NEXT]]や[[ドコモ・アニメストア|dアニメストア]]など月額制の各動画見放題サービスでも全26作品が公開された。また、一部サービスでは『山ねずみロッキーチャック』、『アルプスの少女ハイジ』などカルピスまんが劇場の作品も配信されている。2021年8月をもって『南の虹のルーシー』、『わたしのアンネット』、『牧場の少女カトリ』、『トラップ一家物語』、『ブッシュベイビー』、『名犬ラッシー』、『少女コゼット』、『ポルフィの長い旅』、『こんにちはアン』の9作品は各月額制サービスでの配信を終了し、2023年8月現在は上記9作品を除く17作品が配信されている。このため、現在上記9作品を見るにはDVDの購入またはオンラインレンタルが必要である。 [[YouTube]]では、公式チャンネル「日本アニメーションチャンネル」上で、各有料動画サービスの宣伝も兼ねて2009年12月より『こんにちはアン』を除く各作品の第1話が公開された(上記9作品の有料サイトでの配信終了に伴い2023年8月現在は残る17作品のみ公開)。また、周年記念やミュージカル上映などに伴い期間限定で全話無料配信されることがある。このほか、2020年8月に開設され株式会社アナライズログが運営しているチャンネル「アニメログ」において、『赤毛のアン』、『小公女セーラ』、『愛の若草物語』、『名犬ラッシー』、『こんにちはアン』(第38話のみ公開)を除く21作品が全話無料公開された。一部作品は半年から1年程度の期間限定での配信となっており、2023年8月現在同チャンネルでは『ふしぎな島のフローネ』、『愛少女ポリアンナ物語』、『小公子セディ』、『ピーターパンの冒険』、『私のあしながおじさん』、『ナンとジョー先生』、『家なき子レミ』の7作品のみ公開されている。 == 完結版 == ;1975年から1997年までの地上波シリーズ [[BSフジ]]開局記念の一環で2000年12月から2001年8月にかけ、23作品について45分の前後編2部構成の[[総集編]]とした「'''世界名作劇場 完結版'''」が、番組としてBSフジと日本アニメーションの制作により放送された。新たに収録したナレーション解説が追加されており、冒頭部の概要説明は[[藤田淑子]]、本編中は登場キャラクターを演じた声優もしくはその母をたずねて三千里での[[高乃麗]]など声質に近い声優が担当している。 本放送の後、順次[[バンダイビジュアル]]から描き下ろしのカラーイラストをジャケットに使用し「'''ばっちしV'''」としてVHSやDVDソフト化されている他、[[CS放送]]局の[[キッズステーション]](番組名は改題)、[[アニマックス]]、[[カートゥーン ネットワーク]](ポップコーンスペシャル内)でも再放送された。2006年末には『レ・ミゼラブル 少女コゼット』放送決定記念企画として、[[BIGLOBE]]で23作品が期間限定で動画配信された。 また、完全版の構成を基に、2001年から2003年にかけて23作品が[[ぎょうせい]]の「[[絵本]]アニメ 世界名作劇場」というアニメ絵本で出版されており、DVDのジャケットイラストを表紙として使用している。 ;2007年から2009年までのBSフジによる、[[BSデジタル放送]]でのテレビシリーズ 2011年に[[オリジナルビデオアニメーション|OVA]]として先の23作と同じスタイルで日本アニメーション単独で制作され、同年7月22日に単巻のDVDソフトと、先の23作を合わせた「―完結編」DVD-BOXがバンダイビジュアルから発売されている。 テレビ放送については「ポルフィ」の完結版を除く2作品が、それぞれ2011年8月にCS放送局のアニマックスでテレビ初放送され、後に2013年ではカートゥーン ネットワークでも何度か再放送された(放送月については、各作品を参照)。 == マーチャンダイジング == 作品中には動物が登場することが多く、原作に存在しなくてもアニメオリジナルで登場させることも多い。これは[[ぬいぐるみ]]などの商品化が目的の一つである。嚆矢は『[[母をたずねて三千里]]』のアメデオである。[[日本アニメーション]]の[[松土隆二]]は「うちもやっぱり[[マーチャンダイジング|マーチャン]]必要で、制作費の補填をしたい」と述べている<ref name="meigeki" />。 松土によると『[[トム・ソーヤーの冒険 (アニメ)|トム・ソーヤの冒険]]』では[[ミシシッピ川]]にいる[[ワニ]]を出そうとしたが没になったそうである。『[[私のあしながおじさん]]』と『[[トラップ一家物語]]』では会社から小動物を出すよう指示を受けたが、既に会社を辞めるつもりだった松土は拒否したそうである<ref name="meigeki" />。 番組と連動して指定の電話番号に[[電話]]をかけると自動音声が流れ作品のキャラクターたちが織り成すテレビ未放送のチェインエピソードを聞くことができた。 == 輸出 == {{出典の明記|section=1|date=2009年4月}}世界名作劇場が始まった頃は[[虫プロ]]の倒産、[[東映アニメーション|東映動画]]の累積赤字などアニメ業界の景気が悪かった。このため各社は制作費回収のため、作品を海外に輸出することを前提として制作していた。 名作劇場も同様に海外市場を睨んで制作され<ref name="meigeki">世界名作劇場大全</ref>、一度も[[日本]]国外への輸出がされていない『名犬ラッシー』を除き、[[大韓民国|韓国]]・[[台湾]]・[[中国]]・[[フィリピン]]などの[[東アジア|東]]・[[東南アジア]]や[[ヨーロッパ]]諸国・[[中東]]など世界各地で放送された。特にフィリピンとイタリアではほぼ全作品が放送されており、韓国では『家なき子レミ』『ポルフィの長い旅』を除く全作品が放送されている。また、[[台湾]]と[[香港]]では『レ・ミゼラブル 少女コゼット』まで放送(ただし、台湾では『大草原の小さな天使 ブッシュベイビー』を除く)、ドイツについても『小公子セディ』を除いて『ロミオの青い空』まで放送されている。 一方、アメリカ合衆国では『トム・ソーヤーの冒険』『ふしぎな島のフローネ』と『若草物語』の数話分しか紹介されておらず、イギリスでは『ピーターパンの冒険』しか放送されていない。 『ペリーヌ物語』は[[フランス]]の建物、街並み他の風景が明らかに現実とかけ離れていたため、フランスでは放送されなかった。また、『フランダースの犬』は舞台である[[ベルギー]]では放送されなかった。 == ゲーム作品 == [[1995年]]に「'''世界名作劇場'''」のタイトルで[[キッズコンピュータ・ピコ]]用[[絵本]]ソフトが[[セガ|セガ・エンタープライゼス]](現・[[セガトイズ]])より発売。4作品を題材としており、1ページ目は『母をたずねて三千里』、2ページ目は『トム・ソーヤーの冒険』、3ページ目は『フランダースの犬』、4ページ目は『七つの海のティコ』、5ページ目は名作劇場を自分で作っていくという内容である。いずれも劇中にはそれぞれの主題歌が[[インストゥルメンタル]]で流れている。 == パチンコ化 == 2008年、[[銀座 (企業)|銀座]]から[[パチンコ]]「CRフランダースの犬と世界名作劇場」が発売された。表題にもある「フランダースの犬」の他、「母をたずねて三千里」・「ふしぎな島のフローネ」が演出のベースとなっている。 ただし、子供向けの作品である本作群が、[[ギャンブル]]のイメージが強いパチンコとしてデビューしたことや、ネロが天に召されると大当たりという演出に対し、かなりの批判も見られた。 == レストラン == 2016年11月には、日アニ本社(多摩市)近くの[[アリオ橋本]]に『世界名作劇場 Fan Fun Kitchen』がオープンした。赤毛のアン、母を訪ねて三千里、フランダースの犬、あらいぐまラスカルのキャラクターをあしらったスイーツや軽食を提供。2019年1月20日をもって閉店<ref>([http://ff-kitchen.jp/img/closing.pdf 公式サイト ff-kitchen.jp お知らせ]より)</ref>。 == コミカライズ == [[2017年]][[12月18日]]より[[NHN comico]]運営のコミック・ラノベアプリである'''[[comico|comico・comico PLUS]]'''にて'''世界名作劇場学院'''のタイトルでコミカライズが配信開始<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20171221-560941/ ラスカルからコゼットまで、「世界名作劇場」のキャラが織りなす学園コメディ]マイナビ</ref>、2018年7月2日に最終回の24話が配信された。作者は早乙女智美/sunbird。 == シリーズ一覧 == {| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;" !width="2.5%"|冠 !width="1.5%"|作数 !width="3.5%"|タイトル !width="5%"|放送期間 !width="1.5%"|話数 !width="2.5%"|舞台 !width="5.5%"|原作 !width="1%"|脚注 |- |rowspan="7"|カルピス<br>まんが劇場|| ||'''[[どろろ (アニメ)|どろろと百鬼丸(13話までは「どろろ」)]]'''||1969年4月6日 - 9月28日||全26話||[[日本]]||[[手塚治虫]]||<ref group="注釈">『世界名作劇場』の該当作品ではないが、『カルピスまんが劇場』の冠が付いていた。また唯一漫画作品が原作で、モノクロで制作された作品でもある。</ref> |- | ||'''[[ムーミン (アニメ)|ムーミン]]'''||1969年10月5日 - 1970年12月27日||全65話||[[フィンランド]]||[[トーベ・ヤンソン]]||rowspan="3"|<ref group="注釈">左記の3作品は'''[[瑞鷹 (アニメ制作会社)|瑞鷹エンタープライズ]]'''及び'''[[虫プロダクション]]'''及び'''[[東京ムービー]]'''の作品である。</ref> |- | ||'''[[アンデルセン物語]]'''||1971年1月3日 - 12月26日||全52話||無し||[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン]] |- | ||'''ムーミン'''(新)||1972年1月9日 - 12月31日||全52話||フィンランド||トーベ・ヤンソン |- | ||'''[[山ねずみロッキーチャック]]'''||1973年1月7日 - 12月30日||全52話||[[アメリカ合衆国|アメリカ]]||{{仮リンク|ソーントン・バージェス|en|Thornton Burgess}}||rowspan="2"|<ref group="注釈">左記の2作品は'''[[瑞鷹 (アニメ制作会社)|ズイヨー映像]]'''時代の作品である。</ref> |- | ||'''[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]'''||1974年1月6日 - 12月29日||全52話||[[スイス]]/[[ドイツ]]||[[ヨハンナ・シュピリ]] |- |rowspan="2"|第1作||rowspan="2"|'''[[フランダースの犬 (アニメ)|フランダースの犬]]'''||rowspan="2"|1975年1月5日 - 12月28日||rowspan="2"|全52話||rowspan="2"|[[ベルギー]]||rowspan="2"|[[ウィーダ]]||rowspan="2"|<ref group="注釈">これ以降の作品が、日本アニメーションの公式で『世界名作劇場』と呼ばれている。第1話から第26話までは「カルピスまんが劇場」として放送されていた。</ref> |- |rowspan="3"|カルピス<br />こども劇場 |- |第2作||'''[[母をたずねて三千里]]'''||1976年1月4日 - 12月26日||全52話||[[イタリア]]<br />[[アルゼンチン]]||[[エドモンド・デ・アミーチス]]|| |- |第3作||'''[[あらいぐまラスカル]]'''||1977年1月2日 - 12月25日||全52話||アメリカ||[[スターリング・ノース]]||<ref group="注釈">「フランダースの犬」以降で主人公の声を男性声優が演じた唯一の作品。</ref> |- |カルピス<br>ファミリー劇場||第4作||'''[[ペリーヌ物語]]'''||1978年1月1日 - 12月31日||全53話||[[ボスニア]]/[[クロアチア]]/イタリア/スイス/[[フランス]]||[[エクトール・アンリ・マロ]]|| |- |rowspan="6"|世界名作劇場||第5作||'''[[赤毛のアン (アニメ)|赤毛のアン]]'''||1979年1月7日 - 12月30日||全50話||[[カナダ]]||[[L・M・モンゴメリ]]||<ref group="注釈">以後、従来の一社提供から複数各社提供が中心となる([[味の素]]、[[花王]])。</ref> |- |第6作||'''[[トム・ソーヤーの冒険 (アニメ)|トム・ソーヤーの冒険]]'''||1980年1月6日 - 12月28日||全49話||アメリカ||[[マーク・トウェイン]]||<ref group="注釈">作内の時間経過が3ヶ月近くと、シリーズ中では最短。</ref> |- |第7作||'''[[家族ロビンソン漂流記 ふしぎな島のフローネ|家族ロビンソン漂流記<br />ふしぎな島のフローネ]]'''||1981年1月4日 - 12月27日||全50話||スイス/無人島<ref group="注釈">[[ニューギニア島]]と[[ソロモン諸島]]の間にあり、どの国に属するかは不明。</ref>/[[オーストラリア]]||[[ヨハン・ダビット・ウィース]]|| |- |第8作||'''[[南の虹のルーシー]]'''||1982年1月10日 - 12月26日||全50話||オーストラリア||[[フィリス・ピディングトン]]|| |- |第9作||'''[[アルプス物語 わたしのアンネット|アルプス物語<br />わたしのアンネット]]'''||1983年1月9日 - 12月25日||全48話||スイス||パトリシア・メアリー・セントジョン|| |- |第10作||'''[[牧場の少女カトリ]]'''||1984年1月8日 - 12月23日||全49話||フィンランド||{{仮リンク|アウニ・ヌオリワーラ |fi|Auni Nuolivaara }}|| |- |rowspan="10"|ハウス食品<br />世界名作劇場||第11作||'''[[小公女セーラ]]'''||1985年1月6日 - 12月29日||全46話||[[イギリス]]||[[フランシス・ホジソン・バーネット]]||<ref group="注釈">ここからしばらくはハウス食品の一社提供。なお、この作品の放送期間中の1985年8月12日に発生した[[日本航空123便墜落事故]]で当時の同社の[[浦上郁夫]]社長が犠牲となったことで直後から一時期ノンスポンサー状態で[[社団法人]]公共広告機構(現・公益社団法人[[ACジャパン]])のCMに差し替えられたことがあった。</ref> |- |第12作||'''[[愛少女ポリアンナ物語]]'''||1986年1月5日 - 12月28日||全51話||rowspan="2"|アメリカ||[[エレナ・ホグマン・ポーター]]|| |- |第13作||'''[[愛の若草物語]]'''||1987年1月11日 - 12月27日||全48話||[[ルイーザ・メイ・オルコット]]|| |- |第14作||'''[[小公子セディ]]'''||1988年1月10日 - 12月25日||全43話||アメリカ/イギリス||フランシス・ホジソン・バーネット|| |- |第15作||'''[[ピーターパンの冒険]]'''||1989年1月15日 - 12月24日||全41話||イギリス||[[ジェームス・マシュー・バリー]]|| |- |第16作||'''[[私のあしながおじさん]]'''||1990年1月14日 - 12月23日||全40話||アメリカ||[[ジーン・ウェブスター]]|| |- |第17作||'''[[トラップ一家物語]]'''||1991年1月13日 - 12月22日||全40話||[[オーストリア]]||[[マリア・フォン・トラップ]]|| |- |第18作||'''[[大草原の小さな天使 ブッシュベイビー|大草原の小さな天使<br />ブッシュベイビー]]'''||1992年1月12日 - 12月20日||全40話||[[ケニア]]||[[ウィリアム・H・スティーブンソン]]|| |- |第19作||'''[[若草物語 ナンとジョー先生]]'''||1993年1月17日 - 12月19日||全40話||アメリカ||ルイーザ・メイ・オルコット||<ref group="注釈">1987年に放送された、『愛の若草物語』の続編。</ref> |- |rowspan="2"|第20作||rowspan="2"|'''[[七つの海のティコ]]'''||rowspan="2"|1994年1月16日 - 12月18日||rowspan="2"|全39話||rowspan="2"|[[七つの海]]||rowspan="2"|アニメオリジナル||<ref group="注釈">第1話から第9話までは、「ハウス食品世界名作劇場」として放送されていた。</ref> |- |rowspan="4"|世界名作劇場||<ref group="注釈">第10話から冠が変わり、ハウス食品と[[日本電信電話|NTT]]などの複数社提供になる。第31話は初回放送では未放映。</ref> |- |第21作||'''[[ロミオの青い空]]'''||1995年1月15日 - 12月17日||全33話||スイス/イタリア||[[リザ・テツナー]]|| |- |第22作||'''[[名犬ラッシー (世界名作劇場)|名犬ラッシー]]'''||1996年1月14日 - 8月18日||全26話||イギリス||[[エリック・ナイト]]||<ref group="注釈">第26話は遅れ放送となったさくらんぼテレビを除き本放送時未放映。</ref> |- |第23作||'''[[家なき子レミ]]'''||1996年9月1日 - 1997年3月23日||全26話||フランス||エクトール・アンリ・マロ||<ref group="注釈">第16話、第19話、第20話は遅れ放送となったさくらんぼテレビを除き本放送時未放映。</ref> |- !colspan="8"|1997年4月 - 2006年12月の間シリーズ中断。 |- |rowspan="2"|ハウス食品<br>世界名作劇場<br />(BSフジ)||第24作||'''[[レ・ミゼラブル 少女コゼット]]'''||2007年1月7日 - 12月30日||全52話||フランス||[[ヴィクトル・ユーゴー|ヴィクトル・ユゴー]]||<ref group="注釈">放送局はフジテレビ系列・[[日本における衛星放送#BSデジタル放送|BSデジタル]]放送局のBSフジに移った。チャンネルは異なるが、放送時間は過去のシリーズ同様日曜19時30分、放送期間も過去と同じ1月から12月までの放送スタイルである。[[ハイビジョン]]制作。</ref><ref group="注釈">作内の時間経過が15年近くと、シリーズ中では最長。</ref> |- |第25作||'''[[ポルフィの長い旅]]'''||2008年1月6日 - 12月28日||全52話||[[ギリシャ]]/イタリア/フランス||[[ポール・ジャック・ボンゾン]]||<ref group="注釈">1年1作品最後の作品。</ref> |- !colspan="8"|2009年1月 - 同年3月の間シリーズ中断。 |- |世界名作劇場<br />(BSフジ)||第26作||'''[[こんにちは アン 〜Before Green Gables|こんにちは アン<br>〜Before Green Gables]]'''||2009年4月5日 - 12月27日||全39話||カナダ||[[バッジ・ウィルソン]]|| |} === 視聴率 === 以下は地上波フジテレビで、1975年1月から1997年3月まで放送された23作品を記述する。[[裏番組]]に[[クイズ面白ゼミナール]]([[日本放送協会|NHK]])や、[[象印クイズ ヒントでピント]]([[テレビ朝日]])などがあったものの、[[視聴率]]は健闘していた。 {| class="wikitable" |- ! # !! 作品名 !! 平均視聴率 |- |1||フランダースの犬||22.5% |- |2||あらいぐまラスカル||21.6% |- |3||母をたずねて三千里||21.3% |- |4||家族ロビンソン漂流記 ふしぎな島のフローネ||18.8% |- |5||愛少女ポリアンナ物語||17.5% |- |6||ペリーヌ物語||16.9% |- |7||小公女セーラ||16.3% |- |8||赤毛のアン||16.2% |- |9||私のあしながおじさん||16.2% |- |10||トム・ソーヤの冒険||15.5% |- |11||若草物語 ナンとジョー先生||15.0% |- |12||愛の若草物語||14.9% |- |13||トラップ一家物語||14.8% |- |14||南の虹のルーシー||14.7% |- |15||ピーターパンの冒険||13.9% |- |16||大草原の小さな天使 ブッシュベイビー||13.5% |- |17||アルプス物語 わたしのアンネット||13.1% |- |18||七つの海のティコ||13.0% |- |19||小公子セディ||12.3% |- |20||牧場の少女カトリ||11.9% |- |21||ロミオの青い空||10.4% |- |22||名犬ラッシー||{{0}}8.9% |- |23||家なき子レミ||{{0}}8.5% |} === 備考・補足 === * 原則として作品は1月に始まり同年12月に終わる。ただし、『名犬ラッシー』は1月から同年8月、『家なき子レミ』は9月から翌年3月、『こんにちはアン』は4月から同年12月という放送期間である。 * 放送枠・放送局が異なる『[[愛の学校クオレ物語]]』と『[[ワンワン三銃士]]』<ref group="注釈">冠に『カルピス名作劇場』がついていた。</ref>(以上[[MBSテレビ|毎日放送]](MBS)製作・[[TBSテレビ|TBS]][[ジャパン・ニュース・ネットワーク|系列]]にて放送<ref name="netchange" group="注釈">既に[[ネットチェンジ#近畿広域圏におけるいわゆる大阪準キー局「腸捻転」の解消|腸捻転解消]]後の1981年から1982年にかけて放映。</ref>)は名作劇場ではないが、カルピス劇場に分類されている{{R|マーチャンダイジングライツレポート}}{{要出典|date=2019年10月}}。当時TBS系列・フジテレビ系列のクロスネット局だった[[福島テレビ]]では両方とも放送されている。 * 世界名作劇場シリーズの主人公の中でも、ファミリーネームが設定されていないのは、『ロミオの青い空』のロミオと『レ・ミゼラブル 少女コゼット』のコゼットのみである。 * 2010年、食品メーカー・[[クラフトフーヅ]]の[[パルミジャーノ・レッジャーノ|粉チーズ]]商品「クラフト パルメザンチーズ」の宣伝用に、世界名作劇場シリーズとのコラボレーション企画『[[幸せパスタストーリー]]』を展開。オリジナルキャラクター・“ パルメザンチーズの妖精・パルメ ”が名作劇場の代表的な七作品(フランダースの犬・あらいぐまラスカル・母をたずねて三千里・赤毛のアン・トムソーヤーの冒険・小公女セーラ・七つの海のティコ)の世界を廻るという新作ミニアニメが[[GYAO!]]限定で配信。声優はパルメ、ナナミが[[日高里菜]]、トム・ソーヤが[[山田栄子]]に変更されている。 * 主演の声優に新人を抜擢するケースもあり、『あらいぐまラスカル』では[[内海敏彦]]がスターリング役で、『赤毛のアン』では山田栄子がアン役でアニメ初出演となり、『ペリーヌ物語』では[[鶴ひろみ]]がペリーヌ役で、『小公子セディ』では[[折笠愛]]がセディ役で、『若草物語 ナンとジョー先生』では[[松倉羽鶴]]がナン役で、主演での声優デビューを果たしている。 * 12月に放送される回は[[次回予告]]がタイトルコールだけとなり、引き続いて次回作の予告の映像が流される形がとられている。この形は[[七つの海のティコ]]まで続いた。 == 放送局 == 『フランダースの犬』から『家なき子レミ』まで。系列は当シリーズ終了時(1997年3月)のもの。 {| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;" !対象対象地域!!放送局!!当時の系列!!備考 |- |[[関東地方|関東広域圏]]||[[フジテレビジョン|フジテレビ]]||rowspan="2"|[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]||style="text-align:left;" |制作局 |- |[[北海道]]||[[北海道文化放送]]|| |- |rowspan="2"|[[青森県]]||[[青森放送]]||[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]||style="text-align:left;" | 『愛の若草物語』までは遅れネットで定期放送。ネット休止を挟んで、『私のあしながおじさん』は本放送終了後に放送<ref group="注釈">『ピーターパンの冒険』は他局も含めて県内未放送。</ref>、以後ネット打ち切り。 |- |[[青森テレビ]]||rowspan="2"|[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]||style="text-align:left;" |『小公子セディ』のみ遅れネット |- |rowspan="2"|[[岩手県]]||[[IBC岩手放送|岩手放送]]||style="text-align:left;" |現:IBC岩手放送。『ピーターパンの冒険』まで放送 |- |[[岩手めんこいテレビ]]||rowspan="3"|フジテレビ系列||style="text-align:left;" |1991年4月開局から放送 |- |[[宮城県]]||[[仙台放送]]|| |- |[[秋田県]]||[[秋田テレビ]]||style="text-align:left;" |1987年3月までテレビ朝日系列とクロスネット |- |rowspan="2"|[[山形県]]||[[山形テレビ]]||[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]||style="text-align:left;" |1981年3月まで同時ネット。それ以降は時差ネット。『大草原の小さな天使 ブッシュベイビー』まで放送。1993年3月までフジテレビ系列 |- |[[さくらんぼテレビジョン|さくらんぼテレビ]]||rowspan="2"|フジテレビ系列||style="text-align:left;" |『若草物語 ナンとジョー先生』以降を1997年4月開局後に放送 |- |[[福島県]]||[[福島テレビ]]||style="text-align:left;" |1983年3月までTBS系列とクロスネット。1983年10月から同時ネット |- |[[山梨県]]||[[山梨放送]]||日本テレビ系列|| |- |[[新潟県]]||[[NST新潟総合テレビ|新潟総合テレビ]]||rowspan="10"|フジテレビ系列||style="text-align:left;" |現:NST新潟総合テレビ。1981年3月まで日本テレビ系列・テレビ朝日系列とトリプルクロスネット。1983年9月までテレビ朝日系列とクロスネット。1981年4月から同時ネット |- |[[長野県]]||[[長野放送]]|| |- |[[静岡県]]||[[テレビ静岡]]|| |- |[[富山県]]||[[富山テレビ放送|富山テレビ]]|| |- |[[石川県]]||[[石川テレビ放送|石川テレビ]]|| |- |[[福井県]]||[[福井テレビジョン放送|福井テレビ]]|| |- |[[東海地方|中京広域圏]]||[[東海テレビ放送|東海テレビ]]|| |- |[[関西地方|近畿広域圏]]||[[関西テレビ放送|関西テレビ]]|| |- |[[島根県]]<br />[[鳥取県]]||[[山陰中央テレビジョン放送|山陰中央テレビ]]|| |- |[[岡山県]]<br />[[香川県]]||[[岡山放送]]||style="text-align:left;" |1979年3月までの放送免許は岡山県のみ。1979年3月までテレビ朝日系列とクロスネット |- |rowspan="2"|[[広島県]]|||[[広島テレビ放送|広島テレビ]]||日本テレビ系列||style="text-align:left;" |テレビ新広島開局後も1975年10月4日まで放送。土曜18:00 - 18:30に遅れネット |- |[[テレビ新広島]]||フジテレビ系列||style="text-align:left;" |1975年10月5日から放送 |- |[[山口県]]||[[山口放送]]||rowspan="3"|日本テレビ系列||style="text-align:left;" |『わたしのアンネット』まで放送 |- |[[徳島県]]||[[四国放送]]||style="text-align:left;" |『小公子セディ』まで放送 |- |[[香川県]]||[[西日本放送テレビ|西日本放送]]||style="text-align:left;" |1979年3月まで放送 |- |[[愛媛県]]||[[テレビ愛媛]]||フジテレビ系列|| |- |[[高知県]]||[[高知放送]]||日本テレビ系列||style="text-align:left;" |『ロミオの青い空』まで放送<ref group="注釈">高知県では[[高知さんさんテレビ]]が試験放送期間中の1997年3月23日に『家なき子レミ』の最終話を同時ネットした。</ref> |- |[[福岡県]]||[[テレビ西日本]]||rowspan="2"|フジテレビ系列|| |- |[[佐賀県]]||[[サガテレビ]]|| |- |rowspan="2"|[[長崎県]]||[[長崎放送]]||TBS系列||style="text-align:left;" |『フランダースの犬』を1975年3月まで番販放送 |- |[[テレビ長崎]]||rowspan="2"|フジテレビ系列||style="text-align:left;" |1990年9月まで日本テレビ系列とクロスネット。1990年10月から同時ネット |- |[[熊本県]]||[[テレビ熊本]]||style="text-align:left;" |1982年3月まで日本テレビ系列と。1989年9月までテレビ朝日系列とクロスネット |- |rowspan="2"|[[大分県]]||[[大分放送]]||TBS系列||style="text-align:left;" |『フランダースの犬』を1975年3月まで番販放送 |- |[[テレビ大分]]||日本テレビ系列<br />フジテレビ系列||style="text-align:left;" |1993年9月までテレビ朝日系列とクロスネット |- |[[宮崎県]]||[[テレビ宮崎]]||フジテレビ系列<br />日本テレビ系列<br />テレビ朝日系列|| |- |[[鹿児島県]]||[[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]]||rowspan="2"|フジテレビ系列||style="text-align:left;" |1982年9月までテレビ朝日系列と、1994年3月まで日本テレビ系列とクロスネット。1994年4月から同時ネット |- |[[沖縄県]]||[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]]|| |} * 主に九州地区のフジテレビ系列局では[[クロスネット局|クロスネット]]等編成上の関係により、時差ネットしていた局もある。 ** 一例として[[テレビ長崎]]では1977年3月まで土曜19:00、1977年4月から1990年9月まで日曜18:00から放送。 ** [[テレビ大分]]・[[テレビ宮崎]]・[[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]]の各局も時差ネット。上記の九州地区4局は当該時間帯に日本テレビ系番組『[[すばらしい世界旅行]]』を同時ネットしていた。 * 1987年9月までは一応のフジテレビ系列局だった[[テレビ山口]]は、[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]優先の[[クロスネット局]]であり、スポンサーセールスや放送枠等の都合からスポンサードネットの対象から外れ、[[番組販売|番組購入]]も実施できず([[JNN排他協定]]が遠因となり[[フジネットワーク|FNS]]を脱退・TBS系列への一本化を余儀なくされた)、一部作品が、競合局の[[山口放送]]([[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]局。一時期[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]とのクロスネット局だった時期あり)で番組販売扱いで放送されていた時期がある。 * 山形県では当初、[[山形テレビ]]が同時ネットで放送していた。しかし、1980年4月に[[山形放送]]が日本テレビ系とテレビ朝日系とのクロスネット局に変更され、翌年4月から当該枠はテレビ朝日系同時ネット枠に変更されたために、山形テレビが日本テレビ系の番組を同時ネットすることにより遅れネットとなった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|refs=<ref name="マーチャンダイジングライツレポート">{{Cite journal|和書 |date=1981-02-01 |editor=平山亮三 |issue=1981年2月号 |journal=マーチャンダイジングライツレポート |page=3 |publisher=商品化権資料センター |title=キャラクター情報◎"カルピス劇場"が4月より復活「クオレ・愛の学校」}}</ref>}} == 参考文献 == * 『名作アニメもうひとつの物語 ムーミン、ラスカルほか全24作品の素顔』世界名作親子の会著 ワニブックス ISBN 978-4-8470-1195-5 (4-8470-1195-3) * 松本正司 『20世紀テレビ読本 世界名作劇場大全』 [[同文書院]]、1999年。ISBN 978-4-8103-7581-7 (4-8103-7581-1) * 世界名作劇場シリーズ メモリアルブック ** アメリカ&ワールド編 ISBN 978-4775306802 ** ヨーロッパ編 ISBN 978-4775308141 == 関連項目 == *[[なつぞら]] - [[2019年]]放送の[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]。劇中のアニメ『大草原の少女ソラ』の冠タイトルが「ミルコスまんが広場」であり、「カルピスまんが劇場」に対する[[オマージュ]]である。 *[[愛の学校クオレ物語]] - [[日本アニメーション]]・[[MBSテレビ|毎日放送]](MBS)共同製作、[[TBSテレビ|TBS]][[ジャパン・ニュース・ネットワーク|系列]]で放送されていた[[テレビアニメ]]。放送枠・放送局は異なるが、カルピスを枠名に冠していた頃の『世界名作劇場』と同様、日本アニメーション製作・カルピス一社提供で放送されていた。 *[[ワンワン三銃士]] - 『愛の学校クオレ物語』に引き続き、カルピス一社提供、日本アニメーション・毎日放送(MBS)共同製作、TBS系列で放送されていたテレビアニメ。『カルピス名作劇場』という冠がついている。 == 外部リンク == * [https://v-storage.bnarts.jp/sp-site/world-masterpiece-theater/ 世界名作劇場]([[バンダイビジュアル]]内) * [https://www.nippon-animation.co.jp/work/meisaku/ 世界名作劇場]([[日本アニメーション]]内) * {{YouTube|playlist = PLu0dNtoi2NNaMoYfZdy8FieKVGZ2pxCTL|世界名作劇場シリーズ}} * {{YouTube|playlist = PLu0dNtoi2NNavDNjq34eX64-4HInd-LuP|世界名作劇場シリーズ その2}} {{前後番組 |放送局=[[フジネットワーク|フジテレビ系列]] |放送枠=[[日曜日|日曜]]19時台後半枠 |番組名=カルピスまんが劇場 - 世界名作劇場<br />(どろろと百鬼丸 - 家なき子レミ)<br />【ここからアニメ枠】 |前番組=[[日曜映画劇場]](第2期)<br />※19:30 - 20:56 |次番組=[[中華一番!]] |2放送局=[[BSフジ]] |2放送枠=日曜19時台後半枠 |2番組名=ハウス食品世界名作劇場<br />(レ・ミゼラブル 少女コゼット、ポルフィの長い旅) |2前番組=アニメ世界名作劇場完結版<br />※19:00 - 19:55 |2次番組=[[Be KIDS サンデー]] |3放送局=BSフジ |3放送枠=日曜19時台後半枠 |3番組名=世界名作劇場<br />(こんにちは アン 〜Before Green Gables) |3前番組=Be KIDS サンデー |3次番組=[[チング 〜愛と友情の絆〜]]<br />【これより韓国ドラマ枠】<br />※19:00 - 19:55 }} {{世界名作劇場}} {{デフォルトソート:せかいめいさくけきしよう}} [[Category:世界名作劇場|*]] [[Category:アニメ作品 せ|かいめいさくけきしよう]] [[Category:フジテレビ系アニメ]] [[Category:BSフジのテレビアニメ]] [[Category:バンダイビジュアルのアニメ作品]] [[Category:児童文学を原作とするアニメ作品]] [[Category:世界各地を舞台としたアニメ作品]] [[Category:アニメのシリーズ]] [[Category:めばえ]] [[Category:幼稚園 (雑誌)]] [[Category:おともだち]] [[Category:たのしい幼稚園]] [[Category:2017年の漫画]] [[Category:comicoの漫画作品]] [[Category:カルピス]] [[Category:ハウス食品]]
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西武拝島線
拝島線(はいじません)は、東京都小平市の小平駅から昭島市の拝島駅までを結ぶ、西武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はSS。 終日にわたり新宿線田無・西武新宿方面との直通運転を行っている。日中は直通列車に加えて車両基地を併設する玉川上水駅を起点とした小平駅 - 玉川上水駅間や玉川上水駅 - 拝島駅間の区間運転もある。 車両編成は10両編成(主に速達列車)と8両編成のほか、一部時間帯の小平駅 - 玉川上水駅間の列車には6両編成も充当される。2007年3月6日のダイヤ改正で昼間の小平駅折り返しの列車がすべて西武新宿駅発着に統一されたが、2012年6月30日のダイヤ改正で小平駅折り返しの各駅停車が復活した。基本的には小平駅で新宿線(所沢・本川越方面発着)の列車との相互接続が考慮されている。急行は新所沢駅・本川越駅発着の各駅停車に、各駅停車(小平止まりの列車も含む)は新所沢駅・本川越駅発着の急行・準急と相互接続を行う。また、準急については朝夕時間帯に設定されている。 日中は1時間あたり平日が西武新宿駅 - 拝島駅間の急行2本、拝島線内折り返しの各駅停車3本(うち1本が小平駅 - 玉川上水駅間、2本が小平駅 - 拝島駅間)、土休日が西武新宿駅 - 拝島駅間の急行3本、拝島線内折り返しの各駅停車3本(うち2本が小平駅 - 玉川上水駅間、1本が小平駅 - 拝島駅間)で、土休日日中の小平駅 - 玉川上水駅間は10分間隔のパターンダイヤとなっている。 また、萩山駅で多摩湖線西武遊園地(現・多摩湖)方面の列車を併結・分割する列車が存在していた。かつてはほぼ終日(急行または各駅停車)にわたって運転されていたが、当路線での利用者数が大幅に増加していることから年々減便され、2012年6月30日のダイヤ改正では下り列車の分割が、2013年3月16日のダイヤ改正では上りの急行の併結が廃止された。なお、併結・分割を行う列車に限り2000系が使われ、一番前(西武新宿寄り)の西武遊園地発の車両には女性専用車両が設定されていた。2013年3月16日のダイヤ改正以降は平日は終日、急行・準急のすべてが10両編成、一部8両編成となった。これに伴い、拝島線(萩山以西)に初の女性専用車両が導入されたと同時に、多摩湖線から女性専用車両は消滅した。 また、小平駅 - 萩山駅間には定期ダイヤでは平日朝のみ多摩湖線多摩湖方面の各駅停車の一部が乗り入れている。また、土休日臨時列車として、西武新宿駅 - 多摩湖駅間の急行も運転される。この列車は1998年のダイヤ改正まで快速急行として運転されていた。 2022年3月12日ダイヤ改正時点での運行本数は以下の通り。 2018年3月10日より夕方・夜間に有料座席指定列車「拝島ライナー」が運行を開始した。運行開始当初は西武新宿発拝島行きの下り列車のみの運転だったが、2023年3月20日から平日朝に上り列車の運転も開始した。運行本数は下りが平日・土休日17時台から22時台に毎時1本ずつ6本で、上りが平日のみ・拝島発6時台と8時台に2本設定される。車両は40000系が使用される。 下りは拝島線内は各駅停車として運転され、小平駅 - 西武立川駅の各駅から乗車する場合は座席指定券が不要となる。上りは全区間で座席指定券が必要であり、拝島線内の各駅はいずれも乗車専用で、新宿線高田馬場駅まで降車できない。 現在の形態になったのは1968年と比較的歴史が浅く、異なる経歴を持つ複数の路線を後から新線により連結して全通させたものである。小平駅 - 萩山駅は、多摩湖鉄道が旧・西武鉄道線への接続のため1928年に支線として開通した。その後、多摩湖鉄道→武蔵野鉄道は旧・西武鉄道と合併し、村山貯水池への観光客輸送を目的として1958年に萩山駅を移設。小平駅 - 萩山駅 - 多摩湖駅間の直通運転を開始した。 一方、小川駅 - 玉川上水駅は北多摩郡大和村(現東大和市)にあった日立航空機立川工場への専用鉄道として敷設したものを第二次世界大戦終了後に西武鉄道が取得し、1949年に上水線として開業したものである。開業当時は非電化で気動車が走っており、後に電化されたものの暫くは支線の地位にとどまっていた。 1962年に小川駅 - 萩山駅間が開通し、同時に小平駅 - 萩山駅も上水線に編入。小平駅 - 萩山駅 - 玉川上水駅間の直通運転を開始し、新宿線直通列車も設定された。この区間は、元々陸軍施設への引き込み線として1944年に開通したもので、その後陸軍施設跡に1960年に完成したブリヂストンタイヤ(現:ブリヂストン)東京工場でも利用していた。このため小川駅 - 萩山駅間は現在も工場の敷地に挟まれる形で線路が通っている。 その後、1968年に玉川上水駅 - 拝島駅が開通し拝島線として全線開通するが、この時玉川上水駅構内の線路をつけ替えて延伸したことから後述するように玉川上水駅からキロポストが始まっている。 前述のような歴史的経緯から、拝島線では距離を示すキロポストが4つに分かれている。 小平駅を出るとしばらくして左へカーブし、新宿線と分かれる。多摩湖自転車歩行者道と平面交差し、右カーブすると、多摩湖線が左から合流して萩山駅に到着する。周辺は住宅地である。同駅はカーブがあり、車内放送などでしばしば注意を促している。萩山を出ると多摩湖線と平面交差する形で左にカーブし、ブリヂストン東京工場の敷地内を通過する。また、JR武蔵野線がこの付近を地下で交差しているが駅は無く、乗り換えはできない。 途中で、府中街道(埼玉県道・東京都道17号所沢府中線)を越える踏切があったが、同踏切は2012年10月7日に立体交差化され解消された。なお、これは西武鉄道の事業計画には載っておらず、府中街道の拡幅事業の一環として行われたものである。進路を南にとると国分寺線と合流して小川駅となる。島式ホーム2面4線のうち、外側を拝島線、内側を国分寺線が使用する。 小川駅を出ると国分寺線と平面交差しながら右へカーブし、進路を西に取る。ここから先は比較的長い直線であり、小川 - 東大和市間は駅間距離が比較的長いため、速度を上げて走行していく。住宅と畑、雑木林が混じった景観であるが、線路の北側は区画整理されており、宅地化進行中といった風情である。かつては途中に西小川信号所があったが、1991年に廃止されている。北側に東京電力多摩青梅橋変電所がみえてくる。その付近から高架化された部分へと差し掛かる。やや左寄りにカーブしながら高架になると相対式ホームの東大和市駅となる。なお、この区間の高架化は青梅街道・村山街道の混雑を解消するためになされ、当時の青梅橋駅はやや北寄りに位置しており、若干の線路の形状改良が行われた。それまで線路の南を通っていた青梅街道はここで同線を潜り、北北西に進路をとる。東大和市駅を過ぎると再び地上に降り、北側に玉川上水車両基地や、かつての大和基地跡地が広がる。基地の跡地は区画整理され、公共施設やマンションなどがみられる。南側にはゴミ焼却場がみえてくる。駅名となった玉川上水が寄り添ってくると、小平監視所があり、そこから多摩川からの純粋な流れから、下水再処理水へと切り替わる。小平監視所では玉川上水に降りることができ、清流復活事業のことについて示した記念碑などがある。多摩都市モノレールとの乗り換え駅である玉川上水駅は島式ホーム2面3線で、駅の西側で高架の多摩都市モノレールとアンダーパスの芋窪街道(東京都道43号立川東大和線)と立体交差する。アンダーパスは、多摩モノレールの建設の際につくられた。付近には大学や高校が多く、近年、宅地やマンション開発も進んでいる。 玉川上水駅を出ると単線となるが、複線相当の敷地幅を門型架線柱や擁壁に対し下り線相当部分を走り、国立音楽大学の敷地を突っ切る。そのまま住宅地を進み、盛土高架上を走るようになり、高架駅相対式ホームの武蔵砂川駅に到着する。駅北側にあった日産自動車村山工場の跡地に建設されたイオンモールむさし村山の最寄り駅である。武蔵砂川駅から複線となり、盛土高架上を暫く進み、五日市街道(東京都道7号杉並あきる野線)と立体交差すると地上に降りる。島式ホームの西武立川駅に到着する。西武立川駅は2011年3月に橋上駅舎が整備され北口も設置された。西武立川駅から再び単線となり、やはり下り線相当部分を緩やかに左カーブしながら進路を南西に取る。玉川上水を渡り、盛土区間になると右カーブしながら進路を南西から北西へと変える。その途中で南側にJR八高線が寄り添うと、在日米軍横田基地への専用線と平面交差し、終点の拝島駅となる。JR東日本の青梅線・五日市線・八高線との乗り換え駅で、橋上駅舎となるまでは南口がJR東日本、北口が西武鉄道の管理であった。 多摩南北道路の一つである都市計画道路の府中街道(東京都道16号・17号 (重複))の拡幅事業の一環として、萩山駅 - 小川駅間の「萩山第3号踏切道」が高架化によって解消された。2011年2月27日に下り線が高架化され、2012年10月7日に上り線が高架化された。 東京都道5号新宿青梅線や東京都道144号中島十番線が交差する青梅橋交差点の慢性的に渋滞を起こす構造を解消するために、多摩青梅橋変電所付近から東大和市駅を超えて玉川上水車両基地東端部にかけて高架化が行われている。 玉川上水駅の下を芋窪街道がアンダーパスで通過している。さらに上空を多摩都市モノレール線が通過している。 武蔵砂川駅から西武立川駅の区間は開業当初から盛り上げてあり、複数の道路が交差して慢性的に渋滞を起こしやすい構造の天王橋交差点(東京都道7号杉並あきる野線、東京都道59号八王子武蔵村山線、東京都道162号三ツ木八王子線等)の上を架道橋で越えている。
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拝島線(はいじません)は、東京都小平市の小平駅から昭島市の拝島駅までを結ぶ、西武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はSS。
{{出典の明記|date=2018年3月}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:SeibuRailway mark.svg|18px|link=西武鉄道]] 拝島線 |路線色=#00a6bf |ロゴ=File:SeibuShinjuku.svg |ロゴサイズ=50px |画像=Seibu-Series30000-30001 Haijima-Line Express.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=[[西武30000系電車|30000系電車]]による拝島線の急行<br>(2021年4月21日 [[小川駅 (東京都)|小川駅 ]]) |国={{JPN}} |所在地=[[東京都]] |起点=[[小平駅]] |終点=[[拝島駅]] |駅数=8駅 |輸送実績= |1日利用者数= |路線記号=SS |開業={{start date and age|1928|11|2}} |全通={{start date and age|1968|5|15}}<ref name=交通1968-0510>{{Cite news |和書|title=西武拝島線 十五日に開通 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1968-05-10 |page=2 }}</ref> |休止= |廃止= |所有者=[[西武鉄道]] |運営者=西武鉄道 |車両基地= |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線距離=14.3 [[キロメートル|km]] |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[複線]](小平駅 - 玉川上水駅・武蔵砂川駅 - 西武立川駅間)、[[単線]](左記以外) |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |最大勾配= |最小曲線半径= |閉塞方式= 自動閉塞式 |保安装置= |最高速度=105 [[キロメートル毎時|km/h]] |路線図= |路線図名= |路線図表示=<!--collapsed--> }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#00a6bf}} {{BS-table}} {{BS3|KHSTa|||||[[西武新宿駅]]|}} {{BS3|LSTR|||||↑[[西武新宿線|新宿線]]}} {{BS3|BHF|||0.0|SS19 [[小平駅]]||}} {{BS3|KRWgl|KRW+r|||||}} {{BS3|STRr|STR||||←新宿線|}} {{BS3||ABZgxl+l|eBHFq||(旧)''萩山駅''|1928年-1958年|}} {{BS3||STR||||→[[西武多摩湖線|多摩湖線]]|}} {{BS3||BHF||1.1|SS30 [[萩山駅]]|1958年-|}} {{BS3|KRW+l|KRWgr||||↓←多摩湖線|}} {{BS3|KRZt|KRZt||||←[[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[武蔵野線]]→|}} {{BS3|STR|hSTR|||||}} {{BS3|KRZo|ABZg+r||||←[[西武国分寺線|国分寺線]]|}} {{BS3|LSTR|STR|||||}} {{BS3|KHSTe|STR||||[[多摩湖駅]]|}} {{BS3||BHF||2.7|SS31 [[小川駅 (東京都)|小川駅]]||}} {{BS3||ABZgl|STRq|||→国分寺線|}} {{BS3||eDST||3.9|''[[西小川信号所]]''|1991年廃止|}} {{BS3||hSTRa|||||}} {{BS3||hBHF||5.7|SS32 [[東大和市駅]]||}} {{BS3||hSTRe|||||}} {{BS3|KDSTaq|ABZg+r|||[[玉川上水車両基地]]|}} {{BS3||BHF||7.2|SS33 [[玉川上水駅]]||}} {{BS3|hBHFq|KRZh|hSTRq|||←[[多摩都市モノレール]]:[[多摩都市モノレール線]]→|}} {{BS3||BHF||9.6|SS34 [[武蔵砂川駅]]||}} {{BS3||BHF||11.6|SS35 [[西武立川駅]]||}} {{BS3||STR|STR+l|||↓JR東:[[青梅線]]→|}} {{BS3||STR|ABZg+l|||↓JR東:[[八高線]]→|}} {{BS3|KBSTaq|KRZ|ABZgr+xl|||←[[在日米軍]][[横田飛行場]]専用線 / ''[[五日市線]]''→ 1944年休止|}} {{BS3||KBHFe-L|BHF-R|14.3|SS36 [[拝島駅]]||}} {{BS3|||ABZgl|||→JR東:[[五日市線]]|}} {{BS3|||ABZgl|||↑JR東:青梅線→|}} {{BS3|STRq|STRq|STRr|||↑↓JR東:八高線|}} |} |} '''拝島線'''(はいじません)は、[[東京都]][[小平市]]の[[小平駅]]から[[昭島市]]の[[拝島駅]]<ref name="linename" group="*"/>までを結ぶ、[[西武鉄道]]の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''SS'''。 == 路線データ == *路線距離([[営業キロ]]):14.3 km *[[軌間]]:1,067 mm *駅数:8駅(起終点駅含む) *複線区間:小平駅 - 玉川上水駅間および武蔵砂川駅 - 西武立川駅間 *電化区間:全線([[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]][[架空電車線方式]]<ref group="注">[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)から電源供給を受けている。</ref>) == 運行形態 == 終日にわたり[[西武新宿線|新宿線]][[田無駅|田無]]・[[西武新宿駅|西武新宿]]方面との[[直通運転]]を行っている。日中は直通列車に加えて車両基地を併設する[[玉川上水駅]]を起点とした[[小平駅]] - 玉川上水駅間や玉川上水駅 - [[拝島駅]]間の区間運転もある。 車両編成は10両編成(主に速達列車)と8両編成のほか、一部時間帯の小平駅 - 玉川上水駅間の列車には6両編成も充当される。[[2007年]][[3月6日]]のダイヤ改正で昼間の小平駅折り返しの列車がすべて西武新宿駅発着に統一されたが、[[2012年]][[6月30日]]のダイヤ改正で小平駅折り返しの各駅停車が復活した。基本的には小平駅で新宿線(所沢・本川越方面発着)の列車との相互接続が考慮されている。急行は[[新所沢駅]]・[[本川越駅]]発着の各駅停車に、各駅停車(小平止まりの列車も含む)は新所沢駅・本川越駅発着の急行・準急と相互接続を行う。また、準急については朝夕時間帯に設定されている。 日中は1時間あたり平日が西武新宿駅 - 拝島駅間の急行2本、拝島線内折り返しの各駅停車3本(うち1本が小平駅 - 玉川上水駅間、2本が小平駅 - 拝島駅間)、土休日が西武新宿駅 - 拝島駅間の急行3本、拝島線内折り返しの各駅停車3本(うち2本が小平駅 - 玉川上水駅間、1本が小平駅 - 拝島駅間)で、土休日日中の小平駅 - 玉川上水駅間は10分間隔のパターンダイヤとなっている。 また、[[萩山駅]]で[[西武多摩湖線|多摩湖線]]西武遊園地(現・多摩湖)方面の列車を併結・分割する列車が存在していた。かつてはほぼ終日(急行または各駅停車)にわたって運転されていたが、当路線での利用者数が大幅に増加していることから年々減便され、2012年6月30日のダイヤ改正では下り列車の分割が、2013年3月16日のダイヤ改正では上りの急行の併結が廃止された。なお、併結・分割を行う列車に限り[[西武2000系電車|2000系]]が使われ、一番前(西武新宿寄り)の西武遊園地発の車両には女性専用車両が設定されていた。2013年3月16日のダイヤ改正以降は平日は終日、急行・準急のすべてが10両編成、一部8両編成となった。これに伴い、拝島線(萩山以西)に初の女性専用車両が導入されたと同時に、多摩湖線から女性専用車両は消滅した。 また、小平駅 - 萩山駅間には定期ダイヤでは平日朝のみ多摩湖線多摩湖方面の各駅停車の一部が乗り入れている。また、土休日臨時列車として、西武新宿駅 - 多摩湖駅間の急行も運転される。この列車は1998年のダイヤ改正まで快速急行として運転されていた。 === 日中の運行本数 === 2022年3月12日ダイヤ改正時点での運行本数は以下の通り。 {| class="wikitable" style="font-size:100%; text-align:center;" |+平日日中の運行パターンと運転本数 |-style="line-height:1.1;" ! colspan="2"|種別\駅名 ! style="width:1em;" |西武新宿 !… ! colspan="2" style="width:1em;"|小平 !… ! colspan="2" style="width:1em;"|玉川上水 !… ! style="width:1em;" |拝島 |- | rowspan="11" style="width:1em;"|運行範囲 |rowspan="1" style="background:#fd9;"|急行 | colspan="9" style="background:#fd9"|2本 |- | rowspan="5" style="background:lightgray;"|各停 | rowspan="2" colspan="3"| &nbsp; ||colspan="6" style="background:lightgray;"|2本 |- | colspan="3" style="background:lightgray;"|1本|| colspan="3"| &nbsp; |- |} {| class="wikitable" style="font-size:100%; text-align:center;" |+休日日中の運行パターンと運転本数 |-style="line-height:1.1;" ! colspan="2"|種別\駅名 ! style="width:1em;" |西武新宿 !… ! colspan="2" style="width:1em;"|小平 !… ! colspan="2" style="width:1em;"|玉川上水 !… ! style="width:1em;" |拝島 |- | rowspan="11" style="width:1em;"|運行範囲 |rowspan="1" style="background:#fd9;"|急行 | colspan="9" style="background:#fd9"|3本 |- | rowspan="5" style="background:lightgray;"|各停 | rowspan="2" colspan="3"| &nbsp; ||colspan="6" style="background:lightgray;"|1本 |- | colspan="3" style="background:lightgray;"|2本|| colspan="3"| &nbsp; |- |} === 拝島ライナー === {{Main|拝島ライナー}} 2018年3月10日より夕方・夜間に有料座席指定列車「[[拝島ライナー]]」が運行を開始した<ref name="haijimaliner">{{Cite press release|和書|title=2018年3月10日(土)から「拝島ライナー」の運行を開始します!|publisher=西武鉄道株式会社|date=2018-01-25|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/20180125_haijimaliner2.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2018-01-26}}</ref><ref name="norimono20180129">{{Cite web|和書|title=「拝島ライナー」3月運転開始 平日「S-TRAIN」増発も 西武ダイヤ改正|url=https://trafficnews.jp/post/79565|publisher=乗りものニュース|date=2018-01-29|accessdate=2018-01-29}}</ref>。運行開始当初は西武新宿発拝島行きの下り列車のみの運転だったが、2023年3月20日から平日朝に上り列車の運転も開始した。運行本数は下りが平日・土休日17時台から22時台に毎時1本ずつ6本で、上りが平日のみ・拝島発6時台と8時台に2本設定される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?newsroom/news/file/20230131_haijima.pdf |title=「拝島ライナー」上り列車の運行詳細が決定しました |access-date=2023年3月20日閲覧 |publisher=西武鉄道}}</ref>。車両は[[西武40000系電車|40000系]]が使用される。 下りは拝島線内は[[各駅停車]]として運転され<ref name="haijimaliner" />、小平駅 - 西武立川駅の各駅から乗車する場合は座席指定券が不要となる<ref name="norimono20180129"/>。上りは全区間で座席指定券が必要であり、拝島線内の各駅はいずれも乗車専用で、新宿線[[高田馬場駅]]まで降車できない。 === 過去の種別 === ;拝島快速 :2008年6月14日のダイヤ改正より運転された<ref>[http://railf.jp/news/2008/06/15/011000.html 西武新宿線に「拝島快速」登場] - railf.jp 2008年6月15日</ref><ref name="kaisei">{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2007/0327.pdf 6月14 日(土)ダイヤ改正を実施します。]}}{{リンク切れ|date=2010年10月}} - 西武鉄道ニュースリリース、2008年3月27日。</ref>。昼間時に西武新宿駅 - 拝島駅間を直通し、拝島線内の停車駅は小平駅と玉川上水駅 - 拝島駅間の各駅で、急行よりも上位の種別だった。また、田無駅で玉川上水駅始発・終着の各駅停車に、小平駅で西武遊園地駅発着の各駅停車に、玉川上水駅で西武新宿駅発着の各駅停車に、それぞれ接続していた。2012年6月30日のダイヤ改正で拝島快速は廃止され、急行に代替された<ref name="2012dia">{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2012/05/21/20120521daiyakaisei.pdf 2012 年 6 月 30 日(土) ダイヤ改正を実施します]}} - 西武鉄道、2012年5月23日。</ref>。 ;臨時特急 :[[2011年]][[12月12日]]から[[12月18日]]まで、期間限定で西武新宿発拝島行の臨時特急が運転された<ref name="tokkyu2011">{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2011/__icsFiles/afieldfile/2011/10/27/20111027haijima.pdf 拝島線に臨時特急電車を運転します!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2011年10月27日。(参照:2011年12月12日)</ref>。拝島線内の途中停車駅は[[玉川上水駅]]のみ。拝島線で特急が運転されるのはこれが初めてであった。2012年も8月24日から8月30日まで運転された<ref name="tokkyu20120725">{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2012/07/25/20120725haijima.pdf 拝島線に臨時特急電車を運転します!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2012年7月25日。</ref>。 :2012年の運転では[[東大和市駅]]にも停車し、全区間均一料金の号車指定制がとられることになった。さらに同年12月10日から12月16日にも同様の内容で運転された。この時の運転では土曜、休日の運転時間が19時台から17時台に繰り上げられることになった<ref name="tokkyu20121113">{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2012/11/13/20121113haijima.pdf 拝島線に臨時特急電車を運転します!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2012年11月13日。</ref>。 :2013年は12月12日・13日・19日・20日のみの運転となるが、途中駅で乗車できるようになった<ref name="tokkyu20131101">{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2013/__icsFiles/afieldfile/2013/11/01/20131101mokukin.pdf 夜間時間帯に池袋線・新宿線・拝島線で臨時電車を増発します!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2013年11月1日。</ref>。 :2014年は9月16日から9月26日の平日に運転された<ref name="tokkyu20140903">{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2014/__icsFiles/afieldfile/2014/09/03/20140903haijima.pdf 拝島線に臨時特急電車を運転します!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2014年9月3日。</ref>。12月11日から26日までの木曜・金曜日にも運転された<ref name="tokkyu20141125">{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2014/__icsFiles/afieldfile/2014/11/25/20141125mokukin.pdf 忘年会シーズンに合わせ、年末 木・金曜日の夜間に池袋線・新宿線・拝島線で臨時電車を増発します!]}} - 西武鉄道ニュースリリース、2014年11月25日。</ref>。 == 使用車両 == === 現在の使用車両 === *[[西武2000系電車|2000系・新2000系]] *[[西武6000系電車|6000系]] *[[西武20000系電車|20000系]] *[[西武30000系電車|30000系]] *[[西武40000系電車|40000系]] == 歴史 == {{出典の明記|date=2018年2月|section=1}} 現在の形態になったのは1968年と比較的歴史が浅く、異なる経歴を持つ複数の路線を後から新線により連結して全通させたものである。小平駅 - 萩山駅は、[[西武多摩湖線|多摩湖鉄道]]が旧・西武鉄道線への接続のため[[1928年]]に支線として開通した。その後、多摩湖鉄道→武蔵野鉄道は旧・西武鉄道と合併し、[[村山貯水池]]への観光客輸送を目的として[[1958年]]に萩山駅を移設。小平駅 - 萩山駅 - 多摩湖駅間の直通運転を開始した。 一方、小川駅 - 玉川上水駅は[[北多摩郡]]大和村(現[[東大和市]])にあった[[日立航空機]]立川工場への[[専用鉄道]]として敷設したものを第二次世界大戦終了後に西武鉄道が取得し、[[1949年]]に'''上水線'''として開業したものである。開業当時は非電化で[[気動車]]が走っており、後に電化されたものの暫くは支線の地位にとどまっていた。 [[1962年]]に小川駅 - 萩山駅間が開通し、同時に小平駅 - 萩山駅も上水線に編入。小平駅 - 萩山駅 - 玉川上水駅間の直通運転を開始し、新宿線直通列車も設定された。この区間は、元々[[大日本帝国陸軍|陸軍]]施設への[[専用鉄道|引き込み線]]として[[1944年]]に開通したもので、その後陸軍施設跡に[[1960年]]に完成したブリヂストンタイヤ(現:[[ブリヂストン]])東京工場でも利用していた。このため小川駅 - 萩山駅間は現在も工場の敷地に挟まれる形で線路が通っている。 その後、1968年に玉川上水駅 - 拝島駅が開通し'''拝島線'''として全線開通するが、この時玉川上水駅構内の線路をつけ替えて延伸したことから後述するように玉川上水駅から[[距離標|キロポスト]]が始まっている。 === 年表 === *[[1928年]]([[昭和]]3年)[[11月2日]] - '''多摩湖鉄道小平線'''萩山駅 - 本小平駅間 (1.0&nbsp;km) 開業。 *[[1932年]](昭和7年)[[8月15日]] - 萩山駅 - 本小平駅間電化(直流600&nbsp;V)。 *[[1940年]](昭和15年)[[3月12日]] - 武蔵野鉄道(現・西武鉄道の旧称)に合併。 *[[1944年]](昭和19年)[[4月1日]] - 小川駅から陸軍の施設(のちブリヂストンタイヤ東京工場)への引き込み線を敷設。 *[[1949年]](昭和24年)[[11月15日]] - 本小平駅を小平駅に統合。 *[[1950年]](昭和25年)[[5月15日]] - '''上水線'''小川駅 - 玉川上水駅間 (4.6&nbsp;km) 開業(日興工業専用鉄道を1949年5月21日譲受。地方鉄道へ免許を変更し開業。非電化)。 *[[1954年]](昭和29年)[[10月12日]] - 小川駅 - 玉川上水駅間電化(直流1,500&nbsp;V)。 *[[1955年]](昭和30年)[[3月18日]] - 小平駅 - 萩山駅間が1500&nbsp;Vに昇圧。 *[[1962年]](昭和37年)[[9月1日]] - 萩山駅 - 小川駅間 (1.6&nbsp;km) 開業(一部区間はブリヂストンタイヤ東京工場専用線を改築)。小平線小平駅 - 萩山駅間を上水線に編入。新宿線との直通運転開始。 *[[1967年]](昭和42年)[[11月7日]] - 小平駅 - 萩山駅間複線化。 *[[1968年]](昭和43年)5月15日 - 玉川上水駅 - 拝島駅間 (7.1&nbsp;km) 開業(全線開通){{R|交通1968-0510}}。小平駅 - 拝島駅間を'''拝島線'''に改称。 *[[1979年]](昭和54年) **[[3月25日]] - 青梅橋駅を東大和市駅に改称。 **[[12月7日]] - 萩山駅 - 小川駅間複線化。 *[[1980年]](昭和55年)[[7月17日]] - 東大和市駅が高架化。 *[[1983年]](昭和58年)[[12月1日]] - 武蔵砂川駅(同月12日新設) - 西武立川駅間複線化。 *[[1987年]](昭和62年)[[3月5日]] - 西小川信号所 - 東大和市駅間複線化。 *[[1988年]](昭和63年) **11月2日 - 東大和市駅 - 玉川上水駅間複線化。 **[[12月5日]] - 8両編成化。夜間以降の分割併合を廃止する。 *[[1991年]]([[平成]]3年)[[3月29日]] - 小川駅 - 西小川信号所間複線化。西小川信号所廃止。 *[[1997年]](平成9年)3月12日 - 10両編成化<ref>{{Cite news |title=特急「小江戸」増発へ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-02-05 |page=3 }}</ref>。夕方ラッシュ時の分割併合を廃止し、この時間帯の西武遊園地発着の列車の一部を国分寺発着に振り替える。 *[[2008年]](平成20年)6月14日 - 「拝島快速」の運転開始。拝島線では初の通過駅のある優等列車となる。拝島発着の準急が運行を開始する。 *[[2009年]](平成21年)4月25日 - 萩山駅 - 小川駅間高架事業に伴う仮線移動開始。 *[[2011年]](平成23年) **2月27日 - 萩山駅 - 小川駅間高架事業に伴い、萩山3号踏切下り線を高架線に付替<ref name="seibu20110203" />。 **12月12日 - 同年12月18日までの期間限定で拝島線初の臨時特急が運行される<ref name="tokkyu2011" />。 *[[2012年]](平成24年) **6月30日 - ダイヤ改正により拝島快速を廃止、急行に置き換え<ref name="2012dia" />。 **8月24日 - 同年8月30日までの期間限定で臨時特急が運行される<ref name="tokkyu20120725" />。 **10月7日 - 萩山駅 - 小川駅間高架事業進捗に伴い、萩山3号踏切上り線が高架化<ref name="seibu20120913" />。 **12月10日 - 同年12月16日までの期間限定で臨時特急が運行される<ref name="tokkyu20121113" />。 *[[2013年]](平成25年)12月12日 - 同年12月20日までの期間限定で臨時特急が運行される<ref name="tokkyu20131101" />。 *[[2014年]](平成26年) **9月16日 - 同年9月26日までの平日に期間限定で臨時特急が運行される<ref name="tokkyu20140903" />。 **12月11日 - 同年12月26日までの木曜・金曜日に期間限定で臨時特急が運行される<ref name="tokkyu20141125" />。 *[[2018年]] **3月10日 - 「[[拝島ライナー]]」を[[西武40000系電車|40000系]]にて運行開始<ref name="haijimaliner" />。 == キロポストについて == {{出典の明記|date=2018年3月|section=1}} [[File:Ogawa Station 201807 03.jpg|thumb|right|250px|小川駅1番線脇にある<br>0キロポスト(2018年7月14日)]] 前述のような歴史的経緯から、拝島線では距離を示す[[距離標|キロポスト]]が4つに分かれている<ref name="RP716-pp128">小松丘「西武鉄道 沿線観察」 - 『[[鉄道ピクトリアル]]』No.716 2002年4月臨時増刊号 特集・西武鉄道 P.128-130 2002年4月10日発行 [[電気車研究会]]</ref>。 #小平駅→萩山駅→多摩湖線多摩湖駅 #:旧多摩湖鉄道として開通した区間を小平起点でキロポストを打っているため(現在でも萩山駅から多摩湖線に直通している)。なお多摩湖線の国分寺駅→萩山駅は、国分寺駅起点で別個のキロポストが打たれている。 #小川駅→萩山駅 #:小川駅から分岐していたブリヂストン工場への引き込み線を延伸する形で萩山駅へつなげたため(このため上下が逆転している)。 #小川駅→玉川上水駅 #:当初小川駅から上水線として開業したため。 #玉川上水駅→拝島駅 #:拝島への延伸に際して玉川上水駅構内の線路をつけ替え、そこから拝島へ向けての新たな0キロポストを設けたため。 == 女性専用車 == ; 2013年3月18日 - :* 平日の朝7時20分から9時30分までに西武新宿駅へ到着する10両編成全列車の進行方向先頭車両(1号車)。実施区間は拝島 - 西武新宿駅間で、多摩湖始発の列車および8両編成の列車には設定されない。 : ; 設定開始当初 - 2013年3月15日 :* 平日の朝7時20分から9時20分に西武新宿駅に到着する上り西武遊園地発急行の進行方向先頭車両(実施区間は萩山 - 西武新宿間)。 == 駅一覧 == * 全駅[[東京都]]内に所在。拝島線内は全列車種別がすべての駅に停車。 * [[駅ナンバリング|駅番号]]は[[2013年]]3月までに順次導入された<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2011/__icsFiles/afieldfile/2012/02/23/20110223eki-number.pdf 西武線全駅で駅ナンバリングを導入します]}} - 西武鉄道、2012年4月25日閲覧。</ref>。 * 線路 … ||:複線区間、∧:ここより下は複線、∨:ここより下は単線 <!-- 各種別の色は[[西武新宿線]]などと合わせています。変更される場合、西武新宿線なども合わせて修正してください。 文字が見やすいように実際に使われているものより薄めの色を選ぶことをお奨めします。--> {| class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="width:4em; border-bottom:solid 3px #00a6bf;"|駅番号 !rowspan="2" style="width:13.5em; border-bottom:solid 3px #00a6bf;"|駅名 !rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00a6bf;"|駅間キロ !colspan="2"|累計キロ !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #00a6bf;"|接続路線 !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #00a6bf;"|{{縦書き|線路}} !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #00a6bf;"|所在地 |- !style="width:3em; border-bottom:solid 3px #00a6bf;"|小平<br />から !style="width:3em; border-bottom:solid 3px #00a6bf;"|[[西武新宿駅|西武<br />新宿]]<br />から |- !SS19 |[[小平駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:right;"|22.6 |[[西武鉄道]]:[[File:SeibuShinjuku.svg|15px|SS]] [[西武新宿線|新宿線]]('''[[西武新宿駅]]まで直通運転''') |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |[[小平市]] |- !SS30 |[[萩山駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|23.7 |西武鉄道:[[File:SeibuTamako.svg|15px|ST]] [[西武多摩湖線|多摩湖線]] (ST04)<br />(''' 小平方面から[[多摩湖駅]]まで一部直通運転''') |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |style="white-space:nowrap;"|[[東村山市]] |- !SS31 |[[小川駅 (東京都)|小川駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|25.3 |西武鉄道:[[File:SeibuKokubunji.svg|15px|SK]] [[西武国分寺線|国分寺線]] (SK04) |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |小平市 |- !SS32 |[[東大和市駅]] |style="text-align:right;"|3.0 |style="text-align:right;"|5.7 |style="text-align:right;"|28.3 |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |[[東大和市]] |- !SS33 |[[玉川上水駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|7.2 |style="text-align:right;"|29.8 |[[多摩都市モノレール]]:[[File:Tama Monorail Line symbol.svg|15px|TT]] [[多摩都市モノレール線]] (TT17) |style="text-align:center;"|∨ |rowspan="3"|[[立川市]] |- !SS34 |[[武蔵砂川駅]]<br />(国営昭和記念公園砂川口) |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|9.6 |style="text-align:right;"|32.2 |&nbsp; |style="text-align:center;"| ∧ |- !SS35 |[[西武立川駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|11.6 |style="text-align:right;"|34.2 |&nbsp; |style="text-align:center;"|∨ |- !SS36 |[[拝島駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|14.3 |style="text-align:right;"|36.9 |[[東日本旅客鉄道]]:[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] [[青梅線]]・[[五日市線]] (JC 55)・{{Color|#a8a39d|■}}[[八高線]] |style="text-align:center;"| ∧ |[[昭島市]]<br><ref name="linename" group="*">拝島駅は[[福生市]]との市境上にある。JR、西武とも駅長室は昭島市側に位置しているため、公称所在地は昭島市である。 </ref> |} {{Reflist|group="*"}} === 廃止信号所 === * [[西小川信号所]] : 小川駅 - 東大和市駅間(小平起点3.7km) == 沿線風景 == === 小平 - 小川 === [[File:Seibu haijima line 20190922.jpg|thumb|right|200px|府中街道との立体交差地点(2019年9月22日)]] [[小平駅]]を出るとしばらくして左へカーブし、[[西武新宿線|新宿線]]と分かれる。[[東京都道253号保谷狭山自然公園自転車道線|多摩湖自転車歩行者道]]と平面交差し、右カーブすると、[[西武多摩湖線|多摩湖線]]が左から合流して[[萩山駅]]に到着する。周辺は住宅地である。同駅はカーブがあり、車内放送などでしばしば注意を促している。萩山を出ると多摩湖線と平面交差する形で左にカーブし、[[ブリヂストン]]東京工場の敷地内を通過する。また、JR[[武蔵野線]]がこの付近を地下で交差しているが駅は無く、乗り換えはできない。 途中で、[[府中街道]]([[埼玉県道・東京都道17号所沢府中線]])を越える[[踏切]]があったが、同踏切は2012年10月7日に立体交差化され解消された<ref name="seibu20120913" />。なお、これは西武鉄道の事業計画には載っておらず、府中街道の拡幅事業の一環として行われたものである<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2005/03/20f3t900.htm|title=府中所沢線(府中街道)の事業|publisher=東京都|date=2005-03-29|accessdate=2014-12-1|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060724034701/http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2005/03/20f3t900.htm|archivedate=2006-07-24}}</ref>。進路を南にとると[[西武国分寺線|国分寺線]]と合流して[[小川駅 (東京都)|小川駅]]となる。[[島式ホーム]]2面4線のうち、外側を拝島線、内側を国分寺線が使用する。 === 小川 - 玉川上水 === [[小川駅 (東京都)|小川駅]]を出ると[[西武国分寺線|国分寺線]]と平面交差しながら右へカーブし、進路を西に取る。ここから先は比較的長い直線であり、小川 - 東大和市間は駅間距離が比較的長いため、速度を上げて走行していく。住宅と畑、雑木林が混じった景観であるが、線路の北側は区画整理されており、宅地化進行中といった風情である。かつては途中に[[西小川信号所]]があったが、1991年に廃止されている。北側に[[東京電力]]多摩青梅橋[[変電所]]がみえてくる。その付近から高架化された部分へと差し掛かる。やや左寄りにカーブしながら高架になると[[相対式ホーム]]の[[東大和市駅]]となる。なお、この区間の高架化は青梅街道・村山街道の混雑を解消するためになされ、当時の青梅橋駅はやや北寄りに位置しており、若干の線路の形状改良が行われた。それまで線路の南を通っていた[[青梅街道]]はここで同線を潜り、北北西に進路をとる。東大和市駅を過ぎると再び地上に降り、北側に[[玉川上水車両基地]]や、かつての大和基地跡地が広がる。基地の跡地は区画整理され、公共施設やマンションなどがみられる。南側にはゴミ焼却場がみえてくる。<!--なお、その施設の余熱を利用した足湯も整備されている。-->駅名となった[[玉川上水]]が寄り添ってくると、[[小平監視所]]があり、そこから多摩川からの純粋な流れから、下水再処理水へと切り替わる。小平監視所では玉川上水に降りることができ、清流復活事業のことについて示した記念碑などがある。[[多摩都市モノレール]]との乗り換え駅である[[玉川上水駅]]は[[島式ホーム]]2面3線で、駅の西側で高架の多摩都市モノレールとアンダーパスの[[東京都道43号立川東大和線|芋窪街道]](東京都道43号立川東大和線)と立体交差する。アンダーパスは、多摩モノレールの建設の際につくられた。付近には大学や高校が多く、近年、宅地やマンション開発も進んでいる。 === 玉川上水 - 拝島 === [[File:SEIBU Haijima Line Seibu Tachikawa.jpg|thumb|right|200px|西武立川駅 - 拝島駅間の単線区間を走る30000系<br>(2009年8月6日)]] [[玉川上水駅]]を出ると[[単線]]となるが、複線相当の敷地幅を門型架線柱や擁壁に対し下り線相当部分を走り、[[国立音楽大学]]の敷地を突っ切る。そのまま住宅地を進み、盛土高架上を走るようになり、高架駅[[相対式ホーム]]の[[武蔵砂川駅]]に到着する。駅北側にあった[[日産自動車]]村山工場の跡地に建設された[[イオンモールむさし村山]]の最寄り駅である。武蔵砂川駅から[[複線]]となり、盛土高架上を暫く進み、[[五日市街道]]([[東京都道7号杉並あきる野線]])と[[立体交差]]すると地上に降りる。島式ホームの[[西武立川駅]]に到着する。西武立川駅は2011年3月に橋上駅舎が整備され北口も設置された。西武立川駅から再び単線となり、やはり下り線相当部分を緩やかに左カーブしながら進路を南西に取る。玉川上水を渡り、盛土区間になると右カーブしながら進路を南西から北西へと変える。その途中で南側にJR[[八高線]]が寄り添うと、[[在日米軍]][[横田飛行場|横田基地]]への[[拝島駅#JR貨物管理・米軍横田基地線|専用線]]と平面交差し、終点の[[拝島駅]]となる。[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の[[青梅線]]・[[五日市線]]・八高線との乗り換え駅で、[[橋上駅|橋上駅舎]]となるまでは南口がJR東日本、北口が西武鉄道の管理であった。 == 立体交差の状況 == [[多摩南北道路]]の一つである都市計画道路の[[府中街道]]([[東京都道16号立川所沢線|東京都道16号]]・[[埼玉県道・東京都道17号所沢府中線|17号 (重複)]])の拡幅事業の一環として、萩山駅 - 小川駅間の「萩山第3号踏切道」が高架化によって解消された。2011年2月27日に下り線が高架化され<ref>[http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2011/02/20l23200.htm 小平3・3・8号府中所沢線 交差する西武拝島線の下り線を高架化!]</ref><ref name="seibu20110203">{{Cite press release|和書|title=2月27日(日)拝島線、萩山〜小川間の萩山3号踏切の下り線が高架化されます |publisher=西武鉄道 |date=2011-02-03 |url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2010/__icsFiles/afieldfile/2011/02/03/20110203hagiyama3gou.pdf |format=PDF |accessdate=2021-02-16 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20110611180732/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2010/__icsFiles/afieldfile/2011/02/03/20110203hagiyama3gou.pdf |archivedate=2011-06-11}}</ref>、2012年10月7日に上り線が高架化された<ref name="seibu20120913" >{{Cite press release|和書|title=10月7日(日)拝島線、萩山駅〜小川駅間の萩山第3号踏切道の上り線が高架化されます |publisher=西武鉄道 |date=2012-09-13 |url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2012/09/13/20120913hagiyamarenritu.pdf |format=PDF |accessdate=2021-02-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121021102632/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2012/09/13/20120913hagiyamarenritu.pdf |archivedate=2012-10-21}}</ref>。 [[東京都道5号新宿青梅線]]や[[東京都道144号中島十番線]]が交差する青梅橋交差点の慢性的に渋滞を起こす構造を解消するために、多摩青梅橋変電所付近から東大和市駅を超えて玉川上水車両基地東端部にかけて高架化が行われている。 [[玉川上水駅]]の下を[[東京都道43号立川東大和線|芋窪街道]]がアンダーパスで通過している。さらに上空を[[多摩都市モノレール線]]が通過している。 武蔵砂川駅から西武立川駅の区間は開業当初から盛り上げてあり、複数の道路が交差して慢性的に渋滞を起こしやすい構造の天王橋交差点([[東京都道7号杉並あきる野線]]、[[東京都道59号八王子武蔵村山線]]、[[東京都道162号三ツ木八王子線]]等)の上を架道橋で越えている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Seibu Haijima Line}} *[[日本の鉄道駅一覧]] *[[東京都水道局小河内線]] - 一時期西武鉄道が買収し、西武拝島線より青梅線に乗り入れて観光鉄道化する構想があった。 {{西武鉄道の路線}} {{デフォルトソート:せいふはいしません}} [[Category:関東地方の鉄道路線|はいしま]] [[Category:西武鉄道の鉄道路線|はいしま]] [[Category:武蔵野鉄道|路]] [[Category:多摩湖鉄道|路]] [[Category:東京都の交通]] [[Category:専用鉄道]]
2003-08-04T07:48:15Z
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西武新宿線
新宿線(しんじゅくせん)は、東京都新宿区の西武新宿駅と埼玉県川越市の本川越駅とを結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はSS。 新宿区歌舞伎町に位置する西武新宿駅から高田馬場駅、所沢駅などを経由して本川越駅に至る首都圏の通勤通学路線である。また特急「小江戸」が運行され、埼玉県屈指の観光地である川越への観光輸送を担っている。東京から川越方面へのアクセスにおいては起点駅や経路が異なるものの、東日本旅客鉄道(JR東日本)の埼京線・川越線や東武東上線と競合関係にあるが、直線的なルートを採用している東武東上線よりも、JRや当路線は川越まで迂回するルートを通っているため所要時間の面で不利となっている。また終点の本川越駅は東武東上線やJR東日本の川越線が乗り入れる川越市の中心駅の川越駅とは離れた場所に位置している一方で、時の鐘を含む川越の観光名所や旧市街地へは同駅が最寄りである。 小平駅から拝島線が分岐しており、直通列車も多数運転されるため、同線からの通勤・通学も受け持っているといえる。西武新宿駅 - 小平駅 - 拝島線拝島駅間はJR中央線・青梅線と競合し、有料座席指定列車の「拝島ライナー」が運行されている。 所沢駅で接続している池袋線とともに西武鉄道の主要路線である。歴史的経緯から西武鉄道の鉄道路線は池袋線系統(旧・武蔵野鉄道)、新宿線系統(旧・西武鉄道)とその他の路線に大別でき、当路線の高田馬場駅 - 東村山駅間は旧・西武鉄道、東村山駅 - 本川越駅間は現在の国分寺線(国分寺駅 - 東村山駅)とともに旧・西武鉄道の前身である川越鉄道によって建設された。 起点の西武新宿駅はJRや私鉄・地下鉄各線が乗り入れる新宿駅から500 m北側の歌舞伎町に所在しているため、他路線との乗り換えが不便なことから1つ隣の高田馬場駅が実質的な乗り換え駅・ターミナル駅として機能しており、当路線の利用者数は西武新宿駅より高田馬場駅の方が圧倒的に多い。当初、西武新宿駅は新宿線の仮駅として開業し、最終的には新宿駅東口駅ビル(現在のルミネエスト新宿)まで延伸する予定であったが、当時はホーム有効長6両編成2線分までしかスペースが確保できなかったため延伸を断念した経緯がある。 また、山手線周辺から郊外に延びる総延長15 km以上の大手私鉄路線では、唯一地下鉄との相互乗り入れを行っていない。さらに、構想こそあったものの複々線区間が全く存在しない路線でもある。 西武新宿駅は頭端式ホーム2面3線で、JR東日本の新宿駅東口から北側おおよそ500 mに位置する。同駅を出てすぐに、JR東日本の中央線快速電車・中央総武線各駅停車が左にカーブしながら離れていく。進行方向左手に現れるJR東日本の山手線と、埼京線および湘南新宿ラインが通る山手貨物線に併走して北進する。職安通りのガードを越えて少々走ると、JR山手線の新大久保駅が現れるが、新宿線に駅は設けられていない。 海城中学校・高等学校、保善高等学校の校舎を通過しながらほぼ直線状に進むと、JR山手線、東京メトロ東西線との乗換駅であり、この区間を通る全旅客営業列車が停車する高田馬場駅に到着する。 高田馬場駅を出ると少し右にカーブした後に急な坂を下る。そして左に急カーブしながら神田川を跨ぎ、その直後に山手線をくぐっても、さらに急カーブは続き、結果的に進路を西に取る。この区間は曲線半径が158 m、30.3 ‰の下り勾配のため、35 km/hの速度制限を受ける。ここで高架から地上に降りるが、これ以降ではごく一部を除いて高架や盛土区間を走らない。山手線をくぐった後は新目白通りとしばらく併走し、それから少し左へ曲がって分かれると妙正寺川に接し、その後下落合駅に着く。 下落合駅を出ると、再び少し左に曲がる。住宅密集地を進みながら妙正寺川を渡ると、中井駅に着く。同駅は山手通りの下にあり、中線が1本ある待避駅で、都営地下鉄大江戸線との乗換駅である。なお、下落合駅寄りはカーブしており、ポイント通過の際に列車が大きく揺れる地点でもある。 中井駅を出ると、S字カーブを描きながら、蛇行する妙正寺川を再び渡る。その後300 mほど進むと、新井薬師前駅に着く。同駅は新宿線の中でも特にホームがカーブしている。 新井薬師前駅を出ると、住宅密集地をさらに進みながら妙正寺川をもう一度渡り、左に曲がりながらポイントを通過し、沼袋駅に着く。同駅はかつて内側2線の通過線を持った相対式ホームであったが、現在は後述の連続立体交差事業の関係で2面2線の相対式ホームと通過線が1線の2面3線という形態になっている。事業完成時には島式ホーム2面4線となる。また、駅前は京王バスが発着するが、街路が狭隘なため、南行一方通行のみである。ここに限らず都心寄りは狭隘な駅前を持つところが多い。なお、中井駅から野方駅までのうち中野区内の、おおよそ2.4 kmの区間では、既に連続立体交差事業による地下化工事が始まっており、完成時には中野通りを含む7箇所の踏切が撤去される予定である。 沼袋駅を出ると、急なS字カーブを描く。その後、連続立体交差事業区間が終わると野方駅に着く。なお、同駅直下では環七通りを跨いでいる。 野方駅を出るとほどなく都立家政駅に着く。同駅で進路を西に変える。 都立家政駅を出ると、すぐに下り線のみ待避可能な2面3線の鷺ノ宮駅に到着する。都立家政駅 - 鷺ノ宮駅間の距離は、0.5 kmと新宿線では最短である。なお、この高田馬場駅 - 鷺ノ宮駅間は半径300 - 600 mのカーブが連続するため、列車の速度が抑えられることになる。 鷺ノ宮駅を出ると、その西側の踏切で中杉通りと平面交差する。その先で少し右にカーブした後は、多少のアップダウンこそあれど、比較的線形が良くなる。かつて存在した西鷺宮駅の跡地を通りすぎると、下井草駅に着く。 下井草駅を出ると、車窓ではちらほらと畑が見え、少し左へカーブすると鷺ノ宮駅 - 上石神井駅間では唯一の、1本の通過線を有する井荻駅に着く。 井荻駅を出るとすぐに環八通りと立体交差するが、電車から見える高架橋以外に地下トンネル(井荻トンネル)でも交差している。その後中線が合流し、ほどなく上井草駅に着く。 上井草駅を出ると、この付近からは住宅の密集度が低くなり、景観が武蔵野らしくなってくる。千川通りを踏切で平面交差した先に、上石神井車両基地が南に広がり、複雑な分岐器を越えると島式ホーム2面3線の上石神井駅に到着する。 同駅のホームや階段は狭隘で、ホーム端はすぐ踏切となる。なお、同駅付近で東京外環自動車道が交差する計画である。 この区間では勾配は多いが、線形はさらに良くなる。上石神井駅を出るとほどなく下り勾配が始まり、武蔵関駅に着く。 武蔵関駅を出ると、その先で石神井川と並行する。武蔵関公園の北側をかすめると上り勾配となり、東京23区から外れると東伏見駅に着く。同駅は新宿線では珍しい島式ホーム2面4線の待避駅である。また、東伏見駅以西の各駅には多摩湖線を除くほぼ全ての駅に駅前広場が整備されている。 東伏見駅を出ると、途中南側に東伏見公園の緑を見ながら非常にゆるい左カーブを描き、伏見通り(東京都道233号東大泉田無線支線)のアンダーパスを乗り越し、若干の盛土と掘割区間を経て西武柳沢駅に着く。 西武柳沢駅を出ると、数少ない高架区間となっており、第二次世界大戦中に中島飛行機武蔵野製作所への陸軍鉄道連隊が作った専用線のガードを越えて青梅街道と武蔵境通りのバイパスを乗り越す。再び地上に戻り武蔵境通りと平面交差すると田無駅に到着する。 同駅は特急「小江戸」と拝島ライナー以外のすべての種別が停車する主要駅だが、島式ホーム2面3線の設備である。この配線が新宿線の特徴である。 田無駅を出ると、そこには本川越駅寄りに引上線がある。それを横目に住宅街を西へ進む。線路北側の家並の向こうにはスカイタワー西東京が見える。西東京市と小平市の市境付近より右カーブし、これより東村山駅の手前まで、進路を北西に取る。カーブを終えると、花小金井駅に着く。同駅は島式ホーム1本であるが、かつては2面3線だった名残でホーム幅が広い。 花小金井駅を出るとすぐに小金井街道と平面交差する。道幅は広いが、南北を結ぶ西武バスの各路線が通り、同踏切が原因でしばしば渋滞が発生している。花小金井駅からはすぐ南には多摩湖自転車歩行者道が通っており、ここから次駅小平駅付近まで併走する。その後住宅と畑が混在する一帯をしばらく進むと青梅街道と斜めに平面交差するが、同踏切の前後はかなり急なS字カーブで、列車が減速するため踏切渋滞に拍車をかけている。また、踏切横には公立昭和病院があるため、救急車がしばしば立往生している。なお、このカーブにはかつて東小平駅が設置されていた。カーブを過ぎると新小金井街道が下をくぐる。付近は畑が目立ち、空が広く感じる一帯である。やがて上下線の間に引上線が割り込み、拝島線と分岐する島式ホーム2面4線の小平駅に到着する。 同駅は2面4線であるが、待避駅ではなく拝島線との分岐駅となっている。このため小平駅までは複線であったのが、小平駅を出た直後は複々線のようになっている。小平駅の北西に小平霊園があるため、駅付近には墓石屋が多く、春秋の彼岸の時期には北口前に露店が並び賑やかになる。 小平駅を出てしばらく拝島線と併走するが、その後拝島線は左に曲がって分かれていく。右手に小平霊園を見ながら進んでいくと久米川駅に着く。同駅は分岐駅に挟まれていることもあり、駅として地味な存在ではあるが、それとは裏腹に駅周辺には都市銀行の支店やスーパーが充実している。 久米川駅を出るとすぐに空堀川を跨いだ後、新青梅街道をくぐる。野方駅辺りからここまでは新青梅街道に併走する形で進んできたが、分岐して東村山駅の手前で右カーブして北へ進む。このカーブの所で府中街道と平面交差する。主要道路との平面交差であるので、しばしば渋滞する地点である。カーブを過ぎると左側に国分寺線が現れ、東村山駅まで併走する。その後、後述の連続立体交差事業により建設中の高架橋を見ながら、特急「小江戸」も停車する3面6線の東村山駅に到着する。なお、新青梅街道との交差地点から先、東村山駅の先の都県境付近までの約2.3 km区間、高架による連続立体交差化事業が進められている。 東村山駅は東に市役所などがある市の中心部のため、東口側は以前から駅前広場が整備されている。一方、昔ながらの雰囲気を残していた西口も2009年に新たな駅前広場が整備されるなど、再開発事業はほぼ完了した。ただ、依然として狭い道が多い地域となっている。 東村山駅を出ると、西武園線としばらく併走する。やがて西武園線が左にそれ、住宅街ながらも緑の多い一帯を北に進む。盛土を走るようになると視界が開け、左に低い山並みを見ることができる。ここは八国山緑地と呼ばれ、映画『となりのトトロ』のモデルとなった場所でもある。埼玉県に入ってすぐ左に国際航空専門学校があり、小型航空機やヘリコプターを見ることができる。盛土が終わると所沢街道の秋津橋と、さらに池袋線が頭上で立体交差し、複雑な分岐器を通って、池袋線と接続し、特急「小江戸」も停車する、所沢駅に到着する。かつては駅手前の踏切の先で西武所沢車両工場へ引き込み線が分岐していた。 同駅は3面5線構造で、複雑な線路配置であるが、新宿線だけを見ると、基本的に相対式ホーム2面2線と言える。改良工事が終了し、駅舎やコンコースが拡大されたものの配線自体に大きな変化はない。 所沢駅を出てすぐに左へカーブし、進路は再び北西に取ることとなる。再び盛土区間となり、東川のガードからは直線区間が続く。なお、このあたりにはかつて所沢御幸町駅が存在したが、同駅が北に移転して新所沢駅となった。東側は所沢航空記念公園が一帯に広がり、西側は一方通行であったり、狭隘であっても線路沿いに道路が設けられており、東側のマンションや大規模団地開発に際しての配慮と思われる区間でもある。新宿線内では最も新しい駅・航空公園駅に着く。市役所や所沢市民文化センター ミューズ、簡易裁判所、税務署、公共職業安定所等の主だった公共機関が航空公園駅東口周辺に移転してきたこともあり、所沢市の行政の中心とも言える。 航空公園駅を出ると、住宅地をくぐり抜け、島式ホーム2面4線の新所沢駅に到着する。新所沢駅界隈も道路整備や街並みの整備により、以前とはまた違った顔を見せる。開業時から繁華街として栄えた西口にはパルコ等のテナントや、居酒屋が多く見受けられる。南入曽車両基地へ出入する電車は、同駅始発・終着となる。 新所沢駅を出ると、そこから次の入曽駅まではずっと直線である。両駅のほぼ中間、県道所沢狭山線が斜めに平面交差した先に南入曽車両基地がある。周囲は住宅地よりも農地が目立つ。その後直進すると、入曽駅に着く。新所沢駅 - 入曽駅間の距離は、新宿線では最長の3.9 kmである。なお同駅は、東伏見駅以西の各駅の中では唯一駅前広場が整備されていない。 入曽駅を出ると、県道川越入間線と平面交差した辺りで緩い右カーブをなし、しばらく進むと左手に航空自衛隊入間基地が広がる。基地の東側に沿って進み、基地が終わると県道所沢狭山線が頭上を乗り越え、しばらくやや急な右カーブを通ると、狭山市駅に到着する。相対式ホーム2面2線の特急「小江戸」停車駅である。バス路線が集中する駅の西側は駅前広場が無く道幅も狭いなど問題が多かったため、駅舎を含めた再開発事業が実施され、2012年に完了した。 狭山市駅を出ると、しばらく右カーブした後は直線状に走る。この右カーブの先の進路は北東となる。なお、ここから脇田信号場手前までの区間は線路がほぼ直線であるため、比較的高速運転が可能である。その後しばらく走行すると、新狭山駅に着く。 新狭山駅を出ると川越狭山工業団地の中をひたすら走り、その途中で川越市に入る。しばらくすると、かつて安比奈線との分岐駅であった南大塚駅に着く。安比奈線は1963年より長らく休止となっていたが、2017年5月31日を以て廃止となった。 南大塚駅を出てすぐに、関越自動車道のガードをくぐって速度を上げる。狭山市駅付近から国道16号線とは併走していたが、この区間は特に至近距離で併走するため、同線沿いの店舗などがよく見える。なお、この区間にはかつて川越競馬場前駅という臨時駅が設置されていた。やがて列車は減速しながら国道16号線とは立体交差して分かれ、すぐ近くの脇田信号場で新宿線では唯一の単線区間へ入り、その後左にカーブする。この区間が単線であることの理由は、JR川越線と東武東上線のガードをくぐる所の用地確保が困難であることなどがある。同ガードをくぐったあとに踏切を越え、再び線路が分かれると、終点・頭端式ホーム2面3線の本川越駅に到着する。 運転される列車種別は、後述の「列車種別」の節の通りであるが、基本的に速達列車が途中駅から各駅停車となる典型的な郊外電車型の運行形態である。 新宿線内のみを運転する列車のほかに、接続する西武の他線との直通運転が多く設定されている。 このほか、2016年4月17日より西武4000系(4009F)を使用した「旅するレストラン 52席の至福」が1往復、土曜・休日を中心に年間100日程度運転される。西武新宿駅 - 所沢駅 - 西武秩父駅間(所沢駅および飯能駅では、進行方向が変わるのと乗務員交代を行なう目的での運転停車)で運転されているほか、2016年12月18日からは西武新宿駅 - 本川越駅間の新宿線全区間でも運転が始まった。 車両基地は、上石神井車両基地と南入曽車両基地、拝島線に玉川上水車両基地が設置されている。 2022年3月16日ダイヤ改正時点での日中1時間あたりの運行本数は以下のようになっている。 停車駅は「駅一覧」を参照。 1993年12月6日のダイヤ改正で新設。 終日運転される有料特急。「小江戸」の愛称があり、車両は10000系ニューレッドアローが使用される。全列車が西武新宿駅 - 本川越駅間の往復である。1993年の「小江戸」運転開始当初は所要時間43分で走破していたが、2013年3月16日より東村山駅が正式に停車駅として追加された。そのため、現行ダイヤでの所要時間は最短45分である。 1993年までは西武新宿駅 - 西武秩父駅間で、休日のみ「おくちちぶ」号を運転していたほか、送り込みとして西武新宿駅 - 本川越駅間(上りは所沢駅発)を1往復「むさし」号として運転していた。(当時の使用車両は5000系) 2011年から2014年までは拝島線に直通する臨時特急が運行されていた。2011年度は新宿線内は西武新宿駅・高田馬場駅・田無駅・小平駅に停車していたが、2012年度以降は田無駅は通過するようになった。なお、2011年・2012年度は乗車駅が西武新宿駅・高田馬場駅に限定されていたが、2013年度からは限定なく途中乗車可能となっていた。 2018年3月10日のダイヤ改正から運行が開始された座席指定制列車。車両は40000系のロングシート・クロスシート転換車が使用される。 拝島線へ直通運転し、夕方・夜間に西武新宿駅発拝島駅行きが6本運転される。停車駅は高田馬場駅(乗車専用)、小平駅から先の拝島線の各駅。西武新宿駅・高田馬場駅から乗車する場合は座席指定券が必要となるが、小平駅から先の各駅では乗車券のみで利用できる。 2023年3月18日のダイヤ改正で上り列車(拝島駅発西武新宿行)が設定された。平日朝に2本運転され、全区間で座席指定券が必要となる。停車駅は拝島線の各駅(乗車専用)、高田馬場駅(降車専用)、西武新宿駅。 2020年3月14日のダイヤ改正で再設定。 快速急行は川越へのアクセス向上を目的として、土休日に西武新宿駅 → 本川越駅で下り1本のみ運行。当初は西武新宿発9時33分と10時21分の2本が設定され、本川越駅への所要時間が最短46分と急行と比べると10分短縮された。当路線では急行停車駅である鷺ノ宮駅と上石神井駅を通過し、田無駅に停車する。田無駅から先も通過駅がある(停車駅は駅一覧を参照)。これは2012年に廃止された快速急行「川越号」(廃止時は列車愛称なし)の廃止直前の停車駅と同一である。2022年3月12日のダイヤ改正で西武新宿発9時00分の1本に削減された。 50090系がクロスシートで使用される東武東上線の「川越特急」と異なり40000系は使用されない。 種別色は池袋線と同じ紫色。 1993年のダイヤ改正で新設。 通勤急行は本川越駅・所沢駅から高田馬場・西武新宿方面への速達を目的に平日朝ラッシュ時の本川越駅発1本のみ運転される。後述の急行では各駅に停車する本川越駅 - 田無駅間も急行運転を実施する。拝島線の乗換駅である小平駅は停車しない。なお、この時間帯にも急行は運転されている。 1993年にそれまで運転されていた平日朝ラッシュ時の千鳥停車の急行の停車駅を明確にする目的で、快速(現在は廃止)とともに登場した。当時は現在のような田無駅以西での急行運転を実施せず、田無駅 - 高田馬場駅間で上石神井駅に停車し、鷺ノ宮駅を通過する種別を通勤急行と呼称した。また、現在は所沢駅 - 本川越駅間の途中停車駅は新所沢駅・狭山市駅のみだが、当時この区間は各駅停車であった。現在の停車駅となったのは2001年12月からで、朝ラッシュ時の所沢・本川越方面から西武新宿方面への速達列車の色合いが強くなった。 種別色は黄色またはオレンジ色である。 急行は当路線の主力優等種別であり、本川越方面・拝島方面ともに終日運転される。基本的には西武新宿駅 - 新所沢駅・本川越駅・拝島駅間で運転されている。日中時間帯は平日ダイヤが一部時間帯のみ1時間に5本の約12分間隔で、本川越発着が3本・拝島駅発着が2本で構成される。それ以外の日中時間帯の平日ダイヤ及び土休日ダイヤは1時間に6本で、本川越駅発着と拝島駅発着が20分間隔で交互に運転されており、西武新宿駅 - 小平駅間では10分間隔となる。編成両数は10両編成での運転が基本であるが、平日・土休日ともに一部で8両編成で運転する列車が存在する(後述の準急も同様)。また、玉川上水駅発着の列車が土休日の朝に下り1本と夕方に上り1本、田無駅発着の列車が平日の朝に下り1本、土休日の夕方以降に上り2本が設定されている。 各駅停車との接続は昼間時間帯は下りは鷺ノ宮駅で、上りは上石神井駅で行われる。また小平駅では本川越駅発着の列車は小平駅 - 玉川上水駅・拝島駅間を運転する各駅停車に、拝島駅発着の列車は西武新宿駅 - 新所沢駅・本川越駅間の各駅停車に接続する。平日夕方時間帯(20時まで)は下りは中井駅で各停を追い越し、鷺ノ宮駅・上石神井駅・小平駅で接続する。平日朝ラッシュ以外の時間帯は下りは鷺ノ宮駅・小平駅で接続、上りは小平駅(拝島方面からの列車)または田無駅(所沢方面からの列車)と上石神井駅で接続する。平日朝ラッシュ時は列車によって異なる接続をする。 下り列車の田無駅から終点までは、方向幕では急行と表示されても、発車標では各停と表示される(これは後述の準急も同様)。 ほぼ終日にわたり、下り列車の拝島・本川越方面行きは鷺ノ宮駅・上石神井駅・東村山駅・新所沢駅のいずれかで(拝島方面行は朝夕のみ)、また本川越方面からの上り列車は新所沢駅・東村山駅のいずれかで特急に抜かれる。 西武ドームでの野球等イベント開催時には、平日ナイターでは西武新宿駅 - 所沢駅 - 池袋線西所沢駅 - 狭山線西武球場前駅間の臨時列車が、土休日デーゲーム他不定期に西武新宿駅 - 小平駅 - 拝島線萩山駅 - 多摩湖線多摩湖駅間の臨時列車が運転される(多摩湖駅から山口線乗り換えで西武球場前駅)。 1993年のダイヤ改正以前は、平日朝ラッシュ時の上りに限り通常の急行以外に、田無駅 - 高田馬場駅間で途中、上石神井駅にのみ停車する急行(本川越駅発)と、鷺ノ宮駅にのみ停車する急行(拝島駅・西武遊園地駅〈現:多摩湖駅〉発)が運転されていた。停車駅こそ違ったが、どの種別も一括して「急行」と呼称され不明確であったため、ダイヤ改正後は前者を通勤急行、後者を快速と呼称するようになった。 かつては萩山駅で連結・切り離し作業を行う列車(西武新宿駅寄り4両が西武遊園地駅発、拝島駅寄り6両が拝島駅発)も存在していたが、2013年3月15日を以って運行を終了した。2016年3月21日までの土休日は西武遊園地駅発着の列車もあり、この列車は多摩湖線のホーム有効長の関係上8両編成で運転されていた。2016年3月26日実施のダイヤ改正で、西武ドームにおけるプロ野球試合開催日や夏休みなどの不定期運転に格下げされ、上りは2本とも田無駅始発を延長して不定期的に運転する形を取った。 種別色は朱色・赤文字である。 準急は、急行を補完する形で日中以外の時間帯に運行される。基本的には西武新宿駅 - 田無駅・新所沢駅・本川越駅・拝島駅間の運転系統が基本である。早朝・深夜の一部を除き、多くの列車が鷺ノ宮駅以遠の停車駅で、急行・拝島ライナー・特急に追い抜かれる。 かつては終日にわたり運行されていたが、大部分の列車は2012年6月30日のダイヤ改正で急行に格上げされる形で廃止された一方、2013年3月18日からは拝島駅発着の準急を平日限定で朝・夕方・夜にも運行し、また本川越駅発の急行の一部を準急に格下げして本数を増やした。一方、土休日は西武新宿駅 - 新所沢駅・本川越駅間で合わせて下り3本、上り4本のみの設定であった。2018年3月10日のダイヤ改正より、一部急行を格下げする形で休日夕夜間の準急が復活し、始発駅を17時以降に発車する列車が設定されたが、2019年3月16日のダイヤ改正で休日夕方の準急は再び急行に格上げされて消滅した。2022年のダイヤ改正で、土休日ダイヤの夕方時間帯から20時台に一部の急行から変更され、特に上りは小平駅基準で16時台から19時台まで約30分間隔となっている。 種別色は緑色である。 各駅に停車する。西武新宿駅 - 本川越駅間の全線を運転する列車のほか、西武新宿駅 - 上石神井駅・田無駅・新所沢駅間の区間列車が運行されている。昼間時間帯以外には西武新宿駅 - 玉川上水駅・拝島駅間の拝島線直通列車が運行されている。また、平日朝に西武新宿駅 - 多摩湖駅間の拝島線・多摩湖線直通電車が1往復、本川越発新所沢行きが1本(新所沢駅で始発の各駅停車西武新宿行きと接続)運転されている。各駅停車のみ停車する下落合駅 - 都立家政駅・下井草駅 - 上井草駅の各駅のホームの長さは8両分しかないため、基本的に8両編成で運転されるが、早朝・夕方・深夜には出入庫の関係で同区間を含まない列車が10両で運転される場合もある。野球開催時には、本川越 - 西武球場前間の列車も運転される。平日・土休日ともに本川越発所沢行きの列車が存在する。 2019年3月15日まで国分寺線直通列車も運行されていたが、東村山駅周辺の高架化工事進捗に伴い、2019年3月16日のダイヤ改正で一時的に直通運転は休止された(完成は2024年度の予定)。これを補完する目的で、日中時間帯に毎時1本運転されていた西武新宿駅 - 新所沢駅間の区間運転は本川越駅発着となり、新宿線の全線運転は毎時3本に変更された。国分寺線は各駅のホーム有効長が6両編成のため、直通列車は6両編成で運転されていた。 以前は「普通」と称していた。2008年4月頃まで駅の案内表や案内では、「準急」以上の列車の各駅停車区間も含めて「各駅停車」「各停」として案内されていたが、列車に表示される種別表記は「普通」となっていた。だが、30000系や新2000系更新車に搭載されたフルカラーLED表示器において「各停」の表記がなされるようになったのを皮切りに、「各停」の表記を行うようになった。 かつては西武園駅発西武新宿駅行きの列車も運転されていたが、2011年12月24日に東村山駅で脱線事故が発生し、その後運転が休止された。また2012年6月30日のダイヤ改正までは萩山駅で切り離しする10両編成の上石神井駅発拝島駅・西武遊園地駅(現:多摩湖駅)行きも存在した。 種別色は灰色である。 1980年から2012年まで運行。1998年3月のダイヤ改正を境に運行形態が変更されており、ここではそれ以前のものを初代、以降のものを2代として記述する。 初代の快速急行は1980年3月のダイヤ改正から1998年3月26日のダイヤ改正まで存在した。 後述の1998年3月26日から2012年6月29日まで運行されていた快速急行とは別の種別であり、 以上の4つが設定されていた。1990年までは行楽時期のみの不定期列車扱いでもあった。 停車駅も1998年から2012年まで運行されていたものとは異なり、本川越駅発着列車については西武新宿駅、高田馬場駅、鷺ノ宮駅、田無駅、所沢駅、狭山市駅、本川越駅。その他については西武新宿駅 - 田無駅間の急行停車駅、小平駅、(西武遊園地駅発着; 萩山駅、西武遊園地駅、晩年は八坂駅、武蔵大和駅にも停車)、東村山駅、(西武園駅発着;西武園駅)、所沢駅、西所沢駅、西武球場前駅だった。その後、他線への乗り入れを行う快速急行は臨時運転としてでも西武トレインフェスタ開催時の西武新宿駅 - 西武秩父駅間の列車や2000年2月20日に20000系通勤車両デビュー記念の一環として西武新宿駅 - 西武球場前駅間を1往復したのみである。詳細は「快速急行」と「西武鉄道のダイヤ改正」を参照。 1998年3月26日から2012年6月29日までの快速急行は、全列車が西武新宿駅 - 本川越駅間で平日のみに運転され、日中に上下線で運行されていたほか、朝8時台の下り2本が運行されていた。平日の日中は、60分サイクルのパターンダイヤの中で、西武新宿駅、本川越駅とも特急と交互に30分間隔で発車し、全線の所要時間が特急とほぼ変わらないことから、特急を補完する役割も果たしていた。また、全列車とも東村山駅または新所沢駅で先行する列車に接続した。以前は8両編成で運行されていたが、原則10両編成で運転された。1998年の運転開始当初「川越号」の愛称が付けられていたが、2008年6月14日のダイヤ改正で愛称が廃止された。 2007年3月6日のダイヤ改正から東村山駅と狭山市駅が停車駅に追加されたが、西武新宿駅 - 本川越駅間の最短所要時間は改正前の47分より1分短縮され46分となった。これに伴い、同改正まで狭山市駅には快速急行の上の種別である特急が停車し、代わりに快速急行は新所沢駅に停車する千鳥停車を行っていたが、これも解消された。 2011年3月5日のダイヤ改正で入曽駅・新狭山駅・南大塚駅が停車駅に追加され、新所沢駅 - 本川越駅間は各駅に停車するようになり、西武新宿駅 - 本川越駅間の所要時間は50分となった。そのため、入曽駅・新狭山駅・南大塚駅には快速急行が停車し、代わりに鷺ノ宮駅・上石神井駅には通勤急行が停車する千鳥停車が発生した。 特急「小江戸」運転開始前は土休日のみの運転であり、基本的には西武新宿駅 - 西武遊園地駅(現:多摩湖駅)、西武園駅(競輪開催時のみ。平日にも運転)、西武球場前駅(野球開催時のみ)、本川越駅間での運転であった(詳しくは前節の初代の項を参照)。 2012年6月30日のダイヤ改正で、日中の列車種別が各駅停車・急行・特急「小江戸」に統一され、朝ラッシュ時に運転していた下り2本も急行に格下げされたため廃止された。 2008年から2012年まで運行。 2008年6月14日のダイヤ改正より新設された拝島線直通の優等種別で、平日・土休日とも日中に運転された。急行よりも上位の種別であり、西武新宿駅 - 拝島駅間を急行より3分短い所要時間43分で結び、全ての列車が西武新宿駅 - 拝島駅間で運転された。拝島線では急行以下の種別は各駅に停車するため、同線唯一の優等種別となっていたほか、新宿線内で急行が停車する花小金井駅を通過した。このため、快速とは別の種別であった。 全ての列車が田無駅で玉川上水駅発着の各駅停車(一部は田無駅を始発・終着とする)と接続し、小平駅で本川越駅・新所沢駅発着の各駅停車と接続した。英文種別表記は池袋線系統の快速と同様「Rapid」であるが、自動放送のある車両では「Haijima Rapid」と放送された。 また、車両の種別表示においては「拝島快速」または「快速」であった。 ほとんどの列車が10両編成で運転されるが、一部列車は折り返し前後が各駅停車であることから8両編成で運転された(これは急行・準急も同様)。 快速急行と同様、2012年6月30日のダイヤ改正で廃止された。 1993年から2001年まで運行。 快速は1993年12月6日のダイヤ改正で新設された。通勤急行(前述)と同様に、それまで運転されていた平日朝ラッシュ時の千鳥停車の急行の停車駅を明確にする目的で運転された。上りのみの設定で、拝島駅・西武遊園地駅(現:多摩湖駅) - 西武新宿駅間に9本運転された。停車駅は田無駅までの各駅・鷺ノ宮駅・高田馬場駅・西武新宿駅で、田無駅 - 高田馬場駅間で上石神井駅を通過して鷺ノ宮駅に停車するという、当時の通勤急行とは千鳥停車になるダイヤだった。その後当時の通勤急行は停車駅の変更がなされ、当種別は2001年12月のダイヤ改正で急行に統合され消滅した。 新2000系や6000系、9000系が導入される1990年代前半まで3ドア車の天下であった池袋線とは対照的に、1977年の2000系運転開始以来4ドア車の比率が高くなっており、2022年現在は特急を除く全ての列車が4ドア車で運転されている。2000系・新2000系の運用には様々な組み合わせが見られ、6両(2000系または新2000系)と4両(新2000系)を連結した10両編成や、8両(新2000系)と2両(2000系または新2000系)を連結した10両編成、4両2本(新2000系)を連結した8両編成といったパターンがある。8両以上の編成が検査に入り、車両が不足気味である際は朝ラッシュ時を中心に4両2本と2両を繋げた10両編成が見られることがある。池袋線で2両と8両を連結する際は2両を飯能方に連結するのに対し、新宿線では2両と8両、6両と4両を連結する場合、連結順序は一定していない。 501系以前の17m車は省略 本路線には、平日朝ラッシュ時間帯に女性専用車が導入されている。詳細は以下の通り。 女性専用車で運行される列車には、西武鉄道公式サイトおよび対象となるホームの乗車口などに掲出されているほか、駅構内の備えられている時刻表に女性専用車であることを示すマークが付記されている。なお、当該時間帯の急行・通勤急行・準急であっても、8両編成で運転される列車では設定されていない。 ダイヤ混乱時は中止される。 2020年度の朝ラッシュ時最混雑区間は下落合駅 → 高田馬場駅間であり、ピーク時(7:24 - 8:24)の混雑率は113%である。 同線で最も乗降人員が多い駅は高田馬場駅である。起終点の西武新宿駅及び本川越駅はともに乗換駅ではあるが、単独駅であるため他路線との乗り換えが徒歩連絡となる。 混雑率は1993年度まで190%を超えていたが、その後は輸送人員の減少に伴い混雑が緩和した。1997年に都営地下鉄大江戸線の練馬駅 - 新宿駅間が開業した影響を受け、1998年度に混雑率が170%を下回った。 近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 新宿線は、歴史的に川越鉄道が1895年(明治28年)に全通させた国分寺駅 - 川越駅間の一部(東村山駅以北)と、川越鉄道の後身である西武鉄道(旧)が1927年(昭和2年)に開業した東村山駅以東の区間に大別できる。 国分寺 - 川越間の鉄道は、武蔵国入間郡、高麗郡、比企郡の物産を貨物輸送する目的で、1890年12月に仮免許が申請された。甲武鉄道が新宿駅 - 立川駅間(現在の中央本線)を既に開通させており、国分寺駅で接続して東京へ物資を運ぶ計画であった。翌1891年に甲武鉄道の関連会社として川越鉄道が設立され、1893年に工事を委託された甲武鉄道によって川越・国分寺両側から工事が着工された。しかし柳瀬川架橋工事で、架橋が狭く大水時に水害を呼ぶと反対運動が起こったため、柳瀬川南岸に久米川(仮)駅を設置し、1894年12月21日に国分寺駅 - 久米川(仮)駅間が先に開業した。これは現在の西武国分寺線に当たる。翌1895年3月21日に久米川駅(仮) - 川越駅(現・本川越駅)間が開通し、この路線(川越鉄道川越線)が現在の西武新宿線の東村山駅以北となっている。こうして、川越鉄道線は、川越 - 東村山 - 新宿・飯田町(現在の飯田橋駅に相当)という、川越から東京都心に至るまでの鉄道路線を形成した。 しかし、1906年の鉄道国有法の制定によって、乗り入れ先であった甲武鉄道は国有化され、川越鉄道は都心への直通ルートを失った。そのような中、大正に入ると、東上鉄道(現在の東武東上本線)と武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)が相次いで開業し、東京 - 埼玉県西部地域間の輸送競争が熾烈化。運用面でも運賃面でも不利な状況に迫られた川越鉄道は、いくつかの電力会社との合従連衡を経て、西武鉄道(旧)となった。 1923年の関東大震災により、都心から郊外鉄道沿線に移住する流れが起こり、郊外鉄道開業が相次ぐ。西武も独自の都心乗り入れを目指した。1916年に村山軽便鉄道の箱根ケ崎 - 吉祥寺間の免許を譲り受け、1922年には、淀橋 - 荻窪間を結ぶ西武軌道(のちの都電杉並線)を手中に収めた。こうして、かつての川越鉄道線と、西武軌道線を、村山軽便鉄道の免許線でつないで、川越 - 新宿間という、都心直結鉄道を作ることが目指されたが、西武軌道線は併用軌道で、高速運転には不向きであることから、この計画は放棄された。西武鉄道(旧)は、改めて別ルートでの都心乗り入れを目指し、1925年には井荻 - 高田馬場間、1926年には高田馬場 - 早稲田間の免許を得て、1927年4月16日に東村山駅 - 高田馬場駅間を村山線として複線・電化で開業するに至った。同時に川越線の東村山駅 - 川越駅間を電化し、現在と同じ高田馬場駅 - 川越駅間の直通運転を開始し、悲願の都心再乗り入れが果たされた。しかし、村山線は中央本線と武蔵野鉄道の中間地域を通過したため、輸送競争はさらに激化し、所沢駅を共用する武蔵野鉄道とは、社員間のトラブルが発生するほど険悪になった。しかし、第二次世界大戦期に行われた私鉄統合により、宿敵の武蔵野鉄道と合併して、現在の西武鉄道となり、両者の競争は終結した。 戦後の1952年、西武は国鉄新宿駅への乗り入れを目論んで、高田馬場から西武新宿駅へ延伸し、西武新宿駅 - 本川越駅を新宿線に改めた。一方、国鉄新宿駅への乗り入れは、予定地が手狭だったことから中止した。 輸送力増強のため、都内の一部区間の複々線化(地下方式)が計画されたが、バブル崩壊によって中止された。 高田馬場駅 - 下落合駅間で豊島区をわずかに通るが、駅はない。 日本国有鉄道(国鉄)新宿駅乗り入れの際に、高田馬場駅 - 西武新宿駅間に「西武大久保駅」ができる予定であった。 また、新宿大衆駅ビル開業後も、地下路線を利用して国鉄新宿駅に乗り入れる構想を捨てていなかった(地下急行線計画とは別である)。 バブル景気期、当線は利用客のさらなる伸びが見込まれ、飽和状態にあった輸送力状況を打開する切り札として、上石神井駅 - 西武新宿駅間(12.8 km)を複々線化する構想が何度も持ち上がっていた。在来線直下の地下40メートル-60メートルを掘削して地下線を増線し、工期と費用の点から地下線は高田馬場駅と西武新宿駅の2駅のみの急行線とする計画が事業化されることになった。地下線の西武新宿駅ホームは新宿駅寄りに設け、他線との乗り換えを改善する予定であった。 この計画は、1987年12月に特定都市鉄道整備事業計画の認定を受け、翌1988年9月に運輸大臣の認可が下り、特定都市鉄道整備積立金制度導入による運賃加算も行われた。シールド工法によるトンネルの調査設計は日本鉄道建設公団に依託され、工事は部分的に着手された。 ところが技術上の問題で工事費用が予定より膨らみ、景気減退や少子高齢化を背景とした見込み利用者数の減少、輸送人数に応じた避難経路を確保するための建設費高騰もあり、1995年1月になって計画は無期延期となった。その際、積立金として加算された分は、特別減算を実施し運賃の一時的な値下げが実施された。代わりに、新宿線の線形改良・ホーム改良工事等が実施されている。2008年3月31日に複々線化工事の竣功期限を迎え、延長されず失効している。 2019年に東京都は計画を廃止するための都市計画素案を作成した。その後、2021年11月26日付の東京都告示第1410号 (PDF) により線増部の都市計画が削除され、複々線化計画は正式に消滅した。 中野区議会は2015年3月9日に、中井駅 - 野方駅間の地下化工事に合わせた、東京メトロ東西線との相互直通運転に関する資料を公開した。現状の高田馬場駅は、新宿線ホームが地上2階に対し、東西線ホームが地下2階にあるため、乗り換えに多くの時間を費やすこと、さらには、高田馬場駅利用者にはJR山手線に乗り換える人もいるため、ラッシュ時に相当混雑していることなど、多くの問題を抱えていることなどを理由として、東西線との相互直通運転についても「実現に向け取り組んでいく」としている。 2020年9月に行われた東洋経済新報によるインタビューでも西武鉄道社長の喜多村樹美男は当線が西武新宿駅止まりなので沿線から都心に向かう乗客からの不満の声が多いとした上で、「新宿線の都心乗り入れのために東京メトロ東西線乗り入れなどといった様々な選択肢を検討している」と語っており、相互直通運転について、東京メトロなどと調整していることを明らかにしている。 新宿線では、距離を示すキロポストが起点である西武新宿駅から終点の本川越駅に向かって純粋に増えるよう設置されているわけではない。これは歴史的な経緯によるもので、おおむね以下の3区間に分かれており、キロ数が増える方向も下り方と上り方が混在している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "新宿線(しんじゅくせん)は、東京都新宿区の西武新宿駅と埼玉県川越市の本川越駅とを結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はSS。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "新宿区歌舞伎町に位置する西武新宿駅から高田馬場駅、所沢駅などを経由して本川越駅に至る首都圏の通勤通学路線である。また特急「小江戸」が運行され、埼玉県屈指の観光地である川越への観光輸送を担っている。東京から川越方面へのアクセスにおいては起点駅や経路が異なるものの、東日本旅客鉄道(JR東日本)の埼京線・川越線や東武東上線と競合関係にあるが、直線的なルートを採用している東武東上線よりも、JRや当路線は川越まで迂回するルートを通っているため所要時間の面で不利となっている。また終点の本川越駅は東武東上線やJR東日本の川越線が乗り入れる川越市の中心駅の川越駅とは離れた場所に位置している一方で、時の鐘を含む川越の観光名所や旧市街地へは同駅が最寄りである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "小平駅から拝島線が分岐しており、直通列車も多数運転されるため、同線からの通勤・通学も受け持っているといえる。西武新宿駅 - 小平駅 - 拝島線拝島駅間はJR中央線・青梅線と競合し、有料座席指定列車の「拝島ライナー」が運行されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "所沢駅で接続している池袋線とともに西武鉄道の主要路線である。歴史的経緯から西武鉄道の鉄道路線は池袋線系統(旧・武蔵野鉄道)、新宿線系統(旧・西武鉄道)とその他の路線に大別でき、当路線の高田馬場駅 - 東村山駅間は旧・西武鉄道、東村山駅 - 本川越駅間は現在の国分寺線(国分寺駅 - 東村山駅)とともに旧・西武鉄道の前身である川越鉄道によって建設された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "起点の西武新宿駅はJRや私鉄・地下鉄各線が乗り入れる新宿駅から500 m北側の歌舞伎町に所在しているため、他路線との乗り換えが不便なことから1つ隣の高田馬場駅が実質的な乗り換え駅・ターミナル駅として機能しており、当路線の利用者数は西武新宿駅より高田馬場駅の方が圧倒的に多い。当初、西武新宿駅は新宿線の仮駅として開業し、最終的には新宿駅東口駅ビル(現在のルミネエスト新宿)まで延伸する予定であったが、当時はホーム有効長6両編成2線分までしかスペースが確保できなかったため延伸を断念した経緯がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、山手線周辺から郊外に延びる総延長15 km以上の大手私鉄路線では、唯一地下鉄との相互乗り入れを行っていない。さらに、構想こそあったものの複々線区間が全く存在しない路線でもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "西武新宿駅は頭端式ホーム2面3線で、JR東日本の新宿駅東口から北側おおよそ500 mに位置する。同駅を出てすぐに、JR東日本の中央線快速電車・中央総武線各駅停車が左にカーブしながら離れていく。進行方向左手に現れるJR東日本の山手線と、埼京線および湘南新宿ラインが通る山手貨物線に併走して北進する。職安通りのガードを越えて少々走ると、JR山手線の新大久保駅が現れるが、新宿線に駅は設けられていない。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "海城中学校・高等学校、保善高等学校の校舎を通過しながらほぼ直線状に進むと、JR山手線、東京メトロ東西線との乗換駅であり、この区間を通る全旅客営業列車が停車する高田馬場駅に到着する。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "高田馬場駅を出ると少し右にカーブした後に急な坂を下る。そして左に急カーブしながら神田川を跨ぎ、その直後に山手線をくぐっても、さらに急カーブは続き、結果的に進路を西に取る。この区間は曲線半径が158 m、30.3 ‰の下り勾配のため、35 km/hの速度制限を受ける。ここで高架から地上に降りるが、これ以降ではごく一部を除いて高架や盛土区間を走らない。山手線をくぐった後は新目白通りとしばらく併走し、それから少し左へ曲がって分かれると妙正寺川に接し、その後下落合駅に着く。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "下落合駅を出ると、再び少し左に曲がる。住宅密集地を進みながら妙正寺川を渡ると、中井駅に着く。同駅は山手通りの下にあり、中線が1本ある待避駅で、都営地下鉄大江戸線との乗換駅である。なお、下落合駅寄りはカーブしており、ポイント通過の際に列車が大きく揺れる地点でもある。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "中井駅を出ると、S字カーブを描きながら、蛇行する妙正寺川を再び渡る。その後300 mほど進むと、新井薬師前駅に着く。同駅は新宿線の中でも特にホームがカーブしている。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "新井薬師前駅を出ると、住宅密集地をさらに進みながら妙正寺川をもう一度渡り、左に曲がりながらポイントを通過し、沼袋駅に着く。同駅はかつて内側2線の通過線を持った相対式ホームであったが、現在は後述の連続立体交差事業の関係で2面2線の相対式ホームと通過線が1線の2面3線という形態になっている。事業完成時には島式ホーム2面4線となる。また、駅前は京王バスが発着するが、街路が狭隘なため、南行一方通行のみである。ここに限らず都心寄りは狭隘な駅前を持つところが多い。なお、中井駅から野方駅までのうち中野区内の、おおよそ2.4 kmの区間では、既に連続立体交差事業による地下化工事が始まっており、完成時には中野通りを含む7箇所の踏切が撤去される予定である。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "沼袋駅を出ると、急なS字カーブを描く。その後、連続立体交差事業区間が終わると野方駅に着く。なお、同駅直下では環七通りを跨いでいる。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "野方駅を出るとほどなく都立家政駅に着く。同駅で進路を西に変える。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "都立家政駅を出ると、すぐに下り線のみ待避可能な2面3線の鷺ノ宮駅に到着する。都立家政駅 - 鷺ノ宮駅間の距離は、0.5 kmと新宿線では最短である。なお、この高田馬場駅 - 鷺ノ宮駅間は半径300 - 600 mのカーブが連続するため、列車の速度が抑えられることになる。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "鷺ノ宮駅を出ると、その西側の踏切で中杉通りと平面交差する。その先で少し右にカーブした後は、多少のアップダウンこそあれど、比較的線形が良くなる。かつて存在した西鷺宮駅の跡地を通りすぎると、下井草駅に着く。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "下井草駅を出ると、車窓ではちらほらと畑が見え、少し左へカーブすると鷺ノ宮駅 - 上石神井駅間では唯一の、1本の通過線を有する井荻駅に着く。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "井荻駅を出るとすぐに環八通りと立体交差するが、電車から見える高架橋以外に地下トンネル(井荻トンネル)でも交差している。その後中線が合流し、ほどなく上井草駅に着く。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "上井草駅を出ると、この付近からは住宅の密集度が低くなり、景観が武蔵野らしくなってくる。千川通りを踏切で平面交差した先に、上石神井車両基地が南に広がり、複雑な分岐器を越えると島式ホーム2面3線の上石神井駅に到着する。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "同駅のホームや階段は狭隘で、ホーム端はすぐ踏切となる。なお、同駅付近で東京外環自動車道が交差する計画である。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "この区間では勾配は多いが、線形はさらに良くなる。上石神井駅を出るとほどなく下り勾配が始まり、武蔵関駅に着く。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "武蔵関駅を出ると、その先で石神井川と並行する。武蔵関公園の北側をかすめると上り勾配となり、東京23区から外れると東伏見駅に着く。同駅は新宿線では珍しい島式ホーム2面4線の待避駅である。また、東伏見駅以西の各駅には多摩湖線を除くほぼ全ての駅に駅前広場が整備されている。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "東伏見駅を出ると、途中南側に東伏見公園の緑を見ながら非常にゆるい左カーブを描き、伏見通り(東京都道233号東大泉田無線支線)のアンダーパスを乗り越し、若干の盛土と掘割区間を経て西武柳沢駅に着く。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "西武柳沢駅を出ると、数少ない高架区間となっており、第二次世界大戦中に中島飛行機武蔵野製作所への陸軍鉄道連隊が作った専用線のガードを越えて青梅街道と武蔵境通りのバイパスを乗り越す。再び地上に戻り武蔵境通りと平面交差すると田無駅に到着する。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "同駅は特急「小江戸」と拝島ライナー以外のすべての種別が停車する主要駅だが、島式ホーム2面3線の設備である。この配線が新宿線の特徴である。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "田無駅を出ると、そこには本川越駅寄りに引上線がある。それを横目に住宅街を西へ進む。線路北側の家並の向こうにはスカイタワー西東京が見える。西東京市と小平市の市境付近より右カーブし、これより東村山駅の手前まで、進路を北西に取る。カーブを終えると、花小金井駅に着く。同駅は島式ホーム1本であるが、かつては2面3線だった名残でホーム幅が広い。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "花小金井駅を出るとすぐに小金井街道と平面交差する。道幅は広いが、南北を結ぶ西武バスの各路線が通り、同踏切が原因でしばしば渋滞が発生している。花小金井駅からはすぐ南には多摩湖自転車歩行者道が通っており、ここから次駅小平駅付近まで併走する。その後住宅と畑が混在する一帯をしばらく進むと青梅街道と斜めに平面交差するが、同踏切の前後はかなり急なS字カーブで、列車が減速するため踏切渋滞に拍車をかけている。また、踏切横には公立昭和病院があるため、救急車がしばしば立往生している。なお、このカーブにはかつて東小平駅が設置されていた。カーブを過ぎると新小金井街道が下をくぐる。付近は畑が目立ち、空が広く感じる一帯である。やがて上下線の間に引上線が割り込み、拝島線と分岐する島式ホーム2面4線の小平駅に到着する。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "同駅は2面4線であるが、待避駅ではなく拝島線との分岐駅となっている。このため小平駅までは複線であったのが、小平駅を出た直後は複々線のようになっている。小平駅の北西に小平霊園があるため、駅付近には墓石屋が多く、春秋の彼岸の時期には北口前に露店が並び賑やかになる。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "小平駅を出てしばらく拝島線と併走するが、その後拝島線は左に曲がって分かれていく。右手に小平霊園を見ながら進んでいくと久米川駅に着く。同駅は分岐駅に挟まれていることもあり、駅として地味な存在ではあるが、それとは裏腹に駅周辺には都市銀行の支店やスーパーが充実している。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "久米川駅を出るとすぐに空堀川を跨いだ後、新青梅街道をくぐる。野方駅辺りからここまでは新青梅街道に併走する形で進んできたが、分岐して東村山駅の手前で右カーブして北へ進む。このカーブの所で府中街道と平面交差する。主要道路との平面交差であるので、しばしば渋滞する地点である。カーブを過ぎると左側に国分寺線が現れ、東村山駅まで併走する。その後、後述の連続立体交差事業により建設中の高架橋を見ながら、特急「小江戸」も停車する3面6線の東村山駅に到着する。なお、新青梅街道との交差地点から先、東村山駅の先の都県境付近までの約2.3 km区間、高架による連続立体交差化事業が進められている。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "東村山駅は東に市役所などがある市の中心部のため、東口側は以前から駅前広場が整備されている。一方、昔ながらの雰囲気を残していた西口も2009年に新たな駅前広場が整備されるなど、再開発事業はほぼ完了した。ただ、依然として狭い道が多い地域となっている。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "東村山駅を出ると、西武園線としばらく併走する。やがて西武園線が左にそれ、住宅街ながらも緑の多い一帯を北に進む。盛土を走るようになると視界が開け、左に低い山並みを見ることができる。ここは八国山緑地と呼ばれ、映画『となりのトトロ』のモデルとなった場所でもある。埼玉県に入ってすぐ左に国際航空専門学校があり、小型航空機やヘリコプターを見ることができる。盛土が終わると所沢街道の秋津橋と、さらに池袋線が頭上で立体交差し、複雑な分岐器を通って、池袋線と接続し、特急「小江戸」も停車する、所沢駅に到着する。かつては駅手前の踏切の先で西武所沢車両工場へ引き込み線が分岐していた。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "同駅は3面5線構造で、複雑な線路配置であるが、新宿線だけを見ると、基本的に相対式ホーム2面2線と言える。改良工事が終了し、駅舎やコンコースが拡大されたものの配線自体に大きな変化はない。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "所沢駅を出てすぐに左へカーブし、進路は再び北西に取ることとなる。再び盛土区間となり、東川のガードからは直線区間が続く。なお、このあたりにはかつて所沢御幸町駅が存在したが、同駅が北に移転して新所沢駅となった。東側は所沢航空記念公園が一帯に広がり、西側は一方通行であったり、狭隘であっても線路沿いに道路が設けられており、東側のマンションや大規模団地開発に際しての配慮と思われる区間でもある。新宿線内では最も新しい駅・航空公園駅に着く。市役所や所沢市民文化センター ミューズ、簡易裁判所、税務署、公共職業安定所等の主だった公共機関が航空公園駅東口周辺に移転してきたこともあり、所沢市の行政の中心とも言える。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "航空公園駅を出ると、住宅地をくぐり抜け、島式ホーム2面4線の新所沢駅に到着する。新所沢駅界隈も道路整備や街並みの整備により、以前とはまた違った顔を見せる。開業時から繁華街として栄えた西口にはパルコ等のテナントや、居酒屋が多く見受けられる。南入曽車両基地へ出入する電車は、同駅始発・終着となる。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "新所沢駅を出ると、そこから次の入曽駅まではずっと直線である。両駅のほぼ中間、県道所沢狭山線が斜めに平面交差した先に南入曽車両基地がある。周囲は住宅地よりも農地が目立つ。その後直進すると、入曽駅に着く。新所沢駅 - 入曽駅間の距離は、新宿線では最長の3.9 kmである。なお同駅は、東伏見駅以西の各駅の中では唯一駅前広場が整備されていない。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "入曽駅を出ると、県道川越入間線と平面交差した辺りで緩い右カーブをなし、しばらく進むと左手に航空自衛隊入間基地が広がる。基地の東側に沿って進み、基地が終わると県道所沢狭山線が頭上を乗り越え、しばらくやや急な右カーブを通ると、狭山市駅に到着する。相対式ホーム2面2線の特急「小江戸」停車駅である。バス路線が集中する駅の西側は駅前広場が無く道幅も狭いなど問題が多かったため、駅舎を含めた再開発事業が実施され、2012年に完了した。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "狭山市駅を出ると、しばらく右カーブした後は直線状に走る。この右カーブの先の進路は北東となる。なお、ここから脇田信号場手前までの区間は線路がほぼ直線であるため、比較的高速運転が可能である。その後しばらく走行すると、新狭山駅に着く。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "新狭山駅を出ると川越狭山工業団地の中をひたすら走り、その途中で川越市に入る。しばらくすると、かつて安比奈線との分岐駅であった南大塚駅に着く。安比奈線は1963年より長らく休止となっていたが、2017年5月31日を以て廃止となった。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "南大塚駅を出てすぐに、関越自動車道のガードをくぐって速度を上げる。狭山市駅付近から国道16号線とは併走していたが、この区間は特に至近距離で併走するため、同線沿いの店舗などがよく見える。なお、この区間にはかつて川越競馬場前駅という臨時駅が設置されていた。やがて列車は減速しながら国道16号線とは立体交差して分かれ、すぐ近くの脇田信号場で新宿線では唯一の単線区間へ入り、その後左にカーブする。この区間が単線であることの理由は、JR川越線と東武東上線のガードをくぐる所の用地確保が困難であることなどがある。同ガードをくぐったあとに踏切を越え、再び線路が分かれると、終点・頭端式ホーム2面3線の本川越駅に到着する。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "運転される列車種別は、後述の「列車種別」の節の通りであるが、基本的に速達列車が途中駅から各駅停車となる典型的な郊外電車型の運行形態である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "新宿線内のみを運転する列車のほかに、接続する西武の他線との直通運転が多く設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "このほか、2016年4月17日より西武4000系(4009F)を使用した「旅するレストラン 52席の至福」が1往復、土曜・休日を中心に年間100日程度運転される。西武新宿駅 - 所沢駅 - 西武秩父駅間(所沢駅および飯能駅では、進行方向が変わるのと乗務員交代を行なう目的での運転停車)で運転されているほか、2016年12月18日からは西武新宿駅 - 本川越駅間の新宿線全区間でも運転が始まった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "車両基地は、上石神井車両基地と南入曽車両基地、拝島線に玉川上水車両基地が設置されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2022年3月16日ダイヤ改正時点での日中1時間あたりの運行本数は以下のようになっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "停車駅は「駅一覧」を参照。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1993年12月6日のダイヤ改正で新設。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "終日運転される有料特急。「小江戸」の愛称があり、車両は10000系ニューレッドアローが使用される。全列車が西武新宿駅 - 本川越駅間の往復である。1993年の「小江戸」運転開始当初は所要時間43分で走破していたが、2013年3月16日より東村山駅が正式に停車駅として追加された。そのため、現行ダイヤでの所要時間は最短45分である。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1993年までは西武新宿駅 - 西武秩父駅間で、休日のみ「おくちちぶ」号を運転していたほか、送り込みとして西武新宿駅 - 本川越駅間(上りは所沢駅発)を1往復「むさし」号として運転していた。(当時の使用車両は5000系)", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2011年から2014年までは拝島線に直通する臨時特急が運行されていた。2011年度は新宿線内は西武新宿駅・高田馬場駅・田無駅・小平駅に停車していたが、2012年度以降は田無駅は通過するようになった。なお、2011年・2012年度は乗車駅が西武新宿駅・高田馬場駅に限定されていたが、2013年度からは限定なく途中乗車可能となっていた。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2018年3月10日のダイヤ改正から運行が開始された座席指定制列車。車両は40000系のロングシート・クロスシート転換車が使用される。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "拝島線へ直通運転し、夕方・夜間に西武新宿駅発拝島駅行きが6本運転される。停車駅は高田馬場駅(乗車専用)、小平駅から先の拝島線の各駅。西武新宿駅・高田馬場駅から乗車する場合は座席指定券が必要となるが、小平駅から先の各駅では乗車券のみで利用できる。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2023年3月18日のダイヤ改正で上り列車(拝島駅発西武新宿行)が設定された。平日朝に2本運転され、全区間で座席指定券が必要となる。停車駅は拝島線の各駅(乗車専用)、高田馬場駅(降車専用)、西武新宿駅。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2020年3月14日のダイヤ改正で再設定。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "快速急行は川越へのアクセス向上を目的として、土休日に西武新宿駅 → 本川越駅で下り1本のみ運行。当初は西武新宿発9時33分と10時21分の2本が設定され、本川越駅への所要時間が最短46分と急行と比べると10分短縮された。当路線では急行停車駅である鷺ノ宮駅と上石神井駅を通過し、田無駅に停車する。田無駅から先も通過駅がある(停車駅は駅一覧を参照)。これは2012年に廃止された快速急行「川越号」(廃止時は列車愛称なし)の廃止直前の停車駅と同一である。2022年3月12日のダイヤ改正で西武新宿発9時00分の1本に削減された。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "50090系がクロスシートで使用される東武東上線の「川越特急」と異なり40000系は使用されない。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "種別色は池袋線と同じ紫色。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1993年のダイヤ改正で新設。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "通勤急行は本川越駅・所沢駅から高田馬場・西武新宿方面への速達を目的に平日朝ラッシュ時の本川越駅発1本のみ運転される。後述の急行では各駅に停車する本川越駅 - 田無駅間も急行運転を実施する。拝島線の乗換駅である小平駅は停車しない。なお、この時間帯にも急行は運転されている。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1993年にそれまで運転されていた平日朝ラッシュ時の千鳥停車の急行の停車駅を明確にする目的で、快速(現在は廃止)とともに登場した。当時は現在のような田無駅以西での急行運転を実施せず、田無駅 - 高田馬場駅間で上石神井駅に停車し、鷺ノ宮駅を通過する種別を通勤急行と呼称した。また、現在は所沢駅 - 本川越駅間の途中停車駅は新所沢駅・狭山市駅のみだが、当時この区間は各駅停車であった。現在の停車駅となったのは2001年12月からで、朝ラッシュ時の所沢・本川越方面から西武新宿方面への速達列車の色合いが強くなった。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "種別色は黄色またはオレンジ色である。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "急行は当路線の主力優等種別であり、本川越方面・拝島方面ともに終日運転される。基本的には西武新宿駅 - 新所沢駅・本川越駅・拝島駅間で運転されている。日中時間帯は平日ダイヤが一部時間帯のみ1時間に5本の約12分間隔で、本川越発着が3本・拝島駅発着が2本で構成される。それ以外の日中時間帯の平日ダイヤ及び土休日ダイヤは1時間に6本で、本川越駅発着と拝島駅発着が20分間隔で交互に運転されており、西武新宿駅 - 小平駅間では10分間隔となる。編成両数は10両編成での運転が基本であるが、平日・土休日ともに一部で8両編成で運転する列車が存在する(後述の準急も同様)。また、玉川上水駅発着の列車が土休日の朝に下り1本と夕方に上り1本、田無駅発着の列車が平日の朝に下り1本、土休日の夕方以降に上り2本が設定されている。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "各駅停車との接続は昼間時間帯は下りは鷺ノ宮駅で、上りは上石神井駅で行われる。また小平駅では本川越駅発着の列車は小平駅 - 玉川上水駅・拝島駅間を運転する各駅停車に、拝島駅発着の列車は西武新宿駅 - 新所沢駅・本川越駅間の各駅停車に接続する。平日夕方時間帯(20時まで)は下りは中井駅で各停を追い越し、鷺ノ宮駅・上石神井駅・小平駅で接続する。平日朝ラッシュ以外の時間帯は下りは鷺ノ宮駅・小平駅で接続、上りは小平駅(拝島方面からの列車)または田無駅(所沢方面からの列車)と上石神井駅で接続する。平日朝ラッシュ時は列車によって異なる接続をする。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "下り列車の田無駅から終点までは、方向幕では急行と表示されても、発車標では各停と表示される(これは後述の準急も同様)。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ほぼ終日にわたり、下り列車の拝島・本川越方面行きは鷺ノ宮駅・上石神井駅・東村山駅・新所沢駅のいずれかで(拝島方面行は朝夕のみ)、また本川越方面からの上り列車は新所沢駅・東村山駅のいずれかで特急に抜かれる。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "西武ドームでの野球等イベント開催時には、平日ナイターでは西武新宿駅 - 所沢駅 - 池袋線西所沢駅 - 狭山線西武球場前駅間の臨時列車が、土休日デーゲーム他不定期に西武新宿駅 - 小平駅 - 拝島線萩山駅 - 多摩湖線多摩湖駅間の臨時列車が運転される(多摩湖駅から山口線乗り換えで西武球場前駅)。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1993年のダイヤ改正以前は、平日朝ラッシュ時の上りに限り通常の急行以外に、田無駅 - 高田馬場駅間で途中、上石神井駅にのみ停車する急行(本川越駅発)と、鷺ノ宮駅にのみ停車する急行(拝島駅・西武遊園地駅〈現:多摩湖駅〉発)が運転されていた。停車駅こそ違ったが、どの種別も一括して「急行」と呼称され不明確であったため、ダイヤ改正後は前者を通勤急行、後者を快速と呼称するようになった。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "かつては萩山駅で連結・切り離し作業を行う列車(西武新宿駅寄り4両が西武遊園地駅発、拝島駅寄り6両が拝島駅発)も存在していたが、2013年3月15日を以って運行を終了した。2016年3月21日までの土休日は西武遊園地駅発着の列車もあり、この列車は多摩湖線のホーム有効長の関係上8両編成で運転されていた。2016年3月26日実施のダイヤ改正で、西武ドームにおけるプロ野球試合開催日や夏休みなどの不定期運転に格下げされ、上りは2本とも田無駅始発を延長して不定期的に運転する形を取った。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "種別色は朱色・赤文字である。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "準急は、急行を補完する形で日中以外の時間帯に運行される。基本的には西武新宿駅 - 田無駅・新所沢駅・本川越駅・拝島駅間の運転系統が基本である。早朝・深夜の一部を除き、多くの列車が鷺ノ宮駅以遠の停車駅で、急行・拝島ライナー・特急に追い抜かれる。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "かつては終日にわたり運行されていたが、大部分の列車は2012年6月30日のダイヤ改正で急行に格上げされる形で廃止された一方、2013年3月18日からは拝島駅発着の準急を平日限定で朝・夕方・夜にも運行し、また本川越駅発の急行の一部を準急に格下げして本数を増やした。一方、土休日は西武新宿駅 - 新所沢駅・本川越駅間で合わせて下り3本、上り4本のみの設定であった。2018年3月10日のダイヤ改正より、一部急行を格下げする形で休日夕夜間の準急が復活し、始発駅を17時以降に発車する列車が設定されたが、2019年3月16日のダイヤ改正で休日夕方の準急は再び急行に格上げされて消滅した。2022年のダイヤ改正で、土休日ダイヤの夕方時間帯から20時台に一部の急行から変更され、特に上りは小平駅基準で16時台から19時台まで約30分間隔となっている。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "種別色は緑色である。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "各駅に停車する。西武新宿駅 - 本川越駅間の全線を運転する列車のほか、西武新宿駅 - 上石神井駅・田無駅・新所沢駅間の区間列車が運行されている。昼間時間帯以外には西武新宿駅 - 玉川上水駅・拝島駅間の拝島線直通列車が運行されている。また、平日朝に西武新宿駅 - 多摩湖駅間の拝島線・多摩湖線直通電車が1往復、本川越発新所沢行きが1本(新所沢駅で始発の各駅停車西武新宿行きと接続)運転されている。各駅停車のみ停車する下落合駅 - 都立家政駅・下井草駅 - 上井草駅の各駅のホームの長さは8両分しかないため、基本的に8両編成で運転されるが、早朝・夕方・深夜には出入庫の関係で同区間を含まない列車が10両で運転される場合もある。野球開催時には、本川越 - 西武球場前間の列車も運転される。平日・土休日ともに本川越発所沢行きの列車が存在する。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2019年3月15日まで国分寺線直通列車も運行されていたが、東村山駅周辺の高架化工事進捗に伴い、2019年3月16日のダイヤ改正で一時的に直通運転は休止された(完成は2024年度の予定)。これを補完する目的で、日中時間帯に毎時1本運転されていた西武新宿駅 - 新所沢駅間の区間運転は本川越駅発着となり、新宿線の全線運転は毎時3本に変更された。国分寺線は各駅のホーム有効長が6両編成のため、直通列車は6両編成で運転されていた。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "以前は「普通」と称していた。2008年4月頃まで駅の案内表や案内では、「準急」以上の列車の各駅停車区間も含めて「各駅停車」「各停」として案内されていたが、列車に表示される種別表記は「普通」となっていた。だが、30000系や新2000系更新車に搭載されたフルカラーLED表示器において「各停」の表記がなされるようになったのを皮切りに、「各停」の表記を行うようになった。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "かつては西武園駅発西武新宿駅行きの列車も運転されていたが、2011年12月24日に東村山駅で脱線事故が発生し、その後運転が休止された。また2012年6月30日のダイヤ改正までは萩山駅で切り離しする10両編成の上石神井駅発拝島駅・西武遊園地駅(現:多摩湖駅)行きも存在した。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "種別色は灰色である。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "1980年から2012年まで運行。1998年3月のダイヤ改正を境に運行形態が変更されており、ここではそれ以前のものを初代、以降のものを2代として記述する。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "初代の快速急行は1980年3月のダイヤ改正から1998年3月26日のダイヤ改正まで存在した。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "後述の1998年3月26日から2012年6月29日まで運行されていた快速急行とは別の種別であり、", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "以上の4つが設定されていた。1990年までは行楽時期のみの不定期列車扱いでもあった。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "停車駅も1998年から2012年まで運行されていたものとは異なり、本川越駅発着列車については西武新宿駅、高田馬場駅、鷺ノ宮駅、田無駅、所沢駅、狭山市駅、本川越駅。その他については西武新宿駅 - 田無駅間の急行停車駅、小平駅、(西武遊園地駅発着; 萩山駅、西武遊園地駅、晩年は八坂駅、武蔵大和駅にも停車)、東村山駅、(西武園駅発着;西武園駅)、所沢駅、西所沢駅、西武球場前駅だった。その後、他線への乗り入れを行う快速急行は臨時運転としてでも西武トレインフェスタ開催時の西武新宿駅 - 西武秩父駅間の列車や2000年2月20日に20000系通勤車両デビュー記念の一環として西武新宿駅 - 西武球場前駅間を1往復したのみである。詳細は「快速急行」と「西武鉄道のダイヤ改正」を参照。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "1998年3月26日から2012年6月29日までの快速急行は、全列車が西武新宿駅 - 本川越駅間で平日のみに運転され、日中に上下線で運行されていたほか、朝8時台の下り2本が運行されていた。平日の日中は、60分サイクルのパターンダイヤの中で、西武新宿駅、本川越駅とも特急と交互に30分間隔で発車し、全線の所要時間が特急とほぼ変わらないことから、特急を補完する役割も果たしていた。また、全列車とも東村山駅または新所沢駅で先行する列車に接続した。以前は8両編成で運行されていたが、原則10両編成で運転された。1998年の運転開始当初「川越号」の愛称が付けられていたが、2008年6月14日のダイヤ改正で愛称が廃止された。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2007年3月6日のダイヤ改正から東村山駅と狭山市駅が停車駅に追加されたが、西武新宿駅 - 本川越駅間の最短所要時間は改正前の47分より1分短縮され46分となった。これに伴い、同改正まで狭山市駅には快速急行の上の種別である特急が停車し、代わりに快速急行は新所沢駅に停車する千鳥停車を行っていたが、これも解消された。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "2011年3月5日のダイヤ改正で入曽駅・新狭山駅・南大塚駅が停車駅に追加され、新所沢駅 - 本川越駅間は各駅に停車するようになり、西武新宿駅 - 本川越駅間の所要時間は50分となった。そのため、入曽駅・新狭山駅・南大塚駅には快速急行が停車し、代わりに鷺ノ宮駅・上石神井駅には通勤急行が停車する千鳥停車が発生した。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "特急「小江戸」運転開始前は土休日のみの運転であり、基本的には西武新宿駅 - 西武遊園地駅(現:多摩湖駅)、西武園駅(競輪開催時のみ。平日にも運転)、西武球場前駅(野球開催時のみ)、本川越駅間での運転であった(詳しくは前節の初代の項を参照)。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "2012年6月30日のダイヤ改正で、日中の列車種別が各駅停車・急行・特急「小江戸」に統一され、朝ラッシュ時に運転していた下り2本も急行に格下げされたため廃止された。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "2008年から2012年まで運行。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "2008年6月14日のダイヤ改正より新設された拝島線直通の優等種別で、平日・土休日とも日中に運転された。急行よりも上位の種別であり、西武新宿駅 - 拝島駅間を急行より3分短い所要時間43分で結び、全ての列車が西武新宿駅 - 拝島駅間で運転された。拝島線では急行以下の種別は各駅に停車するため、同線唯一の優等種別となっていたほか、新宿線内で急行が停車する花小金井駅を通過した。このため、快速とは別の種別であった。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "全ての列車が田無駅で玉川上水駅発着の各駅停車(一部は田無駅を始発・終着とする)と接続し、小平駅で本川越駅・新所沢駅発着の各駅停車と接続した。英文種別表記は池袋線系統の快速と同様「Rapid」であるが、自動放送のある車両では「Haijima Rapid」と放送された。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "また、車両の種別表示においては「拝島快速」または「快速」であった。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "ほとんどの列車が10両編成で運転されるが、一部列車は折り返し前後が各駅停車であることから8両編成で運転された(これは急行・準急も同様)。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "快速急行と同様、2012年6月30日のダイヤ改正で廃止された。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "1993年から2001年まで運行。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "快速は1993年12月6日のダイヤ改正で新設された。通勤急行(前述)と同様に、それまで運転されていた平日朝ラッシュ時の千鳥停車の急行の停車駅を明確にする目的で運転された。上りのみの設定で、拝島駅・西武遊園地駅(現:多摩湖駅) - 西武新宿駅間に9本運転された。停車駅は田無駅までの各駅・鷺ノ宮駅・高田馬場駅・西武新宿駅で、田無駅 - 高田馬場駅間で上石神井駅を通過して鷺ノ宮駅に停車するという、当時の通勤急行とは千鳥停車になるダイヤだった。その後当時の通勤急行は停車駅の変更がなされ、当種別は2001年12月のダイヤ改正で急行に統合され消滅した。", "title": "列車種別" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "新2000系や6000系、9000系が導入される1990年代前半まで3ドア車の天下であった池袋線とは対照的に、1977年の2000系運転開始以来4ドア車の比率が高くなっており、2022年現在は特急を除く全ての列車が4ドア車で運転されている。2000系・新2000系の運用には様々な組み合わせが見られ、6両(2000系または新2000系)と4両(新2000系)を連結した10両編成や、8両(新2000系)と2両(2000系または新2000系)を連結した10両編成、4両2本(新2000系)を連結した8両編成といったパターンがある。8両以上の編成が検査に入り、車両が不足気味である際は朝ラッシュ時を中心に4両2本と2両を繋げた10両編成が見られることがある。池袋線で2両と8両を連結する際は2両を飯能方に連結するのに対し、新宿線では2両と8両、6両と4両を連結する場合、連結順序は一定していない。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "501系以前の17m車は省略", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "本路線には、平日朝ラッシュ時間帯に女性専用車が導入されている。詳細は以下の通り。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "女性専用車で運行される列車には、西武鉄道公式サイトおよび対象となるホームの乗車口などに掲出されているほか、駅構内の備えられている時刻表に女性専用車であることを示すマークが付記されている。なお、当該時間帯の急行・通勤急行・準急であっても、8両編成で運転される列車では設定されていない。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "ダイヤ混乱時は中止される。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2020年度の朝ラッシュ時最混雑区間は下落合駅 → 高田馬場駅間であり、ピーク時(7:24 - 8:24)の混雑率は113%である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "同線で最も乗降人員が多い駅は高田馬場駅である。起終点の西武新宿駅及び本川越駅はともに乗換駅ではあるが、単独駅であるため他路線との乗り換えが徒歩連絡となる。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "混雑率は1993年度まで190%を超えていたが、その後は輸送人員の減少に伴い混雑が緩和した。1997年に都営地下鉄大江戸線の練馬駅 - 新宿駅間が開業した影響を受け、1998年度に混雑率が170%を下回った。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "新宿線は、歴史的に川越鉄道が1895年(明治28年)に全通させた国分寺駅 - 川越駅間の一部(東村山駅以北)と、川越鉄道の後身である西武鉄道(旧)が1927年(昭和2年)に開業した東村山駅以東の区間に大別できる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "国分寺 - 川越間の鉄道は、武蔵国入間郡、高麗郡、比企郡の物産を貨物輸送する目的で、1890年12月に仮免許が申請された。甲武鉄道が新宿駅 - 立川駅間(現在の中央本線)を既に開通させており、国分寺駅で接続して東京へ物資を運ぶ計画であった。翌1891年に甲武鉄道の関連会社として川越鉄道が設立され、1893年に工事を委託された甲武鉄道によって川越・国分寺両側から工事が着工された。しかし柳瀬川架橋工事で、架橋が狭く大水時に水害を呼ぶと反対運動が起こったため、柳瀬川南岸に久米川(仮)駅を設置し、1894年12月21日に国分寺駅 - 久米川(仮)駅間が先に開業した。これは現在の西武国分寺線に当たる。翌1895年3月21日に久米川駅(仮) - 川越駅(現・本川越駅)間が開通し、この路線(川越鉄道川越線)が現在の西武新宿線の東村山駅以北となっている。こうして、川越鉄道線は、川越 - 東村山 - 新宿・飯田町(現在の飯田橋駅に相当)という、川越から東京都心に至るまでの鉄道路線を形成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "しかし、1906年の鉄道国有法の制定によって、乗り入れ先であった甲武鉄道は国有化され、川越鉄道は都心への直通ルートを失った。そのような中、大正に入ると、東上鉄道(現在の東武東上本線)と武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)が相次いで開業し、東京 - 埼玉県西部地域間の輸送競争が熾烈化。運用面でも運賃面でも不利な状況に迫られた川越鉄道は、いくつかの電力会社との合従連衡を経て、西武鉄道(旧)となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "1923年の関東大震災により、都心から郊外鉄道沿線に移住する流れが起こり、郊外鉄道開業が相次ぐ。西武も独自の都心乗り入れを目指した。1916年に村山軽便鉄道の箱根ケ崎 - 吉祥寺間の免許を譲り受け、1922年には、淀橋 - 荻窪間を結ぶ西武軌道(のちの都電杉並線)を手中に収めた。こうして、かつての川越鉄道線と、西武軌道線を、村山軽便鉄道の免許線でつないで、川越 - 新宿間という、都心直結鉄道を作ることが目指されたが、西武軌道線は併用軌道で、高速運転には不向きであることから、この計画は放棄された。西武鉄道(旧)は、改めて別ルートでの都心乗り入れを目指し、1925年には井荻 - 高田馬場間、1926年には高田馬場 - 早稲田間の免許を得て、1927年4月16日に東村山駅 - 高田馬場駅間を村山線として複線・電化で開業するに至った。同時に川越線の東村山駅 - 川越駅間を電化し、現在と同じ高田馬場駅 - 川越駅間の直通運転を開始し、悲願の都心再乗り入れが果たされた。しかし、村山線は中央本線と武蔵野鉄道の中間地域を通過したため、輸送競争はさらに激化し、所沢駅を共用する武蔵野鉄道とは、社員間のトラブルが発生するほど険悪になった。しかし、第二次世界大戦期に行われた私鉄統合により、宿敵の武蔵野鉄道と合併して、現在の西武鉄道となり、両者の競争は終結した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "戦後の1952年、西武は国鉄新宿駅への乗り入れを目論んで、高田馬場から西武新宿駅へ延伸し、西武新宿駅 - 本川越駅を新宿線に改めた。一方、国鉄新宿駅への乗り入れは、予定地が手狭だったことから中止した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "輸送力増強のため、都内の一部区間の複々線化(地下方式)が計画されたが、バブル崩壊によって中止された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "高田馬場駅 - 下落合駅間で豊島区をわずかに通るが、駅はない。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "日本国有鉄道(国鉄)新宿駅乗り入れの際に、高田馬場駅 - 西武新宿駅間に「西武大久保駅」ができる予定であった。", "title": "付記" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "また、新宿大衆駅ビル開業後も、地下路線を利用して国鉄新宿駅に乗り入れる構想を捨てていなかった(地下急行線計画とは別である)。", "title": "付記" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "バブル景気期、当線は利用客のさらなる伸びが見込まれ、飽和状態にあった輸送力状況を打開する切り札として、上石神井駅 - 西武新宿駅間(12.8 km)を複々線化する構想が何度も持ち上がっていた。在来線直下の地下40メートル-60メートルを掘削して地下線を増線し、工期と費用の点から地下線は高田馬場駅と西武新宿駅の2駅のみの急行線とする計画が事業化されることになった。地下線の西武新宿駅ホームは新宿駅寄りに設け、他線との乗り換えを改善する予定であった。", "title": "付記" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "この計画は、1987年12月に特定都市鉄道整備事業計画の認定を受け、翌1988年9月に運輸大臣の認可が下り、特定都市鉄道整備積立金制度導入による運賃加算も行われた。シールド工法によるトンネルの調査設計は日本鉄道建設公団に依託され、工事は部分的に着手された。 ところが技術上の問題で工事費用が予定より膨らみ、景気減退や少子高齢化を背景とした見込み利用者数の減少、輸送人数に応じた避難経路を確保するための建設費高騰もあり、1995年1月になって計画は無期延期となった。その際、積立金として加算された分は、特別減算を実施し運賃の一時的な値下げが実施された。代わりに、新宿線の線形改良・ホーム改良工事等が実施されている。2008年3月31日に複々線化工事の竣功期限を迎え、延長されず失効している。", "title": "付記" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "2019年に東京都は計画を廃止するための都市計画素案を作成した。その後、2021年11月26日付の東京都告示第1410号 (PDF) により線増部の都市計画が削除され、複々線化計画は正式に消滅した。", "title": "付記" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "中野区議会は2015年3月9日に、中井駅 - 野方駅間の地下化工事に合わせた、東京メトロ東西線との相互直通運転に関する資料を公開した。現状の高田馬場駅は、新宿線ホームが地上2階に対し、東西線ホームが地下2階にあるため、乗り換えに多くの時間を費やすこと、さらには、高田馬場駅利用者にはJR山手線に乗り換える人もいるため、ラッシュ時に相当混雑していることなど、多くの問題を抱えていることなどを理由として、東西線との相互直通運転についても「実現に向け取り組んでいく」としている。", "title": "付記" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "2020年9月に行われた東洋経済新報によるインタビューでも西武鉄道社長の喜多村樹美男は当線が西武新宿駅止まりなので沿線から都心に向かう乗客からの不満の声が多いとした上で、「新宿線の都心乗り入れのために東京メトロ東西線乗り入れなどといった様々な選択肢を検討している」と語っており、相互直通運転について、東京メトロなどと調整していることを明らかにしている。", "title": "付記" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "新宿線では、距離を示すキロポストが起点である西武新宿駅から終点の本川越駅に向かって純粋に増えるよう設置されているわけではない。これは歴史的な経緯によるもので、おおむね以下の3区間に分かれており、キロ数が増える方向も下り方と上り方が混在している。", "title": "付記" } ]
新宿線(しんじゅくせん)は、東京都新宿区の西武新宿駅と埼玉県川越市の本川越駅とを結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はSS。
{{Otheruses|現在の新宿線(旧・村山線)|かつて新宿と荻窪を結んでいた初代の新宿線(西武軌道線、新宿軌道線)|都電杉並線}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:SeibuRailway mark.svg|18px|link=西武鉄道]] 新宿線 |路線色=#00A6BF |ロゴ=File:SeibuShinjuku.svg |ロゴサイズ=50px |画像=File:Seibu-Shinjuku-Line Series3000 Series2000.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=新宿線を走行する<br />[[西武30000系電車|30000系]](左)と[[西武2000系電車|新2000系]](右)<br />(2021年5月 [[新所沢駅]]) |国={{JPN}} |所在地=[[東京都]]、[[埼玉県]] |起点=[[西武新宿駅]] |終点=[[本川越駅]] |駅数=29駅 |輸送実績= |1日利用者数= |路線記号=SS |開業={{start date and age|1894|12|21}}(川越鉄道川越線として)<br />{{start date and age|1927|4|16}}(旧西武鉄道村山線として) |全通={{start date and age|1952|3|25}} |休止= |廃止= |所有者=[[西武鉄道]] |運営者=西武鉄道 |車両基地= |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線距離=47.5 [[キロメートル|km]] |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[複線]](西武新宿駅 - [[脇田信号場]]間)<br />[[単線]](脇田信号場 - 本川越駅間) |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |最大勾配= |最小曲線半径= |閉塞方式=自動閉塞式 |保安装置= |最高速度=105 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="zukai">『徹底カラー図解 西武鉄道のしくみ』 - [[マイナビ出版]]編集部</ref> |路線図=[[File:Seibu Railway Linemap.svg|300px]] |路線図名= |路線図表示=<!--collapsed--> }} {{西武新宿線路線図}} '''新宿線'''(しんじゅくせん)は、[[東京都]][[新宿区]]の[[西武新宿駅]]と[[埼玉県]][[川越市]]の[[本川越駅]]とを結ぶ[[西武鉄道]]の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''SS'''。 == 概要 == [[新宿区]][[歌舞伎町]]に位置する[[西武新宿駅]]から[[高田馬場駅]]、[[所沢駅]]などを経由して[[本川越駅]]に至る[[首都圏 (日本)|首都圏]]の通勤通学路線である。また[[特別急行列車|特急]]「[[小江戸 (列車)|小江戸]]」が運行され、埼玉県屈指の[[観光地]]である[[川越]]への観光輸送を担っている。東京から川越方面へのアクセスにおいては起点駅や経路が異なるものの、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[埼京線]]・[[川越線]]や[[東武東上本線|東武東上線]]と競合関係にあるが、直線的なルートを採用している東武東上線よりも、JRや当路線は川越まで迂回するルートを通っているため所要時間の面で不利となっている。また終点の本川越駅は東武東上線やJR東日本の川越線が乗り入れる[[川越市]]の中心駅の[[川越駅]]とは離れた場所に位置している一方で、[[時の鐘 (川越市)|時の鐘]]を含む川越の観光名所や旧市街地へは同駅が最寄りである。 [[小平駅]]から[[西武拝島線|拝島線]]が分岐しており、直通列車も多数運転されるため、同線からの通勤・通学も受け持っているといえる。西武新宿駅 - 小平駅 - 拝島線[[拝島駅]]間はJR[[中央線快速|中央線]]・[[青梅線]]と競合し、[[ホームライナー|有料座席指定列車]]の「[[拝島ライナー]]」が運行されている。 所沢駅で接続している[[西武池袋線|池袋線]]とともに西武鉄道の主要路線である。歴史的経緯から西武鉄道の鉄道路線は池袋線系統(旧・武蔵野鉄道)、新宿線系統(旧・西武鉄道)とその他の路線に大別でき、当路線の高田馬場駅 - 東村山駅間は旧・西武鉄道、東村山駅 - 本川越駅間は現在の[[西武国分寺線|国分寺線]]([[国分寺駅]] - 東村山駅)とともに旧・西武鉄道の前身である川越鉄道によって建設された。 起点の西武新宿駅はJRや[[私鉄]]・[[地下鉄]]各線が乗り入れる[[新宿駅]]から500 m北側の歌舞伎町に所在しているため、他路線との乗り換えが不便なことから1つ隣の高田馬場駅が実質的な乗り換え駅・[[ターミナル駅]]として機能しており、当路線の利用者数は西武新宿駅より高田馬場駅の方が圧倒的に多い<ref>{{Cite web|和書|title=西武新宿駅はなぜ遠いのか 幻の東口乗り入れ計画|エンタメ!|NIKKEI STYLE|url=https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2103N_S2A121C1000000?page=3|website=NIKKEI STYLE|accessdate=2021-12-03|language=ja|last=日本経済新聞社・日経BP社}}</ref>。当初、西武新宿駅は新宿線の仮駅として開業し、最終的には新宿駅東口駅ビル(現在の[[ルミネエスト新宿]])まで延伸する予定であったが、当時はホーム有効長6両編成2線分までしかスペースが確保できなかったため延伸を断念した経緯がある<ref>{{Cite web|和書|title=西武新宿駅はなぜ遠いのか 幻の東口乗り入れ計画|エンタメ!|NIKKEI STYLE|url=https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2103N_S2A121C1000000?page=2|website=NIKKEI STYLE|accessdate=2021-12-03|language=ja|last=日本経済新聞社・日経BP社}}</ref>。 また、[[山手線]]周辺から郊外に延びる総延長15 km以上の[[大手私鉄]]路線では、唯一地下鉄との[[直通運転|相互乗り入れ]]を行っていない<ref group="注釈">同様に山手線の駅から延びる路線で地下鉄に乗り入れていない[[京王井の頭線]]・[[東急池上線]]は15 km未満、[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]は大手私鉄に含まれない。</ref>。さらに、[[#複々線計画|構想]]こそあったものの[[複々線]]区間が全く存在しない路線でもある。 === 路線データ === * 路線距離([[営業キロ]]):47.5 km * [[軌間]]:1067 mm * 駅数:29駅(起終点駅含む) * 複線区間:[[西武新宿駅]] - [[脇田信号場]] (46.6 km) * 単線区間:脇田信号場 - [[本川越駅]] (0.9 km) * 電化区間:全線(直流1500 V[[架空電車線方式]]) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * 最高速度:105 km/h<ref name="zukai" /> == 沿線風景 == === 西武新宿 - 高田馬場 === '''[[西武新宿駅]]'''は[[頭端式ホーム]]2面3線で、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の[[新宿駅]]東口から北側おおよそ500 [[メートル|m]]に位置する。同駅を出てすぐに、JR東日本の[[中央線快速|中央線快速電車]]・[[中央・総武緩行線|中央総武線各駅停車]]が左にカーブしながら離れていく。進行方向左手に現れるJR東日本の[[山手線]]と、[[埼京線]]および[[湘南新宿ライン]]が通る[[山手貨物線]]に併走して北進する。[[東京都道302号新宿両国線#通称|職安通り]]のガードを越えて少々走ると、JR山手線の[[新大久保駅]]が現れるが、新宿線に駅は設けられていない。 [[海城中学校・高等学校]]、[[保善高等学校]]の校舎を通過しながらほぼ直線状に進むと、JR山手線、[[東京メトロ東西線]]との[[乗換駅]]であり、この区間を通る全旅客営業列車が停車する'''[[高田馬場駅]]'''に到着する。 === 高田馬場 - 鷺ノ宮 === 高田馬場駅を出ると少し右にカーブした後に急な坂を下る。そして左に急カーブしながら[[神田川 (東京都)|神田川]]を跨ぎ、その直後に山手線をくぐっても、さらに急カーブは続き、結果的に進路を西に取る。この区間は曲線半径が158 m、30.3 [[パーミル|‰]]の下り勾配のため、35 [[キロメートル毎時|km/h]]の速度制限を受ける。ここで[[高架橋|高架]]から地上に降りるが、これ以降ではごく一部を除いて高架や[[盛土]]区間を走らない。山手線をくぐった後は[[新目白通り]]としばらく併走し、それから少し左へ曲がって分かれると[[妙正寺川]]に接し、その後'''[[下落合駅]]'''に着く。 下落合駅を出ると、再び少し左に曲がる。住宅密集地を進みながら妙正寺川を渡ると、'''[[中井駅]]'''に着く。同駅は[[東京都道317号環状六号線|山手通り]]の下にあり、中線が1本ある[[待避駅]]で、[[都営地下鉄大江戸線]]との乗換駅である。なお、下落合駅寄りはカーブしており、[[分岐器|ポイント]]通過の際に列車が大きく揺れる地点でもある。 中井駅を出ると、S字カーブを描きながら、[[蛇行]]する妙正寺川を再び渡る。その後300 mほど進むと、'''[[新井薬師前駅]]'''に着く。同駅は新宿線の中でも特にホームがカーブしている。 新井薬師前駅を出ると、住宅密集地をさらに進みながら妙正寺川をもう一度渡り、左に曲がりながらポイントを通過し、'''[[沼袋駅]]'''に着く。同駅はかつて内側2線の[[通過線]]を持った[[相対式ホーム]]であったが、現在は後述の[[連続立体交差事業]]の関係で2面2線の相対式ホームと通過線が1線の2面3線という形態になっている。事業完成時には[[島式ホーム]]2面4線となる。また、駅前は[[京王バス]]が発着するが、街路が狭隘なため、南行一方通行のみである。ここに限らず都心寄りは狭隘な駅前を持つところが多い。なお、中井駅から[[野方駅]]までのうち[[中野区]]内の、おおよそ2.4 [[キロメートル|km]]の区間では、既に連続立体交差事業による地下化工事が始まっており、完成時には中野通りを含む7箇所の踏切が撤去される予定である<ref name="東京都連立地下化">[https://www.seiburailway.jp/safety/nakai_nogata/index.html 新宿線 中井 - 野方駅間連続立体交差事業のご案内] - 西武鉄道、2019年1月31日閲覧。</ref>。 沼袋駅を出ると、急なS字カーブを描く。その後、連続立体交差事業区間が終わると'''野方駅'''に着く。なお、同駅直下では[[東京都道318号環状七号線|環七通り]]を跨いでいる。 野方駅を出るとほどなく'''[[都立家政駅]]'''に着く。同駅で進路を西に変える。 都立家政駅を出ると、すぐに下り線のみ待避可能な2面3線の'''[[鷺ノ宮駅]]'''に到着する。都立家政駅 - 鷺ノ宮駅間の距離は、0.5 kmと新宿線では最短である。なお、この高田馬場駅 - 鷺ノ宮駅間は半径300 - 600 mのカーブが連続するため、列車の速度が抑えられることになる。 === 鷺ノ宮 - 上石神井 === 鷺ノ宮駅を出ると、その西側の踏切で[[東京都道427号瀬田貫井線|中杉通り]]と平面交差する。その先で少し右にカーブした後は、多少のアップダウンこそあれど、比較的線形が良くなる。かつて存在した[[西鷺宮駅]]の跡地を通りすぎると、'''[[下井草駅]]'''に着く。 下井草駅を出ると、車窓ではちらほらと畑が見え、少し左へカーブすると鷺ノ宮駅 - [[上石神井駅]]間では唯一の、1本の[[通過線]]を有する'''[[井荻駅]]'''に着く。 井荻駅を出るとすぐに[[東京都道311号環状八号線|環八通り]]と立体交差するが、電車から見える[[高架橋]]以外に地下トンネル([[井荻トンネル]])でも交差している。その後中線が合流し、ほどなく'''[[上井草駅]]'''に着く。 上井草駅を出ると、この付近からは住宅の密集度が低くなり、景観が[[武蔵野]]らしくなってくる。[[東京都道439号椎名町上石神井線|千川通り]]を踏切で平面交差した先に、[[上石神井車両基地]]が南に広がり、複雑な分岐器を越えると島式ホーム2面3線の'''上石神井駅'''に到着する。 同駅のホームや階段は狭隘で、ホーム端はすぐ踏切となる。なお、同駅付近で[[東京外環自動車道]]が交差する計画である。 === 上石神井 - 田無 === この区間では勾配は多いが、線形はさらに良くなる。上石神井駅を出るとほどなく下り勾配が始まり、'''[[武蔵関駅]]'''に着く。 武蔵関駅を出ると、その先で[[石神井川]]と並行する。[[武蔵関公園]]の北側をかすめると上り勾配となり、東京23区から外れると'''[[東伏見駅]]'''に着く。同駅は新宿線では珍しい島式ホーム2面4線の[[待避駅]]である。また、東伏見駅以西の各駅には多摩湖線を除くほぼ全ての駅に[[駅前広場]]が整備されている。 東伏見駅を出ると、途中南側に[[東伏見公園]]の緑を見ながら非常にゆるい左カーブを描き、[[伏見通り]]([[東京都道233号東大泉田無線]]支線)のアンダーパスを乗り越し、若干の[[盛土]]と[[掘割]]区間を経て'''[[西武柳沢駅]]'''に着く。 西武柳沢駅を出ると、数少ない[[高架橋|高架]]区間となっており、[[第二次世界大戦]]中に[[中島飛行機]]武蔵野製作所への[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[鉄道連隊]]が作った[[専用鉄道|専用線]]のガードを越えて[[青梅街道]]と[[東京都道12号調布田無線|武蔵境通り]]の[[バイパス道路|バイパス]]を乗り越す。再び地上に戻り武蔵境通りと平面交差すると'''[[田無駅]]'''に到着する。 同駅は[[小江戸 (列車)|特急「小江戸」]]と[[拝島ライナー]]以外のすべての種別が停車する主要駅だが、島式ホーム2面3線の設備である。この配線が新宿線の特徴である。 === 田無 - 小平 === 田無駅を出ると、そこには[[本川越駅]]寄りに[[引上線]]がある。それを横目に住宅街を西へ進む。線路北側の家並の向こうには[[スカイタワー西東京]]が見える。[[西東京市]]と[[小平市]]の市境付近より右カーブし、これより[[東村山駅]]の手前まで、進路を北西に取る。カーブを終えると、'''[[花小金井駅]]'''に着く。同駅は島式ホーム1本であるが、かつては2面3線だった名残でホーム幅が広い。 花小金井駅を出るとすぐに[[東京都道15号府中清瀬線|小金井街道]]と平面交差する。道幅は広いが、南北を結ぶ[[西武バス]]の各路線が通り、同踏切が原因でしばしば渋滞が発生している。花小金井駅からはすぐ南には[[東京都道253号保谷狭山自然公園自転車道線|多摩湖自転車歩行者道]]が通っており、ここから次駅[[小平駅]]付近まで併走する。その後住宅と畑が混在する一帯をしばらく進むと[[青梅街道]]と斜めに平面交差するが、同踏切の前後はかなり急なS字カーブで、列車が減速するため踏切渋滞に拍車をかけている。また、踏切横には[[公立昭和病院]]があるため、[[救急車]]がしばしば立往生している。なお、このカーブにはかつて[[東小平駅]]が設置されていた。カーブを過ぎると[[新小金井街道]]が下をくぐる。付近は畑が目立ち、空が広く感じる一帯である。やがて上下線の間に引上線が割り込み、[[西武拝島線|拝島線]]と分岐する島式ホーム2面4線の'''小平駅'''に到着する。 同駅は2面4線であるが、待避駅ではなく[[西武拝島線|拝島線]]との分岐駅となっている。このため小平駅までは[[複線]]であったのが、小平駅を出た直後は[[複々線]]のようになっている。小平駅の北西に[[小平霊園]]があるため、駅付近には墓石屋が多く、春秋の[[彼岸]]の時期には北口前に露店が並び賑やかになる。 === 小平 - 東村山 === 小平駅を出てしばらく拝島線と併走するが、その後拝島線は左に曲がって分かれていく。右手に小平霊園を見ながら進んでいくと'''[[久米川駅]]'''に着く。同駅は分岐駅に挟まれていることもあり、駅として地味な存在ではあるが、それとは裏腹に駅周辺には都市銀行の支店やスーパーが充実している。 久米川駅を出るとすぐに[[空堀川]]を跨いだ後、[[新青梅街道]]をくぐる。野方駅辺りからここまでは新青梅街道に併走する形で進んできたが、分岐して[[東村山駅]]の手前で右カーブして北へ進む。このカーブの所で[[府中街道]]と平面交差する。主要道路との平面交差であるので、しばしば渋滞する地点である。カーブを過ぎると左側に[[西武国分寺線|国分寺線]]が現れ、東村山駅まで併走する。その後、後述の[[連続立体交差事業]]により建設中の高架橋を見ながら、[[小江戸_(列車)|特急「小江戸」]]も停車する3面6線の'''東村山駅'''に到着する。なお、新青梅街道との交差地点から先、東村山駅の先の都県境付近までの約2.3 km区間、高架による連続立体交差化事業が進められている<ref name="東京都連立高架化">[https://www.seiburailway.jp/safety/higashimurayama/index.html 新宿線 東村山駅付近連続立体交差事業のご案内] - 西武鉄道、2019年1月31日閲覧。</ref>。 東村山駅は東に市役所などがある市の中心部のため、東口側は以前から[[駅前広場]]が整備されている。一方、昔ながらの雰囲気を残していた西口も2009年に新たな駅前広場が整備されるなど、再開発事業はほぼ完了した。ただ、依然として狭い道が多い地域となっている。 === 東村山 - 所沢 === 東村山駅を出ると、[[西武西武園線|西武園線]]としばらく併走する。やがて西武園線が左にそれ、住宅街ながらも緑の多い一帯を北に進む。[[盛土]]を走るようになると視界が開け、左に低い山並みを見ることができる。ここは[[八国山緑地]]と呼ばれ、映画『[[となりのトトロ]]』のモデルとなった場所でもある。[[埼玉県]]に入ってすぐ左に[[国際航空専門学校]]があり、小型[[航空機]]や[[ヘリコプター]]を見ることができる。盛土が終わると[[所沢街道]]の秋津橋と、さらに[[西武池袋線|池袋線]]が頭上で[[立体交差]]し、複雑な分岐器を通って、池袋線と接続し、特急「小江戸」も停車する、'''[[所沢駅]]'''に到着する。かつては駅手前の踏切の先で[[西武所沢車両工場]]へ引き込み線が分岐していた。 同駅は3面5線構造で、複雑な線路配置であるが、新宿線だけを見ると、基本的に[[相対式ホーム]]2面2線と言える。改良工事が終了し、[[駅舎]]や[[コンコース]]が拡大されたものの配線自体に大きな変化はない。 === 所沢 - 新所沢 === 所沢駅を出てすぐに左へカーブし、進路は再び北西に取ることとなる。再び盛土区間となり、[[東川 (埼玉県)|東川]]のガードからは直線区間が続く。なお、このあたりにはかつて[[新所沢駅#歴史|所沢御幸町駅]]が存在したが、同駅が北に移転して[[新所沢駅]]となった。東側は[[所沢航空記念公園]]が一帯に広がり、西側は一方通行であったり、狭隘であっても線路沿いに道路が設けられており、東側のマンションや大規模団地開発に際しての配慮と思われる区間でもある。新宿線内では最も新しい駅・'''[[航空公園駅]]'''に着く。市役所や[[所沢市民文化センター ミューズ]]、[[簡易裁判所]]、[[税務署]]、[[公共職業安定所]]等の主だった公共機関が航空公園駅東口周辺に移転してきたこともあり、所沢市の行政の中心とも言える。 航空公園駅を出ると、住宅地をくぐり抜け、島式ホーム2面4線の'''新所沢駅'''に到着する。新所沢駅界隈も道路整備や街並みの整備により、以前とはまた違った顔を見せる。開業時から繁華街として栄えた西口には[[パルコ]]等のテナントや、居酒屋が多く見受けられる。[[南入曽車両基地]]へ出入する電車は、同駅[[始発]]・[[終着駅#列車の終点|終着]]となる。 === 新所沢 - 狭山市 === 新所沢駅を出ると、そこから次の[[入曽駅]]まではずっと直線である。両駅のほぼ中間、[[埼玉県道50号所沢狭山線|県道所沢狭山線]]が斜めに平面交差した先に[[南入曽車両基地]]がある。周囲は住宅地よりも農地が目立つ。その後直進すると、'''入曽駅'''に着く。新所沢駅 - 入曽駅間の距離は、新宿線では最長の3.9 kmである。なお同駅は、東伏見駅以西の各駅の中では唯一駅前広場が整備されていない。 入曽駅を出ると、[[埼玉県道8号川越入間線|県道川越入間線]]と平面交差した辺りで緩い右カーブをなし、しばらく進むと左手に[[航空自衛隊]][[入間基地]]が広がる。基地の東側に沿って進み、基地が終わると県道所沢狭山線が頭上を乗り越え、しばらくやや急な右カーブを通ると、'''[[狭山市駅]]'''に到着する。相対式ホーム2面2線の特急「小江戸」停車駅である。[[路線バス|バス路線]]が集中する駅の西側は駅前広場が無く道幅も狭いなど問題が多かったため、駅舎を含めた再開発事業が実施され、2012年に完了した。 === 狭山市 - 本川越 === 狭山市駅を出ると、しばらく右カーブした後は直線状に走る。この右カーブの先の進路は北東となる。なお、ここから[[脇田信号場]]手前までの区間は線路がほぼ直線であるため、比較的高速運転が可能である。その後しばらく走行すると、'''[[新狭山駅]]'''に着く。 新狭山駅を出ると川越狭山工業団地の中をひたすら走り、その途中で[[川越市]]に入る。しばらくすると、かつて[[西武安比奈線|安比奈線]]との分岐駅であった'''[[南大塚駅]]'''に着く。安比奈線は1963年より長らく休止となっていたが、2017年5月31日を以て廃止となった。 南大塚駅を出てすぐに、[[関越自動車道]]のガードをくぐって速度を上げる。狭山市駅付近から[[国道16号|国道16号線]]とは併走していたが、この区間は特に至近距離で併走するため、同線沿いの店舗などがよく見える。なお、この区間にはかつて[[川越競馬場前駅]]という臨時駅が設置されていた。やがて列車は減速しながら国道16号線とは立体交差して分かれ、すぐ近くの脇田信号場で新宿線では唯一の[[単線]]区間へ入り、その後左にカーブする。この区間が単線であることの理由は、JR[[川越線]]と[[東武東上本線|東武東上線]]のガードをくぐる所の用地確保が困難であることなどがある。同ガードをくぐったあとに踏切を越え、再び線路が分かれると、終点・頭端式ホーム2面3線の'''[[本川越駅]]'''に到着する。 == 運行形態 == 運転される列車種別は、後述の「[[#列車種別|列車種別]]」の節の通りであるが、基本的に速達列車が途中駅から各駅停車となる典型的な郊外電車型の運行形態である。 新宿線内のみを運転する列車のほかに、接続する西武の他線との直通運転が多く設定されている。 * [[西武拝島線|拝島線]] … 終日にわたり[[急行列車|急行]]が直通している。[[各駅停車|各停]]・[[準急列車|準急]]も一部が直通する。 * [[西武多摩湖線|多摩湖線]]([[多摩湖駅]]方面) … 平日朝[[ラッシュ時]]に直通各停が下り1本上り3本、土曜休日に不定期運転の急行が下り3本上り2本設定されている。 * [[西武西武園線|西武園線]] … 2012年6月30日ダイヤ改正以降は直通列車の設定がない。[[西武園競輪場|西武園競輪]]開催時に、[[西武園駅]]からの直通列車が運転されることがあった。1998年3月まで西武新宿駅からの西武園行き快速急行の設定があった。 <!-- * [[西武国分寺線|国分寺線]] … 日中に国分寺駅 - 本川越駅間の列車が設定されている。2003年3月から2008年6月までの国分寺駅 - 新所沢駅間の列車を延長したものである。--> * [[西武池袋線|池袋線]]・[[西武狭山線|狭山線]] … [[西武ドーム]]で[[プロ野球]]試合が行われる日は、[[西武球場前駅|西武球場前]]行き直通列車が運転される。 このほか、2016年4月17日より西武4000系(4009F)を使用した「[[西武4000系電車#西武 旅するレストラン 52席の至福|旅するレストラン 52席の至福]]」が1往復、土曜・休日を中心に年間100日程度運転される<ref name="shinjuku-keizai20160419">[http://shinjuku.keizai.biz/headline/2325/ 西武新宿駅発「旅するレストラン〜52席の至福〜」運行開始] - 新宿経済新聞、2016年4月19日</ref><ref name="response20160414">[http://response.jp/article/2016/04/14/273539.html 西武鉄道、52席だけの「至福」観光電車を公開…定員10分の1に] - レスポンス、2016年4月14日<!-- 編成番号まで記述あり--></ref>。西武新宿駅 - 所沢駅 - [[西武秩父駅]]間(所沢駅および[[飯能駅]]では、進行方向が変わるのと乗務員交代を行なう目的での運転停車)で運転されているほか、2016年12月18日からは西武新宿駅 - 本川越駅間の新宿線全区間でも運転が始まった<ref name="response20160414" />。 [[車両基地]]は、[[上石神井車両基地]]と[[南入曽車両基地]]、拝島線に[[玉川上水車両基地]]が設置されている。 === 運行本数 === 2022年3月16日[[ダイヤ改正]]時点での日中1時間あたりの運行本数は以下のようになっている。 {| class="wikitable" |+平日日中の運行パターン |- !colspan="2" |種別\駅名 !style="width:1em;"|西武新宿 !… !colspan="2" style="width:1em;"|田無 !… !colspan="2" style="width:1em;"|小平 !… ! style="width:1em;" |東村山 !… ! style="width:1em;" |新所沢 !… !style="width:1em;"|本川越 |- style="text-align:center;" !rowspan="11" style="width:1em;"|運行範囲 |style="background:#fcc;"|特急「小江戸」 | style="background:#fcc;" colspan="13" |1本 |- style="text-align:center;" |rowspan="2" style="background:#fd9;"|急行 | style="background:#fd9;" colspan="13" |3本 |- style="text-align:center;" |colspan="6" style="background:#fd9;"|2本 | style="text-align:left;" colspan="7" |→拝島線 |- style="text-align:center;" |rowspan="6" style="background:#ddd;"|各停 | style="background:#ddd;" colspan="13" |2本 |- style="text-align:center;" |colspan="3" style="background:#ddd;"|3本 | colspan="10" | |} {| class="wikitable" |+休日日中の運行パターン |- !colspan="2" |種別\駅名 !style="width:1em;"|西武新宿 !… !colspan="2" style="width:1em;"|田無 !… !colspan="2" style="width:1em;"|小平 !… ! style="width:1em;" |東村山 !… ! style="width:1em;" |新所沢 !… !style="width:1em;"|本川越 |- style="text-align:center;" !rowspan="11" style="width:1em;"|運行範囲 |style="background:#fcc;"|特急「小江戸」 | style="background:#fcc;" colspan="13" |1本 |- style="text-align:center;" |rowspan="2" style="background:#fd9;"|急行 | style="background:#fd9;" colspan="13" |3本 |- style="text-align:center;" |colspan="6" style="background:#fd9;"|3本 | style="text-align:left;" colspan="7" |→拝島線 |- style="text-align:center;" |rowspan="6" style="background:#ddd;"|各停 | style="background:#ddd;" colspan="13" |3本 |- style="text-align:center;" |colspan="3" style="background:#ddd;"|3本 | colspan="10" | |} == 列車種別 == 停車駅は「[[#駅一覧|駅一覧]]」を参照。 === 現在の種別 === ==== 特急 ==== [[File:Seibu-Series10000-10105 RED ARROW CLASSIC LAST RUN.jpg|200px|right|thumb|10000系レッドアロー・クラシックによる特急「小江戸」]] {{Main|小江戸 (列車)}} 1993年12月6日のダイヤ改正で新設<ref name=":42">「鉄道ピクトリアル」2020年3月号(通巻970号)西武鉄道特急車の50年 西武特急略年表 p.18 - p.19</ref>。 終日運転される[[特別急行列車|有料特急]]。「[[小江戸 (列車)|小江戸]]」の愛称があり、車両は10000系ニューレッドアローが使用される。全列車が西武新宿駅 - 本川越駅間の往復である。1993年の「小江戸」運転開始当初は所要時間43分で走破していたが、2013年3月16日より[[東村山駅]]が正式に停車駅として追加された。そのため、現行ダイヤでの所要時間は最短45分である。 1993年までは西武新宿駅 - 西武秩父駅間で、休日のみ「[[ちちぶ (列車)|おくちちぶ]]」号を運転していたほか、送り込みとして西武新宿駅 - 本川越駅間(上りは所沢駅発)を1往復「[[ちちぶ (列車)|むさし]]」号として運転していた。(当時の使用車両は5000系) 2011年から2014年までは拝島線に直通する臨時特急が運行されていた。2011年度は新宿線内は西武新宿駅・高田馬場駅・田無駅・小平駅に停車していたが、2012年度以降は田無駅は通過するようになった。なお、2011年・2012年度は乗車駅が西武新宿駅・高田馬場駅に限定されていたが、2013年度からは限定なく途中乗車可能となっていた。 ==== 拝島ライナー ==== [[File:Seibu-Series40000 40104 Haijima-Liner-4.jpg|250px|right|thumb|拝島ライナーに使用される40000系40104F]] {{Main|拝島ライナー}} 2018年3月10日のダイヤ改正から運行が開始された[[ホームライナー|座席指定制列車]]<ref>{{Cite press release|和書|title=2018年春 西武新宿→拝島間に有料座席指定列車「拝島ライナー」を導入します!|publisher=西武鉄道株式会社|date=2017-11-20|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/20171117haijimaliner.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2017-11-21}}</ref><ref name="haijimaliner">{{Cite press release|和書|title=2018年3月10日(土)から「拝島ライナー」の運行を開始します!|publisher=西武鉄道株式会社|date=2018-01-25|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/20180125_haijimaliner2.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2018-01-26}}</ref>。車両は[[西武40000系電車|40000系]]の[[鉄道車両の座席#デュアルシート|ロングシート・クロスシート転換]]車が使用される。 [[西武拝島線|拝島線]]へ直通運転し、夕方・夜間に西武新宿駅発拝島駅行きが6本運転される。停車駅は高田馬場駅(乗車専用)、小平駅から先の拝島線の各駅。西武新宿駅・高田馬場駅から乗車する場合は座席指定券が必要となるが、小平駅から先の各駅では乗車券のみで利用できる。 2023年3月18日のダイヤ改正で上り列車(拝島駅発西武新宿行)が設定された<ref>{{Cite press release|和書|title=2023年春「拝島ライナー」上り運行を開始します|publisher=西武鉄道株式会社|date=2022-09-29|url= https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/haijimaliner/}}</ref>。平日朝に2本運転され、全区間で座席指定券が必要となる。停車駅は拝島線の各駅(乗車専用)、高田馬場駅(降車専用)、西武新宿駅。 ==== 快速急行 ==== [[ファイル:6000系6001F.png|代替文=6000系による快速急行本川越行き|サムネイル|6000系による快速急行本川越行き]] [[2020年]][[3月14日]]のダイヤ改正で再設定<ref name="seibu20200129">{{Cite press release|和書|title=2020年3月14日(土)ダイヤ改正を実施します |publisher=西武鉄道 |date=2020-01-29 |url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20200129diagram.pdf |format=PDF |accessdate=2020-03-15}}</ref>。 [[快速急行]]は川越へのアクセス向上を目的として、土休日に[[西武新宿駅]] → [[本川越駅]]で下り1本のみ運行。当初は西武新宿発9時33分と10時21分の2本が設定され、本川越駅への所要時間が最短46分と急行と比べると10分短縮された。当路線では急行停車駅である鷺ノ宮駅と上石神井駅を通過し、田無駅に停車する。田無駅から先も通過駅がある(停車駅は駅一覧を参照)。これは2012年に廃止された[[#2代|快速急行「川越号」]](廃止時は列車愛称なし)の廃止直前の停車駅と同一である。2022年3月12日のダイヤ改正で西武新宿発9時00分の1本に削減された。 [[東武50000系電車|50090系]]がクロスシートで使用される東武東上線の「[[川越特急]]」と異なり[[西武40000系電車|40000系]]は使用されない。 種別色は池袋線と同じ紫色。 ==== 通勤急行 ==== 1993年のダイヤ改正で新設。 [[列車種別#通勤種別|通勤急行]]は本川越駅・所沢駅から高田馬場・西武新宿方面への速達を目的に平日朝ラッシュ時の本川越駅発1本のみ運転される。後述の急行では各駅に停車する本川越駅 - 田無駅間も急行運転を実施する。拝島線の乗換駅である小平駅は停車しない。なお、この時間帯にも急行は運転されている。 1993年にそれまで運転されていた平日朝ラッシュ時の[[停車 (鉄道)#千鳥停車|千鳥停車]]の急行の停車駅を明確にする目的で、[[快速列車|快速]](現在は廃止)とともに登場した。当時は現在のような田無駅以西での急行運転を実施せず、田無駅 - 高田馬場駅間で[[上石神井駅]]に停車し、[[鷺ノ宮駅]]を通過する種別を通勤急行と呼称した。また、現在は所沢駅 - 本川越駅間の途中停車駅は新所沢駅・狭山市駅のみだが、当時この区間は各駅停車であった。現在の停車駅となったのは2001年12月からで、朝ラッシュ時の所沢・本川越方面から西武新宿方面への速達列車の色合いが強くなった。 種別色は黄色またはオレンジ色である。 ==== 急行 ==== [[File:Seibu-Series20000-20105 L-train.jpg|200px|right|thumb|20000系による西武新宿行き急行]] [[急行列車|急行]]は当路線の主力優等種別であり、本川越方面・拝島方面ともに終日運転される。基本的には西武新宿駅 - 新所沢駅・本川越駅・拝島駅間で運転されている。日中時間帯は平日ダイヤが一部時間帯のみ1時間に5本の約12分間隔で、本川越発着が3本・拝島駅発着が2本で構成される。それ以外の日中時間帯の平日ダイヤ及び土休日ダイヤは1時間に6本で、本川越駅発着と拝島駅発着が20分間隔で交互に運転されており、西武新宿駅 - 小平駅間では10分間隔となる。編成両数は10両編成での運転が基本であるが、平日・土休日ともに一部で8両編成で運転する列車が存在する<ref group="注釈">これは折り返し前後が西武新宿駅発着の各駅停車になる列車があるため。</ref>(後述の準急も同様)。また、玉川上水駅発着の列車が土休日の朝に下り1本と夕方に上り1本、田無駅発着の列車が平日の朝に下り1本、土休日の夕方以降に上り2本が設定されている。 各駅停車との接続は昼間時間帯は下りは鷺ノ宮駅で、上りは上石神井駅で行われる。また小平駅では本川越駅発着の列車は小平駅 - 玉川上水駅・拝島駅間を運転する各駅停車に、拝島駅発着の列車は西武新宿駅 - 新所沢駅・本川越駅間の各駅停車に接続する。平日夕方時間帯(20時まで)は下りは中井駅で各停を追い越し、鷺ノ宮駅・上石神井駅・小平駅で接続する。平日朝ラッシュ以外の時間帯は下りは鷺ノ宮駅・小平駅で接続、上りは小平駅(拝島方面からの列車)または田無駅(所沢方面からの列車)と上石神井駅で接続する。平日朝ラッシュ時は列車によって異なる接続をする。 下り列車の田無駅から終点までは、[[方向幕]]では急行と表示されても、[[発車標]]では各停と表示される(これは後述の準急も同様)。 ほぼ終日にわたり、下り列車の拝島・本川越方面行きは鷺ノ宮駅・上石神井駅・東村山駅・新所沢駅のいずれかで(拝島方面行は朝夕のみ)、また本川越方面からの上り列車は新所沢駅・東村山駅のいずれかで特急に抜かれる。 [[西武ドーム]]での野球等イベント開催時には、平日ナイターでは西武新宿駅 - 所沢駅 - 池袋線[[西所沢駅]] - [[西武狭山線|狭山線]][[西武球場前駅]]間の臨時列車が、土休日デーゲーム他不定期に西武新宿駅 - 小平駅 - 拝島線[[萩山駅]] - [[西武多摩湖線|多摩湖線]][[多摩湖駅]]間の臨時列車が運転される(多摩湖駅から[[西武山口線|山口線]]乗り換えで西武球場前駅)。 1993年のダイヤ改正以前は、平日朝ラッシュ時の上りに限り通常の急行以外に、田無駅 - 高田馬場駅間で途中、上石神井駅にのみ停車する急行(本川越駅発)と、鷺ノ宮駅にのみ停車する急行(拝島駅・西武遊園地駅〈現:多摩湖駅〉発)が運転されていた。停車駅こそ違ったが、どの種別も一括して「急行」と呼称され不明確であったため、ダイヤ改正後は前者を通勤急行、後者を快速と呼称するようになった。 かつては萩山駅で連結・切り離し作業を行う列車(西武新宿駅寄り4両が西武遊園地駅発、拝島駅寄り6両が拝島駅発)も存在していたが、[[2013年]]3月15日を以って運行を終了した。2016年3月21日までの土休日は西武遊園地駅発着の列車もあり、この列車は多摩湖線のホーム有効長の関係上8両編成で運転されていた。2016年3月26日実施のダイヤ改正で、西武ドームにおけるプロ野球試合開催日や夏休みなどの不定期運転に格下げされ、上りは2本とも田無駅始発を延長して不定期的に運転する形を取った。 種別色は朱色・赤文字である。 ==== 準急 ==== [[File:Semi-exp haijima.JPG|200px|right|thumb|新宿線内の準急は平日が日中時間帯以外に、土日は早朝と夕夜間に設定されている。写真は30000系30105Fによる拝島行き準急]] 準急は、急行を補完する形で日中以外の時間帯に運行される。基本的には西武新宿駅 - 田無駅・新所沢駅・本川越駅・拝島駅間の運転系統が基本である。早朝・深夜の一部を除き、多くの列車が鷺ノ宮駅以遠の停車駅で、急行・拝島ライナー・特急に追い抜かれる。 かつては終日にわたり運行されていたが、大部分の列車は[[2012年]][[6月30日]]のダイヤ改正で急行に格上げされる形で廃止された一方、[[2013年]][[3月18日]]からは拝島駅発着の準急を平日限定で朝・夕方・夜にも運行し、また本川越駅発の急行の一部を準急に格下げして本数を増やした。一方、土休日は西武新宿駅 - 新所沢駅・本川越駅間で合わせて下り3本、上り4本のみの設定であった。2018年3月10日のダイヤ改正より、一部急行を格下げする形で休日夕夜間の準急が復活し、始発駅を17時以降に発車する列車が設定されたが、2019年3月16日のダイヤ改正で休日夕方の準急は再び急行に格上げされて消滅した。2022年のダイヤ改正で、土休日ダイヤの夕方時間帯から20時台に一部の急行から変更され、特に上りは小平駅基準で16時台から19時台まで約30分間隔となっている。 種別色は緑色である。 ==== 各駅停車 ==== [[File:Local seibu.JPG|200px|thumb|主に朝・夕に運転される新所沢行き各停]] 各駅に停車する。西武新宿駅 - 本川越駅間の全線を運転する列車のほか、西武新宿駅 - 上石神井駅・田無駅・新所沢駅間の区間列車が運行されている。昼間時間帯以外には西武新宿駅 - 玉川上水駅・拝島駅間の拝島線直通列車が運行されている。また、平日朝に西武新宿駅 - 多摩湖駅間の拝島線・多摩湖線直通電車が1往復、本川越発新所沢行きが1本(新所沢駅で始発の各駅停車西武新宿行きと接続)運転されている。各駅停車のみ停車する[[下落合駅]] - [[都立家政駅]]・[[下井草駅]] - [[上井草駅]]の各駅のホームの長さは8両分しかないため、基本的に8両編成で運転されるが、早朝・夕方・深夜には出入庫の関係で同区間を含まない列車が10両で運転される場合もある。野球開催時には、本川越 - 西武球場前間の列車も運転される。平日・土休日ともに本川越発所沢行きの列車が存在する。 2019年3月15日まで国分寺線直通列車も運行されていたが、東村山駅周辺の高架化工事進捗に伴い、2019年3月16日のダイヤ改正で一時的に直通運転は休止された(完成は2024年度の予定)。これを補完する目的で、日中時間帯に毎時1本運転されていた西武新宿駅 - 新所沢駅間の区間運転は本川越駅発着となり、新宿線の全線運転は毎時3本に変更された。国分寺線は各駅のホーム有効長が6両編成のため、直通列車は6両編成で運転されていた。 以前は「普通」と称していた。2008年4月頃まで駅の案内表や案内では、「準急」以上の列車の各駅停車区間も含めて「各駅停車」「各停」として案内されていたが、列車に表示される種別表記は「普通」となっていた。だが、30000系や新2000系更新車に搭載されたフルカラーLED表示器において「各停」の表記がなされるようになったのを皮切りに、「各停」の表記を行うようになった。 かつては西武園駅発西武新宿駅行きの列車も運転されていたが、2011年12月24日に東村山駅で脱線事故が発生し、その後運転が休止された。また2012年6月30日のダイヤ改正までは萩山駅で切り離しする10両編成の上石神井駅発拝島駅・西武遊園地駅(現:多摩湖駅)行きも存在した。 種別色は灰色である。 === 過去の種別 === ==== 快速急行 ==== 1980年から2012年まで運行。1998年3月のダイヤ改正を境に運行形態が変更されており、ここではそれ以前のものを'''初代'''、以降のものを'''2代'''として記述する。 ===== 初代 ===== 初代の快速急行は1980年3月のダイヤ改正から1998年3月26日のダイヤ改正まで存在した。 後述の1998年3月26日から2012年6月29日まで運行されていた快速急行とは別の種別であり、 # [[西武園競輪場|西武園競輪]]開催日に平日・土曜・休日とわず運転の西武新宿駅 - 西武園駅間運転の往復の競輪臨時快速急行 # 土曜・休日のみに西武新宿駅 - 西武遊園地駅(現:多摩湖駅)間で往復運転の行楽快速急行 # プロ野球・西武ライオンズの公式戦開催日(土休日ダイヤの時のみ)と同 日本シリーズ開催日の平日・土曜・休日とわず運転の西武新宿駅 - 西武球場前駅間運転の往復の野球臨時快速急行 # 西武新宿駅 - 本川越駅間の快速急行(土休日のみの運転で通称「[[ゴルフ]]急行」) 以上の4つが設定されていた。1990年までは行楽時期のみの不定期列車扱いでもあった。 停車駅も1998年から2012年まで運行されていたものとは異なり、本川越駅発着列車については西武新宿駅、高田馬場駅、鷺ノ宮駅、田無駅、所沢駅、狭山市駅、本川越駅。その他については西武新宿駅 - 田無駅間の急行停車駅、小平駅、(西武遊園地駅発着; 萩山駅、西武遊園地駅、晩年は[[八坂駅 (東京都)|八坂駅]]、[[武蔵大和駅]]にも停車)、東村山駅、(西武園駅発着;西武園駅)、所沢駅、西所沢駅、西武球場前駅だった。その後、他線への乗り入れを行う快速急行は臨時運転としてでも西武トレインフェスタ開催時の西武新宿駅 - [[西武秩父駅]]間の列車や[[2000年]][[2月20日]]に[[西武20000系電車|20000系通勤車両]]デビュー記念の一環として西武新宿駅 - 西武球場前駅間を1往復したのみである。詳細は「[[快速急行#西武鉄道|快速急行]]」と「[[西武鉄道のダイヤ改正]]」を参照。 ===== 2代 ===== [[File:Seibu31801.JPG|175px|thumb|2012年6月29日の運転を持って消滅した西武新宿線の快速急行(2代)(2012年5月、西武新宿駅)]] 1998年3月26日<ref name="RJ381">{{Cite journal|和書 |date = 1998-7 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 32 |issue = 7 |page = 101 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>から2012年6月29日までの快速急行は、全列車が西武新宿駅 - 本川越駅間で平日のみに運転され、日中に上下線で運行されていたほか、朝8時台の下り2本が運行されていた。平日の日中は、60分サイクルの[[パターンダイヤ]]の中で、西武新宿駅、本川越駅とも特急と交互に30分間隔で発車し、全線の所要時間が特急とほぼ変わらないことから、特急を補完する役割も果たしていた。また、全列車とも東村山駅または新所沢駅で先行する列車に接続した。以前は8両編成で運行されていたが、原則10両編成で運転された。1998年の運転開始当初「川越号」の愛称が付けられていた<ref name="RJ381"/>が、2008年6月14日のダイヤ改正で愛称が廃止された。 [[2007年]][[3月6日]]のダイヤ改正から東村山駅と狭山市駅が停車駅に追加されたが、西武新宿駅 - 本川越駅間の最短所要時間は改正前の47分より1分短縮され46分となった。これに伴い、同改正まで狭山市駅には快速急行の上の種別である特急が停車し、代わりに快速急行は新所沢駅に停車する[[停車 (鉄道)#千鳥停車|千鳥停車]]を行っていたが、これも解消された。 [[2011年]][[3月5日]]のダイヤ改正で[[入曽駅]]・[[新狭山駅]]・[[南大塚駅]]が停車駅に追加され、新所沢駅 - 本川越駅間は各駅に停車するようになり<ref group="注釈">改正前は概ね[[国分寺駅]] - 本川越駅間運行の各停と新所沢駅で連絡していた。改正後は国分寺駅 - 本川越駅間各停の時刻を30分程度ずらしている。</ref>、西武新宿駅 - 本川越駅間の所要時間は50分となった。そのため、入曽駅・新狭山駅・南大塚駅には快速急行が停車し、代わりに[[鷺ノ宮駅]]・[[上石神井駅]]には通勤急行が停車する千鳥停車が発生した。 特急「小江戸」運転開始前は土休日のみの運転であり、基本的には西武新宿駅 - 西武遊園地駅(現:多摩湖駅)、西武園駅(競輪開催時のみ。平日にも運転)、西武球場前駅(野球開催時のみ)、本川越駅間での運転であった(詳しくは前節の[[#初代|初代]]の項を参照)。 2012年6月30日のダイヤ改正で、日中の列車種別が各駅停車・急行・特急「小江戸」に統一され、朝ラッシュ時に運転していた下り2本も急行に格下げされたため廃止された。 * 廃止時の停車駅:西武新宿駅 - 高田馬場駅 - 田無駅 - 東村山駅 - 所沢駅 - 新所沢駅から本川越駅までの各駅 ==== 拝島快速 ==== [[File:Seibu minami-iriso.jpg|175px|right|thumb|2008年6月14日から2012年6月29日まで運転された拝島快速(写真右側の2000系)。2011年8月27日 南入曽車両基地のイベントにて。]] 2008年から2012年まで運行。 2008年6月14日のダイヤ改正より新設された拝島線直通の優等種別で、平日・土休日とも日中に運転された。急行よりも上位の種別であり、西武新宿駅 - 拝島駅間を急行より3分短い所要時間43分で結び、全ての列車が西武新宿駅 - 拝島駅間で運転された。拝島線では急行以下の種別は各駅に停車するため、同線唯一の優等種別となっていたほか、新宿線内で急行が停車する[[花小金井駅]]を通過した。このため、快速とは別の種別であった。 全ての列車が田無駅で玉川上水駅発着の各駅停車(一部は田無駅を始発・終着とする)と接続し、小平駅で本川越駅・新所沢駅発着の各駅停車と接続した。英文種別表記は池袋線系統の快速と同様「Rapid」であるが、自動放送のある車両では「Haijima Rapid」と放送された。 また、車両の種別表示においては「拝島快速」または「快速」であった。 ほとんどの列車が10両編成で運転されるが、一部列車は折り返し前後が各駅停車であることから8両編成で運転された(これは急行・準急も同様)。 快速急行と同様、2012年6月30日のダイヤ改正で廃止された。 * 廃止時の停車駅:西武新宿駅 - 高田馬場駅 - 鷺ノ宮駅 - 上石神井駅 - 田無駅 - 小平駅( - 玉川上水駅から拝島駅までの各駅) ==== 快速 ==== 1993年から2001年まで運行。 [[快速列車|快速]]は1993年12月6日のダイヤ改正で新設された。通勤急行(前述)と同様に、それまで運転されていた平日朝ラッシュ時の[[停車 (鉄道)#千鳥停車|千鳥停車]]の急行の停車駅を明確にする目的で運転された。上りのみの設定で、拝島駅・西武遊園地駅(現:多摩湖駅) - 西武新宿駅間に9本運転された。停車駅は田無駅までの各駅・鷺ノ宮駅・高田馬場駅・西武新宿駅で、田無駅 - 高田馬場駅間で上石神井駅を通過して鷺ノ宮駅に停車するという、当時の通勤急行とは千鳥停車になるダイヤだった。その後当時の通勤急行は停車駅の変更がなされ、当種別は2001年12月のダイヤ改正で急行に統合され消滅した。 == 使用車両 == === 現用車両=== *[[西武2000系電車|2000系・新2000系]] *[[西武6000系電車|6000系]] *[[西武10000系電車|10000系]] *[[西武20000系電車|20000系]] *[[西武30000系電車|30000系]] *[[西武40000系電車|40000系]](所属は[[小手指車両基地]]) *[[西武001系電車|001系]](臨時列車・試運転・回送のみ) *[[西武4000系電車|4000系]](臨時列車・試運転・回送のみ) 新2000系や6000系、9000系が導入される1990年代前半まで3ドア車の天下であった[[西武池袋線|池袋線]]とは対照的に、1977年の2000系運転開始以来4ドア車の比率が高くなっており、2022年現在は特急を除く全ての列車が4ドア車で運転されている。2000系・新2000系の運用には様々な組み合わせが見られ、6両(2000系または新2000系)と4両(新2000系)を連結した10両編成や、8両(新2000系)と2両(2000系または新2000系)を連結した10両編成、4両2本(新2000系)を連結した8両編成といったパターンがある。8両以上の編成が検査に入り、車両が不足気味である際は朝ラッシュ時を中心に4両2本と2両を繋げた10両編成が見られることがある。池袋線で2両と8両を連結する際は2両を飯能方に連結するのに対し、新宿線では2両と8両、6両と4両を連結する場合、連結順序は一定していない。 <gallery> Seibu-Series Old-2000 Express.jpg|2000系 Seibu-Series New-2000 Express.jpg|新2000系 Seibu-Series6000-6001F.jpg|6000系 Seibu-Series20000-20155F.jpg|20000系 Seibu-Series30000-38815F.jpg|30000系 Seibu Series40000-40006.jpg|40000系 </gallery> === 過去の車両 === 501系以前の17m車は省略 *[[西武501系電車|501系]] *[[西武451系電車|451系]] *[[西武551系電車|551系・571系]] *[[西武701系電車|701系・801系・501系(3代)]] *[[西武411系電車|411系(2代)→401系(2代)]] *[[西武101系電車#旧101系|旧101系]] *[[西武101系電車#新101系・301系|新101系・301系]] *[[西武9000系電車|9000系]] *[[西武3000系電車|3000系]] == 女性専用車 == 本路線には、平日朝ラッシュ時間帯に[[日本の女性専用車両|女性専用車]]が導入されている。詳細は以下の通り。 ; 2013年3月18日 - :* 平日の朝7時20分から9時30分までに西武新宿駅へ到着する、急行・通勤急行・準急の'''10両編成全列車'''。実施区間は、新宿線・拝島線全区間で、進行方向の一番前側にあたる先頭車両(1号車)。 : ; 設定開始当初 - 2013年3月15日まで :* 平日朝7時20分から9時20分に西武新宿駅へ到着する10両編成の急行・通勤急行・準急の進行方向先頭車両(1号車)。実施区間は全区間。 :** 拝島線・多摩湖線から直通する急行では、西武遊園地駅(現:多摩湖駅)からの全区間で実施し、拝島線の拝島駅から[[萩山駅]]の間では実施されない<ref group="注釈">西武遊園地駅発の急行は4両編成であるが、これらは全て萩山駅で拝島駅発の6両編成の急行を後部に連結するため、連結後に10両編成の1号車となる4両編成の先頭車両で実施されるものである。</ref>。 女性専用車で運行される列車には、西武鉄道公式サイト<ref>[http://www.seibu-group.co.jp/railways/railway/safety-service/1198535_1372.html 女性専用車両] - 西武鉄道</ref>および対象となるホームの乗車口などに掲出されているほか、駅構内の備えられている時刻表に女性専用車であることを示すマークが付記されている。なお、当該時間帯の急行・通勤急行・準急であっても、8両編成で運転される列車では設定されていない。 ダイヤ混乱時は中止される。 == 利用状況 == 2020年度の朝ラッシュ時最混雑区間は[[下落合駅]] → [[高田馬場駅]]間であり、ピーク時(7:24 - 8:24)の[[混雑率]]は'''113%'''である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf|archiveurl=|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2021-08-21|publisher=国土交通省|page=4|format=PDF}}</ref>。 同線で最も乗降人員が多い駅は高田馬場駅である。起終点の西武新宿駅及び本川越駅はともに乗換駅ではあるが、単独駅であるため他路線との乗り換えが徒歩連絡となる。 混雑率は1993年度まで190%を超えていたが、その後は輸送人員の減少に伴い混雑が緩和した。1997年に都営地下鉄大江戸線の練馬駅 - 新宿駅間が開業した影響を受け、1998年度に混雑率が170%を下回った。 近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;" |- !rowspan="2"|年度 !colspan="4"|最混雑区間輸送実績<ref>『都市交通年報』各年度版</ref><ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/public-traffic/data.html 公共交通関係データ集] - 埼玉県</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/public-traffic/documents/mintetuitizikanrassyu.pdf 民鉄線のラッシュ1時間当り旅客輸送状況]}} - 埼玉県</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/chika7/documents/458470_1.pdf 路線整備の意義・必要性等の整理]}} - 埼玉県</ref><ref>{{Cite web|和書|date=1987-09 |url=http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |title=地域の復権―東京一極集中を越えて(昭和62年9月) |publisher=神奈川県 |accessdate=2015-05-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150113231849/http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |archivedate=2015-01-13}}</ref> !rowspan="2"|特記事項 |- ! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送人員:人 !! 混雑率:% |- |1955年(昭和30年) | 18 || 6,216 || style="background-color: #ccffcc;"|14,907 || '''240''' | |- |1960年(昭和35年) | 20 || 11,256 || 21,890 || style="background-color: #ccffcc;"|'''195''' | |- |1961年(昭和36年) | 20 || 12,040 || 24,794 || '''206''' | |- |1962年(昭和37年) | 20 || 13,798 || 30,200 || '''226''' | |- |1963年(昭和38年) | 24 || 14,060 || 34,374 || '''244''' | |- |1964年(昭和39年) | 23 || 14,892 || 35,498 || '''241''' |style="text-align:left;"|1964年12月23日、営団地下鉄東西線高田馬場駅 - 九段下駅間開業 |- |1965年(昭和40年) | 24 || 16,860 || 41,691 || style="background-color: #ffcccc;"|'''247''' |style="text-align:left;"|1966年3月16日、営団地下鉄東西線中野駅 - 高田馬場駅間開業 |- |1966年(昭和41年) | 24 || 18,354 || 40,617 || '''221''' | |- |1967年(昭和42年) | 24 || 20,636 || 43,730 || '''212''' |style="text-align:left;"|1967年10月27日、所沢駅 - 新所沢駅間複線化 |- |1968年(昭和43年) | 24 || 21,060 || 46,593 || '''221''' | |- |1969年(昭和44年) | 24 || 21,216 || 50,216 || '''236''' |style="text-align:left;"|1969年9月26日、新所沢駅 - 入曽駅間複線化 |- |1970年(昭和45年) | 24 || 22,664 || 50,870 || '''224''' | |- |1971年(昭和46年) | 24 || 22,908 || 52,186 || '''228''' | |- |1972年(昭和47年) | 24 || 23,184 || 52,292 || '''227''' | |- |1973年(昭和48年) | 24 || 23,520 || 53,969 || '''229''' | |- |1974年(昭和49年) | 24 || 23,520 || 53,285 || '''227''' | |- |1975年(昭和50年) | 24 || 24,920 || 54,123 || '''217''' |style="text-align:left;"|1975年11月26日、入曽駅 - 入間川駅(現・狭山市駅)間複線化 |- |1976年(昭和51年) | 24 || 25,200 || 53,974 || '''214''' | |- |1977年(昭和52年) | 24 || 25,200 || 56,897 || '''226''' |style="text-align:left;"|1977年12月19日、4ドア車運行開始 |- |1978年(昭和53年) | 24 || 26,600 || 57,416 || '''216''' | |- |1979年(昭和54年) | 24 || 26,600 || 59,986 || '''226''' |style="text-align:left;"|1980年3月12日、南大塚駅 - 脇田信号場間複線化 |- |1980年(昭和55年) | 24 || 26,880 || 58,916 || '''219''' | |- |1981年(昭和56年) | 24 || 26,880 || 58,664 || '''219''' | |- |1982年(昭和57年) | 24 || 26,880 || 59,731 || '''222''' | |- |1983年(昭和58年) | 24 || 30,240 || 60,313 || '''199''' | |- |1984年(昭和59年) | 24 || 30,240 || 59,948 || '''198''' | |- |1985年(昭和60年) | 24 || 30,240 || 60,248 || '''199''' | |- |1986年(昭和61年) | 26 || 32,480 || 61,995 || '''191''' | |- |1987年(昭和62年) | 26 || 32,480 || 63,020 || '''194''' | |- |1988年(昭和63年) | 26 || 32,480 || 63,316 || '''195''' | |- |1989年(平成元年) | 26 || 32,480 || 63,569 || '''196''' |style="text-align:left;"|1989年12月14日、新狭山駅 - 南大塚駅間複線化 |- |1990年(平成{{0}}2年) | 26 || 32,480 || 62,462 || '''192''' | |- |1991年(平成{{0}}3年) | 26 || 32,480 || style="background-color: #ffcccc;"|63,664 || '''196''' |style="text-align:left;"|1991年7月27日、狭山市駅 - 新狭山駅間複線化 |- |1992年(平成{{0}}4年) | 26 || 32,480 || 62,550 || '''193''' | |- |1993年(平成{{0}}5年) | 26 || 32,480 || 62,801 || '''193''' |style="text-align:left;"|1993年12月6日、特急「小江戸」運転開始 |- |1994年(平成{{0}}6年) | 26 || 33,600 || 62,957 || '''187''' | |- |1995年(平成{{0}}7年) | 26 || 33,600 || 61,799 || '''184''' | |- |1996年(平成{{0}}8年) | 26 || 33,600 || 59,333 || '''177''' | |- |1997年(平成{{0}}9年) | 26 || 33,600 || 57,382 || '''171''' | style="text-align:left;"|1997年12月19日、都営地下鉄大江戸線練馬駅 - 新宿駅間開業 |- |1998年(平成10年) | 26 || 33,600 || 56,907 || '''169''' | |- |1999年(平成11年) | 26 || 33,600 || 53,739 || '''160''' | |- |2000年(平成12年) | 26 || 33,600 || 53,666 || '''159''' |style="text-align:left;"|2000年12月12日、都営地下鉄大江戸線全線開業 |- |2001年(平成13年) | 26 || 33,600 || 53,548 || '''159''' | |- |2002年(平成14年) | 26 || 33,600 || 52,983 || '''158''' | |- |2003年(平成15年) | 26 || 33,600 || 52,796 || '''157''' | |- |2004年(平成16年) | 26 || 33,600 || 52,838 || '''157''' | |- |2005年(平成17年) | 26 || 33,600 || 53,249 || '''158''' | |- |2006年(平成18年) | 26 || 33,600 || 53,391 || '''159''' | |- |2007年(平成19年) | 26 || 33,600 || 53,927 || '''160''' | |- |2008年(平成20年) | 26 || 33,600 || 53,996 || '''161''' |style="text-align:left;"|2008年6月14日、東京メトロ副都心線開業 |- |2009年(平成21年) | 26 || 33,600 || 53,556 || '''159''' | |- |2010年(平成22年) | 26 || 33,600 || 52,700 || '''157''' |style="text-align:left;"|東日本大震災発生年度 |- |2011年(平成23年) | 26 || 33,600 || 51,962 || '''155''' | |- |2012年(平成24年) | 26 || 33,600 || 53,166 || '''158''' | |- |2013年(平成25年) | 26 || 33,600 || 52,697 || '''157''' | |- |2014年(平成26年) | 26 || 33,600 || 52,074 || '''155''' | |- |2015年(平成27年) | 26 || 33,600 || 52,493 || '''156''' | |- |2016年(平成28年) | 26 || 33,600 || 52,568 || '''156''' | |- |2017年(平成29年) | 26 || 33,412 || 53,419 || '''160''' | |- |2018年(平成30年) | 26 || 33,412 || 53,283 || '''159''' | |- |2019年(令和元年) | 25 || 32,020 || 52,446 || '''164''' | |- |2020年(令和{{0}}2年) | 25 || 32,020 || style="background-color: #ccffff;"|36,075 || style="background-color: #ccffff;"|'''113''' | |} == 歴史 == 新宿線は、歴史的に'''川越鉄道'''が[[1895年]]([[明治]]28年)に全通させた国分寺駅 - 川越駅間の一部(東村山駅以北)と、川越鉄道の後身である'''西武鉄道(旧)'''が[[1927年]]([[昭和]]2年)に開業した東村山駅以東の区間に大別できる。 国分寺 - 川越間の鉄道は、[[武蔵国]][[入間郡]]、[[高麗郡]]、[[比企郡]]の物産を貨物輸送する目的で、[[1890年]]12月に仮免許が申請された。[[甲武鉄道]]が[[新宿駅]] - [[立川駅]]間(現在の[[中央本線]])を既に開通させており、国分寺駅で接続して東京へ物資を運ぶ計画であった。翌1891年に甲武鉄道の関連会社として川越鉄道が設立され、1893年に工事を委託された甲武鉄道によって川越・国分寺両側から工事が着工された。しかし[[柳瀬川]]架橋工事で、架橋が狭く大水時に水害を呼ぶと反対運動が起こったため、柳瀬川南岸に久米川(仮)駅を設置し、[[1894年]][[12月21日]]に国分寺駅 - 久米川(仮)駅間が先に開業した<ref> {{ Cite book | 和書 | author = [[東京新聞]]浦和支局(編) | year = 1987 | title = 埼玉事始―さいたまいちばんものがたり― | publisher = さきたま出版会 | pages = 214p | isbn = 4-87891-033-X }} </ref>。これは現在の[[西武国分寺線]]に当たる。翌[[1895年]][[3月21日]]に久米川駅(仮) - 川越駅(現・本川越駅)間が開通し、この路線(川越鉄道川越線)が現在の西武新宿線の東村山駅以北となっている。こうして、川越鉄道線は、川越 - 東村山 - 新宿・飯田町(現在の[[飯田橋駅]]に相当)という、川越から東京都心に至るまでの鉄道路線を形成した。 しかし、[[1906年]]の[[鉄道国有法]]の制定によって、乗り入れ先であった甲武鉄道は国有化され、川越鉄道は都心への直通ルートを失った。そのような中、[[大正]]に入ると、東上鉄道(現在の[[東武東上本線]])と武蔵野鉄道(現在の[[西武池袋線]])が相次いで開業し、東京 - 埼玉県西部地域間の輸送競争が熾烈化。運用面でも運賃面でも不利な状況に迫られた川越鉄道は、いくつかの電力会社との合従連衡を経て、西武鉄道(旧)となった。 [[1923年]]の[[関東大震災]]により、都心から郊外鉄道沿線に移住する流れが起こり、郊外鉄道開業が相次ぐ。西武も独自の都心乗り入れを目指した。[[1916年]]に村山軽便鉄道の[[箱根ケ崎駅|箱根ケ崎]] - [[吉祥寺]]間の免許を譲り受け、[[1922年]]には、淀橋 - 荻窪間を結ぶ西武軌道(のちの[[都電杉並線]])を手中に収めた。こうして、かつての川越鉄道線と、西武軌道線を、村山軽便鉄道の免許線でつないで、川越 - 新宿間という、都心直結鉄道を作ることが目指されたが、西武軌道線は[[併用軌道]]で、高速運転には不向きであることから、この計画は放棄された。西武鉄道(旧)は、改めて別ルートでの都心乗り入れを目指し、[[1925年]]には井荻 - 高田馬場間、[[1926年]]には高田馬場 - 早稲田間の免許を得て、[[1927年]][[4月16日]]に東村山駅 - 高田馬場駅間を'''村山線'''として複線・電化で開業するに至った。同時に川越線の東村山駅 - 川越駅間を電化し、現在と同じ高田馬場駅 - 川越駅間の直通運転を開始し、悲願の都心再乗り入れが果たされた。しかし、村山線は中央本線と武蔵野鉄道の中間地域を通過したため、輸送競争はさらに激化し、所沢駅を共用する武蔵野鉄道とは、社員間のトラブルが発生するほど険悪になった。しかし、[[第二次世界大戦]]期に行われた私鉄統合により、宿敵の武蔵野鉄道と合併して、現在の西武鉄道となり、両者の競争は終結した。 [[戦後]]の[[1952年]]、西武は[[日本国有鉄道|国鉄]][[新宿駅]]への乗り入れを目論んで、高田馬場から西武新宿駅へ延伸し、西武新宿駅 - 本川越駅を'''新宿線'''に改めた。一方、国鉄新宿駅への乗り入れは、予定地が手狭だったことから中止した。 輸送力増強のため、都内の一部区間の[[複々線]]化(地下方式)が計画されたが、バブル崩壊によって中止された。 === 年表 === * [[1891年]]([[明治]]24年)[[4月11日]] - 川越鉄道に対し鉄道布設仮免状下付<ref>[{{NDLDC|2945594/4}} 「鉄道布設仮免状下付」『官報』1891年4月15日]([[国立国会図書館]]デジタルコレクション)</ref> * [[1892年]](明治25年)[[6月21日]] - 免許状下付<ref>[{{NDLDC|2945965/5}} 「鉄道布設免許状下付」『官報』1892年6月29日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[1894年]](明治27年)[[12月21日]] - '''川越鉄道川越線'''国分寺駅 - 久米川(仮)駅間 (8.0km) 開業(非電化)。小川駅、久米川(仮)駅開業<ref>[{{NDLDC|2946717/6}} 「運輸開業免許状」『官報』1894年12月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1895年]](明治28年) ** [[3月21日]] - 久米川(仮)駅 - 川越駅(現在の本川越駅)間 (21.7km) 開業(非電化)。所沢駅、入曽駅、入間川駅、川越駅開業。久米川(仮)駅廃止<ref>[{{NDLDC|2946789/5}} 「運輸開業免許状」『官報』1895年3月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[8月6日]] - 東村山駅開業。 * [[1897年]](明治30年)[[11月14日]] - 南大塚駅開業。 * [[1927年]]([[昭和]]2年) ** [[4月16日]] - 東村山駅 - 川越駅間電化(直流1500V、以後は開業時から電化)。 ** 4月16日 - '''村山線'''高田馬場(仮)駅 - 東村山駅間 (23.7km) 開業(複線)。下落合駅、中井駅、新井薬師前駅、沼袋駅、野方駅、鷺ノ宮駅、下井草駅、井荻駅、上井草駅、上石神井駅、武蔵関駅、上保谷駅、西武柳沢駅、田無駅、花小金井駅、小平駅、久米川駅開業<ref>[{{NDLDC|2956551/7}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1927年4月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1928年]](昭和3年)[[4月15日]] - 高田馬場駅 - 高田馬場(仮)駅間 (0.5km) 開業。高田馬場(仮)駅廃止(4月14日限り)<ref>[{{NDLDC|2956856/7}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1928年4月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1929年]](昭和4年)[[11月20日]] - 上保谷駅を東伏見駅に改称。 * [[1933年]](昭和8年)[[11月10日]] - 競馬開催時の臨時駅として南大塚駅 - 川越駅間に川越競馬場前駅開業。 * [[1937年]](昭和12年)[[12月25日]] - 野方駅 - 鷺ノ宮駅間に府立家政駅開業。 * [[1938年]](昭和13年)[[6月3日]] - 所沢駅 - 入曽駅間に所沢飛行場前駅開業。 * [[1939年]](昭和14年)頃 - 川越競馬場廃止により川越競馬場前駅使用停止・廃止。 * [[1940年]](昭和15年) ** [[4月23日]] - 花小金井駅 - 小平駅間に東小平駅開業。 ** [[7月22日]] - 川越駅を本川越駅に改称<ref>鉄道省監督局「[{{NDLDC|2364373/86}} 地方鉄道・軌道異動表]」『電気協会雑誌』第229号、日本電気協会、1941年1月、附録3頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[12月1日]] - 所沢飛行場前駅を所沢御幸町駅に改称<ref>鉄道省監督局「[{{NDLDC|2364375/69}} 地方鉄道・軌道異動並に現況表]」『電気協会雑誌』第231号、日本電気協会、1941年3月、附録2頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1942年]](昭和17年)[[9月5日]] - 鷺ノ宮駅 - 下井草駅間に西鷺宮駅開業。 * [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] - 府立家政駅を都立家政駅に改称。 * [[1950年]](昭和25年)[[4月6日]] - 東村山駅 - [[柳瀬信号所]]間複線化。 * [[1951年]](昭和26年)[[6月11日]] - 所沢御幸町駅を1.4km北へ移築し、北所沢駅を開業。 * [[1952年]](昭和27年)[[3月25日]] - 西武新宿駅 - 高田馬場駅間 (2.0km) 開業。'''新宿線'''に改称。川越線東村山駅 - 本川越駅間を新宿線に編入。 * [[1953年]](昭和28年)[[1月15日]] - 西鷺宮駅廃止。 * [[1958年]](昭和33年)[[12月19日]] - 柳瀬信号所 - 所沢駅間複線化。 * [[1959年]](昭和34年)[[2月1日]] - 北所沢駅を新所沢駅に改称。 * [[1964年]](昭和39年)[[11月15日]] - 新狭山駅開業。 * [[1967年]](昭和42年)[[10月27日]] - 所沢駅 - 新所沢駅間複線化。 * [[1969年]](昭和44年)[[9月26日]] - 新所沢駅 - 入曽駅間複線化。 * [[1975年]](昭和50年)[[11月26日]] - 入曽駅 - 入間川駅(現・狭山市駅)間複線化。 * [[1976年]](昭和51年) - 休日に限り西武新宿駅 - 西武秩父駅間直通の特急「[[ちちぶ (列車)|おくちちぶ]]」号、西武新宿駅 - 所沢駅間「[[ちちぶ (列車)|むさし]]」号運行開始(「[[小江戸 (列車)|小江戸]]」も参照のこと)。 * [[1977年]](昭和52年) - 現在の地上25階建て西武新宿駅新[[駅ビル]]・駅舎完成。同年、西武鉄道としては[[西武401系電車 (初代)|初代401系]]以来久々となる4ドア車の[[西武2000系電車|2000系]]が登場。 * [[1979年]](昭和54年)3月25日 - 入間川駅を狭山市駅に改称。 * [[1980年]](昭和55年)[[3月12日]] - 南大塚駅 - 脇田信号場間複線化。 * [[1987年]](昭和62年)[[5月28日]] - 所沢駅 - 新所沢駅間に航空公園駅開業。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[12月14日]] - 新狭山駅 - 南大塚駅間複線化。 * [[1991年]](平成3年)[[7月27日]] - 狭山市駅 - 新狭山駅間複線化。 * [[1992年]](平成4年)4月1日 - 新[[列車運行管理システム|運行管理システム]]SEMTRACの本格稼働開始。 * [[1994年]](平成6年)[[8月8日]] - すでに池袋線に投入されていた[[西武6000系電車|6000系]]が新宿線でも定期営業運転開始。 * [[1993年]](平成5年)[[12月6日]] - 西武新宿駅 - 本川越駅間の特急「[[小江戸 (列車)|小江戸]]」号運行開始。 * [[1995年]](平成7年)[[9月1日]] - 西武新宿駅 - [[上石神井駅]]間の[[運賃|特別減算運賃]]開始(基本運賃200円を170円に値下げ)。 * [[1997年]](平成9年)[[12月28日]] - 西武新宿駅 - 上石神井駅間の特別減算運賃再実施(170円を190円に値上げ)。 * [[2000年]](平成12年)[[2月20日]] - 西武鉄道としては4年ぶりとなる新型車両[[西武20000系電車|20000系]]が新宿線から定期営業運転開始(前年に試運転された)。 * [[2002年]](平成14年)4月1日 - 西武新宿駅 - 上石神井駅間の特別減算運賃(190円)の終了に伴い基本運賃(200円)に戻す。 * [[2003年]](平成15年)3月12日 - ダイヤ改正で新所沢駅から国分寺線国分寺駅への[[直通運転]]が始まる。 * [[2006年]](平成18年) ** [[9月24日]] - 更新された運行管理システムSEMTRACの本格稼働開始。 ** [[11月11日]] - 本川越駅開業111周年記念として、本川越駅発快速急行国分寺駅行が運行される。 * [[2007年]](平成19年) ** [[3月6日]] - ダイヤ改正で快速急行の停車駅に東村山駅・狭山市駅を追加。 ** [[3月28日]] - 西武新宿駅 - 本川越駅間で、[[西武10000系電車|10000系]](本務10108F、露払い10106F)による[[お召列車]]が運転される。 * [[2008年]](平成20年) ** [[4月26日]] - 新型車両[[西武30000系電車|30000系]]運行開始。 ** [[6月14日]] - ダイヤ改正で「拝島快速」の運転開始。国分寺線との直通運転が本川越駅まで延長される。国分寺駅 - 本川越駅間の定期列車の運行は1927年の村山線開業以来81年ぶり。 * [[2009年]](平成21年)[[3月14日]] - 1枚の[[PASMO]]でJR高田馬場駅 - JR新宿駅間と西武新宿駅が利用可能な特殊連絡定期券の発売が開始される<ref name="Seibu200902">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20090306120005/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2008/0217.pdf 3月14日(土)より西武新宿駅での乗降と高田馬場駅JR線乗換えが1枚で利用できるPASMO定期券を発売いたします]}}(西武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2009年時点の版)。</ref><ref name="release20101213">{{Cite web|和書|title=新宿線特殊連絡定期券の愛称が決まりました! |url=https://web.archive.org/web/20101231123051/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2010/__icsFiles/afieldfile/2010/12/13/20101213Onedaburu.pdf |publisher=西武鉄道 |format=PDF |date=2010-12-13 |accessdate=2016-06-11}}(インターネットアーカイブ)。</ref>。 * [[2010年]](平成22年)[[12月13日]] - 高田馬場駅経由の特殊連絡定期券の名称が「Oneだぶる♪」に決定する<ref name="release20101213" />。 * [[2011年]](平成23年) ** [[3月5日]] - ダイヤ改正により快速急行の停車駅に入曽駅・新狭山駅・南大塚駅が追加される。 ** 3月14日 - 同月11日に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])による発電所の停止に伴う電力供給逼迫のため、[[東京電力]]が[[輪番停電|輪番停電(計画停電)]]を実施。これに伴い、この日から快速急行・拝島快速・通勤急行・急行・特急の運転が休止される。 ** 4月1日 - 通勤急行・急行・特急の運転が再開される。 ** [[7月2日]] - 土休日の拝島快速の運転が再開される。 ** [[8月1日]] - 平日の拝島快速の運転が再開される。 ** [[12月24日]] - 16時40分頃に東村山駅で各駅停車による列車脱線事故が発生し、小平駅 - 所沢駅間が終電まで運休する。 ** [[12月30日]] - 西武園線への直通運転を休止。 * [[2012年]](平成24年)[[6月30日]] - ダイヤ改正により日中の種別を各停・急行・特急に統一。準急が朝と夕方・夜間のみの運転となり、快速急行と拝島快速を廃止<ref>{{Cite journal|和書 |journal = 鉄道ジャーナル |date = 2012-8 |volume = 46 |issue = 8 |page = 148 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。 * [[2014年]](平成26年)1月14日 - 中井駅 - 野方駅間地下化工事着手<ref name="会社要覧2022">{{Cite report |和書 |title=会社要覧2022 |url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?company/youran/file/youran2022_data.pdf#page=13 |page=99 |publisher=西武鉄道 |accessdate=2022-10-04}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年)1月27日 - 東村山駅付近高架化工事着手<ref name="会社要覧2022" />。 * [[2016年]](平成28年)[[4月17日]] - 観光列車「[[西武4000系電車#西武 旅するレストラン 52席の至福|旅するレストラン 52席の至福]]」運転開始<ref name="shinjuku-keizai20160419" />。 * [[2018年]](平成30年)[[3月10日]] - 「拝島ライナー」の運行を開始<ref name="haijimaliner" />。 * [[2019年]](平成31年 / [[令和]]元年) ** [[3月16日]] - 東村山駅周辺の高架化工事進捗に伴い、ダイヤ改正により国分寺線への直通運転を休止。 ** [[9月22日]] - [[傘]]の[[シェアリング]]サービス「アイカサ」を全29駅で開始<ref>[http://www.seibupros.jp/news/2019/-29.html 傘のシェアリングサービス「アイカサ™」のレンタルスポット(傘立て)を、 西武鉄道新宿線の全駅(29駅)に設置します!] - 西武鉄道/[[西武プロパティーズ]]/Nature Innovation Group(2019年09月18日)2019年10月7日閲覧。</ref>。 * [[2020年]](令和2年) ** 3月14日 - 土休日の快速急行の運転が再開される。 ** 4月8日 - 事業に必要な用地の取得状況により、中井駅 - 野方駅間連続立体交差事業の施行完了日を2021年3月31日から2027年3月31日に変更することを中野区が発表<ref name="認可変更">[https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/522000/d021958.html 連続立体交差事業] - 中野区、2020年5月5日閲覧。</ref>。 * [[2022年]]度 - [[2023年]]度(令和4年度 - 令和5年度) - 井荻駅 - 西武柳沢駅間連続立体交差事業認可取得予定<ref name="井荻・西武柳沢間連立">{{Cite report |和書 |title=説明会 質疑概要 |url=https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/pamphlet_153.pdf#page=7 |publisher=東京都都市整備局 |page=7 |accessdate=2021-2-27}}</ref>。 * 2022年(令和4年)度第4四半期 - 東村山駅付近の下り線を高架に切り替える予定<ref name="東村山駅付近連立事計変更">{{PDFlink|[https://assess-toshokohyo.metro.tokyo.lg.jp/uploads/web_public/286_seibusen/41/41202128621.pdf 「西武鉄道新宿線、国分寺線及び西武園線(東村山駅付近)連続立体交差事業」変更届]}} - 東京都環境局総務部 環境政策課、2021年12月2日閲覧。</ref>。事業調査計画変更前は、2021年度第4四半期の予定だった<ref name="東村山駅付近連立事計変更" />。 * [[2024年]](令和6年)度第4四半期 - 東村山駅付近の上り線を高架に切り替える予定<ref name="東村山駅付近連立事計変更" />。事業調査計画変更前は、2023年度第4四半期の予定だった<ref name="東村山駅付近連立事計変更" />。 * 2024年(令和6年)度 - 東村山駅付近連続立体交差事業完了予定<ref>[https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/shisei/machi/machidukuri/higashimurayama_inde/renzokuritaitetudou/index.html 都市計画事業(連続立体交差事業と鉄道付属街路事業)] - 東村山市、2020年5月5日閲覧。</ref>。 * [[2026年]](令和8年)度第2四半期 - 中井駅 - 野方駅間を地下に切り替える予定<ref>{{PDFlink|[https://www.kankyo.metro.tokyo.lg.jp/assessment/information/toshokohyo/publishdetail/284_seibushinjuku_tosho_hen4.files/41202028403_02.pdf 計画の変更の伴う予測・評価の見直しについて2]}} - 東京都環境局環境局総務部 環境政策課、2020年12月18日閲覧。</ref>。事業調査計画変更前は2020年度第2四半期の予定だった<ref>{{PDFlink|[https://www.kankyo.metro.tokyo.lg.jp/assessment/information/toshokohyo/publishdetail/284_seibushinjuku_tosho_hen4.files/41202028403_03.pdf 計画の変更の伴う予測・評価の見直しについて3]}} - 東京都環境局環境局総務部 環境政策課、2020年12月18日閲覧。</ref>。 * [[2027年]](令和9年)3月31日 - 中井駅 - 野方駅間連続立体交差事業完了予定<ref name="認可変更" />。 * [[2036年]]度 - [[2037年]]度(令和18年度 - 令和19年度) - 井荻駅 - 西武柳沢駅間連続立体交差事業完了予定<ref name="井荻・西武柳沢間連立" />。 == 駅一覧 == <!-- 各種別の色は[[西武池袋線]]や各支線と合わせています。変更される場合、他の路線も合わせて修正してください。文字が見やすいように実際に使われているものより薄めの色を選ぶことをお奨めします。--> * [[西武新宿駅]] - [[東村山駅]]までが[[東京都]]、[[所沢駅]] - [[本川越駅]]までが[[埼玉県]]に所在。 ; 凡例 : ●:停車、|:通過、↓:下り方向通過(快速急行)、↑:上り方向通過(通勤急行のみ) : 各駅停車は各駅に停車。 : [[駅ナンバリング|駅番号]]は[[2013年]]3月までに順次導入された<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2011/__icsFiles/afieldfile/2012/02/23/20110223eki-number.pdf 西武線全駅で駅ナンバリングを導入します]}} - 西武鉄道、2012年4月25日閲覧。</ref>。 : 線路:脇田信号場 - 本川越駅間は単線、それ以外は全線複線 {| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;" |- !style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #00A6BF;"|駅番号 !style="width:10.5em; border-bottom:solid 3px #00A6BF;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00A6BF;"|駅間<br />キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00A6BF;"|累計<br />キロ !style="width:1em; background:#afa; border-bottom:solid 3px #00A6BF;"|{{縦書き|準急}} !style="width:1em; background:#fd9; border-bottom:solid 3px #00A6BF;"|{{縦書き|急行}} !style="width:1em; background:#ff9; border-bottom:solid 3px #00A6BF; line-height:1.1em;"|{{縦書き|通勤急行}} !style="width:1em; background:#c9f; border-bottom:solid 3px #00A6BF; line-height:1.1em;"|{{縦書き|快速急行}} !style="width:1em; background:white; border-bottom:solid 3px #00A6BF;"|{{縦書き|[[拝島ライナー]]|height=7em|line-height=1em}} !style="width:1em; background:#fcc; border-bottom:solid 3px #00A6BF;"|{{縦書き|特急[[小江戸 (列車)|小江戸]]|height=6em|line-height=1em}} !style="border-bottom:solid 3px #00A6BF;"|接続路線・備考 !colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #00A6BF;"|所在地 |- !SS01 |[[西武新宿駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|● |style="background:#ff9;"|● |style="background:#c9f;"|● |style="background:white;"|● |style="background:#fcc;"|● |[[東京地下鉄]]:[[File:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|M]] [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]([[新宿駅]]:M-08)<br />[[都営地下鉄]]:[[File:Toei Oedo line symbol.svg|18px|E]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]([[新宿西口駅]]:E-01)<br />※[[定期乗車券|定期券]]については下記路線も[[連絡運輸]]あり<br />[[東日本旅客鉄道]]:[[File:JR JA line symbol.svg|18px|JA]] [[埼京線]]・[[File:JR JS line symbol.svg|18px|JS]] [[湘南新宿ライン]]・[[File:JR JC line symbol.svg|18px|JC]] [[中央線快速|中央線(快速)]]・[[File:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] [[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]]・[[File:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]](新宿駅:JA 11・JS 20・JC 05・JB 10・JY 17)<br />[[京王電鉄]] (KO01):[[File:Number prefix Keio-line.svg|18px|KO]] [[京王線]]([[新宿駅#京王電鉄(京王線)|新宿駅]])、[[File:Number prefix Keio-line.svg|18px|KO]] [[京王新線]]([[新宿駅#京王電鉄(京王新線)・東京都交通局(都営地下鉄新宿線)|新線新宿駅]])<br />[[小田急電鉄]]:[[File:Odakyu odawara logo.svg|18px|OH]] [[小田急小田原線|小田原線]](新宿駅:OH01)<br />※2013年3月16日からは、一部のフリーきっぷについては以下の連絡運輸あり<ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2013/02/18/20130219tickets.pdf 「西武横浜ベイサイドきっぷ」、「西武東急線トライアングルチケット」を発売!]}} - 西武鉄道、2013年2月19日。</ref><br />東京地下鉄:[[File:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|18px|F]] [[東京メトロ副都心線|副都心線]]([[新宿三丁目駅]]:F-13) |rowspan="21" style="width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[東京都]]|height=6em}} |rowspan="4"|[[新宿区]] |- !SS02 |[[高田馬場駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|2.0 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|● |style="background:#ff9;"|● |style="background:#c9f;"|● |style="background:white;"|● |style="background:#fcc;"|● |東日本旅客鉄道:[[File:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] 山手線 (JY 15)<br />東京地下鉄:[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|18px|T]] [[東京メトロ東西線|東西線]] (T-03) |- !SS03 |[[下落合駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|3.2 |style="background:#afa;"|| |style="background:#fd9;"|| |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:white;"|| |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !SS04 |[[中井駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|3.9 |style="background:#afa;"|| |style="background:#fd9;"|| |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:white;"|| |style="background:#fcc;"|| |都営地下鉄:[[File:Toei Oedo line symbol.svg|18px|E]] 大江戸線 (E-32) |- !SS05 |[[新井薬師前駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|5.2 |style="background:#afa;"|| |style="background:#fd9;"|| |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:white;"|| |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |rowspan="5"|[[中野区]] |- !SS06 |[[沼袋駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|6.1 |style="background:#afa;"|| |style="background:#fd9;"|| |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:white;"|| |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !SS07 |[[野方駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|7.1 |style="background:#afa;"|| |style="background:#fd9;"|| |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:white;"|| |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !SS08 |[[都立家政駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|8.0 |style="background:#afa;"|| |style="background:#fd9;"|| |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:white;"|| |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !SS09 |[[鷺ノ宮駅]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|8.5 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|● |style="background:#ff9;"|● |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:white;"|| |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !SS10 |[[下井草駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|9.8 |style="background:#afa;"|| |style="background:#fd9;"|| |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:white;"|| |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |rowspan="3"|[[杉並区]] |- !SS11 |[[井荻駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|10.7 |style="background:#afa;"|| |style="background:#fd9;"|| |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:white;"|| |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !SS12 |[[上井草駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|11.7 |style="background:#afa;"|| |style="background:#fd9;"|| |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:white;"|| |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !SS13 |[[上石神井駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|12.8 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|● |style="background:#ff9;"|● |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:white;"|| |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |rowspan="2"|[[練馬区]] |- !SS14 |[[武蔵関駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|14.1 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|| |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:white;"|| |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !SS15 |[[東伏見駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|15.3 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|| |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:white;"|| |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |rowspan="3" style=" white-space:nowrap;"|[[西東京市]] |- !SS16 |[[西武柳沢駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|16.3 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|| |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:white;"|| |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !SS17 |[[田無駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|17.6 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|● |style="background:#ff9;"|● |style="background:#c9f;"|● |style="background:white;"|| |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !SS18 |[[花小金井駅]] |style="text-align:right;"|2.3 |style="text-align:right;"|19.9 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|● |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:white;"|| |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |rowspan="2"|[[小平市]] |- !SS19 |[[小平駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|22.6 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|● |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:white;"|● |style="background:#fcc;"|| |[[西武鉄道]]:[[File:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] [[西武拝島線|拝島線]]('''[[拝島駅]]・[[File:SeibuTamako.svg|18px|ST]] [[西武多摩湖線|多摩湖線]][[多摩湖駅]]まで直通運転''') |- !SS20 |[[久米川駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|24.6 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|● |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|↓ |rowspan="12" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:top;"|{{縦書き|拝島線直通|height=6em}} |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |rowspan="2"|[[東村山市]] |- !SS21 |[[東村山駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|26.0 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|● |style="background:#ff9;"|● |style="background:#c9f;"|● |style="background:#fcc;"|● |西武鉄道:[[File:SeibuKokubunji.svg|18px|SK]] [[西武国分寺線|国分寺線]]・[[File:SeibuKokubunji.svg|18px|SK]] [[西武西武園線|西武園線]] (SK05) |- !SS22 |[[所沢駅]] |style="text-align:right;"|2.9 |style="text-align:right;"|28.9 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|● |style="background:#ff9;"|● |style="background:#c9f;"|● |style="background:#fcc;"|● |西武鉄道:[[File:Seibu ikebukuro logo.svg|18px|SI]] [[西武池袋線|池袋線]] (SI17) |rowspan="10" style="width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[埼玉県]]|height=6em}} |rowspan="3"|[[所沢市]] |- !SS23 |[[航空公園駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|30.5 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|● |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !SS24 |[[新所沢駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|31.7 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|● |style="background:#ff9;"|● |style="background:#c9f;"|● |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !&nbsp; |[[南入曽信号場]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|33.7 |style="background:#afa;"|| |style="background:#fd9;"|| |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:#fcc;"|| |''[[南入曽車両基地]]分岐線'' |rowspan="4"|[[狭山市]] |- !SS25 |[[入曽駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|35.6 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|● |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|● |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !SS26 |[[狭山市駅]] |style="text-align:right;"|3.0 |style="text-align:right;"|38.6 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|● |style="background:#ff9;"|● |style="background:#c9f;"|● |style="background:#fcc;"|● |&nbsp; |- !SS27 |[[新狭山駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|41.3 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|● |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|● |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !SS28 |[[南大塚駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|43.9 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|● |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|● |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |rowspan="3"|[[川越市]] |- !&nbsp; |[[脇田信号場]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|46.6 |style="background:#afa;"|| |style="background:#fd9;"|| |style="background:#ff9;"|↑ |style="background:#c9f;"|↓ |style="background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !SS29 |[[本川越駅]]<br />{{Smaller|(時の鐘と蔵のまち)}} |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|47.5 |style="background:#afa;"|● |style="background:#fd9;"|● |style="background:#ff9;"|● |style="background:#c9f;"|● |style="background:#fcc;"|● |※定期券のみ下記路線の連絡運輸あり<br />[[東武鉄道]]:[[File:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|18px|TJ]] [[東武東上本線|東上線]]([[川越市駅]]:TJ-22・[[川越駅]]:TJ-21)<br/>東日本旅客鉄道:{{Color|#00ac9a|■}}{{Color|#a8a39d|■}}[[川越線]](川越駅) |} {{Reflist|group="*"}} 高田馬場駅 - 下落合駅間で[[豊島区]]をわずかに通るが、駅はない。 === 過去の接続路線 === * 南大塚駅:[[西武安比奈線|安比奈線]] - 1963年休止、2017年5月31日廃止 === 廃駅・廃止信号所 === * [[西鷺宮駅]](鷺ノ宮駅 - 下井草駅間、[[1953年]][[1月15日]]廃止) * [[東小平駅]](花小金井駅 - 小平駅間、[[1954年]][[10月10日]]小平駅に統合廃止) * [[柳瀬信号所]](東村山駅 - 所沢駅間、[[1958年]][[12月19日]]同区間複線化完成時に廃止) * [[新所沢駅|所沢御幸町駅]](所沢駅 - 航空公園駅間、[[1951年]][[6月11日]]廃止) * [[川越競馬場前駅]](南大塚駅 - 本川越駅間、[[競馬]]開催時のみの[[臨時駅]]、[[1939年]]頃廃止) == 付記 == === 新駅構想 === [[日本国有鉄道]](国鉄)[[新宿駅]]乗り入れの際に、高田馬場駅 - 西武新宿駅間に「西武大久保駅」ができる予定であった。 また、[[ルミネエスト新宿|新宿大衆駅ビル]]開業後も、地下路線を利用して国鉄新宿駅に乗り入れる構想を捨てていなかった(地下急行線計画とは別である)<ref>{{Cite book|和書|title=私鉄の車両 (6)西武鉄道|date=|year=|publisher=[[保育社]]}}</ref>。 === 複々線計画 === [[バブル景気]]期、当線は利用客のさらなる伸びが見込まれ、飽和状態にあった輸送力状況を打開する切り札として、上石神井駅 - 西武新宿駅間(12.8 km)を[[複々線]]化する構想が何度も持ち上がっていた。在来線直下の地下40メートル-60メートルを掘削して地下線を増線し、工期と費用の点から地下線は高田馬場駅と西武新宿駅の2駅のみの急行線とする計画が事業化されることになった<ref> {{Cite book | author = 近藤禎夫・安藤陽 | year = 1997 | title = 日本のビッグ・ビジネス19 西武鉄道・[[近畿日本鉄道]] | publisher = [[大月書店]] | pages = 235p | isbn = 4-272-10219-2 }} </ref>。地下線の西武新宿駅ホームは新宿駅寄りに設け、他線との乗り換えを改善する予定であった。 この計画は、1987年12月に[[特定都市鉄道整備促進特別措置法|特定都市鉄道整備事業]]計画の認定を受け、翌1988年9月に[[運輸大臣]]の認可が下り、[[特定都市鉄道整備積立金]]制度導入による運賃加算も行われた。[[シールドトンネル|シールド工法]]によるトンネルの調査設計は[[日本鉄道建設公団]]に依託され、工事は部分的に着手された。 ところが技術上の問題で工事費用が予定より膨らみ、景気減退や[[少子化|少子]][[高齢化社会|高齢化]]を背景とした見込み利用者数の減少、輸送人数に応じた避難経路を確保するための建設費高騰もあり、1995年1月になって計画は無期延期となった<ref>{{Cite news |title=西武、新宿線複々線化を断念 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-01-20 |page=3 }}</ref>。その際、積立金として加算された分は、特別減算を実施し運賃の一時的な値下げが実施された。代わりに、新宿線の線形改良・ホーム改良工事等が実施されている<ref>電気車研究会刊『[[鉄道ピクトリアル]]』等より</ref>。2008年3月31日に複々線化工事の竣功期限を迎え、延長されず失効している。 2019年に東京都は計画を廃止するための都市計画素案を作成した<ref>[https://trafficnews.jp/post/86309 西武新宿線「幻の複々線化」正式に中止へ 「無期限延期」から四半世紀] - 乗りものニュース、2019年5月23日</ref>。その後、2021年11月26日付の東京都告示第1410号{{PDFlink|[https://www.tokyoto-koho.metro.tokyo.lg.jp/files/koho/y2021/17467.pdf]}}により線増部の都市計画が削除され、複々線化計画は正式に消滅した。 === 連続立体交差事業 === ; 着工区間 : 東村山駅付近 : 中井駅 - 野方駅 ; 準備区間 : 野方駅 - 井荻駅間<ref>{{PDFlink|[https://kugikai-nakano.jp/shiryou/146685352.pdf 西武新宿線(野方駅 - 井荻駅間)連続立体交差化に係る構造形式の調査検討の結果について]}} - 中野区、2020年10月11日閲覧。</ref> : 井荻駅 - 西武柳沢駅間<ref name="井荻・西武柳沢間連立" /> ; 検討区間 : 田無駅 - 花小金井駅<ref>[https://www.city.kodaira.tokyo.jp/kurashi/078/078609.html 鉄道立体化に関するアンケート調査の結果について] - 小平市都市開発部、2021年4月9日閲覧。</ref> : 高田馬場駅 - 中井駅<ref>{{Cite report |和書 |title=令和4年度予算(案)の概要 |url=https://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000281595.pdf#page=112 |publisher=新宿区 |format=PDF |page=110 |date=2022-2 |accessdate=2022-3-12}}</ref> === 東京メトロ東西線相互直通運転について === 中野区議会は2015年3月9日に、中井駅 - 野方駅間の地下化工事に合わせた、[[東京メトロ東西線]]との相互直通運転に関する資料を公開した<ref>{{Cite |url=http://kugikai-nakano.jp/shiryou/15316152129.pdf|title=西武新宿線と地下鉄東西線との相互直通運転について |publisher=中野区 |format=PDF |date=2015-03-09 |accessdate=2015-03-24}}</ref>。現状の高田馬場駅は、新宿線ホームが地上2階に対し、東西線ホームが地下2階にあるため、乗り換えに多くの時間を費やすこと、さらには、高田馬場駅利用者にはJR[[山手線]]に乗り換える人もいるため、ラッシュ時に相当混雑していることなど、多くの問題を抱えていることなどを理由として、東西線との相互直通運転についても「実現に向け取り組んでいく」としている。 2020年9月に行われた[[東洋経済新報社|東洋経済新報]]によるインタビューでも西武鉄道社長の喜多村樹美男は当線が西武新宿駅止まりなので沿線から都心に向かう乗客からの不満の声が多いとした上で、「新宿線の都心乗り入れのために東京メトロ東西線乗り入れなどといった様々な選択肢を検討している」と語っており、相互直通運転について、東京メトロなどと調整していることを明らかにしている<ref>{{Cite web|和書|title=「新宿線―東西線直通」へ、西武社長の意気込み|url=https://toyokeizai.net/articles/-/377569|website=東洋経済新報|date=2020-09-28|accessdate=2020-09-28|publisher=|page=4}}</ref>。 === キロポストについて === 新宿線では、距離を示す[[距離標|キロポスト]]が起点である西武新宿駅から終点の本川越駅に向かって純粋に増えるよう設置されているわけではない。これは歴史的な経緯によるもので、おおむね以下の3区間に分かれており、キロ数が増える方向も下り方と上り方が混在している<ref name="RP716-pp128">小松丘「西武鉄道 沿線観察」 - 『[[鉄道ピクトリアル]]』No.716 2002年4月臨時増刊号 特集・西武鉄道 P.128-130 2002年4月10日発行 [[電気車研究会]]</ref>。 # 西武新宿駅←高田馬場駅 # 高田馬場駅→東村山駅 # (国分寺線[[国分寺駅]]←)東村山駅←本川越駅 :(矢印の方向にキロ数が増える) # は、戦後に高田馬場駅から西武新宿駅まで延伸された際、既に0kmポストがある高田馬場駅を起点に上り方向に打たれたものである。高田馬場駅ホームの下り方終端部にある0kmポストからマイナスになるように設置されており、西武新宿駅の終端付近に2kmポストが存在する<ref name="RP716-pp128"/>。 # は、旧西武鉄道時代に当路線が開通した際、東村山駅から本川越駅まではポストが既設であったので、新たに起点となる高田馬場駅ホームの下り方終端部の0kmポストから、合流地点の東村山駅付近まで設置したものである。ただし終端については東村山駅構内までではなく、所沢駅の南側で池袋線をアンダークロスする地点まで設置されている<ref name="RP716-pp128"/>。<!-- この地点には終端を示す標識が下り方面に向かって左側の切り通し上に立てられ、26.472kmを示している。--> # は、旧川越鉄道時代に設置されたもので、歴史的な経緯上、本川越駅を0kmとして設置され、東村山駅からは国分寺線国分寺駅に向かってへ連続して打たれている(このため国分寺線のキロポストは全て本川越駅からの通算距離を示している)。ただし本川越駅の0kmポストは駅改良工事などの関係で現存しておらず、実際のポストは0.3kmからとなっている。また、名目上は本川越駅 - 東村山駅 - 国分寺駅と連続しているが、実際には所沢駅南側の19.5kmポストから東村山駅構内(21.9km)まで一旦ポストが中断している<ref name="RP716-pp128"/>。この中断の開始地点は2.の高田馬場駅起点のキロポストが打ち止めとなる地点のすぐそばにあたり、わずかな区間が重複するものの、実質的にここでキロポストが切り替わっている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Seibu Shinjuku Line}} * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[西武村山線]] - 箱根ヶ崎-東村山-吉祥寺間として計画された計画線。高田馬場駅-東村山駅間の母体となった。 * [[西武国分寺線]] - 旧川越鉄道川越線→西武川越線の一部。東村山駅-本川越駅間が新宿線となった際に支線となった。 * [[開かずの踏切]] * 当路線を舞台とする作品 ** [[西武新宿戦線異状なし DRAGON RETRIEVER]] - 当路線沿線を舞台とする[[漫画]]作品。 ** [[恋の西武新宿線]] - [[ロックバンド]]「[[愛奴]]」による[[1975年]]の楽曲。作詞作曲は[[浜田省吾]]。 == 外部リンク == * [https://www.seiburailway.jp/railway/ 西武鉄道 電車・駅のご案内] {{西武鉄道の路線}} {{DEFAULTSORT:せいふしんしゆくせん}} [[Category:関東地方の鉄道路線|しんしゆくせん]] [[Category:西武鉄道の鉄道路線|しんしゆく]] [[Category:西武鉄道 (初代)|路]] [[Category:川越鉄道|路]] [[Category:埼玉県の交通]] [[Category:東京都の交通]]
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東村山駅
東村山駅(ひがしむらやまえき)は、東京都東村山市本町二丁目にある、西武鉄道の駅である。国分寺駅、小川駅と並び西武最古の駅の一つでもある。 特急「小江戸」号を含む全列車が停車する。また東村山駅管区として、西武園駅と東村山駅 - 東伏見駅間の各駅を管理している。 新宿線、西武園線、国分寺線の3路線が乗り入れ、4方向の列車が利用できる。西武園線は当駅が起点、国分寺線は当駅が終点である。国分寺線の列車の一部は新宿線の本川越方面や西武園線と直通運転を行っていたが、現行ダイヤでは直通列車の設定はない。 駅番号については、新宿線がSS21、国分寺線と西武園線がSK05である。 所沢方面から拝島方面へ行く場合、通常は小平で乗り換えるが、時刻によっては東村山で国分寺線に乗り換えると小川で拝島線下り列車に接続することがあり、その場合は東村山到着前の車内でアナウンスされる。 川越鉄道は甲武鉄道国分寺停車場と川越を結ぶ目的で建設され計画時は東村山に停車場を作る予定はなかった。その理由を『東村山市史』では、東村山から一人も発起人が出なかったこと、同じく発起人がいなかったにもかかわらず小平村(現・小平市)に小川停車場が設置されたのは、青梅街道と交差するなど要衝の地であったことに対し、東村山が純農村地帯であったことを挙げている。ところが、予期せぬ出来事により東村山に停車場が設置されることになった。それは、柳瀬川の架橋に対し地元住民が水害の恐れがあると反対したため、工事が中断。結局内務省の裁定で橋梁の設計変更を行うこととなった。しかし、工事が大幅に遅延したため、やむなく1894年(明治27年)12月、橋梁手前に久米川仮停車場を設けて川越鉄道は暫定開業となり、こうして東村山に初めての停車場が誕生した。その後橋梁が完成し、翌年3月に川越停車場まで全通したため、久米川仮停車場は廃止されることになった。それを知った住民は停車場の設置を川越鉄道に陳情し、工事資金と用地を提供することにより8月に久米川仮停車場から国分寺停車場寄りに東村山停車場が開業することになった。西口ロータリーに設置されている「東村山停車場の碑」裏面には、寄付者約250人の姓名とその金額が記されている。 このように、周辺の主たる産業が農業であり、畑と雑木林ばかりであった東村山停車場に転機をもたらしたのは、東京市による公共事業だった。明治時代末期、東京市は人口の急増による飲料水不足が深刻な問題となっており、その対策を模索していた。そして、大和村(現・東大和市)の地に人造湖を造成することとなり、1916年(大正5年)から大規模な開発が行われることになった。東京市では、1920年(大正9年)に東村山停車場から建設現場までトロッコ軌道を敷設、連日多摩川から採取した砂利やセメントを国分寺を経由して東村山停車場でトロッコに積み換えて現場まで輸送した。 また同じ頃、都心へ直接乗り入れるべく東村山停車場から分岐して国鉄高田馬場駅に向かう路線の建設を決定し、1925年(大正14年)から用地買収に着手した。東村山停車場はその建築資材の搬入先となり、工事の進捗とともにこれらの建設の工事関係者の流入により、停車場前はカフェ、商店、下宿屋、映画館などが軒を並べて活況を呈した。 かつては国立療養所多磨全生園に収容されるハンセン病患者や、東村山に多く所在していた感染症患者向け診療所に入所する結核患者を乗せた「病人車」と呼ばれる臨時列車が国分寺方面から入線し、一般客から隔離された専用の駅舎とホームが現在の東口側に存在していた(このころ改札口は西口しかなかった)。病院が1929年(昭和4年)に自動車を購入し、品川、八王子、赤羽、三河島などの各駅に迎えに行くようになり「病人車」による患者輸送は廃止され、専用の駅舎とホームはすべて撤去された。その敷地は拡張された駅施設の下になっており、当時を偲ばせるものは全く残っていない。 東京都の依頼により1944年(昭和19年)から鉄道による糞尿輸送が行われることとなり、コンクリート製の貯溜槽が駅の北側に設けられた。地元の人からは溜もしくはくそ溜といわれていた。毎朝糞尿を積んだ貨車がやってきたが一日で汲み取ったという。また1945年(昭和20年)1月にはこれの底が抜け落ち、周囲に糞尿を撒き散らした揚句地下水が汚染されたという事故も発生している。使用廃止後は西武鉄道の社宅が建てられた。2011年に老朽化した社宅を壊したところ基礎の下からコンクリートの構造物が出土したため東村山ふるさと歴史館では学術調査をする予定である。 駅周辺の踏切では慢性化した渋滞が問題となっていたことから、東京都・東村山市・西武鉄道は東村山駅および駅付近の新宿線、国分寺線、西武園線の約4.5kmの区間について鉄道を高架化し、道路と鉄道の連続立体化する構想について検討していた。2012年、東京都が連続立体交差化計画を決定、2013年、国土交通省より都市計画事業認可。2015年6月着工。2024年度完成予定となっている。完成時には府中街道など5カ所の踏切が除去されるほか、駅は2面4線(新宿線上り本線、新宿線上り待避線・国分寺線上り・西武園線上り、新宿線下り待避線・国分寺線下り・西武園線下り、新宿線下り本線)の高架駅となる。 島式ホーム3面6線の地上駅。橋上駅舎を有していたが高架化工事に伴い、2019年11月29日の終電をもって閉鎖した。 2019年11月30日からは、本川越方面寄りに新たに改札地下通路が設けられた。 改札内にはコンビニエンスストア「TOMONY」がある。 図上部より以下の順番 高架化工事の進捗に伴い、大きな変化が出ている。 2021年度の一日平均乗降人員は39,397人で、西武鉄道全92駅中19位である。 近年の一日平均乗車人員の推移は下表の通りである。 かつて特急「小江戸」が通過駅だった当時、6月に北山公園で開催される「菖蒲まつり」期間中に特急「小江戸」が臨時停車していた。また、2012年にも西武鉄道創立100周年を記念し、西武新宿発19時台と20時台の下り4本が9月24日 - 30日の期間に臨時停車していた。2013年3月16日のダイヤ改正より特急「小江戸」の停車駅となり全列車停車駅になった。
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東村山駅(ひがしむらやまえき)は、東京都東村山市本町二丁目にある、西武鉄道の駅である。国分寺駅、小川駅と並び西武最古の駅の一つでもある。 特急「小江戸」号を含む全列車が停車する。また東村山駅管区として、西武園駅と東村山駅 - 東伏見駅間の各駅を管理している。
{{駅情報 |社色 = #36C |文字色 = |駅名 = 東村山駅 |画像 = Higashimurayama-Sta-East-Gate 202008.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 高架工事中の東口(2020年8月11日) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}} |よみがな = ひがしむらやま |ローマ字 = Higashi-Murayama |電報略号 = |所属事業者 = [[西武鉄道]] |所在地 = [[東京都]][[東村山市]]本町二丁目3番地32 |座標 = {{coord|35|45|38|N|139|27|57|E|region:JP_railwaystation|display=inline,title}} |開業年月日 = [[1894年]]([[明治]]27年)[[12月21日]] |廃止年月日 = |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 3面6線<ref>2,3番ホームは同じホーム上にあり、西武新宿よりが2番ホーム、所沢よりが3番ホーム</ref> |乗車人員 = |乗降人員 = <ref group="利用客数" name="seibu2021" />39,397 |統計年度 = 2021年<!--リンク不要--> |乗入路線数 = 3 |所属路線1 = {{color|#09c|■}}[[西武新宿線|新宿線]] |隣の駅1 = |前の駅1 = SS20 [[久米川駅|久米川]] |駅間A1 = 1.4 |駅間B1 = 2.9 |次の駅1 = [[所沢駅|所沢]] SS22 |駅番号1 = {{駅番号r|SS|21|#0099cc|2}} |キロ程1 = 26.0 |起点駅1 = [[西武新宿駅|西武新宿]] |所属路線2 = {{color|#0c6|■}}[[西武国分寺線|国分寺線]] |隣の駅2 = |前の駅2 = SK04 [[小川駅 (東京都)|小川]] |駅間A2 = 2.7 |駅間B2 = |次の駅2 = |駅番号2 = {{駅番号r|SK|05|#00cc66|2}} |キロ程2 = 7.8 |起点駅2 = [[国分寺駅|国分寺]] |所属路線3 = {{color|#0c6|■}}[[西武西武園線|西武園線]] |隣の駅3 = |前の駅3 = |駅間A3 = |駅間B3 = 2.4 |次の駅3 = [[西武園駅|西武園]] SK06 |駅番号3 = {{駅番号r|SK|05|#00cc66|2}} |キロ程3 = 0.0 |起点駅3 = 東村山 |乗換 = |備考 = 高架化工事中 }} [[File:Higashimurayama-Sta-West-Gate 202008.jpg|thumb|250px|高架工事中の西口<br>(2020年8月11日)]] [[File:Higashimurayama-Sta 202008.jpg|thumb|250px|高架工事中の東村山駅全景。踏切構内より撮影(2020年8月11日)]] [[File:Higashimurayama-Sta-Gate.JPG|thumb|250px|橋上駅舎閉鎖前の改札口<br>(2015年7月)]] [[File:Higashimurayama-Sta-Platform.JPG|thumb|250px|ホーム(2015年7月)]] '''東村山駅'''(ひがしむらやまえき)は、[[東京都]][[東村山市]]本町二丁目にある、[[西武鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[国分寺駅]]、[[小川駅 (東京都)|小川駅]]と並び'''西武最古の駅の一つ'''でもある。 特急「[[小江戸 (列車)|小江戸]]」号を含む全列車が停車する。また東村山駅管区として、西武園駅と東村山駅 - [[東伏見駅]]間の各駅を管理している。 == 乗り入れ路線 == [[西武新宿線|新宿線]]、[[西武西武園線|西武園線]]、[[西武国分寺線|国分寺線]]の3路線が乗り入れ、4方向の列車が利用できる。西武園線は当駅が起点、国分寺線は当駅が終点である。国分寺線の列車の一部は新宿線の本川越方面や西武園線と直通運転を行っていたが、現行ダイヤでは直通列車の設定はない。 駅番号については、新宿線が'''SS21'''、国分寺線と西武園線が'''SK05'''である。 [[所沢駅|所沢]]方面から[[拝島駅#西武鉄道|拝島]]方面へ行く場合、通常は[[小平駅|小平]]で乗り換えるが、時刻によっては東村山で[[西武国分寺線|国分寺線]]に乗り換えると[[小川駅 (東京都)|小川]]で[[西武拝島線|拝島線]]下り列車に接続することがあり、その場合は東村山到着前の車内でアナウンスされる。 == 歴史 == === 久米川仮停車場の開設 === [[File:Higashimurayama station c.1909.jpg|thumb|250px|1902年ごろの東村山停車場]] [[西武国分寺線#歴史|川越鉄道]]は[[甲武鉄道]]国分寺停車場と川越を結ぶ目的で建設され計画時は東村山に停車場を作る予定はなかった。その理由を『東村山市史』では、東村山から一人も発起人が出なかったこと、同じく発起人がいなかったにもかかわらず小平村(現・[[小平市]])に小川停車場が設置されたのは、[[青梅街道]]と交差するなど要衝の地であったことに対し、東村山が純農村地帯であったことを挙げている。ところが、予期せぬ出来事により東村山に停車場が設置されることになった。それは、[[柳瀬川]]の架橋に対し地元住民が[[水害]]の恐れがあると反対したため、工事が中断。結局[[内務省 (日本)|内務省]]の裁定で橋梁の設計変更を行うこととなった。しかし、工事が大幅に遅延したため、やむなく[[1894年]]([[明治]]27年)12月、橋梁手前に久米川仮停車場を設けて川越鉄道は暫定開業となり、こうして東村山に初めての停車場が誕生した<ref>官報に時刻表が掲載されている1日6往復[{{NDLDC|2946720/14}} 「全国汽車発着時刻及乗車賃金表」『官報』1894年12月28日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。その後橋梁が完成し、翌年3月に川越停車場まで全通したため、久米川仮停車場は廃止されることになった。それを知った住民は停車場の設置を川越鉄道に陳情し、工事資金と用地を提供することにより8月に久米川仮停車場から国分寺停車場寄りに東村山停車場が開業することになった。西口ロータリーに設置されている「東村山停車場の碑」裏面には、寄付者約250人の姓名とその金額が記されている。 === 村山貯水池建設と延長線建設 === このように、周辺の主たる産業が[[農業]]であり、[[畑]]と[[雑木林]]ばかりであった東村山停車場に転機をもたらしたのは、[[東京市]]による[[公共事業]]だった。明治時代末期、東京市は人口の急増による飲料水不足が深刻な問題となっており、その対策を模索していた。そして、大和村(現・東大和市)の地に[[人造湖]]を造成することとなり、[[1916年]]([[大正]]5年)から大規模な開発が行われることになった。東京市では、[[1920年]](大正9年)に東村山停車場から建設現場まで[[トロッコ]]軌道を敷設<ref>所有者東京市(武蔵水電東村山駅-[[清水村 (東京府)|清水村]]間2.25哩)工事用材料運搬[{{NDLDC|974244/421}} 『鉄道省鉄道統計資料. 大正10年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、連日[[多摩川]]から採取した[[砂利]]や[[セメント]]を国分寺を経由して東村山停車場でトロッコに積み換えて現場まで輸送した<ref>当時、[[西武多摩湖線|多摩湖線]]はまだ開通していなかった。</ref>。 また同じ頃、都心へ直接乗り入れるべく東村山停車場から分岐して国鉄[[高田馬場駅]]に向かう路線の建設を決定し、[[1925年]](大正14年)から用地買収に着手した。東村山停車場はその建築資材の搬入先となり、工事の進捗とともにこれらの建設の工事関係者の流入により、停車場前はカフェ、商店、下宿屋、映画館などが軒を並べて活況を呈した。 === ハンセン病患者専用ホーム === かつては[[国立療養所多磨全生園]]に収容される[[ハンセン病]]患者や、東村山に多く所在していた[[感染症]]患者向け診療所に入所する[[結核]]患者を乗せた「病人車」と呼ばれる[[臨時列車]]が国分寺方面から入線し、一般客から隔離された専用の駅舎とホームが現在の東口側に存在していた(このころ改札口は西口しかなかった)。病院が[[1929年]](昭和4年)に自動車を購入し、[[品川駅|品川]]、[[八王子駅|八王子]]、[[赤羽駅|赤羽]]、[[三河島駅|三河島]]などの各駅に迎えに行くようになり「病人車」による患者輸送は廃止され<ref>「多磨全生園患者自治会『倶会一処(くえいっしょ)』」(一光社、1979年)</ref>、専用の駅舎とホームはすべて撤去された<ref>昭和15年実見した人によれば荒れ放題であったという『東村山市史研究』No.22、2013年、91頁</ref>。その敷地は拡張された駅施設の下になっており、当時を偲ばせるものは全く残っていない。 === 戦時の糞尿輸送 === 東京都の依頼により[[1944年]](昭和19年)から[[鉄道による糞尿輸送]]が行われることとなり、コンクリート製の貯溜槽が駅の北側に設けられた。地元の人からは溜もしくはくそ溜といわれていた。毎朝糞尿を積んだ貨車がやってきたが一日で汲み取ったという。また[[1945年]](昭和20年)1月にはこれの底が抜け落ち、周囲に[[屎尿|糞尿]]を撒き散らした揚句[[地下水]]が汚染されたという事故も発生している<ref>東村山市史研究第10号</ref>。使用廃止後は西武鉄道の社宅が建てられた。2011年に老朽化した社宅を壊したところ基礎の下からコンクリートの構造物が出土したため東村山ふるさと歴史館では学術調査をする予定である<ref>大藪裕子「東村山に造られた糞尿卸場貯留槽と下肥利用」『東村山市史研究』第22号</ref>。 <!-- 元々は当駅を含めて本川越方面は現在の国分寺線として開業した駅([[航空公園駅]]・[[新所沢駅]]・[[新狭山駅]]を除く)であり、新宿線は当駅を境に上り方面の駅は[[都立家政駅]]と[[西武新宿駅]]を除いてはすべて[[1927年]](昭和2年)に開業している。その関係で、当駅 - [[久米川駅]]間で東にカーブする。--> === 連続立体交差事業 === [[File:Higashimurayama_station_2019-12-24_(1)_sa.jpg|thumb|250px|2019年から供用された地下改札]] 駅周辺の[[踏切]]では慢性化した[[渋滞]]が問題となっていたことから、東京都・東村山市・西武鉄道は東村山駅および駅付近の新宿線、国分寺線、西武園線の約4.5kmの区間について鉄道を高架化し、道路と鉄道の[[連続立体交差事業|連続立体化]]する構想について検討していた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/shisei/machi/machidukuri/higashimurayama_inde/renzokuritai/renrituplan.html |title=連続立体交差化計画 |publisher=東村山市まちづくり部 まちづくり推進課 |date=2012-10-02 |accessdate=2015-03-16}}</ref>。[[2012年]]、東京都が連続立体交差化計画を決定、[[2013年]]、[[国土交通省]]より[[都市計画]]事業認可。[[2015年]]6月着工。2024年度完成予定となっている<ref>[https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/shisei/machi/machidukuri/higashimurayama_inde/renzokuritaitetudou/index.html 都市計画事業(連続立体交差事業と鉄道付属街路事業)] - 東村山市まちづくり部 まちづくり推進課、2020年5月6日閲覧。</ref>。完成時には[[府中街道]]など5カ所の踏切が除去されるほか、駅は2面4線(新宿線上り本線、新宿線上り待避線・国分寺線上り・西武園線上り、新宿線下り待避線・国分寺線下り・西武園線下り、新宿線下り本線)の[[高架駅]]となる。 === 年表 === * [[1894年]](明治27年)[[12月21日]]:[[川越鉄道]] '''久米川停車場'''として開業。 * [[1895年]](明治28年) ** [[3月21日]]:久米川 - 川越 (21.2キロメートル) 開通に伴い、久米川停車場廃止{{Sfn|東村山市史編さん委員会|1994|p=152}}。 ** [[8月6日]]:'''東村山停車場'''として営業開始。 * [[1916年]](大正5年):東村山郵便局の集配開始に伴い、郵便物の受け渡しを始める。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[4月16日]]:村山線開通。駅舎を新築する。 * [[1930年]](昭和5年)[[4月5日]]:東村山駅 - [[村山貯水池前駅]](のち狭山公園前駅)間開業<ref>[{{NDLDC|2957450/10}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1930年4月12日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[1933年]](昭和8年)[[7月12日]]:西武鉄道東村山 - 国分寺間乗合自動車営業開始<ref>[{{NDLDC|1234531/61}} 『全国乗合自動車総覧』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref> * [[1944年]](昭和19年)[[5月10日]]:東村山駅 - 狭山公園前駅間営業休止<ref name="sebu233">『写真で見る西武鉄道100年』、ネコ・パブリッシング、2013年、233-236頁</ref> * [[1948年]](昭和23年) ** [[4月1日]]:東村山駅 - 村山貯水池駅間営業再開<ref name="sebu233"/> ** [[11月5日]]:東村山駅 - 国分寺駅間電化<ref name="sebu233"/> * [[1950年]](昭和25年)[[4月6日]]:東村山駅 - [[柳瀬信号所]]間複線運転開始<ref name="sebu233"/> * [[1963年]](昭和38年)[[4月21日]]:上り6両編成対応ホーム使用開始<ref name="sebu233"/> * [[1971年]](昭和46年)[[10月20日]]:橋上駅舎および東口ロータリー完成<ref>西武池袋線 街と駅の1世紀([[彩流社]] 2014年)40頁</ref>。 * [[1975年]](昭和50年)[[6月2日]]:10両編成対応ホーム使用開始<ref name="sebu233"/> * [[1980年]](昭和55年)[[3月17日]]:休日のみ運行の[[西武新宿線#快速急行|快速急行]]を設定、停車駅になる。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[2月14日]]:乗り換え跨線橋使用開始<ref>『会社要覧』西武鉄道株式会社、1999年、100-103頁</ref>。 * [[1993年]](平成5年)[[9月9日]]:[[自動改札機]]使用開始。 * [[1998年]](平成10年)[[3月26日]]:快速急行の通過駅となり、休日ダイヤでは運休になる。 * [[2007年]](平成19年)[[3月6日]]:9年ぶりに快速急行の停車駅になる。 * [[2011年]](平成23年)[[12月24日]]:[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#西武新宿線東村山駅列車脱線事故|西武園発西武新宿行き各駅停車による脱線事故]]が構内で発生。 * [[2013年]](平成25年)[[3月16日]]:ダイヤ改正に伴い、特急「[[小江戸 (列車)|小江戸]]」の停車駅となる<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2013/01/22/20130122diagram.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150510164755/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2012/__icsFiles/afieldfile/2013/01/22/20130122diagram.pdf|format=PDF|page=3|language=日本語|title=2013年3月16日(土)ダイヤ改正を実施します|publisher=西武鉄道|date=2013-01-22|accessdate=2020-07-10|archivedate=2015-05-10}}</ref>。 * [[2014年]](平成26年)[[12月1日]]:4 - 6番ホームの[[発車メロディ]]を『[[東村山音頭]]』に変更([[2016年]][[3月31日]]まで)<ref name="pr20141126">{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2014/__icsFiles/afieldfile/2014/11/26/20141126higashimurayama_melody.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150415160328/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2014/__icsFiles/afieldfile/2014/11/26/20141126higashimurayama_melody.pdf|format=PDF|language=日本語|title=12月1日(月)初電車より東村山駅の発車メロディーを「東村山音頭」に変更します!|publisher=西武鉄道/東村山市|date=2014-11-26|accessdate=2020-07-10|archivedate=2015-04-15}}</ref>。 * 2015年(平成27年)1月 - 高架橋工事に着手<ref>{{Cite report |和書 |title=東村山駅周辺まちづくりニュース 第33号 |url=https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/shisei/machi/machidukuri/higashimurayama_inde/news.files/higashimurayama_news33.pdf |publisher=東村山市 |date=2015-1-29 |accessdate=2022-4-12}}</ref>。 * [[2017年]](平成29年)[[3月25日]]:旧1番ホームを廃止、旧2番ホームを新1番ホームとした上で、新2番ホームを旧3番ホーム国分寺方に新設<ref name="news:1">{{Cite web|和書|url=https://www.seiburailway.jp/railway/ekimap/higashi-murayama/SK05_poster.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190308220525/https://www.seiburailway.jp/railway/ekimap/higashi-murayama/SK05_poster.pdf|title=東村山駅付近連続立体交差事業に伴い3月25日(土)より国分寺行き電車のホームが変わります。|archivedate=2019-03-08|accessdate=2020-07-10|publisher=西武鉄道|format=PDF|language=日本語}}</ref>。電車発着時間帯を除き新1番ホームへの出入りが制限されるようになった。 * [[2019年]]([[令和]]元年) ** [[11月29日]]:終電をもって橋上駅舎を閉鎖<ref name="改札地下通路">{{Cite web|和書|url=https://www.seiburailway.jp/safety/higashimurayama/20191101_higashimurayamaoshirase.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200308221705/https://www.seiburailway.jp/safety/higashimurayama/20191101_higashimurayamaoshirase.pdf|title=東村山駅の出入口変更のご案内|archivedate=2020-03-08|accessdate=2020-07-10|publisher=西武鉄道|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 ** [[11月30日]]:改札地下通路供用開始<ref name="改札地下通路" />。 * [[2020年]](令和2年)[[7月14日]]:1・2番ホームの発車メロディを『東村山音頭』に変更<ref name="seibu20200709">{{Cite press release|和書|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20200709higashimurayama_melody.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200709161907/https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20200709higashimurayama_melody.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年7月14日(火)初電車より東村山駅1・2番ホームで「東村山音頭」の発車メロディが復活します|publisher=西武鉄道/東村山市|date=2020-07-09|accessdate=2020-07-09|archivedate=2020-07-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=復活! 発車メロディ『東村山音頭』 西武の東村山駅 志村けんさんの功績称え|url=https://trafficnews.jp/post/98009|work=乗りものニュース|date=2020-07-12|accessdate=2020-07-19}}</ref>。 * 2021年(令和3年)2月:橋上駅舎解体工事完了<ref>{{Cite conference |title=令和3年度 東村山市議会だより |url=https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/gikai/gikaijoho/gikai_11_sigikai-day/dayori241.html |conference=令和3年5月15日 |conferenceurl=https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/gikai/gikaijoho/gikai_11_sigikai-day/dayori241.files/241-1.pdf |publisher=東村山市議会 |format=PDF |page=1 |date=2021-5-18 |accessdate=2021-5-18}}</ref>。2020年9月15日に東村山市が発行した市報によると、2020年内の予定だった<ref>{{PDFlink|[https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/shisei/koho/sihou/2020sihou/higasimurayama200915.files/20_0915_01.pdf 市報ひがしむらやま 令和2年9月15日]}} - 東村山市、2020年9月13日閲覧。</ref>。 * 2022年(令和4年)度第4四半期:新宿線の下りを高架に切り替える予定<ref name="東村山駅付近連立事計変更">{{PDFlink|[https://assess-toshokohyo.metro.tokyo.lg.jp/uploads/web_public/286_seibusen/41/41202128621.pdf 「西武鉄道新宿線、国分寺線及び西武園線(東村山駅付近)連続立体交差事業」変更届]}} - 東京都環境局総務部 環境政策課、2021年12月2日閲覧。</ref>。事業調査計画変更前は、2021年度第4四半期の予定だった<ref name="東村山駅付近連立事計変更" />。 * 2024年(令和6年)度 ** 第2四半期:国分寺線と西武園線を高架に切り替える予定<ref name="東村山駅付近連立事計変更" />。事業調査計画変更前は、2023年度第2四半期の予定だった<ref name="東村山駅付近連立事計変更" />。 ** 第4四半期:新宿線の上りを高架に切り替える予定<ref name="東村山駅付近連立事計変更" />。事業調査計画変更前は、2023年度第4四半期の予定だった<ref name="東村山駅付近連立事計変更" />。 == 駅構造 == [[島式ホーム]]3面6線の[[地上駅]]。橋上駅舎を有していたが高架化工事に伴い、2019年11月29日の終電をもって閉鎖した<ref name="改札地下通路" />。 2019年11月30日からは、本川越方面寄りに新たに改札地下通路が設けられた。 改札内には[[コンビニエンスストア]]「[[TOMONY]]」がある。 === のりば === 図上部より以下の順番 高架化工事の進捗に伴い、大きな変化が出ている。 <!-- 2012年9月時点の駅掲示時刻表の案内表記に準拠(これが最新タイプの案内表記を反映しているため)。西武鉄道の方針により、案内表記には直通先の路線名は表記されない --> {|class="wikitable" !ホーム!!路線!!方向!!行先!!備考 |- !rowspan="2"|1 |[[File:SeibuKokubunji.svg|18px|SK]] 西武園線 |rowspan="4" style="text-align:center"| - |[[西武園駅|西武園]]ゆき |&nbsp; |- | rowspan="2" |[[File:SeibuKokubunji.svg|18px|SK]] 国分寺線 | rowspan="2" |[[小川駅 (東京都)|小川]]・[[国分寺駅|国分寺]]方面 |&nbsp; |- !2 | rowspan="2" |一部1番ホーム |- !3 |[[File:SeibuKokubunji.svg|18px|SK]] 西武園線 |西武園ゆき |- !4 |rowspan="4"|[[File:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] 新宿線 |rowspan="2" style="text-align:center"|下り | rowspan="2" |所沢・本川越方面 |&nbsp; |- !rowspan="2"|5 |{{Color|#f33|■}}[[小江戸 (列車)|特急「小江戸」]] はこのホームから |- |rowspan="2" style="text-align:center"|上り |rowspan="2"|[[高田馬場駅|高田馬場]]・[[西武新宿駅|西武新宿]]方面 |&nbsp; |- ! 6 |&nbsp; |} <!--西武では「n番線」ではなく「n番ホーム」と案内している--> * 新宿線は通常4・6番ホームを使用し、5番ホームは上りは特急との緩急接続に用いられ、下りは特急が使用する。また2013年3月16日の改正までは平日朝に通勤急行との接続にも用いられた。かつては西武園からの急行と所沢方面からの各停の接続も5・6番ホームで行っていた。なお、2016年3月26日実施の改正以降は、先述の同駅周辺高架化工事に先立ち、3番ホーム発着を西武園行きのみとし、下り本線から3番ホームへは進入できなくなった。 * 一部の西武園行列車は、1番ホームから発車するものもある(国分寺線から直通するもの、3番ホームが新宿線列車の特急待避で使用できない場合も1番ホームで発着していたが、高架化工事での配線変更に先立ち、3番ホームからの本川越方面発着は行わなくなった。)。 * 国分寺線からの新宿線(本川越方面)直通電車は、3番ホーム(列車によっては4番ホーム)に入線していたが、2016年3月26日ダイヤ改正以降は高架化工事に伴う配線変更に備え、全列車1番ホームへの発着に変更され、西武新宿方向からの接続は当駅から3駅先の新所沢駅となった。しかし、2019年3月16日ダイヤ改正で国分寺線と新宿線の直通運転が一時休止となった。 * 新宿線からの国分寺線直通列車は新1番ホームに入線していた。そのため新宿線下りや西武園線と平面交差するため夕方の直通列車ではたびたび第1場内信号機手前で入線交換待ちをしている姿が見受けられた。 * ダイヤ乱れ等で所沢方面から東村山行きが来た場合は、5番ホームで折り返す。 * 1997年春まではホーム番号の付番が逆であり、1・2番ホームが新宿線西武新宿方面となっていた。 * ホーム[[有効長]]は、1番ホームが6両編成に、4 - 6番ホームが10両編成に対応している。なお3番ホームは高架化工事に伴い、ホームの小平寄りに車止めが設置されたのち、西武園方面は北寄りに仮設ホーム延伸の上乗り場を移設、南寄りに国分寺方面の乗り場が新たに設けられ、こちらは新2番ホームとなった。 * 駅東側の6番ホーム隣にはかつて1本側線があり、久米川寄りには小さな保線基地があったが、高架化工事用地として2015年9月にいずれも撤去された。 * 基本的に10両・8両・6両停止位置は所沢寄りに定められているが、特急車両又は4両編成はホーム中程に停車することが定められている(4・6番ホームの4両停止目標を除く)。 * 新宿線の5番ホームから西武園方面へは、競輪開催時の南入曽車両基地からの回送列車に使用され、一部の西武園行きが出ていた。 * [[2014年]][[12月1日]]から2016年3月31日まで、[[発車メロディ]]が新宿線ホームに限り『[[東村山音頭]]』に変更されていた<ref name="pr20141126"/>。4番ホーム(新宿線下り)、5・6番ホーム(新宿線上り)で流れる部分が異なっていた。なお、待避の関係で3番ホームに入る新宿線もあったが、この列車に関しては非対応であった([[西武池袋線|池袋線]]上り標準のメロディが流れていた)。その後2020年[[3月29日]]に死去し、[[6月25日]]に東村山市名誉市民に選定された[[志村けん]]の功績に対する感謝の気持ちを込め、同年7月14日から1・2番ホームで再び使用されている<ref name="seibu20200709"/>。 * 東村山駅付近連続立体交差化事業のため、2017年3月25日より1番ホーム(国分寺・西武園線)が使用停止となった<ref>この代替措置として、旧3番ホーム国分寺方に新たに2番ホームを設置する。そのため、旧2番ホームは新1番ホームになる。</ref><ref name="news:1"/>。その後、乗換跨線橋を撤去すると同時に配線が変わる。これらの代替機能として、仮地下道・仮改札を設置し、新宿線下り線を高架化し、その後順次西武園線・国分寺線・新宿線上りを高架化する予定。橋上駅舎があった時代のトイレは、車椅子対応を含め上り側に整備されていたが、1番ホームに移動した。このトイレは、車椅子用・男女いずれも温水洗浄便座が整備されている。その関係で、1番ホームを発着する列車は少ないが、このトイレ利用目的として全面閉鎖を行わずに開放している。 <!--Wikipediaは「西武線の乗り換え裏技ガイド」ではないのでこの部分の記述は削除しました--> {{Gallery |align=center |width=160 |height=120 |ファイル:Higashi-Murayama Station 201807 02.jpg|左が1番ホーム(旧2番ホーム)右奥が3番ホーム、画面外の右手前に2番ホームがある(2018年7月撮影) |ファイル:Higashi-Murayama Station 201807 01.jpg|2番ホームに停車中の国分寺線、右は1番ホーム(旧2番ホーム)(2018年7月撮影) |ファイル:Higashi-Murayama Station 201807 03.jpg|3番ホームに停車中の西武園線(2018年7月撮影) |ファイル:Higashi-Murayama Station 201807 04.jpg|左が4番ホーム、右が5・6番ホーム、乗換跨線橋が撤去され代替の乗換地下道が整備された(2018年7月撮影) }} == 利用状況 == 2021年度の一日平均[[乗降人員]]は'''39,397人'''で、西武鉄道全92駅中19位である<ref group="利用客数" name="seibu2021">{{Wayback|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?file/2021joukou.pdf|title=駅別乗降人員(2021年度1日平均)|date=20220708052848}}、2022年8月20日閲覧</ref>。 === 年度別一日平均乗降人員 === {|class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑]</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|新宿線 !colspan=2|国分寺線 !colspan=2|西武園線 |- !1日平均<br />乗降人員!!増加率 !1日平均<br />乗降人員!!増加率 !1日平均<br />乗降人員!!増加率 |- |2003年(平成15年) |30,556||1.7% |11,754||2.4% |352||4.1% |- |2004年(平成16年) |30,323|| -0.8% |11,739|| -0.1% |377||7.1% |- |2005年(平成17年) |30,684||1.2% |11,940||1.7% |372|| -1.3% |- |2006年(平成18年) |30,961||0.9% |11,963||0.2% |384||3.2% |- |2007年(平成19年) |31,595||2.0% |11,952|| -0.1% |383 || -0.3% |- |2008年(平成20年) |32,425||2.6% |12,258||2.6% |372|| -2.9% |- |2009年(平成21年) |32,653||0.7% |12,573||2.6% |367|| -1.3% |- |2010年(平成22年) |32,675||0.1% |12,754||1.4% |357|| -2.7% |- |2011年(平成23年) |32,596|| -0.2% |12,750||0.0% |359||0.6% |- |2012年(平成24年) |33,016||1.3% |12,970||1.7% |361||0.6% |- |2013年(平成25年) |33,738||2.2% |13,157||1.4% |351|| -2.8% |- |2014年(平成26年) |33,516|| -0.7% |12,976|| -1.4% |339|| -3.4% |- |2015年(平成27年) |33,991||1.4% |13,239||2.0% |339||0.0% |- |2016年(平成28年) |34,711 ||2.1% |13,498 ||2.0% |346 ||2.1% |- |2017年(平成29年) |35,609 ||2.6% |13,540 ||0.3% |343 ||-0.9% |- |2018年(平成30年) |35,648 ||0.1% |13,509 ||-0.2% |331 ||-3.5% |- |2019年(令和元年) |35,330 ||-0.9% |13,282 ||-1.7% |322 ||-2.7% |- |2020年(令和{{0}}2年) |26,620 ||-24.7% |10,234 ||-23.0% |227 ||-29.5% |} === 年度別一日平均乗車人員 === 近年の一日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]の推移は下表の通りである。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right" !rowspan=2|年度 !colspan=4|一日平均<br />乗車人員 |- !新 宿 線 !国分寺線 !西武園線 !出典 |- |1992年 |15,992 |5,167 |279 |<ref name="toukei1992">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年 |15,814 |5,230 |266 |<ref name="toukei1993">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年 |15,195 |5,493 |249 |<ref name="toukei1994">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年 |15,066 |5,555 |246 |<ref name="toukei1995">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年 |14,830 |5,674 |238 |<ref name="toukei1996">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年 |14,849 |5,679 |205 |<ref name="toukei1997">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年 |14,836 |5,674 |148 |<ref name="toukei1998">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年 |14,806 |5,587 |145 |<ref name="toukei1999">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年 |14,923 |5,663 |148 |<ref name="toukei2000">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年 |15,066 |5,652 |142 |<ref name="toukei2001">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年 |15,022 |5,677 |137 |<ref name="toukei2002">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年 |15,336 |5,850 |142 |<ref name="toukei2003">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年 |15,216 |5,888 |151 |<ref name="toukei2004">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年 |15,419 |6,055 |151 |<ref name="toukei2005">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年 |15,542 |5,978 |156 |<ref name="toukei2006">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年 |15,814 |5,874 |161 |<ref name="toukei2007">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年 |16,222 |6,036 |159 |<ref name="toukei2008">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年 |16,329 |6,197 |159 |<ref name="toukei2009">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年 |16,299 |6,323 |162 |<ref name="toukei2010">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |} == 駅周辺 == <!--チェーン店を含む飲食店、コンビニ、個人商店等は記載しない--> === 東口 === {{Triple image aside|right|ShimuraKen Wood 202008.jpg|220|ShimuraKen Wood sign.jpg|220|Statue of Shimura Ken.JPG|100|志村けんの木(2020年8月11日)|志村直筆とサインが入った看板|志村けんの像}} *[[志村けん]]の木 *:1976年に「東村山市の知名度を高めた」功績により市長から志村に感謝状を授与した際、その記念と志村への激励の証として植えられた[[ケヤキ]]の木。なお、志村は1995年に東村山駅開業百周年記念イベントの司会を担当した。 * 志村けんの銅像<ref>{{Cite web|和書|title=高木ブーも来た! 志村けんさん銅像ついに東村山駅前にお披露目|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/06/26/kiji/20210626s00041000277000c.html|work=スポニチAnnex|date=2021-06-26|accessdate=2021-06-27}}</ref>。 * [[府中街道]]([[東京都道・埼玉県道16号立川所沢線]]・[[埼玉県道・東京都道17号所沢府中線]]) * 東村山市役所 ** 東村山市いきいきプラザ ** 東村山市保健センター * 東村山市立中央図書館 * 東村山市市民センター * 東村山市立中央公民館 * 東村山税務署 * [[東村山警察署]] **東村山駅前交番 * [[東村山消防署]]本町出張所 * [[東村山郵便局]] * 東村山市役所前郵便局 * [[東京都立東村山高等学校]] * [[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]]東村山店 * [[青梅信用金庫]]東村山支店 * [[山梨中央銀行]]東村山支店 * [[東村山市民スポーツセンター]] === 西口 === [[File:Seibu higashimurayama w.JPG|thumb|250px|再開発前の西口(2006年12月24日)]] * 東村山停車場の碑(碑銘は「東邨山停車場之碑」) - [[1897年]]建立。当駅が住民の寄付によって開設されたことを記念する碑。西口駅前広場整備のため一時撤去されていたが、2009年に西口ロータリー内に再置された。碑とともに「[[嘉永]]七年」・「[[馬頭観世音]]」の銘を持つ石造物も伝えられている。野口町1丁目にあったもので、現在も碑の傍らに設置されている。 * 鉄道開通100周年記念碑 - [[1994年]]9月、鉄道開通100周年記念事業実行委員会により東口の東村山駅前交番脇に建立。[[2013年]]、東村山停車場の碑の傍らに移設。 * [[パークハウスワンズタワー]] * 東村山市市民ステーション サンパルネ * 東村山市地域福祉センター * 東村山社会福祉センター * 東村山ふるさと歴史館 [[File:正福寺-1.JPG|thumb|250px|正福寺 地蔵堂(国宝)<br>(2010年6月11日)]] * [[正福寺 (東村山市)|正福寺]]地蔵堂 - 都内唯一の[[国宝]]建築。 * 徳蔵寺 板碑保存館 * [[北山公園 (東京都)|北山公園]] - [[ハナショウブ|菖蒲]]の名所。 * [[八国山緑地]] * [[東京都水道局]][[東村山浄水場]] * 東村山野口郵便局 * [[りそな銀行]]東村山支店 * [[飯能信用金庫]]東村山支店 * [[多摩信用金庫]]東村山支店 * [[東京都道128号東村山東大和線]] * [[生活協同組合コープみらい|コープみらい]]東村山駅前店 === バス路線 === ==== 東口 ==== * [[銀河鉄道 (バス会社)#現行路線|青葉恩多町線]]:柳泉園グランドパーク循環([[銀河鉄道 (バス会社)|銀河鉄道]]) * 無料通勤バス 新宿駅西口(東京モード学園)・東京駅丸の内口行き(銀河鉄道) ※2020年3月12日 - 3月31日の期間限定運行、要事前予約<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/202003/CK2020031202000123.html <新型コロナ> 感染防止で無料通勤バス きょうから東村山→都心へ2便運行] 2020年3月12日 東京新聞</ref> * [[グリーンバス]]([[西武バス]]が受託運行) ** [[多摩北部医療センター]]行き ** 多摩北部医療センター経由 [[新秋津駅]]行き ** 久米川町循環 ==== 西口 ==== * 立35:[[武蔵大和駅|武蔵大和]]・[[東大和市駅]]・[[西武バス立川営業所|立川営業所]]経由 [[立川駅]]北口行き(西武バス) * 立35-1:武蔵大和・東大和市駅経由 立川営業所行き * 東大和35:武蔵大和経由 東大和市駅 * グリーンバス(西武バスが受託運行) ** 諏訪町循環 ** 富士見町四丁目経由 [[久米川駅]]南口行き == 隣の駅 == <!-- 新宿線~国分寺線の直通は、国分寺線の項のみでフォローする --> ; 西武鉄道 : [[File:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] 新宿線 :* {{Color|#f33|■}}特急「[[小江戸 (列車)|小江戸]]」停車駅 ::{{color|#c69|■}}快速急行(土休日下りのみ運転)・ {{Color|#fc0|■}}通勤急行(平日上りのみ運転) :::[[田無駅]] (SS17) - '''東村山駅 (SS21)''' - [[所沢駅]] (SS22) :: {{Color|#f60|■}}急行・{{Color|#0c9|■}}準急・{{Color|#999|■}}各駅停車 ::: [[久米川駅]] (SS20) - '''東村山駅 (SS21)''' - 所沢駅 (SS22) : [[File:SeibuKokubunji.svg|18px|SK]] 国分寺線 :: {{Color|#999|■}}各駅停車 ::: [[小川駅 (東京都)|小川駅]] (SK04) - '''東村山駅 (SK05)''' : [[File:SeibuKokubunji.svg|18px|SK]] 西武園線 :: {{Color|#999|■}}各駅停車 ::: '''東村山駅 (SK05)''' - [[西武園駅]] (SK06) <!-- : [[File:SeibuKokubunji.svg|18px|SK]] 国分寺線・西武園線 :: {{Color|#999|■}}各駅停車 ::: [[小川駅 (東京都)|小川駅]](国分寺線)(SK04) - '''東村山駅 (SK05)''' - [[西武園駅]](西武園線)(SK06) /所沢駅(新宿線)(SS22) --> かつて特急「小江戸」が通過駅だった当時、6月に[[北山公園 (東京都)|北山公園]]で開催される「[[ハナショウブ|菖蒲]]まつり」期間中に特急「小江戸」が臨時停車していた。また、2012年にも西武鉄道創立100周年を記念し、西武新宿発19時台と20時台の下り4本が[[9月24日]] - [[9月30日|30日]]の期間に臨時停車していた。2013年3月16日のダイヤ改正より特急「小江戸」の停車駅となり全列車停車駅になった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ;西武鉄道の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"|30em}} == 参考文献 == * 武井武「川越鉄道の創業」『多摩のあゆみ』通巻11号、1978年 * 益井茂夫「公文書からみた川越鉄道」『多摩のあゆみ』通巻73号、1993年 - 工事延期の願い、停車場設置願いなどの史料 * 柳井潔「百歳を迎える川越鉄道」『多摩のあゆみ』通巻73号、1993年 -「東村山停車場の碑」の由来について * 仲清「川越鉄道久米川仮停車場の位置について」『東村山市史研究』通巻8号、1999年 - 地元古老への聞き取り調査や公文書による久米川仮停車場の位置の検証 * {{cite book|和書|title=図説東村山市史|editor=東村山市史編さん委員会|year=1994|ref={{SfnRef|東村山市史編さん委員会|1994|}}}} == 関連項目 == {{commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[東村山音頭]] == 外部リンク == * {{外部リンク/西武鉄道駅|filename=higashi-murayama}} * [https://www.seiburailway.jp/safety/continuousgradeseparation/higashimurayama/ 西武鉄道 新宿線東村山駅付近連続立体交差事業] {{西武新宿線}} {{西武国分寺線}} {{DEFAULTSORT:ひかしむらやま}} [[Category:東村山市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 ひ|かしむらやま]] [[Category:西武鉄道の鉄道駅]] [[Category:西武鉄道 (初代)の鉄道駅]] [[Category:川越鉄道|ひかしむらやまえき]] [[Category:1894年開業の鉄道駅]]
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所沢市
所沢市(ところざわし)は、埼玉県の南西部に位置する市。施行時特例市に指定されている。埼玉西武ライオンズが本拠地としている西武ドーム(ベルーナドーム)が所在する。 人口は約34万人で、さいたま市、川口市、川越市に次ぐ県内第4位。旧入間郡。1950年(昭和25年)市制施行。 東京近郊のベッドタウンとして、新所沢地区、小手指地区には集合住宅が多く、中心部の所沢地区は複数の高層マンションが連なっている。西武池袋線と西武新宿線が交差する所沢駅周辺はプロペ通り商店街や大型商業施設、西武鉄道の本社などが位置しており、所沢市の中心市街地となっている。松井地区や柳瀬地区はJR武蔵野線が開業した当時に比べ、人口が急増しており、主に住宅街となっている。その反面、北部の富岡地区は江戸時代に行われた開拓により整備された農地(三富新田)が広がり、中央部の並木地区には所沢カルチャーパーク、南西部の山口地区には宮崎駿(所沢市在住)監督作品の映画『となりのトトロ』の舞台(モデル地は所沢市内に点在する)にもなった狭山丘陵(トトロの森)や狭山湖(山口貯水池)が広がっているなど、豊かな自然にも恵まれている。 日本初の飛行場が開設されたことから、所沢市は「日本の航空発祥の地」としても知られている。1911年、日本初の飛行場である所沢陸軍飛行場が開設された。同年4月5日早朝、徳川好敏大尉の操縦する「アンリ・ファルマン1910年型機」が所沢飛行場での初飛行を記録した。戦後、所沢飛行場が在日米軍の所沢通信基地となるが、現在、7割が市に返還されている。 返還された土地には、所沢航空記念公園が整備され、公園内には所沢航空発祥記念館が建設されたほか、防衛省の防衛医科大学校・防衛医科大学校病院、厚生労働省の国立障害者リハビリテーションセンター、環境省の環境調査研修所、国土交通省の東京航空交通管制部、所沢市の所沢市役所・所沢市民体育館・所沢市民文化センター ミューズ・所沢市立図書館本館などがあり、所沢市の中枢機能や国の出先機関が集中している。未だに返還されていない残りの3割(約97ha)は、現在も在日米軍の所沢通信基地として稼働している。 「保健所発祥の地」としても知られており、記念碑が所沢駅東口ロータリーに設置されている。1937年、東京・京橋に「都市保健館」と所沢市(現在の所沢駅東口付近)に「農村保健館」が建てられた。農村保健館を開設して3年後、「所沢保健所」に改称された。1964年には、けやき台に移転し、2010年に狭山保健所に統合されるまで業務を行った。 静岡茶、宇治茶と並んで日本三大茶の一つと称される狭山茶の生産地としても知られており、生産量は埼玉県入間市に次ぐ全国第2位となっている。狭山茶は市内全域で栽培されており、特に三ヶ島地区、富岡地区で栽培面積、収穫量が多くなっている。 プロ野球・埼玉西武ライオンズの本拠地球場であるベルーナドーム(西武ドーム)の所在地である。また、西武グループの本拠地(本店所在地は主に池袋)でもある。所沢市内にはベルーナドームを始め、西武鉄道本社、所沢駅ビルのGrand Emio(グランエミオ)所沢、西武所沢S.C.(旧セゾングループ、かつての西武流通グループ)、新所沢パルコ(旧セゾングループ、2024年閉店予定)、西友(旧セゾングループ)、西武園ゆうえんち、西武園競輪場、狭山スキー場、ところざわのゆり園(旧ユネスコ村)など、西武系列の施設が多く所在する。また豊島区のダイヤゲート池袋に移転するまでは西武ホールディングスの本社も位置していた。また、近年は、西武グループによって所沢駅周辺やベルーナドーム・西武園ゆうえんち周辺の再開発が行われている。 主に閑静な住宅街や工業団地、のどかな田園風景となっている松井地区(東所沢和田)には、KADOKAWAのところざわサクラタウンが所在する。 日本経済新聞社産業地域研究所が全国815市区を対象に実施した「SDGs(持続可能な開発目標)先進度調査」において、所沢市が環境部門で全国1位となった。電気自動車充電インフラの整備や、スマートエネルギー補助金による、市域全体の再生可能エネルギー利用や省エネの促進などが高く評価された。2020年11月3日の市制施行70周年記念式典において、2050年までに市内の二酸化炭素の排出量実質ゼロを目指す「ゼロカーボンシティ」を市長が表明した。また、2021年2月15日に、所沢市は近隣4市(飯能市、狭山市、入間市、日高市)と共に、「ゼロカーボンシティ」共同宣言を表明した。 住宅情報誌『SUUMO』が2020年10月に発表した「災害に強い街」ランキングで、所沢市は1都3県の184市区のうち1位となった。この順位は公益財団法人の地盤工学会関東支部が、自然災害発生頻度と被害人口に、ハード・ソフト対策の充実度を掛け合わせ算出した、自然災害に対する独自のリスク指標「GNS」に基づいており、市の大半が武蔵野台地に位置していることが有利に働いた。(2位は和光市、3位は北本市) 「所沢」という地名は、野老(トコロ。ヤマノイモ科の植物)が群生する湿地の意といわれるが不詳。古くは「野老澤」(ところさわ)の字が当てられた。市内西部から市内中心部を通り、東部に流れる東川(あずまがわ)を指しているとする説もある。 埼玉県西部、武蔵野台地に位置し、南部には狭山丘陵が広がっている。狭山丘陵から流れる東川、柳瀬川は市内東部へ流れ、最終的には荒川に至る。山口貯水池(通称:狭山湖)は当市内にあるが、東京都民用の水源となっている(東京都水道局が管理)。 池袋を起点とする西武池袋線と西武新宿を起点とする西武新宿線の2つの幹線が東と南からやってきて、所沢駅に互い違いで乗り入れている。その後2つの路線はそれぞれ北と西とに進路を変え、当市内を横断する。 西武池袋線は西武有楽町線経由で東京メトロ有楽町線・副都心線・東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線と相互直通運転を行っている。 JR武蔵野線は、当市内での他路線との接続はない(ただし、市境に新秋津駅と西武池袋線秋津駅がある)。 関越自動車道が東部を通過しており、国道463号(旧・県道浦和所沢線)と所沢ICで接続する。国道254号と国道463号は新座市の英(はなぶさ)インターで交差した後、市中心近くに至り、宮本町交差点を起点にそこから2本に分かれ(北側は通称「行政道路」、南側は通称「(国道463号、若しくは行政)バイパス」と呼ばれる)、入間市へと続いている。 所沢駅前のプロペ通りを中心とした地域は繁華街で西武百貨店の他、多くの飲食店、衣料品店などがある。プロペ通りから続くファルマン通りも古くからの繁華街で、旧市役所のあった元町を経て、金山町の交差点まで続く銀座商店街がある。現在は高層マンションが立ち並んでいる。航空公園を中心とする並木地区には公共機関が集中し、また在日米軍所沢通信基地がある。 新所沢は都市公団(現・都市再生機構)、小手指は西武鉄道とそれぞれが開発した集合住宅が広がっている。近年では旧市街地に超高層マンション建設が相次いでいる。 所沢市のほぼ全域は内陸性気候の特色を持ち、夏は高温、冬は寒冷な気候となっている。しかしながら、アメダスは狭山湖畔に設置されており、湖の影響を強く受ける海洋性気候の特徴を持つ。そのため、アメダスで観測される数値は周囲よりも冬は冷え込みが弱く、夏は逆に冷涼となりやすく局所的な影響が強く出る。実際に標高が100 mほど低いさいたま市に比べると1月平均最低気温(-0.6度)や最低気温極値(-7.8度)は高くなっている一方、8月平均最高気温(31.3度)はより低い。しかしながら、夏季の場合は風向き次第ではフェーン現象の影響を受けてこのアメダス地点においても高温となることもあり、所沢の最高気温極値は2018年7月23日に観測された39.8度と、さいたま市の39.3度よりも高くなっており、湖と反対側からの風の影響次第では高温となることもある。 冬季は南岸低気圧の影響で大雪となる事もあり、内陸にあることから雪のまま推移する事が少なくない。その場合、埼玉県内では東部よりも降雪量が多くなる傾向がある。2014年2月14日の大雪の時には所沢中央消防署で積雪57cmを記録している。また、前述通りアメダスは狭山湖畔にあるため、標高が幾分高いこととヒートアイランドの影響が小さいことも加わり、市街地と比較すると雪の日はより低温で積雪も多くなる傾向にある。 所沢の近辺には、約2万年前から人類が定住しており、砂川遺跡を筆頭に市内には旧石器時代以降の遺跡や貝塚が点在している。 東日本各地に多く見られることだが、当地にも日本武尊の東征伝説がある。戦勝を祈願したといわれる神社(所澤神明社や北野天神社の由来)や、あるいは篭手をかざした(地名・小手指の由来)といった伝承がある。 7世紀に律令制度のもと、武蔵国国府が現在の東京都府中市に設置されると、当地は武蔵国入間郡の一部となり、あわせて武蔵国国府と上野国国府を結ぶ官道が築かれた。これが東山道武蔵路であり、市内の南陵中学校でも遺構が確認されている。また、かつての郡境にあたる現在の松が丘付近には悲田処(行路病人などの救護施設)が設置されたという伝承がある。 武蔵国一帯は朝鮮半島からの渡来人が数多く定住しており、当地にも渡来人のコミュニティが存在していたとの説もある。 平安時代末期になると世情が乱れ、野武士軍団である武蔵七党の一派、村山党が定着した。現在も市内に多く存在する山口、村山、金子といった姓は、この流れである。 1192年に鎌倉幕府が成立すると、府中方面に通じていた街道は鎌倉街道上道となり、軍事的にも経済的にも重要な幹線道路として整備された。特に所沢は、上道と間道である堀兼道・羽根倉道の合流地点として栄えたという。 1333年、隠岐島に島流しされていた後醍醐天皇が伯耆国船上山(現・鳥取県東伯郡琴浦町内)で蜂起すると、上野国(群馬県)の新田義貞は呼応して鎌倉へ向かって進軍し、小手差原(現在の北野付近)で北条氏の兵と衝突、決着はつかず両軍とも一時兵を引いた。世にいう小手指原の戦いである。市内に残る白旗塚・将軍塚(松が丘)・誓詞橋(砂川堀)・勢揃橋(柳瀬川)といった地名は、この戦いに由来する。その後、1352年にも義貞の遺児である義興・義宗の兄弟が足利軍と小手指原付近で衝突している。(武蔵野合戦) 戦国時代は関東管領扇谷上杉氏の支配下にあり、上杉氏家臣で守護代の大石氏が統治していた。のちに河越夜戦で上杉氏が衰退し後北条氏が台頭してくると、八王子城主北条氏照の支配下となった。柳瀬川沿いに山口城址・滝の城址などの中世城館跡が数か所残っている。 江戸時代には江戸近郊として幕府直轄領が多く直接支配が及んでいたが、一部には川越藩領や旗本領も存在している。ただし、現在の市域のうち、日比田村だけは多摩郡に属し、明治13年に入間郡大岱村(現在の東村山市恩多町付近)と交換されるまで飛び地となっていた。 近世には河原宿(現在の宮本町付近)から江戸四谷への道(江戸街道・おおむね現在の西武新宿線沿い・現所沢街道に近い)が整備され、東(江戸街道)・西(秩父道)・南(府中・八王子方面)・北(川越方面)へ延びる主要道路の中継地、あるいは物資の集積地として機能した。 また、市北部の富岡地区では、川越藩主柳沢吉保期に新田開発(三富新田開拓)が行われた(このうち上富地区は、現在は入間郡三芳町の域内にあたる)。 なお、地層が関東ローム層と礫層に覆われた武蔵野台地では地下水脈が深い乏水地域で、所沢市域でも井戸水の確保に苦労した。その惨状たるや「所沢の火事は土で消せ」と言われたくらいであり、実際に1818年(文化15年)2月の神明社、薬王寺及び民家142戸が焼失する大火など、江戸期には数回の大火が発生している。 明治維新後、現在の当市域の旧幕府直轄領だった大部分は1869年(明治2年)3月21日(旧暦2月9日)に品川県になり、同4月には市西部にあたる部分が韮山県に移管され。 、1871年8月29日(旧暦7月14日)に川越藩領だった一部は川越県となった。同年12月25日(旧暦11月14日)に入間県発足で全域が入間県になり、1873年6月15日に熊谷県になった後、最終的に1876年8月21日、埼玉県に組み入れられた。1881年(明治14年)には上新井村の本宿と久米村の金山を編入し、所沢村から所沢町になった。1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴い、入間郡所沢町が成立した。 明治時代にも1875年(明治8年)、1880年(明治13年)、1885年(明治18年)などに大火があり、蔵造りの街並みが造られた。 1911年(明治44年)現在の並木地区を中心とした一帯に陸軍が日本初の飛行場(のち陸軍航空整備学校)を設置し、基地の町という新たな顔をもつことになった。現在、所沢が所沢航空記念公園を持ち「航空発祥の地」を標榜しているのは、これに由来する。 また、臨時軍用気球研究会所沢試験場が翌1911年4月1日に開場。4月5日に陸軍大尉徳川好敏による初飛行が行われたが、この際使用した飛行機がアンリ・ファルマン式複葉機だったことにちなみ、所沢駅西側には「ファルマン通り」という道が存在する。 なお、飛行場完成に合わせて武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)や旧西武鉄道(現在の西武新宿線)も競って基地への最寄駅を設置した(現在は両駅とも廃止)。 一方、交易中継地としての機能も健在で、「所沢飛白」「湖月縮」といった名産品により、「織物の町・所沢」として最盛期を迎えた。 1927年(昭和2年)東京市民の水がめとして、山口貯水池(狭山湖)の建設が開始され、1934年(昭和9年)に完成した。このため山口村の旧勝楽寺村と上山口村にわたる一帯が水没し、村の住民は隣の小手指村などに移住した。 狭山湖畔からの景観や付近の桜景色は、同湖完成直後から観光名所となり、後に周辺一帯が一大レジャーエリアとして開発される端緒となった。 しかしながら同湖の水は当市には供給されないため、町内では江戸時代と変わらず水の確保に苦労する状況であった。1934年(昭和9年)4月には大干ばつに見舞われ、近隣の町や陸軍飛行学校から給水を受ける有様であった。この状況は、上水道が完成する1937年(昭和12年)3月まで続いた。 1943年(昭和18年)所沢町と小手指・富岡・吾妻・松井・山口の5村が合併した。 戦時中の1945年(昭和20年)にはアメリカ軍による空襲で旧所沢町だけで死傷者が30名以上、家屋への被害も65棟に及んだ。3月10日の東京大空襲では、所沢飛行場にも戦闘機が配備されていたが、強風と延焼により迎撃できなかった。8月15日の敗戦とともに、陸軍所沢飛行場および周辺施設はアメリカ軍に接収され、1971年(昭和46年)に6割、1978年(昭和53年)にさらに1割は返還されたものの、現在も通信基地として残っている。 他の埼玉県内の市同様、埼玉りそな銀行を指定金融機関としている。 2019年(令和元年)7月10日までは埼玉りそな銀行と三菱UFJ銀行の輪番制だった(水道事業は三菱UFJ銀行の単独、病院事業は輪番制)が、三菱UFJ銀行が指定金融機関を辞退した ことにより、埼玉りそな銀行が単独で市の指定金融機関となった。 所沢市には日本郵便の集配郵便局が2つある。 郵便番号は、市内全域が「359-xxxx」である。 狭山茶が有名だが、ホウレンソウやサトイモ、ニンジン等の栽培も盛ん。また、サツマイモ掘りやブドウ狩り等の観光農園も点在している。 食品製造や自動車部品・医療機器・電子部品の製造が盛んである。 2020年夏までに、所沢駅線路上空の商業店舗等と南側の新改札を開業予定。また、所沢駅西口再開発においては、「(仮称)所沢駅前直結タワー計画」(シティタワー所沢クラッシィ)と名付け、西武所沢車両工場跡地周辺の再開発と共に計画中である。 地域的なもののみ掲載。 当市は、「所沢市育英奨学金」・「所沢市遺児奨学金」という奨学金制度(高等学校・高等専門学校対象)がある。 都心に直結する西武池袋線と西武新宿線の2路線が市域の南東から北西にかけて並走し、西武池袋線は所沢駅の前後で大きく蛇行する線形となっている。JTBパブリッシングや交通新聞社の時刻表における市の代表駅は市内で最も乗降人員が多い所沢駅で、一日平均乗降人員は約10万人である。市域の南東部を武蔵野線が東西に横断するが、市内に乗換駅は存在しない。 上記の駅のほか、西武池袋線秋津駅(東京都東村山市)駅舎の一部が所沢市に属する。また、西武西武園線西武園駅と西武多摩湖線多摩湖駅(ともに東京都東村山市)が南西部の市境付近にある。 なお、武蔵野線と西武鉄道との連絡線が存在するが相互乗り入れは行われておらず、新秋津駅(東京都東村山市)からの甲種輸送が行われている。 全て西武バスの運行 タクシーの営業区域は県南西部交通圏で、川越市・東松山市・飯能市・和光市などと同じエリアとなっている。 所沢市が舞台、またはゆかりのある作品(ロケ地も含む)を記載する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "所沢市(ところざわし)は、埼玉県の南西部に位置する市。施行時特例市に指定されている。埼玉西武ライオンズが本拠地としている西武ドーム(ベルーナドーム)が所在する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "人口は約34万人で、さいたま市、川口市、川越市に次ぐ県内第4位。旧入間郡。1950年(昭和25年)市制施行。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "東京近郊のベッドタウンとして、新所沢地区、小手指地区には集合住宅が多く、中心部の所沢地区は複数の高層マンションが連なっている。西武池袋線と西武新宿線が交差する所沢駅周辺はプロペ通り商店街や大型商業施設、西武鉄道の本社などが位置しており、所沢市の中心市街地となっている。松井地区や柳瀬地区はJR武蔵野線が開業した当時に比べ、人口が急増しており、主に住宅街となっている。その反面、北部の富岡地区は江戸時代に行われた開拓により整備された農地(三富新田)が広がり、中央部の並木地区には所沢カルチャーパーク、南西部の山口地区には宮崎駿(所沢市在住)監督作品の映画『となりのトトロ』の舞台(モデル地は所沢市内に点在する)にもなった狭山丘陵(トトロの森)や狭山湖(山口貯水池)が広がっているなど、豊かな自然にも恵まれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本初の飛行場が開設されたことから、所沢市は「日本の航空発祥の地」としても知られている。1911年、日本初の飛行場である所沢陸軍飛行場が開設された。同年4月5日早朝、徳川好敏大尉の操縦する「アンリ・ファルマン1910年型機」が所沢飛行場での初飛行を記録した。戦後、所沢飛行場が在日米軍の所沢通信基地となるが、現在、7割が市に返還されている。 返還された土地には、所沢航空記念公園が整備され、公園内には所沢航空発祥記念館が建設されたほか、防衛省の防衛医科大学校・防衛医科大学校病院、厚生労働省の国立障害者リハビリテーションセンター、環境省の環境調査研修所、国土交通省の東京航空交通管制部、所沢市の所沢市役所・所沢市民体育館・所沢市民文化センター ミューズ・所沢市立図書館本館などがあり、所沢市の中枢機能や国の出先機関が集中している。未だに返還されていない残りの3割(約97ha)は、現在も在日米軍の所沢通信基地として稼働している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「保健所発祥の地」としても知られており、記念碑が所沢駅東口ロータリーに設置されている。1937年、東京・京橋に「都市保健館」と所沢市(現在の所沢駅東口付近)に「農村保健館」が建てられた。農村保健館を開設して3年後、「所沢保健所」に改称された。1964年には、けやき台に移転し、2010年に狭山保健所に統合されるまで業務を行った。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "静岡茶、宇治茶と並んで日本三大茶の一つと称される狭山茶の生産地としても知られており、生産量は埼玉県入間市に次ぐ全国第2位となっている。狭山茶は市内全域で栽培されており、特に三ヶ島地区、富岡地区で栽培面積、収穫量が多くなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "プロ野球・埼玉西武ライオンズの本拠地球場であるベルーナドーム(西武ドーム)の所在地である。また、西武グループの本拠地(本店所在地は主に池袋)でもある。所沢市内にはベルーナドームを始め、西武鉄道本社、所沢駅ビルのGrand Emio(グランエミオ)所沢、西武所沢S.C.(旧セゾングループ、かつての西武流通グループ)、新所沢パルコ(旧セゾングループ、2024年閉店予定)、西友(旧セゾングループ)、西武園ゆうえんち、西武園競輪場、狭山スキー場、ところざわのゆり園(旧ユネスコ村)など、西武系列の施設が多く所在する。また豊島区のダイヤゲート池袋に移転するまでは西武ホールディングスの本社も位置していた。また、近年は、西武グループによって所沢駅周辺やベルーナドーム・西武園ゆうえんち周辺の再開発が行われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "主に閑静な住宅街や工業団地、のどかな田園風景となっている松井地区(東所沢和田)には、KADOKAWAのところざわサクラタウンが所在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本経済新聞社産業地域研究所が全国815市区を対象に実施した「SDGs(持続可能な開発目標)先進度調査」において、所沢市が環境部門で全国1位となった。電気自動車充電インフラの整備や、スマートエネルギー補助金による、市域全体の再生可能エネルギー利用や省エネの促進などが高く評価された。2020年11月3日の市制施行70周年記念式典において、2050年までに市内の二酸化炭素の排出量実質ゼロを目指す「ゼロカーボンシティ」を市長が表明した。また、2021年2月15日に、所沢市は近隣4市(飯能市、狭山市、入間市、日高市)と共に、「ゼロカーボンシティ」共同宣言を表明した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "住宅情報誌『SUUMO』が2020年10月に発表した「災害に強い街」ランキングで、所沢市は1都3県の184市区のうち1位となった。この順位は公益財団法人の地盤工学会関東支部が、自然災害発生頻度と被害人口に、ハード・ソフト対策の充実度を掛け合わせ算出した、自然災害に対する独自のリスク指標「GNS」に基づいており、市の大半が武蔵野台地に位置していることが有利に働いた。(2位は和光市、3位は北本市)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「所沢」という地名は、野老(トコロ。ヤマノイモ科の植物)が群生する湿地の意といわれるが不詳。古くは「野老澤」(ところさわ)の字が当てられた。市内西部から市内中心部を通り、東部に流れる東川(あずまがわ)を指しているとする説もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "埼玉県西部、武蔵野台地に位置し、南部には狭山丘陵が広がっている。狭山丘陵から流れる東川、柳瀬川は市内東部へ流れ、最終的には荒川に至る。山口貯水池(通称:狭山湖)は当市内にあるが、東京都民用の水源となっている(東京都水道局が管理)。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "池袋を起点とする西武池袋線と西武新宿を起点とする西武新宿線の2つの幹線が東と南からやってきて、所沢駅に互い違いで乗り入れている。その後2つの路線はそれぞれ北と西とに進路を変え、当市内を横断する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "西武池袋線は西武有楽町線経由で東京メトロ有楽町線・副都心線・東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線と相互直通運転を行っている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "JR武蔵野線は、当市内での他路線との接続はない(ただし、市境に新秋津駅と西武池袋線秋津駅がある)。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "関越自動車道が東部を通過しており、国道463号(旧・県道浦和所沢線)と所沢ICで接続する。国道254号と国道463号は新座市の英(はなぶさ)インターで交差した後、市中心近くに至り、宮本町交差点を起点にそこから2本に分かれ(北側は通称「行政道路」、南側は通称「(国道463号、若しくは行政)バイパス」と呼ばれる)、入間市へと続いている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "所沢駅前のプロペ通りを中心とした地域は繁華街で西武百貨店の他、多くの飲食店、衣料品店などがある。プロペ通りから続くファルマン通りも古くからの繁華街で、旧市役所のあった元町を経て、金山町の交差点まで続く銀座商店街がある。現在は高層マンションが立ち並んでいる。航空公園を中心とする並木地区には公共機関が集中し、また在日米軍所沢通信基地がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "新所沢は都市公団(現・都市再生機構)、小手指は西武鉄道とそれぞれが開発した集合住宅が広がっている。近年では旧市街地に超高層マンション建設が相次いでいる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "所沢市のほぼ全域は内陸性気候の特色を持ち、夏は高温、冬は寒冷な気候となっている。しかしながら、アメダスは狭山湖畔に設置されており、湖の影響を強く受ける海洋性気候の特徴を持つ。そのため、アメダスで観測される数値は周囲よりも冬は冷え込みが弱く、夏は逆に冷涼となりやすく局所的な影響が強く出る。実際に標高が100 mほど低いさいたま市に比べると1月平均最低気温(-0.6度)や最低気温極値(-7.8度)は高くなっている一方、8月平均最高気温(31.3度)はより低い。しかしながら、夏季の場合は風向き次第ではフェーン現象の影響を受けてこのアメダス地点においても高温となることもあり、所沢の最高気温極値は2018年7月23日に観測された39.8度と、さいたま市の39.3度よりも高くなっており、湖と反対側からの風の影響次第では高温となることもある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "冬季は南岸低気圧の影響で大雪となる事もあり、内陸にあることから雪のまま推移する事が少なくない。その場合、埼玉県内では東部よりも降雪量が多くなる傾向がある。2014年2月14日の大雪の時には所沢中央消防署で積雪57cmを記録している。また、前述通りアメダスは狭山湖畔にあるため、標高が幾分高いこととヒートアイランドの影響が小さいことも加わり、市街地と比較すると雪の日はより低温で積雪も多くなる傾向にある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "所沢の近辺には、約2万年前から人類が定住しており、砂川遺跡を筆頭に市内には旧石器時代以降の遺跡や貝塚が点在している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "東日本各地に多く見られることだが、当地にも日本武尊の東征伝説がある。戦勝を祈願したといわれる神社(所澤神明社や北野天神社の由来)や、あるいは篭手をかざした(地名・小手指の由来)といった伝承がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "7世紀に律令制度のもと、武蔵国国府が現在の東京都府中市に設置されると、当地は武蔵国入間郡の一部となり、あわせて武蔵国国府と上野国国府を結ぶ官道が築かれた。これが東山道武蔵路であり、市内の南陵中学校でも遺構が確認されている。また、かつての郡境にあたる現在の松が丘付近には悲田処(行路病人などの救護施設)が設置されたという伝承がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "武蔵国一帯は朝鮮半島からの渡来人が数多く定住しており、当地にも渡来人のコミュニティが存在していたとの説もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "平安時代末期になると世情が乱れ、野武士軍団である武蔵七党の一派、村山党が定着した。現在も市内に多く存在する山口、村山、金子といった姓は、この流れである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1192年に鎌倉幕府が成立すると、府中方面に通じていた街道は鎌倉街道上道となり、軍事的にも経済的にも重要な幹線道路として整備された。特に所沢は、上道と間道である堀兼道・羽根倉道の合流地点として栄えたという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1333年、隠岐島に島流しされていた後醍醐天皇が伯耆国船上山(現・鳥取県東伯郡琴浦町内)で蜂起すると、上野国(群馬県)の新田義貞は呼応して鎌倉へ向かって進軍し、小手差原(現在の北野付近)で北条氏の兵と衝突、決着はつかず両軍とも一時兵を引いた。世にいう小手指原の戦いである。市内に残る白旗塚・将軍塚(松が丘)・誓詞橋(砂川堀)・勢揃橋(柳瀬川)といった地名は、この戦いに由来する。その後、1352年にも義貞の遺児である義興・義宗の兄弟が足利軍と小手指原付近で衝突している。(武蔵野合戦)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "戦国時代は関東管領扇谷上杉氏の支配下にあり、上杉氏家臣で守護代の大石氏が統治していた。のちに河越夜戦で上杉氏が衰退し後北条氏が台頭してくると、八王子城主北条氏照の支配下となった。柳瀬川沿いに山口城址・滝の城址などの中世城館跡が数か所残っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "江戸時代には江戸近郊として幕府直轄領が多く直接支配が及んでいたが、一部には川越藩領や旗本領も存在している。ただし、現在の市域のうち、日比田村だけは多摩郡に属し、明治13年に入間郡大岱村(現在の東村山市恩多町付近)と交換されるまで飛び地となっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "近世には河原宿(現在の宮本町付近)から江戸四谷への道(江戸街道・おおむね現在の西武新宿線沿い・現所沢街道に近い)が整備され、東(江戸街道)・西(秩父道)・南(府中・八王子方面)・北(川越方面)へ延びる主要道路の中継地、あるいは物資の集積地として機能した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、市北部の富岡地区では、川越藩主柳沢吉保期に新田開発(三富新田開拓)が行われた(このうち上富地区は、現在は入間郡三芳町の域内にあたる)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "なお、地層が関東ローム層と礫層に覆われた武蔵野台地では地下水脈が深い乏水地域で、所沢市域でも井戸水の確保に苦労した。その惨状たるや「所沢の火事は土で消せ」と言われたくらいであり、実際に1818年(文化15年)2月の神明社、薬王寺及び民家142戸が焼失する大火など、江戸期には数回の大火が発生している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "明治維新後、現在の当市域の旧幕府直轄領だった大部分は1869年(明治2年)3月21日(旧暦2月9日)に品川県になり、同4月には市西部にあたる部分が韮山県に移管され。 、1871年8月29日(旧暦7月14日)に川越藩領だった一部は川越県となった。同年12月25日(旧暦11月14日)に入間県発足で全域が入間県になり、1873年6月15日に熊谷県になった後、最終的に1876年8月21日、埼玉県に組み入れられた。1881年(明治14年)には上新井村の本宿と久米村の金山を編入し、所沢村から所沢町になった。1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴い、入間郡所沢町が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "明治時代にも1875年(明治8年)、1880年(明治13年)、1885年(明治18年)などに大火があり、蔵造りの街並みが造られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1911年(明治44年)現在の並木地区を中心とした一帯に陸軍が日本初の飛行場(のち陸軍航空整備学校)を設置し、基地の町という新たな顔をもつことになった。現在、所沢が所沢航空記念公園を持ち「航空発祥の地」を標榜しているのは、これに由来する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、臨時軍用気球研究会所沢試験場が翌1911年4月1日に開場。4月5日に陸軍大尉徳川好敏による初飛行が行われたが、この際使用した飛行機がアンリ・ファルマン式複葉機だったことにちなみ、所沢駅西側には「ファルマン通り」という道が存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "なお、飛行場完成に合わせて武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)や旧西武鉄道(現在の西武新宿線)も競って基地への最寄駅を設置した(現在は両駅とも廃止)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "一方、交易中継地としての機能も健在で、「所沢飛白」「湖月縮」といった名産品により、「織物の町・所沢」として最盛期を迎えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1927年(昭和2年)東京市民の水がめとして、山口貯水池(狭山湖)の建設が開始され、1934年(昭和9年)に完成した。このため山口村の旧勝楽寺村と上山口村にわたる一帯が水没し、村の住民は隣の小手指村などに移住した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "狭山湖畔からの景観や付近の桜景色は、同湖完成直後から観光名所となり、後に周辺一帯が一大レジャーエリアとして開発される端緒となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "しかしながら同湖の水は当市には供給されないため、町内では江戸時代と変わらず水の確保に苦労する状況であった。1934年(昭和9年)4月には大干ばつに見舞われ、近隣の町や陸軍飛行学校から給水を受ける有様であった。この状況は、上水道が完成する1937年(昭和12年)3月まで続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1943年(昭和18年)所沢町と小手指・富岡・吾妻・松井・山口の5村が合併した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "戦時中の1945年(昭和20年)にはアメリカ軍による空襲で旧所沢町だけで死傷者が30名以上、家屋への被害も65棟に及んだ。3月10日の東京大空襲では、所沢飛行場にも戦闘機が配備されていたが、強風と延焼により迎撃できなかった。8月15日の敗戦とともに、陸軍所沢飛行場および周辺施設はアメリカ軍に接収され、1971年(昭和46年)に6割、1978年(昭和53年)にさらに1割は返還されたものの、現在も通信基地として残っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "他の埼玉県内の市同様、埼玉りそな銀行を指定金融機関としている。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2019年(令和元年)7月10日までは埼玉りそな銀行と三菱UFJ銀行の輪番制だった(水道事業は三菱UFJ銀行の単独、病院事業は輪番制)が、三菱UFJ銀行が指定金融機関を辞退した ことにより、埼玉りそな銀行が単独で市の指定金融機関となった。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "所沢市には日本郵便の集配郵便局が2つある。 郵便番号は、市内全域が「359-xxxx」である。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "狭山茶が有名だが、ホウレンソウやサトイモ、ニンジン等の栽培も盛ん。また、サツマイモ掘りやブドウ狩り等の観光農園も点在している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "食品製造や自動車部品・医療機器・電子部品の製造が盛んである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2020年夏までに、所沢駅線路上空の商業店舗等と南側の新改札を開業予定。また、所沢駅西口再開発においては、「(仮称)所沢駅前直結タワー計画」(シティタワー所沢クラッシィ)と名付け、西武所沢車両工場跡地周辺の再開発と共に計画中である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "地域的なもののみ掲載。", "title": "情報・通信" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "当市は、「所沢市育英奨学金」・「所沢市遺児奨学金」という奨学金制度(高等学校・高等専門学校対象)がある。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "都心に直結する西武池袋線と西武新宿線の2路線が市域の南東から北西にかけて並走し、西武池袋線は所沢駅の前後で大きく蛇行する線形となっている。JTBパブリッシングや交通新聞社の時刻表における市の代表駅は市内で最も乗降人員が多い所沢駅で、一日平均乗降人員は約10万人である。市域の南東部を武蔵野線が東西に横断するが、市内に乗換駅は存在しない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "上記の駅のほか、西武池袋線秋津駅(東京都東村山市)駅舎の一部が所沢市に属する。また、西武西武園線西武園駅と西武多摩湖線多摩湖駅(ともに東京都東村山市)が南西部の市境付近にある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "なお、武蔵野線と西武鉄道との連絡線が存在するが相互乗り入れは行われておらず、新秋津駅(東京都東村山市)からの甲種輸送が行われている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "全て西武バスの運行", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "タクシーの営業区域は県南西部交通圏で、川越市・東松山市・飯能市・和光市などと同じエリアとなっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "所沢市が舞台、またはゆかりのある作品(ロケ地も含む)を記載する。", "title": "所沢を舞台とした作品" } ]
所沢市(ところざわし)は、埼玉県の南西部に位置する市。施行時特例市に指定されている。埼玉西武ライオンズが本拠地としている西武ドーム(ベルーナドーム)が所在する。 人口は約34万人で、さいたま市、川口市、川越市に次ぐ県内第4位。旧入間郡。1950年(昭和25年)市制施行。
{{日本の市 | 画像 = {{Multiple image | border = infobox | total_width = 290 | image_style = border:1; | perrow = 1/2/2 | image1 = Tokorozawa Aviation Commemorative Park.jpg|150px | image2 = Moment of Saitama Seibu Lions Victory at MetLife Dome.jpg | image3 = Seibuen yuenchi Ferris wheels.JPG | image4 = Kadokawa Culture Museum-2020-07-09.jpg | image5 = Tokorozawa Kyu-wadake Zyuutaku Omoya 1.jpg | image6 = Tokorosawa Shinmei-sha 100117.jpg | image7 = Sayama Fudoson Chokugakumon.jpg }} |画像の説明 = <table style="width:280px;margin:2px auto; border-collapse: collapse"> <tr><td colspan="2">[[所沢航空記念公園]]</tr> <tr><td style="width:50%">[[西武ドーム|ベルーナドーム]]<td>[[西武園ゆうえんち]]</tr> <tr><td style="width:50%"><small>[[ところざわサクラタウン]]</small><td>[[クロスケの家]]</tr> <tr><td style="width:50%">[[所澤神明社]]<td>[[狭山不動尊]]</tr> </table> |市旗 = [[ファイル:Flag of Tokorozawa, Saitama.svg|border|100px]] |市旗の説明 = 所沢[[市町村旗|市旗]] |市章 = [[ファイル:Emblem of Tokorozawa, Saitama.svg|70px]] |市章の説明 = 所沢[[市町村章|市章]] |自治体名 = 所沢市 |都道府県 = 埼玉県 |コード = 11208-9 |隣接自治体 = [[入間市]]、[[川越市]]、[[狭山市]]、[[新座市]]、[[入間郡]][[三芳町]]<br />[[東京都]]:[[清瀬市]]、[[東村山市]]、[[東大和市]]、[[武蔵村山市]]、[[西多摩郡]][[瑞穂町]] |木 = [[イチョウ]] |花 = [[茶|茶の花]] |シンボル名 = 市の鳥 |鳥など = [[ひばり]] |郵便番号 = 359-8501 |所在地 = 所沢市並木一丁目1番地の1<br />{{Coord|format=dms|region:JP-11_type:adm3rd_scale:80000|display=inline,title}}<br/>[[ファイル:Tokorozawa City Hall 2.jpg|center|250px|所沢市役所]]{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=240|frame-height=200|type=shape-inverse|fill=#fffff0|stroke-color=#cc0000|stroke-width=1|coord2={{coord|35.7996|139.4686}}|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=35.785|frame-longitude=139.46|text=市庁舎位置}} |外部リンク = {{Official website}} |位置画像 = {{基礎自治体位置図|11|208|image=Tokorozawa in Saitama Prefecture Ja.svg|村の色分け=yes}} |特記事項 = }} '''所沢市'''(ところざわし)は、[[埼玉県]]の南西部に位置する[[市]]。[[特例市|施行時特例市]]に指定されている。[[埼玉西武ライオンズ]]が本拠地としている[[西武ドーム]](ベルーナドーム)が所在する。 [[人口]]は約34万人で、[[さいたま市]]、[[川口市]]、[[川越市]]に次ぐ県内第4位。旧[[入間郡]]。1950年(昭和25年)[[市制]]施行。 == 概要 == [[File:View of Tokorozawa from Hachikokuyama.jpg|thumb|200px|left|[[八国山緑地]]から望む所沢市の[[スカイライン (風景)|スカイライン]]]] [[東京]]近郊の[[ベッドタウン]]として、新所沢地区、[[小手指町|小手指]]地区には[[集合住宅]]が多く、中心部の所沢地区は複数の高層マンションが連なっている。[[西武池袋線]]と[[西武新宿線]]が交差する[[所沢駅]]周辺はプロペ通り商店街や大型商業施設、[[西武鉄道]]の本社などが位置しており、所沢市の[[中心市街地]]となっている。松井地区や柳瀬地区は[[東日本旅客鉄道|JR]][[武蔵野線]]が開業した当時に比べ、人口が急増しており、主に住宅街となっている。その反面、北部の富岡地区は[[江戸時代]]に行われた開拓により整備された農地([[三富新田]])が広がり、中央部の並木地区には所沢カルチャーパーク、南西部の山口地区には[[宮崎駿]](所沢市在住)監督作品の映画『[[となりのトトロ]]』の舞台(モデル地は所沢市内に点在する)にもなった[[狭山丘陵]](トトロの森)や[[山口貯水池|狭山湖]](山口貯水池)が広がっているなど、豊かな自然にも恵まれている。 日本初の[[飛行場]]が開設されたことから、所沢市は「'''日本の航空発祥の地'''」としても知られている。[[1911年]]、日本初の飛行場である[[所沢陸軍飛行場]]が開設された。同年4月5日早朝、[[徳川好敏]]大尉の操縦する「[[アンリ・ファルマン]]1910年型機」が所沢飛行場での初飛行を記録した。戦後、所沢飛行場が[[在日米軍]]の[[所沢通信基地]]となるが、現在、7割が市に返還されている。 返還された土地には、'''[[所沢航空記念公園]]'''が整備され、公園内には[[所沢航空発祥記念館]]が建設されたほか、[[防衛省]]の[[防衛医科大学校]]・[[防衛医科大学校病院]]、[[厚生労働省]]の[[国立障害者リハビリテーションセンター]]、[[環境省]]の[[環境調査研修所]]、[[国土交通省]]の[[東京航空交通管制部]]、所沢市の[[所沢市役所]]・[[所沢市民体育館]]・[[所沢市民文化センター ミューズ]]・[[所沢市立図書館]]本館などがあり、所沢市の中枢機能や国の出先機関が集中している。未だに返還されていない残りの3割(約97ha)は、現在も在日米軍の所沢通信基地として稼働している。 「'''[[保健所]]発祥の地'''」としても知られており、記念碑が所沢駅東口ロータリーに設置されている。[[1937年]]、東京・京橋に「都市保健館」と所沢市(現在の所沢駅東口付近)に「農村保健館」が建てられた。農村保健館を開設して3年後、「所沢保健所」に改称された。[[1964年]]には、けやき台に移転し、[[2010年]]に狭山保健所に統合されるまで業務を行った<ref>[https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/smph/iitokoro/enjoy/kids/hibari/kikaku/hajimete.html ところざわ はじめてものがたり] 所沢市ホームページより。</ref>。 [[静岡茶]]、[[宇治茶]]と並んで日本三大茶の一つと称される[[狭山茶]]の生産地としても知られており、生産量は埼玉県[[入間市]]に次ぐ全国第2位となっている。狭山茶は市内全域で栽培されており、特に三ヶ島地区、富岡地区で栽培面積、収穫量が多くなっている。 [[日本プロ野球|プロ野球]]・[[埼玉西武ライオンズ]]の[[専用球場|本拠地球場]]である[[西武ドーム|ベルーナドーム]](西武ドーム)の所在地である。また、[[西武グループ]]の本拠地(本店所在地は主に池袋)でもある。所沢市内にはベルーナドームを始め、[[西武鉄道]]本社、[[所沢駅]]ビルの[[Emio|Grand Emio]](グランエミオ)所沢、[[西武百貨店|西武所沢S.C.]](旧[[セゾングループ]]、かつての西武流通グループ)、[[新所沢パルコ]](旧セゾングループ、2024年閉店予定)、[[西友]](旧セゾングループ)、[[西武園ゆうえんち]]、[[西武園競輪場]]、[[狭山スキー場]]、[[ところざわのゆり園]](旧[[ユネスコ村]])など、西武系列の施設が多く所在する。また[[豊島区]]の[[ダイヤゲート池袋]]に移転するまでは[[西武ホールディングス]]の本社も位置していた。また、近年は、西武グループによって所沢駅周辺やベルーナドーム・西武園ゆうえんち周辺の再開発が行われている。 主に閑静な住宅街や工業団地、のどかな田園風景となっている松井地区([[東所沢和田]])には、[[KADOKAWA]]の[[ところざわサクラタウン]]が所在する<ref>[http://tokorozawa-sakuratown.jp/sp/ ところざわサクラタウン] 2016年6月9日より開設。</ref>。 日本経済新聞社産業地域研究所が全国815市区を対象に実施した「SDGs(持続可能な開発目標)先進度調査」において、所沢市が環境部門で全国1位となった。電気自動車充電インフラの整備や、スマートエネルギー補助金による、市域全体の再生可能エネルギー利用や省エネの促進などが高く評価された。2020年11月3日の市制施行70周年記念式典において、2050年までに市内の[[二酸化炭素]]の排出量実質ゼロを目指す「[[ゼロカーボンシティ]]」を市長が表明した。また、2021年2月15日に、所沢市は近隣4市(飯能市、狭山市、入間市、日高市)と共に、「ゼロカーボンシティ」共同宣言を表明した。 住宅情報誌『[[スーモ|SUUMO]]』が2020年10月に発表した「災害に強い街」ランキングで、所沢市は1都3県の184市区のうち1位となった。この順位は[[公益財団法人]]の[[地盤工学会]]関東支部が、自然災害発生頻度と被害人口に、ハード・ソフト対策の充実度を掛け合わせ算出した、自然災害に対する独自のリスク指標「GNS」に基づいており、市の大半が[[武蔵野台地]]に位置していることが有利に働いた。(2位は[[和光市]]、3位は[[北本市]])<ref>[https://mainichi.jp/articles/20210314/k00/00m/040/014000c 「災害に強い街」1位は所沢 ベスト3、埼玉が独占] 毎日新聞 2021年3月14日</ref> ===地名の由来=== 「所沢」という地名は、野老([[トコロ]]。[[ヤマノイモ科]]の植物)が群生する湿地の意といわれるが不詳。古くは「野老澤」(ところさわ)の字が当てられた。市内西部から市内中心部を通り、東部に流れる[[東川 (埼玉県)|東川]](あずまがわ)を指しているとする説もある。 ==地理== [[File:Tokorozawa city center area Aerial photograph.1989.jpg|thumb|200px|所沢市中心部周辺の空中写真。画像中央付近が[[所沢駅]]。画像上部に見える広い敷地は[[所沢航空記念公園]]と在日米軍[[所沢通信基地]]である。1989年撮影の10枚を合成作成。<br/>{{国土航空写真}}。]] 埼玉県西部、[[武蔵野台地]]に位置し、南部には狭山丘陵が広がっている。狭山丘陵から流れる[[東川 (埼玉県)|東川]]、[[柳瀬川]]は市内東部へ流れ、最終的には[[荒川 (関東)|荒川]]に至る。[[狭山湖|山口貯水池]](通称:狭山湖)は当市内にあるが、東京都民用の水源となっている([[東京都水道局]]が管理)。 [[池袋駅|池袋]]を起点とする[[西武池袋線]]と[[西武新宿駅|西武新宿]]を起点とする[[西武新宿線]]の2つの幹線が東と南からやってきて、[[所沢駅]]に互い違いで乗り入れている。その後2つの路線はそれぞれ北と西とに進路を変え、当市内を横断する。 [[西武池袋線]]は[[西武有楽町線]]経由で[[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]・[[東急東横線]]・[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]と相互直通運転を行っている。 JR[[武蔵野線]]は、当市内での他路線との接続はない(ただし、市境に[[新秋津駅]]と西武池袋線[[秋津駅]]がある)。 [[関越自動車道]]が東部を通過しており、[[国道463号]](旧・県道浦和所沢線)と[[所沢インターチェンジ|所沢IC]]で接続する。[[国道254号]]と国道463号は新座市の英(はなぶさ)インターで交差した後、市中心近くに至り、宮本町交差点を起点にそこから2本に分かれ(北側は通称「行政道路」、南側は通称「(国道463号、若しくは行政)バイパス」と呼ばれる)、入間市へと続いている。 所沢駅前のプロペ通りを中心とした地域は繁華街で西武百貨店の他、多くの飲食店、衣料品店などがある。プロペ通りから続くファルマン通りも古くからの繁華街で、旧市役所のあった元町を経て、金山町の交差点まで続く銀座商店街がある。現在は高層マンションが立ち並んでいる。航空公園を中心とする並木地区には公共機関が集中し、また在日米軍[[所沢通信基地]]がある。 新所沢は都市公団(現・[[都市再生機構]])、小手指は[[西武鉄道]]とそれぞれが開発した集合住宅が広がっている。近年では旧市街地に超高層マンション建設が相次いでいる。 {{Gallery |ファイル:Tokorozawa_Aviation_Museum_in_Koku-koen_park_060910.jpg|[[所沢航空発祥記念館]] |ファイル:Zelkova serrata japan 2006 04.jpg|[[所沢航空記念公園]]内のケヤキ並木 |ファイル:Tokorozawa tra mii (1).jpg|[[在日米軍]]・[[所沢通信基地]] }} ===地形=== ====河川==== ;主な川 [[File:Yanase River 20090707.jpg|thumb|200px|柳瀬川の「清瀬橋」<br />所沢市と清瀬市の都県境]] {| || * [[柳瀬川]] * [[六ツ家川]] * [[東川 (埼玉県)|東川]] || * [[砂川堀]] * [[日比田水路]] * [[林川 (埼玉県)|林川]] || * 長峰川 * 鶴舞川 * 耕地川 || * 境川 * 大谷川 * 中野川 || * 坂之下川 * 中村川 * [[不老川]] || * 谷川 * 樽井戸川 |} ===気候=== {{Tokorozawa weatherbox}} 所沢市のほぼ全域は内陸性気候の特色を持ち、夏は高温、冬は寒冷な気候となっている。しかしながら、アメダスは[[狭山湖]]畔に設置されており、湖の影響を強く受ける海洋性気候の特徴を持つ。そのため、アメダスで観測される数値は周囲よりも冬は冷え込みが弱く、夏は逆に冷涼となりやすく局所的な影響が強く出る。実際に標高が100 mほど低い[[さいたま市]]に比べると1月平均最低気温(-0.6度)や最低気温極値(-7.8度)は高くなっている一方、8月平均最高気温(31.3度)はより低い。しかしながら、夏季の場合は風向き次第では[[フェーン現象]]の影響を受けてこのアメダス地点においても高温となることもあり、所沢の最高気温極値は2018年7月23日に観測された39.8度と、さいたま市の39.3度よりも高くなっており、湖と反対側からの風の影響次第では高温となることもある。 冬季は[[南岸低気圧]]の影響で大雪となる事もあり、内陸にあることから雪のまま推移する事が少なくない。その場合、埼玉県内では東部よりも降雪量が多くなる傾向がある。[[2014年]]2月14日の[[平成26年豪雪|大雪]]の時には所沢中央消防署で積雪57cmを記録している<ref>[https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/shiseijoho/pubcom/ichiran/bousaikeikakusyuuryou.files/siryou1.pdf 所沢市防災会議]</ref>。また、前述通りアメダスは狭山湖畔にあるため、標高が幾分高いこととヒートアイランドの影響が小さいことも加わり、市街地と比較すると雪の日はより低温で積雪も多くなる傾向にある。 ===地域=== ====町名・字==== ;あ行 * [[青葉台 (所沢市)|青葉台]] - あおばだい * [[旭町 (所沢市)|旭町]] - あさひちょう * [[荒幡]] - あらはた * [[泉町 (所沢市)|泉町]] - いずみちょう * [[岩岡町]] - いわおかちょう * [[牛沼]] - うしぬま * [[榎町 (所沢市)|榎町]] - えのきちょう ;か行 * [[金山町 (所沢市)|金山町]] - かなやまちょう * [[上新井]](一丁目〜五丁目)- かみあらい * [[上安松]] - かみやすまつ * [[上山口]] - かみやまぐち * [[神米金]] - かめがね * [[亀ヶ谷]] - かめがや * [[北秋津]] - きたあきつ * [[北岩岡]] - きたいわおか * [[北所沢町]] - きたところざわちょう * [[北中 (所沢市)|北中]](一丁目〜四丁目)- きたなか * [[北野 (所沢市)|北野]](一丁目〜三丁目)- きたの * [[北野新町]](一丁目〜二丁目)- きたのしんまち * [[北野南]](一丁目〜三丁目)- きたのみなみ * [[北原町 (所沢市)|北原町]] - きたはらちょう * [[喜多町 (所沢市)|喜多町]] - きたまち * [[北有楽町]] - きたゆうらくちょう * [[くすのき台]](一丁目〜三丁目)- くすのきだい * [[久米 (所沢市)|久米]] - くめ * [[けやき台 (所沢市)|けやき台]](一丁目・二丁目)- けやきだい * [[糀谷 (所沢市)|糀谷]] - こうじや * [[向陽町 (所沢市)|向陽町]] - こうようちょう * [[小手指台]] - こてさしだい * [[小手指町]](一丁目〜五丁目)- こてさしちょう * [[小手指南]](一丁目〜六丁目)- こてさしみなみ * [[小手指元町]](一丁目〜三丁目)- こてさしもとまち * [[寿町 (所沢市)|寿町]] - ことぶきちょう * [[こぶし町]] - こぶしちょう ;さ行 * [[坂之下 (所沢市)|坂之下]] - さかのした * [[狭山ヶ丘]](一丁目・二丁目)- さやまがおか * [[下新井]] - しもあらい * [[下富]] - しもとみ * [[下安松]] - しもやすまつ * [[勝楽寺 (所沢市)|勝楽寺]] - しょうらくじ * [[城 (所沢市)|城]] - しろ * [[新郷 (所沢市)|新郷]] - しんごう ;た行 * [[所沢新町]] - ところざわしんまち ;な行 * [[中新井]](一丁目〜五丁目)- なかあらい * [[中新井]](大字)- なかあらい * [[中富 (所沢市)|中富]] - なかとみ * [[中富南]](一丁目〜四丁目)- なかとみみなみ * [[並木 (所沢市)|並木]](一丁目〜八丁目)- なみき * [[西新井町 (所沢市)|西新井町]] - にしあらいちょう * [[西狭山ヶ丘]](一丁目・二丁目)- にしさやまがおか * [[西住吉 (所沢市)|西住吉]] - にしすみよし * [[西所沢]](一丁目・二丁目)- にしところざわ ;は行 * [[花園 (所沢市)|花園]](一丁目〜四丁目)- はなぞの * [[林 (所沢市)|林]](一丁目〜三丁目)- はやし * [[東新井町]] - ひがしあらいちょう * [[東狭山ヶ丘]](一丁目〜六丁目)- ひがしさやまがおか * [[東住吉 (所沢市)|東住吉]] - ひがしすみよし * [[東町 (所沢市)|東町]] - ひがしちょう * [[東所沢]](一丁目〜五丁目)- ひがしところざわ * [[東所沢和田]](一丁目〜三丁目)- ひがしところざわわだ * [[日比田]] - ひびた * [[日吉町 (所沢市)|日吉町]] - ひよしちょう * [[星の宮]](一丁目・二丁目)- ほしのみや * [[堀之内 (所沢市)|堀之内]] - ほりのうち * [[本郷 (所沢市)|本郷]] - ほんごう ;ま行 * [[松が丘 (所沢市)|松が丘]](一丁目・二丁目)- まつがおか * [[松郷 (所沢市)|松郷]] - まつごう * [[松葉町 (所沢市)|松葉町]] - まつばちょう * [[三ヶ島 (所沢市)|三ヶ島]](一丁目〜五丁目)- みかじま * [[緑町 (所沢市)|緑町]](一丁目〜四丁目)- みどりちょう * [[南住吉 (所沢市)|南住吉]] - みなみすみよし * [[南永井]] - みなみながい * [[美原町 (所沢市)|美原町]](一丁目〜五丁目)- みはらちょう * [[宮本町 (所沢市)|宮本町]](一丁目・二丁目)- みやもとちょう * [[御幸町 (所沢市)|御幸町]] - みゆきちょう * [[元町 (所沢市)|元町]] - もとまち ;や行 * [[山口 (所沢市)|山口]] - やまぐち * [[弥生町 (所沢市)|弥生町]] - やよいちょう * [[有楽町 (所沢市)|有楽町]] - ゆうらくちょう ;わ行 * [[若狭 (所沢市)|若狭]](一丁目〜四丁目)- わかさ * [[和ヶ原]](一丁目〜三丁目)- わがはら * [[若松町 (所沢市)|若松町]] - わかまつちょう ====住宅団地==== * 所沢コーポラス * 所沢パークタウン公園通り団地 * 松が丘団地 * 新所沢第二団地 * ヴィルセゾン小手指 * 西武小手指ハイツ * 武蔵野団地 * 狭山ヶ丘角栄団地 * 並木通り団地 * 所沢椿峰住宅 * 所沢松郷住宅 * 所沢新郷住宅 * 所沢パークタウン武蔵野住宅 * 新所沢けやき通り住宅 * 愛宕山市営住宅 * URプラザシティ新所沢けやき通り * URプラザシティ新所沢けやき通り第2 * UR新所沢団地 ===人口=== {{人口統計|code=11208|name=所沢市|image=Population distribution of Tokorozawa, Saitama, Japan.svg}} *[[2000年]]頃より[[東京都道・埼玉県道24号練馬所沢線|小金井街道]]沿いの旧市街地周辺に高層[[マンション]]が相次いで建てられ転入者が増え、[[2005年]]にはさいたま市、川口市に次ぐ県内3位の人口を記録したが、その後伸びは鈍化。 *2020年4月末現在344,604人。さいたま市、川口市、川越市、越谷市に次ぐ県内5位。 ===隣接自治体=== {| || ;[[埼玉県]] *[[入間市]] *[[川越市]] *[[狭山市]] *[[新座市]] *[[入間郡]]:[[三芳町]] || ;[[東京都]] *[[清瀬市]] *[[東村山市]] *[[東大和市]] *[[武蔵村山市]] *[[西多摩郡]]:[[瑞穂町]] |} ==歴史== ===先史=== ;旧石器時代 所沢の近辺には、約2万年前から人類が定住しており、[[砂川遺跡]]を筆頭に市内には旧[[石器時代]]以降の遺跡や貝塚が点在している。 ===古代=== ;古墳時代 東日本各地に多く見られることだが、当地にも[[日本武尊]]の東征伝説がある。戦勝を祈願したといわれる神社([[所澤神明社]]や[[北野天神社 (所沢市)|北野天神社]]の由来)や、あるいは篭手をかざした(地名・小手指の由来)といった伝承がある。<!---いかんせん民話である。 民話と伝説は違いますが---> ;飛鳥時代 [[7世紀]]に[[律令制度]]のもと、[[武蔵国]][[国府]]が現在の[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]に設置されると、当地は武蔵国[[入間郡]]の一部となり、あわせて武蔵国国府と[[上野国]]国府を結ぶ[[官道]]が築かれた。これが[[東山道武蔵路]]であり、市内の南陵中学校でも遺構が確認されている。また、かつての郡境にあたる現在の松が丘付近には[[悲田処]](行路病人などの救護施設)が設置されたという伝承がある。 [[武蔵国]]一帯は[[朝鮮半島]]からの[[渡来人]]が数多く定住しており、当地にも[[渡来人]]の[[コミュニティ]]が存在していたとの説もある。 ===中世=== ;平安時代 [[平安時代]]末期になると世情が乱れ、野武士軍団である[[武蔵七党]]の一派、[[村山党]]が定着した。現在も市内に多く存在する[[山口氏|山口]]、村山、[[金子氏|金子]]といった姓は、この流れである。 ;鎌倉時代 [[1192年]]に[[鎌倉幕府]]が成立すると、府中方面に通じていた街道は[[鎌倉街道]]上道となり、軍事的にも経済的にも重要な幹線道路として整備された。特に所沢は、上道と間道である堀兼道・羽根倉道の合流地点として栄えたという。 ;室町時代・南北朝時代 [[1333年]]、[[隠岐島]]に島流しされていた[[後醍醐天皇]]が[[伯耆国]][[船上山]](現・[[鳥取県]][[東伯郡]][[琴浦町]]内)で蜂起すると、[[上野国]]([[群馬県]])の[[新田義貞]]は呼応して[[鎌倉]]へ向かって進軍し、小手差原(現在の北野付近)で[[北条氏]]の兵と衝突、決着はつかず両軍とも一時兵を引いた。世にいう[[小手指原の戦い]]である。市内に残る白旗塚・将軍塚([[松が丘 (所沢市)|松が丘]])・誓詞橋([[砂川堀]])・勢揃橋([[柳瀬川]])といった地名は、この戦いに由来する。その後、[[1352年]]にも義貞の遺児である[[新田義興|義興]]・[[新田義宗|義宗]]の兄弟が足利軍と小手指原付近で衝突している。([[武蔵野合戦]]) ;室町時代・戦国時代 [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]は[[関東管領]][[扇谷上杉氏]]の支配下にあり、[[上杉氏]]家臣で[[守護代]]の[[大石氏]]が統治していた。のちに[[河越城の戦い|河越夜戦]]で上杉氏が衰退し[[後北条氏]]が台頭してくると、[[八王子城]]主[[北条氏照]]の支配下となった。柳瀬川沿いに[[山口城 (武蔵国)|山口城]]址・[[滝の城]]址などの中世城館跡が数か所残っている。 ===近世=== ;江戸時代 [[江戸時代]]には江戸近郊として[[幕府直轄領]]が多く直接支配が及んでいたが、一部には川越藩領や[[旗本]]領も存在している。ただし、現在の市域のうち、[[柳瀬村 (埼玉県)|日比田村]]だけは[[多摩郡]]に属し、[[明治13年]]に入間郡大岱村(現在の[[東村山市]]恩多町付近)と交換されるまで飛び地となっていた<ref>[http://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/reiki_int/reiki_honbun/af20006261.html 東村山市指定文化財調書内「當麻勉家文書」]</ref>。 近世には河原宿(現在の宮本町付近)から[[江戸]][[四谷]]への道(江戸街道・おおむね現在の[[西武新宿線]]沿い・現所沢街道に近い)が整備され、東(江戸街道)・西([[秩父市|秩父]]道)・南([[府中市 (東京都)|府中]]・[[八王子市|八王子]]方面)・北([[川越市|川越]]方面)へ延びる主要道路の中継地、あるいは物資の集積地として機能した。 また、市北部の富岡地区では、[[川越藩]]主[[柳沢吉保]]期に[[新田開発]]([[三富新田]]開拓)が行われた(このうち上富地区は、現在は[[入間郡]][[三芳町]]の域内にあたる)。 なお、地層が[[関東ローム層]]と礫層に覆われた[[武蔵野台地]]では地下水脈が深い乏水地域で、所沢市域でも井戸水の確保に苦労した。その惨状たるや「所沢の火事は土で消せ」と言われたくらいであり、実際に[[1818年]](文化15年)2月の神明社、薬王寺及び民家142戸が焼失する大火など、江戸期には数回の大火が発生している。 ===近代=== ;明治時代 {| || {{Gallery |ファイル:Dorogenpyou-tokorozawa.jpg|所沢町道路元標(日吉町) |ファイル:Kimura-tukuda tokorozawa.jpg|木村・徳田両中尉記念塔 |ファイル:徳川大尉搭乗ファルマン機.jpg|[[ファルマンIII|アンリ・ファルマン複葉機]] }} || {{Gallery |width=360 |height=180 |ファイル:Yamaguchi_Reservoir_No1.jpg|山口貯水池 「狭山湖」の遠景に望む富士山 }} |} [[明治維新]]後、現在の当市域の旧幕府直轄領だった大部分は[[1869年]](明治2年)3月21日(旧暦2月9日)に[[品川県]]になり、同4月には市西部にあたる部分が[[韮山県]]に移管され<ref group="注釈">このとき移管された区域の詳細は、[https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳] を参照されたい(リンク先は国立歴史民俗博物館データベース)</ref>。 、[[1871年]]8月29日(旧暦7月14日)に[[川越藩]]領だった一部は川越県となった。同年12月25日(旧暦11月14日)に[[入間県]]発足で全域が入間県になり、[[1873年]]6月15日に[[熊谷県]]になった後、最終的に[[1876年]]8月21日、[[埼玉県]]に組み入れられた。[[1881年]](明治14年)には上新井村の本宿と久米村の金山を編入し、所沢村から'''所沢町'''になった。[[1889年]](明治22年)[[4月1日]]、町村制施行に伴い、[[入間郡]]所沢町が成立した。 明治時代にも[[1875年]](明治8年)、[[1880年]](明治13年)、[[1885年]](明治18年)などに大火があり、蔵造りの街並みが造られた。 [[1911年]](明治44年)現在の並木地区を中心とした一帯に陸軍が[[陸軍所沢飛行場|日本初の飛行場]](のち[[陸軍航空整備学校]])を設置し、基地の町という新たな顔をもつことになった。現在、所沢が[[所沢航空記念公園]]を持ち'''「航空発祥の地」'''を標榜しているのは、これに由来する。<!--(ちなみに日本人の初動力飛行は[[東京]][[代々木]]練兵場で、[[1910年]](明治43年)12月19日、陸軍大尉[[徳川好敏]]により行われた。)--> また、[[臨時軍用気球研究会]]所沢試験場が翌1911年[[4月1日]]に開場。[[4月5日]]に陸軍大尉[[徳川好敏]]による初飛行が行われたが、この際使用した飛行機が[[ファルマン III|アンリ・ファルマン式]][[複葉機]]だったことにちなみ、所沢駅西側には'''「ファルマン通り」'''という道が存在する。 なお、飛行場完成に合わせて武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)や旧西武鉄道(現在の西武新宿線)も競って基地への最寄駅を設置した(現在は両駅とも廃止)。 一方、交易中継地としての機能も健在で、「所沢飛白」「湖月縮」といった名産品により、「織物の町・所沢」として最盛期を迎えた。 ;昭和時代 [[1927年]](昭和2年)[[東京市]]民の水がめとして、[[山口貯水池]](狭山湖)の建設が開始され、[[1934年]](昭和9年)に完成した。このため[[山口村 (埼玉県)|山口村]]の旧勝楽寺村と上山口村にわたる一帯が水没し、村の住民は隣の[[小手指村]]などに移住した。 狭山湖畔からの景観や付近の桜景色は、同湖完成直後から観光名所となり、後に周辺一帯が一大レジャーエリアとして開発される端緒となった。 しかしながら同湖の水は当市には供給されないため、町内では江戸時代と変わらず水の確保に苦労する状況であった。[[1934年]](昭和9年)4月には大干ばつに見舞われ、近隣の町や陸軍飛行学校から給水を受ける有様であった。この状況は、上水道が完成する[[1937年]](昭和12年)3月まで続いた。 [[1943年]](昭和18年)所沢町と小手指・[[富岡村 (埼玉県)|富岡]]・[[吾妻村 (埼玉県)|吾妻]]・[[松井村|松井]]・山口の5村が合併した。 戦時中の[[1945年]](昭和20年)には[[アメリカ軍]]による[[空襲]]で旧所沢町だけで死傷者が30名以上、家屋への被害も65棟に及んだ<ref>http://www.city.tokorozawa.saitama.jp/contents/7d66160f1527196/7d66160f152719644.html {{リンク切れ|date=2021年8月}}『ところざわ歴史物語』</ref>。[[3月10日]]の[[東京大空襲]]では、所沢飛行場にも戦闘機が配備されていたが、強風と延焼により迎撃できなかった。[[8月15日]]の敗戦とともに、陸軍所沢飛行場および周辺施設はアメリカ軍に接収され、[[1971年]](昭和46年)に6割、[[1978年]](昭和53年)にさらに1割は返還されたものの、現在も通信基地として残っている。 === 現代 === {{Gallery |ファイル:TokorozawaCommunicationsTower.jpg|[[東京航空交通管制部]]通信塔([[並木 (所沢市)|並木]]地区) |ファイル:MetLife_Dome.jpg|[[西武ドーム|ベルーナドーム]] |ファイル: TOKOROZAWA SAKURA TOWN.2020-04-24.jpg|[[ところざわサクラタウン]] }} ;昭和時代 *[[1950年]](昭和25年)[[11月3日]]に市制を施行し、'''所沢市'''となった(埼玉県で8番目)。 *[[1955年]](昭和30年)[[柳瀬村 (埼玉県)|柳瀬]]と[[三ヶ島村|三ヶ島]]の両村を吸収合併し、現在の市域となった。 :市制施行時の人口は約4万2千人であったが、昭和20年代 - 昭和30年代前半に[[沖縄県|沖縄]]からの移民団が新所沢東部や小手指付近に入植・開拓を行うなど人口は増加しつづけ、[[1959年]](昭和34年)には[[住宅公団]]による新所沢団地の入居が開始された。その後も小手指や新所沢地区を中心に大規模な住宅開発が行われ、[[2000年]]には人口33万人を突破している。 *[[1964年]](昭和39年)[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の[[クレー射撃]]の会場(南永井)となる。 *[[1966年]](昭和41年)[[アメリカ合衆国]]・[[イリノイ州]][[ディケーター (イリノイ州)|ディケーター市]]と姉妹都市になる。 *[[1978年]](昭和53年)[[福岡市|福岡]]を本拠地とし、経営不振に陥っていたプロ野球・[[埼玉西武ライオンズ|クラウンライターライオンズ]]の運営会社『[[福岡野球|福岡野球株式会社]]』を[[コクド|国土計画]]の[[堤義明]]が、西武鉄道沿線である当市への移転を条件に全ての[[債務]]を肩代わりするなどして買収。狭山丘陵に自前の球場(西武ライオンズ球場、現在の[[西武ドーム|ベルーナドーム]])を建設。球団名を「[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]」とした。 *[[1980年]](昭和55年)市制施行30周年を記念して第一回市民フェスティバルを航空記念公園で開催。 *[[1982年]](昭和57年)西武ライオンズが本拠地移転4年目にしてリーグ初優勝と日本一に輝く。以来、[[1980年代]]のパ・リーグ黄金時代を築く。[[2008年]](平成20年)までにリーグ優勝16回、日本一を10回(福岡時代を含めるとリーグ優勝21回、日本一13回)を達成している。 *[[1985年]](昭和60年)市制施行35周年を記念して第一回市民文化フェアを航空記念公園で開催。 *1986年(昭和61年)4月25日西武百貨店所沢店オープン。 ;平成時代 *[[1990年]](平成2年)市制施行40周年を記念して第一回所沢シティマラソンを開催。 *[[1992年]](平成4年)[[中華人民共和国]]・[[江蘇省]][[常州市]]と姉妹都市になる。 *[[1997年]](平成9年) **廃部となった男子社会人[[バスケットボール]]チーム・アンフィニ東京ブロンコスの後継チームを発足。名称を所沢ブロンコスとし活動開始。 **[[テレビ朝日]]のテレビ報道に端を発する[[ニュースステーション#所沢ダイオキシン問題|ダイオキシン騒動]]が発生、社会問題となった。 *[[1998年]](平成10年)[[大韓民国]]・[[京畿道]][[安養市]]と姉妹都市になる。 *[[2002年]](平成14年)[[特例市]]に移行。 *[[2005年]](平成17年)[[所沢市民体育館]]を本拠地とする所沢ブロンコスが「[[埼玉ブロンコス]]」に改称し、[[新潟アルビレックスBB]]とともに[[日本プロバスケットボールリーグ|bjリーグ]]を発足。 *[[2006年]](平成18年)面積に関する要件の廃止により[[中核市]]の条件を満たす。 *[[2008年]](平成20年)西武ライオンズが「[[埼玉西武ライオンズ]]」に改称。 *[[2011年]](平成23年)所沢飛行場開設100年を記念した「航空発祥100周年記念事業」の多くが、直前に発生した[[東日本大震災]]や[[計画停電]]の影響で中止となった。 *[[2014年]](平成26年)所沢市初となる住民投票条例「防音校舎の除湿工事(冷房工事)の計画的な実施に関する住民投票条例」が成立。 *[[2015年]](平成27年) **「防音校舎の除湿工事(冷房工事)の計画的な実施に関する住民投票」が施行。賛成56,921票、反対30,047票。投票率31.54%。 **「子ども・子育て支援新制度」<ref>[https://www8.cao.go.jp/shoushi/shinseido/ 子ども・子育て支援新制度] 内閣府 子ども・子育て本部</ref> を根拠とした、いわゆる『育休退園』運用を開始<ref>[http://www.city.tokorozawa.saitama.jp/kosodatekyouiku/hoikuen/h27nyuen/ikukyu.html 育児休業中における在園児の保育の継続利用について] 所沢市、2015年6月5日</ref><ref>[https://www.huffingtonpost.jp/2015/07/13/tokorozawa-taien_n_7782960.html 所沢市の育休退園問題、国の少子化対策に逆行すでに「追い出された子」も] The Huffington Post 2015年07月14日 11時07分 JST</ref><ref>[http://wotopi.jp/archives/22865 待機児童ママ「所沢市の対応は妥当」育休退園問題で浮上する、働くママたちの複雑な感情] ウートピ 2015.06.30</ref>。 **市と[[KADOKAWA]]による東所沢開発事業「COOL JAPAN FOREST構想(CJF構想)」がスタート。 *[[2016年]](平成28年) ** CJF構想の会議「ところざわ文化創造会議」がスタート。第1・2回開催。 *[[2017年]](平成29年) **「第3回ところざわ文化創造会議」開催。 *[[2018年]](平成30年) *グランエミオ所沢Ⅰ期オープン。 **CJF構想拠点施設「[[ところざわサクラタウン]]」建設開始。 **「第4回ところざわ文化創造会議」開催。 ;令和時代 *[[2019年]](令和元年) **「第5回ところざわ文化創造会議」開催。 *[[2020年]] (令和2年) *グランエミオ所沢Ⅱ期オープン。  **「[[ところざわサクラタウン]]」が7月17日に開業する予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大により、開業が延期され、11月6日の開業となっている。 ** 市制施行70周年 ** 埼玉ブロンコスが「[[さいたまブロンコス]]」に改称。 == 行政 == === 町長 === *初代 [[犬塚元興]] [[1889年]][[6月5日]]-[[1900年]][[2月25日]] *2代 [[渋谷秀三郎]] [[1900年]][[3月1日]]-[[1912年]][[3月4日]] *3代 [[黒須百之助]] [[1912年]][[3月12日]]-[[1924年]][[3月25日]] *4代 [[奥田栄之助]] [[1924年]][[4月23日]]-[[1928年]] *5代 [[川瀬宇吉]] [[1928年]][[9月7日]]-[[1932年]] *6代 [[内田常光]] [[1932年]][[10月6日]]-[[1940年]][[10月5日]] *7代 [[大原卓爾]] [[1941年]][[1月10日]]-[[1943年]] *8代 [[山田力蔵]] [[1943年]][[5月21日]]-[[1944年]][[4月29日]] *9代 [[鈴木源一]] [[1944年]][[8月4日]]-[[1945年]][[1月22日]] *10代 [[鈴木孫三郎]] [[1946年]][[5月23日]]-[[1946年]][[11月11日]] *11代 [[新井万平]] [[1947年]][[4月9日]]-[[1950年]][[11月2日]] === 市長 === *[[藤本正人]](ふじもと・まさと)([[2011年]][[10月30日]]就任、3期目。[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]・[[公明党]]推薦。元自由民主党[[埼玉県議会]]議員) *副市長:中村俊明 ;歴代市長 * 初代 新井万平 [[1950年]][[11月3日]] - [[1951年]][[4月4日]] * 2代 内田常光 1951年[[4月23日]] - [[1955年]][[4月30日]] * 3代 鈴木孫三郎1955年[[5月1日]] - [[1959年]]4月30日 * 4代 新井万平1959年[[11月3日]] - [[1967年]]9月22日 * 5代 [[平塚勝一]] [[1967年]]11月6日 - [[1983年]][[10月29日]] * 6代 [[武藤保之助]] 1983年[[10月30日]] - [[1987年]] * 7代 [[中井眞一郎]] 1987年 - [[1991年]] * 8代 [[齋藤博]] 1991年10月30日 - [[2007年]]10月29日 * 9代 [[当摩好子]] 2007年10月30日 - [[2011年]]10月29日 *10代 [[藤本正人]] 2011年[[10月30日]] - [[2023年]]10月29日 *11代 [[小野塚勝俊]] 2023年10月30日 - ====広域行政==== ;[[協議会]] * 埼玉県西部地域まちづくり協議会 ‐ 飯能市、狭山市、入間市、[[日高市]]とともに5市圏域の市民を対象とした交流事業(講演会やウォーキング大会などのイベント開催や、観光パンフレットの発行や[[図書館]]やスポーツ施設などの[[公共施設]]の相互利用及び広域での事業実施に向けた検討を行っている。 ;[[一部事務組合]] * [[埼玉西部消防組合]] ‐ 飯能市、狭山市、入間市、日高市とともに消防・救急業務・火薬類取締法・液化石油ガス法・高圧ガス保安法に基づく事務処理を行っている。 ;事務の委託 * 東京都東村山市 ‐ 市内の一部地域における[[公共下水道]]事業を委託している。 * 東京都清瀬市 ‐ 市内の一部地域における公共下水道事業を委託している。 ====広報番組==== * [[J:COM 所沢]] **「広報ところざわ」 *:毎日 9:25~、12:25~、20:25~ **「イイとこTV!」 *:月曜 7:30~、18:00~/火曜 10:00~、18:00~、23:00~/水曜 7:30~、15:00~、18:00~/木曜 10:00~、18:00~、23:00~/金曜 7:30~、15:00~、18:00~/土曜 12:30~、18:30~、23:00~/日曜 7:30~、15:00~、18:30~ ====指定金融機関==== 他の埼玉県内の市同様、[[埼玉りそな銀行]]を指定金融機関としている。 2019年(令和元年)7月10日までは埼玉りそな銀行と三菱UFJ銀行の輪番制だった(水道事業は三菱UFJ銀行の単独、病院事業は輪番制)が<ref group="注釈">[[三菱UFJ銀行]]が市、水道事業及び病院事業の指定金融機関となっていたのは、かつての[[第百銀行|所沢銀行]]が合併を経て、現在の「三菱UFJ銀行所沢支店」となった経緯による。</ref>、三菱UFJ銀行が指定金融機関を辞退した<ref>[https://web.archive.org/web/20190412073427/http://www.city.tokorozawa.saitama.jp/shiseijoho/shichougian/bunsyo20181130094956342.files/shiryo-30133.pdf 所沢市指定金融機関の指定の変更]・[https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/shiseijoho/seisakukaigi/h31seisak/seisak20190703145304712.files/010625_214_seisakukaigi.pdf 所沢市上下水道事業出納取扱金融機関の変更について]・[https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/shiseijoho/seisakukaigi/h31seisak/seisak20190703145304712.files/010625_211_seisakukaigi.pdf 市民医療センターの出納取扱金融機関について]</ref> ことにより、埼玉りそな銀行が単独で市の指定金融機関となった<ref>[https://web.archive.org/web/20190412/http://www.city.tokorozawa.saitama.jp/shiseijoho/shichougian/bunsyo20181130094956342.files/gian-30133.pdf 所沢市指定金融機関の指定の変更について]</ref>。 ===埼玉県政機関=== *埼玉県所沢[[児童相談所]] *埼玉県自動車税事務所所沢支所 ;所沢地方庁舎 *埼玉県西部地域振興センター *埼玉県所沢県税事務所 <gallery> ファイル:Saitama Prefecture Tokorozawa local building.JPG|西部地域振興センターと所沢県税事務所が所在する所沢地方庁舎 ファイル:Saitama Prefecture Tokorozawa child guidance center.JPG|所沢児童相談所 </gallery> ===東京都出先機関=== *[[東京都水道局]]村山山口貯水池管理事務所 == 議会 == === 市議会 === {{Main|所沢市議会}} === 県議会 === ;2023年埼玉県議会議員選挙 * 選挙区:西1区所沢市選挙区 * 定数:4人 * 投票日:2023年4月9日 * 当日有権者数:286,779人 * 投票率:38.03% {|class="wikitable" style="font-size:small;" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 岡田静佳 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 49 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 33,663票 |- | 水村篤弘 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 49 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 22,624票 |- | 小早川一博 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 40 || 公明党 || style="text-align:center" | 新 || 18,922票 |- | 城下師子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 57 || 日本共産党 || style="text-align:center" | 新 || 16,821票 |- | 杉田まどか || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 45 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || 15,405票 |} ;2019年埼玉県議会議員選挙 * 選挙区:西1区所沢市選挙区 * 定数:4人 * 投票日:2019年4月7日 * 当日有権者数:284,900人 * 投票率:37.67% {|class="wikitable" style="font-size:small;" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 岡田静佳 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 45 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 26,648票 |- | 西山淳次 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 60 || 公明党 || style="text-align:center" | 現 || 21,742票 |- | 水村篤弘 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 45 || [[国民民主党 (日本 2018)|国民民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 21,432票 |- | 柳下礼子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 72 || 日本共産党 || style="text-align:center" | 現 || 20,371票 |- | 安田義広 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 50 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 新 || 15,630票 |} === 衆議院 === * [[埼玉県第8区|埼玉8区]](所沢市、[[ふじみ野市]](旧[[大井町 (埼玉県)|大井町]]域)、[[三芳町]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 投票日:2021年10月31日 * 当日有権者数:365,768人 * 投票率:56.69% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- | style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[柴山昌彦]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 55 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 新 || style="background-color:#ffc0cb;" | 104,650票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○ |- | || [[小野塚勝俊]] || style="text-align:center;" | 49 || [[無所属]] || style="text-align:center;" | 元 || style="text-align:right;" | 98,102票 || |} ==国の出先機関== ===国土交通省=== *[[東京航空交通管制部]] *[[関東運輸局]][[埼玉運輸支局]]所沢自動車検査登録事務所 ===厚生労働省=== *所沢[[労働基準監督署]](所沢合同庁舎) *所沢[[公共職業安定所]](所沢合同庁舎) *[[国立職業リハビリテーションセンター]] **中央障害者職業能力開発校 **中央広域障害者職業センター ===法務省=== *[[さいたま地方法務局]]所沢支局 ;[[検察庁]] *[[所沢区検察庁]](所沢合同庁舎) ===財務省=== ;[[国税庁]] *所沢[[税務署]] ===環境省=== *[[環境調査研修所]] ===防衛省=== ;[[自衛隊]] *[[自衛隊埼玉地方協力本部]]入間地域事務所 <gallery> ファイル:Tokorozawa, Saitama District Legal Affairs Bureau bureau 1.JPG|さいたま地方法務局所沢支局 File:Tokorozawa_Government_Office1.JPG|所沢合同庁舎 </gallery> ===裁判所=== *[[所沢簡易裁判所]] ==施設== ===警察=== ;本部 *[[埼玉県警察]] **[[所沢警察署]] **[[高速道路交通警察隊]]本隊([[関越自動車道]][[所沢インターチェンジ]]内) ***所沢分駐隊(関越自動車道所沢インターチェンジ内) ===消防=== ;本部 *[[埼玉西部消防局]](消防広域化前は[[所沢市消防本部]]) ;消防署 *所沢消防署 ;消防団 *[[消防団|所沢市消防団]] ===医療=== ;主な病院 * [[国立病院機構西埼玉中央病院]] * [[国立障害者リハビリテーションセンター]] * 所沢ロイヤル病院 * [[防衛医科大学校病院]] * [[所沢市市民医療センター]] * 圏央所沢病院 * 所沢第一病院 * 所沢中央病院 * 所沢明生病院 * 所沢肛門病院 ===文化施設=== {{Gallery |width=200px |ファイル:National Rehabilitation Center -College building.jpg|国立障害者リハビリテーションセンター学院棟 |ファイル:Tokorozawa City Library 20090722.jpg|所沢市立図書館 本館(航空公園内) }} *[[所沢市立図書館]] - 本館のほかに2016年現在は市内に7館の分館を擁する。 * 生涯学習推進センター ‐ ふるさと研究部門で歴史資料を展示。 * 市立埋蔵文化財調査センター * 中富民俗資料館 * 柳瀬民俗資料館 * 山口民俗資料館 ===郵便局=== <!-- [[ファイル:Saitama Tokorozawa-nishi Post office 1.jpg|thumb|200px|所沢西郵便局]] --> 所沢市には日本郵便の[[集配郵便局]]が2つある。 [[日本の郵便番号|郵便番号]]は、市内全域が「359-xxxx」である。 ;集配郵便局 :*[[所沢郵便局]] ([[ゆうちょ銀行]]所沢店を併設) <ref group="注釈">郵便番号が359-00xyの区域の集配を担当。</ref> :*[[所沢西郵便局]] <ref group="注釈">郵便番号が359-11xyの区域の集配を担当。</ref> === 特殊法人 === * [[日本年金機構]] ** 所沢[[年金事務所]] ==対外関係== ===姉妹都市・提携都市=== ====海外==== ;姉妹都市 *{{Flagicon|USA}}[[ディケーター (イリノイ州)|ディケイター市]]([[アメリカ合衆国]] [[イリノイ州]]) *:[[1966年]][[5月6日]]姉妹都市締結。当時の米軍所沢兵站センター長・ミラーの出身地。ともに人工湖があり、また当時の両市が産業・人口規模などで類似していたことから、交流が始まった。 *{{Flagicon|CHN}}[[常州市]]([[中華人民共和国]] [[江蘇省]]) *:[[1992年]][[4月20日]]姉妹都市締結。日中国交回復10周年を機に、当市でも中国との交流を探る動きが具体化。中日友好協会の仲介により[[1985年]]より交流開始。 *{{Flagicon|KOR}}[[安養市]]([[大韓民国]] [[京畿道]]) *:[[1998年]][[4月17日]]姉妹都市締結。ともに首都の[[ベッドタウン]]であることから、[[1996年]]に安養の視察団が来訪したのがきっかけ。 ====国内==== ;大規模災害時相互応援協定締結都市 *所沢市・[[飯能市]]・狭山市・入間市 **食糧、飲料水、生活必需物資並びにその供給に必要な資機材の提供 **被災者の救出、医療、防疫、施設の応急復旧に必要な機材等の提供 **救護救助活動に必要な車輌等の提供 **救助、応急復旧に必要な職員の派遣 **指定避難場所の相互利用 **被災者に対する住宅の提供 **被災児童生徒の小中学校への一時受入 *所沢市・東村山市・清瀬市・[[東久留米市]]・新座市 **食糧、飲料水、生活必需物資並びにその供給に必要な資機材の提供 **被災者の救出、医療、防疫、施設の応急復旧に必要な機材等の提供 **救護救助活動に必要な車輌等の提供 **救助、応急復旧に必要な職員の派遣 **被災者一時収容のための施設の提供 **ボランティアの斡旋 *[[千葉県]][[市原市]] **食糧、飲料水、生活必需物資並びにその供給に必要な資機材の提供斡旋 **被災者の救出、医療、防疫、施設の応急復旧に必要な物資、機材等の提供斡旋 **救護救助活動に必要な車輌等の提供斡旋 **救助、応急復旧に必要な医療系職、技術系職、技能系職等職員の派遣 *[[群馬県]][[太田市]] **食糧、飲料水、生活必需品並びにその供給に必要な資機材の提供斡旋 **被災者の救出、医療、防疫、施設の応急復旧に必要な資機材等の提供 **救護救助活動に必要な車輌等の提供 **救助、応急復旧に必要な職員の派遣 **被災者一時収容のための施設の利用 **ゴミ、し尿処理のための車輌、施設の利用 *[[宮崎県]][[日南市]] **災害応急対策用物資及び資器材の供給援助 **職員の派遣 **収容施設の提供 ===国際機関=== ====領事館==== *在所沢[[ニカラグア共和国]][[名誉領事]]館 ==経済== {{Gallery |ファイル:Seibu Lions baseball club HQ 2006-12-18.jpg |旧・西武ライオンズ球団事務所 |ファイル:Seibu Railway HQ 2006-12-11.jpg|西武鉄道 本社 |ファイル:Yamadaudon Head Office.JPG|山田食品産業 本社・山田うどん 本店 }} ===第一次産業=== ====農業==== [[狭山茶]]が有名だが、[[ホウレンソウ]]や[[サトイモ]]、[[ニンジン]]等の栽培も盛ん。また、[[サツマイモ]]掘りや[[ブドウ]]狩り等の観光農園も点在している。 ===第二次産業=== ====工業==== 食品製造や[[自動車部品]]・[[医療機器]]・[[電子部品]]の製造が盛んである。 ===第三次産業=== ====商業==== ;主な商業施設 {{Gallery |ファイル:Seibu department store tokorozawa.jpg|西武所沢S.C. |ファイル:Shin-Tokorozawa Parco+Let's 080505.jpg|新所沢パルコ }} *[[Emio|グランエミオ所沢]] *[[ワルツ所沢]]([[西武の店舗一覧#所沢S.C.|西武所沢S.C.]]ほか) *[[トコトコスクエア]](旧[[イオン (企業)|イオン]]所沢店←[[ダイエー]]所沢店) *[[新所沢パルコ]](2024年2月末閉店) [[2020年]]夏までに、所沢駅線路上空の商業店舗等と南側の新改札を開業予定。また、所沢駅西口再開発においては、「(仮称)所沢駅前直結タワー計画」(シティタワー所沢クラッシィ)と名付け、西武所沢車両工場跡地周辺の再開発と共に計画中である。 ===拠点を置く企業=== * 情報通信事業者 ** 株式会社[[KADOKAWA]] [[ところざわサクラタウン]](東所沢和田) *** KADOKAWA 所沢キャンパス(同上) *** [[角川文化振興財団]](同上) ** [[トゥーキョーゲームス]]株式会社(中富南) **:[[KADOKAWAグループ]]の[[スパイク・チュンソフト]]元社員が設立したコンピュータゲーム開発会社。KADOKAWAやスパイク・チュンソフトとの資本関係はない。 * 鉄道事業者・[[西武鉄道]]株式会社 本社(くすのき台) * 建設事業者・[[西武建設]]株式会社 本社(くすのき台) * バス事業者・[[西武バス]]株式会社 本社(久米) * タクシー/ハイヤー事業者・[[西武ハイヤー]]株式会社 本社(久米) *宅配物流・[[協栄流通]]株式会社 本社(大字城) * プロ野球興行運営会社・株式会社[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]] 本社(上山口) *:[[1985年]](昭和60年)[[5月16日]]、西武鉄道の本社社屋を、[[東京都]][[豊島区]]から所沢市駅前のくすのき台に移転する事業の起工式を挙行。総工費40億円を掛けて建設され、翌年[[1986年]](昭和61年)[[8月5日]]に本社を移転。当市に本社を置く企業の中で最大の売上規模(2004年度売上2,030億円)がある西武鉄道に続き、西武グループ関連企業の本社がその後移転され、当市は[[西武グループ]]の拠点となっている。しかしその多くは「本店所在地」を依然として東京都豊島区に置いている(納税地は東京都豊島区となる)ため、これらの企業の納税による経済効果は限定的である。 * 不動産業・株式会社[[住協]] 本社(小手指町) * 製菓製パン機械製造・[http://www.masdac.co.jp/index.html 株式会社マスダック] 本社(小手指元町) * 食品製造 ** 株式会社[[ピックルスコーポレーション]] 本社(くすのき台) ** [[山崎製パン]]株式会社 埼玉第一工場(坂之下) **:同社の工場は、東側に隣接する東村山市に埼玉第二東村山工場が、さらにその東側に隣接する[[東久留米市]]に武蔵野工場が存在する。 * 外食レストランチェーン ** 山田食品産業株式会社([[山田うどん]]) 本社(上安松) ** [[ぎょうざの満洲]] 本店(松葉町)(本社は[[川越市]]) * 自転車部品製造・株式会社[[三ヶ島製作所]] 本社(糀谷) * 光学機器製造・株式会社[[ビクセン (企業)|ビクセン]] 本社(東所沢) * 登山用品製造・株式会社[[アライテント]] 本社(東所沢) * 医療機器製造・ [[日本光電工業]]株式会社 所沢事業所/総合技術開発センタ(くすのき台) * 計測器製造・株式会社[[シバソク]] 所沢事業所(若松町) * 住宅総合メーカー・[[パナソニック ホームズ]]埼玉西株式会社 本社(くすのき台) * 機械製造 ** 株式会社[[鷺宮製作所]] 所沢事業所(青葉台) ** [[シチズン時計マニュファクチャリング]]株式会社 本社(下富) ** [[シチズン時計]]株式会社 所沢事業所(下富) * [[卓球]]用品・株式会社[[タマス]](バタフライ) 所沢事業所(神米金) * 楽器製造・株式会社[[村松フルート製作所]] 本社(美原町) * 菓子製造・株式会社[[ファルマン (菓子)|ねぎし]] 本社(東町) * [[キャンピングカー]]製造・[[VANTECH]]株式会社(日比田) *自動車販売その他・[[ウェルビングループ]]株式会社(坂之下) ==情報・通信== ===マスメディア=== ====放送局==== 地域的なもののみ掲載。 ;テレビ *[[J:COM 所沢]](ケーブルテレビ) ;ラジオ *[[エフエム茶笛]](本社は入間市) - 本市と防災協定締結(コミュニティ放送) ==生活基盤== ===ライフライン=== ====電気==== *[[東京電力エナジーパートナー]] ====ガス==== *[[武州ガス]] **市内の大部分(林一丁目・糀谷の各一部と[[山口貯水池]]周辺、下記他社供給エリアを除く) *[[東京ガス]] **松が丘一丁目・松が丘二丁目、上安松の西武池袋線以西 *[[大東ガス]] **南永井字北井頭 ====水道==== *所沢市上下水道局 ====電信==== *[[NTT東日本]] ;市外局番等 *'''04'''-200x・290x・292x〜296x・299x - 所沢[[単位料金区域|MA]]([[入間市]]、狭山市、所沢市) **従来は「0429」であったが、[[電話番号逼迫対策]]のため、以下のように2度変更された。[[天気予報]]に関しては、従前と同じく「0429-177」となっている。 ***[[1998年]][[4月29日]] - 「0429-xx」から「042-9xx」へ。 ***[[2004年]][[1月11日]] - 「042-9xx」から「04-29xx」へ。 **柏MA([[千葉県]][[柏市]]など)、鴨川MA([[鴨川市]])も市外局番は「04」であるが、MAが異なるため、発信時に市外局番「04」を付ける必要がある。 ==教育== [[File:Saitama prefectural Tokorozawa special needs school 1.jpg|thumb|200px|所沢特別支援学校]] [[File:National Defense Medical College.JPG|thumb|200px|防衛医科大学校]] ===大学=== *[[早稲田大学所沢キャンパス]] ===短大=== *[[秋草学園短期大学]] ===高等学校=== ;県立 * [[埼玉県立芸術総合高等学校]] * [[埼玉県立所沢高等学校]] * [[埼玉県立所沢北高等学校]] * [[埼玉県立所沢商業高等学校]] * [[埼玉県立所沢中央高等学校]] * [[埼玉県立所沢西高等学校]] * [http://www2.ttcn.ne.jp/~seibu/ 東京西武学館]([[日本航空高等学校]][[技能連携校]]) <!--* [[埼玉県立所沢東高等学校]](2008年、[[埼玉県立新座柳瀬高等学校]]に統合)--> 当市は、「所沢市育英奨学金」・「所沢市遺児奨学金」という[[奨学金]]制度([[高等学校]]・[[高等専門学校]]対象)がある。 ===中学校=== ;市立 {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[所沢市立上山口中学校]] * [[所沢市立北野中学校]] * [[所沢市立向陽中学校]] * [[所沢市立小手指中学校]] * [[所沢市立狭山ヶ丘中学校]] * [[所沢市立中央中学校]] * [[所沢市立所沢中学校]] * [[所沢市立富岡中学校]] {{Col-break}} * [[所沢市立南陵中学校]] * [[所沢市立東中学校]] * [[所沢市立三ヶ島中学校]] * [[所沢市立美原中学校]] * [[所沢市立安松中学校]] * [[所沢市立柳瀬中学校]] * [[所沢市立山口中学校]] {{Col-end}} ===小学校=== ;市立 {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[所沢市立荒幡小学校]] * [[所沢市立泉小学校]] * [[所沢市立牛沼小学校]] * [[所沢市立上新井小学校]] * [[所沢市立北小学校]] * [[所沢市立北秋津小学校]] * [[所沢市立北中小学校]] * [[所沢市立北野小学校]] * [[所沢市立小手指小学校]] * [[所沢市立伸栄小学校]] * [[所沢市立清進小学校]] * [[所沢市立椿峰小学校]] * [[所沢市立所沢小学校]] * [[所沢市立富岡小学校]] * [[所沢市立中央小学校]] * [[所沢市立中富小学校]] {{Col-break}} * [[所沢市立並木小学校]] * [[所沢市立西富小学校]] * [[所沢市立林小学校]] * [[所沢市立東所沢小学校]] * [[所沢市立松井小学校]] * [[所沢市立三ヶ島小学校]] * [[所沢市立南小学校]] * [[所沢市立美原小学校]] * [[所沢市立宮前小学校]] * [[所沢市立明峰小学校]] * [[所沢市立安松小学校]] * [[所沢市立柳瀬小学校]] * [[所沢市立山口小学校]] * [[所沢市立若狭小学校]] * [[所沢市立若松小学校]] * [[所沢市立和田小学校]] {{Col-end}} ===特別支援学校=== ;県立 *[[埼玉県立所沢特別支援学校]] *[[埼玉県立所沢おおぞら特別支援学校]] ===学校教育以外の学校=== *[[防衛医科大学校]]([[防衛省]][[文京研修施設]]) *[[国立障害者リハビリテーションセンター学院]] ==交通== [[File:Tokorozawa Station West Entrance 201301 2.JPG|thumb|200px|right|所沢駅(西口)]] [[File:Tokorobus 2007-08.jpg|thumb|200px|right|ところバス(航空公園駅ところバス発着場にて)]] ===鉄道=== ;[[東日本旅客鉄道]](JR東日本) *[[武蔵野線]]: [[東所沢駅]] ;[[西武鉄道]] *[[西武池袋線]]: [[所沢駅]] - [[西所沢駅]] - [[小手指駅]] - [[狭山ヶ丘駅]] *[[西武新宿線]]: 所沢駅 - [[航空公園駅]] - [[新所沢駅]] *[[西武狭山線]](全線市内): 西所沢駅 - [[下山口駅]] - [[西武球場前駅]] *[[西武山口線]](レオライナー): 西武球場前駅 - [[西武園ゆうえんち駅]] 都心に直結する西武池袋線と西武新宿線の2路線が市域の南東から北西にかけて並走し、西武池袋線は所沢駅の前後で大きく蛇行する線形となっている。[[JTBパブリッシング]]や[[交通新聞社]]の[[時刻表]]における市の代表駅は市内で最も乗降人員が多い所沢駅で、一日平均乗降人員は約10万人である。市域の南東部を武蔵野線が東西に横断するが、市内に乗換駅は存在しない。 上記の駅のほか、西武池袋線[[秋津駅]](東京都[[東村山市]])駅舎の一部が所沢市に属する。また、[[西武西武園線]][[西武園駅]]と[[西武多摩湖線]][[多摩湖駅]](ともに東京都東村山市)が南西部の市境付近にある。 なお、武蔵野線と西武鉄道との連絡線が存在するが相互乗り入れは行われておらず、[[新秋津駅]](東京都東村山市)からの[[車両輸送#甲種輸送|甲種輸送]]が行われている。 ===バス=== ====路線バス==== 全て[[西武バス]]の運行 * 市内に[[西武バス所沢営業所|所沢営業所]]があり、多数路線を管轄するが市内西部では慢性的な道路渋滞により繰り返し廃止が行われ、あまり路線が残っていない。 * 一部路線は[[西武バス飯能営業所|飯能営業所]]の管轄である。 * 過去に[[西武バス新座営業所|清瀬営業所]]、[[西武バス大宮営業所|大宮営業所]]、[[西武バス川越営業所|川越営業所]]の管轄路線もあったが、それらは所沢営業所に移管されている。 * 深夜急行バスは[[西武バス練馬営業所|練馬営業所]]・[[池袋駅]]東口 - 小手指駅北口線が運行されている。 ====高速バス==== * 空港連絡バス:所沢駅東口 - 東所沢駅 - [[東京国際空港|羽田空港]](西武バスと[[東京空港交通]]の共同運行) * 空港連絡バス:所沢駅東口 - 東所沢駅 - ([[和光市駅]]) - [[成田国際空港|成田空港]](西武バスと[[京成バス]]の共同運行) * ([[大宮駅 (埼玉県)|大宮]] - 和光市駅 - )東所沢駅 - 所沢駅東口 - 東大和市駅 - 立川駅北口 - [[京都駅]]烏丸口 - [[大阪駅周辺バスのりば|大阪駅JR高速バスターミナル]] - [[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]](西武観光バスと[[西日本ジェイアールバス]]の共同運行「[[ドリームさいたま号]]」)現在は所沢駅経由の系を廃止 * (大宮 - )所沢駅東口 - [[名鉄バスセンター]]([[名鉄名古屋駅]])(西武バスと[[名古屋観光日急]]の共同運行)現在は廃止。 * (大宮 - )所沢駅東口 - [[富士急ハイランド]] - [[河口湖駅]] - [[富士吉田市|富士吉田]](西武バス運行、季節運行便)現在は廃止。 ====コミュニティバス==== ; [[所沢市内循環バス]]「ところバス」 : 当市内を走行する域型の公共交通機関である。当市交通安全課が運営しているが運行は西武バスへ委託されており、西武バス所沢営業所が営業を担当している。現在、市によって運行形態の見直しが行われている。 :; 使用車両 :: 主に路線バスの走行していない地域や細い道を走行する性質上、[[日野・リエッセ]]や[[日野・ポンチョ]]が充当されている。 :; 路線 ::* 東路線(柳瀬循環コース) ::* 東路線(松井循環コース) ::* 西路線(新所沢・三ヶ島コース) ::* 南路線(吾妻循環コース) ::* 南路線(山口循環コース) ::* 北路線(富岡循環コース) : ;「[[ライフバス]]」([[鶴瀬駅]]西口〜三芳中学校経由・[[みずほ台駅]]西口線) : 東入間二市一町([[富士見市]]・[[ふじみ野市]]・[[三芳町]])のコミュニティバスであるが、三芳町に隣接する200メートル強にわたって所沢市内を通り、途中には「埼玉スポーツセンター前」バス停が設置されている。 === タクシー === [[タクシーの営業区域]]は県南西部交通圏で、[[川越市]]・[[東松山市]]・[[飯能市]]・[[和光市]]などと同じエリアとなっている。 ===道路=== ====高速道路==== *[[関越自動車道]] - [[所沢インターチェンジ|所沢IC]] ====国道==== *[[国道463号]](通称:浦和所沢線) **[[浦和所沢バイパス]](通称:浦所バイパス) **[[所沢入間バイパス]](通称:小手指バイパス) ====県道==== ;[[主要地方道]] *[[東京都道・埼玉県道4号東京所沢線]](通称:所沢街道) *[[埼玉県道6号川越所沢線]] *[[東京都道・埼玉県道16号立川所沢線]] *[[東京都道・埼玉県道24号練馬所沢線]] *[[埼玉県道50号所沢狭山線]] *[[埼玉県道・東京都道55号所沢武蔵村山立川線]] *[[埼玉県道56号さいたまふじみ野所沢線]] ;[[一般県道]] *[[埼玉県道126号所沢堀兼狭山線]] *[[埼玉県道・東京都道179号所沢青梅線]] *[[埼玉県道222号西所沢停車場線]] *[[埼玉県道223号狭山ヶ丘停車場線]] *[[埼玉県道337号久米所沢線]] ;構想がある主な道路 *事業化候補路線となっている[[核都市広域幹線道路]]のルート上に位置している。 ==観光== :市指定文化財については、[[所沢市指定文化財一覧]]も参照。 [[File:Shin-Tokorozawa Parco+Let's 080505.jpg|thumb|200px|新所沢レッツシネパーク<br />(新所沢PARCO+Let's内)]] ===名所・旧跡=== ;主な城郭 *[[滝の城]]址公園(県指定史跡) *[[山口城 (武蔵国)|山口城]]址(埼玉県指定史跡) *[[根古屋城]]址(埼玉県指定史跡) *[[北秋津城]]址 ;主な寺院 *[[狭山不動尊]] - 芝[[増上寺]]の旧徳川家霊廟の建物などを移築 *[[多聞院 (所沢市)|多聞院]](毘沙門堂は市指定文化財) ;主な神社 *[[北野天神社 (所沢市)|北野天神]] *[[所澤神明社]] ;主な史跡 *[[小野家住宅 (埼玉県)|小野家住宅]](国の[[重要文化財]]) *[[柳瀬荘]](黄林閣) - 旧[[松永安左エ門]]別邸([[東京国立博物館]]管理、国の重要文化財) *所沢郷土美術館(平塚家) *井筒屋町造商店 *[[小手指原の戦い|小手指ヶ原古戦場跡]] ===観光スポット=== ;公園 *[[所沢航空記念公園]] *:同公園内に[[所沢航空発祥記念館]]がある。[[1982年]]夏には所沢航空記念公園で[[THE ALFEE]]初の野外イベントが行われ、その後夏の恒例イベントとなった。 ;文化施設 *埼玉県[[狭山丘陵]]いきものふれあいの里センター *[[所沢市民文化センター ミューズ]] *[[所沢市民体育館]] *[[ところざわサクラタウン]] **角川武蔵野ミュージアム *所沢市観光情報・物産館 ;運動施設 *[[西武ドーム|ベルーナドーム]] *[[狭山スキー場]] *[[西武園競輪場]] *[[旧和田家住宅]](クロスケの家、国の登録有形文化財) *:旧[[ユネスコ村]]跡地の一部を利用。毎年5月下旬 - 7月にかけて営業。約40万株の[[ユリ]]の花が咲く。 ;自然 *[[荒幡富士]] *[[山口貯水池|狭山湖]] *[[ところざわのゆり園]] *[[トトロの森]] ;娯楽施設 *新所沢レッツシネパーク(2024年2月末閉店) *[[西武園ゆうえんち]] ;温泉 *[[湯楽の里]] 所沢温泉(下富) *湯の森所沢(下安松) *むさしの温泉「彩ゆ記」(南永井) ==文化・名物== ===祭事・催事=== * ところざわまつり *: [[明治]]初期より続く祭り。戦前は[[所澤神明社]]の秋の例大祭であった。毎年10月の日曜日に開催。会場となる[[所沢駅]]西口から[[所沢駅#西口|プロペ通り]]、[[埼玉県道337号久米所沢線]](ファルマン通り)、[[埼玉県道337号久米所沢線]](昭和通り)、[[所沢銀座通り]]、[[金山町 (所沢市)|金山町]]通りは全面車両通行止めになるなど大規模な交通規制、全10基の[[山車]]・[[神輿]]を曳行、重松流[[祭囃子]]を披露する他、毎年多彩な催し物を企画している。近年では[[サンバ (ブラジル)|サンバ]]が開催される<ref>[http://bideotanosi.at.webry.info/200901/article_3.html 所沢祭の華 サンバ] メンバー300人を擁する浅草サンバカーニバル準優勝チーム [http://www.gres-liberdade.com/index.html リベルダージ] によるサンバカーニバル。</ref>。 * 所沢市民文化フェア(航空発祥祭) *:毎年4月に所沢航空記念公園で開催されるイベント。''[[所沢航空記念公園#イベント・行事]]''を参照。 * 所沢市民フェスティバル *:毎年10月に所沢航空記念公園で開催される所沢市内最大規模のイベントである。''[[所沢航空記念公園#イベント・行事]]''を参照。 <!--{{Gallery |ファイル:27th Tokorozawa Citizen Festival 2006-10-29 01.jpg|第27回・所沢市民フェスティバル風景 |ファイル:Tokorozawa music concert.jpg|所沢航空記念公園内 野外ステージ |ファイル:Seibuprince shomen.jpeg|ベルーナドーム |ファイル:Sayama Ski Resort.jpg|狭山スキー場 |ファイル:Seibuen yuenchi Ferris wheels.JPG|西武園ゆうえんち |ファイル:Tokorosawa Shinmei-sha 100117.jpg|所澤神明社 |ファイル:Tamon'in Tokorozawa -botan.jpg|多聞院 境内の[[ボタン (植物)|牡丹]] |ファイル:Tokorozawa Yurien Kanban2015.jpg|ところざわのゆり園 |ファイル:Sayama Fudosōn hatsumōde 2007-01-01.jpg|狭山不動尊初詣の風景(2007年) |ファイル:Sayama Fudosōn hatsumōde tsurigane 2007-01-01.jpg |狭山不動尊境内にある釣鐘 }} 段崩のため旧式指定 --><gallery perrow="5" widths="170px" heights="170px"> TOKOROZAWA SAKURA TOWN.2020-03-03.jpg|ところざわサクラタウン 27th Tokorozawa Citizen Festival 2006-10-29 01.jpg|第27回・所沢市民フェスティバル風景 Tokorozawa music concert.jpg|所沢航空記念公園内 野外ステージ Seibuprince shomen.jpeg|ベルーナドーム Sayama Ski Resort.jpg|狭山スキー場 Seibuen yuenchi Ferris wheels.JPG|西武園ゆうえんち Tokorosawa Shinmei-sha 100117.jpg|所澤神明社 Tamon'in Tokorozawa -botan.jpg|多聞院 境内の[[ボタン (植物)|牡丹]] Tokorozawa Yurien Kanban2015.jpg|ところざわのゆり園 Sayama Fudosōn hatsumōde 2007-01-01.jpg|狭山不動尊初詣の風景(2007年) Sayama Fudosōn hatsumōde tsurigane 2007-01-01.jpg |狭山不動尊境内にある釣鐘 </gallery> ===名産・特産=== {{See also|#農業}} * ところっけ * [[狭山茶]] * [[サトイモ]][[焼酎]]「恋も咲くところ」 - 所沢市内酒店限定。<!--[[2009年]]は[[#祭事・催事|ところざわまつり]]開催日の[[10月11日]]解禁<ref>[http://kitadaya.co.jp/115kitada/7.1/tokorozawa/ 所沢さといも焼酎「恋も咲くところ」2009]-酒店北田屋サイト内詳細</ref>。--> <!--所沢周辺に特化していないためコメントアウト* [[うどん#武蔵野うどん|手打ちうどん]] <ref>手打ちうどん …元々所沢周辺地域では[[うどん#武蔵野うどん|武蔵野うどん]]と呼ばれるつけ麺タイプの肉汁うどんや、同じくさっと茹でた季節の野菜をつける[[糧うどん]](かてうどん)があり、[[冠婚葬祭]]などにうどんを食べる習慣があった。そのため市内には今日でも「手打ちうどん」専門店が多い。</ref>--> * [[団子#主な串団子|焼きだんご]]<ref>[http://www.tokoro-kankou.jp/blog/udon-map.html 手打ちうどん・焼きだんごMAP] - 所沢市観光協会編</ref> * [[所沢人形]] * [[ファルマン (菓子)]] * ラッキーパンダうどん ===スポーツ=== ====野球==== ;プロ野球 *[[埼玉西武ライオンズ]] - [[西武ドーム]]を本拠地とする[[プロ野球]]球団。パシフィック・リーグ優勝23回(リーグ最多、歴代2位)、日本一13回(歴代2位)の実績を残している。 ;社会人野球 *[[所沢グリーンベースボールクラブ]] - 2005年に創部した[[社会人野球]]の[[クラブチーム (社会人野球)|クラブチーム]]。2010年に[[全日本クラブ野球選手権大会]]を制覇している。 ====バスケットボール==== *[[さいたまブロンコス]] - [[所沢市民体育館]]を本拠地。[[ジャパン・バスケットボールリーグ|B3.LEAGUE]] ====陸上競技==== *[[早稲田大学]]競走部 - スポーツ科学部などがある[[早稲田大学所沢キャンパス]]に拠点を置く名門陸上競技部。[[東京箱根間往復大学駅伝競走]]では、名門校として、総合優勝13回([[中央大学]]に次ぐ歴代2位)の実績を残している。 ====[[eスポーツ]]==== *FAV gaming -ところざわサクラタウンに活動拠点を置く、[[KADOKAWA]]が擁するプロゲーミングチーム。 ===武道=== ====空手==== *[[士道館]] - [[美原町 (所沢市)|美原町]]に総本部を置く空手軍団。 ====大相撲==== *[[二子山部屋]]([[北岩岡]]) - 2018年4月1日に、[[藤島部屋]]から独立した[[雅山哲士|二子山]]親方(元大関・[[雅山哲士|雅山]])によって、14年ぶりに創設された相撲部屋。2021年5月場所開始前に[[東京都]][[葛飾区]]へ移転した。 ==出身関連著名人== ===出身著名人=== * [[大矢東吉]]([[棋士 (将棋)|将棋棋士]]) * 鹿島岩吉([[鹿島建設]]創業者) * [[三遊亭圓鶴]](落語家) * [[高川文筌]](画家) * [[田中王堂]]([[哲学者]]、評論家) * [[左卜全]]([[俳優]]) * [[三ヶ島葭子]](女流歌人) ==== 政財界 ==== * [[新井正則]](元[[衆議院議員]]) * [[石井道子]](元[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[参議院議員]]・元[[環境庁長官]]) * [[小野塚勝俊]](第11代所沢市長、衆議院議員) * [[並木正芳]](元衆議院議員) * [[東郷哲也]](元衆議院議員) * [[百武公親]](衆議院議員) * [[西尾昭彦]]([[世界銀行]]副総裁) * [[秋吉仁美]]([[東京高等裁判所]]部総括判事) * [[大菅岳史]]([[国際連合日本政府代表部]][[特命全権大使]]、国際連合日本政府次席代表) ==== 漫画関係者 ==== * [[高橋美由紀 (漫画家)|高橋美由紀]](漫画家) * [[山本英夫]](漫画家) * [[松本ぷりっつ]](漫画家) ==== 文化人 ==== * [[池田憲章]]([[フリーライター]]、編集者、プロデューサー) * [[石川英治]]([[コメンテーター]]、著作家) * [[栗原大輔]]([[画家]]) * [[桑名真吾]]([[ゲームクリエイター]]) * [[佐藤直人]](アマチュア天文家) * [[武村八重子]](ピアニスト、作曲家) * [[竹山洋]](脚本家) * [[羽生善治]]([[棋士 (将棋)|将棋棋士]]) * [[藤沢里菜]]([[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]]) * [[宮崎吾朗]]([[アニメーション監督]]、建設コンサルタント) * [[宮崎敬介]]([[版画家]]) * [[森義隆]]([[映画監督]]) ==== マスコミ ==== * [[吾妻謙 (アナウンサー)|吾妻謙]]([[日本放送協会|NHK]]アナウンサー) * [[一柳亜矢子]]([[NHK大阪放送局]]アナウンサー) * [[大野修]]([[福島中央テレビ]]アナウンサー) * [[小林由未子]]([[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー) * [[吉井歌奈子]]([[フリーアナウンサー]]) * [[佐々木武海]](南日本放送アナウンサー) * [[川口俊介]](NHKプロデューサー) ==== 芸能 ==== * [[侑輝大弥]]([[宝塚歌劇団]][[花組 (宝塚歌劇)|花組]]男役) * [[岩田光央]]([[声優]]) * [[浦山一悟]]([[音楽家|ミュージシャン]]「[[ACIDMAN]]」) * [[岡井千聖]](元[[歌手]]、元[[タレント]]) * [[小川夏実]](声優) * [[春日俊彰]]([[お笑いタレント|お笑い芸人]]、[[オードリー (お笑いコンビ)|オードリー]]) * [[加藤由季]](元タレント) * [[喜屋武ちあき]]([[グラビアアイドル]]) * [[近藤みやび]](レースクィーン、[[レースクイーン・オブ・ザ・イヤー]]受賞者) * [[草尾毅]](声優) * [[島口哲朗]]([[俳優]]、[[殺陣師]]) * [[田浦楽]](音楽家、[[ドラマー]]) * [[所ジョージ]]([[タレント]]) * [[NAOTO (ダンサー)|NAOTO]]([[EXILE]]、[[三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE]]) * [[八反安未果]]([[歌手]]) * [[パンタ (歌手)|パンタ]](ミュージシャン「[[頭脳警察]]」) * [[bp (音楽プロデューサー)|bp]]([[音楽プロデューサー]]) * [[町田恵 (タレント)|町田恵]](元[[チェキッ娘]]) * [[松木里菜]](女優) * [[工藤阿須加]](俳優) * [[辰巳雄大]]([[ふぉ〜ゆ〜]]) * [[仲川希良]]([[ファッションモデル]]、[[タレント]]) * [[U]]([[THE BEAT GARDEN]]) * [[左卜全]](俳優、[[オペラ]]歌手)(旧:[[小手指村]](後の所沢町)) ==== スポーツ ==== * [[秋葉陽一]](元[[サッカー選手]]) * [[石亀晃]](元[[サッカー選手]]) * [[金子昌広]](サッカー選手、[[ツエーゲン金沢]]) * [[東城穣]]([[サッカー審判員]]) * [[野崎桂太]](元サッカー選手) * [[野崎雅也]](サッカー選手) * [[渡部大輔 (サッカー選手)|渡部大輔]](サッカー選手、[[大宮アルディージャ]]) * [[斉藤貢]](元[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]→[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]投手) * [[櫻井周斗]]([[横浜DeNAベイスターズ]]投手) * [[芝草宇宙]](元[[北海道日本ハムファイターズ]]投手) * [[杉本友]](元[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]投手) * [[羽田慎之介]]([[埼玉西武ライオンズ]]投手) * [[山﨑福也]]([[オリックス・バファローズ]]投手) * [[山口千沙季]](元女子プロ野球選手)※現在[[東海NEXUS]]所属 * [[渡邉恒樹]](元[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]→[[東京ヤクルトスワローズ]]投手) * [[日下部智子]](女子[[プロゴルファー]]) * [[工藤遥加]](女子プロゴルファー、[[工藤公康]]の長女) * [[宇津木秀]](プロボクサー) * [[五代登]](元[[プロボクサー]]) * [[須田拓弥]](プロボクサー) * [[ヤス・ウラノ]](プロレスラー [[DDTプロレスリング|DDT]]) * [[北勝富士大輝]](大相撲力士) * [[爆羅騎源氣]](大相撲力士) * [[添野義二]](空手家、[[世界空手道連盟]][[士道館]]館長) * [[塩田泰久]]([[合気道]]家) * [[後藤浩]]([[競艇]]選手) * [[鈴木亜久里]](元[[フォーミュラ1|F1]]レーサー) * [[斎藤太吾]]([[全日本プロドリフト選手権|D1]]ドライバー) * [[宮本大輔 (トレーナー)|宮本大輔]](アスレティックトレーナー) ===ゆかりのある有名人=== :漫画家やアニメーターの在住が多い。また[[日本大学藝術学部]]への進学をきっかけにそのまま在住するケースもある。 ==== 在住の有名人 ==== * [[あずまよしお]](漫画家) * [[飯田耕一郎]](漫画家) * [[石田あきら]](漫画家) * [[及川拓馬]](将棋棋士) * [[小野寺力 (野球)|小野寺力]](東京ヤクルトスワローズ) * [[小野栄一]](ボードビリアン) * [[河合じゅんじ]](漫画家) * [[勝部元気]](作家、論客) * [[楠瀬誠志郎]](歌手) * [[さだやす圭]](漫画家) * [[三町半左]](漫画家) * [[柴田博之]] (元埼玉西武ライオンズ) * [[柴山昌彦]]([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]衆議院議員) * [[しろ (イラストレーター)|しろ]](漫画家) * [[双団平]](漫画家) * [[高槻ナギー]](漫画家) * [[高橋玄洋]](脚本家、劇作家) * [[高橋良輔 (アニメ監督)|高橋良輔]]([[アニメーション映画|アニメ]]監督) * [[竹内英孝]]([[映画監督]]) * [[田島みるく]](漫画家、小説家) * [[田中ひろみ]]([[イラストレーター]]) * [[峠比呂]](漫画家) * [[なぐも。]](漫画家) * [[袴田めら]](漫画家) * [[晴瀬ひろき]](漫画家) * [[日野日出志]](漫画家) * [[福本武久]](作家、[[小説家]]) * [[ふなつ一輝]](漫画家) * [[増岡弘]]([[声優]]) * [[松田未来 (漫画家)|松田未来]](漫画家) * [[松本ともこ]](ラジオパーソナリティ) * [[松本規之]](漫画家) * [[宮崎駿]](アニメ作家・[[映画監督]]) * [[森永卓郎]]([[経済評論家|経済アナリスト]]、タレント) * [[安彦良和]](アニメーター・漫画家) * [[湯浅誠]](社会活動家) * [[立川真司]](ものまねタレント) ==== その他 ==== * [[あだち充]]([[漫画家]])- 兄である[[あだち勉]]が新所沢東口にあった本屋「タンデム」のオーナーをしていた。 * [[安部慎一]](漫画家) * [[蛭子能収]](タレント、漫画家)- 元在住。 * [[上野ひとみ]](タレント・おさかなマイスター) * [[小黒祐一郎]]([[フリーライター]]、編集者) * [[小原乃梨子]](声優) * [[木村郁美]]([[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー) * [[清塚信也]](ピアニスト、音楽家)- 元在住。 * [[スカイピース]]([[YouTuber]]) * [[島田洋七]](漫才師)- 元在住。ラーメン店『[http://www.maboroshiken.com/ まぼろし軒]』の元オーナー。 * [[清水章吾]](俳優)- 元在住。 * [[釈由美子]]([[俳優|女優]]) * [[反村幼児]](漫画家)- 元在住。 * [[田辺真由美]](漫画家) * [[田丸美寿々]](ニュースキャスター) * [[千田裕之]]([[シンガーソングライター]]、[[音楽プロデューサー]]) * [[竹野内豊]](俳優)- 小中学校時代を所沢市で過ごす。 * [[竹内結子]](女優) * [[つかじ俊]](漫画家)- 晩年は所沢市に在住。 * [[中沢啓治]](漫画家)- 晩年は所沢市に在住していたが、故郷の広島市の病院で逝去。 * [[沼田曜一]](俳優) * [[長谷川摂子]](児童文学者、作家) * [[原田泰造]](お笑いタレント) * [[魔夜峰央]](漫画家)- 元在住。『[[翔んで埼玉]]』は所沢在住時の作品。 * [[箕輪厚介]](編集者)- 元在住。 * [[宮原ナオ]](漫画家)- 元在住。『三軍神参上』の単行本でよくネタに出していた。 * [[守村大]](漫画家)- 元在住。『[[考える犬]]』は航空公園周辺が舞台。 * [[モンキー・パンチ]](漫画家)- 元在住。1988年頃に小手指駅前のマンションに居を構えていた。 * [[やすひさてっぺい|やすひさてっぺいー]]([[料理研究家]]、評論家、[[日本唐揚協会]]会長兼理事長) * [[山口敏夫]](元衆議院議員・元[[厚生労働大臣|労働大臣]]第48代) * [[YOU (タレント)|YOU]](タレント) * ラッキーパンダ * [[渡辺蘭]](タレント、女優、フリーアナウンサー、[[気象予報士]]) * [[中村望]] ===マスコットキャラクター=== *[[トコろん]] - 所沢市公認のイメージマスコット。市の鳥「ひばり」をモチーフに、航空発祥の地にちなんでプロペラ飛行機のイメージから、頭にプロペラをつけている。 *[[航空戦士トコロザワン]] - [[埼玉ご当地ヒーローズ]]にも参加する、所沢市のローカルヒーロー。 *[[ラッキーパンダ]] - イベント時や月に数回、航空公園駅周辺を歩くパンダのキャラクター。 *このほかに、市が発行する[[広報]]のマスコットキャラクターとして「[[ひばりちゃん]]」がいる。  ==所沢を舞台とした作品== 所沢市が'''舞台'''、または'''ゆかりのある作品'''(ロケ地も含む)を記載する。 :※'''太字'''はKADOKAWA関連作品。 {| class="wikitable" style="font-size:small;" !タイトル !媒体 !詳細 |- |[[うぬぼれ刑事]] |ドラマ | |- |[[TOKYO コントロール]] |ドラマ |[[東京航空交通管制部]]が舞台。 |- |[[風飛び一斗]] |漫画 | |- |[[かっとばせ!キヨハラくん]] |漫画 | |- |[[考える犬]] |漫画 | |- |[[がんばれ!!タブチくん]] |漫画、アニメ映画 | |- |'''[[おじゃる丸]]''' |漫画、アニメ |当市が月光町のモデル。 |- |'''[[CLANNAD (ゲーム)|CLANNAD]]''' |アニメ |私立光坂高等学校の校門は、所沢市立上山口中学校の校門をモチーフとしている。 |- |'''[[月刊少女野崎くん]]''' |漫画、アニメ |作中に新所沢駅をモチーフとした駅が登場。 |- |[[ケンネル所沢]] |アニメ、漫画 | |- |'''[[劇場霊]]''' |映画 |ロケ地として[[所沢市民文化センター ミューズ]]を使用。 |- |[[賢者の学び舎 防衛医科大学校物語]] |漫画 |[[防衛医科大学校]]が舞台。 |- |[[硬派!埼玉レグルス]] |漫画 | |- |'''[[Shall we ダンス?]]''' |映画 | |- |[[サムライフラメンコ]] |アニメ |TVアニメ第6話にて所沢駅西口付近が登場。 |- |'''[[呪怨]]''' |映画 |ビデオ版、映画版のロケ地。特にビデオ版は所沢市内で全撮影を実施。 |- |小説 [[仮面ライダークウガ]] |小説 |[[西武ドーム]]が登場。 |- |'''[[女子高生の無駄づかい]]''' |アニメ、漫画 |所沢駅、[[イオン所沢店]]、新所沢PARCO・新所沢レッツシネパークが登場。 |- |'''[[ソードアート・オンライン]]''' |ライトノベル、アニメ |TVアニメ第1期第2クールオープニング映像にて、所沢駅をモチーフとした駅が登場。作中では、アリシゼーション編にて、防衛医科大学校附属病院がモチーフだとされる「所沢防衛医大病院」が登場。 |- |'''[[世界の中心、針山さん]]''' |ライトノベル | |- |'''[[勇者のセガレ]]''' |ライトノベル | |- |'''[[「キミ、どこ住み?え、俺は空中要塞住みだけど」]]''' |ライトノベル | |- |'''[[暗転エピローグ]]''' |漫画 | |- |[[私を球場に連れてって!]] |漫画 |当市が主な舞台。 |- |[[正解するカド]] |アニメ |第6話以降、[[山口貯水池|狭山湖]]が舞台。作中には、西武園ゆうえんちも登場。 |- |[[瀬戸の花嫁 (漫画)|瀬戸の花嫁]] |漫画、アニメ | |- |[[刻刻]] |漫画、アニメ | |- |'''[[よつばと!]]''' |漫画 |西武池袋線西所沢駅 - 小手指駅間にある架空駅が主人公の最寄り駅(14巻より)。 |- |[[TARI TARI]] |アニメ |第5話にて所沢市民体育館が登場。 |- |[[鉄塔 武蔵野線]] |映画、小説 | |- |[[所さんのまもるもせめるも]] |ゲーム | |- |'''[[デュアル!ぱられルンルン物語]]''' |アニメ | |- |[[翔んで埼玉]] |漫画、映画 | |- |'''[[葉桜が来た夏]]''' |ライトノベル |防衛医科大学校附属病院が登場。 |- |[[はだかっ子]] |映画 | |- |[[となりのトトロ]] |アニメ映画 |[[松郷 (所沢市)|松郷]]や[[牛沼]]、[[狭山丘陵]]、[[八国山緑地]]などが舞台。 |- |[[みずいろ]] |ゲーム | |- |[[名探偵コナン 戦慄の楽譜]] |アニメ映画 |所沢市民文化センター ミューズが登場。 |- |[[ばなにゃ]] |アニメ |当市が制作協力をしており、エンディング映像では西武ドームや狭山湖などが登場。 |- |[[乱丸XXX]] |漫画 | |- |[[ローリング☆ガールズ]] |アニメ |[[日吉町 (所沢市)|日吉町]]が舞台。圏央所沢病院がモチーフになった建物が登場。 |- |'''[[わずかいっちょまえ]]''' |漫画 | |- |[[シャム猫 -ファーストミッション-]] |アニメ | |- |'''[[神様しばい]]''' |ゲーム |[[東所沢]]が舞台の学園ストーリー。架空の高校「中都学院高等学校」が登場。 |- |[[灯事記シリーズ]] |音楽 |当市の地名などに因んで名付けられた曲が多くある。 |- |[[ダンボール戦機|装甲娘戦機]] |アニメ |主人公リコの住む街。所沢ICが登場。 |- |'''[[妖怪大戦争 ガーディアンズ]] |映画 |妖怪大戦争第3作目の映画。主人公の住む街。 |- |[[最後の家族]] |小説 |小手指駅が最寄駅で出てくる。 |- |[[怪人開発部の黒井津さん]] |漫画、アニメ |アニメ版において所沢駅前やプロぺ商店街が登場。 |- |[[もういっぽん!|もういっぽん!]] |漫画、アニメ |所沢市民体育館が登場。 |- |[[カノジョも彼女]] |漫画、アニメ |所沢駅が登場。 |} == 進行中のプロジェクト == * COOL JAPAN FOREST構想 ** 本市と株式会社KADOKAWAの共同プロジェクトで、拠点施設[[ところざわサクラタウン]]を中心に、みどりや文化、産業が調和した地域づくりを進める構想。 * マチごとエコタウン所沢構想 * 所沢駅周辺まちづくり基本構想 ** 所沢駅西口土地区画整備事業 ** 所沢西口北街区市街地再開発事業 * 北秋津・上安松土地区画整理事業 * 若松地区土地区画整理事業 * 都市高速鉄道12号線([[都営地下鉄大江戸線]])東所沢延伸 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat}} <!--外部リンク先は所沢市の公的機関のみに集約、民間サイトの広告バナーを貼っているリンク先は除去--> ; 行政 :* {{Official website|name=所沢市}} : ; 観光 :* [http://www.tokoro-kankou.jp/ 所沢市観光協会] :* {{Twitter|tokoron1056|トコろん【公式】}} :* {{Facebook|tokorozawashisyougyoukankouka|所沢市商業観光課(トコろん)}} :* {{Instagram|tokoron1056|トコろん【公式】}} : {{Geographic Location |Centre = 所沢市 |North = [[狭山市]]・[[川越市]] |Northeast = [[三芳町]] |East = [[新座市]] |Southeast = 東京都[[清瀬市]] |South = 東京都[[武蔵村山市]]・[[東大和市]]・[[東村山市]] |Southwest = [[東京都]][[瑞穂町]] |West = [[入間市]] |Northwest = }} {{埼玉県の自治体}} {{日本の特例市}} {{日本100大都市}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ところさわし}} [[Category:埼玉県の市町村]] [[Category:入間郡]]<!--所沢町のカテゴリ--> [[Category:所沢市|*]] [[Category:特例市]] [[Category:狭山丘陵]]
2003-08-04T08:02:17Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%80%E6%B2%A2%E5%B8%82
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ボロブドゥール遺跡
ボロブドゥール遺跡(ボロブドゥールいせき、Borobudur)は、インドネシアのジャワ島中部のケドゥ盆地に所在する大規模な仏教遺跡で世界的な石造遺跡。世界最大級の仏教寺院であり、ボロブドゥール寺院遺跡群の一部としてユネスコの世界遺産に登録されている。ミャンマーのバガン、カンボジアのアンコール・ワットと並んで、東南アジアの偉大な遺跡の1つである。 インドから東南アジアに伝播した仏教は一般に部派仏教(上座部仏教)と呼ばれる仏教であったが、ボロブドゥールは大乗仏教の遺跡である。シャイレーンドラ朝の時代、大乗仏教を奉じていたシャイレーンドラ王家によって、ダルマトゥンガ王治下の780年頃から建造が開始され、792年頃に一応の完成をみたと考えられ、サマラトゥンガ王(位812年-832年)のときに増築されている。 ボロブドゥール遺跡は、中部ジャワの中心都市ジョグジャカルタの北西約42km、首都ジャカルタからは東南東約400kmに所在し、巨大なムラピ火山などの山々に囲まれた平原の中央に立地する。遺跡総面積はおよそ1.5万m。高さはもともと42mあったが、現在は破損して33.5mになっている。2010年ムラピ山の灰で被害を受けた。 方形壇の回廊のレリーフは、歴史上の出来事が中心となっている。釈迦(ガウタマ・シッダールタ)の前世の物語であるジャータカなどを絵巻物風に示し、前世の善財童子が巡礼の旅をする仏教経典『華厳経入法界品』などが描かれており、とくに釈迦の生誕から最初の説法にいたるまでの経緯については史実とともに数々の伝説もまじえて詳細に表現されている。その構図の多様性や人物表現の巧みさはボロブドゥールならではのものである。 仏像は、第一回廊から第四回廊の壁龕(くぼみ)に432体、3段の円形壇の上に築かれた釣鐘状のストゥーパ72基の内部に1体ずつ納められており、いずれも一石造りによって等身大につくられ、計504体を数える(詳細は後述)。 シャイレーンドラ朝は、8世紀半ばから9世紀にかけてオーストラロイド系の民族がジャワ島中部に建てたとされる王朝である。 シャイレーンドラはサンスクリット語で「山からの王」という意味であり、インドシナ半島の古代王国扶南の「プノン」(山)と何らかの関係があるのではないかという推論も唱えられている。この王朝の成立経緯については、シュリーヴィジャヤ王国が8世紀半ば以降にジャワ島中部に進出したという説と、ジャワ王家でシュリーヴィジャヤに君臨した王朝であるという説があり、詳細はいまだ不明である。 大乗仏教を保護し、ボロブドゥールはじめ数多くの仏教建築をのこしたほか、サンスクリットの辞典『アマラテラ』を古代ジャワ語に翻訳している。 ボロブドゥール寺院の造営は、778年のカラサン碑文によれば、ダルマトゥンガ王はヒンドゥー教を奉ずるサンジャヤ王家(古マタラム王国)のパナンカラン王に対し、ターラ(多羅菩薩)をまつるための寺院とシャイレンドラ王家を祀る仏僧のための僧院を建造するよう提案したことによって始まったとしており、780年頃より造営が開始されたものとみられる。それに対してパナンカラン王は、周辺の土地を免税とする代わり、その地からの収入を寺院造営に利用するよう命じたと碑文では記している。サングラーマグナンジャヤ王治下の792年、ボロブドゥール本体の建設を一応完了している。 サンジャヤ王家は、シャイレーンドラ朝に服属し、その証として仏教建造物への寄進を行っていたが、シャイレーンドラ王家とサンジャヤ王家との関係は必ずしも敵対的ではなく、サマラトゥンガ王の娘でシャイレーンドラ王女のプラモーダヴァルダニーとサンジャヤ朝の王子ラカイ・ピカタンは婚姻関係を結んでいる。 サマラトゥンガ王治下の824年、ボロブドゥール寺院の工事が再開され、それは833年まで続いている。しかし、サマラトゥンガの死没した832年、王の後継者が未だ幼いことから、その姉にあたるプラモーダヴァルダニーがシャイレーンドラ朝の摂政となった。 その後、実権はプラモーダヴァルダニーの夫ラカイ・ピカタンにうつり、2人はチャンディ・ロロ・ジョングランをはじめとするヒンドゥー建築プランバナン寺院群を建造した。これによって、中部ジャワの地は、再びシヴァ信仰を奉ずるヒンドゥー勢力に支配され、大乗仏教はジャワより後退した。 832年以降、シャイレーンドラ朝は碑文にも史料にも現れなくなってしまうが、833年を最後にボロブドゥールの改修も終わっている。シャイレーンドラ王家のその後の消息を伝える唯一の碑文によると、後継者争いに破れたシャイレーンドラ家最後の王子バーラプトラは、856年、スマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国へ逃れ、その王女と結婚したとしている。 このような経緯から、ボロブドゥール寺院をシャイレーンドラ王家の霊廟として考える見方もある。 ボロブドゥールは、平原の中央にある径約50mの天然の丘に盛土のうえ、安山岩や粘板岩を積み上げてつくられている。寺院として人びとに信仰されてきた建造物であるが、内部空間を持たないのが際だった特徴である。 建築資材となったのは、厚さ20cmから30cmの切石(煉瓦様ブロック)である。ブロックは、質の粗い黒灰色の安山岩や凝灰岩を切断して製造されており、寺院はこのブロックを積み上げて建造されている。使用されたブロックの個数は200万弱におよび、容積は5万5,000m、総重量は約350万tにもなるといわれる。 いちばん下に一辺が約115mの屈折した方形の基壇があり、その上に基壇と相似形をなし、やはり屈折した6層の方形壇、さらにその上に3層の円形壇があり、最上層には中心仏塔を載せており、階段ピラミッド状の構造となっている。この構造は、仏教における三界をあらわしていると考えられている(詳細は後述)。なお、それぞれの高さの比は 2 : 3 を基調とし、全体で 4 : 6 : 9 の比によって構成されている。 5層の方形壇の縁は壁になっていて、各層に幅2mの露天の回廊がめぐらされる。方形壇の四面中央には階段が設けられており、円形壇まで登れるようになっている。 ボロブドゥールの構造は、仏教の三界をあらわしているとされる。つまり、下から、基壇は人間のいる欲界、その上は神と人間が触れあう世界である色界、さらに、その上部が神のいる無色界である。 ボロブドゥールでは、基壇が欲界、方形壇は色界、円壇は無色界として表現されており、人は下から上へ登っていくにつれ、欲望にあふれ罪悪に満ちた世界から、禅定に達した世界へと移っていくものとされる。すなわち、悟りをめざす菩薩の修行を表現しているとみなすことができる。 基壇においては、『分別善悪応報経』が160面のレリーフに彫られており、衆生の日常生活を描写しながら因果応報の教えが説かれている。 方形壇最上層の72面には普賢菩薩の大慈悲心を讃歎する様子が具象化されている。 また、円形壇にはレリーフはなく、幾何学的な建築意匠によって抽象的な悟りの境地が示されており、全体でいわば石上に図解された経典とも呼びうるものとなっている。 ボロブドゥールはまた、その形状から世界最大級のストゥーパ(仏塔)でもある。ストゥーパとは、釈迦の遺骨や遺物などをおさめた建造物であるが、ボロブドゥールは、さらに内部にも多数のストゥーパを有する特異な構造を呈している。 ストゥーパの釣鐘状になっている部分は、一辺23cm大の石のブロックを目透かし格子状に積み上げ、中の仏像を拝することができるようになっている。漆喰などの接着剤の類は一切用いられていない。 ストゥーパ72基は、全体では三重の円を描くように並び、下層より32基、24基、16基あって、頂上には釈迦の遺骨を納めたとされる、ひときわ大きなストゥーパがあり、天上をめざしている。この中心塔には大日如来を置かず空洞にしており、これは大乗仏教の真髄である「空」の思想を強調しているとされ、ジャワ仏教の独自性が示されている。 ボロブドゥールは、それ自体が仏教的宇宙観を象徴する巨大な曼荼羅といわれ、一説には、須弥山を模したものとも考えられている。 総延長5kmにおよぶ方形壇の回廊には、仏教説話にもとづいた1460面におよぶ浮彫彫刻レリーフが時計回りにつづいており、登場人物は1万人におよぶとされている。同様に1212面の装飾浮彫には、天人や羅刹、鳥獣、植物文様およびインド神話に登場する伝説上の鳥獣などがみられる。なお、外層、内層ともに四方に階段をもち、各面いずれも全く同形同構造で、どれを正面とするかわからない、幾何学的に均斉な構造となっている 。 レリーフは、その構図の巧みさ、洗練された浮彫彫刻の技法、細部表現の優雅さで知られ、仏像とともにインドのグプタ美術の影響が強く認められる。 回廊の外縁をめぐる壁には432体(各面108体)の仏像が安置されている。仏像は、方形壇の各面で、面ごとに異なった印相を結んでいる。各面第4層(第三回廊)までの368体(各面92体)については、それぞれ以下のようになっている。 第5層(第四回廊)の64体は、東西南北ともに毘盧遮那仏で法身説法印を結んでいる。 円形壇の72体の転法輪印の仏像は釈迦如来と考えられており、このことより、ボロブドゥール全体が密教の系統を引く巨大な立体曼荼羅であるとする説が有力である。 5層の方形壇の縁には壁がめぐらされ、壁には計20の吐水口が取り付けられている。吐水口は、想像上の生き物の彫刻で飾られている。 また、壇の上下を結ぶ階段の入口は、カーラ(鬼面)とマカラ(海竜)で装飾された拱門(アーチ)になっている。 この遺跡は、久しく忘れ去られ密林のなかに埋もれていた。その原因については、火山の降灰によるものであるとする説が有力である。1814年にイギリス人のトーマス・ラッフルズ(当時ジャワ総督代理)とオランダ人技師コルネリウスによって森のなかで再発見され、その一部が発掘された。 1851年から1854年にかけての第2次調査では、壁面のレリーフのほとんどが現れ、1885年の発掘調査の際には、土台の内壁に、人間のあらゆる欲望を描いた160面のレリーフが現れた。崩落の危険性があるため、埋め戻され、再び覆い隠されることとなった。1900年にはオランダ政府によって発掘調査委員会が組織され、1907年には写真記録がおこなわれた。また、1907年から1911年にかけてはオランダ人技師ファン・エルプによって復原工事がおこなわれている。 インドネシア独立後の1960年代初頭には、遺跡は崩壊寸前の危機にあったが、地盤沈下による壁と床の傾斜、ムラピ火山の噴火後の構造破壊を防ぐ目的で、ユネスコ主導のもと1973年から10年の歳月と2,000万ドルの費用をかけて修復工事がおこなわれ、1982年に完了した。その際、水による浸食を防ぐため排水路を設ける必要が生まれたため方形壇部分をいったん全部解体し、石のひとつひとつにナンバリングを施し、コンピュータ管理をおこなっている。なお、この修復事業には日本はじめ27か国が資金協力をおこなった。日本では国際技術諮問委員として千原大五郎が選出されている。 また、1980年からは日本が技術協力をおこない、ボロブドゥールとプランバナン寺院群の2大遺跡とその周辺を歴史公園として整備し、文化遺産を保護しながら、観光と地域振興を図る計画が実施に移された。 1991年にはボロブドゥール東3kmのムンドゥッ寺院、東1.8kmのパオン寺院とともに「ボロブドゥール寺院遺跡群」として世界遺産の文化遺産に登録された。この3寺院は、一直線に並んで立地することから、付近一帯がこれらを含む多数の寺院群で構成された巨大な仏教複合構造物ではなかったかという推測も持たれている。 その後、2006年5月27日にジョクジャカルタ付近を震源地とするマグニチュード6.2のジャワ島中部地震が起こり、寺院の石塔の一部が崩れるなどの被害を受けた。これについては、被害状況の調査がなされ、事後の修復を予定している。 1984年2月22日、インドネシアのスハルト大統領(当時)は、国家的行事として、ボロブドゥールの修復完成記念式典をおこなった。そのなかでスハルトは、ボロブドゥールが国民的宗教財産である旨の演説をおこなっているが、これは少なからず波紋をまねいた。1985年にはイスラーム過激派がボロブドゥールに侵入し、円形壇のストゥーパ9基を破壊する挙に出た(1985年のボロブドゥール爆撃(インドネシア語版、英語版))。インドネシアにおける仏教徒は、国民全体のわずかに0.4%にすぎない。遺跡周辺の村々では仏教徒はほぼゼロと言える。 とはいえ、ボロブドゥールは今や年間100万人の観光客が訪れる観光地となっている。ただしそれは、政府が外貨を獲得する代償として、地域住民が負担を強いられる原因ともなった。遺跡環境整備のための周辺農地の収用である。これは強制的な立ち退きを含むものであり、耕地面積の狭小な農民にとって大きな痛手となった。遺跡公園となった外側の土地も、はっきりした買収費が払われていない部分が多かった。 今日、ボロブドゥールには、数多くのインドネシアの児童生徒が社会見学や学習旅行、遠足のために訪れるが、仏教徒がわずかなインドネシアでは管理は株式会社化し、イベントやアトラクションを考えて経営する遊園地化してしまった。しかし、ボロブドゥールは仏教徒にとって重要な意味をもつ場所であることは言うまでもない。数多くの仏僧や一般信者が参詣につめかけるようになり、寺院としての本来の役割を担うようになった。 上述のような問題や批判がある一方で、国民統合の象徴のひとつとして国内外からの強い関心が払われている。 ボロブドゥールでは、年に1回、5月の満月の夜にウェーサーカ祭と呼ばれる祭りが開かれている。この日はインドネシアの公式の祝日にもなっていて、国内外から熱心な仏教徒がムンドゥッ寺院に集まり、経典を唱えながら西に向けて行脚し、さらに、ボロブドゥールの回廊を登って涅槃に至るという一大行事となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ボロブドゥール遺跡(ボロブドゥールいせき、Borobudur)は、インドネシアのジャワ島中部のケドゥ盆地に所在する大規模な仏教遺跡で世界的な石造遺跡。世界最大級の仏教寺院であり、ボロブドゥール寺院遺跡群の一部としてユネスコの世界遺産に登録されている。ミャンマーのバガン、カンボジアのアンコール・ワットと並んで、東南アジアの偉大な遺跡の1つである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "インドから東南アジアに伝播した仏教は一般に部派仏教(上座部仏教)と呼ばれる仏教であったが、ボロブドゥールは大乗仏教の遺跡である。シャイレーンドラ朝の時代、大乗仏教を奉じていたシャイレーンドラ王家によって、ダルマトゥンガ王治下の780年頃から建造が開始され、792年頃に一応の完成をみたと考えられ、サマラトゥンガ王(位812年-832年)のときに増築されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ボロブドゥール遺跡は、中部ジャワの中心都市ジョグジャカルタの北西約42km、首都ジャカルタからは東南東約400kmに所在し、巨大なムラピ火山などの山々に囲まれた平原の中央に立地する。遺跡総面積はおよそ1.5万m。高さはもともと42mあったが、現在は破損して33.5mになっている。2010年ムラピ山の灰で被害を受けた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "方形壇の回廊のレリーフは、歴史上の出来事が中心となっている。釈迦(ガウタマ・シッダールタ)の前世の物語であるジャータカなどを絵巻物風に示し、前世の善財童子が巡礼の旅をする仏教経典『華厳経入法界品』などが描かれており、とくに釈迦の生誕から最初の説法にいたるまでの経緯については史実とともに数々の伝説もまじえて詳細に表現されている。その構図の多様性や人物表現の巧みさはボロブドゥールならではのものである。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "仏像は、第一回廊から第四回廊の壁龕(くぼみ)に432体、3段の円形壇の上に築かれた釣鐘状のストゥーパ72基の内部に1体ずつ納められており、いずれも一石造りによって等身大につくられ、計504体を数える(詳細は後述)。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "シャイレーンドラ朝は、8世紀半ばから9世紀にかけてオーストラロイド系の民族がジャワ島中部に建てたとされる王朝である。", "title": "歴史背景" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "シャイレーンドラはサンスクリット語で「山からの王」という意味であり、インドシナ半島の古代王国扶南の「プノン」(山)と何らかの関係があるのではないかという推論も唱えられている。この王朝の成立経緯については、シュリーヴィジャヤ王国が8世紀半ば以降にジャワ島中部に進出したという説と、ジャワ王家でシュリーヴィジャヤに君臨した王朝であるという説があり、詳細はいまだ不明である。", "title": "歴史背景" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "大乗仏教を保護し、ボロブドゥールはじめ数多くの仏教建築をのこしたほか、サンスクリットの辞典『アマラテラ』を古代ジャワ語に翻訳している。", "title": "歴史背景" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ボロブドゥール寺院の造営は、778年のカラサン碑文によれば、ダルマトゥンガ王はヒンドゥー教を奉ずるサンジャヤ王家(古マタラム王国)のパナンカラン王に対し、ターラ(多羅菩薩)をまつるための寺院とシャイレンドラ王家を祀る仏僧のための僧院を建造するよう提案したことによって始まったとしており、780年頃より造営が開始されたものとみられる。それに対してパナンカラン王は、周辺の土地を免税とする代わり、その地からの収入を寺院造営に利用するよう命じたと碑文では記している。サングラーマグナンジャヤ王治下の792年、ボロブドゥール本体の建設を一応完了している。", "title": "歴史背景" }, { "paragraph_id": 9, 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"インドネシア独立後の1960年代初頭には、遺跡は崩壊寸前の危機にあったが、地盤沈下による壁と床の傾斜、ムラピ火山の噴火後の構造破壊を防ぐ目的で、ユネスコ主導のもと1973年から10年の歳月と2,000万ドルの費用をかけて修復工事がおこなわれ、1982年に完了した。その際、水による浸食を防ぐため排水路を設ける必要が生まれたため方形壇部分をいったん全部解体し、石のひとつひとつにナンバリングを施し、コンピュータ管理をおこなっている。なお、この修復事業には日本はじめ27か国が資金協力をおこなった。日本では国際技術諮問委員として千原大五郎が選出されている。", "title": "遺跡の発見と保護" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また、1980年からは日本が技術協力をおこない、ボロブドゥールとプランバナン寺院群の2大遺跡とその周辺を歴史公園として整備し、文化遺産を保護しながら、観光と地域振興を図る計画が実施に移された。", "title": "遺跡の発見と保護" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1991年にはボロブドゥール東3kmのムンドゥッ寺院、東1.8kmのパオン寺院とともに「ボロブドゥール寺院遺跡群」として世界遺産の文化遺産に登録された。この3寺院は、一直線に並んで立地することから、付近一帯がこれらを含む多数の寺院群で構成された巨大な仏教複合構造物ではなかったかという推測も持たれている。", "title": "遺跡の発見と保護" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "その後、2006年5月27日にジョクジャカルタ付近を震源地とするマグニチュード6.2のジャワ島中部地震が起こり、寺院の石塔の一部が崩れるなどの被害を受けた。これについては、被害状況の調査がなされ、事後の修復を予定している。", "title": "遺跡の発見と保護" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1984年2月22日、インドネシアのスハルト大統領(当時)は、国家的行事として、ボロブドゥールの修復完成記念式典をおこなった。そのなかでスハルトは、ボロブドゥールが国民的宗教財産である旨の演説をおこなっているが、これは少なからず波紋をまねいた。1985年にはイスラーム過激派がボロブドゥールに侵入し、円形壇のストゥーパ9基を破壊する挙に出た(1985年のボロブドゥール爆撃(インドネシア語版、英語版))。インドネシアにおける仏教徒は、国民全体のわずかに0.4%にすぎない。遺跡周辺の村々では仏教徒はほぼゼロと言える。", "title": "観光と巡礼" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "とはいえ、ボロブドゥールは今や年間100万人の観光客が訪れる観光地となっている。ただしそれは、政府が外貨を獲得する代償として、地域住民が負担を強いられる原因ともなった。遺跡環境整備のための周辺農地の収用である。これは強制的な立ち退きを含むものであり、耕地面積の狭小な農民にとって大きな痛手となった。遺跡公園となった外側の土地も、はっきりした買収費が払われていない部分が多かった。", "title": "観光と巡礼" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "今日、ボロブドゥールには、数多くのインドネシアの児童生徒が社会見学や学習旅行、遠足のために訪れるが、仏教徒がわずかなインドネシアでは管理は株式会社化し、イベントやアトラクションを考えて経営する遊園地化してしまった。しかし、ボロブドゥールは仏教徒にとって重要な意味をもつ場所であることは言うまでもない。数多くの仏僧や一般信者が参詣につめかけるようになり、寺院としての本来の役割を担うようになった。", "title": "観光と巡礼" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "上述のような問題や批判がある一方で、国民統合の象徴のひとつとして国内外からの強い関心が払われている。", "title": "観光と巡礼" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ボロブドゥールでは、年に1回、5月の満月の夜にウェーサーカ祭と呼ばれる祭りが開かれている。この日はインドネシアの公式の祝日にもなっていて、国内外から熱心な仏教徒がムンドゥッ寺院に集まり、経典を唱えながら西に向けて行脚し、さらに、ボロブドゥールの回廊を登って涅槃に至るという一大行事となっている。", "title": "観光と巡礼" } ]
ボロブドゥール遺跡(ボロブドゥールいせき、Borobudur)は、インドネシアのジャワ島中部のケドゥ盆地に所在する大規模な仏教遺跡で世界的な石造遺跡。世界最大級の仏教寺院であり、ボロブドゥール寺院遺跡群の一部としてユネスコの世界遺産に登録されている。ミャンマーのバガン、カンボジアのアンコール・ワットと並んで、東南アジアの偉大な遺跡の1つである。 インドから東南アジアに伝播した仏教は一般に部派仏教(上座部仏教)と呼ばれる仏教であったが、ボロブドゥールは大乗仏教の遺跡である。シャイレーンドラ朝の時代、大乗仏教を奉じていたシャイレーンドラ王家によって、ダルマトゥンガ王治下の780年頃から建造が開始され、792年頃に一応の完成をみたと考えられ、サマラトゥンガ王(位812年-832年)のときに増築されている。 ボロブドゥール遺跡は、中部ジャワの中心都市ジョグジャカルタの北西約42km、首都ジャカルタからは東南東約400kmに所在し、巨大なムラピ火山などの山々に囲まれた平原の中央に立地する。遺跡総面積はおよそ1.5万m2。高さはもともと42mあったが、現在は破損して33.5mになっている。2010年ムラピ山の灰で被害を受けた。 方形壇の回廊のレリーフは、歴史上の出来事が中心となっている。釈迦(ガウタマ・シッダールタ)の前世の物語であるジャータカなどを絵巻物風に示し、前世の善財童子が巡礼の旅をする仏教経典『華厳経入法界品』などが描かれており、とくに釈迦の生誕から最初の説法にいたるまでの経緯については史実とともに数々の伝説もまじえて詳細に表現されている。その構図の多様性や人物表現の巧みさはボロブドゥールならではのものである。 仏像は、第一回廊から第四回廊の壁龕(くぼみ)に432体、3段の円形壇の上に築かれた釣鐘状のストゥーパ72基の内部に1体ずつ納められており、いずれも一石造りによって等身大につくられ、計504体を数える(詳細は後述)。
{{Expand English|Borobudur|date=2020年10月|fa=yes}} {{Infobox historic site | name = ボロブドゥール遺跡 | native_name = {{jav|ꦧꦫꦧꦸꦝꦸꦂ}} | native_language = jv | image = Borobudur Temple.jpg | caption = ボロブドゥール寺院遺跡 | locmapin = Indonesia Java#Indonesia | map_caption = ジャワ島における位置 | coordinates = {{coord|-7.608|110.204|display=inline,title}} | location = [[ジャワ島]]中部[[ケドゥ盆地]] | built = 9世紀、[[シャイレーンドラ朝]]の時代に創建 | restored = 1911 | restored_by = Theodoor van Erp | architect = Gunadharma | designation1 = WHS | designation1_type = 文化遺産 | designation1_criteria = i, ii, vi | designation1_date = 1991 <small>(第15回委員会)</small> | designation1_partof = [[ボロブドゥール寺院遺跡群]] | designation1_number = [https://whc.unesco.org/en/list/592 592] | designation1_free1name = Region | designation1_free1value = 東南アジア }} [[ファイル:Borobdur9205.jpg|250px|right|thumb|ボロブドゥール遺跡遠景]] '''ボロブドゥール遺跡'''(ボロブドゥールいせき、Borobudur)は、[[インドネシア]]の[[ジャワ島]]中部の[[ケドゥ盆地]]に所在する大規模な[[仏教遺跡]]で世界的な石造遺跡。世界最大級の[[寺院|仏教寺院]]であり、'''[[ボロブドゥール寺院遺跡群]]'''の一部として[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録されている。ミャンマーの[[バガン]]、カンボジアの[[アンコール・ワット]]と並んで、東南アジアの偉大な遺跡の1つである。 [[インド]]から[[東南アジア]]に伝播した[[仏教]]は一般に部派仏教([[上座部仏教]])と呼ばれる仏教であったが、ボロブドゥールは[[大乗仏教]]の[[遺跡]]である<ref name="BURITANICA">[[#BURITANICA|ブリタニカ百科事典]]</ref>。[[シャイレーンドラ朝]]の時代、大乗仏教を奉じていたシャイレーンドラ王家によって、[[ダルマトゥンガ王]]治下の[[780年]]頃から建造が開始され、[[792年]]頃に一応の完成をみたと考えられ、[[サマラトゥンガ王]](位[[812年]]-[[832年]])のときに増築されている。 ボロブドゥール遺跡は、中部ジャワの中心都市[[ジョグジャカルタ]]の北西約42km、首都[[ジャカルタ]]からは東南東約400kmに所在し、巨大な[[ムラピ火山]]などの山々に囲まれた[[平野|平原]]の中央に立地する。遺跡総面積はおよそ1.5万m<sup>2</sup>。高さはもともと42mあったが、現在は破損して33.5mになっている<ref name="MORIAI">[[#MORIAI|アンコール遺跡の地質学]] 、26-28頁 </ref>。2010年[[ムラピ山]]の灰で被害を受けた。 方形壇の回廊のレリーフは、歴史上の出来事が中心となっている。[[釈迦]](ガウタマ・シッダールタ)の前世の物語である[[ジャータカ]]などを絵巻物風に示し、前世の[[善財童子]]が[[巡礼]]の旅をする仏教経典『[[華厳経]]入法界品』などが描かれており、とくに釈迦の生誕から最初の説法にいたるまでの経緯については史実とともに数々の伝説もまじえて詳細に表現されている。その構図の多様性や人物表現の巧みさはボロブドゥールならではのものである。 [[仏像]]は、第一回廊から第四回廊の[[壁龕]](くぼみ)に432体<ref name="NHK2_79"/>、3段の円形壇の上に築かれた釣鐘状のストゥーパ72基の内部に1体ずつ納められており<ref name="NHK2_125">[[#NHK2_1991|NHK美の回廊をゆく② (1991)]] 、125頁</ref>、いずれも一石造りによって等身大につくられ、計504体を数える<ref name="NHK2_121">[[#NHK2_1991|NHK美の回廊をゆく② (1991)]] 、121頁</ref>(詳細は[[ボロブドゥール遺跡#仏像|後述]])。 == 歴史背景 == [[ファイル:Borobudur ship.JPG|230px|right|thumb|船のレリーフ]] [[ファイル:Borobudur stupa.jpg|230px|right|thumb|円形壇上のストゥーパ]] [[シャイレーンドラ朝]]は、[[8世紀]]半ばから[[9世紀]]にかけて[[オーストラロイド]]系の民族が[[ジャワ島]]中部に建てたとされる王朝である。 シャイレーンドラは[[サンスクリット語]]で「山からの王」という意味であり、[[インドシナ半島]]の古代王国[[扶南]]の「プノン」(山)と何らかの関係があるのではないかという推論も唱えられている。この王朝の成立経緯については、[[シュリーヴィジャヤ王国]]が8世紀半ば以降にジャワ島中部に進出したという説と、ジャワ王家でシュリーヴィジャヤに君臨した王朝であるという説があり、詳細はいまだ不明である。 大乗仏教を保護し、ボロブドゥールはじめ数多くの仏教建築をのこしたほか、[[サンスクリット]]の辞典『[[アマラテラ]]』を古代ジャワ語に翻訳している。 ボロブドゥール寺院の造営は、[[778年]]のカラサン碑文によれば、[[ダルマトゥンガ王]]は[[ヒンドゥー教]]を奉ずるサンジャヤ王家([[古マタラム王国]])の[[パナンカラン王]]に対し、ターラ(多羅菩薩)をまつるための寺院とシャイレンドラ王家を祀る[[僧|仏僧]]のための僧院を建造するよう提案したことによって始まったとしており、780年頃より造営が開始されたものとみられる。それに対してパナンカラン王は、周辺の土地を免税とする代わり、その地からの収入を[[寺院]]造営に利用するよう命じたと碑文では記している。[[サングラーマグナンジャヤ王]]治下の792年、ボロブドゥール本体の建設を一応完了している。 サンジャヤ王家は、シャイレーンドラ朝に服属し、その証として仏教建造物への寄進を行っていたが、シャイレーンドラ王家とサンジャヤ王家との関係は必ずしも敵対的ではなく、サマラトゥンガ王の娘でシャイレーンドラ王女の[[プラモーダヴァルダニー]]とサンジャヤ朝の王子[[ラカイ・ピカタン]]は婚姻関係を結んでいる。 [[サマラトゥンガ王]]治下の[[824年]]、ボロブドゥール寺院の工事が再開され、それは[[833年]]まで続いている。しかし、サマラトゥンガの死没した[[832年]]、王の後継者が未だ幼いことから、その姉にあたるプラモーダヴァルダニーがシャイレーンドラ朝の[[摂政]]となった。 その後、実権はプラモーダヴァルダニーの夫ラカイ・ピカタンにうつり、2人はチャンディ・ロロ・ジョングランをはじめとするヒンドゥー建築[[プランバナン寺院群]]を建造した。これによって、中部ジャワの地は、再び[[シヴァ]]信仰を奉ずるヒンドゥー勢力に支配され、大乗仏教はジャワより後退した。 832年以降、シャイレーンドラ朝は[[碑文]]にも[[史料]]にも現れなくなってしまうが、833年を最後にボロブドゥールの改修も終わっている。シャイレーンドラ王家のその後の消息を伝える唯一の碑文によると、後継者争いに破れたシャイレーンドラ家最後の王子[[バーラプトラ]]は、[[856年]]、[[スマトラ島]]の[[シュリーヴィジャヤ王国]]へ逃れ、その王女と結婚したとしている。 このような経緯から、ボロブドゥール寺院をシャイレーンドラ王家の霊廟として考える見方もある。 ==建築== [[ファイル:Borobudur Cross Section en.svg|250px|left|thumb|遺跡断面概念図]] ボロブドゥールは、平原の中央にある径約50mの天然の丘に[[盛土]]のうえ、[[安山岩]]や[[粘板岩]]を積み上げてつくられている。[[寺院]]として人びとに信仰されてきた建造物であるが、内部空間を持たないのが際だった特徴である。 [[建築資材]]となったのは、厚さ20cmから30cmの切石([[煉瓦]]様ブロック)である。ブロックは、質の粗い黒灰色の安山岩や凝灰岩を切断して製造されており、寺院はこのブロックを積み上げて建造されている。使用されたブロックの個数は200万弱におよび、容積は5万5,000m<sup>3</sup>、総重量は約350万tにもなるといわれる。 いちばん下に一辺が約115mの屈折した方形の基壇があり、その上に基壇と相似形をなし、やはり屈折した6層の方形壇、さらにその上に3層の円形壇があり、最上層には中心仏塔を載せており、[[階段]][[ピラミッド]]状の構造となっている<ref name="BURITANICA">[[#BURITANICA|ブリタニカ百科事典]]</ref>。この構造は、仏教における[[三界]]をあらわしていると考えられている(詳細は[[ボロブドゥール遺跡#三界の思想|後述]])。なお、それぞれの高さの比は 2 : 3 を基調とし、全体で 4 : 6 : 9 の比によって構成されている。 5層の方形壇の縁は壁になっていて、各層に幅2mの露天の回廊がめぐらされる。方形壇の四面中央には階段が設けられており、円形壇まで登れるようになっている。 {{-}} === 三界の思想 === [[ファイル:Borobudur Mandala.svg|200px|thumb|right|ボロブドゥールの平面基本構造 ---- 赤が欲界 (kāmadhātu)、橙が色界 (rūpadhātu) 、黄が無色界 (ārūpyadhātu)に対応する。 ]] [[ファイル:Taizokai.jpg|200px|right|thumb|[[両界曼荼羅#胎蔵曼荼羅|胎蔵曼荼羅]](中央に[[大日如来]]を配す)]] ボロブドゥールの構造は、仏教の[[三界]]をあらわしているとされる。つまり、下から、基壇は人間のいる[[欲界]]、その上は神と人間が触れあう世界である[[色界]]、さらに、その上部が[[神]]のいる[[無色界]]である。 * 欲界 (kāmadhātu) - 淫欲と食欲の2つの欲望にとらわれた[[有情]]の住む処。[[六欲天]]から人間界を含み、無間地獄までの世界。 * 色界 (rūpadhātu) - 欲界の2つの欲望は超越したが、物質的条件([[色 (仏教)|色]])にとらわれた有情が住む世界。 * 無色界 (ārūpyadhātu) - 欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界であり、「[[禅定]]」に住している世界。 ボロブドゥールでは、基壇が欲界、方形壇は色界、円壇は無色界として表現されており、人は下から上へ登っていくにつれ、欲望にあふれ罪悪に満ちた世界から、禅定に達した世界へと移っていくものとされる。すなわち、[[悟り]]をめざす[[菩薩]]の修行を表現しているとみなすことができる。 基壇においては、『[[分別善悪応報経]]』が160面のレリーフに彫られており、[[衆生]]の日常生活を描写しながら[[因果応報]]の教えが説かれている。 方形壇最上層の72面には[[普賢菩薩]]の[[慈悲|大慈悲心]]を讃歎する様子が具象化されている。 また、円形壇にはレリーフはなく、[[幾何学]]的な建築意匠によって抽象的な悟りの境地が示されており、全体でいわば石上に図解された[[経典]]とも呼びうるものとなっている。 === ストゥーパ === [[ファイル:Borobudur Helfferich-Sammlung.jpg|180px|left|thumb|ボロブドゥールのストゥーパ]] ボロブドゥールはまた、その形状から世界最大級の[[仏塔|ストゥーパ]](仏塔)でもある<ref>ボロブドゥールをストゥーパとみなすのは、ひとつの定説となっているが、インドには同様のストゥーパが皆無なことから、この定説に疑問を呈している学者もいる。</ref>。ストゥーパとは、[[釈迦]]の遺骨や[[遺物]]などをおさめた建造物であるが、ボロブドゥールは、さらに内部にも多数のストゥーパを有する特異な構造を呈している。 ストゥーパの釣鐘状になっている部分は、一辺23cm大の石のブロックを目透かし格子状に積み上げ、中の仏像を拝することができるようになっている。[[漆喰]]などの[[接着剤]]の類は一切用いられていない。 ストゥーパ72基は、全体では三重の円を描くように並び、下層より32基、24基、16基あって<ref name="NHK2_83">[[#NHK2_1991|NHK美の回廊をゆく② (1991)]] 、83頁</ref>、頂上には釈迦の[[仏舎利|遺骨]]を納めたとされる、ひときわ大きなストゥーパがあり、天上をめざしている。この中心塔には[[大日如来]]を置かず空洞にしており、これは大乗仏教の真髄である「[[空 (仏教)|空]]」の思想を強調しているとされ、ジャワ仏教の独自性が示されている。 ボロブドゥールは、それ自体が仏教的宇宙観を象徴する巨大な[[曼荼羅]]といわれ、一説には、[[須弥山]]を模したものとも考えられている。 == レリーフ == 総延長5kmにおよぶ方形壇の回廊には、仏教説話にもとづいた1460面におよぶ浮彫彫刻[[レリーフ]]が時計回りにつづいており<ref name="NHK2_79">[[#NHK2_1991|NHK美の回廊をゆく② (1991)]] 、79頁</ref>、登場人物は1万人におよぶとされている。同様に1212面の装飾浮彫には<ref name="NHK2_79"/>、天人や[[羅刹]]、鳥獣、[[唐草模様|植物文様]]およびインド神話に登場する伝説上の鳥獣などがみられる<ref name="NHK2_127">[[#NHK2_1991|NHK美の回廊をゆく② (1991)]] 、127頁</ref>。なお、外層、内層ともに四方に階段をもち、各面いずれも全く同形同構造で、どれを正面とするかわからない、[[幾何学]]的に均斉な構造となっている <ref>Hary Gunarto ([[ハリー・グナルト]]), Digital Preservation of Borobudur World Heritage and Cultural Treasures, Journal of Ritsumeikan Studies in Language and Culture, VOL 19, No 2, Kyoto, Nov. 2007, pp. 263-278. </ref>。 レリーフは、その構図の巧みさ、洗練された浮彫彫刻の技法、細部表現の優雅さで知られ、仏像とともにインドの[[グプタ朝|グプタ美術]]の影響が強く認められる。 <gallery> ファイル:Borobodur2.jpg|方形壇回廊のレリーフ ファイル:Borobudur mural.jpg|方形壇回廊(右下にレリーフ) ファイル:Borobodur1.jpg|ボロブドゥールの円形壇上の仏塔と仏像 ファイル:Borobudur buddha.jpg|釈迦如来 ファイル:Borobudur_Kinkei.jpg|ボロブドゥール近景。壁龕内の仏像が確認できる。 ファイル:ReliefBBorobudur.jpg|基壇壁面のレリーフ。上段は釈迦の一生、下段は因果応報の[[たとえ話]]。 </gallery> == 仏像と装飾 == === 仏像 === 回廊の外縁をめぐる壁には432体(各面108体)の仏像が安置されている<ref name="NHK2_125"/>。仏像は、方形壇の各面で、面ごとに異なった[[印相]]を結んでいる。各面第4層(第三回廊<ref name="NHK2_132">[[#NHK2_1991|NHK美の回廊をゆく② (1991)]] 、132頁</ref>)までの368体(各面92体)については、それぞれ以下のようになっている。 *東側:[[阿閦如来]]で指地の印 *南側:[[宝生如来]]で満願の印 *西側:[[阿弥陀如来]]で弥陀定印 *北側:[[不空成就如来]]で無畏の印 第5層(第四回廊)の64体は<ref name="NHK2_132"/>、東西南北ともに[[毘盧遮那仏]]で法身説法印を結んでいる。 <gallery> ファイル:COLLECTIE TROPENMUSEUM Boeddhabeeld van de Borobudur TMnr 10016277.jpg|阿閦如来(東面) ファイル:COLLECTIE TROPENMUSEUM Boeddhabeeld van de Borobudur TMnr 60013976.jpg|宝生如来(南面) ファイル:COLLECTIE TROPENMUSEUM Boeddhabeeld van de Borobudur voorstellende Dhyani Boeddha Amitabha TMnr 10016276.jpg|阿弥陀如来(西面) ファイル:COLLECTIE TROPENMUSEUM Boeddhabeeld van de Borobudur voorstellende Dhyani Boeddha Amogasiddha TMnr 10016274.jpg|不空成就如来(北面) ファイル:Borobudur-perfect-buddha.jpg|転法輪印を結ぶ釈迦如来 </gallery> 円形壇の72体の[[転法輪]]印の仏像は[[釈迦如来]]と考えられており、このことより、ボロブドゥール全体が[[密教]]<ref>呪術的な要素を取り入れた、[[チベット]]や[[ネパール]]などに伝わった仏教の一派。</ref>の系統を引く巨大な立体曼荼羅であるとする説が有力である。 [[ファイル:Borobudur spout.jpg|170px|right|thumb|吐水口の彫刻]] === 装飾 === 5層の方形壇の縁には壁がめぐらされ、壁には計20の吐水口が取り付けられている。吐水口は、想像上の生き物の彫刻で飾られている。 また、壇の上下を結ぶ階段の入口は、[[カーラ (鬼)|カーラ]](鬼面)と[[マカラ]](海竜)で装飾された拱門([[アーチ]])になっている。 == 遺跡の発見と保護 == [[画像:Borobudur photograph by van kinsbergen.jpg|230px|right|thumb|1873年のボロブドゥール]] [[画像:Stamford Raffles statue.jpg|180px|right|thumb|ラッフルズ像]] この遺跡は、久しく忘れ去られ[[密林]]のなかに埋もれていた。その原因については、[[火山]]の降灰によるものであるとする説が有力である。[[1814年]]に[[イギリス人]]の[[トーマス・ラッフルズ]](当時[[ジャワ総督 (イギリス)|ジャワ総督]]代理)とオランダ人技師コルネリウスによって森のなかで再発見され、その一部が発掘された。 [[1851年]]から[[1854年]]にかけての第2次調査では、壁面のレリーフのほとんどが現れ、[[1885年]]の[[発掘調査]]の際には、土台の内壁に、人間のあらゆる[[欲望]]を描いた160面のレリーフが現れた。崩落の危険性があるため、埋め戻され、再び覆い隠されることとなった<ref>現在では南東端の一部だけが公開されている。</ref>。[[1900年]]には[[オランダ]]政府によって発掘調査委員会が組織され、[[1907年]]には写真記録がおこなわれた。また、1907年から[[1911年]]にかけてはオランダ人技師ファン・エルプによって復原工事がおこなわれている。 [[インドネシアの歴史#独立後のインドネシア|インドネシア独立]]後の[[1960年代]]初頭には、遺跡は崩壊寸前の危機にあったが、[[地盤沈下]]による壁と床の傾斜、ムラピ火山の噴火後の構造破壊を防ぐ目的で、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]主導のもと[[1973年]]から10年の歳月と2,000万ドルの費用をかけて修復工事がおこなわれ、[[1982年]]に完了した<ref name="BURITANICA">[[#BURITANICA|ブリタニカ百科事典]]</ref>。その際、水による[[浸食]]を防ぐため[[排水路]]を設ける必要が生まれたため方形壇部分をいったん全部解体し、石のひとつひとつに[[ナンバリング]]を施し、[[コンピュータ]]管理をおこなっている。なお、この修復事業には[[日本]]はじめ27か国が資金協力をおこなった。日本では国際技術諮問委員として[[千原大五郎]]が選出されている。 また、1980年からは日本が技術協力をおこない、ボロブドゥールと[[プランバナン寺院群]]の2大遺跡とその周辺を歴史公園として整備し、文化遺産を保護しながら、観光と地域振興を図る計画が実施に移された<ref>このことが、一方で農地の収用と農民の立ち退きを招来する要因となっていることは本文中記載の通りである。援助をおこなった日本に対して、現地では感謝の声も多い反面、非難の声もある。</ref>。 [[ファイル:Borobudur Map en.svg|230px|right|thumb|ボロブドゥール、ムンドゥッ、パオン3寺院の位置関係]] [[1991年]]にはボロブドゥール東3kmの[[ボロブドゥール寺院遺跡群#ムンドゥッ寺院|ムンドゥッ寺院]]、東1.8kmの[[ボロブドゥール寺院遺跡群#パオン寺院|パオン寺院]]とともに「[[ボロブドゥール寺院遺跡群]]」として[[世界遺産]]の[[文化遺産]]に登録された<ref name="BURITANICA">[[#BURITANICA|ブリタニカ百科事典]]</ref>。この3寺院は、一直線に並んで立地することから、付近一帯がこれらを含む多数の寺院群で構成された巨大な仏教複合構造物ではなかったかという推測も持たれている。 その後、[[2006年]][[5月27日]]にジョクジャカルタ付近を震源地とする[[マグニチュード]]6.2の[[ジャワ島中部地震]]が起こり、寺院の石塔の一部が崩れるなどの被害を受けた。これについては、被害状況の調査がなされ、事後の修復を予定している。 == 観光と巡礼 == [[ファイル:Soeharto.jpg|right|140px|thumb|スハルト]] [[1984年]][[2月22日]]、インドネシアの[[スハルト]][[大統領]](当時)は、国家的[[イベント|行事]]として、ボロブドゥールの修復完成記念式典をおこなった。そのなかでスハルトは、ボロブドゥールが国民的宗教財産である旨の演説をおこなっているが、これは少なからず波紋をまねいた。[[1985年]]には[[イスラーム]]過激派がボロブドゥールに侵入し、円形壇のストゥーパ9基を破壊する挙に出た({{仮リンク|1985年のボロブドゥール爆撃|id|Bom Candi Borobudur 1985|en|1985 Borobudur bombing}})。インドネシアにおける[[仏教徒]]は、国民全体のわずかに0.4%にすぎない。遺跡周辺の村々では仏教徒はほぼゼロと言える<ref> 村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子著『エリア・スタディーズ113 現代インドネシアを知るための60章』 明石書店 2013年 141ページ</ref>。 [[ファイル:Children and Borobudur.jpg|right|250px|thumb|遠足に訪れた子供たち]] とはいえ、ボロブドゥールは今や年間100万人の観光客が訪れる[[観光地]]となっている。ただしそれは、[[政府]]が[[外貨]]を獲得する代償として、地域住民が負担を強いられる原因ともなった。遺跡環境整備のための周辺[[農地]]の収用である。これは強制的な立ち退きを含むものであり、耕地面積の狭小な農民にとって大きな痛手となった。遺跡公園となった外側の土地も、はっきりした買収費が払われていない部分が多かった<ref> 村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子著『エリア・スタディーズ113 現代インドネシアを知るための60章』 明石書店 2013年 140ページ</ref>。 今日、ボロブドゥールには、数多くのインドネシアの[[児童]][[在籍者 (学習者)|生徒]]が社会見学や学習旅行、[[遠足]]のために訪れるが、仏教徒がわずかなインドネシアでは管理は株式会社化し、イベントやアトラクションを考えて経営する遊園地化してしまった。しかし、ボロブドゥールは[[仏教徒]]にとって重要な意味をもつ場所であることは言うまでもない。数多くの[[僧|仏僧]]や一般信者が参詣につめかけるようになり、寺院としての本来の役割を担うようになった。 [[ファイル:Borobudur monks 1.jpg|right|230px|thumb|ボロブドゥールを参詣する仏僧]] 上述のような問題や批判がある一方で、国民統合の[[象徴]]のひとつとして国内外からの強い関心が払われている。 ボロブドゥールでは、年に1回、[[5月]]の[[満月]]の夜に[[ウェーサーカ祭]]と呼ばれる祭りが開かれている。この日はインドネシアの公式の[[祝日]]にもなっていて、国内外から熱心な仏教徒がムンドゥッ寺院に集まり、[[経典]]を唱えながら西に向けて行脚し、さらに、ボロブドゥールの回廊を登って[[涅槃]]に至るという一大[[年中行事|行事]]となっている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <div class="references-small"><references /></div> == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |editor=小学館 |year=1999 |title= 地球紀行 世界遺産の旅 |publisher=小学館<GREEN Mook> |isbn= 4-09-102051-8 |ref=}} *{{Cite book|和書 |editor=河部利夫 |year=1990 |title=世界の歴史18 東南アジア |publisher=河出書房新社<河出文庫> |isbn= 4-309-47177-3 |ref=}} *{{Cite book|和書 |editor=ユネスコ世界遺産センター |year=1997 |title=ユネスコ世界遺産 東南アジア・オセアニア |publisher=講談社 |isbn=4062547066 |ref=}} *{{Cite book|和書 |editor=盛合禧夫 |year=2000 |title=アンコール遺跡の地質学 |publisher=連合出版 |isbn=4-89772-155-5 |ref=MORIAI}} * {{Cite book|和書 |author=NHK取材班ほか |year=1991 |title=NHK美の回廊をゆく 東南アジア至宝の旅② |publisher=[[日本放送出版協会]] |isbn=4-14-009156-8 |ref=NHK2_1991}} * {{Cite book|和書 |author= |year=2016 |title=[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際大百科事典]] |publisher=ブリタニカ・ジャパン |isbn= |ref=BURITANICA}} == 関連項目 == {{Commons&cat|Borobudur|Borobudur}} {{Wikivoyage|Borobudur|ボロブドゥール遺跡{{en icon}}}} * [[ボロブドゥール寺院遺跡群]] * [[パウォン寺院]] * [[ムンドゥット寺院]] * [[密教]] * [[曼荼羅]] * [[仏塔]] * [[空 (仏教)]] * [[シャイレーンドラ朝]] * [[インドネシアの歴史]] {{インドネシアの世界遺産}} {{Buddhism2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほろふとううるいせき}} [[Category:インドネシアの歴史]] [[Category:仏教遺跡]] [[Category:ジャワ島の歴史]] [[Category:中部ジャワ州]] [[Category:インドネシアの考古遺跡]] [[Category:インドネシアの仏教寺院]] [[Category:考古天文学]] [[Category:8世紀の建築物]] [[Category:ユネスコ記憶遺産]] [[Category:仏教の聖遺物]] [[Category:レリーフ]]
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三昧
サマーディ(Samadhi)の音写である三昧(さんまい、サンスクリット語: समाधि、samādhi)は、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、シーク教、ヨーガなどインド発祥の宗教における瞑想で、精神集中が深まりきった状態のことをいう。三摩地(さんまぢ)、三摩提とも音訳され、定、等持と義訳される。 サマーディの語は「組み合わせ」という原義から「心を等しく持すること」の意に転じたもので、サマーパッティ (samāpatti, 等至) とも意味内容はほぼ同じとされる。 インドでは聖者の入滅をサマーディと表現する。 Samādhi を意訳したものとして、以下のような言葉がある。 天台智顗()による『摩訶止観』(まかしかん)では、四種三昧(ししゅざんまい)として四つに分けられている。 仏教におけるサマーディは、八正道のひとつ、正定である。 ヒンドゥー教ヨーガ学派経典のヨーガ・スートラでは、三昧とは静慮があたかも客体のみになって自体が空になったかのような状態であると定義される。ヨーガ・スートラでは以下のように、「有想(うそう)三昧」と「無想(むそう)三昧」(第1章17-18節)、「有種子(うしゅし)三昧」と「無種子(むしゅし)三昧」(第1章41-51節)の別が説かれている。
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サマーディ(Samadhi)の音写である三昧は、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、シーク教、ヨーガなどインド発祥の宗教における瞑想で、精神集中が深まりきった状態のことをいう。三摩地(さんまぢ)、三摩提とも音訳され、定、等持と義訳される。
{{Otheruses|瞑想に関する用法|[[NHK-FM放送|NHK-FM]]の特別番組のシリーズ|今日は一日○○三昧|その他の三昧|三昧#俗用}} {{Infobox Hindu term | title = サマーディ | en = Samadhi | sa = समाधि) | sa-Latn = samādhi | pi = समाधि) | zh = 三摩地 | ja = 三昧, 三摩地, 三摩提, 定, 等持 }} '''サマーディ'''(Samadhi)の[[音写]]である'''三昧'''(さんまい、{{翻字併記|sa|समाधि|samādhi|n|区=、}})は、[[仏教]]、[[ヒンドゥー教]]、[[ジャイナ教]]、[[シーク教]]、[[ヨーガ]]など[[インド発祥の宗教]]における[[瞑想]]で、精神集中が深まりきった状態のことをいう。'''三摩地'''(さんまぢ)、'''三摩提'''とも音訳され、'''[[定]]'''、'''等持'''と義訳される<ref name="Yamashita">山下博司 『ヨーガの思想』 講談社〈講談社メチエ〉、2009年、127-129頁。</ref>。 {{Main2|仏教におけるサマーディ|定}} == 語源 == サマーディの語は「組み合わせ」という原義から「心を等しく持すること」の意に転じたもので、サマーパッティ (samāpatti, 等至) とも意味内容はほぼ同じとされる<ref name="Yamashita"/>。 インドでは聖者の入滅をサマーディと表現する<ref name="Yamashita"/>。 == 漢訳における意訳 == {{出典の明記|date=2017-05|section=1}} Samādhi を意訳したものとして、以下のような言葉がある。 * [[定]] - 心を一処に定めて動くことがない、の意。 * 正受 - 正しく所観の[[法 (仏教)|法]]を受ける、の意。 * 調直定 心に暴を調え、心の曲がるのを直し、心が散るのを定める、の意。 * 正心行処 - 心の動きを正して、法に合わせるための依処である、の意。 * 息慮凝心 - :縁慮を止めて心念を凝結する、の意。 ===『摩訶止観』において=== {{一次資料|date=2017年7月21日 (金) 05:09 (UTC)|section=1}} {{読み仮名|[[智顗|天台智顗]]|てんだいちぎ}}による『[[摩訶止観]]』(まかしかん)では、四種三昧(ししゅざんまい)として四つに分けられている。 *常坐三昧(一行三昧) - 90日間座り続ける。 *常行三昧(仏立三昧) - 『[[般舟三昧経]]』に基づき、90日間阿弥陀仏の周りを回りながら念仏を行う。 *半行半坐三昧 - [[本尊]]の周りを歩く行と、座る行を行う。 **方等三昧 - 『大方等陀羅尼経』に基づいて7日間行われる。 **法華三昧 - 『[[法華経]]』に基づき37日間または21日間行われる。 *非行非坐三昧(随自意三昧) == 仏教 == {{Main|定}} 仏教におけるサマーディは、[[八正道]]のひとつ、[[正定 (仏教)|正定]]である。 == ヒンドゥー教 == {{Main|:en:Samādhāna}} [[ヒンドゥー教]][[ヨーガ学派]]経典の[[ヨーガ・スートラ]]では、三昧とは[[禅定|静慮]]があたかも客体のみになって自体が空になったかのような状態であると定義される<ref name="Yamashita"/><ref name="Tachikawa">立川武蔵 『ヨーガの哲学』 講談社〈講談社学術文庫〉、2013年、88-93頁</ref>。ヨーガ・スートラでは以下のように、「有想(うそう)三昧」と「無想(むそう)三昧」(第1章17-18節)、「有種子(うしゅし)三昧」と「無種子(むしゅし)三昧」(第1章41-51節)の別が説かれている<ref name="Naruse">成瀬貴良 『ヨーガ事典』 BABジャパン、2010年、160-161頁</ref>。 ;有想三昧(サンプラジュニャータ・サマーディ) :尋(ヴィタルカ)、伺(ヴィチャーラ)、楽(アーナンダ)、我想(アスミター)の意識対象が伴っている三昧<ref name="Naruse"/>。 ;無想三昧(アサンプラジュニャータ・サマーディ) :行(サンスカーラ)だけが残っている三昧<ref name="Naruse"/>。 ;有種子三昧(サビージャ・サマーディ) :心の対象が残っている三昧<ref name="Tachikawa"/>。ヨーガスートラに述べられる定(サマーパティ)の種類には'''有尋定'''(うじんじょう、サヴィタルカ・サマーパティ)、'''無尋定'''(むじんじょう、ニルヴィタルカ・サマーパティ)、'''有伺定'''(うしじょう、サヴィチャーラ・サマーパティ)、'''無伺定'''(むしじょう、ニルヴィチャーラ・サマーパティ)がある<ref name="Naruse"/>。 ;無種子三昧(ニルビージャ・サマーディ) :真智(直感智)さえも止まり、すべての心作用が止滅した時に生じる三昧<ref name="Tachikawa"/>。 == 俗用 == * 他の名詞の後に付いて「-ざんまい」と[[連濁]]化し、一心不乱に事をするさま(例:読書三昧)や、むやみやたらにしたがるさま(例:贅沢三昧)を表す<ref name="広辞苑1010">{{Cite book |和書 |author=新村出(編) |authorlink= |coauthors= |others= |date=1986-10 |title=広辞苑 |edition=第三版 |publisher=岩波書店 |volume= |page=1010 |isbn=}}</ref>。 * [[平安時代]]以来、[[火葬場]]のことを三昧(さんまい)といった<ref name="コトバンク火葬場">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E7%81%AB%E8%91%AC%E5%A0%B4-463108|title=火葬場(カソウバ)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-08-09}}</ref>。三昧場(さんまいば)は、[[墓|墓地]]、火葬場、もしくは死者の冥福を祈るために墓地の近くに設けた堂などを指す<ref name="コトバンク三昧場">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%98%A7%E5%A0%B4-514887|title=三昧場(サンマイバ)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-08-09}}</ref><ref name="広辞苑1010" />。 ==脚注== === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wikt|三昧|三摩地}} *[[サマタ瞑想]] *[[禅定]] *[[念仏#念仏三昧|念仏三昧]] == 外部リンク == *[http://www.acmuller.net/cgi-bin/search-ddb4.pl?Terms=三昧 Digital Dictionary of Buddhism] (log in with userID "guest") {{Buddhism2}} {{Hinduism2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さんまい}} [[Category:瞑想 (仏教)]] [[category:禅用語]] [[category:仏教用語]] [[Category:ヒンドゥー教]]
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仏教における定(じょう)、サマーディ(巴、梵: samādhi)は、心をひとつの対象に集中し心の散乱がないという精神の作用や、そのようにすることや、定まっているその状態を指す。また、一般に心を散乱させないようにする修行、及びそれによってもたらされた特殊な精神状態をも総称して定という。samādhiの音写が三昧(さんまい)であり、三摩地とも書かれた。 定すなわち三昧は、仏教の三学である戒・定・慧の一つであって、仏教の実践道の大綱である。また、八正道の一つには正定が挙げられており、五根には定根が、五力には定力が挙げられている。。定は五分法身(中国語版)の一つでもある。定に反して心が散り乱れて動く状態を散といい、定散(じょうさん)と呼ばれる。 定は、もともと古代インドの宗教的実践として行われてきたものを仏教にも採用したもので、その境地の深まりに応じて様々な名称の定が説かれる。 『総合佛教大辞典』よれば、禅定(静慮)、三昧などの語の含む範囲と、定のそれとの広狭に関しては種々の異説があるという。それらの語は、広くは禅定といわれる。慧沼の『成唯識論了義灯』巻五本には定の異名が7つ挙げられている。それは、「三摩呬多」(等引)、「三摩地」(等持)、「三摩鉢底」(等至)、「駄那演那」(靜慮)、「質多翳迦阿羯羅多」(心一境性)、「奢摩他」(心(止))、「現法樂住」の七つである: 。それぞれは、サマーヒタ(梵: samāhita、等持)、サマーディ(梵: samādhi、三摩地、定)、サマーパッティ(梵: samāpatti、等至)、ディヤーナ(梵: dhyāna、禅那)、チッタイカーグラター(梵: cittaikāgratā、心一境性)、シャマタ(梵: śamatha、止)、ドリシュタ・ダルマ・スカ・ヴィハーラ(梵: dṛṣṭa-dharma-sukha-vihāra、現法楽住)である。 サマーディ (巴, 梵: samādhi) は、良くという意味の Sam と、置くという意味の Adhi であり、心を一定の対象に集中させることである。定の強さによって、初心者の定、禅定の直前のもの、禅定を伴っているものに分けられる。 定には、修得定(しゅとくじょう)と生得定(しょうとくじょう)とがある。修得定は、散地である欲界において、定を得るための修行を実践して得られる。生得定は、定地である色界・無色界に生まれることで自然に得られる。色界定の場合は、この二をそれぞれ生静慮・定静慮といい、無色定の場合は生無色・定無色という。 ブッダゴーサは、定を「意識とそれに付随する意識を、単一の物体に均等かつ正しく集中させること ..(中略).. 意識とそれに付随する意識が、単一の物体に均等かつ正しくとどまり、気を散らされることなく散らばらない状態」と定義している。 ブッダゴーサによると上座部パーリ仏典においては、四種類の定の達成について言及されている。 ブッダゴーサの清浄道論においては、定知恵を得るための「近因」であると記されている 。ブッダゴーサは瞑想のための四十業処をまとめ上げており、パーリ仏典では全体として言及されているが、清浄道論においては明示的なリストとして記された。たとえばマインドフルネス呼吸法(安那般那念)、慈悲の瞑想などがある。 倶舎宗などでは、禅定という言葉は静慮(dhyama)として説かれる。有心定と無心定に大別する。 有心定には四静慮(四禅、四色禅定、Rūpajhānas)と四無色定(Arūpajhāna)との八定(八等至)がある。八定とは、初静慮、第二静慮、第三静慮、第四静慮、空無辺処定、識無辺処定、無所有処定、非想非非想処定である。 これらの定には、それぞれの定に入り終わった段階と、定に近づきつつある準備的入門の前段階とがある。初静慮の前段階のみを未至定(みしじょう, anagamya)というが、その他は、それぞれの定に近づきつつある前段階のことを近分定(ごんぶんじょう)といい、それぞれの定に入り終わった段階を根本定という。 第四静慮には下下品から上上品までの九品があり、その究極である上上品は色界の定の最高であるから辺際定(へんざいじょう)という。 不時解脱の阿羅漢は、四禅・四無色の八定を順次修めるのではなく、一地を超えて高い段階の定を修めるとされる。これを超定という。 無心定には、無想定と滅尽定とがあり、いずれも心・心所を全く滅する定である。四禅(四静慮)・四無色・滅尽の九定は、異心をまじえずに次第を追って順次に修得するときは九次次第、無間禅と名付けられる。 四禅と四無色定の上に、滅尽定(nirodha-samāpatti)すなわち、想受滅定(saññā-vedayita-nirodha-samāpatti)があり、九次第定と呼ばれる。 無想定は、凡夫や外道が無想の状態を真の悟りと誤認して修めるものであるが、滅尽定は、聖者がその定の境地を無余涅槃界の静けさになぞらえて修めるものである。無想定では、第四の禅定にもとづき知覚の粗いはたらきがなくなり、滅尽定(nirodha-samāpatti)では、有頂天にもとづき心と心所法は決められた間において止滅する。 九次第定とは、パーリ語仏典では9つの定を置く形で説明が保たれており、第一禅定、第二禅定、第三禅定、第四禅定、空無辺処(定)、識無辺処(定)、無所有処(定)、非想非非想処(定)、想受滅となり、この最後だけが釈迦が初めて到達した仏教に特徴的な定だとされる。大般涅槃経では、釈迦は入滅にさいして第一禅定と想受滅のあいだを上下し、第四禅定から出定したのち般涅槃に入ったとされている。藤本晃は、滅尽定は煩悩を滅して心を完全に清らかにした阿羅漢でなければできない禅定であり、凡夫の禅定者にとっては非想非非想処定が最高の境地であると述べている。 初期経典の『阿含経』やパーリ・ニカーヤでは、最上位に滅受想定(滅尽定)が存在するとするものの、九次第定で想受滅定が語られる位置に、無相の心定が言及され、この無相の心定とは滅受想定から出定する際の観であると解釈されている。 滅尽定については、異なる複数以上のサンスクリットの漢訳として用いられており、滅受想定と同義の漢訳の他に、ubhaya(to)-bhāga-vimukta からの翻訳がある。 十地経の第七では、「(波羅蜜にある)かの菩薩」なる者が、第六の菩薩の地(くらい)において初めて、「あらゆるまよいの存在が滅尽する定(滅定)」に入定し、第七の菩薩の地において、その定に入定してはまた出定するようになるとする。『入中論』の月称(チャンドラキールティ)の注釈も、十地における滅尽定は第六地から第八地にかけて入定するということであるとしている。ツォンカバの『密意解明』でも同様である。 これら定の名称については、同じサンスクリットが異なる複数以上の漢訳を持つ場合がある一方で、全く異なる意味のサンスクリットが同じ漢語で訳されていることがある(例: 滅尽定)。 大乗では多くの定が説かれる。唯識宗や真言宗の瑜伽の観行、天台宗の四種三昧、禅宗の坐禅などがある。 定に入ることや、さとりを得た人が死ぬことを入定といい、定から出ることを出定という。 観無量寿経では、西方の極楽浄土へ往生するための行として定散二善を説く。善導によれば、定善を修める人を定機、散善を修める人を散機という。浄土真宗では定散二機を自力の行者であるとし、他力の大信心と対比させている。
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仏教における定(じょう)、サマーディは、心をひとつの対象に集中し心の散乱がないという精神の作用や、そのようにすることや、定まっているその状態を指す。また、一般に心を散乱させないようにする修行、及びそれによってもたらされた特殊な精神状態をも総称して定という。samādhiの音写が三昧(さんまい)であり、三摩地とも書かれた。 定すなわち三昧は、仏教の三学である戒・定・慧の一つであって、仏教の実践道の大綱である。また、八正道の一つには正定が挙げられており、五根には定根が、五力には定力が挙げられている。。定は五分法身の一つでもある。定に反して心が散り乱れて動く状態を散といい、定散(じょうさん)と呼ばれる。 定は、もともと古代インドの宗教的実践として行われてきたものを仏教にも採用したもので、その境地の深まりに応じて様々な名称の定が説かれる。
{{Otheruses|仏教におけるサマーディ|他宗教におけるサマーディ|三昧|[[文法]]上の'''定'''(てい、definite)|定性}} {{Infobox Buddhist term | title = 定, サマーディ | image = File:Samadhi buddha statue-Anuradhapura.jpg | caption = [[アヌラーダプラ]]のサマーディ像(4-6世紀ごろ,世界遺産) | en = {{en|concentration, one-pointedness of mind}} | pi = | sa = समाधि ({{lang|sa|samādhi}}) | bn = | my = | my-Latn = | zh = 三昧 , 三摩地 , 定 | zh-Latn = sān mó dì | ja = 定 | ja-Latn = じょう }} [[仏教]]における'''定'''(じょう)、'''サマーディ'''([[パーリ語|巴]]、{{Lang-sa-short|samādhi}})は、心をひとつの対象に集中し心の散乱がないという精神の作用や、そのようにすることや、定まっているその状態を指す<ref name="総合佛教大辞典687" /><ref name="岩波仏教辞典513" />。また、一般に心を散乱させないようにする修行、及びそれによってもたらされた特殊な精神状態をも総称して定という<ref name="総合佛教大辞典687" />。samādhiの音写が'''[[三昧]]'''(さんまい)であり、'''三摩地'''とも書かれた。 定すなわち三昧は、仏教の[[三学]]である[[戒]]・定・[[慧]]の一つであって、仏教の実践道の大綱である<ref name="総合佛教大辞典687" />。また、[[八正道]]の一つには正定が挙げられており、[[五根 (三十七道品)|五根]]には定根が、[[五力]]には定力が挙げられている。<ref name="岩波仏教辞典513">{{Cite |和書|author=(編集)中村元、田村芳朗、末木文美士、福永光司、今野達|title=岩波仏教辞典|edition=2|publisher=岩波書店|date=2002|isbn=4-00-080205-4|pages=513-514}}</ref><ref name="総合佛教大辞典687" />。定は{{仮リンク|五分法身|zh|五分法身}}の一つでもある<ref name="岩波仏教辞典513" />。定に反して心が散り乱れて動く状態を散といい、定散(じょうさん)と呼ばれる<ref name="総合佛教大辞典687">{{Cite book|和書|author=総合仏教大辞典編集委員会|title=総合佛教大辞典|publisher=法蔵館|date=2005|isbn=4-8318-7070-6|pages=687-689}}</ref>。 定は、もともと古代[[インド]]の宗教的実践として行われてきたものを仏教にも採用したもので、その境地の深まりに応じて様々な名称の定が説かれる<ref name="岩波仏教辞典513" />。 == 定の異名 == 『総合佛教大辞典』よれば、[[禅定]](静慮<ref name=kosha/>)、三昧などの語の含む範囲と、定のそれとの広狭に関しては種々の異説があるという<ref name="総合佛教大辞典687" />。それらの語は、広くは[[禅定]]といわれる<ref name="総合佛教大辞典687" />。[[慧沼]]の『[[成唯識論了義灯]]』巻五本には定の異名が7つ挙げられている。それは、「三摩呬多」(等引)、「三摩地」(等持)、「三摩鉢底」(等至)、「駄那演那」(靜慮)、「質多翳迦阿羯羅多」(心一境性)、「奢摩他」(心(止))、「現法樂住」の七つである: <ref>『大正大蔵経』巻43、740頁</ref>。それぞれは、サマーヒタ({{lang-sa-short|samāhita}}、等持)、サマーディ({{lang-sa-short|samādhi}}、三摩地、定)、サマーパッティ({{lang-sa-short|samāpatti}}、等至)、ディヤーナ({{lang-sa-short|dhyāna}}、禅那)、チッタイカーグラター({{lang-sa-short|cittaikāgratā}}、心一境性)、シャマタ({{lang-sa-short|śamatha}}、止)、ドリシュタ・ダルマ・スカ・ヴィハーラ({{lang-sa-short|dṛṣṭa-dharma-sukha-vihāra}}、現法楽住)である<ref name="総合佛教大辞典687" />。 === サマーディ === {{節スタブ}} {{要検証範囲|サマーディ ([[パーリ語|巴]], {{Lang-sa-short|samādhi}}<ref>『岩波 仏教辞典 第二版』401頁「三昧」</ref>) は、良くという意味の Sam と、置くという意味の Adhi であり、心を一定の対象に集中させることである<ref name="ミャンマーの瞑想"/>。定の強さによって、初心者の定、[[禅定]]の直前のもの、[[禅定]]を伴っているものに分けられる<ref name="ミャンマーの瞑想">{{Cite book|和書|author=マハーシ長老|translator=ウ・ウィジャナンダー |title=ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法|publisher=国際語学社|date=1996|isbn=4-87731-024-X|page=162}}</ref>。|title=「三昧」と漢訳される samādhi、「禅定」または「静慮」と漢訳される dhyāna、ほかがごちゃ混ぜで記述されている。おそらく、漢訳で「見」「向」とされるものまで初心者の定、直前の定とされているようで混乱が甚だしい。|date=2017年5月}} == 修得定と生得定 == 定には、修得定(しゅとくじょう)と生得定(しょうとくじょう)とがある<ref name="総合佛教大辞典687" />。修得定は、散地である[[欲界]]において、定を得るための修行を実践して得られる<ref name="総合佛教大辞典687" />。生得定は、定地である[[色界]]・[[無色界]]に生まれることで自然に得られる<ref name="総合佛教大辞典687" />。{{要追加記述範囲|色界定の場合は、この二をそれぞれ生静慮・定静慮といい、無色定の場合は生無色・定無色という<ref name="総合佛教大辞典687" />。|date=2017年5月17日 (水) 08:47 (UTC)|title=この部分は、出典の総合佛教大辞典p.688の③「定には〜定無色という。」の部分に忠実に書いてあるが、もともとの出典の文意が不明瞭なため、「この二」が何を指すのかよく分からない。載せなくてもよいかとも思われる。}} == 上座部 == [[ブッダゴーサ]]は、定を「意識とそれに付随する意識を、単一の物体に均等かつ正しく集中させること ..(中略).. 意識とそれに付随する意識が、単一の物体に均等かつ正しくとどまり、気を散らされることなく散らばらない状態」と定義している<ref>Vism.84–85; PP.85</ref>。 ブッダゴーサによると上座部パーリ仏典においては、四種類の定の達成について言及されている。 # 瞬間的な集中状態 (''khanika samādhi''): #: [[サマタ瞑想]]において発生する精神の安定。 # 遍作定 (''parikamma samādhi''): #: 瞑想の対象に集中しようとする最初の試みによって発生する。 # [[近行定]] (''upacāra samādhi''): #: 五蓋がが払拭され[[禅定]]となり、似相(''patibhaganimitta'')が出現したときに生じる。 # 安止定 (''appana samādhi''): #: 対象の瞑想に心を完全に没頭させ、[[四禅]]すべてが安定している。 ブッダゴーサの[[清浄道論]]においては、定[[知恵]]を得るための「近因」であると記されている{{sfn|Buddhaghosa|Nanamoli|1999|p=437}} 。ブッダゴーサは瞑想のための[[四十業処]]をまとめ上げており、パーリ仏典では全体として言及されているが、清浄道論においては明示的なリストとして記された<ref>Buddhaghosa & Nanamoli (1999), pp.&nbsp;90–91 (II, 27–28, "Development in Brief"), 110ff. (starting with III, 104, "enumeration"). It can also be found sprinkled earlier in this text, as on p. 18 (I, 39, v. 2) and p. 39 (I, 107).</ref>。たとえばマインドフルネス呼吸法([[安那般那念]])、[[慈悲の瞑想]]などがある。 == 有心定と無心定 == [[倶舎宗]]などでは、禅定という言葉は静慮(dhyama)として説かれる<ref name=kosha />。有心定と無心定に大別する<ref name="総合佛教大辞典687" />。 === 有心定 === {|class="wikitable floatright" style="font-size:90%; margin:1em" |+倶舎論における四禅定 <ref name=kosha>{{Cite journal|和書|title=倶舎論における中間定解釈 |author=吉瀬 勝 |journal=印度學佛教學研究 |volume=31 |issue=1 |pages=320-325 |date=1982 |naid=130004024564}}</ref> !rowspan=8 | 四<br>静<br>慮 |{{rh}} rowspan=2|初静慮 || 未至定(近分定) || [[尋伺|有尋有伺]] |- | 根本定(中間定) || 無尋唯伺 |- |{{rh}} rowspan=2|第二静慮 || 近分定 |rowspan=8| 無尋無伺 |- | 根本定 |- |{{rh}} rowspan=2|第三静慮 || 近分定 |- |根本定 |- |{{rh}} rowspan=2|第四静慮 || 近分定 |- | 根本定 |} 有心定には四静慮([[四禅]]、四色禅定、Rūpajhānas)と四無色定(Arūpajhāna)との八定(八等至)がある<ref name="総合佛教大辞典687" />。八定とは、初静慮、第二静慮、第三静慮、第四静慮、[[空無辺処]]定、[[識無辺処]]定、[[無所有処]]定、[[非想非非想処]]定である<ref name="総合佛教大辞典687" />。 これらの定には、それぞれの定に入り終わった段階と、定に近づきつつある準備的入門の前段階とがある<ref name="総合佛教大辞典687" />。初静慮の前段階のみを未至定(みしじょう, anagamya)というが、その他は、それぞれの定に近づきつつある前段階のことを近分定(ごんぶんじょう)といい、それぞれの定に入り終わった段階を根本定という<ref name="総合佛教大辞典687" /><ref name=kosha />。 第四静慮には下下品から上上品までの九品があり、その究極である上上品は色界の定の最高であるから辺際定(へんざいじょう)という<ref name="総合佛教大辞典687" />。 不時解脱の[[阿羅漢]]は、四禅・四無色の八定を順次修めるのではなく、一地を超えて高い段階の定を修めるとされる<ref name="総合佛教大辞典687" />。これを超定という<ref name="総合佛教大辞典687" />。 === 無心定(無想定と滅尽定)および九次次第 === 無心定には、無想定と滅尽定とがあり、いずれも[[五位|心]]・[[心所]]を全く滅する定である<ref name="総合佛教大辞典687" />。四禅(四静慮)・四無色・滅尽の九定は、異心をまじえずに次第を追って順次に修得するときは九次次第、無間禅と名付けられる<ref name="総合佛教大辞典687" />。 四禅と四無色定の上に、滅尽定(nirodha-samāpatti<ref name="naid120005839495"/><ref name="原始仏教に於ける涅槃の研究"/>)すなわち、想受滅定(saññā-vedayita-nirodha-samāpatti<ref name="naid120005839495"/><ref name="原始仏教に於ける涅槃の研究"/>)があり<ref name="naid120005839495"/><ref name="原始仏教に於ける涅槃の研究">{{Cite book|和書|author=服部弘瑞|title=原始仏教に於ける涅槃の研究|publisher=山喜房仏書林|date=2011|isbn=978-4796302135|page=610}} 該当ページでは受想滅[定]とあり、定 samāpatti が抜けた表記。</ref><ref>{{Cite book|和書|author=桐山靖雄 |title=人間改造の原理と方法―原始仏教から密教まで|publisher=平河出版社|date=1977|page=198}} {{ASIN|B000J8OBDK}}</ref>、九次第定と呼ばれる<ref name="naid120005839495">{{Cite journal |和書|author1=長崎法潤 |date=1959-11 |title=滅尽定について |journal=大谷学報 |volume=39 |issue=2 |pages=64-76 |url=http://id.nii.ac.jp/1374/00003210/ |format=pdf}}</ref><ref name="naid110010033496">{{Cite journal |和書|author1=太田蕗子 |date=2015-12-20 |title=大乗菩薩道における無相と滅尽定の背景について |journal=印度學佛教學研究 |volume=64 |issue=1 |pages=402-397 |naid=110010033496}}</ref>。 無想定は、[[凡夫]]や[[外道]]が無想の状態を真の[[悟り]]と誤認して修めるものであるが、滅尽定は、聖者がその定の境地を無余涅槃界の静けさになぞらえて修めるものである<ref name="総合佛教大辞典687" />。無想定では、第四の禅定にもとづき知覚の粗いはたらきがなくなり、滅尽定(nirodha-samāpatti)では、[[有頂天]]にもとづき心と[[心所]]法は決められた間において止滅する<ref name="智慧の眼をひらく">{{Cite book|和書|author=ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ |authorlink=ダライ・ラマ |translator=[[菅沼晃]]|title=ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく|publisher=春秋社|date=2001|isbn=978-4-393-13335-4|pages=132、索引16}} 全面的な再改訳版。(初版『大乗仏教入門』1980年、改訳『智慧の眼』1988年)''The Opening of the Wisdom-Eye: And the History of the Advancement of Buddhadharma in Tibet'', 1966, rep, 1977。[[上座部仏教]]における注釈も備える。</ref>。 九次第定とは、[[パーリ語仏典]]では9つの定を置く形で説明が保たれており、第一禅定、第二禅定、第三禅定、第四禅定、空無辺処(定)<ref>ākāśānañcāyatana-samāpatti</ref>、識無辺処(定)<ref>viññāṇañcāyatana-samāpatti</ref>、無所有処(定)<ref>ākiñcaññāyatana-samāpatti</ref>、非想非非想処(定)<ref>nevasaññānāsaññāyatana-samāpatti</ref>、想受滅<ref>saññāvedayitanirodha</ref>となり、この最後だけが[[釈迦]]が初めて到達した仏教に特徴的な定だとされる<ref name="naid130004027834">{{Cite journal |和書|author1=[[藤本晃]] |date=2005 |title=パーリ経典に説かれる「九次第定」の成立と構造 |journal=印度學佛教學研究 |volume=53 |issue=2 |pages=891-888 |naid=130004027834 |doi=10.4259/ibk.53.891 }}</ref>。[[大般涅槃経 (上座部)|大般涅槃経]]では、釈迦は[[入滅]]にさいして第一禅定と想受滅のあいだを上下し、第四禅定から出定したのち般涅槃に入ったとされている<ref>藤本晃 『悟りの4つのステージ: 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果』 サンガ、2015年、274頁。</ref><ref>この場面は、[[中村元 (哲学者)|中村元]]訳『ブッダ最後の旅 - 大パリニッバーナ経』(岩波文庫)では169-170頁に記載されている。</ref>。[[藤本晃]]は、滅尽定は煩悩を滅して心を完全に清らかにした[[阿羅漢]]でなければできない禅定であり、凡夫の禅定者にとっては非想非非想処定が最高の境地であると述べている<ref>藤本晃 『悟りの4つのステージ: 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果』 サンガ、2015年、209頁、260-269頁。</ref>{{efn|[[竹村牧男]]によれば、[[部派仏教]]では人間は釈尊にはほど遠く、修行しても及ばないと考えられており、修行の最終の地位は[[阿羅漢]]であるという<ref>竹村牧男 『「覚り」と「空」』 講談社、講談社現代新書、1992年1月、118頁および125頁。</ref><ref>竹村牧男 『インド仏教の歴史』 講談社、講談社学術文庫、2005年7月、133頁および140頁。なお、本書4頁によれば、本書は、竹村牧男『「覚り」と「空」』(講談社現代新書)の再刊である。</ref>。}}。 === 大乗仏教における滅尽定の解釈 === {{複数の問題|section=1 |独自研究=2017-05 |精度=2017-05 }} 初期経典の『[[阿含経]]』や[[パーリ語仏典|パーリ・ニカーヤ]]では、最上位に滅受想定(滅尽定)が存在するとするものの、九次第定で想受滅定が語られる位置に、無相の心定が言及され、この無相の心定とは滅受想定から出定する際の観であると解釈されている<ref name="naid110010033496"/>。 {{信頼性要検証範囲|title="霊友会"|date=2017-05|滅尽定については、異なる複数以上のサンスクリットの漢訳として用いられており、滅受想定と同義の漢訳の他に、ubhaya(to)-bhāga-vimukta からの翻訳がある<ref name="metsu">平川彰・編纂 『仏教漢梵大辞典』 霊友会、740頁「滅尽定」、及びその対照逐訳。</ref>}}。 [[十地経]]の第七では、「(波羅蜜にある)かの菩薩」なる者が、第六の[[菩薩]]の地(くらい)において初めて、「あらゆるまよいの存在が滅尽する定(滅定)」に入定し、第七の菩薩の地において、その定に入定してはまた出定するようになるとする<ref name="a1">[[荒牧典俊]]訳 『大乗仏典 第八巻 十地経』 中央公論社、1974年1月、222-223, 392頁。</ref>{{efn|荒牧典俊の訳注によれば、十地経のこの箇所がこのように説く定というのは、概念作用も感情も滅尽する最高位の禅定であって、{{要検証範囲|[[非想非非想処]]に属するものであるという|date=2017-09}}<ref name="a1" />。}}。『[[入中論]]』の[[月称]](チャンドラキールティ)の注釈も、十地における滅尽定は第六地から第八地にかけて入定するということであるとしている<ref name="naid110010033496"/>。ツォンカバの『密意解明』でも同様である<ref name="naid110009841250">{{Cite journal |和書|author1=太田蕗子 |date=2008-06-01 |title=ツォンカパ著『密意解明』における菩薩の修道階梯 : 滅尽定を中心として |journal=日本西蔵学会々報 |issue=54 |pages=33-45 |naid=110009841250}}</ref>。 これら定の名称については、同じサンスクリットが異なる複数以上の漢訳を持つ場合がある一方で、全く異なる意味のサンスクリットが同じ漢語で訳されていることがある(例: 滅尽定)<ref name="metsu"/>。 == 大乗における定 == {{節スタブ}} [[大乗仏教|大乗]]では多くの定が説かれる<ref name="総合佛教大辞典687" />。[[法相宗|唯識宗]]や[[真言宗]]の[[瑜伽]]の観行、[[天台宗]]の四種三昧、[[禅宗]]の[[坐禅]]などがある<ref name="総合佛教大辞典687" />。 定に入ることや、さとりを得た人が死ぬことを入定といい、定から出ることを出定という<ref name="総合佛教大辞典687" />。 === 観無量寿経・浄土真宗 === [[観無量寿経]]では、西方の[[極楽浄土]]へ往生するための行として定散二善を説く<ref name="総合佛教大辞典687" />。[[善導]]によれば、定善を修める人を定機、散善を修める人を散機という<ref name="総合佛教大辞典687" />。[[浄土真宗]]では定散二機を自力の行者であるとし、[[他力]]の大信心と対比させている<ref name="総合佛教大辞典687" />。 == 脚注 == === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[禅定]] * [[瞑想]] * [[サマタ瞑想]] * [[ヨーガ]] * [[空海]] {{Buddhism-stub}} {{心所}} {{三十七道品}} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:しよう}} [[Category:瞑想 (仏教)]]
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ふきだし
ふきだし(吹(き)出し、噴出し)は、主に漫画で登場人物のセリフを表現するために、絵の中に設けられる空間のこと。「吹き出し」とも書く。英語では"Speech balloon"という。 通常は楕円形に三角形がくっついたような形(図1)をしており、楕円形の中にセリフを描き、三角形の尖端部分が指す方向の人物がそのセリフを発していることを表す。この三角形部分はツノやしっぽと呼ばれている。 主にふきだしはセリフを発している人物の絵に近いところに配置され、縦書きでは右から左に読まれる。また、読みやすくするために文節で改行され、長いセリフは2つのふきだしに分ける工夫がされている。 ふきだしの中のセリフには句読点はつけないのが普通であるが、疑問符・感嘆符などは頻繁に使用される。小学館など句読点を使用する出版社も少数ながら存在する。 基本的に、日本語などの縦書きをする言語ではそれで書かれることが大半だが、他言語でしゃべっている事を表す等の為に併用して横書きが使用される例もある。 現代漫画にとって「吹き出し」は不可欠のものだが、黎明期の漫画は吹き出しより日本の美術絵画史に長い歴史を持っていた説明文(コマの横に添える物語のプロットを説明する言葉)のほうが圧倒的に多く使われていた。しかし、ふきだしを用いる西洋の漫画に影響を受けた4コマ漫画『正チャンの冒険』(1923年・アサヒグラフ)が日本で初めて吹き出しを用いた漫画とされている。同作品は説明文から吹き出しにへ変わる過渡的な作品であり、説明文の位置や吹き出しに書かれるセリフの言葉などの形式が定着するまで試行錯誤を重ねた。 また、日本の新聞に最も早く現れた吹き出しのみを用いる連載漫画は『のんきな父さん』(1923年・報知新聞)である。 楕円形(図1)のふきだしは一般的な発話や日常会話を表す。周りを楕円形でなくギザギザにする(図2)と大声で話していることや力強い印象を表し、楕円形を点線で描いたり、小さく描いたりすると小声やかすれ声で話していることを表し、長方形にすると読者への説明やナレーションなど俯瞰的なものを表す。ツノが二股になっていると二重唱で話していることになる。 楕円形の代わりに雲形の空間を作って、三角形の代わりに連続する小さな楕円を使う(図3)と、小さな楕円の向かう先にいる人物が雲形の空間に入っているセリフを心の中で思っていることを表す(場面によっては小声で話していることを表す場合もある)。このふきだしをしばしば、モノローグということもある。角張ったふきだし(図4)は冷淡・抑揚のない印象を表し、テレビや電話などから聞こえる声やコンピューターによる声などを意味する。また外国語を話していることを形式的に表現する(昭和ごろは併せて、せりふ部分を漢字とカタカナ交じりで表記する例がみられた)こともあり、ふきだしの付加する意味は漫画の文脈とも密接に関わっている。 基本の“セリフ”を意味するふきだしに限っても、その形状は漫画家によってかなり異なる。また、同じ作家でも時期による変化もあれば、作品によって変えている場合もある。ここで図示したのは日本を代表する漫画家の例で、左が手塚治虫の、右が長谷川町子の使っていたふきだしの一例である。手塚は自身の日記の中で、これは彼以前の作家の使っていた形状に由来する、と書いている。 商業ベースの漫画においては、ふきだし内のセリフは二種類の書体が混植(混ぜて使用)されている。漢字はゴシック体、かなはアンチック体(antique=アンティークの意)となっている(これをアンチゴチという)。日本の漫画発展史の中で、可読性の追求により開発されてきた方法と言える。たいていの商業誌に使用されているゴシック体は、主流の新ゴなどのモダンサンセリフではなく、筆の動きを感じさせる古風な、しかし落ち着いた意匠の書体である。これは石井ゴシック体と呼ばれる書体で、写植メーカー大手・写研の創業者石井茂吉が書き起こしたもので、常にスタンダードとして使われており、写研以外のシステムを使う場合にも雰囲気の似た書体が選ばれることが多い。出版社によっては同じ写植メーカーのモリサワの書体を使用している場合もある(講談社など)。 ネームを自力で作り貼っているような同人誌などで、ワープロ専用機・ワープロソフトなどで混植が技術的に困難な場合は総てが明朝体になっていたりもしたため、混植について知らない人間でもここから「同人誌っぽい」という印象を受けることがある。21世紀以降はパソコンの社会的普及により、ワープロソフト・あるいは漫画製作支援ソフトを用いることで、商業誌に近い見た目の組み方が容易になってきている。そういった需要も踏まえて、一般ユーザー向けにアンチック体の販売も増えてきているが、混植を敢えて行わずともゴシックとアンチックを組み合わせた「コミックフォント」という形でのフォント製品も販売・配布されている。 また、ふきだしの中の文字が不気味な書体(古印体など)であれば、恐い内容を喋っている・幽霊や妖怪などの超常的存在が語っているという表現になったり、かすれた文字にすると喉がしわがれた状態や老人が語っている事を表したりと、書体の違いによる表現も平成以降は一般的となっている。商業誌でこういった特殊な表現に好んで用いられる「ボカッシィ」や「イナクズレ」といった、独創的な書体の多くは写研システム専用で、ほとんどはMacintoshベースのDTPでは現在のところ使用できない。写研機は通常500万円以上するため、パソコンとフォントの組み合わせなどと違って「漫画のために個人で導入する」ことは考えづらい(写植会社に発注する方法もある)。 漫画家によっては印刷書体と手書きを使い分けたり、場合によっては全部セリフが手書きというケースもある。 以上の解説は主に日本語圏におけるふきだしの解説であるが、ふきだしのルールは地域によって若干異なり、漫画の国際的な流通が盛んとなった21世紀以降は翻訳の際に大きな障壁となることがある。 アメコミをはじめ、英語圏ではふきだしを独立して描かず、コマの余白か、コマの枠線を部分的に使ったふきだしにセリフを独特の手書き文字で描くことが多い。これを翻訳して文字を張り直すことはさほど困難な作業ではないが、一方、日本の漫画を英語に翻訳する際には、いくつかの障壁が存在する。第一に、縦書きと横書きで綴じ方が逆になるため、コマの順番が入れ替わる。このことについては原稿を鏡像にしたり、一コマずつ切り離して再構成したうえで翻訳し、鏡文字になる擬音などの描き文字は強引に修正する方法が広くとられてきたが、近年では原作を尊重する動きから、あえてそのままの原稿で横書きに翻訳し、読み進める方向を読者に指示する解説ページを最終ページ(つまり現地読者にとって最初のページだと思われがちな部分)に添える編集スタイルが見られるようになった。複雑に配置されたふきだしも、元の意図を尊重した翻訳をすることができる。また、手書き文字はある程度残され、欄外に注釈が添えられる。
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ふきだし(吹出し、噴出し)は、主に漫画で登場人物のセリフを表現するために、絵の中に設けられる空間のこと。「吹き出し」とも書く。英語では"Speech balloon"という。
{{otheruses2||その他|[https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%90%B9%E5%87%BA%E3%81%97/ goo辞書「吹(き)出し」]|[https://dictionary.goo.ne.jp/srch/all/%E3%81%B5%E3%81%8D%E3%81%A0%E3%81%99/m0u/ goo辞書「ふきだす」]}} [[画像:fukidashi.png|right|thumb|ふきだしの例]] '''ふきだし'''('''吹(き)出し'''、'''噴出し''')は、主に[[漫画]]で登場人物の[[台詞|セリフ]]を表現するために、絵の中に設けられる空間のこと。「吹き出し」とも書く。[[英語]]では"Speech balloon"という。 == 概要 == 通常は楕円形に[[三角形]]がくっついたような形(図1)をしており、楕円形の中に[[台詞|セリフ]]を描き、三角形の尖端部分が指す方向の人物がそのセリフを発していることを表す。この三角形部分はツノやしっぽと呼ばれている。 主にふきだしはセリフを発している人物の絵に近いところに配置され、[[縦書き]]では右から左に読まれる。また、読みやすくするために文節で改行され、長いセリフは2つのふきだしに分ける工夫がされている。 ふきだしの中のセリフには[[句読点]]はつけないのが普通であるが、[[疑問符]]・[[感嘆符]]などは頻繁に使用される。[[小学館]]など句読点を使用する出版社も少数ながら存在する。 基本的に、[[日本語]]などの縦書きをする[[言語]]ではそれで書かれることが大半だが、他言語でしゃべっている事を表す等の為に併用して横書きが使用される例もある。 現代漫画にとって「吹き出し」は不可欠のものだが、[[黎明期]]の漫画は吹き出しより[[日本美術史|日本の美術絵画史]]に長い歴史を持っていた説明文(コマの横に添える物語のプロットを説明する言葉)のほうが圧倒的に多く使われていた<ref>徐 園 「新聞連載子ども漫画の表現形式の変遷―今日の表現形式はいかにして成立したか―」『評論・社会科学 89号』pp.111-pp.137 (同支社大学社会学会 2009)</ref>。しかし、ふきだしを用いる西洋の漫画に影響を受けた4コマ漫画『[[正チャンの冒険]]』([[1923年]]・[[アサヒグラフ]])が日本で初めて吹き出しを用いた漫画とされている<ref>日外アソシエーツ発行『漫画家人名事典』(2003年2月)ISBN 9784816917608、P89-90</ref>。同作品は説明文から吹き出しにへ変わる過渡的な作品であり、説明文の位置や吹き出しに書かれるセリフの言葉などの形式が定着するまで試行錯誤を重ねた。 また、[[日本]]の[[新聞]]に最も早く現れた吹き出しのみを用いる連載漫画は『[[ノンキナトウサン|のんきな父さん]]』(1923年・[[報知新聞]])である。 == ふきだしの種類 == 楕円形(図1)のふきだしは一般的な発話や日常会話を表す。周りを楕円形でなくギザギザにする(図2)と大声で話していることや力強い印象を表し、楕円形を点線で描いたり、小さく描いたりすると小声やかすれ声で話していることを表し、長方形にすると読者への説明やナレーションなど俯瞰的なものを表す。ツノが二股になっていると[[二重唱]]で話していることになる。 楕円形の代わりに雲形の空間を作って、三角形の代わりに連続する小さな楕円を使う(図3)と、小さな楕円の向かう先にいる人物が雲形の空間に入っているセリフを心の中で思っていることを表す(場面によっては小声で話していることを表す場合もある)。このふきだしをしばしば、[[モノローグ]]ということもある。角張ったふきだし(図4)は冷淡・抑揚のない印象を表し、テレビや電話などから聞こえる声や[[音声合成|コンピューターによる声]]などを意味する。また外国語を話していることを形式的に表現する(昭和ごろは併せて、せりふ部分を漢字と[[片仮名|カタカナ]]交じりで表記する例がみられた)こともあり、ふきだしの付加する意味は漫画の文脈とも密接に関わっている。 == 作者ごとのスタイル == [[画像:Fukidashi2.png|thumb|左:手塚スタイル、右:長谷川スタイル]] 基本の“セリフ”を意味するふきだしに限っても、その形状は漫画家によってかなり異なる。また、同じ作家でも時期による変化もあれば、作品によって変えている場合もある。ここで図示したのは日本を代表する漫画家の例で、左が[[手塚治虫]]の、右が[[長谷川町子]]の使っていたふきだしの一例である。手塚は自身の日記の中で、これは彼以前の作家の使っていた形状に由来する、と書いている。 == 使用される書体 == [[画像:Antigue gothic.png|thumb|right|アンチゴチの例]] 商業ベースの[[漫画]]においては、ふきだし内のセリフは二種類の[[書体]]が混植(混ぜて使用)されている。漢字は[[ゴシック体]]、[[仮名 (文字)|かな]]は'''アンチック体'''(antique=アンティークの意)となっている(これを'''アンチゴチ'''という)。<!--/古い漫画を見るとこの限りではなく、/←歴史的経緯は要再調査、また書きます。(FeZn)-->日本の漫画発展史の中で、可読性の追求により開発されてきた方法と言える。たいていの商業誌に使用されているゴシック体は、主流の[[新ゴ]]などのモダン[[サンセリフ]]ではなく、筆の動きを感じさせる古風な、しかし落ち着いた意匠の書体である。これは石井ゴシック体と呼ばれる書体で、[[写植]]メーカー大手・[[写研]]の創業者[[石井茂吉]]が書き起こしたもので、常にスタンダードとして使われており、写研以外のシステムを使う場合にも雰囲気の似た書体が選ばれることが多い。出版社によっては同じ写植メーカーの[[モリサワ]]の書体を使用している場合もある(講談社など)。 [[ネーム (漫画)|ネーム]]を自力で作り貼っているような同人誌などで、[[ワープロ専用機]]・[[ワープロソフト]]などで混植が技術的に困難な場合は総てが[[明朝体]]になっていたりもしたため、混植について知らない人間でもここから「同人誌っぽい」という印象を受けることがある。21世紀以降は[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]の社会的普及により、ワープロソフト・あるいは漫画製作支援ソフトを用いることで、商業誌に近い見た目の組み方が容易になってきている。そういった需要も踏まえて、一般ユーザー向けにアンチック体の販売も増えてきているが、混植を敢えて行わずともゴシックとアンチックを組み合わせた「コミックフォント」という形での[[フォント]]製品も販売・配布されている。 また、ふきだしの中の文字が不気味な書体([[古印体]]など)であれば、恐い内容を喋っている・[[幽霊]]や[[妖怪]]などの超常的存在が語っているという表現になったり、かすれた文字にすると喉がしわがれた状態や老人が語っている事を表したりと、書体の違いによる表現も平成以降は一般的となっている。商業誌でこういった特殊な表現に好んで用いられる「ボカッシィ」や「イナクズレ」といった、独創的な書体の多くは写研システム専用で、ほとんどは[[Macintosh]]ベースの[[DTP]]では現在のところ使用できない。写研機は通常500万円以上するため、パソコンとフォントの組み合わせなどと違って「漫画のために個人で導入する」ことは考えづらい(写植会社に発注する方法もある)。 漫画家によっては印刷書体と手書きを使い分けたり、場合によっては全部セリフが手書きというケースもある。 == ふきだしと翻訳 == [[File:Atomic War 0128 panel 2 spiked balloon.jpg|thumb|アメコミ作品における吹き出しの使用例。<br />(エース・コミックスが 1952年11月28日に刊行した"Atomic War!" #1の2コマ目より)]] 以上の解説は主に日本語圏におけるふきだしの解説であるが、ふきだしのルールは地域によって若干異なり、漫画の国際的な流通が盛んとなった21世紀以降は翻訳の際に大きな障壁となることがある。 [[アメリカン・コミックス|アメコミ]]をはじめ、[[英語圏]]ではふきだしを独立して描かず、コマの余白か、コマの枠線を部分的に使ったふきだしにセリフを独特の手書き文字で描くことが多い。これを翻訳して文字を張り直すことはさほど困難な作業ではないが、一方、[[日本]]の漫画を英語に翻訳する際には、いくつかの障壁が存在する。第一に、縦書きと横書きで綴じ方が逆になるため、コマの順番が入れ替わる。このことについては原稿を鏡像にしたり、一コマずつ切り離して再構成したうえで翻訳し、鏡文字になる擬音などの描き文字は強引に修正する方法が広くとられてきたが、近年では原作を尊重する動きから、あえてそのままの原稿で横書きに翻訳し、読み進める方向を読者に指示する解説ページを最終ページ(つまり現地読者にとって最初のページだと思われがちな部分)に添える編集スタイルが見られるようになった。複雑に配置されたふきだしも、元の意図を尊重した翻訳をすることができる。また、手書き文字はある程度残され、欄外に注釈が添えられる。 == 関連項目 == {{Commonscat|Speech balloons}} *[[漫画]] *[[写研]] - [[石井茂吉]] *[[iChat]] *[[ファンタシースターオンライン]] *[[黄表紙]] - ふきだしの前身とみられる表現が存在した == 出典 == {{Reflist}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふきたし}} [[Category:図]] [[Category:漫画用語]] [[Category:漫画・アニメの表現]] [[Category:グラフィックデザイン]]
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理 (り、Lĭ)とは、中国哲学の概念。本来、理は文字自身から、璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味する。そこから「ととのえる」「おさめる」、あるいは「分ける」「すじ目をつける」といった意味が派生する。もと動詞として使われたが、次に「地理」「肌理(きり)」(はだのきめ)などのように、ひろく事物のすじ目も意味するようになる。それが抽象化され、秩序、理法、道理などの意に使われるようになった。 「理」の語は孔子の言行録とされる『論語』や道家の古典『老子』にはみえず、『孟子』にはわずかに「条理」の語がみえるのみであるが、戦国時代後期にはいってからの『荘子』(道家)・『荀子』(儒家)・『韓非子』(法家)などでは多数確認されている。 『墨子』では、道徳的規範の意で使われた。『荘子』では自然の理法としての理があらわれ、天と結びついて天理となったり、「道」と並列的に使われ、「道」が包括的概念であるのに対し、「理」は個別的概念である。『韓非子』では「道」を「法」として展開するとともに、道と理との関係を規定した。そこでは、理が個物化・特殊化の原理であることが明確にされている。 理の観念は前漢代の思想書『淮南子』において深められた一方、戦国時代以降漢代までに道家の影響を受けた儒家文献のなかで「窮理尽性」の説がつくられて、後代に大きな影響をおよぼした。 理気説(りきせつ、Lĭ qì shuō)では、「理」は事物の法則性をあらわす概念で、「気」も事物を形づくり事物に生命を与えるガス状の物質と考えられた。程頤は、気の現象する世界の奥に、それを秩序づける存在を措定して、これを理と呼び、これを究明すること(窮理(きゅうり))が学問の要諦だとした。 朱子学(程朱学)においては、一物に一理があり、これを「理一分殊」と称した。朱子学の始祖朱熹(朱子)によれば、理は形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気が運動性をもち、理は無為であり、気の運動に乗って秩序を与えるとする。 陽明学の始祖として知られる明代の王陽明は、「理は気の条理、気は理の運用」という理気一体観を表明している。 仏教における理は、道理・義理・条理を意味し、治める、正すなどの意味で用いる。漢訳仏典では、思想的に重要な概念を表す意味で「理」という言葉は用いられない。 しかし、中国の仏教者たちは、東晋の支遁(しとん、314年 - 366年)をはじめとし、漢訳仏典を解釈し、さらに独自の教理体系を築いていく際に、この中国伝統思想の重要な概念語を重用した。その場合、「理」は普遍的・抽象的な真理を指すことが多く、特に事(個別的具体的な事象)と対になると、現象の背後にあって現象を現象たらしめている理法を意味する。 特に唐代に盛んであった華厳(けごん)教学では、「理」は最も重要な術語である。理は「事」と対比的に使われ、理事無礙(むげ)は、普遍的な理法と個別的な事象とが一体不可分で、矛盾なく調和していることなどといわれ、教学の特徴を示す言葉となっている。 仏教では、現実世界をどのように認識するかということがもっとも大切なことであり、その現実を現実のままに認識することを事と言い、それを理論づけたり言葉に乗せることを理と言う。その意味で、仏典はすべて理であり、釈迦がさとった内容は「事」である。その意味で、「不立文字」は事の内容は言葉にできないことを説明している。
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理 (り、Lĭ)とは、中国哲学の概念。本来、理は文字自身から、璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味する。そこから「ととのえる」「おさめる」、あるいは「分ける」「すじ目をつける」といった意味が派生する。もと動詞として使われたが、次に「地理」「肌理(きり)」(はだのきめ)などのように、ひろく事物のすじ目も意味するようになる。それが抽象化され、秩序、理法、道理などの意に使われるようになった。
{{see Wiktionary}} '''理''' (り、L&#x012d;)とは、[[中国哲学]]の概念。本来、理は文字自身から、璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味する。そこから「ととのえる」「おさめる」、あるいは「分ける」「すじ目をつける」といった意味が派生する。もと動詞として使われたが、次に「地理」「肌理(きり)」(はだのきめ)などのように、ひろく事物のすじ目も意味するようになる。それが抽象化され、秩序、理法、道理などの意に使われるようになった。 == 中国哲学における「理」 == 「理」の語は[[孔子]]の言行録とされる『[[論語]]』や[[道家]]の古典『[[老子道徳経|老子]]』にはみえず、『[[孟子 (書物)|孟子]]』にはわずかに「条理」の語がみえるのみであるが、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]後期にはいってからの『[[荘子 (書物)|荘子]]』(道家)・『[[荀子]]』([[儒家]])・『[[韓非子]]』([[法家]])などでは多数確認されている<ref name=oshima>大島(2004)</ref>。 === 墨家・道家・法家の「理」 === 『[[墨子]]』では、道徳的規範の意で使われた。『[[荘子 (書物)|荘子]]』では'''自然の理法'''としての理があらわれ、天と結びついて'''天理'''となったり、「[[道 (哲学)|道]]」と並列的に使われ、「道」が包括的概念であるのに対し、「理」は個別的概念である。『韓非子』では「道」を「法」として展開するとともに、道と理との関係を規定した。そこでは、理が個物化・特殊化の原理であることが明確にされている<ref name=oshima/>。 === 儒家の「理」 === 理の観念は[[前漢]]代の思想書『[[淮南子]]』において深められた一方、戦国時代以降漢代までに道家の影響を受けた儒家文献<ref group="注釈">そのような儒家文献としては、『[[楽記]]』の天理・人欲の論、『[[易経]]』説卦伝などが掲げられる。</ref>のなかで「窮理尽性」の説がつくられて、後代に大きな影響をおよぼした<ref name=oshima/>。 理気説(りきせつ、L&#x012d; qì shu&#x014d;)では、「理」は事物の法則性をあらわす概念で、「[[気]]」も事物を形づくり事物に生命を与えるガス状の物質と考えられた。[[程頤]]は、気の現象する世界の奥に、それを秩序づける存在を措定して、これを理と呼び、これを究明すること([[窮理]](きゅうり))が学問の要諦だとした。 [[朱子学]](程朱学)においては、一物に一理があり、これを「理一分殊」と称した<ref name=oshima/>。朱子学の始祖[[朱熹]](朱子)によれば、理は形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気が運動性をもち、理は無為であり、気の運動に乗って秩序を与えるとする。 [[陽明学]]の始祖として知られる[[明]]代の[[王陽明]]は、「理は気の条理、気は理の運用」という'''理気一体観'''を表明している。 == 仏教における「理」 == [[仏教]]における'''理'''は、道理・義理・条理を意味し、治める、正すなどの意味で用いる。漢訳[[仏典]]では、思想的に重要な概念を表す意味で「理」という言葉は用いられない。 しかし、中国の仏教者たちは、[[東晋]]の[[支遁]](しとん、[[314年]] - [[366年]])をはじめとし、漢訳仏典を解釈し、さらに独自の教理体系を築いていく際に、この中国伝統思想の重要な概念語を重用した。その場合、「理」は普遍的・抽象的な真理を指すことが多く、特に[[事]](個別的具体的な事象)と対になると、現象の背後にあって現象を現象たらしめている'''理法'''を意味する。 特に[[唐]]代に盛んであった[[華厳]](けごん)教学では、「理」は最も重要な術語である。理は「事」と対比的に使われ、'''理事無礙'''(むげ)は、普遍的な理法と個別的な事象とが一体不可分で、矛盾なく調和していることなどといわれ、教学の特徴を示す言葉となっている。 [[仏教]]では、現実世界をどのように認識するかということがもっとも大切なことであり、その現実を現実のままに認識することを[[事]]と言い、それを理論づけたり言葉に乗せることを理と言う。その意味で、仏典はすべて理であり、[[釈迦]]がさとった内容は「事」である。その意味で、「不立文字」は事の内容は言葉にできないことを説明している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 参照 === {{Reflist}} == 参考文献 == * [[大島晃]]「理」[[小学館]]編『日本大百科全書』(スーパーニッポニカProfessional Win版)小学館、2004年2月。ISBN 4099067459 == 関連項目 == * [[気]] * [[イデア]] * [[イデア論]] * [[形相]] * [[自然法]] * [[法 (仏教)]] {{DEFAULTSORT:り}} [[Category:道家]] [[Category:儒教の用語]] [[Category:宋明理学]] [[Category:華厳宗]] [[Category:中国哲学の概念]]
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都市国家
都市国家(としこっか、英語: City-state)は、一つの都市とその周辺地域が、独立した政体や文明として一つとなり、まとまった形態をなす小国家を表す。 明確な要件、定義はないが、現代ではシンガポールやモナコを指す。 まず、人間は、肉食動物からの捕食を避け食料の調達を容易にするために集団(集落)を形成した。集落の構成員は、集落内部の秩序を維持するために、不文法を定立し、物理的強制力(権力)をもって不文法への服従を構成員に強いた。すなわち、不文法に違反し秩序を乱した者に刑罰を科しており、集落は主権(統治権)を有する政治社会として機能した。当初は食糧を求めて移動生活を送っていたため、集落の規模も最小限であったが、やがて農業や牧畜の発展により1か所に定住するようになり、集落の規模も大きくなり、都市を形成した。 最初に農業を行ったとされる人間は、古代オリエントのメソポタミア文明におけるシュメール人であり、彼らが最初の都市国家を築いた。都市の中心に神殿を持ち、集落の周りに城壁を築き、城壁外の農地や牧地とともに独立した国を形成していたシュメール文明の都市国家群がその原初的な形態である。 アテナイなどの古代ギリシアの小国家群や古代ローマ、古代インド(インダス文明)、古代中国(黄河文明、中国語では「國」「邦」「邑」と呼ばれた)など、古代には世界各地で見られる。 初期の都市国家は、都市周辺の農地・牧地において食をまかなう自給体制であったが、隣接する都市国家どうしでの交易がはじまると、交易に専従し、都市生活者の食をまかなうのに十分な農地・牧地を持たない都市国家も成立した。 人間が都市国家を形成する時代になっても、都市国家に参加しない人々もいた。古代中国においては、そういう人々は野人と呼ばれた。 一般に都市国家群の国際関係においては、強大な都市国家が弱小な都市国家を従属させたり、相互に同盟を結んだりすることで、密接な結合を持つようになる傾向がある。こうして形成された都市国家の連合は、古代ギリシアにおいてアテナイが盟主となって加盟する都市国家を従属させたデロス同盟がよく知られている。殷、西周、春秋時代の王や覇者を中心とした秩序もこうしたものであった。アメリカ大陸のマヤ文明諸都市も、アステカによって統合された。 都市国家の連合によるネットワーク型の国際秩序は、時として様々な内的、外的要因により領域国家に転換する。都市国家連合が完成すると、都市外部であっても連合の内部においてはある程度の秩序が生まれ、治安が保たれ、都市国家とは無縁に生活する人々も都市国家連合の中に組み込まれていくこととなる。地中海世界におけるローマ帝国、イラン高原からメソポタミア、東地中海世界を統治したアケメネス朝、東アジアにおける戦国時代の諸王(戦国七雄)の統治下の諸国やそれらを統合した秦、漢帝国といったものがそれである。こうした転換の結果、都市国家は単なる地方単位(中国語では「県」という)になっていった。日本の大和朝廷の成立も、弥生時代の都市国家の連合が、領域国家へ転換したと見ることができる。 古代における都市国家が周辺の農地・牧地と一体のものであったのに対し、中世におけるヨーロッパの都市国家の多くは、自給自足に足る程の農地や牧地を持たず、それ以外の産業、具体的には商工業に従事する人口を抱えるようになった。それら都市国家は、領域国家間の交易の仲介や、手工業品の輸出によって成立していた。つまり、領域国家の成立後に、それら領域国家の存在を前提として、都市が国家として独立して生まれたのが、中世の都市国家である。 一方で、周辺の領土や都市外で活動する帰属民、飛び地や海外の植民地を抱える、比較的広大な勢力圏を有する都市国家も存在した。 ヴェネツィア共和国などのイタリアの小国家群、神聖ローマ帝国の帝国都市などが、中世ヨーロッパの都市国家の例として挙げられる。 このような都市国家が成立した背景としては、当時のヨーロッパが封建社会で農業経済を前提としていた事から、商工業を基盤とするには、それとは異なる国家機構が必要だったからである。16世紀以降の絶対王政への移行とともに、封建諸侯同様に都市国家も王権の元に組み込まれるようになっていったが、それでも後述の通り近現代まで存続した場合も多かった。 日本における堺や博多なども、ほぼ完全な自治を行っていた点に鑑みると、中世ヨーロッパの都市国家に相当する地域であったと考えられる。ヨーロッパの都市国家が王権の元に組み込まれていったのと同様、堺や博多も織田信長や豊臣秀吉の天下統一事業の過程で、自治を失った。 ヨーロッパの都市国家の多くは、ドイツ統一、イタリア統一運動によって、領域国家の機構の中に組み込まれた(ドイツの場合は、それ以前のナポレオンの占領によって、帝国自由都市としての地位を失っている)。 それでも第一次世界大戦後にはダンツィヒが国際連盟保護下の都市国家である自由市(自由都市ダンツィヒ)となり、フィウーメやバトゥミも短期間だが自由市とされた。第二次世界大戦後には、トリエステが国際連合の管理下で都市国家(トリエステ自由地域)となることが決まったが実現しなかった。 現代ではシンガポール、モナコ等が挙げられる。アラブ首長国連邦を構成する首長国も、アブダビ以外の6か国は極めて狭小であり、都市国家に近い存在である。 主権国家ではないが、ドイツ連邦共和国を構成する連邦州であるハンブルクやブレーメン、中華人民共和国の特別行政区である香港やマカオ、ギリシャのアトス山において大幅な自治が認められているアトス自治修道士共和国等も、都市国家に近い存在である。ハンブルク、ブレーメンはナポレオンの占領下でも帝国自由都市の地位を失わなかった歴史を持ち、「自由ハンザ都市」という呼称もあり、正式名称も「自由ハンザ都市ハンブルク」「自由ハンザ都市ブレーメン」となっている。なお、連邦州としての「自由ハンザ都市ブレーメン」は、ブレーメン市とブレーマーハーフェン市の2都市からなる。また、ベルリンも市単独で州と同格の自治権を持つ点でハンブルク等と同様であるが、連邦首都も兼ねているため若干独立都市としての性格が見えにくくなっている。 また、厳密には都市国家とは言い難いが、面積が狭小なジブチ、ナウル、サンマリノも都市国家に準ずる国家であると見なされる場合もある。ジブチやサンマリノでは一国がほぼ首都の経済圏となっており、ナウルは小さなひとつの島で構成されているだけであるからである。ただし、ジブチやサンマリノでは小さいながらも首都以外の行政地区も存在する。逆にナウルでは、そもそも「都市」と呼べるほどの集落が存在しない。 バチカン市国も都市国家であるが、カトリック教会の総本山であり、他の都市国家とは性格が異なる、極めて特別な存在である。また行政区域としてはともかく、歴史的、地理的、生活圏としてはローマ市の一部であり、言わば都市国家未満の存在である。
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都市国家は、一つの都市とその周辺地域が、独立した政体や文明として一つとなり、まとまった形態をなす小国家を表す。 明確な要件、定義はないが、現代ではシンガポールやモナコを指す。
{{出典の明記|date=2020年8月}} {{政治}} '''都市国家'''(としこっか、{{lang-en|City-state}})は、一つの[[都市]]とその周辺地域が、独立した[[政体]]や[[文明]]として一つとなり、まとまった形態をなす[[ミニ国家|小国家]]を表す<ref>http://www.y-history.net/appendix/wh0101-010.html</ref>。 明確な要件、定義はないが、現代では[[シンガポール]]や[[モナコ]]を指す。 == 歴史 == === 古代における都市国家 === まず、人間は、肉食動物からの捕食を避け食料の調達を容易にするために集団(集落)を形成した。集落の構成員は、集落内部の[[秩序]]を維持するために、[[不文法]]を定立し、物理的強制力([[権力]])をもって不文法への服従を構成員に強いた。すなわち、不文法に違反し秩序を乱した者に[[刑罰]]を科しており、集落は[[主権]]([[統治権]])を有する政治社会として機能した。当初は食糧を求めて移動生活を送っていたため、集落の規模も最小限であったが、やがて[[農業]]や[[牧畜]]の発展により1か所に定住するようになり、集落の規模も大きくなり、都市を形成した。 最初に農業を行ったとされる人間は、[[古代オリエント]]の[[メソポタミア|メソポタミア文明]]における[[シュメール|シュメール人]]であり、彼らが最初の都市国家を築いた。都市の中心に[[神殿]]を持ち、集落の周りに城壁を築き、城壁外の農地や牧地とともに独立した国を形成していたシュメール文明の都市国家群がその原初的な形態である。 [[アテナイ]]などの[[古代ギリシア]]の小国家群や[[古代ローマ]]、[[古代インド]]([[インダス文明]])、古代中国([[黄河文明]]、[[中国語]]では「[[國]]」「[[邦]]」「[[邑]]」と呼ばれた)など、古代には世界各地で見られる。 初期の都市国家は、都市周辺の農地・牧地において食をまかなう自給体制であったが、隣接する都市国家どうしでの交易がはじまると、交易に専従し、都市生活者の食をまかなうのに十分な農地・牧地を持たない都市国家も成立した。 人間が都市国家を形成する時代になっても、都市国家に参加しない人々もいた。古代中国においては、そういう人々は[[野人]]と呼ばれた。 一般に都市国家群の国際関係においては、強大な都市国家が弱小な都市国家を従属させたり、相互に同盟を結んだりすることで、密接な結合を持つようになる傾向がある。こうして形成された都市国家の連合は、古代ギリシアにおいてアテナイが盟主となって加盟する都市国家を従属させた[[デロス同盟]]がよく知られている。[[殷]]、[[周|西周]]、[[春秋時代]]の王や覇者を中心とした秩序もこうしたものであった。[[アメリカ大陸]]の[[マヤ文明]]諸都市も、[[アステカ]]によって統合された。 都市国家の連合によるネットワーク型の国際秩序は、時として様々な内的、外的要因により領域国家に転換する。都市国家連合が完成すると、都市外部であっても連合の内部においてはある程度の秩序が生まれ、治安が保たれ、都市国家とは無縁に生活する人々も都市国家連合の中に組み込まれていくこととなる。地中海世界における[[ローマ帝国]]、イラン高原からメソポタミア、東地中海世界を統治した[[アケメネス朝]]、[[東アジア]]における[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の諸王([[戦国七雄]])の統治下の諸国やそれらを統合した[[秦]]、[[漢]]帝国といったものがそれである。こうした転換の結果、都市国家は単なる地方単位(中国語では「県」という)になっていった。日本の[[大和朝廷]]の成立も、弥生時代の都市国家の連合が、領域国家へ転換したと見ることができる。 === 中世における都市国家 === [[File:Corona muralis.svg|thumb|140px|[[中世]]以降の[[西ヨーロッパ|西欧]]では[[城郭都市]]をかたどった[[城壁冠]]が自治の象徴とされる。]] 古代における都市国家が周辺の農地・牧地と一体のものであったのに対し、[[中世]]におけるヨーロッパの都市国家の多くは、自給自足に足る程の農地や牧地を持たず、それ以外の産業、具体的には商工業に従事する人口を抱えるようになった。それら都市国家は、領域国家間の交易の仲介や、手工業品の輸出によって成立していた。つまり、領域国家の成立後に、それら領域国家の存在を前提として、都市が国家として独立して生まれたのが、中世の都市国家である。 一方で、周辺の領土や都市外で活動する帰属民、飛び地や海外の植民地を抱える、比較的広大な勢力圏を有する都市国家も存在した。 [[ヴェネツィア共和国]]などの[[イタリア]]の小国家群、[[神聖ローマ帝国]]の[[帝国都市]]などが、中世ヨーロッパの都市国家の例として挙げられる。 このような都市国家が成立した背景としては、当時のヨーロッパが封建社会で農業経済を前提としていた事から、商工業を基盤とするには、それとは異なる国家機構が必要だったからである。16世紀以降の[[絶対王政]]への移行とともに、封建諸侯同様に都市国家も王権の元に組み込まれるようになっていったが、それでも後述の通り近現代まで存続した場合も多かった。 日本における[[堺市|堺]]や[[博多]]なども、ほぼ完全な自治を行っていた点に鑑みると、中世ヨーロッパの都市国家に相当する地域であったと考えられる。ヨーロッパの都市国家が王権の元に組み込まれていったのと同様、堺や博多も[[織田信長]]や[[豊臣秀吉]]の天下統一事業の過程で、自治を失った。 === 近代、現代における都市国家 === ヨーロッパの都市国家の多くは、[[ドイツ統一]]、[[イタリア統一運動]]によって、領域国家の機構の中に組み込まれた(ドイツの場合は、それ以前のナポレオンの占領によって、帝国自由都市としての地位を失っている)。 それでも[[第一次世界大戦]]後には[[グダニスク|ダンツィヒ]]が[[国際連盟]]保護下の都市国家である自由市([[自由都市ダンツィヒ]])となり、[[リエカ|フィウーメ]]や[[バトゥミ]]も短期間だが自由市とされた。第二次世界大戦後には、[[トリエステ]]が[[国際連合]]の管理下で都市国家([[トリエステ自由地域]])となることが決まったが実現しなかった。 現代では[[シンガポール]]、[[モナコ]]等が挙げられる。[[アラブ首長国連邦]]を構成する[[首長国]]も、[[アブダビ]]以外の6か国は極めて狭小であり、都市国家に近い存在である。 [[主権#基本的意義|主権国家]]ではないが、[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]を構成する[[連邦州]]である[[ハンブルク]]や[[ブレーメン州|ブレーメン]]、[[中華人民共和国]]の[[特別行政区]]である[[香港]]や[[マカオ]]、[[ギリシャ]]の[[アトス山]]において大幅な自治が認められている[[アトス自治修道士共和国]]等も、都市国家に近い存在である。ハンブルク、ブレーメンはナポレオンの占領下でも帝国自由都市の地位を失わなかった歴史を持ち、「[[ハンザ同盟|自由ハンザ都市]]」という呼称もあり、正式名称も「自由ハンザ都市ハンブルク」「自由ハンザ都市ブレーメン」となっている。なお、連邦州としての「自由ハンザ都市ブレーメン」は、[[ブレーメン|ブレーメン市]]と[[ブレーマーハーフェン|ブレーマーハーフェン市]]の2都市からなる。また、[[ベルリン]]も市単独で州と同格の自治権を持つ点でハンブルク等と同様であるが、連邦首都も兼ねているため若干独立都市としての性格が見えにくくなっている。 また、厳密には都市国家とは言い難いが、面積が狭小な[[ジブチ]]、[[ナウル]]、[[サンマリノ]]も都市国家に準ずる国家であると見なされる場合もある。ジブチやサンマリノでは一国がほぼ首都の経済圏となっており、ナウルは小さなひとつの島で構成されているだけであるからである。ただし、ジブチやサンマリノでは小さいながらも首都以外の行政地区も存在する。逆にナウルでは、そもそも「都市」と呼べるほどの集落が存在しない。 [[バチカン市国]]も都市国家であるが、[[カトリック教会]]の総本山であり、他の都市国家とは性格が異なる、極めて特別な存在である。また行政区域としてはともかく、歴史的、地理的、生活圏としては[[ローマ|ローマ市]]の一部であり、言わば都市国家未満の存在である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == * [[ポリス]] * [[自由都市]] * [[古代の植民都市]] * [[国家]] * [[国民国家]] * [[地域国家]] * [[ミニ国家]] * [[ロンバルディア同盟]] * [[ハンザ同盟]] * [[ヴェネツィア共和国]] * [[ジェノヴァ共和国]] * [[シエーナ共和国]] * [[ラグサ共和国]] * [[都市経済学]] == 外部リンク == * {{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/ |title=世界飛び地領土研究会 |date=20021016102822}} - 独立自由市、国連管理地帯、国際管理地帯の項目で近代の各都市国家の概説あり。 * {{コトバンク}} {{都市}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:としこつか}} [[Category:都市国家|*]] [[Category:都市地理学]] [[Category:政治地理学]] [[Category:国家史]] [[Category:政治システム]]
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事(こと)は、言(こと)と同語源の象形文字で、事(じ)とも読む。「神への祈りの言葉を書きつけ、木の枝などに結びつけた札を手にした形」にかたどる。「祭事にたずさわる人のさま」から仕事・仕えるの意味を表す。 以下は新漢語林(2008年)から引用した字義。 大辞泉では主に二つの用法がある。 事(じ)は理に対する言葉。 事は個別的具体的な事象・現象を意味し、理は普遍的な絶待・平等の真理・理法を指す。このような概念はインド仏教では顕著ではなく、また漢訳仏典にも現れない中国仏教に独特のものである。 ことに華厳では、事と理は融通無碍の関係にあると説き、四法界や三重観門などの教理を作り上げて、普遍的な理と個別的具体的な事とか一体にして不可分であることを強調した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "事(こと)は、言(こと)と同語源の象形文字で、事(じ)とも読む。「神への祈りの言葉を書きつけ、木の枝などに結びつけた札を手にした形」にかたどる。「祭事にたずさわる人のさま」から仕事・仕えるの意味を表す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "以下は新漢語林(2008年)から引用した字義。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大辞泉では主に二つの用法がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "事(じ)は理に対する言葉。", "title": "仏教" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "事は個別的具体的な事象・現象を意味し、理は普遍的な絶待・平等の真理・理法を指す。このような概念はインド仏教では顕著ではなく、また漢訳仏典にも現れない中国仏教に独特のものである。 ことに華厳では、事と理は融通無碍の関係にあると説き、四法界や三重観門などの教理を作り上げて、普遍的な理と個別的具体的な事とか一体にして不可分であることを強調した。", "title": "仏教" } ]
事(こと)は、言(こと)と同語源の象形文字で、事(じ)とも読む。「神への祈りの言葉を書きつけ、木の枝などに結びつけた札を手にした形」にかたどる。「祭事にたずさわる人のさま」から仕事・仕えるの意味を表す。
{{Wiktionary}} '''事'''(こと)は、言(こと)と同語源の<ref name="daijisen">[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/80340/m0u/%E3%81%93%E3%81%A8/ デジタル大辞泉-こと【事】]。</ref>[[象形]]文字で<ref name="shinkango">『新漢語林』、大修館書店、2008年。</ref>、事(じ)とも読む<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/92544/m0u/%E3%81%98/ デジタル大辞泉-じ【事】]。</ref>。「[[神]]への[[祈り]]の[[言葉]]を書きつけ、[[木]]の[[枝]]などに結びつけた[[札]]を[[手]]にした[[形]]」にかたどる。「[[祭事]]にたずさわる[[人]]のさま」から[[仕事]]{{要曖昧さ回避|date=2023年6月}}・仕えるの意味を表す<ref name="shinkango"/>。 == 概要 == 以下は新漢語林(2008年)から引用した字義。 #こと。ものごと。ことがら。しごと、つとめ。できごと。[[祭#日本語の「まつり」の語源と原義|まつりごと]]。 #こととする(こととす)。専念する。努め行う。 #つかえる(つかふ)。 #用いる。使う。使役する。 #とどまる。 大辞泉では主に二つの用法がある。 # [[抽象]]的なもの([[思考]]・[[意識]]の対象や、[[現象]]・[[行為]]・[[性質]]など)。 # [[形式名詞]](他の語句が表す行為や事態の体言化)。 == 仏教 == {{出典の明記|date=2012年9月|section=1}} 事(じ)は[[理]]に対する言葉。 '''事'''は個別的具体的な事象・現象を意味し、'''理'''は普遍的な絶待・平等の'''真理・理法'''を指す。このような概念は[[インド仏教]]では顕著ではなく、また漢訳仏典にも現れない[[中国の仏教|中国仏教]]に独特のものである。<br /> ことに[[華厳]]では、'''事'''と'''理'''は融通無碍の関係にあると説き、[[四法界]]や[[三重観門]]などの教理を作り上げて、普遍的な'''理'''と個別的具体的な'''事'''とか一体にして不可分であることを強調した。 * [[顕教]]では、[[因縁]]を離れた[[無為法]]を'''理'''として、因縁によって生ずる[[有為法]]を'''事'''する。 * [[密教]]では、'''理'''を摂持の義と解して、一切の'''事相'''がおのおのその体を摂持するから、これを'''理'''として、理の体を地水火風空識の六大とする。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:し}} [[Category:中国仏教]] [[Category:華厳宗]] [[Category:密教]] {{Language-stub}} {{Buddhism-stub}}
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競馬法
競馬法(けいばほう、昭和23年法律第158号)は、日本における競馬の開催、競馬場、開催回数、入場料、勝馬投票券(いわゆる馬券)、勝馬投票法、払戻金等など、競馬に関する事項を定める法律である。 所管は原則として農林水産省畜産局競馬監督課だが、地方競馬の施行者の指定に関する業務のみ、総務省自治財政局公営企業課が担当する。 大正12年法律第47号の競馬法は、現行の競馬法と区別して「旧競馬法」と呼ばれている。 1906年に開始された公認競馬には当初法的根拠がなく、「馬券に関する内閣決議書」という農商務・陸軍・内務・司法の4大臣による合議書によって正当化されていた。そのため馬券の射幸性に対して批判的な風潮が強まると政府は1908年10月6日、刑法(明治40年法律第45号)を根拠として馬券禁止の通牒を競馬主催者に発した。 しかしこれは良質な軍馬生産という観点で大きな支障を発生させる事となり第一次世界大戦後、軍隊の機動性向上の観点から軍馬生産を重視した帝國陸軍(陸軍省馬政局)は馬産奨励のため競馬に着目した。陸軍省は競馬開催に法的根拠を与えるための法案制定を強力に後押しするとともに、馬政局を農商務省に移管するなどの施策を行い、1923年(大正12年)4月10日、第46回帝国議会の協賛並びに大正天皇の摂政迪宮裕仁の裁可を経て旧競馬法が成立。同年7月1日付で施行された。このとき馬券の発売も条件付きながら合法化された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "競馬法(けいばほう、昭和23年法律第158号)は、日本における競馬の開催、競馬場、開催回数、入場料、勝馬投票券(いわゆる馬券)、勝馬投票法、払戻金等など、競馬に関する事項を定める法律である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "所管は原則として農林水産省畜産局競馬監督課だが、地方競馬の施行者の指定に関する業務のみ、総務省自治財政局公営企業課が担当する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大正12年法律第47号の競馬法は、現行の競馬法と区別して「旧競馬法」と呼ばれている。", "title": "旧競馬法" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1906年に開始された公認競馬には当初法的根拠がなく、「馬券に関する内閣決議書」という農商務・陸軍・内務・司法の4大臣による合議書によって正当化されていた。そのため馬券の射幸性に対して批判的な風潮が強まると政府は1908年10月6日、刑法(明治40年法律第45号)を根拠として馬券禁止の通牒を競馬主催者に発した。", "title": "旧競馬法" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "しかしこれは良質な軍馬生産という観点で大きな支障を発生させる事となり第一次世界大戦後、軍隊の機動性向上の観点から軍馬生産を重視した帝國陸軍(陸軍省馬政局)は馬産奨励のため競馬に着目した。陸軍省は競馬開催に法的根拠を与えるための法案制定を強力に後押しするとともに、馬政局を農商務省に移管するなどの施策を行い、1923年(大正12年)4月10日、第46回帝国議会の協賛並びに大正天皇の摂政迪宮裕仁の裁可を経て旧競馬法が成立。同年7月1日付で施行された。このとき馬券の発売も条件付きながら合法化された。", "title": "旧競馬法" } ]
競馬法(けいばほう、昭和23年法律第158号)は、日本における競馬の開催、競馬場、開催回数、入場料、勝馬投票券(いわゆる馬券)、勝馬投票法、払戻金等など、競馬に関する事項を定める法律である。 所管は原則として農林水産省畜産局競馬監督課だが、地方競馬の施行者の指定に関する業務のみ、総務省自治財政局公営企業課が担当する。
{{law}} {{日本の法令 |題名=競馬法 |番号=昭和23年法律第158号 |通称= |効力=現行法 |種類=[[行政手続法]] |所管=[[農林水産省]]([[畜産局]])<br>[[総務省]]([[自治財政局]]) |内容=競馬について |関連=競馬法施行令<br>競馬法施行規則<br>[[日本中央競馬会法]]<br>[[地方競馬法]]<br>[[自転車競技法]]<br>[[小型自動車競走法]]<br>[[モーターボート競走法]] |リンク=[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=323AC0000000158 e-Gov法令データ検索] }} '''競馬法'''(けいばほう、昭和23年法律第158号)は、[[日本]]における[[競馬]]の開催、[[競馬場]]、開催回数、入場料、[[投票券 (公営競技)|勝馬投票券]](いわゆる[[馬券]])、勝馬投票法、払戻金等など、競馬に関する事項を定める[[法律]]である。 所管は原則として[[農林水産省]][[畜産局]]競馬監督課だが、[[地方競馬]]の[[地方公共団体|施行者]]の指定に関する業務のみ、[[総務省]][[自治財政局]]公営企業課が担当する。{{see also|公営競技#歴史|地方競馬#GHQと競馬法成立}} == 構成 == * 第一章 総則(第1条・第1条の2) * 第二章 中央競馬(第2条 - 第18条) * 第三章 地方競馬(第19条 - 第23条の46) * 第四章 雑則(第24条 - 第29条の3) * 第五章 罰則(第30条 - 第34条) * 附則 == 概要 == ;主催者 :[[日本中央競馬会]]又は[[都道府県]](=地方競馬)は、この法律により、競馬を行うことができる(1条の2)。 :次の各号のいずれかに該当する[[市町村]]([[特別区]]を含む。以下同じ)でその財政上の特別の必要を考慮して[[総務大臣]]が農林水産大臣と協議して指定するもの(以下「指定市町村」という)は、その指定のあつた日から、その特別の必要がやむ時期としてその指定に付した期限が到来する日までの間に限り、この法律により、競馬を行うことができる(1条の2第2項)。 :# 著しく災害を受けた市町村 :# その区域内に地方競馬場が存在する市町村 :日本中央競馬会が行う競馬は、[[中央競馬]]といい、都道府県又は指定市町村が行う競馬は、[[地方競馬]]という(1条の2第5項)。 :日本中央競馬会、都道府県又は指定市町村以外の者は、勝馬投票券その他これに類似するものを発売して、競馬を行つてはならない(1条の2第6項)。 :* 2005年1月の改正により、これまで認められていなかった民間業者への勝馬投票券発売委託は認められている。また、2007年6月の改正で地方競馬全国協会も発売業務を行えることになった。(4条、21条) :* 2015年5月の改正(2015年11月1日施行<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.maff.go.jp/j/chikusan/keiba/lin/pdf/27keibahougaiyou.pdf|title=競馬法の一部を改正する法律の概要(平成27年5月公布)|publisher=[[農林水産省]]|accessdate=2016-01-26}}</ref>)で'''「海外競馬の競走のうち、日本中央競馬会が勝馬投票券を発売することができるものを指定することができる」'''(3条の2)、'''「農林水産大臣は、海外競馬の競走のうち、都道府県又は指定市町村が勝馬投票券を発売することができるものを指定することができる」'''(20条の2)、<ref group="注">3条の2で'''「海外競馬(海外において実施される競馬であつて、我が国と同等の水準にあると認められる競馬の監督に関する制度により公正を確保するための措置が講ぜられているものをいう。以下同じ。)」'''と定義されている。<!-- 定義であるため、[[WP:JPOV]]を適用して「海外競馬」を「日本国外の競馬」などに安易に書き換えないこと。 --></ref>となった。なお指定の要件にそれぞれ中央競馬又は地方競馬の登録を受けた馬を出走させることができる海外競馬の競走であることがある。{{see also|2016年の日本競馬#海外競馬の勝馬投票券発売|日本調教馬の日本国外への遠征#凱旋門賞}} ;[[競馬場]] :中央競馬の競馬場の数は、12箇所以内において農林水産省令で定める(2条)<ref group="注">競馬法施行規則第1条で「札幌、函館、福島、新潟、中山、東京、中京、京都、阪神及び小倉とする」と規定されている。</ref>。 :地方競馬の競馬場の数は、[[北海道]]にあつては6箇所以内、都府県にあつては2箇所以内とする(19条)。 :* 1997年の[[門別競馬場]]([[ホッカイドウ競馬]])開設の際、北海道内にはすでに[[旭川競馬場|旭川]]・[[岩見沢競馬場|岩見沢]]・[[帯広競馬場|帯広]](以上、ホッカイドウ競馬および[[ばんえい競走|ばんえい競馬]]を開催)・[[札幌競馬場|札幌]]・[[函館競馬場|函館]](以上、ホッカイドウ競馬および中央競馬を開催)・[[北見競馬場|北見]](ばんえい競馬のみ開催)の6か所の競馬場で地方競馬が行われており、門別競馬場で競馬を行うためには左記の6競馬場のうち1つで地方競馬の開催を取りやめなければならなかった。1998年より岩見沢・帯広・函館でのホッカイドウ競馬の開催がなくなり、函館での地方競馬開催が消滅したため(岩見沢・帯広はばんえい競馬の開催は残った)、北海道内における地方競馬の開催場数は変わらず6となった。なおホッカイドウ競馬は2010年以降門別のみ、ばんえい競馬は2007年以降帯広のみでの開催となっている。 ;[[勝馬投票券]] :勝馬投票券は10円単位で発売し、10枚(100円単位)以上を1枚として発売することができる(6条1項・2項、22条)。 :勝馬投票券の形式は、「単勝式」「複勝式」「連勝単式」「連勝複式」「重勝式」とする(7条、22条)。詳細は[[投票券 (公営競技)#投票法の種類]]を参照。 :*日本では長らく重勝式は発売されていなかったが、地方競馬では[[2010年]]の[[ばんえい競走|ばんえい競馬]]の五重勝式導入を皮切りに一部主催者が導入、[[2011年]]からは中央競馬でも五重勝式の発売が開始されている。 :払戻率(勝馬投票券の発売額に対する払戻額の割合)は、70%以上農林水産大臣が定める率以下の範囲内で主催者が設定する(8条、22条)。 :*詳細は[[投票券 (公営競技)#控除率]]を参照。上記は2014年4月の改正規定施行後のもので、それ以前は固定の計算式で算出されていた。 :未成年者は勝馬投票券の購入および譲り受けができない(28条)。 :*2004年までは成年であっても学生・生徒に該当する者が勝馬投票券の購入・譲り受けをしてはいけない規定があったが、2005年1月の改正により成年なら全員勝馬投票券を購入できるように改められた{{refnest|group="注"|競馬以外の公営競技([[競艇|ボートレース]]・[[競輪]]・[[オートレース]])にて同様の改正がされたのは2007年頃<ref group="注">[[モーターボート競走法]](ボートレース)の改正が2007年4月1日付け、[[自転車競技法]](競輪)及び[[小型自動車競走法]](オートレース)の改正が2007年6月13日付け。</ref>であり、それまで学生・生徒に該当する未成年者が購入できた公営競技の投票券は勝馬投票券のみという状態が2年余り続いた。}}。 :*2022年4月1日施行の改正民法により成年年齢が18歳に改められるが、同時に競馬法も改正され'''「二十歳未満の者は、勝馬投票券を購入し、又は譲り受けてはならない」'''となった<ref>平成三十年法律第五十九号</ref>。この法改正施行以前からもJRAでは'''『馬券は20歳になってから ほどよく楽しむ大人の遊び』'''という啓発用キャッチフレーズを導入していた。 ;その他 :[[地方競馬全国協会]]の設立(22条 - 23条の46<ref group="注">2007年6月改正以降の競馬法による。改正以前の競馬法では第23条の37。</ref>)。 :*2017年の改正により地方競馬全国協会の資金確保について平成29年度から令和4年度と改められ期限延長がなされた。 == 旧競馬法 == 大正12年法律第47号の競馬法は、現行の競馬法と区別して「'''旧競馬法'''」と呼ばれている。 [[1906年]]に開始された[[公認競馬]]には当初法的根拠がなく、「馬券に関する内閣決議書」という[[農商務省_(日本)|農商務]]・[[陸軍省|陸軍]]・[[内務省 (日本)|内務]]・[[司法省 (日本)|司法]]の4大臣による合議書によって正当化されていた。そのため馬券の射幸性に対して批判的な風潮が強まると政府は[[1908年]][[10月6日]]、[[刑法 (日本)|刑法]](明治40年法律第45号)を根拠として馬券禁止の通牒を競馬主催者に発した。{{main|競馬の歴史 (日本)#馬券発売の禁止|勝馬投票券#居留地競馬〜競馬法施行前}} しかしこれは良質な[[軍馬]]生産という観点で大きな支障を発生させる事となり[[第一次世界大戦]]後、[[日本軍|軍隊]]の機動性向上の観点から軍馬生産を重視した[[大日本帝国陸軍|帝國陸軍]](陸軍省[[馬政局]])は馬産奨励のため競馬に着目した。陸軍省は競馬開催に法的根拠を与えるための法案制定を強力に後押しするとともに、馬政局を農商務省に移管するなどの施策を行い、[[1923年]]([[大正]]12年)[[4月10日]]、[[第46回帝国議会|第46回]][[帝国議会]]の[[大日本帝国憲法第37条|協賛]]並びに[[大正天皇]]の[[摂政]][[昭和天皇|迪宮裕仁]]の[[上諭|裁可]]を経て旧競馬法が成立。同年[[7月1日]]付で施行された。このとき馬券の発売も条件付きながら合法化された。{{main|競馬の歴史 (日本)#(旧)競馬法成立|勝馬投票券#競馬法施行〜8枠連勝複式以前}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Wikinews-inline|2016年1月のばんえい競馬}}【2016年2月12日】 {{デフォルトソート:けいはほう}} [[Category:日本の法律]] [[Category:日本の競馬関連法規|*]] [[Category:1948年の法]]
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永楽通宝
永楽通宝(えいらくつうほう)は、中国明代の第3代皇帝永楽帝の永楽9年(1411年)より鋳造され始めた銅製銭貨。日本では室町時代に日明貿易や倭寇によって大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通。永楽銭・永銭などと呼ばれた。 形状は円形で、中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「永樂通寳」の文字が上下右左の順に刻印されている。このような銭の形状(いわゆる方孔円銭)は、中国古代の半両銭に由来するものとされている。材質は銅製、貨幣価値は1文として通用したが、日本では天正年間以降永楽通宝1枚が鐚銭4文分と等価とされた。 日本では、慶長13年(1608年)には通用禁止令が出され、やがて寛永通宝等の国産の銭に取って代わられた。しかしその後も永という仮想通貨単位すなわち永一貫文=金一両であり1/1000両を表す永勘定が年貢の取り立てに引き続き用いられるなど、長く影響を残した(永1文は4文前後)。 なお、永楽通宝は明では流通しておらず、もっぱら国外で流通していたと考えられてきた。明では初代皇帝洪武帝のときに銭貨使用が禁じられ、すべて紙幣(後には銀)に切り替えられていた(洪武帝は中国統一前には支配地域の一部で大中通宝「銅銭」を発行しており、統一後も洪武通宝「銅銭」を発行していた。その後も宣徳通宝・弘治通宝・嘉靖通宝が発行されている)。一方、日本では貨幣経済が急速に発展しており、中国銭貨への需要が非常に高まっていた。そのため、日本との貿易決済用銭貨として永楽通宝が鋳造されることとなったというものである。これは永楽通宝が中国ではほとんど現存せず、日本でのみ発見されていたことによる説である。ところが、近年になって日本の永楽通宝の中には日本で鋳造されたものが相当数含まれているという説が出されたことでその前提に疑問が出され(後述)、また永楽9年(1411年)に浙江・江西・広東・福建の各布政司で永楽通宝の鋳造が命じられている事実(内陸の江西や日本との関係の薄い広東でも鋳造されている)や、景泰7年(1456年)に北京に大量の私鋳の永楽通宝が持ち込まれていたことが発覚する(北京の市場で官鋳による永楽通宝が通用していたことが私鋳銭混入の前提となる)など、近年では少なくとも15世紀後半の段階では永楽通宝は明国内でも流通されていたと考えられている。近年では、さらに広範囲に渡って使用されていた可能性も指摘されている。2013年には、アフリカのケニアから永楽通宝が出土している。 平安時代から鎌倉時代にかけて日本国内の商業・物資流通が活発化すると共に貨幣の必要性が高まっていた。しかしながらその時代には律令体制が崩壊しており、銭貨鋳造を行う役所も技術も廃れていた事から、中国から銅銭を輸入してそれを国内で流通させていた。 その中でも明の永楽帝の時期に永楽9年(1411年)から作られた銅銭永楽通宝(永楽銭)は当初は明の国内でも流通していたのだが信用が低かった(中国では新銭よりも、流通の実績のある宋銭や開元通宝などが好まれた)ことから15世紀後半には明では次第に使用が忌避されるようになり、室町時代後期に大量に輸入された。この多くは日明貿易(勘合貿易)や倭寇を通じて日本に持ち込まれたものである。永楽銭という用語は、明代に輸入された銅貨一般を差す場合もある。従来からの宋銭が数百年の流通により磨耗・破損したものが多くなっていたのに対し、新たに輸入された永楽銭は良質の銅銭で有ったため、東日本を中心に江戸初期まで基本貨幣として使われている一方で西日本では従来通り宋銭・鐚銭の流通が中心であったとされるが、近年になって、明朝時代に宋銭を私鋳していたという記述がいくつか発見されそれらの“宋銭”が日本に渡ってきた可能性は高いこと、また、後述するように当初の明銭は撰銭の対象であったことが各種法令などから窺えることなどから、永楽銭は日本に入ってきた当初は日本全国で“価値の低い銭”であった可能性が高い。 民間が勝手に鋳造した銭貨を私鋳銭というが、中国江南地方や日本で作られた私鋳銭も多く流通していた(なお、一般では官鋳銭は品質が良く、私鋳銭は品質が悪いと思われがちだが一概にそのように言えるものでもない。官鋳銭にも産地によっては良質な私鋳銭より質の悪いものもあった)。日本でも中国同様に、新鋳の明銭よりも流通実績のある宋銭の方が価値が高いと見なされ、15世紀後半〜16世紀半ばまでの畿内においては永楽通宝などの明銭は条件付き(百枚中20〜30枚までの混入を認める)でしか流通しておらず、そのような宋銭重視政策を特に畿内の荘園領主が行ったため畿内では宋銭使い、東北や九州などの辺境などから次第に粗悪な銭(鐚銭)数枚で精銭1文とする慣行が成立していくことで撰銭の対象であった永楽銭の地方流入を招くと共に、東国では後北条氏・結城氏などが永楽銭を基準とした貫高制の整備を行った。やがて1560年代に明が本格的な倭寇取り締まりなどを行うと中国からの銭の流入が途絶えたことにより銭不足に陥り、畿内では1560年代に貨幣経済から米経済、1570年代に米経済から銀経済への急激な転換が起こる一方、関東では何段階かに分かれていた鐚銭の階層が収束されていき、京銭(渡来銭・私鋳銭を問わない宋銭)4枚=永楽銭1文という慣行が成立していった。 江戸時代に入ると江戸幕府が慶長11年(1606年)に独自の銅銭慶長通宝を鋳造して2年後には永楽銭の流通禁止令が出され、この段階では慶長通宝の流通も十分でなく、実態は永楽銭の優位的通用を禁じ鐚銭並みの通用になったとされるが、元和偃武後の寛永13年(1636年)には寛永通宝を本格的に鋳造し、寛文年間以降全国的に流通し始めると、永楽銭を始めとする渡来銭などの旧銭は次第に駆逐されていった。 永楽通宝が主に流通していたのは、伊勢・尾張以東の東国である。特に関東では、永楽通宝が基準通貨と位置づけられ、年貢や貫高の算定も永楽通宝を基準として行った。これを永高制という。一方、西国では宋銭など唐宋時代の古銭が好まれ、16世紀に入るまであまり流通しなかった。ところがこの事実には大きな問題があった。それは明で100年も以前に鋳造された銅銭が16世紀の日本の東国で広く使われた経緯が不透明な点である。しかも、明との貿易を行っていたのは主に西国の大名や商人であり、日本に流入する永楽通宝がまず彼らの手中に入るはずであるのに、なぜ地理的に離れた東国でのみ流通したのかという点が十分に説明されてこなかった。このため、近年になって黒田明伸は16世紀の東国で用いられた永楽通宝は明で鋳造されたものではなく、そのほとんどが明の永楽通宝を精巧に再現して日本の東国地域で鋳造された私鋳銭であるという説を提唱した。折しも、茨城県東海村の村松白根遺跡から永楽通宝とその枝銭が発見されており、科学分析の結果日本国産の銅で鋳造された可能性が高いことが判明するなど、今後の研究次第では通説に対する大きな見直しが迫られる可能性がある。また、川戸貴史は「永楽銭」の言葉があるからと言って必ずしも実物の永楽通宝でのやりとりを伴ったわけではなく、特に時代が下るにつれて(1570年代以降)、「永楽銭」は実際の永楽通宝の価値とは異なる空位化した基準額(計数単位化)やそれに基づいた一定の基準を満たす精銭群(そこには実物の永楽通宝が含まれ得る)を指すなどの変化が見られ、実物の永楽通宝と「永楽銭」「永高」「永」との関係の再検討の必要性を指摘している。 織田信長は、永楽通宝の意匠を織田家の旗印として用いていた。理由は明らかでないが、貨幣流通に早くから注目していたためであるとも言われる。信州上田城には、永楽通宝紋入の鬼瓦があり、これは上田藩主となった仙石忠政の父の仙石秀久が織田家臣時代に織田信長から拝領した家紋であると伝えられている。 「永樂通寳」と鋳出されている銭貨には、中国の明本銭、日本の各種鐚銭(鋳写鐚銭・加刀鐚銭・改造鐚銭)の他、太閤金銀銭・島銭・安南手類銭などもある。 明本銭の永楽通宝の直径は25~26mm程度であるが、日本の鋳写鐚銭の永楽通宝では明本銭とあまり変わらない直径のものから直径20mm程度のものまで様々な直径のものが現存している。鋳写しを繰り返すごとに直径が小さくなるため、本銭より5~6mm程度直径の小さい鋳写鐚銭は原理的にはどのような銭銘の銭にもありそうであるが、実際にここまで段階的に小さなものが現存しているのは永楽通宝のみである。
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永楽通宝(えいらくつうほう)は、中国明代の第3代皇帝永楽帝の永楽9年(1411年)より鋳造され始めた銅製銭貨。日本では室町時代に日明貿易や倭寇によって大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通。永楽銭・永銭などと呼ばれた。
'''永楽通宝'''(えいらくつうほう)は、[[中国]][[明|明代]]の第3代皇帝[[永楽帝]]の[[永楽 (明)|永楽]]9年([[1411年]])より鋳造され始めた[[銅]]製[[銭貨]]。日本では[[室町時代]]に[[日明貿易]]や[[倭寇]]によって大量に輸入され、[[江戸時代]]初頭まで流通。'''永楽銭'''・'''永銭'''などと呼ばれた。 == 概要 == [[Image:Eiraku-Tsuho.jpg|thumb|永楽通宝|200px]] 形状は円形で、中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「永樂通寳」の文字が上下右左の順に刻印されている。このような銭の形状(いわゆる方孔円銭)は、中国古代の[[半両銭]]に由来するものとされている<ref>柿沼陽平『中国古代の貨幣:お金をめぐる人びとと暮らし』(吉川弘文館、2015年)</ref>。材質は[[銅]]製、貨幣価値は1[[文 (通貨単位)|文]]として通用したが、日本では[[天正]]年間以降永楽通宝1枚が[[鐚銭]]4文分と等価とされた。 日本では、[[慶長]]13年([[1608年]])には通用禁止令が出され、やがて[[寛永通宝]]等の国産の銭に取って代わられた。しかしその後も'''[[永]]'''という仮想通貨単位すなわち永一[[貫文]]=金一[[両]]であり1/1000両を表す'''永勘定'''が年貢の取り立てに引き続き用いられるなど、長く影響を残した(永1文は4文前後)<ref name="mikami">三上隆三『江戸の貨幣物語』東洋経済新報社、1996年</ref>。 なお、永楽通宝は明では流通しておらず、もっぱら国外で流通していたと考えられてきた。明では初代皇帝[[洪武帝]]のときに銭貨使用が禁じられ、すべて紙幣(後には[[銀錠|銀]])に切り替えられていた(洪武帝は中国統一前には支配地域の一部で[[大中通宝]]「銅銭」を発行しており、統一後も[[洪武通宝]]「銅銭」を発行していた。その後も[[宣徳通宝]]・[[弘治通宝]]・[[嘉靖通宝]]が発行されている)。一方、日本では貨幣経済が急速に発展しており、中国銭貨への需要が非常に高まっていた。そのため、日本との貿易決済用銭貨として永楽通宝が鋳造されることとなったというものである。これは永楽通宝が中国ではほとんど現存せず、日本でのみ発見されていたことによる説である。ところが、近年になって日本の永楽通宝の中には日本で鋳造されたものが相当数含まれているという説が出されたことでその前提に疑問が出され(後述)、また永楽9年([[1411年]])に浙江・江西・広東・福建の各布政司で永楽通宝の鋳造が命じられている事実(内陸の江西や日本との関係の薄い広東でも鋳造されている)<ref>『続文献通考』巻10「銭幣考 四」</ref>や、[[景泰]]7年([[1456年]])に北京に大量の私鋳の永楽通宝が持ち込まれていたことが発覚する(北京の市場で官鋳による永楽通宝が通用していたことが私鋳銭混入の前提となる)<ref>『明実録』景泰7年7月甲申条</ref>など、近年では少なくとも15世紀後半の段階では永楽通宝は明国内でも流通されていたと考えられている<ref name="kuroda">黒田明伸「東アジア貨幣史の中の中世後期日本」(鈴木公雄 編『貨幣の地域史』岩波書店、2007年 第1章所収)</ref>。近年では、さらに広範囲に渡って使用されていた可能性も指摘されている。[[2013年]]には、[[アフリカ]]の[[ケニア]]から永楽通宝が出土している<ref>{{cite news |title=ケニアで600年前の中国硬貨 明の「永楽通宝」発見 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2013-03-18 |url=http://sankei.jp.msn.com/life/news/130318/art13031816430005-n1.htm|accessdate=2013-03-18}}</ref>。 == 日本における永楽通宝 == [[File:Bitasen.jpg|thumb|永楽通宝の「鋳写(いうつし)鐚銭」(室町末期)]] [[平安時代]]から[[鎌倉時代]]にかけて日本国内の商業・物資流通が活発化すると共に貨幣の必要性が高まっていた。しかしながらその時代には[[律令体制]]が崩壊しており、銭貨鋳造を行う役所も技術も廃れていた事から、中国から銅銭を輸入してそれを国内で流通させていた。 その中でも明の永楽帝の時期に永楽9年([[1411年]])から作られた銅銭永楽通宝(永楽銭)は当初は明の国内でも流通していたのだが信用が低かった(中国では新銭よりも、流通の実績のある[[宋銭]]や[[開元通宝]]などが好まれた)ことから15世紀後半には明では次第に使用が忌避されるようになり、室町時代後期に大量に輸入された。この多くは[[日明貿易]](勘合貿易)や[[倭寇]]を通じて日本に持ち込まれたものである。永楽銭という用語は、明代に輸入された銅貨一般を差す場合もある。従来からの宋銭が数百年の流通により磨耗・破損したものが多くなっていたのに対し、新たに輸入された永楽銭は良質の銅銭で有ったため、東日本を中心に江戸初期まで基本貨幣として使われている一方で西日本では従来通り宋銭・鐚銭の流通が中心であった<ref name="kobata">[[小葉田淳]]『日本の貨幣』至文堂、1958年</ref>とされるが、近年になって、明朝時代に宋銭を私鋳していたという記述がいくつか発見されそれらの“宋銭”が日本に渡ってきた可能性は高いこと、また、後述するように当初の明銭は[[撰銭]]の対象であったことが各種法令などから窺えることなどから、永楽銭は日本に入ってきた当初は日本全国で“価値の低い銭”であった可能性が高い。 民間が勝手に鋳造した銭貨を私鋳銭というが、中国[[江南|江南地方]]や日本で作られた私鋳銭も多く流通していた(なお、一般では官鋳銭は品質が良く、私鋳銭は品質が悪いと思われがちだが一概にそのように言えるものでもない。官鋳銭にも産地によっては良質な私鋳銭より質の悪いものもあった)。日本でも中国同様に、新鋳の明銭よりも流通実績のある宋銭の方が価値が高いと見なされ、15世紀後半〜16世紀半ばまでの畿内においては永楽通宝などの明銭は条件付き(百枚中20〜30枚までの混入を認める)でしか流通しておらず<ref name="oouchi">初出は1485年に出された大内氏撰銭令。1500年から1542年にかけては室町幕府も同様の撰銭令を出している。</ref>、そのような宋銭重視政策を特に畿内の荘園領主が行ったため畿内では宋銭使い、東北や九州などの辺境などから次第に粗悪な銭(鐚銭)数枚で精銭1文とする慣行が成立していくことで撰銭の対象であった永楽銭の地方流入を招くと共に、東国では[[後北条氏]]・[[結城氏]]などが永楽銭を基準とした[[貫高制]]の整備を行った。やがて1560年代に明が本格的な倭寇取り締まりなどを行うと中国からの銭の流入が途絶えたことにより銭不足に陥り、畿内では1560年代に貨幣経済から米経済、1570年代に米経済から銀経済への急激な転換が起こる一方、関東では何段階かに分かれていた鐚銭の階層が収束されていき、京銭([[渡来銭]]・私鋳銭を問わない宋銭)4枚=永楽銭1文という慣行が成立していった<ref name="sakurai">桜井英治『銭貨のダイナミズム―中世から近世へ―』(鈴木公雄 編『貨幣の地域史』岩波書店 2007年所収)</ref>。 {{Wikisource|北条五代記/巻第二#二-五|北条五代記|原文「關東永樂錢。すたる事」}} 江戸時代に入ると[[江戸幕府]]が[[慶長]]11年([[1606年]])に独自の銅銭[[慶長通宝]]を鋳造して2年後には永楽銭の流通禁止令が出され、この段階では慶長通宝の流通も十分でなく、実態は永楽銭の優位的通用を禁じ鐚銭並みの通用になったとされるが<ref name="kobata" />、[[元和偃武]]後の[[寛永]]13年([[1636年]])には[[寛永通宝]]を本格的に鋳造し、[[寛文]]年間以降全国的に流通し始めると、永楽銭を始めとする渡来銭などの旧銭は次第に駆逐されていった。 永楽通宝が主に流通していたのは、[[伊勢国|伊勢]]・[[尾張国|尾張]]以東の東国である。特に関東では、永楽通宝が基準通貨と位置づけられ、[[年貢]]や[[貫高]]の算定も永楽通宝を基準として行った。これを'''[[永高制]]'''という。一方、西国では[[宋銭]]など[[唐]][[宋 (王朝)|宋]]時代の古銭が好まれ、[[16世紀]]に入るまであまり流通しなかった。ところがこの事実には大きな問題があった。それは明で100年も以前に鋳造された銅銭が16世紀の日本の東国で広く使われた経緯が不透明な点である。しかも、明との貿易を行っていたのは主に西国の大名や商人であり、日本に流入する永楽通宝がまず彼らの手中に入るはずであるのに、なぜ地理的に離れた東国でのみ流通したのかという点が十分に説明されてこなかった。このため、近年になって[[黒田明伸]]は16世紀の東国で用いられた永楽通宝は明で鋳造されたものではなく、そのほとんどが明の永楽通宝を精巧に再現して日本の東国地域で鋳造された私鋳銭であるという説を提唱した。折しも、[[茨城県]][[東海村]]の[[村松白根遺跡]]から永楽通宝とその[[枝銭]]が発見されており、科学分析の結果日本国産の銅で鋳造された可能性が高いことが判明するなど、今後の研究次第では通説に対する大きな見直しが迫られる可能性がある<ref name="kuroda" />。また、[[川戸貴史]]は「永楽銭」の言葉があるからと言って必ずしも実物の永楽通宝でのやりとりを伴ったわけではなく、特に時代が下るにつれて([[1570年代]]以降)、「永楽銭」は実際の永楽通宝の価値とは異なる空位化した基準額(計数単位化)やそれに基づいた一定の基準を満たす精銭群(そこには実物の永楽通宝が含まれ得る)を指すなどの変化が見られ、実物の永楽通宝と「永楽銭」「永高」「[[永]]」との関係の再検討の必要性を指摘している<ref>川戸貴史「十六世紀末期関東の貨幣と知行」(佐藤博信 編『中世東国の政治と経済 中世東国論:6』(岩田書院、2016年) ISBN 978-4-86602-980-1)</ref>。 == 永楽通宝の旗印 == [[ファイル:Nobunaga_flag.png|thumb|100px|織田信長軍永楽銭の[[馬印|旗印]]]] [[織田信長]]は、永楽通宝の意匠を織田家の旗印として用いていた。理由は明らかでないが、貨幣流通に早くから注目していたためであるとも言われる。信州[[上田城]]には、永楽通宝紋入の[[鬼瓦]]があり、これは上田藩主となった[[仙石忠政]]の父の[[仙石秀久]]が織田家臣時代に織田信長から拝領した家紋であると伝えられている。 == その他 == 「永樂通寳」と鋳出されている銭貨には、中国の明本銭、日本の各種鐚銭(鋳写鐚銭・加刀鐚銭・改造鐚銭)の他、[[太閤金銀銭]]・[[島銭]]・[[安南]]手類銭などもある。 明本銭の永楽通宝の直径は25~26mm程度であるが、日本の鋳写鐚銭の永楽通宝では明本銭とあまり変わらない直径のものから直径20mm程度のものまで様々な直径のものが現存している。鋳写しを繰り返すごとに直径が小さくなるため、本銭より5~6mm程度直径の小さい鋳写鐚銭は原理的にはどのような銭銘の銭にもありそうであるが、実際にここまで段階的に小さなものが現存しているのは永楽通宝のみである。 == 脚注・出典== {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Yongle Tongbao}} *[[中国の貨幣制度史]] *[[口永]] *[[渡来銭]] *[[明銭]] *[[鐚銭]] *[[永]] {{中国の貨幣}} {{日本の通貨}} {{DEFAULTSORT:えいらくつうほう}} [[Category:中国の経済史]] [[Category:中国の硬貨]] [[Category:日本の硬貨]] [[Category:貨幣史]] [[Category:室町時代]] [[Category:室町時代の外交]] [[Category:日中関係史]] [[Category:日本の貿易の歴史]] [[Category:中国の貿易の歴史]] [[Category:銅貨]] [[Category:明朝]] [[Category:永楽帝]]
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公開鍵暗号
公開鍵暗号(こうかいかぎあんごう、英語: Public-key cryptography)とは、暗号化と復号とに異なる鍵(手順)を用い、暗号化用の鍵は公開できるようにした暗号方式である(復号用の鍵は秘匿)。対照的な暗号方式として、暗号化と復号に同一の鍵を用いる共通鍵暗号がある。 暗号化は通信の秘匿性を高めるための手段だが、それに必須の鍵もまた情報なので、鍵を受け渡す過程で盗聴されてしまうというリスクがあった。共通鍵を秘匿して受け渡すには(特使が運搬するというような)コストもかかり、一般人が暗号を用いる際の障害であった。このような暗号化鍵の配送問題を解決したのが公開鍵暗号である。 公開鍵暗号で使われるのと同じ数学的な理論に基づいて通信の安全性を保障する暗号技術全般を指して、広義に公開鍵暗号(あるいは公開鍵暗号技術、非対称暗号技術)と呼ぶこともある。この場合、秘匿を目的とする公開鍵暗号方式だけでなく、デジタル署名(秘匿機能は無い)、公開鍵通信路のみを用いて共通鍵を合意することのできるディフィー・ヘルマン鍵交換なども含まれる。 以下では、秘匿を目的とした狭義での公開鍵暗号について扱う。 1976年以前には、数理による暗号といえば共通鍵暗号であった。これは暗号化と復号に共通の鍵を使う方式である。共通鍵暗号には、鍵の受け渡しを密かに行わなければならないという課題(鍵配送問題)があった。 共通鍵暗号を用いた通信手順の概略は次のようになる。 もし段階 1. で、送信者に対してセキュリティが保証されていない通信路を用いて鍵を配送した場合、第三者に共通鍵 c を傍受されていると、この暗号通信は容易に解読されてしまう。 共通鍵暗号に生じる鍵配送問題は、送信者と受信者の両者がただ1つの共通の鍵を用いるために起こる問題である。そこで、両者が異なる鍵を用いる方法、すなわち公開鍵暗号が考案された。 公開鍵暗号を用いた通信手順の概略: 暗号通信を不正に傍受しようとする者(傍受者)が公開鍵暗号の方式によって暗号化されたメッセージを傍受したとしても、公開鍵 p から秘密鍵 s を導き出すことは、計算時間の観点から極めて難しいため、暗号文を復号することはおよそできない。 暗号化のための鍵と復号のための鍵を異なるものにしたことで、鍵配送問題は解決された。 なお、暗号の用語については、暗号理論の用語、暗号の用語を参照。 公開鍵暗号方式では、鍵生成アルゴリズム、暗号化アルゴリズム、復号アルゴリズムを用いる。 鍵生成アルゴリズムは事前準備のためのアルゴリズムであり、(将来暗号文を受け取りたい)ユーザは事前に鍵生成アルゴリズムを実行しておく必要がある。ユーザが鍵生成アルゴリズムを実行すると、アルゴリズムはそのユーザの公開鍵および秘密鍵(それぞれ、そのように呼ばれるデータ)を出力する。公開鍵は暗号文を作成するのに使い、秘密鍵はその暗号文からメッセージを復元するのに使う。 ユーザは鍵生成アルゴリズムを実行する際、セキュリティ・パラメータという値をこのアルゴリズムに入力する。セキュリティ・パラメータは、秘密鍵なしでの暗号文の解読がどれだけ困難かを示す尺度である。 鍵生成アルゴリズムには乱数も入力される。鍵生成アルゴリズムは実行ごとに異なる乱数を選ぶので、ユーザ毎に異なる公開鍵・秘密鍵ペアが割りふられる。 各ユーザは秘密鍵を密かに保管し、公開鍵を公開する。ユーザの秘密鍵を知っているのはそのユーザ自身だけであり、ユーザの公開鍵を知っている(知ることができる)のは全てのユーザである。 メッセージを秘匿する暗号通信をするときの公開鍵、秘密鍵を、それぞれ暗号化鍵、復号鍵ともいう。 暗号文を送る際は、送りたいメッセージおよびそのメッセージの送信先(受信者)の公開鍵を入力として暗号化アルゴリズムを実行する。 受信者は復号アルゴリズムに自分の秘密鍵と暗号文を入力して、もとのメッセージを復元する。 公開鍵を使えば誰でも暗号文を作成できるが、その暗号文を正しく復号できるのは受信者本人だけである。 安全性を確保するには、どの公開鍵がどのユーザのものであるのかという対応をきちんとつけておく必要がある。暗号化に受信者の公開鍵 p を用いているので、もし、公開鍵 p とユーザとの対応が誤っていると、誤ったユーザの公開鍵を使って暗号文を送信してしまうことになる。これを悪用して、前もってあえて誤った対応表を作成しておくことによって暗号文を解くという攻撃が可能である(攻撃者は攻撃者自身の公開鍵をあたかも対象の受信者の公開鍵であるかのように見せた偽の対応表を作る。攻撃者の公開鍵を用いて暗号化された暗号文が対象の受信者へ送られたら、攻撃者はその暗号文を傍受して自身の秘密鍵で復号する。)。 公開鍵とその持ち主を対応させる方法はいくつか考案されている。代表的な方法は次の2つである。どちらも、信頼できる第三者機関(英語版)(Trusted Third Party、TTP)が必要になる。 1960年代、イギリスの政府通信本部 (GCHQ) に所属するジェイムズ・エリス(英語版)が公開鍵暗号(非秘密暗号)を考案し提案は受諾された。しかし理論的には有用性が認められたが、一方向性関数が見つけられずこのアイデアは実用化されなかった。1973年、同機関に入所したクリフォード・コックス(英語版)がこのアイデアに取り組み「作用は可能だが、逆転させられない関数」から素数と素因数分解を基に30分程度で数式を組み立て、さらにマルコム・ウィリアムソン(英語版)が鍵配送問題に解決の糸口を見つけ、今日の"RSA"と呼ばれる暗号システムの基礎を確立した。同時期に、彼らとは無関係な米国のアマチュア数学者、ウィットフィールド・デフィーが独学で公開鍵暗号開発に取り組んでいた。1976年に、ラルフ・マークルの研究の影響を受けたデフィーとマーティン・ヘルマンが公開鍵暗号に関する世界最初の論文「New Directions in Cryptography」を発表した。 公開鍵暗号という新規な発明は、本来、エリス=コックス=ウィリアムソン組が先であったが、論文にして公表し、その有用性を広く伝えたのは、デフィー=ヘルマン=マークル組となったため、本発明の特許権と栄誉は彼らが得た。先に考案していたエリス=コックス=ウィリアムソン組は、英軍の管理下であったGCHQが国家機密となっていたために、後発組が公開鍵暗号の論文を発表しても、契約により口外できなかった。後年、公開鍵暗号が広く普及したことで本暗号に関する機密扱いが解除され、エリス=コックス=ウィリアムソン組の功績が世に知られることになった。デフィーの「先に開発していたのは本当ですか?」との問いに、エリスは「我々より、君達の方がより多くの事をやっている」と答えている。 公開鍵暗号の概念を実現する具体的な方式は、MITの研究者であったロナルド・リベスト、アディ・シャミア、レオナルド・エーデルマンの3人が1977年に開発した。この方式は、開発者各人の頭文字を取って「RSA方式」と呼ばれるようになった。1982年、彼らはカリフォリニア州レッドウッド市にデータセキュリティ専門の会社「RSAデータセキュリティ社」を設立した。 1990年代初頭、フィル・ジマーマンがパーソナル・コンピュータに搭載可能なプログラム「PGP(Pretty Good Privacy)」を開発し公開した。PGPが世界に普及したことで、誰でも公開鍵暗号が使用できるようになった。 公開鍵暗号は、1980年ごろには「公衆暗号 (public cryptography)」とも呼ばれていた。用語「公衆暗号系 (public cryptosystem)」も使われていたが、DES のような公衆が用いる共通鍵暗号を含むかどうかが紛らわしかったので、これらの用語はすぐに使われなくなった。 公開鍵暗号にはさまざまな方式がある。ここでは典型的な公開鍵暗号方式であるRSA暗号方式を説明する。 この方式の安全性は素因数分解の困難性に基づいている。詳しくはRSA暗号を参照。 大きな素数 p, q が与えられたとき、その積 n = pq を計算することは容易である。しかし、2つの大きな素数の積である自然数 n が与えられたとき、それを n = pq と素因数分解することは難しい。例えば n=21 のときは n が小さいので p=7, q=3 を求めるのは容易だが、鍵の大きさ(すなわち p, q のビット数)が十分に大きければ、素因数分解にはとてつもない時間が掛かる。 暗号化には n を、復号には p と q を必要とするようなうまい仕組みを作っておく。そして、n を公開鍵として公開する。傍受者は n から p, q を割り出そうとするが、これは時間が掛かりすぎて現実的でない。 根気強く素因数分解を試みていれば、いつかは復号できる。しかし、一般市民間の個人的な通信程度であれば、解読に数年を要する規模の暗号化を施しておけば、それ以上の手間を掛けて解読しようとする者はまずいない。これは、事実上秘密が守られているといえる(計算量的安全性)。 軍事用暗号の場合、専用のコンピュータで専門のプログラムを走らせても解読には数億年~数兆年を要するように設計されている。これも事実上解読不可能といってよい。 一般的に、公開鍵暗号は共通鍵暗号よりも暗号化、復号に時間がかかる。そのため、実際の運用では、データの暗号化には「その場限りの共通鍵」を使用し、その共通鍵の配送だけを公開鍵暗号で行う方式がとられることが多い。 公開鍵暗号を初めて実現したのがRSA暗号である。RSA暗号は公開鍵暗号として、実際に広く利用されることとなった。 kをセキュリティ・パラメータとする。 Π = ( G , E , D ) {\displaystyle \Pi =(G,E,D)} を、次を満たす平均多項式時間確率アルゴリズム3つ組とする。 Π = ( G , E , D ) {\displaystyle \Pi =(G,E,D)} が後述する正当性を満たすとき、 Π {\displaystyle \Pi } は公開鍵暗号方式であるといい、後述する秘匿性をさらに満たすとき、公開鍵暗号方式は安全であるという。 公開鍵暗号方式は、次の2つの要件を満たさねばならない。 M 0 {\displaystyle M_{0}} 、 M 1 {\displaystyle M_{1}} を攻撃者が指定した2つのメッセージとし、 C {\displaystyle C} を M 0 {\displaystyle M_{0}} もしくは M 1 {\displaystyle M_{1}} を暗号化した暗号文とする。 このとき、攻撃者は C {\displaystyle C} が M 0 {\displaystyle M_{0}} 、 M 1 {\displaystyle M_{1}} のいずれを暗号化したものであるかを(1/2よりも有意な確率で)知る事はできない。 O 1 {\displaystyle O_{1}} , O 2 {\displaystyle O_{2}} を2つのオラクル、 b {\displaystyle b} をビットとする。 暗号に対する攻撃者 A {\displaystyle A} を用いて次の実験 (Experiment, ゲーム (game) ともいう) をする。 攻撃者 A {\displaystyle A} のアドバンテージ(advantage)を : A d v Π − I N D ( O 1 , O 2 ) ( A , k ) = | P r ( E x p Π − I N D − 0 ( O 1 , O 2 ) ( A , k ) = 1 ) − P r ( E x p Π − I N D − 1 ( O 1 , O 2 ) ( A , k ) = 1 ) | {\displaystyle {\mathsf {Adv}}_{\Pi -{\mathsf {IND}}}^{(O_{1},O_{2})}(A,k)=|{\mathsf {Pr}}({\mathsf {Exp}}{}_{\Pi -{\mathsf {IND}}-0}^{(O_{1},O_{2})}(A,k)=1)-{\mathsf {Pr}}({\mathsf {Exp}}{}_{\Pi -{\mathsf {IND}}-1}^{(O_{1},O_{2})}(A,k)=1)|} により定義する。 ただしここで O d e c {\displaystyle O_{\mathsf {dec}}} は次の節で述べる復号オラクルである。 公開鍵暗号方式の場合暗号化用の鍵が公開されているので、攻撃者は(オラクルの助けを借りずとも)任意の平文を暗号化する事ができる。このため、Key Only Attackの事を選択平文攻撃(Chosen Plaintest Attack, CPAと略す)ともいう。 復号オラクル O d e c ( s k , X , ⋅ ) {\displaystyle O_{\mathsf {dec}}({\mathsf {sk}},X,\cdot )} は、攻撃者が任意の暗号文 C {\displaystyle C} を復号オラクル O d e c ( s k , X , ⋅ ) {\displaystyle O_{\mathsf {dec}}({\mathsf {sk}},X,\cdot )} に送信すると、 C ∉ X {\displaystyle C\notin X} である限り、 s k {\displaystyle {\mathsf {sk}}} を使って C {\displaystyle C} を復号した D s k ( C ) {\displaystyle D_{\mathsf {sk}}(C)} を攻撃者に送り返してくれるオラクルである。(下図参照) 暗号文を知っていることは、平文を知る上で何の役にもたたない。すなわち、暗号文を知っている状況で攻撃者が知ることができる平文についての部分情報は、暗号文を知らなくても攻撃者が知ることができる情報だけである。 k {\displaystyle k} をセキュリティ・パラメータとし、 Π = ( G , E , D ) {\displaystyle \Pi =(G,E,D)} を公開鍵暗号方式とする。 A , B {\displaystyle A,B} を多項式時間機械とする。 さらに、 O 1 , O 2 {\displaystyle O_{1},O_{2}} をオラクルとする。 次の2つのゲームを考える。ただしゲーム中で、 M , f {\displaystyle M,f} は多項式時間機械(の動作を記したプログラム)、 S t {\displaystyle St} はビット列で、 A {\displaystyle A} の状態と呼ばれる。 任意の多項式時間機械 A {\displaystyle A} に対し、ある多項式時間機械 B {\displaystyle B} が存在し、 が k に関して無視できるとき、公開鍵暗号方式 Π = ( G , E , D ) {\displaystyle \Pi =(G,E,D)} は ( O 1 , O 2 ) {\displaystyle (O_{1},O_{2})} -強秘匿 (Semantic Secure) であるという。 A {\displaystyle A} を攻撃者とし、以下のゲームを考える。 ただし、上のゲームで、 M {\displaystyle M} は、常に同じビット数のメッセージを出力するアルゴリズムでなければならない。 任意の多項式時間機械 A {\displaystyle A} に対し、 が k に関して無視できるとき、公開鍵暗号方式 Π = ( G , E , D ) {\displaystyle \Pi =(G,E,D)} は ( O 1 , O 2 ) {\displaystyle (O_{1},O_{2})} -non malleableであるという。
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"公開鍵暗号の概念を実現する具体的な方式は、MITの研究者であったロナルド・リベスト、アディ・シャミア、レオナルド・エーデルマンの3人が1977年に開発した。この方式は、開発者各人の頭文字を取って「RSA方式」と呼ばれるようになった。1982年、彼らはカリフォリニア州レッドウッド市にデータセキュリティ専門の会社「RSAデータセキュリティ社」を設立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1990年代初頭、フィル・ジマーマンがパーソナル・コンピュータに搭載可能なプログラム「PGP(Pretty Good Privacy)」を開発し公開した。PGPが世界に普及したことで、誰でも公開鍵暗号が使用できるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "公開鍵暗号は、1980年ごろには「公衆暗号 (public cryptography)」とも呼ばれていた。用語「公衆暗号系 (public cryptosystem)」も使われていたが、DES のような公衆が用いる共通鍵暗号を含むかどうかが紛らわしかったので、これらの用語はすぐに使われなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "公開鍵暗号にはさまざまな方式がある。ここでは典型的な公開鍵暗号方式であるRSA暗号方式を説明する。", "title": "RSA暗号" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "この方式の安全性は素因数分解の困難性に基づいている。詳しくはRSA暗号を参照。", "title": "RSA暗号" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "大きな素数 p, q が与えられたとき、その積 n = pq を計算することは容易である。しかし、2つの大きな素数の積である自然数 n が与えられたとき、それを n = pq と素因数分解することは難しい。例えば n=21 のときは n が小さいので p=7, q=3 を求めるのは容易だが、鍵の大きさ(すなわち p, q のビット数)が十分に大きければ、素因数分解にはとてつもない時間が掛かる。", "title": "RSA暗号" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "暗号化には n を、復号には p と q を必要とするようなうまい仕組みを作っておく。そして、n を公開鍵として公開する。傍受者は n から p, q を割り出そうとするが、これは時間が掛かりすぎて現実的でない。", "title": "RSA暗号" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "根気強く素因数分解を試みていれば、いつかは復号できる。しかし、一般市民間の個人的な通信程度であれば、解読に数年を要する規模の暗号化を施しておけば、それ以上の手間を掛けて解読しようとする者はまずいない。これは、事実上秘密が守られているといえる(計算量的安全性)。", "title": "RSA暗号" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "軍事用暗号の場合、専用のコンピュータで専門のプログラムを走らせても解読には数億年~数兆年を要するように設計されている。これも事実上解読不可能といってよい。", "title": "RSA暗号" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "一般的に、公開鍵暗号は共通鍵暗号よりも暗号化、復号に時間がかかる。そのため、実際の運用では、データの暗号化には「その場限りの共通鍵」を使用し、その共通鍵の配送だけを公開鍵暗号で行う方式がとられることが多い。", "title": "実際の使われ方" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "公開鍵暗号を初めて実現したのがRSA暗号である。RSA暗号は公開鍵暗号として、実際に広く利用されることとなった。", "title": "実際の使われ方" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "kをセキュリティ・パラメータとする。 Π = ( G , E , D ) {\\displaystyle \\Pi =(G,E,D)} を、次を満たす平均多項式時間確率アルゴリズム3つ組とする。", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "Π = ( G , E , D ) {\\displaystyle \\Pi =(G,E,D)} が後述する正当性を満たすとき、 Π {\\displaystyle \\Pi } は公開鍵暗号方式であるといい、後述する秘匿性をさらに満たすとき、公開鍵暗号方式は安全であるという。", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "公開鍵暗号方式は、次の2つの要件を満たさねばならない。", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "M 0 {\\displaystyle M_{0}} 、 M 1 {\\displaystyle M_{1}} を攻撃者が指定した2つのメッセージとし、 C {\\displaystyle C} を M 0 {\\displaystyle M_{0}} もしくは M 1 {\\displaystyle M_{1}} を暗号化した暗号文とする。", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "このとき、攻撃者は C {\\displaystyle C} が M 0 {\\displaystyle M_{0}} 、 M 1 {\\displaystyle M_{1}} のいずれを暗号化したものであるかを(1/2よりも有意な確率で)知る事はできない。", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "O 1 {\\displaystyle O_{1}} , O 2 {\\displaystyle O_{2}} を2つのオラクル、 b {\\displaystyle b} をビットとする。", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "暗号に対する攻撃者 A {\\displaystyle A} を用いて次の実験 (Experiment, ゲーム (game) ともいう) をする。", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "攻撃者 A {\\displaystyle A} のアドバンテージ(advantage)を : A d v Π − I N D ( O 1 , O 2 ) ( A , k ) = | P r ( E x p Π − I N D − 0 ( O 1 , O 2 ) ( A , k ) = 1 ) − P r ( E x p Π − I N D − 1 ( O 1 , O 2 ) ( A , k ) = 1 ) | {\\displaystyle {\\mathsf {Adv}}_{\\Pi -{\\mathsf {IND}}}^{(O_{1},O_{2})}(A,k)=|{\\mathsf {Pr}}({\\mathsf {Exp}}{}_{\\Pi -{\\mathsf {IND}}-0}^{(O_{1},O_{2})}(A,k)=1)-{\\mathsf {Pr}}({\\mathsf {Exp}}{}_{\\Pi -{\\mathsf {IND}}-1}^{(O_{1},O_{2})}(A,k)=1)|} により定義する。", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ただしここで O d e c {\\displaystyle O_{\\mathsf {dec}}} は次の節で述べる復号オラクルである。", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "公開鍵暗号方式の場合暗号化用の鍵が公開されているので、攻撃者は(オラクルの助けを借りずとも)任意の平文を暗号化する事ができる。このため、Key Only Attackの事を選択平文攻撃(Chosen Plaintest Attack, CPAと略す)ともいう。", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "復号オラクル O d e c ( s k , X , ⋅ ) {\\displaystyle O_{\\mathsf {dec}}({\\mathsf {sk}},X,\\cdot )} は、攻撃者が任意の暗号文 C {\\displaystyle C} を復号オラクル O d e c ( s k , X , ⋅ ) {\\displaystyle O_{\\mathsf {dec}}({\\mathsf {sk}},X,\\cdot )} に送信すると、 C ∉ X {\\displaystyle C\\notin X} である限り、 s k {\\displaystyle {\\mathsf {sk}}} を使って C {\\displaystyle C} を復号した D s k ( C ) {\\displaystyle D_{\\mathsf {sk}}(C)} を攻撃者に送り返してくれるオラクルである。(下図参照)", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "暗号文を知っていることは、平文を知る上で何の役にもたたない。すなわち、暗号文を知っている状況で攻撃者が知ることができる平文についての部分情報は、暗号文を知らなくても攻撃者が知ることができる情報だけである。", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "k {\\displaystyle k} をセキュリティ・パラメータとし、 Π = ( G , E , D ) {\\displaystyle \\Pi =(G,E,D)} を公開鍵暗号方式とする。 A , B {\\displaystyle A,B} を多項式時間機械とする。", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "さらに、 O 1 , O 2 {\\displaystyle O_{1},O_{2}} をオラクルとする。", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "次の2つのゲームを考える。ただしゲーム中で、 M , f {\\displaystyle M,f} は多項式時間機械(の動作を記したプログラム)、 S t {\\displaystyle St} はビット列で、 A {\\displaystyle A} の状態と呼ばれる。", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "任意の多項式時間機械 A {\\displaystyle A} に対し、ある多項式時間機械 B {\\displaystyle B} が存在し、", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "が k に関して無視できるとき、公開鍵暗号方式 Π = ( G , E , D ) {\\displaystyle \\Pi =(G,E,D)} は ( O 1 , O 2 ) {\\displaystyle (O_{1},O_{2})} -強秘匿 (Semantic Secure) であるという。", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "A {\\displaystyle A} を攻撃者とし、以下のゲームを考える。", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ただし、上のゲームで、 M {\\displaystyle M} は、常に同じビット数のメッセージを出力するアルゴリズムでなければならない。", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "任意の多項式時間機械 A {\\displaystyle A} に対し、", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "が k に関して無視できるとき、公開鍵暗号方式 Π = ( G , E , D ) {\\displaystyle \\Pi =(G,E,D)} は ( O 1 , O 2 ) {\\displaystyle (O_{1},O_{2})} -non malleableであるという。", "title": "公開鍵暗号方式の厳密な定義" } ]
公開鍵暗号とは、暗号化と復号とに異なる鍵(手順)を用い、暗号化用の鍵は公開できるようにした暗号方式である(復号用の鍵は秘匿)。対照的な暗号方式として、暗号化と復号に同一の鍵を用いる共通鍵暗号がある。 暗号化は通信の秘匿性を高めるための手段だが、それに必須の鍵もまた情報なので、鍵を受け渡す過程で盗聴されてしまうというリスクがあった。共通鍵を秘匿して受け渡すには(特使が運搬するというような)コストもかかり、一般人が暗号を用いる際の障害であった。このような暗号化鍵の配送問題を解決したのが公開鍵暗号である。 公開鍵暗号で使われるのと同じ数学的な理論に基づいて通信の安全性を保障する暗号技術全般を指して、広義に公開鍵暗号(あるいは公開鍵暗号技術、非対称暗号技術)と呼ぶこともある。この場合、秘匿を目的とする公開鍵暗号方式だけでなく、デジタル署名(秘匿機能は無い)、公開鍵通信路のみを用いて共通鍵を合意することのできるディフィー・ヘルマン鍵交換なども含まれる。 以下では、秘匿を目的とした狭義での公開鍵暗号について扱う。
{{出典の明記|date=2012-02}} [[画像:Public-key-crypto-1.svg|250px|thumb|推測できない数(典型的には[[ランダム]]に生成した巨大な数)を用いて、最初に非対称鍵アルゴリズムに適した[[鍵 (暗号)|鍵]]のペアを生成する。]] [[画像:Public_key encryption.svg|250px|thumb|非対称鍵暗号化のスキームでは、公開鍵を使用して誰でもメッセージを暗号化できるが、そのメッセージを復号できるのはペアの秘密鍵の所有者だけである。システムの安全性は、秘密鍵が秘匿されているという点に依存するので、秘密鍵は決して他の誰にも知られてはいけない。]] <!--ここに本文中に説明のない鍵交換スキームを入れると、かえって理解の妨げになる。 [[画像:Public key shared secret.svg|280px|thumb|[[Diffie-Hellman鍵交換|Diffie–Hellman鍵交換]]のスキームでは、各パーティが公開鍵と秘密鍵のペアを生成し、ペアのうち公開鍵を配布する。互いの公開鍵の本物の(この点が非常に重要である)コピーを取得すれば、AliceとBobはオフラインで共有鍵を計算できる。共有鍵は、たとえば、基本的にすべての場合にはるかに高速な[[共通鍵暗号|対称暗号]]の鍵として利用できる。]] --> [[画像:Private key signing.svg|250px|thumb|この例では、メッセージは暗号化された[[デジタル署名]]である。まず、Aliceはメッセージを秘密鍵で署名する。次に、Bobは、Aliceがメッセージを送ったこと、そしてそのメッセージが変更されていないことを検証できる。]] '''公開鍵暗号'''(こうかいかぎあんごう、{{Lang-en|Public-key cryptography}})とは、[[暗号化]]と[[復号]]とに異なる[[鍵 (暗号)|鍵]](手順)を用い、暗号化用の鍵は公開できるようにした[[暗号方式]]である(復号用の鍵は秘匿)。対照的な暗号方式として、[[暗号化]]と[[復号]]に同一の鍵を用いる[[共通鍵暗号]]がある。 [[暗号化]]は[[秘匿通信|通信の秘匿性]]を高めるための手段だが、それに必須の'''鍵'''もまた情報なので、鍵を受け渡す過程で盗聴されてしまうというリスクがあった。共通鍵を秘匿して受け渡すには(特使が運搬するというような)コストもかかり、一般人が暗号を用いる際の障害であった。このような暗号化鍵の配送問題を解決したのが公開鍵暗号である。 公開鍵暗号で使われるのと同じ数学的な理論に基づいて通信の安全性を保障する暗号技術全般を指して、広義に公開鍵暗号(あるいは公開鍵暗号技術、非対称暗号技術)と呼ぶこともある。この場合、通信の秘匿を目的とする公開鍵暗号方式だけでなく、秘匿機能は無い[[デジタル署名]]、公開鍵通信路のみを用いて共通鍵を合意することができる[[ディフィー・ヘルマン鍵交換]]なども含まれる。 以下では、通信の秘匿を目的とした狭義での公開鍵暗号について扱う。 == 共通鍵暗号の問題点 == 1976年以前には、数理による暗号といえば[[共通鍵暗号]]であった。これは暗号化と復号に共通の鍵を使う方式である。共通鍵暗号には、鍵の受け渡しを密かに行わなければならないという課題(鍵配送問題)があった。 共通鍵暗号を用いた通信手順の概略は次のようになる。 # あらかじめ、受信者と送信者は密かに共通鍵 c の受け渡しをしておく。 # 送信者は c を使ってメッセージを暗号化し、受信者に送信する。 # 受信者は c を使って暗号文を復号し、メッセージを読む。 もし段階 1. で、送信者に対してセキュリティが保証されていない通信路を用いて鍵を配送した場合、第三者に共通鍵 c を傍受されていると、この暗号通信は容易に解読されてしまう。 == 公開鍵暗号の考案 == 共通鍵暗号に生じる鍵配送問題は、送信者と受信者の両者がただ1つの共通の鍵を用いるために起こる問題である。そこで、両者が異なる鍵を用いる方法、すなわち'''公開鍵暗号'''が考案された。 公開鍵暗号を用いた通信手順の概略: # 通信を受ける者(受信者)は自分の[[鍵 (暗号)|公開鍵]](暗号化のための鍵)p を全世界に公開する。 # 受信者に対して暗号通信をする者(送信者)は、公開鍵 p を使ってメッセージを暗号化してから送信する。 # 受信者は、公開鍵 p と対になる秘密鍵(復号のための鍵)s を密かにもっている。この s を使って受信内容を復号し、送信者からのメッセージを読む。 暗号通信を不正に傍受しようとする者(傍受者)が公開鍵暗号の方式によって暗号化されたメッセージを傍受したとしても、公開鍵 p から秘密鍵 s を導き出すことは、[[計算量的安全性を持つ暗号|計算時間の観点から]]極めて難しいため、暗号文を復号することはおよそできない。 暗号化のための鍵と復号のための鍵を異なるものにしたことで、鍵配送問題は解決された。 なお、暗号の用語については、[[暗号理論#用語|暗号理論の用語]]、[[暗号#用語|暗号の用語]]を参照。 == 公開鍵暗号方式の直観的な定義 == === モデル === 公開鍵暗号方式では、'''鍵生成アルゴリズム'''、'''暗号化アルゴリズム'''、'''復号アルゴリズム'''を用いる。 鍵生成アルゴリズムは事前準備のためのアルゴリズムであり、(将来暗号文を受け取りたい)ユーザは事前に鍵生成アルゴリズムを実行しておく必要がある。ユーザが鍵生成アルゴリズムを実行すると、アルゴリズムはそのユーザの公開鍵および秘密鍵(それぞれ、そのように呼ばれるデータ)を出力する。<!--公開鍵と秘密鍵はちょうど「錠」と「鍵」の関係に対応しており、-->公開鍵は暗号文を作成するのに使い、秘密鍵はその暗号文からメッセージを復元するのに使う。<!--(注:公開「鍵」という名前だが、実際は「錠」)。--><!--「錠」と「鍵」に例えることも「可能」だが...--> ユーザは鍵生成アルゴリズムを実行する際、セキュリティ・パラメータという値をこのアルゴリズムに入力する。セキュリティ・パラメータは、秘密鍵なしでの暗号文の解読がどれだけ困難かを示す尺度である。 鍵生成アルゴリズムには乱数も入力される。鍵生成アルゴリズムは実行ごとに異なる乱数を選ぶので、ユーザ毎に異なる公開鍵・秘密鍵ペアが割りふられる。 各ユーザは秘密鍵を密かに保管し、公開鍵を公開する。ユーザの秘密鍵を知っているのはそのユーザ自身だけであり、ユーザの公開鍵を知っている(知ることができる)のは全てのユーザである。 メッセージを秘匿する暗号通信をするときの公開鍵、秘密鍵を、それぞれ'''暗号化鍵'''、'''復号鍵'''ともいう。<!-- 認証時には逆転する --> 暗号文を送る際は、送りたいメッセージおよびそのメッセージの送信先(受信者)の公開鍵を入力として暗号化アルゴリズムを実行する。 受信者は復号アルゴリズムに自分の秘密鍵と暗号文を入力して、もとのメッセージを復元する。 公開鍵を使えば'''誰でも'''暗号文を作成できるが、その暗号文を正しく復号できるのは受信者本人だけである。 === 公開鍵の認証 === 安全性を確保するには、どの公開鍵がどのユーザのものであるのかという対応をきちんとつけておく必要がある。暗号化に受信者の公開鍵 p を用いているので、もし、公開鍵 p とユーザとの対応が誤っていると、誤ったユーザの公開鍵を使って暗号文を送信してしまうことになる。これを悪用して、前もってあえて誤った対応表を作成しておくことによって暗号文を解くという攻撃が可能である(攻撃者は攻撃者自身の公開鍵をあたかも対象の受信者の公開鍵であるかのように見せた偽の対応表を作る。攻撃者の公開鍵を用いて暗号化された暗号文が対象の受信者へ送られたら、攻撃者はその暗号文を傍受して自身の秘密鍵で復号する。)。 公開鍵とその持ち主を対応させる方法はいくつか考案されている。代表的な方法は次の2つである。どちらも、{{Ill|信頼できる第三者機関|en|Trusted third party}}(Trusted Third Party、TTP)が必要になる。 #信頼できる第三者機関が各人のIDと公開鍵を対応付けた表('''公開鍵簿''')を作成して公開する。 #信頼できる複数の第三者機関が[[認証]]局を運営し、[[公開鍵基盤]] (PKI) の仕組みを使って各人のIDと公開鍵とを対応付ける。 == 歴史 == 1960年代、イギリスの[[政府通信本部]] (GCHQ) に所属する{{仮リンク|ジェイムズ・エリス|en|James H. Ellis}}が公開鍵暗号(非秘密暗号)を考案し提案は受諾された。しかし理論的には有用性が認められたが、[[一方向性関数]]が見つけられずこのアイデアは実用化されなかった。1973年、同機関に入所した{{仮リンク|クリフォード・コックス|en|Clifford Cocks}}がこのアイデアに取り組み「作用は可能だが、逆転させられない関数」から素数と素因数分解を基に30分程度で数式を組み立て、さらに{{仮リンク|マルコム・ウィリアムソン|en|Malcolm J. Williamson}}が鍵配送問題に解決の糸口を見つけ、今日の"[[RSA暗号|RSA]]"と呼ばれる暗号システムの基礎を確立した。同時期に、彼らとは無関係な米国のアマチュア数学者、[[ウィットフィールド・デフィー]]が独学で公開鍵暗号開発に取り組んでいた。[[1976年]]に、[[ラルフ・マークル]]の研究の影響を受けたデフィーと[[マーティン・ヘルマン]]が公開鍵暗号に関する世界最初の論文「''New Directions in Cryptography<ref name=newdirections>{{cite journal|title=New directions in cryptography|journal=IEEE Transactions on Information Theory |volume=22|issue=6|pages=644|doi=10.1109/TIT.1976.1055638|author1=Whitfield Diffie|author2=Martin Hellman|year=1976|citeseerx = 10.1.1.37.9720}}</ref>''」を発表した。 公開鍵暗号という新規な発明は、本来、エリス=コックス=ウィリアムソン組が先であったが、論文にして公表し、その有用性を広く伝えたのは、デフィー=ヘルマン=マークル組となったため、本発明の特許権と栄誉は彼らが得た。先に考案していたエリス=コックス=ウィリアムソン組は、英軍の管理下であったGCHQが国家機密となっていたために、後発組が公開鍵暗号の論文を発表しても、契約により口外できなかった。後年、公開鍵暗号が広く普及したことで本暗号に関する機密扱いが解除され、エリス=コックス=ウィリアムソン組の功績が世に知られることになった<ref>井上孝司著、「通信と情報の保全 暗号化の話」『軍事研究2011年11月号』、(株)ジャパン・ミリタリー・レビュー、雑誌 03241-11、ISSN 0533-6716、227-228頁</ref>。デフィーの「先に開発していたのは本当ですか?」との問いに、エリスは「我々より、君達の方がより多くの事をやっている」と答えている。 公開鍵暗号の概念を実現する具体的な方式は、MITの研究者であった[[ロナルド・リベスト]]、[[アディ・シャミア]]、[[レオナルド・エーデルマン]]の3人が[[1977年]]に開発した。この方式は、開発者各人の頭文字を取って「RSA方式」と呼ばれるようになった。1982年、彼らはカリフォリニア州レッドウッド市にデータセキュリティ専門の会社「RSAデータセキュリティ社」を設立した<ref>[http://www.rsa.com/press_release.aspx?id=716 Press Releases] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110929142639/http://www.rsa.com/press_release.aspx?id=716 |date=2011年9月29日 }} - RSA社サイト(英語、2012年2月19日閲覧)</ref>。 1990年代初頭、[[フィル・ジマーマン]]がパーソナル・コンピュータに搭載可能なプログラム「PGP([[Pretty Good Privacy]])」を開発し公開した。PGPが世界に普及したことで、誰でも公開鍵暗号が使用できるようになった。 <!-- この文章は多くの誤解を招きますが、共通鍵暗号の記事では無いので推敲するよりも削除した方がすっきりします。 普通にイメージすれば、暗号化する方法を知っているなら逆手順で復号できそうなものである。'''共通鍵暗号'''の場合はまさにそうであって、傍受者に暗号化手順を知られれば即、暗号通信の安全性が損なわれてしまうという欠点があった。暗号通信を安全に行うためには、[[第二次世界大戦]]で[[ドイツ]]軍が使用した[[エニグマ (暗号機)|エニグマ暗号]]のように鍵の保管に手間暇を掛けねばならなかったし、そのエニグマ暗号にしても大戦末期には[[連合国]]側に暗号化の手順を(つまりは復号の手順をも)知られていたのである。--> 公開鍵暗号は、1980年ごろには「公衆暗号 (public cryptography)」とも呼ばれていた。用語「公衆暗号系 (public cryptosystem)」も使われていたが、[[Data Encryption Standard|DES]] のような公衆が用いる共通鍵暗号を含むかどうかが紛らわしかったので、これらの用語はすぐに使われなくなった。 == RSA暗号 == 公開鍵暗号にはさまざまな方式がある。ここでは典型的な公開鍵暗号方式である[[RSA暗号]]方式を説明する。 この方式の安全性は[[素因数分解]]の困難性に基づいている。詳しくは[[RSA暗号]]を参照。 大きな[[素数]] p, q が与えられたとき、その積 n = pq を計算することは容易である。しかし、2つの大きな素数の積である[[自然数]] n が与えられたとき、それを n = pq と素因数分解することは難しい。例えば n=21 のときは n が小さいので p=7, q=3 を求めるのは容易だが、鍵の大きさ(すなわち p, q の[[ビット]]数)が十分に大きければ、素因数分解にはとてつもない時間が掛かる。 暗号化には n を、復号には p と q を必要とするようなうまい仕組みを作っておく。そして、n を公開鍵として公開する。傍受者は n から p, q を割り出そうとするが、これは時間が掛かりすぎて現実的でない。 根気強く素因数分解を試みていれば、いつかは復号できる。しかし、一般市民間の個人的な通信程度であれば、解読に数年を要する規模の暗号化を施しておけば、それ以上の手間を掛けて解読しようとする者はまずいない。これは、事実上秘密が守られているといえる([[計算量的安全性を持つ暗号|計算量的安全性]])。 軍事用暗号の場合、専用のコンピュータで専門のプログラムを走らせても解読には数億年~数兆年を要するように設計されている。これも事実上解読不可能といってよい。 == 実際の使われ方 == 一般的に、公開鍵暗号は共通鍵暗号よりも暗号化、復号に時間がかかる。そのため、実際の運用では、データの暗号化には「その場限りの共通鍵」を使用し、その共通鍵の配送だけを公開鍵暗号で行う方式がとられることが多い。 公開鍵暗号を初めて実現したのがRSA暗号である。RSA暗号は公開鍵暗号として、実際に広く利用されることとなった。 == 公開鍵暗号方式の厳密な定義 == === モデル === kをセキュリティ・パラメータとする。<math>\Pi=(G,E,D)</math> を、次を満たす平均[[多項式時間]]確率アルゴリズム3つ組とする。 #<math>G</math> は'''鍵生成アルゴリズム''' (key generation algorithm) と呼ばれ、<math>1^k</math> を入力されると公開鍵秘密鍵ペア <math>(\mathrm{pk},\mathrm{sk})</math> を出力する<ref group="注">入力の<math>1^k</math>は、1が<math>k</math>個並んだもののことであり、セキュリティパラメータを[[一進法]]で表したものである。もし<math>k</math>を2進数で(つまり、<math>log_2 k</math>ビットで)表して入力することにすると、<math>k</math>ビットを出力するために指数時間かかることになり、多項式時間アルゴリズムではなくなってしまう。一進法を使うことで、これを回避できる。</ref>。 #<math>E</math>は'''暗号化アルゴリズム''' (encryption algorithm) と呼ばれ、<math>G</math> の出力した公開鍵 <math>\mathrm{pk}</math> と'''平文'''と呼ばれるビット列 <math>m</math> を入力されると、<math>m</math> の'''暗号文'''(Ciphertext) を出力する。 #<math>D</math> は'''復号アルゴリズム''' (decryption algorithm) と呼ばれ、<math>G</math> の出力した秘密鍵 <math>\mathrm{sk}</math> と <math>E</math> の出力した暗号文 <math>C</math> とを入力されると平文を出力する。 <math>\Pi=(G,E,D)</math> が後述する正当性を満たすとき、<math>\Pi</math> は'''公開鍵暗号方式'''であるといい、後述する秘匿性をさらに満たすとき、公開鍵暗号方式は'''安全'''であるという。 === 要件 === 公開鍵暗号方式は、次の2つの要件を満たさねばならない。 #正当性 (correctness) : 正当な受信者は、正当な方法で作成された暗号文を復号できる。 #秘匿性 (security) : 正当な方法で作成された暗号文を復号できる(またはメッセージのなんらかの部分情報が得られる)のは、正当な受信者だけである。 === 正当性 === ; 定義 : <math>\Pi=(G,E,D)</math> が以下の条件を満たすとき、<math>\Pi</math> は正当性を満たすという : : 任意の平文 m に対し、Pr((pk, sk) ← G(1<sup>k</sup>), C ← E<sub>pk</sub>(m) : D<sub>sk</sub>(C) = m) は[[圧倒的]] (overwhelming) である。 === 秘匿性 === ==== 識別不可能性 ==== ===== 直観的な定義 ===== <math>M_0</math>、<math>M_1</math> を攻撃者が指定した2つのメッセージとし、<math>C</math> を <math>M_0</math> もしくは<math>M_1</math> を暗号化した暗号文とする。 このとき、攻撃者は <math>C</math> が <math>M_0</math>、<math>M_1</math> のいずれを暗号化したものであるかを(1/2よりも有意な確率で)知る事はできない。 ===== 厳密な定義 ===== <math>O_1</math>, <math>O_2</math> を2つのオラクル、<math>b</math> をビットとする。 暗号に対する攻撃者 <math>A</math> を用いて次の'''実験''' (Experiment, '''ゲーム''' (game) ともいう) をする。 : <math>\mathsf{Exp}^{(O_1,O_2)}_{\Pi-\mathsf{IND}-b}(A,k)</math> :: <math>\mathsf{(pk,sk)}\gets G(1^k)</math> :: <math>(m_0,m_1,\mathsf{St}) \gets A^{O_1}(\mathsf{pk})</math> :: <math>C\gets E_{\mathsf{pk}}(m_b)</math> :: <math>b' \gets A^{O_2}(\mathsf{pk},C,\mathsf{St})</math> :: Return <math>b'</math>. 攻撃者 <math>A</math> の'''アドバンテージ'''(advantage)を :<math>\mathsf{Adv}^{(O_1,O_2)}_{\Pi-\mathsf{IND}}(A,k)=|\mathsf{Pr}(\mathsf{Exp}{}^{(O_1,O_2)}_{\Pi-\mathsf{IND}-0}(A,k)=1)-\mathsf{Pr}(\mathsf{Exp}{}^{(O_1,O_2)}_{\Pi-\mathsf{IND}-1}(A,k)=1)|</math> により定義する。 ; 定義 : 任意の平均多項式時間確率アルゴリズム <math>A</math> ('''攻撃者'''と呼ぶ) に対し、 :: <math>\mathsf{Adv}^{(O_1,O_2)}_{\Pi}(A,k)</math> が ''k'' に関して無視できるとき、暗号方式 <math>\Pi</math> は <math>(O_1,O_2)</math>-'''識別不可能''' (indistinguishable) であるという。 : (注:この「<math>(O_1,O_2)</math>-識別不可能」という言葉はあまり一般的ではない) : 特に、 :# <math>O_1=\bot</math>、<math>O_2=\bot</math> のとき、公開鍵暗号方式 <math>\Pi</math> は'''Key Only Attack'''に対し、識別不可能であるという。 :# <math>O_1=O_{\mathsf{dec}}(\mathsf{sk},\emptyset,\cdot)</math>、<math>O_2=\bot</math> であるとき、公開鍵暗号方式<math>\Pi</math> は'''選択暗号文攻撃''' (Chosen Chiphertext Attack,(略してCCA1)) に対して識別不可能であるという。 :# <math>O_1=O_{\mathsf{dec}}(\mathsf{sk},\emptyset,\cdot)</math>、<math>O_2=O_{\mathsf{dec}}(\mathsf{sk},\{m_0,m_1\},\cdot)</math> であるとき、公開鍵暗号方式 <math>\Pi</math> は'''適応的選択暗号文攻撃'''(Adaptive Chosen Chiphertext Attack,(略してCCA2))に対して識別不可能であるという。 ただしここで <math>O_{\mathsf{dec}}</math> は次の節で述べる復号オラクルである。 公開鍵暗号方式の場合暗号化用の鍵が公開されているので、攻撃者は(オラクルの助けを借りずとも)任意の平文を暗号化する事ができる。このため、Key Only Attackの事を'''選択平文攻撃'''(Chosen Plaintest Attack, CPAと略す)ともいう。 ===== 復号オラクル ===== 復号オラクル <math>O_{\mathsf{dec}}(\mathsf{sk},X,\cdot)</math> は、攻撃者が任意の暗号文 <math>C</math> を復号オラクル<math>O_{\mathsf{dec}}(\mathsf{sk},X,\cdot)</math> に送信すると、<math>C\notin X</math> である限り、<math>\mathsf{sk}</math> を使って <math>C</math> を復号した <math>D_{\mathsf{sk}}(C)</math> を攻撃者に送り返してくれるオラクルである。(下図参照) : '''復号オラクル'''<math>O_{\mathsf{dec}}(\mathsf{sk},X,C)</math> :: If <math>C\in X</math> return <math>\bot</math>. :: Otherwise return <math>D_{\mathsf{sk}}(C)</math>. ==== 強秘匿性 (Semantic Security) ==== ===== 直観的定義 ===== 暗号文を知っていることは、平文を知る上で何の役にもたたない。すなわち、暗号文を知っている状況で攻撃者が知ることができる平文についての部分情報は、暗号文を知らなくても攻撃者が知ることができる情報だけである。 ===== 厳密な定義 ===== <math>k</math> をセキュリティ・パラメータとし、<math>\Pi=(G,E,D)</math> を公開鍵暗号方式とする。<math>A,B</math> を多項式時間機械とする。 さらに、<math>O_1,O_2</math> をオラクルとする。 次の2つのゲームを考える。ただしゲーム中で、<math>M,f</math> は多項式時間機械(の動作を記したプログラム)、<math>St</math> はビット列で、<math>A</math> の'''状態'''と呼ばれる。 : <math>\mathsf{Exp}^{(O_1,O_2)}_{\Pi-\mathsf{SS-Real}}(A,k)</math> :: <math>\mathsf{(pk,sk)}\gets G(1^k)</math> :: <math>(M,\mathsf{St}) \gets A^{O_1}(\mathsf{pk})</math> :: <math>m \gets M</math> :: <math>C \gets E_{\mathsf{pk}}(m)</math> :: <math>(y,f) \gets A^{O_2}(C,\mathsf{St})</math> :: If <math>y=f(m)</math>, return 1. :: Otherwise return 0. : <math>\mathsf{Exp}^{(O_1,O_2)}_{\Pi-\mathsf{SS-Ideal}}(B,k)</math> :: <math>\mathsf{(pk,sk)}\gets G(1^k)</math> :: <math>(M,\mathsf{St}) \gets B^{O_1}(\mathsf{pk})</math> :: <math>m \gets M</math> :: <math>(y,f) \gets B^{O_2}(\mathsf{St})</math> :: If <math>y=f(m)</math>, return 1. :: Otherwise return 0. 任意の多項式時間機械 <math>A</math> に対し、ある多項式時間機械 <math>B</math> が存在し、 : <math>|\Pr(\mathsf{Exp}^{(O_1,O_2)}_{\Pi-\mathsf{SS-Real}}(A,k)=1)-\Pr(\mathsf{Exp}^{(O_1,O_2)}_{\Pi-\mathsf{SS-Ideal}}(B,k))|</math> が ''k'' に関して無視できるとき、公開鍵暗号方式 <math>\Pi=(G,E,D)</math> は <math>(O_1,O_2)</math>-'''強秘匿''' (Semantic Secure) であるという。 # <math>O_1=\bot</math>、<math>O_2=\bot</math> のとき、公開鍵暗号方式 <math>\Pi</math> は'''Key Only Attack'''に対し、強秘匿であるという。 # <math>O_1=O_{\mathsf{dec}}(\mathsf{sk},\emptyset,\cdot)</math>、<math>O_2=\bot</math> であるとき、公開鍵暗号方式 <math>\Pi</math> は'''選択暗号文攻撃'''(Chosen Chiphertext Attack,(略してCCA1)) に対して強秘匿であるという。 # <math>O_1=O_{\mathsf{dec}}(\mathsf{sk},\emptyset,\cdot)</math>、<math>O_2=O_{\mathsf{dec}}(\mathsf{sk},\{m_0,m_1\},\cdot)</math> であるとき、公開鍵暗号方式 <math>\Pi</math> は'''適応的選択暗号文攻撃'''(Adaptive Chosen Chiphertext Attack,(略してCCA2))に対して強秘匿であるという。 ==== 頑強性 (Non Malleability) (Bellare等による定義) ==== <math>A</math> を攻撃者とし、以下のゲームを考える。 : <math>\mathsf{Exp}^{(O_1,O_2)}_{\Pi-\mathsf{NM}-b}(A,k)</math> :: <math>\mathsf{(pk,sk)}\gets G(1^k)</math> :: <math>(M,\mathsf{St})\gets A^{O_1}(\mathsf{pk})</math> :: <math>m_0,m_1 \gets M</math> :: <math>C \gets E_{\mathsf{pk}}(m_b)</math> :: <math>(R,C'_1,\ldots,C'_n) \gets A^{O_2}(C,\mathsf{St})</math> :: <math>m'_1 \gets D_{\mathsf{sk}}(C'_1),\ldots,m'_n \gets D_{\mathsf{sk}}(C'_n)</math> :: If <math>C=C'_i</math> for some <math>i</math>, return 0. :: If <math>m'_i=\bot</math> for some <math>i</math>, return 0. :: If <math>R(m_b,m'_1,\ldots,m'_n)=0</math> return 0. :: Return 1. ただし、上のゲームで、<math>M</math> は、常に同じビット数のメッセージを出力するアルゴリズムでなければならない。 任意の多項式時間機械 <math>A</math> に対し、 : <math>|\Pr(\mathsf{Exp}^{(O_1,O_2)}_{\Pi-\mathsf{NM}-1}(A,k)=1)-\Pr(\mathsf{Exp}^{(O_1,O_2)}_{\Pi-\mathsf{NM}-0}(A,k)=1)|</math> が ''k'' に関して無視できるとき、公開鍵暗号方式 <math>\Pi=(G,E,D)</math> は <math>(O_1,O_2)</math>-'''non malleable'''であるという。 # <math>O_1=\bot</math>、<math>O_2=\bot</math>のとき、公開鍵暗号方式<math>\Pi</math>は'''Key Only Attack'''に対し、頑強である (non malleable) という。 # <math>O_1=O_{\mathsf{dec}}(\mathsf{sk},\emptyset,\cdot)</math>、<math>O_2=\bot</math>であるとき、公開鍵暗号方式<math>\Pi</math>は'''選択暗号文攻撃'''(Chosen Chiphertext Attack,(略してCCA1))に対して頑強であるという。 # <math>O_1=O_{\mathsf{dec}}(\mathsf{sk},\emptyset,\cdot)</math>、<math>O_2=O_{\mathsf{dec}}(\mathsf{sk},\{m_0,m_1\},\cdot)</math>であるとき、公開鍵暗号方式<math>\Pi</math>は'''適応的選択暗号文攻撃'''(Adaptive Chosen Chiphertext Attack,(略してCCA2))に対して頑強であるという。 == 参考文献 == === 論文 === * [https://cseweb.ucsd.edu/~mihir/papers/relations.html Relations among notions of security for public-key encryption schemes], M. Bellare, A. Desai, D. Pointcheval and P. Rogaway * [https://cseweb.ucsd.edu/~mihir/papers/anonenc.html Key-Privacy in Public-Key Encryption], Mihir Bellare, Alexandra Boldyreva, Anand Desai, David Pointcheval == 関連項目 == * [[秘匿通信]] * [[電子署名]] * [[素因数分解]]<!-- * [[エニグマ (暗号機)|エニグマ]] -第二次大戦時、ドイツ軍が採用したローター式暗号機。非秘密暗号は開発以前にGCHQによるエニグマ解読チームが組まれた事にあった、チームの内訳は数学、統計、物理学者らの他にクロスワードパズルを得意としている者らからなり、総当たりで解読を行った。←この記事には不要 --> 暗号関連 * [[暗号理論]] * [[暗号]] * [[ディフィー・ヘルマン鍵共有]] * [[RSA暗号]] * [[ElGamal暗号]] * [[楕円曲線暗号]] * [[Merkle-Hellmanナップサック暗号]] - [[ラルフ・マークル]] - [[マークルのパズル]] * [[NTRU暗号]] * [[アリスとボブ]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * {{高校数学の美しい物語|1142|共通鍵暗号と公開鍵暗号の仕組み}} {{cryptography navbox|public-key}} {{SSL/TLS}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:こうかいかきあんこう}} [[Category:公開鍵暗号|*]] [[Category:暗号技術]]
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2002 FIFAワールドカップ
2002 FIFAワールドカップ(朝: 2002 FIFA 한일 월드컵、英: 2002 FIFA Korea/Japan World Cup)は、2002年5月31日から6月30日にかけて日本と韓国で開催された17回目の大会で、初の2カ国共同開催という大会でもあった。 これまで、FIFAワールドカップ(以下W杯と略すことあり)は欧州と南北アメリカ間で交互に行われてきたが、1986年に国際サッカー連盟(FIFA)のジョアン・アヴェランジェ会長(当時)が「初のアジア・アフリカ大陸による開催」案を打ち出した。その後、同会長から大会開催の打診を受けた日本サッカー協会(JFA)が各国に先駆けて招致に名乗りをあげ、当時の低迷する日本国内のサッカー界の活性化も念頭に置いた上で1988年想、1989年11月にFIFAにW杯開催国立候補の意思表示をし、招致活動を開始した。1991年6月に2002年W杯招致委員会が発足、翌年1992年3月24日にはW杯国会議員招致委員会(以下招致議連)が誕生し、W杯招致は日本の国家的事業となった。日本はFIFAワールドカップを「より平和の祭典」としてメッセージ性あるイベントにしようと提案し、トヨタカップなどの開催実績と「平和で安全」、「豊かな経済」、「政治的安定」、「自由と民主主義」、「世界の先進国」である点などを示し日本で開催する意義を謳った。また、「バーチャルスタジアム構想」(使用していないスタジアムに巨大なスクリーンを配置し3次元映像を投影。あたかも実際に目の前で選手がプレーしているように観客に観せる日本が誇る最新映像技術を駆使した仮想のスタジアム観戦システム)を提案し、史上最大の計400万人がスタジアムで観戦することが可能な大会にすることを謳った(バーチャルスタジアム構想はその後、メガビジョンという大画面投影技術へ姿を変えた。しかし、放映権の問題があったため、実際にメガビジョンが使われたのは準決勝1試合だけであった)。 一方で、FIFAが想定するアジア初のワールドカップ開催に日本が立候補すると知った韓国は「アジア初」を賭けて日本に続く形で1993年11月に立候補を表明、1994年の初めに招致委員会を組織した。日本よりも招致活動に出遅れた韓国は、同1994年にFIFA副会長に選出された鄭夢準大韓サッカー協会会長(現代重工業大株主。元韓国国会議員)を先頭にして、現代財閥を中心に韓国国内の政財界をあげての招致活動に乗り出し、「南北朝鮮共同開催案」を持ち出すなどして日本の招致活動に激しく対抗した。そして、1995年2月、立候補すると表明していたメキシコが辞退し、日本と韓国の2国のみが正式に立候補を表明した。日韓以外に立候補した国はなく、招致活動は日韓の一騎討ちとなった。1995年9月28日に日本はFIFAワールドカップ開催提案書をFIFAに提出した。これを受けて、同年11月にFIFA視察団(インスペクショングループ)が日韓両国を訪問し、スタジアムや国内リーグ、インフラなどをチェックした。視察団は『日本は施設も、歓迎も、技術も素晴らしい』と日本を高く評価した。 開催国決定は当初、1996年6月1日のFIFA臨時理事会で会長、副会長を含む理事21人の投票によって決定される予定だった。しかし、時期を同じくしてFIFA会長選挙を控え、一貫して日本単独開催を推していたFIFAのアヴェランジェ会長の会長派とUEFA会長のレナート・ヨハンソンを次期FIFA会長にしたい欧州のFIFA理事派の勢力が次期会長職を巡って対立し始める。そして、アヴェランジェ会長の会長続投を阻止しようと反会長派の欧州理事たちは日本と韓国の共同開催(日韓共催)を強く推進したが、南米の会長派はあくまでも日本による単独開催を支持した為にアフリカの理事らの動向が投票を左右することとなった。ただ、こうした状況の中で次第に日韓共催案が現実味を帯び始める事となる。 直前になって欧州理事らが、欧州の各国サッカーリーグに選手を受け入れてもらう立場にあるアフリカ理事の票を押え多数派(FIFA理事全21名中11名)となった。その為、開催国を決定する投票日前日の定例理事会前に行われたパーティー会場でアフリカ理事らとの歓談から敗北を悟ったアヴェランジェ会長は、会長としての権威を保つ為、それまで自身が強硬に反対していた日韓共催(当時の規則ではワールドカップは単独開催のみ)を自ら提案することを決断した。1996年5月30日午後、アヴェランジェ会長はFIFA事務局長のゼップ・ブラッターを通して、ヴィダーホテルで投票を待つ日本招致委員会に対し、非公式に日韓共催案打診の電話をかけさせた。電話を受けたのは語学が堪能な日本招致委員会実行委員長で当時JFA副会長(後に会長)の岡野俊一郎だった。なお、ブラッターの口ぶりは切羽詰まっており、打診というより要請だったという。岡野は電話では不正確として、FIFAの公式文書を求めた。午後3時過ぎ、ブラッターの署名入りのFIFA公式文書がFAXで届いた。その文書には、『既に韓国は1996年5月15日付の文書で日韓共催受け入れをFIFAに回答した。日本の立場をたずねたい』と書かれていた。2時間ほどの協議でも結論は出なかったが、もしも日本が共同開催の受け入れを拒否した場合は「韓国の単独開催」になるのは必至だった。ブラッターへの返答刻限が迫る中、招致議連会長の宮澤喜一が「日韓共催は政治にとって悪くない選択だ」と発言した。その発言をきっかけに長沼健JFA会長はやむを得ず、共同開催案受け入れを決断した。その後、ブラッターから二度目の電話が入り、長沼自身が共催受け入れを伝えた。翌日の5月31日午前7時すぎ、岡野が日本サッカー協会公式の共催受け入れ文書をブラッターに手渡した。そのわずか2時間後の午前9時の定例理事会で、アヴェランジェFIFA会長が日韓両国による共同開催案を提案、満場一致の拍手の賛成決議で定例理事会は幕を閉じた。結局、投票を待たずして日韓共催が決定した。同日、午後4時過ぎ、FIFAと開催国に決定した日本と韓国による共同開催決定の会見が開かれた。独の当時サッカージャーナリスト(現バイエルン・ミュンヘン海外担当)マーティン・ヘーゲレらの警鐘(趨勢を悟ればアベランジェは日本を裏切る等)等の重要な情報を無視し、欧州やアフリカ理事らの動向を掴めず、日本単独開催を支持していたアヴェランジェ会長を最後まで盲信し続けた日本招致委員会の実質的な敗北であった。ちなみに、もしも日本が共同開催の受け入れを拒否した場合は「韓国の単独開催」以外の案としては「開催国決定の延長」、「中国での開催」などといった諸案があった。 結局、日韓共催はアヴェランジェ会長・南米派と反会長・欧州派のFIFA内部の政治的対立の産物であったが、アヴェランジェ会長は程なくしてFIFAの会長職から引退する形で退いた。また、当ワールドカップ組織委員会委員長には、FIFA副会長の鄭夢準大韓サッカー協会会長が就任した(この件に関してマーティン・ヘーゲレは「各国の担当者に高価な物を贈ったり、娼婦を抱かせようとした」「ヘーゲレへ圧力をかけるよう鄭本人がフランツ・ベッケンバウアー(現ドイツサッカー連盟副会長)に依頼したものの、一蹴された」と主張している。 その後、1997年後半に韓国はアジア通貨危機に巻き込まれてデフォルト寸前の不況に陥り、国際通貨基金(IMF)の管理下に入った。IMF経由の日本を中心とした金融支援やIMFによる米国式経済の導入によって大量の失業者を生みながらも経済はV字回復した為に最後まで日本単独開催には至らなかった。しかし、経済回復は対米輸出に頼った状態であった為に2001年のアメリカ同時多発テロ事件で韓国経済がまたも失速し、試合会場となるスタジアム建設が滞る事態となった。そこで、国際協力銀行(旧日本輸出入銀行)がスタジアム建設費として2億ドルの融資を計画したが、韓国政府が断り、中止になった。結局、韓国でのスタジアム建設は続けられて日韓共催はようやく実現した。 なお、鄭夢準大韓サッカー協会会長は、韓国へのワールドカップ誘致と韓国代表を4位に導いた業績を背景に2002年大韓民国大統領選挙への立候補を表明したが、投票日前日に盧武鉉との取引に応じて立候補を取り止めた。 ワールドカップを巡る騒動は日韓友好ムードのマスコミとそれに対するネット世論で温度差があり、2011年以降の日韓関係の急速な冷え込みの遠因となったと指摘される。ジャーナリストの安田浩一によると、取材した半分以上が日韓W杯をきっかけに韓国が嫌いになったと答えたという。 2015年5月27日、アメリカ合衆国司法省が国際サッカー連盟(FIFA)の幹部や関係者ら計14人を起訴 して以降、FIFAの不正に対する追及が活発化している。フランクフルター・アルゲマイネの記者であるジャン・フランソワ・タンダは、電通(当時の会長は成田豊)が、1995年11月16日にISL(インターナショナル・スポーツ&レジャー)と「サービス合意書」を締結し、電通がISLに巨額資金を支払う見返りとしてISLがW杯選出投票での日本への投票を働きかけていたと主張。また、6月19日にスペインのスポーツ紙「Diario AS」は、長沼健が開催地決定の投票に対する謝礼として南米サッカー連盟に150万ドルを支払ったと報道した。ただし、開催地決定に際して投票は行われていない。 本大会に出場できるのは32か国で、各地域の出場国の出場枠数は、アジア:2.5、アフリカ:5、北中米カリブ海:3、南米:4.5、オセアニア:0.5、ヨーロッパ:13.5であった。これに、予選を免除された前回大会優勝国のフランスと開催国の日本、韓国が加わる(なお、2001年に2006年大会からの前回優勝国枠廃止が決まったため、フランスは最後の前回優勝による予選免除国となった)。 南米予選では過去最多の優勝を誇るブラジルが予選でなかなか本来の力が発揮できずに苦しむものの、終わってみれば過去の優勝国が勢揃いしたように、順当な結果が多かった。ただ、死のグループに入っていたとはいえ、オランダが予選落ちしたのが最大の波乱とされる。大の飛行機嫌いで知られるデニス・ベルカンプが早々に代表から引退した影響がなかったとはいえない。なお、これがオランダ人の映画プロデューサー、ヨハン・クレマーによる世界最弱代表チーム同士の対戦、アザー・ファイナル構想のきっかけとなった。 日本と韓国が抜けたアジア予選では、サウジアラビアと中国が勝ち抜いた。中国代表にとっては初出場で、ユーゴスラビア出身のボラ・ミルティノヴィッチ監督は5大会連続で別の国から本大会に参加する記録を作った。また、イラン代表は2大会連続で大陸間プレーオフに回ったが、アイルランド代表に敗れ、連続出場を逃した。オセアニア予選1位のオーストラリアは南米予選5位のウルグアイとの大陸間プレーオフに敗れた。 本大会前には、ロベルト・バッジョ、ロマーリオらが代表に選ばれなかったことがトピックの一つとされた。 出場選手は2002 FIFAワールドカップ参加チームを参照。 21世紀に入って初となるFIFAワールドカップは、大会史上初めて日本と韓国の2か国による共同開催となったが、アジアで開催された事も初めてであった。さらに日本は初の本大会未経験国(1996年(平成8年)の時点)での開催地決定であった(1998年のフランス大会で初出場を決めている)。 2002年(平成14年)5月31日から6月30日の31日間に、日本と韓国それぞれ10か所、計20都市で64試合を行った。ブラジルが5度目の優勝を遂げた。開催国である日本は決勝トーナメント進出(ベスト16)の成績を残した。 大会の開催期間は通常より約10日から2週間程度早まり、末日ではあるが珍しく5月からの開催となった(当初は6月1日開幕、6月30日決勝予定であったが、開幕まで2年を切った2000年6月6日のチューリッヒにおけるFIFA理事会で、大会期間を1日増やす形で開幕日を5月31日に繰り上げることにした)。 これは、欧州や南米とは異なる日韓の気候、つまり梅雨を考慮したためと言われている。大会前は、フーリガンの暴動などを危惧する声が聞かれたが、大きなトラブルはなく終わった。日本では当初寄付金が集まらずに赤字が懸念されたが、円安の影響などで大幅な黒字となった。また高円宮夫妻が韓国を公式訪問し、開会式に出席した。皇族の韓国訪問は第二次世界大戦後初である。 ソウルで行われた開幕戦では、前回優勝国のフランスが初出場のセネガルと対戦。この試合でセネガルが1対0で勝利し、波乱の大会の幕開けとなった。EURO2000、コンフェデ杯2001で優勝して前評判が高く優勝候補筆頭と目されていたフランスは結局、事前の対韓国の親善試合で負傷したジダンの抜けた穴を埋めることができず、アンリ、トレゼゲ、シセと3か国のリーグ得点王を擁しながらグループリーグで1得点もあげられずに敗退した。 開催国の日本は、初戦でベルギーと2対2で引き分け、ワールドカップで初の勝ち点を獲得すると、次戦のロシア戦に1対0で勝ち、ワールドカップ初勝利を挙げる。そして、次のチュニジア戦も2対0で危なげなく勝利し、グループリーグ1位通過で、初のノックアウトステージ(ベスト16以上)進出も決める。 もう一つの開催国の韓国もまた、ポーランドとポルトガルから勝利をあげ、グループリーグ1位で通過した。フィーゴなどの有力選手をそろえ前評判が高かったポルトガルが第3戦の韓国戦で2名が退場となり敗れたことによりグループリーグで敗退するという波乱があった。 アルゼンチン、ナイジェリア、スウェーデン、イングランドが集まり「死のグループ」と呼ばれたグループFでは、両国の歴史的背景や前回大会の遺恨から「因縁の対決」と言われているアルゼンチン対イングランド戦が日本の札幌会場の札幌ドームで実現して大きく注目された。南米予選を1位で通過して、フランスに次ぐ優勝候補と目されていたアルゼンチンがグループリーグで敗退するという波乱があった。 次回開催が決まっているドイツは、世界一のGKと評されたカーンや新星FWクローゼの活躍に、恵まれた組み合わせにも味方され決勝まで進出した。 ノックアウトステージでは、日本はラウンドオブ16でトルコと対戦し0対1で敗れ、初のベスト8進出はならなかった。韓国はイタリア、スペインに勝利し、アジア勢として初の準決勝に進出した。韓国国内がこの快進撃に熱狂する一方、韓国選手の過度なラフプレーに審判が笛を吹かない、相手のゴールが理由を明示されずにファールとして取り消されるなどの審判の誤審が問題となった。横浜国際総合競技場で行われた決勝は、地区予選で大苦戦して前評判が決して高いとは言えなかったドイツとブラジルの戦いとなった。優勝回数1位と2位の国同士であるにもかかわらず、ワールドカップでは初対戦となった。この試合を2対0で勝利したブラジルが5度目の優勝に輝いた。大会の得点王はブラジル代表FWのロナウド(8ゴール)。 1996年11月、FIFA本部で行われた共催検討委員会で、大会の呼称を慣例に従ったアルファベット順で「2002 FIFA World Cup Japan/Korea」とする提案がなされたが、鄭夢準大韓サッカー協会会長が強硬に反対した。会議は紛糾したが、最終的に国名表示順を「Korea/Japan」とする一方で決勝戦を日本で行うことで決着とした。尚、この際、日本側は日本国内で大会名を呼称する時は日本/韓国で構わないとの確約を得ていたが、検討会が非公開だった為に、FIFAに公的な議事録を残すことを求めなかった。これが後に大きな問題になる。 日本語の表記は、当初「2002 FIFAワールドカップ 日本・韓国」と表記していた。その後、5年ほどは何事もなかったが、2001年1月、日本の教科書検定問題で、かつて日本に併合されていた朝鮮半島にある韓国の対日感情が悪化し、韓国マスコミに追い込まれる形で鄭大韓サッカー協会会長は、「日本国内であっても大会名を「日本・韓国」と表記するのは正式名称(Korea/Japan)と異なっており、開催合意に背く」として抗議した。その為、2001年(平成13年)3月15日の「FIFAのW杯組織委員会」で大会呼称問題について話し合われることになった。岡野は1996年11月の共催検討会での大会名の決定事項を詳しく説明したが、FIFAのW杯組織委員長であるヨハンソンが「大会名決定から長い時間が経っており、しかもその時の議事録もない。大切なのはW杯の成功。国名を入れない大会名の使用を認めるということでどうだろうか」と提案、日韓双方ともこの案を受け入れた。これ以降、日本国内では、国名部分を省略して「2002 FIFAワールドカップ」との表記で統一されることになった。(注:W杯組織委員会は2種類あり、W杯開催国内の『開催国のワールドカップ組織委員会』とそれとは別にFIFA内に設けられる『FIFAのワールドカップ組織委員会』(FIFA関係者及び外部の有識者で構成)がある)。 また、これはあくまでも正式名称の問題であるために、日本では多くの場所で「2002 FIFAワールドカップ 日本・韓国」という表記も見ることができた。大会終了後の現在でも日本国内では「日韓ワールドカップ」などと表記することが多い。 日本では当初、日本による単独開催を視野に大会開催の準備を進めていたために1993年(平成5年)1月に最初の国内開催都市候補地を選定した。候補の15か所(札幌市、青森県、宮城県、茨城県、埼玉県、千葉県、横浜市、新潟県、静岡県、愛知県、京都府、大阪市、神戸市、広島市、大分県)の中、この時点で開催予定施設が完成していたのは1994年アジア競技大会のために整備されていた広島市の広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ)のみ、小幅な改修で対応可能だったのは大阪市の長居スタジアムのみで、あとは各自治体がスタジアムを新設する予定になっていた。 ただ、東京都は立候補を見合わせた。これは、トヨタカップや1964年東京オリンピックの会場として世界的に知名度の高い新宿区の国立霞ヶ丘競技場が観客席への屋根設置(スタジアムの観客席の3分の2が屋根に覆われている事)などの改修条件を満たせなかった上に、2013年(平成25年)に開催予定の「多摩国体」用のメインスタジアムの整備計画もまだ確定していなかったからである(多摩国体用のメインスタジアムは後に東京スタジアムとして整備された)。そのため、もしもこの時点で日本開催が実現した場合、世界有数の人口を抱えながらも1974年(昭和49年)の西ドイツ大会以来となる首都での開催がない大会になる事が確実になっていた。 また、参加チーム32か国・開催数64試合で行われたアメリカ大会では9会場、フランス大会では10会場で、日本開催でも採算面から10-12会場での開催が適当と目されていた。ただし、1996年(平成8年)6月に日韓共催が決定したことは、各立候補地域にとって深刻な問題になった。日本国内での試合数が32試合へと半減されたため、6試合前後と見込まれていた各会場の試合数は3-4試合にとどまる事になった。これにより、日本各地で試合会場となるスタジアム建設に対しての費用対効果や採算面からの疑問が提起された為に建設決定が延期される所も出て来た。その一方で、大分県知事の平松守彦は、2008年(平成20年)開催の大分国体メイン会場を兼ねるとの理由で大分スタジアム(現在の大分スポーツ公園総合競技場)の建設を決断し、自身も自治体の代表としてFIFAワールドカップの日本組織委員会(JAWOC)の副会長に就任するなどの積極的な行動を行った。これにより、大分県での開催は確実という見方もなされた。 1996年(平成8年)12月、JAWOCは国内開催都市として10か所を選定した。まず各スタジアムの開催条件充足を調べたが、広島市が予算を理由にしてバックスタンドへの屋根設置と座席改修を見送る事を事前発表していた広島ビッグアーチは開催不適格と判断され、広島市は開催候補都市から外された。アジア大会開催の経験に加え、国際平和都市として抜群の知名度を持ち、「平和のシンボル」としてFIFAからも開催を熱望されていた広島市の落選は、予想されていたとはいえ、衝撃を与えた。次いで、収容人員6万人を超える巨大スタジアム整備を理由に埼玉県と横浜市が、地域バランスの観点から札幌市・静岡県・大阪市・大分県が選出された。最後に投票によって8つの候補地から4開催地が決定された。ここではスタジアム整備構想が難航していた青森県(青森県営サッカースタジアム)・千葉県(千葉県立スタジアム)・京都府(京都スタジアム)が宮城県・茨城県・神戸市にそれぞれ敗れた。これは多くの事前報道の通りになった。 唯一の波乱とされたのが愛知県に対する新潟県の勝利だった。「トヨタカップ」のスポンサーでもあるトヨタ自動車の本社所在地・豊田市での会場となるスタジアム建設構想が具体化している上に県内には既にJリーグクラブの名古屋グランパスエイトがある愛知県に対し、新潟県は2009年(平成21年)の新潟国体での利用も兼ねた新潟スタジアムの着工こそ近かったものの、県内にはJリーグのクラブや全国で活躍する高校や大学が無く、ようやくアルビレオ新潟(現在のアルビレックス新潟)がJリーグを目指して活動を開始した段階だったため、「サッカー不毛の地」と評価されていた。しかし、新潟県はプレゼンテーションで「日本海側唯一の開催地(札幌市を除く)」としてアピールし、「日本全国が参加するFIFAワールドカップ」という意味を持たせられると主張して、愛知県を破った。この招致成功は、新潟県でアルビレックス新潟を中核として活発な地域スポーツ活動が展開されるようになるまでの重要な第一歩であったが、愛知県にとっては1981年(昭和56年)の名古屋オリンピック招致失敗に続く大規模スポーツイベント開催の挫折となった。豊田市はFIFAワールドカップ前年の2001年(平成13年)に市営の豊田スタジアムを完成させたが、FIFAワールドカップの開催基準を満たす規模を持つスタジアムでありながら、肝心なFIFAワールドカップの試合には使用され無かった為に建設の意義を巡る批判を受けた。 その後、会場ごとの試合の割り振りが焦点になったが、特に埼玉県(埼玉スタジアム2002)と横浜市(横浜国際総合競技場)は決勝戦開催を巡って激しく争った。しかし、結局は1999年(平成11年)8月にスタジアム収容人数と各地からのアクセスに優れている横浜での決勝戦開催が決まった。その一方、埼玉県にはグループリーグの日本戦の初戦と準決勝があてがわれ、埼玉・横浜(第2戦)に続く日本戦の第3戦は地域バランスから大阪市(長居スタジアム)開催となった。 韓国でも日本と同様に国内での開催都市選定作業が進められ、共催という理由もあって日本と同数の10都市がFIFAワールドカップを開催したが、韓国国内の大都市(ソウル特別市と国内6か所の広域市)を網羅し、人口の少ない江原道を除く全国に万遍なく配置されたため、韓国社会で深刻な地域対立の新たな発生は抑えられた。しかし、国民の人口や国家の経済規模が日本の半分ほどしかない韓国が日本と同水準のスタジアム整備を行う事は大きな負担であった。その後、1997年後半に韓国はアジア通貨危機で不況に陥ったが、国際通貨基金(IMF)の管理下で経済を一旦は回復させた。ところが、経済回復は対米輸出に頼った状態であった為に2001年のアメリカ同時多発テロ事件で韓国経済がまたも失速し、スタジアム建設が滞る事態となった。そこで、国際協力銀行(旧日本輸出入銀行)がスタジアム建設費として2億ドルの融資を計画したが、韓国政府が断り、中止になった。その後、韓国のスタジアム建設は再開され、完成にこぎつけた。 開催地決定後もJAWOCと開催する各自治体との緊張関係は続いた。各自治体はJAWOCに対してそれぞれ2億5000万円の運営資金を負担し、それ以外にも要員派遣やさまざまな補助金を与えていたが、2000年(平成12年)12月には開催経費の増大で財政が圧迫されたJAWOCから各1億円の追加負担を求められ、自治体自身や各議会からの批判が起こった。しかし、JAWOCからは円滑な大会開催に必要という理由を付けられたため、各自治体とも負担に応ぜざるを得なかった。なお、この追加負担分は、大会が予想以上の収益を挙げて終了したことによって各自治体へ返還された。 本大会を印象づけるもう一つの争いとして、各自治体によるキャンプ地誘致合戦が挙げられる。キャンプ地に名乗りを上げた自治体は、予選の段階での確約を含め70以上に上った。結局、グループステージの日本開催分であるE、F、G、Hの4組に出場する全16ヶ国が日本でキャンプをし、さらにグループリーグの韓国開催分であるA、B、C、Dの4組16ヶ国のうちA組の全4チーム、B組の3チーム、C組の1チームの計8チームが開幕前に日本でキャンプをした。 誘致の成否には戦略の違いが見られ、川崎市がどこの国と決めず誘致活動のみに腐心したため誘致に失敗した一方、伊達政宗の命でローマに派遣された慶長遣欧使節が1615年(元和元年)にローマ教皇に謁見したことから1997年(平成9年)に姉妹県締結をした宮城県とローマ県の交流をもとに、2000年(平成12年)に仙台フィルハーモニー管弦楽団のローマ公演を成功させた仙台市が、イタリア代表に対象を絞って誘致を成功させた。また、徳島県鳴門市は第一次世界大戦時のドイツ兵捕虜への人道的な扱いや地元住民との交流が縁で「バルトの楽園」として映画化もされている程に古くからドイツと親交がありながらも、グラウンドの整備の悪さのためにほぼ誘致が確定していたドイツ代表をみすみす逃がす事態も発生した。岐阜県古川町(現:飛騨市)のように、特定の国(ルーマニア)と出場確定前から確約を結んだために誘致が実現できなかった自治体も多い。 キャンプ期間中は、強豪国を中心に非公開の練習にする代表チームが比較的に多かった中で、デンマーク、エクアドル、セネガル、サウジアラビア、チュニジア、アイルランドの各代表などは交流に積極的であり、非常に好印象を与え、特にデンマーク代表の公開練習に至っては、地元のみならず全国からも多くのサッカーファンが詰めかけたといわれる。その他の国も、小学校や少年サッカースクール、各種福祉施設など小規模な交流は積極的に行われ、国同士の交換留学生なども送られた。 注目を集めたキャンプ地として、スター選手や美男子選手目当ての女性ファンが多く詰め掛けた仙台市(イタリア代表)や兵庫県津名町(イングランド代表)があった一方、大分県中津江村(カメルーン代表)は山奥の小さな村のキャンプ地として早くから注目され、代表の到着遅延によってさらに全国にその名が知れ渡ることとなった。中津江村は2005年3月22日に日田市への編入合併により自治体としては消滅したが、旧中津江村域の地名は「中津江村」を冠したまま存続された。 現在でも、キャンプ地となった自治体とキャンプを行った国との間で親交が深い所が多い。例えば、千葉県千葉市ではアイルランド代表がキャンプを行ったのを機に、有志による「アイルランドサポートクラブ千葉」というアイルランド代表を応援する会を発足。大会終了後もアイルランド代表の応援活動や、「日本代表対アイルランド代表戦の実現」に向けての署名活動を現在でも続けている。また、クロアチア代表のキャンプ地の新潟県十日町市では、2006 FIFAワールドカップが開催された時に日本との対戦が決まったために「どちらを応援するか?」でジレンマが起きたり、「日本を応援しないとはどういうことか」という批判が寄せられるなどした。その他、イタリア代表のキャンプ地となったことを記念して仙台市では仙台カップ国際ユースサッカー大会が始まり、第2種世代のサッカー日本代表にとって重要な大会に育っている。 また、十日町市の誘致におけるエピソードもよく知られ、当初はイタリア代表を誘致しようと運動するも失敗、その後ポーランド、スペイン代表と確約するも、開催地の関係で立ち消えとなる。しかし、ポーランド及びスペイン代表が、まだ候補地を決定していなかったクロアチア代表を推薦し、キャンプ地として決定した。その後、多くの自治体が、誘致国との関係が稀薄となっていく中で、十日町市は以後ずっとクロアチアとの交流を続けており、2020年の東京オリンピックにおけるホストタウン誘致も成功させている。 日時はすべて現地時間。日本は日本標準時(JST)、韓国は韓国標準時(KST)(ともにUTC+9)。 本大会のグループリーグの組み合わせ抽選は、開催国である韓国・釜山コンベンションセンターで、2001年12月1日に行われた。この抽選会の模様は全世界に生中継され、日本でもNHK(地上波とBS)、BSデジタル民放5局、スカイパーフェクTVにて、また民放ラジオもいくつかの局が「民放ラジオ共同制作」として生中継した。 抽選方法は以下の通りである。まず参加国を4つの「ポット」に分ける。 日韓W杯公式シード算出方法は以下の通り()。 (1)+(2)=ワールドカップ(W杯)シードポイント W杯シードポイント上位5カ国と開催国の日本と韓国と前回優勝のフランスが第1シード。 この結果、A組とF組に強豪が集中し、死の組と呼ばれた。 国際サッカー連盟の技術委員によりオールスターチームが選出された。選出に際しては正規の16選手のほか、控えの7選手を含む23選手が発表された。 2002 FIFA ワールドカップの開催を記念し、ワールドカップ開催史上初めてFIFAの公式イベントとして、『2002 FIFA WORLD CUP KOREA/JAPAN OFFICIAL CONCERT』と題し、コンサートが開催された。場所は両日共に、東京スタジアムにて開催された。 2002 FIFA ワールドカップ公式アルバムや、大会マスコットなどをあしらった公式記念品が多数販売された。また、日本においてはアディダス製の公式ユニフォームが記録的な売り上げを記録した。 なお、日本においては下記の物が発行された。 前回大会の反省を活かして、FIFAは「今後、チケットを含めたツアー旅行は、原則認めない」とし、一部を除きチケットは原則単独販売のみとするとした。それに伴いチケット販売をバイロム社へ一元管理を委託し、またバイロム社もチケットを記名式にすることで、闇売買を防ぐ仕組みを導入した。しかし結果的には前回大会同様に日本の組織委員会や観客も問題に頭を悩ませることとなり、バイロム社への責任問題へと発展した。問題の例としては、以下の通り。 尚、大会後にはFIFAが日韓両国に対して1億円ずつの慰謝料を支払った。 また、日本国内では全試合完売だったのに対し、韓国国内では大量にチケットの売れ残りが発生、韓国国内で開催される決勝トーナメントですら空席が大量に発生した為に韓国政府が学生を動員して何とか会場の空席を埋めた。特に、西帰浦市で行われた決勝トーナメントの「ドイツ対パラグアイ戦」は韓国組織委員会の動員にもかかわらず、会場の空席が4割に達した。 今大会では、特に決勝トーナメントに入って以降、ホスト国である韓国の試合において誤審が立て続けに起こった事で大きな波紋を巻き起こした。また、その他の試合でも誤審(イタリア対クロアチア戦でのオフサイド判定やブラジル対ベルギー戦でのゴール無効判定にも疑問が呈された。)が発生した。 一連の騒動となった誤審は、FIFAの映像ライセンスを持つ会社が2006年3月24日に創立100周年を記念して発売したDVDビデオ『FIFA FEVER FIFA創立100周年記念DVD』に収録されている「世紀の10大誤審」の半数を占め(3位がブラジル対ベルギー戦、6・7位が韓国対イタリア戦、8・9位が韓国対スペイン戦)、これについて大韓サッカー協会は猛反発をした。また一連の誤審騒動以前にも、韓国チームがW杯前の親善試合でフランスと対戦した際に、フランスの司令塔ジネディーヌ・ジダンに危険なタックルをしてフランスのルメール監督から「わざとやったに近い」と批判 されたことを皮切りに、韓国対ポーランド戦前のポーランドの宿舎前での睡眠妨害 や、韓国対米国戦でのスケートパフォーマンス といったトラブルも発生している。 韓国対イタリア戦は、エクアドル人のバイロン・モレノが主審を務めたが、不可解なジャッジが立て続けに発生し、延長13分にはフランチェスコ・トッティが倒されたと思われたプレーがシミュレーションと判定され、2枚目のイエローカードを受けて退場となったほか、さらに延長20分にはダミアーノ・トンマージのゴールがオフサイド判定を受けるなど明らかにイタリアに不利と思われるジャッジが続いた末に韓国・安貞恒のゴールデンゴールでイタリアが敗退する結果となり、トッティは「審判を変えて最初からワールドカップをやり直すべきだ」と不満をあらわにし、事態沈静化を図ったFIFA会長のゼップ・ブラッターが大会中に異例の声明を出すほどであった。この試合のイタリアからの調査要請とモレノは母国でも不可解なジャッジが発生したことと合わせて、FIFAは2002年9月13日から調査を開始したが、2003年1月にモレノ主審の誤審は買収などの規約違反によるものではなかったと結論付けて決着とした。その後、FIFAは理由の明示なしにモレノ主審を国際審判リストから除名した。モレノ主審はエクアドルリーグでも誤審により20試合の資格停止を受け、今大会の翌年に33歳というサッカー審判員としては若い年齢で審判を引退した。 続く韓国対スペイン戦はエジプト人のガマル・ガンドゥールが主審を務めたが、48分にスペインの得点がファウルの判定により取り消され、延長2分にはゴール直前のクロスがゴールラインを割っていたとの線審(現在は「副審」)の判定によりスペインの得点は取り消された。試合はスコアレスのままPK戦となり、韓国が勝利した。このように決勝トーナメントに入ってからの誤審疑惑は韓国戦に集中し、韓国代表の相手国はいずれも上位進出候補の強豪国であったことから、ホスト国の韓国代表チームに対し意図的に有利な判定が行われたとする疑惑が生じた。スペイン戦後、FIFAは中立の大陸から審判を起用するという慣例を放棄し、準決勝以降の試合を全て欧州出身の審判で固めた。その後韓国は準決勝でドイツに破れた。 ロイター通信は7月1日、「ロイター通信の記者が選んだ2002年ワールドカップの各部門ベスト、ワースト」を発表し、「ワースト判定」に韓国対スペイン、延長戦のフェルナンド・モリエンテスのゴールを無効としたガマル・ガンドゥールの判定を挙げるとともに、スペイン代表を「最も運の悪いチーム」に選出し、イタリア代表についても「最も悲運な敗者」に選出している。 2000年代のサッカーの出来事を扱ったスポーツイラストレイテッド誌の記事ではイタリア戦・スペイン戦で誤審疑惑が指摘されていると記された。 イギリスBBCにおいて元イングランド代表のゲーリー・リネカーは、韓国はポルトガル戦、イタリア戦、スペイン戦において、審判から数多くの有利な判定の恩恵を受けたと述べた。また、韓国という例をアジアサッカー全体を構築していくための基盤にすべきだとも述べた。スペインについては、彼らが審判から不運以上のものを受けたことは理解しているが、PK戦の前に勝ち切る事が出来た筈だ、と述べている。BBCは「最も驚くべき瞬間」にセネガルのフランスに対する勝利と共に、韓国のイタリア撃破を挙げた。韓国の成績は確かに審判の不可解な判定の恩恵によるものだが、韓国の業績が傷つけられるべきではないとも報じた。 2013年にはコッパ・イタリア決勝式典で韓国人歌手のPSYが出演し熱唱したが、それにイタリアの観客はブーイングや爆竹で邪魔をする行為をし、11年経ってもイタリアのサッカーファンが上記の件を忘れていない姿が報じられた。 なお、今大会で誤審が特にクローズアップされたのは、今大会前後から放送用カメラの性能と台数が向上し、ピッチ全体を細かく「監視」できる状況になったことがあるとの言及があり、2002年大会以後からは毎回誤審騒動が繰り返されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "2002 FIFAワールドカップ(朝: 2002 FIFA 한일 월드컵、英: 2002 FIFA Korea/Japan World Cup)は、2002年5月31日から6月30日にかけて日本と韓国で開催された17回目の大会で、初の2カ国共同開催という大会でもあった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "これまで、FIFAワールドカップ(以下W杯と略すことあり)は欧州と南北アメリカ間で交互に行われてきたが、1986年に国際サッカー連盟(FIFA)のジョアン・アヴェランジェ会長(当時)が「初のアジア・アフリカ大陸による開催」案を打ち出した。その後、同会長から大会開催の打診を受けた日本サッカー協会(JFA)が各国に先駆けて招致に名乗りをあげ、当時の低迷する日本国内のサッカー界の活性化も念頭に置いた上で1988年想、1989年11月にFIFAにW杯開催国立候補の意思表示をし、招致活動を開始した。1991年6月に2002年W杯招致委員会が発足、翌年1992年3月24日にはW杯国会議員招致委員会(以下招致議連)が誕生し、W杯招致は日本の国家的事業となった。日本はFIFAワールドカップを「より平和の祭典」としてメッセージ性あるイベントにしようと提案し、トヨタカップなどの開催実績と「平和で安全」、「豊かな経済」、「政治的安定」、「自由と民主主義」、「世界の先進国」である点などを示し日本で開催する意義を謳った。また、「バーチャルスタジアム構想」(使用していないスタジアムに巨大なスクリーンを配置し3次元映像を投影。あたかも実際に目の前で選手がプレーしているように観客に観せる日本が誇る最新映像技術を駆使した仮想のスタジアム観戦システム)を提案し、史上最大の計400万人がスタジアムで観戦することが可能な大会にすることを謳った(バーチャルスタジアム構想はその後、メガビジョンという大画面投影技術へ姿を変えた。しかし、放映権の問題があったため、実際にメガビジョンが使われたのは準決勝1試合だけであった)。", "title": "大会招致の経緯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "一方で、FIFAが想定するアジア初のワールドカップ開催に日本が立候補すると知った韓国は「アジア初」を賭けて日本に続く形で1993年11月に立候補を表明、1994年の初めに招致委員会を組織した。日本よりも招致活動に出遅れた韓国は、同1994年にFIFA副会長に選出された鄭夢準大韓サッカー協会会長(現代重工業大株主。元韓国国会議員)を先頭にして、現代財閥を中心に韓国国内の政財界をあげての招致活動に乗り出し、「南北朝鮮共同開催案」を持ち出すなどして日本の招致活動に激しく対抗した。そして、1995年2月、立候補すると表明していたメキシコが辞退し、日本と韓国の2国のみが正式に立候補を表明した。日韓以外に立候補した国はなく、招致活動は日韓の一騎討ちとなった。1995年9月28日に日本はFIFAワールドカップ開催提案書をFIFAに提出した。これを受けて、同年11月にFIFA視察団(インスペクショングループ)が日韓両国を訪問し、スタジアムや国内リーグ、インフラなどをチェックした。視察団は『日本は施設も、歓迎も、技術も素晴らしい』と日本を高く評価した。", "title": "大会招致の経緯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "開催国決定は当初、1996年6月1日のFIFA臨時理事会で会長、副会長を含む理事21人の投票によって決定される予定だった。しかし、時期を同じくしてFIFA会長選挙を控え、一貫して日本単独開催を推していたFIFAのアヴェランジェ会長の会長派とUEFA会長のレナート・ヨハンソンを次期FIFA会長にしたい欧州のFIFA理事派の勢力が次期会長職を巡って対立し始める。そして、アヴェランジェ会長の会長続投を阻止しようと反会長派の欧州理事たちは日本と韓国の共同開催(日韓共催)を強く推進したが、南米の会長派はあくまでも日本による単独開催を支持した為にアフリカの理事らの動向が投票を左右することとなった。ただ、こうした状況の中で次第に日韓共催案が現実味を帯び始める事となる。", "title": "大会招致の経緯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "直前になって欧州理事らが、欧州の各国サッカーリーグに選手を受け入れてもらう立場にあるアフリカ理事の票を押え多数派(FIFA理事全21名中11名)となった。その為、開催国を決定する投票日前日の定例理事会前に行われたパーティー会場でアフリカ理事らとの歓談から敗北を悟ったアヴェランジェ会長は、会長としての権威を保つ為、それまで自身が強硬に反対していた日韓共催(当時の規則ではワールドカップは単独開催のみ)を自ら提案することを決断した。1996年5月30日午後、アヴェランジェ会長はFIFA事務局長のゼップ・ブラッターを通して、ヴィダーホテルで投票を待つ日本招致委員会に対し、非公式に日韓共催案打診の電話をかけさせた。電話を受けたのは語学が堪能な日本招致委員会実行委員長で当時JFA副会長(後に会長)の岡野俊一郎だった。なお、ブラッターの口ぶりは切羽詰まっており、打診というより要請だったという。岡野は電話では不正確として、FIFAの公式文書を求めた。午後3時過ぎ、ブラッターの署名入りのFIFA公式文書がFAXで届いた。その文書には、『既に韓国は1996年5月15日付の文書で日韓共催受け入れをFIFAに回答した。日本の立場をたずねたい』と書かれていた。2時間ほどの協議でも結論は出なかったが、もしも日本が共同開催の受け入れを拒否した場合は「韓国の単独開催」になるのは必至だった。ブラッターへの返答刻限が迫る中、招致議連会長の宮澤喜一が「日韓共催は政治にとって悪くない選択だ」と発言した。その発言をきっかけに長沼健JFA会長はやむを得ず、共同開催案受け入れを決断した。その後、ブラッターから二度目の電話が入り、長沼自身が共催受け入れを伝えた。翌日の5月31日午前7時すぎ、岡野が日本サッカー協会公式の共催受け入れ文書をブラッターに手渡した。そのわずか2時間後の午前9時の定例理事会で、アヴェランジェFIFA会長が日韓両国による共同開催案を提案、満場一致の拍手の賛成決議で定例理事会は幕を閉じた。結局、投票を待たずして日韓共催が決定した。同日、午後4時過ぎ、FIFAと開催国に決定した日本と韓国による共同開催決定の会見が開かれた。独の当時サッカージャーナリスト(現バイエルン・ミュンヘン海外担当)マーティン・ヘーゲレらの警鐘(趨勢を悟ればアベランジェは日本を裏切る等)等の重要な情報を無視し、欧州やアフリカ理事らの動向を掴めず、日本単独開催を支持していたアヴェランジェ会長を最後まで盲信し続けた日本招致委員会の実質的な敗北であった。ちなみに、もしも日本が共同開催の受け入れを拒否した場合は「韓国の単独開催」以外の案としては「開催国決定の延長」、「中国での開催」などといった諸案があった。", "title": "大会招致の経緯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "結局、日韓共催はアヴェランジェ会長・南米派と反会長・欧州派のFIFA内部の政治的対立の産物であったが、アヴェランジェ会長は程なくしてFIFAの会長職から引退する形で退いた。また、当ワールドカップ組織委員会委員長には、FIFA副会長の鄭夢準大韓サッカー協会会長が就任した(この件に関してマーティン・ヘーゲレは「各国の担当者に高価な物を贈ったり、娼婦を抱かせようとした」「ヘーゲレへ圧力をかけるよう鄭本人がフランツ・ベッケンバウアー(現ドイツサッカー連盟副会長)に依頼したものの、一蹴された」と主張している。", "title": "大会招致の経緯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "その後、1997年後半に韓国はアジア通貨危機に巻き込まれてデフォルト寸前の不況に陥り、国際通貨基金(IMF)の管理下に入った。IMF経由の日本を中心とした金融支援やIMFによる米国式経済の導入によって大量の失業者を生みながらも経済はV字回復した為に最後まで日本単独開催には至らなかった。しかし、経済回復は対米輸出に頼った状態であった為に2001年のアメリカ同時多発テロ事件で韓国経済がまたも失速し、試合会場となるスタジアム建設が滞る事態となった。そこで、国際協力銀行(旧日本輸出入銀行)がスタジアム建設費として2億ドルの融資を計画したが、韓国政府が断り、中止になった。結局、韓国でのスタジアム建設は続けられて日韓共催はようやく実現した。", "title": "大会招致の経緯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なお、鄭夢準大韓サッカー協会会長は、韓国へのワールドカップ誘致と韓国代表を4位に導いた業績を背景に2002年大韓民国大統領選挙への立候補を表明したが、投票日前日に盧武鉉との取引に応じて立候補を取り止めた。", "title": "大会招致の経緯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ワールドカップを巡る騒動は日韓友好ムードのマスコミとそれに対するネット世論で温度差があり、2011年以降の日韓関係の急速な冷え込みの遠因となったと指摘される。ジャーナリストの安田浩一によると、取材した半分以上が日韓W杯をきっかけに韓国が嫌いになったと答えたという。", "title": "大会招致の経緯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2015年5月27日、アメリカ合衆国司法省が国際サッカー連盟(FIFA)の幹部や関係者ら計14人を起訴 して以降、FIFAの不正に対する追及が活発化している。フランクフルター・アルゲマイネの記者であるジャン・フランソワ・タンダは、電通(当時の会長は成田豊)が、1995年11月16日にISL(インターナショナル・スポーツ&レジャー)と「サービス合意書」を締結し、電通がISLに巨額資金を支払う見返りとしてISLがW杯選出投票での日本への投票を働きかけていたと主張。また、6月19日にスペインのスポーツ紙「Diario AS」は、長沼健が開催地決定の投票に対する謝礼として南米サッカー連盟に150万ドルを支払ったと報道した。ただし、開催地決定に際して投票は行われていない。", "title": "大会招致の経緯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "本大会に出場できるのは32か国で、各地域の出場国の出場枠数は、アジア:2.5、アフリカ:5、北中米カリブ海:3、南米:4.5、オセアニア:0.5、ヨーロッパ:13.5であった。これに、予選を免除された前回大会優勝国のフランスと開催国の日本、韓国が加わる(なお、2001年に2006年大会からの前回優勝国枠廃止が決まったため、フランスは最後の前回優勝による予選免除国となった)。", "title": "予選" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "南米予選では過去最多の優勝を誇るブラジルが予選でなかなか本来の力が発揮できずに苦しむものの、終わってみれば過去の優勝国が勢揃いしたように、順当な結果が多かった。ただ、死のグループに入っていたとはいえ、オランダが予選落ちしたのが最大の波乱とされる。大の飛行機嫌いで知られるデニス・ベルカンプが早々に代表から引退した影響がなかったとはいえない。なお、これがオランダ人の映画プロデューサー、ヨハン・クレマーによる世界最弱代表チーム同士の対戦、アザー・ファイナル構想のきっかけとなった。", "title": "予選" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本と韓国が抜けたアジア予選では、サウジアラビアと中国が勝ち抜いた。中国代表にとっては初出場で、ユーゴスラビア出身のボラ・ミルティノヴィッチ監督は5大会連続で別の国から本大会に参加する記録を作った。また、イラン代表は2大会連続で大陸間プレーオフに回ったが、アイルランド代表に敗れ、連続出場を逃した。オセアニア予選1位のオーストラリアは南米予選5位のウルグアイとの大陸間プレーオフに敗れた。", "title": "予選" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "本大会前には、ロベルト・バッジョ、ロマーリオらが代表に選ばれなかったことがトピックの一つとされた。", "title": "予選" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "出場選手は2002 FIFAワールドカップ参加チームを参照。", "title": "出場国" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "21世紀に入って初となるFIFAワールドカップは、大会史上初めて日本と韓国の2か国による共同開催となったが、アジアで開催された事も初めてであった。さらに日本は初の本大会未経験国(1996年(平成8年)の時点)での開催地決定であった(1998年のフランス大会で初出場を決めている)。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2002年(平成14年)5月31日から6月30日の31日間に、日本と韓国それぞれ10か所、計20都市で64試合を行った。ブラジルが5度目の優勝を遂げた。開催国である日本は決勝トーナメント進出(ベスト16)の成績を残した。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "大会の開催期間は通常より約10日から2週間程度早まり、末日ではあるが珍しく5月からの開催となった(当初は6月1日開幕、6月30日決勝予定であったが、開幕まで2年を切った2000年6月6日のチューリッヒにおけるFIFA理事会で、大会期間を1日増やす形で開幕日を5月31日に繰り上げることにした)。 これは、欧州や南米とは異なる日韓の気候、つまり梅雨を考慮したためと言われている。大会前は、フーリガンの暴動などを危惧する声が聞かれたが、大きなトラブルはなく終わった。日本では当初寄付金が集まらずに赤字が懸念されたが、円安の影響などで大幅な黒字となった。また高円宮夫妻が韓国を公式訪問し、開会式に出席した。皇族の韓国訪問は第二次世界大戦後初である。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ソウルで行われた開幕戦では、前回優勝国のフランスが初出場のセネガルと対戦。この試合でセネガルが1対0で勝利し、波乱の大会の幕開けとなった。EURO2000、コンフェデ杯2001で優勝して前評判が高く優勝候補筆頭と目されていたフランスは結局、事前の対韓国の親善試合で負傷したジダンの抜けた穴を埋めることができず、アンリ、トレゼゲ、シセと3か国のリーグ得点王を擁しながらグループリーグで1得点もあげられずに敗退した。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "開催国の日本は、初戦でベルギーと2対2で引き分け、ワールドカップで初の勝ち点を獲得すると、次戦のロシア戦に1対0で勝ち、ワールドカップ初勝利を挙げる。そして、次のチュニジア戦も2対0で危なげなく勝利し、グループリーグ1位通過で、初のノックアウトステージ(ベスト16以上)進出も決める。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "もう一つの開催国の韓国もまた、ポーランドとポルトガルから勝利をあげ、グループリーグ1位で通過した。フィーゴなどの有力選手をそろえ前評判が高かったポルトガルが第3戦の韓国戦で2名が退場となり敗れたことによりグループリーグで敗退するという波乱があった。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "アルゼンチン、ナイジェリア、スウェーデン、イングランドが集まり「死のグループ」と呼ばれたグループFでは、両国の歴史的背景や前回大会の遺恨から「因縁の対決」と言われているアルゼンチン対イングランド戦が日本の札幌会場の札幌ドームで実現して大きく注目された。南米予選を1位で通過して、フランスに次ぐ優勝候補と目されていたアルゼンチンがグループリーグで敗退するという波乱があった。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "次回開催が決まっているドイツは、世界一のGKと評されたカーンや新星FWクローゼの活躍に、恵まれた組み合わせにも味方され決勝まで進出した。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ノックアウトステージでは、日本はラウンドオブ16でトルコと対戦し0対1で敗れ、初のベスト8進出はならなかった。韓国はイタリア、スペインに勝利し、アジア勢として初の準決勝に進出した。韓国国内がこの快進撃に熱狂する一方、韓国選手の過度なラフプレーに審判が笛を吹かない、相手のゴールが理由を明示されずにファールとして取り消されるなどの審判の誤審が問題となった。横浜国際総合競技場で行われた決勝は、地区予選で大苦戦して前評判が決して高いとは言えなかったドイツとブラジルの戦いとなった。優勝回数1位と2位の国同士であるにもかかわらず、ワールドカップでは初対戦となった。この試合を2対0で勝利したブラジルが5度目の優勝に輝いた。大会の得点王はブラジル代表FWのロナウド(8ゴール)。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1996年11月、FIFA本部で行われた共催検討委員会で、大会の呼称を慣例に従ったアルファベット順で「2002 FIFA World Cup Japan/Korea」とする提案がなされたが、鄭夢準大韓サッカー協会会長が強硬に反対した。会議は紛糾したが、最終的に国名表示順を「Korea/Japan」とする一方で決勝戦を日本で行うことで決着とした。尚、この際、日本側は日本国内で大会名を呼称する時は日本/韓国で構わないとの確約を得ていたが、検討会が非公開だった為に、FIFAに公的な議事録を残すことを求めなかった。これが後に大きな問題になる。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "日本語の表記は、当初「2002 FIFAワールドカップ 日本・韓国」と表記していた。その後、5年ほどは何事もなかったが、2001年1月、日本の教科書検定問題で、かつて日本に併合されていた朝鮮半島にある韓国の対日感情が悪化し、韓国マスコミに追い込まれる形で鄭大韓サッカー協会会長は、「日本国内であっても大会名を「日本・韓国」と表記するのは正式名称(Korea/Japan)と異なっており、開催合意に背く」として抗議した。その為、2001年(平成13年)3月15日の「FIFAのW杯組織委員会」で大会呼称問題について話し合われることになった。岡野は1996年11月の共催検討会での大会名の決定事項を詳しく説明したが、FIFAのW杯組織委員長であるヨハンソンが「大会名決定から長い時間が経っており、しかもその時の議事録もない。大切なのはW杯の成功。国名を入れない大会名の使用を認めるということでどうだろうか」と提案、日韓双方ともこの案を受け入れた。これ以降、日本国内では、国名部分を省略して「2002 FIFAワールドカップ」との表記で統一されることになった。(注:W杯組織委員会は2種類あり、W杯開催国内の『開催国のワールドカップ組織委員会』とそれとは別にFIFA内に設けられる『FIFAのワールドカップ組織委員会』(FIFA関係者及び外部の有識者で構成)がある)。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "また、これはあくまでも正式名称の問題であるために、日本では多くの場所で「2002 FIFAワールドカップ 日本・韓国」という表記も見ることができた。大会終了後の現在でも日本国内では「日韓ワールドカップ」などと表記することが多い。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本では当初、日本による単独開催を視野に大会開催の準備を進めていたために1993年(平成5年)1月に最初の国内開催都市候補地を選定した。候補の15か所(札幌市、青森県、宮城県、茨城県、埼玉県、千葉県、横浜市、新潟県、静岡県、愛知県、京都府、大阪市、神戸市、広島市、大分県)の中、この時点で開催予定施設が完成していたのは1994年アジア競技大会のために整備されていた広島市の広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ)のみ、小幅な改修で対応可能だったのは大阪市の長居スタジアムのみで、あとは各自治体がスタジアムを新設する予定になっていた。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ただ、東京都は立候補を見合わせた。これは、トヨタカップや1964年東京オリンピックの会場として世界的に知名度の高い新宿区の国立霞ヶ丘競技場が観客席への屋根設置(スタジアムの観客席の3分の2が屋根に覆われている事)などの改修条件を満たせなかった上に、2013年(平成25年)に開催予定の「多摩国体」用のメインスタジアムの整備計画もまだ確定していなかったからである(多摩国体用のメインスタジアムは後に東京スタジアムとして整備された)。そのため、もしもこの時点で日本開催が実現した場合、世界有数の人口を抱えながらも1974年(昭和49年)の西ドイツ大会以来となる首都での開催がない大会になる事が確実になっていた。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、参加チーム32か国・開催数64試合で行われたアメリカ大会では9会場、フランス大会では10会場で、日本開催でも採算面から10-12会場での開催が適当と目されていた。ただし、1996年(平成8年)6月に日韓共催が決定したことは、各立候補地域にとって深刻な問題になった。日本国内での試合数が32試合へと半減されたため、6試合前後と見込まれていた各会場の試合数は3-4試合にとどまる事になった。これにより、日本各地で試合会場となるスタジアム建設に対しての費用対効果や採算面からの疑問が提起された為に建設決定が延期される所も出て来た。その一方で、大分県知事の平松守彦は、2008年(平成20年)開催の大分国体メイン会場を兼ねるとの理由で大分スタジアム(現在の大分スポーツ公園総合競技場)の建設を決断し、自身も自治体の代表としてFIFAワールドカップの日本組織委員会(JAWOC)の副会長に就任するなどの積極的な行動を行った。これにより、大分県での開催は確実という見方もなされた。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1996年(平成8年)12月、JAWOCは国内開催都市として10か所を選定した。まず各スタジアムの開催条件充足を調べたが、広島市が予算を理由にしてバックスタンドへの屋根設置と座席改修を見送る事を事前発表していた広島ビッグアーチは開催不適格と判断され、広島市は開催候補都市から外された。アジア大会開催の経験に加え、国際平和都市として抜群の知名度を持ち、「平和のシンボル」としてFIFAからも開催を熱望されていた広島市の落選は、予想されていたとはいえ、衝撃を与えた。次いで、収容人員6万人を超える巨大スタジアム整備を理由に埼玉県と横浜市が、地域バランスの観点から札幌市・静岡県・大阪市・大分県が選出された。最後に投票によって8つの候補地から4開催地が決定された。ここではスタジアム整備構想が難航していた青森県(青森県営サッカースタジアム)・千葉県(千葉県立スタジアム)・京都府(京都スタジアム)が宮城県・茨城県・神戸市にそれぞれ敗れた。これは多くの事前報道の通りになった。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "唯一の波乱とされたのが愛知県に対する新潟県の勝利だった。「トヨタカップ」のスポンサーでもあるトヨタ自動車の本社所在地・豊田市での会場となるスタジアム建設構想が具体化している上に県内には既にJリーグクラブの名古屋グランパスエイトがある愛知県に対し、新潟県は2009年(平成21年)の新潟国体での利用も兼ねた新潟スタジアムの着工こそ近かったものの、県内にはJリーグのクラブや全国で活躍する高校や大学が無く、ようやくアルビレオ新潟(現在のアルビレックス新潟)がJリーグを目指して活動を開始した段階だったため、「サッカー不毛の地」と評価されていた。しかし、新潟県はプレゼンテーションで「日本海側唯一の開催地(札幌市を除く)」としてアピールし、「日本全国が参加するFIFAワールドカップ」という意味を持たせられると主張して、愛知県を破った。この招致成功は、新潟県でアルビレックス新潟を中核として活発な地域スポーツ活動が展開されるようになるまでの重要な第一歩であったが、愛知県にとっては1981年(昭和56年)の名古屋オリンピック招致失敗に続く大規模スポーツイベント開催の挫折となった。豊田市はFIFAワールドカップ前年の2001年(平成13年)に市営の豊田スタジアムを完成させたが、FIFAワールドカップの開催基準を満たす規模を持つスタジアムでありながら、肝心なFIFAワールドカップの試合には使用され無かった為に建設の意義を巡る批判を受けた。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "その後、会場ごとの試合の割り振りが焦点になったが、特に埼玉県(埼玉スタジアム2002)と横浜市(横浜国際総合競技場)は決勝戦開催を巡って激しく争った。しかし、結局は1999年(平成11年)8月にスタジアム収容人数と各地からのアクセスに優れている横浜での決勝戦開催が決まった。その一方、埼玉県にはグループリーグの日本戦の初戦と準決勝があてがわれ、埼玉・横浜(第2戦)に続く日本戦の第3戦は地域バランスから大阪市(長居スタジアム)開催となった。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "韓国でも日本と同様に国内での開催都市選定作業が進められ、共催という理由もあって日本と同数の10都市がFIFAワールドカップを開催したが、韓国国内の大都市(ソウル特別市と国内6か所の広域市)を網羅し、人口の少ない江原道を除く全国に万遍なく配置されたため、韓国社会で深刻な地域対立の新たな発生は抑えられた。しかし、国民の人口や国家の経済規模が日本の半分ほどしかない韓国が日本と同水準のスタジアム整備を行う事は大きな負担であった。その後、1997年後半に韓国はアジア通貨危機で不況に陥ったが、国際通貨基金(IMF)の管理下で経済を一旦は回復させた。ところが、経済回復は対米輸出に頼った状態であった為に2001年のアメリカ同時多発テロ事件で韓国経済がまたも失速し、スタジアム建設が滞る事態となった。そこで、国際協力銀行(旧日本輸出入銀行)がスタジアム建設費として2億ドルの融資を計画したが、韓国政府が断り、中止になった。その後、韓国のスタジアム建設は再開され、完成にこぎつけた。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "開催地決定後もJAWOCと開催する各自治体との緊張関係は続いた。各自治体はJAWOCに対してそれぞれ2億5000万円の運営資金を負担し、それ以外にも要員派遣やさまざまな補助金を与えていたが、2000年(平成12年)12月には開催経費の増大で財政が圧迫されたJAWOCから各1億円の追加負担を求められ、自治体自身や各議会からの批判が起こった。しかし、JAWOCからは円滑な大会開催に必要という理由を付けられたため、各自治体とも負担に応ぜざるを得なかった。なお、この追加負担分は、大会が予想以上の収益を挙げて終了したことによって各自治体へ返還された。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "本大会を印象づけるもう一つの争いとして、各自治体によるキャンプ地誘致合戦が挙げられる。キャンプ地に名乗りを上げた自治体は、予選の段階での確約を含め70以上に上った。結局、グループステージの日本開催分であるE、F、G、Hの4組に出場する全16ヶ国が日本でキャンプをし、さらにグループリーグの韓国開催分であるA、B、C、Dの4組16ヶ国のうちA組の全4チーム、B組の3チーム、C組の1チームの計8チームが開幕前に日本でキャンプをした。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "誘致の成否には戦略の違いが見られ、川崎市がどこの国と決めず誘致活動のみに腐心したため誘致に失敗した一方、伊達政宗の命でローマに派遣された慶長遣欧使節が1615年(元和元年)にローマ教皇に謁見したことから1997年(平成9年)に姉妹県締結をした宮城県とローマ県の交流をもとに、2000年(平成12年)に仙台フィルハーモニー管弦楽団のローマ公演を成功させた仙台市が、イタリア代表に対象を絞って誘致を成功させた。また、徳島県鳴門市は第一次世界大戦時のドイツ兵捕虜への人道的な扱いや地元住民との交流が縁で「バルトの楽園」として映画化もされている程に古くからドイツと親交がありながらも、グラウンドの整備の悪さのためにほぼ誘致が確定していたドイツ代表をみすみす逃がす事態も発生した。岐阜県古川町(現:飛騨市)のように、特定の国(ルーマニア)と出場確定前から確約を結んだために誘致が実現できなかった自治体も多い。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "キャンプ期間中は、強豪国を中心に非公開の練習にする代表チームが比較的に多かった中で、デンマーク、エクアドル、セネガル、サウジアラビア、チュニジア、アイルランドの各代表などは交流に積極的であり、非常に好印象を与え、特にデンマーク代表の公開練習に至っては、地元のみならず全国からも多くのサッカーファンが詰めかけたといわれる。その他の国も、小学校や少年サッカースクール、各種福祉施設など小規模な交流は積極的に行われ、国同士の交換留学生なども送られた。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "注目を集めたキャンプ地として、スター選手や美男子選手目当ての女性ファンが多く詰め掛けた仙台市(イタリア代表)や兵庫県津名町(イングランド代表)があった一方、大分県中津江村(カメルーン代表)は山奥の小さな村のキャンプ地として早くから注目され、代表の到着遅延によってさらに全国にその名が知れ渡ることとなった。中津江村は2005年3月22日に日田市への編入合併により自治体としては消滅したが、旧中津江村域の地名は「中津江村」を冠したまま存続された。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "現在でも、キャンプ地となった自治体とキャンプを行った国との間で親交が深い所が多い。例えば、千葉県千葉市ではアイルランド代表がキャンプを行ったのを機に、有志による「アイルランドサポートクラブ千葉」というアイルランド代表を応援する会を発足。大会終了後もアイルランド代表の応援活動や、「日本代表対アイルランド代表戦の実現」に向けての署名活動を現在でも続けている。また、クロアチア代表のキャンプ地の新潟県十日町市では、2006 FIFAワールドカップが開催された時に日本との対戦が決まったために「どちらを応援するか?」でジレンマが起きたり、「日本を応援しないとはどういうことか」という批判が寄せられるなどした。その他、イタリア代表のキャンプ地となったことを記念して仙台市では仙台カップ国際ユースサッカー大会が始まり、第2種世代のサッカー日本代表にとって重要な大会に育っている。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また、十日町市の誘致におけるエピソードもよく知られ、当初はイタリア代表を誘致しようと運動するも失敗、その後ポーランド、スペイン代表と確約するも、開催地の関係で立ち消えとなる。しかし、ポーランド及びスペイン代表が、まだ候補地を決定していなかったクロアチア代表を推薦し、キャンプ地として決定した。その後、多くの自治体が、誘致国との関係が稀薄となっていく中で、十日町市は以後ずっとクロアチアとの交流を続けており、2020年の東京オリンピックにおけるホストタウン誘致も成功させている。", "title": "本大会" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "日時はすべて現地時間。日本は日本標準時(JST)、韓国は韓国標準時(KST)(ともにUTC+9)。", "title": "結果" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "本大会のグループリーグの組み合わせ抽選は、開催国である韓国・釜山コンベンションセンターで、2001年12月1日に行われた。この抽選会の模様は全世界に生中継され、日本でもNHK(地上波とBS)、BSデジタル民放5局、スカイパーフェクTVにて、また民放ラジオもいくつかの局が「民放ラジオ共同制作」として生中継した。", "title": "結果" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "抽選方法は以下の通りである。まず参加国を4つの「ポット」に分ける。", "title": "結果" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "日韓W杯公式シード算出方法は以下の通り()。", "title": "結果" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "(1)+(2)=ワールドカップ(W杯)シードポイント W杯シードポイント上位5カ国と開催国の日本と韓国と前回優勝のフランスが第1シード。", "title": "結果" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "この結果、A組とF組に強豪が集中し、死の組と呼ばれた。", "title": "結果" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "国際サッカー連盟の技術委員によりオールスターチームが選出された。選出に際しては正規の16選手のほか、控えの7選手を含む23選手が発表された。", "title": "表彰" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2002 FIFA ワールドカップの開催を記念し、ワールドカップ開催史上初めてFIFAの公式イベントとして、『2002 FIFA WORLD CUP KOREA/JAPAN OFFICIAL CONCERT』と題し、コンサートが開催された。場所は両日共に、東京スタジアムにて開催された。", "title": "FIFA ワールドカップ オフィシャル・コンサート" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2002 FIFA ワールドカップ公式アルバムや、大会マスコットなどをあしらった公式記念品が多数販売された。また、日本においてはアディダス製の公式ユニフォームが記録的な売り上げを記録した。", "title": "記念発行物" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "なお、日本においては下記の物が発行された。", "title": "記念発行物" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "前回大会の反省を活かして、FIFAは「今後、チケットを含めたツアー旅行は、原則認めない」とし、一部を除きチケットは原則単独販売のみとするとした。それに伴いチケット販売をバイロム社へ一元管理を委託し、またバイロム社もチケットを記名式にすることで、闇売買を防ぐ仕組みを導入した。しかし結果的には前回大会同様に日本の組織委員会や観客も問題に頭を悩ませることとなり、バイロム社への責任問題へと発展した。問題の例としては、以下の通り。", "title": "大会におけるトラブル" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "尚、大会後にはFIFAが日韓両国に対して1億円ずつの慰謝料を支払った。", "title": "大会におけるトラブル" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、日本国内では全試合完売だったのに対し、韓国国内では大量にチケットの売れ残りが発生、韓国国内で開催される決勝トーナメントですら空席が大量に発生した為に韓国政府が学生を動員して何とか会場の空席を埋めた。特に、西帰浦市で行われた決勝トーナメントの「ドイツ対パラグアイ戦」は韓国組織委員会の動員にもかかわらず、会場の空席が4割に達した。", "title": "大会におけるトラブル" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "今大会では、特に決勝トーナメントに入って以降、ホスト国である韓国の試合において誤審が立て続けに起こった事で大きな波紋を巻き起こした。また、その他の試合でも誤審(イタリア対クロアチア戦でのオフサイド判定やブラジル対ベルギー戦でのゴール無効判定にも疑問が呈された。)が発生した。", "title": "大会におけるトラブル" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "一連の騒動となった誤審は、FIFAの映像ライセンスを持つ会社が2006年3月24日に創立100周年を記念して発売したDVDビデオ『FIFA FEVER FIFA創立100周年記念DVD』に収録されている「世紀の10大誤審」の半数を占め(3位がブラジル対ベルギー戦、6・7位が韓国対イタリア戦、8・9位が韓国対スペイン戦)、これについて大韓サッカー協会は猛反発をした。また一連の誤審騒動以前にも、韓国チームがW杯前の親善試合でフランスと対戦した際に、フランスの司令塔ジネディーヌ・ジダンに危険なタックルをしてフランスのルメール監督から「わざとやったに近い」と批判 されたことを皮切りに、韓国対ポーランド戦前のポーランドの宿舎前での睡眠妨害 や、韓国対米国戦でのスケートパフォーマンス といったトラブルも発生している。", "title": "大会におけるトラブル" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "韓国対イタリア戦は、エクアドル人のバイロン・モレノが主審を務めたが、不可解なジャッジが立て続けに発生し、延長13分にはフランチェスコ・トッティが倒されたと思われたプレーがシミュレーションと判定され、2枚目のイエローカードを受けて退場となったほか、さらに延長20分にはダミアーノ・トンマージのゴールがオフサイド判定を受けるなど明らかにイタリアに不利と思われるジャッジが続いた末に韓国・安貞恒のゴールデンゴールでイタリアが敗退する結果となり、トッティは「審判を変えて最初からワールドカップをやり直すべきだ」と不満をあらわにし、事態沈静化を図ったFIFA会長のゼップ・ブラッターが大会中に異例の声明を出すほどであった。この試合のイタリアからの調査要請とモレノは母国でも不可解なジャッジが発生したことと合わせて、FIFAは2002年9月13日から調査を開始したが、2003年1月にモレノ主審の誤審は買収などの規約違反によるものではなかったと結論付けて決着とした。その後、FIFAは理由の明示なしにモレノ主審を国際審判リストから除名した。モレノ主審はエクアドルリーグでも誤審により20試合の資格停止を受け、今大会の翌年に33歳というサッカー審判員としては若い年齢で審判を引退した。", "title": "大会におけるトラブル" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "続く韓国対スペイン戦はエジプト人のガマル・ガンドゥールが主審を務めたが、48分にスペインの得点がファウルの判定により取り消され、延長2分にはゴール直前のクロスがゴールラインを割っていたとの線審(現在は「副審」)の判定によりスペインの得点は取り消された。試合はスコアレスのままPK戦となり、韓国が勝利した。このように決勝トーナメントに入ってからの誤審疑惑は韓国戦に集中し、韓国代表の相手国はいずれも上位進出候補の強豪国であったことから、ホスト国の韓国代表チームに対し意図的に有利な判定が行われたとする疑惑が生じた。スペイン戦後、FIFAは中立の大陸から審判を起用するという慣例を放棄し、準決勝以降の試合を全て欧州出身の審判で固めた。その後韓国は準決勝でドイツに破れた。", "title": "大会におけるトラブル" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ロイター通信は7月1日、「ロイター通信の記者が選んだ2002年ワールドカップの各部門ベスト、ワースト」を発表し、「ワースト判定」に韓国対スペイン、延長戦のフェルナンド・モリエンテスのゴールを無効としたガマル・ガンドゥールの判定を挙げるとともに、スペイン代表を「最も運の悪いチーム」に選出し、イタリア代表についても「最も悲運な敗者」に選出している。", "title": "大会におけるトラブル" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2000年代のサッカーの出来事を扱ったスポーツイラストレイテッド誌の記事ではイタリア戦・スペイン戦で誤審疑惑が指摘されていると記された。", "title": "大会におけるトラブル" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "イギリスBBCにおいて元イングランド代表のゲーリー・リネカーは、韓国はポルトガル戦、イタリア戦、スペイン戦において、審判から数多くの有利な判定の恩恵を受けたと述べた。また、韓国という例をアジアサッカー全体を構築していくための基盤にすべきだとも述べた。スペインについては、彼らが審判から不運以上のものを受けたことは理解しているが、PK戦の前に勝ち切る事が出来た筈だ、と述べている。BBCは「最も驚くべき瞬間」にセネガルのフランスに対する勝利と共に、韓国のイタリア撃破を挙げた。韓国の成績は確かに審判の不可解な判定の恩恵によるものだが、韓国の業績が傷つけられるべきではないとも報じた。", "title": "大会におけるトラブル" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2013年にはコッパ・イタリア決勝式典で韓国人歌手のPSYが出演し熱唱したが、それにイタリアの観客はブーイングや爆竹で邪魔をする行為をし、11年経ってもイタリアのサッカーファンが上記の件を忘れていない姿が報じられた。", "title": "大会におけるトラブル" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "なお、今大会で誤審が特にクローズアップされたのは、今大会前後から放送用カメラの性能と台数が向上し、ピッチ全体を細かく「監視」できる状況になったことがあるとの言及があり、2002年大会以後からは毎回誤審騒動が繰り返されている。", "title": "大会におけるトラブル" } ]
2002 FIFAワールドカップは、2002年5月31日から6月30日にかけて日本と韓国で開催された17回目の大会で、初の2カ国共同開催という大会でもあった。
{{国際サッカー大会情報ボックス | 大会名 = 2002 FIFA 日韓 ワールドカップ<br/>2002 FIFA 일한 월드컵<br/>2002 FIFA Japan/Korea World Cup | image = [[File: 020609JPN-RUS.jpg|280px]]<br />[[2002 FIFAワールドカップ・決勝|決勝戦]]が行われた横浜国際総合競技場 | 開催国 = {{JPN}} <br />{{KOR}}<ref>{{Cite web |url=http://www.fifa.com/world cup/archive/JapanKorea2002/index.html |title=2002 FIFA World Cup Japan/Korea |publisher=FIFA|date=|accessdate=2016-08-29}}</ref> | 日程 = [[2002年]][[5月31日]] - [[6月30日]] | 出場チーム数 = 32 | 連盟数 = 5 | 開催地数 = 20 | 都市数 = 20(それぞれ10) | 優勝チーム = {{BRAf}} | 優勝回数 = 5 | 準優勝チーム = {{GERf}} | 3位チーム = {{TURf}} | 4位チーム = {{KORf}} | 試合数 = 64 | ゴール数 = 161 | 総入場者数 = 2705197 | 得点王 = {{Flagicon|BRA}} [[ロナウド]] | 得点 = 8 | 最優秀選手 = {{Flagicon|GER}} [[オリバー・カーン]] | 前回年度 = 1998 | 前回大会 = 1998 FIFAワールドカップ | 次回年度 = 2006 | 次回大会 = 2006 FIFAワールドカップ }} {{座標一覧}} [[File:tokyo-tower_2002_0525.JPG|thumb|250px|right|東京タワー・ジャパンブルーライトアップ([[2002年]][[5月25日]])]] '''2002 FIFAワールドカップ'''([[朝鮮語|朝]]: 2002 FIFA 일한 월드컵、{{lang-en-short|2002 FIFA Japan/Korea World Cup}})は、[[2002年]][[5月31日]]から[[6月30日]]にかけて[[日本]]と[[大韓民国|韓国]]で開催された17回目の大会で、初の2カ国共同開催という大会でもあった。 == 大会招致の経緯 == === アジアでのワールドカップ計画 === これまで、FIFAワールドカップ(以下W杯と略すことあり)は[[ヨーロッパ|欧州]]と[[アメリカ大陸|南北アメリカ]]間で交互に行われてきたが、[[1986年]]に[[国際サッカー連盟]](FIFA)の[[ジョアン・アヴェランジェ]]会長(当時)が「初の[[アジア]]・[[アフリカ]]大陸による開催」案を打ち出した。その後、同会長から大会開催の打診を受けた[[日本サッカー協会]](JFA)が各国に先駆けて招致に名乗りをあげ、当時の低迷する日本国内の[[サッカー]]界の活性化も念頭に置いた上で[[1988年]]想、[[1989年]]11月にFIFAにW杯開催国立候補の意思表示をし、招致活動を開始した。[[1991年]]6月に2002年W杯招致委員会が発足、翌年[[1992年]][[3月24日]]にはW杯国会議員招致委員会(以下招致議連)が誕生し、W杯招致は日本の国家的事業となった<ref name="TOGETHER">{{Citation | date =2001年 | title =『中田英寿・洪明甫 TOGETHER 2002ワールドカップBook』 | publisher =講談社 | isbn =4-06-179351-9}}</ref>。日本はFIFAワールドカップを「より平和の祭典」としてメッセージ性あるイベントにしようと提案し、[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]などの開催実績と「平和で安全」、「豊かな経済」、「政治的安定」、「自由と民主主義」、「世界の先進国」である点などを示し日本で開催する意義を謳った。また、「バーチャルスタジアム構想」(使用していないスタジアムに巨大なスクリーンを配置し3次元映像を投影。あたかも実際に目の前で選手がプレーしているように観客に観せる日本が誇る最新映像技術を駆使した仮想のスタジアム観戦システム)を提案し、史上最大の計400万人がスタジアムで観戦することが可能な大会にすることを謳った(バーチャルスタジアム構想はその後、メガビジョンという大画面投影技術へ姿を変えた。しかし、放映権の問題があったため、実際にメガビジョンが使われたのは準決勝1試合だけであった)。 一方で、FIFAが想定するアジア初のワールドカップ開催に日本が立候補すると知った韓国は「アジア初」を賭けて日本に続く形で[[1993年]][[11月]]に立候補を表明、[[1994年]]の初めに招致委員会を組織した。日本よりも招致活動に出遅れた韓国は、同1994年にFIFA副会長に選出された[[鄭夢準]][[大韓サッカー協会]]会長([[現代重工業]]大株主。元[[国会 (大韓民国)|韓国国会]]議員)を先頭にして、[[ヒュンダイ|現代財閥]]を中心に韓国国内の政財界をあげての招致活動に乗り出し、「南北朝鮮共同開催案」を持ち出すなどして日本の招致活動に激しく対抗した。そして、[[1995年]]2月、立候補すると表明していた[[メキシコ]]が辞退し、日本と韓国の2国のみが正式に立候補を表明した。日韓以外に立候補した国はなく、招致活動は日韓の[[一騎討ち]]となった。[[1995年]][[9月28日]]に日本はFIFAワールドカップ開催提案書をFIFAに提出した。これを受けて、同年11月にFIFA視察団(インスペクショングループ)が日韓両国を訪問し、スタジアムや国内リーグ、インフラなどをチェックした。視察団は『日本は施設も、歓迎も、技術も素晴らしい』と日本を高く評価した<ref name="TOGETHER"/>。 === 苦渋の共同開催 === 開催国決定は当初、[[1996年]][[6月1日]]のFIFA臨時理事会で会長、副会長を含む理事21人の投票によって決定される予定だった。しかし、時期を同じくしてFIFA会長選挙を控え、一貫して日本単独開催を推していたFIFAのアヴェランジェ会長の会長派とUEFA会長の[[レナート・ヨハンソン]]を次期FIFA会長にしたい欧州のFIFA理事派の勢力が次期会長職を巡って対立し始める。そして、アヴェランジェ会長の会長続投を阻止しようと反会長派の欧州理事たちは日本と韓国の共同開催(日韓共催)を強く推進したが、南米の会長派はあくまでも日本による単独開催を支持した為にアフリカの理事らの動向が投票を左右することとなった<ref name="TOGETHER"/>。ただ、こうした状況の中で次第に日韓共催案が現実味を帯び始める事となる。 直前になって欧州理事らが、欧州の各国サッカーリーグに選手を受け入れてもらう立場にあるアフリカ理事の票を押え多数派(FIFA理事全21名中11名)となった<ref name="TOGETHER"/>。その為、開催国を決定する投票日前日の定例理事会前に行われたパーティー会場でアフリカ理事らとの歓談から敗北を悟ったアヴェランジェ会長は、会長としての権威を保つ為、それまで自身が強硬に反対していた日韓共催(当時の規則ではワールドカップは単独開催のみ)を自ら提案することを決断した。[[1996年]][[5月30日]]午後、アヴェランジェ会長はFIFA事務局長の[[ゼップ・ブラッター]]を通して、ヴィダーホテルで投票を待つ日本招致委員会に対し、非公式に日韓共催案打診の電話をかけさせた。電話を受けたのは語学が堪能な日本招致委員会実行委員長で当時JFA副会長(後に会長)の[[岡野俊一郎]]だった。なお、ブラッターの口ぶりは切羽詰まっており、打診というより要請だったという<ref name="TOGETHER"/>。岡野は電話では不正確として、FIFAの公式文書を求めた。午後3時過ぎ、ブラッターの署名入りのFIFA公式文書がFAXで届いた。その文書には、『既に韓国は[[1996年]][[5月15日]]付の文書で日韓共催受け入れをFIFAに回答した。日本の立場をたずねたい』と書かれていた。2時間ほどの協議でも結論は出なかったが、もしも日本が共同開催の受け入れを拒否した場合は「韓国の単独開催」になるのは必至だった。ブラッターへの返答刻限が迫る中、招致議連会長の[[宮澤喜一]]が「日韓共催は政治にとって悪くない選択だ」と発言した。その発言をきっかけに[[長沼健]]JFA会長はやむを得ず、共同開催案受け入れを決断した。その後、ブラッターから二度目の電話が入り、長沼自身が共催受け入れを伝えた。翌日の[[5月31日]]午前7時すぎ、岡野が日本サッカー協会公式の共催受け入れ文書をブラッターに手渡した。そのわずか2時間後の午前9時の定例理事会で、アヴェランジェFIFA会長が日韓両国による共同開催案を提案、満場一致の拍手の賛成決議で定例理事会は幕を閉じた。結局、投票を待たずして日韓共催が決定した。同日、午後4時過ぎ、FIFAと開催国に決定した日本と韓国による共同開催決定の会見が開かれた。独の当時サッカージャーナリスト(現[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]海外担当)[[マーティン・ヘーゲレ]]らの警鐘(趨勢を悟ればアベランジェは日本を裏切る等)等の重要な情報を無視し、欧州やアフリカ理事らの動向を掴めず、日本単独開催を支持していたアヴェランジェ会長を最後まで盲信し続けた日本招致委員会の実質的な敗北であった<ref name="TOGETHER"/>。ちなみに、もしも日本が共同開催の受け入れを拒否した場合は「韓国の単独開催」以外の案としては「開催国決定の延長」、「[[中華人民共和国|中国]]での開催」などといった諸案があった。 結局、日韓共催はアヴェランジェ会長・南米派と反会長・欧州派のFIFA内部の政治的対立の産物であったが、アヴェランジェ会長は程なくしてFIFAの会長職から引退する形で退いた。また、当ワールドカップ組織委員会委員長には、FIFA副会長の鄭夢準大韓サッカー協会会長が就任した(この件に関して[[マーティン・ヘーゲレ]]は「各国の担当者に高価な物を贈ったり、娼婦を抱かせようとした」「ヘーゲレへ圧力をかけるよう鄭本人が[[フランツ・ベッケンバウアー]](現[[ドイツサッカー連盟]]副会長)に依頼したものの、一蹴された」と主張している<ref>[[ワールドサッカーダイジェスト]] 2005年8月号</ref>。 その後、1997年後半に韓国は[[アジア通貨危機]]に巻き込まれて[[債務不履行|デフォルト]]寸前の不況に陥り、[[国際通貨基金]](IMF)の管理下に入った<ref>{{PDFlink | [http://www.jbic.go.jp/ja/investment/research/report/archive/pdf/21_02.pdf IMFと資本収支危機:インドネシア、韓国、ブラジル―IMF独立政策評価室による評価レポートの概要] | 225KB}}</ref>。IMF経由の日本を中心とした金融支援やIMFによる米国式経済の導入によって大量の[[失業者]]を生みながらも経済は[[V字回復]]した為に最後まで日本単独開催には至らなかった。しかし、経済回復は対米輸出に頼った状態であった為に[[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ事件]]で韓国経済がまたも失速し<ref>{{PDFlink | [http://www.erina.or.jp/jp/Research/dp/pdf/0308.pdf IMF危機と韓国の貿易] | 130KB}}</ref>、試合会場となるスタジアム建設が滞る事態となった。そこで、[[国際協力銀行]](旧日本輸出入銀行)がスタジアム建設費として2億ドルの融資を計画したが、韓国政府が断り、中止になった<ref name="競技場建設融資">[http://www.yomiuri.co.jp/wcup2002/news/ne991004b.htm 韓国、2億ドル融資を断る 読売新聞2001年2月6日付]</ref>。結局、韓国でのスタジアム建設は続けられて日韓共催はようやく実現した。 なお、鄭夢準大韓サッカー協会会長は、韓国へのワールドカップ誘致と韓国代表を4位に導いた業績を背景に[[2002年大韓民国大統領選挙]]への立候補を表明したが、投票日前日に[[盧武鉉]]との取引に応じて立候補を取り止めた。 ワールドカップを巡る騒動は日韓友好ムードのマスコミとそれに対するネット世論で温度差があり、2011年以降の日韓関係の急速な冷え込みの遠因となったと指摘される<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/134071?page=4 フジは、なぜ「ネット炎上」の標的になるのか | GALAC | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース]</ref>。ジャーナリストの[[安田浩一]]によると、取材した半分以上が日韓W杯をきっかけに韓国が嫌いになったと答えたという<ref name="週刊朝日20131011">{{Cite web|和書|url=http://dot.asahi.com/news/domestic/2013100300023.html|title=嫌韓は2002年日韓W杯がきっかけだった!? |publisher=[[週刊朝日]]2013年10月11日号 ([[朝日新聞出版]]) |date=2013-10-05|accessdate=2023-07-14}}</ref>。 === 日本側の資金提供疑惑 === 2015年5月27日、[[アメリカ合衆国司法省]]が[[国際サッカー連盟]](FIFA)の幹部や関係者ら計14人を起訴<ref>[http://jp.wsj.com/articles/SB11729237550577364065404581011440560224176 FIFA汚職で14人起訴、W杯開催国決定関連でも捜査=米・スイス] WSJ 2015年5月27日</ref> して以降、FIFAの不正に対する追及が活発化している。[[フランクフルター・アルゲマイネ]]の記者であるジャン・フランソワ・タンダは、[[電通]](当時の会長は[[成田豊]])が、1995年11月16日にISL(インターナショナル・スポーツ&レジャー)と「サービス合意書」を締結し、電通がISLに巨額資金を支払う見返りとしてISLがW杯選出投票での日本への投票を働きかけていたと主張<ref>[https://gendai.media/articles/-/43596?page=3 ブラッター会長が辞意表明――底なしの腐敗が露呈するFIFA事件は日本に波及するのか] 現代ビジネス 2015年6月4日</ref>。また、6月19日にスペインのスポーツ紙「[[アス (新聞)|Diario AS]]」は、[[長沼健]]が開催地決定の投票に対する謝礼として南米サッカー連盟に150万ドルを支払ったと報道した<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=spo&k=2015061901015 元日本協会会長が謝礼送金か=02年サッカーW杯日韓大会招致で-スペイン紙] 時事通信 2015年6月18日{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。ただし、開催地決定に際して投票は行われていない<ref>[http://www.footballchannel.jp/2015/06/20/post93681/ 日本、02年W杯招致で南米連盟に謝礼金送金か。150万ドル、証拠書類と共に西紙報じる] フットボールチャンネル 2015年6月20日</ref>。 == 予選 == {{Main|2002 FIFAワールドカップ・予選}} 本大会に出場できるのは32か国で、各地域の出場国の出場枠数は、アジア:2.5、アフリカ:5、北中米カリブ海:3、南米:4.5、オセアニア:0.5、ヨーロッパ:13.5であった。これに、予選を免除された[[1998 FIFAワールドカップ|前回大会]]優勝国の[[サッカーフランス代表|フランス]]と開催国の日本、韓国が加わる(なお、2001年に[[2006年]]大会からの前回優勝国枠廃止が決まったため、フランスは最後の前回優勝による予選免除国となった)。 南米予選では過去最多の優勝を誇る[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]が予選でなかなか本来の力が発揮できずに苦しむものの、終わってみれば過去の優勝国が勢揃いしたように、順当な結果が多かった。ただ、死のグループに入っていたとはいえ、[[サッカーオランダ代表|オランダ]]が予選落ちしたのが最大の波乱とされる。大の飛行機嫌いで知られる[[デニス・ベルカンプ]]が早々に代表から引退した影響がなかったとはいえない。なお、これがオランダ人の映画プロデューサー、[[ヨハン・クレマー]]による世界最弱代表チーム同士の対戦、[[アザー・ファイナル]]構想のきっかけとなった。 日本と韓国が抜けたアジア予選では、サウジアラビアと中国が勝ち抜いた。[[サッカー中華人民共和国代表|中国代表]]にとっては初出場で、[[ユーゴスラビア]]出身の[[ボラ・ミルティノビッチ|ボラ・ミルティノヴィッチ]]監督は5大会連続で別の国から本大会に参加する記録を作った。また、[[サッカーイラン代表|イラン代表]]は2大会連続で大陸間プレーオフに回ったが、[[サッカーアイルランド共和国代表|アイルランド代表]]に敗れ、連続出場を逃した。オセアニア予選1位の[[サッカーオーストラリア代表|オーストラリア]]は南米予選5位の[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ]]との大陸間プレーオフに敗れた。 本大会前には、[[ロベルト・バッジョ]]、[[ロマーリオ]]らが代表に選ばれなかったことがトピックの一つとされた。 == 出場国 == 出場選手は[[2002 FIFAワールドカップ参加チーム]]を参照。 {| class="wikitable" style="text-align: center" !大陸連盟!!出場<br/>枠数!!予選!!colspan="2"|組<br/>予選順位!!出場国・地域!!出場回数!!備考 |- |rowspan="4"|'''[[アジアサッカー連盟|AFC]]''' |rowspan="4"|2+2.5 |rowspan="2" colspan="3"|'''開催国''' |align="left"|{{JPNf}} |2大会連続2回目 | |- |align="left"|{{KORf}} |5大会連続6回目 | |- |rowspan="2"|[[2002 FIFAワールドカップ・アジア予選|最終予選]] |1組 |1位 |align="left"|{{KSAf}} |3大会連続3回目 | |- |2組 |1位 |align="left"|{{CHNf}} |初出場 | |- |rowspan="15"|'''[[ヨーロッパサッカー連盟|UEFA]]''' |rowspan="15"|1+13.5 |colspan="3"|'''前回優勝国''' |align="left"|{{FRAf}} |2大会連続11回目 | |- |rowspan="14"|[[2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|欧州予選]] |rowspan="2"|1組 |1位 |align="left"|{{RUSf}} |2大会ぶり9回目{{efn2|[[サッカーソビエト連邦代表|ソビエト連邦]]時代を含む。}} | |- |2位 |align="left"|{{SVNf}} |初出場 |☆ |- |rowspan="2"|2組 |1位 |align="left"|{{PORf}} |4大会ぶり3回目 | |- |2位 |align="left"|{{IRLf}} |2大会ぶり3回目 |○ |- |3組 |1位 |align="left"|{{DENf}} |2大会連続3回目 | |- |rowspan="2"|4組 |1位 |align="left"|{{SWEf}} |2大会ぶり10回目 | |- |2位 |align="left"|{{TURf}} |12大会ぶり2回目 |☆ |- |5組 |1位 |align="left"|{{POLf}} |4大会ぶり6回目 | |- |rowspan="2"|6組 |1位 |align="left"|{{CROf}} |2大会連続2回目 | |- |2位 |align="left"|{{BELf}} |6大会連続11回目 |☆ |- |7組 |1位 |align="left"|{{ESPf}} |7大会連続11回目 | |- |8組 |1位 |align="left"|{{ITAf}} |11大会連続15回目 | |- |rowspan="2"|9組 |1位 |align="left"|{{ENGf}} |2大会連続11回目 | |- |2位 |align="left"|{{GERf}} |13大会連続15回目{{efn2|西ドイツ時代を含む。}} |☆ |- |rowspan="5"|'''[[南米サッカー連盟|CONMEBOL]]''' |rowspan="5"|4.5 |rowspan="5"|[[2002 FIFAワールドカップ・南米予選|南米予選]] |colspan="2"|1位 |align="left"|{{ARGf}} |8大会連続13回目 | |- |colspan="2"|2位 |align="left"|{{ECUf}} |初出場 | |- |colspan="2"|3位 |align="left"|{{BRAf}} |17大会連続17回目 | |- |colspan="2"|4位 |align="left"|{{PARf}} |2大会連続6回目 | |- |colspan="2"|5位 |align="left"|{{URUf}} |3大会ぶり10回目 |○ |- |rowspan="3"|'''[[北中米カリブ海サッカー連盟|CONCACAF]]''' |rowspan="3"|3 |rowspan="3"|[[2002 FIFAワールドカップ・北中米カリブ海予選|最終予選]] |colspan="2"|1位 |align="left"|{{CRCf}} |3大会ぶり2回目 | |- |colspan="2"|2位 |align="left"|{{MEXf}} |3大会連続12回目 | |- |colspan="2"|3位 |align="left"|{{USAf}} |4大会連続7回目 | |- |rowspan="5"|'''[[アフリカサッカー連盟|CAF]]''' |rowspan="5"|5 |rowspan="5"|[[2002 FIFAワールドカップ・アフリカ予選|最終予選]] |A組 |1位 |align="left"|{{CMRf}} |4大会連続5回目 | |- |B組 |1位 |align="left"|{{NGAf}} |3大会連続3回目 | |- |C組 |1位 |align="left"|{{SENf}} |初出場 | |- |D組 |1位 |align="left"|{{TUNf}} |2大会連続3回目 | |- |E組 |1位 |align="left"|{{RSAf}} |2大会連続2回目 | |- |'''[[オセアニアサッカー連盟|OFC]]''' |0.5 |[[2002 FIFAワールドカップ・オセアニア予選|地区予選]] |colspan="5"|''出場国無し'' |} * 備考欄の「☆」は欧州予選プレーオフ、「○」は大陸間プレーオフに勝利の上、出場が決定したチーム。 == 本大会 == [[File:saitama_2002_0604.jpg|thumb|400px|right|日本×ベルギー戦 (埼玉スタジアム) 2002年6月4日]] === 概要 === [[21世紀]]に入って初となるFIFAワールドカップは、大会史上初めて日本と韓国の2か国による共同開催となったが、[[アジア]]で開催された事も初めてであった。さらに日本は初の本大会未経験国([[1996年]](平成8年)の時点)での開催地決定であった([[1998年]]のフランス大会で初出場を決めている)。 [[2002年]](平成14年)[[5月31日]]から[[6月30日]]の31日間に、日本と韓国それぞれ10か所、計20都市で64試合を行った。[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]が5度目の優勝を遂げた。開催国である[[サッカー日本代表|日本]]は決勝トーナメント進出(ベスト16)の成績を残した。 大会の開催期間は通常より約10日から2週間程度早まり、末日ではあるが珍しく5月からの開催となった(当初は6月1日開幕、6月30日決勝予定であったが、開幕まで2年を切った2000年6月6日のチューリッヒにおけるFIFA理事会で、大会期間を1日増やす形で開幕日を5月31日に繰り上げることにした)。<ref>朝日新聞東京本社版、2000年6月7日付朝刊38面</ref> これは、[[ヨーロッパ|欧州]]や[[南アメリカ|南米]]とは異なる日韓の気候、つまり[[梅雨]]を考慮したためと言われている。大会前は、[[フーリガン]]の[[暴動]]などを危惧する声が聞かれたが、大きなトラブルはなく終わった。日本では当初寄付金が集まらずに[[黒字と赤字|赤字]]が懸念されたが、[[円安]]の影響などで大幅な[[黒字]]となった。また[[高円宮憲仁親王|高円宮]]夫妻が韓国を公式訪問し、開会式に出席した。皇族の韓国訪問は第二次世界大戦後初である。 ソウルで行われた開幕戦では、前回優勝国の[[サッカーフランス代表|フランス]]が初出場の[[サッカーセネガル代表|セネガル]]と対戦。この試合でセネガルが1対0で勝利し、波乱の大会の幕開けとなった。[[UEFA EURO 2000|EURO2000]]、[[FIFAコンフェデレーションズカップ2001|コンフェデ杯2001]]で優勝して前評判が高く優勝候補筆頭と目されていたフランスは結局、事前の対韓国の親善試合で負傷した[[ジネディーヌ・ジダン|ジダン]]の抜けた穴を埋めることができず、[[ティエリ・アンリ|アンリ]]、[[ダヴィド・トレゼゲ|トレゼゲ]]、[[ジブリル・シセ|シセ]]と3か国のリーグ得点王を擁しながら[[グループリーグ]]で1得点もあげられずに敗退した。 開催国の日本は、初戦で[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]と2対2で引き分け、ワールドカップで初の勝ち点を獲得すると、次戦の[[サッカーロシア代表|ロシア]]戦に1対0で勝ち、ワールドカップ初勝利を挙げる。そして、次の[[サッカーチュニジア代表|チュニジア]]戦も2対0で危なげなく勝利し、グループリーグ1位通過で、初のノックアウトステージ(ベスト16以上)進出も決める<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030314_00000 日韓共催W杯サッカー - NHKニュース(動画・静止画) NHKアーカイブス]</ref>。 もう一つの開催国の韓国もまた、[[サッカーポーランド代表|ポーランド]]と[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル]]から勝利をあげ、グループリーグ1位で通過した。[[ルイス・フィーゴ|フィーゴ]]などの有力選手をそろえ前評判が高かったポルトガルが第3戦の韓国戦で2名が退場となり敗れたことによりグループリーグで敗退するという波乱があった。 [[File:020607beckhamPK.jpg|thumb|right|200px|アルゼンチンvsイングランド<br/>試合を決めた[[デビッド・ベッカム|ベッカム]]のPK]] [[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]、[[サッカーナイジェリア代表|ナイジェリア]]、[[サッカースウェーデン代表|スウェーデン]]、[[サッカーイングランド代表|イングランド]]が集まり「死のグループ」と呼ばれたグループFでは、[[フォークランド戦争|両国の歴史的背景]]や前回大会の遺恨から「因縁の対決」と言われているアルゼンチン対イングランド戦が日本の札幌会場の札幌ドームで実現して大きく注目された。南米予選を1位で通過して、フランスに次ぐ優勝候補と目されていたアルゼンチンがグループリーグで敗退するという波乱があった。 次回開催が決まっている[[サッカードイツ代表|ドイツ]]は、世界一のGKと評された[[オリバー・カーン|カーン]]や新星FW[[ミロスラフ・クローゼ|クローゼ]]の活躍に、恵まれた組み合わせにも味方され決勝まで進出した。 ノックアウトステージでは、日本はラウンドオブ16でトルコと対戦し0対1で敗れ、初のベスト8進出はならなかった。韓国は[[サッカーイタリア代表|イタリア]]、[[サッカースペイン代表|スペイン]]に勝利し、アジア勢として初の準決勝に進出した。韓国国内がこの快進撃に熱狂する一方、韓国選手の過度なラフプレーに審判が笛を吹かない、相手のゴールが理由を明示されずにファールとして取り消されるなどの審判の誤審が問題となった。[[横浜国際総合競技場]]で行われた決勝は、地区予選で大苦戦して前評判が決して高いとは言えなかったドイツとブラジルの戦いとなった。優勝回数1位と2位の国同士であるにもかかわらず、ワールドカップでは初対戦となった。この試合を2対0で勝利したブラジルが5度目の優勝に輝いた。大会の得点王はブラジル代表FWの[[ロナウド]](8ゴール)。 === 大会呼称問題 === [[1996年]]11月、FIFA本部で行われた共催検討委員会で、大会の呼称を慣例に従ったアルファベット順で「'''2002 FIFA World Cup Japan/Korea'''」とする提案がなされたが、鄭夢準大韓サッカー協会会長が強硬に反対した。会議は紛糾したが、最終的に国名表示順を「Korea/Japan」とする一方で決勝戦を日本で行うことで決着とした<ref>{{PDFlink | [http://www.bunkyo.ac.jp/faculty/lib/slib/kiyo/Inf/if36/if3607.pdf 日本の全国紙における国名表記順序についての一分析『朝日新聞』による「韓日」表記(2001〜2005)を中心に(後編)] | 464KB}} - [[文教大学]]</ref><ref>[http://www.sankei.com/premium/print/150524/prm1505240003-c.html スポーツ記念日】もうあり得ない? 日韓共同開催のサッカーW杯開幕(2002年5月31日)] - 産経ニュース、2015年5月24日</ref>。尚、この際、日本側は日本国内で大会名を呼称する時は日本/韓国で構わないとの確約を得ていたが、検討会が非公開だった為に、FIFAに公的な議事録を残すことを求めなかった<ref name="TOGETHER"/>。これが後に大きな問題になる。 日本語の表記は、当初「2002 FIFAワールドカップ 日本・韓国」と表記していた。その後、5年ほどは何事もなかったが、2001年1月、日本の[[歴史教科書問題|教科書検定問題]]で、かつて日本に併合されていた[[朝鮮半島]]にある韓国の対日感情が悪化し、韓国マスコミに追い込まれる形で鄭大韓サッカー協会会長は、「日本国内であっても大会名を「日本・韓国」と表記するのは正式名称(Korea/Japan)と異なっており、開催合意に背く」として抗議した。その為、[[2001年]](平成13年)[[3月15日]]の「FIFAのW杯組織委員会」で大会呼称問題について話し合われることになった。岡野は1996年11月の共催検討会での大会名の決定事項を詳しく説明したが、FIFAのW杯組織委員長である[[レナート・ヨハンソン|ヨハンソン]]が「大会名決定から長い時間が経っており、しかもその時の議事録もない。大切なのはW杯の成功。国名を入れない大会名の使用を認めるということでどうだろうか」と提案、日韓双方ともこの案を受け入れた<ref name="TOGETHER"/>。これ以降、日本国内では、国名部分を省略して「2002 FIFAワールドカップ」との表記で統一されることになった。(注:W杯組織委員会は2種類あり、W杯開催国内の『開催国のワールドカップ組織委員会』とそれとは別にFIFA内に設けられる『FIFAのワールドカップ組織委員会』(FIFA関係者及び外部の有識者で構成)がある<ref>[https://megalodon.jp/2012-0510-0955-52/www.sponichi.co.jp/soccer/news/2012/03/29/kiji/K20120329002931600.html ブラジル大会へテコ入れ W杯組織委にFIFA理事会が全面参加-スポニチ2012年3月29日]</ref>)。 また、これはあくまでも正式名称の問題であるために、日本では多くの場所で「2002 FIFAワールドカップ 日本・韓国」という表記も見ることができた。大会終了後の現在でも日本国内では「日韓ワールドカップ」などと表記することが多い。 === 両国の開催都市選定 === 日本では当初、日本による単独開催を視野に大会開催の準備を進めていたために1993年(平成5年)[[1月]]に最初の国内開催都市候補地を選定した。候補の15か所([[札幌市]]、[[青森県]]、[[宮城県]]、[[茨城県]]、[[埼玉県]]、[[千葉県]]、[[横浜市]]、[[新潟県]]、[[静岡県]]、[[愛知県]]、[[京都府]]、[[大阪市]]、[[神戸市]]、[[広島市]]、[[大分県]])の中、この時点で開催予定施設が完成していたのは[[1994年アジア競技大会]]のために整備されていた広島市の[[広島広域公園陸上競技場]](広島ビッグアーチ)のみ、小幅な改修で対応可能だったのは大阪市の長居スタジアムのみで、あとは各自治体がスタジアムを新設する予定になっていた。 ただ、[[東京都]]は立候補を見合わせた。これは、[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]や[[1964年東京オリンピック]]の会場として世界的に知名度の高い[[新宿区]]の[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立霞ヶ丘競技場]]が観客席への屋根設置(スタジアムの観客席の3分の2が屋根に覆われている事)などの改修条件を満たせなかった上に、[[2013年]](平成25年)に開催予定の「多摩[[国民体育大会|国体]]」用のメインスタジアムの整備計画もまだ確定していなかったからである(多摩国体用のメインスタジアムは後に[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|東京スタジアム]]として整備された)。そのため、もしもこの時点で日本開催が実現した場合、世界有数の人口を抱えながらも[[1974年]]([[昭和]]49年)の[[1974 FIFAワールドカップ|西ドイツ大会]]以来となる[[首都]]での開催がない大会になる事が確実になっていた。 また、参加チーム32か国・開催数64試合で行われた[[1994 FIFAワールドカップ|アメリカ大会]]では9会場、[[1958 FIFAワールドカップ|フランス大会]]では10会場で、日本開催でも採算面から10-12会場での開催が適当と目されていた。ただし、[[1996年]](平成8年)[[6月]]に日韓共催が決定したことは、各立候補地域にとって深刻な問題になった。日本国内での試合数が32試合へと半減されたため、6試合前後と見込まれていた各会場の試合数は3-4試合にとどまる事になった。これにより、日本各地で試合会場となるスタジアム建設に対しての費用対効果や採算面からの疑問が提起された為に建設決定が延期される所も出て来た。その一方で、[[大分県]]知事の[[平松守彦]]は、[[2008年]](平成20年)開催の[[第63回国民体育大会|大分国体]]メイン会場を兼ねるとの理由で大分スタジアム(現在の[[大分スポーツ公園総合競技場]])の建設を決断し、自身も自治体の代表としてFIFAワールドカップの日本組織委員会(JAWOC)の副会長に就任するなどの積極的な行動を行った。これにより、大分県での開催は確実という見方もなされた。 1996年(平成8年)[[12月]]、JAWOCは国内開催都市として10か所を選定した。まず各スタジアムの開催条件充足を調べたが、広島市が予算を理由にしてバックスタンドへの屋根設置と座席改修を見送る事を事前発表していた広島ビッグアーチは開催不適格と判断され、広島市は開催候補都市から外された。アジア大会開催の経験に加え、国際平和都市として抜群の知名度を持ち、「平和のシンボル」としてFIFAからも開催を熱望されていた広島市の落選は、予想されていたとはいえ、衝撃を与えた。次いで、収容人員6万人を超える巨大スタジアム整備を理由に埼玉県と横浜市が、地域バランスの観点から札幌市・静岡県・大阪市・大分県が選出された。最後に投票によって8つの候補地から4開催地が決定された。ここではスタジアム整備構想が難航していた青森県([[青森県営サッカースタジアム]])・千葉県([[千葉県立スタジアム]])・京都府([[京都スタジアム]])が宮城県・茨城県・神戸市にそれぞれ敗れた。これは多くの事前報道の通りになった。 唯一の波乱とされたのが愛知県に対する新潟県の勝利だった。「[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]」のスポンサーでもある[[トヨタ自動車]]の本社所在地・[[豊田市]]での会場となるスタジアム建設構想が具体化している上に県内には既にJリーグクラブの[[名古屋グランパスエイト]]がある愛知県に対し、新潟県は[[2009年]](平成21年)の[[第64回国民体育大会|新潟国体]]での利用も兼ねた[[新潟スタジアム]]の着工こそ近かったものの、県内にはJリーグのクラブや全国で活躍する[[高等学校|高校]]や[[大学]]が無く、ようやくアルビレオ新潟(現在の[[アルビレックス新潟]])がJリーグを目指して活動を開始した段階だったため、「サッカー不毛の地」と評価されていた。しかし、新潟県はプレゼンテーションで「日本海側唯一の開催地(札幌市を除く)」としてアピールし、「日本全国が参加するFIFAワールドカップ」という意味を持たせられると主張して、愛知県を破った。この招致成功は、新潟県でアルビレックス新潟を中核として活発な地域スポーツ活動が展開されるようになるまでの重要な第一歩であったが、愛知県にとっては[[1981年]](昭和56年)の[[名古屋オリンピック構想|名古屋オリンピック招致]]失敗に続く大規模スポーツイベント開催の挫折となった。豊田市はFIFAワールドカップ前年の[[2001年]](平成13年)に市営の[[豊田スタジアム]]を完成させたが、FIFAワールドカップの開催基準を満たす規模を持つスタジアムでありながら、肝心なFIFAワールドカップの試合には使用され無かった為に建設の意義を巡る批判を受けた。 その後、会場ごとの試合の割り振りが焦点になったが、特に埼玉県([[埼玉スタジアム2002]])と横浜市([[横浜国際総合競技場]])は決勝戦開催を巡って激しく争った。しかし、結局は[[1999年]](平成11年)[[8月]]にスタジアム収容人数と各地からのアクセスに優れている横浜での決勝戦開催が決まった。その一方、埼玉県にはグループリーグの日本戦の初戦と準決勝があてがわれ、埼玉・横浜(第2戦)に続く日本戦の第3戦は地域バランスから大阪市([[長居陸上競技場|長居スタジアム]])開催となった。 韓国でも日本と同様に国内での開催都市選定作業が進められ、共催という理由もあって日本と同数の10都市がFIFAワールドカップを開催したが、韓国国内の大都市(ソウル特別市と国内6か所の[[広域市]])を網羅し、人口の少ない[[江原道 (南)|江原道]]を除く全国に万遍なく配置されたため、韓国社会で深刻な地域対立の新たな発生は抑えられた。しかし、国民の人口や国家の経済規模が日本の半分ほどしかない韓国が日本と同水準のスタジアム整備を行う事は大きな負担であった。その後、1997年後半に韓国は[[アジア通貨危機]]で不況に陥ったが、[[国際通貨基金]](IMF)の管理下で経済を一旦は回復させた。ところが、経済回復は対米輸出に頼った状態であった為に[[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ事件]]で韓国経済がまたも失速し、スタジアム建設が滞る事態となった。そこで、[[国際協力銀行]](旧日本輸出入銀行)がスタジアム建設費として2億ドルの融資を計画したが、韓国政府が断り、中止になった<ref name="競技場建設融資"/>。その後、韓国のスタジアム建設は再開され、完成にこぎつけた。 === 大会運営資金 === 開催地決定後もJAWOCと開催する各自治体との緊張関係は続いた。各自治体はJAWOCに対してそれぞれ2億5000万円の運営資金を負担し、それ以外にも要員派遣やさまざまな補助金を与えていたが、[[2000年]](平成12年)[[12月]]には開催経費の増大で財政が圧迫されたJAWOCから各1億円の追加負担を求められ、自治体自身や各議会からの批判が起こった。しかし、JAWOCからは円滑な大会開催に必要という理由を付けられたため、各自治体とも負担に応ぜざるを得なかった。なお、この追加負担分は、大会が予想以上の収益を挙げて終了したことによって各自治体へ返還された。 === キャンプ地誘致合戦 === 本大会を印象づけるもう一つの争いとして、各自治体によるキャンプ地誘致合戦が挙げられる。キャンプ地に名乗りを上げた自治体は、予選の段階での確約を含め70以上に上った。結局、グループステージの日本開催分であるE、F、G、Hの4組に出場する全16ヶ国が日本でキャンプをし、さらにグループリーグの韓国開催分であるA、B、C、Dの4組16ヶ国のうちA組の全4チーム、B組の3チーム、C組の1チームの計8チームが開幕前に日本でキャンプをした。 誘致の成否には戦略の違いが見られ、[[川崎市]]がどこの国と決めず誘致活動のみに腐心したため誘致に失敗した一方、[[伊達政宗]]の命で[[ローマ]]に派遣された[[慶長遣欧使節]]が[[1615年]]([[元和 (日本)|元和]]元年)に[[ローマ教皇]]に謁見したことから[[1997年]](平成9年)に姉妹県締結をした[[宮城県]]と[[ローマ県]]の交流をもとに、[[2000年]](平成12年)に[[仙台フィルハーモニー管弦楽団]]のローマ公演を成功させた[[仙台市]]が、イタリア代表に対象を絞って誘致を成功させた。また、[[徳島県]][[鳴門市]]は第一次世界大戦時のドイツ兵捕虜への人道的な扱いや地元住民との交流が縁で「[[バルトの楽園]]」として映画化もされている程に古くからドイツと親交がありながらも、グラウンドの整備の悪さのためにほぼ誘致が確定していたドイツ代表をみすみす逃がす事態も発生した。[[岐阜県]][[古川町]](現:[[飛騨市]])のように、特定の国(ルーマニア)と出場確定前から確約を結んだために誘致が実現できなかった自治体も多い。 キャンプ期間中は、強豪国を中心に非公開の練習にする代表チームが比較的に多かった中で、デンマーク、エクアドル、セネガル、サウジアラビア、チュニジア、アイルランドの各代表などは交流に積極的であり、非常に好印象を与え、特にデンマーク代表の公開練習に至っては、地元のみならず全国からも多くのサッカーファンが詰めかけたといわれる。その他の国も、小学校や少年サッカースクール、各種福祉施設など小規模な交流は積極的に行われ、国同士の交換留学生なども送られた。 注目を集めたキャンプ地として、スター選手や美男子選手目当ての女性ファンが多く詰め掛けた仙台市(イタリア代表)や[[兵庫県]][[津名町]](イングランド代表)があった一方、[[大分県]][[中津江村]](カメルーン代表)は山奥の小さな村のキャンプ地として早くから注目され、代表の到着遅延によってさらに全国にその名が知れ渡ることとなった。中津江村は[[2005年]][[3月22日]]に[[日田市]]への編入合併により自治体としては消滅したが、旧中津江村域の地名は「中津江村」を冠したまま存続された。 現在でも、キャンプ地となった自治体とキャンプを行った国との間で親交が深い所が多い。例えば、[[千葉県]][[千葉市]]ではアイルランド代表がキャンプを行ったのを機に、有志による「[https://web.archive.org/web/20040129081542/http://www.geocities.jp/iscchiba/index.htm アイルランドサポートクラブ千葉]」というアイルランド代表を応援する会を発足。大会終了後もアイルランド代表の応援活動や、「日本代表対アイルランド代表戦の実現」に向けての署名活動を現在でも続けている。また、クロアチア代表のキャンプ地の[[新潟県]][[十日町市]]では、[[2006 FIFAワールドカップ]]が開催された時に日本との対戦が決まったために「どちらを応援するか?」でジレンマが起きたり、「日本を応援しないとはどういうことか」という批判が寄せられるなどした。その他、イタリア代表のキャンプ地となったことを記念して仙台市では[[仙台カップ国際ユースサッカー大会]]が始まり、[[U-20サッカー日本代表|第2種世代のサッカー日本代表]]にとって重要な大会に育っている。 また、十日町市の誘致におけるエピソードもよく知られ、当初はイタリア代表を誘致しようと運動するも失敗、その後ポーランド、スペイン代表と確約するも、開催地の関係で立ち消えとなる。しかし、ポーランド及びスペイン代表が、まだ候補地を決定していなかったクロアチア代表を推薦し、キャンプ地として決定した。その後、多くの自治体が、誘致国との関係が稀薄となっていく中で、十日町市は以後ずっとクロアチアとの交流を続けており、2020年の東京オリンピックにおけるホストタウン誘致も成功させている。 ==== キャンプ地一覧 ==== {| class="wikitable sortable" !キャンプ地!!代表チーム!!グループ |- |[[宮城県]][[仙台市]]||{{ITAf}}||G(日本開催) |- |[[福島県]][[楢葉町]]・[[広野町]]([[Jヴィレッジ]])||{{ARGf}}||F(日本開催) |- |[[千葉県]][[千葉市]]<br/>[[島根県]][[出雲市]]||{{IRLf}}||E(日本開催) |- |[[東京都]][[調布市]]||{{KSAf}}||E(日本開催) |- |[[神奈川県]][[平塚市]]||{{NGAf}}||F(日本開催) |- |[[新潟県]][[十日町市]]<br/>[[富山県]][[富山市]]||{{CROf}}||G(日本開催) |- |[[福井県]][[三国町]]||{{MEXf}}||G(日本開催) |- |[[山梨県]][[富士吉田市]]<br/>[[大分県]][[中津江村]](現:[[日田市]])||{{CMRf}}||E(日本開催) |- |[[長野県]][[松本市]]||{{PARf}}||B(韓国開催) |- |[[静岡県]][[御殿場市]]・[[裾野市]]||{{URUf}}||A(韓国開催) |- |静岡県[[清水市]](現:[[静岡市]][[清水区]])||{{RUSf}}||H(日本開催) |- |静岡県[[藤枝市]]||{{SENf}}||A(韓国開催) |- |静岡県[[磐田市]]||{{JPNf}}||H(日本開催) |- |[[三重県]][[上野市]](現:[[伊賀市]])||{{RSAf}}||B(韓国開催) |- |三重県[[鈴鹿市]]||{{CRCf}}||C(韓国開催) |- |[[兵庫県]][[津名町]](現:[[淡路市]])||{{ENGf}}||F(日本開催) |- |[[奈良県]][[橿原市]]・[[新庄町 (奈良県)|新庄町]](現:[[葛城市]])・[[大和高田市]]<br/>大分県[[佐伯市]]||{{TUNf}}||H(日本開催) |- |[[和歌山県]][[和歌山市]]||{{DENf}}||A(韓国開催) |- |[[鳥取県]][[鳥取市]]||{{ECUf}}||G(日本開催) |- |[[岡山県]][[美作町]](現:[[美作市]])||{{SVNf}}||B(韓国開催) |- |[[熊本県]][[熊本市]]||{{BELf}}||H(日本開催) |- |[[宮崎県]][[宮崎市]]||{{GERf}}||E(日本開催) |- |宮崎県宮崎市||{{SWEf}}||F(日本開催) |- |[[鹿児島県]][[指宿市]]||{{FRAf}}||A(韓国開催) |} === 会場一覧 === <center>[[File:Stadiums of FIFA World Cup 2002.svg|500px|center]]</center> ==== 日本 ==== <center> {| class="wikitable" style="text-align:center" ! style="white-space:nowrap" | 会場名 ! width="20%" | [[札幌ドーム]] ! width="20%" | [[宮城スタジアム]] ! width="20%" | [[茨城県立カシマサッカースタジアム]] ! width="20%" | [[埼玉スタジアム2002]] ! width="20%" | [[横浜国際総合競技場]] |- ! style="white-space:nowrap" | 所在地 | [[北海道]][[札幌市]][[豊平区]] | [[宮城県]][[宮城郡]][[利府町]] | [[茨城県]][[鹿嶋市]] | [[埼玉県]][[さいたま市]]{{efn2|[[2003年]](平成15年)[[4月1日]]に[[政令指定都市]]に移行し、現在は埼玉県さいたま市[[緑区 (さいたま市)|緑区]]}} | [[神奈川県]][[横浜市]][[港北区]] |- ! style="white-space:nowrap" | 座標 | {{ウィキ座標|43|0|54.4|N|141|24|35.3|E|region:JP|地図|name=札幌ドーム}} | {{ウィキ座標|38|20|7.6|N|140|57|1.2|E|region:JP|地図|name=宮城スタジアム}} | {{ウィキ座標|35|59|31.3|N|140|38|25|E|region:JP|地図|name=カシマサッカースタジアム}} | {{ウィキ座標|35|54|11|N|139|43|3.3|E|region:JP|地図|name=埼玉スタジアム2002}} | {{ウィキ座標|35|30|35.9|N|139|36|22.7|E|region:JP|地図|name=横浜国際総合競技場}} |- ! style="white-space:nowrap" | 収容人数 | '''42,000人''' | '''49,000人''' | '''42,000人''' | '''63,000人''' | '''70,000人''' |- ! style="white-space:nowrap" | 会場写真 | [[File:Sapporodome201108171.JPG|150px]] | [[File:MiyagiStadiumTrackField.jpg|150px]] | [[File:Kashima Stadium 1.JPG|150px]] | [[File:Saitama stadium.jpg|150px]] | [[File:NISSANSTADIUM20080608.JPG|150px]] |- ! style="white-space:nowrap" | 使用<br />クラブ | [[北海道コンサドーレ札幌]] | [[ベガルタ仙台]]{{efn2|name="準ホーム"|準ホームスタジアム}} | [[鹿島アントラーズ]] | [[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]] | [[横浜F・マリノス]]<br/>[[横浜FC]]{{efn2|name="準ホーム"}} |- | style="background:#aaa;" colspan="6"| |- ! style="white-space:nowrap" | 会場名 ! [[静岡県小笠山総合運動公園スタジアム]] ! [[新潟スタジアム]] ! [[長居陸上競技場]] ! [[御崎公園球技場]] ! [[大分スポーツ公園総合競技場]] |- ! style="white-space:nowrap" | 所在地 | [[静岡県]][[袋井市]] | [[新潟県]][[新潟市]]{{efn2|[[2007年]](平成19年)4月1日に政令指定都市に移行し、現在は新潟県新潟市[[中央区 (新潟市)|中央区]]。}} | [[大阪府]][[大阪市]][[東住吉区]] | [[兵庫県]][[神戸市]][[兵庫区]] | [[大分県]][[大分市]] |- ! style="white-space:nowrap" | 座標 | {{ウィキ座標|34|44|36.9|N|137|58|13.7|E|region:JP|地図|name=静岡スタジアム エコパ}} | {{ウィキ座標|37|52|57.2|N|139|3|32.9|E|region:JP|地図|name=新潟スタジアム}} | {{ウィキ座標|34|36|50.7|N|135|31|6.9|E|region:JP|地図|name=長居スタジアム}} | {{ウィキ座標|34|39|24|N|135|10|8.3|E|region:JP|地図|name=神戸ウイングスタジアム}} | {{ウィキ座標|33|12|2.5|N|131|39|27.3|E|region:JP|地図|name=大分スタジアム}} |- ! style="white-space:nowrap" | 収容人数 | '''50,600人''' | '''42,300人''' | '''50,000人''' | '''42,000人''' | '''43,000人''' |- ! style="white-space:nowrap" | 会場写真 | [[File:Ecopa030304.jpg|150px]] | [[File:Bigswan080628.JPG|150px]] | [[File:Nagai stadium20040717.jpg|150px]] | [[File:神戸ウイングスタジアム-20020617.jpg |150px]] | [[File:Ōita Stadium with its roof opened.jpg |150px]] |}</center> <center> {{location map+|Japan|float=none|width=400|caption=2002 日本FIFAワールドカップスタジアム|places= {{location map~|Japan|lat=35.991744|long=140.640525|label=[[茨城県立カシマサッカースタジアム|カシマ]]|4|ne}} {{location map~|Japan|lat=34.656744|long=135.168967|label=[[御崎公園球技場|神戸]]|position=top}} {{location map~|Japan|lat=38.335392|long=140.950419|label=[[宮城スタジアム|宮城]]|4|ne}} {{location map~|Japan|lat=37.882614|long=139.059169|label=[[新潟スタジアム|新潟]]|position=top}} {{location map~|Japan|lat=33.200722|long=131.6575|label=[[大分スポーツ公園総合競技場|大分]]|4|so}} {{location map~|Japan|lat=34.613889|long=135.518333|label=[[長居陸上競技場|長居]]|4|se}} {{location map~|Japan|lat=35.903142|long=139.717492|label=[[埼玉スタジアム2002|埼玉]]|position=top}} {{location map~|Japan|lat=43.015172|long=141.409767|label=[[札幌ドーム|札幌]]|4|ne}} {{location map~|Japan|lat=34.743222|long=137.970503|label=[[静岡県小笠山総合運動公園スタジアム|静岡]]|position=top}} {{location map~|Japan|lat=35.510044|long=139.606247|label=[[横浜国際総合競技場|横浜]]|4|se}} }}</center> ==== 韓国 ==== <center> {| class="wikitable" style="text-align:center" ! style="white-space:nowrap" | 会場名 ! width="20%" | [[ソウルワールドカップ競技場]] ! width="20%" | [[大邱スタジアム|大邱ワールドカップ競技場]] ! width="20%" | [[仁川文鶴競技場]] ! width="20%" | [[釜山アジアード競技場]] ! width="20%" | [[大田ワールドカップ競技場]] |- ! style="white-space:nowrap" | 所在地 | [[ソウル特別市]][[麻浦区]] | [[大邱広域市]][[寿城区]] | [[仁川広域市]][[弥鄒忽区|南区]] | [[釜山広域市]][[蓮堤区]] | [[大田広域市]][[儒城区]] |- ! style="white-space:nowrap" | 座標 | {{ウィキ座標|37|34|05.6|N|126|53|50.5|E|region:KR|地図|name=ソウルワールドカップ競技場}} | {{ウィキ座標|35|49|47.2|N|128|41|25.1|E|region:KR|地図|name=大邱ワールドカップ競技場}} | {{ウィキ座標|37|26|06.5|N|126|41|26.9|E|region:KR|地図|name=仁川文鶴競技場}} | {{ウィキ座標|35|11|24.0|N|129|03|29.6|E|region:KR|地図|name=釜山アジアード競技場}} | {{ウィキ座標|36|21|54.5|N|127|19|30.6|E|region:KR|地図|name=大田ワールドカップ競技場}} |- ! style="white-space:nowrap" | 収容人数 | '''63,961人''' | '''68,014人''' | '''52,179人''' | '''55,982人''' | '''40,407人''' |- ! style="white-space:nowrap" | 会場写真 | [[File:LG, Bayer 04 Korea Tour. vs FC Seoul, 30.july 2014.jpg|150px]] | [[File:Daegu.Stadium.original.2167.jpg |150px]] | [[File:Munhak Stadium Corner.jpg |150px]] | [[File:BusanAsiadStadium.jpg|150px]] | [[File:Daejeon World Cup Stadium.JPG|150px]] |- | style="background:#aaa;" colspan="6"| |- ! style="white-space:nowrap" | 会場名 ! [[光州ワールドカップ競技場]] ! [[蔚山文殊サッカー競技場]] ! [[水原ワールドカップ競技場]] ! [[全州ワールドカップ競技場]] ! [[済州ワールドカップ競技場]] |- ! style="white-space:nowrap" | 所在地 | [[光州広域市]][[西区 (光州広域市)|西区]] | [[蔚山広域市]][[南区 (蔚山広域市)|南区]] | [[京畿道]][[水原市]][[八達区]] | [[全羅北道]][[全州市]][[徳津区]] | [[済州特別自治道]][[西帰浦市]] |- ! style="white-space:nowrap" | 座標 | {{ウィキ座標|35|08|01.2|N|126|52|29.5|E|region:KR|地図|name=光州ワールドカップ競技場}} | {{ウィキ座標|35|32|07|N|129|15|34|E|region:KR|地図|name=蔚山文殊サッカー競技場}} | {{ウィキ座標|37|17|10.6|N|127|02|12.8|E|region:KR|地図|name=水原ワールドカップ競技場}} | {{ウィキ座標|35|52|05.2|N|127|03|52.0|E|region:KR|地図|name=全州ワールドカップ競技場}} | {{ウィキ座標|33|14|46.10|N|126|30|33.14|E|region:KR|地図|name=済州ワールドカップ競技場}} |- ! style="white-space:nowrap" | 収容人数 | '''42,880人''' | '''43,550人''' | '''43,188人''' | '''42,391人''' | '''42,256人''' |- ! style="white-space:nowrap" | 会場写真 | [[File:Gwangju World Cup Stadium.jpg|150px]] | [[File:Munsu 20121110 204310 5.jpg|150px]] | [[File:Glandbleu01.jpg|150px]] | [[File:FIFA World Cup 2002.jpg|150px]] | [[File:Jeju World Cup Stadium, Jeju Island.jpg |150px]] |}</center> <center> {{location map+|South Korea|float=none|width=400|caption=2002 韓国FIFAワールドカップスタジアム|places= {{location map~|South Korea|lat=35.19|long=129.058222|label=[[釜山アジアード競技場|釜山]]}} {{location map~|South Korea|lat=35.829778|long=128.690306|label=[[大邱スタジアム|大邱]]|4|so}} {{location map~|South Korea|lat=36.365139|long=127.325167|label=[[大田ワールドカップ競技場|大田]]}} {{location map~|South Korea|lat=35.133667|long=126.874861|label=[[光州ワールドカップ競技場|光州]]}} {{location map~|South Korea|lat=37.435139|long=126.690806|label=[[仁川文鶴競技場|仁川]]|position=bottom}} {{location map~|South Korea|lat=35.868111|long=127.064444|label=[[全州ワールドカップ競技場|全州]]}} {{location map~|South Korea|lat=33.246139|long=126.509206|label=[[済州ワールドカップ競技場|済州]]}} {{location map~|South Korea|lat=37.568222|long=126.897361|label='''[[ソウルワールドカップ競技場|ソウル]]'''}} {{location map~|South Korea|lat=37.286278|long=127.036889|label=[[水原ワールドカップ競技場|水原]]}} {{location map~|South Korea|lat=35.535278|long=129.259444|label=[[蔚山文殊サッカー競技場|蔚山]]}} }}</center> == 結果 == 日時はすべて現地時間。日本は[[日本標準時|日本標準時(JST)]]、韓国は[[韓国標準時|韓国標準時(KST)]](ともに[[UTC+9]])。 === 組み合わせ抽選 === 本大会のグループリーグの組み合わせ抽選は、開催国である韓国・[[釜山広域市|釜山]]コンベンションセンターで、[[2001年]][[12月1日]]に行われた。この抽選会の模様は全世界に生中継され、日本でもNHK(地上波とBS)、BSデジタル民放5局、[[スカパー!プレミアムサービス|スカイパーフェクTV]]にて、また民放ラジオもいくつかの局が「民放ラジオ共同制作」として生中継した。 抽選方法は以下の通りである。まず参加国を4つの「ポット」に分ける。 * ホスト国である日本と韓国、前回大会優勝のフランス、過去の[[FIFAワールドカップ|W杯本大会]]直近3大会の成績並びに過去3年の[[FIFAランキング]]で算出したシード国としてブラジル、アルゼンチン、イタリア、ドイツ、スペインの5か国、計8か国を「'''ポット1'''」 日韓W杯公式シード算出方法は以下の通り([https://web.archive.org/web/20051220180757/http://www.fifa.com/wc/2002/draw/BusanDraw_All-1.pdf])。 # 過去3大会の成績は優勝が32ポイント、準優勝が31ポイントと順位に従い減るものとし、グループリーグ敗退は3位で敗退時9ポイント、4位で敗退時8ポイントになる。そして、[[1990 FIFAワールドカップ|1990年伊W杯本大会]]の成績は1倍、[[1994 FIFAワールドカップ|1994年米W杯本大会]]の成績は2倍、[[1998 FIFAワールドカップ|1998年仏W杯本大会]]の成績は3倍として合計ポイントを3で割る。→[[FIFAワールドカップ|W杯3大会]]のポイント(1) # 過去3年の[[FIFAランキング]]が出場国中最も高い国に32ポイント、それに次ぐ国に31ポイントを与え合計を3で割る。計算するFIFAランキングは年平均ではなく、1999年と2000年は12月時点のFIFAランキング、2001年は11月時点のFIFAランキングを使う(抽選会が12月の為)。→[[FIFAランキング]]3年間のポイント(2) (1)+(2)=ワールドカップ(W杯)シードポイント W杯シードポイント上位5カ国と開催国の日本と韓国と前回優勝のフランスが第1シード。 * シード国以外のヨーロッパの残り11か国を「'''ポット2'''」 * シード国以外の南米3か国とアジア2か国を「'''ポット3'''」 * 北中米・カリブ海とアフリカの8か国を「'''ポット4'''」 # A-D組は韓国、E-H組は日本で試合を行う。 # フランスはA組(前回優勝国が開幕戦を行うため)、韓国はD組、日本はH組に決定。 # ポット1の残り5か国を順にドローし、B、C、E-G組に入れる。 # ポット1の国は、抽選で選ばれた組の1番に配置する。 # ポット2-4に選ばれた国は、各ポットからA組→H組の順に1カ国ずつ選ばれた後、選ばれた組の何番に配置されるかが抽選される。この選ばれた番号により、試合日等が決定される。 # ポット2のうち8か国を順にドローし、A-H組に入れる。 # ポット2の残り3か国を順にドローし、ポット1のヨーロッパ以外の国(日本、韓国、ブラジル、アルゼンチン)のいる組に入れる。<br/>(今回はD組(韓国)、F組(アルゼンチン)、H組(日本)に入った) # ポット3の5か国を順にドローし、ポット2の残り3か国が入らなかった組に入れる。 #: 尚、アジア大陸は出場国が合計4か国のため、韓国で開催されるA-D組と日本で開催されるE-H組に、それぞれ2か国ずつ均一に振り分けるようにする。そのため、予め中国は韓国側(A-C組)、サウジアラビアは日本側(E-G組)に振り分けるように抽選を行う。<br/>またシード国にアジア大陸及び南米大陸の国があるため、ポット2の残り3か国の抽選で選ばれなかった国がアジア大陸の国の組であれば、南米大陸の3か国の中で最初に選ばれた国は、ポット2の残り3か国の抽選で選ばれなかったアジア大陸の国の組へ、またポット2の残り3か国の抽選で選ばれなかった国が南米大陸の国の組であれば、その国の組がA-C組であれば中国がその国の組へ、E-G組であればサウジアラビアがその国の組へ、先に配置される。<br/>(今回はポット3の抽選で最初に中国が選ばれた。中国の配置されるA組-C組の中で、ポット2の残り3か国の抽選で選ばれなかった国はブラジルのいるC組であったため、中国は先にC組に配置された。また3番目に選ばれたサウジアラビアは日本側で試合を行うため、日本側で3か国目が決まっていなかったE組とG組のうち、E→G組の順番によりE組に配置された) # ポット4の8か国を順にドローし、各組に入れる。 この結果、A組とF組に強豪が集中し、[[死の組]]と呼ばれた。 {| class="wikitable" !グループ !ポット1 !ポット2 !ポット3 !ポット4 |- !グループ A |{{fb|FRA}} |{{fb|SEN}} |{{fb|URU}} |{{fb|DEN}} |- !グループ B |{{fb|ESP}} |{{fb|SVN}} |{{fb|PAR}} |{{fb|RSA}} |- !グループ C |{{fb|BRA}} |{{fb|TUR}} |{{fb|CHN}} |{{fb|CRC}} |- !グループ D |{{fb|KOR}} |{{fb|POL}} |{{fb|USA}} |{{fb|POR}} |- !グループ E |{{fb|GER}} |{{fb|KSA}} |{{fb|IRL}} |{{fb|CMR}} |- !グループ F |{{fb|ARG}} |{{fb|NGA}} |{{fb|ENG}} |{{fb|SWE}} |- !グループ G |{{fb|ITA}} |{{fb|ECU}} |{{fb|CRO}} |{{fb|MEX}} |- !グループ H |{{fb|JPN}} |{{fb|BEL}} |{{fb|RUS}} |{{fb|TUN}} |} === グループリーグ === ==== グループ A ==== {{main|2002 FIFAワールドカップ・グループA}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループA|tables}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループA|A1}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループA|A2}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループA|A3}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループA|A4}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループA|A5}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループA|A6}} ==== グループ B ==== {{main|2002 FIFAワールドカップ・グループB}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループB|tables}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループB|B1}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループB|B2}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループB|B3}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループB|B4}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループB|B5}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループB|B6}} ==== グループ C ==== {{main|2002 FIFAワールドカップ・グループC}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループC|tables}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループC|C1}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループC|C2}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループC|C3}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループC|C4}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループC|C5}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループC|C6}} ==== グループ D ==== {{main|2002 FIFAワールドカップ・グループD}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループD|tables}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループD|D1}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループD|D2}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループD|D3}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループD|D4}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループD|D5}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループD|D6}} ==== グループ E ==== {{main|2002 FIFAワールドカップ・グループE}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループE|tables}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループE|E1}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループE|E2}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループE|E3}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループE|E4}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループE|E5}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループE|E6}} ==== グループ F ==== {{main|2002 FIFAワールドカップ・グループF}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループF|tables}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループF|F1}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループF|F2}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループF|F3}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループF|F4}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループF|F5}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループF|F6}} ==== グループ G ==== {{main|2002 FIFAワールドカップ・グループG}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループG|tables}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループG|G1}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループG|G2}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループG|G3}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループG|G4}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループG|G5}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループG|G6}} ==== グループ H ==== {{main|2002 FIFAワールドカップ・グループH}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループH|tables}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループH|H1}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループH|H2}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループH|H3}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループH|H4}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループH|H5}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・グループH|H6}} === 決勝トーナメント === {{main|2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント|Bracket}} ==== ラウンド16 ==== {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント|R16-1}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント|R16-2}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント|R16-3}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント|R16-4}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント|R16-5}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント|R16-6}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント|R16-7}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント|R16-8}} ---- ==== 準々決勝 ==== {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント|QF-1}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント|QF-2}} ---- {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント|QF-3}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント|QF-4}} ---- ==== 準決勝 ==== {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント|SF-1}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント|SF-2}} ---- ==== 3位決定戦 ==== {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント|3rd}} ==== 決勝 ==== {{Main|2002 FIFAワールドカップ・決勝}} {{#lst:2002 FIFAワールドカップ・決勝|Final}} == 優勝国 == {{winners|fb|2002 FIFAワールドカップ優勝国|ブラジル|2大会ぶり5回目}} == 得点ランキング == {| class="wikitable" |- !順位!!選手名!!国籍!!得点数 |- |align="center"|1||[[ロナウド]]||{{BRAf}}||align="center"|8 |- |align="center" rowspan="2"|2||[[ミロスラフ・クローゼ]]||{{GERf}}||align="center" rowspan="2"|5 |- |[[リバウド]]||{{BRAf}} |- |align="center" rowspan="2"|4||[[クリスティアン・ヴィエリ]]||{{ITAf}}||align="center" rowspan="2"|4 |- |[[ヨン・ダール・トマソン]]||{{DENf}} |- |align="center" rowspan="9"|6||[[ミヒャエル・バラック]]||{{GERf}}||align="center" rowspan="9"|3 |- |[[パパ・ブバ・ディオプ]]||{{SENf}} |- |[[ペドロ・パウレタ]]||{{PORf}} |- |[[ヘンリク・ラーション]]||{{SWEf}} |- |[[マルク・ヴィルモッツ]]||{{BELf}} |- |[[ラウル・ゴンサレス]]||{{ESPf}} |- |[[イルハン・マンスズ]]||{{TURf}} |- |[[ロビー・キーン]]||{{IRLf}} |- |[[フェルナンド・モリエンテス]]||{{ESPf}} |} == 表彰 == * FIFAフェアプレー賞:{{BELf}} * エンターテイニングチーム賞:{{KORf}} === 個人賞 === {| class="wikitable" |- !賞!!選手名!!国籍||備考 |- |ゴールデンボール(大会MVP)||[[オリバー・カーン]]||{{GERf}}||準優勝 |- |シルバーボール||[[ロナウド]]||{{BRAf}}||優勝 |- |ブロンズボール||[[洪明甫|ホン・ミョンボ]]||{{KORf}}||4位 |- |ゴールデンシューズ(得点王)||[[ロナウド]]||{{BRAf}}||8得点 |- |ヤシン賞(最優秀GK)||[[オリバー・カーン]]||{{GERf}}||3失点 |} === オールスターチーム === [[国際サッカー連盟]]の技術委員によりオールスターチームが選出された<ref name="All-Star Team">{{cite web|url=http://www.fifa.com/mm/document/afdeveloping/technicaldevp/50/08/41/fwc_korea_japan_2002_a_part1_265.pdf|format=PDF|title=2002 FIFA World Cup Korea/Japan: Report and Statistics|year=2002|publisher=FIFA Technical Group|page=109|accessdate=2014-11-22}}</ref>。選出に際しては正規の16選手のほか、控えの7選手を含む23選手が発表された<ref name="All-Star Team"/>。 {| class="wikitable" |- !ポジション!!選手名!!国籍 |- |align="center" rowspan="2"|[[ゴールキーパー (サッカー)|GK]]||[[オリバー・カーン]]||{{GERf}} |- |[[リュシュテュ・レチベル]]||{{TURf}} |- |align="center" rowspan="6"|[[ディフェンダー (サッカー)|DF]]||[[ロベルト・カルロス・ダ・シウバ|ロベルト・カルロス]]||{{BRAf}} |- |[[ソル・キャンベル]]||{{ENGf}} |- |[[カルレス・プジョル]]||{{ESPf}} |- |[[フェルナンド・イエロ]]||{{ESPf}} |- |[[洪明甫|ホン・ミョンボ]]||{{KORf}} |- |[[アルパイ・オザラン]]||{{TURf}} |- |align="center" rowspan="5"|[[ミッドフィールダー|MF]]||[[リバウド]]||{{BRAf}} |- |[[ロナウジーニョ]]||{{BRAf}} |- |[[ミヒャエル・バラック]]||{{GERf}} |- |[[クラウディオ・レイナ]]||{{USAf}} |- |[[柳想鐵|ユ・サンチョル]]||{{KORf}} |- |align="center" rowspan="4"|[[フォワード (サッカー)|FW]]||[[ロナウド]]||{{BRAf}} |- |[[ミロスラフ・クローゼ]]||{{GERf}} |- |[[エル=ハッジ・ディウフ]]||{{SENf}} |- |[[ハサン・シャシュ]]||{{TURf}} |} {| class="wikitable" |+控え選手 !ポジション!!選手名!!国籍 |- |align="center"|[[ゴールキーパー (サッカー)|GK]]||[[イケル・カシージャス]]||{{ESPf}} |- |align="center"|[[ディフェンダー (サッカー)|DF]]||[[カフー]]||{{BRAf}} |- |align="center" rowspan="3"|[[ミッドフィールダー|MF]]||[[ホアキン・サンチェス]]||{{ESPf}} |- |[[ディートマー・ハマン]]||{{GERf}} |- |[[中田英寿]]||{{JPNf}} |- |align="center" rowspan="2"|[[フォワード (サッカー)|FW]]||[[ランドン・ドノバン]]||{{USAf}} |- |[[マルク・ヴィルモッツ]]||{{BELf}} |} == FIFA ワールドカップ オフィシャル・コンサート == 2002 FIFA ワールドカップの開催を記念し、ワールドカップ開催史上初めてFIFAの公式イベントとして、『2002 FIFA WORLD CUP KOREA/JAPAN OFFICIAL CONCERT』と題し、コンサートが開催された。場所は両日共に、[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|東京スタジアム]]にて開催された。 * [[6月27日]] 「INTERNATIONAL DAY」 : 出演:[[エアロスミス]]、[[B'z]]、[[鼓童]] * [[6月28日]] 「KOREA/JAPAN DAY」 : 出演:[[ローリン・ヒル]]、[[倉木麻衣]]、[[CHEMISTRY]]、[[ゴスペラーズ]]、[[T-SQUARE]]、[[平井堅]]、[[Voices of KOREA/JAPAN]] == 記念発行物 == {{右 |{{Vertical images list |幅=160px |1=FIFA2002-10000yen.jpg |3=FIFA2002-1000yen.jpg |5=Japanese commemorative coin07.jpg |6=2002FIFA記念貨幣 }} }} [[2002 FIFA ワールドカップ公式アルバム]]や、大会マスコットなどをあしらった公式記念品が多数販売された。また、日本においては[[アディダス]]製の公式ユニフォームが記録的な売り上げを記録した。 なお、日本においては下記の物が発行された。 ; [[記念貨幣]] : 10,000円金貨、1,000円銀貨、500円ニッケル[[黄銅]]貨3種(アジア・オセアニア、ヨーロッパ・アフリカ、南北アメリカ)の5種類。 ; [[切手|記念切手]] : 80円切手2種類。試合日程などが記されたシート(切手5枚ずつ10枚が付属)は各会場版10種、全国版、準決勝版、決勝版各1種の13種類。 == 大会協賛 == === オフィシャルパートナー === * [[アディダス]](ドイツ:スポーツ用品メーカー) * [[アンハイザー・ブッシュ]](米国:[[バドワイザー]]製造元の[[ビール]]会社) * [[アバイア]](米国:IP電話) * [[ザ コカ・コーラ カンパニー]](米国:飲料メーカー) * [[東芝]](日本:電機メーカー) * [[ジレット]](米国:剃刀メーカー) * [[日本電信電話|日本電信電話(NTT)]](日本:通信業) * [[KT (通信企業)|KT]](韓国:通信業) * [[日本ビクター]](日本:電機メーカー){{efn2|後の[[JVCケンウッド]]。日本代表戦では「Victor/JVC」表記の広告を使用し、それ以外の全ての試合では「JVC」表記の広告を使用した。この措置は1998年大会でも同様。本大会を最後にスポンサーから撤退し、それ以後業務用音響機器メーカーはスポンサーに付いていない。}} * [[富士フイルム]](日本:写真メーカー) * [[現代自動車]](韓国:自動車メーカー){{efn2|{{要出典範囲|韓国でのゲームでは選手送迎バスにヒュンダイ製をオフィシャルとして使用していたが、日本ではヒュンダイ製バスはほとんど存在していなかったので、当時業務提携していた[[三菱自動車工業|三菱自動車]](現[[三菱ふそうトラック・バス]])のバスを使用していた|date=2013年6月}}}} * [[マスターカード]](米国:クレジットカード会社) * [[マクドナルド]](米国:ファストフード飲食店) * [[フィリップス]](オランダ:電機メーカー) * [[Yahoo!]](米国:インターネット検索エンジン) === オフィシャルサプライヤー === ; 日本 * [[朝日新聞社|朝日新聞]] * [[日本生命保険|日本生命]] * [[日清食品]] * [[野村證券]] * [[東京海上日動火災保険|東京海上火災]] * [[東京電力]] ; 韓国 * [[国民銀行 (韓国)|国民銀行]] * [[ヒュンダイ|現代海上火災]] * [[ポスコ|浦項製鉄]] * [[金剛高麗化学]] * [[大韓航空]] * [[ロッテホテル]] == 大会におけるトラブル == === チケット・空席問題 === {{出典の明記|date=2021年6月|section=1}} [[File:saitama_2002_0606.JPG|thumb|220px|right|空席問題の一例・埼玉スタジアム(カメルーン対サウジアラビア戦 2002年6月6日)]] [[File:Japan ticket.jpg|thumb|220px|right|空席問題の一例・埼玉スタジアム(日本対ベルギー戦 2002年6月4日)]] [[File:020604where_are_tickets.jpg|thumb|220px|right|空席問題に抗議する横断幕(日本対ベルギー戦)]] 前回大会の反省を活かして、FIFAは「今後、チケットを含めたツアー旅行は、原則認めない」とし、一部を除きチケットは原則単独販売のみとするとした。それに伴いチケット販売を[[バイロム]]社へ一元管理を委託し、またバイロム社もチケットを記名式にすることで、闇売買を防ぐ仕組みを導入した。しかし結果的には前回大会同様に日本の組織委員会や観客も問題に頭を悩ませることとなり、バイロム社への責任問題へと発展した。問題の例としては、以下の通り。 # 記名されている、いないに関係なくチケット人気が高騰し、[[インターネットオークション]]では高額な値段で売買される。このため、[[ヤフーオークション]]や[[楽天オークション|楽天フリマ]]は「チケットの異常な高額売買やそれに伴う詐欺行為を防止するため、日韓ワールドカップのチケットの出品は禁止」することを表明<ref>{{cite news | url=http://www.nikkeibp.co.jp/archives/185/185768.html | title=ヤフー、W杯チケットのオークション出品を禁止 | newspaper=[[日経BP社]] | date=2002-05-17 | accessdate=2013-02-22}}</ref><ref>{{cite news | url=https://www.itmedia.co.jp/internet/guide/0206/newsbr/ | title=やっぱり出品されたW杯チケット 日本戦チケットにもユーザーは予想外の静観!? | newspaper=[[ITメディア]] | date=2002-04-26 | accessdate=2013-02-22}}</ref>、後日出品されたワールドカップのチケットの出品に対し、該当すると思われる出品に関しては片っ端から削除を行った。 # インターネット上のチケット販売サイトはアクセスが集中、購入できない状態が続いたものの、実際の試合では大量の空席が発生。販売サイトでは、実際にチケットが売り切れているにもかかわらず、ホストコンピューターの異常により画面上で「空席アリ」の表示が出続けていたため、チケットを求める人達のアクセスが減少せず、余計に混乱を招いた。 # チケットが試合直前までに到着しない。 # 日本で開催された試合ではチケットが全試合完売していたにもかかわらず、実際には大量の空席が存在することが明らかになった。そのため開催当初のグループステージの試合では、いざ試合が始まってみると明らかに空席の目立つエリアが存在し、日本代表戦でも大量の空席があることが判明した。このため日本対ベルギー戦では「チケットはどこにあるのか?」と問題に抗議する横断幕まで出る事態となった(右の画像を参照のこと)。また大量の空席が存在しているという事態に、後日空席部分を調査、試合開始までにチケット販売が間に合うと判断された試合に関しては「最終販売」とし、チケットの予約・販売を[[チケットぴあ]]に委託した。委託を受けたチケットぴあは、最終販売分を電話予約のみで受付し、会場近くのチケット受取所にて予約済みのチケットを手渡すという方法をとった。尚、チケット販売に関してはテレビを通して告知されたため、日本代表戦はチケットを求める大勢の人達がチケット販売日前日より予約電話番号に電話をし、販売前日の深夜にもかかわらず「大変込み合っている」というアナウンスが流れる事態となった。日本のチケット販売に精通した予約代行業者が一部の席を確保してしまうという事態も発生。結果的に代行業者が「予約番号を転売」ということとなった。大阪市内の金券ショップでは高額でチケットを売った店舗が警察からの指導を受けたため、他店はそれを警戒して店頭にはチケットを置かず客があるかどうかを尋ねると販売してくれるという方法でチケットを売っていた。 尚、大会後にはFIFAが日韓両国に対して1億円ずつの慰謝料を支払った。 また、日本国内では全試合完売だったのに対し、韓国国内では大量にチケットの売れ残りが発生、韓国国内で開催される決勝トーナメントですら空席が大量に発生した為に韓国政府が学生を動員して何とか会場の空席を埋めた。特に、[[西帰浦市]]で行われた決勝トーナメントの「ドイツ対パラグアイ戦」は韓国組織委員会の動員にもかかわらず、会場の空席が4割に達した。 === 誤審問題 === {{See also|2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント#韓国 vs イタリア|2002 FIFAワールドカップ・決勝トーナメント#スペイン vs 韓国}} <!--できるだけ時系列順に-->今大会では、特に決勝トーナメントに入って以降、ホスト国である韓国の試合において誤審が立て続けに起こった事で大きな波紋を巻き起こした。また、その他の試合でも誤審(イタリア対クロアチア戦でのオフサイド判定やブラジル対ベルギー戦でのゴール無効判定にも疑問が呈された<ref name="kijima">{{Citation | last =生島淳 | author-link =生島淳 | date =2004年 | title =『世紀の誤審 - オリンピックからW杯まで』 | publisher =光文社 | isbn =4334032591}}</ref>。)が発生した。 一連の騒動となった誤審は、FIFAの映像ライセンスを持つ会社が[[2006年]][[3月24日]]に創立100周年を記念して発売した[[DVDビデオ]]『FIFA FEVER FIFA創立100周年記念DVD』に収録されている「世紀の10大誤審」の半数を占め(3位がブラジル対ベルギー戦、6・7位が韓国対イタリア戦、8・9位が韓国対スペイン戦)、これについて大韓サッカー協会は猛反発をした<ref>{{Cite web|和書|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/11004|title=日韓W杯の誤審疑惑をFIFAが公式認定?|author=田邊雅之|website=Number Web|date=2004-12-02|access-date=2023-01-09}}</ref>。また一連の誤審騒動以前にも、韓国チームがW杯前の親善試合でフランスと対戦した際に、フランスの司令塔[[ジネディーヌ・ジダン]]に危険なタックルをしてフランスのルメール監督から「わざとやったに近い」と批判<ref>2002年5月27日 朝日新聞コラム 中小路徹</ref> されたことを皮切りに、韓国対ポーランド戦前のポーランドの宿舎前での睡眠妨害<ref>[https://archive.fo/2xq7O ポーランド 眠くて負けた] スポニチ 2014年6月6日</ref> や、韓国対米国戦でのスケートパフォーマンス<ref>[https://web.archive.org/web/20020927181709/http://www.sanspo.com/soccer/02worldcup/country/kor/news/st2002052517.html  打倒米国へ韓国サポーター 朝まで生騒ぎ作戦] サンケイスポーツ</ref><ref>[http://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=28367&servcode=600&sectcode=600 オーノ真似た安貞桓のセレモニーに喝采] 中央日報 2002年6月10日</ref> といったトラブルも発生している。 韓国対イタリア戦は、[[エクアドル人]]の[[バイロン・モレノ]]が主審を務めたが、不可解なジャッジが立て続けに発生し、延長13分には[[フランチェスコ・トッティ]]が倒されたと思われたプレーが[[ファウル (サッカー)#シミュレーション|シミュレーション]]と判定され、2枚目のイエローカードを受けて退場となったほか、さらに延長20分には[[ダミアーノ・トンマージ]]のゴールがオフサイド判定を受けるなど明らかにイタリアに不利と思われるジャッジが続いた末に韓国・[[安貞恒]]の[[ゴールデンゴール]]でイタリアが敗退する結果となり、トッティは「審判を変えて最初からワールドカップをやり直すべきだ」と不満をあらわにし<ref name="kijima"/>、事態沈静化を図ったFIFA会長の[[ゼップ・ブラッター]]が大会中に異例の声明を出すほどであった。この試合のイタリアからの調査要請とモレノは母国でも不可解なジャッジが発生したことと合わせて、FIFAは2002年9月13日から調査を開始したが、2003年1月にモレノ主審の誤審は買収などの規約違反によるものではなかったと結論付けて決着とした<ref>[https://web.archive.org/web/20130510182841/http://www.47news.jp/CN/200305/CN2003050601000041.html モレノ審判が現場復帰 エクアドル各紙報道]</ref>。その後、FIFAは理由の明示なしにモレノ主審を国際審判リストから除名した。モレノ主審はエクアドルリーグでも誤審により20試合の資格停止を受け<ref name="espn20110115">[http://sports.espn.go.com/new-york/soccer/news/story?id=6020696 Ex-referee Byron Moreno pleads guilty] {{en icon}} [[ESPN|ESPN NEW YORK]] 2011.1.15付記事</ref>、今大会の翌年に33歳というサッカー審判員としては若い年齢で審判を引退した。 続く韓国対スペイン戦はエジプト人の[[ガマル・ガンドゥール]]が主審を務めたが、48分にスペインの得点がファウルの判定により取り消され、延長2分にはゴール直前のクロスがゴールラインを割っていたとの線審(現在は「副審」)の判定によりスペインの得点は取り消された<ref name="kijima"/>。試合はスコアレスのままPK戦となり、韓国が勝利した。このように決勝トーナメントに入ってからの誤審疑惑は韓国戦に集中し、韓国代表の相手国はいずれも上位進出候補の強豪国であったことから、ホスト国の韓国代表チームに対し意図的に有利な判定が行われたとする疑惑が生じた<ref name="Trapattoni"/>。スペイン戦後、FIFAは中立の大陸から審判を起用するという慣例を放棄し、準決勝以降の試合を全て欧州出身の審判で固めた<ref name="kijima"/>。その後韓国は準決勝でドイツに破れた。 ロイター通信は7月1日、「ロイター通信の記者が選んだ2002年ワールドカップの各部門ベスト、ワースト」を発表し、「ワースト判定」に韓国対スペイン、延長戦の[[フェルナンド・モリエンテス]]のゴールを無効としたガマル・ガンドゥールの判定を挙げるとともに、スペイン代表を「最も運の悪いチーム」に選出し、イタリア代表についても「最も悲運な敗者」に選出している<ref>『ロイター通信』電子版、2002年7月1日</ref>。 [[2000年代]]のサッカーの出来事を扱った[[スポーツイラストレイテッド]]誌の記事ではイタリア戦・スペイン戦で誤審疑惑が指摘されていると記された<ref>[https://web.archive.org/web/20100625023916/http://sportsillustrated.cnn.com/2009/magazine/specials/2000s/12/09/soccer.highs.lows/index.html Soccer: Highlights and lowlights] SI 2009年12月18日</ref>。 イギリス[[英国放送協会|BBC]]において元イングランド代表の[[ゲーリー・リネカー]]は、韓国はポルトガル戦、イタリア戦、スペイン戦において、審判から数多くの有利な判定の恩恵を受けたと述べた<ref name="BBC1">{{cite web | url=http://news.bbc.co.uk/sport3/worldcup2002/specials/html/linekers_verdict/south_korea.stm | title=BBC SPORT WORLD CUP 2002 - Lineker's Verdict - South Korea | publisher=BBC | language=英語 | accessdate=2013-02-22}}</ref>。また、韓国という例をアジアサッカー全体を構築していくための基盤にすべきだとも述べた<ref name="BBC1"/>。<!--ソース中にそのような事は書かれていない リネカーは、イタリア代表は、ポテンシャルの発揮に失敗することがよくあり、今大会でも例外ではなかったと述べ、イタリアが韓国に負けたときは、それについてあれこれとたくさんの唸り声が起きたが、結局のところ非難を行っていたのはイタリアだけであったと述べた<ref>{{cite web | url=http://news.bbc.co.uk/sport3/worldcup2002/specials/html/linekers_verdict/italy.stm | title=BBC SPORT WORLD CUP 2002 - Lineker's Verdict - Italy | publisher=BBC | language=英語 | accessdate=2013-02-22}}</ref>。-->スペインについては、彼らが審判から不運以上のものを受けたことは理解しているが、PK戦の前に勝ち切る事が出来た筈だ、と述べている<ref>{{cite web | url=http://news.bbc.co.uk/sport3/worldcup2002/specials/html/linekers_verdict/spain.stm | title=BBC SPORT WORLD CUP 2002 - Lineker's Verdict - Spain | publisher=BBC | language=英語 | accessdate=2013-02-22}}</ref>。BBCは「最も驚くべき瞬間」にセネガルのフランスに対する勝利と共に、韓国のイタリア撃破を挙げた<ref>{{cite web | url=http://news.bbc.co.uk/sport3/worldcup2002/hi/features/newsid_2077000/2077810.stm | title=BBC SPORT WORLD CUP 2002 - Features - Real winners step forward - Most surprising moment | publisher=BBC | language=英語 | date=2002-07-01 | accessdate=2013-02-22}}</ref>。韓国の成績は確かに審判の不可解な判定の恩恵によるものだが、韓国の業績が傷つけられるべきではないとも報じた<ref>{{cite web | url=http://news.bbc.co.uk/sport3/worldcup2002/hi/features/newsid_2076000/2076952.stm | title=BBC SPORT WORLD CUP 2002 - Features - World glimpses new order | publisher=BBC | language=英語 | date=2002-07-01 | accessdate=2013-02-22}}</ref>。 2013年にはコッパ・イタリア決勝式典で韓国人歌手の[[PSY]]が出演し熱唱したが、それにイタリアの観客はブーイングや爆竹で邪魔をする行為をし、11年経ってもイタリアのサッカーファンが上記の件を忘れていない姿が報じられた<ref>[https://megalodon.jp/2014-1111-2020-14/www.rbbtoday.com/article/2013/05/27/108411.html PSY、イタリアで大ブーイング……“人種差別”にファン怒り] RBB TODAY 2013年5月27日</ref>。 なお、今大会で誤審が特にクローズアップされたのは、今大会前後から放送用カメラの性能と台数が向上し、ピッチ全体を細かく「監視」できる状況になったことがあるとの言及があり、2002年大会以後からは毎回誤審騒動が繰り返されている<ref>{{cite news| url=http://news.bbc.co.uk/sport3/worldcup2002/hi/other_news/newsid_2055000/2055828.stm | work=BBC News | title=Blatter condemns officials | date=2002-06-20 | accessdate=2010-04-28}}</ref>。 == その他 == * [[アンセム-2002 FIFA World Cup 公式アンセム|アンセム - 2002 FIFA World Cup公式アンセム]]=今大会に限り、通常の[[FIFA Anthem]]ではなく[[ヴァンゲリス]]の楽曲が公式Anthemとして使用された。また、この楽曲の公式リミックス版も[[石野卓球]]から発表された。 * 公式テーマソングは[[アナスタシア (歌手)|アナスタシア]]の『Boom』 * マスコットキャラクターは「スフェリックス」(監督のアトー、ストライカーのニック、キャズの3人組<ref>{{Cite web|和書|url=https://imidas.jp/ryuko/detail/N-05-8-095-02.html|title=アトー/ニック/キャズ|work=時事用語事典|website=imidas - イミダス|accessdate=2023-10-10}}</ref>)。同時期に映画と全26話のテレビシリーズがドイツのアニメ会社によって制作され、2002年に各国で放送された。日本ではPPVで放送<ref>https://web.archive.org/web/20020609211446/http://www.ppvj.co.jp/special/spheriks.html</ref>。 * 決勝戦の6時間前、[[ブータン]]において[[FIFAランキング]]最下位決定戦「[[アザー・ファイナル]](もうひとつの決勝戦)」が行われた。 * 2012年7月1日、日韓サッカーワールドカップ10周年記念事業として、「JFAサッカーフェスタ in 横浜」が決勝戦の会場だった[[横浜国際総合競技場]]で開催される。同年7月5日、韓国代表ベスト4進出10周年記念として、[[ソウルワールドカップ競技場]]で2012年[[Kリーグ]]オールスター戦(2002年ワールドカップ韓国代表チーム対Kリーグ選抜チーム)が開催される。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="Trapattoni">フットボール:The Greatest Managers #7 ジョバンニ・トラパットーニ</ref> }} == 関連項目 == * [[2002 FIFAワールドカップ日本代表]] * [[2002 FIFAワールドカップブラジル代表]] == 外部リンク == {{Commonscat|FIFA World Cup 2002}} * [https://www.fifa.com/tournaments/mens/worldcup/2002korea-japan 2002 FIFA World Cup Korea/Japan™]{{en icon}} * [http://www.rsssf.com/tables/2002full.html RSSSFによる記録] * {{NHK放送史|D0009030314_00000|日韓共催W杯サッカー}} * [https://web.archive.org/web/20020405152415/http://www.jawoc.or.jp/index_j.htm 2002年FIFAワールドカップ日本組織委員会] * 開会式当日(2002年5月31日)の韓国のテレビニュース{{ko icon|kr=1}} ** [https://news.kbs.co.kr/vod/program.do?bcd=0010&ref=pMenu#20020531 KBSニュース5] ** [https://news.kbs.co.kr/vod/program.do?bcd=0011&ref=pMenu#20020531 KBSニュース7] ** [https://news.kbs.co.kr/vod/program.do?bcd=0001&ref=pMenu#20020531 KBSニュース9] ** [https://imnews.imbc.com/replay/2002/nwdesk/2171763_30757.html MBCニュースデスク] ** [https://news.sbs.co.kr/news/programMain.do?prog_cd=R1&broad_date=20020531 SBS8ニュース] * 閉会式当日(2002年6月30日)の韓国のテレビニュース{{ko icon|kr=1}} ** [https://news.kbs.co.kr/vod/program.do?bcd=0001&ref=pMenu#20020630 KBSニュース9] ** [https://imnews.imbc.com/replay/2002/nwdesk/2182818_30757.html MBCニュースデスク] ** [https://news.sbs.co.kr/news/programMain.do?prog_cd=R1&broad_date=20020630 SBS8ニュース] {{FIFAワールドカップ}} {{2002 FIFAワールドカップ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:2002FIFAわあるとかつふ}} [[Category:2002 FIFAワールドカップ|*]] [[Category:2002年のサッカー|FIFAわあるとかつふ]] [[Category:日韓関係]]
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性転換症
性転換症:せいてんかんしょう(英語:transsexualism)とは1923年にマグヌス・ヒルシュフェルトが「Die intersexuelle Konstitution」において用いた「Transsexualismus」(ラテン語のsexus(男女の別)と trans(横ぎる、移行する、越える)との合成語、後記の参考文献を参照)という言葉に由来する言葉である。 1949年にコールドウェル(en:D. O. Cauldwell)はこの言葉から「心理的性と身体の性別の不調和」を意味する「transsexual」という言葉を用いた。当時は性的倒錯や精神疾患であるとされていたが、ハリー・ベンジャミン(en:Harry Benjamin)の主著「性別移行現象(en:The Transsexual Phenomenon)」(1966年刊行)によって当事者に配慮した好意的な表現として用いられるようになった。 現在では、性同一性障害の一つ。身体の性と心の性が異なるため、 性ホルモン補充療法 (HRT) の上に性別適合手術等の外科的手術によって心身を一致させた人。または、させることを望む人。トランスセクシャル。TS。と言う意味で用いられる。 現在では、性別移行(性同一性障害)のうち、特に身体的性別に対する違和感、嫌悪感が強く多くは性別適合手術をも必要とする症例を指すとされるが、これはWHO(世界保健機構)でのICD-10の定義(F64.0)に過ぎず、実際世界的にこの言葉は「出生時の外性器(身体)の性別とは反対の性同一性を持つ現象」を指す言葉として広く用いられている。しかしジョグジャカルタ原則第18原則の規定にもかかわらず、ICD-10やDSM-IVは未だにこうした症例を精神疾患として分類、掲載していること、多くの国で法的性別の変更の条件に不妊手術が必須とされ当事者の尊厳と自由が蹂躙されていることに欧州評議会人権弁務官を務めるトマス・ハマーベリは2010年8月31日に強い懸念を示し各国にその是正を要求した。 一方、2003年イギリス政府が示した「性別移行者に関する政府政策」(Government Policy concerning Transsexual People)」(外部リンク参照)では、「トランスセクシャリズム(性別移行)は異性装ではなく、自らの性同一性の選択の結果ではなく、性的指向とは別の問題であり、「ドラァグクイーン」とは無関係であり、さらに(ICD-10或いはDSM-IVの規定とは異なり)精神病ではない」と宣言している。性同一性障害という表現は、Transsexualismに代えてそれに相当する内容に、1994年にアメリカのハリーベンジャミン国際性別違和協会(2006年「世界トランスジェンダー健康専門協会(en: World Professional Association for Transgender Health」に改称)によって診断名として正式に用いられるようになったが、実際日本以外で用いられるのは米国とカナダだけである。この「Transsexualism」という言葉はかつて「性別倒錯」など極めて侮辱的で否定的な訳語が与えられた。現在も広辞苑第6版にはこの「性別倒錯」という表現が項目として存在し、「性転換症」という項目は存在しない。そのためそれらのイメージを払拭するため、現在日本ではこのTranssexualism に性同一性障害の訳語が、特に海外の情報を紹介する際に用いられることが多くなった。なおICD-10で言う「性同一性障害(F64)」に相当する一般的な表現としてトランスジェンダーがあり、英語圏を中心に広く用いられ近年では国際連合や欧州評議会の人権問題を取り扱った文書でもLGBTという概念と関連して用いられている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "性転換症:せいてんかんしょう(英語:transsexualism)とは1923年にマグヌス・ヒルシュフェルトが「Die intersexuelle Konstitution」において用いた「Transsexualismus」(ラテン語のsexus(男女の別)と trans(横ぎる、移行する、越える)との合成語、後記の参考文献を参照)という言葉に由来する言葉である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1949年にコールドウェル(en:D. O. Cauldwell)はこの言葉から「心理的性と身体の性別の不調和」を意味する「transsexual」という言葉を用いた。当時は性的倒錯や精神疾患であるとされていたが、ハリー・ベンジャミン(en:Harry Benjamin)の主著「性別移行現象(en:The Transsexual Phenomenon)」(1966年刊行)によって当事者に配慮した好意的な表現として用いられるようになった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "現在では、性同一性障害の一つ。身体の性と心の性が異なるため、 性ホルモン補充療法 (HRT) の上に性別適合手術等の外科的手術によって心身を一致させた人。または、させることを望む人。トランスセクシャル。TS。と言う意味で用いられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "現在では、性別移行(性同一性障害)のうち、特に身体的性別に対する違和感、嫌悪感が強く多くは性別適合手術をも必要とする症例を指すとされるが、これはWHO(世界保健機構)でのICD-10の定義(F64.0)に過ぎず、実際世界的にこの言葉は「出生時の外性器(身体)の性別とは反対の性同一性を持つ現象」を指す言葉として広く用いられている。しかしジョグジャカルタ原則第18原則の規定にもかかわらず、ICD-10やDSM-IVは未だにこうした症例を精神疾患として分類、掲載していること、多くの国で法的性別の変更の条件に不妊手術が必須とされ当事者の尊厳と自由が蹂躙されていることに欧州評議会人権弁務官を務めるトマス・ハマーベリは2010年8月31日に強い懸念を示し各国にその是正を要求した。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "一方、2003年イギリス政府が示した「性別移行者に関する政府政策」(Government Policy concerning Transsexual People)」(外部リンク参照)では、「トランスセクシャリズム(性別移行)は異性装ではなく、自らの性同一性の選択の結果ではなく、性的指向とは別の問題であり、「ドラァグクイーン」とは無関係であり、さらに(ICD-10或いはDSM-IVの規定とは異なり)精神病ではない」と宣言している。性同一性障害という表現は、Transsexualismに代えてそれに相当する内容に、1994年にアメリカのハリーベンジャミン国際性別違和協会(2006年「世界トランスジェンダー健康専門協会(en: World Professional Association for Transgender Health」に改称)によって診断名として正式に用いられるようになったが、実際日本以外で用いられるのは米国とカナダだけである。この「Transsexualism」という言葉はかつて「性別倒錯」など極めて侮辱的で否定的な訳語が与えられた。現在も広辞苑第6版にはこの「性別倒錯」という表現が項目として存在し、「性転換症」という項目は存在しない。そのためそれらのイメージを払拭するため、現在日本ではこのTranssexualism に性同一性障害の訳語が、特に海外の情報を紹介する際に用いられることが多くなった。なおICD-10で言う「性同一性障害(F64)」に相当する一般的な表現としてトランスジェンダーがあり、英語圏を中心に広く用いられ近年では国際連合や欧州評議会の人権問題を取り扱った文書でもLGBTという概念と関連して用いられている。", "title": "概説" } ]
性転換症:せいてんかんしょうとは1923年にマグヌス・ヒルシュフェルトが「Die intersexuelle Konstitution」において用いた「Transsexualismus」という言葉に由来する言葉である。 1949年にコールドウェルはこの言葉から「心理的性と身体の性別の不調和」を意味する「transsexual」という言葉を用いた。当時は性的倒錯や精神疾患であるとされていたが、ハリー・ベンジャミンの主著「性別移行現象」(1966年刊行)によって当事者に配慮した好意的な表現として用いられるようになった。 現在では、性同一性障害の一つ。身体の性と心の性が異なるため、 性ホルモン補充療法 (HRT) の上に性別適合手術等の外科的手術によって心身を一致させた人。または、させることを望む人。トランスセクシャル。TS。と言う意味で用いられる。
{{告知|提案|[[性同一性障害]]にリダイレクトしてはどうか|date=2023年11月}} {{告知|疑問|内容に対する疑問(出典不足など)}} {{更新|date=2023年6月}} {{出典の明記|date=2022年11月}} {{Transgender sidebar}} '''性転換症''':せいてんかんしょう([[英語]]:[[:en:transsexualism|transsexualism]]<ref name=whoicd10f640>{{Cite web|url= https://icd.who.int/browse10/2019/en#/F64.0 |title=F64.0 Transsexualism - ICD-10 Version:2019 |accessdate=2023/11/14|publisher= WHO |author= |date= }}</ref>)とは1923年に[[マグヌス・ヒルシュフェルト]]が「Die intersexuelle Konstitution」において用いた「Transsexualismus」([[ラテン語]]のsexus(男女の別)と trans(横ぎる、移行する、越える)との[[合成語]]、後記の参考文献を参照)という言葉に由来する言葉である。 1949年にコールドウェル([[:en:D. O. Cauldwell]])はこの言葉から「心理的性と身体の性別の不調和」を意味する「transsexual」という言葉を用いた。当時は[[性的倒錯]]や[[精神疾患]]であるとされていたが、[[ハリー・ベンジャミン]]([[:en:Harry Benjamin]])の主著「性別移行現象([[:en:The Transsexual Phenomenon]])」(1966年刊行)によって当事者に配慮した好意的な表現として用いられるようになった。 現在では、[[性同一性障害]]の一つ。身体の性と心の性が異なるため、 性ホルモン補充療法 (HRT) の上に[[性別適合手術]]等の[[性同一性障害#治療|外科的手術]]によって心身を一致させた人。または、させることを望む人。トランスセクシャル。TS。と言う意味で用いられる<ref>{{Cite web |url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB/ |title=トランスセクシュアル(transsexual) とは? 意味・読み方・使い方 |access-date=2023-11-09 |publisher=goo辞書}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://ideasforgood.jp/glossary/transgender/ |title=トランスジェンダーとは・意味 {{!}} 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン |access-date=2023-11-10 |publisher=IDEAS FOR GOOD}}</ref>。 ==概説== {{要出典範囲|現在では、性別移行([[性同一性障害]])のうち、特に身体的性別に対する違和感、嫌悪感が強く多くは[[性別適合手術]]をも必要とする症例を指すとされるが、これはWHO(世界保健機構)での[[ICD-10]]の定義(F64.0)に過ぎず、実際'''世界的に'''この言葉は'''「出生時の[[外性器]]([[身体]])の性別とは反対の[[性自認|性同一性]]を持つ現象」を指す言葉として広く用いられている'''|date=2022年11月}}。しかしジョグジャカルタ原則第18原則の規定にもかかわらず、[[ICD-10]]や[[DSM-IV]]は未だにこうした症例を[[精神疾患]]として分類、掲載していること、多くの国で法的性別の変更の条件に不妊手術が必須とされ当事者の尊厳と自由が蹂躙されていることに[[欧州評議会]]人権弁務官を務める[[トマス・ハマーベリ]]は2010年8月31日に強い懸念を示し各国にその是正を要求した<ref>[http://commissioner.cws.coe.int/tiki-view_blog_post.php?postId=74 Forced divorce and sterilisation - a reality for many transgender persons(トマス・ハマーベリの見解)]</ref>。 {{要出典範囲|一方、2003年イギリス政府が示した「性別移行者に関する政府政策」(Government Policy concerning Transsexual People)」(外部リンク参照)では、「トランスセクシャリズム(性別移行)は[[異性装]]ではなく、'''自らの性同一性の選択の結果ではなく、'''[[性的指向]]とは別の問題であり、「[[ドラァグクイーン]]」とは無関係であり、さらに([[ICD-10]]或いは[[DSM-IV]]の'''規定とは異なり''')'''精神病ではない'''」と宣言している。性同一性障害という表現は、Transsexualismに代えてそれに相当する内容に、1994年にアメリカのハリーベンジャミン国際性別違和協会(2006年「世界トランスジェンダー健康専門協会([[:en: World Professional Association for Transgender Health]]」に改称)によって[[診断]]名として正式に用いられるようになったが、実際日本以外で用いられるのは米国とカナダだけである。この「Transsexualism」という言葉はかつて「性別倒錯」など極めて侮辱的で否定的な訳語が与えられた。現在も[[広辞苑]]第6版にはこの「性別倒錯」という表現が項目として存在し、「性転換症」という項目は存在しない。そのためそれらのイメージを払拭するため、現在日本ではこのTranssexualism に性同一性障害の訳語が、特に海外の情報を紹介する際に用いられることが多くなった。なお[[ICD-10]]で言う「性同一性障害(F64)」に相当する一般的な表現として[[トランスジェンダー]]があり、英語圏を中心に広く用いられ近年では[[国際連合]]や[[欧州評議会]]の[[人権問題]]を取り扱った文書でも[[LGBT]]という概念と関連して用いられている|date=2022年11月}}。 === 現状 === 日本においては、法律に定められた要件を満たせば戸籍の性別変更が可能だが、そのために必要なホルモン療法や性別適合手術には[[健康保険]]の適用がなされていない。ただし、ホルモン療法については戸籍変更後であればホルモン補充療法という形で健康保険の適用を受けることができる場合がある(現在、戸籍変更後のホルモン補充療法への健康保険の適用をめぐって裁判になっており、被告国は健康保険の適用にならない旨を主張している<ref>”[https://gidtomorrow.jp/%e8%a3%81%e5%88%a4/%e5%81%a5%e5%ba%b7%e4%bf%9d%e9%99%ba%e5%8f%97%e7%b5%a6%e6%a8%a9%e7%a2%ba%e8%aa%8d%e7%ad%89%e8%ab%8b%e6%b1%82%e4%ba%8b%e4%bb%b6/ 健康保険受給権確認等請求事件]” 掲載の被告第1準備書面. GID TOMORROW JAPAN. 2022年4月11日閲覧</ref>)。また、性別適合手術においては経済的な負担を理由に健康保険の適用を求める当事者がいる一方、すでにある程度の当事者が自己負担で手術を受けて終えていることも性同一性障害特例法による性別の取扱いの変更数(2014年末現在までに総数5166名)<ref>gid.jp 日本性同一性障害と共に生きる人々の会 [http://gid.jp/html/GID_law/index.html 性同一性障害特例法による性別の取扱いの変更数の推移]</ref> などから確認できる。 性別適合手術を経た人のうち、世間の認識との誤解に苦しんで自殺した人の割合は全体の4割に及ぶ。また、全体の7割は自殺を考えたことがあるとされている<ref>[[椿姫彩菜]]『わたし、男子校出身です。』[[ポプラ社]]、2008年、251頁、ISBN 978-459-11-0385-2。</ref>。 == 参考文献 == * C.T. Lewis/ Elementary Latin Dictionary, 2000, Oxford University Press ISBN 0199102058 * この辞書のP.867にはtransという単語に「変える」或いは「転換する」といった意味は無く、またP.948にはsexusという単語が「分離、切断」を意味する語根であるSACないしSECに由来する事実が記されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注"/> === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Portal_LGBT}} * [[性同一性障害]] * [[性別適合手術]] * [[性転換]] * [[クラインフェルター症候群]] * [[トランスフォビア]] * [[トランスジェンダー]] * [[ジョグジャカルタ原則]] == 外部リンク == * [http://www.dca.gov.uk/constitution/transsex/policy.htm 性別移行者に関する政府政策(英国)] {{精神と行動の疾患}} {{LGBT}} {{Sex-stub}} {{Medical-stub}} {{LGBT-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せいてんかんしよう}} [[Category:性同一性障害]] [[Category:トランスジェンダー]] [[Category:ジェンダー・アイデンティティ]] [[Category:LGBTと健康]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E8%BB%A2%E6%8F%9B%E7%97%87
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同人誌
同人誌(どうじんし)または同人雑誌(どうにんざっし、どうじんざっし)は、同人(同好の士)が資金を出して、自ら執筆・編集・発行を行う雑誌のこと。似た言葉にファンとマガジンから成るファンジン(fanzine)がある。 日本においては、1873年(明治6年)にアメリカから帰国した森有礼が翌年に創刊した『明六雑誌』が同人雑誌の先駆けとされる。 文芸同人誌としては、1885年(明治18年)に尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、巖谷小波、川上眉山、廣津柳浪ら硯友社の同人が発行した機関誌『我楽多文庫』が最初とされ、その後、『奇蹟』『新思潮』などの同人誌が刊行されてゆき、中でも志賀直哉が参加した『白樺』は戦前の同人誌の中でも最長、最大の力を発揮したとされる。また、戦後に本多秋五らが創刊した『近代文学』は、日本近代文学史上最大の同人誌であった。 漫画の同人誌も現れたが、1960年代までは安価に印刷する手段がなかったため、原稿を綴じて回覧する「肉筆回覧誌」が主流で、青焼きコピーの同人誌も多く見られた。1968年(昭和43年)頃からオフセット印刷が普及し始め、1972年(昭和47年)に開催された「日本漫画大会」ではオフセットのコミック同人誌が多かったという。 また、1975年(昭和50年)にコミケが始まった当初は、コミック同人誌も創作マンガとファンクラブ会誌が中心であったが、1977年(昭和52年)の『宇宙戦艦ヤマト』、1979年(昭和54年)の『機動戦士ガンダム』がブームになると、アニメの二次創作同人誌が急速に多くなっていった。 現在、同人誌の頒布の場としては同人誌即売会が存在し、その中でも「コミックマーケット(通称・コミケ)」は、年間100万人以上が来場する日本最大規模のものとなっている。コミケの他にも多くの同人誌即売会は存在し、2015年(平成27年)には大小合わせて1000回以上が催された。他の主な同人誌即売会としては、COMITIA、文学フリマなどがある(同人誌即売会を参照)。 また、近年ではメロンブックスやとらのあなといった、同人誌の委託販売を行う書店や、BOOTHなどの自主製作作品を販売するプラットフォームも存在するため、即売会の場を通さずに頒布及び入手を行うことも可能となっている。 コミックを中心とする同人誌での性描写に対し、青少年の健全な育成を主張する立場から表現規制を求める声は強く、深刻な問題となっている。 その一例として、「児童の保護」を目的として「東京都青少年の健全な育成に関する条例の改正案」で規定されている「非実在青少年」と、各道府県の「青少年保護育成条例」、「児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律(通称児童ポルノ禁止法)の改正案」で導入を進めている「準児童ポルノに対する規制」を根拠に、同人誌を含むコミックの性表現を規制しようとする運動があり、可決されるだけでも規制の論拠として足りるものとなる。 さらに、前述の改正案が可決されて性表現の規制が厳しくなれば、今度は「コミックの規制に乗じ、暴力・犯罪などの表現も合わせて規制」しようとする動きもある。 特に2000年代の情勢を考慮して、2006年(平成18年)以降のコミックマーケットでは修正関連も含めて規則を強化している。 また、2007年(平成19年)8月23日に起きたわいせつ図画頒布(刑法175条)容疑での同人作家の逮捕や、同年10月下旬に起きた同人誌即売会に対しての会場(東京都立産業貿易センター)の貸し出し拒否の波及などを受け、印刷業組合や各同人誌即売会の主催者などはガイドラインを制定したり、規則に沿った修正を確実にするよう同人作家へ促している。こうした刑法175条に基づく性器描写の修正については、不合理な規制であるから廃止すべきといった批判もあり、参議院議員の山田太郎が刑法175条の見直しを政策課題として掲げている。 なお、日本(世界)最大の同人誌即売会であるコミックマーケットに固有の安全性や地域住民の理解・会場確保に関する問題についてはコミックマーケットの項を参照されたい。 現行の日本の著作権法では、フランス知的保有権法典第122条の5第4項のいわゆる“パロディ条項”のようなパロディを正面から認める法理が存在せず、原作の著作権者の許諾を得ることなく二次創作同人誌を不特定多数への販売することは、原則として著作権侵害となる。 現状としてはファン活動の一環といった扱いを受けた、版権を持つ企業などからの黙認というグレーゾーンで、二次創作同人誌の頒布は成り立っている。一方で過去には「ときめきメモリアル」(コナミ)のように黙認と思われていたものの、実際には法的手段の行使に至ったケース(ときめきメモリアル・アダルトアニメ映画化事件)もある。 1999年(平成11年)にはポケモンのパロディ同人誌を発行した作者が著作権の侵害により逮捕されるポケモン同人誌事件が起こった。 2006年(平成18年)にはドラえもんの最終話を称する同人誌を販売していた男性が著作権侵害として警告されるドラえもん最終話同人誌問題が起こった。 なお、企業、同人作家問わず、パロディなどとは異なり、著作権法で容認されている批評などのための引用についても、著作権者の許可が必要という認識は強い。しかし、漫画の引用については小林よしのりと上杉聰らの間で争われた「『脱ゴー宣』裁判」で絵の引用が争点となったが、2002年(平成14年)4月26日に「絵の引用は合法」とする最高裁判決が出ている(ただし、「レイアウトの改変は違法」とされた。詳細は脱ゴーマニズム宣言事件を参照)。この判決は、コミックマーケットがシンポジウムで取り上げるなど、同人誌にもある程度の影響を及ぼした。 また、2014年(平成26年)にはブロッコリーが無許可で同人グッズを製作・販売しているサークルに警告を出したり、ニトロプラスが二次創作についてのガイドラインを改定し頒布個数や売り上げに制限を盛り込んだ(後日見直され同人誌は範疇から外されている)ことで論議を呼んだ。このような行動が起きた背景として、同人グッズを作っているサークルの中には、ファン活動の域を超えた営利目的のものが増えているという認識であり、一定の線引きが必要と言う意図がある。こうした同人の範疇を超えたグッズの製作・頒布については、著作権者からは公式商品と混同される海賊版であると見なすことができるため、同人誌即売会主催者側からも注意喚起が出されており、特にコミックマーケットでは同年末の87のコミケットアピールにおいて、共同代表からの挨拶で注意がなされ、著作権に関する注意の記述についてもより明確に記載されている。 著作権侵害の非親告罪化も、同人誌関係者にとっては中長期的な懸念材料の一つである。 著作権侵害(著作権法第119条)の刑事罰は原則としては親告罪とされており、著作権者(漫画家・出版社・アニメ制作会社など)が告訴しない限り刑事責任を問うことができない(ただし後述の、改正著作権法の非親告罪化規定は2018年(平成30年)12月30日に施行済である)。 なお、現状でも刑事責任とは別に、損害賠償の請求や、発行の中止、または回収・廃棄させるなどの民事責任も問うことができる。この場合も著作権者の訴えの提起を必要とする。 『朝日新聞』2007年(平成19年)5月26日号「著作権が「脅威」になる日 被害者の告訴なしに起訴、共謀罪でも」(丹治吉順)によると、日本は「模倣品・海賊版拡散防止条約」の制定を提案している。しかし、アメリカ合衆国から「海賊版摘発を容易にするため、非親告罪化を盛り込んで欲しい」という要望があり、条約提唱国としては国内の著作権法も条約に合わせて改正するのが望ましいとされた。そこで、文化庁文化審議会著作権分科会法制問題小委員会で3月から審議が始まった。 また、同記事によると、文化庁の審議とは別に国会で審議が進んでいる共謀罪法案には、自民党の修正案3案のうち2案で、著作権法を共謀罪の対象としている。自民党案をとりまとめた衆議院議員早川忠孝は、「犯罪組織が海賊版を資金源にすることを防ぐのが目的」と述べている。 編集者の竹熊健太郎は、「非親告罪化によって警察・司法が独自の判断で逮捕することが可能になれば、商業的な出版・放送・上演・演奏のみならず、コミケの二次創作・パロディ同人誌などにも深刻なダメージが加わる可能性がある」と指摘。「俺を含めて多くの作家・マンガ家・同人誌作家・ブロガーは何か書く場合でも無意識のパクリがないかどうかおっかなびっくり書くことになり、ひいては表現の萎縮につながりつまらん作品ばかりになるかもしれないので俺は反対だ」と主張している。 また、クリエイターの小寺信良は「行使する側が「模倣」と「創作」の違いがわからない場合、クリエイターの活動を萎縮させかねない」とコメントした。 非親告罪化への対策の一つとして、2013年(平成25年)に、二次創作同人誌作成や同人誌即売会での無断配布を有償・無償問わず原作者が許可する意思を示すための同人マークという新たなライセンスがコモンスフィアによって公開された。これは環太平洋戦略的経済連携協定 (TPP) 交渉で非親告罪化される可能性が言及され、実際に非親告罪化された場合に第三者による告発などで権利者が黙認したいケースでも訴訟に発展するなどの事態を防ぐことを目的に漫画家の赤松健が発案したライセンスであり、赤松自身の漫画作品で『週刊少年マガジン』2013年39号(同年8月28日発売)より連載開始のUQ HOLDER!で採用されている。 2016年(平成28年)3月9日に第190回国会に提出されたTPPの締結に伴う関係法律の整備法案では、著作権法の改正が定められ、財産上の利益を受ける目的又は著作権者等(原作者や出版社)の得ることの見込まれる利益を害する目的で、以下のいずれかの行為を行い、著作権侵害の罪を犯した場合には、親告罪の規定を適用しない(=非親告罪)ことに改めることとされた。 2016年(平成28年)4月8日のTPP特別委員会において、丸山穂高への答弁として安倍晋三首相は「同人誌は市場で原作と競合せず、権利者の利益を不当に害するものではないから非親告罪とはならない」と答え、同人誌は非親告罪の対象とならないという認識を示した。 なお、改正著作権法の非親告罪化規定は、TPP11協定発効日である2018年(平成30年)12月30日から施行された。
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同人誌(どうじんし)または同人雑誌(どうにんざっし、どうじんざっし)は、同人(同好の士)が資金を出して、自ら執筆・編集・発行を行う雑誌のこと。似た言葉にファンとマガジンから成るファンジン(fanzine)がある。
[[ファイル:Shirakaba first issue.jpg|thumb|right|200px|『[[白樺 (雑誌)|白樺]]』創刊号の表紙]] [[ファイル:Wikipe-tan manga page1.jpg|thumb|right|200px|[[ウィキぺたん]]を描いたコミック同人誌]] '''同人誌'''(どうじんし)または'''同人雑誌'''(どうにんざっし、どうじんざっし)は、[[同人]](同好の士)が資金を出して、自ら執筆・編集・発行を行う[[雑誌]]のこと<ref>{{Cite Kotobank|word=同人誌|encyclopedia=図書館情報学用語辞典 第5版|accessdate=2022年1月20日}}</ref><ref>{{Cite Kotobank|word=同人雑誌|encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|accessdate=2022年1月20日}}</ref>。似た言葉に[[ファン]]と[[雑誌|マガジン]]から成る'''ファンジン'''(fanzine)がある<ref>{{Cite Kotobank|word=ファンジン|encyclopedia=小学館「デジタル大辞泉」|accessdate=2022年1月20日}}</ref>。 == 概要 == {{関連記事|同人}} 日本においては、1873年(明治6年)にアメリカから帰国した[[森有礼]]が翌年に創刊した『[[明六雑誌]]』が同人雑誌の先駆けとされる<ref>{{Cite Kotobank|word=同人雑誌(どうにんざっし)|encyclopedia=小学館「日本大百科全書(ニッポニカ)」|accessdate=2022年1月20日}}</ref>。 {{関連記事|文芸雑誌}} 文芸同人誌としては、[[1885年]]([[明治]]18年)に[[尾崎紅葉]]、[[山田美妙]]、[[石橋思案]]、[[巖谷小波]]、[[川上眉山]]、[[廣津柳浪]]ら[[硯友社]]の[[同人]]が発行した機関誌『[[我楽多文庫]]』が最初とされ、その後、『奇蹟』『[[新思潮]]』などの同人誌が刊行されてゆき、中でも[[志賀直哉]]が参加した『[[白樺 (雑誌)|白樺]]』は戦前の同人誌の中でも最長、最大の力を発揮したとされる。また、戦後に[[本多秋五]]らが創刊した『[[近代文学 (雑誌)|近代文学]]』は、日本近代文学史上最大の同人誌であった<ref>{{Cite journal|和書 |author=宮越勉 |title=日本近代文学史に果たした同人誌の役割について考える |journal=明治大学日本文学 |issn=0289-2995 |publisher=明治大学日本文学研究会 |year=2020 |month=mar |issue=46 |pages=5-6 |naid=120006900192 |url=https://hdl.handle.net/10291/21204}}</ref>。 [[漫画]]の同人誌も現れたが、1960年代までは安価に印刷する手段がなかったため、原稿を綴じて回覧する「肉筆回覧誌」が主流で、青焼きコピーの同人誌も多く見られた。[[1968年]]([[昭和]]43年)頃から[[オフセット印刷]]が普及し始め、[[1972年]](昭和47年)に開催された「日本漫画大会」ではオフセットのコミック同人誌が多かったという<ref name="飯塚">{{Cite journal|和書 |author=飯塚邦彦 |title=ミニコミとコミック同人誌 : その共通点と相違点から見えるもの |journal=成蹊大学文学部紀要 |issn=0586-7797 |publisher=成蹊大学文学部学会 |year=2017 |month=mar |issue=52 |pages=89-107 |naid=120006242208 |url=https://hdl.handle.net/10928/908 |accessdate=2021-03-03}}</ref>。 また、[[1975年]](昭和50年)にコミケが始まった当初は、コミック同人誌も創作マンガとファンクラブ会誌が中心であったが、[[1977年]](昭和52年)の『[[宇宙戦艦ヤマト]]』、[[1979年]](昭和54年)の『[[機動戦士ガンダム]]』がブームになると、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]の[[二次創作]]同人誌が急速に多くなっていった<ref name="飯塚" />。 現在、同人誌の頒布の場としては[[同人誌即売会]]が存在し、その中でも「[[コミックマーケット]](通称・コミケ)」は、年間100万人以上が来場する日本最大規模のものとなっている。コミケの他にも多くの同人誌即売会は存在し、[[2015年]](平成27年)には大小合わせて1000回以上が催された<ref name="八尾">{{Cite journal|和書 |author=八尾典明 |title=二次創作と同人誌即売会をめぐる語り : 東方project を軸としたそれぞれの体験 |journal=日本学報.卒業論文 |issn=0286-4207 |publisher=大阪大学文学部・大学院文学研究科 |year=2018 |month=mar |issue=37 |pages=123-147 |naid=120006600793 |url=https://hdl.handle.net/11094/71626 |accessdate=2021-03-03}}</ref>。他の主な同人誌即売会としては、[[COMITIA]]、[[文学フリマ]]などがある([[同人誌即売会]]を参照)。 また、近年では[[メロンブックス]]や[[とらのあな]]といった、同人誌の委託販売を行う書店や、[[BOOTH]]などの自主製作作品を販売するプラットフォームも存在するため、即売会の場を通さずに頒布及び入手を行うことも可能となっている<ref name="八尾" />。 == マンガ系同人誌を取り巻く問題 == === 同人誌と表現規制を取り巻く問題 === コミックを中心とする同人誌での性描写に対し、青少年の健全な育成を主張する立場から表現規制を求める声は強く、深刻な問題となっている。 その一例として、「児童の保護」を目的として「[[東京都青少年の健全な育成に関する条例]]の改正案」で規定されている'''「非実在青少年」'''と、各道府県の「[[青少年保護育成条例]]」、「[[児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律]](通称児童ポルノ禁止法)の改正案」で導入を進めている'''「[[準児童ポルノ]]に対する規制」'''を根拠に、同人誌を含むコミックの性表現を規制しようとする運動があり、可決されるだけでも規制の論拠として足りるものとなる。 さらに、前述の改正案が可決されて性表現の規制が厳しくなれば、今度は''「コミックの規制に乗じ、暴力・犯罪などの表現も合わせて規制」しよう''とする動きもある<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0710/25/news140.html ITmedia News:2007年10月25日「漫画・イラストも児童ポルノ規制対象に」約9割──内閣府調査]。なお、調査は2007年(平成19年)9月13日から同月23日までの期間、個別面接によって行われ、有効回収率は約6割。</ref>。 特に2000年代の情勢を考慮して、[[2006年]](平成18年)以降のコミックマーケットでは修正関連も含めて規則を強化している。 また、2007年(平成19年)8月23日に起きた[[わいせつ物頒布罪|わいせつ図画頒布]](刑法175条)容疑での同人作家の逮捕や、同年10月下旬に起きた同人誌即売会に対しての会場(東京都立産業貿易センター)の貸し出し拒否の波及などを受け、印刷業組合や各同人誌即売会の主催者などはガイドラインを制定したり、規則に沿った修正を確実にするよう同人作家へ促している。こうした刑法175条に基づく性器描写の修正については、不合理な規制であるから廃止すべきといった批判もあり<ref>{{Cite web|和書|author=小宮自由 |date=2016-05-19 |url=http://agora-web.jp/archives/2019243.html |title=わいせつ物頒布罪は廃止すべきである |publisher=[[アゴラ]] |accessdate=2021-01-15}}</ref>、[[参議院議員]]の[[山田太郎 (参議院議員)|山田太郎]]が刑法175条の見直しを政策課題として掲げている<ref>{{Cite web|和書| url = https://taroyamada.jp/cat-digital/post-2576/| title = 特集「山田太郎の5つのプロジェクト始動」| publisher = 参議院議員 山田太郎 オフィシャル Web サイト| accessdate = 2021-01-15}}</ref>。 なお、日本(世界)最大の同人誌即売会であるコミックマーケットに固有の安全性や地域住民の理解・会場確保に関する問題については[[コミックマーケット]]の項を参照されたい。 === 二次創作同人誌と著作権問題 === ==== 同人誌市場と著作権 ==== 現行の[[日本]]の[[著作権法]]では、[[フランス]]知的保有権法典第122条の5第4項のいわゆる“[[パロディ]]条項”のようなパロディを正面から認める法理が存在せず<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bunka.go.jp/chosakuken/singikai/housei/pdf/h25_03_parody_hokokusho.pdf |title=パロディワーキングチーム 報告書(平成25年3月) |accessdate=2013年06月28日 |format=PDF |publisher=[[文化庁]][[文化審議会]]著作権分科会パロディワーキングチーム |date=2013-03| page=21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150426113226/http://www.bunka.go.jp/chosakuken/singikai/housei/pdf/h25_03_parody_hokokusho.pdf |archivedate=2015-04-26}}</ref>、原作の[[著作権者]]の許諾を得ることなく[[二次創作]]同人誌を不特定多数への販売することは、原則として[[著作権侵害]]となる。 現状としてはファン活動の一環といった扱いを受けた、版権を持つ企業などからの黙認というグレーゾーンで、二次創作同人誌の頒布は成り立っている<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/Otapol_201611_post_6104/ ブロッコリーは「回答できない……」『うたプリ』二次創作物が通販サイトから一括削除で、同人誌の扱いはどうなる!?|exciteニュース](2016年11月14日)2021年3月3日閲覧。</ref>。一方で過去には「[[ときめきメモリアル]]」([[コナミ]])のように黙認と思われていたものの、実際には法的手段の行使に至ったケース([[ときめきメモリアル・アダルトアニメ映画化事件]])もある。 1999年(平成11年)には[[ポケットモンスター|ポケモン]]のパロディ同人誌を発行した作者が著作権の侵害により逮捕される[[ポケモン同人誌事件]]が起こった<ref>[[米沢嘉博]]監修『マンガと著作権 - パロディと引用と同人誌と』青林工藝舎、2001年、8頁</ref>。 2006年(平成18年)には[[ドラえもん]]の最終話を称する同人誌を販売していた男性が著作権侵害として警告される[[ドラえもん最終話同人誌問題]]が起こった<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2007/05/30/15880.html ドラえもん「最終話」同人誌制作の男性、小学館と藤子プロに謝罪]. INTERNET Watch(2007年5月30日). 2022年1月21日閲覧</ref>。 なお、企業、同人作家問わず、パロディなどとは異なり、[[著作権法]]で容認されている批評などのための[[引用]]についても、著作権者の許可が必要という認識は強い。しかし、漫画の引用については[[小林よしのり]]と[[上杉聰]]らの間で争われた「『脱ゴー宣』裁判」で絵の引用が争点となったが、[[2002年]](平成14年)[[4月26日]]に「絵の引用は合法」とする[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]判決が出ている(ただし、「レイアウトの改変は違法」とされた。詳細は[[脱ゴーマニズム宣言事件]]を参照)。この判決は、コミックマーケットが[[シンポジウム]]で取り上げるなど、同人誌にもある程度の影響を及ぼした。 また、[[2014年]](平成26年)には[[ブロッコリー (企業)|ブロッコリー]]が無許可で同人グッズを製作・販売しているサークルに警告を出したり<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1405/20/news092.html 「うたプリ」同人グッズ販売に警告 公式「ブロッコリー管理本部」がTwitterで],ITmedia,2014年5月20日</ref>、[[ニトロプラス]]が二次創作についてのガイドラインを改定し頒布個数や売り上げに制限を盛り込んだ(後日見直され同人誌は範疇から外されている)ことで論議を呼んだ<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1407/05/news015.html ニトロプラスが二次創作のガイドラインを改定 「委託禁止」「200個以内・10万円未満」に賛否両論],ITmedia,2014年7月5日</ref>。このような行動が起きた背景として、同人グッズを作っているサークルの中には、ファン活動の域を超えた営利目的のものが増えているという認識であり、一定の線引きが必要と言う意図がある<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1407/09/news055.html 物議かもしたニトロプラスの2次創作ガイドライン改定へ 「意図と異なる表現になっていた」と社長],ITmedia,2014年7月9日</ref>。こうした同人の範疇を超えたグッズの製作・頒布については、著作権者からは公式商品と混同される[[海賊版]]であると見なすことができるため、同人誌即売会主催者側からも注意喚起が出されており、特にコミックマーケットでは同年末の87のコミケットアピールにおいて、共同代表からの挨拶で注意がなされ、著作権に関する注意の記述についてもより明確に記載されている<ref>「コミケットアピール87」P2・P12,コミックマーケット準備会,2014年11月1日発行</ref>。 ==== 非親告罪化 ==== [[著作権侵害]]の[[日本の著作権法における非親告罪化|非親告罪化]]も、同人誌関係者にとっては中長期的な懸念材料の一つである。 著作権侵害(著作権法第119条)の刑事罰は原則としては[[親告罪]]とされており、[[著作権者]]([[漫画家]]・[[出版社]]・[[アニメ制作会社]]など)が[[告訴・告発|告訴]]しない限り[[刑事責任]]を問うことができない<ref group="注">「作品のイメージが傷つけられた」からといって、ファンが代理で告訴することはできず、著作権者に「著作権を侵害しているものがある」旨の通達することしかできない。告訴するか否かは著作権者自身の判断に委ねられる。</ref>(ただし後述の、改正著作権法の非親告罪化規定は2018年(平成30年)12月30日に施行済である)。 なお、現状でも[[刑事]]責任とは別に、[[損害賠償]]の請求や、発行の中止、または回収・廃棄させるなどの[[民事責任]]も問うことができる。この場合も[[著作権者]]の[[起訴|訴えの提起]]を必要とする。 『[[朝日新聞]]』[[2007年]](平成19年)[[5月26日]]号「著作権が「脅威」になる日 被害者の告訴なしに起訴、[[共謀罪]]でも」(丹治吉順)によると、日本は「模倣品・海賊版拡散防止条約」の制定を提案している。しかし、[[アメリカ合衆国]]から「海賊版摘発を容易にするため、非親告罪化を盛り込んで欲しい」という要望<ref group="注">2006年12月5日付[[年次改革要望書|日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本国政府への米国政府要望書]](「[http://tokyo.usembassy.gov/pdfs/wwwfj-20061205-regref.pdf 日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本国政府への米国政府要望書 2006年12月5日]」)には、「知的財産権保護の強化」のための要求の一つに「起訴する際に必要な権利保有者の同意要件を廃止し、警察や検察側が主導して著作権侵害事件を捜査・起訴することが可能となるよう、より広範な権限を警察や検察に付与する。」がある。</ref>があり、条約提唱国としては国内の著作権法も条約に合わせて改正するのが望ましいとされた。そこで、[[文化庁]]文化審議会著作権分科会法制問題小委員会で3月から審議が始まった。 また、同記事によると、文化庁の審議とは別に[[国会]]で審議が進んでいる[[共謀罪]]法案には、[[自由民主党 (日本)|自民党]]の修正案3案のうち2案で、著作権法を共謀罪の対象としている。自民党案をとりまとめた[[衆議院議員]][[早川忠孝]]は、「犯罪組織が海賊版を資金源にすることを防ぐのが目的」と述べている。 [[編集者]]の[[竹熊健太郎]]は、「非親告罪化によって警察・司法が独自の判断で[[逮捕]]することが可能になれば、商業的な出版・放送・上演・演奏のみならず、[[コミックマーケット|コミケ]]の二次創作・パロディ同人誌などにも深刻なダメージが加わる可能性がある」と指摘。「俺を含めて多くの作家・マンガ家・同人誌作家・ブロガーは何か書く場合でも無意識のパクリがないかどうかおっかなびっくり書くことになり、ひいては表現の萎縮につながりつまらん作品ばかりになるかもしれないので俺は反対だ」<ref>[http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_b72f.html たけくまメモ:2007年5月21日 【著作権】とんでもない法案が審議されている]</ref>と主張している。 また、クリエイターの[[小寺信良]]は「行使する側が「模倣」と「創作」の違いがわからない場合、クリエイターの活動を萎縮させかねない」とコメントした<ref>[https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0706/11/news013.html ITmedia +D LifeStyle:2007年6月11日 知財推進計画が目指す「コンテンツ亡国ニッポン」]</ref>。 [[File:Doujin Mark first usage on UQ Holder! title 20130831.jpg|thumb|[[赤松健]]の漫画作品[[UQ HOLDER!]]のタイトルロゴの左下に配置された[[同人マーク]]。本作が初の採用例]] 非親告罪化への対策の一つとして、[[2013年]](平成25年)に、二次創作同人誌作成や同人誌即売会での無断配布を有償・無償問わず原作者が許可する意思を示すための[[同人マーク]]という新たなライセンスが[[コモンスフィア]]によって公開された<ref>{{cite news|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20130818-a050/|title=二次創作の同人活動を認める意思を示す「同人マーク」のデザインが決定|publisher=マイナビ|date=2013-08-18|accessdate=2013-09-01}}</ref>。これは[[環太平洋戦略的経済連携協定]] (TPP) 交渉で非親告罪化される可能性が言及され<ref>{{Cite web|和書|title=「TPPで同人誌は消えるのか?」シンポジウムで激論|url=http://blogos.com/article/23889/|publisher=BLOGOS|date=2011年11月07日|accessdate=2013-09-01}}</ref>、実際に非親告罪化された場合に第三者による告発などで権利者が黙認したいケースでも訴訟に発展するなどの事態を防ぐことを目的に[[漫画家]]の[[赤松健]]が発案したライセンスであり<ref>{{cite news|title=「警察の萎縮効果狙う」 赤松健さん、2次創作同人守るための「黙認」ライセンス提案|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1303/28/news093.html|date=2013年03月28日|accessdate=2013-09-01|publisher=ITmedia}}</ref>、赤松自身の漫画作品で『[[週刊少年マガジン]]』2013年39号(同年8月28日発売)より連載開始の[[UQ HOLDER!]]で採用されている<ref>{{cite news|url=http://news.mynavi.jp/news/2013/08/29/121/|title=二次創作OKの意思を示す「同人マーク」運用開始 - 許諾範囲も公開|date=2013-08-29|accessdate=2013-09-01|publisher=マイナビ}}</ref>。 {{See also|日本の著作権法における非親告罪化}} 2016年(平成28年)[[3月9日]]に[[第190回国会]]に提出されたTPPの締結に伴う関係法律の整備法案では、[[著作権法]]の改正が定められ、財産上の利益を受ける目的又は著作権者等(原作者や出版社)の得ることの見込まれる利益を害する目的で、以下のいずれかの行為を行い、著作権侵害の罪を犯した場合には、親告罪の規定を適用しない(=非親告罪)ことに改めることとされた<ref group="注">環太平洋パートナーシップ協定の締結に伴う関係法律の整備に関する法律案8条のうち123条1項の次に次の2項を加える改正規定</ref>。 * 原作のままの複製物を譲渡し、又は原作のまま[[公衆送信権|公衆送信]]<ref name="kousyusousinntyuusyaku" group="注">自動公衆送信の場合にあっては、送信可能化を含む。</ref>を行うこと(当該有償著作物等の種類及び用途、当該譲渡の部数、当該譲渡又は公衆送信の態様その他の事情に照らして、当該有償著作物等の提供又は提示により著作権者等の得ることが見込まれる利益が不当に害されることとなる場合に限る。)。 * 原作のままの複製物を譲渡し、又は原作のまま公衆送信<ref name="kousyusousinntyuusyaku" group="注" />を行うため、当該有償著作物等を複製すること(当該有償著作物等の種類及び用途、当該譲渡の部数、当該譲渡又は公衆送信の態様その他の事情に照らして、当該有償著作物等の提供又は提示により著作権者等の得ることが見込まれる利益が不当に害されることとなる場合に限る。)。 2016年(平成28年)[[4月8日]]の[[環太平洋戦略的経済連携協定|TPP]][[特別委員会]]において、[[丸山穂高]]への答弁として[[安倍晋三]][[内閣総理大臣|首相]]は「同人誌は市場で原作と競合せず、権利者の利益を不当に害するものではないから非親告罪とはならない」と答え、同人誌は非親告罪の対象とならないという認識を示した<ref>{{cite news|url=http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040800807&g=soc |title=同人誌、非親告罪にならず=安倍首相 |date=2016-4-8 |accessdate=2016-4-9 |publisher=時事通信 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160423164125/http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040800807&g=soc |archivedate=2016-04-23}}</ref>。 なお、改正著作権法の非親告罪化規定は、[[環太平洋パートナーシップ協定|TPP11]]協定発効日である2018年(平成30年)12月30日から施行された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/hokaisei/kantaiheiyo_chosakuken/|title=平成30年12月30日施行 環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(TPP11協定)の発効に伴う著作権法改正の施行について {{!}} 文化庁|accessdate=2018-11-09|website=www.bunka.go.jp|language=ja}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * 「同人」で始まる項目 ** [[同人]] ** [[同人サークル]] ** [[同人誌印刷所]] ** [[同人誌即売会]] ** [[同人誌と表現を考えるシンポジウム]] ** [[同人ショップ]] ** [[同人マーク]](二次創作物の容認を示すマーク) ** [[同人用語]] ** {{Prefix|同人}} * 関連用語 ** [[ZINE]] (英語圏における、同人誌に類似したもの) ** [[クリエイティブ・コモンズ]](著作権を守りながらコンテンツの共有を可能にする、二次創作向けの著作権システム) ** [[二次創作]] ** [[著作権]] ** [[出版]] - [[出版社]] ** [[オンライン小説]] ** [[小説投稿サイト]] ** [[ガリ版]] * 図書館 ** [[海津市図書館#海津図書館(中央館)|海津市海津図書館]] - 文学同人誌を収集する施設「日本現代紙碑文学館」を設けている図書館。 * その他 ** [[天狗連]] == 外部リンク == * [http://www.doujin.gr.jp/ 日本同人誌印刷業組合] * [http://www.minsyubungaku.org/ 日本民主主義文学会](同様の連載を『[[民主文学]]』誌上で継続中。同人誌からの推薦作コンクールを毎年実施) *[https://zuishun.themedia.jp/ 同人誌 随筆春秋(一般社団法人)](直木賞作家・佐藤愛子を師を仰ぐエッセイの同人誌。公募の文学賞「[[随筆春秋賞]]」を主催。分野はエッセイ) *[https://publish.n-pri.jp しまうま出版](マンガ系同人誌印刷サービス) {{Normdaten}} {{デフォルトソート:とうしんし}} [[Category:同人誌|*]] [[Category:自費出版]] [[Category:日本のサブカルチャー]]
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せんせいのお時間
『せんせいのお時間』(せんせいのおじかん)は、ももせたまみによる日本の4コマ漫画。竹書房『まんがライフオリジナル』『まんがライフMOMO』で連載された。 小さな女性高校教師・鈴木みかを主人公に、彼女が勤める高校の個性豊かな先生と生徒が繰り広げる、にぎやかな日常を描いた学園コメディ作品。『まんがライフオリジナル』で1997年3月号から連載されていたが、2003年6月号をもって同誌での連載を終了。新創刊された『まんがライフMOMO』の看板作品として、創刊号である2003年8月号から2013年6月号まで連載された。2006年4月号より7月号まではももせが産休に入ったため、「特別補習授業!!」として傑作選を掲載した。 メディアミックス展開をしており、ラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI)の番組『南央美のせんせいのお時間』の枠内で放送されていた前述の4コマ漫画を原作とするラジオドラマのタイトルでもある。また、2004年4月4日から同年6月27日までテレビ東京系列においてテレビアニメが『せんせいのお時間 DOKI DOKI SCHOOL HOURS』のタイトルで放送された。アニメ版DVDにはテレビアニメとして地上波で放送された話とは別に、オリジナル色の強い続編『せんせいのお時間 ご〜るど』(通称「ご〜るど版」)が1巻につき1話、全7話収録されている。それぞれが原作を元にしたほぼ独立したストーリーで設定もそれぞれ異なる。 2013年3月号の掲載で連載16周年を迎え、同年4月に連載終了。いわゆる「萌え系4コマ」の中で最も長く連載が続いていた作品である。 連載開始時にはコギャルなど、時代背景が分かる描写が多数出てきたが、連載が長期化したことにより、2012年時点では時代背景が分かる描写はほとんど無くなった。 以下の登場人物のうち、初登場時にフルネームが設定されていたのは鈴木みか、関譲治、中山千夏の3名のみであり、連載当初流静(委員長)は名前が無く、他の人物は苗字だけであった。その後、ラジオドラマ内での公募によって「委員長」のフルネームが流静に、渡部の下の名前が匠に決定。その他のキャラクターはアニメ化の際に一括公募されてフルネームが決定した。ラジオ版では一部設定が異なり、主要生徒達は全員幼馴染という事が確認できるエピソードがある。 担当声優は特筆のない限りは、全メディア作品共通である。 当初の設定では校則に厳しい学校であったが、いつの間にか自由な校風とされている。おやじがすぐに自分で戻したために他の人は全く気づかれず脱色したとされているので、ある程度の髪色は許される校風のようである。制服は青色のブレザーで男子はネクタイ、女子はリボンを着けている。なお女子の体操着はブルマー。女子生徒の校内平均身長は全国の平均身長とほぼ同じ159cm。一部男子(関譲治)に関しては既に黙認されている状況だったが、最後の文化祭以降、女装男子が爆発的に増えてしまった。 配役やスタッフは公平にくじ引きで決定した。そのため、本来は女である白雪姫までも男の工藤が担当することになった。 TVアニメ版第12話に登場する学校の怪談のような噂話。興津高校委員長会議で十分注意するように喚起された。興津高校創立以来「開かずのトイレ」とされた場所に赤い文字でメッセージが書かれていて、大きな災いが起きるとされていたが、実際には、くだらないオチで終わった。 みかは当初新米教師であるためか、部活動への参加はしていなかったが長期休暇などで臨時の顧問を頼まれることが多く、色々な部活動へ顔を出している。 原作は全て竹書房より発行。2013年6月号にて連載終了、単行本は全12巻。 TVアニメ版はテレビ東京系列で放送され、DVDとしてスターチャイルドより発売された。サブタイトルは「DOKI DOKI SCHOOL HOURS」。またDVDには、TV未放送で原作漫画にも描かれていない内容で、ラジオ版CDドラマ同様にオリジナル色の強い『せんせいのお時間 ご〜るど』が各巻に付き1話収録されている。DVDソフトは全7巻。TVアニメ版ドラマCDは全2巻。 TVアニメ版・DVDアニメご〜るど版共通。 ラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI)で放送された番組『南央美のせんせいのお時間』内で放送されていた。TVアニメ版とは一部の声優が異なる。ラジオ版ドラマは原作である漫画版とは設定が一部異なるほか、学校以外の舞台で特殊なストーリー展開を進めることも多く、概してオリジナル色が強い。CDにはラジオ放送時には無かった未放送分も収録されており、全24巻。「17時間目」以降はCCCDフォーマットとなっている。
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『せんせいのお時間』(せんせいのおじかん)は、ももせたまみによる日本の4コマ漫画。竹書房『まんがライフオリジナル』『まんがライフMOMO』で連載された。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Infobox animanga/Header | タイトル = せんせいのお時間 | 画像 = | サイズ = | 説明 = | ジャンル = [[学園漫画]]、[[4コマ漫画]] }} {{Infobox animanga/Manga | タイトル = | 作者 = [[ももせたまみ]] | 作画 = | 出版社 = [[竹書房]] | 他出版社 = | 掲載誌 = [[まんがライフオリジナル]]<br />[[まんがライフMOMO]] | レーベル = [[バンブーコミックス]] | 発行日 = | 発売日 = | 開始号 = | 終了号 = | 開始日 = [[1997年]]2月 | 終了日 = [[2013年]]4月 | 発表期間 = | 巻数 = 全12巻 | 話数 = | その他 = | インターネット = }} {{Infobox animanga/TVAnime | タイトル = せんせいのお時間<br />DOKI DOKI SCHOOL HOURS | 原作 = ももせたまみ | 総監督 = | 監督 = [[岩崎良明]] | シリーズディレクター = | シリーズ構成 = [[白根秀樹]] | 脚本 = | キャラクターデザイン = 中原清隆 | メカニックデザイン = | 音楽 = [[平野義久]] | アニメーション制作 = [[ジェー・シー・スタッフ|J.C.STAFF]] | 製作 = せんせいのお時間製作委員会 | 放送局 = [[テレビ東京]]系列 | 放送開始 = [[2004年]][[4月4日]] | 放送終了 = [[6月27日]] | 話数 = 全13話 | その他 = | インターネット = }} {{Infobox animanga/OVA | タイトル = せんせいのお時間 ご〜るど | 原作 = ももせたまみ | 監督 = 岩崎良明 | 演出 = | シリーズ構成 = 白根秀樹 | 脚本 = | キャラクターデザイン = 中原清隆 | メカニックデザイン = | 音楽 = 平野義久 | アニメーション制作 = J.C.STAFF | 製作 = せんせいのお時間製作委員会 | 発売日 = | 開始 = 2004年[[8月4日]] | 終了 = [[2005年]][[2月2日]] | 収録時間 = | 話数 = 全7話 | その他 = TVアニメ[[DVD]]の各巻に収録 }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]] | ウィキポータル = [[Portal:漫画|漫画]]・[[Portal:アニメ|アニメ]] }} 『'''せんせいのお時間'''』(せんせいのおじかん)は、[[ももせたまみ]]による[[日本]]の[[4コマ漫画]]。[[竹書房]]『[[まんがライフオリジナル]]』『[[まんがライフMOMO]]』で連載された。 == 概要 == 小さな女性高校教師・鈴木みかを主人公に、彼女が勤める高校の個性豊かな先生と生徒が繰り広げる、にぎやかな日常を描いた学園コメディ作品。『まんがライフオリジナル』で[[1997年]]3月号から連載されていたが、[[2003年]]6月号をもって同誌での連載を終了。新創刊された『まんがライフMOMO』の看板作品として、創刊号である2003年8月号から[[2013年]]6月号まで連載された。2006年4月号より7月号まではももせが産休に入ったため、「特別補習授業!!」として傑作選を掲載した。 [[メディアミックス]]展開をしており、ラジオたんぱ(現・[[日経ラジオ社|ラジオNIKKEI]])の番組『[[南央美]]のせんせいのお時間』の枠内で放送されていた前述の4コマ漫画を原作とする[[ラジオドラマ]]のタイトルでもある。また、[[2004年]][[4月4日]]から同年[[6月27日]]まで[[テレビ東京]]系列において[[テレビアニメ]]が『'''せんせいのお時間 DOKI DOKI SCHOOL HOURS'''』のタイトルで放送された。アニメ版[[DVD]]にはテレビアニメとして地上波で放送された話とは別に、オリジナル色の強い続編『'''せんせいのお時間 ご〜るど'''』(通称「ご〜るど版」)が1巻につき1話、全7話収録されている。それぞれが原作を元にしたほぼ独立したストーリーで設定もそれぞれ異なる。 2013年3月号の掲載で連載16周年を迎え、同年4月に連載終了。いわゆる「[[4コマ漫画#萌え4コマ|萌え系4コマ]]」の中で最も長く連載が続いていた作品である。 連載開始時には[[コギャル]]など、時代背景が分かる描写が多数出てきたが、連載が長期化したことにより、2012年時点では時代背景が分かる描写はほとんど無くなった。 == 登場人物 == 以下の登場人物のうち、初登場時にフルネームが設定されていたのは鈴木みか、関譲治、中山千夏の3名のみであり、連載当初流静(委員長)は名前が無く、他の人物は苗字だけであった。その後、ラジオドラマ内での公募によって「委員長」のフルネームが流静に、渡部の下の名前が匠に決定。その他のキャラクターはアニメ化の際に一括公募されてフルネームが決定した。ラジオ版では一部設定が異なり、主要生徒達は全員[[幼馴染]]という事が確認できるエピソードがある。 担当声優は特筆のない限りは、全メディア作品共通である。 === 主人公 === ; 鈴木みか(すずき みか) : [[声優|声]] - [[南央美]] : 本編の[[主人公]]。通称「'''みか・センセイ'''」。うお座。B型。年齢27歳。趣味は読書。 : 顔は[[童顔]]で丸顔な上、身長も148cmしかない[[幼児体型]]で、単行本第9巻中の身体測定において最新の身長測定器で測ったところ、1cm縮んで147cmとなったようである。その上、子供服を着ていることから小学生や中学生に間違われることもあるが、中身は27歳の大人である。興津(おきつ)高校に赴任したばかりの新米の[[国語 (教科)|国語]]教師で、'''2-A'''の担任。2年浪人+[[大学院]]卒のため、新卒就任した時点で27歳。性格は頑固で負けず嫌いながらだらしがなくいい加減な面も持ち合わせていて、自分にあまり関係のない仕事はしたがらなかったり、なにかに誘われても億劫に感じて家から出ようとしない。国語科の教師でありながら字は自他共に認めるほど下手であり、そのことで生徒にからかわれることも多い。国語以外の教科はほとんど苦手で拒絶反応を示すことさえあるが、国語に関する質問には即座に答えたり面白かった本の魅力を20分以上も語ったりするなど、国語教師らしい一面も見せる。大の激甘党で大食いかつ大酒飲みで、おまけに身体が硬く、いつも体重増と運動不足に悩んでいる。 :連載当初は部活動の顧問は担当していなかったがバレー部やバスケ部などで長期休暇中の代理顧問を経験の後、6巻で正式にバレー部への顧問へ就任(ただし指導は外部からのコーチに任せている)。部員からは「みかまる」「まる」の愛称で呼ばれている。 : {{いつ範囲|最近では|date=2014年12月30日 (火) 16:17 (UTC)}}ダジャレ好きの面が非常に強くなり、かなりの頻度でダジャレを連発しているが、全くウケずに冷めた目で見られている。 : 初期には心に闇を持ったり、悪巧みをする時には「ダークみか」という別人格が現れ、顔つきも邪悪なものとなっていた。全編を通して3回から4回しか今のところ出てこない希少な人格である。「クィーンみか」というバージョンもある。 : 「センセ」を敬称ではなく愛称として呼ばれるような先生だが、教育実習生の堀先生からは良い先生の見本とされたほか、クラスの生徒からも信頼されている。 : モデルは作者の教育実習に行った友人で、実際に小さく(147cm)、教育実習先の生徒たちによく「からかわれていた」という談話から来ている。初期設定である「プレせんせいのお時間」では、高校の数学教師であった。 === 2-A の生徒 === ; 北川理央(きたがわ りお) : 声 - [[山崎和佳奈]] : 通称「'''北川'''」。みずがめ座。AB型。趣味はひみつ。成績はトップクラス。ルックスが良く、長身で抜群のスタイルを持つ。 : 男には興味が無く、かわいい女の子が大好きで、特にみかは一番のお気に入り。みかの色々な表情を見るのが好きで、そのために様々な作戦を仕掛ける。本人曰く「自分には無いモノを持っているから」という理由でみかのことが好きであるらしく、みかに対してのペット的な愛着も見え隠れする。 : 進学先は[[東京大学|東大]]理Iで、みかがよく行く駅ビル内の本屋でアルバイトをしている。 : 渡部と利害が一致することが多く、仲が良い。ラジオ版では策を仕掛けて、毎度みかの貞操を狙っているらしい。そして、みかを他人に取られそうになると性格が豹変する。 : みかの顔が丸いせいか、丸いものが大好きになっている。 ; 工藤雄一(くどう ゆういち) : 声 - [[うえだゆうじ]] : 通称「'''工藤'''」。てんびん座。AB型。趣味はセクシャルバイオレット。容姿は美青年であるが、[[同性愛|ホモ]]・[[ゲイ]]であるがため男にしか興味を示さない。 : 成績は優秀なものの、高校の入学試験の時に末武に一目惚れしてしまい、試験に集中できずにギリギリで合格した。 : 日本文学が大好きで、特に[[三島由紀夫]]の『[[仮面の告白]]』を愛読している。他にも[[稲垣足穂]]や[[福永武彦]]などの作家も好きである。 : 想像力が豊かなためか自分の発言や末武の発言を曲解して興奮した挙句、鼻血を出したり、股間を膨らませるなどの変態的奇行も目立つ。 : とにかく末武のことが大好きだが、後一歩のところでその想いを伝えることができない。[[バレンタインデー]]には末武にチョコを匿名であげたり自分で食べているのを見せ付けたりした他、[[陰茎]]を暗示するようなエクレアを送るといった[[セクシャルハラスメント|セクハラ]]染みた事をしている。 : そのため、とにかく工藤が出てくる話では下ネタが多い。逆に話題が下ネタになるとどこからともなく工藤が絡んできたりもする。 : 怖がっているフリをして末武にくっつくために、末武には高所恐怖症とウソをついている。 : 将来の夢は「男性専門[[整形外科学|整形外科]]医」である。 : 進学先は末武と同じ大学で、全手続を一人でやることで同[[寮]]生活から[[同棲]]生活へとスムーズに移管していった。 ; 小林あかね(こばやし あかね) : 声 - [[川上とも子]] : 通称「'''小林'''」。胸囲79.5cm。体重50kg台でやろうと思えば1日で40kg台になれるらしい。おひつじ座。O型。趣味は[[コギャル]]。自称「キングオブ女子高生」のため、流行物には目が無い。10巻で園芸部に入部(育てた野菜でのバーベキューやカレーに釣られた : 自分で色々なアルバイトをやっているが、すぐにブランド物を買って散財してしまうほか、アルバイト中の失敗で給料を天引きされてしまうことが多い。ラジオ版ではバイトと称して、スパイ並の仕事もしている。現在は[[コンビニエンスストア]]で働いている。 : 何かイベントがあると[[ダイエット]]を始めるが、あまりにも短絡的なダイエットのためにほぼ失敗し、ブラジャーのカップサイズが下がったり体重が微増したりしている。 : 授業中には眠っていることが多く、成績の方はあまり良くなく赤点補講も何度か出席している。通知表は末武よりも悪く10段階評定で「2」を取ることが多いが、「一穴主義」のため勉強をすれば点はとれる。その代わり勉強しなかった他の教科はボロボロになる。 : 性格はマメでバレンタインデーには義理チョコを配ったり、修学旅行の自由行動計画を綿密に立てたりする。また渡部の[[同人誌]]活動の手伝いをやらされることが多く、腕前もそこそこまで成長している。 : 最近{{いつ|date=2017年4月}}ではコギャルらしい面はほとんど見受けられなくなったが、とっつきやすい性格なためか登場頻度が群を抜いて多い。 : また、無知が高じておかしなツッコミを入れ、富永に更に突っ込まれることが多くなってきた。 : 担任の鈴木みかが「ダークみか」という別人格を持つのと同様、「ダーク小林」という別人格を持つ。 : 将来の夢は長らく決まっていなかったが、関の[[女性警察官|婦人警官]]の衣装を着たいという発言で、婦人警官になりたかった昔の夢を実現するために猛勉強を決意した。 : 進学先は[[専門学校]]であり、将来は[[警察学校]]を受験する予定。 ; 末武健太(すえたけ けんた) : 声 - [[山口勝平]] : 通称「'''末武'''」。体重は60kgまではいかない。しし座。B型。趣味はスポーツ。[[サッカー]]部所属。男3人兄弟の末っ子。 : 勉強の成績はかなり悪く赤点を取ることもしばしばあるが、体育だけは10段階評価の10でありあらゆるスポーツをこなす運動神経の持ち主である。 : 性格は非常に純粋で工藤に狙われていることさえ気づいてはいない。小学生のような言動も多く、故に男性器や汚物などをキャラクター化させたり、うんこやちんこなどの単語が出てくると大爆笑したりする。また見たこと感じたことをストレートに発言するために人を傷つけてしまうこともあるが、本人の無邪気な性格のせいか、遺恨が残ることはないようである。 : 進学先は工藤と同じ大学だが、寮生活が結構不便なため、近いうちに工藤と同棲生活を始める計画を明かしているが本人に自覚は無い。 : アニメ版ではマヨネーズが大好きな[[マヨラー]]だとされ単行本第5巻にもエピソードある。ラジオ版では、眼鏡を外した静(委員長)に一目惚れしているが、それが静本人だとは気が付いていない。 ; 関譲治(せき じょうじ) : 声 - [[子安武人]](ラジオ版)、[[谷山紀章]](アニメ版、特典CDのMOMO版、ごーるでん版) : 通称「'''関'''」。名前は、親が海外でも通用するようにと「ジョージ」 (George)と名づけたものである。身長175cm。体重60kg。いて座。O型。趣味は自分。 : 連載当初は[[ロック_(音楽)|ロッカー]]を目指す男子生徒として登場し、髪型もロングでカチューシャをつけたりしていたが、登場時にみかに注意され、髪を切ることを拒否したところガムテープを髪の毛にべったり貼られてしまい、仕方なく切ることになる。その後、伸ばすことは無くなった。[[女装]]が好きになったのは原作などでは体育祭の応援団で[[チアリーダー|チアガール]]姿で応援をしたものの、誰にも注目されずに終わってしまった経験をして、ラジオ版では文化祭のオカマ漫画喫茶がきっかけ。 : 女装は好きだがホモではないので女の子が好きだが、それ以上に自分自身が大好きである。女装好きが高じて裁縫や生け花などの才能が目覚しく進歩を遂げ、自分で浴衣を作ったり学園祭の劇のための衣装を担当したりするようになり、連載当初のロッカーの面影は無くなっていった。みかや小林よりよほど女性らしくなり、男の格好をすると逆に珍しがられてしまっている。校外でも女装しており、女装仲間が他校にも存在する。卒業式には男の恰好をして出席したが、本人曰く「もうズボンを穿く事は無いから」。 : 超がつくほどの[[マゾヒズム|ドM]]であり、女性陣相手だと自ら率先して罰を受けたがったり罵られようとしたりするなどして冷ややかな目で見られることが多くなった。一方で[[ホラー]]が苦手。 : 卒業後は服飾系の大学に進学し、女子大生ならぬ女装大生になった。化粧をすると完全に女である。 : 小林と同様、渡部の同人誌活動の手伝いをやらされることが多い。 ; 富永美奈子(とみなが みなこ) : 声 - [[榎本温子]](ラジオ版)、[[植田佳奈]](アニメ版、特典CDのMOMO版、ごーるでん版) : 通称「'''富永'''」。単行本第6巻以降では小林や関が「'''トミー'''」と呼んでいるが、巻頭紹介の公式通称は第5巻でみかたちが呼んだ「お嬢」とされている。おとめ座。A型。趣味は料理。料理クラブ所属。 : 裕福な家庭で育ったお嬢様で、海外旅行経験が多く英語が堪能。成績は優秀で、料理の腕前もプロ並。幼い頃には[[バレエ|モダンバレエ]]や[[ピアノ]]を習っていた。 : 容姿端麗であるが、喜怒哀楽を表情に出すことはめったに無い。また、何事にも厳しい性格で、かつかなりの毒舌家でもある。また、[[グロ|グロテスク]]なモノを好み、[[ヒトデ]]や[[アメフラシ]]などの海洋生物や[[スプラッター映画]]が好きである。さらには[[絶叫マシン]]や高いところやホラーなど怖いもの全般が好きであり、そういった場面では一変して満面の笑みに満ち溢れる。料理の一番好きな工程は鮮魚さばきで、その際には恍惚の表情になる。関とは逆に[[サディズム|ドS]]な印象を受けるが、本人にそのつもりはないようである。 : 進学先は[[医学部]]で、婦人警官を目指す小林に勉強を教えながら[[医者]]を目指すなど多忙な日々を過ごしているが、本人は満足している。 ; 中村元(なかむら げん) : 声 - [[岩田光央]] : 通称「'''おやじ'''」。おうし座。O型。趣味はギャンブル、特に[[オートレース]]と読書、特に[[サイエンス・フィクション]]。現在はカメラが趣味。性格は温厚だが、あだ名の通りとても高校生には見えないほどのオヤジの貫禄があり、ヒゲが濃かったり下腹部が[[ギャランドゥ]]であったりなどオヤジキャラ化しているが、その愛称の由来は末武によれば「小学生の頃からムケムケで尊敬の意を込めた」ことからとされている。 : みかと並ぶとさながら父と子のようである。 : 手先が器用で、オリジナルのアクセサリーや肩たたき器のようなモノも手作りする。また面倒見が非常によく、姪っ子もなついたり、短期留学生であるアンソニーの受け入れ先とされている。そのためか密かに女子生徒の間でも人気者で、修学旅行では多くの女子生徒から記念写真をせがまれていた。 : 最近ではカメラが趣味になり、写真を撮る場面では活躍するが、「色っぽいみか」など無理なものを撮ろうとするとなぜかカメラが故障する。 : 舞妓さんに扮した関を本当の舞妓さんと勘違いして以来、女装に磨きがかかってきた関にときめいてしまい、自分を落ち着かせることが増えてきた。 : 10歳年上の姉がいるが、現在は他家に嫁いでおり同居はしていない。たまに担任であるみか以上に年老いているかのような重みのある言葉を投げかけたりもする。 : 進学先は写真学科で、将来はプロのカメラマンを目指す予定。 : ラジオ版で皆と遊びに行ったヒーローショーでみかの父親と勘違いされた。名前については単行本第6巻のキャラ紹介において「Gen Nakamura」と記載されている。彼の実家は何をしているかは不明だが、かなりのお金持ちであり、ラジオ版ではかなりヤバイ仕事をしている模様。 ; 委員長(いいんちょう) : 声 - [[大谷育江]] : '''本名'''「'''流静'''」。さそり座。O型。真面目な性格であり、成績は優秀、メガネに三つ編みという優等生風に描かれているが、実はとてもミーハーな一面もあり、特にアイドル「スニャンプ」のコロちゃん(後述)の大ファンである。逆に大ファンであるため、主に関の発する「コロちゃんに似ている」とか「コロちゃんに似ている人いるよ」といった発言はファンの目からすれば本人と違うとして嫌っている。その筋金の入り様は、渡部が描いたコロちゃんの周囲から絶賛されるほどの出来の似顔絵にも満足しないほど。また怒った時は静かに怒りを表し、笑顔で足を踏みつけたり1週間無視し続けたりなどもする。…という性格であったが、初期以降はそのようなエピソードは全くと言っていいほど無くなってしまい、数年ぶりにコロちゃんがらみの話題になったときには「忘れかけてた設定」とまで言われている。 : 罰ゲームを与えるのが好きであり、勝負事も罰があると燃える性格。 : 目が悪いようでメガネもちゃんとした度が入ったものであるが、ずっとかけているためにメガネ跡も残っている。なお、連載当初は名前が無く、ラジオドラマ内での公募で決まった「流静」という本名も委員長というニックネームが定着しすぎているためにほとんど出てこず、さらに自分自身で委員長と言うことが多いく卒業式の答辞の際も間違って委員長と言ってしまった。 : 原作ではよくおやじと一緒にいるため、色々と噂を囁かれているが、本人達は自覚がない模様。 : 進学先は法学部で、現在は三つ編みをほどいている。 : 最近{{いつ|date=2017年4月}}ではその清楚なキャラからは想像もつかない度肝を抜くような下ネタを無意識のうちに言ってしまい、周りが騒然とすることがたまにある。 ; 渡部匠(わたべ たくみ) : 声 - [[岡野浩介]] : 通称「'''渡部'''」。やぎ座。A型。漫画部所属、当初は部員が自分しかいなかったために一応部長である。趣味は漫画、特技も漫画だが風景画や人物画(似顔絵)も得意で、自称「写生の天才」。 : テストの時間中はテスト用紙の裏側を使ってイラストを描くなど、技術向上にも余念がない。同人誌活動が大好きで、そのためになら3日3晩徹夜することもある。最初の頃は作品が全く売れていなかったが、巨匠になる予定。漫画のアイディアは追い詰められないと浮かばないようだが、突然思い浮かぶと学校をサボってまで描きに帰ってしまう。 : 徹夜でマンガを描くためかイベントなどの際には後から遅れてくることが多い。 : 基本的に男は描かないが、一度体育祭の看板に描いている。だが、どこかしら魅力がないらしい。理由は本人曰く「男(を描くこと)は苦手だ」。 : 部活の後輩でもある中山から少しズレた猛烈なアタックを受けていて、本人もまんざらではない様子。 : また、イラストのポージングなどは自分がポーズをとって中山に写真で撮ってもらっている。その際、かなり色白かつ華奢な体型であることが判明し、小林曰く萌え体系。 : 進学先は不明だが、どうにか補欠合格はした模様。 : なお、執筆活動はアナログからデジタルに移行した。 : 自身のサークル名は自分の匠に掛けた「渡部工房」から自分とアンソニーに掛けた「渡部庵」に変わった。 ; アンソニー・M・チェンバレン({{lang|en-us|Anthony M.Chamberlain}}) : 声 - [[森久保祥太郎]] : アニメではDVD版のご〜るどで登場。TV放送での登場は無し。 : 興津高校2年A組にアメリカから留学してきた男子学生。日本文化、特に[[サブカルチャー]]([[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]や[[コスプレ]])に興味を持っており、憧れの同人作家である渡部を尊敬している。 : 日本語は流暢だが変に言葉を間違えたり、時折寒いジョークを飛ばし、何ともいえない空気にさせてしまうことがある。 : 同人や漫画文化への知識は多いが、自身は未熟であると考たえており、"OTAKU" となるべく精進を続けている。そのため"OTAKU"については普段は甘い態度を取りがちのでのスーザンに対しても厳しくなる。対象はウサギの耳が頭に生えた「うさみみ」。関と同じく女の子好きであるが、専ら萌え的な意味である。特に年上の女性や百合を好む傾向にあり、松本先生に憧れている。 : 中村の家に[[ホームステイ]]している。単行本5巻の巻頭ではアンソニー妹とされていた実妹であるスーザンも後に登場する。 : 現在はアメリカに戻り、ネットで渡部達のデジタルアシスタントとして活動を共にしている。 ; 遠藤くりこ(えんどうくりこ) : 第1巻からフルネームでマンガに登場し、みかに名前まで呼ばれたことのあるキャラだが、1回名前を呼ばれたきり第8巻に至るまで登場していなかった。予備校の夏季講習に参加していたため、夏休み明けのテストは飛躍的に点数が伸びたらしい。 : 進学先は声優の専門校。 === みかの同僚 === ; 松本リンダ(まつもと リンダ) : 声 - [[渡辺久美子]] : 通称「'''松本先生'''」。ふたご座。B型。職業は興津高校の[[養護教諭]]。年齢は27歳で既婚。趣味は白衣と薬物。みかと同じ年齢だが、みかと違いとても大人の雰囲気を持つ女性。スタイルがよくナイスバディであるが、は血筋によるもので一族の中では小さい方らしい。 : みかが着任当初からみかの面倒を見てくれていて、プライベートでも旅行に行ったりなど公私ともども仲が良い。保健室でみかとおしゃべりをすることが多い。 : 最近は賃貸のワンルームで生活し続けるか、思い切ってマンションを買うか悩んでいる。理想の男性像は高身長で高収入、高学歴に加えて虫歯1本ない健康な人と比較的高い理想を持っている。彼氏ができたときはいつも態度に表れ、みかに指摘されることもある。 : 『まんがライフMOMO』2006年12月号で結婚を表明し、翌年7月号で挙式した。夫の職業は[[アナウンサー]]。 ; 新川(あらかわ) : 声 - [[羽多野渉]] : 通称「'''新川先生'''」。職業は興津高校の数学科教師。年齢はみかより年下。学校内で[[尿路結石|尿道結石]]で倒れて救急車で運ばれた経験もある。 : 工藤に「先生タイプだし」と言われて、神経性胃炎にも悩まされる。お酒を飲むと数学の授業を始めるらしく、みかが泣いて嫌がっていたらしい。他には毒舌をふるい、松本先生に「意外と黒いんですねぇ」と言われたこともある。かなり気を遣う性格らしい。松本先生に気があったらしく、結婚式では寂しそうな表情を浮かべていた。その後は松本先生への想いを断ち切ろうするものの一向に果たせないでいる。 ; 堀鳩子(ほり はとこ) : 声 - [[野中藍]] : 通称「'''堀先生'''」。興津高校に教育実習生としてやってきた大学生。担当科目は生物で漫画部の顧問にもなった。 : アニメ版では末武と親戚同士という設定になっている。また、アニメ版ではみかは「教育指導官である」とされるが、漫画版では「教育指導官じゃないのに」とされている。 ; 野田(のだ) : 職業は興津高校の体育科教師。上腕二頭筋が素晴らしいらしい。 : アニメ版では登場無し。 ; 真銅(しんどう) : 職業は興津高校の産休代用職員。担当科目は体育科。広背筋が良いらしい。みかのことを生徒だと勘違いし自己紹介していた。 : アニメ版では登場無し。 ; 高橋(たかはし) : 通称「'''リカティ'''」。職業は興津高校の理科教師。理科の先生(ティーチャー)だからリカティと呼ばれている。 : アニメ版では登場無し。 ; 藤岡(ふじおか) : 声 - [[石野竜三]] : 通称「'''藤岡先生'''」。2年生次の学年主任で、原作では名前のみ登場。 === 部活動の生徒 === ; 中山千夏(なかやま ちなつ) : 声 - [[清水香里]] : おうし座。B型。趣味は漫画。漫画部所属。生徒の主要キャラクターの中で唯一の1年生。 : 「漫画命」の女子生徒で渡部に尊敬と恋心を寄せており、渡部が過去に書いた同人誌は全て持っている。渡部や漫画に対しての感情表現は非常に豊かでアイディアは溢れるほど出てくるが、絵心は全くと言っていいほど無い。 : 常に渡部と行動を共にすることから他の2-Aの生徒とも仲が良くなり、クリスマスパーティーなどにもお呼ばれされている。可愛らしく天然キャラのためか、コスプレをしただけで絵が下手な同人誌が渡部よりも売れてしまった。渡部の家にも行ったことがある。 : 渡部のことが好きではあるが、「渡部の漫画」が好きとも言える微妙な距離感であり、恋愛にまでは至っていないと思われたが、渡部の合格祈願で好きなもの断ちをし、姿を見せなくなったことで「渡部が好き」という事が判明する。 : 小林に渡部とのことをからかわれると真っ赤になってしまう。 : 『まんがライフMOMO』の別冊付録として[[かたぎりわかな]]作画により中山千夏が執筆したという設定の漫画が2回添付されたことがある。 : 自分で自分を呼ぶ時の一人称は「中山」。周りからは「中山ちゃん」、ラジオ版ではさらに「ボンクラちゃん」、関からは「ボンクラガール」というあだ名で呼ばれる事が多い。 : 渡部が卒業した後、漫研の部長に就任し、部員はスーザンが参加する事を明かしている。 : ラジオ版では話が進むにつれてどんどん常識外れなキャラクターになっていった。 ; バレーボール部の生徒たち : みかが顧問をやっている[[バレーボール]]部の生徒たち。コーチは別にいるため、顧問と言っても指導はしない。部員はギリギリの6名しかいない。 : キャプテンのキョロはちびっ子だがジャンプ力がある。他にたねっち先輩、ロリ声アニメ声のヤーマダ、双子のヨーコ・ユーコ、Mと思われるポエミーがいる。 : アニメ版では登場無し。 === みかの家族 === ; みかの父 : 声 - [[梅津秀行]](ラジオ版)、[[宗矢樹頼]](アニメ版) : 本名不明。娘に甘く、娘に手作り弁当を持たせたり車で送り迎えをしたりと結構まめな性格で車が壊れて送迎ができなかった時は娘以上にショックを受けていた。 : 面倒臭がって手を抜いた挙句窮地に陥るみかを的確にサポートすることもある。ラジオ版において漫画版では別な人物が存在するが実は興津高校の在宅校長である事が判明。 : 親ばかでみかに男ができることを心配していたが、いつまでたっても色恋沙汰ひとつ出ないみかに最近ではさすがに焦ってきていた模様。 : みかと違い体は柔らかい方である。 ; みかの母 : 声 - [[一城みゆ希]] : 本名不明。父とは逆に娘に厳しい。遅刻しそうな娘をわざと起こさなかったりと何かとみかに対してはいじわるである。 : 父とは逆に早く男を作って結婚しろと言っていたが、最近ではもはやどうでも良くなってきてしまった。 : ゴキブリなどが苦手である。また父同様にみかと違い、体は柔らかい。 : 若い頃はかなりのグラマラスな美人であり、いじわるな性格は変わっていないが今よりややドライな印象を受ける。 === その他のキャラクター === ; スーザン : アンソニーの実妹で、夏休みを利用して来日した14歳。 : アンソニーと同じく日本文化、特に[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]や[[コスプレ]]などの[[サブカルチャー]]に興味を持っており、名刺にコスプレ写真を掲載するほどである。 : 日本語のレベルは平仮名だけならば読める程度で会話のレベルはアンソニーよりも劣り、少し片言である。アンソニーに頼みごとがある場合は「オニイチャン」などのいわゆる[[萌え]]言葉を使用したりする。 : 当初は普通のオタクであったが、いつの間にか更に発展し腐女子となっていた。 : 以降、おやじと関のカップリングを好んでいる。なお、おやじは「受け」であるらしい。 : 最終的に興津に入学した模様。 : アニメ版では登場無し。 ; めい : 中村元(おやじ)の姪っ子(彼の10歳年上の実姉の娘)で小学校3年生。 : 昔は「おじちゃん(=おやじ)のお嫁さんになりたい」と思っていたが、今は同じクラスの白根君と付き合っている。 : 毎年中村にバレンタインチョコをプレゼントしている。性格は彼に似ていて、優しくフォローしてくれる。 : アニメ版では登場無し。 ; スニャンプ : 声 - [[柿原徹也]](コロちゃん役) : アイドルグループの名前でメンバーにはコロちゃんやタクヤンがいる。流静(委員長)はコロちゃんの大ファンである。 == 興津高校 == 当初の設定では校則に厳しい学校であったが、いつの間にか自由な校風とされている。おやじがすぐに自分で戻したために他の人は全く気づかれず脱色したとされているので、ある程度の髪色は許される校風のようである。制服は青色のブレザーで男子はネクタイ、女子はリボンを着けている。なお女子の[[体操着]]は[[ブルマー]]。女子生徒の校内平均身長は全国の平均身長とほぼ同じ159cm。一部男子(関譲治)に関しては既に黙認されている状況だったが、最後の文化祭以降、女装男子が爆発的に増えてしまった。 === 興津高校の校則 === * スカートの丈はひざ上10cm以上短くしてはいけない。 * 髪は肩にかかる時は切るか結ぶことで関は登場時伸ばしていたが、みかの強引な方法で切ることになり、それ以来肩にかかる程度にしか伸ばしていない。 * 恐らく、これ以外にも校則は存在すると思われるが、原作・ラジオ・アニメのどれにも紹介はされていない。 === 主な学校行事 === * 入学式 * 身体測定 * 体力測定 * 春の遠足 * 球技大会 * テーブルマナー講習 * 合唱祭 * 林間学校(夏休み期間中) * 水泳大会 * 写生会 * 体育祭 * 芸術鑑賞教室 * 文化祭(途中から、第××回文化祭を興津祭に改名) * 校内百人一首大会 * マラソン大会 * 卒業式 === 2年A組の文化祭の出し物 === * お化け屋敷 * 女装[[マンガ喫茶]] * コスプレバザー * 縁日 * 演劇[[白雪姫]] * おにぎり屋 * みかフェ(丸顔であるみかをイメージしたカフェで、主に[[サンドイッチ|ロールサンド]]を出している) * 中村屋(おやじ(中村元)をダジャレにして「おちゃ」、彼の苗字である中村から取った茶店) === 白雪姫の配役 === 配役やスタッフは公平にくじ引きで決定した。そのため、本来は女である白雪姫までも男の工藤が担当することになった。 * 白雪姫:工藤 * 王子様:末武 * 妃(魔女):関 * 魔法の鏡の声:北川 * お母さん:女子生徒A * 美術:小林 * 音響:中村(おやじ) * 衣装:関 * 照明:女子生徒B === 興津伝説 === TVアニメ版第12話に登場する学校の怪談のような噂話。興津高校委員長会議で十分注意するように喚起された。興津高校創立以来「開かずのトイレ」とされた場所に赤い文字でメッセージが書かれていて、大きな災いが起きるとされていたが、実際には、くだらないオチで終わった。 == みかの部活動顧問履歴 == みかは当初新米教師であるためか、部活動への参加はしていなかったが長期休暇などで臨時の顧問を頼まれることが多く、色々な部活動へ顔を出している。 ; 漫画版 :* [[バレーボール]]部(GW期間臨時。1巻) :* [[バスケットボール]]部(GW期間臨時。2巻) :* [[漫画]]部(GW期間顧問代理。3巻) :* 料理クラブ(GW期間顧問代理。3巻) :* バレーボール部(正顧問。6巻) ; アニメ版 :全て第12話分 :* [[サッカー]]部 :* 漫画研究会 :* 料理クラブ == 書誌情報 == 原作は全て[[竹書房]]より発行。2013年6月号にて連載終了、単行本は全12巻<ref>『まんがらいふMOMO』2013年6月号p20</ref>。 === 連載誌 === * [[まんがライフオリジナル]] * [[まんがライフMOMO]] 2013年6月号にて連載終了 === 単行本 === # 1999年3月27日発売 ISBN 4-8124-5284-8 # 2000年8月7日発売 ISBN 4-8124-5421-2 # 2001年11月7日発売 ISBN 4-8124-5569-3 # 2003年7月7日発売 ISBN 4-8124-5822-6 # 【通常版】2004年5月15日発売 ISBN 4-8124-5955-9<br/>【特装版】<ref>ミニイラスト集と興津高校生徒手帳(本格仕様)付。表紙のみかの服の色が青である(通常版は赤)。</ref>2004年5月15日発売 ISBN 4-8124-5956-7 # 2005年10月27日発売 ISBN 4-8124-6292-4 # 2008年5月27日発売 ISBN 978-4-8124-6832-6 # 2008年11月27日発売 ISBN 978-4-8124-7008-4 # 2009年12月26日発売 ISBN 978-4-8124-7212-5 # 2011年12月27日発売 ISBN 978-4-8124-7725-0 # 2012年10月27日発売 ISBN 978-4-8124-8022-9 # 【通常版】2013年7月26日発売 ISBN 978-4-8124-8358-9<br/>【特装版】<ref>小冊子「みか先生の出席簿」付。表紙絵は通常版と全く異なる。</ref>2013年7月26日発売 ISBN 978-4-8124-8359-6 == メディアミックス == === TVアニメ版 === TVアニメ版は[[テレビ東京]]系列で放送され、DVDとして[[スターチャイルド]]より発売された。サブタイトルは「DOKI DOKI SCHOOL HOURS」。またDVDには、TV未放送で原作漫画にも描かれていない内容で、ラジオ版CDドラマ同様にオリジナル色の強い『せんせいのお時間 ご〜るど』が各巻に付き1話収録されている。DVDソフトは全7巻。TVアニメ版ドラマCDは全2巻。 ==== スタッフ ==== TVアニメ版・DVDアニメご〜るど版共通。 * 原作 - [[ももせたまみ]] * 監督 - [[岩崎良明]] * シリーズ構成 - [[白根秀樹]] * キャラクターデザイン - 中原清隆 * 美術監督 - 廣瀬義憲 * 色彩設定 - 児玉尚子 * 撮影監督 - 松田成志 * 編集 - [[瀬山武司]] * 音響監督 - [[渡辺淳 (音響監督)|渡辺淳]] * 音楽 - [[平野義久]] * プロデューサー - 伊藤明博、遊佐和彦、小川智弘、[[松倉友二]] * アニメーション制作協力 - [[スタジオマトリックス]] * アニメーション制作 - [[ジェー・シー・スタッフ|J.C.STAFF]] * 製作 - せんせいのお時間製作委員会 ==== 主題歌 ==== ; TVアニメ版 :; オープニングテーマ「教えてあげる」 :: 作詞 - TAPIKO / 作曲 - POM / 編曲 - can/goo、時乗浩一郎 / 歌 - [[can/goo]] :; エンディングテーマ「[[ふられ気分でRock'n' Roll]]」 :: 作詞、作曲 - TOM / 編曲 - [[光宗信吉]] / 歌 - [[DROPS]] :: [[TOM★CAT]]の曲のカバー。 ; DVDアニメご〜るど版 :; オープニングテーマ「渋滞のラブ・アフェア」 :: 作詞 - MARIA / 作曲 - 山田正人 / 編曲 - D.R.Y / 歌 - DROPS :; エンディングテーマ「愛のチカラ」 :: 作詞 - MARIA / 作曲 - 山田正人 / 編曲 - D.R.Y / 歌 - [[和田琢磨]] ==== 各話リスト ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督 |- !colspan="6"|TVアニメ版 |- |1||興津高校2A登場の巻||rowspan="2"|[[白根秀樹]]||rowspan="2"|[[岩崎良明]]||成田歳法||中原清隆 |- |2||測って投げて打っての巻||畠山茂樹||飯飼一幸 |- |3||水着で試験 ポロリもあるよの巻||[[木村暢]]||colspan="2" style="text-align:center"|大和直道||昆富美子 |- |4||みか先生の夏物語の巻||[[ときたひろこ]]||[[増井壮一|水草一馬]]||雄谷将仁||村上勉 |- |5||夏過ぎて、藝術の秋の巻||[[鈴木雅詞]]||colspan="2" style="text-align:center"|大西景介||飯飼一幸 |- |6||文化祭は文化の祭の巻||白根秀樹||colspan="2" style="text-align:center"|成田歳法||原由美子 |- |7||サンタギャル 振袖羽根突き お年玉の巻||木村暢||colspan="2" style="text-align:center"|ヤマトナオミチ||飯飼一幸 |- |8||冬来たりなば春遠からじ?の巻||ときたひろこ||colspan="2" style="text-align:center"|佐藤昌文||昆富美子 |- |9||涙、涙の卒業式の巻||鈴木雅詞||一分寸僚安||雄谷将仁||村上勉 |- |10||興津-京都生徒失踪事件! 〜愛憎渦巻く古都の旅の巻||白根秀樹||colspan="2" style="text-align:center"|ヤマトナオミチ||飯飼一幸 |- |11||雨のち晴れ、ところにより教育実習の巻||木村暢||colspan="2" style="text-align:center"|箕ノ口克己||宇都木勇<br />武内啓 |- |12||恐怖体験、真夏の課外活動! の巻||鈴木雅詞||colspan="2" style="text-align:center"|佐藤昌文||飯飼一幸 |- |13||夏・湘南・さよならは言わないでの巻||白根秀樹||colspan="2" style="text-align:center"|福島十三||原由美子 |- !colspan="6"|DVDアニメご〜るど版 |- |1||留学生と興津暗黒街の巻||白根秀樹||小島多美子||[[奥村よしあき]]||武内啓 |- |2||体育祭スペシャル! の巻||ときたひろこ||colspan="2" style="text-align:center"|[[大槻敦史]]||昆富美子 |- |3||大家族と幻のとんこつラーメンの巻、みか姉ちゃんの家出? の巻||伊藤美智子||colspan="2" style="text-align:center"|畠山茂樹||飯飼一幸 |- |4||妖怪バスター エカテリーナ流 またの名を委員長の巻||木村暢||眉月裕||雄谷将仁||村上勉 |- |5||せんせい版 SF 魔法時代劇 〜 興津ミレニアム・バトル! の巻||白根秀樹||佐藤昌文||畠山茂樹||原由美子 |- |6||文化祭 大作戦!! の巻||鈴木雅詞||colspan="2" style="text-align:center"|ヤマトナオミチ||草刈大介 |- |7||小さき者、旅立ちの興津の巻||白根秀樹||colspan="2" style="text-align:center"|岩崎良明||中原清隆 |} ==== DVDソフト ==== # 第1巻(2004年8月4日発売) KIBA-1071 # 第2巻(2004年9月1日発売) KIBA-1072 # 第3巻(2004年10月6日発売) KIBA-1073 # 第4巻(2004年11月3日発売) KIBA-1074 # 第5巻(2004年12月1日発売) KIBA-1075 # 第6巻(2005年1月13日発売) KIBA-1076 # 第7巻(2005年2月2日発売) KIBA-1077 ==== TVアニメ版ドラマCD ==== # せんせいのお時間ドラマCD MOMO盤(2004年6月23日発売) KICA-645 # せんせいのお時間ドラマCD2 ご〜るど盤(2004年8月25日発売) KICA-658 ==== アルバム ==== # せんせいのお時間 主題歌コレクション(2002年10月17日発売) # せんせいのお時間 SOUNDTRACKS(2004年7月22日発売) KICA-649 # せんせいのお時間 すぺしゃる盤(2004年9月23日発売) KICA-659 ==== 関連書籍 ==== # せんせいのお時間 TVアニメメモリアルブック(2004年7月31日発刊)竹書房 ISBN 4-8124-1762-7 === ラジオドラマ版 === ラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI)で放送された番組『南央美のせんせいのお時間』内で放送されていた。TVアニメ版とは一部の声優が異なる。ラジオ版ドラマは原作である漫画版とは設定が一部異なるほか、学校以外の舞台で特殊なストーリー展開を進めることも多く、概してオリジナル色が強い。CDにはラジオ放送時には無かった未放送分も収録されており、全24巻。「17時間目」以降はCCCDフォーマットとなっている。 ==== ラジオ版ドラマCD ==== # 1時間目(1999年7月7日発売) # 2時間目(1999年8月4日発売) # 3時間目(1999年10月27日発売) # 4時間目(1999年11月25日発売) # 5時間目(2000年6月14日発売) # 6時間目(2000年7月12日発売) # 7時間目(2000年10月4日発売) # 8時間目(2000年11月8日発売) # 9時間目(2001年2月15日発売) # 10時間目(2001年3月7日発売) # 11時間目(2001年6月27日発売) # 12時間目(2001年7月25日発売) # 13時間目(2001年10月24日発売) # 14時間目(2001年12月12日発売) # 15時間目(2002年3月27日発売) # 16時間目(2002年5月15日発売) # 17時間目(2002年8月21日発売) # 18時間目(2002年9月26日発売) # 19時間目(2002年12月26日発売) # 20時間目(2003年1月29日発売) # 21時間目(2003年4月23日発売) # 22時間目(2003年5月28日発売) # 23時間目(2003年12月25日発売) # 24時間目(2004年2月11日発売) === その他のグッズ === * 2003年版ももせたまみせんせいのお時間カレンダー * せんせいのお時間オリジナルTシャツ(サイズS、M、L) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://king-cr.jp/special/sensei/index.html せんせいのお時間] - キングレコード * {{Wayback |url=http://www.jcstaff.co.jp/sho-sai/sen-shokai/sen-index.htm |title=せんせいのお時間(ジェー・シー・スタッフ) |date=20160123175223}} * [http://www.jcstaff.co.jp/sakuhin/nenpyo/2004/02_sensei/sensei.htm せんせいのお時間] - ジェー・シー・スタッフ * [https://web.archive.org/web/20190226182354/http://4koma.takeshobo.co.jp/category/cat05/ まんがライフMOMO] {{前後番組 | 放送局 = [[テレビ東京]] | 放送枠 = [[テレビ東京の深夜アニメ枠|日曜25:30枠]] | 番組名 = せんせいのお時間<br />(2004年4月4日 - 6月27日) | 前番組 = [[てっぺん魂]]<br />(2003年10月5日 - 2004年3月28日) | 次番組 = [[蒼穹のファフナー]]<br />(2004年7月4日 - 12月26日) }} {{J.C.STAFF}} {{岩崎良明監督作品}} {{DEFAULTSORT:せんせいのおしかん}} [[Category:漫画作品 せ|んせいのおしかん]] [[Category:1997年の漫画]] [[Category:4コマ漫画]] [[Category:まんがライフオリジナル]] [[Category:まんがライフ]]<!--MOMO--> [[Category:教師を主人公とした漫画作品]] [[Category:高等学校を舞台とした漫画作品]] [[Category:アニメ作品 せ|んせいのおしかん]] [[Category:2004年のテレビアニメ]] [[Category:テレビ東京の深夜アニメ]] [[Category:4コマ漫画原作アニメ]] [[Category:J.C.STAFF]] [[Category:スターチャイルドのアニメ作品]] [[Category:バンブーコミックスのアニメ作品]] [[Category:教師を主人公としたアニメ作品]] [[Category:東京都を舞台とした漫画作品]]
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ギャルゲー
ギャルゲーは、「ギャルゲーム」(Gal game)の略で、主に魅力的な女性が登場することを売り物とするタイプのコンピュータゲームの俗称である。 コンピュータゲームの技術の発展に伴いゲーム内に登場するキャラクターの表現力も上がっていった。その中で、魅力的な女性が登場する(もしくはプレイヤーキャラとして操作できる)を売りにしたゲームが登場するようになった。これがギャルゲーである。ただし、ギャルゲーは主に恋愛を舞台にしたシミュレーションゲームとアドベンチャーゲーム(特にビジュアルノベル)を指す事が多く、2000年代後半以後現在に至るまで流行している恋愛を舞台にせず、ジャンルもSLGやADVに属さないアニメ調の女性キャラを売りにしたゲーム(艦これ・アイマス・東方Project・ラブライブ!・プリンセスコネクト!Re:Dive・アズールレーン・ウマ娘など)はギャルゲーとは呼ばないことが多い。 類似の概念に美少女ゲーム(ギャルゲーとアダルトゲームをまとめた概念)、萌えゲームがあるが、男性向け恋愛ゲームという意味でも使用される。 なお、ギャルゲーはキャラゲーと呼ばれることもあるが、キャラゲーは漫画やアニメといった版権作品のキャラクターを使用したゲームを指すことが一般的である。しかし、元々俗称であるため、キャラゲーの定義は曖昧である。 判断には各プレイヤーの主観に拠る部分が多く、一般的にギャルゲーと非ギャルゲーの差を明確に区別することは(他の俗称ジャンルであるクソゲーなどと同様に)非常に難しい。また「ギャルゲー」という言葉が一般化していなかった時期に発売されたソフトも、後にギャルゲーとしてカテゴライズされる『銀河お嬢様伝説ユナ』のような例もある。 「ギャルゲー」はしばしば「エロゲー(アダルトゲーム)」と同列のものとして扱われがちであるが、一般には以下のように区分されている(家庭用ゲーム機に対するメーカーの規制や規定についてはアダルトゲーム#メディアミックス展開を参照のこと)。 しかし、性描写の少ないアダルトゲームや、逆に性描写に近い表現のあるギャルゲー(一般のゲームも含む)もあり、こういったソフトが「どちらに属するか」という境界も曖昧である。 当初はPC-8800などゲーム機とは比べものにならないほど高価なパソコンがエロゲーをやる目的で使う高級玩具として扱われていた。それが多様化し『EMMYII』等、18歳~22歳前後の女性キャラクターを口説く内容の人工知能ソフトへと変化して、アブノーマルなものは減っていき『アテナ』や『夢幻戦士ヴァリス』などアーケードでもギャルを主人公にしたゲームが増えた。 最初にギャルゲーと呼称されたゲームは、1986年発売の『夢幻戦士ヴァリス』(日本テレネット)と言われている。 ヴァリスと同時期には『アテナ』(SNK)や『マドゥーラの翼』(サン電子)を始め主人公のキャラクターを子供向けのゲームとしては露出度の高い衣装(いわゆるビキニアーマーなど)を纏っている少女に設定したアクションゲームが見られるが、これらの作品は主人公を男性やロボットなどに置き換えても基本的なゲーム性が変化しないと思われるものがほとんどで、難度を含めたゲームバランスの悪いものも多く、1980年代後半においては「ギャルゲー」は「少女キャラクターの可愛らしさに寄りかかった、クソゲーの一種」と認識されるケースが多かった。家庭用ゲーム機でもPCエンジンはCD-ROMを先駆けて採用した結果容量の制約から解放されCD-DAも使えるようになった結果、有名なアニメーターや声優を使ったキャラゲーが多数出るようになったが。しかし中にはオリジナルのキャラゲー、トップレスなどのヌード・セミヌードを取り入れたゲーム(Huカードソフトも含む)もあり、これらの一部が後にギャルゲーに分類されることになる。 1989年に、絶妙なゲームバランスを持った『ドラゴンナイト』によって再び盛り返した。ゲーム内容は主人公となって敵に捕らわれたギャルを助けていく、といったRPGの王道的設定のシナリオへと変化してきた。 「ギャルゲー」と言う単語のゲーム雑誌で確認されている最古の使用例は『ファミコン通信』1992年3月27日号の特集記事である。もっとも、この特集で取り上げられているのは『ヴァリス』を始め横スクロールのアクションゲームがメインであった。この特集とほぼ同時期にパソコンゲームでは『プリンセスメーカー』(ガイナックス)や『卒業 〜Graduation〜』(ジャパンホームビデオ)に代表される育成シミュレーションが登場している。 1992年、パソコンゲーム業界のギャルゲーは18禁とそれ以外に分けられ、ソフトメーカー側から規制基準が確立された。 1993年にはパソコン用にアダルトゲームのCD-ROMが増加し、家庭用ゲーム機でもPCエンジンはギャルゲーを比較的多く発売され始めた。これはCGと音声というギャルゲーにとって重要な要素を記録するのにCD-ROMが適していることが原因だった。同年7月、パソコン版の同名タイトル「卒業グラデュエーション」がPCエンジンに移植作となりシミュレーションタイプをベースとした先駆者的な役割を果たし、他のゲームにも大きな影響を与えた。 1994年には、男性向け一般恋愛シミュレーションゲームの先駆けとなる『ときめきメモリアル』(コナミ)が発売される。この作品はギャルゲーメーカーではない大手メーカーが開発・発売した独自タイトルとして大きな話題を呼び、このジャンルが一定の地位を確立するきっかけとなった。これに伴い、魅力的な女性が登場するゲームは恋愛シミュレーションゲームが発売されるようになり、ギャルゲーという用語はこのジャンルのゲームを指すものとして用いられるようになった。 1994年末には第5世代機が発売されており、ゲームソフト市場に新規参入するメーカーが多数現れた。ギャルゲーの数が特に増えたのもこの時期で、多数のギャルゲーが発売されている。セガの『サクラ大戦』シリーズやパイオニアLDCの『NOëL』シリーズやNECインターチャネルの『センチメンタルグラフティ』などが代表とされる。1990年代半ば~後半にかけて、セガサターンではCEROレーティング前から「X指定」および「年齢制限(推奨年齢18才以上)」など独自のレーティングを設けた事によりアダルトメーカーも参入するようになり『野々村病院の人々』や『EVE burst error』や『下級生』など、アダルトゲームの移植で20~30万本のヒットを生み出す作品が複数登場した。当時PlayStationでは性的表現はSONYの意向で厳しく制限されていたため、アダルトゲームの移植ではセガサターンほどのヒットを飛ばす作品は少なかったが、PlayStation独自タイトルである『NOëL』シリーズやアトリエシリーズ、やるドラシリーズや『トゥルー・ラブストーリー』は10万本を超えるヒットを記録した。 ギャルゲーは1990年代後半あたりにピークを迎え、その後もNECインターチャネルやKIDやヒューネックスなどのメーカーが家庭用ゲームオリジナル作品、アダルトゲームの移植問わずギャルゲーのリリースを継続して行っており、2000年前後のアダルトゲームの葉鍵ブームもあって一定の市場規模を維持していたが、PS3が発売され、NECインターチャネルがギャルゲーのリリースをやめ、KIDが倒産した2000年代後半あたりからアダルトゲームともども既存のギャルゲーは衰退しつつあり、それに代わって恋愛を舞台にせず、ジャンルもSLGやADVに属さないアニメ調の女性キャラを売りにしたゲーム(詳しくは概要欄参照)が台頭し、現在ではそちらの方が大きな盛り上がりを見せている。 ギャルゲーファン以外からも支持されるようなストーリー性の高い作品がある一方で、あくまで「魅力的な女性が登場したりきわどい悩殺シーンが売り物」の、設定やストーリーに少々無理がある作品も存在する。特に前述のPCエンジンではその傾向が顕著に表れており、シューティングゲームの売り上げが落ちるなどの影響あった。そのためテコ入れのために美少女を付け加える場合があり。結果として美少女を使用する傾向に拍車がかかっていった。女子高生とコミュニケーションするゲームが多いのは何故なのかに関して踏み込むと、女性としていちばん光っている時期でもあり、サナギから羽化する蝶を見るような測り知れない力にあやかりたい。との事。 1992年の『同級生』(エルフ)以降、アダルトゲームにおいても擬似恋愛を扱う作品が主流となったが、これらの作品は従来のアダルトゲームに比べ性描写が少なく、ゲームの中身の大部分は女性キャラクターとの恋愛関係に至るまでの過程を描いたものであった。このことは、これらのアダルトゲーム作品においては性描写を削除してもゲームバランスを大きく損なわないことを意味しており、このためアダルトゲーム原作のコンシューマーゲーム移植されるギャルゲーが増加することとなった。この傾向は性描写が完全に従となり読者の感動を主目的とする、いわゆる泣きゲーが勢力を増すにつれてさらに顕著なものとなっている。 また、社会情勢の変化に伴うCERO審査基準の改正や、ベクターが運営するアダルトゲーム中心の情報サイトが「Galge.com」(ギャルゲ・ドット・コム)の名称を使用するなど、冒頭にもあるようにギャルゲーとアダルトゲームの区別はますます曖昧なものになりつつある。 近年ではギャルゲーとアダルトゲームの中間のグレーゾーンに属する作品も発売されるようになり、ギャルゲーとアダルトゲームの境界があいまいになりつつある。 ハーレムものの漫画、アニメでは1人の男性キャラ(多くの場合、主人公のこと)に複数の女性キャラクターが特別な感情を抱く例がしばしば見られる。ギャルゲーにおけるヒロインの典型的属性はハーレムものの漫画、アニメのそれと類似している場合がある。漫画、アニメで利用されているストックキャラクターのパターンを、ゲームに応用している場合もあり、逆にゲームにおける典型的属性が漫画、アニメで使用されている場合もある。また、おたくなどといった購買力に余裕のあるユーザーにアピールする上で、著名なイラストレーターや漫画家に、キャラクターデザインを依頼する傾向も見られる。現実的には実現が難しいが一種の理想を実現している状況。本当は起こり得ないような異性からの人気。現実離れした体型、髪型、顔。非現実的だが魅力を持つ。ロボット、アンドロイドなど”人が人に似せて作った人工物型”。SF的要素のある話でヒロインに混じっていることが多い。性格の差があっても製造目的から他人に友好的に接する事が多い。天使、妖精、女神など”人とは異なる種族として存在する知的生命体”。こちらは奔放で、人と対等ないし見下しているキャラが多い。原初的なギャルゲーではギャルは1人しか出なかった。しかし多くのユーザーの好みに応えるため、1本のソフトにメガネやショートカットなど多くの特徴をもったギャルが登場するようになった。 この他、単発ないし数号しか出なかったものには以下の各誌がある。「ギャルゲー」に対抗して「ヒロインゲーム」という呼称を定着させたい向きがあったことがうかがえるが、全く定着しなかったようである。
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"ヴァリスと同時期には『アテナ』(SNK)や『マドゥーラの翼』(サン電子)を始め主人公のキャラクターを子供向けのゲームとしては露出度の高い衣装(いわゆるビキニアーマーなど)を纏っている少女に設定したアクションゲームが見られるが、これらの作品は主人公を男性やロボットなどに置き換えても基本的なゲーム性が変化しないと思われるものがほとんどで、難度を含めたゲームバランスの悪いものも多く、1980年代後半においては「ギャルゲー」は「少女キャラクターの可愛らしさに寄りかかった、クソゲーの一種」と認識されるケースが多かった。家庭用ゲーム機でもPCエンジンはCD-ROMを先駆けて採用した結果容量の制約から解放されCD-DAも使えるようになった結果、有名なアニメーターや声優を使ったキャラゲーが多数出るようになったが。しかし中にはオリジナルのキャラゲー、トップレスなどのヌード・セミヌードを取り入れたゲーム(Huカードソフトも含む)もあり、これらの一部が後にギャルゲーに分類されることになる。", "title": "ギャルゲーの歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1989年に、絶妙なゲームバランスを持った『ドラゴンナイト』によって再び盛り返した。ゲーム内容は主人公となって敵に捕らわれたギャルを助けていく、といったRPGの王道的設定のシナリオへと変化してきた。", "title": "ギャルゲーの歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "「ギャルゲー」と言う単語のゲーム雑誌で確認されている最古の使用例は『ファミコン通信』1992年3月27日号の特集記事である。もっとも、この特集で取り上げられているのは『ヴァリス』を始め横スクロールのアクションゲームがメインであった。この特集とほぼ同時期にパソコンゲームでは『プリンセスメーカー』(ガイナックス)や『卒業 〜Graduation〜』(ジャパンホームビデオ)に代表される育成シミュレーションが登場している。", "title": "ギャルゲーの歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1992年、パソコンゲーム業界のギャルゲーは18禁とそれ以外に分けられ、ソフトメーカー側から規制基準が確立された。", "title": "ギャルゲーの歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1993年にはパソコン用にアダルトゲームのCD-ROMが増加し、家庭用ゲーム機でもPCエンジンはギャルゲーを比較的多く発売され始めた。これはCGと音声というギャルゲーにとって重要な要素を記録するのにCD-ROMが適していることが原因だった。同年7月、パソコン版の同名タイトル「卒業グラデュエーション」がPCエンジンに移植作となりシミュレーションタイプをベースとした先駆者的な役割を果たし、他のゲームにも大きな影響を与えた。", "title": "ギャルゲーの歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1994年には、男性向け一般恋愛シミュレーションゲームの先駆けとなる『ときめきメモリアル』(コナミ)が発売される。この作品はギャルゲーメーカーではない大手メーカーが開発・発売した独自タイトルとして大きな話題を呼び、このジャンルが一定の地位を確立するきっかけとなった。これに伴い、魅力的な女性が登場するゲームは恋愛シミュレーションゲームが発売されるようになり、ギャルゲーという用語はこのジャンルのゲームを指すものとして用いられるようになった。", "title": "ギャルゲーの歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1994年末には第5世代機が発売されており、ゲームソフト市場に新規参入するメーカーが多数現れた。ギャルゲーの数が特に増えたのもこの時期で、多数のギャルゲーが発売されている。セガの『サクラ大戦』シリーズやパイオニアLDCの『NOëL』シリーズやNECインターチャネルの『センチメンタルグラフティ』などが代表とされる。1990年代半ば~後半にかけて、セガサターンではCEROレーティング前から「X指定」および「年齢制限(推奨年齢18才以上)」など独自のレーティングを設けた事によりアダルトメーカーも参入するようになり『野々村病院の人々』や『EVE burst error』や『下級生』など、アダルトゲームの移植で20~30万本のヒットを生み出す作品が複数登場した。当時PlayStationでは性的表現はSONYの意向で厳しく制限されていたため、アダルトゲームの移植ではセガサターンほどのヒットを飛ばす作品は少なかったが、PlayStation独自タイトルである『NOëL』シリーズやアトリエシリーズ、やるドラシリーズや『トゥルー・ラブストーリー』は10万本を超えるヒットを記録した。", "title": "ギャルゲーの歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ギャルゲーは1990年代後半あたりにピークを迎え、その後もNECインターチャネルやKIDやヒューネックスなどのメーカーが家庭用ゲームオリジナル作品、アダルトゲームの移植問わずギャルゲーのリリースを継続して行っており、2000年前後のアダルトゲームの葉鍵ブームもあって一定の市場規模を維持していたが、PS3が発売され、NECインターチャネルがギャルゲーのリリースをやめ、KIDが倒産した2000年代後半あたりからアダルトゲームともども既存のギャルゲーは衰退しつつあり、それに代わって恋愛を舞台にせず、ジャンルもSLGやADVに属さないアニメ調の女性キャラを売りにしたゲーム(詳しくは概要欄参照)が台頭し、現在ではそちらの方が大きな盛り上がりを見せている。", "title": "ギャルゲーの歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ギャルゲーファン以外からも支持されるようなストーリー性の高い作品がある一方で、あくまで「魅力的な女性が登場したりきわどい悩殺シーンが売り物」の、設定やストーリーに少々無理がある作品も存在する。特に前述のPCエンジンではその傾向が顕著に表れており、シューティングゲームの売り上げが落ちるなどの影響あった。そのためテコ入れのために美少女を付け加える場合があり。結果として美少女を使用する傾向に拍車がかかっていった。女子高生とコミュニケーションするゲームが多いのは何故なのかに関して踏み込むと、女性としていちばん光っている時期でもあり、サナギから羽化する蝶を見るような測り知れない力にあやかりたい。との事。", "title": "ギャルゲー依存の影響" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1992年の『同級生』(エルフ)以降、アダルトゲームにおいても擬似恋愛を扱う作品が主流となったが、これらの作品は従来のアダルトゲームに比べ性描写が少なく、ゲームの中身の大部分は女性キャラクターとの恋愛関係に至るまでの過程を描いたものであった。このことは、これらのアダルトゲーム作品においては性描写を削除してもゲームバランスを大きく損なわないことを意味しており、このためアダルトゲーム原作のコンシューマーゲーム移植されるギャルゲーが増加することとなった。この傾向は性描写が完全に従となり読者の感動を主目的とする、いわゆる泣きゲーが勢力を増すにつれてさらに顕著なものとなっている。", "title": "ギャルゲーとアダルトゲーム" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、社会情勢の変化に伴うCERO審査基準の改正や、ベクターが運営するアダルトゲーム中心の情報サイトが「Galge.com」(ギャルゲ・ドット・コム)の名称を使用するなど、冒頭にもあるようにギャルゲーとアダルトゲームの区別はますます曖昧なものになりつつある。", "title": "ギャルゲーとアダルトゲーム" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "近年ではギャルゲーとアダルトゲームの中間のグレーゾーンに属する作品も発売されるようになり、ギャルゲーとアダルトゲームの境界があいまいになりつつある。", "title": "ギャルゲーとアダルトゲーム" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ハーレムものの漫画、アニメでは1人の男性キャラ(多くの場合、主人公のこと)に複数の女性キャラクターが特別な感情を抱く例がしばしば見られる。ギャルゲーにおけるヒロインの典型的属性はハーレムものの漫画、アニメのそれと類似している場合がある。漫画、アニメで利用されているストックキャラクターのパターンを、ゲームに応用している場合もあり、逆にゲームにおける典型的属性が漫画、アニメで使用されている場合もある。また、おたくなどといった購買力に余裕のあるユーザーにアピールする上で、著名なイラストレーターや漫画家に、キャラクターデザインを依頼する傾向も見られる。現実的には実現が難しいが一種の理想を実現している状況。本当は起こり得ないような異性からの人気。現実離れした体型、髪型、顔。非現実的だが魅力を持つ。ロボット、アンドロイドなど”人が人に似せて作った人工物型”。SF的要素のある話でヒロインに混じっていることが多い。性格の差があっても製造目的から他人に友好的に接する事が多い。天使、妖精、女神など”人とは異なる種族として存在する知的生命体”。こちらは奔放で、人と対等ないし見下しているキャラが多い。原初的なギャルゲーではギャルは1人しか出なかった。しかし多くのユーザーの好みに応えるため、1本のソフトにメガネやショートカットなど多くの特徴をもったギャルが登場するようになった。", "title": "女性キャラの典型的属性" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "この他、単発ないし数号しか出なかったものには以下の各誌がある。「ギャルゲー」に対抗して「ヒロインゲーム」という呼称を定着させたい向きがあったことがうかがえるが、全く定着しなかったようである。", "title": "ギャルゲー雑誌(成年誌は除く)" } ]
ギャルゲーは、「ギャルゲーム」の略で、主に魅力的な女性が登場することを売り物とするタイプのコンピュータゲームの俗称である。
{{Pathnav|コンピュータゲーム|コンピュータゲームのジャンル|frame=1}} {{複数の問題 |出典の明記=2013年12月 |独自研究=2013年12月 }} [[ファイル:Wikipe-tan visual novel (Ren'Py).png|thumb|[[ビジュアルノベル]]は絵の上に文字を表示する。]] {{ウィキプロジェクトリンク|美少女ゲーム系|[[ファイル:Anime eye.svg|36px]]|break=yes}} '''ギャルゲー'''は、「'''ギャルゲーム'''」(''Gal game'')の略で、主に魅力的な女性が登場することを売り物とするタイプの[[コンピュータゲーム]]の俗称である。 == 概要 == コンピュータゲームの技術の発展に伴いゲーム内に登場するキャラクターの表現力も上がっていった。その中で、'''魅力的な女性が登場する(もしくはプレイヤーキャラとして操作できる)を売りにしたゲーム'''が登場するようになった。これが'''ギャルゲー'''である。ただし、ギャルゲーは主に恋愛を舞台にした[[シミュレーションゲーム]]と[[アドベンチャーゲーム]](特に[[ビジュアルノベル]])を指す事が多く、2000年代後半以後現在に至るまで流行している恋愛を舞台にせず、ジャンルもSLGやADVに属さないアニメ調の女性キャラを売りにしたゲーム([[艦隊これくしょん -艦これ-|艦これ]]・[[アイドルマスターシリーズ|アイマス]]・[[東方Project]]・[[ラブライブ!]]・[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]・[[アズールレーン]]・[[ウマ娘 プリティーダービー|ウマ娘]]など)はギャルゲーとは呼ばないことが多い。 類似の概念に'''[[美少女ゲーム]]'''(ギャルゲーと[[アダルトゲーム]]をまとめた概念)、'''萌えゲーム'''があるが、男性向け恋愛ゲームという意味でも使用される。 なお、ギャルゲーは[[キャラクターゲーム|キャラゲー]]と呼ばれることもあるが、キャラゲーは[[漫画]]や[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]といった版権作品のキャラクターを使用したゲームを指すことが一般的である。しかし、元々俗称であるため、キャラゲーの定義は曖昧である。 == ギャルゲーという区分 == 判断には各プレイヤーの主観に拠る部分が多く、一般的にギャルゲーと非ギャルゲーの差を明確に区別することは(他の俗称ジャンルである[[クソゲー]]などと同様に)非常に難しい。また「ギャルゲー」という言葉が一般化していなかった時期に発売されたソフトも、後にギャルゲーとしてカテゴライズされる『[[銀河お嬢様伝説ユナ]]』のような例もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jp.playstation.com/software/title/uljm05358.html |title=PC Engine Best Collection 銀河お嬢様伝説コレクション |website=プレイステーション オフィシャルサイト |publisher=[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント]] |accessdate=2015-11-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2008-05-21 |url=https://www.famitsu.com/game/coming/1215086_1407.html |title=『PCエンジン ベスト コレクション 銀河お嬢様伝説コレクション』名作美少女ゲームがひとつに |website=[[ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA Game Linkage]] |accessdate=2015-11-28}}</ref>。 「'''ギャルゲー'''」はしばしば「'''エロゲー'''(アダルトゲーム)」と同列のものとして扱われがちであるが、一般には以下のように区分されている(家庭用ゲーム機に対するメーカーの規制や規定については[[アダルトゲーム#メディアミックス展開]]を参照のこと)。 ; ギャルゲー : [[パソコンゲーム]]の場合、『[[戦巫女 -Vestal virgin-]]』([[アリスソフト]])や『[[CLANNAD (ゲーム)|CLANNAD]]』([[Key (ゲームブランド)|Key]])のように[[コンピュータソフトウェア倫理機構|ソフ倫]]の審査により「'''一般ソフト作品'''」として認定されたソフトを指すが、現在のところ[[コンピュータエンターテインメントレーティング機構]](以下CERO)による審査を受けて発売された実績がない(CEROに比べると便宜上の[[全年齢対象]]として認定する基準が緩いことや、全作品で同機構の審査を受けなければならないため)。 : 家庭用の場合はほとんどのメーカーがCEROへ審査を依頼し、その結果に基づいて対象年齢とコンテンツアイコンを表示している。2013年2月現在、アイコン「[[恋愛]]・[[ソフトコア|セクシャル]]」が表示される場合、ほとんどが[[CEROレーティング17才以上対象ソフトの一覧|「D 17才以上対象」]]の区分に指定されているが、[[CEROレーティング18才以上のみ対象ソフトの一覧|「Z 18才以上のみ対象」]]とは異なり、[[有害図書|有害図書指定]]の基準に抵触しない限り、購入の規制対象とはならない。ただし、[[Steam]]や[[ソフマップ]]など一部の販売店またはウェブサイトでは独自の販売区分が適用されているため、一般作品であっても、18歳未満者への販売を行わないケースがある。軽度のお色気描写に対しても厳しいレーティングを行うようになる[[2008年]]以前までは、[[CEROレーティング15才以上対象ソフトの一覧|「C 15才以上対象」]]や[[CEROレーティング12才以上対象ソフトの一覧|「B 12才以上対象」]]に指定されることも多かった。 : CEROの審査基準では直接的な性描写を明示的に禁止しているため性表現を理由に「Z」区分とされることはまず無く、「Z」区分を受ける場合でも[[残酷ゲーム|暴力表現]]を理由とする場合がほとんどである。 : [[国際年齢評価連合]]の審査基準では、軽度のお色気描写に対しては比較的寛容な傾向にあるため、その他の審査項目に該当する表現を含んでいない限り、「18+」や「16+」に区分されることは稀である。 ; エロゲー : [[ハードコア (ポルノ)|ハードコア]]に相当する性描写を含むため、[[青少年保護育成条例]]および[[コンピュータソフトウェア倫理機構]]や[[コンテンツ・ソフト協同組合]](CSA、旧・メディア倫理協会)による[[コンピュータゲームのレイティングシステム|レイティング]]審査の結果に基づき、規制の対象となっている(ソフ倫による指定では'''R指定'''=15禁もあり、こちらも年齢の下限による購入の規制があることから、含めることが多い。CSA規定にもR-15は存在するがゲームにおける適用例はほとんど無い)。 : ゲームやジャンルによっては性描写に加え、残虐な殺傷や犯罪(特に[[強姦罪|強姦]]や[[強制わいせつ罪|強制わいせつ]]などの[[性犯罪]]、および犯罪(者)を肯定する表現など)などの描写が付随するものもある。1986年.ゲーム内容は過激化し女性を強姦する設定となった「[[177 (ゲーム)|177]]」が問題になり国会でも取り上げられていた<ref name="名前なし-1">{{Cite book|title=週刊ファミコン通信 no.302|date=1994年9月30日|year=1994|publisher=株式会社アスキー|page=102}}</ref> 。1991年、ソフトの過激さがエスカレートしていくなか、ソフト欲しさに万引きする高校生を補導したことがきっかけで、警察に”猥褻物陳列販売”で摘発されるメーカーが現われた<ref name="名前なし-2">{{Cite book|title=週刊ファミコン通信 no.302|date=1994年9月30日|year=1994|publisher=株式会社アスキー|page=103}}</ref>。 : また「エロゲー」といった場合は「ギャルゲー」と違い攻略対象が女性である作品に限らず、男性同士の[[同性愛]]を描写する作品([[ボーイズラブゲーム]])なども含まれる。 : 攻略の対象となる人物はソフ倫の倫理規定(第12条6項「年齢制限について」より<ref>{{Cite web|和書|date=2011-10-01 |url=http://www.sofurin.org/htm/about/sofurin-rinrikitei2011.pdf |title=倫理規程 |format=PDF |publisher=[[コンピュータソフトウェア倫理機構]] |accessdate=2020-01-14}}</ref>)などにより、「'''性交渉を行う人物は全て18歳以上である'''」または「'''本ゲームにおいて18歳未満のキャラは登場しない'''」という趣旨のルールを敷いて強調<ref group="注">このような描写はソフトのパッケージ裏面や広告で描かれるか、ソフトの起動後にメッセージとして表示されることが多い。</ref>し、または年齢を特定できる描写をしないとされている。 : そのため、攻略対象が学生である場合、年齢に関する言及を避けるよう「〜高校 → '''〜学園'''・'''〜大学'''<ref group="注">大学生の場合、[[飛び級]]が認められない限り18歳以上であることは明らかであるため、一部のタイトルで大学生であるという設定を敷いているのもある。</ref>」「女子'''"高"'''生 → [[女子校生|女子'''"校"'''生]]」(18歳もいるので[[自主規制]]的な側面が強い)とするなど、わざとあやふやな表現に置き換えられることが多い([[フリーター]]、[[教員|教師]]、[[看護師]]、[[OL]]などの職業に就いている設定の場合、ほぼ全員が18歳〜20代以上と認識されるため、あまり言及されない)。 : ただし、'''CSAや[[携帯電話ゲーム|モバゲー]]の倫理規定では登場人物の年齢の制限がない'''ため、CSAによる審査を受けたもの、またはモバゲーで配信されているものについてはこの限りではない。 しかし、性描写の少ないアダルトゲームや、逆に性描写に近い表現のあるギャルゲー(一般のゲームも含む)もあり、こういったソフトが「どちらに属するか」という境界も曖昧である。 == ギャルゲーの歴史 == 当初は[[PC-8800シリーズ|PC-8800]]などゲーム機とは比べものにならないほど高価なパソコンがエロゲーをやる目的で使う高級玩具として扱われていた。それが多様化し『[[Emmy #EmmyII|EMMYⅡ]]』等、18歳~22歳前後の女性キャラクターを口説く内容の人工知能ソフトへと変化して、アブノーマルなものは減っていき『[[アテナ (ゲーム)|アテナ]]』や『[[夢幻戦士ヴァリス]]』など[[アーケードゲーム|アーケード]]でもギャルを主人公にしたゲームが増えた。<ref name="名前なし-1"/> 最初にギャルゲーと呼称された[[ゲーム]]は、1986年発売の『[[夢幻戦士ヴァリス]]』([[日本テレネット (ゲーム会社)|日本テレネット]])と言われている<ref group="注">書籍ではないが、当時から現役でゲームライターとゲームプログラマーであり、ゲーム史を同人誌として記録する活動をしている[[岩崎啓眞]]がBlogで該当する内容のエントリを執筆している[http://www.highriskrevolution.com/gamelife/index.php?e=45]。</ref>。 ヴァリスと同時期には『[[アテナ (ゲーム)|アテナ]]』([[SNK (1978年設立の企業)|SNK]])や『[[マドゥーラの翼]]』([[サン電子]])を始め主人公の[[キャラクター]]を子供向けのゲームとしては露出度の高い衣装(いわゆる[[ビキニアーマー]]など)を纏っている少女に設定した[[アクションゲーム]]が見られるが、これらの作品は主人公を男性や[[ロボット]]などに置き換えても基本的なゲーム性が変化しないと思われるものがほとんどで、難度を含めたゲームバランスの悪いものも多く、1980年代後半においては「ギャルゲー」は「少女キャラクターの可愛らしさに寄りかかった、[[クソゲー]]の一種」と認識されるケースが多かった。家庭用ゲーム機でも[[PCエンジン]]は[[CD-ROM2|CD-ROM]]を先駆けて採用した結果容量の制約から解放されCD-DAも使えるようになった結果、有名なアニメーターや声優を使ったキャラゲーが多数出るようになったが。しかし中にはオリジナルのキャラゲー、トップレスなどのヌード・セミヌードを取り入れたゲーム([[HuCARD|Huカードソフト]]<ref>『[[ゼロヨンチャンプ2]]』など。</ref>も含む)もあり、これらの一部が後にギャルゲーに分類されることになる。 1989年に、絶妙なゲームバランスを持った『[[ドラゴンナイト]]』によって再び盛り返した。ゲーム内容は主人公となって敵に捕らわれたギャルを助けていく、といったRPGの王道的設定のシナリオへと変化してきた。<ref name="名前なし-2"/> 「ギャルゲー」と言う単語の[[ゲーム雑誌]]で確認されている最古の使用例は『[[ファミ通|ファミコン通信]]』1992年3月27日号の特集記事である。もっとも、この特集で取り上げられているのは『ヴァリス』を始め横スクロールのアクションゲームがメインであった。この特集とほぼ同時期にパソコンゲームでは『[[プリンセスメーカー]]』([[ガイナックス]])や『[[卒業 〜Graduation〜]]』(ジャパンホームビデオ)に代表される[[育成シミュレーション]]が登場している。 1992年、パソコンゲーム業界のギャルゲーは18禁とそれ以外に分けられ、ソフトメーカー側から規制基準が確立された。<ref name="名前なし-2"/> 1993年にはパソコン用にアダルトゲームのCD-ROMが増加し、家庭用ゲーム機でもPCエンジンはギャルゲーを比較的多く発売され始めた。これはCGと音声というギャルゲーにとって重要な要素を記録するのにCD-ROMが適していることが原因だった。<ref name="名前なし-2"/>同年7月、パソコン版の同名タイトル「[[卒業 〜Graduation〜|卒業グラデュエーション]]」がPCエンジンに移植作となりシミュレーションタイプをベースとした先駆者的な役割を果たし、他のゲームにも大きな影響を与えた。<ref>{{Cite book|title=ファミ通 No.622|date=2000年11月17日|year=2000|publisher=株式会社エンターブレイン|page=90}}</ref> 1994年には、男性向け一般[[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛シミュレーションゲーム]]の先駆けとなる『[[ときめきメモリアル]]』([[コナミデジタルエンタテインメント|コナミ]])が発売される。この作品はギャルゲーメーカーではない大手メーカーが開発・発売した独自タイトルとして大きな話題を呼び、このジャンルが一定の地位を確立するきっかけとなった。これに伴い、魅力的な女性が登場するゲームは恋愛シミュレーションゲームが発売されるようになり、ギャルゲーという用語はこのジャンルのゲームを指すものとして用いられるようになった。 1994年末には[[ゲーム機#第5世代|第5世代機]]が発売されており、ゲームソフト市場に新規参入するメーカーが多数現れた。ギャルゲーの数が特に増えたのもこの時期で、多数のギャルゲーが発売されている。[[セガ]]の『[[サクラ大戦]]』シリーズや[[パイオニアLDC]]の『[[NOëL]]』シリーズや[[インターチャネル|NECインターチャネル]]の『[[センチメンタルグラフティ]]』などが代表とされる。1990年代半ば~後半にかけて、[[セガサターン]]では[[CERO]]レーティング前から「X指定」および「年齢制限(推奨年齢18才以上)」など独自のレーティングを設けた事によりアダルトメーカーも参入するようになり『[[野々村病院の人々]]』や『[[EVE burst error]]』や『[[下級生 (ゲーム)|下級生]]』など、アダルトゲームの移植で20~30万本のヒットを生み出す作品が複数登場した。当時[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]では性的表現はSONYの意向で厳しく制限されていたため、アダルトゲームの移植ではセガサターンほどのヒットを飛ばす作品は少なかったが、PlayStation独自タイトルである『NOëL』シリーズや[[アトリエシリーズ (ザールブルグ)|アトリエシリーズ]]、[[やるドラ]]シリーズや『[[トゥルー・ラブストーリー]]』は10万本を超えるヒットを記録した。 ギャルゲーは1990年代後半あたりにピークを迎え、その後も[[インターチャネル|NECインターチャネル]]や[[KID (ゲームブランド)|KID]]や[[ヒューネックス]]などのメーカーが家庭用ゲームオリジナル作品、アダルトゲームの移植問わずギャルゲーのリリースを継続して行っており、2000年前後のアダルトゲームの葉鍵ブームもあって一定の市場規模を維持していたが、[[PlayStation 3|PS3]]が発売され、NECインターチャネルがギャルゲーのリリースをやめ、KIDが倒産した2000年代後半あたりからアダルトゲームともども既存のギャルゲーは衰退しつつあり、それに代わって恋愛を舞台にせず、ジャンルもSLGやADVに属さないアニメ調の女性キャラを売りにしたゲーム(詳しくは[[#概要|概要欄]]参照)が台頭し、現在ではそちらの方が大きな盛り上がりを見せている。 == ギャルゲー依存の影響 == ギャルゲーファン以外からも支持されるようなストーリー性の高い作品がある一方で、あくまで「魅力的な女性が登場したりきわどい悩殺シーンが売り物」の、設定やストーリーに少々無理がある作品も存在する。特に前述のPCエンジンではその傾向が顕著に表れており、[[シューティングゲーム]]の売り上げが落ちるなどの影響あった<ref>[[ドリマガ|ゲーマガ]]2003年10月10・24日号121ページ</ref>。そのためテコ入れのために美少女を付け加える場合があり。結果として美少女を使用する傾向に拍車がかかっていった。女子高生とコミュニケーションするゲームが多いのは何故なのかに関して踏み込むと、女性としていちばん光っている時期でもあり、サナギから羽化する蝶を見るような測り知れない力にあやかりたい。との事。<ref>{{Cite book|title=週刊ファミコン通信 No.344|date=1995年7月21日|year=1995|publisher=株式会社アスキー|page=105}}</ref> == ギャルゲーとアダルトゲーム == 1992年の『[[同級生 (ゲーム)|同級生]]』([[エルフ]])以降、[[アダルトゲーム]]においても擬似恋愛を扱う作品が主流となったが、これらの作品は従来のアダルトゲームに比べ性描写が少なく、ゲームの中身の大部分は女性キャラクターとの恋愛関係に至るまでの過程を描いたものであった。このことは、これらのアダルトゲーム作品においては性描写を削除してもゲームバランスを大きく損なわないことを意味しており、このためアダルトゲーム原作の[[コンシューマーゲーム]]移植されるギャルゲーが増加することとなった。この傾向は性描写が完全に従となり読者の感動を主目的とする、いわゆる[[泣きゲー]]が勢力を増すにつれてさらに顕著なものとなっている。 また、社会情勢の変化に伴うCERO審査基準の改正や、[[ベクター (企業)|ベクター]]が運営するアダルトゲーム中心の情報サイトが「[[Galge.com]]」(ギャルゲ・ドット・コム)の名称を使用するなど、冒頭にもあるようにギャルゲーとアダルトゲームの区別はますます曖昧なものになりつつある。 近年ではギャルゲーとアダルトゲームの中間のグレーゾーンに属する作品も発売されるようになり、ギャルゲーとアダルトゲームの境界があいまいになりつつある<ref>『[[夏色ハイスクル★青春白書|夏色ハイスクル★青春白書〜転校初日のオレが幼馴染と再会したら報道部員にされていて激写少年の日々はスクープ大連発でイガイとモテモテなのに何故かマイメモリーはパンツ写真ばっかりという現実と向き合いながら考えるひと夏の島の学園生活と赤裸々な恋の行方。〜]]』『[[限界凸騎 モンスターモンピース]]』など。</ref>。 == 女性キャラの典型的属性 == {{出典の明記|date=2020年4月|section=1}} [[ハーレムもの]]の漫画、アニメでは1人の男性キャラ(多くの場合、主人公のこと)に複数の女性キャラクターが特別な感情を抱く例がしばしば見られる。ギャルゲーにおけるヒロインの典型的属性はハーレムものの漫画、アニメのそれと類似している場合がある。漫画、アニメで利用されている[[ストックキャラクター]]のパターンを、ゲームに応用している場合もあり、逆にゲームにおける典型的属性が漫画、アニメで使用されている場合もある。また、[[おたく]]などといった購買力に余裕のあるユーザーにアピールする上で、著名な[[イラストレーター]]や[[漫画家]]に、[[キャラクターデザイン]]を依頼する傾向も見られる。現実的には実現が難しいが一種の理想を実現している状況。本当は起こり得ないような異性からの人気。現実離れした体型、髪型、顔。非現実的だが魅力を持つ。ロボット、アンドロイドなど”人が人に似せて作った人工物型”。SF的要素のある話でヒロインに混じっていることが多い。性格の差があっても製造目的から他人に友好的に接する事が多い。天使、妖精、女神など”人とは異なる種族として存在する知的生命体”。こちらは奔放で、人と対等ないし見下しているキャラが多い。<ref>{{Cite book|和書 |title=ファミ通 No.790 |date=2004年2月6日 |year=2004 |publisher=エンターブレイン |pages=84,85,}}</ref>原初的なギャルゲーではギャルは1人しか出なかった。しかし多くのユーザーの好みに応えるため、1本のソフトにメガネやショートカットなど多くの特徴をもったギャルが登場するようになった。<ref>{{Cite book|title=週刊ファミコン通信 no.344|date=1995年7月21日|year=1995|publisher=株式会社アスキー|page=103}}</ref> == ギャルゲー雑誌(成年誌は除く) == ; 刊行中 * [[電撃G's magazine]]([[メディアワークス]]) ** 前身は『電撃PCエンジン』『電撃G'sエンジン』。もともとは[[PCエンジン]]、[[PC-FX]]の専門誌。 * [[コンプティーク]]([[角川書店]]) * ファミ通キャラクターズDVD([[エンターブレイン]]) ; 休廃刊 * [[Virtual IDOL]]([[徳間書店インターメディア]]) ** ギャルゲー雑誌の「はしり」とも言える存在。 * [[Game Fan]]([[毎日コミュニケーションズ]]) * プリティファン([[新声社]]) ** 『[[ゲーメストEX]]』より派生。1997年4月~8月に計5号が刊行された。 * [[DearMy...]](エンターブレイン)※『[[マジキュー]]』に吸収 ** 『DearMy...』の前身は1995年と1997年に1冊ずつ刊行された『[[ファミ通]]』の増刊である『ファミ通Sister.』。 * [[RASPBERRY]]([[ソフトバンククリエイティブ|ソフトバンクパブリッシング]]) この他、単発ないし数号しか出なかったものには以下の各誌がある。「ギャルゲー」に対抗して「ヒロインゲーム」という呼称を定着させたい向きがあったことがうかがえるが、全く定着しなかったようである。 * ヒロインゲームズ([[ソニー・マガジンズ]]、1997年に2冊刊行) * Nadeshi-Co([[徳間書店インターメディア]]、1997年~1998年に3冊刊行) * ヒロインゲームコレクション([[集英社]]・『[[Vジャンプ]]』増刊、1998年9月15日発行) * プリティグラフィック([[アクセラ (企業)|アクセラ]]・1998年に3冊刊行) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)]] * [[美少女ゲーム]] * [[アダルトゲーム]] * [[乙女ゲーム]] * [[ギャルゲー板]] {{コンピュータゲームのジャンル}} {{DEFAULTSORT:きやるけえ}} [[Category:ギャルゲー|*]]
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ガーラ湯沢駅
ガーラ湯沢駅(ガーラゆざわえき)は、新潟県南魚沼郡湯沢町大字湯沢にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。JR東日本のグループ会社が経営するガーラ湯沢スキー場に直結している。 施設上は越後湯沢駅で分岐する上越新幹線の支線の終点にあたるが、越後湯沢 - ガーラ湯沢間は法規上、在来線である上越線の支線となっている(乗車券の扱いに関する詳細は後述)。 JR東日本社員の発案による社内プロジェクトとして、上越新幹線の越後湯沢駅に隣接する保線基地の裏山に開業したガーラ湯沢スキー場への利用客の輸送のために「東京から75分で行けるスキー場」として開業した。そのため、冬季のスキーシーズン(概ね12月中旬 - 翌年5月上旬)のみの臨時駅となっている。当初計画ではスキー場名・駅名とも単に「ガーラ」となる予定だったが、地元からの強い要望で「湯沢」が付いた。 駅舎自体がガーラ湯沢スキー場への玄関口となっており、駅舎には「スキーセンター カワバンガ」の愛称が付与されている。エントランスがある1階には温泉施設「SPAガーラの湯」(入口は3階)、改札口がある2階にはチケットカウンターやスキー・スノーボードレンタルカウンターがある。スキー場へはゴンドラリフト「ディリジャンス」で結ばれているほか、スキー場北エリアからの下山コース「ファルコン」の終点でもある。なお、シーズン毎に駅舎内の大規模なリニューアルを行うことも多く、案内表示やカウンターもたびたび変更・更新されている。 開業の経緯から、駅としては基本的には冬季のみの営業だが、JR東日本がタイアップした映画『ジュブナイル』の関連イベント開催などで、夏季に営業を行ったケースが数回ある。営業を行っていない時期の越後湯沢駅 - 当駅間は、越後湯沢駅に発着する「たにがわ」の折り返し用に使用されている。また、夜間停泊も行われている。同区間は信号システム上、単線並列になっている。 なお、夏季にはスキー場のサマーゲレンデ営業や、周辺でトレッキング企画が実施されるが、列車の運行はなく、交通手段は越後湯沢駅からのシャトルバスもしくは自家用車、タクシーになる。 駅名およびスキー場名の「ガーラ (GALA) 」とは英語で「祝祭」を意味する。ガーラ湯沢スキー場も含めて「祝祭空間」であることを強調している。そのため、駅員の一部は制服・制帽もJR東日本の正規のものとは異なるものを着用している。 島式ホーム1面2線の地上駅である。ホーム有効長は12両。また、列車別改札を行っており、列車発着の15分前にならないと改札内に入場することができない。 駅長配置の直営駅だが、越後湯沢駅が管理する(越後湯沢駅助役待遇)。当駅への新幹線運行時のみ営業するみどりの窓口、指定席券売機(クレジットカード決済専用機のみ設置)配置。駅舎はガーラ湯沢の施設と一体化しており、改札の目の前にスキー場の受付がある。2006年度(平成18年度)に自動体外式除細動器 (AED) が設置された。 JR東日本によると、2022年度(令和4年度)の1日平均乗車人員は984人である。 2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。なお、冬季のスキー場営業期間以外は、当駅に旅客列車は乗り入れない(臨時イベント時は除く)。 越後湯沢駅 - 当駅間は上越新幹線と一体化した運行体系であるが、法律上は在来線である上越線の支線となっており(ガーラ湯沢駅自体は新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法が適用される)、新幹線車両が直接乗り入れる在来線の特急列車という扱いで、運賃(150円)のほか在来線の特定特急券(100円)が必要なだけの合計250円で乗車できる。越後湯沢以外の新幹線駅発着の場合は、越後湯沢と乗降駅間の特急券に100円上乗せされた特急料金となる(乗継割引は適用外。ちなみに越後湯沢駅での乗継割引は2015年3月14日以降乗車分から廃止)。同区間は西日本旅客鉄道(JR西日本)博多南線(博多駅 - 博多南駅間)と同様の形態であり、事実上「日本で一番安く乗れる新幹線」である(運賃と料金はいずれも2022年時点)。なお旅客案内上の表記は「上越新幹線」で統一されており、『JR時刻表』においても博多南線が在来線(幹線)として記載されているのに対してガーラ湯沢支線は新幹線と同じ線での表現となっている。 東京駅 - 越後湯沢駅は営業キロ200 km以内なので、東京周辺との乗車券は東京山手線内発着となるが、ガーラ湯沢駅は200 kmを超えるため東京都区内発着となる。 なおこの区間は普通列車が運行されていないものの、石勝線や奥羽本線などのような乗車券のみで特急列車に乗車できる特例はないため、博多南線と同様に青春18きっぷ・北海道&東日本パスなどの特別企画乗車券は利用できない。このため、別途この区間の運賃と特定特急料金が必要となる。
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ガーラ湯沢駅(ガーラゆざわえき)は、新潟県南魚沼郡湯沢町大字湯沢にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。JR東日本のグループ会社が経営するガーラ湯沢スキー場に直結している。 施設上は越後湯沢駅で分岐する上越新幹線の支線の終点にあたるが、越後湯沢 - ガーラ湯沢間は法規上、在来線である上越線の支線となっている(乗車券の扱いに関する詳細は後述)。
{{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = ガーラ湯沢駅 |画像 = Gala-yuzawa sta 201802.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 駅舎(2018年2月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|36|57|3.2|N|138|47|58.3|E}}}} |よみがな = がーらゆざわ |ローマ字 = GALA Yuzawa |隣の駅 = |前の駅 = [[越後湯沢駅|越後湯沢]] |駅間A = 1.8 |駅間B = |次の駅 = |電報略号 = カラ{{sfn|川島|2010|p=77}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|green|■}}[[上越新幹線]]{{sfn|双葉社|2022|p=110}}<br />(正式には[[上越線#支線|上越線]]支線)<ref name="tabitetsu">{{Cite book|和書|title = [[旅と鉄道]]|edition = 2022年3月号増刊|publisher = [[山と渓谷社]]|date = 2022-03-01|page = 72}}</ref> |キロ程 = 1.8&nbsp;km([[越後湯沢駅|越後湯沢]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から201.0 |起点駅 = |所在地 = [[新潟県]][[南魚沼郡]][[湯沢町]][[大字]]湯沢1039-2 |所在地幅 = long |座標 = {{Coord|36|57|3.2|N|138|47|58.3|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |開業年月日 = [[1990年]]([[平成]]2年)[[12月20日]]<ref name="交通2001">{{Cite news |title=JR7社14年のあゆみ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2001-04-02 |page=9 }}</ref><ref name="shuchakueki">{{Cite book|和書|title = 終着駅巡礼|author = 鼠入昌史|publisher = [[イカロス出版]]|date = 2016-12-25|isbn = 978-4-8022-0259-6|pages = 61}}</ref> |廃止年月日 = |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 1面2線 |乗車人員 = 984 |統計年度 = [[2022年]] |備考 = {{Plainlist| * [[臨時駅]]{{sfn|川島|2010|p=77}} * [[みどりの窓口]] 有}} *冬季のみ営業 }} '''ガーラ湯沢駅'''(ガーラゆざわえき)は、[[新潟県]][[南魚沼郡]][[湯沢町]][[大字]]湯沢にある<ref name="shuchakueki"/>、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である。JR東日本のグループ会社が経営する[[ガーラ湯沢スキー場]]に直結している<ref name="shuchakueki"/><ref name="fnnprime">{{Cite web|和書|url = https://www.fnn.jp/articles/-/8421|title = リゾートマンションが10万円!バブルの象徴!湯沢町が奇跡のV字回復のワケ…【新潟発】|website = FNNプライムオンライン|date = 2019-02-16|accessdate = 2021-12-03}}</ref><ref name="nori20201005">{{Cite web|和書|url = https://trafficnews.jp/post/100333|title = GALA湯沢「ワーケーション聖地化計画」? JR東社員が実践 なんだか楽しそうな仕事スタイル|website = 乗りものニュース|date = 2020-10-05|accessdate = 2021-12-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211224/k10013400311000.html|title = News Up スキー30年 盛衰の歴史|website = NHK NEWS WEB|date = 2021-12-24|accessdate = 2022-02-27}}</ref>。 施設上は[[越後湯沢駅]]で分岐する[[上越新幹線]]の[[支線]]の[[終着駅|終点]]に当たるが{{sfn|双葉社|2022|p=110}}、越後湯沢 - ガーラ湯沢間は法規上、[[在来線]]である[[上越線]]の支線となっている(乗車券の扱いに関する詳細は[[#ガーラ湯沢までの乗車券|後述]])<ref name="tabitetsu"/>{{sfn|川島|2010|p=77}}<ref name="nori20180313">{{Cite web|和書|url = https://trafficnews.jp/post/79736|title = 「安く乗れる新幹線」増えるか 新潟空港のアクセス鉄道、実現への道のり|website = 乗りものニュース|date = 2018-03-13|accessdate = 2021-12-03}}</ref>。 == 概要 == JR東日本社員の発案による社内[[プロジェクト]]として、上越新幹線の越後湯沢駅に隣接する[[保線]]基地の裏山に開業したガーラ湯沢スキー場への利用客の輸送のために「東京から75分で行けるスキー場」として開業した<ref name="shuchakueki"/><ref name="fnnprime"/><ref name="nori20180313"/><ref name="toyokeizai">{{Cite web|和書|url = https://toyokeizai.net/articles/-/99880|title = あのGALA湯沢が今になって活況に沸く理由|website = 東洋経済オンライン|date = 2016-01-09|accessdate = 2021-12-03}}</ref>。そのため、冬季の[[スキー]]シーズン(概ね12月中旬 - 翌年5月上旬)のみの[[臨時駅]]となっている<ref group="注釈">ただし路線の終端駅であるため、『JR時刻表』([[交通新聞社]])や『JTB時刻表』([[JTBパブリッシング]])のページには臨時駅の表記がない。なお、両時刻表巻頭の「索引地図」([[路線図]])では、営業シーズン中に刊行される号のみガーラ湯沢駅が記載される。</ref>。当初計画ではスキー場名・駅名とも単に「ガーラ」となる予定だったが、地元からの強い要望で「湯沢」が付いた。 駅舎自体がガーラ湯沢スキー場への玄関口となっており、駅舎には「'''スキーセンター カワバンガ'''」の[[愛称]]が付与されている<ref name="shuchakueki"/>。エントランスがある1階には[[温泉]]施設「SPAガーラの湯」(入口は3階)、改札口がある2階にはチケットカウンターやスキー・[[スノーボード]]レンタルカウンターがある<ref name="shuchakueki"/>。スキー場へは[[ゴンドラリフト]]「ディリジャンス」で結ばれているほか、スキー場北エリアからの下山コース「ファルコン」の終点でもある。なお、シーズン毎に駅舎内の大規模なリニューアルを行うことも多く、案内表示やカウンターも度々変更・更新されている。 開業の経緯から、駅としては基本的には冬季のみの営業だが<ref name="shuchakueki"/><ref name="nori20201005"/>、JR東日本が[[タイアップ]]した[[映画]]『[[ジュブナイル (映画)|ジュブナイル]]』の関連[[イベント]]開催などで、夏季に営業を行ったケースが数回ある。営業を行っていない時期の越後湯沢駅 - 当駅間は、越後湯沢駅に発着する「[[たにがわ (列車)|たにがわ]]」の折返し用に使用されている。また、夜間停泊も行われている。同区間は信号システム上、[[単線並列]]になっている。 なお、夏季にはスキー場のサマーゲレンデ営業や、周辺で[[トレッキング]]企画が実施されるが、列車の運行はなく、交通手段は越後湯沢駅からの[[シャトルバス]]もしくは[[自家用自動車|自家用車]]、[[タクシー]]になる。 駅名及びスキー場名の「ガーラ (GALA) 」とは英語で「[[祭|祝祭]]」を意味する。ガーラ湯沢スキー場も含めて「祝祭空間」であることを強調している。そのため、[[駅員]]の一部は[[制服]]・[[制帽]]もJR東日本の正規のものとは異なるものを着用している。 == 歴史 == * [[1990年]]([[平成]]2年)[[12月20日]]:上越新幹線支線(上越線支線)越後湯沢駅 - 当駅間開業に伴い{{sfn|双葉社|2022|p=118}}、開業<ref name="tabitetsu"/>{{sfn|川島|2010|p=77}}<ref name="交通2001"/><ref name="shuchakueki"/>。 * [[1999年]](平成11年)[[4月]]:新幹線で[[自動改札機]]の供用を開始<ref>{{Cite news |和書|title=スムーズ乗降に威力 JR新潟支社 新幹線新潟駅に自動改札機 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1999-01-12 |page=3 }}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月14日]]:[[えきねっと#新幹線eチケットサービス|新幹線eチケットサービス]]開始<ref name="press/20200204_ho01">{{Cite press release |和書 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|title=「新幹線eチケットサービス」が始まります!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道、北海道旅客鉄道、西日本旅客鉄道|date=2020-02-04|accessdate=2020-05-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200524140435/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|archivedate=2020-05-24}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年)[[3月13日]]:[[タッチでGo!新幹線]]のサービスを開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho01.pdf|title=タッチでGo!新幹線 サービスエリア拡大について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-11-12|accessdate=2020-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201113025314/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho01.pdf|archivedate=2020-11-13}}</ref>。 == 駅構造 == [[プラットホーム|島式ホーム]]1面2線{{sfn|川島|2010|p=41}}{{sfn|双葉社|2022|p=111}}の[[地上駅]]である{{sfn|川島|2010|p=77}}。[[有効長|ホーム有効長]]は12両。また、[[改札#列車別改札|列車別改札]]を行っており、列車発着の15分前にならないと改札内に入場することが出来ない。 駅長配置の[[直営駅]]だが、[[越後湯沢駅]]が管理する(越後湯沢駅助役待遇)。当駅への新幹線運行時のみ営業する[[みどりの窓口]]、[[指定席券売機]](クレジットカード決済専用機のみ設置)配置。駅舎はガーラ湯沢の施設と一体化しており<ref name="toyokeizai"/>、[[改札]]の目の前にスキー場の受付がある。[[2006年]]度(平成18年度)に[[自動体外式除細動器]] (AED) が設置された。 === のりば === {| class="wikitable" !番線!!路線!!行先 |- !1・2 |[[ファイル:Shinkansen jre.svg|17px|■]] 上越新幹線 |[[越後湯沢駅|越後湯沢]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jreast-timetable.jp/timetable/list0408.html|title=時刻表 ガーラ湯沢駅:JR東日本|publisher=[[東日本旅客鉄道]]|accessdate=2019-10-10}}</ref> |} * 駅に隣接して上越新幹線の保線基地がある(側線3線あり)<ref name="nori20180313"/>{{sfn|川島|2010|p=41}}。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JR East GALA Yuzawa Station Gate.jpg|改札口(2022年12月) JR East GALA Yuzawa Station Ticket Counter.jpg|切符売り場(2022年12月) Gala-yuzawa-Station-Platform.jpg|ホーム(2010年3月) Galayuzawa-eki01.JPG|駅舎内(2006年12月) Gala-Yuzawa Lift ticket & Info Counter 01.JPG|スキー場の受付(2017年1月) </gallery> == 利用状況 == JR東日本によると、2022年度(令和4年度)の1日平均乗車人員は'''984人'''である<ref group="利用客数" name="passenger/2022_05" />。 2000年度(平成12年度)以降の推移は以下の通りである。なお、冬季のスキー場営業期間以外は、当駅に旅客列車は乗り入れない(臨時イベント時は除く)。 {| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;" |- style="background: #ddd;" !colspan="3"|乗車人員推移 |- !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |2000年(平成12年) |style="text-align:right;"|907 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2000_03.html|title=各駅の乗車人員(2000年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2001年(平成13年) |style="text-align:right;"|951 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2001_03.html|title=各駅の乗車人員(2001年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2002年(平成14年) |style="text-align:right;"|1,107 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2002_03.html|title=各駅の乗車人員(2002年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2003年(平成15年) |style="text-align:right;"|1,015 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2003_03.html|title=各駅の乗車人員(2003年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2004年(平成16年) |style="text-align:right;"|947 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2004_03.html|title=各駅の乗車人員(2004年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2005年(平成17年) |style="text-align:right;"|987 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2005_03.html|title=各駅の乗車人員(2005年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2006年(平成18年) |style="text-align:right;"|788 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2006_03.html|title=各駅の乗車人員(2006年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2007年(平成19年) |style="text-align:right;"|1,156 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2007_03.html|title=各駅の乗車人員(2007年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2008年(平成20年) |style="text-align:right;"|942 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2008_03.html|title=各駅の乗車人員(2008年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2009年(平成21年) |style="text-align:right;"|916 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2009_03.html|title=各駅の乗車人員(2009年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2010年(平成22年) |style="text-align:right;"|941 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2010_03.html|title=各駅の乗車人員(2010年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2011年(平成23年) |style="text-align:right;"|1,433 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2011_03.html|title=各駅の乗車人員(2011年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2012年(平成24年) |style="text-align:right;"|1,315 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_05.html|title=各駅の乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2013年(平成25年) |style="text-align:right;"|1,414 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_05.html|title=各駅の乗車人員(2013年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2014年(平成26年) |style="text-align:right;"|1,440 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_05.html|title=各駅の乗車人員(2014年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2015年(平成27年) |style="text-align:right;"|1,127 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_05.html|title=各駅の乗車人員(2015年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2016年(平成28年) |style="text-align:right;"|1,205 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_05.html|title=各駅の乗車人員(2016年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2017年(平成29年) |style="text-align:right;"|1,029 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_06.html|title=各駅の乗車人員(2017年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2018年(平成30年) |style="text-align:right;"|1,065 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2018_05.html|title=各駅の乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-09}}</ref> |- |2019年(令和元年) |style="text-align:right;"|779 |<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2019_06.html|title=各駅の乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-07-11}}</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |style="text-align:right;"|516 |<ref group="利用客数" name="passenger/2020_06">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2020_06.html|title=各駅の乗車人員(2020年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-24}}</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |style="text-align:right;"|911 |<ref group="利用客数" name="passenger/2021_05">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2021_05.html|title=各駅の乗車人員(2021年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-02}}</ref> |- |2022年(令和{{0}}4年) |style="text-align:right;"|984 |<ref group="利用客数" name="passenger/2022_05">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2022_05.html|title=各駅の乗車人員(2022年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-11}}</ref> |} == ガーラ湯沢までの乗車券 == [[ファイル:Ticket -Gala-Yuzawa.jpg|thumb|乗車券]] 越後湯沢駅 - 当駅間は上越新幹線と一体化した運行体系であるが{{sfn|双葉社|2022|p=114}}、法律上は在来線である上越線の支線となっており(ガーラ湯沢駅自体は[[新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法]]が適用される)<ref name="nori20180313"/>、[[新幹線車両]]が直接乗り入れる在来線の[[特別急行列車|特急列車]]という扱いで、[[運賃]](150円)のほか在来線の[[特別急行券#特定特急券|特定特急券]](100円)が必要なだけの合計250円で乗車出来る<ref name="tabitetsu"/><ref name="nori20180313"/>。越後湯沢以外の新幹線駅発着の場合は、越後湯沢と乗降駅間の特急券に100円上乗せされた特急料金となる([[乗り継ぎ料金制度|乗継割引]]は適用外。ちなみに越後湯沢駅での乗継割引<ref group="注釈">在来線では「はくたか」などとの乗継に適用されていた。</ref>は2015年3月14日以降乗車分から廃止)。同区間は[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[博多南線]]([[博多駅]] - [[博多南駅]]間)と同様の形態であり、事実上「日本で一番安く乗れる新幹線」である<ref name="nori20180313"/>(運賃と料金はいずれも2022年時点)。なお旅客案内上の表記は「上越新幹線」で統一されており、『JR時刻表』においても博多南線が在来線(幹線)として記載されているのに対してガーラ湯沢支線は新幹線と同じ線での表現となっている。 東京駅 - 越後湯沢駅は営業キロ200 km以内なので、東京周辺との乗車券は[[東京山手線内]]発着となるが、ガーラ湯沢駅は200 kmを超えるため[[特定都区市内|東京都区内]]発着となる。 なおこの区間は[[普通列車]]が運行されていないものの、[[石勝線]]や[[奥羽本線]]などのような[[特別急行券#特急料金不要の特例区間|乗車券のみで特急列車に乗車できる特例]]はないため、博多南線と同様に[[青春18きっぷ]]・[[北海道&東日本パス]]などの[[特別企画乗車券]]は利用出来ない。このため、別途この区間の運賃と特定特急料金が必要となる。 == シャトルバス == [[File:Gala Yuzawa 03.jpg|thumb|ガーラ湯沢スキー場]] ; ガーラ湯沢駅 - [[越後湯沢駅]] : 運賃無料。[[NASPAスキーガーデン]]・[[湯沢高原スキー場]]・宿泊施設を経由。所要時間は約10分。なお、スキー場および駅営業時に限る。 : 夏季の「GALAサマーパーク」営業時にも越後湯沢駅との間を結ぶシャトルバスが発着する。 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 上越新幹線(支線) :: [[越後湯沢駅]] - '''ガーラ湯沢駅''' <!--スキー場のリフトの類は「鉄道施設」と言えないのでは? ; GALA湯沢スキー場ゴンドラリフト : ゴンドラ「ディリジャンス」 :: カワバンガゴンドラステーション(JR'''ガーラ湯沢駅'''併設) - チアーズゴンドラステーション スキー場のリフト、ゴンドラ、ロープウェイは「索道」にあたり、法律的には鉄道の一部とされています。しかし、一般的な「鉄道」とは区別して考えるのが普通であると思われます。--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|3}} === 利用状況 === {{Reflist|group="利用客数"|3}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title = 【図説】日本の鉄道 中部ライン 全線・全駅・全配線 第8巻 糸魚川駅 - 新潟エリア|author = [[川島令三]]|publisher = [[講談社]]|date = 2010-11-20|isbn = 978-4-06-270068-9|ref = {{sfnref|川島|2010}} }} * {{Cite book|和書|title = 全国新幹線完全ガイド|publisher = [[双葉社]]|date = 2022-01-14|isbn = 978-4-575-45900-5|ref = {{sfnref|双葉社|2022}} }} == 関連項目 == {{Commonscat|Gala Yuzawa Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[JR SKISKI]] - 東日本旅客鉄道(JR東日本)が展開するスキー旅行キャンペーンの名称 == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=408|name=ガーラ湯沢(臨時)}} * [https://gala.co.jp/winter/ ガーラ湯沢スキー場] * [https://www.google.co.jp/maps/@36.950215,138.7994702,3a,75y,90h,90t/data=!3m6!1e1!3m4!1smfI7ctvQ-uNWMqxoGjTcow!2e0!7i13312!8i6656 「ガーラ湯沢駅~GALA湯沢スキー場」Googleが提供するストリートビュー] {{上越新幹線}} {{上越線}} {{DEFAULTSORT:かあらゆさわ}} [[Category:新潟県の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 か|あらゆさわ]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本の臨時駅]] [[Category:1990年開業の鉄道駅]] [[Category:上越線|かあらゆさわえき]] [[Category:湯沢町の交通|かあらゆさわえき]] [[Category:上越新幹線|かあらゆさわえき]] [[Category:湯沢町の建築物|かあらゆさわえき]]
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越後湯沢駅
越後湯沢駅(えちごゆざわえき)は、新潟県南魚沼郡湯沢町大字湯沢主水(もんど)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。 当駅には上越新幹線と在来線の上越線が乗り入れている。 上越新幹線は、当駅からガーラ湯沢駅への支線が分岐している。これは元々保線基地への引き込み線だったものを、ガーラ湯沢スキー場へのアクセス路線として旅客化したもので、スキーシーズンのみの営業である。上越新幹線の列車が乗り入れるが、法律上は上越線の支線であり在来線として扱われる。全区間普通列車のない区間となるが、特急料金不要の特例は適用されない。列車は「たにがわ」が当駅始発・終着(スキーシーズンには一部ガーラ湯沢駅まで延長運行)で運行され、「とき」の一部列車が停車する。かつては観光列車(ジョイフルトレイン)「現美新幹線」が当駅始発・終着で運行された。 また、六日町駅を起点とする北越急行ほくほく線の列車の大半が上越線経由で当駅まで直通している。2015年3月13日までは、ほくほく線経由で北陸方面への特急「はくたか」が運転されていた。 事務管理コードは▲301209。 新幹線は中央に通過線2本を挟んだ島式ホーム2面4線を有する高架駅(駅舎3階)、在来線は島式ホーム2面4線と単式ホーム1面1線を有する地上駅(橋上駅)である。ただし、在来線の0番線は頭端式ホームとなっている。 当駅は長岡営業統括センター傘下の直営駅(駅長・副長配置)であり、ガーラ湯沢駅、上越線の土樽駅 - 北堀之内駅間の各駅(直営の浦佐駅除く)および只見線の大白川駅 - 藪神駅間の各駅を管理している。 駅構内には、話せる指定席券売機・タッチパネル式自動券売機・待合室・NewDays(駅入口・新幹線コンコース内)・駅弁屋・立食いそば店などがある。 自動改札機は新幹線改札口と在来線の新幹線のりかえ改札口にのみ設置されており、在来線改札口に限り有人改札となっている。 なお、当駅はJR東日本のICカード「Suica」のサービスエリア外となっており、上越線ではSuicaおよび相互利用サービス対象のICカードは利用できない。 また、上越新幹線では全線で「新幹線eチケットサービス」が利用できる一方、Suica定期券については上毛高原駅 - 長岡駅間はサービスエリア外となっており、当駅発着のFREX定期券は磁気券で発行される。 駅ビル「CoCoLo湯沢」のフロア構成は西口駅舎2階の1フロアのみで、改札外コンコース部の「がんぎどおり」には土産品店・惣菜店・食べ歩き横丁(レストラン)・観光案内所などが軒を連ねる。 コンコース北側に所在する本館フロアは新潟県の名産のひとつである日本酒をメインテーマにした商業施設「ぽんしゅ館」が主要テナントで、県内各地の酒蔵から取り寄せた日本酒や、南魚沼地方の名産品を中心とした県内各地の土産物などが陳列されている。 また地元グルメを提供する飲食コーナーや「ていすてぃんぐGALLERY越乃室」(日本酒試飲コーナー)のほか、越後湯沢温泉の源泉に日本酒を加えたものが使用されている入浴施設「酒風呂 湯の沢」がある。各テナントの詳細は、外部リンク記載の公式サイトを参照。 (出典:JR東日本:駅構内図) かつては石打駅でも駅弁を販売していた川岳軒(在来線コンコース売店)の駅弁が購入できる。また、2007年(平成19年)には歌手の香田晋が、歌曲「越後湯沢駅」を発売し、この歌にちなんで、香田が駅弁の「林道かまめし」の制作を手がけた。主な駅弁は下記の通り。 JR東日本によると、2022年度(令和4年度)の1日平均乗車人員は2,859人である。また、新幹線の1日平均乗車人員は2,774人である。 なお、2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。 周辺は越後湯沢温泉を抱える温泉街の中心地で、旅館・ホテル・マンションが立地する。東口側にはバブル経済期に建設されたリゾートに特化する高層マンションが目立つ。 徒歩圏内のスキー場としては、一本杉スキー場(徒歩3分)、湯沢高原スキー場(徒歩10分)が挙げられる。また、湯沢町歴史民俗資料館 「雪国館」も徒歩圏内である。 徒歩圏外でも、上越線や後述のシャトルバスを利用して多くのスキー場・宿泊施設にアクセスできるほか、町内有数のリゾート苗場スキー場やかぐらスキー場へは、当駅より国道17号経由の路線バスが運行されている。 東口側には商店街や湯沢町役場をはじめとする湯沢町の施設、国土交通省の施設が所在している。 西口側には宿泊施設や地元の日本酒や海、山の幸を揃えた飲食店、呑み屋など多くある。また、西口の駅前広場には足湯が設けられている。 湯沢町内の路線バスは越後交通グループの地域子会社のうち、魚沼地方を中心に路線網を展開する南越後観光バスが各路線の運行を行っている。各路線に英字2文字の路線記号を付与したが、これは停留所にのみ掲載され、バス車体には表示されていない。 越後湯沢駅のバスターミナルは東口側にのみ設けられている。 冬季には東口または西口から以下のスキー場へのアクセスとなるシャトルバスが発着する。スキー場へ直行するもののほか、当駅周辺を含む各施設を周遊するものもある。このうちガーラ湯沢スキー場は、夏季のサマーゲレンデ営業時にはガーラ湯沢駅発着列車の運行がないため、当駅発着の専用シャトルバスがアクセス手段となる。 ※新幹線の停車駅の詳細は各列車記事を参照。
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越後湯沢駅(えちごゆざわえき)は、新潟県南魚沼郡湯沢町大字湯沢主水(もんど)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。
{{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = 越後湯沢駅 |よみがな = えちごゆざわ |ローマ字 = Echigo-Yuzawa |画像 = Echigo-Yuzawa Station 2018.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 西口(2018年7月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|36|56|9.3|N|138|48|34.7|E}}}} |電報略号 = ユワ{{sfn|川島|2010|p=78}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所在地 = [[新潟県]][[南魚沼郡]][[湯沢町]][[大字]]湯沢主水2427-1 |所在地幅 = long |座標 = {{coord|36|56|9.3|N|138|48|34.7|E|region:JP-15_type:railwaystation|display=inline,title}} |開業年月日 = <span style="white-space:nowrap;">[[1925年]]([[大正]]14年)[[11月1日]]{{sfn|川島|2010|p=78}}<ref name="tabitetsu">{{Cite book|和書|title = [[旅と鉄道]]|edition = 2022年3月号増刊|publisher = [[山と渓谷社]]|date = 2022-03-01|page = 72}}</ref></span> |廃止年月日 = |駅構造 = {{Plainlist| * [[高架駅]](新幹線) * [[橋上駅]](在来線)}} |ホーム = {{Plainlist| * 2面4線(新幹線) * 3面5線(在来線)}} |乗車人員 = {{Smaller|(新幹線)-[[2022年]]-}}<br />2,774人/日(降車客含まず)<hr />{{Smaller|(合計)-[[2022年]]-}}<br />2,859 |統計年度 = |乗入路線数 = 4 |所属路線1 = {{color|green|■}}[[上越新幹線]] |前の駅1 = {{Refnest|group="*"|この間に[[東日本旅客鉄道高崎支社|高崎支社]]と[[東日本旅客鉄道新潟支社|新潟支社]]の[[JR支社境|境界]]あり(当駅から浦佐寄りは新潟支社管内)。}}[[上毛高原駅|上毛高原]] |駅間A1 = 47.6 |駅間B1 = 29.7 |次の駅1 = [[浦佐駅|浦佐]] |キロ程1 = 168.9&nbsp;km([[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から199.2 |起点駅1 = |所属路線2 = {{color|green|■}}上越新幹線(支線)<br />(正式には[[上越線]]支線) |前の駅2 = {{Refnest|group="*"|全列車が上越新幹線に直通。}}(上毛高原) |駅間A2 = - |駅間B2 = 1.8 |次の駅2 = [[ガーラ湯沢駅|(臨)ガーラ湯沢]] |キロ程2 = 0.0 |起点駅2 = 越後湯沢 |所属路線3 = {{Color|#00b3e6|■}}[[上越線]]<br />({{Color|#cc3366|■}}[[北越急行]][[北越急行ほくほく線|ほくほく線]]{{Refnest|group="*"|正式な起点駅は[[六日町駅]]であるが、大半の列車が乗り入れ。}}直通含む) |前の駅3 = [[岩原スキー場前駅 |岩原スキー場前]] |駅間A3 = 3.1 |駅間B3 = 6.4 |次の駅3 = [[石打駅|石打]] |キロ程3 = 94.2 |起点駅3 = [[高崎駅|高崎]] |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]) * [[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]設置駅<ref name="StationCd_285" />}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} [[ファイル:JR Joetsu Shinkansen・Joetsu Line Echigo-Yuzawa Station East Exit.jpg|thumb|東口(2021年7月)]] [[ファイル:Jōetsu Shinkansen E7 Series Shinkansen.jpg|thumb|全景(ホテルスポーリア湯沢から撮影)]] [[ファイル:Echigo-Yuzawa, Niigata 2022-08-10.jpg|thumb|駅付近を眺める(2022年8月)]] '''越後湯沢駅'''(えちごゆざわえき)は、[[新潟県]][[南魚沼郡]][[湯沢町]][[大字]]湯沢主水(もんど)にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である。 == 概要 == 当駅には[[上越新幹線]]と在来線の[[上越線]]が乗り入れている{{sfn|川島|2010|p=78}}{{sfn|川島|2010|p=74}}{{sfn|双葉社|2022|p=110}}。 上越新幹線は、当駅から[[ガーラ湯沢駅]]への支線が分岐している{{sfn|双葉社|2022|p=110}}。これは元々保線基地への引き込み線だったものを、[[ガーラ湯沢スキー場]]へのアクセス路線として旅客化したもので、スキーシーズンのみの営業である{{sfn|双葉社|2022|p=110}}。上越新幹線の列車が乗り入れるが、法律上は上越線の支線であり在来線として扱われる{{sfn|双葉社|2022|p=110}}。全区間[[普通列車]]のない区間となるが、[[特別急行券#特急料金不要の特例区間|特急料金不要の特例]]は適用されない。列車は「[[たにがわ (列車)|たにがわ]]」が当駅始発・終着(スキーシーズンには一部ガーラ湯沢駅まで延長運行)で運行され{{sfn|双葉社|2022|p=112-113}}、「[[とき (列車)|とき]]」の一部列車が停車する{{sfn|双葉社|2022|p=112-113}}。かつては[[観光列車]]([[ジョイフルトレイン]])「[[現美新幹線]]」が当駅始発・終着で運行された{{sfn|双葉社|2022|p=125}}<ref>{{Cite news|url = https://www.yomiuri.co.jp/national/20201219-OYT1T50166/|title = 世界最速の「動く美術館」ラストラン…「現美新幹線」老朽化で運行終了|newspaper = [[読売新聞オンライン]]|archiveurl = https://web.archive.org/web/20201219231548/https://www.yomiuri.co.jp/national/20201219-OYT1T50166/|date = 2020-12-19|archivedate = 2020-12-19|accessdate = 2022-02-27}}</ref>。 また、[[六日町駅]]を起点とする[[北越急行]][[北越急行ほくほく線|ほくほく線]]の列車の大半が上越線経由で当駅まで直通している<ref>{{Cite web|和書|url = https://news.mynavi.jp/article/20211219-2232955/|title = 北越急行3/12ダイヤ改正、超快速「スノーラビット」上下各1本廃止|website = [[マイナビニュース]]|date = 2021-12-19|accessdate = 2022-02-27}}</ref>。2015年3月13日までは、ほくほく線経由で北陸方面への特急「[[はくたか]]」が運転されていた<ref name="mynavi20140827">{{Cite web|和書|url = https://news.mynavi.jp/article/20140827-a497/|title = 北越急行、在来線特急「はくたか」廃止を発表 - 17年間でのべ4,400万人利用|website = マイナビニュース|date = 2014-08-27|accessdate = 2022-02-27}}</ref>。 [[事務管理コード]]は▲301209<ref>日本国有鉄道旅客局(1984)『鉄道・航路旅客運賃・料金算出表 昭和59年4月20日現行』。</ref>。 == 歴史 == * [[1925年]]([[大正]]14年)[[11月1日]]:上越北線(現在の上越線)[[塩沢駅]] - 当駅間開通時に、駅開業([[一般駅]])<ref>{{Cite web|和書|title=『鉄道省告示第二百三号』官報. 1925年10月23日 - 国立国会図書館デジタルコレクション |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956099/4 |website=dl.ndl.go.jp |access-date=2022-06-27 |language=ja}}</ref>。 * [[1927年]](昭和2年)[[2月9日]]:[[昭和2年豪雪]]により積雪深一丈九尺を記録<ref>高田歩兵連隊が救援に出動『東京日日新聞』昭和2年2月10日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p351 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1931年]]([[昭和]]6年)[[9月1日]]:上越線が[[水上駅]]まで開通し、中間駅となる<ref>{{Cite web|和書|title=『鉄道省告示第二百号』官報. 1931年08月24日 - 国立国会図書館デジタルコレクション |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957864/2 |website=dl.ndl.go.jp |access-date=2022-06-27 |language=ja}}</ref>。 * [[1952年]](昭和27年)[[6月5日]]:ホーム洗面台の裸婦像除幕式挙行<ref>『南魚』昭和27年6月5日読売新聞朝刊4面新潟読売B</ref>。 * [[1957年]](昭和32年)[[12月10日]]:改築駅舎使用開始<ref>『食堂もモダンに 新湯沢駅きょう業務始める』昭和32年12月10日新潟日報夕刊3面</ref>。 * [[1959年]](昭和34年)[[12月]]:地下道完成<ref>『湯沢駅地下道完成』昭和34年12月4日読売新聞朝刊12面新潟読売B</ref>。 * [[1970年]](昭和45年)[[12月15日]]:観光センター開設<ref>『略年表』五十年史、新潟鉄道管理局、P495</ref>。 * [[1978年]](昭和53年)[[6月15日]]:[[車扱貨物]]の取扱を廃止し[[鉄道駅#旅客駅|旅客駅]]となる<ref>日本国有鉄道公示第37号(官報昭和53年6月15日第15424号P16掲載)</ref>。 * [[1982年]](昭和57年) ** [[10月8日]]:新幹線開業に向けた駅舎改修の一部使用開始、西口が供用開始<ref>『西口にも出入り口 上越新幹線 越後湯沢駅が完成』昭和57年10月9日読売新聞新潟</ref>。 ** [[11月15日]]:上越新幹線が開通する{{sfn|双葉社|2022|p=118}}。 * [[1983年]](昭和58年)[[3月]]:[[駅レンタカー]]営業開始する<ref>国鉄監修『交通公社の時刻表』1983年4月号{{要ページ番号|date=2022年2月}}</ref>。 * [[1984年]](昭和59年)[[12月23日]]:「プラトー・ゆざわ」及び「観光鮮魚センター」オープン<ref>『新鉄局、職員5人を関連会社に出向―余剰人員対策で』昭和59年12月1日日本経済新聞地方経済面新潟22面</ref><ref>『新潟駅新幹線上りホーム、そば処五合庵開店へ』昭和59年12月19日日本経済新聞地方経済面新潟22面</ref>。 * [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:[[チッキ|荷物]]の取扱を廃止する<ref>日本国有鉄道公示第181号(官報昭和60年3月12日号外第25号P21掲載)</ref>。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{sfn|双葉社|2022|p=118}}。 * [[1990年]]([[平成]]2年)[[12月20日]]:上越線支線がガーラ湯沢駅まで開通する{{sfn|双葉社|2022|p=118}}。 * [[1997年]](平成9年)[[3月22日]]:北越急行ほくほく線の開業により、上越新幹線に接続する特急列車として、当駅 - [[福井駅 (福井県)|福井駅]]・[[金沢駅]]・[[和倉温泉駅]]間で「はくたか」が運転を開始する<ref name="mynavi20140827"/>。 * [[1999年]](平成11年)4月:新幹線で[[自動改札機]]の供用を開始<ref>{{Cite news |和書|title=スムーズ乗降に威力 JR新潟支社 新幹線新潟駅に自動改札機 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1999-01-12 |page=3 }}</ref>。 * [[2004年]](平成16年)[[10月1日]]:JR東日本新潟支社管内の駅ビルを運営するトッキー・越後ステーション開発の合併に伴い、駅ビルの愛称を「プラトーゆざわ」から「CoCoLo湯沢」に改称<ref>『新潟・長岡・越後湯沢、駅ビル新名称、「CoCoLo」に』平成16年9月9日日本経済新聞地方経済面新潟22面</ref>。 * [[2009年]](平成21年) ** [[7月17日]]:1階コンコースを改修、CoCoLo湯沢がんぎどおりをオープンし増床する<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2009/20090708.pdf|title=越後湯沢駅があたらしく生まれ変わります|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2009-07-15|accessdate=2020-05-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200522160326/https://www.jreast.co.jp/press/2009/20090708.pdf|archivedate=2020-05-23}}</ref>。 ** [[12月19日]]:CoCoLo湯沢がんぎどおりを増床しグランドオープンする<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2009/20091203.pdf|title=「地域再発見」プロジェクト第二弾! 越後湯沢駅が地域観光の玄関口にふさわしい駅としてグランドオープン JR東日本はこの冬、越後湯沢駅と周辺エリアを地域の方々と一緒に盛り上げます!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2009-12-04|accessdate=2020-05-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200522160612/https://www.jreast.co.jp/press/2009/20091203.pdf|archivedate=2020-05-23}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年)[[7月14日]]:CoCoLo湯沢がリニューアルオープンする<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/youran/pdf/2014-2015/jre_youran_group_p62.pdf |title=地域再発見プロジェクト |access-date=2022-06-28 |publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年) ** [[3月14日]]:[[北陸新幹線]][[長野駅]] - 金沢駅間延伸開業に伴い、ほくほく線経由の特急「はくたか」が廃止<ref name="mynavi20140827"/>。これにより、当駅を通る定期運転の在来線特急がすべて消滅した。 ** [[3月27日]]:[[びゅうプラザ]]の営業を終了。 * [[2020年]]([[令和]]2年)3月14日:[[えきねっと#新幹線eチケットサービス|新幹線eチケットサービス]]開始<ref group="報道" name="press/20200204_ho01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|title=「新幹線eチケットサービス」が始まります!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道、北海道旅客鉄道、西日本旅客鉄道|date=2020-02-04|accessdate=2020-05-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200524140435/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|archivedate=2020-05-24}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年)3月13日:[[タッチでGo!新幹線]]のサービスを開始<ref group="報道" name="press/20201112_ho01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho01.pdf|title=タッチでGo!新幹線 サービスエリア拡大について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-11-12|accessdate=2020-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201113025314/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho01.pdf|archivedate=2020-11-13}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|ただし、当駅で浦佐方面・ガーラ湯沢方面相互間を乗り継いで利用する場合は対象外となる<ref group="報道" name="press/20201112_ho01" />。}}。 * [[2022年]](令和4年) ** [[2月28日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref name="StationCd_285">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=285|title=駅の情報(越後湯沢駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2022-02-01|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220201114459/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=285|archivedate=2022-02-01}}</ref>。 ** [[3月1日]]:[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]を導入<ref name="StationCd_285" />。 == 駅構造 == === 駅構内 === 新幹線は中央に通過線2本を挟んだ[[プラットホーム|島式ホーム]]2面4線{{sfn|川島|2010|p=40}}{{sfn|双葉社|2022|p=111}}を有する[[高架駅]](駅舎3階){{sfn|川島|2010|p=74}}、在来線は島式ホーム2面4線と[[プラットホーム|単式ホーム]]1面1線{{sfn|川島|2010|p=40}}を有する[[地上駅]]([[橋上駅]])である{{sfn|川島|2010|p=78}}。ただし、在来線の0番線は[[頭端式ホーム]]となっている{{sfn|川島|2010|p=40}}。 当駅は長岡営業統括センター傘下の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[駅長]]・副長配置)であり、[[ガーラ湯沢駅]]、上越線[[土樽駅]] - [[北堀之内駅]]間の各駅(直営の[[浦佐駅]]除く)及び[[只見線]][[大白川駅]] - [[藪神駅]]間の各駅を管理している。 駅構内には、[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]・タッチパネル式[[自動券売機]]・待合室・[[NewDays]](駅入口・新幹線コンコース内)・駅弁屋・立食いそば店などがある<ref name="StationCd_285" />。 [[自動改札機]]は新幹線改札口と在来線の新幹線乗換改札口にのみ設置されており、在来線改札口に限り有人改札となっている。 なお、当駅はJR東日本の[[乗車カード|ICカード]]「[[Suica]]」のサービスエリア外となっており、上越線ではSuica及び[[交通系ICカード全国相互利用サービス|相互利用サービス]]対象のICカードは利用出来ない。 また、上越新幹線では全線で「[[えきねっと#新幹線eチケットサービス|新幹線eチケットサービス]]」が利用出来る<ref group="報道" name="press/20200204_ho01" />一方、Suica[[定期乗車券|定期券]]については[[上毛高原駅]] - [[長岡駅]]間はサービスエリア外となっており、当駅発着のFREX定期券は磁気券で発行される。 === 駅ビル === [[駅ビル]]「[[CoCoLo|CoCoLo湯沢]]」のフロア構成は西口駅舎2階の1フロアのみで、改札外コンコース部の「がんぎどおり」には土産品店・惣菜店・食べ歩き横丁(レストラン)・観光案内所などが軒を連ねる。 コンコース北側に所在する本館フロアは新潟県の名産の一つである[[日本酒]]をメインテーマにした商業施設「ぽんしゅ館」が主要テナントで、県内各地の酒蔵から取り寄せた日本酒や、南魚沼地方の名産品を中心とした県内各地の土産物などが陳列されている<ref name="tabitetsu"/><ref>[https://niigata-kankou.or.jp/spot/7110 にいがた観光ナビ 越後のお酒ミュージアム ぽんしゅ館 越後湯沢店] - 新潟県観光協会</ref>。 また地元グルメを提供する飲食コーナーや「ていすてぃんぐGALLERY越乃室」(日本酒試飲コーナー)のほか、[[越後湯沢温泉]]の源泉に日本酒を加えたものが使用されている入浴施設「酒風呂 湯の沢」がある<ref>[https://www.e-yuzawa.gr.jp/sys/hotspring_p/%E9%A7%85%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%B8%A9%E6%B3%89%EF%BC%88%E9%85%92%E9%A2%A8%E5%91%82%E6%B9%AF%E3%81%AE%E6%B2%A2%EF%BC%89/ 越後湯沢観光NAVI 駅の中の温泉(酒風呂湯の沢)] - 湯沢町観光まちづくり機構</ref>。各テナントの詳細は、外部リンク記載の公式サイトを参照。 === のりば === {| class="wikitable" rules="rows" !番線!!路線!!方向!!行先!!備考 |- |colspan="5" style="background-color:#eee; border-top:solid 3px #999;"|'''在来線''' |- ! 0 |{{Color|#cc3366|■}}ほくほく線 |align="center"|- |[[六日町駅|六日町]]・[[十日町駅|十日町]]・[[犀潟駅|犀潟]]・[[直江津駅|直江津]]方面 |一部列車は2番線発着 |- ! 1 |rowspan=2|{{Color|#00b3e6|■}}上越線 |align="center"|下り |六日町・[[小出駅|小出]]・[[長岡駅|長岡]]方面 |一部列車は2・3番線発着 |- ! 2・3 |align="center"|上り |[[越後中里駅|越後中里]]・[[水上駅|水上]]方面 |&nbsp; |- !4 |colspan=4 | (予備ホーム) |- |colspan="5" style="background-color:#eee; border-top:solid 3px #999;"|'''新幹線(越後湯沢 - ガーラ湯沢間は正式には上越線支線)''' |- !11・12 |rowspan=2|[[File:Shinkansen jre.svg|17px]] 上越新幹線 |align="center"|下り |[[新潟駅|新潟]]・[[ガーラ湯沢駅|ガーラ湯沢]]方面<ref name="timetable/list0285">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast-timetable.jp/timetable/list0285.html|title=時刻表 越後湯沢駅|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-08-09}}</ref> |当駅始発は14番線から発車 |- !13・14 |align="center"|上り |[[高崎駅|高崎]]・[[東京駅|東京]]方面<ref name="timetable/list0285" /> |一部の当駅始発は11・12番線から発車 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/285.html JR東日本:駅構内図]) <gallery caption="駅ビルおよび改札口" widths="180" style="font-size:90%;"> JR Joetsu Shinkansen・Joetsu Line Echigo-Yuzawa Station CoCoLo Yuzawa.jpg|CoCoLo湯沢 JR Joetsu Shinkansen・Joetsu Line Echigo-Yuzawa Station Visitor Center.jpg|ビジターセンター JR East Echigo-Yuzawa Station Ticket Counter.jpg|切符売り場 JR East Echigo-Yuzawa Station Shinkansen Gate and JR Line Gate 20221218.jpg|新幹線改札口(右)・在来線改札口(左) JR East Echigo-Yuzawa Station Transfer Gate and JR Line Gate 20221218.jpg|のりかえ口(左)と在来線改札口(右) </gallery> <gallery caption="ホーム" widths="180" style="font-size:90%;"> JRE Echigo-Yuzawa-STA Platform0-1.jpg|ほくほく線0番線・上越線下り1番線ホーム JR East Echigo-Yuzawa Station JR Line Platform 2 - 4 20221219.jpg|上越線上り線2・3番線、4番線予備ホーム JRE Echigo-Yuzawa-STA Platform11-12.jpg|新幹線11・12番線ホーム JRE Echigo-Yuzawa-STA Platform13-14.jpg|新幹線13・14番線ホーム </gallery> == 駅弁 == かつては[[石打駅]]でも駅弁を販売していた川岳軒(在来線コンコース売店)の駅弁が購入できる。また、[[2007年]]([[平成]]19年)には[[歌手]]の[[香田晋]]が、歌曲「越後湯沢駅」を発売し、この歌にちなんで、香田が[[駅弁]]の「林道かまめし」の制作を手掛けた。主な駅弁は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=91,568}}</ref>。 {{Div col||20em}} * いくらたらこめし * 牛〜っとこしひかり * [[越後もち豚|越後もちぶた]]すきすき弁当 * 越後林道釜めし(パッケージの文字は香田晋の自筆によるものである。) * 駒子弁当 * 特製かにずし * ほくほく弁当 * 雪国弁当 * くるみ山菜ずし {{Div col end}} == 利用状況 == JR東日本によると、2022年度(令和4年度)の1日平均乗車人員は'''2,859人'''である<ref group="利用客数" name="passenger/2022_04" />。また、新幹線の1日平均乗車人員は'''2,774人'''である<ref group="新幹線" name="passenger/2022_shinkansen" />。 なお、2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。 {| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;" |- style="background: #ddd;" !colspan="3"|1日平均乗車人員推移 |- !年度 !計 !新幹線 |- |2000年(平成12年) |3,170<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2000_02.html|title=各駅の乗車人員(2000年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |&nbsp; |- |2001年(平成13年) |3,068<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2001_02.html|title=各駅の乗車人員(2001年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |&nbsp; |- |2002年(平成14年) |3,032<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2002_02.html|title=各駅の乗車人員(2002年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |&nbsp; |- |2003年(平成15年) |3,042<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2003_02.html|title=各駅の乗車人員(2003年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |&nbsp; |- |2004年(平成16年) |2,818<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2004_02.html|title=各駅の乗車人員(2004年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |&nbsp; |- |2005年(平成17年) |2,760<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2005_02.html|title=各駅の乗車人員(2005年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |&nbsp; |- |2006年(平成18年) |2,660<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2006_02.html|title=各駅の乗車人員(2006年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |&nbsp; |- |2007年(平成19年) |2,861<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2007_02.html|title=各駅の乗車人員(2007年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |&nbsp; |- |2008年(平成20年) |2,811<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2008_02.html|title=各駅の乗車人員(2008年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |&nbsp; |- |2009年(平成21年) |2,936<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2009_02.html|title=各駅の乗車人員(2009年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |&nbsp; |- |2010年(平成22年) |2,745<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2010_02.html|title=各駅の乗車人員(2010年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |&nbsp; |- |2011年(平成23年) |2,729<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2011_02.html|title=各駅の乗車人員(2011年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |&nbsp; |- |2012年(平成24年) |3,006<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_04.html|title=各駅の乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |6,872<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2013年(平成25年) |3,050<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_04.html|title=各駅の乗車人員(2013年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |7,107<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2013年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2014年(平成26年) |3,086<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_04.html|title=各駅の乗車人員(2014年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |6,899<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2014年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2015年(平成27年) |2,905<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_04.html|title=各駅の乗車人員(2015年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |3,133<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2015年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2016年(平成28年) |2,996<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_04.html|title=各駅の乗車人員(2016年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |3,209<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2016年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2017年(平成29年) |3,059<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_04.html|title=各駅の乗車人員(2017年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |3,247<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2017年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-04-11}}</ref> |- |2018年(平成30年) |3,104<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2018_04.html|title=各駅の乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-09}}</ref> |3,247<ref group="新幹線">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2018_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-09}}</ref> |- |2019年(令和元年) |2,857<ref group="利用客数" name="passenger/2019_04">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2019_04.html|title=各駅の乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-07-11}}</ref> |2,845<ref group="新幹線" name="passenger/2019_shinkansen">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2019_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-07-11}}</ref>{{sfn|双葉社|2022|p=145}} |- |2020年(令和{{0}}2年) |1,417<ref group="利用客数" name="passenger/2020_05">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2020_05.html|title=各駅の乗車人員(2020年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref> |1,295<ref group="新幹線" name="passenger/2020_shinkansen">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2020_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2020年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |2,028<ref group="利用客数" name="passenger/2021_04">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2021_04.html|title=各駅の乗車人員(2021年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-02}}</ref> |2,067<ref group="新幹線" name="passenger/2021_shinkansen">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2021_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2021年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-02}}</ref> |- |2022年(令和{{0}}4年) |2,859<ref group="利用客数" name="passenger/2022_04">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2022_04.html|title=各駅の乗車人員(2022年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-11}}</ref> |2,774<ref group="新幹線" name="passenger/2022_shinkansen">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2022_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2022年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-11}}</ref> |} == 駅周辺 == 周辺は[[越後湯沢温泉]]を抱える温泉街の中心地で、旅館・ホテル・マンションが立地する。東口側には[[バブル経済]]期に建設された[[リゾート]]に特化する高層マンションが目立つ。 徒歩圏内のスキー場としては、[http://www.ipponsugi.net/ 一本杉スキー場](徒歩3分)、[[湯沢高原スキー場]](徒歩10分)が挙げられる。また、[[湯沢町歴史民俗資料館 「雪国館」]]も徒歩圏内である。 徒歩圏外でも、上越線や後述のシャトルバスを利用して多くのスキー場・宿泊施設にアクセスできるほか、町内有数のリゾート[[苗場スキー場]]や[[かぐらスキー場]]へは、当駅より[[国道17号]]経由の路線バスが運行されている。 ; 東京都湯沢町 : [[首都圏 (日本)|首都圏]]からの交通アクセスが良いことから、[[リゾートマンション]]の部屋を保有する東京都などの首都圏在住者が週末を中心に多く滞在するために、「東京都湯沢町」ともいわれる<ref>[http://www.town.yuzawa.niigata.jp/pcp_portal/contents?CONTENTS_ID=1314 湯沢町史のご案内] - 湯沢町</ref><ref group="注釈">地方紙の[[新潟日報]]では、当時リゾート地開発が急速に進捗していた湯沢町をテーマにした「東京都湯沢町」を[[1988年]]12月から[[1989年]]6月にかけて、[[バブル経済]]崩壊後の湯沢町をテーマにした「東京都湯沢町は今」を[[1994年]]に、それぞれ朝刊の連載企画として掲載している。</ref>。冬以外は温泉を初めとして、釣り、ゴルフ利用者が見られ、近年は冬季には[[スノーボード]]愛好家が目立つようになった([[湯沢町#概要]]も参照)。逆に当駅周辺から東京都内へ新幹線で通勤する人も若干見られる。 === 東口 === 東口側には商店街や湯沢町役場を始めとする湯沢町の施設、[[国土交通省]]の施設が所在している。 === 西口 === 西口側には宿泊施設や地元の日本酒や海、山の幸を揃えた飲食店、呑み屋など多くある。また、西口の駅前広場には[[足湯]]が設けられている<ref name="tabitetsu"/>。 == バス == === 路線バス === [[ファイル:Echigo-Yuzawa Station 20191209.jpg|thumb|東口バスロータリー(融雪用スプリンクラーが噴き出ている)]] 湯沢町内の[[路線バス]]は[[越後交通]]グループの地域子会社のうち、魚沼地方を中心に路線網を展開する[[南越後観光バス]]が各路線の運行を行っている<ref>[http://www.minamiechigo.co.jp/ 南越後観光バス] - 南越後観光バス.2018年11月11日閲覧。</ref><ref name="nori20190216">{{Cite web|和書|url = https://trafficnews.jp/post/83391|title = 越後湯沢から「JR積雪最高地点」へ 豪雪地帯の生活を支える県境越え路線バス|website = 乗りものニュース|date = 2019-02-16|accessdate = 2022-02-27}}</ref>。各路線に英字2文字の路線記号を付与したが<ref>{{Cite web|和書|url=http://snow-country.jp/corp/corp_20130429231256_15022000_1367244776.pdf|format=PDF|title=「誰でも安心して旅行できる」 バス停記号の便利な使い方|website=雪国観光圏推進協議会|accessdate=2023-09-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160408195545/http://snow-country.jp/corp/corp_20130429231256_15022000_1367244776.pdf|archivedate=2016-04-08}}</ref>、これは停留所にのみ掲載され、バス車体には表示されていない。 越後湯沢駅のバスターミナルは東口側にのみ設けられている。 ; 南越後観光バス「湯沢駅前」 * MY:六日町車庫行 * YS:【急行】[[森宮野原駅]]行 - 当駅始発で唯一県外に運行される路線バスである<ref name="nori20190216"/>。 * YT:土樽行 * YD:旭原・[[大源太山 (新潟県)|大源太キャニオン]]行 * YN:[[苗場スキー場]]・[[苗場プリンスホテル]]行 ※冬季は追加で[[かぐらスキー場]](みつまた・田代)および苗場スキー場への急行バス運転 * 直行:[[上越国際スキー場]]行 - 冬季運行 === シャトルバス === 冬季には東口または西口から以下のスキー場へのアクセスとなるシャトルバスが発着する。スキー場へ直行するもののほか、当駅周辺を含む各施設を周遊するものもある。このうちガーラ湯沢スキー場は、夏季のサマーゲレンデ営業時には[[ガーラ湯沢駅]]発着列車の運行がないため、当駅発着の専用シャトルバスがアクセス手段となる。 * [[NASPAスキーガーデン]]・[[湯沢高原スキー場]]・[[ガーラ湯沢スキー場]]<ref group="ski">[https://gala.co.jp/winter/access_bus.html NASPA・湯沢高原・GALA・シャトルバス時刻表] - GALA湯沢スキー場.2018年11月11日閲覧。</ref> * [[石打丸山スキー場]]<ref group="ski">[http://ishiuchi.or.jp/access/ アクセス] - 石打丸山スキー場.2018年11月11日閲覧。</ref> * [[舞子スノーリゾート]]<ref group="ski">[https://www.maiko-resort.com/access/bus.html シャトルバス] - 舞子スノーリゾート.2018年11月11日閲覧。</ref> * [[上越国際スキー場]]<ref group="ski">[https://www.jkokusai.co.jp/access/bus 送迎バスのご案内] - ホテル グリーンプラザ上越.2018年11月11日閲覧。</ref> * [http://www.chateau-shiozawa.jp/ シャトー塩沢スキー場(一本杉・吉里)]<ref group="ski">[http://www.chateau-shiozawa.jp/?page_id=45 交通のご案内] - シャトーテル塩沢.2018年11月11日閲覧。</ref> * [[六日町八海山スキー場]]<ref group="ski">[http://www2.princehotels.co.jp/ski/hakkaisan/access/ アクセス] - 六日町 八海山スキー場.2018年11月11日閲覧。</ref> * [[ベルナティオ|あてま高原リゾート ベルナティオ]]<ref group="ski">[https://www.belnatio.com/access/ アクセス] - あてま高原リゾート ベルナティオ.2018年11月11日閲覧。</ref> * [[ニュー・グリーンピア津南]]<ref group="ski">[https://new-greenpia.com/access_top/ アクセス] - ニュー・グリーンピア津南.2018年11月11日閲覧。</ref> * [[神立高原スキー場]]<ref group="ski">[http://www.kandatsu.com/access アクセス] - 神立高原スキー場.2018年11月11日閲覧。</ref> * [[岩原スキー場]]<ref group="ski">[http://iwa-ppara.com/access アクセス] - 岩原スキー場.2018年11月11日閲覧。</ref> * [[湯沢中里スノーリゾート]]<ref group="ski">[https://www.yuzawa-nakazato.com/winter/access/ アクセス] - 越後中里スノーリゾート.2018年11月11日閲覧。</ref> * ホテル [[エンゼルグランディア越後中里]](中里スノーウッドスキー場)<ref group="ski">[https://www.angel-g.co.jp/access/ 交通アクセスのご案内] - 神立高原スキー場.2018年11月11日閲覧。</ref> * 湯沢パークスキー場<ref group="ski">[http://park-resort.com/access/index.html アクセス] - 湯沢パークリゾート.2018年11月11日閲覧。</ref> == 隣の駅 == ※新幹線の停車駅の詳細は各列車記事を参照。 ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:Shinkansen jre.svg|17px]]上越新幹線 :: [[上毛高原駅]] - '''越後湯沢駅''' - [[浦佐駅]] : [[File:Shinkansen jre.svg|17px]]上越新幹線支線<ref>正式には上越線の支線</ref>(冬季のみ運転) :: (本線上毛高原方面) - '''越後湯沢駅''' - [[ガーラ湯沢駅]] : {{Color|#00b3e6|■}}上越線 :* 臨時快速「[[越乃Shu*Kura|ゆざわShu*Kura]]」発着駅 :: [[岩原スキー場前駅]] - '''越後湯沢駅''' - [[石打駅]] ; 北越急行 : {{Color|#cc3366|■}}ほくほく線(当駅 - 六日町駅間JR上越線) :: '''越後湯沢駅''' - (一部[[塩沢駅]]) - [[六日町駅]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} ==== スキー場関連 ==== {{Reflist|group="ski"|2}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"}} === 利用状況 === {{Reflist|group="利用客数"|3}} ==== 新幹線 ==== {{Reflist|group="新幹線"|3}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title = 【図説】日本の鉄道 中部ライン 全線・全駅・全配線 第8巻 糸魚川駅 - 新潟エリア|author = [[川島令三]]|publisher = [[講談社]]|date = 2010-11-20|isbn = 978-4-06-270068-9|ref = {{sfnref|川島|2010}} }} * {{Cite book|和書|title = 全国新幹線完全ガイド|publisher = [[双葉社]]|date = 2022-01-14|isbn = 978-4-575-45900-5|ref = {{sfnref|双葉社|2022}} }} == 関連項目 == {{commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[香田晋]] - 同名の曲を2007年に発表している。 == 外部リンク == ; 越後湯沢駅関連 * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=285|name=越後湯沢}} * [https://www.tv-asahi.co.jp/ekimae/backnumber/0145/ あなたの駅前物語 越後湯沢駅(新潟県)] - テレビ朝日 ; CoCoLo湯沢関連 * [https://jenic.jp/cocolo/?sc_name=yuzawa CoCoLo湯沢・がんぎどおり] - JR東日本新潟シティクリエイト * {{Twitter|cocoloyuzawa|CoCoLo湯沢}} * [https://www.ponshukan.com/yuzawa/ ぽんしゅ館 越後湯沢驛店] <!-- 周辺地図のリンク記載は不要 --> {{上越新幹線}} {{上越線}} {{北越急行ほくほく線}} {{DEFAULTSORT:えちこゆさわ}} [[Category:新潟県の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 え|ちこゆさわ]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:1925年開業の鉄道駅]] [[Category:上越線|えちこゆさわえき]] [[Category:上越新幹線|えちこゆさわえき]] [[Category:湯沢町の交通|えちこゆさわえき]] [[Category:日帰り入浴施設|駅 えちこゆさわ]] [[Category:湯沢町の建築物|えちこゆさわえき]]
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真理値
真理値(しんりち、英: truth value)は、命題論理などの命題の真偽を示す値である。英語のTrueとFalseから、真に対してT、偽に対してFという記号をあてることもある。論理値 (logical value) も同じ。排中律に則った古典論理(2値論理)では真か偽かの二値(バイナリー)をとることから真偽値ともいうが、非古典論理などで多値論理における「真らしさ」の値も(真と偽以外の値にもなる)真理値である。 コンピュータプログラミング言語などのデータ型では、真理値のような型として真理値型(真偽値型、ブーリアン型などとも)があるものがある。関係演算子の結果などがブーリアン型であり、さらに論理演算子などで組み合わせることができ、それをif文などの制御構造や、条件演算子などで使用できる。
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{{出典の明記|date=2015年5月}} '''真理値'''(しんりち、{{lang-en-short|truth value}})は、[[命題論理]]などの[[命題]]の真偽を示す値である。英語のTrueとFalseから、真に対して''T''、偽に対して''F''という記号をあてることもある。'''論理値''' (logical value) も同じ。[[排中律]]に則った[[古典論理]](2値論理)では真か偽かの二値([[バイナリー]])をとることから'''真偽値'''ともいうが、[[非古典論理]]などで[[多値論理]]における「真らしさ」の値も(真と偽以外の値にもなる)真理値である。 コンピュータ[[プログラミング言語]]などの[[データ型]]では、真理値のような型として'''真理値型'''('''真偽値型'''、[[ブーリアン型]]などとも)があるものがある<ref group="注釈">無いものもある。[[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]では、<code>true</code>は<code>TrueClass</code>、<code>false</code>は<code>FalseClass</code>だが、共通の直接の親クラスとなる<code>Boolean</code>のようなクラスは無い。[[C言語]]では([[C99]]では追加されたが)伝統的にはintで代用される。</ref>。[[関係演算子]]の結果などがブーリアン型であり、さらに[[論理演算子]]などで組み合わせることができ、それを[[if文]]などの[[制御構造]]や、[[条件演算子]]などで使用できる。 == 関連項目 == * [[ブール代数]]・[[ブール論理]]・[[ブール領域]] * [[論理式 (数学)|論理式]] * [[真理値表]] * [[真理関数]] * [[ディジタル回路]]・正論理と[[負論理]] * [[3値論理]] * [[ファジィ論理]] * [[ブーリアン型]] * [[推論]] * [[恒真式]]([[トートロジー]]) ==脚注== === 注釈 === {{Notelist}} {{デフォルトソート:しんりち}} [[Category:論理学の概念]] [[Category:命題]] [[Category:真理]] [[Category:価値]] [[Category:認識論]] [[Category:数学に関する記事]]
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華厳宗
華厳宗(けごんしゅう)は、中国大乗仏教の宗派のひとつであり、杜順を開祖とする。『大方広仏華厳経』(『華厳経』)を所依の経典として、独自の教学体系を立てた宗派である。日本、韓国、ベトナムにも広まった。 日本仏教における華厳宗は、審祥により736年に伝えられた。南都六宗の一つ。東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立された。 華厳宗の本尊は、歴史上の仏を超えた絶対的な毘盧遮那仏と一体になっている。菩薩の修行の階梯を説いた「十地品」、善財童子の遍歴を描いた「入法界品」などが有名。東大寺の大仏も本経の教主・毘盧舎那仏であり、日本仏教の黎明期に重用されたが、大乗仏教の中でも独特の教学を持つため宗勢は徐々に衰えていった。 開祖は杜順(557年-640年)、第2祖は智儼(602年-668年)、第3祖は法蔵(643年-712年)、第4祖は澄観(738年-839年)、第5祖は宗密(780年-839年)と相承されている。この中国の五祖の前に、2世紀頃のインドの馬鳴(アシュヴァゴーシャ)と龍樹(ナーガールジュナ)を加えて七祖とすることもある。また朝鮮半島(古代新羅)にも伝わり、義湘によって広められる。 日本における華厳宗は、第3祖法蔵門下の審祥によって736年に伝えられた。金鐘寺(後の東大寺)の良弁の招きを受けた審祥は、この寺において『華厳経』・『梵網経』に基づく講義を行い、その思想が反映されて東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立(743年-749年)された。鎌倉仏教期には、明恵によって密教思想が取り込まれ、さらに凝然による教学の確立がなされている。法相宗や律宗と並ぶ、南都六宗の一つで、十三宗五十六派の一つである。 時代的にも地域的にも広範なので、様々な変容がある。 華厳思想の中心になるのは、この世界の実相は個別具体的な事物が、相互に関係しあい(相即相入)無限に重なりあっているという考え方(重々無尽の縁起)である。この実相を4つの見方「四法界」に分ける。我々の通常のものの見方は事法界で、無自性・空の見方の理法界は仏の世界である。この両者を止揚した無自性・空の世界と具体的個物や現象が妨げあわず共存する理事無礙法界が、修行をすると顕れるが、これは天台の考え方で理と事を分けている点が不徹底である。この分裂をなくせば、最後に、理すなわち無自性・空も消え去り、ただ事物と事物が融通無碍に共存する事々無礙法界という仏の見方に到達し、これが本来の真実一如の世界である。 また、華厳では仏の立場になって見るので、三性説もまた唯識とは逆に、仏の側から順に円成実性、依他起性、遍計所執性と説かれる。 仏になることを目的とするのではなく、最初から仏の立場に自分を置いて考え、行動することを求めるのが華厳思想であるから、華厳経の一部の十地品に説かれるとおり、菩薩初地で信不退転となれば、あとは菩薩第十地までは自ずから到達するはずで、結局菩薩の初心にあるべき金剛の信が決定的に重要だと考える。 仏性についての考え方では天台宗が性具説を説き凡夫が次第に修行によって自らに十分備わっていない外来の仏性に救いとられて、目覚めさせられて行くと説くのに対し、華厳宗では性起説を説き、もともと衆生には円満な仏性が備わっているという如来蔵の考え方をとり、それが信じられず自覚しようとしないので迷うのだと考える。 天台宗の教相判釈(経典の内容を分析し、成立の順序や内容の高低を判定する)・五時八教の教判(天台大師智顗による)では、華厳経は最初に説かれ、仏のさとったままの言葉を記したもので、凡夫には理解しがたいものとしている。
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華厳宗(けごんしゅう)は、中国大乗仏教の宗派のひとつであり、杜順を開祖とする。『大方広仏華厳経』(『華厳経』)を所依の経典として、独自の教学体系を立てた宗派である。日本、韓国、ベトナムにも広まった。 日本仏教における華厳宗は、審祥により736年に伝えられた。南都六宗の一つ。東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立された。 華厳宗の本尊は、歴史上の仏を超えた絶対的な毘盧遮那仏と一体になっている。菩薩の修行の階梯を説いた「十地品」、善財童子の遍歴を描いた「入法界品」などが有名。東大寺の大仏も本経の教主・毘盧舎那仏であり、日本仏教の黎明期に重用されたが、大乗仏教の中でも独特の教学を持つため宗勢は徐々に衰えていった。
{{参照方法|date=2011年9月}} [[File:Dazu.jpg|thumb|right|280px|[[大足石刻]]の華厳三聖像(世界遺産)]] {{大乗仏教}} '''華厳宗'''(けごんしゅう)は、[[中国]][[大乗仏教]]の[[宗派]]のひとつであり、[[杜順]]を開祖とする。[[華厳経|『大方広仏華厳経』]](『華厳経』)を所依の経典として、独自の教学体系を立てた宗派である。日本、韓国、ベトナムにも広まった。 [[日本の仏教|日本仏教]]における華厳宗は、[[審祥]]により[[736年]]に伝えられた。[[南都六宗]]の一つ<ref name="コトバンク南都六宗">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E9%83%BD%E5%85%AD%E5%AE%97-108904|title=南都六宗(なんとろくしゅう)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-08-03}}</ref>。[[東大寺盧舎那仏像]](奈良の大仏)が建立された。 華厳宗の本尊は、歴史上の仏を超えた絶対的な[[毘盧遮那仏]]と一体になっている。菩薩の修行の階梯を説いた「十地品」、[[善財童子]]の遍歴を描いた「入法界品」などが有名。東大寺の大仏も本経の教主・毘盧舎那仏であり、[[日本仏教]]の黎明期に重用されたが、大乗仏教の中でも独特の教学を持つため宗勢は徐々に衰えていった<ref group="注">[[仏]]の立場を主観とした世界観や教学が当初は[[朝廷]]に歓迎されたものの、衆生を[[性善説]]的にみる点に於いて合致しなくなったとも考えられる。</ref>。 == 歴史 == 開祖は[[杜順]]([[557年]]-[[640年]])、第2祖は[[智儼]]([[602年]]-[[668年]])、第3祖は[[法蔵 (唐)|法蔵]]([[643年]]-[[712年]])、第4祖は[[澄観]]([[738年]]-[[839年]])、第5祖は[[圭峰宗密|宗密]]([[780年]]-[[839年]])と相承されている。この中国の五祖の前に、2世紀頃のインドの[[馬鳴|馬鳴(アシュヴァゴーシャ)]]と[[龍樹|龍樹(ナーガールジュナ)]]を加えて七祖とすることもある。また[[朝鮮半島]](古代[[新羅]])にも伝わり、[[義湘]]によって広められる。 [[日本]]における華厳宗は、第3祖法蔵門下の[[審祥]]によって[[736年]]に伝えられた。[[東大寺|金鐘寺(後の東大寺)]]の[[良弁]]の招きを受けた審祥は、この寺において『華厳経』・『梵網経』に基づく講義を行い、その思想が反映されて[[東大寺盧舎那仏像]](奈良の大仏)が建立([[743年]]-[[749年]])された。[[鎌倉仏教]]期には、[[明恵]]によって[[密教]]思想が取り込まれ、さらに[[凝然]]による教学の確立がなされている。[[法相宗]]や[[律宗]]と並ぶ、[[南都六宗]]の一つで、[[十三宗五十六派]]の一つである。 == 教学 == 時代的にも地域的にも広範なので、様々な変容がある。 === 重々無尽の縁起 === 華厳思想の中心になるのは、この世界の[[実相]]は個別具体的な事物が、相互に関係しあい([[相即相入]])無限に重なりあっているという考え方([[重々無尽の縁起]])である。この実相を4つの見方「四法界」に分ける。我々の通常のものの見方は事法界で、[[無自性]]・[[空 (仏教)|空]]の見方の理法界は仏の世界である。この両者を止揚した無自性・空の世界と具体的個物や現象が妨げあわず共存する理事無礙法界が、修行をすると顕れるが、これは天台の考え方で理と事を分けている点が不徹底である。この分裂をなくせば、最後に、理すなわち無自性・空も消え去り、ただ事物と事物が融通無碍に共存する事々無礙法界という仏の見方に到達し、これが本来の真実一如の世界である。 また、華厳では仏の立場になって見るので、[[三性説]]もまた[[唯識]]とは逆に、仏の側から順に円成実性、依他起性、遍計所執性と説かれる。 仏になることを目的とするのではなく、最初から仏の立場に自分を置いて考え、行動することを求めるのが華厳思想であるから、華厳経の一部の十地品に説かれるとおり、菩薩初地で信不退転となれば、あとは菩薩第十地までは自ずから到達するはずで、結局菩薩の初心にあるべき金剛の信が決定的に重要だと考える。 === 性起説 === [[仏性]]についての考え方では天台宗が[[性具説]]を説き凡夫が次第に修行によって自らに十分備わっていない外来の仏性に救いとられて、目覚めさせられて行くと説くのに対し、華厳宗では[[性起説]]を説き、もともと衆生には円満な仏性が備わっているという如来蔵の考え方をとり、それが信じられず自覚しようとしないので迷うのだと考える。 === 華厳経の位置づけ === [[天台宗]]の[[教相判釈]](経典の内容を分析し、成立の順序や内容の高低を判定する)・[[五時八教]]の教判(天台大師[[智顗]]による)では、華厳経は最初に説かれ、仏のさとったままの言葉を記したもので、[[凡夫]]には理解しがたいものとしている。 ==著名な管長== {{Main|東大寺}} *[[清水公照]] *[[平岡定海]] *[[森本公誠]] *[[狹川普文]] - 現職<ref group="注"> 2期目、任期は2022年迄。再任は下記の清水公照以来。</ref><ref name= "東大寺で晋山式 再任の佐川別当、大仏殿で報告"> {{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM5X32PDM5XPOMB001.html|title=東大寺で晋山式 再任の佐川別当、大仏殿で報告 -朝日新聞デジタル|publisher=朝日新聞社|accessdate=2019-12-22}}</ref> == 脚注 == === 注釈 === <references group="注" /> === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == <!--加筆に用いた出典を、本文に結びつける形で記載してください--> *江部鴨村「口語全訳華厳経」 復刻 [[国書刊行会]]、元版は戦前に2分冊で刊行 *[[鎌田茂雄]]、[[上山春平]]「無限の世界観・[[華厳]] 仏教の思想6」 角川書店のち[[角川文庫ソフィア]] *鎌田茂雄「華厳の思想」 [[講談社学術文庫]] *[[玉城康四郎]]「華厳入門」 春秋社 *[[竹村牧男]]「華厳とは何か」 [[春秋社]] == 関連項目 == *[[華厳滝]] *[[融通念仏]] == 外部リンク == *[http://www.todaiji.or.jp/ 華厳宗大本山東大寺] *[http://homepage3.nifty.com/huayan/eirei.htm 華厳教海] (HP終了、[https://web.archive.org/web/20160304232903/http://homepage3.nifty.com/huayan/eirei.htm アーカイブ]) {{Buddhism2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けこん}} [[Category:華厳宗|*]] [[Category:伝統宗派]] [[Category:日本の仏教史|+けこんしゆう]]<!--伝統宗派としての歴史の記述。-->
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GNP
GNP(ジーエヌピー)
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GNP(ジーエヌピー) 国民総生産 GNP (商法) - 義理(G)、人情(N)、プレゼント(P)を主体とした販売・営業スタイルのこと。主に生命保険などの保険商品の販売で用いられる。 性的に中立な代名詞。 韓国の政党団体「ハンナラ党」の英語表記"Grand National Party"の略称。
'''GNP'''(ジーエヌピー) *[[国民総生産]] (gross national product) *[[GNP (商法)]] - 義理(G)、人情(N)、プレゼント(P)を主体とした販売・営業スタイルのこと。主に[[生命保険]]などの保険商品の販売で用いられる。 *[[性的に中立な代名詞]] ([[:en:gender-neutral pronoun|gender-neutral pronoun]])。 *韓国の政党団体「[[ハンナラ党]]」の英語表記"'''G'''rand '''N'''ational '''P'''arty"の略称。 {{aimai}} [[Category:頭字語]]
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南柏駅
南柏駅(みなみかしわえき)は、千葉県柏市南柏一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線の駅である。駅番号はJL 27。 東日本旅客鉄道(JR東日本)の常磐線各駅停車が停車する。 駅からの主な動線整備としては駅東口側に各主要施設を結ぶ歩行者デッキ(ペデストリアンデッキ)が整備されている。 1990年代頃までは当駅から西側の線路沿い周辺に小さな商店街があったが、2000年代初頭に大幅な都市再開発が行われ様変わりした。特に駅周辺の区画や道は大きく変わり、南柏駅開業当初からの風景は大きく変わった。フィールズ南柏が立地するところには、かつて住宅展示場があった。流山市との境界が駅西側を通る。 当駅にはJR東日本都市開発運営のミニ駅ビルであるスキップ南柏(skip)、近傍には大型商業施設のフィールズ南柏(生鮮市場TOPなど)、キュア・ラ(Cure・La)、カスミフードスクエア南柏駅前店、ビッグ・エー柏南柏店、京北スーパーアプリス店のほか、雑居ビル・集合住宅など様々な用途の建造物が混在している。 駅周辺にはかつてドラッグストアのマツモトキヨシが多く出店しており、西口徒歩3分の国道6号沿い、東口徒歩3分の千葉銀行向かいにも存在していた。現在もアクロスプラザ流山・光ヶ丘・豊住・中新宿と周辺には多く存在するが、駅前では東口駅前のフィールズ南柏内のみである。フィールズ南柏・アクロスプラザ流山を除き、かつてスーパーマーケット業態の「スーパーマツモトキヨシ」として営業していた建物や土地をドラッグストアに転換したものである。 1953年に駅間距離の長い北小金-柏間の中間駅として設置され、駅西側地区の土地区画整理事業が進められた。東口は開業時に設置されていなかったが、1957年に光ケ丘団地が造成されて以来、南部地区を中心として住宅開発が急速に進み東口開設が要望されていた。1970年2月に南柏駅東口開設期成同盟が設立され、柏市では東口開設を国鉄に請願し、同年9月に承諾された。1971年3月、東口開設の起工式が行われ、橋上化の改築にあわせて1971年12月、東口が開設された。橋上化した時の駅舎は620平方メートルの駅本屋と幅6m、長さ24.5 mの自由通路を整備。 緩行線上に設けられた島式ホーム1面2線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。改札口は1か所。出入口は、東口と西口の2か所がある。改札内外にエスカレーター・エレベーター・トイレ等が新設された。柏駅が管理し、JR東日本ステーションサービスによる業務委託駅である。お客さまサポートコールシステムが導入されており、早朝はインターホンによる案内となる。また、自動券売機、多機能券売機、指定席券売機、Suica対応自動改札機が設置されている。 2019年(平成31年)3月16日のダイヤ改正後からは、駆け込み乗車の減少に効果があることから電車備え付けの発車メロディを使用している。 (出典:JR東日本:駅構内図) 駅ナカ商業施設としてJR東日本都市開発運営のミニ駅ビル「スキップ南柏(skip)」がある。 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は28,943人である。 周辺の駅が減少傾向にある中、当駅は再開発の影響もあり2008年まで増加傾向にあった。2009年度からは微増・微減はあるがほぼ横ばいである。 当駅からの路線バスが光ヶ丘団地や麗澤大学・麗澤中学校・高等学校、東武野田線の新柏駅・増尾駅付近を経由するため、住宅街の駅ではあるが、利用層・利用圏は広い。また、流山市との境に近いため、同市からの利用者もある。 JR東日本および千葉県統計年鑑によると、近年の1日平均乗車人員の推移は以下の通りである。 主に、東口からは柏市光ヶ丘・酒井根、松戸市根木内方面へ、西口からは流山運転免許センター方面への路線バスと、流山市のコミュニティバス「流山ぐりーんバス」が発着する。 西口は駅前広場が狭く、タクシーしか入れないため、バス停留所は徒歩1分程度のビッグ・エー柏南柏店(駅前商店街跡の再開発ビル)前に設置されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "南柏駅(みなみかしわえき)は、千葉県柏市南柏一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線の駅である。駅番号はJL 27。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東日本旅客鉄道(JR東日本)の常磐線各駅停車が停車する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "駅からの主な動線整備としては駅東口側に各主要施設を結ぶ歩行者デッキ(ペデストリアンデッキ)が整備されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1990年代頃までは当駅から西側の線路沿い周辺に小さな商店街があったが、2000年代初頭に大幅な都市再開発が行われ様変わりした。特に駅周辺の区画や道は大きく変わり、南柏駅開業当初からの風景は大きく変わった。フィールズ南柏が立地するところには、かつて住宅展示場があった。流山市との境界が駅西側を通る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当駅にはJR東日本都市開発運営のミニ駅ビルであるスキップ南柏(skip)、近傍には大型商業施設のフィールズ南柏(生鮮市場TOPなど)、キュア・ラ(Cure・La)、カスミフードスクエア南柏駅前店、ビッグ・エー柏南柏店、京北スーパーアプリス店のほか、雑居ビル・集合住宅など様々な用途の建造物が混在している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "駅周辺にはかつてドラッグストアのマツモトキヨシが多く出店しており、西口徒歩3分の国道6号沿い、東口徒歩3分の千葉銀行向かいにも存在していた。現在もアクロスプラザ流山・光ヶ丘・豊住・中新宿と周辺には多く存在するが、駅前では東口駅前のフィールズ南柏内のみである。フィールズ南柏・アクロスプラザ流山を除き、かつてスーパーマーケット業態の「スーパーマツモトキヨシ」として営業していた建物や土地をドラッグストアに転換したものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1953年に駅間距離の長い北小金-柏間の中間駅として設置され、駅西側地区の土地区画整理事業が進められた。東口は開業時に設置されていなかったが、1957年に光ケ丘団地が造成されて以来、南部地区を中心として住宅開発が急速に進み東口開設が要望されていた。1970年2月に南柏駅東口開設期成同盟が設立され、柏市では東口開設を国鉄に請願し、同年9月に承諾された。1971年3月、東口開設の起工式が行われ、橋上化の改築にあわせて1971年12月、東口が開設された。橋上化した時の駅舎は620平方メートルの駅本屋と幅6m、長さ24.5 mの自由通路を整備。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "緩行線上に設けられた島式ホーム1面2線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。改札口は1か所。出入口は、東口と西口の2か所がある。改札内外にエスカレーター・エレベーター・トイレ等が新設された。柏駅が管理し、JR東日本ステーションサービスによる業務委託駅である。お客さまサポートコールシステムが導入されており、早朝はインターホンによる案内となる。また、自動券売機、多機能券売機、指定席券売機、Suica対応自動改札機が設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2019年(平成31年)3月16日のダイヤ改正後からは、駆け込み乗車の減少に効果があることから電車備え付けの発車メロディを使用している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "駅ナカ商業施設としてJR東日本都市開発運営のミニ駅ビル「スキップ南柏(skip)」がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は28,943人である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "周辺の駅が減少傾向にある中、当駅は再開発の影響もあり2008年まで増加傾向にあった。2009年度からは微増・微減はあるがほぼ横ばいである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "当駅からの路線バスが光ヶ丘団地や麗澤大学・麗澤中学校・高等学校、東武野田線の新柏駅・増尾駅付近を経由するため、住宅街の駅ではあるが、利用層・利用圏は広い。また、流山市との境に近いため、同市からの利用者もある。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "JR東日本および千葉県統計年鑑によると、近年の1日平均乗車人員の推移は以下の通りである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "主に、東口からは柏市光ヶ丘・酒井根、松戸市根木内方面へ、西口からは流山運転免許センター方面への路線バスと、流山市のコミュニティバス「流山ぐりーんバス」が発着する。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "西口は駅前広場が狭く、タクシーしか入れないため、バス停留所は徒歩1分程度のビッグ・エー柏南柏店(駅前商店街跡の再開発ビル)前に設置されている。", "title": "バス路線" } ]
南柏駅(みなみかしわえき)は、千葉県柏市南柏一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線の駅である。駅番号はJL 27。
{{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = 南柏駅 |画像 = Minami-Kashiwa-Sta-E.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 東口(2016年6月) |地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|50|40.6|N|139|57|14.9|E}}}} |よみがな = みなみかしわ |ローマ字 = Minami-Kashiwa |副駅名 = |前の駅 = JL 26 [[北小金駅|北小金]] |駅間A = 2.5 |駅間B = 2.4 |次の駅 = [[柏駅#JR東日本|柏]] JL 28 |電報略号 = ミカ |駅番号 = {{駅番号r|JL|27|#808080|1}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#339999|■}}[[常磐緩行線|常磐線(各駅停車)]]<br />(線路名称上は[[常磐線]]) |キロ程 = 24.5&nbsp;km([[日暮里駅|日暮里]]起点)<br />[[綾瀬駅|綾瀬]]から16.8 |起点駅 = |所在地 = [[千葉県]][[柏市]][[南柏]]一丁目1-1 |座標 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|50|40.6|N|139|57|14.9|E|region:JP-12_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 1面2線<ref name="zeneki05">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =05号 上野駅・日光駅・下館駅ほか92駅 |date =2012-09-09 |page =26 }}</ref> |開業年月日 = [[1953年]]([[昭和]]28年)[[10月1日]]<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=426}}</ref> |廃止年月日 = |乗車人員 = 28,943 |乗降人員 = |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]] * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅<ref name="StationCd=1479_230915" />}} }} [[ファイル:Minami-Kashiwa-Sta-W(cropped).jpg|thumb|西口(2016年6月)]] '''南柏駅'''(みなみかしわえき)は、[[千葉県]][[柏市]][[南柏]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[常磐線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JL 27'''。 == 概要 == [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[常磐緩行線|常磐線各駅停車]]が停車する。 駅からの主な動線整備としては駅東口側に各主要施設を結ぶ[[ペデストリアンデッキ|歩行者デッキ]](ペデストリアンデッキ)が整備されている。 [[1990年代]]頃までは当駅から西側の線路沿い周辺に小さな[[商店街]]があったが、[[2000年代]]初頭に大幅な[[都市再開発]]が行われ様変わりした。特に駅周辺の区画や道は大きく変わり、南柏駅開業当初からの風景は大きく変わった。フィールズ南柏が立地するところには、かつて[[住宅展示場]]があった。流山市との境界が駅西側を通る。 当駅には[[JR東日本都市開発]]運営のミニ[[駅ビル]]であるスキップ南柏(skip)、近傍には大型商業施設のフィールズ南柏([[マミーマート|生鮮市場TOP]]など)、キュア・ラ(Cure・La)、[[カスミ]]フードスクエア南柏駅前店、[[ビッグ・エー]]柏南柏店、[[京北スーパー]]アプリス店のほか、[[雑居ビル]]・[[集合住宅]]など様々な用途の[[建造物]]が混在している。 駅周辺にはかつて[[ドラッグストア]]の[[マツモトキヨシ]]が多く出店しており、西口徒歩3分の[[国道6号]]沿い、東口徒歩3分の[[千葉銀行]]向かいにも存在していた。現在もアクロスプラザ流山・光ヶ丘・[[豊住 (柏市)|豊住]]・中新宿と周辺には多く存在するが、駅前では東口駅前のフィールズ南柏内のみである。フィールズ南柏・アクロスプラザ流山を除き、かつて[[スーパーマーケット]]業態の「スーパーマツモトキヨシ」として営業していた建物や土地をドラッグストアに転換したものである。 == 歴史 == [[1953年]]に駅間距離の長い北小金-柏間の中間駅として設置され、駅西側地区の土地区画整理事業が進められた。東口は開業時に設置されていなかったが、[[1957年]]に光ケ丘団地が造成されて以来、南部地区を中心として住宅開発が急速に進み東口開設が要望されていた。[[1970年]]2月に南柏駅東口開設期成同盟が設立され、柏市では東口開設を国鉄に請願し<ref>広報かしわ、昭和46年4月15日号</ref>、同年9月に承諾された。[[1971年]]3月、東口開設の起工式が行われ、橋上化の改築にあわせて1971年12月、東口が開設された<ref>広報かしわ、昭和46年12月15日号</ref>。橋上化した時の駅舎は620平方メートルの駅本屋と幅6m、長さ24.5&nbsp;mの自由通路を整備。 === 年表 === * [[1953年]]([[昭和]]28年)[[10月1日]]:[[日本国有鉄道]]の駅として開業{{R|停車場}}。開業当初は対向式ホーム2面2線の配線で、下りホーム上に今の西口側につながる小さな駅舎があった<ref>南柏駅開業60周年記念写真展</ref>。 * [[1961年]](昭和36年)10月:上りホームの外側(今の東口側)に線路が引かれ、配線が2面3線に変更される。中線の2番線は、通過列車の待避や、当駅折り返しの各駅停車(当時、[[上野駅]] - [[取手駅]]間を運転)用として使用されていた<ref>南柏駅開業70周年記念写真展</ref>。 * [[1970年]](昭和45年)[[4月10日]]:[[帝都高速度交通営団]](当時)[[東京メトロ千代田線|千代田線]]との[[直通運転|相互乗り入れ]]による[[複々線]]化工事のため、1面2線に変更される。このため、当駅での列車待避が不可能となり、ダイヤ改正が実施された。 * [[1971年]](昭和46年) ** [[3月30日]]:東口開設の起工式が行われた。 ** [[4月20日]]:千代田線との相互乗り入れが開始され、当駅に停車する列車は、緩行線の各駅停車のみとなる。 ** [[12月21日]]:橋上駅舎が完成し、東口が新設される<ref>{{Cite news |和書|title=南柏駅の橋上駅舎オープン |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1971-12-26 |page=3 }}</ref>。 * [[1972年]](昭和47年)2月:東口駅前にバス発着場が新設され、これまで西口発着だった光ヶ丘団地方面行きのバスが、東口発着に変更される。この結果、松戸側にあった[[踏切]]が廃止される。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}。 * [[1992年]]([[平成]]4年)[[12月11日]]:[[自動改札機]]を設置し、使用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1993-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '93年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-114-7}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-24|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2014年]](平成26年)[[11月16日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了。 * [[2021年]]([[令和]]3年)[[10月28日]]:[[ホームドア#多様なホームドアの開発|スマートホームドア]]の使用を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20201117_to03.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201117063610/https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20201117_to03.pdf|format=PDF|language=日本語|title=常磐(各駅停車)線に初めてホームドアを導入します 〜2021年度にホームドアを使用開始する常磐(各駅停車)線の駅について〜|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2020-11-17|accessdate=2020-11-17|archivedate=2020-11-17}}</ref>。 == 駅構造 == 緩行線上に設けられた[[島式ホーム]]1面2線を持つ{{R|zeneki05}}[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。[[改札|改札口]]は1か所。出入口は、東口と西口の2か所がある。改札内外に[[エスカレーター]]・[[エレベーター]]・[[便所|トイレ]]等が新設された。[[柏駅]]が管理し、[[JR東日本ステーションサービス]]による[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]である。[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、早朝はインターホンによる案内となる<ref name="StationCd=1479_230915">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1479|title=駅の情報(南柏駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230915164013/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1479|archivedate=2023-09-15}}</ref>。また、[[自動券売機]]、多機能券売機<ref name="StationCd=1479_230915" />、[[指定席券売機]]<ref name="StationCd=1479_230915" />、[[Suica]]対応[[自動改札機]]が設置されている。 [[2019年]](平成31年)[[3月16日]]の[[ダイヤ改正]]後からは、[[駆け込み乗車]]の減少に効果があることから電車備え付けの発車メロディを使用している<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/tokyo/20190312_t01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190401134340/https://www.jreast.co.jp/press/2018/tokyo/20190312_t01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=常磐(各駅停車)線 車外スピーカーを使用して発車メロディを流す取り組みについて|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2019-03-12|accessdate=2020-03-27|archivedate=2019-04-11}}</ref>。 === のりば === <!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠--> {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!行先 |- ! 1 | rowspan="2" |[[ファイル:JR_JL_line_symbol.svg|15x15ピクセル|JL]] 常磐線(各駅停車) | style="text-align:center" |下り |[[柏駅|柏]]・[[北柏駅|北柏]]・[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子]]・[[取手駅|取手]]方面 |- ! 2 | style="text-align:center" |上り |[[新松戸駅|新松戸]]・[[松戸駅|松戸]]・[[北千住駅|北千住]]・[[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]]・[[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] [[小田急小田原線|小田急線]]方面 |} (出典:[http://www.jreast.co.jp/estation/stations/1479.html JR東日本:駅構内図]) <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> Minami-kashiwa sta. east exit.jpg|東口[[ペデストリアンデッキ]](2007年11月) JR Joban-Line Minami-Kashiwa Station Gates.jpg|改札口(2021年5月) JR Jōban Line Minami-Kashiwa Station Platform.jpg|ホーム(2022年7月) </gallery> === 駅舎内の施設(駅ナカ・駅ビル) === [[駅ナカ]]商業施設として[[JR東日本都市開発]]運営のミニ[[駅ビル]]「スキップ南柏(skip)」がある。 * 改札外 ** スキップ南柏<ref>{{Cite web|和書|title=南柏/スキップ南柏|駅ビルポータルサイト「駅パラ」|url=https://www.ekipara.com/store_list/SC_ID_123/|website=駅パラ|accessdate=2019-04-02}}</ref>。 *** [[ドトールコーヒー]]・[[ヴィ・ド・フランス]]・[[はなの舞]] ** [[NewDays]] ** [[立ち食いそば店|立ち食いそば店「大江戸そば」]] ** [[VIEW ALTTE]] ** [[指定席券売機]] ** [[ドトールコーヒー]] == 利用状況 == 2022年(令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''28,943人'''である。 周辺の駅が減少傾向にある中、当駅は[[都市再開発|再開発]]の影響もあり2008年まで増加傾向にあった。2009年度からは微増・微減はあるがほぼ横ばいである。 当駅からの[[路線バス]]が[[光ヶ丘団地]]や[[麗澤大学]]・[[麗澤中学校・高等学校]]、[[東武野田線]]の[[新柏駅]]・[[増尾駅]]付近を経由するため、[[住宅地|住宅街]]の駅ではあるが、利用層・利用圏は広い。また、[[流山市]]との境に近いため、同市からの利用者もある。 JR東日本および千葉県統計年鑑によると、近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は以下の通りである。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref><ref group="統計">[http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/020800/p008433.html 柏市統計書] - 柏市</ref> |- !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1990年(平成{{0}}2年) |27,271 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |27,837 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |28,381 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |29,249 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |29,219 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |28,909 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |28,629 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |28,037 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成10年)]</ref> |- |1998年(平成10年) |27,722 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成11年)]</ref> |- |1999年(平成11年) |27,831 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>27,786 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>27,915 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>28,533 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>29,393 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>29,396 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>29,780 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>30,886 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>31,904 |<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>32,189 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>31,806 |<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - 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JR東日本</ref>25,125 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>27,115 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>28,943 | |} == 駅周辺 == === 東口 === <!--飲食チェーン店や個人商店、コンビニ等は列挙すると際限がなくなるので記載しない--> {{columns-list|2| * [[学校法人廣池学園]] - [[麗澤大学]]、[[麗澤中学校・高等学校]]、麗澤幼稚園 * [[柏市立光ヶ丘小学校]] * 柏市立豊小学校 * 流山市立向小金小学校 * 南柏幼稚園 * フィールズ南柏 ** 生鮮市場TOP(2020年8月29日に、[[マミーマート]]から業態変更)、[[トレジャー・ファクトリー]]、[[大創産業|ダイソー]]など * キュア・ラ(Cure・La) ** [[カスミ]]、[[東京ブッククラブ|オークスブックセンター]]、[[ダンロップスポーツクラブ]]南柏、[[ゲオ]]など * [[千葉銀行]] * [[イエローハット]] * [[メガネトップ|眼鏡市場]] |}} <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> Minamikashiwa-bus.JPG|東口駅前ロータリー 南柏ショッピングモール 01.jpg|フィールズ南柏 KASUMI FS-Minamikashiwaekimae.JPG|キュア・ラ(Cure・La) </gallery> === 西口 === [[ファイル:AEON Kashiwa Shopping Center.JPG|thumb|[[イオンモール柏]]]] {{columns-list|2| * [[国道6号]] ** [[日光東往還|旧日光街道]]入口交差点 * [[柏警察署]]南柏駅前交番 * 南柏駅前[[郵便局]] * 流山松ヶ丘郵便局 * [[京葉銀行]] * スキップ南柏 * [[ビッグ・エー]]柏南柏店 * [[京北スーパー]]apris店 * [[ニッポンレンタカー]] * [[AOKIホールディングス|AOKI]] * [[イオンモール柏]]([[無料送迎バス]]あり) * [[アクロスプラザ|アクロスプラザ流山]] * [[流山運転免許センター]] |}} == バス路線 == 主に、東口からは柏市光ヶ丘・酒井根、松戸市根木内方面へ、西口からは流山運転免許センター方面への[[路線バス]]と、[[流山市]]の[[コミュニティバス]]「[[流山ぐりーんバス]]」が発着する。 <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !colspan="4"|南柏駅東口 |- !1 |rowspan="4" style="text-align:center;"|[[東武バス#東武バスセントラル|東武バスセントラル]] |{{Unbulleted list|[[東武バスセントラル沼南営業所#今谷方面|'''南柏01''']]・'''南柏04''':酒井根|'''南柏05''':南部クリーンセンター|'''南柏07''':[[増尾駅]]|[[東武バスセントラル沼南営業所#名戸ヶ谷・新柏駅方面|'''柏26''']]:[[柏駅]]東口}} |{{Unbulleted list|「南柏04」「南柏05」は深夜バスの運行有り|「柏26」は1日3本のみ運行}} |- !2 |colspan="2"|(降車専用) |- !3 |{{Unbulleted list|[[東武バスセントラル沼南営業所#豊住方面|'''南柏02''']]:酒井根 / 光ヶ丘|'''南柏06''':麗澤幼稚園・[[麗澤中学校・高等学校|麗澤中高]]前(直行便)}} |{{Unbulleted list|「南柏02」の酒井根行きは深夜バスの運行有り|「南柏06」は朝のみ運行}} |- !4 |{{Unbulleted list|[[東武バスセントラル沼南営業所#北小金駅方面|'''北小金01''']]:[[北小金駅]]|'''南柏02''':柏駅東口}} |「南柏02」は1日1本のみ運行 |- !colspan="4"|南柏駅西口 |- !rowspan="2"|- |style="text-align:center;"|東武バスセントラル |{{Unbulleted list|[[東武バスセントラル西柏営業事務所#免許センター線|'''柏07''']]:[[流山駅]]東口|'''西柏08''':[[南流山駅]] / 免許センター}} |「柏07」は1日1本のみ運行 |- |style="text-align:center;"|流山ぐりーんバス<ref group="注">[[東武バスセントラル西柏営業事務所]]、[[京成バス松戸営業所]]との共同運行。</ref> |[[流山ぐりーんバス#現行路線|'''松ヶ丘・野々下ルート''']]:松風自治集会所前 / [[流山おおたかの森駅]] |&nbsp; |} ; 備考 西口は駅前広場が狭く、[[日本のタクシー|タクシー]]しか入れないため、[[バス停留所]]は徒歩1分程度のビッグ・エー柏南柏店(駅前商店街跡の再開発ビル)前に設置されている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=南柏駅西口の行き先・系統一覧 {{!}} 東武バス|url=https://transfer.navitime.biz/tobubus/pc/diagram/OriginalCourseList?stopCode=62114|website=transfer.navitime.biz|accessdate=2020-03-15}}</ref>。 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JL line symbol.svg|15px|JL]] 常磐線(各駅停車) :: [[北小金駅]] (JL 26) - '''南柏駅 (JL 27)''' - [[柏駅]] (JL 28) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注"}} ==== 出典 ==== {{Reflist}} ===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ===== {{Reflist|group="広報"}} === 利用状況 === {{Reflist|group="統計"}} ; JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 千葉県統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 関連項目 == * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == {{commonscat|Minami-Kashiwa Station}} * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1479|name=南柏}} {{常磐緩行線}} {{DEFAULTSORT:みなみかしわ}} [[Category:柏市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 み|なみかしわ]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:常磐緩行線|みなみかしわえき]] [[Category:1953年開業の鉄道駅]] [[Category:千葉県の駅ビル]]
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直交化された平面波
原子において、内殻電子の波動関数はポテンシャルの影響を強く受けるため激しく変化する。このため、波動関数は原子軌道を基底関数として記述するのが適当であるが、価電子部分はポテンシャルの影響が内殻よりずっと弱いので波動関数の変化は、格子間領域で緩やかとなる。従って価電子部分の波動関数は平面波を基底関数として記述するのが適当である。 この時、価電子部分を記述する平面波基底は、内殻電子の波動関数と直交する必要があり、直交するようにしたものを直交化された平面波(英:Orthogonalized plane wave, OPW)と言う。これを使って電子状態を求める方法を直交化された平面波による方法(OPW法)と言う。 この手法は展開すべき平面波の数を減らすことができるが、基底関数の形は複雑になるため、現在バンド計算にはあまり用いられない。
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原子において、内殻電子の波動関数はポテンシャルの影響を強く受けるため激しく変化する。このため、波動関数は原子軌道を基底関数として記述するのが適当であるが、価電子部分はポテンシャルの影響が内殻よりずっと弱いので波動関数の変化は、格子間領域で緩やかとなる。従って価電子部分の波動関数は平面波を基底関数として記述するのが適当である。 この時、価電子部分を記述する平面波基底は、内殻電子の波動関数と直交する必要があり、直交するようにしたものを直交化された平面波と言う。これを使って電子状態を求める方法を直交化された平面波による方法(OPW法)と言う。 この手法は展開すべき平面波の数を減らすことができるが、基底関数の形は複雑になるため、現在バンド計算にはあまり用いられない。
{{出典の明記|date=2015年7月}} [[原子]]において、[[内殻電子]]の波動関数はポテンシャルの影響を強く受けるため激しく変化する。このため、波動関数は原子軌道を[[基底関数]]として記述するのが適当であるが、[[価電子]]部分はポテンシャルの影響が内殻よりずっと弱いので波動関数の変化は、格子間領域で緩やかとなる。従って価電子部分の波動関数は平面波を基底関数として記述するのが適当である。<BR> この時、価電子部分を記述する[[平面波基底]]は、内殻電子の波動関数と直交する必要があり、直交するようにしたものを'''直交化された平面波'''([[英語|英]]:Orthogonalized plane wave, OPW)と言う。これを使って電子状態を求める方法を'''直交化された平面波による方法'''(OPW法)と言う。 この手法は展開すべき平面波の数を減らすことができるが、基底関数の形は複雑になるため、現在[[バンド計算]]にはあまり用いられない。 ==関連記事== *[[物性物理学]] {{DEFAULTSORT:ちよつこうかされたへいめんは}} [[Category:固体物理学]]
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散乱
散乱(さんらん、英: scattering)とは、光などの波や粒子がターゲットと衝突あるいは相互作用して方向を変えられること。
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散乱とは、光などの波や粒子がターゲットと衝突あるいは相互作用して方向を変えられること。
{{See Wiktionary|物理用語}} '''散乱'''(さんらん、{{Lang-en-short|scattering}})とは、[[光]]などの波や[[粒子]]がターゲットと[[衝突]]あるいは相互作用して方向を変えられること。 ==分類== ===回数による分類=== * [[1回散乱]] * [[多重散乱]] === エネルギー保存による分類 === * 弾性散乱(散乱前後で運動エネルギー、内部エネルギーが不変) * [[非弾性散乱]](散乱前後でエネルギーが変化) === 方向による分類 === * [[前方散乱]] * [[後方散乱]] * [[小角散乱]] === 入射粒子による分類 === *[[電子散乱]] *[[ラザフォード散乱]] **[[モット散乱]] *[[光散乱]] **[[レイリー散乱]] **[[ミー散乱]] **[[トムソン散乱]] **[[コンプトン散乱]] **[[ブリュアン散乱]] **[[ラマン散乱]] *[[中性子散乱]] ==理論== {{main|散乱理論}} ==関連項目== *[[衝突]] *[[回折]] *[[構造色]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さんらん}} [[Category:散乱]] [[Category:物理化学の現象]] [[Category:光学]] [[Category:量子力学]] {{physics-stub}}
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ゴルゴーン (漫画)
『ゴルゴーン』は幻超二による漫画。方向音痴な地獄の3姉妹が引き起こす、少しHなコメディ。題名はギリシア神話のゴルゴーン三姉妹に由来する。
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『ゴルゴーン』は幻超二による漫画。方向音痴な地獄の3姉妹が引き起こす、少しHなコメディ。題名はギリシア神話のゴルゴーン三姉妹に由来する。
{{出典の明記|date=2012年9月12日 (水) 23:52 (UTC)}} 『'''ゴルゴーン'''』は[[幻超二]]による[[漫画]]。方向音痴な地獄の3姉妹が引き起こす、少し[[エッチ|H]]なコメディ。題名は[[ギリシア神話]]の[[ゴルゴン|ゴルゴーン]]三姉妹に由来する。 == 登場人物 == === メインキャラクター === ; 長女 シェラ・ミスフォーチュン : 職業 戦士。誤って「闇のエクスカリバー」の別名を持つ黒の魔剣を引き抜いてしまい、なおかつバンパイヤ・ミイラ男・ゾンビなどに色々されて最強のアンデッド戦士になる。 : 姉妹の中では中程度の方向音痴(一応、村の冒険者募集に参加できているところから)。 ; 次女 マリア・ミスフォーチュン : 職業 僧侶。上級の治療魔法を使いこなし、かなりの魔力を有している。 : 姉妹の中では極度の方向音痴。街中で待ち合わせている姉がどこにいるのかすら分かっていない。 ; 三女 ティラ・ミスフォーチュン : 職業 魔法使い。弱いが金にがめつい。 : 姉妹の中では軽度の方向音痴。作中で明確な目的地に対する迷子にはなっていないため。 === その他 === ; ケイン導士 : マリアが修行していた寺院の責任者(の一人と思われる)。 : 過去に冒険者としての活動もしていた。 : 寺院にこもってからは読書のしすぎて近眼ぎみで、間近に相手と向き合っても相手を判別していない。 ; ミケ : 夜の愛玩用動物で、ワーキャット(ネコ人間)に近い姿をしている。 : 髪の毛の色が3色であることからマリアが命名。人間の耳の位置にネコ耳があり、左肩には蛇のアザ。尾てい骨から尻尾が生えており、かなり器用に扱うこともできる。言葉は喋らず「ニャア」とだけ発する。 : 盗賊とある村からいただいた(火事場泥棒)アイテムと鍵によって出現した“召喚の門”から現れた。最初はシェラとティラに攻撃的行動を示すが、何も考えていないマリアの“お手”に反応してペットとなる。 : 「夜の」ということでマリアとそういう仲となる。 : 実は夜の愛玩動物ですらなく、「召喚の門」を通って現れた「地獄の魔王」の一人。ワーキャットに擬してペット扱いに甘んじているのは「濃厚に魔の気配を漂わせている三姉妹」のそばのほうが自身の気配を消しやすいためと、人間を観察するため。それでも、魔族には見抜かれている。 {{Manga-stub}} {{DEFAULTSORT:こるこおん}} [[Category:漫画作品 こ|るこおん]] [[Category:ミイラを題材とした作品]] [[Category:兄弟姉妹を題材とした漫画作品]] [[Category:アンデッドを題材とした漫画作品]]
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石(いし)は、岩(いわ)より小さく、砂(すな)よりも大きい、鉱物質のかたまり。 広辞苑の説明の1番目のものから解説すると、石というのは、岩より小さく、砂よりも大きい、鉱物質のかたまりのことである。 何らかの原因で岩が割れていくらか小さくなったものである。特に小さな石は小石と呼ばれる。(なお、石より小さいが砂よりも大きいのは砂利などと呼ばれる。) 広辞苑では2番目に、材質・材料としての石(=石材)を挙げている。 3番目には、宝石や特定の鉱物加工品を挙げており、具体的には次のものを挙げている。 山などでは自然と石が転げ落ちることが起きている。これを落石(らくせき)と言う。 18世紀では、生命と物質の概念の区分けは現代人と異なっていて、鉱物も自然界の一連の生命の階梯の一番下に位置づけられていた。たとえば、18世紀の博物学における分類体系においては大抵、「動物界」「植物界」「鉱物界」が並置されていたのである。分類学の父とされるリンネの著書『自然の体系』(1735年)はその典型で、冒頭で次のように定義してみせた。 19世紀初頭にラマルクがそれとは異なった線引きを主張したことで、人々の概念の区分けに変化が生じた。ラマルクの1809年の書『動物哲学』においては、「動植物と鉱物の間には越えられない断絶がある」と強調し、彼独自の線引きの学問「biology(生物学)」を提案し、やがてそれが人々に受け入れられ定着したことで、概念枠が徐々に変化した。 なお君が代の中にも、「さざれいしのいわおとなりて」(さざれ石が大きな岩となって)と石が成長する様が描かれている。 メデューサ神話では、人が恐怖で石になる。 古代から何らかの境界を表すものとして石がおかれることがあった。(イギリスのストーンヘンジやストーンサークルなどがその例として挙げられる) 石は古く人間の一生(人生)というタイムスケールの中では、意図的に壊そうとでもしない限り、大きな変化の起こらない、より長い時間を存在する(ともすれば永久不変の)存在だと考えられてきた。このため石は永遠性の象徴として崇められ、民俗学上ではこういった思想が世代を超えて受け継がれる原始宗教と結びついていったとも考えられている。 不老不死に憧れを抱いた者の中に鉱物を永久不変の元として捉え、それら鉱物から「不老不死のエッセンス」を抽出すればいわゆる「不老不死の薬」が作れると考えた者もいた。こういった者の中には不老不死の妙薬として、鉱物から抽出される水銀を服用して中毒死した者も記録に残されており、また錬金術において不老不死研究の過程でも、少なからず鉱物に永遠性の象徴を求めていったケースが見られる(→水銀)。 日本の神社には、通常の神とは別に石が祀られていることも多い。また、日本には夜泣き石の伝説がある。陰陽石といわれる男女を表す石もあり、殺生石は「妖怪の祟り」をもたらすとされる。 宝石には伝説がつきまとうことがある。特にホープダイヤモンドのそれは有名である。 石は手に入りやすい硬い材料であり人類最初の材料といわれている。そのため狩猟、農耕、調理といったあらゆる用途に利用されてきた。 石器とは、石を(素材に)用いて製作、使用する道具である。 人類と石器とのかかわりのはじまりは250万年以上昔にさかのぼると推定されている。「打ち割り面を複雑に組み合わせた加工」を基準にして考古学では、人類が石器として使い始めた明らかな証拠、としているので、(もっと現実的に考えると、石を打ち割らないで、そのまま道具として使用するような)単純な石の利用は、250万年よりさらにさかのぼると考えられる。 (人類の歴史は数百万年とされているが)人類の歴史の大部分は石器時代であり、およそ200万年にわたっている。「石器時代」という用語は、人類の歴史をその利器の材質で区分する用語であり、石器時代・青銅器時代・鉄器時代と3つに区分する歴史の区分法のひとつである。 年代や地域も明記せずにやや乱暴に説明すると「石は加工性・成形性・精密性に劣り、大型の容器を成形できなかったため、"時代が下るとともに" 石器から粘土製の土器へ移行した」ということになってしまうが、年代や地域の違いを明記してしっかりと説明すると次のようになる。 石器時代がいつまで続いたかは、地域によって異なっていた。旧大陸(つまりヨーロッパ・アジア大陸など)では石器時代が終わりを告げたのは紀元前3000年ころであったが、それはあくまで旧大陸の話であって、西暦1492年に、コロンブスがアメリカ大陸に到着した段階でも、当地の原住民は、まだ石器を主に使い金属器を使わない石器時代の状態であったのである。当時、中米でも一部の場所を除きほとんどの場所で、南米でもアンデス地帯など一部の場所を除いてほとんどの場所で、石器時代にとどまっていた。つまり世界全体を概観すれば、一部の地域を除き、多くの地域で、今からわずか五百年ほど前まで人類の石器時代は続いていたのである。 機械式時計の歯車の軸受けに、摩耗に強い石(宝石)が使われる。耐摩耗性に優れ硬度が高い結晶から削り出した軸受けを使う。より具体的にはルビーやサファイアなどから削り出す。軸受けに宝石を使っている数が多いほど、概して耐久性と長期的な精度が良くなるので、機械式時計の性能を表すのに「n 石」と表現する場合がある(nは自然数)。たとえば「17石時計」や「21石時計」などと呼んでおり、時計の盤面に「17 jewels」などと表記されている。この数が、長期間の使用でも精度が変化しにくいことを表す目安となっている。手巻き腕時計では17石、自動巻腕時計では21石を使っていれば十分な性能を発揮する。なおアナログ式クオーツ時計においては可動部が少ないため、石の数は機械式時計に比べて少ない (安価なものに関してはないものも多い)。 石は投げつけることで相手を殺傷することができる。古代から狩猟に使われたり、戦闘の武器・兵器として使われた。 石はありふれていたので、人は戦う時、とりあえず手近にある石を手にとる、ということをしてきた歴史がある。日本では手で投石する戦闘行為を「印地」(いんじ)といい、熟練者を「印地打ち」と称した。戦国時代には石合戦などの行事が行われていた、石つぶて隊とも。 やがて何らかの機構を使って手で投げるよりも遠くへ飛ばそうとするようになり、多くの国で投石器・カタパルト・バリスタ・石弓・弩(石も跳ばせる様にした物)などが開発され、投石専門の投石兵が組織された。 古代イスラエルのダビデは、石でゴリアテを倒したとされる。そのダビデの姿を描いたミケランジェロの有名なダビデ像は左肩に帯状のものをのせているが、これは投石のための道具である。 なお、闘いで石を手にとる、という行為は古代や中世で終わったわけではない。現代でも例えばパレスチナの人々は、彼らを迫害するイスラエル人と闘おうとする場合、銃などを手に入れられない代わりに、地面に落ちている石を拾い投げつけて抗議行動を行った(第一次インティファーダ)。 カーリングには花崗岩で作られた「ストーン」が用いられる。 囲碁やオセロなどの一部のボードゲームでは駒のことを「石」と呼ぶ。 囲碁や連珠で使われる石は碁石と呼ばれ、黒いものと白いものがある。高価なものになると、黒石は那智黒石という石から作られている。白石のほうは、ハマグリの貝殻から作られているものが多い。安価なものでは黒・白ともにプラスチックや硬質ガラスなど、石以外の素材で作られるが、すべて石と呼ばれる。 「布石」「定石」「捨て石」といった語は、石を使う囲碁の用語として生まれ、のちに転用されたものである。 オセロでは一般に樹脂製のものが使われるが囲碁に倣って石と呼ばれる。 石焼として鉄板のように使用することがある。また、アフリカのケニアでは、odowa と呼ばれる石を食用とする。この石は歯よりも柔らかく、歯を磨く効果もあるという。味は塩みも甘みもなく、食感が楽しめる。鉄分が含まれるため、鉄分が不足しやすい妊婦などが好む。 珍しい石・奇石・怪石を収集・鑑賞・愛玩する営みは、東アジアでは文人・好古家の趣味として古くからある。ときには山水画の画題や陶磁器の文様になったり、水石や盆石として体系化されたりもした。 石の収集は、中国では特に宋代に盛んになった。宋代の主な収集家として、石への愛にまつわる逸話が伝わる米芾や、太湖石を愛した宋の徽宗、『洞天清録』怪石辨を著した趙希鵠らがいる。 日本では特に江戸時代に盛んになり、木内石亭や佐藤中陵ら「弄石家」(ろうせきか)が活動した。石亭らは、石の分類体系を構築したり、化石や石器も収集対象としたことから、近代的な博物学・考古学・古生物学・地球科学などの先駆者に位置づけられることもある。 半導体を使う製品では、古くよりラジオなどの性能を表すのに真空管の本数を示して「5球ラジオ」のように呼んでいたことに倣い、トランジスタラジオなどの性能を示すのにトランジスタの個数を示して「5石ラジオ」のように呼んだ。これにはトランジスタの原料であるシリコンが石英や長石と同じ珪素化合物であることも関連している。 鉱石ラジオでは検波のために鉱石をひとつ使うが、これは様々な代用品が使われることもあった。 なお現在でも古くからパーソナルコンピュータ(PC/AT互換機)などを扱っていた人の間で、ジャーゴンとしてCPUやGPUなどを「石」と称する場合がある。
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石(いし)は、岩(いわ)より小さく、砂(すな)よりも大きい、鉱物質のかたまり。
{{Otheruses}} {{出典の明記|date=2013年1月}} [[File:Stone IMAG1030.JPG|thumb|250px|'''石''']] '''石'''(いし)は、[[岩石|岩]](いわ)より小さく、[[砂]](すな)よりも大きい、[[鉱物]]質のかたまり<ref name="koujien">広辞苑第六版【いし 石】</ref>。 == 概説 == [[File:Big_stones_on_ground.jpg|thumb|right|250px|石]] [[Image:Stones white.jpg|thumb|right|250px|つやのある石。たまいし(玉石)。]] [[広辞苑]]の説明の1番目のものから解説すると、'''石'''というのは、[[岩]]より小さく、[[砂]]よりも大きい、[[鉱物]]質のかたまりのことである<ref name="koujien" />。 何らかの原因で[[岩]]が割れていくらか小さくなったものである。特に小さな石は小石と呼ばれる。(なお、'''石'''より小さいが砂よりも大きいのは[[砂利]]などと呼ばれる。) 広辞苑では2番目に、材質・材料としての'''石'''(=[[石材]])を挙げている<ref name="koujien" />。 3番目には、宝石や特定の鉱物加工品を挙げており、具体的には次のものを挙げている<ref name="koujien" />。 * 時計の軸受け用の宝石<ref name="koujien" /> →下の「[[#時計の軸受け]]」で詳説 * ライターの発火用の合金<ref name="koujien" /> * [[碁石]]<ref name="koujien" /> * [[硯]]<ref name="koujien" /> * [[墓石]]<ref name="koujien" /> 山などでは自然と'''石'''が転げ落ちることが起きている。これを[[落石 (自然災害)|落石]](らくせき)と言う。 *他 **[[医療]]において、「石ができた」と言うと[[結石]]のことを指しており、より具体的には[[胆石]]、[[膀胱結石]]などである。 **俗に、[[トランジスタ]]や[[集積回路]](IC)のことを「石」と呼ぶ。→[[#半導体や集積回路]] == 自然界での位置付け == 18世紀では、[[生命]]と物質の概念の区分けは現代人と異なっていて、鉱物も自然界の一連の生命の階梯の一番下に位置づけられていた<ref name="seimeiwodonoyouni">山口裕之『ヒトは生命をどのように理解してきたか』講談社、2011年</ref>。たとえば、18世紀の博物学における分類体系においては大抵、「[[動物界|動物]]界」「[[植物界]]」「[[博物学|鉱物界]]」が並置されていたのである<ref name="seimeiwodonoyouni" />。分類学の父とされるリンネの著書『自然の体系』(1735年)はその典型で、冒頭で次のように定義してみせた。 :「自然物は鉱物界、植物界、動物界の三界に区分される。鉱物は成長する。植物は成長し、生きる。動物は成長し、生き、[[感覚]]を持つ」<ref name="seimeiwodonoyouni" />。 19世紀初頭にラマルクがそれとは異なった線引きを主張したことで、人々の概念の区分けに変化が生じた<ref name="seimeiwodonoyouni" />。ラマルクの1809年の書『動物哲学』においては、「動植物と鉱物の間には越えられない断絶がある」と強調し、彼独自の線引きの学問「biology(生物学)」を提案し、やがてそれが人々に受け入れられ定着したことで、概念枠が徐々に変化した。 なお[[君が代]]の中にも、「さざれいしのいわおとなりて」([[さざれ石]]が大きな岩となって)と石が成長する様が描かれている。 == 神話・信仰と石 == {{See also|岩石#文化}} [[メデューサ]]神話では、人が恐怖で'''石'''になる。 古代から何らかの境界を表すものとして'''石'''がおかれることがあった。([[イギリス]]の[[ストーンヘンジ]]や[[ストーンサークル]]などがその例として挙げられる) 石は古く人間の一生([[人生]])というタイムスケールの中では、意図的に壊そうとでもしない限り、大きな変化の起こらない、より長い時間を存在する(ともすれば永久不変の)存在だと考えられてきた。このため石は永遠性の象徴として崇められ、[[民俗学]]上ではこういった思想が世代を超えて受け継がれる原始宗教と結びついていったとも考えられている。 [[不老不死]]に憧れを抱いた者の中に[[鉱物]]を永久不変の元として捉え、それら鉱物から「不老不死のエッセンス」を抽出すればいわゆる「不老不死の薬」が作れると考えた者もいた。こういった者の中には不老不死の妙薬として、鉱物から抽出される水銀を服用して中毒死した者も記録に残されており、また[[錬金術]]において不老不死研究の過程でも、少なからず鉱物に永遠性の象徴を求めていったケースが見られる(→[[水銀]])。 日本の[[神社]]には、通常の神とは別に石が祀られていることも多い。また、日本には[[夜泣き石]]の伝説がある。[[陰陽石]]といわれる男女を表す石もあり、[[殺生石]]は「[[妖怪]]の祟り」をもたらすとされる。 [[宝石]]には伝説がつきまとうことがある。特に[[ホープダイヤモンド]]のそれは有名である。 == 用途 == === 石器、石の道具 === 石は手に入りやすい硬い材料であり人類最初の材料といわれている<ref name="gairon9">{{Cite book |和書 |author1= 小山田了三|author2=小山田隆信|title=材料技術史概論 第3版|year=2001|page=9 |publisher=東京電機大学 }}</ref>。そのため[[狩猟]]、[[農耕]]、[[調理]]といったあらゆる用途に利用されてきた<ref name="gairon9" />。 ;石器と石器時代 [[石器]]とは、石を(素材に)用いて製作、使用する道具である<ref name="koto sekki">[https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E5%99%A8-87202 コトバンク 石器]</ref>。 [[人類]]と石器とのかかわりのはじまりは'''250万年以上'''昔にさかのぼると推定されている<ref name="koto sekki" />。「打ち割り面を複雑に組み合わせた加工」を基準にして考古学では、人類が石器として使い始めた明らかな証拠、としているので、(もっと現実的に考えると、石を打ち割らないで、そのまま道具として使用するような)単純な石の利用は、250万年よりさらにさかのぼると考えられる<ref name="koto sekki" />。 (人類の歴史は数百万年とされているが)'''人類の歴史の大部分は[[石器時代]]'''であり、およそ200万年にわたっている<ref name="koto jidai">[https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3-87205 コトバンク 石器時代]</ref>。「石器時代」という用語は、人類の歴史をその利器の材質で区分する用語であり、石器時代・青銅器時代・鉄器時代と3つに区分する歴史の区分法のひとつである。 年代や地域も明記せずにやや乱暴に説明すると「石は加工性・成形性・精密性に劣り、大型の容器を成形できなかったため、"時代が下るとともに"  [[石器]]から粘土製の土器へ移行した<ref name="gairon9" />」ということになってしまうが、年代や地域の違いを明記してしっかりと説明すると次のようになる。 石器時代がいつまで続いたかは、地域によって異なっていた。[[旧大陸]](つまりヨーロッパ・アジア大陸など)では石器時代が終わりを告げたのは紀元前3000年ころであったが<ref name="koto jidai" />、それはあくまで旧大陸の話であって、'''西暦[[1492年]]に、コロンブスがアメリカ大陸に到着した段階でも、当地の原住民は、まだ石器を主に使い金属器を使わない石器時代の状態であった'''のである<ref name="koto jidai" />。当時、中米でも一部の場所を除きほとんどの場所で、南米でもアンデス地帯など一部の場所を除いてほとんどの場所で、石器時代にとどまっていた<ref name="koto jidai" />。つまり世界全体を概観すれば、一部の地域を除き、多くの地域で、今からわずか五百年ほど前まで人類の石器時代は続いていたのである。 {{中央|<gallery widths="180px" heights="180px"> File:KM_-_Altsteinzeit_Kratzer.jpg|[[旧石器時代]]の石器 File:Korea-Neolithic.age-Arrow.head-01.jpg|[[新石器時代]]の石器(韓国の博物館展示) File:Fleche_Cartailhac_MHNT_PRE_2009.0.9232.1_Fond.jpg|今から3300~2400年ほど前の石器の矢じり([[フランス]]、トゥールーズ) File:Slab and grinder MET 22.1.163ab view 1.jpg|[[古代エジプト]]の石の道具(紀元前1900年-紀元前1640年ころ、[[中王国時代]]) </gallery>}} {{中央|<gallery widths="180px" heights="180px"> File:Sambal ulek.JPG|[[インドネシア]]の家庭で使われている食材をつぶすための石の道具 File:เคย3.jpg|[[タイ王国|タイ]]の一般家庭ならたいてい使っている、きわめてありふれた、石の調理道具 File:Quern-stones_in_China_small.jpg|現代の道具屋で普通に実用的な道具として販売されている[[石臼]] </gallery>}} === 建材 === {{See also|建築材料|石材}} {{中央|<gallery widths="180px" heights="180px"> ファイル:Pont du gard.jpg|[[古代ローマ帝国]]は、石材とモルタルを使い巨大な建造物を多数作った。([[ポン・デュ・ガール]]、西暦[[50年]]建造) ファイル:Notre_Dame_buttress.jpg|ヨーロッパの建物は、[[中世]]のものも、現代のものも、多くが石を主要な[[建築材料]]として用いている。この写真は中世に建造された[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|フランス、パリのノートルダム大聖堂]]。 ファイル:Eisengebirge, Mauerwerk.JPG|石を積んだものを「[[石積み]]」と言い、特に「壁」状にしたもの「垣」にしたものを「[[石垣]]」と言う。この写真は[[チェコ共和国]]の伝統的な農家の石垣。 ファイル:Anyoin03 1024.jpg|日本の庭園の石組に使われた石([[太山寺安養院庭園|安養院庭園]]) を加工し建物を作る職人を[[石工]]という。 </gallery>}} === 時計の軸受け === [[画像:Watch stone.jpg|thumb|right|200px|腕時計の中の石(ルビー)]] 機械式[[時計]]の歯車の軸受けに、[[摩耗]]に強い石([[宝石]])が使われる。耐摩耗性に優れ[[硬度]]が高い[[結晶]]から[[削り出し|削り出した]]軸受けを使う。より具体的には[[ルビー]]や[[サファイア]]などから削り出す。軸受けに宝石を使っている数が多いほど、概して耐久性と長期的な精度が良くなるので、機械式時計の性能を表すのに「n 石」と表現する場合がある(nは[[自然数]])。たとえば「17石時計」や「21石時計」などと呼んでおり、時計の盤面に「17 jewels」などと表記されている。この数が、長期間の使用でも精度が変化しにくいことを表す目安となっている。手巻き[[腕時計]]では17石、自動巻腕時計では21石を使っていれば十分な性能を発揮する<ref>『腕時計大百科』グリーンアロー出版社 ISBN 4-7663-3146-X </ref>。なおアナログ式クオーツ時計においては可動部が少ないため、石の数は機械式時計に比べて少ない (安価なものに関してはないものも多い)。 === 武器・兵器としての石 === 石は投げつけることで相手を殺傷することができる。[[古代]]から[[狩猟]]に使われたり、[[戦闘]]の[[武器]]・[[兵器]]として使われた。 石はありふれていたので、人は戦う時、とりあえず手近にある石を手にとる、ということをしてきた歴史がある。[[日本]]では手で投石する戦闘行為を「[[印地]]」(いんじ)といい、熟練者を「印地打ち」と称した。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[石合戦]]などの行事が行われていた、石つぶて隊とも。 やがて何らかの機構を使って手で投げるよりも遠くへ飛ばそうとするようになり、多くの国で[[投石器]]・[[カタパルト (投石機)|カタパルト]]・[[バリスタ (兵器)|バリスタ]]・[[石弓]]・[[弩]](石も跳ばせる様にした物)などが開発され、[[投石]]専門の[[投石兵]]が組織された。 [[File:David_von_Michelangelo.jpg|thumb|150px|ダビデ像。(ミケランジェロ作。16世紀。フィレンツェ、アカデミア美術館。)左肩に投石帯をのせている。]] 古代イスラエルの[[ダビデ]]は、石でゴリアテを倒したとされる。そのダビデの姿を描いたミケランジェロの有名な[[ダビデ像 (ミケランジェロ)|ダビデ像]]は左肩に帯状のものをのせているが、これは投石のための道具である。 なお、闘いで石を手にとる、という行為は古代や中世で終わったわけではない。現代でも例えばパレスチナの人々は、彼らを迫害するイスラエル人と闘おうとする場合、銃などを手に入れられない代わりに、地面に落ちている石を拾い投げつけて抗議行動を行った([[第一次インティファーダ]])。 === スポーツ === [[カーリング]]には[[花崗岩]]で作られた「ストーン」が用いられる。 === 碁石 === [[囲碁]]や[[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]]などの一部のボードゲームでは駒のことを「石」と呼ぶ<ref>[https://www.nihonkiin.or.jp/teach/lesson/school/kigu.html 囲碁の道具] 日本棋院、2022年1月22日閲覧</ref><ref>[https://www.megahouse.co.jp/othello/what/ オセロってなに?] メガハウス、2022年1月22日閲覧 </ref>。 囲碁や[[連珠]]で使われる石は[[碁石]]と呼ばれ、黒いものと白いものがある。高価なものになると、黒石は[[那智黒石]]という石から作られている。白石のほうは、[[ハマグリ]]の貝殻から作られているものが多い。安価なものでは黒・白ともに[[プラスチック]]や硬質[[ガラス]]など、石以外の素材で作られるが、すべて石と呼ばれる。 「[[布石]]」「[[定石]]」「[[捨て石]]」といった語は、石を使う囲碁の用語として生まれ、のちに転用されたものである。 オセロでは一般に樹脂製のものが使われるが囲碁に倣って石と呼ばれる。 === 食 === [[石焼き|石焼]]として鉄板のように使用することがある。また、アフリカの[[ケニア]]では、odowa と呼ばれる石を食用とする。この石は歯よりも柔らかく、歯を磨く効果もあるという。味は塩みも甘みもなく、食感が楽しめる。鉄分が含まれるため、鉄分が不足しやすい妊婦などが好む<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/7596067.stm Why Kenyan women crave stones](BBC 参照日:2018.5,15)</ref>。 == 収集・鑑賞 == [[ファイル:Unkonshi.jpg|サムネイル|[[木内石亭]]『[[雲根志]]』[[1801年]]刊]] 珍しい石・奇石・怪石を[[収集]]・[[鑑賞]]・愛玩する営みは、[[東アジア]]では[[文人]]・[[好古家]]の趣味として古くからある。ときには[[山水画]]の画題や[[陶磁器]]の[[中国文様史|文様]]になったり<ref>{{Cite web|和書|title=学芸の小部屋「渦巻きと太湖石」|url=http://www.toguri-museum.or.jp/gakugei/back/1005.php|website=www.toguri-museum.or.jp|accessdate=2021-03-02|publisher=[[戸栗美術館]]}}</ref>、[[水石]]や[[盆石]]として体系化されたりもした。 石の収集は、中国では特に[[宋代]]に盛んになった。宋代の主な収集家として、石への愛にまつわる逸話が伝わる[[米芾]]や、[[太湖石]]を愛した[[徽宗|宋の徽宗]]、[[s:zh:洞天清錄#%E6%80%AA%E7%9F%B3%E8%BE%A8|『洞天清録』怪石辨]]を著した[[趙希鵠]]らがいる。 日本では特に[[江戸時代]]に盛んになり、[[木内石亭]]や[[佐藤中陵]]ら「弄石家」(ろうせきか)が活動した。石亭らは、石の[[分類]]体系を構築したり、[[化石]]や[[石器]]も収集対象としたことから、近代的な[[博物学]]・[[考古学]]・[[古生物学]]・[[地球科学]]などの先駆者に位置づけられることもある<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=好古から考古へ —近世から近代へ継承された学問の形態—|url=http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/ouroboros/09_03/bunkyo.html|website=umdb.um.u-tokyo.ac.jp|accessdate=2020-09-14|publisher=[[東京大学総合研究博物館]]|author=平野恵}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=古生物学者、妖怪を掘る|year=2018|last=荻野|first=慎諧|publisher=[[NHK出版]]〈[[NHK出版新書]]〉|isbn=978-4140885567}}(第二章四節「奇石考『雲根志』『怪石志』を読む」)</ref>。 == 半導体や集積回路 == [[半導体]]を使う製品では、古くより[[ラジオ]]などの性能を表すのに[[真空管]]の本数を示して「5球ラジオ」のように呼んでいたことに倣い、[[トランジスタラジオ]]などの性能を示すのにトランジスタの個数を示して「5石ラジオ」のように呼んだ。これにはトランジスタの原料である[[シリコン]]が[[石英]]や[[長石]]と同じ[[珪素]]化合物であることも関連している。 [[鉱石ラジオ]]では検波のために鉱石をひとつ使うが、これは様々な代用品が使われることもあった。 なお現在でも古くからパーソナルコンピュータ([[PC/AT互換機]])などを扱っていた人の間で、[[ジャーゴン]]として[[CPU]]や[[Graphics Processing Unit|GPU]]などを「石」と称する場合がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|Stones}} {{Wikiquote}} {{Wiktionary}} *[[岩石]]、[[岩石の一覧]] *[[鉱物]]、[[鉱物の一覧]] *[[鉱石]] *[[隕石]] *[[宝石]]、[[宝石の一覧]]、[[誕生石]] *[[石材]] *[[墓石]] *[[石碑]] *[[庭石]] *[[石炭]] *[[石垣]] *[[火打石]] *[[碁石]] *[[硯]] *[[石工]] *[[殺生石]] *[[百度石]] *[[つんぼ石]] *[[貫通石]] * [[石部]] - [[漢字]]の[[部首]]。 {{Normdaten}} {{デフォルトソート:いし}} [[Category:石|*]] [[Category:材料]] [[Category:道具]] [[Category:武器]]
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リットル
リットル(仏: litre, 英: litre, 単位記号: L, l)は体積の非SI単位である。 その定義は1901年と1964年に2度変更された(後述)が、現在の定義は 10立方メートル (m) = 1立方デシメートル (dm) = 1000立方センチメートル (cm) である。すなわち、1辺が1デシメートル (1 dm = 10 cm) の立方体の体積である。 メートル法の古い単位かつ非SI単位であるが「SI単位と併用できる非SI単位」の一つである。 なお、リットルが容積の単位であるとされて液体を量る際に使われていた時代があったが、物理量としては「容積」は「体積」と同一であるので、現在では、リットルの定義において「容積」の語は用いられない。食品表示基準などでも同じである。 リットルの語源はフランス語の litron であり、litron はギリシャ語およびラテン語の litra に由来する。 英語での発音(英: litre, [ˈliːtə(r)]:リーター)から、日本ではリッターと表記し発音されることがある。 日本では1952年(昭和27年)2月29日まで漢字で立(立突の略)と書かれていた。 ただし、1952年3月1日の計量法施行後はリッターの表記も、立(立突)の表記も法律上は認められていない。 BIPMが発行するSI文書(フランス語版+英語版、および英語版)では、リットルの英語表記としてISO 31「量と単位」(Qunatities and Unites) に従い、一貫して、“litre” を使用している。英国においても同じである。liter の綴りが使用されることは全くない。 ただし、アメリカ合衆国においてのみ、例外的に“liter” を使用している。この理由は、合衆国政府印刷局のUnited States Government Printing Office Style Manual が “liter” を使用していることを根拠に、アメリカにおいてSIを所管しているNISTがSI文書のアメリカ版である NIST Special Publication 330 において liter の綴りを採用しているからである。このためアメリカ国内では liter の表記が普通である。 アメリカが行っているその他の表記の変更事例としては、メートルを metre → meter、デカを deca → deka、トンを tonne → metric ton がある(ただし、tonne については、SI文書でも「英語圏では通常 metric ton と呼ばれている」と注記している)。 SI文書の日本語版では、CIPMの決定に従って、それぞれ litre, metre, deca としている。これは、JIS規格などの基準書類でも同じであり、liter と綴られることはない。 SIや他の国際標準では、リットル系と立方メートル系の使い分けについての明確な記述はないが、1964年の国際度量衡総会は「リットルという名称は、高精度の体積測定の結果を表すためには使用されないよう勧告する」としている。これは精度の問題ではなく、次項で述べるように、リットルの定義が2回変更されて混乱する可能性があったためである。1901年から1964年までのリットルの定義は 1.000028 dm であったので、NISTは、この間の精密なデータを扱う場合には、この点に留意するように注意を与えている。 1793年、リットルはフランスの「共和党法案」で、新しい公定単位の一つとして提案された。その定義は、1立方デシメートル (dm) であった。名前は、フランスの伝統的な単位リトロン(フランス語版) (litron) ≒ 0.78 L に因むもので、ギリシャ語からラテン語を経由してフランス語に取り入れられた。 1879年、国際度量衡委員会 (CIPM) はリットルの定義および小文字の l(小文字のエル)をその記号とすることを採択した。 1901年、第3回国際度量衡総会 (CGPM) は、「1. 高精度測定のための体積の単位は,最大密度で,標準大気圧の下にある1キログラムの純水によって占められる体積であり,その体積を「リットル」と称する.」と声明した。 キログラムの本来の定義によれば、これは1立方デシメートルと等しいはずである。しかし、実際にはキログラムの定義に使用されているキログラム原器が本来の定義よりも重くできてしまったため、1リットルは1立方デシメートルよりも少しだけ大きいことになった。そこで、国際度量衡局 (BIPM) が、1キログラムの水の体積を精密に繰り返して測定した。実際は1立方デシメートルの純水の質量を測定した。しかし条件を揃えたつもりでも、測定のたびに1ミリグラム台の差が出てしまった。先のリットルの定義では、最大密度であることと標準大気圧下であることを規定しているが、水の密度には他にも多数の条件が関わっており、それを全て揃えるのは非常に難しいためである。 結局、1907年にBIPMは表の3つの測定結果を示した上で「BIPMに課せられた水の1キログラムの体積を決定する仕事は、最高の精度をもって達せられた」と報告し、いわば「匙を投げた」状態となった。 そのため、各国で採用する値が異なるという事態を招いた。例えば日本では 1.000028 dm を採用し、アメリカでは 1.000029 dm を採用していた。このため、1960年の第11回CGPMは、CIPMにこの問題を検討するよう要請した。 この検討の結果、1964年の第12回CGPMは、1901年の定義を廃止して、メートルに基づいた元の定義の1リットル ≡ 1立方デシメートルに戻し、リットルは立方デシメートル (dm) の別名称であることを声明すると同時に、高精度の体積測定の結果を表すためにはリットルを使用しないよう勧告した。 定義の変更による混乱を避けるために、新しい定義のリットルには「新リットル」という名称が与えられ、(旧)リットルと区別する必要がある場合に使われたが、現在は単にリットルと呼ぶ。 リットルの単位記号は国際単位系 (SI) の規定では、大文字・立体の L または小文字・立体の l が正しい。日本の計量法上も同じである。 当初、リットルを表す単位記号は小文字・立体の l だけであった。SIにおいては、人名に由来する単位については記号の一文字目を大文字にし、それ以外の単位は全て小文字で書くことになっていたからである。しかし、多くのラテン文字を由来とする文字を使用する国では、筆記体のアラビア数字の 1 を単に垂直の線のみで示すのが一般的であり、これとラテン文字の小文字の l とは酷似しているため、誤認されることがあった。 1979年、第16回CGPMは、小文字・立体の l 以外に大文字・立体の L もリットルの新たな単位記号として用いることを採択した。また、将来この2つのうちのどちらか1つのみを正式なものとして選択されるべきであると表明されたが、1990年の会議ではまだその時期ではないとされた。 したがって、現在でも l と L のどちらを用いても正しいが、日本では産業技術総合研究所が、大文字・立体の L を使用することを推奨している。法令においても例えば農林水産省の「飼料及び飼料添加物の成分規格等に関する省令」は、「L」を用いることを規定している。 一方、アメリカ標準技術局 (NIST) は、SP811において、アメリカ合衆国では大文字 L を使用すると規定している。このためSI文書のNISTバージョンであるSP330においてもリットルの記号として L のみを掲げている。なお、合衆国政府印刷局のStyle Manualにおいても、大文字 L を使用すると規定している。 このような事情から、現在では日本においても、記号 L の使用が優勢となっている。 リットルに大文字「L」を用いるのは、その由来がクロード・リットル (Claude Émile Jean-Baptiste Litre) という人名によるものである、という冗談をケネス・ウールナー (Kenneth Woolner) が1978年のエイプリル・フールのジョークとして教師向けの化学のニュースレターに載せ、それが1980年に国際純正・応用化学連合 (IUPAC) の雑誌 Chemistry International に事実として記載され、同雑誌の次号において撤回されるという事件があった。詳細はクロード・リットルを参照のこと。 リットルの単位記号として、小文字の l の活字体ではなく小文字・筆記体・立体の l (U+2113) が日本をはじめとするいくつかの国で用いられることがある。日本の初等および中等教育でも l を用いるように教えていた。しかし、前記の通り、国際度量衡局 (BIPM)、国際標準化機構 (ISO) やその他の国際標準機関においても、日本の計量法体系においても、この記号は認められていない。 また、筆記体のエルのほか、中学高校の教科書では斜体字のエル l {\displaystyle l} を用いているものもあったが、計量単位は立体で書き、斜体字は物理量の変数を表すことになっているため、単位の取扱いとしては誤りである。このため2006年度の教科書検定では、高校物理IIおよび高校化学IIの教科書では立体の L に表記を変更する措置がとられた。この結果、2012年現在、ほとんどの高校の教科書で立体の L や l が用いられており、l の表記はほぼ使われていない。 小学校の教科書においても、2011年度からは、L が使用されている。2009年6月の小学校学習指導要領解説 算数編では、リットルの単位記号として小文字の「l」が用いられていたが、2011年の教科書検定から、単位記号は、大文字の「L」を使用するように検定意見が付き、各教科書とも、L を使用し始めた。これは、教科用図書検定基準が改定され、計量単位の記号については、「SIと併用される単位」についても、SI文書の表記によることとされたためである。 現在では、日本の一般的な小売の商品の印刷面やスーパーマーケットなどでの表記でも、大文字立体の L が多く用いられるようになってきている。ただし、2019年時点でも店頭における商品のパッケージ上の記述は統一されていないため、小学校の教科書では、Lとは異なる記号が使われていることに注意を促しているものがある。 縦書き表記では、立体の l を使用することはほとんどなく、L が使用されることもまれで、もっぱら l が使用されるか、SI接頭語の記号 + l(ml 等)を縦中横にしたり、リットル の形の組文字を使用することが多い。 文字コードでは、2000年に規格化された文字コード規格のJIS X 0213は、リットルを表す記号として面区点位置1-3-63に l を追加採用した。ただし、この図形文字の追加は、リットルの記号として L や l の使用の制限を意図するものではないとしている。 Unicodeでは U+2113 に l を SCRIPT SMALL L として liter (traditional symbol) の説明つきでリットル用の記号としてコードが割り当てられており、数学用に使用される筆記体の l である U+1D4C1, l, MATHEMATICAL SCRIPT SMALL L とは区別して定めている。 国税庁は、酒類の内容量の表示について次のように指示している。根拠は、「酒税の保全及び酒類業組合等に関する法律」第86条の5(酒類の品目等の表示義務) である。 上記の表示のうち、「リットル」、「ミリリットル」は計量単位の名称である。単位記号のうち、「L」、「ml」、「mL」の3つが、計量法が標準として定めている記法であるが、「l」、「ml」の2つはそうではない。 リットルは非SI単位であるが、国際単位系の規定でも計量法の規定でもSI接頭語を付加することができる。 日本の日常生活では1000分の1リットルであるミリリットル (mL) がよく使われ、これは、立方センチメートル (cm) に等しい。この二者は混用されることもあるが、製品の種別や場合によっては片方のみがもっぱら使われる。液状の医薬品や化粧品、調理のレシピではミリリットルが用いられ、内燃機関の容積を細かく記述する際は立方センチメートルが用いられる(大まかに記述する際はリットルを用いる)。 なお、立方センチメートル (cm) のことを cc(立方センチメートル、フランス語: centimètre cubeの略)とも表記することがあるが、SIでは使用を認めておらず、いくつかの理由から、使わないほうがよい。 日本では、10分の1リットルであるデシリットル (dL) は、実生活ではあまり使われていない。しかし小学校2年生の算数の教科書で教えられている。これは水筒(0.8 L程度)やペットボトル(0.5 L程度)の体積を示して体積(「かさ」としている。)の単位を教えるのであるが、小学校2年生の段階では、小数点を習っていないため、0.8 L、0.5 L とは教えず、8 dL、5 dL として教えるためである。 この単位は、主として豆や穀類を小売りする際に用いられている(2005年9月現在)。計量法の施行により、従来使われてきた尺貫法ベースの計量単位が商取引に使えなくなったため、1合(約 1.8039 デシリットル)に比較的近い2デシリットルを販売の基準としている(写真参照)。また、血糖値の単位として mg/dL(ミリグラム毎デシリットル)が用いられる。 ヨーロッパでは100分の1リットル (10 cm) であるセンチリットル (cL) が、飲料の容量などによく使われる。「EUにおける食品ラベルに関する表示規則(理事会指令76/211/EEC)」において、液体の容量表示は、「cL」と規定されている(ただしワイン類については附則でmL表示が認められている)。 生化学、塗装・印刷など微量の液体を扱う分野では、マイクロリットル (μL)、ナノリットル (nL)、ピコリットル (pL)、フェムトリットル (fL)、アトリットル (aL) も使われる。立方ミリメートル (mm)、立方マイクロメートル (μm) 等は、単位の間が9桁も開いていて使いづらいからである。これより小さなSI接頭語を付けた単位であるゼプトリットル (zL) やヨクトリットル (yL) といった単位も一応は考えられるが、実際に用いられた例はない。 倍量単位としてはリットルの1000倍であるキロリットル (kL) がよく使われ、1立方メートル (m) に等しい。これより大きなSI接頭語をつけることも許されているが、実用上メガリットル (ML) 以上はほとんど使われない。また10倍および100倍を表すSI接頭語であるデカおよびヘクトを付けた、デカリットル (daL) およびヘクトリットル (hL) といった単位も一応は考えられ、後述のようにこれらを表す和製漢字も作られたが、これらも現実的には用いられていない。 漢字圏では「立脱耳」や「立突」という漢字が当てられ、日本では「立」と略すようになった。それを使って下記のような国字が作られた。現在ではこれらの表記は計量法上は全く認められていない。 ちなみに、「立米」は「りゅうべい」と読み、立方メートルのことである。 中華人民共和国では、尺斤法の升が偶然にもほぼ1リットルだったため、尺斤法をメートル法で再定義する際、升を1リットルと定義し、リットルを表すにも升を使うようになった。 Unicodeには、リットルとその分量・倍量単位を表す上記の文字が収録されている。このうち、文字様記号である l 以外はCJK互換用文字であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであって、使用は推奨されない。 JIS X 0213における図形文字「l 」の追加は、リットルの記号として L や l の使用の制限を意図するものではない(#l から L へ)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "リットル(仏: litre, 英: litre, 単位記号: L, l)は体積の非SI単位である。 その定義は1901年と1964年に2度変更された(後述)が、現在の定義は 10立方メートル (m) = 1立方デシメートル (dm) = 1000立方センチメートル (cm) である。すなわち、1辺が1デシメートル (1 dm = 10 cm) の立方体の体積である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "メートル法の古い単位かつ非SI単位であるが「SI単位と併用できる非SI単位」の一つである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、リットルが容積の単位であるとされて液体を量る際に使われていた時代があったが、物理量としては「容積」は「体積」と同一であるので、現在では、リットルの定義において「容積」の語は用いられない。食品表示基準などでも同じである。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "リットルの語源はフランス語の litron であり、litron はギリシャ語およびラテン語の litra に由来する。", "title": "語源および表記" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "英語での発音(英: litre, [ˈliːtə(r)]:リーター)から、日本ではリッターと表記し発音されることがある。", "title": "語源および表記" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本では1952年(昭和27年)2月29日まで漢字で立(立突の略)と書かれていた。", "title": "語源および表記" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ただし、1952年3月1日の計量法施行後はリッターの表記も、立(立突)の表記も法律上は認められていない。", "title": "語源および表記" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "BIPMが発行するSI文書(フランス語版+英語版、および英語版)では、リットルの英語表記としてISO 31「量と単位」(Qunatities and Unites) に従い、一貫して、“litre” を使用している。英国においても同じである。liter の綴りが使用されることは全くない。", "title": "英語表記" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ただし、アメリカ合衆国においてのみ、例外的に“liter” を使用している。この理由は、合衆国政府印刷局のUnited States Government Printing Office Style Manual が “liter” を使用していることを根拠に、アメリカにおいてSIを所管しているNISTがSI文書のアメリカ版である NIST Special Publication 330 において liter の綴りを採用しているからである。このためアメリカ国内では liter の表記が普通である。", "title": "英語表記" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "アメリカが行っているその他の表記の変更事例としては、メートルを metre → meter、デカを deca → deka、トンを tonne → metric ton がある(ただし、tonne については、SI文書でも「英語圏では通常 metric ton と呼ばれている」と注記している)。", "title": "英語表記" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "SI文書の日本語版では、CIPMの決定に従って、それぞれ litre, metre, deca としている。これは、JIS規格などの基準書類でも同じであり、liter と綴られることはない。", "title": "英語表記" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "SIや他の国際標準では、リットル系と立方メートル系の使い分けについての明確な記述はないが、1964年の国際度量衡総会は「リットルという名称は、高精度の体積測定の結果を表すためには使用されないよう勧告する」としている。これは精度の問題ではなく、次項で述べるように、リットルの定義が2回変更されて混乱する可能性があったためである。1901年から1964年までのリットルの定義は 1.000028 dm であったので、NISTは、この間の精密なデータを扱う場合には、この点に留意するように注意を与えている。", "title": "定義の変更による混乱" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1793年、リットルはフランスの「共和党法案」で、新しい公定単位の一つとして提案された。その定義は、1立方デシメートル (dm) であった。名前は、フランスの伝統的な単位リトロン(フランス語版) (litron) ≒ 0.78 L に因むもので、ギリシャ語からラテン語を経由してフランス語に取り入れられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1879年、国際度量衡委員会 (CIPM) はリットルの定義および小文字の l(小文字のエル)をその記号とすることを採択した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1901年、第3回国際度量衡総会 (CGPM) は、「1. 高精度測定のための体積の単位は,最大密度で,標準大気圧の下にある1キログラムの純水によって占められる体積であり,その体積を「リットル」と称する.」と声明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "キログラムの本来の定義によれば、これは1立方デシメートルと等しいはずである。しかし、実際にはキログラムの定義に使用されているキログラム原器が本来の定義よりも重くできてしまったため、1リットルは1立方デシメートルよりも少しだけ大きいことになった。そこで、国際度量衡局 (BIPM) が、1キログラムの水の体積を精密に繰り返して測定した。実際は1立方デシメートルの純水の質量を測定した。しかし条件を揃えたつもりでも、測定のたびに1ミリグラム台の差が出てしまった。先のリットルの定義では、最大密度であることと標準大気圧下であることを規定しているが、水の密度には他にも多数の条件が関わっており、それを全て揃えるのは非常に難しいためである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "結局、1907年にBIPMは表の3つの測定結果を示した上で「BIPMに課せられた水の1キログラムの体積を決定する仕事は、最高の精度をもって達せられた」と報告し、いわば「匙を投げた」状態となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "そのため、各国で採用する値が異なるという事態を招いた。例えば日本では 1.000028 dm を採用し、アメリカでは 1.000029 dm を採用していた。このため、1960年の第11回CGPMは、CIPMにこの問題を検討するよう要請した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "この検討の結果、1964年の第12回CGPMは、1901年の定義を廃止して、メートルに基づいた元の定義の1リットル ≡ 1立方デシメートルに戻し、リットルは立方デシメートル (dm) の別名称であることを声明すると同時に、高精度の体積測定の結果を表すためにはリットルを使用しないよう勧告した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "定義の変更による混乱を避けるために、新しい定義のリットルには「新リットル」という名称が与えられ、(旧)リットルと区別する必要がある場合に使われたが、現在は単にリットルと呼ぶ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "リットルの単位記号は国際単位系 (SI) の規定では、大文字・立体の L または小文字・立体の l が正しい。日本の計量法上も同じである。", "title": "記号のゆれ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "当初、リットルを表す単位記号は小文字・立体の l だけであった。SIにおいては、人名に由来する単位については記号の一文字目を大文字にし、それ以外の単位は全て小文字で書くことになっていたからである。しかし、多くのラテン文字を由来とする文字を使用する国では、筆記体のアラビア数字の 1 を単に垂直の線のみで示すのが一般的であり、これとラテン文字の小文字の l とは酷似しているため、誤認されることがあった。", "title": "記号のゆれ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1979年、第16回CGPMは、小文字・立体の l 以外に大文字・立体の L もリットルの新たな単位記号として用いることを採択した。また、将来この2つのうちのどちらか1つのみを正式なものとして選択されるべきであると表明されたが、1990年の会議ではまだその時期ではないとされた。", "title": "記号のゆれ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "したがって、現在でも l と L のどちらを用いても正しいが、日本では産業技術総合研究所が、大文字・立体の L を使用することを推奨している。法令においても例えば農林水産省の「飼料及び飼料添加物の成分規格等に関する省令」は、「L」を用いることを規定している。", "title": "記号のゆれ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一方、アメリカ標準技術局 (NIST) は、SP811において、アメリカ合衆国では大文字 L を使用すると規定している。このためSI文書のNISTバージョンであるSP330においてもリットルの記号として L のみを掲げている。なお、合衆国政府印刷局のStyle Manualにおいても、大文字 L を使用すると規定している。", "title": "記号のゆれ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "このような事情から、現在では日本においても、記号 L の使用が優勢となっている。", "title": "記号のゆれ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "リットルに大文字「L」を用いるのは、その由来がクロード・リットル (Claude Émile Jean-Baptiste Litre) という人名によるものである、という冗談をケネス・ウールナー (Kenneth Woolner) が1978年のエイプリル・フールのジョークとして教師向けの化学のニュースレターに載せ、それが1980年に国際純正・応用化学連合 (IUPAC) の雑誌 Chemistry International に事実として記載され、同雑誌の次号において撤回されるという事件があった。詳細はクロード・リットルを参照のこと。", "title": "記号のゆれ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "リットルの単位記号として、小文字の l の活字体ではなく小文字・筆記体・立体の l (U+2113) が日本をはじめとするいくつかの国で用いられることがある。日本の初等および中等教育でも l を用いるように教えていた。しかし、前記の通り、国際度量衡局 (BIPM)、国際標準化機構 (ISO) やその他の国際標準機関においても、日本の計量法体系においても、この記号は認められていない。", "title": "記号のゆれ" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また、筆記体のエルのほか、中学高校の教科書では斜体字のエル l {\\displaystyle l} を用いているものもあったが、計量単位は立体で書き、斜体字は物理量の変数を表すことになっているため、単位の取扱いとしては誤りである。このため2006年度の教科書検定では、高校物理IIおよび高校化学IIの教科書では立体の L に表記を変更する措置がとられた。この結果、2012年現在、ほとんどの高校の教科書で立体の L や l が用いられており、l の表記はほぼ使われていない。", "title": "記号のゆれ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "小学校の教科書においても、2011年度からは、L が使用されている。2009年6月の小学校学習指導要領解説 算数編では、リットルの単位記号として小文字の「l」が用いられていたが、2011年の教科書検定から、単位記号は、大文字の「L」を使用するように検定意見が付き、各教科書とも、L を使用し始めた。これは、教科用図書検定基準が改定され、計量単位の記号については、「SIと併用される単位」についても、SI文書の表記によることとされたためである。", "title": "記号のゆれ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "現在では、日本の一般的な小売の商品の印刷面やスーパーマーケットなどでの表記でも、大文字立体の L が多く用いられるようになってきている。ただし、2019年時点でも店頭における商品のパッケージ上の記述は統一されていないため、小学校の教科書では、Lとは異なる記号が使われていることに注意を促しているものがある。", "title": "記号のゆれ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "縦書き表記では、立体の l を使用することはほとんどなく、L が使用されることもまれで、もっぱら l が使用されるか、SI接頭語の記号 + l(ml 等)を縦中横にしたり、リットル の形の組文字を使用することが多い。", "title": "記号のゆれ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "文字コードでは、2000年に規格化された文字コード規格のJIS X 0213は、リットルを表す記号として面区点位置1-3-63に l を追加採用した。ただし、この図形文字の追加は、リットルの記号として L や l の使用の制限を意図するものではないとしている。", "title": "記号のゆれ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "Unicodeでは U+2113 に l を SCRIPT SMALL L として liter (traditional symbol) の説明つきでリットル用の記号としてコードが割り当てられており、数学用に使用される筆記体の l である U+1D4C1, l, MATHEMATICAL SCRIPT SMALL L とは区別して定めている。", "title": "記号のゆれ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "国税庁は、酒類の内容量の表示について次のように指示している。根拠は、「酒税の保全及び酒類業組合等に関する法律」第86条の5(酒類の品目等の表示義務) である。", "title": "記号のゆれ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "上記の表示のうち、「リットル」、「ミリリットル」は計量単位の名称である。単位記号のうち、「L」、「ml」、「mL」の3つが、計量法が標準として定めている記法であるが、「l」、「ml」の2つはそうではない。", "title": "記号のゆれ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "リットルは非SI単位であるが、国際単位系の規定でも計量法の規定でもSI接頭語を付加することができる。", "title": "倍量・分量単位" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日本の日常生活では1000分の1リットルであるミリリットル (mL) がよく使われ、これは、立方センチメートル (cm) に等しい。この二者は混用されることもあるが、製品の種別や場合によっては片方のみがもっぱら使われる。液状の医薬品や化粧品、調理のレシピではミリリットルが用いられ、内燃機関の容積を細かく記述する際は立方センチメートルが用いられる(大まかに記述する際はリットルを用いる)。", "title": "倍量・分量単位" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "なお、立方センチメートル (cm) のことを cc(立方センチメートル、フランス語: centimètre cubeの略)とも表記することがあるが、SIでは使用を認めておらず、いくつかの理由から、使わないほうがよい。", "title": "倍量・分量単位" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "日本では、10分の1リットルであるデシリットル (dL) は、実生活ではあまり使われていない。しかし小学校2年生の算数の教科書で教えられている。これは水筒(0.8 L程度)やペットボトル(0.5 L程度)の体積を示して体積(「かさ」としている。)の単位を教えるのであるが、小学校2年生の段階では、小数点を習っていないため、0.8 L、0.5 L とは教えず、8 dL、5 dL として教えるためである。", "title": "倍量・分量単位" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "この単位は、主として豆や穀類を小売りする際に用いられている(2005年9月現在)。計量法の施行により、従来使われてきた尺貫法ベースの計量単位が商取引に使えなくなったため、1合(約 1.8039 デシリットル)に比較的近い2デシリットルを販売の基準としている(写真参照)。また、血糖値の単位として mg/dL(ミリグラム毎デシリットル)が用いられる。", "title": "倍量・分量単位" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ヨーロッパでは100分の1リットル (10 cm) であるセンチリットル (cL) が、飲料の容量などによく使われる。「EUにおける食品ラベルに関する表示規則(理事会指令76/211/EEC)」において、液体の容量表示は、「cL」と規定されている(ただしワイン類については附則でmL表示が認められている)。", "title": "倍量・分量単位" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "生化学、塗装・印刷など微量の液体を扱う分野では、マイクロリットル (μL)、ナノリットル (nL)、ピコリットル (pL)、フェムトリットル (fL)、アトリットル (aL) も使われる。立方ミリメートル (mm)、立方マイクロメートル (μm) 等は、単位の間が9桁も開いていて使いづらいからである。これより小さなSI接頭語を付けた単位であるゼプトリットル (zL) やヨクトリットル (yL) といった単位も一応は考えられるが、実際に用いられた例はない。", "title": "倍量・分量単位" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "倍量単位としてはリットルの1000倍であるキロリットル (kL) がよく使われ、1立方メートル (m) に等しい。これより大きなSI接頭語をつけることも許されているが、実用上メガリットル (ML) 以上はほとんど使われない。また10倍および100倍を表すSI接頭語であるデカおよびヘクトを付けた、デカリットル (daL) およびヘクトリットル (hL) といった単位も一応は考えられ、後述のようにこれらを表す和製漢字も作られたが、これらも現実的には用いられていない。", "title": "倍量・分量単位" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "漢字圏では「立脱耳」や「立突」という漢字が当てられ、日本では「立」と略すようになった。それを使って下記のような国字が作られた。現在ではこれらの表記は計量法上は全く認められていない。", "title": "倍量・分量単位" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ちなみに、「立米」は「りゅうべい」と読み、立方メートルのことである。", "title": "倍量・分量単位" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "中華人民共和国では、尺斤法の升が偶然にもほぼ1リットルだったため、尺斤法をメートル法で再定義する際、升を1リットルと定義し、リットルを表すにも升を使うようになった。", "title": "倍量・分量単位" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "Unicodeには、リットルとその分量・倍量単位を表す上記の文字が収録されている。このうち、文字様記号である l 以外はCJK互換用文字であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであって、使用は推奨されない。", "title": "倍量・分量単位" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "JIS X 0213における図形文字「l 」の追加は、リットルの記号として L や l の使用の制限を意図するものではない(#l から L へ)。", "title": "倍量・分量単位" } ]
リットルは体積の非SI単位である。 その定義は1901年と1964年に2度変更された(後述)が、現在の定義は 10−3立方メートル (m3) = 1立方デシメートル (dm3) = 1000立方センチメートル (cm3) である。すなわち、1辺が1デシメートル の立方体の体積である。 メートル法の古い単位かつ非SI単位であるが「SI単位と併用できる非SI単位」の一つである。 なお、リットルが容積の単位であるとされて液体を量る際に使われていた時代があったが、物理量としては「容積」は「体積」と同一であるので、現在では、リットルの定義において「容積」の語は用いられない。食品表示基準などでも同じである。
{{Otheruses}} {{特殊文字}} {{単位 |名称 = リットル |フランス語 = litre |英語 = litre |記号 = L, l |度量衡 = [[メートル法]] |単位系 = [[非SI単位]] |種類 = [[SI併用単位]] |物理量 = [[体積]] |定義 = 1 dm{{sup|3}} |SI = {{1e-|3}} m{{sup|3}} |画像 = [[File:CubeLitre.svg|200px]]<br/>1リットルは1辺10 cmの立方体の体積である |語源 = [[フランス語]] {{ill2|リトロン|fr|Litron|label=litron}} (≒ 0.78&nbsp;L) }} {{Wiktionarypar|リットル}} '''リットル'''({{lang-fr-short|litre}}, {{lang-en-short|litre}}<ref group="注釈">日本の基準書類においてlit'''er'''と綴られることはない([[リットル#英語表記]])。</ref>, [[単位記号]]: L, l)は[[体積]]の[[非SI単位]]である。 その定義は1901年と1964年に2度変更された(後述)が、現在の定義は {{1e-|3}}[[立方メートル]] (m{{sup|3}}) = 1立方[[デシメートル]] (dm{{sup|3}}) = 1000立方センチメートル (cm{{sup|3}}) である<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] p.114 産業技術総合研究所、計量標準総合センター、「表8 SI単位と併用できる非SI単位」、2020年4月</ref>。すなわち、1辺が1デシメートル (1&nbsp;dm = 10&nbsp;cm) の[[立方体]]の体積である。 [[メートル法]]の古い単位かつ[[非SI単位]]であるが「[[SI併用単位|SI単位と併用できる非SI単位]]」の一つである。 なお、リットルが'''[[容積]]'''の単位であるとされて[[液体]]を量る際に使われていた時代があったが、[[物理量]]としては「容積」は「[[体積]]」と同一であるので、現在では、リットルの定義において「容積」の語は用いられない。[[食品表示基準]]などでも同じである<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=427M60000002010 食品表示基準] 第三条(横断的義務表示)、内容量又は固形量及び内容総量の欄、「内容重量、内容'''体積'''又は内容数量を表示することとし、内容重量はグラム又はキログラム、内容'''体積'''はミリリットル又はリットル、内容数量は個数等の単位で、単位を明記して表示する。」</ref>。 == 語源および表記 == リットルの語源は[[フランス語]]の {{fr|litron}} であり、{{fr|litron}} は[[ギリシャ語]]および[[ラテン語]]の ''{{lang|lat|litra}}'' に由来する。 [[英語]]での[[発音]]({{lang-en-gb-short|litre}}, {{IPA|ˈliːtə(r)}}:リーター)から、日本では'''リッター'''と表記し発音されることがある。 日本では[[1952年]]([[昭和]]27年)[[2月29日]]まで漢字で'''立'''('''立突'''の略)と書かれていた。 ただし、1952年[[3月1日]]の[[計量法]]施行後は'''リッター'''の表記も、'''立'''(立突)の表記も法律上は認められていない。 == 英語表記 == [[BIPM]]が発行するSI文書(フランス語版+英語版、および英語版)では、リットルの英語表記として[[ISO 31]]「量と単位」(Qunatities and Unites) に従い、一貫して、“litre” を使用している<ref>[http://www.bipm.org/utils/common/pdf/si_brochure_8.pdf The International System of Units (SI) (フランス語版+英語版)] 8th edition 2006 の pp.&nbsp;124, 130, 142, 146, 150, 151, 152, 159.</ref><ref>[http://www.bipm.org/utils/common/pdf/si_brochure_8_en.pdf The International System of Units (SI) (英語版)] 8th edition 2006 の pp.&nbsp;124, 130, 142, 146, 150, 151, 152, 159.</ref>。英国においても同じである<ref>[http://www.legislation.gov.uk/uksi/1995/1804/schedule/made RELEVANT IMPERIAL UNITS, CORRESPONDING METRIC UNITS AND METRIC EQUIVALENTS] The Units of Measurement Regulations 1995, legislation.gov.uk における綴り。metre, litre, tonne となっている。</ref>。lit'''er''' の綴りが使用されることは全くない。 ただし、アメリカ合衆国においてのみ、例外的に“liter” を使用している。この理由は、[[合衆国政府印刷局]]のUnited States Government Printing Office Style Manual が “liter” を使用している<ref>[https://www.govinfo.gov/content/pkg/GPO-STYLEMANUAL-2016/pdf/GPO-STYLEMANUAL-2016.pdf U.S. Government Publishing Office Style Manual] U.S. Government Publishing Office, 2016 5. Spelling, p.&nbsp;84, 最右欄</ref>ことを根拠に<ref>[http://physics.nist.gov/cuu/pdf/SI_FRN_Notice_2008.pdf Interpretation of the International System of Units (the Metric System of Measurement) for the United States] 28433ページの左欄 II. a.</ref>、アメリカにおいてSIを所管している[[NIST]]がSI文書のアメリカ版である NIST Special Publication 330<ref>[http://physics.nist.gov/Pubs/SP330/sp330.pdf The International System of Units (SI)] pp.&nbsp;'''32''', 39, '''51''', 55, 60, 61, 69.</ref> において lit'''er''' の綴りを採用しているからである。このためアメリカ国内では liter の表記が普通である。 アメリカが行っているその他の表記の変更事例<ref>[http://physics.nist.gov/Pubs/SP330/sp330.pdf The International System of Units (SI)], NIST Special Publication 330, 2008 Edition, p.iii, 第3段落。</ref>としては、[[メートル]]を metre → meter、[[デカ]]を deca → deka、[[トン]]を tonne → metric ton がある<ref>[http://physics.nist.gov/cuu/pdf/SI_FRN_Notice_2008.pdf Interpretation of the International System of Units (the Metric System of Measurement) for the United States] 28433ページの左欄 II. b.</ref>(ただし、tonne については、SI文書でも「英語圏では通常 metric ton と呼ばれている」と注記している)。 SI文書の日本語版では、[[CIPM]]の決定に従って、それぞれ litre, metre, deca としている<ref>[[#SIja8th|国際文書第8版国際単位系 日本語版 (2006)]] p. 42、『5.1 単位記号』欄外など、p.&nbsp;62。</ref>。これは、JIS規格などの基準書類でも同じであり、lit'''er''' と綴られることはない<ref>例えば、[http://kikakurui.com/z8/Z8000-3-2014-01.html JIS Z8000-3 量及び単位-第3部:空間及び時間] p.&nbsp;7、3-4.b リットル (lit'''re''') など。</ref>。 == 定義の変更による混乱 == SIや他の国際標準では、リットル系と立方メートル系の使い分けについての明確な記述はないが、[[1964年]]の国際度量衡総会は「リットルという名称は、高精度の体積測定の結果を表すためには使用されないよう勧告する」としている。これは精度の問題ではなく、次項で述べるように、リットルの定義が2回変更されて混乱する可能性があったためである。1901年から1964年までのリットルの定義は {{gaps|1.000|028|u=dm{{sup|3}}}} であったので、[[NIST]]は、この間の精密なデータを扱う場合には、この点に留意するように注意を与えている<ref>[http://physics.nist.gov/cuu/pdf/sp811.pdf Guide for the Use of the International System of Units (SI)], NIST Special Publication 811, 2008 Edition, NIST, p.&nbsp;51, 下欄注19 ''Between 1901 and 1964 the liter was slightly larger ({{gaps|1.000|028|u=dm{{sup|3}}}}); when one uses high-accuracy volume data of that time, this fact must be kept in mind.''</ref>。 == 歴史 == [[1793年]]、リットルはフランスの「共和党法案」で、新しい公定単位の一つとして提案された。その定義は、1立方デシメートル (dm{{sup|3}}) であった。名前は、フランスの伝統的な単位{{ill2|リトロン|fr|Litron|}} ({{fr|litron}}) ≒ 0.78&nbsp;L に因むもので、ギリシャ語からラテン語を経由してフランス語に取り入れられた。 [[1879年]]、[[国際度量衡委員会]] (CIPM) はリットルの定義および小文字の l(小文字の[[L|エル]])をその記号とすることを採択した。 [[1901年]]、第3回[[国際度量衡総会]] (CGPM) は、「1. 高精度測定のための体積の単位は,最大密度<ref group="注釈">最大密度となる温度は 3.98&nbsp;[[°C]] である。</ref>で,標準大気圧の下にある1キログラムの純水によって占められる体積であり,その体積を「リットル」と称する.」と声明した<ref>[[#SIja8th|国際文書第8版国際単位系 日本語版 (2006)]] pp.&nbsp;54–55、第3回 CGPM、1901年、『リットルの定義についての声明(CR, 38-39)』</ref>。 [[キログラム]]の本来の定義によれば、これは1立方デシメートルと等しいはずである。しかし、実際にはキログラムの定義に使用されている[[キログラム原器]]が本来の定義よりも重くできてしまったため、1リットルは1立方デシメートルよりも少しだけ大きいことになった。そこで、[[国際度量衡局]] (BIPM) が、1キログラムの水の体積を精密に繰り返して測定した。実際は1立方デシメートルの純水の質量を測定した。しかし条件を揃えたつもりでも、測定のたびに1ミリグラム台の差が出てしまった。先のリットルの定義では、最大密度であることと標準大気圧下であることを規定しているが、水の密度には他にも多数の条件が関わっており、それを全て揃えるのは非常に難しいためである。 {| class="wikitable" style="text-align:left;" ! 測定者 !! 測定値 L/dm{{sup|3}} |- | ギヨーム || {{val|1.000029}} |- | シャピュイユ || {{val|1.000027}} |- | レピネーラ || {{val|1.000028}} |} 結局、[[1907年]]に[[BIPM]]は表の3つの測定結果を示した上で「BIPMに課せられた水の1キログラムの体積を決定する仕事は、最高の精度をもって達せられた」と報告し、いわば「匙を投げた」状態となった。 そのため、各国で採用する値が異なるという事態を招いた。例えば日本では {{gaps|1.000|028|u=dm{{sup|3}}}} を採用し、アメリカでは {{gaps|1.000|029|u=dm{{sup|3}}}} を採用していた。このため、1960年の第11回[[CGPM]]は、[[CIPM]]にこの問題を検討するよう要請した<ref>[[#SIja8th|国際文書第8版国際単位系 日本語版 (2006)]] p.&nbsp;63、第11回 CGPM、1960年、『立方デシメートルとリットル(CR, 88)』、決議13。</ref>。 この検討の結果、1964年の第12回[[CGPM]]は、1901年の定義を廃止して、メートルに基づいた元の定義の1リットル ≡ 1立方デシメートルに戻し、リットルは立方デシメートル (dm{{sup|3}}) の別名称であることを声明すると同時に、高精度の体積測定の結果を表すためにはリットルを使用しないよう勧告した<ref>[[#SIja8th|国際文書第8版国際単位系 日本語版 (2006)]] p.&nbsp;64、第12回 CGPM、1964年、『■ リットル(CR, 93)』、決議6。</ref>。 定義の変更による混乱を避けるために、新しい定義のリットルには「新リットル」という名称が与えられ、(旧)リットルと区別する必要がある場合に使われたが、現在は単にリットルと呼ぶ。 == 記号のゆれ == リットルの[[単位記号]]は[[国際単位系]] (SI) の規定では、大文字・[[立体活字|立体]]の L または小文字・[[立体活字|立体]]の l が正しい。日本の[[計量法]]上も同じである<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080#91 計量単位規則 別表第2(第2条関係)] 体積・リットルの欄、「l又はL」となっている。</ref>。 === l から L へ === 当初、リットルを表す[[単位記号]]は小文字・[[立体活字|立体]]の l だけであった。SIにおいては、人名に由来する単位については記号の一文字目を[[大文字]]にし、それ以外の単位は全て[[小文字]]で書くことになっていたからである。しかし、多くの[[ラテン文字]]を由来とする文字を使用する国では、[[筆記体]]の[[アラビア数字]]の 1 を単に垂直の線のみで示すのが一般的であり、これと[[ラテン文字]]の小文字の l とは[[ホモグリフ|酷似している]]<ref group="注釈">手動式タイプライターの一部の機種では、数字「1」のキーを省略し、Lの小文字「l」のキーで代用したものがあったほどである([[タイプライター#キーの省略]])。</ref>ため、誤認されることがあった。 [[1979年]]、第16回[[CGPM]]は、小文字・[[立体活字|立体]]の l 以外に大文字・[[立体活字|立体]]の L もリットルの新たな単位記号として用いることを採択した。また、将来この2つのうちのどちらか1つのみを正式なものとして選択されるべきであると表明されたが<ref>[[#SIja8th|国際文書第8版国際単位系 日本語版 (2006)]] pp. 72-73. {{Quotation|リットルという名称は,国際単位系に含まれるものではないとはいえ,同単位系との一般的併用が認められなければならないことを'''考慮し''',例外的な措置として,単位リットルに対して使用できる記号として,二つの記号 l と L を採用することを'''決定し''',更に,将来二つの記号のうち一つだけを採用するべきであることを'''考慮し''',国際度量衡委員会に二つの記号の使用についての普及状況を追跡させること,それに基づいて,二つのうち一つを排除する可能性についての意見を第18 回国際度量衡総会に提出することを'''要請する'''.}}</ref>、1990年の会議ではまだその時期ではないとされた<ref>[[#SIja8th|国際文書第8版国際単位系 日本語版 (2006)]] p.&nbsp;73 欄外の注記。</ref>。 したがって、現在でも l と L のどちらを用いても正しいが、日本では[[産業技術総合研究所]]が、大文字・[[立体活字|立体]]の L を使用することを推奨している<ref>{{PDF|[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/pamphlet/si/SIdata.pdf 『国際単位系(SI)は世界共通のルールです』]}}、2010年2月、国際単位系 FAQ、「体積を表すリットルの単位記号として ℓ は使えますか。」に対する答えの最後の記述「数字の 1 との混乱を避けることを考えると、大文字の L を推奨します。」</ref>。法令においても例えば農林水産省の「飼料及び飼料添加物の成分規格等に関する省令」は、「L」を用いることを規定している<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=351M50010000035#210 飼料及び飼料添加物の成分規格等に関する省令 別表第2(第2条関係)] 1飼料添加物一般の通則、(3)主な計量の単位については、次の記号を用いる。  リットルには「L」を、ミリリットルには「mL」を用いるなどと規定している。</ref>。 一方、[[アメリカ標準技術局]] (NIST) は、SP811において、アメリカ合衆国では大文字 L を使用すると規定している<ref>{{PDF|[http://physics.nist.gov/cuu/pdf/sp811.pdf Guide for the Use of the International System of Units (SI)]}}, NIST Special Publication 811, 2008 Edition, NIST, p.&nbsp;8 Table 6. Non-SI units accepted for use with the SI by the CIPM and this Guide, ('b') "Thus, although both l and L are internationally accepted symbols for the liter, to avoid this risk the symbol to be used in the United States is L."</ref>。このためSI文書のNISTバージョンであるSP330においてもリットルの記号として L のみを掲げている<ref>{{PDF|[http://physics.nist.gov/Pubs/SP330/sp330.pdf The International System of Units (SI)]}}, NIST Special Publication 330, 2008 Edition, p.&nbsp;32, 注 (f) Editors' note: Since the preferred unit symbol for the liter in the United States is L, only L is given in the table;</ref>。なお、[[合衆国政府印刷局]]のStyle Manualにおいても、大文字 L を使用すると規定している<ref>[https://www.govinfo.gov/content/pkg/GPO-STYLEMANUAL-2016/pdf/GPO-STYLEMANUAL-2016.pdf U.S. Government Publishing Office Style Manual] U.S. Government Publishing Office, 2016, Abbreviations and Letter Symbols 9.56, pp.&nbsp;236–237, 250. kL (kiloliter), mL (milliliter) などについても同様である。</ref>。 このような事情から、現在では日本においても、記号 L の使用が優勢となっている。 === 記号の由来についての冗談 === リットルに大文字「L」を用いるのは、その由来が[[クロード・リットル]] (Claude Émile Jean-Baptiste Litre) という人名によるものである、という冗談をケネス・ウールナー (Kenneth Woolner) が1978年の[[エイプリル・フール]]のジョークとして教師向けの化学のニュースレターに載せ<ref>{{PDF|[https://uwaterloo.ca/chem13news/sites/ca.chem13news/files/uploads/files/Jean%20Litre-article.pdf Claude Émile Jean-Baptiste Litre (1716–1778)]}} reprinted from Chem 13 News, pages 1–3, April 1978</ref>、それが1980年に[[国際純正・応用化学連合]] (IUPAC) の雑誌 Chemistry International<ref>[http://www.iupac.org/publications/ci/ Chemistry International]</ref> に事実として記載され、同雑誌の次号において撤回されるという事件があった<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=f7DYvphaRhwC&pg=PA80&dq=baptiste+litre&hl=en&ei=S3CoTp29MMug-waUkZC7Dw&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q=baptiste%20litre&f=false New Scientist 4 Oct 1984]</ref>。詳細は[[クロード・リットル]]を参照のこと。 === {{JIS2004フォント|ℓ}} から L へ === リットルの[[単位記号]]として、小文字の l の活字体ではなく小文字・[[筆記体]]・立体の {{JIS2004フォント|ℓ}} ([[Unicode|U]]+2113) が日本をはじめとするいくつかの国で用いられることがある。日本の初等および中等教育でも {{JIS2004フォント|ℓ}} を用いるように教えていた。しかし、前記の通り、[[国際度量衡局]] (BIPM)、[[国際標準化機構]] (ISO) やその他の国際標準機関においても、日本の計量法体系においても、この記号は認められていない。 また、筆記体のエルのほか、中学高校の教科書では斜体字のエル <math>l</math> を用いているものもあったが、[[計量単位]]は[[立体活字|立体]]で書き、斜体字は[[物理量]]の変数を表すことになっているため、単位の取扱いとしては誤りである。このため2006年度の[[教科用図書検定|教科書検定]]では、高校物理IIおよび高校化学IIの教科書では[[立体活字|立体]]の L に表記を変更する措置がとられた。この結果、2012年現在、ほとんどの高校の教科書で[[立体活字|立体]]の L や l が用いられており、{{JIS2004フォント|ℓ}} の表記はほぼ使われていない。 小学校の教科書においても、2011年度からは、L が使用されている。2009年6月の小学校[[学習指導要領]]解説 算数編では、リットルの[[単位記号]]として小文字の「l」が用いられていたが<ref>{{PDF|[https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2009/06/16/1234931_004_1.pdf 小学校学習指導要領解説 算数編]}} p.&nbsp;41など</ref>、2011年の[[教科書検定]]から、単位記号は、大文字の「L」を使用するように検定意見が付き、各教科書とも、L を使用し始めた<ref>[http://www.dainippon-tosho.co.jp/news/2011/0601_m_and_l.html 教科書における単位記号の表記について] 大日本図書 2011/06/01</ref><ref>[https://www.tokyo-shoseki.co.jp/question/j/gijutsukatei.html#q7 「リットル」の表記を「L」にするなど,単位記号の表記を変更した理由を教えてください。] 東京書籍</ref><ref>[https://www.gakuto.co.jp/h28hi/h28hikagaku/qa/ 教科のQ&A] 学校図書 Q2 リットルの単位の表記が大文字の「L」に変わったのはなぜですか?</ref><ref>{{PDF|[https://web.archive.org/web/20140602195616/http://www.ypec.ed.jp/gimukyo/kensetsu2009/kensetsu2010/e-03sansu.pdf 山梨県総合教育センター]}}(2014年6月2日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) p.&nbsp;10、3 平成23年度使用教科書における計量単位の扱いについて。</ref>。これは、教科用図書検定基準が改定され、[[計量単位]]の記号については、「SIと併用される単位」についても、SI文書の表記によることとされたためである<ref>[http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/1260042.htm 義務教育諸学校教科用図書検定基準] (2009年3月4日文部科学省告示第33号)別表 計量単位の項「(1) 計量単位及びその記号は、「計量法」(平成4年法律第51号)によること。ただし、当該計量単位の中に国際単位系(SI)の単位又はSIと併用される単位がある場合には、原則としてこれによること。 」</ref><ref>[https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/tosho/gijiroku/attach/1259011.htm 義務教育諸学校教科用図書検定基準全部改正 新旧対照表] (最後にある)別表、計量単位の項</ref>。 現在では、日本の一般的な小売の商品の印刷面やスーパーマーケットなどでの表記でも、大文字[[立体活字|立体]]の L が多く用いられるようになってきている。ただし、2019年時点でも店頭における商品のパッケージ上の記述は統一されていないため、小学校の教科書では、Lとは異なる記号が使われていることに注意を促しているものがある<ref>藤井斉亮・真島秀行ほか84名、新しい算数2上、p.76、2019年3月5日検定済、2021年3月10日発行、[[東京書籍]]、ISBN 978-4-487-10543-4、「mL の かわりに mlや m{{JIS2004フォント|ℓ}}が つかわれて いたり, L の かわりに {{JIS2004フォント|ℓ}}が つかわれて いたりする ものも あるよ。」</ref>。 [[縦書き]]表記では、[[立体活字|立体]]の l を使用することはほとんどなく、L が使用されることもまれで、もっぱら {{JIS2004フォント|ℓ}} が使用されるか、[[SI接頭語]]の記号 + {{JIS2004フォント|ℓ}}(m{{JIS2004フォント|ℓ}} 等)を[[縦中横]]にしたり、{{JIS2004フォント|&#x3351;}} の形の[[組文字]]を使用することが多い。 [[文字コード]]では、2000年に規格化された文字コード規格の[[JIS X 0213]]は、リットルを表す記号として面区点位置1-3-63に {{JIS2004フォント|ℓ}} を追加採用した。ただし、この図形文字の追加は、リットルの記号として L や l の使用の制限を意図するものではないとしている<ref>日本規格協会、7ビット及び8ビットの2バイト情報交換用符号化拡張漢字集合 JIS X 0213:2000、付属書7(参考)面区点位置詳説、1.3.7 単位記号a) p.307 「なお、この図形文字の追加は、単位の“リットル”を L (1-3-44, LATIN CAPITAL LETTER L, ラテン大文字L)又は l(ラテン小文字L)の立体又は斜体などで記載することを制限することを意図するものではない。」</ref>。 [[Unicode]]では U+2113 に {{JIS2004フォント|ℓ}} を {{en|SCRIPT SMALL L}} として {{en|liter (traditional symbol)}} の説明つきでリットル用の記号としてコードが割り当てられており<ref>{{PDF|[https://www.unicode.org/charts/PDF/U2100.pdf Letterlike Symbols]}}</ref>、数学用に使用される筆記体の l である U+1D4C1, &#x1d4c1;, {{en|MATHEMATICAL SCRIPT SMALL L}}<ref>{{PDF|[https://www.unicode.org/charts/PDF/U1D400.pdf Mathmatical Alphanumeric Symbol]}}</ref> とは区別して定めている。 === 酒類の表示 === 国税庁は、酒類の内容量の表示について次のように指示している<ref>[https://www.nta.go.jp/taxes/sake/qa/11/pdf/012.pdf 酒類の表示に関する説明事項(各品目共通) ] 酒類の表示方法チェックシート、国税庁</ref>。根拠は、「酒税の保全及び酒類業組合等に関する法律」<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=328AC0000000007_20220901_501AC0000000071&keyword=%E9%85%92%E7%A8%8E%E3%81%AE%E4%BF%9D%E5%85%A8%E5%8F%8A%E3%81%B3%E9%85%92%E9%A1%9E%E6%A5%AD%E7%B5%84%E5%90%88%E7%AD%89%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95%E5%BE%8B 酒税の保全及び酒類業組合等に関する法律] [[e-Gov法令検索]] </ref>第86条の5(酒類の品目等の表示義務) である。 * 「内容量」の文字に続けて、「L」、「ml」、「mL」、「ℓ」、「mℓ」又は「リットル」、「ミリリットル」と表示しなければならない。 ** 注)大文字「М」は「[[メガ]]」を表す[[接頭語]]のため使用しないこと。<ref>[https://www.customs.go.jp/tokyo/sodan/sakerui_3.pdf 酒類の表示方法の届出について] p.2、東京税関業務部収納課許可係、2022-04-01 </ref>。 上記の表示のうち、「リットル」、「ミリリットル」は[[計量単位]]の名称である。[[単位記号]]のうち、「L」、「ml」、「mL」の3つが、計量法が標準として定めている記法であるが、「ℓ」、「mℓ」の2つはそうではない。 == 倍量・分量単位 == リットルは[[非SI単位]]であるが、[[国際単位系]]の規定でも[[計量法]]の規定でも[[SI接頭語]]を付加することができる。 === 分量単位 === ==== ミリリットル ==== 日本の日常生活では1000分の1リットルである'''ミリリットル''' (mL) がよく使われ、これは、[[立方センチメートル]] (cm{{sup|3}}) に等しい。この二者は混用されることもあるが、製品の種別や場合によっては片方のみがもっぱら使われる。液状の[[医薬品]]や[[化粧品]]、調理の[[レシピ]]ではミリリットルが用いられ、[[内燃機関]]の容積を細かく記述する際は立方センチメートルが用いられる(大まかに記述する際はリットルを用いる)。 なお、立方センチメートル (cm{{sup|3}}) のことを cc([[立方センチメートル]]、{{lang-fr|centimètre cube}}の略)とも表記することがあるが、[[国際単位系|SI]]では使用を認めておらず、いくつかの理由から、使わないほうがよい。 {{Main|立方センチメートル#cc}} ==== デシリットル ==== [[画像:Decilitre used in bean shop.jpg|thumb|250px|豆類の販売にデシリットルが用いられている。]] 日本では、10分の1リットルである'''デシリットル''' (dL) は、実生活ではあまり使われていない<ref group="注釈">[https://www.pref.miyazaki.lg.jp/tokeichosa/kense/toke/graf_kekka.html 第53回(令和3年度)宮崎県統計グラフコンクール審査結果] 第1部(小学校1・2年生) 入選作品「かさしらべ」黒木志帆(宮崎市立東大宮小学校2年生)による調査結果[https://www.pref.miyazaki.lg.jp/documents/11189/11189_20211021172101-1.jpg]。「いえの中のL、dL、mLさがし」として、Lが4個、mLが11個に対して、dLは健康診断の結果([[血糖値]]の単位と思われる。)のみに使われている。</ref>。しかし小学校2年生の算数の教科書で教えられている<ref>藤井斉亮・真島秀行ほか84名、新しい算数2上、p.70、2019年3月5日検定済、2021年7月10日発行、[[東京書籍]]、ISBN 978-4-487-10543-4</ref>。これは水筒(0.8 L程度)やペットボトル(0.5 L程度)の体積を示して体積(「かさ」としている。)の単位を教えるのであるが、小学校2年生の段階では、小数点を習っていないため<ref group="注釈">小数点をもつ数字は、小学校3年生の段階で学習する。</ref><ref>藤井斉亮・真島秀行ほか84名、新しい算数3下、p.4、2019年3月5日検定済、2021年7月10日発行、[[東京書籍]]、ISBN 978-4-487-11543-3</ref>、0.8 L、0.5 L とは教えず、8 dL、5 dL として教えるためである。 この単位は、主として豆や穀類を小売りする際に用いられている(2005年9月現在)。[[計量法]]の施行により、従来使われてきた尺貫法ベースの計量単位が商取引に使えなくなったため、1[[合]](約 1.8039 デシリットル)に比較的近い2デシリットルを販売の基準としている(写真参照)。また、[[血糖値]]の単位として mg/dL([[ミリグラム]]毎デシリットル)が用いられる。 ==== センチリットル ==== ヨーロッパでは100分の1リットル (10&nbsp;cm{{sup|3}}) である'''センチリットル''' (cL) が、飲料の容量などによく使われる。「EUにおける食品ラベルに関する表示規則(理事会指令76/211/EEC)」において、液体の容量表示は、「cL」と規定されている(ただしワイン類については附則でmL表示が認められている)<ref>計量実務事典、p.191、ISBN 978-4-474-05721-0、[[第一法規]]、2017-10-05初版</ref>。 ==== その他の分量単位 ==== [[生化学]]、[[塗装]]・[[印刷]]など微量の液体を扱う分野では、'''マイクロリットル''' (µL)、'''ナノリットル''' (nL)、'''ピコリットル''' (pL)、'''フェムトリットル''' (fL)、'''アトリットル''' (aL) も使われる。立方ミリメートル (mm{{sup|3}})、立方マイクロメートル (µm{{sup|3}}) 等は、単位の間が9桁も開いていて使いづらいからである。これより小さな[[SI接頭語]]を付けた単位であるゼプトリットル (zL) やヨクトリットル (yL) といった単位も一応は考えられるが、実際に用いられた例はない。 === 倍量単位 === 倍量単位としてはリットルの1000倍である'''キロリットル''' (kL) がよく使われ、1[[立方メートル]] (m{{sup|3}}) に等しい。これより大きなSI接頭語をつけることも許されているが、実用上メガリットル (ML) 以上はほとんど使われない。また10倍および100倍を表すSI接頭語であるデカおよびヘクトを付けた、デカリットル (daL) およびヘクトリットル (hL) といった単位も一応は考えられ、後述のようにこれらを表す和製漢字も作られたが、これらも現実的には用いられていない。 {| class="wikitable" style="text-align:centre" |- ! 倍量 !! 名称 !! 記号 !! SI単位 | rowspan="12"| ! 分量 !! 名称 !! 記号 !! SI単位 |- | 10{{sup|0}}&nbsp;L || リットル || L || 10{{sup|3}}&nbsp;cm{{sup|3}}(1&nbsp;dm{{sup|3}}) | colspan="4"| &nbsp; |- | 10{{sup|1}}&nbsp;L || デカリットル || daL || 10{{sup|4}}&nbsp;cm{{sup|3}}(10{{sup|1}}&nbsp;dm{{sup|3}}) | 10<sup>−1</sup>&nbsp;L || デシリットル || dL || 10{{sup|2}}&nbsp;cm{{sup|3}} |- | 10{{sup|2}}&nbsp;L || ヘクトリットル || hL || 10{{sup|5}}&nbsp;cm{{sup|3}}(10{{sup|2}}&nbsp;dm{{sup|3}}) | 10<sup>−2</sup>&nbsp;L || センチリットル || cL || 10{{sup|1}}&nbsp;cm{{sup|3}} |- | 10{{sup|3}}&nbsp;L || キロリットル || kL || 1&nbsp;m{{sup|3}} | 10<sup>−3</sup>&nbsp;L || ミリリットル || mL || 1&nbsp;cm{{sup|3}} |- | 10{{sup|6}}&nbsp;L || メガリットル || ML || 10{{sup|3}}&nbsp;m{{sup|3}}(1&nbsp;dam{{sup|3}}) | 10<sup>−6</sup>&nbsp;L || マイクロリットル || µL || 1&nbsp;mm{{sup|3}} |- | 10{{sup|9}}&nbsp;L || ギガリットル || GL || 10{{sup|6}}&nbsp;m{{sup|3}}(1&nbsp;hm{{sup|3}}) | 10<sup>−9</sup>&nbsp;L || ナノリットル || nL || 10{{sup|6}}&nbsp;µm{{sup|3}} |- | 10<sup>12</sup>&nbsp;L || テラリットル || TL || 1&nbsp;km{{sup|3}} | 10<sup>−12</sup>&nbsp;L || ピコリットル || pL || 10{{sup|3}}&nbsp;µm{{sup|3}} |- | 10<sup>15</sup>&nbsp;L || ペタリットル || PL || 10{{sup|3}}&nbsp;km{{sup|3}} | 10<sup>−15</sup>&nbsp;L || フェムトリットル || fL || 1&nbsp;µm{{sup|3}} |- | 10<sup>18</sup>&nbsp;L || エクサリットル || EL || 10{{sup|6}}&nbsp;km{{sup|3}} | 10<sup>−18</sup>&nbsp;L || アトリットル || aL || 10{{sup|6}}&nbsp;nm{{sup|3}} |- | 10<sup>21</sup>&nbsp;L || ゼタリットル || ZL || 1&nbsp;Mm{{sup|3}} | 10<sup>−21</sup>&nbsp;L || ゼプトリットル || zL || 10{{sup|3}}&nbsp;nm{{sup|3}} |- | 10<sup>24</sup>&nbsp;L || ヨタリットル || YL || 10{{sup|3}}&nbsp;Mm{{sup|3}} | 10<sup>−24</sup>&nbsp;L || ヨクトリットル || yL || 1&nbsp;nm{{sup|3}} |- | 10<sup>27</sup>&nbsp;L || ロナリットル || RL || 10{{sup|6}}&nbsp;Mm{{sup|3}} | 10<sup>-27</sup>&nbsp;L || ロビリットル || rL || 1&nbsp;nm{{sup|3}} |} === 漢字 === 漢字圏では「立脱耳」や「立突」という漢字が当てられ、日本では「立」と略すようになった。それを使って下記のような[[国字]]が作られた。現在ではこれらの表記は計量法上は全く認められていない。 *竏 - キロリットル (kL) *竡 - ヘクトリットル (hL) *竍 - デカリットル (daL) *竕 - デシリットル (dL) *竰 - センチリットル (cL) *竓 - ミリリットル (mL) *&#x7ad7;<ref group="注釈">「立+少」で組み合わされた字形。</ref> - マイクロリットル (µL) ちなみに、「立米」は「りゅうべい」と読み、[[立方メートル]]のことである。 中華人民共和国では、[[尺斤法]]の[[升]]が偶然にもほぼ1リットルだったため、尺斤法をメートル法で再定義する際、升を1リットルと定義し、リットルを表すにも升を使うようになった。 === 符号位置 === {| class="wikitable" style="text-align:center;" ! 記号 !! [[Unicode]] !! [[JIS X 0213]] !! [[文字参照]] !! 名称 {{CharCode|8467|2113|1-3-63|リットル|font=JIS2004フォント}} {{CharCode|13205|3395|-|マイクロリットル}} {{CharCode|13206|3396|-|ミリリットル<ref group="注釈">[[Microsoft Windows XP|XP以前Windows]]にバンドルされているMS明朝およびMSゴシックでは、字形が誤って M{{JIS2004フォント|ℓ}} (メガリットル)の形になっている。</ref>|font=MacJapanese}} {{CharCode|13207|3397|-|デシリットル|font=MacJapanese}} {{CharCode|13208|3398|-|キロリットル|font=MacJapanese}} {{CharCode|13137|3351|1-13-40|全角リットル|font=JIS2004フォント}} |} [[Unicode]]には、リットルとその分量・倍量単位を表す上記の文字が収録されている。このうち、[[文字様記号]]である ℓ 以外は[[CJK互換用文字]]であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであって、使用は推奨されない<ref>{{cite web|url=http://www.unicode.org/charts/PDF/U3300.pdf|title=CJK Compatibility |format=PDF|accessdate=2016-02-21|date=2015}}</ref><ref>{{cite web|publisher=The Unicode Consortium|title=The Unicode Standard, Version 8.0.0|location=Mountain View, CA|date=2015|isbn=978-1-936213-10-8|url=http://www.unicode.org/versions/Unicode8.0.0|accessdate=2016-02-21}}</ref>。 [[JIS X 0213]]における図形文字「{{JIS2004フォント|ℓ}} 」の追加は、リットルの記号として L や l の使用の制限を意図するものではない([[#ℓ から L へ]])。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{cite book|和書|author=訳・監修(独)産業技術総合研究所計量標準総合センター|title=国際文書国際単位系 (SI) |format=PDF |edition=第8版日本語版 |year=2006|url=https://web.archive.org/web/20191008102417/https://unit.aist.go.jp/nmij/library/units/si/R8/SI8J.pdf|accessdate=2022年1月28日|ref=SIja8th}} == 関連項目 == {{Commonscat}} {{Wiktionary}} * [[体積の比較]] * [[クロード・リットル]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{体積の単位}} {{Punctuation marks}} {{SI units navbox}} {{DEFAULTSORT:りつとる}} [[Category:体積の単位]] [[Category:メートル法]] [[Category:SI併用単位]]
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諸行無常
諸行無常(しょぎょうむじょう、巴: sabbe saṅkhārā aniccā、सब्बे संखारा अनिच्चा)は、仏教用語で、この世の現実存在(森羅万象)はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。「諸行」とは因縁によって起こるこの世の現象(サンカーラ)を指し、「無常」とは一切は常に変化し、不変のものはない(アニッチャ)という意味。 諸法無我と並べられるが、行は因縁によって起こるこの世の現象を指すのに対し、法は涅槃すらも含むあらゆる事象を指している。 宋代の仏教書『景徳伝灯録』によれば、釈迦牟尼仏がクシナガラで入滅した際、沙羅双樹の木の下で説いた言葉と伝えられる。87 アッギヴェッサナよ、私はこのように弟子たちを戒める。このように頻繁に語る。 「比丘たちよ、色は無常、受は無常、想は無常、行は無常、識は無常である。 比丘たちよ、色は無我、受は無我、想は無我、行は無我、識は無我である。 すべての行は無常である、すべての法は無我である。」と。 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と 明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。 Aniccā vata saṅkhārā uppādavayadhammino, Uppajjitvā nirujjhanti tesaṃ vūpasamo sukho 諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽 実に諸行は無常である、生じては滅する性質である 生じて滅する、これらが鎮まるのが楽である。 仏教の根本思想をなすもので、あらゆるものは刹那(一瞬=きわめて短い時間)の間にも変化をくり返している(有為法)。仏法の三法印の一つで、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の3つからなる。涅槃経に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」とあり、これを諸行無常偈、無常喝と呼ぶ。釈迦が前世における雪山童子であった時、この中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てしなり。これより雪山偈とも言われる。 「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。 「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。 なお『大乗涅槃経』では、この諸行無常の理念をベースとしつつ、この世にあって、仏こそが常住不変であり、涅槃の世界こそ「常楽我浄」であると説いている。 三法印・四法印は釈迦の悟りの内容であるとされているが、釈迦が「諸行無常」を感じて出家したという記述が、初期の『阿含経』に多く残されている。 しばしば空海に帰せられてきた『いろは歌』は、この偈を詠んだものであると一説では言われているという。 なお平家物語の冒頭にも引用されている。 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす」 祇園精舎の鐘の音は世の中に不変のものはないという風に聞こえる。沙羅双樹の花の色は、栄える者は必ずや衰え滅び、長くは続かないこの世の定理をあらわしている。)」
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "諸行無常(しょぎょうむじょう、巴: sabbe saṅkhārā aniccā、सब्बे संखारा अनिच्चा)は、仏教用語で、この世の現実存在(森羅万象)はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。「諸行」とは因縁によって起こるこの世の現象(サンカーラ)を指し、「無常」とは一切は常に変化し、不変のものはない(アニッチャ)という意味。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "諸法無我と並べられるが、行は因縁によって起こるこの世の現象を指すのに対し、法は涅槃すらも含むあらゆる事象を指している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "宋代の仏教書『景徳伝灯録』によれば、釈迦牟尼仏がクシナガラで入滅した際、沙羅双樹の木の下で説いた言葉と伝えられる。87", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "アッギヴェッサナよ、私はこのように弟子たちを戒める。このように頻繁に語る。 「比丘たちよ、色は無常、受は無常、想は無常、行は無常、識は無常である。 比丘たちよ、色は無我、受は無我、想は無我、行は無我、識は無我である。 すべての行は無常である、すべての法は無我である。」と。", "title": "抜粋" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と 明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。", "title": "抜粋" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "Aniccā vata saṅkhārā uppādavayadhammino, Uppajjitvā nirujjhanti tesaṃ vūpasamo sukho", "title": "抜粋" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽", "title": "抜粋" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "実に諸行は無常である、生じては滅する性質である 生じて滅する、これらが鎮まるのが楽である。", "title": "抜粋" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "仏教の根本思想をなすもので、あらゆるものは刹那(一瞬=きわめて短い時間)の間にも変化をくり返している(有為法)。仏法の三法印の一つで、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の3つからなる。涅槃経に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」とあり、これを諸行無常偈、無常喝と呼ぶ。釈迦が前世における雪山童子であった時、この中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てしなり。これより雪山偈とも言われる。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "なお『大乗涅槃経』では、この諸行無常の理念をベースとしつつ、この世にあって、仏こそが常住不変であり、涅槃の世界こそ「常楽我浄」であると説いている。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "三法印・四法印は釈迦の悟りの内容であるとされているが、釈迦が「諸行無常」を感じて出家したという記述が、初期の『阿含経』に多く残されている。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "しばしば空海に帰せられてきた『いろは歌』は、この偈を詠んだものであると一説では言われているという。", "title": "日本文化への普及" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお平家物語の冒頭にも引用されている。", "title": "日本文化への普及" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす」", "title": "日本文化への普及" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "祇園精舎の鐘の音は世の中に不変のものはないという風に聞こえる。沙羅双樹の花の色は、栄える者は必ずや衰え滅び、長くは続かないこの世の定理をあらわしている。)」", "title": "日本文化への普及" } ]
諸行無常は、仏教用語で、この世の現実存在(森羅万象)はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。「諸行」とは因縁によって起こるこの世の現象(サンカーラ)を指し、「無常」とは一切は常に変化し、不変のものはない(アニッチャ)という意味。 三法印、四法印のひとつ 上座部仏教における三相のひとつ 諸法無我と並べられるが、行は因縁によって起こるこの世の現象を指すのに対し、法は涅槃すらも含むあらゆる事象を指している。 宋代の仏教書『景徳伝灯録』によれば、釈迦牟尼仏がクシナガラで入滅した際、沙羅双樹の木の下で説いた言葉と伝えられる。87
[[File:2013-01-05 Wood stûpa Graves in Ogo,Kobe,Hyogo prefecture 神戸市北区淡河町の墓地と木製卒塔婆 DSCF4051.JPG|thumb|240px|right|木製卒塔婆に書かれた「諸行無常是生滅法」([[神戸市]]北区淡河町の[[墓地]])]] '''諸行無常'''(しょぎょうむじょう、{{lang-pi-short|sabbe saṅkhārā aniccā}}、सब्बे संखारा अनिच्चा)は、[[仏教用語の一覧|仏教用語]]で、[[この世]]の現実存在([[森羅万象]])はすべて、すがたも[[本質]]も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。「'''諸行'''」とは[[因縁]]によって起こるこの世の現象([[サンカーラ]])を指し、「'''無常'''」とは一切は常に[[変化]]し、不変のものはない([[無常|アニッチャ]])という意味<ref name=muga>{{Cite |和書|title=無我の見方 |author=[[アルボムッレ・スマナサーラ]] |date=2012 |isbn=978-4905425069 |publisher=サンガ |at={{Kindle版|1930|869-921}} }}</ref>。 * [[三法印]]<ref name=daichido>{{大正新脩大蔵経|title=大智度論 |no=1509|vol=25|page=0222a27}}</ref>、[[四法印]]のひとつ * [[上座部仏教]]における[[三相 (仏教)|三相]]のひとつ<ref name=muga/> [[諸法無我]]と並べられるが、行は[[因縁]]によって起こるこの世の[[サンカーラ|現象]]を指すのに対し、法は[[涅槃]]すらも含むあらゆる事象を指している<ref name=muga/>。 [[宋代]]の仏教書『[[景徳伝灯録]]』によれば、[[釈迦牟尼仏]]が[[クシナガラ]]で[[仏滅|入滅]]した際、[[サラソウジュ|沙羅双樹]]の木の下で説いた言葉と伝えられる<ref name="kotowaza">[http://kotowaza-allguide.com/si/syogyoumujyou.html 故事ことわざ辞典]</ref>。87 == 抜粋 == {{Quote| アッギヴェッサナよ、私はこのように弟子たちを戒める。このように頻繁に語る。<br> 「比丘たちよ、[[色 (仏教)|色]]は無常、[[受]]は無常、[[想]]は無常、[[サンスカーラ|行]]は無常、[[識]]は無常である。<br>  比丘たちよ、色は無我、受は無我、想は無我、行は無我、識は無我である。<br>  すべての[[サンスカーラ|行]]は無常である、すべての法は無我である。」と。 | {{SLTP| [[中部 (パーリ)|中部]]35 [[薩遮迦小経]] }} <ref name=mugaqa>{{Cite |和書|title=無我の見方 |author=[[アルボムッレ・スマナサーラ]] |date=2012 |isbn=978-4905425069 |publisher=サンガ |at={{Kindle版|1930|1501-1522}} }}</ref>}} {{Quote| 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と <br> 明らかな[[般若|智慧]]をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。 | {{SLTP| [[ダンマパダ]] 20章277}} }} {{Quote| Aniccā vata saṅkhārā uppādavayadhammino, <br> Uppajjitvā nirujjhanti tesaṃ vūpasamo sukho 諸行無常 是生滅法<br> 生滅滅已 寂滅為楽 実に[[サンスカーラ|諸行]]は無常である、生じては滅する性質である<br> 生じて滅する、これらが鎮まるのが[[楽 (仏教)|楽]]である。 | {{SLTP|長部16, [[大般涅槃経 (上座部)|大般涅槃経]] }} }} == 解説 == {{出典の明記|date=2015-08|section=1}} [[ファイル:Hange Shashin-zu by Kubota Beisen.jpg|thumb|200px|[[久保田米僊]]筆「半偈捨身図」。ヒマラヤで修行していた雪山童子は「諸行無常」の半偈(前半部)を[[羅刹]]から聞いた。童子は半偈の続きを羅刹に求めたが、生きた人肉を食す羅刹は空腹のため、続きを説くことはできないと答えた。童子は残りの半偈を聞くため自身を捨て、あなたに捧げると答えた。羅刹は後半部の半偈を童子に教え、童子は羅刹の口元に飛び込んだ。ところが羅刹は童子を食べずに[[帝釈天]]へと変わり、[[煩悩]]を一切持たない童子が将来に無上菩提となることを喜んだ<ref>{{Cite journal|和書|author =岡本英夫|date =2001-4|title =雪山童子の求道|journal =まなざし|issue =26|pages =1-17|publisher =沖縄聞法通信|url =https://web.archive.org/web/20150217060819/http://homepage3.nifty.com/Tannisho/manazasi_pdf/Sessendouji_Kyuudou.pdf|format =PDF|accessdate =2016-1-29}}</ref>。]] [[仏教]]の根本思想をなすもので、あらゆるものは[[刹那]](一瞬=きわめて短い時間)の間にも変化をくり返している([[有為法]])。仏法の[[三法印]]の一つで、「'''諸行無常'''」「'''[[諸法無我]]'''」「'''[[涅槃寂静]]'''」の3つからなる<ref name=daichido />。[[涅槃経]]に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」とあり、これを'''諸行無常偈'''、'''無常喝'''と呼ぶ<ref name="kotowaza"></ref>。[[釈迦]]が[[前世]]における雪山童子であった時、この中の後半偈を聞く為に身を[[羅刹]]に捨てしなり。これより雪山偈とも言われる。 「諸行は[[無常]]であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。 「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の[[苦_(仏教)|苦]]に対して寂滅を[[楽 (仏教)|楽]]といっているだけである。後半偈は還滅門。 :生滅の法は苦であるとされているが、生滅するから苦なのではない。生滅する存在であるにもかかわらず、それを[[常住]]なものであると観る([[邪見]];妄想を抱く)から苦が生じるのである([[四顛倒]])。この点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場である。 なお『[[大乗涅槃経]]』では、この諸行無常の理念をベースとしつつ、この世にあって、仏こそが常住不変であり、涅槃の世界こそ「[[常楽我浄]]」であると説いている。 三法印・四法印は[[釈迦]]の[[悟り]]の内容であるとされているが、釈迦が「諸行無常」を感じて出家したという記述が、初期の『[[阿含経]]』に多く残されている。 == 日本文化への普及 == しばしば[[空海]]に帰せられてきた『[[いろは歌]]』は、この偈を詠んだものであると一説では言われているという。 いろはにほへどちりぬるを  諸行無常 わがよたれぞつねならむ   是生滅法 うゐのおくやまけふこえて  生滅滅已 あさきゆめみじゑひもせず  寂滅為楽 なお[[平家物語]]の冒頭にも引用されている。 {{Quote| ''「[[祇園精舎]]の[[鐘]]の声、諸行無常の響きあり、[[沙羅双樹]]の花の色、盛者必衰の[[理]](ことわり)をあらわす」'' 祇園精舎の鐘の音は世の中に不変のものはないという風に聞こえる。沙羅双樹の花の色は、栄える者は必ずや衰え滅び、長くは続かないこの世の定理をあらわしている。)」<ref name="kotowaza" /> }} {{-}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> ==関連項目== {{Wiktionary}} * [[無常]] * [[いろは歌]] * [[白骨 (御文)|『御文(御文章)』「白骨」]] * [[祇園精舎]] * [[十二因縁]] * [[演繹|演繹法]] ** [[数学的帰納法]] {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:しようきようむせう}} [[Category:仏教用語]] [[Category:涅槃経]] [[Category:慣用句]] [[Category:変化]]
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計算機工学
計算機工学(けいさんきこうがく)あるいはコンピュータ工学(コンピュータこうがく、英: Computer Engineering)は、現代のコンピュータシステムとコンピュータ制御機器に使用されているソフトウェアとハードウェアの要素の設計、組み立て、実装および維持する科学および技術を扱う分野である。 計算機科学と、電子工学などのコンピュータの実現に必要となる工学分野を組み合わせた学問分野である。たとえば、コンピュータの設計者は、ハードウェアやソフトウェアについての科学やそれらの統合に関しての他に、ある程度の電子工学などの知識を必要とする(さらには冷却などについても考える必要があるかもしれない)。従って、電子工学の中でも、いわゆる「弱電」を主とし、電気工学寄りな部分(いわゆる「強電」)や物理学的側面には、一般には重きを置かない(たとえばスーパーコンピューティングのための高速素子の研究など、例外もある)。計算機工学の中心はコンピュータの設計に関する部分であり、マイクロプロセッサからスーパーコンピュータまでの回路設計やシステム設計を含む。また、それだけでなくコンピュータシステムを様々なシステムに組み込む(組込みシステム)ことも計算機工学の一部である。例えば、自動車にはコンピュータやデジタル機器がいくつも搭載されている。 計算機工学に含まれるタスクとして、リアルタイムマイクロコントローラ向けの組込みソフトウェア開発、VLSIチップ設計、アナログセンサー関連、プリント基板設計、オペレーティングシステム設計などがある。ロボットはコンピュータと様々な電気的システムを活用するため、計算機工学者がロボット工学を研究することも多い。 アメリカで最初のコンピュータ工学の学科が設立されたのはケース・ウェスタン・リザーブ大学である(1971年)。2004年10月現在、アメリカ国内でコンピュータ工学のカリキュラムとして認められているところは170箇所である。 以下に見られる列挙からも分かる通り、コンピュータ科学ないし情報学のいくつかの分野とほぼ一致する。そのため、コンピュータ科学(ないし情報学)の1領域という扱いがされる場合も多い。なお、MITやバークレイなどこの分野で世界的に著名な大学のいくつかで、EECSとして電気電子工学とコンピュータ科学が密接な扱いとされている学科編成のことがある。日本の大学でも電子工学とコンピュータ科学に関する学科が一緒の場合もいくつか見られる(工学部であるため「〜工学科」という名前としなければならないためか、「コンピュータ科学」が名前に含まれないことも多い)。 各種コンピュータシステムを設計できる技術者は産業界でも需要があったため、世界的にも計算機工学の学士号を与える教育機関が増えた。計算機工学でも電子工学でも、カリキュラムにはデジタル回路設計とアナログ回路設計が含まれている。研究室や講座レベルで「計算機工学研究室」や「計算機工学講座」を名乗る場合や、専攻課程として「計算工学専攻」とされている場合もある。 (工学分野でも数学や科学の知識を身につけるのは当然ではあるが)計算機工学に特に関わる領域として以下のものがある: 電子工学と計算機工学の領域には、オーバーラップする部分も多い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "計算機工学(けいさんきこうがく)あるいはコンピュータ工学(コンピュータこうがく、英: Computer Engineering)は、現代のコンピュータシステムとコンピュータ制御機器に使用されているソフトウェアとハードウェアの要素の設計、組み立て、実装および維持する科学および技術を扱う分野である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "計算機科学と、電子工学などのコンピュータの実現に必要となる工学分野を組み合わせた学問分野である。たとえば、コンピュータの設計者は、ハードウェアやソフトウェアについての科学やそれらの統合に関しての他に、ある程度の電子工学などの知識を必要とする(さらには冷却などについても考える必要があるかもしれない)。従って、電子工学の中でも、いわゆる「弱電」を主とし、電気工学寄りな部分(いわゆる「強電」)や物理学的側面には、一般には重きを置かない(たとえばスーパーコンピューティングのための高速素子の研究など、例外もある)。計算機工学の中心はコンピュータの設計に関する部分であり、マイクロプロセッサからスーパーコンピュータまでの回路設計やシステム設計を含む。また、それだけでなくコンピュータシステムを様々なシステムに組み込む(組込みシステム)ことも計算機工学の一部である。例えば、自動車にはコンピュータやデジタル機器がいくつも搭載されている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "計算機工学に含まれるタスクとして、リアルタイムマイクロコントローラ向けの組込みソフトウェア開発、VLSIチップ設計、アナログセンサー関連、プリント基板設計、オペレーティングシステム設計などがある。ロボットはコンピュータと様々な電気的システムを活用するため、計算機工学者がロボット工学を研究することも多い。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "アメリカで最初のコンピュータ工学の学科が設立されたのはケース・ウェスタン・リザーブ大学である(1971年)。2004年10月現在、アメリカ国内でコンピュータ工学のカリキュラムとして認められているところは170箇所である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "以下に見られる列挙からも分かる通り、コンピュータ科学ないし情報学のいくつかの分野とほぼ一致する。そのため、コンピュータ科学(ないし情報学)の1領域という扱いがされる場合も多い。なお、MITやバークレイなどこの分野で世界的に著名な大学のいくつかで、EECSとして電気電子工学とコンピュータ科学が密接な扱いとされている学科編成のことがある。日本の大学でも電子工学とコンピュータ科学に関する学科が一緒の場合もいくつか見られる(工学部であるため「〜工学科」という名前としなければならないためか、「コンピュータ科学」が名前に含まれないことも多い)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "各種コンピュータシステムを設計できる技術者は産業界でも需要があったため、世界的にも計算機工学の学士号を与える教育機関が増えた。計算機工学でも電子工学でも、カリキュラムにはデジタル回路設計とアナログ回路設計が含まれている。研究室や講座レベルで「計算機工学研究室」や「計算機工学講座」を名乗る場合や、専攻課程として「計算工学専攻」とされている場合もある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "(工学分野でも数学や科学の知識を身につけるのは当然ではあるが)計算機工学に特に関わる領域として以下のものがある:", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "電子工学と計算機工学の領域には、オーバーラップする部分も多い。", "title": "概説" } ]
計算機工学(けいさんきこうがく)あるいはコンピュータ工学は、現代のコンピュータシステムとコンピュータ制御機器に使用されているソフトウェアとハードウェアの要素の設計、組み立て、実装および維持する科学および技術を扱う分野である。
'''計算機工学'''(けいさんきこうがく)あるいは'''コンピュータ工学'''<ref name="IPSJ">[https://www.ipsj.or.jp/12kyoiku/J07/20090407/J07_Report-200902/7/J07-CE_CEBOK-200901.pdf 情報処理学会「コンピュータ工学の知識体系」]</ref><ref>[http://cvwww.ee.ous.ac.jp/files/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E5%B7%A5%E5%AD%A61%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%89_20171204.pdf 岡山理科大学「コンピュータ工学」]</ref><ref>[https://www.soft.iwate-pu.ac.jp/study/laboratory/labo02/ 岩手県立大学「コンピュータ工学」]</ref>(コンピュータこうがく、{{Lang-en-short|Computer Engineering}})は、現代の[[コンピュータシステム]]とコンピュータ制御機器に使用されている[[ソフトウェア]]と[[ハードウェア]]の要素の[[設計]]、組み立て、[[実装]]および[[メンテナンス|維持]]する[[科学]]および[[技術]]を扱う分野である{{Efn|「Computer Engineering 2004: Curriculum Guidelines for Undergraduate Degree Programs in Computer Engineering」 (略称 CE2004) での定義。}}<ref name="IPSJ" />。 == 概説 == [[計算機科学]]と、[[電子工学]]などの[[コンピュータ]]の実現に必要となる工学分野を組み合わせた学問分野である。たとえば、コンピュータの設計者は、[[ハードウェア]]や[[ソフトウェア]]についての科学やそれらの統合に関しての他に、ある程度の電子工学などの知識を必要とする(さらには[[冷却]]などについても考える必要があるかもしれない)。従って、電子工学の中でも、いわゆる「[[弱電]]」を主とし、[[電気工学]]寄りな部分(いわゆる「[[強電]]」)や物理学的側面には、一般には重きを置かない(たとえばスーパーコンピューティングのための高速素子の研究など、例外もある)。計算機工学の中心は[[コンピュータ]]の設計に関する部分であり、[[マイクロプロセッサ]]から[[スーパーコンピュータ]]までの回路設計やシステム設計を含む。また、それだけでなくコンピュータシステムを様々なシステムに組み込む([[組込みシステム]])ことも計算機工学の一部である。例えば、自動車にはコンピュータやデジタル機器がいくつも搭載されている<ref>{{cite web |last = Trinity College Dublin |url = http://www.tcd.ie/Engineering/about/what_is_eng/computer_eng_intro.html |title = What is Computer Engineering |accessdate = 2006年4月21日 }}, "計算機工学はコンピュータがどう動作するかを研究するだけでなく、より大きなものにコンピュータを組み込む方法も研究する。自動車を考えてみよう。最近の自動車には様々なコンピュータシステムがエンジンのタイミング制御、ブレーキ制御、エアバッグ制御などを目的として組み込まれている。そのような自動車を設計するには、計算機工学者は自動車のシステム全体を理解し、個々のサブシステムがどう連携するかを理解しなければならない。"</ref>。 計算機工学に含まれるタスクとして、リアルタイム[[マイクロコントローラ]]向けの組込みソフトウェア開発、[[集積回路|VLSI]]チップ設計、アナログセンサー関連、[[プリント基板]]設計、[[オペレーティングシステム]]設計などがある。[[ロボット]]はコンピュータと様々な電気的システムを活用するため、計算機工学者が[[ロボット工学]]を研究することも多い。 === 学問としての位置づけ === ;歴史 アメリカで最初のコンピュータ工学の学科が設立されたのは[[ケース・ウェスタン・リザーブ大学]]である(1971年)。2004年10月現在、アメリカ国内でコンピュータ工学のカリキュラムとして認められているところは170箇所である<ref>{{cite book | last = [[IEEE]] Computer Society | coauthors = [[Association for Computing Machinery|ACM]] | title = Computer Engineering 2004: Curriculum Guidelines for Undergraduate Degree Programs in Computer Engineering | url = http://www.computer.org/portal/cms_docs_ieeecs/ieeecs/education/cc2001/CCCE-FinalReport-2004Dec12-Final.pdf | accessdate = 2006年4月21日 | date = 2004年11月12日 | pages = pg. 5 }}</ref>。 ;他の学問領域との関係 以下に見られる列挙からも分かる通り、[[コンピュータ科学]]ないし[[情報学]]のいくつかの分野とほぼ一致する。そのため、コンピュータ科学(ないし情報学)の1領域という扱いがされる場合も多い。なお、[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]やバークレイなどこの分野で世界的に著名な大学のいくつかで、EECSとして電気電子工学とコンピュータ科学が密接な扱いとされている学科編成のことがある。日本の大学でも電子工学とコンピュータ科学に関する学科が一緒の場合もいくつか見られる(工学部であるため「〜工学科」という名前としなければならないためか、「コンピュータ科学」が名前に含まれないことも多い)。 各種コンピュータシステムを設計できる技術者は産業界でも需要があったため、世界的にも計算機工学の学士号を与える教育機関が増えた。計算機工学でも[[電子工学]]でも、カリキュラムにはデジタル回路設計とアナログ回路設計が含まれている。研究室や講座レベルで「計算機工学研究室」や「計算機工学講座」を名乗る場合や、専攻課程として「計算工学専攻」とされている場合もある。 (工学分野でも数学や科学の知識を身につけるのは当然ではあるが)計算機工学に特に関わる領域として以下のものがある<ref>{{cite book | last = [[IEEE]] Computer Society | coauthors = [[Association for Computing Machinery|ACM]] | title = Computer Engineering 2004: Curriculum Guidelines for Undergraduate Degree Programs in Computer Engineering | url = http://www.computer.org/portal/cms_docs_ieeecs/ieeecs/education/cc2001/CCCE-FinalReport-2004Dec12-Final.pdf | accessdate = 2006年4月21日 | date = 2004年11月12日 | pages = pg. 12 }}</ref>: * [[アルゴリズム]] * [[コンピュータアーキテクチャ]] * [[データベース]] * [[組み込みシステム]] * [[ヒューマンマシンインタフェース]] * [[オペレーティングシステム]] * [[ソフトウェア工学]] * [[集積回路設計]] 電子工学と計算機工学の領域には、オーバーラップする部分も多い。 == 脚注 == ;注釈 <references group="注釈"/> ;出典 {{Reflist}} == 関連項目 == * [[電気工学]]、[[電子工学]] * [[情報工学]] * [[計算機科学]] == 外部リンク == * [http://wwwdsa.uqac.ca/~lsr/emcos/emcos-index.php?page=Computer+Engineering+Conference+Calendar Computer Engineering Conference Calendar] * [http://www.ieee.org/portal/site Institute of Electrical and Electronics Engineers] {{Engineering fields}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けいさんきこうかく}} [[Category:計算機工学|*]] [[Category:電子工学]] [[Category:数学に関する記事]]
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看護学
看護学(かんごがく)とは、「新生児から高齢者まで人間の発達段階にある全ての人や家族、地域、それぞれ固有の健康問題の理解やその援助、もしくは健康の維持、増進について研究する学問」のことである。最近では 、「生きる希望と力を与え、生まれたそのときから最期の瞬間までその人らしく生きることを支援するミクロからマクロまでを包含した学際的な学問」であるといわれる。 英語ではnursing scienceといい、看護学を自然科学の一分野であると考え、看護科学と称されることもある。また、看護学をサイエンスとアートが結びついたものとして捉え、人間科学の一分野であると考えている研究者もいる。 世界で初めての4年制看護学部は、アメリカニューヨーク市のコロンビア大学看護学部であり、1889年の創立である。ヨーロッパでは、1956年創設のエディンバラ大学健康社会学部看護学科が最も古い。また、日本では1952年に開設された高知女子大学家政学部看護学科が最も古い。これらは、4年制学部であるが、アメリカの看護学部の中には学部であっても、3年制のところや他大学の卒業を前提として入学させ、1年半から2年程度の課程で卒業させる大学(ジョンズ・ホプキンス大学など)など、教育形態はさまざまである。 看護学が対象とするテーマは広範であり対象やテーマごとに、基礎看護学、成人看護学、老年看護学、小児看護学、母性看護学、助産学、精神看護学(ここから枝分かれして、イギリスでは学習障害看護学という分野を設定している大学もある。オックスフォード大学、ヨーク大学など>Bob Gatesの "Oxford Handbook of Learning & Intellectual Disability Nursing (Oxford Handbooks in Nursing)" Oxford University Press 2009などを参照のこと。)、地域看護学、在宅看護学、看護管理学等の分野に大別されることが多いが、最近では看護学の学際化に鑑み、看護栄養学、看護倫理学、看護情報学、看護社会学、看護政策学、看護教育学などの領域を研究している研究者も多く、さらなる細分化が必要となっている。将来的には、スポーツ看護学や看護経営学などの分野も注目されていく領域であろう。
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看護学(かんごがく)とは、「新生児から高齢者まで人間の発達段階にある全ての人や家族、地域、それぞれ固有の健康問題の理解やその援助、もしくは健康の維持、増進について研究する学問」のことである。最近では 、「生きる希望と力を与え、生まれたそのときから最期の瞬間までその人らしく生きることを支援するミクロからマクロまでを包含した学際的な学問」であるといわれる。
{{複数の問題 |出典の明記=2011年12月|ソートキー=医 |特筆性=2019年5月}} '''看護学'''(かんごがく)とは、{{要出典範囲|「[[新生児]]から[[高齢者]]まで[[人間]]の[[発達]]段階にある全ての[[人]]や[[家族]]、[[地域]]、それぞれ固有の[[健康]]問題の理解やその援助、もしくは[[健康]]の維持、増進について研究する学問」のことである|date=2019年5月}}。最近では {{いつ|date=2019年4月}}、{{要出典範囲|「生きる[[希望]]と力を与え、生まれたそのときから最期の瞬間までその人らしく生きることを支援するミクロからマクロまでを包含した[[学際]]的な学問」であるといわれる|date=2019年5月}}。 == 概要 == {{要出典範囲|[[英語]]ではnursing scienceといい|date=2019年5月}}、看護学を[[自然科学]]の一分野であると考え、[[看護]]科学と称されることもある<ref group="注">日本国内には、日本看護科学学会と称する学会がある。1981年に発足。http://jans.umin.ac.jp/ アメリカ看護協会(ANS)は、「Advances in Nursinf Science」という季刊誌を刊行している。http://journals.lww.com/advancesinnursingscience/pages/default.aspx</ref>。また、'''看護学'''をサイエンスとアートが結びついたものとして捉え、[[人間科学]]の一分野であると考えている研究者もいる<ref group="注">北海道文教大学では人間科学部に看護学科は所属している。上智大学大学院では総合人間科学研究科の中に看護学専攻がある。同様の例は他にも多数ある。</ref>。 世界で初めての4年制看護学部は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[ニューヨーク]]市の[[コロンビア大学]]看護学部であり、[[1889年]]の創立である。[[ヨーロッパ]]では、[[1956年]]創設の[[エディンバラ大学]]健康社会学部看護学科が最も古い。また、日本では[[1952年]]に開設された[[高知女子大学]]家政学部看護学科が最も古い。これらは、4年制学部であるが、アメリカの看護学部の中には学部であっても、3年制のところや他大学の卒業を前提として入学させ、1年半から2年程度の課程で卒業させる大学([[ジョンズ・ホプキンス大学]]など)など、教育形態はさまざまである。 ==看護学の諸分野== 看護学が対象とするテーマは広範であり対象やテーマごとに、[[基礎看護学]]、[[成人看護学]]、[[老年看護学]]、[[小児看護学]]、[[母性看護学]]、[[助産学]]、[[精神看護学]](ここから枝分かれして、イギリスでは学習障害看護学という分野を設定している大学もある。[[オックスフォード大学]]、[[ヨーク大学]]など>Bob Gatesの "Oxford Handbook of Learning & Intellectual Disability Nursing (Oxford Handbooks in Nursing)" Oxford University Press 2009などを参照のこと。)、[[地域看護学]]、在宅看護学、[[看護管理学]]等の分野に大別されることが多いが、最近では看護学の学際化に鑑み、看護[[栄養学]]、[[看護倫理学]]、看護[[情報学]]、看護[[社会学]]、看護[[政策学]]、看護[[教育学]]などの領域を研究している研究者も多く、さらなる細分化が必要となっている。将来的には、[[スポーツ]]看護学や看護[[経営学]]などの分野も注目されていく領域であろう<ref group="注">かつて学校法人河合塾学園が運営するトライデントスポーツ医療看護専門学校という専門学校が存在した。2009年発足の日本健康運動看護学会という学術団体がある。また松下博宣他によって看護経営学をテーマとした研究書が刊行されている。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} == 関連項目 == * [[看護大学]]/[[看護学部]] * [[日本看護協会]] * [[看護師等養成課程を持つ日本の大学一覧]] * [[看護理論]] * [[フローレンス・ナイチンゲール]] * [[公衆衛生学]] == 外部リンク == * [http://www.jana-office.com/ 日本看護系学会協議会] * [http://janpu.umin.ac.jp/ 日本看護系大学協議会] * [https://nightingale-a.jp/ ナイチンゲール看護研究所] {{医療}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かんこかく}} [[Category:看護学|*かんこかく]] [[Category:看護]] [[Category:看護倫理]] [[Category:人間科学]] [[Category:医学の分野]]
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白樺 (曖昧さ回避)
白樺(しらかば)
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白樺(しらかば) シラカバ - シラカンバの別称。カバノキ科の落葉高木。 地理・地名 白樺平 - 富山県の高原。周辺を「白樺高原」と称する場合がある。 白樺湖 - 長野県のため池。周辺を「白樺高原」と称する場合がある。 白樺台(しらかばだい) - 北海道釧路市の町丁。 白樺駅 - かつて存在したJR北海道深名線の駅。 白樺 (雑誌) - 1910年に創刊された文芸同人誌。 白樺派 - 上記雑誌を中心にした文芸思潮の一つ。武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎ら。 鉄道車両の愛称 白樺 (鉄道車両) - かつて国鉄・JR東日本が保有していたジョイフルトレイン。 白樺 - 近鉄生駒鋼索線で使用される車両愛称の一つ。 白樺号 - JRバス東北の路線バス・平庭高原線の愛称。 白樺荘 - 曖昧さ回避ページ 白樺自動車 - かつて存在した日本のハイヤー会社。国際自動車#歴史参照。 白樺学園高等学校 - 北海道河西郡芽室町にある私立高等学校。 白樺ガス田 - 中華人民共和国と日本が共同出資するガス田の日本側での名称。中国名は「春暁」。 架空の人名 白樺リサ - アーケードゲーム・テレビアニメ『アイカツ!』の登場人物。アイカツ!の登場人物一覧参照。
'''白樺'''(しらかば) * シラカバ - [[シラカンバ]]の別称。[[カバノキ科]]の[[落葉高木]]。 * 地理・地名 ** [[白樺平]] - [[富山県]]の[[高原]]。周辺を「白樺高原」と称する場合がある。 ** [[白樺湖]] - [[長野県]]の[[ため池]]。周辺を「白樺高原」と称する場合がある。 ** 白樺台(しらかばだい)<ref>[https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=1&city=1012060&id=1651 北海道 釧路市 白樺台の郵便番号] [[日本郵便]]</ref> - [[北海道]][[釧路市]]の[[町丁]]。 ** [[白樺駅]] - かつて存在した[[北海道旅客鉄道|JR北海道]][[深名線]]の駅。 * [[白樺 (雑誌)]] - 1910年に創刊された文芸[[同人誌]]。 ** [[白樺派]] - 上記雑誌を中心にした文芸思潮の一つ。[[武者小路実篤]]、[[志賀直哉]]、[[有島武郎]]ら。 * 鉄道車両の愛称 * [[白樺 (鉄道車両)]] - かつて[[日本国有鉄道|国鉄]]・[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]が保有していた[[ジョイフルトレイン]]。 * 白樺 - [[近鉄生駒鋼索線]]で使用される車両愛称の一つ。 * 白樺号 - [[ジェイアールバス東北|JRバス東北]]の[[路線バス]]・[[平庭高原線]]の愛称。 * [[白樺荘]] - 曖昧さ回避ページ * 白樺自動車 - かつて存在した日本の[[ハイヤー]]会社。[[国際自動車#歴史]]参照。 * [[白樺学園高等学校]] - [[北海道]][[河西郡]][[芽室町]]にある私立[[高等学校]]。 * [[白樺ガス田]] - [[中華人民共和国]]と日本が共同出資する[[ガス田]]の日本側での名称。中国名は「春暁」。 * 架空の人名 ** 白樺リサ - [[アーケードゲーム]]・[[テレビアニメ]]『[[アイカツ!]]』の登場人物。[[アイカツ!の登場人物一覧]]参照。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == * {{intitle|白樺}} * [[ベリョースカ]] {{aimai}} {{デフォルトソート:しらかは}}
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路面電車
路面電車(ろめんでんしゃ)は、主に道路上に敷設された軌道(併用軌道)を用いる「路面鉄道」(英: Tram(トラム)、Tramway、米: Streetcar、独: Straßenbahn)を走行する電車である。類似のシステムにライト・レール・トランジット、トラムトレイン、ゴムタイヤトラムなども存在する。 路面鉄道とは主に都市内およびその近郊の道路上に敷設された鉄道で、比較的短距離の旅客輸送手段として利用される。道路上の安全地帯や歩道から車両に乗降する、停留場の間隔が短いなどの特徴がある交通機関である。 普通鉄道と異なり、軌道は道路上に敷設される。専用軌道(日本の軌道法では新設軌道と呼称)を有する路線もあるほか、市街地では一部地下や高架で道路交通との分離を図った路線もある。 世界では約50か国の約400都市に存在し、ドイツやロシアで特に発達している。欧米諸国では終端ループ線が用いられ、片ドア片運転台式の車両で運行している都市が多い。バリアフリーの観点から20世紀末以降は路面から乗降できることが再評価され、欧州や中国を中心に整備や延長、新都市での開業が積極的に行われている。また、欧州では公共交通機関として都市中心部の歩行者空間に乗り入れる形態も多い。 英語の「Tram」は低地ドイツ語の「Traam」に由来し、車軸や梁を意味する。イギリスではブレコン・アンド・アバガヴァニー運河会社(The Brecknock and Abergavenny Canal)の1798年10月17日の定款に「Tramroad」の言葉が初めて現れる。このトラムロードは鉄製のL字形軌条のことであり、「Tramway」とは鉱山鉄道や軽便鉄道を指した。トラムウェイの語は1826年に初めて使用された。「tram-car」(トラムカー)の語は1873年から使用された。欧州各国では現在「Tram」が使われることが多い。 ドイツ語のStraßenbahnは、道路上の鉄道を意味するが、始めは馬車鉄道(独: Pferdebahn)を指していた。 北アメリカでの「Streetcar」の語はドイツ語から移されたもので1840年から使用されている。しかし、電化が進むにつれ、「Trolley」や「Trolleycar」と呼ばれることも多くなった。この「トロリー」は「Troller」(転がる)に由来し、架空電車線から電力を取得する際に、集電装置先端の滑車が架線に沿って転がるため、このように呼ばれるようになった。 路面鉄道は元々は都市内の馬車鉄道として生まれ、1840年代に欧米各地に広がっていった。 その後、馬の糞尿による悪臭などの問題が沿線で発生したため、動力を馬以外にする試みが行われ、蒸気機関などもあったが、電気動力がもっとも普及した。これは1879年にドイツの電機会社、シーメンスがベルリン博覧会でデモンストレーション走行させたのがはじまりで、電気は3本目のレールから供給されていた。1881年にはベルリン郊外のリヒターフェルデ(英語版、ドイツ語版)で試験運行が開始され、1883年に定期運行が始まっている。 1881年には、同じくシーメンス社が、パリの電気博覧会で架空電車線方式を試み、1884年に登場したフランクフルトの路面電車で採用され、その後ヨーロッパ各地に広がっていった。 アメリカ合衆国では、電気軌道(路面電車)は1886年にアラバマ州モントゴメリーやペンシルベニア州スクラントンに敷設されたのを皮切りに、各都市で普及してゆく。特に同国では、専用軌道化や運転速度の向上などシステムを高度化し都市と都市を結ぶインターアーバンにも発展し、1920年代に全盛期を迎えた。 しかし、同時にその頃、自家用車の普及に伴い、多くの都市で路面電車廃止の流れも始まった。1970年代初頭には、路面電車や郊外電車(インターアーバン)は全盛期の4割が廃止され、残存していた6割もゆっくりだがマンネリ化が進み、「世界最大の路面電車保有国」の地位をソビエト連邦(ロシア)に譲っている。 欧州の一部でも第二次世界大戦後までにこの流れでロンドン、パリなどの都市で廃止された。一方で、旧ソ連と東欧諸国、そして西ドイツでは、第二次世界大戦後も路面電車を活用した。 西ドイツでは、車の普及により、路面電車を導入していた都市の半数では廃止されたが、重要な都市内交通手段として位置づけ、連接電車の投入や運賃の収受に信用乗車方式を導入するなど、輸送力増強と生産性向上に努めた都市も多い。路線網の再構成も盛んに行われた。 また、郊外への路線延長を図る一方で、渋滞に影響されずに高速で走り、定時性を確保するため、専用軌道を確保し、都心部においてはさらに地下化を推進した。この方式はシュタットバーンと呼ばれている。 このシュタットバーンは新交通システムの開発で行き詰まっていたアメリカ合衆国に影響をあたえ、1970年代に入り、連邦交通省都市大量輸送局によってライトレール (LRT)という言葉が定義される。 フランスでは1980年代後半より、上記の「シュタットバーン」や「ライトレール」化の流れではなく、路面電車に対する新たな取り組みが始まり、後に欧州大陸諸国にも広まった。日本では路面電車の次世代化などと呼ばれる。 架線を利用することなく蓄電池を積載した車両の開発・実用化も進められている。 2003年に新規開業したボルドーでは、車両はシタディスを基とし、地表集電方式(イノレール式)の導入区間の走行にも対応。2007年に新規開業したニースでは、車両はシタディスを基とし、バッテリーによる無集電区間の走行にも対応。 日本においては、路面電車は軌道法の適用対象であり、鉄道事業法に基づく一般の鉄道とは明確に区別されている。都市計画法に定める都市施設の区分上、路面電車は都市計画道路のうちの「特殊街路」に分類される。 併用軌道上を運転する場合、軌道運転規則の規定に則って運転することが前提となる。 そのほか道路交通法では「路面電車」を「レールにより運転する車」と定義しているため、同法上、交通信号機、道路標識(通行止め、徐行、一時停止などを含む)道路標示(横断歩道等などを含む)、最高速度、急ブレーキ禁止、車間距離保持、鉄道踏切通過時などの規制を受ける。軌道敷内の車両の通行、停留所での乗降者の保護、交差点における優先関係、緊急自動車の優先などを規定する。 日本の路面電車一覧も参照。経営形態としては、地方自治体による地方公営企業(交通局)、一般の私鉄と同じ純民間企業、第三セクター会社によるものがある。なお、市が運営する「市電」はもとより路面電車は経営形態に関係なく「市電」と呼ばれることが多い。 車両は、ボギー車が原則であり、車長は約12メートルが一般的である。また、輸送力を増加させるために、2つまたは3つの車体に3つまたは4つの台車を履いた、車長が約18メートルまたは27メートルの連接車も一部において使用されている。 駆動方式は床下スペースの制約から長年にわたって構造が簡単で保守の容易な吊り掛け駆動方式が採用されてきたが、最近の車両では、直角カルダン駆動方式・中空軸平行カルダン駆動方式・TD平行カルダン駆動方式が採用されており、床下の駆動装置のスペースにさらなる制約がある超低床形路面電車においては、一部例外を除いて車体装架カルダン駆動方式が採用されている。 制御方式は、運転台の直接制御器(ダイレクトコントローラー)により主回路を直接に切替えてモーターを制御する直接制御方式と、運転台の主幹制御器(マスター・コントローラー)により制御回路の指令線を切替え、主制御器を介してモーターの主回路を制御する間接制御方式による抵抗制御が長年採用されてきたが、最近の車両では、日本の電気鉄道での電車の制御方式として広く使用されているVVVFインバータ制御が採用されている。一方で界磁チョッパ制御と界磁添加励磁制御は採用例がなく、電機子チョッパ制御についても長崎電気軌道で2両導入されたにとどまった。 ブレーキ方式は、運転台にあるブレーキ弁を開閉操作することにより、空気圧縮機で作られた圧縮空気を、供給空気ダメから直通管を介してブレーキシリンダーを加圧または減圧してブレーキ力を得る直通ブレーキが長年採用されてきたが、最近の車両では、日本の電気鉄道での電車のブレーキ方式として広く使用されている電気指令式ブレーキが採用されている。加速度は、およそ3 km/h/sとしているが、現在では、約3 - 5 km/h/sの高加減速の性能を持つ車両もある。なお、1960年代の札幌市電では非電化区間も存在していたため、路面気動車もごく少数ながら製作されていた。 日本において路面電車の軌間は、西欧では一般的な1435 mmに加え、日本の官設鉄道が採用した1067 mmとが採用されているが、函館市電と都電荒川線、東急世田谷線は、東京馬車鉄道の軌間を踏襲した1372 mmを採用している。 レールは道路の舗装に対する厚みとレールの負担荷重に対応できる、HT (High Tee) レールと車輪のフランジが通る輪縁路を設けた溝形レール又は溝形ガイドレールが採用されており、前者は直線区間で使用され、後者は曲線・分岐器で使用されている。また、HTレールを敷設する場合には、車輪のフランジが通る輪縁路を設ける必要がある。 レールと道路の路面とは同一構造であり高低差がないようにしている、軌道敷の舗装は、板石などを敷詰めたたわみ構造の舗装が多かったが、最近では鉄筋が入ったコンクリート、モルタル、アスファルト、コンクリート枕木ブロックを使用してメンテナンスフリーを目的とした剛質構造の舗装が採用されている。また、軌道敷の外側の部分では、車道に向かって約1/20の勾配が設けられており、降雨による雨水は車道に流れて排水されるが、水平になっている軌道敷のレールの間では、輪縁路に沿って雨水が溢れやすいため、軌道を横断する下水溝を一定間隔に設置して、輪縁路の雨水を道路の側溝に導くようにしている。 併用軌道においては、線路の位置は道路の中央を原則としている。その理由としては、道路での自動車通行の往復が区分される、路面の排水が容易である、街角での交通の混乱が避けられるなどの利点が上げられるが、乗降時の車道横断時での自動車との接触などの危険を伴う欠点がある。また、自動車の円滑な通行を行うため、左右にある車道の幅は2車線の5.5 m以上としており、道路上に路面軌道を敷設する場合の道路の幅は、中央にある複線の軌道敷の幅5.5 mに加え、その左右に設ける2車線分の道路幅5.5 m × 2=11 mと、さらに車道に付属して歩道幅を加え、合計20 m以上が望ましいとされている。 曲線半径は道路との関係で小さく最小半径は18 m程度となっており、道路の勾配を複雑にするため、曲線でのカントは設けられていない。勾配は道路によって左右されるが、本線での最急勾配は40 ‰、停留場での勾配は起動条件や安全のため10 ‰以下としている。 饋電(送電方法)については、架線の電気は直流600 Vを基本としており、架線は低速運転のため、直接吊架式を原則としているが、美観上の理由により支線を張り巡らせないで済む、架線の支持柱を複線の線路の間に設置する方式がとられている箇所もある。また、集電装置は、かつてはトロリーポールやビューゲル、Z型パンタグラフが使用されていたが、最近の車両では、構造特許が切れ利用しやすくなったシングルアーム式のパンタグラフが採用されている。 法令により最高速度が40 km/hに抑えられているうえに信号待ちや乗降時間がかかるため、自転車よりも表定速度が低い路線も多い。 停留場のことを電停とも呼ぶ。停留場の間隔は利便性を良くするため500メートル前後と、概して短めである。 また、利用者の安全のため、安全地帯の標識や安全防護設備を設置しているが、車道の幅の関係で設置できず、車道に区画線が引かれただけもしくは、停留場であることが自動車のドライバーに対し目立つように区画線内を青色や緑色で塗りつぶしただけの停留場もある。 信号は軌道信号機と呼ばれており、運転士による視認により車両間隔を制御して保安を確保する運転のため、折り返しターミナル・分岐点・交差点など以外にはなく、交差点・分岐点・渡り線付近の架線にトロリーコンタクターを数個取り付け、路面電車の動きに応じて分岐器の転轍機・電車信号・交通用信号を操作する。 また、広島電鉄では、交差点において電車の接近をトロリーコンタクターにより検知すると、交差点での青信号を延長する電車優先信号を設置して、電車の運転を円滑にしている。また、単線区間では、鉄道での自動閉塞に似た運転と続行運転の両方ができるように、行き違いができる停車場に単線区間での車両数と進行方向を表示する信号が併設されている場合がある。 各停留所などに設置されているトロリーコンタクターなどの車両検知器で電車の通過情報を収集し、列車運行管理システムにて統合後、各停留場あてに近隣の路面電車の在線状況や遅れの状況を表示させて路面電車の運転士に各停留場の出発時機を知らせるシステム。これにより、電車が連なって運転される、いわゆる「ダンゴ運転」を防止するための運行間隔の調整に用いる。また次の停留所への接近通知のほか、インターネットを通じて路面電車利用者への利便性向上を図る「路面電車ロケーションシステム」にも使用される。 日本における導入構想・営業中・廃線の路面電車については、「日本の路面電車一覧」を参照のこと。 1954年(昭和29年)にアメリカで戦前に開発されていたPCCカーの技術導入による試用に続き、1956年(昭和31年)に普通鉄道の近代化電車の設計を取入れ、流線型スタイルの軽量化構造、直角カルダン駆動方式、発電ブレーキを採用して高加減速度約5 km/h/sの日本型近代化路面電車が誕生したが、当時のモータリゼーションの伸張により自動車の多い道路との併用軌道では、その高性能を生かすのが困難となり、その後は車両コストが低廉な吊り掛け駆動方式による在来型の車両が製造された。 その後1980年(昭和55年)に日本鉄道技術協会の推進により、近代化路面電車を一層改善した新型の路面電車を軽快電車と名付けたが、一般には車両更新程度の認識しか広まらなかった。1990年代以降は、欧州における超低床車の普及により、路面電車の次世代化や欧米におけるライトレールの動向に注目する動きがあった。そのため日本では次世代型路面電車を特に「ライトレール (LRT)」と呼ぶことが多い。1997年(平成9年)、ドイツから台車と電気部品を輸入して組み立てられた熊本市交通局9700形電車導入以降、超低床車両を特徴とする路面電車の次世代化が進んだ。富山市や宇都宮市の例に見られるように、欧州型の鉄道重視・コンパクトシティ指向の街づくりと一体となった交通システムとして、路面電車の次世代化が一般に認識されつつあるといえる。 日本国外におけるライトレールトランジット(LRT)とは、概念がやや異なる。ライトレールの「概念」を参照。 日本では路面電車システムの「次世代性」が議論され下記のような特徴を指しているが、明確に定まったものではない。国土交通省ではこれをLRT(Light Rail Transit/次世代型路面電車システム)としている。 路線の延伸や新設については日本の路面電車一覧を参照。超低床車両については超低床電車を参照。 富山ライトレールは、JR西日本の旧富山港線を路面電車化し第三セクターが経営を引継いで2006年(平成18年)4月29日に開業。開業にあたり車両を全て次世代型路面電車に入れ替え、富山市の都市計画にも組み込まれるなど、これを日本における次世代型路面電車の第一号とみなす考えもある。イギリスでライトレールなどの情報をまとめている第三者団体、ライトレール交通協会 (Light Rail Transit Association: LRTA) では、併用軌道区間は市中心部の一部で、ほとんどが専用の鉄道区間へ直通していることから、トラムトレインに分類している。 宇都宮市では日本で初めて、既存の鉄軌道路線の改良を伴わない完全新設型のライトレール路線である宇都宮芳賀ライトレール線(芳賀・宇都宮LRT)を建設し、2023年(令和5年)8月26日に開業を迎えた。本路線は宇都宮市の進める「ネットワーク型コンパクトシティ」のまちづくりにおいて、市域の東西を縦貫する基幹公共交通として位置付けられている。 LRTA は、日本の江ノ島電鉄、広島電鉄宮島線、筑豊電気鉄道、京福電気鉄道(嵐電)、東急世田谷線、阪堺電気軌道の6路線をライトレールに相当する鉄道として分類している。 1995年(平成7年)に広島市で開かれた第2回路面電車サミットにより、6月10日を路面電車の日に制定した。これは6=ろ(路面)、10=英語でテン(電車)という語呂合わせによる。路面電車の日には、電鉄会社と路面電車を考える会などが路面電車の利点をPRするためのキャンペーンやイベントが行われる。 これには2つの説があり、1つは、通行人への警報のために、運転士が足で床下の鐘(フートゴング)を鳴らす音から来ており、もう1つは、車掌が運転士にあるいは運転士が車掌に合図を送るために鳴らしていた鐘(あるいはベル)の音に由来する。鐘の音は以下のような意味で使用されていた。 現在でも都電荒川線や阪堺電気軌道の全車両(阪堺電気軌道はフートゴングのみで、501形、1001形「堺トラム」、および1101形には装備されていない。)で発車時に聞くことができる。ただし現在は全列車がワンマン運転のため、上記で述べた車掌・運転士同士の連絡には用いられず、乗客に対する発車合図という位置付けである。また、函館市企業局交通部で夏季に限って運行されている箱館ハイカラ號の他、とさでん交通の100形・590形・2000形・3000形以外の降車合図音で聞くことができ「維新号」や外国電車でもこの鐘が信鈴として使用されている。阪堺電気軌道のモ161形161号「昭和40年代復元車」にも、使用されてはいないが再現してある。 戦後は、改造によりベルを連続音の電鈴やブザーに交換した車両や、ブザーのみで新製された車両が現れたが、吹鳴回数や伝達内容はベル時代のそれを踏襲している。現在も広島電鉄では、車体の長い連接車のツーマンで運行されるため、車掌と運転士の合図にブザーが使われている。2回続けて鳴らす発車合図という点では変わらないが、ブザーのため「ギッ、ギッ」という音である。 なお、路面電車以外では名古屋鉄道(ただし300系以降の車両は2打式ブザーに変更)や京阪電気鉄道・阪急電鉄・阪神電気鉄道・近畿日本鉄道・南海電気鉄道・京都市営地下鉄烏丸線・大阪市営地下鉄・筑豊電気鉄道等でも、ワンマン運転路線を除きベル2連打による合図を残している。過去には神戸電鉄や叡山電鉄などでも行っていた。特に路面電車発祥の会社が多い関西の路線に多い。関東でも、京成電鉄やそのグループである新京成電鉄および北総鉄道、また京成電鉄の乗務員が引き続き乗務する直通先の芝山鉄道では発車時にブザー2回、停車駅が近づいた時にブザー1回と、路面電車式の合図を行っている。 地域によっては音の違いから「カンコカンコ電車」という呼び名もあった。
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"そのほか道路交通法では「路面電車」を「レールにより運転する車」と定義しているため、同法上、交通信号機、道路標識(通行止め、徐行、一時停止などを含む)道路標示(横断歩道等などを含む)、最高速度、急ブレーキ禁止、車間距離保持、鉄道踏切通過時などの規制を受ける。軌道敷内の車両の通行、停留所での乗降者の保護、交差点における優先関係、緊急自動車の優先などを規定する。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日本の路面電車一覧も参照。経営形態としては、地方自治体による地方公営企業(交通局)、一般の私鉄と同じ純民間企業、第三セクター会社によるものがある。なお、市が運営する「市電」はもとより路面電車は経営形態に関係なく「市電」と呼ばれることが多い。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "車両は、ボギー車が原則であり、車長は約12メートルが一般的である。また、輸送力を増加させるために、2つまたは3つの車体に3つまたは4つの台車を履いた、車長が約18メートルまたは27メートルの連接車も一部において使用されている。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "駆動方式は床下スペースの制約から長年にわたって構造が簡単で保守の容易な吊り掛け駆動方式が採用されてきたが、最近の車両では、直角カルダン駆動方式・中空軸平行カルダン駆動方式・TD平行カルダン駆動方式が採用されており、床下の駆動装置のスペースにさらなる制約がある超低床形路面電車においては、一部例外を除いて車体装架カルダン駆動方式が採用されている。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "制御方式は、運転台の直接制御器(ダイレクトコントローラー)により主回路を直接に切替えてモーターを制御する直接制御方式と、運転台の主幹制御器(マスター・コントローラー)により制御回路の指令線を切替え、主制御器を介してモーターの主回路を制御する間接制御方式による抵抗制御が長年採用されてきたが、最近の車両では、日本の電気鉄道での電車の制御方式として広く使用されているVVVFインバータ制御が採用されている。一方で界磁チョッパ制御と界磁添加励磁制御は採用例がなく、電機子チョッパ制御についても長崎電気軌道で2両導入されたにとどまった。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ブレーキ方式は、運転台にあるブレーキ弁を開閉操作することにより、空気圧縮機で作られた圧縮空気を、供給空気ダメから直通管を介してブレーキシリンダーを加圧または減圧してブレーキ力を得る直通ブレーキが長年採用されてきたが、最近の車両では、日本の電気鉄道での電車のブレーキ方式として広く使用されている電気指令式ブレーキが採用されている。加速度は、およそ3 km/h/sとしているが、現在では、約3 - 5 km/h/sの高加減速の性能を持つ車両もある。なお、1960年代の札幌市電では非電化区間も存在していたため、路面気動車もごく少数ながら製作されていた。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本において路面電車の軌間は、西欧では一般的な1435 mmに加え、日本の官設鉄道が採用した1067 mmとが採用されているが、函館市電と都電荒川線、東急世田谷線は、東京馬車鉄道の軌間を踏襲した1372 mmを採用している。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "レールは道路の舗装に対する厚みとレールの負担荷重に対応できる、HT (High Tee) レールと車輪のフランジが通る輪縁路を設けた溝形レール又は溝形ガイドレールが採用されており、前者は直線区間で使用され、後者は曲線・分岐器で使用されている。また、HTレールを敷設する場合には、車輪のフランジが通る輪縁路を設ける必要がある。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "レールと道路の路面とは同一構造であり高低差がないようにしている、軌道敷の舗装は、板石などを敷詰めたたわみ構造の舗装が多かったが、最近では鉄筋が入ったコンクリート、モルタル、アスファルト、コンクリート枕木ブロックを使用してメンテナンスフリーを目的とした剛質構造の舗装が採用されている。また、軌道敷の外側の部分では、車道に向かって約1/20の勾配が設けられており、降雨による雨水は車道に流れて排水されるが、水平になっている軌道敷のレールの間では、輪縁路に沿って雨水が溢れやすいため、軌道を横断する下水溝を一定間隔に設置して、輪縁路の雨水を道路の側溝に導くようにしている。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "併用軌道においては、線路の位置は道路の中央を原則としている。その理由としては、道路での自動車通行の往復が区分される、路面の排水が容易である、街角での交通の混乱が避けられるなどの利点が上げられるが、乗降時の車道横断時での自動車との接触などの危険を伴う欠点がある。また、自動車の円滑な通行を行うため、左右にある車道の幅は2車線の5.5 m以上としており、道路上に路面軌道を敷設する場合の道路の幅は、中央にある複線の軌道敷の幅5.5 mに加え、その左右に設ける2車線分の道路幅5.5 m × 2=11 mと、さらに車道に付属して歩道幅を加え、合計20 m以上が望ましいとされている。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "曲線半径は道路との関係で小さく最小半径は18 m程度となっており、道路の勾配を複雑にするため、曲線でのカントは設けられていない。勾配は道路によって左右されるが、本線での最急勾配は40 ‰、停留場での勾配は起動条件や安全のため10 ‰以下としている。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "饋電(送電方法)については、架線の電気は直流600 Vを基本としており、架線は低速運転のため、直接吊架式を原則としているが、美観上の理由により支線を張り巡らせないで済む、架線の支持柱を複線の線路の間に設置する方式がとられている箇所もある。また、集電装置は、かつてはトロリーポールやビューゲル、Z型パンタグラフが使用されていたが、最近の車両では、構造特許が切れ利用しやすくなったシングルアーム式のパンタグラフが採用されている。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "法令により最高速度が40 km/hに抑えられているうえに信号待ちや乗降時間がかかるため、自転車よりも表定速度が低い路線も多い。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "停留場のことを電停とも呼ぶ。停留場の間隔は利便性を良くするため500メートル前後と、概して短めである。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、利用者の安全のため、安全地帯の標識や安全防護設備を設置しているが、車道の幅の関係で設置できず、車道に区画線が引かれただけもしくは、停留場であることが自動車のドライバーに対し目立つように区画線内を青色や緑色で塗りつぶしただけの停留場もある。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "信号は軌道信号機と呼ばれており、運転士による視認により車両間隔を制御して保安を確保する運転のため、折り返しターミナル・分岐点・交差点など以外にはなく、交差点・分岐点・渡り線付近の架線にトロリーコンタクターを数個取り付け、路面電車の動きに応じて分岐器の転轍機・電車信号・交通用信号を操作する。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また、広島電鉄では、交差点において電車の接近をトロリーコンタクターにより検知すると、交差点での青信号を延長する電車優先信号を設置して、電車の運転を円滑にしている。また、単線区間では、鉄道での自動閉塞に似た運転と続行運転の両方ができるように、行き違いができる停車場に単線区間での車両数と進行方向を表示する信号が併設されている場合がある。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "各停留所などに設置されているトロリーコンタクターなどの車両検知器で電車の通過情報を収集し、列車運行管理システムにて統合後、各停留場あてに近隣の路面電車の在線状況や遅れの状況を表示させて路面電車の運転士に各停留場の出発時機を知らせるシステム。これにより、電車が連なって運転される、いわゆる「ダンゴ運転」を防止するための運行間隔の調整に用いる。また次の停留所への接近通知のほか、インターネットを通じて路面電車利用者への利便性向上を図る「路面電車ロケーションシステム」にも使用される。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "日本における導入構想・営業中・廃線の路面電車については、「日本の路面電車一覧」を参照のこと。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1954年(昭和29年)にアメリカで戦前に開発されていたPCCカーの技術導入による試用に続き、1956年(昭和31年)に普通鉄道の近代化電車の設計を取入れ、流線型スタイルの軽量化構造、直角カルダン駆動方式、発電ブレーキを採用して高加減速度約5 km/h/sの日本型近代化路面電車が誕生したが、当時のモータリゼーションの伸張により自動車の多い道路との併用軌道では、その高性能を生かすのが困難となり、その後は車両コストが低廉な吊り掛け駆動方式による在来型の車両が製造された。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "その後1980年(昭和55年)に日本鉄道技術協会の推進により、近代化路面電車を一層改善した新型の路面電車を軽快電車と名付けたが、一般には車両更新程度の認識しか広まらなかった。1990年代以降は、欧州における超低床車の普及により、路面電車の次世代化や欧米におけるライトレールの動向に注目する動きがあった。そのため日本では次世代型路面電車を特に「ライトレール (LRT)」と呼ぶことが多い。1997年(平成9年)、ドイツから台車と電気部品を輸入して組み立てられた熊本市交通局9700形電車導入以降、超低床車両を特徴とする路面電車の次世代化が進んだ。富山市や宇都宮市の例に見られるように、欧州型の鉄道重視・コンパクトシティ指向の街づくりと一体となった交通システムとして、路面電車の次世代化が一般に認識されつつあるといえる。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日本国外におけるライトレールトランジット(LRT)とは、概念がやや異なる。ライトレールの「概念」を参照。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "日本では路面電車システムの「次世代性」が議論され下記のような特徴を指しているが、明確に定まったものではない。国土交通省ではこれをLRT(Light Rail Transit/次世代型路面電車システム)としている。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "路線の延伸や新設については日本の路面電車一覧を参照。超低床車両については超低床電車を参照。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "富山ライトレールは、JR西日本の旧富山港線を路面電車化し第三セクターが経営を引継いで2006年(平成18年)4月29日に開業。開業にあたり車両を全て次世代型路面電車に入れ替え、富山市の都市計画にも組み込まれるなど、これを日本における次世代型路面電車の第一号とみなす考えもある。イギリスでライトレールなどの情報をまとめている第三者団体、ライトレール交通協会 (Light Rail Transit Association: LRTA) では、併用軌道区間は市中心部の一部で、ほとんどが専用の鉄道区間へ直通していることから、トラムトレインに分類している。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "宇都宮市では日本で初めて、既存の鉄軌道路線の改良を伴わない完全新設型のライトレール路線である宇都宮芳賀ライトレール線(芳賀・宇都宮LRT)を建設し、2023年(令和5年)8月26日に開業を迎えた。本路線は宇都宮市の進める「ネットワーク型コンパクトシティ」のまちづくりにおいて、市域の東西を縦貫する基幹公共交通として位置付けられている。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "LRTA は、日本の江ノ島電鉄、広島電鉄宮島線、筑豊電気鉄道、京福電気鉄道(嵐電)、東急世田谷線、阪堺電気軌道の6路線をライトレールに相当する鉄道として分類している。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1995年(平成7年)に広島市で開かれた第2回路面電車サミットにより、6月10日を路面電車の日に制定した。これは6=ろ(路面)、10=英語でテン(電車)という語呂合わせによる。路面電車の日には、電鉄会社と路面電車を考える会などが路面電車の利点をPRするためのキャンペーンやイベントが行われる。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "これには2つの説があり、1つは、通行人への警報のために、運転士が足で床下の鐘(フートゴング)を鳴らす音から来ており、もう1つは、車掌が運転士にあるいは運転士が車掌に合図を送るために鳴らしていた鐘(あるいはベル)の音に由来する。鐘の音は以下のような意味で使用されていた。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "現在でも都電荒川線や阪堺電気軌道の全車両(阪堺電気軌道はフートゴングのみで、501形、1001形「堺トラム」、および1101形には装備されていない。)で発車時に聞くことができる。ただし現在は全列車がワンマン運転のため、上記で述べた車掌・運転士同士の連絡には用いられず、乗客に対する発車合図という位置付けである。また、函館市企業局交通部で夏季に限って運行されている箱館ハイカラ號の他、とさでん交通の100形・590形・2000形・3000形以外の降車合図音で聞くことができ「維新号」や外国電車でもこの鐘が信鈴として使用されている。阪堺電気軌道のモ161形161号「昭和40年代復元車」にも、使用されてはいないが再現してある。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "戦後は、改造によりベルを連続音の電鈴やブザーに交換した車両や、ブザーのみで新製された車両が現れたが、吹鳴回数や伝達内容はベル時代のそれを踏襲している。現在も広島電鉄では、車体の長い連接車のツーマンで運行されるため、車掌と運転士の合図にブザーが使われている。2回続けて鳴らす発車合図という点では変わらないが、ブザーのため「ギッ、ギッ」という音である。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "なお、路面電車以外では名古屋鉄道(ただし300系以降の車両は2打式ブザーに変更)や京阪電気鉄道・阪急電鉄・阪神電気鉄道・近畿日本鉄道・南海電気鉄道・京都市営地下鉄烏丸線・大阪市営地下鉄・筑豊電気鉄道等でも、ワンマン運転路線を除きベル2連打による合図を残している。過去には神戸電鉄や叡山電鉄などでも行っていた。特に路面電車発祥の会社が多い関西の路線に多い。関東でも、京成電鉄やそのグループである新京成電鉄および北総鉄道、また京成電鉄の乗務員が引き続き乗務する直通先の芝山鉄道では発車時にブザー2回、停車駅が近づいた時にブザー1回と、路面電車式の合図を行っている。", "title": "日本の路面電車" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "地域によっては音の違いから「カンコカンコ電車」という呼び名もあった。", "title": "日本の路面電車" } ]
路面電車(ろめんでんしゃ)は、主に道路上に敷設された軌道(併用軌道)を用いる「路面鉄道」を走行する電車である。類似のシステムにライト・レール・トランジット、トラムトレイン、ゴムタイヤトラムなども存在する。
{{Redirect|ちんちん電車|獅子文六の随筆集|ちんちん電車 (随筆)}} [[File:4trams vienna.jpg|thumb|300px|世界最大級の路面電車網である[[ウィーン市電]]]] [[ファイル:Trams de Lisbonne (Portugal) (5353413691).jpg|サムネイル|古典的な車両のリスボン市電]] [[ファイル:Hervanta - tram.jpg|サムネイル|2021年に[[フィンランド]]の[[タンペレ]]にある近代的なデザインの[[アーティック (路面電車車両)|アーティック]]トラム]] '''路面電車'''(ろめんでんしゃ<!--、Tram、Tramway、Streetcar、{{lang-de-short|Straßenbahn}}-->)は、主に[[道路]]上に敷設された[[軌道 (鉄道)|軌道]]([[併用軌道]])を用いる「路面鉄道」({{lang-en-short|Tram}}(トラム)、Tramway、{{lang-en-us-short|Streetcar}}、{{lang-de-short|Straßenbahn}})を走行する[[電車]]である。類似のシステムに[[ライトレール|ライト・レール・トランジット]]、[[トラムトレイン]]、[[ゴムタイヤトラム]]なども存在する。 <!--英語に由来する'''トラム'''の呼称もあるが、本来 {{lang|en|tram, tramway}} は、道路に敷かれたレールを利用した鉄道一般(いわば「路面鉄道」)を指し、[[動力]]の限定はない。よって、動力による分類である「路面電車」、「[[路面機関車]]」、「[[馬車鉄道]]」等の区別はなく、一部の[[トロッコ]]や[[サンフランシスコ・ケーブルカー|サンフランシスコのケーブルカー]]なども tramway の一種となる。本稿では路面気動車についても記述する。--> == 概要 == [[File:E 6001 and E 6002 (Melbourne trams) in Bourke St on route 96, 2013.JPG|thumb|延長距離250{{nbsp}}kmで世界最大の[[トラム (メルボルン)|メルボルンの路面電車]]]] 路面鉄道とは主に[[都市]]内およびその[[郊外|近郊]]の道路上に敷設された鉄道で、比較的短距離の[[旅客輸送]]手段として利用される。道路上の[[安全地帯 (交通)|安全地帯]]や[[歩道]]から車両に乗降する、[[路面電車停留場|停留場]]の間隔が短いなどの特徴がある交通機関である。 [[普通鉄道]]と異なり、軌道は道路上に敷設される。[[専用軌道]](日本の[[軌道法]]では新設軌道と呼称)を有する路線もあるほか、[[市街地]]では一部地下や[[高架橋|高架]]で道路交通との分離を図った路線もある。 世界では約50か国の約400都市に存在し、[[ドイツ]]や[[ロシア]]で特に発達している。欧米諸国では終端[[ループ線]]が用いられ、片ドア片運転台式の車両で運行している都市が多い。[[バリアフリー]]の観点から[[20世紀]]末以降は路面から乗降できることが再評価され、[[ヨーロッパ|欧州]]や[[中国]]を中心に整備や延長、新都市での開業が積極的に行われている。また、欧州では[[公共交通機関]]として都市中心部の[[歩行者空間]]に乗り入れる形態も多い。 == 歴史 == {{出典の明記|date=2011年9月|section=1}} === 語源 === [[英語]]の「Tram」は[[低地ドイツ語]]の「Traam」に由来し<ref>[http://www.merriam-webster.com/dictionary/tram Merriam-Webster's Collegiate Dictionary] 2013年1月4日検索・閲覧</ref>、[[軸 (機械要素)|車軸]]や[[はり部材|梁]]を意味する。イギリスでは[[:en:Monmouthshire and Brecon Canal|ブレコン・アンド・アバガヴァニー運河会社(The Brecknock and Abergavenny Canal)]]の[[1798年]]10月17日の[[定款]]に「Tramroad」の言葉が初めて現れる。このトラムロードは鉄製のL字形[[軌条]]のことであり、「Tramway」とは鉱山鉄道や軽便鉄道を指した<ref>鉄道ギネスブック 日本語版 p.8(1998年、イカロス出版)</ref>。トラムウェイの語は[[1826年]]に初めて使用された。「tram-car」(トラムカー)の語は[[1873年]]から使用された<ref name=ety>[http://www.etymonline.com/index.php?term=tram Online Etymology Dictionary] 2013年1月5日検索・閲覧</ref>。欧州各国では現在「Tram」が使われることが多い。 [[ドイツ語]]の[[:de:Straßenbahn|Straßenbahn]]は、道路上の鉄道を意味するが、初めは[[馬車鉄道]]({{lang-de-short|Pferdebahn}})を指していた。 [[北アメリカ]]での「Streetcar」の語は[[ドイツ語]]から移されたもので1840年から使用されている<ref name=ety />。しかし、電化が進むにつれ、「Trolley」や「Trolleycar」と呼ばれることも多くなった。この「トロリー」は「Troller」(転がる)に由来し、[[架空電車線]]から電力を取得する際に、[[集電装置#トロリーポール|集電装置]]先端の[[滑車]]が架線に沿って転がるため、このように呼ばれるようになった<ref>Middleton, William D. (1967). The Time of the Trolley, p. 60. Milwaukee: Kalmbach Publishing. ISBN 0-89024-013-2.</ref>。 === 初期 === 路面鉄道は元々は都市内の[[馬車鉄道]]として生まれ、<!--アメリカで都市内の旅客輸送に使用されるようになった。[[1832年]]にはニューヨークに登場し、-->1840年代に欧米各地に広がっていった。 その後、馬の糞尿による悪臭などの問題が沿線で発生したため、動力を馬以外にする試みが行われ、蒸気機関などもあったが、電気動力がもっとも普及した。これは[[1879年]]に[[ドイツ]]の電機会社、[[シーメンス]]が[[ベルリン]][[博覧会]]で[[デモンストレーション]]走行させたのがはじまりで、電気は3本目のレールから供給されていた。[[1881年]]にはベルリン郊外の{{仮リンク|リヒターフェルデ|en|Lichterfelde|de|Lichterfelde}}で試験運行が開始され、[[1883年]]に定期運行が始まっている。 1881年には、同じくシーメンス社が、パリの電気博覧会で[[架空電車線方式]]を試み、[[1884年]]に登場したフランクフルトの路面電車で採用され、その後ヨーロッパ各地に広がっていった。 === 北米での全盛期 - 衰退 === アメリカ合衆国では、電気軌道(路面電車)は[[1886年]]に[[アラバマ州]][[モントゴメリー (アラバマ州)|モントゴメリー]]<ref>[http://www.nndb.com/people/499/000166998/ Charles J. Van Depoele] Soylent Communications.</ref>や[[ペンシルベニア州]][[スクラントン (ペンシルベニア州)|スクラントン]]<ref>[http://explorepahistory.com/hmarker.php?markerId=1170 Marker Details: First Electric Cars]. Pennsylvania Department of Community and Economic Development.</ref>に敷設されたのを皮切りに、各都市で普及してゆく。特に同国では、専用軌道化や運転速度の向上などシステムを高度化し都市と都市を結ぶ[[インターアーバン]]にも発展し、[[1920年代]]に全盛期を迎えた。 しかし、同時にその頃、[[自家用車]]の普及に伴い、多くの都市で路面電車廃止の流れも始まった。[[1970年代]]初頭には、路面電車や郊外電車([[インターアーバン]])は全盛期の4割が廃止され、残存していた6割もゆっくりとだが陳腐化が進み、「世界最大の路面電車保有国」の地位をソビエト連邦([[ロシア]])に譲っている。 欧州の一部でも[[第二次世界大戦]]後までにこの流れで[[ロンドン]]、[[パリ]]などの都市で廃止された<ref group="注">[[トラム (パリ)|パリの路面電車]]は、[[2006年]]12月16日に再開業したが、その区間は戦前のものと全く異なり、関連性はない。</ref>。一方で、旧ソ連と東欧諸国、そして[[西ドイツ]]では、[[第二次世界大戦]]後も路面電車を活用した。 <gallery widths="200"> File:Horsetrain 1870.jpg |世界初の旅客[[馬車鉄道]]である、[[ウェールズ]]の[[w:Swansea and Mumbles Railway|スウォンジー・アンド・マンブルズ鉄道]] File:San_Casciano_in_Val_di_Pesa_-_Stazione_tranviaria.jpg |1890年代の[[イタリア]]にて、蒸気機関を動力とする路面鉄道 File:11 Cable Car on Powell St crop, SF, CA, jjron 25.03.2012.jpg|現存する[[w:San Francisco cable car system|サンフランシスコ・ケーブルカー]] File:First electric tram- Siemens 1881 in Lichterfelde.jpg|世界初の路面電車である[[グロース=リヒターフェルデ電気軌道]] File:Fort Smith Birney car 224 at 6th & Garland (1997).jpg|[[第一次世界大戦]]に際し、頻発運転と安全装置、省力化により初めて自動車に対抗しようとした[[バーニーカー]]([[アーカンソー州]][[フォートスミス (アーカンソー州)|フォートスミス]]の例(224号)) File:PCC at Boylston HDR.jpg|1930年代にアメリカで開発された高性能路面電車[[PCCカー]] ([[ボストン]]の例(3295号)) File:V3A 062 on line 24 at Vasile Parvan.jpg|[[ブカレスト]]のトラム。 モデルV3A、1971/1993年製作 </gallery> === 次世代型路面電車 / LRT === {{Anchors|近代化する路面電車}}{{Anchors|次世代型路面電車/LRT}} [[File:ULF B.jpg|thumb|[[ウィーン市電]]の[[超低床電車]]]] 西ドイツでは、車の普及により、路面電車を導入していた都市の半数では廃止されたが、重要な都市内交通手段として位置づけ、[[連接台車|連接電車]]の投入や運賃の収受に[[信用乗車方式]]を導入するなど、輸送力増強と生産性向上に努めた都市も多い。路線網の再構成も盛んに行われた。 また、郊外への路線延長を図る一方で、渋滞に影響されずに高速で走り、定時性を確保するため、専用軌道を確保し、都心部においてはさらに地下化を推進した。この方式は[[シュタットバーン]]<!--(都市鉄道)-->と呼ばれている。 このシュタットバーンは新交通システムの開発で行き詰まっていた[[アメリカ合衆国]]に影響をあたえ、[[1970年代]]に入り、連邦交通省都市大量輸送局によって[[ライトレール]] (LRT)という言葉が定義される。 [[フランス]]では[[1980年代]]後半より、上記の「シュタットバーン」や「ライトレール」化の流れではなく、路面電車に対する新たな取り組みが始まり、後に欧州大陸諸国にも広まった。日本では路面電車の次世代化などと呼ばれる。 <!--こうした軌道系交通が欧米で注目される背景には、市街中心地への人の流れを確保し振興する手段として、また環境破壊を防ぐ面から有意義であることが考えられるためである。したがって、その整備は土地利用や人口分布などの点で都市政策にしっかりと組み込まれているのが常である<ref group="注">自家用車を[[郊外]]の駐車場に置き、路面電車やバスなどに乗り換えて[[市街地|中心市街地]]に入る[[パークアンドライド]]方式や、中心市街で自動車の乗り入れを禁止し公共交通と歩行者のみを通行可能とした[[トランジットモール]]化といったアイディアが生まれ、実行された。</ref>。--> === 無架線化への取り組み === 架線を利用することなく蓄電池を積載した車両の開発・実用化も進められている<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNZO36395670Q1A111C1000000/ 次世代路面電車は「架線レス」 電池車両が商用段階に]</ref>。 2003年に新規開業した[[ボルドー]]では、車両は[[シタディス]]を基とし、[[地表集電方式#ボルドーの事例|地表集電方式]](イノレール式)の導入区間の走行にも対応。<!--[[アルストム]]社が開発した[[地表集電方式#ボルドーの事例|地表集電方式]]を導入。[[路面電車#路面電車関連用語|路面給電システム]]により、[[架空電車線方式|架線]]のない路面電車を実現(ただしコストが高いため初期開業区間の景観を保護する必要がある区間のみ)。-->2007年に新規開業した[[ニース]]では、車両は[[シタディス]]を基とし、バッテリーによる無集電区間の走行にも対応。 == 日本の路面電車 == {{出典の明記|date=2011年9月|section=1}} === 法令 === [[日本]]においては、路面電車は[[軌道法]]の適用対象であり、[[鉄道事業法]]に基づく一般の[[鉄道]]とは明確に区別されている。[[都市計画法]]に定める[[都市施設]]の区分上、路面電車は[[都市計画道路]]のうちの「特殊街路」に分類される。 ==== 道路上の扱い ==== [[併用軌道]]上を運転する場合、[[軌道運転規則]]の規定に則って運転することが前提となる。 そのほか[[道路交通法]]では「路面電車」<ref group = "注">前身法の道路交通取締法2条6項「軌道車」の概念を引き継いだもので、狭義の路面電車の意味合いではなく軌道法準拠したものを指している。</ref>を「[[軌条|レール]]により運転する車」と定義している<ref>道路交通法2条1項13号</ref>ため、同法上、[[交通信号機]]<ref group="注">[[警察官]]または[[交通巡視員]]による手信号を含む</ref>、[[道路標識]]([[通行止め]]、[[徐行]]、[[一時停止 (道路標識)|一時停止]]などを含む<ref group="注">横断歩道、自転車横断帯、警笛鳴らせ、警笛区間も含む。</ref>)[[道路標示]]([[横断歩道|横断歩道等]]などを含む<ref group="注">横断歩道、自転車横断帯、停止禁止部分を含む。</ref>)、[[最高速度]]、[[急ブレーキ]]禁止、車間距離保持、鉄道[[踏切]]通過時などの規制を受ける。[[軌道敷]]内の車両の通行、[[路面電車停留場|停留所]]での乗降者の保護、[[交差点]]における優先関係、[[緊急自動車]]の優先などを規定する。 === 事業 === [[日本の路面電車一覧]]も参照。経営形態としては、[[地方公共団体|地方自治体]]による[[地方公営企業]]([[公営交通|交通局]])、一般の[[私鉄]]と同じ純民間企業、[[第三セクター|第三セクター会社]]によるものがある。なお、[[市]]が運営する「'''[[市電]]'''」はもとより路面電車は経営形態に関係なく「市電」と呼ばれることが多い。 === 車両 === 車両は、[[ボギー車]]が原則であり、車長は約12メートルが一般的である。また、輸送力を増加させるために、2つまたは3つの車体に3つまたは4つの台車を履いた、車長が約18メートルまたは27メートルの連接車も一部において使用されている<ref group="注">法令による最長は30メートル。</ref>。 駆動方式は床下スペースの制約から長年にわたって構造が簡単で保守の容易な[[吊り掛け駆動方式]]が採用されてきたが、最近の車両では、[[直角カルダン駆動方式]]・[[中空軸平行カルダン駆動方式]]・[[TD平行カルダン駆動方式]]が採用されており、床下の駆動装置のスペースにさらなる制約がある超低床形路面電車においては、一部例外<ref group="注">[[クイル式駆動方式|直角中空軸積層ゴム駆動方式]]を採用した[[広島電鉄5000形電車]]および[[WN駆動方式|WN継手式平行カルダン]]を採用した[[鹿児島市交通局7500形電車]]が該当。</ref>を除いて[[車体装架カルダン駆動方式]]が採用されている。 制御方式は、運転台の直接制御器(ダイレクトコントローラー)により主回路を直接に切替えてモーターを制御する[[マスター・コントローラー#直接式|直接制御]]方式と、運転台の[[マスター・コントローラー|主幹制御器(マスター・コントローラー)]]により制御回路の指令線を切替え、[[主制御器]]を介してモーターの主回路を制御する[[マスター・コントローラー#間接式|間接制御]]方式による[[抵抗制御]]が長年採用されてきたが、最近の車両では、日本の電気鉄道での電車の制御方式として広く使用されている[[VVVFインバータ制御]]が採用されている<ref group="注">省エネルギー効果の高いVVVF制御は、日本国内で初めて実用化したものは熊本市交通局の路面電車である</ref>。一方で[[界磁チョッパ制御]]と[[界磁添加励磁制御]]は採用例がなく、[[電機子チョッパ制御]]についても長崎電気軌道で2両導入されたにとどまった。 ブレーキ方式は、運転台にあるブレーキ弁を開閉操作することにより、空気圧縮機で作られた圧縮空気を、供給空気ダメから直通管を介してブレーキシリンダーを加圧または減圧してブレーキ力を得る[[直通ブレーキ#SM|直通ブレーキ]]が長年採用されてきたが、最近の車両では、日本の電気鉄道での電車のブレーキ方式として広く使用されている[[電気指令式ブレーキ]]が採用されている。加速度は、およそ3{{nbsp}}[[キロメートル毎時毎秒|km/h/s]]としているが、現在では、約3 - 5{{nbsp}}km/h/sの高加減速の性能を持つ車両もある。なお、1960年代の札幌市電では非電化区間も存在していたため、路面気動車もごく少数ながら製作されていた。 === 軌道、レール === [[ファイル:Bilbao 05 2012 EuskoTran 2823.JPG|thumb|芝生軌道が採用されたスペインの[[ビルバオ・トラム]]。]] 日本において路面電車の[[軌間]]は、西欧では一般的な[[標準軌|1435{{nbsp}}mm]]に加え、日本の[[官設鉄道]]が採用した1067{{nbsp}}mmとが採用されているが、[[函館市企業局交通部|函館市電]]と[[都電荒川線]]、[[東急世田谷線]]は、[[東京馬車鉄道]]の軌間を踏襲した1372{{nbsp}}mmを採用している。 [[軌条|レール]]は道路の舗装に対する厚みとレールの負担荷重に対応できる、HT (High Tee) レールと車輪のフランジが通る輪縁路を設けた溝形レール又は溝形ガイドレールが採用されており、前者は直線区間で使用され、後者は曲線・分岐器で使用されている。また、HTレールを敷設する場合には、車輪のフランジが通る輪縁路を設ける必要がある。 レールと道路の路面とは同一構造であり高低差がないようにしている、軌道敷の舗装は、板石などを敷詰めたたわみ構造の舗装が多かったが、最近では鉄筋が入ったコンクリート、モルタル、アスファルト、コンクリート枕木ブロックを使用してメンテナンスフリーを目的とした剛質構造の舗装が採用されている。また、軌道敷の外側の部分では、車道に向かって約1/20の勾配が設けられており、降雨による雨水は車道に流れて排水されるが、水平になっている軌道敷のレールの間では、輪縁路に沿って雨水が溢れやすいため、軌道を横断する下水溝を一定間隔に設置して、輪縁路の雨水を道路の側溝に導くようにしている。 [[併用軌道]]においては、線路の位置は道路の中央を原則としている。その理由としては、道路での自動車通行の往復が区分される、路面の排水が容易である、街角での交通の混乱が避けられるなどの利点が上げられるが、乗降時の車道横断時での自動車との接触などの危険を伴う欠点がある。また、自動車の円滑な通行を行うため、左右にある車道の幅は2車線の5.5{{nbsp}}[[メートル|m]]以上としており、道路上に路面軌道を敷設する場合の道路の幅は、中央にある複線の軌道敷の幅5.5{{nbsp}}mに加え、その左右に設ける2車線分の道路幅5.5{{nbsp}}m × 2=11{{nbsp}}mと、さらに車道に付属して歩道幅を加え、合計20{{nbsp}}m以上が望ましいとされている。 曲線半径は道路との関係で小さく最小半径は18{{nbsp}}m程度となっており、道路の勾配を複雑にするため、曲線での[[カント (路線)|カント]]は設けられていない。勾配は道路によって左右されるが、本線での最急勾配は40{{nbsp}}[[パーミル|‰]]、停留場での勾配は起動条件や安全のため10{{nbsp}}‰以下としている。 ;樹脂固定軌道・芝生軌道 :騒音と振動の低減と緑化のために、樹脂固定軌道・芝生軌道を採用している例がある(富山市<ref>[https://www.env.go.jp/council/27ondanka-mati/y270-06/mat01-2.pdf 資料1 富山市のまちづくりに係る取組について] 環境省</ref>、鹿児島市<ref>[https://www.city.kagoshima.lg.jp/kensetu/kensetukanri/kouenryokuka/machizukuri/machizukuri/shiden.html 鹿児島市電軌道敷緑化整備事業] 鹿児島市</ref>)。 === 饋電 === {{ruby|[[饋電線|饋電]]|きでん}}<ref group="注">「饋」が[[常用漢字]]外であるから「き電」と表記されることもある。</ref>(送電方法)については、[[架線]]の電気は[[直流]]600{{nbsp}}[[ボルト (単位)|V]]を基本としており、架線は低速運転のため、[[架空電車線方式|直接吊架式]]を原則としているが、美観上の理由により支線を張り巡らせないで済む、架線の支持柱を複線の線路の間に設置する方式がとられている箇所もある。また、[[集電装置]]は、かつては[[集電装置#トロリーポール|トロリーポール]]や[[集電装置#ビューゲル|ビューゲル]]、[[集電装置#Z型・シングルアーム型|Z型パンタグラフ]]が使用されていたが、最近の車両では、構造特許が切れ利用しやすくなった[[集電装置#Z型・シングルアーム型|シングルアーム式のパンタグラフ]]が採用されている。 === 速度 === 法令により最高速度が40{{nbsp}}[[キロメートル毎時|km/h]]に抑えられているうえに信号待ちや乗降時間がかかるため、自転車よりも表定速度が低い路線も多い<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/88225?page=2 注目浴びる「路面電車」、実は非効率だった! | ローカル線・公共交通 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準]</ref>。 === 停留場など === [[路面電車停留場|停留場]]のことを電停とも呼ぶ。停留場の間隔は利便性を良くするため500メートル前後と、概して短めである。 また、利用者の安全のため、[[安全地帯 (交通)|安全地帯]]の標識や安全防護設備を設置しているが、車道の幅の関係で設置できず、車道に区画線が引かれただけ<ref group="注">[https://www.npa.go.jp/koutsuu/kikaku/kyousoku/index.htm 交通の方法に関する教則] 付表3 イ 指示標示の37による。</ref>もしくは、停留場であることが自動車のドライバーに対し目立つように区画線内を青色や緑色で塗りつぶしただけの停留場もある。 === 信号 === 信号は軌道信号機と呼ばれており、運転士による視認により車両間隔を制御して保安を確保する運転のため、折り返しターミナル・分岐点・交差点など以外にはなく、交差点・分岐点・渡り線付近の架線に[[トロリーコンタクター]]を数個取り付け、路面電車の動きに応じて分岐器の転轍機・電車信号・交通用信号を操作する。 また、[[広島電鉄]]では、交差点において電車の接近をトロリーコンタクターにより検知すると、交差点での青信号を延長する電車優先信号を設置して、電車の運転を円滑にしている<ref name=handbook>[[久保田博]]「鉄道工学ハンドブック」[[グランプリ出版]] 1995年 pp.310-312 </ref>。また、単線区間では、鉄道での自動閉塞に似た運転と続行運転の両方ができるように、行き違いができる[[停車場#停車場の種類|停車場]]に単線区間での車両数と進行方向を表示する信号が併設されている場合がある。 === 運行状況表示システム === {{main|運行情報表示装置}} 各停留所などに設置されているトロリーコンタクターなどの車両検知器で電車の通過情報を収集し、[[列車運行管理システム]]にて統合後、各停留場あてに近隣の路面電車の在線状況や遅れの状況を表示させて路面電車の運転士に各停留場の出発時機を知らせるシステム。これにより、電車が連なって運転される、いわゆる「ダンゴ運転」を防止するための運行間隔の調整に用いる<ref name=handbook/>。また次の停留所への接近通知のほか、インターネットを通じて路面電車利用者への利便性向上を図る「路面電車[[バスロケーションシステム|ロケーションシステム]]」にも使用される。 === 路線 === ''日本における導入構想・営業中・廃線の路面電車については、「'''[[日本の路面電車一覧]]'''」を参照のこと。''<gallery widths="200"> ファイル:Hakodate-tram39-amid.jpg|初期の路面電車を復元した[[函館市企業局交通部]]「[[函館市交通局30形電車|30形]]」 ファイル:Shin-Nomachi-Sta-T 20140913.jpg|安全地帯の標識を表示して、安全防護設備の柵を設置した停留場。([[万葉線 (企業)|万葉線]][[新能町停留場]]) ファイル:Manyou line shinyoshihisa a train stop second.JPG|安全地帯の標識や安全防護設備の柵も無く、[[道路標示]]の白線が引かれ青色で囲むように塗りつぶしただけの停留場。(万葉線[[新吉久停留場]]) ファイル:Tram signal stop advance.JPG|併用軌道における軌道信号機、自動車用の信号機に併設されており、自動車は停止、路面電車は左側へ進行を表示している ファイル:Tram signal stop.JPG|併用軌道における軌道信号機、自動車は進行、路面電車は停止を表示している。 ファイル:Toyama Light Rail kidou signal.JPG|車両数と進行方向の信号が併設された軌道信号機。停止信号を表示しており、この先の単線区間の進行方向が奥から信号機側となっており、1本の電車が信号機側に進んでいることを表示している </gallery> === 日本におけるLRT === {{Anchors|LRT}}{{Anchors|日本(次世代型路面電車 / LRT)}} [[1954年]]([[昭和]]29年)にアメリカで戦前に開発されていた[[PCCカー]]の技術導入による試用に続き、[[1956年]](昭和31年)に[[普通鉄道]]の近代化電車の設計を取入れ、[[流線形車両|流線型スタイル]]の[[モノコック|軽量化構造]]、[[直角カルダン駆動方式]]、[[発電ブレーキ]]を採用して高[[起動加速度|加減速度]]約5{{nbsp}}km/h/sの日本型近代化路面電車が誕生したが、当時の[[モータリゼーション]]の伸張により自動車の多い道路との[[併用軌道]]では、その高性能を生かすのが困難となり、その後は車両コストが低廉な[[吊り掛け駆動方式]]による在来型の車両が製造された。 その後[[1980年]](昭和55年)に[[日本鉄道技術協会]]の推進により、近代化路面電車を一層改善した新型の路面電車を[[軽快電車]]と名付けたが、一般には車両更新程度の認識しか広まらなかった。[[1990年代]]以降は、欧州における[[超低床電車|超低床車]]の普及により、路面電車の次世代化や欧米における[[ライトレール]]の動向に注目する動きがあった。そのため日本では次世代型路面電車を特に「ライトレール (LRT)」と呼ぶことが多い。<!--1980年代以降、[[近畿車輛]]や[[日本車輌製造|日本車輌]]などの日本の鉄道車両製造メーカーからアメリカ向けに多くのライトレール車両が輸出され、-->[[1997年]]([[平成]]9年)、ドイツから台車と電気部品を輸入して組み立てられた[[熊本市交通局9700形電車]]導入以降、超低床車両を特徴とする路面電車の次世代化が進んだ。[[富山市]]や[[宇都宮市]]の例に見られるように、欧州型の鉄道重視・[[コンパクトシティ]]指向の街づくりと一体となった交通システムとして、路面電車の次世代化が一般に認識されつつあるといえる。 日本国外におけるライトレールトランジット(LRT)とは、概念がやや異なる。[[ライトレール]]の「概念」を参照。 日本では路面電車システムの「次世代性」が議論され下記のような特徴を指しているが、明確に定まったものではない。[[国土交通省]]ではこれを'''LRT(Light Rail Transit/次世代型路面電車システム)'''としている<ref>[https://www.mlit.go.jp/road/sisaku/lrt/lrt_index.html#2 LRTの導入支援:LRT(次世代型路面電車システム)とは](国土交通省)</ref>。 * 都市計画・地域計画での位置付けなど政策的な裏づけ * [[専用軌道]]や[[路面電車#路面電車関連用語|センターリザベーション]]等による定時性の確保、および運行速度向上など速達性(ただし都心部では利便性向上のために併用軌道も可) * 既存交通との連携 * 運賃収受制度の改良([[プリペイドカード]]、[[信用乗車方式]]の導入など) * 乗降の容易化(電車の[[超低床電車|超低床]]化、軌道・電停の改良など) * 快適性、静粛性、信頼性 路線の延伸や新設については[[日本の路面電車一覧]]を参照。超低床車両については[[超低床電車]]を参照。 [[富山ライトレール]]<ref group="注">2020年2月22日付で[[富山地方鉄道]]に吸収合併</ref>は、[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の旧[[富山地方鉄道富山港線|富山港線]]を路面電車化し[[第三セクター鉄道|第三セクター]]が経営を引継いで[[2006年]](平成18年)[[4月29日]]に開業。開業にあたり車両を全て次世代型路面電車に入れ替え、富山市の都市計画にも組み込まれるなど、これを日本における次世代型路面電車の第一号とみなす考えもある。イギリスでライトレールなどの情報をまとめている第三者団体、[[ライト・レール・トランジット・アソシエーション|ライトレール交通協会]] (Light Rail Transit Association: LRTA) では、[[併用軌道]]区間は市中心部の一部で、ほとんどが[[専用軌道|専用の鉄道区間]]へ直通していることから、[[トラムトレイン]]に分類している<ref>ライトレール交通協会 ([https://web.archive.org/web/20190914052758/http://www.lrta.org/world/worldf-j.html Light Rail Transit Association](2019年9月14日時点でのアーカイブ) : LRTA) による分類。</ref>。 宇都宮市では日本で初めて、既存の鉄軌道路線の改良を伴わない完全新設型のライトレール路線である[[宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線|宇都宮芳賀ライトレール線]](芳賀・宇都宮LRT)を建設し、[[2023年]](令和5年)[[8月26日]]に開業を迎えた。本路線は宇都宮市の進める「[[宇都宮市#都市政策|ネットワーク型コンパクトシティ]]」のまちづくりにおいて、市域の東西を縦貫する基幹公共交通として位置付けられている。 LRTA は、日本の[[江ノ島電鉄]]、[[広島電鉄宮島線]]、[[筑豊電気鉄道]]、[[京福電気鉄道]](嵐電)、[[東急世田谷線]]、[[阪堺電気軌道]]の6路線をライトレールに相当する鉄道として分類している。 <gallery> ファイル:Utsunomiya Light Rail HU300Series HU311Formation.jpg|宇都宮ライトレール<br />「[[宇都宮ライトレールHU300形電車|LIGHTLINE(ライトライン)]]」 ファイル:Tram in sapporocity-A1200.JPG|札幌市交通局<br />「[[札幌市交通局A1200形電車|ポラリス]]」 ファイル:20070924hiroden5100.jpg|広島電鉄<br />「[[広島電鉄5100形電車|グリーンムーバーmax]]」 ファイル:Kumamoto-0803cocoro.jpg|熊本市交通局<br />「[[熊本市交通局0800形電車|COCORO]]」 ファイル:KagoshimaLRT1017.jpg|鹿児島市交通局<br />「[[ユートラム]]」 ファイル:XmasSpecialTLR0605.jpg|富山地方鉄道<br />「[[ポートラム]]」 ファイル:Hankai Electic Tramway 1001.JPG|阪堺電気軌道<br />「[[堺トラム]]」 </gallery> === 路面電車の日 === [[1995年]](平成7年)に[[広島市]]で開かれた第2回路面電車サミットにより、[[6月10日]]を路面電車の日に制定した。これは6=ろ('''路'''面)、10=英語でテン('''電'''車)という[[語呂合わせ]]による。路面電車の日には、電鉄会社と[[路面電車を考える会]]などが路面電車の利点をPRするためのキャンペーンやイベントが行われる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.a-net.shimin.city.hiroshima.jp/anet/dantai/archives/page-25905.html |title=路面電車を考える会 ひろしま情報 |access-date=2023-02-24 |publisher=ひろしま情報Net}}</ref>。 === 「ちんちん電車」という通称 === {{Sound|Toden Arakawa Line-bell.ogg|ファイル:Toden Arakawa Line-bell.ogg|「チンチン」という発車合図のベル音([[都電荒川線]]の[[東京都交通局7000形電車|7000形]]の車内にて録音)}} これには2つの説があり、1つは、通行人への警報のために、運転士が足で床下の鐘([[フートゴング]])を鳴らす音から来ており、もう1つは、[[車掌]]が[[運転士]]にあるいは運転士が車掌に合図を送るために鳴らしていた[[鐘]](あるいは[[発車ベル#車両の電鈴|ベル]])の音に由来する。鐘の音は以下のような意味で使用されていた。 * 走行中電車が[[路面電車停留場|停留場]]に近づいたとき「チン」と1回鳴らせば「降客があるため停車せよ」または「停車する」 * 「チンチン」と2回鳴らせば「降客がないので通過しても良いか」または「良い」 * さらに停車中に「チンチン」と2回鳴らした場合は「乗降がすんだので発車しても良いか」または「良い」 * 「チンチンチンチン」と3回以上の連打は「直ちに停車せよ」または「停車する(非常停車)」 現在でも[[都電荒川線]]や[[阪堺電気軌道]]の全車両(阪堺電気軌道はフートゴングのみで、[[阪堺電気軌道501形電車|501形]]、[[阪堺電気軌道1001形電車|1001形]]「堺トラム」、および[[阪堺電気軌道1101形電車|1101形]]には装備されていない。)で発車時に聞くことができる。ただし現在は全列車が<ref group="注">6152号が現役だった頃には、東京都電車条例で上記の鳴らし方のルールが定められており、実際に使用していた。</ref>ワンマン運転のため、上記で述べた車掌・運転士同士の連絡には用いられず、乗客に対する発車合図という位置付けである<ref>鉄道ピクトリアル614号「特集・東京都電」より。</ref>。また、[[函館市企業局交通部]]で夏季に限って運行されている[[箱館ハイカラ號]]の他、[[とさでん交通]]の100形・590形・2000形・3000形以外の降車合図音で聞くことができ「[[土佐電気鉄道7形電車 (2代)|維新号]]」や外国電車でもこの鐘が[[信鈴]]として使用されている。阪堺電気軌道のモ161形161号「昭和40年代復元車」にも、使用されてはいないが再現してある。 [[戦後]]は、改造によりベルを連続音の[[電鈴|電鈴やブザー]]に交換した車両や、ブザーのみで新製された車両が現れたが、吹鳴回数や伝達内容はベル時代のそれを踏襲している。現在も[[広島電鉄]]では、車体の長い[[連接台車|連接車]]のツーマンで運行されるため、車掌と運転士の合図にブザーが使われている。2回続けて鳴らす発車合図という点では変わらないが、ブザーのため「ギッ、ギッ」という音である。 なお、路面電車以外では[[名古屋鉄道]](ただし[[名鉄300系電車|300系]]以降の車両は2打式ブザーに変更)や[[京阪電気鉄道]]・[[阪急電鉄]]・[[阪神電気鉄道]]・[[近畿日本鉄道]]・[[南海電気鉄道]]・[[京都市営地下鉄烏丸線]]・[[大阪市営地下鉄]]・[[筑豊電気鉄道]]等でも、[[ワンマン運転]]路線を除きベル2連打による合図を残している。過去には[[神戸電鉄]]や[[叡山電鉄]]などでも行っていた。特に路面電車発祥の会社が多い関西の路線に多い。関東でも、[[京成電鉄]]やそのグループである[[新京成電鉄]]および[[北総鉄道]]、また京成電鉄の乗務員が引き続き乗務する直通先の[[芝山鉄道]]では発車時にブザー2回、停車駅が近づいた時にブザー1回と、路面電車式の合図を行っている。 地域によっては音の違いから「カンコカンコ電車」という呼び名もあった。 == 路面電車関連用語 == ; 軌道運送高度化事業 : 日本の[[地域公共交通の活性化及び再生に関する法律|地域公共交通の活性化及び再生法]]の中で、[[超低床電車]]の導入および[[ライトレール|LRT]]への改良または新設を想定した整備事業の呼び名。 ; センターリザベーション : '''リザベーション'''とは、併用軌道の種別で、一般自動車が通常時軌道内に進入できない様、道路と軌道敷の境界部を視覚的、物理的に区切って線路を敷設した'''準専用軌道'''を指し、センターリザベーションはそれが道路の中央に敷設されている場合の呼称。軌道のみならずそれに乗り降りする駅施設(停留所)も道路の中央にあるため、利用時に道路の横断を免れないという欠点を持つが、日本の路面電車の大半が道路中央に軌道があって敷内進入禁止となっているのでこの形式である。一般車両は通行できないが、災害や事故など緊急車両は走行可能であることが専用軌道との決定的な違いである。 ; サイドリザベーション : [[File:Sapporo Streetcar sapporo station in front of street.JPG|thumb|札幌市電では、「都心線」として[[札幌駅前通]]上に軌道を再敷設する際、ダブル(デュアル)サイドリザベーション方式を採用した。]]'''サイドリザベーション'''は準専用軌道を道路の端に寄せて敷設し、歩道から直接軌道交通に乗降可能となるようにしている場合の呼称。歩行者に絶対的な安全を保障する敷設法であるが、反面、路側に停車したい車両が制限を受けるため、[[タクシー]]や[[荷役]]車両の多い[[繁華街]]では敬遠されがちである。日本でもそのようになっている区間はあったものの、敷設法としては普及していなかった<ref group="注">過去においては岡山市内を南北に貫く[[国道53号線]]の[[共同溝]]工事の際、[[岡山電気軌道]]の[[岡山電気軌道清輝橋線|清輝橋線]]の軌道を一時的に路肩に移設させた事例がある。{{Cite book|和書 |last=|author=西村幸格|first=|title=日本の都市と路面公共交通|date=2006-12-30|year=|publisher=学芸出版社|page=158|quote=|translator=|authorlink=|coauthors=|id=|isbn=4-7615-4078-8}}</ref>。近年徐々に需要が認められて採用される例が増えている。 : 軌道が複線の場合、上下線をまとめて道路の片側に寄せる'''シングルサイドリザベーション'''(熊本・鹿児島の駅前、[[宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線|宇都宮芳賀ライトレール線]]の[[宇都宮清原工業団地|清原工業団地]]内の区間など)と、上下線を道路の左右に振り分けて敷設する'''ダブル(デュアル)サイドリザベーション'''([[札幌市電]]都心線の[[札幌駅前通]]など)の二種類がある。札幌市電の[[ササラ電車]]は雪を進行方向左側にしか跳ね飛ばせないため、投雪場所の無いこの区間は軌道下[[ロードヒーティング]]で対応している。 <gallery> File:Route408 Utsunomiya-LRT.jpg|シングルサイドリザベーションの例(宇都宮芳賀ライトレール線) </gallery> ; センターポール [[ファイル:Kinu Avenue0724.jpg|thumb|センターポール方式を採用した[[宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線|宇都宮芳賀ライトレール線]]の併用軌道区間]] : センターリザベーションの路線において、上下線の軌道間に架線柱を立てる方式。道路脇の電柱や建物から架線を吊る方式(サイドポール〈側柱〉方式)に比べ景観が良くなる。鉄道線で採用の事例もある([[山手線]]の[[大塚駅 (東京都)|大塚駅]]など)。かつて電柱が多くなかった時代は、その必要性から一般的だったが、道路脇の電柱が増えるに従いセンターポールはみられなくなっていた。しかし景観を重視したまちづくりが全国的に広がりを見せるにつれ、主要街路の電線・電柱とともに架線を吊るすワイヤー等の構造物が道路上空に張り巡らされていることが嫌われるようになり、すっきりした都市空間をとりもどす目的に合致したセンターポールの採用が徐々に増えている<ref group="注">札幌市電の1994年(平成6年) 創成小学校前(現:資生館小学校前) - すすきの間の例がある</ref>。日本国内では、[[豊橋鉄道東田本線]]の駅前区間で、[[鹿児島市交通局#鹿児島市電|鹿児島市電]]および[[岡山電気軌道]]ではセンターリザベーション区間の大部分がセンターポール化されている。宇都宮芳賀ライトレール線では専用軌道を含めた大部分で採用している。 ; サイドポール : サイドポールは日本の既存路面電車の大多数が採用してきた架線柱設置方式。主に道路両側の路側または歩車道境界線付近に架線柱を立てるかまたは建造物を利用し、街路を横断するワイヤーや鉄骨等による跨道構造物を設置、そこから軌道上空に架線を懸下する場合が大半である。ほかに、センターリザベーションの場合に軌道と道路の境界に架線柱を立てる方式もある。また、単線区間のシングルポールは全てサイドポールに含まれる。空中のワイヤーや構造物、また路側の柱状構造物の数が増えるため、街路の景観を圧迫する要因とみなされることが多く、時として路面電車の主たる欠点の一つとして導入や存続を否定する主因とされることもある。 ; 照明柱添架方式 : サイドポール方式の一つ。[[電線類地中化|電線地中化]]に際し、道路幅員の制約等でセンターポール方式の採用が困難な場合に用いられる<ref name="rp509131">『[[鉄道ピクトリアル]]』1989年3月臨時増刊号(NO.509)「特集 九州・四国・北海道地方のローカル私鉄」 p.131</ref><ref name="rp593201">『鉄道ピクトリアル』1994年7月臨時増刊号(NO.593)「特集 路面電車」 p.201</ref>。電線地中化事業に伴う道路空間・環境整備として、道路管理者が周囲の景観に調和する外観の道路照明柱を道路端に建植し、この道路照明柱に路面電車事業者が架線のスパンワイヤーを取り付けて架線を吊架する<ref name="keikaku2021p24">熊本市交通局 『[http://www.kotsu-kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=57&id=818&set_doc=1 熊本市交通局経営計画(2021 - 2028)]』p.24(2022年9月25日閲覧)</ref>(道幅が狭い場合はスパンワイヤーではなくビームを架設する例もある<ref name="scex13012829">イカロス出版『路面電車EX』2013.vol01 pp.28-29</ref>)。他に道路照明柱には道路標識や信号機、配電用変圧器等の地中化できないインフラが共架される。[[熊本市交通局]]<ref name="rp509131"/><ref name="rp593201"/><ref name="keikaku2021p24"/>、[[万葉線]]<ref name="dj2552425">『[[鉄道ダイヤ情報]]』2005年7月号(No.255)pp.24-25</ref><ref name="scex130127">イカロス出版『路面電車EX』2013.vol01 p.27</ref>、[[福井鉄道]]<ref name="scex13012829"/>等で採用されている。 ; たわみ構造軌道 : 路面が、交通荷重によるせん断力には抵抗するが、曲げ力には抵抗せずたわむ構造を指し、併用軌道の場合は砕石道床を有するもの(表面が板石舗装かアスファルト舗装かは問わない)が該当する<ref name=kidou>西村幸格 「路面電車の軌道構造」(『[[鉄道ジャーナル]]』1980年10月号(NO.164)pp.50-51掲載)</ref>。砕石道床には一般の鉄道と同様に枕木を介してレールが敷設される。併用軌道において古くから採用されてきた構造。軌道敷内の自動車通行が増加すると荷重による軌道狂いなどの破壊が早く進行し、保線作業回数を増やして対応することが必要となる。 ; 剛質構造軌道 : 路面が、交通荷重による曲げ力に対して強い抵抗力を有する構造を指し、併用軌道の場合は砕石道床がなく強固なコンクリート道床を有するものが該当する<ref name=kidou/>。併用軌道上の自動車通行による軌道破壊の増加に対応して開発されたもので、路盤上に砕石道床は構築せずコンクリート舗装板を直接敷設し、レールは舗装板上に直接又はコンクリート枕木を介して二重弾性締結により取り付けられる<ref name=kidou/>。その上にアスファルトなどによる舗装が施される。レール上の車両荷重はコンクリート舗装板により安定して分散されるため、レール自体の重軌条化の必要はない<ref name=kidou/>。この構造の採用後も、自動車の重量増などにより軌道破壊が進行する例も生じ、剛質構造の中でもさらに連接ブロック構造などの改良が進められた。 ; パッセンジャーフロー : 車両の扉を乗車専用と降車専用に分け、乗客がその間を移動する途中で運賃を支払う方式。最盛期の[[札幌市電]]では、2両[[編成 (鉄道)|編成]]の後部車両から乗車、運賃を支払ったあと前部車両から降りるようになっていた。 ; [[地表集電方式]] : [[ファイル:XDSC 7576-tramway-Bordeaux-ligne-B-place-des-Quinconces.jpg|thumb|[[地表集電方式]]。ボルドーのトラムには架線がなく、線路中央の第三軌条から集電している。]]"APS (Alimentation par le Sol) "の名称で[[アルストム]]社の子会社が開発した集電システムで、短いセグメントに区切った[[第三軌条方式|第三軌条]]を敷設し、電車が通過中のセグメントにだけ電気を通す方式。架線が不要なことから障害が少なくなる上に見栄えが良いという利点があり、フランスの[[ボルドー]]で実用化された。 ; [[暗渠集電方式|地中溝集電方式]] : 暗渠集電方式、地中第三軌条方式、コンデュイット (conduit) 方式とも。線路の間に給電線を埋設し、車体下部から伸びた集電靴で集電を行う。ロンドンやニューヨークなど各地で用いられたが、[[1963年]]のワシントンD.C.を最後に姿を消した。 ; 高速電車 : 路面電車に対し、路面電車ではない通常の電車(鉄道)を区別する際に使われる言葉。 ; [[都市高速鉄道]] : 街路交差点での交通信号で停止せざるを得ない「路面電車」に対して、交通信号で停止しないように計画・設計された鉄道をいう。英語の[[:en:rapid transit|rapid transit]]の訳語であり、「[[都市施設]]」のひとつとして[[都市計画法]]第11条第1項に規定されている。 == 路面電車を題材とした作品 == * 『[[おじいさんの電車]]』 - [[日本放送協会|NHK]]の[[音楽番組]]「[[みんなのうた]]」で、[[1984年]][[4月]]・[[5月]]に放送された楽曲。[[都電荒川線]]をテーマにした楽曲。 ** 作詞:[[山元清多]]、作曲:[[福田和禾子]]、歌:[[藤田淑子]]。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連項目 == {{Commons&cat|Tram|Trams}} * [[デュアル・モード・ビークル]] * [[ライトレール]] * [[パークアンドライド]] * [[オレゴン電気鉄道博物館]] - 路面電車の博物館 * [[地表集電方式]] * [[路面電車の走る街の一覧]] **[[日本の路面電車一覧]] * [[ヨーロッパのトラム]] * [[交通弱者]] * [[鉄道の電化]] * [[路面電車停留場]] * [[市電]] * [[トロリーバス]] {{公共交通}} {{日本の路面電車}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ろめんてんしや}} [[Category:路面電車|*]] [[Category:道路交通]] [[Category:公共交通]] [[Category:持続可能な交通]]
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亀有駅
亀有駅(かめありえき)は、東京都葛飾区亀有三丁目にある東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線の駅である。駅番号はJL 20。緩行線のみホームがあり、各駅停車のみが停車する。特定都区市内制度における「東京都区内」に属している。 当初は隣接する新宿地区に駅を設ける予定だった。しかし、亀有 - 新宿間にある中川に架かっていた有料橋を利用する客が激減するとの理由で同地区の者が亀有地区への設置を主張し、その一方で亀有地区の地主が土地を寄贈したため、この地に駅が置かれることになった。 JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している金町駅管理の業務委託駅。高架複々線区間の緩行線上に島式ホーム1面2線を有する高架駅である。 常磐快速線を利用して日暮里・上野方面へ行くには、2番線の電車を利用の上、北千住駅で乗り換える必要があるが、この場合、綾瀬 - 北千住間も含めてJR線として扱われる。当駅を利用して山手線の駅に行く場合に、乗り換えの手間が少ない西日暮里駅を経由する乗客が多い。 指定席券売機、Suica対応自動改札機設置駅。 なお、当駅と直結して、商業施設「ビーンズ亀有」が併設されている。 (出典:JR東日本:駅構内図) 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は37,399人である。常磐線の快速が停車しない駅では金町駅に次ぐ第2位。なお、常磐緩行線の他路線への接続のない駅では利用者数一位である。乗り換え路線のある馬橋、新松戸より利用者数が多い。また、快速停車駅の我孫子、天王台、取手よりも利用者が多い。 近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。 北口と南口にバスターミナルが設けられている。 この他、例年正月3が日には初詣客向けに西新井大師行臨時バスが運行されている。 かつて地上駅だった時代には、日立製作所亀有工場への専用線がこの駅から分岐していた。 メトロセブン構想ならびに運輸政策審議会答申第7号における地下鉄8号線(東京メトロ有楽町線)の延伸計画・構想がある(豊洲駅 - 当駅間が計画路線、当駅以北は構想路線。詳細は東京直結鉄道を参照)。現時点でいずれも具体的な計画はなされていない。 1920年代に筑波高速度電気鉄道が日暮里から茨城県田井村に至る鉄道路線を計画した際、梅島町梅田から亀有を経て千葉県松戸町へ至る支線を構想していたが、こちらは青砥経由に変更され京成電鉄本線の一部として開通している。
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亀有駅(かめありえき)は、東京都葛飾区亀有三丁目にある東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線の駅である。駅番号はJL 20。緩行線のみホームがあり、各駅停車のみが停車する。特定都区市内制度における「東京都区内」に属している。
{{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = 亀有駅 |画像 = 亀有駅.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 南口(2020年2月) |地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|46|0|N|139|50|52|E}}}} |よみがな = かめあり |ローマ字 = Kameari |電報略号 = アリ |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所在地 = [[東京都]][[葛飾区]][[亀有]]三丁目25-1 |座標 = {{coord|35|46|0|N|139|50|52|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |開業年月日 = [[1897年]]([[明治]]30年)[[5月17日]]<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=425}}</ref> |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 1面2線<ref name="zeneki05">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =05号 上野駅・日光駅・下館駅ほか92駅 |date =2012-09-09 |page =26 }}</ref> |廃止年月日 = |乗車人員 = 37,399 |統計年度 = 2022年<!-- リンク不要 --> |所属路線 = {{color|#339999|■}}[[常磐緩行線|常磐線(各駅停車)]]<br />(線路名称上は[[常磐線]]) |駅番号 = {{駅番号r|JL|20|#808080|1}} |前の駅 = JL 19 [[綾瀬駅|綾瀬]] |駅間A = 2.2 |駅間B = 1.9 |次の駅 = [[金町駅|金町]] JL 21 |キロ程 = 9.9&nbsp;km([[日暮里駅|日暮里]]起点)<br />[[綾瀬駅|綾瀬]]から2.2 |起点駅 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]] * [[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[特定都区市内|東京都区内]]駅}} |備考全幅 = }} [[File:JREast-Joban-line-JL20-Kameari-station-entrance-north-20170104-140911.jpg|thumb|北口(2017年1月)]] '''亀有駅'''(かめありえき)は、[[東京都]][[葛飾区]][[亀有]]三丁目にある[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[常磐線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JL 20'''。[[常磐緩行線|緩行線]]のみホームがあり、[[各駅停車]]のみが停車する。[[特定都区市内]]制度における「東京都区内」に属している。 == 歴史 == 当初は隣接する[[新宿 (葛飾区)|新宿]]地区に駅を設ける予定だった。しかし、亀有 - 新宿間にある[[中川]]に架かっていた有料橋を利用する客が激減するとの理由で同地区の者が亀有地区への設置を主張し、その一方で亀有地区の地主が土地を寄贈したため、この地に駅が置かれることになった。 === 年表 === * [[1897年]]([[明治]]30年)[[5月17日]]:[[日本鉄道]]の駅として開業{{R|停車場}}<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2947447/5 『官報』1892年5月18日 逓信省彙報「停車場設置」](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:[[鉄道国有法|国有化]]で日本鉄道が[[官設鉄道]]の駅となる{{R|停車場}}。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により常磐線の所属となる。 * [[1949年]]([[昭和]]24年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]発足。 * [[1967年]](昭和42年)[[10月1日]]:複々線化も絡み[[日立製作所]][[専用線]]と貨物の取り扱いが廃止になる{{R|停車場}}。 * [[1971年]](昭和46年)[[4月20日]]:[[綾瀬駅]] - [[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]間の複々線化が完成。快速線と分離し、[[東京メトロ千代田線|営団千代田線]]と直通乗り入れを行う緩行線の駅となり、[[上野駅|上野]]行の列車がなくなる。 * [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:[[チッキ|荷物]]の取り扱いを廃止{{R|停車場}}。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}。 * [[1996年]]([[平成]]8年)11月:当駅直結の商業施設「アルカード亀有」が開業<ref>{{Cite book|和書 |date=1997-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '97年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-118-X}}</ref>(のちの「ビーンズ亀有」<ref name="jrtk/press/20191001">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrtk.jp/topics/wp-content/uploads/2019/10/8198a6d984fa200a926d9fddc0c0135e.pdf|title=2019年11月1日(金) ビーンズ亀有 リニューアルオープン! 毎日の生活シーンを彩る食の専門店など7ショップがオープン|format=PDF|publisher=ジェイアール東日本都市開発/ビーンズ|date=2019-10-01|accessdate=2020-04-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200408061155/http://www.jrtk.jp/topics/wp-content/uploads/2019/10/8198a6d984fa200a926d9fddc0c0135e.pdf|archivedate=2020-04-08}}</ref>)。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-24|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2006年]](平成18年)[[2月11日]]:駅北口に「[[こち亀銅像]]」を設置。以降、[[2016年]]までに大小合わせて15体の像が駅周辺に設置される<ref name="kochi_dozo">{{Cite news|url=https://katsushika.keizai.biz/headline/1532/|title=亀有駅前に「こち亀」15体目の銅像 フルカラーは秋本治さんの希望 |newspaper= 葛飾経済新聞 |publisher=[[みんなの経済新聞ネットワーク]] |date= 2016-08-09 |accessdate= 2023-10-10 }}</ref>。 * [[2017年]](平成29年)[[1月22日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了。 * [[2018年]](平成30年) ** [[3月20日]]:業務委託化<ref name="2019-11-15">{{Cite web|和書|url=http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/h29eigyou_no3.html|title=「平成29年度営業関係施策(その3)について」提案を受ける|accessdate=2019-11-15|publisher=東日本ユニオン東京地本|archivedate=2019-04-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190418084754/http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/h29eigyou_no3.html}}</ref>。 ** [[8月1日]]:車外スピーカーから放送を流せない車両を使う列車を除いて[[発車メロディ]]の使用を停止。<ref name="pr20190312"/>。 * [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年) ** [[3月16日]]:すべての列車において発車メロディの使用を停止<ref name="pr20190312">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/tokyo/20190312_t01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190401134340/https://www.jreast.co.jp/press/2018/tokyo/20190312_t01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=常磐(各駅停車)線 車外スピーカーを使用して発車メロディを流す取り組みについて|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2019-03-12|accessdate=2020-03-27|archivedate=2019-04-11}}</ref>。 ** 11月1日:商業施設「ビーンズ亀有」がリニューアル<ref name="jrtk/press/20191001" />。 * [[2024年]](令和6年)[[2月9日]]:[[ホームドア#多様なホームドアの開発|スマートホームドア]]の使用を開始(予定)<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/tokyo/20231017_to03.pdf|title=首都圏本部管内のホームドア使用開始について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道首都圏本部|date=2023-10-17|accessdate=2023-10-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231017090110/https://www.jreast.co.jp/press/2023/tokyo/20231017_to03.pdf|archivedate=2023-10-17}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/20230721_ho03.pdf|title=バリアフリー設備に関する整備を推進します|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2023-07-21|accessdate=2023-07-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230721083009/https://www.jreast.co.jp/press/2023/20230721_ho03.pdf|archivedate=2023-07-21}}</ref>。 == 駅構造 == [[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している[[金町駅]]管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="2019-11-15"/>。[[高架橋|高架]][[複々線]]区間の緩行線上に[[島式ホーム]]1面2線を有する{{R|zeneki05}}[[高架駅]]である。 [[常磐快速線]]を利用して[[日暮里駅|日暮里]]・[[上野駅|上野]]方面へ行くには、2番線の電車を利用の上、[[北千住駅]]で乗り換える必要があるが、この場合、綾瀬 - 北千住間も含めてJR線として扱われる。当駅を利用して[[山手線]]の駅に行く場合に、乗り換えの手間が少ない[[西日暮里駅]]を経由する乗客が多い。 [[指定席券売機]]、[[Suica]]対応[[自動改札機]]設置駅。 なお、当駅と直結して、商業施設「ビーンズ亀有」が併設されている<ref name="jrtk/press/20191001" />。 === のりば === {|class="wikitable" |- !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- ! 1 |rowspan=2|[[File:JR JL line symbol.svg|15px|JL]] 常磐線(各駅停車) |style="text-align:center"|下り |[[松戸駅|松戸]]・[[柏駅|柏]]・[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子]]方面 |- ! 2 |style="text-align:center"|上り |[[北千住駅|北千住]]・[[西日暮里駅|西日暮里]]・[[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]]・[[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] [[小田急小田原線|小田急線]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/507.html JR東日本:駅構内図]) <gallery> ファイル:JR Joban-Line Kameari Station Gates.jpg|改札口(2021年5月) ファイル:JR Joban-Line Kameari Station Platform.jpg|ホーム(2021年5月) </gallery> == 利用状況 == 2022年(令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''37,399人'''である。常磐線の快速が停車しない駅では[[金町駅]]に次ぐ第2位。なお、常磐緩行線の他路線への接続のない駅では利用者数一位である。乗り換え路線のある馬橋、新松戸より利用者数が多い。また、快速停車駅の我孫子、天王台、取手よりも利用者が多い。 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通りである。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[http://www.city.katsushika.lg.jp/information/1000083/1005977/index.html 葛飾区統計書] - 葛飾区</ref><ref group="統計">[https://www.city.adachi.tokyo.jp/kuse/ku/aramashi/toke-suji.html 数字で見る足立] - 足立区</ref> !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1974年(昭和49年) |37,432 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) | | |- |1976年(昭和51年) |36,714 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |37,416 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |36,966 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |37,274 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |35,569 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |34,837 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |34,350 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |33,699 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |33,611 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |33,039 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |33,672 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |33,579 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |35,817 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |35,723 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |36,248 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |35,723 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |38,918 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |38,835 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |38,370 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |38,064 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |39,229 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |38,445 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |38,188 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |38,010 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>37,279 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>37,185 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>36,536 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>36,152 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>36,133 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>36,521 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>38,615 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>39,753 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>39,650 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>39,343 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>39,550 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>38,988 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_01.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>39,483 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_01.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>40,271 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_01.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>40,125 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_01.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - 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六ツ木都住線|'''有28''']]:[[六木|六ツ木都住]]|'''有29''':六ツ木都住}} |「有29」は深夜バスのみ運行 |- !2 |{{Unbulleted list|[[東武バスセントラル葛飾営業所#亀有駅北口 - 西水元循環線|'''有25'''・'''有26''']]:葛飾車庫|'''有27''':亀有駅北口(循環)}} |「有26」は深夜バス運行 |- !3 |{{Unbulleted list|[[東武バスセントラル葛飾営業所#亀有駅北口 - (環七通り) - 足立区役所・王子駅線|'''王30''']]:[[王子駅]]|'''足35''':[[足立区役所]]|[[東武バスセントラル葛飾営業所#亀有駅北口・綾瀬駅 - 水元総合スポーツセンター線|'''有36''']]:水元総合スポーツセンター|[[東武バスセントラル葛飾営業所#亀有駅北口 - 戸ヶ崎 - 三郷中央駅線|'''有51''']]:[[三郷中央駅]]}} |「有51」は土休日のみ運行 かつて[[都営バス]]がここに乗り入れていた。 |- !4 |{{Unbulleted list|[[東武バスセントラル八潮営業所#八潮駅 - 足立郷土博物館 - 亀有駅|'''有64''']]:[[八潮駅]]南口|'''有65''':六ツ木都住・八潮駅南口}} |「有65」は深夜バス運行 |} この他、例年[[正月#日本の正月|正月3が日]]には初詣客向けに西新井大師行臨時バスが運行されている。 === 南口 === <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先 |- !colspan="3"|亀有駅南口 |- !rowspan="2"|0 |style="text-align:center;"|[[京成タウンバス]] |{{Unbulleted list|[[京成タウンバス#慈恵線|'''有02''']]:[[東京慈恵会医科大学葛飾医療センター|慈恵医大葛飾医療センター]]|[[京成タウンバス#白鳥線|'''有70''']]:ウェルピアかつしか、亀有駅、[[金町駅]]、タウンバス車庫}} |- |style="text-align:center;"|[[日立自動車交通]] |{{Unbulleted list|'''有71'''・'''有72'''([[レインボーかつしか]]):ウェルピアかつしか|'''有74'''(レインボーかつしか):亀有駅南口(新宿循環)}} |- !colspan="3"|亀有駅 |- !rowspan="2"|1 |style="text-align:center;"|京成タウンバス |[[京成タウンバス#環七線|'''新小58''']]:[[新小岩駅]]、タウンバス車庫 |- |style="text-align:center;"|[[京成バス]] |[[京成バス江戸川営業所#環七シャトル|'''SS08'''(環七シャトルバス)]]:[[東京ディズニーシー]]・[[葛西臨海公園駅]] |- !rowspan="3"|2 |style="text-align:center;"|京成バス |[[京成バス金町営業所#亀有線|'''新小53''']]:奥戸二丁目、葛飾区役所、新小岩駅東北広場 |- |style="text-align:center;"|京成タウンバス |[[京成タウンバス#四ッ木線|'''新小52乙''']]:新小岩駅東北広場、タウンバス車庫 |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|京成バス|東京空港交通}} |'''空港連絡''':羽田空港(国内線・国際線) |- !3 |rowspan="3" style="text-align:center;"|京成タウンバス |[[京成タウンバス#新宿線|'''小54''']]:[[京成小岩駅]]、タウンバス車庫 |- !4 |[[京成タウンバス#お花茶屋線|'''有57''']]:葛飾区役所、タウンバス車庫 |- !rowspan="3"|5 |[[京成タウンバス#浅草線|'''有01''']]:[[田原町駅 (東京都)|浅草寿町]] |- |style="text-align:center;"|日立自動車交通 |{{Unbulleted list|'''綾11'''([[はるかぜ (コミュニティバス)|はるかぜ]]9号):[[青井駅]]、[[綾瀬駅]]|'''綾12'''(はるかぜ12号):[[西新井駅]]東口|'''有73'''(レインボーかつしか):綾瀬駅}} |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|京成タウンバス|京成バス}} |[[京成タウンバス#綾亀線|'''綾01''']]:綾瀬駅 |} == 登場作品 == * 『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』 *: 亀有出身の[[秋本治]]による[[漫画]]。作中において亀有駅周辺が登場することもあるが、実在の[[亀有公園]]の前に[[交番|派出所]]は存在しない。 *: 2006年2月には、駅北口に同作品の主人公である[[両津勘吉]]の[[銅像]]が設置され{{R|zeneki05}}({{n|亀有駅前に両津勘吉像 除幕式には原作者も}})、同年11月には南口にも設置された。その後、周辺には同作品登場人物の[[中川圭一]]、[[秋本麗子]]、[[本田速人]]の銅像も設置されている<ref>[http://www.j-kochikame.com/special/map/kameari/index.html 下町観光ガイド 亀有周辺] - 集英社『こちら葛飾区亀有公園前派出所』公式サイト</ref>。詳細は[[こち亀銅像]]の項を参照のこと。 == 日立製作所専用線== かつて地上駅だった時代には、[[日立製作所]]亀有工場<ref>日立インダストリアルプロダクツ土浦事業所の前身。</ref>への[[専用鉄道|専用線]]がこの駅から分岐していた。 == 構想 == [[メトロセブン]]構想ならびに運輸政策審議会答申第7号における地下鉄8号線([[東京メトロ有楽町線]])の延伸計画・構想がある([[豊洲駅]] - 当駅間が計画路線、当駅以北は構想路線。詳細は[[東京直結鉄道]]を参照)。現時点でいずれも具体的な計画はなされていない。 1920年代に[[筑波高速度電気鉄道]]が日暮里から[[茨城県]][[田井村 (茨城県)|田井村]]に至る鉄道路線を計画した際、[[梅田 (足立区)|梅島町梅田]]から亀有を経て[[千葉県]][[松戸町]]へ至る支線を構想していたが、こちらは[[青砥駅|青砥]]経由に変更され[[京成本線|京成電鉄本線]]の一部として開通している。 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JL line symbol.svg|15px|JL]] 常磐線(各駅停車) :: [[綾瀬駅]] (JL 19) - '''亀有駅 (JL 20)''' - [[金町駅]] (JL 21) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === <!--==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} --> ==== 出典 ==== {{reflist|colwidth=30em}} ===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ===== {{Reflist|group="広報"}} === 利用状況 === {{Reflist|group="統計"}} ; JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|17em}} == 関連項目 == * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[こちら葛飾区亀有公園前派出所]] == 外部リンク == {{commonscat}} * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=507|name=亀有}} * [http://beans.jrtk.jp/kameari/ ビーンズ亀有] {{常磐緩行線}} {{DEFAULTSORT:かめあり}} [[Category:葛飾区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 か|めあり]] [[Category:日本鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:常磐緩行線]] [[Category:1897年開業の鉄道駅]] [[Category:亀有]]
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サルサ (音楽)
サルサ(Salsa music)はラテン音楽の一ジャンルである。 リズムの基本となるのは南米音楽特有の「クラーベ」という単位である。クラーベのリズムは一般的に2-3(ツースリー)、3-2(スリーツー)と言われるリズムで、一般的に2(ツー)はシンコペートされた2拍目と3拍目のみ、3(スリー)は4拍子を三連符のリズムでクラーベスの音を出す。その二つでワンセットの「クラーベ」という単位になり、そのクラーベのリズムにベースやピアノが加わり、コンガ、ボンゴ、ティンバレスなどのパーカッションや、トランペットなどのホーンセクションが加わって構成されていく。 加わる楽器や演奏形態は、ソンやモントゥーノ、ルンバ、グアヒーラ、ボレロなどリズムによって変わる。クラーベとはスペイン語で基本・鍵と言う意味で、楽器のクラーベは2本1セットで演奏するためクラベスと言う。 サルサのルーツは、1930年代のキューバ音楽、ソンやルンバから発展したものとされている。直接的には、1960年代のニューヨークにおけるプエルトリコ人やキューバ人のコミュニティ内で、ラテン音楽に、ジャズ、ソウル、ロックなどの要素を取り入れたものを発祥とする説、さらにその後1970年頃までにニューヨークで確立されたものをサルサの発祥とする説が有力である。 サルサに直接影響を与えた音楽はキューバのソンである。これはスペインとアフリカの影響を受けた音楽で、もともとはキューバ東部のオリエンテ州に原型があり、1910年代後半にはキューバ全土に広がった。 1920年代から30年代にかけて、禁酒法が施行されたアメリカ合衆国からの観光ブームも手伝って、ソンがキューバで大変な人気を博し、多くの楽団が演奏した。1930年4月26日、キューバ出身のドン・アスピス率いる楽団がニューヨークのパレス劇場でショーを開催して大好評となったことでレコード会社が録音し、1931年には「エル・マニセロ(南京豆売り)」が当時としては異例の百万枚の大ヒットとなった。ここから、「ルンバ・エイジ」と呼ばれる1930年代のルンバの大ブームが起こった(この時名付けられたルンバとは、社交ダンスのスタイルを意味するルンバであり、キューバにあるアフリカ系音楽のルンバのことではない)。 キューバの他の音楽ジャンルも多かれ少なかれソンの影響を受け融合し、様々な亜流のソンが誕生して変質していった。その中でも1940年代には、ソン・モントゥーノが人気となる。ソンの中のモントゥーノ(コールアンドレスポンス)のパートを強調して、よりアフリカ的な色彩を強め、トレスに代わってサックスやトランペット、ピアノが楽団の編成に加わるようになった。かつてのソンの楽団の編成はセステート(6人編成)、あるいはセプテート(7人編成)であったが、1940年代になるとキューバの楽団は大規模になった。 ジャズに影響を受けた大規模な編成でミュージシャンらがデスカルガ(ジャムセッション)を繰り返す中、ソン・モントゥーノのリズムからマンボが生まれた。1944年にはアンセルモ・サカサスが「エル・マンボ」を録音し、メキシコシティではペレス・プラードが1949年に「マンボNo.5」を録音するなど、1940年代はラテン音楽の主流がマンボへと移っていった時期である。この時期ニューヨークでは、アルセニオ・ロドリゲスやフェリックス・チャポティーン、マチート、ティト・プエンテらが、大規模な楽団をそれぞれ率いて、パラディウム・ナイトクラブを拠点に活躍。そのスピード感とダイナミックなサウンドで、マンボは一大ブームとなった。 第二次世界大戦後の1940年代後半になると、ニューヨークにはヒスパニック系移民が爆発的に増加した。50年代に入ると、チャランガ編成によるチャチャチャやパチャンガもキューバから導入され、様々なスタイルのキューバ由来の音楽が存在した。 キューバ革命が1959年に起こり、1961年1月にアメリカ合衆国とキューバの国交が断絶すると、ニューヨークにはキューバの楽団はほとんどいなくなり、代わりにプエルトリコ系のミュージシャンらが優勢を占めるようになった。大規模な楽団は姿を消し、ヒスパニック系の若者にはアフリカ系アメリカ人のコミュニティから生まれたR&Bやドゥーワップ、ソウルミュージックの人気が高く、従来のポピュラーなラテン音楽の人気は下火となっていた。その過程において、チャーリー・パルミエリ、ジョニー・パチェーコ、レイ・バレットなどのミュージシャンが、ソウル・ミュージックとマンボを融合させて、60年代初頭にはヒスパニック系コミュニティでブーガルーのブームが起こった。 1964年、ジョニー・パチェーコは、法律家のジェリー・マスッチとともにファニアレコーズを創立する。ウィリー・コロン、エクトル・ラボー、ジョー・バターンなどの若手アーティストのヒットを飛ばして地盤を固め、後にティコ、アレグレを吸収する一大レーベルとなる。その一方では、かつてルンバやマンボの時代に隆盛を極めたナイトクラブやホールが次々と閉店する中、ミュージシャンの間ではデスカルガ(ジャムセッション)が頻繁に行われ、ティコやアレグレといった数少ないニューヨークのラテン系レーベルの企画で録音された。一例として、1966年5月23日にヴィレッジゲイトでライブで録音された盤がある。デスカルガはプエルトリカンのアイデンティティを模索するひとつの運動となり、毎夜のように行われていた。66年にはジョー・クーバも音楽的成功を収めた。またファニア・レーベルのアーティストのショウケースとして結成されたファニア・オール・スターズは、1968年6月8日にレッド・ガーターで第一回興行を行った。 アフリカ系アメリカ人の若者がブラックパンサー党を結成したことに触発されたニューヨリカンの若者たちがヤングローズを結成するなど、1960年代後半は若者が政治活動に強く関わった時代であった。この社会変化の中でファニア・オール・スターズは、長く親しまれてきたソンや、プエルトリコ独自の音楽であるプレーナを採り入れた曲でシングルヒットを出し続け、1971年8月26日にはナイトクラブチーターでの歴史的なコンサートを行った。その後彼らは世界中をツアーし、サルサの認知に貢献した。ファニア・オール・スターズは1973年8月24日に、ニューヨークのヤンキースタジアムで4万人の観衆を前にコンサートを行った。この時は興奮した観衆がフィールドになだれ込んできて途中で中止となる事態となった。 70年代初頭、ファニア・オール・スターズの功績で、サルサは急激にニューヨークからラテン・アメリカ諸国に広まった。ファニア・オール・スターズはヤンキー・スタジアムでのライブで、ソールドアウトを記録した。またコロンビアでは、ジョー・アローヨなどの新しい世代のミュージシャンが、クンビアやバジェナートの要素とサルサを結合させて人気をとった。 多くのミュージシャンによって様々なアイデアがサルサに盛り込まれ、「サルサ」と呼ばれる音楽はその輪郭を強くした。ウィリー・コロンはプエルトリコの撥弦楽器クアトロを導入したり、ジャズやロックのみならず、パナマやブラジルの音楽も採用した。ファニア・レコーズのアレンジャー、ラリー・ハーロウは、エレクトリックピアノを加えてモダンなサルサにした。 サルサの興隆とともに市場が拡大し、音楽自体が多様化、複雑化した。独立レーベルであったファニア・レコーズは1970年代の10年間で弱体化し、代わりにメジャー資本のラテン系音楽レーベルが大きく成長した。1970年代後半にはキューバとの交流も一時的に可能となり、サルサはキューバ音楽に影響を与えた。 1980年代には、サルサは恋愛のロマンス(時にセックス)を扱った歌詞、スムースなサウンドとメロディを特徴としたサルサ・ロマンティカに進化した。このスタイルはホセ・アルベルトが1984年にリリースしたアルバム「Noches Calientes」にさかのぼり、アルベルトは後に「ダンス・ウィズ・ミー」アルバムも発表した。ロマンティカの新しい波は、ニューヨークとプエルトリコのラティーノの音楽市場を占める一方で、多くの若者はサルサに興味を失い、ロックやヒップホップ、R&Bを聞くようになったともいわれる。サルサと、キューバ音楽の影響を受けたグロリア・エステファンとマイアミ・サウンド・マシーンは、「コンガ」を86年にヒットさせた 1980年代後半になると、ニューヨークとプエルトリコのラティーノの間では、ドミニカ共和国の音楽であるメレンゲ (音楽) がブレイクし、ラテンダンスの分野でも認知されるようになった。 サルサの人気はベネズエラ、コロンビア、パナマなどラテン・アメリカ諸国だけではなく、アメリカ、ヨーロッパ、日本、アフリカなどにも広がり、世界各地でサルサのシーンが見られるようになった。サルサ・ロマンティカの人気に対する揺り戻しで、60年代から70年代のデスカルガの雰囲気を感じさせる「クラシック・サルサ」を演奏するアーティストが世界中に存在するようになった。例えば日本のオルケスタ・デ・ラ・ルスは1989年にファーストアルバムをリリースした。グルーポ・ニチェ、ジョー・アローヨ、フルーコなどのコロンビアのアーティストは、サルサ・ドゥラ、もしくはサルサ・ゴルダと呼ばれるハードなサルサで人気を博した。ニューヨークでもアフリカンド、スパニッシュ・ハーレム・オーケストラといったグループが出現している。 その一方でサルサは、ハウスミュージック、レゲトン、テクノなど様々な音楽と融合して存在している。 サルサ・ダンスは60年代後半から70年代前半のニューヨークで、プエルトリコ人やキューバ人の間で流行し始めた。 ダンスとしてのサルサは1クラーベ=8拍の音楽に6ステップを合わせて踊るため、シンコペーションに合わせ1, 5拍目をステップしない(N,Yスタイル-プエルトリコ系)、1拍目からステップを始め4, 8拍目をステップしない(L,A,スタイル-キューバ系)、シンコペーションにあわせ2拍目から始めるが4(8)拍目と次の5(1)拍目をタイでつなぎ、ステップのブランクを作らない(N,Y,クラブon2)等がある。ダンススタイルはそれぞれ少しずつ異なる。 日本では、競技ダンスの項目のひとつと認識されてから長いが、ポップ歌手リッキー・マーティン、マーク・アンソニーなどの人気の高まりとともに、熱心なサルサのインストラクターや中南米の出稼ぎ移民、日系移民を中心に一部のクラブなどでの人気が根付いてきている。 中南米、北米では一般的なラテン移民の庶民のダンスとして溶け込んでいる。米国へのラテン系の移民の中でも、若い世代はサルサのことを「家族で集まるときの余興」とみるような認識が強かったが、一般的な米国社会への浸透とともに、今では多くのラティーナ、ラティーノが社会に進出してきている。もともとラテン系の移民の多いニューヨークやロサンゼルスなどの大都市では、サルサの学習クラスや、クラブが増えている。
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サルサはラテン音楽の一ジャンルである。 リズムの基本となるのは南米音楽特有の「クラーベ」という単位である。クラーベのリズムは一般的に2-3(ツースリー)、3-2(スリーツー)と言われるリズムで、一般的に2(ツー)はシンコペートされた2拍目と3拍目のみ、3(スリー)は4拍子を三連符のリズムでクラーベスの音を出す。その二つでワンセットの「クラーベ」という単位になり、そのクラーベのリズムにベースやピアノが加わり、コンガ、ボンゴ、ティンバレスなどのパーカッションや、トランペットなどのホーンセクションが加わって構成されていく。 加わる楽器や演奏形態は、ソンやモントゥーノ、ルンバ、グアヒーラ、ボレロなどリズムによって変わる。クラーベとはスペイン語で基本・鍵と言う意味で、楽器のクラーベは2本1セットで演奏するためクラベスと言う。
{{Infobox music genre |name=サルサ(音楽) |bgcolor=crimson |color=white |stylistic_origins= [[マンボ]]、[[ボンバ]]、[[ジャズ]]、ソン |cultural_origins= 1960年代<br />{{USA}}、ニューヨーク |instruments= サックス、トロンボーン、トランペット、[[コンガ]]、ティンバレス、[[ベース (弦楽器)|ベース]]、[[ドラムセット|ドラム]]、[[ボンゴ]]など |popularity= 1970年代-1980年代 |regional_scenes= |fusiongenres= ティンバ |other_topics= 本文参照 }} '''サルサ'''(Salsa music)は[[ラテン音楽]]の一ジャンルである。 リズムの基本となるのは南米音楽特有の「[[クラーベ]]」という単位である。クラーベのリズムは一般的に2-3(ツースリー)、3-2(スリーツー)と言われるリズムで、一般的に2(ツー)はシンコペートされた2拍目と3拍目のみ、3(スリー)は4拍子を三連符のリズムでクラーベスの音を出す。その二つでワンセットの「[[クラーベ]]」という単位になり、そのクラーベのリズムにベースやピアノが加わり、コンガ、ボンゴ、ティンバレスなどのパーカッションや、トランペットなどのホーンセクションが加わって構成されていく。 加わる楽器や演奏形態は、[[ソン]]やモントゥーノ、ルンバ、グアヒーラ、ボレロなどリズムによって変わる。クラーベとはスペイン語で基本・鍵と言う意味で、楽器のクラーベは2本1セットで演奏するため[[クラベス]]と言う。 == 歴史 == [[ファイル:Claves.jpg|right|250px|thumb|サルサのリズムを生む[[クラベス]] 拍子木の一種である。]] サルサのルーツは、1930年代の[[キューバ]]音楽、[[ソン]]や[[ルンバ]]から発展したものとされている。直接的には、1960年代のニューヨークにおける[[プエルトリコ]]人やキューバ人のコミュニティ内で、[[ラテン音楽|ラテン]]音楽に、[[ジャズ]]、[[ソウルミュージック|ソウル]]、[[ロック (音楽)|ロック]]などの要素を取り入れたものを発祥とする説、さらにその後[[1970年]]頃までに[[ニューヨーク]]で確立されたものをサルサの発祥とする説が有力である。 ===由来=== サルサに直接影響を与えた音楽はキューバのソン<ref>http://www.justsalsa.com/salsa/music/son/</ref>である。これは[[スペイン]]と[[アフリカ]]の影響を受けた音楽で、もともとはキューバ東部のオリエンテ州に原型があり、1910年代後半にはキューバ全土に広がった。 1920年代から30年代にかけて、[[アメリカ合衆国憲法修正第18条|禁酒法]]が施行された[[アメリカ合衆国]]からの観光ブームも手伝って、ソンがキューバで大変な人気を博し、多くの楽団が演奏した。1930年4月26日、キューバ出身のドン・アスピス率いる楽団が[[ニューヨーク]]のパレス劇場でショーを開催して大好評となったことでレコード会社が録音し、1931年には「エル・マニセロ([[南京豆売り]])」が当時としては異例の百万枚の大ヒットとなった。ここから、「ルンバ・エイジ」と呼ばれる1930年代の[[ルンバ]]の大ブームが起こった(この時名付けられたルンバとは、社交ダンスのスタイルを意味するルンバであり、キューバにあるアフリカ系音楽のルンバのことではない)。 キューバの他の音楽ジャンルも多かれ少なかれソンの影響を受け融合し、様々な亜流のソンが誕生して変質していった。その中でも1940年代には、[[ソン・モントゥーノ]]が人気となる。ソンの中のモントゥーノ([[コールアンドレスポンス]])のパートを強調して、よりアフリカ的な色彩を強め、[[トレス (楽器)|トレス]]に代わって[[サックス]]や[[トランペット]]、[[ピアノ]]が楽団の編成に加わるようになった。かつてのソンの楽団の編成はセステート(6人編成)、あるいはセプテート(7人編成)であったが、1940年代になるとキューバの楽団は大規模になった。 [[ジャズ]]に影響を受けた大規模な編成でミュージシャンらがデスカルガ(ジャムセッション)を繰り返す中、ソン・モントゥーノのリズムから[[マンボ]]が生まれた。1944年にはアンセルモ・サカサスが「エル・マンボ」を録音し、[[メキシコシティ]]では[[ペレス・プラード]]が1949年に「[[マンボNo.5]]」を録音するなど、1940年代はラテン音楽の主流がマンボへと移っていった時期である。この時期ニューヨークでは、[[アルセニオ・ロドリゲス]]やフェリックス・チャポティーン、マチート、[[ティト・プエンテ]]らが、大規模な楽団をそれぞれ率いて、パラディウム・ナイトクラブを拠点に活躍。そのスピード感とダイナミックなサウンドで、マンボは一大ブームとなった。 [[第二次世界大戦]]後の1940年代後半になると、ニューヨークには[[ヒスパニック]]系移民が爆発的に増加した。50年代に入ると、[[チャランガ]]編成による[[チャチャチャ]]や[[パチャンガ]]もキューバから導入され、様々なスタイルのキューバ由来の音楽が存在した。 ===1960年代=== [[キューバ革命]]が1959年に起こり、1961年1月にアメリカ合衆国とキューバの国交が断絶すると、ニューヨークにはキューバの楽団はほとんどいなくなり、代わりにプエルトリコ系のミュージシャンらが優勢を占めるようになった。大規模な楽団は姿を消し、ヒスパニック系の若者には[[アフリカ系アメリカ人]]のコミュニティから生まれた[[R&B]]や[[ドゥーワップ]]、[[ソウルミュージック]]の人気が高く、従来のポピュラーなラテン音楽の人気は下火となっていた。その過程において、[[チャーリー・パルミエリ]]、[[ジョニー・パチェーコ]]、[[レイ・バレット]]<ref>http://www.allmusic.com/artist/ray-barretto-mn0000341422</ref>などのミュージシャンが、ソウル・ミュージックとマンボを融合させて、60年代初頭にはヒスパニック系コミュニティで[[ブーガルー]]のブームが起こった。 1964年、ジョニー・パチェーコは、法律家のジェリー・マスッチとともに[[ファニアレコーズ]]を創立する。[[ウィリー・コロン]]、[[エクトル・ラボー]]、[[ジョー・バターン]]などの若手アーティストのヒットを飛ばして地盤を固め、後にティコ、アレグレを吸収する一大レーベルとなる。その一方では、かつてルンバやマンボの時代に隆盛を極めたナイトクラブやホールが次々と閉店する中、ミュージシャンの間ではデスカルガ(ジャムセッション)が頻繁に行われ、ティコやアレグレといった数少ないニューヨークのラテン系レーベルの企画で録音された。一例として、1966年5月23日にヴィレッジゲイトでライブで録音された盤がある。デスカルガはプエルトリカンのアイデンティティを模索するひとつの運動となり、毎夜のように行われていた。66年にはジョー・クーバも音楽的成功を収めた<ref>Steward, Sue 1999. Salsa: the musical heartbeat of Latin America. Thames & Hudson, London. p. 60</ref>。またファニア・レーベルのアーティストのショウケースとして結成された[[ファニア・オール・スターズ]]は、1968年6月8日にレッド・ガーターで第一回興行を行った。 アフリカ系アメリカ人の若者が[[ブラックパンサー党]]<ref group="注釈">ボビー・シール、ラップ・ブラウンらのラジカルな政治団体。</ref>を結成したことに触発されたニューヨリカンの若者たちが[[ヤングローズ]]を結成するなど、1960年代後半は若者が政治活動に強く関わった時代であった。この社会変化の中でファニア・オール・スターズは、長く親しまれてきたソンや、プエルトリコ独自の音楽である[[プレーナ]]を採り入れた曲でシングルヒットを出し続け、1971年8月26日にはナイトクラブチーターでの歴史的なコンサートを行った。その後彼らは世界中をツアーし、サルサの認知に貢献した。ファニア・オール・スターズは1973年8月24日に、ニューヨークの[[ヤンキー・スタジアム (1923年)|ヤンキースタジアム]]で4万人の観衆を前にコンサートを行った。この時は興奮した観衆がフィールドになだれ込んできて途中で中止となる事態となった。 ===1970年代=== 70年代初頭、ファニア・オール・スターズの功績で、サルサは急激にニューヨークから[[ラテン・アメリカ]]諸国に広まった。ファニア・オール・スターズはヤンキー・スタジアムでのライブで、ソールドアウトを記録した<ref>César Miguel Rondón ''The Book of Salsa: A Chronicle of Urban Music from the Caribbean'' 2008 - Page 42 "In this way, the Fania All Stars were formed as a fusion of the best bandleaders and singers from seven orchestras, complemented by some individual veteran musicians from the New York scene."</ref><ref>{{Cite web| title=Fania Records' Founding Fathers| url=https://legacy.npr.org/templates/story/story.php?storyId=19340430| accessdate= 2020-06-10 |website=NPR}}</ref>。また[[コロンビア]]では、[[ジョー・アローヨ]]などの新しい世代のミュージシャンが、[[クンビア]]や[[バジェナート]]の要素とサルサを結合させて人気をとった。 多くのミュージシャンによって様々なアイデアがサルサに盛り込まれ、「サルサ」と呼ばれる音楽はその輪郭を強くした。ウィリー・コロンはプエルトリコの[[撥弦楽器]][[クアトロ]]を導入したり、ジャズや[[ロック (音楽)|ロック]]のみならず、[[パナマ]]や[[ブラジル]]の音楽も採用した。ファニア・レコーズのアレンジャー、[[ラリー・ハーロウ]]は、[[エレクトリックピアノ]]を加えてモダンなサルサにした。 サルサの興隆とともに市場が拡大し、音楽自体が多様化、複雑化した。独立レーベルであったファニア・レコーズは1970年代の10年間で弱体化し、代わりにメジャー資本のラテン系音楽レーベルが大きく成長した。1970年代後半にはキューバとの交流も一時的に可能となり、サルサはキューバ音楽に影響を与えた。 ===1980年代以降=== 1980年代には、サルサは恋愛のロマンス(時にセックス)を扱った歌詞、スムースなサウンドとメロディを特徴とした[[サルサ・ロマンティカ]]に進化した。このスタイルは[[ホセ・アルベルト]]が1984年にリリースしたアルバム「Noches Calientes」にさかのぼり、アルベルトは後に「ダンス・ウィズ・ミー」アルバムも発表した<ref>{{Cite web|url=http://www.musicofpuertorico.com/index.php/artistas/jose_alberto| title=Alberto, José “El Canario” – Música de Puerto Rico | accessdate=5 April 2021}}</ref>。ロマンティカの新しい波は、ニューヨークとプエルトリコのラティーノの音楽市場を占める一方で、多くの若者はサルサに興味を失い、ロックや[[ヒップホップ]]、R&Bを聞くようになったともいわれる。サルサと、キューバ音楽の影響を受けた[[グロリア・エステファン]]とマイアミ・サウンド・マシーンは、「[[コンガ (曲)|コンガ]]」を86年にヒットさせた 1980年代後半になると、ニューヨークとプエルトリコのラティーノの間では、[[ドミニカ共和国]]の音楽である[[メレンゲ (音楽)]] がブレイクし、ラテンダンスの分野でも認知されるようになった。 サルサの人気は[[ベネズエラ]]、[[コロンビア]]、[[パナマ]]などラテン・アメリカ諸国だけではなく、アメリカ、[[ヨーロッパ]]、[[日本]]、アフリカなどにも広がり、世界各地でサルサのシーンが見られるようになった。サルサ・ロマンティカの人気に対する揺り戻しで、60年代から70年代のデスカルガの雰囲気を感じさせる「クラシック・サルサ」を演奏するアーティストが世界中に存在するようになった。例えば日本の[[オルケスタ・デ・ラ・ルス]]は1989年にファーストアルバムをリリースした。[[グルーポ・ニチェ]]、[[ジョー・アローヨ]]、[[フルーコ]]などのコロンビアのアーティストは、サルサ・ドゥラ、もしくはサルサ・ゴルダと呼ばれるハードなサルサで人気を博した。ニューヨークでも[[アフリカンド]]、[[スパニッシュ・ハーレム・オーケストラ]]といったグループが出現している。 その一方でサルサは、[[ハウスミュージック]]、[[レゲトン]]、[[テクノポップ|テクノ]]など様々な音楽と融合して存在している。 == サルサ・ダンス == [[ファイル:Salsa_band_and_salsa_dancing_-_Fatacil_Agriculture_and_Tourism_Fair_-_Lagoa_-_The_Algarve,_Portugal_(1469449571).jpg|サムネイル|<center>サルサ (音楽)</center>]] サルサ・ダンスは60年代後半から70年代前半のニューヨークで、プエルトリコ人やキューバ人の間で流行し始めた<ref>{{cite book |url=https://archive.org/details/roughguidetoworl00simo |title=World Music: Latin and North America, Caribbean, India, Asia and Pacific |year=1999 | publisher=Rough Guides |author1=Simon Broughton |author2=Mark Ellingham |author3=Richard Trillo | accessdate=2013-12-04}}</ref>。 [[サルサ (ダンス)|ダンスとしてのサルサ]]は1クラーベ=8拍の音楽に6ステップを合わせて踊るため、シンコペーションに合わせ1, 5拍目をステップしない(N,Yスタイル-プエルトリコ系)、1拍目からステップを始め4, 8拍目をステップしない(L,A,スタイル-キューバ系)、シンコペーションにあわせ2拍目から始めるが4(8)拍目と次の5(1)拍目をタイでつなぎ、ステップのブランクを作らない(N,Y,クラブon2)等がある。ダンススタイルはそれぞれ少しずつ異なる。 日本では、競技ダンスの項目のひとつと認識されてから長いが、ポップ歌手[[リッキー・マーティン]]、[[マーク・アンソニー]]などの人気の高まりとともに、熱心なサルサのインストラクターや中南米の出稼ぎ移民、日系移民を中心に一部のクラブなどでの人気が根付いてきている。 中南米、北米では一般的なラテン移民の庶民のダンスとして溶け込んでいる。米国へのラテン系の移民の中でも、若い世代はサルサのことを「家族で集まるときの余興」とみるような認識が強かったが、一般的な米国社会への浸透とともに、今では多くのラティーナ、ラティーノが社会に進出してきている。もともとラテン系の移民の多い[[ニューヨーク]]や[[ロサンゼルス]]などの大都市では、サルサの学習クラスや、クラブが増えている。 == 代表的なアーティスト == === 世界 === * [[ホセ・アルベルト]] * [[レイ・セプルベダ]] * [[ジョー・バターン]] * [[ジョー・キューバ]] * [[ファニア・オールスターズ]] Fania All-Stars * [[レイ・バレット]] Ray Barretto * [[エクトル・ラボー]] Hector Lavoe * [[ウィリー・コロン]] Willie Colón * [[エディ・パルミエリ]] Eddie Palmieri * [[チャーリー・パルミエリ]] * [[ティピカ73]] * [[セリア・クルース]] Celia Cruz * [[モンゴ・サンタマリア]] * [[ロス・ヴァン・ヴァン]] Los Van Van * [[ヒルベルト・サンタ・ロサ]] Gilberto Santa Rosa * [[エル・グラン・コンボ・デ・プエルト・リコ]] El Gran Combo de Puerto Rico * [[グルポ・ニーチェ]] Grupo Niche * [[ウィリー・リベラ]] Willy Rivera * [[エディ・サンティアゴ]] Eddie Santiago * [[ロス・ティタネス]] Los Titanes * [[ルイス・エンリケ]] Luis Enrique * [[ペドロ・コンガ]] Pedro Conga * [[ジェリー・リベラ]] Jerry Rivera * [[オスカル・デ・レオン]] Oscar D'León * [[ティト・プエンテ]] Tito Puente * [[ウィリー・ボボ]] Willy bobo * [[エヌ・クラベ]] N`Klabe * [[ルベーン・ブラデス]] *アナカオナ ANACAONA *ディ・カチェ D'Caché *オルケスタ・カネラ orquesta CANELA === 日本 === * [[オルケスタ・デ・ラ・ルス]] * [[チカブーン]] == 関連項目 == * [[ラテン音楽]] ** [[ルンバ]] ** [[マンボ]] ** [[チャチャチャ]](チャチャ) ** [[ソン]] ** [[メレンゲ (音楽)|メレンゲ]] * [[竹村淳]] * [[ラテン・ジャズ]] * [[レゲエ]] * [[サルサ (ダンス)]] * [[クラーベ]] * [[クラベス]] * [[カリブ・スペイン語]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://salsa.vc/salsapedia/ サルサ辞典] {{スペイン語圏の音楽}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さるさ}} [[Category:中南米の音楽]] [[Category:サルサ|*]] [[Category:音楽のジャンル]]
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InterBase
InterBase (インターベース) は、エンバカデロ・テクノロジーズが開発・販売している関係データベース管理システム (RDBMS) である。InterBaseの特徴は、他のデータベース管理システムと比較して小さなフットプリントであること、必要最小限の管理で運用可能であることが挙げられる。マルチ・ジェネレーション・アーキテクチャーである。InterBaseはLinux、Windows、macOSオペレーティングシステム (OS) で作動する。 多くの点で、InterBaseは標準的である。InterBaseはSQL-92互換関係データベースであり、JDBC、ODBC、ADO.NETなどの標準インターフェースをサポートしている。しかし、他の製品と異なる特徴的な機能も存在する。 InterBase 7 サーバの完全インストールに必要なディスク容量は、40MBである。これは競合する多くのデータベースサーバのクライアント・アプリケーションのインストールに必要なディスク容量より小さい。サーバのユーザーのアイドル時のメモリ使用量は極めて小さい。InterBaseのクライアントに必要な最低限のディスク容量は、400KBである。 InterBaseは通常は、常勤のデータベース管理者を必要としない。 組み込み用データベースにも適しており、M1エイブラムス戦車の中央射撃管制システムに使用されたとされる。 マルチ・ジェネレーション・アーキテクチャーとは、InterBaseのマルチバージョン並行処理制御の実装のことである。InterBaseはこの技術を使用した2番目の商用データベースである。ちなみに1番目は、DECのRdb/ELNである。 1)データベースには並行性制御が必要であり、そのためにロックを使用する。 簡単な銀行のアプリケーションを考えて見よう。2人のユーザーが、ある口座の預金にアクセスする。Bobは口座を読み込んで、そこに1000ドルを見つける。それで彼は500ドルを引き出す。Janeは同じ口座をBobが変更する前に読み込んで、1000ドルを見つける。そして800ドルを引き出す。口座は300ドル貸し越しになるはずだが、実際には、どちらのトランザクションが先に処理されるかによって、口座の残高は500ドルか200ドルのどちらかになるだろう(訳注:このような現象は失われた更新-ロストアップデート とよばれる)。これは深刻な問題を引き起こすので、言うまでもなく、複数のユーザーがアクセスするデータベースシステムはどれでも、このようなシナリオに対処する何らかの種類のシステムが必要だ。この問題やその他の関連する問題を解決するために使われるテクニックはデータベース業界では、並行性制御として知られている。 伝統的な製品は、特定のトランザクションがレコードを修正しようとしている事を記載したロックを使用する。一度ロックされると、ロック解放まで、その他の誰もデータを読んだり修正する事は出来ない。ロックはロックの粒度次第で、1レコード、1ページのレコード(ディスクに共に格納されているレコードのグループ)、特定のトランザクションで調べられた各レコードへの変更をブロックする。ロックの粒度はパフォーマンスと精度のトレードオフだ。例えば、ページレベルで更新をブロックすると、他のトランザクションによる更新とは実は衝突しない、いくつかの更新はブロックされてしまう。 2)ロックは、トランザクションの独立性と組み合わせた時、より大きな問題になる。 これは大抵のトランザクションは、読み書きを両方含むからである。この例では、口座の金額を読み、それから変更する。データの独立したビューを示すために、トランザクション全体は、レコードを読むが書き込まない場合も含めて、多くのデータベース・サーバではロックしなければならない。 3)InterBaseでは、読み込みは書き込みをブロックしない。その代わりに、データベースの各レコードは1つ以上のバージョンの中に存在する事が出来る。 例えば、BobとJaneが口座を見た時、彼らは共に「バージョン1」を取得し、1000ドルを見つける。Bobが預金を引き出して口座を変更した時、データは上書きされない。代わりに、500ドルの入った「バージョン2」が作成される。Janeが800ドルを引き出そうとすると、新しいバージョン2があると通知される。よってJaneの引き出しは失敗する。 このアプローチは、マルチバージョン並行処理制御と呼ばれる。InterBaseのマルチバージョン並行処理制御の実装は通例、マルチ・ジェネレーション・アーキテクチャーと呼ばれる。 マルチバージョン並行処理制御により、真のスナップショット・トランザクション・アイソレーション(独立性)を比較的シンプルに実装する事も出来る。InterBaseではスナップショット・アイソレーションを持つトランザクションはデータベースの状態を、トランザクションが始まった時点の状態として正確に示す。これはアクティブ・データベースのバックアップや、長時間のバッチプロセスなどに非常に便利である。 InterBaseは、ロールバックを実装する為にも、マルチ・ジェネレーション・アーキテクチャーを使用している。ほとんどのデータベース・サーバはロールバック機能を実装する為に、ログを使用する。その結果、ロールバックに時間がかかったり、手動操作を求められる可能性すらある。対照的に、InterBaseのロールバックは瞬間的に近く、絶対に失敗しない。 特定の操作は、マルチ・ジェネレーション・アーキテクチャーでの実装がより困難である。よって、より伝統的な実装と比べると実行が遅い。1つの例はSQL COUNT 文である。インデックスがCOUNT に含まれる列・複数の列で利用可能な時でさえ、現在のトランザクションの独立性で見えるかどうかを調べる為に、全てのレコードはアクセスされなければならない。 ジム・スターキー(Jim Starkey)がDECのDATATRIEVEネットワークデータベース製品に従事していた時、多数のユーザーによる同時変更を管理するシステムのアイデアを思いついた。このアイデアは当時開発中の新しい関係データベースで深刻な問題があると判明していた、ロックの問題を単純化した。しかしその時、DECは後のRdb/VMS製品となる関係データベースの開発を始めたばかりだった。DECがスターキーのプロジェクトを知った時、縄張り争いが勃発した(この製品はRdb/ELNとして発表されたにもかかわらずである)。スターキーは最終的には退職すると決めた。 InterBaseの実装は、当時存在していたどのデータベースより、MITのリード(David P. Reed)が記述したシステムに似ており、スターキーは前職のComputer Corporation of America社やDECで、バーンスタイン(Phil Bernstein)を知っていたにもかかわらず、マルチバージョン並行処理制御のアイデアに独自にたどり着いたと発言した。 マルチジェネレーション並行処理制御をひらめいた、きっかけはPrime Computer社によるデータベース・システムだ。これはページ・レベルのスナップショットをサポートしていた。この機能の狙いは、読み手にデータベースの一貫したビューを、書き込みをブロックせずに提供することだ。このアイデアはデータベース・システムの非常に便利な特徴として、興味をそそった。 スターキーは地元のワークステーション会社であるアポロコンピュータが彼らのUNIXマシンで稼動するデータベースを探しており、開発の資金提供に応じると聞いた。彼らの励ましで、1984年の労働者の日(米国)に、スターキーはグロトン・データベース・システム(Groton Database Systems)(会社のあったマサチューセッツ州グロトンにちなんで名づけられた)を設立した。スターキーは1986年にInterBaseとして発表されるデータベースの作業を始めた。アポロコンピュータは企業大再編に見舞われ、ソフトウェアビジネスからの離脱を決めた。しかしその時までに、製品は大金を稼いでいた。 1986年から1991年までの間に、製品は段階的にアシュトンテイトに売られた。アシュトンテイトは有名なdBASEのメーカーであり、その時点でいくつものデータベース会社をポートフォリオの為に購入していた。アシュトンテイトは直ぐに経営危機に見舞われ、1991年にボーランドが買収した。InterBaseはその一部として取得された。 1998年以降、ボーランドは深刻な経営危機に見舞われた。ParadoxやdBASEなどボーランドのデータベース製品は次々と売却された。InterBaseも1999年12月14日、キーパーソンの退職により、開発が中断した。 2000年初頭、ボーランドはInterBaseをオープンソース化し、製品を管理する企業をスピンオフする交渉を始めたと発表した。レッドハットのIPOに倣った物と言う説がある。しかし新会社の経営陣と条件が折り合わず、スピンオフは中止された。 2000年にInterBase6がオープンソースとして公開され、これを基にFirebirdとしてオープンソース開発が続けられている。しかし、その後ボーランド社がオープンソース戦略を撤回して新バージョンのInterbase6.5(6.5は日本では未発売、日本ではその次のバージョンであるInterbase7から発売)を販売したため、両者は別プロジェクトとして分岐してしまっている。 2002 年末、ボーランドはInterBase 7 を発売した。特徴はSMPのサポート、管理者によるサーバのモニタリングとコントロールのサポートの拡張である。 ボーランドは2003年6月にInterBase 7.1、2004年12月には7.5、2005年6月に7.5.1を発売した。 2006年9月、ボーランドはInterBase 2007を発表した。新機能に含まれるのは、ジャーナリングによるPoint-in-Timeリカバリー(同時書き込みによるパフォーマンスのペナルティーが無い復元も可能になる)、増分バックアップ、バッチ文による操作、新しいユニコード文字エンコード、新しいODBCドライバーである。 2007年9月、3rdRail の発表に伴い、Mac OS X版が登場した。 2008年10月、エンバカデロ・テクノロジーズはInterBase SMP 2009日本語版を発表した。新機能として、データベースとカラムレベルの暗号化、オーバーザワイヤー(OTW)ネットワークの暗号化、バックアップファイルの暗号化が追加された。また、新たに組み込み用としてTo-Go Editionが追加された。 2011年1月、エンバカデロ・テクノロジーズはInterBase XE 日本語版を発表した。新しく64ビットネイティブ対応版が提供されることになり、それに伴いデータベースキャッシュ設定の拡大が可能になった。新機能として、強度の高いパスワード保護(PCI DSSのパスワード要件を満たす)、ストアドプロシージャやトリガーから動的SQLが呼び出し可能(EXECUTE STATEMENT)、パラメタの追加(テーブル固有のブロック化因数、スレッドスタックサイズ調整)、機能改善として、スイープの高速化、インデックスキーの上限が引き上げられた。また、付属するJDBDドライバではBLOB/CLOBをサポートするためのI/F(java.sql.Blob、java.sql.Clob、java.io.inputStream)が追加された。 2012年8月、エンバカデロ・テクノロジーズはInterBase XE3 日本語版を発表した(Windows版のみ。ほかのプラットホームはXEのまま)。新機能として、ODBCドライバの改善(既存のDataDirectのものを新規のInterBase ODBC driverでリプレイス), コンカレントなインデックス作成, データベースとユーザテーブル用に[NO] RESERVE SPACEのサポート, Windows, Mac OS X, そして Linux 間での物理データベースのポータビリティが追加された。2013年9月時点の最新版はXE3 Update 3。 2014年12月、エンバカデロ・テクノロジーズはInterBase XE7 日本語版を発表した。新機能として変更ビュー(テーブルの変更履歴を簡単に追跡する)、64-bit Linux(RHEL、Ubuntu、SUSE)のサポート、パフォーマンスの向上(SMP環境でのパフォーマンスの向上、トランザクションの改善)、トランザクションIDの64ビット化、インクリメンタルデータダンプ機能の改善、などがある。2015年12月時点の最新版はXE7 Update 5。 2017年3月、エンバカデロ・テクノロジーズはInterBase 2017 日本語版を発表した。新機能としてisql新機能(RECONNECT,namesの追加)、全オンラインDBのモニタリング、トランザクションの機能追加(排他的隔離レベル、トランザクション待機期間)、SQLの新機能(派生テーブル、共通表式(RECURSIVEによる再帰含む)、TRUNCATE TABLE)、などがある。Update 1においても新機能(式インデックス、ORDER BYとGROUP BYの強化)が提供されたがUpdate 2, Update 3では新機能の提供はなかった。2020年1月時点の最新版は2017 Update 3。 2019年11月、エンバカデロ・テクノロジーズはInterBase 2020 日本語版を発表した。新機能としてデータベーステーブルスペースのサポート、新しいプラットフォームのサポート(組み込み向けのInterBase(IBLiteおよびIBToGo)は、Android 64-bitおよびmacOS 64-bitを新たにサポート)、パフォーマンスモニタリングの強化、データディクショナリDDL、SQLの最適化、セキュリティ強化、IBConsoleの改善。などがある。。 2020年5月、エンバカデロ・テクノロジーズはInterBase 2020 Update 1をリリースした。新機能として(1)InterBase 2020 ServerおよびDeveloper EditionのLinuxサポート,(2)OnlineDumpテクノロジーのためのテーブル領域サポート,(3)テーブル領域を使用するデータベースのバックアップ、ダンプ、およびリストア操作のためのIBConsoleサポートのアップデート。。 2021年10月、エンバカデロ・テクノロジーズはInterBase 2020 Update 2をリリースした。新機能として(1)再帰CTEをサポートすることにより、共通テーブル式のデータベースサポートを拡張, (2) 近年追加された機能(EUA データベースのセットアップと EUAユーザーレコード、変更ビューサブスクリプションの定義とデータベース/テーブルスキーマでの使用、暗号化キーの定義)に基づいて情報を抽出する機能が ISQLダイアレクトに追加。。
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InterBase (インターベース) は、エンバカデロ・テクノロジーズが開発・販売している関係データベース管理システム (RDBMS) である。InterBaseの特徴は、他のデータベース管理システムと比較して小さなフットプリントであること、必要最小限の管理で運用可能であることが挙げられる。マルチ・ジェネレーション・アーキテクチャーである。InterBaseはLinux、Windows、macOSオペレーティングシステム (OS) で作動する。
'''InterBase''' (インターベース) は、[[エンバカデロ・テクノロジーズ]]が開発・販売している[[関係データベース管理システム]] (RDBMS) である。InterBaseの特徴は、他の[[データベース管理システム]]と比較して小さな[[フットプリント]]であること、必要最小限の管理で運用可能であることが挙げられる。マルチ・ジェネレーション・アーキテクチャーである。InterBaseは[[Linux]]、[[Microsoft Windows|Windows]]、[[macOS]][[オペレーティングシステム]] (OS) で作動する。 == テクノロジ技術 == 多くの点で、InterBaseは標準的である。InterBaseは[[SQL|SQL-92]]互換[[関係データベース]]であり、[[Java Database Connectivity|JDBC]]、[[Open Database Connectivity|ODBC]]、[[ADO.NET]]などの標準インターフェースをサポートしている。しかし、他の製品と異なる特徴的な機能も存在する。 === 小さなフットプリント === InterBase 7 サーバの完全インストールに必要なディスク容量は、40[[メガバイト|MB]]である。これは競合する多くのデータベースサーバのクライアント・アプリケーションのインストールに必要なディスク容量より小さい。サーバのユーザーのアイドル時のメモリ使用量は極めて小さい。InterBaseのクライアントに必要な最低限のディスク容量は、400[[キロバイト|KB]]である。 === 最小限の管理 === InterBaseは通常は、常勤のデータベース管理者を必要としない。 組み込み用データベースにも適しており、[[M1エイブラムス]]戦車の中央射撃管制システムに使用された<ref name="PaulBeach">{{cite web | url = http://tech.firebird.gr.jp/firebird/site_rsrc/images/92/interview_paul_beach.html | title = Interview with Paul Beach on InterBase World |accessdate=2007年9月23日 }}</ref>とされる。 === マルチ・ジェネレーション・アーキテクチャー === ==== 並行性制御 ==== '''マルチ・ジェネレーション・アーキテクチャー'''とは、InterBaseの[[MultiVersion Concurrency Control|マルチバージョン並行処理制御]]の実装のことである。InterBaseはこの技術を使用した2番目の商用データベースである。ちなみに1番目は、[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]のRdb/ELNである。 1)データベースには[[並行性制御]]が必要であり、そのために[[ロック (情報工学)|ロック]]を使用する。 簡単な銀行のアプリケーションを考えて見よう。2人のユーザーが、ある口座の預金にアクセスする。Bobは口座を読み込んで、そこに1000ドルを見つける。それで彼は500ドルを引き出す。Janeは同じ口座をBobが変更する前に読み込んで、1000ドルを見つける。そして800ドルを引き出す。口座は300ドル貸し越しになるはずだが、実際には、どちらのトランザクションが先に処理されるかによって、口座の残高は500ドルか200ドルのどちらかになるだろう(訳注:このような現象は[[失われた更新]]-[[ロストアップデート]]<ref name="A Critique of ANSI SQL Isolation Levels - Microsoft Research">{{cite web|url=http://research.microsoft.com/pubs/69541/tr-95-51.pdf|title=A Critique of ANSI SQL Isolation Levels - Microsoft Research|accessdate=2009-01-22}}</ref> とよばれる)。これは深刻な問題を引き起こすので、言うまでもなく、複数のユーザーがアクセスするデータベースシステムはどれでも、このようなシナリオに対処する何らかの種類のシステムが必要だ。この問題やその他の関連する問題を解決するために使われるテクニックはデータベース業界では、[[並行性制御]]として知られている。 伝統的な製品は、特定のトランザクションがレコードを修正しようとしている事を記載した[[ロック (情報工学)|ロック]]を使用する。一度ロックされると、ロック解放まで、その他の誰もデータを読んだり修正する事は出来ない。ロックは''ロックの粒度''次第で、1レコード、1ページのレコード(ディスクに共に格納されているレコードのグループ)、特定のトランザクションで調べられた各レコードへの変更をブロックする。ロックの粒度はパフォーマンスと精度のトレードオフだ。例えば、ページレベルで更新をブロックすると、他のトランザクションによる更新とは実は衝突しない、いくつかの更新はブロックされてしまう。 2)ロックは、[[ACID (コンピュータ科学)|トランザクションの独立性]]と組み合わせた時、より大きな問題になる。 これは大抵のトランザクションは、読み書きを両方含むからである。この例では、口座の金額を読み、それから変更する。データの独立したビューを示すために、トランザクション全体は、レコードを読むが書き込まない場合も含めて、多くのデータベース・サーバではロックしなければならない。 3)InterBaseでは、読み込みは書き込みをブロックしない。その代わりに、データベースの各レコードは1つ以上のバージョンの中に存在する事が出来る。 例えば、BobとJaneが口座を見た時、彼らは共に「バージョン1」を取得し、1000ドルを見つける。Bobが預金を引き出して口座を変更した時、データは上書きされない。代わりに、500ドルの入った「バージョン2」が作成される。Janeが800ドルを引き出そうとすると、新しいバージョン2があると通知される。よってJaneの引き出しは失敗する。 このアプローチは、[[MultiVersion Concurrency Control|マルチバージョン並行処理制御]]と呼ばれる。InterBaseのマルチバージョン並行処理制御の実装は通例、マルチ・ジェネレーション・アーキテクチャーと呼ばれる。 マルチバージョン並行処理制御により、真のスナップショット・トランザクション・アイソレーション(独立性)を比較的シンプルに実装する事も出来る。InterBaseではスナップショット・アイソレーションを持つトランザクションはデータベースの状態を、トランザクションが始まった時点の状態として正確に示す。これはアクティブ・データベースのバックアップや、長時間のバッチプロセスなどに非常に便利である。 ==== ロールバックとリカバリ ==== InterBaseは、[[ロールバック]]を実装する為にも、マルチ・ジェネレーション・アーキテクチャーを使用している。ほとんどのデータベース・サーバはロールバック機能を実装する為に、[[データログ|ログ]]を使用する。その結果、ロールバックに時間がかかったり、手動操作を求められる可能性すらある。対照的に、InterBaseのロールバックは瞬間的に近く、絶対に失敗しない。 ==== 難点 ==== 特定の操作は、マルチ・ジェネレーション・アーキテクチャーでの実装がより困難である。よって、より伝統的な実装と比べると実行が遅い。1つの例はSQL COUNT 文である。インデックスがCOUNT に含まれる列・複数の列で利用可能な時でさえ、現在のトランザクションの独立性で見えるかどうかを調べる為に、全てのレコードはアクセスされなければならない。 == 歴史 == === 初期 === ジム・スターキー(Jim Starkey)が[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]のDATATRIEVE[[ネットワーク型データモデル|ネットワークデータベース]]製品に従事していた時、多数のユーザーによる同時変更を管理するシステムのアイデアを思いついた。このアイデアは当時開発中の新しい関係データベースで深刻な問題があると判明していた、ロックの問題を単純化した。しかしその時、DECは後の[[Oracle Rdb|Rdb/VMS]]製品となる関係データベースの開発を始めたばかりだった。DECがスターキーのプロジェクトを知った時、縄張り争いが勃発した(この製品は[[Rdb/ELN]]として発表されたにもかかわらずである)。スターキーは最終的には退職すると決めた。 InterBaseの実装は、当時存在していたどのデータベースより、MITのリード(David P. Reed)が記述したシステムに似ており、スターキーは前職のComputer Corporation of America社やDECで、バーンスタイン(Phil Bernstein)を知っていたにもかかわらず、マルチバージョン並行処理制御のアイデアに独自にたどり着いたと発言した。 <blockquote>マルチジェネレーション並行処理制御をひらめいた、きっかけはPrime Computer社によるデータベース・システムだ。これはページ・レベルのスナップショットをサポートしていた。この機能の狙いは、読み手にデータベースの[[ACID (コンピュータ科学)|一貫]]したビューを、書き込みをブロックせずに提供することだ。このアイデアはデータベース・システムの非常に便利な特徴として、興味をそそった。</blockquote> スターキーは地元の[[ワークステーション]]会社である[[アポロコンピュータ]]が彼らの[[UNIX]]マシンで稼動するデータベースを探しており、開発の資金提供に応じると聞いた。彼らの励ましで、[[1984年]]の労働者の日(米国)に、スターキーは'''グロトン・データベース・システム'''(Groton Database Systems)(会社のあった[[マサチューセッツ州]]グロトンにちなんで名づけられた)を設立した。スターキーは[[1986年]]に'''InterBase'''として発表されるデータベースの作業を始めた。アポロコンピュータは企業大再編に見舞われ、ソフトウェアビジネスからの離脱を決めた。しかしその時までに、製品は大金を稼いでいた。 === ボーランドへの道 === [[1986年]]から[[1991年]]までの間に、製品は段階的に[[アシュトンテイト]]に売られた。アシュトンテイトは有名な[[dBASE]]のメーカーであり、その時点でいくつものデータベース会社をポートフォリオの為に購入していた。アシュトンテイトは直ぐに経営危機に見舞われ、1991年に[[ボーランド]]が買収した。InterBaseはその一部として取得された。 === オープンソース === [[1998年]]以降、ボーランドは深刻な経営危機に見舞われた。[[Paradox (データベース)|Paradox]]や[[dBASE]]などボーランドのデータベース製品は次々と売却された。InterBaseも[[1999年]][[12月14日]]、キーパーソンの退職により、開発が中断した<ref name="Roadmap">{{cite web | url = https://web.archive.org/web/20031216185632/http://www.geocities.jp/kimura804/rdb/cvalde/IbRoadmap_j.htm | title = InterBase Roadmap |accessdate=2007年9月26日 }}</ref>。 [[2000年]]初頭、ボーランドはInterBaseを[[オープンソース]]化し、製品を管理する企業をスピンオフする交渉を始めたと発表した。[[レッドハット]]の[[株式公開|IPO]]に倣った物と言う説<ref name="PaulBeach"/>がある。しかし新会社の経営陣と条件が折り合わず、スピンオフは中止された。 [[2000年]]にInterBase6が[[オープンソース]]として公開され、これを基に[[Firebird (データベース)|Firebird]]としてオープンソース開発が続けられている。しかし、その後ボーランド社がオープンソース戦略を撤回して新バージョンのInterbase6.5(6.5は日本では未発売、日本ではその次のバージョンであるInterbase7から発売)を販売したため、両者は別プロジェクトとして分岐してしまっている。 === 最近の動向 === 2002 年末、ボーランドはInterBase 7 を発売した。特徴は[[対称型マルチプロセッシング|SMP]]のサポート、管理者によるサーバのモニタリングとコントロールのサポートの拡張である。 ボーランドは2003年6月にInterBase 7.1、2004年12月には7.5、2005年6月に7.5.1を発売した。 2006年9月、ボーランドはInterBase 2007を発表した。新機能に含まれるのは、ジャーナリングによるPoint-in-Timeリカバリー(同時書き込みによるパフォーマンスのペナルティーが無い復元も可能になる)、[[増分バックアップ]]、バッチ文による操作、新しい[[ユニコード]][[文字コード|文字エンコード]]、新しい[[Open Database Connectivity|ODBC]]ドライバーである。 2007年9月、[[3rdRail]] の発表に伴い、[[macOS|Mac OS X]]版が登場した。 2008年10月、[[エンバカデロ・テクノロジーズ]]はInterBase SMP 2009日本語版を発表した。新機能として、データベースとカラムレベルの暗号化、オーバーザワイヤー(OTW)ネットワークの暗号化、バックアップファイルの暗号化が追加された。また、新たに組み込み用としてTo-Go Editionが追加された。 2011年1月、[[エンバカデロ・テクノロジーズ]]はInterBase XE 日本語版を発表した。新しく64ビットネイティブ対応版が提供されることになり、それに伴いデータベースキャッシュ設定の拡大が可能になった。新機能として、強度の高いパスワード保護(PCI DSSのパスワード要件を満たす)、ストアドプロシージャやトリガーから動的SQLが呼び出し可能(EXECUTE STATEMENT)、パラメタの追加(テーブル固有のブロック化因数、スレッドスタックサイズ調整)、機能改善として、スイープの高速化、インデックスキーの上限が引き上げられた。また、付属するJDBDドライバではBLOB/CLOBをサポートするためのI/F(java.sql.Blob、java.sql.Clob、java.io.inputStream)が追加された。 2012年8月、[[エンバカデロ・テクノロジーズ]]はInterBase XE3 日本語版を発表した(Windows版のみ。ほかのプラットホームはXEのまま)。新機能として、ODBCドライバの改善(既存のDataDirectのものを新規のInterBase ODBC driverでリプレイス), コンカレントなインデックス作成, データベースとユーザテーブル用に[NO] RESERVE SPACEのサポート, Windows, Mac OS X, そして Linux 間での物理データベースのポータビリティが追加された。2013年9月時点の最新版はXE3 Update 3<ref name="新機能XE3">{{cite web | url = http://docs.embarcadero.com/products/interbase/IBXE3Update3_JP/Readme_ja.html#new00B | title = InterBase XE3 Update3 |accessdate=2013年11月6日 }}</ref>。 2014年12月、[[エンバカデロ・テクノロジーズ]]はInterBase XE7 日本語版を発表した。新機能として変更ビュー(テーブルの変更履歴を簡単に追跡する)、64-bit Linux(RHEL、Ubuntu、SUSE)のサポート、パフォーマンスの向上(SMP環境でのパフォーマンスの向上、トランザクションの改善)、トランザクションIDの64ビット化、インクリメンタルデータダンプ機能の改善、などがある。2015年12月時点の最新版はXE7 Update 5<ref name="新機能XE7">{{cite web | url = http://docs.embarcadero.com/products/interbase/IBXE7Update5/Readme.html | title = InterBase XE7 Update5 |accessdate=2015年12月30日 }}</ref>。 2017年3月、[[エンバカデロ・テクノロジーズ]]はInterBase 2017 日本語版を発表した。新機能としてisql新機能(RECONNECT,namesの追加)、全オンラインDBのモニタリング、トランザクションの機能追加(排他的隔離レベル、トランザクション待機期間)、SQLの新機能(派生テーブル、共通表式(RECURSIVEによる再帰含む)、TRUNCATE TABLE)、などがある。Update 1においても新機能(式インデックス、ORDER BYとGROUP BYの強化)が提供されたがUpdate 2, Update 3では新機能の提供はなかった。2020年1月時点の最新版は2017 Update 3<ref name="新機能2017">{{cite web | url = http://docwiki.embarcadero.com/InterBase/2017/ja/InterBase_2017_Update_3_%E3%81%AE%E6%96%B0%E6%A9%9F%E8%83%BD | title = InterBase 2017 Update3 |accessdate=2020年01月19日 }}</ref>。 2019年11月、[[エンバカデロ・テクノロジーズ]]はInterBase 2020 日本語版を発表した。新機能としてデータベーステーブルスペースのサポート、新しいプラットフォームのサポート(組み込み向けのInterBase(IBLiteおよびIBToGo)は、Android 64-bitおよびmacOS 64-bitを新たにサポート)、パフォーマンスモニタリングの強化、データディクショナリDDL、SQLの最適化、セキュリティ強化、IBConsoleの改善。などがある。<ref name="2020リリース">{{Cite web|和書 | url = https://community.idera.com/developer-tools/b/blog/posts/interbase-2020-released-ja | title = InterBase 2020リリースのお知らせ |accessdate=2020年01月19日 }}</ref>。 2020年5月、[[エンバカデロ・テクノロジーズ]]はInterBase 2020 Update 1をリリースした。新機能として(1)InterBase 2020 ServerおよびDeveloper EditionのLinuxサポート,(2)OnlineDumpテクノロジーのためのテーブル領域サポート,(3)テーブル領域を使用するデータベースのバックアップ、ダンプ、およびリストア操作のためのIBConsoleサポートのアップデート。<ref name="2020 Update 1リリース">{{Cite web|和書 | url = https://blogs.embarcadero.com/ja/interbase-2020-update-1-is-now-available-ja/ | title = InterBase 2020 Update 1 リリースのお知らせ |accessdate=2021年03月4日 }}</ref>。 2021年10月、[[エンバカデロ・テクノロジーズ]]はInterBase 2020 Update 2をリリースした。新機能として(1)再帰CTEをサポートすることにより、共通テーブル式のデータベースサポートを拡張, (2) 近年追加された機能(EUA データベースのセットアップと EUAユーザーレコード、変更ビューサブスクリプションの定義とデータベース/テーブルスキーマでの使用、暗号化キーの定義)に基づいて情報を抽出する機能が ISQLダイアレクトに追加。<ref name="2020 Update 2リリース">{{Cite web|和書 | url = https://blogs.embarcadero.com/ja/interbase-2020-update-2-released-ja/ | title = InterBase 2020 Update 2 リリース |accessdate=2021年12月26日 }}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{Software-stub}} [[Category:データベース管理システム]]
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ボーランド
ボーランド (Borland、Borland International、Inprise Corporation、Borland Software Corporation) は、かつて存在した開発プロセス用ツールなどのソフトウェアの開発・販売会社である。 PC 黎明期からTurbo Pascal(ターボ・パスカル)などのソフトウェア開発ツールを販売していたが、1990年代のマイクロソフトとの激しい争いを経て、2000年代前半、企業買収と社名変更を繰り返し、開発プロセスツール会社に変身した。会社存在当時の最後の本社はアメリカのテキサス州オースティン。 日本では1989年4月に日本法人である株式会社ボーランドジャパンが設立され、1992年にはボーランド株式会社に商号変更されて100%子会社となった。 2009年5月6日、マイクロフォーカス(当時・インプライズ株式会社)による買収の合意が発表され、同社の一部門となった。 ボーランド(Borland International)は1983年に、フィリップ・カーン (Philippe Kahn、フランス人) によって設立された。最初に送り出された製品はアンダース・ヘルスバーグ (Anders Hejlsberg、デンマーク人) による「Turbo Pascal」であり、その後「Sidekick」などを発表。 特に「Turbo C」は、現在では一般的である、エディタ・コンパイラ・デバッガ・プロファイラなどが一体となった統合開発環境の先駆けであり、圧倒的なコンパイルスピードと相まって当時のプログラム開発者に大きな衝撃を与えた。当時単独コマンド式のコンパイラ「Microsoft C」のみしか持たなかったMicrosoftも「Quick C」などのGUI開発環境を開発して対抗した。 その後ボーランドは、当時は一般的な開発者にはほとんど知られていなかったオブジェクト指向の概念を全面的に取り入れると宣言する。 まずMS-DOS環境向け「Turbo C++」「Borland C++」を発表、その後Windows GUIアプリケーション開発向けに洗練された、独自拡張オブジェクト指向Pascal言語「Delphi」が発表された。 当時C言語によるWindowsアプリケーションの開発は極めて複雑で難解であり、ウィンドウを1つ表示するだけでも相当な学習量とコード記述、作業工数が必要とされた。それに対しDelphiはWindows上で統合開発環境を実現しており、Pascal言語の文法さえ知っていれば僅かの学習で、GUI上でボタンなどのコンポーネントを配置したあと、数行のコードの追加でワンクリックで作成でき、その生産性の差は圧倒的であった。 Delphiは一定の成功を収めたものの、当時はC、C++言語に比べてPascalを使用できる技術者は限られており、開発環境として一般的になるには至らなかった。 しかしその後、DelphiのC++版ともいえる「C++ Builder」を市場に投入。Delphiでの生産性をC++言語で実現することに成功した。 その後マイクロソフトはDelphi対抗として「Visual Basic」、C++言語系としては「Visual C++」を発表する。しかしボーランドの開発ツールはこれらのOSベンダー純正開発ツールに対しても互角以上の戦いを展開した。 1990年代初頭、ボーランドは個人向けデータベース市場をめぐって、マイクロソフトと激しく争った。1987年9月に、Ansa-Software社のデータベース管理ソフト「Paradox」(バージョン2.0)を会社ごと買収し、さらにデファクト・スタンダードであるdBASEを取得し優勢と思われたボーランドであったが、マイクロソフトもMicrosoft Accessを開発、さらにdBASEのクローンであるFoxProを取得し反撃。dBASEの巨額の買収費用もたたり、戦いはボーランドの敗北に終わった。1996年10月に「Paradox」はカナダのコーレル社へ売却。1999年には「dBASE」までもがソフトウェア開発ツールに専念するために売りに出された。 表計算ソフトにおける戦いも、ボーランドの敗北に終わった。1989年に送り出された表計算ソフト「Quattro Pro」は、マウスの右クリックによるコンテキストメニュー、タブページ切り替えによる複数ドキュメントの同時編集、ドラッグアンドドロップによるデータ移動などを最初に実装したWindowsアプリケーションであり、また当時としては非常に優れた図表作成能力も備え、表計算アプリケーションとしての完成度は極めて高く、洗練されていた。 しかしながら、現在のGUIソフトウェアには必須ともいえるそれらの機能も、当時のパーソナルコンピュータユーザにはその利便性がなかなか理解されなかった。逆にそれらを非常に高く評価したのはロータスやマイクロソフトなどのライバルベンダーたちだった。 1-2-3やExcelなどの強力なライバルが既に存在している市場の中で、既存の表計算ソフトのユーザの中で新規参入のQuattro Proの知名度が思ったように上がらなかった。そして、それらの画期的な機能が他のライバル製品に次々に模倣されて一般的になっていく中、Quattro Proは優れたユーザビリティというアドバンテージを失っていった。最終的に1994年「Quattro Pro」はNovellに売却され、その後、創始者のフィリップ・カーンもボーランドを去った。 1995年、ソフトウェア開発ツールで巻き返しを図るボーランドは、Windows時代に対応したRADツール Delphiを発売。アンダース・ヘルスバーグ(Anders Hejlsberg)による洗練された設計は、マイクロソフト製ツールを圧倒した。これに対してマイクロソフトは、開発部門のトップであったポール・グロス(Paul Gross)上級副社長を筆頭に、アンダース・ヘルスバーグなど主要なボーランドの技術者を30ヶ月間に34人引き抜き対抗。「Dead Borlanders Society」と皮肉られる有様だった。怒ったボーランドはマイクロソフトを訴え、長期にわたる法廷闘争が繰り広げられた。 なお、この引き抜き劇の真相について、アンダース・ヘルスバーグは日経ソフトウエア2002年7月号のインタビューで、直接的な原因は1994年にフィリップ・カーンが追放されたのを皮切りに、ボーランド社が開発ツール部門の廃止および大量リストラを計画したことが発端であり、リストラ対象となった開発者たちの生活を守るため、賛同者を引き連れてマイクロソフトに移籍したものであると語っている。 1998年4月29日、デル・ヨーカム(Del Yocam)CEOの下、アメリカのボーランド本社は、社名を「インプライズ・コーポレーション」(Inprise Corporation) へと変更した。これはIntegration the Enterprise というスローガンにちなんだ造語。DelphiやC++Builder、JBuilderなどのボーランド製ツールをCORBA(1997年に買収したVisigenic社製)やVisiBroker、アプリケーションサーバなどの企業向けのミドルウェアと統合しようという政策である。しかし財政的にもイメージ的にも成功しなかった。 1999年6月8日、マイクロソフトとの間で和解が成立した。インプライズは1億2500万ドルを手に入れ表面上勝利を収めたが、インプライズの持つ特許はマイクロソフトに公開され、マイクロソフトに対してWindows用開発ツール市場で優勢に戦いを進めていく事は難しくなった。 その後、マイクロソフトは自社の技術に加えて、インプライズから手に入れた技術者と特許を使って.NET Frameworkを開発。インプライズは.NET Frameworkへの対応に苦労するという皮肉な状況が続いている。 Windowsでの戦いに敗れたインプライズはLinuxに注目。2000年2月、インプライズはコーレルとの合併を発表した。しかし、この計画はコーレルの株価の下落により破棄された。InterBase部門の分社化も、新会社の経営陣と条件が折り合わず、中止された。 2001年には、「Delphi」のLinux版とも言えるKylix(カイリックス)を送り出した。しかし、思惑通り普及しなかった。 2001年1月に、「インプライズ」から「ボーランド・ソフトウェア・コーポレーション」(Borland Software Corporation) へと社名が変更され、「ボーランド」の名前が再び据えられた。その一方、ボーランドの大企業重視の姿勢は変わらなかった。成長著しいJava市場で「JBuilder」(ジェイ・ビルダー)はライバルを蹴散らし順調に成長。ボーランドは大企業向けJava開発ツールベンダーとしての性格を強めていった。 2002年以降、ボーランドは上流から下流までの開発プロセス全体をカバーする為、企業買収を積極的に行った。取得した企業はTogetherSoft(UMLモデリング・ツール)、Starbase(要求管理、変更管理ツール)、Redline Software(テスト・ツール)、TeraQuest(プロセス・コンサルティング)、Segue Software(品質管理ツール)などである。 ボーランドはALM (Application Lifecycle Management)を提唱している。ボーランドの製品をALMの各フェーズに当てはめると となっている。 買収に要した費用は数億ドルに及ぶと思われる。公開されている内訳はTogetherSoft(約1億8500万ドル)、Starbase(約2400万ドル)、Redline Software(約800万ドル)、Segue Software(約1億ドル)などである。 傘下の開発プロセス企業の増加により、売上高に占める、開発者用ツール(以下IDE製品)の割合は減少。IDE製品への投資は大幅に削減され、それがまたIDE製品の売り上げ減少につながるという負のスパイラルに陥った。特に稼ぎ頭であったJBuilderは、IBMが無償で公開した統合開発環境Eclipse の普及とリストラにより衰退した。皮肉にも、これが急激なALM化を推し進めたデール・エル・フラー(Dale L Fuller)CEOの命取りとなった。 2005年本社をカリフォルニア州スコッツヴァレーからクパチーノに移したボーランドは、2006年にIDE部門の完全子会社化を発表した。IDE製品はALM製品とは異なるビジネスモデルが必要であり、両立する事が難しかった。当初ボーランドは、売却を伴う分社化を目指したが、数ヶ月に及ぶ交渉はまとまらなかった。Developer Studio(Delphi、C++Builder、C#Builder)、JBuilder、Turbo、InterBase は新社名「CodeGear」(コードギア)の下で、引き続き提供される。 2007年4月、ボーランドは本社とR&D部門をテキサス州オースティンに移転すると発表した 。オースティンはシリコンヒルズとして知られる、新興のIT企業の集積地である。買収した大手プロセスコンサルティング会社TeraQuestなどがある。 2008年5月7日、ボーランドはコードギアをエンバカデロ・テクノロジーズへ売却すると発表した。2008年6月30日、約2400万ドルの売却取引は無事に完了した。 2009年5月6日、マイクロフォーカスによる7500万ドルでの買収の合意が発表された。2010年3月、日本でも統合が完了した。
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ボーランド は、かつて存在した開発プロセス用ツールなどのソフトウェアの開発・販売会社である。 PC 黎明期からTurbo Pascal(ターボ・パスカル)などのソフトウェア開発ツールを販売していたが、1990年代のマイクロソフトとの激しい争いを経て、2000年代前半、企業買収と社名変更を繰り返し、開発プロセスツール会社に変身した。会社存在当時の最後の本社はアメリカのテキサス州オースティン。 日本では1989年4月に日本法人である株式会社ボーランドジャパンが設立され、1992年にはボーランド株式会社に商号変更されて100%子会社となった。 2009年5月6日、マイクロフォーカス(当時・インプライズ株式会社)による買収の合意が発表され、同社の一部門となった。
{{Otheruseslist|アメリカのコンピュータ・ソフトウェア企業|イギリスのDJ、ミュージシャン|CJボーランド|アイルランドのテニス選手、政治家|ジョン・ピウス・ボーランド}} {{基礎情報 会社 |社名=Borland Software Corporation |ロゴ=[[Image:Borland logo.svg|100px|Borlandロゴ]] |種類=株式会社 |略称=Borland |市場情報 = |国籍= {{USA}} |郵便番号= |本社所在地= [[テキサス州]][[オースティン (テキサス州)|オースティン]] |設立=1983年3月 ([[カリフォルニア州]]、Borland International) |業種=[[コンピュータ]]用[[ソフトウェア]] |事業内容= |代表者=エリック・プラッシュ (Erik Prusch) |資本金= |従業員数 = 約1,250名(全世界20カ国) |外部リンク=http://www.borland.com/ }} {{基礎情報 会社 |社名=ボーランド株式会社 |英語社名=Borland Co., Ltd. |ロゴ= |種類=株式会社 |略称= |国籍= {{JPN}} |郵便番号=102-0074 |本社所在地=東京都千代田区九段南4丁目8番21号 山脇ビル10階 |設立=1989年4月(株式会社ボーランドジャパン) |業種=[[コンピュータ]]用[[ソフトウェア]] |事業内容=コンピュータソフトウェアおよびこれらに関する製品の輸出入、販売ならびにCMMIに関するコンサルティング、人材スキル育成および保守等のサービス |代表者=代表取締役社長 徳永 信二 |資本金=4億8700万円 |従業員数 = 約40名 |外部リンク=http://www.borland.com/jp/ }} '''ボーランド''' ('''Borland'''、Borland International、Inprise Corporation、Borland Software Corporation) は、かつて存在した開発プロセス用ツールなどの[[ソフトウェア]]の開発・販売会社である。 [[パーソナルコンピュータ|PC]] 黎明期から[[Turbo Pascal]](ターボ・パスカル)などの[[ソフトウェア開発ツール]]を販売していたが、[[1990年代]]のマイクロソフトとの激しい争いを経て、[[2000年代]]前半、企業買収と社名変更を繰り返し、開発プロセスツール会社に変身した。会社存在当時の最後の本社は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[テキサス州]][[オースティン (テキサス州)|オースティン]]。 日本では[[1989年]]4月に日本法人である株式会社ボーランドジャパンが設立され、[[1992年]]には'''ボーランド株式会社'''に商号変更されて100%子会社となった。 [[2009年]]5月6日、[[マイクロフォーカス]](当時・インプライズ株式会社)による買収の合意が発表され、同社の一部門となった。 == 歴史 == === 1980年代から1990年代=== ==== 設立と開発ツール ==== ボーランド(Borland International)は[[1983年]]に、[[フィリップ・カーン]] (Philippe Kahn、[[フランス]]人) によって設立された。最初に送り出された製品は[[アンダース・ヘルスバーグ]] (Anders Hejlsberg、[[デンマーク]]人) による「[[Turbo Pascal]]」であり、その後「[[Sidekick]]」などを発表。 特に「[[Turbo C]]」は、現在では一般的である、エディタ・コンパイラ・デバッガ・プロファイラなどが一体となった[[統合開発環境]]の先駆けであり、圧倒的なコンパイルスピードと相まって当時のプログラム開発者に大きな衝撃を与えた。当時単独コマンド式のコンパイラ「Microsoft C」のみしか持たなかったMicrosoftも「Quick C」などのGUI開発環境を開発して対抗した。 その後ボーランドは、当時は一般的な開発者にはほとんど知られていなかった[[オブジェクト指向]]の概念を全面的に取り入れると宣言する。 まずMS-DOS環境向け「Turbo C++」「Borland C++」を発表、その後Windows GUIアプリケーション開発向けに洗練された、独自拡張オブジェクト指向[[Pascal]]言語「[[Delphi]]」が発表された。 当時C言語によるWindowsアプリケーションの開発は極めて複雑で難解であり、ウィンドウを1つ表示するだけでも相当な学習量とコード記述、作業工数が必要とされた。それに対しDelphiはWindows上で統合開発環境を実現しており、Pascal言語の文法さえ知っていれば僅かの学習で、GUI上でボタンなどのコンポーネントを配置したあと、数行のコードの追加でワンクリックで作成でき、その生産性の差は圧倒的であった。 Delphiは一定の成功を収めたものの、当時はC、C++言語に比べてPascalを使用できる技術者は限られており、開発環境として一般的になるには至らなかった。 しかしその後、DelphiのC++版ともいえる「[[C++ Builder]]」を市場に投入。Delphiでの生産性をC++言語で実現することに成功した。 その後マイクロソフトはDelphi対抗として「[[Visual Basic]]」、C++言語系としては「[[Visual C++]]」を発表する。しかしボーランドの開発ツールはこれらのOSベンダー純正開発ツールに対しても互角以上の戦いを展開した。 ==== オフィス系アプリケーション市場への進出 ==== [[1990年代]]初頭、ボーランドは個人向けデータベース市場をめぐって、[[マイクロソフト]]と激しく争った。[[1987年]]9月に、Ansa-Software社のデータベース管理ソフト「[[Paradox (データベース)|Paradox]]」(バージョン2.0)を会社ごと買収し、さらにデファクト・スタンダードである[[dBASE]]を取得し優勢と思われたボーランドであったが、マイクロソフトも[[Microsoft Access]]を開発、さらにdBASEのクローンである[[FoxPro]]を取得し反撃。dBASEの巨額の買収費用もたたり、戦いはボーランドの敗北に終わった。[[1996年]]10月に「Paradox」は[[カナダ]]の[[コーレル]]社へ売却。[[1999年]]には「dBASE」までもがソフトウェア開発ツールに専念するために売りに出された。 表計算ソフトにおける戦いも、ボーランドの敗北に終わった。[[1989年]]に送り出された表計算ソフト「[[Quattro Pro]]」は、マウスの右クリックによるコンテキストメニュー、タブページ切り替えによる複数ドキュメントの同時編集、ドラッグアンドドロップによるデータ移動などを最初に実装したWindowsアプリケーションであり、また当時としては非常に優れた図表作成能力も備え、表計算アプリケーションとしての完成度は極めて高く、洗練されていた。 しかしながら、現在のGUIソフトウェアには必須ともいえるそれらの機能も、当時のパーソナルコンピュータユーザにはその利便性がなかなか理解されなかった。逆にそれらを非常に高く評価したのはロータスやマイクロソフトなどのライバルベンダーたちだった。 1-2-3やExcelなどの強力なライバルが既に存在している市場の中で、既存の表計算ソフトのユーザの中で新規参入のQuattro Proの知名度が思ったように上がらなかった。そして、それらの画期的な機能が他のライバル製品に次々に模倣されて一般的になっていく中、Quattro Proは優れたユーザビリティというアドバンテージを失っていった。最終的に[[1994年]]「Quattro Pro」は[[ノベル (企業)|Novell]]に売却され、その後、創始者のフィリップ・カーンもボーランドを去った。 ==== 開発ツールと法廷闘争 ==== [[1995年]]、ソフトウェア開発ツールで巻き返しを図るボーランドは、[[Microsoft Windows|Windows]]時代に対応した[[RAD (計算機プログラミング環境)|RAD]]ツール [[Delphi]]を発売。[[アンダース・ヘルスバーグ]](Anders Hejlsberg)による洗練された設計は、マイクロソフト製ツールを圧倒した。これに対してマイクロソフトは、開発部門のトップであったポール・グロス(Paul Gross)上級副社長を筆頭に、アンダース・ヘルスバーグなど主要なボーランドの技術者を30ヶ月間に34人引き抜き対抗。「Dead Borlanders Society」と皮肉られる有様だった<ref>{{Cite web|和書|date=1997年5月12日|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970512/kaigai02.htm|title=後藤弘茂のWeekly海外ニュース|accessdate=2021-05-20|author=PC Watch}}</ref>。怒ったボーランドはマイクロソフトを訴え、長期にわたる法廷闘争が繰り広げられた。 なお、この引き抜き劇の真相について、アンダース・ヘルスバーグは日経ソフトウエア2002年7月号のインタビューで、直接的な原因は1994年に[[フィリップ・カーン]]が追放されたのを皮切りに、ボーランド社が開発ツール部門の廃止および大量リストラを計画したことが発端であり、リストラ対象となった開発者たちの生活を守るため、賛同者を引き連れてマイクロソフトに移籍したものであると語っている。 ==== 社名変更 ==== [[1998年]][[4月29日]]、デル・ヨーカム(Del Yocam)CEOの下、アメリカのボーランド本社は、社名を「インプライズ・コーポレーション」(Inprise Corporation) へと変更した<ref>{{Cite web|和書|date=1998-04-30 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980430/borland.htm |title=米Borland、INPRISEに社名変更 |publisher=PC Watch |accessdate=2012-08-30}}</ref><ref>{{Cite journal |和書|title =米Borlandが社名をInpriseに変更 “エンタプライズ志向”を鮮明に |date =1998-06-24 |publisher =日経BP |journal =日経ソフトウエア(1998/7) |volume =1 |issue =1 |naid = |pages =9 |ref = }}</ref>。これは''Integration the Enterprise'' というスローガンにちなんだ造語。DelphiやC++Builder、[[JBuilder]]などのボーランド製ツールを[[Common Object Request Broker Architecture|CORBA]]([[1997年]]に買収したVisigenic社製)やVisiBroker、[[アプリケーションサーバ]]などの企業向けの[[ミドルウェア]]と統合しようという政策である。しかし財政的にもイメージ的にも成功しなかった。 ==== マイクロソフトとの和解 ==== [[1999年]]6月8日、マイクロソフトとの間で和解が成立した。インプライズは1億2500万ドル<ref>{{Cite web|和書 | date = 1999年6月9日 | url = http://www.nikkeibp.co.jp/archives/073/73226.html | title = USNews Microsoft、かつてのライバルInpriseに資本参加 | accessdate=2009年8月4日 | author=日経BP }}</ref>を手に入れ表面上勝利を収めたが、インプライズの持つ特許はマイクロソフトに公開され、マイクロソフトに対してWindows用開発ツール市場で優勢に戦いを進めていく事は難しくなった。 その後、マイクロソフトは自社の技術に加えて、インプライズから手に入れた技術者と特許を使って[[.NET Framework]]を開発。インプライズは.NET Frameworkへの対応に苦労するという皮肉な状況が続いている。 === 2000年代前半 === ==== Linuxへの進出 ==== Windowsでの戦いに敗れたインプライズは[[Linux]]に注目。[[2000年]]2月、インプライズはコーレルとの合併を発表した<ref>{{Cite web|和書 | date = 2000年2月9日 | url = http://www.nikkeibp.co.jp/archives/093/93856.html | title = 米Inprise/BorlandとカナダCorelが合併、Linuxソフトウエアの一大勢力となるか? | accessdate=2009年8月4日 | author=日経BP }}</ref>。しかし、この計画はコーレルの株価の下落により破棄された。InterBase部門の分社化も、新会社の経営陣と条件が折り合わず、中止された。 [[2001年]]には、「Delphi」のLinux版とも言える'''[[Kylix]]'''(カイリックス)を送り出した。しかし、思惑通り普及しなかった。 ==== 社名復活 ==== [[2001年]]1月に、「インプライズ」から「ボーランド・ソフトウェア・コーポレーション」(Borland Software Corporation) へと社名が変更され、「ボーランド」の名前が再び据えられた<ref>{{Cite web|和書 | date = 2001年11月16日 | url = https://xtech.nikkei.com/it/free/NSW/NEWS/20001116/1/ | title = やはり「Borland」ブランドは強い?─米InpriseがBorland Softwareに社名変更 | accessdate=2009年8月4日 | author=IT Pro }}</ref>。その一方、ボーランドの大企業重視の姿勢は変わらなかった。成長著しい[[Javaプラットフォーム|Java]]市場で「'''JBuilder'''」(ジェイ・ビルダー)はライバルを蹴散らし順調に成長。ボーランドは大企業向けJava開発ツールベンダーとしての性格を強めていった。 ==== 開発プロセス全体への進出 ==== [[2002年]]以降、ボーランドは上流から下流までの開発プロセス全体をカバーする為、企業買収を積極的に行った。取得した企業はTogetherSoft([[統一モデリング言語|UML]]モデリング・ツール)、Starbase([[要求管理]]、[[変更管理]]ツール)、Redline Software([[ソフトウェアテスト|テスト]]・ツール)、TeraQuest([[ビジネスプロセス|プロセス]]・コンサルティング)、Segue Software([[品質管理]]ツール)などである。 ボーランドはALM (Application Lifecycle Management)を提唱している。ボーランドの製品をALMの各フェーズに当てはめると {|class=wikitable |- !フェーズ!!製品名!!備考 |- |Plan||Tempo||Legadero Softwareから買収 |- |Define||CaliberRM||StarBase社から買収 |- |Design||Together||TogetherSoft社から買収 |- |Develop||JBuilder||&nbsp; |- |Manage||Starteam||StarBase社から買収 |} となっている。 買収に要した費用は数億ドルに及ぶと思われる。公開されている内訳はTogetherSoft(約1億8500万ドル)<ref>{{Cite web|和書 | date = 2002年10月31日 | url = https://xtech.nikkei.com/it/free/ITPro/USNEWS/20021031/1/ | title = 米Borlandがソフトウエア開発ソリューションの米TogetherSoftを1億8500万ドルで買収 | accessdate=2009年8月4日 | author=IT Pro }}</ref>、Starbase(約2400万ドル)<ref>{{Cite web|和書 | date = 2002年10月10日 | url = https://xtech.nikkei.com/it/free/ITPro/USNEWS/20021010/6/ | title = 米ボーランド,ソフトウエア管理技術の米スターベースを約2400万ドルで買収 | accessdate=2009年8月4日 | author=IT Pro }}</ref>、Redline Software(約800万ドル)、Segue Software(約1億ドル)<ref>{{Cite web|和書 | date = 2006年2月9日 | url = https://xtech.nikkei.com/it/article/USNEWS/20060209/228880/ | title = 米Borlandが米Segueを買収,IDE事業を売却予定でALMに本腰 | accessdate=2009年8月4日 | author=IT Pro }}</ref>などである。 === 2000年代後半 === ==== 開発ツール施策の混乱 ==== 傘下の開発プロセス企業の増加により、売上高に占める、開発者用ツール(以下IDE製品)の割合は減少。IDE製品への投資は大幅に削減され、それがまたIDE製品の売り上げ減少につながるという負のスパイラルに陥った。特に稼ぎ頭であったJBuilderは、IBMが無償で公開した統合開発環境[[Eclipse (統合開発環境)|Eclipse]] の普及とリストラにより衰退した。皮肉にも、これが急激なALM化を推し進めたデール・エル・フラー(Dale L Fuller)CEOの命取りとなった。 ==== IDE子会社の設立 ==== [[2005年]]本社をカリフォルニア州[[スコッツヴァレー]]から[[クパチーノ (カリフォルニア州)|クパチーノ]]に移したボーランドは、[[2006年]]にIDE部門の完全子会社化を発表した。IDE製品はALM製品とは異なるビジネスモデルが必要であり、両立する事が難しかった。当初ボーランドは、売却を伴う分社化を目指したが<ref>{{Cite web|和書 | date = 2006年2月15日 | url = http://www.borland.com/jp/company/news/press_releases/2006/02_08_06_borland_acquires_segue_software.html | title = ボーランド、ソフトウェア品質ソリューションを提供するSegue Software社の買収、ならびにIDE製品ラインの売却計画を発表 | accessdate=2006年8月2日 | author=ボーランド }}</ref>、数ヶ月に及ぶ交渉はまとまらなかった。Developer Studio(Delphi、C++Builder、C#Builder)、JBuilder、Turbo、InterBase は新社名「'''CodeGear'''」([[コードギア]])の下で、引き続き提供される。 ==== 新しいボーランドへの移行 ==== [[2007年]]4月、ボーランドは本社とR&D部門を[[テキサス州]][[オースティン (テキサス州)|オースティン]]に移転すると発表した<ref name="austinhq">{{cite web |date = 2007年4月16日 |url = http://www.borland.com/us/company/news/press_releases/2007/04_16_07_borland_to_relocate_corporate_headquarters.html |title = Borland to Relocate Corporate Headquarters to Austin |author = Borland |accessdate = 2009年1月29日 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20070521032232/http://www.borland.com/us/company/news/press_releases/2007/04_16_07_borland_to_relocate_corporate_headquarters.html |archivedate = 2007年5月21日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref> 。オースティンはシリコンヒルズとして知られる、新興のIT企業の集積地である。買収した大手プロセスコンサルティング会社TeraQuestなどがある。 [[2008年]][[5月7日]]、ボーランドはコードギアを[[エンバカデロ・テクノロジーズ]]へ売却すると発表した<ref>{{Cite web|和書 | date = 2008年5月7日 | url = http://dn.codegear.com/article/38134 | title = コミュニティレター:エンバカデロ・テクノロジーズがCodeGearを買収 | accessdate=2008年7月7日 | author=Hitoshi Fujii }}</ref>。2008年[[6月30日]]、約2400万ドルの売却取引は無事に完了した<ref>{{Cite web|和書 | date = 2008年7月1日 | url = http://www.codegear.com/article/38315 | title = Embarcadero Technologies®がCodeGear™の買収の完了を発表 | accessdate=2008年7月7日 | author=Hitoshi Fujii }}</ref>。 ====マイクロフォーカスによる買収==== [[2009年]]5月6日、[[マイクロフォーカス]]による7500万ドルでの買収の合意が発表された<ref>[http://www.borland.com/us/company/news/press_releases/2009/05_06_09_borland_to_be_acquired_by_micro_focus.html Borland Software Corporation to be Acquired by Micro Focus International plc - Press Releases]</ref><ref>{{Cite web|和書 | date = 2009年5月7日 | url = https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20090507/329576/ | title = Borland,約7500万ドルでMicro Focusに身売り | accessdate=2009年8月4日 | author=IT Pro }}</ref>。2010年3月、日本でも統合が完了した<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.microfocus.co.jp/about/pressrelease/archives/2010/0209.asp | title = マイクロフォーカス株式会社、日本におけるボーランドビジネスの統合について発表 | date = 2010年2月9日 | publisher = マイクロソフトフォーカス | accessdate = 2010年4月12日 }}</ref>。 == 販売中のALM製品== * Caliber (カリバー) - ソフトウェア要件定義と要件管理 * StarTeam (スターチーム) - ソフトウェア構成・変更管理 * SilkCentral Test Manager (シルクセントラルテストマネージャー) - ソフトウエアテスト管理 * SilkTest (シルクテスト) - ソフトウェア回帰テストと機能テストの自動化ツール * SilkPerformer (シルクパフォーマー) - ソフトウエア負荷テストツール * Together (トゥギャザー) - ソフトウェアアーキテクチャ設計のためのビジュアルモデリングツール == 販売中のミドルウェア製品 == * AppServer * VisiBroker == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 外部リンク == * [http://www.microfocus.co.jp/ Micro Focus] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほおらんと}} [[Category:ボーランド|*]] [[Category:アメリカ合衆国のソフトウェア会社]] [[Category:オースティンの企業]] [[Category:1983年設立の企業]]
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メレンゲ (菓子)
メレンゲ(仏: meringue、独: Meringe(l)、西: merengue)とは、卵(鶏卵)の卵白を泡立てた食材、およびそれを用いた菓子のこと。滑らかな食感をだすため、もしくは加熱時の膨張剤として料理(主に菓子)に使用される。フランス語では「ムラング」という。 メレンゲはスイスのマイリンゲン(英語版)で発明され、18世紀にイタリア人のガスパリーニという料理人によって改良されたとされるが、確たる証拠はない。『メレンゲ』の名前が確認できる最も古い文献は1692年のフランスの料理本である。 メレンゲは泡立てすぎると、ぼそぼその部分とさらさらの部分、すなわちタンパク質と水分が分離してしまう(離水)。泡だて器やボウルに油分が残っていると泡立たない。泡立てる際に、アルミニウム等の金属製ボウルを使用すると色と臭いが付くことがあるので(やや青白くなる)、ホーロー引き、ガラス、プラスチックのものを使うとよい。ただし、銅製のボウルを使うとメレンゲが非常に安定し、離水しにくい。また、弱酸性で安定する性質を持つので、少量の酒石酸やレモン果汁などを加えると、離水しにくくなる。強酸性では、タンパク質が変性してしまうため、卵白が固まる。 菓子作りにおいては、味だけではなく緩衝材として砂糖を加えることにより、耐熱性、耐酸性を上げ、さらに離水を防止させている。砂糖を加えるタイミングを変えることにより、メレンゲの質感を変えることが出来る。泡立てる初期に砂糖を加えれば、砂糖が卵白の水分を十分に吸いシロップ状になるため、卵白の粘り気が増し、泡立てにくいが、艶のある、きめの細かい安定したしっかりしたメレンゲを作ることが出来る。表現を変えれば、硬く重たいメレンゲが出来上がる。また、泡立てる中盤から後半に加えれば、泡立てやすいが、きめが粗くもろい軽いメレンゲが出来上がる。これらの違いを利用して、菓子の種類に応じて使い分けることにより、それぞれの菓子の特徴をより、細かく鮮明に表現することが出来る。 また、これを乾燥させ焼いたものの総称もメレンゲであるほか、アーモンドやヘーゼルナッツの粉末と小麦粉を加えたものはシュクセ(succès)、あるいはプログレ(progrès)と呼ばれ、菓子の素材として使用される。 メレンゲを絞り出して焼いた小菓子も「メレンゲ」と呼ばれる。メレンゲを絞り袋で様々な形に成形して硬く焼き上げたものはメレンゲドールと呼ばれケーキ類の飾りつけに用いられる。
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メレンゲとは、卵(鶏卵)の卵白を泡立てた食材、およびそれを用いた菓子のこと。滑らかな食感をだすため、もしくは加熱時の膨張剤として料理(主に菓子)に使用される。フランス語では「ムラング」という。
{{Redirect|メレンゲ}} {{Infobox Prepared Food | name = メレンゲ | image = Meringues 9027.jpg | image_size = 250px | caption = メレンゲとホイップクリーム | alternate_name = | country = [[イタリア]]、[[フランス]]、[[スイス]] | course = [[菓子]] | main_ingredient = [[卵白]]、[[砂糖]] | minor_ingredient= [[香料]]、[[レモン]]汁 | variations = [[#メレンゲを使用する主な料理]]参照 | similar_dish = [[ホイップクリーム]] }} '''メレンゲ'''({{lang-fr-short|meringue}}<ref>{{IPA-fr|məʁɛ̃g|}}</ref>、{{lang-de-short|Meringe(l)}}<ref>{{IPA-de|meˈrɪŋə(l)|}}</ref>、{{lang-es-short|merengue}}<ref>{{IPA-es|meˈɾeŋge|}}</ref>)とは、卵([[鶏卵]])の[[卵白]]を泡立てた食材、およびそれを用いた[[菓子]]のこと。滑らかな食感をだすため、もしくは加熱時の膨張剤<ref>多量の空気を含ませており、この空気が熱により膨張することで調理品を膨張させる</ref>として料理(主に菓子)に使用される。フランス語では「ムラング」という<ref name="ryourisyokuzaidaijiten_p841">『料理食材大事典』主婦の友社 p.841 1996年</ref>。 == 概要 == [[ファイル:Blancs d'oeufs battus.jpg|thumb|泡立てたメレンゲ]] メレンゲは[[スイス]]の{{仮リンク|マイリンゲン|en|Meiringen}}<ref>[[アーサー・コナン・ドイル]]が長期保養をした場所でもあり、『[[シャーロック・ホームズ]][[最後の事件]]』で[[ジェームズ・モリアーティ]]ととも死闘し、[[ライヘンバッハの滝]]から落下して二人とも死んだとされる場所である。</ref>で発明され、[[18世紀]]に[[イタリア人]]のガスパリーニという料理人によって改良されたとされるが、確たる証拠はない。『メレンゲ』の名前が確認できる最も古い文献は[[1692年]]のフランスの料理本である。 メレンゲは泡立てすぎると、ぼそぼその部分とさらさらの部分、すなわち[[タンパク質]]と水分が分離してしまう([[離水]])。[[泡だて器]]や[[ボウル]]に油分が残っていると泡立たない。泡立てる際に、[[アルミニウム]]等の[[金属]]製ボウルを使用すると色と臭いが付くことがあるので(やや青白くなる)、[[ホーロー]]引き、[[ガラス]]、[[プラスチック]]のものを使うとよい。ただし、[[銅]]製のボウルを使うとメレンゲが非常に安定し、離水しにくい<ref>[https://doi.org/10.11402/cookeryscience.46.335 銅ボウルで調製した泡立て卵白の安定性におけるオボアルブミンの役割] 日本調理科学会誌 Vol.46 (2013) No.5 p.335-342</ref>。また、[[弱酸性]]で安定する性質を持つので、少量の[[酒石酸]]や[[レモン]]果汁などを加えると、離水しにくくなる。[[強酸性]]では、[[タンパク質]]が変性してしまうため、卵白が固まる。 菓子作りにおいては、味だけではなく[[緩衝材]]として[[砂糖]]を加えることにより、[[耐熱]]性、耐酸性を上げ、さらに離水を防止させている。砂糖を加えるタイミングを変えることにより、メレンゲの質感を変えることが出来る。泡立てる初期に砂糖を加えれば、砂糖が卵白の水分を十分に吸い[[シロップ]]状になるため、卵白の粘り気が増し、泡立てにくいが、艶のある、きめの細かい安定したしっかりしたメレンゲを作ることが出来る。表現を変えれば、硬く重たいメレンゲが出来上がる。また、泡立てる中盤から後半に加えれば、泡立てやすいが、きめが粗くもろい軽いメレンゲが出来上がる。これらの違いを利用して、菓子の種類に応じて使い分けることにより、それぞれの菓子の特徴をより、細かく鮮明に表現することが出来る。 また、これを乾燥させ焼いたものの総称もメレンゲであるほか、[[アーモンド]]や[[ヘーゼルナッツ]]の粉末と[[小麦粉]]を加えたものはシュクセ(succès)、あるいはプログレ(progrès)と呼ばれ、菓子の素材として使用される<ref>大森由紀子『フランス菓子 図鑑お菓子の名前と由来』166頁 世界文化社</ref>。 == 種類 == ; ムラング・オルディネール<ref>{{lang-fr-short|meringue ordinaire}}</ref> : 卵白に砂糖を加え角が立つまで泡立てたもの<ref name="ryourisyokuzaidaijiten_p841"/><ref name="maruzensyokuhinsougoujiten_p1079">『丸善食品総合辞典』丸善 p.1079 1998年</ref>。レモン汁を加えると白さが増し泡立ちが良くなる<ref name="ryourisyokuzaidaijiten_p841"/>。フレンチメレンゲ。ケーキなどの焼き菓子に使われる。かつては[[シブースト#クレーム・シブースト|クレーム・シブースト]]などに加えられていたが、[[サルモネラ|サルモネラ菌]]の温床であることが問題視され、生のままで使用することは禁止された<ref>マグロンヌ・トゥーサン=サマ『お菓子の歴史』吉田春美訳、河出書房新社、2005年、pp259-260</ref>。 ; ムラング・シュイス<ref>{{lang-fr-shortmeringue suisse}}</ref> : [[湯煎]]で加熱しながら卵白に砂糖を加えて泡立ててゆき、50℃くらいに達したところで火から外して仕上げたもの<ref name="ryourisyokuzaidaijiten_p842">『料理食材大事典』主婦の友社 p.842 1996年</ref><ref name="maruzensyokuhinsougoujiten_p1079"/>。スイスメレンゲ。搾り出しで形を作る場合や、ケーキ表面のデコレーションなどに使われる。 ; ムラング・イタリエンヌ<ref>{{lang-fr-shortmeringue italienne}}</ref> : 固く泡立てた卵白に[[殺菌]]のため120℃くらいまで煮詰めた砂糖水([[シロップ]])を加えて泡立てたもの<ref name="ryourisyokuzaidaijiten_p842"/><ref name="maruzensyokuhinsougoujiten_p1079"/>。イタリアメレンゲ<ref name="ryourisyokuzaidaijiten_p842"/>あるいはイタリアンメレンゲ。[[マシュマロ]]や[[アイスクリーム]]、[[ババロア]]などの生食用。 == メレンゲドール == メレンゲを絞り出して焼いた小菓子も「メレンゲ」と呼ばれる<ref name="maruzensyokuhinsougoujiten_p1079"/>。メレンゲを絞り袋で様々な形に成形して硬く焼き上げたものはメレンゲドールと呼ばれケーキ類の飾りつけに用いられる。 == メレンゲを使用する主な料理 == {{Commonscat|Meringue}} * [[マシュマロ]] * [[淡雪|淡雪羹]] * [[ウ・ア・ラ・ネージュ]] * [[シフォンケーキ]] * [[アイシング]] * [[マカロン]] * [[ダックワーズ]] * [[パヴロヴァ (ケーキ)]] * [[月世界本舗|月世界]] * [[モレン・クッキー]] * [[メロンパン]] * [[コンソメ]] - 調理中の[[灰汁#食品のアク|アク]]取りの際に泡立てた卵白(メレンゲ)を用いることがある。 <gallery widths="180" heights="120"> Lemon Meringue Muffins 01.jpg|レモン・メレンゲ・マフィン Lemon Meringue Pie.jpg|レモンメレンゲパイ Gateau danicheff.jpg|ガトー・ダニシェフ </gallery> == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[アクアファバ]] - 豆の煮汁。卵白を使わないメレンゲが作れるため、卵アレルギー対策で利用される。 ==外部リンク== * [https://www.myswitzerland.com/ja/pages/n48934/food-and-wine-related-info/meringues.html スイス政府観光局:メレンゲ] {{ja icon}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:めれんけ}} [[Category:洋菓子]] [[Category:洋菓子材料]] [[Category:ケーキ]] [[Category:スイスの食文化]] [[Category:卵]]
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墨田区
墨田区(すみだく)は、東京都の区部東部に位置する特別区。西を隅田川、東を荒川および旧中川、北を荒川放水路に囲まれ、南は江東区と接する。 太平洋戦争後の1947年に旧本所区と旧向島区が合併して誕生した。隅田川、荒川、旧中川と河川に囲まれ、海抜が低い地域である。 江戸時代初期においては、江戸市街の東端は隅田川までで、墨田区一帯は隅田川を国境に下総国に属し、葦の生い茂る湿地帯に農地が散在する江戸の郊外だった。しかし、1657年の振袖火事(明暦の大火)をきっかけに江戸の市街地は隅田川以東に拡大し、区南部の本所を中心に武家屋敷や町屋、代官、町奉行などが置かれ、隅田川以東も武蔵国に編入された。明治期以降も都市化と工業化が進み、1878年には江戸の市街地だった区南部に本所区が成立し、かつて農村地域だった区北部にも1932年に向島区が成立した。多くの工場が立地し、錦糸町などは工場労働者の街として賑わった。関東大震災で大きな被害を受け、太平洋戦争末期の東京への度重なる空襲市街地は再び廃墟と化したが、戦後復興により住宅と中小企業の工場が建ち並ぶ下町として発展していった。本所は江戸・東京の下町を構成している地域の一つであり、下谷、浅草、深川と並ぶ、東京下町の外郭をなす。向島は全盛期と比べると衰退してしまったが、東京でも数少ない花街として現在まで続いている。 「おいてけ堀」など「本所七不思議」は、昔の墨田区付近が舞台である。また、大相撲が催される両国国技館が立地することでも著名である。押上・業平地区では、自立式鉄塔としては世界一となる高さ634mの地上デジタル放送用タワー「東京スカイツリー」が2012年5月に開業した。東京スカイツリーを中心として東京スカイツリータウンが位置しており、観光と防災都市のシンボルにし、世界一の観光都市を目指すという。隅田川の花火大会は江戸時代から続く花火大会であり、毎年多くの見物客を集める。 区名は、隅田川の堤の通称「墨堤」から墨を、隅田川から田を採った。なお「墨田」の表記自体は、隅田川の古い別表記の一つでもある。 その他の候補には「隅田区」「吾妻区」「隅田川区」「江東区」などがあった。区名を決めた当時は「隅田区」を推す意見が最も多かったが、当時「隅」という字が当用漢字になかったために使うことができず、さらに、隅田川が法律で正式な名称とされていなかったため、「隅田区」の誕生には至らなかった。 2005年に夜間人口(居住者)は231,092人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は262,514人で昼は夜の1.136倍の人口になる。 東京都の東部の区であり、西の区境は隅田川で、対岸は北から足立区、台東区、中央区である。東の区境は荒川および旧中川で、江戸川区と向かい合う。荒川と隅田川をつなぐ荒川放水路の北は足立区である。このように河川に囲まれたエリアで水の郷百選に選ばれており、区東部は海抜ゼロメートル地帯となっている。このため墨田区はハザードマップで、豪雨や河川氾濫のほか、東京湾の高潮を含む水害への警戒を呼び掛けている。 墨田区が成立するまでは、区の北部(旧・向島区)と南部(旧・本所区)では、歴史に大きな違いが見られる。北部では、平安時代ごろには陸地化が進み、中世には荘園制度のもとでは下総国葛西御厨の一角にあり、葛西氏知行地の農村地帯として発展を遂げていた。南部では牛島が700年代から牛の放牧地とされていた他はおおむね湿地帯であり、人が住むには極めて向かない土地であった。こちらは北部とは異なり、中世では武蔵国江戸氏一族の知行地であった。 江戸中心部が1657年(明暦3年)の振袖火事によって焼け野原になったため、災害対策の一環として武家屋敷が当区南部へと移動することとなった。同時に、竪川や大横川をはじめとする人工河川(運河)の掘削や南北割下水(わりげすい、現在の北斎通り近辺にあった)、碁盤目状の街路の整備が行われた。 1878年(明治11年)に北部は東京府南葛飾郡に編入され、南部は東京15区の一つ・本所区として成立するようになる。また、工業化の波が押し寄せることとなり、北部も南部も開発が進んでいくようになった。1894年(明治27年)には、重要な交通手段である総武線が開業した。このように発展してきたが、1923年(大正12年)の関東大震災により、区域の大半が焼失することとなった。特に、元陸軍被服廠跡地(現在の横網町公園など)では、多くの人が避難をしたものの、猛火に遇い、4万人から5万人といわれる多大な焼死者を出した。 やがて、それらによる被害も復興していくようになり、1932年(昭和7年)には、北部に向島区が誕生。1935年(昭和10年)の国勢調査人口は、現在の墨田区域(当時の本所区と向島区の合計)で464,892人であり、隣の台東区区域(当時の浅草区と下谷区の合計)464,217人と共に、東京で最も人口が集中しているエリアであった。 しかし、第二次世界大戦(特に1945年の東京大空襲)により、またもや区内全土は大きく焼失した。1947年(昭和22年)に本所区と向島区が合併して現在の墨田区が誕生した。1963年(昭和38年)までは、町の復興および発展とともに人口が増加して昭和の下町の代表的な存在の街となった。その後は頭打ちとなり減少し始めた。また、町工場も郊外や日本国外への移転などに伴い減少していくこととなった。 1981年(昭和56年)4月1日は防災行政無線の運用を開始した。 近年では、これら工場跡地にマンションを建てるなどの開発が進められ、特に2000年(平成12年)以降は人口が大きく増加(回復)している。 2016年(平成28年)8月24日より防災行政無線の放送などが変更された。 墨田区では全区において住居表示の実施が完了している。以下は住居表示実施後の町名と、当該住居表示実施直前の旧町名の一覧である。旧町名の後に「(全)」と注記したもの以外は当該旧町域の一部である。 墨田区は、足立ナンバー(東京運輸支局)を割り当てられており、『23区東部』の地域と一致する。 平成25年度当初予算規模 1909年(明治42年)から1937年(昭和12年)にかけて区内に屠畜場があり、木下川(現在の東墨田)地区を中心に、主として豚皮を扱う皮革産業が発展した。豚脂などを扱う油脂産業や動物性油脂を原料とする石鹸産業も盛んで、大正時代には長瀬商店(花王の前身)、ライオン石鹸、資生堂、ミヨシ石鹸の4大石鹸メーカーが区内に立地した。1985年から、「ものづくりのまち すみだ」の産業と文化をPRするべく、「すみだ3M運動」を展開している。 2012年3月20日より、東京スカイツリー周辺を中心とし、区内全域を巡回するコミュニティバス「すみだ百景 すみまるくん・すみりんちゃん」を運行している。 墨田区内には、墨田区が運営する以下の図書館がある。 墨田区は大学の誘致および大学相互や地域との連携促進に取り組んでおり、千葉大学と情報経営イノベーション専門職大学の間に公園「キャンパスコモン」を2023年3月12日に開設した。
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墨田区(すみだく)は、東京都の区部東部に位置する特別区。西を隅田川、東を荒川および旧中川、北を荒川放水路に囲まれ、南は江東区と接する。
{{東京都の特別区 |画像 = Tokyo_Skytree_&_East_Tower.jpg |画像の説明 = [[押上]]の[[東京スカイツリータウン]] |区旗 = [[File:Flag of Sumida, Tokyo.svg|border|100px]] |区旗の説明 = 墨田[[市町村旗|区旗]] |区章 = [[File:Emblem of Sumida, Tokyo.svg|75px]] |区章の説明 = 墨田[[市町村章|区章]]<br />[[1957年]][[5月15日]]制定{{sfn|区史年表資料編|2010|p=17}} |自治体名 = 墨田区 |都道府県 = 東京都 |コード = 13107-5 |隣接自治体 = [[台東区]]、[[江戸川区]]、[[足立区]]、[[葛飾区]]、[[江東区]]、[[中央区 (東京都)|中央区]]、[[荒川区]] |木 = [[サクラ]] |花 = [[ツツジ]] |シンボル名 = 他のシンボル |区長 = [[山本亨]] |郵便番号 = 130-0001 |所在地 = 墨田区[[吾妻橋 (墨田区)|吾妻橋]]一丁目23番20号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-13|display=inline,title}}<br />[[File:Sumida Kuyakusho.JPG|center|250px]] |外部リンク = {{Official website}} {{ja icon}} |位置画像 = {{基礎自治体位置図|13|107|image=Location of Sumida ward Tokyo Japan.svg|村の色分け=no}}<br />{{Maplink2|zoom=11|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=280|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}} |特記事項 = }} '''墨田区'''(すみだく)は、[[東京都]]の[[東京都区部|区部]]東部に位置する[[特別区]]。西を[[隅田川]]、東を[[荒川 (関東)|荒川]]および[[旧中川]]、北を荒川放水路に囲まれ、南は[[江東区]]と接する。 == 概要 == [[File:Kinshicho-Sep-2008.jpg|220x124px|thumb|right|[[錦糸町]]]] [[File:Ryoogoku.jpg|220x124px|thumb|right|[[両国]]]] [[太平洋戦争]]後の[[1947年]]に旧[[本所区]]と旧[[向島区]]が合併して誕生した。隅田川、荒川、旧中川と河川に囲まれ、[[海抜]]が低い地域である<ref>[https://www.city.sumida.lg.jp/anzen_anshin/bousai/suigai/kouzui_hm1.html 海抜表示板] 墨田区</ref>。 [[江戸時代]]初期においては、[[江戸]]市街の東端は隅田川までで、墨田区一帯は隅田川を国境に[[下総国]]に属し、[[葦]]の生い茂る[[湿地帯]]に農地が散在する江戸の[[郊外]]だった<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=計画地の歴史 {{!}} 東京スカイツリータウン|url=http://www.tokyo-skytreetown.jp/project/history.html|website=www.tokyo-skytreetown.jp|accessdate=2021-11-09}}</ref>。しかし、[[1657年]]の[[明暦の大火|振袖火事(明暦の大火)]]をきっかけに江戸の市街地は隅田川以東に拡大し、区南部の[[本所 (墨田区)|本所]]を中心に[[武家屋敷]]や[[町屋 (商家)|町屋]]、[[代官]]、[[町奉行]]などが置かれ、隅田川以東も[[武蔵国]]に編入された<ref name=":0" />。[[明治]]期以降も都市化と工業化が進み、[[1878年]]には江戸の市街地だった区南部に本所区が成立し、かつて農村地域だった区北部にも[[1932年]]に向島区が成立した<ref name="区の歴史">{{Cite web|和書|title=区の歴史|url=https://www.city.sumida.lg.jp/kuseijoho/kunosyoukai/history.html|website=www.city.sumida.lg.jp|accessdate=2021-11-09|language=ja}}</ref>。多くの工場が立地し、[[錦糸町]]などは工場労働者の街として賑わった。[[関東大震災]]で大きな被害を受け、太平洋戦争末期の[[東京大空襲|東京への度重なる空襲]]市街地は再び廃墟と化したが、戦後復興により住宅と[[中小企業]]の工場が建ち並ぶ[[下町]]として発展していった<ref name="区の歴史"/>。本所は江戸・東京の下町を構成している地域の一つであり、[[下谷]]、[[浅草]]、[[深川 (江東区)|深川]]と並ぶ、東京下町の外郭をなす。[[向島 (花街)|向島]]は全盛期と比べると衰退してしまったが、東京でも数少ない[[花街]]として現在まで続いている。 「[[置行堀|おいてけ堀]]」など「[[本所七不思議]]」は、昔の墨田区付近が舞台である。また、[[大相撲]]が催される[[両国国技館]]が立地することでも著名である。[[押上]]・[[業平]]地区では、自立式[[鉄塔]]としては世界一となる高さ634mの[[日本の地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]]用タワー「[[東京スカイツリー]]」が[[2012年]]5月に開業した。東京スカイツリーを中心として[[東京スカイツリータウン]]が位置しており、[[観光]]と防災都市のシンボルにし、世界一の[[観光都市]]を目指すという。[[隅田川花火大会|隅田川の花火大会]]は江戸時代から続く花火大会であり、毎年多くの見物客を集める。 ===区名の由来=== 区名は、隅田川の[[堤防|堤]]の通称「墨堤」から墨を、隅田川から田を採った。なお「墨田」の表記自体は、[[隅田川]]の古い別表記の一つでもある。 その他の候補には「隅田区」「吾妻区」「隅田川区」「江東区」などがあった<ref>{{Cite web|和書|title=墨田区と隅田川、「すみ」の表記なぜ違う? 23区に幻の区名|ライフコラム|NIKKEI STYLE|url=https://style.nikkei.com/article/DGXNASDB02003_S2A001C1000000?page=2|website=NIKKEI STYLE|accessdate=2021-01-28|language=ja|last=日本経済新聞社・日経BP社}}</ref>。区名を決めた当時は「隅田区」を推す意見が最も多かったが、当時「隅」という字が当用漢字になかったために使うことができず、さらに、隅田川が法律で正式な名称とされていなかったため、「隅田区」の誕生には至らなかった。<ref>{{Cite web|和書|title=「墨田区」の名称の由来を知りたい|url=https://www.city.sumida.lg.jp/faq/kuseijoho/gyousei_zenpan/1460.html|website=墨田区|accessdate=2022-08-18|language=ja|}}</ref> == 人口 == {{人口統計|code=13107|name=墨田区|image=Population distribution of Sumida, Tokyo, Japan.svg}} === 昼夜間人口 === 2005年に夜間人口(居住者)は231,092人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である[[昼間人口]]は262,514人で昼は夜の1.136倍の人口になる<ref>東京都編集『東京都の昼間人口2005』(平成20年発行)126 - 127頁。国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる。</ref>。 * 世帯数:117,324世帯(2006年10月1日) * 外国人登録者数:8,314人(2006年10月1日) == 地理 == 東京都の東部の区であり、西の区境は[[隅田川]]で、対岸は北から[[足立区]]、[[台東区]]、[[中央区 (東京都)|中央区]]である。東の区境は[[荒川 (関東)|荒川]]および[[旧中川]]で、[[江戸川区]]と向かい合う。荒川と隅田川をつなぐ荒川放水路の北は足立区である。このように河川に囲まれたエリアで[[水の郷百選]]に選ばれており、区東部は[[海抜ゼロメートル地帯]]となっている。このため墨田区は[[ハザードマップ]]で、豪雨や河川氾濫のほか、[[東京湾]]の[[高潮]]を含む[[水害]]への警戒を呼び掛けている<ref>[https://www.city.sumida.lg.jp/anzen_anshin/bousai/suigai/suigai.html 墨田区水害ハザードマップ(水害への備え)]2023年3月20日閲覧</ref>。 == 歴史 == ; 近世以前 墨田区が成立するまでは、区の北部(旧・[[向島区]])と南部(旧・[[本所区]])では、歴史に大きな違いが見られる。北部では、[[平安時代]]ごろには陸地化が進み、[[中世#日本|中世]]には[[荘園 (日本)|荘園]]制度のもとでは[[下総国]][[葛西御厨]]の一角にあり、[[葛西氏]][[知行地]]の[[農村]]地帯として発展を遂げていた。南部では牛島が[[700年代]]から[[牛]]の[[放牧]]地とされていた他はおおむね湿地帯であり、[[ヒト|人]]が住むには極めて向かない土地であった。こちらは北部とは異なり、中世では[[武蔵国]][[江戸氏]]一族の知行地であった。 ; 近世 江戸中心部が[[1657年]]([[明暦]]3年)の[[明暦の大火|振袖火事]]によって焼け野原になったため、災害対策の一環として武家屋敷が当区南部へと移動することとなった。同時に、[[竪川 (東京都)|竪川]]や[[大横川]]をはじめとする人工河川([[運河]])の掘削や南北割下水(わりげすい、現在の北斎通り近辺にあった)、碁盤目状の街路の整備が行われた。 ; 近・現代 [[1878年]]([[明治]]11年)に北部は[[東京府]][[南葛飾郡]]に編入され、南部は[[東京15区]]の一つ・本所区として成立するようになる。また、工業化の波が押し寄せることとなり、北部も南部も開発が進んでいくようになった。[[1894年]](明治27年)には、重要な交通手段である[[中央・総武緩行線|総武線]]が開業した。このように発展してきたが、[[1923年]]([[大正]]12年)の[[関東大震災]]により、区域の大半が焼失することとなった。特に、元[[大日本帝国陸軍|陸軍]]被服廠跡地(現在の[[横網町公園]]など)では、多くの人が避難をしたものの、猛火に遇い、4万人から5万人といわれる多大な焼死者を出した。 やがて、それらによる被害も復興していくようになり、[[1932年]](昭和7年)には、北部に向島区が誕生。[[1935年]]([[昭和]]10年)の[[国勢調査]]人口は、現在の墨田区域(当時の本所区と向島区の合計)で464,892人であり、隣の台東区区域(当時の[[浅草区]]と[[下谷区]]の合計)464,217人と共に、東京で最も人口が集中しているエリアであった。 しかし、[[第二次世界大戦]](特に[[1945年]]の[[東京大空襲]])により、またもや区内全土は大きく焼失した。[[1947年]](昭和22年)に本所区と向島区が合併して現在の墨田区が誕生した。[[1963年]](昭和38年)までは、町の復興および発展とともに人口が増加して昭和の下町の代表的な存在の街となった<ref>池田利道『23区格差』([[中公新書#中公新書ラクレ|中公新書ラクレ]])224頁</ref>。その後は頭打ちとなり減少し始めた。また、町工場も郊外や日本国外への移転などに伴い減少していくこととなった。 [[1981年]](昭和56年)[[4月1日]]は[[防災行政無線]]の運用を開始した。 近年では、これら[[工場]]跡地に[[マンション]]を建てるなどの開発が進められ、特に[[2000年]](平成12年)以降は人口が大きく増加(回復)している。 [[2016年]]([[平成]]28年)[[8月24日]]より防災行政無線の放送などが変更された。 == 町名 == 墨田区では全区において[[住居表示]]の実施が完了している。以下は住居表示実施後の町名と、当該住居表示実施直前の旧町名の一覧である。旧町名の後に「(全)」と注記したもの以外は当該旧町域の一部である。 ===墨田区役所区民課管内=== {|class="wikitable" style="width:100%" style="font-size:small" |+墨田区役所区民課管内(18町丁) ! style="width:15%"|町名 ! style="width:15%"|住居表示実施年月日 ! style="width:40%"|住居表示実施直前町名 ! style="width:25%"|備考 |- |{{ruby|'''[[吾妻橋 (墨田区)|吾妻橋]]'''|あづまばし}}'''一丁目''' |1966年10月1日 |吾妻橋1〜3(全) | |- |'''吾妻橋二丁目''' |1966年10月1日 |吾妻橋1〜3(全) | |- |'''吾妻橋三丁目''' |1966年10月1日 |吾妻橋1〜3(全) | |- |{{ruby|'''[[東駒形]]'''|ひがしこまがた}}'''一丁目''' |1966年10月1日 |東駒形1〜4(全) | |- |'''東駒形二丁目''' |1966年10月1日 |東駒形1〜4(全) | |- |'''東駒形三丁目''' |1966年10月1日 |東駒形1〜4(全) | |- |'''東駒形四丁目''' |1966年10月1日 |東駒形1〜4(全) | |- |{{ruby|'''[[本所 (墨田区)|本所]]'''|ほんじょ}}'''一丁目''' |1966年10月1日 |厩橋1〜4(全) | |- |'''本所二丁目''' |1966年10月1日 |厩橋1〜4(全) | |- |'''本所三丁目''' |1966年10月1日 |厩橋1〜4(全) | |- |'''本所四丁目''' |1966年10月1日 |厩橋1〜4(全) | |- |{{ruby|'''[[石原 (墨田区)|石原]]'''|いしわら}}'''一丁目''' |1966年10月1日 |石原町1〜4(全) | |- |'''石原二丁目''' |1966年10月1日 |石原町1〜4(全) | |- |'''石原三丁目''' |1966年10月1日 |石原町1〜4(全) | |- |'''石原四丁目''' |1966年10月1日 |石原町1〜4(全) | |- |{{ruby|'''[[亀沢 (墨田区)|亀沢]]'''|かめざわ}}'''一丁目''' |1966年10月1日 |亀沢町1〜4(全) | |- |'''亀沢二丁目''' |1966年10月1日 |亀沢町1〜4(全) | |- |'''亀沢三丁目''' |1966年10月1日 |亀沢町1〜4(全) | |- |'''亀沢四丁目''' |1966年10月1日 |亀沢町1〜4(全) | |- |{{ruby|'''[[横網]]'''|よこあみ}}'''一丁目''' |1966年10月1日 |横網(全) | |- |'''横網二丁目''' |1966年10月1日 |横網(全) | |- |} ===墨田区役所緑出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+墨田区役所緑出張所管内(14町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:15%"|町区域新設年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[緑 (墨田区)|緑]]'''|みどり}}'''一丁目''' |1967年5月1日 | |緑町1-4(全) | |- |'''緑二丁目''' |1967年5月1日 | |緑町1-4(全) | |- |'''緑三丁目''' |1967年5月1日 | |緑町1-4(全) | |- |'''緑四丁目''' |1967年5月1日 | |緑町1-4(全) | |- |{{ruby|'''[[両国 (墨田区)|両国]]'''|りょうごく}}'''一丁目''' |1967年5月1日 | |東両国1-4(全) | |- |'''両国二丁目''' |1967年5月1日 | |東両国1-4(全) | |- |'''両国三丁目''' |1967年5月1日 | |東両国1-4(全) | |- |'''両国四丁目''' |1967年5月1日 | |東両国1-4(全) | |- |{{ruby|'''[[立川 (墨田区)|立川]]'''|たてかわ}}'''一丁目''' |1967年7月1日 | |竪川1-4(全) | |- |'''立川二丁目''' |1967年7月1日 | |竪川1-4(全) | |- |'''立川三丁目''' |1967年7月1日 | |竪川1-4(全) | |- |'''立川四丁目''' |1967年7月1日 | |竪川1-4(全) | |- |{{ruby|'''[[千歳 (墨田区)|千歳]]'''|ちとせ}}'''一丁目''' |1967年7月1日 | |千歳町1-3(全) | |- |'''千歳二丁目''' |1967年7月1日 | |千歳町1-3(全) | |- |'''千歳三丁目''' |1967年7月1日 | |千歳町1-3(全) | |- |{{ruby|'''[[菊川 (墨田区)|菊川]]'''|きくかわ}}'''一丁目''' |1967年5月1日 | |菊川1-3(全) | |- |'''菊川二丁目''' |1967年5月1日 | |菊川1-3(全) | |- |'''菊川三丁目''' |1967年5月1日 | |菊川1-3(全) | |- |} ===墨田区役所 横川出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+墨田区役所横川出張所管内(15町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町区域新設年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[横川 (墨田区)|横川]]'''|よこかわ}}'''一丁目''' |1967年5月1日 | |横川橋1〜5(全)、平川橋1 | |- |'''横川二丁目''' |1967年5月1日 | |横川橋1〜5(全)、平川橋1 | |- |'''横川三丁目''' |1967年5月1日 | |横川橋1〜5(全)、平川橋1 | |- |'''横川四丁目''' |1967年5月1日 | |横川橋1〜5(全)、平川橋1 | |- |'''横川五丁目''' |1967年5月1日 | |横川橋1〜5(全)、平川橋1 | |- |{{ruby|'''[[江東橋]]'''|こうとうばし}}'''一丁目''' |1967年5月1日 | |江東橋1〜4(全)、柳原町(全) | |- |'''江東橋二丁目''' |1967年5月1日 | |江東橋1〜4(全)、柳原町(全) | |- |'''江東橋三丁目''' |1967年5月1日 | |江東橋1〜4(全)、柳原町(全) | |- |'''江東橋四丁目''' |1967年5月1日 | |江東橋1〜4(全)、柳原町(全) | |- |'''江東橋五丁目''' |1967年5月1日 | |江東橋1〜4(全)、柳原町(全) | |- |{{ruby|'''[[錦糸]]'''|きんし}}'''一丁目''' |1967年5月1日 | |錦糸町1〜4(全) | |- |'''錦糸二丁目''' |1967年5月1日 | |錦糸町1〜4(全) | |- |'''錦糸三丁目''' |1967年5月1日 | |錦糸町1〜4(全) | |- |'''錦糸四丁目''' |1967年5月1日 | |錦糸町1〜4(全) | |- |{{ruby|'''[[太平 (墨田区)|太平]]'''|たいへい}}'''一丁目''' |1967年5月1日 | |太平町1〜4(全) | |- |'''太平二丁目''' |1967年5月1日 | |太平町1〜4(全) | |- |'''太平三丁目''' |1967年5月1日 | |太平町1〜4(全) | |- |'''太平四丁目''' |1967年5月1日 | |太平町1〜4(全) | |- |{{ruby|'''[[業平]]'''|なりひら}}'''一丁目''' |1967年5月1日 | |業平橋1〜5(全)、平川橋2〜5(全)、平川橋1 | |- |'''業平二丁目''' |1967年5月1日 | |業平橋1〜5(全)、平川橋2〜5(全)、平川橋1 | |- |'''業平三丁目''' |1967年5月1日 | |業平橋1〜5(全)、平川橋2〜5(全)、平川橋1 | |- |'''業平四丁目''' |1967年5月1日 | |業平橋1〜5(全)、平川橋2〜5(全)、平川橋1 | |- |'''業平五丁目''' |1967年5月1日 | |業平橋1〜5(全)、平川橋2〜5(全)、平川橋1 | |- |} ===墨田区役所文花出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+墨田区役所文花出張所管内(25町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町区域新設年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[文花]]'''|ぶんか}}'''一丁目''' |1965年7月1日 | |吾嬬町西3(全)、吾嬬町西2・4、吾嬬町東1・3・5 | |- |'''文花二丁目''' |1965年7月1日 | |吾嬬町西3(全)、吾嬬町西2・4、吾嬬町東1・3・5 | |- |'''文花三丁目''' |1965年7月1日 | |吾嬬町西3(全)、吾嬬町西2・4、吾嬬町東1・3・5 | |- |{{ruby|'''[[立花 (墨田区)|立花]]'''|たちばな}}'''一丁目''' |1966年5月1日 | |吾嬬町東2・4(全)、吾嬬町東1・3・5・6 | |- |'''立花二丁目''' |1966年5月1日 | |吾嬬町東2・4(全)、吾嬬町東1・3・5・6 | |- |'''立花三丁目''' |1966年5月1日 | |吾嬬町東2・4(全)、吾嬬町東1・3・5・6 | |- |'''立花四丁目''' |1966年5月1日 | |吾嬬町東2・4(全)、吾嬬町東1・3・5・6 | |- |'''立花五丁目''' |1966年5月1日 | |吾嬬町東2・4(全)、吾嬬町東1・3・5・6 | |- |'''立花六丁目''' |1966年5月1日 | |吾嬬町東2・4(全)、吾嬬町東1・3・5・6 | |- |{{ruby|'''[[東墨田]]'''|ひがしすみだ}}'''一丁目''' |1966年5月1日 | |吾嬬町東7(全)、吾嬬町東6・8 | |- |'''東墨田二丁目''' |1966年5月1日 | |吾嬬町東7(全)、吾嬬町東6・8 | |- |'''東墨田三丁目''' |1966年5月1日 | |吾嬬町東7(全)、吾嬬町東6・8 | |- |} {{Reflist|group="c"}} ===墨田区役所墨田二丁目出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%;font-size:small" |+墨田区役所墨田二丁目出張所管内(20町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町区域新設年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[墨田]]'''|すみだ}}'''一丁目''' |1965年3月1日 | |隅田町3(全)、隅田町1・2・4、寺島町3・7、吾嬬町西9 | |- |'''墨田二丁目''' |1965年3月1日 | |隅田町3(全)、隅田町1・2・4、寺島町3・7、吾嬬町西9 | |- |'''墨田三丁目''' |1965年3月1日 | |隅田町3(全)、隅田町1・2・4、寺島町3・7、吾嬬町西9 | |- |'''墨田四丁目''' |1965年3月1日 | |隅田町3(全)、隅田町1・2・4、寺島町3・7、吾嬬町西9 | |- |'''墨田五丁目''' |1965年3月1日 | |隅田町3(全)、隅田町1・2・4、寺島町3・7、吾嬬町西9 | |- |{{ruby|'''[[堤通]]'''|つつみどおり}}'''一丁目''' |1964年7月1日 | |寺島町3、隅田町1・2 |当初は一〜三丁目があった。1978年3月1日、三丁目を二丁目に編入<ref name="machikuiki">[http://www.city.sumida.lg.jp/reiki_int/reiki_honbun/ag10802381.html 墨田区告示 町区域の新設等]</ref>。 |- |'''堤通二丁目''' |1964年7月1日 | |寺島町3、隅田町1・2 |当初は一〜三丁目があった。1978年3月1日、三丁目を二丁目に編入<ref name="machikuiki"/>。 |- |{{ruby|'''[[八広]]'''|やひろ}}'''一丁目''' |1965年12月1日 | |寺島町8(全)、吾嬬町西5〜8(全)、寺島町6、吾嬬町西9、隅田町4 | |- |'''八広二丁目''' |1965年12月1日 | |寺島町8(全)、吾嬬町西5〜8(全)、寺島町6、吾嬬町西9、隅田町4 | |- |'''八広三丁目''' |1965年12月1日 | |寺島町8(全)、吾嬬町西5〜8(全)、寺島町6、吾嬬町西9、隅田町4 | |- |'''八広四丁目''' |1965年12月1日 | |寺島町8(全)、吾嬬町西5〜8(全)、寺島町6、吾嬬町西9、隅田町4 | |- |'''八広五丁目''' |1965年12月1日 | |寺島町8(全)、吾嬬町西5〜8(全)、寺島町6、吾嬬町西9、隅田町4 | |- |'''八広六丁目''' |1965年12月1日 | |寺島町8(全)、吾嬬町西5〜8(全)、寺島町6、吾嬬町西9、隅田町4 | |- |} {{Reflist|group="d"}} ===墨田区役所東向島出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+墨田区役所東向島出張所管内(20町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町区域新設年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[東向島]]'''|ひがしむこうじま}}'''一丁目''' |1965年3月1日 | |寺島町5(全)、寺島町1・2・6・7、隅田町4 | |- |'''東向島二丁目''' |1965年3月1日 | |寺島町5(全)、寺島町1・2・6・7、隅田町4 | |- |'''東向島三丁目''' |1965年3月1日 | |寺島町5(全)、寺島町1・2・6・7、隅田町4 | |- |'''東向島四丁目''' |1965年3月1日 | |寺島町5(全)、寺島町1・2・6・7、隅田町4 | |- |'''東向島五丁目''' |1965年3月1日 | |寺島町5(全)、寺島町1・2・6・7、隅田町4 | |- |'''東向島六丁目''' |1965年3月1日 | |寺島町5(全)、寺島町1・2・6・7、隅田町4 | |- |{{ruby|'''[[向島 (墨田区)|向島]]'''|むこうじま}}'''一丁目''' |1964年7月1日 | |隅田公園、向島1〜3、向島須崎町、小梅2・3(以上全)、小梅1、向島請地町、寺島町1・2 | |- |'''向島二丁目''' |1964年7月1日 | |隅田公園、向島1〜3、向島須崎町、小梅2・3(以上全)、小梅1、向島請地町、寺島町1・2 | |- |'''向島三丁目''' |1964年7月1日 | |隅田公園、向島1〜3、向島須崎町、小梅2・3(以上全)、小梅1、向島請地町、寺島町1・2 | |- |'''向島四丁目''' |1964年7月1日 | |隅田公園、向島1〜3、向島須崎町、小梅2・3(以上全)、小梅1、向島請地町、寺島町1・2 | |- |'''向島五丁目''' |1964年7月1日 | |隅田公園、向島1〜3、向島須崎町、小梅2・3(以上全)、小梅1、向島請地町、寺島町1・2 | |- |{{ruby|'''[[押上]]'''|おしあげ}}'''一丁目''' |1964年7月1日 | |向島中ノ郷町(全)、向島押上町(全)、小梅1、向島請地町、吾嬬町西1・2、寺島町4 | |- |'''押上二丁目''' |1964年7月1日 | |向島中ノ郷町(全)、向島押上町(全)、小梅1、向島請地町、吾嬬町西1・2、寺島町4 | |- |'''押上三丁目''' |1965年7月1日 | |向島中ノ郷町(全)、向島押上町(全)、小梅1、向島請地町、吾嬬町西1・2、寺島町4 | |- |{{ruby|'''[[京島]]'''|きょうじま}}'''一丁目''' |1965年7月1日 | |寺島町4、吾嬬町西1・4 | |- |'''京島二丁目''' |1965年7月1日 | |寺島町4、吾嬬町西1・4 | |- |'''京島三丁目''' |1965年7月1日 | |寺島町4、吾嬬町西1・4 | |- |} {{Reflist|group="e"}} === 北部(旧向島区)=== ;{{ruby|[[墨田]]|すみだ}} :もと隅田町と寺島町。通称「鐘ヶ淵」は[[クラシエホールディングス|鐘紡]]発祥の地であり、クラシエに社名を変更した現在も鐘紡発祥の地として親しまれている。 ;{{ruby|[[堤通]]|つつみどおり}} :もと隅田町と寺島町。区北西部の隅田川沿い。[[白鬚東アパート]](通称「防災団地」)があり、区内最大規模の防災拠点となっている。 ;{{ruby|[[東墨田]]|ひがしすみだ}} :もと吾嬬町。北側は[[荒川放水路]]の土手に面し、東側は旧中川に面している{{sfn|墨田の町々|1980|p=70}}。 ;{{ruby|[[八広]]|やひろ}} :もと寺島町と吾嬬町。[[八広駅]]。住居表示以前の八つの丁目から現在の八広が成り立つことと、末広がりから町がより一層発展するようにということから名付けられた{{sfn|墨田の町々|1980|p=94}} ;{{ruby|[[東向島]]|ひがしむこうじま}} :もと寺島町。『[[濹東綺譚]]』の舞台。[[東武博物館]]所在地。ユートリヤすみだ生涯学習センターは旧向島区役所(旧墨田区第二庁舎)に位置する。 ;{{ruby|[[立花 (墨田区)|立花]]|たちばな}} :もと吾嬬町。橘通り商店街。[[東あずま駅]]。立花団地は、[[キャラコ]][[製織]]と[[東京モスリン]]紡織工場の跡地が[[建設省]]関東地方建設局用地となり、その後に再開発されたものである{{sfn|墨田の町々|1980|p=48}}。 ;{{ruby|[[文花]]|ぶんか}} :もと吾嬬町。向島警察署、[[小村井駅]]。文教施設が集中していたことと、[[吾嬬神社]]の主[[祭神]][[弟橘姫]]の立花の花を合わせて「文花」としたと言われている{{sfn|墨田の町々|1980|p=78}}。 ;{{ruby|[[京島]]|きょうじま}} :もと寺島町と吾嬬町。東京の「京」と向島の「島」を合わせた名前{{sfn|墨田の町々|1980|p=26}}。近年[[曳舟駅]]を中心に大規模な開発が行われている。 === 中央部(旧本所区・向島区)=== ;{{ruby|[[吾妻橋 (墨田区)|吾妻橋]]|あづまばし}} :[[墨田区役所|区役所]]、[[アサヒビール]]本社ビル、[[本所吾妻橋駅]]がある。浅草との間に吾妻橋が架かる。旧名・中之郷。 ;{{ruby|[[東駒形]]|ひがしこまがた}} :地名の由来は[[駒形橋]]からだと言われている{{sfn|墨田の町々|1980|p=66}}。駒形は台東区にある。 ;{{ruby|[[本所 (墨田区)|本所]]|ほんじょ}} :旧名・厩橋{{sfn|墨田の町々|1980|p=82}}。「厩」の字が[[当用漢字]]表に無かったため、住居表示上問題となり大元の地名に。大手日用品・化学品メーカーの[[ライオン (企業)|ライオン]]の本社ビルがある。 ;{{ruby|[[業平]]|なりひら}} :[[在原業平]]に由来。旧名は業平橋・平川橋であり、両者の合成とする説もある。また業平天神社があった場所を小梅業平町と名乗ったことからという説もある{{sfn|墨田の町々|1980|p=62}}。 ;{{ruby|[[横川 (墨田区)|横川]]|よこかわ}} :[[江戸城]]から見ての{{ruby|竪川|たてかわ}}に対する横川([[大横川]])が地名の由来とされる{{sfn|墨田の町々|1980|p=102}} ;{{ruby|[[向島 (墨田区)|向島]]|むこうじま}} :もと小梅町ほか。江戸時代末期、[[水戸藩]]御用商人の[[東京川崎財閥|川崎組]]が「とら銭」を鋳造した。本所区編入後は本所地区扱い。 ;{{ruby|[[押上]]|おしあげ}} :[[押上駅]]、東京スカイツリーおよび[[とうきょうスカイツリー駅]]、[[東武鉄道]]本社の所在地。旧本所区・向島区両者にまたがる。 === 南部(旧本所区)=== :{{ruby|[[横網]]|よこあみ}} :[[両国駅]]の北側。[[両国国技館]]がある。その連想で「[[横綱]]」と誤読される事がある。また、国技館の隣には[[江戸東京博物館]]がある。第一ホテル両国は旧本所区役所(旧墨田区第一庁舎)に位置する。 ;{{ruby|[[両国 (東京都)|両国]]|りょうごく}} :[[両国駅]]の南側。元々は日本橋両国(現:[[中央区 (東京都)|中央区]][[東日本橋]])に対して東両国と言った。旧国技館(のちの[[日本大学|日大]]講堂。現在は取り壊されてシティコア)、[[吉良義央|吉良]]邸屋敷跡の本所松坂町公園がある。 ;{{ruby|[[千歳 (墨田区)|千歳]]|ちとせ}} :隣接の[[相生]]、[[松井]]、[[松坂]]、[[緑]]などの名が[[祝詞]]につながるところから千歳と命名された{{sfn|墨田の町々|1980|p=54}}。[[江島杉山神社]]、[[要津寺]]がある{{sfn|墨田の町々|1980|p=54-57}}。 ;{{ruby|[[石原 (墨田区)|石原]]|いしわら}} :[[蔵前橋通り]]を中心に、西に[[清澄通り]]、東は[[大横川]]まである{{sfn|墨田の町々|1980|p=10}}。地名は本所地域では古く、『[[長禄江戸図]]』にも本所の地域に「石原」と書かれている{{sfn|墨田の町々|1980|p=10}}。 ;{{ruby|[[亀沢 (墨田区)|亀沢]]|かめざわ}} :[[江川太郎左衛門]]の江戸屋敷があった{{sfn|墨田の町々|1980|p=18}}。この地域には鉄材・機械・メリヤス関係の店が集中していた{{sfn|墨田の町々|1980|p=18}}。 ;{{ruby|[[緑 (墨田区)|緑]]|みどり}} :[[明暦]]の本所開拓によって整地された地域である{{sfn|墨田の町々|1980|p=86}}。[[斎藤緑雨]]は緑町の緑をとって号とした{{sfn|墨田の町々|1980|p=86}}。緑一丁目から四丁目までが設置されている。 ;{{ruby|[[立川 (墨田区)|立川]]|たてかわ}} :かつては竪川と表記、[[江戸城]]から見て縦になっているため、竪川と名付けられた{{sfn|墨田の町々|1980|p=50}}。[[葛飾北斎]]の作品『竪川』にあるように、江戸時代は木場に続く材木の町であった{{sfn|墨田の町々|1980|p=53}}。[[元禄赤穂事件]]において[[吉良義央]]を狙った[[赤穂浪士]]がこの辺り伝えられる。 ;{{ruby|[[菊川 (墨田区)|菊川]]|きくかわ}} :区最南部。[[遠山景元]]/[[長谷川宣以]]の住居跡がある。 ;{{ruby|[[太平 (墨田区)|太平]]|たいへい}} :[[錦糸町駅]]の北側。錦糸よりも北側。2006年、[[精工舎]]跡地に大型商業施設[[オリナス]]が完成。隣接して[[錦糸公園]]と[[墨田区総合体育館]]がある。 ;{{ruby|[[錦糸]]|きんし}} :[[錦糸町駅]]の北側。商業施設[[アルカキット錦糸町]]、[[東武ホテル]]、[[すみだトリフォニーホール]]がある。[[錦糸町]]と呼ばれる一帯の一部。 ;{{ruby|[[江東橋]]|こうとうばし}} :錦糸町駅の南側。一帯は[[東京楽天地]]を中心とした古くからの歓楽街。[[丸井]]、[[パルコ|PARCO]]などのデパートが並ぶ。錦糸町と呼ばれる一帯の中心。おいてけ堀(錦糸堀)伝説発祥の地。[[ラブホテル]]や[[風俗店]]などが多く立ち並ぶ。 == 地域 == === 各種イベント === * [[隅田川花火大会]] - 毎年7月開催 * [[国技館5000人の第九コンサート]] - 毎年2月開催 * [[早慶レガッタ]] - 毎年4月開催 ** 川の多い地域とあって、ボート競技(レガッタ)が盛んである。[[早慶レガッタ]]の他、地元中学をはじめ各地のボートクラブが参加する大会も、毎年8月に開催される。 * 墨堤さくらまつり - 毎年3月下旬〜4月上旬。[[瀧廉太郎]]の代表作「[[花 (瀧廉太郎)|花]]」にも謳われた、墨堤の美しい桜を楽しめる。 === 名物 === * [[ガラス|硝子]] - ガラス器・ガラス瓶の製造、ガラス加工([[江戸切子]]他) * [[言問団子]] - [[向島 (墨田区)|向島]]にある有名な老舗の和菓子店。外山惠理の実家としても知られている。 * 長命寺の[[桜もち]] - [[向島 (墨田区)|向島]]にある[[長命寺 (墨田区)|長命寺]]の門前で[[1717年]]([[享保]]2年)に山本新六が売り始めて以来の名物に。長命寺餅とも。[[関東地方]]など近隣エリアでは一般には桜もちといえば、道明寺を使ったものではなくこの長命寺餅の方を指す。 === 「介護」発祥の地 === * 「[[介護]]」は墨田区内にあるオムツ会社[[フットマーク|フットマーク株式会社]]が、日本で初めて公に使用し、[[商標登録]]した言葉である。ちなみに、日本で最初にこの言葉が使われたのは、1892年の陸軍軍人傷痍疾病恩給等差例であるとされている。 === 郵便番号 === * [[郵便番号]]は区内全域が130番代で、墨田区では、'''130'''、'''131'''に分かれる。 ** 130-XXXX [[本所郵便局]] ** 131-XXXX [[向島郵便局]] === 市外局番 === * 墨田区は全域が'''「03」'''である。 *「03」地域の市内局番は大半が上から2桁目が'''「6」'''(36XX、56XX、66XX)となっているが、同じく「6」が使われる[[江戸川区]]、[[江東区]]、[[葛飾区]]同様に枯渇対策で最近では'''「8」'''(38XX、58XX、68XXなど)も割り当てられている。 === メディア === * [[J:COM すみだ・台東|ジェイコム東京すみだ局]](J:COMすみだ) === ナンバープレート === 墨田区は、足立ナンバー([[東京運輸支局]])を割り当てられており、『23区東部』の地域と一致する。 ;足立ナンバー割り当て地域 *台東区・江戸川区・足立区・墨田区・荒川区<ref>[https://wwwtb.mlit.go.jp/kanto/s_tokyo/map_riku.html 関東運輸局 東京運輸支局:管轄区域図]</ref>。 == 名所・旧跡・観光スポット == [[File:Ryogoku Great Sumo Hall.jpg|thumb|両国国技館]] [[ファイル:Edo-Tokyo Museum 2019.jpg|サムネイル|江戸東京博物館]] === 名所 === * [[水の郷百選]] - 水とともに生きる“川の手” すみだ * [[東京スカイツリー]] * [[東京ミズマチ]] * [[東京都江戸東京博物館|江戸東京博物館]] * [[両国国技館]] * [[東京都慰霊堂]] * [[すみだ郷土文化資料館]] * [[東武博物館]] * [[NTTドコモ歴史展示スクエア]] * [[セイコーミュージアム]] * [[たばこと塩の博物館]] === 旧跡 === [[File:Kyu yasuda garden.jpg|thumb|旧安田庭園]] * [[回向院]] * [[霊山寺 (墨田区)|霊山寺]] * [[法恩寺 (墨田区)|法恩寺]] * [[三囲神社]] * [[本所松坂町公園]]([[吉良義央|吉良上野介]]邸宅跡地) * [[旧安田庭園]] * [[向島百花園]] * [[東京都慰霊堂]] - 関東大震災で亡くなった38000人余りの霊が祀られている。本所被服廠跡地に慰霊のために作られたが、東京大空襲で亡くなった者も現在では合祀されている。 * [[遠山景元|遠山金四郎]] - 下屋敷跡地現在の菊川3丁目信号西側の北側にあった。碑などはない。 * [[隅田川七福神]] * [[立花大正民家園 旧小山家住宅]] - 江戸近郊農家と町屋の特徴をあわせもつ古民家。墨田区指定文化財。 === 公園 === * [[横網町公園]] * [[隅田公園]] * [[錦糸公園]] * [[大横川親水公園]] * 若宮公園 * 緑町公園 * 白髭公園 == 行政 == === 区長 === * 区長:[[山本亨 (政治家)|山本亨]](やまもと とおる)(3期目) * 任期:2023年(令和5年)4月27日 - 2027年(令和9年)4月26日<ref>{{Cite web|和書|title=任期満了日(定数)一覧 {{!}} 東京都選挙管理委員会 |url=https://www.senkyo.metro.tokyo.lg.jp/election/schedule/expiration/ |website=www.senkyo.metro.tokyo.lg.jp |access-date=2023-05-02}}</ref> === 行政機構 === * 区職員数:1,943人(2013年4月1日) === 災害対策 === * [[東京都都市整備局]]第6回地域危険度測定調査結果(平成20年)によると、震災時の「建物倒壊危険度」では東京都5099丁目の内、墨田区京島二丁目がワースト1位、2位に[[竜泉 (台東区)|台東区竜泉]]三丁目、3位に墨田区墨田三丁目、4位に墨田区東駒形二丁目と墨田区がトップを占めている(ワースト5位から9位は他区)。また、ワーストランキング100地区(丁目)の内、墨田区が22地区を占めており東京都内で墨田区が最も建物倒壊危険度が高いとされている。但し、墨田区全地区が地震に脆弱であるとは言えない。これは、一部地区は戦後に建てられた古くからの[[木造建築]]が多く、また建物の密度が高いためとされる。墨田区では[[ジュピターテレコム]]に緊急地震速報サービスを発注しており、2008年9月1日より稼働する見込みである。 * [[路地尊]] - 地域防災のため、区内各地おもには一言地域で[[ポケットパーク]]などを設け地下タンクを設置し、雨水を貯めている。防災用水のほか、日常の草木への水遣りにも活用されている<ref>{{PDFlink|[http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00037/2004/770-0001.pdf]}} {{PDFlink|[http://www.skywater.jp/wp-content/uploads/2016/01/sumidaamamizusanpo_rojisonmap2.pdf]}} {{PDFlink|[http://www.n-bouka.or.jp/local/pdf/2016_10_32.pdf]}} {{PDFlink|[http://www.kinzoku-yane.or.jp/technical/pdf/special-9.pdf]}} {{PDFlink|[http://www2.ges.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/2014/04/331.pdf]}}</ref>。 * 白鬚防災団地 - 震災などで大火発生した場合は建物自体が防火壁となる様に設計させた南北1km以上に渡って連なった高層住宅。火災時は建物開口部はシャッター閉鎖され、建物隙間は壁で塞がれ、屋上から建物冷却のため放水が行われる。 === 財政 === 平成25年度当初予算規模 * 総額:1,527.13億円 ** 一般会計:1,007.80億円 ** 国民健康保険特別会計:298.68億円 ** 介護保険特別会計:174.03億円 ** 後期高齢者医療特別会計:46.62億円 === 自治体交流 === ==== 日本国内 ==== * {{Flagicon|山形県}} [[山形県]][[東置賜郡]][[高畠町]] ** 小学生の相互体験学習 * {{Flagicon|長野県}} [[長野県]][[上高井郡]][[小布施町]] ** 友好都市、小学生の相互体験学習など ==== 日本国外 ==== * {{Flagicon|KOR}} [[ソウル特別市]][[西大門区]] ** [[2003年]][[10月3日]]友好都市協定締結 * {{Flagicon|CHN}} [[北京市]][[石景山区]] ** [[1997年]][[12月13日]]友好交流・協力協定締結 ==== その他 ==== * 災害対策に関する協定 ** 都市ごとの協定:東京都[[台東区]]・[[江東区]]、[[栃木県]][[鹿沼市]]、[[山形県]][[鶴岡市]]・[[高畠町]] ** 義士親善友好都市交流会議(災害応急対策活動の相互応援に関する協定) ** 防災サミット参加自治体 == 議会 == === 墨田区議会 === {{main|墨田区議会}} === 東京都議会 === {{Main|2021年東京都議会議員選挙}} * 選挙区:墨田区選挙区 * 定数:3人 * 任期:2021年7月23日 - 2025年7月22日 * 投票日:2021年7月4日 * 当日有権者数:227,703人 * 投票率:44.04% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 成清梨沙子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 31 || [[都民ファーストの会]] || style="text-align:center" | 現 || 23,455票 |- | 川松真一朗 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 40 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 19,763票 |- | 加藤雅之 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 56 || [[公明党]] || style="text-align:center" | 現 || 19,526票 |- | 伊藤大気 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 42 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 新 || 15,755票 |- | 桜井浩之 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 55 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 元 || 13,386票 |- | 大沢昇 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 56 || 国民民主党 || style="text-align:center" | 元 || style="text-align:right" | 6,610票 |} === 衆議院 === * 選挙区:[[東京都第14区|東京14区]](台東区の一部、墨田区、[[荒川区]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 投票日:2021年10月31日 * 当日有権者数:465,702人 * 投票率:55.96% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- | style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[松島みどり]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 65 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 108,681票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○ |- | || [[木村剛司]] || style="text-align:center;" | 50 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center;" | 元 || style="text-align:right;" | 80,932票 || style="text-align:center;" | ○ |- | || 西村恵美 || style="text-align:center;" | 58 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 49,517票 || style="text-align:center;" | ○ |- | || 梁本和則 || style="text-align:center;" | 58 || [[無所属]] || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 5,845票 || |- | || 竹本秀之 || style="text-align:center;" | 65 || 無所属 || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 3,364票 || |- | || 大塚紀久雄 || style="text-align:center;" | 80 || 無所属 || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 2,772票 || |} == 産業 == [[1909年]]([[明治]]42年)から[[1937年]](昭和12年)にかけて区内に屠畜場があり、木下川(現在の[[東墨田]])地区を中心に、主として豚皮を扱う[[皮革]]産業が発展した。[[ラード|豚脂]]などを扱う油脂産業や[[動物性脂肪|動物性油脂]]を原料とする[[石鹸]]産業も盛んで、[[大正|大正時代]]には長瀬商店([[花王]]の前身)、[[ライオン (企業)|ライオン石鹸]]、[[資生堂]]、[[ミヨシ石鹸]]の4大石鹸メーカーが区内に立地した<ref>{{Cite book|和書 |editor = 木下川沿革史研究会 |year = 2005 |title = 木下川地区のあゆみ・戦後編 |publisher = 現代企画室 |pages = 73-74 |isbn = 4-7738-0503-X}}</ref>。1985年から、「ものづくりのまち すみだ」の産業と文化をPRするべく、「すみだ3M運動」を展開している<ref>{{Cite web|和書|title=「3M」運動の推進 |url=https://www.city.sumida.lg.jp/sangyo_jigyosya/sangyo/pr_brand_hyousyo/sumida3m/index.html |website=www.city.sumida.lg.jp |access-date=2022-05-15 |publisher=墨田区}}</ref>。 === 主な事業所 === * [[アサヒグループホールディングス]] - [[ビール]]などの酒類や清涼飲料水、食品などの事業会社を子会社に置く持株会社。吾妻橋の隅田川のたもと、区役所の隣に本社を持つ。元々、この地には札幌麦酒(現在の[[サッポロビール]])の[[工場]]として建てられ、後に[[大日本麦酒]]を経て、[[戦後]]の大日本麦酒の分割によりアサヒビールの所属となり、[[1985年]]の閉鎖までビールを作り続けていた。その跡地の一角に建てられたのがアサヒビール本社ビルである。ビールの注がれたグラスをモチーフとしたオフィス棟、[[スーパードライホール|その隣には巨大な火の玉の様なオブジェ(聖火をモチーフ)を頂いた棟]]があり、ランドマークとなっている。 ** [[アサヒグループジャパン]] - アサヒグループホールディングスにおいて、国内事業を統括する中間持株会社 *** [[アサヒビール]] - 上記の事業子会社 *** [[ニッカウヰスキー]] - 同上(登記上本店は[[北海道]][[余市郡]][[余市町]]) *** [[アサヒ飲料]] - 同上 **** [[カルピス]] - 同上 *** [[アサヒグループ食品]] - 同上 * [[東武鉄道]] - 大手鉄道会社。押上に本社がある。業平橋駅(現・[[とうきょうスカイツリー駅]])横にあった旧本社近くに架かる橋は東武橋(管理は墨田区)。 * [[京成電鉄]] - 大手鉄道会社。2013年9月まで押上に本社があったが、[[千葉県]][[市川市]]に移転。本社近くにかかる橋は京成橋(管理は[[東京都]])。 * [[ライオン (企業)|ライオン]] - [[歯磨剤]]、[[洗剤]]などの総合[[日用品]]メーカー。本所に本社がある。2023年に本社を[[台東区]][[蔵前]]に移転した。 * [[アメリカンホーム保険会社]] - 錦糸に日本の本社がある(AIGタワー21階)。 * [[メットライフ生命保険]] - 旧メットライフアリコ生命保険。太平に本社がある(オリナスタワー)。 * [[イチジク製薬]] - 「イチジク浣腸」で知られる製薬会社。東駒形に本社がある。 * [[小森コーポレーション]] - 吾妻橋に本社がある。 * [[ペッパーフードサービス]] - 外食チェーン[[いきなり!ステーキ]]を展開。太平に本社がある。 * [[日本たばこ産業]] - 横川に生産技術センターがある。 ** [[日本フィルター工業]] - 上記の事業子会社 * [[花王]] - 文花に研究所および関連会社がある。 * [[大林道路]] - 堤通に本社がある。 * 三井金属エンジニアリング - [[三井金属]]の子会社。両国に本社がある。 * [[ダイショー]] - 「味・塩こしょう」などの[[調味料]]メーカー。亀沢に本社がある。 * [[昭和建産]] - [[三和シヤッター工業]]グループのうちの一社。 * [[ヒノデワシ]] - [[消しゴム]]のトップメーカー。東向島に本社がある。 * [[浜野製作所]] - 八広に本社がある金属加工の町工場。深海探査艇「江戸っ子1号」、電気自動車「HOKUSAI」などを製作。 * [[ナガセケンコー]] - 軟式野球ボール、ソフトボール、ソフトテニスボールの製造で日本一のメーカー。墨田区墨田に本社がある。 * [[玉の肌石鹸]] - 中堅の石鹸メーカー。緑に本社がある。2008年4月1日、かつて存在した[[ミツワ石鹸]]を100パーセント子会社として設立し、33年ぶりにミツワブランドの石鹸を売り出す。 * [[高久産業]] - 主に発泡プラスチック製品の製造、販売を行っているメーカー。墨田区向島に本社がある。 * [[NSファーファ・ジャパン]] - 中堅の石鹸メーカー。菊川に本社がある。旧・ニッサン石鹸。2007年6月、[[大阪市]][[鶴見区 (大阪市)|鶴見区]]から本社機能を移転。 * [[ジェイアール東日本物流]] - [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)子会社。錦糸に本社がある(アルカイースト6階)。 * [[富士ソフトサービスビューロ]] - [[ビジネス・プロセス・アウトソーシング|BPO]]事業を主業務とする企業。江東橋に本社がある。 * [[報知新聞社]] - [[読売新聞グループ本社|読売グループ]]の新聞社。横網に東京本社がある。[[スポーツ新聞|スポーツ紙]]『[[スポーツ報知]]』(正式題号「[[報知新聞]]」)の発行元。2022年6月、東京都[[港区 (東京都)|港区]][[港南 (東京都港区)|港南]]から両国国技館隣のビル([[日本相撲協会]]所有)に移転。 == 交通 == === 鉄道 === *区役所最寄り駅:本所吾妻橋駅 ; [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) : [[File:JR JB line symbol.svg|17px|JB|left]] [[中央・総武緩行線|総武線各駅停車]]([[総武本線]]) ::* [[錦糸町駅]] - [[両国駅]] : [[File:JR JO line symbol.svg|17px|JO|left]] [[総武快速線]] ::* 錦糸町駅 ; [[京成電鉄]] : [[File:Number prefix Keisei.svg|17px|KS|left]] [[京成押上線|押上線]] ::* [[押上駅]] - [[京成曳舟駅]] - [[八広駅]] ; [[東武鉄道]] : [[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|17px|TS|left]] [[東武伊勢崎線|伊勢崎線]](東武スカイツリーライン) ::* [[とうきょうスカイツリー駅]] - [[曳舟駅]] - [[東向島駅]] - [[鐘ヶ淵駅]] ::* 押上駅 - 曳舟駅 : [[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|17px|TS|left]] [[東武亀戸線|亀戸線]] ::* [[東あずま駅]] - [[小村井駅]] - 曳舟駅 ; [[東京地下鉄]](東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|17px|Z|left]] [[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]] ::* 錦糸町駅 - 押上駅 ; [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]]) : [[File:Toei Asakusa line symbol.svg|17px|A|left]] [[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]] ::* [[本所吾妻橋駅]] - 押上駅 : [[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|17px|S|left]] [[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]] ::* [[菊川駅 (東京都)|菊川駅]] : [[File:Toei Oedo line symbol.svg|17px|E|left]] [[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]] ::* 両国駅 === 路線バス === * [[都営バス]] * [[京成バス]] ** 東京スカイツリータウン・錦糸町駅 - [[葛西駅]]・[[東京ディズニーリゾート]](東武バスセントラルと共同運行) * [[京成タウンバス]] ** 有01系統:[[寿 (台東区)|浅草寿町]] - 東京スカイツリータウン前 - [[亀有駅]] ** 新小59系統:浅草寿町 - 東京スカイツリータウン前 - 新小岩駅 * [[東武バスセントラル]] ** 東京スカイツリータウン - 浅草雷門 - [[上野駅]]公園口 ** 東京スカイツリータウン・錦糸町駅 - 葛西駅・東京ディズニーリゾート([[京成バス]]と共同運行) ** 東京スカイツリータウン・錦糸町駅 - [[東京国際空港|羽田空港]]([[京浜急行バス]]と共同運行) * [[東京空港交通]] ** 羽田空港 - 東武ホテルレバント東京 ** [[成田国際空港|成田空港]] - 東武ホテルレバント東京 === コミュニティバス === 2012年3月20日より、東京スカイツリー周辺を中心とし、区内全域を巡回する[[コミュニティバス]]「すみだ百景 すみまるくん・すみりんちゃん」を運行している。{{main|墨田区内循環バス}} * 墨田区循環バス「すみだ百景 すみまるくん・すみりんちゃん」([[京成バス]]が運行) ** 南部ルート:押上駅 - 錦糸町駅北口 - 都営両国駅 - 墨田区役所 - 押上駅 ** 北東部ルート:押上駅 - 東あずま駅 - 八広 - 押上駅 ** 北西部ルート:押上駅 - 曳舟文化センター - 鐘ヶ淵駅 - 東京スカイツリータウン - 押上駅 === 水上バス === * [[東京都公園協会]] ** [[東京水辺ライン]] *** [[両国発着場]] === 道路 === * [[首都高速道路|首都高速]] ** [[首都高速6号向島線|6号向島線]] *** [[駒形出入口]] - [[向島出入口]] - [[堤通出入口]] ** [[首都高速7号小松川線|7号小松川線]] *** [[錦糸町出入口]] * [[一般国道]] ** [[国道6号]]([[水戸街道]]) *** [[四ツ木]]・[[松戸市|松戸]]・[[柏市|柏]]・[[我孫子市|我孫子]]・[[取手市|取手]]・[[土浦市|土浦]]・[[石岡市|石岡]]・[[水戸市|水戸]]方面 ** [[国道14号]]([[京葉道路]]) *** [[亀戸]]・[[市川市|市川]]・[[船橋市|船橋]]・[[習志野市|習志野]]・[[千葉市|千葉]]方面 * [[都道府県道|都道]] ** [[東京都道461号吾妻橋伊興町線|墨堤通り]]、[[清澄通り]]、[[三ツ目通り]]、[[東京都道465号深川吾嬬町線]](四ツ目通り)、[[明治通り (東京都)|明治通り]]、[[浅草通り]]、[[春日通り]]、[[蔵前橋通り]] == 公共機関 == === 司法・行政機関 === * [[東京簡易裁判所]]墨田庁舎(錦糸4-16-7) * [[東京区検察庁]]道路交通部墨田分室(東京簡易裁判所墨田庁舎内) * 向島労働基準監督署(東向島4-33-13) * 墨田公共職業安定所 === 警察 === ; [[警視庁]]交通執行課墨田分室(東京簡易裁判所墨田庁舎内) ; [[向島警察署]](文花3-18-9) {{columns-list|colwidth=15em| * 堤通交番 * 東向島交番 * 曳舟交番 * 鐘ヶ淵交番 * 京島二丁目交番 * 京島三丁目交番 * 小村井交番 * 白鬚橋交番 * 墨田三丁目交番 * 八広四丁目交番 * 四ツ木橋交番 * 平井橋交番}} ; [[本所警察署]](横川4-8-9) {{columns-list|colwidth=15em| * 両国交番 * 菊川二丁目交番 * 江東橋交番 * 錦糸町駅北口交番 * 錦糸町駅南口交番 * 横川交番 * 押上駅前交番 * 吾妻橋交番 * 横網交番 * 言問交番 * 向島交番 * 石原三丁目交番}} === 消防 === ;[[東京消防庁]] * [[本所消防署]](横川4-6-6)[[特別消火中隊]]・[[救急隊]]1 ** 緑出張所(緑4-1-8)救急隊1 ** 小梅出張所(向島3-36-12)救急隊無 ** 東駒形出張所(東駒形3-5-8)救急隊1 * [[向島消防署]](東向島6-22-3)消防活動二輪部隊・救急隊1 ** 墨田出張所(墨田5-16-2)特別消火中隊・救急隊1 ** 立花出張所(立花5-9-3)救急隊1 * [[本所防災館]](横川4-6-6) === 主な医療機関 === ==== 東京都災害拠点病院 ==== * [[東京都立墨東病院]](江東橋4-23-15) * 医療法人社団伯鳳会[[東京曳舟病院]](東向島2-27-1) ==== 東京都指定二次救急医療機関 ==== {{columns-list|colwidth=30em| * 医療法人社団明人会田島病院(両国2-21-1) * 医療法人財団正明会山田記念病院(石原2-20-1) * 医療法人社団墨田中央病院(京島3-67-1) * [[東京都済生会向島病院]](八広1-5-10) * 医療法人社団仁寿会中村病院(八広2-1-3) * 社会福祉法人賛育会[[賛育会病院]](太平3-20-2) * [[同愛記念病院]](横網2-1-11) *(東京都災害拠点病院の2病院も含む) }} ==== 医院・診療所・クリニック ==== * 両国みどりクリニック(緑1-19-9) === 図書館 === 墨田区内には、墨田区が運営する以下の[[墨田区立図書館|図書館]]がある。 {{columns-list|colwidth=15em| * ひきふね図書館 * 緑図書館 * 八広図書館 * 立花図書館 * 横川コミュニティ会館図書室 * 東駒形コミュニティ会館図書室 * 梅若橋コミュニティ会館図書室}} === 文化施設 === * [[すみだトリフォニーホール]]:[[新日本フィルハーモニー交響楽団]]のフランチャイズ。所在地は錦糸1-2-3。 * 曳舟文化センター(京島1-38-11) * すみだリバーサイドホール:墨田区役所内(吾妻橋1-23-20) == 住宅団地 == {{columns-list|colwidth=20em| * リバーピア吾妻橋周辺地区 * 錦糸町団地(江東橋 市街地住宅 賃貸70 1961年 現存 譲渡返還) * 墨田一丁目第2団地(日建設計・日建ハウジングシステム、東京都、工場跡地再開発) * 都営墨田一丁目第2アパート(墨田 1-4) * 都営墨田四丁目アパート(墨田 4-19) * 都営立花一丁目アパート(立花 1-27) * 都営立花三丁目アパート(立花 3-24) * 都営立花四丁目アパート(立花 4-30) * 都営立花六丁目アパート(立花 6-8) * 都営押上二丁目アパート(押上 2-1) * 都営横川五丁目アパート(横川 5-2) * 都営横川五丁目第2アパート(横川 5-9) * 都営業平一丁目アパート(業平 1-7) * 都営錦糸一丁目アパート(錦糸 1-17) * 都営江東橋四丁目アパート(江東橋 4-30) * 都営太平南アパート(太平 14-2) * 都営堤通一丁目アパート(堤通 1-16) * 都営第2寺島アパート(堤通 1-18) * 都営白鬚東アパート(堤通 2-8) * 都営東向島五丁目アパート(東向島 5-16) * 都営東墨田二丁目アパート(東墨田 2-7) * 都営八広三丁目アパート(八広 3-21) * 都営八広五丁目アパート(八広 5-10) * 都営文花一丁目アパート(文花 1-30) * 都営文花一丁目第2アパート(文花 1-32) }} == 教育機関 == === 大学 === * [[レイクランド大学ジャパン・キャンパス]] * [[千葉大学]]墨田[[サテライトキャンパス]] * [[千葉工業大学]]東京スカイツリータウンキャンパス * [[情報経営イノベーション専門職大学]] 墨田区は大学の誘致および大学相互や地域との連携促進に取り組んでおり、千葉大学と情報経営イノベーション専門職大学の間に公園「キャンパスコモン」を2023年3月12日に開設した<ref>「[https://www.tokyo-np.co.jp/article/235017 墨田区 大学と地域の交流空間 12日オープン]」『[[東京新聞]]』朝刊2023年3月10日(都心面)2023年3月20日閲覧</ref>。 === 専門学校 === *[[学校法人立志舎]] **[[東京IT会計専門学校]]錦糸町校 **[[東京法律専門学校]]錦糸町校 **[[専門学校日本スクールオブビジネス21|専門学校日本鉄道&スポーツビジネスカレッジ21]]<ref group="注釈">2020年4月1日「専門学校日本スクールオブビジネス21」より校名変更。</ref> * [[学校法人了徳寺学園]] ** 了徳寺医療専門学校 === 高等学校 === ; [[東京都立高等学校]] * [[東京都立両国高等学校・附属中学校|両国高等学校]] * [[東京都立墨田川高等学校|墨田川高等学校]] * [[東京都立本所高等学校|本所高等学校]] * [[東京都立日本橋高等学校|日本橋高等学校]] * [[東京都立橘高等学校|橘高等学校]] ; [[私立学校|私立高等学校]] * [[安田学園中学校・高等学校|安田学園高等学校]] * [[日本大学第一中学校・高等学校|日本大学第一高等学校]] * [[鹿島学園高等学校]]両国キャンパス * [[立志舎高等学校]] * [[精華学園高等学校]]探究アカデミー東京校 === 中学校 === ; 公立中学校 * 墨田区立中学校 ** [[墨田区立墨田中学校|墨田中学校]] ** [[墨田区立本所中学校|本所中学校]] ** [[墨田区立両国中学校|両国中学校]] ** [[墨田区立竪川中学校|竪川中学校]] ** [[墨田区立錦糸中学校|錦糸中学校]] ** [[墨田区立吾嬬第二中学校|吾嬬第二中学校]] ** [[墨田区立寺島中学校|寺島中学校]] ** [[墨田区立文花中学校|文花中学校]] ** [[墨田区立桜堤中学校|桜堤中学校]] ** [[墨田区立吾嬬立花中学校|吾嬬立花中学校]] * 東京都立中学校 ** [[東京都立両国高等学校・附属中学校|両国高等学校附属中学校]] ; 私立中学校 * [[日本大学第一中学校・高等学校|日本大学第一中学校]] * [[安田学園中学校・高等学校|安田学園中学校]] === 幼小併設校 === ; 墨田区立幼稚園・小学校 * [[墨田区立第三寺島幼稚園|第三寺島幼稚園]]・[[墨田区立第三寺島小学校|第三寺島小学校]] * [[墨田区立八広幼稚園|八広幼稚園]]・[[墨田区立八広小学校|八広小学校]] * [[墨田区立両国幼稚園|両国幼稚園]]・[[墨田区立両国小学校|両国小学校]] * [[墨田区立曳舟幼稚園|曳舟幼稚園]]・[[墨田区立曳舟小学校|曳舟小学校]] === 小学校 === ; 墨田区立小学校 * [[墨田区立緑小学校]] * [[墨田区立外手小学校]] * [[墨田区立二葉小学校]] * [[墨田区立錦糸小学校]] * [[墨田区立中和小学校]] * [[墨田区立言問小学校]] * [[墨田区立小梅小学校]] * [[墨田区立柳島小学校]] * [[墨田区立業平小学校]] * [[墨田区立横川小学校]] * [[墨田区立菊川小学校]] * [[墨田区立第三吾嬬小学校]] * [[墨田区立第四吾嬬小学校]] * [[墨田区立第一寺島小学校]] * [[墨田区立第二寺島小学校]] * [[墨田区立中川小学校]] * [[墨田区立東吾嬬小学校]] * [[墨田区立押上小学校]] * [[墨田区立隅田小学校]] * [[墨田区立立花吾嬬の森小学校]] * [[墨田区立梅若小学校]] === 幼稚園 === ==== 墨田区立 ==== * 緑幼稚園 * 柳島幼稚園 * 菊川幼稚園 * 立花幼稚園 ==== 私立幼稚園 ==== * 両国幼稚園 * 江東区学園幼稚園 * 本所白百合幼稚園 * 言問幼稚園 * 墨田幼稚園 * あさひ幼稚園 * 吾妻幼稚園 * あづま幼稚園 * 向島文化幼稚園 === 特別支援学校 === ; 東京都立[[特別支援学校]] * [[東京都立墨田特別支援学校|墨田特別支援学校]] == 出身有名人 == {{main2|旧本所区の出身者|本所区|旧向島区の出身者|向島区}} {{columns-list|colwidth=20em| * [[青木愛 (政治家)|青木愛]] - 参議院議員、元衆議院議員、元[[タレント]] * [[いかりや長介]]([[ザ・ドリフターズ]])- [[俳優]]、[[コメディアン]] * [[池内淳子]] - [[俳優#性別での分類|女優]] * [[大橋巨泉]] - タレント、元参議院議員 * [[木の実ナナ]] - 女優、[[歌手]] * [[小川宏]] - 元[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー、その後フリー司会者 * [[鈴木健二]] - 元NHKアナウンサー * [[高松しげお]] - 俳優、[[声優]]、[[漫談家]] * [[丹阿弥谷津子]] - 女優 * [[真山勇一]] - 参議院議員、元ニュースキャスター * [[黒部幸英]] - タレント * [[福井晴敏]] - [[小説家]] * [[広井王子]] - [[プロデューサー]]・舞台[[演出家]] * [[田中壱征]] - [[映画監督]]、[[脚本家]](出生本籍) * [[吉田浩太]] - [[映画監督]] * [[櫻井秀勲]] - [[作家]]・[[編集者]]・[[評論家]]、[[YouTuber]] * [[須藤真澄]] - [[漫画家]] * [[皆川亮二]] - 漫画家 * [[海老名香葉子]] - [[エッセイスト]]、[[絵本作家]] * [[塚本やすし]] - [[絵本作家]] * [[林望]] - 小説家・[[日本文学者]] * [[半藤一利]] - 文筆家、編集者 * [[中川大地]] - 文筆家、編集者 * [[古市憲寿]] - 社会学者、タレント * [[野中郁次郎]] - 経営学者 * [[碓井真史]] - 社会心理学者 * [[関野吉晴]] - [[探検家]] * [[中村こずえ]] - [[フリーアナウンサー]] * [[外山惠理]] - [[TBSテレビ|TBS]][[アナウンサー]] * [[斉藤一美]] - [[文化放送]]アナウンサー、墨田区育ち * [[大竹一樹]]([[さまぁ〜ず]]) - [[お笑いタレント]] * [[三村マサカズ]](さまぁ〜ず) - お笑いタレント * [[松山三四六]] - ものまねタレント * [[坂崎幸之助]]([[THE ALFEE]]) - [[ギタリスト]] * [[椎名豊]] - [[ピアニスト|ジャズピアニスト]] * [[白井良明 (音楽家)|白井良明]] - [[音楽プロデューサー]]、[[ムーンライダーズ]]のギタリスト * [[ラッキィ池田]] - [[振り付け師]] * [[三遊亭圓歌 (3代目)|三代目三遊亭圓歌]] - [[落語家]] * [[三遊亭円楽 (6代目)|六代目三遊亭円楽]] - [[落語家]] * [[柳家さん喬]] - 落語家 * [[五街道雲助]] - 落語家 * [[立川龍志]] - 落語家 * [[古今亭圓菊 (3代目)|三代目古今亭圓菊]] - 落語家 * [[春風亭鹿の子]] - 落語家 * [[弁財亭和泉]] - 落語家 * [[林家あんこ]] - 落語家 * [[井川遥]] - 女優 * [[風間俊介]] - 俳優 * [[中村中]] - [[シンガーソングライター]]、女優 * [[横山智佐]] - 声優 * [[梨花]] - [[タレント]] * [[森田成一]] - 俳優、声優 * [[会一太郎]] - 声優(落語家としては、三遊亭一太郎) * [[鹿野優以]] - 声優 * [[柳沢栄治]] - 声優 * [[葭田晃]] - [[合唱指揮者]] * [[出羽錦忠雄]] - 元[[力士]] * [[王貞治]] - 元[[プロ野球選手]] * [[高橋尚成]] - 元プロ野球選手 * [[松沼博久]] - 元プロ野球選手 * [[松沼雅之]] - 元プロ野球選手、博久の弟 * [[田中彰 (1982年生の内野手)|田中彰]] - 元プロ野球選手 * [[多田野数人]] - プロ野球選手 * [[平塚克洋]] - 元プロ野球選手 * [[泉由有樹]] - 女子プロ野球選手([[埼玉アストライア]]) * [[武井隆次]] - 元[[陸上競技]]長距離選手 * [[高山善廣]] - [[プロレスラー]] * [[大場政夫]] - [[プロボクサー]]<ref>ボクシング・マガジン編集部 『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年』 ベースボール・マガジン社、2002年</ref> * [[栗原慶太]] - [[プロボクサー]] * [[粉川拓也]] - プロボクサー * [[高野人母美]] (TOMOMI) - プロボクサー、モデル * [[モンブランみき]] - プロボクサー、元自衛官 * [[宮田愛]] - ミュージカル俳優 * [[大家彩香]] - [[札幌テレビ放送]]アナウンサー * [[石原伸司]] - [[作家]]、元[[ヤクザ]](夜回り組長) * [[天咲千華]] - 元[[宝塚歌劇団]][[花組 (宝塚歌劇)|花組]]娘役 * [[とみさわ昭仁]] - ゲームシナリオライター * [[三宅茂樹]] - 東京都議会議員 * [[長浜博行]] - 政治家 * [[宮崎あみさ]] - グラビアアイドル }} === ゆかりの人物 === * [[在原業平]] - 平安時代の歌人で、[[六歌仙]]の一人。彼の詠んだ「名にしおはゞ いざ言問はん 都鳥 我が思ふ人は ありやなしやと」という句に因んで「言問」という地名が生まれたといわれている。また、墨田区内には彼から名付けられた「業平」という町名もある。 * [[松尾芭蕉]] - 江戸時代の[[俳諧師]]。本所に居住。 * [[長谷川宣以]] - 江戸時代の[[旗本]]。[[火付盗賊改役]]。本所に居住(現在の菊川三丁目)。 * [[遠山景元]] - 江戸時代の旗本。[[江戸町奉行|江戸北町奉行、南町奉行]]。本所に居住(現在の菊川三丁目)。 * [[鼠小僧|鼠小僧次郎吉]] - 江戸時代の大泥棒。回向院に供養塚がある。 * [[葛飾北斎]] - 江戸時代の浮世絵師。亀沢で誕生。 * [[四代目鶴屋南北]] - 江戸時代の歌舞伎の作者。本所、業平の春慶寺に墓がある。 * [[勝海舟]] - [[幕末]]期の政治家。本所亀沢町(現在の両国)で誕生。区立両国公園内に「生誕の地」碑があるほか、墨田区役所裏に銅像がある。 * [[榎本武揚]] - 幕末期の政治家。向島に居住。 * [[森鷗外]] - 小説家。向島に居住。 * [[芥川龍之介]] - 小説家。幼少期から少年期まで両国に、のち向島に居住。 * [[幸田露伴]] - 小説家。向島に居住。 * [[堀辰雄]] - 小説家。向島に居住。   == 墨田区を舞台とする作品 == * 小説 ** [[濹東綺譚]] - [[永井荷風]]の小説。私娼窟[[玉の井]]が舞台。 ** [[原色の街]] - [[吉行淳之介]]の小説。[[赤線]]の[[鳩の街]]が舞台。 ** [[鬼平犯科帳]] - [[池波正太郎]]の小説。両国界隈が主要な舞台となっている。 ** [[うしろの正面だあれ]] - [[海老名香葉子]]の小説および、劇場用アニメーション作品。第二次世界大戦時の[[本所 (墨田区)|本所]]が舞台。 ** [[ガラスのうさぎ]] - [[高木敏子]]の[[児童文学]]および、映画、テレビドラマ、劇場用アニメーション作品。第二次世界大戦時の本所が舞台。 ** 下町探偵局 - [[半村良]]の小説。両国が主な舞台。 ** [[異邦の騎士]] - [[島田荘司]]の[[推理小説]]。九広周辺が後半の主な舞台。 * 漫画 ** [[寺島町奇譚]] - [[滝田ゆう]]の漫画。玉の井が舞台。 ** [[逮捕しちゃうぞ]] - [[藤島康介]]の漫画。墨東署(架空)が舞台。アニメの映画版ではこのエリアの風景が緻密に描かれた。 ** [[のんちゃんのり弁]] - [[入江喜和]]の漫画。[[向島橘銀座商店街]](現:キラキラ橘)が舞台。 * 絵本 ** リサとガスパール にほんへいく - フランスの子供向け絵本作品。作品中、墨田区を匂わせる風景(ビール会社など)が登場する。 ** あいうえおたくはいびん - くもん出版の絵本。カバーにスカイツリーが描いてある。作者([[塚本やすし]])が墨田区出身で随筆「猫とスカイツリー 下町ぶらぶら散歩道」を上梓している。 ** せんそう: 昭和20年3月10日 東京大空襲のこと - 東京書籍の絵本。作者([[塚本やすし]])が母の体験をもとに描いた絵本。 * 映画 ** [[下町の太陽]] - [[山田洋次]]監督 [[倍賞千恵子]]主演の映画。区内[[曳舟駅]]周辺が舞台。 ** [[未来シャッター]] - [[高橋和勧]]監督の映画。 <ref>[https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I025496053-00 『月刊 金融ジャーナル』2014年5月号「地域産業を興す 映画による循環型地域活性化」高橋和勧]</ref>墨田区内外を舞台に[[公的機関]]、[[研究機関]]、地域金融機関、企業や[[商工業]]事業者、[[寺院]]ら多数が撮影に協力し実在の人物も本人役でも登場する。故[[菅原文太]]が内諾していたナレーションは、[[宇梶剛士]]が遺志を引き継いでいる<ref>[https://web.archive.org/web/20180509221230/https://news.ameba.jp/entry/20150623-307 見て終わりではなく、見た後が重要な映画 市民全員参加型の「未来シャッター」 | 共同通信社(OVO オーヴォより)、2015年6月23日記事配信、閲覧]</ref>。[[東京東信用金庫]]、[[浜野製作所]]、[[アサヒグループホールディングス]]社屋、[[下町人情キラキラ橘商店街]]など<ref>[https://www.sankeibiz.jp/business/news/150902/bsc1509020500002-n1.htm 日本の町工場が映画に込めた未来図「未来シャッター」/一面トップニュース、フジサンケイビジネスアイ、2015年9月2日掲載、閲覧]</ref>。 * ドラマ ** [[ひらり (テレビドラマ)|ひらり]]([[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]) - 1992年下半期に放送の[[テレビドラマ]]。両国が舞台。 ** [[ひよっこ (テレビドラマ)|ひよっこ]](NHK連続テレビ小説) - 2017年上半期に放送のテレビドラマ。東京編における、高度経済成長期の向島が舞台(東京スカイツリーが現在建ってある場所が主な舞台)。 ** [[刑事定年]]([[BS朝日]]) - 2010年に放送されたテレビドラマ。定年退職した元刑事の主人公宅が墨田区内にある設定で、オープニングと作中では当時建設中だった東京スカイツリーおよび周辺の風景と向島橘銀座商店街が映る。 * ゲーム ** [[プロジェクト東京ドールズ]] - [[スクウェア・エニックス]]のアプリゲーム。東京スカイタワー(架空)が舞台。 * 楽曲 ** 嫁に来ないか墨田区へ - [[NO PLAN]]の楽曲。アルバム「SUMMER PLAN」に収録。 *アニメ **[[リコリス・リコイル]] * その他 ** [[忠臣蔵]] - [[吉良義央|吉良上野介]]の屋敷があった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{cite book|和書 |author=小島惟孝 執筆,墨田区区長室(広報広聴)編集  |title=墨田の町々 |publisher=墨田区区長室(広報広聴) |pages= |year=1980 |isbn= |ref={{sfnref|墨田の町々|1980}} }} * {{cite book|和書 |author=墨田区 編集  |title=墨田区史 年表・資料編 |publisher=墨田区 |pages= |year=2010 |isbn= |ref={{sfnref|区史年表資料編|2010}} }} == 関連項目 == * [[城東]]:江戸城の東という意味での東京における広義の城東地区には墨田区も含まれる(旧[[城東区 (東京都)|城東区]]に限定すれば、現在は江東区の一部になっている)。 * [[墨田区のアート一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{Official website|name=墨田区公式サイト}} * [https://visit-sumida.jp/ 墨田区観光協会] {{墨田区の町名}} {{東京都の自治体}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:すみたく}} [[Category:東京都の特別区]] [[Category:墨田区|*]]
2003-08-06T05:58:57Z
2023-11-17T05:26:28Z
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[ "Template:Commonscat", "Template:墨田区の町名", "Template:PDFlink", "Template:Official website", "Template:Normdaten", "Template:Reflist", "Template:Notelist", "Template:Sfn", "Template:Main", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite book", "Template:東京都の特別区", "Template:Ruby", "Template:Columns-list", "Template:Main2", "Template:Cite web", "Template:東京都の自治体", "Template:人口統計", "Template:Flagicon" ]
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字句
字句(じく)とは、プログラミング言語などにおいてソースコードに出現する文字列の中で意味を持つ最小単位であり、トークン(英: token)とも言う。 詳細は言語によって異なるが、一般的には、以下のようなトークンがある。 括弧類や区切り文字が出現位置によっては演算子となる言語もある。 多くの場合、プログラミング言語の構文規則はトークン列を定義しており、構文解析の前に、まずトークンを切り出し、必要であれば種類別に分類したりもする。この処理を字句解析と呼ぶ。この処理のため、プログラミング言語の言語仕様では、それぞれの種類のトークンはどのような文字から構成されるかが規定されている。 (例)識別子は、英字で始まり、その後に0個以上の英字、数字または下線 (_) が続く。ただしキーワード(あるいは予約語)と同じ綴りでないこと。 一般に構文規則はその文脈自由文法が(バッカス・ナウア記法で)示されることが多いのに対し、字句規則は正規表現で示されることが多い。上の例を正規表現で表すと [A-Za-z][0-9A-Z_a-z]* となる。ここで、「キーワード(あるいは予約語)と同じ綴りでないこと」という制限は、この表現には含まれない。プログラミング言語における規則には、一般にそういった制限が多いが、それを正規表現で表現するのは難しい(長大になる)ことも多い。キーワードの規則と識別子の規則はよく似たものであることも多く、いったんキーワードと識別子を同じ規則で処理しておき、その後に出現位置などの文脈に応じて分類し直すほうが効率的でもある。拡張性や後方互換性の観点から、通常は識別子として利用することもできるが、特定の出現位置ではキーワードの役割を果たすような「文脈依存キーワード」(contextual keyword, keyword in context, context-sensitive keyword) をサポートする言語も多い。
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字句(じく)とは、プログラミング言語などにおいてソースコードに出現する文字列の中で意味を持つ最小単位であり、トークンとも言う。 詳細は言語によって異なるが、一般的には、以下のようなトークンがある。 ifやintなどのキーワード(あるいは予約語) main や argc などといった関数(サブルーチン)名や変数名などの識別子 { } ( ) [ ] などの括弧類(の片方ずつ) + - * / = > < & | などの演算子 , . : ; などの区切り文字 3.14159や"hello" のようなリテラル 括弧類や区切り文字が出現位置によっては演算子となる言語もある。 多くの場合、プログラミング言語の構文規則はトークン列を定義しており、構文解析の前に、まずトークンを切り出し、必要であれば種類別に分類したりもする。この処理を字句解析と呼ぶ。この処理のため、プログラミング言語の言語仕様では、それぞれの種類のトークンはどのような文字から構成されるかが規定されている。 (例)識別子は、英字で始まり、その後に0個以上の英字、数字または下線 (_) が続く。ただしキーワード(あるいは予約語)と同じ綴りでないこと。 一般に構文規則はその文脈自由文法が(バッカス・ナウア記法で)示されることが多いのに対し、字句規則は正規表現で示されることが多い。上の例を正規表現で表すと [A-Za-z][0-9A-Z_a-z]* となる。ここで、「キーワード(あるいは予約語)と同じ綴りでないこと」という制限は、この表現には含まれない。プログラミング言語における規則には、一般にそういった制限が多いが、それを正規表現で表現するのは難しい(長大になる)ことも多い。キーワードの規則と識別子の規則はよく似たものであることも多く、いったんキーワードと識別子を同じ規則で処理しておき、その後に出現位置などの文脈に応じて分類し直すほうが効率的でもある。拡張性や後方互換性の観点から、通常は識別子として利用することもできるが、特定の出現位置ではキーワードの役割を果たすような「文脈依存キーワード」(contextual keyword, keyword in context, context-sensitive keyword) をサポートする言語も多い。
{{複数の問題 |出典の明記=2023-04 |独自研究=2023-04 }} '''字句'''(じく)とは、[[プログラミング言語]]などにおいてソースコードに出現する文字列の中で意味を持つ最小単位であり、'''トークン'''({{lang-en-short|token}})とも言う。 詳細は言語によって異なるが、一般的には、以下のようなトークンがある。 * <code>if</code>や<code>int</code>などのキーワード(あるいは[[予約語]]) * <code>main</code> や <code>argc</code> などといった関数([[サブルーチン]])名や[[変数 (プログラミング)|変数]]名などの[[識別子]] * <code>{</code> <code>}</code> <code>(</code> <code>)</code> <code>[</code> <code>]</code> などの括弧類(の片方ずつ) * <code>+</code> <code>-</code> <code>*</code> <code>/</code> <code>=</code> <code>&gt;</code> <code>&lt;</code> <code>&amp;</code> <code>&#x7c;</code> などの演算子{{efn|<code>++</code>, <code>--</code>, <code>**</code>, <code>//</code>, <code>&#x3d;&#x3d;</code>, <code>&gt;&gt;</code>, <code>&lt;&lt;</code>, <code>&amp;&amp;</code>, <code>&#x7c;&#x7c;</code>, <code>-&gt;</code>, <code>&#x3d;&gt;</code> のように連続する2文字でひとつのトークンを形成する場合もある。<code>div</code>や<code>mod</code>、<code>and</code>や<code>or</code>のように、記号だけでなく自然言語の単語に似た英数字の文字列から成る演算子を持つ言語もある。プログラマが独自の文字シーケンスから成る演算子をカスタム定義できる言語もある<ref>[https://learn.microsoft.com/ja-jp/dotnet/fsharp/language-reference/symbol-and-operator-reference/ シンボルと演算子のリファレンス - F# | Microsoft Learn]</ref>。}} * <code>,</code> <code>.</code> <code>:</code> <code>;</code> などの区切り文字 * <code>3.14159</code>や<code>"hello"</code> のような[[リテラル]] 括弧類や区切り文字が出現位置によっては演算子となる言語もある。 多くの場合、プログラミング言語の構文規則はトークン列を定義しており<ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/cpp/c-language/c-tokens C Tokens | Microsoft Learn]</ref>、[[構文解析]]の前に、まずトークンを切り出し、必要であれば種類別に分類したりもする。この処理を[[字句解析]]と呼ぶ。この処理のため、プログラミング言語の言語仕様では、それぞれの種類のトークンはどのような文字から構成されるかが規定されている。 (例)識別子は、英字で始まり、その後に0個以上の英字、数字または下線 (<code>_</code>) が続く。ただしキーワード(あるいは予約語)と同じ綴りでないこと。 一般に構文規則はその[[文脈自由文法]]が([[バッカス・ナウア記法]]で)示されることが多いのに対し、字句規則は[[正規表現]]で示されることが多い。上の例を正規表現で表すと <code>[A-Za-z][0-9A-Z_a-z]*</code> となる。ここで、「キーワード(あるいは予約語)と同じ綴りでないこと」という制限は、この表現には含まれない。プログラミング言語における規則には、一般にそういった制限が多いが、それを正規表現で表現するのは難しい(長大になる)ことも多い。キーワードの規則と識別子の規則はよく似たものであることも多く、いったんキーワードと識別子を同じ規則で処理しておき、その後に出現位置などの文脈に応じて分類し直すほうが効率的でもある。拡張性や後方互換性の観点から、通常は識別子として利用することもできるが、特定の出現位置ではキーワードの役割を果たすような「文脈依存キーワード」(contextual keyword, keyword in context, context-sensitive keyword) をサポートする言語も多い<ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/dotnet/csharp/language-reference/keywords/ C# Keywords | Microsoft Learn]</ref><ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/cpp/extensions/context-sensitive-keywords-cpp-component-extensions Context-Sensitive Keywords (C++/CLI and C++/CX) | Microsoft Learn]</ref>。 == 脚注 == === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == * [[字句解析]] * [[構文解析]] {{Computer-stub}} {{DEFAULTSORT:しく}} [[Category:字句解析]] [[en:Lexical analysis#Token]] [[it:Token#Informatica]] [[pt:Análise léxica#Token]]
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12,599
Sidekick
Borland Sidekickはボーランドがかつて発売していたIBM-PC互換パーソナルコンピュータ(パソコン)向けのTSRソフトウェアの名称。サイドキックとは、「助手」「相棒」の意味である。 当時のオペレーティングシステム (OS) であったMS-DOS/PC-DOSはシングルタスクのOSであり、ひとつのアプリケーションを実行中には他のアプリケーションを利用できなかった。しかし、DOSシステムコールのひとつTerminate and Stay Resident (TSR) を用いて小規模なプログラムをメモリに常駐させたまま実行終了し、特定のキーの組み合わせ(ホットキー)でSidekickを再度呼び出すことができた。これにより他のアプリケーションを実行中にホットキー (Ctrl-Alt) を押すことでメモ帳、予定表、電卓、電話帳(モデムがあれば自動ダイヤル可能)、ASCII文字コード表を呼び出すことができた。本体は30KB程度の実行ファイルなので、最大640kBしかないDOSの使用可能メモリをそれほど圧迫しなかった。 現在のWindows、当時でもMacintoshでは組込済みの機能ではあるが、DOSベースのPCでこれらの機能を実現できたことで人気を呼びベストセラーとなった。また、TSRベースのユーティリティが数多く開発された。 日本ではPC-9800シリーズが主流だったため、同様な国産ソフトが国内ソフトベンダーから発売されていた。 また、1997年にスターフィッシュソフトウェア株式会社よりWindows対応のPIMソフトInternet Sidekick97が発売され、この製品はコーレルのWordPerfectSuiteにも添付された。
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Borland Sidekickはボーランドがかつて発売していたIBM-PC互換パーソナルコンピュータ(パソコン)向けのTSRソフトウェアの名称。サイドキックとは、「助手」「相棒」の意味である。 当時のオペレーティングシステム (OS) であったMS-DOS/PC-DOSはシングルタスクのOSであり、ひとつのアプリケーションを実行中には他のアプリケーションを利用できなかった。しかし、DOSシステムコールのひとつTerminate and Stay Resident (TSR) を用いて小規模なプログラムをメモリに常駐させたまま実行終了し、特定のキーの組み合わせ(ホットキー)でSidekickを再度呼び出すことができた。これにより他のアプリケーションを実行中にホットキー (Ctrl-Alt) を押すことでメモ帳、予定表、電卓、電話帳(モデムがあれば自動ダイヤル可能)、ASCII文字コード表を呼び出すことができた。本体は30KB程度の実行ファイルなので、最大640kBしかないDOSの使用可能メモリをそれほど圧迫しなかった。 現在のWindows、当時でもMacintoshでは組込済みの機能ではあるが、DOSベースのPCでこれらの機能を実現できたことで人気を呼びベストセラーとなった。また、TSRベースのユーティリティが数多く開発された。 日本ではPC-9800シリーズが主流だったため、同様な国産ソフトが国内ソフトベンダーから発売されていた。 また、1997年にスターフィッシュソフトウェア株式会社よりWindows対応のPIMソフトInternet Sidekick97が発売され、この製品はコーレルのWordPerfectSuiteにも添付された。
<!--{{Otheruses|PCのソフトウェアの説明|T-Mobile USAの携帯電話端末の説明|T-Mobile Sidekick}} -->{{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年8月4日 (水) 12:13 (UTC) | 特筆性 = 2021年8月4日 (水) 12:13 (UTC) }} '''Borland Sidekick'''は[[ボーランド]]がかつて発売していた[[IBM-PC]]互換[[パーソナルコンピュータ]](パソコン)向けのTSRソフトウェアの名称。サイドキックとは、「助手」「相棒」の意味である。 当時の[[オペレーティングシステム]] (OS) であった[[MS-DOS]]/[[PC-DOS]]はシングルタスクのOSであり、ひとつのアプリケーションを実行中には他のアプリケーションを利用できなかった。しかし、DOSシステムコールのひとつ'''[[Terminate and Stay Resident]]''' (TSR) を用いて小規模なプログラムをメモリに常駐させたまま実行終了し、特定のキーの組み合わせ(ホットキー)でSidekickを再度呼び出すことができた。これにより他のアプリケーションを実行中にホットキー (Ctrl-Alt) を押すことでメモ帳、予定表、電卓、電話帳(モデムがあれば自動ダイヤル可能)、ASCII文字コード表を呼び出すことができた。本体は30KB程度の実行ファイルなので、最大640kBしかないDOSの使用可能[[記憶装置|メモリ]]をそれほど圧迫しなかった。 現在の[[Microsoft Windows|Windows]]、当時でも[[Macintosh]]では組込済みの機能ではあるが、DOSベースのPCでこれらの機能を実現できたことで人気を呼びベストセラーとなった。また、TSRベースのユーティリティが数多く開発された。 日本では[[PC-9800シリーズ]]が主流だったため、同様な国産ソフトが国内ソフトベンダーから発売されていた。 また、1997年にスターフィッシュソフトウェア株式会社よりWindows対応の[[Personal Information Manager|PIM]]ソフト[[Internet Sidekick97]]が発売され、この製品は[[コーレル]]のWordPerfectSuiteにも添付された。 [[Category:アプリケーションソフト (製品)|さいときつく]] [[Category:DOSのソフトウェア]] [[Category:パソコンの歴史|さいときつく]]
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12,600
ASR-33
ASR-33は1960~70年代に、コンピュータ用端末装置として広く使われた、テレタイプ社のテレタイプ端末で、当時のテレタイプ端末の代表的な機種である。「テレタイプ」はテレタイプ社の商標だが、同社の端末が極めてポピュラーになったため、この種の端末を「テレタイプ端末」あるいは「TTY端末」と呼ぶことが多い。 モデル33型端末はASCIIコード(文字は大文字のみ)を20mAカレントループ・インターフェースにより110bpsで送受信できた。印字はロール紙にタイプライター方式で印刷する。オペレーティングシステム側のサポートがあれば適当なエスケープシーケンスを用いて紙テープに切り替えることが出来るため、紙テープを外部記録装置のようにしてプログラムのロード・セーブができた。 日本では1967年に「S-100形鍵盤さん孔自動送受信機」としてASR-33と殆ど同等品が株式会社新興製作所(旧名:谷村株式会社新興製作所)によって製造されている。 正式にはM33(Model33)と呼ばれるこの端末機には、次のようなバリエーションがあった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ASR-33は1960~70年代に、コンピュータ用端末装置として広く使われた、テレタイプ社のテレタイプ端末で、当時のテレタイプ端末の代表的な機種である。「テレタイプ」はテレタイプ社の商標だが、同社の端末が極めてポピュラーになったため、この種の端末を「テレタイプ端末」あるいは「TTY端末」と呼ぶことが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "モデル33型端末はASCIIコード(文字は大文字のみ)を20mAカレントループ・インターフェースにより110bpsで送受信できた。印字はロール紙にタイプライター方式で印刷する。オペレーティングシステム側のサポートがあれば適当なエスケープシーケンスを用いて紙テープに切り替えることが出来るため、紙テープを外部記録装置のようにしてプログラムのロード・セーブができた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本では1967年に「S-100形鍵盤さん孔自動送受信機」としてASR-33と殆ど同等品が株式会社新興製作所(旧名:谷村株式会社新興製作所)によって製造されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "正式にはM33(Model33)と呼ばれるこの端末機には、次のようなバリエーションがあった。", "title": "バリエーション" } ]
ASR-33は1960~70年代に、コンピュータ用端末装置として広く使われた、テレタイプ社のテレタイプ端末で、当時のテレタイプ端末の代表的な機種である。「テレタイプ」はテレタイプ社の商標だが、同社の端末が極めてポピュラーになったため、この種の端末を「テレタイプ端末」あるいは「TTY端末」と呼ぶことが多い。 モデル33型端末はASCIIコード(文字は大文字のみ)を20mAカレントループ・インターフェースにより110bpsで送受信できた。印字はロール紙にタイプライター方式で印刷する。オペレーティングシステム側のサポートがあれば適当なエスケープシーケンスを用いて紙テープに切り替えることが出来るため、紙テープを外部記録装置のようにしてプログラムのロード・セーブができた。 日本では1967年に「S-100形鍵盤さん孔自動送受信機」としてASR-33と殆ど同等品が株式会社新興製作所によって製造されている。
{{出典の明記|date=2023年2月26日 (日) 09:12 (UTC)}} {{Expand English|date=2022-03}}[[Image:ASR-33 2.jpg|thumb|ASR-33外観 ---- {{unbulleted list | '''左端手前'''{{indent|[[紙テープ]]読取部}} | '''左端中と奥'''{{indent|[[紙テープ]]穿孔部と奥の穿孔前の[[紙テープ]]ロール}} | '''奥中央'''{{indent|[[黄色]]のロール[[印刷]]用紙}} | '''右端前後'''{{indent|[[電源]]部を内蔵}}}}]] [[Image:ASR-33 3.jpg|thumb|ASR-33の外カバーを外した内部機構とその配置 ---- {{unbulleted list | '''左端手前'''{{indent|[[紙テープ]]穿孔部<br><br>[[櫛]]状の[[支点]]を持つ8本の[[ビット]][[レバー (操作機具)|レバー]]<br><br>その上に[[情報]]8穴とテープ送りフィードホール (Feed hole) 穴の計9本の[[銀色]]の上下する穿孔ピン}} | '''穿孔部の奥'''{{indent|8本の左右ほぼ全幅にはしる[[ビット]][[金属]]のバー(横木)<br><br>プラテンローラーの左端近くの[[銀色]]の[[円柱 (数学)|円柱]]形の[[活字]]ヘッドを上下と回転をさせる}} | '''右端奥'''{{indent|分解して置かれた[[電源]]部}} | '''[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]と電源部の間'''{{indent|分解して置かれた[[紙テープ]]読取部(実装状態とは前後逆向きに置かれている)}}}}]] '''ASR-33'''は1960~70年代に、[[コンピュータ端末|コンピュータ用端末装置]]として広く使われた、[[テレタイプ (企業)|テレタイプ社]]の[[テレタイプ端末]]で、当時のテレタイプ端末の代表的な機種である。「テレタイプ」はテレタイプ社の商標だが、同社の端末が極めてポピュラーになったため、この種の端末を「テレタイプ端末」あるいは「TTY端末」と呼ぶことが多い。 モデル33型端末は[[ASCII]]コード(文字は大文字のみ)を20mAカレントループ・インターフェースにより110[[ビット毎秒|bps]]で送受信できた。印字はロール[[紙]]に[[タイプライター]]方式で印刷する。[[オペレーティングシステム]]側のサポートがあれば適当なエスケープシーケンスを用いて[[紙テープ]]に切り替えることが出来るため、紙テープを外部記録装置のようにして[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]のロード・セーブができた。 日本では[[1967年]]に「S-100形鍵盤さん孔自動送受信機」としてASR-33と殆ど同等品が株式会社新興製作所(旧名:谷村株式会社新興製作所)によって製造されている。<!--米ベル研究所とAT&Tは新興の顧客、旧NTTへ従前から技術供与関係に有りライセンス製造と憶測する。解る人明記を。--> == バリエーション == 正式にはM33(Model33)と呼ばれるこの端末機には、次のようなバリエーションがあった。 ;ASR (Automatic Send-Receive) Model3320 :紙テープ穿孔装置および紙テープ読取装置を備え、オフラインで紙テープに穿孔した電文を紙テープ読取装置で読ませることにより、オンライン時に自動的にホストコンピュータに送出することができる。[[テレックス]]の他に初期から全盛期の[[ミニコンピュータ]]の入出力兼外部記憶機器として使われ、現在の機能的に指で操作するキーボードは残り、印刷機能はプリンタと[[ブラウン管|CRT]]や[[液晶ディスプレイ]][[ディスプレイ (コンピュータ)|モニター]]へと分担され、紙テープ穿孔部は外部記憶装置への書出し、同読取部は外部記憶装置からの読込み形式の進化の元であった。 ;KSR(Keyboard Send-Receive)Model3310 :紙テープ穿孔装置・読取装置を持たず、キーボードからの入力と紙への記録ができるだけの端末。 ;RO (Receive Only) Model3300 :紙への記録ができるだけの端末。 == 関連項目 == * [[テレタイプ端末]] : 他の[[端末]]機・用途・概要はこちらを参照。 * [[テレックス]] (Teletype Exchange Service) : [[文字]]を使用した[[電信]]である印刷電信・加入者電信はこちらを参照。 * [[UART]] : (Universal Asynchronous Receiver Transmitter) == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} * [http://www.shinko-exc.co.jp/company/company_history/ 新興製作所の歴史] [[Category:通信機器]] [[Category:コンピュータ端末]]
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羅生門 (1950年の映画)
『羅生門』(らしょうもん)は、大映(現:角川映画)による1950年(昭和25年)の日本の映画である。監督は黒澤明で、三船敏郎、京マチ子、森雅之などが出演。 芥川龍之介の短編小説『藪の中』を原作とし、タイトルや設定などは同じく芥川の短編小説『羅生門』が元になっている。 平安時代を舞台に、ある武士の殺害事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿をそれぞれの視点から描き、人間のエゴイズムを鋭く追及しているが、ラストで人間信頼のメッセージを訴えた。 同じ出来事を複数の登場人物の視点から描く手法は、本作により映画の物語手法の1つとなり、国内外の映画で何度も用いられた。海外では羅生門効果などの学術用語も成立した。撮影担当の宮川一夫による、サイレント映画の美しさを意識した視覚的な映像表現が特徴的で、光と影の強いコントラストによる映像美、太陽に直接カメラを向けるという当時タブーだった手法など、斬新な撮影テクニックでモノクロ映像の美しさを引き出している。 第12回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞、第24回アカデミー賞で名誉賞(現在の国際長編映画賞)を受賞し、これまで国際的にほとんど知られていなかった日本映画の存在を、世界に知らしめることになった。また、本作の受賞は日本映画産業が国際市場に進出する契機となった。 平安時代の京の都。羅生門で3人の男たちが雨宿りしていた。そのうちの2人、杣売り(そまうり、焚き木の販売業者)と旅法師はある事件の参考人として出頭した検非違使からの帰途だった。実に奇妙な話を見聞きしたと、もう1人の下人に語り始める。 3日前、薪を取りに山に分け入った杣売りは、武士・金沢武弘の死体を発見し、検非違使に届け出る。そして今日、取り調べの場に出廷した杣売りは、当時の状況を思い出しながら、遺体のそばに市女笠、踏みにじられた侍烏帽子、切られた縄、そして赤地織の守袋が落ちており、そこにあるはずの金沢の太刀、女性用の短刀は見当たらなかったと証言する。また、道中で金沢と会った旅法師も出廷し、金沢は妻の真砂と一緒に行動していたと証言する。 まず、金沢を殺した下手人として盗賊の多襄丸が連行されてくる。多襄丸は、山で侍夫婦を見かけた際に真砂の顔を見て欲情し、金沢を騙して捕縛した上で、真砂を手篭めにしたことを語る。その後、凛とした真砂が両者の決闘を要求し、勝った方の妻になると申し出たことから、多襄丸は金沢と正々堂々と戦い、激闘の末に金沢を倒したという。ところが、その間に真砂は逃げており、短刀の行方も知らないと証言する。 次に真砂の証言が始まる。手篭めにされた後、多襄丸は金沢を殺さずに逃げたという。真砂は夫を助けようとするが、眼前で男に身体を許した妻を金沢は軽蔑の眼差しで見据え、その目についに耐えられなくなった真砂は自らを殺すように懇願した。そのまま気絶してしまい目が覚めると、夫には短刀が刺さって死んでおり、自分は後を追って死のうとしたが死ねなかった、と証言した。語り口は悲嘆に暮れ、多襄丸の証言とはあまりにかけ離れていた。 最後に巫女が呼ばれ、金沢の霊を呼び出して証言を得る。金沢の霊曰く、真砂は多襄丸に辱められた後、彼に情を移し、一緒に行く代わりに自分の夫を殺すように求めた。しかし、その浅ましい態度に流石の多襄丸も呆れ果て、女を生かすか殺すか夫のお前が決めて良いと金沢に申し出た。それを聞いた真砂は逃亡し、多襄丸も姿を消し、一人残された自分は無念のあまり、妻の短刀で自害した。そして自分が死んだ後に何者かが現れ、短刀を引き抜いたが、それは誰かわからないと答える。 それぞれ食い違う三人の言い分を話し終えた杣売りは、下人に「三人とも嘘をついている」と言う。杣売りは実は事件の一部始終を目撃していたが巻き込まれるのを恐れ、黙っていたという。杣売りによれば、多襄丸は強姦の後、真砂に惚れてしまい夫婦となることを懇願したが、彼女は断り金沢の縄を解いた。ところが金沢は辱めを受けた彼女に対し、武士の妻として自害するように迫った。すると真砂は笑いだして男たちの自分勝手な言い分を誹り、金沢と多襄丸を殺し合わせる。戦に慣れない2人はへっぴり腰で無様に斬り合い、ようやく多襄丸が金沢を殺すに至ったが、自らが仕向けた事の成り行きに真砂は動揺し逃げだした。人を殺めたばかりで動転している多襄丸は真砂を追うことができなかった。 3人の告白はそれぞれの見栄のための虚偽であり、情けない真実を知った旅法師は世を儚む。すると、そこに羅生門の一角から赤子の泣き声がする。3人が確認すると着物にくるまれた捨て子がいる。下人は迷わず、その着物を剥ぎ取ると赤ん坊は放置する。あまりの所業に杣売りは咎めるが、下人はこの世の中において手前勝手でない人間は生きていけないと自らの理を説き、さらに現場から無くなっていた真砂の短刀を盗んだのが杣売りだったと指摘し、お前に非難する資格はないと罵りながら去って行く。 旅法師は思わぬ事の成り行きに絶望してしまう。そこでおもむろに杣売りが赤子に手を伸ばし、旅法師は彼が赤子の肌着まで奪うのではと疑い、その手を払いのける。しかし、杣売りは自分の子として育てると言い、赤子を大事そうに抱えて去っていく。旅法師は己の不明を恥じながらも、人間の良心に希望を見出すのだった。 伊丹万作唯一の弟子としてシナリオの指導を受けた橋本忍は、伊丹に「君は原作ものはやらないのかね」と言われたのがきっかけで、文学作品を手がけようと考え、あまり映画化されていなかった芥川龍之介に目を付けた。橋本はサラリーマン生活をしながら芥川の小説を読み、彼の短編小説『藪の中』を元にした『雌雄』というシナリオを3日で完成させた。1946年に伊丹が亡くなり、翌年に一周忌法要に参加した橋本は、その席で伊丹夫人から佐伯清を紹介され、『雌雄』を含めたシナリオを佐伯に預けた。その後東京出張の度に佐伯宅を訪問し、佐伯が黒澤明と親しいことを知ると、自分のシナリオを黒澤に読んでもらうように頼んだ。佐伯は預かっていた橋本の『雌雄』を含むシナリオを黒澤に渡した。 当時は東宝を離れ、映画芸術協会を足場に他社で映画製作をしていた黒澤は、『静かなる決闘』を撮った大映から再び映画製作を依頼され、次作を模索していたところ、佐伯から貰った『雌雄』を思い出した。『雌雄』は京の郊外で武士が殺害される事件をめぐり、関係者3人が検非違使で証言するが、みな食い違ってその真相が杳としてわからないという内容だった。しかし、それだけでは長編映画にするには短すぎたため、橋本はシナリオを書き足すも黒澤は気に入らなかった。黒澤は2人で書き直そうと提案するが、橋本は体調を崩して参加できず、黒澤は熱海の旅館「観光閣」に一人籠もってシナリオを書き直した。黒澤は『雌雄』のエピソードに杣売りの証言と、同じ芥川の短編小説『羅生門』のエピソードを加え、さらにラストで杣売りが捨て子を貰い受けるというエピソードを付け足した。タイトルも『雌雄』から『羅生門物語』を経て、『羅生門』に改められた。 大映の首脳部は、内容が難解なこの企画に首をひねった。この企画に興味を示した本木荘二郎は首脳陣を説得するため、1950年の年明け早々に大映製作担当重役の川口松太郎と市川久夫の前で本読みをした。まだ企画が通ってもいない脚本の本読みをプロデューサーがするのは異例だったが、本木の劇的な抑揚を付けた本読みは川口たちの心を動かし、製作の許可が出た。また黒澤は商業性に乏しいこの企画を渋る経営陣に「セットは羅生門のオープンセットが1つ、他に検非違使庁の塀、あとはロケーションだけ」と説得して会社を安心させた。大映社長の永田雅一はこの決定に深く関与しておらず、本作のプロデューサーも製作部長の箕浦甚吾が担当した。 同年の初夏、黒澤一行は大映京都撮影所入りし、木屋町の旅館「松華楼」に宿泊した。黒澤は松華楼を拠点にして、羅生門のオープンセットの完成を待ちながら、撮影打ち合わせ、ロケーション・ハンティング、リハーサルなどの準備に取りかかった。配役は8人のみで、黒澤は三船敏郎や志村喬など一緒に仕事をしたことのある俳優で固めるつもりだったが、大映は興行的に難しい作品を売りやすくするため、当時肉体女優として売り出していた京マチ子を真砂役に起用することを提案した。黒澤は当初、この役に原節子を念頭に置いていたが節子の義兄、熊谷久虎が節子には向かないと反対して実現しなかった。本作に出演したかった京は眉を剃り落してメーキャップテストに現れ、その熱意に打たれた黒澤は京の出演を決めた。 羅生門のオープンセットは、美術監督の松山崇の設計により、大映京都撮影所内の広場600坪に25日間を費やして建設した。羅生門は羅城門を元にしているが、羅城門の構造が分からず寺院の山門を参考にして建てた。そのセットは間口18間(約33メートル)、奥行き12間(約22メートル)、高さ11間(約20メートル)で、柱は周囲4尺(約1.2メートル)の巨材18本を使い、「延暦十七年」と彫られた瓦を4000枚焼いた。あまりにも大きなセットになり、屋根までまともに作ると柱が支えきれなくなるため、屋根の半分を崩して荒廃しているという設定にした。企画時にセット1つで済むと聞かされていたため、大映重役の川口松太郎は「黒さんには、一杯喰わされたよ、1つには違いないが、あんな大きなオープンセットを建てる位なら、セットを百位建てた方がよかったよ」と愚痴をこぼした。 撮影が始まる前、助監督の加藤泰(チーフ)、若杉光夫(セカンド)、田中徳三(サード)の3人は脚本がよく解らず、説明を求めようと松華楼の黒澤を訪ねた。映画のテーマを説明するのを嫌う黒澤は「よく読めば解るはずだ。もう少し脚本をよく読んで欲しい」と言うも、3人は引き下がらずに重ねて説明を求めたため、次のように説明した。 この説明に若杉と田中は納得するも、加藤だけは納得がいかず、黒澤の説明に執拗に食い下がったため、黒澤も気分を害した。撮影現場でも2人は険悪で、黒澤がチーフ助監督がすべき仕事を志村喬に任せたため、これに激昂した加藤は現場に来なくなり、黒澤も彼を現場から外した。その代わり加藤は本作の予告編を作ることになった。その予告編には撮影現場のスナップや、特別に撮った猫の目のアップや、うごめく蛇のショットなど、本作とは関係のないテーマが挿入された。予告編に対する黒澤の反応について、田中は「最初にその予告編を見た時、面白いじゃないの、というようなことを言いましたよ。もっともそれは、黒澤さんの皮肉だったと取れないこともないですが...」と語っている。 撮影は7月7日から8月17日まで行われた。オープンセットは大映京都撮影所内に作られた羅生門と検非違使庁の庭のみで、それ以外はロケーション撮影が行われた。森のシーンは奈良市奥山の原生林と長岡京市の光明寺の裏山、川ふちのシーンは木津川べりで撮影した。撮影は大映専属の宮川一夫が担当し、カメラは宮川愛用のミッチェルNC型撮影機、レンズは画面の隅々までシャープな画像が得られるアストロ社製の32ミリ、40ミリ、50ミリ、75ミリを使用した。黒澤は後述の宮川の撮影技術を「百点だよ。キャメラは百点! 百点以上だ! 」と高く評価した。 撮影は奈良奥山のロケーションで始まり、杣売りが斧を担いで山奥へ入るシーンでクランクインした。7月17日から光明寺でロケーション撮影をしたが、この撮影は羅生門のオープンセットと並行してスケジュールが組まれ、晴れた日は光明寺、曇りの日は雨の羅生門のシーンを撮影した。雨の羅生門のシーンでは、門が煙るほどの土砂降りの雨を降らせるため、3台の消防車を出動させて5本のホースを使用した。その時に雨がバックの曇り空に溶け込まないようにするため、水に墨汁をまぜて降らせた。 8月17日に撮影終了したが、公開日は8月26日に決定していたため、1週間で編集とダビング作業をすることになり、そのうえ2度にわたる火災に巻き込まれるというトラブルも発生した。最初の火災は8月21日午後6時、ダビング作業をしていた録音室のすぐ隣の大映京都撮影所第2ステージで出火した。オリジナルネガは無事だったが、慌ててダビングマシンを持ち出したため機材はバラバラになり、旧式の機材で作業を続けなければならなくなった。さらに録音した三船の音声の一部も消失し、帰京していた三船を呼び戻して録音し直すことになった。その翌日にダビング作業を再開するが、そこで2度目の火災が発生した。今度はフィルムが映写機に引っかかって引火し、セルロイドフィルムから放出される有毒ガスにより、30数人のスタッフが倒れた。 それでも黒澤たちは公開日に間に合わせるため残り2日間でダビング作業を行い、8月24日午後7時頃に初号プリントが完成し、すぐに夜行列車で東京の本社に送られた。翌8月25日に京橋の大映本社で試写が行われたが、同席した田中徳三によると、試写が終わって数分の沈黙のあと、永田社長が「なんかよう解らんけど、高尚なシャシンやな」と語ったという。 黒澤は本作でサイレント映画の持つ映像美にチャレンジし、視覚的なストーリーテリングに頼ることにした。黒澤はサイレント映画の美しさを考え直し、純粋な映画的手法を生かす方法を探すため、1920年代のフランスのアヴァンギャルド映画『ひとで(フランス語版)』『貝殻と僧侶(フランス語版)』などの手法を研究した。本作はその試みを実験する格好の素材となった。黒澤は次のように述べている。 宮川は「黒と白で、グレーのないような、コントラストの強い絵を撮りたい」と提案し、これに応じた黒澤は検非違使の庭を白、羅生門を黒、森の中を白と黒で撮るというイメージを固めた。宮川はこれまで得意とした、グレーの微妙なニュアンスで表現したローキー・トーンの画調を放棄し、黒と白を基調として中間のグレーを抑えるハイキー・トーンを採用した。さらにフィルムは当時主流のコダックフィルムを使わず、コントラストが出過ぎることで劣っていた国産のフジフィルムをあえて使用した。 森の中のシーンでは、光と影のコントラストの強い映像を作るため、宮川は初めて露出計を使用した。宮川はこれまで勘を頼りに撮影してきたが、光量が変化しやすい森の中の撮影に対応するため、進駐軍が持っていた露出計を手に入れた。また、強力な電気照明を持ち込めない暗い森の中で安定した光量を確保するため、宮川は「鏡照明」という手法を考案した。これは木の間からもれる太陽光を8枚の大鏡でリレーのように反射させて光を当てるという技法で、レフ板よりも太陽光を直接使ってコントラストの強い画調を作ることができた。さらに宮川は地上数メートルの高さに野球ネットを張り、その上に枝葉を適当に散らし、長い竹竿でそれを調節しながら、俳優の顔に木の葉の影がうまく当たるようにし、登場人物の精神状態を木の葉の影の微妙な変化で表現した。 本作では、カメラを太陽に向けるという大胆な撮影を行った。当時は太陽をじかに撮るとフィルムを焼くと考えられてタブーとされていたが、黒澤は多襄丸と真砂が接吻するシーンで、2人の接吻越しに太陽を入れるように注文した。宮川は2メートルの高さの台に2人を乗せ、カメラは地面を掘った穴から仰角で撮影し、2人の接吻のアップ越しに木の葉の間をもれる太陽を入れた。宮川は杣売りが森の中を歩くシーンでも、モンタージュ用に木の葉の間をもれる太陽のショットを撮影している。 三船演じる多襄丸が武弘を縛り付けたあとに真砂のもとへ駆けていくシーンでは、多襄丸の走りにスピード感を出すため、カメラを中心に円を描くように三船を走らせた。宮川はカメラが三船と等距離になるよう、カメラから延ばしたロープを三船に縛り付け、カメラごとぐるぐる回りながら撮影した。 黒澤は俳優に本能むき出しの野性味ある動きや表情を引き出そうとした。黒澤はリハーサルの合間に16ミリでマーティン・ジョンソン(英語版)の古いアフリカ探検映画を見せ、藪の向こうからライオンがこちらを見ているショットがあると、「おい三船君、多襄丸はあれだぜ」と指摘した。黒澤は「人間をアニマルにしようと思った」と述べている。佐藤忠男は「三船敏郎は多襄丸役で、旧来の時代劇の様式化された演技とは全く違う動物的精気のあふれるような本能的な荒々しい動きを見せた」と指摘している。さらにクロヒョウの出る映画をみんなで見たときに、クロヒョウが画面に現れて京が両手で顔を隠した姿勢を、そのまま真砂の演技に取り入れた。 本作は人間不信の物語であるが、ヒューマニストである黒澤はラストに杣売りが羅生門に捨てられていた赤ん坊を拾って育てるというオリジナルのエピソードを付け足し、救いとして人間への信頼を取り戻そうとする結末にした。このシーンは公開後に国内外で取って付けたようなヒューマニズムで不自然ではないかという批評を受けたが、これに対して黒澤は淀川長治との対談で次のように語っている。 本作の音楽は早坂文雄が作曲した。真砂の証言シーンでは、ラヴェルの「ボレロ」に似た音楽を作曲している。これは黒澤のアイデアで、そのシーンの脚本を書いている時に、頭の中で「ボレロ」のリズムが思い浮かんだからだという。「ボレロ」の故国フランスでは、あまりにも酷似しているとして物議を醸し、ラヴェルの楽譜の出版元からも抗議の手紙が寄せられたが、早坂のオリジナル・ボレロだと主張して事なきを得た。 1950年8月25日、大映本社での試写の1時間後、帝国劇場で行われた読売新聞社主催の湯川奨学金公募で特別上映され、その翌日に劇場公開された。1950年度の大映作品の興行成績で4位となる成功を収め、通常は週替わりで封切られるところ、大映系列館のすべてで2週間以上続映された。当時としては刺激的な内容のため、インテリ層に支持されて都市部でヒットした。しかし、映画批評家の評価はあまり良くはなく、この年のキネマ旬報ベスト・テンで5位にランクされる程度だった。 同年末、日本映画連合会にカンヌ国際映画祭から出品依頼が届き、選考により本作と今井正監督の『また逢う日まで』が候補に絞られた。しかし、本作は音楽がボレロに似ていることを指摘されたため推薦から外された。当時の映画会社は国際映画祭に関心がなく、出品に必要なプリント代や字幕作成などの費用が無駄だからと出品を渋り、『また逢う日まで』も東宝が出品を取り下げた。同時にヴェネツィア国際映画祭からも出品依頼が届き、日本映画連合会は同映画祭出品の日本の窓口だったイタリフィルム社長のジュリアーナ・ストラミジョーリに選考を任せた。ストラミジョーリはすべての候補作を見て、本作が出品作にふさわしいと判断した。ストラミジョーリはその理由について、次のように語っている。 しかし、大映は出品に興味を示さず、字幕作成費を負担するのも渋ったため、ストラミジョーリは自分で字幕を作成し、自費でフィルム代や送料を負担して出品した。黒澤は自伝で、映画祭出品は「ストラミジョリイ(本文ママ)さんの理解ある配慮によるもの」と述べており、大映営業調整部長の山根啓司も「ほんとうにあそこに出すようになったのはストラミジョリさんの功績です」と述べている。 1951年8月23日にヴェネツィア国際映画祭で上映されると、多くの映画関係者やジャーナリストに衝撃を与えた。バラエティ誌の記者は「監督が素晴らしい。全て屋外で撮影されているが、カメラワークが完璧だ」と報告したが、当時は黒澤や三船も知られていなかったため、スタッフやキャストの見分けがつかず、「セイノブ・ハシモトは自堕落な盗賊を情熱的に演じている。トスィオ・ミフメはドラマチックで濃厚な役だ。アチラ・クロサワは仏頂面で反応の薄い夫役をこなしている」と名前も間違えて報告していた。 9月10日の授賞式でグランプリにあたる金獅子賞を受賞したが、黒澤は出品されたことすら知らず、日本から関係者は誰も出席していなかった。それどころか授賞式には日本人すらいなかったため、映画祭関係者はヴェネツィアの街で受取人にふさわしい人を探し回り、たまたま観光で訪れていたベトナム人男性を見つけ、彼に金獅子像を受け取らせた。 本作のグランプリの報は、敗戦で打ちひしがれていた日本人にとって、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞、古橋廣之進の競泳世界記録樹立などとともに希望と自信を与える出来事となった。また、敗戦国の国民として肩身が狭い思いをしていた海外在住の日本人にも大きな喜びを与えた。リヨンに留学していた遠藤周作は「ベニス映画祭で日本の作品がグランプリをとったというニュースほど、留学生を悦ばせたものはなかった。彼等が木と紙の家にしか住まず、地面の上に寝るとしか考えていない日本人の創造力が本当はどういうものかをこれによって証明できたからである」と書いている。ヨーロッパ在住のイサム・ノグチは本作を見て、ヨーロッパを威張って歩くことができたという。 大映社長の永田は、受賞報告を聞いて「グランプリって何や?」と聞き返したという。永田は本作に批判的な態度を取り、映画祭出品にも無関心だったが、受賞後は手のひらを返したかのように絶賛し、自分の手柄のように語ったため、周りから「黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリ」と揶揄された。金獅子像も永田が手にして社長室に飾り、黒澤たち関係者にはレプリカを配った。受賞後、大映には欧米各国の配給会社から買付け申し込みが殺到し、アメリカはRKO、イギリスはロンドン・フィルム(英語版)、イタリアはベロッティ・フィルムと契約を結んだ。 この受賞以来、日本映画には各国映画祭から出品要請が相次ぎ、日本映画の配給を要望する海外の映画会社も増えた。日本映画産業も海外市場に目を向けるようになり、「輸出映画」という言葉が業界用語となった。永田率いる大映も、受賞以降は海外市場開拓を積極的に進めるようになり、吉村公三郎監督の『源氏物語』や衣笠貞之助監督の『地獄門』、溝口健二監督の『雨月物語』などの海外受けを狙う芸術路線の大作映画を送り出し、そのうち数本が賞を受賞したものの、社運を賭けた大作主義に走り過ぎて疲弊したとされている。 黒澤はグランプリの受賞について、西洋人のエキゾチックなものに対する好奇心ではないかと指摘し、もっと日本の現実的な題材で賞を獲るべきだと主張している。 また、黒澤は受賞祝賀会で次のような発言をしている。 1982年、ヴェネツィア国際映画祭50周年を記念して、イタリアのレ・パプリカ新聞が発表した「グランプリ作品中のグランプリ」に選出された。 アメリカでは、1951年12月6日にロサンゼルスのリトル・トーキョーにある日本映画専門館リンダ・リーで期間限定で上映された。現地にいた淀川長治によると、俳優のリー・J・コッブが連日観に通っていたという。その前の10月からRKOは大映と配給交渉を行い、リンダ・リーでの公開後に米国配給権を購入し、12月26日にニューヨークのリトル・カーネギー・シアターで正式にプレミア上映した。アメリカで日本映画が商業上映されたのは、1937年に成瀬巳喜男監督の『妻よ薔薇のやうに』が公開されて以来だった。同劇場だけで公開後3週間で3万5000ドルの興行成績を収めた。当時アメリカにいた三島由紀夫もニューヨークで本作を見ており、「知識階級のあいだでは『羅生門』の評判は非常なものである」と紹介した。 1952年の第24回アカデミー賞では、名誉賞(現在の外国語映画賞)を受賞したが、授賞式には黒澤をはじめ日本映画関係者がひとりも出席しなかったため、急遽代理で出席した在ロサンゼルス日本国総領事館総領事の吉田健一郎がオスカー像を受け取った。翌1953年の第25回アカデミー賞でも、美術監督賞 (白黒部門)で松山崇と松本春造(英語版)がノミネートされ、授賞式には淀川長治が出席した。 海外の映画批評家の多くは、本作に対して好意的な評価をしている。ニューヨーク・タイムズ紙のボズレー・クラウザーは「この映画が持つパワーのほとんどは、黒澤監督が用いたカメラワークの素晴らしさに由来している。撮影は見事で、映像の流れは言葉にできない表現力がある。音楽や効果音も見事であり、役者たちの演技も刺激的だ」と評した。ロジャー・イーバートは本作に最高評価の星4つを与え、自身が選ぶ最高の映画のリストに加えている。映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには55件のレビューがあり、批評家支持率は98%で、平均点は9.22/10となっている。Metacriticには18件のレビューがあり、加重平均値は98/100となっている。 海外の映画監督からも高い評価を受けている。2012年にBFIの映画雑誌サイト・アンド・サウンドが発表した「史上最高の映画ベストテン(英語版)」の監督投票で、ウディ・アレン、ロイ・アンダーソン、アスガル・ファルハーディーなどがベスト映画の1本に投票した。サタジット・レイは「その映画が私個人に与えた影響は、光の使い方であった。私はその映画を3日間立て続けに見たが、そのたびに、いったいほかのどこに、映画制作の一切の面で、これほどまでに監督の指揮がゆきとどき、きらめいている作品であるだろうかと思った」と評価した。 本作における視点を変えて同じ出来事を繰り返して描くという物語手法は、海外で「ラショーモン・アプローチ」と呼ばれ、非線形アプローチや多視点のテクニックによる映画が作られるきっかけとなった。 アラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』の複雑な話法は本作からヒントを得ている。ブライアン・シンガーは監督作『ユージュアル・サスペクツ』を「『深夜の告白』と『羅生門』が出会ったような作品」と語っている。この手法は他にも、スタンリー・キューブリック監督の『現金に体を張れ』、クエンティン・タランティーノ監督の『レザボア・ドッグス』、トム・ティクヴァ監督の『ラン・ローラ・ラン』などで用いられた。2021年の『最後の決闘裁判』では共同脚本・出演のマット・デイモンがリドリー・スコットに監督を引き受けてもらうために、複数視点から一つの事件を描く本作の特徴をしきりに話していた。 イングマール・ベルイマン監督の『処女の泉』も本作からヒントを得ている。ベルイマンは『処女の泉』に取りかかる前に「今度はクロサワで行こう」と述べ、この作品を「黒澤の観光気分のあさましい模倣」と述べている。 リメイク作品も幾つか作られた。アメリカの劇作家マイケル・ケニンとフェイ・ケニンは舞台用に脚色し、1959年にブロードウェイで舞台化された。配役は盗賊役にロッド・スタイガー、妻役にクレア・ブルーム、その他にオスカー・ホモルカやエイキム・タミロフなどだった。この戯曲は1960年にシドニー・ルメット演出でテレビドラマ化され、1964年にはマーティン・リット監督で『暴行』として映画化された。この作品では舞台をアメリカ西部に置き換え、盗賊役はポール・ニューマン、妻役は舞台と同じブルーム、下人役はエドワード・G・ロビンソンが演じた。タイでもククリット・プラーモートが舞台用に翻案した脚本を書き、2011年にそれを原作にした映画『ウモーン・パー・ムアン-羅生門(タイ語版)』が作られた。 2008年、角川映画は映画芸術科学アカデミーと東京国立近代美術館フィルムセンターとの共同事業でデジタル復元を行った。フィルム・ファウンデーション(英語版)が復元費用を助成しており、同社と映画芸術科学アカデミーとの共同でデジタル復元を行うのは日本映画として初めてである。デジタル復元版は、同年9月28日にアメリカのサミュエル・ゴールドウィン・シアター(英語版)でワールドプレミア上映され、10月25日に第21回東京国際映画祭で特別上映された。2010年にデジタル復元を行った3社は、全米映画批評家協会賞の映画遺産賞を受賞した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『羅生門』(らしょうもん)は、大映(現:角川映画)による1950年(昭和25年)の日本の映画である。監督は黒澤明で、三船敏郎、京マチ子、森雅之などが出演。 芥川龍之介の短編小説『藪の中』を原作とし、タイトルや設定などは同じく芥川の短編小説『羅生門』が元になっている。 平安時代を舞台に、ある武士の殺害事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿をそれぞれの視点から描き、人間のエゴイズムを鋭く追及しているが、ラストで人間信頼のメッセージを訴えた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "同じ出来事を複数の登場人物の視点から描く手法は、本作により映画の物語手法の1つとなり、国内外の映画で何度も用いられた。海外では羅生門効果などの学術用語も成立した。撮影担当の宮川一夫による、サイレント映画の美しさを意識した視覚的な映像表現が特徴的で、光と影の強いコントラストによる映像美、太陽に直接カメラを向けるという当時タブーだった手法など、斬新な撮影テクニックでモノクロ映像の美しさを引き出している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "第12回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞、第24回アカデミー賞で名誉賞(現在の国際長編映画賞)を受賞し、これまで国際的にほとんど知られていなかった日本映画の存在を、世界に知らしめることになった。また、本作の受賞は日本映画産業が国際市場に進出する契機となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "平安時代の京の都。羅生門で3人の男たちが雨宿りしていた。そのうちの2人、杣売り(そまうり、焚き木の販売業者)と旅法師はある事件の参考人として出頭した検非違使からの帰途だった。実に奇妙な話を見聞きしたと、もう1人の下人に語り始める。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "3日前、薪を取りに山に分け入った杣売りは、武士・金沢武弘の死体を発見し、検非違使に届け出る。そして今日、取り調べの場に出廷した杣売りは、当時の状況を思い出しながら、遺体のそばに市女笠、踏みにじられた侍烏帽子、切られた縄、そして赤地織の守袋が落ちており、そこにあるはずの金沢の太刀、女性用の短刀は見当たらなかったと証言する。また、道中で金沢と会った旅法師も出廷し、金沢は妻の真砂と一緒に行動していたと証言する。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "まず、金沢を殺した下手人として盗賊の多襄丸が連行されてくる。多襄丸は、山で侍夫婦を見かけた際に真砂の顔を見て欲情し、金沢を騙して捕縛した上で、真砂を手篭めにしたことを語る。その後、凛とした真砂が両者の決闘を要求し、勝った方の妻になると申し出たことから、多襄丸は金沢と正々堂々と戦い、激闘の末に金沢を倒したという。ところが、その間に真砂は逃げており、短刀の行方も知らないと証言する。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "次に真砂の証言が始まる。手篭めにされた後、多襄丸は金沢を殺さずに逃げたという。真砂は夫を助けようとするが、眼前で男に身体を許した妻を金沢は軽蔑の眼差しで見据え、その目についに耐えられなくなった真砂は自らを殺すように懇願した。そのまま気絶してしまい目が覚めると、夫には短刀が刺さって死んでおり、自分は後を追って死のうとしたが死ねなかった、と証言した。語り口は悲嘆に暮れ、多襄丸の証言とはあまりにかけ離れていた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "最後に巫女が呼ばれ、金沢の霊を呼び出して証言を得る。金沢の霊曰く、真砂は多襄丸に辱められた後、彼に情を移し、一緒に行く代わりに自分の夫を殺すように求めた。しかし、その浅ましい態度に流石の多襄丸も呆れ果て、女を生かすか殺すか夫のお前が決めて良いと金沢に申し出た。それを聞いた真砂は逃亡し、多襄丸も姿を消し、一人残された自分は無念のあまり、妻の短刀で自害した。そして自分が死んだ後に何者かが現れ、短刀を引き抜いたが、それは誰かわからないと答える。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "それぞれ食い違う三人の言い分を話し終えた杣売りは、下人に「三人とも嘘をついている」と言う。杣売りは実は事件の一部始終を目撃していたが巻き込まれるのを恐れ、黙っていたという。杣売りによれば、多襄丸は強姦の後、真砂に惚れてしまい夫婦となることを懇願したが、彼女は断り金沢の縄を解いた。ところが金沢は辱めを受けた彼女に対し、武士の妻として自害するように迫った。すると真砂は笑いだして男たちの自分勝手な言い分を誹り、金沢と多襄丸を殺し合わせる。戦に慣れない2人はへっぴり腰で無様に斬り合い、ようやく多襄丸が金沢を殺すに至ったが、自らが仕向けた事の成り行きに真砂は動揺し逃げだした。人を殺めたばかりで動転している多襄丸は真砂を追うことができなかった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "3人の告白はそれぞれの見栄のための虚偽であり、情けない真実を知った旅法師は世を儚む。すると、そこに羅生門の一角から赤子の泣き声がする。3人が確認すると着物にくるまれた捨て子がいる。下人は迷わず、その着物を剥ぎ取ると赤ん坊は放置する。あまりの所業に杣売りは咎めるが、下人はこの世の中において手前勝手でない人間は生きていけないと自らの理を説き、さらに現場から無くなっていた真砂の短刀を盗んだのが杣売りだったと指摘し、お前に非難する資格はないと罵りながら去って行く。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "旅法師は思わぬ事の成り行きに絶望してしまう。そこでおもむろに杣売りが赤子に手を伸ばし、旅法師は彼が赤子の肌着まで奪うのではと疑い、その手を払いのける。しかし、杣売りは自分の子として育てると言い、赤子を大事そうに抱えて去っていく。旅法師は己の不明を恥じながらも、人間の良心に希望を見出すのだった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "伊丹万作唯一の弟子としてシナリオの指導を受けた橋本忍は、伊丹に「君は原作ものはやらないのかね」と言われたのがきっかけで、文学作品を手がけようと考え、あまり映画化されていなかった芥川龍之介に目を付けた。橋本はサラリーマン生活をしながら芥川の小説を読み、彼の短編小説『藪の中』を元にした『雌雄』というシナリオを3日で完成させた。1946年に伊丹が亡くなり、翌年に一周忌法要に参加した橋本は、その席で伊丹夫人から佐伯清を紹介され、『雌雄』を含めたシナリオを佐伯に預けた。その後東京出張の度に佐伯宅を訪問し、佐伯が黒澤明と親しいことを知ると、自分のシナリオを黒澤に読んでもらうように頼んだ。佐伯は預かっていた橋本の『雌雄』を含むシナリオを黒澤に渡した。", "title": "製作" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "当時は東宝を離れ、映画芸術協会を足場に他社で映画製作をしていた黒澤は、『静かなる決闘』を撮った大映から再び映画製作を依頼され、次作を模索していたところ、佐伯から貰った『雌雄』を思い出した。『雌雄』は京の郊外で武士が殺害される事件をめぐり、関係者3人が検非違使で証言するが、みな食い違ってその真相が杳としてわからないという内容だった。しかし、それだけでは長編映画にするには短すぎたため、橋本はシナリオを書き足すも黒澤は気に入らなかった。黒澤は2人で書き直そうと提案するが、橋本は体調を崩して参加できず、黒澤は熱海の旅館「観光閣」に一人籠もってシナリオを書き直した。黒澤は『雌雄』のエピソードに杣売りの証言と、同じ芥川の短編小説『羅生門』のエピソードを加え、さらにラストで杣売りが捨て子を貰い受けるというエピソードを付け足した。タイトルも『雌雄』から『羅生門物語』を経て、『羅生門』に改められた。", "title": "製作" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "大映の首脳部は、内容が難解なこの企画に首をひねった。この企画に興味を示した本木荘二郎は首脳陣を説得するため、1950年の年明け早々に大映製作担当重役の川口松太郎と市川久夫の前で本読みをした。まだ企画が通ってもいない脚本の本読みをプロデューサーがするのは異例だったが、本木の劇的な抑揚を付けた本読みは川口たちの心を動かし、製作の許可が出た。また黒澤は商業性に乏しいこの企画を渋る経営陣に「セットは羅生門のオープンセットが1つ、他に検非違使庁の塀、あとはロケーションだけ」と説得して会社を安心させた。大映社長の永田雅一はこの決定に深く関与しておらず、本作のプロデューサーも製作部長の箕浦甚吾が担当した。", "title": "製作" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "同年の初夏、黒澤一行は大映京都撮影所入りし、木屋町の旅館「松華楼」に宿泊した。黒澤は松華楼を拠点にして、羅生門のオープンセットの完成を待ちながら、撮影打ち合わせ、ロケーション・ハンティング、リハーサルなどの準備に取りかかった。配役は8人のみで、黒澤は三船敏郎や志村喬など一緒に仕事をしたことのある俳優で固めるつもりだったが、大映は興行的に難しい作品を売りやすくするため、当時肉体女優として売り出していた京マチ子を真砂役に起用することを提案した。黒澤は当初、この役に原節子を念頭に置いていたが節子の義兄、熊谷久虎が節子には向かないと反対して実現しなかった。本作に出演したかった京は眉を剃り落してメーキャップテストに現れ、その熱意に打たれた黒澤は京の出演を決めた。", "title": "製作" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "羅生門のオープンセットは、美術監督の松山崇の設計により、大映京都撮影所内の広場600坪に25日間を費やして建設した。羅生門は羅城門を元にしているが、羅城門の構造が分からず寺院の山門を参考にして建てた。そのセットは間口18間(約33メートル)、奥行き12間(約22メートル)、高さ11間(約20メートル)で、柱は周囲4尺(約1.2メートル)の巨材18本を使い、「延暦十七年」と彫られた瓦を4000枚焼いた。あまりにも大きなセットになり、屋根までまともに作ると柱が支えきれなくなるため、屋根の半分を崩して荒廃しているという設定にした。企画時にセット1つで済むと聞かされていたため、大映重役の川口松太郎は「黒さんには、一杯喰わされたよ、1つには違いないが、あんな大きなオープンセットを建てる位なら、セットを百位建てた方がよかったよ」と愚痴をこぼした。", "title": "製作" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "撮影が始まる前、助監督の加藤泰(チーフ)、若杉光夫(セカンド)、田中徳三(サード)の3人は脚本がよく解らず、説明を求めようと松華楼の黒澤を訪ねた。映画のテーマを説明するのを嫌う黒澤は「よく読めば解るはずだ。もう少し脚本をよく読んで欲しい」と言うも、3人は引き下がらずに重ねて説明を求めたため、次のように説明した。", "title": "製作" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "この説明に若杉と田中は納得するも、加藤だけは納得がいかず、黒澤の説明に執拗に食い下がったため、黒澤も気分を害した。撮影現場でも2人は険悪で、黒澤がチーフ助監督がすべき仕事を志村喬に任せたため、これに激昂した加藤は現場に来なくなり、黒澤も彼を現場から外した。その代わり加藤は本作の予告編を作ることになった。その予告編には撮影現場のスナップや、特別に撮った猫の目のアップや、うごめく蛇のショットなど、本作とは関係のないテーマが挿入された。予告編に対する黒澤の反応について、田中は「最初にその予告編を見た時、面白いじゃないの、というようなことを言いましたよ。もっともそれは、黒澤さんの皮肉だったと取れないこともないですが...」と語っている。", "title": "製作" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "撮影は7月7日から8月17日まで行われた。オープンセットは大映京都撮影所内に作られた羅生門と検非違使庁の庭のみで、それ以外はロケーション撮影が行われた。森のシーンは奈良市奥山の原生林と長岡京市の光明寺の裏山、川ふちのシーンは木津川べりで撮影した。撮影は大映専属の宮川一夫が担当し、カメラは宮川愛用のミッチェルNC型撮影機、レンズは画面の隅々までシャープな画像が得られるアストロ社製の32ミリ、40ミリ、50ミリ、75ミリを使用した。黒澤は後述の宮川の撮影技術を「百点だよ。キャメラは百点! 百点以上だ! 」と高く評価した。", "title": "製作" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "撮影は奈良奥山のロケーションで始まり、杣売りが斧を担いで山奥へ入るシーンでクランクインした。7月17日から光明寺でロケーション撮影をしたが、この撮影は羅生門のオープンセットと並行してスケジュールが組まれ、晴れた日は光明寺、曇りの日は雨の羅生門のシーンを撮影した。雨の羅生門のシーンでは、門が煙るほどの土砂降りの雨を降らせるため、3台の消防車を出動させて5本のホースを使用した。その時に雨がバックの曇り空に溶け込まないようにするため、水に墨汁をまぜて降らせた。", "title": "製作" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "8月17日に撮影終了したが、公開日は8月26日に決定していたため、1週間で編集とダビング作業をすることになり、そのうえ2度にわたる火災に巻き込まれるというトラブルも発生した。最初の火災は8月21日午後6時、ダビング作業をしていた録音室のすぐ隣の大映京都撮影所第2ステージで出火した。オリジナルネガは無事だったが、慌ててダビングマシンを持ち出したため機材はバラバラになり、旧式の機材で作業を続けなければならなくなった。さらに録音した三船の音声の一部も消失し、帰京していた三船を呼び戻して録音し直すことになった。その翌日にダビング作業を再開するが、そこで2度目の火災が発生した。今度はフィルムが映写機に引っかかって引火し、セルロイドフィルムから放出される有毒ガスにより、30数人のスタッフが倒れた。", "title": "製作" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "それでも黒澤たちは公開日に間に合わせるため残り2日間でダビング作業を行い、8月24日午後7時頃に初号プリントが完成し、すぐに夜行列車で東京の本社に送られた。翌8月25日に京橋の大映本社で試写が行われたが、同席した田中徳三によると、試写が終わって数分の沈黙のあと、永田社長が「なんかよう解らんけど、高尚なシャシンやな」と語ったという。", "title": "製作" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "黒澤は本作でサイレント映画の持つ映像美にチャレンジし、視覚的なストーリーテリングに頼ることにした。黒澤はサイレント映画の美しさを考え直し、純粋な映画的手法を生かす方法を探すため、1920年代のフランスのアヴァンギャルド映画『ひとで(フランス語版)』『貝殻と僧侶(フランス語版)』などの手法を研究した。本作はその試みを実験する格好の素材となった。黒澤は次のように述べている。", "title": "スタイル" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "宮川は「黒と白で、グレーのないような、コントラストの強い絵を撮りたい」と提案し、これに応じた黒澤は検非違使の庭を白、羅生門を黒、森の中を白と黒で撮るというイメージを固めた。宮川はこれまで得意とした、グレーの微妙なニュアンスで表現したローキー・トーンの画調を放棄し、黒と白を基調として中間のグレーを抑えるハイキー・トーンを採用した。さらにフィルムは当時主流のコダックフィルムを使わず、コントラストが出過ぎることで劣っていた国産のフジフィルムをあえて使用した。", "title": "スタイル" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "森の中のシーンでは、光と影のコントラストの強い映像を作るため、宮川は初めて露出計を使用した。宮川はこれまで勘を頼りに撮影してきたが、光量が変化しやすい森の中の撮影に対応するため、進駐軍が持っていた露出計を手に入れた。また、強力な電気照明を持ち込めない暗い森の中で安定した光量を確保するため、宮川は「鏡照明」という手法を考案した。これは木の間からもれる太陽光を8枚の大鏡でリレーのように反射させて光を当てるという技法で、レフ板よりも太陽光を直接使ってコントラストの強い画調を作ることができた。さらに宮川は地上数メートルの高さに野球ネットを張り、その上に枝葉を適当に散らし、長い竹竿でそれを調節しながら、俳優の顔に木の葉の影がうまく当たるようにし、登場人物の精神状態を木の葉の影の微妙な変化で表現した。", "title": "スタイル" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "本作では、カメラを太陽に向けるという大胆な撮影を行った。当時は太陽をじかに撮るとフィルムを焼くと考えられてタブーとされていたが、黒澤は多襄丸と真砂が接吻するシーンで、2人の接吻越しに太陽を入れるように注文した。宮川は2メートルの高さの台に2人を乗せ、カメラは地面を掘った穴から仰角で撮影し、2人の接吻のアップ越しに木の葉の間をもれる太陽を入れた。宮川は杣売りが森の中を歩くシーンでも、モンタージュ用に木の葉の間をもれる太陽のショットを撮影している。", "title": "スタイル" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "三船演じる多襄丸が武弘を縛り付けたあとに真砂のもとへ駆けていくシーンでは、多襄丸の走りにスピード感を出すため、カメラを中心に円を描くように三船を走らせた。宮川はカメラが三船と等距離になるよう、カメラから延ばしたロープを三船に縛り付け、カメラごとぐるぐる回りながら撮影した。", "title": "スタイル" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "黒澤は俳優に本能むき出しの野性味ある動きや表情を引き出そうとした。黒澤はリハーサルの合間に16ミリでマーティン・ジョンソン(英語版)の古いアフリカ探検映画を見せ、藪の向こうからライオンがこちらを見ているショットがあると、「おい三船君、多襄丸はあれだぜ」と指摘した。黒澤は「人間をアニマルにしようと思った」と述べている。佐藤忠男は「三船敏郎は多襄丸役で、旧来の時代劇の様式化された演技とは全く違う動物的精気のあふれるような本能的な荒々しい動きを見せた」と指摘している。さらにクロヒョウの出る映画をみんなで見たときに、クロヒョウが画面に現れて京が両手で顔を隠した姿勢を、そのまま真砂の演技に取り入れた。", "title": "スタイル" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "本作は人間不信の物語であるが、ヒューマニストである黒澤はラストに杣売りが羅生門に捨てられていた赤ん坊を拾って育てるというオリジナルのエピソードを付け足し、救いとして人間への信頼を取り戻そうとする結末にした。このシーンは公開後に国内外で取って付けたようなヒューマニズムで不自然ではないかという批評を受けたが、これに対して黒澤は淀川長治との対談で次のように語っている。", "title": "スタイル" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "本作の音楽は早坂文雄が作曲した。真砂の証言シーンでは、ラヴェルの「ボレロ」に似た音楽を作曲している。これは黒澤のアイデアで、そのシーンの脚本を書いている時に、頭の中で「ボレロ」のリズムが思い浮かんだからだという。「ボレロ」の故国フランスでは、あまりにも酷似しているとして物議を醸し、ラヴェルの楽譜の出版元からも抗議の手紙が寄せられたが、早坂のオリジナル・ボレロだと主張して事なきを得た。", "title": "スタイル" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1950年8月25日、大映本社での試写の1時間後、帝国劇場で行われた読売新聞社主催の湯川奨学金公募で特別上映され、その翌日に劇場公開された。1950年度の大映作品の興行成績で4位となる成功を収め、通常は週替わりで封切られるところ、大映系列館のすべてで2週間以上続映された。当時としては刺激的な内容のため、インテリ層に支持されて都市部でヒットした。しかし、映画批評家の評価はあまり良くはなく、この年のキネマ旬報ベスト・テンで5位にランクされる程度だった。", "title": "公開と評価" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "同年末、日本映画連合会にカンヌ国際映画祭から出品依頼が届き、選考により本作と今井正監督の『また逢う日まで』が候補に絞られた。しかし、本作は音楽がボレロに似ていることを指摘されたため推薦から外された。当時の映画会社は国際映画祭に関心がなく、出品に必要なプリント代や字幕作成などの費用が無駄だからと出品を渋り、『また逢う日まで』も東宝が出品を取り下げた。同時にヴェネツィア国際映画祭からも出品依頼が届き、日本映画連合会は同映画祭出品の日本の窓口だったイタリフィルム社長のジュリアーナ・ストラミジョーリに選考を任せた。ストラミジョーリはすべての候補作を見て、本作が出品作にふさわしいと判断した。ストラミジョーリはその理由について、次のように語っている。", "title": "公開と評価" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "しかし、大映は出品に興味を示さず、字幕作成費を負担するのも渋ったため、ストラミジョーリは自分で字幕を作成し、自費でフィルム代や送料を負担して出品した。黒澤は自伝で、映画祭出品は「ストラミジョリイ(本文ママ)さんの理解ある配慮によるもの」と述べており、大映営業調整部長の山根啓司も「ほんとうにあそこに出すようになったのはストラミジョリさんの功績です」と述べている。", "title": "公開と評価" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1951年8月23日にヴェネツィア国際映画祭で上映されると、多くの映画関係者やジャーナリストに衝撃を与えた。バラエティ誌の記者は「監督が素晴らしい。全て屋外で撮影されているが、カメラワークが完璧だ」と報告したが、当時は黒澤や三船も知られていなかったため、スタッフやキャストの見分けがつかず、「セイノブ・ハシモトは自堕落な盗賊を情熱的に演じている。トスィオ・ミフメはドラマチックで濃厚な役だ。アチラ・クロサワは仏頂面で反応の薄い夫役をこなしている」と名前も間違えて報告していた。", "title": "公開と評価" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "9月10日の授賞式でグランプリにあたる金獅子賞を受賞したが、黒澤は出品されたことすら知らず、日本から関係者は誰も出席していなかった。それどころか授賞式には日本人すらいなかったため、映画祭関係者はヴェネツィアの街で受取人にふさわしい人を探し回り、たまたま観光で訪れていたベトナム人男性を見つけ、彼に金獅子像を受け取らせた。", "title": "公開と評価" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "本作のグランプリの報は、敗戦で打ちひしがれていた日本人にとって、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞、古橋廣之進の競泳世界記録樹立などとともに希望と自信を与える出来事となった。また、敗戦国の国民として肩身が狭い思いをしていた海外在住の日本人にも大きな喜びを与えた。リヨンに留学していた遠藤周作は「ベニス映画祭で日本の作品がグランプリをとったというニュースほど、留学生を悦ばせたものはなかった。彼等が木と紙の家にしか住まず、地面の上に寝るとしか考えていない日本人の創造力が本当はどういうものかをこれによって証明できたからである」と書いている。ヨーロッパ在住のイサム・ノグチは本作を見て、ヨーロッパを威張って歩くことができたという。", "title": "公開と評価" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "大映社長の永田は、受賞報告を聞いて「グランプリって何や?」と聞き返したという。永田は本作に批判的な態度を取り、映画祭出品にも無関心だったが、受賞後は手のひらを返したかのように絶賛し、自分の手柄のように語ったため、周りから「黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリ」と揶揄された。金獅子像も永田が手にして社長室に飾り、黒澤たち関係者にはレプリカを配った。受賞後、大映には欧米各国の配給会社から買付け申し込みが殺到し、アメリカはRKO、イギリスはロンドン・フィルム(英語版)、イタリアはベロッティ・フィルムと契約を結んだ。", "title": "公開と評価" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "この受賞以来、日本映画には各国映画祭から出品要請が相次ぎ、日本映画の配給を要望する海外の映画会社も増えた。日本映画産業も海外市場に目を向けるようになり、「輸出映画」という言葉が業界用語となった。永田率いる大映も、受賞以降は海外市場開拓を積極的に進めるようになり、吉村公三郎監督の『源氏物語』や衣笠貞之助監督の『地獄門』、溝口健二監督の『雨月物語』などの海外受けを狙う芸術路線の大作映画を送り出し、そのうち数本が賞を受賞したものの、社運を賭けた大作主義に走り過ぎて疲弊したとされている。", "title": "公開と評価" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "黒澤はグランプリの受賞について、西洋人のエキゾチックなものに対する好奇心ではないかと指摘し、もっと日本の現実的な題材で賞を獲るべきだと主張している。", "title": "公開と評価" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "また、黒澤は受賞祝賀会で次のような発言をしている。", "title": "公開と評価" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1982年、ヴェネツィア国際映画祭50周年を記念して、イタリアのレ・パプリカ新聞が発表した「グランプリ作品中のグランプリ」に選出された。", "title": "公開と評価" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "アメリカでは、1951年12月6日にロサンゼルスのリトル・トーキョーにある日本映画専門館リンダ・リーで期間限定で上映された。現地にいた淀川長治によると、俳優のリー・J・コッブが連日観に通っていたという。その前の10月からRKOは大映と配給交渉を行い、リンダ・リーでの公開後に米国配給権を購入し、12月26日にニューヨークのリトル・カーネギー・シアターで正式にプレミア上映した。アメリカで日本映画が商業上映されたのは、1937年に成瀬巳喜男監督の『妻よ薔薇のやうに』が公開されて以来だった。同劇場だけで公開後3週間で3万5000ドルの興行成績を収めた。当時アメリカにいた三島由紀夫もニューヨークで本作を見ており、「知識階級のあいだでは『羅生門』の評判は非常なものである」と紹介した。", "title": "公開と評価" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1952年の第24回アカデミー賞では、名誉賞(現在の外国語映画賞)を受賞したが、授賞式には黒澤をはじめ日本映画関係者がひとりも出席しなかったため、急遽代理で出席した在ロサンゼルス日本国総領事館総領事の吉田健一郎がオスカー像を受け取った。翌1953年の第25回アカデミー賞でも、美術監督賞 (白黒部門)で松山崇と松本春造(英語版)がノミネートされ、授賞式には淀川長治が出席した。", "title": "公開と評価" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "海外の映画批評家の多くは、本作に対して好意的な評価をしている。ニューヨーク・タイムズ紙のボズレー・クラウザーは「この映画が持つパワーのほとんどは、黒澤監督が用いたカメラワークの素晴らしさに由来している。撮影は見事で、映像の流れは言葉にできない表現力がある。音楽や効果音も見事であり、役者たちの演技も刺激的だ」と評した。ロジャー・イーバートは本作に最高評価の星4つを与え、自身が選ぶ最高の映画のリストに加えている。映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには55件のレビューがあり、批評家支持率は98%で、平均点は9.22/10となっている。Metacriticには18件のレビューがあり、加重平均値は98/100となっている。", "title": "公開と評価" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "海外の映画監督からも高い評価を受けている。2012年にBFIの映画雑誌サイト・アンド・サウンドが発表した「史上最高の映画ベストテン(英語版)」の監督投票で、ウディ・アレン、ロイ・アンダーソン、アスガル・ファルハーディーなどがベスト映画の1本に投票した。サタジット・レイは「その映画が私個人に与えた影響は、光の使い方であった。私はその映画を3日間立て続けに見たが、そのたびに、いったいほかのどこに、映画制作の一切の面で、これほどまでに監督の指揮がゆきとどき、きらめいている作品であるだろうかと思った」と評価した。", "title": "公開と評価" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "本作における視点を変えて同じ出来事を繰り返して描くという物語手法は、海外で「ラショーモン・アプローチ」と呼ばれ、非線形アプローチや多視点のテクニックによる映画が作られるきっかけとなった。 アラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』の複雑な話法は本作からヒントを得ている。ブライアン・シンガーは監督作『ユージュアル・サスペクツ』を「『深夜の告白』と『羅生門』が出会ったような作品」と語っている。この手法は他にも、スタンリー・キューブリック監督の『現金に体を張れ』、クエンティン・タランティーノ監督の『レザボア・ドッグス』、トム・ティクヴァ監督の『ラン・ローラ・ラン』などで用いられた。2021年の『最後の決闘裁判』では共同脚本・出演のマット・デイモンがリドリー・スコットに監督を引き受けてもらうために、複数視点から一つの事件を描く本作の特徴をしきりに話していた。", "title": "影響とリメイク" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "イングマール・ベルイマン監督の『処女の泉』も本作からヒントを得ている。ベルイマンは『処女の泉』に取りかかる前に「今度はクロサワで行こう」と述べ、この作品を「黒澤の観光気分のあさましい模倣」と述べている。", "title": "影響とリメイク" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "リメイク作品も幾つか作られた。アメリカの劇作家マイケル・ケニンとフェイ・ケニンは舞台用に脚色し、1959年にブロードウェイで舞台化された。配役は盗賊役にロッド・スタイガー、妻役にクレア・ブルーム、その他にオスカー・ホモルカやエイキム・タミロフなどだった。この戯曲は1960年にシドニー・ルメット演出でテレビドラマ化され、1964年にはマーティン・リット監督で『暴行』として映画化された。この作品では舞台をアメリカ西部に置き換え、盗賊役はポール・ニューマン、妻役は舞台と同じブルーム、下人役はエドワード・G・ロビンソンが演じた。タイでもククリット・プラーモートが舞台用に翻案した脚本を書き、2011年にそれを原作にした映画『ウモーン・パー・ムアン-羅生門(タイ語版)』が作られた。", "title": "影響とリメイク" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2008年、角川映画は映画芸術科学アカデミーと東京国立近代美術館フィルムセンターとの共同事業でデジタル復元を行った。フィルム・ファウンデーション(英語版)が復元費用を助成しており、同社と映画芸術科学アカデミーとの共同でデジタル復元を行うのは日本映画として初めてである。デジタル復元版は、同年9月28日にアメリカのサミュエル・ゴールドウィン・シアター(英語版)でワールドプレミア上映され、10月25日に第21回東京国際映画祭で特別上映された。2010年にデジタル復元を行った3社は、全米映画批評家協会賞の映画遺産賞を受賞した。", "title": "デジタル修復" } ]
『羅生門』(らしょうもん)は、大映(現:角川映画)による1950年(昭和25年)の日本の映画である。監督は黒澤明で、三船敏郎、京マチ子、森雅之などが出演。 芥川龍之介の短編小説『藪の中』を原作とし、タイトルや設定などは同じく芥川の短編小説『羅生門』が元になっている。 平安時代を舞台に、ある武士の殺害事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿をそれぞれの視点から描き、人間のエゴイズムを鋭く追及しているが、ラストで人間信頼のメッセージを訴えた。 同じ出来事を複数の登場人物の視点から描く手法は、本作により映画の物語手法の1つとなり、国内外の映画で何度も用いられた。海外では羅生門効果などの学術用語も成立した。撮影担当の宮川一夫による、サイレント映画の美しさを意識した視覚的な映像表現が特徴的で、光と影の強いコントラストによる映像美、太陽に直接カメラを向けるという当時タブーだった手法など、斬新な撮影テクニックでモノクロ映像の美しさを引き出している。 第12回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞、第24回アカデミー賞で名誉賞(現在の国際長編映画賞)を受賞し、これまで国際的にほとんど知られていなかった日本映画の存在を、世界に知らしめることになった。また、本作の受賞は日本映画産業が国際市場に進出する契機となった。
{{Infobox Film | 作品名 = 羅生門 | 原題 = Rashomon | 画像 = Rashomon poster.jpg | 画像解説 = 昭和25年の劇場公開時のポスター | 監督 = [[黒澤明]] | 製作 = 箕浦甚吾 | 脚本 = 黒澤明<br />[[橋本忍]] | 出演者 = [[三船敏郎]]<br />[[森雅之 (俳優)|森雅之]]<br />[[京マチ子]]<br />[[志村喬]]<br />[[千秋実]] | 音楽 = [[早坂文雄]] | 撮影 = [[宮川一夫]] | 編集 = 西田重雄 | 製作会社 = [[大映京都撮影所]] | 配給 = [[大映]] | 公開 = 1950年[[8月25日]] | 上映時間 = 88分 | 製作国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 製作費 = 約3500万円 | 興行収入 = | 前作 = | 次作 = 複数リメイク作品あり | 原作 = [[芥川龍之介]]<br />『[[藪の中]]』 }} 『'''羅生門'''』(らしょうもん)は、[[大映]](現:[[角川映画]])による[[1950年]](昭和25年)の[[日本映画|日本の映画]]である。監督は[[黒澤明]]で、[[三船敏郎]]、[[京マチ子]]、[[森雅之 (俳優)|森雅之]]などが出演。 [[芥川龍之介]]の短編小説『[[藪の中]]』を原作とし、タイトルや設定などは同じく芥川の短編小説『[[羅生門 (小説)|羅生門]]』が元になっている。 [[平安時代]]を舞台に、ある[[武士]]の殺害事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿をそれぞれの視点から描き、人間の[[エゴイズム]]を鋭く追及しているが、ラストで人間信頼のメッセージを訴えた。 同じ出来事を複数の登場人物の視点から描く手法は、本作により映画の物語手法の1つとなり、国内外の映画で何度も用いられた<ref name="大系1解説3">浜野保樹「解説・黒澤明の形成―グランプリ」({{Harvnb|大系1|2009|pp=712-714}})</ref>。海外では[[羅生門効果]]などの学術用語も成立した<ref name="大系1解説3"/>。撮影担当の[[宮川一夫]]による、[[サイレント映画]]の美しさを意識した視覚的な映像表現が特徴的で、光と影の強い[[コントラスト]]による映像美、太陽に直接カメラを向けるという当時[[タブー]]だった手法など、斬新な撮影テクニックで[[モノクロフィルム|モノクロ]]映像の美しさを引き出している。 第12回[[ヴェネツィア国際映画祭]]で[[金獅子賞]]、[[第24回アカデミー賞]]で[[アカデミー名誉賞|名誉賞]](現在の[[アカデミー国際長編映画賞|国際長編映画賞]])を受賞し、これまで国際的にほとんど知られていなかった日本映画の存在を、世界に知らしめることになった<ref>{{Cite web|和書|author=[[佐藤忠男]] |url=https://kotobank.jp/word/%E7%BE%85%E7%94%9F%E9%96%80%28%E6%98%A0%E7%94%BB%29-1605438 |title=日本大百科全書「羅生門」 |website=コトバンク |accessdate=2020年8月17日}}</ref>。また、本作の受賞は日本映画産業が国際市場に進出する契機となった<ref name="発達史">{{Cite book|和書 |author=田中純一郎|authorlink=田中純一郎 |date=1976 |title=[[日本映画発達史|日本映画発達史Ⅳ 史上最高の映画時代]] |publisher=中央公論社 |series=中公文庫 |isbn=9784122003156 |pages=13-15}}</ref>。 == あらすじ == [[File:Rashomon (1950) Press Photo of Toshiro Mifune and Machiko Kyō.jpg|thumb|240px|三船敏郎、京マチ子]] === プロローグ === [[平安時代]]の[[平安京|京の都]]。羅生門{{efn|羅'''城'''門ではない。}}で3人の男たちが雨宿りしていた。そのうちの2人、杣売り(そまうり、焚き木の販売業者)と旅法師はある事件の参考人として出頭した[[検非違使]]からの帰途だった。実に奇妙な話を見聞きしたと、もう1人の下人に語り始める。 3日前、薪を取りに山に分け入った杣売りは、武士・金沢武弘の死体を発見し、[[検非違使]]に届け出る。そして今日、取り調べの場に出廷した杣売りは、当時の状況を思い出しながら、遺体のそばに市女笠、踏みにじられた侍烏帽子、切られた縄、そして赤地織の守袋が落ちており、そこにあるはずの金沢の太刀、女性用の短刀は見当たらなかったと証言する。また、道中で金沢と会った旅法師も出廷し、金沢は妻の真砂と一緒に行動していたと証言する。 === 盗賊・多襄丸の証言=== まず、金沢を殺した下手人として盗賊の多襄丸が連行されてくる。多襄丸は、山で侍夫婦を見かけた際に真砂の顔を見て欲情し、金沢を騙して捕縛した上で、真砂を手篭めにしたことを語る。その後、凛とした真砂が両者の決闘を要求し、勝った方の妻になると申し出たことから、多襄丸は金沢と正々堂々と戦い、激闘の末に金沢を倒したという。ところが、その間に真砂は逃げており、短刀の行方も知らないと証言する。 === 妻・真砂の証言=== 次に真砂の証言が始まる。手篭めにされた後、多襄丸は金沢を殺さずに逃げたという。真砂は夫を助けようとするが、眼前で男に身体を許した妻を金沢は軽蔑の眼差しで見据え、その目についに耐えられなくなった真砂は自らを殺すように懇願した。そのまま気絶してしまい目が覚めると、夫には短刀が刺さって死んでおり、自分は後を追って死のうとしたが死ねなかった、と証言した。語り口は悲嘆に暮れ、多襄丸の証言とはあまりにかけ離れていた。 === 金沢の証言=== 最後に巫女が呼ばれ、金沢の霊を呼び出して証言を得る。金沢の霊曰く、真砂は多襄丸に辱められた後、彼に情を移し、一緒に行く代わりに自分の夫を殺すように求めた。しかし、その浅ましい態度に流石の多襄丸も呆れ果て、女を生かすか殺すか夫のお前が決めて良いと金沢に申し出た。それを聞いた真砂は逃亡し、多襄丸も姿を消し、一人残された自分は無念のあまり、妻の短刀で自害した。そして自分が死んだ後に何者かが現れ、短刀を引き抜いたが、それは誰かわからないと答える。 === 杣売りの証言=== それぞれ食い違う三人の言い分を話し終えた杣売りは、下人に「三人とも嘘をついている」と言う。杣売りは実は事件の一部始終を目撃していたが巻き込まれるのを恐れ、黙っていたという。杣売りによれば、多襄丸は強姦の後、真砂に惚れてしまい夫婦となることを懇願したが、彼女は断り金沢の縄を解いた。ところが金沢は辱めを受けた彼女に対し、武士の妻として自害するように迫った。すると真砂は笑いだして男たちの自分勝手な言い分を誹り、金沢と多襄丸を殺し合わせる。戦に慣れない2人はへっぴり腰で無様に斬り合い、ようやく多襄丸が金沢を殺すに至ったが、自らが仕向けた事の成り行きに真砂は動揺し逃げだした。人を殺めたばかりで動転している多襄丸は真砂を追うことができなかった。 === エピローグ=== 3人の告白はそれぞれの見栄のための虚偽であり、情けない真実を知った旅法師は世を儚む。すると、そこに羅生門の一角から赤子の泣き声がする。3人が確認すると着物にくるまれた捨て子がいる。下人は迷わず、その着物を剥ぎ取ると赤ん坊は放置する。あまりの所業に杣売りは咎めるが、下人はこの世の中において手前勝手でない人間は生きていけないと自らの理を説き、さらに現場から無くなっていた真砂の短刀を盗んだのが杣売りだったと指摘し、お前に非難する資格はないと罵りながら去って行く。 旅法師は思わぬ事の成り行きに絶望してしまう。そこでおもむろに杣売りが赤子に手を伸ばし、旅法師は彼が赤子の肌着まで奪うのではと疑い、その手を払いのける。しかし、杣売りは自分の子として育てると言い、赤子を大事そうに抱えて去っていく。旅法師は己の不明を恥じながらも、人間の良心に希望を見出すのだった。 == キャスト == ; 多襄丸:[[三船敏郎]] : 都の内外に悪名が轟く盗賊。女好きとしても有名。真砂の美貌や気性の激しさに惹かれ、金沢夫婦を襲う。捕縛されても豪放磊落に振る舞い、自らの金沢殺しを誇るように語る。 ; 金沢武弘:[[森雅之 (俳優)|森雅之]] : 死体で発見された旅をしている武士。言葉巧みに多襄丸に山奥まで連れて行かれ、木に縛られ、妻を手籠めにされる。巫女による降霊という形で証言を行なう。 ; 真砂:[[京マチ子]] : 金沢の妻。大人しく貞淑。夫と山中を行動していたところを多襄丸に襲われ犯される。多襄丸によれば凛としていたというが出廷した姿とその証言はか弱さを見せる。 ; 杣売り:[[志村喬]] : 金沢の遺体の発見者で、参考人として検非違使に出廷する。そこで矛盾した3人の証言を聞き、下人に話す。 ; 旅法師:[[千秋実]] : 生前の金沢夫妻の目撃者で、参考人として検非違使に出廷する。 ; 下人:[[上田吉二郎]]{{Refnest|group="注釈"|上田は、本作のグランプリ受賞後、葉書半分大の大きな名刺を作り、「グランプリ受賞の羅生門出演、上田吉二郎」と印刷して話題をまいた<ref>{{Cite book|和書 |author=稲垣浩|authorlink=稲垣浩 |date=1983-6 |title=日本映画の若き日々 |publisher=中央公論社 |series=中公文庫 |isbn=9784122010376 |page=150}}</ref>。}} : 雨宿りの際に暇つぶしに杣売りと旅法師の話を聞く。 ; 巫女:[[本間文子]] : 巫女というより霊媒師。金沢の霊を呼び込み、証言をおこなう。 ; 放免:[[加東大介]] : 河原で倒れていた多襄丸を発見し、検非違使に連行する。 == スタッフ == * 監督:[[黒澤明]]<small>(映画藝術協会)</small> * 製作:箕浦甚吾 * 企画:[[本木荘二郎]]<small>(映画藝術協会)</small> * 原作:[[芥川龍之介]] * 脚本:黒澤明、[[橋本忍]] * 撮影:[[宮川一夫]] * 音楽:[[早坂文雄]] * 美術:[[松山崇]] * 照明:[[岡本健一 (照明技師)|岡本健一]] * 録音:[[大谷巌]] * 編集:西田重雄 * 助監督:[[加藤泰]] * 記録:[[野上照代]] == 製作 == === 脚本=== [[伊丹万作]]唯一の弟子としてシナリオの指導を受けた[[橋本忍]]は、伊丹に「君は原作ものはやらないのかね」と言われたのがきっかけで、文学作品を手がけようと考え、あまり映画化されていなかった[[芥川龍之介]]に目を付けた<ref name="橋本">「第1章 『羅生門』の生誕―生涯の恩師・伊丹万作先生」({{Harvnb|橋本|2006|p=18-42}})</ref>。橋本はサラリーマン生活をしながら芥川の小説を読み、彼の短編小説『[[藪の中]]』を元にした『雌雄』というシナリオを3日で完成させた<ref name="橋本"/>。[[1946年]]に伊丹が亡くなり、翌年に一周忌法要に参加した橋本は、その席で伊丹夫人から[[佐伯清]]を紹介され、『雌雄』を含めたシナリオを佐伯に預けた<ref name="大系1解説">[[浜野保樹]]「解説・黒澤明の形成―『羅生門』の脚本」({{Harvnb|大系1|2009|pp=707-708}})</ref>。その後東京出張の度に佐伯宅を訪問し、佐伯が[[黒澤明]]と親しいことを知ると、自分のシナリオを黒澤に読んでもらうように頼んだ<ref name="橋本"/>。佐伯は預かっていた橋本の『雌雄』を含むシナリオを黒澤に渡した<ref name="大系1解説"/>。 当時は[[東宝]]を離れ、映画芸術協会を足場に他社で映画製作をしていた黒澤は、『[[静かなる決闘]]』を撮った[[大映]]から再び映画製作を依頼され、次作を模索していたところ、佐伯から貰った『雌雄』を思い出した{{Sfn|西村|2005|pp=571-573}}{{Sfn|黒澤|1990|pp=330-343}}。『雌雄』は京の郊外で武士が殺害される事件をめぐり、関係者3人が[[検非違使]]で証言するが、みな食い違ってその真相が杳としてわからないという内容だった{{Sfn|都築|2010|pp=173-177}}。しかし、それだけでは長編映画にするには短すぎたため、橋本はシナリオを書き足すも黒澤は気に入らなかった<ref name="大系1解説"/>。黒澤は2人で書き直そうと提案するが、橋本は体調を崩して参加できず、黒澤は[[熱海温泉|熱海]]の旅館「観光閣」に一人籠もってシナリオを書き直した<ref name="大系1解説"/>。黒澤は『雌雄』のエピソードに杣売りの証言と、同じ芥川の短編小説『[[羅生門 (小説)|羅生門]]』のエピソードを加え、さらにラストで杣売りが捨て子を貰い受けるというエピソードを付け足した{{Sfn|都築|2010|pp=173-177}}。タイトルも『雌雄』から『羅生門物語』を経て、『羅生門』に改められた{{Sfn|西村|2005|pp=571-573}}。 === 製作準備 === 大映の首脳部は、内容が難解なこの企画に首をひねった。この企画に興味を示した[[本木荘二郎]]は首脳陣を説得するため、[[1950年]]の年明け早々に大映製作担当重役の[[川口松太郎]]と[[市川久夫]]の前で本読みをした。まだ企画が通ってもいない脚本の本読みをプロデューサーがするのは異例だったが、本木の劇的な抑揚を付けた本読みは川口たちの心を動かし、製作の許可が出た<ref name="大系1解説"/>{{Sfn|鈴木|2016|pp=126-128}}。また黒澤は商業性に乏しいこの企画を渋る経営陣に「セットは羅生門のオープンセットが1つ、他に検非違使庁の塀、あとはロケーションだけ」と説得して会社を安心させた{{Sfn|都築|1995|pp=279-286}}。大映社長の[[永田雅一]]はこの決定に深く関与しておらず、本作のプロデューサーも製作部長の[[箕浦甚吾]]が担当した<ref name="大系1解説"/>{{Sfn|西村|2005|pp=575-576}}。 同年の初夏、黒澤一行は[[大映京都撮影所]]入りし、[[木屋町通|木屋町]]の旅館「松華楼」に宿泊した{{Sfn|都築|2010|pp=173-177}}{{Sfn|西村|2005|pp=575-576}}。黒澤は松華楼を拠点にして、羅生門のオープンセットの完成を待ちながら、撮影打ち合わせ、[[ロケーション・ハンティング]]、[[リハーサル]]などの準備に取りかかった{{Sfn|都築|1995|pp=279-286}}。配役は8人のみで、黒澤は[[三船敏郎]]や[[志村喬]]など一緒に仕事をしたことのある俳優で固めるつもりだったが、大映は興行的に難しい作品を売りやすくするため、当時肉体女優として売り出していた[[京マチ子]]を真砂役に起用することを提案した<ref name="大系1解説2">浜野保樹「解説・黒澤明の形成―『羅生門』の制作」({{Harvnb|大系1|2009|pp=709-711}})</ref>。黒澤は当初、この役に[[原節子]]を念頭に置いていたが節子の義兄、[[熊谷久虎]]が節子には向かないと反対して実現しなかった<ref>[https://www.nippon.com/ja/japan-topics/bg900161/?pnum=2 小津が黒澤に抱いた対抗意識]生誕100年・原節子を巡る神話と真実:小津映画に不満、生涯の「代表作」を求め続けて2020.06.05(2021.1.3Lastaccess)</ref>。本作に出演したかった京は眉を剃り落してメーキャップテストに現れ、その熱意に打たれた黒澤は京の出演を決めた<ref name="大系1解説2"/>。 羅生門のオープンセットは、美術監督の[[松山崇]]の設計により、大映京都撮影所内の広場600坪に25日間を費やして建設した<ref name="大映">「“羅生門”が出来上がるまで」「火事と『羅生門』」(『大映十年史』大映、1951年)。{{Harvnb|大系1|2009|pp=593-596}}に所収</ref>。羅生門は[[羅城門]]を元にしているが、羅城門の構造が分からず寺院の山門を参考にして建てた{{Sfn|黒澤|1990|pp=330-343}}。そのセットは間口18間(約33メートル)、奥行き12間(約22メートル)、高さ11間(約20メートル)で、柱は周囲4尺(約1.2メートル)の巨材18本を使い、「延暦十七年」と彫られた瓦を4000枚焼いた{{Refnest|group="注釈"|オープニングのタイトルにも使用された羅生門の[[扁額]]は、高さ120センチ、幅215センチあり、字は大映や東映作品で題字などを手がけた[[宇野正太郎]]が書いた<ref>{{Cite web|和書|url=http://archive.momat.go.jp/FC/nfcnews.html |title=フィルムセンター・ニュース |website=東京国立近代美術館フィルムセンター |date=2005/6/7 |accessdate=2020年7月26日}}</ref>。}}{{Sfn|都築|2010|pp=173-177}}。あまりにも大きなセットになり、屋根までまともに作ると柱が支えきれなくなるため、屋根の半分を崩して荒廃しているという設定にした{{Sfn|黒澤|1990|pp=330-343}}{{sfn|野上|2014|pp=174-177}}。企画時にセット1つで済むと聞かされていたため、大映重役の[[川口松太郎]]は「黒さんには、一杯喰わされたよ、1つには違いないが、あんな大きなオープンセットを建てる位なら、セットを百位建てた方がよかったよ」と愚痴をこぼした{{Sfn|黒澤|1990|pp=330-343}}。 === 助監督 === 撮影が始まる前、助監督の[[加藤泰]](チーフ)、[[若杉光夫]](セカンド)、[[田中徳三]](サード)の3人は脚本がよく解らず、説明を求めようと松華楼の黒澤を訪ねた{{Sfn|西村|2005|pp=591-594}}。映画のテーマを説明するのを嫌う黒澤は「よく読めば解るはずだ。もう少し脚本をよく読んで欲しい」と言うも、3人は引き下がらずに重ねて説明を求めたため、次のように説明した{{Sfn|黒澤|1990|pp=330-343}}。 {{Quotation|人間は、自分自身について、正直な事は云えない。虚飾なしには、自分について、話せない。この脚本は、そういう人間というもの、虚飾なしには生きていけない人間というものを描いているのだ。いや、死んでも、そういう虚飾を捨てきれない人間の罪の深さを描いているのだ。これは、人間の持って生れた罪業、人間の度し難い性質、利己心が繰り広げる奇怪な絵巻なのだ。|黒澤明『蝦蟇の油』{{Sfn|黒澤|1990|pp=330-343}}}} この説明に若杉と田中は納得するも、加藤だけは納得がいかず、黒澤の説明に執拗に食い下がったため、黒澤も気分を害した。撮影現場でも2人は険悪で、黒澤がチーフ助監督がすべき仕事を[[志村喬]]に任せたため、これに激昂した加藤は現場に来なくなり、黒澤も彼を現場から外した{{Sfn|黒澤|1990|pp=330-343}}<ref name="大系1解説2"/>{{Sfn|西村|2005|pp=591-594}}。その代わり加藤は本作の予告編を作ることになった。その予告編には撮影現場のスナップや、特別に撮った猫の目のアップや、うごめく蛇のショットなど、本作とは関係のないテーマが挿入された。予告編に対する黒澤の反応について、田中は「最初にその予告編を見た時、面白いじゃないの、というようなことを言いましたよ。もっともそれは、黒澤さんの皮肉だったと取れないこともないですが…」と語っている{{Sfn|西村|2005|pp=591-594}}。 === 撮影 === 撮影は7月7日から8月17日まで行われた{{sfn|野上|2014|pp=174-177}}。オープンセットは大映京都撮影所内に作られた羅生門と検非違使庁の庭のみで、それ以外はロケーション撮影が行われた<ref name="メモ">{{Cite journal|和書 |author= |date=1988-1 |title=製作メモランダ |journal=全集黒澤明 |volume=3 |publisher=岩波書店 |isbn=9784000913232 |pages=368-369}}</ref>。森のシーンは[[奈良市]]奥山の原生林と[[長岡京市]]の[[光明寺 (長岡京市)|光明寺]]の裏山、川ふちのシーンは[[木津川 (京都府)|木津川]]べりで撮影した<ref name="メモ"/>{{Sfn|都築|1995|pp=293-294}}。撮影は大映専属の[[宮川一夫]]が担当し、カメラは宮川愛用の[[ミッチェル撮影機|ミッチェルNC型撮影機]]、レンズは画面の隅々までシャープな画像が得られるアストロ社製の32ミリ、40ミリ、50ミリ、75ミリを使用した{{Sfn|都築|1995|pp=279-286}}。黒澤は[[#撮影と映像美|後述]]の宮川の撮影技術を「百点だよ。キャメラは百点! 百点以上だ! {{Sfn|黒澤|1990|pp=330-343}}」と高く評価した。 撮影は奈良奥山のロケーションで始まり、杣売りが斧を担いで山奥へ入るシーンでクランクインした{{Sfn|都築|1995|pp=279-286}}。7月17日から光明寺でロケーション撮影をしたが、この撮影は羅生門のオープンセットと並行してスケジュールが組まれ、晴れた日は光明寺、曇りの日は雨の羅生門のシーンを撮影した{{Sfn|黒澤|1990|pp=330-343}}{{sfn|野上|2014|pp=174-177}}<ref name="メモ"/>。雨の羅生門のシーンでは、門が煙るほどの土砂降りの雨を降らせるため、3台の[[消防車]]を出動させて5本のホースを使用した<ref name="大映"/>。その時に雨がバックの曇り空に溶け込まないようにするため、水に墨汁をまぜて降らせた{{Sfn|都築|1995|pp=296-298}}。 === ポストプロダクション === 8月17日に撮影終了したが、公開日は8月26日に決定していたため、1週間で編集とダビング作業をすることになり、そのうえ2度にわたる火災に巻き込まれるというトラブルも発生した<ref name="大系1解説2"/>。最初の火災は8月21日午後6時、ダビング作業をしていた録音室のすぐ隣の大映京都撮影所第2ステージで出火した<ref name="大映"/>。オリジナルネガは無事だったが、慌ててダビングマシンを持ち出したため機材はバラバラになり、旧式の機材で作業を続けなければならなくなった{{sfn|野上|2014|pp=181-186}}<ref name="フィルム">{{Cite web|和書|url=http://filmpres.org/preservation/translation02/film_archives02/ |title=フィルムアーカイブ物語 第二章 映画フィルム |website=映画保存協会 |accessdate=2020年7月31日}}</ref>。さらに録音した三船の音声の一部も消失し、帰京していた三船を呼び戻して録音し直すことになった<ref name="大系1解説2"/>{{sfn|野上|2014|pp=181-186}}。その翌日にダビング作業を再開するが、そこで2度目の火災が発生した。今度はフィルムが映写機に引っかかって引火し、[[セルロイド|セルロイドフィルム]]から放出される有毒ガスにより、30数人のスタッフが倒れた{{sfn|野上|2014|pp=181-186}}<ref name="フィルム"/>。 それでも黒澤たちは公開日に間に合わせるため残り2日間でダビング作業を行い、8月24日午後7時頃に初号プリントが完成し、すぐに夜行列車で東京の本社に送られた<ref name="大系1解説2"/><ref name="フィルム"/>{{sfn|野上|2014|pp=181-186}}。翌8月25日に[[京橋区|京橋]]の大映本社で試写が行われたが、同席した田中徳三によると、試写が終わって数分の沈黙のあと、永田社長が「なんかよう解らんけど、高尚なシャシンやな」と語ったという<ref>{{Cite book |和書 |author=田中徳三|authorlink=田中徳三 |date=1994-5 |title=映画が幸福だった頃 |publisher=JDC |isbn=9784890081516 |page=37}}</ref>。 == スタイル == === 撮影と映像美 === 黒澤は本作で[[サイレント映画]]の持つ映像美にチャレンジし、視覚的なストーリーテリングに頼ることにした{{Sfn|都築|2010|pp=173-177}}{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=169-170}}。黒澤はサイレント映画の美しさを考え直し、純粋な映画的手法を生かす方法を探すため、1920年代の[[フランス]]の[[実験映画#アヴァンギャルド映画|アヴァンギャルド映画]]『{{仮リンク|ひとで (映画)|label=ひとで|fr|L'Étoile de mer (film, 1928)}}』『{{仮リンク|貝殻と僧侶|fr|La Coquille et le Clergyman}}』などの手法を研究した{{Sfn|黒澤|1990|pp=330-343}}<ref name="人間">黒澤明、[[淀川長治]]「人間を信ずるのが一番大切なこと」(『[[映画の友]]』1952年4月号)。{{Harvnb|大系1|2009|pp=577-585}}に所収</ref>。本作はその試みを実験する格好の素材となった{{Sfn|黒澤|1990|pp=330-343}}。黒澤は次のように述べている。 {{Quotation|私は、人間の心の奇怪な屈折と複雑な陰影を描き、人間性の奥底を鋭いメスで切り開いてみせた、この芥川龍之介の小説の題名『藪の中』の景色を一つの象徴的な背景に見立て、その中でうごめく人間の奇妙な心の動きを、怪しく錯綜した光と影の映像で表現してみたかったのである。|黒澤明『蝦蟇の油』{{Sfn|黒澤|1990|pp=330-343}}}} 宮川は「黒と白で、グレーのないような、コントラストの強い絵を撮りたい」と提案し、これに応じた黒澤は検非違使の庭を白、羅生門を黒、森の中を白と黒で撮るというイメージを固めた{{Sfn|都築|2010|pp=173-177}}<ref name="宮川">{{Cite book |和書 |author=宮川一夫|authorlink=宮川一夫 |date=1985-7 |title=キャメラマン一代 私の映画人生60年 |publisher=PHP研究所 |isbn=9784569215716 |pages=58-61}}</ref>。宮川はこれまで得意とした、グレーの微妙なニュアンスで表現したローキー・トーンの画調を放棄し、黒と白を基調として中間のグレーを抑えるハイキー・トーンを採用した{{Sfn|都築|1995|pp=279-286}}。さらにフィルムは当時主流の[[コダック|コダックフィルム]]を使わず、コントラストが出過ぎることで劣っていた国産の[[富士フィルム|フジフィルム]]をあえて使用した{{Sfn|都築|1995|pp=279-286}}。 森の中のシーンでは、光と影のコントラストの強い映像を作るため、宮川は初めて[[露出計]]を使用した{{Sfn|都築|1995|pp=279-286}}。宮川はこれまで勘を頼りに撮影してきたが、光量が変化しやすい森の中の撮影に対応するため、[[GHQ|進駐軍]]が持っていた露出計を手に入れた{{Sfn|都築|1995|pp=279-286}}。また、強力な電気照明を持ち込めない暗い森の中で安定した光量を確保するため、宮川は「鏡照明」という手法を考案した<ref name="宮川"/>。これは木の間からもれる太陽光を8枚の大鏡でリレーのように反射させて光を当てるという技法で、[[レフ板]]よりも太陽光を直接使ってコントラストの強い画調を作ることができた{{Sfn|都築|1995|pp=279-286}}{{Sfn|佐藤|2002|pp=134-135}}。さらに宮川は地上数メートルの高さに野球ネットを張り、その上に枝葉を適当に散らし、長い竹竿でそれを調節しながら、俳優の顔に木の葉の影がうまく当たるようにし、登場人物の精神状態を木の葉の影の微妙な変化で表現した{{Sfn|都築|1995|pp=296-298}}{{Sfn|佐藤|2002|pp=134-135}}。 本作では、カメラを太陽に向けるという大胆な撮影を行った。当時は太陽をじかに撮るとフィルムを焼くと考えられて[[タブー]]とされていたが、黒澤は多襄丸と真砂が[[接吻]]するシーンで、2人の接吻越しに太陽を入れるように注文した{{sfn|野上|2014|pp=174-177}}{{Sfn|都築|1995|pp=293-294}}<ref name="宮川"/>。宮川は2メートルの高さの台に2人を乗せ、カメラは地面を掘った穴から[[ローアングル|仰角]]で撮影し、2人の接吻のアップ越しに木の葉の間をもれる太陽を入れた{{sfn|野上|2014|pp=174-177}}{{Sfn|都築|1995|pp=293-294}}<ref name="宮川"/>。宮川は杣売りが森の中を歩くシーンでも、[[モンタージュ]]用に木の葉の間をもれる太陽のショットを撮影している<ref name="宮川"/>。 三船演じる多襄丸が武弘を縛り付けたあとに真砂のもとへ駆けていくシーンでは、多襄丸の走りにスピード感を出すため、カメラを中心に円を描くように三船を走らせた。宮川はカメラが三船と等距離になるよう、カメラから延ばしたロープを三船に縛り付け、カメラごとぐるぐる回りながら撮影した{{Sfn|都築|1995|pp=289-290}}。 === 演技 === 黒澤は俳優に本能むき出しの野性味ある動きや表情を引き出そうとした{{Sfn|都築|2010|pp=173-177}}。黒澤はリハーサルの合間に[[16ミリフィルム|16ミリ]]で{{仮リンク|マーティン・ジョンソン (映画監督)|label=マーティン・ジョンソン|en|Martin and Osa Johnson}}の古いアフリカ探検映画を見せ、藪の向こうから[[ライオン]]がこちらを見ているショットがあると、「おい三船君、多襄丸はあれだぜ」と指摘した<ref name="自作">{{Cite journal|和書 |title=黒澤明、自作を語る―羅生門 |date=2010-4 |journal=キネマ旬報セレクション 黒澤明 |publisher=キネマ旬報社 |isbn=9784873763293 |pages=41-42}}</ref>。黒澤は「人間をアニマルにしようと思った<ref name="自作"/>」と述べている。[[佐藤忠男]]は「三船敏郎は多襄丸役で、旧来の時代劇の様式化された演技とは全く違う動物的精気のあふれるような本能的な荒々しい動きを見せた」と指摘している{{Sfn|佐藤|2002|pp=138-142}}。さらに[[ヒョウ|クロヒョウ]]の出る映画をみんなで見たときに、クロヒョウが画面に現れて京が両手で顔を隠した姿勢を、そのまま真砂の演技に取り入れた<ref name="自作"/>。 === ヒューマニズム === 本作は人間不信の物語であるが、ヒューマニストである黒澤はラストに杣売りが羅生門に捨てられていた赤ん坊を拾って育てるというオリジナルのエピソードを付け足し、救いとして人間への信頼を取り戻そうとする結末にした{{Sfn|都築|1995|pp=279-286}}。このシーンは公開後に国内外で取って付けたような[[ヒューマニズム]]で不自然ではないかという批評を受けたが{{Sfn|佐藤|2002|pp=138-142}}、これに対して黒澤は[[淀川長治]]との対談で次のように語っている。 {{Quotation|よくてらって人間を信じないと云うけれど、人間を信じなくては生きてゆけませんよ。そこをぼくは『羅生門』で云いたかったんだ。つきはなすのは嘘ですよ。文学的にあまいというけれど、それが正直ですね。人間が信じられなくては、死んでゆくより仕方がないんじゃないかしら…。|[[黒澤明]]、淀川長治「人間を信ずるのが一番大切なこと」<ref name="人間"/>}} === 音楽 === 本作の音楽は[[早坂文雄]]が作曲した。真砂の証言シーンでは、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]の「[[ボレロ (ラヴェル)|ボレロ]]」に似た音楽を作曲している{{Sfn|西村|2005|pp=580-581}}。これは黒澤のアイデアで、そのシーンの脚本を書いている時に、頭の中で「ボレロ」のリズムが思い浮かんだからだという{{Sfn|黒澤|1990|pp=330-343}}。「ボレロ」の故国[[フランス]]では、あまりにも酷似しているとして物議を醸し、ラヴェルの楽譜の出版元からも抗議の手紙が寄せられたが、早坂のオリジナル・ボレロだと主張して事なきを得た{{Sfn|西村|2005|p=659}}。 == 公開と評価 == === 日本公開 === [[File:Rashomon_poster.jpg|thumb|220px|本作の劇場公開時の[[ポスター]]。]] 1950年8月25日、大映本社での試写の1時間後、[[帝国劇場]]で行われた[[読売新聞社]]主催の湯川奨学金公募で特別上映され、その翌日に劇場公開された<ref name="大系1解説2"/>{{Sfn|野上|2014|pp=181-186}}。1950年度の大映作品の興行成績で4位となる成功を収め、通常は週替わりで封切られるところ、大映系列館のすべてで2週間以上続映された<ref name="大系1解説2"/><ref name="年鑑">{{Cite journal|和書 |journal=映画年鑑 1951年版 |publisher=時事通信社 |date=1951 |page=27}}</ref>。当時としては刺激的な内容のため、インテリ層に支持されて都市部でヒットした<ref name="年鑑"/><ref>「『宗方姉妹』『羅生門』ヒット」『映画新報』1950年9月下旬号、映画新報社、42頁。</ref>。しかし、映画批評家の評価はあまり良くはなく、この年の[[キネマ旬報ベスト・テン]]で5位にランクされる程度だった{{Sfn|都築|2010|pp=186-187}}。 === ヴェネツィア国際映画祭 === ==== 出品から受賞まで ==== 同年末、[[日本映画製作者連盟|日本映画連合会]]に[[カンヌ国際映画祭]]から出品依頼が届き、選考により本作と[[今井正]]監督の『[[また逢う日まで (1950年の映画)|また逢う日まで]]』が候補に絞られた。しかし、本作は音楽がボレロに似ていることを指摘されたため推薦から外された<ref name="大系1解説3"/>{{Sfn|鈴木|2016|pp=116-120}}。当時の映画会社は国際映画祭に関心がなく、出品に必要なプリント代や字幕作成などの費用が無駄だからと出品を渋り<ref>{{Cite book|和書 |author=今村金衛 |date=1960-11 |title=映画産業 |publisher=有斐閣 |series=日本の産業シリーズ |isbn=4641055122 |page=170}}</ref>、『また逢う日まで』も[[東宝]]が出品を取り下げた<ref name="大系1解説3"/>{{Sfn|鈴木|2016|pp=116-120}}。同時に[[ヴェネツィア国際映画祭]]からも出品依頼が届き、日本映画連合会は同映画祭出品の日本の窓口だった[[イタリフィルム]]社長の[[ジュリアーナ・ストラミジョーリ]]に選考を任せた<ref name="大系1解説3"/>。ストラミジョーリはすべての候補作を見て、本作が出品作にふさわしいと判断した{{Sfn|鈴木|2016|pp=116-120}}。ストラミジョーリはその理由について、次のように語っている。 {{Quotation|『羅生門』に私は非常な驚異を感じました。賞を得られるかどうかはともかくとして、これは相当の話題を呼ぶということがまず第一条件でしょう。その意味で『羅生門』は非常に特色を持つ映画で、しかも日本的であったから、全く適切だと思いました。テーマの扱い方、描き方、その映画に流れている精神と人間性ということも充分優れていると思いました。|「ストラミジョリさんは語る」<ref>「ストラミジョリさんは語る」『キネマ旬報』1953年7月下旬号、キネマ旬報社、79頁。</ref>}} しかし、大映は出品に興味を示さず、字幕作成費を負担するのも渋ったため、ストラミジョーリは自分で字幕を作成し、自費でフィルム代や送料を負担して出品した{{Sfn|鈴木|2016|pp=116-120}}。黒澤は自伝で、映画祭出品は「ストラミジョリイ(本文ママ)さんの理解ある配慮によるもの{{Sfn|黒澤|1990|pp=330-343}}」と述べており、大映営業調整部長の山根啓司も「ほんとうにあそこに出すようになったのはストラミジョリさんの功績です<ref>「座談会 日本映画・輸出産業のホープとなる」『キネマ旬報』1953年7月下旬号、キネマ旬報社、79頁。</ref>」と述べている。 [[1951年]]8月23日にヴェネツィア国際映画祭で上映されると、多くの映画関係者やジャーナリストに衝撃を与えた{{Sfn|鈴木|2016|pp=116-120}}{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=177-184}}。[[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|バラエティ]]誌の記者は「監督が素晴らしい。全て屋外で撮影されているが、カメラワークが完璧だ」と報告したが、当時は黒澤や三船も知られていなかったため、スタッフやキャストの見分けがつかず、「セイノブ・ハシモトは自堕落な盗賊を情熱的に演じている。トスィオ・ミフメはドラマチックで濃厚な役だ。アチラ・クロサワは仏頂面で反応の薄い夫役をこなしている」と名前も間違えて報告していた{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=177-184}}。 9月10日の授賞式でグランプリにあたる[[金獅子賞]]を受賞したが、黒澤は出品されたことすら知らず、日本から関係者は誰も出席していなかった。それどころか授賞式には日本人すらいなかったため、映画祭関係者はヴェネツィアの街で受取人にふさわしい人を探し回り、たまたま観光で訪れていた[[ベトナム人]]男性を見つけ、彼に金獅子像を受け取らせた{{Sfn|鈴木|2016|pp=116-120}}。 ==== 受賞後とその影響 ==== 本作のグランプリの報は、敗戦で打ちひしがれていた日本人にとって、[[湯川秀樹]]の[[ノーベル物理学賞]]受賞、[[古橋廣之進]]の[[競泳]]世界記録樹立などとともに希望と自信を与える出来事となった{{Sfn|鈴木|2016|pp=116-120}}<ref name="口絵">{{Harvnb|大系1|2009|loc=口絵}}</ref>。また、敗戦国の国民として肩身が狭い思いをしていた海外在住の日本人にも大きな喜びを与えた。[[リヨン]]に留学していた[[遠藤周作]]は「ベニス映画祭で日本の作品がグランプリをとったというニュースほど、留学生を悦ばせたものはなかった。彼等が木と紙の家にしか住まず、地面の上に寝るとしか考えていない日本人の創造力が本当はどういうものかをこれによって証明できたからである<ref>{{Cite journal |和書|author=[[遠藤周作]]|date=1965|title=パリで実感した愛国心|publisher=朝日新聞社|journal=アサヒグラフ増刊 戦後20年・人と事件|page=55}}</ref>」と書いている。ヨーロッパ在住の[[イサム・ノグチ]]は本作を見て、ヨーロッパを威張って歩くことができたという<ref name="大系2解説">浜野保樹「解説・世界のクロサワと挫折―東宝復帰」({{Harvnb|大系2|2009|pp=668-669}})</ref>。 大映社長の永田は、受賞報告を聞いて「グランプリって何や?」と聞き返したという{{Sfn|鈴木|2016|pp=116-120}}。永田は本作に批判的な態度を取り、映画祭出品にも無関心だったが、受賞後は手のひらを返したかのように絶賛し、自分の手柄のように語ったため、周りから「黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリ」と揶揄された<ref name="大系1解説3"/><ref>{{Citation |和書 |editor=黒澤明研究会 |date=2004-9 |title=黒澤明を語る人々 |publisher=朝日ソノラマ |isbn=9784257037033 |page=30}}</ref>。金獅子像も永田が手にして社長室に飾り、黒澤たち関係者にはレプリカを配った{{Refnest|group="注釈"|本物の金獅子像は大映倒産後に紛失しており<ref name="口絵"/>{{Sfn|鈴木|2016|p=135}}、[[国立映画アーカイブ]]の常設展にはレプリカの金獅子像が展示されている。}}<ref name="口絵"/>{{Sfn|鈴木|2016|p=135}}。受賞後、大映には欧米各国の配給会社から買付け申し込みが殺到し、アメリカは[[RKO]]、イギリスは{{仮リンク|ロンドン・フィルム|en|London Films}}、イタリアはベロッティ・フィルムと契約を結んだ<ref name="発達史">{{Cite book|和書 |author=田中純一郎|authorlink=田中純一郎 |date=1976 |title=[[日本映画発達史|日本映画発達史Ⅳ 史上最高の映画時代]] |publisher=中央公論社 |series=中公文庫 |isbn=9784122003156 |pages=13-15}}</ref>。 この受賞以来、日本映画には各国映画祭から出品要請が相次ぎ、日本映画の配給を要望する海外の映画会社も増えた<ref name="発達史"/>。日本映画産業も海外市場に目を向けるようになり、「輸出映画」という言葉が業界用語となった<ref name="大系2解説"/>。永田率いる大映も、受賞以降は海外市場開拓を積極的に進めるようになり、[[吉村公三郎]]監督の『[[源氏物語 (1951年の映画)|源氏物語]]』や[[衣笠貞之助]]監督の『[[地獄門]]』、[[溝口健二]]監督の『[[雨月物語 (映画)|雨月物語]]』などの海外受けを狙う芸術路線の大作映画を送り出し、そのうち数本が賞を受賞したものの、社運を賭けた大作主義に走り過ぎて疲弊したとされている{{Sfn|鈴木|2016|p=131}}。 黒澤はグランプリの受賞について、西洋人のエキゾチックなものに対する好奇心ではないかと指摘し、もっと日本の現実的な題材で賞を獲るべきだと主張している<ref name="ヴェニス">「日本映画『羅生門』にヴェニス大賞輝く」『キネマ旬報』1951年10月上旬号、キネマ旬報社、59頁。</ref>。 {{Quotation|勿論、嬉しいことは嬉しい、嬉しいのですが、ただああいう作品ではなく、もっと今の日本の現実に触れた題材、例えば、『[[戦火のかなた]]』や『[[自転車泥棒 (映画)|自転車泥棒]]』のような作品を作れて、それで入賞できたら、意義もあり、もっと嬉しくもあったでしょう。この判定には、だいぶエキゾチックなものに対する西欧の好奇心、いや、日本の苦しさに対する同情などもはいっているんじゃないでしょうか。その点では、この作品は却って外国向きだったかもしれませんが。|「日本映画『羅生門』にヴェニス大賞輝く」より、黒澤明の談話<ref name="ヴェニス"/>}} また、黒澤は受賞祝賀会で次のような発言をしている。 {{Quotation|日本映画を一番軽蔑してたのは日本人だった。その日本映画を外国に出してくれたのは外国人だった。これは反省する必要はないか。[[浮世絵]]だって外国へ出るまではほんとに市井の絵にすぎなかったよね。われわれ、自分にしても自分のものにしても、すべて卑下して考えすぎるところがあるんじゃないかな? 『羅生門』も僕はそう立派な作品だとは思っていません。だけどあれはマグレ当りだなんて言われると、どうしてすぐそう卑屈な考え方をしなきゃならないんだって気がするね。|「黒澤明、自作を語る」<ref name="自作"/>}} [[1982年]]、ヴェネツィア国際映画祭50周年を記念して、イタリアのレ・パプリカ新聞が発表した「グランプリ作品中のグランプリ」に選出された<ref name="メモ"/>。 === 海外での評価 === アメリカでは、1951年12月6日に[[ロサンゼルス]]の[[リトル・トーキョー]]にある日本映画専門館リンダ・リーで期間限定で上映された{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=177-184}}。現地にいた淀川長治によると、俳優の[[リー・J・コッブ]]が連日観に通っていたという<ref>{{Cite book|和書 |author=淀川長治|authorlink=淀川長治 |date=1995 |title=淀川長治映画塾 |publisher=講談社 |series=講談社文庫 |isbn=9784061858954 |pages=590-591}}</ref>。その前の10月から[[RKO]]は大映と配給交渉を行い、リンダ・リーでの公開後に米国配給権を購入し、12月26日に[[ニューヨーク]]のリトル・カーネギー・シアターで正式にプレミア上映した{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=177-184}}。アメリカで日本映画が商業上映されたのは、[[1937年]]に[[成瀬巳喜男]]監督の『[[妻よ薔薇のやうに]]』が公開されて以来だった{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=177-184}}<ref>{{Citation|和書 |editor=[[蓮實重彦]]、[[山根貞男]] |date=2005 |title=成瀬巳喜男の世界へ |publisher=筑摩書房 |series=リュミエール叢書 |isbn=9784480873170 |page=184}}</ref>。同劇場だけで公開後3週間で3万5000ドルの興行成績を収めた{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=177-184}}。当時アメリカにいた[[三島由紀夫]]もニューヨークで本作を見ており、「知識階級のあいだでは『羅生門』の評判は非常なものである<ref>{{Cite book |和書 |author=三島由紀夫|authorlink=三島由紀夫 |date=1982-9 |title=[[アポロの杯]] |publisher=新潮社 |series=新潮文庫 |isbn=9784101050324 |page=31}}</ref>」と紹介した。 [[1952年]]の[[第24回アカデミー賞]]では、[[アカデミー外国語映画賞|名誉賞]](現在の[[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]])を受賞したが、授賞式には黒澤をはじめ日本映画関係者がひとりも出席しなかったため、急遽代理で出席した[[在ロサンゼルス日本国総領事館]]総領事の吉田健一郎が[[オスカー像]]を受け取った<ref>ジャック岩田「アカデミー賞とジャック」(『ONE MORE SHOT』文藝春秋、1991年)。{{Harvnb|大系1|2009|p=609}}に所収</ref>{{Refnest|group="注釈"|授賞式([[第24回アカデミー賞|第24回]])ではプレゼンターが「Japanese Government's Overseas Office will accept the award.([[日本政府在外事務所]]が賞を受け取ります)」、続くアナウンスで「Mr. Yoshida is coming on stage now…(ミスター吉田がステージに登壇します)」と説明<ref>{{cite video|people=Ken Yoshida(吉田健一郎)|date=2014-04-22|title=Rashomon Receives an Honorary Foreign Language Film Award: 1952 Oscars|url=https://www.youtube.com/watch?v=e26B1gnoSk4#t=1m3s|medium=YouTubeチャンネル|publisher=AMPAS|accessdate=2022-05-24|time=1分3秒後}}</ref>。 - [[日本政府在外事務所|在ロサンゼルス日本政府在外事務所]]が[[在ロサンゼルス日本国総領事館|日本国総領事館]]となるのは、授賞式翌月の4月からであり、吉田健一郎はその初代[[総領事]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.la.us.emb-japan.go.jp/itpr_ja/news_info_CGJ100.htm|title=在ロサンゼルス日本国領事館の100年|website=在ロサンゼルス日本国領事館|date=2015-08-15|accessdate=2022-05-24}}</ref>。}}。翌[[1953年]]の[[第25回アカデミー賞]]でも、[[アカデミー美術賞|美術監督賞 (白黒部門)]]で[[松山崇]]と{{仮リンク|松本春造|en|H. Motsumoto}}がノミネートされ、授賞式には淀川長治が出席した<ref name="オスカー2">{{Cite web |url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1953 |title=THE 25TH ACADEMY AWARDS | 1953 | website=oscar.org |language=英語 |accessdate=2020年8月11日}}</ref><ref>{{Citation|和書 |author=岡田喜一郎 |date=2008 |title=淀川長治の映画人生 |publisher=中央公論新社 |series=中公新書ラクレ |isbn=9784121502803 |page=174}}</ref>。 海外の映画批評家の多くは、本作に対して好意的な評価をしている。[[ニューヨーク・タイムズ]]紙の[[ボズレー・クラウザー]]は「この映画が持つパワーのほとんどは、黒澤監督が用いたカメラワークの素晴らしさに由来している。撮影は見事で、映像の流れは言葉にできない表現力がある。音楽や効果音も見事であり、役者たちの演技も刺激的だ」と評した{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=177-184}}。[[ロジャー・イーバート]]は本作に最高評価の星4つを与え、自身が選ぶ最高の映画のリストに加えている<ref>{{Cite web|url=https://www.rogerebert.com/reviews/great-movie-rashomon-1950 |title=Review:Rashomon |website=rogerebert.com |language=英語|accessdate=2020/08/11}}</ref>。映画批評集積サイトの[[Rotten Tomatoes]]には55件のレビューがあり、批評家支持率は98%で、平均点は9.22/10となっている<ref>{{Cite web|url=https://www.rottentomatoes.com/m/rashomon|title=Rashomon|website=[[Rotten Tomatoes]]|language=英語|accessdate=2020/08/11}}</ref>。[[Metacritic]]には18件のレビューがあり、加重平均値は98/100となっている<ref>{{Cite web|url=https://www.metacritic.com/movie/rashomon |title=Rashomon Reviews|website=[[Metacritic]]|language=英語|accessdate=2020/08/11}}</ref>。 海外の映画監督からも高い評価を受けている。[[2012年]]に[[英国映画協会|BFI]]の映画雑誌[[:en:Sight & Sound|サイト・アンド・サウンド]]が発表した「{{仮リンク|史上最高の映画ベストテン|en|Sight & Sound#The Sight & Sound Poll of the Greatest Films of All Time}}」の監督投票で、[[ウディ・アレン]]、[[ロイ・アンダーソン]]、[[アスガル・ファルハーディー]]などがベスト映画の1本に投票した<ref>{{Cite web |url=https://www.bfi.org.uk/films-tv-people/4ce2b6b3ec3fe/sightandsoundpoll2012 |title=Votes for Rashomon (1950) | website=BFI |language=英語 |accessdate=2020年8月11日}}</ref>。[[サタジット・レイ]]は「その映画が私個人に与えた影響は、光の使い方であった。私はその映画を3日間立て続けに見たが、そのたびに、いったいほかのどこに、映画制作の一切の面で、これほどまでに監督の指揮がゆきとどき、きらめいている作品であるだろうかと思った<ref>[[サタジット・レイ]]「黒澤明」(『わが映画 インドに始まる』第三文明社、1993年)。『大系 黒澤明 第3巻』講談社、2010年2月、pp. 602-606に所収</ref>」と評価した。 === 受賞とノミネートの一覧 === {| class="wikitable" style="font-size: 95%" |- style="background:#b0c4de; text-align:center;" !賞!!年度!!部門!!対象!!結果!!出典 |- |[[キネマ旬報ベスト・テン]]||1950年||日本映画ベスト・テン||||{{draw|5位}}||{{Sfn|85回史|2012|p=80}} |- |rowspan="2"|[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]|| rowspan="2"|1950年||脚本賞||[[黒澤明]]<br/>[[橋本忍]]||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web|和書|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1950/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131019083608/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1950/ |archivedate=2013/10/19 |title=ブルーリボン賞ヒストリー 第1回(1951年3月22日) | website=シネマ報知 |accessdate=2020年8月11日}}</ref> |- |劇映画ベスト10||||{{draw|4位}} |- |[[毎日映画コンクール]]||1950年||女優演技賞||[[京マチ子]]||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/mfa/history/005.html |title=毎日映画コンクール 第5回(1950年) | website=[[毎日新聞]] |accessdate=2020年8月11日}}</ref> |- |rowspan="2"|[[ヴェネツィア国際映画祭]]||rowspan="2"|1951年||[[金獅子賞]]||黒澤明||{{won}}||rowspan="2"|<ref name=”imdb”>{{Cite web |url=https://www.imdb.com/title/tt0042876/awards?ref_=tt_awd |title=Awards – Rashomon| website=IMDb |language=英語 |accessdate=2020年8月11日}}</ref> |- |イタリア批評家賞||黒澤明||{{won}} |- |rowspan="2"|[[アカデミー賞]]||[[第24回アカデミー賞|1951年]]||[[アカデミー外国語映画賞|名誉賞]]||||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1952 |title=THE 25TH ACADEMY AWARDS | 1952 | website=oscar.org |language=英語 |accessdate=2020年8月11日}}</ref> |- |[[第25回アカデミー賞|1952年]]||[[アカデミー美術賞|美術監督賞 (白黒部門)]]||[[松山崇]]<br/>松本春造||{{nom}}||<ref name="オスカー2"/> |- |rowspan="2" |[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー|ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]]||rowspan="2"|1951年||[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 監督賞|監督賞]]||黒澤明||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web |url=https://nationalboardofreview.org/award-years/1951/ |title=1951 Award Winners | website=National Board of Review |language=英語 |accessdate=2020年8月11日}}</ref> |- |[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]|||| {{won}} |- |[[ニューヨーク映画批評家協会賞]]||1951年||[[ニューヨーク映画批評家協会賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]||||{{draw|次点}}||<ref name=”imdb”/> |- |[[英国アカデミー賞]]||1952年||[[英国アカデミー賞 作品賞|総合作品賞]]||||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url= http://awards.bafta.org/award/1953/film? |title= Film in 1953 | website=BAFTA Awards |language=英語 |accessdate=2020年8月11日}}</ref> |- |[[全米監督協会賞]]||1952年||[[全米監督協会賞 長編映画監督賞|長編映画監督賞]]||黒澤明||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.dga.org/Awards/History/1950s/1952.aspx?value=1952 |title=DGA AWARDS 1952 |website=dga.org |language=英語 |accessdate=2020年8月11日}}</ref> |} === ランキング入り === {| class="wikitable" style="font-size:small" |- style="background:#b0c4de; text-align:center;" ! 選考年 !! 媒体・団体 !! 部門 !! 順位 !! 出典 |- |1959年||rowspan="7"|[[キネマ旬報]]||日本映画60年を代表する最高作品ベスト・テン||{{nom|12位}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://kuradashieigakan.com/kura-23/kinezyun1.htm#:~:text=%E3%80%8C%E3%82%AD%E3%83%8D%E3%83%9E%E6%97%AC%E5%A0%B1%E3%80%8D%E5%89%B5%E5%88%8A%EF%BC%94%EF%BC%90%E5%B9%B4,%E5%BF%A0%E6%B2%BB%E6%97%85%E6%97%A5%E8%A8%98%E3%80%8D%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82 |title=キネマ旬報日本映画60年を代表する最高作品ベストテン |website= |accessdate=2020年8月8日}}</ref> |- |1979年||日本映画史上ベスト・テン||{{draw|9位}}||<ref>『[[キネマ旬報]]』1979年11月下旬号</ref> |- |1989年||日本映画史上ベスト・テン||{{nom|15位}}||<ref>『[[キネマ旬報]]』1989年1月上旬号</ref> |- |rowspan="2"|1995年||日本映画オールタイム・ベストテン||{{draw|7位}}|| |- |世界映画オールタイム・ベストテン||{{nom|33位}}|| |- |1999年||オールタイム・ベスト100 日本映画編||{{draw|5位}}||{{Sfn|85回史|2012|p=588}} |- |2009年||オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画篇||{{draw|7位}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinejun.jp/special/90alltimebest/index.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091215171829/http://www.kinejun.jp/special/90alltimebest/index.html |archivedate=2009-12-15 |title=「オールタイム・ベスト 映画遺産200」全ランキング公開 |website=[[キネマ旬報映画データベース]] |accessdate=2017年3月18日}}</ref> |- |1982年||rowspan="7"|[[英国映画協会]] ''Sight&Sound''||批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{nom|81位}}|| |- |rowspan="2"|1992年||批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{nom|66位}}|| |- |映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{draw|10位}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.mistdriven.com/sight/1992_2.html |title=Sight and Sound Poll 1992: Directors | website= |language=英語 |accessdate=2020年8月8日}}</ref> |- |rowspan="2"|2002年||批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{nom|13位}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.bfi.org.uk/sightandsound/topten/poll/critics-long.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040213003312/http://www.bfi.org.uk/sightandsound/topten/poll/critics-long.html |archivedate=2004/2/13 |title=Sight and Sound Critics Top Ten Poll 2002 |work=Sight & Sound |publisher=BFI |language=英語 |accessdate=2020年8月8日}}</ref> |- |映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{draw|9位}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.bfi.org.uk/sightandsound/topten/poll/directors.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20020816030310/http://www.bfi.org.uk/sightandsound/topten/poll/directors.html |archivedate=2002/8/16 |title=Sight and Sound Directors' Top Ten Poll 2002 |work=Sight & Sound |publisher=BFI |language=英語 |accessdate=2020年8月8日}}</ref> |- |rowspan="2"|2012年||批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{nom|26位}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.bfi.org.uk/greatest-films-all-time |title=The 100 Greatest Films of All Time | website=BFI.org |language=英語 |accessdate=2020年8月8日}}</ref> |- |映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン||{{nom|18位}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.bfi.org.uk/films-tv-people/sightandsoundpoll2012/directors |title=Directors' top 100 | website=BFI.org |language=英語 |accessdate=2020年8月8日}}</ref> |- |1989年||[[文藝春秋]]||大アンケートによる日本映画ベスト150||{{draw|4位}}|| |- |1995年||[[タイムアウト (雑誌)|タイムアウト]]||最高の映画100本||{{nom|66位}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.filmsite.org/timeoutC.html |title=Top 100 Films (part 3, ranked) | website=Filmsite.org |language=英語 |accessdate=2020年8月8日}}</ref> |- |2000年||[[ヴィレッジ・ヴォイス]]||20世紀の映画ベスト100||{{draw|10位}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.filmsite.org/villvoice.html |title=100 Best Films of the 20th Century | website=Filmsite.org |language=英語 |accessdate=2020年8月17日}}</ref> |- |rowspan="2"|2010年||[[エンパイア (雑誌)|エンパイア]]||史上最高の外国語映画100本||{{nom|22位}}||<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20100614/2/ |title=英エンパイア誌の「史上最高の外国語映画100本」 第1位に「七人の侍」 |accessdate=2017-03-18|website=映画.com}}</ref> |- |[[トロント国際映画祭]]||エッセンシャル100||{{nom|14位}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.slashfilm.com/toronto-film-festivals-essential-100-movies/ |title=The Toronto Film Festival’s Essential 100 Movies |accessdate=2017-03-18|language=英語 |publisher=Film}}</ref> |- |2015年||[[釜山国際映画祭]]||アジア映画ベスト100||{{draw|2位}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.biff.kr/Template/Builder/00000001/page.asp?page_num=5865 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151031145338/http://www.biff.kr/Template/Builder/00000001/page.asp?page_num=5865 |archivedate=2015/10/31 |title=Asian Cinema 100 |website=BIFF |language=英語 |accessdate=2020年9月3日}}</ref> |- |2018年||[[英国放送協会|BBC]]||史上最高の外国語映画ベスト100||{{draw|4位}}||<ref>{{Cite web|url=http://www.bbc.com/culture/story/20181029-the-100-greatest-foreign-language-films |title=The 100 greatest foreign-language films |accessdate=2020-01-31|language=英語 |work=BBC}}</ref> |- |{{N/a}}||TSPDT||最高の映画1000本||{{nom|21位}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.theyshootpictures.com/gf1000_all1000films_table.php |title=THE 1,000 GREATEST FILMS (FULL LIST) |website=TSPDT |language=英語 |accessdate=2020年8月17日}}</ref> |- |} == 影響とリメイク == 本作における視点を変えて同じ出来事を繰り返して描くという物語手法は、海外で「ラショーモン・アプローチ」と呼ばれ、非線形アプローチや多視点のテクニックによる映画が作られるきっかけとなった{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=169-170}}<ref>{{Cite book |和書 |author=古山敏幸|authorlink=古山敏幸|title=黒澤明の作劇術 |publisher=フィルムアート社 |date=2008-5 |isbn=9784845908189 |page=159}}</ref>。 [[アラン・レネ]]監督の『[[去年マリエンバートで]]』の複雑な話法は本作からヒントを得ている{{Sfn|佐藤|2002|p=412}}。[[ブライアン・シンガー]]は監督作『[[ユージュアル・サスペクツ]]』を「『[[深夜の告白]]』と『羅生門』が出会ったような作品」と語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://cinemore.jp/jp/erudition/1461/article_1462_p3.html |title=『ユージュアル・サスペクツ』策士クリストファー・マッカリーが創り上げた、サスペンス映画の傑作 |date=2020/6/5 |website=CINEMORE |accessdate=2020年8月17日}}</ref>。この手法は他にも、[[スタンリー・キューブリック]]監督の『[[現金に体を張れ]]』、[[クエンティン・タランティーノ]]監督の『[[レザボア・ドッグス]]』、[[トム・ティクヴァ]]監督の『[[ラン・ローラ・ラン]]』などで用いられた{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=169-170}}。2021年の『[[最後の決闘裁判]]』では共同脚本・出演の[[マット・デイモン]]が[[リドリー・スコット]]に監督を引き受けてもらうために、複数視点から一つの事件を描く本作の特徴をしきりに話していた<ref>{{Cite journal|和書|author = 立田敦子|date = 2021-11-1|title = リドリー・スコット ジョディ・カマー ハリウッドの雄が中世を舞台に撮った女性映画|journal = [[キネマ旬報]] 2021年11月上旬特別号|issue = 1878|page = 40|publisher = [[キネマ旬報社]]|asin = B09HG6KDDX}}</ref>。 [[イングマール・ベルイマン]]監督の『[[処女の泉]]』も本作からヒントを得ている<ref name="大系1解説"/>{{Sfn|佐藤|2002|p=412}}。ベルイマンは『処女の泉』に取りかかる前に「今度はクロサワで行こう」と述べ<ref name="大系1解説"/>、この作品を「黒澤の観光気分のあさましい模倣<ref>{{Cite book |last= |title=Bergman on Bergman: Interviews with Ingmar Bergman |publisher=Simon & Schuster |year=1973 |page=120}}</ref>」と述べている。 [[リメイク]]作品も幾つか作られた。アメリカの劇作家[[マイケル・ケニン]]とフェイ・ケニンは舞台用に脚色し、[[1959年]]に[[ブロードウェイ]]で舞台化された{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=177-184}}。配役は盗賊役に[[ロッド・スタイガー]]、妻役に[[クレア・ブルーム]]、その他に[[オスカー・ホモルカ]]や[[エイキム・タミロフ]]などだった{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=177-184}}。この戯曲は[[1960年]]に[[シドニー・ルメット]]演出でテレビドラマ化され、[[1964年]]には[[マーティン・リット]]監督で『[[暴行 (映画)|暴行]]』として映画化された{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=177-184}}。この作品では舞台を[[アメリカ合衆国西部|アメリカ西部]]に置き換え、盗賊役は[[ポール・ニューマン]]、妻役は舞台と同じブルーム、下人役は[[エドワード・G・ロビンソン]]が演じた{{Sfn|ガルブレイス4世|2015|pp=177-184}}。[[タイ王国|タイ]]でも[[ククリット・プラーモート]]が舞台用に翻案した脚本を書き、[[2011年]]にそれを原作にした映画『{{仮リンク|ウモーン・パー・ムアン-羅生門|th|อุโมงค์ผาเมือง}}』が作られた。 == デジタル修復 == [[2008年]]、[[角川映画]]は[[映画芸術科学アカデミー]]と[[東京国立近代美術館フィルムセンター]]との共同事業で[[デジタル]]復元を行った<ref name="フィルムセンター">{{Cite web|和書|url=http://www.momat.go.jp/fc/aboutnfc/rashomon/ |title=『羅生門』デジタル復元 全米映画批評家協会章受賞 |website=東京国立近代美術館フィルムセンター |accessdate=2017年3月18日}}</ref><ref name="復元">{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa-pictures.jp/official/rashomon/6224.shtml |title=『羅生門』 角川映画と米アカデミーの共同デジタル復元 |website=[[角川映画]] |date=2008/8/21 |accessdate=2020年8月17日}}</ref>。{{仮リンク|フィルム・ファウンデーション|en|The Film Foundation}}が復元費用を助成しており、同社と映画芸術科学アカデミーとの共同でデジタル復元を行うのは日本映画として初めてである<ref name="復元"/>。デジタル復元版は、同年9月28日にアメリカの{{仮リンク|サミュエル・ゴールドウィン・シアター|en|Samuel Goldwyn Theater}}でワールドプレミア上映され、10月25日に[[第21回東京国際映画祭]]で特別上映された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa-pictures.jp/official/rashomon/6464.shtml |title=『羅生門』デジタル復元版 第21回東京国際映画祭 上映日決定&前売券発売! |website=角川映画 |date=2008/10/1 |accessdate=2020年8月17日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa-pictures.jp/official/rashomon/6684.shtml |title=第21回東京国際映画祭特別招待作品 「羅生門デジタル完全版」舞台挨拶レポート! |website=角川映画 |date=2008/10/25 |accessdate=2020年8月17日}}</ref>。[[2010年]]にデジタル復元を行った3社は、[[全米映画批評家協会賞]]の映画遺産賞を受賞した<ref name="フィルムセンター"/><ref>{{Cite web|和書|url= http://www.kadokawa-pictures.jp/official/rashomon/9644.shtml |title= 「羅生門復元プロジェクト」が“全米映画批評家協会遺産賞”を受賞しました! |website=角川映画 |date=2020/1/6 |accessdate= 2017年3月18日}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite book |和書 |author=スチュアート・ガルブレイス4世 |title=黒澤明と三船敏郎 |publisher=亜紀書房|date=2015-10 |isbn=9784750514581 |ref={{SfnRef|ガルブレイス4世|2015}} }} *{{Cite book |和書 |author=黒澤明|title=蝦蟇の油|publisher=[[岩波書店]] |series=同時代ライブラリー|date=1990-3 |isbn=4002600122 |ref={{SfnRef|黒澤|1990}} }} *{{Cite book |和書 |author=佐藤忠男|authorlink=佐藤忠男 |date=2002-10 |title=黒澤明作品解題 |series=[[岩波現代文庫]] |publisher=岩波書店 |isbn=9784006020590 |ref={{Harvid|佐藤|2002}}}} *{{Cite book |和書 |author=鈴木義昭 |date=2016-8 |title=「世界のクロサワ」をプロデュースした男 本木荘二郎 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=9784634150942 |ref={{Harvid|鈴木|2016}}}} *{{Cite book |和書 |author=都築政昭|authorlink=都築政昭 |date=1995-7 |title=日本映画の黄金時代 |publisher=[[小学館]] |isbn=9784093871396 |ref={{Harvid|都築|1995}}}} *{{Cite book |和書 |author=都築政昭|title=黒澤明 全作品と全生涯 |publisher=[[東京書籍]] |date=2010-03 |isbn=9784487804344 |ref={{SfnRef|都築|2010}} }} *{{Cite book |和書 |author=西村雄一郎|authorlink=西村雄一郎|date=2005-10 |title=黒澤明と早坂文雄 風のように侍は |publisher=[[筑摩書房]] |isbn=9784480873491 |ref={{SfnRef|西村|2005}} }} *{{Cite book |和書 |author=野上照代|authorlink=野上照代|date=2014-1 |title=もう一度 天気待ち 監督・黒澤明とともに |publisher=[[草思社]] |isbn=9784794220264 |ref={{SfnRef|野上|2014}} }} *{{Cite book |和書 |author=橋本忍|authorlink=橋本忍|date=2006-6 |title=複眼の映像 私と黒澤明 |publisher=[[文藝春秋]] |isbn=9784163675008 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12,602
1724年
1724年(1724 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる閏年。
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1724年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1724}} {{year-definition|1724}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[甲辰]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[享保]]9年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2384年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[雍正]]2年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[景宗 (朝鮮王)|景宗]]4年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4057年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[保泰]]5年 * [[仏滅紀元]] : 2266年 - 2267年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1136年 - 1137年 * [[ユダヤ暦]] : 5484年 - 5485年 * [[ユリウス暦]] : 1723年12月21日 - 1724年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1724}} == できごと == * スペイン王フェリペ5世が譲位。後継のルイス1世の病死で同年中に復位。 * [[伊藤東涯]]が『[[制度通]]』を著す。 * [[近衛家煕]]が『[[唐六典]]』の校勘を完成させる。 == 誕生 == {{see also|Category:1724年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> *[[1月19日]] - [[戴震]]、[[儒学者]](+ [[1777年]]) *[[4月22日]] - [[イマヌエル・カント]]、[[哲学者]](+ [[1804年]]) * [[5月22日]] - [[マルク=ジョゼフ・マリオン・デュフレーヌ]]、[[軍人]]・[[探検家]](+ [[1772年]]) * [[8月25日]] - [[ジョージ・スタッブス]]、[[画家]](+ [[1806年]]) == 死去 == {{see also|Category:1724年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[6月29日]](享保9年[[5月9日 (旧暦)|5月9日]]) - [[前田綱紀]]、[[大名]]、[[加賀藩]]第4代[[藩主]](* [[1643年]]) * [[9月5日]](享保9年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]) - [[岡部長泰]] 、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]の第3代藩主(* [[1650年]]) * [[11月9日]](享保9年[[9月24日 (旧暦)|9月24日]]) - [[西川如見]]、[[天文学者]](* [[1648年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1724}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1724ねん}} [[Category:1724年|*]]
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12,603
1700年
1700年(1700 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。17世紀最後の年である。
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1700年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。17世紀最後の年である。
{{年代ナビ|1700}} {{year-definition|1700}}[[17世紀]]最後の年である<ref group="注釈">100で割り切れてかつ400では割り切れない年であるため、[[閏年]]ではない([[グレゴリオ暦]]の規定による)。</ref>。 == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚辰]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[元禄]]13年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2360年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]39年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]26年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4033年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[正和 (黎朝)|正和]]21年 * [[仏滅紀元]] : 2242年 - 2243年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1111年 - 1112年 * [[ユダヤ暦]] : 5460年 - 5461年 * [[ユリウス暦]] : 1699年12月22日 - 1700年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1700}} == できごと == * [[1月26日]] - 米国北西部の[[カスケード沈み込み帯]]にて大規模な地震([[カスケード地震]]、'''Mw 8.7 - 9.2''')発生。[[日本]]にも[[津波]]が押し寄せた。 * [[2月12日]] - [[デンマーク=ノルウェー]]および[[ポーランド=リトアニア共和国]]が[[スウェーデン・バルト帝国]]を攻撃。これをきっかけに[[大北方戦争]]が勃発。 * [[2月27日]] - [[ウィリアム・ダンピア]]が[[ヨーロッパ人]]として初めて[[ニューブリテン島]]に到達。 * [[3月1日]] - [[デンマーク=ノルウェー]]および[[ドイツ]]のプロテスタント地域にて[[グレゴリオ暦]]が採用される。 * [[3月11日]]([[ユリウス暦]][[2月29日]]、[[スウェーデン暦]][[3月1日]]) - [[スウェーデン]]にて[[スウェーデン暦]]が採用される。 * [[4月20日]](元禄13年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]) - [[井伊直興]]が病気を理由に[[大老]]を辞任。 * 4月 - [[エチオピア帝国]]の首都[[ゴンダール]]にて大規模な火災が発生。 * [[11月30日]]([[ユリウス暦]][[11月19日]]、[[スウェーデン暦]][[11月20日]]) - [[大北方戦争]]:[[ロシア・ツァーリ国]]と[[スウェーデン・バルト帝国]]のあいだで[[ナルヴァの戦い]]が起こる。 == 誕生 == {{see also|Category:1700年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月2日]] - [[ヨハン・クリストフ・ゴットシェート]]、[[文学者]](+ [[1766年]]) * [[2月8日]] - [[ダニエル・ベルヌーイ]]、[[数学者]]、[[物理学者]](+ [[1782年]]) * [[8月3日]]([[康熙]]39年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]) - [[尚敬王]]、[[琉球]][[国王]](+ [[1752年]]) * 月日不明 - [[松平資訓]]、[[京都所司代]](+ [[1752年]]) == 死去 == {{see also|Category:1700年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月16日]] - [[アントニオ・ドラーギ]]、[[作曲家]](* [[1634年]]?) * [[3月26日]] - [[ハインリッヒ・マイボーム (医師)|ハインリッヒ・マイボーム]]、[[医師]](* [[1638年]]) * [[5月12日]] - [[ジョン・ドライデン]]、[[詩人]]、[[文芸評論]]家、[[劇作家]](* [[1631年]]) * [[5月30日]]([[元禄]]13年[[4月12日 (旧暦)|4月12日]])- [[一如 (僧)|一如]]、[[東本願寺]]第16世法主(* [[1649年]]) * [[6月25日]](元禄13年[[5月9日 (旧暦)|5月9日]]) - [[千坂高房]]、[[米沢藩]][[江戸]][[家老]](* [[1638年]]) * [[7月2日]](元禄13年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]])- [[鍋島光茂]]、第2代[[佐賀藩|佐賀藩主]](* [[1632年]]) * [[9月15日]] - [[アンドレ・ル・ノートル]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Andre-Le-Notre André Le Nôtre French landscape architect] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[庭師|造園家]](* [[1613年]]) * [[9月27日]] - [[インノケンティウス12世 (ローマ教皇)|インノケンティウス12世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Innocent-XII Innocent XII pope] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[教皇|ローマ教皇]](* [[1615年]]) * [[10月2日]](元禄13年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]) - [[鉄牛道機]]、[[僧|禅僧]](* [[1628年]]) * [[10月25日]](元禄13年[[9月14日 (旧暦)|9月14日]])- [[山内豊昌]]、第4代[[土佐藩|土佐藩主]](* [[1641年]]) * [[11月1日]] - [[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]、[[スペイン]]国王(* [[1661年]]) * [[11月26日]](元禄13年[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]) - [[徳川光友]]、[[尾張藩]]第2代[[藩主]](* [[1625年]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1700}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1700ねん}} [[Category:1700年|*]]
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大阪
大阪(おおさか、英語: Osaka)は、日本の近畿地方(関西地方)の地名、都市。 律令国では摂津国の範囲であり、近畿の経済・文化の中心地。 かつては大坂と表記し、古墳時代から江戸時代以降の長きにわたり、日本経済と文化の中心地であった。そのため、京都と共に上方と呼ばれ、古都・副都・水都としての歴史も持つ。 現在の「大阪」は、近畿地方に位置する包括的地方公共団体・大阪府や、その府庁所在地であり西日本最大の都市・大阪市を指し、広い意味では大阪市を中心とする京阪神(近畿地方、大阪都市圏〈阪神都市圏〉、京阪神大都市圏、近畿圏など)を漠然と総称することにも使われる。 「大坂」という地名は、元は大和川と淀川(現在の大川)の間に南北に横たわる上町台地の北端辺りを指し、古くは摂津国東成郡に属した。 この漢字の地名に関する最古の記録は、1496年、浄土真宗中興の祖である蓮如によって書かれた御文の中に見られる「摂州東成郡生玉乃庄内大坂」との記載である。もともと、蓮如が大坂と呼んだ一帯は、古くは浪速(難波・浪花・浪華)などが地域の名称として用いられていたが、蓮如が現在の大阪城域に大坂御坊(いわゆる石山本願寺)を建立し、その勢力を全国に伸ばすに及んで、大坂という呼称が定着した。 その語源は、大きな坂があったために大坂という字が当てられたという説があるが、蓮如以前の大坂は「オホサカ」ではなく「ヲサカ」と発音されており、諸資料にも「小坂(おさか)」と表記された例が見られる(正安3年(1301年)刊の『宴曲抄』には、熊野参詣の行路として「九品津小坂郡戸の王子」が言及されており、これが大坂に比定される。また『日本書紀』には烏瑳箇とある)。このためにこの説は信憑性に乏しい。 蓮如以後、大坂は「おおざか」と読んだとされる。江戸時代、商人の伝兵衛が海難事故でロシア帝国に漂流したとき、ロシア人には「ウザカ」と聞こえたと伝わっている。 漢字の表記は当初「大坂」が一般的だったが、「坂」の字を分解すると「土に反る」となり、死を連想させることから、江戸時代のころから「大阪」とも書くようになり、明治時代には、「大阪」が定着した。一説に「坂」から「阪」への変更は、明治新政府が「坂」が「士が反する」、すなわち武士が叛く(士族の反乱)と読めることから「坂」の字を嫌ったともいわれる。 ただし、「大阪府庁所用の官印に、大阪府印、大坂府印の両様あるを以て見れば、坂阪二字の變更は偶然に起こりしにて、必ずしも深き理由ありしにあらざるべし。」と、昭和2年再版発行「大阪市史 巻1」は語る。 現在の大阪市の基である大坂の町は、古墳時代の難波高津宮、飛鳥時代に大化の改新が行なわれた難波長柄豊埼宮(なにわのながらのとよさきのみや)、住吉津(すみのえのつ)難波津(なにわのつ、なにわづ)を起源に持つ港湾都市であり、日本国の流通の要であった。律令制では摂津国の範囲であり、江戸時代には現在の大阪市中央部を広く町域とする大都市であり、日本経済の中心だったため、天下の台所と呼ばれるようになった。 のちの「大坂」が位置する上町台地は、古代には「難波潟」と呼ばれる葦原の広がる湿地に突き出した半島状の陸地で、浪速(なみはや、なにわ)、難波(なにわ)、浪花(なにわ)、浪華(なにわ)などと書き表されてきた。 この地には、上代にはヤマト王権が遣隋使や遣唐使などの使節を送り出したり、返答使の迎接を行った住吉津や難波津が置かれ、運河難波の堀江が築かれた。また仁徳天皇の時代には難波高津宮、孝徳天皇の時代には難波宮、聖武天皇の時代には難波京(難波宮)が営まれ、都あるいは副都として機能した。律令制のもとでは都に置かれた京職に準じる特別の官署・摂津職によって管理された。 上代から奈良時代にかけて難波の地がこのように重要視されたのは、大阪湾が西日本の交通の要である瀬戸内海の東端に位置している上、難波高津宮、難波宮、以後の飛鳥古京・藤原京・平城京などから最も近い港湾であることによる。住吉津を管理する住吉大社は大和朝廷直属の社として別格であった。 難波津は土砂の堆積により外港としての機能が衰え、奈良時代末には神崎川河口の河尻泊(現在の兵庫県尼崎市)などに繁栄を一時譲る。しかし平安時代に淀川水系を利用して営まれた平安京が恒久的な都となったことから、源氏渡辺氏によって難波津から渡辺津と名前を変え、瀬戸内海から淀川を通じて京都に通じる内港な水運の要衝として栄えたほか、北から淀川を渡り南の四天王寺や住吉大社、さらには熊野へと続く陸上交通熊野街道の起点な要衝としても栄えた。 15世紀に大坂の地名を持って呼ばれるようになった上町台地の先端部には、古代から生國魂神社が鎮座していたが、1496年に蓮如が隣接して建立した浄土真宗の大坂道場(石山道場)に、1532年に証如が山科本願寺から移り、大坂本願寺(石山本願寺)となったことから寺内町として発展した。 織田信長と本願寺の間に戦われた石山合戦で1580年に顕如が退去した後の1583年には、大坂本願寺の跡地に豊臣秀吉が大坂城を築き、城下に配下の大名の屋敷や堺などの周辺の町々の町人を集めて、上町台地から大阪平野に広がる大坂の町を築いて再び政治・経済の中心都市とした。このため、安土桃山時代のうちの豊臣政権期を指して「大坂時代」と呼ぶ人もいる。なお、大坂築城の際に生國魂神社は現在地に移転させられている。 豊臣氏が滅んだ大坂夏の陣で大坂は荒廃した。江戸幕府は、味方となる大名が西国には乏しいことから大坂を直轄地(天領)とし、西国に睨みを利かせる要として大坂城を再建し大坂城代を置く一方、海路に難所が多く海運に不向きな江戸よりも、古より恵まれた海運の要衝の地として治めるべく河川の改修や堀の開削を行い、諸藩も蔵屋敷を置いた。蔵屋敷へは水路で年貢米が運ばれたため八百八橋と言われるほど橋と水路の多い町となった。こうして水の都として復興した大坂は日本全国の物流が集中する経済・商業の中心地となり、「天下の台所」と呼ばれて繁栄した。こうした経済的な発展に伴って「元禄文化」が大坂を中心に花開いた。また、堂島米会所では世界で最初の先物取引が行われた。 近世大坂の町は江戸幕府の派遣した大坂町奉行支配のもとに北組・南組・天満組の三組に分かれ、総称して大坂三郷と呼ばれた。北組・南組は現在の中央区の本町通を境に分かれ、天満組は北区の大阪天満宮を中心とする一帯である。なお、天満は元和年間頃まで大坂とは別の町とみなされていた。大阪の旧市街地は沽券地として、江戸幕府から町人間で譲渡が許されていた。 古代〜近世にかけ現在の大阪市中心部はその姿を整えた。現在も続く以来の大阪の町は、上町・天満・堂島・中之島・船場・島之内・堀江・下船場などが知られている。 江戸時代中期には「大坂」と「大阪」が併用され、明治維新後の1868年、新政府はもとの大坂三郷に大阪府を置いた。元来の「大坂」に代わって「大阪」が正式な表記となったのは、このころである。「阪」は「坂」の異体字のなかでも古字とされる字であり、阜部(読み:ぶぶ、意味:こざとへん)は小高い土山・丘陵を意味する。 鳥羽伏見の戦いの後、大久保利通により、大阪に遷都する旨の建白書が出された。これは、諸外国との外交、富国強兵策、内戦の指導権の把握、海軍の建設などの点で最適であるとした内容だった。また、財政的基礎を持たない明治政府にとって、京阪一帯の政商資本家との結びつきを考慮したものでもあった。しかし、これが実現しないうちに、慶応4年(1868年)3月、前島密による江戸遷都の建言が出され、最終的に大久保もこれに同意し、江戸への遷都が決定された。 明治維新の直後は廃藩置県によるいわゆる「大名貸」の貸し倒れや地租改正による金納化(結果的には農民による米の自由売買につながった)によって、大阪経済は大きな打撃を受けたが、経済産業の近代化とともに次第に西日本経済の中心地としての地位を確立していくことになる。 1869年には北・南・天満の三郷から東・南・西・北の4大組に再編され、1875年に大区小区制が施行されると、順に第1~4大区となり、1879年に郡区町村編制法が施行されると、再び東・南・西・北の4区となった。 1889年には市制施行により大阪府管内の大阪市となる(市制特例参照)。 難波津後退以来1000年以上にわたって内陸の都市だった大阪は、1897年の第一次市域拡張によって大阪湾に面する市域となり、海港の造成(第一次大阪港修築工事)も同年にスタートした。1925年の第二次市域拡張では東成郡・西成郡の残余44町村全てを編入し、首府の東京府東京市(現・東京都区部)を人口で追い抜き、日本最大の人口を有する都市となった。また、世界でも6番目の人口数を誇る主要都市となり、ここに大大阪時代が到来した。 しかし1932年に東京府東京市が周辺町村の合併によって市域拡大によって、人口で再び大阪市を追い抜いたため、大大阪時代はわずか7年で終焉した。 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昔からの土産としては岩おこしやコンブがあり、現在は廃れたもののキュウリ、ダイコンなどの伝統野菜(なにわ野菜)が見直されたり、和泉でしかできない水なすや和泉のタマネギ、ミズナなど野菜の特産もある。特にネギは九条葱等の日本の青ネギの原種であり、最古(奈良時代には既にあった記録が残る)の品種である難波葱(なんばねぎ)の一大生産地として戦前まで栄え、難波(なんば)=ネギと代名詞ともなりこれは鴨南蛮の語源となったともされている。南河内では明治の頃より山梨に次ぐ古くから葡萄の栽培が盛んであり、現在でもその出荷量は全国上位に入る品種もある。近年では、葡萄の中でも日本古来6品種の一つで約400年前より大阪に伝わる「紫」葡萄が、特産の葡萄として復活させるべく栽培と普及が進められている。 昔から“大阪の味”として親しまれてきたものとしては、ハモ、フグ、きつねうどん、まむしなどがある。特にふぐ料理は全国消費量の約6割が大阪での消費であり、代表的な料理法としてはてっちりやてっさが挙げられる。 過去には主に商人の食卓で、「半助」(蒲焼にした後のウナギの頭部)を使った炊き合わせや「船場汁」など、節約料理も数多く見られた。 鶴橋などのコリア・タウンがあることから焼肉の店も多く、日本でホルモン焼きが広まった最初の都市である。またインスタントラーメンや酢昆布など、意外な大阪発祥の料理・食品も多い。 また食の風習としては、節分の行事としての太巻き寿司の丸かぶり(いわゆる恵方巻)が挙げられる。 人形浄瑠璃発祥地であり本場。大坂相撲や上方歌舞伎も盛んであった。このほかにも庶民の娯楽として、米沢彦八らが起源とされる上方落語、漫才、吉本新喜劇・松竹新喜劇などのお笑い文化が栄えている。大阪は商業の町としての性格上、お互いに角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術が発達した。こうしたことが大阪でお笑い文化が花開く素地となったのではないかとされる。 江戸時代、江戸の「八百八町」、京都の「八百八寺」と並んで、大阪(浪華)は「八百八橋」で知られた。実際には江戸の橋は約350だったのに対して、大阪の橋は200ほどだったが、江戸の半分の橋は幕府が設置した公儀橋だったのに対し、大阪の公儀橋は12橋で残りはすべて町人達が自腹で架けた橋だった。 2018年にイギリスの『エコノミスト』誌の調査部門「エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(EIU)」が発表した「2018年世界で最も住みやすい都市ランキング」では大阪は3位だった。 イギリスの人材調査会社ECAインターナショナルが2019年1月に発表した「アジア(アジア・オセアニア地域)の、駐在員が最も住みやすい都市ランキング」では、大阪・名古屋・東京が並んで5位。
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"その語源は、大きな坂があったために大坂という字が当てられたという説があるが、蓮如以前の大坂は「オホサカ」ではなく「ヲサカ」と発音されており、諸資料にも「小坂(おさか)」と表記された例が見られる(正安3年(1301年)刊の『宴曲抄』には、熊野参詣の行路として「九品津小坂郡戸の王子」が言及されており、これが大坂に比定される。また『日本書紀』には烏瑳箇とある)。このためにこの説は信憑性に乏しい。", "title": "地名の由来と変遷" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "蓮如以後、大坂は「おおざか」と読んだとされる。江戸時代、商人の伝兵衛が海難事故でロシア帝国に漂流したとき、ロシア人には「ウザカ」と聞こえたと伝わっている。", "title": "地名の由来と変遷" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "漢字の表記は当初「大坂」が一般的だったが、「坂」の字を分解すると「土に反る」となり、死を連想させることから、江戸時代のころから「大阪」とも書くようになり、明治時代には、「大阪」が定着した。一説に「坂」から「阪」への変更は、明治新政府が「坂」が「士が反する」、すなわち武士が叛く(士族の反乱)と読めることから「坂」の字を嫌ったともいわれる。", "title": "地名の由来と変遷" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ただし、「大阪府庁所用の官印に、大阪府印、大坂府印の両様あるを以て見れば、坂阪二字の變更は偶然に起こりしにて、必ずしも深き理由ありしにあらざるべし。」と、昭和2年再版発行「大阪市史 巻1」は語る。", "title": "地名の由来と変遷" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": 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"イギリスの人材調査会社ECAインターナショナルが2019年1月に発表した「アジア(アジア・オセアニア地域)の、駐在員が最も住みやすい都市ランキング」では、大阪・名古屋・東京が並んで5位。", "title": "住みやすい都市ランキング" } ]
大阪は、日本の近畿地方(関西地方)の地名、都市。 律令国では摂津国の範囲であり、近畿の経済・文化の中心地。 かつては大坂と表記し、古墳時代から江戸時代以降の長きにわたり、日本経済と文化の中心地であった。そのため、京都と共に上方と呼ばれ、古都・副都・水都としての歴史も持つ。 現在の「大阪」は、近畿地方に位置する包括的地方公共団体・大阪府や、その府庁所在地であり西日本最大の都市・大阪市を指し、広い意味では大阪市を中心とする京阪神(近畿地方、大阪都市圏〈阪神都市圏〉、京阪神大都市圏、近畿圏など)を漠然と総称することにも使われる。
{{Otheruseslist|"大阪"または"大坂"における歴史や文化|[[都道府県|包括的地方公共団体]]|大阪府|[[市町村|基礎的地方公共団体]]|大阪市|[[都市圏]]|大阪都市圏|その他の用法|大阪 (曖昧さ回避)}}{{Redirect|大坂}} '''大阪'''(おおさか、{{lang-en|Osaka}})は、[[日本]]の[[近畿地方]]([[関西|関西地方]])の[[地名]]、[[都市]]。 [[律令国]]では[[摂津国]]の範囲であり、近畿の[[経済]]・[[文化_(代表的なトピック)|文化]]の中心地。 かつては'''大坂'''と表記し、[[古墳時代]]から[[江戸時代]]以降の長きにわたり、[[日本経済]]と[[文化]]の中心地であった。そのため、京都と共に[[上方]]と呼ばれ、[[古都]]・[[副都]]・[[水都]]としての歴史も持つ。 現在の「大阪」は、近畿地方に位置する包括的地方公共団体・[[大阪府]]や、その[[府庁所在地]]であり[[西日本]]最大の[[都市]]・'''[[大阪市]]'''を指し、広い意味では大阪市を中心とする[[京阪神]](近畿地方、[[大阪都市圏]]〈[[阪神都市圏]]〉、[[京阪神大都市圏]]、[[近畿圏]]など)を漠然と総称することにも使われる。 == 地名の由来と変遷 == 「'''大坂'''」という地名は、元は[[大和川]]と[[旧淀川|淀川(現在の大川)]]の間に南北に横たわる[[上町台地]]の北端辺りを指し、古くは[[摂津国]][[東成郡]]に属した。 この漢字の地名に関する最古の記録は、[[1496年]]、[[浄土真宗]]中興の祖である[[蓮如]]によって書かれた[[御文]]の中に見られる「摂州東成郡生玉乃庄内大坂」との記載である。もともと、蓮如が大坂と呼んだ一帯は、古くは'''浪速'''(難波・浪花・浪華)などが地域の名称として用いられていたが、蓮如が現在の[[大坂城|大阪城]]域に大坂御坊(いわゆる[[石山本願寺]])を建立し、その勢力を全国に伸ばすに及んで、大坂という呼称が定着した。 その語源は、大きな坂があったために大坂という字が当てられたという説があるが、蓮如以前の大坂は「オホサカ」ではなく「ヲサカ」と発音されており、諸資料にも「'''小坂'''(おさか)」と表記された例が見られる(正安3年([[1301年]])刊の『[[宴曲抄]]』には、熊野参詣の行路として「九品津小坂郡戸の王子」が言及されており、これが大坂に比定される<ref>[http://www.webchikuma.jp/articles/-/1518 大坂城のはじまり 『大坂城全史――歴史と構造の謎を解く』「はじめに」] - [[中村博司]]</ref>。また『[[日本書紀]]』には烏瑳箇とある<ref>浅井建爾 『日本の地名がわかる事典』 日本実業出版、1998年、ISBN 4-534-02808-3</ref>)。このためにこの説は信憑性に乏しい。 蓮如以後、大坂は「おおざか」と読んだとされる。[[江戸時代]]、商人の[[伝兵衛]]が海難事故で[[ロシア帝国]]に漂流したとき、[[ロシア人]]には「ウザカ」と聞こえたと伝わっている。 漢字の表記は当初「大坂」が一般的だったが、「坂」の字を分解すると「土に反る」となり、死を連想させることから、[[江戸時代]]のころから「大阪」とも書くようになり、[[明治|明治時代]]には、「大阪」が定着した<ref name="ref_110524">{{Cite report |author=大阪府立中央図書館 |authorlink=大阪府立中央図書館 |date=2011-05-24 |title=「大坂」はいつ頃から「大阪」になったのか。またその理由は何か。 |url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000090525 |publisher=[[国立国会図書館]] |accessdate=2017-01-14 |quote=『レファレンス協同データベース』より }}</ref>。一説に「坂」から「阪」への変更は、明治新政府が「坂」が「士が反する」、すなわち武士が叛く(士族の反乱)と読めることから「坂」の字を嫌ったともいわれる<ref>{{Cite journal |和書|title=にほんご探偵局・謎究明シリーズ(1)大坂と大阪《ファイルNo.17》 |date=2014-09-01 |publisher=大丸エナウィン |journal=こんにちわ奥さん |issue=100 |page=3 |url=http://www.gas-daimaru.co.jp/konnichiwa/pdf/100/003.pdf |format=PDF |accessdate=2017-01-14 }}</ref>。 ただし、「大阪府庁所用の官印に、大阪府印、大坂府印の両様あるを以て見れば、坂阪二字の變更は偶然に起こりしにて、必ずしも深き理由ありしにあらざるべし。」<ref>大阪市史 大阪市役所編纂発行 大正二年十二月二十日発行の再版昭和二年三月二十日発行 巻第一 2ページ。</ref>と、昭和2年再版発行「大阪市史 巻1」は語る。 == 歴史 == 現在の[[大阪市]]の基である大坂の町は、[[古墳時代]]の難波高津宮、[[飛鳥時代]]に[[大化の改新]]が行なわれた[[難波長柄豊埼宮]](なにわのながらのとよさきのみや)、[[住吉津]](すみのえのつ)[[難波津]](なにわのつ、なにわづ)を起源に持つ港湾都市であり、日本の流通の要であった。[[律令制]]では[[摂津国]]の範囲であり、[[江戸時代]]には現在の[[大阪市]]中央部を広く町域とする大都市であり、日本経済の中心だったため、[[天下の台所]]と呼ばれるようになった。 === 「大坂」地名発生以前の大坂 === のちの「大坂」が位置する[[上町台地]]は、[[古代]]には「難波潟」と呼ばれる葦原の広がる湿地に突き出した[[半島]]状の陸地で、'''浪速'''(なみはや、なにわ)、'''難波'''(なにわ)、'''浪花'''(なにわ)、'''浪華'''(なにわ)などと書き表されてきた。 この地には、上代には[[ヤマト王権]]が[[遣隋使]]や[[遣唐使]]などの使節を送り出したり、返答使の[[迎接]]を行った住吉津や難波津が置かれ、運河[[難波の堀江]]が築かれた。また[[仁徳天皇]]の時代には難波高津宮、[[孝徳天皇]]の時代には[[難波宮]]、[[聖武天皇]]の時代には[[難波京]]([[難波宮#後期難波宮|難波宮]])が営まれ、都あるいは副都として機能した。[[律令制]]のもとでは都に置かれた[[京職]]に準じる特別の官署・[[摂津職]]によって管理された。 上代から奈良時代にかけて難波の地がこのように重要視されたのは、[[大阪湾]]が西日本の交通の要である[[瀬戸内海]]の東端に位置している上、難波高津宮、難波宮、以後の[[飛鳥京|飛鳥古京]]・[[藤原京]]・[[平城京]]などから最も近い港湾であることによる。住吉津を管理する[[住吉大社]]は大和朝廷直属の社として別格であった。 難波津は土砂の堆積により外港としての機能が衰え、奈良時代末には[[神崎川 (大阪府・兵庫県)|神崎川]]河口の河尻泊(現在の[[兵庫県]][[尼崎市]])などに繁栄を一時譲る。しかし[[平安時代]]に淀川水系を利用して営まれた[[平安京]]が恒久的な都となったことから、[[源氏]][[渡辺氏]]によって[[難波津]]から[[渡辺津]]と名前を変え、瀬戸内海から淀川を通じて[[京都]]に通じる内港な水運の要衝として栄えたほか、北から淀川を渡り南の[[四天王寺]]や[[住吉大社]]、さらには[[熊野三山|熊野]]へと続く陸上交通[[熊野街道]]の起点な要衝としても栄えた。 === 近世の大阪の移り変わり === [[File:Osaka_Castle_Keep_Tower_in_201411_007.JPG|220px|thumb|大坂城([[2014年]]11月)]] [[15世紀]]に大坂の地名を持って呼ばれるようになった[[上町台地]]の先端部には、古代から[[生國魂神社]]が鎮座していたが、[[1496年]]に[[蓮如]]が隣接して建立した[[浄土真宗]]の大坂道場(石山道場)に、[[1532年]]に[[証如]]が[[山科本願寺]]から移り、[[石山本願寺|大坂本願寺(石山本願寺)]]となったことから[[寺内町]]として発展した。 [[織田信長]]と本願寺の間に戦われた[[石山合戦]]で[[1580年]]に[[顕如]]が退去した後の[[1583年]]には、大坂本願寺の跡地に[[豊臣秀吉]]が[[大坂城]]を築き、城下に配下の[[大名]]の屋敷や[[堺市|堺]]などの周辺の町々の町人を集めて、上町台地から大阪平野に広がる大坂の町を築いて再び[[政治]]・[[経済]]の中心都市とした。このため、[[安土桃山時代]]のうちの[[豊臣政権]]期を指して「大坂時代」と呼ぶ人もいる。なお、大坂築城の際に生國魂神社は現在地に移転させられている。 [[豊臣氏]]が滅んだ[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]で大坂は荒廃した。[[江戸幕府]]は、味方となる大名が西国には乏しいことから大坂を直轄地([[天領]])とし、西国に睨みを利かせる要として大坂城を再建し[[大坂城代]]を置く一方、海路に難所が多く海運に不向きな江戸よりも、古より恵まれた海運の要衝の地として治めるべく河川の改修や堀の開削を行い、諸藩も[[蔵屋敷]]を置いた。蔵屋敷へは水路で年貢米が運ばれたため八百八橋と言われるほど橋と水路の多い町となった。こうして[[水の都]]として復興した大坂は日本全国の物流が集中する経済・商業の中心地となり、「[[天下の台所]]」と呼ばれて繁栄した。こうした経済的な発展に伴って「[[元禄文化]]」が大坂を中心に花開いた。また、[[堂島米会所]]では世界で最初の[[先物取引]]が行われた。 [[近世]]大坂の町は江戸幕府の派遣した[[大坂町奉行]]支配のもとに北組・南組・天満組の三組に分かれ、総称して[[大坂三郷]]と呼ばれた。北組・南組は現在の[[中央区 (大阪市)|中央区]]の[[本町通 (大阪市)|本町通]]を境に分かれ、天満組は[[北区 (大阪市)|北区]]の[[大阪天満宮]]を中心とする一帯である。なお、天満は元和年間頃まで大坂とは別の町とみなされていた。大阪の旧市街地は沽券地として、江戸幕府から町人間で譲渡が許されていた。 古代〜近世にかけ現在の[[大阪市]]中心部はその姿を整えた。現在も続く以来の大阪の町は、[[上町台地|上町]]・[[天満 (大阪市)|天満]]・[[堂島]]・[[中之島_(大阪府)|中之島]]・[[船場_(大阪市)|船場]]・[[島之内]]・[[堀江_(大阪市)|堀江]]・[[下船場]]などが知られている。 === 大坂から大阪へ === 江戸時代中期には「大坂」と「大阪」が併用され、[[明治維新]]後の[[1868年]]、新政府はもとの大坂三郷に'''大阪府'''を置いた<ref name="ref_110524" />。元来の「大坂」に代わって「'''大阪'''」が正式な表記となったのは、このころである{{efn|慶応4年旧暦閏4月21日(1868年6月11日)に公布された[[政体書]]に基いて同年旧暦5月2日(1868年6月21日)に大坂の地に”府”が設置された際には「大阪府」と表記され、[[官報]]においても明治20年(1887年)から同24年(1891年)にかけての時期に「大坂」から「大阪」へと表記が改められた。その一方で、[[大阪府]]の公文書においては明治22年(1889年)時点でまだ「大坂」と「大阪」の両表記が混在していた<ref>{{Citation |和書 |author=福井栄一 |date=2003-01-20 |contribution=第2章・上方三都物語~(3)ちゃっかりOSAKAの奮戦記~「小坂」から「大阪」へ~やっと「大阪」の出番 |title=上方学~知ってはりますか、上方の歴史とパワー |publisher=[[PHP研究所]] |isbn=4569578845}}</ref>}}。「'''阪'''」は「坂」の[[字体|異体字]]のなかでも古字とされる字であり、[[阜部]](読み:ぶぶ、意味:こざとへん)は小高い[[山|土山]]・[[丘陵]]を意味する。 [[鳥羽伏見の戦い]]の後、[[大久保利通]]により、大阪に[[遷都]]する旨の[[建白書]]が出された{{Sfn|新修新宿区史編集委員会|1967|p=92}}。これは、諸外国との外交、[[富国強兵]]策、内戦の指導権の把握、海軍の建設などの点で最適であるとした内容だった{{Sfn|新修新宿区史編集委員会|1967|p=92}}。また、財政的基礎を持たない[[明治政府]]にとって、京阪一帯の[[政商]]資本家との結びつきを考慮したものでもあった{{Sfn|新修新宿区史編集委員会|1967|p=92}}。しかし、これが実現しないうちに、[[慶応]]4年(1868年)3月、[[前島密]]による江戸奠都の建言が出され、最終的に大久保もこれに同意し、江戸への奠都が決定された{{Sfn|新修新宿区史編集委員会|1967|pp=92-93}}。 明治維新の直後は[[廃藩置県]]によるいわゆる「[[大名貸]]」の貸し倒れや[[地租改正]]による金納化(結果的には農民による米の自由売買につながった)によって、大阪経済は大きな打撃を受けたが、経済産業の近代化とともに次第に[[西日本]][[経済]]の中心地としての地位を確立していくことになる。 [[1869年]]には北・南・天満の三郷から東・南・西・北の4大組に再編され、[[1875年]]に[[大区小区制]]が施行されると、順に第1~4大区となり、[[1879年]]に[[郡区町村編制法]]が施行されると、再び[[東区_(大阪市)|東]]・[[南区_(大阪市)|南]]・[[西区_(大阪市)|西]]・[[北区_(大阪市)|北]]の4区となった。 [[1889年]]には[[市制]]施行により大阪府管内の[[大阪市]]となる([[市制特例]]参照)。 難波津後退以来1000年以上にわたって内陸の都市だった大阪は、[[1897年]]の第一次市域拡張によって大阪湾に面する市域となり、海港の造成(第一次大阪港修築工事)も同年にスタートした。[[1925年]]の第二次市域拡張では東成郡・西成郡の残余44町村全てを編入し、首府の東京府東京市(現・[[東京都区部]])を人口で追い抜き、日本最多の人口を有する都市となった。また、世界でも6番目の人口を誇る主要都市となり、ここに[[大大阪時代]]が到来した。 しかし[[1932年]]に東京府東京市が周辺町村の合併による市域拡大によって、人口で再び大阪市を追い抜いたため{{efn|大阪市も同日周辺町村の合併を実施したため、市域は拡大し人口も増加したが、東京市では[[関東大震災]]からの復興が進み、人口が急速に回復傾向にあったことや、東京市は隣接している周辺82町村の編入を一挙に実施したため、人口の増加数では東京市の方が圧倒的に多かった}}、大大阪時代はわずか7年で終焉した。 [[1955年]]の第三次市域拡張では[[河内国]]の範囲にあたる6町村を編入し、ほぼ現在の市域となった。後年に湾岸部の埋立造成が拡大し、市域はさらに広がったが、これ以降編入合併による市域拡張は行われておらず、政令指定都市の中でも予算規模等上位にありながらも非常に面積の小さい市となっている。 府県のほうでは、[[1881年]]に現在の[[奈良県]]を編入していた[[堺県]]を大阪府へ編入して最大版図となったが、[[1887年]]に奈良県を分離した。[[1958年]]には[[京都府]]の一部を大阪府へ編入し、現在の府域となった。 == 文化 == 大阪は長らく日本の文化の中心地であった[[京都]]に近く、また西日本最大の都市として発展したため、独自の文化を築いてきた。以下の食文化や芸能文化がよく知られるほか、[[大阪弁]]は[[東京方言]]や[[京言葉]]などとともに日本で最も知られた方言の一つである。 === 食文化 === 全国からあらゆる食材が集まる「[[天下の台所]]」であり、瀬戸内の海産物や大阪近郊の野菜にも恵まれ、[[日本料理]]の基礎となった[[食文化]]が栄え、「大阪の食い倒れ」(大阪人は破産しそうなほど飲食に贅沢をするという意味であるが、大阪人は食べ物自慢にうるさい、大阪には食べ切れないほど美味いものが沢山ある、といった意味でも使われる)という諺まで生まれた。[[しゃぶしゃぶ]]や[[懐石|懐石料理]]、[[うどんすき]]、[[寿司#大阪寿司|大阪寿司]]や[[割烹]]などの本格的な日本料理の発祥地としてや、[[たこ焼き]]や[[お好み焼き]]、[[串カツ]]、[[イカ焼き]]といった、“粉もん”を中心とした庶民の味まで、さまざまな料理が楽しめる。現在大阪では廃れた最古級の発祥地として蕎麦があり、これは関東では「[[砂場 (蕎麦屋)|砂場]]」の蕎麦屋の名門屋号として知られている。 昔からの土産としては[[岩おこし]]や[[コンブ]]があり、現在は廃れたものの[[キュウリ]]、[[ダイコン]]などの伝統野菜([[なにわ野菜]])が見直されたり、[[和泉]]でしかできない[[水なす]]や和泉の[[タマネギ]]、[[ミズナ]]など野菜の特産もある。特にネギは[[九条葱]]等の日本の青ネギの原種であり、最古(奈良時代には既にあった記録が残る)の品種である[[難波葱]](なんばねぎ)の一大生産地として戦前まで栄え、難波(なんば)=ネギと代名詞ともなりこれは[[鴨南蛮]]の語源となったともされている。南河内では明治の頃より山梨に次ぐ古くから葡萄の栽培が盛んであり、現在でもその出荷量は全国上位に入る品種もある。近年では、葡萄の中でも日本古来6品種の一つで約400年前より大阪に伝わる「紫」葡萄が、特産の葡萄として復活させるべく栽培と普及が進められている。 昔から“大阪の味”として親しまれてきたものとしては、[[ハモ]]、[[フグ]]、[[きつね (麺類)|きつねうどん]]、[[鰻丼|まむし]]などがある。特に[[ふぐ料理]]は全国消費量の約6割が大阪での消費であり、代表的な料理法としてはてっちりやてっさが挙げられる。 過去には主に商人の食卓で、「半助」([[蒲焼]]にした後の[[ウナギ]]の頭部)を使った炊き合わせや「[[船場汁]]」など、節約料理も数多く見られた。 鶴橋などの[[コリア・タウン]]があることから[[焼肉]]の店も多く、日本で[[ホルモン焼き]]が広まった最初の都市である。また[[インスタントラーメン]]や[[酢昆布]]など、意外な大阪発祥の料理・食品も多い。 また食の風習としては、[[節分]]の行事としての[[恵方巻|太巻き寿司の丸かぶり(いわゆる恵方巻)]]が挙げられる。 === 芸能 === [[文楽|人形浄瑠璃]]発祥地であり本場。[[大坂相撲]]や[[関西歌舞伎|上方歌舞伎]]も盛んであった。このほかにも庶民の娯楽として、[[米沢彦八]]らが起源とされる[[上方落語]]、[[漫才]]、[[吉本新喜劇]]・[[松竹新喜劇]]などのお笑い文化が栄えている。大阪は商業の町としての性格上、お互いに角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術が発達した。こうしたことが大阪でお笑い文化が花開く素地となったのではないかとされる。 === 八百八橋 === 江戸時代、江戸の「八百八町」、京都の「八百八寺」と並んで、大阪(浪華)は「八百八橋」で知られた<ref name="bridge">[https://www.kkr.mlit.go.jp/osaka/commu/road_dat/bridge.html 大阪八百八橋] 国土交通省近畿地方整備局 大阪国道事務所、2020年7月11日閲覧。</ref>。実際には江戸の橋は約350だったのに対して、大阪の橋は200ほどだったが、江戸の半分の橋は幕府が設置した公儀橋だったのに対し、大阪の公儀橋は12橋で残りはすべて町人達が自腹で架けた橋だった<ref name="bridge" />。 == 住みやすい都市ランキング == 2018年にイギリスの『エコノミスト』誌の調査部門「エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(EIU)」が発表した「2018年[[世界で最も居住に適した都市|世界で最も住みやすい都市]]ランキング」では大阪は3位だった<ref name="bbc45178865">[https://www.bbc.com/japanese/45178865]</ref>。 イギリスの人材調査会社ECAインターナショナルが2019年1月に発表した「アジア([[アジア]]・[[オセアニア]]地域)の、駐在員が最も住みやすい都市ランキング」では、大阪・[[名古屋市|名古屋]]・東京が並んで5位<ref>[https://www.nna.jp/news/show/1863966 アジア経済ニュース「住みやすい都市ランク、14年連続で世界首位」]</ref>。 == 備考 == * [[通話表#和文通話表|和文通話表]]で、「[[お]]」を送る際に「'''大阪のオ'''」という。 * [[Macintosh]]の[[フォント]]に「[[Osaka (書体)|Osaka]]」という名前のものがある。 * 各地の商業中心地を「'''○○の大阪'''」と例えることがあった。「山陰の大阪」([[鳥取県]][[米子市]])、「北陸の大阪」([[富山県]][[高岡市]])など。 == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|date=1967-03|title=新修新宿区史|editor=新修新宿区史編集委員会|publisher=東京都新宿区役所|id={{NDLJP|3002679}}|ref={{SfnRef|新修新宿区史編集委員会|1967}}}}{{要登録}} == 関連書籍 == * 塚田孝 『近世大坂の都市社会』 吉川弘文館 ISBN 4-642-03411-0 * 鍋井克之 『大阪繁盛記』 東京布井出版株式会社 ISBN 4-8109-1100-4 == 関連項目 == {{Colbegin|4}} * [[大阪府]] * [[大阪市]] * [[摂津国]] * [[河内国]] * [[和泉国]] * [[近畿]] * [[畿内]] * [[商都]] * [[水都]](水の都) * [[京阪神]] * [[東京]] * [[名古屋市|名古屋]] * [[世界都市]] * [[大阪プロレス]] * [[テレビ大阪]] * [[吉本興業]] * [[サントリー]] * [[パナソニック]] * [[三洋電機]] * [[シャープ]] * [[オンキヨー]] * [[京セラドキュメントソリューションズ]] * [[住友財閥]] * [[天満青物市場]] * [[大坂相撲]] * [[大阪文化賞]] * [[安井道頓]] * [[適塾]] * [[緒方洪庵]] * [[富永仲基]] {{Colend}} == 外部リンク == {{Commons&cat|Osaka|Osaka}} * [http://www.pref.osaka.jp 大阪府 公式サイト] * [http://www.city.osaka.lg.jp/ 大阪市 公式サイト] * [http://www.osaka-info.jp/ 大阪観光情報 公式サイト] {{DEFAULTSORT:おおさか}} [[Category:大阪府]] [[Category:大阪市]] [[Category:近畿地方]] [[Category:大阪府の地理]] [[Category:大阪市の地理]] [[Category:大阪府の歴史]] [[Category:大阪市の歴史]] [[Category:日本の都市]]
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三角形
初等幾何学における三角形(さんかくけい、さんかっけい、拉: triangulum, 独: Dreieck, 英, 仏: triangle,(古風)trigon)は、同一直線上にない3点と、それらを結ぶ3つの線分からなる多角形。その3点を三角形の頂点、3つの線分を三角形の辺という。 3点 A, B, C を頂点とする三角形は記号 △ を用いて △ABC と表記する。記号△はピエール・エリゴン(フランス語版)などが16世紀に使うようになった。 三角形の 2辺がなす角をその三角形の内角という。 図1においては、∠ABC が内角の 1つとなる。三角形は 3つの内角をもち、その和は平面上では2直角(180度)となる(本稿はユークリッド幾何学における三角形を論じる)。 また、∠ACD のように、1つの辺と、他の辺の延長が作る角を三角形の外角という。三角形の 1つの頂点(内角)に対して、内角をはさむ2辺以外の辺をその頂点(内角)の対辺という。また、三角形の 1つの辺に対して、辺の両端以外の頂点(内角)をその辺の対頂点(対角)という。 一般に、三角形の頂点やその頂点の内角を表すには、大文字のアルファベットを用いる。特に、内角(内角の大きさ)を表すときには、頂点の前に記号 ∠ をつけるか、頂点の文字を斜体にして表すのが慣例である。たとえば、図2 の頂点 B を持つ内角(内角の大きさ)を ∠B、または B と表す。 辺(辺の長さ)を表すには、対頂点(向かい合う頂点)の文字に対応する小文字のアルファベットで表すことが行われる。たとえば、図2 の角 B の対辺 CA は、b と表す。この記法は、18世紀のオイラーの頃から使われるようになった。 三角形のどの辺の長さも他の二辺の長さの和より小さい。すなわち、三角形を構成する3辺の長さを a,b,c とするとき、次の三つの不等式が成り立つ。 この関係は三角不等式として一般化される。 逆に、この不等式が三つとも成り立てば、a,b,c を3辺の長さとする三角形を作ることができる。 特に、三角形の最長辺(最短辺)と最大内角(最小内角)は向かい合う関係にある。 三角形の 3つの辺のうちの一つを底辺としたとき、その対頂点から底辺またはその延長に下ろした垂線が、三角形によって切り取られる線分(線分の長さ)を、三角形の高さという。底辺をどの辺と見るかによって、三角形には 3つの高さがある。 三角形の高さは、底辺と対頂点の距離に等しい。 底辺の中点と、対頂点を結ぶ線分を、三角形の中線という。底辺をどの辺と見るかによって、1つの三角形には 3本の中線がある。 三角形の中線は、三角形の面積を二等分する。 底辺を除く 2辺それぞれの中点を結ぶ線分を、三角形の中点連結という。底辺をどの辺と見るかによって、1つの三角形には 3つの中点連結がある。 三角形の中点連結は、底辺と平行で、長さは底辺の半分に等しい(中点連結定理)。 三角形は、その辺や角の大きさにより、いくつかの方法で分類することができる。 三角形の内角の和は 180度なので、三角形の内角で 90度以上のものは高々1個である。三角形の内角は、すべて鋭角であるか、直角1個と鋭角2個であるか、鈍角1個と鋭角2個、のいずれかである。 三角形を内角の大きさで分類するとき、内角が全て鋭角である三角形を鋭角三角形(図2)、1つの内角が直角である三角形を直角三角形(図4)、1つの内角が鈍角である三角形を鈍角三角形(図3)という。 また、三角形を辺の長さで分類するとき、3つの辺の長さがすべて異なる三角形を不等辺三角形(図2)という。 2つの辺の長さが等しい三角形を二等辺三角形(図5)という。 二等辺三角形のうち、直角三角形の直角をはさむ 2つの辺が等しいものを直角二等辺三角形(図6)という。 二等辺三角形のうち、3つの辺の長さがすべて等しい三角形を正三角形(図7)という。 1つの内角が直角である三角形を直角三角形と呼ぶ。直角三角形の頂点のうち、内角が直角である頂点を直角頂と呼ぶ(図4)。 直角三角形の直角以外の内角 2つは 90度未満となり、これらを直角三角形の鋭角と呼ぶ。それらの和は直角に等しい。 直角三角形の直角の対辺を斜辺という。斜辺は、直角三角形の 3つの辺の中で最も長い辺である。斜辺でない 2辺を、直角をはさむ 2辺と呼ぶ。 直角をはさむ 2辺 a,b と、斜辺 c の間には、次の関係が成り立つ(ピタゴラスの定理)。 逆に、△ABC の 3辺 a,b,c が上の等式を満たすならば、△ABC は辺 c 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ある 2つの三角形について、以下の条件のうち 1つでも満たしていれば、その 2つの三角形は合同となる。これを三角形の合同条件という。この条件は「三つの条件のうち、どれかが与えられれば三角形は決定される」、「相似の特別な場合である」(これは一般の多角形についても成り立つ)と解釈することもできる。 また、三角形の内角の和が一定(180度)であることを考えれば、"ASA" において与えられる2角は、辺を挟む 2角でなくともよいことが分かる。 一方で、"SAS" においては、ただ単に 2辺と 1角が等しいだけは、合同とは限らない。例を図13 に示す。図13 では、△ABC と △A'B'C' について、AB = A'B', AC = A'C', ∠ABC = ∠A'B'C' であるが、合同でない。 特に、1角が直角である場合は、加えて次の合同条件も成立する。 ある2つの三角形について、以下の条件のうち1つでも満たしていれば、その2つの三角形は相似である。 「三辺比相等」については、三角形の3辺の連比が等しいことを指す場合もある。 よりこれらは同値である。ただし、日本の初等中等教育においては、3連比を導入していない段階では、この表現は避けられることがある。 特に、正三角形、直角二等辺三角形は、3つの内角の組が一定であるから、それぞれが互いに相似である。
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1点で交わる。これらの交点を外心という。外心は各頂点との距離が等しく、その距離を半径として、外心を中心とする円を描くことができる。この円を三角形の外接円といい、全ての頂点を通る。", "title": "五心" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "三角形の外接円は、頂点を除き三角形の外部にあるが、外心は三角形の内部にあるとは限らない。鈍角三角形の場合は三角形の外部にあり、直角三角形の場合は斜辺の中点が外心となる。", "title": "五心" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "三角形の頂点から対辺に下ろした垂線を高さといい、どの辺を底辺とするかによって三角形には高さが 3本ある。3本の高さは 1点で交わり、これらの交点を垂心という。三角形は 1つの垂心を持つが、垂心が三角形の内部にあるとは限らない。鈍角三角形の場合は三角形の外部にあり、直角三角形の場合は直角頂が垂心となる。", "title": "五心" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "三角形の底辺の中点と対頂点を結ぶ線分を中線といい、どの辺を底辺とするかによって三角形には中線が 3本ある。3本の中線は 1点で交わり、これらの交点を重心という。三角形はその内部に、1つの重心をもつ。重心は中線を 2 : 1 に内分する。", "title": "五心" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "三角形の 1つの内角と他の 2つの外角の二等分線は 1点で交わる。これらの交点を傍心(ぼうしん)という。三角形に傍心は 3つある。傍心は 1辺、他の2辺の延長線との距離が等しく、傍心を中心として半径がその距離である円を傍接円という。", "title": "五心" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "三角形の 3つの辺またはその延長線上と距離が等しい点は、内心と傍心の併せて 4点ある。", "title": "五心" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "三角形の五心(重心、内心、傍心、外心、垂心)の位置ベクトル p {\\displaystyle {\\boldsymbol {p}}} は、頂点の位置ベクトル a , b , c {\\displaystyle {\\boldsymbol {a}},{\\boldsymbol {b}},{\\boldsymbol {c}}} を用いて、一般式", "title": "五心の位置ベクトル" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "で表される。ここで w A , w B , w C {\\displaystyle w_{\\text{A}},w_{\\text{B}},w_{\\text{C}}} は重みであり、中心ごとに次の表の通りとなる。 S {\\displaystyle S} はヘロンの公式でも得られる三角形の面積。", "title": "五心の位置ベクトル" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2つの三角形を移動して重ね合わせることができるとき、この 2つの三角形は合同である。ここで移動とは、平行移動、回転移動、対称移動からいくつかを合成したものである。", "title": "合同条件" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ある 2つの三角形について、以下の条件のうち 1つでも満たしていれば、その 2つの三角形は合同となる。これを三角形の合同条件という。この条件は「三つの条件のうち、どれかが与えられれば三角形は決定される」、「相似の特別な場合である」(これは一般の多角形についても成り立つ)と解釈することもできる。", "title": "合同条件" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "また、三角形の内角の和が一定(180度)であることを考えれば、\"ASA\" において与えられる2角は、辺を挟む 2角でなくともよいことが分かる。", "title": "合同条件" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "一方で、\"SAS\" においては、ただ単に 2辺と 1角が等しいだけは、合同とは限らない。例を図13 に示す。図13 では、△ABC と △A'B'C' について、AB = A'B', AC = A'C', ∠ABC = ∠A'B'C' であるが、合同でない。", "title": "合同条件" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "特に、1角が直角である場合は、加えて次の合同条件も成立する。", "title": "合同条件" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ある2つの三角形について、以下の条件のうち1つでも満たしていれば、その2つの三角形は相似である。", "title": "相似条件" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "「三辺比相等」については、三角形の3辺の連比が等しいことを指す場合もある。", "title": "相似条件" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "よりこれらは同値である。ただし、日本の初等中等教育においては、3連比を導入していない段階では、この表現は避けられることがある。", "title": "相似条件" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "特に、正三角形、直角二等辺三角形は、3つの内角の組が一定であるから、それぞれが互いに相似である。", "title": "相似条件" } ]
初等幾何学における三角形は、同一直線上にない3点と、それらを結ぶ3つの線分からなる多角形。その3点を三角形の頂点、3つの線分を三角形の辺という。
{{otheruses|図形|文字|三角 (記号)}} {{Infobox polygon |name = 三角形 |image = Triangle illustration.svg |caption = 三角形 |edges = 3 |schläfli = {3} (等辺の場合) |area = さまざまな方法:<br />[[#面積]]を参照 |angle = 60°(等辺の場合) }} [[初等幾何学]]における'''三角形'''(さんかくけい、さんかっけい、[[ラテン語|拉]]: triangulum, [[ドイツ語|独]]: Dreieck, [[英語|英]], [[フランス語|仏]]: triangle,(古風)trigon)は、同一[[直線]]上にない3[[点 (数学)|点]]と、それらを結ぶ3つの[[線分]]からなる[[多角形]]。その3点を三角形の'''頂点'''、3つの線分を三角形の'''辺'''という。 == 記法・定義 == 3点 A, B, C を頂点とする三角形は記号 △ を用いて △ABC と表記する。記号△は{{仮リンク|ピエール・エリゴン|fr|Pierre Hérigone}}などが16世紀に使うようになった<ref>{{Cite book|和書 |author=黒木哲徳 |title=なっとくする数学記号 |publisher=講談社 |page=80 |date=2021-02 |isbn=9784065225509 |series=ブルーバックス}}</ref>。 三角形の 2辺がなす角をその三角形の'''内角'''という。 [[画像:三角形の内角と外角.png|thumb|図1:内角と外角]] 図1においては、∠ABC が内角の 1つとなる。三角形は 3つの内角をもち、その和は[[平面]]上では2直角(180度)となる(本稿は[[ユークリッド幾何学]]における三角形を論じる)。 また、∠ACD のように、1つの辺と、他の辺の延長が作る角を三角形の'''外角'''という。三角形の 1つの頂点(内角)に対して、内角をはさむ2辺以外の辺をその頂点(内角)の'''対辺'''という。また、三角形の 1つの辺に対して、辺の両端以外の頂点(内角)をその辺の'''対頂点(対角)'''という。 一般に、三角形の頂点やその頂点の内角を表すには、大文字のアルファベットを用いる。特に、内角(内角の大きさ)を表すときには、頂点の前に記号 ∠ をつけるか、頂点の文字を斜体にして表すのが慣例である。たとえば、図2 の頂点 B を持つ内角(内角の大きさ)を ∠B、または ''B'' と表す。 辺(辺の長さ)を表すには、対頂点(向かい合う頂点)の文字に対応する小文字のアルファベットで表すことが行われる。たとえば、図2 の角 ''B'' の対辺 CA は、''b'' と表す。この記法は、18世紀の[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]の頃から使われるようになった<ref>{{Cite book|和書 |author=片野善一郎 |title=数学用語と記号ものがたり |publisher=[[裳華房]] |date=2003-08-25 |page=150}}</ref>。 === 三角形の3辺となる条件 === 三角形のどの辺の長さも他の二辺の長さの和より小さい。すなわち、三角形を構成する3辺の長さを {{math2|''a'',''b'',''c''}} とするとき、次の三つの[[不等式]]が成り立つ。 * {{math2|''a'' < ''b'' + ''c''}} * {{math2|''b'' < ''c'' + ''a''}} * {{math2|''c'' < ''a'' + ''b''}} この関係は[[三角不等式]]として一般化される。 逆に、この不等式が三つとも成り立てば、{{math2|''a'',''b'',''c''}} を3辺の長さとする三角形を作ることができる。 === 辺の大小と内角の大小 === * {{math2|''a'' < ''b'' ⇔ ''A'' < ''B''}} * {{math2|''b'' < ''c'' ⇔ ''B'' < ''C''}} * {{math2|''c'' < ''a'' ⇔ ''C'' < ''A''}} 特に、三角形の最長辺(最短辺)と最大内角(最小内角)は向かい合う関係にある。 === 三角形の底辺と高さ(中線と中点連結) === 三角形の 3つの辺のうちの一つを底辺としたとき、その対頂点から底辺またはその延長に下ろした垂線が、三角形によって切り取られる線分(線分の長さ)を、'''三角形の高さ'''という。底辺をどの辺と見るかによって、三角形には 3つの高さがある。 三角形の高さは、底辺と対頂点の距離に等しい。 底辺の中点と、対頂点を結ぶ線分を、三角形の'''中線'''という。底辺をどの辺と見るかによって、1つの三角形には 3本の中線がある。 三角形の中線は、[[#三角形の面積|三角形の面積]]を二等分する。 底辺を除く 2辺それぞれの中点を結ぶ線分を、三角形の'''中点連結'''という。底辺をどの辺と見るかによって、1つの三角形には 3つの中点連結がある。 三角形の中点連結は、底辺と平行で、長さは底辺の半分に等しい([[中点連結定理]])。 == 三角形の種類 == [[画像:不等辺三角形.png|thumb|left|図2:鋭角三角形(不等辺三角形)]] 三角形は、その辺や角の大きさにより、いくつかの方法で分類することができる。 * 大きさが 0度より大きく 90度より小さい角を鋭角という。 * 大きさが 90度である角を直角という。 * 大きさが直角 90度より大きく、平角 180度より小さい角を鈍角という。 三角形の内角の和は 180度なので、三角形の内角で 90度以上のものは高々1個である。三角形の内角は、すべて鋭角であるか、直角1個と鋭角2個であるか、鈍角1個と鋭角2個、のいずれかである。 [[画像:鈍角三角形.png|thumb|図3:鈍角三角形]] 三角形を内角の大きさで分類するとき、内角が全て鋭角である三角形を'''[[鋭角三角形]]'''(図2)、1つの内角が直角である三角形を'''[[直角三角形]]'''(図4)、1つの内角が鈍角である三角形を'''[[鈍角三角形]]'''(図3)という。 また、三角形を辺の長さで分類するとき、3つの辺の長さがすべて異なる三角形を'''不等辺三角形'''(図2)という。 2つの辺の長さが等しい三角形を'''[[二等辺三角形]]'''(図5)という。 二等辺三角形のうち、直角三角形の直角をはさむ 2つの辺が等しいものを'''[[直角二等辺三角形]]'''(図6)という。 二等辺三角形のうち、3つの辺の長さがすべて等しい三角形を'''[[正三角形]]'''(図7)という。 === 直角三角形 === [[画像:Right triangle 02.png|thumb|left|図4:直角三角形]] 1つの内角が直角である三角形を'''直角三角形'''と呼ぶ。直角三角形の頂点のうち、内角が直角である頂点を直角頂と呼ぶ(図4)。 直角三角形の直角以外の内角 2つは 90度未満となり、これらを直角三角形の鋭角と呼ぶ。それらの和は直角に等しい。 直角三角形の直角の対辺を'''斜辺'''という。斜辺は、直角三角形の 3つの辺の中で最も長い辺である。斜辺でない 2辺を、'''直角をはさむ 2辺'''と呼ぶ。 直角をはさむ 2辺 {{math2|''a'',''b''}} と、斜辺 {{mvar|c}} の間には、次の関係が成り立つ([[ピタゴラスの定理]])。 : {{math2|1=''a''{{sup|2}} + ''b''{{sup|2}} = ''c''{{sup|2}}}} 逆に、{{math|△ABC}} の 3辺 {{math2|''a'',''b'',''c''}} が上の等式を満たすならば、{{math|△ABC}} は辺 {{mvar|c}} を斜辺とする直角三角形となる(ピタゴラスの定理の逆)。 {{-}} === 二等辺三角形 === [[画像:二等辺三角形 ja.png|thumb|left|図5:二等辺三角形]] 二等辺三角形において、長さの等しい 2つの辺を'''等辺'''といい、残りの 1つの辺を二等辺三角形の'''底辺'''と呼ぶ。2つの等辺のなす角を'''頂角'''といい、残りの 2つの内角を'''底角'''という。頂角の対辺が底辺であり、底辺の両端の角が底角である。また、二等辺三角形で'''頂点'''と言った場合、特に底辺の対頂点を指す。 {{math|△ABC}} が {{math2|1=''b'' = ''c''}} の二等辺三角形であれば、底角 {{math2|1=∠B = ∠C}} であり(二等辺三角形の底角の性質)、逆に、{{math|△ABC}} の 2角が {{math2|1=∠B = ∠C}} であれば、{{math2|1=''b'' = ''c''}} の二等辺三角形となる(二等辺三角形の成立条件)。 [[画像:Isosceles Right Triangle.png|thumb|図6:直角二等辺三角形]] 二等辺三角形は[[線対称]]な図形であり、頂角の二等分線、底辺の垂直二等分線、頂点から底辺に引いた[[中線]]はすべて対称軸上に乗る。 二等辺三角形のうち、頂角が直角であるものを'''直角二等辺三角形'''という。直角二等辺三角形においては、直角をはさむ 2辺を等辺、底辺を斜辺と呼ぶこともできる。2つの鋭角ないし底角の大きさは、それぞれ 45度となる(図6)。 {{-}} === 正三角形 === [[画像:Equilateral Triangle ABC.png|thumb|left|図7:正三角形]] 二等辺三角形のうち、等辺と底辺の長さが等しいものを'''正三角形'''という。(図7) 正三角形の内角は全て等しく 60度となる。逆に、ある内角が 60度である二等辺三角形は正三角形である。 正三角形は[[正多角形]]の一種である。正多角形とは、全ての辺が等しく、全ての内角が等しい多角形と定義されるが、正三角形に限って3辺が等しいことのみで定義される。 正三角形には、対称軸が 3本ある。正三角形の'''[[重心]]'''、'''[[外心]]'''、'''[[内心]]'''、'''[[垂心]]'''、'''[[フェルマー点]]'''は、全て一致する。 {{-}} == 三角形の面積 == [[図形の一覧#2次元図形|平面図形]]である[[多角形]]には内部と外部があり、[[面積]]を考えることができる。中でも基本的である三角形の面積の求め方は、基本的なものだけでもいくつかが知られている。どの式で求めるかは、分かっている量(辺の長さや内角など)に応じて使い分ければよい。 === 底辺・高さによる式 === 1つの辺、またはその延長線と直角に交わる直線をその辺に立てた'''垂線'''といい、垂線と、その辺またはその延長の交点を'''垂線の足'''または'''垂足'''という。1つの辺に立てた垂線が、それに対する頂点を通るとき、垂線の足とその頂点を結んだ線分をその三角形の'''高さ'''という。高さは 3つの辺それぞれに対して定義できる。頂点 A の対辺 {{mvar|a}} に対する高さを {{mvar|h{{sub|a}}}} とするとき、面積 {{mvar|S}} は : <math>S = \frac{1}{2} a h_a</math> …① で求められる。 === 3辺による式 === 3辺の長さを {{math2|''a'', ''b'', ''c''}} とするとき、面積 {{mvar|S}} は : <math>S = \frac{1}{4} \sqrt{(a+b+c)(-a+b+c)(a-b+c)(a+b-c)}</math> …② となるが、少し複雑なので、 : <math>s = \frac{1}{2} (a+b+c)</math>([[半周長]]) とおくと、 : <math>S = \sqrt{s(s-a)(s-b)(s-c)}</math> …③ で求められる。これを[[ヘロンの公式]]と呼ぶ。 しかし、[[数値解析|数値計算]]する上で、上記でない形式の方が計算しやすい場合もある。{{math2|''a'', ''b'', ''c''}} のうち少なくとも1つは無理数だが {{math2|''a''{{sup|2}}, ''b''{{sup|2}}, ''c''{{sup|2}}}} は整数の場合は、{{math2|1=''a''{{sup|2}} = ''A'', ''b''{{sup|2}} = ''B'', ''c''{{sup|2}} = ''C''}} とおくと、 : <math>S=\frac{1}{4} \sqrt{2(BC+CA+AB)-(A^2+B^2+C^2)}</math> …③' が有用である。 === 2辺夾角による式 === 1つの内角を {{mvar|C}}、それをはさむ2辺の長さを {{math2|''a'', ''b''}} とするとき、面積 {{mvar|S}} は : <math>S = \frac{1}{2} ab \sin C</math> …④ で求められる。 この等式は、高さおよび[[三角関数|sin]]の定義により、①から導くことができる。(①の <math>h_a</math> は④の <math>b \sin C</math> に等しいため) === 1辺両端角(2角夾辺)による式 === 1辺の長さを {{mvar|a}}、その両端の内角を {{math2|''B'', ''C''}} とするとき、面積 {{mvar|S}} は : <math>S = \frac{a^2 \sin B \sin C}{2 \sin (B+C)}</math> …⑤ または : <math>S = \frac{a^2}{2 (\cot B + \cot C)}</math> …⑥ で求められる。 === 内接円・傍接円による式 === 内接円の半径を {{mvar|r}}、3辺 {{math2|''a'', ''b'', ''c''}} に接する傍接円の半径をそれぞれ {{math2|''r{{sub|a}}'', ''r{{sub|b}}'', ''r{{sub|c}}''}} とするとき、面積 {{mvar|S}} は : <math>S = \sqrt{r r_a r_b r_c \vphantom{A}}</math> …⑦ で求められる。 {{See also|リュイリエの定理#派生項目}} === 直交座標による式 === 2次元[[直交座標系|直交座標平面]]で、原点を含む 3点 {{math2|A(''x''{{sub|A}}, ''y''{{sub|A}}), B(''x''{{sub|B}}, ''y''{{sub|B}}), C(0, 0)}} を頂点とする三角形の場合、面積 {{mvar|S}} は : <math>S = \frac{1}{2} |x_{\text{A}} y_{\text{B}} - x_{\text{B}} y_{\text{A}}|</math> …⑧ で求められる。 一般の 3点 {{math2|A(''x''{{sub|A}}, ''y''{{sub|A}}), B(''x''{{sub|B}}, ''y''{{sub|B}}), C(''x''{{sub|C}}, ''y''{{sub|C}})}} を頂点とする三角形の場合、面積 {{mvar|S}} は : <math>S = \frac{1}{2} |(x_{\text{A}} - x_{\text{C}} )( y_{\text{B}} - y_{\text{C}} ) - (x_{\text{B}} - x_{\text{C}} )( y_{\text{A}} - y_{\text{C}} )|</math> …⑨ で求められる。 === 極座標による式 === 2次元[[極座標系|極座標平面]]で、原点を含む 3点 {{math2|A(''r''{{sub|A}}, ''θ''{{sub|A}}), B(''r''{{sub|B}}, ''θ''{{sub|B}}), C(0, 0)}} を頂点とする三角形の場合、面積 {{mvar|S}} は : <math>S = \frac{1}{2} r_{\text{A}} r_{\text{B}} \sin |\theta_{\text{A}} - \theta_{\text{B}}|</math> …⑩ で求められる。 == 五心 == 三角形は'''内心'''、'''外心'''、'''垂心'''、'''重心'''、'''傍心'''をもつ。これらを併せて'''五心'''という。 外心を {{math|O}}、重心を {{math|G}}、垂心を {{math|H}} とおくと、3点 {{math2|O, G, H}} は一直線上にあり(この直線を[[オイラー線]]と呼ぶ)、また {{math|1=OG : GH = 1 : 2}} である。 === 内心 === [[画像:三角形の内心.png|thumb|left|図8:三角形の内心({{math|I}} が内心である)]] 三角形の内角の二等分線 3本は 1点で交わる。これらの交点を三角形の[[内心]]という。三角形には、その内部に内心が 1つだけある。内心は各辺との距離が等しく、その距離を半径として、内心を中心とする円が描ける。この円を三角形の'''内接円'''といい、全ての辺に接する。三角形の内接円は、接点を除き三角形の内部にある。 {{-}} === 外心 === [[画像:三角形的外心.png|thumb|left|図9:三角形の外心({{math|O}} が外心である)]] 三角形の辺の垂直二等分線 3本は 1点で交わる。これらの交点を[[外心]]という。外心は各頂点との距離が等しく、その距離を半径として、外心を中心とする円を描くことができる。この円を三角形の'''外接円'''といい、全ての頂点を通る。 三角形の外接円は、頂点を除き三角形の外部にあるが、外心は三角形の内部にあるとは限らない。鈍角三角形の場合は三角形の外部にあり、直角三角形の場合は斜辺の中点が外心となる。 {{-}} === 垂心 === [[画像:三角形の垂心.png|thumb|left|図10:三角形の垂心({{math|H}} が垂心である)]] 三角形の頂点から対辺に下ろした垂線を'''高さ'''といい、どの辺を底辺とするかによって三角形には高さが 3本ある。3本の高さは 1点で交わり、これらの交点を[[垂心]]という。三角形は 1つの垂心を持つが、垂心が三角形の内部にあるとは限らない。鈍角三角形の場合は三角形の外部にあり、直角三角形の場合は直角頂が垂心となる。 {{-}} === 重心 === [[画像:三角形の重心.png|thumb|left|図11:三角形の重心({{math|G}} が重心である)]] 三角形の底辺の中点と対頂点を結ぶ線分を'''中線'''といい、どの辺を底辺とするかによって三角形には中線が 3本ある。3本の中線は 1点で交わり、これらの交点を[[重心]]という。三角形はその内部に、1つの重心をもつ。重心は中線を {{math2|2 : 1}} に内分する。 {{-}} === 傍心 === [[画像:三角形の傍心.png|thumb|left|図12:三角形の傍心(傍心は {{math2|I{{sub|A}}, I{{sub|B}}, I{{sub|C}}}} である)]] 三角形の 1つの内角と他の 2つの外角の二等分線は 1点で交わる。これらの交点を[[傍心]](ぼうしん)という。三角形に傍心は 3つある。傍心は 1辺、他の2辺の延長線との距離が等しく、傍心を中心として半径がその距離である円を'''傍接円'''という。 三角形の 3つの辺またはその延長線上と距離が等しい点は、内心と傍心の併せて 4点ある。 {{-}} == 五心の位置ベクトル == 三角形の五心(重心、内心、傍心、外心、垂心)の位置ベクトル <math>\boldsymbol{p}</math> は、頂点の位置ベクトル <math>\boldsymbol{a}, \boldsymbol{b}, \boldsymbol{c}</math> を用いて、一般式 :<math>\boldsymbol{p} = \frac{w_{\text{A}} \boldsymbol{a} + w_{\text{B}} \boldsymbol{b} + w_{\text{C}} \boldsymbol{c}}{w_{\text{A}} + w_{\text{B}} + w_{\text{C}}}</math> で表される。ここで <math>w_{\text{A}}, w_{\text{B}}, w_{\text{C}}</math> は重みであり、中心ごとに次の表の通りとなる。<math>S</math> はヘロンの公式でも得られる三角形の面積。 {|class="wikitable" style=text-align:center ! !<math>w_{\text{A}}</math> !<math>w_{\text{B}}</math> !<math>w_{\text{C}}</math> !<math>w_{\text{A}} + w_{\text{B}} + w_{\text{C}}</math> |- !重心 |<math>1</math> |<math>1</math> |<math>1</math> |<math>3</math> |- !内心 |<math>a</math> |<math>b</math> |<math>c</math> |<math>a+b+c</math> |- !rowspan="3"|傍心 |<math>-a</math> |<math>b</math> |<math>c</math> |<math>-a+b+c</math> |- |<math>a</math> |<math>-b</math> |<math>c</math> |<math>a-b+c</math> |- |<math>a</math> |<math>b</math> |<math>-c</math> |<math>a+b-c</math> |- !外心 |<math>a^2(b^2 + c^2 - a^2)</math> |<math>b^2(c^2 + a^2 - b^2)</math> |<math>c^2(a^2 + b^2 - c^2)</math> |<math>16S^2</math> |- !垂心 |<math>a^4 - (b^2 - c^2)^2</math> |<math>b^4 - (c^2 - a^2)^2</math> |<math>c^4 - (a^2 - b^2)^2</math> |<math>16S^2</math> |} :<math>a\equiv\overline{\text{BC}} = \sqrt{(\vec{\text{BC}}, \vec{\text{BC}})},</math> :<math>b\equiv\overline{\text{CA}} = \sqrt{(\vec{\text{CA}}, \vec{\text{CA}})},</math> :<math>c\equiv\overline{\text{AB}} = \sqrt{(\vec{\text{AB}}, \vec{\text{AB}})},</math> :<math>\begin{align} 16S^2 &= 16s(s-a)(s-b)(s-c) \\ &= 2(b^2 c^2 + c^2 a^2 + a^2 b^2)-(a^4 + b^4 + c^4) \end{align}</math> :ただし、 ::<math>s = \frac{a + b + c}{2}</math>. == 合同条件 == {{See also|図形の合同#三角形の決定問題}} 2つの三角形を移動して重ね合わせることができるとき、この 2つの三角形は[[図形の合同|合同]]である。ここで移動とは、[[平行移動]]、[[回転]]移動、対称移動からいくつかを合成したものである。 ある 2つの三角形について、以下の条件のうち 1つでも満たしていれば、その 2つの三角形は合同となる。これを三角形の合同条件という。この条件は「三つの条件のうち、どれかが与えられれば三角形は決定される」、「[[図形の相似|相似]]の特別な場合である」(これは一般の多角形についても成り立つ)と解釈することもできる。 ;三辺相等 (SSS):3組の辺がそれぞれ等しい ;二辺夾角(二辺夾角相等/SAS):2組の辺とその間の角がそれぞれ等しい ;二角夾辺(二角夾辺相等/一辺両端角相等/ASA):2組の角とそれらに挟まれる辺がそれぞれ等しい:(1組の辺と両端の角がそれぞれ等しい)<!-- なお、初等中等教育の教育現場では「夾」の字に代えて「挟」が用いられることが多い。--> また、三角形の内角の和が一定(180度)であることを考えれば、"ASA" において与えられる2角は、辺を挟む 2角でなくともよいことが分かる。 [[画像:Dissimilar triangles (SSA condition).svg|thumb|図13:2辺と 1角が等しいが合同ではない三角形の例]] 一方で、"SAS" においては、ただ単に 2辺と 1角が等しいだけは、合同とは限らない。例を図13 に示す。図13 では、{{math|△ABC}} と {{math|△A'B'C'}} について、{{math2|1=AB = A'B', AC = A'C', ∠ABC = ∠A'B'C'}} であるが、合同でない。 特に、1角が直角である場合は、加えて次の合同条件も成立する。 ;斜辺一辺(斜辺一辺相等/RSS):斜辺と他の 1辺がそれぞれ等しい ;斜辺一鋭角(斜辺一鋭角相等/RAS):斜辺と 1つの鋭角がそれぞれ等しい {{-}} == 相似条件 == {{See also|図形の相似}} ある2つの三角形について、以下の条件のうち1つでも満たしていれば、その2つの三角形は[[図形の相似|相似]]である。 ;三辺比相等:3組の辺の比がそれぞれ等しい ;二辺比夾角(二辺比夾角相等):2組の辺の比とその間の角がそれぞれ等しい ;二角相等:2組の角がそれぞれ等しい 「三辺比相等」については、三角形の3辺の連比が等しいことを指す場合もある。 :<math>a:b:c=a':b':c' \Leftrightarrow a:a'=b:b'=c:c'</math> よりこれらは同値である。ただし、日本の初等中等教育においては、3連比を導入していない段階では、この表現は避けられることがある。 特に、正三角形、直角二等辺三角形は、3つの内角の組が一定であるから、それぞれが互いに相似である。 == 三角形(トライアングル)を含む語 == *[[パスカルの三角形]]/[[ニコロ・フォンタナ・タルタリア#タルタリアの三角形|タルタリアの三角形]] *[[ライプニッツの調和三角形]] *[[ハインリッヒの法則|ハインリッヒの三角形]] *[[三角州]] *[[三角測量]] - [[三角点]] *[[三角貿易]] *[[三角町]] *[[トライアングル]](打楽器) *[[鉄のトライアングル]] *地域名 **[[黄金の三角地帯]] **[[バミューダ・トライアングル]] **[[ドラゴン・トライアングル]] **[[ポリネシアン・トライアングル]] **[[スンニー・トライアングル]] *[[ナチ強制収容所のバッジ]] **[[ピンク・トライアングル]] **[[パープル・トライアングル]] **[[ブラック・トライアングル]] *[[夏の大三角]] *[[冬の大三角]] *[[春の大三角]] *[[さんかく座]] *[[みなみのさんかく座]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Triangles}} {{ウィキポータルリンク|数学}} {{Refbegin|2}} *[[中点三角形]] *[[三角関数]] *[[三角形の中心]] *[[外接円]] *[[正弦定理]] *[[余弦定理]] *[[中線定理]] *[[合同数]] *[[ルーローの三角形]] *[[六点円]] *[[モーリーの定理]] *[[オイラー線]] *[[ド・ロンシャン点]] *[[傍心三角形]] *[[九点円]] *[[三角 (記号)]] {{Refend}} {{多角形}} {{DEFAULTSORT:さんかくけい}} [[Category:三角形|*]] [[Category:初等数学]] [[Category:数学に関する記事]]
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天保暦
天保暦(てんぽうれき)は、かつて日本において使用された太陰太陽暦の暦法である。過去に中国に同名の「天保暦」が存在するため、「天保壬寅元暦(てんぽうじんいんげんれき)」と呼ぶこともある。太陰太陽暦は、日本において改暦を繰り返しながら何度か採用されたが、天保暦はそれらの中で最後に使用された暦法である。 明治改暦により新暦のグレゴリオ暦に改暦され、天保暦は旧暦となった。その後現在まで日本では改暦が無いことから、「旧暦」で狭義には天保暦を指すことがある。 以下、明治5年以前の和暦の日付は天保暦により、西暦および明治6年以降の和暦の日付はグレゴリオ暦による。 天保15年1月1日(1844年2月18日)に寛政暦から改暦され、明治5年12月2日(1872年12月31日)まで約29年間使用された。 明治6年(1873年)1月1日、グレゴリオ暦(太陽暦)に改暦されるも、明治42年(1909年)まで官暦(伊勢神宮から発行された本暦や略本暦)に記載されていた。 渋川景佑らが西洋天文学の成果を取り入れて完成させた暦で、実施された太陰太陽暦としてはそれまでで最も精密なものである。天文学者の平山清次の計算によれば、平均太陽年が365.24219日・平均朔望月が29.530589日に対して、天保暦の太陽年は365.24223日・朔望月は29.530588日であり、グレゴリオ暦の太陽年の365.2425日よりも誤差が小さいことが確かめられている(『暦法及時法』)。 寛政暦までは、二十四節気を1年間を等分(時間分割)して計算する平気法が使用されていた。天保暦では太陽の位置を計算し、天球上の太陽の軌道を24等分(空間分割)して二十四節気を求める定気法を採用した。 しかし定気法の採用によって置閏法(閏月の置き方)がかえって複雑になったという批判もある。実際、定義通りに運用すると2033年には九月の次が十一月になってしまうという問題が生じる(旧暦2033年問題)。また中国や西洋の流れに反して不定時法を暦法において公式に導入したことに関しても強い批判がある。 朔から次の朔の前日までの29日あるいは30日を1か月とし、黄経330度の雨水を含む月を一月、以下各中気を含む月を二月、三月...とする。中気をまったく含まない月は閏月となる。 明治5年11月9日(1872年12月9日)、突如として太陽暦への改暦の布告が明治天皇の詔書と太政官布告337号によって行われた。 そのため布告された翌月の12月が、わずか2日となり、その翌日が明治6年(1873年)1月1日(太陽暦)となることを知らされた当時の人々の間に、混乱が生じた。 改暦に伴う混乱の詳細は、「明治改暦」の項目を参照のこと。 日本では、新暦への改暦以来現在まで「旧暦」という名前の太陰太陽暦が暦書やカレンダーなどに記載されている。これは現代天文学に基づいて観測された月と太陽の動きから朔と二十四節気を計算し、また観測の基準が京都の東経約135度46分であったものを日本標準時子午線の東経135度に変更して、置閏法のみ天保暦と同じにしたものであり、厳密には天保暦ではない。 この計算は、現在では国立天文台によって行われている。その計算結果は、毎年2月のはじめに、翌年分が「暦要項」というタイトルで「官報」上に告示される。この「暦要項」の「二十四節気および雑節」および「朔弦望」の2節に提示された情報と、天保暦に基づく置閏法により、「30日の大月、29日の小月」や「12の月および閏月の設定」など、旧暦の年月日はほぼ自動的に確定する。市販のカレンダーに並記されている旧暦の月日が出版元によって相違することはない。これにより、公的には「旧暦」はメンテナンスされていないが、実質的に「旧暦」が定まる。 2033年に、天保暦の置閏法が破綻する事態が生ずる。 グレゴリオ暦(西暦)2033年8月25日〜2034年3月20日の7か月(これらを便宜的にa月からg月とする)に旧暦の8・9・10・11・12・1の6か月と閏月1つを置くことになるが、天保暦の月名決定のルールを適用すると、 すなわち、旧暦9月と10月を決めることができなくなる。この問題については、国立天文台の元天文台長や「暦計算室」員、国立民族学博物館名誉教授、カレンダー出版物の業界団体の長などを理事長・理事・学術顧問などに迎えている社団法人・日本カレンダー暦文化振興協会が、2014年7月以来、この問題に関する学術シンポジウムを開催し、問題の所在についての啓蒙と周知、対策案についての検討などを行っている。同協会が2015年8月に発表した見解によれば、下表のe月を閏11月とする案を推奨しているが、「置閏ルールについてはさらに検討を継続する」ともしている。 ※印は天保暦の性質上不都合が起こるとされる年、日本カレンダー暦文化振興協会の推奨案による閏月を表示。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "天保暦(てんぽうれき)は、かつて日本において使用された太陰太陽暦の暦法である。過去に中国に同名の「天保暦」が存在するため、「天保壬寅元暦(てんぽうじんいんげんれき)」と呼ぶこともある。太陰太陽暦は、日本において改暦を繰り返しながら何度か採用されたが、天保暦はそれらの中で最後に使用された暦法である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "明治改暦により新暦のグレゴリオ暦に改暦され、天保暦は旧暦となった。その後現在まで日本では改暦が無いことから、「旧暦」で狭義には天保暦を指すことがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "以下、明治5年以前の和暦の日付は天保暦により、西暦および明治6年以降の和暦の日付はグレゴリオ暦による。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "天保15年1月1日(1844年2月18日)に寛政暦から改暦され、明治5年12月2日(1872年12月31日)まで約29年間使用された。", "title": "使用期間" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "明治6年(1873年)1月1日、グレゴリオ暦(太陽暦)に改暦されるも、明治42年(1909年)まで官暦(伊勢神宮から発行された本暦や略本暦)に記載されていた。", "title": "使用期間" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "渋川景佑らが西洋天文学の成果を取り入れて完成させた暦で、実施された太陰太陽暦としてはそれまでで最も精密なものである。天文学者の平山清次の計算によれば、平均太陽年が365.24219日・平均朔望月が29.530589日に対して、天保暦の太陽年は365.24223日・朔望月は29.530588日であり、グレゴリオ暦の太陽年の365.2425日よりも誤差が小さいことが確かめられている(『暦法及時法』)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "寛政暦までは、二十四節気を1年間を等分(時間分割)して計算する平気法が使用されていた。天保暦では太陽の位置を計算し、天球上の太陽の軌道を24等分(空間分割)して二十四節気を求める定気法を採用した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "しかし定気法の採用によって置閏法(閏月の置き方)がかえって複雑になったという批判もある。実際、定義通りに運用すると2033年には九月の次が十一月になってしまうという問題が生じる(旧暦2033年問題)。また中国や西洋の流れに反して不定時法を暦法において公式に導入したことに関しても強い批判がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "朔から次の朔の前日までの29日あるいは30日を1か月とし、黄経330度の雨水を含む月を一月、以下各中気を含む月を二月、三月...とする。中気をまったく含まない月は閏月となる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "明治5年11月9日(1872年12月9日)、突如として太陽暦への改暦の布告が明治天皇の詔書と太政官布告337号によって行われた。", "title": "太陽暦への改暦" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "そのため布告された翌月の12月が、わずか2日となり、その翌日が明治6年(1873年)1月1日(太陽暦)となることを知らされた当時の人々の間に、混乱が生じた。", "title": "太陽暦への改暦" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "改暦に伴う混乱の詳細は、「明治改暦」の項目を参照のこと。", "title": "太陽暦への改暦" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本では、新暦への改暦以来現在まで「旧暦」という名前の太陰太陽暦が暦書やカレンダーなどに記載されている。これは現代天文学に基づいて観測された月と太陽の動きから朔と二十四節気を計算し、また観測の基準が京都の東経約135度46分であったものを日本標準時子午線の東経135度に変更して、置閏法のみ天保暦と同じにしたものであり、厳密には天保暦ではない。", "title": "改暦以後の旧暦" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "この計算は、現在では国立天文台によって行われている。その計算結果は、毎年2月のはじめに、翌年分が「暦要項」というタイトルで「官報」上に告示される。この「暦要項」の「二十四節気および雑節」および「朔弦望」の2節に提示された情報と、天保暦に基づく置閏法により、「30日の大月、29日の小月」や「12の月および閏月の設定」など、旧暦の年月日はほぼ自動的に確定する。市販のカレンダーに並記されている旧暦の月日が出版元によって相違することはない。これにより、公的には「旧暦」はメンテナンスされていないが、実質的に「旧暦」が定まる。", "title": "改暦以後の旧暦" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2033年に、天保暦の置閏法が破綻する事態が生ずる。 グレゴリオ暦(西暦)2033年8月25日〜2034年3月20日の7か月(これらを便宜的にa月からg月とする)に旧暦の8・9・10・11・12・1の6か月と閏月1つを置くことになるが、天保暦の月名決定のルールを適用すると、", "title": "改暦以後の旧暦" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "すなわち、旧暦9月と10月を決めることができなくなる。この問題については、国立天文台の元天文台長や「暦計算室」員、国立民族学博物館名誉教授、カレンダー出版物の業界団体の長などを理事長・理事・学術顧問などに迎えている社団法人・日本カレンダー暦文化振興協会が、2014年7月以来、この問題に関する学術シンポジウムを開催し、問題の所在についての啓蒙と周知、対策案についての検討などを行っている。同協会が2015年8月に発表した見解によれば、下表のe月を閏11月とする案を推奨しているが、「置閏ルールについてはさらに検討を継続する」ともしている。", "title": "改暦以後の旧暦" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "※印は天保暦の性質上不都合が起こるとされる年、日本カレンダー暦文化振興協会の推奨案による閏月を表示。", "title": "天保暦(改暦以後の旧暦含む)の閏月一覧" } ]
天保暦(てんぽうれき)は、かつて日本において使用された太陰太陽暦の暦法である。過去に中国に同名の「天保暦」が存在するため、「天保壬寅元暦(てんぽうじんいんげんれき)」と呼ぶこともある。太陰太陽暦は、日本において改暦を繰り返しながら何度か採用されたが、天保暦はそれらの中で最後に使用された暦法である。 明治改暦により新暦のグレゴリオ暦に改暦され、天保暦は旧暦となった。その後現在まで日本では改暦が無いことから、「旧暦」で狭義には天保暦を指すことがある。 以下、明治5年以前の和暦の日付は天保暦により、西暦および明治6年以降の和暦の日付はグレゴリオ暦による。
'''天保暦'''(てんぽうれき)は、かつて[[日本]]において使用された[[太陰太陽暦]]の[[暦法]]である。過去に[[中国]]に同名の「天保暦」が存在するため、「'''天保[[壬寅]]元暦'''(てんぽうじんいんげんれき)」と呼ぶこともある。太陰太陽暦は、日本において[[改暦]]を繰り返しながら何度か採用されたが、天保暦はそれらの中で最後に使用された暦法である。 {{Today/旧暦/CE/AH}} [[明治改暦]]により[[新暦]]の[[グレゴリオ暦]]に改暦され、天保暦は[[旧暦]]となった。その後現在まで日本では改暦が無いことから、「旧暦」で狭義には天保暦を指すことがある<ref group="注">なお[[明治維新]]の際、[[陰陽寮|陰陽頭]]・[[土御門晴雄]]が太陽暦導入に反対して太陰太陽暦に基づく改暦を企図したが、晴雄の急逝により計画が中止されたため、天保暦に代わる太陰太陽暦への改暦は実施されなかった。</ref>。 以下、[[明治5年]]以前の[[和暦]]の日付は天保暦により、[[西暦]]および明治6年以降の和暦の日付はグレゴリオ暦による。 ==使用期間== [[天保]]15年<ref group="注">改暦の年月日を、「'''[[弘化]]元年1月1日'''」としている場合もあるが、天保15年は、[[12月1日 (旧暦)|12月1日]](1845年1月8日)までで、弘化元年は、12月2日(1845年1月9日)に改元される。しかし、改元が布告された時点でその年の元日にさかのぼって新元号の元年と見なす場合([[改元#種類]]を参照)があり、改暦を「天保15年」とする文献と、さかのぼって「弘化元年」とする文献があるので注意が必要である。</ref>[[1月1日 (旧暦)|1月1日]](1844年2月18日)に[[寛政暦]]から改暦され、[[明治]]5年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]](1872年12月31日)まで約29年間使用された。 明治6年(1873年)1月1日、'''[[グレゴリオ暦]]'''([[太陽暦]])に改暦されるも、明治42年(1909年)まで官暦([[伊勢神宮]]から発行された[[神宮暦|本暦や略本暦]])に記載されていた<ref>[[岡田芳朗]] 著『暦に見る日本人の知恵』</ref>。 ==概要== [[渋川景佑]]らが西洋天文学の成果を取り入れて完成させた暦で、実施された太陰太陽暦としてはそれまでで最も精密なものである。天文学者の[[平山清次]]の計算によれば、平均[[太陽年]]が365.24219日・平均[[朔望月]]が29.530589日に対して、天保暦の太陽年は365.24223日・朔望月は29.530588日であり、グレゴリオ暦の太陽年の365.2425日よりも誤差が小さいことが確かめられている(『暦法及時法』)。 寛政暦までは、[[二十四節気]]を1年間を等分(時間分割)して計算する[[平気法]]が使用されていた。天保暦では[[太陽]]の位置を計算し、天球上の太陽の軌道を24等分(空間分割)して二十四節気を求める[[定気法]]を採用した。 しかし定気法の採用によって[[置閏法]]([[閏月]]の置き方)がかえって複雑になったという批判もある。実際、定義通りに運用すると2033年には九月の次が十一月になってしまうという問題が生じる([[旧暦2033年問題]])。また中国や西洋の流れに反して[[時間 (単位)#不定時法|不定時法]]を暦法において公式に導入したことに関しても強い批判がある。 朔から次の朔の前日までの29日あるいは30日を1か月とし、黄経330度の雨水を含む月を一月、以下各中気を含む月を二月、三月…とする。中気をまったく含まない月は閏月となる。 {|class="wikitable" style="text-align:right" !季節!!節月!!中気!!黄経!!グレゴリオ暦 |- !rowspan="3"|春 |一月||[[雨水]]||330度||2月19日ごろ |- |二月||[[春分]]||0度||3月21日ごろ |- |三月||[[穀雨]]||30度||4月20日ごろ |- !rowspan="3"|夏 |四月||[[小満]]||60度||5月21日ごろ |- |五月||[[夏至]]||90度||6月21日ごろ |- |六月|||[[大暑]]||120度||7月23日ごろ |- !rowspan="3"|秋 |七月||[[処暑]]||150度||8月23日ごろ |- |八月||[[秋分]]||180度||9月23日ごろ |- |九月||[[霜降]]||210度||10月23日ごろ |- !rowspan="3"|冬 |十月||[[小雪]]||240度||11月22日ごろ |- |十一月||[[冬至]]||270度||12月22日ごろ |- |十二月||[[大寒]]||300度||1月20日ごろ |} ==太陽暦への改暦== 明治5年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]](1872年12月9日)、突如として太陽暦への改暦の布告が[[明治天皇]]の[[詔書]]と[[太政官]]布告337号によって行われた。 そのため布告された翌月の12月が、わずか2日となり、その翌日が明治6年(1873年)1月1日(太陽暦)となることを知らされた当時の人々の間に、混乱が生じた。 改暦に伴う混乱の詳細は、「[[明治改暦]]」の項目を参照のこと。 ==改暦以後の旧暦== 日本では、新暦への改暦以来現在まで「旧暦」という名前の太陰太陽暦が暦書やカレンダーなどに記載されている。これは現代天文学に基づいて観測された月と太陽の動きから朔と二十四節気を計算し、また観測の基準が京都の東経約135度46分であったものを[[日本標準時子午線]]の東経135度に変更して、[[置閏法]]のみ天保暦と同じにしたものであり、厳密には天保暦ではない。 この計算は、現在では[[国立天文台]]によって行われている。その計算結果は、毎年2月のはじめに、翌年分が「暦要項」というタイトルで「[[官報]]」上に[[告示]]される<ref group="注">2015年の場合、2月2日に発行された「[[官報]]」第6463号の25ページ〜26ページに「平成28年(2016)暦要項」が「告示」(=掲載)されている。</ref>。この「暦要項」の「二十四節気および雑節」および「朔弦望」の2節<ref group="注">「暦要項」は、「国民の祝日」、「日曜表」、「二十四節気および雑節」、「朔弦望」、「東京の日出入」、「日食・月食など」などの各節から構成されている。</ref>に提示された情報と、天保暦に基づく[[閏年|置閏法]]により、「30日の大月、29日の小月」や「12の月および閏月の設定」など、旧暦の年月日はほぼ自動的に確定する。市販のカレンダーに並記されている旧暦の月日が出版元によって相違することはない。これにより、公的には「旧暦」はメンテナンスされていないが、実質的に「旧暦」が定まる<ref group="注">中国では現在も公的に太陰太陽暦である[[時憲暦]]がメンテナンスされており、これを基準として[[春節]]が祝われる。</ref>。 ===旧暦2033年問題=== {{Main|旧暦2033年問題}} 2033年に、天保暦の[[閏年|置閏法]]が破綻する事態が生ずる。 グレゴリオ暦(西暦)2033年8月25日〜2034年3月20日の7か月(これらを便宜的に<var>a</var>月から<var>g</var>月とする)に旧暦の8・9・10・11・12・1の6か月と閏月1つを置くことになるが、天保暦の月名決定のルールを適用すると、 #閏月を置くべき候補が<var>a</var>月・<var>e</var>月・<var>g</var>月と3つも出現する。 #この年、[[中気]]の「秋分」を含む月<var>b</var>月と「冬至」を含む<var>d</var>月の間には1か月しかなく、「『秋分』を含む月を8月とする」「『冬至』を含む月を11月とする」という規定をそのまま適用することが不可能になる。 すなわち、旧暦9月と10月を決めることができなくなる<ref>[[理科年表]] 2014年版「旧暦2033年問題について」暦75(75p) - 同76(76p)など。詳細については「[[旧暦2033年問題]]」を参照のこと。</ref>。この問題については、国立天文台の元天文台長や「暦計算室」員、国立民族学博物館名誉教授、カレンダー出版物の業界団体の長などを理事長・理事・学術顧問などに迎えている社団法人・日本カレンダー暦文化振興協会が、2014年7月以来、この問題に関する学術シンポジウムを開催し、問題の所在についての啓蒙と周知、対策案についての検討などを行っている<ref>[http://www.rekibunkyo.or.jp 日本カレンダー暦文化振興協会]</ref>。同協会が2015年8月に発表した見解によれば、下表の<var>e</var>月を閏11月とする案を推奨しているが、「置閏ルールについてはさらに検討を継続する」ともしている。 {|class="wikitable" style="font-size:small" !西暦の年月日!!対応する旧暦の月<br>大(30日)小(29日)!!旧暦の月名 |- |{{天保暦/年月日|2033|1|1}}〜{{天保暦/年月日|2033|1|30}} |大月||12月 |- |{{天保暦/年月日|2033|1|31}}〜{{天保暦/年月日|2033|2|28}} |小月||1月 |- |{{天保暦/年月日|2033|3|1}}〜{{天保暦/年月日|2033|3|30}} |大月||2月 |- |{{天保暦/年月日|2033|3|31}}〜{{天保暦/年月日|2033|4|28}} |小月||3月 |- |{{天保暦/年月日|2033|4|29}}〜{{天保暦/年月日|2033|5|27}} |小月||4月 |- |{{天保暦/年月日|2033|5|28}}〜{{天保暦/年月日|2033|6|26}} |大月||5月 |- |{{天保暦/年月日|2033|6|27}}〜{{天保暦/年月日|2033|7|25}} |小月||6月 |- |{{天保暦/年月日|2033|7|26}}〜{{天保暦/年月日|2033|8|24}} |大月||7月 |- |{{天保暦/年月日|2033|8|25}}〜{{天保暦/年月日|2033|9|22}} |小月||<em>a月</em> |- |{{天保暦/年月日|2033|9|23}}〜{{天保暦/年月日|2033|10|22}} |大月||<em>b月</em> |- |{{天保暦/年月日|2033|10|23}}〜{{天保暦/年月日|2033|11|21}} |大月||<em>c月</em> |- |{{天保暦/年月日|2033|11|22}}〜{{天保暦/年月日|2033|12|21}} |大月||<em>d月</em> |- |{{天保暦/年月日|2033|12|22}}〜{{天保暦/年月日|2034|1|19}} |小月||<em>e月</em> |- |{{天保暦/年月日|2034|1|20}}〜{{天保暦/年月日|2034|2|18}} |大月||<em>f月</em> |- |{{天保暦/年月日|2034|2|19}}〜{{天保暦/年月日|2034|3|19}} |小月||<em>g月</em> |- |{{天保暦/年月日|2034|3|20}}〜{{天保暦/年月日|2034|4|18}} |大月||2月 |- |{{天保暦/年月日|2034|4|19}}〜{{天保暦/年月日|2034|5|17}} |小月||3月 |} == 天保暦(改暦以後の旧暦含む)の閏月一覧 == {|class="wikitable" !世紀!!閏月 |- !19世紀(グレゴリオ暦改暦前) |弘化3年(1846)閏5月、嘉永2年(1849)閏4月、嘉永5年(1852)閏2月、嘉永7年(1854)閏7月、安政4年(1857)閏5月、万延元年(1860)閏3月、文久2年(1862)閏8月、慶応元年(1865)閏5月、慶応4年(1868)閏4月、明治3年(1870)閏10月 |- !19世紀(グレゴリオ暦改暦後) |1873年閏6月、1876年閏5月、1879年閏3月、1881年閏7月、1884年閏5月、1887年閏4月、1889年閏12月、1892年閏6月、1895年閏5月、1898年閏3月、1900年閏8月 |- !20世紀 |1903年閏5月、1906年閏4月、1909年閏2月、1911年閏6月、1914年閏5月、1917年閏2月、1919年閏7月、1922年閏5月、1925年閏4月、1928年閏2月、1930年閏6月、1933年閏5月、1936年閏3月、1938年閏7月、1941年閏6月、1944年閏4月、1947年閏2月、1949年閏7月、1952年閏5月、1955年閏3月、1957年閏8月、1960年閏6月、1963年閏4月、1966年閏3月、1968年閏7月、1971年閏5月、1974年閏4月、1976年閏8月、1979年閏6月、1982年閏4月、1984年閏10月、1987年閏6月、1990年閏5月、1993年閏3月、1995年閏8月、1998年閏5月 |- !21世紀 |2001年閏4月、2004年閏2月、2006年閏7月、2009年閏5月、2012年閏3月、2014年閏9月、2017年閏5月、2020年閏4月、2023年閏2月、2025年閏6月、2028年閏5月、2031年閏3月、2033年閏11月※、2036年閏6月、2039年閏5月、2042年閏2月、2044年閏7月、2047年閏5月、2050年閏3月、2052年閏8月、2055年閏6月、2058年閏4月、2061年閏3月、2063年閏7月、2066年閏5月、2069年閏4月、2071年閏8月、2074年閏6月、2077年閏4月、2080年閏3月、2082年閏7月、2085年閏5月、2088年閏4月、2090年閏8月、2093年閏6月、2096年閏4月、2099年閏3月 |- !22世紀 |2101年閏7月、2104年閏5月、2107年閏4月、2109年閏9月、2112年閏6月、2115年閏4月、2118年閏3月、2120年閏7月、2123年閏5月、2126年閏4月、2128年閏9月、2131年閏6月、2134年閏5月、2137年閏2月、2139年閏7月、2142年閏5月、2145年閏4月、2147年閏11月※、2150年閏6月、2153年閏5月、2156年閏3月、2158年閏7月、2161年閏6月、2164年閏4月、2166年閏10月、2169年閏6月、2172年閏4月、2175年閏3月、2177年閏7月、2180年閏6月、2183年閏4月、2186年閏2月、2188年閏7月、2191年閏5月、2194年閏3月、2196年閏7月、2199年閏6月 |- !23世紀 |2202年閏4月、2204年閏9月、2207年閏6月、2210年閏4月、2213年閏3月、2215年閏7月、2218年閏5月、2221年閏4月、2223年閏9月※、2226年閏7月、2229年閏5月、2232年閏3月、2234年閏8月、2237年閏5月、2240年閏4月、2242年閏11月※、2245年閏6月、2248年閏5月、2251年閏3月、2253年閏8月、2256年閏6月、2259年閏4月、2262年閏正月、2264年閏6月、2267年閏5月、2270年閏3月、2272年閏8月、2275年閏6月、2278年閏4月、2281年閏2月、2283年閏6月、2286年閏5月、2289年閏3月、2291年閏7月、2294年閏6月、2297年閏4月、2300年閏2月 |} ※印は天保暦の性質上不都合が起こるとされる年、日本カレンダー暦文化振興協会の推奨案による閏月を表示。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Reflist|group="注"}} ===出典=== {{Reflist}} ==関連項目== * [[時憲暦]] - 中国における最後の太陰太陽暦による暦法。 * [[旧暦360日]] {{歴代和暦|天保15年1月1日-明治5年12月2日<1844年2月18日-1872年12月31日>}} {{DEFAULTSORT:てんほうれき}} [[Category:和暦]] [[Category:江戸時代の天文学]]
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尺貫法
尺貫法(しゃっかんほう)は、長さ・面積などの単位系の一つで、東アジアで広く使用されている。尺貫法という名称は、長さの単位に「尺」、質量の単位に「貫」を基本の計量単位とすることによる。ただし、「貫」は日本独自の単位であり、したがって尺貫法という名称は日本独自のものである。尺貫法と言った場合、狭義には日本固有の単位系のみを指す。尺貫法に対し、中国固有の単位系は貫ではなく斤であるので尺斤法という。本項では、広義の尺貫法として、中国を発祥として東アジア一円で使われている、あるいは使われていた単位系について説明する。 日本では、計量法により、1958年12月31日限り(土地と建物の計量については1966年3月31日限り)で取引や証明に尺貫法を用いることは禁止された。違反者は50万円以下の罰金に処せられる(計量法第8条、第173条第1号)。なお、尺や寸に相当する目盛りが付されている物差し(「尺相当目盛り付き長さ計」)は、正式に認められているものであり、「黙認」されているということではない(後述)。 尺貫法は中国が起源であるが、政情によりしばしば改定があった。 当初は西洋のヤード・ポンド法などと同様、身体の一部の長さや、穀物の質量などが単位として使われていたが、次第に明確な定義が定められるようになった。その最たるものが前漢末、劉歆の三統暦にある黄鍾秬黍説であり、長さは秬黍(きょしょ。クロキビ)の1粒の幅を1分(0.1寸)、黄鍾と呼ばれる音律を出す笛の管の長さを90分(9寸)とし、さらに黄鍾の管の容積(810立方分)を1龠(0.5合)、黄鍾の管に入る秬黍1200粒の質量を12銖(0.5両)とした。この黄鍾秬黍説が後の度量衡制の基準となった。 歴代の王朝が法令によって度量衡を定めたが、特に長さや容積の単位は時代とともに長くなった。 日本では唐尺よりも前には高麗尺が使用されており、例えば法隆寺は高麗尺による建造物と唐尺による建造物が混在している。唐尺は中国のほか、中国の影響を受けた東アジア一円(朝鮮など)で、その文化とともに取り入れられた。その後各地で独自の進化を遂げているが、値は中国の唐に、1寸が3 cm程度でほぼ一定し、それからそれほど変化しておらず、元の値をほぼ保存している。 現在は、尺貫法を使用していた国はすべて国際単位系に移行しており、尺貫法を公式の単位としている国は存在しない。例外的に、真珠の取引単位は直径はセンチメートル、ネックレス等の長さはインチとされ、質量はグラム表記したことで混乱を招いた歴史があることから、世界的に「もんめ(momme)」(単位記号は mom )が国際的に使われている。 尺貫法がメートル法と全く異なる要素は、全てが一律の十進法ではないという点である。十倍を繰り返さない十の単位が用いられたり、六十進法の単位が用いられたり、六で割り切れて十で割り切れない単位が用いられたりするのが特徴である。 以下の換算数値は、旧計量法施行法(昭和26年法律第208号)第4条、第5条に基づいている。 長さの単位(度量衡の「度」)は、尺を基本の単位とする。他の単位は尺と独立に発生したと考えられるが、後に尺と関連づけられ、その整数倍または整数分の一となった。 尺は時代や地域によってその長さが異なる。また、同じ時代でも目的などによって複数の尺が使い分けられてきた。今日の日本では曲尺(かねじゃく。単に「尺」と言えばこちらを指す)とその1.25倍の長さの鯨尺(くじらしゃく)(法令上は、「鯨尺尺」)が残っている。詳細は尺を参照のこと。 高さについては尺のみを用いる。例えば「日本アルプスは約一万尺」のようにいう。深さについては尋(= 6尺)が用いられる。 間については、1間が6尺と明確に定められたのは明治の度量衡法においてである。それまでは、間は建築の際のモジュールを規定するだけで、「およそ6尺」という以外は特に定めはなく、「間」を用いる際はそれが何尺何寸であるかを示す必要があった。 尺の系統とは別に、通貨(一文銭)の直径を基準とする「文」(もん)という単位があった。一文銭の直径は時代により若干の誤差があるが、おおよそ24 mm(8分)であった。文は足や靴の単位として用いられた。十文(ともん)は約24 cmである。 面積の単位には、メートル法と同じく長さの単位を組み立てて「方寸(平方寸)」「方尺(平方尺)」「方丈(平方丈)」のように言う。 ただし、土地の面積(地積)については特別の単位が用いられる(古くは町段畝歩)。地積の基本の単位は坪または歩である。坪または歩は一辺が6尺の正方形の面積で、すなわち36平方尺となる。 田畑や山林の地積には町・反・畝・歩を用い、宅地や家屋の地積には坪・合・勺を用いる。なお、合・勺は、体積の単位を流用したものである。 町・反・畝については、その値が1ヘクタール(ha)、10アール(a)、1アールに非常に近い(実用上は等しいと言っても良い)ため、西洋の諸国では困難を極めた地積単位のメートル法への移行は、日本ではスムーズに行われた。ただし、町反、坪などはメートル法の単位できりの良い値にならないため、現在でも口頭では用いられることがある。合・勺は用いられず、坪に小数の値をつけて表される。歩も用いられることはない。農地・山林の地積やその周辺の地域については、公式にはアールや平方メートルであるが、現業では町、反、坪が多く用いられている。 田畑や山林について、面積の値が町・反で終わるときに、その後に「歩」をつけてちょうどの値であることを明示する場合がある。耕地整理の進んだ現在の農林業では「2町」の面積を「2町歩」とも言う。また水田の場合は「2町田、3反田」(2町だ、3反だ、1枚が6000坪、900坪の田んぼ) のように「田」 (読み方はダまたはデン) を付ける。また通常1町5反歩などとは言うが、反未満については「歩」を付けず普通に3反5畝のように言う。町よりも大きな面積については、一辺1里の正方形の面積を示す「方里」( = 1555.2町≒15.423 km)を用いる。 体積・容積の単位(度量衡の「量」)は、升を基本の単位とする。升の大きさは時代や地域によって大きく異なる(詳細は升を参照のこと)が、升と他の単位との関係はほとんど古代から変わっていない。日本で升が現在の大きさになったのは江戸時代のことである。 勺未満の単位に関しては、抄(才)・撮・圭・粟(いずれも単位ごとに10分の1となる)という単位が『塵劫記』などの書物に載っており、さらにその下には黍・秕といった単位が存在するが、これらは日本の旧計量法施行法では定義されていない。 土砂などについては、6尺立方に相当する立坪(単に坪とも)が用いられる。また、1立方尺を才とも言う。 才は、運送業において「才建て運賃」(体積を単位とする料金体系)という用語が残っている。ヤード・ポンド法の立方フィートが才に近いことから、国際航空貨物の体積建て運賃との整合の便宜のため慣習的に利用されている。 質量(度量衡の「衡」)は、現代では貫を基本の単位とする。これは明治24年(1891年)公布の度量衡法において、貫は国際キログラム原器の4分の15の質量(すなわち15/4 kg = 3.75 kg)と定められ、旧計量法施行法(昭和26年法律第208号)においても踏襲された。 江戸時代以前は「両」を基本の単位としていた。両替商で用いられた分銅は両が基本単位であり、匁は補助的な単位となっている。この分銅は江戸時代を通じて後藤四郎兵衛家のみ製作が許され、それ以外のものの製作および使用は禁止された。しかしながら、丁銀および豆板銀の通貨単位は量目(質量)の実測値であり、小判の通貨としての単位である「両」と区別する意味で「匁」が用いられることになり、一般的に質量の単位としては匁が広く普及した。 匁は、元々中国で用いられた名称は「銭」であり、銭貨(日本では一文銭)一枚の質量を単位としたものであった。一文銭1000枚分の質量として定められたのが貫である。貫は通貨の単位(1000文。江戸時代には一般的に省陌法と称して960文。明治時代には10銭)としても用いられたので、区別のために質量の方は貫目、通貨の方は貫文と呼んだ。 キログラムへの換算は計量法施行法(昭和26年法律第208号)に基づく貫の換算係数に基づくもので、江戸時代の貫はこれよりやや小さい。 なお、「両」は、計量法施行法(昭和26年法律第208号)においては定義されていない 斤基準の質量の分量単位として、体積の単位を流用した合(斤の⁄10、60 g)、勺(合の⁄10、6 g)が用いられることもあった。 度量衡法における元々の質量の単位の基準は、黍の質量であった。 『漢書律暦志』に「権者銖・両・斤・鈞・石也。所以称物平施知軽重也。本起於黄鍾之重。一龠容千二百黍重十二銖。両之為両。二十四銖為両。十六両為斤。三十金為鈞。四鈞為石」との記述があり、これは黍1200粒を12銖(後に「朱」と略記された)とし、これが2つで1両とするものである。「両」には「二つ」という意味がある。これから24銖が1両、16両が1斤、30斤が1鈞、4鈞が1石となる。 漢の度量衡では嘉量の質量が『漢書律暦志』に「重二鈞」と記載されており、これに基づくと1両は3.8銭(匁)程度であったが、隋代にこれの約3倍の大両と呼ばれる制度ができ、唐代になるとその質量が11 %ほど縮小している。中国の学者が算出した嘉量による単位と、呉承洛の『中国度量衡史』による隋代および唐代の単位をグラムに換算したものを以下に示す。 質量の単位の銭(匁)は、この系統とは独立して発生したものである。すなわち開元通寳は10枚で24銖すなわち1両をいう基準でつくられた。この一枚の質量は1/10両で、これを1銭(匁)とした。ただし鋳造貨幣というものは質量を均一に作成することは困難で、質量の1銭(匁)の基準が開元通寳というわけではない。 金貨・銀貨は鎌倉時代以前の発足時はその質量によって価値が定められ、当初は一両の質量の砂金が金一両であったが、次第に質量と額面が乖離するようになり、室町時代には既に京目金一両は4.5匁となり、安土桃山時代は京目金一両は4.4匁、田舎目金一両は4匁前後へと変化した。江戸時代初期の慶長小判は京目一両を基準として量目が定められたが、後の貨幣改鋳により含有率や質量の劣る小判が発行されるようになり、質量単位と通貨単位との乖離はさらに拡大した。 ちなみに、一番新しい五円硬貨の質量は3.75g(一匁)である。 漢数字としての小数を表す文字である「分」(ぶ)は、数値としては⁄10を表し、厘は⁄100を表し、毛は⁄1000を表す。例えば、長さの単位としては寸の⁄10が1分(ぶ)、質量の単位としては匁の⁄10が1分(ふん)となる。これらの分・厘・毛は、計量法施行法(昭和26年法律第208号)で定義されていた。 なお、日本では⁄10を表す歩合として「割」があった。そこで「割」の⁄10を「分」、割の⁄100を「厘」とする用法が普及した。例えば、0.325を3割2分5厘と表現する。この用法のために、分が1/100を、厘が1/1000を意味すると誤解されることがある。詳細は、分 (数)#百分の一を意味するとの誤解を参照のこと。 体積や面積、また斤基準の質量の分量単位については、上に示したような分・厘・毛などの系列の単位ではなく、合・勺といった単位を用い、合は基本単位の⁄10、勺は合の⁄10となっている。 合・勺は登山道の到達の目安を示す単位にも用いられる。原則として麓(0合目)から頂上(10合目)までを10合に分けるが、測量で距離や標高などを正確に等分するというよりは、長い年月をかけて登山者の感覚で習慣的に付けられたものであり、実際に歩いて登る際に要する時間がおおよその基準になっているため、険しい場所や坂の急な場所では1合の長さが短くなる。 日本では計量単位として使用されることはなくなったが、取引や証明に当たらない計量において尺貫法の単位が使われるケースや、国際単位系の単位を表記に利用しながらも、尺貫法の値を設計者の思考上の計算または内部的な計算に用いる例はみられる。これは計算に用いるような内部的使用は、外部との取引・証明に使われるわけでないので計量法には違反しないためである。日本の事例としては以下のものが挙げられるが、いずれも、計量単位として取引や証明に用いられることは皆無である。 以下の例において、尺や升の数値が計量上用いられているように思われる例であっても、それは計量単位としての使用ではなく、「型番」や「呼称」としての使用に過ぎない。型番や呼称は計量単位そのものではないので、計量法上も認められている。例として、「一升瓶」(正式名称は、「JS-52 1.8リットル丸正びん」)の呼称(由来は一升の体積を有する瓶)がある。 木造建築や和裁などの分野では、実態として尺や鯨尺が現在でも使われており、かつてヤミ業者の製造した粗悪品が出回り、大工職人が施工する際に混乱したり、書類送検、逮捕されるなど、日本のメートル法化の厳格運用によって、日本では社会問題が発生したことがあり、永六輔が「尺貫法復権運動」を巻き起こした。このため、計量単位の規制が、日本の伝統や文化の中で著しく不便を生じさせている場合は、その度合いを最小限に留めるよう、制度の柔軟な運用が行われている。 1977年(昭和52年)の計量行政審議会で議論が行われ、「尺相当目盛り付き長さ計」(尺相当の長さの目盛りが付いているが、値はメートルの物差し)は、メートル法による物差しとし、合法であるという判断がなされ、これに基づき販売が認められている。一部に、尺の使用が「黙認されている」と主張している向きがあるが、間違いである。 尺相当目盛り付き長さ計は、尺・寸の目盛り表記ではなく、1/33 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"なお、日本では⁄10を表す歩合として「割」があった。そこで「割」の⁄10を「分」、割の⁄100を「厘」とする用法が普及した。例えば、0.325を3割2分5厘と表現する。この用法のために、分が1/100を、厘が1/1000を意味すると誤解されることがある。詳細は、分 (数)#百分の一を意味するとの誤解を参照のこと。", "title": "単位" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "体積や面積、また斤基準の質量の分量単位については、上に示したような分・厘・毛などの系列の単位ではなく、合・勺といった単位を用い、合は基本単位の⁄10、勺は合の⁄10となっている。", "title": "単位" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "合・勺は登山道の到達の目安を示す単位にも用いられる。原則として麓(0合目)から頂上(10合目)までを10合に分けるが、測量で距離や標高などを正確に等分するというよりは、長い年月をかけて登山者の感覚で習慣的に付けられたものであり、実際に歩いて登る際に要する時間がおおよその基準になっているため、険しい場所や坂の急な場所では1合の長さが短くなる。", "title": "単位" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日本では計量単位として使用されることはなくなったが、取引や証明に当たらない計量において尺貫法の単位が使われるケースや、国際単位系の単位を表記に利用しながらも、尺貫法の値を設計者の思考上の計算または内部的な計算に用いる例はみられる。これは計算に用いるような内部的使用は、外部との取引・証明に使われるわけでないので計量法には違反しないためである。日本の事例としては以下のものが挙げられるが、いずれも、計量単位として取引や証明に用いられることは皆無である。", "title": "計量法に違反しない範囲の使用" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "以下の例において、尺や升の数値が計量上用いられているように思われる例であっても、それは計量単位としての使用ではなく、「型番」や「呼称」としての使用に過ぎない。型番や呼称は計量単位そのものではないので、計量法上も認められている。例として、「一升瓶」(正式名称は、「JS-52 1.8リットル丸正びん」)の呼称(由来は一升の体積を有する瓶)がある。", "title": "計量法に違反しない範囲の使用" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "木造建築や和裁などの分野では、実態として尺や鯨尺が現在でも使われており、かつてヤミ業者の製造した粗悪品が出回り、大工職人が施工する際に混乱したり、書類送検、逮捕されるなど、日本のメートル法化の厳格運用によって、日本では社会問題が発生したことがあり、永六輔が「尺貫法復権運動」を巻き起こした。このため、計量単位の規制が、日本の伝統や文化の中で著しく不便を生じさせている場合は、その度合いを最小限に留めるよう、制度の柔軟な運用が行われている。", "title": "尺相当目盛り付き長さ計" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1977年(昭和52年)の計量行政審議会で議論が行われ、「尺相当目盛り付き長さ計」(尺相当の長さの目盛りが付いているが、値はメートルの物差し)は、メートル法による物差しとし、合法であるという判断がなされ、これに基づき販売が認められている。一部に、尺の使用が「黙認されている」と主張している向きがあるが、間違いである。", "title": "尺相当目盛り付き長さ計" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "尺相当目盛り付き長さ計は、尺・寸の目盛り表記ではなく、1/33 mごとの目盛り(曲尺相当)又は1/26.4 mごとの目盛り(鯨尺相当)というように、表記上はメートル法を採用しているため、メートル法による物差しである。これは三角スケールの目盛りにおいて、1/150 mや1/250 m目盛りの物差しがメートル法によるものであることと同じである。", "title": "尺相当目盛り付き長さ計" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "「尺相当目盛り付き長さ計」の姿形は次の写真のようなものである。", "title": "尺相当目盛り付き長さ計" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "実際の運用は次の通りである。", "title": "尺相当目盛り付き長さ計" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "計量器に係る表示", "title": "尺相当目盛り付き長さ計" } ]
尺貫法(しゃっかんほう)は、長さ・面積などの単位系の一つで、東アジアで広く使用されている。尺貫法という名称は、長さの単位に「尺」、質量の単位に「貫」を基本の計量単位とすることによる。ただし、「貫」は日本独自の単位であり、したがって尺貫法という名称は日本独自のものである。尺貫法と言った場合、狭義には日本固有の単位系のみを指す。尺貫法に対し、中国固有の単位系は貫ではなく斤であるので尺斤法という。本項では、広義の尺貫法として、中国を発祥として東アジア一円で使われている、あるいは使われていた単位系について説明する。 日本では、計量法により、1958年12月31日限り(土地と建物の計量については1966年3月31日限り)で取引や証明に尺貫法を用いることは禁止された。違反者は50万円以下の罰金に処せられる(計量法第8条、第173条第1号)。なお、尺や寸に相当する目盛りが付されている物差し(「尺相当目盛り付き長さ計」)は、正式に認められているものであり、「黙認」されているということではない(後述)。
{{出典の明記|date=2021年12月}} '''尺貫法'''(しゃっかんほう)は、[[長さ]]・[[面積]]などの単位系の一つで、[[東アジア]]で広く使用されている。尺貫法という名称は、長さの単位に「[[尺]]」、[[質量]]の単位に「[[貫]]」を基本の[[計量単位]]とすることによる。ただし、「貫」は日本独自の単位であり、したがって尺貫法という名称は日本独自のものである。尺貫法と言った場合、狭義には日本固有の単位系のみを指す。尺貫法に対し、中国固有の単位系は貫ではなく斤であるので'''[[市制 (単位系)|尺斤法]]'''という。本項では、広義の尺貫法として、中国を発祥として東アジア一円で使われている、あるいは使われていた単位系について説明する。 日本では、[[計量法]]により、1958年12月31日限り(土地と建物の計量については1966年3月31日限り)で[[計量法#取引、証明とは|取引や証明]]に尺貫法を用いることは禁止された。違反者は50万円以下の罰金に処せられる([[計量法]]第8条、第173条第1号)。なお、[[尺]]や[[寸]]に相当する目盛りが付されている[[物差し]](「[[尺貫法#尺相当目盛り付き長さ計|尺相当目盛り付き長さ計]]」)は、正式に認められているものであり、「黙認」されているということではない(後述)。 ==概要== 尺貫法は[[中国]]が起源であるが、政情によりしばしば改定があった。 当初は西洋の[[ヤード・ポンド法]]などと同様、身体の一部の長さや、穀物の質量などが単位として使われていたが、次第に明確な定義が定められるようになった。その最たるものが[[前漢]]末、[[劉歆]]の[[三統暦]]にある黄鍾秬黍説であり、長さは秬黍(きょしょ。クロキビ)の1粒の幅を1分(0.1寸)、[[黄鍾]]と呼ばれる音律を出す笛の管の長さを90分(9寸)とし、さらに黄鍾の管の容積(810立方分)を1龠(0.5合)、黄鍾の管に入る秬黍1200粒の質量を12銖(0.5両)とした。この黄鍾秬黍説が後の度量衡制の基準となった。 歴代の王朝が法令によって度量衡を定めたが、特に長さや容積の単位は時代とともに長くなった<ref>[[日本計量史学会]]、[[尺貫法#渡辺英夫|渡辺英夫]]。</ref>。 日本では[[唐尺]]よりも前には[[高麗尺]]が使用されており、例えば[[法隆寺]]は高麗尺による建造物と唐尺による建造物が混在している。唐尺は中国のほか、中国の影響を受けた東アジア一円([[朝鮮]]など)で、その文化とともに取り入れられた。その後各地で独自の進化を遂げているが、値は中国の唐に、1寸が3 cm程度でほぼ一定し、それからそれほど変化しておらず、元の値をほぼ保存している。 現在は、尺貫法を使用していた国はすべて[[国際単位系]]に移行しており、尺貫法を公式の単位としている国は存在しない。例外的に、[[真珠]]の取引単位は直径はセンチメートル、[[ネックレス]]等の長さはインチとされ、質量はグラム表記したことで混乱を招いた歴史があることから、世界的に「[[匁|もんめ]](momme)」([[単位記号]]は mom )が国際的に使われている<ref>[https://www.meti.go.jp/policy/economy/hyojun/techno_infra/11_images/4.pdf 用途を限定する非SI単位(表4)] ただし「匁」の漢字表記はせず、平仮名で「もんめ」である。</ref>。 == 単位 == 尺貫法が[[メートル法]]と全く異なる要素は、全てが一律の[[十進法]]ではないという点である。十倍を繰り返さない[[10|十]]の単位が用いられたり、[[六十進法]]の単位が用いられたり、[[6|六]]で割り切れて[[10|十]]で割り切れない単位が用いられたりするのが特徴である。 以下の換算数値は、旧[[s:計量法施行法|計量法施行法]](昭和26年法律第208号)第4条、第5条に基づいている。 ===長さ(度)=== [[長さ]]の単位(度量衡の「度」)は、[[尺]]を基本の単位とする。他の単位は尺と独立に発生したと考えられるが、後に尺と関連づけられ、その整数倍または整数分の一となった。 {| style="text-align:right;" |1[[里 (尺貫法)|里]]|| = 36[[町 (単位)|町]] ||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| ≒ {{val|3927.2723927|ul=m}} |- |&nbsp;|| 1町 || = 60[[間]] || = 360[[尺]] ||&nbsp;||&nbsp;|| ≒ {{val|109.090109|u=m}} |- |&nbsp;||&nbsp;|| 1間 ([[歩 (尺貫法)|歩]])|| = 6尺 ||&nbsp;||&nbsp;|| ≒ {{val|1.818182|u=m}} |- |&nbsp;||&nbsp;|| 1[[丈]] || = 10尺 ||&nbsp;||&nbsp;|| ≒ {{val|3.030303|u=m}} |- |&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| 1尺 || = 10[[寸]] || = 10/33 m<ref>[[s:計量法施行法|計量法施行法]]([[1951年|昭和26年]]法律第208号)第4条第1号</ref>||≒ {{val|0.3030303}} m |} 尺は時代や地域によってその長さが異なる。また、同じ時代でも目的などによって複数の尺が使い分けられてきた。今日の日本では'''曲尺'''(かねじゃく。単に「尺」と言えばこちらを指す)とその1.25倍の長さの'''鯨尺'''(くじらしゃく)(法令上は、「鯨尺尺」<ref>[[s:計量法施行法|計量法施行法]](昭和26年法律第208号)第4条第1号 「長さの計量単位は、尺及び鯨尺尺とする。」 </ref>)が残っている。詳細は[[尺]]を参照のこと。 高さについては尺のみを用いる。例えば「日本アルプスは約一万尺」のようにいう。深さについては[[尋]](= 6尺)が用いられる。 間については、1間が6尺と明確に定められたのは明治の度量衡法においてである。それまでは、間は建築の際の[[モジュール]]を規定するだけで、「およそ6尺」という以外は特に定めはなく、「間」を用いる際はそれが何尺何寸であるかを示す必要があった。 尺の系統とは別に、通貨([[寛永通宝|一文銭]])の直径を基準とする「[[文 (長さ)|文]]」(もん)という単位があった。一文銭の直径は時代により若干の誤差があるが、おおよそ24 mm(8分)であった。文は足や靴の単位として用いられた。十文(ともん)は約24 cmである。 === 面積・地積 === 面積の単位には、メートル法と同じく長さの単位を組み立てて「方寸(平方寸)」「方尺(平方尺)」「[[方丈]](平方丈)」のように言う。 ただし、土地の面積(地積)については特別の単位が用いられる(古くは町段畝歩)。地積の基本の単位は坪または歩である。坪または歩は一辺が6尺の正方形の面積で、すなわち36平方尺となる。 {| style="text-align:right;" |1[[町 (単位)|町]]|| = 10[[反]]([[段]]) ||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| ≒ {{val|9917.355372|ul=m2}} |- |&nbsp;|| 1反(段) || = 10[[畝 (単位)|畝]] ||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| ≒ {{val|991.735537|u=m2}} |- |&nbsp;||&nbsp;|| 1畝 || = 30[[坪]]([[歩 (尺貫法)|歩]]) ||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| ≒ {{val|99.173553|u=m2}} |- |&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| 1坪(歩) || = 10[[合]] ||&nbsp;|| = 400/121平米<ref>[[s:計量法施行法|計量法施行法]](昭和26年法律第208号)第4条第3号</ref>|| ≒ {{val|3.305785|u=m2}} |- |&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| 1合 || = 10[[勺]] ||&nbsp;||≒ {{val|0.330578512|u=m2}} |} 田畑や山林の地積には町・反・畝・歩を用い、宅地や家屋の地積には坪・合・勺を用いる。なお、合・勺は、体積の単位を流用したものである。 町・反・畝については、その値が1[[ヘクタール]](ha)、10[[アール (単位)|アール]](a)、1アールに非常に近い(実用上は等しいと言っても良い)ため、西洋の諸国では困難を極めた地積単位の[[メートル法]]への移行は、日本ではスムーズに行われた。ただし、町反、坪などはメートル法の単位できりの良い値にならないため、現在でも口頭では用いられることがある。合・勺は用いられず、坪に小数の値をつけて表される。歩も用いられることはない。農地・山林の地積やその周辺の地域については、公式にはアールや平方メートルであるが、現業では町、反、坪が多く用いられている。 田畑や山林について、面積の値が町・反で終わるときに、その後に「歩」をつけてちょうどの値であることを明示する場合がある。耕地整理の進んだ現在の農林業では「2町」の面積を「2町歩」とも言う。また水田の場合は「2町田、3反田」(2町だ、3反だ、1枚が6000坪、900坪の田んぼ) のように「田」 (読み方はダまたはデン) を付ける。また通常1町5反歩などとは言うが、反未満については「歩」を付けず普通に3反5畝のように言う。町よりも大きな面積については、一辺1里の正方形の面積を示す「方里」( = 1555.2町≒{{val|15.423|ul=km2}})を用いる。 === 体積(量)=== 体積・容積の単位(度量衡の「量」)は、升を基本の単位とする。升の大きさは時代や地域によって大きく異なる(詳細は[[升]]を参照のこと)が、升と他の単位との関係はほとんど古代から変わっていない。日本で升が現在の大きさになったのは[[江戸時代]]のことである。 {| style="text-align:right;" |1[[石 (単位)|石]]|| = 10[[斗]] ||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| ≒ {{val|180.390684|ul=L}} |- |&nbsp;|| 1斗 || = 10[[升]] ||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| ≒ {{val|18.039068|u=L}} |- |&nbsp;||&nbsp;|| 1升 || = 10[[合]] ||&nbsp;|| = 2401/1331 L<ref>[[s:計量法施行法|計量法施行法]](昭和26年法律第208号)第4条第4号</ref>|| ≒ {{val|1.803906837|u=L}} |- |&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| 1合 || = 10[[勺]] ||&nbsp;|| ≒ {{val|0.180390684|u=L}} |} 勺未満の単位に関しては、[[抄]]([[才]])・[[撮]]・[[圭 (単位)|圭]]・[[粟 (単位)|粟]](いずれも単位ごとに10分の1となる)という単位が『[[塵劫記]]』などの書物に載っており、さらにその下には[[黍 (単位)|黍]]・[[秕]]といった単位が存在するが、これらは日本の旧計量法施行法では定義されていない。 土砂などについては、6尺立方に相当する立坪(単に[[坪]]とも)が用いられる。また、1立方尺を[[才]]とも言う。 才は、運送業において「[[才建て]][[運賃]]」(体積を単位とする料金体系)という用語が残っている。[[ヤード・ポンド法]]の立方フィートが才に近いことから、国際航空貨物の体積建て運賃との整合の便宜のため慣習的に利用されている。 ===質量(衡)=== 質量(度量衡の「衡」)は、現代では貫を基本の単位とする。これは[[明治]]24年([[1891年]])公布の度量衡法において、貫は国際キログラム原器の4分の15の質量(すなわち15/4 kg = 3.75 kg)と定められ、旧[[s:計量法施行法|計量法施行法]](昭和26年法律第208号)においても踏襲された。 [[画像:Gotou-fundou-10.jpg|thumb|right|400px|江戸時代に両替商が用いた後藤分銅<br>參拾両(1124.66 g)、貳拾両(749.07 g)、拾両(374.02 g)、拾両(374.62 g)<br>三匁(11.19 g)、壹両(37.47 g)、壹両(37.45 g)、貳両(74.89 g)、參両(112.42 g)、肆両(149.77 g)]] 江戸時代以前は「[[両]]」を基本の単位としていた。[[両替商]]で用いられた[[分銅]]は両が基本単位であり、匁は補助的な単位となっている。この分銅は江戸時代を通じて[[後藤四郎兵衛]]家のみ製作が許され、それ以外のものの製作および使用は禁止された。しかしながら、[[丁銀]]および[[豆板銀]]の通貨単位は量目(質量)の実測値であり、[[小判]]の通貨としての単位である「両」と区別する意味で「匁」が用いられることになり、一般的に質量の単位としては匁が広く普及した。 匁は、元々中国で用いられた名称は「銭」であり、銭貨(日本では一文銭)一枚の質量を単位としたものであった。一文銭1000枚分の質量として定められたのが貫である。貫は通貨の単位(1000文。江戸時代には一般的に[[省陌]]法と称して960文。明治時代には10銭)としても用いられたので、区別のために質量の方は貫目、通貨の方は貫文と呼んだ。 {| style="text-align:right;" |1[[貫]]|| = 6.25[[斤]] || = 100[[両]] || = 1000[[匁]] || = 3.75 [[キログラム|kg]] |- |&nbsp;||1斤|| = 16両 || = 160匁 || = 600 [[グラム|g]] |- |&nbsp;||&nbsp;||1両|| = 10匁 || = 37.5 g |- |&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| 1匁 || = 3.75 g |} キログラムへの換算は計量法施行法(昭和26年法律第208号)<ref>[[s:計量法施行法|計量法施行法]](昭和26年法律第208号)第4条第2号</ref>に基づく[[貫]]の換算係数に基づくもので、江戸時代の貫はこれよりやや小さい。 なお、「両」は、計量法施行法(昭和26年法律第208号)においては定義されていない<ref>[[s:計量法施行法|計量法施行法]](昭和26年法律第208号)第5条第1号、第3号 </ref> 斤基準の質量の分量単位として、体積の単位を流用した合(斤の{{frac|1|10}}、60 g)、勺(合の{{frac|1|10}}、6 g)が用いられることもあった。 度量衡法における元々の質量の単位の基準は、黍の質量であった。 『漢書律暦志』に「権者銖・両・斤・鈞・石也。所以称物平施知軽重也。本起於黄鍾之重。一龠容千二百黍重十二銖。両之為両。二十四銖為両。十六両為斤。三十金為鈞。四鈞為石」との記述があり、これは黍1200粒を12銖(後に「[[朱]]」と略記された)とし、これが2つで1両とするものである。「両」には「二つ」という意味がある。これから24銖が1[[両]]、16両が1[[斤]]、30斤が1鈞、4鈞が1石となる。 [[漢]]の度量衡では[[嘉量]]の質量が『漢書律暦志』に「重二鈞」と記載されており、これに基づくと1両は3.8銭(匁)程度であったが、[[隋]]代にこれの約3倍の大両と呼ばれる制度ができ、[[唐]]代になるとその質量が11 %ほど縮小している。中国の学者が算出した嘉量による単位と、[[呉承洛]]の『[[中国度量衡史]]』による隋代および唐代の単位をグラムに換算したものを以下に示す。 {| class="wikitable" style="text-align: left; white-space:nowrap; font-size:small;" |- ! style="text-align:center; white-space:nowrap;" |単位([[グラム|g]]) !! style="text-align:center; white-space:nowrap;" |一石 !! style="text-align:center; white-space:nowrap;" |一鈞 !! style="text-align:center; white-space:nowrap;" |一斤 !! style="text-align:center; white-space:nowrap;" |一両 !! style="text-align:center; white-space:nowrap;" |一銖 |- ! style="text-align:center; white-space:nowrap;" |嘉量 |{{val|27200}}||6800.1||226.67||14.167||{{val|0.59029}} |- ! style="text-align:center; white-space:nowrap;" |隋代 |{{val|80183}}||{{val|20046}}||668.19||41.762||1.7401 |- ! style="text-align:center; white-space:nowrap;" |唐代 |{{val|71618}}||{{val|17905}}||596.82||37.301||1.5542 |} 質量の単位の銭(匁)は、この系統とは独立して発生したものである。すなわち[[開元通宝|開元通寳]]は10枚で24銖すなわち1両をいう基準でつくられた。この一枚の質量は1/10両で、これを1銭(匁)とした。ただし[[鋳造]][[貨幣]]というものは質量を均一に作成することは困難で、質量の1銭(匁)の基準が開元通寳というわけではない。 金貨・[[丁銀|銀貨]]は[[鎌倉時代]]以前の発足時はその質量によって価値が定められ、当初は一両の質量の[[砂金]]が金一両であったが、次第に質量と額面が乖離するようになり、[[室町時代]]には既に京目金一両は4.5匁となり、[[安土桃山時代]]は京目金一両は4.4匁、田舎目金一両は4匁前後へと変化した。江戸時代初期の[[慶長小判]]は京目一両を基準として量目が定められたが、後の[[貨幣改鋳]]により含有率や質量の劣る[[小判]]が発行されるようになり、質量単位と通貨単位との乖離はさらに拡大した。 ちなみに、一番新しい五円硬貨の質量は3.75g(一匁)である。 === 分量単位 === [[漢数字]]としての[[小数]]を表す文字である「[[分 (数)|分]]」(ぶ)は、数値としては{{frac|1|10}}を表し、厘は{{frac|1|100}}を表し、毛は{{frac|1|1000}}を表す。例えば、長さの単位としては[[寸]]の{{frac|1|10}}が1分(ぶ)、質量の単位としては[[匁]]の{{frac|1|10}}が1分(ふん)となる。これらの分・厘・毛は、計量法施行法(昭和26年法律第208号)で定義されていた<ref>[[s:計量法施行法|計量法施行法]](昭和26年法律第208号)第5条第1号、第3号</ref>。 *分 -- 0.1寸、0.1匁 *[[厘]] -- 0.01寸、0.01匁 *[[毛 (数)|毛]](毫) -- 0.001寸、0.001匁 {|class="wikitable" |- !単位 !長さ !質量 |- | (基本単位)||寸≒ {{val|30.30303|u=mm}}||匁= 3.75 g |- | 分||≒ {{val|3.030303|u=mm}}||375 [[ミリグラム|mg]] |- | 厘||≒ {{val|303.0303|u=um}}||37.5 mg |- | 毛||≒ {{val|30.30303|u=um}}||3.75 mg |- |} なお、日本では{{frac|1|10}}を表す歩合として「[[割]]」があった。そこで「割」の{{frac|1|10}}を「[[分 (数)|分]]」、割の{{frac|1|100}}を「厘」とする用法が普及した。例えば、0.325を3割2分5厘と表現する。この用法のために、[[分 (数)|分]]が1/100を、[[厘]]が1/1000を意味すると誤解されることがある。詳細は、[[分 (数)#百分の一を意味するとの誤解]]を参照のこと。<!-- 分や厘などは、日常生活ではあまり見かけなくなった表現だが、[[野球]]における[[打率]]で用いられており、[[首位打者]]争いの際などに毛、場合によっては糸まで耳にすることがある。 --> [[体積]]や[[面積]]、また斤基準の質量の分量単位については、上に示したような分・厘・毛などの系列の単位ではなく、合・勺といった単位を用い、合は基本単位の{{frac|1|10}}、勺は合の{{frac|1|10}}となっている。 合・勺は登山道の到達の目安を示す単位にも用いられる。原則として麓(0合目)から頂上(10合目)までを10合に分けるが、測量で距離や標高などを正確に等分するというよりは、長い年月をかけて登山者の感覚で習慣的に付けられたものであり、実際に歩いて登る際に要する時間がおおよその基準になっているため、険しい場所や坂の急な場所では1合の長さが短くなる。 {|class="wikitable" |- !単位 !体積 !面積 !質量(斤基準) !登山道 |- | (基本単位)||升≒{{val|1.80390684|u=L}}||坪/歩≒{{val|3.305785|u=m2}}||斤=600 g||(10合:麓から頂上までの全行程) |- | 合||≒{{val|180.390684|u=mL}}||≒{{val|0.3305785|u=m2}}||60 g||麓から頂上までの10分の1 |- | 勺||≒{{val|18.0390684|u=mL}}||≒{{val|0.03305785|u=m2}}||6 g||麓から頂上までの100分の1 |- |} == 計量法に違反しない範囲の使用 == 日本では[[計量単位]]として使用されることはなくなったが、'''[[計量法#取引、証明とは|取引や証明]]'''に当たらない計量において尺貫法の単位が使われるケースや、国際単位系の単位を表記に利用しながらも、尺貫法の値を設計者の思考上の計算または内部的な計算に用いる例はみられる。これは計算に用いるような内部的使用は、外部との'''取引・証明'''に使われるわけでないので計量法には違反しないためである。日本の事例としては以下のものが挙げられるが、いずれも、計量単位として'''取引や証明'''に用いられることは皆無である。 以下の例において、尺や升の数値が計量上用いられているように思われる例であっても、それは計量単位としての使用ではなく、「型番」や「呼称」としての使用に過ぎない。型番や呼称は計量単位そのものではないので、計量法上も認められている。例として、「[[一升瓶]]」(正式名称は、「JS-52 1.8リットル丸正びん」)の呼称(由来は一[[升]]の体積を有する瓶)がある。 * 建築関連では[[日本家屋]]が尺貫法で設計されていたため、設計図面上の寸法は[[国際単位系]]の長さの単位を用いて表記されるが、口頭では広さを[[坪]]で表すことがある。 ** 建築や不動産関係者間では土地の面積や床面積として、36平方尺を表す「[[坪]]」を'''念頭において'''業務を行うことがある。不動産取引自体(これが計量法上の'''取引・証明'''である([[計量法#取引、証明とは]])。)に「坪」を使うことはありえず、例えば住宅の建設費で、坪当たりの単価を示す場合には「坪あたり○万円」が使われることは絶えて無く、「3.3平方メートルあたり○万円」と表記されるに過ぎない。坪(約{{val|3.305785|u=m2}})と3.3 m<sup>2</sup>とでは、約0.18 %の差があるので、「坪当たり」ではなく、あくまで、3.3000 m<sup>2</sup>当たりの表記である。ただし、取引当事者の思考上は「坪」の概念があることは確かである。 ** [[ベニヤ板]]や石膏ボードなどの[[板材]]の大きさを表すのに「1.5×3(いごさん)」「3×6(さぶろく)」「4×8(しはち、よんぱち)」などといった呼称が用いられることがある{{要出典|date=2014年4月}}。これらの由来は長さを尺(曲尺)で表したもので、前者は3尺×6尺(909mm × 1818mm)、後者は4尺×8尺(1212 mm × 2424mm)の大きさの板材を指すことが多いが、いわゆるコンパネと呼ばれるコンポジットパネルでは同一の呼称を用いてもJIS規格の 910mm × 1820mm と 同900mm × 1800mm の製品がほとんどを占める。また、建設工事や建築現場で使用される鋼鈑(鉄板、一般構造用圧延鋼材)は、その寸法を表すのに「5×10(ごっとー)」などといった型番の呼称が用いられる。これらもその鉄板の寸法が5尺×10尺(1515.15mm × 3030.30mm)ではなく、JIS規格による5フィート×10フィート(1524mm×3048mm)であり、注意が必要である。 ** [[軽トラック]]の荷台は3尺×6尺に余裕(メーカーにより差がある)を持たせたサイズとなっているが、この寸法は主な客層の一つである畳や襖を扱う小規模工務店の使い勝手を考慮しているためである。また市販の荷台用品は逆に荷台に合わせたサイズで製造するため、荷台マットやパネルは一枚が3尺×6尺、収納用品も幅が1尺(収穫用の籠)か3尺(蓋付きコンテナ)に合わせている。このため、多数の籠と細かい道具を使う農家や漁師にとっても結果として利便性が高くなっている。 ** 日本の映像業界(テレビ・映画・[[特撮]]等)では、セットを建てる際などに尺貫法を使用している{{要出典|date=2023年9月}}。 * 食品関連では業界団体の規格が以前から使われていた[[合]]・[[升]]・[[斗]]で切りの良い数値をそのまま国際単位系に換算したため、中途半端な数字となっていることがある。 ** 「[[一升瓶]]」は1800 mL ± 15 mL の液体を入れる瓶、「[[一斗缶]]」([[日本工業規格]]Z1602-2003では「金属板製18リットル缶」と呼称)は19.25±0.45 リットル<ref>[http://kikakurui.com/z1/Z1602-2003-01.html Z1602-2003 「金属板製18リットル缶」]5. 表1</ref>の液体を入れる缶の名称として用いられる。 **祝宴の[[鏡開き|鏡抜き]]で使われる[[日本酒]]の樽は斗が基準であるため、酒造会社は「18リットル(一斗)」「36リットル(二斗)」「72リットル(四斗)」の樽として販売されている。 ** [[ワイン]]の瓶(フルボトル)は世界標準が0.75 Lに対し、[[日本のワイン]]は[[日本酒]]の4合瓶を基準にした0.72 Lのボトルを使用している。同じく[[ジャパニーズ・ウイスキー]]では0.72 Lのボトルを使用する例が多い。 ** 包装[[食パン]]の重量の単位として「斤」が用いられる。舶来品の1[[ポンド (質量)|ポンド]](453.6 g)から由来して、450 gを1斤(英斤と呼ぶ)として売買していた名残である。時代とともに1斤の重さが少なくなっていき、現在は[[公正競争規約]]により1斤は340 g以上と定められており、「斤」を商品に表示する場合は保証内容重量の表示に1斤が340 g以上である旨を併記することが義務付けられている<ref>[http://www.pan-koutorikyo.jp/display.html 日本パン公正取引協議会:包装食パンの斤表示の義務化]</ref>。 ** [[炊飯器]]の炊飯容量は合を基準に設計されているため、取扱説明書などに表記された容量は「0.63 L(3.5合に当たる)」という半端な数字になっている。また家庭用の小型[[精米機]]も容量は[[リットル]]単位で表記され、目安として合による数値が括弧内に併記されている。 * [[剣道]]では用具の規格等の呼称として随所に尺貫法時代の名残が見られる。例えば、[[竹刀]]の長さは慣用的に(曲尺の)寸単位で表され、「三八(さぶはち=約115 cm)」「三九(さぶく=約118 cm)」等と呼ばれる(ただし、現行の「剣道試合・審判細則」上における竹刀の長さの規定はcm単位である)。また手刺[[防具 (剣道)|防具]]においても、布団の刺し目の間隔を曲尺基準で「1分5厘(=約4.5 mm)刺」「1分(=約3 mm)刺」などと表す。[[袴]]の号数の呼び方は鯨尺の寸単位で表した裾丈の長さが基になっており、「25号」の剣道袴であれば裾丈がおよそ94.7 cmとなる。 == 尺相当目盛り付き長さ計 == [[木造建築]]や[[和裁]]などの分野では、実態として[[尺]]や[[鯨尺]]が現在でも使われており、かつてヤミ業者の製造した粗悪品が出回り、大工職人が施工する際に混乱したり、[[書類送検]]、[[逮捕]]されるなど、[[日本のメートル法化]]の厳格運用によって、日本では社会問題が発生したことがあり、[[永六輔]]が「尺貫法復権運動」を巻き起こした。このため、計量単位の規制が、日本の伝統や文化の中で著しく不便を生じさせている場合は、その度合いを最小限に留めるよう、制度の柔軟な運用が行われている。 [[1977年]]([[昭和]]52年)の計量行政審議会で議論が行われ、「尺相当目盛り付き長さ計」(尺相当の長さの目盛りが付いているが、値はメートルの[[物差し]])は、[[メートル法]]による物差しとし、合法であるという判断がなされ<ref>[http://www.keikoren.or.jp/measure/20051024kaigi.pdf 計量単位について] 計量制度検討小委員会 議事次第、資料1、Ⅱ.非メートル法の規制の在り方、p.7(3)尺相当目盛り付き長さ計(要旨) 2005年10月24日 </ref>、これに基づき販売が認められている<ref>[https://www.meti.go.jp/policy/economy/hyojun/techno_infra/11_gaiyou_tani5.html 計量器に関する規制の例外] 尺相当の目盛等を付した計量器、経済産業省 「尺貫法による計量単位は、取引又は証明に使用することを禁じられている。また、尺貫法の計量器の販売についても同様に禁止されている。ただし、尺相当の目盛にメートル法単位による数値を付した、いわゆる尺相当目盛付き長さ計については、販売を認めている。」</ref>。一部に、尺の使用が「黙認されている」と主張している向きがあるが<ref>[https://kisohinoki.jp/ana/ana/shaku 尺の話] 信州 木曽檜建具 田沢木工、「実は厳密にいうと尺貫法の使用はメートル法での単位の統一を図りたい政府にとっては都合が悪いため違法なのですが、事実上黙認されているというのが実情です。」、2018年2月27日</ref>、間違いである。 尺相当目盛り付き長さ計は、尺・寸の目盛り表記ではなく、1/33 mごとの目盛り(曲尺相当)又は1/26.4 mごとの目盛り(鯨尺相当)というように、表記上はメートル法を採用しているため、メートル法による物差しである。これは[[三角スケール]]の目盛りにおいて、1/150 mや1/250 m目盛りの物差しがメートル法によるものであることと同じである<ref>[https://reatips.info/triangular-scale/ 三角スケールの縮尺の使い方。使用方法別の選び方] 不動産実務TIPS、2018-10-21</ref>。 「尺相当目盛り付き長さ計」の姿形は次の写真のようなものである<ref> [https://www.shinwasokutei.co.jp/products/80883/ 80883 / コンベックス スマートギア 25-5.5m 尺相当目盛付] シンワ測定株式会社、5/33 の目盛りが印字されている。</ref><ref>[https://item.rakuten.co.jp/niigataseiki/507117/ 併用シルバースケール快段目盛] 楽天市場、1/33 m・5/33 m・10/33 m・20/33 mなどの目盛りが印字されている。 </ref><ref>[https://item.rakuten.co.jp/osaihou/10764/?scid=af_pc_etc&sc2id=af_109_1_10000237 竹尺 鯨尺2尺/75 cm] さいほう屋、20/26.4 mと刻印されている。</ref>。 実際の運用は次の通りである<ref>https://www.keiryou-keisoku.co.jp/yomikata/ver.4-101022/yomikata101022-file3.pdf 計量法の読み方] 高原隆、第3章、計量単位、pp.33-34 <旧通達 5 機局 713 号抜粋></ref>。 * 「尺相当目盛付長さ計等」については、都道府県知事を経由し大臣へ申請することとなっている。 : 法8条1項及び9条1項を円滑に実施するため、尺相当目盛付長さ計については、計量行政室の承認を受けるものとし、次に定めるところにより行うものとする。 * 対象となる計量器 # 尺相当目盛付長さ計: さしがね、コンベックスケール(巻尺)、文化財修復及び畳職人用等の竹製ものさし、文化財修復及び畳職人用等の金属製ものさし # 鯨尺尺相当目盛付の長さ計:和裁用の竹製ものさし * 計量器に係る表示 計量器に係る表示 # メートル単位表示 #:製造又は輸入が認められる計量器は、通常人がメートル単位表示の長さ計であると認識できるものでなければならない。 #:すなわち、一寸相当の箇所に「1/33 m」、一鯨尺相当の箇所に「1/26.4 m」というように積極的にメートル単位表示「m」がなされたものでなければならない。また、尺相当目盛の場合には、「5/33 m、10/33 m、15/33 m・・・」というように 5/33 m間隔(鯨尺尺相当目盛の場合には 5/26.4 m 間隔)ごとに○/33 m(○/26.4 m)」という文字が明記されていることが必要である。 # メーカー記号等 #:イ 製造又は輸入を認める計量器には、製造者の記号又は輸入者の記号(製造者又は輸入者の氏名、名称、商号又は商標)を付すことし、特にコンベックスケール及び竹製ものさしについては、「取引・証明以外用」の文字を付すこととする。これらの表示は、機器の表面又は裏側の見やすい箇所に容易に消滅しない方法により付さなければならない。 #:ロ 更に、コンベックスケールについては、在来商品との相違を明確にするため、外箱及びケースに「1/33 m 目盛付」の文字を容易に消滅しない方法により付さなければならない。 * 製造手続き等 # 本措置の対象となっている計量器を製造又は輸入しようとする者(以下「製造事業者等」という。)は、その製造又は輸入の 2 週間前までに都道府県知事(計量検定所をいう。以下同じ。)を経由して通商産業省機械情報産業局計量行政室長あて様式 1 又は様式 2 による届出書を正 1 通及び副 2 通を提出しなければならない。 # 計量行政室長は、届出の内容が適正である場合には、速やかに当該製造事業者等に届出番号を都道府県知事を経由して通知するものとする。 # 製造事業者等は、届出をした計量器の生産実績を毎年5月31日までに前の年度(毎年4 月1日からその翌年の3月31日までをいう。以下同じ。)のものについて都道府県知事を経由して計量行政室長あて様式 3 により報告しなければならない。 # 製造事業者等は、その届け出た製造又は輸入の事業を休止又は廃止するときは、遅滞なくその旨を都道府県知事を経由して計量行政室長に届け出なければならない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{notelist}}--> === 出典 === {{reflist}} ==参考文献== * {{anchors|渡辺英夫}}[[渡辺英夫 (史学者)|渡辺英夫]]([[日立コミュニケーションテクノロジー]])「[https://web.archive.org/web/20160327204841/http://www.keiryo-kanagawa.or.jp/database/kouenkai/040319kashima.pdf 計量単位(中国度量衡)の変遷]」、「計量の歴史を紐解く、記念講演会 盛況に開催([[神奈川県]]計量協会)」。 *{{Cite book|和書|title=歴史の中の単位|author=小泉袈裟勝|date=1974|publisher=総合科学出版|asin=B000JA1WCG}} ==関連項目== *[[市制 (単位系)|市制]] - 中国で現在使用されている尺貫法(尺斤法) *[[嘉量]] *[[国際単位系]] *[[メートル法]] *[[メートル条約]] *[[日本のメートル法化]] *[[度量衡法]](明治24年法律第4号) *[[ヤード・ポンド法]] *[[計量法]] *[[永六輔]] - 「尺貫法復権運動」によって伝統的な業種において慣習としての尺貫法の例外的使用を認めさせようとした(ただし実際には認められなかった)。 * [[s:計量法施行法|計量法施行法]] * [[s:計量単位の統一に伴う関係法律の整備に関する法律|計量単位の統一に伴う関係法律の整備に関する法律]] * [[s:土地又は建物に関する計量単位の統一に伴う関係法令の整備に関する法律|土地又は建物に関する計量単位の統一に伴う関係法令の整備に関する法律]](昭和41年3月31日法律第41号) ==外部リンク== * {{Kotobank}} {{尺貫法の単位}} {{DEFAULTSORT:しやくかんほう}} [[Category:尺貫法|*]] [[Category:度量衡]] [[Category:建築計画]]
2003-08-06T14:52:38Z
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Tar
tar(ター、tape archives)はファイルアーカイブのファイルフォーマットの一種である。このファイルフォーマットを処理する同名のUNIXコマンドtarも指す。UNIXでは圧縮したtar形式のファイルを"tarball"(ターボール)と呼ぶこともある。POSIX.1-1988やPOSIX.1-2001で規格化され、UNIX系オペレーティングシステムでは標準のフォーマットである。Windows では Windows 10 Build 17063 (Version 1803) 以降からコマンドラインツールが標準搭載されていて、Windows 11 Build 23493 (Version 22H2) 以降からは Windows Explorer が対応している。類似コマンドにafioがある。 tarはファイルのアーカイブに用いられ、多数のファイルを一つのファイルにまとめることができる。ファイルのユーザ情報とグループ情報、パーミッション、最終更新日時、ディレクトリ構造などを同時にアーカイブすることができる。 元来tarはアーカイブ、すなわち複数のファイルをまとめることのみで圧縮の機能はない。大半の場合アーカイブと同時にcompress、gzip、bzip2などの圧縮方法を用いて圧縮(いわゆるソリッド圧縮)を行う。これによりファイルの拡張子はそれぞれ .tar.Z、.tar.gz、.tar.bz2 となる。それぞれ略して .taZ、.tgz, .tbz2 とされることも多い。特に gzip は古くから良く使われている。 この形式はファイルが一部でも破損した場合、破損箇所に含まれていたファイル以降は取り出すことはできない。この欠点はafioとgzを使うことにより改善できる。 tarはファイルの属性などのいわゆるメタデータも一緒に含んでいる。以下のテーブルにUNIX tarフォーマットの一例を示す: Pre-POSIX.1-1988 (i.e. v7): 以下は GNU Tar および bsdtar で共通で利用可能なオプションである。 2022年12月現在、GNU Tar 独自の物として --lzip があり、bsdtar 独自の物としては --lrzip や --lz4 がある。 以下は、圧縮・伸長のコマンド例である。 圧縮。 伸長。 テープデバイスに記録。 テープデバイスから読み出す。 テープ上のファイルのリストを表示。リスト表示したいアーカイブファイルの先頭にテープを移動させた後、以下を実行。 tarコマンドはTape ARchiveというその名の通り磁気テープの操作が念頭に置かれていた。fオプションを省いた場合デフォルトで磁気テープデバイスを処理する。fオプションの指定によりファイルシステム上の任意の名前のファイルを処理できる。 tarballという言葉の由来は「リーマスじいや(英語版)」の童話『タールの赤ん坊(英語版)』に由来し、それに油塊(タールボール)を引っ掛けたジョーク的用語である。 その歴史の長さゆえにシステム毎の方言やファイルサイズの制限など多くの非互換部分がある為、異なるシステム間のファイル交換を目的とする場合は慎重に利用する必要がある。近年は GNU Tar と bsdtar が一般的ではあるが、その他、様々な tar が存在する。Windows 10 以降や macOS に搭載されているのは bsdtar であり、Linux で一般的なのは GNU Tar である。BusyBox にも独自の tar が含まれている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "tar(ター、tape archives)はファイルアーカイブのファイルフォーマットの一種である。このファイルフォーマットを処理する同名のUNIXコマンドtarも指す。UNIXでは圧縮したtar形式のファイルを\"tarball\"(ターボール)と呼ぶこともある。POSIX.1-1988やPOSIX.1-2001で規格化され、UNIX系オペレーティングシステムでは標準のフォーマットである。Windows では Windows 10 Build 17063 (Version 1803) 以降からコマンドラインツールが標準搭載されていて、Windows 11 Build 23493 (Version 22H2) 以降からは Windows Explorer が対応している。類似コマンドにafioがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "tarはファイルのアーカイブに用いられ、多数のファイルを一つのファイルにまとめることができる。ファイルのユーザ情報とグループ情報、パーミッション、最終更新日時、ディレクトリ構造などを同時にアーカイブすることができる。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "元来tarはアーカイブ、すなわち複数のファイルをまとめることのみで圧縮の機能はない。大半の場合アーカイブと同時にcompress、gzip、bzip2などの圧縮方法を用いて圧縮(いわゆるソリッド圧縮)を行う。これによりファイルの拡張子はそれぞれ .tar.Z、.tar.gz、.tar.bz2 となる。それぞれ略して .taZ、.tgz, .tbz2 とされることも多い。特に gzip は古くから良く使われている。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この形式はファイルが一部でも破損した場合、破損箇所に含まれていたファイル以降は取り出すことはできない。この欠点はafioとgzを使うことにより改善できる。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "tarはファイルの属性などのいわゆるメタデータも一緒に含んでいる。以下のテーブルにUNIX tarフォーマットの一例を示す:", "title": "ヘッダー" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "Pre-POSIX.1-1988 (i.e. v7):", "title": "ヘッダー" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "以下は GNU Tar および bsdtar で共通で利用可能なオプションである。", "title": "コマンドオプション" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2022年12月現在、GNU Tar 独自の物として --lzip があり、bsdtar 独自の物としては --lrzip や --lz4 がある。", "title": "コマンドオプション" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "以下は、圧縮・伸長のコマンド例である。", "title": "コマンド例" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "圧縮。", "title": "コマンド例" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "伸長。", "title": "コマンド例" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "テープデバイスに記録。", "title": "コマンド例" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "テープデバイスから読み出す。", "title": "コマンド例" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "テープ上のファイルのリストを表示。リスト表示したいアーカイブファイルの先頭にテープを移動させた後、以下を実行。", "title": "コマンド例" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "tarコマンドはTape ARchiveというその名の通り磁気テープの操作が念頭に置かれていた。fオプションを省いた場合デフォルトで磁気テープデバイスを処理する。fオプションの指定によりファイルシステム上の任意の名前のファイルを処理できる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "tarballという言葉の由来は「リーマスじいや(英語版)」の童話『タールの赤ん坊(英語版)』に由来し、それに油塊(タールボール)を引っ掛けたジョーク的用語である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その歴史の長さゆえにシステム毎の方言やファイルサイズの制限など多くの非互換部分がある為、異なるシステム間のファイル交換を目的とする場合は慎重に利用する必要がある。近年は GNU Tar と bsdtar が一般的ではあるが、その他、様々な tar が存在する。Windows 10 以降や macOS に搭載されているのは bsdtar であり、Linux で一般的なのは GNU Tar である。BusyBox にも独自の tar が含まれている。", "title": "歴史" } ]
tarはファイルアーカイブのファイルフォーマットの一種である。このファイルフォーマットを処理する同名のUNIXコマンドtarも指す。UNIXでは圧縮したtar形式のファイルを"tarball"(ターボール)と呼ぶこともある。POSIX.1-1988やPOSIX.1-2001で規格化され、UNIX系オペレーティングシステムでは標準のフォーマットである。Windows では Windows 10 Build 17063 以降からコマンドラインツールが標準搭載されていて、Windows 11 Build 23493 以降からは Windows Explorer が対応している。類似コマンドにafioがある。
{{Otheruses|コンピュータのファイルフォーマット|その他の'''TAR'''|TAR}} {{小文字}} {{Infobox file format | name = Tar | icon = [[ファイル:Torchlight tar.png|80px]] | extension = <tt>.tar</tt> | mime = application/x-tar | type code = <tt>"TARF"</tt> | uniform type = public.tar-archive | magic = <code>ustar\000</code>すなわち「ustar」、NUL、算用数字の零2個の計8バイト(POSIX tar)<br /><code>ustar\040\040</code>(GNU tar)<br />(いずれも0から数えて257バイト目から) | owner = | genre = [[アーカイブ (コンピュータ)|ファイルアーカイブ]] | container for = | contained by =<!-- [[gzip]], [[bzip2]], [[lzip]], [[LZMA|lzma]], [[xz (ファイルフォーマット)|xz]], [[lzop]], [[UNIX Compress|compress]]--> | extended from = | extended to = }} {{Infobox Software | 名称 = GNU Tar | 開発者 = <!-- 人物の名前 --> | 開発元 = [[GNUプロジェクト]] | 初版 = <!-- 初版の発表日。{{Start date and age|年|月|日}} 等のテンプレートが便利 --> | 最新版 = 1.35 | 最新版発表日 = {{Start date and age|2023|07|18}}<ref>{{Cite web |url=https://git.savannah.gnu.org/cgit/tar.git/tree/NEWS |title=NEWS |accessdate=2023-07-19}}</ref> | リポジトリ = {{url|https://git.savannah.gnu.org/cgit/tar.git}} | プログラミング言語 = [[C言語]] | 対応OS = | 対応プラットフォーム = <!-- CPUアーキテクチャなど --> | サイズ = <!-- バイナリのサイズ --> | 対応言語 = | サポート状況 = | 種別 = | ライセンス = [[GNU General Public License|GNU GPL v3 以降]] | 公式サイト = {{URL|https://www.gnu.org/software/tar/}} }} {{Infobox Software | 名称 = libarchive (bsdtar) | ロゴ = <!-- ロゴ画像。[[ファイル:example.png|50px]]のようにウィキ構文で指定する --> | スクリーンショット = <!-- スクリーンショット。[[ファイル:example.png|100px]]のようにウィキ構文で指定する --> | 説明文 = <!-- スクリーンショットの説明文 --> | 開発者 = <!-- 人物の名前 --> | 開発元 = <!-- 組織の名前 --> | 初版 = <!-- 初版の発表日。{{Start date and age|年|月|日}} 等のテンプレートが便利 --> | 最新版 = 3.7.2 | 最新版発表日 = {{Start date and age|2023|9|12}}<ref>[https://github.com/libarchive/libarchive/blob/master/NEWS libarchive/NEWS at master · libarchive/libarchive - GitHub]</ref> | 最新評価版 = | 最新評価版発表日 = <!-- 最新評価版の発表日。{{Start date and age|年|月|日}} 等のテンプレートが便利 --> | リポジトリ = {{url|https://github.com/libarchive/libarchive}}<!-- リポジトリのURL --> | プログラミング言語 = [[C言語]] | 対応OS = | エンジン = <!-- ソフトが使用しているエンジン。ウェブブラウザにおけるレンタリングエンジン(Gecko、WebKit)など --> | 対応プラットフォーム = <!-- CPUアーキテクチャなど --> | サイズ = <!-- バイナリのサイズ --> | 対応言語 = | サポート状況 = | 種別 = | ライセンス = [[New BSD License]] | 公式サイト = {{url|https://www.libarchive.org/}} | 前身 = <!-- 前身となったソフトウェアの名称 --> | 後継 = <!-- 後継ソフトウェアの名称 --> }} '''tar'''(ター、'''t'''ape '''ar'''chives)は[[アーカイブ (コンピュータ)|ファイルアーカイブ]]の[[ファイルフォーマット]]の一種である<!--り、Tape ARchive formatの略である-->。このファイルフォーマットを処理する同名の[[UNIX]]コマンド<code>tar</code>も指す。UNIXでは圧縮したtar形式のファイルを"tarball"(ターボール)と呼ぶこともある。''[[POSIX]].1-1988''<ref>"IEEE Std 1003.1-1988, IEEE Standard for Information Technology - Portable Operating System Interface (POSIX)"</ref>や''POSIX.1-2001''<ref>"IEEE Std 1003.1-2001, IEEE Standard for Information Technology - Portable Operating System Interface (POSIX)"</ref>で規格化され、UNIX系[[オペレーティングシステム]]では標準のフォーマットである。[[Microsoft Windows|Windows]] では [[Windows 10]] Build 17063 (Version 1803) 以降からコマンドラインツールが標準搭載されていて<ref>[https://learn.microsoft.com/ja-jp/virtualization/community/team-blog/2017/20171219-tar-and-curl-come-to-windows Tar and Curl Come to Windows! | Microsoft Learn]2023年9月4日閲覧。</ref>、[[Windows 11]] Build 23493<ref>{{Cite web |title=Announcing Windows 11 Insider Preview Build 23493 |last1=Langowski |first1=Amanda |last2=LeBlanc |first2=Brandon |work=Windows Insider Blog |date= |access-date=5 July 2023 |url= https://blogs.windows.com/windows-insider/2023/06/29/announcing-windows-11-insider-preview-build-23493/}}</ref> (Version 22H2<ref>{{Cite web|和書|title=TAR、RAR、7z……「エクスプローラー」で解凍できる形式が拡充、正式に提供開始/「Windows 11 バージョン 22H2」の2023年9月プレビューパッチ「KB5030310」で |trans-title= |author=株式会社インプレス |work=窓の杜 |date= |access-date=28 September 2023 |url= https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1534610.html |language=ja}}</ref>) 以降からは [[Windows Explorer]] が対応している。 ==機能== tarは[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]の[[アーカイブ (コンピュータ)|アーカイブ]]に用いられ、多数のファイルを一つのファイルにまとめることができる。ファイルのユーザ情報とグループ情報、[[パーミッション]]、最終更新日時、[[ディレクトリ]]構造などを同時にアーカイブすることができる。 === 圧縮・伸長 === [[ファイル:Targzip.svg|thumb|450px|none|tarによって複数のファイルを1つにまとめ、gzipなどで圧縮する。]] 元来tarはアーカイブ、すなわち複数のファイルをまとめることのみで[[データ圧縮|圧縮]]の機能はない。大半の場合アーカイブと同時に[[UNIX_Compress|compress]]、[[gzip]]、[[bzip2]]などの圧縮方法を用いて圧縮(いわゆる[[ソリッド圧縮]])を行う。これによりファイルの[[拡張子]]はそれぞれ {{code|.tar.Z}}、{{code|.tar.gz}}、{{code|.tar.bz2}} となる。それぞれ略して {{code|.taZ}}、{{code|.tgz}}, {{code|.tbz2}} とされることも多い。特に gzip は古くから良く使われている。 この形式はファイルが一部でも破損した場合、破損箇所に含まれていたファイル以降は取り出すことはできない。 ==ヘッダー== tarはファイルの属性などのいわゆる[[メタデータ]]も一緒に含んでいる。以下のテーブルにUNIX tarフォーマットの一例を示す: Pre-POSIX.1-1988 (i.e. v7): {| class="wikitable" |- ! オフセット ! サイズ ! 内容 |- | 0 | 100 | ファイル名 |- | 100 | 8 | ファイルモード |- | 108 | 8 | 所有者 User ID |- | 116 | 8 | グループ User ID |- | 124 | 12 | ファイルサイズ(Byte) |- | 136 | 12 | 最終更新時刻([[UNIX時間]]) |- | 148 | 8 | チェックサム |- | 156 | 1 | リンクインジケーター(通常ファイル、ハードリンク、シンボリックリンク) |- | 157 | 100 | リンクされたファイルの名前 |} == コマンドオプション == 以下は GNU Tar および bsdtar で共通で利用可能なオプションである。 *-c 新しいアーカイブを作成する *-r アーカイブにファイルを追加する *-t アーカイブの内容をリスト表示する *-u アーカイブ内より新しいファイルを追加する *-x アーカイブからファイルを取り出す <!-- *-d アーカイブ内のファイルをカレントディレクトリのファイルと比較する --> *-f ''file'' テープの代わりに指定したファイルをアーカイブする。これが指定されていない場合は環境変数 TAPE に従う。それもない場合の挙動はOSやコンパイル時の指定依存。 *-v 詳細メッセージを表示する *-C ''directory'' ''directory''に移動してから操作を行う <!-- *-L ''n'' テープの容量を''n''KBとする --> *--newer ''date'' 指定した日付よりも新しいファイルだけをアーカイブに入れる(取り出す) *-T ''file'' ''file''の中に記載されているファイル名をアーカイブに入れる(取り出す)。fileの中身は改行区切りで1行1ファイル名。 ===圧縮・伸長オプション=== *-a もしくは --auto-compress アーカイブ作成・展開時に、拡張子から圧縮・伸長プログラムを自動的に決定する<ref>[https://www.gnu.org/software/tar/manual/html_node/gzip.html GNU tar 1.35: 8.1.1 Creating and Reading Compressed Archives]2023年9月4日閲覧。</ref> ** compress は {{code|.tar.Z}}, {{code|.taZ}} ** gzip は {{code|.tar.gz}}, {{code|.tgz}}, {{code|.taz}} ** bzip2 は {{code|.tar.bz2}}, {{code|.tz2}}, {{code|.tbz2}}, {{code|.tbz}} ** xz は {{code|.tar.xz}} ** lzip は {{code|.tar.lz}} ** lzma は {{code|.tar.lzma}}, {{code|.tlz}}(ルールに一貫性がなく .tlz は lzip ではなく lzma になっている) ** lzop は {{code|.tar.lzo}} ** Zstandard は {{code|.tar.zst}}, {{code|.tzst}} *-Z もしくは --compress アーカイブを[[UNIX Compress]]で圧縮・伸長する *-z もしくは --gzip アーカイブを[[gzip]]で圧縮・伸長する *-j もしくは --bzip2 アーカイブを[[bzip2]]で圧縮・伸長する *-J もしくは --xz アーカイブを[[xz (ファイルフォーマット)|xz]]で圧縮・伸長する *--lzma アーカイブを[[LZMA|lzma]]で圧縮・伸長する *--lzop アーカイブを[[lzop]]で圧縮・伸長する *--zstd アーカイブを[[Zstandard]]で圧縮・伸長する 2022年12月現在、GNU Tar 独自の物として [[lzip|--lzip]] があり、bsdtar 独自の物としては --lrzip や [[LZ4|--lz4]] がある。 == コマンド例 == 以下は、圧縮・伸長のコマンド例である<ref>いずれも short option style での記法である。https://www.gnu.org/software/tar/manual/tar.html#Styles (2023年9月4日閲覧) によれば、記法には、long option style, short option style, old option style がある。old option style だと tar -tvf /dev/nst0 は tar tfv /dev/nst0 になる。</ref>。 圧縮。 <syntaxhighlight lang="bash"> tar -caf name.tar.gz directory </syntaxhighlight> 伸長。 <syntaxhighlight lang="bash"> tar -xaf name.tar.gz </syntaxhighlight> ===テープデバイス=== テープデバイスに記録。 <syntaxhighlight lang="bash"> tar -cf /dev/nst0 directory </syntaxhighlight> テープデバイスから読み出す。 <syntaxhighlight lang="bash"> tar -xf /dev/nst0 </syntaxhighlight> テープ上のファイルのリストを表示。リスト表示したいアーカイブファイルの先頭にテープを移動させた後、以下を実行。 <syntaxhighlight lang="bash"> tar -tf /dev/nst0 </syntaxhighlight> == 歴史 == tarコマンドはTape ARchiveというその名の通り[[磁気テープ]]の操作が念頭に置かれていた。fオプション<ref>ファイル (file) の頭文字である。</ref>を省いた場合[[デフォルト (コンピュータ)|デフォルト]]で磁気テープデバイスを処理する。fオプションの指定によりファイルシステム上の任意の名前のファイルを処理できる。 tarballという言葉の由来は「{{仮リンク|リーマスじいや|en|Uncle Remus}}」の童話『{{仮リンク|タールの赤ん坊|en|Tar baby}}』に由来し<ref>{{Cite web|url=http://www.catb.org/~esr/jargon/html/T/tarball.html|title=Jargon File - tarball|accessdate=2010-11-27}}童話の日本語訳書は[[アナンシ#関連書籍]]を参照。</ref>、それに油塊(タールボール)を引っ掛けたジョーク的用語である。 その歴史の長さゆえにシステム毎の方言やファイルサイズの制限など多くの非互換部分がある為、異なるシステム間のファイル交換を目的とする場合は慎重に利用する必要がある。近年は GNU Tar と bsdtar が一般的ではあるが、その他、様々な tar が存在する。Windows 10 以降や macOS に搭載されているのは bsdtar であり、Linux で一般的なのは GNU Tar である。[[BusyBox]] にも独自の tar が含まれている。 == 関連項目 == * [[mt (UNIX)]] * [[テープドライブ]] * [[Linear Tape-Open]] * [[IBM 3592]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 外部リンク == === GNU Tar === * [https://www.gnu.org/software/tar/ Tar - GNU Project] * [https://linuxjm.osdn.jp/html/GNU_tar/man1/tar.1.html Man page of TAR] * [https://www.gnu.org/software/tar/manual/html_node/Standard.html GNU tar format] === bsdtar === * [https://www.libarchive.org/ libarchive] * [https://man.freebsd.org/cgi/man.cgi?tar(1) tar(1) - FreeBSD General Commands Manual] * [https://man.freebsd.org/cgi/man.cgi?tar(5) tar(5) - FreeBSD File Formats Manual] {{アーカイブファイルフォーマット}} [[Category:UNIXのソフトウェア]] [[Category:ファイルフォーマット]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Tar
12,632
Gzip
gzip(ジー・ジップ)は、データ圧縮プログラムのひとつ、およびその圧縮データのフォーマットである。「GNU zip」の略であり GNUプロジェクトによって開発・メンテナンスされている。現在、多くのUNIXに標準搭載される。 それ以前に普及していたcompressの圧縮アルゴリズムはLZWだが、LZWは特許を侵害していたのでGNUプロジェクトが代替としてgzipを開発した。 フォーマットはRFC 1952 「GZIP File Format Specification」として文書化されている。 Windows及びMS-DOS文化圏で一般的なZIPと互換性はないが、圧縮方法は両者ともDeflate法である。 gzipは、Lempel-Zivアルゴリズム (LZ77) とハフマン符号を用いており、従来のcompressよりも圧縮率が高いことが特徴である。ただし非常に冗長なファイルでは、compressの方が圧縮率が高いこともある。開発者向けにライブラリとしてzlibが作成され、これにより広く使われる形式となった。gzipによって圧縮されたファイルの拡張子は慣習的に.gzを用いる(極初期のgzipは.zを用いたが、packとの混同を避けるため変更された。1993年頃に作成された.zはgzipファイルの可能性が高い。なお、gzip自体はpack形式の伸長が可能である)。 また、gzipコマンドは標準入力から受け取ったデータを圧縮し、標準出力から取り出すことができる(gunzipは逆の動作)ため、ファイル圧縮に限らず、多様な目的に使用できる。 gzipはzip等と異なりファイルアーカイバとしての機能は持たず、複数ファイルを扱いたい場合はtarファイルをgzip圧縮するという使い方が一般的である。GNU tarにはアーカイブをgzipにフィルタする-zオプションが付いている。これによりアーカイブと圧縮を同時に、あるいは抽出と伸張を同時に行うことができる。gzip圧縮したtarアーカイブは拡張子.tar.gzまたは.tgzを付ける習慣がある。 HTTP 1.1にはデータを圧縮し転送量を減らす機能があるが、gzipはその際の圧縮フォーマットの一つとしても使われている。また、gzipはその仕様がRFC 1952で記述されている。 初期のうちに登場した1.2.4が安定したバージョンとして長期にわたって利用されたが、4GB超のファイルへの対応が無かったため、種々のバージョンアップが行われた。 今日では、圧縮・伸張の速度より圧縮率の高さを重視する場合には、bzip2やxzを使用することがある。 gzipは、zip、compress、compress -H、packで圧縮されたファイルを伸張することができる。zipファイルについては、Deflate法で圧縮されファイルが1つしか含まれていない場合にだけ伸張できる。gzipがインストールされているシステムでは、gunzip、zcat、uncompressコマンドが、gzipコマンドへのハードリンクとして存在していることがある。Linux Standard Baseでも指定コマンドになっている。 .gz tarと組み合わせる場合には.tar.gzもしくは.tgzとする。 2012年8月に発行されたRFC 6713でapplication/gzipが定義されて、IANAにも正式に登録された。以前はapplication/x-gzipやapplication/x-gzip-compressedなどが用いられていた。 tarによるアーカイブがなされている場合は、非公式のapplication/x-tar-gzも用いられる。
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gzip(ジー・ジップ)は、データ圧縮プログラムのひとつ、およびその圧縮データのフォーマットである。「GNU zip」の略であり GNUプロジェクトによって開発・メンテナンスされている。現在、多くのUNIXに標準搭載される。 それ以前に普及していたcompressの圧縮アルゴリズムはLZWだが、LZWは特許を侵害していたのでGNUプロジェクトが代替としてgzipを開発した。 フォーマットはRFC 1952 「GZIP File Format Specification」として文書化されている。 Windows及びMS-DOS文化圏で一般的なZIPと互換性はないが、圧縮方法は両者ともDeflate法である。
{{小文字|title=gzip}} {{出典の明記|date = 2014年11月}} {{Infobox file format | name = gzip | logo = Gzip-Logo.svg | extension = .gz | mime = application/gzip | typecode = Gzip | uniform type = org.gnu.gnu-zip-archive | magic = \x1f\x8b | owner = [[ジャン=ルー・ガイイ|{{lang|fr|Jean‐Loup Gailly}}]]、[[マーク・アドラー|{{lang|en-US|Mark Adler}}]] | genre = [[データ圧縮]] | website = {{URL|https://www.gzip.org/}} }} {{Infobox Software | name = GNU Gzip | developer = [[GNUプロジェクト]] | latest_release_version = 1.12 | latest_release_date = {{Release date and age|2022|4|7}} | operating_system = [[クロスプラットフォーム]] | genre = [[データ圧縮]] | programming_language = [[C言語]] | license = [[GNU General Public License|GPL]] | website = {{URL|https://www.gnu.org/software/gzip/}} }} '''gzip'''(ジー・ジップ)は、[[データ圧縮]][[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]のひとつ、およびその圧縮データの[[ファイルフォーマット|フォーマット]]である。「[[GNU]] zip」の略であり<ref name="gzip">{{Cite web|url = http://www.gzip.org|title = The gzip home page|accessdate = 2014-11-07|date = 2003-07-27|language = 英語|author = Jean-loup Gailly|coauthors = Mark Adler}}</ref> [[GNUプロジェクト]]によって開発・メンテナンスされている。現在、多くの[[UNIX]]に標準搭載される。 それ以前に普及していた<kbd>[[UNIX Compress|compress]]</kbd>の圧縮アルゴリズムは[[Lempel–Ziv–Welch|LZW]]だが、LZWは特許を侵害していたのでGNUプロジェクトが代替としてgzipを開発した{{efn2|当時のGNU bullitinではyabbaが紹介されていたがそれを差し置いてリリースされたのがgzipである。}}。 フォーマットは{{Rfcurl|1952}}「GZIP File Format Specification」として文書化されている。 [[Microsoft Windows|Windows]]及び[[MS-DOS]]文化圏で一般的な[[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIP]]と互換性はないが、圧縮方法は両者とも[[Deflate]]法である。 == 概要 == gzipは、Lempel-Zivアルゴリズム ([[LZ77]]) と[[ハフマン符号]]を用いており、従来のcompressよりも圧縮率が高いことが特徴である。ただし非常に冗長なファイルでは、compressの方が圧縮率が高いこともある。開発者向けに[[ライブラリ]]として[[zlib]]が作成され、これにより広く使われる形式となった。gzipによって圧縮されたファイルの[[拡張子]]は慣習的に<code>.gz</code>を用いる(極初期のgzipは<code>.z</code>を用いたが、[[pack]]との混同を避けるため変更された。1993年頃に作成された<code>.z</code>はgzipファイルの可能性が高い。なお、gzip自体はpack形式の伸長が可能である)。 また、<kbd>gzip</kbd>コマンドは[[標準入力]]から受け取ったデータを圧縮し、[[標準出力]]から取り出すことができる(<kbd>gunzip</kbd>は逆の動作)ため、ファイル圧縮に限らず、多様な目的に使用できる。 gzipはzip等と異なり[[アーカイブ (コンピュータ)|ファイルアーカイバ]]としての機能は持たず、複数ファイルを扱いたい場合は<kbd>[[tar]]</kbd>ファイルをgzip圧縮するという使い方が一般的である。GNU tarにはアーカイブをgzipに[[フィルタ (ソフトウェア)|フィルタ]]する<kbd>-z</kbd>オプションが付いている。これによりアーカイブと圧縮を同時に、あるいは抽出と伸張を同時に行うことができる。gzip圧縮したtarアーカイブは拡張子<code>.tar.gz</code>または<code>.tgz</code>を付ける習慣がある。 [[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]] 1.1にはデータを圧縮し転送量を減らす機能があるが、gzipはその際の圧縮フォーマットの一つとしても使われている。また、gzipはその仕様が{{IETF RFC|1952}}で記述されている。 初期のうちに登場した1.2.4が安定したバージョンとして長期にわたって利用されたが、4GB超のファイルへの対応が無かったため、種々のバージョンアップが行われた。 今日では、圧縮・伸張の速度より圧縮率の高さを重視する場合には、[[bzip2]]や[[xz (ファイルフォーマット)|xz]]を使用することがある。 == 互換性 == gzipは、<kbd>zip</kbd>、<kbd>compress</kbd>、<kbd>compress -H</kbd>、<kbd>pack</kbd>で圧縮されたファイルを伸張することができる。zipファイルについては、Deflate法で圧縮されファイルが1つしか含まれていない場合にだけ伸張できる。gzipがインストールされているシステムでは、<kbd>gunzip</kbd>、<kbd>zcat</kbd>、<kbd>uncompress</kbd>コマンドが、<kbd>gzip</kbd>コマンドへの[[ハードリンク]]として存在していることがある。Linux Standard Baseでも指定コマンドになっている<ref>Linux Standard Base https://refspecs.linuxfoundation.org/lsb.shtml</ref>。 == 主なオプション == ;<kbd>-r</kbd>:サブディレクトリにわたって圧縮する ;<kbd>-v</kbd>:詳細情報を表示する ;<kbd>-数字</kbd>:圧縮率の調整 (例:<kbd>-9</kbd> 圧縮率を最大にする <kbd>-1</kbd> 圧縮速度を最大にする。既定は6) ;<kbd>-f</kbd>:上書きを強制する == 拡張子 == <code>.gz</code><ref name="gzip" /><ref name="man_overview">{{Cite web|url = http://www.gnu.org/software/gzip/manual/html_node/Overview.html|title = Overview - GNU Gzip|work = gzip - gzip: the data compression program|accessdate = 2014-11-07|publisher = [http://www.fsf.org Free Software Foundation]|date = 2013-06-11|language = 英語|author = Free Software Foundation, Inc.|coauthors = Jean-loup Gailly}}</ref><ref name="type">{{Cite web|url = https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc6713|title = RFC 6713 - The 'application/zlib' and 'application/gzip' Media Types|accessdate = 2014-11-06|publisher = [http://www.ietf.org Internet Engineering Task Force]|date = 2012-08|language = 英語|first = John|last = Levine}}</ref> tarと組み合わせる場合には<code>.tar.gz</code>もしくは<code>.tgz</code>とする。 == {{lang|en|Media Type}} == 2012年8月に発行された{{IETF RFC|6713}}で<code>application/gzip</code>が定義されて、[[Internet Assigned Numbers Authority|IANA]]にも正式に登録された。以前は<code>application/x-gzip</code>や<code>application/x-gzip-compressed</code>などが用いられていた。<ref name="type" /> tarによるアーカイブがなされている場合は、非公式の<code>application/x-tar-gz</code>も用いられる。{{要出典|date=2014年11月}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * {{IETF RFC|1952}} * [https://www.gzip.org The gzip home page] {{Portal|FLOSS|}} {{Software-stub}} {{アーカイブファイルフォーマット}} [[Category:UNIXのソフトウェア]] [[Category:データ圧縮規格]] [[Category:GNUプロジェクト]] [[Category:RFC|1952]]
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そば
そば
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "そば", "title": null } ]
そば ソバ - タデ科の植物。 蕎麦 - 上記の植物から作られる食品。または麺類。 いわゆる麺類の中で、細切りのものに対する総称。中華そば、沖縄そば、焼きそばなど。→麺を参照。 側・傍(そば) - 近く・付近。
{{wiktionary}} '''そば''' * [[ソバ]] - [[タデ科]]の[[植物]]。 * [[蕎麦]] - 上記の植物から作られる食品。または麺類。 * いわゆる麺類の中で、細切りのものに対する総称。[[中華そば]]、[[沖縄そば]]、[[焼きそば]]など。→[[麺]]を参照。 * [[wikt:側|側]]・[[wikt:傍|傍]](そば) - 近く・付近。またはラーメンです。 {{デフォルトソート:そは}} {{Aimai}}
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12,634
麻田剛立
麻田 剛立(あさだ ごうりゅう、享保19年2月6日(1734年3月10日) - 寛政11年5月22日(1799年6月25日))は、江戸時代の日本の天文学者である。 豊後国杵築藩南台西(現在の大分県杵築市)出身。元々は綾部(あやべ)姓であったという。儒学者綾部安正(絅斎)の四男。幼名は庄吉良で、名は妥彰(やすあき)。初め璋菴(しょうあん、表記は「正庵」とも)、後に剛立と号した。 幼少期から天体に興味を持ち、二十歳くらいから本格的な天体観測を行う。『傷寒論』などを読み、独学で天文学・医学を学んだ。 ケプラーの第3法則を独自に発見したとされ、その内容は『五星距地之奇法』に記されている。既にケプラーの(第1・第2)法則については漢籍によって日本にも伝来している時代であり、後述の通りケプラーの法則を使っての研究もしていることから、この麻田の独創については疑問視する意見もある。ただ、麻田は惑星の軌道を円と考えて「惑星の公転周期の2乗が軌道の半径の3乗に比例する」としており、つまりこの時点でケプラーの第1法則を知らなかったため、事実誤認が含まれているとはいえ、麻田の独創性については間違いは無い。 宝暦13年(1763年)に、ケプラーの法則を用いて、官暦にはない同年9月1日(旧暦)の日食を予言し的中。この日食は当時使用されていた宝暦暦に記されていなかったこともあり、麻田の名声を高めた。 明和8年(1771年)頃に豊後を離れて(この時に脱藩したため、追っ手の目を眩まそうと改名した)大坂に行き、そこで医師を生業としながら天文学の研究を続けた。『崇禎暦書』を基盤に研究し、望遠鏡・反射鏡などの観測装置を改良し、理論を実測で確認、そして家暦である『時中法』を設けるなど、その手法は近代的であった。 オランダから輸入した初の高倍率グレゴリー式望遠鏡によって、日本最古の月面観測図を記す。安永7年(1778年)8年後に起こる日食の情報を三浦に手紙で送った際、その月面観測図を併記した。この手紙は所在不明とされていたが、鹿毛敏夫が『月のえくぼ(クレーター)を見た男 麻田剛立』を書くにあたり資料を収集した際、現所蔵者と現物を発見した。 弟子に高橋至時・山片蟠桃・間重富らがいる。また中井竹山・中井履軒兄弟・三浦梅園とも交流した。 大正5年(1916年)、従四位を追贈された。 月のクレーターであるアサダは、麻田剛立の名に由来する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "麻田 剛立(あさだ ごうりゅう、享保19年2月6日(1734年3月10日) - 寛政11年5月22日(1799年6月25日))は、江戸時代の日本の天文学者である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "豊後国杵築藩南台西(現在の大分県杵築市)出身。元々は綾部(あやべ)姓であったという。儒学者綾部安正(絅斎)の四男。幼名は庄吉良で、名は妥彰(やすあき)。初め璋菴(しょうあん、表記は「正庵」とも)、後に剛立と号した。", "title": "人物・生涯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "幼少期から天体に興味を持ち、二十歳くらいから本格的な天体観測を行う。『傷寒論』などを読み、独学で天文学・医学を学んだ。", "title": "人物・生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ケプラーの第3法則を独自に発見したとされ、その内容は『五星距地之奇法』に記されている。既にケプラーの(第1・第2)法則については漢籍によって日本にも伝来している時代であり、後述の通りケプラーの法則を使っての研究もしていることから、この麻田の独創については疑問視する意見もある。ただ、麻田は惑星の軌道を円と考えて「惑星の公転周期の2乗が軌道の半径の3乗に比例する」としており、つまりこの時点でケプラーの第1法則を知らなかったため、事実誤認が含まれているとはいえ、麻田の独創性については間違いは無い。", "title": "人物・生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "宝暦13年(1763年)に、ケプラーの法則を用いて、官暦にはない同年9月1日(旧暦)の日食を予言し的中。この日食は当時使用されていた宝暦暦に記されていなかったこともあり、麻田の名声を高めた。", "title": "人物・生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "明和8年(1771年)頃に豊後を離れて(この時に脱藩したため、追っ手の目を眩まそうと改名した)大坂に行き、そこで医師を生業としながら天文学の研究を続けた。『崇禎暦書』を基盤に研究し、望遠鏡・反射鏡などの観測装置を改良し、理論を実測で確認、そして家暦である『時中法』を設けるなど、その手法は近代的であった。", "title": "人物・生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "オランダから輸入した初の高倍率グレゴリー式望遠鏡によって、日本最古の月面観測図を記す。安永7年(1778年)8年後に起こる日食の情報を三浦に手紙で送った際、その月面観測図を併記した。この手紙は所在不明とされていたが、鹿毛敏夫が『月のえくぼ(クレーター)を見た男 麻田剛立』を書くにあたり資料を収集した際、現所蔵者と現物を発見した。", "title": "人物・生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "弟子に高橋至時・山片蟠桃・間重富らがいる。また中井竹山・中井履軒兄弟・三浦梅園とも交流した。", "title": "人物・生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "大正5年(1916年)、従四位を追贈された。", "title": "人物・生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "月のクレーターであるアサダは、麻田剛立の名に由来する。", "title": "人物・生涯" } ]
麻田 剛立は、江戸時代の日本の天文学者である。
{{Infobox Scientist | name = 麻田 剛立<br />(あさだ ごうりゅう) | image = | caption = | birth_date = [[1734年]][[3月10日]] | birth_place = {{JPN}} [[豊後国]][[杵築藩]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1734|3|10|1799|6|25}} | death_place = {{JPN}} | residence = | nationality = {{JPN}} | field = [[天文学]] | work_institution = | alma_mater = | doctoral_advisor = | doctoral_students = | known_for = [[1763年]][[10月7日]]の[[日食]]を予言<br>[[ケプラーの法則|ケプラーの第3法則]]と同じ法則を独自に発見 | prizes = | religion = | footnotes = 注:テンプレートの生没年は[[太陽暦]]で表記 }} '''麻田 剛立'''(あさだ ごうりゅう、[[享保]]19年[[2月6日 (旧暦)|2月6日]]([[1734年]][[3月10日]]) - [[寛政]]11年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]([[1799年]][[6月25日]]))は、[[江戸時代]]の[[日本]]の[[天文学者]]<ref name=hikae>{{Cite |和書|others=[[山本博文]]監修|title=江戸時代人物控1000|date=2007|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4-09-626607-6|page=13-14}}</ref>である。 == 人物・生涯 == [[豊後国]][[杵築藩]]南台西(現在の[[大分県]][[杵築市]])出身<ref name=hikae/><ref name="kitsuki">[https://www.city.kitsuki.lg.jp/soshiki/7/bunka/bunkazai/ijin/2/1824.html 麻田 剛立(あさだ ごうりゅう)] 杵築市、2020年2月13日閲覧。</ref><ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 24頁。</ref>。元々は綾部(あやべ)姓であったという。儒学者[[綾部安正]](絅斎)の四男<ref name=hikae/>。幼名は庄吉良で、名は妥彰(やすあき)<ref name=hikae/>。初め璋菴(しょうあん、表記は「正庵」とも)、後に剛立と号した<ref name=hikae/>。 幼少期から[[天体]]に興味を持ち、二十歳くらいから本格的な天体観測を行う<ref name="kitsuki" />。『[[傷寒論]]』などを読み、独学で[[天文学]]・[[医学]]を学んだ。 [[ケプラーの法則|ケプラーの第3法則]]を独自に[[発見]]したとされ、その内容は『五星距地之奇法』に記されている<ref>『月のえくぼ(クレーター)を見た男 麻田剛立』。</ref>。既にケプラーの(第1・第2)法則については漢籍によって日本にも伝来している時代であり、後述の通りケプラーの法則を使っての研究もしていることから、この麻田の独創については疑問視する意見もある。ただ、麻田は[[惑星]]の[[軌道 (力学)|軌道]]を[[円 (数学)|円]]と考えて「惑星の[[公転]][[周期]]の[[自乗|2乗]]が軌道の[[半径]]の3乗に[[比例]]する」としており、つまりこの時点でケプラーの第1法則を知らなかったため、事実誤認が含まれているとはいえ、麻田の独創性については間違いは無い。 [[宝暦]]13年([[1763年]])に、ケプラーの法則を用いて、官暦にはない同年9月1日([[10月7日 (旧暦)|旧暦]])の[[日食]]を予言し的中<ref name="kitsuki" />。この日食は当時使用されていた[[宝暦暦]]に記されていなかったこともあり、麻田の名声を高めた。 [[明和]]8年([[1771年]])頃に豊後を離れて(この時に[[脱藩]]したため、追っ手の目を眩まそうと改名した)[[大阪|大坂]]に行き、そこで[[医師]]を生業としながら天文学の[[研究]]を続けた<ref name=hikae/>。『[[崇禎暦書]]』を基盤に研究し、[[望遠鏡]]・[[鏡|反射鏡]]などの[[観測装置]]を改良し、[[理論]]を実測で確認、そして家暦である『時中法』<ref name=hikae/>を設けるなど、その手法は近代的であった。 [[オランダ]]から[[輸入]]した初の高倍率[[グレゴリー式望遠鏡]]によって、日本最古の[[月|月面]]観測図を記す。[[安永 (元号)|安永]]7年([[1778年]])8年後に起こる日食の情報を三浦に手紙で送った際、その月面観測図を併記した。この手紙は所在不明とされていたが、[[鹿毛敏夫]]が『月のえくぼ(クレーター)を見た男 麻田剛立』を書くにあたり[[資料]]を収集した際、現所蔵者と現物を発見した。 弟子に[[高橋至時]]<ref name=hikae/>・[[山片蟠桃]]・[[間重富]]<ref name=hikae/>らがいる。また[[中井竹山]]・[[中井履軒]]兄弟・[[三浦梅園]]とも交流した。 大正5年(1916年)、[[従四位]]を追贈された<ref>田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.41</ref>。 [[月]]の[[クレーター]]である[[アサダ (クレーター)|アサダ]]は、麻田剛立の名に由来する。 [[ファイル:麻田剛立の石碑.jpg|サムネイル|麻田剛立の石碑]] ==出典== {{Reflist}} == 参考文献 == {{refbegin}} *{{Cite book|和書|title=月のえくぼ(クレーター)を見た男 麻田剛立 |author=鹿毛敏夫|authorlink=鹿毛敏夫 |coauthors=[[関屋敏隆]]画 |publisher=[[日本公文教育研究会|くもん出版]] |year=2008 |isbn=978-4-7743-1391-7 |ncid=BA87960152 |ref=harv }} {{refend}} - 同著者が改題して[[角川文庫]]化した『月に名前を残した男 江戸の天文学者 麻田剛立』(2012年刊行)がある。 == 外部リンク == *{{kotobank|麻田剛立-25024|[[日本大百科全書]](ニッポニカ)|麻田剛立}} *[https://www.ohaka-osaka.com/meibo/num06.html 麻田剛立のお墓]|大阪の有名人のお墓|大阪のお墓.com *[http://huuunji.sakura.ne.jp/MAIN/asada.html 麻田剛立] < 風雲児たち人物事典(第1期)(『[[風雲児たち]]』ファンサイト) {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あさた こうりゆう}} [[Category:18世紀日本の教育者]] [[Category:18世紀日本の医師]] [[Category:18世紀日本の天文学者]] [[Category:江戸時代の学者]] [[Category:杵築藩の人物]] [[Category:従四位受位者]] [[Category:1734年生]] [[Category:1799年没]] [[Category:天文学に関する記事]] [[Category:江戸時代の天文学者]]
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諸法無我
諸法無我(しょほうむが、巴: sabbe dhammā anattā、सब्बे धम्मा अनत्ता)は、全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がないという意味の仏教用語。三法印・四法印の一つ。 諸行無常と並べられるが、行は因縁によって起こるこの世の現象を指すのに対し、諸法(sabbe dhammā)は涅槃すらも含むあらゆる事象(一切法)を指している。 比丘たちよ、色は無我、受(Vedanā)は無我、想(サムジャナ)は無我、サンカーラは無我、識(viññāṇa)は無我である。 アッギヴェッサナよ、私はこのように弟子たちを戒める。このように頻繁に語る。 「比丘たちよ、色は無常、受は無常、想は無常、行は無常、識は無常である。 比丘たちよ、色は無我、受は無我、想は無我、行は無我、識は無我である。 すべての行は無常である、すべての法は無我である。」と。
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諸法無我は、全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がないという意味の仏教用語。三法印・四法印の一つ。 諸行無常と並べられるが、行は因縁によって起こるこの世の現象を指すのに対し、諸法は涅槃すらも含むあらゆる事象(一切法)を指している。
[[File:Reflection in a soap bubble edit.jpg|thumb|right|300px|人生はシャボン玉<ref name=mugaqa />]] '''諸法無我'''(しょほうむが、{{lang-pi-short|sabbe dhammā anattā}}、सब्बे धम्मा अनत्ता<ref name="Morya"/>)は、全てのものは[[因縁]]によって生じたものであって[[実体]]性がないという意味の[[仏教]]用語<ref name="kb927"/>。[[三法印]]・[[四法印]]の一つ<ref name=muga>{{Cite |和書|title=無我の見方 |author=[[アルボムッレ・スマナサーラ]] |date=2012 |isbn=978-4905425069 |publisher=サンガ |at=Kindle版,chapt.3 }}</ref><ref name="kb927"/><ref name="コトバンク四法印"/>。 [[諸行無常]]と並べられるが、行は[[因縁]]によって起こるこの世の[[サンカーラ|現象]]を指すのに対し、諸法(sabbe dhammā)は涅槃すらも含むあらゆる事象([[一切法]])を指している<ref name=muga/>。 == 抜粋 == {{Quote| 比丘たちよ、[[色]]は無我、[[受]](Vedanā)は無我、[[想]](サムジャナ)は無我、[[サンカーラ]]は無我、[[識]](viññāṇa)は無我である。 | {{SLTP|[[律蔵 (パーリ)|律蔵]]犍度, 大犍度, 38 Mahakkhandhakaṃ}} }} {{Quote| アッギヴェッサナよ、私はこのように弟子たちを戒める。このように頻繁に語る。<br> 「比丘たちよ、色は無常、受は無常、想は無常、行は無常、識は無常である。<br>  比丘たちよ、色は無我、受は無我、想は無我、行は無我、識は無我である。<br>  すべての行は無常である、すべての法は無我である。」と。 | {{SLTP| [[中部 (パーリ)|中部]] 35 [[薩遮迦小経]] }} <ref name=mugaqa>{{Cite |和書|title=無我の見方 |author=[[アルボムッレ・スマナサーラ]] |date=2012 |isbn=978-4905425069 |publisher=サンガ |at={{Kindle版|1930|1501-1522}} }}</ref>}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist|refs= <ref name="Morya"> {{Cite book |author=Dviprasad Morya |authorlink= |coauthors= |others= |date=2009 |title=Jīvana kā yathārtha aura vartamāna jagata |edition= |publisher=Kalpaz Publications |volume= |page=89 |isbn= 8178357283}} </ref> <ref name="kb927"> {{Cite book |和書 |author=中村元 |authorlink=中村元 (哲学者) |coauthors= |others= |date=2001-06 |title=広説佛教語大辞典 |edition= |publisher=東京書籍 |volume=中巻 |page=927 |isbn=}} </ref> <ref name="コトバンク四法印"> {{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E6%B3%95%E5%8D%B0-285484|title=四法印(しほういん)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-09-22}} </ref> }} == 関連項目 == * [[無我]] * [[法 (仏教)]] * [[我]] * [[無常]] * [[諸行無常]] * [[涅槃]] * [[涅槃寂静]] {{Buddhism2}} {{Buddhism-stub}} {{DEFAULTSORT:しよほうむか}} [[Category:仏教用語]] [[en:Not-self]]
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涅槃寂静
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう, 梵: śāntaṃ nirvāṇaṃ)は、仏教用語で、煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるということを指す。涅槃寂静は三法印・四法印の一つとして、仏教が他の教えと根本的に異なることを示す。 この言葉は、『雑阿含経』などには、涅槃寂滅、『大智度論』には涅槃実法印などと出てくる。「涅槃寂静」という用語が登場するのは、『瑜伽師地論』である。 諸行無常・諸法無我の事実を自覚することが、この涅槃寂静のすがたである。 無常と無我とを自覚してそれによる生活を行うことこそ、煩悩をまったく寂滅することのできた安住の境地であるとする。『大般涅槃経』においては、この娑婆世界の無常・無我を離れたところに、真の「常楽我浄」があるとする。 無常の真実に目覚めないもの、無我の事実をしらないで自己をつかまえているものの刹那を追い求めている生活も、無常や無我を身にしみて知りながら、それを知ることによってかえってよりどころを失って、よりどころとしての常住や自我を追い求めて苦悩している生活も、いずれも煩悩による苦の生活である。それを克服して、いっさいの差別(しゃべつ)と対立の底に、いっさいが本来平等である事実を自覚することのできる境地、それこそ悟りであるというのが、涅槃寂静印の示すものである。 仏教本来の意味からすると、涅槃とはいっさいのとらわれ、しかも、いわれなきとらわれ(辺見)から解放された絶対自由の境地である。これは、縁起の法に生かされて生きている私たちが、互いに相依相関の関係にあることの自覚であり、積極的な利他活動として転回されなくてはならない。この意味で、この涅槃寂静は仏教が他の教えと異なるものとして法印といわれるのである。
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涅槃寂静は、仏教用語で、煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるということを指す。涅槃寂静は三法印・四法印の一つとして、仏教が他の教えと根本的に異なることを示す。 この言葉は、『雑阿含経』などには、涅槃寂滅、『大智度論』には涅槃実法印などと出てくる。「涅槃寂静」という用語が登場するのは、『瑜伽師地論』である。
'''涅槃寂静'''(ねはんじゃくじょう, {{lang-sa-short|śāntaṃ nirvāṇaṃ}}{{Sfn|室寺|2013|p=442}})は、[[仏教用語の一覧|仏教用語]]で、[[煩悩]]の炎の吹き消された[[悟り]]の世界([[涅槃]])は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるということを指す。涅槃寂静は[[三法印]]・[[四法印]]の一つとして、[[仏教]]が他の教えと根本的に異なることを示す。 この言葉は、『雑阿含経』などには、'''涅槃寂滅'''、『[[大智度論]]』には'''涅槃実法印'''などと出てくる。「涅槃寂静」という用語が登場するのは、『[[瑜伽師地論]]』である。 == 概説 == [[諸行無常]]・[[諸法無我]]の事実を自覚することが、この涅槃寂静のすがたである。 [[無常]]と[[無我]]とを自覚してそれによる生活を行うことこそ、煩悩をまったく寂滅することのできた安住の境地であるとする。『[[大般涅槃経]]』においては、この娑婆世界の無常・無我を離れたところに、真の「[[常楽我浄]]」があるとする。 無常の真実に目覚めないもの、無我の事実をしらないで自己をつかまえているものの刹那を追い求めている生活も、無常や無我を身にしみて知りながら、それを知ることによってかえってよりどころを失って、よりどころとしての常住や自我を追い求めて苦悩している生活も、いずれも煩悩による[[苦]]の生活である。それを克服して、いっさいの差別(しゃべつ)と対立の底に、いっさいが本来平等である事実を自覚することのできる境地、それこそ悟りであるというのが、涅槃寂静印の示すものである。 <!-- 涅槃とは、それを単に灰身滅智(けしんめっち)、身心都滅(しんしんとめつ)の虚無(こむ)の世界と解釈する人々もいる。--> [[仏教]]本来の意味からすると、涅槃とはいっさいのとらわれ、しかも、いわれなきとらわれ([[辺見]])から解放された絶対自由の境地である。これは、[[縁起]]の法に生かされて生きている私たちが、互いに相依相関の関係にあることの自覚であり、積極的な[[利他]]活動として転回されなくてはならない。この意味で、この涅槃寂静は仏教が他の教えと異なるものとして[[法印]]といわれるのである。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==参考文献== *{{Cite journal |和書 |last=室寺 |first=義仁 |title=三法印(dharmamudra trilaksana) : 古典インドにおける三句の發端と展開の諸様相 |journal=東方学報 |volume=88 |publisher=京都大學人文科學研究所 |date=2013 |pages=442-423 |doi=10.14989/180561 |ref={{SfnRef|室寺|2013}} }} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:ねはんしやくしよう}} [[Category:仏教用語]]
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名古屋駅
名古屋駅(なごやえき)は、愛知県名古屋市中村区名駅にある、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)・名古屋臨海高速鉄道・名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)の駅である。 中部地方・東海地方最大のターミナル駅であり、JR東海の広域輸送拠点となっている。JRは東海道新幹線の全列車が停車し、在来線は当駅を中心に各方面へ特急列車が発着している。市内各所を結ぶあおなみ線、名古屋市営地下鉄も乗り入れており、近接する名鉄名古屋駅や近鉄名古屋駅とあわせ、中京圏最大の鉄道ターミナルとして機能している。運営各企業ごとの区分のため、「JR名古屋駅」、「あおなみ線名古屋駅」、「地下鉄名古屋駅」(または「東山線名古屋駅」「桜通線名古屋駅」)と呼ばれることが多い。 略称の「名駅(めいえき)」は当駅周辺の地域名及び当駅が立地する行政上の町名となっており、中部地方最大の繁華街である栄と並ぶ名古屋を代表する繁華街・オフィス街として賑わっている。表玄関の東口は近年の再開発により日本有数の超高層ビル街にまで成長している。 JR東海本社も入居する駅ビル「JRセントラルタワーズ」は都市再開発によって1999年に竣工し、2010年現在、世界一売り場面積の広い駅ビルとしてギネス・ワールド・レコーズに申請されている。名古屋のランドマークとなり、利便性を生かして核テナントのJR名古屋タカシマヤは多大な集客力を誇っている。このビルを発端として、現在では2027年開業予定のリニア中央新幹線に向けて、今まで開発がされていなかった西口を含めて駅周辺は数多くの再開発計画が進められている。 第2回中部の駅百選に選定されている。 次の駅と接続しており、乗り換えが可能となっている。 新幹線は「のぞみ」を含め全列車が停車する。 東海道新幹線は、ほとんどの列車が当駅を跨いで運転されるが、一部当駅を始発・終着とする列車がある。早朝には東京行き、新大阪方面行きとなる「のぞみ」が、深夜には新大阪方面から当駅終着となる「のぞみ」が運行される。東京方面から1時間に2本運行される「こだま」のうち1本が当駅で折り返し、1時間に2本ある「ひかり」のうち1本は当駅から各駅停車になる。2006年3月18日のダイヤ改正以降、当駅で「こだま」が「のぞみ」を待避し、緩急接続する事例は朝の下りと深夜の上りに限られていたが、2020年3月14日のダイヤ改正で、終日に渡って「ひかり」・「こだま」が「のぞみ」を待避する事例が見られるようになった(一部は臨時列車の待避となり、運転されない場合もある)。 東海道本線は、早朝・深夜以外は当駅で快速系統と普通列車が緩急接続を行うダイヤになっている(日中は快速などの優等種別の5分後に普通が発車する)。ただし、2019年10月1日現在1番線(2018年3月17日から2019年9月30日までは2番線)の使用が停止されているため、上り列車はホームの移動が必要となる。また、寝台特急サンライズ瀬戸・サンライズ出雲は上下列車とも当駅を通過する。 中央本線及び関西本線はすべての列車が当駅始発・終着である。なお、かつて中央線の列車は東海道本線に直通していたが、2022年3月12日のダイヤ改正に伴い、中央線の列車は全て当駅始発・終着になった。 1999年に完成したJR名古屋駅の駅ビル「JRセントラルタワーズ」は54階建てで、百貨店やホテル、オフィスなどで構成される超高層複合商業ビルである。JR東海の本社も入居している。245mの高さを誇り、完成からの数年間は「世界一背の高い駅ビル」としてギネスブックに登録されていた。また、名古屋のランドマークとして人気スポットになっている。ジェイアール名古屋タカシマヤがキーテナントとして入居しており、栄の老舗百貨店である松坂屋を超える売上高を誇り、その規模は中部地方のみならず日本有数である。 日本の東西両京を結ぶ鉄道路線計画は、東海道経由と中山道経由のいずれにするかが、明治10年代後半まで決定されていなかった。1884年(明治17年)に中山道ルートの採用が決定し(中山道幹線を参照)たが、その建設資材を搬入するため、太平洋側と中山道を結ぶ鉄道路線が同時に計画された。三河湾に面した知多半島の武豊港と岐阜を結ぶ路線(現在の東海道本線の一部及び武豊線)がそれで、武豊駅を起点に工事が進められた。 1886年(明治19年)4月1日に熱田 - 枇杷島(当時の駅名は清洲駅)間が開業し、その翌月の5月1日に名護屋駅が開設された。現在の駅より200mほど南方、当時の広井村笹島地内で葦が茫々と繁る湿地帯であった。金山付近は台地(熱田台地)のため線路を切土構造にして、そこで発生した土砂を運搬して湿地帯に盛土するという土木工事が行われた。これが名護屋駅開業が遅れた理由だという。 開業の翌年には名古屋駅と改称されるが、当時は「笹島ステンション」と広く呼ばれていた。 その後、東西両京を結ぶ幹線鉄道は碓氷峠など山岳地帯の工事が予想以上に難航するとみられたこと、さらに当時の名古屋区長(現在の市長格)である吉田禄在が中山道幹線では名古屋を通過しないことになり、名古屋の衰退を招くと、東海道経由への計画変更を政府へ働きかけたこともあり、岐阜以東の幹線鉄道ルートは美濃路・東海道経由に変更され、名古屋は東海道幹線上の駅とされることとなった。またこの吉田により、名古屋駅の近くを通り、名古屋駅と市街地を結ぶ道となる広小路通も拡幅され、後の1898年(明治31年)には京都電気鉄道に次いで日本で2番目の路面電車となる名古屋電気鉄道(→名古屋市電)がこの通り上へ開通している(笹島 - 県庁前間)。 1892年(明治25年)には、前年の濃尾地震で倒壊した初代駅舎に代わって、2代目の駅舎が竣工。そして1895年(明治28年)には関西本線の前身となる私鉄の関西鉄道が当駅まで乗り入れ、1900年(明治33年)には現在の中央本線となる官営鉄道線が名古屋駅を起点に多治見まで開業し、複数路線が乗り入れるターミナル駅へと成長した。 なお、関西鉄道は後に名阪間輸送で官営鉄道と競うことを見込み、名古屋乗り入れ翌年の1896年(明治29年)には名古屋駅のすぐ南方、現在では名古屋車両区がある辺りに独自ターミナルの愛知駅を開設しているが、鉄道国有法に基づき関西鉄道が国有化されたことにより、国有化2年後の1909年(明治42年)に廃止されている。 1889年(明治22年)には日本の鉄道総延長1,000マイル (1,609 km) 達成記念、1906年(明治39年)には5,000マイル (8,046 km) 達成記念の祝賀行事がそれぞれ名古屋で開催された。 1937年(昭和12年)には高架化工事が竣工し、駅は北へ200mほど移転した。新駅舎は鉄筋コンクリート造り、地上5階(一部6階)地下1階、延べ床面積7万m2、国内最大級の駅舎だった。この駅舎は、セントラルタワーズの建設工事が始まる1993年(平成5年)10月まで使用された。 名古屋市営地下鉄東山線は、建設当初、国鉄との相互直通運転を行う計画があり、国鉄ホームの東側に地上ホームの設置計画があったが列車本数が増加することもあり断念。結局、東口の地下にホームが建設された。 将来は、リニア中央新幹線の駅が併設される。JR東海は、将来の関西圏延伸までに大多数の乗客が行う既存新幹線や在来線各線との相互乗り換えに配慮し、名古屋駅新幹線ホーム北東直下の大深度に新駅を建設した場合に乗り換えにかかる移動時間が3分 - 9分であると試算報告し、既存の名古屋駅を拡張する計画である。 在来線・新幹線ともに高架ホームとなっている。 新幹線は構内西側の島式ホーム2面4線(14番線 - 17番線)を使用する。このうち外側の14・17番線が本線、内側の15・16番線が副本線である。副本線の北方に引上線があり、さらにその北方からは新大阪方の名古屋車両所へ繋がる支線が分岐している。全列車が停車するため、東京駅などと同様に以前は固定式の安全柵が設置されていたが、2016年(平成28年)2月9日に可動式安全柵の設置が完了した。 在来線は島式ホーム6面12線を使用する。9番線はホームのない中線 である。東海道本線は2・6番線、中央本線は7・8番線、関西本線は11・12番線が本線である。 リニア中央新幹線工事に伴い1番線は2019年(令和元年)10月1日から使用停止中であり 、2021年3月までに転落防止用のフェンスが設置されている。12・13番線ホームは他のホームと比較して短く、エスカレーターが設置されていない(エレベーターは設置されている)ほか、階段の設置数も他のホームより少ない。JRセントラルタワーズ建設に伴い、直下に位置する1・2番線ホームが造り直された。当駅の在来線の構内は軌道中心間隔が約4.6mと広く取られている(日本の改軌論争を参照)。 在来線13番線と新幹線14番線の間には、13番線側から名古屋車両区出入庫線・稲沢線本線がある。構内には折り返し用の留置線が設けられているほか、分岐器も多数あり、各路線間の転線が可能な配線になっている。ただし、1・2番線は東海道本線上りの発着以外には使用できない。また13番線から東海道本線(上下とも)への発車など、配線上は可能でも信号上の進路が構成されていない組み合わせも一部ある。なお当駅構内の在来線で立体交差になっているのは駅南西側の西名古屋港線(あおなみ線)と関西本線および名古屋車両区出入庫線の交差のみである。 長らく在来線ホームでは接近時、発車時に独自の発車ベルが使用されていたが、2012年9月9日に在来線運行管理システムの更新が行われ、独自の発車ベルは使われなくなり、アナウンス更新(英語アナウンスも導入)及び接近メロディが導入された。なお、アナウンスは2011年以降に導入された中央線、2014年11月に導入された東海道線のものとはやや異なる。 2020年から列車見張員に対して列車接近を確実に把握できるようにするため、在来線構内の線路に青色LED表示灯が設置された。ホームから約800メートルの範囲で東京方面に233個、大阪方面に159個、合計392個設置。列車がいない間は点灯しているが、列車接近時になると点滅するようにしている。 2020年現在、前述したように中央新幹線の島式プラットホーム2面4線が東海道新幹線ホームの北東直下に東西方向で工事中である。 駅長・駅員配置駅(直営駅)であり、管理駅として、尾頭橋駅・枇杷島駅の2駅を管理している。また事務管コードは、▲530116である。なお、名古屋市内の事務管コードは、▲539901が用いられている。 以下は2023年4月18日現在の内容。 (出典:JR東海:駅構内図) 北通路に西から新幹線北口と同連絡改札・中央北口・桜通口があり、中央通路には西から新幹線南口と同連絡改札・南通路との連絡路や中央改札がある。 南通路には西から太閤通南口・あおなみ線連絡改札・中央通路との連絡路・近鉄連絡改札に至る階段・広小路口のそれぞれ在来線改札が並ぶ。 太閤北口はリニア中央新幹線の建設工事に伴い閉鎖され、その代わりに設置されたのが中央北口である。 2006年3月末、自動体外式除細動器 (AED) が在来線ホーム・新幹線ホームに各1箇所、中央口・新幹線口・北口(新幹線側)に各1箇所設置された。 近鉄連絡改札口(近鉄名古屋駅の改札内)での係員による出札窓口は2017年10月31日で終了し、翌11月1日から「サポートつき指定席券売機」が設置されている。 7番・8番線には2025年にホームドアの設置が決定している。開閉方式は金山駅で採用された京浜急行電鉄等と同様のQRコード読み取り式を採用する。 在来線・新幹線ホーム共に名古屋名物のきしめんを販売する飲食店がある。 かつて新幹線南口の精算所の横にはJR6社で唯一、入場券専用の自動券売機が1台設置されていた。ホームの飲食店できしめんなどを食べる客の需要が多いためであり、2014年時点で撤去の見込みは無いとしていたが、新幹線南口の自動改札機の増設工事により、2015年9月27日に営業を終了した。 あおなみ線のプラットホームはJR在来線の西側に位置する稲沢線と西名古屋港線にまたがる形で本線上に置かれている。島式ホーム1面2線を有し、可動式ホーム柵が設置されている。なお、プラットホーム自体はかなり長くなっているが、列車が停車しない南側の部分は柵で覆われ、立ち入り禁止となっている。引き上げ線はなく、終端側はそのまま稲沢線の本線となるため構内に車止めも存在しない。 出札及び改札口はJR太閤通南口に隣接して設置されている。あおなみ線の改札口はこの1ヶ所のみで、プラットホームの北端に当たる。JRとの連絡改札口(無人改札、双方とも改札内に相手方の自動券売機を2台設置)も設けられているが、名鉄や近鉄、地下鉄東山線への乗り換えや駅東側へ至るにはJR名古屋駅の中央コンコース又は駅南側で交差する公道まで大きく迂回するか、JRの入場券を用意した上でJRの改札内を通り抜ける必要がある。 終日駅員が配置され、隣のささしまライブ駅を巡回駅として管理している。 (出典:あおなみ線:駅構内図) 改札口は桜通線側と東山線側に3ヶ所ずつある。地下鉄の駅名サインがある出入口は桜通線側に3ヶ所、東山線側に10ヶ所ある。桜通線への出入口はJR名古屋駅コンコースにも3か所(桜通口付近、太閤通口付近、うまいもん通り付近)ある。桜通線と東山線との乗り換えは連絡通路を経由することで可能である。連絡通路のエレベーターは2020年3月24日に供用された。 名古屋市営地下鉄では最も利用客の多い駅であり、東山線のみで乗車人員は11万人を超えている。東山線は当駅と伏見駅の間が最も混雑率が高く、桜通線が開業するまでは混雑率が250%に至ったこともあった。 名古屋市営地下鉄で唯一駅長室が2つある駅であり、東山線側と桜通線側にそれぞれ設けられている。東山線駅務区名古屋管区駅が管轄する駅であり、八田駅、中村公園駅 - 名古屋駅と、新栄町駅 - 本郷駅(今池、池下、本山、星ヶ丘を除く)の各駅を管理している。 東山線コンコースの周囲には地下街が広がっている。エレベーターは、地上と地下鉄改札周辺とを結ぶものは中改札口近くから地上に直接出られるもののほか、ミッドランドスクエア内、大名古屋ビルヂング内、JRゲートタワー内、JPタワー名古屋内、名古屋ルーセントタワー内のものがある。 桜通線コンコースは東山線や名鉄名古屋本線よりも深い位置にあるために階段などでの上下移動が必要であるが、地上へ出ることなくエスカ地下街やユニモール地下街、ジェイアール名古屋タカシマヤ地下階へ繋がっている。 (出典:名古屋市営地下鉄:駅構内図) JR名古屋駅中央コンコースの真下地下4階に位置し東西に延びている。島式ホーム1面2線で可動式ホーム柵が設置されている。ホームの有効長は8両分あるが、列車は全て5両編成(乗車位置番号は、双方とも前から1・2の順で、最後尾5両目の4つ目のドアが20)であるため、列車が停車しない部分は柵で遮断されている。桜通線の各駅は、2011年(平成23年)度のホームドア設置以降順次「駅アクセントカラー」が設定されており、当駅のアクセントカラーはセピア■である。地下3階のコンコースとホームを結ぶエレベーターは中央と東端(徳重寄り)の2ヶ所設置されている。エレベーターのみを使用して東山線へ乗り換える場合、東端のエレベーターを使う必要がある。なお、当駅の建設にあたって平成元年度の土木学会技術賞を受賞している。 駅東側の名駅地下街(メイチカ)の真下地下2階に位置し、近鉄名古屋駅や名鉄名古屋駅と平行している。島式ホーム1面2線で12両分の有効長を持ち、南側半分(1957年の開業時より設置)を藤が丘方面行きホーム(6両分)、北側半分(1969年の中村公園延伸時に延長)を高畑方面行きホーム(6両分)が使用する千鳥配置になっている。列車が停車しない部分は柵等で遮断されている。2015年10月25日より可動式ホーム柵の使用を開始した。 亀島寄りに片渡り線がある。これは中村公園延伸の時に設置されたもので、それまでは伏見寄りに両渡り線が設置されていた。1976年までは名古屋駅での夜間滞泊があり、藤ヶ丘駅(現・藤が丘駅)行の初発電車と星ヶ丘駅発の最終電車が名古屋駅始発・終着であった。 当駅の開業から1969年の中村公園延伸の時まで使用された車止めは、名古屋市科学館に移設され保存車であるSL(2412号車)の車止めとして使用された。 コンコースとホームを結ぶエレベーターは従来高畑方面ホーム北端、北改札口側にのみあり藤が丘方面ホームからは距離があったが、2020年3月13日に中改札口内にも増設された。 臨時車扱貨物取り扱い駅である。貨物列車の発着は無く、荷役設備や当駅に接続する専用線も存在しない。かつては荷役設備があったが、1937年(昭和12年)に独立し笹島駅となった。その笹島駅が廃止された翌年の1987年(昭和62年)3月31日(JR発足前日)に、貨物の取り扱いが書類上復活した。 荷物営業も、小荷物や旅客手荷物を中心に取り扱っていたが、1979年(昭和54年)3月までに「ブルートレイン便」や一部の新聞紙などを除く大部分の小荷物取扱機能を熱田駅に移転した。その後熱田駅の小荷物取扱は1986年(昭和61年)11月1日に廃止されている。残った「ブルートレイン便」は2005年(平成17年)3月1日に、東海道新幹線を使用する「レールゴー・サービス」も2006年(平成18年)3月18日に廃止され、現在は新聞紙のみ取り扱っている。 当駅は、複数の業者が激しい競争を繰り広げている駅弁激戦区である。また、リニューアルも激しく、新製品が登場から半年で消滅する例も珍しくない。かつては幕の内や寿司弁当が人気であったが、近年は「みそかつ」「名古屋コーチン」「ひつまぶし」など名古屋独自の食文化をストレートに弁当化したものが人気である。駅弁業者は松浦商店・名古屋だるま・ジェイアール東海パッセンジャーズの3社。主な駅弁は下記の通り。 また、駅弁ではないが、前述のように新幹線・在来線ホームともきしめんの店が古くから営業され、人気である。 乗換駅である名鉄名古屋駅・近鉄名古屋駅を含めた名古屋駅全体の乗降客数は1日平均1,294,838人(2019年度)であり、中部地方において最多である。また、東海道新幹線のみの乗車人員に限ると1日約7万人で、東京駅、新大阪駅に次いで多い。 上記の数字はいずれも、各社局内の駅の中で第1位である。 名古屋駅の略称である名駅は、名古屋市中村区、西区の町名となっている。駅の表玄関である東口を中心に、栄とともに名古屋を代表する繁華街・オフィス街として知られ、1999年のJRセントラルタワーズ開業を契機に近年の再開発により日本屈指の超高層オフィス街にまで発展している。JRセントラルタワーズの核テナントであるジェイアール名古屋タカシマヤは、2011年以降栄の老舗百貨店である松坂屋の売上を上回る地域一番店となるまで成長し、店舗別売上高としては日本4位の売上を誇る。駅周辺では2027年のリニア中央新幹線開業に向けて、今まで再開発が遅れていた駅西側(太閤通口)を含めたさらなる再開発計画が進められている。 名古屋市中村区と西区に置かれている。中村区名駅は1丁目から5丁目まで、西区名駅は1丁目から3丁目まで設置されている。 名古屋駅は中村区名駅1丁目と西区名駅1丁目に跨っている(ただし、駅ビル(セントラルタワーズ)など駅建築施設の大半は中村区側にあり、西区に所在するのは駅構内のホーム下り側(岐阜方面)半分とゲートタワーの一部のみである)。 旧来から名古屋の玄関口で、バス・地下鉄・近鉄・名鉄やJR間の乗り換え客などで人通りが多く商業施設も多い。 主な大型商業施設は、JRセントラルタワーズ内のジェイアール名古屋タカシマヤを筆頭に、近鉄パッセ・名鉄百貨店本店・ヤマダデンキLABI名古屋・ミッドランドスクエア・名鉄レジャックなどがある。また市バスターミナルの他、市内最大のバスターミナル「名鉄バスセンター」もある。地下にはサンロードやメイチカ・ゲートウォーク・ユニモール・ミヤコ地下街と広大な地下街が広がる。 太閤通口は「新幹線口」「西口」「駅西」とも呼ばれる。また「駅裏」と呼ばれることもある。地下にはエスカ地下街がある。駅北西には名古屋市を本拠地とする河合塾などの大手予備校や学習塾が進出し学生街や若者街として発展している。付近にはアニメショップや同人ショップが林立し、オタク街としての一面も持つ。また、会員制ツアーバスやジェイアール東海バスのバスが発着する。駅前広場はテレビ番組のロケでよく使用される。 桜通口や広小路口側に比べると開発が遅れていることから、少し入ると昔ながらの商店が多く残っている。かつて花街として栄え、現在は特殊浴場街である大門(おおもん)地区も徒歩圏内である。 JR名古屋バスターミナルは、JR名古屋駅の太閤通口にあるジェイアール東海バスが管理運営する高速バスターミナルである。停留所名は名古屋駅(新幹線口)停留所。 駅に「新幹線口」という出口はないが、新幹線結節を分かりやすくするためこの名を名乗っており、案内図でも出口名より新幹線北改札口の至近にあることを強調している。現地では「JRハイウェイバスのりば」を目印に掲げている。 桜通口にあったバスターミナル(名古屋ターミナルビル)の取り壊しに伴い移転し、2010年12月9日より使用開始した。 桜通口に市バスターミナルが復活した後も引き続き使われており、元の場所には戻らなかった。但しJR東海バスが主催するつばめツアーの集合バスは市バスターミナルの12番のりばとなっている。 太閤通口には、いわゆるツアーバスなど貸切バスや団体バス用の乗降スペースが2箇所ある(愛知県バス協会が管理)が、2013年7月31日から新高速バス制度施行に伴い、高速ツアーバスから移行した事業者が新たに停留所を設置した。なお、一部の便はささしまライブ駅近くの名古屋南バス停から発車する。 名古屋ターミナルビル(名古屋バスターミナル)の1階にJRハイウェイバスのりば(JR東海バスなどが発着)、2階・3階に名古屋市営バスが発着していたが、ターミナルビル取り壊しのためJRハイウェイバスは2010年12月9日に太閤通口へ移転、名古屋市営バスは同年12月23日より駅周辺に移転していた。 2017年4月1日、JRゲートタワーとJPタワー名古屋の1階に新たに名古屋駅バスターミナルを整備。桜通口周辺に散らばっていた停留所が集約された。 JR広小路口と名鉄名古屋駅西側の間(成城石井前)に所在し、JR東海バスが管理している。 現在定期バスの発車はなく、降車のほか貸切バスの乗車などで不定期に使用される。 名鉄バスセンターは、名鉄百貨店メンズ館3階・4階に所在し、名鉄バスや三重交通などの高速バス・路線バス・深夜・長距離バスなどが発着している。 名古屋駅南側、笹島交差点付近に所在する。名古屋駅バスターミナルや名鉄バスセンターなどを発着しない路線バスへの接続停留所としての役割を担っている。 ※新幹線各列車と、在来線の特急列車については各列車記事を参照のこと。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "名古屋駅(なごやえき)は、愛知県名古屋市中村区名駅にある、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)・名古屋臨海高速鉄道・名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "中部地方・東海地方最大のターミナル駅であり、JR東海の広域輸送拠点となっている。JRは東海道新幹線の全列車が停車し、在来線は当駅を中心に各方面へ特急列車が発着している。市内各所を結ぶあおなみ線、名古屋市営地下鉄も乗り入れており、近接する名鉄名古屋駅や近鉄名古屋駅とあわせ、中京圏最大の鉄道ターミナルとして機能している。運営各企業ごとの区分のため、「JR名古屋駅」、「あおなみ線名古屋駅」、「地下鉄名古屋駅」(または「東山線名古屋駅」「桜通線名古屋駅」)と呼ばれることが多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "略称の「名駅(めいえき)」は当駅周辺の地域名及び当駅が立地する行政上の町名となっており、中部地方最大の繁華街である栄と並ぶ名古屋を代表する繁華街・オフィス街として賑わっている。表玄関の東口は近年の再開発により日本有数の超高層ビル街にまで成長している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "JR東海本社も入居する駅ビル「JRセントラルタワーズ」は都市再開発によって1999年に竣工し、2010年現在、世界一売り場面積の広い駅ビルとしてギネス・ワールド・レコーズに申請されている。名古屋のランドマークとなり、利便性を生かして核テナントのJR名古屋タカシマヤは多大な集客力を誇っている。このビルを発端として、現在では2027年開業予定のリニア中央新幹線に向けて、今まで開発がされていなかった西口を含めて駅周辺は数多くの再開発計画が進められている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "第2回中部の駅百選に選定されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "次の駅と接続しており、乗り換えが可能となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "新幹線は「のぞみ」を含め全列車が停車する。 東海道新幹線は、ほとんどの列車が当駅を跨いで運転されるが、一部当駅を始発・終着とする列車がある。早朝には東京行き、新大阪方面行きとなる「のぞみ」が、深夜には新大阪方面から当駅終着となる「のぞみ」が運行される。東京方面から1時間に2本運行される「こだま」のうち1本が当駅で折り返し、1時間に2本ある「ひかり」のうち1本は当駅から各駅停車になる。2006年3月18日のダイヤ改正以降、当駅で「こだま」が「のぞみ」を待避し、緩急接続する事例は朝の下りと深夜の上りに限られていたが、2020年3月14日のダイヤ改正で、終日に渡って「ひかり」・「こだま」が「のぞみ」を待避する事例が見られるようになった(一部は臨時列車の待避となり、運転されない場合もある)。 東海道本線は、早朝・深夜以外は当駅で快速系統と普通列車が緩急接続を行うダイヤになっている(日中は快速などの優等種別の5分後に普通が発車する)。ただし、2019年10月1日現在1番線(2018年3月17日から2019年9月30日までは2番線)の使用が停止されているため、上り列車はホームの移動が必要となる。また、寝台特急サンライズ瀬戸・サンライズ出雲は上下列車とも当駅を通過する。 中央本線及び関西本線はすべての列車が当駅始発・終着である。なお、かつて中央線の列車は東海道本線に直通していたが、2022年3月12日のダイヤ改正に伴い、中央線の列車は全て当駅始発・終着になった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1999年に完成したJR名古屋駅の駅ビル「JRセントラルタワーズ」は54階建てで、百貨店やホテル、オフィスなどで構成される超高層複合商業ビルである。JR東海の本社も入居している。245mの高さを誇り、完成からの数年間は「世界一背の高い駅ビル」としてギネスブックに登録されていた。また、名古屋のランドマークとして人気スポットになっている。ジェイアール名古屋タカシマヤがキーテナントとして入居しており、栄の老舗百貨店である松坂屋を超える売上高を誇り、その規模は中部地方のみならず日本有数である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本の東西両京を結ぶ鉄道路線計画は、東海道経由と中山道経由のいずれにするかが、明治10年代後半まで決定されていなかった。1884年(明治17年)に中山道ルートの採用が決定し(中山道幹線を参照)たが、その建設資材を搬入するため、太平洋側と中山道を結ぶ鉄道路線が同時に計画された。三河湾に面した知多半島の武豊港と岐阜を結ぶ路線(現在の東海道本線の一部及び武豊線)がそれで、武豊駅を起点に工事が進められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1886年(明治19年)4月1日に熱田 - 枇杷島(当時の駅名は清洲駅)間が開業し、その翌月の5月1日に名護屋駅が開設された。現在の駅より200mほど南方、当時の広井村笹島地内で葦が茫々と繁る湿地帯であった。金山付近は台地(熱田台地)のため線路を切土構造にして、そこで発生した土砂を運搬して湿地帯に盛土するという土木工事が行われた。これが名護屋駅開業が遅れた理由だという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "開業の翌年には名古屋駅と改称されるが、当時は「笹島ステンション」と広く呼ばれていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "その後、東西両京を結ぶ幹線鉄道は碓氷峠など山岳地帯の工事が予想以上に難航するとみられたこと、さらに当時の名古屋区長(現在の市長格)である吉田禄在が中山道幹線では名古屋を通過しないことになり、名古屋の衰退を招くと、東海道経由への計画変更を政府へ働きかけたこともあり、岐阜以東の幹線鉄道ルートは美濃路・東海道経由に変更され、名古屋は東海道幹線上の駅とされることとなった。またこの吉田により、名古屋駅の近くを通り、名古屋駅と市街地を結ぶ道となる広小路通も拡幅され、後の1898年(明治31年)には京都電気鉄道に次いで日本で2番目の路面電車となる名古屋電気鉄道(→名古屋市電)がこの通り上へ開通している(笹島 - 県庁前間)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1892年(明治25年)には、前年の濃尾地震で倒壊した初代駅舎に代わって、2代目の駅舎が竣工。そして1895年(明治28年)には関西本線の前身となる私鉄の関西鉄道が当駅まで乗り入れ、1900年(明治33年)には現在の中央本線となる官営鉄道線が名古屋駅を起点に多治見まで開業し、複数路線が乗り入れるターミナル駅へと成長した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお、関西鉄道は後に名阪間輸送で官営鉄道と競うことを見込み、名古屋乗り入れ翌年の1896年(明治29年)には名古屋駅のすぐ南方、現在では名古屋車両区がある辺りに独自ターミナルの愛知駅を開設しているが、鉄道国有法に基づき関西鉄道が国有化されたことにより、国有化2年後の1909年(明治42年)に廃止されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1889年(明治22年)には日本の鉄道総延長1,000マイル (1,609 km) 達成記念、1906年(明治39年)には5,000マイル (8,046 km) 達成記念の祝賀行事がそれぞれ名古屋で開催された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1937年(昭和12年)には高架化工事が竣工し、駅は北へ200mほど移転した。新駅舎は鉄筋コンクリート造り、地上5階(一部6階)地下1階、延べ床面積7万m2、国内最大級の駅舎だった。この駅舎は、セントラルタワーズの建設工事が始まる1993年(平成5年)10月まで使用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "名古屋市営地下鉄東山線は、建設当初、国鉄との相互直通運転を行う計画があり、国鉄ホームの東側に地上ホームの設置計画があったが列車本数が増加することもあり断念。結局、東口の地下にホームが建設された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "将来は、リニア中央新幹線の駅が併設される。JR東海は、将来の関西圏延伸までに大多数の乗客が行う既存新幹線や在来線各線との相互乗り換えに配慮し、名古屋駅新幹線ホーム北東直下の大深度に新駅を建設した場合に乗り換えにかかる移動時間が3分 - 9分であると試算報告し、既存の名古屋駅を拡張する計画である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "在来線・新幹線ともに高架ホームとなっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "新幹線は構内西側の島式ホーム2面4線(14番線 - 17番線)を使用する。このうち外側の14・17番線が本線、内側の15・16番線が副本線である。副本線の北方に引上線があり、さらにその北方からは新大阪方の名古屋車両所へ繋がる支線が分岐している。全列車が停車するため、東京駅などと同様に以前は固定式の安全柵が設置されていたが、2016年(平成28年)2月9日に可動式安全柵の設置が完了した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "在来線は島式ホーム6面12線を使用する。9番線はホームのない中線 である。東海道本線は2・6番線、中央本線は7・8番線、関西本線は11・12番線が本線である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "リニア中央新幹線工事に伴い1番線は2019年(令和元年)10月1日から使用停止中であり 、2021年3月までに転落防止用のフェンスが設置されている。12・13番線ホームは他のホームと比較して短く、エスカレーターが設置されていない(エレベーターは設置されている)ほか、階段の設置数も他のホームより少ない。JRセントラルタワーズ建設に伴い、直下に位置する1・2番線ホームが造り直された。当駅の在来線の構内は軌道中心間隔が約4.6mと広く取られている(日本の改軌論争を参照)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "在来線13番線と新幹線14番線の間には、13番線側から名古屋車両区出入庫線・稲沢線本線がある。構内には折り返し用の留置線が設けられているほか、分岐器も多数あり、各路線間の転線が可能な配線になっている。ただし、1・2番線は東海道本線上りの発着以外には使用できない。また13番線から東海道本線(上下とも)への発車など、配線上は可能でも信号上の進路が構成されていない組み合わせも一部ある。なお当駅構内の在来線で立体交差になっているのは駅南西側の西名古屋港線(あおなみ線)と関西本線および名古屋車両区出入庫線の交差のみである。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "長らく在来線ホームでは接近時、発車時に独自の発車ベルが使用されていたが、2012年9月9日に在来線運行管理システムの更新が行われ、独自の発車ベルは使われなくなり、アナウンス更新(英語アナウンスも導入)及び接近メロディが導入された。なお、アナウンスは2011年以降に導入された中央線、2014年11月に導入された東海道線のものとはやや異なる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2020年から列車見張員に対して列車接近を確実に把握できるようにするため、在来線構内の線路に青色LED表示灯が設置された。ホームから約800メートルの範囲で東京方面に233個、大阪方面に159個、合計392個設置。列車がいない間は点灯しているが、列車接近時になると点滅するようにしている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2020年現在、前述したように中央新幹線の島式プラットホーム2面4線が東海道新幹線ホームの北東直下に東西方向で工事中である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "駅長・駅員配置駅(直営駅)であり、管理駅として、尾頭橋駅・枇杷島駅の2駅を管理している。また事務管コードは、▲530116である。なお、名古屋市内の事務管コードは、▲539901が用いられている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "以下は2023年4月18日現在の内容。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "(出典:JR東海:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "北通路に西から新幹線北口と同連絡改札・中央北口・桜通口があり、中央通路には西から新幹線南口と同連絡改札・南通路との連絡路や中央改札がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "南通路には西から太閤通南口・あおなみ線連絡改札・中央通路との連絡路・近鉄連絡改札に至る階段・広小路口のそれぞれ在来線改札が並ぶ。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "太閤北口はリニア中央新幹線の建設工事に伴い閉鎖され、その代わりに設置されたのが中央北口である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2006年3月末、自動体外式除細動器 (AED) が在来線ホーム・新幹線ホームに各1箇所、中央口・新幹線口・北口(新幹線側)に各1箇所設置された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "近鉄連絡改札口(近鉄名古屋駅の改札内)での係員による出札窓口は2017年10月31日で終了し、翌11月1日から「サポートつき指定席券売機」が設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "7番・8番線には2025年にホームドアの設置が決定している。開閉方式は金山駅で採用された京浜急行電鉄等と同様のQRコード読み取り式を採用する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "在来線・新幹線ホーム共に名古屋名物のきしめんを販売する飲食店がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "かつて新幹線南口の精算所の横にはJR6社で唯一、入場券専用の自動券売機が1台設置されていた。ホームの飲食店できしめんなどを食べる客の需要が多いためであり、2014年時点で撤去の見込みは無いとしていたが、新幹線南口の自動改札機の増設工事により、2015年9月27日に営業を終了した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "あおなみ線のプラットホームはJR在来線の西側に位置する稲沢線と西名古屋港線にまたがる形で本線上に置かれている。島式ホーム1面2線を有し、可動式ホーム柵が設置されている。なお、プラットホーム自体はかなり長くなっているが、列車が停車しない南側の部分は柵で覆われ、立ち入り禁止となっている。引き上げ線はなく、終端側はそのまま稲沢線の本線となるため構内に車止めも存在しない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "出札及び改札口はJR太閤通南口に隣接して設置されている。あおなみ線の改札口はこの1ヶ所のみで、プラットホームの北端に当たる。JRとの連絡改札口(無人改札、双方とも改札内に相手方の自動券売機を2台設置)も設けられているが、名鉄や近鉄、地下鉄東山線への乗り換えや駅東側へ至るにはJR名古屋駅の中央コンコース又は駅南側で交差する公道まで大きく迂回するか、JRの入場券を用意した上でJRの改札内を通り抜ける必要がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "終日駅員が配置され、隣のささしまライブ駅を巡回駅として管理している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "(出典:あおなみ線:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "改札口は桜通線側と東山線側に3ヶ所ずつある。地下鉄の駅名サインがある出入口は桜通線側に3ヶ所、東山線側に10ヶ所ある。桜通線への出入口はJR名古屋駅コンコースにも3か所(桜通口付近、太閤通口付近、うまいもん通り付近)ある。桜通線と東山線との乗り換えは連絡通路を経由することで可能である。連絡通路のエレベーターは2020年3月24日に供用された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "名古屋市営地下鉄では最も利用客の多い駅であり、東山線のみで乗車人員は11万人を超えている。東山線は当駅と伏見駅の間が最も混雑率が高く、桜通線が開業するまでは混雑率が250%に至ったこともあった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "名古屋市営地下鉄で唯一駅長室が2つある駅であり、東山線側と桜通線側にそれぞれ設けられている。東山線駅務区名古屋管区駅が管轄する駅であり、八田駅、中村公園駅 - 名古屋駅と、新栄町駅 - 本郷駅(今池、池下、本山、星ヶ丘を除く)の各駅を管理している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "東山線コンコースの周囲には地下街が広がっている。エレベーターは、地上と地下鉄改札周辺とを結ぶものは中改札口近くから地上に直接出られるもののほか、ミッドランドスクエア内、大名古屋ビルヂング内、JRゲートタワー内、JPタワー名古屋内、名古屋ルーセントタワー内のものがある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "桜通線コンコースは東山線や名鉄名古屋本線よりも深い位置にあるために階段などでの上下移動が必要であるが、地上へ出ることなくエスカ地下街やユニモール地下街、ジェイアール名古屋タカシマヤ地下階へ繋がっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "(出典:名古屋市営地下鉄:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "JR名古屋駅中央コンコースの真下地下4階に位置し東西に延びている。島式ホーム1面2線で可動式ホーム柵が設置されている。ホームの有効長は8両分あるが、列車は全て5両編成(乗車位置番号は、双方とも前から1・2の順で、最後尾5両目の4つ目のドアが20)であるため、列車が停車しない部分は柵で遮断されている。桜通線の各駅は、2011年(平成23年)度のホームドア設置以降順次「駅アクセントカラー」が設定されており、当駅のアクセントカラーはセピア■である。地下3階のコンコースとホームを結ぶエレベーターは中央と東端(徳重寄り)の2ヶ所設置されている。エレベーターのみを使用して東山線へ乗り換える場合、東端のエレベーターを使う必要がある。なお、当駅の建設にあたって平成元年度の土木学会技術賞を受賞している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "駅東側の名駅地下街(メイチカ)の真下地下2階に位置し、近鉄名古屋駅や名鉄名古屋駅と平行している。島式ホーム1面2線で12両分の有効長を持ち、南側半分(1957年の開業時より設置)を藤が丘方面行きホーム(6両分)、北側半分(1969年の中村公園延伸時に延長)を高畑方面行きホーム(6両分)が使用する千鳥配置になっている。列車が停車しない部分は柵等で遮断されている。2015年10月25日より可動式ホーム柵の使用を開始した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "亀島寄りに片渡り線がある。これは中村公園延伸の時に設置されたもので、それまでは伏見寄りに両渡り線が設置されていた。1976年までは名古屋駅での夜間滞泊があり、藤ヶ丘駅(現・藤が丘駅)行の初発電車と星ヶ丘駅発の最終電車が名古屋駅始発・終着であった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "当駅の開業から1969年の中村公園延伸の時まで使用された車止めは、名古屋市科学館に移設され保存車であるSL(2412号車)の車止めとして使用された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "コンコースとホームを結ぶエレベーターは従来高畑方面ホーム北端、北改札口側にのみあり藤が丘方面ホームからは距離があったが、2020年3月13日に中改札口内にも増設された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "臨時車扱貨物取り扱い駅である。貨物列車の発着は無く、荷役設備や当駅に接続する専用線も存在しない。かつては荷役設備があったが、1937年(昭和12年)に独立し笹島駅となった。その笹島駅が廃止された翌年の1987年(昭和62年)3月31日(JR発足前日)に、貨物の取り扱いが書類上復活した。", "title": "貨物・荷物取扱" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "荷物営業も、小荷物や旅客手荷物を中心に取り扱っていたが、1979年(昭和54年)3月までに「ブルートレイン便」や一部の新聞紙などを除く大部分の小荷物取扱機能を熱田駅に移転した。その後熱田駅の小荷物取扱は1986年(昭和61年)11月1日に廃止されている。残った「ブルートレイン便」は2005年(平成17年)3月1日に、東海道新幹線を使用する「レールゴー・サービス」も2006年(平成18年)3月18日に廃止され、現在は新聞紙のみ取り扱っている。", "title": "貨物・荷物取扱" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "当駅は、複数の業者が激しい競争を繰り広げている駅弁激戦区である。また、リニューアルも激しく、新製品が登場から半年で消滅する例も珍しくない。かつては幕の内や寿司弁当が人気であったが、近年は「みそかつ」「名古屋コーチン」「ひつまぶし」など名古屋独自の食文化をストレートに弁当化したものが人気である。駅弁業者は松浦商店・名古屋だるま・ジェイアール東海パッセンジャーズの3社。主な駅弁は下記の通り。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "また、駅弁ではないが、前述のように新幹線・在来線ホームともきしめんの店が古くから営業され、人気である。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "乗換駅である名鉄名古屋駅・近鉄名古屋駅を含めた名古屋駅全体の乗降客数は1日平均1,294,838人(2019年度)であり、中部地方において最多である。また、東海道新幹線のみの乗車人員に限ると1日約7万人で、東京駅、新大阪駅に次いで多い。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "上記の数字はいずれも、各社局内の駅の中で第1位である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "名古屋駅の略称である名駅は、名古屋市中村区、西区の町名となっている。駅の表玄関である東口を中心に、栄とともに名古屋を代表する繁華街・オフィス街として知られ、1999年のJRセントラルタワーズ開業を契機に近年の再開発により日本屈指の超高層オフィス街にまで発展している。JRセントラルタワーズの核テナントであるジェイアール名古屋タカシマヤは、2011年以降栄の老舗百貨店である松坂屋の売上を上回る地域一番店となるまで成長し、店舗別売上高としては日本4位の売上を誇る。駅周辺では2027年のリニア中央新幹線開業に向けて、今まで再開発が遅れていた駅西側(太閤通口)を含めたさらなる再開発計画が進められている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "名古屋市中村区と西区に置かれている。中村区名駅は1丁目から5丁目まで、西区名駅は1丁目から3丁目まで設置されている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "名古屋駅は中村区名駅1丁目と西区名駅1丁目に跨っている(ただし、駅ビル(セントラルタワーズ)など駅建築施設の大半は中村区側にあり、西区に所在するのは駅構内のホーム下り側(岐阜方面)半分とゲートタワーの一部のみである)。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "旧来から名古屋の玄関口で、バス・地下鉄・近鉄・名鉄やJR間の乗り換え客などで人通りが多く商業施設も多い。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "主な大型商業施設は、JRセントラルタワーズ内のジェイアール名古屋タカシマヤを筆頭に、近鉄パッセ・名鉄百貨店本店・ヤマダデンキLABI名古屋・ミッドランドスクエア・名鉄レジャックなどがある。また市バスターミナルの他、市内最大のバスターミナル「名鉄バスセンター」もある。地下にはサンロードやメイチカ・ゲートウォーク・ユニモール・ミヤコ地下街と広大な地下街が広がる。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "太閤通口は「新幹線口」「西口」「駅西」とも呼ばれる。また「駅裏」と呼ばれることもある。地下にはエスカ地下街がある。駅北西には名古屋市を本拠地とする河合塾などの大手予備校や学習塾が進出し学生街や若者街として発展している。付近にはアニメショップや同人ショップが林立し、オタク街としての一面も持つ。また、会員制ツアーバスやジェイアール東海バスのバスが発着する。駅前広場はテレビ番組のロケでよく使用される。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "桜通口や広小路口側に比べると開発が遅れていることから、少し入ると昔ながらの商店が多く残っている。かつて花街として栄え、現在は特殊浴場街である大門(おおもん)地区も徒歩圏内である。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "JR名古屋バスターミナルは、JR名古屋駅の太閤通口にあるジェイアール東海バスが管理運営する高速バスターミナルである。停留所名は名古屋駅(新幹線口)停留所。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "駅に「新幹線口」という出口はないが、新幹線結節を分かりやすくするためこの名を名乗っており、案内図でも出口名より新幹線北改札口の至近にあることを強調している。現地では「JRハイウェイバスのりば」を目印に掲げている。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "桜通口にあったバスターミナル(名古屋ターミナルビル)の取り壊しに伴い移転し、2010年12月9日より使用開始した。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "桜通口に市バスターミナルが復活した後も引き続き使われており、元の場所には戻らなかった。但しJR東海バスが主催するつばめツアーの集合バスは市バスターミナルの12番のりばとなっている。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "太閤通口には、いわゆるツアーバスなど貸切バスや団体バス用の乗降スペースが2箇所ある(愛知県バス協会が管理)が、2013年7月31日から新高速バス制度施行に伴い、高速ツアーバスから移行した事業者が新たに停留所を設置した。なお、一部の便はささしまライブ駅近くの名古屋南バス停から発車する。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "名古屋ターミナルビル(名古屋バスターミナル)の1階にJRハイウェイバスのりば(JR東海バスなどが発着)、2階・3階に名古屋市営バスが発着していたが、ターミナルビル取り壊しのためJRハイウェイバスは2010年12月9日に太閤通口へ移転、名古屋市営バスは同年12月23日より駅周辺に移転していた。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "2017年4月1日、JRゲートタワーとJPタワー名古屋の1階に新たに名古屋駅バスターミナルを整備。桜通口周辺に散らばっていた停留所が集約された。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "JR広小路口と名鉄名古屋駅西側の間(成城石井前)に所在し、JR東海バスが管理している。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "現在定期バスの発車はなく、降車のほか貸切バスの乗車などで不定期に使用される。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "名鉄バスセンターは、名鉄百貨店メンズ館3階・4階に所在し、名鉄バスや三重交通などの高速バス・路線バス・深夜・長距離バスなどが発着している。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "名古屋駅南側、笹島交差点付近に所在する。名古屋駅バスターミナルや名鉄バスセンターなどを発着しない路線バスへの接続停留所としての役割を担っている。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "※新幹線各列車と、在来線の特急列車については各列車記事を参照のこと。", "title": "隣の駅" } ]
名古屋駅(なごやえき)は、愛知県名古屋市中村区名駅にある、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)・名古屋臨海高速鉄道・名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)の駅である。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Otheruses||名古屋鉄道の駅|名鉄名古屋駅|近畿日本鉄道の駅|近鉄名古屋駅}} {{出典の明記|date=2011年2月}} {{駅情報 |駅名 = 名古屋駅 |画像 = View_of_Nagoya_Station,_Tsubaki-cho_Nakamura_Ward_Nagoya_2022.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 西方より名古屋駅を望む(2022年9月) |地図 = {{Maplink2|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|zoom=15|frame-width=300 |type=point|type2=point|type3=point|type4=point|type5=point |marker=rail|marker2=rail-metro|marker3=rail|marker4=rail|marker5=rail |coord={{coord|35|10|14.498|N|136|52|53.893|E}}|marker-color=f77321|title=JR名古屋駅 |coord2={{coord|35|10|16|N|136|53|2|E}}|marker-color2=FAB123|title2=名古屋市営地下鉄名古屋駅 |coord3={{coord|35|10|8|N|136|52|56|E}}|marker-color3=334fa0|title3=あおなみ線名古屋駅 |coord4={{coord|35|10|8.9|N|136|53|3.5|E}}|marker-color4=cc0033|title4=近鉄名古屋駅 |coord5={{coord|35|10|11|N|136|53|2|E}}|marker-color5=f33|title5=名鉄名古屋駅 |frame-latitude=35.170693|frame-longitude=136.881638}}近鉄、名鉄含む名古屋駅の鉄道会社別位置関係。鉄道会社は右上の四角マークで地図を拡大しアイコンをクリックして表示される。 |よみがな = なごや |ローマ字 = Nagoya |所属事業者 = [[東海旅客鉄道]](JR東海・[[#JR東海_3|駅詳細]])<br />[[日本貨物鉄道]](JR貨物)<br />[[名古屋臨海高速鉄道]]([[#名古屋臨海高速鉄道(あおなみ線)|駅詳細]])<br />[[名古屋市交通局]]([[#名古屋市営地下鉄_2|駅詳細]]) |所在地 = [[名古屋市]][[中村区]][[名駅]] |乗換 = [[名鉄名古屋駅]]([[名鉄名古屋本線]])<br /> [[近鉄名古屋駅]]([[近鉄名古屋線]]) }}{{座標一覧}} [[ファイル:Central Japan Railway - Nagoya Station - 02.JPG|thumb|太閤通口(2010年2月)]] [[ファイル:Nagoya-station hirokoji-guchi.jpg|thumb|広小路口(2008年9月)]] '''名古屋駅'''(なごやえき)は、[[愛知県]][[名古屋市]][[中村区]][[名駅]]にある、[[東海旅客鉄道]](JR東海)・[[日本貨物鉄道]](JR貨物)・[[名古屋臨海高速鉄道]]・[[名古屋市交通局]]([[名古屋市営地下鉄]])の[[鉄道駅|駅]]である。 == 概要 == [[ファイル:180324 Nagoya Castle & Skyscrapers in Meieki.jpg|thumb|[[JRセントラルタワーズ]]と[[名古屋城]]大[[天守]]。両者を対比すると駅ビルの巨大さがわかる。(2018年3月)]] [[中部地方]]・[[東海地方]]最大の[[ターミナル駅]]であり、JR東海の広域輸送拠点となっている。JRは[[東海道新幹線]]の全列車が停車し、在来線は当駅を中心に各方面へ[[特別急行列車|特急列車]]が発着している。市内各所を結ぶ[[名古屋臨海高速鉄道あおなみ線|あおなみ線]]、名古屋市営地下鉄も乗り入れており、近接する[[名鉄名古屋駅]]や[[近鉄名古屋駅]]とあわせ、[[中京圏]]最大の鉄道ターミナルとして機能している。運営各企業ごとの区分のため、「JR名古屋駅」、「あおなみ線名古屋駅」、「地下鉄名古屋駅」(または「東山線名古屋駅」「桜通線名古屋駅」)と呼ばれることが多い。 略称の「'''[[名駅]]'''(めいえき)」は当駅周辺の地域名及び当駅が立地する行政上の町名となっており、中部地方最大の[[繁華街]]である[[栄 (名古屋市)|栄]]と並ぶ名古屋を代表する[[繁華街]]・[[オフィス街]]として賑わっている。表玄関の東口は近年の再開発により日本有数の[[超高層建築物|超高層ビル]]街にまで成長している。 JR東海本社も入居する[[駅ビル]]「[[JRセントラルタワーズ]]」は[[都市再開発]]によって[[1999年]]に竣工し、[[2010年]]現在、世界一売り場面積の広い駅ビルとして[[ギネス世界記録|ギネス・ワールド・レコーズ]]に申請されている。名古屋の[[ランドマーク]]となり、利便性を生かして[[アンカーストア|核テナント]]の[[ジェイアール名古屋タカシマヤ|JR名古屋タカシマヤ]]は多大な集客力を誇っている。このビルを発端として、現在では[[2027年]]開業予定の[[中央新幹線|リニア中央新幹線]]に向けて、今まで開発がされていなかった西口を含めて駅周辺は数多くの再開発計画が進められている。 第2回[[中部の駅百選]]に選定されている。 === 乗り入れ・接続路線 === * [[東海旅客鉄道|JR東海]] ** [[東海道新幹線]] ** [[東海道本線]] - [[駅ナンバリング|駅番号]]「'''CA68'''」 [[日本貨物鉄道|JR貨物]]が第二種[[鉄道事業者]]。運行形態の詳細は[[東海道線 (名古屋地区)]]を参照。 ** [[中央本線]] - 駅番号「'''CF00'''」 当駅が終点。JR貨物が第二種鉄道事業者。運行形態の詳細は[[中央線 (名古屋地区)]]を参照。 ** [[関西本線]] - 駅番号「'''CJ00'''」 当駅が起点。JR貨物が第二種鉄道事業者。運行形態の詳細は[[関西線 (名古屋地区)]]を参照。 :※JRの[[特定都区市内]]制度における「名古屋市内」の駅であり、運賃計算の中心駅となる。 :※在来線における当駅の[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]は東海道本線である{{sfn|石野|1998|p=27}}。 * [[名古屋臨海高速鉄道]] ** [[名古屋臨海高速鉄道あおなみ線|あおなみ線]] - 駅番号「'''AN01'''」 当駅が起点。JR貨物が第二種鉄道事業者。 * [[名古屋市交通局]]([[名古屋市営地下鉄]]) ** [[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]] - 駅番号「'''H08'''」 ** [[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]] - 駅番号「'''S02'''」 次の駅と接続しており、乗り換えが可能となっている。 * [[名古屋鉄道]](名鉄)[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]] - [[名鉄名古屋駅]](駅番号「'''NH36'''」) * [[近畿日本鉄道]](近鉄)[[近鉄名古屋線|名古屋線]] - [[近鉄名古屋駅]](駅番号「'''E01'''」) === 列車ダイヤ === ==== JR東海 ==== 新幹線は「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」を含め全列車が停車する。 東海道新幹線は、ほとんどの列車が当駅を跨いで運転されるが、一部当駅を始発・終着とする列車がある。早朝には東京行き、新大阪方面行きとなる「のぞみ」が、深夜には新大阪方面から当駅終着となる「のぞみ」が運行される。東京方面から1時間に2本運行される「[[こだま (列車)|こだま]]」のうち1本が当駅で折り返し、1時間に2本ある「[[ひかり (列車)|ひかり]]」のうち1本は当駅から各駅停車になる。[[2006年]][[3月18日]]のダイヤ改正以降<ref name="jikokuhyo200603shinkansen">『JR時刻表』(編集・発行 交通新聞社)2006年3月号34 - 57頁(東海道・山陽新幹線の時刻) - この時点では朝の「こだま599号」が「のぞみ103号」を待避する事例のみ。</ref>、当駅で「こだま」が「のぞみ」を[[待避駅|待避]]し、[[緩急接続]]する事例は朝の下りと深夜の上りに限られていたが、[[2020年]][[3月14日]]のダイヤ改正で、終日に渡って「ひかり」・「こだま」が「のぞみ」を待避する事例が見られるようになった(一部は[[臨時列車]]の待避となり、運転されない場合もある){{refnest|group="注釈"|当駅での昼間時における新幹線の待避の事例は少なかったが、[[2001年]][[10月1日]]ダイヤ改正から[[2003年]]10月1日ダイヤ改正前日までは、東京駅 - 新大阪駅間で停車駅の同じ「ひかり」が「のぞみ」を毎時1回待避していた<ref name="jikokuhyo200212shinkansen">『JR時刻表』(編集・発行 交通新聞社)2002年12月号34 - 55頁(東海道・山陽新幹線の時刻)</ref>。}}。 東海道本線は、早朝・深夜以外は当駅で快速系統と普通列車が緩急接続を行うダイヤになっている(日中は快速などの優等種別の5分後に普通が発車する)。ただし、2019年10月1日現在1番線(2018年3月17日から2019年9月30日までは2番線)の使用が停止されているため、上り列車はホームの移動が必要となる<ref name="20180317dia">{{Cite press release |和書 |title=平成30年3月ダイヤ改正について |publisher=東海旅客鉄道 |date=2017年12月15日 |url=http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000035934.pdf |format=PDF |page=9 |language=ja |accessdate=2018年3月18日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171215221214/http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000035934.pdf |archivedate=2017年12月15日}}</ref>。また、寝台特急[[サンライズ瀬戸]]・[[サンライズ出雲]]は上下列車とも当駅を通過する。 中央本線及び関西本線はすべての列車が当駅始発・終着である<ref name="jikokuhyo202203zairaisen">『JR時刻表』(編集・発行 交通新聞社)2022年3月号154 - 181頁、196 - 203頁、212 - 221頁(名古屋駅を発着する東海道本線・中央本線・関西本線の時刻)</ref>。なお、かつて中央線の列車は東海道本線に直通していたが、2022年3月12日のダイヤ改正に伴い、中央線の列車は全て当駅始発・終着になった。 === 駅ビル === {{Main|JRセントラルタワーズ|JRゲートタワー}} [[1999年]]に完成したJR名古屋駅の[[駅ビル]]「JRセントラルタワーズ」は54階建てで、百貨店やホテル、オフィスなどで構成される超高層複合商業ビルである。JR東海の本社も入居している。245mの高さを誇り、完成からの数年間は「世界一背の高い駅ビル」として[[ギネス世界記録|ギネスブック]]に登録されていた。また、名古屋の[[ランドマーク]]として人気スポットになっている。[[ジェイアール名古屋タカシマヤ]]が[[キーテナント]]として入居しており、[[栄 (名古屋市)|栄]]の老舗百貨店である[[松坂屋]]を超える売上高を誇り、その規模は中部地方のみならず日本有数である。 == 歴史 == [[ファイル:Nagoya Station 1886.jpg|right|thumb|初代駅舎]] [[ファイル:Nagoya Station in the Meiji era.JPG|thumb|明治時代の名古屋駅]] [[ファイル:Sasashima station.JPG|right|thumb|1914年(大正3年)に描かれた駅周辺]] [[ファイル:Nagoya Station Destruction.jpg|thumb|1937年頃、明治橋側から見る取り壊された名古屋駅。左奥は新駅舎。]] [[ファイル:Nagoya Station under war.jpg|right|thumb|戦時体制下の3代目駅舎]] [[ファイル:Burning Nagoya Station 19450319.jpg|thumb|1945年3月19日の大空襲で炎上する駅舎]] [[ファイル:Waiting room for allied forces in Nagoya Station.jpg|thumb|進駐軍専用待合室]] [[ファイル:Nagoya Station.1960.jpg|thumb|名古屋駅周辺の白黒空中写真(1960年1月撮影)<br />{{国土航空写真}}]] [[ファイル:Nagoya Station.2007.10.jpg|thumb|名古屋駅周辺の空中写真(2007年10月撮影)<br />{{国土航空写真}}]] 日本の東西両京を結ぶ鉄道路線計画は、[[東海道]]経由と[[中山道]]経由のいずれにするかが、明治10年代後半まで決定されていなかった。[[1884年]](明治17年)に中山道ルートの採用が決定し([[中山道幹線]]を参照)たが、その建設資材を搬入するため、[[太平洋]]側と中山道を結ぶ鉄道路線が同時に計画された。[[三河湾]]に面した[[知多半島]]の[[衣浦港|武豊港]]と岐阜を結ぶ路線(現在の東海道本線の一部及び[[武豊線]])がそれで、[[武豊駅]]を起点に工事が進められた。 [[1886年]](明治19年)[[4月1日]]に[[熱田駅|熱田]] - [[枇杷島駅|枇杷島]](当時の駅名は清洲駅)間が開業し、その翌月の[[5月1日]]に'''名護屋駅'''が開設された。現在の駅より200mほど南方、当時の広井村笹島地内で葦が茫々と繁る湿地帯であった。金山付近は台地([[熱田台地]])のため線路を[[切土]]構造にして、そこで発生した土砂を運搬して湿地帯に[[盛土]]するという土木工事が行われた。これが名護屋駅開業が遅れた理由だという<ref>『名古屋の駅の物語』(中日新聞社)</ref>。 開業の翌年には'''名古屋駅'''と改称されるが、当時は『'''笹島ステンション』'''(『[[ステン所]]』の意<ref>{{Cite web |title=名駅物語 {{!}} メイエキドットコム |url=https://www.meieki.com/story.php |website=www.meieki.com |access-date=2023-12-04}}</ref>)と広く呼ばれていた<ref>徳田耕一『名古屋近郊電車のある風景 今昔』(JTBキャンブックス)</ref><ref>{{Cite web |title=ノルマントン号事件起きる|愛知千年企業-明治時代編 |url=https://www.nagoya-rekishi.com/meiji/chapter1/1886.html |website=www.nagoya-rekishi.com |access-date=2023-12-04}}</ref>。 その後、東西両京を結ぶ幹線鉄道は[[碓氷峠]]など山岳地帯の工事が予想以上に難航するとみられたこと、さらに当時の名古屋区長(現在の市長格)である[[吉田禄在]]が中山道幹線では名古屋を通過しないことになり、名古屋の衰退を招くと、東海道経由への計画変更を政府へ働きかけたこともあり<ref>『名古屋駅八十年史』(名古屋駅、1967年)</ref>、岐阜以東の幹線鉄道ルートは[[美濃路]]・東海道経由に変更され、名古屋は東海道幹線上の駅とされることとなった。またこの吉田により、名古屋駅の近くを通り、名古屋駅と市街地を結ぶ道となる[[広小路通 (名古屋市)|広小路通]]も拡幅され、後の[[1898年]](明治31年)には[[京都電気鉄道]]に次いで日本で2番目の[[路面電車]]となる[[名古屋電気鉄道]](→[[名古屋市電]])がこの通り上へ開通している([[名古屋市電栄町線|笹島 - 県庁前間]])。 [[1892年]](明治25年)には、前年の[[濃尾地震]]で倒壊した初代駅舎に代わって、2代目の駅舎が竣工。そして[[1895年]](明治28年)には[[関西本線]]の前身となる私鉄の[[関西鉄道]]が当駅まで乗り入れ、[[1900年]](明治33年)には現在の[[中央本線]]となる官営鉄道線が名古屋駅を起点に[[多治見駅|多治見]]まで開業し、複数路線が乗り入れるターミナル駅へと成長した。 なお、関西鉄道は後に名阪間輸送で官営鉄道と競うことを見込み、名古屋乗り入れ翌年の[[1896年]](明治29年)には名古屋駅のすぐ南方、現在では[[名古屋車両区]]がある辺りに独自ターミナルの'''[[愛知駅]]'''を開設しているが、[[鉄道国有法]]に基づき関西鉄道が国有化されたことにより、国有化2年後の[[1909年]](明治42年)に廃止されている。 [[1889年]](明治22年)には日本の鉄道総延長1,000[[マイル]] (1,609&nbsp;km) 達成記念、[[1906年]](明治39年)には5,000マイル (8,046&nbsp;km) 達成記念の祝賀行事がそれぞれ名古屋で開催された<ref>原口隆行『鉄道唱歌の旅 東海道線今昔』(JTBキャンブックス)</ref>。 [[1937年]](昭和12年)には高架化工事が竣工し、駅は北へ200mほど移転した。新駅舎は鉄筋コンクリート造り、地上5階(一部6階)地下1階、延べ床面積7万㎡、国内最大級の駅舎だった。この駅舎は、セントラルタワーズの建設工事が始まる[[1993年]](平成5年)10月まで使用された。 名古屋市営地下鉄東山線は、建設当初、国鉄との相互直通運転を行う計画があり、国鉄ホームの東側に地上ホームの設置計画があったが列車本数が増加することもあり断念。結局、東口の地下にホームが建設された。 将来は、[[中央新幹線|リニア中央新幹線]]の駅が併設される<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=115405273X00220020304 第154回国会 予算委員会第八分科会 第2号] - 衆議院会議録情報(2002年3月4日)</ref>。JR東海は、将来の関西圏延伸までに大多数の乗客が行う既存新幹線や在来線各線との相互乗り換えに配慮し、名古屋駅新幹線ホーム北東直下の大深度に新駅を建設した場合に乗り換えにかかる移動時間が3分 - 9分であると試算報告し、既存の名古屋駅を拡張する計画である<ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/common/000128373.pdf 中央新幹線と東海道新幹線との乗換]}} - 国土交通省交通政策審議会第11回中央新幹線小委員会 配布資料(2010年11月12日)</ref>。 === 年表 === ==== JR東海 ==== * [[1886年]]([[明治]]19年)[[5月1日]]:[[鉄道省|官設鉄道(国鉄)]]の'''名護屋駅'''として、[[熱田駅]] - 清洲駅(初代、現在の[[枇杷島駅]])間に新設開業{{sfn|石野|1998|p=27}}。 ** 当時、ホームは2面2線のみであった。[[東海道本線]]が全通する[[1889年]](明治22年)までに、2つのホームの間に[[停車場#本線|中線]]が敷設された。 * [[1887年]](明治20年)[[4月25日]]:'''名古屋駅'''に改称。 * [[1891年]](明治24年)[[10月28日]]:[[濃尾地震]]が発生、初代駅舎が倒壊。駅舎は[[1892年]]までに再建。 * [[1895年]](明治28年) ** [[4月1日]]:線路名称制定。東海道線の所属となる。 ** [[5月24日]]:[[関西鉄道]]線(現在の[[関西本線]])の名古屋駅が開業{{sfn|石野|1998|p=335}}。 * [[1896年]](明治29年)[[7月6日]]:関西鉄道が現在の[[名古屋車両区]]付近に[[愛知駅]]を開設<ref>[[#sone08|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 8号]]、12頁</ref>。 * [[1900年]](明治33年)[[7月25日]]:中央西線となる路線が[[多治見駅]]まで開業{{sfn|石野|1998|p=190}}。 ** この時に、東海道線上りホームの一部を使用して[[切欠きホーム]]1線が設置された。 * [[1907年]](明治40年)[[10月1日]]:関西鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]{{sfn|石野|1998|p=335}}。 * [[1909年]](明治42年) ** [[6月1日]]:愛知駅を統合<ref name="sone08-13">[[#sone08|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 8号]]、13頁</ref>。 ** [[10月12日]]:線路名称制定。当駅を通る東海道線の本線筋は東海道本線、多治見駅方面の路線は中央西線、旧・関西鉄道線は関西本線となる{{R|sone08-13}}。 * [[1911年]](明治44年)5月1日:東海道本線貨物支線([[名古屋港線]])が開業{{sfn|石野|1998|p=51}}。同日の線路名称改定で、中央西線は[[中央本線]]に編入。 * [[1913年]]([[大正]]2年) ** [[7月1日]]:関西線専用ホーム1面2線を新設。 ** [[8月21日]]:構内に[[東海旅客鉄道名古屋工場|名古屋工場]]を新設。 * [[1925年]](大正14年)[[1月16日]]:[[稲沢駅]]構内に稲沢[[操車場 (鉄道)|操車場]]が開業、当駅での貨車組成を廃止。 * [[1935年]]([[昭和]]10年)[[11月16日]]:構内に客車操車場(現・[[名古屋車両区]])を新設。 * [[1937年]](昭和12年)[[2月1日]]:現在地に移転・高架化、3代目の駅舎が使用を開始<ref>[{{新聞記事文庫|url|0100167972|title=名駅改築発表 : 千数百万円の予算現在の三倍強に拡張|oldmeta=00099825}} 名駅改築発表] 1919年2月17日付新愛知(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)</ref>。貨物取扱施設を分離し[[笹島駅]]が開業{{sfn|石野|1998|p=27}}。 ** 移転前のホームは2面5線であったが、高架化に伴い4面8線に拡張された。当時は1 - 15番線があり、3・4番ホームが東海道本線上り、5・6番ホームが同線下り、7・8番ホームが中央本線、10・11番ホームが関西本線ののりばとなっていた。 ** また、中央本線は東海道本線の東側を通っていたが、高架化により名古屋駅付近は西側を通るようになった。 ** 移転前は軌道中心間隔が約3.8mと狭かったが、高架化に伴い軌道中心間隔を約4.6mに拡大された。将来の標準軌(1435mm軌間)への改軌を考慮したため。 * [[1945年]](昭和20年)[[3月19日]]:[[名古屋大空襲]]で駅舎が火災に遭う。 * [[1946年]](昭和21年)[[1月11日]]:[[連合国軍最高司令官総司令部|進駐軍]]専用待合室の使用開始。 * [[1950年]](昭和25年)6月1日:東海道本線貨物支線([[西名古屋港駅|西名古屋港]]支線)が開業。 * [[1953年]](昭和28年)[[7月21日]]:東海道本線[[浜松駅]] - 当駅間電化により、当駅で電気運転を開始<ref>『鉄道と街・名古屋駅』(著者 大野一英・林鍵治)、大正出版、1986年、138頁</ref>。当駅の在来線構内の架線の高さはレール面上より5mとされた。 * [[1956年]](昭和31年)[[4月15日]]:[[自動券売機]]設置。 * [[1959年]](昭和34年)[[11月26日]]:12・13番線ホームを新設。 * [[1964年]](昭和39年)10月1日:[[東海道新幹線]]の名古屋駅が開業。新幹線用ホーム2面4線を新設。 * [[1966年]](昭和41年)[[6月29日]]:0・1番線ホームを新設。 * [[1969年]](昭和44年) ** [[4月1日]]:南口(現在の広小路口)開設。南通路はそれまでは貴賓通路として使用されていたものである{{Refnest|group="注釈"|同様に北通路は降車用通路として使用されていた<ref>- 『鉄道と街・名古屋駅』(著者 大野一英・林鍵治)、大正出版、1986年、108頁および140頁</ref>。}}。 ** 10月1日:当日の[[ダイヤ改正]]により、当駅発着の定期旅客列車から関西本線を最後に[[蒸気機関車]]が消える<ref name="nagoyaeki1986p140">『鉄道と街・名古屋駅』(著者 大野一英・林鍵治)、大正出版、1986年、140頁</ref>。 * [[1971年]](昭和46年)[[4月26日]]:当駅を経由する貨物列車からも蒸気機関車が消える<ref name="nagoyaeki1986p140"/>。 * [[1982年]](昭和57年) ** [[3月15日]]:寝台特急「[[紀伊 (列車)|紀伊]]」の下り列車が当駅10番線で[[列車衝突事故|衝突事故]]([[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#寝台特急「紀伊」機関車衝突事故|寝台特急「紀伊」機関車衝突事故]])。 ** [[12月1日]]:国鉄在来線で全国初のホーム案内放送を自動化<ref>『鉄道と街・名古屋駅』(著者 大野一英・林鍵治)、大正出版、1986年、141頁</ref>。 * [[1983年]](昭和58年)4月1日:新幹線のホーム案内放送を自動化<ref>{{Cite news |title=七駅の案内放送を自動化 名鉄局 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1983-04-05 |page=2 }}</ref>。 * [[1986年]](昭和61年)[[11月1日]]:笹島駅が廃止される{{sfn|石野|1998|p=28}}。 * [[1987年]](昭和62年) ** [[3月31日]]:貨物取扱再開(書類上){{sfn|石野|1998|p=27}}。 ** 4月1日:[[国鉄分割民営化]]により国鉄の駅は[[東海旅客鉄道]](JR東海){{sfn|石野|1998|p=335}}・[[日本貨物鉄道]](JR貨物)が承継{{sfn|石野|1998|p=27}}。同時に名古屋港線の起点は、実際の分岐点である山王信号場に改められ、書類上当駅には乗り入れなくなる。 ** 7月1日:名古屋港線上に[[臨時駅]]の[[ナゴヤ球場正門前駅]]を開設。当駅から気動車を運行<ref>『まるごと名古屋の電車 激動の40年』(著者 徳田耕一)河出書房新社、2014年、68頁</ref>。 * [[1988年]](昭和63年) ** [[3月13日]]:0・1番線ホームを1・2番線ホームに改称<ref>『JR編集時刻表』(編集・発行 弘済出版社)1987年12月号29頁と1988年3月号33頁(いずれも名古屋駅構内案内図)の比較。</ref>。 ** [[12月21日]]:従来の北口・中央口を桜通口に、西口を太閤通口に、南口を広小路口にそれぞれ改称<ref>『JR編集時刻表』(編集・発行 弘済出版社)1989年1月号、JRニュース5頁</ref>。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[7月12日]]:太閤通北改札口開設<ref>『[[中日新聞]]』([[中日新聞社]])、1989年7月13日付朝刊20面(市民版)</ref>。 * [[1991年]](平成3年)[[11月30日]]:全国唯一の駅内[[銭湯]]であった[[早川浴場]]がこの日限りで閉店<ref>『名古屋近郊電車のある風景今昔II』(著者 徳田耕一)、JTB、2004年、21頁</ref>。 * [[1992年]](平成4年) ** [[3月14日]]:東海道新幹線に「のぞみ」が新設され、朝の下り列車である「のぞみ301号」が新幹線で初めて当駅と[[京都駅]]を通過するダイヤを組んだため、「[[名古屋飛ばし]]」として話題になった(名古屋飛ばしは[[1997年]][[11月29日]]をもって廃止された)。 ** [[6月27日]]:在来線中央改札口に[[自動改札機]]を導入<ref>{{Cite news |title=4駅でも使用開始 JR東海自動改札機導入進む |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-04-18 |page=2 }}</ref>。 * [[1993年]](平成5年) ** [[2月2日]]:駅ビル解体工事開始<ref>{{Cite news |title=JR東海名古屋駅ビル 解体工事始まる 新ビル 99年完成目指す |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-02-04 |page=1 }}</ref>。 ** [[3月13日]]:在来線広小路改札口に自動改札機を導入。駅ビル改築工事のため1・2番線ホーム使用停止{{Refnest|group="注釈"|ただし、同年4月10日までは準備工事のため3・4番線ホームを使用停止<ref>『JR時刻表』(編集・発行 弘済出版社)1993年3月号33頁(名古屋駅構内案内図)</ref>。}}。 * [[1994年]](平成6年)[[10月8日]]:名古屋港線のナゴヤ球場正門前駅への運行をこの日限りで終了<ref>『まるごと名古屋の電車 激動の40年』(著者 徳田耕一)河出書房新社、2014年、97頁</ref>。 * [[1998年]](平成10年) ** [[3月12日]]:新幹線改札口に自動改札機を導入<ref>{{Cite web|和書|title=NEWS SUMMARY 1998年3月|url=http://jrc-nagoya.sakura.ne.jp/newssummary/1998-03.html|publisher=[[鉄道友の会]] 名古屋支部|accessdate=2017-05-31}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |date=1998-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '98年版 |chapter=JR年表 |page=184 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-119-8}}</ref>。 ** [[12月2日]]:仮改札口となっていた桜通口改札口が再開、同時に自動改札機を導入<ref name="交通981028">{{Cite news |title=名古屋駅桜通口出改札 12月2日から使用開始 JR東海 1、2番線ホームは7日 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-10-28 |page=3 }}</ref>。 ** [[12月7日]]:1・2番線ホーム使用再開{{R|交通981028}}<ref>『JR時刻表』(編集・発行 弘済出版社)1998年12月号、JRニュース4頁</ref>。 * [[1999年]](平成11年)[[12月20日]]:JRセントラルタワーズ開業。 * [[2002年]](平成14年)[[2月26日]]:JR東海セントラルタワーズが「世界最大の駅ビル」として[[ギネス世界記録|ギネスブック]]に登録される<ref name="RP717_110">{{Cite journal|和書|author=編集部|title=2月のメモ帳|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2002-05-01|volume=52|issue=第5号(通巻第717号)|page=110|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[2006年]](平成18年)[[11月25日]]:JR東海で[[ICカード]]「[[TOICA]]」の利用が可能となる。 * [[2016年]](平成28年) ** [[1月16日]]:[[中央新幹線|リニア中央新幹線]]工事に伴い、在来線北通路から中央コンコース北側につながる'''中央北口'''新設<ref name="交通新聞20160119">{{Cite news |title=JR東海名古屋駅 「中央北口」使用開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2016.01.19 }}</ref>。太閤通北改札口の閉鎖に伴うもの<ref name="交通新聞20160119"/>{{Refnest|group="PR"|{{PDFlink|[http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000026624.pdf 名古屋駅の在来線改札口の移転について]}}、東海旅客鉄道ニュースリリース、2015年5月14日、2015年8月22日閲覧。}}{{Refnest|group="注釈"|なお、新改札口と同じ位置には、[[1960年代]]まで西出口が設置されていた<ref>『名古屋駅八十年史』(発行 名古屋駅)、1967年、180頁。</ref>。}}<!--当時の構造を利用していると思われます。半世紀たって再び旅客に供されることになります。-->。 ** [[3月9日]]:新幹線ホームの[[ホームドア#可動式ホーム柵|可動式安全柵]]設置完了<ref name="交通2016-03-08">{{Cite news |title=JR東海 東海道新幹線可動柵の設置完了 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2016-03-09 }}</ref>。 ** [[3月26日]]:ダイヤ改正に伴い、特急「[[しなの (列車)|しなの]]」の当駅以西([[大阪駅|大阪]]方面)の乗り入れが廃止される。「しなの」は、当駅で[[長野駅|長野]]方面へ折り返すようになる。これに伴い、全ての特急列車は当駅発着になり、中央西線から東海道線に直通する列車は平日の2本しかない(多治見発普通岐阜行きと 高蔵寺発快速岐阜行きのみ) * [[2018年]](平成30年)[[3月17日]]:リニア中央新幹線工事に伴い、2番線使用停止<ref name="20180317dia"/>。同時期に在来線に駅ナンバリング導入{{Refnest|group="PR"|{{PDFlink|[http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000035928.pdf 在来線駅に駅ナンバリングを導入します]}}、東海旅客鉄道ニュースリリース、2017年12月13日、2018年3月18日閲覧。}}。 * [[2019年]]([[令和]]元年)[[10月1日]]:リニア中央新幹線工事に伴い、1番線を使用停止し、2番線を使用再開<ref group="PR" name="jrc000040006">{{PDFlink|[https://jr-central.co.jp/topics/_pdf/000040006.pdf 名古屋駅番線の一部変更について(東海道線)]}} - 東海旅客鉄道、2019年9月30日閲覧。</ref>。 * [[2022年]](令和4年)[[3月12日]]:同日のダイヤ改正で、中央本線から東海道本線岐阜駅まで直通する列車を廃止。中央本線の列車はすべて当駅始発・終着となる<ref name="jikokuhyo202203zairaisen"/>。 ==== 名古屋臨海高速鉄道 ==== * [[2004年]](平成16年)[[10月6日]]:JR東海の西名古屋港支線を旅客化し、名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線(あおなみ線)として開業(開業時より[[トランパス (交通プリペイドカード)|トランパス]]を導入)。 * [[2008年]](平成20年)[[10月23日]]:あおなみ線の名古屋駅で初発列車の[[手歯止め]]取り外し忘れにより脱線事故が発生<ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2009-5-2.pdf 鉄道事故調査報告書(名古屋臨海高速鉄道株式会社西名古屋港線(あおなみ線)名古屋駅構内列車脱線事故)]}}、運輸安全委員会、2009年5月29日公表、2015年8月21日閲覧</ref>。 * [[2011年]](平成23年)[[2月11日]]:あおなみ線で[[ICカード]]「[[manaca]]」の利用が可能となる。 * [[2022年]](令和4年)[[10月27日]]:日本初となる[[レゴ|レゴブロック]]製の路線案内図を設置<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000039.000025163.html |title=日本初!レゴ(R)ブロック製の路線案内図を名古屋市営地下鉄&あおなみ線 計5駅に10月27日(木)より設置 |access-date=2023年1月1日 |publisher=PRTIMES}}</ref>。 ==== 名古屋市営地下鉄 ==== * [[1950年]](昭和25年)[[1月19日]]:[[建設省]]告示第9号で計画決定<ref name="kensetsusho-1963">{{Cite | last = | first = | authorlink = | coauthors = | translator = | title = 建設省十五年小史 | publisher = [[建設広報協議会]] | series = | volume = | edition = | date = 1963年10月1日 | pages = | url = | doi = | id = | isbn = | ncid = }}</ref>。 * [[1954年]](昭和29年)[[8月]]:名古屋駅 - 栄町駅間(現・[[栄駅 (愛知県)|栄駅]])の建設工事が着工<ref name="kensetsusho-1963" />。 * [[1957年]](昭和32年)[[11月15日]]:名古屋市営地下鉄1号線(後の[[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]])名古屋駅開業<ref name="nagoyashishi7-1998">{{Cite | last = | first = | authorlink = | coauthors = 新修名古屋市史編集委員会 | translator = | title = 新修名古屋市史 第7巻 | publisher = 名古屋市 | series = | volume = | edition = | date = 1998年3月31日 | pages = | url = | doi = | id = | isbn = | ncid = }}</ref>。 * [[1968年]](昭和43年)[[9月1日]]:1号線名古屋駅のホーム延長、乗車・降車区分使用開始<ref name="chikatetsushiryo">『開業30周年 地下鉄資料集』(編集・発行 名古屋市交通局営業本部電車部)、1987年11月、164頁</ref>。 * [[1969年]](昭和44年) ** 4月1日:1号線[[中村公園駅]] - 名古屋駅間および[[星ヶ丘駅 (愛知県)|星ヶ丘駅]] - 藤ヶ丘駅(現・[[藤が丘駅 (愛知県)|藤が丘駅]])間が開業、中間駅となる<ref name="nagoyashishi7-1998" /><ref name="chikatetsushiryo"/>。 ** [[4月25日]]:1号線の愛称を[[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]]と決定<ref name="chikatetsushiryo"/>。 * [[1989年]](平成元年)[[9月10日]]:[[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]]の名古屋駅が開業<ref name="chunichi2009910">{{Cite news | last = | first = | coauthors = | title = 地下鉄桜通線きょう20周年 記念グッズも販売 | newspaper = [[中日新聞]] | location = | pages = | language = | publisher = 中日新聞社 | date = 2009-09-10 | url = | accessdate = }}</ref>。 * [[2011年]](平成23年) ** [[2月5日]]:桜通線で[[可動式ホーム柵]]使用開始。 ** 2月11日:名古屋市営地下鉄で[[ICカード]]「[[manaca]]」の利用が可能となる。 * [[2014年]](平成26年)[[9月25日]]:未明の大雨により、隣接の[[JPタワー名古屋]]工事現場から東山線の駅構内へ浸水。9時間15分にわたり運転見合わせ{{Refnest|group="PR"|{{PDFlink|[http://www.kotsu.city.nagoya.jp/dbps_data/_material_/localhost/_res/about/press_release/20150327.pdf 地下鉄東山線名古屋駅の浸水事故に伴う被害金額について]}} - 名古屋市交通局報道発表資料、2015年3月27日発表、2015年8月21日閲覧。}}。 * [[2015年]](平成27年)[[10月25日]]:東山線で可動式ホーム柵使用開始{{Refnest|group="PR"|name="kadousaku20150612"|{{PDFlink|1=[http://www.kotsu.city.nagoya.jp/dbps_data/_material_/localhost/_res/about/press_release/20150612.pdf 地下鉄東山線に可動式ホーム柵を設置します]}} - 名古屋市交通局、2015年6月12日。}}。 * [[2020年]](令和2年)[[6月6日]]:[[リニア中央新幹線]]建設工事のため駅通路・出入口の一部を閉鎖<ref group="PR">{{Cite web|和書|url = https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/SUBWAY/TRP0003976.htm |title = 名古屋駅2番出入り口と一部通路の閉鎖について|publisher = 名古屋市交通局|date=2020-05-07|accessdate = 2020-05-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200516065116/https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/SUBWAY/TRP0003976.htm|archivedate=2020-05-16}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)[[10月27日]]:日本初となる[[レゴ|レゴブロック]]製の路線案内図を南改札口前の券売機コーナーに設置<ref name=":0" />。 ==== その他 ==== * [[1898年]](明治31年)[[5月6日]]:名古屋駅前に[[名古屋電気鉄道]](後の[[名古屋市電]])が乗り入れ。 * [[1938年]](昭和13年)[[6月26日]]:[[関西急行電鉄]](現・近畿日本鉄道)関急名古屋駅(現・近鉄名古屋駅)開業。 * [[1941年]](昭和16年)[[8月12日]]:名古屋鉄道新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)開業。 * [[1972年]](昭和47年)[[3月1日]]:名古屋市電の名古屋駅前電停が廃止。 == 駅構造 == === JR東海 === {{駅情報 |社色 = #f77321 |文字色 = |駅名 = JR 名古屋駅* |画像 = JR-Nagoya-STA Central-Gate.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 中央口改札(2022年1月) |よみがな = なごや |ローマ字 = Nagoya |所属事業者 = [[東海旅客鉄道]](JR東海) |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 8面16線(合計)<br />2面4線(新幹線)<br />6面12線(在来線) |開業年月日 = <span style="white-space:nowrap;">[[1886年]]([[明治]]19年)[[5月1日]]</span> |駅番号 = |所在地 = [[名古屋市]][[中村区]][[名駅]]一丁目1-4 |座標 = {{coord|35|10|14.498|N|136|52|53.893|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 名古屋駅}} |乗車人員 = 143,058 |乗降人員 = |統計年度 = 2021年 |電報略号 = ナコ |事務官コード= ▲0530116 |乗入路線数 = 4 |所属路線1 = {{Color|mediumblue|■}}[[東海道新幹線]] |前の駅1 = [[三河安城駅|三河安城]] |駅間A1 = 29.7 |駅間B1 = 30.3 |次の駅1 = [[岐阜羽島駅|岐阜羽島]] |キロ程1 = 366.0 |起点駅1 = [[東京駅|東京]] |所属路線2 = {{JR海駅番号|CA}} [[東海道本線]]([[東海道線 (名古屋地区)|名古屋地区]]) |前の駅2 = CA67 [[尾頭橋駅|尾頭橋]] |駅間A2 = 2.4 |駅間B2 = 4.0 |次の駅2 = [[枇杷島駅|枇杷島]] CA69 |駅番号2 = {{JR海駅番号|CA|68}} |キロ程2 = 366.0 |起点駅2 = 東京 |所属路線3 = {{JR海駅番号|CF}} [[中央本線]]([[中央線 (名古屋地区)|名古屋地区]]) |前の駅3 = ◄**CF01 [[金山駅 (愛知県)|金山]] (3.3km) |駅間A3 = |駅間B3 = |隣の駅3 = self |駅番号3 = {{JR海駅番号|CF|00}} |キロ程3 = 396.9 |起点駅3 = 東京 |所属路線4 = {{JR海駅番号|CJ}} [[関西本線]]([[関西線 (名古屋地区)|名古屋地区]]) |隣の駅4 = self |駅間A4 = |駅間B4 = |次の駅4 = (3.8km) [[八田駅|八田]]*** CJ01► |キロ程4 = 0.0 |駅番号4 = {{JR海駅番号|CJ|00}} |起点駅4 = 名古屋 |備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|駅長配置駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])<!--←JR東海の表記--><br />[[みどりの窓口|JR全線きっぷうりば]] 有<br />[[ファイル:JR area MEI.png|15 px|名]] [[特定都区市内|名古屋市内]]駅(中心駅) |備考全幅 = * [[1887年]]に名護屋駅から改称。<br />** この間に[[山王信号場]]有り(当駅から1.8 km先)。<br />*** この間に[[笹島信号場]]有り(当駅から1.8 km先)。 }} 在来線・新幹線ともに[[高架駅|高架ホーム]]となっている。 新幹線は構内西側の[[島式ホーム]]2面4線(14番線 - 17番線)を使用する。このうち外側の14・17番線が[[停車場#本線|本線]]、内側の15・16番線が[[停車場#本線|副本線]]である。副本線の北方に[[引上線]]があり、さらにその北方からは[[新大阪駅|新大阪]]方の[[名古屋車両所]]へ繋がる支線が分岐している。全列車が停車するため、[[東京駅]]などと同様に以前は固定式の[[プラットホーム#安全対策|安全柵]]が設置されていたが、2016年(平成28年)2月9日に[[ホームドア#可動式ホーム柵|可動式安全柵]]の設置が完了した<ref name="交通2016-03-08"/>。 在来線は島式ホーム6面12線を使用する。9番線はホームのない[[停車場#本線|中線]]{{Refnest|group="注釈"|部内的には「臨港本線」と呼称されている。JRセントラルタワーズ建設前は、2・3番線間にもホームのない線路があった。}}<ref name="nagoyaeki1986p108">『鉄道と街・名古屋駅』(著者 大野一英・林鍵治)、大正出版、1986年、108頁</ref> である。東海道本線は2・6番線、中央本線は7・8番線、関西本線は11・12番線が本線である。 リニア中央新幹線工事に伴い1番線は[[2019年]]([[令和]]元年)[[10月1日]]から使用停止中であり<ref group="PR" name="jrc000040006"/> <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yamachan.co.jp/shop/aichi/nagoyaeki1bansen.php|title=名古屋駅1番線店|publisher=エスワイフード|accessdate=2023-11-09}}</ref> <ref>{{Cite web|和書|date=2023-08-18|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFD187HS0Y3A810C2000000/|title=名古屋駅の線路上に「世界の山ちゃん」 期間限定出店|publisher=日本経済新聞社|accessdate=2023-11-09}}</ref> <ref>{{Cite web|和書|date=2023-08-30|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFD306P50Q3A830C2000000/|title=「山ちゃん」線路上で乾杯 名古屋駅1番線店を公開|publisher=日本経済新聞社|accessdate=2023-11-09}}</ref>、[[2021年]][[3月]]までに転落防止用の[[柵|フェンス]]が設置されている{{Refnest|group="注釈"|[[2018年]][[3月17日]]から2019年[[9月30日]]までは2番線の使用が停止されていた<ref name="20180317dia" />。}}。12・13番線ホームは他のホームと比較して短く、[[エスカレーター]]が設置されていない([[エレベーター]]は設置されている)ほか、[[階段]]の設置数も他のホームより少ない<ref>『JR時刻表』(編集・発行 交通新聞社)2015年7月号24頁(名古屋駅構内案内図)</ref>。JRセントラルタワーズ建設に伴い、直下に位置する1・2番線ホームが造り直された。当駅の在来線の構内は軌道中心間隔が約4.6[[メートル|m]]と広く取られている([[日本の改軌論争]]を参照)。 在来線13番線と新幹線14番線の間には、13番線側から[[名古屋車両区]]出入庫線{{Refnest|group="注釈"|かつては13番線側から出庫線・入庫線の2本があったが、2016年2月までにホーム部分の入庫線が撤去された<ref name="rj201604p19">『鉄道ジャーナル』(編集・発行 鉄道ジャーナル社)、2016年4月号、19頁</ref>。}}・[[稲沢線]]本線{{Refnest|group="注釈"|稲沢線の南側は2本に分かれて西名古屋港線(あおなみ線)の名古屋駅に通じる。なお稲沢線は名古屋駅構内(JR線のホーム部分)のみ単線になっている<ref name="rj201604p19"/>。}}がある<ref name="nagoyaeki1986p108"/>。構内には折り返し用の留置線が設けられているほか、[[分岐器]]も多数あり、各路線間の転線が可能な配線になっている。ただし、1・2番線は東海道本線上りの発着以外には使用できない。また13番線から東海道本線(上下とも)への発車など、配線上は可能でも信号上の進路が構成されていない組み合わせも一部ある。なお当駅構内の在来線で[[立体交差]]になっているのは駅南西側の西名古屋港線(あおなみ線)と関西本線および名古屋車両区出入庫線の交差のみである<ref name="nagoyaeki1986p108"/>。 長らく在来線ホームでは接近時、発車時に独自の発車ベルが使用されていたが、[[2012年]][[9月9日]]に在来線運行管理システムの更新が行われ、独自の発車ベルは使われなくなり、アナウンス更新(英語アナウンスも導入)及び接近メロディが導入された。なお、アナウンスは2011年以降に導入された中央線、2014年11月に導入された東海道線のものとはやや異なる。 2020年から[[列車見張員]]に対して列車接近を確実に把握できるようにするため、在来線構内の線路に青色[[発光ダイオード|LED]]表示灯が設置された。ホームから約800メートルの範囲で東京方面に233個、大阪方面に159個、合計392個設置<ref>{{Cite news2|url=https://www.asahi.com/articles/ASNDM61TQNDKOIPE03B.html|title=「あれは何」「滑走路みたい」 名古屋駅に無数の青い光|date=2020-12-19|accessdate=2021-12-21|newspaper=朝日新聞}}</ref>。列車がいない間は点灯しているが、列車接近時になると点滅するようにしている<ref group="PR">{{Cite press release|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191110071804/https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000039994.pdf|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000039994.pdf|format=pdf|date=2019-09-11|archivedate=2019-11-10|accessdate=2020-07-26|title=列車見張員支援システムの改良等について|publisher=東海旅客鉄道}}</ref>。 2020年現在、前述したように[[中央新幹線]]の島式プラットホーム2面4線が東海道新幹線ホームの北東直下に東西方向で工事中である<ref>[http://linear-chuo-shinkansen.jr-central.co.jp/plan/eki/ ターミナル駅の工事|リニア中央新幹線|JR東海]</ref>。 [[駅長]]・[[駅員]]配置駅([[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]])であり、[[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]として、[[尾頭橋駅]]・[[枇杷島駅]]の2駅を管理している。また[[事務管理コード|事務管コード]]は、▲530116である。なお、名古屋市内の事務管コードは、▲539901が用いられている<ref>日本国有鉄道旅客局(1984)『鉄道・航路旅客運賃・料金算出表 昭和59年4月20日現行』。</ref>。 ==== のりば(JR東海) ==== 以下は2023年4月18日現在の内容<ref>『JR時刻表』(編集・発行 交通新聞社)2018年3月号2 - 28頁(東海道・山陽新幹線の時刻)</ref><ref name="jikokuhyo201803zairaisen">『JR時刻表』(編集・発行 交通新聞社)2018年3月号154 - 181頁、196 - 203頁、212 - 220頁(名古屋駅を発着する東海道本線・中央本線・関西本線の時刻)</ref><ref group="PR" name="jrc000040006"/>。 <!-- 発着番線の情報は公式サイトの時刻表を参照。方面表記は、原則としてJR東海の「駅構内図」の記載に準拠(11番線東海道本線を除く。また公式サイトでも参照できる時刻表により11番線発の中央線列車等もあるため、その旨追記) ---> {| class="wikitable" style="font-size:small;" !番線<!--事業者側による呼称。JR東海は「○番線」と表現--->!!路線!!方向!!行先!!備考 |- |colspan="5" style="background-color:#eee; border-top:solid 3px #999;"|'''在来線ホーム''' |- !{{color|gray|1}} |colspan="4" style="background:beige;"|{{color|gray|(2019年10月1日から使用停止)}} |- !2 |rowspan="4"|[[ファイル:JR Central Tokaido Line.svg|15px|CA]] 東海道本線 |rowspan="2" style="text-align:center;"|上り |rowspan="2"|[[豊橋駅|豊橋]]方面 |特別快速・新快速・快速の大部分が使用 |- !rowspan="2"|3・4 |[[武豊線]]直通列車や上り普通列車の大部分が使用 |- |rowspan="8" style="text-align:center;"|下り |rowspan="2"|[[岐阜駅|岐阜]]方面 |9号より前の特急「[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]」が使用(4番線)<br />中央本線[[始発列車|初発]]の普通列車多治見行も使用(4番線)<ref name="20190316w">{{Cite web|和書|url=https://railway.jr-central.co.jp/time-schedule/srch/_pdf/data/201903/chuo_Nagoya_A_w_d.pdf|format=pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190316052411/https://railway.jr-central.co.jp/time-schedule/srch/_pdf/data/201903/chuo_Nagoya_A_w_d.pdf|archivedate=2019-03-16|title=名古屋駅時刻表(中央線・平日)2019年3月16日改正|author=東海旅客鉄道|accessdate=2019-03-16}}</ref><ref name="20190316h">{{Cite web|和書|url=https://railway.jr-central.co.jp/time-schedule/srch/_pdf/data/201903/chuo_Nagoya_A_h_d.pdf|format=pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190316052438/https://railway.jr-central.co.jp/time-schedule/srch/_pdf/data/201903/chuo_Nagoya_A_h_d.pdf|archivedate=2019-03-16|title=名古屋駅時刻表(中央線・土曜・休日)2019年3月16日改正|author=東海旅客鉄道|accessdate=2019-03-16}}</ref> |- !5・6 |5番線は普通、6番線は特別快速・新快速・快速が主に使用 |- !7・8 |rowspan="3"|[[ファイル:JR Central Chuo Line.svg|15px|CF]] 中央本線 |rowspan="3"|[[多治見駅|多治見]]方面 |普通・快速は主にこのホーム(尾頭橋駅は通過) |- !10 |特急「[[しなの (列車)|しなの]]」や中央本線のホームライナーが主に使用 |- !rowspan="3"|11 |一部の列車 |- |[[ファイル:JR Central Tokaido Line.svg|15px|CA]] 東海道本線 |[[美濃太田駅|美濃太田]]・[[高山駅|高山]]方面<br />[[米原駅|米原]]・[[金沢駅|金沢]]方面 |特急「[[ひだ (列車)|ひだ]]」及び11号以降の特急「しらさぎ」・「ホームライナー大垣」が使用 |- |rowspan="2"|[[ファイル:JR Central Kansai Line.svg|15px|CJ]] 関西本線 |rowspan="2"|[[亀山駅 (三重県)|亀山]]方面 |一部の列車 |- !12・13 |特急「[[南紀 (列車)|南紀]]」は12番線 |- |colspan="5" style="background-color:#eee; border-top:solid 3px #999;"|'''新幹線ホーム''' |- !|14・15 |rowspan="2"| [[ファイル:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] 東海道新幹線 |style="text-align:center;"|上り |[[東京駅|東京]]方面 |&nbsp; |- !|16・17 |style="text-align:center;"|下り |[[新大阪駅|新大阪]]方面 |&nbsp; |} (出典:[https://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/nagoya/map.html JR東海:駅構内図]) <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JR-Nagoya-station-platform-1-2.jpg|在来線1・2番線ホーム(2023年4月) JR-Nagoya-station-platform-3-4.jpg|在来線3・4番線ホーム(2023年4月) JR-Nagoya-station-platform-5-6-002.jpg|在来線5・6番線ホーム(2023年5月) JR-Nagoya-station-platform-7-8-002.jpg|在来線7・8番線ホーム(2023年4月) JR-Nagoya-station-platform-10-11.jpg|在来線10・11番線ホーム(2023年4月) JR-Nagoya-station-platform-12-13.jpg|在来線12・13番線ホーム(2023年4月) JR-Nagoya-station-platform-14-15.jpg|新幹線14・15番線ホーム(2023年5月) JR-Nagoya-station-platform-16-17.jpg|新幹線16・17番線ホーム(2023年5月) JR-Nagoya-station-name-board-tokaido-line.jpg|東海道本線駅名標(2020年5月) SN-Nagoya-station-name-board-003.jpg|新幹線駅名標(2020年7月) </gallery> ==== 新幹線配線図 ==== {{駅配線図|image=Rail_Tracks_map_JR-C_Nagoya_Station_Shinkansen_ja.svg |title=名古屋駅付近の東海道新幹線 配線略図 |width=450px |up=|up-align=|left=[[新横浜駅|新横浜]]・[[東京駅|東京]] 方面|left-valign=bottom |right=[[京都駅|京都]]・[[新大阪駅|新大阪]]<!--・[[岡山駅|岡山]]<br />・[[広島駅|広島]]・[[博多駅|博多]] -->方面|right-valign=bottom |down=|down-align=|source=以下を参考に作成<br />*「特集 : 東海道新幹線各駅停車」、『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』 第43巻 第6号(通巻第506号)2003年6月号、[[交友社]]、2003年、33頁。 |note=<small>※細線は保線用側線、画像右上は名古屋車両所と名古屋保線所基地</small>}} ==== 改札口・出入口 ==== 北通路に西から新幹線北口と同連絡改札・中央北口・桜通口があり、中央通路には西から新幹線南口と同連絡改札・南通路との連絡路や中央改札がある。 南通路には西から太閤通南口・あおなみ線連絡改札・中央通路との連絡路・近鉄連絡改札に至る階段・広小路口のそれぞれ在来線改札が並ぶ。 太閤北口はリニア中央新幹線の建設工事に伴い閉鎖され、その代わりに設置されたのが中央北口である。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JR-Nagoya-STA Shinkansen-South-Gate.jpg|新幹線南口改札(2022年1月) JR-Nagoya-STA Shinkansen-North-Gate.jpg|新幹線北口改札(2022年1月) JR-Nagoya-STA Shinkansen-South-Transfer.jpg|在来線・新幹線南乗換口(2022年1月) JR Central Nagoya Station Shinkansen North Transfer Gate.jpg|在来線・新幹線北乗換口(2022年11月) JR-Nagoya-STA Central-North-Gate.jpg|中央北口改札(2022年1月) JR-Nagoya-STA Sakura-dori-Gate.jpg|桜通口改札(2022年1月) JR-Nagoya-STA Taiko-dori-South-Gate.jpg|太閤通南口改札(2022年1月) JR-Nagoya-STA Hirokoji-Gate.jpg|広小路口改札(2022年1月) Kintetsu-Nagoya-STA JR-Transfer.jpg|JR線・新幹線連絡改札口(近鉄側)(2022年1月) </gallery> ==== 特記事項 ==== 2006年3月末、[[自動体外式除細動器]] (AED) が在来線ホーム・新幹線ホームに各1箇所、中央口・新幹線口・北口(新幹線側)に各1箇所設置された。 近鉄連絡改札口(近鉄名古屋駅の改札内)での係員による出札窓口は[[2017年]][[10月31日]]で終了し、翌[[11月1日]]から「[[自動券売機#指定券自動券売機|サポートつき指定席券売機]]」が設置されている<ref group="PR">{{PDFlink|[http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000035009.pdf 東海道本線 集中旅客サービスシステムの使用開始について]}} - 東海旅客鉄道 2017年9月5日、2018年5月5日閲覧</ref>。 7番・8番線には[[2025年]]に[[ホームドア]]の設置が決定している。[[ホームドア#QRコードの利用|開閉方式]]は[[金山駅 (愛知県)|金山駅]]で採用された[[京浜急行電鉄]]等と同様の[[QRコード]]読み取り式を採用する<ref group="PR">{{PDFlink|[https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000042450.pdf 在来線 名古屋駅7・8番線ホームへの可動柵設置について]}} - 東海旅客鉄道 2022年12月21日</ref>。 在来線・新幹線ホーム共に名古屋名物の[[きしめん]]を販売する飲食店がある<ref>[https://jt-s.net/shoplist/#sumiyoshi 愛され続けて駅きしめん]</ref>。 かつて新幹線南口の精算所の横にはJR6社で唯一、[[入場券]]専用の自動券売機が1台設置されていた。ホームの飲食店できしめんなどを食べる客の需要が多いためであり、2014年時点で撤去の見込みは無いとしていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/articles/ASG1B519DG1BOIPE01B.html|title=入場券なぜか売れる名古屋駅 専用券売機まで設置|accessdate=2014-08-15|author=立松大和|date=2014年1月22日|publisher=朝日新聞}}</ref>が、新幹線南口の自動改札機の増設工事により、[[2015年]][[9月27日]]に営業を終了した。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Nagoya Sta p.14-15 20220217-09.jpg|きしめんを販売するホーム上の店舗(2022年2月) </gallery> === 名古屋臨海高速鉄道(あおなみ線) === {{駅情報 |社色 = #334fa0 |文字色 = |駅名 = 名古屋臨海高速鉄道 名古屋駅 |画像 = JR Central・Aonami Nagoya Station Taikō-dōri South Gate.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 太閤通南口改札とあおなみ線改札<br>(2022年11月) |よみがな = なごや |ローマ字 = Nagoya |駅間B = 0.8 |次の駅 = [[ささしまライブ駅|ささしまライブ]] AN02 |電報略号 = |駅番号 = {{駅番号r|AN|01|#334fa0|4}} |所在地 = [[名古屋市]][[中村区]][[名駅]]一丁目1015-1 |座標 = {{coord|35|10|8|N|136|52|56|E|region:JP_type:railwaystation|name=あおなみ線 名古屋駅}} |所属事業者 = [[名古屋臨海高速鉄道]] |所属路線 = {{Color|#334fa0|■}}[[名古屋臨海高速鉄道あおなみ線|あおなみ線]]<!-- 正式名称ではないが、案内等があおなみ線で統一されているため --> |キロ程 = 0.0 |起点駅 = 名古屋 |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[2004年]]([[平成]]16年)[[10月6日]] |乗車人員 = 13,422 |乗降人員 = |統計年度 = 2021年<!-- 名古屋市統計年鑑より --> |備考 = }} あおなみ線のプラットホームはJR在来線の西側に位置する[[稲沢線]]と[[西名古屋港線]]にまたがる形で本線上に置かれている。島式ホーム1面2線を有し、[[ホームドア|可動式ホーム柵]]が設置されている。なお、プラットホーム自体はかなり長くなっているが、列車が停車しない南側の部分は柵で覆われ、立ち入り禁止となっている。引き上げ線はなく、終端側はそのまま稲沢線の本線となるため構内に[[車止め]]も存在しない。 出札及び改札口はJR太閤通南口に隣接して設置されている。あおなみ線の改札口はこの1ヶ所のみで、プラットホームの北端に当たる。JRとの連絡改札口(無人改札、双方とも改札内に相手方の自動券売機を2台設置)も設けられているが、名鉄や近鉄、地下鉄東山線への乗り換えや駅東側へ至るにはJR名古屋駅の中央コンコース又は駅南側で交差する公道まで大きく迂回するか、JRの入場券を用意した上でJRの改札内を通り抜ける必要がある。 終日駅員が配置され、隣の[[ささしまライブ駅]]を巡回駅として管理している。 ==== のりば(あおなみ線) ==== <!--方面表記は、あおなみ線の駅構内図の記載に準拠--> {| class="wikitable" !番線<!--事業者側による呼称。あおなみ線は「○番線」と表現--> !!路線!!行先 |- !1・2 |{{Color|#334fa0|■}}あおなみ線 |[[金城ふ頭駅|金城ふ頭]]方面 |} (出典:[https://www.aonamiline.co.jp/pc/stinfo_nagoya.html あおなみ線:駅構内図]) <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Aonami-Nagoya-STA JR-Transfer.jpg|JR線のりかえ口(2022年1月) Aonami-Nagoya-STA Home.jpg|あおなみ線ホーム(2022年1月) Nagoya Station from Midland Square.jpg|金山方に突出して島式ホームがある(2017年9月) </gallery> {{clear}} === 名古屋市営地下鉄 === {{駅情報 |社色 = #FAB123 |文字色 = |駅名 = 名古屋市営地下鉄 名古屋駅 |画像 = Nakamura 20211211-19.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 5番出入口(2021年12月) |よみがな = なごや |ローマ字 = Nagoya |電報略号 = |所属事業者 = [[名古屋市交通局]]<br />([[名古屋市営地下鉄]]) |開業年月日 = [[1957年]]([[昭和]]32年)[[11月15日]] |所在地 = [[名古屋市]][[中村区]][[名駅]]三丁目14-15 |座標 = {{coord|35|10|16|N|136|53|2|E|region:JP_type:railwaystation|name=名古屋市営地下鉄 名古屋駅}} |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 各1面2線(計2面4線) |乗車人員 = 143,984 |乗降人員 = |統計年度 = 2021年 |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = [[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]] |前の駅1 = H07 [[亀島駅|亀島]] |駅間A1 = 1.1 |駅間B1 = 1.4 |次の駅1 = [[伏見駅 (愛知県)|伏見]] H09 |駅番号1 = {{駅番号r|H|08|#FAB123|4}} |キロ程1 = 6.6 |起点駅1 = [[高畑駅|高畑]] |所属路線2 = [[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]] |前の駅2 = S01 [[太閤通駅|太閤通]] |駅間A2 = 0.9 |駅間B2 = 0.7 |次の駅2 = [[国際センター駅 (愛知県)|国際センター]] S03 |駅番号2 = {{駅番号r|S|02|#C92F44|4}} |キロ程2 = 0.9 |起点駅2 = [[太閤通駅|太閤通]] |備考 = }} {{Anchors|地下鉄}}改札口は桜通線側と東山線側に3ヶ所ずつある。地下鉄の駅名サインがある出入口は桜通線側に3ヶ所、東山線側に10ヶ所ある。桜通線への出入口はJR名古屋駅コンコースにも3か所(桜通口付近、太閤通口付近、うまいもん通り付近)ある。桜通線と東山線との乗り換えは連絡通路を経由することで可能である。連絡通路のエレベーターは2020年3月24日に供用された。 名古屋市営地下鉄では最も利用客の多い駅であり、東山線のみで乗車人員は11万人を超えている。東山線は当駅と伏見駅の間が最も混雑率が高く、桜通線が開業するまでは混雑率が250%に至ったこともあった。 名古屋市営地下鉄で唯一駅長室が2つある駅であり、東山線側と桜通線側にそれぞれ設けられている。東山線駅務区名古屋管区駅が管轄する駅であり、八田駅、中村公園駅 - 名古屋駅と、新栄町駅 - 本郷駅(今池、池下、本山、星ヶ丘を除く)の各駅を管理している<ref>{{PDFlink|[https://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000100/100204/29hongou1202.pdf 名古屋市公報第1202号]}} p702</ref>。 東山線コンコースの周囲には地下街が広がっている。エレベーターは、地上と地下鉄改札周辺とを結ぶものは中改札口近くから地上に直接出られるもののほか、ミッドランドスクエア内、大名古屋ビルヂング内、JRゲートタワー内、JPタワー名古屋内、名古屋ルーセントタワー内のものがある。 桜通線コンコースは東山線や名鉄名古屋本線よりも深い位置にあるために階段などでの上下移動が必要であるが、地上へ出ることなくエスカ地下街やユニモール地下街、ジェイアール名古屋タカシマヤ地下階へ繋がっている。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Subway-Nagoya-STA Central-Gate-North.jpg|中改札口(2022年1月) Subway-Nagoya-STA East-Gate.jpg|東改札口(2022年1月) Subway-Nagoya-STA North-Gate.jpg|北改札口(2022年1月) Subway-Nagoya-STA South-Gate.jpg|南改札口(2022年1月) </gallery> ==== のりば(地下鉄) ==== <!--方面表記は、名古屋市営地下鉄の「駅構内図」の記載に準拠--> {| class="wikitable" !ホーム<!--事業者側による呼称。名古屋市交通局は「○番ホーム」と表現--->!!路線!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[ファイル:Nagoya Subway Logo V2 (Higashiyama Line).svg|18px]] 東山線 |[[藤が丘駅 (愛知県)|藤が丘]]方面 |- !2 |[[高畑駅|高畑]]方面 |- !3 |rowspan="2"|[[ファイル:Nagoya Subway Logo V2 (Sakura-dori Line).svg|18px]] 桜通線 |[[徳重駅 (名古屋市)|徳重]]方面 |- !4 |[[太閤通駅|太閤通]]方面 |} (出典:[https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/SUBWAY/station_campus.html?name=%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B 名古屋市営地下鉄:駅構内図]) <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Nagoya Municipal Subway Nagoya Station Platform 2017.jpg|東山線ホーム(2017年6月) Nagoya Station Sakura-dori Line Platform.jpg|桜通線ホーム(2017年11月) </gallery> ==== 桜通線ホーム ==== JR名古屋駅中央コンコースの真下地下4階に位置し東西に延びている。[[島式ホーム]]1面2線で可動式ホーム柵が設置されている。ホームの有効長は8両分あるが、列車は全て5両編成(乗車位置番号は、双方とも前から①・②の順で、最後尾5両目の4つ目のドアが⑳)であるため、列車が停車しない部分は柵で遮断されている。桜通線の各駅は、2011年(平成23年)度のホームドア設置以降順次「駅アクセントカラー」が設定されており、当駅のアクセントカラーはセピア{{Color|#6b4a2b|■}}である。地下3階のコンコースとホームを結ぶエレベーターは中央と東端(徳重寄り)の2ヶ所設置されている。エレベーターのみを使用して東山線へ乗り換える場合、東端のエレベーターを使う必要がある。<br>なお、当駅の建設にあたって平成元年度の[[土木学会]]技術賞を受賞している{{Refnest|group="注釈"|「名古屋市高速度鉄道桜通線名古屋駅附近に於ける大規模アンダーピニング(<!-- 新幹線も走る既設駅直下での新駅建設に於ける -->基礎補強工事)」として、名古屋市交通局・JR東海・大成建設・鹿島建設の4者で共同受賞。}}。<!-- その旨のプレート(レプリカ)がホームに設置している。 --> ==== 東山線ホーム==== 駅東側の名駅地下街(メイチカ)の真下地下2階に位置し、[[近鉄名古屋駅]]や[[名鉄名古屋駅]]と平行している。[[島式ホーム]]1面2線で12両分の[[有効長]]を持ち、南側半分(1957年の開業時より設置)を[[藤が丘駅 (愛知県)|藤が丘]]方面行きホーム(6両分)、北側半分(1969年の中村公園延伸時に延長)を[[高畑駅|高畑]]方面行きホーム(6両分)が使用する千鳥配置になっている。列車が停車しない部分は柵等で遮断されている。2015年10月25日より[[ホームドア#可動式ホーム柵|可動式ホーム柵]]の使用を開始した<ref group="PR" name="kadousaku20150612" />。 亀島寄りに片渡り線がある。これは中村公園延伸の時に設置されたもので、それまでは伏見寄りに両渡り線が設置されていた。[[1976年]]までは名古屋駅での[[夜間滞泊]]があり、藤ヶ丘駅(現・藤が丘駅)行の初発電車と星ヶ丘駅発の最終電車が名古屋駅始発・終着であった{{Refnest|group="PR"|『市バス・地下鉄ご案内』、名古屋市交通局発行のリーフレット、1974年7月}}。 当駅の開業から1969年の中村公園延伸の時まで使用された車止めは、[[名古屋市科学館]]に移設され保存車であるSL([[国鉄2100形蒸気機関車|2412号車]])の車止めとして使用された<ref>『鉄道ピクトリアル』(第525号)1990年3月、104頁</ref>。 コンコースとホームを結ぶエレベーターは従来高畑方面ホーム北端、北改札口側にのみあり藤が丘方面ホームからは距離があったが、2020年3月13日に中改札口内にも増設された。 ===== 東山線配線図 ===== {{駅配線図|image=Rail_Tracks_map_Nagoya_Subway_Nagoya_Stn_Higashiyama_L.svg |title=[[名古屋市営地下鉄]] 名古屋駅([[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]]) 構内配線略図 |width=210px |up=|up-align=|left=[[高畑駅|高畑]]方面|left-valign=middle |right=[[栄駅 (愛知県)|栄]]・[[藤が丘駅 (愛知県)|藤が丘]]方面|right-valign=middle |down=|down-align=|source=<ref>井上孝司 『配線略図で広がる鉄の世界 - 路線を読み解く&作る本』 ISBN 978-4-7980-2200-0、[[秀和システム]]、2009、221p.</ref> |note=<small>※ 中央付近で桜通線がアンダークロスしている。</small> }} == 貨物・荷物取扱 == 臨時[[車扱貨物]]取り扱い駅である。[[貨物列車]]の発着は無く、荷役設備や当駅に接続する[[専用鉄道|専用線]]も存在しない。かつては荷役設備があったが、[[1937年]](昭和12年)に独立し[[笹島駅]]となった。その笹島駅が廃止された翌年の[[1987年]](昭和62年)[[3月31日]]([[JR]]発足前日)に、貨物の取り扱いが書類上復活した{{Refnest|group="注釈"|JR貨物による貨物輸送となる、JR東海管轄外の地域にある鉄道車両メーカなどと、当駅に近接する[[名古屋車両区]]との[[車両輸送]](甲種輸送)が想定されているものと見られる。類似例ではJR東日本の[[田町車両センター]]に接続する[[品川駅]]などがある。}}。 荷物営業も、[[チッキ|小荷物や旅客手荷物]]を中心に取り扱っていたが、[[1979年]](昭和54年)3月までに「[[ブルートレイン (日本)|ブルートレイン]]便」や一部の[[新聞紙]]などを除く大部分の小荷物取扱機能を[[熱田駅]]に移転した。その後熱田駅の小荷物取扱は[[1986年]](昭和61年)[[11月1日]]に廃止されている。残った「ブルートレイン便」は[[2005年]](平成17年)[[3月1日]]に、東海道新幹線を使用する「レールゴー・サービス」も[[2006年]](平成18年)[[3月18日]]に廃止され、現在は新聞紙のみ取り扱っている。 == 駅弁 == 当駅は、複数の業者が激しい競争を繰り広げている[[駅弁]]激戦区である。また、リニューアルも激しく、新製品が登場から半年で消滅する例も珍しくない。かつては幕の内や寿司弁当が人気であったが、近年は「[[みそかつ]]」「[[名古屋コーチン]]」「[[ひつまぶし]]」など[[名古屋めし|名古屋独自の食文化]]をストレートに弁当化したものが人気である。駅弁業者は松浦商店・名古屋だるま・[[ジェイアール東海パッセンジャーズ]]の3社。主な[[駅弁]]は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=45-46,161-162}}</ref>。 {{Div col||20em}} * [[ひつまぶし]] * 牛めし 松阪 * 特製幕之内御膳 * 松浦の松阪牛焼肉弁当 * 松阪牛めし * 二段重 海~金目と鯖の煮魚 * 天下とり御飯 * あいち牛 牛めし * なごや満載 * 二段重 山~鶏とだし巻き卵 * みそかつ&大えびフライ弁当 * 東海道新幹線弁当 * なごや * 松浦のみそカツ * みそかつ弁当 * ひと手間かけた からあげ弁当 * 松浦の味噌ヒレカツ重 * コーチンわっぱめし * でっきゃあからあげ弁当 * こだま * 復刻弁当 * おむすび弁当 {{Div col end}} また、駅弁ではないが、前述のように新幹線・在来線ホームとも[[きしめん]]の店が古くから営業され、人気である。 == 利用状況 == 乗換駅である[[名鉄名古屋駅]]・[[近鉄名古屋駅]]を含めた名古屋駅全体の乗降客数は1日平均1,294,838人(2019年度)であり、中部地方において最多である。また、東海道新幹線のみの乗車人員に限ると1日約7万人で、東京駅、新大阪駅に次いで多い<ref>{{Cite web|和書|title=乗車人員ベスト10駅|url=https://company.jr-central.co.jp/company/achievement/financeandtransportation/transportation5.html|website=JR東海|accessdate=2021-07-05|language=ja}}</ref>。 === 2019年度の年間乗車人員(括弧内は一日平均) === * JR東海 - 78,951,336人<ref name="toukeiR1"/><!--名古屋市統計年鑑には1日平均は記載されておらず総数を365(閏年は366)で割って算出しているが、[[乗降人員]]の項によると定期券は360日/年として計算されるので、1日平均を掲載している資料があれば、少し誤差が出るのは留意されたい-->(215,714人) * 名古屋臨海高速鉄道 - 6,902,420人<ref name="toukeiR1"/>(18,859人) * 名古屋市交通局 - 72,699,483人<ref name="toukeiR1"/>(198,633人) ** 東山線 - 51,437,843人<ref name="toukeiR1"/>(140,540人) ** 桜通線 - 21,261,640人<ref name="toukeiR1"/>(58,092人) 上記の数字はいずれも、各社局内の駅の中で第1位である{{Refnest|group="注釈"|ただしJRについては在来線の数字を含めると、[[東京駅]]・[[京都駅]]が上回る。}}。 === 2012年度の1日平均乗降者数 === * JR東海 - 385,465人{{Refnest|group="PR" |[http://www.jrta.co.jp/pdf/express/2015/jrtokai_media_guide_2015_all.pdf JR TOKAI MEDIA GUIDE 2015 JR東海 新幹線・在来線メディア総合案内]、[[ジェイアール東海エージェンシー]]、42頁}} * 名古屋市営地下鉄 - 346,458人 * 名古屋鉄道 - 272,981人 * 近畿日本鉄道 - 121,452人 === 国鉄時代の1日平均乗車人員 === * 1913年度 - 4,191人<ref name="停車場一覧">日本交通公社『日本国有鉄道 停車場一覧』、1985年</ref> * 1960年度 - 43,181人<ref name="停車場一覧"/> * 1971年度 - 66,078人<ref name="停車場一覧"/> * 1984年度 - 75,233人<ref name="停車場一覧"/> === 近年の一日平均乗車人員 === <!-- 年間乗車人員を閏年のみ366、他は365で割計算 --> {| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size:100%;" |- style="background: #ddd;" !rowspan="2"|年度 !colspan="4"|一日平均乗車人員推移 |- !JR東海 !あおなみ線 !地下鉄 !出典 |- |1991年(平成3年) |147,221{{Refnest|group="統計"|name="toukeijr8"|[http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000004/4814/IA1106A.XLS 平成8年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-5.JR東海各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |rowspan=13|未開業 |167,943{{Refnest|group="統計"|name="toukeichika8"|[http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000004/4848/IA1104A.XLS 平成8年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-4.市営地下鉄各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |<ref name="toukei8">{{Cite web|和書|url=http://www.city.nagoya.jp/somu/page/0000004814.html |title=名古屋市統計年鑑(平成{{0}}8年度) |publisher=名古屋市 |accessdate=2017-01-28}}</ref> |- |1992年(平成4年) |152,269<ref group="統計" name="toukeijr8"/> |165,109<ref group="統計" name="toukeichika8"/> |<ref name="toukei8"/> |- |1993年(平成5年) |152,662<ref group="統計" name="toukeijr8"/> |161,484<ref group="統計" name="toukeichika8"/> |<ref name="toukei8"/> |- |1994年(平成6年) |150,847<ref group="統計" name="toukeijr8"/> |157,724<ref group="統計" name="toukeichika8"/> |<ref name="toukei8"/> |- |1995年(平成7年) |155,015<ref group="統計" name="toukeijr8"/> |158,798<ref group="統計" name="toukeichika8"/> |<ref name="toukei8"/> |- |1996年(平成8年) |160,955{{Refnest|group="統計"|name="toukeijr13"|[http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000004/4862/IA1106A.XLS 平成13年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-5.JR東海各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |156,846{{Refnest|group="統計"|name="toukeichika13"|[http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000004/4862/IA1104A.XLS 平成13年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-4.市営地下鉄各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |<ref name="toukei13">{{Cite web|和書|url=http://www.city.nagoya.jp/somu/page/0000004862.html |title=名古屋市統計年鑑(平成13年度) |publisher=名古屋市 |accessdate=2017-01-28}}</ref> |- |1997年(平成9年) |158,802<ref group="統計" name="toukeijr13"/> |152,598<ref group="統計" name="toukeichika13"/> |<ref name="toukei13"/> |- |1998年(平成10年) |159,103<ref group="統計" name="toukeijr13"/> |155,081<ref group="統計" name="toukeichika13"/> |<ref name="toukei13"/> |- |1999年(平成11年) |160,255<ref group="統計" name="toukeijr13"/> |151,262<ref group="統計" name="toukeichika13"/> |<ref name="toukei13"/> |- |2000年(平成12年) |167,642<ref group="統計" name="toukeijr13"/> |169,594<ref group="統計" name="toukeichika13"/> |<ref name="toukei13"/> |- |2001年(平成13年) |171,222{{Refnest|group="統計"|name="toukeijr18"|[http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000004/4943/IA1106A.XLS 平成18年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-7.JR東海各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |170,730{{Refnest|group="統計"|name="toukeichika18"|[http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000004/4943/IA1104A.XLS 平成18年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-4.市営地下鉄各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |<ref name="toukei18">{{Cite web|和書|url=http://www.city.nagoya.jp/somu/page/0000004943.html |title=名古屋市統計年鑑(平成18年度) |publisher=名古屋市 |accessdate=2017-01-28}}</ref> |- |2002年(平成14年) |171,665<ref group="統計" name="toukeijr18"/> |173,104<ref group="統計" name="toukeichika18"/> |<ref name="toukei18"/> |- |2003年(平成15年) |173,789<ref group="統計" name="toukeijr18"/> |163,840<ref group="統計" name="toukeichika18"/> |<ref name="toukei18"/> |- |2004年(平成16年) |176,993<ref group="統計" name="toukeijr18"/> |3,852{{Refnest|group="統計"|name="toukeiaonami18"|[http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000004/4943/IA1121A.XLS 平成18年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-6.西名古屋港線(あおなみ線)各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |162,280<ref group="統計" name="toukeichika18"/> |<ref name="toukei18"/> |- |2005年(平成17年) |188,312<ref group="統計" name="toukeijr18"/> |10,565<ref group="統計" name="toukeiaonami18"/> |166,899<ref group="統計" name="toukeichika18"/> |<ref name="toukei18"/> |- |2006年(平成18年) |184,491{{Refnest|group="統計"|name="toukeijr23"|[http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000033/33902/IA1106A.XLS 平成23年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-7.JR東海各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |9,925{{Refnest|group="統計"|name="toukeiaonami23"|[http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000033/33902/IA1121A.XLS 平成23年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-6.西名古屋港線(あおなみ線)各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |165,233{{Refnest|group="統計"|name="toukeichika23"|[http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000033/33902/IA1104A.XLS 平成23年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-4.市営地下鉄各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |<ref name="toukei23">{{Cite web|和書|url=http://www.city.nagoya.jp/somu/page/0000033902.html |title=名古屋市統計年鑑(平成23年度) |publisher=名古屋市 |accessdate=2017-01-28}}</ref> |- |2007年(平成19年) |190,942<ref group="統計" name="toukeijr23"/> |10,969<ref group="統計" name="toukeiaonami23"/> |168,127<ref group="統計" name="toukeichika23"/> |<ref name="toukei23"/> |- |2008年(平成20年) |191,558<ref group="統計" name="toukeijr23"/> |11,504<ref group="統計" name="toukeiaonami23"/> |168,152<ref group="統計" name="toukeichika23"/> |<ref name="toukei23"/> |- |2009年(平成21年) |185,387<ref group="統計" name="toukeijr23"/> |11,839<ref group="統計" name="toukeiaonami23"/> |163,915<ref group="統計" name="toukeichika23"/> |<ref name="toukei23"/> |- |2010年(平成22年) |187,624<ref group="統計" name="toukeijr23"/> |12,300<ref group="統計" name="toukeiaonami23"/> |165,298<ref group="統計" name="toukeichika23"/> |<ref name="toukei23"/> |- |2011年(平成23年) |189,123{{Refnest|group="統計"|name="toukeijr28"|[http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000091/91987/2016-11-07.xls 平成28年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-7.JR東海各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |13,119{{Refnest|group="統計"|name="toukeiaonami28"|[https://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000138/138301/11-06.xlsx 平成28年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-6.西名古屋港線(あおなみ線)各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |168,719{{Refnest|group="統計"|name="toukeichika28"|[http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000091/91987/2016-11-04.xls 平成28年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-4.市営地下鉄各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |<ref name="toukei28">{{Cite web|和書|url=http://www.city.nagoya.jp/somu/page/0000091987.html|title=名古屋市統計年鑑(平成28年度)|accessdate=2017-07-01|publisher=名古屋市}}</ref> |- |2012年(平成24年) |193,260<ref group="統計" name="toukeijr28"/> |13,377<ref group="統計" name="toukeiaonami28"/> |173,704<ref group="統計" name="toukeichika28"/> |<ref name="toukei28"/> |- |2013年(平成25年) |199,119<ref group="統計" name="toukeijr28"/> |13,759<ref group="統計" name="toukeiaonami28"/> |179,748<ref group="統計" name="toukeichika28"/> |<ref name="toukei28"/> |- |2014年(平成26年) |198,504<ref group="統計" name="toukeijr28"/> |14,298<ref group="統計" name="toukeiaonami28"/> |180,068<ref group="統計" name="toukeichika28"/> |<ref name="toukei28"/> |- |2015年(平成27年) |204,509<ref group="統計" name="toukeijr28"/> |14,817<ref group="統計" name="toukeiaonami28"/> |184,554<ref group="統計" name="toukeichika28"/> |<ref name="toukei28"/> |- |2016年(平成28年) |208,911{{Refnest|group="統計"|name="toukeijr29"|[http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000102/102709/2017-11-07.xls 平成29年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-7.JR東海各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |15,323{{Refnest|group="統計"|name="toukeiaonami29"|[https://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000138/138301/11-06.xlsx 平成29年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-6.西名古屋港線(あおなみ線)各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |189,606{{Refnest|group="統計"|name="toukeichika29"|[http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000102/102709/2017-11-04.xls 平成29年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-4.市営地下鉄各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |<ref name="toukei29">{{Cite web|和書|url=http://www.city.nagoya.jp/somu/page/0000102709.html|title=名古屋市統計年鑑(平成29年度)|accessdate=2018-05-02|publisher=名古屋市}}</ref> |- |2017年(平成29年) |216,040{{Refnest|group="統計"|name="toukeijr30"|[http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000112/112287/2018-11-07.xls 平成30年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-7.JR東海各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |18,240{{Refnest|group="統計"|name="toukeiaonami30"|[https://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000138/138301/11-06.xlsx 平成30年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-6.西名古屋港線(あおなみ線)各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |196,363{{Refnest|group="統計"|name="toukeichika30"|[http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000112/112287/2018-11-04.xls 平成30年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-4.市営地下鉄各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |<ref name="toukei30">{{Cite web|和書|url=http://www.city.nagoya.jp/somu/page/0000112287.html|title=名古屋市統計年鑑(平成30年度)|accessdate=2019-04-06|publisher=名古屋市}}</ref> |- |2018年(平成30年) |219,917{{Refnest|group="統計"|name="toukeijr31"|[http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000126/126534/2019-11-07.xls 令和元年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-7.JR東海各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |18,826{{Refnest|group="統計"|name="toukeiaonami31"|[https://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000138/138301/11-06.xlsx 令和元年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-6.西名古屋港線(あおなみ線)各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |199,883{{Refnest|group="統計"|name="toukeichika31"|[http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000126/126534/2019-11-04.xls 令和元年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-4.市営地下鉄各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |<ref name="toukei31">{{Cite web|和書|url=http://www.city.nagoya.jp/somu/page/0000126534.html|title=名古屋市統計年鑑(令和元年度)|accessdate=2020-03-28|publisher=名古屋市}}</ref> |- |2019年(令和元年) |215,714{{Refnest|group="統計"|name="toukeijrR1"|[https://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000138/138301/11-07.xlsx 令和2年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-7.JR東海各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |18,859{{Refnest|group="統計"|name="toukeiaonamiR1"|[https://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000138/138301/11-06.xlsx 令和2年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-6.西名古屋港線(あおなみ線)各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |198,633{{Refnest|group="統計"|name="toukeichikaR1"|[https://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000138/138301/11-04-R01-.xlsx 令和2年版名古屋市統計年鑑 11.運輸・通信 11-4.市営地下鉄各駅の乗車人員] 総数を365および366で除した人数。}} |<ref name="toukeiR1">{{Cite web|和書|url=https://www.city.nagoya.jp/shisei/category/67-5-9-39-0-0-0-0-0-0.html|title=名古屋市統計年鑑(令和2年度)|accessdate=2021-04-04|publisher=名古屋市}}</ref> |- |2020年(令和2年) |128,173 |12,335 |126,581 | |- |2021年(令和3年) |143,058<ref name=":0" group="統計">{{Cite web|和書|url=https://www.city.nagoya.jp/shisei/category/67-5-9-39-0-0-0-0-0-0.html |title=名古屋市:11.運輸・通信(名古屋市統計年鑑)(市政情報) |access-date=2023-6-3}}</ref> |13,422<ref name=":0" group="統計" /> |143,984<ref name=":0" group="統計" /> | |} == 駅周辺 == === 名駅(めいえき) === [[ファイル:Nakamura-ward meieki.jpg|thumb|中村区名駅の番地表示]] 名古屋駅の略称である'''[[名駅]]'''は、名古屋市中村区、[[西区 (名古屋市)|西区]]の町名となっている。駅の表玄関である東口を中心に、[[栄 (名古屋市)|栄]]とともに名古屋を代表する[[繁華街]]・[[オフィス街]]として知られ、1999年の[[JRセントラルタワーズ]]開業を契機に近年の再開発により日本屈指の超高層オフィス街にまで発展している。JRセントラルタワーズの[[アンカーストア|核テナント]]である[[ジェイアール名古屋タカシマヤ]]は、[[2011年]]以降栄の老舗百貨店である[[松坂屋]]の売上を上回る地域一番店となるまで成長し、店舗別売上高としては日本4位の売上を誇る。駅周辺では[[2027年]]の[[中央新幹線|リニア中央新幹線]]開業に向けて、今まで再開発が遅れていた駅西側(太閤通口)を含めたさらなる再開発計画が進められている。 ==== 住所としての名駅 ==== 名古屋市中村区と西区に置かれている。中村区[[名駅]]は1丁目から5丁目まで、西区名駅は1丁目から3丁目まで設置されている。 名古屋駅は中村区[[名駅]]1丁目と西区[[名駅]]1丁目に跨っている(ただし、駅ビル(セントラルタワーズ)など駅建築施設の大半は中村区側にあり、西区に所在するのは駅構内のホーム下り側([[岐阜駅|岐阜]]方面)半分とゲートタワーの一部のみである)。 === 方面別の概要 === ==== 東側(桜通口・広小路口) ==== [[ファイル:Midland-Square-and-Nagoya-Building-1.jpg|thumb|名古屋ビルディングとミッドランドスクエア]] 旧来から名古屋の玄関口で、バス・地下鉄・近鉄・名鉄やJR間の乗り換え客などで人通りが多く商業施設も多い。 主な大型商業施設は、JRセントラルタワーズ内の[[ジェイアール名古屋タカシマヤ]]を筆頭に、[[近鉄百貨店名古屋店|近鉄パッセ]]・[[名鉄百貨店|名鉄百貨店本店]]・[[ヤマダ電機|ヤマダデンキLABI名古屋]]・[[ミッドランドスクエア]]・名鉄レジャックなどがある。また[[名古屋駅バスターミナル|市バスターミナル]]の他、市内最大のバスターミナル「[[名鉄バスセンター]]」もある。地下には[[名駅地下街サンロード|サンロード]]や[[メイチカ]]・[[ゲートウォーク]]・[[ユニモール]]・[[ミヤコ地下街]]と広大な地下街が広がる。 {{clear}} ==== 西側(太閤通口) ==== 太閤通口は「新幹線口」「西口」「駅西」とも呼ばれる。また「駅裏」と呼ばれることもある。地下には[[エスカ地下街]]がある。駅北西には名古屋市を本拠地とする[[河合塾]]などの大手[[予備校]]や[[学習塾]]が進出し学生街や若者街として発展している。付近には[[アニメショップ]]や[[同人ショップ]]が林立し、[[オタク]]街としての一面も持つ。また、会員制[[ツアーバス]]や[[ジェイアール東海バス]]のバスが発着する。駅前広場はテレビ番組のロケでよく使用される。 桜通口や広小路口側に比べると開発が遅れていることから、少し入ると昔ながらの商店が多く残っている。かつて花街として栄え、現在は特殊浴場街である大門(おおもん)地区も徒歩圏内である。 === 主な施設 === {{Anchors|駅周辺の施設}} * [[JRセントラルタワーズ]] ** [[ジェイアール名古屋タカシマヤ]] ** JR名古屋駅ショッピング店・飲食店 ** [[名古屋マリオットアソシアホテル]] ** 東海旅客鉄道本社 ** 愛知県旅券センター(15階) ** JR名古屋駅 * 名古屋駅構内(JR名古屋駅ショッピング店・飲食店) ** 名古屋うまいもん通り<!--キュイジーヌマルシェ驛は名古屋うまいもん通りに統合--><ref>{{Cite news |title=名古屋駅広小路口の飲食ゾーン 12月7日新装オープン |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2017-10-17 |page=3 }}</ref> ** 名古屋・驛麺通り ** カフェ ジャンシアーヌ :: 名古屋の新スイーツ『[[ぴよりん]]』を販売する喫茶店。 * [[愛知県警察]] [[鉄道警察隊]]名古屋駅警察官詰所(中央コンコース) * 名古屋駅地下街 ** [[エスカ地下街|新幹線地下街エスカ]] ** 名古屋駅ファッションワン(JR名古屋駅ショッピング店・飲食店) *** 名古屋駅([[名古屋市営地下鉄桜通線]]) ** [[ゲートウォーク(旧:テルミナ名古屋駅前地下街)]] ** ダイナード地下街(大名古屋ビル地下街) ** [[ユニモール|名古屋駅前桜通地下街ユニモール]] ** 地下鉄名古屋駅地下街メイチカ *** [[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]] 名古屋駅 ** ルーセントアベニュー ** 近鉄名古屋ビル地下街 ** [[名駅地下街サンロード]] ** [[ミヤコ地下街]] ** [[キタチカ]](旧:新名フード) ** 名古屋三井ビル地下街 ** [[モード学園スパイラルタワーズ#スパイラルタワーズSHOP&RESTAURANTS|スパイラルタワーズSHOP&RESTAURANTS]] * [[センチュリー豊田ビル]] ** [[豊田通商]] 名古屋本社 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Central Japan Railway - Nagoya Station - 01.JPG|太閤通口駅前広場 名古屋駅太閤口周辺.jpg|太閤通口周辺 Nagoya station foodmall "Umaimon-dori".jpg|名古屋うまいもん通りの外観 </gallery> ==== 桜通口方面 ==== * [[桜通 (名古屋市)|桜通]](愛知県道68号名古屋津島線) * [[JRゲートタワー]] * [[JPタワー名古屋]] ** KITTE名古屋 ** [[名古屋中央郵便局]] * [[大名古屋ビルヂング]] ** [[三菱UFJ銀行]]名古屋駅前支店・笹島支店・枇杷島支店(以上旧UFJ店舗)・新名古屋駅前支店(旧東京三菱店舗) ** [[三菱UFJ信託銀行]]名駅支店 ** [[十六銀行]]名古屋駅前支店 ** [[あおぞら銀行]]名古屋支店 ** [[SBI新生銀行]]名古屋フィナンシャルセンター ** [[安藤証券]]名古屋駅前支店 * [[名古屋ビルディング]] * [[名古屋ルーセントタワー]] * [[名古屋プライムセントラルタワー]] * [[ノリタケの森]](最寄り駅は[[亀島駅]]および[[栄生駅]]だが、当駅からも徒歩圏内である) ** [[イオンモール Nagoya Noritake Garden]] * ブリリアタワー名古屋グランスイート * [[大原簿記専門学校]]名古屋校 * [[三井住友信託銀行]]名古屋駅前支店・名駅南支店 * [[飛翔 (モニュメント)]]跡地 ==== 広小路口方面 ==== [[ファイル:Mode Gakuen Spiral Towers.JPG|thumb|[[モード学園スパイラルタワーズ]]]] * [[広小路通 (名古屋市)|広小路通]]([[愛知県道60号名古屋長久手線]]) * [[錦通 (名古屋市)|錦通]] * [[名鉄百貨店]]本店 ** [[名鉄ホール]] ** [[名古屋鉄道|名鉄]][[名鉄名古屋本線|名古屋本線]] [[名鉄名古屋駅]] * 大手町建物名古屋駅前ビル ** [[ヤマダデンキ]]LABI名古屋(旧:名鉄百貨店ヤング館) ** {{Anchors|ナナちゃん}}ナナちゃん人形 ** 名鉄スカイパーキング * 名鉄バスターミナルビル ** 名古屋鉄道本社 ** 名鉄百貨店メンズ館 ** [[名鉄バスセンター]] ** [[名鉄グランドホテル]] * [[名鉄レジャック]] * [[近鉄百貨店名古屋店|近鉄パッセ]] ** [[近畿日本鉄道|近鉄]][[近鉄名古屋線|名古屋線]] [[近鉄名古屋駅]] * [[ミッドランドスクエア]] ** [[トヨタ自動車]] ** [[毎日新聞中部本社]] * [[愛知県産業労働センター]](ウインクあいち) * 名古屋駅前[[柳橋中央市場]] ** マルナカ中央市場総合食品センター(丸中食品センター) * [[名古屋三井ビルディング]] ** [[三井住友銀行]]名古屋駅前支店(北館5階) * [[モード学園スパイラルタワーズ]] * [[名古屋四季劇場]] * [[成城石井]]名古屋駅広小路口店 * [[百五銀行]]名古屋支店 ** [[百五証券]]名古屋支店 * [[百十四銀行]]名古屋支店 * [[愛知銀行]]名古屋駅前支店 * [[名古屋高速道路|名古屋高速]][[名古屋高速都心環状線|都心環状線]] [[名駅入口]]・[[錦橋出口]] ==== 太閤通口方面 ==== [[ファイル:Bic Camera Nagoya station's west store.jpg|thumb|ビックカメラ名古屋駅西店]] * 太閤通([[愛知県道68号名古屋津島線]]) * [[日本生命|ニッセイ]]名古屋駅西ビル ** [[ビックカメラ]]名古屋駅西店 ** [[ソフマップ]]名古屋駅西店 ** [[名鉄ニューグランドホテル]](閉館) * OVA21 ** LIGHTNING WAVE NAGY([[電光掲示板]]) ** [[TSUTAYA]]名古屋駅西店 * [[イオンタウン太閤ショッピングセンター]] * [[中村警察署 (愛知県)|愛知県中村警察署]] * [[愛知県警察]] 鉄道警察隊本隊 * [[名古屋セントラル病院]] * 名古屋市立牧野小学校 * 名古屋市中村区役所 * 学校法人[[学校法人立志舎|立志舎]] 東京IT会計専門学校名古屋校/東京法律専門学校名古屋校/名古屋動物専門学校 * 学校法人[[河合塾]] 名駅キャンパス名駅校[東大・京大・医進館]/名駅キャンパス名古屋校 * [[代々木ゼミナール]] 名古屋校 * [[ベルヴュオフィス名古屋]] ** [[名鉄イン]]名古屋駅新幹線口 * [[チサン イン 名古屋]] * スポーツ医学 & カイロプラクティック研究所 * [[シネマスコーレ]] * [[ダイワロイネットホテルズ|ダイワロイネットホテル]]名古屋新幹線口 * 浜学園名古屋本部 * [[愛知冠婚葬祭互助会|ザ・グランドティアラ]]名古屋駅前 * [[武田テバファーマ]] 本社 * [[三十三銀行]]名古屋駅前支店(旧三重銀行店舗) * [[北陸銀行]]中村支店 * 愛知県信用保証協会 * [[三交イン]]名古屋新幹線口・名古屋新幹線口ANNEX * [[東横イン]]名古屋駅新幹線口 * ゆりの噴水 撤去予定 == バス路線 == === 名古屋駅太閤通口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> ==== JRハイウェイバスのりば ==== [[ファイル:JRHighwayBus01.JPG|thumb|2010年12月9日に移築されたJRハイウェイバスのりば]] '''JR名古屋バスターミナル'''<ref>[https://www.jrtbinm.co.jp/highway/busstop/bt_nagoya.html JR名古屋バスターミナル]</ref>は、JR名古屋駅の太閤通口にある[[ジェイアール東海バス]]が管理運営する高速バスターミナルである。停留所名は'''名古屋駅(新幹線口)停留所'''。 駅に「新幹線口」という出口はないが、新幹線結節を分かりやすくするためこの名を名乗っており、案内図でも出口名より新幹線北改札口の至近にあることを強調している。現地では「JRハイウェイバスのりば」を目印に掲げている。 桜通口にあったバスターミナル([[名古屋ターミナルビル]])の取り壊しに伴い移転し、[[2010年]][[12月9日]]より使用開始した。 桜通口に市バスターミナルが復活した後も引き続き使われており、元の場所には戻らなかった。但しJR東海バスが主催するつばめツアーの集合バスは市バスターミナルの12番のりばとなっている。 ===== 1番のりば ===== * 臨時便 ===== 2番のりば ===== * [[名古屋 - 福井・金沢線|北陸道ハイウェイバス]]([[福井駅 (福井県)|福井駅]]行):JR東海バス・[[名鉄バス]]・[[京福バス]]・[[福井鉄道]] * 北陸道ハイウェイバス([[金沢駅バスターミナル|金沢駅]]行):JR東海バス・[[西日本ジェイアールバス|西日本JRバス]]・名鉄バス・[[北陸鉄道]] * [[北陸ドリーム名古屋号]]([[富山駅]]・[[高岡駅]]・[[金沢駅バスターミナル|金沢駅]]行):JR東海バス・西日本JRバス * [[名古屋ライナー甲府号]]([[甲府駅バスターミナル|甲府駅]]・[[竜王駅|竜王]]行):JR東海バス・[[山梨交通]] * [[青春大阪ドリーム名古屋号]]([[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]・京都深草・[[大阪駅]]・難波[[OCAT]]行):JR東海バス・西日本JRバス ===== 3番のりば ===== * [[東名ハイウェイバス]]([[東名浜松北]]・[[東名静岡]]・[[静岡駅]]・[[東名御殿場]]・[[東京駅のバス乗り場|東京駅]]行):JR東海バス・[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]・[[ジェイアールバステック|JRバステック]] * 新東名スーパーライナー([[バスタ新宿]]・東京駅行):JR東海バス・JRバス関東・JRバステック * [[ひだ高山号]](飛騨高山行):JR東海バス・名鉄バス・[[濃飛乗合自動車]] * [[ドリームなごや号]](東京駅行、[[新木場駅]]行):JR東海バス ===== 4番のりば ===== * [[名神ハイウェイバス]]([[京都駅]]・[[三宮駅バスのりば|神戸]]行):JR東海バス・西日本JRバス・名鉄バス・[[名阪近鉄バス]] * 名神ハイウェイバス([[伊吹山]]行):名阪近鉄バス ※夏季運行 *[[名阪近鉄バス揖斐営業所#現行路線|にしみの高速線(にしみのライナー)]]<ref>[http://www.mkb.co.jp/wp/wp-content/uploads/nishiminoliner_keikaku.pdf 岐阜県西濃地域と名古屋を結ぶ高速バス「にしみのライナー」の運行計画について] -  名阪近鉄バスサイト内</ref>( [[大垣インターチェンジ#大垣バス停留所|名神大垣]] 経由  [[道の駅パレットピアおおの#施設|道の駅パレットピアおおの]]行):名阪近鉄バス * [[出雲・松江・米子ドリーム名古屋号]]([[米子駅]]・[[松江駅]]・[[出雲市駅]]行):[[中国ジェイアールバス|中国JRバス]] * [[セレナーデ号|セレナーデ号(広島ドリーム名古屋号)]](広島行):JR東海バス・中国JRバス * [[レディースドリームなごや号]](東京駅行):JR東海バス * [[京成バス新習志野高速営業所#長距離・夜行高速バス|ファンタジアなごや号]](京成バス名古屋線、[[横浜駅]]・お台場・TDR・[[西船橋駅]]行):JR東海バス・[[京成バス]] * [[オリーブ松山号]]([[徳島駅]]・[[高松駅 (香川県)|高松駅]]・[[松山駅 (愛媛県)|松山駅]]行):JR東海バス・[[ジェイアール四国バス|JR四国バス]] ===== 5番のりば ===== * 名神ハイウェイバス([[大阪駅周辺バスのりば|大阪]]行):JR東海バス・西日本JRバス・名阪近鉄バス * [[中央ライナー (高速バス)|中央ライナーなごや号]]([[バスタ新宿]]([[新宿駅]])・東京駅行):JR東海バス・JRバス関東 * ドリームなごや号(バスタ新宿(新宿駅)・東京駅行):JR東海バス・JRバス関東 ===== 6番のりば ===== * 降車専用 ==== 名古屋市営バス ==== ===== 32番のりば ===== * [[名古屋市営バス中川営業所#深夜2号系統|深夜2系統]]([[高畑駅|地下鉄高畑]]行) ===== 33番のりば ===== * 深夜2系統([[栄駅 (愛知県)|栄]]行) ===== 34番のりば ===== * [[名古屋市営バス浄心営業所#名駅25号系統|名駅25系統]](右回り・名古屋駅行) * [[名古屋市営バス稲西営業所#中村13号系統|中村13系統]]([[名古屋市営バス稲西営業所|稲西車庫]]行) * [[名古屋市営バス稲西営業所#中村巡回系統|中村巡回]]系統(本陣行、稲西車庫行) ==== その他事業者 ==== * [[日本中央バス]](愛知県信用保証協会本店・エスカE2出入口前) ** [[日本中央バス#シルクライナー|シルクライナー]]:[[高崎バスセンター]]・[[BUSターミナルおおた]]・[[佐野新都市バスターミナル]]方面 * [[茨城交通]](愛知県信用保証協会本店・エスカE2出入口前)※日本中央バスとバス停を共用 ** 名古屋線:[[つくばセンター]]・[[水戸駅]]・[[日立駅]]方面 * [[名古屋バス]](ビックカメラ前) ** 名古屋特急ニュースター号:[[長田駅 (大阪府)|長田駅]]・[[布施駅]]・[[天王寺駅]]方面 ([[大阪バス]]と共同運行) ** 名古屋京都特急ニュースター号:[[京都駅]]方面 ([[東京バス#京都観光バス|京都観光バス]]と共同運行) ** 東名特急ニュースター号:[[横浜シティ・エア・ターミナル|横浜YCAT]]・[[東京駅]]([[東京駅のバス乗り場#東京駅(八重洲口)鍛冶橋駐車場|鍛冶橋駐車場]])・北区[[王子駅]]方面  ([[東京バス]]と共同運行) *大阪バス(ビックカメラ前)※名古屋バスとバス停を共用 **名古屋福知山特急ニュースター号:京都駅・[[綾部駅]]・[[福知山駅]]方面 ==== 旧ツアーバス事業者 ==== [[太閤通]]口には、いわゆる[[ツアーバス]]など貸切バスや団体バス用の乗降スペースが2箇所ある(愛知県バス協会が管理)が、2013年7月31日から新高速バス制度施行に伴い、高速ツアーバスから移行した事業者が新たに停留所を設置した。なお、一部の便は[[ささしまライブ駅]]近くの'''[[ささしまライブ駅#バス路線|名古屋南バス停]]'''から発車する。 ===== 名古屋駅西口 ===== * 22時 - 1時に出発するバス限定の停留所で、大半の事業者はこのバス停を使用する。バス停自体は河合塾18号館向かいにあるが待合スペースがないため、西口の「ゆりの噴水」前に乗客を集合させ、バス停まで誘導する形態をとる。 ===== 名古屋駅(則武一丁目) ===== * NTTネオメイトサービス東海の前。[[WILLER EXPRESS]]の一部の便が使用する。 ===== 名古屋VIPラウンジ ===== * [[平成エンタープライズ]]が使用。 === 名古屋駅桜通口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> [[名古屋ターミナルビル|名古屋ターミナルビル(名古屋バスターミナル)]]の1階にJRハイウェイバスのりば(JR東海バスなどが発着)、2階・3階に[[名古屋市営バス]]が発着していたが、ターミナルビル取り壊しのためJRハイウェイバスは2010年12月9日に太閤通口へ移転、名古屋市営バスは同年[[12月23日]]より駅周辺に移転していた。 2017年4月1日、[[JRゲートタワー]]と[[JPタワー名古屋]]の1階に新たに[[名古屋駅バスターミナル]]を整備。桜通口周辺に散らばっていた停留所が集約された。 {{main|名古屋駅バスターミナル}} === 名古屋駅広小路口 === JR広小路口と名鉄名古屋駅西側の間([[成城石井]]前)に所在し、JR東海バスが管理している。 現在定期バスの発車はなく、降車のほか貸切バスの乗車などで不定期に使用される。 === ミッドランドスクエア前 === * [[あおい交通]] ** [[名古屋飛行場|県営名古屋空港]]・[[エアポートウォーク名古屋]]連絡バス * [[イルカ交通]] ** [[きときとライナー]] [[砺波駅]]・[[新高岡駅]]・[[高岡駅]]・[[小矢部市]]方面 * [[青木バス]] ** あおぞらライナー 横浜・東京・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面/高岡・金沢/[[仙台駅|仙台]] * [[杉崎観光バス]] ** 杉崎高速バス [[秦野駅|秦野]]・横浜・東京方面 * [[名鉄バス]] ** ささしまウェルカムバス [[ささしまライブ24]]行き{{Refnest|group="PR"|name="meitetsubus20160916"|[http://www.meitetsu-bus.co.jp/rosen/sasashima_welcomebus ささしまウェルカムバス|名鉄バス]}} * [[名古屋市営バス]](市バス21番のりば、南行き) ** [[名古屋市営バス中川営業所#深夜2号系統|深夜2系統]](栄行き) ** 幹名駅2、名駅16、名駅20、C-758の4系統が名古屋バスターミナルの次に停車 ==== 名鉄百貨店前 ==== * [[名古屋市営バス]](市バス22番のりば、北行き) ** 深夜2系統([[高畑駅|地下鉄高畑]]行き) === 名鉄バスセンター === [[名鉄バスセンター]]は、名鉄百貨店メンズ館3階・4階に所在し、[[名鉄バス]]や[[三重交通]]などの高速バス・路線バス・深夜・長距離バスなどが発着している。 {{main|名鉄バスセンター}} === 笹島町停留所 === 名古屋駅南側、笹島交差点付近に所在する。名古屋駅バスターミナルや名鉄バスセンターなどを発着しない路線バスへの接続停留所としての役割を担っている。 === 無料シャトルバス(無料送迎バス) === ==== 桜通口付近 ==== * [[CBC自動車学校]]行き(大名古屋ビルヂング前) * 庄内橋自動車学校行き(名古屋駅前モンブランホテル前・[[名古屋モード学園]]前) * 城北自動車学校行き(名駅北やぎや前(降車のみ)・ユニモール4番出口前) * [[東横イン]]名古屋丸の内行き(ユニモール4番出口前) ==== 太閤通口付近 ==== * 大治自動車学校行き(ビックカメラ前(降車のみ)) * GLASTONIA行き * [[猿投温泉]] ホテル金泉閣行き * [[CBC自動車学校]]([[ダイワロイネットホテルズ|ダイワロイネットホテル]]名古屋新幹線口前) * [[三谷温泉]] 松風園行き * [[湯快リゾート]] 恵那峡国際ホテル行([[日本海庄や]]前) ==== 広小路口付近 ==== * [[ホテルナゴヤキャッスル]]行き ==== ミッドランドスクエア前(シャトルバス) ==== * Canal Resort行き * [[中部日本自動車学校]]行き * 名古屋ビーズホテル行き * [[ヒルトン名古屋]]行き * [[ラウンドワン]]中川1号線店行き ==== 笹島付近 ==== * 大治自動車学校行き(名鉄レジャック前) == 登場作品など == * [[ホームタウン・エクスプレス]]、[[クリスマス・エクスプレス]] - JR東海の[[コマーシャルメッセージ|CM]]。初回のほか複数回の撮影に使用されている。 * [[モスラ3 キングギドラ来襲]] - 劇中で[[キングギドラ (平成モスラシリーズ)|キングギドラ]]に破壊された。 * [[小さき勇者たち〜ガメラ〜]] - 終盤での名古屋駅ビルが、ジーダスに吹き飛ばされた[[ガメラ]]と激突した。 * [[ザ・警察官|ザ・警察官2 全国大追跡スペシャル]] - 名古屋駅前(桜通口方面)がステージとして登場する。 * [[俺の空]] - 刑事編で連続誘拐事件の犯人を追いかける際の舞台となる。 * [[風立ちぬ (2013年の映画)]] - 高架化前の名古屋駅が登場する。 * [[八十亀ちゃんかんさつにっき]] - 主人公が名古屋駅内外を舞台に入部を賭けた撮影勝負を行う。 == 隣の駅 == ※新幹線各列車と、在来線の特急列車については各列車記事を参照のこと。 ; 東海旅客鉄道(JR東海) : [[ファイル:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] 東海道新幹線 ::: [[三河安城駅]] - '''名古屋駅''' - [[岐阜羽島駅]] : [[ファイル:JR Central Tokaido Line.svg|17px|CA]] 東海道本線 :* 特急「[[ひだ (列車)|ひだ]]」「[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]」始発・終着駅 :* 「[[東海道線 (名古屋地区)#駅一覧|ホームライナー大垣]]」始発・終着駅<!--ホームライナーは列車の性質上、優等列車と同等扱いとする---> :: {{Color|#ffdf00|■}}特別快速・{{Color|orangered|■}}新快速・{{Color|limegreen|■}}区間快速・{{Color|#0066ff|■}}快速 ::: [[金山駅 (愛知県)|金山駅]] (CA66) - '''名古屋駅 (CA68) ''' - (快速の一部[[稲沢駅]] (CA71)) - [[尾張一宮駅]] (CA72) ::: ※新快速と快速は、[[中央競馬]]の[[グレード制|G1]]競走開催日のみ[[尾頭橋駅]]に一部臨時停車 :: {{Color|gray|■}}普通 ::: [[尾頭橋駅]] (CA67) - '''名古屋駅 (CA68)''' - [[枇杷島駅]] (CA69) : [[ファイル:JR Central Chuo Line.svg|17px|CF]] 中央本線 :* {{Color|orangered|■}}特急「[[しなの (列車)|しなの]]」始発・終着駅 :*「[[中央線 (名古屋地区)#駅一覧|ホームライナー瑞浪]]」始発・終着駅<!--ホームライナーは列車の性質上、優等列車と同等扱いとする---> :: {{Color|#0066ff|■}}快速・{{Color|gray|■}}普通 ::: 金山駅 (CF01) - ([[山王信号場]]) - '''名古屋駅 (CF00)''' : [[ファイル:JR Central Kansai Line.svg|17px|CJ]] 関西本線 :* 特急「[[南紀 (列車)|南紀]]」始発・終着駅 :: {{Color|orangered|■}}快速「[[みえ (列車)|みえ]]」・{{Color|#0066ff|■}}快速 ::: '''名古屋駅 (CJ00)''' - [[桑名駅]] (CJ07) :: {{Color|limegreen|■}}区間快速・{{Color|gray|■}}普通 ::: '''名古屋駅 (CJ00)''' - ([[笹島信号場]]) - [[八田駅]] (CJ01) ; 名古屋臨海高速鉄道 : {{Color|#334fa0|■}}あおなみ線 :: ■普通 ::: '''名古屋駅 (AN01)''' - [[ささしまライブ駅]] (AN02) :* 括弧内は駅番号を示す。土休日などには終点の[[金城ふ頭駅]] (AN11)まで無停車の臨時快速列車が運行されることがある。 ; 名古屋市営地下鉄 : [[ファイル:Nagoya Subway Logo V2 (Higashiyama Line).svg|18px]] 東山線 ::: [[亀島駅]] (H07) - '''名古屋駅 (H08)''' - [[伏見駅 (愛知県)|伏見駅]] (H09) : [[ファイル:Nagoya Subway Logo V2 (Sakura-dori Line).svg|18px]] 桜通線 ::: [[太閤通駅]] (S01) - '''名古屋駅 (S02)''' - [[国際センター駅 (愛知県)|国際センター駅]] (S03) :* 括弧内は駅番号を示す。 === 廃止区間 === ; 東海旅客鉄道(JR東海) : 名古屋港線 ::: '''名古屋駅''' - (山王信号場) - [[ナゴヤ球場正門前駅]](臨時駅) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ==== {{Reflist|group="PR"|2}} ==== 統計資料 ==== {{Reflist|group="統計"|3}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|editor=石野哲|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|ref = {{sfnref|石野|1998}} }} * {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=8 |title=関西本線・草津線・奈良線・おおさか東線 |date=2009-08-30 |ref=sone08 }} == 関連項目 == {{commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[東海道線 (名古屋地区)]] * [[中央線 (名古屋地区)]] * [[関西線 (名古屋地区)]] * [[柳橋駅 (愛知県)|柳橋駅]]・[[押切町駅]] * [[柳橋中央市場]] - 全国最大規模の民間の卸売市場。 == 外部リンク == {{Wiktionary|愛知県}} * [https://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/nagoya/ 名古屋駅] - 東海旅客鉄道 * [https://www.aonamiline.co.jp/pc/stinfo_nagoya.html あおなみ線 名古屋駅] - 名古屋臨海高速鉄道 * [https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/SUBWAY/station_top.html?name=名古屋 名古屋] - 名古屋市交通局 * {{Googlemap|名古屋駅}} {{鉄道路線ヘッダー}} {{東海道新幹線}} {{東海道本線 (JR東海)|mode=2}} {{中央西線}} {{関西本線 (JR東海)}} {{東海道本線貨物線 (名古屋港線)}} {{名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線}} {{名古屋市営地下鉄東山線}} {{名古屋市営地下鉄桜通線}} {{中央新幹線}} {{鉄道路線フッター}} {{中部の駅百選}} {{名古屋駅}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:なこやえき}} 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2003-08-06T23:28:46Z
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天空の城ラピュタ
『天空の城ラピュタ』(てんくうのしろラピュタ、英名:LAPUTA: Castle in the Sky)は1986年に公開されたスタジオジブリ初制作の日本のアニメーション映画。宮崎駿監督の長編アニメーション映画第3作。 監督である宮崎の小学校時代に考えていた架空の作品が骨子となっており、原作となる作品が存在しない初のアニメオリジナルの監督作品である。製作は徳間書店。高畑勲の映画『柳川堀割物語』の製作遅延により資金調達に追われた宮崎が、徳間書店の鈴木敏夫に相談したことから企画が立ち上げられ、この映画をきっかけに設立されたスタジオジブリ制作映画の1作品目となった。 次第に高年齢向けになっていくアニメに対して、マンガ映画の復活を目標に小学生を対象に古典的な冒険活劇として企画され、それが結果的に大人の鑑賞に耐えうる作品になるというのが宮崎の方針であった。興行こそ数字的には振るわなかったものの(後述)、配給した東映による観客満足度調査は97.7%と非常に高く、物語は幅広い年齢層に支持され、ビデオソフト化による販売は好調であった。 「ラピュタ」という名称は、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』に登場する、空を飛ぶ島にある王国「ラピュタ王国(英語版)」からとったもの。劇中に空飛ぶ島の物語を空想した人物としてスウィフトの名前も出てくるが、名前の借用以外は『ガリヴァー旅行記』との関連はない。19世紀後半、産業革命期のヨーロッパを元にした架空世界での冒険を描く。 ※声の記述は、日本版 / ディズニー英語版の順で表記。 宮崎駿が空飛ぶ映像が好きなことから本作には数多くの飛行機が登場する。作中に登場するタイガーモス号は初期段階では手足がついてるものも描いていたなど、変わった形をした飛行機が多数デザインされていたが、ありそうなウソの範囲にとどめておきたいという宮崎の考えから、そうした変わったメカはオープニングの映像にのみ登場する形となっている。フラップターの動きの作画パターンは原画頭の金田伊功が設計している。 スタジオジブリ作品は本編開始前に同社のマスコットキャラクターであるトトロの横顔が描かれたブルースクリーンが登場するが、本作は『となりのトトロ』以前に公開された作品であるため、オリジナル映像にはトトロの横顔が描かれたブルースクリーンは存在しない。ただし、販売用に編集されたVHSビデオ・DVD・BD版および、テレビ放送時にはトトロのブルースクリーンが登場する。これはジブリ作品ではない『風の谷のナウシカ』も同様である。 音楽は冒険活劇ということから宇崎竜童を予定していた。前作『風の谷のナウシカ』で音楽を担当した久石譲は、徳間グループが『ラピュタ』と同時期に製作していた安彦良和監督作『アリオン』の制作中だったため本作を担当する予定はなかった。しかし、プロデューサーの高畑勲の再考により久石の続投が決定した。久石は作品世界から受けたイメージに基づき、アイルランドやスコットランドの民謡・フォークソングをベースにしたフルオーケストラによる音楽を手掛けた。 1986年5月25日にLP(25AGL-3024)とカセット(25AGC-2024)とCD(32ATC-113)が徳間ジャパンコミュニケーションズから発売され1993年12月21日(TKCA-70226)と2004年8月25日(TKCA-72720)にCDが2018年11月3日にLP(TJJA-10011)が再発された。 1986年8月15日にLP(25AGL-3025)とカセット(25AGC-2025)が1986年9月25日にCD(32ATC-115)が徳間ジャパンコミュニケーションズから発売され、1993年12月21日(TKCA-70227)と2004年8月25日(TKCA-72721)にCDが2018年11月3日にLP(TJJA-10012)が再発された。 1986年12月21日にLP(28AGL-3039)とカセット(28AGC-2039)が発売され1987年1月25日にCD(32ATC-140)が発売。1993年12月21日(TKCA-70228)と2004年8月25日(TKCA-72722)にCDが2018年11月3日にLP(TJJA-10013)が再販された。 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物語の舞台は企画段階では「立憲君主国。ただし国王は登場しない」とされており、後に宮崎駿は舞台をイギリスのつもりで設定したと語っている。宮崎は製作が始まる前の1985年5月にイギリスのウェールズ地方をロケハンで訪れており、そこで見た風景が本作に活かされた。イギリス産業革命の時代が背景とされている同作の参考になるのではないかと、プロデューサーの高畑勲に勧められたのがきっかけだった。後に押井守や鈴木敏夫らと同地を再訪している。また登場する小火器(拳銃、小銃、重機関銃)もイギリスの兵器をモチーフにしている。 年代は劇中で明示されていないが、パズーの父親が撮ったラピュタの写真には「1868.7」と作品世界の暦による年代らしき数字が印字されている。 空に浮かぶ島の名前「ラピュタ」は、スウィフト『ガリヴァー旅行記』からで、当初は「ラプュタ」であった。言いにくいので気に入らなかったが、企画書の説得力が増すという理由のみでつけられた。宮崎はガリヴァー旅行記のダイジェスト版しか読んだことがなく、内容も大して面白いと思わず、ラピュタという名前も覚えていなかった。 パズーの名前の由来は、学生時代に考えた船乗りの名前の一つで、『未来少年コナン』で使用されずに唯一残っていたという理由で使用された。シータの名前は、学生時代に創作していた人形劇「サイン・コサイン・シータ」(精神病院が舞台で、少年アルファ何号と、少女シータ何号の物語)からの転用とされる。物語自体は小学生の頃に考えたもの。 発表前の仮タイトルは、「少年パズー・飛行石の謎」で、サブタイトルは「空中城の虜」「空とぶ宝島」「飛行帝国」「空中魔城」「戦国魔城」などの案があった。 「廃れてしまった古の機械文明」が作った「空中に浮かぶ島」、「飛行船に乗る海賊」であるドーラ一家という物語のモチーフは、幻の作品である『ラーマヤナ』(インドとの合作。一度滅亡した文明や、古代核兵器などの設定)と、『リトル・ニモ』(東京ムービー)の企画に参加していた際に、宮崎がイメージしていたものが投影されている。 ドーラの原形は宮崎駿の母親。パズーの乗るグライダーは映画『地獄の天使』のツェッペリン飛行船の観測ゴンドラの影響。飛行石のモチーフは、福島鉄次の『沙漠の魔王』から。 架空の言語「ラピュタ語」は出まかせであるが、ケルト語などに影響を受けている。 庵野秀明によると、宮崎は以前にアニメ番組の企画として『未来少年コナン2』という位置付けの「主人公の少年・少女が謎のペンダントをめぐり潜水艦で世界中を旅する。そしてそれを狙う悪役一派がいる」という案をNHKに提出したが、採用されなかった。この案を後に宮崎は本作に生かし、庵野は別作品の『ふしぎの海のナディア』に持ち込んだという。 世界で最も売れているゲームとして知られる『Minecraft』で、アイアンゴーレムが村人に花を差し出すしぐさをするが、これは本作のワンシーンから着想を得ている。 『ラピュタのエンディング映像には続きがあり、テレビ放映の際に目撃した』などの都市伝説があったが、スタジオジブリは否定するコメントを出しており、小説版の後日談と資料集のイラストなどが混同して噂が広まったのではないかとしている。また、テレビ放送で流された簡易版エンディング(本編の静止画、イメージボードのイラストなどにスタッフロールを乗せたもの)がその噂の元であるとする検証サイトもある。 地上波でテレビ放送される際に、2ちゃんねる等の実況板等において終盤の山場の台詞「バルス」に合わせた大量書き込みが行われ、高負荷によるサーバダウンがたびたび発生している。 2020年にねとらぼで行われた「一番好きな宮崎駿監督作品」の人気ランキングにおいて、3位の『ルパン三世 カリオストロの城』、2位の『風の谷のナウシカ』を押さえて1位となっている。 三鷹の森ジブリ美術館では本作に登場するロボットの模型が常設展示されており、2002年には「天空の城ラピュタと空想科学の機械達展」が開かれた。 英語版は2種類存在する。最初の英語版はストリームライン・ピクチャーズ(英語版)が『Laputa: The Flying Island』の名で1989年にイギリスで公開したもの。2つ目は2003年にディズニーが配給し、ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント(ウォルト・ディズニー・スタジオ・ホーム・エンターテイメント)よりDVDが発売されている『Castle in the Sky』。日本では、前者の音源は2002年10月4日に発売されたDVDに収録され、後者は2014年7月16日に発売されたデジタルリマスター版のDVDに収録されている。 日本での販売用ブルーレイ(2010年12月22日発売)に収録されている英語版は、デジタルリマスターDVDと同じディズニー版の『Castle in the Sky』で、特典映像の一つとして収録されている。スタッフロールはすべて英語で表記されている。なお、エンディングのキャスト紹介は、日本版が「パズー → シータ」なのに対し、ディズニー版は「シータ → パズー」の順になっている。 タイトルが変更されているのは、ラピュタの命名の元となったスウィフトの『ガリヴァー旅行記』第三章の飛行島ラピュータ(Laputa)は、スペイン語のLa puta(売春婦)をもじって命名されたものであり、スペイン語圏およびヒスパニックの多いアメリカ合衆国では不適切なため。 最初の英語版は、配給元のストリームライン・ピクチャーズにより翻訳されたものではない。ストリームライン・ピクチャーズのフレッド・パットンによれば最初は全日空の国際線の機内上映のために製作されたもので、ストリームラインはそれを日本から渡されたとのことで、実際に誰が翻訳、吹き替えを行ったのかは不明とされる。日本語版ではドーラが40秒、ムスカが3分間待つところは共に1分間となっている。 ディズニー版の『Castle in the Sky』には久石譲本人によるオリジナル版と異なる音楽が使用されている。日本版では上映時間2時間4分のうち音楽は約1時間で、箇所によっては7分から8分にわたり音楽が全くない部分があるが、ディズニーのスタッフから海外では全編鳴っているのが当たり前で、3分も曲が無いと落ち着かなくなると説明され、基本となるメロディの大部分を生かしながら、久石が大幅にアレンジを変更し新たに録音を行った。オープニング曲は飛行石が輝く場面とシンクロするようになっており、エンディング曲は日本語オリジナル版の上にピアノの演奏がミックスされている。CDは徳間ジャパンより発売されている。 ディズニー版は2017年にアメリカで、GKIDSとファゾム・イベンツ(英語版)によってイベント上映され、翌2018年にも11月18日から20日の間に、字幕版と併せて648館で劇場公開された。 フランスでブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメントより発売されているDVD(フランス語版タイトルはLe Château dans le Ciel、映画公開は2003年1月15日)はフランス語、日本語のほか「Castle in the Sky」の英語音声も収録されている。 同じDVDに収録されている日本語オリジナル版および、そのオリジナル版と同じ音楽を用いたフランス語版の音声は、音楽の音程がオリジナルより約半音高くなっている。これは秒間24コマのフィルムから秒間25コマのPAL方式にテレシネする際、1コマ分の4%早くなる為。 英語版の字幕は、英語版音声を忠実に書き起こしたものと日本語版からの翻訳重視のものが2種類収録されているが、フランス語版の字幕は1種類のみで、フランス語版の音声と字幕では内容が異なる。 フランス語版DVDはリージョン2(日本と共通)、映像方式はNTSC/PALコンパチブルで、日本の家庭用DVDプレーヤーでも再生可能。 亀岡修『小説 天空の城ラピュタ 前・後篇』、徳間書店 アニメージュ文庫 イラストは宮崎駿。亀岡は宮崎自身からの指名を受けノベライズを担当し、月刊『アニメージュ』に連載後に出版された。 映画では描かれていない飛行客船襲撃よりも前のエピソードや、映画のラストの半年後を舞台としたエピローグが書かれており、その他細かい設定や、登場人物の心情描写の補完がなされている。 2002年にDVD化された際、10,000セット限定販売の『「天空の城ラピュタ」DVDコレクターズ・エディション』に、この小説版をハードカバー単行版で再編し『コレクターズ・エディション』版に付属された。
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"『ラピュタのエンディング映像には続きがあり、テレビ放映の際に目撃した』などの都市伝説があったが、スタジオジブリは否定するコメントを出しており、小説版の後日談と資料集のイラストなどが混同して噂が広まったのではないかとしている。また、テレビ放送で流された簡易版エンディング(本編の静止画、イメージボードのイラストなどにスタッフロールを乗せたもの)がその噂の元であるとする検証サイトもある。", "title": "制作背景・影響" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "地上波でテレビ放送される際に、2ちゃんねる等の実況板等において終盤の山場の台詞「バルス」に合わせた大量書き込みが行われ、高負荷によるサーバダウンがたびたび発生している。", "title": "制作背景・影響" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2020年にねとらぼで行われた「一番好きな宮崎駿監督作品」の人気ランキングにおいて、3位の『ルパン三世 カリオストロの城』、2位の『風の谷のナウシカ』を押さえて1位となっている。", "title": "制作背景・影響" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "三鷹の森ジブリ美術館では本作に登場するロボットの模型が常設展示されており、2002年には「天空の城ラピュタと空想科学の機械達展」が開かれた。", "title": "制作背景・影響" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "英語版は2種類存在する。最初の英語版はストリームライン・ピクチャーズ(英語版)が『Laputa: The Flying Island』の名で1989年にイギリスで公開したもの。2つ目は2003年にディズニーが配給し、ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント(ウォルト・ディズニー・スタジオ・ホーム・エンターテイメント)よりDVDが発売されている『Castle in the Sky』。日本では、前者の音源は2002年10月4日に発売されたDVDに収録され、後者は2014年7月16日に発売されたデジタルリマスター版のDVDに収録されている。", "title": "日本国外版" 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Sky』には久石譲本人によるオリジナル版と異なる音楽が使用されている。日本版では上映時間2時間4分のうち音楽は約1時間で、箇所によっては7分から8分にわたり音楽が全くない部分があるが、ディズニーのスタッフから海外では全編鳴っているのが当たり前で、3分も曲が無いと落ち着かなくなると説明され、基本となるメロディの大部分を生かしながら、久石が大幅にアレンジを変更し新たに録音を行った。オープニング曲は飛行石が輝く場面とシンクロするようになっており、エンディング曲は日本語オリジナル版の上にピアノの演奏がミックスされている。CDは徳間ジャパンより発売されている。", "title": "日本国外版" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ディズニー版は2017年にアメリカで、GKIDSとファゾム・イベンツ(英語版)によってイベント上映され、翌2018年にも11月18日から20日の間に、字幕版と併せて648館で劇場公開された。", "title": "日本国外版" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "フランスでブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメントより発売されているDVD(フランス語版タイトルはLe Château dans le Ciel、映画公開は2003年1月15日)はフランス語、日本語のほか「Castle in the Sky」の英語音声も収録されている。", "title": "日本国外版" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "同じDVDに収録されている日本語オリジナル版および、そのオリジナル版と同じ音楽を用いたフランス語版の音声は、音楽の音程がオリジナルより約半音高くなっている。これは秒間24コマのフィルムから秒間25コマのPAL方式にテレシネする際、1コマ分の4%早くなる為。", "title": "日本国外版" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "英語版の字幕は、英語版音声を忠実に書き起こしたものと日本語版からの翻訳重視のものが2種類収録されているが、フランス語版の字幕は1種類のみで、フランス語版の音声と字幕では内容が異なる。", "title": "日本国外版" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "フランス語版DVDはリージョン2(日本と共通)、映像方式はNTSC/PALコンパチブルで、日本の家庭用DVDプレーヤーでも再生可能。", "title": "日本国外版" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "亀岡修『小説 天空の城ラピュタ 前・後篇』、徳間書店 アニメージュ文庫", "title": "小説版" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "イラストは宮崎駿。亀岡は宮崎自身からの指名を受けノベライズを担当し、月刊『アニメージュ』に連載後に出版された。", "title": "小説版" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "映画では描かれていない飛行客船襲撃よりも前のエピソードや、映画のラストの半年後を舞台としたエピローグが書かれており、その他細かい設定や、登場人物の心情描写の補完がなされている。", "title": "小説版" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2002年にDVD化された際、10,000セット限定販売の『「天空の城ラピュタ」DVDコレクターズ・エディション』に、この小説版をハードカバー単行版で再編し『コレクターズ・エディション』版に付属された。", "title": "小説版" } ]
『天空の城ラピュタ』は1986年に公開されたスタジオジブリ初制作の日本のアニメーション映画。宮崎駿監督の長編アニメーション映画第3作。
{{画像改訂依頼|ロゴタイトル|高解像度版|date=2023年1月 (UTC)}} {{Infobox Film | 作品名 = 天空の城ラピュタ | 原題 = LAPUTA: Castle in the Sky | 画像 = Tenkū no Shiro Rapyuta title.jpg | 画像サイズ = 240px | 画像解説 = | 監督 = [[宮崎駿]] | 脚本 = 宮崎駿 | 原案 = | 原作 = 宮崎駿 | 製作 = [[高畑勲]] | 製作総指揮 = [[徳間康快]] | ナレーター = | 出演者 = [[田中真弓]]<br />[[よこざわけい子|横沢啓子]]<br />[[寺田農]]<br />[[初井言榮]]<br />[[常田富士男]]<br />[[永井一郎]]<br />[[神山卓三]]<br />[[安原義人]]<br />[[亀山助清]]<br />[[槐柳二]]<br />[[糸博]]<br />[[鷲尾真知子]]<br />[[TARAKO]] | 音楽 = [[久石譲]] | 主題歌 = [[井上あずみ]]「[[君をのせて (井上あずみの曲)|君をのせて]]」 | 撮影 = 高橋宏固<br />[[白神孝始]] | 編集 = [[瀬山武司]] | 制作会社 = [[スタジオジブリ]] | 製作会社 = [[徳間書店]] | 配給 = {{Flagicon|JPN}} [[東映]]<br />{{Flagicon|USA}} [[:en:Streamline Pictures|ストリームライン]]<br />{{Flagicon|FRA}} [[:fr:Walt Disney Studios Distribution#Contrat avec le Studio Ghibli|ブエナ・ビスタ(フランス)]]<br />{{Flagicon|TUR}} Bir Film<br />{{Flagicon|RUS}} RUSCICO<br />{{Flagicon|COL}} bf Distribution<br />{{Flagicon|FIN}} Cinema Mondo<br />{{Flagicon|ITA}} Lucky Red<br />{{Flagicon|GBR}} [[:en:StudioCanal UK|スタジオカナル UK]]<br />{{Flagicon|USA}} [[:en:Fathom Events|ファゾム・イベンツ]]/[[GKIDS]]<br />{{Flagicon|NOR}} Arthaus | 公開 = {{Flagicon|JPN}} [[1986年]][[8月2日]]<br />{{flagicon|HKG1959}} [[1987年]][[6月26日]]<br />{{Flagicon|USA}} [[1989年]][[3月24日]]<br />{{Flagicon|CHN}} [[1992年]]<br />{{Flagicon|FRA}} [[2003年]][[1月15日]]<br />{{Flagicon|TUR}} [[2007年]][[7月6日]]<br />{{Flagicon|RUS}} [[2008年]][[2月28日]]<br />{{Flagicon|COL}} [[2008年]][[10月31日]]<br />{{Flagicon|FIN}} [[2009年]][[3月6日]]<br />{{Flagicon|ITA}} [[2012年]][[4月25日]]<br />{{Flagicon|GBR}} [[2016年]][[5月6日]]<br />{{Flagicon|USA}} [[2017年]][[8月27日]]<br />{{Flagicon|NOR}} [[2019年]][[6月28日]]<br />{{Flagicon|TWN}} [[2022年]][[11月25日]] | 上映時間 = 124分{{efn2|124分04秒22コマ}} | 製作国 = {{JPN}} | 製作費 = | 興行収入 = 約11.6億円 | 配給収入 = 5億8300万円 | 前作 = | 次作 = }} 『'''天空の城ラピュタ'''』(てんくうのしろラピュタ、英名:''LAPUTA: Castle in the Sky'')は[[1986年]]に公開された[[スタジオジブリ]]初制作の[[日本]]の[[アニメーション映画]]。[[宮崎駿]]監督の長編[[アニメーション映画]]第3作。 {{external media|align=right|image1=[[:en:File:Castle in the Sky (1986).png|天空の城ラピュタポスター|英語版Wikipedia]]}} == 上映データ == {{出典の明記|date=2022年12月|section=1}} {| class="wikitable" |公開日<br />上映時間||[[1986年]](昭和61年)[[8月2日]]||[[日本]]||124分04秒22コマ |- |サイズ<br />サウンド||colspan=2|[[カラー]]/[[ワイドスクリーン|ワイド]]/[[ドルビーサラウンド|ドルビーステレオ]](4chサラウンド)||[[映倫]]86403 |- |上映スクリーン数||colspan=3|[[東映]]洋画系103館<ref>{{Cite book|和書|author=尾形英夫|authorlink=尾形英夫|title=あの旗を撃て 『アニメージュ』血風録|date=|year=2004|publisher=[[オークラ出版]]|pages=239|isbn=978-4-77-550480-2}}</ref> |- |制作期間||colspan=3|1985年6月15日 - 1986年7月23日 |- |作画枚数<br />使用色数||colspan=3|6万9262枚 / 381色 |- |キャッチコピー||colspan=3|「'''ある日、少女が空から降ってきた…'''」 |- |同時上映||colspan=3|『[[名探偵ホームズ]]』「ミセス・ハドソン人質事件」「ドーバー海峡の大空中戦!」 |} == 概要 == 監督である宮崎の小学校時代に考えていた架空の作品が骨子となっており、原作となる作品が存在しない初のアニメオリジナルの監督作品である<ref>{{Cite book|和書|author=切通理作|authorlink=切通理作|year=2001|title=宮崎駿の<世界>|pages=27|publisher=[[筑摩書房]]・ちくま新書|isbn=4480059083}}</ref>。製作は[[徳間書店]]。[[高畑勲]]の映画『[[柳川堀割物語]]』の製作遅延により資金調達に追われた宮崎が、徳間書店の[[鈴木敏夫]]に相談したことから企画が立ち上げられ、この映画をきっかけに設立された[[スタジオジブリ]]制作映画の1作品目となった。 次第に高年齢向けになっていくアニメに対して、マンガ映画の復活を目標に小学生を対象に古典的な冒険活劇として企画され、それが結果的に大人の鑑賞に耐えうる作品になるというのが宮崎の方針であった<ref>{{Cite book|和書|author=宮崎駿|authorlink=宮崎駿|year=1996|title=『天空の城ラピュタ』企画原案」『出発点 1979〜1996』|pages=394-395|publisher=[[徳間書店]]|isbn=978-4-19-860541-4}}</ref>。興行こそ数字的には振るわなかったものの([[#興行・売上記録|後述]])、配給した[[東映]]による観客満足度調査は97.7%と非常に高く<ref>{{Cite book|和書|author=尾形英夫|authorlink=尾形英夫|year=2008|title=宮崎アニメは、なぜ当たる スピルバーグを超えた理由|pages=39|publisher=[[朝日新聞出版]]|isbn=978-4-02-273221-7}}</ref>、物語は幅広い年齢層に支持され、ビデオソフト化による販売は好調であった。 「ラピュタ」という名称は、[[ジョナサン・スウィフト|スウィフト]]の『[[ガリヴァー旅行記]]』に登場する、空を飛ぶ島にある王国「{{仮リンク|ラピュタ王国|en|Laputa}}」からとったもの。劇中に空飛ぶ島の物語を空想した人物としてスウィフトの名前も出てくるが、名前の借用以外は『ガリヴァー旅行記』との関連はない。[[19世紀]]後半、[[産業革命]]期の[[ヨーロッパ]]を元にした架空世界での冒険を描く。 == あらすじ == ; プロローグ : ある夜、北のゴンドアの谷に住む少女[[#シータ|シータ]]は、[[#ムスカ|ムスカ大佐]]率いる政府の特務機関に捕らえられ[[飛行船|飛行客船]]に乗せられていた。そこへ、空中海賊[[#ドーラ|ドーラ]]一家が襲撃を仕掛けてくる。彼らの目的が自分にあると知ったシータは逃げるために窓の外へのがれ隣の部屋へ移ろうとするが、足を滑らせ飛行客船から転落してしまう。気絶したシータが落下する中、石が不思議な光を放ち、彼女の体を宙に支えて落下速度を緩めた。シータは真下にあったスラッグ渓谷の鉱山にゆっくりと落ちていき、鉱山で働く少年[[#パズー|パズー]]に発見され助けられる。 ; 鉱山街 : 翌朝、目を覚ましたシータが空に浮かぶという伝説の城[[#ラピュタ|ラピュタ]]の写真を見ているのを見たパズーは、今は亡き[[#パズーの両親|パズーの父]]が生涯で一度だけラピュタを目撃、写真を撮ったが、詐欺師扱いされた事と、その汚名をそそぐべく、ラピュタへ行く事が夢だと語った。直後にパズーはシータが海賊に追われている事を知り、彼女を守って共に逃げる。海賊と軍に追われた二人は、鉄道の高架線から下の廃坑に落ちるが、石の力により再び救われ、廃坑の底までゆっくり落ちる。 : 廃坑で会った石に詳しい老人[[#ポム|ポム]]によれば、首飾りの石は昔ラピュタで作られた[[#飛行石|飛行石]]の結晶だという。地上に戻った後、実在を確信してラピュタ探索への意欲を燃やすパズーに、シータは暗く沈んだ表情で、彼の家でラピュタの写真を見た時に思い出した、古くから受け継いできたという秘密の名前を打ち明け、姓が「ラピュタ」である事に彼は驚く。 ; 軍事要塞 : その直後、二人は特務機関と軍に捕まり、要塞へと連行される。そこでシータは、ムスカから以前ラピュタから落ちてきた壊れた[[#ロボット兵|ロボット兵]]を見せられる。彼は彼女に、飛行石は[[#ラピュタの王家|ラピュタの王族]]を守り、いつかラピュタに帰る時の道しるべとして代々受け継いできた物だと言う。 : そして、「ラピュタは遠い昔に滅びたが、かつて高度な科学力で天空から世界を支配した恐怖の帝国だった。それが今も空に存在する事が平和の脅威になりうる」というまっとうな理由を語りつつ、パズーの命を盾に脅迫的に協力を迫り、同時に秘密として受け継がれてきたはずの彼女の本名を言い当てる。シータはパズーの身を案じてやむなく協力を承諾する。 : 牢屋から解放されたパズーと再会したシータはラピュタの探索をあきらめるようにパズーに告げ、失意と共に要塞を去っていくパズーを、涙と共に見送った。 ; シータの奪還 : 夜が明け始め、軍のラピュタ探索に同行させられる時が迫り途方に暮れたシータは、昔亡き祖母に教わった「困った時のおまじない」を思い出し唱える。彼女は知らなかったが、実はそのおまじないはラピュタの封印を解く呪文だった。その呪文によりロボット兵が目覚め、シータを救う為に暴れ出し、飛行石は日の昇る東の空に光を放ってラピュタの位置を指し示す。 : 一方パズーは自宅に戻るも、不在の間に入り込んでいたドーラ一家に捕まってしまう。シータに裏切られたと思いふさぎ込んでいたパズーはドーラに一喝され、シータが突き放すような態度を取った理由を理解し、石を奪う為に要塞へ向かう一家に自分も連れて行くように懇願する。ドーラもその方がシータが言う事を聞くかも知れないと考えて同行を許し、ロボット兵の暴走により混乱する要塞から協力して彼女を救い出す。 ; 飛行船に乗りラピュタへ : 石はムスカの手に渡り、彼はロボット兵を破壊した軍と共に先にラピュタに出発する。パズーとシータも一家の飛行船に乗せてもらい、後を追う形でラピュタへと向かう。 : 夜になり見張りをしているパズーの元にシータが訪れ、ラピュタを巡る複雑な思いを告白する。彼女は祖母に他にも幾つもの「おまじない」を教えられており、その中には「滅びの言葉」というものもあると言う。パズーは不安に駆られるシータを励まし、ラピュタを巡る冒険が終わったら必ず故郷に送り届けると彼女に誓う。 : だが、会話の直後に、一家の飛行船は軍に発見され、攻撃を受け雲間に逃れる。ドーラの命令で見張り台を切り離し、雲の上で偵察用の[[グライダー]]として使っていた二人。夜が明け、巨大な低気圧の中心「竜の巣」が迫る中、再び軍に発見され連続攻撃を受ける。攻撃を受けながら、パズーの言葉によりドーラが「竜の巣」に入る事を決めた時、グライダーをつないでいたワイヤーが切れ、飛行船より先に「竜の巣」に飲み込まれてしまう。 : 嵐の中でパズーは、青白い父の飛行船の幻を目撃し、それに導かれるように、嵐の中心にあるラピュタの上層部に到着し、城の端の地面に落ち気絶する。 ; 天空の城ラピュタ : 目覚めた二人は園丁ロボットに、建物の外の水底に沈んだ町や、建物の中の庭園を案内され、恐怖の帝国と呼ばれたラピュタの平和的な一面を見る。 : その後、遠くから爆発音を聞いて外に出た二人は、城の中間層で軍に捕まった一家の姿を発見する。パズーは外壁をよじ登って一家を救おうとするが、ムスカの部下が彼を撃とうとした為、シータが体当たりをした後逃げようとするが、ムスカに捕まってしまう。 : 彼らは彼女を捕らえたまま城の下層部に入る。パズーはドーラの縄を切り、彼女から武器を受け取ってシータの救出に向かう。途中で部下を置き去りにしたムスカは、城の中枢部で彼女に自分もラピュタ王の子孫だと明かす。彼の本当の狙いとは、ラピュタの力を手に入れて世界を支配する事だった。そして彼は飛行石で城を操り軍を皆殺しにする。 ; 滅びの言葉 : ムスカの非道な仕打ちに怒り心頭に発したシータは、彼から石を取り返し逃げだす。途中で彼女は、下層部に入り込んでいたパズーを壁の割れ目から見つけ石を渡す。その後、玉座の間に追い詰められ、ムスカに銃で脅されるもシータは毅然とした態度で対峙し、人は土から離れては生きられない存在なのだと喝破する。。 : その直後、駆け付けてきたパズーはシータに滅びの言葉を教えるようにシータに言い、シータはパズーと共に滅びの言葉「バルス」を唱える。すると飛行石が強い光を発して城は崩壊し、強烈な光に視界を奪われたムスカは瓦礫と共に海へ落ちていく。ラピュタを浮遊させていた巨大な飛行石の結晶は、ラピュタ全体を覆っていた大樹の根に囲まれて、城の上層部と共に更に高空へと飛び去っていった。 ; エピローグ : パズーとシータはグライダーで城から離れ、フラップターで脱出していたドーラ一家と空で再会して喜び合う。そして二人は一家と別れ、帰途に着くのだった。 == 登場人物 == ※声の記述は、日本版 / ディズニー英語版の順で表記。 === 主要人物 === ; {{Anchors|パズー}}パズー(Pazu) : [[声優|声]] - [[田中真弓]] / [[ジェームズ・ヴァン・ダー・ビーク]] : 本作の[[主人公]]。スラッグ渓谷(小説版に(この国の)南部山岳地帯にあると記載{{sfn|『小説 前篇』|p=83|loc=「襲撃 一」}})の鉱山で働く見習い機械工で{{sfn|『型録 I』|1996|pp=78,84}}{{sfn|『小説 前篇』|p=55|loc=「スラッグ渓谷」}}、明るく元気で正義感と行動力あふれる少年。12歳{{efn2|『ロマンアルバム』では「12歳」と記載がある{{sfn|『ロマンアルバム』|p=114}}。また同書の別ページには「12歳(6年)」という記載もある{{sfn|『ロマンアルバム』|p=131|loc=企画書第1稿}}。また同書のキャラクター覚え書及び準備稿では「13才位」と記載がある{{sfn|『ロマンアルバム』|pp=94,97}}。}}。小説版に12、13歳と記載{{sfn|『小説 前篇』|p=53|loc=「スラッグ渓谷」}}。天涯孤独で、両親の残した家で一人暮らしをしている。小説版にこの渓谷に母親と一緒に(つまり父親の死後)来たと記載{{sfn|『小説 前篇』|p=118|loc=「出会い 二」}}。 : ラピュタの発見に関して詐欺師の汚名を着せられたまま死んだ父の為、自作の[[オーニソプター]](はばたき飛行機)でラピュタの実在を証明する事を夢見る。 : 場の空気を読むのがうまく、自分達を守り、味方であるはずの軍がシータの態度から敵である事をすぐに見抜いた。 : シータと出会った事で、海賊や軍から彼女を守りながら、飛行石とラピュタを巡る冒険の旅へと出る。体は頑丈で、親方のゲンコツよりも硬い石頭だと自称する。実際、ムスカの部下に銃で殴られ気絶し、要塞に連行後にムスカがシータに「彼の石頭は私のものより頑丈だったよ」と(自分を酒瓶で殴ったシータへの皮肉も込めて)言っている。 : 飛行するフラップターの上から、数百メートルは離れている塔の上に居るシータに一瞬で気付く程目も良い。フラップターに逆さまになってぶら下がり、塔から飛び降りるシータを救出した。 : 日の出と共に[[トランペット]]で『ハトと少年(スラッグ渓谷の朝)』を演奏し、飼っている[[鳩|ハト]]にエサをやるのが日課だが、ドーラ一家に迎え入れられた際に世話が出来なくなった為、そのハト達を全て逃がしている。 : ドーラ一家の仲間になった際に、父の形見のゴーグルを着けて出発したが、そのゴーグルはラピュタの中でムスカの銃撃により失われた。タイガーモス号ではモトロ(老技師、後述)の機関助手として働き、機関室でレバーを引く他、垂直尾翼を修理し、油を差している。 : 名の由来は、宮崎自身が学生時代に考えた船乗りの名前から。 : 小説版のエピローグでは、ラピュタでの一件の後スラッグ渓谷へ帰り、シータとは別々に暮らしているが、文通をして交流を続けている{{sfn|『小説 後篇』|p=165|loc=「再びゴンドアの谷」}}。この手紙の文中では、オーニソプターがもうすぐ完成する事{{sfn|『小説 後篇』|p=166|loc=「再びゴンドアの谷」}}、完成したらゴンドアまで飛んでいく事などが書かれている{{sfn|『小説 後篇』|p=166|loc=「再びゴンドアの谷」}}。また、ラピュタに行った事については誰にも語らなかった事が明らかになっている{{sfn|『小説 後篇』|p=166|loc=「再びゴンドアの谷」}}。本編では描かれなかったが、後に発売された『スタジオジブリ作品関連資料集 I』には、完成したオーニソプターを操縦し、花束を持ってシータの元へやって来たパズーの姿が描かれている{{sfn|『型録 I』|1996|p=65}}。 ; {{Anchors|シータ}}シータ / リュシータ・トエル・ウル・ラピュタ(Sheeta / Princess Lusheeta Toel Ur Laputa) : 声 - [[よこざわけい子|横沢啓子]]<ref>主婦の友社『声優道 名優50人が伝えたい仕事の心得と生きるヒント』よこざわけい子「天才じゃなくていい。努力の積み重ねが実を結ぶ」P98。</ref> / [[アンナ・パキン]] : 本作の[[ヒロイン]]。パズー同様、天涯孤独の身であり、両親や祖母の残した畑や[[ヤク]]を飼って北方(小説版にこの国の最北端にあると記載{{sfn|『小説 前篇』|p=61|loc=「ゴンドアの谷」}})の山奥にあるゴンドアの谷で生活していた{{efn2|両親についてはシータの口からわずかに語られるのみである{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=199,203}}。}}。 : ラピュタを狙うムスカ率いる特務機関にさらわれ、[[飛行船|飛行客船]]で運ばれている所、ドーラ一家の襲撃に遭い、逃げ出そうとして飛行客船から転落、パズーにかくまわれる事になる。 : 12歳{{efn2|『ロマンアルバム』のキャラクター覚え書では「パズーと同じ年頃」{{sfn|『ロマンアルバム』|p=95}}、同ページの準備稿では「パズーと同年配」と記載がある{{sfn|『ロマンアルバム』|p=95}}。また同書の別ページには「12歳(6年)」という記載もある{{sfn|『ロマンアルバム』|p=131|loc=企画書第1稿}}。}}。小説版に12、13歳と記載{{sfn|『小説 前篇』|p=63|loc=「ゴンドアの谷」}}。 : 先祖伝来の秘宝である{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=203}}{{sfn|『小説 前篇』|p=141|loc=「地下廃坑」}}、飛行石の結晶の首飾りを提げている{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=218}}{{sfn|『ロマンアルバム』|p=22}}{{sfn|『小説 前篇』|p=146|loc=「ポムじいさん」}}。 : かつて、天帝としてラピュタ帝国に君臨した王族であり{{sfn|『ロマンアルバム』|p=132}}{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=10}}、[[宗家]]たるトエル家の子孫で、継承名 (『型録 1』等には本名と記載{{sfn|『型録 I』|1996|pp=78,84,85}}{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=94}}{{efn2|書籍によっては「真の名前」という記載もある{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=178|loc=準備稿}}{{sfn|『小説 前篇』|p=158|loc=「要塞ティディス」}}。}})は「リュシータ・トエル・ウル・ラピュタ」。ラピュタ語でウルは「王」、トエルは「真」を意味し、彼女がラピュタの真の王である事を示しており{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=259}}{{sfn|『小説 前篇』|p=158|loc=「要塞ティディス」}}(『THE ART OF』準備稿にはトエルは「正統な継承者」を意味するという記載がある{{sfn||1986|p=180|loc=準備稿}})、リュシータ王女である{{sfn|『型録 I』|1996|pp=77,85}}{{sfn|『小説 前篇』|p=158|loc=「要塞ティディス」}}。 : 性格はおしとやかで心優しく、自分を助けようとしてくれたロボット兵が破壊された際は、パズーの胸で泣きじゃくっていた。一方、ムスカを背後からワイン瓶で殴り脱出しようとする、ドーラの制止を振り切り、パズーと暴風の中で見張り台に残る、終盤でのムスカとの対面のシーン等、行動的かつ胆力に富んだ一面も持ち合わせている。山育ちで視力も良い。新しい環境への適応力も高く、タイガーモス号での暮らしにもすぐになじんでいる他、初めて見る文明の利器に対してもすぐに順応できる{{efn2|見張り台でドーラと会話を交わした際、「凧(たこ)が揚がったら伝声管は使えないから中にある電話を使え」という言葉を聞き終わらない内にすかさず電話を使ってみせドーラを驚かせている{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=457}}。}}。 : 家事全般が得意。ドーラ一家の仲間になった後は、顔がかわいい事もあり(シャルルが少女(シータ)を探すシーンで親方に対し「かわいい子」と発言{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=111}})、ドーラの息子や子分達にアイドルのような扱いを受けており、台所にのぞきに来られる程であるが、年甲斐もなく子供っぽい彼らとも嫌がる事なく打ち解けている。ちなみに、ドーラに台所に案内された際にのぞきに来たのは、シャルル、ルイ、ク、ケ、コの5人である。 : 名の由来は、宮崎自身が学生時代に書いた人形劇のヒロインであるシータ(ギリシャ文字のθ)から{{sfn|『GUIDE BOOK』|p=84}}。構想段階では、シータも海賊の娘であり、風の谷のナウシカ(ワイド漫画版)同様、シータの命令によってロボット兵がラピュタを破壊するラストシーンにする予定であった。 : 小説版のエピローグでは、ラピュタでの一件の後ゴンドアの谷へ帰り、パズーとは別々に暮らしているが、文通をして交流を続けている。パズーにあてた手紙の中で、ヤクの子が産まれた事を書いている{{efn2|パズーからの手紙(返事)に、「ヤクの子が産まれたんだって。おめでとう」という1文がある{{sfn|『小説 後篇』|p=165|loc=「再びゴンドアの谷」}}。}}。長い髪を2本の三つ編みおさげにしていたが、おさげ髪は2度ほど引っ張られ、ムスカの銃撃により切断されてショートカットとなる。しかし、小説のエピローグでは本編から半年の月日が流れており、再びおさげを結べる程に髪の毛が伸びている{{sfn|『小説 後篇』|pp=165,167|loc=「再びゴンドアの谷」}}。 === 空中海賊「ドーラ一家」 === ; {{Visible anchor|マ=ドーラ|ドーラ}}{{efn2|文春ジブリ文庫『シネマ・コミック』の表記は「マ・ドーラ」。}}(Dola) : 声 - [[初井言榮]] / [[クロリス・リーチマン]] : [[空賊|空中海賊]]「ドーラ一家」の女首領にして、[[飛行船]]・[[タイガーモス号]]の船長。50代{{sfn|『ロマンアルバム』|p=98}}{{efn2|『ロマンアルバム』準備稿には「50歳前後」という記載がある{{sfn|『ロマンアルバム』|p=98|loc=準備稿}}。}}。『ロマンアルバム』には60才位という記載もある{{sfn|『ロマンアルバム』|p=98}}。頭が良く決断力に富み、三人の息子や子分達以上の健脚で、無類の食欲と物欲、「女は度胸だ」と豪語し自ら危険にも果敢に飛び込む胆力の持ち主。間が抜けている息子や子分達に嘆息し「バカ息子共」「バカ共」とどなり散らして恐れさせる一方、失意のパズーを一喝した後に受け入れる、おさげを切られたシータを抱き締めていたわる等の度量の深さや優しさも併せ持っている。また、伝声管でパズーとシータの会話を聞いていた際に、まんざらでもない笑みを浮かべたり「見かけよりいい人」というパズーの言葉に目を見開いて驚きの表情を見せたりもしている。 : タイガーモス号やオートモービル等様々な乗り物やランチャー (一家が主に使う弾は目つぶし用のマスタード(からし粉)榴弾(りゅうだん){{sfn|『THE ART OF』|1986|p=26}}{{sfn|『小説 前篇』|p=99|loc=「襲撃 三」}}。つまり[[催涙弾]])等武器の扱いも優れている。一家は人殺しをしない{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=27}}。一家が狙うのは金持ちの乗った豪華客船{{sfn|『ロマンアルバム』|p=120}}{{efn2|『絵コンテ全集』では親方が一家に対し「ここには貧乏人しかいない」と発言{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=118}}、小説ではスラッグ渓谷の住人が一家に対し親方と同じ事を言った{{sfn|『小説 前篇』|pp=123,124|loc=「逃亡 一」}}。}}。小説等では「面倒見が良く、アジト近くで子供が産まれたと聞くと、出産祝いに石炭半年分を贈ったりする為、人々の評判もいい」「軍の捜索の手が伸びてくると、村人が軍より早く知らせにくる為、今まで一度も捕まった事がない。それは国中に情報網とアジトを構築した為」という記述がある{{sfn|『小説 前篇』|p=68|loc=「空中海賊ドーラ」}}{{sfn|『ロマンアルバム』|p=98}}。また、ムスカと並ぶ暗号解読の天才でもあり、軍が飛行戦艦を呼ぶ無線暗号を「ANGO」というタイトルの本で瞬時に解読する他、[[そろばん]]を「[[東洋]]の計算機」と称して素早く使いこなし、航法計算を行っている。 : 当初は高価と踏んだ飛行石のみを追い求め、石を持つシータ(後に彼女を助けたパズーも)を追っていたが(小説では昔からラピュタと飛行石の伝説を知っており、石を使いラピュタの財宝を手に入れる為、映画同様に軍の無線を聴いて知った、石を持つシータの乗る[[飛行船|飛行客船]]を襲う{{sfn|『小説 前篇』|pp=68-70|loc=「空中海賊ドーラ」}}{{sfn|『小説 前篇』|pp=83-85,87-89|loc=「襲撃 一」}}{{sfn|『小説 前篇』|pp=97-102|loc=「襲撃 三」}})、パズーの証言や政府の動きからラピュタ実在を確信し、軍より先にラピュタの財宝を手に入れる事をもくろむ。パズーの証言でシータが石を働かせる鍵となる事を知り、シータを救おうとするパズーの決意と覚悟を認めてからは彼に助力し、後に2人をタイガーモス号に仲間として受け入れ、2人をラピュタ発見の足がかりとしつつ、良き理解者となる。 : パズーからは「おばさん」、シータからは「おば様」と呼ばれている。パズーに対して当初は「船長とお呼び」と言っていたが、後に訂正しなくなっている。 : 映画本編では、タイガーモス号の私室に掲げられた若い頃の肖像画を見る事が出来る。亡き夫は天才科学者であり、タイガーモス号及びフラップターは夫の形見{{sfn|『ロマンアルバム』|pp=100,102,124}}{{sfn|『小説 前篇』|p=71|loc=「空中海賊ドーラ」}}{{sfn|『小説 前篇』|p=85|loc=「襲撃 一」}}。小説版では、ドーラ達はもともと帆船に乗る海賊だったが、亡夫が誘拐同然に連れて来られ、彼が前述の乗り物を発明した後、空中海賊になったという{{sfn|『小説 前篇』|p=71|loc=「空中海賊ドーラ」}}。 : 小説版では、別れの際にパズーへ「あたしの夫のように立派な男になるんだよ」{{efn2|『THE ART OF』に掲載された準備稿にも、同様のセリフがある{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=191}}。}}と言葉をかけた{{sfn|『小説 後篇』|p=166|loc=「再びゴンドアの谷」}}。半年後のエピローグには新たな飛行船で軍の給料を奪う等、その後も一家で空で活動を続けている記述がある{{sfn|『小説 後篇』|p=166|loc=「再びゴンドアの谷」}}。 : [[宮崎駿]]監督は、自作の中で一番思い入れの深いキャラクターにドーラを挙げている。 : キャラクターモデルは宮崎監督の母親との事。 ; シャルル(Charles) : 声 - [[神山卓三]] / マイケル・マクシェイン : ドーラの長男で、30歳{{sfn|『ロマンアルバム』|p=120}}。豊かな口ひげを蓄えた大男で、ダッフィーと力比べを繰り広げた。 : 胸筋を勢いよく膨らませてシャツの胸の部分を吹き飛ばす等、筋骨隆々で腕力も一家の中で一番強い。[[プディング]]が好き。 : ルイからは「兄貴」、アンリからは「兄ちゃん」と呼ばれている。 : 厨房に入った時は花を持っており、ルイと同様、シータに鼻の下を伸ばしていた。 : 本作の締めの台詞を飾った人物で、劇中でのパズーとの会話がない<ref group=注>シータとは「お前プディング作れるか?」の問いに「ええ」と返されている。</ref>{{efn2|ただし、『THE ART OF』に掲載された準備稿では、ハラ・モトロが登場していないため、シャルルが機関長の役割も兼務しており、機関助手のパズーとの会話がある。また、パズーと一緒にフラップターで嵐の中に突入するシーンも描かれている。}}。 ; ルイ(Louis) : 声 - [[安原義人]] / [[マンディ・パティンキン]] :ドーラの次男で、25歳{{sfn|『ロマンアルバム』|p=120}}。ちょびひげを生やしている。ドーラ一家の中で真っ先にシータにほれた。 : [[ミンスパイ|ミンス・ミートパイ]]が大好物。 : パズーの家を捜索した際、乗組員のクから名前を呼ばれている。 : 口調はやや高圧的な部分もあるが、コミカルな言動や表情が多い。常に格好をつけている。 : パズーの家の前で出会っており、彼にとっては三兄弟の中で1番最初に出会った人物である。また、バズーとシータとの絡みが最も多かった(三兄弟の中でどちらとも会話をしたのはルイのみ)。 ; アンリ(Henri) : 声 - [[亀山助清]] / アンディ・ディック : ドーラの三男で、20歳{{sfn|『ロマンアルバム』|p=120}}。主にタイガーモス号の操縦士を務めており、あまり表に出ない。 : 無口である{{sfn|『ロマンアルバム』|pp=98,120}}。帽子をかぶっていると目が隠れる。 : 三兄弟の中で唯一ひげが無く、ほおにそばかすがある。シータに好物をリクエストする際、迷った挙げ句「なんでも食う!」と言った。 : 三兄弟の中では唯一、名前を呼ばれるシーンが無い。また、兄2人ほどシータにそれほど興味はないらしく、厨房に入るのも後述のカ、キ、ハラ・モトロを除く男性乗組員6人の中で最も遅く、その挨拶の仕方から本当に暇だから様子を見に来た印象が強く、彼女との会話もパズーと違って全くない<ref group=注>パズーとは彼の家を出る時に「シータをさらいに行くの?」の問いに「嫁はいらねぇ、飛行石さ!」と返し、タイガーモス号では、見張りの交代の時に会話をしている。</ref>。 ; ハラ・モトロ(Motro) : 声 - [[槐柳二]] : タイガーモス号のベテラン機関士。 : ドーラの父の代からいる最古参の子分{{efn2|小説版では、ドーラの父が死んだ時に四散した子分の中で唯一、ドーラの元に残り一家を盛り立ててきた人物という記述がある{{sfn|『小説 後篇』|p=78|loc=「追跡行 一」}}。}}で、乗組員達からは「じっちゃん」と呼ばれている。ドーラからは「クソジジイ」呼ばわりされる事もあるが、船内では唯一、対等に口がきける厚い信頼を寄せる旧友でもあり、正装で私室に呼ばれ[[チェス]]を楽しむ事もある{{sfn|『小説 後篇』|p=78|loc=「追跡行 一」}}。その言動からもゴリアテ(乗り物)の情報に精通しており、ドーラ同様にベテランの海賊である事が示唆されている{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=432}}{{sfn|『小説 後篇』|p=78|loc=「追跡行 一」}}。 : パズーと引き合わされた際には「怒らせるとママより怖い」とルイから紹介されたが、もともと助手を欲しがっていた所に、積極的で飲み込みの早い{{efn2|紹介早々「狭くて手が入らねぇ」とボヤくモトロの横に素早く潜り込み、整備箇所をすぐに把握して見せた。}}彼を、助手としてかわいがる事になる{{efn2|小説ではシータがパズーに(モトロがパズーの事を)「わしみたいになれるぞ」と言ったと話している{{sfn|『小説 後篇』|p=82|loc=「追跡行 二」}}。本編でも終盤でラピュタから生還したパズー達と再会した時にドーラの息子や子分達がシータの名を呼び歓喜する中、「小僧」とパズーを呼んで喜んでいた{{sfn|『小説 後篇』|pp=162-163|loc=「大樹」}}{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=675}}{{sfn|『ロマンアルバム』|p=61}}。また、シータについても気に入っており、ドーラとのチェスの対局中に「いい子だよ。あの二人は」と発言している{{sfn|『小説 後篇』|p=78|loc=「追跡行 一」}}{{sfn|『シネマ・コミック2』|p=358|}}{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=432}}。}}。機関士としてタイガーモス号にはとりわけ愛着が強く「かわいいボロ船」の喪失を悲しんでいた{{efn2|小説では、「ボロ船」ではなく「わしのかわいい'''タイガーモス'''が…」と言っている。}}。 : 映画エンドクレジットでは「老技師」と表記されている。 : なお、『[[ルパン三世 (TV第2シリーズ)|ルパン三世]]』(TV第2シリーズ)第145話「[[死の翼アルバトロス]]」ではハラ・モトロに似たロンバッハ博士が登場する。 ; カ、キ、ク、ケ、コ : ドーラの子分達。[[ポルトガル人]]のカ、[[エジプト人]]のキ、[[中国人]]のク、[[日本人]]のケ、[[セネガル]]人のコの5名。 : ドジョウひげでルイより先に厨房に入ってイモの皮むきをしていて、最初にシチューのおかわりをしたのはコ、シャルルに似て豊かな口ひげを蓄え、右ほおに傷痕があるのがカ、ひげが無く色黒で右目に眼帯を付けているのがキ、厨房ですりこ木を回しているのがケ、パズーの家を捜した際に「ルイ、女の子の服だ」と叫んだ(厨房では壁を磨いている)のがクである。5人とも出身国以外の経歴等は不明だが、小説版では「素質を見込みドーラが世界中から集めた5人」という記述がある{{sfn|『小説 後篇』|p=78|loc=「追跡行 一」}}。 : カはセリフは全くないが、ルイ、ケ、コとタイガーモス号の船上で一杯飲んでいる際に顔が大きく描かれている。キはオートモービルの運転やタイガーモス号のブリッジで無線機を操作している等、機械類の扱いに優れているという描写がある。また、コは普段は口元を隠しているが、素顔が描かれているシーンがある{{efn2|パズーとドーラ一家がティディス要塞に向け出発する際のシーン。私服を着ている為わずかだが素顔が映る{{sfn|『シネマ・コミック2』|p=244|}}。}}。 : アニメ版では名前及び出自は出てこなかったが、小説版にて名前が出る{{sfn|『小説 後篇』|p=78|loc=「追跡行 一」}}。『ロマンアルバム』等にも名前と出自の記載がある{{sfn|『ロマンアルバム』|p=98}}{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=136}}。 === 政府・軍の関係者 === ; ムスカ / ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ{{Anchors|ムスカ}}(Muska / Romuska Palo Ur Laputa) : 声 - [[寺田農]] / [[マーク・ハミル]] : {{Main|[[ムスカ]]}} : : 本作の悪役。政府から派遣された、特務機関(情報部)所属の諜報員(情報部員)であり、階級は大佐、年齢は28歳。『ロマンアルバム』には32歳という記載もある{{sfn|『ロマンアルバム』|pp=105,118}}{{efn2|準備稿には「30歳位」という記載がある{{sfn|『ロマンアルバム』|p=105}}。}}。視力が悪く、度の入ったサングラスをかけている{{efn2|ただし、モウロ将軍や将校達との会議中、サングラスを外し、素顔を見せているシーンがある{{sfn|『シネマ・コミック2』|pp=200-201|}}。}}。[[エンフィールド・リボルバー|中折れ式リボルバー拳銃]]を愛用している。 : 表向きこそ丁寧な口調で紳士的に振る舞うが、その本性は目的の為には手段を選ばず、上司や部下すらも簡単に見捨て、人命を軽視し、喜喜として残虐行為に手を染める。新たな王としてラピュタ帝国に君臨し、全地上を自らの欲望のままに恐怖支配しようという独裁者・野心家の本性をあらわにする。 : 物語後半ではシータのおさげを引っ張って捕まえたり、顔や胸を殴ったり、拳銃でおさげを撃ち落とすなど、シータを追い詰めていた。 ; モウロ将軍(General Muoro) : 声 - [[永井一郎]] / [[ジム・カミングス]] : ラピュタ探索の指揮を執る軍人で、小説版によると、政府軍のティディス要塞の司令官{{sfn|『小説 前篇』|p=152|loc=「要塞ティディス」}}。50歳前後{{sfn|『ロマンアルバム』|p=105}}。短気な性格の持ち主である{{efn2|演じた永井は「欲ボケの頭の悪い将軍です(笑)。軍人はすこし頭の悪い方が出世するんですよ」とコメントしている{{sfn|『ロマンアルバム』|p=161}}{{sfn|『ジブリの教科書2』|p=167}}。}}。小説では南部地方の行政もつかさどる権力者だが、要塞自体が僻地に位置するため現状には強い不満を抱いており、ラピュタ探索を成功させることで中央への返り咲きを狙っている{{sfn|『小説 前篇』|p=152|loc=「要塞ティディス」}}。無線通信をドーラに聴かれて[[飛行船|飛行客船]]を襲われたり、ムスカに出し抜かれて主導権を奪われたり等、司令官としては頼りない一面がある。 : 一方で軍人気質の持ち主でもあり、作戦行動時には自ら先頭に立って突き進むタイプで、部下からの信頼は非常に厚い。軍服に勲章を3個着用していることから、それなりに功績を上げていることも示唆されている{{efn2|襟元に十字勲章、左胸に円形の勲章を2個着用。十字勲章はムスカに退避を進言したゴリアテの乗員も着けている。}}。また諜報機関に属し、政府の密命を盾に作戦に介入するムスカを「特務の青二才」と呼び快く思っていない{{efn2|ただし、『THE ART OF』に掲載された準備稿には、ムスカが将軍に対し面従腹背しているきらいはあるが、「シータにロボットを見せるように将軍に対して進言する」「将軍がラピュタ探索の指揮官に任命された際に祝辞を述べる」「ゴリアテの乗員に対し将軍を収容するように指示する」「ムスカの諫言(かんげん)を将軍が率直に受け入れる」等、それほど対立している様子は描かれてはいない{{sfn|『THE ART OF』|1986|pp=179,182,183}}。}}。ムスカの情報によってラピュタを発見し、実際に上陸には成功したものの、財宝に目がくらんでいる隙に本性を現したムスカの裏切りで罠にはめられ、ムスカを射殺しようと発砲したことが引き金となり、ラピュタ底部の展望室の床に突然開いた穴から、大勢の兵士ともどもはるか下の海に落とされ始末された{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=592,593,603,604}}{{sfn|『小説 後篇』|pp=141,143-144|loc=「伝説の雷(いかずち) 二」}}(小説では(展望室の)床が開くと記載{{sfn|『小説 後篇』|p=144|loc=「伝説の雷(いかずち) 二」}})。 : 作中では「閣下」と呼ばれ、映画エンドクレジットでは「将軍」と表記される。「モウロ」の名は小説と設定資料上で確認できる{{sfn|『小説 前篇』|p=152|loc=「要塞ティディス」}}{{efn2|これら以外で名前が表記されているものは、[[徳間書店]]アニメージュ文庫ゲームブック『天界の迷宮』がある。p. 17参照。}}。 :* 『ロマンアルバム』の企画書第1稿では、悪役はチック大佐となっており、モウロ将軍とムスカが一体となった役と設定されていた{{sfn|『ロマンアルバム』|pp=131,132|loc=企画書第1稿}}。同書には山高帽子をかぶったチック大佐のイラストが掲載されている{{sfn|『ロマンアルバム』|p=131}}。 ; 黒眼鏡(特務機関員) : 声 - [[大塚芳忠]]、[[菅原正志]] : ムスカに随行する忠実な部下。全員が丸い黒眼鏡に黒のスーツと山高帽を身に着けている。面長で口ひげの男、ひげのない面長のいかつい男(共にラピュタに同行)、角ばった顔で口ひげの男などがいる。飛行客船では3人、シータの回想場面でゴンドアの谷で彼女の家に向かったのは3人、シータを捕らえたティディス要塞では4人が登場。 : ラピュタまで同行したのは2人であったが、ラピュタ半球体内部の大量に巨石のある部屋で、巨石の内の1つに乗り、ある程度下りた後、ムスカに置き去りにされる{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=572,573}}。置き去りにされた黒眼鏡2人は、ムスカにより部屋中の巨石が作動した際に足場を失い、最初に通った半球体内部通路に戻る為に部屋の壁を形成する巨石を登っていたが、作動の活性化の中、しがみ付いた巨石から悲鳴を上げながらはじき飛ばされていった{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=597}}。 ; 兵士 : 声 - 大塚芳忠ほか : 物語の舞台となった国家の軍に属する兵士たち。ティディス要塞に配属された兵士と、ゴリアテの搭乗員が登場する。要塞のほとんどの兵卒や下士官は戦闘用のヘルメットを深くかぶっており、顔が見えることは少なく、はっきりと見えるのは制帽をかぶった上級士官や将軍の副官のみである。モウロ将軍や将校たちは会議中に、帽子を脱いでいるシーンがある。小説版での会議中のシーンでは、[[飾緒|参謀肩章]]を着用している者もいる、という記述もある。一方ゴリアテやロケット艇の搭乗員はダブルボタンの飛行服にフードをかぶった兵士が数名姿を見せている。また、ゴーグルを着用している者もいる。 : 兵卒や下士官の多くは、気絶したシータのおさげを引っ張ったり、ラピュタ上陸後は無秩序に構造物を破壊して財宝を根こそぎ略奪しようとするといった素行の悪さが目立つなど、一貫して悪役的に描写されている。鉱山鉄道では、パズーに転ばされた将校が拳銃を抜くシーンもある。 : また、要塞では復活したロボット兵の光線による要塞の破壊に巻き込まれるほか(要塞での兵士に関しては死の描写は直接的には見られない)、ラピュタ上陸後のムスカの離反時には前述の将軍の抹殺に巻き込まれる、起動したロボット兵に追いかけられるうちに誤って転落する、ゴリアテの離陸に間に合わずに投げ出される、ゴリアテからの砲撃でラピュタ本体に決死の反撃を試みるも、無残に撃墜され艦と運命を共にするなど、作中では凄惨な死に様を晒すシーンが多い。 === スラッグ渓谷 === ; {{Anchors|ポム}}ポム(Uncle Pom) : 声 - [[常田富士男]] / リチャード・ダイサード : ドーラ一家と軍から逃れる為に廃坑内をさまよっていたパズーとシータの元に現れた風変わりな老人。準備稿には70歳、代々の鉱夫、スラッグ渓谷の地下を熟知と記載{{sfn|『ロマンアルバム』|p=97}}。『型録 I』には鉱山師と記載{{sfn|『型録 I』|1996|p=84}}。 : パズーとは以前から面識があって深く慕われており、「ポムじいさん」と呼ばれている。 : 鉱物に精通し、鉱石の状態変化を「石達の声」と呼び、廃坑の中を一人放浪する事を楽しんでいる。飛行石についての情報や「石が騒いでいるのは上空にラピュタが来ているから」といった言い伝え等をパズーとシータに提供し、二人を出口まで案内してくれた。 : 小説版では(スラッグ渓谷の)鉱山の生き字引(の鉱山師{{sfn|『ロマンアルバム』|p=97}})として鉱夫達の間で知られた存在である事が書かれている{{sfn|『小説 前篇』|p=143|loc=「ポムじいさん」}}。謎の多い人物だが、オープニングで描かれるラピュタの人々と格好が似ている等から、ラピュタの労働者階級の子孫ではないかとも言われる{{efn2|当時、宮崎は「ポムじいさんがどれだけ重要だと思うか?」と隣にいた制作進行の木原浩和に問うており、絵コンテを読み込んでいた木原がこの説を語ると、肯定も否定もしなかったものの、机で鼻歌を歌ったという{{sfn|木原|2016|p=106-109|loc=「第7章 不思議のポムじいさん」}}。}}。モデルは[[森康二]]と[[近藤喜文]]{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=90}}。 : オープニングのクレジットに出てくる5人の内の1人であり、映画エンドクレジットでは「ポムじい」と表記されている。 ; ダッフィー(Duffi) : 声 - [[糸博]] / ジョン・ホスティター : スラッグ渓谷で働く鉱夫で、坑内のエンジンやエレベーター等の大型機械を扱うベテラン機械工。パズーの親方。40歳前後{{sfn|『ロマンアルバム』|p=97}}。 : 性格は荒っぽく、仕事にも厳しいが、働き者の徒弟であるパズーを何かと気にかける仁義に厚い男。 : 海賊相手にもひるむ事無く立ち向かうが、妻には頭が上がらない様子{{efn2|シャルルとの力比べで筋肉を勢いよく膨らませてシャツの胸の部分と袖を破いた際、あきれかえったおかみさんから(皮肉を込めて)「誰がそのシャツを縫うんだい?」と言われている。}}。 : 鉱夫らしい立派な体格をしており、ドーラ一家の力自慢シャルルと互角の殴り合いを演じた。その際に他の鉱夫から名前を呼ばれている。なお、名前について言及されるのはこのシーンのみである。 : 小説版によれば昔から鉱石(金銀銅及び鉄{{sfn|『小説 前篇』|p=52|loc=「スラッグ渓谷」}})を採掘してきたこの鉱山で父親の代から鉱夫をしてきたが、優良な目ぼしい鉱脈の多くが掘り尽くされ、輸送に不便な内陸から精錬工場等も次々と移転していく為に、寂れる一方(スズが多少取れる程度{{sfn|『小説 前篇』|p=52|loc=「スラッグ渓谷」}})で「スラッグ= [[鉱滓]](slag)渓谷{{sfn|『小説 前篇』|p=53|loc=「スラッグ渓谷」}}」と呼ばれて久しい鉱山の状況を憂いている描写がある(本編中でも新しい鉱脈の当てが外れた直後、不景気ぶりをぼやいている)。小説ではパズーが要塞から帰ってきた時親方が家にいなかった理由は、新しい鉱脈が見つかり残業だとおかみさんが発言{{sfn|『小説 前篇』|p=163|loc=「決意 一」}}。 : 映画エンドクレジットでは「親方」と表記されている。 ; おかみさん : 声 - [[鷲尾真知子]] : ダッフィーの妻。20歳{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=69}}(『THE ART OF』の監督の解説によると15歳位で結婚した{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=69}})。肝のすわった性格で度胸もあり、町の荒くれ男達とドーラ一家との乱闘騒ぎをフライパン片手に見守った。 : パズーを実の息子のようにかわいがっている様子で、パズーに脱出を促しつつその覚悟を認め、シータを守るように伝えて送り出した。 : 映画エンドクレジットでは「おかみ」と表記されている。 ; マッジ(Madge) : 声 - [[TARAKO]] : ダッフィー夫妻の娘。パズーとも仲が良いらしく、パズーの家に遊びに行く事もある。 : ティディス要塞から帰ってきたパズーを最初に発見した。 ; [[軽便鉄道]]の機関士 : 声 - [[西村知道]] / [[マット・K・ミラー]] : 軽便鉄道の運転士を務める老機関士。ドーラ一家や軍に追われるパズーとシータを助けた。 : パズーとは以前からの知り合いで、運転している機関車も相当の老朽車輌。パズーとシータを銃で狙った特務機関員と兵士達を機関車の排気で妨害する。 === その他の人物 === ; シータの祖母 : 声 - [[鈴木れい子]] : 故人。シータの回想シーンに登場。かわいがっていた小羊が見つからない事を悲しみすすり泣く幼いシータに{{efn2|映画本編では言及されないが、小説版に記述がある{{sfn|『小説 後篇』|p=41|loc=「聖なる光 一」}}。}}、おまじないとしてラピュタにまつわる様々な呪文を教えた{{efn2|後に発売されたブルーレイ版特典映像の「オリジナル脚本」では、かわいがっていた[[ウサギ]]が見つからなかった事が理由であると記載。}}。この時に教えたおまじないが、ラピュタへの道筋を照らす。 ; {{Anchors|パズーの両親}}パズーの両親 : 共に故人。父は冒険飛行家で、かつて探検中に「竜の巣」の雲の切れ間から、伝説の「天空の城ラピュタ」を発見し、ラピュタの一部を自ら写真に収めた。しかし人々からは、ラピュタの存在を全く信じてもらえず、詐欺師の汚名を着せられたまま亡くなる。父が亡くなった経緯については、映画ではパズーが「詐欺師扱いされて死んだ」と語ったのみだったが、小説版では「新たな飛行船の製作の為のスポンサー探しに出た際に事故死した」という、死に至った詳細な記載がある{{sfn|『小説 前篇』|pp=118,119|loc=「出会い 二」}}。 : また、母についてのパズーからの詳しい説明はないが、パズーの小屋に掲げられているラピュタの写真のすぐ下に遺影写真がある{{sfn|『ロマンアルバム』|pp=17,97}}。 ; パズーの父の協力者 : パズーの父がラピュタを発見した際に乗っていた飛行船には同乗者がいた事が劇中でも確認できる{{efn2|舵輪を握って操船していたのはパズーの父である。同乗者についての詳しい設定はされていない。また、劇中でもパズーからの詳しい説明はない。}}。パズーの父と共にラピュタの存在を目の当たりにした唯一の人物。パズーの父が詐欺師扱いされて死んだとされる時に、なぜこの人物が証人として名乗り出なかったのかについては説明されていない。また、現在の消息は生死を含めて一切不明。 == 製作 == === 映像 === [[宮崎駿]]が空飛ぶ映像が好きなことから本作には数多くの[[飛行機]]が登場する。作中に登場する[[タイガーモス号]]は初期段階では手足がついてるものも描いていたなど、変わった形をした飛行機が多数デザインされていたが、ありそうなウソの範囲にとどめておきたいという宮崎の考えから、そうした変わったメカはオープニングの映像にのみ登場する形となっている。[[フラップター]]の動きの作画パターンは原画頭の[[金田伊功]]が設計している<ref>{{Cite book|和書|author=宮崎駿 |authorlink=宮崎駿 |date=1996-07-31 |title=出発点 1979〜1996 |publisher=[[スタジオジブリ]] |pages=480-481 |oclc=674559723 |isbn=4-19-860541-6}}</ref>。 === 備考 === [[スタジオジブリ]]作品は本編開始前に同社のマスコットキャラクターであるトトロの横顔が描かれたブルースクリーンが登場するが{{efn2|『[[レッドタートル]]』のみレッドスクリーン。}}、本作は『[[となりのトトロ]]』以前に公開された作品であるため、オリジナル映像にはトトロの横顔が描かれたブルースクリーンは存在しない。ただし、販売用に編集されたVHSビデオ・DVD・BD版および、テレビ放送時にはトトロのブルースクリーンが登場する。これはジブリ作品ではない『風の谷のナウシカ』も同様である{{efn2|[[風の谷のナウシカ (映画)#備考]]参照}}。 == {{Visible anchor|ラピュタの設定|ラピュタ}} == ; ラピュタ帝国 : ロマンアルバム等では、約700年以上前に存在した古代国家。国章は「翼のある町」{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=523}}{{sfn|『ロマンアルバム』|p=108}}{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=62}}。ラピュタの民は飛行石の[[結晶]]化技術を有し、圧倒的な超科学技術で天空から全地上を支配していた恐怖の帝国であった{{sfn|『パンフレット』|1986|loc=ストーリー解説}}。ラピュタ王は代々天帝と称され{{sfn|『ロマンアルバム』|p=132}}{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=10}}、王家に伝わる{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=203}}{{sfn|『小説 前篇』|p=141|loc=「地下廃坑」}}、飛行石の結晶の首飾りと{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=218}}{{sfn|『ロマンアルバム』|p=22}}{{sfn|『小説 前篇』|p=146|loc=「ポムじいさん」}}、'''「黒い石」'''と呼ばれる石版を用いてラピュタ城の機能を制御していた{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=581,582}}{{sfn|『ロマンアルバム』|p=52}}{{sfn|『小説 後篇』|p=137|loc=「伝説の雷(いかずち) 一」}}。ぜいたくの限りを尽くし、人類の夢を体現したラピュタ人だったが、約700年前にラピュタの科学力でも克服出来ない疫病にむしばまれ、やむを得ず地上へ降りる事を決断した{{sfn|『ロマンアルバム』|p=108}}{{sfn|『小説 後篇』|pp=136,138|loc=「伝説の雷(いかずち) 一」}}。 : パンフレット及び小説前篇の見返しでは上記とは異なる説明がなされており、空中都市の描写のある[[ジョナサン・スウィフト]]の著書『[[ガリヴァー旅行記]] 第三章 ラピュータ』のモデルは、[[プラトン]]の失われた地理誌『天空の書』に記された「ラピュタリチス」である<ref name="企画メモ">{{Harvnb|『パンフレット』|1986|pp=4,5|loc=企画制作メモ}}{{Harvnb|『型録 I』|1996|p=83}}</ref>{{efn2|プラトンの著書に『天空の書』なる書籍は存在しない([[プラトン]]の項を参照)。}}{{sfn|『小説 前篇』|loc=見返し}}。ラピュタリチスは、かつて地上で一大技術文明が栄えた時に戦争を嫌い、天空へと逃れた一族によって築かれた広い領土を持つ浮島だった<ref name="企画メモ" />が、余りに高度に発達した文明生活の末に、ラピュタ人は生命力を失い、人口は減少し、紀元前500年頃に突如発生した奇病により、その後滅亡した<ref name="企画メモ" />。一部の人々は地上へ降り、姿を隠しながら生き延びたと伝えられているが詳細は不明<ref name="企画メモ" />。 : オープニング映像では無数の都市や、プロペラを大量に付けた巨大な海に浮く船等を空に浮かべた、帝国の興廃が描かれるが、ひときわ巨大なラピュタ城の下部にプロペラがついている、その城の頂点の建物の下に七段の階層がある等、本編の様相とは異なる点もある。 : 作中では帝国そのものではなく、ラピュタ帝国の聖都であり、ラピュタ人が巨大な[[#飛行石|飛行石]]の結晶を用いて空に浮かべたとされる空中都市のみを指す場合が多い。 ; 帝国の滅亡後 : ラピュタ人が地上へ降りた後、聖都は飛行石の力で天空に留まり、島は常に低気圧の源(竜の巣)となって雲の峰に隠れ、偏西風と共に移動しており<ref name="企画メモ" />{{sfn|『小説 前篇』|loc=見返し}}、低気圧の渦により再び人が城に接近する事を困難にし、決して地上からは見る事が出来ない<ref name="企画メモ" />{{sfn|『小説 前篇』|loc=見返し}}。だが、王家の証である光る飛行石の首飾りを持つ者が近づくと、竜の巣は自然に消滅、ラピュタは白日の下にその姿を現す。 : 城の内部には雲を発生させる塔や、風を起こす道具等が設置されている{{efn2|これらは物語が進行しないので省略された{{sfn|『GUIDE BOOK』|p=83}}。}}。元の絵コンテでは、ラピュタは王家の血筋の人間が現れると、ラピュタ底部の穴(本編でロボット兵の飛び出す展望室の外壁の穴)から、超低気圧の雲の壁を急速に吸収する機能があったという{{sfn|木原|2016|p=148}}。 ; 外観と機能 : 本来は天空の城にふさわしい外観をしているが、映画本編及び小説でのラピュタは頂点の建物(本編の城の頂点の建物がイメージボード同様に神殿かどうかは不明。小説では温室{{sfn|『小説 後篇』|pp=112,113|loc=「天空の城」}})の周囲や、その下の市街部の半分程(本編でパズー達が落ちた所の裏側)が崩落して原型が無い{{efn2|映画本編及び小説での崩壊した城の様子がうかがえる{{sfn|『型録 I』|1996|p=86}}{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=146}}{{sfn|『小説 後篇』|pp=116,117|loc=「略奪 一」}}。}}。宮殿が無人化した後も、王の帰還を待つロボット達により守られ続けたが、永い間に大部分が損壊して、今はその一部のみが空中を漂っている{{efn2|劇中では大き過ぎるという理由で城のみが描かれた{{sfn|『GUIDE BOOK』|p=83}}<ref name="mainichi19860803">[[毎日新聞]](1986年8月3日、宮﨑への学生のインタビュー)</ref>。}}{{sfn|『小説 前篇』|loc=見返し}}。 : イメージボードでは階層ごとに、住まう人々の身分が分けられている。頂点に神殿、その下の第一界(層)が聖なる光と天帝の住居、その下の第二界が騎士の住居と[[十二神将]]の塔、その下の第三界がエデンの園、その下の第四界が人民の住居であり、また、第四界には聖都が地上にあった頃に使われていた閉鎖された巨大な門もある{{sfn|『ロマンアルバム』|p=132}}{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=10}}。イメージボードでは、本編及び小説同様に前述の建物の下に半球体がある{{sfn|『ロマンアルバム』|p=132}}{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=10}}。オープニングを含む映画及び小説の城が、階層ごとに身分が分けられているのかどうかは不明。本編及び小説の城は、頂点の建物の下に三段の階層があり、その下に半球体がある{{sfn|『型録 I』|1996|p=86}}{{sfn|『小説 後篇』|p=116|loc=「略奪 一」}}。ロマンアルバムには本編の城も昔は半球体の下にも建物があっただろうと記載{{sfn|『ロマンアルバム』|p=65}}(恐らく普通の石造建築)。 : ラピュタ下部の黒い半球体の中には、中央にラピュタの科学が結集していると言う、模様が刻まれた黒い巨石が大量にあり、浮遊しながら動いている(ラピュタが機能する時にはまるでコンピューターのように活発に動く{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=597}})部屋と{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=572,573}}{{sfn|『小説 後篇』|pp=133,134|loc=「伝説の雷(いかずち) 一」}}{{efn2|巨石コンピューターという記載があり{{sfn|『ロマンアルバム』|p=64}}、小説では「闇の間」という記載がある{{sfn|『小説 後篇』|p=133|loc=「伝説の雷(いかずち) 一」}}。}}、前述の部屋の先及び下は王族のみが入る事が出来{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=574}}{{sfn|『小説 後篇』|p=134|loc=「伝説の雷(いかずち) 一」}}、その先の前述の部屋の真下に中枢の部屋が存在する{{sfn|『ロマンアルバム』|pp=52,64}}{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=575-579}}{{efn2|巨石コンピューターの下にある部屋、巨大な飛行石の結晶が回転していたという記載がある{{sfn|『ロマンアルバム』|p=64}}。}}。城の上層部(頂点の建物は不明{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=517,519,520,522}}{{sfn|『小説 後篇』|pp=112,113|loc=「天空の城」}}。『型録 I』には廊下の素材は一切不明と記載されている{{sfn|『型録 I』|1996|p=86}})から中間層まで(第一層から第三層)は普通の石造建築で風化・崩落が著しいが、半球部は爆破も受け付けない超高硬度の未知の素材で出来ている。 : 中枢の部屋の中央には、飛行石の巨大な結晶体が透明なガラス質の球の中に浮かんでおり{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=579,580}}{{sfn|『小説 後篇』|p=136|loc=「伝説の雷(いかずち) 一」}}{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=188|loc=準備稿}}、その部屋にあるラピュタ文字が刻まれた「黒い石{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=581,582}}{{sfn|『ロマンアルバム』|p=52}}{{sfn|『小説 後篇』|p=137|loc=「伝説の雷(いかずち) 一」}}」に光る飛行石の首飾りをかざす事で、ラピュタの各機能を起動・制御出来る。底部の展望室の周囲からは七基の石柱が展開し、膨大なエネルギーのプラズマが一点に集束し、巨大な爆発を生む強力な光弾を発射する事が出来る{{sfn|『パンフレット』|1986|loc=ラピュタの解説}}{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=596-601}}{{sfn|『小説 後篇』|pp=142,143|loc=「伝説の雷(いかずち) 二」}}。ムスカはこれを「ラピュタの雷(いかずち)」と称し、これこそが『[[旧約聖書]]』の[[ソドムとゴモラ]]を焼き払ったという「天の火」や『[[ラーマーヤナ|ラーマヤーナ]]』の「[[インドラ]]の矢」だとも述べている{{sfn|『パンフレット』|1986|loc=ラピュタの解説}}{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=596-601}}{{sfn|『ロマンアルバム』|pp=53,64}}。前述の兵器は現代の[[核兵器]]に似ている。核兵器は古代においては[[オーバーテクノロジー]]であり、核兵器は主にインドの上記の『ラーマヤーナ』や『[[マハーバーラタ]]』の伝説に見られるという<ref name="企画メモ" />{{sfn|『小説 前篇』|loc=見返し}}。 : 劇中では、半球体内部の通路の壁に格納されたロボット兵を出撃させた上、展望室の外壁の発射口からもロボット兵を投下して出撃させた。他にも劇中では、床に穴を開ける事が出来る展望室を底部に展開させたりもしており{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=592,593,603,604}}{{sfn|『小説 後篇』|pp=141,143,144|loc=「伝説の雷(いかずち) 二」}}(小説では (展望室の) 床が開くと記載{{sfn|『小説 後篇』|p=144|loc=「伝説の雷(いかずち) 二」}})、多くの機能がある事がうかがえる。 ; ラピュタの木々 : ラピュタが木々に覆われているのは、宮崎自身の趣味であると同時に、飛行石が植物を成長させる力を持つ宇宙の聖なる根源であるからで、シータが一人で生きてこられたのも飛行石によって畑がよく実ったからだという{{efn2|宮崎によると「表向きには、たまたま木が生えただけで、理屈はどうでもいい」との事{{sfn|『GUIDE BOOK』|p=83}}。}}。 : 頂点に大きなドーム状の建物(小説では温室{{sfn|『小説 後篇』|pp=112-113|loc=「天空の城」}})があり、建物の周囲にも庭園(資料集等には空中庭園{{sfn|『型録 I』|1996|p=86}}{{sfn|『ロマンアルバム』|p=65}}とも屋上庭園(高山植物の花畑等{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=501,502}}{{efn2|他に高山植物の花{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=501}}、(パズーが)初めて見る花{{sfn|『小説 後篇』|p=104|loc=「天空の城」}}、花畑、(壁に)ツタのからまった宮殿{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=502}}{{sfn|『小説 後篇』|p=105|loc=「天空の城」}}、庭園(屋上庭園){{sfn|『絵コンテ全集2』|p=502}}{{sfn|『小説 後篇』|p=111|loc=「天空の城」}}等が記載されている。}})とも記載)がある。建物は外からは普通の外壁及び屋根に見えるが、中からは透明で日光の入る特別な素材で壁及び天井 (屋根)が造られており{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=519,520,522}}{{sfn|『小説 後篇』|pp=112,113|loc=「天空の城」}}(この壁及び天井(屋根)だけでなく床も特別な素材で出来ている{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=517}}{{efn2|廊下の素材は一切不明と記載されている{{sfn|『型録 I』|1996|p=86}}。}})、建物内には墓石が中心にあり{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=521-523}}{{sfn|『ロマンアルバム』|pp=48,49,65}}{{sfn|『小説 後篇』|pp=113,114|loc=「天空の城」}}、壊れてこけむした何体もの園丁ロボットがある。墓守の役目もしている園丁ロボットが少なくとも1体はいまだに動いており、建物内の世界中の珍しい植物{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=519,521}}{{efn2|他に種々な地域の(世界中の)植物{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=519}}{{sfn|『小説 後篇』|p=112|loc=「天空の城」}}、(パズー達が名前を)聞いた事もない植物という記載がある{{sfn|『ロマンアルバム』|p=65}}{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=521}}。}}だけでなく、建物の外や中の多くの珍しい小動物([[ヒタキ]]等の実在の鳥類、古代魚{{sfn|『ロマンアルバム』|p=121}}、建物の外のミノノハシ{{sfn|『型録 I』|1996|p=86}}{{sfn|『ロマンアルバム』|p=121}}、建物内のキツネリス{{sfn|『型録 I』|1996|p=86}}{{sfn|『ロマンアルバム』|p=121}} (ミノノハシ及びキツネリスは架空の動物) 、キツネリスのみ『風の谷のナウシカ』にも共通して描かれる)と共に長い時を過ごしているのがうかがえる。特に建物の中心にあり、墓石を包む大樹は著しい成長を遂げており、上部はドームを突き抜けて立派な枝を伸ばし、下部は半球体にまで無数の根を巡らせている。 : また、ドーム状の建物の下の中間層(第三層)にあり、半球体のすぐ上の市街部には、帝国全盛期に地上から集められた金銀宝石やそれらを散りばめた工芸品といった類のばく大な財宝が眠っており、上陸した軍の兵士達はここで大挙して略奪をした(市街部の一部を含む半球体の完全崩壊の際、ドーラ一家が財宝のごく一部をどさくさに紛れて持ち帰っている)。 ; 滅びの呪文(言葉) : 最後はパズーとシータの'''「滅びの呪文(言葉)」(バルス)'''により崩壊し{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=653-665}}{{sfn|『小説 後篇』|p=156|loc=「滅びの言葉」}}{{sfn|『小説 後篇』|pp=157,158|loc=「大樹」}}、上層部の内で大樹に支えられた部分と巨大飛行石のみを残して、更に高高度へと飛び去って行った。 : テレビ放映後、エンディングを見た子供達から「(大気の無い)宇宙でキツネリス達はどうなるの?」という疑問が寄せられたが、ラピュタは実際には宇宙空間までは上昇しておらず、空気の存在する高度で飛び続けていると説明された。ラストのスタッフロールシーンでも、昼も夜も地上の町が見える空中に留まっている。 == 用語 == === メカ関連 === ; {{Anchors|オートモービル}}オートモービル : ドーラ一家の自家用車。序盤に登場。スラッグ渓谷では珍しいようで{{sfn|『ロマンアルバム』|p=128}}、劇中、パズーもその旨の発言をしている。かなりの馬力と車重があるようで、軽便鉄道の木造高架線を破壊しながらのカーチェイスを繰り広げる。 ; {{Anchors|オーニソプター}}オーニソプター : パズーがラピュタ探索に向け手作りしていた木枠製の[[オーニソプター]](はばたき飛行機{{efn2|小説版では「鳥型飛行機」と紹介されている{{sfn|『小説 前篇』|p=77|loc=「その日のパズー」}}。}})。 : シータの前でゴム動力の模型を飛ばしている。 : 『THE ART OF』には、当初は完成したオーニソプターでシータの住むゴンドアの谷に向け飛行する予定であったが、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の頃から成功しなかった物を、パズーが成功させるのはいかがなものか、という意見があったことから、断念したことが記載されている{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=64}}。 : ただし、先述した通り、後に発売された『スタジオジブリ作品関連資料集 I』に、完成したオーニソプターを操縦し、花束を持ってシータの元へやって来たパズーの姿が描かれたイラストが掲載されている{{sfn|『型録 I』|1996|p=65}}。他には、完成させたオーニソプターにシータを乗せ、ドーラ達のフラップターと飛行しているイラストが描かれ、ジグソーパズル{{efn2|エンスカイ製 80ピース 天空の城ラピュタ テスト飛行 80-F003}}に採用されている。 ; {{Anchors|軽便鉄道}}軽便鉄道 : スラッグ渓谷を走る[[軽便鉄道]]([[鉱山鉄道]])。[[蒸気機関]]は[[蒸気機関車]]内部にあり、機関車は[[蒸気動車]]を短くしたようなフォルムである。[[貨車]]([[無蓋車]])を3両連結している。 {| class="wikitable" style="float:right; margin:0px 0px 3px 7px;" |+諸元 |- !全長([[メートル|m]]) |312 |- !全高(m) |82 |- !全幅(m) |84 |- !巡航速度 |{{convert|58|kn|kph|}} |- !最高速 |{{convert|98|kn|kph|}} |- !航続距離([[キロメートル|km]]) |16,000(無風巡航時) |- !乗員数 |360人 |} ; {{Anchors|ゴリアテ}}ゴリアテ : 軍がラピュタ探索に使用した大型の飛行[[軍艦]]。[[飛行艦]]である。劇中の字幕には「飛行戦艦」ではなく、「飛行船艦」と表示されている。ただし、『シネマ・コミック2』では「飛行戦艦」{{sfn|『シネマ・コミック2』|p=237}}、『ジブリの教科書2』では「空中戦艦」と記載されている{{sfn|『ジブリの教科書2』|p=100}}。また絵本では「空飛ぶ要塞」とも呼ばれている。見た目は[[硬式飛行船]]を通り越した「装甲飛行船」とも言うべき威容を誇る。推進機として、垂直プロペラや多重反転プロペラなどをはじめとした大小様々なプロペラが配置されている。武装は船体下部には重砲等{{efn2|小説版では125[[ミリメートル|mm]][[榴弾砲]]{{sfn|『小説 後篇』|p=100|loc=「竜の巣 二」}}。なお、シーンによって数は違う。}}を多数備え、船体側面には[[速射砲]]や[[対空砲]]{{efn2|絵コンテでは「ガトリング 今のとちがう」と記載{{sfn|『天空の城ラピュタ 絵コンテ全集2』|p=449}}。}}をはじめとする重火器や機関銃を多数搭載している。主砲は直撃すればロボット兵をも破壊出来るだけの強力な威力を持つ。艦載機として、艦底部にロケット艇を3機搭載している{{efn2|ロケット艇の発艦や着艦のシーンはないため、搭載方法などの構造については不明。}}。 : 強風下でも安定して飛行可能で、現実の飛行船と同様に係留も可能なほどである。 : 劇中では要塞でのロボット兵との戦闘の後にムスカとモウロ将軍一行が搭乗し、飛行石の放つ光線が示す道をたどってラピュタ探索へと東の空に向かう。途中ドーラ一家の母船タイガーモス号を攻撃して大破させたが、ラピュタ到着後に離反したムスカの策略で通信装置を破壊されて本国との連絡を絶たれ、モウロをはじめ乗員の多くを失った状況でラピュタと交戦する。搭載する火砲でラピュタの下半球部を攻撃するも全く効果がなく、ラピュタ底部から発射されたロボット兵の大群に取り囲まれて集中攻撃を受け、最終的には船体が爆発し船体中央部から折れて炎上しながら多数の兵士と共に海に墜落していった。 : 名前の由来は、『[[旧約聖書]]』に登場する[[ペリシテ人]]の巨人「[[ゴリアテ]]」。小説版では、エピローグで軍は「不慮の事故の為に長期改修を余儀なくされた」という名目で事実を隠しつつ、密かに同型艦の建造に着手したとされている{{sfn|『小説 後篇』|pp=165-166|loc=「再びゴンドアの谷」}}。 ; {{Anchors|装甲列車}}装甲列車 : 軍がシータ捜索のためにスラッグ渓谷に出動させた軍用列車。3両編成で2両目が機関車。1両目と3両目が戦闘車で、旋回式および[[スポンソン]]による[[砲郭|ケースメイト]]方式の砲塔や機銃、サーチライトを搭載している。軽便鉄道と同じ軌道を走行するため[[軌間]]に比して車幅が大きいアンバランスな格好をしている。なお、老機関士に蒸気を浴びせ掛けられた特務機関員と将校が降車したのは1両目。 ; タイガーモス号{{Anchors|タイガーモス号}} ; {{Main|[[タイガーモス号]]}} : ドーラ一家が根城にしている空中母船。鳥の頭のようなブリッジの外見もあいまって巨大な鳥を思わせる形状の飛行船。ドーラの亡夫の発明品{{sfn|『ロマンアルバム』|p=100}}{{sfn|『小説 前篇』|p=71|loc=「空中海賊ドーラ」}}。 : ラピュタに向かう途中でゴリアテと遭遇し攻撃を受け大破、かろうじてラピュタに不時着するも、同じくラピュタに乗り込んできたゴリアテの乗員に一家は捕まってしまった。 : ラピュタ崩壊時に、タイガーモス号は瓦礫に飲み込まれるが、パズーに拘束を解かれたドーラ(はっきりと映ってはいないが、その後隣のルイがナイフを使っている{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=568}}{{efn2|(パズーがドーラの縄を切った後)彼女がシャルルにナイフを渡したと記載されている{{sfn|『小説 後篇』|p=131|loc=「略奪 二」}}。}})と海賊達はフラップターで脱出する。 ; {{Anchors|飛行客船}}飛行客船 : 冒頭に登場する[[飛行船]]。ムスカ一行がシータと共に乗船しており、飛行石を狙うドーラ一家に襲撃された。『THE ART OF』には、[[硬式飛行船]]をモチーフにしているが、物語の展開上、ブリッジを上にしたと記載されている{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=26}}。推進機はゴリアテ同様四つの垂直ローターと、コクピット前方に配置された二重反転プロペラ、船体後方下部のプロペラがある。 ; {{Anchors|飛行船}}飛行船 : パズーの父と同乗者が搭乗した飛行船。序盤に登場。 {| class="wikitable" style="float:right; margin:0px 0px 3px 7px;" |+諸元 |- ! 全長([[メートル|m]]) | 2.040 |- ! 全高(m) | 1.220 |- ! 全幅(m) | 7.200(翼展開時) |- ! 時速([[キロメートル毎時|km/h]]) | {{convert|0 - 111|kph|kn|}}{{efn2|時速の0km/hは[[ホバリング]]ができることを意味している。}} |- ! 最高速(km/h) | 182(下部ブースター使用時) |- ! 航続距離([[キロメートル|km]]) | 88(無風巡航時) |} ; {{Anchors|フラップター}}フラップター : [[電流]]で駆動する[[人工筋肉]]を利用して、4枚の薄膜状の羽根を高速で羽ばたかせ、浮上、飛行するオーニソプター(羽ばたき飛行機)。 : ドーラの亡き夫の発明品であり{{sfn|『ロマンアルバム』|pp=102,124}}{{sfn|『小説 前篇』|p=85|loc=「襲撃 一」}}{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=108}}、ドーラ一家の活動には欠かせない飛行機械。機体前面は[[流線型]]の金属板で被覆され、機体後部はオープンデッキとなっており、そこに1名もしくは2名の乗員がフック付きの結束バンドで身体を機体に係留して搭乗する。 : [[羽根]]の可変ピッチと体重移動により、上昇、下降、前進、左右転回、ホバリング等の動作を自在に行う。また、急旋回時には機体側面からパルス噴射の火炎が噴出する。羽根が高速で羽ばたいている為、極度に降下し過ぎたり、建物や樹木等に接近し過ぎたりすると、羽根が接触、破損して墜落する危険性がある。機体底部には加速用の格納式ブースターが搭載されており、これを利用して緊急時等に急加速が可能。[[ブースター]]の点火時には、羽ばたきが完全停止する。また煙幕を放出する機能もある。 : 映画本編では、発電用エンジンをクランクで回転して起動させる描写がある他、ラピュタに向け出発する直前に、燃料を補給している描写もある。エンジンを停止して[[二次電池|バッテリー]]を作動させる事で、最高速で約6分間の無音飛行が可能である。 : タイガーモス号には羽根を畳んだ状態で数機を格納出来る(劇中に登場したのは4機)。また機体を前後に連結した状態でも飛行可能である。格納庫には予備の羽根や部品が常備されており、簡単な修理や部品の交換が可能である。ただし定員は2名のようで、連結した状態でも定員オーバーの場合は上昇は不可能になる模様。 : フラップターの登場場面には、久石譲がデビュー当時の作風である[[ミニマル・ミュージック]]の手法に基づいた音楽を手がけた{{efn2|サントラ所収「ロボット兵(復活〜救出)」}}。 ; 要塞(ティディス要塞) : 劇中では単に要塞と呼ばれている。小説版では、冒頭でシータ達は飛行客船でこの要塞近くの空港に向かっていた{{sfn|『小説 前篇』|p=83|loc=「襲撃 一」}}{{sfn|『小説 前篇』|pp=95|loc=「襲撃 二」}}。小説版に (この国の) 南部にあると記載{{sfn|『小説 前篇』|p=152|loc=「要塞ティディス」}}。設定によると、情勢の変化により戦略的価値を失った旧式の要塞であるという。深皿を伏せたような近代的な多数の[[要塞砲]]を備えるが、高い塔を持つ石造の古城で{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=97}}{{efn2|(石造の)古城と(多数の近代的な)トーチカ群(や軍装)、古城についている要塞という描写がある{{sfn|『小説 前篇』|p=152|loc=「要塞ティディス」}}{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=97}}{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=238}}{{sfn|『ロマンアルバム』|p=24}}。小説では単に古城という表現もある{{sfn|『小説 前篇』|p=154|loc=「要塞ティディス」}}。}}、このような城は砲撃に対し無力であるため近世期までに廃れた様式である。備砲もゴリアテのものに比べ口径の割に砲身が太く短く旧式であることがうかがえる。王族であるシータを兵士が手荒に扱ったことで敵対勢力と判断したロボット兵の猛攻により全砲塔を破壊され大破した。 ; {{Anchors|ロケット艇}}ロケット艇 : 軍が海賊に対抗して開発した中型飛行艇。ロケットの[[パルスジェット|パルス噴射]]により飛行し、推進機の稼動時間が限定されるためか無音で滑空飛行していることが多いが、丘陵地帯に強行着陸も可能であるなど高い機動力を持つ。劇中ではシータとパズーを連行する際に使用された。武装の有無は不明だが、機首に機関砲らしきものを2門搭載している。ゴリアテの下部にも3機搭載されている。なお、準備稿では、ゴリアテから発進するシーンもあったが、本編では描かれることはなかった。 === ラピュタ関連 === ; 王家({{Visible anchor|ラピュタの王家|トエル家|パロ家}}) : かつてラピュタ帝国に君臨し全地上を支配した王家。天帝とも呼ばれた{{sfn|『ロマンアルバム』|p=132}}{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=10}}。ムスカによると、ラピュタが滅び、地上に降りた際にトエル家とパロ家の二つに分かれた{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=584}}{{sfn|『ロマンアルバム』|p=52}}{{sfn|『小説 後篇』|p=138|loc=「伝説の雷 一」}}。そして、トエル家は飛行石とそれに関わる呪文を、パロ家はラピュタの伝承を記した古文書を受け継いできた。シータはトエル家の子孫、ムスカはパロ家の子孫である。 : トエル家の名前のウルはラピュタ語で「王」、トエルは「真」を意味する為、その子孫であるシータこそが真のラピュタ王{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=259}}{{sfn|『ロマンアルバム』|p=95}}(『THE ART OF』準備稿にはトエルは「正統な継承者」を意味するという記載がある{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=180|loc=準備稿}})、すなわち本家である事を示している一方、パロ家も名前にウルが付く為、ラピュタの王族である事が分かるが、こちらは[[支族]](分家)とされている{{sfn|『ロマンアルバム』|pp=105,118}}。ロマンアルバム等に記載があるが、パロ家も地上へ降りた当初はゴンドアの谷で生活していたが{{sfn|『ロマンアルバム』|pp=105,108}}{{sfn|『小説 前篇』|p=96|loc=「襲撃 二」}}、産業革命を機にそれまでの農耕生活を捨て谷を出て、積極的にラピュタの探求を行うようになり{{sfn|『ロマンアルバム』|p=105}}{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=188|loc=準備稿}}、トエル家は長い時の中でラピュタに関する記憶の多くを喪失していった。 ; 飛行石 {{Main|[[飛行石]]}} : 時に青白く発光する、深い青色をした石。全世界で唯一、飛行石を岩盤から採掘し、結晶化する技術を有していたラピュタ人は、飛行石で巨大な結晶{{sfn|『ロマンアルバム』|pp=52,64}}{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=579,580}}{{sfn|『小説 後篇』|p=136|loc=「伝説の雷(いかずち) 一」}}及び、結晶の首飾り{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=218}}{{sfn|『小説 前篇』|p=146|loc=「ポムじいさん」}}{{sfn|『ロマンアルバム』|p=22}}を作り、利用した高度な科学技術を誇っていた。飛行石自体は岩盤に多く含まれており(劇中ではスラッグ渓谷の岩盤)、地下の闇の中で光るが(他の普通の石をオレンジや緑等に光らせもする)、じかに空気に触れると、光が消え、力を失い、ただの石になってしまう{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=216,217}}{{sfn|『小説 前篇』|pp=145,146|loc=「ポムじいさん」}}。岩盤の中の飛行石が光り、他の石も光らせるのは、結晶の首飾りが近くにある時か、ラピュタが上空に来ている時である{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=210-219,221,222}}{{sfn|『ロマンアルバム』|p=22}}{{sfn|『小説 前篇』|pp=144-147|loc=「ポムじいさん」}}。飛行石の特性を保持する為に結晶化する技術は作中の時代ではすでに失われている。 : ラピュタ人が作り、利用した巨大な飛行石の結晶及び結晶の首飾りは、特定の人物(王族)や呪文に反応して様々に作動する仕組みを備えており、その名の示す通り物体を浮遊させる力もその一つである。ムスカの持つ古文書にはラピュタの伝承が記録されていたが、飛行石の結晶化の技術や呪文に関しては記されてはいなかった{{efn2|シータが祖母から教わった呪文の光を「聖なる光」とすぐに見抜くも、肝心の呪文は知らなかった為、「どんな言葉だ?教えろ、その言葉を!」とシータに迫った{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=309,310}}。}}。 ; 竜の巣 : 航行において危険空域とされる巨大な積乱雲の集合体。雲の表層は外部とは逆方向に強風が吹いており、その気流が風の壁となって侵入者を阻む上{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=476,477}}{{sfn|『小説 後篇』|p=98|loc=「竜の巣 二」}}、雲の内部は暴風が吹き荒れている{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=485,486,488-493}}{{sfn|『小説 後篇』|pp=102,103|loc=「竜の巣 二」}}。また、内部はドーラが呼んだ通り{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=475}}{{sfn|『小説 後篇』|p=99|loc=「竜の巣 二」}}、まるで竜の叫びのように激しくとどろき、竜のように見える雷の巣でもある{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=485,486,488-493}}{{sfn|『小説 後篇』|pp=102,103|loc=「竜の巣 二」}}。堅固な戦艦をも容易に破壊する一方で、風になびく事の出来るパズーの父の飛行船や、映画では軍の攻撃によりワイヤーが切れ{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=482}}、風に引き込まれ、雲の中に入った(小説ではその後に暴風でロープがちぎれた{{sfn|『小説 後篇』|p=102|loc=「竜の巣 二」}})パズーとシータの乗っていた凧(たこ)は、暴風と雷による破壊を免れて無事に竜の巣を通り抜ける事が出来た{{sfn|『絵コンテ全集2』|p=494}}{{sfn|『小説 後篇』|p=104|loc=「天空の城」}}。 : その正体は、封印されたラピュタを守るべく人工的に作り出された[[低気圧]]の渦{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=468-470}}{{sfn|『小説 後篇』|pp=95,96|loc=「竜の巣 二」}}。劇中では、光る飛行石の首飾りを持つムスカが近づいた事で雲は消えた{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=542-544}}{{sfn|『小説 後篇』|pp=123,124|loc=「略奪 二」}}。パズーの父は偶然竜の巣の中に突入し、ラピュタを目撃した。真相は不明だが、パズーとシータの乗っていた凧に雷が直撃した直後、パズーは飛行船に乗っている父の姿を目撃した{{efn2|その際、パズーの父がパズーに目をやっている。なお、徳間書店のフィルムコミック(第3巻)では、パズーが「父さん」と言っているが、文春ジブリ文庫には吹き出しはない{{sfn|『シネマ・コミック2』|p=401|}}。実際の映画でも(雷や暴風の音にかき消され)一切の音や声は入っていない。}}{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=491-493}}{{sfn|『小説 後篇』|p=103|loc=「竜の巣 二」}}。 ==== ロボット兵 ==== : ラピュタ城内に多数配備されている自律式の半有機体ロボット。身長344cm、体重238kg。資料によっては天兵(てんぺい)と記載{{sfn|『型録 1』|1996|p=116}}。 : 戦闘、看護、園丁 (えんてい) 等、体の細部の形状と色彩で区別された多種類のロボットが存在していたとされる。戦闘用ロボットは赤茶色、園丁用ロボットは緑がかった色をしている。 : 劇中では、材質が金属なのか[[粘土]]なのかも現代科学では分からないと表現されているが、設定資料には「形状記憶弾性[[セラミックス|ハイセラミック]]製」と記されており、柔軟かつ必要に応じて自在に変形するとされている{{sfn|『ロマンアルバム』|p=109}} (『THE ART OF』には金属ゴムとも記載{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=120}}) 。 : 顔部中央にある二つのランプは音声装置とセンサーとを兼ね{{efn2|対象に反応して赤く発光したり信号音も出す。}}、飛行石を持つ者(王族)の命令に従属し、彼らを衛護するプログラムが組み込まれている{{sfn|『ロマンアルバム』|p=125}}。歩行は二本脚と四つんばいどちらでも可能だが、園丁ロボットは劇中ではもっぱら二本脚で歩いている(この時、独特の歩行音も出している)。 : 戦闘ロボットは、胸部に搭載された一対のブースターと、両腕の突起物(戦闘ロボットにのみ存在)の間に形成される[[翼膜]]とを併用して飛行する事が出来、更に頭部には大小2門のビーム砲が搭載されており、巨大な軍事要塞を単独で壊滅させる程の極めて高い戦闘力を有する。格納されている状態では手足を折り畳んだ独特の丸まった形態をとっている。戦闘ロボットの胸の紋章に、光る飛行石から出た光線が当たった時、紋章が赤く光った。 : 行動原理はラピュタ王族であるシータの保護と外敵の排除を最優先としており、地上に落下した個体は彼女に危害を加えようとした兵士らに対しては容赦なく攻撃を加える一方で、「放して!」という叫びにしたがってシータを解放する等、彼女の命令には忠実に従う様子が見られた。 : ちぎれた手足からはコードのような物体がのぞいていた{{sfn|『ロマンアルバム』|pp=24,109,125}}{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=101}}。 : また非常に高度な情緒を有する頭脳を与えられているようで、園丁ロボットはラピュタに住み着いた動物を保護したり、ラピュタ人の死を悼むかのように墓に花を手向ける様子が見られた{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=523,524,526,527}}{{sfn|『小説 後篇』|pp=113-115|loc=「天空の城」}}。 :; 劇中での描写 :: 戦闘用のロボットの一体が機能停止状態で上空から農地に落下して来た事が、政府がラピュタの調査に着手するきっかけとなった{{efn2|小説版では鉱山に農作物を売りに来た農夫が「空から落ちてきて軍が回収していった悪魔の骨」のうわさ話を鉱夫達に語っており、これを聞いたダッフィーがパズーにもそのうわさを話している{{sfn|『小説 前篇』|pp=51-59|loc=「スラッグ渓谷」}}。}}{{efn2|左腕は半分程が、右足は足首が壊れて外れていたが、なぜその状態で落下したのかは不明。}}。 :: 当のロボットは故障して、すでに「死んだ状態」だと思われていたが、要塞に捕らわれ、途方に暮れたシータがつぶやいた「守りの言葉(劇中では「困った時のおまじない」と呼んだ)」に反応して即座に再起動、自ら動き出し、要塞の頑丈な石壁や鋼鉄の扉、更には砲台の堅固な装甲すら容易に溶断する程の大変強力なビーム砲で、要塞をたちまち火の海に包んだ。拳銃はもちろんの事、小銃や機関銃等の連射にも耐え、信管を抜かれた要塞砲榴弾の直撃を受けても装甲が大きくへこんだだけで、なおも正常に動き続ける程の非常に優れた耐久性があるが、最終的にゴリアテの長砲身砲からの砲撃により破壊された。 :: 現在のラピュタでも、機能停止したロボットが野ざらし同然で朽ち果てているが、ムスカにより城内各所に保管されていた多数の無傷の戦闘用ロボットが起動、兵士達を襲いゴリアテを破壊したが、パズーとシータが唱えた「滅びの言葉」により機能を完全に停止し、ラピュタの崩壊と共に海へと落ちていった{{sfn|『絵コンテ全集2』|pp=653,658,660,662,663}}{{sfn|『小説 後篇』|p=156|loc=「滅びの言葉」}}{{sfn|『小説 後篇』|p=157|loc=「大樹」}}。ただし、城の上層部及び大樹、巨大飛行石と共に残った園丁用ロボットだけは機能を停止する事なく動き続けていた。 :; ロボット兵のモデル :: [[フライシャー・スタジオ]]製作『[[スーパーマン (1940年代のアニメ映画)|スーパーマン]]』第2話「The Mechanical Monsters([[謎の現金強奪ロボット]])」(1941年)に登場した現金強奪ロボットがモデルとされる。また、宮崎が「照樹務」名で脚本と演出を担当したTVアニメ『[[ルパン三世 (TV第2シリーズ)|ルパン三世]]』第155話「[[さらば愛しきルパンよ]]」に本作より先に登場しているが、フライシャー版と同様に首からプロペラが展開して飛行する方式になっていたり、双頭になった陸戦専用機が登場するなど細部が異なる。 :: 『ルパン』への登場は、フライシャー版『スーパーマン』に対するオマージュとしてであった。宮崎は「気に入っていて一度テレビ(新・ルパン三世・最終話)で使ったんですが、どうも心残りがありまして今回もう一度、使ってみたんです」と発言している{{sfn|『THE ART OF』|1986|p=101}}。 == 声の出演 == {| class="wikitable" |- ! rowspan="2"|役名||rowspan="2"|日本語版||colspan="2"|英語版 |- ! 海外初公開版 || BVHE版 |- |パズー||[[田中真弓]]||[[バーバラ・グッドソン]]||[[ジェームズ・ヴァン・ダー・ビーク]] |- |シータ||[[横沢啓子]]||ララ・コーディ||[[アンナ・パキン]] |- |[[ムスカ]]||[[寺田農]]||ジェフ・ウインクレス||[[マーク・ハミル]] |- |ドーラ||[[初井言榮]]||レイチェル・ヴァノウン||[[クロリス・リーチマン]] |- |ポムじいさん||[[常田富士男]]||エドワード・マニックス||[[リチャード・ダイサート]] |- |モウロ将軍||[[永井一郎]]||[[マイク・レイノルズ]]||[[ジム・カミングス]] |- |シャルル||[[神山卓三]]||バリー・スティグラー||マイケル・マクシェイン |- |ルイ||[[安原義人]]||[[デイヴ・マロウ]]||[[マンディ・パティンキン]] |- |アンリ||[[亀山助清]]||[[エディ・フライアーソン]]||アンディ・ディック |- |ハラ・モトロ||[[槐柳二]]||同上|||[[マット・K・ミラー]] |- |親方||[[糸博]]||クリフトン・ウェルズ||ジョン・ホステッター |- |おかみさん||[[鷲尾真知子]]||ララ・コーディ||[[トレス・マクニール]] |- |マッジ||[[TARAKO]]||バーバラ・グッドソン||[[デビ・デリーベリー]] |- |シータの祖母||[[鈴木れい子]]|||| |- |軽便鉄道の機関士||[[西村知道]]||||マット・K・ミラー |- |黒眼鏡(A)||[[大塚芳忠]]|||| |- |黒眼鏡(B)||rowspan="2"|[[菅原正志]]|||| |- |コ(セネガル人の子分) |- |キ(エジプト人の子分)||[[大滝進矢]]|||| |- |ク(中国人の子分)||[[平井隆博]]|||| |- |ケ(日本人の子分)||[[峰恵研]]|||| |- |青い服の婦人||[[林原めぐみ]]||||スーザン・ヒックマン |- |ギャング|||[[福士秀樹]]|||| |- |役不明||[[古田信幸]]<br />[[田中和実]]<br />[[関俊彦]]||||[[コーリー・バートン]]<br />[[ジョン・ディマジオ]]<br />[[スコット・メンヴィル]]<br />[[エディ・フライアーソン]]<br />アンドリュー・フィルポット<br />[[マイケル・ソリッチ]] |- |} == スタッフ == === 映像制作 === {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" |colspan=2|製作||[[徳間康快]] |- |colspan=2|[[作画監督]]||[[丹内司]] |- |colspan=2|[[原画頭]]||[[金田伊功]] |- |colspan=2|[[原画]]||style="font-size:smaller;"|[[篠原征子]]、[[遠藤正明]]、[[二木真希子]]、[[小林一幸]]、[[賀川愛]]、[[前田真宏 (アニメ監督)|前田真宏]]、[[大塚伸治]]、[[河口俊夫]]、[[近藤勝也]]、[[友永和秀]]、桜井美知代、森友典子、大谷敦子、福田忠、[[川崎博嗣]]、[[高坂希太郎]]、[[名倉靖博]]、[[鍋島修]]、江村豊秋 |- |colspan=2|動画チェック||[[尾沢直志]]、立木康子 |- |colspan=2|[[動画 (アニメーション)|動画]]||style="font-size:smaller;"|小林研二、平田英一郎、須貝美佳、高峰由恵、服部圭一郎、吉野高夫、村田俊治、茂林良哉、東誠子、竹葉直子、上田和佳子、宮本英子、本持貴、中野恭子、諸橋伸司、長井和久、山川浩臣、新屋真智子、坂野方子、コマサ<br />金子昌司、片山雄一<br />[[動画工房]]<br />神原よしみ、成田達司、鈴木安子、石黒益美、松下弥生、牧野田啓介、水谷貴代、河内由美、福士多鶴子、井田聡<br />スタジオ・トト<br />逸見俊隆、角田幸子、南静子、[[岡本稔]]、森田徹<br />[[オープロダクション]]<br />永井恵子、加藤由子、粟田勉<br />草間アート<br />佐藤佳子、山口明子、重田智<br />進藤プロダクション<br />日暮恭子、関明美、田中立子、[[山室直儀]]、江原仁<br />[[スタジオ・ファンタジア]]<br />手島晶子、高橋禎男、大谷久美子、岩柳恵美子、泉都<br />ビジュアル'80<br />成海厚子、渡辺純夫、浜野邦子<br />[[ぎゃろっぷ]]<br />荒野真理子、岡部和美、斉藤利子<br />[[スタジオ九魔]]<br />手島勇人、星勲 |- |colspan=2|[[美術監督]]||[[野崎俊郎]]、[[山本二三]] |- |colspan=2|[[背景]]||style="font-size:smaller;"|小関睦夫、木下和宏、吉崎正樹、[[久村佳津]]、飯島久美子、太田清美、石川山子 |- |colspan=2|ハーモニィ処理||[[高屋法子]] |- |colspan=2|特殊効果||阿部郷、寺岡伸治 |- |colspan=2|色指定||[[保田道世]] |- |colspan=2|仕上検査||荻原穂美 |- |colspan=2|仕上||style="font-size:smaller;"|水間千春、小川典子、長嶺浩美、石井恵美子、鍋谷雅子、酒井由紀子、島田久美、阪本文也、[[見田竜介]]、仲田ひろみ、柳沢和枝、木原恵子、宮下真理、高砂芳子<br />スタジオキリー<br />岩切紀親、西牧道子、内藤幸江、佐藤妙子、高見ふさ子、夏井正子、久世晋一郎、中田信子、青島歌苗、高橋直美、西山美代子、町井春美<br />スタジオファンタジア<br />飯塚智久、永井留美子、檀上知子、菊地祐子、棚沢真里子、浅野敏子<br />プロダクションアクト<br />横山浩子、本田由美子、田口美恵子、村野綾子、下田悦子、小松良江、倉岡裕之、風間洋子<br />スタジオOZ<br />磯崎昭彦、貴島弘子、増田奈緒美、篠田十鬼、細谷明美、平賀恵子<br />グループジョイ<br />大橋朝子、鈴木久美子、須藤彰子、袖山みか子、村上芳枝、佐藤新之介<br />[[スタジオ雲雀]]<br />成田賢二、秋山季映、荒川典子、加藤文江、鈴木洋子 <br />スタジオ古留美<br />完甘幸隆、山形勝俊 |- |colspan=2|撮影監督||[[白神孝始]]、高橋宏固 |- |colspan=2|撮影||style="font-size:smaller;"|高橋プロダクション<br />小林武男、笠間いずみ、豊永安義、松嵜泰三、福島敏行、安原吉晃、石塚敬久、野口肇、宮島幸男 |- |colspan=2|音響制作||style="font-size:smaller;"|[[オムニバスプロモーション]] |- |colspan=2|[[音響監督]]||[[斯波重治]] |- |colspan=2|音響補佐||style="font-size:smaller;"|[[浅梨なおこ]] |- |colspan=2|整音||style="font-size:smaller;"|井上秀司 |- |colspan=2|音響効果制作||style="font-size:smaller;"|[[E&Mプランニングセンター]] |- |colspan=2|[[効果音|音響効果]]||[[佐藤一俊]] |- |colspan=2|音響効果助手||style="font-size:smaller;"|小野弘典 |- |colspan=2|[[録音スタジオ]]||style="font-size:smaller;"|[[東京テレビセンター]] |- |colspan=2|タイトル||高具秀雄 |- |colspan=2|リスマーク||style="font-size:smaller;"|高具アトリエ |- |colspan=2|[[映像編集|編集]]||[[瀬山武司]] |- |colspan=2|編集助手||style="font-size:smaller;"|笠原義宏 |- |colspan=2|演出助手||[[飯田つとむ]]、木村哲、[[須藤典彦]] |- |colspan=2|制作デスク||押切直之 |- |colspan=2|制作進行||style="font-size:smaller;"|[[古里尚丈]]、[[木原浩勝|木原浩和]]、原俊嗣、熱海正志、武藤薫 |- |colspan=2|[[現像]]||[[IMAGICA]] |- |colspan=2|DOLBY STEREO技術協力||style="font-size:smaller;"|極東コンチネンタル株式会社<br />森幹生 |- |colspan=2|アニメーション制作||[[スタジオジブリ]] |- |colspan=2|[[映画プロデューサー|プロデューサー]]||'''[[高畑勲]]''' |- |colspan=2|エグゼクティブプロデューサー||[[原徹]] |- |colspan=2|[[漫画家|原作]]<br />[[脚本家|脚本]]<br />[[映画監督|監督]]||'''[[宮崎駿]]'''<br />徳間書店「アニメージュ」連載 |- |} === 製作委員会 === {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" |- |総指揮||[[徳間康快]] |- |代表委員||山下辰巳 |- |推進委員||加藤博之 |- |実行委員||style="font-size:smaller;"|[[徳間書店]]<br />[[小金井道宏]]、[[鈴木敏夫]]、金子彰、亀山修、滝川和俊、田所稔、粕谷昌宏、大塚勤、佐々木崇夫、武田実紀男、校条満、小林智子 |- |企画協力||[[アニメージュ]]編集部<br />[[尾形英夫]] |- |宣伝プロデューサー||徳山雅也 |- |宣伝顧問||鈴木常承 |- |宣伝協力||[[電通]]<br />郡進剛 |- |特別協賛||[[味の素]] |- |配給||[[東映]] |- |} == 音楽 == 音楽は冒険活劇ということから[[宇崎竜童]]を予定していた。前作『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』で音楽を担当した[[久石譲]]は、徳間グループが『ラピュタ』と同時期に製作していた[[安彦良和]]監督作『[[アリオン (漫画)|アリオン]]』の制作中だったため本作を担当する予定はなかった。しかし、プロデューサーの[[高畑勲]]の再考により久石の続投が決定した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.7netshopping.jp/esb/docs/sp/ghibli/spcomment.html |title=宮崎・久石コンビはこうして生まれた |publisher=[[セブンネットショッピング]] |accessdate=2012-05-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140222151319/http://www.7netshopping.jp/esb/docs/sp/ghibli/spcomment.html |archivedate=2014-02-22}}「久石譲in武道館」チラシより。</ref><ref>{{Cite book|和書|author=鈴木敏夫 |authorlink=鈴木敏夫 |title=ジブリの哲学 変わるものと変わらないもの |date=2011-08-11 |publisher=岩波書店 |isbn=978-4-0002-3495-5 |page=76}}</ref>。久石は作品世界から受けたイメージに基づき、[[アイルランド]]や[[スコットランド]]の[[民謡]]・[[フォークソング]]をベースにした[[オーケストラ|フルオーケストラ]]による音楽を手掛けた<ref>『COMIC BOX 1986年11月号』ふゅーじょんぷろだくと、1986年、p. 55。</ref><ref>{{Cite book|和書|author=久石譲 |authorlink=久石譲 |title=I am 遥かなる音楽の道へ |year=1992 |month=9 |publisher=メディアファクトリー |isbn=978-4-8899-1264-7 |page=57}}</ref>。 === 主題歌・イメージソング === ; エンディングテーマ - 『[[君をのせて (井上あずみの曲)|君をのせて]]』<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.at-elise.com/elise/JPDPML01819/ |title=君をのせて |publisher=@ ELISE(アットエリーゼ) |date= |accessdate=2016-01-19}}</ref> : 作詞 - [[宮崎駿]] / 作曲 - [[久石譲]] / 編曲 - 久石譲 / 歌 - [[井上杏美]]([[徳間ジャパンコミュニケーションズ]]) : 後に「[[となりのトトロ]]」や「[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]」などの主題歌、挿入歌を担当することになる井上あずみのジブリデビュー作で1988年3月25日にオリジナル盤(8cmCD/TKCA-72755、C/W「合唱 君をのせて」「君をのせて(カラオケ)」)が発売され、2004年10月27日にCDが再発された。 : また、[[2002年]]のDVD発売時に合わせ、[[石井竜也]]がアンサーソングとなる歌詞違いの『[[君をつれて (石井竜也の曲)|君をつれて]]』を発表すると共に、『君をのせて』のカバーもしている(同曲のオフボーカル版「空から降ってきた少女」はオープニングである)。 ; イメージソング - 『[[もしも空を飛べたら]]』 : 作詞 - [[松本隆]] / 作曲 - [[筒美京平]] / 編曲 - [[鷺巣詩郎]] / 歌 - [[小幡洋子]]([[徳間ジャパンコミュニケーションズ#かつて存在したレーベル|徳間ジャパン(アニメージュレコード)]]{{efn2|徳間ジャパンにかつて存在したアニメ系楽曲のレーベル。1986年発売当時は同レーベルよりリリースされた。}}) : 本編では未使用。公開当時、[[味の素]]から発売されていた[[#タイアップ商品|炭酸入り清涼飲料水「ラピュタ」]]<!--{{efn2|オーニソプターに乗って空を飛ぶパズーの実写イメージ映像が使われていた。}}-->のCMソングであった。 ; 劇中曲 - 『ハトと少年』<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.at-elise.com/elise/JPDPML01814/ |title=ハトと少年 |publisher=@ ELISE(アットエリーゼ) |date= |accessdate=2016-01-19}}</ref> : 劇中でパズーが演奏するトランペット曲。[[数原晋]]が演奏。 : 2010年4月、[[STS-131]]ミッションが行われていた[[国際宇宙ステーション]](ISS)において、同曲がウェイクアップコールとしてNASA[[ジョンソン宇宙センター]]ミッションコントロールセン­ターより流された。搭乗していた[[山崎直子 (宇宙飛行士)|山崎直子]]宇宙飛行士のために選曲されたものである<ref>{{Cite web|和書|url=https://iss.jaxa.jp/iss/19a/news/fd04_begin.html |title=STS-131ミッション 飛行4日目開始|publisher=JAXA宇宙航空研究開発機構 宇宙ステーション・きぼう 広報・情報センター|date=2010-04-07|accessdate=2016-01-18}}</ref>。 === スタッフ === {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" |colspan=2|[[作曲家|作曲]]・編曲<br />サウンドプロデュース||[[久石譲]](イメージアルバム、サウンドトラック、シンフォニー編) |- |colspan=2|[[指揮者|指揮]]||[[久石譲]](イメージアルバム、サウンドトラック)<br />[[中谷勝昭]](サウンドトラック、シンフォニー編) |- |colspan=2|演奏||中西ストリングス(イメージアルバム)<br />[[つのだたかし]]、[[数原晋]]、鈴木貴文、[[金子飛鳥]]<br />[[東京シティフィルハーモニック管弦楽団]](シンフォニー編) |- |colspan=2|監督||高畑勲(イメージアルバム、サウンドトラック) |- |colspan=2|監督補||庄司良一(サウンドトラック)<br />渡辺隆史(サウンドトラック) |- |colspan=2|プロデューサー||[[三浦光紀]](サウンドトラック)<br />島袋晃(サウンドトラック) |- |colspan=2|ゼネラルプロデューサー||藤澤文女(イメージアルバム、サウンドトラック) |- |rowspan=4|エンジニア||マスタリング||大川正義(イメージアルバム、サウンドトラック) |- |ミックス|||スティーブ・ジャクソン(イメージアルバム) |- |レコーディング||梶篤(イメージアルバム、サウンドトラック) |- |アシスタント||浜田純伸(イメージアルバム、サウンドトラック)<br />リチャード・モエイクス(イメージアルバム) |- |colspan=2|サウンドオペレーション||福岡やすこ(イメージアルバム、サウンドトラック) |- |colspan=2|合唱||[[杉並児童合唱団]](サウンドトラック) |- |colspan=2|[[録音スタジオ]]||[[ワンダーステーション]](イメージアルバム、サウンドトラック)<br />[[日活スタジオセンター]](イメージアルバム、サウンドトラック)<br />[[アバコクリエイティブスタジオ]](シンフォニー編) |- |colspan=2|ミックスタウン||Air Studio(イメージアルバム) |- |colspan=2|CD制作||[[徳間ジャパン]] |- |colspan=2|マネージメント||[[ワンダーシティ]] |- |} === イメージアルバム === {{Infobox Album | Name = 天空の城ラピュタ 空から降ってきた少女 | Type = [[イメージアルバム]] | Artist = [[久石譲]] | Released = [[1986年]][[5月25日]] | Recorded = [[1986年]]3月 | Genre = [[J-POP]] | Length = 40分 | Label = [[徳間ジャパンコミュニケーションズ]] | Producer = [[久石譲]] | EAN = {{EAN|4988008783636}} }} 1986年5月25日にLP(25AGL-3024)とカセット(25AGC-2024)とCD(32ATC-113)が徳間ジャパンコミュニケーションズから発売され1993年12月21日(TKCA-70226)と2004年8月25日(TKCA-72720)にCDが2018年11月3日にLP(TJJA-10011)が再発された<ref>[https://hibikihajime.com/disc/3377/ Disc. 久石譲 『天空の城ラピュタ イメージアルバム 空から降ってきた少女』 – 久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋]</ref>。 ; 収録曲 {{Tracklist | headline = CD | total_length = auto | all_music = [[久石譲]] | all_arrangements = [[久石譲]] | title1 = 天空の城ラピュタ | length1 = | title2 = ハトと少年 | length2 = | title3 = 鉱夫 | length3 = | title4 = 飛行石 | length4 = | title5 = ドーラ | length5 = | title6 = シータとバズー | length6 = | title7 = 大樹 | length7 = | title8 = フラップター | length8 = | title9 = 竜の穴 | length9 = | title10 = ティディスの要塞 | length10 = | title11 = シータとバズー | length11 = | title12 = 失われた楽園 | length12 = }} === サウンドトラック === {{Infobox Album | Name = 天空の城ラピュタ 飛行石の謎 | Type = [[サウンドトラック]] | Artist = [[久石譲]] | Released = [[1986年]][[8月25日]] | Recorded = | Genre = [[J-POP]] | Length = 39分 | Label = [[徳間ジャパンコミュニケーションズ]] | Producer = [[久石譲]] | EAN = {{EAN|4988008783735}} }} 1986年8月15日にLP(25AGL-3025)とカセット(25AGC-2025)が1986年9月25日にCD(32ATC-115)が徳間ジャパンコミュニケーションズから発売され、1993年12月21日(TKCA-70227)と2004年8月25日(TKCA-72721)にCDが2018年11月3日にLP(TJJA-10012)が再発された<ref>[https://hibikihajime.com/disc/2686/ Disc. 久石譲 『天空の城ラピュタ サウンドトラック 飛行石の謎』 – 久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋]</ref>。 ; 収録曲 # 空から降ってきた少女 # スラッグ渓谷の朝 # 愉快なケンカ (~追跡) # ゴンドアの思い出 # 失意のパズー # ロボット兵 (復活~救出) # 合唱 君をのせて # シータの決意 # タイガーモス号にて # 破滅への予兆 # 月光の雲海 # 天空の城ラピュタ # ラピュタの崩壊 # 君をのせて === シンフォニー編 === {{Infobox Album | Name = 天空の城ラピュタ シンフォニー編 〜大樹〜 | Type = [[イメージアルバム]] | Artist = [[久石譲]] | Released = [[1986年]][[12月21日]] | Recorded = [[1986年]][[10月25日]] - [[1986年]][[10月26日]] | Genre = [[J-POP]] | Length = | Label = [[徳間ジャパンコミュニケーションズ]] | Producer = [[久石譲]] | EAN = {{EAN|4988008227932}} }} 1986年12月21日にLP(28AGL-3039)とカセット(28AGC-2039)が発売され1987年1月25日にCD(32ATC-140)が発売。1993年12月21日(TKCA-70228)と2004年8月25日(TKCA-72722)にCDが2018年11月3日にLP(TJJA-10013)が再販された<ref>[https://hibikihajime.com/disc/3381/ Disc. 久石譲 『天空の城ラピュタ シンフォニー編 大樹』 – 久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋]</ref>。 ; 収録曲 # プロローグ # Gran’ma Dola # 空中散歩 # ゴンドア(母に抱かれて) # 大いなる伝説 # 大活劇 # 鉱山町 # 時間の城 === ハイテックシリーズ === {{Infobox Album | Name = 天空の城ラピュタ ハイテックシリーズ | Type = [[サウンドトラック]] | Artist = [[久石譲]] | Released = [[1989年]][[11月25日]] | Recorded = | Genre = [[J-POP]] | Length = 38分 | Label = [[徳間ジャパンコミュニケーションズ]] | Producer = [[久石譲]] | EAN = {{EAN|4988008783933}} }} 1989年11月25日にCD(30ATC-188)とカセット(26AGC-2071)が徳間ジャパンコミュニケーションズから発売され、1993年12月21日(TKCA-70229)と2004年8月25日(TKCA-72723)にCDが再発された<ref>[https://hibikihajime.com/disc/3385/ Disc. 久石譲 『天空の城ラピュタ ハイテックシリーズ』 – 久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋]</ref>。 ; 収録曲 # 空から降ってきた少女 # ゴンドアの想い出 # タイガーモス号にて # ロボット兵 # 失意のパズー # 君をのせて # スラッグ渓谷の朝 # 破滅への予兆 # シータの決意 # 天空の城ラピュタ == 賞歴 == * 文化庁優秀映画 * 第41回(1986年)[[毎日映画コンクール]] [[大藤信郎賞]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/enta/cinema/mfa/etc/history/41.html |title=第41回毎日映画コンクール |publisher=[[毎日新聞]] |date= |accessdate=2016-01-19}}</ref> * 1986年(第15回)ぴあテン 映画部門第1位 * シティロード 読者選出ベストテン 邦画第1位 * おおさか映画祭 日本映画ベストテン第1位 * 日本映画復興特別賞(高畑勲・宮崎駿) * [[映画芸術]] 日本映画第1位 * [[キネマ旬報]] 86年度ベスト・テン 日本映画第8位/読者選出日本映画第2位<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kinenote.com/main/award/kinejun/y1986.aspx |title=第60回キネマ旬報 ベスト・テン |publisher=[[キネマ旬報]] |date= |accessdate=2016-01-19}}</ref> * 第9回(1986年)月刊アニメージュ アニメグランプリ 作品賞 * アビック・ビデオアワード'87 アニメーション賞 * 第4回日本アニメフェスティバル 日本アニメ大賞・アトム賞 美術部門最優秀賞 * [[中央児童福祉審議会]]特別推薦 ここまでの出典{{sfn|叶|2006}} * [[文化庁メディア芸術祭]]「[[日本のメディア芸術100選]]」アニメーション部門選出 == 興行・売上記録 == 1986年の劇場公開時の観客動員数は77万人、配給収入は5.8億円。2016年公開の『[[レッドタートル ある島の物語]]』(9千万円)まで、配給収入はジブリワースト記録だった。 春・夏・ゴールデンウィーク向け子ども映画としては[[ドラえもん映画作品|ドラえもん]]や動物映画もの、[[東映まんがまつり]]などを下回った<ref>参考:一般社団法人日本映画製作者連盟[http://www.eiren.org/toukei/1986.html]</ref>。もっとも、スタジオジブリ自身はまずまずの成績を収めたと評価しており、次回作の製作を決定するには十分であったとされる<ref name="saigen">DVD「風の谷のナウシカ」特典ディスク『ジブリはこうして生まれた。~再現映像で綴る誕生物語~』、2003年。</ref>。 (日本国内) {| class="wikitable" style="margin-bottom:2em;" |- ! 内容 !! 記録 !! 補足 |- | 興行収入 | 約11.6億円{{sfn|叶|2006|p=104}} | 推測{{sfn|叶|2006|p=104}} |- | 配給収入 | 5.83億円<ref name="saigen" />{{sfn|叶|2006|p=104}}{{efn2|キネマ旬報では7億円となっている<ref>{{Cite journal|和書|year=1987|title=邦画フリーブッキング配収ベスト作品|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1987年]]([[昭和]]62年)[[2月]]下旬号|pages=129|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>。}} | |- | 全国動員 | 77万4271人<ref name="saigen" />{{sfn|叶|2006|p=104}} | |- | 『イメージアルバム〜空から降ってきた少女〜』 | 2万枚出荷(1986年発売のLP)<br />4万本出荷(1986年発売のCA)<br />6万枚出荷(1986年発売のCD)<br />3万枚出荷(1993年発売の再発CD)<br />0.5万枚出荷(2004年発売の再々発CD) | 出典:{{sfn|叶|2006|p=101}} |- | 『サウンドトラック〜飛行石の謎〜』 | 3万枚出荷(1986年発売のLP)<br />6万本出荷(1986年発売のCA)<br />15万枚出荷(1986年発売のCD)<br />13万枚出荷(1993年発売の再発CD)<br />1万枚出荷(2004年発売の再々発CD) | 出典:{{sfn|叶|2006|p=101}} |- | 『ドラマ編〜光よ甦れ!〜』 | 1万枚出荷(1986年発売のLP)<br />2万本出荷(1986年発売のCA)<br />2万枚出荷(1986年発売のCD)<br />1万枚出荷(1993年発売の再発CD) | 出典:{{sfn|叶|2006|p=101}} |- | 『シンフォニー編〜大樹』 | 1万枚出荷(1986年発売のLP)<br />2万本出荷(1986年発売のCA)<br />4万枚出荷(1986年発売のCD)<br />2万枚出荷(1993年発売の再発CD)<br />0.5万枚出荷(2004年発売の再々発CD) | 出典:{{sfn|叶|2006|p=101}} |- | 『ハイテックシリーズ』 | 2万本出荷(1989年発売のCA)<br />6万枚出荷(1989年発売のCD)<br />0.5万枚出荷(2004年発売の再発CD) | 出典:{{sfn|叶|2006|p=101}} |- | 『CASTLE IN THE SKY〜天空の城ラピュタ<br />USAヴァージョンサウンドトラック〜』 | 3万枚(2002年発売のCD){{sfn|叶|2006|p=101}} | |- | 挿入歌<br />『君をのせて』 | 7万枚出荷(1988年発売のシングルCD)<br />0.5万枚出荷(2004年発売の再発シングルCD) | 出典:{{sfn|叶|2006|p=101}} |- | VHS・ベータ(徳間版) | 8万本出荷{{sfn|叶|2006|p=103}} | 1989年7月時点 |- | VHS(ブエナビスタ版) | 100万本出荷{{sfn|叶|2006|p=103}} | 2003年6月現在 |- | DVD(ブエナビスタ、2枚組・特典付) | 53.2万枚出荷{{sfn|叶|2006|p=103}} | 2003年6月現在 |} == テレビ放送 == [[テレビ朝日]]と競った[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]が放映権を獲得し<ref>横山宗喜「熾烈な戦い"テレビ放映権"」『あの旗を撃て 『アニメージュ』血風録』尾形英夫、オークラ出版、2004年、pp.289-290</ref>、[[1988年]][[4月2日]]に、日テレ開局35周年記念として『土曜特別ロードショー』で初放送され12.2%の視聴率を記録した(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム。以下略)。22.6%の高視聴率を獲得した[[1989年]][[7月21日]]の『[[金曜ロードショー]]』からは同枠で繰り返し放映される人気ソフトとなっている{{sfn|叶|2006|p=103}}。これ以降、日本テレビはスタジオジブリと提携を深め、宮崎が関わった映画作品は日本テレビで放映されるようになる。[[2011年]][[12月9日]]には、劇場公開時のフィルム風合いを再現したニューマスター版が通常より40分拡大して初放送された。 === 視聴率 === * 数値はビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム。 {| class="sortable wikitable" style="line-height:1.4em; font-size:95%;" |- ! class="unsortable" |回数!!放送日!!視聴率!! class="unsortable" |備考 |- |1 |1988年{{0}}4月{{0}}2日(土) |<span style="color:Blue">12.2% |「土曜特別ロードショー」枠で放送。宮崎本人が解説としてゲスト出演。 |- style="white-space:nowrap;" |2 |1989年{{0}}7月21日(金) |<span style="color:red">22.6%<ref name="sponichiK20160118">{{Cite news |title=「天空の城ラピュタ」視聴率17.9%!テレビ放送15回目も根強い人気 |newspaper=[[スポニチ Sponichi Annex]] |date=2016-01-18 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/01/18/kiji/K20160118011869020.html |accessdate=2016-01-19}}</ref> |この回から「[[金曜ロードショー]]」枠での放送となる。エンディングの放送は省略。 |- |3 |1991年{{0}}5月{{0}}3日(金) |17.1% |宮崎駿による特別編で放送。 |- |4 |1993年{{0}}3月26日(金) |20.4% |ノーカット放送。以降は、それが定着する。 |- |5 |1995年{{0}}3月24日(金) |19.9% | |- |6 |1997年{{0}}3月{{0}}7日(金) |20.6% | |- |7 |1998年12月25日(金) |20.6% | |- |8 |2001年{{0}}2月23日(金) |22.2% | |- |9 |2003年{{0}}3月14日(金) |22.2% | |- |10 |2004年12月24日(金) |16.9% | |- |11 |2007年{{0}}6月15日(金) |19.9% | |- |12 |2009年11月20日(金) |15.4% | |- |13 |2011年12月{{0}}9日(金) |15.9%<ref name="sponichiK20160118" /> | |- |14 |2013年{{0}}8月{{0}}2日(金) |18.5%<ref name="sponichiK20160118" /> | |- |15 |2016年{{0}}1月15日(金) |17.9%<ref name="sponichiK20160118" /> | |- |16 |2017年{{0}}9月29日(金) |14.4%<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/10/02/kiji/20171001s00041000304000c.html |title=「天空の城ラピュタ」視聴率14・4% テレビ放送16回目も安定の人気|newspaper=スポニチ Sponichi Annex|date=2017-10-02|accessdate=2017-10-02}}</ref> |- |17 |2019年{{0}}8月30日(金) |14.5%<ref>{{cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/09/02/kiji/20190901s00041000292000c.html |title=「天空の城ラピュタ」視聴率は14・5% テレビ放送17回目も安定の人気 |newspaper=[[スポーツニッポン|スポニチ Sponichi Annex]] |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date=2019-09-02 |accessdate=2019-09-02 }}</ref> | |- |18 |2022年{{0}}8月12日(金) |12.6%<ref>{{Cite news|title=天空の城ラピュタ:視聴率12.6% 18回目放送も高視聴率 “バルス祭り”も話題に|newspaper=まんたんウェブ|date=2022-08-15|url=https://mantan-web.jp/article/20220815dog00m200020000c.html|accessdate=2022-08-15}}</ref> | |- |} 初の『[[金曜ロードショー]]』枠での放送となった2回目の放映では放送時間の関係により、日本テレビ放送網による簡易版のエンディングが作られ、それが使用された。簡易版のエンディングには、一連の事件以後の様子が描かれた画{{efn2|小説版の挿絵。挿絵のすべての初出は月刊『アニメージュ』連載時に掲載されている{{sfn|『小説 前篇』|pp=3-47,173|loc=挿絵}}{{sfn|『小説 後篇』|pp=3-35,173|loc=挿絵}}。}}が転用されたため、この回の放送を観た視聴者から発信される形で'''「『天空の城ラピュタ』にはパズーがシータの元を訪ねる特別ヴァージョンのエンディングが存在する」'''という都市伝説が生まれた。 == 制作背景・影響 == === 舞台設定 === [[File:Caerleon vue.jpg|thumb|本作のロケハンが行われたウェールズ地方(イギリス)]] 物語の舞台は企画段階では「[[立憲君主制|立憲君主国]]。ただし国王は登場しない」とされており、後に宮崎駿は舞台を[[イギリス]]のつもりで設定したと語っている<ref>{{Cite book|和書|author=宮崎駿 |date=2002-07-19 |title=風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡 |publisher=[[ロッキング・オン]] |oclc=959679367 |isbn=4-86052-007-6 |page=290}}</ref>。宮崎は製作が始まる前の1985年5月にイギリスの[[ウェールズ]]地方を[[ロケーション・ハンティング|ロケハン]]で訪れており、そこで見た風景が本作に活かされた。イギリス[[産業革命]]の時代が背景とされている同作の参考になるのではないかと、プロデューサーの高畑勲に勧められたのがきっかけだった。後に[[押井守]]や[[鈴木敏夫]]らと同地を再訪している。また登場する小火器(拳銃、小銃、重機関銃)もイギリスの兵器をモチーフにしている。 年代は劇中で明示されていないが、パズーの父親が撮ったラピュタの写真には「1868.7」と作品世界の暦による年代らしき数字が印字されている{{efn2|ムスカの所持する銃である[[エンフィールドNo.2]]が実際に開発されたのは1927年。}}。 === 名前の由来 === 空に浮かぶ島の名前「ラピュタ」は、スウィフト『[[ガリヴァー旅行記]]』からで、当初は「ラプュタ」であった。言いにくいので気に入らなかったが、企画書の説得力が増すという理由のみでつけられた。宮崎はガリヴァー旅行記のダイジェスト版しか読んだことがなく、内容も大して面白いと思わず、ラピュタという名前も覚えていなかった{{sfn|『GUIDE BOOK』|p=78}}。 パズーの名前の由来は、学生時代に考えた船乗りの名前の一つで、『[[未来少年コナン]]』で使用されずに唯一残っていたという理由で使用された。シータの名前は、学生時代に創作していた人形劇「サイン・コサイン・シータ」(精神病院が舞台で、少年アルファ何号と、少女シータ何号の物語)からの転用とされる{{sfn|『GUIDE BOOK』|pp=79-}}。物語自体は小学生の頃に考えたもの<ref>[https://live.nicovideo.jp/watch/lv143142062 ニコニコ映画実況 ~天空の城ラピュタ~ みんなで一緒にジブリ作品を見よう<テレビ実況生放送> - 2013/08/02 20:40開始 - ニコニコ生放送] 42分頃の鈴木敏夫の発言</ref>。 発表前の仮タイトルは、「少年パズー・飛行石の謎」で、サブタイトルは「空中城の虜」「空とぶ宝島」「飛行帝国」「空中魔城」「戦国魔城」などの案があった<ref>[https://twitter.com/kinro_ntv/status/687973384345419776/photo/1 スタンリー@金曜ロードSHOW! 公式]</ref>{{sfn|『GUIDE BOOK』}}。 === 設定の由来 === 「廃れてしまった古の機械文明」が作った「空中に浮かぶ島」、「飛行船に乗る海賊」であるドーラ一家という物語のモチーフは、幻の作品である『[[ラーマーヤナ|ラーマヤナ]]』(インドとの合作。一度滅亡した文明や、古代核兵器などの設定)と、『[[リトル・ニモ]]』(東京ムービー)の企画に参加していた際に、宮崎がイメージしていたものが投影されている。 ドーラの原形は宮崎駿の母親<ref>鈴木敏夫「あのーね、ドーラって自分のお母さんがモデルなんですよねぇ。やっぱり性格。であのー二人の息子を相手にね、色々やってるでしょう。あれも自分のお母さん。で実はねこの映画作ってる時にね亡くなっちゃったんですよね。だからもう、ほんとど真ん中でね、葬式があったりして。で宮さんてねお母さん孝行だったから、ま辛い思いしたと思いますけれどでも、ドーラをモデルにして、そうやって映画の中で描けた事は喜んでましたよね」 - [https://live.nicovideo.jp/watch/lv143142062 ニコニコ映画実況 ~天空の城ラピュタ~ みんなで一緒にジブリ作品を見よう<テレビ実況生放送> - 2013/08/02 20:40開始 - ニコニコ生放送] 53:28</ref>{{efn2|[[鈴木敏夫]]は、「宮崎駿は、ムスカが好きなんです。(中略)ああいう人に対して、自己投影しているんですね。ドーラは、『ラピュタ』の制作中に亡くなったお母さんですし。でも、キャラクターに自己や母親を投影してるなんて、本人にしたら恥ずかしいことで、人には言われたくなかったんでしょう」とコメントしている{{sfn|『ジブリの教科書2』|p=60|loc=「借金を背負って発足した『スタジオジブリ』」}}。}}{{efn2|宮崎駿の実弟、宮崎至朗は、「試写会の後、私にはわかったような気がした。あれは駿兄貴が映像を通してオフクロに送った、無器用だが精一杯のはなむけだったのかもしれないと」とコメントしている。初出は1989年に発行の『アニメージュ特別編集ガイドブック 魔女の宅急便』(徳間書店)。これは『ジブリの教科書2』に収録されている{{sfn|『ジブリの教科書2』|loc=「家族の風景-兄・宮崎駿」}}。}}。パズーの乗るグライダーは映画『[[地獄の天使 (1930年の映画)|地獄の天使]]』のツェッペリン飛行船の観測ゴンドラの影響。飛行石のモチーフは、[[福島鉄次]]の『[[沙漠の魔王]]』から{{sfn|『GUIDE BOOK』}}。 架空の言語「ラピュタ語」は出まかせであるが、[[ケルト語]]などに影響を受けている{{sfn|『GUIDE BOOK』|p=84}}。 === 他作品への影響 === [[庵野秀明]]によると、宮崎は以前にアニメ番組の企画として『未来少年コナン2』という位置付けの「主人公の少年・少女が謎のペンダントをめぐり潜水艦で世界中を旅する。そしてそれを狙う悪役一派がいる」という案をNHKに提出したが、採用されなかった。この案を後に宮崎は本作に生かし、庵野は別作品の『[[ふしぎの海のナディア]]』に持ち込んだという<ref>『ふしぎの海のナディア絵コンテ全集』第1巻「ナディア懺悔話〜第1回 ナディア誕生秘話」</ref>{{efn2|[[フジテレビ]]の『[[世界名作劇場]]』枠で放送されたテレビアニメ『[[七つの海のティコ]]』も本企画の設定が転用されている。}}。 世界で最も売れているゲームとして知られる『[[Minecraft]]』で、アイアンゴーレムが村人に花を差し出すしぐさをするが、これは本作のワンシーンから着想を得ている<ref>{{Cite tweet|user=jonkagstrom |author=Jon Maiga |number=172728720799436801 |title=Yes, thanks to @pgeuder who sent me inspirational pictures! |date=2012-02-24 |accessdate=2022-12-12 |language=en}}</ref>。 === 都市伝説 === 『ラピュタのエンディング映像には続きがあり、テレビ放映の際に目撃した』などの[[都市伝説]]があったが、スタジオジブリは否定するコメントを出しており、小説版の後日談と資料集のイラストなどが混同して噂が広まったのではないかとしている<ref>{{Cite book|和書|author=荻上チキ |authorlink=荻上チキ |others= |title=ウェブ炎上 ネット群集の暴走と可能性 |date=2007-10-09 |publisher=筑摩書房 |series=ちくま新書 |isbn=978-4-4800-6391-5 |pages=163-164 |chapter=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ghibli.jp/storage/diary/000102/ |title=12月13日(金) - ジブリ日誌 2002年12月 |website=スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI |date=2002-12-13 |accessdate=2022-12-12}}</ref>。また、テレビ放送で流された簡易版エンディング(本編の静止画、イメージボードのイラストなどにスタッフロールを乗せたもの)がその噂の元であるとする検証サイトもある。 === インターネットでの影響(バルス祭り) === {{Main|飛行石#滅びの呪文「バルス」によるインターネット上の現象}} 地上波でテレビ放送される際に、[[2ちゃんねる]]等の[[実況板]]等において終盤の山場の台詞「バルス」に合わせた大量書き込みが行われ<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/static/yajiuma/2007/06/19/ いつもの「呪文」で2ちゃんねるが潰れそうになるほど高負荷]、やじうまWatch、2007年6月19日</ref>、高負荷による[[サーバ]]ダウンがたびたび発生している。 === 反響 === [[2020年]]に[[ねとらぼ]]で行われた「一番好きな宮崎駿監督作品」の人気ランキングにおいて、3位の『[[ルパン三世 カリオストロの城]]』、2位の『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』を押さえて1位となっている<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/32939/ 【結果発表】 一番好きな「宮崎駿監督作品」、圧倒的1位に輝いたのは?]</ref>。 === ジブリ美術館 === [[三鷹の森ジブリ美術館]]では本作に登場するロボットの模型が常設展示されており、[[2002年]]には「天空の城ラピュタと空想科学の機械達展」が開かれた。 == 日本国外版 == === 英語版 === 英語版は2種類存在する。最初の英語版は{{仮リンク|ストリームライン・ピクチャーズ|en|Streamline Pictures}}が『'''Laputa: The Flying Island'''』の名で1989年にイギリスで公開したもの。2つ目は2003年にディズニーが配給し、ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント(ウォルト・ディズニー・スタジオ・ホーム・エンターテイメント)よりDVDが発売されている『'''Castle in the Sky'''』。日本では、前者の音源は[[2002年]][[10月4日]]に発売されたDVDに収録され、後者は[[2014年]][[7月16日]]に発売されたデジタルリマスター版のDVDに収録されている。 日本での販売用ブルーレイ([[2010年]][[12月22日]]発売)に収録されている英語版は、デジタルリマスターDVDと同じディズニー版の『Castle in the Sky』で、特典映像の一つとして収録されている。スタッフロールはすべて英語で表記されている。なお、エンディングのキャスト紹介は、日本版が「パズー → シータ」なのに対し、ディズニー版は「シータ → パズー」の順になっている。 タイトルが変更されているのは、ラピュタの命名の元となったスウィフトの『[[ガリヴァー旅行記]]』第三章の飛行島ラピュータ(Laputa)は、[[スペイン語]]のLa puta([[売春婦]]<ref>[[Wikt:en:puta#Catalan|Wiktionary puta (Catalan)]]</ref>)をもじって命名されたものであり、スペイン語圏および[[ヒスパニック]]の多い[[アメリカ合衆国]]では不適切なため<ref>{{Cite web|和書|author=小鮒康一 |url=https://www.webcartop.jp/2018/09/278404/ |title=海外で言うと恥ずかしい!? 日本車のおかしな車名3選 |website=WEB CARTOP |date=2018-09-25 |accessdate=2021-07-27}}</ref>。 最初の英語版は、配給元のストリームライン・ピクチャーズにより翻訳されたものではない。ストリームライン・ピクチャーズのフレッド・パットンによれば最初は[[全日本空輸|全日空]]の国際線の機内上映のために製作されたもので、ストリームラインはそれを日本から渡されたとのことで、実際に誰が翻訳、吹き替えを行ったのかは不明とされる<ref>[http://www.nausicaa.net/miyazaki/laputa/faq.html#dub 天空の城ラピュタ よくある質問](駿宮崎ウェブ、英語)</ref>。日本語版ではドーラが40秒、ムスカが3分間待つところは共に1分間となっている。 ディズニー版の『Castle in the Sky』には[[久石譲]]本人によるオリジナル版と異なる音楽が使用されている。日本版では上映時間2時間4分のうち音楽は約1時間で、箇所によっては7分から8分にわたり音楽が全くない部分があるが、ディズニーのスタッフから海外では全編鳴っているのが当たり前で、3分も曲が無いと落ち着かなくなると説明され、基本となるメロディの大部分を生かしながら、久石が大幅にアレンジを変更し新たに録音を行った<ref>「音楽家 久石譲」『鈴木光司対談集 天才たちのDNA』[[鈴木光司]]、[[マガジンハウス]]、2001年、ISBN 4838712375、pp.152-153</ref><ref>「Keyboard Magazine 1999年8月号」、1999年、リットーミュージック、pp32-33。</ref>。オープニング曲は飛行石が輝く場面とシンクロするようになっており、エンディング曲は日本語オリジナル版の上にピアノの演奏がミックスされている。CDは徳間ジャパンより発売されている。 ディズニー版は2017年にアメリカで、[[GKIDS]]と{{仮リンク|ファゾム・イベンツ|en|Fathom Events}}によってイベント上映され<ref>{{Cite web|author=Zack Sharf|date=2017-03-28|url=https://www.indiewire.com/2017/03/studio-ghibli-fest-tickets-screening-schedule-miyazaki-1201797450/|title=Studio Ghibli Fest Bringing Six Animated Classics Back to the Big Screen — Exclusive|website=IndieWire|publisher=Penske Media Corporation|accessdate=2019-08-27}}</ref><ref>{{Cite web|date=2017|url=https://www.fathomevents.com/events/studio-ghibli-fest-castle-in-the-sky|title=GKIDS Presents Studio Ghibli Fest 2017 ─ Castle in the Sky|website=Fathom Events|accessdate=2019-09-17}}</ref>、翌2018年にも11月18日から20日の間に<ref>{{Cite web|author=SOURCE Fathom Events|date=2018-02-14|url=https://www.prnewswire.com/news-releases/gkids-and-fathom-events-present-a-new-studio-ghibli-series-of-animated-masterpieces-in-us-cinemas-throughout-2018-300598758.html|title=GKIDS and Fathom Events Present a New STUDIO GHIBLI Series of Animated Masterpieces in U.S. Cinemas Throughout 2018|website=PR Newswire|publisher=Cision|accessdate=2019-08-27}}</ref><ref>{{Cite web|date=2018|url=https://www.fathomevents.com/events/studio-ghibli-fest-2018-castle-in-the-sky|title=GKIDS Presents Studio Ghibli Fest 2018 ─ Castle in the Sky|website=Fathom Events|accessdate=2019-08-27}}</ref>、字幕版と併せて648館で劇場公開された<ref>{{Cite web|date=2018-11-18|url=https://www.boxofficemojo.com/movies/?id=castleinthesky2018.htm|title=Castle in the Sky - Studio Ghibli Fest 2018|website=[[Box Office Mojo]]|publisher=[[Amazon.com]]|accessdate=2019-08-27}}</ref>。 === フランス語版 === フランスでブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメントより発売されているDVD(フランス語版タイトルは'''Le Château dans le Ciel'''、映画公開は2003年1月15日)は[[フランス語]]、日本語のほか「Castle in the Sky」の英語音声も収録されている。 同じDVDに収録されている日本語オリジナル版および、そのオリジナル版と同じ音楽を用いたフランス語版の音声は、音楽の音程がオリジナルより約半音高くなっている。これは秒間24コマのフィルムから秒間25コマのPAL方式にテレシネする際、1コマ分の4%早くなる為。 英語版の字幕は、英語版音声を忠実に書き起こしたものと日本語版からの翻訳重視のものが2種類収録されているが、フランス語版の字幕は1種類のみで、フランス語版の音声と字幕では内容が異なる。 フランス語版DVDはリージョン2(日本と共通)、映像方式はNTSC/PALコンパチブルで、日本の家庭用DVDプレーヤーでも再生可能。 == 関連商品 == === 作品本編に関するもの === ; 映像ソフト :* 天空の城ラピュタ [[VHS]] - [[徳間書店]]/[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|徳間ジャパン]]/[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|徳間コミュニケーションズ]] 128GH-12(1986年8月25日) :* 天空の城ラピュタ [[ベータマックス|Beta]] - 徳間書店/徳間ジャパン/徳間コミュニケーションズ 128GB-5012(1986年8月25日) :* 天空の城ラピュタ [[VHD]] - 徳間書店/徳間ジャパン/[[東芝]]/[[東芝|東芝映像ソフト]] VDS-A0452(1986年9月21日) :* 天空の城ラピュタ [[レーザーディスク|LD]] - 徳間書店/徳間ジャパン/徳間コミュニケーションズ 128LX-8~9(1986年9月25日) :* 天空の城ラピュタ [[VHS]] - [[ウォルト・ディズニー・スタジオ・ホーム・エンターテイメント|ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント]] VWSZ-8014(1998年9月18日) :* 天空の城ラピュタ DVD - ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント VWDZ8014(2002年10月4日) :* 天空の城ラピュタ Blu-ray Disc - ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン VWBS1189(2010年12月22日) :<!-- リスト分断防止 --> ; 出版 :* 天空の城ラピュタ―フィルムコミック(1)(1986年9月30日)ISBN 4-19-776593-2 :* 天空の城ラピュタ―フィルムコミック(2)(1986年9月30日)ISBN 4-19-776594-0 :* 天空の城ラピュタ―フィルムコミック(3)(1986年10月20日)ISBN 4-19-776602-5 :* 天空の城ラピュタ―フィルムコミック(4)(1986年10月20日)ISBN 4-19-776603-3 :* {{Cite book|和書|others=アニメージュ編集部 編さん |title=THE ART OF LAPUTA |year=1986 |month=11 |publisher=徳間書店 |series=ジブリTHE ARTシリーズ 7|volume= |isbn=978-4-1981-6610-6 |ref={{sfnref|『THE ART OF』|1986}} }} :* 天空の城ラピュタ(徳間アニメ絵本) (1988年3月31日)ISBN 4-19-703626-4 :* {{Cite book|和書|others=スタジオジブリ 編さん |title=スタジオジブリ作品関連資料集 型録 I |year=1996 |month=6 |publisher=徳間書店 |series=ジブリTHE ARTシリーズ 1 |volume=|isbn=978-4-1986-0525-4 |ref={{sfnref|『型録 I』|1996}} }} :* 天空の城ラピュタ(ロマンアルバム特別編集)(1986年10月) :** {{Cite book|和書|author=宮崎駿 |title=天空の城ラピュタ |year=2001 |month=6 |publisher=徳間書店スタジオジブリ事業本部 |series=スタジオジブリ絵コンテ全集 2|volume= |isbn=978-4-1986-1377-8 |ref={{sfnref|『絵コンテ全集2』}} }} - 上記の新装版 :* 天空の城ラピュタ(ロマンアルバム・エクストラ68)(1986年10月) :** {{Cite book|和書|title=天空の城ラピュタ |year=2001 |month=9 |publisher=徳間書店 |series=ロマンアルバム |isbn=978-4-1972-0156-3 |ref={{sfnref|『ロマンアルバム』}} }} - 上記の新装版 :* 映画 天空の城ラピュタ GUIDE BOOK(1986年8月) :** {{Cite book|和書|author= |editor=[[アニメージュ]]編集部 |title=映画 天空の城ラピュタ GUIDE BOOK |date=2010-12-03 |publisher=徳間書店 |edition=復刻版 |series=ロマンアルバム |isbn=978-4-1972-0320-8 |ref={{sfnref|『GUIDE BOOK』}} }} - 上記を復刻 :;※以上は全て徳間書店 :* {{Cite book|和書|author=スタジオジブリ |editor=[[文春文庫]]編集部 |title=ジブリの教科書2 天空の城ラピュタ |date=2013-05-10 |publisher=[[文藝春秋]] |series=文春ジブリ文庫 |isbn=978-4-16-812001-5 |ref={{sfnref|『ジブリの教科書2』}} }} :* {{Cite book|和書|author=原作・脚本・監督 宮崎駿 |title=シネマ・コミック2 天空の城ラピュタ |date=2013-05-10 |publisher=文藝春秋 |series=文春ジブリ文庫 |isbn=978-4-16-812101-2 |ref={{sfnref|『シネマ・コミック2』}} }} :* 天空の城ラピュタ大百科([[勁文社]]〈ケイブンシャの大百科〉、1986年8月) :<!-- リスト分断防止 --> ; 音楽 :* スタジオジブリ 宮崎駿&久石譲 サントラBOX [Box set, Limited Edition] (CD) 徳間ジャパンコミュニケーションズ(2014年7月16日) === その他関連書籍 === * アニメージュ・ゲーム文庫「天空の城ラピュタ」より 天界の迷宮(作:[[佐藤大輔]]、絵:ふじたゆきひさ、徳間書店〈[[アニメージュ文庫]]〉、1987年12月)ISBN 4-19-669572-8 ** アニメをゲームブック化した作品であるが、敵との戦いが敵味方ともに体力がゼロになる前に士気が減少することによる逃亡で決着がつく、パズーは軍人に対して正面から戦うとほぼ確実に捕まってしまうなど、原作テイストよりも作家性が非常に強い作品になっている。 * 宮崎駿 映画の風(空の会 著、創樹社、1993年12月) * もう一つの「バルス」-宮崎駿と『天空の城ラピュタ』の時代([[木原浩勝]] 著) ** {{Cite book|和書|author=木原浩勝 |title=もう一つの「バルス」 宮崎駿と『天空の城ラピュタ』の時代 |date=2016-10-06 |publisher=講談社 |isbn=978-4-0622-0243-5 |ref={{sfnref|木原|2016}} }} ** {{Cite book|和書|author=木原浩勝 |title=もう一つの「バルス」 宮崎駿と『天空の城ラピュタ』の時代 |date=2018-09-14 |publisher=講談社 |series=講談社文庫 |edition=増補改訂版 |isbn=978-4-0651-2828-2 |ref={{sfnref|木原|2018}} }} ** スタッフ(ジブリ制作デスク)による回想記 * 子どもりょうり絵本 ジブリの食卓 天空の城ラピュタ([[スタジオジブリ]]監修、[[主婦の友社]]編著、2023年8月10日、ISBN 9784074552269) == タイアップ商品 == * 清涼飲料水「ライトフルーツソーダ 天空の城ラピュタ」([[味の素]]) *: 1986年6月から販売された(味はレモン&ライム・シトラスミックスの2種類)。CMは契約上アニメ映像を使用できないため、パズーとシータの格好をした少年少女と実寸大のフラップターを使用した実写映像となっており、[[島本須美]]と[[松田洋治]]がナレーションを行ない、CMソングとして上記のイメージソングが使用された{{sfn|叶|2006}}。 * [[VHD|ビデオディスクプレーヤー]] マイドリーム([[東芝]]) == 小説版 == [[亀岡修]]『小説 天空の城ラピュタ 前・後篇』、[[徳間書店]] [[アニメージュ文庫]] * {{Cite book|和書|title=小説 天空の城ラピュタ〈前篇〉 |year=1986 |month=5 |isbn=978-4-1966-9556-1 |ref={{sfnref|『小説 前篇』}} }} * {{Cite book|和書|title=小説 天空の城ラピュタ〈後篇〉 |year=1986 |month=8 |isbn=978-4-1966-9557-8 |ref={{sfnref|『小説 後篇』}} }} イラストは[[宮崎駿]]。亀岡は宮崎自身からの指名を受けノベライズ<ref>文庫カバー折り返しでの紹介文。</ref>を担当し、月刊『[[アニメージュ]]』に連載後に出版された。 映画では描かれていない飛行客船襲撃よりも前のエピソードや、映画のラストの半年後を舞台としたエピローグが書かれており、その他細かい設定や、登場人物の心情描写の補完がなされている。 2002年にDVD化された際、10,000セット限定販売の『「天空の城ラピュタ」DVDコレクターズ・エディション』に、この小説版をハードカバー単行版で再編し『コレクターズ・エディション』版に付属された{{efn2|同梱書籍であり、価格や[[ISBN|ISBNコード]]の記載はない。}}{{efn2|なおハードカバー版も、当初は別に単体で販売予定され、DVDパッケージに同梱された関連商品の紹介チラシにも記載されたが、DVD発売時点では発行中止が決定し、訂正の注意書きも同梱されていた。}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|20em}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=叶精二 |year=2006 |title=宮崎駿全書 |publisher=フィルムアート社 |isbn=4845906872 |ref={{sfnref|叶|2006}} }} * {{Cite book|和書|author=宮崎駿 |title=「天空の城ラピュタ」劇場パンフレット |year=1986 |publisher=スタジオジブリ |ref={{sfnref|『パンフレット』|1986}} }} == 関連項目 == * 登場するメカニックのモデル ** [[ガトリング砲]] ** [[パルスジェット]] ** [[ダイナマイト・プランジャー]] ** [[装甲列車]] ** [[飛行船]] ** [[スチームパンク]] * 関連のある作品 ** [[ガリヴァー旅行記]] ** [[空想の空飛ぶ機械達]] ** [[未来少年コナン]] ** [[ふしぎの海のナディア]] ** [[七つの海のティコ]] ** [[さらば愛しきルパンよ]]([[ルパン三世 (TV第2シリーズ)|ルパン三世TV第2シリーズ]]第155話〈最終回〉) * その他 ** [[バビロンの空中庭園]] ** [[レトロフューチャー]] ** [[天空の城]] ** [[マツダ・ラピュタ]] ** [[マゴニア]] - 中世フランスにおける伝説上の空中大陸。 ** [[SUBARU]] [[スバル・レヴォーグ|レヴォーグ]] - 本作品が2022年8月12日の金曜ロードショーにて放送された際に流れたコラボCM。ナレーションはパズー役の田中真弓とシータ役のよこざわけい子が担当した({{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_62f71d27e4b095e7888097a2#amp_tf=%251%24s%20%E3%82%88%E3%82%8A&aoh=16604417540545&referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com&ampshare=https%3A%2F%2Fwww.huffingtonpost.jp%2Fentry%2Fstory_jp_62f71d27e4b095e7888097a2 |title=『天空の城ラピュタ』パズーとシータ、スバルCMで“夢の共演”がエモすぎる。締めの言葉が「バルス!」じゃなかった |access-date=2022-08-13 |publisher=HUFFPOST}})。 ** [[ONE PIECE FILM RED]] - 本作品の主人公パズー役の田中真弓が主人公ルフィ役を担当している作品。この作品の舞台挨拶の最後にパズーの「僕は海賊にはならないよ」をサプライズ披露した(舞台挨拶の前日に日本テレビ「金曜ロードショー」にて本作品の放送がされた)({{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0131727 |title=『ONE PIECE』興収50億突破。田中真弓は『ラピュタ』パズーのセリフ披露 |access-date=2022-08-13 |publisher=シネマトゥデイ}})。 ** [[ラピュタ阿佐ヶ谷]] == 外部リンク == * [https://www.ghibli.jp/works/laputa/ 天空の城ラピュタ - スタジオジブリ公式サイト] * {{JMDb title|1986|dj002100}} * {{Allcinema title|149868|天空の城ラピュタ}} * {{Kinejun title|17730|天空の城ラピュタ}} * {{Movie Walker|mv17551|天空の城ラピュタ}} * {{Japanese-cinema-db|14465|天空の城ラピュタ}} * {{映画.com title|20356|天空の城ラピュタ}} * {{Mediaarts-db}} * {{Amg movie|163047|Castle in the Sky}} * {{IMDb title|0092067|Castle in the Sky}} * [http://www.generalworks.com/databank/movie/title3/laput.html SF MOVIE DataBank:天空の城ラピュタ] {{天空の城ラピュタ}} {{スタジオジブリ}} {{宮崎駿}} {{高畑勲}} {{毎日映画コンクール大藤信郎賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てんくうのしろらひゆた}} [[Category:天空の城ラピュタ|*]] [[Category:日本のオリジナルアニメ映画]] [[Category:1986年のアニメ映画]] [[Category:スタジオジブリのアニメ映画]] [[Category:徳間書店のアニメ作品]] [[Category:東映配給の映画]] [[Category:SFアニメ映画]] [[Category:高畑勲]] [[Category:環境保護を題材としたアニメ映画]] [[Category:宮崎駿]] [[Category:宮崎駿の監督映画]] [[Category:超古代文明を題材としたアニメ作品]] [[Category:超古代文明を題材とした映画作品]] [[Category:航空アニメ]] [[Category:飛行船を題材とした作品]] [[Category:ファンタジーアニメ映画]] [[Category:冒険アニメ映画]] [[Category:久石譲の作曲映画]] [[Category:城を舞台にした映画作品]] [[Category:空賊を題材としたアニメ作品]]
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リトルワールド
リトルワールドは、愛知県犬山市と岐阜県可児市に跨ぐ、世界の家と暮らしをテーマとした野外民族学博物館。本物の伝統建築物を世界中から買い付けて展示しており、伝統建築物の件数では日本有数である。大半の施設は愛知県にあるが一部の施設は県境を跨いだ岐阜県に位置しており、県境にはそのことを示す看板が設置されている。 大阪府吹田市の万博記念公園内にある国立民族学博物館の建造物館は屋内展示が主体であるのに対し、こちらは屋外展示が主体である。ただし、非常に大規模な屋内展示もある。 リトルワールド側が発表している敷地面積は123万平方メートルで日本のテーマパークでは第2位の敷地面積に相当する(3位は同じ名鉄インプレスが運営する博物館明治村)。 野外美術館ランキング(生活ガイド.com会員10代 - 80代の男女201人を対象に実施した2022年のインターネット調査)では、全国2位にランクインしている。 世界中の様々な動物の肉を味わうことができる「肉フェス」や、開館時間を15時 - 20時と変更しファイヤーショーや花火などを行う「ワールドサマーナイト」などの様々なイベントを毎年開催している。 名古屋鉄道が、犬山の観光開発のために出資して、1983年3月18日に開園したもの。 1970年に大阪で開催された日本万国博覧会は当初世界各国民族の伝統的な建造物を集めてくるというコンセプトがあり、万博終了後にそれらを移築する受け皿としてリトルワールド構想が持ち上がった。名古屋鉄道としては博物館明治村と合わせた犬山の観光振興を図る考えから、この土地が用意された。しかし、その後万博のパビリオンは独創的な建造物が作られる方向に転換し、リトルワールドは独自に世界の民家を収集し、日本で最初の民族学博物館を目指していく方針に転換せざるを得なかった。1973年(昭和48年)2月24日に起工式が行われたが、オイルショックや土川元夫の急逝もあり工事は遅延、また、世界中で古民家を買い付け、移築するという作業は容易に進まなかった。屋外展示家屋は1982年度に11棟、1983年度に6棟が完成。本館は1982年(昭和57年)に竣工し、開園となった。リトルワールド構想が持ち上がってから開園まで15年近い時間を要した。 その間、大阪の万博跡地利用の政策として国立民族学博物館が先に開館し、日本最初の民族学博物館とならなかったことから、テーマパーク色を濃くした「人間博物館」というコンセプトを前面に出すようになった。「人間博物館」というキャッチフレーズは、のちに「野外民族博物館」と変更されている。 現在23ヶ国・33施設が展示及び内部公開されており、入園すると一日で世界一周が体験できるというのが売りものとなっている。施設は現地から移築されたものと復元されたものがあるが、復元の建物の多くは現地の職人の手によるものである。 一部の店舗ではmanacaが使え、更にμstarポイントが加算される。 1990年代以降に新鳥羽水族館(増築)・伊勢戦国時代村・志摩スペイン村等、ハウステンボスが先陣を切った「展示」を中心とした大型テーマパークが三重県伊勢地方に台頭し、2001年のユニバーサル・スタジオ・ジャパン・東京ディズニーシーの開業や海外旅行の浸透などにより行楽の多様化が進んだため、旧態化した都市部のテーマパーク(宝塚ファミリーランド・横浜ドリームランド等々)は、全国区で軒並み入園者が激減する局面に遭遇した。フランスやドイツ、イタリアの家などを次々に増やして、日本人にも海外旅行でなじみの深い国々を前面に出して工夫を重ねている。 しかし、2002年に名鉄は鉄道以外の部門で不採算が拡大し、当期(2003年3月期)の中間決算が上場以来初の無配となる事態が発生。これが契機となり翌2003年1月24日に経営合理化策を発表し、リトルワールドについては、園内施設を保有していた(株)リトルワールド会館の資産を名鉄が買い取り、同社は清算処理(名鉄は簿価との差額の譲受損を計上)され、同年10月よりグループ外への売却を目標に、運営主体を新設子会社の名鉄インプレスへ他のレジャー施設と共に委託し、内海フォレストパーク・日本ライン観光の廃業が同年中に実施された。 それからわずか4日後、急遽収益の改善が見込めないとして、2005年9月の愛・地球博閉幕後を目処にリトルワールドを閉館する旨を朝日新聞がリークして報道がなされたが、愛・地球博により、中京圏の人々に海外文化との触れ合いが見直されたこともあり、再び入園者が増える傾向にある。そのためこれまではサーカス等のイベントが集客対策だったのが、世界の料理(2005年秋季は「世界の肉料理」、2005年から2006年冬季は「世界のスープ」を特集した。)や民族衣装の試着などの、愛・地球博で好評だった分野にも力を入れ始めている。 開業30周年となる2013年3月16日に、15年ぶりの新施設となる「トルコ イスタンブールの街」がオープンした。また、2016年にはリトルワールドの展示手法が放送大学の「博物館展示論」講義で紹介された。同講義はかつてリトルワールドの研究員を務め、その後に愛知県立大学教授を経て放送大学特任教授となった稲村哲也が担当した。 2019年3月9日には「タイエリア」がオープンしている。 名鉄犬山線・小牧線・広見線犬山駅東口から岐阜バス 約20分 名鉄バスセンター・栄オアシス21から東鉄バスによる都市間高速バス西可児〜名古屋線(可児車庫行き)名鉄バスセンターから約1時間。バス停「リトルワールド」下車すぐ、「成沢リトルワールド口」から徒歩約15分。 距離的には名鉄広見線善師野駅が最も近いが、徒歩で50分以上かかるためアクセスは困難。
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リトルワールドは、愛知県犬山市と岐阜県可児市に跨ぐ、世界の家と暮らしをテーマとした野外民族学博物館。本物の伝統建築物を世界中から買い付けて展示しており、伝統建築物の件数では日本有数である。大半の施設は愛知県にあるが一部の施設は県境を跨いだ岐阜県に位置しており、県境にはそのことを示す看板が設置されている。 大阪府吹田市の万博記念公園内にある国立民族学博物館の建造物館は屋内展示が主体であるのに対し、こちらは屋外展示が主体である。ただし、非常に大規模な屋内展示もある。 リトルワールド側が発表している敷地面積は123万平方メートルで日本のテーマパークでは第2位の敷地面積に相当する(3位は同じ名鉄インプレスが運営する博物館明治村)。 野外美術館ランキングでは、全国2位にランクインしている。 世界中の様々な動物の肉を味わうことができる「肉フェス」や、開館時間を15時 - 20時と変更しファイヤーショーや花火などを行う「ワールドサマーナイト」などの様々なイベントを毎年開催している。
{{Otheruses|愛知県の民族学博物館|[[保志総一朗]]の[[アルバム]]|LITTLE WORLD}} {{博物館 |名称 = リトルワールド<br />THE LITTLE WORLD MUSEUM OF MAN |imagesize = 300px |画像 = Little world3.JPG |画像説明 = 入口 |正式名称 = |愛称 = |前身 = |専門分野 = [[民族学]] |収蔵作品数 = 約6000点 |来館者数 = |館長 = [[大貫良夫]] |学芸員 = |研究職員 = |事業主体 = [[名古屋鉄道]] |管理運営 = [[名鉄インプレス]] |年運営費 = |建物設計 = |延床面積 = 123万 m<sup>2</sup>(敷地面積) |開館 = 1983年3月18日<ref name="交通83">{{Cite news |title=リトルワールド 華やかにオープン |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1983-03-20 |page=1 }}</ref> |閉館 = |所在地郵便番号 = 484-0005 |所在地 = 愛知県犬山市今井成沢90-48 |緯度度 = 35|緯度分 = 22|緯度秒 = 28.28 |経度度 = 137|経度分 = 1|経度秒 = 22.6 |座標右上表示 = yes |map_type = Japan Aichi |アクセス = |URL = [http://www.littleworld.jp/ 野外民族博物館 リトルワールド] }} '''リトルワールド'''は、[[愛知県]][[犬山市]]と[[岐阜県]][[可児市]]に跨ぐ、世界の家と暮らしをテーマとした野外[[民族学]][[博物館]]。本物の伝統建築物を世界中から買い付けて展示しており、伝統建築物の件数では日本有数である。大半の施設は愛知県にあるが一部の施設は[[県境]]を跨いだ岐阜県に位置しており、県境にはそのことを示す看板が設置されている。 [[大阪府]][[吹田市]]の[[万博記念公園]]内にある[[国立民族学博物館]]の建造物館は屋内展示が主体であるのに対し、こちらは屋外展示が主体である。ただし、非常に大規模な屋内展示もある。 リトルワールド側が発表している敷地面積は123万平方メートル<ref>{{Cite web|url=http://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2005/20050729_02.html|title=野外民族博物館リトルワールドに8月1日から「愛・地球博」で働く外国人スタッフを無料招待します|archive-url=https://web.archive.org/web/20160919063910/https://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2005/20050729_02.html|archive-date=2016-09-19|website=名古屋鉄道|publisher=名古屋鉄道|date=2005-07-29|accessdate=2023-10-06}}</ref>で日本のテーマパークでは第2位の敷地面積に相当する<ref>{{Cite web|url=http://www.yuuenchi.com/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%b8%80%e9%9d%a2%e7%a9%8d%e3%81%8c%e5%ba%83%e3%81%84%e9%81%8a%e5%9c%92%e5%9c%b0/|title=「日本一面積が広い遊園地・テーマパークはどこ?」|archive-url=https://web.archive.org/web/20160209044239/https://www.yuuenchi.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%80%E9%9D%A2%E7%A9%8D%E3%81%8C%E5%BA%83%E3%81%84%E9%81%8A%E5%9C%92%E5%9C%B0/|archive-date=2016-02-09|website=遊園地ドットコム|accessdate=2023-10-06}}</ref>(3位は同じ[[名鉄インプレス]]が運営する[[博物館明治村]])。 野外美術館ランキング(生活ガイド.com会員10代 - 80代の男女201人を対象に実施した2022年のインターネット調査)では、全国2位にランクインしている<ref>{{Cite web|url=https://news.mynavi.jp/article/20220417-2323275/|title=野外美術館ランキング、1位は? - 2位リトルワールド、3位霧島アートの森|website=マイナビニュース|publisher=マイナビ|date=|accessdate=2023-10-06}}</ref>。 世界中の様々な動物の肉を味わうことができる「肉フェス」や、開館時間を15時 - 20時と変更しファイヤーショーや花火などを行う「ワールドサマーナイト」などの様々なイベントを毎年開催している。 == 概説 == [[名古屋鉄道]]が、犬山の観光開発のために出資して、[[1983年]][[3月18日]]に開園したもの{{R|交通83}}{{sfn|百年史|1994|p=518}}。 [[1970年]]に大阪で開催された[[日本万国博覧会]]は当初世界各国民族の伝統的な建造物を集めてくるというコンセプトがあり、万博終了後にそれらを移築する受け皿としてリトルワールド構想が持ち上がった。[[名古屋鉄道]]としては[[博物館明治村]]と合わせた犬山の観光振興を図る考えから、この土地が用意された。しかし、その後万博のパビリオンは独創的な建造物が作られる方向に転換し、リトルワールドは独自に世界の民家を収集し、日本で最初の民族学博物館を目指していく方針に転換せざるを得なかった。[[1973年]](昭和48年)2月24日に起工式が行われたが{{sfn|百年史|1994|p=517}}、[[オイルショック]]や[[土川元夫]]の急逝もあり工事は遅延{{sfn|百年史|1994|p=517}}、また、世界中で古民家を買い付け、移築するという作業は容易に進まなかった。屋外展示家屋は1982年度に11棟、1983年度に6棟が完成。本館は[[1982年]](昭和57年)に竣工し{{sfn|百年史|1994|p=517}}、開園となった。リトルワールド構想が持ち上がってから開園まで15年近い時間を要した。 その間、大阪の万博跡地利用の政策として[[国立民族学博物館]]が先に開館し、日本最初の民族学博物館とならなかったことから、テーマパーク色を濃くした「人間博物館」というコンセプトを前面に出すようになった{{efn2|メインゲート左手にある、開園時に建てられた表札「人間博物館リトルワールド」に、今も見ることができる。}}。「人間博物館」というキャッチフレーズは、のちに「野外民族博物館」と変更されている。 現在23ヶ国・33施設が展示及び内部公開されており、入園すると一日で世界一周が体験できるというのが売りものとなっている。施設は現地から移築されたものと復元されたものがあるが、復元の建物の多くは現地の職人の手によるものである。 一部の店舗では[[manaca]]が使え、更にμstarポイントが加算される。 == 現状 == 1990年代以降に新[[鳥羽水族館]](増築)・[[伊勢戦国時代村]]・[[志摩スペイン村]]等、[[ハウステンボス]]が先陣を切った「展示」を中心とした大型テーマパークが[[三重県]][[伊勢国|伊勢]]地方に台頭し、2001年の[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]]・[[東京ディズニーシー]]の開業や[[海外旅行]]の浸透などにより行楽の多様化が進んだため、旧態化した都市部のテーマパーク([[宝塚ファミリーランド]]・[[横浜ドリームランド]]等々)は、全国区で軒並み入園者が激減する局面に遭遇した。[[フランス]]や[[ドイツ]]、[[イタリア]]の家などを次々に増やして、日本人にも[[海外旅行]]でなじみの深い国々を前面に出して工夫を重ねている。 しかし、2002年に名鉄は鉄道以外の部門で不採算が拡大し、[[会計年度|当期]](2003年3月期)の中間[[決算]]が[[上場]]以来初の[[配当|無配]]となる事態が発生。これが契機となり翌[[2003年]]1月24日に経営合理化策を発表し、リトルワールドについては、園内施設を保有していた(株)リトルワールド会館の資産を名鉄が買い取り、同社は清算処理(名鉄は簿価との差額の譲受損を計上)され、同年10月よりグループ外への売却を目標に、運営主体を新設子会社の[[名鉄インプレス]]へ他のレジャー施設と共に委託し、[[内海フォレストパーク]]・[[日本ライン|日本ライン観光]]の廃業が同年中に実施された。<br /> それからわずか4日後、急遽収益の改善が見込めないとして、2005年9月の[[2005年日本国際博覧会|愛・地球博]]閉幕後を目処にリトルワールドを閉館する旨を[[朝日新聞]]が[[リーク]]して報道がなされたが、[[2005年日本国際博覧会|愛・地球博]]により、[[中京圏]]の人々に海外文化との触れ合いが見直されたこともあり、再び入園者が増える傾向にある。そのためこれまではサーカス等のイベントが集客対策だったのが、世界の料理([[2005年]]秋季は「世界の肉料理」、[[2005年]]から[[2006年]]冬季は「世界のスープ」を特集した。)や民族衣装の試着などの、愛・地球博で好評だった分野にも力を入れ始めている。 開業30周年となる[[2013年]]3月16日に、15年ぶりの新施設となる「トルコ [[イスタンブール]]の街」がオープンした。また、2016年にはリトルワールドの展示手法が[[放送大学]]の「博物館展示論」講義で紹介された。同講義はかつてリトルワールドの研究員を務め、その後に[[愛知県立大学]]教授を経て放送大学特任教授となった[[稲村哲也]]が担当した<ref>{{Cite book|和書 |title=博物館展示論 (新訂) |date=2016年3月 |publisher=放送大学 |author-link=稲村哲也 |isbn=978-4595316135 |series=放送大学教材}}</ref>。 [[2019年]]3月9日には「[[タイ王国|タイ]]エリア」がオープンしている。 == 交通アクセス == [[名古屋鉄道|名鉄]][[名鉄犬山線|犬山線]]・[[名鉄小牧線|小牧線]]・[[名鉄広見線|広見線]][[犬山駅]]東口から[[岐阜乗合自動車|岐阜バス]] 約20分 : 廃止された[[名鉄バス]]路線を2006年12月に同社が引き継いだもの。1時間に2本程度走っている。犬山駅からノンストップで運行される便と、[[日本モンキーパーク]]を経由する便が存在する。リトルワールド休園日にはノンストップ便が運行されず、日本モンキーパークを経由する便は日本モンキーパーク発着となる。なお、かつては1日1往復だけ途中の今井丸山にも停車していた他、そのさらに前は明治村や[[西可児駅]]へ向かう路線も存在した。 [[名鉄バスセンター]]・栄[[オアシス21]]から[[東濃鉄道|東鉄バス]]による都市間[[高速バス]]西可児〜名古屋線(可児車庫行き)名鉄バスセンターから約1時間。バス停「リトルワールド」下車すぐ、「成沢リトルワールド口」から徒歩約15分。 距離的には名鉄広見線[[善師野駅]]が最も近いが、徒歩で50分以上かかるためアクセスは困難。自家用車なら、[[中央自動車道]][[小牧東インターチェンジ|小牧東IC]]経由[[尾張パークウェイ]](2008年に無料開放)の今井ICが最も近い。または[[多治見インターチェンジ]]から[[国道248号]]経由で約20分。国道41号からの場合、清水ICから尾張パークウェイ利用となる。 == ギャラリー == === 主な屋外展示 === <gallery mode="packed"> ファイル:Little world6.JPG|[[沖永良部島]]の高倉 ファイル:Little world8.JPG|[[石垣島]]の家 ファイル:Little world9.JPG|[[北海道]] [[アイヌ]]の家 ファイル:Little world10.JPG|[[台湾]]の農家 ファイル:Little world11.JPG|[[ペルー]] 大農園領主の家 ファイル:Little world12.JPG|[[アラスカ]] [[トリンギット]]の家 ファイル:Little world13.JPG|[[インドネシア]] [[バリ島]]貴族の家 ファイル:Little world14.JPG|インドネシア [[バタック人|トバ・バタック]]の家 ファイル:Little world15.JPG|[[ドイツ]] [[バイエルン州]]の村 ファイル:Little world2.JPG|[[フランス]] [[アルザス地域圏|アルザス地方]]の家 ファイル:Little world16.JPG|[[イタリア]] [[アルベロベッロのトゥルッリ|アルベロベッロの家]] ファイル:Little world17.JPG|[[南部アフリカ|南アフリカ]] ンデベレの家 ファイル:Little world18.JPG|[[西アフリカ]] カッセーナの家 ファイル:Little world19.JPG|[[ネパール]]の仏教寺院 ファイル:Little world20.JPG|[[インド]] [[ケーララ州]]の村 ファイル:Little world21.JPG|[[トルコ]] イスタンブールの街(イスラーム学院) ファイル:Little world22.JPG|[[大韓民国|韓国]] [[両班]]の家 ファイル:Little world23.JPG|[[月山]] 山麓の家 </gallery> === 主な屋内展示 === <gallery mode="packed"> ファイル:Honkantenji.jpg|本館展示室 ファイル:Little world, Aichi prefecture - Main exhibition hall - Abacus.jpg|[[そろばん]]([[中国]]・[[香港]]) ファイル:Little world, Aichi prefecture - Main exhibition hall - Costume of Bedouin.jpg|[[ベドウィン]]の衣装([[シリア]]) ファイル:Little world, Aichi prefecture - Main exhibition hall - Dowry in India - Groom and bride - Gujarat, India.jpg|インドの新郎新婦([[グジャラート州]]) ファイル:Little world, Aichi prefecture - Main exhibition hall - Official with a cane - Quechua people in Perú.jpg|杖を持つ役人(ペルー・[[ケチュア|ケチュア族]]) ファイル:Little world, Aichi prefecture - Main exhibition hall - Scene of Balinese Wedding Ritual.jpg|バリ島の結婚式 ファイル:Little world, Aichi prefecture - Main exhibition hall - Garuda - Hindu Holy Bird - Bali in Indonesia.jpg|[[ガルダ]](インドネシア) |[[サン人|ブッシュマン]]の生活(模型) ファイル:Little world, Aichi prefecture - Main exhibition hall - Diablada in Bolivia.jpg|[[ボリビア]]のディアブラーダ(カーニバル) </gallery> === その他 === <gallery mode="packed"> File:Little world4.JPG|本館 File:Little world7.JPG|園内運行のバス File:Little world5.JPG|[[トゥクトゥク]] File:Little world24.JPG|ドイツの土産物屋(玩具) File:Little world25.JPG|ドイツの土産物屋(食品) File:Little world26.JPG|フランスのテイクアウト File:Little world27.JPG|フランスのワインとチーズの店 File:Little world28.JPG|アフリカンプラザ File:Little world29.JPG|アフリカの民族衣装の展示 File:Little world30.JPG|リトルワールドバザール </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{cite book|和書|editor=名古屋鉄道|title=名古屋鉄道百年史|publisher=名古屋鉄道|date=1994年|ref={{sfnref|百年史|1994}}}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|民俗学|[[画像:WLM logo-2.svg|34px|Portal:民俗学]]}} * [[東武ワールドスクウェア]]([[東日本]]地域では唯一、世界的建造物の模型を屋外展示をしている施設) * [[西部警察 PART-II]] - [[日本全国縦断ロケ]] ** [[日本全国縦断ロケ#第4弾:名古屋|名古屋ロケ]]に開業前の同所が登場している。 * [[ユネスコ村]] - 当所と同様に各国の建築物を屋外展示していた。[[1990年]]閉園。 * [[博物館明治村]] - 同じ犬山市にある名鉄インプレスが運営する施設。 * [[日本モンキーパーク]] - 同上。 == 外部リンク == {{commons category|Little world}} {{osm box|w|243023740}} * [http://www.littleworld.jp/ 野外民族博物館 リトルワールド] * [http://www.littleworld.jp/m/ リトルワールド公式(携帯サイト)] * {{Facebook|野外民族博物館リトルワールド-472271932895220|野外民族博物館リトルワールド}} * {{YouTube|user=littleworldthemuseum}} {{日本のテーマパーク}} {{名鉄グループ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りとるわあると}} [[Category:日本のテーマパーク]] [[Category:名鉄グループ]] [[Category:犬山市の博物館]] [[Category:日本の住宅の歴史]] [[Category:日本の民族誌博物館]] [[Category:人類学博物館]] [[Category:1983年竣工の日本の建築物]] [[Category:1983年開設の博物館]] [[Category:日本の野外博物館]] [[Category:県境]]
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四法印
四法印(しほういん)は、諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静をまとめた教え。一切皆苦は一切行苦、あるいは一切諸行皆悉是苦とも言われる。
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四法印(しほういん)は、諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静をまとめた教え。一切皆苦は一切行苦、あるいは一切諸行皆悉是苦とも言われる。 諸行無常 すべての物事は常ならざるものである。 諸法無我 すべての物事は我ならざるものである。 一切皆苦 この世のすべては苦しみである。 涅槃寂静 涅槃は安らぎの境地である。
'''四法印'''(しほういん)は、[[諸行無常]]・[[諸法無我]]・[[一切皆苦]]・[[涅槃寂静]]をまとめた教え{{refnest|name="四法印_新纂浄土宗大辞典"|石田一裕[http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E6%B3%95%E5%8D%B0 「四法印」 - 新纂浄土宗大辞典]}}。一切皆苦は一切行苦、あるいは一切諸行皆悉是苦とも言われる{{refnest|name="四法印_新纂浄土宗大辞典"}}。 # 諸行無常 #: すべての物事は常ならざるものである。 # 諸法無我 #: すべての物事は{{読み仮名|我|が}}ならざるものである。 # 一切皆苦 #: この世のすべては苦しみである。 # 涅槃寂静 #: 涅槃は安らぎの境地である。 == 一切行苦 == {{節スタブ}} {{main|一切皆苦}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[三法印]] {{Buddhism-stub}} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:しほういん}} [[Category:仏教哲学の概念]] [[Category:仏教の名数4|ほういん]]
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マリオン・ジマー・ブラッドリー
マリオン・ジマー・ブラッドリー(Marion Zimmer Bradley、1930年6月3日 - 1999年9月25日)は、アメリカの小説家、SF作家、ファンタジー作家、編集者。 歴史上の伝説に題材を採り女性主人公の視点から描くことで、男性本位や西欧キリスト教的な歴史通念・世界観とは異なる視点を提供する作品を書いていることで知られる。 代表作に『ダーコーヴァ年代記』『アヴァロンの霧』など。『アヴァロンの霧』でローカス賞ファンタジーノベル部門を受賞している。編集者でもあり、Marion Zimmer Bradley's Fantasy Magazineの編集などに携わった。 日本ではその多くが創元推理文庫またはハヤカワ文庫から刊行されているが、2019年現在その多くが絶版となっている。 死後の2014年、英大衆紙ガーディアン紙上でブラッドリーの実娘らによる性的虐待の告発が行われた。ブラッドリーの夫、Walter H. BreenはSFファンダムの出身で、ファンダムにおける同性愛・男色ネタの擁護活動で知られていたが、1954年以降数々の児童性的虐待歴があった。これは1960年代のファンダムにおいてスキャンダルとなった事があったが、ブラッドリーはそれを知っており、彼を擁護する立場を取っていた。両名は1964年に結婚した。Breenは1990年に13歳の少年に対する罪で10年の実刑、最終的に1993年に獄中で死去した。 3歳から12歳まで虐待を受けた実娘の告発によると、ブラッドリーは娘が父から受ける性的虐待を不問としたばかりでなく、「マリオンによる虐待はもっと酷く、彼女は冷酷で暴力的だった。彼女の性的志向は完全にイカれていたし、私以外にも被害者はいた」が「私の人生よりも彼女のフェミニスト作家としての名声、またファンの安寧は重要で、それらを傷付けたくなかったため今まで口を開かなった」と事であった。 これにはSF作家のコミュニティからも多くの非難が寄せられ、彼女の名声は大きく傷つけられる事となった。これを受けた出版各社は相次いで、以後の彼女の作品の電子版の売り上げ等から関連団体への寄付を行うとの声明を出した。 地球から遠く離れた惑星ダーコーヴァ ("Darkover") に不時着した人類と、そこに生まれた独自の文化の形成と崩壊を描く大河ドラマ的SF小説。『どちらかと言えばファンタジー』という評価もある。下記リストの他に、ブラッドリー自身の著作を含むアンソロジーが多数発表されている。 アーサー王伝説をベースに、『妖精のモーゲン』の視点から物語を見つめ直したフェミニズムファンタジー小説。女性中心の土着信仰、新しい信仰に侵蝕されていく古い世界、と言う作者独特のモチーフを、地球上の伝承に題材を採ることでより明確に表現した作品。 トロイアの王の娘にして古代信仰の巫女、そしてアポロンの巫女でもある、王女カッサンドラーの半生と、トロイア戦争の終焉までを描くファンタジー小説。トロイ戦争の顛末と、女性主導の古代の大地信仰が失われていく様を描く。
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マリオン・ジマー・ブラッドリーは、アメリカの小説家、SF作家、ファンタジー作家、編集者。
'''マリオン・ジマー・ブラッドリー'''(''Marion Zimmer Bradley''、[[1930年]][[6月3日]] - [[1999年]][[9月25日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[小説家]]、[[SF作家]]、[[ファンタジー]]作家、[[編集者]]。 ==活動と評価== 歴史上の伝説に題材を採り女性主人公の視点から描くことで、男性本位や西欧[[キリスト教]]的な歴史通念・世界観とは異なる視点を提供する作品を書いていることで知られる。 代表作に『ダーコーヴァ年代記』『アヴァロンの霧』など。『アヴァロンの霧』で[[ローカス賞]]ファンタジーノベル部門を受賞している。編集者でもあり、''[[:en:Marion Zimmer Bradley's Fantasy Magazine|Marion Zimmer Bradley's Fantasy Magazine]]''の編集などに携わった。 日本ではその多くが創元推理文庫またはハヤカワ文庫から刊行されているが、2019年現在その多くが絶版となっている。 === 性的虐待疑惑 === 死後の2014年、英大衆紙[[ガーディアン]]紙上でブラッドリーの実娘らによる[[性的虐待]]の告発が行われた。ブラッドリーの夫、[[:en:Walter H. Breen|Walter H. Breen]]は[[SFファンダム]]の出身で、ファンダムにおける[[同性愛]]・[[男色]]ネタの擁護活動で知られていたが、1954年以降数々の[[児童性的虐待]]歴があった。これは1960年代のファンダムにおいてスキャンダルとなった事があったが、ブラッドリーはそれを知っており、彼を擁護する立場を取っていた<ref name="sff.net">{{cite web|archive-url=https://web.archive.org/web/20160911223846/http://www.stephengoldin.com/MZB%20Website/Marion%20Zimmer%20Bradle---Timeline.html |archive-date=September 11, 2016 |url=http://www.stephengoldin.com/MZB%20Website/Marion%20Zimmer%20Bradle---Timeline.html |work=Marion Zimmer Bradley: In Her Own Words |title=Timeline of Events |publisher=Stephen Goldin |last=Goldin |first=Stephen |authorlink=Stephen Goldin |date=1999 |accessdate=2015-07-27 |deadurl=yes |df= }}</ref>。両名は1964年に結婚した。Breenは1990年に13歳の少年に対する罪で10年の実刑、最終的に1993年に獄中で死去した。 3歳から12歳まで虐待を受けた実娘の告発によると、ブラッドリーは娘が父から受ける性的虐待を不問としたばかりでなく、「マリオンによる虐待はもっと酷く、彼女は冷酷で暴力的だった。彼女の性的志向は完全にイカれていたし、私以外にも被害者はいた」<ref>https://deirdre.net/marion-zimmer-bradley-its-worse-than-i-knew/</ref>が「私の人生よりも彼女のフェミニスト作家としての名声、またファンの安寧は重要で、それらを傷付けたくなかったため今まで口を開かなった」<ref name="Flood">{{cite web|last=Flood|first=Alison|date=June 27, 2014|url=https://www.theguardian.com/books/2014/jun/27/sff-community-marion-zimmer-bradley-daughter-accuses-abuse|publisher=[[The Guardian]]|accessdate=June 27, 2014|title=SFF community reeling after Marion Zimmer Bradley's daughter accuses her of abuse}}</ref>と事であった。 これにはSF作家のコミュニティからも多くの非難が寄せられ、彼女の名声は大きく傷つけられる事となった。これを受けた出版各社は相次いで、以後の彼女の作品の電子版の売り上げ等から関連団体への寄付を行うとの声明を出した。 ==作品一覧== *『宇宙の秘密の扉』 The Door Through Space ([[久保書店QTブックス]]、1976年) ===ダーコーヴァ年代記=== 地球から遠く離れた惑星ダーコーヴァ ("Darkover") に不時着した[[人類]]と、そこに生まれた独自の[[文化_(代表的なトピック)|文化]]の形成と崩壊を描く大河ドラマ的[[サイエンス・フィクション|SF小説]]。『どちらかと言えばファンタジー』という評価もある。下記リストの他に、ブラッドリー自身の著作を含むアンソロジーが多数発表されている。 {|class="wikitable" !原題!!発表年、注!! 訳書 (邦題、出版社、訳者、出版年) |- |''The Sword of Aldones'' |1958年 |『惑星救出計画』 [[創元推理文庫]] [[東京創元社]](大森望訳、1986年) |- |''The Planet Savers'' |1962年 |『オルドーンの剣』創元推理文庫 ([[大森望]]訳、1987年) |- |''The Bloody Sun'' |1964年、1979年改稿 |『宿命の赤き太陽』創元推理文庫([[浅井修]]訳、1986年) |- |''Star of Danger'' |1965年 |『はるかなる地球帝国』創元推理文庫([[阿部敏子]]・[[内田昌之]]訳、1986年) |- |''Winds of Darkover'' |1970年 |『炎の神シャーラ』 創元推理文庫([[赤尾秀子]]訳、1987年) |- |''The World Wreckers'' |1971年 |『惑星壊滅サービス』 創元推理文庫([[中村融 (SF)|中村融]]訳、1987年) |- |''Darkover Landfall'' |1972年 |『ダーコーヴァ不時着』 創元推理文庫([[細美遥子]]・[[宇井千史]]訳、1987年) |- |''The Spell Sword'' |1974年 |『カリスタの石』 創元推理文庫(阿部敏子訳、1987年) |- |''The Heritage of Hastur'' |1975年 |『ハスターの後継者 上/下』 創元推理文庫([[古沢嘉通]]訳、1987年) |- |''The Shattered Chain'' |1976年 | (日本語訳は第一部と第二部&第三部が別タイトルで刊行されている。) *『ドライ・タウンの虜囚』 - 創元推理文庫([[中原尚哉]]訳、1987年) *『ヘラーズの冬』 - 創元推理文庫([[ひかわ玲子|氷川玲子]]・宇井千史訳、1987年) |- |''The Forbidden Tower'' |1977年 |『禁断の塔 上/下』- 創元推理文庫(浅井修訳、1988年) |- |''Stormqueen'' |1978年 |『ストームクイーン 上/下』 創元推理文庫(中村融・内田昌之訳、1988年) |- |''Two to Conquer'' |1980年 |『キルガードの狼 上/下』 創元推理文庫([[嶋田洋一 (翻訳家)|嶋田洋一]]訳、1988年) |- |''Sharra's Exile'' |1981年(The Sword of Aldone の改訂版) |(日本語訳は未公刊) |- |''Hawkmistress'' |1982年 |『ホークミストレス 上/下』 創元推理文庫(氷川玲子・中原尚哉訳、1988年) |- |''Thendara House'' |1983年 |(日本語訳は未公刊) |- |''City of Sorcery'' |1984年 |(日本語訳は未公刊) |- |''The Heirs of Hammerfell'' |1989年 |(日本語訳は未公刊) |- |''Rediscovery'' |1993年、Mercedes Lackeyとの共著 |(日本語訳は未公刊) |- |Exile's Song |1996年、Adrienne Martine-Barnesとの共著 |(日本語訳は未公刊) |- |''The Shadow Matrix'' |1998年、Adrienne Martine-Barnesとの共著 |(日本語訳は未公刊) |- |''Traitor's Sun'' |1999年、Adrienne Martine-Barnesの著作 |(日本語訳は未公刊) |- |''Fall of Neskaya'' |2001年、Marion Zimmer Bradley, Deborah J. Ross |(日本語訳は未公刊) |- |''Zandru's Forge'' |2003年、Marion Zimmer Bradley, Deborah J. Ross |(日本語訳は未公刊) |- |''Flame in Hali'' |2004年、Marion Zimmer Bradley, Deborah J. Ross |(日本語訳は未公刊) |- |''The Alton Gift'' |2007年、Marion Zimmer Bradley, Deborah J. Ross |(日本語訳は未公刊) |- |''Falcons of Narabedla'' |外伝(世界観を共有する作品) |『ナラベドラの鷹』 創元推理文庫(宇川真実子訳、1987年) |- |''The Door Through Space'' |外伝(世界観を共有する作品) |『時空の扉を抜けて』 創元推理文庫(山本圭一訳、1987年) |} ===アヴァロンの霧=== {{main|アヴァロンの霧}} [[アーサー王伝説]]をベースに、『[[モーガン・ル・フェイ|妖精のモーゲン]]』の視点から物語を見つめ直した[[フェミニズム]]ファンタジー小説。女性中心の土着信仰、新しい信仰に侵蝕されていく古い世界、と言う作者独特のモチーフを、地球上の伝承に題材を採ることでより明確に表現した作品。 #『異教の女王』 - [[ハヤカワ文庫]]([[早川書房]](以下同じ)、岩原明子訳、1988年) #『宗主の妃』 - ハヤカワ文庫(岩原明子訳、1988年) #『牡鹿王』 - ハヤカワ文庫(岩原明子訳、1988年) #『円卓の騎士』 - ハヤカワ文庫(岩原明子訳、1989年) ===ファイアーブランド=== {{main|ファイアーブランド}} [[イリオス|トロイア]]の王の娘にして古代信仰の巫女、そしてアポロンの巫女でもある、王女[[カッサンドラ|カッサンドラー]]の半生と、[[トロイア戦争]]の終焉までを描くファンタジー小説。トロイ戦争の顛末と、女性主導の古代の大地信仰が失われていく様を描く。 #『太陽神の乙女』 - ハヤカワ文庫(岩原明子訳、1991年) #『アプロディーテーの贈物』 - ハヤカワ文庫(岩原明子訳、1991年) #『ポセイドーンの審判』 - ハヤカワ文庫(岩原明子訳、1991年) ===聖なる森の家=== {{main|聖なる森の家}} #『白き手の巫女』 - ハヤカワ文庫(岩原明子訳、1994年) #『竜と鷲の絆』 - ハヤカワ文庫(岩原明子訳、1994年) #『希望と栄光の王国』 - ハヤカワ文庫(岩原明子訳、1995年) ==脚注== {{reflist}} ==外部リンク== *[http://www.mzbfm.com/ Marion Zimmer Bradley Literary Works Trust -マリオン・ジマー・ブラッドリー 公式サイト-] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふらつとり まりおんしま}} [[Category:20世紀アメリカ合衆国の女性著作家]] [[Category:20世紀アメリカ合衆国の小説家]] [[Category:アメリカ合衆国の女性小説家]] [[Category:アメリカ合衆国のSF作家]] [[Category:アメリカ合衆国のファンタジー作家]] [[Category:アメリカ合衆国のフェミニスト]] [[Category:アメリカ合衆国のフェミニスト・ライター]] [[Category:アメリカ合衆国出身のLGBTの著作家]] [[Category:SFとファンタジーの女性著作家]] [[Category:女性官能小説家]] [[Category:LGBTの小説家]] [[Category:フェミニストアーティスト]] [[Category:クリスチャン・フェミニスト]] [[Category:レズビアンの著作家]] [[Category:ニューヨーク州オールバニ出身の人物]] [[Category:1930年生]] [[Category:1999年没]]
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キューバ
キューバ共和国(キューバきょうわこく、西: República de Cuba)/レプブリカ・デ・クバ/、通称キューバは、カリブ海の大アンティル諸島(西インド諸島の一部)に位置する共和制国家。首都はハバナ。人口は10,985,974人 (2023年現在) 。 キューバ共産党による一党独裁体制が敷かれている。政治思想としてはマルクス・レーニン主義(ソ連のスターリンが考案)とホセ・マルティ思想を採用している。 1492年にコロンブスがキューバに来島し、1511年にスペインに征服された。1898年の米西戦争のスペインの敗戦でアメリカ合衆国の軍政下に入り、1902年に独立したが、1934年まではプラット修正条項に基づき事実上アメリカの保護国だった。その後も親米政権バティスタ政権のもとアメリカの影響下にあったが、1959年のキューバ革命でソビエト連邦の影響下の社会主義国に転換された。 政治体制は、1961年に革命前に存在した全ての政党が解散させられ、新党結成も禁止されて以降、キューバ共産党による一党独裁体制が敷かれている。そのため多党制に基づく議員選挙や大統領選挙は存在しない。革命を指導したフィデル・カストロによる統治が革命以来2008年までの長期にわたって続いた。エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、世界143位と後順位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)。また国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも171位と後順位であり、最も深刻な国の一つに分類されている(2020年度)。 人権状況についてヒューマン・ライツ・ウォッチは、政府が反対意見を抑圧するため、日常的に批評家や活動家、抗議者などを恣意的に拘禁していることを指摘している。 外交面では革命直後にアメリカ資本企業を国有化したことを発端に1961年にアメリカとの関係が途絶。以降アメリカから制裁を課されて対立関係となった。1962年にはソ連の中距離ミサイルが持ち込まれ、アメリカが海上封鎖を実行してソ連に断念させた「キューバ危機」が発生している。ベネズエラなどラテンアメリカ地域の反米左派政権との関係を密にしており、アメリカからは1982年以来テロ支援国家に指定されていたが、2015年にはバラク・オバマ政権下のアメリカと国交回復した。その影響で一時テロ支援国家から外されたが、ドナルド・トランプ政権下で再度テロ支援国家に指定された。 経済面はサトウキビ栽培を中心とする農業国であり、製糖業が行われ、輸出の半分以上を砂糖が占めているが、輸出入の60%以上を頼っていたソ連が1990年に崩壊したことで経済的苦境に立ち、在外キューバ人の送金などが経済を支えている。アメリカとの国交回復で在米キューバ人のドル送金の大幅緩和を受けることに成功し、またソ連崩壊以来疎遠になっていたロシアや中国との結びつきも強め、巨額の経済援助を受けている。 軍事面では徴兵制が採用されており、4万9000人の兵力を持つ。軍事予算額は不明。 人口は国連によれば約1125.6万人(2022年7月現在)。先住民のインディオはスペイン統治時代の初期のうちにほぼ絶滅し、代わりの労働力として導入されたアフリカ黒人奴隷の子孫が混血も含めて今日のキューバ住民の約30%を占め、残りは大部分がスペイン系白人である。他に中国人を中心としたアジア系住民も少数暮らしている。公用語はスペイン語。宗教はカトリックが大半を占める。教会は「反革命活動」をしないことを条件に存続が許されている状況にある。 地理としては西インド諸島最大の島キューバ島とその属島からなり、総面積は10万9884平方キロメートル。キューバ島は東西に細長く、大部分が平地と緩やかな起伏のある丘陵地からなっており、島の四分の一を占める山地は各地に散在し、南東端のシエラ・マエストラ山脈中に同国最高峰のトゥルキーノ山(2005m)がある。ウィンドワード海峡を隔てて東にはイスパニョーラ島のハイチとドミニカ共和国が、南には英領ケイマン諸島とジャマイカが存在する。西はユカタン海峡を挟んでメキシコのユカタン半島と、北はフロリダ海峡を隔てて北に145キロ先のアメリカ合衆国フロリダ州(フロリダ半島)と向かい合う。北東にはバハマや英領タークス・カイコス諸島が存在する。 正式名称はスペイン語でRepública de Cuba。通称Cuba。[ˈkuba] ( 音声ファイル) 公式の英語表記はRepublic of Cuba。通称Cuba。[ˈkjuːbə] ( 音声ファイル) 日本語の表記は、キューバ共和国。通称、キューバ。スペイン語の原音に近い「クーバ」と呼ぶ人もいる。漢字による当て字は、玖馬、玖瑪、久場、古巴など。中華人民共和国においては「古巴(Gǔbā)」と表記している。 国名は、カリブ海最大の島であるキューバ島からきており、「中心地」という意味のインディオ(タイノ族)の言葉であるクバナカン が由来であるとされている。 ヨーロッパ人の到来する以前のキューバには、南アメリカのギアナ地方から海を渡ってきたアラワク族系のタイノ族や、シボネイ族、カリブ族と呼ばれる先住民が暮らしていた。 1492年10月27日、キューバ島はクリストファー・コロンブスの第一次航海でヨーロッパ人に「発見」され、スペイン人による征服が始まった。キューバの住民はインドに到達したと思ったコロンブスによって「インディオ」(インド人)と呼ばれた。インディオたちは、スペイン人に支配されたイスパニョーラ島から逃れてきたアトゥエイに指導されてスペイン人への抵抗を続けたが、1511年、スペインのベラスケスが率いる遠征隊によって征服された。その後も散発的な抵抗が続いたが、植民地化が進むにつれてスペイン人による虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされる。 スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷貿易を盛んにした。インディオの悲劇とは別に、キューバはスペインと中南米の中継地点として著しく発展を遂げた。ハバナは、メキシコ市やリマに続くスペイン領アメリカ植民地第3の都市となり、大学や要塞が建設された。スペインによる開発は技術面で緩慢だった。 19世紀初め、シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン・マルティン、ミゲル・イダルゴらの活躍により、大陸部のスペイン植民地はすでに独立していたが、キューバではそのように新たに独立した国から旧王党派が亡命し、スペイン本国はフィリピン、プエルトリコなどとともにわずかに残った最後の植民地キューバを決して手放すまいとして、キューバの駐留スペイン軍を強化した。 また、隣のイスパニョーラ島西部のフランス領サン=ドマングがハイチとして独立したあと、王政や帝政への移行を繰り返して迷走し、ひどい混乱状態に陥っている様子が伝わってきた。このようなさまざまな事情が積み重なり、砂糖プランターだったクリオーリョ支配層はこの時期には独立を望まなくなっていた。 その後、サン=ドマングから逃げてきたフランス人農園主の技術が導入され、キューバでも大規模な奴隷制砂糖プランテーションが発達し、1840年代には世界最大の砂糖生産地となった。また、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると、砂糖に加えて葉巻の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、1830年代からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバのアメリカ合衆国編入を目指す運動も起きた(こうした動きはエル=サルバドルやドミニカ共和国にもあった)。 最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めたカルロス・マヌエル・デ・セスペデスにより1868年に始められた。これは第一次キューバ独立戦争として知られ、10年あまりにわたって続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦した。しかし、ムラートのアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを留めることはできなかった。 1892年、ホセ・マルティをはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国のニューヨークを拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から第二次キューバ独立戦争が再発した。マルティは同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまできた。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫った1898年2月15日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦メイン号がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして同年にスペイン・アメリカ・キューバ戦争が勃発すると、アメリカ軍は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。 1898年に締結されたパリ条約によってスペインの敗戦が決まると、スペイン植民地だったフィリピン、グアム、プエルトリコは割譲されてアメリカの植民地となり、キューバでは降伏したスペイン軍と結んだアメリカ軍により軍政が敷かれた。 1902年5月20日にキューバ共和国は独立を達成した。400年に及ぶスペイン支配から解放されたかに見えたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法の制定に際して、アメリカ合衆国議会はプラット修正条項(Platt Amendment)を要求した。これにより、キューバはアメリカの内政干渉権を認め、グァンタナモとバイア・オンダの2か所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国となった。なおアメリカは1903年にグァンタナモ湾を永久租借した契約を盾に、1959年の革命政権の誕生後も今日に至るまで、グアンタナモにアメリカ海軍の基地を置き続けている。 「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、製糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、早くも1906年に反乱として表面化し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に置かれた。反乱は1912年、1916年にも発生し、アメリカが介入する事態となった。キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。アメリカはやむなくプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなどした。 不安定な政治状況は、1933年から政治の主役を演じていたムラートのフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)軍曹が、1936年に政権の実権を握ったことで一定の安定を見せ、キューバ政府が社会経済の改革計画を実行できるまでになった。そして、1940年になると、バティスタの大統領就任と新憲法の公布により、ようやくキューバでは政治的緊張が緩和された。1944年の総選挙でバティスタが敗北したあと、キューバは国際連合設立(1945年)や米州機構設立(1948年)に参加した。しかし一方で、国内では砂糖の国際価格の不安定化とインフレ問題が重要課題として浮上し、政府が有効対策をとれなかったことで、社会不安が拡大した。 1952年にバティスタはクーデターで政権を奪取し、憲法を停止したうえで独裁政治を開始した。2度目のバティスタ政権は1度目とは違い、腐敗、弾圧、独裁が続いた。 1953年7月26日に、このようなアメリカによる半植民地状態の克服を夢見て、弁護士フィデル・カストロ率いる青年たちが蜂起(モンカダ兵営襲撃)したが失敗に終わり、関係者は投獄された。1954年にバティスタは形式のみの信任選挙で再選を果たし、1955年の大統領就任と同時に憲法に基づく統治を復活させ、フィデル・カストロらの政治犯に恩赦を与えた。フィデル・カストロは恩赦によって出獄すると反政府組織「7月26日運動(M26)」を結成、同志とともにメキシコに亡命した。その後、砂糖の国際価格の安定によりキューバ経済の状況は改善されたが、バティスタの独裁体制は継続され続けた。 メキシコ亡命後、フィデル・カストロらはその地でグアテマラ革命の崩壊に立ち会ったアルゼンチン人医師のエルネスト・“チェ”・ゲバラと出会い、ゲリラ戦訓練を受けたあと、1956年12月にヨット「グランマ号」に乗ってキューバに上陸した。その際、政府軍の攻撃でフィデル・カストロらは壊滅的打撃を受けたが、マエストラ山脈を拠点として政府軍へ2年あまりのゲリラ闘争を行った末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込んだ(キューバ革命)。 革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生した。その際に革命政権は発足後数週間のうちに軍事法廷で旧バティスタ政権関係者を裁き、およそ550人を処刑した。その後、2月半ばにフィデル・カストロが首相に就任すると、革命政権は一連の農地改革法を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めた。また、製糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化して、農業の集団化を実施するなど社会主義国の建設を推進した。この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命した。 バティスタ政権を失ったアメリカは、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが、1959年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。アメリカに敵視されたキューバ革命政権は、当時続いていた冷戦による米ソ対立を背景にソビエト連邦と接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。具体的には砂糖の購入や経済協力を織り込んだものとされる。 これによりアメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からのアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の進出企業を接収した。こうして、キューバ国内のアメリカ系大企業は国有化された。 1961年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、対抗措置として少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のヒロン湾(英語ではピッグス湾)に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった(ピッグス湾事件またはプラヤ・ヒロン侵攻事件)。この事件をきっかけにキューバは1959年の革命の社会主義化宣言を発し、本格的にソ連や東側諸国との結びつきを強めるようになった。 1962年2月3日、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連の弾道ミサイル基地の建設とミサイルの搬入が明らかとなり、核戦争の危機となった。アメリカは、海上封鎖で対抗した。ソビエト連邦やキューバは反発した。ソビエト連邦側からの申入れで交渉が行われ、アメリカがキューバへ侵攻しないことを条件に、ソ連がミサイルを撤去することに同意し、この危機は回避された。核戦争は回避したが、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化した。 1965年にアメリカとキューバは反体制派キューバ人のアメリカ亡命を認めることで合意し、1973年までに26万人以上がキューバを去った。1960年代のキューバは第三世界非同盟外交に基づいて世界革命を推進し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ各地に軍事顧問団を派遣した。ベトナム戦争を戦う北ベトナムや、セク・トゥーレ政権のギニア、ベン・ベラ政権のアルジェリアなどと関係を深め、コンゴ民主共和国やボリビアにはチェ・ゲバラ率いるゲリラ部隊が派遣された。1967年にゲバラがボリビアで戦死したため、『ゲリラ戦争』で主張されたマルクス・レーニン主義、チェ・ゲバラ=フィデル・カストロ路線に基づくラテンアメリカでの農村ゲリラ革命路線は失敗に終わった。ゲバラの死後のラテンアメリカ諸国の社会主義運動は、1970年のチリにおけるサルバドール・アジェンデ政権成立のように平和革命路線に移行し、キューバもそれまでの強硬路線に代えて、徐々に平和的変革を支持した。 1973年、CIAによって画策されたチリ・クーデターでアジェンデ政権が崩壊し、ラテンアメリカの平和革命路線の限界が露呈した。キューバは国内の社会主義建設を制度化するために1976年憲法を制定し、社会主義化が法制化された。内政面では医療や教育に重点を置いた国造りが、文化面では映画や美術やアフリカ系文化の復興運動が進み、外交面では多くが社会主義国として独立したアフリカの旧ポルトガル植民地や、社会主義化したエチオピアの戦争(内戦)に軍隊を派遣した。特に南部アフリカのアンゴラに対しては1975年の独立前後から軍を派遣し、アンゴラ内戦が勃発すると、内戦に介入した南アフリカのアパルトヘイト政権と戦うために最盛期には5万2,000人の兵力を派遣した。 1980年代に入り、エチオピアでのオガデン戦争とアンゴラ内戦はともに膠着状態に陥り、キューバの負担も増加した。そのためまずはエチオピアから撤退し、1988年のクイト・クアナヴァレの戦いのあと、アンゴラからも名誉ある撤退を求めて、南アフリカとの間にアメリカが提唱していたリンケージ政策を受け入れ、当時南アフリカ領だったナミビアの独立と引き換えに撤退した。またカリブ海地域では1983年、島国グレナダに軍事顧問や労働者を送って東側接近を支援したが、米軍の介入で頓挫した(グレナダ侵攻)。 冷戦が終結し、1991年にソ連が崩壊すると、それまでキューバ産砂糖とソ連製の石油をバーターで取引してきたキューバの経済構造の基盤は大打撃を受け、経済はかつてない規模の衰退に陥った。経済崩壊状態に陥ったキューバから脱出すべく、筏(バルサ)で米国フロリダ州を目指して亡命を図るバルセーロスと呼ばれる人々が増加した。亡命を希望しなかった人々の間でも1993年に米ドルの所持が解禁されたため、米ドルを持てるものと持たざる者の間に格差が生まれ、それまでの平等主義体制に亀裂が入る結果となった。 深刻な経済衰退を受けて、政府は私的所有や国営企業の民営化などの経済競争の面での自由化を部分的に取り入れ、観光業の振興を軸に経済の再生を測った。民営化ではスペインなどの機関投資家を参加させた。このような政策は功を奏して、フィデル・カストロ政権は1990年代のもっとも困難な時期を乗り切り、キューバ共産党による一党制体制は維持されたものの、他方で1990年代を通して土地の私的所有や宗教信仰の自由などを認める各種の自由化が進んだ。この中には1995年制定の外国投資法もあった(2014年改正)。 2000年代にかけてキューバは中華人民共和国との関係を深めた。また、ベネズエラのウゴ・チャベス政権とは石油などにおける資源ナショナリズムを共有し、外交姿勢は社会主義を堅持している。 アメリカ合衆国下院は2003年9月9日、アメリカ人のキューバ訪問禁止解除の法案を可決(今回で4度目の可決、賛成227、反対188)。10月23日には上院も同趣旨の法案を可決(賛成59、反対38)。いずれもジョージ・W・ブッシュ大統領の所属する共和党主導で行われた。11月6日、アメリカ合衆国上院はさらに外交委員会で渡航禁止解除を決議した。ブッシュ政権は2004年の大統領選に向け、大票田であるフロリダ州のキューバ系アメリカ人票をつなぎ止めるため、上下両院で可決された法案に対し拒否権発動の姿勢を崩さなかった。キューバとの通商はフィデル・カストロを利するだけで、一般のキューバ人への利益にはならないとした。 国際連合総会では1992年以来連続でアメリカに対してキューバに対する国交断絶と経済制裁を終了し、外交・経済関係を回復するよう求める決議案が提出され、採決の結果は毎年、アメリカとイスラエルが反対、パラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島は棄権、それ以外の国はすべて賛成で可決されてきた。特に2015年には史上最多の191国が決議に賛成した(従来棄権していた太平洋の島嶼諸国も賛成に回り、反対票はアメリカとイスラエルのみ)。 2006年7月31日、フィデル・カストロ国家評議会議長は声明を出し、7月後半のアルゼンチン外遊の多忙な日程の影響で腸に急性の問題が発生、出血が続いているため、外科手術を受けたと発表した。そして権限を数週間、弟のラウル国家評議会第一副議長兼国防相に委譲したことを明らかにした。声明は秘書官が読み上げ、国営テレビ・ラジオで伝えた。2006年8月3日、アメリカのブッシュ大統領はフィデル・カストロ声明に便乗して、「われわれは民主主義を約束するキューバの移行政権を樹立する努力を支持する」と「政権転覆」を呼びかける声明を出した。 2007年5月、米テキサス州エル・パソの連邦地裁が、クバーナ航空455便爆破事件に関与した反革命傭兵軍のルイス・ポサダ・カリレスを釈放し、キューバの雪解けは国際政策となった。 2008年2月19日、フィデル・カストロは国家評議会議長(国家元首)と閣僚評議会議長(首相)、軍最高司令官の退任を正式に表明した。2月24日、人民権力全国会議(国会)が招集され、国家評議会議長に弟のラウルが選出された。ラウルは就任早々、規制緩和を次々打ち出し、一般国民の携帯電話所持やホテル宿泊、家電製品購入などが自由にできるようになった。2008年4月28日、ラウル・カストロ国家評議会議長は、第6回中央委員会総会で、第6回党大会を来年度後半に開くことを提案した。大会開催は1997年10月以来12年ぶりとなる。8月19日、キューバ中央銀行が日本の化学品商社・明和産業への輸入代金の支払に発行した信用状(L/C)が期日までに決済不能に陥ったことが判明した(債務不履行)。明和産業によると債権額は約8億7,200万円であり、独立行政法人日本貿易保険が一部焦付額に保険を適用すると発表した。なお、日本貿易保険はキューバ中央銀行から「当行一行だけの問題ではなく、国全体の決済資金が不足している」との説明を受けたとしている。 アメリカのバラク・オバマ政権は従来のキューバ敵視政策を転換し、2014年に両国は国交回復交渉の開始を発表。お互いの捕虜を解放し、送金や輸出の緩和を実行した。翌2015年には54年ぶりに国交が回復され、2016年にはオバマ大統領がハバナを訪問した。 その後、2017年のドナルド・トランプ大統領就任以降、アメリカはキューバに再び厳しい姿勢を示している。 1959年のキューバ革命以後、アメリカから軍事侵攻(プラヤ・ヒロン侵攻事件)、政権転覆工作(「キューバ計画」)、カストロ暗殺工作などの敵視政策を仕掛けられ、アメリカから2015年までは「テロ支援国家」に指定されており、国交がない状態であった。アメリカからは1962年以後、人道的措置と称する食料や医薬品を例外として経済封鎖、経済制裁が継続されている。アメリカの航空会社もチャーター便の運行はあるものの定期便は就航させていない。キューバ共和国独立翌年の1903年、アメリカはキューバ東部のグアンタナモ湾の一部を永久租借してアメリカ海軍基地を建設しており、現在もグアンタナモ米軍基地が存在する。 アメリカ政府は、カストロ政権を打倒して傀儡政権を再樹立し間接支配を復活するために、亡命キューバ人に武器と資金を供給して軍事訓練を行い、1961年4月に亡命キューバ人武装勢力をキューバに侵攻させたが作戦は失敗し、1961年4月にキューバに経済制裁・貿易封鎖を実行した。アメリカ政府はその後も1962年10月までキューバに対して武力行使を繰り返したがカストロ政権を打倒できず、アメリカ政府に政権を打倒されると危機を感じたカストロはソ連に支援を求めた。1962年10月にキューバ危機が発生し、米ソ核戦争の危機になったが、ソ連が譲歩してミサイル基地の撤去に応じて戦争は回避された。アメリカ政府はその後もカストロ政権転覆工作やカストロ暗殺工作を繰り返し、政権転覆や暗殺を恐れたカストロが、キューバと自分を守るためにケネディ大統領暗殺作戦を遂行したとの推測もある。 1980年代以降も、アメリカはキューバを1982年にテロ支援国家に指定し、1996年にはアメリカでキューバ経済制裁強化法(ヘルムズ・バートン法)が成立するなど、アメリカ・キューバ両国は長年にわたって敵対してきた(米国の対キューバ禁輸措置も参照)。 しかし、アメリカ・キューバ両国はカナダやローマ教皇フランシスコの仲介で2013年から舞台裏での交渉を開始し、2014年12月18日にはアメリカのバラク・オバマ大統領とキューバのラウル・カストロ国家評議会議長がそれぞれ演説を行い、アメリカとキューバの国交正常化に向けた交渉を開始すると発表した。以後、 と、2015年に入ってから具体的な国交正常化への歩みを進めた。 その後、米ドナルド・トランプ政権下では関係が再び冷え込んでいる。2019年3月4日、アメリカ政府は、キューバ「社会主義」政権が接収した資産に関する訴訟を、亡命キューバ人などがアメリカ国内で起こす権利を認める措置を発表した。 1999年にベネズエラでウゴ・チャベス政権が成立してからは、産油国である同国からの石油輸入とキューバからの医師派遣を軸に強固な友好関係が樹立され、2004年に両国との間で米州ボリバル代替統合構想が結成された。2000年代後半に入り、ベネズエラに続いてボリビア、エクアドル、ニカラグアで左派政権が成立するとキューバはこれら諸国と友好関係を築き、2009年6月に米州ボリバル代替統合構想が発展解消する形で米州ボリバル同盟(ALBA)が結成された。 キューバとカナダは友好関係を保っており、カナダは上述のアメリカとの国交正常化交渉開始の際にも、ローマ教皇フランシスコとともに両者の仲介を行った。 ロシアとはキューバ革命以後、ソ連時代から友好関係にあった。ソ連によるキューバへの核ミサイル配備はアメリカの反発を招き、キューバ危機(1962年)にいたった。その後、キューバはソ連から経済・軍事援助を受け、またアフリカの親ソ派の諸国・組織にキューバ兵や軍事顧問を送って支援した。 1990年代初めのソビエト連邦の崩壊による援助や優遇条件での貿易の停止・縮小はキューバを苦境に追いやったが、ロシアの国力回復と中南米政策の活発化にともない、再び関係は緊密化している。ロシアは2014年に旧ソ連時代からキューバが負っていた債務の9割を減免。2017年にはロシア国営石油会社ロスネフチがキューバへの原油輸出を再開したほか、300台以上の自動車「ラーダ」や75台以上の鉄道機関車の輸出も決まった。国営ロシア鉄道によるキューバ国内鉄道の近代化・延伸も協議されている。 日本とは1929年(昭和4年)12月21日に国交を樹立した。1941年(昭和16年)12月9日、太平洋戦争の勃発にともないアメリカに続いて対日宣戦布告し、国交を断絶した。戦後の1952年(昭和27年)11月、サンフランシスコ講和条約締結にともない国交回復。1960年(昭和35年)に通商協定を締結、1961年(昭和36年)に発効。1898年(明治38年)以降、日本人移民がキューバに定住、1999年(平成11年)時点の概数で日系人は800人である。 日本は資本主義体制をとり日米同盟を維持しているが、キューバに対しては地理的・政治的な利害関係を持たず、また長らく最高指導者であったフィデル・カストロが親日家であることもあり、音楽やスポーツを通じた民間交流も盛んである。2012年(平成24年)11月には福岡 Yahoo! JAPANドームと札幌ドームにおいて野球日本代表とキューバ代表による国際親善試合が行われた。そのため、両国関係は政治・経済の両面で良好であり、1989年(昭和64年・平成元年)の昭和天皇崩御の際には喪に服した。また、1997年(平成9年)に発生した在ペルー日本大使公邸占拠事件では、日本政府の要請に対し、キューバがトゥパク・アマルー革命運動(MRTA)のゲリラの亡命受け入れを受諾した。キューバは日本人が観光目的で入国する際にビザ免除を認めている(ただし、事前に大使館、もしくは出発当日の空港でツーリスト・カードを購入する必要がある)。 キューバ革命以後、反米政策を共通とする北朝鮮とキューバは友好的な関係を保っている。キューバ政府は北朝鮮との友好関係を考慮し、韓国と国交を結んでいない。 冷戦時代のキューバは1960年代の中ソ対立の中でソ連側についたこともあり、1966年に中国と関係がほぼ断絶した。アンゴラ内戦ではキューバは米中の影響力排除を目的に派兵した。1979年、フィデル・カストロは中国が中越戦争で同じ共産圏のベトナムを攻撃し、キューバに敵対的で南米の親米反共諸国とのコンドル作戦を主導しているチリのアウグスト・ピノチェト政権なども支援していることを批判した。冷戦が緩和した1987年に中国とキューバは関係を正常化した。 キューバは革命以来、アメリカ合衆国の侵攻を防ぐために旧東側諸国の装備で重武装しており、現在では4万9,000人ほどの現役兵が常備兵として活動している。そのほか民兵組織などもある。 最高司令官は大統領が兼任。徴兵制度が存在し、17 - 45歳の男子が2年間兵役に服する。国防予算は約7億ドル(2000年)。正規軍であるキューバ革命軍の兵力は、陸軍兵力3万8,000人、海軍兵力3,000人、空軍兵力8,000人。兵器はほとんどがソ連製。正規軍のほか、青年労働軍(6万5,000人)、地方民兵隊(約100万人)などの民兵が存在する(数値はすべて2007年のもの)。 キューバの国土は長さ1,250キロで、キューバ島(本島)、「青年の島」(旧ピノス島)、および1,600あまりの小島と多島海からなる広大な群島によって構成されている。 キューバは、フロリダ半島の南145キロ、ユカタン半島の東210キロに位置し、カリブ海および大西洋とメキシコ湾を結ぶユカタン海峡およびフロリダ海峡を、国土の西部と北部が押さえる要衝にある。国土の東部は、大西洋とカリブ海を結ぶウィンドワード海峡によってイスパニョーラ島と隔てられ、北東部はニコラス海峡、オールドバハマ海峡によってバハマ諸島と隔てられ、南にはジャマイカ島とケイマン諸島がある。 キューバの国土は南北アメリカ大陸、ヨーロッパとの間を結ぶ航路と接し、交易を行ううえで恵まれた位置関係にある。そのため、キューバは古くから通商の要衝として経済的に栄え、かつては「メキシコ湾の真珠」とも呼ばれた。現在、キューバの周辺には、北から時計回りの順に、アメリカ、バハマ、英領タークス・カイコス諸島、ハイチ、ジャマイカ、イギリス領ケイマン諸島、メキシコが存在している。 キューバの本島であるキューバ島 は、西インド諸島に属するカリブ海で最大の島である。コロンブスの同島「発見」時にはスペイン王国の王族にちなんでフアナ島 と命名されたが、のちにキューバの呼び名が一般化し現在にいたっている(キューバの由来は国名参照)。島の南西には、キューバでキューバ島に次ぐ大きさを持つ「青年の島」が浮かんでいる。 キューバ島の長さは、西端のサン・アントニオ岬から東端のマイシ岬まで約1,225キロ、南北の距離は最大250キロから最小35キロで平均値は80キロと、東西に細長い形状をしている。島の4分の1は山岳地帯となっているが、山地が島の全域に散在していることから、島に山塊はない。主要山岳地帯としては、西部にオルガノス山脈(標高914メートル)、中央部にトリニダー山脈(標高1,200メートル)、南東部にマエストラ山脈という3つの異なる山系がある。 東方山系であるマエストラ山脈は、クルス岬からマイシ岬まで南海岸に沿いながら、250キロに及んで連なっている。ほかの山系と比べると一番長く複雜で、この山脈に属する標高2,005メートルのトゥルキーノ山は、キューバの最高峰としてそびえている。南方斜面が急な断崖をなす一方で北方斜面は緩慢で、北方海岸につながる山地との間にはカウト川流域の中央低地が発達しており、キューバの主要な農業地域に数えられている。中央部山系であるトリニダー山地は、高度が低く多くの山地群で形成されており、銅・マンガン・ニッケル・クロム・鉄鉱石・タングステンなど、地下資源が豊富に埋蔵されている。西部山系であるオルガノス山脈はカルスト地形で、険しい石灰岩の山地・洞窟などが多く、ハバナ付近のコティジャ洞窟が著名である。周辺の丘陵地は、石灰岩の風化土であるマタンサス土壌 で覆われており、肥沃で排水がよく栽植農業地として的合である。 東部と中部、そして西部の山岳地を除けば、島の大部分は200メートル以下のなだらかな起伏の丘陵地や平野であり、土壌も大半は肥沃で、大規模な機械化農業の生産にも適した土地となっている。しかし、その地形により島には水量の豊かな長い川が存在せず、200以上の河川の大半は急流をなす小さな川であるために、船舶の航行はできない。主要河川は、島の南東部を流れるカウト川(全長240キロ)であり、マエストラ山脈を水源とし、グァンタナモ湾に流れ込む。この川はキューバでもっとも長い川であり、下流の約100キロは航行が可能な大きさである。また、重要な内陸水路として水力発電にも利用されている。 島は長くて狭く、複雑で入り組んだ海岸線は全長3,735キロにもなる。海岸には約7万km2の大陸棚があり、海岸線には入江、湾、砂州やマングローブ林、サンゴ礁、湿地、大小の岬、半島が多様な景観を造成し、多くの湾が天然の良港となっている。主要な港は北海岸にハバナ、マタンサス、カルデナス、バイアオンダ、ヌエビタスがあり、南海岸にグァンタナモ、サンティアゴ・デ・クーバ、シエンフエゴス、トリニダーがある。特に、ハバナ港は良港として知られ、通商によって栄えた歴史がある。またグァンタナモ湾は、1903年以降現在にいたるまでアメリカのグァンタナモ米軍基地(南方軍管轄)が存在することで知られている。 キューバの気候は亜熱帯気候かつ海洋性気候で、ケッペンの気候区分では典型的な熱帯性サバナ気候に属する。年間の平均気温は摂氏25.5度、夏の平均気温は27度、冬の平均気温は21度であり、夏には東風・南東の貿易風、冬には北東の貿易風が吹く。夏には気温のみならず、湿度も80%前後にまで上昇する。しかし、北東の貿易風が吹くため、気温は和らぎ比較的しのぎやすい環境となる。冬には平均気温が20度近くまで下がるが、それでも日中は気温が30度以上になる。 気温の較差がわずかなため、季節的な気候変化はおもに降水量によって左右される。乾期は11月から4月、雨期は5月から10月である。年平均降水量は約1,400ミリだが、トリニダー山地から「青年の島」にかけての地域では2,000ミリに上り、マエストラ山脈以東の地域では1,000ミリを下回り、グアンタナモが一番少ない。雨季と同じ時期である6月から10月、特に8月から10月にかけて多くのハリケーンが襲来し、おもに北西部地域に風水害を与える。 キューバでは外国人による調査活動が許可されにくく、固有種の生態調査が進んでいなかったが、近年では個人が橋渡し役となることで外国との合同研究が許可されるようになっている。 キューバの国土は、鉱物資源に恵まれている。特に重要視されている鉱物はニッケル、クロム、銅、鉄、マンガンである。そのほかにも、硫黄、コバルト、黄鉄鉱、石膏、石綿、石油、石灰岩などが採掘されている。 とりわけ、海底油田は北西部地域に未発見の原油ガスが埋蔵されているとされ、これまで中国を含む諸外国による探査掘削作業がたびたび行われてきた。なお、地下資源はすべて政府の所有物とされている。キューバにおけるラテライト、鉄鉱石の埋藏量は20億トン、その中に包含されるニッケルは1.7億トンであり、世界最大の規模である。 歴史的にキューバは6つの地方行政区分に分けられていたが、1976年の再編成によって現在の区分に改められた。現在、キューバの地方行政地域は14の州 と「青年の島」(旧ピノス島)の1特別自治体に区分されており、さらに州の内部には169の自治体が存在している。なお、現在の区分はキューバの独立戦争期にスペイン軍が軍事上の危険区域を分離すべく用いていた地域区分に類似しているとされている。 キューバは中央集権的な政治体制を採用しており、各州・地方自治体が有する自治権は限定的である。各州には州議会が存在するが、その構成員は住民から間接的に選出される。議会は執行委員会の委員を選出し、その委員は各州に5つ存在する地域議会を構成する。そして、地域議会は執行委員会の委員を選出し、その委員が結集することで州議会が構成される。州議会にも執行委員会は存在し、執行委員会は各段階で議会が有する行政機能の監督を行っている。なお、特別自治体である「青年の島」のみは島でひとつの自治体を成しており、地方自治関連の諸問題において直接中央政府の監督を受けている。 2011年1月1日より、ハバナ州が分割されてアルテミサ州およびマヤベケ州が新設された。アルテミサ州にはピナール・デル・リオ州の一部も含まれる。 2003年の推計によれば、キューバ国民の約75%が都市部に居住している。同国最大の都市は、主要な港湾を有する首都のハバナ で、人口は217万6,000人(国民の約20%)である。ハバナ郊外のマリアナオ(英語版)はビーチリゾートで知られ、周辺域を含めた人口は13万3,016人(1989年)である。 その他の主要都市としては、主要な港湾都市および工業中心地であるサンティアーゴ・デ・クーバ(40万4,100人)、キューバ島内陸の交通要所および商業中心地であるカマグエイ(29万4,000人)、豊かな農業地域であるオルギン(24万2,100人)、農産物加工の中心地であるグアンタナモ(20万8,000人)、サンタ・クララ(20万5,900人)、バヤモ(13万7,660人)、シエンフエーゴス(13万2,200人)、ピナール・デル・リオ、12万8,800人)、ラス・トゥナス、12万6,900人)、マタンサス、12万3,890人)がある。 (出典: CUBAVIP. Population.。ただし、マリアナオの数値のみは英語版の記事に依拠) キューバの伝統的な主要産物は、砂糖、ニッケル、海産物である。キューバ革命以前のキューバ経済は、大土地所有制、資本従属、サトウキビの単一栽培(モノカルチャー)など、植民地的な経済構造の特徴が取り揃えられていた。具体的には、国民総生産の約25%、総輸出額の80%を砂糖が占めていた。また、砂糖生産の60%以上がアメリカ資本に依存しており、砂糖は輸出量の4分の3がアメリカに輸出されていた。ほかにも、土地所有者の8%が、総土地面積の70%以上を所有していた。 革命以後、フィデル・カストロは農地改革と土地国有化を断行して計画経済を推進した。計画では、特に行政・サービス部門の増大が図られ、あわせて工業・貿易が占める比率が高められた。1961年から、政府は単一栽培農業の脆弱性を克服し、工業化を進めるために経済開発計画を推進した。そして1970年代に入ると、工業開発と砂糖生産の増大によって、社会総生産の成長率は年平均9.6%(1970年 - 1976年)を記録した。しかしその後は、砂糖の国際価格下落、経済開発の遅延、慢性的な貿易赤字の発生、経済上の対ソ連依存度の増大などにより、経済成長は再び停滯した。そのため、政府は1981年から国民の消費生活向上に重点を置くようになった。1990年代初頭、経済的に依存していたソ連圏の崩壊で、キューバの経済事情は悪化した。特に、1989年まで続いた年間1,300万トンに及ぶソ連の原油供給が中断したことで、キューバ経済は多大な打撃を受けた。また、アメリカの相次ぐ経済制裁法(1992年のトリチェリ法、1996年のヘルムズ・バートン法)により、一時は食糧不足にも苦しめられた。 この厳しい状況から脱却を図るため、政府は経済・財政改革措置を実施し始めた。具体的には、1993年より外貨所持と使用の解禁、独立採算制の農業組合制度の設立承認、自営業の一部許可といった措置を開始し、1995年には外資が100%出資した企業の設立を認定する新外資法を採択した。また、1997年5月には国内4か所に自由貿易地帯を創設し、2001年にはカリブ海沿岸国と自由貿易協定を締結した。ほかにも、観光・資源部門での外資誘致を積極化し、農業分野においてはモノカルチャーの砂糖生産依存から脱皮を図るべく、有機農業へのシフトが顕著となった。一連の経済政策により、1994年以降のキューバは長年の経済沈滞から脱して経済が成長し始めた。しかし、2000年代前半に生じた原油価格高騰や、アメリカ同時多発テロ等の影響、さらには2002年に生じた砂糖価格暴落とベネズエラの政変による石油供給中断などにより、キューバは2002年に経済難を経験し、同年の経済成長は1.1%であったが、2003年は2.6%、2005年には「革命史上最高」の11.8%の経済成長を達成した。しかし、2008年8月に日本向け債権の一部で債務不履行(デフォルト)が発生したことが明らかとなった。 現在でもキューバ経済の中心は砂糖で、基本的には砂糖のモノカルチャー経済から脱却することができていない。ただし、有機農業の増大によって、最近では日本の生協などとの農産物取り引きも行われるようになっている。タイマイを食用として捕獲していることから、1990年代後半には副産物である鼈甲を対日輸出する計画が持ち上がった。このため、ワシントン条約の会議などで輸出を認めるよう各国に説得をして回った時期があった。砂糖以外の主産品としては、第2の輸出品としてニッケルがあり、その輸出量は輸出総額の約10%を占めている。また医薬品系(B型肝炎ワクチンなど)の輸出も10%強をしめている。また、近年では観光業に力を入れ、観光客数がここ数年で年平均18.6%の高成長を遂げたことから、観光業はキューバ最大の外貨獲得源となっている。観光収入は1996年時点で13億米ドルに達しており、2003年は観光客数190万人、観光収入23.2億ドルを記録している。 2011年4月において危機的状態が続く経済を再建するため、市場経済が部分的に導入されることが決まった。食料配給の段階的廃止、不動産の所有権と売買を認めるなど、大きな改革が5年以内に実施される。労働者用の無料食堂はすべて閉鎖された。同年9月にはタバコの配給が停止、禁止されていた自動車売買も同10月に自由化され、住宅の売買も11月に解禁された。人件費支払いが困難なため、2012年3月までに公務員の50万人のレイオフも行われる。失業者の受け皿として自営業の免許を25万人分発行することが決まった。現在の労働者は公務員約470万人、民間労働者約60万人(大半が農家)である。 経済活性化のため、2008年には自営業を許可する業種を拡大。レストランや民泊などの開業が相次ぎ、自営業者は2008年の約14万人から2017年には約58万人へと増えた。開業には納税のほか政府への登録料支払いが必要で、負担を嫌って無許可で開業する国民もいる。自営業で成功した富裕層や、富裕層向け店舗・サービス業(美容室やエステ、ペットショップなど)も出現している。 キューバに経済制裁を科しているアメリカを除いて、外国人観光客や外国資本の進出も増えている。ハバナ旧市街や海浜リゾート地には大型ホテルが建設された。ハバナ近郊には100%外資の操業を認めるマリエル特別開発区(ZEDM)が整備されている。 厳しいながらも1990年代末からプラス成長を維持してきたキューバ経済は2016年、それまで最大の貿易相手国であったベネズエラの政治・経済混乱で、23年ぶりのマイナス成長となった。国際連合ラテンアメリカ・カリブ経済委員会の推計・予測では、2017年は0.5%のプラス成長に戻し、2018年も1%の経済成長率が見込まれている。アメリカのトランプ政権が再びキューバに対して厳しい姿勢を示しているものの、ヨーロッパ諸国からの進出企業や観光客が増えているほか、中国との貿易が拡大しているためである。外国からの渡航者は2016年に前年比14%増え、初めて400万人台(うち米国からは28万人)に乗せた。外国人観光客の来訪には空路のほか、ハバナ港に寄港するクルーズ客船も利用されている。 アメリカ政府の発表によればキューバ国民1人あたりの月収は15ドルほどである。 1994年以降2種類の法定通貨が存在したが、2021年1月1日よりキューバ・ペソ(ペソ・クバーノ)へ一本化された。レートは1米ドル=24ペソに固定されている。 1994年から2020年12月1日までは外貨兌換券である兌換ペソも法定通貨のひとつとして、主に外国人や観光業で使用されていた。兌換ペソは米ドルと等価とされ、政府公式のレートでは兌換ペソとキューバ・ペソも等価とされていた。しかし民間のレートは1兌換ペソ=24キューバ・ペソであり、持つ「ペソ」の違いで経済格差ができていた。 キューバでは、鉄道が砂糖輸送の重要な交通手段として使われているほか、国土の中央を東西に貫通する高速道路が建設されている。 また、ハバナからフラッグ・キャリアのクバーナ航空が複数のキューバ国内線および、メキシコ、スペイン、ロシアなどへとつながる定期国際航空路を運航しているほか、諸外国の多くの航空会社も乗り入れている。 キューバは16世紀中にスペイン人の苛政によってインディオが絶滅したため、現在は白人系市民と黒人系市民および少数のアジア系移民で成り立っている。住民の人種構成は、ムラートが37%、欧州系白人が51%(おもにスペイン系)、黒人が11%、中国系が1%であると推定され、他にもメスティーソ、レバノン人がおり、中国人やレバノン人、東インド諸島の植民者のコミュニティがある。キューバ政府は、「人種別の統計は、人種差別につながる」ことを理由に、人種別の統計を取っていない。ただし、推計値では徐々に混血が増加する趨勢となっている。 キューバの白人は19世紀から20世紀の間に移民としてやってきたスペイン人のほかに、フランス人、アイルランド人、ドイツ人(ドイツ系キューバ人)、イタリア人、ポーランド人などを根に持つ。また、アジア系の市民として中国系キューバ人や戦前移民した日系キューバ人も少数存在する。1903年から1933年までの間に72万人のスペイン人、19万人のハイチ人、12万人のジャマイカ人、その他少数の中国人、アメリカ合衆国人移民があった。しかし、これらの移民の多くは定住せず帰国した。 1959年のキューバ革命によって成立した現政府の政策により、ラテンアメリカ地域特有の、スペイン植民地時代から続いてきた人種に基づく伝統的階級社会は破壊され、多くの白人支配層や中産階級がアメリカのフロリダ州や西ヨーロッパに亡命した。 公用語はスペイン語(キューバ・スペイン語)である。しかし、観光業に力を入れていること、アメリカ本土に近いこと、そして公教育の普及率が高いことなどから、ホテルやレストラン、都市部などでは英語が通じることもある。 宗教の信仰は原則として自由であるが、今では無信教者が人口の55%にまで達している。キューバでもっとも重要な宗教はカトリックであり、キューバ革命以前は人口の70%以上が教徒であった(1957年)。しかし、フィデル・カストロ政権下で信者数は約40%まで減少し、政府から反革命活動をしていないとみなされる必要があるなど、現在でも教会の布教活動には政府による制約がなされている。 その他の宗教には、プロテスタント、エホバの証人、ユダヤ教、イスラム教、そして民族固有の宗教であるサンテリアなどがあげられる。東部ではハイチからの移民によってヴードゥー教も信仰されている。 日本発祥の宗教として、社会主義国としては珍しくSGIのキューバ支部(キューバ創価学会)が存在している。 キューバ革命後、政府は教育・社会福祉部門に対する投資率を高め、関連予算額が国家予算の16%を占めるようになった。その結果、教育の無料化と非識字率の大幅な低下といった成果を上げた。 キューバでは、フィデル・カストロの「アメリカに半植民地にされたのはアメリカのプロパガンダを国民が見抜けなかったから」という考えから、教育に国を挙げて力をいれている。初等教育は義務教育となっており、小学校では20人学級やサブティーチャー制を導入している。2002年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は全体で99.8%であり、これはアルゼンチン、ウルグアイ、チリと並んでラテンアメリカ内では最高水準である。また、国民の大半は高等学校を卒業している。 おもな高等教育機関としてはハバナ大学(1728年創立)などが挙げられる。高等教育は、19万1,262人(2001-2002年度)の学生が受けている。 キューバの学校教育においてはスポーツにも力を入れており、特に野球は小学校から大学までの必修科目として取り入れられており、キューバではもっともポピュラーなスポーツとなっている。 キューバの医療制度はプライマリ・ケアを重視した医療制度を採用し、独特の社会福祉政策と同様「キューバ・モデル」として有名である。世界保健機関が発行するWorld Health Statistics 2014年度版によると、医療費の公費負担率は2000年度は90.8%、2011年度は94.7%である。2022年時点ですべての医療・教育費は子供から大人まで無償となった。人口1万人中の医師数が67.2人と世界でもっとも多いグループに属する。ファミリードクター制を採用し、各地区に配置された医師が地域住民の健康状態の把握を行っている。家庭医は往診が基本である。被災地への医師の海外派遣も積極的に行っている。これらは、マイケル・ムーア監督の映画『シッコ』で紹介された。キューバの所得水準は世界銀行の定義ではUpper Middle Income Countryに分類され、世界保健機関の年次報告書であるWorld health Statistics 2014年度版によると、世界保健機関が指標として定める妊産婦死亡率、新生児死亡率、乳児死亡率、乳幼児死亡率、成人死亡率は、Upper Middle Income Countriesの平均値よりは低いが、High Income Countriesの平均値よりは高く、平均寿命、平均健康寿命はUpper Middle Income Countriesの平均値よりは高いが、High Income Countriesの平均値よりは低い。 ディエゴ・マラドーナ、モハメド・アリが治療しにきた。 キューバ国民は全員が配給手帳を所持しており、毎日配給を受ける。ただし配給といっても無料ではなく、国家による生活物資の超低価格販売である。配給所は街の随所にある。 キューバ国民が海外に出国する方法は大きくわけて四種類あり、 である。 なお、2.以降は取得が困難であるためキューバ人の多くは外国人観光客らと親しくなり、招待状を入手しようとしている。 かつては社会主義国で貧富の差が小さいこともあり、キューバの治安は良好とされていたが近年は外国人観光客や外国人居住者を狙った強盗、ひったくり、スリ、置き引きなどの事件及び比較的裕福なキューバ人や商業施設を狙った強盗・窃盗事件が発生し、治安は悪化の一途を辿っている。特に2種類の換金レートを悪用した両替詐欺や混雑した場所におけるスリ、バッグのひったくりをはじめ、目を離した隙を狙った置き引き、デジタルカメラ及び携帯電話の寸借持ち逃げ事件が多発している。 日中は観光客の多いハバナ旧市街周辺(特にモロ要塞やカバーニャ要塞周辺で被害が多発)、セントロハバナ周辺等の観光名所で外国人観光客を狙ったスリや置き引き等が発生しており、夜間にはハバナ中心部の比較的人通りの少ない暗い道でひったくりや強盗及び殺人事件が発生しているため、治安の低さによる危険性が今後も高くなりつつあることを留意しなければならない。 通信社は国営のプレンサ・ラティーナに一元化されている。国内でもっとも読まれている新聞は、キューバ共産党の機関紙『グランマ』で、スペイン語と英語のウェブサイトを運営している(外部リンク参照)。 キューバは現在でも「キューバ共産党の一党独裁下にあり、言論の自由に制限がある」とされる。これがアメリカ政府によるキューバ制裁継続の一因となっている。フランスに本部を置くジャーナリストの国際的非政府組織「国境なき記者団」が2005年に発表した「世界報道自由ランキング」では、キューバのランクは調査対象の167か国・地域中161位にとどまり、政府の意向に沿わない独立系ジャーナリストの逮捕・投獄・虐待が行われていると指摘されている。2006年5月にはアメリカに本部がある国際非営利団体「ジャーナリスト保護委員会」が発表した検閲国家ワースト10のリスト」でキューバが7位に挙げられた。また、国外からの情報を遮断するためにネット検閲が導入されている。 インターネットへの接続自体は2009年の解禁以降、環境が徐々に整備されてきた。公園など全国約500か所で公衆無線LAN(規格はWi-Fi)で有料接続でき、2017年10月には国営通信会社エテクサが一般家庭向け接続サービスの開始を発表した。国際電気通信連合(ITU)の統計によると、2017年時点でキューバ国民のネット利用率は38%。 米Googleの協力で首都ハバナに2016年開設された唯一のインターネット無料利用センターが接続できなくなっているなど(2018年2月時点)、低所得層を中心にネット利用には依然制約が多い。アメリカ政府はキューバの民主化を促す手段としてインターネットを重視しており、オバマ政権時代にネット関連機器の輸出規制を緩和した。トランプ政権は2018年1月、国務省にキューバでのネット普及を支援する特別部署を設置した。 1940年代、ラジオ局のCM-21PとRHC-Cadena Azulが近々、テレビ放送を開始すると発表したがテレビ局の設立と放送網の構築するにあたって莫大な費用で複雑であったことから予想より大幅に時間がかかった。 1946年12月、ラテンアメリカで初めて、CM-21Pが試験的にマルチポイントでの放送を行った。 1950年10月、ユニオンラジオが開局した後、次々と開局し同月25日に商業用としてテレビが導入されたことによってカリブ海地域では初めて、ラテンアメリカでは2番目に放送を開始した国となった。同年、12月18日にCMQ-TVがチャンネル6で放送を開始。(正式にCMQとしては翌年3月11日。)また、ユニオンテレビが10月下旬にキューバリーグ冬季野球大会の第一試合を生中継したことにより野球がキューバの国民的娯楽として確立するきっかけとなった。この頃は、報道・料理・コメディと多様な番組がありテレビは16インチ350ドルから30インチ2000ドルと高価なものであったが、1952年までに10万台以上が輸入され普及した。 1952年3月10日、フルヘンシオ・バティスタによるクーデター成功によって検閲が行われた。同年、フィデル・カストロによるモンカダ兵営に対して攻撃が行われたため検閲が強化され1953年10月24日まで続いた。再び始まったのはキューバ革命終結後の1959年である。政府は放送網を整備を始めカマグエイに地方局チャンネル11を開局させ翌年、CMQチャンネル6から「CMQ」の名を外した。1961年にはチャンネル6と民間放送のチャンネル4とチャンネル2の広告を終了させた。 1958年3月19日、チャンネル12の「TELECOLOR SA」が16時間に亘るカラー放送を開始したことにより、アメリカに次いで世界で2番目にカラー放送を開始した国となった。 2022年の時点で国営が5局、デジタル放送専門が2局、HDデジタル放送が4局がある他、多数の地方局がある。 インターネット 1994年6月、アメリカのスプリントとの64KBit/s通信との確立した後、インターネットの拡大は頓挫した。要因としてソ連崩壊によるキューバ経済の低迷や米国の対キューバ禁輸措置による海底ケーブルの敷設の遅滞やコンピュータとその周辺機器の価格高騰により入手が困難となったことが考えられる。 2009年、オバマ大統領がアメリカ企業がキューバに対してのインターネットサービスの提供を許可することを発表したのち、通信を促進するため規制を修正する動きがあったがキューバ政府はベネズエラ政府と協力とのを望み拒否した。同年、テレキューバにフロリダ州キーウェストとハバナの海底ケーブルを敷設の認可が下りていたが、双方の政治的配慮により事業が滞った。 2008年までパソコンや携帯電話の個人所有は政府の許可が必要であったが、合法化されたことで63万台以上が利用可能なったものの帯域幅が限られているために企業・学校・研究所など集団で使用される施設を優先とした。その後のネット利用者の推移は2012年に総人口の約30%、2016年7月には38.8%(433万4022人)、2022年時点で総人口の68%が利用している。 ベネズエラとの通信は2011年に光ファイバーが敷設され2013年1月に一般利用者への利用が可能となった。 2015年、政府は国内35ヶ所にWi-Fiスポットを開設し、2018年3月にほとんどの主要都市に拡大し全国約500ヶ所となった。 2018年、年末までにモバイルでのインターネットサービスを提供する計画を掲げ、12月に計画を始動させ2019年に限られた地域で4G通信が始まった。 2019年7月29日、家庭や企業でのプライベートのWi-Fiを合法したものの許可を得る必要がある。 キューバ国民の大半がスペインかアフリカからの移民であるため、キューバの文化はスペインと、アフリカの特にヨルバ(現在のナイジェリア)の伝統文化から影響を受け、それらが混交しているという特徴がある。なお、キューバは、国民の映画鑑賞が盛んな国でもある。 キューバ料理はスペインとアフリカの影響が強く、米、豆、豚肉を多用する。代表的な料理としてはコングリス(豆ご飯)、トストーネス(青バナナのフライ)などが知られる。また、ラム酒とコーヒーが広く飲まれている。 19世紀においては、前期にホセ・マリア・エレディアが活躍し、ロマン主義の文学運動においてヘルトゥルディス・ゴメス・デ・アベジャネーダとシリロ・ビリャベルデが活躍した。19世紀後半に汎イスパノアメリカ的な規模での文学運動となるモデルニスモ文学が隆盛を迎えると、キューバからは独立運動家であり、詩人でもあったホセ・マルティによって『イスマエーリョ』などのモデルニスモ的な詩や、『我らのアメリカ』(1891年)などの重要な評論も発表された。 20世紀に入ると、ムラートの詩人ニコラス・ギジェンによって1930年代にソンの形式を取り入れた詩が作られ、アフロ・キューバ文学が確立された。その後、アレホ・カルペンティエルによってハイチ革命を描いた『この世の王国』(1949年)などが発表された。 革命後は、1971年のパディーリャ事件のような革命政権による文学者への弾圧のため、カルペンティエルを例外として多くの作家がキューバを去り、亡命先で執筆を続けた。著名なキューバ人作家としては革命後に亡命し、反フィデル・カストロ運動と『三頭の悲しき虎たち』で知られるギリェルモ・カブレラ=インファンテや、ホセ・レサマ・リマ、レイナルド・アレナス、ビリヒリオ・ピニェーラ、セネル・パスなどが挙げられる。特にアレナスは亡命先のニューヨークで魔術的リアリズムの傑作として知られる『めくるめく世界』などを残している。 また外国出身者でありながらキューバの文学運動に多大な影響を与えた人物として、キューバをこよなく愛したアメリカ合衆国のアーネスト・ヘミングウェイが挙げられる。そのほかにも、アルゼンチン出身でキューバ革命の指導者の1人であり、紀行文の『モーターサイクル・ダイアリーズ』や革命中のゲリラ戦の経験をまとめた『ゲリラ戦争』(1961年)、『ゲバラ日記』で知られ、閣僚を務めたこともあるエルネスト・チェ・ゲバラは文学においても名高い。 代表的な画家としては、20世紀半ばに活躍し、アフロ・キューバ美術を再発見したウィフレド・ラムが挙げられる。革命後はラウル・マルティネスらによってキューバの人民革命を鼓舞するプロパガンダ・ポスターが製作された。現在はホセ・ベディア・バルデスの『アメリカ大陸年代記』など、西欧近代文明の限界に挑戦する美術運動が進んでいる。 キューバ音楽は、スペイン系とアフリカ系の音楽が融合して生まれたものをベースにいろいろな要素が混じり合って生まれており、ラテン音楽の中枢的な存在となる。アメリカ合衆国のジャズなどとともに20世紀の大衆音楽に大きな影響を与えた。 代表的なキューバ音楽は、スペインのギターとアフリカの太鼓を組み合わせたヨルバ系文化の影響が強いルンバやソンがある。そのほか、大衆音楽の中には、トローバやダンソンのようにヨーロッパ音楽の要素が比較的強く残っているものもある。 19世紀にフランスのジョルジュ・ビゼーがハバネラのリズムを取り入れたときからキューバ音楽の世界への拡大は始まっていたが、キューバ音楽は、まず1930年にソンがアメリカで紹介され、1930年代以降、アメリカを中心に世界中に広まった。ただし、その際にソンが「ルンバ」として紹介されたため、元来のルンバと「ルンバ」と呼ばれるソン(現在でも社交ダンスで「ルンバ」と呼ばれるものは、このソンである)を区別する必要がある。 1950年代には、マンボやチャチャチャが世界的に流行したが、1959年のキューバ革命後はアメリカとの国交が途絶え、また経済封鎖のためもあり、キューバ音楽が世界に広がる経路が狭まった。ただし、スペイン語圏諸国においては影響を持ち続けた。この1970年代から80年代にかけては、革命後のキューバで若い世代のムーブメントとして起こったヌエバ・トローバが、ラテンアメリカにおいては、社会現象といえるほどの人気と影響力を得た。 また、アフリカ的なリズムの素養、ソ連とのつながりによるクラシック的な技術体系が反映されたジャズ演奏者のレベルは非常に高く、70年代の後半にグラミー賞を受けたイラケレ、1990年代に一世を風靡したゴンサロ・ルバルカバ、チューチョ・バルデース(イラケレのリーダー)など、数々のハイレベルなミュージシャンを生んでいる。 冷戦後、1990年代になると、ロス・バン・バン、アダルベルト・アルバレス・イ・ス・ソンなど、ニューヨーク・サルサのセンスも取り入れたソンのグループが次々に現れ、大きな人気を獲得。また、ヨーロッパなどで公演する演奏家も増加した。1990年代末には古老ミュージシャン達を扱った映画(1998年のヴィム・ヴェンダース監督作品『ブエナビスタ・ソシアル・クラブ』)が世界的なヒットとなったこともあり、経済封鎖自体はまだ続いているものの、アメリカ系大手レコード会社が次々にキューバの音楽家と契約し、来日公演なども増加するなど、キューバ・ブームといってよいほどの活況を呈している。 さらに21世紀に入って、中南米スペイン語圏およびアメリカのプエルトリコ系で一大ムーブメントとなったレゲトン (Reggaeton) がキューバにも本格的に到来、レゲエとヒップホップ、そしてキューバ音楽が融合したクバトン(en:Cubaton)が誕生し、キューバの若い世代に強く支持されている。 2001年には西側ロックバンドの公演が許可され、マニック・ストリート・プリーチャーズがカール・マルクス劇場でライブを行った(フィデル・カストロも訪れている)。これ以降はカール・マルクス劇場で海外のバンドの公演が行われるようになった。 キューバにおける建築は折衷的かつ多様な建築で有名となっている。 キューバは、ラテンアメリカの映画大国であるブラジル、アルゼンチン、メキシコには及ばないものの、域内では映画制作が盛んな国のひとつである。革命前のキューバの映画産業は脆弱なものだったが、1959年に映画芸術産業庁(ICAIC)が設立されて以来、キューバ独自の映画への取り組みが始まった。ラテンアメリカ初の映画学校が開設されたのもキューバであり、1986年にハバナ国際映画テレビ学校(EICTV)が設立されてからはガルシア・マルケスを筆頭にラテンアメリカ最高峰の人材が映画製作を教えている。 著名な映画人としては、イタリアのネオレアリズモに影響を受け、ブラジルのネルソン・ペレイラ・ドス・サントス、アルゼンチンのフェルナンド・ビッリとともに新ラテンアメリカ映画運動の火付け役ともなった『エル・メガノ』(1955年)のフリオ・ガルシア・エスピノーサや、『ルシア』(1968年)のウンベルト・ソラス、『低開発の記憶』(1970年)、『苺とチョコレート』(1993年)のトマス・グティエレス・アレア、『永遠のハバナ』(2003年)のフェルナンド・ペレスが挙げられる。 植民地時代からカトリックの暦に合わせてカーニバルが行われており、特にサンティアーゴ・デ・クーバとハバナのカーニバルは規模が大きい。コンパルサやコンガと呼ばれるチームが楽器と歌と踊りを交えて道路を練り歩く。 キューバ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が2件存在する。詳細は、キューバの世界遺産を参照。 キューバ国内では社会主義国の利点を生かして、国家による選手育成が幼年期から一貫して行われている。また高い医療水準にも支えられ、キューバ選手は夏季オリンピックを中心に輝かしい成績を収めてきた。人口比での金メダル数は世界トップクラスであり、2004年アテネオリンピックでは9個を獲得した。さらに社会主義国のためにイデオロギーがスポーツに優先する国情があり、かつてはオリンピックのボイコットも行った。現在でも、特にアメリカとの関係で国際大会への参加に支障が出る場合がある。キューバがスポーツの中で特に力を入れるのは、各オリンピックで金メダルを量産しているボクシングや野球やフェンシング、それに女子のバレーボールである。さらに柔道やレスリング、陸上競技の跳躍系種目でも好成績を収めている。一方でバスケットボールなどの成績は振るわず、冬季オリンピックには参加経験そのものがない。 さらにキューバでは「オリンピックスポーツ選手」が「スポーツ選手」のステータスであり、野球代表等はその下に位置する。なお、すべてのスポーツ選手はアマチュアの国家公務員(いわゆるステート・アマ)であり、国内では一般国民と比較して好待遇が与えられている。特に金メダリストは国家英雄として称賛されるが、アメリカなどのプロ選手と比べるとその報酬額ははるかに少ない。そのため、有力選手の中にはアメリカへの亡命者も出現する。また亡命に失敗した選手は国際大会への派遣が行われず、キューバ選手団は常に外部との接触を厳しく制限されながら競技会に参加するという弊害も起こっている。 キューバでサッカーのイメージは一見無いものの、実はサッカーキューバ代表はFIFAワールドカップには1938年大会に1度だけ出場を果たしている。さらにCONCACAFゴールドカップには10度も出場しており、これまでに3回ベスト8に進出した事もある。また、カリビアンカップでは2012年大会で初優勝を達成している。なお、1912年にはサッカーリーグの『カンペオナート・ナシオナル・デ・フットボール・デ・キューバ』も創設されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "キューバ共和国(キューバきょうわこく、西: República de Cuba)/レプブリカ・デ・クバ/、通称キューバは、カリブ海の大アンティル諸島(西インド諸島の一部)に位置する共和制国家。首都はハバナ。人口は10,985,974人 (2023年現在) 。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "キューバ共産党による一党独裁体制が敷かれている。政治思想としてはマルクス・レーニン主義(ソ連のスターリンが考案)とホセ・マルティ思想を採用している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1492年にコロンブスがキューバに来島し、1511年にスペインに征服された。1898年の米西戦争のスペインの敗戦でアメリカ合衆国の軍政下に入り、1902年に独立したが、1934年まではプラット修正条項に基づき事実上アメリカの保護国だった。その後も親米政権バティスタ政権のもとアメリカの影響下にあったが、1959年のキューバ革命でソビエト連邦の影響下の社会主義国に転換された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "政治体制は、1961年に革命前に存在した全ての政党が解散させられ、新党結成も禁止されて以降、キューバ共産党による一党独裁体制が敷かれている。そのため多党制に基づく議員選挙や大統領選挙は存在しない。革命を指導したフィデル・カストロによる統治が革命以来2008年までの長期にわたって続いた。エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、世界143位と後順位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)。また国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも171位と後順位であり、最も深刻な国の一つに分類されている(2020年度)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "人権状況についてヒューマン・ライツ・ウォッチは、政府が反対意見を抑圧するため、日常的に批評家や活動家、抗議者などを恣意的に拘禁していることを指摘している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "外交面では革命直後にアメリカ資本企業を国有化したことを発端に1961年にアメリカとの関係が途絶。以降アメリカから制裁を課されて対立関係となった。1962年にはソ連の中距離ミサイルが持ち込まれ、アメリカが海上封鎖を実行してソ連に断念させた「キューバ危機」が発生している。ベネズエラなどラテンアメリカ地域の反米左派政権との関係を密にしており、アメリカからは1982年以来テロ支援国家に指定されていたが、2015年にはバラク・オバマ政権下のアメリカと国交回復した。その影響で一時テロ支援国家から外されたが、ドナルド・トランプ政権下で再度テロ支援国家に指定された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "経済面はサトウキビ栽培を中心とする農業国であり、製糖業が行われ、輸出の半分以上を砂糖が占めているが、輸出入の60%以上を頼っていたソ連が1990年に崩壊したことで経済的苦境に立ち、在外キューバ人の送金などが経済を支えている。アメリカとの国交回復で在米キューバ人のドル送金の大幅緩和を受けることに成功し、またソ連崩壊以来疎遠になっていたロシアや中国との結びつきも強め、巨額の経済援助を受けている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "軍事面では徴兵制が採用されており、4万9000人の兵力を持つ。軍事予算額は不明。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "人口は国連によれば約1125.6万人(2022年7月現在)。先住民のインディオはスペイン統治時代の初期のうちにほぼ絶滅し、代わりの労働力として導入されたアフリカ黒人奴隷の子孫が混血も含めて今日のキューバ住民の約30%を占め、残りは大部分がスペイン系白人である。他に中国人を中心としたアジア系住民も少数暮らしている。公用語はスペイン語。宗教はカトリックが大半を占める。教会は「反革命活動」をしないことを条件に存続が許されている状況にある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "地理としては西インド諸島最大の島キューバ島とその属島からなり、総面積は10万9884平方キロメートル。キューバ島は東西に細長く、大部分が平地と緩やかな起伏のある丘陵地からなっており、島の四分の一を占める山地は各地に散在し、南東端のシエラ・マエストラ山脈中に同国最高峰のトゥルキーノ山(2005m)がある。ウィンドワード海峡を隔てて東にはイスパニョーラ島のハイチとドミニカ共和国が、南には英領ケイマン諸島とジャマイカが存在する。西はユカタン海峡を挟んでメキシコのユカタン半島と、北はフロリダ海峡を隔てて北に145キロ先のアメリカ合衆国フロリダ州(フロリダ半島)と向かい合う。北東にはバハマや英領タークス・カイコス諸島が存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "正式名称はスペイン語でRepública de Cuba。通称Cuba。[ˈkuba] ( 音声ファイル)", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "公式の英語表記はRepublic of Cuba。通称Cuba。[ˈkjuːbə] ( 音声ファイル)", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本語の表記は、キューバ共和国。通称、キューバ。スペイン語の原音に近い「クーバ」と呼ぶ人もいる。漢字による当て字は、玖馬、玖瑪、久場、古巴など。中華人民共和国においては「古巴(Gǔbā)」と表記している。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "国名は、カリブ海最大の島であるキューバ島からきており、「中心地」という意味のインディオ(タイノ族)の言葉であるクバナカン が由来であるとされている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ人の到来する以前のキューバには、南アメリカのギアナ地方から海を渡ってきたアラワク族系のタイノ族や、シボネイ族、カリブ族と呼ばれる先住民が暮らしていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1492年10月27日、キューバ島はクリストファー・コロンブスの第一次航海でヨーロッパ人に「発見」され、スペイン人による征服が始まった。キューバの住民はインドに到達したと思ったコロンブスによって「インディオ」(インド人)と呼ばれた。インディオたちは、スペイン人に支配されたイスパニョーラ島から逃れてきたアトゥエイに指導されてスペイン人への抵抗を続けたが、1511年、スペインのベラスケスが率いる遠征隊によって征服された。その後も散発的な抵抗が続いたが、植民地化が進むにつれてスペイン人による虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷貿易を盛んにした。インディオの悲劇とは別に、キューバはスペインと中南米の中継地点として著しく発展を遂げた。ハバナは、メキシコ市やリマに続くスペイン領アメリカ植民地第3の都市となり、大学や要塞が建設された。スペインによる開発は技術面で緩慢だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "19世紀初め、シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン・マルティン、ミゲル・イダルゴらの活躍により、大陸部のスペイン植民地はすでに独立していたが、キューバではそのように新たに独立した国から旧王党派が亡命し、スペイン本国はフィリピン、プエルトリコなどとともにわずかに残った最後の植民地キューバを決して手放すまいとして、キューバの駐留スペイン軍を強化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また、隣のイスパニョーラ島西部のフランス領サン=ドマングがハイチとして独立したあと、王政や帝政への移行を繰り返して迷走し、ひどい混乱状態に陥っている様子が伝わってきた。このようなさまざまな事情が積み重なり、砂糖プランターだったクリオーリョ支配層はこの時期には独立を望まなくなっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "その後、サン=ドマングから逃げてきたフランス人農園主の技術が導入され、キューバでも大規模な奴隷制砂糖プランテーションが発達し、1840年代には世界最大の砂糖生産地となった。また、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると、砂糖に加えて葉巻の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、1830年代からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバのアメリカ合衆国編入を目指す運動も起きた(こうした動きはエル=サルバドルやドミニカ共和国にもあった)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めたカルロス・マヌエル・デ・セスペデスにより1868年に始められた。これは第一次キューバ独立戦争として知られ、10年あまりにわたって続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦した。しかし、ムラートのアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを留めることはできなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1892年、ホセ・マルティをはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国のニューヨークを拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から第二次キューバ独立戦争が再発した。マルティは同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまできた。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫った1898年2月15日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦メイン号がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして同年にスペイン・アメリカ・キューバ戦争が勃発すると、アメリカ軍は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1898年に締結されたパリ条約によってスペインの敗戦が決まると、スペイン植民地だったフィリピン、グアム、プエルトリコは割譲されてアメリカの植民地となり、キューバでは降伏したスペイン軍と結んだアメリカ軍により軍政が敷かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1902年5月20日にキューバ共和国は独立を達成した。400年に及ぶスペイン支配から解放されたかに見えたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法の制定に際して、アメリカ合衆国議会はプラット修正条項(Platt Amendment)を要求した。これにより、キューバはアメリカの内政干渉権を認め、グァンタナモとバイア・オンダの2か所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国となった。なおアメリカは1903年にグァンタナモ湾を永久租借した契約を盾に、1959年の革命政権の誕生後も今日に至るまで、グアンタナモにアメリカ海軍の基地を置き続けている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、製糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、早くも1906年に反乱として表面化し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に置かれた。反乱は1912年、1916年にも発生し、アメリカが介入する事態となった。キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。アメリカはやむなくプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなどした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "不安定な政治状況は、1933年から政治の主役を演じていたムラートのフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)軍曹が、1936年に政権の実権を握ったことで一定の安定を見せ、キューバ政府が社会経済の改革計画を実行できるまでになった。そして、1940年になると、バティスタの大統領就任と新憲法の公布により、ようやくキューバでは政治的緊張が緩和された。1944年の総選挙でバティスタが敗北したあと、キューバは国際連合設立(1945年)や米州機構設立(1948年)に参加した。しかし一方で、国内では砂糖の国際価格の不安定化とインフレ問題が重要課題として浮上し、政府が有効対策をとれなかったことで、社会不安が拡大した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1952年にバティスタはクーデターで政権を奪取し、憲法を停止したうえで独裁政治を開始した。2度目のバティスタ政権は1度目とは違い、腐敗、弾圧、独裁が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1953年7月26日に、このようなアメリカによる半植民地状態の克服を夢見て、弁護士フィデル・カストロ率いる青年たちが蜂起(モンカダ兵営襲撃)したが失敗に終わり、関係者は投獄された。1954年にバティスタは形式のみの信任選挙で再選を果たし、1955年の大統領就任と同時に憲法に基づく統治を復活させ、フィデル・カストロらの政治犯に恩赦を与えた。フィデル・カストロは恩赦によって出獄すると反政府組織「7月26日運動(M26)」を結成、同志とともにメキシコに亡命した。その後、砂糖の国際価格の安定によりキューバ経済の状況は改善されたが、バティスタの独裁体制は継続され続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "メキシコ亡命後、フィデル・カストロらはその地でグアテマラ革命の崩壊に立ち会ったアルゼンチン人医師のエルネスト・“チェ”・ゲバラと出会い、ゲリラ戦訓練を受けたあと、1956年12月にヨット「グランマ号」に乗ってキューバに上陸した。その際、政府軍の攻撃でフィデル・カストロらは壊滅的打撃を受けたが、マエストラ山脈を拠点として政府軍へ2年あまりのゲリラ闘争を行った末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込んだ(キューバ革命)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生した。その際に革命政権は発足後数週間のうちに軍事法廷で旧バティスタ政権関係者を裁き、およそ550人を処刑した。その後、2月半ばにフィデル・カストロが首相に就任すると、革命政権は一連の農地改革法を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めた。また、製糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化して、農業の集団化を実施するなど社会主義国の建設を推進した。この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "バティスタ政権を失ったアメリカは、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが、1959年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。アメリカに敵視されたキューバ革命政権は、当時続いていた冷戦による米ソ対立を背景にソビエト連邦と接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。具体的には砂糖の購入や経済協力を織り込んだものとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "これによりアメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からのアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の進出企業を接収した。こうして、キューバ国内のアメリカ系大企業は国有化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1961年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、対抗措置として少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のヒロン湾(英語ではピッグス湾)に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった(ピッグス湾事件またはプラヤ・ヒロン侵攻事件)。この事件をきっかけにキューバは1959年の革命の社会主義化宣言を発し、本格的にソ連や東側諸国との結びつきを強めるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1962年2月3日、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連の弾道ミサイル基地の建設とミサイルの搬入が明らかとなり、核戦争の危機となった。アメリカは、海上封鎖で対抗した。ソビエト連邦やキューバは反発した。ソビエト連邦側からの申入れで交渉が行われ、アメリカがキューバへ侵攻しないことを条件に、ソ連がミサイルを撤去することに同意し、この危機は回避された。核戦争は回避したが、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1965年にアメリカとキューバは反体制派キューバ人のアメリカ亡命を認めることで合意し、1973年までに26万人以上がキューバを去った。1960年代のキューバは第三世界非同盟外交に基づいて世界革命を推進し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ各地に軍事顧問団を派遣した。ベトナム戦争を戦う北ベトナムや、セク・トゥーレ政権のギニア、ベン・ベラ政権のアルジェリアなどと関係を深め、コンゴ民主共和国やボリビアにはチェ・ゲバラ率いるゲリラ部隊が派遣された。1967年にゲバラがボリビアで戦死したため、『ゲリラ戦争』で主張されたマルクス・レーニン主義、チェ・ゲバラ=フィデル・カストロ路線に基づくラテンアメリカでの農村ゲリラ革命路線は失敗に終わった。ゲバラの死後のラテンアメリカ諸国の社会主義運動は、1970年のチリにおけるサルバドール・アジェンデ政権成立のように平和革命路線に移行し、キューバもそれまでの強硬路線に代えて、徐々に平和的変革を支持した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1973年、CIAによって画策されたチリ・クーデターでアジェンデ政権が崩壊し、ラテンアメリカの平和革命路線の限界が露呈した。キューバは国内の社会主義建設を制度化するために1976年憲法を制定し、社会主義化が法制化された。内政面では医療や教育に重点を置いた国造りが、文化面では映画や美術やアフリカ系文化の復興運動が進み、外交面では多くが社会主義国として独立したアフリカの旧ポルトガル植民地や、社会主義化したエチオピアの戦争(内戦)に軍隊を派遣した。特に南部アフリカのアンゴラに対しては1975年の独立前後から軍を派遣し、アンゴラ内戦が勃発すると、内戦に介入した南アフリカのアパルトヘイト政権と戦うために最盛期には5万2,000人の兵力を派遣した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1980年代に入り、エチオピアでのオガデン戦争とアンゴラ内戦はともに膠着状態に陥り、キューバの負担も増加した。そのためまずはエチオピアから撤退し、1988年のクイト・クアナヴァレの戦いのあと、アンゴラからも名誉ある撤退を求めて、南アフリカとの間にアメリカが提唱していたリンケージ政策を受け入れ、当時南アフリカ領だったナミビアの独立と引き換えに撤退した。またカリブ海地域では1983年、島国グレナダに軍事顧問や労働者を送って東側接近を支援したが、米軍の介入で頓挫した(グレナダ侵攻)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "冷戦が終結し、1991年にソ連が崩壊すると、それまでキューバ産砂糖とソ連製の石油をバーターで取引してきたキューバの経済構造の基盤は大打撃を受け、経済はかつてない規模の衰退に陥った。経済崩壊状態に陥ったキューバから脱出すべく、筏(バルサ)で米国フロリダ州を目指して亡命を図るバルセーロスと呼ばれる人々が増加した。亡命を希望しなかった人々の間でも1993年に米ドルの所持が解禁されたため、米ドルを持てるものと持たざる者の間に格差が生まれ、それまでの平等主義体制に亀裂が入る結果となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "深刻な経済衰退を受けて、政府は私的所有や国営企業の民営化などの経済競争の面での自由化を部分的に取り入れ、観光業の振興を軸に経済の再生を測った。民営化ではスペインなどの機関投資家を参加させた。このような政策は功を奏して、フィデル・カストロ政権は1990年代のもっとも困難な時期を乗り切り、キューバ共産党による一党制体制は維持されたものの、他方で1990年代を通して土地の私的所有や宗教信仰の自由などを認める各種の自由化が進んだ。この中には1995年制定の外国投資法もあった(2014年改正)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2000年代にかけてキューバは中華人民共和国との関係を深めた。また、ベネズエラのウゴ・チャベス政権とは石油などにおける資源ナショナリズムを共有し、外交姿勢は社会主義を堅持している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国下院は2003年9月9日、アメリカ人のキューバ訪問禁止解除の法案を可決(今回で4度目の可決、賛成227、反対188)。10月23日には上院も同趣旨の法案を可決(賛成59、反対38)。いずれもジョージ・W・ブッシュ大統領の所属する共和党主導で行われた。11月6日、アメリカ合衆国上院はさらに外交委員会で渡航禁止解除を決議した。ブッシュ政権は2004年の大統領選に向け、大票田であるフロリダ州のキューバ系アメリカ人票をつなぎ止めるため、上下両院で可決された法案に対し拒否権発動の姿勢を崩さなかった。キューバとの通商はフィデル・カストロを利するだけで、一般のキューバ人への利益にはならないとした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "国際連合総会では1992年以来連続でアメリカに対してキューバに対する国交断絶と経済制裁を終了し、外交・経済関係を回復するよう求める決議案が提出され、採決の結果は毎年、アメリカとイスラエルが反対、パラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島は棄権、それ以外の国はすべて賛成で可決されてきた。特に2015年には史上最多の191国が決議に賛成した(従来棄権していた太平洋の島嶼諸国も賛成に回り、反対票はアメリカとイスラエルのみ)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2006年7月31日、フィデル・カストロ国家評議会議長は声明を出し、7月後半のアルゼンチン外遊の多忙な日程の影響で腸に急性の問題が発生、出血が続いているため、外科手術を受けたと発表した。そして権限を数週間、弟のラウル国家評議会第一副議長兼国防相に委譲したことを明らかにした。声明は秘書官が読み上げ、国営テレビ・ラジオで伝えた。2006年8月3日、アメリカのブッシュ大統領はフィデル・カストロ声明に便乗して、「われわれは民主主義を約束するキューバの移行政権を樹立する努力を支持する」と「政権転覆」を呼びかける声明を出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2007年5月、米テキサス州エル・パソの連邦地裁が、クバーナ航空455便爆破事件に関与した反革命傭兵軍のルイス・ポサダ・カリレスを釈放し、キューバの雪解けは国際政策となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2008年2月19日、フィデル・カストロは国家評議会議長(国家元首)と閣僚評議会議長(首相)、軍最高司令官の退任を正式に表明した。2月24日、人民権力全国会議(国会)が招集され、国家評議会議長に弟のラウルが選出された。ラウルは就任早々、規制緩和を次々打ち出し、一般国民の携帯電話所持やホテル宿泊、家電製品購入などが自由にできるようになった。2008年4月28日、ラウル・カストロ国家評議会議長は、第6回中央委員会総会で、第6回党大会を来年度後半に開くことを提案した。大会開催は1997年10月以来12年ぶりとなる。8月19日、キューバ中央銀行が日本の化学品商社・明和産業への輸入代金の支払に発行した信用状(L/C)が期日までに決済不能に陥ったことが判明した(債務不履行)。明和産業によると債権額は約8億7,200万円であり、独立行政法人日本貿易保険が一部焦付額に保険を適用すると発表した。なお、日本貿易保険はキューバ中央銀行から「当行一行だけの問題ではなく、国全体の決済資金が不足している」との説明を受けたとしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "アメリカのバラク・オバマ政権は従来のキューバ敵視政策を転換し、2014年に両国は国交回復交渉の開始を発表。お互いの捕虜を解放し、送金や輸出の緩和を実行した。翌2015年には54年ぶりに国交が回復され、2016年にはオバマ大統領がハバナを訪問した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "その後、2017年のドナルド・トランプ大統領就任以降、アメリカはキューバに再び厳しい姿勢を示している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1959年のキューバ革命以後、アメリカから軍事侵攻(プラヤ・ヒロン侵攻事件)、政権転覆工作(「キューバ計画」)、カストロ暗殺工作などの敵視政策を仕掛けられ、アメリカから2015年までは「テロ支援国家」に指定されており、国交がない状態であった。アメリカからは1962年以後、人道的措置と称する食料や医薬品を例外として経済封鎖、経済制裁が継続されている。アメリカの航空会社もチャーター便の運行はあるものの定期便は就航させていない。キューバ共和国独立翌年の1903年、アメリカはキューバ東部のグアンタナモ湾の一部を永久租借してアメリカ海軍基地を建設しており、現在もグアンタナモ米軍基地が存在する。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "アメリカ政府は、カストロ政権を打倒して傀儡政権を再樹立し間接支配を復活するために、亡命キューバ人に武器と資金を供給して軍事訓練を行い、1961年4月に亡命キューバ人武装勢力をキューバに侵攻させたが作戦は失敗し、1961年4月にキューバに経済制裁・貿易封鎖を実行した。アメリカ政府はその後も1962年10月までキューバに対して武力行使を繰り返したがカストロ政権を打倒できず、アメリカ政府に政権を打倒されると危機を感じたカストロはソ連に支援を求めた。1962年10月にキューバ危機が発生し、米ソ核戦争の危機になったが、ソ連が譲歩してミサイル基地の撤去に応じて戦争は回避された。アメリカ政府はその後もカストロ政権転覆工作やカストロ暗殺工作を繰り返し、政権転覆や暗殺を恐れたカストロが、キューバと自分を守るためにケネディ大統領暗殺作戦を遂行したとの推測もある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1980年代以降も、アメリカはキューバを1982年にテロ支援国家に指定し、1996年にはアメリカでキューバ経済制裁強化法(ヘルムズ・バートン法)が成立するなど、アメリカ・キューバ両国は長年にわたって敵対してきた(米国の対キューバ禁輸措置も参照)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "しかし、アメリカ・キューバ両国はカナダやローマ教皇フランシスコの仲介で2013年から舞台裏での交渉を開始し、2014年12月18日にはアメリカのバラク・オバマ大統領とキューバのラウル・カストロ国家評議会議長がそれぞれ演説を行い、アメリカとキューバの国交正常化に向けた交渉を開始すると発表した。以後、", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "と、2015年に入ってから具体的な国交正常化への歩みを進めた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "その後、米ドナルド・トランプ政権下では関係が再び冷え込んでいる。2019年3月4日、アメリカ政府は、キューバ「社会主義」政権が接収した資産に関する訴訟を、亡命キューバ人などがアメリカ国内で起こす権利を認める措置を発表した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1999年にベネズエラでウゴ・チャベス政権が成立してからは、産油国である同国からの石油輸入とキューバからの医師派遣を軸に強固な友好関係が樹立され、2004年に両国との間で米州ボリバル代替統合構想が結成された。2000年代後半に入り、ベネズエラに続いてボリビア、エクアドル、ニカラグアで左派政権が成立するとキューバはこれら諸国と友好関係を築き、2009年6月に米州ボリバル代替統合構想が発展解消する形で米州ボリバル同盟(ALBA)が結成された。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "キューバとカナダは友好関係を保っており、カナダは上述のアメリカとの国交正常化交渉開始の際にも、ローマ教皇フランシスコとともに両者の仲介を行った。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ロシアとはキューバ革命以後、ソ連時代から友好関係にあった。ソ連によるキューバへの核ミサイル配備はアメリカの反発を招き、キューバ危機(1962年)にいたった。その後、キューバはソ連から経済・軍事援助を受け、またアフリカの親ソ派の諸国・組織にキューバ兵や軍事顧問を送って支援した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1990年代初めのソビエト連邦の崩壊による援助や優遇条件での貿易の停止・縮小はキューバを苦境に追いやったが、ロシアの国力回復と中南米政策の活発化にともない、再び関係は緊密化している。ロシアは2014年に旧ソ連時代からキューバが負っていた債務の9割を減免。2017年にはロシア国営石油会社ロスネフチがキューバへの原油輸出を再開したほか、300台以上の自動車「ラーダ」や75台以上の鉄道機関車の輸出も決まった。国営ロシア鉄道によるキューバ国内鉄道の近代化・延伸も協議されている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "日本とは1929年(昭和4年)12月21日に国交を樹立した。1941年(昭和16年)12月9日、太平洋戦争の勃発にともないアメリカに続いて対日宣戦布告し、国交を断絶した。戦後の1952年(昭和27年)11月、サンフランシスコ講和条約締結にともない国交回復。1960年(昭和35年)に通商協定を締結、1961年(昭和36年)に発効。1898年(明治38年)以降、日本人移民がキューバに定住、1999年(平成11年)時点の概数で日系人は800人である。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "日本は資本主義体制をとり日米同盟を維持しているが、キューバに対しては地理的・政治的な利害関係を持たず、また長らく最高指導者であったフィデル・カストロが親日家であることもあり、音楽やスポーツを通じた民間交流も盛んである。2012年(平成24年)11月には福岡 Yahoo! JAPANドームと札幌ドームにおいて野球日本代表とキューバ代表による国際親善試合が行われた。そのため、両国関係は政治・経済の両面で良好であり、1989年(昭和64年・平成元年)の昭和天皇崩御の際には喪に服した。また、1997年(平成9年)に発生した在ペルー日本大使公邸占拠事件では、日本政府の要請に対し、キューバがトゥパク・アマルー革命運動(MRTA)のゲリラの亡命受け入れを受諾した。キューバは日本人が観光目的で入国する際にビザ免除を認めている(ただし、事前に大使館、もしくは出発当日の空港でツーリスト・カードを購入する必要がある)。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "キューバ革命以後、反米政策を共通とする北朝鮮とキューバは友好的な関係を保っている。キューバ政府は北朝鮮との友好関係を考慮し、韓国と国交を結んでいない。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "冷戦時代のキューバは1960年代の中ソ対立の中でソ連側についたこともあり、1966年に中国と関係がほぼ断絶した。アンゴラ内戦ではキューバは米中の影響力排除を目的に派兵した。1979年、フィデル・カストロは中国が中越戦争で同じ共産圏のベトナムを攻撃し、キューバに敵対的で南米の親米反共諸国とのコンドル作戦を主導しているチリのアウグスト・ピノチェト政権なども支援していることを批判した。冷戦が緩和した1987年に中国とキューバは関係を正常化した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "キューバは革命以来、アメリカ合衆国の侵攻を防ぐために旧東側諸国の装備で重武装しており、現在では4万9,000人ほどの現役兵が常備兵として活動している。そのほか民兵組織などもある。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "最高司令官は大統領が兼任。徴兵制度が存在し、17 - 45歳の男子が2年間兵役に服する。国防予算は約7億ドル(2000年)。正規軍であるキューバ革命軍の兵力は、陸軍兵力3万8,000人、海軍兵力3,000人、空軍兵力8,000人。兵器はほとんどがソ連製。正規軍のほか、青年労働軍(6万5,000人)、地方民兵隊(約100万人)などの民兵が存在する(数値はすべて2007年のもの)。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "キューバの国土は長さ1,250キロで、キューバ島(本島)、「青年の島」(旧ピノス島)、および1,600あまりの小島と多島海からなる広大な群島によって構成されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "キューバは、フロリダ半島の南145キロ、ユカタン半島の東210キロに位置し、カリブ海および大西洋とメキシコ湾を結ぶユカタン海峡およびフロリダ海峡を、国土の西部と北部が押さえる要衝にある。国土の東部は、大西洋とカリブ海を結ぶウィンドワード海峡によってイスパニョーラ島と隔てられ、北東部はニコラス海峡、オールドバハマ海峡によってバハマ諸島と隔てられ、南にはジャマイカ島とケイマン諸島がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "キューバの国土は南北アメリカ大陸、ヨーロッパとの間を結ぶ航路と接し、交易を行ううえで恵まれた位置関係にある。そのため、キューバは古くから通商の要衝として経済的に栄え、かつては「メキシコ湾の真珠」とも呼ばれた。現在、キューバの周辺には、北から時計回りの順に、アメリカ、バハマ、英領タークス・カイコス諸島、ハイチ、ジャマイカ、イギリス領ケイマン諸島、メキシコが存在している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "キューバの本島であるキューバ島 は、西インド諸島に属するカリブ海で最大の島である。コロンブスの同島「発見」時にはスペイン王国の王族にちなんでフアナ島 と命名されたが、のちにキューバの呼び名が一般化し現在にいたっている(キューバの由来は国名参照)。島の南西には、キューバでキューバ島に次ぐ大きさを持つ「青年の島」が浮かんでいる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "キューバ島の長さは、西端のサン・アントニオ岬から東端のマイシ岬まで約1,225キロ、南北の距離は最大250キロから最小35キロで平均値は80キロと、東西に細長い形状をしている。島の4分の1は山岳地帯となっているが、山地が島の全域に散在していることから、島に山塊はない。主要山岳地帯としては、西部にオルガノス山脈(標高914メートル)、中央部にトリニダー山脈(標高1,200メートル)、南東部にマエストラ山脈という3つの異なる山系がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "東方山系であるマエストラ山脈は、クルス岬からマイシ岬まで南海岸に沿いながら、250キロに及んで連なっている。ほかの山系と比べると一番長く複雜で、この山脈に属する標高2,005メートルのトゥルキーノ山は、キューバの最高峰としてそびえている。南方斜面が急な断崖をなす一方で北方斜面は緩慢で、北方海岸につながる山地との間にはカウト川流域の中央低地が発達しており、キューバの主要な農業地域に数えられている。中央部山系であるトリニダー山地は、高度が低く多くの山地群で形成されており、銅・マンガン・ニッケル・クロム・鉄鉱石・タングステンなど、地下資源が豊富に埋蔵されている。西部山系であるオルガノス山脈はカルスト地形で、険しい石灰岩の山地・洞窟などが多く、ハバナ付近のコティジャ洞窟が著名である。周辺の丘陵地は、石灰岩の風化土であるマタンサス土壌 で覆われており、肥沃で排水がよく栽植農業地として的合である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "東部と中部、そして西部の山岳地を除けば、島の大部分は200メートル以下のなだらかな起伏の丘陵地や平野であり、土壌も大半は肥沃で、大規模な機械化農業の生産にも適した土地となっている。しかし、その地形により島には水量の豊かな長い川が存在せず、200以上の河川の大半は急流をなす小さな川であるために、船舶の航行はできない。主要河川は、島の南東部を流れるカウト川(全長240キロ)であり、マエストラ山脈を水源とし、グァンタナモ湾に流れ込む。この川はキューバでもっとも長い川であり、下流の約100キロは航行が可能な大きさである。また、重要な内陸水路として水力発電にも利用されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "島は長くて狭く、複雑で入り組んだ海岸線は全長3,735キロにもなる。海岸には約7万km2の大陸棚があり、海岸線には入江、湾、砂州やマングローブ林、サンゴ礁、湿地、大小の岬、半島が多様な景観を造成し、多くの湾が天然の良港となっている。主要な港は北海岸にハバナ、マタンサス、カルデナス、バイアオンダ、ヌエビタスがあり、南海岸にグァンタナモ、サンティアゴ・デ・クーバ、シエンフエゴス、トリニダーがある。特に、ハバナ港は良港として知られ、通商によって栄えた歴史がある。またグァンタナモ湾は、1903年以降現在にいたるまでアメリカのグァンタナモ米軍基地(南方軍管轄)が存在することで知られている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "キューバの気候は亜熱帯気候かつ海洋性気候で、ケッペンの気候区分では典型的な熱帯性サバナ気候に属する。年間の平均気温は摂氏25.5度、夏の平均気温は27度、冬の平均気温は21度であり、夏には東風・南東の貿易風、冬には北東の貿易風が吹く。夏には気温のみならず、湿度も80%前後にまで上昇する。しかし、北東の貿易風が吹くため、気温は和らぎ比較的しのぎやすい環境となる。冬には平均気温が20度近くまで下がるが、それでも日中は気温が30度以上になる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "気温の較差がわずかなため、季節的な気候変化はおもに降水量によって左右される。乾期は11月から4月、雨期は5月から10月である。年平均降水量は約1,400ミリだが、トリニダー山地から「青年の島」にかけての地域では2,000ミリに上り、マエストラ山脈以東の地域では1,000ミリを下回り、グアンタナモが一番少ない。雨季と同じ時期である6月から10月、特に8月から10月にかけて多くのハリケーンが襲来し、おもに北西部地域に風水害を与える。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "キューバでは外国人による調査活動が許可されにくく、固有種の生態調査が進んでいなかったが、近年では個人が橋渡し役となることで外国との合同研究が許可されるようになっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "キューバの国土は、鉱物資源に恵まれている。特に重要視されている鉱物はニッケル、クロム、銅、鉄、マンガンである。そのほかにも、硫黄、コバルト、黄鉄鉱、石膏、石綿、石油、石灰岩などが採掘されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "とりわけ、海底油田は北西部地域に未発見の原油ガスが埋蔵されているとされ、これまで中国を含む諸外国による探査掘削作業がたびたび行われてきた。なお、地下資源はすべて政府の所有物とされている。キューバにおけるラテライト、鉄鉱石の埋藏量は20億トン、その中に包含されるニッケルは1.7億トンであり、世界最大の規模である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "歴史的にキューバは6つの地方行政区分に分けられていたが、1976年の再編成によって現在の区分に改められた。現在、キューバの地方行政地域は14の州 と「青年の島」(旧ピノス島)の1特別自治体に区分されており、さらに州の内部には169の自治体が存在している。なお、現在の区分はキューバの独立戦争期にスペイン軍が軍事上の危険区域を分離すべく用いていた地域区分に類似しているとされている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "キューバは中央集権的な政治体制を採用しており、各州・地方自治体が有する自治権は限定的である。各州には州議会が存在するが、その構成員は住民から間接的に選出される。議会は執行委員会の委員を選出し、その委員は各州に5つ存在する地域議会を構成する。そして、地域議会は執行委員会の委員を選出し、その委員が結集することで州議会が構成される。州議会にも執行委員会は存在し、執行委員会は各段階で議会が有する行政機能の監督を行っている。なお、特別自治体である「青年の島」のみは島でひとつの自治体を成しており、地方自治関連の諸問題において直接中央政府の監督を受けている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2011年1月1日より、ハバナ州が分割されてアルテミサ州およびマヤベケ州が新設された。アルテミサ州にはピナール・デル・リオ州の一部も含まれる。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "2003年の推計によれば、キューバ国民の約75%が都市部に居住している。同国最大の都市は、主要な港湾を有する首都のハバナ で、人口は217万6,000人(国民の約20%)である。ハバナ郊外のマリアナオ(英語版)はビーチリゾートで知られ、周辺域を含めた人口は13万3,016人(1989年)である。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "その他の主要都市としては、主要な港湾都市および工業中心地であるサンティアーゴ・デ・クーバ(40万4,100人)、キューバ島内陸の交通要所および商業中心地であるカマグエイ(29万4,000人)、豊かな農業地域であるオルギン(24万2,100人)、農産物加工の中心地であるグアンタナモ(20万8,000人)、サンタ・クララ(20万5,900人)、バヤモ(13万7,660人)、シエンフエーゴス(13万2,200人)、ピナール・デル・リオ、12万8,800人)、ラス・トゥナス、12万6,900人)、マタンサス、12万3,890人)がある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "(出典: CUBAVIP. Population.。ただし、マリアナオの数値のみは英語版の記事に依拠)", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "キューバの伝統的な主要産物は、砂糖、ニッケル、海産物である。キューバ革命以前のキューバ経済は、大土地所有制、資本従属、サトウキビの単一栽培(モノカルチャー)など、植民地的な経済構造の特徴が取り揃えられていた。具体的には、国民総生産の約25%、総輸出額の80%を砂糖が占めていた。また、砂糖生産の60%以上がアメリカ資本に依存しており、砂糖は輸出量の4分の3がアメリカに輸出されていた。ほかにも、土地所有者の8%が、総土地面積の70%以上を所有していた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "革命以後、フィデル・カストロは農地改革と土地国有化を断行して計画経済を推進した。計画では、特に行政・サービス部門の増大が図られ、あわせて工業・貿易が占める比率が高められた。1961年から、政府は単一栽培農業の脆弱性を克服し、工業化を進めるために経済開発計画を推進した。そして1970年代に入ると、工業開発と砂糖生産の増大によって、社会総生産の成長率は年平均9.6%(1970年 - 1976年)を記録した。しかしその後は、砂糖の国際価格下落、経済開発の遅延、慢性的な貿易赤字の発生、経済上の対ソ連依存度の増大などにより、経済成長は再び停滯した。そのため、政府は1981年から国民の消費生活向上に重点を置くようになった。1990年代初頭、経済的に依存していたソ連圏の崩壊で、キューバの経済事情は悪化した。特に、1989年まで続いた年間1,300万トンに及ぶソ連の原油供給が中断したことで、キューバ経済は多大な打撃を受けた。また、アメリカの相次ぐ経済制裁法(1992年のトリチェリ法、1996年のヘルムズ・バートン法)により、一時は食糧不足にも苦しめられた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "この厳しい状況から脱却を図るため、政府は経済・財政改革措置を実施し始めた。具体的には、1993年より外貨所持と使用の解禁、独立採算制の農業組合制度の設立承認、自営業の一部許可といった措置を開始し、1995年には外資が100%出資した企業の設立を認定する新外資法を採択した。また、1997年5月には国内4か所に自由貿易地帯を創設し、2001年にはカリブ海沿岸国と自由貿易協定を締結した。ほかにも、観光・資源部門での外資誘致を積極化し、農業分野においてはモノカルチャーの砂糖生産依存から脱皮を図るべく、有機農業へのシフトが顕著となった。一連の経済政策により、1994年以降のキューバは長年の経済沈滞から脱して経済が成長し始めた。しかし、2000年代前半に生じた原油価格高騰や、アメリカ同時多発テロ等の影響、さらには2002年に生じた砂糖価格暴落とベネズエラの政変による石油供給中断などにより、キューバは2002年に経済難を経験し、同年の経済成長は1.1%であったが、2003年は2.6%、2005年には「革命史上最高」の11.8%の経済成長を達成した。しかし、2008年8月に日本向け債権の一部で債務不履行(デフォルト)が発生したことが明らかとなった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "現在でもキューバ経済の中心は砂糖で、基本的には砂糖のモノカルチャー経済から脱却することができていない。ただし、有機農業の増大によって、最近では日本の生協などとの農産物取り引きも行われるようになっている。タイマイを食用として捕獲していることから、1990年代後半には副産物である鼈甲を対日輸出する計画が持ち上がった。このため、ワシントン条約の会議などで輸出を認めるよう各国に説得をして回った時期があった。砂糖以外の主産品としては、第2の輸出品としてニッケルがあり、その輸出量は輸出総額の約10%を占めている。また医薬品系(B型肝炎ワクチンなど)の輸出も10%強をしめている。また、近年では観光業に力を入れ、観光客数がここ数年で年平均18.6%の高成長を遂げたことから、観光業はキューバ最大の外貨獲得源となっている。観光収入は1996年時点で13億米ドルに達しており、2003年は観光客数190万人、観光収入23.2億ドルを記録している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "2011年4月において危機的状態が続く経済を再建するため、市場経済が部分的に導入されることが決まった。食料配給の段階的廃止、不動産の所有権と売買を認めるなど、大きな改革が5年以内に実施される。労働者用の無料食堂はすべて閉鎖された。同年9月にはタバコの配給が停止、禁止されていた自動車売買も同10月に自由化され、住宅の売買も11月に解禁された。人件費支払いが困難なため、2012年3月までに公務員の50万人のレイオフも行われる。失業者の受け皿として自営業の免許を25万人分発行することが決まった。現在の労働者は公務員約470万人、民間労働者約60万人(大半が農家)である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "経済活性化のため、2008年には自営業を許可する業種を拡大。レストランや民泊などの開業が相次ぎ、自営業者は2008年の約14万人から2017年には約58万人へと増えた。開業には納税のほか政府への登録料支払いが必要で、負担を嫌って無許可で開業する国民もいる。自営業で成功した富裕層や、富裕層向け店舗・サービス業(美容室やエステ、ペットショップなど)も出現している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "キューバに経済制裁を科しているアメリカを除いて、外国人観光客や外国資本の進出も増えている。ハバナ旧市街や海浜リゾート地には大型ホテルが建設された。ハバナ近郊には100%外資の操業を認めるマリエル特別開発区(ZEDM)が整備されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "厳しいながらも1990年代末からプラス成長を維持してきたキューバ経済は2016年、それまで最大の貿易相手国であったベネズエラの政治・経済混乱で、23年ぶりのマイナス成長となった。国際連合ラテンアメリカ・カリブ経済委員会の推計・予測では、2017年は0.5%のプラス成長に戻し、2018年も1%の経済成長率が見込まれている。アメリカのトランプ政権が再びキューバに対して厳しい姿勢を示しているものの、ヨーロッパ諸国からの進出企業や観光客が増えているほか、中国との貿易が拡大しているためである。外国からの渡航者は2016年に前年比14%増え、初めて400万人台(うち米国からは28万人)に乗せた。外国人観光客の来訪には空路のほか、ハバナ港に寄港するクルーズ客船も利用されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "アメリカ政府の発表によればキューバ国民1人あたりの月収は15ドルほどである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "1994年以降2種類の法定通貨が存在したが、2021年1月1日よりキューバ・ペソ(ペソ・クバーノ)へ一本化された。レートは1米ドル=24ペソに固定されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "1994年から2020年12月1日までは外貨兌換券である兌換ペソも法定通貨のひとつとして、主に外国人や観光業で使用されていた。兌換ペソは米ドルと等価とされ、政府公式のレートでは兌換ペソとキューバ・ペソも等価とされていた。しかし民間のレートは1兌換ペソ=24キューバ・ペソであり、持つ「ペソ」の違いで経済格差ができていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "キューバでは、鉄道が砂糖輸送の重要な交通手段として使われているほか、国土の中央を東西に貫通する高速道路が建設されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "また、ハバナからフラッグ・キャリアのクバーナ航空が複数のキューバ国内線および、メキシコ、スペイン、ロシアなどへとつながる定期国際航空路を運航しているほか、諸外国の多くの航空会社も乗り入れている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "キューバは16世紀中にスペイン人の苛政によってインディオが絶滅したため、現在は白人系市民と黒人系市民および少数のアジア系移民で成り立っている。住民の人種構成は、ムラートが37%、欧州系白人が51%(おもにスペイン系)、黒人が11%、中国系が1%であると推定され、他にもメスティーソ、レバノン人がおり、中国人やレバノン人、東インド諸島の植民者のコミュニティがある。キューバ政府は、「人種別の統計は、人種差別につながる」ことを理由に、人種別の統計を取っていない。ただし、推計値では徐々に混血が増加する趨勢となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "キューバの白人は19世紀から20世紀の間に移民としてやってきたスペイン人のほかに、フランス人、アイルランド人、ドイツ人(ドイツ系キューバ人)、イタリア人、ポーランド人などを根に持つ。また、アジア系の市民として中国系キューバ人や戦前移民した日系キューバ人も少数存在する。1903年から1933年までの間に72万人のスペイン人、19万人のハイチ人、12万人のジャマイカ人、その他少数の中国人、アメリカ合衆国人移民があった。しかし、これらの移民の多くは定住せず帰国した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "1959年のキューバ革命によって成立した現政府の政策により、ラテンアメリカ地域特有の、スペイン植民地時代から続いてきた人種に基づく伝統的階級社会は破壊され、多くの白人支配層や中産階級がアメリカのフロリダ州や西ヨーロッパに亡命した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "公用語はスペイン語(キューバ・スペイン語)である。しかし、観光業に力を入れていること、アメリカ本土に近いこと、そして公教育の普及率が高いことなどから、ホテルやレストラン、都市部などでは英語が通じることもある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "宗教の信仰は原則として自由であるが、今では無信教者が人口の55%にまで達している。キューバでもっとも重要な宗教はカトリックであり、キューバ革命以前は人口の70%以上が教徒であった(1957年)。しかし、フィデル・カストロ政権下で信者数は約40%まで減少し、政府から反革命活動をしていないとみなされる必要があるなど、現在でも教会の布教活動には政府による制約がなされている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "その他の宗教には、プロテスタント、エホバの証人、ユダヤ教、イスラム教、そして民族固有の宗教であるサンテリアなどがあげられる。東部ではハイチからの移民によってヴードゥー教も信仰されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "日本発祥の宗教として、社会主義国としては珍しくSGIのキューバ支部(キューバ創価学会)が存在している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "キューバ革命後、政府は教育・社会福祉部門に対する投資率を高め、関連予算額が国家予算の16%を占めるようになった。その結果、教育の無料化と非識字率の大幅な低下といった成果を上げた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "キューバでは、フィデル・カストロの「アメリカに半植民地にされたのはアメリカのプロパガンダを国民が見抜けなかったから」という考えから、教育に国を挙げて力をいれている。初等教育は義務教育となっており、小学校では20人学級やサブティーチャー制を導入している。2002年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は全体で99.8%であり、これはアルゼンチン、ウルグアイ、チリと並んでラテンアメリカ内では最高水準である。また、国民の大半は高等学校を卒業している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "おもな高等教育機関としてはハバナ大学(1728年創立)などが挙げられる。高等教育は、19万1,262人(2001-2002年度)の学生が受けている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "キューバの学校教育においてはスポーツにも力を入れており、特に野球は小学校から大学までの必修科目として取り入れられており、キューバではもっともポピュラーなスポーツとなっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "キューバの医療制度はプライマリ・ケアを重視した医療制度を採用し、独特の社会福祉政策と同様「キューバ・モデル」として有名である。世界保健機関が発行するWorld Health Statistics 2014年度版によると、医療費の公費負担率は2000年度は90.8%、2011年度は94.7%である。2022年時点ですべての医療・教育費は子供から大人まで無償となった。人口1万人中の医師数が67.2人と世界でもっとも多いグループに属する。ファミリードクター制を採用し、各地区に配置された医師が地域住民の健康状態の把握を行っている。家庭医は往診が基本である。被災地への医師の海外派遣も積極的に行っている。これらは、マイケル・ムーア監督の映画『シッコ』で紹介された。キューバの所得水準は世界銀行の定義ではUpper Middle Income Countryに分類され、世界保健機関の年次報告書であるWorld health Statistics 2014年度版によると、世界保健機関が指標として定める妊産婦死亡率、新生児死亡率、乳児死亡率、乳幼児死亡率、成人死亡率は、Upper Middle Income Countriesの平均値よりは低いが、High Income Countriesの平均値よりは高く、平均寿命、平均健康寿命はUpper Middle Income Countriesの平均値よりは高いが、High Income Countriesの平均値よりは低い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "ディエゴ・マラドーナ、モハメド・アリが治療しにきた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "キューバ国民は全員が配給手帳を所持しており、毎日配給を受ける。ただし配給といっても無料ではなく、国家による生活物資の超低価格販売である。配給所は街の随所にある。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "キューバ国民が海外に出国する方法は大きくわけて四種類あり、", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "である。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "なお、2.以降は取得が困難であるためキューバ人の多くは外国人観光客らと親しくなり、招待状を入手しようとしている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "かつては社会主義国で貧富の差が小さいこともあり、キューバの治安は良好とされていたが近年は外国人観光客や外国人居住者を狙った強盗、ひったくり、スリ、置き引きなどの事件及び比較的裕福なキューバ人や商業施設を狙った強盗・窃盗事件が発生し、治安は悪化の一途を辿っている。特に2種類の換金レートを悪用した両替詐欺や混雑した場所におけるスリ、バッグのひったくりをはじめ、目を離した隙を狙った置き引き、デジタルカメラ及び携帯電話の寸借持ち逃げ事件が多発している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "日中は観光客の多いハバナ旧市街周辺(特にモロ要塞やカバーニャ要塞周辺で被害が多発)、セントロハバナ周辺等の観光名所で外国人観光客を狙ったスリや置き引き等が発生しており、夜間にはハバナ中心部の比較的人通りの少ない暗い道でひったくりや強盗及び殺人事件が発生しているため、治安の低さによる危険性が今後も高くなりつつあることを留意しなければならない。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "通信社は国営のプレンサ・ラティーナに一元化されている。国内でもっとも読まれている新聞は、キューバ共産党の機関紙『グランマ』で、スペイン語と英語のウェブサイトを運営している(外部リンク参照)。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "キューバは現在でも「キューバ共産党の一党独裁下にあり、言論の自由に制限がある」とされる。これがアメリカ政府によるキューバ制裁継続の一因となっている。フランスに本部を置くジャーナリストの国際的非政府組織「国境なき記者団」が2005年に発表した「世界報道自由ランキング」では、キューバのランクは調査対象の167か国・地域中161位にとどまり、政府の意向に沿わない独立系ジャーナリストの逮捕・投獄・虐待が行われていると指摘されている。2006年5月にはアメリカに本部がある国際非営利団体「ジャーナリスト保護委員会」が発表した検閲国家ワースト10のリスト」でキューバが7位に挙げられた。また、国外からの情報を遮断するためにネット検閲が導入されている。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "インターネットへの接続自体は2009年の解禁以降、環境が徐々に整備されてきた。公園など全国約500か所で公衆無線LAN(規格はWi-Fi)で有料接続でき、2017年10月には国営通信会社エテクサが一般家庭向け接続サービスの開始を発表した。国際電気通信連合(ITU)の統計によると、2017年時点でキューバ国民のネット利用率は38%。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "米Googleの協力で首都ハバナに2016年開設された唯一のインターネット無料利用センターが接続できなくなっているなど(2018年2月時点)、低所得層を中心にネット利用には依然制約が多い。アメリカ政府はキューバの民主化を促す手段としてインターネットを重視しており、オバマ政権時代にネット関連機器の輸出規制を緩和した。トランプ政権は2018年1月、国務省にキューバでのネット普及を支援する特別部署を設置した。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "1940年代、ラジオ局のCM-21PとRHC-Cadena Azulが近々、テレビ放送を開始すると発表したがテレビ局の設立と放送網の構築するにあたって莫大な費用で複雑であったことから予想より大幅に時間がかかった。 1946年12月、ラテンアメリカで初めて、CM-21Pが試験的にマルチポイントでの放送を行った。 1950年10月、ユニオンラジオが開局した後、次々と開局し同月25日に商業用としてテレビが導入されたことによってカリブ海地域では初めて、ラテンアメリカでは2番目に放送を開始した国となった。同年、12月18日にCMQ-TVがチャンネル6で放送を開始。(正式にCMQとしては翌年3月11日。)また、ユニオンテレビが10月下旬にキューバリーグ冬季野球大会の第一試合を生中継したことにより野球がキューバの国民的娯楽として確立するきっかけとなった。この頃は、報道・料理・コメディと多様な番組がありテレビは16インチ350ドルから30インチ2000ドルと高価なものであったが、1952年までに10万台以上が輸入され普及した。 1952年3月10日、フルヘンシオ・バティスタによるクーデター成功によって検閲が行われた。同年、フィデル・カストロによるモンカダ兵営に対して攻撃が行われたため検閲が強化され1953年10月24日まで続いた。再び始まったのはキューバ革命終結後の1959年である。政府は放送網を整備を始めカマグエイに地方局チャンネル11を開局させ翌年、CMQチャンネル6から「CMQ」の名を外した。1961年にはチャンネル6と民間放送のチャンネル4とチャンネル2の広告を終了させた。 1958年3月19日、チャンネル12の「TELECOLOR SA」が16時間に亘るカラー放送を開始したことにより、アメリカに次いで世界で2番目にカラー放送を開始した国となった。 2022年の時点で国営が5局、デジタル放送専門が2局、HDデジタル放送が4局がある他、多数の地方局がある。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "インターネット", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "1994年6月、アメリカのスプリントとの64KBit/s通信との確立した後、インターネットの拡大は頓挫した。要因としてソ連崩壊によるキューバ経済の低迷や米国の対キューバ禁輸措置による海底ケーブルの敷設の遅滞やコンピュータとその周辺機器の価格高騰により入手が困難となったことが考えられる。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "2009年、オバマ大統領がアメリカ企業がキューバに対してのインターネットサービスの提供を許可することを発表したのち、通信を促進するため規制を修正する動きがあったがキューバ政府はベネズエラ政府と協力とのを望み拒否した。同年、テレキューバにフロリダ州キーウェストとハバナの海底ケーブルを敷設の認可が下りていたが、双方の政治的配慮により事業が滞った。 2008年までパソコンや携帯電話の個人所有は政府の許可が必要であったが、合法化されたことで63万台以上が利用可能なったものの帯域幅が限られているために企業・学校・研究所など集団で使用される施設を優先とした。その後のネット利用者の推移は2012年に総人口の約30%、2016年7月には38.8%(433万4022人)、2022年時点で総人口の68%が利用している。 ベネズエラとの通信は2011年に光ファイバーが敷設され2013年1月に一般利用者への利用が可能となった。 2015年、政府は国内35ヶ所にWi-Fiスポットを開設し、2018年3月にほとんどの主要都市に拡大し全国約500ヶ所となった。 2018年、年末までにモバイルでのインターネットサービスを提供する計画を掲げ、12月に計画を始動させ2019年に限られた地域で4G通信が始まった。 2019年7月29日、家庭や企業でのプライベートのWi-Fiを合法したものの許可を得る必要がある。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "キューバ国民の大半がスペインかアフリカからの移民であるため、キューバの文化はスペインと、アフリカの特にヨルバ(現在のナイジェリア)の伝統文化から影響を受け、それらが混交しているという特徴がある。なお、キューバは、国民の映画鑑賞が盛んな国でもある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "キューバ料理はスペインとアフリカの影響が強く、米、豆、豚肉を多用する。代表的な料理としてはコングリス(豆ご飯)、トストーネス(青バナナのフライ)などが知られる。また、ラム酒とコーヒーが広く飲まれている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "19世紀においては、前期にホセ・マリア・エレディアが活躍し、ロマン主義の文学運動においてヘルトゥルディス・ゴメス・デ・アベジャネーダとシリロ・ビリャベルデが活躍した。19世紀後半に汎イスパノアメリカ的な規模での文学運動となるモデルニスモ文学が隆盛を迎えると、キューバからは独立運動家であり、詩人でもあったホセ・マルティによって『イスマエーリョ』などのモデルニスモ的な詩や、『我らのアメリカ』(1891年)などの重要な評論も発表された。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "20世紀に入ると、ムラートの詩人ニコラス・ギジェンによって1930年代にソンの形式を取り入れた詩が作られ、アフロ・キューバ文学が確立された。その後、アレホ・カルペンティエルによってハイチ革命を描いた『この世の王国』(1949年)などが発表された。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "革命後は、1971年のパディーリャ事件のような革命政権による文学者への弾圧のため、カルペンティエルを例外として多くの作家がキューバを去り、亡命先で執筆を続けた。著名なキューバ人作家としては革命後に亡命し、反フィデル・カストロ運動と『三頭の悲しき虎たち』で知られるギリェルモ・カブレラ=インファンテや、ホセ・レサマ・リマ、レイナルド・アレナス、ビリヒリオ・ピニェーラ、セネル・パスなどが挙げられる。特にアレナスは亡命先のニューヨークで魔術的リアリズムの傑作として知られる『めくるめく世界』などを残している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "また外国出身者でありながらキューバの文学運動に多大な影響を与えた人物として、キューバをこよなく愛したアメリカ合衆国のアーネスト・ヘミングウェイが挙げられる。そのほかにも、アルゼンチン出身でキューバ革命の指導者の1人であり、紀行文の『モーターサイクル・ダイアリーズ』や革命中のゲリラ戦の経験をまとめた『ゲリラ戦争』(1961年)、『ゲバラ日記』で知られ、閣僚を務めたこともあるエルネスト・チェ・ゲバラは文学においても名高い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "代表的な画家としては、20世紀半ばに活躍し、アフロ・キューバ美術を再発見したウィフレド・ラムが挙げられる。革命後はラウル・マルティネスらによってキューバの人民革命を鼓舞するプロパガンダ・ポスターが製作された。現在はホセ・ベディア・バルデスの『アメリカ大陸年代記』など、西欧近代文明の限界に挑戦する美術運動が進んでいる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "キューバ音楽は、スペイン系とアフリカ系の音楽が融合して生まれたものをベースにいろいろな要素が混じり合って生まれており、ラテン音楽の中枢的な存在となる。アメリカ合衆国のジャズなどとともに20世紀の大衆音楽に大きな影響を与えた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "代表的なキューバ音楽は、スペインのギターとアフリカの太鼓を組み合わせたヨルバ系文化の影響が強いルンバやソンがある。そのほか、大衆音楽の中には、トローバやダンソンのようにヨーロッパ音楽の要素が比較的強く残っているものもある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "19世紀にフランスのジョルジュ・ビゼーがハバネラのリズムを取り入れたときからキューバ音楽の世界への拡大は始まっていたが、キューバ音楽は、まず1930年にソンがアメリカで紹介され、1930年代以降、アメリカを中心に世界中に広まった。ただし、その際にソンが「ルンバ」として紹介されたため、元来のルンバと「ルンバ」と呼ばれるソン(現在でも社交ダンスで「ルンバ」と呼ばれるものは、このソンである)を区別する必要がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "1950年代には、マンボやチャチャチャが世界的に流行したが、1959年のキューバ革命後はアメリカとの国交が途絶え、また経済封鎖のためもあり、キューバ音楽が世界に広がる経路が狭まった。ただし、スペイン語圏諸国においては影響を持ち続けた。この1970年代から80年代にかけては、革命後のキューバで若い世代のムーブメントとして起こったヌエバ・トローバが、ラテンアメリカにおいては、社会現象といえるほどの人気と影響力を得た。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "また、アフリカ的なリズムの素養、ソ連とのつながりによるクラシック的な技術体系が反映されたジャズ演奏者のレベルは非常に高く、70年代の後半にグラミー賞を受けたイラケレ、1990年代に一世を風靡したゴンサロ・ルバルカバ、チューチョ・バルデース(イラケレのリーダー)など、数々のハイレベルなミュージシャンを生んでいる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "冷戦後、1990年代になると、ロス・バン・バン、アダルベルト・アルバレス・イ・ス・ソンなど、ニューヨーク・サルサのセンスも取り入れたソンのグループが次々に現れ、大きな人気を獲得。また、ヨーロッパなどで公演する演奏家も増加した。1990年代末には古老ミュージシャン達を扱った映画(1998年のヴィム・ヴェンダース監督作品『ブエナビスタ・ソシアル・クラブ』)が世界的なヒットとなったこともあり、経済封鎖自体はまだ続いているものの、アメリカ系大手レコード会社が次々にキューバの音楽家と契約し、来日公演なども増加するなど、キューバ・ブームといってよいほどの活況を呈している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "さらに21世紀に入って、中南米スペイン語圏およびアメリカのプエルトリコ系で一大ムーブメントとなったレゲトン (Reggaeton) がキューバにも本格的に到来、レゲエとヒップホップ、そしてキューバ音楽が融合したクバトン(en:Cubaton)が誕生し、キューバの若い世代に強く支持されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "2001年には西側ロックバンドの公演が許可され、マニック・ストリート・プリーチャーズがカール・マルクス劇場でライブを行った(フィデル・カストロも訪れている)。これ以降はカール・マルクス劇場で海外のバンドの公演が行われるようになった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "キューバにおける建築は折衷的かつ多様な建築で有名となっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "キューバは、ラテンアメリカの映画大国であるブラジル、アルゼンチン、メキシコには及ばないものの、域内では映画制作が盛んな国のひとつである。革命前のキューバの映画産業は脆弱なものだったが、1959年に映画芸術産業庁(ICAIC)が設立されて以来、キューバ独自の映画への取り組みが始まった。ラテンアメリカ初の映画学校が開設されたのもキューバであり、1986年にハバナ国際映画テレビ学校(EICTV)が設立されてからはガルシア・マルケスを筆頭にラテンアメリカ最高峰の人材が映画製作を教えている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "著名な映画人としては、イタリアのネオレアリズモに影響を受け、ブラジルのネルソン・ペレイラ・ドス・サントス、アルゼンチンのフェルナンド・ビッリとともに新ラテンアメリカ映画運動の火付け役ともなった『エル・メガノ』(1955年)のフリオ・ガルシア・エスピノーサや、『ルシア』(1968年)のウンベルト・ソラス、『低開発の記憶』(1970年)、『苺とチョコレート』(1993年)のトマス・グティエレス・アレア、『永遠のハバナ』(2003年)のフェルナンド・ペレスが挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "植民地時代からカトリックの暦に合わせてカーニバルが行われており、特にサンティアーゴ・デ・クーバとハバナのカーニバルは規模が大きい。コンパルサやコンガと呼ばれるチームが楽器と歌と踊りを交えて道路を練り歩く。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "キューバ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が2件存在する。詳細は、キューバの世界遺産を参照。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "キューバ国内では社会主義国の利点を生かして、国家による選手育成が幼年期から一貫して行われている。また高い医療水準にも支えられ、キューバ選手は夏季オリンピックを中心に輝かしい成績を収めてきた。人口比での金メダル数は世界トップクラスであり、2004年アテネオリンピックでは9個を獲得した。さらに社会主義国のためにイデオロギーがスポーツに優先する国情があり、かつてはオリンピックのボイコットも行った。現在でも、特にアメリカとの関係で国際大会への参加に支障が出る場合がある。キューバがスポーツの中で特に力を入れるのは、各オリンピックで金メダルを量産しているボクシングや野球やフェンシング、それに女子のバレーボールである。さらに柔道やレスリング、陸上競技の跳躍系種目でも好成績を収めている。一方でバスケットボールなどの成績は振るわず、冬季オリンピックには参加経験そのものがない。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "さらにキューバでは「オリンピックスポーツ選手」が「スポーツ選手」のステータスであり、野球代表等はその下に位置する。なお、すべてのスポーツ選手はアマチュアの国家公務員(いわゆるステート・アマ)であり、国内では一般国民と比較して好待遇が与えられている。特に金メダリストは国家英雄として称賛されるが、アメリカなどのプロ選手と比べるとその報酬額ははるかに少ない。そのため、有力選手の中にはアメリカへの亡命者も出現する。また亡命に失敗した選手は国際大会への派遣が行われず、キューバ選手団は常に外部との接触を厳しく制限されながら競技会に参加するという弊害も起こっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "キューバでサッカーのイメージは一見無いものの、実はサッカーキューバ代表はFIFAワールドカップには1938年大会に1度だけ出場を果たしている。さらにCONCACAFゴールドカップには10度も出場しており、これまでに3回ベスト8に進出した事もある。また、カリビアンカップでは2012年大会で初優勝を達成している。なお、1912年にはサッカーリーグの『カンペオナート・ナシオナル・デ・フットボール・デ・キューバ』も創設されている。", "title": "文化" } ]
キューバ共和国/レプブリカ・デ・クバ/、通称キューバは、カリブ海の大アンティル諸島(西インド諸島の一部)に位置する共和制国家。首都はハバナ。人口は10,985,974人 (2023年現在)。 キューバ共産党による一党独裁体制が敷かれている。政治思想としてはマルクス・レーニン主義(ソ連のスターリンが考案)とホセ・マルティ思想を採用している。
{{基礎情報 国 |略名=キューバ |日本語国名=キューバ共和国 |公式国名={{Lang|es|República de Cuba}} |国旗画像=Flag of Cuba.svg |国章画像=[[ファイル:Coat of Arms of Cuba.svg|100px|キューバの国章]] |国章リンク=([[キューバの国章|国章]]) |標語={{Lang|es|¡Patria o Muerte, Venceremos!}}<br>(スペイン語:祖国か死か、我々は打ち勝つ!) |位置画像=Cuba (orthographic projection).svg |公用語=[[スペイン語]]([[キューバスペイン語]]) |首都=[[ハバナ]] |最大都市=ハバナ |最高指導者等肩書=[[キューバ共産党|共産党第一書記]] |最高指導者等氏名=[[ミゲル・ディアス=カネル]] |元首等肩書=[[キューバの国家元首|大統領]] |元首等氏名=ミゲル・ディアス=カネル |首相等肩書=[[キューバの首相|首相]] |首相等氏名=[[マヌエル・マレロ]] |他元首等肩書1=[[キューバの副大統領|副大統領]] |他元首等氏名1={{仮リンク|サルバドール・バルデス・メサ|en|Salvador Valdés Mesa}} |他元首等肩書2=[[人民権力全国会議|人民権力全国会議議長]] |他元首等氏名2={{仮リンク|エステバン・ラソ・エルナンデス|en|Esteban Lazo Hernández}} |面積順位=103 |面積大きさ=1 E11 |面積値=110,860 |水面積率=極僅か |人口統計年=2022 |人口順位=83 |人口大きさ=1 E7 |人口値=1125.6万<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/cu.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-7}}</ref> |人口密度値= |GDP統計年MER=2019 |GDP順位MER=62 |GDP値MER=1031億3100<ref>{{Cite web|url=https://data.worldbank.org/indicator/NY.GDP.MKTP.CD?locations=CU|title=World Bank Open Data|publisher=[[世界銀行|THE WORLD BANK]]|language=英語|accessdate=2021-11-7}}</ref> |GDP MER/人= |GDP統計年= |GDP順位= |GDP値= |GDP/人= |建国形態=[[独立]]<br>&nbsp;- 日付 |建国年月日=[[アメリカ軍]]軍政より<br>[[1902年]][[5月20日]] |通貨=[[キューバ・ペソ]] |通貨コード=CUP |時間帯=-5 |夏時間=-4 |国歌= [[バヤモの歌|{{lang|es|La Bayamesa}}]]{{es icon}}<br/>''バヤモの歌''<br/>{{center|[[file:United States Navy Band - La Bayamesa.ogg]]}} |ISO 3166-1=CU / CUB |ccTLD=[[.cu]] |国際電話番号=53 |注記= }} {{スターリニズムのサイドバー}} {{共産主義のサイドバー}} {{社会主義}} '''キューバ共和国'''(キューバきょうわこく、{{lang-es-short|República de Cuba}})/レプブリカ・デ・クバ/、通称'''キューバ'''は、[[カリブ海]]の[[大アンティル諸島]]([[西インド諸島]]の一部)に位置する[[共和制|共和制国家]]。首都は[[ハバナ]]<ref>{{Cite web|和書|title=キューバ基礎データ |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cuba/data.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |accessdate=2022-02-20 |language=ja}}</ref>。人口は10,985,974人 (2023年現在) 。 [[キューバ共産党]]による[[一党独裁制|一党独裁]]体制が敷かれている<ref>[https://web.archive.org/web/20200316154343/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020031600155&g=int 時事通信「マスク、なければ自作を」 キューバ、米制裁などで調達難―新型コロナ]</ref>。政治思想としては[[マルクス・レーニン主義]]([[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]が考案)と[[ホセ・マルティ]]思想を採用している。 == 概要 == [[1492年]]に[[クリストファー・コロンブス|コロンブス]]がキューバに来島し、[[1511年]]に[[スペイン]]に征服された。[[1898年]]の[[米西戦争]]のスペインの敗戦で[[アメリカ合衆国]]の軍政下に入り、[[1902年]]に独立したが、[[1934年]]まではプラット修正条項に基づき事実上アメリカの[[保護国]]だった。その後も[[親米]][[政権]][[フルヘンシオ・バティスタ|バティスタ]]政権のもとアメリカの影響下にあったが、[[1959年]]の[[キューバ革命]]で[[ソビエト連邦]]の影響下の[[社会主義国]]に転換された<ref name="mypdia">[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%90-52279#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 百科事典マイペディア キューバ]</ref>。 政治体制は、[[1961年]]に革命前に存在した全ての政党が解散させられ、新党結成も禁止されて以降、[[キューバ共産党]]による[[一党独裁制|一党独裁]]体制が敷かれている。そのため[[複数政党制|多党制]]に基づく議員選挙や大統領選挙は存在しない<ref>[https://www.ide.go.jp/library/Japanese/Publish/Periodicals/Latin/pdf/150204.pdf キューバ政治体制の構造と展望 山岡加奈子]</ref>。革命を指導した[[フィデル・カストロ]]による統治が革命以来[[2008年]]までの長期にわたって続いた<ref name="mypdia"/>。[[エコノミスト]]誌傘下の研究所[[エコノミスト・インテリジェンス・ユニット]]による[[民主主義指数]]は、世界143位と下位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)<ref>[https://www.eiu.com/topic/democracy-index EIU Democracy Index - World Democracy Report]</ref>。また[[国境なき記者団]]による[[世界報道自由度ランキング]]も171位と下位であり、最も深刻な国の一つに分類されている(2020年度)<ref>[https://rsf.org/en/ranking/ 国境なき記者団公式ホームページ]</ref>。 人権状況について[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]は、政府が反対意見を抑圧するため、日常的に批評家や活動家、抗議者などを恣意的に拘禁していることを指摘している<ref name="hrw">{{Cite web|和書|title=キューバ {{!}} Country Page {{!}} World {{!}} Human Rights Watch|url=https://www.hrw.org/ja/americas/kiyuha|work=[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]|accessdate=2021-01-14}}</ref>。 外交面では革命直後にアメリカ資本企業を国有化したことを発端に[[1961年]]にアメリカとの関係が途絶。以降アメリカから[[米国の対キューバ禁輸措置|制裁]]を課されて対立関係となった。[[1962年]]にはソ連の中距離[[ミサイル]]が持ち込まれ、アメリカが海上封鎖を実行して[[ソビエト連邦|ソ連]]に断念させた「[[キューバ危機]]」が発生している<ref name="mypdia"/>。[[ベネズエラ]]など[[ラテンアメリカ]]地域の[[反米]][[左翼|左派]]政権との関係を密にしており<ref name="niponica"/>、アメリカからは[[1982年]]以来[[テロ支援国家]]に指定されていたが<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN1206Y0S1A110C2000000/ 日本経済新聞 米、キューバをテロ支援国に再指定 政権交代直前に]</ref>、[[2015年]]には[[バラク・オバマ]]政権下のアメリカと国交回復した<ref name="niponica">[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%90-52279#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ) キューバ]</ref>。その影響で一時テロ支援国家から外されたが、[[ドナルド・トランプ]]政権下で再度テロ支援国家に指定された<ref>[https://jp.reuters.com/article/usa-cuba-terrorism-list-idJPKBN29G2SP トランプ米政権、キューバをテロ支援国家に再指定 ロイター]</ref>。 経済面は[[サトウキビ]]栽培を中心とする農業国であり、製糖業が行われ、輸出の半分以上を砂糖が占めているが、輸出入の60%以上を頼っていたソ連が[[1990年]]に崩壊したことで経済的苦境に立ち、在外キューバ人の送金などが経済を支えている<ref name="mypdia"/>。アメリカとの国交回復で在米キューバ人のドル送金の大幅緩和を受けることに成功し、またソ連崩壊以来疎遠になっていた[[ロシア]]や[[中華人民共和国|中国]]との結びつきも強め、巨額の経済援助を受けている<ref name="niponica"/>。 軍事面では[[徴兵制]]が採用されており、4万9000人の兵力を持つ。軍事予算額は不明<ref name="gaimu">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cuba/data.html#section3 外務省 キューバ共和国(Republic of Cuba)基礎データ]</ref>。 人口は[[国際連合|国連]]によれば約1125.6万人(2022年7月現在)。先住民の[[インディオ]]はスペイン統治時代の初期のうちにほぼ絶滅し、代わりの労働力として導入された[[アフリカ]][[黒人奴隷]]の子孫が混血も含めて今日のキューバ住民の約30%を占め、残りは大部分がスペイン系白人である。他に[[中国人]]を中心としたアジア系住民も少数暮らしている<ref name="britanica">[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%90-52279 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「キューバ」]</ref>。公用語は[[スペイン語]]<ref name="mypdia"/>。[[宗教]]は[[カトリック教会|カトリック]]が大半を占める。[[教会 (キリスト教)|教会]]は「反革命活動」をしないことを条件に存続が許されている状況にある<ref name="niponica"/>。 地理としては[[西インド諸島]]最大の島[[キューバ島]]とその属島からなり、総面積は10万9884平方キロメートル。キューバ島は東西に細長く、大部分が平地と緩やかな起伏のある丘陵地からなっており<ref name="mypdia"/><ref name="britanica"/>、島の四分の一を占める山地は各地に散在し<ref name="britanica"/>、南東端の[[シエラ・マエストラ山脈]]中に同国最高峰の[[トゥルキーノ山]](2005m)がある<ref name="mypdia"/>。[[ウィンドワード海峡]]を隔てて東には[[イスパニョーラ島]]の[[ハイチ]]と[[ドミニカ共和国]]が<ref name="niponica"/>、南には[[イギリスの海外領土|英領]][[ケイマン諸島]]と[[ジャマイカ]]が存在する。西は[[ユカタン海峡]]を挟んで[[メキシコ]]の[[ユカタン半島]]と、北は[[フロリダ海峡]]を隔てて北に145キロ先のアメリカ合衆国[[フロリダ州]]([[フロリダ半島]])と向かい合う<ref name="niponica"/>。北東には[[バハマ]]や英領[[タークス・カイコス諸島]]が存在する。 == 国名 == 正式名称は[[スペイン語]]で{{lang|es|República de Cuba}}。通称{{読み|Cuba|クーバ}}。{{IPA-es|ˈkuba||Es-am-lat-Cuba.ogg}} 公式の[[英語]]表記は{{lang|en|Republic of Cuba}}。通称{{読み|Cuba|キューバ}}。{{IPA-en|ˈkjuːbə||en-us-Cuba.ogg}} [[日本語]]の表記は、'''キューバ共和国'''。通称、'''キューバ'''。スペイン語の原音に近い「クーバ」と呼ぶ人もいる。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字による当て字]]は、'''玖馬'''、'''玖瑪'''、'''久場'''、'''古巴'''など。[[中華人民共和国]]においては「古巴(Gǔbā)」と表記している。 国名は、[[カリブ海]]最大の島であるキューバ島からきており、「中心地」という意味の[[インディオ]]([[タイノ族]])の言葉である'''クバナカン'''{{efn|{{lang-es-short|Cubanacan}}、現在の[[オルギン]]}} が由来であるとされている。 == 歴史 == {{Main|キューバの歴史}} ヨーロッパ人の到来する以前のキューバには、[[南アメリカ]]の[[ギアナ地方]]から海を渡ってきた[[アラワク族]]系の[[タイノ族]]や、[[シボネイ族]]、[[カリブ族]]と呼ばれる[[先住民]]が暮らしていた。 === スペイン植民地時代 === {{See also|スペインによるアメリカ大陸の植民地化}} [[ファイル:Florida Moyne 1591.jpeg|thumb|220px|1591年のキューバと[[フロリダ半島]]の地図]] 1492年10月27日、キューバ島は[[クリストファー・コロンブス]]の第一次航海でヨーロッパ人に「発見」され、[[スペイン人]]による征服が始まった。キューバの住民は[[インド]]に到達したと思ったコロンブスによって「[[インディオ]]」([[インド人]])と呼ばれた。インディオたちは、スペイン人に支配された[[イスパニョーラ島]]から逃れてきた[[アトゥエイ]]に指導されてスペイン人への抵抗を続けたが、1511年、スペインの[[ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル|ベラスケス]]が率いる遠征隊によって征服された。その後も散発的な抵抗が続いたが、植民地化が進むにつれてスペイン人による[[虐殺]]、虐待や[[強制労働]]、[[疫病]]によってそのほとんどが絶滅したとされる。 スペイン人によるキューバの[[植民地]]化は同時に[[砂糖]]産業、[[奴隷貿易]]を盛んにした。インディオの悲劇とは別に、キューバは[[スペイン]]と中南米の中継地点として著しく発展を遂げた。ハバナは、[[メキシコシティ|メキシコ市]]や[[リマ]]に続く[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化|スペイン領アメリカ植民地]]第3の都市となり、[[大学]]や[[要塞]]が建設された。スペインによる開発は技術面で緩慢だった。 [[19世紀]]初め、[[シモン・ボリーバル]]や[[ホセ・デ・サン・マルティン]]、[[ミゲル・イダルゴ]]らの活躍により、大陸部のスペイン植民地はすでに独立していたが、キューバではそのように新たに独立した国から旧王党派が亡命し、スペイン本国は[[フィリピン]]、[[プエルトリコ]]などとともにわずかに残った最後の植民地キューバを決して手放すまいとして、キューバの駐留[[スペイン軍]]を強化した。 また、隣のイスパニョーラ島西部の[[フランス]]領[[サン=ドマング]]が[[ハイチ革命|ハイチとして独立]]したあと、王政や帝政への移行を繰り返して迷走し、ひどい混乱状態に陥っている様子が伝わってきた。このようなさまざまな事情が積み重なり、砂糖プランターだった[[クリオーリョ]]支配層はこの時期には独立を望まなくなっていた。 その後、サン=ドマングから逃げてきた[[フランス人]]農園主の技術が導入され、キューバでも大規模な奴隷制砂糖[[プランテーション]]が発達し、[[1840年代]]には世界最大の砂糖生産地となった。また、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると、砂糖に加えて[[葉巻きたばこ|葉巻]]の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、[[1830年代]]からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバの[[アメリカ合衆国]]編入を目指す運動も起きた(こうした動きは[[エルサルバドル|エル=サルバドル]]や[[ドミニカ共和国]]にもあった)。 === 独立戦争(1868年 - 1902年) === {{See also|近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立}} <!--[[ファイル:Antonio Maceo.jpg|thumb|left|「青銅の巨人」アントニオ・マセオ将軍。マセオ将軍は[[ムラート]]だったが、巧みな戦術により白人も含めた多くのキューバ人の指導者となった]]--> [[ファイル:JoseMarti.jpeg|thumb|[[ホセ・マルティ]]]] <!--[[ファイル:MartiJohnManuel K TRestauration.jpg|thumb|キューバ独立の父ホセ・マルティ。]]--> 最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めた[[カルロス・マヌエル・デ・セスペデス]]により1868年に始められた。これは[[第一次キューバ独立戦争]]として知られ、10年あまりにわたって続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦した。しかし、[[ムラート]]のアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを留めることはできなかった。 1892年、[[ホセ・マルティ]]をはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国の[[ニューヨーク]]を拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から[[第二次キューバ独立戦争]]が再発した。マルティは同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまできた。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫った1898年2月15日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の[[戦艦]][[メイン (ACR-1)|メイン号]]がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして同年に[[米西戦争|スペイン・アメリカ・キューバ戦争]]が勃発すると、[[アメリカ軍]]は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。 === 旧共和政時代(1902年 - 1959年) === 1898年に締結された[[パリ条約 (1898年)|パリ条約]]によってスペインの敗戦が決まると、スペイン植民地だった[[フィリピン]]、[[グアム]]、[[プエルトリコ]]は割譲されてアメリカの植民地となり、キューバでは降伏したスペイン軍と結んだアメリカ軍により軍政が敷かれた。 1902年5月20日にキューバ共和国は独立を達成した。400年に及ぶスペイン支配から解放されたかに見えたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国[[憲法]]の制定に際して、[[アメリカ合衆国議会]]は[[:en:Platt Amendment|プラット修正条項(Platt Amendment)]]を要求した。これにより、キューバはアメリカの[[内政干渉]]権を認め、[[グァンタナモ]]とバイア・オンダの2か所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの[[保護国]]となった。なおアメリカは1903年に[[グァンタナモ湾]]を永久租借した契約を盾に、1959年の革命政権の誕生後も今日に至るまで、グアンタナモに[[アメリカ海軍]]の[[グァンタナモ米軍基地|基地]]を置き続けている。 「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、製糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、早くも1906年に反乱として表面化し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に置かれた。反乱は1912年、1916年にも発生し、アメリカが介入する事態となった。キューバでは[[クーデター]]の発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。アメリカはやむなくプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなどした。 不安定な政治状況は、1933年から政治の主役を演じていた[[ムラート]]の[[フルヘンシオ・バティスタ]](Fulgencio Batista)軍曹が、1936年に政権の実権を握ったことで一定の安定を見せ、キューバ政府が社会経済の改革計画を実行できるまでになった。そして、1940年になると、バティスタの大統領就任と新憲法の公布により、ようやくキューバでは政治的緊張が緩和された。1944年の総選挙でバティスタが敗北したあと、キューバは[[国際連合]]設立(1945年)や[[米州機構]]設立(1948年)に参加した。しかし一方で、国内では砂糖の国際価格の不安定化と[[インフレーション|インフレ]]問題が重要課題として浮上し、政府が有効対策をとれなかったことで、社会不安が拡大した。 [[ファイル:1952Batista.jpg|thumb|[[フルヘンシオ・バティスタ|バティスタ]]大統領(1952年)]] 1952年にバティスタはクーデターで政権を奪取し、憲法を停止したうえで[[独裁政治]]{{要出典|date=2019年8月}}を開始した。2度目のバティスタ政権は1度目とは違い、腐敗、[[弾圧]]、独裁が続いた。{{要出典|date=2019年8月}} 1953年7月26日に、このようなアメリカによる半植民地状態の克服を夢見て、弁護士[[フィデル・カストロ]]率いる青年たちが蜂起([[モンカダ兵営]]襲撃)したが失敗に終わり、関係者は投獄された。1954年にバティスタは形式のみの信任選挙で再選を果たし、1955年の大統領就任と同時に憲法に基づく統治を復活させ、フィデル・カストロらの政治犯に恩赦を与えた。フィデル・カストロは恩赦によって出獄すると反政府組織「[[7月26日運動]](M26)」を結成、同志とともに[[メキシコ]]に亡命した。その後、砂糖の国際価格の安定によりキューバ経済の状況は改善されたが、バティスタの独裁体制は継続され続けた。 メキシコ亡命後、フィデル・カストロらはその地で[[グアテマラ革命]]の崩壊に立ち会った[[アルゼンチン人]][[医師]]の[[チェ・ゲバラ|エルネスト・“チェ”・ゲバラ]]と出会い、[[ゲリラ|ゲリラ戦]]訓練を受けたあと、1956年12月にヨット「[[グランマ号]]」に乗ってキューバに上陸した。その際、政府軍の攻撃でフィデル・カストロらは壊滅的打撃を受けたが、[[マエストラ山脈]]を拠点として政府軍へ2年あまりのゲリラ闘争を行った末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込んだ([[キューバ革命]])。 === キューバ革命(1959年 - 80年代) === [[ファイル:Manuel Urrutia2.jpg|thumb|マヌエル・ウルティア大統領、チェ・ゲバラ、[[カミーロ・シエンフエゴス]]]] 革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生した。その際に革命政権は発足後数週間のうちに軍事法廷で旧バティスタ政権関係者を裁き、およそ550人を処刑した。その後、2月半ばにフィデル・カストロが首相に就任すると、革命政権は一連の[[農地改革]]法を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めた。また、製糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業を[[国有化]]して、農業の集団化を実施するなど[[社会主義国]]の建設を推進した。この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ[[亡命]]した。 バティスタ政権を失ったアメリカは、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが、1959年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。アメリカに敵視されたキューバ革命政権は、当時続いていた[[冷戦]]による米ソ対立を背景に[[ソビエト連邦]]と接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。具体的には砂糖の購入や経済協力を織り込んだものとされる。 これによりアメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からのアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の進出企業を接収した。こうして、キューバ国内のアメリカ系大企業は国有化された。<!--石油精製会社、製糖会社、電話会社、銀行・商業・工業というあらゆる産業が対象となった。たとえば、精糖会社では[[ユナイテッド・フルーツ]]が国有化されたほか、1960年7月に国有化された米系企業としては、[[ロスチャイルド家|Rothschild]]-Samuel-Suignan(たばこ会社)、[[ゼネラル・モーターズ]]・アクセプタンス(産業金融)、[[オクシデンタル・ペトロリウム|オクシデンタル生命]]、[[アメリカン・インターナショナル・グループ]]、チェース・マンハッタンとファースト・ナショナル(現:[[JPモルガン・チェース]])<ref>桜井雅夫 ほか2名編 『発展途上国の外国系企業国有化 解説とリスト』 アジア経済研究所 1978年 100-106頁</ref>があげられる。--> 1961年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、対抗措置として少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のヒロン湾(英語ではピッグス湾)に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった([[ピッグス湾事件]]または[[プラヤ・ヒロン侵攻事件]])。この事件をきっかけにキューバは1959年の革命の[[社会主義]]化宣言を発し、本格的にソ連や[[東側諸国]]との結びつきを強めるようになった。 [[ファイル:CheinBolivia1.jpg|thumb|[[ボリビア]]におけるチェ・ゲバラ(1967年)]] 1962年2月3日、アメリカの[[ジョン・F・ケネディ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの[[経済封鎖]]を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連の[[弾道ミサイル]]基地の建設と[[ミサイル]]の搬入が明らかとなり、[[核戦争]]の危機となった。アメリカは、海上封鎖で対抗した。[[ソビエト連邦]]や'''キューバ'''は反発した。ソビエト連邦側からの申入れで交渉が行われ、アメリカがキューバへ侵攻しないことを条件に、ソ連がミサイルを撤去することに同意し、この危機は回避された<ref>{{Cite web|和書|title=「ウクライナ情勢 外交解決は?」(ここに注目!) |url=https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/300/460601.html |website=解説委員室ブログ |accessdate=2022-02-20 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=キューバ危機とは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%90%E5%8D%B1%E6%A9%9F-477288 |website=コトバンク |accessdate=2022-02-20 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,旺文社世界史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典 |last=第2版,世界大百科事典内言及}}</ref>。核戦争は回避したが、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化した。 1965年にアメリカとキューバは反体制派キューバ人のアメリカ亡命を認めることで合意し、1973年までに26万人以上がキューバを去った。1960年代のキューバは[[第三世界]][[非同盟運動|非同盟]]外交に基づいて[[世界革命論|世界革命]]を推進し、[[アジア]]、[[アフリカ]]、[[ラテンアメリカ]]各地に軍事顧問団を派遣した。[[ベトナム戦争]]を戦う[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]や、[[セク・トゥーレ]]政権の[[ギニア]]、[[ベン・ベラ]]政権の[[アルジェリア]]などと関係を深め、[[コンゴ民主共和国]]や[[ボリビア]]には[[チェ・ゲバラ]]率いるゲリラ部隊が派遣された。1967年にゲバラがボリビアで戦死したため、『[[ゲリラ戦争]]』で主張された[[マルクス・レーニン主義]]、チェ・ゲバラ=フィデル・カストロ路線に基づくラテンアメリカでの農村ゲリラ革命路線は失敗に終わった。ゲバラの死後のラテンアメリカ諸国の社会主義運動は、1970年の[[チリ]]における[[サルバドール・アジェンデ]]政権成立のように[[平和革命]]路線に移行し、キューバもそれまでの強硬路線に代えて、徐々に平和的変革を支持した。 1973年、[[中央情報局|CIA]]によって画策された[[チリ・クーデター]]でアジェンデ政権が崩壊し、ラテンアメリカの平和革命路線の限界が露呈した。キューバは国内の社会主義建設を制度化するために1976年憲法を制定し、社会主義化が法制化された。内政面では医療や教育に重点を置いた国造りが、文化面では[[キューバの映画|映画]]や美術やアフリカ系文化の復興運動が進み、外交面では多くが[[社会主義国]]として独立したアフリカの旧[[ポルトガル]]植民地や、社会主義化した[[エチオピア]]の戦争(内戦)に軍隊を派遣した。特に南部アフリカの[[アンゴラ]]に対しては1975年の独立前後から軍を派遣し、[[アンゴラ内戦]]が勃発すると、内戦に介入した[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の[[アパルトヘイト]]政権と戦うために最盛期には5万2,000人の兵力を派遣した。 1980年代に入り、エチオピアでの[[オガデン戦争]]とアンゴラ内戦はともに膠着状態に陥り、キューバの負担も増加した。そのためまずはエチオピアから撤退し、1988年のクイト・クアナヴァレの戦いのあと、アンゴラからも名誉ある撤退を求めて、南アフリカとの間にアメリカが提唱していたリンケージ政策を受け入れ、当時南アフリカ領だった[[ナミビア]]の独立と引き換えに撤退した。またカリブ海地域では1983年、島国[[グレナダ]]に軍事顧問や労働者を送って東側接近を支援したが、米軍の介入で頓挫した([[グレナダ侵攻]])。 === 冷戦終結以降(1991年 - 現在) === [[ファイル:Cuba.FidelCastro.02.jpg|thumb|[[ハバナ]]の革命広場にある[[ホセ・マルティ・メモリアル|ホセ・マルティ記念碑]]の前で演説する[[フィデル・カストロ]](2003年9月27日)]] [[冷戦]]が終結し、1991年に[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連が崩壊]]すると、それまでキューバ産砂糖とソ連製の[[石油]]をバーターで取引してきたキューバの経済構造の基盤は大打撃を受け、経済はかつてない規模の衰退に陥った。経済崩壊状態に陥ったキューバから脱出すべく、[[いかだ|筏]](バルサ)で米国[[フロリダ州]]を目指して亡命を図るバルセーロスと呼ばれる人々が増加した。亡命を希望しなかった人々の間でも1993年に[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]の所持が解禁されたため、米ドルを持てるものと持たざる者の間に格差が生まれ、それまでの平等主義体制に亀裂が入る結果となった。 深刻な経済衰退を受けて、政府は私的所有や国営企業の民営化などの経済競争の面での自由化を部分的に取り入れ、[[観光業]]の振興を軸に経済の再生を測った。民営化ではスペインなどの機関投資家を参加させた。このような政策は功を奏して、フィデル・カストロ政権は[[1990年代]]のもっとも困難な時期を乗り切り、[[キューバ共産党]]による[[一党制]]体制は維持されたものの、他方で1990年代を通して土地の私的所有や[[信教の自由|宗教信仰の自由]]などを認める各種の[[自由化]]が進んだ。この中には1995年制定の外国投資法もあった(2014年改正)。<!--なお、土地の私有化によって、[[ビルバオ・ビスカヤ・アルヘンタリア銀行|ビルバオ・ビスカヤ・パナマ]]が最初の[[モーゲージ]]貸付を行った<ref>''The Cuban Democracy Act of 1992, S. 2918: hearing before the Subcommittee on Western Hemisphere and Peace Corps Affairs of the Committee on Foreign Relations, United States Senate, One Hundred Second Congress, second session, August 5, 1992'', part4, p.76. "Banco de Bilbao Vizcaya Panama, S.A. holds a first mortgage on certain real estate as additional collateral on the line of credit."</ref>。--> 2000年代にかけてキューバは[[中華人民共和国]]との関係を深めた。また、ベネズエラの[[ウゴ・チャベス]]政権とは石油などにおける[[資源ナショナリズム]]を共有し、外交姿勢は社会主義を堅持している。 [[アメリカ合衆国下院]]は2003年9月9日、アメリカ人のキューバ訪問禁止解除の法案を可決(今回で4度目の可決、賛成227、反対188)。10月23日には上院も同趣旨の法案を可決(賛成59、反対38)。いずれも[[ジョージ・W・ブッシュ]]大統領の所属する[[共和党 (アメリカ)|共和党]]主導で行われた{{efn|連邦財務省の試算によれば、2002年に合法的にキューバを訪問した[[アメリカ人]]は約16万人で、うち半数はキューバ系アメリカ人、ほかに[[人権団体]]、教育関係者、[[ジャーナリスト]]、[[外交官]]など。それ以外に罰金・禁固刑のリスクをかえりみず、[[カナダ]]、[[メキシコ]]経由で違法にキューバ渡航する者も多いと[[アメリカ合衆国財務省|財務省]]当局はみている。[[ロナルド・レーガン]]大統領の時代、罰則は罰金25万ドル・10年の懲役刑へと引き上げられている。渡航禁止が解除された場合、初年度の渡航者は100万人に達すると財務省は試算した。}}。11月6日、[[アメリカ合衆国上院]]はさらに[[アメリカ合衆国上院外交委員会|外交委員会]]で渡航禁止解除を決議した。ブッシュ政権は2004年の大統領選に向け、大票田であるフロリダ州のキューバ系アメリカ人票をつなぎ止めるため、上下両院で可決された法案に対し[[拒否権]]発動の姿勢を崩さなかった。キューバとの通商はフィデル・カストロを利するだけで、一般のキューバ人への利益にはならないとした。 [[国際連合総会]]では1992年以来連続でアメリカに対してキューバに対する[[国交]]断絶と[[経済制裁]]を終了し、外交・経済関係を回復するよう求める決議案が提出され、採決の結果は毎年、アメリカと[[イスラエル]]が反対、[[パラオ]]、[[ミクロネシア]]、[[マーシャル諸島]]は棄権、それ以外の国はすべて賛成で可決されてきた<ref>[http://www.un.org/press/en/2014/ga11574.doc.htm United Nations>General Assembly>Resolutions>Necessity of ending the economic, commercial and financial embargo imposed by the United States of America against Cuba]</ref><ref>[http://www.un.org/en/ga/69/resolutions.shtml United Nations>General Assembly>Resolutions]</ref><ref>[http://www.un.org/documents/resga.htm United Nations>General Assembly>Archives>Resolutions]</ref>。特に2015年には史上最多の191国が決議に賛成した(従来棄権していた[[太平洋]]の島嶼諸国も賛成に回り、反対票はアメリカとイスラエルのみ)。 2006年7月31日、フィデル・カストロ国家評議会議長は声明を出し、7月後半の[[アルゼンチン]]外遊の多忙な日程の影響で腸に急性の問題が発生、出血が続いているため、外科手術を受けたと発表した。そして権限を数週間、弟のラウル国家評議会第一副議長兼国防相に委譲したことを明らかにした。声明は秘書官が読み上げ、国営テレビ・ラジオで伝えた。2006年8月3日、アメリカのブッシュ大統領はフィデル・カストロ声明に便乗して、「われわれは[[民主主義]]を約束するキューバの移行政権を樹立する努力を支持する」と「政権転覆」を呼びかける声明を出した。 2007年5月、米[[テキサス州]][[エルパソ (テキサス州)|エル・パソ]]の連邦地裁が、[[クバーナ航空455便爆破事件]]に関与した反革命傭兵軍のルイス・ポサダ・カリレスを釈放し、[[キューバの雪解け]]は国際政策となった。 2008年2月19日、フィデル・カストロは国家評議会議長(国家元首)と閣僚評議会議長(首相)、軍最高司令官の退任を正式に表明した。2月24日、人民権力全国会議(国会)が招集され、国家評議会議長に弟のラウルが選出された。ラウルは就任早々、規制緩和を次々打ち出し、一般国民の[[携帯電話]]所持や[[ホテル]]宿泊、[[家庭用電気機械器具|家電製品]]購入などが自由にできるようになった。2008年4月28日、ラウル・カストロ国家評議会議長は、第6回中央委員会総会で、第6回党大会を来年度後半に開くことを提案した。大会開催は1997年10月以来12年ぶりとなる。8月19日、[[キューバ中央銀行]]が日本の化学品商社・[[明和産業]]への輸入代金の支払に発行した[[信用状]](L/C)が期日までに決済不能に陥ったことが判明した([[債務不履行]])。明和産業によると債権額は約8億7,200万円であり、独立行政法人[[日本貿易保険]]が一部焦付額に保険を適用すると発表した<ref>{{Citation|和書 | url = http://www.meiwa.co.jp/ir/calendar/pdf/20080818_8103_sai.pdf | title = 債権取立不能のおそれに関するお知らせ | format = PDF | publisher = [[明和産業]] | date = 2008年8月18日 | archivedate = 2011年11月15日 | deadlink = 2018年1月 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20111115115440/http://www.meiwa.co.jp/ir/calendar/pdf/20080818_8103_sai.pdf }}</ref>。なお、日本貿易保険はキューバ中央銀行から「当行一行だけの問題ではなく、国全体の決済資金が不足している」との説明を受けたとしている<ref>{{Citation|和書 | url = http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20080818AT3S1800718082008.html | title = キューバ国立銀「輸入代金払えず」、日本貿易保険に通告 | publisher = [[日本経済新聞]] | date = 2008年8月19日 | archivedate = 2008年8月23日 | deadlink = 2012年4月 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20080823162211/http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20080818AT3S1800718082008.html }}</ref>。 アメリカの[[バラク・オバマ]]政権は従来のキューバ敵視政策を転換し、2014年に両国は国交回復交渉の開始を発表。お互いの捕虜を解放し、送金や輸出の緩和を実行した。翌2015年には54年ぶりに[[キューバの雪解け|国交が回復]]され、2016年にはオバマ大統領がハバナを訪問した。 {{main|キューバの雪解け}} その後、2017年の[[ドナルド・トランプ]]大統領就任以降、アメリカはキューバに再び厳しい姿勢を示している。 === 略年表 === *1492年 [[クリストファー・コロンブス|クリストバル・コロン]]、キューバ島に到着(12月27日) *1509年 [[ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル]]、キューバ総督に任命 *1868年 第一次独立戦争(10年戦争)開始 *1895年 [[ホセ・マルティ]]、オリエンテのラプライータに上陸、第二次独立戦争開始(4月10日) **5月19日 マルティ戦死 *1898年 米西戦争(2月) *1902年 独立、エストラーダ=パルマ政権発足(5月) *1903年 アメリカ、[[グァンタナモ湾]]を租借 *1952年 バティスタ軍曹のクーデター(3月) *1953年 [[モンカダ兵営]]襲撃(7月26日)、モンカダ裁判(9月) *1955年 フィデル・カストロ恩赦、メキシコへ亡命 *1956年 グランマ号でオリエンテ州に上陸(12月)[[7月26日運動]]、活動開始 *1957年 革命幹部会による大統領官邸襲撃(3月) *1958年 反乱軍の最終攻勢始まる *1959年 バティスタ大統領亡命(1月1日) **2月17日 フィデル・カストロ、首相に就任、革命政権成立([[キューバ革命]]) **4月15日 フィデル・カストロ、[[ニューヨーク]]へアメリカ政府に対する表敬訪問。アメリカ政府は[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハウアー]]大統領が[[ゴルフ]]に出かけたとの理由で首脳会談を拒否 **5月17日 農地改革法公布 *1960年 アメリカ政府、キューバ砂糖輸入割当廃止の意向発表 **2月4日 [[アナスタス・ミコヤン]]ソ連副首相訪問、キューバ・ソ連通商条約調印 **4月4日 [[ユナイテッド・フルーツ]]社有地が接収される **6月29日 [[テキサコ]]製油所介入 **7月1日 [[エッソ]]と[[ロイヤル・ダッチ・シェル]]の製油所へ介入 **7月2日 アメリカ政府、キューバ砂糖輸入割当制度を廃止 **8月6日 アメリカ企業接収 *1961年 アメリカと国交断絶(1月3日) **4月4日 傭兵軍航空機によるハバナなどへの航空施設爆撃 **4月16日 フィデル・カストロ、社会主義革命宣言 **4月17日 反革命傭兵軍上陸事件(- 19日 ピッグズ湾事件) **4月25日 アメリカ、対キューバ全面的貿易封鎖発表 *1962年 [[キューバ危機]](10月15日)、[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]米大統領、対キューバ海上封鎖宣言(10月22日) **10月27日 オリエンテ州北部で[[U-2 (航空機)|U-2機]]撃墜 **10月28日 [[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]・ソ連首相、ミサイル撤去受け入れ *1963年 フィデル・カストロ、初のモスクワ訪問 *1965年 [[キューバ共産党]]結成 *1967年 フィデル・カストロ、[[チェ・ゲバラ]]の[[ボリビア]]での死亡を発表 *1975年 第一回共産党大会、[[アンゴラ]]派兵本格化 *1976年 **新憲法制定 **[[クバーナ航空455便爆破事件]]。傭兵軍の[[キューバ系アメリカ人財団#テロ活動|ルイス・ポサダ・カリレス]]、乗客乗員73人全員を殺害 *1977年 アメリカと利益代表部設置で合意 *1981年 革命ニカラグアへ派遣した教師が暗殺 *1983年 アメリカの[[グレナダ侵攻]]に抗議して派兵 *1992年 憲法改正により、キューバを社会主義国家と定義。米国でトリチェリ法{{efn|ロバート・トリチェリ下院議員が提案した「キューバ民主化法」。主な内容は以下の通り。 # アメリカ籍企業の海外支店がキューバと貿易することを禁止 # アメリカ市民がキューバに旅行することを禁止 # キューバ人亡命者が家族に送金することを禁止 }} 成立、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が署名 *1993年 ドル所有の合法化 **12月22日 フィデル・カストロの実の娘、アリナ・フェルナンデスがアメリカへ亡命 *1995年 米・キューバ移民協議、難民問題でアメリカ政府と合意<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2604962?pid=4180667 米、キューバに移民協議再開を提案] [[フランス通信社]]、2009年5月23日</ref> *1996年 アメリカでヘルムズ=バートン法{{efn|ジェシー・ヘルムズ上院議員が提案。一般にはこの名称だが、正式には「キューバ解放と民主連帯法」(the Cuban Liberty and Democratic Solidarity Act)という。主な内容は以下の通り。 # アメリカ人は接収財産に関わる取引をした外国企業に対し所有権を要求する権利を持つこと # 接収資産と関わる企業はアメリカへの入国を禁止すること しかし、この法律は[[ヨーロッパ]]や中南米を中心とする国際的非難を浴びている。 }} 成立、クリントン大統領が署名 *1998年 [[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]のキューバ訪問 *1999年 アメリカ、[[米国の対キューバ禁輸措置|対キューバ経済制裁]]の一部緩和措置発表、エリアン少年事件 *2000年 アメリカによる対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表 *2001年 アメリカからへの食糧購入開始 *2002年 [[ジミー・カーター]]元アメリカ大統領キューバ訪問。憲法改正 *2005年 米国務長官[[コンドリーザ・ライス]]、キューバを[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]や[[イラン]]と並ぶ「'''圧制の拠点'''」と発言し、打倒すべき独裁政権のひとつにあげた。キューバ航空機爆破、フィデル・カストロ暗殺未遂など親米テロの廉で逮捕され、保釈後[[ベネスエラ]]へ逃亡していた傭兵軍のカリレス、アメリカへ亡命を求めて脱出するも[[マイアミ]]で逮捕される *2008年 **2月 フィデル・カストロ、国家評議会議長引退を発表 **2月24日、ラウル・カストロが国家評議会議長に選出 *2009年 **6月 [[米州機構]]総会においてキューバの復帰が認められる。しかしキューバは復帰を拒否 *2011年 部分的に[[市場経済]]が導入される *2014年 **12月18日 アメリカとの国交正常化交渉を開始すると発表 *2015年 **4月11日 59年ぶりのアメリカ・キューバ首脳会談が行われる **7月20日 アメリカと国交回復 *2016年 **9月、国営企業で働く約100万人を対象に10月から課税すると発表。約半世紀ぶりに国営企業従業員への課税となる **[[11月25日]]、フィデル・カストロ前国家評議会議長が死去<ref name="jiji20161126">[http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112600133&g=int フィデル・カストロ氏死去=90歳、キューバ革命の英雄] 時事ドットコム 11月26日付</ref> *2018年 **4月19日、ミゲル・ディアス=カネルが国家評議会議長に就任 *2019年 **新憲法(現行憲法)制定。国家元首の役職が43年ぶりに「大統領」となる *2021年 **4月19日、共産党第8回党大会にて引退を表明したラウル・カストロに代わる第一書記にミゲル・ディアス=カネルを選出<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3342914|title=キューバ新指導者にディアスカネル氏 カストロ統治に幕|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2021-04-20|accessdate=2021-04-20}}</ref> == 政治 == {{Main|{{仮リンク|キューバの政治|en|Politics of Cuba}}}} {{wikisourcelang|es|Constitución Socialista de la República de Cuba|キューバ共和国社会主義憲法}} [[File:Comité Central PCC.jpg|thumb|220px|[[キューバ共産党]]本部]] * [[政治体制|政体]]:[[社会主義]]・[[共和制]] * [[憲法]]:[[2019年]]に現行憲法を制定・施行した。私有財産を認める一方、「共産党」の統治や「社会主義」体制は堅持する<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41743430W9A220C1000000/|title=キューバで憲法改正案が可決 国民投票で賛成多数|newspaper=日本経済新聞|date=2019-02-26}}</ref><ref>[https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/04/73e85b5695627260.html キューバ新憲法が施行、私有財産の承認が重要な変更点と有識者] - [[日本貿易振興機構]](2019年4月15日)</ref>。[[1976年]]に制定された旧憲法は、[[1992年]]、[[2002年]]に一部修正。1992年の憲法修正で、キューバを[[社会主義国|「社会主義」国家]]と定義(第1条)。2002年の修正で、「社会主義体制は不可侵(変更不可能)」とする条項を追加した。 * 最高指導者:[[キューバ共産党]]第一書記。現任は[[ミゲル・ディアス=カネル]](2021年 - )。 * 元首:[[キューバの国家元首|元首職]]はキューバ共和国大統領。現任は[[ミゲル・ディアス=カネル]](2018年 - )。 * 議会:立法権行使機関として、[[一院制]]の[[人民権力全国会議]](1976年発足)が存在。当初は、代議員を人民権力地方会(地方自治体)の中から選出する[[間接選挙]]制を採用していたが、1992年から国民が代議員を直接選出する[[直接選挙]]制度に移行した。総数589議席、任期5年。毎年2回定期的に開催され、議員中から31名の国家評議会議員を選出する。国家評議会は人民権力全国会議の閉会中に、立法機能を代行する。国家評議会議長はかつて国家元首を務めていた。 * 内閣:2019年の改憲で専任の首相職が43年ぶりに復活した。任期は5年。初代は元観光相の[[マヌエル・マレロ|マヌエル・マレロ・クルス]](2019年 - )。 **内閣に相当する行政機関として、閣僚評議会が存在した。閣僚評議会議長・第一副議長・副議長8名・各国家委員会議長11名および各部長官23名によって構成される。[[キューバの首相|首相]](政府首班)に相当する閣僚評議会議長は、国家評議会議長が兼任。 * [[政党]]:合法政党は[[キューバ共産党|「キューバ共産党]](PCC)」のみの[[一党制]]。憲法第5条でPCCは「社会と[[党の指導性|国家の最高の指導役]]」とされている。党の有力下部組織として「青年共産主義者同盟」を有する。 * 司法:司法権行使機関は、最高裁判所として人民最高裁判所が存在する。最高裁判事は、人民権力全国会議が選出する。法律の規定により、下級裁判所は州および自治体ごとに置かれているほか、特別裁判所として、国家に対する犯罪を扱う革命裁判所が存在する。 * [[地方政府|地方自治体]]:地方自治を行う人民権力地方会として、人民権力行政区会議と人民権力州会議が存在する。詳細は[[#地方行政区分|地方行政区分]]を参照。 * [[キューバの反体制組織|反政府組織]]:主要勢力として、[[キューバ系アメリカ人財団]](CANF)が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[フロリダ州|フロリダ]]に存在する。 * 対外関係:[[非同盟運動|非同盟]]諸国との連帯、[[反帝国主義]]および民族解放運動支援が、フィデル・カストロ政権時代の伝統的な対外政策の最優先課題である。1960年の対[[ソビエト連邦|ソ連]]接近にともない、アメリカとは1961年1月3日に[[国交]]を断絶した。以後、米国から[[米国の対キューバ禁輸措置|禁輸措置]]を受けるが、アメリカ・キューバ両国は2014年12月に国交正常化交渉を開始すると発表し、2015年7月に国交を再開。近年では[[ラテンアメリカ]]諸国の[[左翼|「左派]]」政権との間で外交活動を活発に展開、キューバ人医師の派遣や[[医学]]を志す[[留学生]]の受け入れ(条件つきながら無料で学べる)など、医療支援も活発に行われている。 == 国際関係 == {{Main|{{仮リンク|キューバの国際関係|en|Foreign relations of Cuba}}}}{{更新|date=2021年5月1日|section=1}}[[File:Diplomatic missions of Cuba.PNG|thumb|520px|キューバが外交使節を派遣している諸国の一覧図<br>赤色:キューバ本国<br>濃い青色:外交使節([[大使館]])派遣国<br>薄い青色:政府職員(利益代表部)派遣国<br>灰色:外交使節を派遣していない国]] === アメリカとの関係 === {{main|{{仮リンク|キューバとアメリカの関係|en|Cuba–United States relations}}}} 1959年の[[キューバ革命]]以後、アメリカから軍事侵攻([[ピッグス湾事件|プラヤ・ヒロン侵攻事件]])、政権転覆工作(「[[キューバ計画]]」)、カストロ暗殺工作などの敵視政策を仕掛けられ、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]から2015年までは「[[テロ支援国家]]」に指定されており、国交がない状態であった。アメリカからは1962年以後、人道的措置と称する食料や医薬品を例外として[[経済封鎖]]、[[経済制裁]]が継続されている。アメリカの航空会社も[[チャーター便]]の運行はあるものの定期便は就航させていない。キューバ共和国独立翌年の1903年、アメリカはキューバ東部の[[グアンタナモ湾]]の一部を永久[[租借]]して[[アメリカ海軍]]基地を建設しており、現在も[[グァンタナモ米軍基地|グアンタナモ米軍基地]]が存在する。 アメリカ政府は、カストロ政権を打倒して傀儡政権を再樹立し間接支配を復活するために、亡命キューバ人に武器と資金を供給して軍事訓練を行い、1961年4月に亡命キューバ人武装勢力を[[ピッグス湾事件|キューバに侵攻]]させたが作戦は失敗し、1961年4月にキューバに経済制裁・貿易封鎖を実行した。アメリカ政府はその後も1962年10月までキューバに対して武力行使を繰り返したがカストロ政権を打倒できず、アメリカ政府に政権を打倒されると危機を感じたカストロは[[ソビエト連邦|ソ連]]に支援を求めた。1962年10月に[[キューバ危機]]が発生し、米ソ[[核戦争]]の危機になったが、ソ連が譲歩して[[ミサイル]]基地の撤去に応じて戦争は回避された。アメリカ政府はその後もカストロ政権転覆工作やカストロ暗殺工作を繰り返し、政権転覆や[[暗殺]]を恐れたカストロが、キューバと自分を守るためにケネディ大統領暗殺作戦を遂行したとの推測もある<ref>Tim Weiner title=Legacy of Ashes:The History of the CIA, Anchor Books, 2007,2008 PP.133-140.</ref>。 1980年代以降も、アメリカはキューバを[[1982年]]に[[テロ支援国家]]に指定し、[[1996年]]にはアメリカでキューバ経済制裁強化法(ヘルムズ・バートン法)が成立するなど、アメリカ・キューバ両国は長年にわたって敵対してきた([[米国の対キューバ禁輸措置]]も参照)。 しかし、アメリカ・キューバ両国は[[カナダ]]や[[教皇|ローマ教皇]][[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]の仲介で2013年から舞台裏での交渉を開始し、2014年12月18日にはアメリカの[[バラク・オバマ]]大統領とキューバのラウル・カストロ国家評議会議長がそれぞれ演説を行い、アメリカとキューバの国交正常化に向けた交渉を開始すると発表した<ref>[http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0JV20220141217 キューバと国交正常化交渉、米大統領が開始発表]([[ロイター]] 2014年12月18日)</ref><ref>[http://www.cnn.co.jp/world/35058062.html 米・キューバ、国交正常化へ 半世紀ぶり]([[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] 2014年12月18日)</ref>。以後、 [[File:President Obama Meets with President Castro.png|thumb|ラウル・カストロ国家評議会議長とオバマ大統領の首脳会談(2015年4月11日)]] * 2015年4月11日 - [[パナマ]]で行われた[[米州首脳会議]]の会場でオバマ大統領とラウル・カストロ議長による59年ぶりの米・キューバ首脳会談が行われ、国交正常化に向けて話し合われた<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3045164 米・キューバ首脳が歴史的な首脳会談、冗談も飛び出す]([[フランス通信|AFP]] 2015年4月12日)</ref>。 * 2015年5月30日 - アメリカがキューバのテロ支援国家指定を解除<ref>[http://www.cnn.co.jp/usa/35065221.html 米、キューバのテロ支援国家指定を解除]([[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] 2015年5月30日)</ref>。 * 2015年7月1日 - 両国が相互に大使館を設置することで合意<ref>[http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKCN0PB5GR20150701 米・キューバ、54年ぶりに国交回復 相互に大使館設置](ロイター 2015年7月1日)</ref>。 * 2015年7月20日 - 両国の利益代表部が大使館に格上げされ、国交回復<ref>[http://jp.reuters.com/article/2015/07/20/cuba-usa-july-idJPKCN0PU0TD20150720 米・キューバが54年ぶり国交回復、相互に大使館再開](ロイター 2015年7月21日)</ref>。 と、2015年に入ってから具体的な国交正常化への歩みを進めた。 {{main|キューバの雪解け}} その後、米[[ドナルド・トランプ]]政権下では関係が再び冷え込んでいる。2019年3月4日、アメリカ政府は、キューバ「社会主義」政権が接収した資産に関する訴訟を、亡命キューバ人などがアメリカ国内で起こす権利を認める措置を発表した<ref name="日経産業20190312">キューバ 広がる自営業/進む規制緩和 労働者の1割に/米国、さらなる経済封鎖 外資誘致には壁」『[[日経産業新聞]]』2019年3月12日(グローバル面)。</ref>。 === ラテンアメリカ諸国との関係 === 1999年に[[ベネズエラ]]で[[ウゴ・チャベス]]政権が成立してからは、[[産油国]]である同国からの[[石油]]輸入とキューバからの医師派遣を軸に強固な友好関係が樹立され、2004年に両国との間で[[米州ボリバル代替統合構想]]が結成された。[[2000年代]]後半に入り、ベネズエラに続いて[[ボリビア]]、[[エクアドル]]、[[ニカラグア]]で[[左翼|左派]]政権が成立するとキューバはこれら諸国と友好関係を築き、2009年6月に米州ボリバル代替統合構想が発展解消する形で[[米州ボリバル同盟]](ALBA)が結成された。 === カナダとの関係 === {{Main|{{仮リンク|カナダとキューバの関係|en|Canada–Cuba relations}}}} キューバと[[カナダ]]は友好関係を保っており、カナダは上述のアメリカとの国交正常化交渉開始の際にも、ローマ教皇フランシスコとともに両者の仲介を行った。 === ソビエト連邦及びロシアとの関係 === {{Main|[[キューバとロシアの関係]]}} [[ロシア]]とは[[キューバ革命]]以後、[[ソビエト連邦|ソ連]]時代から友好関係にあった。ソ連によるキューバへの[[核ミサイル]]配備はアメリカの反発を招き、[[キューバ危機]](1962年)にいたった。その後、キューバはソ連から経済・軍事援助を受け、またアフリカの親ソ派の諸国・組織にキューバ兵や軍事顧問を送って支援した。 1990年代初めの[[ソビエト連邦の崩壊]]による援助や優遇条件での貿易の停止・縮小はキューバを苦境に追いやったが、ロシアの国力回復と中南米政策の活発化にともない、再び関係は緊密化している。ロシアは2014年に旧ソ連時代からキューバが負っていた債務の9割を減免。2017年にはロシア国営石油会社[[ロスネフチ]]がキューバへの原油輸出を再開したほか、300台以上の自動車「[[ラーダ (自動車)|ラーダ]]」や75台以上の鉄道機関車の輸出も決まった。国営[[ロシア鉄道]]によるキューバ国内鉄道の近代化・延伸も協議されている<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO26846700T10C18A2FF1000/ ロシアとキューバ再接近/自動車や原油、貿易拡大 対米関係冷え込み機会に]『日本経済新聞』朝刊2018年2月14日(国際面)</ref>。 === 日本との関係 === {{seealso|日本とキューバの関係}} [[日本]]とは[[1929年]](昭和4年)[[12月21日]]に国交を樹立した。[[1941年]](昭和16年)[[12月9日]]、[[太平洋戦争]]の勃発にともないアメリカに続いて対日宣戦布告し、国交を断絶した。戦後の[[1952年]](昭和27年)11月、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]締結にともない国交回復。[[1960年]](昭和35年)に通商協定を締結、1961年(昭和36年)に発効。[[1898年]](明治38年)以降、[[日本人]][[移民]]がキューバに定住、[[1999年]](平成11年)時点の概数で[[日系キューバ人|日系人]]は800人である<ref>[http://www.jadesas.or.jp/aboutnikkei/index.html 財団法人海外日系人協会の資料]</ref>。 日本は[[資本主義]]体制をとり[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米同盟]]を維持しているが、キューバに対しては地理的・政治的な利害関係を持たず、また長らく最高指導者であった[[フィデル・カストロ]]が[[親日]]家であることもあり、[[音楽]]や[[スポーツ]]を通じた民間交流も盛んである。[[2012年]](平成24年)11月には[[福岡ドーム|福岡 Yahoo! JAPANドーム]]と[[札幌ドーム]]において野球日本代表とキューバ代表による国際親善試合が行われた。そのため、両国関係は[[政治]]・[[経済]]の両面で良好であり、[[1989年]](昭和64年・平成元年)の[[昭和天皇]]崩御の際には喪に服した。また、[[1997年]](平成9年)に発生した[[在ペルー日本大使公邸占拠事件]]では、日本政府の要請に対し、キューバが[[トゥパク・アマルー革命運動]](MRTA)の[[ゲリラ]]の[[亡命]]受け入れを受諾した。キューバは[[日本人]]が観光目的で入国する際に[[査証|ビザ]]免除を認めている(ただし、事前に大使館、もしくは出発当日の空港でツーリスト・カードを購入する必要がある)。 === 北朝鮮との関係 === {{Main|[[キューバと北朝鮮の関係]]}} [[キューバ革命]]以後、[[反米]]政策を共通とする[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]とキューバは友好的な関係を保っている。キューバ政府は北朝鮮との友好関係を考慮し、[[大韓民国|韓国]]と国交を結んでいない。 === 中国との関係 === {{Main|中国とキューバの関係|}} 冷戦時代のキューバは[[1960年代]]の[[中ソ対立]]の中でソ連側についたこともあり、1966年に[[中華人民共和国|中国]]と関係がほぼ断絶した。[[アンゴラ内戦]]ではキューバは米中の影響力排除を目的に派兵した<ref>Gleijeses quoting: Matthews, Herbert in: Forward with Fidel Castro, Anywhere, New York Times, 4 March 1976, p. 31</ref>。1979年、フィデル・カストロは中国が[[中越戦争]]で同じ共産圏の[[ベトナム]]を攻撃し、キューバに敵対的で[[南アメリカ|南米]]の[[親米]][[反共主義|反共]]諸国との[[コンドル作戦]]を主導している[[チリ]]の[[アウグスト・ピノチェト]]政権なども支援していることを批判した<ref>Fauriol, G. A., & Loser, E. "Cuba : the international dimension". Routledge, 1990, p. 211 ISBN:9780887383243</ref>。[[冷戦]]が緩和した1987年に中国とキューバは関係を正常化した<ref>{{cite web|author=李北海|title=相逢一笑泯恩仇——我所亲历的中古关系的恢复与重建|url=http://cpc.people.com.cn/GB/68742/187710/191095/12756716.html|publisher=中国共产党新闻网|accessdate=2019-07-11|date=2010-09-17}}</ref>。 == 軍事 == {{main|キューバ革命軍}} [[File:Santiago de Cuba - Garde au Mausolée José Marti.JPG|thumb|180px|[[サンティアーゴ・デ・クーバ]]を行進する[[キューバ革命軍]]の兵士(2006年)]] キューバは革命以来、アメリカ合衆国の侵攻を防ぐために旧[[東側諸国]]の装備で重武装しており、現在では4万9,000人ほどの現役兵が常備兵として活動している。そのほか[[民兵]]組織などもある。 最高司令官は大統領が兼任。[[徴兵制度]]が存在し、17 - 45歳の[[男性|男子]]が2年間兵役に服する。国防予算は約7億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]](2000年)。正規軍であるキューバ革命軍の兵力は、[[キューバ陸軍|陸軍]]兵力3万8,000人、[[キューバ海軍|海軍]]兵力3,000人、[[キューバ空軍|空軍]]兵力8,000人。兵器はほとんどが[[ソビエト連邦|ソ連]]製。正規軍のほか、青年労働軍(6万5,000人)、地方民兵隊(約100万人)などの[[民兵]]が存在する(数値はすべて2007年のもの)。 == 地理 == {{Main|{{仮リンク|キューバの地理|en|Geography of Cuba}}}} [[ファイル:Cu-map.png|right|thumb|320px|キューバの地図]] [[ファイル:Cuba Nasa.jpg|320px|right|thumb|[[宇宙]]から見たキューバ]] キューバの国土は長さ1,250キロで、キューバ島(本島)、「青年の島」(旧[[ピノス島]])、および1,600あまりの小島と多島海からなる広大な群島によって構成されている。 キューバは、[[フロリダ半島]]の南145キロ、[[ユカタン半島]]の東210キロに位置し、[[カリブ海]]および[[大西洋]]と[[メキシコ湾]]を結ぶ[[ユカタン海峡]]および[[フロリダ海峡]]を、国土の西部と北部が押さえる要衝にある。国土の東部は、大西洋とカリブ海を結ぶ[[ウィンドワード海峡]]によって[[イスパニョーラ島]]と隔てられ、北東部はニコラス海峡、オールドバハマ海峡によってバハマ諸島と隔てられ、南にはジャマイカ島と[[ケイマン諸島]]がある。 キューバの国土は南北[[アメリカ大陸]]、[[ヨーロッパ]]との間を結ぶ航路と接し、[[交易]]を行ううえで恵まれた位置関係にある。そのため、キューバは古くから通商の要衝として経済的に栄え、かつては「メキシコ湾の真珠」とも呼ばれた。現在、キューバの周辺には、北から時計回りの順に、アメリカ、[[バハマ]]、[[イギリス|英]]領[[タークス・カイコス諸島]]、[[ハイチ]]、[[ジャマイカ]]、イギリス領ケイマン諸島、[[メキシコ]]が存在している。 === キューバ島 === キューバの本島である'''キューバ島'''{{efn|{{lang-es-short|Isla de Cuba}}}} は、[[西インド諸島]]に属するカリブ海で最大の[[島]]である。[[クリストファー・コロンブス|コロンブス]]の同島「[[アメリカ大陸の発見|発見]]」時には[[スペイン|スペイン王国]]の王族にちなんで'''フアナ島'''{{efn|{{lang-es-short|Isla de Juana}}}} と命名されたが、のちにキューバの呼び名が一般化し現在にいたっている(キューバの由来は[[キューバ#国名|国名]]参照)。島の南西には、キューバでキューバ島に次ぐ大きさを持つ「[[ピノス島|青年の島]]」が浮かんでいる。 キューバ島の長さは、西端のサン・アントニオ岬から東端のマイシ岬まで約1,225キロ、南北の距離は最大250キロから最小35キロで平均値は80キロと、東西に細長い形状をしている。島の4分の1は[[山岳]]地帯となっているが、[[山地]]が島の全域に散在していることから、島に[[山塊]]はない。主要山岳地帯としては、西部にオルガノス山脈(標高914メートル)、中央部にトリニダー山脈(標高1,200メートル)、南東部に[[マエストラ山脈]]という3つの異なる山系がある。 東方山系であるマエストラ山脈は、クルス岬からマイシ岬まで南海岸に沿いながら、250キロに及んで連なっている。ほかの山系と比べると一番長く複雜で、この山脈に属する[[標高]]2,005メートルの[[トゥルキーノ山]]は、キューバの最高峰としてそびえている。南方斜面が急な断崖をなす一方で北方斜面は緩慢で、北方海岸につながる山地との間には[[カウト川]]流域の中央低地が発達しており、キューバの主要な農業地域に数えられている。中央部山系であるトリニダー山地は、高度が低く多くの山地群で形成されており、[[銅]]・[[マンガン]]・[[ニッケル]]・[[クロム]]・[[鉄鉱石]]・[[タングステン]]など、[[地下資源]]が豊富に埋蔵されている。西部山系であるオルガノス山脈は[[カルスト地形]]で、険しい[[石灰岩]]の山地・[[洞窟]]などが多く、[[ハバナ]]付近のコティジャ洞窟が著名である。周辺の丘陵地は、石灰岩の風化土であるマタンサス土壌{{efn|{{lang-es-short|Matanzas clay}}}} で覆われており、肥沃で排水がよく栽植農業地として的合である。 東部と中部、そして西部の山岳地を除けば、島の大部分は200メートル以下のなだらかな起伏の[[丘陵地]]や平野であり、土壌も大半は肥沃で、大規模な機械化農業の生産にも適した土地となっている。しかし、その地形により島には水量の豊かな長い川が存在せず、200以上の河川の大半は急流をなす小さな川であるために、船舶の航行はできない。主要河川は、島の南東部を流れるカウト川(全長240キロ)であり、[[マエストラ山脈]]を水源とし、[[グァンタナモ湾]]に流れ込む。この川はキューバでもっとも長い川であり、下流の約100キロは航行が可能な大きさである。また、重要な内陸水路として[[水力発電]]にも利用されている。 島は長くて狭く、複雑で入り組んだ海岸線は全長3,735キロにもなる。海岸には約7万km²の[[大陸棚]]があり、海岸線には[[入り江|入江]]、湾、[[砂州]]や[[マングローブ林]]、[[サンゴ礁]]、湿地、大小の岬、[[半島]]が多様な景観を造成し、多くの湾が天然の良港となっている。主要な港は北海岸にハバナ、マタンサス、カルデナス、バイアオンダ、ヌエビタスがあり、南海岸にグァンタナモ、サンティアゴ・デ・クーバ、シエンフエゴス、トリニダーがある。特に、ハバナ港は良港として知られ、通商によって栄えた歴史がある。また[[グァンタナモ湾]]は、1903年以降現在にいたるまでアメリカの[[グァンタナモ米軍基地]]([[アメリカ南方軍|南方軍]]管轄)が存在することで知られている。 === 気候 === キューバの[[気候]]は[[亜熱帯]]気候かつ[[海洋性気候]]で、[[ケッペンの気候区分]]では典型的な[[熱帯]]性[[サバナ気候]]に属する。年間の平均[[気温]]は[[摂氏]]25.5度、夏の平均気温は27度、冬の平均気温は21度であり、夏には東風・南東の[[貿易風]]、冬には北東の貿易風が吹く。夏には[[気温]]のみならず、[[湿度]]も80%前後にまで上昇する。しかし、北東の[[貿易風]]が吹くため、気温は和らぎ比較的しのぎやすい環境となる。冬には平均気温が20度近くまで下がるが、それでも日中は気温が30度以上になる。 気温の較差がわずかなため、[[季節]]的な気候変化はおもに[[降水量]]によって左右される。[[乾期]]は11月から4月、[[雨期]]は5月から10月である。年平均降水量は約1,400ミリだが、トリニダー山地から「[[ピノス島|青年の島]]」にかけての地域では2,000ミリに上り、[[マエストラ山脈]]以東の地域では1,000ミリを下回り、[[グアンタナモ]]が一番少ない。雨季と同じ時期である6月から10月、特に8月から10月にかけて多くの[[ハリケーン]]が襲来し、おもに北西部地域に風水害を与える。 === 環境 === {{Main|{{仮リンク|キューバの環境|en|Environment of Cuba}}}} ==== 生態系 ==== キューバでは外国人による調査活動が許可されにくく、固有種の生態調査が進んでいなかったが、近年では個人が橋渡し役となることで外国との合同研究が許可されるようになっている<ref>{{Citation|和書 | url = http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201504/20150421_13013.html | title = 謎の哺乳類?世界最大級モグラの生態に迫る {{!}} 河北新報オンラインニュース | publisher = [[河北新報]] | date = 2015年4月21日 | archivedate = 2016年3月4日 | deadlinkdate = 2018年1月22日 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20160304141105/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201504/20150421_13013.html }}</ref>。 *[[植物界]]:気候条件上、多様な熱帯性の[[植物]]が多数生息している。そのため、キューバ島東部には広い[[森林]]があるほか、土壌が肥沃な場所では[[サトウキビ]]、[[コーヒー]]、[[イネ|稲]]の栽培などが行われている。 **[[ヤシ]]類:ダイオウヤシなど30種以上が生息。 **ほかの分布植物:マホガニー、黒檀、紫檀、[[アカミノキ]]、[[マツ科|ヒマラヤスギ]]など。 **栽培植物:[[タバコ]]、[[柑橘類]]。 *[[動物界]] **[[哺乳類]]:[[キューバソレノドン]](固有種)、[[デマレフティア]](固有種)など。 **[[鳥類]]:約137種。代表は[[コンドル]]、[[シチメンチョウ]]、[[ハチドリ]]、コンゴウインコ、フィンチ。 **[[爬虫類]]:105種。[[キタアンティルスライダー]]、[[アメリカワニ]]、[[キューバワニ]](固有種)。 **[[魚類]]および[[甲殻類]]:28種。代表は[[カニ|オオガニ]]、[[サメ]]、[[マグロ]]。 === 天然資源 === キューバの国土は、[[鉱物]]資源に恵まれている。特に重要視されている鉱物は[[ニッケル]]、[[クロム]]、[[銅]]、[[鉄]]、[[マンガン]]である。そのほかにも、[[硫黄]]、[[コバルト]]、[[黄鉄鉱]]、[[石膏]]、[[石綿]]、[[石油]]、[[石灰岩]]などが採掘されている。 とりわけ、[[海底油田]]は北西部地域に未発見の[[原油]]ガスが埋蔵されているとされ、これまで中国を含む諸外国による探査掘削作業がたびたび行われてきた。なお、地下資源はすべて政府の所有物とされている。キューバにおける[[ラテライト]]、[[鉄鉱石]]の埋藏量は20億トン、その中に包含されるニッケルは1.7億トンであり、世界最大の規模である。 == 地方行政区分 == {{Main|キューバの行政区画}} 歴史的にキューバは6つの地方行政区分に分けられていたが、1976年の再編成によって現在の区分に改められた。現在、キューバの地方行政地域は14の州{{efn|{{lang-es-short|Provincia}}}} と「[[青年の島]]」(旧ピノス島)の1特別自治体に区分されており、さらに州の内部には169の自治体が存在している。なお、現在の区分はキューバの独立戦争期に[[スペイン軍]]が軍事上の危険区域を分離すべく用いていた地域区分に類似しているとされている。 キューバは[[中央集権]]的な政治体制を採用しており、各州・地方自治体が有する自治権は限定的である。各州には州議会が存在するが、その構成員は住民から間接的に選出される。議会は執行委員会の委員を選出し、その委員は各州に5つ存在する地域議会を構成する。そして、地域議会は執行委員会の委員を選出し、その委員が結集することで州議会が構成される。州議会にも執行委員会は存在し、執行委員会は各段階で議会が有する行政機能の監督を行っている。なお、特別自治体である「青年の島」のみは島でひとつの自治体を成しており、地方自治関連の諸問題において直接中央政府の監督を受けている。 2011年1月1日より、ハバナ州が分割されてアルテミサ州およびマヤベケ州が新設された。アルテミサ州にはピナール・デル・リオ州の一部も含まれる。 [[ファイル:CubaSubdivisions.png]] {|class="wikitable sortable" !地図上の番号 !名称(日本語) !名称(スペイン語) |- |align=right|{{0}}1 |[[ピナール・デル・リオ州]] |{{lang|es|Provincia de Pinar del Río}} |- bgcolor=#ccffff |align=right|{{0}}2、4 |[[ハバナ州]] |{{lang|es|Provincia de La Habana}} |- bgcolor=#ccffff |align=right|{{0}}2 |[[アルテミサ州]] |{{lang|es|Provincia de Artemisa}} |- |align=right|{{0}}3 |[[ハバナ|ハバナ市]] |{{lang|es|Provincia de Ciudad de La Habana}} |- bgcolor=#ccffff |align=right|{{0}}4 |[[マヤベケ州]] |{{lang|es|Provincia de Mayabeque}} |- |align=right|{{0}}5 |[[マタンサス州]] |{{lang|es|Provincia de Matanzas}} |- |align=right|{{0}}6 |[[シエンフエーゴス州]] |{{lang|es|Provincia de Cienfuegos}} |- |align=right|{{0}}7 |[[ビジャ・クララ州]] |{{lang|es|Provincia de Villa Clara}} |- |align=right|{{0}}8 |[[サンクティ・スピリトゥス州]] |{{lang|es|Provincia de Sancti Spirítus}} |- |align=right|{{0}}9 |[[シエゴ・デ・アビラ州]] |{{lang|es|Provincia de Ciego de Ávila}} |- |align=right|10 |[[カマグエイ州]] |{{lang|es|Provincia de Camagüey}} |- |align=right|11 |[[ラス・トゥーナス州]] |{{lang|es|Provincia de Las Tunas}} |- |align=right|12 |[[グランマ州]] |{{lang|es|Provincia de Granma}} |- |align=right|13 |[[オルギン州]] |{{lang|es|Provincia de Holguín}} |- |align=right|14 |[[サンティアーゴ・デ・クーバ州]] |{{lang|es|Provincia de Santiago de Cuba}} |- |align=right|15 |[[グアンタナモ州]] |{{lang|es|Provincia de Guantánamo}} |- |align=right|16 |[[青年の島]] |{{lang|es|Isla de la Juventud}} |} === 主要都市 === {{Main|キューバの都市の一覧}} 2003年の推計によれば、キューバ国民の約75%が[[都市]]部に居住している。同国最大の都市は、主要な[[港湾]]を有する[[首都]]の[[ハバナ]]{{efn|現地ではスペイン語で{{lang|es|La Habana}}({{lang|ja|ラ・アバナ}})と呼ぶ。{{lang|en|Havana}}({{lang|ja||ハバナ}}は英語表現}} で、人口は217万6,000人(国民の約20%)である。ハバナ郊外の{{仮リンク|マリアナオ|en|Marianao}}はビーチリゾートで知られ、周辺域を含めた人口は13万3,016人(1989年)である。 その他の主要都市としては、主要な港湾都市および[[工業]]中心地である[[サンティアーゴ・デ・クーバ]](40万4,100人)、キューバ島内陸の[[交通]]要所および[[商業]]中心地である[[カマグエイ]](29万4,000人)、豊かな[[農業]]地域である[[オルギン]](24万2,100人)、農産物加工の中心地である[[グアンタナモ]](20万8,000人)、[[サンタ・クララ]](20万5,900人)、[[バヤモ]](13万7,660人)、[[シエンフエーゴス]](13万2,200人)、[[ピナール・デル・リオ]]、12万8,800人)、[[ラス・トゥナス]]、12万6,900人)、[[マタンサス]]、12万3,890人)がある。 (出典: [http://www.cubavip.com/english/poblacion.asp {{lang|en|CUBAVIP. Population.}}]。ただし、[[マリアナオ]]の数値のみは[[:en:Marianao|英語版の記事]]に依拠) == 経済 == {{Main|{{仮リンク|キューバの経済|en|Economy of Cuba}}}} {{Main|{{仮リンク|キューバの農業|en|Agriculture in Cuba}}|{{仮リンク|キューバの観光地|en|Tourism in Cuba}}}} [[画像:Cuba Panorama de L'Habana.jpg|right|thumb|260px|首都ハバナ]] [[画像:Tobacco field cuba1.jpg|right|thumb|260px|タバコ畑]] キューバの伝統的な主要産物は、[[砂糖]]、[[ニッケル]]、[[海産物]]である。[[キューバ革命]]以前のキューバ経済は、大土地所有制、資本従属、[[サトウキビ]]の単一栽培([[モノカルチャー]])など、[[植民地]]的な経済構造の特徴が取り揃えられていた。具体的には、[[国民総生産]]の約25%、総[[輸出]]額の80%を砂糖が占めていた。また、砂糖生産の60%以上がアメリカ資本に依存しており、砂糖は輸出量の4分の3がアメリカに輸出されていた。ほかにも、土地所有者の8%が、総土地面積の70%以上を所有していた。 革命以後、[[フィデル・カストロ]]は[[農地改革]]と土地国有化を断行して[[計画経済]]を推進した。計画では、特に行政・[[サービス業|サービス]]部門の増大が図られ、あわせて工業・貿易が占める比率が高められた。1961年から、政府は単一栽培[[農業]]の脆弱性を克服し、[[工業化]]を進めるために経済開発計画を推進した。そして[[1970年代]]に入ると、工業開発と砂糖生産の増大によって、社会総生産の成長率は年平均9.6%(1970年 - 1976年)を記録した。しかしその後は、砂糖の国際価格下落、経済開発の遅延、慢性的な貿易赤字の発生、経済上の対[[ソビエト連邦|ソ連]]依存度の増大などにより、[[経済成長]]は再び停滯した。そのため、政府は1981年から国民の消費生活向上に重点を置くようになった。[[1990年代]]初頭、経済的に依存していたソ連圏の崩壊で、キューバの経済事情は悪化した。特に、1989年まで続いた年間1,300万トンに及ぶソ連の[[原油]]供給が中断したことで、キューバ経済は多大な打撃を受けた。また、アメリカの相次ぐ[[米国の対キューバ禁輸措置|経済制裁法]](1992年のトリチェリ法、1996年のヘルムズ・バートン法)により、一時は食糧不足にも苦しめられた。 この厳しい状況から脱却を図るため、政府は経済・財政改革措置を実施し始めた。具体的には、1993年より[[外貨]]所持と使用の解禁、[[独立採算制]]の農業組合制度の設立承認、自営業の一部許可といった措置を開始し、1995年には外資が100%出資した[[企業]]の設立を認定する新外資法を採択した。また、1997年5月には国内4か所に自由貿易地帯を創設し、2001年には[[カリブ海]]沿岸国と[[自由貿易協定]]を締結した。ほかにも、[[観光]]・[[資源]]部門での外資誘致を積極化し、[[農業]]分野においては[[モノカルチャー]]の砂糖生産依存から脱皮を図るべく、[[有機農業]]へのシフトが顕著となった。一連の経済政策により、1994年以降のキューバは長年の経済沈滞から脱して経済が成長し始めた。しかし、[[2000年代]]前半に生じた[[原油価格]]高騰や、[[アメリカ同時多発テロ事件|アメリカ同時多発テロ]]等の影響、さらには2002年に生じた[[砂糖]]価格暴落と[[ベネズエラ#政治|ベネズエラの政変]]による[[石油]]供給中断などにより、キューバは2002年に経済難を経験し、同年の経済成長は1.1%であったが、2003年は2.6%、2005年には「革命史上最高」の11.8%の経済成長を達成した。しかし、2008年8月に日本向け債権の一部で債務不履行([[デフォルト (金融)|デフォルト]])が発生したことが明らかとなった。 現在でもキューバ経済の中心は[[砂糖]]で、基本的には砂糖の[[モノカルチャー]][[経済]]から脱却することができていない。ただし、[[有機農業]]の増大によって、最近では[[日本]]の[[生活協同組合|生協]]などとの農産物取り引きも行われるようになっている。[[タイマイ]]を食用として捕獲していることから、[[1990年代]]後半には副産物である[[鼈甲]]を対日輸出する計画が持ち上がった。このため、[[絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約|ワシントン条約]]の会議などで輸出を認めるよう各国に説得をして回った時期があった。砂糖以外の主産品としては、第2の輸出品として[[ニッケル]]があり、その輸出量は輸出総額の約10%を占めている{{efn|2005年時点ではキューバの輸出の第一品目はニッケルであり、輸出の49%である}}。また医薬品系([[B型肝炎]][[ワクチン]]など)の輸出も10%強をしめている。また、近年では[[観光業]]に力を入れ、観光客数がここ数年で年平均18.6%の高成長を遂げたことから、観光業はキューバ最大の[[外貨]]獲得源となっている。観光収入は1996年時点で13億[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]に達しており、2003年は観光客数190万人、観光収入23.2億ドルを記録している。 2011年4月において危機的状態が続く経済を再建するため、市場経済が部分的に導入されることが決まった<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/news/110419/amr11041913170004-n1.htm キューバ共産党、経済改革を承認 市場原理導入]</ref>。食料配給の段階的廃止、不動産の所有権と売買を認めるなど、大きな改革が5年以内に実施される。労働者用の無料食堂はすべて閉鎖された。同年9月には[[タバコ]]の[[配給 (物資)|配給]]が停止、禁止されていた自動車売買も同10月に自由化され<ref>[http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-23406020110929 キューバで自動車売買が自由化、1959年の革命以来初めて]</ref>、住宅の売買も11月に解禁された<ref>{{Citation|和書 | url = http://www3.nhk.or.jp/news/html/20111104/t10013731431000.html | title = キューバ 初の住宅売買解禁へ | date = 2011年11月4日 | archivedate = 2011年11月7日 | deadlinkdate = 2018年1月22日 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20111107004745/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20111104/t10013731431000.html | publisher = [[日本放送協会]] }}</ref>。人件費支払いが困難なため、2012年3月までに公務員の50万人のレイオフも行われる。失業者の受け皿として自営業の免許を25万人分発行することが決まった。現在の労働者は公務員約470万人、民間労働者約60万人(大半が農家)である。 経済活性化のため、2008年には自営業を許可する業種を拡大。レストランや民泊などの開業が相次ぎ、自営業者は2008年の約14万人から2017年には約58万人へと増えた。開業には納税のほか政府への登録料支払いが必要で、負担を嫌って無許可で開業する国民もいる<ref>【カストロ後の行方】(上)「平等」キューバに格差/潤う観光 公務員低賃金『[[読売新聞]]』朝刊2018年4月3日(国際面)</ref>。自営業で成功した富裕層や、富裕層向け店舗・[[サービス業]](美容室や[[エステ]]、ペットショップなど)も出現している<ref name="日経産業20190312"/>。 キューバに経済制裁を科しているアメリカを除いて、外国人観光客や外国資本の進出も増えている。ハバナ旧市街や海浜リゾート地には大型ホテルが建設された<ref name="日経産業20190312"/>。ハバナ近郊には100%外資の操業を認めるマリエル[[経済特区|特別開発区]](ZEDM)が整備されている<ref>[https://www.jetro.go.jp/biznews/2018/04/6570ae9fd959b3ad.html 5年目を迎えたマリエル特別開発区(キューバ)][[日本貿易振興機構]](ジェトロ)ビジネス短信、2019年4月18日閲覧。</ref>。 厳しいながらも1990年代末からプラス[[経済成長率|成長]]を維持してきたキューバ経済は2016年、それまで最大の貿易相手国であったベネズエラの政治・経済混乱で、23年ぶりのマイナス成長となった。[[国際連合]]ラテンアメリカ・カリブ経済委員会の推計・予測では、2017年は0.5%のプラス成長に戻し、2018年も1%の経済成長率が見込まれている。アメリカの[[ドナルド・トランプ|トランプ政権]]が再びキューバに対して厳しい姿勢を示しているものの、ヨーロッパ諸国からの進出企業や観光客が増えているほか、中国との貿易が拡大しているためである。外国からの渡航者は2016年に前年比14%増え、初めて400万人台(うち米国からは28万人)に乗せた<ref>キューバ/対米関係再び悪化でもしぶとく成長/欧中の投資・観光底堅く『日経産業新聞』2018年1月19日(グローバル面)</ref>。外国人観光客の来訪には空路のほか、ハバナ港に寄港する[[クルーズ客船]]も利用されている。 アメリカ政府の発表によればキューバ国民1人あたりの月収は15ドルほどである<ref>[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/0706/05/news005.html サンゼルスMBA留学日記・番外編:「今すぐ海外に行きたい」――平均月収15ドル以下。社会主義国キューバの厳しい現実]</ref>。 === 通貨 === 1994年以降2種類の法定通貨が存在したが、2021年1月1日より[[キューバ・ペソ]](ペソ・クバーノ)へ一本化された<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210102083232/https://www.sankeibiz.jp/macro/news/210102/mcb2101021721002-n1.htm |title=キューバ二重通貨制廃止 物価の急上昇懸念 |publisher=SankeiBiz |date=2021-01-02 |accessdate=2021-01-23}}</ref>。レートは1米ドル=24ペソに固定されている。 1994年から2020年12月1日までは[[外貨兌換券]]である[[兌換ペソ]]も法定通貨のひとつとして、主に外国人や観光業で使用されていた。兌換ペソは米ドルと等価とされ、政府公式のレートでは兌換ペソとキューバ・ペソも等価とされていた。しかし民間のレートは1兌換ペソ=24キューバ・ペソであり、持つ「ペソ」の違いで経済格差ができていた<ref>{{Cite web |url=https://www.aljazeera.com/economy/2021/1/1/what-will-cubas-new-single-currency-mean-for-the-island |title=What will Cuba’s new single currency mean for the island? |publisher=[[アルジャジーラ]] |date=2021-01-01 |accessdate=2021-01-23}}{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/cuba-economy-currency-idJPKBN28L0PM |title=キューバ、1月に事実上の通貨切り下げ 二重通貨制度を廃止 |publisher=[[ロイター通信]] |date=2020-12-10 |accessdate=2021-01-23}}</ref>。 == 交通 == {{Main|{{仮リンク|キューバの交通|en|Transport in Cuba}}}} {{main|{{仮リンク|キューバの道路|en|Roads in Cuba}}|[[キューバの空港の一覧]]}} キューバでは、[[鉄道]]が[[砂糖]]輸送の重要な[[交通]]手段として使われているほか、国土の中央を東西に貫通する[[高速道路]]が建設されている。 また、[[ハバナ]]から[[フラッグ・キャリア]]の[[クバーナ航空]]が複数のキューバ国内線および、[[メキシコ]]、[[スペイン]]、[[ロシア]]などへとつながる定期国際[[航空路]]を運航しているほか、諸外国の多くの航空会社も乗り入れている。 {{also|{{仮リンク|キューバ共和国運輸省|es|Ministerio_del Transporte (Cuba)}}|キューバ鉄道}} {{節スタブ}} == 国民 == {{Main|{{仮リンク|キューバの人口統計|en|Demographics of Cuba}}}} [[画像:Iglesia Letran.JPG|right|thumb|260px|首都[[ハバナ]]の[[カトリック教会|カトリック]]教会堂]] [[画像:Cuban school children.jpg|right|thumb|260px|キューバの小学生]] [[ファイル:Front view of Universidad de La Habana.jpg|サムネイル|260x260ピクセル|[[ハバナ大学]]]] キューバは16世紀中にスペイン人の苛政によって[[インディオ]]が絶滅したため、現在は[[白人]]系市民と[[黒人]]系市民および少数のアジア系移民で成り立っている。住民の[[人種]]構成は、[[ムラート]]が37%、[[ヨーロッパ|欧州]]系[[白人]]が51%(おもに[[スペイン]]系)、黒人が11%、[[中華人民共和国|中国]]系が1%であると推定され、他にも[[メスティーソ]]、[[レバノン]]人がおり、中国人やレバノン人、[[東インド諸島]]の植民者の[[コミュニティ]]がある。キューバ政府は、「人種別の統計は、[[人種差別]]につながる」ことを理由に、人種別の統計を取っていない。ただし、推計値では徐々に混血が増加する趨勢となっている。 キューバの白人は19世紀から20世紀の間に移民としてやってきた[[スペイン人]]のほかに、[[フランス人]]、[[アイルランド人]]、[[ドイツ人]]([[ドイツ系キューバ人]])、[[イタリア人民党 (1919-1926)|イタリア人]]、[[ポーランド人]]などを根に持つ。また、アジア系の市民として[[中国系キューバ人]]や戦前移民した[[日系キューバ人]]も少数存在する。1903年から1933年までの間に72万人の[[スペイン人]]、19万人の[[ハイチ]]人、12万人の[[ジャマイカ]]人、その他少数の[[中国人]]、アメリカ合衆国人移民があった<ref>福井英一郎編『世界地理15 ラテンアメリカII』朝倉書店、1978年。</ref>。{{要出典範囲|date=2019年12月|しかし、これらの移民の多くは定住せず帰国した。}} 1959年の[[キューバ革命]]によって成立した現政府の政策により、[[ラテンアメリカ]]地域特有の、スペイン[[植民地]]時代から続いてきた人種に基づく伝統的[[階級社会]]は破壊され、多くの白人支配層や中産階級がアメリカの[[フロリダ州]]や[[西ヨーロッパ]]に亡命した。 === 言語 === [[公用語]]は[[スペイン語]]([[キューバ・スペイン語]])である。しかし、[[観光業]]に力を入れていること、アメリカ本土に近いこと、そして公教育の普及率が高いことなどから、[[ホテル]]や[[レストラン]]、都市部などでは[[英語]]が通じることもある。 === 宗教 === {{Main|{{仮リンク|キューバの宗教|en|Religion in Cuba}}}} [[宗教]]の信仰は原則として自由であるが、今では[[無宗教|無信教者]]が人口の55%にまで達している。キューバでもっとも重要な宗教は[[カトリック教会|カトリック]]であり、[[キューバ革命]]以前は人口の70%以上が教徒であった(1957年)。しかし、フィデル・カストロ政権下で信者数は約40%まで減少し、政府から反革命活動をしていないとみなされる必要があるなど、現在でも教会の布教活動には政府による制約がなされている。 その他の宗教には、[[プロテスタント]]、[[エホバの証人]]、[[ユダヤ教]]、[[キューバのイスラム教|イスラム教]]、そして民族固有の宗教である[[サンテリア]]などがあげられる。東部では[[ハイチ]]からの移民によって[[ヴードゥー教]]も信仰されている。 日本発祥の宗教として、社会主義国としては珍しく[[創価学会インタナショナル|SGI]]のキューバ支部(キューバ[[創価学会]])が存在している{{efn|1996年には[[フィデル・カストロ]]議長(当時)が[[池田大作]]SGI会長・[[創価学会]][[名誉会長]]と会見している。}}。 === 教育 === {{Main|{{仮リンク|キューバの教育|en|Education in Cuba}}}} キューバ革命後、政府は教育・社会福祉部門に対する投資率を高め、関連予算額が国家予算の16%を占めるようになった。その結果、教育の無料化と[[非識字]]率の大幅な低下といった成果を上げた。 キューバでは、[[フィデル・カストロ]]の「アメリカに半[[植民地]]にされたのは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[プロパガンダ]]を国民が見抜けなかったから」という考えから、教育に国を挙げて力をいれている。[[初等教育]]は[[義務教育]]となっており、小学校では20人学級や[[サブティーチャー]]制を導入している。2002年のセンサスによれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は全体で99.8%であり<ref>https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/cu.html</ref>、これは[[アルゼンチン]]、[[ウルグアイ]]、[[チリ]]と並んでラテンアメリカ内では最高水準である。また、国民の大半は[[高等学校]]を卒業している。 おもな高等教育機関としては[[ハバナ大学]](1728年創立)などが挙げられる。[[高等教育]]は、19万1,262人(2001-2002年度)の学生が受けている。 キューバの学校教育においては[[スポーツ]]にも力を入れており、特に[[野球]]は小学校から大学までの必修科目として取り入れられており、キューバではもっともポピュラーなスポーツとなっている。 === 保健 === {{Main|{{仮リンク|キューバの保健|en|Health in Cuba}}}} {{節スタブ}} {{also|{{仮リンク|キューバ国民保健機構|es|Sistema Nacional de Salud (Cuba)}}}} ==== 医療 ==== {{Main|{{仮リンク|キューバの医療|en|Healthcare in Cuba}}}} キューバの医療制度は[[プライマリヘルスケア|プライマリ・ケア]]を重視した医療制度を採用し、独特の社会福祉政策と同様「キューバ・モデル」として有名である。世界保健機関が発行するWorld Health Statistics 2014年度版によると、医療費の公費負担率は2000年度は90.8%、2011年度は94.7%である<ref>[https://apps.who.int/iris/handle/10665/112738 WHO World health Statistics 2014>7.Health Expenditure(142Page)]</ref>。2022年時点ですべての医療・教育費は子供から大人まで無償となった。人口1万人中の[[医師]]数が67.2人と世界でもっとも多いグループに属する<ref>[https://apps.who.int/iris/handle/10665/112738 WHO>World Health Statistics 2014>Part3 Global health indicators>6. Health systems]</ref>。ファミリードクター制を採用し、各地区に配置された医師が地域住民の健康状態の把握を行っている。家庭医は往診が基本である。被災地への医師の海外[[派遣]]も積極的に行っている<ref>{{Cite web|和書|title=「白衣の軍隊」を世界に:キューバの国際医療主義 |url=https://globalnewsview.org/archives/18361 |website=GNV |date=2022-04-21 |access-date=2022-05-18 |language=ja}}</ref>。これらは、[[マイケル・ムーア]]監督の映画『[[シッコ]]』で紹介された。キューバの所得水準は世界銀行の定義ではUpper Middle Income Countryに分類され、世界保健機関の年次報告書であるWorld health Statistics 2014年度版によると、世界保健機関が指標として定める妊産婦死亡率、新生児死亡率、乳児死亡率、乳幼児死亡率、成人死亡率は、Upper Middle Income Countriesの平均値よりは低いが、High Income Countriesの平均値よりは高く、平均寿命、平均健康寿命はUpper Middle Income Countriesの平均値よりは高いが、High Income Countriesの平均値よりは低い<ref>[https://apps.who.int/iris/handle/10665/112738 WHO>World Health Statistics 2014>Part3 Global health indicators>1. Life expectancy and mortality , 2. Cause-specific mortality and morbidity]</ref>。 [[ディエゴ・マラドーナ]]、[[モハメド・アリ]]が治療しにきた{{要出典|date=2022年6月|}}。 ==== 評価 ==== {{節スタブ}} == 社会 == === 生活 === キューバ国民は全員が配給手帳を所持しており、毎日配給を受ける。ただし配給といっても無料ではなく、国家による生活物資の超低価格販売である。配給所は街の随所にある。 キューバ国民が海外に出国する方法は大きくわけて四種類あり、 # 外国人からの推薦の発行 # 外国人との結婚 # 海外に住む家族による招待状の発行 # 国家による(留学目的などでの)海外派遣 # 亡命 である。 なお、2.以降は取得が困難であるためキューバ人の多くは外国人観光客らと親しくなり、招待状を入手しようとしている。 {{節スタブ}} == 治安 == {{main|{{仮リンク|キューバにおける犯罪|en|Crime in Cuba}}}} かつては社会主義国で貧富の差が小さいこともあり、キューバの治安は良好とされていたが近年は[[外国人]][[観光客]]や外国人居住者を狙った[[強盗]]、[[ひったくり]]、[[スリ]]、[[置き引き]]などの事件及び比較的裕福なキューバ人や[[商業施設]]を狙った強盗・[[窃盗]]事件が発生し、治安は悪化の一途を辿っている。特に2種類の換金レートを悪用した[[両替]][[詐欺]]や混雑した場所におけるスリ、[[バッグ]]のひったくりをはじめ、目を離した隙を狙った置き引き、[[デジタルカメラ]]及び[[携帯電話]]の寸借持ち逃げ事件が多発している。 日中は観光客の多いハバナ旧市街周辺(特にモロ要塞やカバーニャ要塞周辺で被害が多発)、セントロハバナ周辺等の観光名所で外国人観光客を狙ったスリや置き引き等が発生しており、夜間にはハバナ中心部の比較的人通りの少ない暗い道でひったくりや強盗及び[[殺人]]事件が発生しているため、治安の低さによる危険性が今後も高くなりつつあることを留意しなければならない<ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_245.html#ad-image-0 キューバ 危険・スポット・広域情報(海外安全ホームページ)]</ref>。 === 治安維持 === {{Main|{{仮リンク|キューバの法執行機関|en|Law enforcement in Cuba}}}} ==== 警察 ==== {{Main|{{仮リンク|国家革命警察|es|Policía Nacional Revolucionaria}}}} === 人権 === {{Main|{{仮リンク|キューバにおける人権|es|Derechos humanos en Cuba|en|Human rights in Cuba}}}} {{節スタブ}} == マスコミ == {{main|{{仮リンク|キューバのメディア|en|Mass media in Cuba}}}} {{節スタブ}} === 通信とメディア === {{see|{{仮リンク|キューバの通信|en|Telecommunications in Cuba}}}} [[通信社]]は国営のプレンサ・ラティーナに一元化されている。国内でもっとも読まれている新聞は、[[キューバ共産党]]の機関紙『[[グランマ (新聞)|グランマ]]』で、[[スペイン語]]と[[英語]]のウェブサイトを運営している(外部リンク参照)。 キューバは現在でも「キューバ共産党の[[一党独裁制|一党独裁]]下にあり、[[言論の自由]]に制限がある」とされる。これがアメリカ政府によるキューバ制裁継続の一因となっている。[[フランス]]に本部を置く[[ジャーナリスト]]の国際的[[非政府組織]]「[[国境なき記者団]]」が2005年に発表した「世界報道自由ランキング」では、キューバのランクは調査対象の167か国・地域中161位にとどまり<ref>http://www.rsf.org/article.php3?id_article=17781</ref>、政府の意向に沿わない独立系ジャーナリストの逮捕・投獄・虐待が行われていると指摘されている。2006年5月にはアメリカに本部がある国際非営利団体「[[ジャーナリスト保護委員会]]」が発表した[[検閲国家ワースト10のリスト]]」でキューバが7位に挙げられた。また、国外からの情報を遮断するために[[ネット検閲]]が導入されている。 [[インターネット]]への接続自体は2009年の解禁以降、環境が徐々に整備されてきた。公園など全国約500か所で[[公衆無線LAN]](規格は[[Wi-Fi]])で有料接続でき、2017年10月には国営通信会社エテクサが一般家庭向け接続サービスの開始を発表した。[[国際電気通信連合]](ITU)の統計によると、2017年時点でキューバ国民のネット利用率は38%。 米[[Google]]の協力で首都ハバナに2016年開設された唯一のインターネット無料利用センターが接続できなくなっているなど(2018年2月時点)、低所得層を中心にネット利用には依然制約が多い。アメリカ政府はキューバの[[民主化]]を促す手段としてインターネットを重視しており、オバマ政権時代にネット関連機器の輸出規制を緩和した。トランプ政権は2018年1月、[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]にキューバでのネット普及を支援する特別部署を設置した<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180222/ddm/007/030/036000c 【キューバは今 ポスト・カストロ前夜】(1)遠いネットの自由/政府、体制崩壊恐れ]『毎日新聞』朝刊2018年2月22日(国際面)</ref>。 === テレビ === {{see|{{仮リンク|キューバのテレビ|en|Television in Cuba}}}} 1940年代、ラジオ局の[[CMQ (Cuba)|CM-21P]]と[[RHC-Cadena Azul]]が近々、テレビ放送を開始すると発表したがテレビ局の設立と放送網の構築するにあたって莫大な費用で複雑であったことから予想より大幅に時間がかかった。 1946年12月、ラテンアメリカで初めて、[[CMQ (Cuba)|CM-21P]]が試験的にマルチポイントでの放送を行った。 1950年10月、ユニオンラジオが開局した後、次々と開局し同月25日に商業用としてテレビが導入されたことによって[[カリブ海地域]]では初めて、ラテンアメリカでは2番目に放送を開始した国となった。同年、12月18日にCMQ-TVがチャンネル6で放送を開始。(正式にCMQとしては翌年3月11日。)また、ユニオンテレビが10月下旬にキューバリーグ冬季野球大会の第一試合を生中継したことにより野球がキューバの国民的娯楽として確立するきっかけとなった。この頃は、報道・料理・コメディと多様な番組がありテレビは16インチ350ドルから30インチ2000ドルと高価なものであったが、1952年までに10万台以上が輸入され普及した。 1952年3月10日、[[フルヘンシオ・バティスタ]]によるクーデター成功によって検閲が行われた。同年、[[7月26日運動|フィデル・カストロによるモンカダ兵営に対して攻撃が行われた]]ため検閲が強化され1953年10月24日まで続いた。再び始まったのは[[キューバ革命]]終結後の1959年である。政府は放送網を整備を始め[[カマグエイ]]に地方局チャンネル11を開局させ翌年、CMQチャンネル6から「CMQ」の名を外した。1961年にはチャンネル6と民間放送のチャンネル4とチャンネル2の広告を終了させた。 1958年3月19日、チャンネル12の「TELECOLOR SA」が16時間に亘るカラー放送を開始したことにより、アメリカに次いで世界で2番目にカラー放送を開始した国となった。 2022年の時点で国営が5局、デジタル放送専門が2局、HDデジタル放送が4局がある他、多数の地方局がある。 '''インターネット''' {{see|{{仮リンク|キューバのインターネット|en|Internet in Cuba}}}} 1994年6月、アメリカの[[スプリント_(企業)|スプリント]]との64KBit/s通信との確立した後、インターネットの拡大は頓挫した。要因として[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連崩壊]]によるキューバ経済の低迷や[[米国の対キューバ禁輸措置]]による海底ケーブルの敷設の遅滞やコンピュータとその周辺機器の価格高騰により入手が困難となったことが考えられる。 2009年、オバマ大統領がアメリカ企業がキューバに対してのインターネットサービスの提供を許可することを発表したのち、通信を促進するため規制を修正する動きがあったがキューバ政府はベネズエラ政府と協力とのを望み拒否した。同年、テレキューバに[[フロリダ州]][[キーウェスト]]とハバナの海底ケーブルを敷設の認可が下りていたが、双方の政治的配慮により事業が滞った。 2008年までパソコンや携帯電話の個人所有は政府の許可が必要であったが、合法化されたことで63万台以上が利用可能なったものの帯域幅が限られているために企業・学校・研究所など集団で使用される施設を優先とした。その後のネット利用者の推移は2012年に総人口の約30%、2016年7月には38.8%(433万4022人)、2022年時点で総人口の68%が利用している。 ベネズエラとの通信は2011年に光ファイバーが敷設され2013年1月に一般利用者への利用が可能となった。 2015年、政府は国内35ヶ所にWi-Fiスポットを開設し、2018年3月にほとんどの主要都市に拡大し全国約500ヶ所となった。 2018年、年末までにモバイルでのインターネットサービスを提供する計画を掲げ、12月に計画を始動させ2019年に限られた地域で4G通信が始まった。 2019年7月29日、家庭や企業でのプライベートのWi-Fiを合法したものの許可を得る必要がある。 == 文化 == {{Main|{{仮リンク|キューバの文化|en|Culture of Cuba}}}} キューバ国民の大半が[[スペイン]]か[[アフリカ]]からの移民であるため、キューバの文化はスペインと、アフリカの特に[[ヨルバ人|ヨルバ]](現在の[[ナイジェリア]])の伝統文化から影響を受け、それらが混交しているという特徴がある。なお、キューバは、国民の[[映画]]鑑賞が盛んな国でもある。 === 食文化 === {{Main|キューバ料理}} キューバ料理はスペインとアフリカの影響が強く、[[コメ|米]]、[[豆]]、[[豚肉]]を多用する。代表的な料理としてはコングリス(豆ご飯)、トストーネス(青バナナのフライ)などが知られる。また、[[ラム酒]]と[[コーヒー]]が広く飲まれている。 === 文学 === {{Main|キューバ文学|ラテンアメリカ文学}} [[画像:Alejocarpentier.jpg|right|thumb|180px|[[アレホ・カルペンティエル]]]] [[画像:GuerrilleroHeroico.jpg|right|thumb|180px|[[チェ・ゲバラ]]]] 19世紀においては、前期に[[ホセ・マリア・エレディア]]が活躍し、[[ロマン主義]]の文学運動において[[ヘルトゥルディス・ゴメス・デ・アベジャネーダ]]と[[シリロ・ビリャベルデ]]が活躍した。19世紀後半に汎[[イスパノアメリカ]]的な規模での文学運動となる[[モデルニスモ文学]]が隆盛を迎えると、キューバからは独立運動家であり、詩人でもあった[[ホセ・マルティ]]によって『イスマエーリョ』などのモデルニスモ的な詩や、『我らのアメリカ』(1891年)などの重要な評論も発表された。 20世紀に入ると、ムラートの詩人[[ニコラス・ギジェン]]によって1930年代にソンの形式を取り入れた詩が作られ、アフロ・キューバ文学が確立された。その後、[[アレホ・カルペンティエル]]によって[[ハイチ革命]]を描いた『この世の王国』(1949年)などが発表された。 革命後は、1971年の[[パディーリャ事件]]のような革命政権による文学者への[[弾圧]]のため、カルペンティエルを例外として多くの作家がキューバを去り、亡命先で執筆を続けた。著名なキューバ人作家としては革命後に亡命し、反フィデル・カストロ運動と『三頭の悲しき虎たち』で知られる[[ギリェルモ・カブレラ=インファンテ]]や、[[ホセ・レサマ・リマ]]、[[レイナルド・アレナス]]、[[ビリヒリオ・ピニェーラ]]、[[セネル・パス]]などが挙げられる。特にアレナスは亡命先の[[ニューヨーク]]で[[魔術的リアリズム]]の傑作として知られる『めくるめく世界』などを残している。 また外国出身者でありながらキューバの文学運動に多大な影響を与えた人物として、キューバをこよなく愛したアメリカ合衆国の[[アーネスト・ヘミングウェイ]]が挙げられる。そのほかにも、[[アルゼンチン]]出身でキューバ革命の指導者の1人であり、紀行文の『[[モーターサイクル・ダイアリーズ]]』や革命中のゲリラ戦の経験をまとめた『[[ゲリラ戦争]]』(1961年)、『[[ゲバラ日記]]』で知られ、閣僚を務めたこともある[[エルネスト・チェ・ゲバラ]]は文学においても名高い。 === 美術 === {{Main|{{仮リンク|キューバの芸術|en|Cuban art}}}} 代表的な[[画家]]としては、20世紀半ばに活躍し、アフロ・キューバ美術を再発見した[[ウィフレド・ラム]]が挙げられる。革命後は[[ラウル・マルティネス]]らによってキューバの人民革命を鼓舞する[[プロパガンダ]]・[[ポスター]]が製作された。現在は[[ホセ・ベディア・バルデス]]の『アメリカ大陸年代記』など、西欧近代文明の限界に挑戦する美術運動が進んでいる。 {{節スタブ}} === 音楽 === {{main|{{仮リンク|キューバの音楽|en|Music of Cuba}}|ラテン音楽}} キューバ音楽は、スペイン系とアフリカ系の音楽が融合して生まれたものをベースにいろいろな要素が混じり合って生まれており、[[ラテン音楽]]の中枢的な存在となる。アメリカ合衆国の[[ジャズ]]などとともに[[20世紀]]の[[大衆音楽]]に大きな影響を与えた。 代表的なキューバ音楽は、[[クラシック・ギター|スペインのギター]]と[[アフリカ]]の[[太鼓]]を組み合わせた[[ヨルバ]]系文化の影響が強い[[ルンバ]]や[[ソン]]がある。そのほか、大衆音楽の中には、[[トローバ]]や[[ダンソン]]のようにヨーロッパ音楽の要素が比較的強く残っているものもある。 19世紀にフランスの[[ジョルジュ・ビゼー]]が[[ハバネラ]]のリズムを取り入れたときからキューバ音楽の世界への拡大は始まっていたが、キューバ音楽は、まず1930年にソンがアメリカで紹介され、[[1930年代]]以降、アメリカを中心に世界中に広まった。ただし、その際にソンが「ルンバ」として紹介されたため、元来のルンバと「ルンバ」と呼ばれるソン(現在でも社交ダンスで「ルンバ」と呼ばれるものは、このソンである)を区別する必要がある。 [[1950年代]]には、[[マンボ]]や[[チャチャチャ]]が世界的に流行したが、1959年の[[キューバ革命]]後はアメリカとの[[国交]]が途絶え、また経済封鎖のためもあり、キューバ音楽が世界に広がる経路が狭まった。ただし、スペイン語圏諸国においては影響を持ち続けた。この1970年代から80年代にかけては、革命後のキューバで若い世代のムーブメントとして起こった[[ヌエバ・トローバ]]が、ラテンアメリカにおいては、社会現象といえるほどの人気と影響力を得た。 また、アフリカ的なリズムの素養、ソ連とのつながりによるクラシック的な技術体系が反映されたジャズ演奏者のレベルは非常に高く、70年代の後半にグラミー賞を受けたイラケレ、[[1990年代]]に一世を風靡した[[ゴンサロ・ルバルカバ]]、[[チューチョ・バルデース]]([[イラケレ]]のリーダー)など、数々のハイレベルなミュージシャンを生んでいる。 [[冷戦]]後、[[1990年代]]になると、[[ロス・バン・バン]]、[[アダルベルト・アルバレス・イ・ス・ソン]]など、[[サルサ (音楽)|ニューヨーク・サルサ]]のセンスも取り入れたソンのグループが次々に現れ、大きな人気を獲得。また、ヨーロッパなどで公演する演奏家も増加した。1990年代末には古老ミュージシャン達を扱った[[映画]](1998年の[[ヴィム・ヴェンダース]]監督作品『[[ブエナビスタ・ソシアル・クラブ]]』)が世界的なヒットとなったこともあり、経済封鎖自体はまだ続いているものの、アメリカ系大手レコード会社が次々にキューバの音楽家と契約し、来日公演なども増加するなど、キューバ・ブームといってよいほどの活況を呈している。 さらに[[21世紀]]に入って、中南米スペイン語圏およびアメリカのプエルトリコ系で一大ムーブメントとなった[[レゲトン]] (Reggaeton) がキューバにも本格的に到来、[[レゲエ]]と[[ヒップホップ]]、そしてキューバ音楽が融合したクバトン([[:en:Cubaton<!-- リダイレクト先の「[[:en:Reggaeton]]」は、[[:ja:レゲトン]] とリンク -->]])が誕生し、キューバの若い世代に強く支持されている。 2001年には西側ロックバンドの公演が許可され、[[マニック・ストリート・プリーチャーズ]]がカール・マルクス劇場でライブを行った([[フィデル・カストロ]]も訪れている)。これ以降はカール・マルクス劇場で海外のバンドの公演が行われるようになった。 === 建築 === {{Main|{{仮リンク|キューバの建築|en|Architecture of Cuba}}}} キューバにおける建築は折衷的かつ多様な建築で有名となっている。 {{節スタブ}} === 映画 === {{Main|キューバの映画}} キューバは、ラテンアメリカの[[映画]]大国である[[ブラジル]]、[[アルゼンチン]]、[[メキシコ]]には及ばないものの、域内では映画制作が盛んな国のひとつである。革命前のキューバの[[映画産業]]は脆弱なものだったが、1959年に映画芸術産業庁(ICAIC)が設立されて以来、キューバ独自の映画への取り組みが始まった。ラテンアメリカ初の映画学校が開設されたのもキューバであり、1986年に[[ハバナ国際映画テレビ学校]](EICTV)が設立されてからは[[ガルシア・マルケス]]を筆頭にラテンアメリカ最高峰の人材が映画製作を教えている。 著名な映画人としては、[[イタリア]]の[[ネオレアリズモ]]に影響を受け、[[ブラジル]]の[[ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス]]、[[アルゼンチン]]の[[フェルナンド・ビッリ]]とともに新ラテンアメリカ映画運動の火付け役ともなった『エル・メガノ』(1955年)の[[フリオ・ガルシア・エスピノーサ]]や、『ルシア』(1968年)の[[ウンベルト・ソラス]]、『[[低開発の記憶]]』(1970年)、『[[苺とチョコレート]]』(1993年)の[[トマス・グティエレス・アレア]]、『[[永遠のハバナ]]』(2003年)の[[フェルナンド・ペレス]]が挙げられる。 === カーニバル === {{Main|{{仮リンク|キューバのカーニバル|en|Cuban carnival}}}} 植民地時代からカトリックの暦に合わせて[[謝肉祭|カーニバル]]が行われており、特に[[サンティアーゴ・デ・クーバ]]とハバナのカーニバルは規模が大きい。[[コンパルサ]]やコンガと呼ばれるチームが楽器と歌と踊りを交えて道路を練り歩く。 {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{Main|キューバの世界遺産}} キューバ国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が6件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が2件存在する。詳細は、[[キューバの世界遺産]]を参照。 <gallery mode="packed"> Capitolio von hinten.jpg|[[オールド・ハバナ|ハバナ旧市街]]とその要塞群 - (1982年、文化遺産) Valle de los ingenios.jpg|[[トリニダ (キューバ)|トリニダード]]と[[ロス・インヘニオス渓谷]] - (1988年、文化遺産) Castillo del Morro by Glogg 4.jpg|[[サンティアーゴ・デ・クーバ]]の[[サン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城]] - (1997年、文化遺産) PinarDelRioCuba.jpg|[[ビニャーレス渓谷]] - (1999年、文化遺産) SierraMaestra-382707055.jpg|[[キューバ南東部のコーヒー農園発祥地の景観]] - (2000年、文化遺産) Alejandro de Humboldt National Park.jpg|[[アレハンドロ・デ・フンボルト国立公園]] - (2001年、自然遺産) DirkvdM cienfuegos parque jose marti.jpg|[[シエンフエーゴス]]の都市的歴史地区 - (2005年、文化遺産) </gallery> === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|キューバの祝日|en|Public holidays in Cuba}}}} {|class=wikitable !日付 !日本語表記 !現地語表記 !備考 |- | nowrap="nowrap" |{{0}}1月{{0}}1日 | nowrap="nowrap" |解放記念日 | nowrap="nowrap" |{{lang|es|Triunfo de la Revolución}} |バティスタが1959年1月1日未明に[[亡命]]したことで、[[フィデル・カストロ]]の[[キューバ革命]]が達成されたことを記念する日。 |- | nowrap="nowrap" |{{0}}5月{{0}}1日 | nowrap="nowrap" |[[メーデー]] | nowrap="nowrap" |{{lang|es|Día de los trabajadores}} | |- | nowrap="nowrap" |{{0}}7月26日 | nowrap="nowrap" |モンカダ兵営襲撃(革命記念日) | nowrap="nowrap" |{{lang|es|Asalto al cuartel Moncada}} |1953年に、フィデル・カストロ率いる160名の兵士が、[[サンティアーゴ・デ・クーバ]]にあるキューバ陸軍モンカダ兵営を襲撃した日。襲撃は完全に失敗したが、後に反政府組織「[[7月26日運動]]」の名称由来となったこともあり、現在ではフィデル・カストロ主導によるキューバ革命の始まりであると考えられている。通常は、他の2, 3日の[[祝日]]とともに祝われる。 |- | nowrap="nowrap" |10月10日 | nowrap="nowrap" |独立戦争開始記念日 | nowrap="nowrap" |{{lang|es|Día de la Independencia}} |1868年に、[[カルロス・マヌエル・デ・セスペデス]]が自己所有の[[奴隷]]に自由を与え、スペイン植民地当局に対する独立戦争(十年戦争)を開始した日。 |- | nowrap="nowrap" |12月25日 | nowrap="nowrap" |[[クリスマス]] | nowrap="nowrap" |{{lang|es|Navidad}} |キューバ革命後、クリスマスは[[休日]]をともなう祝日ではなくなった。しかし、1998年の[[ローマ教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]の訪問を受け、政府は再びクリスマス休暇を復活させた。 |} === スポーツ === ==== オリンピック ==== {{main|オリンピックのキューバ選手団|キューバのスポーツ}} キューバ国内では[[社会主義国]]の利点を生かして、国家による選手育成が幼年期から一貫して行われている。また高い医療水準にも支えられ、キューバ選手は[[夏季オリンピック]]を中心に輝かしい成績を収めてきた。人口比での[[金メダル]]数は世界トップクラスであり、[[2004年アテネオリンピック]]では9個を獲得した。さらに社会主義国のために[[イデオロギー]]が[[スポーツ]]に優先する国情があり、かつては[[近代オリンピック|オリンピック]]の[[ボイコット]]も行った。現在でも、特に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]との関係で国際大会への参加に支障が出る場合がある。キューバがスポーツの中で特に力を入れるのは、各オリンピックで金メダルを量産している[[ボクシング]]や[[野球]]や[[フェンシング]]、それに女子の[[バレーボール]]である。さらに[[柔道]]や[[アマチュアレスリング|レスリング]]、[[陸上競技]]の跳躍系種目でも好成績を収めている。一方で[[バスケットボール]]などの成績は振るわず、[[冬季オリンピック]]には参加経験そのものがない。 さらにキューバでは「オリンピックスポーツ選手」が「スポーツ選手」のステータスであり、野球代表等はその下に位置する。なお、すべてのスポーツ選手は[[アマチュア]]の[[国家公務員]](いわゆる[[ステート・アマ]])であり、国内では一般国民と比較して好待遇が与えられている。特に金メダリストは国家英雄として称賛されるが、アメリカなどのプロ選手と比べるとその報酬額ははるかに少ない。そのため、有力選手の中にはアメリカへの亡命者も出現する。また[[亡命]]に失敗した選手は国際大会への派遣が行われず、キューバ選手団は常に外部との接触を厳しく制限されながら競技会に参加するという弊害も起こっている。 ==== サッカー ==== {{main|{{仮リンク|キューバのサッカー|en|Football in Cuba}}|{{仮リンク|キューバサッカー協会|en|Football Association of Cuba}}}} キューバで[[サッカー]]のイメージは一見無いものの、実は[[サッカーキューバ代表]]は[[FIFAワールドカップ]]には[[1938 FIFAワールドカップ|1938年大会]]に1度だけ出場を果たしている。さらに[[CONCACAFゴールドカップ]]には10度も出場しており、これまでに3回ベスト8に進出した事もある。また、[[カリビアンカップ]]では[[カリビアンカップ2012|2012年大会]]で初優勝を達成している。なお、[[1912年]]にはサッカーリーグの『[[カンペオナート・ナシオナル・デ・フットボール・デ・キューバ]]』も創設されている。 == 施策 == * 政府が監督下する文化的施策 ** [[図書館]]:キューバ最大の図書館はハバナの国立図書館(蔵書数約220万冊)である。ハバナをはじめ主要都市には市立図書館が設置されている。 ** [[博物館]]:ハバナの国立博物館は、[[古典]]から現代に至る芸術作品、および[[先住民]]・[[文化 (代表的なトピック)|文化]]の遺物を収集している。 ** [[補足]]:一部自治体は、[[演劇]]や[[舞踊]]などの文化活動を支援している。 == 著名な出身者 == {{Main|キューバ人の一覧}} {{colbegin|2}} *[[フアン・アロンソ (キューバのサッカー選手)|フアン・アロンソ]](元[[サッカー選手]]) *[[ホセ・アブレイユ]]([[野球選手]]) *[[アリシア・アロンソ]]([[バレエ]][[ダンサー]]、[[舞踏家]]、キューバ国立バレエ団監督) *[[オスマニー・ウルティア]](元野球選手) *[[グロリア・エステファン]](ロックヴォーカリスト&[[シンガーソングライター]]) *[[トニー・オリバ]](元メジャーリーガー) *[[レイ・オルドニェス]](元[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーガー]]) *[[ホエール・カサマヨール]]([[プロボクサー]]、[[バルセロナオリンピック]]金メダリスト、現世界チャンピオン) *[[スリア・カラタユド]]([[陸上競技]]選手) *[[アンディ・ガルシア]]([[俳優]]) *[[ホセ・カンセコ]](元メジャーリーガー) *[[バート・キャンパネリス]](元メジャーリーガー) *[[オレステス・キンデラン]](元野球選手) *[[マイク・クェイヤー]](元メジャーリーガー) *[[ユリエスキ・グリエル]](メジャーリーガー) *[[セリア・クルース]]([[サルサ (音楽)|サルサ]]歌手) *[[アルベルト・コルダ]]([[写真家]]) *[[ホセ・コントレラス]](メジャーリーガー、[[フィラデルフィア・フィリーズ|フィリーズ]]) *[[ルディ・サーゾ]](ベーシスト) *[[チュス・アロンソ]](元サッカー選手) *[[SHEILA]]([[モデル (職業)|モデル]]、[[タレント]]) *[[フアン・トゥニャス]](元サッカー選手) *[[コンパイ・セグンド]]([[音楽家]]・[[ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ]]) *[[フレデリク・セペダ]](野球選手) *[[アロルディス・チャップマン]](メジャーリーガー、[[シンシナティ・レッズ|レッズ]]) *[[ルイス・ティアント]](元メジャーリーガー) *[[マーティン・ディーゴ]](元[[ニグロリーグ|ニグロリーガー]]、[[アメリカ野球殿堂]]入り) *[[オレステス・デストラーデ]](元[[日本プロ野球]]選手) *[[アルフレド・デスパイネ]](日本プロ野球選手) *[[クリストバル・トリエンテ]](元ニグロリーガー、アメリカ野球殿堂入り) *[[カミロ・パスカル]](元メジャーリーガー) *[[アントニオ・パチェコ]](元野球選手) *[[ロベルト・バルボン]](元日本プロ野球(阪急、現・オリックス)選手) *[[ラファエル・パルメイロ]](元メジャーリーガー) *[[ペレス・プラード]](「[[マンボ]]の王様」) *[[アリエル・ペスタノ]](元野球選手) *[[ノルヘ・ベラ]](元野球選手) *[[トニー・ペレス]](元メジャーリーガー、アメリカ野球殿堂入り) *[[オマーラ・ポルトゥオンド]](歌手[[ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ]]) *[[マチート]]([[アフロ・キューバン・ジャズ]]の創始者、コンゲーロ) *[[ミニー・ミノーソ]](元メジャーリーガー) *[[ヘルマン・メサ]](元野球選手) *[[ホセ・メンデス]](元ニグロリーガー、アメリカ野球殿堂入り) *[[リバン・モイネロ]](日本プロ野球選手) *[[ケンドリス・モラレス]](メジャーリーガー、[[シアトル・マリナーズ|マリナーズ]]) *[[ペドロ・ラソ]](プロ野球選手) *[[アレクセイ・ラミレス]](メジャーリーガー、[[シカゴ・ホワイトソックス|ホワイトソックス]]) *[[オマール・リナレス]](元日本プロ野球(中日)選手) *[[ドルフ・ルケ]](元メジャーリーガー) *[[ゴンサロ・ルバルカバ]](ジャズ・ピアニスト) *[[カミラ・カベロ]]([[歌手]]) *[[オスヴァルド・アロンソ]]([[サッカー選手]]) *[[オネル・エルナンデス]](サッカー選手) {{colend}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|colwidth=25em}} == 参考文献 == *[[板垣真理子]]『キューバ、愛!──ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブと音楽揺籃の地への旅』[[作品社]]、2000年8月。ISBN 4878933658。 *[[板垣真理子]]『キューバ、甘い路上』[[フィールドワイ]]、2002年6月。ISBN 4901722042。 *海風書房編『キューバ万華鏡──私のキューバ体験』[[海風書房]]、2000年7月、ISBN 4768488749 *[[大窪一志]]『風はキューバから吹いてくる──ソシアリスモ・ラティーノ([[ラテン]]的社会主義)見聞』[[同時代社]]、1998年6月。ISBN 4886833950。 *[[大須賀猛]]『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブとキューバ音楽の手帖』[[水声社]]、2000年2月。ISBN 4891764163。 *原著:Carmen R. Alfonso, ''100 preguntas y respuestas sobre Cuba'', Editorial Pablo de la Torriente, 1996, ISBN 959120096X, ISBN 9875201073 **アルフォンソ・エルナンデス, カルメン・R/[[神代修]]訳『キューバガイド キューバを知るための100のQ&A』[[海風書房]]、1997年10月。ISBN 4768488587。 *{{Cite book|和書|editor=エドゥアルド・ガレアーノ|editor-link=エドゥアルド・ガレアーノ|translator=大久保光|date=1986年9月|title=[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年|収奪された大地──ラテンアメリカ五百年]]|series=|publisher=[[新評論]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=ガレアーノ/大久保訳(1986)}} *倉部きよたか『峠の文化史──キューバの日本人』PMC出版、東京、1989年9月。ISBN 4-89368-212-1<nowiki/>0。 *{{Cite book|和書|author=後藤政子|authorlink=後藤政子|others=[[神奈川大学|神奈川大学評論編集専門委員会]]編|date=2001年7月|title=キューバは今|series=神奈川大学評論ブックレット17|publisher=[[御茶の水書房]]|location=[[東京]]|isbn=4275018680|ref=後藤(2001)}} *{{Cite book|和書|author1=後藤政子|authorlink1=後藤政子|author2=樋口聡|authorlink2=樋口聡|date=2002年12月|title=キューバを知るための52章|series=エリア・スタディーズ|publisher=[[明石書店]]|location=[[東京]]|isbn=4-7503-1664-4|ref=後藤、樋口編著(2002)}}pp.&nbsp;232–235。 *[[さかぐちとおる]]『キューバ音楽紀行』[[東京書籍]]、2000年8月。ISBN 4487796067。 *首都圏コープ事業連合編『有機農業大国キューバの風 [[生活協同組合|生協]]の国際産直から見えてきたもの』[[緑風出版]]、2002年4月。ISBN 4846102041。 *WCG編集室編『キューバ──情熱みなぎるカリブの文化大国』(『ワールド・カルチャーガイド』[The world culture guide series]20)[[トラベルジャーナル]]、2001年7月。ISBN 4895594955。 *[[鉄矢多美子]]『熱球伝説──キューバリナレスを育てた[[野球]]王国』[[岩波書店]]、1997年8月。ISBN 4000017934。 *[[樋口聡]]『キューバへ──カリブ楽園共和国探訪記』[[批評社]]、1995年12月。ISBN 4826501978。 *樋口聡『カリブの楽園キューバで恋する[[サルサ]]と[[ラム酒]]とカーニバル』[[祥伝社]]〈祥伝社黄金文庫〉、2001年4月。ISBN 4396312512。 *樋口聡『キューバのうた 旅するカメラ 記憶するカメラ』[[論創社]]、2002年11月。ISBN 4846004325。 *{{Cite book|和書|author=福井英一郎編|authorlink=福井英一郎|year=1978|title=ラテンアメリカII|series=世界地理15|publisher=[[朝倉書店]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=福井(1978)}} *{{Cite book|和書|author1=二村久則|authorlink1=二村久則|author2=野田隆|authorlink2=野田隆|author3=牛田千鶴|authorlink3=牛田千鶴|author4=志柿光浩|authorlink4=志柿光浩|date=2006年4月|title=ラテンアメリカ現代史III|series=世界現代史35|publisher=[[山川出版社]]|location=[[東京]]|isbn=4-634-42350-2|ref=二村、野田、牛田、志柿(2006)}} *Paula J. Pettavino, Geralyn Pye, ''Sport in Cuba:The Diamond in the Rough (Pitt Latin American)'', University of Pittsburgh Press, Aug 1994. ISBN 0822955121. ISBN 0822937646. **ポーラ・ペタビーノ、ゲラリン・パイ/[[草深直臣]]、[[金井淳二]]、[[新野守]]訳『キューバのスポーツ』[[創文企画]]、1999年3月。 *[[村上龍]]著、[[河野治彦]]データ執筆『新世界のビート──快楽のキューバ音楽ガイド』[[新潮社]]、1993年7月。ISBN 4103934018。 *[[八木啓代]]、[[吉田憲司 (ミュージシャン)|吉田憲司]]『キューバ音楽』[[青土社]]、2001年2月。ISBN 4791758617。 **文献あり、並列タイトル:''La musica en Cuba'' *[[八木啓代]]、[[吉田憲司]]『キューバ音楽 増補新版』[[青土社]]、2009年8月。ISBN 978-4791764976。[http://www.seidosha.co.jp/index.php?%A5%AD%A5%E5%A1%BC%A5%D0%B2%BB%B3%DA] *[[吉田沙由里]](著)、[[アレイダ・ゲバラ]](寄稿)『小さな国の大きな奇蹟──キューバ人が心豊かに暮らす理由』WAVE出版、2008年5月。ISBN 4872903501。 *吉田太郎『200万都市が有機野菜で自給できるわけ──都市農業大国キューバ・リポート』、[[築地書館]]、2002年8月。ISBN 4806712493。 *吉田太郎『有機農業が国を変えた──小さなキューバの大きな実験』[[コモンズ]]、2002年8月。ISBN 4906640540。 *吉田太郎『1000万人が反グローバリズムで自給・自立できるわけ──スローライフ大国キューバ・リポート』[[築地書館]]、2004年1月。ISBN 4806712779。 *吉田太郎『世界がキューバ医療を手本にするわけ』[[築地書館]]、2007年8月。ISBN 4806713511。 == 関連項目 == *[[キューバ関係記事の一覧]] *[[キューバ共産党]] *[[キューバの軍事]] *[[キューバ危機]] *[[キューバ (軽巡洋艦)]] *[[一党独裁制]] *[[スンスネオ]] *[[チェ・ゲバラ]] *[[ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ]] *[[カリブ・スペイン語]]  == 外部リンク == {{Sisterlinks}} * 政府 ** [http://www.cubagob.cu/default.htm キューバ共和国政府]{{リンク切れ|date=2019年11月}} {{es icon}}{{en icon}} ** [http://embacuba.cubaminrex.cu/Default.aspx?tabid=1855 駐日キューバ大使館]{{リンク切れ|date=2019年11月}} {{ja icon}} * グランマ(共産党機関紙) ** [http://www.granma.cu/ スペイン語版] ** [http://en.granma.cu/ 英語版] * [http://www.photopassport.gr/index_033.html キューバの写真]{{リンク切れ|date=2019年11月}} * 移民 **[https://emig.tokyo/index.html 移民史講座 Historia de la emigración del Japón a México y Cuba.] * 日本政府 ** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cuba/ 日本外務省 - キューバ] {{ja icon}} ** [https://www.cu.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在キューバ日本国大使館] {{ja icon}} * 観光 ** [https://www.cubatravel.cu/ キューバ観光省]{{リンク切れ|date=2019年11月}} {{en icon}} ** {{ウィキトラベル インライン|キューバ|キューバ}} * その他 ** {{Kotobank}} ** 『[https://kotobank.jp/word/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88%E6%9D%A1%E9%A0%85-2129447 プラット条項]』 - コトバンク ** 『[https://kotobank.jp/word/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88%E4%BF%AE%E6%AD%A3-126261 プラット修正]』 - コトバンク ** 『[https://www.y-history.net/appendix/wh1402-071.html プラット条項/プラット修正]』 - [https://www.y-history.net/index.html 世界史の窓] {{共産主義}} {{アメリカ}} {{各国の社会主義}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:きゆうは}} [[Category:キューバ|*]] [[Category:カリブ海地域の国]] [[Category:北アメリカの国]] [[Category:島国]] [[Category:共和国]] [[Category:社会主義国]] [[Category:国際連合加盟国]]
2003-08-07T05:17:10Z
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大和路線
大和路線(やまとじせん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)関西本線のうち、電化区間である京都府木津川市の加茂駅から大阪府大阪市浪速区のJR難波駅までの区間に付けられた愛称である。この愛称はJR発足後の1988年3月13日から使用されている。天王寺駅 - 今宮駅間は大阪環状線と並行している。 大阪市と奈良市・京都府南部を結ぶ、大阪への通勤・通学路線であり、また奈良へ向かう観光路線でもある。JR西日本のアーバンネットワークの路線の一つであり、ラインカラーは緑(■)で、選定理由は「古都の落ち着いたイメージと新しい開発エリアのイメージ」である。路線記号は Q であるが、木津駅 - 奈良駅間は奈良線の列車が乗り入れるため、重複して D も付与されている。 沿線の地形は変化に富んでおり、加茂駅 - 木津駅間は笠置山地の山麓部、木津駅 - 王寺駅間は奈良盆地の田園地帯、王寺駅 - 柏原駅間では生駒山地と金剛山地の間に挟まれた大和川沿いの渓谷、柏原駅 - JR難波駅間は大阪平野の市街地や住宅地の中を走る。 大和路線は、同じく大阪市と奈良市を結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)奈良線(大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間)とは経路が大きく異なる。近鉄奈良線が生駒山地を新生駒トンネルで抜けて両都市間をほぼ直線で結んでいるのに対して、大和路線は大和川に沿うように南側へ生駒山地を迂回する経路となっており、近鉄線よりも大回りとなっている。このため近鉄とは途中区間では競合していないが、JRの奈良駅が近鉄奈良駅と比べて奈良市の中心部からやや離れていることもあって、大阪市 - 奈良市間においては近鉄奈良線が有利な状況になっている。JR西日本は大阪環状線に直通して大阪駅(梅田)に至る大和路快速を設定するなどして近鉄に対抗している。奈良駅 - JR難波駅間の2019年度の1日の平均利用者は68,043人で、近鉄奈良線(近鉄奈良駅 - 大阪難波駅間)の150,449人や近鉄大阪線(大和高田駅 - 大阪上本町駅間)の127,356人と比べて少ない。 2004年の近畿交通審議会答申第8号では「輸送力の強化等によるサービス向上に資する事業」として、加茂駅 - 木津駅間の複線化が盛り込まれたが、複線化の動きはない。しかし、この区間がダイヤ構成上のネックとなっている。 全区間を近畿統括本部が管轄しており、旅客営業規則の定める大都市近郊区間「大阪近郊区間」、奈良駅 - JR難波駅間が電車特定区間、天王寺駅 - JR難波駅間が電車特定区間の「大阪環状線内」に指定されており、それぞれ区間外より割安な近距離運賃設定となっている。また、全線がIC乗車カード「ICOCA」のエリアに含まれている。 2022年3月改正時点でのダイヤは以下の通りである。 1時間当たり、おおむね大阪環状線直通の区間快速が5本、おおさか東線直通の直通快速が2本、JR難波駅行きの快速が5本、普通が5本運転される。 かつては、快速と普通の本数が1:1であったが、需要に応じて、2:1に見直された。 1時間当たり、大阪環状線 - 加茂駅間の大和路快速が1本、大阪環状線 - 奈良駅間の大和路快速が3本、JR難波駅 - 王寺駅間の普通が4本運転される。久宝寺駅で大和路快速と普通が接続する。また王寺駅で普通と大和路快速を乗り継げる。 1時間当たり、大阪環状線直通の区間快速が4本、おおさか東線直通の直通快速が1本、JR難波駅発の快速が2本、普通が6本運転される。一部の区間快速・快速は王寺駅で分割し和歌山線に直通して高田駅・五条駅まで運転される。久宝寺駅で快速・区間快速と普通が接続する。また王寺駅で普通と快速・区間快速を乗り継げる。 大和路快速・快速・区間快速・直通快速・普通が運転されている。 各種快速はいずれも、王寺駅 - 奈良駅・加茂駅間および直通先の和歌山線・桜井線(万葉まほろば線)内は各駅に停車する。また直通先の大阪環状線を一周する天王寺行きの列車は混乱のないように天王寺までは西九条・大阪方面として案内される。 このほかに、木津駅 - 奈良駅間では奈良線のみやこ路快速・快速・区間快速・普通の全列車と片町線(学研都市線)の快速・区間快速の2往復が、新今宮駅 - 天王寺駅間では阪和線の「はるか」「くろしお」といった関西国際空港や南紀方面への特急や、関空快速・紀州路快速・快速などが、それぞれ乗り入れている。これらの列車についてはそれぞれの路線や列車の項を参照のこと。 大和路快速は大阪環状線に直通して大阪環状線 - 新今宮駅 - 奈良駅・加茂駅間で運行されている。天王寺駅では大阪環状線ホームに発着し、大阪環状線を一周して再び天王寺駅を通り大和路線へ入る運転系統となっているが、京橋駅発着の列車も設定されている。大阪環状線内では、天王寺駅 - 京橋駅 - 大阪駅間は各駅に停車し、大阪駅 - 弁天町駅 - 新今宮駅間は快速運転を行う。大阪駅 - 加茂駅間では福島駅、西九条駅、弁天町駅、大正駅、新今宮駅、天王寺駅、久宝寺駅、王寺駅からの各駅に停車する。 日中と土休日ダイヤの夜間は1時間に4本(奈良駅 - 加茂駅間は1 - 2本)が運行されている。関西本線と大阪環状線を直通する快速列車は1973年10月7日から運転されており、当初は休日のみであったが、1974年7月20日からは平日の日中にも20分間隔で運転されるようになった。「大和路快速」の名が付いたのは1989年3月11日からで、この列車名は公募で付けられた。その後大阪ステーションシティのグランドオープンに先駆けて行われた2011年3月12日のダイヤ改正で1時間あたり4本に増発され(ただしこのとき、奈良駅 - 加茂駅間は逆に毎時3本が2本へ減便となった)、8両編成での運用も増えた。2015年3月14日のダイヤ改正では土休日の運転時間帯が21時台まで拡大された。 土曜・休日ダイヤの一部列車は、王寺駅で後ろの編成を分割し、和歌山線高田・五条方面へ直通運転をしている。加茂駅発着の列車の半数は加茂駅で関西本線伊賀上野・亀山方面の列車と相互接続を行う。過去には桜井線経由の定期列車も存在していた。 基本的に久宝寺駅で普通列車に接続する。また王寺駅では同駅折り返しの普通列車に接続する。 全列車221系を使用し、2020年3月14日のダイヤ改正より全列車8両編成で運転されている。 最高速度は後述の直通快速と同様120km/h運転である。 大阪環状線に直通して大阪環状線 - 新今宮駅 - 奈良駅・加茂駅間で、平日ダイヤの朝・夕ラッシュ時間帯と土休日ダイヤの夜間に運行されている。大阪環状線内は各駅に停車し、大和路線では、大和路快速と同じく天王寺駅、久宝寺駅と王寺駅からの各駅に停車する。大阪環状線内の発着駅は天王寺駅または京橋駅であり、平日・休日ダイヤともに王寺駅で後ろ(天王寺寄り)の4両を分割し和歌山線高田駅や五条駅へ直通する列車もある。全列車8両編成で221系が使用される。2016年9月までは吹田総合車両所奈良支所所属の103系4両編成を2本併結した8両編成や森ノ宮支所所属の103系・201系も運用に入っていた。 夕方・夜間の奈良駅・加茂駅発の一部列車は新今宮駅で阪和線方面からの特急列車の通過待ちを行う。 大阪環状線に直通する区間快速は1989年3月11日に運転を開始し、当初は夜間のみの運転であったが、1990年3月10日からは朝ラッシュ時にも運転されるようになった。 2023年10月23日からは、平日朝ラッシュ時間帯の大阪方面行き区間快速2本(加茂駅6:29発、7:29発)において、有料座席サービス「快速 うれしート」が導入された。設定区間は加茂駅 - 天王寺駅間のみで、直通先の大阪環状線内はサービス適用外となる。 直通快速は、2008年3月15日のおおさか東線部分開業により設定された列車である。おおさか東線が全線開業した2019年3月16日からは、おおさか東線経由で奈良駅 - 新大阪駅間において運転され、2023年3月18日からは大阪駅(うめきたエリア)地下ホームに乗り入れている。平日は朝に大阪行きが4本と夕方に奈良行きが4本、土休日は朝夕に2往復ずつ運転されている。停車駅は奈良駅 - 王寺駅の各駅と久宝寺駅・JR河内永和駅・高井田中央駅・放出駅・JR淡路駅・新大阪駅・大阪駅である。2023年3月18日のダイヤ改正より221系8両編成が使用されている。改正前までは網干総合車両所明石支所所属の207系と321系が使用されていた。 2019年3月15日まではおおさか東線・学研都市線・JR東西線経由で奈良駅 - 尼崎駅間の運転で、運行本数は毎日朝に尼崎行きが4本と夕方に奈良行きが4本、停車駅は奈良駅から王寺駅の各駅と久宝寺駅、放出駅、京橋駅から尼崎駅の各駅であった。 直通快速の運転開始により、朝の奈良方面から天王寺方面に直通する列車が減少するため、奈良発尼崎行きは、平日ダイヤの4本中3本が久宝寺駅で後述の柏原発の快速JR難波行きに、平日ダイヤの残りの1本と休日ダイヤの4本中2本が王寺駅と久宝寺駅で和歌山線からの快速JR難波行きに、休日ダイヤの残りの2本が王寺駅と久宝寺駅で王寺発の快速JR難波行きに同一ホームで乗り換えができるようダイヤが組まれていた。 運転開始当初は宮原総合運転所所属の223系6000番台が使用されていたが、北新地駅のホームドア設置に対応するため2011年3月11日の奈良行きから207系に置き換えられた。2012年3月のダイヤ改正からは321系も使用されている。2019年の運転区間変更後も、新たに停車するようになったJR河内永和駅に4ドア車用のホーム柵が設置されていたこと(現在は撤去済み)や、直通快速は大和路線内では大和路快速と同様に120km/h運転をすることから、引き続き207系・321系を使用していた。 2023年10月23日からは、平日朝ラッシュ時間帯の大阪行き直通快速2本(奈良駅7:06発、7:30発)において、有料座席サービス「快速 うれしート」が導入された。区間快速と異なり、設定区間は全区間となる。 快速は、大和路快速とともに速達輸送を担う列車である。朝と夕方・夜間に、JR難波駅 - 王寺駅・奈良駅・加茂駅間で運転される。和歌山線に直通する列車のうち、夕ラッシュ時の一部の列車は、奈良行きと連結(多層建て列車)して王寺駅で切り離しを行っており、この場合に限り221系が限定運用されている。なお、朝ラッシュ時には桜井線(万葉まほろば線)から直通列車が運転されており、過去には夕方の桜井線直通列車や和歌山線橋本方面に直通する列車も設定されていた。天理教の祭典があるときは桜井線の天理駅まで臨時延長される列車がある。 停車駅は、JR難波駅・新今宮駅・天王寺駅・久宝寺駅と王寺駅からの各駅である。 ラッシュ時には吹田総合車両所奈良支所所属の201系6両編成(ウグイス色)も運用に入る事がある。ただし、201系での運用は非常に少ない。 2011年3月12日のダイヤ改正では日中時間帯のダイヤでJR難波駅 - 王寺駅間は1時間4本(15分間隔)に増発され、高田駅発着は2本(30分間隔)に変更された。2014年3月15日のダイヤ改正で、日中時間帯の王寺駅発着の系統が廃止され、この時間帯は現行の1時間2本に削減された。2015年3月14日のダイヤ改正では大阪環状線からの直通(大和路快速・区間快速)が増発された一方で夕方以降も1時間2本に減便された。また土休日ダイヤでは19時台から20時台にかけて運転されない時間帯も出てきている。2020年3月14日のダイヤ改正で日中の高田駅に直通する快速は廃止された。 2008年3月15日のダイヤ改正で一部の快速を振り替えて直通快速を設定したことから、本数減となる久宝寺駅から天王寺・JR難波方面への救済として、快速停車駅ではない柏原駅を始発駅とするJR難波行きの快速が平日朝に3本設定された。この快速は、3本とも久宝寺駅で直通快速尼崎行きと同一ホームで乗り換えができるようになっており、奈良・王寺方面から直通快速を利用しても久宝寺駅乗り換えで天王寺・JR難波方面へもアクセスできるよう配慮されている。2011年3月11日までは森ノ宮電車区所属の201系または103系の8両編成が使用されていたが、翌12日に行われたダイヤ改正後初の平日である14日からはすべて221系8両編成で運転されるようになった。なお、2019年3月16日のダイヤ改正で直通快速が新大阪駅発着へと変更されたと同時に運転時刻も変更されたため、柏原始発の快速は1本減便され2本となっている。しかし、2022年(令和4年)3月12日のダイヤ改正で柏原駅始発の快速は廃止された。 2020年から土休日ダイヤのみ朝2本は京都駅まで運行する(奈良からみやこ路快速)。 JR難波駅(湊町駅)- 加茂駅間での快速列車は、1961年12月10日から湊町駅 - 奈良駅間で運転を開始した気動車による「快速」である。日中1時間あたり2往復で、天王寺駅・王寺駅・郡山駅のみに停車して最速39分で運転を行っており、柘植駅・亀山駅へ直通する快速(奈良駅以東は各駅に停車)も1時間に1往復運転されていた。1973年10月1日に法隆寺駅が停車駅に加わり、1978年10月2日に大和小泉駅も停車駅に加えられた(停車駅に追加されるまでは、一部の列車も停車していた)。 1988年3月13日から日中の快速は大和小泉駅・郡山駅を通過するようになり、1989年3月11日のダイヤ改正で大阪環状線に直通する区間快速の運転開始に伴い、大和小泉駅・郡山駅に停車する快速を区間快速に変更した。1997年3月8日のダイヤ改正で大和小泉駅・郡山駅にすべての快速列車が停車するようになり、大阪環状線にも今宮駅が開業して大阪環状線に直通する区間快速は同駅に停車するようになった。これにより、JR難波駅発着と大阪環状線直通の「区間快速」と停車パターンが違う事象が発生したが、おおさか東線部分開業による2008年3月15日のダイヤ改正で、JR難波駅発着の「区間快速」は再び「快速」を名乗ることとなった。 1997年3月8日のダイヤ改正で「快速」が「区間快速」となった後でも、奈良電車区所属の103系には「快速」の幕は残された。これは平日の朝ラッシュに運転される奈良発桜井駅・高田駅経由の区間快速JR難波行きのうちの1本で使われていた103系または201系の方向幕に「区間快速 桜井・高田経由JR難波」の幕が入っていないためであり、該当列車は「快速 桜井・高田経由JR難波」と表示して運転されていた。これは、2008年3月15日のダイヤ改正でJR難波駅発着の区間快速が快速に種別が変更されるまで続けられていた。 普通は全区間で各駅に停車する列車で、JR難波駅 - 王寺駅間で終日運転されている。王寺駅 - 奈良駅・加茂駅間は大和路快速・区間快速が各駅に停車するため、大和路快速・区間快速が普通列車の役割を担う。 日中時間帯はJR難波駅 - 王寺駅間で1時間に4本運行されている。この時間帯は久宝寺駅・王寺駅で大和路快速と接続するダイヤが組まれている。朝晩には柏原駅・奈良駅・加茂駅発着や和歌山線高田駅発着の列車がある。また、運用上の都合で、奈良駅 - 加茂駅間の区間列車や、早朝にJR難波発京都行きの列車(奈良駅からは奈良線の区間快速となる)もあるが、逆の京都駅から奈良駅を経由してJR難波方面に乗り入れる列車はない(いわゆる片乗り入れ)。2011年3月11日までは平日の朝に天王寺駅で折り返す列車も存在していた。 日中の運行系統は、1995年9月30日のダイヤ改正で、柏原駅折り返しの系統の大半が王寺駅まで延長され、JR難波駅 - 王寺駅間が6本となった。1996年3月16日のダイヤ改正で、日中の快速のうち1時間に1本が和歌山線高田駅発着に変更されたことに伴い、普通の1本が奈良駅まで延長された。1997年3月8日のダイヤ改正で、日中の区間快速(当時)がすべて高田行きとなったことに伴い、さらに普通の2本が奈良駅まで延長され、王寺駅・奈良駅発着がそれぞれ1時間に3本の運転となった。 2006年3月18日のダイヤ改正で、柏原駅 - 王寺駅間の各駅では6本から3本に減少した。2011年3月12日のダイヤ改正で、JR難波駅 - 王寺駅間が4本となり、この区間の本数が統一された。 車両は基本的に201系の6両編成での運転だが、早朝・深夜には103系・205系・221系の6両または4両編成で運転されている。奈良線に直通する列車は221系6両編成での運用である。また、奈良駅 - 加茂駅間の一部列車は大和路快速・区間快速の間合い運用を兼ねて、221系8両編成で運転されている。103系は1986年の国鉄時代最後のダイヤ改正において実施された編成短縮・編成数増加政策により、民営化後も暫くは3両編成で運転されていた列車があったが、6両編成の運用に変わる直前の夕方の上り列車は天王寺駅で積み残しが発生することもあった。1973年9月20日の電化以前には、湊町駅(現在のJR難波駅) - 柏原駅間運転の各駅停車(ただし久宝寺駅は朝晩の一部を除く大半の時間帯で客扱いを行っておらず、上下数本を除いて全列車が通過していた)のほかに天王寺駅 - 柏原駅間は平野駅・八尾駅のみに停車し、他は各駅に停車する「普通列車」が湊町駅 - 王寺駅・奈良駅間で運転されており、普通列車と各駅停車の間で停車駅が異なるダイヤが組まれていたことがあった。また、亀山駅・名古屋駅へ直通する普通列車もあった。 上下とも日中は久宝寺駅で大和路快速と緩急接続を行い、柏原駅で快速の通過待ちを行っている。平日朝ラッシュ時の下りと夕ラッシュ時の上りは平野駅でも快速列車の通過待ちが行われる。 1994年9月4日の関西国際空港開港時のダイヤ改正までは天王寺駅で緩急接続を行い、柏原駅で後続の快速の通過待ちをするダイヤが主体であった。しかし、関西国際空港開港に伴う大阪環状線 - 阪和線直通列車の増発(関空快速、特急「はるか」の登場)によって、天王寺駅では緩急接続が頻繁にできなくなったことや、大和路快速のスピードアップにより、日中は平野駅での快速の通過待ちが増やされた。ただし、上りに関しては城東貨物線の貨物列車との兼ね合いで運転間隔が不均等になる時間帯があった。 1997年3月8日のダイヤ改正で久宝寺駅に当時の区間快速が停車することとなったが、この時点でも通過待ちを行う駅に変化はなかった。下り線の待避設備は1997年9月1日に使用を開始し、日中時間帯は久宝寺駅で区間快速・普通の相互接続を行う形になった。1998年3月14日の改正では、久宝寺駅で上下線で相互接続を行うパターンに統一され、上り線では天王寺駅から八尾駅 - 三郷駅間の所要時間が短縮されることになった。ただし、普通奈良行きについては、王寺駅で当時の区間快速高田行きから乗り換えられるように引き続き柏原駅で通過待ちを行っていたが、わずか3駅先の駅で約10分後の後続の快速列車を待つため、柏原駅では以前よりも停車時間が長くなった。 2006年3月18日のダイヤ改正では、ダイヤの余裕時間の見直しによる影響で日中の王寺行きが柏原止まりとなり、天王寺駅基準で19時台までの上り普通列車はすべて柏原駅で通過待ちを行うようになり、所要時間が長くなった。 2008年3月15日のおおさか東線の開業により、久宝寺駅ではおおさか東線が副本線を使用することになったため、おおさか東線への影響を抑えるために大和路線普通が本線発着に、普通と緩急接続するほとんどの快速列車が副本線発着にそれぞれ変更された。王寺方面行きの普通は久宝寺駅で快速列車と緩急接続した後、続いて進入するおおさか東線の列車を待つダイヤが一部組まれるようになったため、その列車については久宝寺駅での停車時間が若干長くなり、柏原駅での停車時間が若干短くなった。一方で、天王寺駅での緩急接続は、阪和線からの直通列車が増加傾向にあり15番のりばを専有できないことから無くなった。 2011年3月12日のダイヤ改正以降、日中は上下列車ともに柏原駅で快速の通過待ち、久宝寺駅で大和路快速と緩急接続を行うダイヤとなった。日中は普通の間に快速列車が2本運転され快速の運転間隔が短いことから、柏原駅での停車時間は約2分に抑えられており、以前のような長時間停車はなくなった。ただし、夕方以降は引き続き柏原駅で5分以上停車する列車も存在している。 大和路線では沿線に春日大社や信貴山朝護孫子寺などの社寺があるため、大晦日深夜から元日午前3時ごろにかけて、王寺駅 - JR難波駅間ではおおむね30分間隔で、王寺駅 - 奈良駅間ではおおむね60分間隔で、それぞれ普通列車を増発している。 なお、2018年度までは元旦まで奈良駅 - JR難波駅間で終夜運転が実施されてきたが、2019年度は午前3時ごろで打ち切りとなり、終夜運転ではなくなった。また過去には、2000年12月31日から2001年1月1日にかけての終夜運転までは、普通を奈良駅から大和路快速・区間快速のような大阪環状線を一周して天王寺駅で折り返す運転ルートでおおむね30分間隔で運転していたほか、阪和線の終夜運転の列車がJR難波駅まで乗り入れしていた時期もあった。 2019年11月から12月上旬の土休日に、臨時特急「まほろば」が同年3月に全線開通したおおさか東線を経由して新大阪駅 - 奈良駅間にノンストップで1往復運行された。車両は287系3両編成(指定席2両、自由席1両)が使用された。2020年3月 - 6月(ただし、同年5月9日以降、6月まで全て運転取り止め)、8月下旬にも設定された。 特急「まほろば」は、2010年に大阪環状線経由で運行されたことがある(「平城遷都1300年祭の対応」の節を参照)。 JR難波駅 - 奈良駅間では、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、201系6両編成の3号車に女性専用車が設定されている。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。なお、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除されることがある。 大和路線では2004年10月18日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていたが、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。 2021年10月2日より、221系6両編成の3号車にも女性専用車が設定されるが、4両編成または8両編成(4+4両編成を含む)には導入されない。なお近畿圏での近郊型電車への女性専用車は、阪和線に続き2路線目となる。 1994年9月4日に関西国際空港が開港したのに伴う同日のダイヤ改正で、京橋駅・JR難波駅 - 関西空港駅間で関空快速の運転を開始した。JR難波駅発着の列車は2両編成で、天王寺駅で京橋駅発着の6両編成と連結・切り離しが行われていた。1996年3月23日にJR難波駅が地下化されたことにより、大阪シティエアターミナル (OCAT) の機能を拡充させ、JR難波駅発着列車に荷物室を併設し、空港での機内持ち込み荷物の輸送を開始した。また、JR難波駅発列車に座席指定席を設定し、「関空快速X号」と号数が符番された。 1998年4月1日に OCAT での空港での機内持ち込み荷物の輸送が廃止されて、荷物室は客室に復元され、座席指定席も廃止されて、その後号数符番も廃止した。1999年5月10日に紀州路快速の新設によって、JR難波駅発着の関空快速は天王寺駅での京橋駅発着の関空快速との連結・切り離し作業を取り止め、単独でJR難波駅 - 関西空港駅間を運転するようになったが、利用客が少なかったことや大阪環状線大阪駅直通の関空快速・紀州路快速を増発するため、2008年3月15日にJR難波駅発着の関空快速は廃止された。 やまとじライナーは、通勤客向けの座席定員制の列車(ホームライナー)である。 1988年3月13日のダイヤ改正で設定され、木津発JR難波行き1本と大阪発加茂行き2本が運転されていた。2009年3月14日のダイヤ改正で平日のみの運転となり、2011年3月12日のダイヤ改正で廃止された。 車両は特急用の381系(日根野電車区所属の国鉄色またはくろしお色編成)が使用されていたが、「やまとじライナー」の種別は快速(普通列車の一種)であるため、乗車整理券を購入すれば普通列車専用の企画乗車券である「青春18きっぷ」での利用も可能であった。 JR西日本の近畿地区ではホームライナー廃止後、当該区間に特急列車を増発または新設して補填するケースが多く見られるが、当路線ではそれらの設定が行われず、代替列車として区間快速が増発された。 1988年4月23日から10月23日まで奈良県奈良市で開催されたなら・シルクロード博覧会に合わせて、当時日中に運行されていた湊町駅(現・JR難波駅) - 奈良駅 - 加茂駅間の快速列車の運転区間を一部変更(湊町駅 - 新今宮駅間を休止して大阪環状線および梅田貨物線経由とした)し、大阪側の始発・終着駅を新大阪駅に変更したものである。 2002年10月13日から11月24日までの第3を除く土曜日に奈良発桜島線(JRゆめ咲線)桜島行で運転された臨時列車。森ノ宮電車区の103系USJラッピング車6両編成が使用された。停車駅は、奈良駅 - 王寺駅間の各駅・柏原駅・八尾駅・久宝寺駅・平野駅・天王寺駅・新今宮駅・ユニバーサルシティ駅・桜島駅。停車しない西九条駅では運転停車を行い、ホームのない通過線で桜島線に折り返していた。 JR西日本主催のなら歴史キャンペーンで2003年9月13日から12月20日までの土曜日に新大阪駅 - 奈良駅間に運転された臨時快速列車。翌2004年の秋のシーズンにも運転された。途中の停車駅は、天王寺駅・王寺駅・法隆寺駅で定期の快速停車駅よりも削減されていたが、柏原駅で運転停車を行い後続の大和路快速を待避するなど、所要時間は大幅にかかっていた。車両は宮原総合運転所の117系300番台6両編成が使用されていた。 春・秋行楽時の土曜・休日には、往路は大和路線内では大和路快速または快速に併結して天王寺方面から奈良駅・桜井線(万葉まほろば線)を経由して高田駅まで、復路は奈良発快速JR難波行を桜井駅始発として延長運転していたが、2011年春からは運転されていない。2009年度まで「山の辺の道レジャー号」として運転されていた。 奈良県では2010年が平城京に遷都されてから1300年目にあたり、これを記念した平城遷都1300年祭が行われた。 多くの利用客が予想されることから、利便性の向上のためにメイン会場である平城宮跡会場でのイベント開催(2010年4月24日 - 2010年11月7日)と、JRグループと奈良県が共同で実施する「奈良デスティネーションキャンペーン」(2010年4月1日 - 2010年6月30日)の観光キャンペーン中にあわせて、新大阪駅 - 奈良駅間で臨時特急「まほろば」が運転された。運転日は2010年4月 - 6月の土休日と4月1日で、停車駅は新大阪・天王寺・王寺・法隆寺・奈良の各駅。車両は、やまとじライナーでも使用されている日根野電車区の381系(国鉄色編成)を使用し、指定席4両と自由席2両(4月1日は全車指定席)となっていた。 なお、特急「まほろば」運転に伴い、天王寺駅 - 八尾駅間が新たにB特急料金の区間となった。 このほか、秋季期間(10月9日 - 11月7日)には、関西空港駅から天王寺駅・JR難波駅を経由して奈良駅を結ぶ貸切列車(奈良県は281系を要望していた)の運転を計画し、奈良県が2010年度の予算案に、チャーター料や調査費など850万円を計上していたが、この貸切列車は運転されなかった。 大和路線ではすべて電車で運転されている。以下の各系列のうち通勤形電車の103系・201系は車体色が吹田総合車両所奈良支所所属車がウグイス(黄緑6号 ■)であり、2016年9月までは朝・夕ラッシュ時に森ノ宮支所所属の車両(車体色は朱色1号■)も使用されていた。大和路線で使用する車両が配置されている奈良支所は、221系が大量投入されて以降は網干総合車両所からの221系・201系の転属にとどまり、通勤形車両は電化以来一度も新車が導入されていない。大和路線ではおおさか東線や片町線(学研都市線)からの直通列車でVVVFインバータ車両の207系・321系が運用されているものの、奈良支所には2022年現在もVVVFインバータ車両の配置がない状況が続いている。 国鉄分割民営化後の使用車両を記述する。名古屋駅・亀山駅方面や電化前の片町線との直通列車に気動車が使用されたほかは、すべて電車が使用されていた。 関西本線は名古屋駅が起点であるため、大阪環状線直通列車は新今宮駅で列車の上りと下りが逆転するが、列車番号は全区間にわたって関西本線を基準としているため、大阪環状線内では他の列車が外回りが(上り列車に付ける)偶数、内回りが(下り列車に付ける)奇数であるのに対し、大和路線からの直通列車は外回りが奇数、内回りが偶数となっている。 吹田総合車両所森ノ宮支所と同奈良支所の103系は、それぞれの所属線区の上り・下りを基準にした編成の向きであるため、直通先において向きが逆になっていた(優先座席や号車表示は逆にならないようになっていた)。221系以降に配置された車両は、列車の上り・下りに関係なく東海道本線大阪駅基準に向きが統一されているため、直通快速を除いて他の列車と一致しなくなることはない。 大和路線に使用される103系・201系(ウグイス色の吹田総合車両所奈良支所所属車)は前面に白帯が塗ってあるが、これは踏切事故防止の目的で塗られている警戒色である。湊町駅(現在のJR難波駅) - 奈良駅間の電化開業時には黄色(黄5号)に塗られていた。1990年度には昼間にも前照灯を点灯するようになったためか、黄色帯が撤去された。しかし、保線従事者から車両と山の色が類似して識別が困難との指摘があり、1996年度に白色帯が前面につけられた。 2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響により電動機に使用している部品を製作しているメーカーが被災して製造の見通しが立たず、使用できない車両が発生する恐れがあることから、2011年4月11日から日中の快速が大和路線内で運転休止になり、大和路快速が大阪環状線への直通運転を取り止める予定であったが、部品調達の目処が立ったのでこの措置は行われず、4月11日以降も通常のダイヤで運転されることになった。 脚注 奈良駅 - 郡山駅間(所在地は奈良市大森町 - 同市八条4丁目間)において鉄道高架化を進め、さらにこの区間内で、京奈和自動車道の奈良インターチェンジ(仮称)に隣接する南側付近に新駅を設置する計画がある。奈良県は、2016年7月19日付で国土交通省から都市計画事業の認可を取得した。2021年6月に工事を着手し、2028年度に完了する予定。事業認可取得時点では、2024年度までの予定だった。駅ナンバー「JR-Q35」は新駅のために欠番となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大和路線(やまとじせん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)関西本線のうち、電化区間である京都府木津川市の加茂駅から大阪府大阪市浪速区のJR難波駅までの区間に付けられた愛称である。この愛称はJR発足後の1988年3月13日から使用されている。天王寺駅 - 今宮駅間は大阪環状線と並行している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大阪市と奈良市・京都府南部を結ぶ、大阪への通勤・通学路線であり、また奈良へ向かう観光路線でもある。JR西日本のアーバンネットワークの路線の一つであり、ラインカラーは緑(■)で、選定理由は「古都の落ち着いたイメージと新しい開発エリアのイメージ」である。路線記号は Q であるが、木津駅 - 奈良駅間は奈良線の列車が乗り入れるため、重複して D も付与されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "沿線の地形は変化に富んでおり、加茂駅 - 木津駅間は笠置山地の山麓部、木津駅 - 王寺駅間は奈良盆地の田園地帯、王寺駅 - 柏原駅間では生駒山地と金剛山地の間に挟まれた大和川沿いの渓谷、柏原駅 - JR難波駅間は大阪平野の市街地や住宅地の中を走る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "大和路線は、同じく大阪市と奈良市を結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)奈良線(大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間)とは経路が大きく異なる。近鉄奈良線が生駒山地を新生駒トンネルで抜けて両都市間をほぼ直線で結んでいるのに対して、大和路線は大和川に沿うように南側へ生駒山地を迂回する経路となっており、近鉄線よりも大回りとなっている。このため近鉄とは途中区間では競合していないが、JRの奈良駅が近鉄奈良駅と比べて奈良市の中心部からやや離れていることもあって、大阪市 - 奈良市間においては近鉄奈良線が有利な状況になっている。JR西日本は大阪環状線に直通して大阪駅(梅田)に至る大和路快速を設定するなどして近鉄に対抗している。奈良駅 - JR難波駅間の2019年度の1日の平均利用者は68,043人で、近鉄奈良線(近鉄奈良駅 - 大阪難波駅間)の150,449人や近鉄大阪線(大和高田駅 - 大阪上本町駅間)の127,356人と比べて少ない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2004年の近畿交通審議会答申第8号では「輸送力の強化等によるサービス向上に資する事業」として、加茂駅 - 木津駅間の複線化が盛り込まれたが、複線化の動きはない。しかし、この区間がダイヤ構成上のネックとなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "全区間を近畿統括本部が管轄しており、旅客営業規則の定める大都市近郊区間「大阪近郊区間」、奈良駅 - JR難波駅間が電車特定区間、天王寺駅 - JR難波駅間が電車特定区間の「大阪環状線内」に指定されており、それぞれ区間外より割安な近距離運賃設定となっている。また、全線がIC乗車カード「ICOCA」のエリアに含まれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2022年3月改正時点でのダイヤは以下の通りである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1時間当たり、おおむね大阪環状線直通の区間快速が5本、おおさか東線直通の直通快速が2本、JR難波駅行きの快速が5本、普通が5本運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "かつては、快速と普通の本数が1:1であったが、需要に応じて、2:1に見直された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1時間当たり、大阪環状線 - 加茂駅間の大和路快速が1本、大阪環状線 - 奈良駅間の大和路快速が3本、JR難波駅 - 王寺駅間の普通が4本運転される。久宝寺駅で大和路快速と普通が接続する。また王寺駅で普通と大和路快速を乗り継げる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1時間当たり、大阪環状線直通の区間快速が4本、おおさか東線直通の直通快速が1本、JR難波駅発の快速が2本、普通が6本運転される。一部の区間快速・快速は王寺駅で分割し和歌山線に直通して高田駅・五条駅まで運転される。久宝寺駅で快速・区間快速と普通が接続する。また王寺駅で普通と快速・区間快速を乗り継げる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "大和路快速・快速・区間快速・直通快速・普通が運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "各種快速はいずれも、王寺駅 - 奈良駅・加茂駅間および直通先の和歌山線・桜井線(万葉まほろば線)内は各駅に停車する。また直通先の大阪環状線を一周する天王寺行きの列車は混乱のないように天王寺までは西九条・大阪方面として案内される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "このほかに、木津駅 - 奈良駅間では奈良線のみやこ路快速・快速・区間快速・普通の全列車と片町線(学研都市線)の快速・区間快速の2往復が、新今宮駅 - 天王寺駅間では阪和線の「はるか」「くろしお」といった関西国際空港や南紀方面への特急や、関空快速・紀州路快速・快速などが、それぞれ乗り入れている。これらの列車についてはそれぞれの路線や列車の項を参照のこと。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "大和路快速は大阪環状線に直通して大阪環状線 - 新今宮駅 - 奈良駅・加茂駅間で運行されている。天王寺駅では大阪環状線ホームに発着し、大阪環状線を一周して再び天王寺駅を通り大和路線へ入る運転系統となっているが、京橋駅発着の列車も設定されている。大阪環状線内では、天王寺駅 - 京橋駅 - 大阪駅間は各駅に停車し、大阪駅 - 弁天町駅 - 新今宮駅間は快速運転を行う。大阪駅 - 加茂駅間では福島駅、西九条駅、弁天町駅、大正駅、新今宮駅、天王寺駅、久宝寺駅、王寺駅からの各駅に停車する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日中と土休日ダイヤの夜間は1時間に4本(奈良駅 - 加茂駅間は1 - 2本)が運行されている。関西本線と大阪環状線を直通する快速列車は1973年10月7日から運転されており、当初は休日のみであったが、1974年7月20日からは平日の日中にも20分間隔で運転されるようになった。「大和路快速」の名が付いたのは1989年3月11日からで、この列車名は公募で付けられた。その後大阪ステーションシティのグランドオープンに先駆けて行われた2011年3月12日のダイヤ改正で1時間あたり4本に増発され(ただしこのとき、奈良駅 - 加茂駅間は逆に毎時3本が2本へ減便となった)、8両編成での運用も増えた。2015年3月14日のダイヤ改正では土休日の運転時間帯が21時台まで拡大された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "土曜・休日ダイヤの一部列車は、王寺駅で後ろの編成を分割し、和歌山線高田・五条方面へ直通運転をしている。加茂駅発着の列車の半数は加茂駅で関西本線伊賀上野・亀山方面の列車と相互接続を行う。過去には桜井線経由の定期列車も存在していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "基本的に久宝寺駅で普通列車に接続する。また王寺駅では同駅折り返しの普通列車に接続する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "全列車221系を使用し、2020年3月14日のダイヤ改正より全列車8両編成で運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "最高速度は後述の直通快速と同様120km/h運転である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "大阪環状線に直通して大阪環状線 - 新今宮駅 - 奈良駅・加茂駅間で、平日ダイヤの朝・夕ラッシュ時間帯と土休日ダイヤの夜間に運行されている。大阪環状線内は各駅に停車し、大和路線では、大和路快速と同じく天王寺駅、久宝寺駅と王寺駅からの各駅に停車する。大阪環状線内の発着駅は天王寺駅または京橋駅であり、平日・休日ダイヤともに王寺駅で後ろ(天王寺寄り)の4両を分割し和歌山線高田駅や五条駅へ直通する列車もある。全列車8両編成で221系が使用される。2016年9月までは吹田総合車両所奈良支所所属の103系4両編成を2本併結した8両編成や森ノ宮支所所属の103系・201系も運用に入っていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "夕方・夜間の奈良駅・加茂駅発の一部列車は新今宮駅で阪和線方面からの特急列車の通過待ちを行う。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "大阪環状線に直通する区間快速は1989年3月11日に運転を開始し、当初は夜間のみの運転であったが、1990年3月10日からは朝ラッシュ時にも運転されるようになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2023年10月23日からは、平日朝ラッシュ時間帯の大阪方面行き区間快速2本(加茂駅6:29発、7:29発)において、有料座席サービス「快速 うれしート」が導入された。設定区間は加茂駅 - 天王寺駅間のみで、直通先の大阪環状線内はサービス適用外となる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "直通快速は、2008年3月15日のおおさか東線部分開業により設定された列車である。おおさか東線が全線開業した2019年3月16日からは、おおさか東線経由で奈良駅 - 新大阪駅間において運転され、2023年3月18日からは大阪駅(うめきたエリア)地下ホームに乗り入れている。平日は朝に大阪行きが4本と夕方に奈良行きが4本、土休日は朝夕に2往復ずつ運転されている。停車駅は奈良駅 - 王寺駅の各駅と久宝寺駅・JR河内永和駅・高井田中央駅・放出駅・JR淡路駅・新大阪駅・大阪駅である。2023年3月18日のダイヤ改正より221系8両編成が使用されている。改正前までは網干総合車両所明石支所所属の207系と321系が使用されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2019年3月15日まではおおさか東線・学研都市線・JR東西線経由で奈良駅 - 尼崎駅間の運転で、運行本数は毎日朝に尼崎行きが4本と夕方に奈良行きが4本、停車駅は奈良駅から王寺駅の各駅と久宝寺駅、放出駅、京橋駅から尼崎駅の各駅であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "直通快速の運転開始により、朝の奈良方面から天王寺方面に直通する列車が減少するため、奈良発尼崎行きは、平日ダイヤの4本中3本が久宝寺駅で後述の柏原発の快速JR難波行きに、平日ダイヤの残りの1本と休日ダイヤの4本中2本が王寺駅と久宝寺駅で和歌山線からの快速JR難波行きに、休日ダイヤの残りの2本が王寺駅と久宝寺駅で王寺発の快速JR難波行きに同一ホームで乗り換えができるようダイヤが組まれていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "運転開始当初は宮原総合運転所所属の223系6000番台が使用されていたが、北新地駅のホームドア設置に対応するため2011年3月11日の奈良行きから207系に置き換えられた。2012年3月のダイヤ改正からは321系も使用されている。2019年の運転区間変更後も、新たに停車するようになったJR河内永和駅に4ドア車用のホーム柵が設置されていたこと(現在は撤去済み)や、直通快速は大和路線内では大和路快速と同様に120km/h運転をすることから、引き続き207系・321系を使用していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2023年10月23日からは、平日朝ラッシュ時間帯の大阪行き直通快速2本(奈良駅7:06発、7:30発)において、有料座席サービス「快速 うれしート」が導入された。区間快速と異なり、設定区間は全区間となる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "快速は、大和路快速とともに速達輸送を担う列車である。朝と夕方・夜間に、JR難波駅 - 王寺駅・奈良駅・加茂駅間で運転される。和歌山線に直通する列車のうち、夕ラッシュ時の一部の列車は、奈良行きと連結(多層建て列車)して王寺駅で切り離しを行っており、この場合に限り221系が限定運用されている。なお、朝ラッシュ時には桜井線(万葉まほろば線)から直通列車が運転されており、過去には夕方の桜井線直通列車や和歌山線橋本方面に直通する列車も設定されていた。天理教の祭典があるときは桜井線の天理駅まで臨時延長される列車がある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "停車駅は、JR難波駅・新今宮駅・天王寺駅・久宝寺駅と王寺駅からの各駅である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ラッシュ時には吹田総合車両所奈良支所所属の201系6両編成(ウグイス色)も運用に入る事がある。ただし、201系での運用は非常に少ない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2011年3月12日のダイヤ改正では日中時間帯のダイヤでJR難波駅 - 王寺駅間は1時間4本(15分間隔)に増発され、高田駅発着は2本(30分間隔)に変更された。2014年3月15日のダイヤ改正で、日中時間帯の王寺駅発着の系統が廃止され、この時間帯は現行の1時間2本に削減された。2015年3月14日のダイヤ改正では大阪環状線からの直通(大和路快速・区間快速)が増発された一方で夕方以降も1時間2本に減便された。また土休日ダイヤでは19時台から20時台にかけて運転されない時間帯も出てきている。2020年3月14日のダイヤ改正で日中の高田駅に直通する快速は廃止された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2008年3月15日のダイヤ改正で一部の快速を振り替えて直通快速を設定したことから、本数減となる久宝寺駅から天王寺・JR難波方面への救済として、快速停車駅ではない柏原駅を始発駅とするJR難波行きの快速が平日朝に3本設定された。この快速は、3本とも久宝寺駅で直通快速尼崎行きと同一ホームで乗り換えができるようになっており、奈良・王寺方面から直通快速を利用しても久宝寺駅乗り換えで天王寺・JR難波方面へもアクセスできるよう配慮されている。2011年3月11日までは森ノ宮電車区所属の201系または103系の8両編成が使用されていたが、翌12日に行われたダイヤ改正後初の平日である14日からはすべて221系8両編成で運転されるようになった。なお、2019年3月16日のダイヤ改正で直通快速が新大阪駅発着へと変更されたと同時に運転時刻も変更されたため、柏原始発の快速は1本減便され2本となっている。しかし、2022年(令和4年)3月12日のダイヤ改正で柏原駅始発の快速は廃止された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2020年から土休日ダイヤのみ朝2本は京都駅まで運行する(奈良からみやこ路快速)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "JR難波駅(湊町駅)- 加茂駅間での快速列車は、1961年12月10日から湊町駅 - 奈良駅間で運転を開始した気動車による「快速」である。日中1時間あたり2往復で、天王寺駅・王寺駅・郡山駅のみに停車して最速39分で運転を行っており、柘植駅・亀山駅へ直通する快速(奈良駅以東は各駅に停車)も1時間に1往復運転されていた。1973年10月1日に法隆寺駅が停車駅に加わり、1978年10月2日に大和小泉駅も停車駅に加えられた(停車駅に追加されるまでは、一部の列車も停車していた)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1988年3月13日から日中の快速は大和小泉駅・郡山駅を通過するようになり、1989年3月11日のダイヤ改正で大阪環状線に直通する区間快速の運転開始に伴い、大和小泉駅・郡山駅に停車する快速を区間快速に変更した。1997年3月8日のダイヤ改正で大和小泉駅・郡山駅にすべての快速列車が停車するようになり、大阪環状線にも今宮駅が開業して大阪環状線に直通する区間快速は同駅に停車するようになった。これにより、JR難波駅発着と大阪環状線直通の「区間快速」と停車パターンが違う事象が発生したが、おおさか東線部分開業による2008年3月15日のダイヤ改正で、JR難波駅発着の「区間快速」は再び「快速」を名乗ることとなった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1997年3月8日のダイヤ改正で「快速」が「区間快速」となった後でも、奈良電車区所属の103系には「快速」の幕は残された。これは平日の朝ラッシュに運転される奈良発桜井駅・高田駅経由の区間快速JR難波行きのうちの1本で使われていた103系または201系の方向幕に「区間快速 桜井・高田経由JR難波」の幕が入っていないためであり、該当列車は「快速 桜井・高田経由JR難波」と表示して運転されていた。これは、2008年3月15日のダイヤ改正でJR難波駅発着の区間快速が快速に種別が変更されるまで続けられていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "普通は全区間で各駅に停車する列車で、JR難波駅 - 王寺駅間で終日運転されている。王寺駅 - 奈良駅・加茂駅間は大和路快速・区間快速が各駅に停車するため、大和路快速・区間快速が普通列車の役割を担う。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "日中時間帯はJR難波駅 - 王寺駅間で1時間に4本運行されている。この時間帯は久宝寺駅・王寺駅で大和路快速と接続するダイヤが組まれている。朝晩には柏原駅・奈良駅・加茂駅発着や和歌山線高田駅発着の列車がある。また、運用上の都合で、奈良駅 - 加茂駅間の区間列車や、早朝にJR難波発京都行きの列車(奈良駅からは奈良線の区間快速となる)もあるが、逆の京都駅から奈良駅を経由してJR難波方面に乗り入れる列車はない(いわゆる片乗り入れ)。2011年3月11日までは平日の朝に天王寺駅で折り返す列車も存在していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "日中の運行系統は、1995年9月30日のダイヤ改正で、柏原駅折り返しの系統の大半が王寺駅まで延長され、JR難波駅 - 王寺駅間が6本となった。1996年3月16日のダイヤ改正で、日中の快速のうち1時間に1本が和歌山線高田駅発着に変更されたことに伴い、普通の1本が奈良駅まで延長された。1997年3月8日のダイヤ改正で、日中の区間快速(当時)がすべて高田行きとなったことに伴い、さらに普通の2本が奈良駅まで延長され、王寺駅・奈良駅発着がそれぞれ1時間に3本の運転となった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2006年3月18日のダイヤ改正で、柏原駅 - 王寺駅間の各駅では6本から3本に減少した。2011年3月12日のダイヤ改正で、JR難波駅 - 王寺駅間が4本となり、この区間の本数が統一された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "車両は基本的に201系の6両編成での運転だが、早朝・深夜には103系・205系・221系の6両または4両編成で運転されている。奈良線に直通する列車は221系6両編成での運用である。また、奈良駅 - 加茂駅間の一部列車は大和路快速・区間快速の間合い運用を兼ねて、221系8両編成で運転されている。103系は1986年の国鉄時代最後のダイヤ改正において実施された編成短縮・編成数増加政策により、民営化後も暫くは3両編成で運転されていた列車があったが、6両編成の運用に変わる直前の夕方の上り列車は天王寺駅で積み残しが発生することもあった。1973年9月20日の電化以前には、湊町駅(現在のJR難波駅) - 柏原駅間運転の各駅停車(ただし久宝寺駅は朝晩の一部を除く大半の時間帯で客扱いを行っておらず、上下数本を除いて全列車が通過していた)のほかに天王寺駅 - 柏原駅間は平野駅・八尾駅のみに停車し、他は各駅に停車する「普通列車」が湊町駅 - 王寺駅・奈良駅間で運転されており、普通列車と各駅停車の間で停車駅が異なるダイヤが組まれていたことがあった。また、亀山駅・名古屋駅へ直通する普通列車もあった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "上下とも日中は久宝寺駅で大和路快速と緩急接続を行い、柏原駅で快速の通過待ちを行っている。平日朝ラッシュ時の下りと夕ラッシュ時の上りは平野駅でも快速列車の通過待ちが行われる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1994年9月4日の関西国際空港開港時のダイヤ改正までは天王寺駅で緩急接続を行い、柏原駅で後続の快速の通過待ちをするダイヤが主体であった。しかし、関西国際空港開港に伴う大阪環状線 - 阪和線直通列車の増発(関空快速、特急「はるか」の登場)によって、天王寺駅では緩急接続が頻繁にできなくなったことや、大和路快速のスピードアップにより、日中は平野駅での快速の通過待ちが増やされた。ただし、上りに関しては城東貨物線の貨物列車との兼ね合いで運転間隔が不均等になる時間帯があった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1997年3月8日のダイヤ改正で久宝寺駅に当時の区間快速が停車することとなったが、この時点でも通過待ちを行う駅に変化はなかった。下り線の待避設備は1997年9月1日に使用を開始し、日中時間帯は久宝寺駅で区間快速・普通の相互接続を行う形になった。1998年3月14日の改正では、久宝寺駅で上下線で相互接続を行うパターンに統一され、上り線では天王寺駅から八尾駅 - 三郷駅間の所要時間が短縮されることになった。ただし、普通奈良行きについては、王寺駅で当時の区間快速高田行きから乗り換えられるように引き続き柏原駅で通過待ちを行っていたが、わずか3駅先の駅で約10分後の後続の快速列車を待つため、柏原駅では以前よりも停車時間が長くなった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2006年3月18日のダイヤ改正では、ダイヤの余裕時間の見直しによる影響で日中の王寺行きが柏原止まりとなり、天王寺駅基準で19時台までの上り普通列車はすべて柏原駅で通過待ちを行うようになり、所要時間が長くなった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2008年3月15日のおおさか東線の開業により、久宝寺駅ではおおさか東線が副本線を使用することになったため、おおさか東線への影響を抑えるために大和路線普通が本線発着に、普通と緩急接続するほとんどの快速列車が副本線発着にそれぞれ変更された。王寺方面行きの普通は久宝寺駅で快速列車と緩急接続した後、続いて進入するおおさか東線の列車を待つダイヤが一部組まれるようになったため、その列車については久宝寺駅での停車時間が若干長くなり、柏原駅での停車時間が若干短くなった。一方で、天王寺駅での緩急接続は、阪和線からの直通列車が増加傾向にあり15番のりばを専有できないことから無くなった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2011年3月12日のダイヤ改正以降、日中は上下列車ともに柏原駅で快速の通過待ち、久宝寺駅で大和路快速と緩急接続を行うダイヤとなった。日中は普通の間に快速列車が2本運転され快速の運転間隔が短いことから、柏原駅での停車時間は約2分に抑えられており、以前のような長時間停車はなくなった。ただし、夕方以降は引き続き柏原駅で5分以上停車する列車も存在している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "大和路線では沿線に春日大社や信貴山朝護孫子寺などの社寺があるため、大晦日深夜から元日午前3時ごろにかけて、王寺駅 - JR難波駅間ではおおむね30分間隔で、王寺駅 - 奈良駅間ではおおむね60分間隔で、それぞれ普通列車を増発している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "なお、2018年度までは元旦まで奈良駅 - JR難波駅間で終夜運転が実施されてきたが、2019年度は午前3時ごろで打ち切りとなり、終夜運転ではなくなった。また過去には、2000年12月31日から2001年1月1日にかけての終夜運転までは、普通を奈良駅から大和路快速・区間快速のような大阪環状線を一周して天王寺駅で折り返す運転ルートでおおむね30分間隔で運転していたほか、阪和線の終夜運転の列車がJR難波駅まで乗り入れしていた時期もあった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2019年11月から12月上旬の土休日に、臨時特急「まほろば」が同年3月に全線開通したおおさか東線を経由して新大阪駅 - 奈良駅間にノンストップで1往復運行された。車両は287系3両編成(指定席2両、自由席1両)が使用された。2020年3月 - 6月(ただし、同年5月9日以降、6月まで全て運転取り止め)、8月下旬にも設定された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "特急「まほろば」は、2010年に大阪環状線経由で運行されたことがある(「平城遷都1300年祭の対応」の節を参照)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "JR難波駅 - 奈良駅間では、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、201系6両編成の3号車に女性専用車が設定されている。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。なお、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除されることがある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "大和路線では2004年10月18日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていたが、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2021年10月2日より、221系6両編成の3号車にも女性専用車が設定されるが、4両編成または8両編成(4+4両編成を含む)には導入されない。なお近畿圏での近郊型電車への女性専用車は、阪和線に続き2路線目となる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1994年9月4日に関西国際空港が開港したのに伴う同日のダイヤ改正で、京橋駅・JR難波駅 - 関西空港駅間で関空快速の運転を開始した。JR難波駅発着の列車は2両編成で、天王寺駅で京橋駅発着の6両編成と連結・切り離しが行われていた。1996年3月23日にJR難波駅が地下化されたことにより、大阪シティエアターミナル (OCAT) の機能を拡充させ、JR難波駅発着列車に荷物室を併設し、空港での機内持ち込み荷物の輸送を開始した。また、JR難波駅発列車に座席指定席を設定し、「関空快速X号」と号数が符番された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1998年4月1日に OCAT での空港での機内持ち込み荷物の輸送が廃止されて、荷物室は客室に復元され、座席指定席も廃止されて、その後号数符番も廃止した。1999年5月10日に紀州路快速の新設によって、JR難波駅発着の関空快速は天王寺駅での京橋駅発着の関空快速との連結・切り離し作業を取り止め、単独でJR難波駅 - 関西空港駅間を運転するようになったが、利用客が少なかったことや大阪環状線大阪駅直通の関空快速・紀州路快速を増発するため、2008年3月15日にJR難波駅発着の関空快速は廃止された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "やまとじライナーは、通勤客向けの座席定員制の列車(ホームライナー)である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1988年3月13日のダイヤ改正で設定され、木津発JR難波行き1本と大阪発加茂行き2本が運転されていた。2009年3月14日のダイヤ改正で平日のみの運転となり、2011年3月12日のダイヤ改正で廃止された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "車両は特急用の381系(日根野電車区所属の国鉄色またはくろしお色編成)が使用されていたが、「やまとじライナー」の種別は快速(普通列車の一種)であるため、乗車整理券を購入すれば普通列車専用の企画乗車券である「青春18きっぷ」での利用も可能であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "JR西日本の近畿地区ではホームライナー廃止後、当該区間に特急列車を増発または新設して補填するケースが多く見られるが、当路線ではそれらの設定が行われず、代替列車として区間快速が増発された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "1988年4月23日から10月23日まで奈良県奈良市で開催されたなら・シルクロード博覧会に合わせて、当時日中に運行されていた湊町駅(現・JR難波駅) - 奈良駅 - 加茂駅間の快速列車の運転区間を一部変更(湊町駅 - 新今宮駅間を休止して大阪環状線および梅田貨物線経由とした)し、大阪側の始発・終着駅を新大阪駅に変更したものである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2002年10月13日から11月24日までの第3を除く土曜日に奈良発桜島線(JRゆめ咲線)桜島行で運転された臨時列車。森ノ宮電車区の103系USJラッピング車6両編成が使用された。停車駅は、奈良駅 - 王寺駅間の各駅・柏原駅・八尾駅・久宝寺駅・平野駅・天王寺駅・新今宮駅・ユニバーサルシティ駅・桜島駅。停車しない西九条駅では運転停車を行い、ホームのない通過線で桜島線に折り返していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "JR西日本主催のなら歴史キャンペーンで2003年9月13日から12月20日までの土曜日に新大阪駅 - 奈良駅間に運転された臨時快速列車。翌2004年の秋のシーズンにも運転された。途中の停車駅は、天王寺駅・王寺駅・法隆寺駅で定期の快速停車駅よりも削減されていたが、柏原駅で運転停車を行い後続の大和路快速を待避するなど、所要時間は大幅にかかっていた。車両は宮原総合運転所の117系300番台6両編成が使用されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "春・秋行楽時の土曜・休日には、往路は大和路線内では大和路快速または快速に併結して天王寺方面から奈良駅・桜井線(万葉まほろば線)を経由して高田駅まで、復路は奈良発快速JR難波行を桜井駅始発として延長運転していたが、2011年春からは運転されていない。2009年度まで「山の辺の道レジャー号」として運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "奈良県では2010年が平城京に遷都されてから1300年目にあたり、これを記念した平城遷都1300年祭が行われた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "多くの利用客が予想されることから、利便性の向上のためにメイン会場である平城宮跡会場でのイベント開催(2010年4月24日 - 2010年11月7日)と、JRグループと奈良県が共同で実施する「奈良デスティネーションキャンペーン」(2010年4月1日 - 2010年6月30日)の観光キャンペーン中にあわせて、新大阪駅 - 奈良駅間で臨時特急「まほろば」が運転された。運転日は2010年4月 - 6月の土休日と4月1日で、停車駅は新大阪・天王寺・王寺・法隆寺・奈良の各駅。車両は、やまとじライナーでも使用されている日根野電車区の381系(国鉄色編成)を使用し、指定席4両と自由席2両(4月1日は全車指定席)となっていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "なお、特急「まほろば」運転に伴い、天王寺駅 - 八尾駅間が新たにB特急料金の区間となった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "このほか、秋季期間(10月9日 - 11月7日)には、関西空港駅から天王寺駅・JR難波駅を経由して奈良駅を結ぶ貸切列車(奈良県は281系を要望していた)の運転を計画し、奈良県が2010年度の予算案に、チャーター料や調査費など850万円を計上していたが、この貸切列車は運転されなかった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "大和路線ではすべて電車で運転されている。以下の各系列のうち通勤形電車の103系・201系は車体色が吹田総合車両所奈良支所所属車がウグイス(黄緑6号 ■)であり、2016年9月までは朝・夕ラッシュ時に森ノ宮支所所属の車両(車体色は朱色1号■)も使用されていた。大和路線で使用する車両が配置されている奈良支所は、221系が大量投入されて以降は網干総合車両所からの221系・201系の転属にとどまり、通勤形車両は電化以来一度も新車が導入されていない。大和路線ではおおさか東線や片町線(学研都市線)からの直通列車でVVVFインバータ車両の207系・321系が運用されているものの、奈良支所には2022年現在もVVVFインバータ車両の配置がない状況が続いている。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "国鉄分割民営化後の使用車両を記述する。名古屋駅・亀山駅方面や電化前の片町線との直通列車に気動車が使用されたほかは、すべて電車が使用されていた。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "関西本線は名古屋駅が起点であるため、大阪環状線直通列車は新今宮駅で列車の上りと下りが逆転するが、列車番号は全区間にわたって関西本線を基準としているため、大阪環状線内では他の列車が外回りが(上り列車に付ける)偶数、内回りが(下り列車に付ける)奇数であるのに対し、大和路線からの直通列車は外回りが奇数、内回りが偶数となっている。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "吹田総合車両所森ノ宮支所と同奈良支所の103系は、それぞれの所属線区の上り・下りを基準にした編成の向きであるため、直通先において向きが逆になっていた(優先座席や号車表示は逆にならないようになっていた)。221系以降に配置された車両は、列車の上り・下りに関係なく東海道本線大阪駅基準に向きが統一されているため、直通快速を除いて他の列車と一致しなくなることはない。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "大和路線に使用される103系・201系(ウグイス色の吹田総合車両所奈良支所所属車)は前面に白帯が塗ってあるが、これは踏切事故防止の目的で塗られている警戒色である。湊町駅(現在のJR難波駅) - 奈良駅間の電化開業時には黄色(黄5号)に塗られていた。1990年度には昼間にも前照灯を点灯するようになったためか、黄色帯が撤去された。しかし、保線従事者から車両と山の色が類似して識別が困難との指摘があり、1996年度に白色帯が前面につけられた。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響により電動機に使用している部品を製作しているメーカーが被災して製造の見通しが立たず、使用できない車両が発生する恐れがあることから、2011年4月11日から日中の快速が大和路線内で運転休止になり、大和路快速が大阪環状線への直通運転を取り止める予定であったが、部品調達の目処が立ったのでこの措置は行われず、4月11日以降も通常のダイヤで運転されることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "脚注", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "奈良駅 - 郡山駅間(所在地は奈良市大森町 - 同市八条4丁目間)において鉄道高架化を進め、さらにこの区間内で、京奈和自動車道の奈良インターチェンジ(仮称)に隣接する南側付近に新駅を設置する計画がある。奈良県は、2016年7月19日付で国土交通省から都市計画事業の認可を取得した。2021年6月に工事を着手し、2028年度に完了する予定。事業認可取得時点では、2024年度までの予定だった。駅ナンバー「JR-Q35」は新駅のために欠番となっている。", "title": "鉄道高架化と新駅設置計画" } ]
大和路線(やまとじせん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)関西本線のうち、電化区間である京都府木津川市の加茂駅から大阪府大阪市浪速区のJR難波駅までの区間に付けられた愛称である。この愛称はJR発足後の1988年3月13日から使用されている。天王寺駅 - 今宮駅間は大阪環状線と並行している。
{{Pathnav|関西本線|frame=1}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名 = [[ファイル:JR logo (west).svg|35px|link=西日本旅客鉄道]] 大和路線 |路線色 = #00B17B |ロゴ = JRW kinki-Q.svg |ロゴサイズ = 40px |画像 = Series221-NB806.jpg |画像サイズ = |画像説明 = 大和路快速で使用される[[JR西日本221系電車|221系電車]]<br>(2016年12月、大和小泉駅 - 法隆寺駅間) |国 = {{JPN}} |所在地 = [[京都府]]、[[奈良県]]、[[大阪府]] |起点 = [[加茂駅 (京都府)|加茂駅]] |終点 = [[JR難波駅]] |駅数 = 22駅 |路線記号 = {{JR西路線記号|K|Q}} |経由路線 = [[関西本線]] |開業 = 1889年5月14日(関西本線)<br>1988年3月13日(愛称使用開始) |廃止 = |所有者 = [[西日本旅客鉄道]] |運営者 = 西日本旅客鉄道 |路線距離 = 54.0 [[キロメートル|km]] |軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数 = [[単線]](加茂駅 - 木津駅間)、[[複線]](右記以外<ref group="*" name="double-track" />)<!--、[[複々線]]--> |電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |最高速度 = 120 [[キロメートル毎時|km/h]] |路線図 = }} '''大和路線'''(やまとじせん)は、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[関西本線]]のうち、電化区間である[[京都府]][[木津川市]]の[[加茂駅 (京都府)|加茂駅]]から[[大阪府]][[大阪市]][[浪速区]]の[[JR難波駅]]までの区間に付けられた[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|愛称]]である。この愛称はJR発足後の[[1988年]][[3月13日]]から使用されている。[[天王寺駅]] - [[今宮駅]]間は[[大阪環状線]]と並行している。 == 概要 == {{大和路線路線図}} [[大阪市]]と[[奈良市]]・京都府南部を結ぶ、大阪への通勤・通学路線であり、また奈良へ向かう観光路線でもある。JR西日本の[[アーバンネットワーク]]の路線の一つであり、[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は'''緑'''({{Color|#00B17B|■}})で、選定理由は「古都の落ち着いたイメージと新しい開発エリアのイメージ」である<ref>交通新聞社(編集)『新世紀へ走る JR西日本10年の歩み』西日本旅客鉄道、1997年、p.206。</ref>。路線記号は '''Q''' であるが、[[木津駅 (京都府)|木津駅]] - [[奈良駅]]間は[[奈良線]]の列車が乗り入れるため、重複して '''D''' も付与されている<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/08/page_5993.html 近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2014年8月6日</ref>。 沿線の地形は変化に富んでおり、加茂駅 - 木津駅間は[[笠置山地]]の山麓部、木津駅 - 王寺駅間は[[奈良盆地]]の田園地帯、王寺駅 - 柏原駅間では[[生駒山地]]と[[金剛山地]]の間に挟まれた[[大和川]]沿いの渓谷、柏原駅 - JR難波駅間は[[大阪平野]]の市街地や住宅地の中を走る。 大和路線は、同じく大阪市と奈良市を結ぶ[[近畿日本鉄道]](近鉄)[[近鉄奈良線|奈良線]]([[大阪難波駅]] - [[近鉄奈良駅]]間)とは経路が大きく異なる。近鉄奈良線が生駒山地を[[生駒トンネル|新生駒トンネル]]で抜けて両都市間をほぼ直線で結んでいるのに対して、大和路線は大和川に沿うように南側へ生駒山地を迂回する経路となっており、近鉄線よりも大回りとなっている。このため近鉄とは途中区間では競合していないが、JRの奈良駅が近鉄奈良駅と比べて奈良市の中心部からやや離れていることもあって、大阪市 - 奈良市間においては近鉄奈良線が有利な状況になっている。JR西日本は[[大阪環状線]]に直通して[[大阪駅]]([[梅田]])に至る[[大和路快速]]を設定するなどして近鉄に対抗している。奈良駅 - JR難波駅間の2019年度の1日の平均利用者は68,043人で<ref>{{PDFlink|[https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2020_08.pdf データで見るJR西日本2020 - 区間平均通過人員および旅客運輸収入(2019年度)]}} - 西日本旅客鉄道</ref>、近鉄奈良線(近鉄奈良駅 - 大阪難波駅間)の150,449人や[[近鉄大阪線]](大和高田駅 - 大阪上本町駅間)の127,356人と比べて少ない。 [[ファイル:Railway-Line-Osaka-Nara.jpg|350px|thumb|none|大和路線と近鉄各線との位置関係]] [[2004年]]の近畿交通審議会答申第8号では「輸送力の強化等によるサービス向上に資する事業」として、加茂駅 - 木津駅間の複線化が盛り込まれたが、複線化の動きはない。しかし、この区間がダイヤ構成上のネックとなっている。 全区間を[[西日本旅客鉄道近畿統括本部|近畿統括本部]]が管轄しており、[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]「[[大都市近郊区間 (JR)#大阪近郊区間|大阪近郊区間]]」、奈良駅 - JR難波駅間が[[電車特定区間]]、天王寺駅 - JR難波駅間が電車特定区間の「大阪環状線内」に指定されており、それぞれ区間外より割安な近距離運賃設定となっている<ref>[http://www.jr-odekake.net/railroad/ticket/guide/02.html 乗車券|きっぷのルール:乗車券:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道</ref>。また、全線が[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[ICOCA]]」のエリアに含まれている<ref>[http://www.jr-odekake.net/icoca/area/map/all.html ご利用可能エリア|ICOCA:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道</ref>。 === 路線データ === * 管轄(事業種別):西日本旅客鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]) * 路線距離([[営業キロ]]):加茂駅 - JR難波駅間 54.0 km * [[軌間]]:1,067 mm * 駅数:22(起終点駅含む) * 複線区間: ** 複々線:天王寺駅 - 新今宮駅間<ref group="*" name="double-track">民営化時に当時の運輸省に提出された事業基本計画、国土交通省監修の『[[鉄道要覧]]』および、JR西日本が発行している「データで見るJR西日本」には、大阪環状線に天王寺駅 - 新今宮駅間が含まれていない。これによるなら、天王寺駅 - 新今宮駅間は関西本線の複々線であるが、運行形態とするなら複線区間は、木津駅 - JR難波駅間である。</ref> ** 複線:木津駅 - 天王寺駅・新今宮駅 - JR難波駅間<ref group="*" name="double-track"/> ** 単線:加茂駅 - 木津駅間 * 電化区間:全線電化(直流1500 V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * 保安装置: ** 加茂駅 - 王寺駅間:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]および[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]](拠点P)<ref name="kyoten">[https://www.westjr.co.jp/safety/action/ats/ ATS-Pの整備状況] - JR西日本</ref> ** 王寺駅 - JR難波駅間:ATS-P(全線P<ref name="zensen">[https://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/fukuchiyama/RA07-3-1-1.pdf 鉄道事故調査報告書] - 航空・鉄道事故調査委員会</ref>) * [[運転指令所]]:[[大阪総合指令所]] * [[列車運行管理システム|運行管理システム]]:[[運行管理システム (JR西日本)|大阪環状・大和路線運行管理システム]] * 最高速度 ** 加茂駅 - 奈良駅間・天王寺駅 - JR難波駅間:95 km/h ** 奈良駅 - 天王寺駅間:120 km/h  * [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間: ** [[ICOCA]]エリア:加茂駅 - JR難波駅間([[PiTaPa|PiTaPaポストペイサービス]]対象区間) * 2020年度の混雑率:快速列車 84%(久宝寺駅→天王寺駅 7:25-8:25)、普通列車 94%(東部市場前駅→天王寺駅 7:40-8:40)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf|archiveurl=|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2021-11-03|publisher=国土交通省|page=2|format=PDF}}</ref> == 運行形態 == === ダイヤ === 2022年3月改正時点でのダイヤは以下の通りである<ref name="kyuhoji-timetable">[http://www.jr-odekake.net/eki/timetable.php?id=0620826 久宝寺駅 時刻表] - JR西日本公式サイト「JRおでかけネット」 </ref><ref name="jtbtt202203">JTBパブリッシング 『JTB時刻表』2022年3月号、pp.278-281</ref>。 ==== 平日朝ラッシュ時間帯下り(大阪方面) ==== 1時間当たり、おおむね大阪環状線直通の区間快速が5本、おおさか東線直通の直通快速が2本、JR難波駅行きの快速が5本、普通が5本運転される。 かつては、快速と普通の本数が1:1であったが、需要に応じて、2:1に見直された。 ==== 昼間時間帯 ==== 1時間当たり、大阪環状線 - 加茂駅間の大和路快速が1本、大阪環状線 - 奈良駅間の大和路快速が3本、JR難波駅 - 王寺駅間の普通が4本運転される。久宝寺駅で大和路快速と普通が接続する。また王寺駅で普通と大和路快速を乗り継げる。 ==== 夕ラッシュ時間帯上り(奈良方面) ==== 1時間当たり、大阪環状線直通の区間快速が4本、おおさか東線直通の直通快速が1本、JR難波駅発の快速が2本、普通が6本運転される。一部の区間快速・快速は王寺駅で分割し和歌山線に直通して高田駅・五条駅まで運転される。久宝寺駅で快速・区間快速と普通が接続する。また王寺駅で普通と快速・区間快速を乗り継げる。 === 列車種別 === [[大和路快速]]・[[快速列車|快速]]・[[列車種別#区間種別|区間快速]]・[[おおさか東線#運行形態|直通快速]]・普通が運転されている。 各種快速はいずれも、王寺駅 - 奈良駅・加茂駅間および直通先の[[和歌山線]]・[[桜井線]](万葉まほろば線)内は各駅に停車する。また直通先の大阪環状線を一周する天王寺行きの列車は混乱のないように天王寺までは西九条・大阪方面として案内される<ref group="*">[[阪和線]]の[[関空快速・紀州路快速]]も同様。</ref>。 このほかに、木津駅 - 奈良駅間では[[奈良線]]の[[奈良線#みやこ路快速|みやこ路快速]]・快速・区間快速・普通の全列車と[[片町線]](学研都市線)の快速・区間快速の2往復が、新今宮駅 - 天王寺駅間では[[阪和線]]の「[[はるか (列車)|はるか]]」「[[くろしお (列車)|くろしお]]」といった[[関西国際空港]]や[[南紀]]方面への[[特別急行列車|特急]]や、[[関空快速・紀州路快速]]・快速などが、それぞれ乗り入れている。これらの列車についてはそれぞれの路線や列車の項を参照のこと。 {| class="wikitable" style="font-size:85%; float:none; margin:0 0 1em 1em; text-align:center;" |+日中1時間あたりの運転本数<br />(2021年10月2日改正) !種別\駅名 !style="width:1em;"|加茂 !colspan="2" style="width:1em;"|木津 !… !colspan="2" style="width:1em;"|奈良 !… !colspan="2" style="width:1em;"|王寺 !… !colspan="2" style="width:1em;"|新今宮 !… !style="width:1em;"|JR難波 |- |rowspan="2" style="background:#ada;"|大和路快速 |colspan="12" style="background:#ada;"|1本|| colspan="3" rowspan="2" |大阪環状線直通 |- |colspan="4"|&nbsp;||colspan="8" style="background-color:#ada;"|3本 |- |style="background:#ccc;"|普通 |colspan="7"|&nbsp;||colspan="7" style="background-color:#ccc;"|4本 |- |style="background:#fd9;"|みやこ路快速 |rowspan="2"|←京都||colspan="4" style="background-color:#fd9;"|2本||colspan="9"|&nbsp; |- |style="background:#ccc;"|奈良線普通 |colspan="4" style="background-color:#ccc;"|2本||colspan="9"|&nbsp; |} ==== 大和路快速 ==== [[File:JR WEST 221 series NB808 at Shin-Imamiya.jpg|thumb|left|200px|[[JR西日本221系電車|221系]]による大和路快速]]<!-- 環境によっては経路図と衝突するため左寄せ --> {{Main|大和路快速}} 大和路快速は[[大阪環状線]]に直通して大阪環状線 - 新今宮駅 - 奈良駅・加茂駅間で運行されている。天王寺駅では大阪環状線ホームに発着し、大阪環状線を一周して再び天王寺駅を通り大和路線へ入る運転系統となっているが、[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]発着の列車も設定されている。大阪環状線内では、天王寺駅 - 京橋駅 - 大阪駅間は各駅に停車し、大阪駅 - 弁天町駅 - 新今宮駅間は快速運転を行う。大阪駅 - 加茂駅間では福島駅、西九条駅、弁天町駅、大正駅、新今宮駅、天王寺駅、久宝寺駅、王寺駅からの各駅に停車する。 日中と土休日ダイヤの夜間は1時間に4本(奈良駅 - 加茂駅間は1 - 2本)が運行されている。関西本線と大阪環状線を直通する快速列車は1973年10月7日から運転されており<ref>『近畿地方の日本国有鉄道-大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年、p.374。</ref>、当初は休日のみであったが、1974年7月20日からは平日の日中にも20分間隔で運転されるようになった<ref>『関西の鉄道』1999年陽春号、関西鉄道研究会、1999年、p.11。</ref>。「大和路快速」の名が付いたのは[[1989年]]3月11日からで、この列車名は公募で付けられた。その後[[大阪ステーションシティ]]のグランドオープンに先駆けて行われた2011年3月12日のダイヤ改正で1時間あたり4本に増発され(ただしこのとき、奈良駅 - 加茂駅間は逆に毎時3本が2本へ減便となった)、8両編成での運用も増えた<ref>「大阪ステーションシティに集う転換式クロスシートの快速電車」『[[鉄道ジャーナル]]』2011年7月号、[[鉄道ジャーナル社]]、2011年、p.46, p.47。</ref>。2015年3月14日のダイヤ改正では土休日の運転時間帯が21時台まで拡大された。 土曜・休日ダイヤの一部列車は、王寺駅で後ろの編成を分割し、和歌山線[[高田駅 (奈良県)|高田]]・[[五条駅 (奈良県)|五条]]方面へ直通運転をしている。加茂駅発着の列車の半数は加茂駅で関西本線[[伊賀上野駅|伊賀上野]]・[[亀山駅 (三重県)|亀山]]方面の列車と相互接続を行う。{{要出典範囲|過去には桜井線経由の定期列車も存在していた。|date=2015年7月14日 (火) 09:27 (UTC)}} 基本的に久宝寺駅で普通列車に接続する。また王寺駅では同駅折り返しの普通列車に接続する。 全列車[[JR西日本221系電車|221系]]を使用し、2020年3月14日のダイヤ改正より全列車8両編成で運転されている<ref name="jrw20191213">{{PDFlink|1=[https://www.westjr.co.jp/press/article/items/191213_00_keihanshin-kaku%20%28NXPowerLite%20Copy%29.pdf#page=4 2020年3月14日にダイヤ改正を実施します]}} - 西日本旅客鉄道近畿統括本部、2019年12月13日</ref>。 最高速度は後述の直通快速と同様120km/h運転である。 ==== 区間快速 ==== 大阪環状線に直通して大阪環状線 - 新今宮駅 - 奈良駅・加茂駅間で、平日ダイヤの朝・夕ラッシュ時間帯と土休日ダイヤの夜間に運行されている。大阪環状線内は各駅に停車し、大和路線では、大和路快速と同じく天王寺駅、久宝寺駅と王寺駅からの各駅に停車する。大阪環状線内の発着駅は天王寺駅または京橋駅であり、平日・休日ダイヤともに王寺駅で後ろ(天王寺寄り)の4両を分割し和歌山線高田駅や五条駅へ直通する列車もある。全列車8両編成で221系が使用される。2016年9月までは吹田総合車両所奈良支所所属の[[国鉄103系電車|103系]]4両編成を2本併結した8両編成や森ノ宮支所所属の103系・201系も運用に入っていた<ref name="railfjp20161001">[http://railf.jp/news/2016/10/01/201500.html 奈良支所所属の103系による大阪環状線の乗り入れが運用終了] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース、2016年10月1日。</ref>。 夕方・夜間の奈良駅・加茂駅発の一部列車は新今宮駅で阪和線方面からの特急列車の通過待ちを行う。 大阪環状線に直通する区間快速は1989年3月11日に運転を開始し、当初は夜間のみの運転であったが、1990年3月10日からは朝ラッシュ時にも運転されるようになった<ref name="jtb_p115">寺本光照『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史 大阪駅140年の歴史とアーバンネットワークの成立ち』JTBパブリッシング、2014年、p.115 - p.116。{{ISBN2|978-4-533-09794-2}}。</ref>。 2023年10月23日からは、平日朝ラッシュ時間帯の大阪方面行き区間快速2本(加茂駅6:29発、7:29発)において、有料座席サービス「快速 うれしート」が導入された<ref name="ureseat">[https://www.westjr.co.jp/press/article/items/230824_00_press_uresheet.pdf 有料座席サービス「快速 うれしート」導入のお知らせ] - JR西日本ニュースリリース 2023年8月24日</ref>。設定区間は加茂駅 - 天王寺駅間のみで、直通先の大阪環状線内はサービス適用外となる。 ==== 直通快速 ==== [[File:West_Japan_Railway_Company_Series321_Direct_Rapid.JPG|thumb|left|200px|[[JR西日本321系電車|321系]]による直通快速]] [[おおさか東線#直通快速|直通快速]]は、2008年3月15日の[[おおさか東線]]部分開業により設定された列車である。おおさか東線が全線開業した2019年3月16日からは、おおさか東線経由で奈良駅 - [[新大阪駅]]間において運転され、2023年3月18日からは[[大阪駅]](うめきたエリア)地下ホームに乗り入れている。平日は朝に大阪行きが4本と夕方に奈良行きが4本、土休日は朝夕に2往復ずつ運転されている。停車駅は奈良駅 - 王寺駅の各駅と久宝寺駅・[[JR河内永和駅]]・[[高井田中央駅]]・[[放出駅]]・[[JR淡路駅]]・新大阪駅・大阪駅である。2023年3月18日のダイヤ改正より221系8両編成が使用されている。改正前までは[[網干総合車両所|網干総合車両所明石支所]]所属の[[JR西日本207系電車|207系]]と[[JR西日本321系電車|321系]]が使用されていた。 2019年3月15日まではおおさか東線・学研都市線・[[JR東西線]]経由で奈良駅 - [[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]間の運転で、運行本数は毎日朝に尼崎行きが4本と夕方に奈良行きが4本、停車駅は奈良駅から王寺駅の各駅と久宝寺駅、放出駅、[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]から尼崎駅の各駅であった。 直通快速の運転開始により、朝の奈良方面から[[天王寺駅|天王寺]]方面に直通する列車が減少するため、奈良発尼崎行きは、平日ダイヤの4本中3本が久宝寺駅で後述の[[#快速|柏原発の快速]]JR難波行きに、平日ダイヤの残りの1本と休日ダイヤの4本中2本が王寺駅と久宝寺駅で和歌山線からの快速JR難波行きに、休日ダイヤの残りの2本が王寺駅と久宝寺駅で王寺発の快速JR難波行きに同一ホームで乗り換えができるようダイヤが組まれていた。 運転開始当初は[[宮原総合運転所]]所属の[[JR西日本223系電車#6000番台|223系6000番台]]が使用されていたが、[[北新地駅]]の[[ホームドア]]設置に対応するため2011年3月11日の奈良行きから207系に置き換えられた<ref name="railfan_20110317">[http://railf.jp/news/2011/03/17/142400.html おおさか東線経由の直通快速が207系に] - 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』[[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2011年3月17日</ref>。2012年3月のダイヤ改正からは321系も使用されている。2019年の運転区間変更後も、新たに停車するようになった[[JR河内永和駅]]に4ドア車用のホーム柵が設置されていたこと(現在は撤去済み)や、直通快速は大和路線内では大和路快速と同様に120km/h運転をすることから、引き続き207系・321系を使用していた。 2023年10月23日からは、平日朝ラッシュ時間帯の大阪行き直通快速2本(奈良駅7:06発、7:30発)において、有料座席サービス「快速 うれしート」が導入された<ref name="ureseat" />。区間快速と異なり、設定区間は全区間となる。 ==== 快速 ==== [[File:JRW series221-27 Yamatoji Rapid.jpg|thumb|right|200px|221系による和歌山線直通の快速]] [[ファイル:201系快速.jpg|200px|サムネイル|右|201系による快速(JR難波駅)]] 快速は、大和路快速とともに速達輸送を担う列車である。朝と夕方・夜間に、JR難波駅 - 王寺駅・奈良駅・加茂駅間で運転される。和歌山線に直通する列車のうち、夕ラッシュ時の一部の列車は、奈良行きと連結([[多層建て列車]])して王寺駅で切り離しを行っており、この場合に限り221系が限定運用されている。なお、朝ラッシュ時には桜井線(万葉まほろば線)から直通列車が運転されており、過去には夕方の桜井線直通列車や和歌山線橋本方面に直通する列車も設定されていた<ref>[https://web.archive.org/web/19980205214927/http://www.westjr.co.jp/new/1press/n971219g.html 平成10年ダイヤ改正について 3.アーバンネットワーク (3)大和路線・和歌山線](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース、1997年12月9日。</ref>。[[天理教]]の祭典があるときは桜井線の[[天理駅]]まで臨時延長される列車がある。 停車駅は、JR難波駅・新今宮駅・天王寺駅・久宝寺駅と王寺駅からの各駅である。 ラッシュ時には[[吹田総合車両所|吹田総合車両所奈良支所]]所属の[[国鉄201系電車|201系]]6両編成(ウグイス色)も運用に入る事がある。ただし、201系での運用は非常に少ない。 2011年3月12日のダイヤ改正では日中時間帯のダイヤでJR難波駅 - 王寺駅間は1時間4本(15分間隔)に増発され、高田駅発着は2本(30分間隔)に変更された。2014年3月15日のダイヤ改正で、日中時間帯の王寺駅発着の系統が廃止され、この時間帯は現行の1時間2本に削減された。2015年3月14日のダイヤ改正では大阪環状線からの直通(大和路快速・区間快速)が増発された一方で夕方以降も1時間2本に減便された。また土休日ダイヤでは19時台から20時台にかけて運転されない時間帯も出てきている。2020年3月14日のダイヤ改正で日中の高田駅に直通する快速は廃止された。 2008年3月15日のダイヤ改正で一部の快速を振り替えて直通快速を設定したことから、本数減となる久宝寺駅から天王寺・JR難波方面への救済として、快速停車駅ではない[[柏原駅 (大阪府)|柏原駅]]を始発駅とするJR難波行きの快速が平日朝に3本設定された。この快速は、3本とも久宝寺駅で直通快速尼崎行きと同一ホームで乗り換えができるようになっており、奈良・王寺方面から直通快速を利用しても久宝寺駅乗り換えで天王寺・JR難波方面へもアクセスできるよう配慮されている。2011年3月11日までは森ノ宮電車区所属の201系または103系の8両編成が使用されていたが、翌12日に行われたダイヤ改正後初の平日である14日からはすべて221系8両編成で運転されるようになった。なお、2019年3月16日のダイヤ改正で直通快速が新大阪駅発着へと変更されたと同時に運転時刻も変更されたため、柏原始発の快速は1本減便され2本となっている。しかし、2022年(令和4年)3月12日のダイヤ改正で柏原駅始発の快速は廃止された。 2020年から土休日ダイヤのみ朝2本は京都駅まで運行する(奈良からみやこ路快速)。 ===== 快速列車の種別と停車駅 ===== JR難波駅(湊町駅)- 加茂駅間での快速列車は、1961年12月10日から湊町駅 - 奈良駅間で運転を開始した[[気動車]]による「快速」である。日中1時間あたり2往復で、天王寺駅・王寺駅・[[郡山駅 (奈良県)|郡山駅]]のみに停車して最速39分で運転を行っており、柘植駅・亀山駅へ直通する快速(奈良駅以東は各駅に停車)も1時間に1往復運転されていた<ref>[[寺本光照]]『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史 大阪駅140年の歴史とアーバンネットワークの成立ち』[[JTBパブリッシング]]、2014年、p.73。{{ISBN2|978-4-533-09794-2}}。</ref>。1973年10月1日に法隆寺駅が停車駅に加わり、1978年10月2日に[[大和小泉駅]]も停車駅に加えられた(停車駅に追加されるまでは、一部の列車も停車していた)<ref name="jtb_p177">寺本光照『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史 大阪駅140年の歴史とアーバンネットワークの成立ち』JTBパブリッシング、2014年、p.176 - p.177。{{ISBN2|978-4-533-09794-2}}。</ref>。 [[1988年]][[3月13日]]から日中の快速は大和小泉駅・郡山駅を通過するようになり<ref group="*">1988年の「[[なら・シルクロード博覧会]]」の会期中には新大阪駅 - 西九条駅 - 天王寺駅 - 加茂駅間に臨時快速列車が運転された。大阪環状線に直通する快速は1978年10月2日から大和小泉駅・郡山駅にも停車していたが、この列車はJR難波発着の快速の運転区間を変更する形であったため通過していた。なお、同博覧会期間中は[[御坊駅]] - 奈良駅間([[阪和貨物線]]経由)にも[[国鉄165系電車|165系]]を使用した臨時快速列車が1往復設定されていた。新大阪駅 - 奈良駅間直通の臨時列車は「なら歴史キャンペーン」時にも「なら歴史探訪号」として運転された。</ref>、1989年3月11日のダイヤ改正で大阪環状線に直通する区間快速の運転開始に伴い、大和小泉駅・郡山駅に停車する快速を区間快速に変更した。1997年3月8日のダイヤ改正で大和小泉駅・郡山駅にすべての快速列車が停車するようになり、大阪環状線にも今宮駅が開業して大阪環状線に直通する区間快速は同駅に停車するようになった。これにより、JR難波駅発着と大阪環状線直通の「区間快速」と停車パターンが違う事象が発生したが、おおさか東線部分開業による2008年3月15日のダイヤ改正で、JR難波駅発着の「区間快速」は再び「快速」を名乗ることとなった<ref name="jtb_p177" />。 1997年3月8日のダイヤ改正で「快速」が「区間快速」となった後でも、奈良電車区所属の103系には「快速」の幕は残された。これは平日の朝ラッシュに運転される奈良発桜井駅・高田駅経由の区間快速JR難波行きのうちの1本で使われていた103系または201系の[[方向幕]]に「区間快速 桜井・高田経由JR難波」の幕が入っていないためであり、該当列車は「快速 桜井・高田経由JR難波」と表示して運転されていた。これは、2008年3月15日のダイヤ改正でJR難波駅発着の区間快速が快速に種別が変更されるまで続けられていた。 ==== 普通 ==== [[File:JRWest 201 MoriYamatoji.jpg|thumb|right|200px|[[国鉄201系電車|201系]]による普通]] 普通は全区間で各駅に停車する列車で、JR難波駅 - 王寺駅間で終日運転されている。王寺駅 - 奈良駅・加茂駅間は大和路快速・区間快速が各駅に停車するため、大和路快速・区間快速が普通列車の役割を担う。 日中時間帯はJR難波駅 - 王寺駅間で1時間に4本運行されている。この時間帯は久宝寺駅・王寺駅で大和路快速と接続するダイヤが組まれている。朝晩には柏原駅・奈良駅・加茂駅発着や和歌山線高田駅発着の列車がある。また、運用上の都合で、奈良駅 - 加茂駅間の区間列車や、早朝にJR難波発京都行きの列車(奈良駅からは奈良線の区間快速となる)もあるが、逆の京都駅から奈良駅を経由してJR難波方面に乗り入れる列車はない(いわゆる片乗り入れ)。2011年3月11日までは平日の朝に天王寺駅で折り返す列車も存在していた。 日中の運行系統は、[[1995年]][[9月30日]]のダイヤ改正で、柏原駅折り返しの系統の大半が王寺駅まで延長され、JR難波駅 - 王寺駅間が6本となった<ref>{{Cite news |title=JR西日本 「大和路快速」スピード向上 大阪-奈良41分に |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-08-31 |page=3 }}</ref>。[[1996年]][[3月16日]]のダイヤ改正で、日中の快速のうち1時間に1本が和歌山線高田駅発着に変更されたことに伴い、普通の1本が奈良駅まで延長された。[[1997年]][[3月8日]]のダイヤ改正で、日中の区間快速(当時)がすべて高田行きとなったことに伴い、さらに普通の2本が奈良駅まで延長され、王寺駅・奈良駅発着がそれぞれ1時間に3本の運転となった。 [[2006年]][[3月18日]]のダイヤ改正で、柏原駅 - 王寺駅間の各駅では6本から3本に減少した。[[2011年]][[3月12日]]のダイヤ改正で、JR難波駅 - 王寺駅間が4本となり、この区間の本数が統一された。 {|class="wikitable" style="float:right; font-size:85%; margin:0em 0em 0em 1em; border:1px solid gray; text-align: center;" |+日中1時間あたりの運転本数<br />(1997年3月8日改正) !種別\駅名 !style="width:1em;"|加茂 !… !colspan="2" style="width:1em;"|奈良 !… !colspan="2" style="width:1em;"|王寺 !… !colspan="2" style="width:1em;"|新今宮 !… !style="width:1em;"|JR難波 |- |style="background:#ada;" |大和路快速||colspan="9" style="background-color:#ada;"|3本||colspan="3"|&nbsp; |- |style="background:#fd9;" |区間快速||colspan="5"|&nbsp;||colspan="7" style="background-color:#fd9;"|3本 |- |style="background:#ccc;" rowspan="2" |普通||colspan="2"|&nbsp;||colspan="10" style="background-color:#ccc;"|3本 |- |colspan="5"|&nbsp;||colspan="8" style="background-color:#ccc;"|3本 |} 車両は基本的に201系の6両編成での運転だが、早朝・深夜には103系・205系・221系の6両または4両編成で運転<ref group="*">221系6両編成は、王寺駅15:35発から運用。</ref>されている。奈良線に直通する列車は221系6両編成での運用である。また、奈良駅 - 加茂駅間の一部列車は大和路快速・区間快速の間合い運用を兼ねて、221系8両編成で運転されている。103系は1986年の国鉄時代最後のダイヤ改正において実施された編成短縮・編成数増加政策<ref group="*">[[国鉄103系電車#クハ103形2000・2050番台]]を参照。</ref>により、民営化後も暫くは3両編成で運転されていた列車があったが、6両編成の運用に変わる直前の夕方の上り列車は天王寺駅で積み残しが発生することもあった。[[1973年]][[9月20日]]の電化以前には、湊町駅(現在のJR難波駅) - 柏原駅間運転の各駅停車(ただし久宝寺駅は朝晩の一部を除く大半の時間帯で客扱いを行っておらず、上下数本を除いて全列車が通過していた)のほかに天王寺駅 - 柏原駅間は平野駅・[[八尾駅]]のみに停車し、他は各駅に停車する「普通列車」が湊町駅 - 王寺駅・奈良駅間で運転されており、普通列車と各駅停車の間で停車駅が異なるダイヤが組まれていたことがあった。また、亀山駅・名古屋駅へ直通する普通列車もあった。 ===== 快速列車との接続・通過待ち ===== 上下とも日中は久宝寺駅で大和路快速と[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]を行い、柏原駅で快速の通過待ちを行っている。平日朝ラッシュ時の下りと夕ラッシュ時の上りは平野駅でも快速列車の通過待ちが行われる。 [[1994年]][[9月4日]]の[[関西国際空港]]開港時のダイヤ改正までは天王寺駅で緩急接続を行い、柏原駅で後続の快速の通過待ちをするダイヤが主体であった。しかし、関西国際空港開港に伴う大阪環状線 - 阪和線直通列車の増発([[関空快速・紀州路快速|関空快速]]、特急「[[はるか (列車)|はるか]]」の登場)によって、天王寺駅では緩急接続が頻繁にできなくなったことや、大和路快速のスピードアップにより、日中は平野駅での快速の通過待ちが増やされた。ただし、上りに関しては[[おおさか東線#城東貨物線|城東貨物線]]の貨物列車との兼ね合いで運転間隔が不均等になる時間帯があった。 [[1997年]][[3月8日]]のダイヤ改正で久宝寺駅に当時の区間快速が停車することとなったが<ref>[https://web.archive.org/web/19970208163747/http://www.westjr.co.jp/new/1press/kaisei9.htm 平成9年3月アーバンネットワークのダイヤ改正について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース、1996年12月16日。</ref>、この時点でも通過待ちを行う駅に変化はなかった。下り線の待避設備は1997年9月1日に使用を開始し、日中時間帯は久宝寺駅で区間快速・普通の相互接続を行う形になった<ref>[https://web.archive.org/web/19980205233018/http://www.westjr.co.jp/new/1press/n970718b.html アーバンネットワーク秋のダイヤ改正について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース、1997年7月18日</ref>。[[1998年]][[3月14日]]の改正では、久宝寺駅で上下線で相互接続を行うパターン<ref group="*">久宝寺駅舎・構内の改築工事の完成による。</ref>に統一され、上り線では天王寺駅から八尾駅 - 三郷駅間の所要時間が短縮されることになった<ref>[https://web.archive.org/web/19980205214927/http://www.westjr.co.jp/new/1press/n971219g.html 平成10年春ダイヤ改正について](インターネット・アーカイブ) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 1997年12月19日</ref>。ただし、普通奈良行きについては、王寺駅で当時の区間快速高田行きから乗り換えられるように引き続き柏原駅で通過待ちを行っていたが、わずか3駅先の駅で約10分後の後続の快速列車を待つため、柏原駅では以前よりも停車時間が長くなった。 [[2006年]][[3月18日]]のダイヤ改正では、ダイヤの余裕時間の見直しによる影響で日中の王寺行きが柏原止まりとなり、天王寺駅基準で19時台までの上り普通列車はすべて柏原駅で通過待ちを行うようになり、所要時間が長くなった。 [[2008年]][[3月15日]]のおおさか東線の開業により、久宝寺駅ではおおさか東線が副本線を使用することになったため、おおさか東線への影響を抑えるために大和路線普通が本線発着に、普通と緩急接続するほとんどの快速列車が副本線発着にそれぞれ変更された。王寺方面行きの普通は久宝寺駅で快速列車と緩急接続した後、続いて進入するおおさか東線の列車を待つダイヤが一部組まれるようになったため、その列車については久宝寺駅での停車時間が若干長くなり、柏原駅での停車時間が若干短くなった。一方で、天王寺駅での緩急接続は、阪和線からの直通列車が増加傾向にあり15番のりばを専有できないことから無くなった。 [[2011年]][[3月12日]]のダイヤ改正以降、日中は上下列車ともに柏原駅で快速の通過待ち、久宝寺駅で大和路快速と緩急接続を行うダイヤとなった。日中は普通の間に快速列車が2本運転され快速の運転間隔が短いことから、柏原駅での停車時間は約2分に抑えられており、以前のような長時間停車はなくなった。ただし、夕方以降は引き続き柏原駅で5分以上停車する列車も存在している。 === 大晦日臨時列車 === 大和路線では沿線に[[春日大社]]や[[朝護孫子寺|信貴山朝護孫子寺]]などの社寺があるため、[[大晦日]]深夜から[[元日]]午前3時ごろにかけて、王寺駅 - JR難波駅間ではおおむね30分間隔で、王寺駅 - 奈良駅間ではおおむね60分間隔で、それぞれ普通列車を増発している。 なお、[[2018年]]度までは元旦まで奈良駅 - JR難波駅間で[[終夜運転]]が実施されてきたが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/11/page_13417.html |title=大晦日の終夜運転のお知らせ 大晦日深夜から元旦にかけて終夜運転を行います |publisher=[[西日本旅客鉄道]] |date=2018-11-20 |accessdate=2018-12-10 }}</ref>、[[2019年]]度は午前3時ごろで打ち切りとなり<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/12/page_15240.html |title=大みそかの臨時列車運転のお知らせ |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2019-12-12 |accessdate=2019-12-16 }}</ref>、終夜運転ではなくなった。また過去には、[[2000年]][[12月31日]]から[[2001年]][[1月1日]]にかけての終夜運転までは、普通を奈良駅から大和路快速・区間快速のような大阪環状線を一周して天王寺駅で折り返す運転ルートでおおむね30分間隔で運転していたほか、阪和線の終夜運転の列車がJR難波駅まで乗り入れしていた時期もあった<ref>『JTB時刻表』1999年12月号、JTB、付録15ページ</ref><ref>『JTB時刻表』2002年12月号、JTB、付録9ページ</ref>。 === 臨時列車 === {{Main|まほろば (列車)}} 2019年11月から12月上旬の土休日に、臨時特急「[[まほろば (列車)|まほろば]]」が同年3月に全線開通した[[おおさか東線]]を経由して新大阪駅 - 奈良駅間にノンストップで1往復運行された<ref name="trafficnews20190822">[https://trafficnews.jp/post/88913 臨時特急「まほろば」新大阪〜奈良間で運行 おおさか東線をノンストップで走る] - 乗りものニュース、2019年8月22日</ref><ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2019/11/jr_12050.html 【JR西】臨時特急〈まほろば〉運転] - 鉄道ホビダス RMニュース、2019年11月 2日</ref>。車両は[[JR西日本287系電車|287系]]3両編成(指定席2両、自由席1両)が使用された<ref name="trafficnews20190822" />。2020年3月 - 6月<ref>[https://railf.jp/news/2020/03/21/195500.html 287系による特急“まほろば”運転] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2020年3月21日</ref>(ただし、同年5月9日以降、6月まで全て運転取り止め<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/items/200406_01_unkyuu.pdf 山陽新幹線、在来線特急における一部臨時列車の運休について] - JR西日本ニュースリリース 2020年4月6日</ref><ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/items/200420_05_unkyu.pdf 運転計画の変更について] - JR西日本ニュースリリース 2020年4月20日</ref>)、8月下旬<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/items/200619_01_summer01.pdf 在来線特急 夏の臨時列車の運転] - JR西日本ニュースリリース 2020年6月19日</ref>にも設定された。 特急「まほろば」は、2010年に大阪環状線経由で運行されたことがある(「[[#平城遷都1300年祭の対応|平城遷都1300年祭の対応]]」の節を参照)。 === 女性専用車 === {|style="float:right; font-size:85%; margin:0em 0em 0em 1em; border:1px solid gray;" |- |style="background-color:#ddd; text-align:center; border-bottom:solid 4px #00B17B;"|女性専用車 |- |{{TrainDirection|JR難波|奈良}} |- | {|class="wikitable" style="border:1px; font-size:85%; text-align:center; margin:0em 0em 0em 0.5em;" |- |style="width:2em;"|6 |style="width:2em;"|5 |style="width:2em;"|4 |style="width:2em; background:#fcf"|3 |style="width:2em;"|2 |style="width:2em;"|1 |} |} JR難波駅 - 奈良駅間では、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、201系6両編成の3号車に[[女性専用車両|女性専用車]]が設定されている<ref>[http://www.jr-odekake.net/railroad/service/train_woman/ 列車でのサービス:女性専用車両] - 西日本旅客鉄道 JRおでかけネット</ref>。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。なお、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除されることがある。 大和路線では2004年10月18日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていた<ref name="jrw_20040721">[https://web.archive.org/web/20041022202346/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/040721a.html 阪和線、大和路線に「女性専用車」を拡大します](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2004年7月21日</ref>が、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった<ref name="jrw_20110304">[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175252_799.html 女性専用車の全日化・終日化について] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110918003636/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175252_799.html |date=2011年9月18日 }} ・ [http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175270_799.html 車両保守部品の不足に伴う列車運転計画の見直しについて] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111216182135/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175270_799.html |date=2011年12月16日 }} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2011年3月4日・2011年4月6日</ref>。 2021年10月2日より、221系6両編成の3号車にも女性専用車が設定される<ref name="mynavi20210912">[https://news.mynavi.jp/article/20210912-1971020/ JR西日本ダイヤ改正、大和路線を中心に201系から221系へ置換え開始] - マイナビニュース、2021年9月12日</ref>が、4両編成または8両編成(4+4両編成を含む)には導入されない<ref group="*">このため、大和路快速・区間快速では女性専用車両の設定は行われておらず、運用区間も201系時代から変更されていないため、奈良線での運用時も女性専用車両の設定は行わない。</ref>。なお近畿圏での近郊型電車への女性専用車は、阪和線に続き2路線目となる<ref group="*">阪和線の女性専用車は、225系6両固定編成のみに設定されており、4両編成の列車は2本つなげた関空快速・紀州路快速及びきのくに線の乗り入れもあることから、4両編成の列車には導入されていない。</ref>。 === 過去の列車 === ==== 関空快速 ==== {{Main|関空快速・紀州路快速}} [[1994年]][[9月4日]]に[[関西国際空港]]が開港したのに伴う同日のダイヤ改正で、京橋駅・JR難波駅 - [[関西空港駅]]間で[[関空快速・紀州路快速|関空快速]]の運転を開始した。JR難波駅発着の列車は2両編成で、天王寺駅で京橋駅発着の6両編成と連結・切り離しが行われていた。[[1996年]][[3月23日]]にJR難波駅が地下化されたことにより、[[大阪シティエアターミナル]] (OCAT) の機能を拡充させ、JR難波駅発着列車に荷物室を併設し、空港での機内持ち込み荷物の輸送を開始した。また、JR難波駅発列車に座席指定席を設定し、「関空快速X号」と号数が符番された。 [[1998年]][[4月1日]]に OCAT での空港での機内持ち込み荷物の輸送が廃止されて、荷物室は客室に復元され、座席指定席も廃止されて、その後号数符番も廃止した<!--『JTB時刻表』1998年7月号によると関空快速の指定席は廃止されているが、まだ号数あり。京橋方面直通の関空特快には指定席あり。-->。[[1999年]][[5月10日]]に[[関空快速・紀州路快速|紀州路快速]]の新設によって、JR難波駅発着の関空快速は天王寺駅での京橋駅発着の関空快速との連結・切り離し作業を取り止め、単独でJR難波駅 - 関西空港駅間を運転するようになったが、利用客が少なかったことや大阪環状線大阪駅直通の関空快速・紀州路快速を増発するため、[[2008年]][[3月15日]]にJR難波駅発着の関空快速は廃止された。 ==== やまとじライナー ==== [[File:JRW_381_Yamatoji-Liner.jpg|thumb|right|200px|[[国鉄381系電車|381系]]による「やまとじライナー」]] やまとじライナーは、通勤客向けの座席定員制の列車([[ホームライナー]])である。 1988年3月13日のダイヤ改正で設定され<ref> 寺本光照『国鉄・JR 関西圏 近郊電車発達史』189頁</ref>、木津発JR難波行き1本と大阪発加茂行き2本が運転されていた。2009年3月14日のダイヤ改正で平日のみの運転となり、2011年3月12日のダイヤ改正で廃止された<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/12/17/20101217_kinki.pdf 平成23年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道近畿統括本部プレスリリース 2010年12月17日</ref>。 車両は[[特急形車両|特急用]]の[[国鉄381系電車|381系]]([[日根野電車区]]所属の国鉄色またはくろしお色編成)が使用されていたが、「やまとじライナー」の種別は快速([[普通列車]]の一種)であるため、乗車整理券を購入すれば普通列車専用の企画乗車券である「[[青春18きっぷ]]」での利用も可能であった。 JR西日本の近畿地区ではホームライナー廃止後、当該区間に特急列車を増発または新設して補填するケースが多く見られるが、当路線ではそれらの設定が行われず、代替列車として区間快速が増発された。 ==== 奈良シルクロード号 ==== 1988年4月23日から10月23日まで奈良県奈良市で開催された[[なら・シルクロード博覧会]]に合わせて、当時日中に運行されていた湊町駅(現・JR難波駅) - 奈良駅 - 加茂駅間の快速列車の運転区間を一部変更(湊町駅 - 新今宮駅間を休止して大阪環状線および[[梅田貨物線]]経由とした)し、大阪側の始発・終着駅を新大阪駅に変更したものである。 ==== やまとじハリウッド号 ==== [[2002年]]10月13日から11月24日までの第3を除く土曜日に奈良発[[桜島線]](JRゆめ咲線)[[桜島駅|桜島]]行で運転された臨時列車。森ノ宮電車区の103系USJラッピング車6両編成が使用された<ref>[https://web.archive.org/web/20021020230519/http://www.westjr.co.jp/news/020823d.html%E3%80%80%E5%B9%B3%E6%88%9014%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E3%80%90 秋 】の臨時列車の運転について(別紙詳細)](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2002年8月23日</ref>。停車駅は、奈良駅 - 王寺駅間の各駅・柏原駅・八尾駅・久宝寺駅・平野駅・天王寺駅・新今宮駅・[[ユニバーサルシティ駅]]・桜島駅。停車しない[[西九条駅]]では[[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]]を行い、ホームのない通過線で桜島線に折り返していた。 ==== なら歴史探訪号 ==== JR西日本主催のなら歴史キャンペーンで[[2003年]][[9月13日]]から[[12月20日]]までの土曜日に新大阪駅 - 奈良駅間に運転された臨時快速列車。翌2004年の秋のシーズンにも運転された。途中の停車駅は、天王寺駅・王寺駅・法隆寺駅で定期の快速停車駅よりも削減されていたが、柏原駅で運転停車を行い後続の大和路快速を待避するなど、所要時間は大幅にかかっていた。車両は宮原総合運転所の[[国鉄117系電車|117系]]300番台6両編成が使用されていた。 ==== 奈良万葉レジャー号 ==== {{Main|桜井線#奈良万葉レジャー号}} [[File:山辺の道レジャー号.JPG|thumb|right|200px|221系による「山辺の道レジャー号」]] 春・秋行楽時の土曜・休日には、往路は大和路線内では大和路快速または快速に併結して天王寺方面から奈良駅・桜井線(万葉まほろば線)を経由して高田駅まで、復路は奈良発快速JR難波行を[[桜井駅 (奈良県)|桜井駅]]始発として延長運転していたが、2011年春からは運転されていない。2009年度まで「山の辺の道レジャー号」として運転されていた。 ==== 平城遷都1300年祭の対応 ==== {{See also|まほろば (列車)}} [[ファイル:JRW series381 Yamatoji(Mahoroba).jpg|thumb|right|200px|臨時特急「まほろば」]] 奈良県では2010年が[[平城京]]に遷都されてから1300年目にあたり、これを記念した[[平城遷都1300年記念事業|平城遷都1300年祭]]が行われた。 多くの利用客が予想されることから、利便性の向上のためにメイン会場である平城宮跡会場でのイベント開催(2010年4月24日 - 2010年11月7日)と、[[JR]]グループと奈良県が共同で実施する「奈良[[デスティネーションキャンペーン]]」(2010年4月1日 - 2010年6月30日)の観光キャンペーン中にあわせて、[[新大阪駅]] - 奈良駅間で臨時[[特別急行列車|特急]]「[[まほろば (列車)|まほろば]]」が運転された。運転日は2010年4月 - 6月の土休日と4月1日で、停車駅は新大阪・天王寺・王寺・法隆寺・奈良の各駅。車両は、やまとじライナーでも使用されている日根野電車区の381系(国鉄色編成)を使用し、指定席4両と自由席2両(4月1日は全車指定席)<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174643_799.html 奈良デスティネーションキャンペーン 臨時特急「まほろば」号 運行開始!] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2010年1月22日</ref>となっていた。 なお、特急「まほろば」運転に伴い、天王寺駅 - 八尾駅間が新たに[[特別急行券#在来線特急の料金体系|B特急料金]]の区間となった<ref group="*">八尾駅 - 奈良駅間は、1989年3月のダイヤ改正まで特急「しらはま」号が運転されていた時に設定されている。</ref>。 このほか、秋季期間(10月9日 - 11月7日)には、[[関西空港駅]]から天王寺駅・JR難波駅を経由して奈良駅を結ぶ貸切列車(奈良県は[[JR西日本281系電車|281系]]を要望していた<ref>[https://www.nara-np.co.jp/news/20100304105455.html 関空から奈良直通特急 - 県がJRで実験へ] - [[奈良新聞]] 2010年3月4日</ref>)の運転を計画し、奈良県が2010年度の予算案に、チャーター料や調査費など850万円を計上していた<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100304-OYT1T00250.htm 関空―奈良、秋に直通電車…奈良県がチャーター] - [[読売新聞]] 2010年3月4日</ref>が、この貸切列車は運転されなかった。 == 使用車両 == {{Main2|阪和線と直通運転する車両|阪和線#使用車両}}{{Main2|奈良線と直通運転する車両|奈良線#使用車両}} === 現在の使用車両 === 大和路線ではすべて[[電車]]で運転されている。以下の各系列のうち[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]の103系・201系は車体色が[[吹田総合車両所]][[奈良電車区|奈良支所]]所属車がウグイス([[黄緑6号]] {{Color|#9acd32|■}})であり、2016年9月までは朝・夕ラッシュ時に[[森ノ宮電車区|森ノ宮支所]]所属の車両(車体色は[[朱色1号]]{{Color|#f15A22|■}})も使用されていた。大和路線で使用する車両が配置されている奈良支所は、221系が大量投入されて以降は網干総合車両所からの221系・201系の転属にとどまり、通勤形車両は電化以来一度も新車が導入されていない。大和路線ではおおさか東線や片町線(学研都市線)からの直通列車で[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ]]車両の207系・321系が運用されているものの、奈良支所には2022年現在もVVVFインバータ車両の配置がない状況が続いている。 * [[JR西日本221系電車|221系]](吹田総合車両所奈良支所所属) ** 1989年4月10日から営業運転を開始<ref name="jrr-90">『JR電車編成表 90夏号』ジェー・アール・アール、1990年、{{ISBN2|4-88283-013-2}}。</ref>した大和路線の主力車両。全種別で運用され、[[和歌山線]]・[[桜井線]](万葉まほろば線)にも乗り入れる運用がある。奈良支所には[[1989年]]から1991年にかけて78両が新製投入された。1997年以降、[[琵琶湖線|琵琶湖]]・[[JR京都線|JR京都]]・[[JR神戸線|神戸線]]系統の[[新快速]]の[[JR西日本223系電車|223系]]・[[JR西日本225系電車|225系]]増備に伴い、余剰となった221系の転入が始まり、103系などの置き換えや編成両数増強が進められた。4・6・8両単独のほか、4両を2本繋げた8両編成でも運行されている。 ** 2021年10月2日のダイヤ改正以降、後述の201系を順次221系に置き換えている<ref name="mynavi20210912" /><ref name="maidonanews20211031">[https://maidonanews.jp/article/14470665 懐かしの「キーン」という音がする通勤電車 201系がまもなく消滅 今のうちに…関西まで見に来てみる?] - まいどなニュース、2021年10月31日</ref>。 ** 2023年10月23日以降は、8両編成のうち1号車の1 - 5番座席を指定席にした有料座席サービス「快速 うれしート」の対象列車として、221系8両編成が使用されている。サービス区間内の1号車車内中央部では、仕切りとして暖簾が吊るされる<ref name="ureseat" />。 * [[国鉄201系電車|201系]](吹田総合車両所奈良支所所属) ** すべて6両編成で[[2006年]]12月20日から営業運転を開始し、大和路線のほかに、早朝やラッシュ時には桜井線(万葉まほろば線)でも運用されている。おおさか東線・和歌山線の運用は2022年3月11日に、加茂駅 - 奈良駅間の運用は2023年3月17日をもって終了した。 ** JR京都・神戸線の321系投入に伴い2006年から2008年に明石支所と森ノ宮支所から転入してきた車両と、大阪環状線・JRゆめ咲線の323系投入とおおさか東線新大阪延伸による運用増に伴い2017年から2018年に森ノ宮支所から転属してきた車両が配置されている。 ** 2020年から2023年度にかけて、琵琶湖・JR京都・神戸線への225系の追加投入により、[[網干総合車両所]]に所属する221系が当線に転属し、201系を置き換える予定である<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/2020/02/page_15645.html 在来線車両の新製投入・車内の情報提供の充実] JR西日本ニュースリリース 2020年2月19日</ref><ref name="mynavi20210912" /><ref name="maidonanews20211031" />。 * [[国鉄205系電車|205系]](吹田総合車両所奈良支所所属) ** 2018年10月28日のダイヤ改正から0・1000番台が平日朝下りに1本のみ運転される奈良駅 - 王寺駅間の普通列車で運用を開始した<ref>[https://railf.jp/news/2018/11/03/200000.html 205系の運用範囲が関西本線王寺駅まで拡大] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2018年11月3日</ref>。かつて[[阪和線]]向けに吹田総合車両所日根野支所に所属していた車両で、阪和線時代と同じ水色([[青24号]]{{Color|#00B2E5|■}})の帯を巻く。現在は奈良線直通列車のみ木津駅 - 奈良駅で運用されている。 * [[JR西日本207系電車|207系]]・[[JR西日本321系電車|321系]]([[網干総合車両所]]明石支所所属) ** 木津駅 - 奈良駅間で学研都市線・[[JR東西線]]に直通する区間快速・快速として運転されている。かつては奈良駅 - 久宝寺駅間でおおさか東線に直通する直通快速として運転されていた。運行経路の関係上、奈良駅では学研都市線(木津駅経由)の快速・区間快速と、おおさか東線経由の直通快速で編成の向きが逆になっていた。 ** おおさか東線は2022年3月12日改正で普通が221系に変更されたものの、直通快速は引き続き207系と321系が運用されていた。2023年3月18日のダイヤ改正で直通快速が221系に置き換わり、奈良駅 - 久宝寺駅間の定期運用から撤退した。 * [[JR西日本287系電車|287系]](吹田総合車両所日根野支所所属) ** 3両編成が臨時特急「まほろば」として奈良駅 - 久宝寺駅間で使用されている。 <gallery> ファイル:JR-WEST 201 Series at Shirokitakoendori.jpg|201系 ファイル:JRW series207-Yamatoji.jpg|207系 </gallery> === 過去の使用車両 === [[ファイル:JNR EC 113 Rapid KansaiLine at Oji Sta.jpg|thumb|right|200px|113系]] [[ファイル:Series103_NS413.jpg|thumb|right|200px|103系]] [[ファイル:JRW series223-6000 Yamatoji.jpg|thumb|right|200px|223系6000番台]] [[国鉄分割民営化]]後の使用車両を記述する。名古屋駅・亀山駅方面や電化前の片町線との直通列車に[[気動車]]が使用されたほかは、すべて電車が使用されていた。 ==== 電車 ==== * [[国鉄103系電車|103系]](吹田総合車両所奈良支所所属) ** 6両編成は大和路線とおおさか東線、ラッシュ時には快速や和歌山線・桜井線(万葉まほろば線)でも運用されていた。2006年から前述の201系転入により本系列の6両編成はすべて置き換えられる予定であったが、おおさか東線の開業で6両編成の運用数自体が増えたため、全面的な置き換えには至らず少数が残存した。2017年から森ノ宮支所から転入した201系への置き換えが進み、2018年1月で定期運用を終了した。 ** 4両編成は奈良線での運用が中心であるが、2016年9月までは大和路線でも2本連結して8両編成として大阪環状線へ直通する区間快速でも使用されていた<ref name="railfjp20161001" />。221系に置き換えられてウグイス色103系の大阪環状線直通は終了し、大和路線内の6両編成も2018年1月で運用終了したことで一旦は完全に撤退したが、2018年10月28日から再び4両編成が平日朝下りに1本のみ運転される奈良駅 - 王寺駅間の普通列車に205系4両編成と共通運用で充当されていた(但し平日1本のみなので日によって103系か205系のどちらかのみ。車両不足に伴う暫定措置)。2022年3月11日で205系に統一されて運用を終了した。 ** 奈良支所所属の車両は電化時に投入された[[国鉄101系電車|101系]]の置き換えのため、1983年から1985年にかけて導入された。これらは[[京阪神緩行線]](JR京都・神戸線)への201系投入によって捻出された[[明石電車区]](現:[[網干総合車両所]]明石支所)の車両や[[淀川電車区]](当時)・森ノ宮支所などからの転入組、101系からの改造車で構成されており、長年に渡り[[関西圏]]や[[首都圏 (日本)|首都圏]]の各地から寄せ集められたため1編成の製造時期と形態が1両ごとに違う編成が多い。[[1986年11月1日国鉄ダイヤ改正]]で編成両数を短くしつつ日中の運転本数を増やす施策が取られたため、国鉄末期から1994年にかけては3両編成も運用されており、単独運転やラッシュ時を中心に2編成を併結した6両編成で運転されていた<ref name="jrr-90" />。しかし乗客増に伴い、1994年にJR京都・神戸線に207系が投入されたことにより捻出されたサハ103形を組み込んで4両編成化された。[[2022年]][[3月11日]]を以て運転が終了した。 * [[国鉄105系電車|105系]] ** 1994年まで奈良線用として木津駅 - 奈良駅間で使用されていた。 * [[国鉄113系電車|113系]] ** 1973年に奈良駅 - 湊町駅(現在のJR難波駅)間が電化された際に、大阪環状線と直通する快速として運用を開始。1989年3月13日のダイヤ改正で大和路快速が設定され、221系が充当されていたが、しばらくは113系による大和路快速も運転されていた。1989年7月20日に大和路線の運用を終了した<ref name="jrr-90" /><ref group="*">ただし、1991年7月から9月まで当時の103系3両編成数本が検査で入場していたため、その不足分を補う措置で日中限定で普通で充当されたことがあり、[[網干総合車両所|網干電車区]]から借り入れた6両1本と奈良電車区所属の113系4両と網干電車区から借り入れた中間車2両を組み合わせた6両編成で運用されていた。</ref> 。 * [[国鉄117系電車|117系]] ** 奈良線用として使用されていたほか、[[阪和貨物線]]の[[錆取り列車]]として、王寺駅と阪和線の[[鳳駅]]間を1日1往復していた。この列車には、王寺駅に日中留置されていた117系が使用されていたが、103系が代走する場合もあった。 * [[JR西日本223系電車|223系0・2500番台]]([[日根野電車区]](現:吹田総合車両所日根野支所、以下同じ)所属) ** JR難波駅 - 関西空港駅間の関空快速で運用されていた。1994年9月4日から1999年5月9日までは2両編成で、1999年5月10日より5両・6両(3+3)・8両(5+3)のいずれかの編成で運転されていた。2008年3月15日にJR難波駅発着の関空快速が廃止されたことにより運用を終了した。 * [[JR西日本223系電車#6000番台|223系6000番台]]([[宮原総合運転所]](現:網干総合車両所宮原支所)所属) ** [[2008年]][[3月15日]]に[[おおさか東線]]開業に伴って設定された直通快速として、4両編成を2本連結した8両編成で運転されていたが、2011年3月11日から[[北新地駅]]のホームドア設置に伴い207系に置き換えられた<ref name="railfan_20110317" />。 * [[国鉄381系電車|381系]](日根野電車区所属) ** 加茂駅・木津駅 - JR難波駅・大阪駅間のやまとじライナーや、新大阪駅 - 奈良駅間の臨時特急「まほろば」で使用されていた。 ==== 気動車 ==== {{Main2|片町線と直通運転していた車両|片町線#過去の車両}} * [[JR西日本キハ120形気動車|キハ120形]] ** 亀山駅 - 加茂駅間の運用が中心であるが、2001年3月までは、朝ラッシュ時に奈良駅まで乗り入れる列車が1日1往復設定されていた。 * [[JR東海キハ75形気動車|キハ75形]] ** 1999年より名古屋駅 - 奈良駅間で急行「[[かすが (列車)|かすが]]」として1日1往復走行していたが、2006年に廃止されている。 * [[国鉄キハ58形気動車|キハ58形]] ** 亀山駅 - 奈良駅間で1994年まで普通列車として使用されていたが、同年4月10日にさよなら運転を行い<ref>鉄道ファン 1997年5月号 54頁</ref>撤退。また、1999年まで名古屋駅 - 奈良駅間で急行「かすが」に使用されていた。 === 列車・編成の向き === 関西本線は名古屋駅が起点であるため、大阪環状線直通列車は新今宮駅で列車の[[ダイヤグラム#上りと下り|上りと下り]]が逆転するが、[[列車番号]]は全区間にわたって関西本線を基準としているため、大阪環状線内では他の列車が外回りが(上り列車に付ける)偶数、内回りが(下り列車に付ける)奇数であるのに対し、大和路線からの直通列車は外回りが奇数、内回りが偶数となっている。 吹田総合車両所森ノ宮支所と同奈良支所の103系は、それぞれの所属線区の上り・下りを基準にした編成の向きであるため、直通先において向きが逆になっていた(優先座席や号車表示は逆にならないようになっていた)。221系以降に配置された車両は、列車の上り・下りに関係なく東海道本線大阪駅基準に向きが統一されているため、直通快速を除いて他の列車と一致しなくなることはない。 === 電車前面の白線 === 大和路線に使用される103系・201系(ウグイス色の吹田総合車両所奈良支所所属車)は前面に白帯が塗ってあるが、これは踏切事故防止の目的で塗られている警戒色である<ref group="*">過去には阪和線向け103系電車にも同様の白帯があったが、こちらは[[紀勢本線]]乗り入れ用のATS-SW搭載を識別するものであった。</ref>。湊町駅(現在のJR難波駅) - 奈良駅間の電化開業時には黄色([[黄5号]])に塗られていた<ref group="*">1982年の水害で廃車となった101系の代わりに首都圏から転入した車両には車体色の異なるものがあったが、元[[中央線快速]]用のオレンジの車両は、警戒色と新今宮駅での大阪環状線との誤乗対策を兼ねて「関西線」ステッカーと共に黄色帯が貼り付けられた([[中央・総武緩行線]]や[[南武線]]から転入した黄色の車両は「関西線」ステッカーのみ貼り付けた)。</ref>。1990年度には[[昼間点灯|昼間にも前照灯を点灯]]するようになったためか、黄色帯が撤去された<ref name="JTB_103_170">『103系物語』毛呂信昭、JTBパブリッシング、2012年、p.170。{{ISBN2|9784533086991}}。</ref>。しかし、[[保線]]従事者から車両と山の色が類似して識別が困難との指摘があり、1996年度に白色帯が前面につけられた<ref name="JTB_103_171">『103系物語』毛呂信昭、JTBパブリッシング、2012年、p.171。{{ISBN2|9784533086991}}</ref>。 == 歴史 == {{See|関西本線#歴史}} === 東日本大震災による影響 === 2011年3月11日に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])の影響により[[電動機]]に使用している部品を製作しているメーカーが被災して製造の見通しが立たず、使用できない車両が発生する恐れがあることから、2011年4月11日から日中の快速が大和路線内で運転休止になり、大和路快速が大阪環状線への直通運転を取り止める予定であったが<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/pdf/20110325_keihanshin.pdf 東北地方太平洋沖地震に伴う車両保守部品の不足による運転計画の見直しについて<京阪神地区>]}} - 西日本旅客鉄道近畿統括本部プレスリリース 2011年3月23日</ref>、部品調達の目処が立ったのでこの措置は行われず、4月11日以降も通常のダイヤで運転されることになった<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175270_799.html 車両保守部品の不足に伴う列車運転計画の見直しについて] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111216182135/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175270_799.html |date=2011年12月16日 }} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2011年4月6日</ref>。 == 駅一覧 == {{Main2|廃駅・廃止信号場|関西本線#廃駅}} * {{JR特定都区市内|阪}}:[[特定都区市内]]制度における「大阪市内」エリアの駅 * 停車駅 ** 普通 … すべての旅客駅に停車 ** 快速列車 … ●印の駅は全列車停車、|印の駅は全列車通過 * 木津駅 - 奈良駅間では[[奈良線]]および[[片町線]](学研都市線)から、天王寺駅 - 今宮駅間では[[阪和線]]からの列車の乗り入れがある<ref group="#" name="loop" /> * 加茂駅 - 木津駅間は単線、天王寺駅 - 新今宮駅は複々線、それ以外の区間は複線<ref group="*" name="double-track" /> * [[駅ナンバリング|駅ナンバー]]は2018年3月より導入<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2016/07/page_8973.html 近畿エリアの12路線 のべ300駅に「駅ナンバー」を導入します!]{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }} - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2016年7月20日</ref>。大阪環状線からの通し番号となっている。また、駅ナンバーのうち「JR-Q35」は後述の新駅に割り当てられる予定であるため、導入当初は欠番となる。 {|class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;" |- !rowspan="2" style="width:6em; border-bottom:solid 3px #00B17B;"|駅ナンバー<br /><ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/160720_01_ekinumber.pdf 「駅ナンバー」一覧表]}} - 西日本旅客鉄道、2016年7月20日</ref> !rowspan="2" style="width:8em; border-bottom:solid 3px #00B17B;"|駅名・信号場名 !rowspan="2" style="width:3em; border-bottom:solid 3px #00B17B;"|駅間<br />営業<br />キロ !colspan="3"|累計営業キロ !rowspan="2" style="width:1em; background:#cfc; border-bottom:solid 3px #00B17B;"|{{縦書き|区間快速}} !rowspan="2" style="width:1em; background:#feb; border-bottom:solid 3px #00B17B;"|{{縦書き|快速}} !rowspan="2" style="width:1em; background:#bbf; border-bottom:solid 3px #00B17B;"|{{縦書き|直通快速}} !rowspan="2" style="width:1em; background:#ada; border-bottom:solid 3px #00B17B;"|{{縦書き|大和路快速}} !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #00B17B;"|接続路線・備考 !rowspan="2" colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #00B17B;"|所在地 |- style="border-bottom:solid 3px #00B17B;" !style="width:3em;"|加茂<br/>から !style="width:3em;"|[[亀山駅 (三重県)|亀山]]<br />から !style="width:3.5em;"|[[名古屋駅|名古屋]]<br />から |- !JR-Q39 |[[加茂駅 (京都府)|加茂駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:right;"|61.0 |style="text-align:right;"|120.9 |style="background:#cfc;"|● |style="background:#feb;"|● |&nbsp; |style="background:#ada;"|● |[[西日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JRW kinki-V.svg|17px|V]] [[関西本線]]([[亀山駅 (三重県)|亀山]]方面) |rowspan="2" colspan="3"|[[京都府]]<br />[[木津川市]] |- !JR-Q38 |[[木津駅 (京都府)|木津駅]] |style="text-align:right;"|6.0 |style="text-align:right;"|6.0 |style="text-align:right;"|67.0 |style="text-align:right;"|126.9 |style="background:#cfc;"|● |style="background:#feb;"|● |&nbsp; |style="background:#ada;"|● |西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-D.svg|17px|D]] [[奈良線]]<ref group="*" name="naraLine">奈良線の正式な起終点は関西本線[[木津駅 (京都府)|木津駅]]だが、運転系統上は全列車が奈良駅に乗り入れる</ref> (JR-D19)・[[ファイル:JRW kinki-H.svg|17px|H]] [[片町線]](学研都市線)(JR-H18) |- !JR-Q37 |[[平城山駅]] |style="text-align:right;"|3.2 |style="text-align:right;"|9.2 |style="text-align:right;"|70.2 |style="text-align:right;"|130.1 |style="background:#cfc;"|● |style="background:#feb;"|● |&nbsp; |style="background:#ada;"|● |(奈良線の快速・みやこ路快速は通過) |rowspan="8" style="text-align:center; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[奈良県]]|height=6em}} |rowspan="3" colspan="2"|[[奈良市]] |- ! |[[佐保信号場]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|10.1 |style="text-align:right;"|71.1 |style="text-align:right;"|131.0 |style="background:#cfc;"|| |style="background:#feb;"|| |&nbsp; |style="background:#ada;"|| |&nbsp; |- !JR-Q36 |[[奈良駅]] |style="text-align:right;"|3.8 |style="text-align:right;"|13.0 |style="text-align:right;"|74.0 |style="text-align:right;"|133.9 |style="background:#cfc;"|● |style="background:#feb;"|● |style="background:#bbf;"|● |style="background:#ada;"|● |西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-D.svg|17px|D]] 奈良線<ref group="*" name="naraLine" /> (JR-D21)・[[ファイル:JRW kinki-U.svg|17px|U]] [[桜井線]](万葉まほろば線) |- !JR-Q34 |[[郡山駅 (奈良県)|郡山駅]] |style="text-align:right;"|4.8 |style="text-align:right;"|17.8 |style="text-align:right;"|78.8 |style="text-align:right;"|138.7 |style="background:#cfc;"|● |style="background:#feb;"|● |style="background:#bbf;"|● |style="background:#ada;"|● |&nbsp; |rowspan="2" colspan="2"|[[大和郡山市]] |- !JR-Q33 |[[大和小泉駅]] |style="text-align:right;"|3.8 |style="text-align:right;"|21.6 |style="text-align:right;"|82.6 |style="text-align:right;"|142.5 |style="background:#cfc;"|● |style="background:#feb;"|● |style="background:#bbf;"|● |style="background:#ada;"|● |&nbsp; |- !JR-Q32 |[[法隆寺駅]] |style="text-align:right;"|3.2 |style="text-align:right;"|24.8 |style="text-align:right;"|85.8 |style="text-align:right;"|145.7 |style="background:#cfc;"|● |style="background:#feb;"|● |style="background:#bbf;"|● |style="background:#ada;"|● |&nbsp; |colspan="2"|[[生駒郡]]<br />[[斑鳩町]] |- !JR-Q31 |[[王寺駅]] |style="text-align:right;"|3.6 |style="text-align:right;"|28.4 |style="text-align:right;"|89.4 |style="text-align:right;"|149.3 |style="background:#cfc;"|● |style="background:#feb;"|● |style="background:#bbf;"|● |style="background:#ada;"|● |西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-T.svg|17px|T]] [[和歌山線]]<br />[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|G}} [[近鉄生駒線|生駒線]] (G28)<br />近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|I}} [[近鉄田原本線|田原本線]] …[[新王寺駅]] (I43) |style="white-space:nowrap;" colspan="2"|[[北葛城郡]]<br />[[王寺町]] |- !JR-Q30 |[[三郷駅 (奈良県)|三郷駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|30.2 |style="text-align:right;"|91.2 |style="text-align:right;"|151.1 |style="background:#cfc;"|| |style="background:#feb;"|| |style="background:#bbf;"|| |style="background:#ada;"|| |&nbsp; |colspan="2"|生駒郡<br />[[三郷町]] |- !JR-Q29 |[[河内堅上駅]] |style="text-align:right;"|2.9 |style="text-align:right;"|33.1 |style="text-align:right;"|94.1 |style="text-align:right;"|154.0 |style="background:#cfc;"|| |style="background:#feb;"|| |style="background:#bbf;"|| |style="background:#ada;"|| |&nbsp; |rowspan="13" style="text-align:center; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[大阪府]]|height=6em}} |rowspan="3" colspan="2"|[[柏原市]] |- !JR-Q28 |[[高井田駅 (大阪府柏原市)|高井田駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|35.5 |style="text-align:right;"|96.5 |style="text-align:right;"|156.4 |style="background:#cfc;"|| |style="background:#feb;"|| |style="background:#bbf;"|| |style="background:#ada;"|| |&nbsp; |- !JR-Q27 |[[柏原駅 (大阪府)|柏原駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|37.9 |style="text-align:right;"|98.9 |style="text-align:right;"|158.8 |style="background:#cfc;"|| |style="background:#feb;"|| |style="background:#bbf;"|| |style="background:#ada;"|| |近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|N}} [[近鉄道明寺線|道明寺線]] (N17)<br />近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|D}} [[近鉄大阪線|大阪線]] …[[堅下駅]] (D16) |- !JR-Q26 |[[志紀駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|39.6 |style="text-align:right;"|100.6 |style="text-align:right;"|160.5 |style="background:#cfc;"|| |style="background:#feb;"|| |style="background:#bbf;"|| |style="background:#ada;"|| |&nbsp; |rowspan="3" colspan="2"|[[八尾市]] |- !JR-Q25 |[[八尾駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|42.2 |style="text-align:right;"|103.2 |style="text-align:right;"|163.1 |style="background:#cfc;"|| |style="background:#feb;"|| |style="background:#bbf;"|| |style="background:#ada;"|| |&nbsp; |- !JR-Q24 |[[久宝寺駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|43.4 |style="text-align:right;"|104.4 |style="text-align:right;"|164.3 |style="background:#cfc;"|● |style="background:#feb;"|● |style="background:#bbf;"|● |style="background:#ada;"|● |西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-F.svg|17px|F]] [[おおさか東線]] (JR-F15)(奈良方面から[[大阪駅]]まで直通運転) |- !JR-Q23 |[[加美駅]] {{JR特定都区市内|阪}} |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|45.1 |style="text-align:right;"|106.1 |style="text-align:right;"|166.0 |style="background:#cfc;"|| |style="background:#feb;"|| |rowspan="7" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:top;"|{{縦書き|おおさか東線直通}} |style="background:#ada;"|| |&nbsp; |rowspan="7" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[大阪市]]|height=6em}} |rowspan="2" colspan="2"|[[平野区]] |- !JR-Q22 |[[平野駅 (JR西日本)|平野駅]] {{JR特定都区市内|阪}} |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|46.6 |style="text-align:right;"|107.6 |style="text-align:right;"|167.5 |style="background:#cfc;"|| |style="background:#feb;"|| |style="background:#ada;"|| |<span style="font-size:90%;">西日本旅客鉄道:[[片町線]]貨物支線(城東貨物線 [[放出駅]]方面)</span><br /><span style="font-size:90%;">[[日本貨物鉄道]]:関西本線貨物支線([[百済貨物ターミナル駅]]方面)</span> |- !JR-Q21 |style="white-space:nowrap;"|[[東部市場前駅]] {{JR特定都区市内|阪}} |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|48.1 |style="text-align:right;"|109.1 |style="text-align:right;"|169.0 |style="background:#cfc;"|| |style="background:#feb;"|| |style="background:#ada;"|| |&nbsp; |colspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[東住吉区]] |- !JR-Q20 |[[天王寺駅]] {{JR特定都区市内|阪}} |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|50.5 |style="text-align:right;"|111.5 |style="text-align:right;"|171.4 |style="background:#cfc;"|● |style="background:#feb;"|● |style="background:#ada;"|● |西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-O.svg|17px|O]] [[大阪環状線]] (JR-O01)・[[ファイル:JRW kinki-R.svg|17px|R]] [[阪和線]] (JR-R20)<br />[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|15px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]] (M23)・[[File:Osaka_Metro_Tanimachi_line_symbol.svg|15px|T]] [[Osaka Metro谷町線|谷町線]] (T27)<br />近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|F}} [[近鉄南大阪線|南大阪線]] …[[大阪阿部野橋駅]] (F01)<br />[[阪堺電気軌道]]:[[File:Number prefix Hankai Tramway line.png|15px|HN]]{{Color|orange|■}} [[阪堺電気軌道上町線|上町線]] …[[天王寺駅|天王寺駅前駅]] (HN01) |colspan="2"|[[天王寺区]] |- !JR-Q19 |[[新今宮駅]] {{JR特定都区市内|阪}} |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|51.5 |style="text-align:right;"|112.5 |style="text-align:right;"|172.4 |style="background:#cfc;"|● |style="background:#feb;"|● |style="background:#ada;"|● |西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-O.svg|17px|O]] 大阪環状線<ref group="#" name="loop">当線・阪和線と大阪環状線との相互直通列車は、[[新今宮駅]] - [[今宮駅]]間は大阪環状線の線路を走行する。</ref> (JR-O19)<br />[[南海電気鉄道]]:[[File:Nankai mainline simbole.svg|15px|NK]] [[南海本線]]・[[File:Nankai koya line simbole.svg|15px|NK]] [[南海高野線|高野線]]<ref group="#" name="koya">運転系統上の「高野線」を表す。</ref>(NK03・共通)<br />大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|15px|M]] 御堂筋線・[[File:Osaka_Metro_Sakaisuji_line_symbol.svg|15px|K]] [[Osaka Metro堺筋線|堺筋線]] …[[動物園前駅]] (M22・K19)<br />阪堺電気軌道:[[File:Number prefix Hankai Tramway line.png|15px|HN]]{{Color|green|■}} [[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]] …[[新今宮駅前停留場]] (HN52) |rowspan="3"|[[浪速区]] |- !JR-Q18 |[[今宮駅]] {{JR特定都区市内|阪}} |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|52.7 |style="text-align:right;"|113.7 |style="text-align:right;"|173.6 |style="background:#cfc;"|● |style="background:#feb;"|| |style="background:#ada;"|| |西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-O.svg|17px|O]] 大阪環状線<ref group="#" name="loop" />(大阪駅まで直通運転)(JR-O18) |- !JR-Q17 |[[JR難波駅]] {{JR特定都区市内|阪}} |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|54.0 |style="text-align:right;"|115.0 |style="text-align:right;"|174.9 |style="width:1em; text-align:center; vertical-align:top;"|{{縦書き|大阪環状線直通}} |style="background:#feb;"|● |style="width:1em; text-align:center; vertical-align:top;"|{{縦書き|大阪環状線直通}} |[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|A}} [[近鉄難波線|難波線]] …[[大阪難波駅]] (A01)<br />[[阪神電気鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|15px|HS]] [[阪神なんば線]] …大阪難波駅 (HS 41)<br />南海電気鉄道:[[File:Nankai mainline simbole.svg|15px|NK]] 南海本線・[[File:Nankai koya line simbole.svg|15px|NK]] 高野線<ref group="#" name="koya" /> …[[難波駅 (南海)|難波駅]] (NK01)<br />大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|15px|M]] 御堂筋線・[[File:Osaka_Metro_Yotsubashi_line_symbol.svg|15px|Y]] [[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]]・[[File:Osaka_Metro_Sennichimae_line_symbol.svg|15px|S]] [[Osaka Metro千日前線|千日前線]] …[[難波駅 (Osaka Metro)|難波駅]] (M20・Y15・S16) |} '''脚注''' {{Reflist|group="#"}} * 平城山駅・郡山駅・三郷駅・河内堅上駅・高井田駅・東部市場前駅は[[JR西日本交通サービス]]による[[業務委託駅]]で、あとはすべて[[直営駅]]である。 * 駅はないが、大和小泉駅 - 法隆寺駅間で生駒郡[[安堵町]]を、法隆寺駅 - 王寺駅間で北葛城郡[[河合町]]をそれぞれ通過する。 === 過去の接続路線 === * 法隆寺駅:[[近畿日本鉄道]][[近鉄天理線|法隆寺線]] …近畿日本法隆寺駅 * 八尾駅:関西本線貨物支線([[阪和貨物線]]) * 天王寺駅:[[南海電気鉄道]][[南海天王寺支線|天王寺支線]] == 鉄道高架化と新駅設置計画 == 奈良駅 - 郡山駅間(所在地は奈良市大森町 - 同市八条4丁目間)において鉄道高架化を進め、さらにこの区間内で、[[京奈和自動車道]]の[[奈良インターチェンジ]](仮称)に隣接する南側付近に新駅を設置する計画がある<ref name="鉄道高架化">{{Cite press release|和書|url=http://www.pref.nara.jp/secure/163265/houdousiryou.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181118170058/http://www.pref.nara.jp/secure/163265/houdousiryou.pdf|format=PDF|language=日本語|title=西九条佐保線・西日本旅客鉄道関西線・JR高架側道4号線の事業認可を取得しました。|publisher=奈良県まちづくり推進局地域デザイン推進課街路係|date=2016-07-19|accessdate=2021-01-18|archivedate=2018-11-18}}</ref>。奈良県は、2016年7月19日付で国土交通省から都市計画事業の認可を取得した<ref name="鉄道高架化" />。2021年6月に工事を着手し、2028年度に完了する予定<ref>{{Cite report |和書 |title=第35期 有価証券報告書 |url=https://www.westjr.co.jp/company/ir/library/securities-report/pdf/report35_04.pdf#page=50 |publisher=西日本旅客鉄道 |page=50 |accessdate=2022-06-24}}</ref>。事業認可取得時点では、2024年度までの予定だった<ref name="鉄道高架化" />。駅ナンバー「JR-Q35」は新駅のために欠番となっている。 <!-- 本事業は、限度額立体交差事業で実施するものであって連続立体交差事業で実施するものではない。「http://www.pref.nara.jp/secure/149559/0h2711_10_01.pdf」の4ページ目を参照。 --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="*"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献== * {{cite journal | 和書 | journal = JR時刻表 | volume = 各号 | publisher = 交通新聞社 }} * {{cite book | 和書 | author = 今尾恵介監修 | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 8 関西1 | year = 2008 | isbn = 978-4-10-790026-5 | ref = imao }} * 今尾恵介『新・鉄道廃線跡を歩く 4-近畿路中国編』[[JTBパブリッシング]]、2010年。{{ISBN2|978-4-533-07861-3}}。 == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[なにわ筋線]] * [[大和路]] == 外部リンク == {{Wikinews|JR西日本の電車で、今度は列車無線の配線が切断される - 内部犯行か|date=2010年11月5日}} * [https://www.train-guide.westjr.co.jp/yamatoji.html 大和路線:JR西日本 列車走行位置] * [https://www.pref.mie.lg.jp/KOTSU/HP/kansaihonsen/index.htm 関西本線でGO!] - 関西本線複線電化促進連盟 {{アーバンネットワーク}} {{西日本旅客鉄道近畿エリア}} {{西日本旅客鉄道近畿統括本部}} {{DEFAULTSORT:やまとし}} [[Category:近畿地方の鉄道路線]] [[Category:西日本旅客鉄道の鉄道路線]] [[Category:京都府の交通]] [[Category:奈良県の交通]] [[Category:大阪府の交通]] [[Category:関西本線|*やまとし]] [[Category:鉄道路線の愛称]]
2003-08-07T05:37:35Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E8%B7%AF%E7%B7%9A
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和光市駅
和光市駅(わこうしえき)は、埼玉県和光市本町にある、東武鉄道・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。 東武鉄道の東上本線と、東京メトロの有楽町線・副都心線が乗り入れる。当駅 - 小竹向原駅の区間は、東京メトロ有楽町線と副都心線が線路を共有している。駅番号は、東武東上本線がTJ 11、東京メトロ有楽町線がY 01、副都心線がF 01である。 東武鉄道と東京メトロの共同使用駅で東武鉄道の管轄駅である。東京メトロの駅としては最北端かつ最西端に位置する駅であり、東京の地下鉄全体でも最西端に位置し、唯一埼玉県内に所在する駅である 東武川越駅管区傘下の駅長配置駅(東武川越駅副管区長兼務)。 1914年(大正3年)5月1日に東上鉄道(現・東武東上本線)池袋駅 - 田面沢駅の開業から大幅に遅れて、1934年(昭和9年)2月1日に埼玉県新座郡新倉村ににいくら駅として開業したのが始まりである。開業直後の同年7月12日に新倉駅へ変更した。 開業当時の当駅近隣の集落は白子宿など川越街道沿いに存在しており、駅は畑の中に開設された。そのため、開業当初の一日平均の乗客は約94人で、1938年(昭和13年)には約160人であった。 大日本帝国陸軍が白子村と新倉村の全面積の約20%に相当する土地について1937年(昭和12年)から買収を進め、1941年(昭和16年)11月2日に陸軍予科士官学校が移転し、1940年(昭和15年)に大倉財閥系で機関銃を製造していた「中央工業新倉工場」や「芝浦工作機械」「日興航空工業」など多くの軍需工場も進出し、駅の南側を中心として人口も増加した。1945年(昭和20年)には、一日平均の乗客は開業時の20倍以上に増加した。 第二次世界大戦で敗戦したことにより、1945年(昭和20年)8月に陸軍予科士官学校は解散され、軍需産業は壊滅状態となった。しかし陸軍予科士官学校跡地や中央工業新倉工場跡地などが米軍に接収され、キャンプ・ドレイクとして米軍第一騎兵師団約4,000人が進駐し、1960年(昭和35年)3月には陸上自衛隊朝霞駐屯地が開設されたことから、戦後も軍需都市的な側面が残った。 一方、本田技研工業が1952年(昭和27年)3月に「日興精機工業」の工場を買収して白子工場を開設し、1953年(昭和28年)7月に中央工業新倉工場跡地の一部を買収して大和工場を開設するなど民需工場の進出も相次ぎ、当駅周辺は新たな発展を遂げた。 その後、米軍基地返還跡地に日本住宅公団が1965年(昭和40年)4月「西大和団地」を開設したのを皮切りに、「南大和団地」や「諏訪原団地」が開設された。「米軍新倉倉庫」となっていた中央工業新倉工場跡地の一部が1971年(昭和46年)6月23日に返還され、翌1972年(昭和47年)にその土地を取得した伊藤忠商事が「シーアイハイツ和光」として再開発を行うなど、返還された米軍基地の跡地には多数の団地開発が進められた。 また、1941年(昭和16年)7月20日に開院した白子陸軍病院が1945年(昭和20年)12月1日に厚生省に移管され、一般市民向けの医療施設「国立埼玉病院」として存続し、米軍基地返還跡地の一部に1967年(昭和42年)3月に理化学研究所(理研)が大和研究所を開設するなど、公共系の施設も当駅周辺に立地した。 さらに、松ノ木島地区や丸山台地区などで土地区画整理事業が進められ、新興住宅地としても発展した。 この間、1951年(昭和26年)10月に新倉村の合併による大和町の発足を受けて「大和町駅」(やまとまちえき)に改称された。 こうした利用者の増加に対応して輸送力増強を行うため、1964年(昭和39年)1月には当駅と東京都板橋区志村の間に東武東上支線(1969年に板橋区の住居表示実施により高島平の町名が発足してからは仮称・東武高島平線)を建設する計画が立てられた。この計画には東武東上本線と都営地下鉄6号線(現・三田線)、および東京急行電鉄(現・東急)田園都市線(現・大井町線)・池上線において相互直通運転を行う内容が盛り込まれていた。 しかし、東京都交通局が1968年(昭和43年)12月27日に巣鴨 - 志村(現・高島平)間を開通させた後、東武鉄道は6号線計画について、都心へ向けて大きく迂回するルートであること、および池袋駅を経由しないために、東武百貨店をはじめとした池袋地区の開発に資さず、東上本線にとっての線増効果が見込めないことを理由として、都交通局に相互乗り入れ計画撤回を申し入れた。都交通局側は難色を示したが、1972年(昭和47年)3月1日に都市交通審議会が運輸大臣に提出した都市交通審議会答申第15号において、東京6号線建設予定計画が「高島平 - 戸田市西部 - 浦和市西部...大宮市西部」に変更されたことにより、当駅 - 高島平間4.8kmの東武高島平線計画は正式に撤回された。高島平駅が2面4線のホームとなっているのは、この計画の名残りである。東武鉄道が保有していた同線免許のうち、高島平駅 - 三園町駅間1.5kmについては1973年(昭和48年)4月に都交通局へ譲渡され、都営地下鉄6号線高島平 - 西高島平間として1976年(昭和51年)5月に開通した。 この間、1970年(昭和45年)12月に市制施行・新市名制定を受けて、「和光市駅」に改称された。 一方、1969年(昭和44年)1月に帝都高速度交通営団が営団地下鉄8号線(現・有楽町線)の車庫を「米軍新倉倉庫」跡地の一部に設置し、そのための引込線を東武東上本線に沿って建設する構想で用地の取得を申し入れた。同線の建設計画は、1968年(昭和43年)10月に営団が免許を取得した時点では「明石町(現・新富町駅)- 永田町駅 - 飯田橋駅 - 池袋駅 - 成増駅」とされており、当駅への乗り入れは含まれていなかった。 1970年(昭和45年)4月10日に営団が当時の大和町当局に示した当初の構想では、東上本線に沿う形で高架線を建設し、駅を開設せず旅客扱いを行わないものであった。そのため町当局が反発し、旅客扱いや車庫地下化など7項目の要求を行い、受け入れられない場合には車庫の建設を認めないと表明した。 その後1975年(昭和50年)10月に営団が当駅から渋谷駅までの路線(第13号線)の建設許可を申請し、1976年(昭和51年)8月11日に運輸大臣から営団に事業免許が交付され、1978年(昭和53年)7月11日には第8号線(現・有楽町線)の建設許可も交付された。これを受けて和光市も地下鉄乗り入れに伴う駅周辺の整備事業に乗り出し、渋滞解消のための立体交差や土地区画整理などの調整を始めた。立体交差化について、当初は高さ4.5mの地下道を建設することが構想されたものの、商店街への影響を避けるため、鉄道側を1.85m嵩上げすることで地下道の高さを維持したままで深さを抑制する計画へ変更され、1985年(昭和60年)8月5日に地下市道が開通した。 さらに新線建設や乗り入れに向けた駅の改築工事などを進め、1987年(昭和62年)8月25日に有楽町線が営団成増駅(現・地下鉄成増駅)から当駅まで延伸開業し、相互直通運転が始められた。 その後、2008年(平成20年)6月14日に副都心線が全線開通して、当駅から東武東上本線との相互直通運転が始まり、2013年(平成25年)3月16日に渋谷駅地下ホームが完成したことにより、副都心線を経由して東急東横線との間の相互直通運転も始まった。 南口のみで営業していたが、営団地下鉄の乗り入れに合わせた改良工事で路盤全体を嵩上げして半高架化し、北口の開設や地下市道の建設と合わせた立体交差による踏切の廃止などが行われた。 和光市のウェブサイト「まちの景観変遷」に掲載された画像が示す通り、有楽町線開業以前は島式ホーム1面2線で、現上りホームの位置にホームがあり、駅舎は現在の南口側、現下りホームの場所にあった。改築に伴い、駅本屋および改札口は池袋寄りに移動した。 島式ホーム2面4線を有する高架駅。半高架式。ホーム直下に改札口があり、改札からは階段(スロープあり)を上って駅舎外に出る構造となっている。池袋方階段に上りエスカレーターが設置されている。駅売店は改札外の自動券売機横にある。 有楽町線の延伸開業に併せて大改良を行った際に、いち早く身体障害者対応のエレベーターを設置した。しかし、設置位置の関係から出口は改札外となっていたことから、係員の付き添いがないと利用することができなかったが、改札内にエレベーターの設置工事を施工し、2005年10月から使用を開始した。 当駅 - 志木駅間は、東上本線内で唯一の複々線区間である。朝霞駅側に有楽町線・副都心線列車の引き上げ線が2線あり、線路はその先の和光検車区に続いている。 有楽町線・副都心線には当駅発着列車が設定されているのに対して、東上本線の当駅発着列車は配線の関係上設定されていない。地下鉄線内の当駅発着は平日日中および土日祝日でも1時間に10本あり(うち4本が東上本線直通)、ラッシュ時やダイヤが乱れた場合を中心にB線で当駅から列車が数珠繋ぎになる場合がある。 (出典:東京メトロ:構内図) 3番線(有楽町線・副都心線のりば)では有楽町線開通当初から、それ以外では朝ラッシュ時のみ4番線で発車ベルが使用されていた。 2007年4月5日に東上線ホーム(1・2・4番線)に、東武の汎用発車メロディが導入された。3番線には2012年7月7日のホームドア稼働開始と同時にスイッチ制作の発車メロディ「きらめくホーム」(福嶋尚哉作曲)が導入されたが、同年12月17日に再びベルに戻された。その後、2023年10月24日に東武の汎用発車メロディに変更され、再びすべてのホームでメロディが流れるようになった。 1日平均の乗降人員は以下の通りである。数値は、東武鉄道⇔東京メトロとの直通連絡人員を含んでおり、実際の駅自体の利用者数はこれよりも少ない。 当駅の中心的な出口である南口は、区画整理が完了したことに伴い、南口を中心に多くの商業ビル、銀行などが立地するようになった。 前述のように駅の南側にはかつて軍の施設や軍需工場があったことからまとまった土地があり、その跡地に理化学研究所や本田技術研究所などの国や民間の施設が立地した。そのため南口からは多くの研究所方面行きのバスが発着している。 北口駅前周辺は、道路が狭く住宅が密集しているなど多くの問題を抱えていることから、和光市では2008年度から北口土地区画整理事業を進めている。今後、新たに駅前交通広場を設け商業系・住居系土地利用の増進、道路や公園などの整備を行っていく予定である。 北口と南口に和光市駅停留所があり、以下の路線バスが発着する。一般路線バスは東武バスウエストと西武バス、空港連絡バスは西武バス・東京空港交通・京成バス・東武バスウエストにより運行されている。南口は研究所方面行きのバスが多く発着する。国際興業バスも池袋駅西口発深夜急行バスが南口に乗り入れている。 全て東武バスウエストの運行。 北口にはターンテーブルが設けてある。
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和光市駅(わこうしえき)は、埼玉県和光市本町にある、東武鉄道・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。
{{Redirect|大和町駅|かつて山口県にあった同名の停留場|山陽電気軌道#停留場}} {{駅情報 |社色 = #0f6cc3 |文字色 = |駅名 = 和光市駅 |画像 = Wakoshi station.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 南口(2020年6月) |地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}} |よみがな = わこうし |ローマ字 = Wakoshi |所属事業者 = [[東武鉄道]](東武)<ref name="tobu-railways-history-65-1964-8-1">{{Cite book|和書|title=東武鉄道六十五年史|publisher=東武鉄道|author=東武鉄道年史編纂事務局|date=1964-08-01}}</ref><br /> [[東京地下鉄]](東京メトロ)<ref name="yamate-olive-green-histry-50-2013-11-1">{{Cite book|和書|title=山手線 ウグイス色の電車今昔50年|author=杉崎行恭|publisher=[[JTBパブリッシング]]|date=2013-11-1日|isbn=978-4533094231}}</ref> |所在地 = [[埼玉県]][[和光市]][[本町 (和光市)|本町]]4-6<ref name="tobu-wakoshi-station">{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/info/7304/|title=和光市駅|publisher=東武鉄道|accessdate=2021-8-19}}</ref> |座標 = {{coord|35|47|18.5|N|139|36|45|E|region:JP-11_type:railwaystation|display=inline,title}} |電報略号 = ワコ |乗入路線数 = 3 |所属路線1 = {{color|#004098|■}}[[東武東上本線]] |前の駅1 = TJ 10 [[成増駅|成増]] |駅間A1 = 2.1 |駅間B1 = 1.5 |次の駅1 = [[朝霞駅|朝霞]] TJ 12 |駅番号1 = {{駅番号r|TJ|11|#004098|1}}<ref name="tobu-wakoshi-station"/> |キロ程1 = 12.5 |起点駅1 = [[池袋駅|池袋]] |所属路線2 = {{color|#c1a470|●}}[[東京メトロ有楽町線]]<ref name="metro-wakoshi-station">{{Cite web|和書|url=http://www.tokyometro.jp/station/wakoshi/index.html|title=東京メトロ 和光市駅|publisher=東京地下鉄(東京メトロ)|accessdate=2018-01-25}}</ref>{{Refnest|group="*"|name="chokutsu"|東上本線と[[直通運転|相互直通運転]]を実施。}}{{Refnest|group="*"|name="kyoyo"|和光市 - 小竹向原間は両線の共用区間。}} |前の駅2 = |駅間A2 = |駅間B2 = 2.2 |次の駅2 = [[地下鉄成増駅|地下鉄成増]] Y 02 |駅番号2 = {{駅番号r|Y|01|#c1a470|4}}<ref name="metro-wakoshi-station"/> |キロ程2 = 0.0 |起点駅2 = 和光市 |所属路線3 = {{color|#9c5e31|●}}[[東京メトロ副都心線]]<ref name="metro-wakoshi-station"/><ref group="*" name="chokutsu" /><ref group="*" name="kyoyo" /> |駅間B3 = 2.2 |次の駅3 = 地下鉄成増 F 02 |駅番号3 = {{駅番号r|F|01|#9c5e31|4}}<ref name="metro-wakoshi-station"/> |キロ程3 = 0.0 |起点駅3 = 和光市 |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面4線<ref name="tobu-tobu-wakoshi-station-insidemap-2015-10-2">{{Cite web|和書|url=http://railway.tobu.co.jp/guide/station/insidemap/7304.html |title=和光市駅 構内マップ |publisher=東武鉄道 |accessdate=2015-10-2}}</ref> |開業年月日 = {{Nowrap|[[1934年]]([[昭和]]9年)[[2月1日]]<ref name="tobu-railways-history-65-1964-8-1" />}} |乗降人員 = {{Small|(東武鉄道)-2022年-}}<br />152,949{{Refnest|group="*"|name="renraku"|直通連絡人員含む}}人/日<hr />{{Small|(東京メトロ)-2022年-}}<br /><ref group="メトロ" name="me2022" />156,740<ref group="*" name="renraku" /> |統計年度 = |備考 = [[共同使用駅]](東武鉄道の管轄駅) |備考全幅 = {{Reflist|group=*}} }} '''和光市駅'''(わこうしえき)は、[[埼玉県]][[和光市]][[本町 (和光市)|本町]]にある、[[東武鉄道]]・[[東京地下鉄]](東京メトロ)の[[鉄道駅|駅]]である<ref name="tobu-wakoshi-station"/><ref name="metro-wakoshi-station"/>。 == 概要 == 東武鉄道の[[東武東上本線|東上本線]]と、東京メトロの[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]が乗り入れる<ref name="tobu-wakoshi-station" /><ref name="metro-wakoshi-station" />。当駅 - [[小竹向原駅]]の区間は、東京メトロ有楽町線と副都心線が線路を共有している。[[駅ナンバリング|駅番号]]は、東武東上本線が'''TJ 11'''<ref name="tobu-wakoshi-station" />、東京メトロ有楽町線が'''Y 01'''、副都心線が'''F 01'''である<ref name="metro-wakoshi-station" />。 東武鉄道と東京メトロの[[共同使用駅]]で東武鉄道の管轄駅である。東京メトロの駅としては最北端かつ最西端に位置する駅であり、[[東京の地下鉄]]全体でも最西端に位置し、唯一埼玉県内に所在する駅である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/safety/customer/service/pdf/yurakucho_line_panph_2016.pdf|title=あしたのメトロVol.8 有楽町線|author=東京地下鉄|accessdate=2022-11-24}}</ref><ref group="注釈">和光市駅は東武鉄道の管轄のため、東京メトロが管轄する駅での最西端は隣の[[地下鉄成増駅]]である。</ref><ref group="注釈">東京の地下鉄において、和光市駅以外で都外に自社路線の駅があるのは同じ東京メトロでは[[東京メトロ東西線|東西線]]の[[浦安駅 (千葉県)|浦安駅]] - [[西船橋駅]]間の6駅で、[[都営地下鉄]]では[[都営地下鉄新宿線|新宿線]]の[[本八幡駅]]である。</ref> 東武[[川越駅]]管区傘下の駅長配置駅(東武川越駅副管区長兼務)。 == 歴史 == === 駅開業から終戦まで === [[1914年]]([[大正]]3年)[[5月1日]]に東上鉄道(現・[[東武東上本線]])[[池袋駅]] - [[田面沢駅]]の開業から大幅に遅れて<ref>{{Cite web|和書|url=http://wako-kurashinabi.jp/rekisi.html|title=和光市くらしナビ 歴史|publisher=和光市くらしナビ|accessdate=2018-02-07|deadlinkdate=2022-11-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220315050052/http://wako-kurashinabi.jp/rekisi.html|archivedate=2022-03-15}}</ref>、[[1934年]]([[昭和]]9年)[[2月1日]]に埼玉県[[新座郡]][[新倉村]]に'''にいくら駅'''として開業したのが始まりである<ref name="tobu-railways-history-65-1964-8-1" />。開業直後の同年[[7月12日]]に'''新倉駅'''へ変更した<ref name="tobu-railways-history-65-1964-8-1" />。 開業当時の当駅近隣の[[集落]]は[[白子宿 (川越街道)|白子宿]]など[[川越街道]]沿いに存在しており、駅は[[畑]]の中に開設された<ref name="wako-city-history-2-1988-3">{{Cite book|title=和書和光市史 通史編 下巻 |author=和光市|date=1988-03}}</ref>。そのため、開業当初の一日平均の乗客は約94人で、[[1938年]](昭和13年)には約160人であった<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。 [[大日本帝国陸軍]]が[[白子村]]と新倉村の全面積の約20%に相当する土地について[[1937年]](昭和12年)から買収を進め<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />、[[1941年]](昭和16年)11月2日に[[陸軍予科士官学校]]が移転し<ref name="japan-military-personnel-management-1994">{{Cite book|和書|title=日本軍の人的制度と問題点の研究|publisher=[[国書刊行会]]|author=熊谷光久|date=1994-11-30|isbn=978-4-336-03669-8}}</ref>、[[1940年]](昭和15年)に[[大倉財閥]]系で[[機関銃]]を製造していた「中央工業新倉工場」や「芝浦工作機械」「日興航空工業」など多くの軍需工場も進出し、駅の南側を中心として人口も増加した<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。[[1945年]](昭和20年)には、一日平均の乗客は開業時の20倍以上に増加した<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。 === 戦後の状況 === [[第二次世界大戦]]で敗戦したことにより、1945年(昭和20年)8月に陸軍予科士官学校は解散され、軍需産業は壊滅状態となった<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。しかし陸軍予科士官学校跡地や中央工業新倉工場跡地などが[[米軍]]に接収され、[[キャンプ・ドレイク]]として[[第1騎兵師団_(アメリカ軍)|米軍第一騎兵師団]]約4,000人が進駐し、[[1960年]](昭和35年)3月には[[陸上自衛隊]][[朝霞駐屯地]]が開設されたことから、戦後も軍需都市的な側面が残った<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。 一方、[[本田技研工業]]が[[1952年]](昭和27年)3月に「日興精機工業」の工場を買収して白子工場を開設し、[[1953年]](昭和28年)7月に中央工業新倉工場跡地の一部を買収して大和工場を開設するなど民需工場の進出も相次ぎ、当駅周辺は新たな発展を遂げた<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。 その後、米軍基地返還跡地に[[日本住宅公団]]が[[1965年]](昭和40年)4月「西大和[[団地]]」を開設したのを皮切りに、「南大和団地」や「諏訪原団地」が開設された<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。「米軍新倉倉庫」となっていた中央工業新倉工場跡地の一部が[[1971年]](昭和46年)6月23日に返還され、翌[[1972年]](昭和47年)にその土地を取得した[[伊藤忠商事]]が「シーアイハイツ和光」として[[都市再開発|再開発]]を行うなど、返還された米軍基地の跡地には多数の団地開発が進められた<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。 また、[[1941年]](昭和16年)7月20日に開院した白子陸軍病院が[[1945年]](昭和20年)12月1日に[[厚生省]]に移管され、一般市民向けの[[医療機関|医療施設]]「[[国立病院機構埼玉病院|国立埼玉病院]]」として存続し<ref name="ministry-of-welfare-50-history-1988">{{Cite book|和書|title=厚生省 五十年史 資料編|publisher=厚生問題研究会|author=厚生省五十年史編集委員会|date=1988-05-31|isbn=978-4805804476}}</ref>、米軍基地返還跡地の一部に[[1967年]](昭和42年)3月に[[理化学研究所]](理研)が大和研究所を開設する<ref name="riken-history-30-1988-10">{{Cite book|和書|title=特殊法人理研30年|publisher=理化学研究所|author=理化学研究所30年史編集委員会|date=1988-10-21}}。</ref>など、公共系の施設も当駅周辺に立地した。 さらに、松ノ木島地区や丸山台地区などで[[土地区画整理事業]]が進められ、[[新興住宅地]]としても発展した<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。 この間、[[1951年]](昭和26年)10月に新倉村の[[日本の市町村の廃置分合|合併]]による大和町の発足を受けて「'''大和町駅'''」(やまとまちえき)に改称された。 === 都営地下鉄・東急電鉄との相互乗り入れ計画 === こうした利用者の増加に対応して輸送力増強を行うため、[[1964年]](昭和39年)1月には当駅と[[東京都]][[板橋区]][[志村 (板橋区)|志村]]の間に東武東上支線([[1969年]]に板橋区の住居表示実施により[[高島平]]の町名が発足してからは仮称・東武高島平線)を建設する計画が立てられた<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=東武鉄道百年史|publisher=東武鉄道|author=東武鉄道社史編纂室|pages=934-935|date=1998-09}}</ref>。この計画には東武東上本線と都営地下鉄6号線(現・[[都営地下鉄三田線|三田線]])、および東京急行電鉄(現・[[東急]])田園都市線(現・[[東急大井町線|大井町線]])・[[東急池上線|池上線]]において[[相互直通運転]]を行う内容が盛り込まれていた。 しかし、[[東京都交通局]]が[[1968年]](昭和43年)[[12月27日]]に[[巣鴨駅|巣鴨]] - 志村(現・[[高島平駅|高島平]])間を開通させた後、東武鉄道は6号線計画について、都心へ向けて大きく迂回するルートであること、および[[池袋駅]]を経由しないために、[[東武百貨店]]をはじめとした池袋地区の開発に資さず、東上本線にとっての線増効果が見込めないことを理由として、都交通局に相互乗り入れ計画撤回を申し入れた<ref name=":0" />。都交通局側は難色を示したが、[[1972年]](昭和47年)[[3月1日]]に[[都市交通審議会]]が[[運輸大臣]]に提出した[[都市交通審議会答申第15号]]において、東京6号線建設予定計画が「高島平 - [[戸田市]]西部 - [[浦和市]]西部…[[大宮市]]西部」に変更されたことにより、当駅 - 高島平間4.8kmの東武高島平線計画は正式に撤回された<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />{{Refnest|group="注釈"|name="東急泉岳寺線免許返上"|東京急行電鉄では「泉岳寺線」の名称で新線建設を予定して地方鉄道敷設免許を取得したが、都営地下鉄6号線(現・[[都営地下鉄三田線|三田線]])開業前の[[1968年]](昭和43年)8月に免許を返上している<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。}}。高島平駅が2面4線のホームとなっているのは、この計画の名残りである。東武鉄道が保有していた同線免許のうち、高島平駅 - 三園町駅間1.5kmについては[[1973年]](昭和48年)4月に都交通局へ譲渡され、都営地下鉄6号線高島平 - [[西高島平駅|西高島平]]間として[[1976年]](昭和51年)5月に開通した。 この間、[[1970年]](昭和45年)12月に市制施行・新市名制定を受けて、「'''和光市駅'''」に改称された。 === 営団地下鉄との相互乗り入れ === 一方、[[1969年]](昭和44年)1月に[[帝都高速度交通営団]]が営団地下鉄8号線(現・[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]])の車庫を「米軍新倉倉庫」跡地の一部に設置し、そのための引込線を東武東上本線に沿って建設する構想で用地の取得を申し入れた<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。同線の建設計画は、[[1968年]](昭和43年)10月に営団が免許を取得した時点では「明石町(現・[[新富町駅]])- [[永田町駅]] - [[飯田橋駅]] - [[池袋駅]] - [[成増駅]]」とされており、当駅への乗り入れは含まれていなかった<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。 [[1970年]](昭和45年)[[4月10日]]に営団が当時の大和町当局に示した当初の構想では、東上本線に沿う形で高架線を建設し、駅を開設せず旅客扱いを行わないものであった<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。そのため町当局が反発し、旅客扱いや[[車両基地|車庫]]地下化など7項目の要求を行い、受け入れられない場合には車庫の建設を認めないと表明した<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。 その後[[1975年]](昭和50年)10月に営団が当駅から[[渋谷駅]]までの路線(第13号線)の建設許可を申請し、[[1976年]](昭和51年)[[8月11日]]に運輸大臣から営団に事業免許が交付され、[[1978年]](昭和53年)[[7月11日]]には第8号線(現・[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]])の建設許可も交付された<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。これを受けて和光市も地下鉄乗り入れに伴う駅周辺の整備事業に乗り出し、渋滞解消のための[[立体交差]]や土地区画整理などの調整を始めた<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。立体交差化について、当初は高さ4.5mの地下道を建設することが構想されたものの、[[商店街]]への影響を避けるため、鉄道側を1.85m嵩上げすることで地下道の高さを維持したままで深さを抑制する計画へ変更され、[[1985年]](昭和60年)[[8月5日]]に地下市道が開通した<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。 さらに新線建設や乗り入れに向けた駅の改築工事などを進め、[[1987年]](昭和62年)[[8月25日]]に有楽町線が営団成増駅(現・[[地下鉄成増駅]])から当駅まで延伸開業し、相互直通運転が始められた<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。 その後、[[2008年]](平成20年)[[6月14日]]に[[東京メトロ副都心線|副都心線]]が全線開通して、当駅から東武東上本線との相互直通運転が始まり<ref name="nikkei-np-micro-2008-6">{{Cite book|和書|title=日本経済新聞縮刷版 2008年6月号|publisher=[[日本経済新聞社]]|date=2008-07-25}}</ref>、[[2013年]](平成25年)[[3月16日]]に[[渋谷駅]]地下ホームが完成したことにより、副都心線を経由して[[東急東横線]]との間の相互直通運転も始まった<ref>{{Cite book|和書|title=東急電鉄まるごと探見|publisher=[[JTBパブリッシング]]|author=宮田道一|author2=広岡友紀|date=2014-02|isbn=978-4533096303}}</ref>。 == 年表 == * [[1934年]]([[昭和]]9年) ** [[2月1日]]:'''にいくら駅'''として開業<ref name="tobu-railways-history-65-1964-8-1" />。 ** [[7月12日]]:駅名を'''新倉駅'''に変更<ref name="tobu-railways-history-65-1964-8-1" />。 * [[1951年]](昭和26年)[[10月1日]]:'''大和町駅'''(やまとまちえき)に改称<ref name="tobu-railways-history-65-1964-8-1" />。 * [[1970年]](昭和45年)[[12月20日]]:和光市駅に改称<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />{{Refnest|group="注釈"|name="和光市駅改称"|[[1970年]](昭和45年)[[10月31日]]の市制施行と同時の改称を市側は希望したが、東武鉄道側への駅名変更の依頼が市制施行直前の9月上旬に行われたため、国の認可や切符の手配などの準備の関係で遅れた<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。}}。 * [[1987年]](昭和62年)[[8月25日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)有楽町線当駅 - 営団成増(当時)間開業<ref name="RJ253">{{Cite book|和書|journal=[[鉄道ジャーナル]]|publisher=鉄道ジャーナル社|volume=21|issue=13|page=96|date=1987-11}}</ref>。同時に行われた[[ダイヤ改正]]で有楽町線との相互直通運転を開始すると同時に東上本線の[[東武東上本線#急行|急行]]停車駅となる<ref name="RJ253"/>。 * [[2004年]]([[平成]]16年)[[4月1日]]:営団地下鉄の民営化に伴い、地下鉄の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-12-28|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[3月17日]]:ダイヤ改正に伴い、[[東武東上本線#特急|特急]]停車駅となる<ref name="pr20041207">{{Cite press release|和書|url=http://www.tobu.co.jp/news/2004/12/041207.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050401180537/http://www.tobu.co.jp/news/2004/12/041207.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成17年3月17日(木)東上線ダイヤ改正 複線化の延伸で小川町駅発着の列車を大増発 平日31本・土休日15本 特急列車がスピードアップし最大6分短縮します|publisher=東武鉄道|date=2004-12-07|accessdate=2020-12-28|archivedate=2005-04-01}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|ただし、この改正で特急の運転が土曜・休日ダイヤのみとされたため、初めて特急が停車したのは同年[[3月19日]]からである。}}。これにより、東上本線の全種別が当駅に停車することになる。 * [[2007年]](平成19年)[[4月5日]]:東上線ホームで発車メロディの使用を開始。 * [[2008年]](平成20年)[[6月14日]]:東京メトロ副都心線開業。同時に行われたダイヤ改正で東上本線との相互直通運転を開始<ref name="pr20080131">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-04.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120516005037/http://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-04.html|language=日本語|title=首都圏の地下鉄ネットワークがますます便利に! 東京メトロ副都心線(和光市~渋谷間)平成20年6月14日(土)開業(予定)ホームドア・エスカレーター・エレベーターなどの施設も充実|publisher=東京地下鉄|date=2008-01-31|accessdate=2020-12-28|archivedate=2012-05-16}}</ref><ref name="pr20080514">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-25.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200217162413/https://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-25.html|language=日本語|title=平成20年6月14日(土)副都心線開業! 東武東上線、西武有楽町線・池袋線との相互直通運転を開始|publisher=東京地下鉄|date=2008-05-14|accessdate=2020-12-28|archivedate=2020-02-17}}</ref>。 ** 東上本線:特急は廃止となり、新設の[[東武東上本線#快速急行|快速急行]]の停車駅となる{{Refnest|group="注釈"|ただし、最後に特急が運転されたのは同年6月8日である。}}。なお、この改正により新設された「[[TJライナー]]」は当駅を通過するため、全種別停車駅ではなくなる。 ** 東京メトロ:当駅発着列車初の優等種別として、有楽町線に[[東京メトロ有楽町線#準急|準急]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]に[[東京メトロ副都心線#急行(Fライナー含む)|急行]]および[[東京メトロ副都心線#通勤急行|通勤急行]]が設定される。 * [[2010年]](平成22年)[[3月6日]]:東京メトロのダイヤ改正により、有楽町線準急が廃止<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2010/2010-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190616140819/https://www.tokyometro.jp/news/2010/2010-06.html|language=日本語|title= 準急を各駅停車に、休日の急行が明治神宮前に停車! 3月6日(土)有楽町線・副都心線のダイヤ改正 ー明治神宮前駅に「原宿」をあわせてご案内開始しますー|publisher=東京地下鉄|date=2010-02-03|accessdate=2020-12-28|archivedate=2019-06-16}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年)[[7月7日]]:2・3番線(有楽町線・副都心線)で[[ホームドア]]の使用を開始<ref name="homedoor">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20120327_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201125061318/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20120327_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ホームドア設置計画進行中 有楽町線:和光市駅に設置! 設置駅数は全179駅中78駅に(設置率約 44%に)|publisher=東京地下鉄|date=2012-03-27|accessdate=2020-12-28|archivedate=2020-11-25}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年)[[3月16日]]:東武のダイヤ改正により快速が新設、停車駅となる。 * [[2016年]](平成28年)[[3月26日]]:1・4番線でホームドアの使用を開始<ref name="tojo-homedoor">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/d872825195a2fc186bd0c668db4d239d/160204.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201227181153/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/d872825195a2fc186bd0c668db4d239d/160204.pdf|format=PDF|language=日本語|title=3月26日(土)より 東上線 和光市駅ホームにて可動式ホーム柵の使用を開始します!|publisher=東武鉄道|date=2016-02-04|accessdate=2020-12-28|archivedate=2020-12-27}}</ref>。同日のダイヤ改正より副都心線⇔東上本線直通列車において東上本線内急行となる列車が設定され、地下鉄線内急行・[[東急東横線|東横線]]内特急となる列車に「[[Fライナー]]」の愛称が設定される<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/00bc01557635f8787697d58846b1ca4e/160209_2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190110184233/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/00bc01557635f8787697d58846b1ca4e/160209_2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=上り(池袋行き)TJライナー運転開始や下り(小川町方面)TJライナー増発でますます快適に! 3月26日(土)東武東上線でダイヤ改正を実施! 〜東京メトロ副都心線直通列車の東上線内急行運転を開始! 森林公園行き最終列車の繰り下げ・川越市発初列車の繰り上げも行います〜|publisher=東武鉄道|date=2016-02-09|accessdate=2020-12-28|archivedate=2019-01-10}}</ref>。 * [[2019年]]([[令和]]元年)[[12月12日]]:[[駅ビル|駅ナカ商業施設]]「EQUiA PREMIE(エキア プレミエ)和光」の改札内エリアが開業<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/bb81ab3dfe713aa76592aefe1b6e4632_191112_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201208124046/https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/bb81ab3dfe713aa76592aefe1b6e4632_191112_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=駅ナカと駅ビルの複合商業施設が和光市駅に誕生! 和光市駅直結の商業施設名称を「EQUiA PREMIE 和光」に決定! 〜12月12日(木)駅ナカエリア先行オープン!〜|publisher=東武鉄道|date=2019-11-12|accessdate=2020-12-28|archivedate=2020-12-08}}</ref>。 * [[2020年]](令和2年)[[3月26日]]:駅ナカ商業施設「EQUiA PREMIE(エキア プレミエ)和光」の駅ビルエリアが開業<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/61fb9695619de8c7ee6e7fce3f20f4c5_200226_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201227181428/https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/61fb9695619de8c7ee6e7fce3f20f4c5_200226_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=和光市駅ビル商業施設が完成。駅ビルエリアに新たに19店舗が誕生! 3月26日(木)「EQUiA PREMIE 和光」グランドオープン! 〜「和光市東武ホテル」は6月11日(木)オープン!〜|publisher=東武鉄道|date=2020-02-26|accessdate=2020-12-28|archivedate=2020-12-27}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年)[[3月18日]] ** 東上本線:ダイヤ改正により、快速が廃止。 ** 東京メトロ:ダイヤ改正により、「Fライナー」の対象が東上本線内快速急行に変更される。 <gallery> Niikura Station 1942.jpg|新倉駅時代の駅舎(1942年) Wakoshi sta north.jpg|副都心線開業前の北口(2004年11月) Wakoshi-st-Platform2008.jpg|ホームドアが設置される前の地下鉄線ホーム(2008年7月) Wakoshi Station ticket barriers 20121010.JPG|リニューアル前の改札口(2012年10月) </gallery> == 駅構造 == [[画像:Wakoshi.Sta.track.jpg|thumb|480px|none|和光市駅 配線略図]] 南口のみで営業していたが、営団地下鉄の乗り入れに合わせた改良工事で路盤全体を嵩上げして半高架化し、北口の開設や地下市道の建設と合わせた立体交差による[[踏切]]の廃止などが行われた<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。 和光市のウェブサイト「まちの景観変遷」に掲載された画像が示す通り、有楽町線開業以前は島式ホーム1面2線で、現上りホームの位置にホームがあり、駅舎は現在の南口側、現下りホームの場所にあった。改築に伴い、駅本屋および改札口は池袋寄りに移動した。 [[島式ホーム]]2面4線を有する[[高架駅]]<ref name="tobu-tobu-wakoshi-station-insidemap-2015-10-2" />。半高架式。ホーム直下に[[改札|改札口]]があり、改札からは階段([[斜路|スロープ]]あり)を上って駅舎外に出る構造となっている。池袋方階段に上り[[エスカレーター]]が設置されている<ref name="tobu-tobu-wakoshi-station-insidemap-2015-10-2" />。駅[[売店]]は改札外の[[自動券売機]]横にある<ref name="tobu-tobu-wakoshi-station-insidemap-2015-10-2" />。 有楽町線の延伸開業に併せて大改良を行った際に、いち早く[[身体障害者]]対応の[[エレベーター]]を設置した。しかし、設置位置の関係から出口は改札外となっていたことから、係員の付き添いがないと利用することができなかったが、改札内にエレベーターの設置工事を施工し、2005年10月から使用を開始した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/kankyo/data/2006/TOBU_05.pdf|title=東武鉄道社会環境報告書2006|publisher=東武鉄道|deadlinkdate=2022-11-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190228004040/http://www.tobu.co.jp/kankyo/data/2006/TOBU_05.pdf|archivedate=2022-04-07}}</ref>。 当駅 - [[志木駅]]間は、東上本線内で唯一の[[複々線]]区間である。朝霞駅側に有楽町線・副都心線列車の[[引き上げ線]]が2線あり、線路はその先の[[和光検車区]]に続いている。 有楽町線・副都心線には当駅発着列車が設定されているのに対して、東上本線の当駅発着列車は配線の関係上設定されていない。地下鉄線内の当駅発着は平日日中および土日祝日でも1時間に10本あり(うち4本が東上本線直通)、ラッシュ時やダイヤが乱れた場合を中心にB線で当駅から列車が数珠繋ぎになる場合がある。 <gallery> File:Wakoshi South.jpg|駅全景(2020年2月) File:Wakoshi Station North 20121010.JPG|北口(2012年10月) File:Wakoshi Station ticket barriers 20201031.jpg|改札口(2020年10月) File:Wakoshi Station platform 3-4 20121010.JPG|ホーム(2012年10月) </gallery> === のりば === {|class="wikitable" !番線!!事業者!!路線!!方向!!行先!!備考 |- !1 |rowspan="2"|東武鉄道 |rowspan="2"|[[ファイル:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|15px|TJ]] 東上線 |rowspan="2" style="text-align:center"|下り |rowspan="2"|[[川越駅|川越]]方面<ref name="tobu-map">{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/insidemap/7304/ |title=和光市駅 構内マップ |publisher=東武鉄道 |accessdate=2023-06-04}}</ref> |東上本線池袋方面からの列車 |- !2 |有楽町線・副都心線方面からの列車 |- !rowspan="2"|3 |rowspan="2"|東京メトロ |[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|15px|Y]] 有楽町線 |rowspan="2" style="text-align:center"| - |[[新木場駅|新木場]]方面<ref name="metro-timetable">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/wakoshi/timetable/yurakucho/a/index.html |title=和光市駅時刻表 新木場・渋谷・横浜・元町中華街方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> | |- |[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|15px|F]] 副都心線 |[[渋谷駅|渋谷]]・[[横浜駅|横浜]]・[[元町・中華街駅|元町・中華街]]方面<ref name="metro-timetable" /> | |- !4 |東武鉄道 |[[ファイル:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|15px|TJ]] 東上線 |style="text-align:center"|上り |[[池袋駅|池袋]]方面<ref name="tobu-map" /> | |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/wakoshi/index.html 東京メトロ:構内図]) ==== 備考 ==== * 上下ともに東上本線と有楽町線・副都心線は同一ホームで乗り換えが可能である。 * 8両編成は、ホームの地下鉄成増寄り2両分には停車しない。 * 2023年3月18日ダイヤ改正以降、当駅を境に東上本線内は普通・快速急行で、副都心線内は急行もしくは各駅停車・通勤急行として運転される列車は必ず当駅で種別を変更する。 ==== 構内放送 ==== 3番線(有楽町線・副都心線のりば)では有楽町線開通当初から、それ以外では朝[[ラッシュ時]]のみ4番線で[[発車ベル]]が使用されていた。 2007年4月5日に東上線ホーム(1・2・4番線)に、東武の汎用[[発車メロディ]]が導入された<ref group="注釈">曲は番線ごとに異なる。</ref>。3番線には2012年7月7日のホームドア稼働開始と同時に[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の発車メロディ「きらめくホーム」([[福嶋尚哉]]作曲)が導入されたが、同年12月17日に再びベルに戻された<ref group="注釈">「きらめくホーム」はその後、2013年10月26日から有楽町線[[豊洲駅]]4番線(2020年9月2日をもって使用終了)、2015年5月30日からは副都心線[[東新宿駅]]1番線で発車メロディとして使用されている。</ref>。その後、2023年10月24日に東武の汎用発車メロディに変更され、再びすべてのホームでメロディが流れるようになった。 === 駅構内設備 === ;改札階 * 売店 * 地下[[駐輪場]] == 利用状況 == 1日平均の[[乗降人員]]は以下の通りである。数値は、東武鉄道⇔東京メトロとの直通連絡人員を含んでおり、実際の駅自体の利用者数はこれよりも少ない。 * '''東武鉄道''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員]]は'''152,949人'''である<ref>[http://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/ 駅情報(乗降人員)] 東武鉄道 2021年8月19日閲覧。</ref>。 ** 東武鉄道の駅の中では池袋駅、[[北千住駅]]に次いで第3位。 * '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均乗降人員は'''156,740人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 {|class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗降人員<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.train-media.net/report.html|title=レポート|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2022-11-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.wako.lg.jp/home/shisei/toukei/you_2_13.html|title=統計わこう|publisher=和光市|accessdate=2022-11-24}}</ref> !rowspan="2"|年度 !colspan="2"|東武鉄道 !colspan="2"|営団 / 東京メトロ |- !1日平均<br />乗降人員!!増加率 !1日平均<br />乗降人員!!増加率 |- |1978年(昭和53年) |{{要出典範囲|date=2016年1月|25,694}}|| | || |- |1994年(平成{{0}}6年) |{{要出典範囲|date=2016年1月|92,425}}|| | || |- |1998年(平成10年) |111,467|| |95,065|| |- |1999年(平成11年) |112,798||1.2% |96,850||1.9% |- |2000年(平成12年) |115,002||2.0% |98,979||2.2% |- |2001年(平成13年) |<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/rail/rail_2_2.html|title=鉄道事業の概要 2.駅一覧|publisher=東武鉄道|accessdate=2016-01-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030820164913/http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html|archivedate=2003-8-20|deadlinkdate=2017-9}}</ref>118,358||2.9% |102,465||3.5% |- |2002年(平成14年) |<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/rail/rail_2_2.html|title=鉄道事業の概要 2.駅一覧|publisher=東武鉄道|accessdate=2016-01-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040312094245/http://www.tobu.co.jp/rail/frail_2_2.html|archivedate=2004-3-12|deadlinkdate=2017-9}}</ref>118,032||&minus;0.3% |103,105||0.6% |- |2003年(平成15年) |118,369||0.3% |103,919||0.8% |- |2004年(平成16年) |120,244||1.5% |103,681||&minus;0.2% |- |2005年(平成17年) |120,982||0.6% |104,180||0.5% |- |2006年(平成18年) |123,661||2.2% |106,699||2.4% |- |2007年(平成19年) |128,306||3.8% |113,140||6.0% |- |2008年(平成20年) |144,889||12.9% |137,047||21.1% |- |2009年(平成21年) |153,847||6.2% |152,130||11.0% |- |2010年(平成22年) |157,212||2.2% |156,404||2.8% |- |2011年(平成23年) |151,804||&minus;3.3% |152,925||&minus;2.2% |- |2012年(平成24年) |156,394||3.0% |159,257||4.1% |- |2013年(平成25年) |164,415||5.1% |169,056||6.2% |- |2014年(平成26年) |164,062||&minus;0.2% |170,122||0.6% |- |2015年(平成27年) |167,949||2.3% |176,216||3.6% |- |2016年(平成28年) |172,236||2.5% |181,289||2.9% |- |2017年(平成29年) |176,577||2.5% |185,865||2.5% |- |2018年(平成30年) |179,724||1.8% |190,268||2.4% |- |2019年(令和元年) |180,819||0.6% |192,132||1.0% |- |2020年(令和{{0}}2年) |129,324||&minus;28.5% |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>136,092||&minus;29.2% |- |2021年(令和{{0}}3年) |138,207 |6.9% |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>140,895||3.5% |- |2022年(令和{{0}}4年) | 152,949||10.7% |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>156,740||11.2% |} == 駅周辺 == [[File:TobuTojo TokyoMetro Wakoushi Station 1974.jpg|thumb|240px|和光市駅付近空中写真<br />(1974年 国土画像情報[[オルソ補正|オルソ化]]空中写真([[国土交通省]])より)<br />当時は平屋駅舎の島式ホーム1面2線]] === 南口 === 当駅の中心的な出口である南口は、[[土地区画整理事業|区画整理]]が完了したことに伴い、南口を中心に多くの商業ビル、[[銀行]]などが立地するようになった。 前述のように駅の南側にはかつて軍の施設や軍需工場があったことからまとまった土地があり、その跡地に[[理化学研究所]]や[[本田技術研究所]]などの国や民間の施設が立地した。そのため南口からは多くの研究所方面行きのバスが発着している。 ==== 官公庁・公共施設 ==== * 和光市役所<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.wako.lg.jp/home/shisei/annai/you_2_9.html |title=和光市/市役所案内 |publisher=和光市役所 |accessdate=2018-01-25}}</ref> * 和光市役所和光市駅出張所・和光市本町地域センター * [[和光市民文化センター]](サンアゼリア) * 和光市総合体育館 * [[和光市図書館]] - [[1983年]](昭和58年)8月2日に「シーアイハイツショッピングセンター」の3階に開館<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。 * 和光市保健センター * [[朝霞地区一部事務組合#消防署|朝霞地区一部事務組合和光消防署]] * [[和光樹林公園]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.seibu-la.co.jp/wako-jurin/access/|title=和光樹林公園 アクセス|publisher=和光樹林公園|accessdate=2018-01-25}}</ref> * [[国立病院機構埼玉病院]] - [[1941年]](昭和16年)7月20日に白子陸軍病院として開院。[[1945年]](昭和20年)12月1日に[[厚生省]]に移管され、一般市民向けの医療施設に転換した<ref name="ministry-of-welfare-50-history-1988" />。 * 東武中央病院 ==== 商業施設 ==== <!--チェーン店を含む飲食店・コンビニ・個人商店およびアミューズメント施設の類は記載しない--> * エキアプレミエ和光 (駅ビルエリア) ** 和光市[[東武ホテルグループ|東武ホテル]] * 和光ショッピングプラザ ** [[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]]和光店 ***[[餃子の王将]] * シーアイハイツショッピングセンター * [[ベルク (企業)|ベルク]] 和光西大和店 * [[東横イン]]和光市駅前 * [[スーパーホテル]]さいたま・和光市駅前 * [[明治スポーツプラザ|ザバススポーツクラブ]]和光 * [[島忠ホームズ]] 和光店 * [[ヤオコー]] 和光丸山台店 ==== 郵便局・金融機関 ==== <!--ATMのみ設置の無人店舗は記載しない--> * [[埼玉りそな銀行]]和光支店 * [[東日本銀行]]和光支店 * [[武蔵野銀行]]和光支店 * [[川口信用金庫]]和光支店 * [[あさか野農業協同組合|JAあさか野]]和光支店 * [[和光郵便局]] ==== 研究機関・学校 ==== * [[理化学研究所]]和光本所 * [[国立保健医療科学院]] * [[裁判所職員総合研修所]] * [[司法研修所]] * [[税務大学校]] * [[埼玉県立和光高等学校]] * [[埼玉県立和光国際高等学校]] * [[和光市立大和中学校]] * [[和光市立第三小学校]] * 和光市立第三中学校 ==== 団地 ==== * シーアイハイツ和光 * 西大和団地 * 諏訪原団地 ==== 軍事施設 ==== * [[陸上自衛隊]][[朝霞駐屯地]] - 当駅・朝霞駅双方から等距離に位置する。かつては自衛隊幹部の送迎車が駅前に集まっていた。 * 自衛隊和光官舎 ===== 過去にあった軍事施設 ===== * [[陸軍予科士官学校]] - [[1941年]](昭和16年)11月2日に当地へ移転し、1945年(昭和20年)8月に解散<ref name="japan-military-personnel-management-1994" />。 * 白子陸軍病院 * [[キャンプ・ドレイク]] - 「陸軍予科士官学校」跡地や「中央工業新倉工場」跡地などに米軍第一騎兵師団約4,000人が進駐して開設された在日アメリカ軍基地<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。 * 中央工業新倉工場 - [[1940年]](昭和15年)に当地へ進出した大倉財閥系の軍需工場で機関銃を製造していた<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。 * 芝浦工作機械 - 1940年(昭和15年)前後に当地へ進出した軍需工場<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。 * 日興航空工業 - 1940年(昭和15年)前後に当地へ進出した軍需工場<ref name="wako-city-history-2-1988-3" />。 ==== その他 ==== * [[本田技研工業]]和光本社・[[本田技術研究所]]和光研究所 * 東京地下鉄[[和光検車区]] * [[東京外環自動車道]][[和光インターチェンジ|和光IC]] * [[ニホニウム通り]] === 北口 === 北口駅前周辺は、道路が狭く住宅が密集しているなど多くの問題を抱えていることから、和光市では2008年度から北口土地区画整理事業を進めている。今後、新たに[[広場#交通広場と駅前広場|駅前交通広場]]を設け商業系・住居系土地利用の増進、道路や公園などの整備を行っていく予定である<ref>[http://www.city.wako.lg.jp/home/busho/_6089/_6090/_6091/_6092.html 和光市駅北口土地区画整理事業] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110809051519/http://www.city.wako.lg.jp/home/busho/_6089/_6090/_6091/_6092.html|date=2011-08-09}} 和光市役所</ref>。 * [[武蔵野銀行]]和光支店 * [[いなげや]]和光新倉店 * ベルク和光白子店 * 和光バーディゴルフ * 新倉ふるさと民家園 == バス路線 == 北口と南口に'''和光市駅'''停留所があり、以下の[[路線バス]]が発着する。一般路線バスは[[東武バス#東武バスウエスト|東武バスウエスト]]と[[西武バス]]、[[リムジンバス|空港連絡バス]]は西武バス・[[東京空港交通]]・[[京成バス]]・東武バスウエストにより運行されている。南口は研究所方面行きのバスが多く発着する。[[国際興業バス]]も池袋駅西口発深夜急行バスが南口に乗り入れている。 === 南口発着 === {|class="wikitable" !のりば!!系統!!主要経由地!!行先!!運行会社!!備考 |- ! rowspan="6" |1 | rowspan="2" |[[東武バスウエスト新座営業事務所#成増・和光市エリア|和01]]||西大和団地||[[司法研修所]]循環||rowspan="5"|東武バスウエスト|| |- |西大和団地・司法研修所入口||二軒新田||入庫線 |- |rowspan="2"|和04||和光市役所先回り||rowspan="2"|和光市役所循環||平日朝3本のみ |- |西大和団地先回り||平日昼1本のみ |- |[[東武バスウエスト新座営業事務所#深夜急行バス|ミッドナイトアロー川越]]||志木駅南口||[[本川越駅]]||rowspan="2"|深夜急行バス、降車扱いのみ |- |[[国際興業バス#深夜急行路線|ミッドナイトアロー光が丘・和光市]]||||和光市駅南口||国際興業バス |- ! rowspan="6" |2 | rowspan="2" |北コース||赤池・福祉の里||野川公園入口循環||rowspan="6"|[[和光市内循環バス]]||rowspan="6"|東武バスウエストに運行委託 |- |図書館前||和光市役所 |- |rowspan="2"|中央コース||白子コミセン・白子3丁目東||大和中学校循環 |- |本町小学校||和光市役所 |- |rowspan="2"|南コース||二軒新田・[[国立病院機構埼玉病院|埼玉病院]]||白子向山循環 |- |図書館前||和光市役所 |- ! rowspan="6" |3 | rowspan="2" |和06||西大和団地・埼玉病院|| rowspan="2" |[[成増駅]]南口||rowspan="6"|東武バスウエスト||日中のみ。土曜・休日の本数僅少 |- | rowspan="3" |西大和団地||夜1本のみ |- |和08||裁判所職員総合研修所||平日朝夕のみ |- |和09||埼玉病院||平日朝1本のみ |- |和12||[[埼玉県立和光高等学校|和光高校]]循環||和光市駅北口||平日昼2本のみ |- |和13||||[[朝霞駐屯地|自衛隊朝霞門]]||平日朝夕のみ |- ! rowspan="3" |4 |[[西武バス上石神井営業所#大泉和光線|泉39]]||丸山台・司法研修所|| rowspan="2" |[[大泉学園駅]]北口||rowspan="3"|西武バス||14時台以前 |- |泉39-1||和光市駅入口・司法研修所||15時台以降 |- |和40||丸山台・司法研修所||長久保||平日朝3本のみ |- ! rowspan="2" |[[明治スポーツプラザ|ザバススポーツクラブ]]前 | rowspan="2" |空港リムジンバス|| ||[[東京国際空港|羽田空港]]||東京空港交通<br />[[西武バス練馬営業所#空港連絡路線|西武バス]]||羽田空港発([[石神井公園駅]]行)は降車のみ |- | ||[[成田国際空港|成田空港]]||京成バス<br />西武バス||成田空港発([[所沢駅]]東口行)は降車のみ |- |} === 北口発着 === [[ファイル:Tobu Bus West 9987.jpg|right|thumb|200px|北口発着のバスは折返しにターンテーブルを使用する。<br />画像は和光市内循環バス(2013年4月の経路変更により北口への乗り入れは終了)。]] 全て東武バスウエストの運行。 * 和03:和光高校循環和光市駅北口行き * 増09:吹上観音下経由成増駅北口行き * 和02:和光高校循環和光市駅南口行き * 和14:SGリアルティ和光(直行) 北口には[[転車台#自動車用|ターンテーブル]]が設けてある。 == 付記 == * 東上本線に乗り入れない[[西武鉄道]]の車両([[西武6000系電車|6000系]]・[[西武40000系電車|40000系]])及び2023年3月18日ダイヤ改正以降に[[東急新横浜線]]・[[相鉄新横浜線]]との相互直通運転開始に合わせて乗り入れた[[相鉄20000系電車|相鉄20000系]]も東京メトロ線の当駅までは入線可能であるため、当駅で折り返す運用が設定されている。 * 2016年3月26日のダイヤ改正までは、有楽町線・副都心線 - 東上本線の直通列車については有楽町線内では「各停」{{Refnest|group="注釈"|かつて存在した有楽町線の「準急」も東上本線内では「普通」として運行されており当駅で種別が変更されていた。}}、副都心線内では「各停」「急行」「通勤急行」のいずれかになるのに対し、東上本線内では「普通」となっていたため、全列車が当駅で種別変更されていた。 * 東武東上本線の都内区間([[成増駅|成増]] - 池袋間)で何らかの運行トラブルが発生した場合、地下鉄直通列車のみ(当駅 - [[川越市駅]]間)を先に運転再開することがある。ただし、2010年3月改正から2011年3月5日改正の間までは、日中時間帯に川越市まで乗り入れる地下鉄線直通列車の運転間隔が大きく開く場合があった。 * 東京メトロでは有楽町線全駅へ[[ホームドア]]の設置を進めており、当駅への設置について東武鉄道と調整中としていた<ref>{{PDFlink|[http://www.tokyometro.jp/news/2011/pdf/metroNews20111124_02.pdf 東京地下鉄ニュースリリース 2011年11月24日公開 2018年1月25日閲覧 ホームドア設置計画進行中]}}</ref>。その後、2番線ホームには2012年4月14日に、3番線ホームには同年4月21日にそれぞれ設置され、同年7月7日に稼働を開始した<ref name="homedoor" />。その後、4番線ホームには2016年2月14日に、1番線ホームにも同年2月21日に設置され、同年3月26日に稼働を開始した<ref name="tojo-homedoor" />。 * 東武東上本線内の駅(朝霞 - [[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園]]間)では、副都心線経由で[[渋谷駅|渋谷]]より先の[[東急東横線]]の連絡乗車券は発売していないが、東京メトロ副都心線各駅([[東急電鉄]]管轄の渋谷駅を除く)では東急東横線[[横浜駅]]まで発売しているため、当駅は東武鉄道管轄であるものの、東京メトロの駅としても扱われているため、東武東上線内で唯一東急東横線各駅までの乗車券を発売している。なお、横浜から先の[[横浜高速鉄道]][[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]各駅までは東武鉄道も東京メトロも連絡乗車券は発売していない{{Refnest|group="注釈"|name="連絡乗車券"|[[東武伊勢崎線|東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)]]と[[東京メトロ日比谷線]](2013年3月15日までは東急東横線と相互乗り入れしていた)、両者の境界駅[[北千住駅]]との関係でも同様にある。}}。 * 2016年に理化学研究所和光本所が新[[元素]]「[[ニホニウム]]」を発見・命名したことに記念して、当駅から理化学研究所和光本所までの間に[[ニホニウム通り]]が整備された。 == 隣の駅 == ; 東武鉄道 <!--種別色は公式サイトに準拠--> : [[ファイル:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|15px|TJ]] 東上本線 :: {{Color|#ff6600|■}}TJライナー・{{Color|#990066|■}}川越特急 :::; 通過 :: {{Color|#006699|■}}快速急行(一部は副都心線直通) ::: [[池袋駅]] (TJ 01) - '''和光市駅 (TJ 11)''' - [[朝霞台駅]] (TJ 13) :: {{Color|#ff3333|■}}急行(急行の一部は副都心線直通)・{{Color|#009966|■}}準急・{{Color|black|□}}普通(一部は有楽町線・副都心線直通) ::: [[成増駅]] (TJ 10) - '''和光市駅 (TJ 11)''' - [[朝霞駅]] (TJ 12) ; 東京地下鉄 <!--種別色は東急車・西武車のフルカラーLEDに準拠--> : [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|15px|Y]] 有楽町線 :: {{Color|#999|■}}各駅停車 ::: (東上本線)- '''和光市駅 (Y 01)''' - [[地下鉄成増駅]] (Y 02) : [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|15px|F]] 副都心線 :: {{Color|#f60|■}}急行 ::: (東上本線)- '''和光市駅 (F 01)''' - [[小竹向原駅]] (F 06) :: {{Color|#fc0|■}}通勤急行・{{Color|#999|■}}各駅停車 ::: (東上本線)- '''和光市駅 (F 01)''' - 地下鉄成増駅 (F 02) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|22em}} <!-- ; 埼玉県統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} --> == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] *[[和光市]] == 外部リンク == * [https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/info/7304/ 東武鉄道 和光市駅] * [https://www.tokyometro.jp/station/wakoshi/index.html 和光市駅/Y01/F01 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] {{東武東上線}} {{東京メトロ有楽町線}} {{東京メトロ副都心線}} {{デフォルトソート:わこうし}} [[Category:埼玉県の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 わ|こうし]] [[Category:東武鉄道の鉄道駅]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅]] [[Category:1934年開業の鉄道駅]] [[Category:和光市の交通]] [[Category:和光市の建築物]]
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仏典
仏典(ぶってん)とは、仏教典籍の略称で、仏教の聖典の総称である。「律蔵」「経蔵」「論蔵」という分類形態から三蔵とも呼ばれる。言語的には、パーリ語・サンスクリット語などのインドのものを初めとして、漢語、チベット語、モンゴル語、満州語のものがあり、西夏語のものも一部現存する。漢語やパーリ語から日本語に訳したものもこれに準じる。 大きく原始仏典と大乗仏典に分かれる。原始仏典にはパーリ五部および漢訳の阿含経典群があり、その一部は釈尊の言葉を比較的忠実に伝えているといわれる。Buddhavacana は「仏陀の言葉」という意味である。 大乗仏教の代表的な仏典としては、『般若経』、『維摩経』、『涅槃経』、『華厳経』、『法華三部経』、『浄土三部経』、『金剛頂経』などが挙げられる。大乗仏典は西暦紀元前後以降、大乗仏教教団によってサンスクリット語で編纂された。歴史上の釈尊の説ではないとする大乗非仏説もあるが、そのため抽象化された非人間的存在としてのブッダの説すなわち仏説であるとしている。般若経典群、『法華経』、『華厳経』その他がこれに含まれる。 また大乗仏教では経・律・論および、その注釈書などは、大蔵経もしくは一切経と呼ばれる叢書にまとめられた。この作業は、中国では皇帝名で行われることが多く、編入される書物の基準が厳格で、入蔵録と呼ばれる収録対象とすべき仏典のリスト(経録)とセットにされ、基準外のものは蔵外(ぞうがい)と称された。昭和9年(1934年)に、日本で編纂された大正新脩大蔵経は、より広範囲に中国・日本撰述の典籍も含めている。 仏典は、律・経・論に三分類され、ひとまとめにされたものが、それぞれ律蔵、経蔵、論蔵と総称される。この三種を総称して「三蔵」と呼ぶ。 漢字文化圏では、大乗仏教経典や偽経の追加、段階的な伝播・翻訳過程によって、元々の「三蔵」の枠組みが壊れてしまった。後に『一切経』『大蔵経』として仏典群を総集・再編し直したので、専らこれが仏典の総称として用いられる。 仏教の聖典は、釈迦時代は釈迦が文書化を許さなかったため、暗記によって保持されたと伝えられる。この時代のインドでは、文字は既に普及していたが、その使用は商用や法規の公布などに限られ、世俗の用件に用いるものではなかった。ことに、書くことで自分を離れるから、聖典に対する敬虔さを失うと考えられて、文字に記すのではなく、体で覚えたわけである。 仏典が組織的に編まれたのは、釈迦の入滅後間もない時期である。釈迦の入滅時に一人の比丘が「もう師からとやかくいわれることもなくなった」と放言したことがきっかけで、これを聞いた摩訶迦葉が、釈迦の教説(法と律)を正しく記録することの大切さを仲間の比丘たちに訴え、聖典を編纂した。 この編纂会議を結集(けつじゅう、サンスクリット:saṃgīti)と呼ぶ。しかし、ここでは現在我々が目にする仏典の成立ではなく、核とも言うべきものが作られた。この編纂会議は、第一結集と呼ばれている。 仏典は当初の数百年間は口頭伝承のみで継承された。仏典が文字で写本として書かれるようになったのは紀元前1世紀ごろからである。口伝から写本へという媒体の変化が大乗仏教を生んだ、という説もある。 インドの仏教史を見ると、釈迦を出発点とする原始仏教時代、部派仏教時代、大乗仏教時代の三つの時代、さらにインドから仏教が伝播していく過程を通して、聖典は作成され続けた。釈迦の教えとして仮託されて後世につくられたため、その内容は相互に矛盾がある。梵文原典やチベット語訳が見当たらず、漢訳仏典にのみ存在し、中国で執筆されたとみられる経典(偽経)も多い。日本仏教においても、慣れ親しんだ経典の中に偽経とされるものは多い(大乗非仏説)。 仏典を研究する場合には出自調査は難しい場合が多い。ことに経典は一般に釈迦の説法の記録の形式をとり、著作者名が記されることはない。具体的に言うと、現代人からは釈迦の死後数百年を経過して書かれたことが明らかな仏典であっても、釈迦の教説を正しく継承しているという立場を標榜し、「このように私は(仏から)聞いている」(漢訳仏典では「如是我聞」)という出だしで始められており、仏典自身には、いつ、どこで著述されたかは、明記されていない。したがって、古代から近世の人々は、内容の通り直説であると信じて受容していった。 伝承すると利益があるという内容も多く、研究の対象のみならず信仰対象として各仏典は仏教の伝播先で盛んに書写され、現代では芸術品や文化財として重視されるものもある(日本の平家納経など)。 アジア各地で経典が西洋人に収集され、史料批判された結果、大乗非仏説が登場した。日本の近代仏教学もこれを概ね受け入れ、学問的な場では近代仏教学・大乗非仏説を受容し、一般的な場では釈尊直伝とする古典的な教学に立脚することが多い。 大乗経典が学術的権威を大きく損ねた一方、収集と翻訳が進み、サンスクリット語からの直接翻訳、口語訳などもされるようになり、より身近なものにもなった。 朝日新聞は仏典の一部に差別的記述があることを問題視している。 各国語に翻訳される以前の「原典」と呼ぶべき聖典は、インドの言語による聖典が中心になる。釈迦の用いた言語は、古代マガダ語と推定されるので、最初期の仏典もこの言語を使用したと考えられる。 かつては「現在残る聖典で、最も古いのは、パーリ語の聖典である。パーリ仏典は経蔵が漢訳大蔵経の阿含部と共通していて、根本分裂以前の最も古い文献を保持していることが分かっている。」という上座部仏教の信仰に寄りそった言説が漠然と信じられていた。しかし、現在活用できるパーリ仏典の写本は18世紀以降の新しいものばかりで来歴も不明なものが多いため、現存のパーリ仏典の内容は本当にそれほど古いものなのか、学術的に証明することは困難である。むしろ近年の学界では、古代インドの仏教を学術的に考察するうえで、パーリ仏典の歴史資料としての価値は限られている、という認識が広まりつつある。 漢訳仏典は、4世紀の釈道安が整理を行って以来、文献の成立年代や伝承の来歴がはっきりしている。その意味では、学術研究の歴史資料としてはむしろパーリ仏典より価値がある、とする見解もある。漢訳仏典の大半はサンスクリット原典から訳出されたものだが、サンスクリット原典が残っていないことが多いうえ、現存するサンスクリット原典の写本も漢訳より古い時代のものは少ない。その理由としては、 が考えられる。いずれにしても梵本は、中国では用いられなかった。 釈迦の入滅後、教えを正しく伝えるために、弟子たちは聖典編集の集会(結集)を開き、仏典整理を開始した。ところが、仏滅後100-200年ころには教団は多くの部派に分裂し、それぞれの部派が各自の三蔵を伝持するようになった。それらはインドの各地の言語によっていたと思われる。 完全な形で現存するのは、スリランカに伝えられた上座部系のパーリ語仏典のみで、現在、スリランカ、タイ、ミャンマーなど東南アジアの仏教国で広く用いられている。その内容は次の通りである。 これらは紀元前2世紀-紀元前1世紀ころまでに徐々に形成されたもので、紀元前1世紀ころにスリランカに伝えられたといわれ、以後、多くの蔵外の注釈書、綱要書、史書等が作られた。1881年ロンドンにパーリ聖典協会 (Pāli Text Society) が設立されて原典の校訂出版等がなされ、日本では若干の蔵外文献も含めて『南伝大蔵経』65巻(1935年-1941年)に完訳されている。 注意が必要なのは、パーリ仏典が必ずしも古い形を残しているとは限らない点である。漢訳の『阿含経』には上座部に伝わったより古い形態のものがあったり、あきらかにサンスクリット語からの漢訳と考えられるものがある。その意味で、パーリ仏典が原初の形態を伝えていると考えることは、間違いではないが正確な表現ではない。 中国における仏典の漢訳事業は2世紀後半から始まり、11世紀末までほぼ間断なく継続された。漢訳事業の進行に伴い、訳経の収集や分類、仏典の真偽の判別が必要となり、4世紀末には釈道安によって最初の経録である『綜理衆経目録』(亡佚)が、6世紀初めには僧祐によって『出三蔵記集』が作成された。これらの衆経ないし三蔵を、北朝の北魏で「一切経」と呼び、南朝の梁で「大蔵経」と呼んだといい、隋・唐初に及んで両者の名称が確立し、写経の書式も1行17字前後と定着した。 隋・唐時代にも道宣の『大唐内典録』等の多くの経録が編纂されたが、後代に影響を与えたのは730年(開元18)に完成した智昇撰『開元釈教録』20巻である。ここでは、南北朝以来の仏典分類法を踏襲して大乗の三蔵と小乗の三蔵および聖賢集伝とに三大別し、そのうち大乗仏典を『般若』、『宝積』、『大集』、『華厳』、『涅槃』の五大部としたうえで、当時実在しており、大蔵経に編入すべき仏典の総数を1076部5048巻と決定した。ここに収載された5048巻の経律論は、北宋以後の印刷大蔵経(一切経)の基準となった。 漢訳仏典は、古写本も豊富に残っている。日本国内に限っても、奈良時代に書写された仏教経典が一千数百巻、その奈良時代のものから転写したと想定される平安時代から鎌倉時代の古写経が一万巻以上も現存しており、これらの古写経は敦煌の仏教文献群に比肩する重要な資料群と評価されている。 テキストの形態は、初期は巻物状の写本(巻子本)であったが、北宋の『開宝蔵』以降は木版印刷の版木、刊本の形となった。近年では電子データ化された大蔵経も利用できるようになっている。収録される仏典は、三蔵(経律論)におさまる漢訳文献と、中国側の注釈書、独立作品、僧の伝記、目録などの著作群からなる。 最初の大蔵経刊本は、北宋の太祖・太宗の治世、971年 - 977年(開宝4 - 太平興国2)にかけて蜀(四川省)で版木が彫られ、983年(太平興国8)に、都の開封に建てられた「印経院」で印刷された。これは古くは『蜀版大蔵経』と呼ばれていたが、現在では開版の年号をとって『開宝蔵』、あるいは太祖の詔勅に基づいて開版されたため『勅版』と呼ぶのが一般的である。『開元釈教録』によって編纂される。当時の「蜀大字本」の規格の文字により、毎行14字の巻子本形式であった。これは宋朝の功徳事業で、西夏、高麗、日本などの近隣諸国に贈与された。983年に入宋した東大寺僧の奝然は、新撰の大蔵経481函5048巻と新訳経典40巻などを下賜され、日本に持ち帰ったが、藤原道長が建立した法成寺に施入したために、寺と共に焼失してしまった。ただ、新しく請来(招来)された大蔵経ということで盛んに書写されたため、その転写本が各地に幾らか残っている。『開宝蔵』の原本は、世界で12巻が確認されており、日本では京都・南禅寺および東京・台東区立書道博物館に1巻ずつ、計2巻が所蔵されている。 金の時代には、1147年 - 1173年にかけての時期に、『金版』が作られる。こちらも毎行14字。長らく幻の大蔵経であったが、1933年に山西省の趙城県にある広勝寺で発見される。そのため、別名『趙城蔵』とも呼ばれている。1984年より、この蔵経を底本にして『中華大蔵経』(影印本)が発刊される。また、元の時代に数次にわたって補刻が行なわれている(元代補修版)。 契丹の990年 - 1010年頃に開版された大蔵経。契丹が後晋から割譲された燕雲十六州の地方で、この地にあった隋以来の房山の『石経』のテキストも参考にして、国家事業として行なわれた印刷事業であった。この大蔵経も金版と同様に幻の大蔵経であったが、1982年に山西省の応県にある古刹、仏宮寺の木塔に安置された仏像内から、12巻の『契丹版』が発見され、房山雲居寺の『石経』との関係などが確認され、毎行17字の標準形式であったことが実証された。 南宋から明代にかけても各地で私版の大蔵経の作成が続いた。それは、福州(福建省)等覚禅院で11世紀末に開始された『等覚禅院版』(1075年 - 1112年)に始まる。これは、北宋版系や契丹版系の国家事業としての開版とは異なり、信者の寄進による私版の事業であった。以後、同じく福州「開元寺版」(1112年 - 1151年)や湖州の『思渓版』(1126年 - 1132年)、蘇州で開版された『磧砂版』(1232年 - 1305年)、杭州の『普寧版』(1277年 - 1290年)といった蔵経の印刷が続いた。この系統も、標準形式である毎行17字である。 明末になると、それまでの巻物ではない新しい形式の袋綴じ本の『万暦版大蔵経』(徑山蔵)が出版された。清朝の大蔵経である『龍蔵』や、後述の日本の『鉄眼版』、『卍字藏』は、この系統に属する。 高麗では、1010年に『開宝蔵』の覆刻版を出し(『高麗初雕本』)、その版木が元軍による兵火で焼失すると、1236年には『高麗再雕本』を完成させた。この時、編纂の責任者であり、『高麗国新雕大蔵経校正別録』を撰した守其が、『契丹版』によって『初雕本』の誤りを改めている。今も海印寺に板木を収蔵する『再雕本』の『高麗大蔵経』は、当時誤雕が少なく古い姿をとどめる最良のテキストとされていたため、明治・大正時期の『縮刷蔵経』や後述の『大正新脩大蔵経』では、北宋版系と契丹版系との校合を「他本に勝る所以である」として、底本に採用された。 しかし守其が校合したのは、『開宝蔵』『高麗初雕本』『契丹版』の三者のみであり、『開宝蔵』と『高麗初雕本』とは原本と覆刻版の関係にあり、基本的に同一系統のテキストである。つまり、北宋版系と契丹版系との間で校合したのみに過ぎない。後にテキスト・クリティークが進むにつれ、「古い姿をとどめる最良のテキスト」という評価が「最初に印刷された大蔵経」であるということによる思い込みであったということがといわれるようになってきた。実際、北京を中心とした河北省・山西省の地域のテキストである房山『石経』『契丹版』や、或いは漢代から唐代の都長安の一切経写本の系統を引く、南宋版『思渓資福蔵』や元版『普寧蔵』等の大蔵経の方がより良いテキストである場合が多く、それに対して『開宝蔵(勅版)』『高麗版』系統のテキストは、蜀(四川省)の地域に流布していた写本系列の一切経の姿をとどめているに過ぎないという説が出されている。 しかし、仏教の中心であった長安の方が写経のたびに改編され、テキストとして洗練の度を加えていったため、逆に地方版である蜀地のテキストの方が原形を留めているという説もある。例えば鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』の冒頭、開宝蔵で『如是我聞一時佛住...』が、「思渓資福蔵」「普寧蔵」や後の「徑山蔵」では『如是我聞一時婆伽婆住...』になっている例に見られるように、新しい時代層の漢訳経典のスタイルに合わせて改変されている場合もある。 日本では、『日本書紀』で白雉2年(651年)の記述に「一切経」が初めて現れるが事実とは考えられていない。その後も「一切経」はしばしば現れ、仏典の収集、写経、読誦をしめす。竹内亮によれば、日本では「一切経」の名前は知られてはいたものの、「一切経」を構成する経録(リスト)である入蔵録の請来は奈良時代の玄昉によるもの(後述)が初めてと推定され、光明皇后がこれに基づいて一切経の写経を行おうとしたところ、一切経を構成する全ての仏典が日本国内に備わっていないことが判明したため、蔵外である別生経や偽経、章疏(注釈書)の類までを書写してこれに代えた(「五月一日経」)と伝えられていることから、日本では「一切経」という言葉が"手に入る限り一切の(仏教)経典"という意味に読み替えられていたのではないかと推測している。 とくに、天平7年(735年)玄昉が請来(将来)した五千余巻は、当時の欽定大蔵経と推定される。底本とされ大規模な写経がおこなわれた。 寛和2年(986年)に奝然は大蔵経(開宝蔵)を輸入し、確実な大蔵経の請来として最も古い記録となる。奝然死後に藤原道長に渡り法成寺経堂に収められた(1021年)が火災で焼失したとみられる。平安時代末から鎌倉時代にかけては、栄西、重源、慶政その他の入宋僧の努力で、『宋版一切経』が輸入された。室町時代には室町幕府や九州探題、大内氏の名義で朝鮮に大蔵経を求め、日本に送られた大蔵経は寺院に寄進された(ただし、朝鮮から請来(将来)された大蔵経は高麗版に限らず、宋版・元版が送られた例がある。また、寺院の要請を受けて名義を貸す形で大蔵経を求める使者を出した例もある)。 今日から見れば校訂不備が多しとの批判はあるが、世界における仏教界や仏教研究に寄与しているのは、高楠順次郎・渡辺海旭監修の『大正新脩大藏經』(大正一切経刊行会)100巻である。高麗海印寺本を底本として諸本と校合、1924年から1934年にいたる歳月を費やし、正蔵(55巻)、続蔵(30巻)、昭和法宝目録(3巻)、図像部(12巻)を収める。 なお『大正新脩大蔵経』には、底本『高麗大蔵経』テキストに対する上記『思渓資福蔵』(宋本)、『普寧蔵』(元本)『徑山蔵』(明本)等のテキストとの異同の校訂情報が載せられている。この校訂は、『大日本校訂縮刷大蔵経』(縮蔵)の宋本・元本・明本(三本)との校勘を引き継ぎ、それに「宮内庁書陵部蔵宋本」(宮本)や「聖語蔵」などのテキストとの校勘を付加したものである。三本との校訂に関しては、原典に当たっていないと思われるケースもあり、校勘情報にも本文同様に誤謬、誤植が存在する場合もあるので、利用の際には、この点も考慮する必要がある。 漢訳経典の日本語訳(読み下し)も行われ、『國譯大藏經』、『国訳一切経』、『昭和新修国訳大蔵経』などがある。また、近年東京大学の『大正新脩大藏經』テキストデータベース (SAT) や、台北の中華電子佛典協會 (CBETA) といったプロジェクトが大正新脩大藏經の電子テキスト化を推進していて、一定の制約内でその使用が開放されている。 チベットにおける個別の仏典翻訳は、7世紀ソンツェン・ガンポの命令で、チベット語訳は、トンミ・サンボータ(チベット語版 英語版)によって始められたが、8世紀末、仏教が国教となるのにともない、仏典翻訳は王国の国家事業となり、隣国インドより網羅的、体系的に仏典を収集し、翻訳する作業が開始され、数十年の短期間で一挙に完遂された。サンスクリット語の原典を正確に翻訳するためのチベット語文法と語彙の整備が行われ (Mahāvyutpatti)、シャン=イェシェデ、カワ=ペルツェク、チョクロ=ルイゲンツェンらが作業に従事、824年、一応の完成をみた (dkar-chag ldan-dkar-ma)。 チベット仏教における仏典の分類は、他の仏教圏とも共通する「経・律・論」の三部分類よりも、「仏説部(カンギュル)」、「論疏部(テンギュル)」の2分類が重視される。カンギュルとは釈尊のことばそのものである「カー」をチベット語に「ギュル」(翻訳)したもの、テンギュルとは、竜樹らインドの仏教学者たちが「カー」に対してほどこした注釈である「テン」をチベット語に「ギュル」したもの、の意味である。 チベットでは、仏典は、信仰心を著わすものとしてながらく写本で流布していたが、中国の明朝の永楽帝は中国に使者を派遣するチベット諸侯や教団への土産として、1410年木版による大蔵経を開版、この習慣がチベットにも取り入れられ、以後、何種類かが開版されることになった。 また中国では、1990年代より、洋装本の形式で刊行される中華大蔵経事業の一部として、過去の諸写本、諸版の多くを校合したテンギュルの編纂が進められている。 以上の諸版に収録されている教典群大蔵経には、大乗の経論、ことに原典も漢訳も現存しないインド後期仏教の文献が多く含まれており、インド後期仏教の研究にも重要な意味をもっている。チベット語訳がサンスクリットの逐語訳に近く、原形に還元しやすいので、原典のない漢訳仏典の原型を探るためにも重要視されている。 チベットの四大宗派のひとつニンマ派では、ある時期に埋蔵された経典(テルマ gter-ma)が、時を経て、しかるべき定めを帯びたテルトン(埋蔵経典発掘者)によって発見されたとする経、論を多数有し、同派の特徴となっている。テルマ(埋蔵経典)の出現は、中世以来、現代に至るまで継続しており、乾慧学者から発掘者による創作だと見なされることがある。この派は上記の諸版と異なる古タントラ集成(ニンマ・ギューブム)を有している。
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"paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "インドの仏教史を見ると、釈迦を出発点とする原始仏教時代、部派仏教時代、大乗仏教時代の三つの時代、さらにインドから仏教が伝播していく過程を通して、聖典は作成され続けた。釈迦の教えとして仮託されて後世につくられたため、その内容は相互に矛盾がある。梵文原典やチベット語訳が見当たらず、漢訳仏典にのみ存在し、中国で執筆されたとみられる経典(偽経)も多い。日本仏教においても、慣れ親しんだ経典の中に偽経とされるものは多い(大乗非仏説)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "仏典を研究する場合には出自調査は難しい場合が多い。ことに経典は一般に釈迦の説法の記録の形式をとり、著作者名が記されることはない。具体的に言うと、現代人からは釈迦の死後数百年を経過して書かれたことが明らかな仏典であっても、釈迦の教説を正しく継承しているという立場を標榜し、「このように私は(仏から)聞いている」(漢訳仏典では「如是我聞」)という出だしで始められており、仏典自身には、いつ、どこで著述されたかは、明記されていない。したがって、古代から近世の人々は、内容の通り直説であると信じて受容していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "伝承すると利益があるという内容も多く、研究の対象のみならず信仰対象として各仏典は仏教の伝播先で盛んに書写され、現代では芸術品や文化財として重視されるものもある(日本の平家納経など)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アジア各地で経典が西洋人に収集され、史料批判された結果、大乗非仏説が登場した。日本の近代仏教学もこれを概ね受け入れ、学問的な場では近代仏教学・大乗非仏説を受容し、一般的な場では釈尊直伝とする古典的な教学に立脚することが多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "大乗経典が学術的権威を大きく損ねた一方、収集と翻訳が進み、サンスクリット語からの直接翻訳、口語訳などもされるようになり、より身近なものにもなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "朝日新聞は仏典の一部に差別的記述があることを問題視している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "各国語に翻訳される以前の「原典」と呼ぶべき聖典は、インドの言語による聖典が中心になる。釈迦の用いた言語は、古代マガダ語と推定されるので、最初期の仏典もこの言語を使用したと考えられる。", "title": "原典問題" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "かつては「現在残る聖典で、最も古いのは、パーリ語の聖典である。パーリ仏典は経蔵が漢訳大蔵経の阿含部と共通していて、根本分裂以前の最も古い文献を保持していることが分かっている。」という上座部仏教の信仰に寄りそった言説が漠然と信じられていた。しかし、現在活用できるパーリ仏典の写本は18世紀以降の新しいものばかりで来歴も不明なものが多いため、現存のパーリ仏典の内容は本当にそれほど古いものなのか、学術的に証明することは困難である。むしろ近年の学界では、古代インドの仏教を学術的に考察するうえで、パーリ仏典の歴史資料としての価値は限られている、という認識が広まりつつある。", "title": "原典問題" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "漢訳仏典は、4世紀の釈道安が整理を行って以来、文献の成立年代や伝承の来歴がはっきりしている。その意味では、学術研究の歴史資料としてはむしろパーリ仏典より価値がある、とする見解もある。漢訳仏典の大半はサンスクリット原典から訳出されたものだが、サンスクリット原典が残っていないことが多いうえ、現存するサンスクリット原典の写本も漢訳より古い時代のものは少ない。その理由としては、", "title": "原典問題" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "が考えられる。いずれにしても梵本は、中国では用いられなかった。", "title": "原典問題" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "釈迦の入滅後、教えを正しく伝えるために、弟子たちは聖典編集の集会(結集)を開き、仏典整理を開始した。ところが、仏滅後100-200年ころには教団は多くの部派に分裂し、それぞれの部派が各自の三蔵を伝持するようになった。それらはインドの各地の言語によっていたと思われる。", "title": "上座部仏教" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "完全な形で現存するのは、スリランカに伝えられた上座部系のパーリ語仏典のみで、現在、スリランカ、タイ、ミャンマーなど東南アジアの仏教国で広く用いられている。その内容は次の通りである。", "title": "上座部仏教" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "これらは紀元前2世紀-紀元前1世紀ころまでに徐々に形成されたもので、紀元前1世紀ころにスリランカに伝えられたといわれ、以後、多くの蔵外の注釈書、綱要書、史書等が作られた。1881年ロンドンにパーリ聖典協会 (Pāli Text Society) が設立されて原典の校訂出版等がなされ、日本では若干の蔵外文献も含めて『南伝大蔵経』65巻(1935年-1941年)に完訳されている。", "title": "上座部仏教" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "注意が必要なのは、パーリ仏典が必ずしも古い形を残しているとは限らない点である。漢訳の『阿含経』には上座部に伝わったより古い形態のものがあったり、あきらかにサンスクリット語からの漢訳と考えられるものがある。その意味で、パーリ仏典が原初の形態を伝えていると考えることは、間違いではないが正確な表現ではない。", "title": "上座部仏教" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "中国における仏典の漢訳事業は2世紀後半から始まり、11世紀末までほぼ間断なく継続された。漢訳事業の進行に伴い、訳経の収集や分類、仏典の真偽の判別が必要となり、4世紀末には釈道安によって最初の経録である『綜理衆経目録』(亡佚)が、6世紀初めには僧祐によって『出三蔵記集』が作成された。これらの衆経ないし三蔵を、北朝の北魏で「一切経」と呼び、南朝の梁で「大蔵経」と呼んだといい、隋・唐初に及んで両者の名称が確立し、写経の書式も1行17字前後と定着した。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "隋・唐時代にも道宣の『大唐内典録』等の多くの経録が編纂されたが、後代に影響を与えたのは730年(開元18)に完成した智昇撰『開元釈教録』20巻である。ここでは、南北朝以来の仏典分類法を踏襲して大乗の三蔵と小乗の三蔵および聖賢集伝とに三大別し、そのうち大乗仏典を『般若』、『宝積』、『大集』、『華厳』、『涅槃』の五大部としたうえで、当時実在しており、大蔵経に編入すべき仏典の総数を1076部5048巻と決定した。ここに収載された5048巻の経律論は、北宋以後の印刷大蔵経(一切経)の基準となった。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "漢訳仏典は、古写本も豊富に残っている。日本国内に限っても、奈良時代に書写された仏教経典が一千数百巻、その奈良時代のものから転写したと想定される平安時代から鎌倉時代の古写経が一万巻以上も現存しており、これらの古写経は敦煌の仏教文献群に比肩する重要な資料群と評価されている。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "テキストの形態は、初期は巻物状の写本(巻子本)であったが、北宋の『開宝蔵』以降は木版印刷の版木、刊本の形となった。近年では電子データ化された大蔵経も利用できるようになっている。収録される仏典は、三蔵(経律論)におさまる漢訳文献と、中国側の注釈書、独立作品、僧の伝記、目録などの著作群からなる。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "最初の大蔵経刊本は、北宋の太祖・太宗の治世、971年 - 977年(開宝4 - 太平興国2)にかけて蜀(四川省)で版木が彫られ、983年(太平興国8)に、都の開封に建てられた「印経院」で印刷された。これは古くは『蜀版大蔵経』と呼ばれていたが、現在では開版の年号をとって『開宝蔵』、あるいは太祖の詔勅に基づいて開版されたため『勅版』と呼ぶのが一般的である。『開元釈教録』によって編纂される。当時の「蜀大字本」の規格の文字により、毎行14字の巻子本形式であった。これは宋朝の功徳事業で、西夏、高麗、日本などの近隣諸国に贈与された。983年に入宋した東大寺僧の奝然は、新撰の大蔵経481函5048巻と新訳経典40巻などを下賜され、日本に持ち帰ったが、藤原道長が建立した法成寺に施入したために、寺と共に焼失してしまった。ただ、新しく請来(招来)された大蔵経ということで盛んに書写されたため、その転写本が各地に幾らか残っている。『開宝蔵』の原本は、世界で12巻が確認されており、日本では京都・南禅寺および東京・台東区立書道博物館に1巻ずつ、計2巻が所蔵されている。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "金の時代には、1147年 - 1173年にかけての時期に、『金版』が作られる。こちらも毎行14字。長らく幻の大蔵経であったが、1933年に山西省の趙城県にある広勝寺で発見される。そのため、別名『趙城蔵』とも呼ばれている。1984年より、この蔵経を底本にして『中華大蔵経』(影印本)が発刊される。また、元の時代に数次にわたって補刻が行なわれている(元代補修版)。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "契丹の990年 - 1010年頃に開版された大蔵経。契丹が後晋から割譲された燕雲十六州の地方で、この地にあった隋以来の房山の『石経』のテキストも参考にして、国家事業として行なわれた印刷事業であった。この大蔵経も金版と同様に幻の大蔵経であったが、1982年に山西省の応県にある古刹、仏宮寺の木塔に安置された仏像内から、12巻の『契丹版』が発見され、房山雲居寺の『石経』との関係などが確認され、毎行17字の標準形式であったことが実証された。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "南宋から明代にかけても各地で私版の大蔵経の作成が続いた。それは、福州(福建省)等覚禅院で11世紀末に開始された『等覚禅院版』(1075年 - 1112年)に始まる。これは、北宋版系や契丹版系の国家事業としての開版とは異なり、信者の寄進による私版の事業であった。以後、同じく福州「開元寺版」(1112年 - 1151年)や湖州の『思渓版』(1126年 - 1132年)、蘇州で開版された『磧砂版』(1232年 - 1305年)、杭州の『普寧版』(1277年 - 1290年)といった蔵経の印刷が続いた。この系統も、標準形式である毎行17字である。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "明末になると、それまでの巻物ではない新しい形式の袋綴じ本の『万暦版大蔵経』(徑山蔵)が出版された。清朝の大蔵経である『龍蔵』や、後述の日本の『鉄眼版』、『卍字藏』は、この系統に属する。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "高麗では、1010年に『開宝蔵』の覆刻版を出し(『高麗初雕本』)、その版木が元軍による兵火で焼失すると、1236年には『高麗再雕本』を完成させた。この時、編纂の責任者であり、『高麗国新雕大蔵経校正別録』を撰した守其が、『契丹版』によって『初雕本』の誤りを改めている。今も海印寺に板木を収蔵する『再雕本』の『高麗大蔵経』は、当時誤雕が少なく古い姿をとどめる最良のテキストとされていたため、明治・大正時期の『縮刷蔵経』や後述の『大正新脩大蔵経』では、北宋版系と契丹版系との校合を「他本に勝る所以である」として、底本に採用された。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "しかし守其が校合したのは、『開宝蔵』『高麗初雕本』『契丹版』の三者のみであり、『開宝蔵』と『高麗初雕本』とは原本と覆刻版の関係にあり、基本的に同一系統のテキストである。つまり、北宋版系と契丹版系との間で校合したのみに過ぎない。後にテキスト・クリティークが進むにつれ、「古い姿をとどめる最良のテキスト」という評価が「最初に印刷された大蔵経」であるということによる思い込みであったということがといわれるようになってきた。実際、北京を中心とした河北省・山西省の地域のテキストである房山『石経』『契丹版』や、或いは漢代から唐代の都長安の一切経写本の系統を引く、南宋版『思渓資福蔵』や元版『普寧蔵』等の大蔵経の方がより良いテキストである場合が多く、それに対して『開宝蔵(勅版)』『高麗版』系統のテキストは、蜀(四川省)の地域に流布していた写本系列の一切経の姿をとどめているに過ぎないという説が出されている。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "しかし、仏教の中心であった長安の方が写経のたびに改編され、テキストとして洗練の度を加えていったため、逆に地方版である蜀地のテキストの方が原形を留めているという説もある。例えば鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』の冒頭、開宝蔵で『如是我聞一時佛住...』が、「思渓資福蔵」「普寧蔵」や後の「徑山蔵」では『如是我聞一時婆伽婆住...』になっている例に見られるように、新しい時代層の漢訳経典のスタイルに合わせて改変されている場合もある。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日本では、『日本書紀』で白雉2年(651年)の記述に「一切経」が初めて現れるが事実とは考えられていない。その後も「一切経」はしばしば現れ、仏典の収集、写経、読誦をしめす。竹内亮によれば、日本では「一切経」の名前は知られてはいたものの、「一切経」を構成する経録(リスト)である入蔵録の請来は奈良時代の玄昉によるもの(後述)が初めてと推定され、光明皇后がこれに基づいて一切経の写経を行おうとしたところ、一切経を構成する全ての仏典が日本国内に備わっていないことが判明したため、蔵外である別生経や偽経、章疏(注釈書)の類までを書写してこれに代えた(「五月一日経」)と伝えられていることから、日本では「一切経」という言葉が\"手に入る限り一切の(仏教)経典\"という意味に読み替えられていたのではないかと推測している。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "とくに、天平7年(735年)玄昉が請来(将来)した五千余巻は、当時の欽定大蔵経と推定される。底本とされ大規模な写経がおこなわれた。 寛和2年(986年)に奝然は大蔵経(開宝蔵)を輸入し、確実な大蔵経の請来として最も古い記録となる。奝然死後に藤原道長に渡り法成寺経堂に収められた(1021年)が火災で焼失したとみられる。平安時代末から鎌倉時代にかけては、栄西、重源、慶政その他の入宋僧の努力で、『宋版一切経』が輸入された。室町時代には室町幕府や九州探題、大内氏の名義で朝鮮に大蔵経を求め、日本に送られた大蔵経は寺院に寄進された(ただし、朝鮮から請来(将来)された大蔵経は高麗版に限らず、宋版・元版が送られた例がある。また、寺院の要請を受けて名義を貸す形で大蔵経を求める使者を出した例もある)。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "今日から見れば校訂不備が多しとの批判はあるが、世界における仏教界や仏教研究に寄与しているのは、高楠順次郎・渡辺海旭監修の『大正新脩大藏經』(大正一切経刊行会)100巻である。高麗海印寺本を底本として諸本と校合、1924年から1934年にいたる歳月を費やし、正蔵(55巻)、続蔵(30巻)、昭和法宝目録(3巻)、図像部(12巻)を収める。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "なお『大正新脩大蔵経』には、底本『高麗大蔵経』テキストに対する上記『思渓資福蔵』(宋本)、『普寧蔵』(元本)『徑山蔵』(明本)等のテキストとの異同の校訂情報が載せられている。この校訂は、『大日本校訂縮刷大蔵経』(縮蔵)の宋本・元本・明本(三本)との校勘を引き継ぎ、それに「宮内庁書陵部蔵宋本」(宮本)や「聖語蔵」などのテキストとの校勘を付加したものである。三本との校訂に関しては、原典に当たっていないと思われるケースもあり、校勘情報にも本文同様に誤謬、誤植が存在する場合もあるので、利用の際には、この点も考慮する必要がある。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "漢訳経典の日本語訳(読み下し)も行われ、『國譯大藏經』、『国訳一切経』、『昭和新修国訳大蔵経』などがある。また、近年東京大学の『大正新脩大藏經』テキストデータベース (SAT) や、台北の中華電子佛典協會 (CBETA) といったプロジェクトが大正新脩大藏經の電子テキスト化を推進していて、一定の制約内でその使用が開放されている。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "チベットにおける個別の仏典翻訳は、7世紀ソンツェン・ガンポの命令で、チベット語訳は、トンミ・サンボータ(チベット語版 英語版)によって始められたが、8世紀末、仏教が国教となるのにともない、仏典翻訳は王国の国家事業となり、隣国インドより網羅的、体系的に仏典を収集し、翻訳する作業が開始され、数十年の短期間で一挙に完遂された。サンスクリット語の原典を正確に翻訳するためのチベット語文法と語彙の整備が行われ (Mahāvyutpatti)、シャン=イェシェデ、カワ=ペルツェク、チョクロ=ルイゲンツェンらが作業に従事、824年、一応の完成をみた (dkar-chag ldan-dkar-ma)。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "チベット仏教における仏典の分類は、他の仏教圏とも共通する「経・律・論」の三部分類よりも、「仏説部(カンギュル)」、「論疏部(テンギュル)」の2分類が重視される。カンギュルとは釈尊のことばそのものである「カー」をチベット語に「ギュル」(翻訳)したもの、テンギュルとは、竜樹らインドの仏教学者たちが「カー」に対してほどこした注釈である「テン」をチベット語に「ギュル」したもの、の意味である。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "チベットでは、仏典は、信仰心を著わすものとしてながらく写本で流布していたが、中国の明朝の永楽帝は中国に使者を派遣するチベット諸侯や教団への土産として、1410年木版による大蔵経を開版、この習慣がチベットにも取り入れられ、以後、何種類かが開版されることになった。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "また中国では、1990年代より、洋装本の形式で刊行される中華大蔵経事業の一部として、過去の諸写本、諸版の多くを校合したテンギュルの編纂が進められている。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "以上の諸版に収録されている教典群大蔵経には、大乗の経論、ことに原典も漢訳も現存しないインド後期仏教の文献が多く含まれており、インド後期仏教の研究にも重要な意味をもっている。チベット語訳がサンスクリットの逐語訳に近く、原形に還元しやすいので、原典のない漢訳仏典の原型を探るためにも重要視されている。", "title": "大乗仏教" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "チベットの四大宗派のひとつニンマ派では、ある時期に埋蔵された経典(テルマ gter-ma)が、時を経て、しかるべき定めを帯びたテルトン(埋蔵経典発掘者)によって発見されたとする経、論を多数有し、同派の特徴となっている。テルマ(埋蔵経典)の出現は、中世以来、現代に至るまで継続しており、乾慧学者から発掘者による創作だと見なされることがある。この派は上記の諸版と異なる古タントラ集成(ニンマ・ギューブム)を有している。", "title": "大乗仏教" } ]
仏典(ぶってん)とは、仏教典籍の略称で、仏教の聖典の総称である。「律蔵」「経蔵」「論蔵」という分類形態から三蔵とも呼ばれる。言語的には、パーリ語・サンスクリット語などのインドのものを初めとして、漢語、チベット語、モンゴル語、満州語のものがあり、西夏語のものも一部現存する。漢語やパーリ語から日本語に訳したものもこれに準じる。 大きく原始仏典と大乗仏典に分かれる。原始仏典にはパーリ五部および漢訳の阿含経典群があり、その一部は釈尊の言葉を比較的忠実に伝えているといわれる。Buddhavacana は「仏陀の言葉」という意味である。 大乗仏教の代表的な仏典としては、『般若経』、『維摩経』、『涅槃経』、『華厳経』、『法華三部経』、『浄土三部経』、『金剛頂経』などが挙げられる。大乗仏典は西暦紀元前後以降、大乗仏教教団によってサンスクリット語で編纂された。歴史上の釈尊の説ではないとする大乗非仏説もあるが、そのため抽象化された非人間的存在としてのブッダの説すなわち仏説であるとしている。般若経典群、『法華経』、『華厳経』その他がこれに含まれる。 また大乗仏教では経・律・論および、その注釈書などは、大蔵経もしくは一切経と呼ばれる叢書にまとめられた。この作業は、中国では皇帝名で行われることが多く、編入される書物の基準が厳格で、入蔵録と呼ばれる収録対象とすべき仏典のリスト(経録)とセットにされ、基準外のものは蔵外(ぞうがい)と称された。昭和9年(1934年)に、日本で編纂された大正新脩大蔵経は、より広範囲に中国・日本撰述の典籍も含めている。
{{出典の明記|date=2015年7月}} [[File:Burmese-Pali Manuscript Wellcome L0067947.jpg|thumb|right|ビルマのパーリ語写本]] '''仏典'''(ぶってん)とは、'''仏教典籍'''の略称で、[[仏教]]の[[聖典]]の総称である。「[[律蔵]]」「[[経蔵]]」「[[論蔵]]」という分類形態から'''[[三蔵]]'''とも呼ばれる。言語的には、[[パーリ語]]・[[サンスクリット語]]などのインドのものを初めとして、[[中国語|漢語]]、[[チベット語]]、[[モンゴル語]]、[[満州語]]のものがあり、[[西夏語]]のものも一部現存する。漢語やパーリ語から日本語に訳したものもこれに準じる。 大きく原始仏典と大乗仏典に分かれる。原始仏典にはパーリ五部および漢訳の[[阿含経]]典群があり、その一部は釈尊の言葉を比較的忠実に伝えているといわれる。Buddhavacana は「仏陀の言葉」という意味である。 大乗仏教の代表的な仏典としては、『[[般若経]]』、『[[維摩経]]』、『[[涅槃経]]』、『[[華厳経]]』、『[[法華三部経]]』、『[[浄土三部経]]』、『[[金剛頂経]]』などが挙げられる。大乗仏典は西暦紀元前後以降、大乗仏教教団によって[[サンスクリット]]語で編纂された。歴史上の釈尊の説ではないとする[[大乗非仏説]]もあるが、そのため抽象化された非人間的存在としての[[ブッダ]]の説すなわち仏説であるとしている。般若経典群、『法華経』、『華厳経』その他がこれに含まれる。 また大乗仏教では経・律・論および、その注釈書などは、'''大蔵経'''もしくは'''一切経'''と呼ばれる叢書にまとめられた。この作業は、中国では皇帝名で行われることが多く、編入される書物の基準が厳格で、入蔵録と呼ばれる収録対象とすべき仏典のリスト(経録)とセットにされ、基準外のものは蔵外(ぞうがい)と称された。[[昭和]]9年([[1934年]])に、日本で編纂された[[大正新脩大蔵経]]は、より広範囲に中国・日本撰述の典籍も含めている。 {{TOC limit|4}} == 分類 == 仏典は、律・経・論に三分類され、ひとまとめにされたものが、それぞれ律蔵、経蔵、論蔵と総称される。この三種を総称して「[[三蔵]]」と呼ぶ<ref name=baba83> {{Cite |和書|title=初期仏教――ブッダの思想をたどる |series=岩波新書 |author=馬場紀寿 |isbn=978-4004317357 |date=2018 |page=83}}</ref>。 *[[律蔵]] - [[律 (仏教)|律]]([[サンスクリット|梵]]・{{lang-pi-short|Vinaya ヴィナーヤ, ヴィナヤ}})の総称。[[出家]]修行者([[比丘]]・[[比丘尼]])が護るべき[[戒律]]([[具足戒]]・[[波羅提木叉]])及び[[僧伽]](僧団)の運営規則。 *[[経蔵]] - [[経 (仏教)|経]](梵: Sutra スートラ、{{lang-pi-short|Sutta スッタ}})の総称。釈迦の教いた法(ダルマ)の集成。 *[[論蔵]] - [[論 (仏教)|論]](梵: Abhidharma アビダルマ)の総称。律や経に対する研究、解釈をまとめたもの。 [[漢字]]文化圏では、[[大乗仏教]]経典や[[偽経]]の追加、段階的な伝播・翻訳過程によって、元々の「三蔵」の枠組みが壊れてしまった。後に『[[一切経]]』『[[大蔵経]]』として仏典群を総集・再編し直したので、専らこれが仏典の総称として用いられる。 == 歴史 == === 結集と作成 === 仏教の聖典は、[[釈迦]]時代は釈迦が文書化を許さなかったため、暗記によって保持されたと伝えられる。この時代の[[インド]]では、文字は既に普及していたが、その使用は商用や法規の公布などに限られ、世俗の用件に用いるものではなかった。ことに、書くことで自分を離れるから、聖典に対する敬虔さを失うと考えられて、文字に記すのではなく、体で覚えたわけである。 仏典が組織的に編まれたのは、釈迦の入滅後間もない時期である。釈迦の入滅時に一人の[[比丘]]が「もう師からとやかくいわれることもなくなった」と放言したことがきっかけで、これを聞いた[[摩訶迦葉]]が、釈迦の教説(法と律)を正しく記録することの大切さを仲間の比丘たちに訴え、聖典を編纂した<ref name=baba59 />。 この編纂会議を[[結集]](けつじゅう、[[サンスクリット]]:saṃgīti)と呼ぶ<ref name=baba59 />。しかし、ここでは現在我々が目にする仏典の成立ではなく、核とも言うべきものが作られた。この編纂会議は、第一結集と呼ばれている<ref name=baba59> {{Cite |和書|title=初期仏教――ブッダの思想をたどる |series=岩波新書 |author=馬場紀寿 |isbn=978-4004317357 |date=2018 |pages=59-60}}</ref>。 === 増広と伝播 === 仏典は当初の数百年間は口頭伝承のみで継承された。仏典が文字で写本として書かれるようになったのは紀元前1世紀ごろからである。口伝から写本へという媒体の変化が大乗仏教を生んだ、という説もある。 {{quotation|釈迦(前463-前383)によって創始された仏教は、その開祖の入滅後、三、四百年のあいだは、口頭伝承のみによって教えを継承した。ところが、紀元前一世紀頃に文字が導入されると、教えのことばが存在する地平は、写本へと移し替えられはじめた。このとき、経師と呼ばれる経典伝承の専門家たちは、書写された経典を口頭伝承のための補助手段としてもちいるにとどめるものと、書記言語として結実するテクストの重要性に気づき、伝承された知識全体の見なおしにかかるものとに分岐した。前者は「伝統経典」の継承をつづけ、後者は大乗仏典を生み出した――教説伝承の媒体の変化をめぐって、およそこうした歴史が浮かびあがってくるのである。 ― [[下田正弘]]『仏教とエクリチュール』(東大出版会、2020年)p.321}} インドの仏教史を見ると、釈迦を出発点とする[[原始仏教]]時代、[[部派仏教]]時代、[[大乗仏教]]時代の三つの時代、さらにインドから仏教が伝播していく過程を通して、聖典は作成され続けた。釈迦の教えとして仮託されて後世につくられたため、その内容は相互に矛盾がある。[[サンスクリット語|梵文]]原典や[[チベット語]]訳が見当たらず、漢訳仏典にのみ存在し、中国で執筆されたとみられる経典([[偽経]])も多い。日本仏教においても、慣れ親しんだ経典の中に偽経とされるものは多い([[大乗非仏説]])。 仏典を研究する場合には出自調査は難しい場合が多い。ことに経典は一般に釈迦の説法の記録の形式をとり、著作者名が記されることはない。具体的に言うと、現代人からは釈迦の死後数百年を経過して書かれたことが明らかな仏典であっても、釈迦の教説を正しく継承しているという立場を標榜し、「このように私は(仏から)聞いている」(漢訳仏典では「如是我聞」)という出だしで始められており、仏典自身には、いつ、どこで著述されたかは、明記されていない。したがって、古代から近世の人々は、内容の通り直説であると信じて受容していった。 伝承すると利益があるという内容も多く、研究の対象のみならず信仰対象として各仏典は仏教の伝播先で盛んに書写され、現代では芸術品や文化財として重視されるものもある(日本の[[平家納経]]など)。 === 近現代 === アジア各地で経典が西洋人に収集され、[[史料批判]]された結果、大乗非仏説が登場した。日本の近代仏教学もこれを概ね受け入れ、学問的な場では近代仏教学・大乗非仏説を受容し、一般的な場では釈尊直伝とする古典的な教学に立脚することが多い。 大乗経典が学術的権威を大きく損ねた一方、収集と翻訳が進み、サンスクリット語からの直接翻訳、口語訳などもされるようになり、より身近なものにもなった。 [[朝日新聞]]は仏典の一部に差別的記述があることを問題視している<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASM693C2VM69PIHB001.html 「男性に生まれ変わって成仏」「夫・子に従うべき」仏典の女性差別どうする/「現代の目では不適切」研究者ら指摘/「聞いた人傷つくお経は…」模索]『[[朝日新聞]]』朝刊2019年6月18日(文化・文芸面)2019年6月20日閲覧。</ref>。 == 原典問題 == 各国語に翻訳される以前の「原典」と呼ぶべき聖典は、インドの言語による聖典が中心になる。釈迦の用いた言語は、{{要出典|=古代マガダ語と推定される|date=2014年2月}}ので、最初期の仏典もこの言語を使用したと考えられる。 かつては「現在残る聖典で、最も古いのは、[[パーリ語]]の聖典である。{{要出典|=パーリ仏典は経蔵が漢訳大蔵経の阿含部と共通していて、根本分裂以前の最も古い文献を保持していることが分かっている。|date=2017年7月31日}}」という[[上座部仏教]]の信仰に寄りそった言説が漠然と信じられていた。しかし、現在活用できる[[パーリ仏典]]の写本は18世紀以降の新しいものばかりで来歴も不明なものが多いため、現存のパーリ仏典の内容は本当にそれほど古いものなのか、学術的に証明することは困難である。むしろ近年の学界では、古代インドの仏教を学術的に考察するうえで、パーリ仏典の歴史資料としての価値は限られている、という認識が広まりつつある<ref name="下田2020"/>。 漢訳仏典は、4世紀の[[釈道安]]が整理を行って以来、文献の成立年代や伝承の来歴がはっきりしている。その意味では、学術研究の歴史資料としてはむしろパーリ仏典より価値がある、とする見解もある<ref name="下田2020"/>。漢訳仏典の大半はサンスクリット原典から訳出されたものだが、サンスクリット原典が残っていないことが多いうえ、現存するサンスクリット原典の写本も漢訳より古い時代のものは少ない。その理由としては、 *中国、インドいずれでも王朝の交替や宗教、思想の変遷により新たな支配層にとって不都合な記述のある原典が言論・思想統制で意図的に破棄された。 *中国では漢訳仏典は写本により流布したが、サンスクリット原典は漢民族社会では需要がないため保存されなかった。 *写本によらず、訳経僧が暗諳していた聖典を漢訳したため、元から原本が存在しなかったケースの存在。 が考えられる。いずれにしても梵本は、中国では用いられなかった。 == 上座部仏教 == 釈迦の入滅後、教えを正しく伝えるために、弟子たちは聖典編集の集会([[結集]])を開き、仏典整理を開始した<ref name=baba59 />。ところが、仏滅後100-200年ころには教団は多くの[[部派仏教|部派]]に分裂し、それぞれの部派が各自の三蔵を伝持するようになった。それらはインドの各地の言語によっていたと思われる。 {| class="wikitable" style="margin:1em auto" |+ [[部派仏教]]の[[三蔵]](現存するもの)<ref> {{Cite |和書|title=初期仏教――ブッダの思想をたどる |series=岩波新書 |author=馬場紀寿 |isbn=978-4004317357 |date=2018 |page=83}}</ref> !style="min-width:9em"| ! [[上座部]]大寺派 !! [[化地部]] !! [[法蔵部]] !! [[説一切有部]] !! [[大衆部]] |- |{{rh}}| [[法 (仏教)|法]](Dharma) || [[長部 (パーリ)|長部]]<br>[[中部 (パーリ)|中部]]<br>[[相応部]]<br>[[増支部]] | - || [[長阿含経]] || [[長阿含経]]<br>[[中阿含経]]<br>[[雑阿含経]] || - |- |{{rh}}| [[律 (仏教)|律]](Vinaya) || [[パーリ律]] || [[五分律]] || [[四分律]] || [[十誦律]]<br>[[根本説一切有部律]] || [[摩訶僧祇律]] |} 完全な形で現存するのは、[[スリランカ]]に伝えられた[[上座部仏教|上座部]]系の[[パーリ語仏典]]のみで、現在、スリランカ、タイ、ミャンマーなど東南アジアの仏教国で広く用いられている。その内容は次の通りである。 # 律蔵:経分別(戒律の本文解説)、&#x728d;度(けんど、教団の制度規定)、付録。 # 経蔵:長部、中部、相応部、増支部、小部の5部。前4部は漢訳『''[[阿含経]]''』に相当する。 # 論蔵:法集論、分別論、界論、人施設論、論事、双論、発趣論の7部。 これらは[[紀元前2世紀]]-[[紀元前1世紀]]ころまでに徐々に形成されたもので、紀元前1世紀ころにスリランカに伝えられたといわれ、以後、多くの蔵外の注釈書、綱要書、史書等が作られた。1881年ロンドンにパーリ聖典協会 (P&#x0101;li Text Society) が設立されて原典の校訂出版等がなされ、日本では若干の蔵外文献も含めて『''南伝大蔵経''』65巻([[1935年]]-[[1941年]])に完訳されている。 注意が必要なのは、パーリ仏典が必ずしも古い形を残しているとは限らない点である。漢訳の『''阿含経''』には上座部に伝わったより古い形態のものがあったり、あきらかにサンスクリット語からの漢訳と考えられるものがある。その意味で、パーリ仏典が原初の形態を伝えていると考えることは、間違いではないが正確な表現ではない。 == 大乗仏教 == === 漢訳仏典 === 中国における仏典の漢訳事業は[[2世紀]]後半から始まり、[[11世紀]]末までほぼ間断なく継続された。漢訳事業の進行に伴い、訳経の収集や分類、仏典の真偽の判別が必要となり、[[4世紀]]末には[[釈道安]]によって最初の[[経録]]である『''綜理衆経目録''』(亡佚)が、[[6世紀]]初めには僧祐によって『''[[出三蔵記集]]''』が作成された。これらの衆経ないし三蔵を、[[北朝 (中国)|北朝]]の[[北魏]]で「'''一切経'''」と呼び、[[南朝 (中国)|南朝]]の[[梁 (南朝)|梁]]で「'''大蔵経'''」と呼んだといい、[[隋]]・[[唐]]初に及んで両者の名称が確立し、写経の書式も1行17字前後と定着した。 隋・唐時代にも[[道宣]]の『''[[大唐内典録]]''』等の多くの経録が編纂されたが、後代に影響を与えたのは[[730年]](開元18)に完成した智昇撰『''[[開元釈教録]]''』20巻である。ここでは、[[南北朝時代 (中国)|南北朝]]以来の仏典分類法を踏襲して大乗の三蔵と小乗の三蔵および聖賢集伝とに三大別し、そのうち大乗仏典を『[[般若経|般若]]』、『[[宝積経|宝積]]』、『[[大集経|大集]]』、『[[華厳経|華厳]]』、『[[涅槃経|涅槃]]』の五大部としたうえで、当時実在しており、大蔵経に編入すべき仏典の総数を1076部'''5048巻'''と決定した。ここに収載された5048巻の経律論は、[[北宋]]以後の印刷大蔵経(一切経)の基準となった。 漢訳仏典は、古写本も豊富に残っている。日本国内に限っても、奈良時代に書写された仏教経典が一千数百巻、その奈良時代のものから転写したと想定される平安時代から鎌倉時代の古写経が一万巻以上も現存しており、これらの古写経は[[敦煌文献|敦煌の仏教文献群]]に比肩する重要な資料群と評価されている<ref name="日本古写経研究所">「日本古写経研究所」公式サイト https://www.icabs.ac.jp/research/koshakyo 閲覧日2023年9月21日</ref>。 ==== 大蔵経 ==== テキストの形態は、初期は巻物状の写本(巻子本)であったが、北宋の『開宝蔵』以降は木版印刷の版木、刊本の形となった。近年では電子データ化された大蔵経も利用できるようになっている。収録される仏典は、三蔵(経律論)におさまる漢訳文献と、中国側の注釈書、独立作品、僧の伝記、目録などの著作群からなる。<ref>船山徹 『仏典はどう漢訳されたのか―スートラが経典になるとき』 ISBN 4000246917</ref> ==== 中国 ==== ===== 北宋版系 ===== 最初の大蔵経刊本は、[[北宋]]の[[趙匡胤|太祖]]・[[太宗 (宋)|太宗]]の治世、[[971年]] - [[977年]]([[開宝]]4 - [[太平興国]]2)にかけて蜀([[四川省]])で版木が彫られ、[[983年]](太平興国8)に、都の[[開封]]に建てられた「印経院」で印刷された。これは古くは『蜀版大蔵経』と呼ばれていたが、現在では開版の年号をとって『開宝蔵』、あるいは太祖の詔勅に基づいて開版されたため『勅版』と呼ぶのが一般的である。『''[[開元釈教録]]''』によって編纂される。当時の「蜀大字本」の規格の文字により、毎行14字の巻子本形式であった。これは宋朝の功徳事業で、[[西夏]]、[[高麗]]、日本などの近隣諸国に贈与された。[[983年]]に入宋した[[東大寺]]僧の[[奝然]]は、新撰の大蔵経481函5048巻と新訳経典40巻などを下賜され、日本に持ち帰ったが、[[藤原道長]]が建立した[[法成寺]]に施入したために、寺と共に焼失してしまった。ただ、新しく請来(招来)された大蔵経ということで盛んに書写されたため、その転写本が各地に幾らか残っている。『開宝蔵』の原本は、世界で12巻が確認されており、日本では京都・[[南禅寺]]および[[東京]]・[[台東区立書道博物館]]に1巻ずつ、計2巻が所蔵されている。 [[金 (王朝)|金]]の時代には、[[1147年]] - [[1173年]]にかけての時期に、『金版』が作られる。こちらも毎行14字。長らく幻の大蔵経であったが、[[1933年]]に[[山西省]]の[[趙城県]]にある広勝寺で発見される。そのため、別名『趙城蔵』とも呼ばれている。[[1984年]]より、この蔵経を底本にして『'''中華大蔵経'''』([[影印本]])が発刊される。また、[[元 (王朝)|元]]の時代に数次にわたって補刻が行なわれている(元代補修版)。 ===== 契丹版系 ===== [[契丹]]の[[990年]] - [[1010年]]頃に開版された大蔵経。契丹が[[後晋]]から割譲された[[燕雲十六州]]の地方で、この地にあった[[隋]]以来の[[房山区|房山]]の『[[石経]]』のテキストも参考にして、国家事業として行なわれた印刷事業であった。この大蔵経も金版と同様に幻の大蔵経であったが、[[1982年]]に[[山西省]]の[[応県]]にある古刹、[[応県木塔|仏宮寺の木塔]]に安置された仏像内から、12巻の『契丹版』が発見され、房山[[雲居寺 (北京市)|雲居寺]]の『石経』との関係などが確認され、毎行17字の標準形式であったことが実証された。 ===== 南宋版系 ===== 南宋から明代にかけても各地で私版の大蔵経の作成が続いた。それは、[[福州市|福州]]([[福建省]])等覚禅院で[[11世紀]]末に開始された『等覚禅院版』([[1075年]] - [[1112年]])に始まる。これは、北宋版系や契丹版系の国家事業としての開版とは異なり、信者の寄進による私版の事業であった。以後、同じく福州「開元寺版」(1112年 - [[1151年]])や[[湖州市|湖州]]の『思渓版』([[1126年]] - [[1132年]])、[[蘇州市|蘇州]]で開版された『磧砂版』([[1232年]] - [[1305年]])、[[杭州市|杭州]]の『普寧版』([[1277年]] - [[1290年]])といった蔵経の印刷が続いた。この系統も、標準形式である毎行17字である。 [[明]]末になると、それまでの巻物ではない新しい形式の[[袋綴じ]]本の『万暦版大蔵経』(徑山蔵)が出版された。[[清]]朝の大蔵経である『龍蔵』や、後述の日本の『鉄眼版』、『卍字藏』は、この系統に属する。 ==== 朝鮮半島 ==== 高麗では、[[1010年]]に『開宝蔵』の覆刻版を出し(『高麗初雕本』)、その版木が[[元 (王朝)|元]]軍による兵火で焼失すると、[[1236年]]には『高麗再雕本』を完成させた。この時、編纂の責任者であり、『高麗国新雕大蔵経校正別録』を撰した守其が、『契丹版』によって『初雕本』の誤りを改めている。今も海印寺に板木を収蔵する『再雕本』の『[[高麗八万大蔵経|高麗大蔵経]]』は、当時誤雕が少なく古い姿をとどめる最良のテキストとされていたため、明治・大正時期の『縮刷蔵経』や後述の『大正新脩大蔵経』では、北宋版系と契丹版系との校合を「他本に勝る所以である」として、底本に採用された。 しかし守其が校合したのは、『開宝蔵』『高麗初雕本』『契丹版』の三者のみであり、『開宝蔵』と『高麗初雕本』とは原本と覆刻版の関係にあり、基本的に同一系統のテキストである。つまり、北宋版系と契丹版系との間で校合したのみに過ぎない。後にテキスト・クリティークが進むにつれ、「古い姿をとどめる最良のテキスト」という評価が「最初に印刷された大蔵経」であるということによる思い込みであったということがといわれるようになってきた。実際、北京を中心とした河北省・山西省の地域のテキストである房山『石経』『契丹版』や、或いは漢代から唐代の都[[長安]]の一切経写本の系統を引く、南宋版『思渓資福蔵』や元版『普寧蔵』等の大蔵経の方がより良いテキストである場合が多く、それに対して『開宝蔵(勅版)』『高麗版』系統のテキストは、蜀(四川省)の地域に流布していた写本系列の一切経の姿をとどめているに過ぎないという説が出されている。 しかし、仏教の中心であった長安の方が写経のたびに改編され、テキストとして洗練の度を加えていったため、逆に地方版である蜀地のテキストの方が原形を留めているという説もある。例えば[[鳩摩羅什]]訳『''[[摩訶般若波羅蜜経]]''』の冒頭、開宝蔵で『如是我聞一時'''佛'''住…』が、「思渓資福蔵」「普寧蔵」や後の「徑山蔵」では『如是我聞一時'''婆伽婆'''住…』になっている例に見られるように、新しい時代層の漢訳経典のスタイルに合わせて改変されている場合もある。 ==== 日本 ==== 日本では、『[[日本書紀]]』で白雉2年(651年)の記述に「一切経」が初めて現れるが事実とは考えられていない。その後も「一切経」はしばしば現れ、仏典の収集、写経、読誦をしめす<ref name="sueki">{{Cite |和書 |author = 末木文美士 |title = 日本仏教入門 |date = 2014-03-21 |publisher = KADOKAWA/角川学芸出版 |isbn = 4047035378 }}</ref>。[[竹内亮 (日本史学者)|竹内亮]]によれば、日本では「一切経」の名前は知られてはいたものの、「一切経」を構成する経録(リスト)である入蔵録の請来は[[奈良時代]]の[[玄昉]]によるもの(後述)が初めてと推定され、[[光明皇后]]がこれに基づいて一切経の写経を行おうとしたところ、一切経を構成する全ての仏典が日本国内に備わっていないことが判明したため、蔵外である[[別生経]]や[[偽経]]、章疏(注釈書)の類までを書写してこれに代えた(「五月一日経」)と伝えられていることから、日本では「一切経」という言葉が"手に入る限り一切の(仏教)経典"という意味に読み替えられていたのではないかと推測している<ref>竹内亮「大寺制の成立と都城」『日本古代の寺院と社会』(塙書房、2016年) ISBN 978-4-8273-1280-5 P96-98</ref>。 とくに、[[天平]]7年([[735年]])[[玄昉]]が請来(将来)した五千余巻は、当時の欽定大蔵経と推定される。底本とされ大規模な写経がおこなわれた。 寛和2年(986年)に[[奝然]]は大蔵経(開宝蔵)を輸入し、確実な大蔵経の請来として最も古い記録となる。奝然死後に[[藤原道長]]に渡り[[法成寺]]経堂に収められた(1021年)が火災で焼失したとみられる<ref name="sueki"/>。平安時代末から鎌倉時代にかけては、[[明菴栄西|栄西]]、[[重源]]、[[慶政]]その他の入宋僧の努力で、『宋版一切経』が輸入された。室町時代には室町幕府や九州探題、[[大内氏]]の名義で朝鮮に大蔵経を求め、日本に送られた大蔵経は寺院に寄進された(ただし、朝鮮から請来(将来)された大蔵経は高麗版に限らず、宋版・元版が送られた例がある。また、寺院の要請を受けて名義を貸す形で大蔵経を求める使者を出した例もある)<ref name="suda">須田牧子「大蔵経輸入とその影響」『中世日朝関係と大内氏』(東京大学出版会、2011年) ISBN 978-4-13-026227-9 (原論文:2007年)</ref>。 * [[慶安]]元年([[1648年]])、[[天海]]による『寛永寺版(天海版)』が徳川幕府の支援をうけて完成。 * [[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]])、[[鉄眼道光]]が『黄檗版大蔵経(鉄眼版)』を完成。鉄眼が艱難辛苦の後に完成させた大蔵経として、[[第二次世界大戦]]前の日本の修身の教科書にも採用されて著名なものではあるが、歴代の大蔵経中で最も誤字が多い。これは、明版の大蔵経の現物をバラバラにして、それを裏返して元版としたことによる。反面、鉄眼の大蔵経が刊行されたことでこれまで特権的な有力寺院しか持ちえなかった大蔵経が村落の寺院でも所持が出来るようになった<ref name=suda/>。 * [[1885年]]、『大日本校訂大藏經縮刷藏本』(縮刷大蔵経、東京弘教書院)を刊行。底本は『高麗大蔵経』 * [[1902年]]、『卍字藏』(京都藏經書院)刊行。 * [[1912年]]、『大日本続蔵経』(日本藏經院)が完成。 今日から見れば校訂不備が多しとの批判はあるが、世界における仏教界や仏教研究に寄与しているのは、[[高楠順次郎]]・[[渡辺海旭]]監修の『'''[[大正新脩大蔵経|大正新脩大藏經]]'''』(大正一切経刊行会)100巻である。高麗[[海印寺 (陜川郡)|海印寺]]本を底本として諸本と校合、[[1924年]]から[[1934年]]にいたる歳月を費やし、正蔵(55巻)、続蔵(30巻)、昭和法宝目録(3巻)、図像部(12巻)を収める。 なお『大正新脩大蔵経』には、底本『高麗大蔵経』テキストに対する上記『思渓資福蔵』(宋本)、『普寧蔵』(元本)『徑山蔵』(明本)等のテキストとの異同の校訂情報が載せられている。この校訂は、『大日本校訂縮刷大蔵経』(縮蔵)の宋本・元本・明本(三本)との校勘を引き継ぎ、それに「[[宮内庁書陵部]]蔵宋本」(宮本)や「[[正倉院#聖語蔵|聖語蔵]]」などのテキストとの校勘を付加したものである。三本との校訂に関しては、原典に当たっていないと思われるケースもあり、校勘情報にも本文同様に[[誤謬]]、[[誤植]]が存在する場合もあるので、利用の際には、この点も考慮する必要がある。 [[ファイル:Daizoukyou.png|frame|none|大正新脩大藏經までの主要な漢訳大蔵経系列]] 漢訳経典の日本語訳(読み下し)も行われ、『'''國譯大藏經'''』、『'''国訳一切経'''』、『'''昭和新修国訳大蔵経'''』などがある。また、近年[[東京大学]]の『大正新脩大藏經』テキストデータベース (SAT) や、[[台北]]の中華電子佛典協會 (CBETA) といったプロジェクトが大正新脩大藏經の電子テキスト化を推進していて、一定の制約内でその使用が開放されている。 === チベット語訳仏典 === {{main|チベット大蔵経}} チベットにおける個別の仏典翻訳は、[[7世紀]]'''[[ソンツェン・ガンポ]]'''の命令で、チベット語訳は、トンミ・サンボータ([[:bo:སློབ་དཔོན་ཐུ་མི་སམ་བྷོ་ཊ། |チベット語版]] [[:en:Thonmi Sambhota|英語版]])によって始められたが、8世紀末、仏教が国教となるのにともない、仏典翻訳は王国の国家事業となり、隣国インドより網羅的、体系的に仏典を収集し、翻訳する作業が開始され、数十年の短期間で一挙に完遂された。サンスクリット語の原典を正確に翻訳するための[[チベット語]]文法と語彙の整備が行われ ([[:en:Mahāvyutpatti|Mahāvyutpatti]])、シャン=イェシェデ、カワ=ペルツェク、チョクロ=ルイゲンツェンらが作業に従事、[[824年]]、一応の完成をみた ({{lang|en|dkar-chag ldan-dkar-ma}}<ref>Yoshimura, Shyuki 芳村修基 (1950). The Denkar-ma: An Oldest Catalogue of the Tibetan Buddhist Canons. Kyoto: Ryukoku University.</ref><ref>川越英真『パンタン目録』(Karchag Phangthangma [[:en:Karchag Phangthangma|英文]])の研究 A Study of dKar chag 'Phang thang ma.、日本西蔵学会会報、51: 115 – 131.</ref><ref>Kawagoe Eishin 川越英真 (2005b). Dkar chag ʼPhang thang ma. Sendai: 東北インド・チベット研究会Tōhoku Indo-Chibetto Kenkyūkai.</ref>)。 チベット仏教における仏典の分類は、他の仏教圏とも共通する「経・律・論」の三部分類よりも、「仏説部(カンギュル)」、「論疏部(テンギュル)」の2分類が重視される。カンギュルとは釈尊のことばそのものである「カー」をチベット語に「ギュル」(翻訳)したもの、テンギュルとは、竜樹らインドの仏教学者たちが「カー」に対してほどこした注釈である「テン」をチベット語に「ギュル」したもの、の意味である。 チベットでは、仏典は、信仰心を著わすものとしてながらく写本で流布していたが、[[中国]]の[[明|明朝]]の[[永楽帝]]は中国に使者を派遣するチベット諸侯や教団への土産として、[[1410年]]木版による大蔵経を開版、この習慣がチベットにも取り入れられ、以後、何種類かが開版されることになった。 * 北京版 永楽版カンギュル(1410年)、万暦版カンギュル([[1606年]])、康熙版カンギュル([[1692年]])、雍正版テンギュル([[1724年]]) * リタン版([[1621年]]-[[1624年]]) * ナルタン版 カンギュル([[1732年]])、テンギュル([[1773年]]) * デルゲ版 カンギュル([[1733年]])、テンギュル([[1742年]]) * ラサ版 カンギュル([[1936年]]) また中国では、[[1990年代]]より、洋装本の形式で刊行される中華大蔵経事業の一部として、過去の諸写本、諸版の多くを校合したテンギュルの編纂が進められている。 以上の諸版に収録されている教典群大蔵経には、大乗の経論、ことに原典も漢訳も現存しないインド後期仏教の文献が多く含まれており、インド後期仏教の研究にも重要な意味をもっている。チベット語訳がサンスクリットの逐語訳に近く、原形に還元しやすいので、原典のない漢訳仏典の原型を探るためにも重要視されている。 チベットの四大宗派のひとつ[[ニンマ派]]では、ある時期に埋蔵された経典(テルマ gter-ma)が、時を経て、しかるべき定めを帯びたテルトン(埋蔵経典発掘者)によって発見されたとする経、論を多数有し、同派の特徴となっている。テルマ(埋蔵経典)の出現は、中世以来、現代に至るまで継続しており、乾慧学者から発掘者による創作だと見なされることがある。この派は上記の諸版と異なる古タントラ集成(ニンマ・ギューブム)を有している。 == 日本語訳 == {{main|日本語訳仏典}} *『[[南伝大蔵経]]』(全65巻70冊)[[大蔵出版]] **『律蔵』(5巻5冊) **『経蔵』(39巻42冊) **『論蔵』(14巻15冊) **『蔵外』(7巻8冊) *『[[新国訳大蔵経]]』 大蔵出版 **『インド撰述部』(既刊50冊) **『中国撰述部』(第一期全12冊) *『[[国訳一切経]]』(全255巻257冊)[[大東出版社]] **『印度撰述部』(全155巻155冊) **『和漢撰述部』(全100巻102冊) == 脚注・出典 == {{Reflist|refs= <ref name="下田2020">下田正弘「『正典概念とインド仏教史』を再考する―直線的歴史観からの解放―」、日本印度学仏教学会『印度學佛敎學硏究 第68巻 第2号』令和2年3月、pp.1043-1035</ref> }} == 参考文献 == * 『大蔵経:成立と変遷』大蔵会編([[京都市|京都]]:[[百華苑]]、[[1964年]]) * 『漢訳大蔵経の歴史:写経から刊経へ』[[竺沙雅章]][著](京都:[[大谷大学]]、[[1993年]]) * 『[[敦煌学]]とその周辺』第4回講座「漢訳大蔵経」[[藤枝晃]][講話](なにわ塾叢書51)([[大阪市|大阪]]:[[大阪府]]、[[1999年]]) * 「漢語仏典:その初期の成立状況をめぐって」船山徹([[京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センター]]編『漢籍はおもしろい』所収)([[東京都|東京]]:[[研文出版]]、[[2008年]]) == 関連項目 == * [[三蔵]]・[[一切経]]・[[大蔵経]] ** [[パーリ語経典]]([[南伝大蔵経]]) ** [[高麗八万大蔵経]] ** [[チベット大蔵経]] ** [[大正新脩大蔵経]] * [[大内盛見]] * [[道蔵]] * [[写経]] * [[読経]] * [[法 (仏教)]] * [[経塚]] * [[大正新脩大蔵経]] * [[チベット大蔵経]] * [[ガンダーラ語仏教写本]] == 外部リンク == * [http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~sat/ 『大正新脩大藏經』テキストデータベース (SAT)] * [http://www.daitopb.co.jp/15issaikyo.html 国訳一切経] * [http://www.sutrapearls.org/ 佛典妙供] * [http://www.cbeta.org/ 中華電子佛典協會 (CBETA)] {{仏教典籍}} {{buddhism2}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふつてん}} [[Category:仏典|*]]
2003-08-07T05:57:00Z
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軽井沢駅
軽井沢駅(かるいざわえき)は、長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・しなの鉄道の駅である。 長野県内の鉄道駅では最東端に位置する。事務管コードは▲510201を使用している。 1997年(平成9年)10月1日にJR東日本の北陸新幹線と、しなの鉄道のしなの鉄道線が乗り入れ、接続駅となった。 1997年(平成9年)9月30日まではJR東日本の信越本線の途中駅であったが、翌10月1日に北陸新幹線が長野駅まで開業した際、その並行在来線となった信越本線のうち、横川駅 - 当駅間は廃止された。当駅 - 篠ノ井駅間は経営分離されてしなの鉄道線となり、当駅がその起点となった。 旧信越本線の横川駅 - 当駅間(碓氷峠区間)には旧国鉄の最急勾配(66.7‰)が存在し、これを越えるためにこの区間を通過する列車はすべて、当駅で補助機関車を連結し、横川駅(群馬県)まで走行していた。 北陸新幹線(長野新幹線)開業前においては、信越本線は当駅から長野方面へ2つ先の信濃追分駅までが高崎支社の管内だったが、新幹線開業後の当駅は長野支社の管内となっている。 北陸新幹線(長野新幹線)の開業に伴い駅舎を全面改築し、軽井沢の代表的樹木「白樺」をイメージしてデザインされた橋上駅となった。旧駅舎は解体されたが、新駅舎開業後に明治期の姿を復元した(旧)軽井沢駅舎記念館が建てられ、2017年(平成29年)より改札口や出札窓口を新設して駅舎としても機能するようになった。また駅舎改築と同時に南北自由通路が設置され、両端部ともペデストリアンデッキにつながっている。北側にしなの鉄道、南側にJR東日本北陸新幹線の改札がある。 島式ホーム(310 m)2面4線を有する地上駅である。駅構内には自動改札機・みどりの窓口・自動券売機・指定席券売機・えきねっと券売機・売店(NewDays)がある。 なお、当駅は以前ホームドアが無かったため、列車接近時に列車案内放送とは別に、サウンドファクトリー製の発車メロディー、「海の駅」を使用した自動放送が流れる。 通過線はないが、駅東側(高崎方面)に急カーブ(半径800 m)があることで、通過列車のホーム通過速度がATC信号により100 km/h程度に減速されるためホームドアは開業当初から設置されていなかったが、のちに通過列車が走行する2・3番線ホームには可動式ホーム柵の設置工事が行われている。 駅の位置する標高は940.5 m。 (出典:JR東日本:駅構内図) 1面2線のホームを有する地上駅で、1番線が頭端式となっている。また、留置線を有している。ほとんどの定期電車は1番線を使うが、一部の電車のみが2番線を使う。 社員配置駅で、出札窓口、自動券売機(磁気券を発売)がある。 (出典:しなの鉄道:駅構内マップ) しなの鉄道は開業20周年の記念事業として2017年10月27日、旧駅舎口を開業した。実物の旧駅舎は、しなの鉄道に移管された1997年に取り壊されており、その窓枠や天井の一部を移築して2000年に復元した町立(旧)軽井沢駅舎記念館の建物を利用した。ホームとは木製廊下で結び、観光列車「ろくもん」乗客向けの「ろくもんラウンジ」、子供と一緒に遊べる有料待合室「森の子リスキッズくらぶ」、長野県小布施町の名物である栗菓子を出すカフェ「茶寮 幾右衛門」などを併設している。 しなの鉄道は2017年3月、軽井沢町より旧駅舎を借用して再び駅舎にする計画を発表し、改装を行った。2017年10月に旧駅舎(博物館だった建物)を駅として復活させ、改札口や駅事務所、ラウンジなどを設置。さらに1番線・2番線ホームと旧1番線ホームの間をデッキでつなぎ、レールバイクなどを設置する他、保存車両の中を改装してプラレールで遊べる空間を作るなど「3世代で遊べる遊園地」を設けた。さらに駅事務所が移転した後の現駅舎3階には2018年3月23日に、駅ナカ商業スペース「しなの屋KARUIZAWA」がオープンした。2018年3月に全事業完了。総事業費は約4億円。デザイナーには水戸岡鋭治を起用した。 元々は地元業者「油屋旅館弁当部」が駅弁を立売販売していた。ゴルフボールを模った容器に入った「ゴルフ弁当」やテニスのラケットの形をした容器に入った「テニスランチ」などが人気だったが1986年に撤退した。2016年現在では、おぎのやが替わりに出店している。2021年より、軽井沢の老舗そば処「高美亭」も駅弁の販売が開始され、2023年1月現在は2社体制で駅弁販売を行なっている。 主な駅弁は下記の通り。 しなの鉄道の改札前の待合室に併設されている駅そばは、JR東日本社員のアンケートで全国一となったことがある。おぎのやが営業しており、立ち食いそばとしては比較的珍しい、注文毎に生麺からゆでるタイプのものである。なお、駅そばの発祥が軽井沢駅という説がある。1893年に軽井沢-横川駅間に鉄道が開通した際、碓氷峠を越えるけん引専用の車両を付け替える間、駅のホームで弁当とそばを丼に盛り売って回ったのが始まりとされる。 2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。 軽井沢はコクド(現・プリンスホテル)が堤康次郎・堤義明の二代に渡って長年開発してきたため、西武系の施設が多く点在している。 群馬県との県境が近く草津町や嬬恋村の一部もこの駅の利用圏である。 いずれも北口側からの発着。
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軽井沢駅(かるいざわえき)は、長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・しなの鉄道の駅である。
{{駅情報 |社色 = |文字色 = |駅名 = 軽井沢駅 |画像 = Karuizawa sta04s3872.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 北口(2007年9月) |地図= {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300 |marker=rail|marker2=rail |coord={{coord|36|20|33.20|N|138|38|6.75|E}}|title=JR 軽井沢駅 |coord2={{coord|36|20|34.36|N|138|38|6.85|E}}|title2=しなの鉄道 軽井沢駅 |marker-color=008000|marker-color2=cc0000 }} |よみがな = かるいざわ |ローマ字 = Karuizawa |所属事業者= {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[しなの鉄道]]([[#しなの鉄道|駅詳細]])}} |所在地 = [[長野県]][[北佐久郡]][[軽井沢町]]大字軽井沢<ref name="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=518 |title=JR東日本:各駅情報(軽井沢駅) |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2015-03-31}}</ref><ref name="Shinmai12">[[#shinmai|長野県全駅]]、p.12。</ref><!--文献には大字は付いてないため両方出典として載せます--> |備考 = }} [[ファイル:220930 Karuizawa Station Karuizawa Nagano pref Japan02s.jpg|thumb|南口(2022年9月)]] '''軽井沢駅'''(かるいざわえき)は、[[長野県]][[北佐久郡]][[軽井沢町]]大字軽井沢にある<ref name="JR"/><ref name="Shinmai12"/>、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)<ref name="JR"/><ref name="Shinmai12"/>・[[しなの鉄道]]<ref name="Shinano">{{Cite web|和書|url=http://www.shinanorailway.co.jp/area/karuizawa.php |title=軽井沢駅 |publisher=しなの鉄道 |accessdate=2015-03-31}}</ref><ref name="Shinmai238">[[#shinmai|長野県全駅]]、p.238。</ref>の[[鉄道駅|駅]]である。 == 概要 == 長野県内の鉄道駅では最東端に位置する。[[事務管理コード|事務管コード]]は▲510201を使用している<ref>[http://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0510201 軽井沢駅(JRおでかけネット)]</ref>。 === 乗り入れ路線 === [[1997年]]([[平成]]9年)[[10月1日]]にJR東日本の[[北陸新幹線]]と、しなの鉄道の[[しなの鉄道線]]が乗り入れ、接続駅となった<ref group="新聞" name="shinmai-np-1997-10-1-3">“期待と不安乗せ しなの鉄道スタート” [[信濃毎日新聞]] (信濃毎日新聞社). (1997年10月1日)</ref>。 1997年(平成9年)[[9月30日]]まではJR東日本の[[信越本線]]の途中駅であったが、翌10月1日に北陸新幹線が[[長野駅]]まで開業した際、その[[並行在来線]]となった信越本線のうち、[[横川駅 (群馬県)|横川駅]] - 当駅間は廃止された<ref group="新聞" name="shinmai-np-1997-10-1-4">“信越線碓氷峠104年の歩みに幕 列車は思い出の中へ” [[信濃毎日新聞]] (信濃毎日新聞社). (1997年10月1日)</ref>。当駅 - [[篠ノ井駅]]間は経営分離されてしなの鉄道線となり、当駅がその起点となった<ref group="新聞" name="shinmai-np-1997-10-1-3" />。 == 歴史 == [[ファイル:JR Karuizawa Station platform 19970716.jpg|thumb|当駅 - 横川駅間廃止前の構内]] 旧信越本線の横川駅 - 当駅間(碓氷峠区間)には旧国鉄の最急勾配(66.7[[パーミル|‰]])が存在し、これを越えるためにこの区間を通過する列車はすべて、当駅で[[補助機関車]]を連結し、横川駅(群馬県)まで走行していた<ref group="新聞" name="shinmai-np-1997-10-1-4" />。 北陸新幹線(長野新幹線)開業前においては、信越本線は当駅から長野方面へ2つ先の[[信濃追分駅]]までが[[東日本旅客鉄道高崎支社|高崎支社]]の管内だったが、新幹線開業後の当駅は[[東日本旅客鉄道長野支社|長野支社]]の管内となっている。 === 年表 === [[ファイル:Karuizawa Station.1975.jpg|thumb|軽井沢駅周辺の空中写真(1975年10月撮影)<br />{{国土航空写真}}]] [[ファイル:Karuizawa Station.2005.jpg|thumb|軽井沢駅周辺の空中写真(2005年10月撮影)<br />{{国土航空写真}}]] * [[1888年]]([[明治]]21年) ** [[9月5日]]:[[碓氷馬車鉄道]] [[横川駅 (群馬県)|横川駅]] - 当駅間開通<ref name="地図帳3">『日本鉄道旅行地図帳 3号 関東1』新潮社 2008年7月18日 24頁</ref>。 ** [[12月1日]]<ref name="Shinmai238"/>:[[鉄道省|官設鉄道]] [[上田駅]] - 当駅間延伸開業。[[直江津駅]] - 当駅間の官設鉄道(後の[[信越本線]]→[[しなの鉄道線]])線の駅として、軽井沢駅開設<ref name="RP641-60">{{Cite journal|和書 |author = 祖田 圭介(鉄道総合技術研究所) |title = 横川駅と軽井沢駅の配線の今昔 |date = 1997-08 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 47 |issue = 8 |pages = 60-62 |publisher = 株式会社電気車研究会(鉄道図書刊行会) }}</ref>。 * [[1893年]](明治26年)[[4月1日]]:官設鉄道 横川駅 - 当駅間([[碓氷峠]]区間)、[[アプト式]][[ラック式鉄道|ラックレール]]を採用し開業<ref name="RP641-10">{{Cite journal|和書 |author = 小西 純一(信州大学工学部助教授) |title = 碓氷峠の鉄道をめぐる興味 |date = 1997-08 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 47 |issue = 8 |pages = 10-19 |publisher = 株式会社電気車研究会(鉄道図書刊行会) }}</ref>。碓氷馬車鉄道は使命を終えて廃線<ref name="地図帳3"/>。 * [[1901年]](明治34年)4月:官設鉄道 [[矢ヶ崎信号場|矢ヶ崎信号所]] - 当駅間複線化<ref name="RP641-10"/>。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定に伴い、当駅を含む[[高崎駅]] - [[新潟駅]]間が'''信越線'''(しんえつせん)と命名される<ref name="地図帳3"/>。 * [[1912年]](明治45年)[[5月11日]]:信越線 横川駅 - 当駅間が電化(直流600V・第三軌条式)<ref name="RP641-60"/>。日本初の幹線電化<ref name="RP641-60"/>。 * [[1914年]]([[大正]]3年)[[6月1日]]:当駅を含む信越線 高崎駅 - 新潟駅間が[[信越本線]]に改称<ref name="地図帳3"/>。 * [[1915年]](大正4年)[[7月22日]]:草軽軽便鉄道 [[新軽井沢駅]](当駅に隣接) - 小瀬駅(後の小瀬温泉駅)間開業<ref>[{{NDLDC|2953012/10}} 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年8月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1924年]](大正13年) ** [[2月15日]]:草軽軽便鉄道が草津電気鉄道に社名変更<ref name="地図帳3"/>。 ** [[11月1日]]:草津電気鉄道 新軽井沢駅 - 嬬恋駅間が電化。 * [[1939年]]([[昭和]]14年)4月28日:草津電気鉄道が[[草軽電気鉄道]]に社名変更<ref>{{Cite book |和書 |title=東京急行電鉄50年史 |publisher=東京急行電鉄株式会社 |date=1973-04-18 |page=1189}}</ref>。 * [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]:日本国有鉄道法施行に伴い、[[日本国有鉄道]](国鉄)に継承。 * [[1960年]](昭和35年)[[4月25日]]:草軽電気鉄道廃止<ref name="地図帳3"/>。 * [[1963年]](昭和38年) ** [[6月21日]]:信越本線 当駅 - 長野駅間が電化<ref name="RP641-60"/>。 ** [[7月15日]]:信越本線 横川駅 - 当駅間を[[国鉄EF63形電気機関車|EF63]]重連による粘着運転に切り替え、電圧を直流600Vから直流1500Vに昇圧<ref name="RP641-10"/>。 ** [[9月30日]]:信越本線 横川駅 - 当駅間のアプト式廃止<ref name="RP641-10"/>。 * [[1967年]](昭和42年)[[7月18日]]:信越本線 当駅 - [[中軽井沢駅]]間が複線化<ref name="RP641-60"/>。 * [[1972年]](昭和47年)[[2月19日]]:[[連合赤軍]]メンバー3人がホームで逮捕。警官から[[職務質問]]を受けた際、爆発物などを所持していた<ref>「過激派事件 軽井沢駅で4人逮捕」『朝日新聞』昭和47年(1972年)2月19日夕刊、3版、1面</ref>。 * [[1974年]](昭和49年)[[10月1日]]:営業範囲を「旅客、荷物、車扱貨物」へ変更<ref>1974年(昭和49年)9月12日日本国有鉄道公示第208号「駅の営業範囲の改正」</ref>。 * [[1982年]](昭和57年)[[11月15日]]:営業範囲を「旅客、荷物」へ変更<ref>1982年(昭和57年)11月13日日本国有鉄道公示第168号「駅の営業範囲の改正」</ref>。 * [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]]:営業範囲を「旅客」へ変更<ref>1984年(昭和59年)1月30日日本国有鉄道公示第174号「駅の営業範囲の改正」</ref>。 * [[1987年]](昭和62年) ** [[3月31日]]:営業範囲を「旅客、荷物(新聞紙に限る。)」へ変更<ref>1987年(昭和62年)2月5日日本国有鉄道公示第210号「駅の営業範囲の改正」</ref>。 ** 4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の駅となる<ref>{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=575}}</ref>。 * [[1997年]]([[平成]]9年)10月1日:JR東日本[[北陸新幹線]](長野新幹線)高崎駅 - 長野駅間開業<ref group="新聞" name="shinmai-np-1997-10-1-1">“信濃路に新風、一番列車 響く万歳、歓迎太鼓” [[信濃毎日新聞]] (信濃毎日新聞社). (1997年10月1日)</ref>。これに伴い、信越本線の横川駅 - 当駅間の碓氷峠区間は廃止され<ref group="新聞" name="shinmai-np-1997-10-1-4" />、[[ジェイアールバス関東]][[碓氷線]]に転換<ref group="新聞" name="shinmai-np-1997-10-1-5">“横川-軽井沢 代替バスほぼ満員に” [[信濃毎日新聞]] (信濃毎日新聞社). (1997年10月1日)</ref>。当駅 - [[篠ノ井駅]]間は[[しなの鉄道]]に移管し、[[しなの鉄道線]]に改称<ref group="新聞" name="shinmai-np-1997-10-1-3" />。 * [[1999年]](平成11年)[[5月26日]]:JR東日本が新幹線改札口に[[自動改札機]]を導入<ref>{{Cite web|和書|title=廃止後の碓氷線 平成11年5月23日 軽井沢駅|url=http://www.usui-toge.com/karuizawa/h11-05-23/index.htm|publisher=さよなら[[碓氷峠]]|accessdate=2017-05-31}}</ref>。 * [[2016年]](平成28年)[[3月26日]]:北陸新幹線で[[定期乗車券|Suica FREX/FREXパル]]が利用できるようになる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2015/20151214.pdf|title=Suica FREX 定期券をご利用いただける駅が増えます|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2015-12-21|accessdate=2020-05-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190715072502/https://www.jreast.co.jp/press/2015/20151214.pdf|archivedate=2019-07-15}}</ref>。 * [[2017年]](平成29年)[[10月27日]]:旧軽井沢駅舎記念館をしなの鉄道の駅舎として復元、使用開始する<ref group="報道" name="pr20170830">{{Cite press release|和書|url=https://www.shinanorailway.co.jp/news/20170830_karuizawa_ekinaka.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200703105725/https://www.shinanorailway.co.jp/news/20170830_karuizawa_ekinaka.pdf|format=PDF|language=日本語|title=しなの鉄道開業20周年記念事業 旧軽井沢駅舎が駅として復活します|publisher=しなの鉄道|date=2017-08-30|accessdate=2020-07-03|archivedate=2020-07-03}}</ref><ref group="報道" name="pr20171018">{{Cite press release|和書|url=https://www.shinanorailway.co.jp/news/20171018_karuizawa_open.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200704173936/https://www.shinanorailway.co.jp/news/20171018_karuizawa_open.pdf|format=PDF|language=日本語|title=軽井沢駅「駅ナカ」開発プロジェクト 第1弾 懐かしくて新しい軽井沢駅のオープンについて|publisher=しなの鉄道|date=2017-10-18|accessdate=2020-07-05|archivedate=2020-07-04}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月14日]]:[[えきねっと#新幹線eチケットサービス|新幹線eチケットサービス]]開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|title=「新幹線eチケットサービス」が始まります!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道/北海道旅客鉄道/西日本旅客鉄道|date=2020-02-04|accessdate=2020-05-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200524140435/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|archivedate=2020-05-24}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年) ** [[3月3日]]:当駅直結の「さわやかハット」内に駅ナカシェアオフィス「STATION BOOTH」が開業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.stationwork.jp/user/notices-before|title=お知らせ一覧 > 3/3(水)軽井沢駅にSTATION BOOTHが開業します!|publisher=STATION WORK|date=2021-03-02|accessdate=2021-03-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210303063738/https://www.stationwork.jp/user/notices-before|archivedate=2021-03-03}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201216_ho02.pdf|title=長野エリアのワーケーション推進「STATION WORK 長野」「STATION BOOTH 軽井沢」続々開業!! ~駅ビル「MIDORI 長野」にJR東日本初のセットアップ型オフィスが誕生します~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-12-16|accessdate=2020-12-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201216050234/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201216_ho02.pdf|archivedate=2020-12-16}}</ref><ref group="報道" name="press/20210208_ho04">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210208_ho04.pdf|title=STATION WORKは2020年度100カ所ネットワークへ ~東日本エリア全域へ一挙拡大。ホテルワーク・ジムワークなどの新たなワークスタイルを提案します~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-02-08|accessdate=2021-02-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210208053136/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210208_ho04.pdf|archivedate=2021-02-08}}</ref>。 ** [[3月13日]]:[[タッチでGo!新幹線]]のサービスを開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho01.pdf|title=タッチでGo!新幹線 サービスエリア拡大について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-11-12|accessdate=2020-11-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201113025314/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho01.pdf|archivedate=2020-11-13}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年) ** [[3月15日]]:廃線跡を利用した[[パーク24|タイムズ]]軽井沢駅前店が営業を終了<ref>[https://www.shinanorailway.co.jp/news/20230309_tmsp.pdf 【軽井沢駅】タイムズ軽井沢駅前店・営業終了のお知らせ]</ref>。 == 駅構造 == 北陸新幹線(長野新幹線)の開業に伴い駅舎を全面改築し、軽井沢の代表的樹木「[[白樺]]」をイメージしてデザインされた<ref group="新聞" name="shinmai-np-1997-10-1-1" />[[橋上駅]]となった<ref name="Shinmai238"/>。旧駅舎は解体されたが、新駅舎開業後に[[明治]]期の姿を復元した(旧)軽井沢駅舎記念館が建てられ<ref name="Shinmai238"/>、2017年(平成29年)より改札口や出札窓口を新設して駅舎としても機能するようになった<ref group="報道" name="pr20170830"/>。また駅舎改築と同時に南北自由通路が設置され、両端部とも[[ペデストリアンデッキ]]につながっている。北側にしなの鉄道、南側にJR東日本北陸新幹線の[[改札]]がある。 === JR東日本 === {{駅情報 |社色= #008000 |文字色= |駅名= JR 軽井沢駅 |画像= Karuizawa Station, nameplate.jpg |pxl= 300 |画像説明= 駅コンコースの銘板 |よみがな= かるいざわ |ローマ字= Karuizawa |前の駅= {{Refnest|group="*"|この間に[[東日本旅客鉄道高崎支社|高崎支社]]と[[東日本旅客鉄道長野支社|長野支社]]の[[JR支社境|境界]]あり(当駅から佐久平寄りは長野支社管内)。}}[[安中榛名駅|安中榛名]] |駅間A= 23.3 |駅間B= 17.6 |次の駅= [[佐久平駅|佐久平]] |電報略号= カル<ref name="Shinmai12"/> |所属事業者= [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)<ref name="JR"/><ref name="Shinmai12"/> |所属路線= {{color|green|■}}[[北陸新幹線]] |キロ程= 41.8&nbsp;km([[高崎駅|高崎]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から146.8 |起点駅= |所在地= [[長野県]][[北佐久郡]][[軽井沢町]]大字軽井沢<ref name="JR"/><ref name="Shinmai12"/>{{要出典範囲|1178|date=2015-03-31}} |座標= {{coord|36|20|33.20|N|138|38|6.75|E|region:JP-20_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 軽井沢駅}} |駅構造= [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム= 2面4線<ref name="Shinmai12"/> |開業年月日= [[1888年]]([[明治]]21年)[[12月1日]]{{Refnest|group="*"|JR東日本では新幹線開業日の[[1997年]]([[平成]]9年)[[10月1日]]としている<ref name="JR"/>。}}<ref name="zeneki14">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =14号 長野駅・新津駅・高田駅ほか |date =2012-11-11 |page =26 }}</ref> |廃止年月日= |乗車人員= 3,688<ref group="備考" name="passenger/2022" /> |統計年度= 2022年 |乗換= |備考= {{Plainlist| * [[直営駅]] * [[みどりの窓口]] 有 * 標高:940.5&nbsp;m<ref name="JREastEkimono"/>}} |備考全幅= {{Reflist|group="*"}} }} [[島式ホーム]](310&nbsp;m)2面4線を有する<ref name="Shinmai12"/>[[地上駅]]である。駅構内には[[自動改札機]]・[[みどりの窓口]]・[[自動券売機]]・[[指定席券売機]]・[[えきねっと]]券売機・売店([[NewDays]])がある。 なお、当駅は以前ホームドアが無かったため、列車接近時に列車案内放送とは別に、[[サウンドファクトリー]]製の発車メロディー、「海の駅」を使用した自動放送が流れる。 通過線はないが、駅東側(高崎方面)に急カーブ(半径800&nbsp;m)があることで、通過列車のホーム通過速度が[[自動列車制御装置|ATC]]信号により100&nbsp;km/h程度に減速されるため[[ホームドア]]は開業当初から設置されていなかった<ref name="Shinmai12"/>が、のちに通過列車が走行する2・3番線ホームには[[ホームドア#可動式ホーム柵|可動式ホーム柵]]の設置工事が行われている<ref>{{Cite news |author=[[鉄道ファン (雑誌)]]|date=2017年2月10日 |url=http://railf.jp/news/2017/02/11/201000.html |title=北陸新幹線軽井沢駅に可動式ホーム柵 |newspaper=railf.jp(鉄道ニュース)|publisher=[[交友社]] |accessdate=2017年2月12日}}</ref>。 駅の位置する標高は940.5&nbsp;m<ref name="JREastEkimono">[https://www.jreast.co.jp/nagano/trip/karuizawa/main.html 軽井沢駅] - 東日本旅客鉄道株式会社 長野支社(駅の小さな物語)、2015年8月6日閲覧。</ref>。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠--> {| rules="rows" class="wikitable" !番線!!路線!!方向!!行先 |- !1・2 |rowspan="2"|[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 北陸新幹線 | style="text-align:center" | 上り |[[高崎駅|高崎]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]・[[東京駅|東京]]<ref name="zeneki14"/>方面 |- !3・4 | style="text-align:center" | 下り |[[長野駅|長野]]<ref name="zeneki14"/>・[[富山駅|富山]]・[[金沢駅|金沢]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/518.html JR東日本:駅構内図]) * 2・3番線が本線、1・4番線が副本線(待避線)である。 * 平日に1本、当駅始発の長野行き「あさま699号」が運転されている。 * 当駅で通過列車の待ち合わせを行う場合は、待避線(1・4番線)に入線する。(上下列車とも臨時「あさま」号の一部が、臨時または定期列車で運転される「かがやき」号の運転日と重なる場合に限り、当駅で通過列車を待ち合わせる。) <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JR East・Shinano Railway Karuizawa Station Shinkansen Gates.jpg|新幹線改札口(2021年10月) JR East・Shinano Railway Karuizawa Station Shinkansen Platform 1・2.jpg|新幹線1番線・2番線ホーム(2021年10月) JR East・Shinano Railway Karuizawa Station Shinkansen Platform 3・4.jpg|新幹線3番線・4番線ホーム(2021年10月) </gallery> {{-}} === しなの鉄道 === {{出典の明記|section=1|date=2015年3月}} {{駅情報 |社色= #cc0000 |文字色= |駅名= しなの鉄道 軽井沢駅 |画像= 160730 Old Karuizawa Station Karuizawa Nagano pref Japan02s3.jpg |pxl= 300 |画像説明= 軽井沢駅旧駅舎記念館(2016年7月)<br/>現・しなの鉄道軽井沢駅旧駅舎口 |よみがな= かるいざわ |ローマ字= KARUIZAWA |前の駅 = |駅間A = |駅間B = 4.0 |次の駅 = [[中軽井沢駅|中軽井沢]] |電報略号= カル<ref name="Shinmai238"/> |所属事業者= [[しなの鉄道]] |所属路線= {{Color|#f0a401|■}}[[しなの鉄道線]] |キロ程= 0.0 |起点駅= 軽井沢 |所在地= [[長野県]][[北佐久郡]][[軽井沢町]]大字軽井沢<ref name="Shinmai238"/>1178<ref name="Shinano"/> |座標= {{coord|36|20|34.36|N|138|38|6.85|E|region:JP_type:railwaystation|name=しなの鉄道 軽井沢駅}} |駅構造= [[地上駅]]([[橋上駅]])<ref name="Shinmai238"/> |ホーム= 1面2線<ref name="Shinmai238"/> |開業年月日= [[1997年]]([[平成]]9年)[[10月1日]]{{Refnest|group="**"|北陸新幹線(長野新幹線)開業による並行在来線の経営分離により。}}<ref group="新聞" name="shinmai-np-1997-10-1-3" /> |廃止年月日= |乗車人員= 1,274<!--465,111÷365--> |乗降人員= |統計年度= 2022年 |乗換= |備考全幅= {{Reflist|group="**"}} }} {{駅情報 |社色= #ccc |文字色= #000 |駅名= 軽井沢駅 |画像= |pxl= |画像説明= |よみがな= かるいざわ |ローマ字= Karuizawa |前の駅= [[横川駅 (群馬県)|横川]] |駅間A= 11.2 |所属事業者= [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線= [[信越本線]] |キロ程= 40.9 |起点駅= 高崎 |開業年月日= [[1888年]]([[明治]]21年)[[12月1日]](篠ノ井・長野方面)<br />[[1893年]](明治26年)[[4月1日]](横川・高崎方面) |廃止年月日= [[1997年]]([[平成]]9年)[[10月1日]]{{Refnest|group="***"|北陸新幹線(長野新幹線)開業による並行在来線の経営分離により。現在、横川まではJRバス碓氷線が運行されている。}} |備考= |備考全幅= {{Reflist|group="***"}} }} 1面2線のホームを有する地上駅<ref name="Shinmai238"/>で、1番線が頭端式となっている。また、[[留置線]]を有している。ほとんどの定期電車は1番線を使うが、一部の電車のみが2番線を使う。 社員配置駅で、出札窓口、自動券売機(磁気券を発売)がある<ref name="Shinmai238"/>。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、しなの鉄道の「駅構内マップ」の記載に準拠--> {| rules="rows" class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!行先 |- !1・2 |{{Color|#f0a401|■}}しなの鉄道線 |[[長野駅|長野]]方面 |} (出典:[https://www.shinanorailway.co.jp/area/karuizawa.php しなの鉄道:駅構内マップ]) * しなの鉄道線の始発駅である<ref group="新聞" name="shinmai-np-1997-10-1-3" />。現在はホームの[[横川駅 (群馬県)|横川]]方に車止めが設置され(かつては[[国鉄EF63形電気機関車|EF63]]重連切り離し位置付近だったが、2020年ごろに中程に移設された)、[[碓氷峠#鉄道|碓氷峠]]区間および横川駅とは完全に分断されている。 ** 2023年4月から2024年1月31日まで横川方のホーム未使用部、線路、架線柱などの解体が行われている。 * しなの鉄道開業時から長らく、矢ヶ崎踏切付近には車止めが設置されており、線路も[[碓氷峠鉄道文化むら]]を経由して横川駅旧4番線へと繋がっていた<ref>「つい誰かに教えたくなる鉄道雑学」[[ベストセラーズ|KKベストセラーズ]]、P.3。</ref>。 * [[信越本線]]時代は単式1面1線の1番線、島式1面2線の3番線・4番線、[[機回し線]]、留置線など多数有していたが<ref name="RP641-60"/>、しなの鉄道になってから1番線は廃止され<ref name="Shinmai238"/>、3番線・4番線だったホームが1番線・2番線となっている。また、旧1番線にはEF63 2号機<ref name="Shinmai238"/>、[[国鉄EC40形電気機関車|アプト式電気機関車EC40]]<ref name="Shinmai238"/>、[[モーターカー|軌道モーターカー]]、[[マルチプルタイタンパー]]、[[国鉄165系電車#169系電車|169系電車]]が(旧)軽井沢駅舎記念館の展示物として保存されていた<ref name="Shinmai238"/>。その後旧駅舎口ゾーン工事に伴いモーターカーは解体、169系電車は移動の上で遊具として利用されることとなったが、2021年2月に撤去された。 * 発車メロディは[[カンノ製作所]]のもので信越本線時代からの発車メロディをそのまま利用している。ただし、ワンマン運転の場合は発車メロディは取り扱わず発車ベルや乗降促進メロディーが用いられる。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JR East・Shinano Railway Karuizawa Station Conventional Gates.jpg|新駅舎改札口(2021年10月) JR East・Shinano Railway Karuizawa Station Conventional Old Station building Gates.jpg|旧駅舎口改札(2021年10月) 160730 Karuizawa Station Karuizawa Nagano pref Japan08s3.jpg|ホーム(2016年7月) </gallery> ==== 旧駅舎口と駅ナカ商業スペースの開業 ==== しなの鉄道は開業20周年の記念事業として[[2017年]][[10月27日]]、旧駅舎口を開業した<ref group="報道" name="pr20170830"/><ref group="報道" name="pr20171018"/>。実物の旧駅舎は、しなの鉄道に移管された1997年に取り壊されており、その窓枠や天井の一部を移築して2000年に復元した町立(旧)軽井沢駅舎記念館の建物を利用した。ホームとは木製廊下で結び、観光列車「ろくもん」乗客向けの「ろくもんラウンジ」、子供と一緒に遊べる有料待合室「森の子リスキッズくらぶ」、長野県[[小布施町]]の名物である栗菓子を出すカフェ「茶寮 幾右衛門」などを併設している<ref group="報道" name="pr20170830"/><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://r.nikkei.com/article/DGXMZO22777110X21C17A0CC0000|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190327195327/https://r.nikkei.com/article/DGXMZO22777110X21C17A0CC0000|title=旧軽井沢駅舎の改札口復活 明治の面影残す記念館に|newspaper=日本経済新聞|date=2017-10-27|accessdate=2020-07-05|archivedate=2019-03-27}}</ref>。 しなの鉄道は2017年3月、軽井沢町より旧駅舎を借用して再び駅舎にする計画を発表し、改装を行った<ref group="新聞" name="news20170315"/>。2017年10月に旧駅舎(博物館だった建物)を駅として復活させ、改札口や駅事務所、ラウンジなどを設置。さらに1番線・2番線ホームと旧1番線ホームの間をデッキでつなぎ、レールバイクなどを設置する他、保存車両の中を改装して[[プラレール]]で遊べる空間を作るなど「3世代で遊べる遊園地」を設けた<ref group="新聞" name="news20170315">{{Cite news|url=http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20170315/KT170314SJI090004000.php|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170315051920/http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20170315/KT170314SJI090004000.php|title=3世代だんらん 軽井沢駅遊園地 しなの鉄道が開発|newspaper=信濃毎日新聞|date=2017-03-15|accessdate=2020-07-05|archivedate=2017-03-15}}</ref>。さらに駅事務所が移転した後の現駅舎3階には2018年3月23日に、[[駅ナカ]]商業スペース「しなの屋KARUIZAWA」がオープンした<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.shinanorailway.co.jp/news/20180315_karuizawa_open.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200703111230/https://www.shinanorailway.co.jp/news/20180315_karuizawa_open.pdf|format=PDF|language=日本語|title=軽井沢駅「駅ナカ」開発プロジェクト「森の小リスキッズステーションin軽井沢」&「しなの屋KARUIZAWA」のオープンについて|publisher=しなの鉄道|date=2018-03-15|accessdate=2020-07-03|archivedate=2020-07-03}}</ref><ref group="報道" name="pr20170830"/><ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20180316/KT180315SJI090014000.php|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180316042153/http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20180316/KT180315SJI090014000.php|title=しなの鉄道軽井沢駅、「駅ナカ」一新プロジェクト完了|newspaper=信濃毎日新聞|date=2018-03-16|accessdate=2020-07-05|archivedate=2018-03-16}}</ref>。2018年3月に全事業完了。総事業費は約4億円。デザイナーには[[水戸岡鋭治]]を起用した<ref group="報道" name="pr20170830"/>。 {{-}} == 駅弁 == 元々は地元業者「油屋旅館弁当部」が駅弁を立売販売していた。ゴルフボールを模った容器に入った「ゴルフ弁当」やテニスのラケットの形をした容器に入った「テニスランチ」<ref>『197駅320種 うまい駅弁味めぐり』[[弘済出版社]] (1986年)</ref>などが人気だったが[[1986年]]に撤退した。2016年現在では、[[荻野屋|おぎのや]]が替わりに出店している。2021年より、軽井沢の老舗そば処「高美亭」も駅弁の販売が開始され、2023年1月現在は2社体制で駅弁販売を行なっている。 主な[[駅弁]]は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=93,572}}</ref>。 * [[峠の釜めし]] * 峠の鳥もも弁当 * 玄米弁当 しなの鉄道の改札前の待合室に併設されている[[立ち食いそば・うどん店#駅そば|駅そば]]は、JR東日本社員のアンケートで全国一となったことがある。おぎのやが営業しており、立ち食いそばとしては比較的珍しい、注文毎に生麺からゆでるタイプのものである。なお、駅そばの発祥が軽井沢駅という説がある。1893年に軽井沢-横川駅間に鉄道が開通した際、碓氷峠を越えるけん引専用の車両を付け替える間、駅のホームで弁当とそばを丼に盛り売って回ったのが始まりとされる<ref>“[https://style.nikkei.com/article/DGXKZO08344690U6A011C1W02001/ 元祖ファストフード 「立ちそば」の進化がすごい]”NIKKEI STYLE(2016/10/21)</ref>。 == 利用状況 == * JR東日本 - 2022年度(令和4年度)の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''3,688人'''である<ref group="JR" name="passenger/2022_shinkansen" /><ref group="備考" name="passenger/2022" />。 * しなの鉄道 - 2022年度(令和4年度)の1日平均'''乗車'''人員は'''1,274人'''<!--465,111÷365-->である<ref group="軽井沢" name="r05_toukeisho"/>。 2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。 {|class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;" |- style="background: #ddd;" !colspan="3"|1日平均乗車人員推移 |- !年度 !JR東日本 !しなの鉄道 |- |2000年(平成12年) |2,502<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2000_02.html|title=各駅の乗車人員(2000年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-25}}</ref> |&nbsp; |- |2001年(平成13年) |2,550<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2001_02.html|title=各駅の乗車人員(2001年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-25}}</ref> |&nbsp; |- |2002年(平成14年) |2,375<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2002_02.html|title=各駅の乗車人員(2002年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-25}}</ref> |&nbsp; |- |2003年(平成15年) |2,354<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2003_02.html|title=各駅の乗車人員(2003年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-25}}</ref> |&nbsp; |- |2004年(平成16年) |2,385<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2004_02.html|title=各駅の乗車人員(2004年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-25}}</ref> |1,116<!--407,165÷365--><ref group="軽井沢" name="26toukei">{{Cite web|和書|url=http://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1528425604611/simple/26toukei.pdf|title=平成26年度 軽井沢町の統計|format=PDF|page=75|publisher=軽井沢町|date=2014-06|accessdate=2019-03-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190324160018/https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1528425604611/simple/26toukei.pdf|archivedate=2019-03-25}}</ref> |- |2005年(平成17年) |2,535<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2005_02.html|title=各駅の乗車人員(2005年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-25}}</ref> |1,140<!--415,998÷365--><ref group="軽井沢" name="26toukei" /> |- |2006年(平成18年) |2,624<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2006_02.html|title=各駅の乗車人員(2006年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-25}}</ref> |1,148<!--419,195÷365--><ref group="軽井沢" name="26toukei" /> |- |2007年(平成19年) |2,803<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2007_02.html|title=各駅の乗車人員(2007年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-25}}</ref> |1,182<!--432,776÷366(閏年)--><ref group="軽井沢" name="26toukei" /> |- |2008年(平成20年) |2,877<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2008_02.html|title=各駅の乗車人員(2008年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-25}}</ref> |1,143<!--417,063÷365--><ref group="軽井沢" name="26toukei" /> |- |2009年(平成21年) |2,728<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2009_02.html|title=各駅の乗車人員(2009年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-25}}</ref> |1,067<!--389,379÷365--><ref group="軽井沢" name="H30toukei" /> |- |2010年(平成22年) |2,718<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2010_02.html|title=各駅の乗車人員(2010年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-25}}</ref> |1,056<!--385,611÷365--><ref group="軽井沢" name="26toukei" /> |- |2011年(平成23年) |2,732<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2011_02.html|title=各駅の乗車人員(2011年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-25}}</ref> |1,096<!--401,176÷366(閏年)--><ref group="軽井沢" name="26toukei" /> |- |2012年(平成24年) |2,917<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-25}}</ref>{{Refnest|group="備考"|JR東日本集計の「各駅の乗車人員(2012年度)」では、2,889人と記載されている<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_04.html|title=各駅の乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>。}} |1,183<!--431,733÷365--><ref group="軽井沢" name="26toukei" /> |- |2013年(平成25年) |3,063<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2013年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-25}}</ref> |1,252<!--456,907÷365--><ref group="軽井沢" name="26toukei" /> |- |2014年(平成26年) |3,327<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2014年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-25}}</ref> |1,357<!--495,145÷365--><ref group="軽井沢" name="H30toukei" /> |- |2015年(平成27年) |3,559<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2015年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-25}}</ref> |1,364<!--499,186÷366(閏年)--><ref group="軽井沢" name="H30toukei" /> |- |2016年(平成28年) |3,670<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2016年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-25}}</ref>{{Refnest|group="備考"|JR東日本集計の「各駅の乗車人員(2016年度)」では、3,637人と記載されている<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_04.html|title=各駅の乗車人員(2016年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>。}} |1,386<!--506,008÷365--><ref group="軽井沢" name="H30toukei" /> |- |2017年(平成29年) |3,796<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2017年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-25}}</ref>{{Refnest|group="備考"|JR東日本集計の「各駅の乗車人員(2017年度)」では、3,772人と記載されている<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_03.html|title=各駅の乗車人員(2017年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>。}} |1,499<!--547,154÷365--><ref group="軽井沢" name="H30toukei">{{Cite web|和書|url=http://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1528425604611/simple/H30toukei.pdf|title=平成30年度 軽井沢町の統計|format=PDF|page=75|publisher=軽井沢町|date=2018-06|accessdate=2019-03-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190324154043/https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1528425604611/simple/H30toukei.pdf|archivedate=2019-03-25}}</ref> |- |2018年(平成30年) |4,013<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2018_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-09}}</ref>{{Refnest|group="備考"|JR東日本集計の「各駅の乗車人員(2018年度)」では、3,993人と記載されている<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_03.html|title=各駅の乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>。}} |1,621<!--591,812÷365--><ref group="軽井沢" name="R02toukei">{{Cite web|和書|url=https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1528425604611/simple/r02_toukeisho.pdf|title=令和2年度 軽井沢町の統計|format=PDF|page=75|publisher=軽井沢町|date=2020-06|accessdate=2020-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200703123324/https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1528425604611/simple/r02_toukeisho.pdf|archivedate=2020-07-03}}</ref> |- |2019年(令和元年) |4,042<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2019_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-07-11}}</ref>{{Refnest|group="備考"|JR東日本集計の「各駅の乗車人員(2019年度)」では、4,050人と記載されている<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_03.html|title=各駅の乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>。}} |1,524<!--557,897÷366(閏年)--><ref group="軽井沢" name="R02toukei"/> |- |2020年(令和{{0}}2年) |1,911<ref group="JR" name="passenger/2020_shinkansen">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2020_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2020年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>{{Refnest|group="備考"|name="passenger/2020"|JR東日本集計の「各駅の乗車人員(2020年度)」では、1,960人と記載されている<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_04.html|title=各駅の乗車人員(2020年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref>。}} |884<!--322,792÷365--><ref group="軽井沢" name="R03toukei">{{Cite web|和書|url=https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1528425604611/simple/r03_toukeisho.pdf|title=令和3年度 軽井沢町の統計|format=PDF|page=75|publisher=軽井沢町|date=2021-06|accessdate=2021-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210703051754/https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1528425604611/simple/r03_toukeisho.pdf|archivedate=2021-07-03}}</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |2,564<ref group="JR" name="passenger/2021_shinkansen">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2021_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2021年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-03}}</ref>{{Refnest|group="備考"|name="passenger/2021"|JR東日本集計の「各駅の乗車人員(2021年度)」では、2,601人と記載されている<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_04.html|title=各駅の乗車人員(2021年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-03}}</ref>。}} |1,029<!--375,405÷365--><ref group="軽井沢" name="R04toukei">{{Cite web|和書|url=https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1528425604611/simple/r04_toukeisho.pdf|title=令和4年度 軽井沢町の統計|format=PDF|page=73|publisher=軽井沢町|date=2022-06|accessdate=2023-07-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230710145601/https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1528425604611/simple/r04_toukeisho.pdf|archivedate=2023-07-10}}</ref> |- |2022年(令和{{0}}4年) |3,688<ref group="JR" name="passenger/2022_shinkansen">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2022_shinkansen.html|title=新幹線駅別乗車人員(2022年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-11}}</ref>{{Refnest|group="備考"|name="passenger/2022"|JR東日本集計の「各駅の乗車人員(2022年度)」では、3,729人と記載されている<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_03.html|title=各駅の乗車人員(2022年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-11}}</ref>。}} |1,274<!--465,111÷365--><ref group="軽井沢" name="r05_toukeisho">{{Cite web|和書|url=https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1528425604611/simple/r05_toukeisho.pdf|title=令和5年度 軽井沢町の統計|format=PDF|page=73|publisher=軽井沢町|date=2023-08-31|accessdate=2023-11-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231110142028/https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1528425604611/simple/r05_toukeisho.pdf|archivedate=2023-11-10}}</ref> |} ; 備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == 軽井沢は[[コクド]](現・プリンスホテル)が[[堤康次郎]]・[[堤義明]]の二代に渡って長年開発してきたため、西武系の施設が多く点在している。 {{columns-list|2| * [[ザ・プリンス]]軽井沢(旧・軽井沢プリンスホテル南館) * [[軽井沢プリンスホテル]] イースト/ウエスト - 2021年2月17日より、イーストにて、駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」の利用が可能(事前予約制)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.stationwork.jp/user/notices-before|title=お知らせ一覧 > 2/17(水)ホテルの利用可能施設が拡大します!|publisher=STATION WORK|date=2021-02-16|accessdate=2021-02-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210219065849/https://www.stationwork.jp/user/notices-before|archivedate=2021-02-19}}</ref><ref group="報道" name="press/20210208_ho04" />。 * [[軽井沢・プリンスショッピングプラザ]]<ref name="Shinmai12"/> * [[軽井沢72ゴルフ]] * 軽井沢プリンスホテルゴルフコース * [[軽井沢ゴルフ倶楽部]] * 晴山ゴルフ場 * 軽井沢プリンスボウル * [[軽井沢プリンスホテルスキー場]](例年[[11月1日]]ごろオープン。ICS(人工造雪機)により、プリンスホテル系列のスキー場としては最も早い) * 軽井沢・プリンスゆり園 * [[軽井沢大賀ホール]]<ref name="Shinmai12"/> * [[万平ホテル]] * [[旧三笠ホテル]]<ref name="Shinmai238"/> * [[旧軽井沢メインストリート]] * [[長野県道133号旧軽井沢軽井沢停車場線|三笠通り]] * [[八十二銀行]] * [[草軽交通]]本社 * [[軽井沢警察署]]<ref name="Shinmai238"/> |}} 群馬県との県境が近く[[草津町]]や[[嬬恋村]]の一部もこの駅の利用圏である。 == バス路線 == [[ファイル:JR-Bus-Kanto-M538-04406 Karuizawa Station bus stop 20130324.jpg|thumb|のりば5(JRバス関東碓氷線)]] いずれも北口側からの発着。 === 一般路線 === ; のりば1 * [[西武観光バス]] ** [[草津温泉]]行(浅間白根火山線) ** [[万座温泉|万座]]行(浅間白根火山線) ** [[西武観光バス|軽井沢営業所]]行(浅間白根火山線) ** [[軽井沢絵本の森美術館|絵本の森美術館]][[エルツおもちゃ博物館・軽井沢|エルツおもちゃ博物館]]行(急行塩沢湖線・季節運行) ** 観光循環バス(北コース・季節運行) ** 観光循環バス(南コース・季節運行) * [[長電バス]] ** ほたる温泉・蓮池・上林温泉口・渋温泉・[[湯田中駅]]・山ノ内町竜王ターミナル行(予約制・毎週土曜日運行)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nagadenbus.co.jp/nagaden_objetcs/express_img/exp_yamanouchi_karuizawa_ad.pdf|format=PDF|publisher=[[長電バス]]|title=山ノ内町と軽井沢駅を結ぶ新路線運行開始!|date=|accessdate=2014-10-18}}</ref> ; のりば2 * [[草軽交通]] ** 急行草津温泉行(急行草軽線・1本は各駅停車便) ** [[北軽井沢]]行(北軽井沢線) ; のりば4 * 西武観光バス ** 発地方面循環(南軽井沢線) * 軽井沢町内循環バス ** 発地方面循環(東・南廻り線) ; のりば5 * [[ジェイアールバス関東小諸支店|JRバス関東]] ** [[横川駅 (群馬県)|横川駅]]行([[碓氷線]])<ref name="Shinmai12"/> === 高速バス === ; のりば3 * [[西武バス]]・西武観光バス・[[千曲バス]] ** 川越的場・[[練馬駅]]・[[下落合駅]]・[[池袋駅|池袋駅東口]]行・[[サンシャインシティ|サンシャインシティプリンスホテル(池袋)]]行・[[ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町]]行([[千曲三線]]) ** 川越的場・練馬駅・下落合駅・池袋駅東口・[[バスタ新宿|バスタ新宿(新宿駅)]]行(千曲三線) * 千曲バス ** [[玉川上水駅|玉川上水駅北口]]・[[立川駅]]北口行([[上田・小諸 - 立川線|立川線]]) * 千曲バス・[[近鉄バス]] ** 「[[千曲川ライナー]]」[[京都駅]]八条口・[[東梅田駅]]([[大阪駅]]前)・[[大阪阿部野橋駅|大阪(あべの橋)]]・[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン|USJ]]行([[千曲川ライナー]]・夜行) * [[西武バス]]・[[上田バス]]・[[東急トランセ]]・[[京王バス]] ** [[渋谷マークシティ|渋谷マークシティ(渋谷駅)]]・[[二子玉川駅|二子玉川ライズ・楽天クリムゾンハウス(二子玉川駅)]]行 * 上田バス・[[東急バス]]・[[相鉄バス]] ** [[たまプラーザ駅]]・[[新横浜駅]]・[[横浜駅]]行 ; のりば5 * JRバス関東・[[西日本JRバス]] ** 京都駅烏丸口・大阪駅JR高速バスターミナル・USJ行([[青春ドリーム信州号]]・夜行) ;軽井沢駅北口(中山道沿い) * [[昌栄高速運輸]] ** バスタ新宿・[[東京駅のバス乗り場|東京駅(鍛冶橋駐車場)]]行(どっとこむライナー) ** [[長野駅]]・[[須坂長野東インターチェンジ|須坂インター]]ターミナル行(どっとこむライナー) == その他 == * [[事務管理コード|事務管コード]]は信越本線時代は▲411110を使用していた<ref>日本国有鉄道旅客局(1984)『鉄道・航路旅客運賃・料金算出表 昭和59年4月20日現行』。</ref>。 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 北陸新幹線 ::: [[安中榛名駅]] - '''軽井沢駅''' - [[佐久平駅]] ; しなの鉄道 : {{Color|#f0a401|■}}しなの鉄道線 :*特別快速「[[軽井沢リゾート号]]」・観光列車「[[ろくもん]]」発着駅 :: {{Color|red|□}}快速・{{Color|#0074be|■}}普通 ::: '''軽井沢駅''' - [[中軽井沢駅]] === かつて存在した路線 === ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : 信越本線 :: [[横川駅 (群馬県)|横川駅]] - <del>([[丸山信号場]])</del> - ([[熊ノ平信号場]]) - <del>([[矢ヶ崎信号場]])</del> - '''軽井沢駅''' == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === {{Reflist|3}} ==== 報道発表資料 ==== {{Reflist|group="報道"|2}} ==== 新聞記事 ==== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === ; JR東日本 {{Reflist|group="JR"|3}} ; しなの鉄道(軽井沢町の統計) {{Reflist|group="軽井沢"}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=信濃毎日新聞社出版部 |title=長野県鉄道全駅 増補改訂版 |publisher=信濃毎日新聞社 |date=2011-07-24 |isbn=9784784071647 |ref=shinmai}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Karuizawa Station}} {{Commons|Category:Old Karuizawa Station|旧軽井沢駅舎}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[横川駅 (群馬県)]] * [[碓氷峠]] * [[碓氷峠鉄道文化むら]] * [[日本の都道府県の東西南北端の駅の一覧]] * [[田立駅]] - 長野県最西端の駅。 * [[森宮野原駅]] - 長野県最北端の駅。 * [[中井侍駅]] - 長野県最南端の駅。 == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=518|name=軽井沢}} * [http://www.shinanorailway.co.jp/area/karuizawa.php しなの鉄道 軽井沢駅] ** [https://www.shinanorailway.co.jp/karuizawastation/ 懐かしくて新しい軽井沢駅 | しなの鉄道] {{北陸新幹線}} {{しなの鉄道線}} {{信越本線 (廃線区間)}} {{デフォルトソート:かるいさわ}} [[Category:長野県の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 か|るいさわ]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:しなの鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:1888年開業の鉄道駅]] 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キリスト教用語一覧
キリスト教用語一覧(キリストきょうようごいちらん)では、キリスト教に関係する用語の一覧を示す。 INDEX あ い う え お か き く け こ さ し す せ そ た ち つ て と な に ぬ ね の は ひ ふ へ ほ ま み む め も や ゆ よ ら り る れ ろ わ 英数字 一覧記事 アーメン - 愛 - アイルランド聖公会 - アヴィニョン捕囚 - アヴェ・マリア - アウグスティヌス - 贖い - アガペー - 悪魔 - 悪魔憑き - アッシジのフランチェスコ - アシュタロス - アタナシオス - アダムとイヴ - アドベント - アナバプテスト - アバドン - アブラハム - アブラハムの宗教 - アヴェロエス - アヴィケンナ - アポクリファ - アーミッシュ - アメイジング・グレイス - アメリカ正教会 - アモン人 - アリストテレス - アルクィン - アルシエル - アルメニア使徒教会 - アルビジョア十字軍 - アルミニウス主義 - アレイオス派 - アルベルトゥス・マグヌス - アレクサンドリア - アレクサンドリアのクレメンス - アレクサンドリアのフィロン - アレッサンドロ・ヴァリニャーノ - 荒野の誘惑 - アングリカン・コミュニオン - アンセルムス - 安息日 - アンティオキア - アンブロジウス - イエス・キリスト - イエスの洗礼 - イエズス会 - イギリス国教会 - イクトゥス - イグナチオ・デ・ロヨラ - 異言- イコノクラスム - イコノスタシス - イコン - イサク - イスカリオテのユダ - イスラエル - イスラム教 - イタリアのキリスト教 - 異端 - 異端審問 - 一般恩寵 - イヴ・コンガール - インジール ヴァレンティノス派 - ウィクリフ - ウィリアム・ティンダル - ウェールズ聖公会 - ヴォルムス協約 - ヴルガータ -ウリエル - ウルビ・エト・オルビ 詠隊 - エウアンゲリオン - エイレナイオス - エウセビオス - エキュメニカル - エキュメニズム - エクソシスト - 枝の主日 - エチオピア正教会 - エッセネ派 - エデンの園 - エピファニー - エホバ - エホバの証人 - エラスムス - エリウゲナ - エルサレム - エルサレム王国 - エルサレム教会 - エルサレム神殿 - 大浦天主堂 - 黄金律 - 大友宗麟 - 大斎 (おおものいみ) - オクシリンコス・パピルス - オッカムのウィリアム - オラショ -オリゲネス - オルレアンの乙女 - 恩恵 改革長老教会 - 戒規 - 改革派教会 - カイサリア - 会衆 -回心- 回勅 - 外典 - 会衆派教会 - 解放の神学 - 隠れキリシタン - カタリ派 - カテドラル - カトリック教会 - カトリック中央協議会 - カナン - カノン - ガブリエル - 神 - 神の愛の宣教者会 - 神の王国 - 神の子 - 神の母 - 神の長子 ガリカニスム - カリスマ運動 - ガリラヤ - カール・バルト - カール・ラーナー - カルケドン信条 - カルヴァン - カルメル会 - 韓国のキリスト教 - カンタベリー大主教 - カンタベリー大司教 - カンタベリーのアウグスティヌス 義 - 義人 - 奇跡 - 偽ディオニシウス・アレオパギタ - 機密 - 救済 - 救世軍 - 救世主 - 救世主イエス・キリスト - 旧約聖書 - 教会 - 教会建築 - 教会大分裂 - 教会堂 - 教会博士 - 教会法 - 教区 - 教皇 - 教皇首位説 - 教皇不可謬説 - 教皇領 - 教父 - キリシタン - キリシタン大名 - キリシタン版 - ギリシャ正教会 - キリスト - キリストの降誕 - キリストの昇天 - キリストの磔刑 - キリストの墓 - キリストを描いた映画 - キリスト教 - キリスト教根本主義 - キリスト教主義学校 - キリスト教の歴史 - キリスト教年表 - キリスト教民主主義 - キリスト教社会主義 - キリスト教右派 - キリスト教女子青年会 - キリスト教青年会 - キリスト教系の新宗教 - キリスト教民主同盟 - キリスト教綱要 - キリスト人間説 - キリスト論 - キング牧師 - 欽定訳聖書 偶像崇拝 - クエーカー - グーテンベルク聖書 - グノーシス主義 - クムラン - クリスチャン - クリスチャン・サイエンス - クリスチャン・シオニズム - クリスマス - クリュニー修道院 - グレゴリウス改革 - グレゴリオ聖歌 - グレゴリオ暦 - クレルヴォーのベルナルドゥス - グルジア正教会 - 黒い聖母 - 景教 - 慶長遣欧使節 - 契約の箱 - 獣の数字 - ケルト系キリスト教 - 堅信 - 原罪 - 原ニケア信条 - 元和の大殉教 - 権杖 - ゴイセン - 公会議 - 公会議主義 - 公現祭 - 口語訳聖書 - 降誕 - 公同書簡 - 交読 - 荒野の誘惑 - 克肖者 - 五旬節 - ゴスペル - 告解 - コプト正教会 - コプト語 - ゴモラ - ゴルゴダの丘 - ゴリアテ - コンコルダート - コンスタンティヌス1世 - コンスタンディヌーポリ総主教庁 - 根本主義 - コンマ・ヨハンネウム 最後の晩餐 - 最後の審判 - 祭司 - 再洗礼派 - 祭壇 - 再臨 - サヴォナローラ - サウル - サグラダ・ファミリア - サクラメント - サタン - サドカイ派 - サベリウス主義 - サマリア - サマリア人 - サムエル - サムソン - サレジオ会 - サロメ - サン・ヴィクトル学派 - 山上の垂訓 - サンティアゴ・デ・コンポステーラ - サン・ピエトロ大聖堂 - サンヘドリン - 賛美歌 - 三位一体 - シェオル - シオン - 死海 - 死海文書 - 司教 - 司教区 - 司教座聖堂 - 地獄 (キリスト教) - 司祭 - 死者の日 - 四旬節 - シスター - システィーナ礼拝堂 - シスマ - 至聖所 - 七十人訳聖書 - 自治正教会 - 十戒 - 執事 - 実体変化 - 失楽園 - 史的イエス - 熾天使 - 使徒 - 使徒行伝 - 使徒兄弟団 - シナイ山 - 詩篇 - 島原の乱 - 熱心党のシモン - 写本 - シャルトル学派 - ジャン・ジェルソン - ジャンヌ・ダルク - ジャンセニスム - 終末論 - 終油 - 修道院 - 修道会 - 修道士 - 修道女 - 宗教 - 宗教改革 - 宗教裁判 - 殉教 - 十字架 - 十字軍 - 十二大祭 - 自由心霊派 - 自由主義神学 - 主教 - 守護天使 - 守護聖人 - 首座主教 - 受胎告知 - 受難 - 主の祈り - 主の晩さん - 棕櫚の主日 - 巡礼 -巡礼始祖 - 掌院 - 誦経 (正教会) - 誦経者 - 生神女福音祭 - 昇天 - 少年十字軍 - 叙階 - 贖宥状 - 助祭 - 処女懐胎 - ジョスカン・デ・プレ - 諸聖人の日 - 叙任権闘争 - ジョン・ウィクリフ - シリア正教会 - 神学 - 神学校 - 『神学大全』 - 信仰覚醒運動 - 信仰義認 - 神殿奉献 - 新致命者 - 新トマス主義 - 神品 - 神品致命者 - 神父 - 新福音主義 - 新約聖書 - 新約聖書とイエスの歴史的受容 - 浸礼 - 神曲 枢機卿 - 救い主 - 過越 - スコラ学 - スコットランド聖公会 - スペロニ派 - 聖遺物 - 聖歌 - 聖骸布 - 政教条約 - 清教徒 - 聖金曜日 - 正教会 - 聖公会 - 聖告 - 聖痕 - 聖餐 - 聖餐論 - 聖女 - 聖書 - 聖書学 - 聖書無謬説 - 聖職位階 - 聖職禄 - 聖人 - 聖槍 - 聖像 - 聖像禁止令 - 聖像破壊運動 - 聖戦 - 聖体 - 聖体礼儀 - 聖地 - 正典 - 聖堂 - 聖土曜日 - 聖年 - 聖杯 - 聖別 - 西方教会 - 聖母の被昇天 - 聖母マリア - 聖名祝日 - 生命の樹 (旧約聖書) - 聖木曜日 - 聖ヨハネ騎士団 - 西暦 - 聖霊 - 聖霊降臨 - 聖霊派 - 世界教会協議会 - 世界基督教統一神霊協会 - 世界福音同盟 - セミナリヨ - セルビア正教会 - 宣教師 - 洗足木曜日 - 洗礼 - 洗礼者ヨハネ - 洗礼名 - 千年王国 - 総主教 - 創造論 - 創造科学 - ソドムとゴモラ - ソロモン王 - 大淫婦バビロン - 大韓聖公会 - 対抗改革 - 待降節 - 大罪 - 大斎 (だいさい) - 大司教 - 大主教 - 大聖堂 - 第二正典 - 第2バチカン公会議 - 太平天国の乱 - 対立教皇 - 托鉢修道会 - 磔刑 - ダニエル - ダビデ - 魂 - 単意論 - 単性説 - 単性論教会 - ダンテ・アリギエーリ - 知恵の樹 - 知恵文学 - 致命者 - チャペル - 長輔祭 -長老制 - 長老派教会 ツヴィングリ - 償い - 罪 - ディアスポラ - ディオクレティアヌス - ディダケー - デウス - テオトコス論争 - デキウス - テクストゥス・レセプトゥス - テゼ - テトスへの手紙 - テトラグラマトン - デミウルゴス - テモテ - テルトゥリアヌス - 典院 - 天国 - 天使 - 天正遣欧少年使節 - 天地創造 - 天父受苦説 - テンプル騎士団 - 典礼 - 典礼論争 ドイツ騎士団 - ドイツ神学 - 東方教会 - 東方諸教会 - 東方典礼カトリック教会 - 東西教会の分裂 - 統一教会 - ドゥンス・スコトゥス - 独立正教会 - トマス (使徒) - トマス派 - トマスによる福音書 - トマス・アクィナス - トマス・ア・ケンピス - トマス・ベケット - トマス・ミュンツアー - トマス・モア - ドミニコ会 - トーラー - トリエント公会議 - トリニティ - ドルト信仰基準 - ドルトレヒト会議 ナイジェリア聖公会 - ナグ・ハマディ写本 - ナザレ - ナジアンゾスのグレゴリオス - ナジル人 - 七つの大罪 ニカイア・コンスタンティノポリス信条 - ニコラウス・クザーヌス - 日本基督教団 - 日本ハリストス正教会 - 日本聖公会 - 日本聖書協会 - 日本二十六聖人 - ニュッサのグレゴリオス - ネオプラトニズム - ネストリウス派 - ネストリオス - 熱心党 - ネロ - ノア - ノアの方舟 - ノリッジのジュリアン - ノートルダム大聖堂 (パリ) - バアル - パウロ - パウロ書簡 - バシレイオス - パスハ - ハスモン朝 - バチカン - 八端十字架 - 伴天連 -バテレン追放令 - パニヒダ - ハバクク書 - バビロン捕囚 - バプテスト教会 - バプテスマ - パリ外国宣教会 - パリサイ人 - ハリストス - ハルマゲドン - パレスチナ - ハレルヤ - ハロウィン - 万聖節 - 晩祷 (正教会) - ヒエロニムス - ピエール・アベラール - ビザンティン帝国 - 非カルケドン派正教会 - 秘跡 - ピューリタン - ピルグリム・ファーザーズ - ヒルデガルト・フォン・ビンゲン - ファリサイ派 -ファウスト - フィレモンへの手紙 - フォティオス - 福音 - 福音記者 - 福音書 - 福音派 - 福音宣布協会 - 福者 - 不思議のメダイ - 府主教 - フス派 - 復活 - 復活祭 - 復活大祭 - 葡萄十字 - 踏絵 - フミリアティ - フランシスコ会 - フランシスコ・ザビエル - プレスター・ジョン - プロテスタント - プロティノス - ブルガリア正教会 - 文献批判 - 文語訳聖書 ベギン派 - ベツレヘム - ペトロ - ベネディクトゥス - ベネディクト会 - ヘブライ語 - ペラギウス主義 - ヘールト・フローテ - ベルゼブブ - ヘレニスト - ヘロデ・アンティパス - ヘロデ大王 - 辺獄 - ペンテコステ - ペンテコステ運動 - ヘンリク・デンツィンガー - ホーリネス運動 - ボゴミル派 - 牧師 - 輔祭 - 牧会書簡 - ボナヴェントゥラ - ポロキメン マイスター・エックハルト - マイモニデス - 埋葬式 - マカバイ記 - マカバイ戦争 - マギ - マグダラのマリア - 幕屋 - マケドニア正教会 - マザー・テレサ - 魔女 - 魔女狩り - マズダク教 - マソラ - マタイ - マタイによる福音書 - マタイ受難曲 - 末日聖徒イエス・キリスト教会 - マーティン・ルーサー・キング - マニ教 - マリア - マリア神学 - マリア会 - マルキオン - マルコ - マルコによる福音書 - マルタ騎士団 - マルティン・ルター - マロン典礼カトリック教会 - マンダ派 ミカエル - ミケランジェロ - 御子 - ミサ - ミサ曲 - ミサ・ソレムニス - ミッションスクール - ミトラ教 - ミトラ (司教冠) - ミトラ (宝冠) - ミラのニコラオス - ミラノ勅令 - ミルトン - 民数記 - 御名 - 御国 - 無教会主義 - 無原罪の御宿り - 無神論 - ムラトリ断片 - 名誉革命 - メイフラワー号 - 恵の座 - メサイア - メシア - メシアニック・ジュダイズム - メソジスト - メノナイト派 - メメント・モリ - メルキゼデク - 免罪符 モーセ - モーセ五書 - モーセの十戒 - 黙示 - 黙想 - モナルキア主義 - モラヴィア兄弟団 - モルモン教 - モン・サン・ミッシェル - モンタノス派 - モンテ・カッシーノ ヤコブ - ヤコブの手紙 -ヤコブ派 - ヤハヴェ - ヤムニア会議 - ヤンセニズム - ヤン・フス 唯一神 - 唯一神教 - ユグノー - ユスティノス - ユダの手紙 - ユダヤ - ユダヤ教 - ユダヤ人キリスト教徒 - ユダヤ人 - ユダヤ戦争 - ユニアット教会 - 幼児洗礼 - 佯狂者 - 預言者 - ヨセフ - 予定説 - 洗礼者ヨハネ - 使徒ヨハネ - ヨハネス・クリュソストモス - ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス - ヨハネによる福音書 - ヨハネの黙示録 - 養子的キリスト論 - ラテン語 - ラテン帝国 - ラテン・アヴェロエス派 - ラバルム - ランベンス四綱領 - 理神論 - 律法 - リベラル神学 - 流出説 -両性説 - リリス - ルーマニア正教会 - ルカによる福音書 - ルター聖書 - ルドルフ・オットー -ルドルフ・カール・ブルトマン - ルルド - 霊性 - 礼典 - 霊名日 - レクイエム - レコンキスタ - 列聖 - 列福 - 煉獄 - 廉施者 -連祷 - ローマ教皇(ローマ法王) - ロザリオ - ロシア正教会 - ロジャー・ベーコン - ロバート・グロステスト - ロラード派 - ロンギヌスの槍 - ヴァルド派 INRI - LXX - Q資料 - XP - YHWH - YMCA -YWCA - WACC - 12使徒 - 26聖人の殉教 - 666 - 7Q5 - 7つの大罪 - 70人訳聖書 -
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ノートルダム大聖堂 (パリ) -", "title": "な行" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "バアル - パウロ - パウロ書簡 - バシレイオス - パスハ - ハスモン朝 - バチカン - 八端十字架 - 伴天連 -バテレン追放令 - パニヒダ - ハバクク書 - バビロン捕囚 - バプテスト教会 - バプテスマ - パリ外国宣教会 - パリサイ人 - ハリストス - ハルマゲドン - パレスチナ - ハレルヤ - ハロウィン - 万聖節 - 晩祷 (正教会) -", "title": "は行" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ヒエロニムス - ピエール・アベラール - ビザンティン帝国 - 非カルケドン派正教会 - 秘跡 - ピューリタン - ピルグリム・ファーザーズ - ヒルデガルト・フォン・ビンゲン -", "title": "は行" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ファリサイ派 -ファウスト - フィレモンへの手紙 - フォティオス - 福音 - 福音記者 - 福音書 - 福音派 - 福音宣布協会 - 福者 - 不思議のメダイ - 府主教 - フス派 - 復活 - 復活祭 - 復活大祭 - 葡萄十字 - 踏絵 - フミリアティ - フランシスコ会 - フランシスコ・ザビエル - プレスター・ジョン - プロテスタント - プロティノス - ブルガリア正教会 - 文献批判 - 文語訳聖書", "title": "は行" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ベギン派 - ベツレヘム - ペトロ - ベネディクトゥス - ベネディクト会 - ヘブライ語 - ペラギウス主義 - ヘールト・フローテ - ベルゼブブ - ヘレニスト - ヘロデ・アンティパス - ヘロデ大王 - 辺獄 - ペンテコステ - ペンテコステ運動 - ヘンリク・デンツィンガー -", "title": "は行" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ホーリネス運動 - ボゴミル派 - 牧師 - 輔祭 - 牧会書簡 - ボナヴェントゥラ - ポロキメン", "title": "は行" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "マイスター・エックハルト - マイモニデス - 埋葬式 - マカバイ記 - マカバイ戦争 - マギ - マグダラのマリア - 幕屋 - マケドニア正教会 - マザー・テレサ - 魔女 - 魔女狩り - マズダク教 - マソラ - マタイ - マタイによる福音書 - マタイ受難曲 - 末日聖徒イエス・キリスト教会 - マーティン・ルーサー・キング - マニ教 - マリア - マリア神学 - マリア会 - マルキオン - マルコ - マルコによる福音書 - マルタ騎士団 - マルティン・ルター - マロン典礼カトリック教会 - マンダ派", "title": "ま行" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ミカエル - ミケランジェロ - 御子 - ミサ - ミサ曲 - ミサ・ソレムニス - ミッションスクール - ミトラ教 - ミトラ (司教冠) - ミトラ (宝冠) - ミラのニコラオス - ミラノ勅令 - ミルトン - 民数記 - 御名 - 御国 -", "title": "ま行" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "無教会主義 - 無原罪の御宿り - 無神論 - ムラトリ断片 -", "title": "ま行" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "名誉革命 - メイフラワー号 - 恵の座 - メサイア - メシア - メシアニック・ジュダイズム - メソジスト - メノナイト派 - メメント・モリ - メルキゼデク - 免罪符", "title": "ま行" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "モーセ - モーセ五書 - モーセの十戒 - 黙示 - 黙想 - モナルキア主義 - モラヴィア兄弟団 - モルモン教 - モン・サン・ミッシェル - モンタノス派 - モンテ・カッシーノ", "title": "ま行" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ヤコブ - ヤコブの手紙 -ヤコブ派 - ヤハヴェ - ヤムニア会議 - ヤンセニズム - ヤン・フス", "title": "や行" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "唯一神 - 唯一神教 - ユグノー - ユスティノス - ユダの手紙 - ユダヤ - ユダヤ教 - ユダヤ人キリスト教徒 - ユダヤ人 - ユダヤ戦争 - ユニアット教会 -", "title": "や行" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "幼児洗礼 - 佯狂者 - 預言者 - ヨセフ - 予定説 - 洗礼者ヨハネ - 使徒ヨハネ - ヨハネス・クリュソストモス - ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス - ヨハネによる福音書 - ヨハネの黙示録 - 養子的キリスト論 -", "title": "や行" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ラテン語 - ラテン帝国 - ラテン・アヴェロエス派 - ラバルム - ランベンス四綱領 -", "title": "ら行" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "理神論 - 律法 - リベラル神学 - 流出説 -両性説 - リリス -", "title": "ら行" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ルーマニア正教会 - ルカによる福音書 - ルター聖書 - ルドルフ・オットー -ルドルフ・カール・ブルトマン - ルルド -", "title": "ら行" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "霊性 - 礼典 - 霊名日 - レクイエム - レコンキスタ - 列聖 - 列福 - 煉獄 - 廉施者 -連祷 -", "title": "ら行" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ローマ教皇(ローマ法王) - ロザリオ - ロシア正教会 - ロジャー・ベーコン - ロバート・グロステスト - ロラード派 - ロンギヌスの槍 -", "title": "ら行" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ヴァルド派", "title": "わ行" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "INRI - LXX - Q資料 - XP - YHWH - YMCA -YWCA - WACC - 12使徒 - 26聖人の殉教 - 666 - 7Q5 - 7つの大罪 - 70人訳聖書 -", "title": "英数字" } ]
キリスト教用語一覧(キリストきょうようごいちらん)では、キリスト教に関係する用語の一覧を示す。
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主の祈り
主の祈り(しゅのいのり、ギリシア語: Κυριακή προσευχή、ラテン語: Oratio Dominica または冒頭句を取って Pater Noster、英語: Lord's Prayer)は、キリスト教の最も代表的な祈祷文である。「主祷文」(しゅとうぶん)とも。日本ハリストス正教会では「天主經」(てんしゅけい、天主経)と呼ばれる。 イエス・キリスト自身が弟子たちに教えたと新約聖書に記されている祈祷文であり、キリスト教のほぼすべての教派で唱えられている。 キリスト教は、神への祈りを捧げる時に唱える様々な定型文(祈祷文)を持っている教派も多い(その神学的地位、権威は教派によって異なる)が、どの文を正統な祈祷文と認めるかは教派によって異なり、またプロテスタントは定型文としての祈祷をほとんど持たないことも多い。その中で、主の祈りは唯一、イエス・キリストその人が「祈るときは...(中略)...こう祈りなさい」と言って弟子たちに与えたとされる祈祷文であり、教派によって文章や訳文の違いはあるものの、キリスト教のほとんどの教派で正統な祈祷文として認められている。新約聖書(福音書)には、イエスが祈り方と祈祷文を弟子たちに教える場面が書かれている。(マタイによる福音書6章6-13、ルカによる福音書11章2-4) 天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。 御国がきますように。 みこころが天に行われるとおり、 地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの食物を、 きょうもお与えください。 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、 わたしたちの負債をもおゆるしください。 わたしたちを試みに会わせないで、 祈祷文として用いられている文章は、おおよそ『マタイによる福音書』6章9-13に則っている。5章の「山上の説教」に続いて語られているもので、最初の3つの祈り(2 - 5行目)は神と天上に関する祈り、次の3つの祈り(6 - 10行目)は人間と地上に関する祈りである。また、最後の部分(11 - 13行目)は、一種の頌栄である。 「主の祈り」の最後の頌栄部分は、伝統的なラテン語訳聖書(ヴルガータ)には書かれておらず、ヒエロニムスがヴルガータを訳した時代よりも後の時代においてギリシア語聖書の『マタイによる福音書』6章13に付け加えられたものと考えられる。このため現代一般的に読まれている聖書では、福音書にこの部分は書かれていないが、宗教改革期に続々と各国語に訳され出版されたルター訳ドイツ語聖書や欽定訳英語聖書などでは、参照されたギリシア語聖書「テクストゥス・レセプトゥス」が中世のビザンチン写本を底本とした編纂であったため、頌栄部分が含まれた訳文が西方にも広まった。 カトリック以外の多くの教派では、この頌栄部分を「主の祈り」に含めて唱えているが、カトリック教会ではラテン語訳聖書(ヴルガータ)を規範としてきた伝統から、この頌栄を「主の祈り」に含めない。ただし、現行のミサ典礼文では、この頌栄に相当する文が「主の祈り」に続いて副文の結びとして唱えられる(後述)。 アラム語でイエスはおもに話したといわれているが、出典である福音書の原文はギリシア語であり、その後西方教会では古くからラテン語で唱えられてきたが、英語など各国語に訳される際、教派や時代によって訳語が少しずつ違ってきた。 カトリック教会で伝統的に唱えられてきたラテン語訳文には、上述の頌栄の部分はない。1960年代に開催された「第2バチカン公会議」までは、日本を含む全世界のカトリック教会のミサなどの典礼では、このラテン語文の祈りが唱えられてきた。 Pater noster, qui es in caelis, sanctificetur nomen tuum. Adveniat regnum tuum. Fiat voluntas tua sicut in caelo et in terra. Panem nostrum quotidianum da nobis hodie, Et dimitte nobis debita nostra, sicut et nos dimittimus debitoribus nostris. Et ne nos inducas in tentationem; sed libera nos a malo. [Quia tuum est regnum et potentia et gloria in saecula saeculorum.] Amen. Wessex Gospels(10–12世紀ごろ)における古英語への訳は、次のようになっている。 Fæder ure þu þe eart on heofonum, si þin nama gehalgod. To becume þin rice, gewurþe ðin willa, on eorðan swa swa on heofonum. Urne gedæghwamlican hlaf syle us todæg, and forgyf us ure gyltas, swa swa we forgyfað urum gyltendum. And ne gelæd þu us on costnunge, ac alys us of yfele. Soþlice. ジェームズ1世による欽定訳聖書における訳は以下のようになっている。 Our father which art in heauen, hallowed be thy name. Thy kingdome come. Thy will be done, in earth, as it is in heauen. Giue vs this day our daily bread. And forgiue vs our debts, as we forgiue our debters. And lead vs not into temptation, but deliuer vs from euill: For thine is the kingdome, and the power, and the glory, for euer, Amen. プロテスタント教会合同の現代風英語訳(Modern 1988 ELLC version)は、次のようになっている。 Our Father in heaven, hallowed be your name, your kingdom come, your will be done, on earth as in heaven. Give us today our daily bread. Forgive us our sins as we forgive those who sin against us. Save us from the time of trial and deliver us from evil. For the kingdom, the power, and the glory are yours now and for ever. Amen. 1662年版英国聖公会祈祷書では、次の訳が記録されている。 Our Father, which art in heaven, hallowed be thy name; thy kingdom come; thy will be done, in earth as it is in heaven. Give us this day our daily bread. And forgive us our trespasses, as we forgive them that trespass against us. And lead us not into temptation; but deliver us from evil. [For thine is the kingdom, the power, and the glory, for ever and ever.] Amen. その後の改訂で、「And forgive us our debts, as we forgive our debtors.」ともなったことがあり、このように唱える人たちも多い。なお、米国聖公会の祈祷書にある主の祈りの訳はここに記録。 (どちいりな・きりしたん,1592) ぱあてるなうすてる 天に御座ます我等が御親御名を貴まれ給へ。 御代來り給へ。 天におひて御をんたあで のままなるるがごとく、地におひてもあらせ給へ。 我等が日々の御養ひを今日与へ賜び給へ。 我等より負ひたる人に赦し申ごとく、我等負ひ奉る事を赦し給へ。 我らをてんたさん に放し玉ふことなかれ。 我等を凶悪より逃し給へ。 あめん。 (どちりなきりしたん,1600) ぱあてるのすてる てんにましますわれらが御おや御名をたつとまれたまへ。 御代きたりたまへ。 てんにおひておぼしめすまゝなるごとく、 ちにをひてもあらせたまへ。 われらが日々の御やしなひを今日われらにあたへたまへ。 われら人にゆるし申ごとく、われらがとがをゆるしたまへ。 われらをテンタサンにはなし玉ふことなかれ。 我等をけうあくよりのがしたまへ。 アメン。 (おらしよの翻訳,1600) ぱあてるなうすてるのおらしょ ぱあてるなうすてる きゑす いんせりす。 さんらひせつる なうめんつうん。 あつへにあつ れぬん つうん。 ひいあつ おるたんす つうあ。しいくつ いん せろ ゑつ いんてら。 ぱあねん なうすつるん こちゝあぬん だなうびす おぢゑ。 ゑつ ぢみて なうびす てびた なうすた□。 しいくつ ゑつ なうす ぢみちむす。でびたうりぷす なうすちりす。 ゑつ ね なうす いんづうかす いん てんたしやうね。 せつ □へら なうす あまろ。 あめん。 下記の訳文は、プロテスタント系の讃美歌集の多くに掲載されている文語訳(1954年改訂版には564番に掲載)のもので、現在でも多く用いられている。 天にまします我らの父よ。 ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。 御国〔みくに〕を来たらせたまえ。 みこころの天になるごとく、 地にもなさせたまえ。 我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。 我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、 我らの罪をもゆるしたまえ。 我らをこころみにあわせず、 悪より救い出〔いだ〕したまえ。 国と力と栄えとは、 限りなくなんじのものなればなり。 アーメン。 2000年に、日本のカトリック教会と日本聖公会では、独自の文語訳ないし口語訳から以下に紹介する共通口語訳を制定し、以降正式に用いている。 天におられるわたしたちの父よ、 み名が聖〔せい〕とされますように。 み国が来ますように。 みこころが天に行われるとおり 地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの糧を 今日もお与えください。 わたしたちの罪をおゆるしください。 わたしたちも人をゆるします。 わたしたちを誘惑におちいらせず、 悪からお救いください。 国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。 [アーメン] 斜字部分は、前述のとおりラテン語訳文になかったためカトリック教会では伝統的に「主の祈り」と見なさなかった部分で、カトリックの祈祷書などでは、エキュメニカル(超教派的)な集いなどで頌栄を続けて唱える場合の祈りとして紹介されている。カトリック教会では、この部分が主の祈りとして唱えられることはいまもほとんどなく、カトリックの現行のミサ典礼文や典礼聖歌集には、共通口語訳のうちこの部分を除いた祈りが掲載されている。ただし、ミサの中(ミサ典礼文)では、最後の「アーメン」を唱えず、後述のとおり司祭による副文と一同による栄唱(頌栄)が唱えられる。 聖公会では、1990年版の現行『日本聖公会祈祷書』の聖餐式の項においては、冒頭部分にルブリック(小さい文字で書かれる注釈)で「主の祈りを歌いまたは唱える」と書かれ、また斜線部分(頌栄)の直前にルブリックで「続けて次の祈りを歌いまた唱える」と書かれてあり、「主の祈り」の正文と頌栄部分を区別する意図が見られる。それ以前の文語版祈祷書では頌栄部分は含まれておらず、正文の末尾に「アーメン」を付す。。 カトリック教会のミサ典礼文では、ミサ聖祭中の「主の祈り」に限り、正文(斜線の手前まで)に続いて司祭が副文を唱え、その結びに、栄唱(頌栄部分)に相当する句を下記のように一同で唱える。続いて司祭が「教会に平和を求める祈り」を唱え、その結びに一同が「アーメン」と唱えるようになっている。 カトリック教会が、2000年2月15日まで使用していた主の祈り(主祷文)。現在は、公式には使用されていない。 天にましますわれらの父よ、 願わくは御名の尊まれんことを、 御国の来たらんことを、 御旨〔みむね〕の天に行わるる如く 地にも行われんことを。 われらの日用の糧を 今日〔こんにち〕われらに与え給え。 われらが人に赦す如く、 われらの罪を赦し給え。 われらを試みに引き給わざれ、 われらを悪より救い給え。 [アーメン] 東方教会へはおもに教会スラブ語を通して伝わっており、日本正教会では明治期にこの教会スラブ語(ロシア正教会で使用)から作成された独特の文語体を現在でも使用しており、天主経(てんしゅけい)と呼ぶ。頌栄の部分は、司祭がその場にいるかいないかで変わる。正教会では聖体礼儀などの奉神礼においてのみならず、食前や集会の始まりに天主経を用いる。多く集会の場では定められた単純な旋律にのせて歌われる。 天に在す我等の父や。 願は爾の名は聖とせられ。 爾の國は來り。 爾の旨は天に行はるるが如く、 地にも行はれん。 我が日用の糧を今日我等に與へ給へ。 我等に債ある者を我等免すが如く、 我等の債を免し給へ。 我等を誘に導かず、 猶我等を凶惡より救ひ給へ。 多くの教派が、その公祈祷に主の祈りを取り入れている。もっとも代表的なものは、ミサ・聖体礼儀などの聖餐を伴う祈祷である。ほかにも正教会においては晩課や各時課、カトリック教会でも聖務日課やロザリオの祈りの中でも唱えられる。具体的な配置についてはそれぞれの項目を参照。 主の祈りは、それを歌うように作曲され、聖歌ないし賛美歌ないし他の目的で歌われている。 など
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[For thine is the kingdom, the power, and the glory, for ever and ever.] Amen.", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その後の改訂で、「And forgive us our debts, as we forgive our debtors.」ともなったことがあり、このように唱える人たちも多い。なお、米国聖公会の祈祷書にある主の祈りの訳はここに記録。", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "(どちいりな・きりしたん,1592)", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ぱあてるなうすてる 天に御座ます我等が御親御名を貴まれ給へ。 御代來り給へ。 天におひて御をんたあで のままなるるがごとく、地におひてもあらせ給へ。 我等が日々の御養ひを今日与へ賜び給へ。 我等より負ひたる人に赦し申ごとく、我等負ひ奉る事を赦し給へ。 我らをてんたさん に放し玉ふことなかれ。 我等を凶悪より逃し給へ。 あめん。", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "(どちりなきりしたん,1600)", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ぱあてるのすてる てんにましますわれらが御おや御名をたつとまれたまへ。 御代きたりたまへ。 てんにおひておぼしめすまゝなるごとく、 ちにをひてもあらせたまへ。 われらが日々の御やしなひを今日われらにあたへたまへ。 われら人にゆるし申ごとく、われらがとがをゆるしたまへ。 われらをテンタサンにはなし玉ふことなかれ。 我等をけうあくよりのがしたまへ。 アメン。", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "(おらしよの翻訳,1600)", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ぱあてるなうすてるのおらしょ ぱあてるなうすてる きゑす いんせりす。 さんらひせつる なうめんつうん。 あつへにあつ れぬん つうん。 ひいあつ おるたんす つうあ。しいくつ いん せろ ゑつ いんてら。 ぱあねん なうすつるん こちゝあぬん だなうびす おぢゑ。 ゑつ ぢみて なうびす てびた なうすた□。 しいくつ ゑつ なうす ぢみちむす。でびたうりぷす なうすちりす。 ゑつ ね なうす いんづうかす いん てんたしやうね。 せつ □へら なうす あまろ。 あめん。", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "下記の訳文は、プロテスタント系の讃美歌集の多くに掲載されている文語訳(1954年改訂版には564番に掲載)のもので、現在でも多く用いられている。", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "天にまします我らの父よ。 ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。 御国〔みくに〕を来たらせたまえ。 みこころの天になるごとく、 地にもなさせたまえ。 我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。 我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、 我らの罪をもゆるしたまえ。 我らをこころみにあわせず、 悪より救い出〔いだ〕したまえ。 国と力と栄えとは、 限りなくなんじのものなればなり。 アーメン。", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2000年に、日本のカトリック教会と日本聖公会では、独自の文語訳ないし口語訳から以下に紹介する共通口語訳を制定し、以降正式に用いている。", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "天におられるわたしたちの父よ、 み名が聖〔せい〕とされますように。 み国が来ますように。 みこころが天に行われるとおり 地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの糧を 今日もお与えください。 わたしたちの罪をおゆるしください。 わたしたちも人をゆるします。 わたしたちを誘惑におちいらせず、 悪からお救いください。 国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。 [アーメン]", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "斜字部分は、前述のとおりラテン語訳文になかったためカトリック教会では伝統的に「主の祈り」と見なさなかった部分で、カトリックの祈祷書などでは、エキュメニカル(超教派的)な集いなどで頌栄を続けて唱える場合の祈りとして紹介されている。カトリック教会では、この部分が主の祈りとして唱えられることはいまもほとんどなく、カトリックの現行のミサ典礼文や典礼聖歌集には、共通口語訳のうちこの部分を除いた祈りが掲載されている。ただし、ミサの中(ミサ典礼文)では、最後の「アーメン」を唱えず、後述のとおり司祭による副文と一同による栄唱(頌栄)が唱えられる。", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "聖公会では、1990年版の現行『日本聖公会祈祷書』の聖餐式の項においては、冒頭部分にルブリック(小さい文字で書かれる注釈)で「主の祈りを歌いまたは唱える」と書かれ、また斜線部分(頌栄)の直前にルブリックで「続けて次の祈りを歌いまた唱える」と書かれてあり、「主の祈り」の正文と頌栄部分を区別する意図が見られる。それ以前の文語版祈祷書では頌栄部分は含まれておらず、正文の末尾に「アーメン」を付す。。", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "カトリック教会のミサ典礼文では、ミサ聖祭中の「主の祈り」に限り、正文(斜線の手前まで)に続いて司祭が副文を唱え、その結びに、栄唱(頌栄部分)に相当する句を下記のように一同で唱える。続いて司祭が「教会に平和を求める祈り」を唱え、その結びに一同が「アーメン」と唱えるようになっている。", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "カトリック教会が、2000年2月15日まで使用していた主の祈り(主祷文)。現在は、公式には使用されていない。", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "天にましますわれらの父よ、 願わくは御名の尊まれんことを、 御国の来たらんことを、 御旨〔みむね〕の天に行わるる如く 地にも行われんことを。 われらの日用の糧を 今日〔こんにち〕われらに与え給え。 われらが人に赦す如く、 われらの罪を赦し給え。 われらを試みに引き給わざれ、 われらを悪より救い給え。 [アーメン]", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "東方教会へはおもに教会スラブ語を通して伝わっており、日本正教会では明治期にこの教会スラブ語(ロシア正教会で使用)から作成された独特の文語体を現在でも使用しており、天主経(てんしゅけい)と呼ぶ。頌栄の部分は、司祭がその場にいるかいないかで変わる。正教会では聖体礼儀などの奉神礼においてのみならず、食前や集会の始まりに天主経を用いる。多く集会の場では定められた単純な旋律にのせて歌われる。", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "天に在す我等の父や。 願は爾の名は聖とせられ。 爾の國は來り。 爾の旨は天に行はるるが如く、 地にも行はれん。 我が日用の糧を今日我等に與へ給へ。 我等に債ある者を我等免すが如く、 我等の債を免し給へ。 我等を誘に導かず、 猶我等を凶惡より救ひ給へ。", "title": "訳文" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "多くの教派が、その公祈祷に主の祈りを取り入れている。もっとも代表的なものは、ミサ・聖体礼儀などの聖餐を伴う祈祷である。ほかにも正教会においては晩課や各時課、カトリック教会でも聖務日課やロザリオの祈りの中でも唱えられる。具体的な配置についてはそれぞれの項目を参照。", "title": "典礼上の使用" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "主の祈りは、それを歌うように作曲され、聖歌ないし賛美歌ないし他の目的で歌われている。", "title": "音楽に載せて" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "など", "title": "音楽に載せて" } ]
主の祈りは、キリスト教の最も代表的な祈祷文である。「主祷文」(しゅとうぶん)とも。日本ハリストス正教会では「天主經」(てんしゅけい、天主経)と呼ばれる。 イエス・キリスト自身が弟子たちに教えたと新約聖書に記されている祈祷文であり、キリスト教のほぼすべての教派で唱えられている。
{{特殊文字}} [[ファイル:Lord's Prayer greek.jpg|thumb|right|150px|[[エルサレム]]にある'''[[主の祈りの教会]]'''に掲げられているギリシャ語の「主の祈り」]] '''主の祈り'''(しゅのいのり、{{lang-el|Κυριακή προσευχή}}、{{lang-la|Oratio Dominica}} または冒頭句を取って {{Lang|la|Pater Noster}}、{{lang-en|Lord's Prayer}})は、[[キリスト教]]の最も代表的な祈祷文である。「'''主祷文'''」(しゅとうぶん)とも。[[日本ハリストス正教会]]では「'''天主經'''」(てんしゅけい、天主経)と呼ばれる。 [[イエス・キリスト]]自身が弟子たちに教えたと[[新約聖書]]に記されている祈祷文であり、キリスト教のほぼすべての[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]で唱えられている。 == 概説 == キリスト教は、神への祈りを捧げる時に唱える様々な定型文(祈祷文)を持っている教派も多い(その神学的地位、権威は教派によって異なる)が、どの文を正統な祈祷文と認めるかは[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]によって異なり、また[[プロテスタント]]は定型文としての祈祷をほとんど持たないことも多い。その中で、'''主の祈り'''は唯一、[[イエス・キリスト]]その人が「祈るときは…(中略)…こう祈りなさい」と言って弟子たちに与えたとされる祈祷文であり、教派によって文章や訳文の違いはあるものの、キリスト教のほとんどの教派で正統な祈祷文として認められている。[[新約聖書]]([[福音書]])には、イエスが祈り方と祈祷文を弟子たちに教える場面が書かれている。([[マタイによる福音書]][[s:マタイによる福音書(口語訳)#6:6|6章6-13]]、[[ルカによる福音書]][[s:ルカによる福音書(口語訳)#11:2|11章2-4]]) {{Quotation|あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい、 天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。 御国がきますように。 みこころが天に行われるとおり、 地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの食物を、 きょうもお与えください。 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、 わたしたちの負債をもおゆるしください。 わたしたちを試みに会わせないで、 悪しき者からお救いください。|[[s:マタイによる福音書(口語訳)#6:6|マタイによる福音書6章6節から13節(口語訳)]]}} == 構成 == {{wikisource|主の祈り}} 祈祷文として用いられている文章は、おおよそ『[[マタイによる福音書]]』6章9-13に則っている。5章の「[[山上の説教]]」に続いて語られているもので、最初の3つの祈り(2 - 5行目)は[[神]]と天上に関する祈り、次の3つの祈り(6 - 10行目)は[[人間]]と地上に関する祈りである。また、最後の部分(11 - 13行目)は、一種の[[頌栄]]である。 「主の祈り」の最後の[[頌栄#主の祈りの結びの頌栄|頌栄部分]]は、伝統的な[[ラテン語]]訳聖書([[ヴルガータ]])には書かれておらず、[[ヒエロニムス]]がヴルガータを訳した時代よりも後の時代においてギリシア語聖書の『マタイによる福音書』6章13に付け加えられたものと考えられる。このため現代一般的に読まれている聖書では、[[福音書]]にこの部分は書かれていないが<ref>[[プロテスタント]]の[[日本語訳聖書]]では、[[明治元訳聖書]]にはこの[[頌栄]]部分も書かれていたが、[[大正改訳聖書|大正改訳]]以降の聖書には書かれていない。</ref>、[[宗教改革]]期に続々と各国語に訳され出版された[[ルター聖書|ルター訳ドイツ語聖書]]や[[欽定訳聖書|欽定訳英語聖書]]などでは、参照されたギリシア語聖書「[[テクストゥス・レセプトゥス]]」が中世のビザンチン写本を底本とした編纂であったため、頌栄部分が含まれた訳文が西方にも広まった<ref>[http://kgur.kwansei.ac.jp/dspace/bitstream/10236/10679/1/40-8.pdf 「主の祈りに付加された頌栄の意味」原真和、『聖和論集』40号、2012年12月21日]</ref>。 [[カトリック教会|カトリック]]以外の多くの教派では、この頌栄部分を「主の祈り」に含めて唱えているが、カトリック教会ではラテン語訳聖書(ヴルガータ)を規範としてきた伝統から、この頌栄を「主の祈り」に含めない。ただし、現行のミサ典礼文では、この頌栄に相当する文が「主の祈り」に続いて副文の結びとして唱えられる([[#カトリックのミサにおける副文|後述]])。 == 訳文 == [[File:Pater Noster in Cantus Planus.png|250px|thumb|[[ラテン語]]の「主の祈り」([[グレゴリオ聖歌]]から) {{listen |filename=Schola Gregoriana-Pater Noster.ogg |title=主の祈り |description=[[グレゴリオ聖歌]]にある[[ラテン語]]の「主の祈り」 |format=[[Ogg]] |embed = yes |style = float:left }}]] [[アラム語]]で[[イエスが使った言語|イエスはおもに話した]]といわれているが、出典である[[福音書]]の原文は[[ギリシア語]]であり、その後[[西方教会]]では古くから[[ラテン語]]で唱えられてきたが、[[英語]]など各国語に訳される際、教派や時代によって訳語が少しずつ違ってきた。 === ラテン語訳 === [[カトリック教会]]で伝統的に唱えられてきたラテン語訳文には、上述の頌栄の部分はない。1960年代に開催された「[[第2バチカン公会議#典礼|第2バチカン公会議]]」までは、[[日本]]を含む全世界のカトリック教会の[[ミサ]]などの典礼では、このラテン語文の祈りが唱えられてきた。 <poem lang="la" xml:lang="la"> Pater noster, qui es in caelis, sanctificetur nomen tuum. Adveniat regnum tuum. Fiat voluntas tua sicut in caelo et in terra. Panem nostrum quotidianum da nobis hodie, Et dimitte nobis debita nostra, sicut et nos dimittimus debitoribus nostris. Et ne nos inducas in tentationem; sed libera nos a malo. [Quia tuum est regnum et potentia et gloria in saecula saeculorum.] Amen. </poem> === 英語訳 === ====古英語版==== Wessex Gospels(10–12世紀ごろ)における古英語への訳は、次のようになっている。 Fæder ure þu þe eart on heofonum, si þin nama gehalgod. To becume þin rice, gewurþe ðin willa, on eorðan swa swa on heofonum. Urne gedæghwamlican hlaf syle us todæg, and forgyf us ure gyltas, swa swa we forgyfað urum gyltendum. And ne gelæd þu us on costnunge, ac alys us of yfele. Soþlice.<ref>''The Anglo-Saxon Version of the Holy Gospels'', [[Benjamin Thorpe]], 1848, p.11.</ref> ==== 1611年KJV版 ==== [[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]による欽定訳聖書における訳は以下のようになっている。<ref>https://www.kingjamesbibleonline.org/1611_Matthew-Chapter-6/</ref> <poem lang="en" xml:lang="en"> :Our father which art in heauen, hallowed be thy name. :Thy kingdome come. Thy will be done, in earth, as it is in heauen. :Giue vs this day our daily bread. :And forgiue vs our debts, as we forgiue our debters. :And lead vs not into temptation, but deliuer vs from euill: For thine is the kingdome, and the power, and the glory, for euer, Amen. </poem> ==== 1988年ELLC版 ==== ''' '''プロテスタント教会合同の現代風英語訳(Modern 1988 [[:en:English Language Liturgical Consultation|ELLC]] version)は、次のようになっている。<ref name="名前なし-1">[[:en:Lord's Prayer#English versions]]</ref> <poem lang="en" xml:lang="en"> :Our Father in heaven, ::hallowed be your name, ::your kingdom come, ::your will be done, :::on earth as in heaven. :Give us today our daily bread. :Forgive us our sins ::as we forgive those who sin against us. :Save us from the time of trial ::and deliver us from evil. :For the kingdom, the power, and the glory are yours ::now and for ever. Amen. </poem> ==== 1662年版英国聖公会祈祷書 ==== [[聖公会祈祷書|1662年版英国聖公会祈祷書]]では、次の訳が記録されている。<ref name="名前なし-1"/> <poem lang="en" xml:lang="en"> Our Father, which art in heaven, hallowed be thy name; thy kingdom come; thy will be done, in earth as it is in heaven. Give us this day our daily bread. And forgive us our trespasses, as we forgive them that trespass against us. And lead us not into temptation; but deliver us from evil. [''For thine is the kingdom, ''the power, and the glory, ''for ever and ever.''] Amen. </poem> その後の改訂で、「And forgive us our debts, as we forgive our debtors.」ともなったことがあり、このように唱える人たちも多い。なお、[[米国聖公会]]の祈祷書にある主の祈りの訳は[[米国聖公会#主の祈り|ここに記録]]。 === 日本語訳 === ==== キリシタン訳 ==== (どちいりな・きりしたん,1592)<br> <poem lang="ja" xml:lang="ja"> <ruby><rb>'''ぱ'''</rb><rp>(</rp><rt>パ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>'''あ'''</rb><rp>(</rp><rt>ー</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>'''て'''</rb><rp>(</rp><rt>テ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>'''る'''</rb><rp>(</rp><rt>ル</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>'''な'''</rb><rp>(</rp><rt>ノ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>'''う'''</rb><rp>(</rp><rt>ー</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>'''す'''</rb><rp>(</rp><rt>ス</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>'''て'''</rb><rp>(</rp><rt>テ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>'''る'''</rb><rp>(</rp><rt>ル</rt><rp>)</rp></ruby> <ruby><rb>天</rb><rp>(</rp><rt>てん</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>御座</rb><rp>(</rp><rt>まし</rt><rp>)</rp></ruby>ます<ruby><rb>我</rb><rp>(</rp><rt>われ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>等</rb><rp>(</rp><rt>ら</rt><rp>)</rp></ruby>が<ruby><rb>御</rb><rp>(</rp><rt>おん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>親</rb><rp>(</rp><rt>おや</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>御</rb><rp>(</rp><rt>み</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>名</rb><rp>(</rp><rt>な</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>貴</rb><rp>(</rp><rt>たふと</rt><rp>)</rp></ruby>まれ<ruby><rb>給</rb><rp>(</rp><rt>たま</rt><rp>)</rp></ruby>へ。 <ruby><rb>御</rb><rp>(</rp><rt>み</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>代</rb><rp>(</rp><rt>よ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>來</rb><rp>(</rp><rt>きた</rt><rp>)</rp></ruby>り<ruby><rb>給</rb><rp>(</rp><rt>たま</rt><rp>)</rp></ruby>へ。 <ruby><rb>天</rb><rp>(</rp><rt>てん</rt><rp>)</rp></ruby>におひて<ruby><rb>御</rb><rp>(</rp><rt>ご</rt><rp>)</rp></ruby>''をんたあで'' のままなるるがごとく、<ruby><rb>地</rb><rp>(</rp><rt>ち</rt><rp>)</rp></ruby>におひてもあらせ<ruby><rb>給</rb><rp>(</rp><rt>たま</rt><rp>)</rp></ruby>へ。 <ruby><rb>我</rb><rp>(</rp><rt>われ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>等</rb><rp>(</rp><rt>ら</rt><rp>)</rp></ruby>が<ruby><rb>日</rb><rp>(</rp><rt>にち</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>々</rb><rp>(</rp><rt>にち</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>御</rb><rp>(</rp><rt>おん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>養</rb><rp>(</rp><rt>やしな</rt><rp>)</rp></ruby>ひを<ruby><rb>今</rb><rp>(</rp><rt>こん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>日</rb><rp>(</rp><rt>にち</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>与</rb><rp>(</rp><rt>あた</rt><rp>)</rp></ruby>へ<ruby><rb>賜</rb><rp>(</rp><rt>た</rt><rp>)</rp></ruby>び<ruby><rb>給</rb><rp>(</rp><rt>たま</rt><rp>)</rp></ruby>へ。 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<ruby><rb>我</rb><rp>(</rp><rt>われ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>等</rb><rp>(</rp><rt>ら</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>凶</rb><rp>(</rp><rt>けう</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>悪</rb><rp>(</rp><rt>あく</rt><rp>)</rp></ruby>より<ruby><rb>逃</rb><rp>(</rp><rt>のが</rt><rp>)</rp></ruby>し<ruby><rb>給</rb><rp>(</rp><rt>たま</rt><rp>)</rp></ruby>へ。 あめん。</poem> (どちりなきりしたん,1600)<br> <poem lang="ja" xml:lang="ja"> '''ぱあてるのすてる''' てんにましますわれらが<ruby><rb>御</rb><rp>(</rp><rt>おん</rt><rp>)</rp></ruby>おや<ruby><rb>御</rb><rp>(</rp><rt>み</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>名</rb><rp>(</rp><rt>な</rt><rp>)</rp></ruby>をたつとまれたまへ。 <ruby><rb>御</rb><rp>(</rp><rt>み</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>代</rb><rp>(</rp><rt>よ</rt><rp>)</rp></ruby>きたりたまへ。 てんにおひておぼしめすまゝなるごとく、 ちにをひてもあらせたまへ。 われらが<ruby><rb>日</rb><rp>(</rp><rt>にち</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>々</rb><rp>(</rp><rt>にち</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>御</rb><rp>(</rp><rt>おん</rt><rp>)</rp></ruby>やしなひを<ruby><rb>今</rb><rp>(</rp><rt>こん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>日</rb><rp>(</rp><rt>にち</rt><rp>)</rp></ruby>われらにあたへたまへ。 われら<ruby><rb>人</rb><rp>(</rp><rt>ひと</rt><rp>)</rp></ruby>にゆるし<ruby><rb>申</rb><rp>(</rp><rt>まうす</rt><rp>)</rp></ruby>ごとく、われらがとがをゆるしたまへ。 われらをテンタサンにはなし<ruby><rb>玉</rb><rp>(</rp><rt>たま</rt><rp>)</rp></ruby>ふことなかれ。 <ruby><rb>我</rb><rp>(</rp><rt>われ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>等</rb><rp>(</rp><rt>ら</rt><rp>)</rp></ruby>をけうあくよりのがしたまへ。 アメン。 </poem> (おらしよの翻訳,1600)<br> <poem lang="ja" xml:lang="ja"> '''ぱあてるなうすてるのおらしょ''' ぱあてるなうすてる きゑす いんせりす。 さんらひせつる なうめんつうん。 あつへにあつ れぬん つうん。 ひいあつ おるたんす つうあ。しいくつ いん せろ ゑつ いんてら。 ぱあねん なうすつるん こちゝあぬん だなうびす おぢゑ。 ゑつ ぢみて なうびす てびた なうすた□。 しいくつ ゑつ なうす ぢみちむす。でびたうりぷす なうすちりす。 ゑつ ね なうす いんづうかす いん てんたしやうね。 せつ □へら なうす あまろ。 あめん。 </poem> ==== プロテスタント訳(1880年) ==== 下記の訳文は、[[プロテスタント]]系の[[讃美歌]]集の多くに掲載されている文語訳(1954年改訂版には564番に掲載)のもので、現在でも多く用いられている。 <poem lang="ja" xml:lang="ja"> 天にまします我らの父よ。 ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。 御国〔みくに〕を来たらせたまえ。 みこころの天になるごとく、 地にもなさせたまえ。 我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。 我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、 我らの罪をもゆるしたまえ。 我らをこころみにあわせず、 悪より救い出〔いだ〕したまえ。 国と力と栄えとは、 限りなくなんじのものなればなり。 アーメン。 </poem> ==== カトリック教会と日本聖公会の共通口語訳 ==== [[2000年]]に、日本の[[カトリック教会]]と[[日本聖公会]]では、独自の文語訳ないし口語訳から以下に紹介する共通口語訳を制定し、以降正式に用いている。 <poem lang="ja" xml:lang="ja"> 天におられるわたしたちの父よ、 み名が聖〔せい〕とされますように。 み国が来ますように。 みこころが天に行われるとおり 地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの糧を 今日もお与えください。 わたしたちの罪をおゆるしください。 わたしたちも人をゆるします。 わたしたちを誘惑におちいらせず、 悪からお救いください。 ''国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。'' [アーメン] </poem> 斜字部分は、前述のとおり[[ラテン語]]訳文になかったためカトリック教会では伝統的に「主の祈り」と見なさなかった部分で、カトリックの祈祷書などでは、[[エキュメニズム|エキュメニカル]](超教派的)な集いなどで頌栄を続けて唱える場合の祈りとして紹介されている<ref>[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/prayers/00lordpr.htm 「主の祈り」] [[カトリック中央協議会]]</ref>。カトリック教会では、この部分が主の祈りとして唱えられることはいまもほとんどなく、カトリックの現行のミサ典礼文や典礼聖歌集には、共通口語訳のうちこの部分を除いた祈りが掲載されている。ただし、ミサの中(ミサ典礼文)では、最後の「アーメン」を唱えず、後述のとおり[[司祭]]による副文と一同による栄唱(頌栄)が唱えられる。 聖公会では、1990年版の現行『[[日本聖公会]]祈祷書』の聖餐式の項においては、冒頭部分にルブリック<small>(小さい文字で書かれる注釈)</small>で「主の祈りを歌いまたは唱える」と書かれ、また斜線部分(頌栄)の直前にルブリックで「続けて次の祈りを歌いまた唱える」と書かれてあり、「主の祈り」の正文と頌栄部分を区別する意図が見られる。それ以前の文語版祈祷書では頌栄部分は含まれておらず、正文の末尾に「アーメン」を付す。<ref>[{{NDLDC|824979/1}} 『日本聖公会祈祷書』明治29年版、157頁]</ref>。 ===== カトリックのミサにおける副文 ===== カトリック教会の[[ミサ]]典礼文では、ミサ聖祭中の「主の祈り」に限り、正文(斜線の手前まで)に続いて[[司祭]]が副文<ref group="注">「いつくしみ深い父よ、すべての悪から わたしたちを救い、現代に平和をお与えください。あなたのあわれみに支えられ、罪から解放されて、すべての困難にうち勝つことができますように。わたしたちの希望 救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。」</ref>を唱え、その結びに、栄唱(頌栄部分)に相当する句を下記のように一同で唱える。続いて司祭が「教会に平和を求める祈り」を唱え、その結びに一同が「アーメン」と唱えるようになっている。 :;カトリック口語訳 :''国と力と栄光は、かぎりなくあなたのもの'' :;ラテン語原文 :''Quia tuum est regnum, et potestas, et gloria in saecula.'' ==== カトリック教会の文語訳 ==== カトリック教会が、[[2000年]][[2月15日]]まで使用していた主の祈り(主祷文)。現在は、公式には使用されていない。 <poem lang="ja" xml:lang="ja"> 天にましますわれらの父よ、 願わくは御名の尊まれんことを、 御国の来たらんことを、 御旨〔みむね〕の天に行わるる如く 地にも行われんことを。 われらの日用の糧を 今日〔こんにち〕われらに与え給え。 われらが人に赦す如く、 われらの罪を赦し給え。 われらを試みに引き給わざれ、 われらを悪より救い給え。 [アーメン] </poem> ==== 日本正教会の「天主経」 ==== [[東方教会]]へはおもに[[教会スラブ語]]を通して伝わっており、[[日本ハリストス正教会|日本正教会]]では明治期にこの教会スラブ語(ロシア正教会で使用)から作成された独特の文語体を現在でも使用しており、'''天主経(てんしゅけい)'''と呼ぶ。[[頌栄]]の部分は、[[司祭]]がその場にいるかいないかで変わる。[[正教会]]では[[聖体礼儀]]などの[[奉神礼]]においてのみならず、食前や集会の始まりに天主経を用いる。多く集会の場では定められた単純な旋律にのせて歌われる。 <poem lang="ja" xml:lang="ja"> <ruby><rb>天</rb><rp>(</rp><rt>てん</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>在</rb><rp>(</rp><rt>いま</rt><rp>)</rp></ruby>す<ruby><rb>我</rb><rp>(</rp><rt>われ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>等</rb><rp>(</rp><rt>ら</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>父</rb><rp>(</rp><rt>ちち</rt><rp>)</rp></ruby>や。 <ruby><rb>願</rb><rp>(</rp><rt>ねがはく</rt><rp>)</rp></ruby>は<ruby><rb>爾</rb><rp>(</rp><rt>なんぢ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>名</rb><rp>(</rp><rt>な</rt><rp>)</rp></ruby>は<ruby><rb>聖</rb><rp>(</rp><rt>せい</rt><rp>)</rp></ruby>とせられ。 <ruby><rb>爾</rb><rp>(</rp><rt>なんぢ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>國</rb><rp>(</rp><rt>くに</rt><rp>)</rp></ruby>は<ruby><rb>來</rb><rp>(</rp><rt>きた</rt><rp>)</rp></ruby>り。 <ruby><rb>爾</rb><rp>(</rp><rt>なんぢ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>旨</rb><rp>(</rp><rt>むね</rt><rp>)</rp></ruby>は<ruby><rb>天</rb><rp>(</rp><rt>てん</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>行</rb><rp>(</rp><rt>おこな</rt><rp>)</rp></ruby>はるるが<ruby><rb>如</rb><rp>(</rp><rt>ごと</rt><rp>)</rp></ruby>く、 <ruby><rb>地</rb><rp>(</rp><rt>ち</rt><rp>)</rp></ruby>にも<ruby><rb>行</rb><rp>(</rp><rt>おこな</rt><rp>)</rp></ruby>はれん。 <ruby><rb>我</rb><rp>(</rp><rt>わ</rt><rp>)</rp></ruby>が<ruby><rb>日</rb><rp>(</rp><rt>にち</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>用</rb><rp>(</rp><rt>よう</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>糧</rb><rp>(</rp><rt>かて</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>今</rb><rp>(</rp><rt>こん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>日</rb><rp>(</rp><rt>にち</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>我</rb><rp>(</rp><rt>われ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>等</rb><rp>(</rp><rt>ら</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>與</rb><rp>(</rp><rt>あた</rt><rp>)</rp></ruby>へ<ruby><rb>給</rb><rp>(</rp><rt>たま</rt><rp>)</rp></ruby>へ。 <ruby><rb>我</rb><rp>(</rp><rt>われ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>等</rb><rp>(</rp><rt>ら</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>債</rb><rp>(</rp><rt>おひめ</rt><rp>)</rp></ruby>ある<ruby><rb>者</rb><rp>(</rp><rt>もの</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>我</rb><rp>(</rp><rt>われ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>等</rb><rp>(</rp><rt>ら</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>免</rb><rp>(</rp><rt>ゆる</rt><rp>)</rp></ruby>すが<ruby><rb>如</rb><rp>(</rp><rt>ごと</rt><rp>)</rp></ruby>く、 <ruby><rb>我</rb><rp>(</rp><rt>われ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>等</rb><rp>(</rp><rt>ら</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>債</rb><rp>(</rp><rt>おひめ</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>免</rb><rp>(</rp><rt>ゆる</rt><rp>)</rp></ruby>し<ruby><rb>給</rb><rp>(</rp><rt>たま</rt><rp>)</rp></ruby>へ。 <ruby><rb>我</rb><rp>(</rp><rt>われ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>等</rb><rp>(</rp><rt>ら</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>誘</rb><rp>(</rp><rt>いざなひ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>導</rb><rp>(</rp><rt>みちび</rt><rp>)</rp></ruby>かず、 <ruby><rb>猶</rb><rp>(</rp><rt>なほ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>我</rb><rp>(</rp><rt>われ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>等</rb><rp>(</rp><rt>ら</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>凶</rb><rp>(</rp><rt>きょう</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>惡</rb><rp>(</rp><rt>あく</rt><rp>)</rp></ruby>より<ruby><rb>救</rb><rp>(</rp><rt>すく</rt><rp>)</rp></ruby>ひ<ruby><rb>給</rb><rp>(</rp><rt>たま</rt><rp>)</rp></ruby>へ。 </poem> :;(司祭が居る場合、以下司祭朗誦・高声) :<ruby><rb>蓋</rb><rp>(</rp><rt>けだ</rt><rp>)</rp></ruby>し<ruby><rb>國</rb><rp>(</rp><rt>くに</rt><rp>)</rp></ruby>と<ruby><rb>權能</rb><rp>(</rp><rt>けんのう</rt><rp>)</rp></ruby>と<ruby><rb>光榮</rb><rp>(</rp><rt>こうえい</rt><rp>)</rp></ruby>は<ruby><rb>爾</rb><rp>(</rp><rt>なんぢ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>父</rb><rp>(</rp><rt>ちち</rt><rp>)</rp></ruby>と<ruby><rb>子</rb><rp>(</rp><rt>こ</rt><rp>)</rp></ruby>と<ruby><rb>聖神゜</rb><rp>(</rp><rt>せいしん</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>歸</rb><rp>(</rp><rt>き</rt><rp>)</rp></ruby>す、 :<ruby><rb>今</rb><rp>(</rp><rt>いま</rt><rp>)</rp></ruby>も<ruby><rb>何時</rb><rp>(</rp><rt>いつ</rt><rp>)</rp></ruby>も<ruby><rb>世々</rb><rp>(</rp><rt>よよ</rt><rp>)</rp></ruby>に。 :「アミン」。 :;(司祭がいない場合は以下、ただし唱えられないことも多い) :<ruby><rb>蓋</rb><rp>(</rp><rt>けだ</rt><rp>)</rp></ruby>し<ruby><rb>國</rb><rp>(</rp><rt>くに</rt><rp>)</rp></ruby>と<ruby><rb>權能</rb><rp>(</rp><rt>けんのう</rt><rp>)</rp></ruby>と<ruby><rb>光榮</rb><rp>(</rp><rt>こうえい</rt><rp>)</rp></ruby>は<ruby><rb>爾</rb><rp>(</rp><rt>なんぢ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>世々</rb><rp>(</rp><rt>よよ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>歸</rb><rp>(</rp><rt>き</rt><rp>)</rp></ruby>す「アミン」。 == 典礼上の使用 == 多くの教派が、その公祈祷に主の祈りを取り入れている。もっとも代表的なものは、[[ミサ]]・[[聖体礼儀]]などの[[聖餐]]を伴う祈祷である。ほかにも[[正教会]]においては[[晩課]]や各[[時課]]、[[カトリック教会]]でも[[聖務日課]]や[[ロザリオ]]の祈りの中でも唱えられる。具体的な配置についてはそれぞれの項目を参照。 ==音楽に載せて== 主の祈りは、それを歌うように作曲され、[[聖歌]]ないし[[賛美歌]]ないし他の目的で歌われている。 *9~10世紀:[[グレゴリオ聖歌]] ([[ラテン語]]) *1607年:[[ハンス・レーオ・ハスラー]] ([[ドイツ語]]) *1878年:[[ピョートル・チャイコフスキー]] ([[教会スラブ語]]) *1883年:[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ]] (同上) *1910年:[[セルゲイ・ラフマニノフ]] (同上) *1926年:[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]] (教会スラブ語 & その後[[ラテン語]]) *1944年:[[エルンスト・クルシェネク]]「五つの祈り」の定旋律([[ドローン (音楽)|ドローン]])として利用([[ラテン語]])但し、音楽は、別の音楽として作曲者が改変。 *1999年:[[:en:Paul Field (Christian singer)|Paul Field]] & Stephen Deal — 『[[:en:The Millennium Prayer|The Millennium Prayer]]』([[スコットランド]]民謡『[[ほたるの光]]』の曲で、歌手:[[クリフ・リチャード]])([[英語]]) *2000年:[[ジョン・タヴナー]] (英語) など == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == *[[主の祈りの教会]] ([[イスラエル]]・[[エルサレム]]) *[[聖マクシモス]] - 天主経(主の祈り)の註解を遺した[[聖人]]。 *[[ババイェツの歌]] - ゲーム「[[シヴィライゼーション#シヴィライゼーションIV|Sid Meier's Civilization IV]]」のオープニングテーマ。歌詞は主の祈りの[[スワヒリ語]]訳。 == 外部リンク == * [https://www.youtube.com/watch?v=VokSTvnFQqI グレゴリオ聖歌によるラテン語「主の祈り」]動画、[[ネウマ譜]]付き。 * [https://www.youtube.com/watch?v=HMPXKqymD30 英語による多声アンセム「主の祈り」]動画。[[ジョン・シェパード]]作曲。 * [https://www.youtube.com/watch?v=ubD4e_-hmG4 カトリック南山教会の現行口語訳版「主の祈り」]動画。 * [http://www.youtube.com/watch?v=HaxtIQBz7uo 横浜正教会(日本ハリストス正教会)の「天主経」(部分)]動画。「天にいます我らの父よ……地にも行われん」までを収録。   {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆのいのり}} [[Category:キリスト教用語]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:聖書の語句]] [[Category:ウルガタのラテン語の語句]] [[Category:キリスト教の祈り]] [[Category:イエス・キリストの教理と教え]] [[Category:マタイによる福音書]]
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ハイヤング11
ハイヤング11( - イレブン)は、KBS京都(当時 近畿放送)で放送された若者向け深夜ラジオ番組である。 KBS京都のこの時間帯の自主製作深夜番組は、ほとんど生放送だったが、この番組は放送開始から半年後の1979年10月の番組改編より録音番組となった。これは、前番組の日本列島ズバリリクエストで何度か放送中に不適切な発言があった為の措置と思われる。 パーソナリティには、ズバリクからの高石ともやや北山修(自切俳人)、西岡たかしといった関西の有名なフォークシンガー人脈の流れから、当時既に草の根フォークソングの重鎮であった笠木透や社会思想関係の著作がある大学教授の小関三平などが起用され真面目路線に転換していた。また、若宮てい子は、当時売り出し中のDJであったが、京阪神で聴ける深夜放送としては珍しく洋楽中心の番組編成であったこともあり、人気を得ていった。桂文珍の番組中では、「コセンちゃん」と呼ばれる番組ディレクターが徐々に表に出てくるようになってきた。
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ハイヤング11は、KBS京都で放送された若者向け深夜ラジオ番組である。 1979年4月に日本列島ズバリリクエストの後番組として開始。 1979年9月までは毎週月-土の23:00-24:30、1979年10月からは23:00-25:00放送。 1981年3月に終了。後番組はハイヤングKYOTO (第一期)。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年2月 | 雑多な内容の箇条書き = 2021年2月 | 内容過剰 = 2021年2月 }} {{RADIOLISTEN}} '''ハイヤング11'''( - イレブン)は、[[京都放送|KBS京都]](当時 [[京都放送|近畿放送]])で放送された若者向け[[深夜番組|深夜ラジオ番組]]である。 *[[1979年]]4月に[[日本列島ズバリリクエスト]]の後番組として開始。 *1979年9月までは毎週月-土の23:00-24:30、1979年10月からは23:00-25:00放送。 *[[1981年]]3月に終了。後番組は[[ハイヤングKYOTO (第一期)]]。 ==概要== KBS京都のこの時間帯の自主製作深夜番組は、ほとんど生放送だったが、この番組は放送開始から半年後の1979年10月の番組改編より録音番組となった。これは、前番組の[[日本列島ズバリリクエスト]]で何度か放送中に不適切な発言があった為の措置と思われる。 [[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]には、ズバリクからの[[高石ともや]]や[[北山修]](自切俳人)、[[西岡たかし]]といった関西の有名なフォークシンガー人脈の流れから、当時既に草の根フォークソングの重鎮であった[[笠木透]]や社会思想関係の著作がある大学教授の[[小関三平]]などが起用され真面目路線に転換していた。また、[[若宮テイ子|若宮てい子]]は、当時売り出し中のDJであったが、京阪神で聴ける深夜放送としては珍しく洋楽中心の番組編成であったこともあり、人気を得ていった。[[桂文珍]]の番組中では、「コセンちゃん」と呼ばれる番組ディレクターが徐々に表に出てくるようになってきた<ref>ラジオライフ 1981年3月号 p.94 - p.96</ref>。 ==主な担当パーソナリティ== ===月曜日=== *[[尾崎千秋]] (1979/4-1980/3) *[[西岡たかし]] (1980/4-1981/3) ===火曜日=== *[[桂文珍]] (1979/4-1981/3) ===水曜日=== *[[笠木透]] (1979/4-1981/3) ===木曜日=== *[[広見早苗]] (1979/4-1980/3) *[[若宮テイ子|若宮てい子]] (1980/4-1981/3) ===金曜日=== *[[ヒューマンズー]]([[自切俳人]]、[[高石ともや]]、[[杉田二郎]]) (1979/4-1981/3) ===土曜日=== *[[諸口あきら]] (1979/4-1980/3) *[[小関三平]] (1980/4-1981/3) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{KBS京都の夜ワイド番組}} {{DEFAULTSORT:はいやんくいれふん}} [[Category:KBS京都のラジオ帯番組]] [[Category:1979年のラジオ番組 (日本)]]
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ギブソン・レスポール
レスポール、レス・ポール・モデル(Les Paul Model)は、ギブソン社が1952年から製造・販売を行っているエレクトリック・ギター。フェンダー社のストラトキャスターモデルと並びエレキギターを代表するモデルとされる。 アメリカ合衆国のギタリスト、レス・ポールのアーティスト・モデルであり、本来は「レス・ポール・モデル」と呼ばれるべきであるが、日本では「レスポール」と表記するのが正しいとされ、輸入代理店もこの表記をとっている。 2022年現在、「LES PAUL」は楽器を指定商品としたギブソン・ブランズ・インクの登録商標であり公式に「レスポール」としてこのモデルを販売しているのはギブソンおよびギブソン傘下のエピフォンのみであるが、多数のメーカーから「レスポールタイプ」等として同形のコピー商品が販売されている。 レスポールはギブソン社初のソリッドギターであり、前述の通りレス・ポールとの共同開発の、彼のシグネチャーモデルである。レスポールとして最も知られているのはスタンダード、カスタムの2種類であるが、その他にもスペシャル、ジュニア、デラックス、スタジオ、クラシックなど多くのモデルが存在する。 共同開発とは言え、実際の開発はギブソン社にて行われた(レス・ポールが作成した“ログ”ギターは参考にしている)。レス・ポールからの中間プロトタイプに対するアドバイスは、ゴールドカラーの採用(高級に見える)と、自身がパテントを持つトラピーズブリッジの採用という程度でしかなかった。レス・ポールは表面のメイプル材を分厚くするように要求したが、非常に重くなってしまうこととコストがかさむ事から却下された。 基本的なデザインは高フレット部が弾きやすいようにネック付け根の下側が削られたシングル・カッタウェイのアーチドトップ・ボディにフロントとリアにふたつのピックアップを搭載、ネックは仕込み角をつけたセットネックで、それぞれのピックアップ専用のボリューム、トーンコントロールが備わっている。 当初、レスポールモデル(ゴールドトップ)には1952年から1956年までシングルコイルのP-90タイプを、1954年から1956年製のカスタムにはフロントにP-90とは全く違う内部構造と長方形のポールピースを持つアルニコV、リアにソープバータイプのP-90という組み合わせで、ピックアップが搭載されていたが、レスポールが有名になったのはやはり1957年モデルから採用された「P-490」ピックアップが搭載された頃からである。このピックアップはセス・ラヴァーの設計によるもので、シングルコイルを二つ並べたようなダブルコイル(いわゆるハムバッカー)となっている。コイル二つの巻く向きと磁極を逆にしてノイズをキャンセルする仕組みになっていて、副作用としてシングルコイルよりは高域特性が悪く、しかも大きな音が出ることになったが、これがレスポールタイプのギターの魅力となっている。このハムバッカー構造を持つピックアップは特許出願され、そのことを示す「特許出願中(Patent Applied For)」のシールが貼ってあったことからP.A.F.と呼ばれた。P.A.F.ピックアップはスタンダード・モデルとカスタム・モデルに採用されたが、廉価モデルであるジュニアとスペシャルにはP-90が搭載され続けた。P.A.F.ピックアップ製造開始の頃はコイル巻線機には自動停止機構が無かったため、巻線数は設計値(5000ターン)より多めで、しかも個体差が大きい。また、経年変化により発生するボビンの「樹脂痩せ」という現象の結果、コイル巻き線が製造当時より緩み、張力低下から巻線断面積や線間距離の増加を招く。これによる浮遊容量増加がサウンドに大きな影響を与えている。 すなわち、オリジナルのP.A.F.ピックアップの現在のサウンドは、製造時のばらつきによる初期個体差に加え、その後の経年変化が影響を与えてしまった結果によるものであり、一つひとつが異なった個性を持っている。したがって、それを人為的に復刻することは難しい。 また、後年のハードロック全盛期に、ピックアップ出力の増大や、音色変更(高音域の感度向上)を狙いピックアップ表面のニッケルかクローム製の金属カバーを取り外すことが流行し始めたが、その時になって樹脂ボビンが黒でなく白い個体が存在することが判明した。元々白い樹脂材料に黒着色剤を混ぜてボビン成型をしていたが、ボビン納入メーカーで1958年途中から1960年暮れにかけてこの着色剤が不足したためである。替わりの着色剤としては、他の樹脂パーツと同じクリーム色が用いられた。固定ポールピース側の黒ボビンが先に不足したため、まずそちらが白い個体が出始めた。そのうちアジャスタブル側ポールピースの黒ボビンも無くなり、両方白い個体が製造された。両方黒いものは通称「レギュラー」、片側が白いものは通称「ゼブラ」、両方白いものは通称「ダブルホワイト」と言う。前記のいきさつによって、ほとんどのゼブラは固定ポールピース側ボビンが白いが、きわめて稀に逆のゼブラが存在することも知られている。白いボビンが使用された時期はサンバーストカラーのレスポールの製造時期とほぼ重なり、後期ほど白ボビンの混入確率が高いことになるが、レスポール以外のモデルにも使用された上、ピックアップ単体で交換可能なため、ダブルホワイトやゼブラが付いていることで知られる有名個体でも最初から付いていたのか後年に移植されたのかを検証することは難しい。当然のことながら、ボビンの色がサウンドに影響することはない。 レスポールのブリッジ部は、特殊な物をのぞき3種類の仕様が存在する。ブリッジの変遷に合わせてネックの仕込み角も変化している。 この他、特注モデルでは顧客の注文に応じてビグスビーの各種トレモロ・ユニットが最初から装着される場合もあった。後付け改造モデル特有の標準ブリッジ取り付け穴を埋めた痕跡が無いことで判別可能である。 スタンダード・モデルは、ボディのバックにマホガニー、トップにハード・ロック・メイプル(別名イースタン・メイプル)という2種類の木材を貼り合わせた独特の構造を持つ。メイプル材1/2インチ(12.5mm)とマホガニー材1+3/4インチ(44.5mm)の厚みのバランスはサステイン持続量から決定された。開発途中では更なるサステインを求めたレス・ポールより厚さのバランスを逆にする意見も出たが、重すぎるという理由でギブソン社に却下された。一方、ネックはマホガニーワンピースを基本としながら、材料歩留まりを考慮してヘッド部両端は別ピースが接着されている(通称「耳貼り」)。1976年からの再発モデルにはメイプルネックも一時期存在した。カスタム・モデルやジュニアモデルはマホガニーボディである。初期のゴールドトップモデルでは、表面のメイプル材はランダムな幅の2 - 3ピースであったが、1958年のサンバースト塗装の適用に当たりバイオリン属のボディ裏面に見られるようなブックマッチの2ピースとされた。 ブックマッチを採用するためにはゴールドトップモデルの倍の厚さのメイプル素材が必要となる。それまでは1/2インチ厚に仕上げるために5/8インチ厚の素材を使用していたため、その倍ならば5/4インチという、当時の製材規格外れの厚さになってしまった。これに近い規格製材厚は床材等に使用される4/4インチであったが、切り開き鋸引き代やその後のカンナ代を考慮すると厚さ不足となる。妥協しなかったギブソン社であったが、製材の引き受け業者が中々見つからず、材料入手の困難に直面することとなった。このため、細々としか入荷しないメイプル材はカットロスを極力抑制する必要があり、さまざまな工夫がなされた(ただしメイプル材自体が貴重になった現在とは異なり、5/4インチ厚の板材が入手困難なだけであった点に留意されたい)。 一例として、切り開いた片側の板材のみがシミ、割れ等で不適であった場合でも残った片側の板を保管しておき、色合いが似た材(カラーマッチと呼ばれる)または、木目が似た材(パターンマッチと呼ばれる)を選別して組み合わせて使用された。クレームになりやすい(人間が認識しやすい)のは色の違いであるため、カラーマッチの方が優先された。また、ブックマッチの場合には、切り開いた材を組み合わせる関係上、片側が木表、片側が木裏となるが(木裏の方が若干くすんだ色味になる)、カラーマッチやパターンマッチの場合には、両方の材を木表で揃える(フリッチマッチ)ことも配慮されたため、ブックマッチ材ではない個体の材を総称してフリッチマッチと呼ぶことが多い。 メイプル材にはフィギュア、もしくは杢(もく)と呼ばれる様々な美しい模様が発生しているものがある。そのような材を持つオリジナルモデルは現在では非常に高価に取引されている。しかし、発売当時は特に注目もされておらず、ギブソン社自体、売りにもしていなかった点が興味深い。これは、フリッチマッチの個体の片側の材のみに杢があるものが少なくないことでも裏付けられている(マッチングの要件として杢は対象外であったことになる)。杢の人気を決定づけたのは、生産打ち切り後10年以上経った70年代当時の洋楽雑誌において、まだ白黒が一般的であったミュージシャンのステージ写真に、半ば実物以上に強く写り込むことで広く認知されたためであり、その後、80年代には異常な人気を博すまでに至る。特にフレイムを始めとした特別な杢目を持った個体は、希少価値のある個体として高価なオリジナルモデルの中でも更に高値で取引されるようになり、現在国内で取引されるオリジナルのスタンダードの価格は2000万円を超えるまでになってしまった。オリジナルのレスポールに現れている杢としては、トラ目、もしくはフレイム(炎)、ピンストライプと呼ばれる縞模様系がほとんどであり、バーズアイやキルトと呼ばれるものはごく稀でしかない(これは、当時使用されていたハード・ロック・メイプル材の杢の傾向でもある)。 レスポール表面はバイオリン属のようなアーチドトップ形状に仕上げられているが、これはメイプル材を削り込んで成型されている。このため折角のブックマッチによる左右対称木目模様はボディセンター部を残して失われてしまう。対称模様の崩れを目立たなくするには柾目の材を選別使用すれば良いわけであるが、先に述べたような材料入手性の悪さからそのような贅沢は出来なかった。板目材のモデルではフリッチマッチとの判別が困難なほど左右の乱れが大きいものも珍しくない。もっとも、板目材も使用されていた別の理由として、マホガニーとのラミネート構造のおかげで板目材に起こりやすい反りの心配がなかったという点もある。 一方で杢の観点から見れば、柾目材の杢は比較的単純なピンストライプが多く、フレイムのような人気の高いものは板目と柾目の中間の板取をされた追柾目材であることがほとんどである。板目材では杢は現れないのが普通であるが、ごく稀に存在する板目の杢は非常に不規則かつ大胆であり、コレクターに珍重されている。また、バーズアイは板目にしか存在しない。このような杢の個体が存在することになったのも、メイプル材の「倹約励行」がもたらした偶然によるものである。現存するオリジナルレスポールにおけるメイプル材の柾目、追柾目、板目それぞれの存在割合は、一本の丸太を端からスライスして板取していったときに出来る割合とほぼ等しいと言われている。 ちなみに現在では、ヒストリック・コレクションなどの高級モデルには、美しい杢材の入手性が比較的容易なソフト・メイプル(別名ウエスタン・メイプル)が使われている。これはハード・メイプルよりも軽く、軟らかい材なので音色にも影響を与える。 1952年の発売開始から1957年の中盤までゴールド・トップと呼ばれる金色のメタリック塗装を施されていたが、1958年後期から1960年にかけてはそれまでのソリッドカラーとは一線を画すサンバースト塗装と呼ばれるシースルーフィニッシュが施され、ボディ表面に使用されているハード・ロック・メイプルの木目が見えるようになった。以前のゴールドトップモデルと区別するために、新しいレスポールは「レスポールスタンダード」と呼ばれた。 サンバースト塗装を略してバースト塗装、もしくは単にバーストと呼ぶ場合もあるが、1958年-1960年のオリジナルレスポールスタンダードを指す愛称もバーストと呼ばれる。 スタンダードモデルの当初のサンバーストカラーは、下地として黄色塗装したボディに、アメリカンチェリーのような赤紫が、外縁から中央にかけて薄くなっていくグラデーションを掛けたものであった。チェリーレッドの塗装範囲は広く、ブックマッチの左右対称木目模様が崩れる部分をほとんど塗りつぶし目立たなくするよう工夫されていた。 下地の黄色は顔料系でありながら、木目を隠さない透過性を持つものが選ばれた。その上に塗られたチェリーレッドは、染料系の赤色と微量の濃紺色のブレンド塗料であったが、一般的な染料系塗料の例に漏れず、経年変化により褪色した。特に目立つわけでも無く注目もされていなかった杢が、褪色により美しく浮き出して見えるようになったのは、偶然の自然現象の積み重ねの結果によるものであった。 チェリーレッド塗膜の中では、特に赤色成分の褪色が早く、遅れて褪色する紺色成分や褪色しない下地の黄色層とのカラーバランスが変化して、表面ラッカー塗装の色焼けも加わり、紅茶のような茶色に見える変色をする場合が多かった(通称ティーバースト)。さらに褪色が進むと紺色成分も褪せていき、バースト塗装が辛うじて残っている状態(通称ハニーバースト)を経由して、最終的にはバースト塗装は完全に褪色する。この場合、顔料系であるため全く褪色しない下地の黄色層とアメ色に色焼けしたラッカー層の色のみが残ったオレンジ色(通称レモンドロップ)の状態に落ち着く。褪色のコンディションによっては、ティーバースト段階の後に、ごく稀に、赤色成分のみが先に完全に褪色することで外縁部が緑に見える通称グリーンバーストと呼ばれる状態になることもある。一方、メイプル材をブックマッチに切り開いた際、面の端の方にシミなどがあった場合、それがボデー外縁部になるようにブックマッチした上で、シミが目立たなくなるように通常のチェリーレッドよりも紺色成分を多くした暗い色を濃く塗装して誤魔化したモデルもあった(材の項目にある通り、メイプル材のカットロスを極力減らす必要があったからである)。これは、その後の褪色で外縁部が通称ダークバーストやタバコバーストと呼ばれる焦げ茶色となり、中には隠そうとしたシミが褪色で再び透けて見えている個体も存在する。 このチェリーレッドの褪色はバースト販売後1年程度という早い段階から発生し始め、顧客からのクレームにもなったため、1960年のモデル末期にはチェリー塗装も褪色しない顔料系に変更された。顔料系では塗料を混ぜるほど色が濁ってしまうため、単色の赤が選ばれた。顔料系ながら下地層の黄色同様に透過性があるため、若干オレンジがかって見える。これは今では通称60年チェリー、もしくはタンジェリンレッドと呼ばれ、現在でもほとんど褪色していない。1960年モデルはネックが薄くなったことでサウンド的にも59年までのモデルと異なるため、カラー、サウンドともに1958年、1959年よりは人気は低めであり、レプリカの対象とされることは少ない(それでもオリジナルの1960年モデルであれば超高額であることに変わりはない)。 表面ラッカー層は登場から現在まで一貫してニトロセルロースが使われている。経年変化については、一般的な「色焼け」と呼ばれる現象の他に、使用・保管状況によりニトロセルロースラッカー特有の現象である塗膜の細かなひび割れ(ウェザーチェック)が発生しているものがある。 この他、当時から特注モデルとして、白や黒のソリッドカラー、もしくはチェリーレッド単色のモデルが製作された。また、近年のアーティストモデルでは、演奏家の趣味に合わせた様々な塗装が採用されている。 一方、ボディ裏面やネックといったマホガニー材部分は、赤系の目止めを施した後に、表面と同じ染料系チェリーレッド塗装が施されている。こちらも経年変化により褪色し、茶色みを帯びた後に完全に消え、マホガニー材の材色に戻ってしまう。ただしマホガニー材自体が赤いため表面ほど褪色度合は目立たない。オリジナルモデルの裏面で興味の対象とされるのは、褪色ではなくベルトバックル傷と呼ばれる塗装の剥がれ位置である。ギターを高い位置に構えるジャズ系ミュージシャンのステージが主な活躍舞台であった場合、バックル傷は高音弦側になり、ハードロック系のそれはギターを低い位置に構えた結果、低音弦側の、それもボディ端になるといった具合に、そのギターが辿ってきた歴史が文字通り「刻まれて」いることが多い。 前述のように、レスポールは1952年に登場し、ブリッジ及びピックアップ、塗装の仕様変更を経て、1958年にその仕様が完成された。この1958-1960年製のサンバースト・モデルは現在では、エレクトリック・ギターの中でも最も高額な数千万円で取引されている個体群であるが、まだロックンロールが誕生して間もなかった発売当時の音楽シーンにおいては、サウンドにパワーがありすぎてコントロールしづらく、重量も重いということで、一般的な人気を得るには至らなかった。この結果、このオリジナルのサンバースト仕様は約1,400本製作された程度で製造中止となった。 1960年、ギブソンは、レスポールよりはるかに軽量なFender社のダブルカッタウェイデザインのStratocasterとの競争により、エレキギターの販売が減少した。それに応じて1961年、「レス・ポール・モデル」は、オールマホガニー材ソリッドボディのダブルカッタウェイの薄くて軽量でフラットなトップのボディとビブラートシステムを備えたブリッジにフルモデルチェンジ。ハイフレットへのアクセスをさらに容易にするために、ネックとボディの接続は22フレットに移動し、細いネックと小さなヒールを備えた。シンプルなボディ構造により製造コストは大幅に削減され、新しいレスポールは、"fastest neck in the world"を持っていると宣伝され販売したが、再設計はレスの知らないうちに行われたため、本人はこれに納得せず、彼との契約は打ち切られた。この結果、「レス・ポール・モデル」と指板とピックアップの間かトラスロッドカバーにロゴの入っているこの製品は1963年でロゴが削除され、ソリッドボディのこのギターはSG(「ソリッドギター」の略の意味)として継続して生産され続けている。 1964年、レスポールスタンダードへの関心が再び高まった。ローリング・ストーンズのキース・リチャーズはビグスビートレモロテールピースを装備した1959レスポールスタンダードの使用を開始し、イギリスのシーンでレスポールを演奏する最初の「スターギタリスト」になり、ブリティッシュブルースブームのレスポールの使用に弾みを与えた。1966年、フレディ・キングとヒューバート・サムリンに影響を受けたエリック・クラプトンが、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズのアルバム『ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン(Blues Breakers with Eric Clapton)』に参加した曲で聴ける、レスポールとマーシャルアンプの組み合わせによるディストーション・サウンドは「極上のサウンド」と絶賛された。そして、その組み合わせはそれ以後のブルース・ロック、ハードロックサウンドに不可欠なものとなった。この時期、ピーター・グリーンやマイク・ブルームフィールド、ミック・テイラーなどが、相次いでレスポールを使い始めた。 ロック・ギタリスト達による再評価を受けて、レスポールの需要が再び高まると、ギブソンはポールと再契約の上、1968年にスタンダード(ゴールドトップ塗装、P-90ピックアップ搭載モデル)、カスタムの両モデルを再発した。しかし1969年以降、「デラックス」や「プロフェッショナル」「レコーディング」などの新しいシリーズを発売したものの、SGモデルが定着した以外は商業的には不成功に終わっている。 1969年、ギブソンの親会社(シカゴ楽器)がコングロマリットECLに買収された。ギブソンは、1974年にNorlin Musical Instrumentsの子会社になるまで、CMI(Chicago Musical Instruments)の管理下にあり、これらの所有権の変更は、「Norlin Era」と呼ばれることが多く、当時のギブソン製品の品質が低下、レスポールも仕様が変更され、ネックの破損を減らすためにヘッドの付け根裏側にボリュートの膨らみが追加された。ネックの材はワンピースのマホガニーからスリーピースのメイプルに変更され、ボディも、メイプルトップを貼ったワンピースマホガニーから、複数のメイプルトップ+マホガニーの複数のスラブに変更された。これは「マルチピース」構造と呼ばれ、「パンケーキ」ボディと呼ばれることもある。「パンケーキボディ」という表現は、実際には、マホガニーの2つのスラブの間にメイプルの薄い層を挟み、メイプルトップで作ったボディを指す。メイプルの粒はマホガニーの粒に対して90度に配置され、「パンケーキ」ギターの端を見ると、層のようなものがはっきりと見える。この製法は「クロスバンディング」とも呼ばれ、安価で容易に入手できる薄いマホガニーを消費するために行われ、1977年までこの仕様で生産された。 この時代に、ギブソンはレスポールレコーディングなどの新しいモデルの試みを始め、たがその複雑な電子回路のため、一般のギタリストには不評だった。他の目立たない変更には、オプションのメイプル指板(1976年)、ピックアップキャビティのシールド、およびABR1 Tune-o-maticブリッジより大きいナッシュビルブリッジへの変更等があったが、1970年代、レスポールの大系は、S-1、ソネックス、L6-S、およびクラシックなレスポールの派生ではない他のギブソンモデルに組み込まれた。 1970年代に入るとレッド・ツェッペリンのジミー・ペイジがメイン機材をテレキャスターからレスポールに持ち替え、レスポールの人気をさらに高めた。長いストラップで腰よりも低い位置で、58年製のバーストを弾く姿は、当時のギターキッズたちに「レスポールは低い位置で弾くもの」という流行を生んだ。他にもポール・コゾフやピーター・グリーン、ミック・ロンソン、エース・フレーリー 、ミック・テイラー、ディッキー・ベッツなどの名立たるギタリスト達がレスポールを愛用した。 1970年代後半のフュージョン・ブーム、さらに1980年代のLAメタルシーンなどではトレモロ・ユニットを搭載したストラトキャスター・タイプのギターが席巻し、レスポールはほとんどみられなかったが、1980年代後半に入って、ガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュやオジー・オズボーン・バンドのザック・ワイルドなどがレスポールをメインギターで使用しだし、その太く艶やかな音色とワイルドなプレイによって、レスポール人気は再熱する。 1986年1月、ギブソンは再び所有権を変更し、さまざまなレスポールモデルの製造を開始した。 1970年代にはオリジナルのバーストとはかなり異なる仕様で生産されていた、レスポールであるが、1980年にはオリジナルに相当程度近づけた「80」や「エリート80」などの高級モデルが登場。1980年代中期になると、スタンダード・モデルがやはりオリジナルのバーストに近い仕様となった。1986年、ヴィンテージモデルに対する高い需要に応えるため、ギブソンは社内に設置された高級品専門工房「カスタムショップ」部門を設立。当初は初期のレスポールの正確な複製と単発モデルの製作を開始、また、1990年代に入ると、よりオリジナルのバーストに近いシリーズ「ヒストリック・コレクション」の生産が始まった。 2015年よりGIBSON USAの大半のモデルにオートチューニングシステムGibson G-FORCEを採用。2016年まで。 2017年の時点でギブソンは、機能や電子機器、仕上げが異なるバリエーションを提供している。たとえば、最新のスタンダードは、より幅広い音を提供するスプリットコイルピックアップを搭載しており、トラディショナルモデルは1950年代から1980年代のより基本的な機能を提供し、クラシックモデルはさらに他の機能を有する。スペシャルモデルとスタジオモデルには、より基本的なレベルに仕上げてあり、これらは異なる価格帯でギブソンUSAより販売されている。消費者の需要により、現代のデジタルエレクトロニクスを搭載したタイプから、1952年から1960年のクラシックなリイシューモデルまで、幅広い選択肢で定番で入手可能である。 初めてレスポールが誕生した1952年から1958年までに生産されたモデル。当時は単にレスポール・モデルと呼ばれ、後にゴールドトップと区別の為に呼ばれる名称の通り、ボディトップのメイプル材にレスポール本人の指示で金色の塗装(ゴールド・フィニッシュ)が施されている。1952年初頭のレスポールにはシリアル番号は発行されておらず、一部では「LPモデルのプロトタイプ」と見なされていた。しかし、1952年の後半、レスポールにはシリアル番号が発行され、バインディングされた指板も付いた。これらの初期モデルの一部の設計仕様はさまざまだった。ゴールドトップレスポールの重量と色調の特徴は、主にマホガニーとメイプルの構造によるものだった。 ブリッジは1952 - 53年製モデルにはトラピーズ・ブリッジが採用されたが、1953 - 55年製モデルはスタッド・ブリッジ(ストップ・テイルピース)に代わられた。この機構は、事前にイントネーションされたブリッジとテールピースを、リアピックアップのすぐ後ろにある2つのスタッドと組み合わせたものであるが、ただし、オクターブチューニングと弦高の調整機能は制限されていた。1955年後期以降のモデルはストップ・テイルピースとチューン・O・マチック・ブリッジへと変更され、ギターの上部に直接取り付けられた独立したブリッジとテールピースで構成され、簡単にオクターブチューニングや弦高が調整可能なブリッジとサステインキャリーテールピースを組み合わせた。それ以来、この機構はほとんどのレスポールを始め、他社の模倣を含めたギブソン系ギターで使用されている。ヘッドのチューナーはKluson製。 ピックアップは1956年製モデルまではP-90。初期の一部には、クリーム色のプラスチックカバーではなく、黒のピックアップが取り付けられた。1957年製モデルはP.A.F(ハムバッキング)に変更された。 1958年後期のモデルからは、ボディトップの塗装にサンバースト・フィニッシュが施されたレスポール・スタンダードへと引き継がれた。 現在、これらのモデルはヒストリック・コレクション・シリーズとして、カスタムショップで定番扱いで再生産されている。 ギブソン・レスポールの高級仕様バリエーション機種。 1958年には、以前のゴールドトップモデルと区別するために、新しいレスポールは「レスポール・スタンダード」と呼ばれた。PAFハムバッカーピックアップ、メイプルトップ、ストップテールピースまたはビグスビートレモロテールピースを備えたチューンオマティックブリッジなど、1957ゴールドトップのほとんどの仕様が新しいモデルに引き継がれた。金色の塗装は、ギブソンのフラットトップとアーチトップのアコースティックギターとフルアコ、セミアコで長く使用されているサンバースト仕上げのチェリーレッドバージョンに置き換えられ、メイプルトップが透けて見えるようになったため、無地の「プレーントップ」のメイプルか、ブックマッチした2枚の(カーリーまたはキルティング)メイプルで作られた。1958–60年の仕様は、年ごとに、ギターごとに異なり、典型的な1958年製モデルは、ネックが厚く、フレットが薄く、フレットの高さが低かったが、1959年製モデルは、フレットに従来のものより幅広の「ジャンボ・フレット」が採用され、1960年製モデルは、ネックは断面が薄い「スリム・テーパード・ネック」、広いフレットが採用された典型的な1960ネックに発展した。コントロール・ノブも1960年中期からメタルプレート付きに仕様が変更された。 1958 - 59モデルで使用されたチェリー色の染料は、紫外線にさらされると急激に色あせたので、1960年の初めに、透過性が少なく、オレンジ味がやや多い色あせしにくい配合に改良された。これは「トマトスープバースト」と呼ばれることもある。スタンダードモデルの最初の生産は1958年から1961年の初めまで続き、これらの初期モデルのうち約1700本のみが製造され、この3年間に製造されたスタンダードモデルは愛好家にはBurst(バースト)と呼ばれ、その後1本数千万円の非常に高価で貴重なギターになった。 1961年にギブソンがレスポールモデルをモデルチェンジしてダブルカッタウェイのソリッドボディを採用(後のギブソンSG)したときに生産は終了したが、需要が多かったため、ギブソンは1976年にレスポール・スタンダードの生産を再開した。 2008年生産モデルより、以下の部分の仕様が大きく変更された。 サウンド面に関しては、従来のスタンダードや同時期に生産されたトラディショナルより高域が強調されている。 2012年生産モデルより、以下の部分の仕様が変更された。 上記のバーストを再現したモデルはゴールドトップ同様、ヒストリック・コレクション・シリーズとして、カスタムショップで定番として生産しており、また若干廉価な価格としてはスタンダードモデルは現代的にブラッシュアップされており、従来の仕様に基づくモデルは下記のトラディショナルモデルが役目を引き継いでいる。 (出典:) 限定販売であるため、海外では非常に人気・評価が高く、プレミア価格となっており、40万円近くで取引される事も多々ある。 1991年発売当時のLes Paul Customの定価が26万円に対し、販売当時同モデルは定価は30万円で発売されており、ハイグレードモデルとなっていた。 12F部に「40th Anniversary」ロゴ入りインレイ、ネック裏にも「Anniversary Limited Edition」のロゴが入っている。 著名なアーティストでは、ロックバンドMULTI MAXのギタリスト村上啓介が販売当時から愛用している。 1968年の生産再開時に登場。デラックスの最初のモデルは、ワンピースのボディとスリムなスリーピースのネックが特徴(これらの初期の「ワンピース」ボディの一部は、実際には1950年代のレスポールパーツの在庫であると考えられている)。エピフォン製の余剰の「ニューヨーク」ハムバッカーとしても知られる「ミニハムバッカー」搭載を特徴とし、ギブソンが開発したP-90ピックアップのカバー型のエスカッションを介して、P-90ピックアップ用のザグリに、無加工で装着されている。 1969年にはマルチピースボディ(通称パンケーキ・ボディ)と呼ばれるボディ(メイプル材を上下からホンジュラス・マホガニー材で挟む構造)を持つモデルが発売された。1969年後半にネックに強化のためボリュートの膨らみが追加された。1975年後半までに、ネックの材はマホガニーからメイプルに変更され、1980年代初頭にマホガニーに戻った。 1969年のデラックスには、ヘッドのGibsonの「i」の上にドットのないロゴが特徴である。1969年後半から1970年初頭までに、「i」の上に点が表示され、ヘッドストックの背面に「Made In USA」のスタンプが追加された。ギブソンは、1972年から1974年までのフルサイズハムバッカートップピックアップを備えた特注ギターとして221本のデラックスゴールドトップおよびその他の色を生産した(1973年に179本、1974年に28本、1972年に9本、1976年に5本)。これらのゴールドトップは、今日では珍しく、コレクター市場で9,500ドルから10,000ドルの価値がある。これは、1958年以来工場出荷のハムバッカーピックアップを搭載したゴールドトップの最初のギターだったためである。1974年の終わりまで、製造されたギブソンレスポールデラックスの9割はゴールドトップだった。ゴールドトップよりも価値の低い新しい色が1975年から登場した。1980年に生産終了。 アイアンメイデンのエイドリアンスミスは1980年に、1972年製ギブソンレスポールデラックスゴールドトップを使用し、ブリッジピックアップをハムバッカーに改造した。トトのスティーブルカサーは、1971年のゴールドハムバッカー形式のゴールドトップと、1971年のミニハムバッカー付きデラックスタバコサンバーストに加えて、彼がライブで演奏する珍しいフルサイズのハムバッカー付き。ボストンのトムショルツは、1970年代からデラックスゴールドトップ1968を使用している。ピートタウンゼントは、ステージ上で1973年から1979年の間に、ミドルピックアップを追加して、レスポールデラックスを使用した。レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジ、は2007年の再結成の際、1970年代にハムバッカーに改造された1969年レッドのギブソンレスポールデラックスを使用した。KISSのエース・フレーリーは1973デラックスタバコサンバーストを使用し、ハムバッカーに改造した。ディオ出身のビビアンキャンベルは、彼のバンドの期間中、ハムバッカーに改造した1977年のデラックスブラックを使用した。スコット・ゴーハムとのブライアン・ロバートソン、シン・リジィは、また(ブライアンは1977年にハムバッカーに彼のデラックスチェリーサンバースト1973を改造した)、1970年代にレスポールDeluxeを使用した。スラッシュのコレクションには、1975年にデラックスチェリーサンバーストがハムバッカーに改造されている。イングヴェイマルムスティーンは、コレクションに1969ギブソンレスポールデラックスゴールドトップを置き、ハムバッカーに改造した。数年前に25,000米ドル以上で売却された。 69年に発表。ピックアップがロー・インピーダンスピックアップが搭載されている。さまざまな音を出せるような特殊なサーキット構造を持っている。レスポール・プロフェッショナルと同仕様である。 1971年に発売されたプロフェッショナルの上位機種でレスポールの最上機種であった。プロフェッショナルと同じロー・インピーダンス搭載だが、インピーダンスを変換する回路が組まれており、通常のセッティングでも演奏することができる。バリトーン・スイッチ、フェイズ・スイッチ、プリセット・トーンも搭載されており、様々なサウンドを奏でることができる。グローバー・チューナー、トラベラー・ブリッジを標準搭載。レスポール・ベースの初代モデルにもデザインが採用された。1980年に生産終了したが、レス・ポールは生産終了後もこのモデルにマルチ・トラック装置を取り付けたものを好んで使用していた。 1973年に登場したレスポールシリーズ初の16インチ、セミ・ホロウボディーのモデル。独特のカッタウェイはビルローレンスのデザインによる物で、ボディーはES-335のテンプレートが使われていた。レスポール・ベースの2代目モデルにもデザインが採用された。1978年に生産終了。 79年に発表。ギブソン・RDアーティストに搭載されていた多彩なサウンド・バリエーションを誇るサーキットをレスポールに移植し、マッチングさせたもの。好評価を得られず、1982年に生産終了となる。 バインティングこそ入っていないが、ネックとボディは高級なウォルナット材、パールドットインレイを備えた22フレットエボニー指板 、ゴールドのギブソンロゴ(1978-1981)またはヘッドストックにブランド化されたギブソンのロゴ。ヘッドストックオーバーレイ(Firebrand、1981-1982)、3サイドチューナー、tune-o-maticブリッジ、ストップテールピース、2つのオープンタイプのハムバッカーピックアップ、4つのノブ(2ボリューム、2トーン)。3ウェイピックアップスイッチをSGのようにボリューム近くに配置する事によりレスポールより構造が簡略化してある。フラットトップで表裏ともボディ上側にコンター加工が施されている。クロームハードウェア、24.75インチスケール、1.6875インチナット幅、Groverのペグなどのハイエンド仕様。ブラウンの木目のナチュラル仕上げのため、「コーヒーテーブルバースト」と呼ばれることもある。ボディ、ネックまで塗りつぶしフィニッシュのFIREBRAND"The Paul"Deluxeも存在する。 トラスロッド・カバー、ボリューム/トーン・ノブやエスカッション類など、プラスチックで作られる部品を、全てローズ・ウッド材から切り出されている高級モデル。指板は、ローズ・ウッド材を左右エボニー材から挟んだ、サンドイッチ構造となっている。 1983年から登場。スタジオミュージシャン向けとしたスタンダードモデルからバインディングを省略した、コストパフォーマンスに優れたモデル。1983年から1986年までの最初のスタジオは、マホガニー/メイプルではなくアルダーボディで作られた。現在のスタジオには、メイプルまたはマホガニーのキャップが付いたチャンバー付きマホガニーボディ仕様。エントリーレベルのLes Paul Studioは「色あせた」重量軽減マホガニーボディとトップ、サテン仕上げ。2018年にネックバインディングとギブソンの最も人気のあるハムバッキングピックアップのペア、57クラシックと57クラシック+、および2つのプッシュプルポットが導入された。グローバーチューナー、自己潤滑ナット、およびアルミニウムチューンオーマチックブリッジが導入された。 ギブソンはまた、スタジオをスタンダードモデルで提供した。このモデルは、ネックとボディのバインディング、エボニーの指板、サンバースト塗装仕上げ。当時のすべてのスタジオには、ドットインレイと薄いボディがあった。材・電装はスタンダードモデルに準ずるが、オールメイプル仕様の"Raw Power"モデル、オールマホガニー仕様の"Japan Limited Run"モデルなどのバリエーションがあった。 1990年に生産が開始されたレスポール・スタンダード1960年モデルのリイシュー。ピックガードに1960と刻印が入っているが、1960年製オリジナルとはかなり異なっている。2020年現在ではスタンダードモデルの若干の廉価版という扱いの仕様(メイプルの杢のグレード、ピックアップの種類等)になっている。2008年にスタンダードモデルが現代的な仕様に変更されたため、これまでのスタンダードの仕様で発売された。名称の通りスタンダードモデルの伝統的な仕様で、80年代から90年代にかけて製造されたスタンダードの作りが継承されている。製造年によっては従来のスタンダード同様ボディのマホガニー部にウェイト・リリーフ・ホールと呼ばれる9つの穴が空けられており、軽量化が計られている。2020年モデルとしてはスタンダードモデルの企画の見直しを受けてか、生産はされなかった模様。 1997年から1999年までのわずか2年のみ製作されたレスポールスタンダードのカスタムショップ製のギター。 メイプルトップ、マホガニーバックで通常のスタンダードとの違いは指板がエボニーであること、ボディ内部がトーンコントロール部までも大幅にくり抜かれたダイナミックチェンバーボディとなっていること、ヘッドにはバインディングが巻かれ、一部個体はカスタムショップ製が記載された白蝶貝のサークルインレイが施されている。またポジションマークも白蝶貝となっている。 トラスロッドカバー、ピックガードなどのハードウェアはパーロイド製になっている。一部個体はバックプレートまでパーロイド製となっている。ピックアップは同社の57クラシックが標準でマウントされている。 ネックの太さは59年レスポールのようなオリジナルに近い太さになっている。 カラーはリバーサイド・レッド、カナリー・イエロー、カスケード・グリーンの3色がラインナップされており、当時のカタログでもこの3色のみである。 カタリナは目立つ派手な色で単色をコンセプトに作られていたが、パールが混ざられたダークグレイが存在しており、発売初期に数本のみ市場に出されている。 https://i2.wp.com/chasingguitars.com/wp-content/uploads/2013/07/GibsonCatalina.jpg カタリナ ダークグレイ色 https://i0.wp.com/chasingguitars.com/wp-content/uploads/2013/07/catalina2.jpg 豪華なサークルインレイ 上記のカタリナの姉妹モデルとして同年に発売されている。変更点としてボディはキルテッドメイプルのマホガニーバック。インレイなどの装飾はアバロンに変更、ヘッド部のバインディングは無しになっておりその他は同じ仕様。 http://blog-imgs-36.fc2.com/n/i/g/nightfly303/lpe-1.jpg レスポールエレガント http://blog-imgs-36.fc2.com/n/i/g/nightfly303/lpe-3.jpg ヘッド部のサークルインレイ 2007年12月に発売。ドイツのTronical Gmbh社開発の自動チューニングシステム「Powertune」を、レスポール・スタジオに搭載したモデル。ブリッジに、各弦の音高を測定するセンサーが入っており、またペグにはモーターが付加されている。センサーで拾われた各弦の音高はギター内部のCPUに転送され、更にCPUが電動ペグをコントロールしてチューニングを調節する。CPUからペグへの信号と電源の供給は弦を利用している。チューニングには6種類のプリセットが設定されている(基本的なチューニングの他、自分の好みのチューニングを設定できる)。色展開はブルー・シルバー・バーストのみ。翌年にはレスポール、SG、フライングV、エクスプローラーのラインナップになりカラーは幾つかあるが、どれもシルバーバースト・カラーでロボット・ギターのみのカラー。 2008年発売のレスポールの変種。Tronical Gmbh社製のPowertuneセルフチューニングシステムの更新バージョンを使用した、第2世代のロボットギター。変化自在のサウンドを生み出す“カメレオン・トーン技術”を導入。Robot Interface Pack(RIP)と呼ばれるオーディオインターフェイスが含まれ、付属のハードウェア&ソフトウェアを使用してPCと接続することができるなど、従来のギターの概念を覆す機能が搭載された。 ピックアップはフロントにP-90H、リアにBurstbucker3ハムバッカー。ブリッジは特別なTronical設計の圧電チューンOマチックブリッジを搭載。MCKを介して圧電を作動させ、磁気と圧電を標準の1/4インチギターケーブルでブレンドした。ピエゾ信号と磁気信号を2つの異なるアンプに分割できるTRSステレオケーブル仕様。ブラックスモークのピックガード等モダンなルックスだった。 2008年12月20日に銀座に新社屋を構えたギブソン・ジャパンにてB'zの松本孝弘へのダーク・ファイアーギター贈呈式が催された。 1988年よりギブソン社のライセンス供与を受けて、日本国内で製造販売されていたモデル。ラインナップは、「スタンダード」「カスタム」「ジュニア」など、ギブソン社のものに準じており、フジゲンやマツモク工業などが生産を担当していた。 オービルの製造販売が終了した後、廉価版として、資本関係があるエピフォン社により製造販売されているもの。2008年まで、日本のフジゲン・寺田楽器製作所が生産を担当していたが、韓国製(サミック)を経て、現在は中国青島市のGIBSON直営工場産のモデルのみを販売。初期の日本製造モデルを除いて、ヘッドがオリジナルに対して角の部分が切り落とされた旧来からのエピフォンギターの形状をしており、容易に見分けられる。PUセレクタースイッチがコントロール位置に移動しているものや、大きめのピックガード裏にシングルコイルピックアップが付けてあるモデル等、簡素化された仕様も散見され、レスポールゴス、レスポールウルトラ/ウルトラII、レスポールプロフェシー、レスポールトリビュートプラスなど、本家ではあまり一般的ではないモデルもいくつか生産していた。 ギブソンUSAがプロデュースする初心者向け安価ギター・ブランドマエストロ(名称の源流は1970年代のマエストロヴァイブローラやエコープレックスEP-3やファズトーンFZ-1等で有名なMaestro)から日本では2011年に正規輸入代理店となったイシバシ楽器からレスポールとSGが発売された。事前に海外で販売されていたレスポールタイプのSingle Cutaway Curvetopにピックガード、PUカバーが付けられ、スタッド・ブリッジ(ストップ・テイルピース)1本からストップテイルピース+TOMブリッジに変更する等、よりレスポールスタンダードらしい仕様に変更されたモデル。トラスロッドカバーにはby Gibsonのロゴ入りだが、エピフォン製と違いヘッドにLes Paulのロゴは入っていない。2ハムバッカーに2V2Tの操作系は本家と同一。材はボディがメイプルトップ+ポプラバック、ネックがメイプル。金属プレート付きボルトオンネックに指板のドットインレイ等の安価な仕様で中国生産。 元々レスのシグネチャーモデルであるレスポールだが、カスタムショップでは、あくまでもレスポールの“バリエーション”として、著名なアーティストのシグネチャーモデルを生産している。カスタムショップの最初のアーティストモデルギターは1996年のJoe Perry Les Paulだった。 アメリカ製のギブソンの楽器は塗装にニトロセルロースラッカーを使用しているため、ギタースタンドのゴム製の緩衝材や、合成皮革や革製のギターストラップ等に長時間触れていると、塗装面がただれることがある。また汗や汚れも変質の原因となるため、演奏後は汚れを拭いてストラップを外して保管することが好ましい。 レスポールは、ジュニアやスペシャルなどを除き概して重く、ヘッドに角度がついている為、床に倒れただけでもナットの少し上あたりからネックが折れ易い。これはネックが1本の木材から切り出されているため、木目が角度のついたヘッド部分で変わってしまい、強度的にもろくなっているためである。一部の他社のコピーモデルや廉価なレスポールタイプはナットの下付近で斜めに接いである(スカーフジョイント)ため、この問題をある程度解決しているとされる論もあるが、これは木材の節約が主な目的である。経年でヘッドが下へ曲がり落ちやすいのも弱点であり、リペアを必要とする事故はこの機種が一番多い。 レス・ポール・モデルはグレコやトーカイ、ESP、ヘリテージギターズ、フェルナンデス(バーニー・ブランド)など、様々な会社によりコピー・モデルが製造されている。日本国内の訴訟では、ギブソン社が長い間コピーモデルの生産を黙認してきたとされ、ギブソン社の敗訴となった。(東京高裁 平成10年(ネ)第2942号。平成12年2月24日判決言渡)これらのコピー・モデルのうちグレコ、トーカイなどが1970年代に製造した楽器は、現在日本では関連書籍が発行された影響で「ジャパン・ヴィンテージ」(和製英語)と呼ばれ、比較的高額で取引されている。 また、厳密なコピー・モデルではないものの、レスポールと形が似通ったポール・リード・スミスの「シングルカット」に対し、ギブソン社は訴訟を起こした。ギブソン側の主張によると「スモークがたかれたステージでは両者のギターは区別がつかず、消費者が混同し、間違って買ってしまう」とのことであった。2004年には連邦地裁により、製造、販売差止めの処分がくだされたが、2005年、第2審である第6合衆国連邦巡回区控訴裁判所では一審判決が破棄され、ギブソンの訴訟は棄却された。ギブソンは控訴したが、2006年、合衆国最高裁判所への上告は棄却されギブソンの敗訴が確定した。判決では「両者のギターを混同するのはアホだけである(only an idiot would confuse the two.)」と読み上げられた。 コピーモデルでは如何にオールドモデルの褪色具合を再現するかに大きな努力が払われてきたと言える。以前は似たような色に調合するしか手がなかったが、現在ではオールドモデルの新品当時の調合で塗装した後、温度、湿度や光をコントロール出来る塗装劣化促進設備で様々な褪色やウェザーチェックまでもを再現出来るようになった。しかし、木材そのものの経時固化による音の「枯れ具合」までは再現出来ていないため、「外見は古いが鳴りは若い」という楽器としては歪(いびつ)な状態と言えなくもない。近年、木材を高温高圧で固化させることでオールドバイオリンのような数百年相当までものエイジングを再現出来る技術もヤマハから出てきてはいるが、パテントの関係や設備が非常に高価なため、オールドレスポールレプリカへの採用はまだ無い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "レスポール、レス・ポール・モデル(Les Paul Model)は、ギブソン社が1952年から製造・販売を行っているエレクトリック・ギター。フェンダー社のストラトキャスターモデルと並びエレキギターを代表するモデルとされる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国のギタリスト、レス・ポールのアーティスト・モデルであり、本来は「レス・ポール・モデル」と呼ばれるべきであるが、日本では「レスポール」と表記するのが正しいとされ、輸入代理店もこの表記をとっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2022年現在、「LES PAUL」は楽器を指定商品としたギブソン・ブランズ・インクの登録商標であり公式に「レスポール」としてこのモデルを販売しているのはギブソンおよびギブソン傘下のエピフォンのみであるが、多数のメーカーから「レスポールタイプ」等として同形のコピー商品が販売されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "レスポールはギブソン社初のソリッドギターであり、前述の通りレス・ポールとの共同開発の、彼のシグネチャーモデルである。レスポールとして最も知られているのはスタンダード、カスタムの2種類であるが、その他にもスペシャル、ジュニア、デラックス、スタジオ、クラシックなど多くのモデルが存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "共同開発とは言え、実際の開発はギブソン社にて行われた(レス・ポールが作成した“ログ”ギターは参考にしている)。レス・ポールからの中間プロトタイプに対するアドバイスは、ゴールドカラーの採用(高級に見える)と、自身がパテントを持つトラピーズブリッジの採用という程度でしかなかった。レス・ポールは表面のメイプル材を分厚くするように要求したが、非常に重くなってしまうこととコストがかさむ事から却下された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "基本的なデザインは高フレット部が弾きやすいようにネック付け根の下側が削られたシングル・カッタウェイのアーチドトップ・ボディにフロントとリアにふたつのピックアップを搭載、ネックは仕込み角をつけたセットネックで、それぞれのピックアップ専用のボリューム、トーンコントロールが備わっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "当初、レスポールモデル(ゴールドトップ)には1952年から1956年までシングルコイルのP-90タイプを、1954年から1956年製のカスタムにはフロントにP-90とは全く違う内部構造と長方形のポールピースを持つアルニコV、リアにソープバータイプのP-90という組み合わせで、ピックアップが搭載されていたが、レスポールが有名になったのはやはり1957年モデルから採用された「P-490」ピックアップが搭載された頃からである。このピックアップはセス・ラヴァーの設計によるもので、シングルコイルを二つ並べたようなダブルコイル(いわゆるハムバッカー)となっている。コイル二つの巻く向きと磁極を逆にしてノイズをキャンセルする仕組みになっていて、副作用としてシングルコイルよりは高域特性が悪く、しかも大きな音が出ることになったが、これがレスポールタイプのギターの魅力となっている。このハムバッカー構造を持つピックアップは特許出願され、そのことを示す「特許出願中(Patent Applied For)」のシールが貼ってあったことからP.A.F.と呼ばれた。P.A.F.ピックアップはスタンダード・モデルとカスタム・モデルに採用されたが、廉価モデルであるジュニアとスペシャルにはP-90が搭載され続けた。P.A.F.ピックアップ製造開始の頃はコイル巻線機には自動停止機構が無かったため、巻線数は設計値(5000ターン)より多めで、しかも個体差が大きい。また、経年変化により発生するボビンの「樹脂痩せ」という現象の結果、コイル巻き線が製造当時より緩み、張力低下から巻線断面積や線間距離の増加を招く。これによる浮遊容量増加がサウンドに大きな影響を与えている。 すなわち、オリジナルのP.A.F.ピックアップの現在のサウンドは、製造時のばらつきによる初期個体差に加え、その後の経年変化が影響を与えてしまった結果によるものであり、一つひとつが異なった個性を持っている。したがって、それを人為的に復刻することは難しい。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、後年のハードロック全盛期に、ピックアップ出力の増大や、音色変更(高音域の感度向上)を狙いピックアップ表面のニッケルかクローム製の金属カバーを取り外すことが流行し始めたが、その時になって樹脂ボビンが黒でなく白い個体が存在することが判明した。元々白い樹脂材料に黒着色剤を混ぜてボビン成型をしていたが、ボビン納入メーカーで1958年途中から1960年暮れにかけてこの着色剤が不足したためである。替わりの着色剤としては、他の樹脂パーツと同じクリーム色が用いられた。固定ポールピース側の黒ボビンが先に不足したため、まずそちらが白い個体が出始めた。そのうちアジャスタブル側ポールピースの黒ボビンも無くなり、両方白い個体が製造された。両方黒いものは通称「レギュラー」、片側が白いものは通称「ゼブラ」、両方白いものは通称「ダブルホワイト」と言う。前記のいきさつによって、ほとんどのゼブラは固定ポールピース側ボビンが白いが、きわめて稀に逆のゼブラが存在することも知られている。白いボビンが使用された時期はサンバーストカラーのレスポールの製造時期とほぼ重なり、後期ほど白ボビンの混入確率が高いことになるが、レスポール以外のモデルにも使用された上、ピックアップ単体で交換可能なため、ダブルホワイトやゼブラが付いていることで知られる有名個体でも最初から付いていたのか後年に移植されたのかを検証することは難しい。当然のことながら、ボビンの色がサウンドに影響することはない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "レスポールのブリッジ部は、特殊な物をのぞき3種類の仕様が存在する。ブリッジの変遷に合わせてネックの仕込み角も変化している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この他、特注モデルでは顧客の注文に応じてビグスビーの各種トレモロ・ユニットが最初から装着される場合もあった。後付け改造モデル特有の標準ブリッジ取り付け穴を埋めた痕跡が無いことで判別可能である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "スタンダード・モデルは、ボディのバックにマホガニー、トップにハード・ロック・メイプル(別名イースタン・メイプル)という2種類の木材を貼り合わせた独特の構造を持つ。メイプル材1/2インチ(12.5mm)とマホガニー材1+3/4インチ(44.5mm)の厚みのバランスはサステイン持続量から決定された。開発途中では更なるサステインを求めたレス・ポールより厚さのバランスを逆にする意見も出たが、重すぎるという理由でギブソン社に却下された。一方、ネックはマホガニーワンピースを基本としながら、材料歩留まりを考慮してヘッド部両端は別ピースが接着されている(通称「耳貼り」)。1976年からの再発モデルにはメイプルネックも一時期存在した。カスタム・モデルやジュニアモデルはマホガニーボディである。初期のゴールドトップモデルでは、表面のメイプル材はランダムな幅の2 - 3ピースであったが、1958年のサンバースト塗装の適用に当たりバイオリン属のボディ裏面に見られるようなブックマッチの2ピースとされた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ブックマッチを採用するためにはゴールドトップモデルの倍の厚さのメイプル素材が必要となる。それまでは1/2インチ厚に仕上げるために5/8インチ厚の素材を使用していたため、その倍ならば5/4インチという、当時の製材規格外れの厚さになってしまった。これに近い規格製材厚は床材等に使用される4/4インチであったが、切り開き鋸引き代やその後のカンナ代を考慮すると厚さ不足となる。妥協しなかったギブソン社であったが、製材の引き受け業者が中々見つからず、材料入手の困難に直面することとなった。このため、細々としか入荷しないメイプル材はカットロスを極力抑制する必要があり、さまざまな工夫がなされた(ただしメイプル材自体が貴重になった現在とは異なり、5/4インチ厚の板材が入手困難なだけであった点に留意されたい)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一例として、切り開いた片側の板材のみがシミ、割れ等で不適であった場合でも残った片側の板を保管しておき、色合いが似た材(カラーマッチと呼ばれる)または、木目が似た材(パターンマッチと呼ばれる)を選別して組み合わせて使用された。クレームになりやすい(人間が認識しやすい)のは色の違いであるため、カラーマッチの方が優先された。また、ブックマッチの場合には、切り開いた材を組み合わせる関係上、片側が木表、片側が木裏となるが(木裏の方が若干くすんだ色味になる)、カラーマッチやパターンマッチの場合には、両方の材を木表で揃える(フリッチマッチ)ことも配慮されたため、ブックマッチ材ではない個体の材を総称してフリッチマッチと呼ぶことが多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "メイプル材にはフィギュア、もしくは杢(もく)と呼ばれる様々な美しい模様が発生しているものがある。そのような材を持つオリジナルモデルは現在では非常に高価に取引されている。しかし、発売当時は特に注目もされておらず、ギブソン社自体、売りにもしていなかった点が興味深い。これは、フリッチマッチの個体の片側の材のみに杢があるものが少なくないことでも裏付けられている(マッチングの要件として杢は対象外であったことになる)。杢の人気を決定づけたのは、生産打ち切り後10年以上経った70年代当時の洋楽雑誌において、まだ白黒が一般的であったミュージシャンのステージ写真に、半ば実物以上に強く写り込むことで広く認知されたためであり、その後、80年代には異常な人気を博すまでに至る。特にフレイムを始めとした特別な杢目を持った個体は、希少価値のある個体として高価なオリジナルモデルの中でも更に高値で取引されるようになり、現在国内で取引されるオリジナルのスタンダードの価格は2000万円を超えるまでになってしまった。オリジナルのレスポールに現れている杢としては、トラ目、もしくはフレイム(炎)、ピンストライプと呼ばれる縞模様系がほとんどであり、バーズアイやキルトと呼ばれるものはごく稀でしかない(これは、当時使用されていたハード・ロック・メイプル材の杢の傾向でもある)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "レスポール表面はバイオリン属のようなアーチドトップ形状に仕上げられているが、これはメイプル材を削り込んで成型されている。このため折角のブックマッチによる左右対称木目模様はボディセンター部を残して失われてしまう。対称模様の崩れを目立たなくするには柾目の材を選別使用すれば良いわけであるが、先に述べたような材料入手性の悪さからそのような贅沢は出来なかった。板目材のモデルではフリッチマッチとの判別が困難なほど左右の乱れが大きいものも珍しくない。もっとも、板目材も使用されていた別の理由として、マホガニーとのラミネート構造のおかげで板目材に起こりやすい反りの心配がなかったという点もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一方で杢の観点から見れば、柾目材の杢は比較的単純なピンストライプが多く、フレイムのような人気の高いものは板目と柾目の中間の板取をされた追柾目材であることがほとんどである。板目材では杢は現れないのが普通であるが、ごく稀に存在する板目の杢は非常に不規則かつ大胆であり、コレクターに珍重されている。また、バーズアイは板目にしか存在しない。このような杢の個体が存在することになったのも、メイプル材の「倹約励行」がもたらした偶然によるものである。現存するオリジナルレスポールにおけるメイプル材の柾目、追柾目、板目それぞれの存在割合は、一本の丸太を端からスライスして板取していったときに出来る割合とほぼ等しいと言われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ちなみに現在では、ヒストリック・コレクションなどの高級モデルには、美しい杢材の入手性が比較的容易なソフト・メイプル(別名ウエスタン・メイプル)が使われている。これはハード・メイプルよりも軽く、軟らかい材なので音色にも影響を与える。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1952年の発売開始から1957年の中盤までゴールド・トップと呼ばれる金色のメタリック塗装を施されていたが、1958年後期から1960年にかけてはそれまでのソリッドカラーとは一線を画すサンバースト塗装と呼ばれるシースルーフィニッシュが施され、ボディ表面に使用されているハード・ロック・メイプルの木目が見えるようになった。以前のゴールドトップモデルと区別するために、新しいレスポールは「レスポールスタンダード」と呼ばれた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "サンバースト塗装を略してバースト塗装、もしくは単にバーストと呼ぶ場合もあるが、1958年-1960年のオリジナルレスポールスタンダードを指す愛称もバーストと呼ばれる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "スタンダードモデルの当初のサンバーストカラーは、下地として黄色塗装したボディに、アメリカンチェリーのような赤紫が、外縁から中央にかけて薄くなっていくグラデーションを掛けたものであった。チェリーレッドの塗装範囲は広く、ブックマッチの左右対称木目模様が崩れる部分をほとんど塗りつぶし目立たなくするよう工夫されていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "下地の黄色は顔料系でありながら、木目を隠さない透過性を持つものが選ばれた。その上に塗られたチェリーレッドは、染料系の赤色と微量の濃紺色のブレンド塗料であったが、一般的な染料系塗料の例に漏れず、経年変化により褪色した。特に目立つわけでも無く注目もされていなかった杢が、褪色により美しく浮き出して見えるようになったのは、偶然の自然現象の積み重ねの結果によるものであった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "チェリーレッド塗膜の中では、特に赤色成分の褪色が早く、遅れて褪色する紺色成分や褪色しない下地の黄色層とのカラーバランスが変化して、表面ラッカー塗装の色焼けも加わり、紅茶のような茶色に見える変色をする場合が多かった(通称ティーバースト)。さらに褪色が進むと紺色成分も褪せていき、バースト塗装が辛うじて残っている状態(通称ハニーバースト)を経由して、最終的にはバースト塗装は完全に褪色する。この場合、顔料系であるため全く褪色しない下地の黄色層とアメ色に色焼けしたラッカー層の色のみが残ったオレンジ色(通称レモンドロップ)の状態に落ち着く。褪色のコンディションによっては、ティーバースト段階の後に、ごく稀に、赤色成分のみが先に完全に褪色することで外縁部が緑に見える通称グリーンバーストと呼ばれる状態になることもある。一方、メイプル材をブックマッチに切り開いた際、面の端の方にシミなどがあった場合、それがボデー外縁部になるようにブックマッチした上で、シミが目立たなくなるように通常のチェリーレッドよりも紺色成分を多くした暗い色を濃く塗装して誤魔化したモデルもあった(材の項目にある通り、メイプル材のカットロスを極力減らす必要があったからである)。これは、その後の褪色で外縁部が通称ダークバーストやタバコバーストと呼ばれる焦げ茶色となり、中には隠そうとしたシミが褪色で再び透けて見えている個体も存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "このチェリーレッドの褪色はバースト販売後1年程度という早い段階から発生し始め、顧客からのクレームにもなったため、1960年のモデル末期にはチェリー塗装も褪色しない顔料系に変更された。顔料系では塗料を混ぜるほど色が濁ってしまうため、単色の赤が選ばれた。顔料系ながら下地層の黄色同様に透過性があるため、若干オレンジがかって見える。これは今では通称60年チェリー、もしくはタンジェリンレッドと呼ばれ、現在でもほとんど褪色していない。1960年モデルはネックが薄くなったことでサウンド的にも59年までのモデルと異なるため、カラー、サウンドともに1958年、1959年よりは人気は低めであり、レプリカの対象とされることは少ない(それでもオリジナルの1960年モデルであれば超高額であることに変わりはない)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "表面ラッカー層は登場から現在まで一貫してニトロセルロースが使われている。経年変化については、一般的な「色焼け」と呼ばれる現象の他に、使用・保管状況によりニトロセルロースラッカー特有の現象である塗膜の細かなひび割れ(ウェザーチェック)が発生しているものがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "この他、当時から特注モデルとして、白や黒のソリッドカラー、もしくはチェリーレッド単色のモデルが製作された。また、近年のアーティストモデルでは、演奏家の趣味に合わせた様々な塗装が採用されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "一方、ボディ裏面やネックといったマホガニー材部分は、赤系の目止めを施した後に、表面と同じ染料系チェリーレッド塗装が施されている。こちらも経年変化により褪色し、茶色みを帯びた後に完全に消え、マホガニー材の材色に戻ってしまう。ただしマホガニー材自体が赤いため表面ほど褪色度合は目立たない。オリジナルモデルの裏面で興味の対象とされるのは、褪色ではなくベルトバックル傷と呼ばれる塗装の剥がれ位置である。ギターを高い位置に構えるジャズ系ミュージシャンのステージが主な活躍舞台であった場合、バックル傷は高音弦側になり、ハードロック系のそれはギターを低い位置に構えた結果、低音弦側の、それもボディ端になるといった具合に、そのギターが辿ってきた歴史が文字通り「刻まれて」いることが多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "前述のように、レスポールは1952年に登場し、ブリッジ及びピックアップ、塗装の仕様変更を経て、1958年にその仕様が完成された。この1958-1960年製のサンバースト・モデルは現在では、エレクトリック・ギターの中でも最も高額な数千万円で取引されている個体群であるが、まだロックンロールが誕生して間もなかった発売当時の音楽シーンにおいては、サウンドにパワーがありすぎてコントロールしづらく、重量も重いということで、一般的な人気を得るには至らなかった。この結果、このオリジナルのサンバースト仕様は約1,400本製作された程度で製造中止となった。", "title": "レスポールの歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1960年、ギブソンは、レスポールよりはるかに軽量なFender社のダブルカッタウェイデザインのStratocasterとの競争により、エレキギターの販売が減少した。それに応じて1961年、「レス・ポール・モデル」は、オールマホガニー材ソリッドボディのダブルカッタウェイの薄くて軽量でフラットなトップのボディとビブラートシステムを備えたブリッジにフルモデルチェンジ。ハイフレットへのアクセスをさらに容易にするために、ネックとボディの接続は22フレットに移動し、細いネックと小さなヒールを備えた。シンプルなボディ構造により製造コストは大幅に削減され、新しいレスポールは、\"fastest neck in the world\"を持っていると宣伝され販売したが、再設計はレスの知らないうちに行われたため、本人はこれに納得せず、彼との契約は打ち切られた。この結果、「レス・ポール・モデル」と指板とピックアップの間かトラスロッドカバーにロゴの入っているこの製品は1963年でロゴが削除され、ソリッドボディのこのギターはSG(「ソリッドギター」の略の意味)として継続して生産され続けている。", "title": "レスポールの歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1964年、レスポールスタンダードへの関心が再び高まった。ローリング・ストーンズのキース・リチャーズはビグスビートレモロテールピースを装備した1959レスポールスタンダードの使用を開始し、イギリスのシーンでレスポールを演奏する最初の「スターギタリスト」になり、ブリティッシュブルースブームのレスポールの使用に弾みを与えた。1966年、フレディ・キングとヒューバート・サムリンに影響を受けたエリック・クラプトンが、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズのアルバム『ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン(Blues Breakers with Eric Clapton)』に参加した曲で聴ける、レスポールとマーシャルアンプの組み合わせによるディストーション・サウンドは「極上のサウンド」と絶賛された。そして、その組み合わせはそれ以後のブルース・ロック、ハードロックサウンドに不可欠なものとなった。この時期、ピーター・グリーンやマイク・ブルームフィールド、ミック・テイラーなどが、相次いでレスポールを使い始めた。", "title": "レスポールの歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ロック・ギタリスト達による再評価を受けて、レスポールの需要が再び高まると、ギブソンはポールと再契約の上、1968年にスタンダード(ゴールドトップ塗装、P-90ピックアップ搭載モデル)、カスタムの両モデルを再発した。しかし1969年以降、「デラックス」や「プロフェッショナル」「レコーディング」などの新しいシリーズを発売したものの、SGモデルが定着した以外は商業的には不成功に終わっている。", "title": "レスポールの歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1969年、ギブソンの親会社(シカゴ楽器)がコングロマリットECLに買収された。ギブソンは、1974年にNorlin Musical Instrumentsの子会社になるまで、CMI(Chicago Musical Instruments)の管理下にあり、これらの所有権の変更は、「Norlin Era」と呼ばれることが多く、当時のギブソン製品の品質が低下、レスポールも仕様が変更され、ネックの破損を減らすためにヘッドの付け根裏側にボリュートの膨らみが追加された。ネックの材はワンピースのマホガニーからスリーピースのメイプルに変更され、ボディも、メイプルトップを貼ったワンピースマホガニーから、複数のメイプルトップ+マホガニーの複数のスラブに変更された。これは「マルチピース」構造と呼ばれ、「パンケーキ」ボディと呼ばれることもある。「パンケーキボディ」という表現は、実際には、マホガニーの2つのスラブの間にメイプルの薄い層を挟み、メイプルトップで作ったボディを指す。メイプルの粒はマホガニーの粒に対して90度に配置され、「パンケーキ」ギターの端を見ると、層のようなものがはっきりと見える。この製法は「クロスバンディング」とも呼ばれ、安価で容易に入手できる薄いマホガニーを消費するために行われ、1977年までこの仕様で生産された。", "title": "レスポールの歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "この時代に、ギブソンはレスポールレコーディングなどの新しいモデルの試みを始め、たがその複雑な電子回路のため、一般のギタリストには不評だった。他の目立たない変更には、オプションのメイプル指板(1976年)、ピックアップキャビティのシールド、およびABR1 Tune-o-maticブリッジより大きいナッシュビルブリッジへの変更等があったが、1970年代、レスポールの大系は、S-1、ソネックス、L6-S、およびクラシックなレスポールの派生ではない他のギブソンモデルに組み込まれた。", "title": "レスポールの歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1970年代に入るとレッド・ツェッペリンのジミー・ペイジがメイン機材をテレキャスターからレスポールに持ち替え、レスポールの人気をさらに高めた。長いストラップで腰よりも低い位置で、58年製のバーストを弾く姿は、当時のギターキッズたちに「レスポールは低い位置で弾くもの」という流行を生んだ。他にもポール・コゾフやピーター・グリーン、ミック・ロンソン、エース・フレーリー 、ミック・テイラー、ディッキー・ベッツなどの名立たるギタリスト達がレスポールを愛用した。", "title": "レスポールの歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1970年代後半のフュージョン・ブーム、さらに1980年代のLAメタルシーンなどではトレモロ・ユニットを搭載したストラトキャスター・タイプのギターが席巻し、レスポールはほとんどみられなかったが、1980年代後半に入って、ガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュやオジー・オズボーン・バンドのザック・ワイルドなどがレスポールをメインギターで使用しだし、その太く艶やかな音色とワイルドなプレイによって、レスポール人気は再熱する。", "title": "レスポールの歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1986年1月、ギブソンは再び所有権を変更し、さまざまなレスポールモデルの製造を開始した。", "title": "レスポールの歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1970年代にはオリジナルのバーストとはかなり異なる仕様で生産されていた、レスポールであるが、1980年にはオリジナルに相当程度近づけた「80」や「エリート80」などの高級モデルが登場。1980年代中期になると、スタンダード・モデルがやはりオリジナルのバーストに近い仕様となった。1986年、ヴィンテージモデルに対する高い需要に応えるため、ギブソンは社内に設置された高級品専門工房「カスタムショップ」部門を設立。当初は初期のレスポールの正確な複製と単発モデルの製作を開始、また、1990年代に入ると、よりオリジナルのバーストに近いシリーズ「ヒストリック・コレクション」の生産が始まった。", "title": "レスポールの歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2015年よりGIBSON USAの大半のモデルにオートチューニングシステムGibson G-FORCEを採用。2016年まで。", "title": "レスポールの歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2017年の時点でギブソンは、機能や電子機器、仕上げが異なるバリエーションを提供している。たとえば、最新のスタンダードは、より幅広い音を提供するスプリットコイルピックアップを搭載しており、トラディショナルモデルは1950年代から1980年代のより基本的な機能を提供し、クラシックモデルはさらに他の機能を有する。スペシャルモデルとスタジオモデルには、より基本的なレベルに仕上げてあり、これらは異なる価格帯でギブソンUSAより販売されている。消費者の需要により、現代のデジタルエレクトロニクスを搭載したタイプから、1952年から1960年のクラシックなリイシューモデルまで、幅広い選択肢で定番で入手可能である。", "title": "レスポールの歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "初めてレスポールが誕生した1952年から1958年までに生産されたモデル。当時は単にレスポール・モデルと呼ばれ、後にゴールドトップと区別の為に呼ばれる名称の通り、ボディトップのメイプル材にレスポール本人の指示で金色の塗装(ゴールド・フィニッシュ)が施されている。1952年初頭のレスポールにはシリアル番号は発行されておらず、一部では「LPモデルのプロトタイプ」と見なされていた。しかし、1952年の後半、レスポールにはシリアル番号が発行され、バインディングされた指板も付いた。これらの初期モデルの一部の設計仕様はさまざまだった。ゴールドトップレスポールの重量と色調の特徴は、主にマホガニーとメイプルの構造によるものだった。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ブリッジは1952 - 53年製モデルにはトラピーズ・ブリッジが採用されたが、1953 - 55年製モデルはスタッド・ブリッジ(ストップ・テイルピース)に代わられた。この機構は、事前にイントネーションされたブリッジとテールピースを、リアピックアップのすぐ後ろにある2つのスタッドと組み合わせたものであるが、ただし、オクターブチューニングと弦高の調整機能は制限されていた。1955年後期以降のモデルはストップ・テイルピースとチューン・O・マチック・ブリッジへと変更され、ギターの上部に直接取り付けられた独立したブリッジとテールピースで構成され、簡単にオクターブチューニングや弦高が調整可能なブリッジとサステインキャリーテールピースを組み合わせた。それ以来、この機構はほとんどのレスポールを始め、他社の模倣を含めたギブソン系ギターで使用されている。ヘッドのチューナーはKluson製。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ピックアップは1956年製モデルまではP-90。初期の一部には、クリーム色のプラスチックカバーではなく、黒のピックアップが取り付けられた。1957年製モデルはP.A.F(ハムバッキング)に変更された。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1958年後期のモデルからは、ボディトップの塗装にサンバースト・フィニッシュが施されたレスポール・スタンダードへと引き継がれた。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "現在、これらのモデルはヒストリック・コレクション・シリーズとして、カスタムショップで定番扱いで再生産されている。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ギブソン・レスポールの高級仕様バリエーション機種。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1958年には、以前のゴールドトップモデルと区別するために、新しいレスポールは「レスポール・スタンダード」と呼ばれた。PAFハムバッカーピックアップ、メイプルトップ、ストップテールピースまたはビグスビートレモロテールピースを備えたチューンオマティックブリッジなど、1957ゴールドトップのほとんどの仕様が新しいモデルに引き継がれた。金色の塗装は、ギブソンのフラットトップとアーチトップのアコースティックギターとフルアコ、セミアコで長く使用されているサンバースト仕上げのチェリーレッドバージョンに置き換えられ、メイプルトップが透けて見えるようになったため、無地の「プレーントップ」のメイプルか、ブックマッチした2枚の(カーリーまたはキルティング)メイプルで作られた。1958–60年の仕様は、年ごとに、ギターごとに異なり、典型的な1958年製モデルは、ネックが厚く、フレットが薄く、フレットの高さが低かったが、1959年製モデルは、フレットに従来のものより幅広の「ジャンボ・フレット」が採用され、1960年製モデルは、ネックは断面が薄い「スリム・テーパード・ネック」、広いフレットが採用された典型的な1960ネックに発展した。コントロール・ノブも1960年中期からメタルプレート付きに仕様が変更された。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1958 - 59モデルで使用されたチェリー色の染料は、紫外線にさらされると急激に色あせたので、1960年の初めに、透過性が少なく、オレンジ味がやや多い色あせしにくい配合に改良された。これは「トマトスープバースト」と呼ばれることもある。スタンダードモデルの最初の生産は1958年から1961年の初めまで続き、これらの初期モデルのうち約1700本のみが製造され、この3年間に製造されたスタンダードモデルは愛好家にはBurst(バースト)と呼ばれ、その後1本数千万円の非常に高価で貴重なギターになった。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1961年にギブソンがレスポールモデルをモデルチェンジしてダブルカッタウェイのソリッドボディを採用(後のギブソンSG)したときに生産は終了したが、需要が多かったため、ギブソンは1976年にレスポール・スタンダードの生産を再開した。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2008年生産モデルより、以下の部分の仕様が大きく変更された。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "サウンド面に関しては、従来のスタンダードや同時期に生産されたトラディショナルより高域が強調されている。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2012年生産モデルより、以下の部分の仕様が変更された。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "上記のバーストを再現したモデルはゴールドトップ同様、ヒストリック・コレクション・シリーズとして、カスタムショップで定番として生産しており、また若干廉価な価格としてはスタンダードモデルは現代的にブラッシュアップされており、従来の仕様に基づくモデルは下記のトラディショナルモデルが役目を引き継いでいる。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "(出典:)", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "限定販売であるため、海外では非常に人気・評価が高く、プレミア価格となっており、40万円近くで取引される事も多々ある。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1991年発売当時のLes Paul Customの定価が26万円に対し、販売当時同モデルは定価は30万円で発売されており、ハイグレードモデルとなっていた。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "12F部に「40th Anniversary」ロゴ入りインレイ、ネック裏にも「Anniversary Limited Edition」のロゴが入っている。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "著名なアーティストでは、ロックバンドMULTI MAXのギタリスト村上啓介が販売当時から愛用している。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1968年の生産再開時に登場。デラックスの最初のモデルは、ワンピースのボディとスリムなスリーピースのネックが特徴(これらの初期の「ワンピース」ボディの一部は、実際には1950年代のレスポールパーツの在庫であると考えられている)。エピフォン製の余剰の「ニューヨーク」ハムバッカーとしても知られる「ミニハムバッカー」搭載を特徴とし、ギブソンが開発したP-90ピックアップのカバー型のエスカッションを介して、P-90ピックアップ用のザグリに、無加工で装着されている。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1969年にはマルチピースボディ(通称パンケーキ・ボディ)と呼ばれるボディ(メイプル材を上下からホンジュラス・マホガニー材で挟む構造)を持つモデルが発売された。1969年後半にネックに強化のためボリュートの膨らみが追加された。1975年後半までに、ネックの材はマホガニーからメイプルに変更され、1980年代初頭にマホガニーに戻った。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1969年のデラックスには、ヘッドのGibsonの「i」の上にドットのないロゴが特徴である。1969年後半から1970年初頭までに、「i」の上に点が表示され、ヘッドストックの背面に「Made In USA」のスタンプが追加された。ギブソンは、1972年から1974年までのフルサイズハムバッカートップピックアップを備えた特注ギターとして221本のデラックスゴールドトップおよびその他の色を生産した(1973年に179本、1974年に28本、1972年に9本、1976年に5本)。これらのゴールドトップは、今日では珍しく、コレクター市場で9,500ドルから10,000ドルの価値がある。これは、1958年以来工場出荷のハムバッカーピックアップを搭載したゴールドトップの最初のギターだったためである。1974年の終わりまで、製造されたギブソンレスポールデラックスの9割はゴールドトップだった。ゴールドトップよりも価値の低い新しい色が1975年から登場した。1980年に生産終了。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "アイアンメイデンのエイドリアンスミスは1980年に、1972年製ギブソンレスポールデラックスゴールドトップを使用し、ブリッジピックアップをハムバッカーに改造した。トトのスティーブルカサーは、1971年のゴールドハムバッカー形式のゴールドトップと、1971年のミニハムバッカー付きデラックスタバコサンバーストに加えて、彼がライブで演奏する珍しいフルサイズのハムバッカー付き。ボストンのトムショルツは、1970年代からデラックスゴールドトップ1968を使用している。ピートタウンゼントは、ステージ上で1973年から1979年の間に、ミドルピックアップを追加して、レスポールデラックスを使用した。レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジ、は2007年の再結成の際、1970年代にハムバッカーに改造された1969年レッドのギブソンレスポールデラックスを使用した。KISSのエース・フレーリーは1973デラックスタバコサンバーストを使用し、ハムバッカーに改造した。ディオ出身のビビアンキャンベルは、彼のバンドの期間中、ハムバッカーに改造した1977年のデラックスブラックを使用した。スコット・ゴーハムとのブライアン・ロバートソン、シン・リジィは、また(ブライアンは1977年にハムバッカーに彼のデラックスチェリーサンバースト1973を改造した)、1970年代にレスポールDeluxeを使用した。スラッシュのコレクションには、1975年にデラックスチェリーサンバーストがハムバッカーに改造されている。イングヴェイマルムスティーンは、コレクションに1969ギブソンレスポールデラックスゴールドトップを置き、ハムバッカーに改造した。数年前に25,000米ドル以上で売却された。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "69年に発表。ピックアップがロー・インピーダンスピックアップが搭載されている。さまざまな音を出せるような特殊なサーキット構造を持っている。レスポール・プロフェッショナルと同仕様である。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1971年に発売されたプロフェッショナルの上位機種でレスポールの最上機種であった。プロフェッショナルと同じロー・インピーダンス搭載だが、インピーダンスを変換する回路が組まれており、通常のセッティングでも演奏することができる。バリトーン・スイッチ、フェイズ・スイッチ、プリセット・トーンも搭載されており、様々なサウンドを奏でることができる。グローバー・チューナー、トラベラー・ブリッジを標準搭載。レスポール・ベースの初代モデルにもデザインが採用された。1980年に生産終了したが、レス・ポールは生産終了後もこのモデルにマルチ・トラック装置を取り付けたものを好んで使用していた。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1973年に登場したレスポールシリーズ初の16インチ、セミ・ホロウボディーのモデル。独特のカッタウェイはビルローレンスのデザインによる物で、ボディーはES-335のテンプレートが使われていた。レスポール・ベースの2代目モデルにもデザインが採用された。1978年に生産終了。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "79年に発表。ギブソン・RDアーティストに搭載されていた多彩なサウンド・バリエーションを誇るサーキットをレスポールに移植し、マッチングさせたもの。好評価を得られず、1982年に生産終了となる。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "バインティングこそ入っていないが、ネックとボディは高級なウォルナット材、パールドットインレイを備えた22フレットエボニー指板 、ゴールドのギブソンロゴ(1978-1981)またはヘッドストックにブランド化されたギブソンのロゴ。ヘッドストックオーバーレイ(Firebrand、1981-1982)、3サイドチューナー、tune-o-maticブリッジ、ストップテールピース、2つのオープンタイプのハムバッカーピックアップ、4つのノブ(2ボリューム、2トーン)。3ウェイピックアップスイッチをSGのようにボリューム近くに配置する事によりレスポールより構造が簡略化してある。フラットトップで表裏ともボディ上側にコンター加工が施されている。クロームハードウェア、24.75インチスケール、1.6875インチナット幅、Groverのペグなどのハイエンド仕様。ブラウンの木目のナチュラル仕上げのため、「コーヒーテーブルバースト」と呼ばれることもある。ボディ、ネックまで塗りつぶしフィニッシュのFIREBRAND\"The Paul\"Deluxeも存在する。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "トラスロッド・カバー、ボリューム/トーン・ノブやエスカッション類など、プラスチックで作られる部品を、全てローズ・ウッド材から切り出されている高級モデル。指板は、ローズ・ウッド材を左右エボニー材から挟んだ、サンドイッチ構造となっている。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1983年から登場。スタジオミュージシャン向けとしたスタンダードモデルからバインディングを省略した、コストパフォーマンスに優れたモデル。1983年から1986年までの最初のスタジオは、マホガニー/メイプルではなくアルダーボディで作られた。現在のスタジオには、メイプルまたはマホガニーのキャップが付いたチャンバー付きマホガニーボディ仕様。エントリーレベルのLes Paul Studioは「色あせた」重量軽減マホガニーボディとトップ、サテン仕上げ。2018年にネックバインディングとギブソンの最も人気のあるハムバッキングピックアップのペア、57クラシックと57クラシック+、および2つのプッシュプルポットが導入された。グローバーチューナー、自己潤滑ナット、およびアルミニウムチューンオーマチックブリッジが導入された。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ギブソンはまた、スタジオをスタンダードモデルで提供した。このモデルは、ネックとボディのバインディング、エボニーの指板、サンバースト塗装仕上げ。当時のすべてのスタジオには、ドットインレイと薄いボディがあった。材・電装はスタンダードモデルに準ずるが、オールメイプル仕様の\"Raw Power\"モデル、オールマホガニー仕様の\"Japan Limited Run\"モデルなどのバリエーションがあった。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1990年に生産が開始されたレスポール・スタンダード1960年モデルのリイシュー。ピックガードに1960と刻印が入っているが、1960年製オリジナルとはかなり異なっている。2020年現在ではスタンダードモデルの若干の廉価版という扱いの仕様(メイプルの杢のグレード、ピックアップの種類等)になっている。2008年にスタンダードモデルが現代的な仕様に変更されたため、これまでのスタンダードの仕様で発売された。名称の通りスタンダードモデルの伝統的な仕様で、80年代から90年代にかけて製造されたスタンダードの作りが継承されている。製造年によっては従来のスタンダード同様ボディのマホガニー部にウェイト・リリーフ・ホールと呼ばれる9つの穴が空けられており、軽量化が計られている。2020年モデルとしてはスタンダードモデルの企画の見直しを受けてか、生産はされなかった模様。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1997年から1999年までのわずか2年のみ製作されたレスポールスタンダードのカスタムショップ製のギター。 メイプルトップ、マホガニーバックで通常のスタンダードとの違いは指板がエボニーであること、ボディ内部がトーンコントロール部までも大幅にくり抜かれたダイナミックチェンバーボディとなっていること、ヘッドにはバインディングが巻かれ、一部個体はカスタムショップ製が記載された白蝶貝のサークルインレイが施されている。またポジションマークも白蝶貝となっている。 トラスロッドカバー、ピックガードなどのハードウェアはパーロイド製になっている。一部個体はバックプレートまでパーロイド製となっている。ピックアップは同社の57クラシックが標準でマウントされている。 ネックの太さは59年レスポールのようなオリジナルに近い太さになっている。 カラーはリバーサイド・レッド、カナリー・イエロー、カスケード・グリーンの3色がラインナップされており、当時のカタログでもこの3色のみである。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "カタリナは目立つ派手な色で単色をコンセプトに作られていたが、パールが混ざられたダークグレイが存在しており、発売初期に数本のみ市場に出されている。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "https://i2.wp.com/chasingguitars.com/wp-content/uploads/2013/07/GibsonCatalina.jpg カタリナ ダークグレイ色", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "https://i0.wp.com/chasingguitars.com/wp-content/uploads/2013/07/catalina2.jpg 豪華なサークルインレイ", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "上記のカタリナの姉妹モデルとして同年に発売されている。変更点としてボディはキルテッドメイプルのマホガニーバック。インレイなどの装飾はアバロンに変更、ヘッド部のバインディングは無しになっておりその他は同じ仕様。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "http://blog-imgs-36.fc2.com/n/i/g/nightfly303/lpe-1.jpg", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "レスポールエレガント", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "http://blog-imgs-36.fc2.com/n/i/g/nightfly303/lpe-3.jpg", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ヘッド部のサークルインレイ", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2007年12月に発売。ドイツのTronical Gmbh社開発の自動チューニングシステム「Powertune」を、レスポール・スタジオに搭載したモデル。ブリッジに、各弦の音高を測定するセンサーが入っており、またペグにはモーターが付加されている。センサーで拾われた各弦の音高はギター内部のCPUに転送され、更にCPUが電動ペグをコントロールしてチューニングを調節する。CPUからペグへの信号と電源の供給は弦を利用している。チューニングには6種類のプリセットが設定されている(基本的なチューニングの他、自分の好みのチューニングを設定できる)。色展開はブルー・シルバー・バーストのみ。翌年にはレスポール、SG、フライングV、エクスプローラーのラインナップになりカラーは幾つかあるが、どれもシルバーバースト・カラーでロボット・ギターのみのカラー。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2008年発売のレスポールの変種。Tronical Gmbh社製のPowertuneセルフチューニングシステムの更新バージョンを使用した、第2世代のロボットギター。変化自在のサウンドを生み出す“カメレオン・トーン技術”を導入。Robot Interface Pack(RIP)と呼ばれるオーディオインターフェイスが含まれ、付属のハードウェア&ソフトウェアを使用してPCと接続することができるなど、従来のギターの概念を覆す機能が搭載された。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ピックアップはフロントにP-90H、リアにBurstbucker3ハムバッカー。ブリッジは特別なTronical設計の圧電チューンOマチックブリッジを搭載。MCKを介して圧電を作動させ、磁気と圧電を標準の1/4インチギターケーブルでブレンドした。ピエゾ信号と磁気信号を2つの異なるアンプに分割できるTRSステレオケーブル仕様。ブラックスモークのピックガード等モダンなルックスだった。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "2008年12月20日に銀座に新社屋を構えたギブソン・ジャパンにてB'zの松本孝弘へのダーク・ファイアーギター贈呈式が催された。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "1988年よりギブソン社のライセンス供与を受けて、日本国内で製造販売されていたモデル。ラインナップは、「スタンダード」「カスタム」「ジュニア」など、ギブソン社のものに準じており、フジゲンやマツモク工業などが生産を担当していた。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "オービルの製造販売が終了した後、廉価版として、資本関係があるエピフォン社により製造販売されているもの。2008年まで、日本のフジゲン・寺田楽器製作所が生産を担当していたが、韓国製(サミック)を経て、現在は中国青島市のGIBSON直営工場産のモデルのみを販売。初期の日本製造モデルを除いて、ヘッドがオリジナルに対して角の部分が切り落とされた旧来からのエピフォンギターの形状をしており、容易に見分けられる。PUセレクタースイッチがコントロール位置に移動しているものや、大きめのピックガード裏にシングルコイルピックアップが付けてあるモデル等、簡素化された仕様も散見され、レスポールゴス、レスポールウルトラ/ウルトラII、レスポールプロフェシー、レスポールトリビュートプラスなど、本家ではあまり一般的ではないモデルもいくつか生産していた。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ギブソンUSAがプロデュースする初心者向け安価ギター・ブランドマエストロ(名称の源流は1970年代のマエストロヴァイブローラやエコープレックスEP-3やファズトーンFZ-1等で有名なMaestro)から日本では2011年に正規輸入代理店となったイシバシ楽器からレスポールとSGが発売された。事前に海外で販売されていたレスポールタイプのSingle Cutaway Curvetopにピックガード、PUカバーが付けられ、スタッド・ブリッジ(ストップ・テイルピース)1本からストップテイルピース+TOMブリッジに変更する等、よりレスポールスタンダードらしい仕様に変更されたモデル。トラスロッドカバーにはby Gibsonのロゴ入りだが、エピフォン製と違いヘッドにLes Paulのロゴは入っていない。2ハムバッカーに2V2Tの操作系は本家と同一。材はボディがメイプルトップ+ポプラバック、ネックがメイプル。金属プレート付きボルトオンネックに指板のドットインレイ等の安価な仕様で中国生産。", "title": "バリエーション" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "元々レスのシグネチャーモデルであるレスポールだが、カスタムショップでは、あくまでもレスポールの“バリエーション”として、著名なアーティストのシグネチャーモデルを生産している。カスタムショップの最初のアーティストモデルギターは1996年のJoe Perry Les Paulだった。", "title": "シグネチャーモデル" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "アメリカ製のギブソンの楽器は塗装にニトロセルロースラッカーを使用しているため、ギタースタンドのゴム製の緩衝材や、合成皮革や革製のギターストラップ等に長時間触れていると、塗装面がただれることがある。また汗や汚れも変質の原因となるため、演奏後は汚れを拭いてストラップを外して保管することが好ましい。", "title": "取り扱い上の注意点" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "レスポールは、ジュニアやスペシャルなどを除き概して重く、ヘッドに角度がついている為、床に倒れただけでもナットの少し上あたりからネックが折れ易い。これはネックが1本の木材から切り出されているため、木目が角度のついたヘッド部分で変わってしまい、強度的にもろくなっているためである。一部の他社のコピーモデルや廉価なレスポールタイプはナットの下付近で斜めに接いである(スカーフジョイント)ため、この問題をある程度解決しているとされる論もあるが、これは木材の節約が主な目的である。経年でヘッドが下へ曲がり落ちやすいのも弱点であり、リペアを必要とする事故はこの機種が一番多い。", "title": "取り扱い上の注意点" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "レス・ポール・モデルはグレコやトーカイ、ESP、ヘリテージギターズ、フェルナンデス(バーニー・ブランド)など、様々な会社によりコピー・モデルが製造されている。日本国内の訴訟では、ギブソン社が長い間コピーモデルの生産を黙認してきたとされ、ギブソン社の敗訴となった。(東京高裁 平成10年(ネ)第2942号。平成12年2月24日判決言渡)これらのコピー・モデルのうちグレコ、トーカイなどが1970年代に製造した楽器は、現在日本では関連書籍が発行された影響で「ジャパン・ヴィンテージ」(和製英語)と呼ばれ、比較的高額で取引されている。", "title": "コピー・モデル" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "また、厳密なコピー・モデルではないものの、レスポールと形が似通ったポール・リード・スミスの「シングルカット」に対し、ギブソン社は訴訟を起こした。ギブソン側の主張によると「スモークがたかれたステージでは両者のギターは区別がつかず、消費者が混同し、間違って買ってしまう」とのことであった。2004年には連邦地裁により、製造、販売差止めの処分がくだされたが、2005年、第2審である第6合衆国連邦巡回区控訴裁判所では一審判決が破棄され、ギブソンの訴訟は棄却された。ギブソンは控訴したが、2006年、合衆国最高裁判所への上告は棄却されギブソンの敗訴が確定した。判決では「両者のギターを混同するのはアホだけである(only an idiot would confuse the two.)」と読み上げられた。", "title": "コピー・モデル" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "コピーモデルでは如何にオールドモデルの褪色具合を再現するかに大きな努力が払われてきたと言える。以前は似たような色に調合するしか手がなかったが、現在ではオールドモデルの新品当時の調合で塗装した後、温度、湿度や光をコントロール出来る塗装劣化促進設備で様々な褪色やウェザーチェックまでもを再現出来るようになった。しかし、木材そのものの経時固化による音の「枯れ具合」までは再現出来ていないため、「外見は古いが鳴りは若い」という楽器としては歪(いびつ)な状態と言えなくもない。近年、木材を高温高圧で固化させることでオールドバイオリンのような数百年相当までものエイジングを再現出来る技術もヤマハから出てきてはいるが、パテントの関係や設備が非常に高価なため、オールドレスポールレプリカへの採用はまだ無い。", "title": "コピー・モデル" } ]
レスポール、レス・ポール・モデルは、ギブソン社が1952年から製造・販売を行っているエレクトリック・ギター。フェンダー社のストラトキャスターモデルと並びエレキギターを代表するモデルとされる。 アメリカ合衆国のギタリスト、レス・ポールのアーティスト・モデルであり、本来は「レス・ポール・モデル」と呼ばれるべきであるが、日本では「レスポール」と表記するのが正しいとされ、輸入代理店もこの表記をとっている。 2022年現在、「LES PAUL」は楽器を指定商品としたギブソン・ブランズ・インクの登録商標であり公式に「レスポール」としてこのモデルを販売しているのはギブソンおよびギブソン傘下のエピフォンのみであるが、多数のメーカーから「レスポールタイプ」等として同形のコピー商品が販売されている。
{{Redirectlist|レスポール|人物|レス・ポール|7ORDERの曲|レスポール (7ORDERの曲)}} {{出典の明記|date=2008年3月}} {{Infobox Guitar model | モデル名 = ギブソン・レスポール<br/>Gibson Les Paul Model | 画像 = [[Image:Madrid-Gibson Les Paul (2009).jpg|240px]] | キャプション = ギブソン・レスポール | メーカー/ブランド = [[ギブソン (楽器メーカー)|ギブソン]] | 製造時期 = [[1952年]] - [[1960年]]<br/>[[1968年]] - | ボディタイプ = ソリッド/セミホロウ/チェンバード | ペグヘッド角度 = 17° | スケール長 = 24 3/4インチ 628.65mm | ネックジョイント = セット | フレット数 = 22フレット/24フレット(Double Cut Plus) | ボディ(材) = トップ:[[カエデ|メイプル]]<br/>バック:[[マホガニー]] | ネック(材) = マホガニー、メイプル | フィンガーボード(材) = [[ローズウッド (木材)|ローズウッド]]、ハカランダ | ナット(材) = | ペグ = [[後藤ガット|ゴトー]](リイシュー)、[[グローバー]]{{要曖昧さ回避|date=2020年5月}} | ブリッジ = チューン・O・マチック | テールピース = 固定(ストップ・テールピース) | コントロールノブ = ゴールド・トップ・ハット | ピックアップ = [[ハムバッキング]]×2、シングルコイル([[P-90 (ピックアップ)|P-90]])×2、シングルコイル×1(Junior) | フロントピックアップ = | ミドルピックアップ = | リアピックアップ = | コントロール = ボリューム×2、トーン×2、3ウェイセレクタースイッチ | カラー = チェリーサンバースト、ブラック、ゴールドなど | その他 = }} '''レスポール'''、'''レス・ポール・モデル'''('''Les Paul Model''')は、[[ギブソン (楽器メーカー)|ギブソン]]社が[[1952年]]から[[製造]]・[[販売]]を行っている[[エレクトリック・ギター]]。[[フェンダー (楽器メーカー)|フェンダー]]社の[[フェンダー・ストラトキャスター|ストラトキャスター]]モデルと並びエレキギターを代表するモデルとされる。 [[アメリカ合衆国]]の[[ギタリスト]]、[[レス・ポール]]のアーティスト・モデルであり、本来は「'''レス・ポール・モデル'''」と呼ばれるべきであるが、日本では「'''レスポール'''」と表記するのが正しいとされ、輸入代理店もこの表記をとっている。 2022年現在、「LES PAUL」は楽器を指定商品としたギブソン・ブランズ・インクの登録商標であり「レスポール」という商品名でこのモデル(を含んだ楽器全般)を販売できるのはギブソンおよびギブソン傘下の[[エピフォン]]のみである。しかし[[意匠権]]の取得はされていないため多数のメーカーから「レスポールタイプ」等として同形の[[コピー商品]]が「レスポール」以外の名称で販売されている。 == 概要 == レスポールは[[ギブソン (楽器メーカー)|ギブソン]]社初のソリッドギターであり、前述の通りレス・ポールとの共同開発の、彼の[[シグネチャーモデル]]である。レスポールとして最も知られているのはスタンダード、カスタムの2種類であるが、その他にもスペシャル、ジュニア、デラックス、スタジオ、クラシックなど多くのモデルが存在する。 [[Image:Gibson Les Paul 1953.jpg|200px|left|thumbnail|1952–53 Goldtop trapeze bridge仕様]] [[Image:Les_Paul.jpg|200px|left|thumbnail|レス・ポールと、本人が晩年愛用したレスポール・レコーディング]] 共同開発とは言え、実際の開発はギブソン社にて行われた(レス・ポールが作成した“ログ”ギターは参考にしている)。レス・ポールからの中間プロトタイプに対するアドバイスは、ゴールドカラーの採用(高級に見える)と、自身がパテントを持つトラピーズブリッジの採用という程度でしかなかった。レス・ポールは表面のメイプル材を分厚くするように要求したが、非常に重くなってしまうこととコストがかさむ事から却下された。 基本的なデザインは高フレット部が弾きやすいようにネック付け根の下側が削られたシングル・[[カッタウェイ]]のアーチドトップ・ボディにフロントとリアにふたつの[[ピックアップ (楽器)|ピックアップ]]を搭載、ネックは仕込み角をつけたセットネックで、それぞれのピックアップ専用のボリューム、トーンコントロールが備わっている。 === ピックアップ === [[Image:Les_Paul_Standard-Detail.jpg|240px|thumbnail|スタンダード・モデルのフロントピックアップ周辺]] 当初、レスポールモデル(ゴールドトップ)には1952年から1956年まで[[シングルコイル]]の[[P-90 (ピックアップ)|P-90]]タイプを、1954年から1956年製のカスタムにはフロントにP-90とは全く違う内部構造と長方形のポールピースを持つアルニコV、リアにソープバータイプのP-90という組み合わせで、ピックアップが搭載されていたが、レスポールが有名になったのはやはり[[1957年]]モデルから採用された「P-490」ピックアップが搭載された頃からである。このピックアップはセス・ラヴァーの設計によるもので、シングルコイルを二つ並べたようなダブルコイル(いわゆる[[ハムバッキング|ハムバッカー]])となっている。コイル二つの巻く向きと磁極を逆にしてノイズをキャンセルする仕組みになっていて、副作用としてシングルコイルよりは高域特性が悪く、しかも大きな音が出ることになったが、これがレスポールタイプのギターの魅力となっている。このハムバッカー構造を持つピックアップは特許出願され、そのことを示す「特許出願中(Patent Applied For)」のシールが貼ってあったことからP.A.F.と呼ばれた。P.A.F.ピックアップはスタンダード・モデルとカスタム・モデルに採用されたが、廉価モデルであるジュニアとスペシャルにはP-90が搭載され続けた。P.A.F.ピックアップ製造開始の頃はコイル巻線機には自動停止機構が無かったため、巻線数は設計値(5000ターン)より多めで、しかも個体差が大きい。また、経年変化により発生するボビンの「樹脂痩せ」という現象の結果、コイル巻き線が製造当時より緩み、張力低下から巻線断面積や線間距離の増加を招く。これによる浮遊容量増加がサウンドに大きな影響を与えている。 すなわち、オリジナルのP.A.F.ピックアップの現在のサウンドは、製造時のばらつきによる初期個体差に加え、その後の経年変化が影響を与えてしまった結果によるものであり、一つひとつが異なった個性を持っている。したがって、それを人為的に復刻することは難しい。 また、後年のハードロック全盛期に、ピックアップ出力の増大や、音色変更(高音域の感度向上)を狙いピックアップ表面のニッケルかクローム製の金属カバーを取り外すことが流行し始めたが、その時になって樹脂ボビンが黒でなく白い個体が存在することが判明した。元々白い樹脂材料に黒着色剤を混ぜてボビン成型をしていたが、ボビン納入メーカーで1958年途中から1960年暮れにかけてこの着色剤が不足したためである。替わりの着色剤としては、他の樹脂パーツと同じクリーム色が用いられた。固定ポールピース側の黒ボビンが先に不足したため、まずそちらが白い個体が出始めた。そのうちアジャスタブル側ポールピースの黒ボビンも無くなり、両方白い個体が製造された。両方黒いものは通称「レギュラー」、片側が白いものは通称「ゼブラ」、両方白いものは通称「ダブルホワイト」と言う。前記のいきさつによって、ほとんどのゼブラは固定ポールピース側ボビンが白いが、きわめて稀に逆のゼブラが存在することも知られている<ref group="注釈">レギュラーとダブルホワイトを用意して片側のボビン(コイル)同士を入れ替えれば、通常のゼブラと「逆ゼブラ」を作ることが可能であるため、オリジナルではなく後世の改作である可能性も残る。</ref>。白いボビンが使用された時期はサンバーストカラーのレスポールの製造時期とほぼ重なり、後期ほど白ボビンの混入確率が高いことになるが、レスポール以外のモデルにも使用された上、ピックアップ単体で交換可能なため、ダブルホワイトやゼブラが付いていることで知られる有名個体でも最初から付いていたのか後年に移植されたのかを検証することは難しい。当然のことながら、ボビンの色がサウンドに影響することはない。 === ブリッジ === [[Image:Tune-o-Matic_LP1.jpg|240px|thumbnail|チューン・O・マチック・ブリッジとストップ・テイルピースを組み合わせた現行のブリッジ周辺]] レスポールのブリッジ部は、特殊な物をのぞき3種類の仕様が存在する。ブリッジの変遷に合わせて[[ギター#現代の一般的な構造と機能|ネック]]の仕込み角も変化している。 ; トラピーズ・ブリッジ : レス・ポールの考案したブリッジ形式で(ポール自身がパテントを持っている)、金属のバーをブリッジ部としボディエンドで三角形に固定したものである。弦をブリッジ下から通さなければならないため、構造上ブリッジ・ミュート奏法が不可能。 ; ストップ・テイルピース(スタッド・ブリッジ) : [[1953年]]後半から採用され、翌[[1954年]]発表のジュニア及び[[1955年]]発表のスペシャルにも搭載された。これは弦を固定する能力のみで、オクターブチューニング調整が難しかった (6本の弦全てを正確なオクターブピッチが得られるようにチューニングするのは確かに難しいが、このタイプのテイルピースは両端のイモネジを前後させることにより、オクターブチューニング自体は可能である)。"ラップアラウンド・ブリッジ"、"バー・テイル/バー・ブリッジ" などの呼称もある。 ; チューン・O・マチック・ブリッジ&ストップ・テイルピース : ストップ・テイルピースにオクターブ調整用のブリッジ(ABR-1)を追加したもの。[[1954年]]に発表された上級機種のカスタムに搭載され、[[1955年]]後半から[[1958年]]前半のゴールドトップのレスポール及び[[1958年]]後半以降のスタンダードにも採用された。細かなオクターブ調整のほかに使用者の好みに合った弦のテンション(張力)微調整もできるようになり、現在も他のギターも含め「定番」として使い続けられている。 : チューン・O・マチック・ブリッジ本体にはバリエーションがあり、1956年 - 1959年仕様のリテナー・スプリングがない前期型ABR-1と、1960年仕様のリテナー・スプリングが装着された(弦を全て外してもブリッジが脱落しない)後期型ABR-1と、1970年代から採用されているナッシュビル・タイプの3種類が存在する。ちなみにナッシュビル・タイプは前期・後期ABR-1より可変範囲を稼ぐためにABR-1より幅が広くなっている他、前期・後期ABR-1ではブリッジの駒を逆向きに装着することができたがナッシュビル・タイプでは不可能となっている。 ; ロッキング・トーン・プロ・ブリッジ&ストップ・テイルピース : 見た目はチューン・O・マチック・ブリッジ&ストップ・テイルピースと似ているが、ブリッジ、テイルピース共に[[ねじ|いもねじ]]が付けられている。弦交換などの際に弦を全て外しても、ブリッジとテイルピースが固定されるようになっている。2008年以降のレスポール・スタンダードに使用されている。 この他、特注モデルでは顧客の注文に応じて[[ビグスビー]]の各種[[トレモロ・ユニット]]が最初から装着される場合もあった。後付け改造モデル特有の標準ブリッジ取り付け穴を埋めた痕跡が無いことで判別可能である。 === 木材と構造 === スタンダード・モデルは、ボディのバックに[[マホガニー]]、トップに[[ハード・ロック・メイプル]](別名イースタン・メイプル)という2種類の木材を貼り合わせた独特の構造を持つ。メイプル材1/2インチ(12.5mm)とマホガニー材1+3/4インチ(44.5mm)の厚みのバランスは[[サステイン]]持続量から決定された。開発途中では更なるサステインを求めたレス・ポールより厚さのバランスを逆にする意見も出たが、重すぎるという理由でギブソン社に却下された。一方、ネックはマホガニーワンピースを基本としながら、材料[[歩留まり]]を考慮してヘッド部両端は別ピースが接着されている(通称「耳貼り」)。[[1976年]]からの再発モデルにはメイプルネックも一時期存在した。カスタム・モデルやジュニアモデルはマホガニーボディである。初期のゴールドトップモデルでは、表面のメイプル材はランダムな幅の2 - 3ピースであったが、1958年のサンバースト塗装の適用に当たり[[ヴァイオリン|バイオリン]]属のボディ裏面に見られるようなブックマッチの2ピースとされた。 ブックマッチを採用するためにはゴールドトップモデルの倍の厚さのメイプル素材が必要となる。それまでは1/2インチ厚に仕上げるために5/8インチ厚の素材を使用していたため、その倍ならば5/4インチという、当時の製材規格外れの厚さになってしまった。これに近い規格製材厚は床材等に使用される4/4インチであったが、切り開き鋸引き代やその後のカンナ代を考慮すると厚さ不足となる。妥協しなかったギブソン社であったが、[[製材]]の引き受け業者が中々見つからず、材料入手の困難に直面することとなった。このため、細々としか入荷しないメイプル材はカットロスを極力抑制する必要があり、さまざまな工夫がなされた(ただしメイプル材自体が貴重になった現在とは異なり、5/4インチ厚の板材が入手困難なだけであった点に留意されたい)。 一例として、切り開いた片側の板材のみがシミ、割れ等で不適であった場合でも残った片側の板を保管しておき、色合いが似た材(カラーマッチと呼ばれる)または、木目が似た材(パターンマッチと呼ばれる)を選別して組み合わせて使用された。クレームになりやすい(人間が認識しやすい)のは色の違いであるため、カラーマッチの方が優先された。また、ブックマッチの場合には、切り開いた材を組み合わせる関係上、片側が[[木表]]、片側が[[木裏]]となるが(木裏の方が若干くすんだ色味になる)、カラーマッチやパターンマッチの場合には、両方の材を木表で揃える(フリッチマッチ)ことも配慮されたため、ブックマッチ材ではない個体の材を総称してフリッチマッチと呼ぶことが多い。 === 木材の杢目 === メイプル材にはフィギュア、もしくは[[杢|杢(もく)]]と呼ばれる様々な美しい模様が発生しているものがある。そのような材を持つオリジナルモデルは現在では非常に高価に取引されている。しかし、発売当時は特に注目もされておらず、ギブソン社自体、売りにもしていなかった点が興味深い。これは、フリッチマッチの個体の片側の材のみに杢があるものが少なくないことでも裏付けられている(マッチングの要件として杢は対象外であったことになる)。杢の人気を決定づけたのは、生産打ち切り後10年以上経った70年代当時の洋楽雑誌において、まだ白黒が一般的であったミュージシャンのステージ写真に、半ば実物以上に強く写り込むことで広く認知されたためであり、その後、80年代には異常な人気を博すまでに至る。特にフレイムを始めとした特別な杢目を持った個体は、希少価値のある個体として高価なオリジナルモデルの中でも更に高値で取引されるようになり、現在国内で取引されるオリジナルのスタンダードの価格は2000万円を超えるまでになってしまった。オリジナルのレスポールに現れている杢としては、トラ目、もしくはフレイム(炎)、ピンストライプと呼ばれる縞模様系がほとんどであり、バーズアイやキルトと呼ばれるものはごく稀でしかない(これは、当時使用されていたハード・ロック・メイプル材の杢の傾向でもある)。 レスポール表面はバイオリン属のようなアーチドトップ形状に仕上げられているが、これはメイプル材を削り込んで成型されている。このため折角のブックマッチによる左右対称木目模様はボディセンター部を残して失われてしまう。対称模様の崩れを目立たなくするには[[柾目]]の材を選別使用すれば良いわけであるが、先に述べたような材料入手性の悪さからそのような贅沢は出来なかった。[[板目]]材のモデルではフリッチマッチとの判別が困難なほど左右の乱れが大きいものも珍しくない。もっとも、板目材も使用されていた別の理由として、マホガニーとのラミネート構造のおかげで板目材に起こりやすい反りの心配がなかったという点もある。 一方で杢の観点から見れば、柾目材の杢は比較的単純なピンストライプが多く、フレイムのような人気の高いものは板目と柾目の中間の板取をされた追柾目材であることがほとんどである。板目材では杢は現れないのが普通であるが、ごく稀に存在する板目の杢は非常に不規則かつ大胆であり、コレクターに珍重されている。また、バーズアイは板目にしか存在しない<ref group="注釈">バーズアイを大量に得るためにはスライス面が全面板目になるよう通常の平板スライスでは無く、桂剥きスライスにする。すなわち、化粧板向けの薄い突き板にしかなり得ず、レスポールのような1/2インチ厚でバーズアイメイプル板というのは現代ではまず得られない</ref>。このような杢の個体が存在することになったのも、メイプル材の「倹約励行」がもたらした偶然によるものである。現存するオリジナルレスポールにおけるメイプル材の柾目、追柾目、板目それぞれの存在割合は、一本の丸太を端からスライスして板取していったときに出来る割合とほぼ等しいと言われている。 ちなみに現在では、ヒストリック・コレクションなどの高級モデルには、美しい杢材の入手性が比較的容易なソフト・メイプル(別名ウエスタン・メイプル)が使われている。これはハード・メイプルよりも軽く、軟らかい材なので音色にも影響を与える。 === 塗装 === [[Image:Steve_Hackett_1977.jpg|240px|thumbnail|ゴールドトップのレスポールを弾く[[スティーヴ・ハケット]]]] [[1952年]]の発売開始から[[1957年]]の中盤までゴールド・トップと呼ばれる金色のメタリック塗装を施されていたが、1958年後期から1960年にかけてはそれまでのソリッドカラーとは一線を画すサンバースト塗装と呼ばれるシースルーフィニッシュが施され、ボディ表面に使用されているハード・ロック・メイプルの木目が見えるようになった。以前のゴールドトップモデルと区別するために、新しいレスポールは「レスポールスタンダード」と呼ばれた。 サンバースト塗装を略してバースト塗装、もしくは単にバーストと呼ぶ場合もあるが、1958年-1960年のオリジナルレスポールスタンダードを指す愛称もバーストと呼ばれる。 スタンダードモデルの当初のサンバーストカラーは、下地として黄色塗装したボディに、アメリカンチェリーのような赤紫が、外縁から中央にかけて薄くなっていくグラデーションを掛けたものであった。チェリーレッドの塗装範囲は広く、ブックマッチの左右対称木目模様が崩れる部分をほとんど塗りつぶし目立たなくするよう工夫されていた。 下地の黄色は[[顔料]]系でありながら、木目を隠さない透過性を持つものが選ばれた。その上に塗られたチェリーレッドは、[[染料]]系の赤色と微量の濃紺色のブレンド塗料であったが、一般的な染料系塗料の例に漏れず、経年変化により褪色した。特に目立つわけでも無く注目もされていなかった杢が、褪色により美しく浮き出して見えるようになったのは、偶然の自然現象の積み重ねの結果によるものであった。 チェリーレッド塗膜の中では、特に赤色成分の褪色が早く、遅れて褪色する紺色成分や褪色しない下地の黄色層とのカラーバランスが変化して、表面ラッカー塗装の色焼けも加わり、紅茶のような茶色に見える変色をする場合が多かった(通称ティーバースト)。さらに褪色が進むと紺色成分も褪せていき、バースト塗装が辛うじて残っている状態(通称ハニーバースト)を経由して、最終的にはバースト塗装は完全に褪色する。この場合、顔料系であるため全く褪色しない下地の黄色層とアメ色に色焼けしたラッカー層の色のみが残ったオレンジ色(通称レモンドロップ)の状態に落ち着く。褪色のコンディションによっては、ティーバースト段階の後に、ごく稀に、赤色成分のみが先に完全に褪色することで外縁部が緑に見える通称グリーンバーストと呼ばれる状態になることもある。一方、メイプル材をブックマッチに切り開いた際、面の端の方にシミなどがあった場合、それがボデー外縁部になるようにブックマッチした上で、シミが目立たなくなるように通常のチェリーレッドよりも紺色成分を多くした暗い色を濃く塗装して誤魔化したモデルもあった(材の項目にある通り、メイプル材のカットロスを極力減らす必要があったからである)。これは、その後の褪色で外縁部が通称ダークバーストやタバコバーストと呼ばれる焦げ茶色となり、中には隠そうとしたシミが褪色で再び透けて見えている個体も存在する。 このチェリーレッドの褪色はバースト販売後1年程度という早い段階から発生し始め、顧客からのクレームにもなったため、1960年のモデル末期にはチェリー塗装も褪色しない顔料系に変更された。顔料系では塗料を混ぜるほど色が濁ってしまうため、単色の赤が選ばれた。顔料系ながら下地層の黄色同様に透過性があるため、若干オレンジがかって見える。これは今では通称60年チェリー、もしくはタンジェリンレッドと呼ばれ、現在でもほとんど褪色していない。1960年モデルはネックが薄くなったことでサウンド的にも59年までのモデルと異なるため、カラー、サウンドともに1958年、1959年よりは人気は低めであり、レプリカの対象とされることは少ない(それでもオリジナルの1960年モデルであれば超高額であることに変わりはない)。 表面ラッカー層は登場から現在まで一貫してニトロセルロースが使われている。経年変化については、一般的な「色焼け」と呼ばれる現象の他に、使用・保管状況によりニトロセルロースラッカー特有の現象である塗膜の細かなひび割れ(ウェザーチェック)が発生しているものがある。 この他、当時から特注モデルとして、白や黒のソリッドカラー、もしくはチェリーレッド単色のモデルが製作された。また、近年のアーティストモデルでは、演奏家の趣味に合わせた様々な塗装が採用されている。 一方、ボディ裏面やネックといったマホガニー材部分は、赤系の目止めを施した後に、表面と同じ染料系チェリーレッド塗装が施されている。こちらも経年変化により褪色し、茶色みを帯びた後に完全に消え、マホガニー材の材色に戻ってしまう。ただしマホガニー材自体が赤いため表面ほど褪色度合は目立たない。オリジナルモデルの裏面で興味の対象とされるのは、褪色ではなくベルトバックル傷と呼ばれる塗装の剥がれ位置である。ギターを高い位置に構えるジャズ系ミュージシャンのステージが主な活躍舞台であった場合、バックル傷は高音弦側になり、ハードロック系のそれはギターを低い位置に構えた結果、低音弦側の、それもボディ端になるといった具合に、そのギターが辿ってきた歴史が文字通り「刻まれて」いることが多い。 == レスポールの歴史 == === オリジナル・レスポールの登場から生産中止 === 前述のように、レスポールは1952年に登場し、ブリッジ及びピックアップ、塗装の仕様変更を経て、1958年にその仕様が完成された。この1958-1960年製のサンバースト・モデルは現在では、エレクトリック・ギターの中でも最も高額な数千万円で取引されている個体群であるが、まだ[[ロックンロール]]が誕生して間もなかった発売当時の音楽シーンにおいては、サウンドにパワーがありすぎてコントロールしづらく、重量も重いということで、一般的な人気を得るには至らなかった。この結果、このオリジナルのサンバースト仕様は約1,400本製作された程度で製造中止となった。<ref group="注釈">ただし、これに対しては別な意見も存在する。バーストの生産時期はモデル末期にあたり既に目新しさは無く売れ行きは減少して当然であり、ゴールド・トップからサンバーストへの変更もこのてこ入れのためになされた (ちなみに、1954年以降はジュニア/カスタム/スペシャルとレスポールのバリエーションが増えており、シリーズ全体としての生産本数は増加している。更に、オリジナルのサンバーストも年間600本程度は生産されており、J-200 等これよりも生産本数の少ない機種は他のアコースティックギターやフルアコにも存在する。よって、今日程の人気/評価がなかったのは事実としても、生産中止にしなければいけない程の不人気機種とは言い難い)。また、フェンダーに対抗し、既存ユーザーの抵抗を減らす意図でも採用されたシングルカッタウェイのシェイプが古臭く感じられていた(ギブソンのデザインは古いという批判に対抗して58年にコリーナシリーズがデザインされたのは有名)。メイプル・トップ、マホガニー・バックという2つの木材を合わせて製作されるため、工程が複雑化しコストと手間がかかったので、これらの解決のためマホガニー1ピースのSGに切り替えた、などとも言われている。オールドの重量は4kg前後と必ずしも重くないこと、PAFはレスポール以前、以後も多くのモデルで使われていることから、ここで書かれている生産中止の理由は後付と考えられる。</ref> === SGシェイプへのモデルチェンジ === [[File:Gibson Les Paul(sg) 1962.jpg|thumb|left|1962 Les Paul Standard ([[Gibson SG|SG Standard]])]] [[1960年]]、ギブソンは、レスポールよりはるかに軽量な[[フェンダー (楽器メーカー)|Fender社]]のダブルカッタウェイデザインの[[Stratocaster]]との競争により、エレキギターの販売が減少した。それに応じて[[1961年]]、「レス・ポール・モデル」は、オールマホガニー材ソリッドボディのダブルカッタウェイの薄くて軽量でフラットなトップのボディとビブラートシステムを備えたブリッジにフルモデルチェンジ。ハイフレットへのアクセスをさらに容易にするために、ネックとボディの接続は22フレットに移動し、細いネックと小さなヒールを備えた。シンプルなボディ構造により製造コストは大幅に削減され、新しいレスポールは、"fastest neck in the world"を持っていると宣伝され販売したが、再設計はレスの知らないうちに行われたため、本人はこれに納得せず、彼との契約は打ち切られた。この結果、「レス・ポール・モデル」と指板とピックアップの間かトラスロッドカバーにロゴの入っているこの製品は1963年でロゴが削除され、ソリッドボディのこのギターは[[ギブソン・SG|SG]](「ソリッドギター」の略の意味)として継続して生産され続けている。 === エリック・クラプトンによる再評価 === 1964年、レスポールスタンダードへの関心が再び高まった。[[ローリング・ストーンズ]]の[[キース・リチャーズ]]はビグスビートレモロテールピースを装備した1959レスポールスタンダードの使用を開始し、イギリスのシーンでレスポールを演奏する最初の「スターギタリスト」になり、ブリティッシュ[[ブルース]]ブームのレスポールの使用に弾みを与えた。1966年、[[フレディ・キング]]と[[ヒューバート・サムリン]]に影響を受けた[[エリック・クラプトン]]が、[[ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ]]のアルバム『[[ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン]](Blues Breakers with Eric Clapton)』に参加した曲で聴ける、レスポールと[[マーシャル (アンプ)|マーシャルアンプ]]の組み合わせによる[[ディストーション (音響機器)|ディストーション]]・サウンドは「極上のサウンド」と絶賛された。そして、その組み合わせはそれ以後の[[ブルース・ロック]]、[[ハードロック]]サウンドに不可欠なものとなった<ref group="注釈">クラプトンが使用していたレスポールは、ボディ上面の杢が虎の背中の模様のように美しいオールド・レスポールであった。その後クラプトンはレスポール・カスタムを使用するが、[[クリーム (バンド)|クリーム]]時代には[[ギブソン・SG|SG]]を愛用し、それ以後はメインで使用するギターを[[フェンダー (楽器メーカー)|フェンダー]]・[[フェンダー・ストラトキャスター|ストラトキャスター]]へと切りかえ、レスポールをステージで使用することは無くなった。</ref>。この時期、[[ピーター・グリーン (ミュージシャン)|ピーター・グリーン]]や[[マイク・ブルームフィールド]]、[[ミック・テイラー]]などが、相次いでレスポールを使い始めた。 ロック・ギタリスト達による再評価を受けて、レスポールの需要が再び高まると、ギブソンはポールと再契約の上、1968年にスタンダード(ゴールドトップ塗装、P-90ピックアップ搭載モデル)、カスタムの両モデルを再発した。<ref group="注釈">現在は、これらもコレクターズ・アイテムとして評価されている。</ref>しかし[[1969年]]以降、「デラックス」や「プロフェッショナル」「レコーディング」などの新しいシリーズを発売したものの、SGモデルが定着した以外は商業的には不成功に終わっている。 === ECLとノーリン時代 === {{multiple image|align=left|direction=horizontal|total_width=210 |caption1 = 1969 Standard (refinished) |image1 = Dan Fogelberg's 1969 Les Paul.jpg |width1=1534 |height1=2174 |caption2 = 1974 Custom Sunburst |image2 = 1974 Les Paul Sunburst Body (clip1).jpg|width2=1620 |height2=2158 }} [[File:1973 Gibson Les Paul Deluxe (SN 620310) pancake body side (2010-02-28 by TT Zop).jpg|thumb|upright|Norlin時代のクロスバンディング、マルチピースボディの端に見られるパンケーキのようなレイヤー <!-- construction -->]] {{See also|:en:Chicago Musical Instruments}} 1969年、ギブソンの親会社(シカゴ楽器)がコングロマリットECLに買収された。ギブソンは、1974年にNorlin Musical Instrumentsの子会社になるまで、CMI(Chicago Musical Instruments)の管理下にあり、これらの所有権の変更は、「Norlin Era」と呼ばれることが多く、当時のギブソン製品の品質が低下、レスポールも仕様が変更され、ネックの破損を減らすためにヘッドの付け根裏側にボリュートの膨らみが追加された。ネックの材はワンピースのマホガニーからスリーピースのメイプルに変更され、ボディも、メイプルトップを貼ったワンピースマホガニーから、複数のメイプルトップ+マホガニーの複数のスラブに変更された。これは「マルチピース」構造と呼ばれ、「パンケーキ」ボディと呼ばれることもある。「パンケーキボディ」という表現は、実際には、マホガニーの2つのスラブの間にメイプルの薄い層を挟み、メイプルトップで作ったボディを指す。メイプルの粒はマホガニーの粒に対して90度に配置され、「パンケーキ」ギターの端を見ると、層のようなものがはっきりと見える。この製法は「クロスバンディング」とも呼ばれ、安価で容易に入手できる薄いマホガニーを消費するために行われ、1977年までこの仕様で生産された。 この時代に、ギブソンはレスポールレコーディングなどの新しいモデルの試みを始め、たがその複雑な電子回路のため、一般のギタリストには不評だった。他の目立たない変更には、オプションのメイプル指板(1976年)、ピックアップキャビティのシールド、およびABR1 Tune-o-maticブリッジより大きいナッシュビルブリッジへの変更等があったが、1970年代、レスポールの大系は、S-1、ソネックス、L6-S、およびクラシックなレスポールの派生ではない他のギブソンモデルに組み込まれた。 === ジミー・ペイジ登場によるレスポール人気 === [[Image:LedZeppelinChicago75.jpg|240px|thumbnail|レッド・ツェッペリンでレスポールスタンダードを弾くジミー・ペイジ]] [[1970年代]]に入ると[[レッド・ツェッペリン]]の[[ジミー・ペイジ]]がメイン機材を[[テレキャスター]]からレスポールに持ち替え、レスポールの人気をさらに高めた。長いストラップで腰よりも低い位置で、58年製のバーストを弾く姿は、当時のギターキッズたちに「レスポールは低い位置で弾くもの」という流行を生んだ。<ref group="注釈">もっとも、ジミー・ペイジ自身は、以前メインに使用していた[[フェンダー・テレキャスター|テレキャスター]]の代わりになるギターという認識で使用していたらしく、彼の58年製レスポールのネックは、テレキャスターに近いシェイプに削られているという。</ref>他にも[[ポール・コゾフ]]やピーター・グリーン、[[ミック・ロンソン]]、[[エース・フレーリー ]]、ミック・テイラー、[[ディッキー・ベッツ]]などの名立たるギタリスト達がレスポールを愛用した。 === 次世代ギタリスト登場による人気再燃 === [[ファイル:Slash live in Rome by Paride.jpg|240px|thumbnail|レスポール人気復活の立役者となったスラッシュ]] [[1970年代]]後半の[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]・ブーム、さらに[[1980年代]]の[[LAメタル]]シーンなどでは[[トレモロ・ユニット]]を搭載したストラトキャスター・タイプのギターが席巻し、レスポールはほとんどみられなかったが<ref group="注釈">メイプルネックを採用するなど、それ以前のレスポールと仕様が異なる1970年代のレスポール自体あまり評価が高くなかったことも、この時期レスポールの人気が落ち込んだ原因の1つではないかとの指摘もある。ちなみに、近年1970年代のレスポールは[[ザック・ワイルド]]など多くのギタリストが使用し、再評価されてきている。</ref>、1980年代後半に入って、[[ガンズ・アンド・ローゼズ]]の[[スラッシュ (ミュージシャン)|スラッシュ]]や[[オジー・オズボーン]]・バンドの[[ザック・ワイルド]]などがレスポールをメインギターで使用しだし、その太く艶やかな音色とワイルドなプレイによって、レスポール人気は再熱する。 1986年1月、ギブソンは再び所有権を変更し、さまざまなレスポールモデルの製造を開始した。 === ギブソン・カスタムショップの設置 === 1970年代にはオリジナルのバーストとはかなり異なる仕様で生産されていた、レスポールであるが、1980年にはオリジナルに相当程度近づけた「80」や「エリート80」などの高級モデルが登場。1980年代中期になると、スタンダード・モデルがやはりオリジナルのバーストに近い仕様となった。1986年、ヴィンテージモデルに対する高い需要に応えるため、ギブソンは社内に設置された高級品専門工房「カスタムショップ」部門を設立。当初は初期のレスポールの正確な複製と単発モデルの製作を開始、また、1990年代に入ると、よりオリジナルのバーストに近いシリーズ「ヒストリック・コレクション」の生産が始まった。 2015年よりGIBSON USAの大半のモデルにオートチューニングシステム'''[[ギブソン G-FORCE|Gibson G-FORCE]]'''を採用。2016年まで。 2017年の時点でギブソンは、機能や電子機器、仕上げが異なるバリエーションを提供している。たとえば、最新のスタンダードは、より幅広い音を提供するスプリットコイルピックアップを搭載しており、トラディショナルモデルは1950年代から1980年代のより基本的な機能を提供し、クラシックモデルはさらに他の機能を有する。スペシャルモデルとスタジオモデルには、より基本的なレベルに仕上げてあり、これらは異なる価格帯でギブソンUSAより販売されている。消費者の需要により、現代のデジタルエレクトロニクスを搭載したタイプから、1952年から1960年のクラシックなリイシューモデルまで、幅広い選択肢で定番で入手可能である。 == バリエーション == === レスポール・ゴールドトップ (Les Paul Goldtop)(1952–1958、1968-現在)=== [[File:Expo Pink Floyd - Les Paul.jpg|thumb|right|100px|1953–55 Goldtop [[:en:stopbar|stopbar]] bridge仕様]] 初めてレスポールが誕生した[[1952年]]から[[1958年]]までに生産されたモデル。当時は単に'''レスポール・モデル'''と呼ばれ、後に'''ゴールドトップ'''と区別の為に呼ばれる名称の通り、ボディトップの[[カエデ|メイプル]]材にレスポール本人の指示で金色の塗装(ゴールド・フィニッシュ)が施されている。1952年初頭のレスポールにはシリアル番号は発行されておらず、一部では「LPモデルのプロトタイプ」と見なされていた。しかし、1952年の後半、レスポールにはシリアル番号が発行され、バインディングされた指板も付いた。これらの初期モデルの一部の設計仕様はさまざまだった。ゴールドトップレスポールの重量と色調の特徴は、主にマホガニーとメイプルの構造によるものだった。 ブリッジは1952 - 53年製モデルにはトラピーズ・ブリッジが採用されたが、1953 - 55年製モデルはスタッド・ブリッジ(ストップ・テイルピース)に代わられた。この機構は、事前にイントネーションされたブリッジとテールピースを、リアピックアップのすぐ後ろにある2つのスタッドと組み合わせたものであるが、ただし、オクターブチューニングと弦高の調整機能は制限されていた。[[1955年]]後期以降のモデルはストップ・テイルピースとチューン・O・マチック・ブリッジへと変更され、ギターの上部に直接取り付けられた独立したブリッジとテールピースで構成され、簡単にオクターブチューニングや弦高が調整可能なブリッジとサステインキャリーテールピースを組み合わせた。それ以来、この機構はほとんどのレスポールを始め、他社の模倣を含めたギブソン系ギターで使用されている。ヘッドのチューナーはKluson製。 [[ピックアップ (楽器)|ピックアップ]]は1956年製モデルまでは[[P-90 (ピックアップ)|P-90]]。初期の一部には、クリーム色のプラスチックカバーではなく、黒のピックアップが取り付けられた。1957年製モデルは[[PAF (ピックアップ)|P.A.F]]([[ハムバッキング]])に変更された。 [[1958年]]後期のモデルからは、ボディトップの塗装にサンバースト・フィニッシュが施された'''レスポール・スタンダード'''へと引き継がれた。 現在、これらのモデルはヒストリック・コレクション・シリーズとして、カスタムショップで定番扱いで再生産されている。 === レスポール・カスタム (Les Paul Custom)(1954–1960、1968–現在)=== [[File:1974 Gibson Les Paul Custom.JPG|thumb|right|100px|1974年製レスポール・カスタム]] {{Main|ギブソン・レスポール・カスタム}} ギブソン・レスポールの高級仕様バリエーション機種。 === レスポール・スタンダード (Les Paul Standard)(1958–1960、1976–現在)=== [[File:Gibson Custom 50th Anniversary 1959 Les Paul Standard (2009) brighten.jpg|thumb|right|100px|Gibson Custom 50th Anniversary 1959 Les Paul Standard (2009)]] <!-- {{Main|Burst 1958-1960 Gibson Les Paul Standard}} --> 1958年には、以前のゴールドトップモデルと区別するために、新しいレスポールは「レスポール・スタンダード」と呼ばれた。PAFハムバッカーピックアップ、メイプルトップ、ストップテールピースまたはビグスビートレモロテールピースを備えたチューンオマティックブリッジなど、1957ゴールドトップのほとんどの仕様が新しいモデルに引き継がれた。金色の塗装は、ギブソンのフラットトップとアーチトップのアコースティックギターとフルアコ、セミアコで長く使用されているサンバースト仕上げのチェリーレッドバージョンに置き換えられ、メイプルトップが透けて見えるようになったため、無地の「プレーントップ」のメイプルか、ブックマッチした2枚の(カーリーまたはキルティング)メイプルで作られた。1958–60年の仕様は、年ごとに、ギターごとに異なり、典型的な1958年製モデルは、ネックが厚く、フレットが薄く、フレットの高さが低かったが、[[1959年]]製モデルは、フレットに従来のものより幅広の「ジャンボ・フレット」が採用され、[[1960年]]製モデルは、ネックは断面が薄い「スリム・テーパード・ネック」、広いフレットが採用された典型的な1960ネックに発展した。コントロール・ノブも1960年中期からメタルプレート付きに仕様が変更された。 1958 - 59モデルで使用されたチェリー色の染料は、紫外線にさらされると急激に色あせたので、1960年の初めに、透過性が少なく、オレンジ味がやや多い色あせしにくい配合に改良された。これは「トマトスープバースト」と呼ばれることもある。スタンダードモデルの最初の生産は1958年から1961年の初めまで続き、これらの初期モデルのうち約1700本のみが製造され、この3年間に製造されたスタンダードモデルは愛好家にはBurst(バースト)と呼ばれ、その後1本数千万円の非常に高価で貴重なギターになった。 1961年にギブソンがレスポールモデルをモデルチェンジしてダブルカッタウェイのソリッドボディを採用(後のギブソンSG)したときに生産は終了したが、需要が多かったため、ギブソンは1976年にレスポール・スタンダードの生産を再開した。 [[2008年]]生産モデルより、以下の部分の仕様が大きく変更された。 * ゴトーのクルーソン・コピーだったペグからグローバー製のロック式ペグに変更、チューニングの狂いが減少。 * ボディ裏のパネルがクリアー化、内部構造が見えるようになった。 * [[マホガニー]]のボディバックはソリッド構造(軽量化ホールあり)から、一部がくり抜かれたチェンバード構造(セミホロウ構造)となり、従来のモデルよりも軽量化(この加工は2006年後半から2008年までに生産されたスタンダードにも施されている)。 * ネックは新開発のロングテノン・ネックを採用し、ボディのフロントピックアップ中央付近まで差し込まれたディープ・ジョイントにより、サステインが向上。 * ネックシェイプはネックの裏側の頂点を6弦側に少しずらしたアシンメトリカル(左右非対称)ネックを採用した。6弦側を厚く、1弦側を薄くすることで握りやすさと弦の押さえやすさが向上。 * ピックアップは出力の高い「バーストバッカー・プロ」を搭載。 * ブリッジとテールピースはナッシュビルTOMのチューン・O・マチックから、トーンプロス社のロッキング・トーン・プロに変更、弦交換の際に外れて脱落するのを防止。 * ストラップ・ピンはダンロップ製のロックピンに変更。 * ジャックはノイトリック・ジャックを採用、シールドを差し込むとロックされて簡単に抜けるのを防止。 サウンド面に関しては、従来のスタンダードや同時期に生産されたトラディショナルより高域が強調されている。 [[2012年]]生産モデルより、以下の部分の仕様が変更された。 * コイルタップ機能が従来のモデルより向上され、より[[シングルコイル]]ピックアップに近いトーンが出せるようになった。 * ネックは2008年モデルと同じアシンメトリカルネックが採用されたが、2008年モデルよりも薄くなった。 * 指板が、丸みのあるローポジションからハイポジションにかけて徐々に平らになっていく「コンパウンド・ラディアス」を採用。 * ボディは、トラディショナルや2008年モデルとは異なり、モダン ウェイト・リリーフと呼ばれる加工が施された。重さ・音域共にトラディショナルと2008年モデルの中間となっている。 * ピックアップのバーストバッカー・プロが改良され、コイルタップ機能が使用可能となった。 * アウトプット・ジャックがトラディショナルと同じメタルプレートになった。 上記のバーストを再現したモデルはゴールドトップ同様、ヒストリック・コレクション・シリーズとして、カスタムショップで定番として生産しており、また若干廉価な価格としてはスタンダードモデルは現代的にブラッシュアップされており、従来の仕様に基づくモデルは下記のトラディショナルモデルが役目を引き継いでいる。 === レスポール・スタンダード 40周年記念モデル (Les Paul Standard Gibson Les Paul Standard 40th Anniversary Ebony) (1991年:300本限定発売) === (出典:<ref>{{Cite web |url=http://www.teenarama.jp/gibsonlp40th.html|title=usedshop「teenarama」Gibson Les Paul Standard 40th Anniversary Ebony |accessdate=2023-04-08}}</ref>) 限定販売であるため、海外では非常に人気・評価が高く、プレミア価格となっており、40万円近くで取引される事も多々ある。 1991年発売当時のLes Paul Customの定価が26万円に対し、販売当時同モデルは定価は30万円で発売されており、ハイグレードモデルとなっていた。 * ギターデザインは、エボニー指板にブラックのカラー+ゴールドハードウェア、アイボリーカラーのピックアップカバーにピックガード、ピックアップにP-100、クルーソン・グリーンキーのペグ。 * ボディはマホガニー+メイプルトップ、ネックはマホガニー+エボニー指板のセットネック仕様を搭載。 * P-100はP-90のサウンドはそのまま踏襲しつつ、スタック構造のハムバッカー構造にする事で、ノイズを軽減するハムキャンセル構造を持たせたモデルとなっている。 * 重量は4.88kgとなっている。 {{multiple image|align=center|direction=horizontal |width1=180 |image1= |width2=180 |image2=}} 12F部に「40th Anniversary」ロゴ入りインレイ、ネック裏にも「Anniversary Limited Edition」のロゴが入っている。 著名なアーティストでは、ロックバンド[[MULTI MAX]]のギタリスト[[村上啓介]]が販売当時から愛用している。 === レスポール・ジュニア (Les Paul Junior)(1954–1960)=== {{multiple image|align=left|direction=horizontal |caption1=1958 Junior|width1=70 |image1=Gibson Les Paul Junior (1958).png |caption2=[[1959年]]製ダブルカッタウェイのレスポール・ジュニア|width2=140 |image2=Gibson 59LesPaulJrDC TV.png }} {{Main|ギブソン・レスポール・ジュニア}} === レスポール・スペシャル (Les Paul Special)(1955–1960)=== {{multiple image|align=right|direction=horizontal |caption1=1956 Les Paul Special Singlecut TVイエローカラー |image1 =Epiphone Les Paul Special Singlecut TV Yellow body (modified as 1956 stopbar model).jpg |width1=105 |caption2=1960 SG Special (''Les Paul Special Doublecut'') |image2 =1960 Les Paul Special Doublecut.jpg |width2=93 |caption3=Recent Les Paul Special Faded <!-- in TV Yellow --> |image3 =Gibson Les Paul Special Faded TV Yellow - old speed knobs were swapped with SG Top Hat knobs.jpg |width3=53 }} {{Main|ギブソン・レスポール・スペシャル}} === レスポール・デラックス (Les Paul Deluxe)(1968–1985)=== {{multiple image|align=left|direction=horizontal |caption1=1972 Deluxe &nbsp;mini-humbucker搭載|width1=220 |image1=1972 Gibson Les Paul Deluxe.jpg |caption2=1969 Deluxe|width2=118 |image2=Gibson Les Paul Deluxe (SN 897292).jpg }} 1968年の生産再開時に登場。デラックスの最初のモデルは、ワンピースのボディとスリムなスリーピースのネックが特徴(これらの初期の「ワンピース」ボディの一部は、実際には1950年代のレスポールパーツの在庫であると考えられている)。[[エピフォン]]製の余剰の「ニューヨーク」ハムバッカーとしても知られる「ミニハムバッカー」搭載を特徴とし、ギブソンが開発したP-90ピックアップのカバー型のエスカッションを介して、P-90ピックアップ用のザグリに、無加工で装着されている。 1969年にはマルチピースボディ(通称パンケーキ・ボディ)と呼ばれるボディ(メイプル材を上下からホンジュラス・マホガニー材で挟む構造)を持つモデルが発売された。1969年後半にネックに強化のためボリュートの膨らみが追加された。1975年後半までに、ネックの材はマホガニーからメイプルに変更され、1980年代初頭にマホガニーに戻った。 1969年のデラックスには、ヘッドのGibsonの「i」の上にドットのないロゴが特徴である。1969年後半から1970年初頭までに、「i」の上に点が表示され、ヘッドストックの背面に「Made In USA」のスタンプが追加された。ギブソンは、1972年から1974年までのフルサイズハムバッカートップピックアップを備えた特注ギターとして221本のデラックスゴールドトップおよびその他の色を生産した(1973年に179本、1974年に28本、1972年に9本、1976年に5本)。これらのゴールドトップは、今日では珍しく、コレクター市場で9,500ドルから10,000ドルの価値がある。これは、1958年以来工場出荷のハムバッカーピックアップを搭載したゴールドトップの最初のギターだったためである。1974年の終わりまで、製造されたギブソンレスポールデラックスの9割はゴールドトップだった。ゴールドトップよりも価値の低い新しい色が1975年から登場した。1980年に生産終了。 [[アイアンメイデン]]のエイドリアンスミスは1980年に、1972年製ギブソンレスポールデラックスゴールドトップを使用し、ブリッジピックアップをハムバッカーに改造した。トトの[[スティーブルカサー]]は、1971年のゴールドハムバッカー形式のゴールドトップと、1971年のミニハムバッカー付きデラックスタバコサンバーストに加えて、彼がライブで演奏する珍しいフルサイズのハムバッカー付き。[[ボストン]]のトムショルツは、1970年代からデラックスゴールドトップ1968を使用している。[[ピートタウンゼント]]は、ステージ上で1973年から1979年の間に、ミドルピックアップを追加して、レスポールデラックスを使用した。レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジ、は2007年の再結成の際、1970年代にハムバッカーに改造された1969年レッドのギブソンレスポールデラックスを使用した。KISSのエース・フレーリーは1973デラックスタバコサンバーストを使用し、ハムバッカーに改造した。ディオ出身のビビアンキャンベルは、彼のバンドの期間中、ハムバッカーに改造した1977年のデラックスブラックを使用した。スコット・ゴーハムとのブライアン・ロバートソン、シン・リジィは、また(ブライアンは1977年にハムバッカーに彼のデラックスチェリーサンバースト1973を改造した)、1970年代にレスポールDeluxeを使用した。スラッシュのコレクションには、1975年にデラックスチェリーサンバーストがハムバッカーに改造されている。イングヴェイマルムスティーンは、コレクションに1969ギブソンレスポールデラックスゴールドトップを置き、ハムバッカーに改造した。数年前に25,000米ドル以上で売却された。 === レスポール・パーソナル / プロフェッショナル (Les Paul Personal / Professional)=== 69年に発表。ピックアップがロー・インピーダンスピックアップが搭載されている。さまざまな音を出せるような特殊なサーキット構造を持っている。レスポール・プロフェッショナルと同仕様である。 === レスポール・レコーディング (Les Paul Recording)=== 1971年に発売されたプロフェッショナルの上位機種でレスポールの最上機種であった。プロフェッショナルと同じロー・インピーダンス搭載だが、インピーダンスを変換する回路が組まれており、通常のセッティングでも演奏することができる。バリトーン・スイッチ、フェイズ・スイッチ、プリセット・トーンも搭載されており、様々なサウンドを奏でることができる。グローバー・チューナー、トラベラー・ブリッジを標準搭載。[[ギブソン・レスポール・ベース|レスポール・ベース]]の初代モデルにもデザインが採用された。1980年に生産終了したが、レス・ポールは生産終了後もこのモデルにマルチ・トラック装置を取り付けたものを好んで使用していた。 === レスポール・シグネイチャー (Les Paul Signature)=== 1973年に登場したレスポールシリーズ初の16インチ、セミ・ホロウボディーのモデル。独特のカッタウェイはビルローレンスのデザインによる物で、ボディーはES-335のテンプレートが使われていた。レスポール・ベースの2代目モデルにもデザインが採用された。1978年に生産終了。 === レスポール・アーティスト (Les Paul Artist)=== 79年に発表。[[ギブソン・RD|ギブソン・RDアーティスト]]に搭載されていた多彩なサウンド・バリエーションを誇るサーキットをレスポールに移植し、マッチングさせたもの。好評価を得られず、1982年に生産終了となる。 === ザ・ポール (The Paul)(1978–1982)=== [[File:Gibson the Paul Electric Guitar (edit1 clip2).jpg|thumb|100px|{{nowrap|The Paul}}]] バインティングこそ入っていないが、ネックとボディは高級なウォルナット材、パールドットインレイを備えた22フレットエボニー指板 、ゴールドのギブソンロゴ(1978-1981)またはヘッドストックにブランド化されたギブソンのロゴ。ヘッドストックオーバーレイ(Firebrand、1981-1982)、3サイドチューナー、tune-o-maticブリッジ、ストップテールピース、2つのオープンタイプのハムバッカーピックアップ、4つのノブ(2ボリューム、2トーン)。3ウェイピックアップスイッチをSGのようにボリューム近くに配置する事によりレスポールより構造が簡略化してある。フラットトップで表裏ともボディ上側にコンター加工が施されている。クロームハードウェア、24.75インチスケール、1.6875インチナット幅、Groverのペグなどのハイエンド仕様。ブラウンの木目のナチュラル仕上げのため、「コーヒーテーブルバースト」と呼ばれることもある。ボディ、ネックまで塗りつぶしフィニッシュのFIREBRAND"The Paul"Deluxeも存在する。 === ザ・レスポール (The Les Paul)=== トラスロッド・カバー、ボリューム/トーン・ノブやエスカッション類など、プラスチックで作られる部品を、全てローズ・ウッド材から切り出されている高級モデル。指板は、ローズ・ウッド材を左右エボニー材から挟んだ、サンドイッチ構造となっている。 === レスポール・スタジオ (Les Paul Studio)(1983–現在)=== [[Image:Gibson_Les_Paul_Studio_c.jpg|thumb|100px|レスポール・スタジオ]] 1983年から登場。スタジオミュージシャン向けとしたスタンダードモデルからバインディングを省略した、コストパフォーマンスに優れたモデル。1983年から1986年までの最初のスタジオは、マホガニー/メイプルではなくアルダーボディで作られた。現在のスタジオには、メイプルまたはマホガニーのキャップが付いたチャンバー付きマホガニーボディ仕様。エントリーレベルのLes Paul Studioは「色あせた」重量軽減マホガニーボディとトップ、サテン仕上げ。2018年にネックバインディングとギブソンの最も人気のあるハムバッキングピックアップのペア、57クラシックと57クラシック+、および2つのプッシュプルポットが導入された。グローバーチューナー、自己潤滑ナット、およびアルミニウムチューンオーマチックブリッジが導入された。 ギブソンはまた、スタジオをスタンダードモデルで提供した。このモデルは、ネックとボディのバインディング、エボニーの指板、サンバースト塗装仕上げ。当時のすべてのスタジオには、ドットインレイと薄いボディがあった。材・電装はスタンダードモデルに準ずるが、オールメイプル仕様の"Raw Power"モデル、オールマホガニー仕様の"Japan Limited Run"モデルなどのバリエーションがあった。 === レスポール・クラシック (Les Paul Classic)=== 1990年に生産が開始されたレスポール・スタンダード1960年モデルのリイシュー。ピックガードに1960と刻印が入っているが、1960年製オリジナルとはかなり異なっている。2020年現在ではスタンダードモデルの若干の廉価版という扱いの仕様(メイプルの杢のグレード、ピックアップの種類等)になっている。2008年にスタンダードモデルが現代的な仕様に変更されたため、これまでのスタンダードの仕様で発売された。名称の通りスタンダードモデルの伝統的な仕様で、80年代から90年代にかけて製造されたスタンダードの作りが継承されている。製造年によっては従来のスタンダード同様ボディのマホガニー部にウェイト・リリーフ・ホールと呼ばれる9つの穴が空けられており、軽量化が計られている。2020年モデルとしてはスタンダードモデルの企画の見直しを受けてか、生産はされなかった模様。 === レスポール・カタリナ (Les Paul Catalina) === 1997年から1999年までのわずか2年のみ製作されたレスポールスタンダードのカスタムショップ製のギター。 メイプルトップ、マホガニーバックで通常のスタンダードとの違いは指板がエボニーであること、ボディ内部がトーンコントロール部までも大幅にくり抜かれたダイナミックチェンバーボディとなっていること、ヘッドにはバインディングが巻かれ、一部個体はカスタムショップ製が記載された白蝶貝のサークルインレイが施されている。またポジションマークも白蝶貝となっている。 トラスロッドカバー、ピックガードなどのハードウェアはパーロイド製になっている。一部個体はバックプレートまでパーロイド製となっている。ピックアップは同社の57クラシックが標準でマウントされている。 ネックの太さは59年レスポールのようなオリジナルに近い太さになっている。 カラーはリバーサイド・レッド、カナリー・イエロー、カスケード・グリーンの3色がラインナップされており、当時のカタログでもこの3色のみである。 カタリナは目立つ派手な色で単色をコンセプトに作られていたが、パールが混ざられたダークグレイが存在しており、発売初期に数本のみ市場に出されている。 https://i2.wp.com/chasingguitars.com/wp-content/uploads/2013/07/GibsonCatalina.jpg カタリナ ダークグレイ色 https://i0.wp.com/chasingguitars.com/wp-content/uploads/2013/07/catalina2.jpg 豪華なサークルインレイ ==== レスポール・エレガント(Les Paul Elegant) ==== 上記のカタリナの姉妹モデルとして同年に発売されている。変更点としてボディはキルテッドメイプルのマホガニーバック。インレイなどの装飾はアバロンに変更、ヘッド部のバインディングは無しになっておりその他は同じ仕様。 http://blog-imgs-36.fc2.com/n/i/g/nightfly303/lpe-1.jpg レスポールエレガント http://blog-imgs-36.fc2.com/n/i/g/nightfly303/lpe-3.jpg ヘッド部のサークルインレイ === ロボット・ギター=== {{Main|ギブソン・ロボットギター}} 2007年12月に発売。ドイツのTronical Gmbh社開発の自動チューニングシステム「Powertune」を、レスポール・スタジオに搭載したモデル。ブリッジに、各弦の音高を測定するセンサーが入っており、またペグにはモーターが付加されている。センサーで拾われた各弦の音高はギター内部の[[CPU]]に転送され、更にCPUが電動ペグをコントロールしてチューニングを調節する。CPUからペグへの信号と電源の供給は弦を利用している。チューニングには6種類のプリセットが設定されている(基本的なチューニングの他、自分の好みのチューニングを設定できる)。色展開はブルー・シルバー・バーストのみ。翌年にはレスポール、SG、フライングV、エクスプローラーのラインナップになりカラーは幾つかあるが、どれもシルバーバースト・カラーでロボット・ギターのみのカラー。 === ダーク・ファイアー(Dark Fire)(2008-2010)=== 2008年発売のレスポールの変種。Tronical Gmbh社製のPowertuneセルフチューニングシステムの更新バージョンを使用した、第2世代のロボットギター。変化自在のサウンドを生み出す“カメレオン・トーン技術”を導入。Robot Interface Pack(RIP)と呼ばれるオーディオインターフェイスが含まれ、付属のハードウェア&ソフトウェアを使用してPCと接続することができるなど、従来のギターの概念を覆す機能が搭載された。 ピックアップはフロントにP-90H、リアにBurstbucker3ハムバッカー。ブリッジは特別なTronical設計の圧電チューンOマチックブリッジを搭載。MCKを介して圧電を作動させ、磁気と圧電を標準の1/4インチギターケーブルでブレンドした。ピエゾ信号と磁気信号を2つの異なるアンプに分割できるTRSステレオケーブル仕様。ブラックスモークのピックガード等モダンなルックスだった。 2008年12月20日に[[銀座]]に新社屋を構えたギブソン・ジャパンにて[[B'z]]の[[松本孝弘]]へのダーク・ファイアーギター贈呈式<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/11973 |title=B'z松本孝弘にギブソン次世代ギターを世界初贈呈 |date=2008-12-20 |work=ナタリー |accessdate=2020-06-24}}</ref>が催された。 === オービル製レスポール=== 1988年よりギブソン社のライセンス供与を受けて、日本国内で製造販売されていたモデル。ラインナップは、「スタンダード」「カスタム」「ジュニア」など、ギブソン社のものに準じており、[[フジゲン]]や[[マツモク工業]]などが生産を担当していた。 === エピフォン製レスポール=== [[Image:Clavijero_Epiphone.jpg|thumb|100px|韓国、中国生産のエピフォン・レスポールのヘッドストック]] オービルの製造販売が終了した後、廉価版として、資本関係があるエピフォン社により製造販売されているもの。[[2008年]]まで、日本のフジゲン・寺田楽器製作所が生産を担当していたが、[[大韓民国|韓国]]製([[三益楽器|サミック]])を経て、現在は[[中華人民共和国|中国]][[青島市]]のGIBSON直営工場産のモデルのみを販売。初期の日本製造モデルを除いて、ヘッドがオリジナルに対して角の部分が切り落とされた旧来からのエピフォンギターの形状をしており、容易に見分けられる。PUセレクタースイッチがコントロール位置に移動しているものや、大きめのピックガード裏にシングルコイルピックアップが付けてあるモデル等、簡素化された仕様も散見され、レスポールゴス、レスポールウルトラ/ウルトラII、レスポールプロフェシー、レスポールトリビュートプラスなど、本家ではあまり一般的ではないモデルもいくつか生産していた。 === マエストロ・レスポール=== ギブソンUSAがプロデュースする初心者向け安価ギター・ブランド'''マエストロ'''(名称の源流は1970年代のマエストロヴァイブローラやエコープレックスEP-3やファズトーンFZ-1等で有名な'''Maestro''')から日本では2011年に正規輸入代理店となったイシバシ楽器からレスポールと[[ギブソン・SG|SG]]が発売された<ref>{{Cite web |url=https://www.ishibashi.co.jp/maestro/|title= Maestro by Gibson|date=2011-12-19|work=イシバシ楽器|accessdate=2020-06-24}}</ref>。事前に海外で販売されていたレスポールタイプの'''Single Cutaway Curvetop'''にピックガード、PUカバーが付けられ、スタッド・ブリッジ(ストップ・テイルピース)1本からストップテイルピース+TOMブリッジに変更する等、よりレスポールスタンダードらしい仕様に変更された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ishibashi.co.jp/mm/08magazine.php?p=538|title= タッキーの楽器流行通信第9回|date=2012-01-23|work=イシバシ楽器|accessdate=2020-06-24}}</ref>モデル。トラスロッドカバーにはby Gibsonのロゴ入りだが、エピフォン製と違いヘッドにLes Paulのロゴは入っていない。2ハムバッカーに2V2Tの操作系は本家と同一。材はボディがメイプルトップ+ポプラバック、ネックがメイプル。金属プレート付きボルトオンネックに指板のドットインレイ等の安価な仕様で[[中国]]生産。 == シグネチャーモデル == 元々レスのシグネチャーモデルであるレスポールだが、カスタムショップでは、あくまでもレスポールの“[[バリエーション]]”として、著名なアーティストのシグネチャーモデルを生産している。カスタムショップの最初のアーティストモデルギターは1996年の[[Joe Perry]] Les Paulだった。 === GIBSON USA === * [[ゲイリー・ムーア]] * [[ジョン・サイクス]] * [[ジョー・ボナマッサ]] * [[バケットヘッド]] - 24フレット、27インチスケールの[[バリトン・ギター|バリトン仕様]] * [[ビリー・ジョー・アームストロング]] * [[松本孝弘]] ([[B'z]]) === GIBSONカスタム・ショップ === * [[ピート・タウンゼント]]([[ザ・フー]]) * [[ジミー・ペイジ]]([[レッド・ツェッペリン]]) * [[スラッシュ (ミュージシャン)|スラッシュ]] * [[ジョー・ペリー]]([[エアロスミス]]) * [[ピーター・フランプトン]] * [[エース・フレーリー]](元[[キッス]]) * [[ゲイリー・ムーア]] * [[ニール・ショーン]]([[ジャーニー (バンド)|ジャーニー]]) * [[ザック・ワイルド]]([[オジー・オズボーン]]・バンド、[[ブラック・レーベル・ソサイアティ]]) * [[デュアン・オールマン]] * [[エリック・クラプトン]] * [[スティーヴ・ジョーンズ]]([[セックス・ピストルズ]]) * [[ジョン・レノン]] - 改造したレスポール・ジュニア * [[ビリー・ギボンズ]]([[ZZトップ]])- 1958年 - 1960年のいわゆるバーストの中でも、特に人気が高い1959年仕様。その50周年モデルとして発売。 * [[ジェフ・ベック]] * [[マイク・ブルームフィールド]] * [[斉藤和義]] - リア側にP-90(コイル巻き数は、レギュラーモデルより少なめ)が1ピックアップのみセットされたゴールドトップモデル。ピックガードは、[[ES-295]]に似たタイプ(フラワーパターン)が採用されている。 * [[奥田民生]] - 厳密なシグネチャーモデルではないものの、使用しているレスポール・スペシャル([[P-90 (ピックアップ)|P-90]]ピックアップ、ビグスビー、TVホワイト・フィニッシュ)を忠実に再現したカスタムショップ製作の「Gibson Custom Shop The INSPIRED BY Series Okuda Tamio Les Paul OT Special」が100本限定で製造・販売された<ref group="注釈">2008年8月1日現在。奥田民生公式ホームページにて</ref>。 == 取り扱い上の注意点 == アメリカ製のギブソンの楽器は塗装にニトロセルロースラッカーを使用しているため、ギタースタンドのゴム製の緩衝材や、合成皮革や革製のギターストラップ等に長時間触れていると、塗装面がただれることがある。また汗や汚れも変質の原因となるため、演奏後は汚れを拭いてストラップを外して保管することが好ましい。 レスポールは、ジュニアやスペシャルなどを除き概して重く、ヘッドに角度がついている為、床に倒れただけでもナットの少し上あたりからネックが折れ易い。これはネックが1本の木材から切り出されているため、木目が角度のついたヘッド部分で変わってしまい、強度的にもろくなっているためである。一部の他社のコピーモデルや廉価なレスポールタイプはナットの下付近で斜めに接いである(スカーフジョイント)ため、この問題をある程度解決しているとされる論もあるが、これは木材の節約が主な目的である。経年でヘッドが下へ曲がり落ちやすい{{要出典|date=2020年6月}}のも弱点であり、リペアを必要とする事故はこの機種が一番多い。 == コピー・モデル == レス・ポール・モデルは[[グレコ]]や[[東海楽器製造|トーカイ]]、[[イーエスピー|ESP]]、[[ヘリテージギターズ]]<ref group="注釈">ヘリテージギターズは1984年に閉鎖されたギブソン社のカラマズー工場に勤務していた職人たちが設立した会社であり、その製品の品質は高い評価を受けている。また[[ゲイリー・ムーア]]など著名なレス・ポール・モデルのユーザーのシグネチャーを生産している。</ref>、[[フェルナンデス (楽器メーカー)|フェルナンデス]]([[バーニー (楽器)|バーニー・ブランド]])など、様々な会社によりコピー・モデルが製造されている。日本国内の訴訟では、ギブソン社が長い間コピーモデルの生産を黙認してきたとされ、ギブソン社の敗訴となった。(東京高裁 平成10年(ネ)第2942号。平成12年2月24日判決言渡<ref>[http://www.suzuki-po.net/other/fusei01.htm 希釈化により出所表示機能が消滅したとされた事例] - 鈴木正次特許事務所サイト内</ref>)これらのコピー・モデルのうちグレコ、トーカイなどが1970年代に製造した楽器は、現在日本では関連書籍が発行された影響で「[[ジャパン・ヴィンテージ]]」(和製英語)と呼ばれ、比較的高額で取引されている。 また、厳密なコピー・モデルではないものの、レスポールと形が似通った[[ポール・リード・スミス]]の「シングルカット」に対し、ギブソン社は訴訟を起こした。ギブソン側の主張によると「スモークがたかれたステージでは両者のギターは区別がつかず、消費者が混同し、間違って買ってしまう」とのことであった。2004年には連邦地裁により、製造、販売差止めの処分がくだされたが、2005年、第2審である第6[[合衆国連邦巡回区控訴裁判所]]では一審判決が破棄され、ギブソンの訴訟は棄却された。<ref>[http://www.mi-pro.co.uk/news/read/gibson-lawsuit-ends-with-prs-victory/012706 Gibson lawsuit ends with PRS victory]</ref><ref>En banc rehearing denied by Gibson Guitar Corp. v. Paul Reed Smith Guitars, Ltd. P'ship , 2005 US App.</ref>ギブソンは控訴したが、2006年、[[合衆国最高裁判所]]への上告は棄却されギブソンの敗訴が確定した。<ref>Certiori denied by Gibson Guitar Corp. v. Paul Reed Smith Guitars, LP, 126 S. Ct. 2355 (June 5, 2006)</ref>判決では「両者のギターを混同するのはアホだけである(only an idiot would confuse the two.)」と読み上げられた。 コピーモデルでは如何にオールドモデルの褪色具合を再現するかに大きな努力が払われてきたと言える。以前は似たような色に調合するしか手がなかったが、現在ではオールドモデルの新品当時の調合で塗装した後、温度、湿度や光をコントロール出来る塗装劣化促進設備で様々な褪色やウェザーチェックまでもを再現出来るようになった<ref group="注釈">染料系塗料の改良の歴史は退色防止性の追求であり、現在では退色する染料の入手は困難になった </ref>。しかし、木材そのものの経時固化による音の「枯れ具合」までは再現出来ていないため、「外見は古いが鳴りは若い」という楽器としては歪(いびつ)な状態と言えなくもない。近年、木材を高温高圧で固化させることでオールドバイオリンのような数百年相当までものエイジングを再現出来る技術も[[ヤマハ]]から出てきてはいるが、パテントの関係や設備が非常に高価なため、オールドレスポールレプリカへの採用はまだ無い。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 文献 == {{参照方法|date=2014-12|section=1}} * {{Cite book|和書|author=ロブ・ローレンス |title=レスポール大名鑑1915{{〜}}1963 写真でたどるギブソン・ギター開発全史 |publisher=ブルース・インターアクションズ |date=2011-02 |isbn=978-4-86020-390-0 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=イアン・S・ポート |others=ロッキン・エノッキー 監修、中川泉 訳 |title=フェンダーVSギブソン 音楽の未来を変えた挑戦者たち THE BIRTH OF LOUD 大きな音はカネになる! |publisher=[[DU BOOKS]] |date=2021-09 |isbn=978-4-86647-153-2 |ref=harv}} == 外部リンク == {{Commonscat|Les Paul}} * [http://www2.gibson.com/Products/Electric-Guitars/Les-Paul/Gibson-USA.aspx Gibson USA - Les Paul] * [http://www2.gibson.com/Products/Electric-Guitars/Les-Paul/Gibson-Custom.aspx Gibson Custom - Les Paul] * [https://www.google.com/doodles/les-pauls-96th-birthday Les Pauls 96th birthday] - [[2011年]][[1月9日]]の Google Doodle {{Gibson}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きふそんれすほおる}} [[Category:ギブソン|れすほおる]] [[Category:エポニム]]
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65816 (コンピュータ)
W65816(65C816)は、アメリカ・ウェスタンデザインセンター (WDC) の16ビットCPUで、モステクノロジーの6502の後継にあたるCPUである。65816の65は6502と互換性があることからきており、816は8ビットモードと16ビットモードの両方で動作することを意味している。 6502に対して、メモリ空間が64kバイト×256バンク(計16Mバイト,アドレス長24ビット)に、アキュムレータ、インデックスレジスタおよびスタックポインタが16ビットに拡張された。エミュレーションモードでは6502の動作をエミュレートすることができる。 1980年代中頃から1990年代初頭にかけて、GTEと三洋電機を含む4社が65816をセカンドソースで供給していた。2006年現在でもまだWDCから販売されており、またWinbondの教育用TVのICであるW55V9xシリーズのような一部のシステムではIPコアとしてアーキテクチャが実装されている。 WDCの創設者でありCEOのBill Menschによってプロセッサの大半が設計された。彼は1982年にApple Computerの顧問を務めた後でチップの開発を始めた。彼の仕事を援助した唯一の人間はレイアウトを担当した彼の妹のキャサリンだけだった。1984年3月にAppleとアタリへサンプルを送付し、チップの開発は完了した。 ルネサス エレクトロニクスのマイクロコンピュータ・7700ファミリは65816と共通した設計だが、完全な互換性はない。 本リストは65C816Sの主な機能である(Sはスタティックコアの意)。 W65802 (65C802) は6502と完全にピン互換の65816CPUである。65802は1980年代中~後期から1990年代初頭にかけてWDCとGTEで量産された。 このチップは8ビットの8502/65C02から新しい16ビットの65812へのアップグレードパスとして設計された。65802は6502/65C02のような(64KBのメモリ空間の)16ビットのアドレスバスがあり、65816の24ビットのアドレスバスより削減された。バンク選択レジスタ等の65816の全てのレジスタは65802CPUのコアに残っており、これらは単に動作時に作用しない。ハードウェアメーカーがプロジェクトを一から設計する場合はよりパワフルな65816が一般的に使われた。 6502互換ということで、Apple II GSのCPUとして採用されている。 同様にファミリーコンピュータのCPUである6502の上位互換であることからスーパーファミコンにも搭載された(スーパーファミコン自体は公式的にはファミリーコンピュータと互換ではないが、上位互換性を持たせるように設計はされており、ファミコンのカセットを挿せるファミコンアダプタなるものも案としては存在した)。 一部のスーパーファミコン用ゲームソフトは65816上位互換の任天堂SA-1を搭載していた。
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W65816(65C816)は、アメリカ・ウェスタンデザインセンター (WDC) の16ビットCPUで、モステクノロジーの6502の後継にあたるCPUである。65816の65は6502と互換性があることからきており、816は8ビットモードと16ビットモードの両方で動作することを意味している。
{{出典の明記|date=2022-07}} [[ファイル:W65C816S8PG-14 lg.jpg|thumb|DIP40パッケージの'''W65C816S'''マイコン。正方形の[[LCC]]プロセッサもある。]] '''W65816'''(65C816)は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ウェスタンデザインセンター]] (WDC) の[[16ビット]][[CPU]]で、[[モステクノロジー]]の[[MOS 6502|6502]]の後継にあたるCPUである。65816の''65''は6502と互換性があることからきており、''816''は8ビットモードと16ビットモードの両方で動作することを意味している。 == 概要 == 6502に対して、メモリ空間が64k[[バイト (情報)|バイト]]×256バンク(計16Mバイト,アドレス長[[24ビット]])に、アキュムレータ、インデックスレジスタおよびスタックポインタが[[16ビット]]に拡張された。エミュレーションモードでは6502の動作を[[エミュレート]]することができる。 [[1980年代]]中頃から[[1990年代]]初頭にかけて、GTEと[[三洋電機]]を含む4社が65816を[[セカンドソース]]で供給していた。[[2006年]]現在でもまだWDCから販売されており、またWinbondの教育用TVのICであるW55V9xシリーズのような一部のシステムでは[[IPコア]]としてアーキテクチャが実装されている。 WDCの創設者でありCEOのBill Menschによってプロセッサの大半が設計された。彼は[[1982年]]に[[Apple|Apple Computer]]の顧問を務めた後でチップの開発を始めた。彼の仕事を援助した唯一の人間はレイアウトを担当した彼の妹<!--姉かも-->のキャサリンだけだった。[[1984年]][[3月]]にAppleと[[アタリ (企業)|アタリ]]へサンプルを送付し、チップの開発は完了した。 [[ルネサス エレクトロニクス]]の[[マイクロコンピュータ]]・7700ファミリは65816と共通した設計だが、完全な互換性はない。 == CPUの特徴 == 本リストは65C816Sの主な機能である(Sはスタティックコアの意)。 *低消費電力(1MHzあたり300μA)とノイズ耐性の強化のために完全にスタティックな[[CMOS]]設計。 *幅広い電圧幅での運用(様々な電圧の周辺機器を利用するため、1.8V±5%, 2.5V±5%, 3.0V±5%, 3.3V±10%, 5.0V±5%に対応)。 *6502の設計とハードとソフトの完全な互換性を可能にする[[エミュレーション]]モード。 *16MBのメモリ空間をアクセスできる24ビットの[[アドレスバス]]。 *16ビットの[[演算装置#ALU|ALU]]、[[アキュムレータ (コンピュータ)|アキュムレータ]]、[[スタック]]、[[ポインタ (プログラミング)|ポインタ]]、[[インデックスレジスタ]]。 *デュアル[[キャッシュ (コンピュータシステム)|キャッシュ]]およびサイクルスティールの[[Direct Memory Access|DMA]]実装のためのVDA (Valid Data Address) 出力とVPA (Valid Program Address) 出力。 *[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]ベクタがアドレスされるときにVPB (Vector Pull) を出力。 *プロセッサのバスエラー状態からの復帰をサポートするアボート (ABORTB) 入力とその関連ベクタ。 *プログラムのセグメンテーションまたは16MBの完全にリニアなアドレッシングを可能にするプログラムとデータバンクレジスタの分離。 *[[リエントラント]]、[[再帰]]、[[リロケータブル]]プログラミングの機能を提供する、ダイレクトレジスタとスタック相対アドレッシング。 *24のアドレッシングモード-256のopコード(WDC 65C02の一部の新しいopコードを含む)を利用した92の命令セットでの13の6502互換(アドレッシング)モード。 *さらに電力を削減し、割り込みレイテンシを減らし、外部イベントと同期できるようにするWAI (Wait-for-Interrupt) とSTP (Stop-the-Clock) 命令。 *COP (Co-Processor) 命令とそのベクタはコプロセッサの構成(例えば浮動小数点プロセッサ)をサポートする。 *ブロック移動機能。 == 65802 == '''W65802''' ('''65C802''') は6502と完全にピン互換の65816CPUである。65802は1980年代中~後期から1990年代初頭にかけてWDCとGTEで量産された。 このチップは[[8ビット]]の8502/65C02から新しい16ビットの65812へのアップグレードパスとして設計された。65802は6502/65C02のような(64KBのメモリ空間の)16ビットのアドレスバスがあり、65816の24ビットのアドレスバスより削減された。バンク選択レジスタ等の65816の全てのレジスタは65802CPUのコアに残っており、これらは単に動作時に作用しない。ハードウェアメーカーがプロジェクトを一から設計する場合はよりパワフルな65816が一般的に使われた。 == 主な採用ハード == *[[エイコーン・コンピュータ|エイコーン]] [[Acorn Communicator]] *[[Apple IIGS]] *[[スーパーファミコン]] (Ricoh 5A22というカスタム版CPU) 6502互換ということで、Apple II GSのCPUとして採用されている。 同様に[[ファミリーコンピュータ]]のCPUである6502の[[上位互換]]であることから[[スーパーファミコン]]にも搭載された(スーパーファミコン自体は公式的にはファミリーコンピュータと互換ではないが、上位互換性を持たせるように設計はされており、ファミコンのカセットを挿せるファミコンアダプタなるものも案としては存在した)。 一部のスーパーファミコン用ゲームソフトは65816上位互換の任天堂[[スーパーファミコンの特殊チップ#SA1|SA-1]]を搭載していた。 == 外部リンク == *[http://famicom.suppa.jp/mab17.html 幻のソフト研究所 ファミコンアダプター] {{Computer-stub}} {{Normdaten}} [[Category:マイクロプロセッサ]] [[Category:アセンブリ言語]]
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日本陸上競技連盟
公益財団法人日本陸上競技連盟(にほんりくじょうきょうぎれんめい、英語: Japan Association of Athletics Federations、JAAF)は日本国内の陸上競技を統括する公益財団法人。略称は日本陸連。ワールドアスレティックス、アジア陸上競技連盟および日本オリンピック委員会、日本スポーツ協会加盟団体。 日本陸上競技連盟は、陸上競技の普及・振興を主たる目的とし、日本陸上競技選手権大会など日本国内開催の競技会を主催、競技規則制定、指導者・審判員育成、用器具・施設の公認、日本記録公認と世界記録申請などを行っている。オリンピック・世界陸上競技選手権大会など国際大会の日本代表を選定し派遣する。陸上競技の競技団体として1925年3月に創立総会を東京で開催し成立。1928年8月大日本体育協会に代わる日本国内統括団体として国際陸上競技連盟より承認を受ける。第二次世界大戦後、1945年12月に日本陸上競技連盟となる。現在の事務局長は風間明。 1924年オリンピックと極東大会の代表選手選考を巡り、大日本体育協会と私立大学3校の競走部委員が対立し、パリオリンピック後、全国学連内の官立大学と私立大学の対立へと拡大した。この問題の影響により、1924年に行われた第1回明治神宮競技大会に私立大学13校が不参加、また同年の全日本選手権は行われなかった。日比野寛・兼田嘉蔵・河野一郎・金栗四三・波多野敬三が中心となり体育協会から分離した陸上競技の全国的団体創設を目指した。組織の設立準備が進められ、1925年3月8日に東京で創立総会を開いて全日本陸上競技連盟が成立。初代の理事長に平沼亮三が就いた。全日本陸上競技連盟は体育協会に代わって日本国内の陸上競技を統括することとなった。 2021年 (令和3年) 6月時点で、会長1名・副会長3名・専務理事1名・常務理事5名・理事20名・監事3名・評議員20名・顧問5名の58名が役員を務める。専務理事の下に12の委員会・事務局を置く。2011年3月31日に、マラソンやトラック長距離種目を統括する長距離・ロード特別対策委員会を廃止し、強化委員会に統括した。 括弧内は都道府県コード。 上記地方区分は中学校、高等学校、学生、実業団の地方区分とは異なる。それぞれの地方区分は以下のとおりである。 日本在住の日本人選手は年度ごとに上記のいずれかの都道府県陸上競技協会に登録しなければ公式試合に出場できない。学生(大学生)以外は所属先の所在地(実業団は登録上の所在地の場合がある)の都道府県陸上競技協会に登録するが、学生は大学の所在地以外に出身中学校・高等学校の所在地や出生地の都道府県での登録も可能となっている。 なお、所属先がない選手は登録先の陸上競技協会(陸協)が所属先として記載される(都道府県によってはさらに細分化された群市区陸上競技協会の所属となることがある)。 S級、A級、B級がある。取得資格があり、加盟団体の審査を経る。S級・A級は競技会・講習会の出席状況が問われる。 公認団体によるが1年間以上の研修期間を設ける場合がある。 など。
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公益財団法人日本陸上競技連盟は日本国内の陸上競技を統括する公益財団法人。略称は日本陸連。ワールドアスレティックス、アジア陸上競技連盟および日本オリンピック委員会、日本スポーツ協会加盟団体。
{{Infobox YouTube personality | name = 日本陸上競技連盟 | channel_url = UCPGXX6m7rfGVWuMJTFDC_aw | channel_display_name =日本陸上競技連盟(日本陸連、JAAF) | views = 65,042,180回 | years_active = 2015年6月10日 - | genre = [[陸上競技]] | subscribers = 9.77万人 | silver_button = no | stats_update = {{dts|2023-6-4}} }} {{基礎情報 非営利団体 | 名称 = 公益財団法人日本陸上競技連盟<br />''Japan Association of Athletics Federations'' | ロゴ = Logo JAAF.svg | 画像 = Japan Sport Association-10a.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = 事務局が入居するJAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE | 創立者 = [[平沼亮三]] | 団体種類 = [[公益法人|公益財団法人]] | 設立 = [[1925年]] | 所在地 = [[東京都]][[新宿区]][[霞ヶ丘町]]4-2<br />[[JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE]] | 起源 = | 主要人物 = 名誉会長 [[横川浩]]<br />会長 [[尾縣貢]] | 活動地域 = {{JPN}} | 製品 = | 主眼 = 陸上競技によるスポーツ文化の普及・振興 など<ref>[http://www.jaaf.or.jp/rikuren/pdf/contribute.pdf 公益財団法人日本陸上競技連盟定款 第1章総則第3条] 日本陸上競技連盟. 2012年4月5日閲覧</ref> | 活動内容 = [[陸上競技]]の統括 | 活動手段 = | 収入 = 経常収益 2,110,997,426円<br />(2012年度)<ref name="jihou201307">『陸連時報2013年7月号』 p.250</ref> | 基本財産 = 一般正味財産 3,036,123,581円<br />(2012年度)<ref name="jihou201307"/> | ボランティア人数 = | 従業員数 = | 会員数 = | 子団体 = 47都道府県陸上競技協会 | 標語 = | ウェブサイト = {{Official URL}} | 解散 = | 特記事項 = 登録会員数 430,134(2019年3月末)<ref>『陸連時報2013年7月号』 p.249</ref> }} '''公益財団法人日本陸上競技連盟'''(にほんりくじょうきょうぎれんめい、{{lang-en|Japan Association of Athletics Federations}}、'''JAAF''')は[[日本]]国内の[[陸上競技]]を統括する[[公益法人|公益財団法人]]。略称は'''日本陸連'''。[[ワールドアスレティックス]]、[[アジア陸上競技連盟]]および[[日本オリンピック委員会]]、[[日本スポーツ協会]]加盟団体。 == 概要 == 日本陸上競技連盟は、陸上競技の普及・振興を主たる目的とし、[[日本陸上競技選手権大会]]など日本国内開催の競技会を主催、競技規則制定、指導者・審判員育成、用器具・施設の公認、[[陸上競技の日本記録一覧|日本記録]]公認と[[陸上競技の世界記録一覧|世界記録]]申請などを行っている。[[オリンピックの陸上競技|オリンピック]]・[[世界陸上競技選手権大会]]など国際大会の[[陸上競技日本代表|日本代表]]を選定し派遣する。陸上競技の競技団体として[[1925年]]3月に創立総会を東京で開催し成立。1928年8月[[日本スポーツ協会|大日本体育協会]]に代わる日本国内統括団体として国際陸上競技連盟より承認を受ける。[[第二次世界大戦]]後、1945年12月に日本陸上競技連盟となる。現在の事務局長は風間明。 == 沿革 == * 1925年([[1925年|大正14年]])[[3月8日]] - 全日本陸上競技連盟として創立、[[平沼亮三]]が理事長に就任。 * 1928年([[1928年|昭和3年]])8月7日 - 国際陸上競技連盟(IAAF。現・[[ワールドアスレティックス]])より日本国内統括団体として承認される。 * 1929年(昭和4年) - 会長制を導入し、平沼が初代会長に就任。 * 1942年(昭和17年) - 財団法人大日本体育会陸上戦技部となり解消。 * 1945年(昭和20年)12月9日 - 東京で総会を開催し日本陸上競技連盟として復活、翌1946年4月に規約制定。 * 1948年(昭和23年) - [[秩父宮雍仁親王]]を総裁に推戴、薨去後に[[雍仁親王妃勢津子]]が名誉役員となる。 * 1950年(昭和25年)8月22日 - 国際陸上競技連盟に復帰、日本は1946年より除名されていた。 * 1958年(昭和33年)5月 - [[1958年アジア競技大会|第3回アジア競技大会]]。 * 1964年(昭和39年)10月 - [[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]。 * 1971年([[1971年|昭和46年]])4月24日 - [[財団法人]]認可<ref>[http://www.rikuren.or.jp/rikuren/jimu.html 日本陸連事務局 |日本陸上競技連盟]</ref> * 1973年(昭和48年)11月 - [[アジア陸上競技連盟]]発足、加盟する。 * 1979年(昭和54年)5月 - 第3回[[アジア陸上競技選手権大会]]主管。 * 1981年(昭和56年)6月 - 第4回アジア陸上競技選手権大会主管。 * 1991年([[1991年|平成3年]])8月 - [[1991年世界陸上競技選手権大会|第3回世界陸上競技選手権大会]]主管。 * 1994年(平成6年)10月 - [[1994年アジア競技大会|第12回アジア競技大会]]。 * 1998年(平成10年)7月 - 第12回アジア陸上競技選手権大会主管。 * 1999年(平成11年)3月 - [[1999年世界室内陸上競技選手権大会|第7回世界室内陸上競技選手権大会]]主管。 * 2006年(平成18年)4月 - [[2006年世界クロスカントリー選手権|第34回世界クロスカントリー選手権大会]]主管。 * 2007年(平成19年)8月 - [[2007年世界陸上競技選手権大会|第11回世界陸上競技選手権大会]]主管。 * 2011年(平成23年)7月 - [[2011年アジア陸上競技選手権大会|第19回アジア陸上競技選手権大会]]主管。 * 2011年(平成23年)8月1日 - [[公益財団法人]]へ移行<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2011080100663 公益財団法人へ移行=日本陸連] - 時事通信 2011年8月1日{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref> * 2013年(平成25年)4月 - 役員改選が行われ、河野会長が退任して名誉会長となり新会長は副会長の横川浩が昇格した。理事に女子マラソンの[[高橋尚子]]ら24名を選任した。 == 設立 == 1924年[[オリンピックの陸上競技|オリンピック]]と[[極東選手権競技大会|極東大会]]の代表選手選考を巡り、[[大日本体育協会]]と私立大学3校の競走部委員が対立し、[[1924年パリオリンピックの陸上競技|パリオリンピック]]後、[[関東学生陸上競技連盟|全国学連]]内の官立大学と私立大学の対立へと拡大した。この問題の影響により、1924年に行われた第1回[[明治神宮競技大会]]に私立大学13校が不参加、また同年の[[日本陸上競技選手権大会|全日本選手権]]は行われなかった。[[日比野寛]]・[[兼田嘉蔵]]・[[河野一郎]]・[[金栗四三]]・[[波多野敬三]]が中心となり体育協会から分離した陸上競技の全国的団体創設を目指した<ref>鈴木良徳, 日本陸上競技連盟 (1956) pp.16-17.</ref>。組織の設立準備が進められ、[[1925年]]3月8日に東京で創立総会を開いて全日本陸上競技連盟が成立。初代の理事長に[[平沼亮三]]が就いた。全日本陸上競技連盟は体育協会に代わって日本国内の陸上競技を統括することとなった。 == 歴代会長 == * 初代 - [[平沼亮三]](1929年 - 1958年) 他に日本体育協会会長(1946年)など * 第2代 - [[春日弘]](1959年 - 1964年) * 第3代 - [[河野一郎]](1965年) * 第4代 - [[河野謙三]](1965年 - 1975年) 他に日本体育協会会長(1975年 - 1983年)など * 第5代 - [[青木半治]](1975年 - 1999年) 他に国際陸上競技連盟副会長(1992年-1999年)、日本体育協会会長(1989年 - 1993年)など * 第6代 - [[河野洋平]](1999年 - 2013年) * 第7代 - [[横川浩]](2013年 - 2021年)[[大阪ガス]]副社長 * 第8代 - [[尾縣貢]](2021年 - ) == 組織 == {| class="wikitable" !style="width:6em" |役職 !!style="width:6em" | 名前 !! 肩書・経歴 |- | 会長|| [[尾縣貢]] || [[筑波大学]]教授 |- | 副会長 || [[黄倉寿雄]]||一般財団法人岐阜陸上競技協会専務理事 |- | 副会長 ||[[瀬古利彦]]||横浜DeNAランニングクラブエグゼクティブアドバイザー |- | 副会長 ||[[有森裕子]]||株式会社アニモ |- | 専務理事 || [[風間明]] || (元)公益財団法人日本陸上競技連盟事務局長 |} 2021年 (令和3年) 6月時点で、会長1名・副会長3名・専務理事1名・常務理事5名・理事20名・監事3名・評議員20名・顧問5名の58名が役員を務める<ref>[https://www.jaaf.or.jp/files/upload/202106/21_180321.pdf 公益財団法人日本陸上競技連盟役員]</ref>。専務理事の下に12の委員会・事務局を置く。2011年3月31日に、マラソンやトラック長距離種目を統括する長距離・ロード特別対策委員会を廃止し、強化委員会に統括した<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_date1&k=2011033100908 長距離ロード特別委の廃止を承認=日本陸連] - [[時事通信]] 2011年3月31日</ref>。 {{col| * 総務企画委員会 * 強化委員会 * 法制委員会 * 財務委員会 | * 競技運営委員会 * 指導者養成委員会 * 施設用器具委員会 | * 科学委員会 * 医事委員会 * 事務局 }} == 加盟団体 == {{col| ; 北海道 * 北海道陸上競技協会 (1) ; 東北 * 青森陸上競技協会 (2) * 岩手陸上競技協会 (3) * 宮城陸上競技協会 (4) * 秋田陸上競技協会 (5) * 山形陸上競技協会 (6) * 福島陸上競技協会 (7) ; 関東 * 茨城陸上競技協会 (8) * 栃木陸上競技協会 (9) * 群馬陸上競技協会 (10) * 埼玉陸上競技協会 (11) * 千葉陸上競技協会 (12) * 神奈川陸上競技協会 (14) * 山梨陸上競技協会 (15) ; 東京 * 東京陸上競技協会 (13) | ; 北陸 * 新潟陸上競技協会 (16) * 富山陸上競技協会 (18) * 石川陸上競技協会 (19) * 福井陸上競技協会 (20) ; 東海 * 長野陸上競技協会 (17) * 静岡陸上競技協会 (21) * 愛知陸上競技協会 (22) * 三重陸上競技協会 (23) * 岐阜陸上競技協会 (24) ; 近畿 * 滋賀陸上競技協会 (25) * 京都陸上競技協会 (26) * 大阪陸上競技協会 (27) * 兵庫陸上競技協会 (28) * 奈良陸上競技協会 (29) * 和歌山陸上競技協会 (30) | ; 中国 * 鳥取陸上競技協会 (31) * 島根陸上競技協会 (32) * 岡山陸上競技協会 (33) * 広島陸上競技協会 (34) * 山口陸上競技協会 (35) ; 四国 * 香川陸上競技協会 (36) * 徳島陸上競技協会 (37) * 愛媛陸上競技協会 (38) * 高知陸上競技協会 (39) ; 九州 * 福岡陸上競技協会 (40) * 佐賀陸上競技協会 (41) * 長崎陸上競技協会 (42) * 熊本陸上競技協会 (44) * 大分陸上競技協会 (43) * 宮崎陸上競技協会 (45) * 鹿児島陸上競技協会 (46) * 沖縄陸上競技協会 (47) | }} 括弧内は都道府県コード。 上記地方区分は中学校、高等学校、学生、実業団の地方区分とは異なる。それぞれの地方区分は以下のとおりである。 * 中学校:北海道・東北・関東・北信越・東海・近畿・中国・四国・九州 * 高等学校:北海道・東北・北関東・南関東・北信越・東海・近畿・中国・四国・北九州・南九州 * 学生:北海道・東北・関東・北信越・東海・関西・中国四国・九州 * 実業団:東日本・北陸・中部・関西・中国・九州 日本在住の日本人選手は年度ごとに上記のいずれかの都道府県陸上競技協会に登録しなければ公式試合に出場できない。学生(大学生)以外は所属先の所在地(実業団は登録上の所在地の場合がある)の都道府県陸上競技協会に登録するが、学生は大学の所在地以外に出身中学校・高等学校の所在地や出生地の都道府県での登録も可能となっている。 なお、所属先がない選手は登録先の陸上競技協会(陸協)が所属先として記載される(都道府県によってはさらに細分化された群市区陸上競技協会の所属となることがある)。 == 協力団体 == {{col| *(一社)[[日本実業団陸上競技連合]] *(公社)[[日本学生陸上競技連合]] *(公財)[[全国高等学校体育連盟]] *(公財)全国高等学校体育連盟陸上競技専門部 | *(公財)[[日本中学校体育連盟]] *(公財)日本中学校体育連盟陸上競技部 *(公社)[[日本マスターズ陸上競技連合]] }} == 主催大会 == {{col-begin|width=100%}} {{col-2}} *[[日本陸上競技選手権大会]] **[[日本陸上競技選手権大会・室内競技]] **[[日本陸上競技選手権大会クロスカントリー競走]] *[[東京マラソン]] *[[大阪マラソン]] *[[大阪国際女子マラソン]] *[[福岡国際マラソン]] *[[マラソンフェスティバル ナゴヤ・愛知|名古屋ウィメンズマラソン]] *[[長野マラソン]] *[[ゴールデングランプリ陸上]] *[[全日本競歩能美大会]] {{col-2}} *[[天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会]] *[[皇后盃全国都道府県対抗女子駅伝競走大会]] *[[全国高等学校駅伝競走大会]] *[[全国中学校駅伝大会]] *[[国民体育大会陸上競技]] *[[U20日本陸上競技選手権大会]] *[[U18日本陸上競技選手権大会]] *[[全国高等学校総合体育大会陸上競技大会|秩父宮賜杯全国高等学校陸上競技対校選手権大会]] *[[全日本中学校陸上競技選手権大会]] *[[全国小学生陸上競技交流大会]] *[[全国高等学校定時制通信制陸上競技大会]] など。 {{col-end}} == 公認審判員 == S級、A級、B級がある。取得資格があり、加盟団体の審査を経る。S級・A級は競技会・講習会の出席状況が問われる<ref>[http://www.jaaf.or.jp/technical/syutoku.html 陸上競技公認審判員資格の取得方法] 日本陸上競技連盟. 2011年4月10日閲覧</ref>。 *S級は、60歳以上のA級取得者が対象。永年にわたって審判活動に精励し、熟練した審判技術と知識を有する者。 *A級は、B級取得後10年以上の経験年数が必要。数多くの審判活動を通して、より高い審判技術と知識を身に付けた者。 *B級は、18歳以上の陸連登記競技者・陸連登録会員が対象。審判講習会を受講し、公認審判員として必要な技術と知識を身に付けた者。 公認団体によるが1年間以上の研修期間を設ける場合がある。 == 出版 == * 『陸連時報』 (? - 1977年) 日本陸上競技連盟、月刊 * 『[[陸上競技マガジン]]』・『陸連時報』 [[ベースボールマガジン社]]、月刊 * 『陸上競技研究紀要』 日本陸上競技連盟 * 『陸上競技ルールブック』 日本陸上競技連盟編著、あい出版(? - 2011年)、年刊 * 『陸上競技ルールブック』 日本陸上競技連盟編著、ベースボール・マガジン社(2012年 - )、年刊 * 『陸上競技審判ハンドブック』 日本陸上競技連盟編著、あい出版(? - 2011年)、隔年刊 * 『陸上競技審判ハンドブック』 日本陸上競技連盟編著、ベースボール・マガジン社(2012年 - )、年刊 など。 == マスコットキャラクター == * アスリー * アスリオン - 2010年12月発表。アスリートと[[ライオン]]を語源とするキャラクター<ref>[http://www.jaaf.or.jp/fan/update/new_chara.pdf 日本陸連新マスコットキャラクター名のお知らせ] 日本陸上競技連盟 (2010-12-15). 2012年4月5日閲覧</ref>。ユニフォームとランニングシューズを着用している。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * [[鈴木良徳]], 日本陸上競技連盟 『日本陸上競技史』 日本陸上競技連盟, 1956年 * 日本陸上競技連盟七十年史編集委員会 『日本陸上競技連盟七十年史』 財団法人日本陸上競技連盟, 1995年 * 日本陸上競技連盟八十年史編集委員会 『日本陸上競技連盟八十年史』 財団法人日本陸上競技連盟, 2005年 * [[大島鎌吉]]他 『図説陸上競技事典 上巻』 [[講談社]], 1971年 * [[青木半治]]他 『アスリートよ永遠なれ』 [[早稲田大学出版部]], 1986年 ISBN 978-4657863089 * [http://www.jaaf.or.jp/fan/history/index.html 日本陸上タイムトラベル] 日本陸上競技連盟 == 関連項目 == *[[陸上競技日本代表]] *[[陸上競技場]] *[[陸上競技の日本記録一覧|陸上競技の日本記録]] *[[ランニング腹筋超人女子]] ==外部リンク== * {{Official website}} * {{Twitter}} * {{Instagram}} * {{TikTok}} * {{Facebook}} {{日本陸上競技連盟会長}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:にほんりくしようきようきれんめい}} [[Category:陸上競技に関する日本の組織]] [[Category:日本の国内競技連盟|りくしよう]] [[Category:公益財団法人 (内閣総理大臣認定)]] [[Category:公益財団法人 (スポーツ関係)]] [[Category:新宿区の公益法人]] [[Category:1925年設立の組織]]
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片づけられない女たち
『片づけられない女たち』(かたづけられないおんなたち、原題:Women with Attention Deficit Disorder )は、米国のカウンセラーであり、自らも当事者であるサリ・ソルデン (:Sari Solden MS,MFCC) が、女性の注意欠陥障害 (ADD) について書いた著書である。原著は1995年に刊行された。 当時は主に子供や男性の障害であるとされてきた注意欠陥・多動性障害に関して女性患者にスポットを当て、女性特有の問題があり、大人になっても障害ゆえに様々な問題を抱えていることについて解説した書籍である。本書はアメリカでベストセラーとなり、女性のADHDについての認知が進むこととなった。 2001年に出版されたダニエル・エイメンの『「わかっているのにできない」脳』においても、女性のADHD患者は多動や衝動性が目立たない「不注意優勢型」に分類されることが多く、発見が遅れがちで認知される人数が少ないことが推測され、実際のADHD発症率の男女差は当時言われていたより小さいことが指摘されていた。 精神障害の診断と統計マニュアル (DSM) においては、1994年に出版されたDSM-IV(第4版)では、ADHDの有病率の男女比は圧倒的に男児に多いとされてきたが、18年後の2013年に改訂されたDSM-5(第5版)では、男女比は子供で2対1、成人では1.6対1にまで差が縮まっている。本書はこうした事実を予見した書物となっている。ただし1990年代に出版された書物のため、薬物療法としてはリタリンが推奨されている。 日本語訳は、原著出版の5年後となる2000年(平成12年)8月、ニキ・リンコの訳でWAVE出版から刊行された。 原題は『Women with Attention Deficit Disorder』(「ADDを持つ女性たち」の意味)であるが、日本で出版するにあたり『片付けられない女たち』というタイトルがつけられた。そのため、女性の発達障害について扱った書籍であることがタイトルからはわかりにくくなっている。 本書は日本でもベストセラーとなり、これを読んだ女性たちが医療を求める例が増えたが、当時の日本国内では大人の発達障害を診断・治療できる医療機関が非常に少なく、診断を受けるだけでも困難であった。その後、日本でも2005年(平成17年)に発達障害者支援法が制定されている。
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『片づけられない女たち』は、米国のカウンセラーであり、自らも当事者であるサリ・ソルデン が、女性の注意欠陥障害 (ADD) について書いた著書である。原著は1995年に刊行された。
{{基礎情報 書籍 |title = 片づけられない女たち |orig_title = {{Lang|en|Women with Attention Deficit Disorder}} |image = |image_size = |image_caption = |author = [[サリ・ソルデン]] |translator = [[ニキ・リンコ]] |illustrator = <!-- イラスト --> |published = [[2000年]]8月<br/>(原著は[[1995年]]) |publisher = [[WAVE出版]] |genre = [[心理学]]<br/>[[精神医学]] |country = {{JPN}} |language = <!-- 言語 --> |type = <!-- 形態 --> |pages = 392頁 |preceded_by = <!-- 前作 --> |followed_by = <!-- 次作 --> |website = http://www.wave-publishers.co.jp/np/isbn/487290074X/ |id = ISBN 487290074X{{-}}{{OCLC|47155055}}{{-}}{{全国書誌番号|20070332}} |portal1 = 書物 |portal2 = 教育 |portal3 = 医学と医療 |portal4 = |portal5 = |portal6 = |portal7 = |portal8 = |portal9 = |portal10 = }} 『'''片づけられない女たち'''』(かたづけられないおんなたち、原題:{{Lang|en|''Women with Attention Deficit Disorder''}} )は、[[アメリカ合衆国|米国]]の[[カウンセラー]]であり、自らも当事者である[[サリ・ソルデン]] {{Lang|en|(:Sari Solden MS,MFCC)}} が、[[女性]]の[[注意欠陥障害]] (ADD) について書いた著書である<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=部屋を片付けられない女性たちが抱える「心の闇」 それは大人の発達障害かもしれない|url=https://president.jp/articles/-/33415|website=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)|date=2020-03-12|accessdate=2020-12-21|language=ja|publisher=[[プレジデント社]]}}</ref>。[[原著]]は[[1995年]]に刊行された。 == 概要 == {{See also|注意欠陥・多動性障害|大人のADHD}} 当時は主に[[子供]]や[[男性]]の障害であるとされてきた[[注意欠陥・多動性障害]]に関して女性患者にスポットを当て、女性特有の問題があり、大人になっても障害ゆえに様々な問題を抱えていることについて解説した書籍である<ref name=":0" />。本書はアメリカで[[ベストセラー]]となり、女性のADHDについての認知が進むこととなった<ref name=":0" />。 [[2001年]]に出版された[[ダニエル・エイメン]]の『「わかっているのにできない」脳』においても、女性のADHD患者は多動や[[衝動性]]が目立たない「不注意優勢型」に分類されることが多く、発見が遅れがちで認知される人数が少ないことが推測され、実際のADHD発症率の男女差は当時言われていたより小さいことが指摘されていた。 [[精神障害の診断と統計マニュアル]] (DSM) においては、[[1994年]]に出版されたDSM-IV(第4版)では、ADHDの[[有病率]]の男女比は圧倒的に男児に多いとされてきたが<ref name=":0" />、18年後の[[2013年]]に改訂されたDSM-5(第5版)では、男女比は子供で2対1、成人では1.6対1にまで差が縮まっている<ref name=":0" />。本書はこうした事実を予見した書物となっている<ref name=":0" />。ただし[[1990年代]]に出版された書物のため、[[薬物療法]]としては[[メチルフェニデート|リタリン]]が推奨されている。 == 日本語訳 == [[日本語]]訳は、原著出版の5年後となる[[2000年]]([[平成]]12年)8月、[[ニキ・リンコ]]の[[翻訳|訳]]で[[WAVE出版]]から刊行された<ref name=":0" />。 原題は『{{Lang|en|Women with Attention Deficit Disorder}}』(「ADDを持つ女性たち」の意味)であるが、[[日本]]で出版するにあたり『片付けられない女たち』というタイトルがつけられた<ref name=":0" />。そのため、女性の[[発達障害]]について扱った書籍であることがタイトルからはわかりにくくなっている。 本書は日本でもベストセラーとなり、これを読んだ女性たちが[[医療]]を求める例が増えたが、当時の日本国内では大人の発達障害を診断・治療できる[[医療機関]]が非常に少なく、診断を受けるだけでも困難であった<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=「発達障害のある子どもたちの学びに関わる問題」 フォーラム NPO法人発達障害をもつ大人の会(DDAC) 代表 広野ゆい氏【後編】|url=http://berd.benesse.jp/special/co-bo/co-bo_theme3-10.php|website=ベネッセ教育総合研究所|accessdate=2020-12-21|language=ja|publisher=[[ベネッセ]]}}</ref>。その後、日本でも[[2005年]](平成17年)に[[発達障害者支援法]]が制定されている<ref name=":1" />。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[発達障害]] **[[注意欠陥・多動性障害]] (ADHD) **[[発達障害者支援法]] *[[強迫的ホーディング|ホーディング障害]](ためこみ症)- ADHDと関連があるという研究結果がある *[[断捨離]] == 外部リンク == *[http://www.sarisolden.com/ サリ・ソルデンのホームページ(英語)] {{Book-stub}} {{Psych-stub}} {{DEFAULTSORT:かたつけられないおんなたち}} [[Category:アメリカ合衆国のノンフィクション書籍]] [[Category:発達障害を扱った作品]] [[Category:注意欠陥・多動性障害]] [[Category:女性の健康]] [[Category:心理学書]] [[Category:1995年の書籍]] [[Category:2000年の書籍]]
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厭離穢土
厭離穢土 (えんりえど、おんりえど)とは、浄土教の用語。 欣求浄土と対句で使われることが多い。江戸期までは「えんり - 」と読まれていたが、大正期~昭和初期から辞書(『大字典』など)によっては「おんり - 」を採用するようになった。「おんり - 」を誤りとする説もある。 語源は、寛和元年(985年)に出された源信の仏教書『往生要集』冒頭の章名に由来する。源信は、『往生要集』大文第一を厭離穢土、第二を欣求浄土とし、この思想を浄土信仰の基本とした。 「厭離穢土 欣求浄土」の意味は、「現実の世の中は、穢れた世界であるからこの世界を厭い離れ、次生において清浄な仏の国土に生まれることを願い求めること」とされる。阿弥陀如来の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望するという思いが込められている。 徳川家康は戦国時代、様々なものを馬印に用いた。その中の一つに「厭離穢土欣求浄土」の纏があった。寛文年間(1661年〜1673年)に編まれた『難波戦記』にはこう記されている。 永禄3年(1560年)5月19日昼頃、今川義元は桶狭間の戦いで戦死。織田方の武将の水野信元は、甥の松平元康(徳川家康)のもとへ、浅井道忠を使者として遣わした。同日夕方、道忠は、元康が守っていた大高城に到着し、今川義元戦死の報を伝えた。織田勢が来襲する前に退却するようとの勧めに対し、元康はいったん物見を出して桶狭間敗戦を確認した。同日夜半に退城。岡崎城内には今川の残兵がいたため、これを避けて翌20日、菩提寺の大樹寺に入った。ここまでは、各文献に記されているものであるが、「厭離穢土欣求浄土」の纏が家康の馬印となった由来については、主に以下の2説がある。 なお、山岡荘八の小説『徳川家康』は「この寺を建立した親忠もまた、つねにこの文字(注・厭離穢土欣求浄土)を陣頭にかざしてゆくのがつねであったという」と記述しており、どちらの説にも与していない。しかし、小説を原作とする1983年放映のNHK大河ドラマ『徳川家康』が(1)の説を採用したことから、厭離穢土欣求浄土は「自害を試みようとした家康に向かって登誉上人が発した言葉」として信じられるようになった。
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厭離穢土 (えんりえど、おんりえど)とは、浄土教の用語。
[[File:The-Gifu-Sekigahara-Battlefield-Memorial-Museum-4.jpg|250px|thumb|right|[[岐阜関ケ原古戦場記念館]]に展示されている「厭離穢土欣求浄土」の旗]] [[File:Okazaki-Koseidori-Higashi-6.jpg|250px|thumb|right|[[岡崎市]][[康生通東]]の商店街。「厭離穢土欣求浄土」の旗。]] '''厭離穢土''' (えんりえど、おんりえど)とは、[[浄土教]]の用語。 == 概要 == [[欣求浄土]]と対句で使われることが多い。江戸期までは「えんり - 」と読まれていたが、[[大正]]期~[[昭和]]初期から辞書(『大字典』など)によっては「おんり - 」を採用するようになった<ref name="konan-wu-nishida">{{Cite web|和書|author=[[西田直敏]] |url=https://www.konan-wu.ac.jp/~nichibun/kokubun/47/nishida2000.pdf | title=「厭離穢土」の読み―「オンリエド」は歴史的に根拠のない訓みである― | publisher=[[甲南女子大学]] |work=『甲南国文』第47号 |date=2000-3 | accessdate=2023-1-16 }}</ref>。「おんり - 」を誤りとする説もある<ref name="konan-wu-nishida"/>。 語源は、[[寛和]]元年([[985年]])に出された[[源信 (僧侶)|源信]]の仏教書『[[往生要集]]』冒頭の章名に由来する。源信は、『往生要集』大文第一を厭離穢土、第二を欣求浄土とし、この思想を浄土信仰の基本とした<ref name="jodoshuzensho-enriedo">{{Cite web|和書|url=http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8E%AD%E9%9B%A2%E7%A9%A2%E5%9C%9F%E6%AC%A3%E6%B1%82%E6%B5%84%E5%9C%9F| title=厭離穢土欣求浄土| publisher=宗教法人浄土宗 |website=WEB版新纂浄土宗大辞典|date= | accessdate=2023-1-16 }}</ref>。 「厭離穢土 欣求浄土」の意味は、「現実の世の中は、穢れた世界であるからこの世界を厭い離れ、次生において清浄な仏の国土に生まれることを願い求めること」とされる<ref name="jodoshuzensho-enriedo"/>。[[阿弥陀如来]]の[[極楽]]世界は清浄な国土であるから、そこへの[[往生]]を切望するという思いが込められている。 == 厭離穢土欣求浄土と徳川家康 == 徳川家康は戦国時代、様々なものを[[徳川家康の馬印|馬印]]に用いた。その中の一つに「厭離穢土欣求浄土」の纏があった。[[寛文]]年間([[1661年]]〜[[1673年]])に編まれた『[[難波戦記]]』にはこう記されている<ref name="aomori"/>。 {{quotation|又、前将軍家に御吉例の御旗あり、白布に、墨を以て厭離穢土欣求浄土と書きたり、これは[[三河国|三州]]浄土宗[[大樹寺]]の和尚[[登誉天室|登誉上人]]の筆なり、御筥に入れられ、御側に置かせ給ふ}} [[永禄]]3年([[1560年]])5月19日昼頃、[[今川義元]]は[[桶狭間の戦い]]で戦死。織田方の武将の[[水野信元]]は、甥の松平元康([[徳川家康]])のもとへ、[[浅井道忠]]を使者として遣わした。同日夕方、道忠は、元康が守っていた[[大高城]]に到着し、今川義元戦死の報を伝えた。織田勢が来襲する前に退却するようとの勧めに対し、元康はいったん物見を出して桶狭間敗戦を確認した。同日夜半に退城。岡崎城内には今川の残兵がいたため、これを避けて翌20日、[[菩提寺]]の[[大樹寺]]に入った。ここまでは、各文献に記されているものであるが<ref>{{Cite web|和書| url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1170586/1/206 | title=『岡崎市史別巻 徳川家康と其周圍』上巻、1934年、p. 304-305 | website=国立国会図書館デジタルコレクション | date= | accessdate=2023-2-7 }}</ref><ref>{{Cite web|和書| url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1170586/1/207 | title=『岡崎市史別巻 徳川家康と其周圍』上巻、1934年、p. 306-307 | website=国立国会図書館デジタルコレクション | date= | accessdate=2023-2-7 }}</ref>{{Sfn|『新編岡崎市史 中世 2』|p=809}}、「厭離穢土欣求浄土」の纏が家康の馬印となった由来については、主に以下の2説がある。 ;(1) 大樹寺での登誉の説諭を由来とする説 :大樹寺で代々言い伝えられているもの。言い伝えによれば、元康は敵の追撃をかわしながら、大樹寺に到着した。前途を悲観した元康は、大樹寺の松平家の墓前で自害を試みるが、その時13代住職の[[登誉天室]]が名将ほど命を重んずるものだと諫め、「厭離穢土欣求浄土」の教えを諭し、切腹を思いとどまらせたと言われる<ref name="Narita">{{Cite web|和書|url=http://www.okazakicci.or.jp/konwakai/18okazakigaku/18-6.pdf|title=厭離穢土 欣求浄土〜家康公の平和思想〜|format=PDF|author=成田敏圀(大樹寺責任役員)|publisher=[[岡崎商工会議所]] |date=2006-12-23 |accessdate=2017-10-31}}</ref><ref name="aomori">{{Cite web|和書|url=https://www.plib.pref.aomori.lg.jp/uploads/584e758f47563.pdf | title=日光東照宮と北極星 厭離穢土欣求浄土の心 神になった男 徳川家康顕彰四百年 | publisher=青森県立図書館 |date= | accessdate=2022-12-26 }}</ref>{{Sfn|大樹寺の歴史|pp=36-37}}。大樹寺は大正期〜昭和初期に発行した絵葉書にこの挿話を紹介している{{efn2|大樹寺発行の絵葉書のうち「徳川松平祖先三河八代廟所」のものには、「永禄三年五月東照公大高城を逃れて尊父廣忠の墓前に生害を謀られ大樹寺登譽の諫めに依り死を止め給ふ古蹟なり」と記されている。}}。 ;(2) 一向一揆との戦いの際に登誉が授けたとする説 :江戸時代の故事や旧例を紹介した『[[柳営秘鑑]]』によるもの。同書によれば、家康が[[三河国]]を手中に収めた[[永禄]]5年([[1562年]])から同7年([[1564年]])にかけて、[[三河一向一揆|一向一揆]]が苛烈を極めた際に大樹寺の住職だった登誉は家康に味方し、家康から御旗を賜ると自筆で「厭離穢土欣求浄土」と記して、門徒たちはその御旗を先頭に一向衆に攻め入り勝利を得たとされる。御旗の「厭離穢土欣求浄土」は「生を軽んじ、死を幸いにする」という身構えを示したもので、これは一向一揆側が自分たちの鎧に「進是極楽退是無間地獄(前進すれば極楽、退却すれば無間地獄)」と記したことを聞いて、住職がこの文言を書いて死を奨め、それ以来この旗は吉例とされ、御当家の御宝蔵にある、とされている<ref>[[清水克行]]『室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界』2021年6月発行、新潮社、P149~150</ref>。 なお、[[山岡荘八]]の小説『[[徳川家康 (山岡荘八)|徳川家康]]』は「この寺を建立した[[松平親忠|親忠]]もまた、つねにこの文字(注・厭離穢土欣求浄土)を陣頭にかざしてゆくのがつねであったという」<ref>{{Cite book|和書 |author=[[山岡荘八]] |title=[[徳川家康 (山岡荘八)|徳川家康]] |volume=(4) 葦かびの巻 |publisher=[[講談社]] |date=1953年 |page=45}}</ref>と記述しており、どちらの説にも与していない{{efn2|[[山岡荘八]]『[[徳川家康 (山岡荘八)|徳川家康]]』では、松平元康(徳川家康)の大樹寺での場面を次のようにあらわしている。{{quotation|元康は大樹寺にたどり着くと「父の墓前へ、死にに参った。門を開かせ候え」と言った。[[登誉天室|登誉上人]]は元康を寺の中へ導くと、わざわざ20人近い寺僧の前で「父の墓前で切腹とは、何という狭いご量見。そのようなことで祖先の霊に済みましょうや」と元康を訓戒した。ほどなく、元康の追手の織田勢が寺の門で「松平蔵人、この寺にかくれてあろう。門をあけろ。開けぬとたたきこわして入って焼くぞ」と騒ぎ立て、逆上した元康は太刀をかざして馬を駆って門へ走った<ref>{{Cite book|和書 |author=[[山岡荘八]] |title=[[徳川家康 (山岡荘八)|徳川家康]] |volume=(4) 葦かびの巻 |publisher=[[講談社]] |date=1953年 |pages=42-43}}</ref>。}}結局、山岡は「厭離穢土欣求浄土」の言葉を登誉上人には言わせていない。}}。しかし、小説を原作とする1983年放映のNHK大河ドラマ『[[徳川家康 (NHK大河ドラマ)|徳川家康]]』が(1)の説を採用したことから、厭離穢土欣求浄土は「自害を試みようとした家康に向かって登誉上人が発した言葉」として信じられるようになった<ref>{{Cite web|和書|author=眞邊明人 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/646957 | title=家康の切腹を止めた「厭離穢土欣求浄土」の裏側 | publisher=東洋経済オンライン |date=2023-1-22 | accessdate=2023-1-30 }}</ref><ref>{{Cite book|和書 |editor=藤根井和夫 |title=NHK大河ドラマ・ストーリー 徳川家康 |publisher=日本放送出版協会 |page=82 |date=1983-1-10 |isbn= }}</ref>。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |editor =[[柴田顕正]] |date= 1972年10月5日 |title= 岡崎市史別巻 徳川家康と其周圍 |volume=上巻 |publisher = 名著出版 |ref= {{SfnRef|『徳川家康と其周圍』上巻|1972}} }} * {{Cite book|和書 |author = |date= 1989-3-31 |title= 新編 岡崎市史 中世 2 |publisher = 新編岡崎市史編さん委員会 |ref= {{SfnRef|『新編岡崎市史 中世 2』}} }} * {{Cite book|和書 |author=新行紀一 |title=大樹寺の歴史 |publisher=大樹寺 |date=1983-4-17 |ref= {{SfnRef|大樹寺の歴史}} }} {{Buddhism2}} {{デフォルトソート:おんりえと}} [[Category:仏教用語]] [[Category:浄土教]] [[Category:平安時代の仏教]] [[Category:徳川家康]]
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ΜITRON
μITRON(マイクロアイトロン、Micro Industrial TRON、ΜITRON)は、ITRONの仕様の一系統である。 当初は、フルセットが大きなものとなったITRON2に対し、ワンチップマイコン等への実装を対象としたサブセットといった位置付けでまとめられた仕様であった。 その次の世代以降では、全機能を引き継ぐ形で、仕様名としてはμITRON3.0、μITRON4.0という名前になっている。また、当初の目的であった省資源のサブセット化については、仕様中に実装水準の規定を設けて対応している。 2011年時点の最新版はVer.4.03.03である。システムの大規模化・複雑化に対応するため、メモリ保護機能拡張を備えたμITRON4.0/PX仕様も公開している。また、Nucleus RTOSにμITRON4.0準拠のAPIを実装した「Nucleus μiPLUS」や、eCosなど、ITRONとして設計実装されたRTOS以外でも、μITRON互換のAPIが用意されていることがある。 μITRONにおけるタスクは、他の多くのオペレーティングシステムにおけるスレッドと等価であり、アプリケーション内におけるプログラムが並列実行する単位である。μITRONカーネル上で動作するアプリケーションは、少なくとも0個以上のタスクから構成する。 タスク例外処理機能はタスク上で発生した例外事象を処理するための機能である。割り込みやCPU例外がタスクとは異なるコンテキスト(非タスクコンテキスト)で処理するのに対し、タスク例外処理はタスクと同じコンテキスト(タスクコンテキスト)で処理する点が異なる。タスク例外処理ルーチンでは、タスクコンテキストで呼び出し可能な全サービスコールを使用することができる。 同期通信機能は複数のタスクの実行順序の制御やデータの送受信を行うための機能である。μITRON4.0仕様の同期通信機能には、次の7種類が存在する。 このうち[S]の付くサービスコールはスタンダードプロファイルでも対応している。また、[A]の付くサービスコールは自動車制御プロファイルでも対応する。 メモリプール機能はメモリブロックを動的に割付け・解放を行うための機能であり、概ねC言語におけるmalloc/free関数の機能に相当する。μITRON4.0仕様のメモリプール管理機能には、次の2種類が存在する。 このうち固定長メモリプールはスタンダードプロファイルでも対応する。自動車制御プロファイルではメモリプール管理機能は対応しない。 時間管理機能はカーネルが管理する時間に依存した処理を行うための機能である。 μITRON4.0仕様の時間管理機能には、次の4種類が存在する。 このうち[S]の付くサービスコールはスタンダードプロファイルでも対応する。また、[A]の付くサービスコールは自動車制御プロファイルでも対応する。時間管理機能が管理する各種ハンドラは、タスクとは異なるコンテキスト(非タスクコンテキスト)で処理する。 システム状態管理機能は、タスクの優先順位の回転、CPUロック状態やディスパッチ禁止状態の制御等を行うための機能である。 割り込み管理機能は、外部割込みが起動する割り込みハンドラおよび割り込みサービスルーチンを管理するための機能である。スタンダードプロファイルおよび自動車制御プロファイルでは、割り込みハンドラまたは割り込みサービスルーチンのいずれか一方のみを対応する。 割り込みハンドラおよび割り込みサービスルーチンは、タスクとは異なるコンテキスト(非タスクコンテキスト)で処理する。 サービスコール管理機能は、ユーザ定義の拡張サービスコールの定義と呼び出しを管理するための機能である。 システム構成管理機能は、CPU例外ハンドラの定義、コンフィギュレーション情報、バージョン情報の取得、および初期化ルーチンの登録を行うための機能である。 組み込みシステムでは、オブジェクトの生成を静的に(コンパイル~リンク時に解決できる方式で)解決できる機能が要求される場合が多くある。μITRON4.0仕様では、静的APIと呼ばれる一種のスクリプトを、コンフィギュレーションファイルに記述することで、静的にオブジェクトを生成することが可能になる。 スタンダードプロファイルは、主としてソフトウェアの移植性の向上を目的とした機能集合である。スタンダードプロファイルでは、使用可能なオブジェクトの種類を制限したほか、オブジェクトの生成は静的APIによる方法に制限している。TRON全体に共通して言えることであるが、μITRONは仕様のみを提供するものである。その実装は各ベンダに任されている。そのため、同じμITRONであっても実装間の差が大きく、ソフトウェア資産の再利用性に問題があった。μITRON4.0仕様ではスタンダードプロファイルを規定することで、各実装に最低限の互換性を持たせることを試みている。 自動車制御プロファイルは、カーネルのオーバーヘッドやメモリ使用量の削減を目的とした、主に自動車制御アプリケーションを対象とした機能セットである。自動車制御プロファイルでは、使用可能なサービスコールを、スタンダードプロファイルより更に制限し、かつ、待ち状態への遷移不可・優先度変更不可といった特徴を持つ制約タスクが導入されている。 同様の目的を持ったOS仕様に、OSEKがある。 保護機能拡張は、昨今のソフトウェアの大規模化・複雑化、および開発期間短縮の要求の中で、ソフトウェアの品質・信頼性の向上を維持するために検討した。 保護機能拡張の目的は次の3点である。 保護機能拡張では、保護ドメインを単位としたメモリアクセス制御を中心として、以下の点が追加・変更している。 最近ではμITRONの実装を統合するための試みも開始している。高田広章教授(名古屋大学)が開始したTOPPERSプロジェクトでは、オープンソースの実装を開発・公開し、μITRONの決定版を目指している。 T-Engineプロジェクトは、μITRONからT-Kernelへの移行を呼びかけている。T-Kernelは、仕様上はμITRON3.0と酷似しておりいくつかの機能拡張を施したものとみなすことができる。2013年9月に打ち上げられた国産ロケットイプシロンと、それに搭載された観測衛星ひさきに、μITRONとT-Kernelがそれぞれ使われた。 2017年3月に発売された家庭用ゲーム機Nintendo SwitchのJoy-ConコントローラーのNFC制御用OSにイーソル株式会社が開発したμITRON4.0準拠のOSが採用されている。
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μITRONは、ITRONの仕様の一系統である。 当初は、フルセットが大きなものとなったITRON2に対し、ワンチップマイコン等への実装を対象としたサブセットといった位置付けでまとめられた仕様であった。 その次の世代以降では、全機能を引き継ぐ形で、仕様名としてはμITRON3.0、μITRON4.0という名前になっている。また、当初の目的であった省資源のサブセット化については、仕様中に実装水準の規定を設けて対応している。 2011年時点の最新版はVer.4.03.03である。システムの大規模化・複雑化に対応するため、メモリ保護機能拡張を備えたμITRON4.0/PX仕様も公開している。また、Nucleus RTOSにμITRON4.0準拠のAPIを実装した「Nucleus μiPLUS」や、eCosなど、ITRONとして設計実装されたRTOS以外でも、μITRON互換のAPIが用意されていることがある。
{{小文字}} {{出典の明記|date=2011年3月31日}} '''μITRON'''(マイクロアイトロン、'''Micro Industrial TRON'''、'''ΜITRON''')は、[[ITRON]]の仕様の一系統である。 当初は、フルセットが大きなものとなったITRON2に対し、[[マイクロコントローラ|ワンチップマイコン]]等への実装を対象としたサブセットといった位置付けでまとめられた仕様であった。 その次の世代以降では、全機能を引き継ぐ形で、仕様名としてはμITRON3.0、μITRON4.0という名前になっている。また、当初の目的であった省資源のサブセット化については、仕様中に実装水準の規定を設けて対応している。 [[2011年]]時点の最新版はVer.4.03.03である。システムの大規模化・複雑化に対応するため、メモリ保護機能拡張を備えたμITRON4.0/PX仕様も公開している。また、[[Nucleus RTOS]]にμITRON4.0準拠のAPIを実装した「Nucleus μiPLUS」や、[[eCos]]など、ITRONとして設計実装されたRTOS以外でも、μITRON互換のAPIが用意されていることがある。 == 主な機能 == === タスク管理機能 === μITRONにおける[[タスク]]は、他の多くの[[オペレーティングシステム]]における[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]と等価であり、[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]内における[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]が並列実行する単位である。μITRON[[カーネル]]上で動作するアプリケーションは、少なくとも0個以上のタスクから構成する。 === タスク例外処理機能 === タスク例外処理機能はタスク上で発生した例外事象を処理するための機能である。割り込みやCPU例外がタスクとは異なる[[コンテキスト]](非タスクコンテキスト)で処理するのに対し、タスク例外処理はタスクと同じコンテキスト(タスクコンテキスト)で処理する点が異なる。タスク例外処理[[ルーチン]]では、タスクコンテキストで呼び出し可能な全サービスコールを使用することができる。 === 同期通信機能 === 同期通信機能は複数のタスクの実行順序の制御やデータの送受信を行うための機能である。μITRON4.0仕様の同期通信機能には、次の7種類が存在する。 * [[セマフォ]] [S][A] * [[イベントフラグ]] [S][A] * [[データキュー]] [S][A] * [[メールボックス]]{{要曖昧さ回避|date=2022年10月}} [S] * [[ミューテックス]] * [[メッセージバッファ]] * [[ランデブ]] このうち[S]の付くサービスコールはスタンダード[[プロファイル (工学)|プロファイル]]でも対応している。また、[A]の付くサービスコールは自動車制御プロファイルでも対応する。 === メモリプール管理機能 === メモリプール機能はメモリブロックを動的に割付け・解放を行うための機能であり、概ね[[C言語]]におけるmalloc/free関数の機能に相当する。μITRON4.0仕様のメモリプール管理機能には、次の2種類が存在する。 * 固定長メモリプール [S] * 可変長メモリプール このうち固定長メモリプールはスタンダードプロファイルでも対応する。自動車制御プロファイルではメモリプール管理機能は対応しない。 === 時間管理機能 === 時間管理機能はカーネルが管理する時間に依存した処理を行うための機能である。 μITRON4.0仕様の時間管理機能には、次の4種類が存在する。 * システム時刻管理 [S][A] * 周期ハンドラ [S][A] * アラームハンドラ * オーバーランハンドラ このうち[S]の付くサービスコールはスタンダードプロファイルでも対応する。また、[A]の付くサービスコールは自動車制御プロファイルでも対応する。時間管理機能が管理する各種ハンドラは、タスクとは異なるコンテキスト(非タスクコンテキスト)で処理する。 === システム状態管理機能 === システム状態管理機能は、タスクの優先順位の回転、CPUロック状態や[[ディスパッチ]]禁止状態の制御等を行うための機能である。 === 割り込み管理機能 === 割り込み管理機能は、外部割込みが起動する[[割り込みハンドラ]]および割り込みサービスルーチンを管理するための機能である。スタンダードプロファイルおよび自動車制御プロファイルでは、割り込みハンドラまたは割り込みサービスルーチンのいずれか一方のみを対応する。 割り込みハンドラおよび割り込みサービスルーチンは、タスクとは異なるコンテキスト(非タスクコンテキスト)で処理する。 === サービスコール管理機能 === サービスコール管理機能は、ユーザ定義の拡張サービスコールの定義と呼び出しを管理するための機能である。 === システム構成管理機能 === システム構成管理機能は、CPU例外ハンドラの定義、コンフィギュレーション情報、バージョン情報の取得、および初期化ルーチンの登録を行うための機能である。 === 静的API === [[組み込みシステム]]では、[[オブジェクト]]の生成を静的に([[コンパイル]]~[[リンケージエディタ|リンク]]時に解決できる方式で)解決できる機能が要求される場合が多くある。μITRON4.0仕様では、静的APIと呼ばれる一種の[[スクリプト]]を、コンフィギュレーション[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]に記述することで、静的にオブジェクトを生成することが可能になる。 == プロファイル == === スタンダードプロファイル === スタンダードプロファイルは、主としてソフトウェアの移植性の向上を目的とした機能集合である。スタンダードプロファイルでは、使用可能なオブジェクトの種類を制限したほか、オブジェクトの生成は静的APIによる方法に制限している。TRON全体に共通して言えることであるが、μITRONは仕様のみを提供するものである。その実装は各ベンダに任されている。そのため、同じμITRONであっても実装間の差が大きく、ソフトウェア資産の再利用性に問題があった。μITRON4.0仕様ではスタンダードプロファイルを規定することで、各実装に最低限の互換性を持たせることを試みている。 === 自動車制御プロファイル === [[自動車]]制御プロファイルは、カーネルの[[オーバーヘッド]]や[[メモリ]]使用量の削減を目的とした、主に自動車制御アプリケーションを対象とした機能セットである。自動車制御プロファイルでは、使用可能なサービスコールを、スタンダードプロファイルより更に制限し、かつ、待ち状態への遷移不可・優先度変更不可といった特徴を持つ制約タスクが導入されている。 同様の目的を持ったOS仕様に、[[OSEK]]がある。 == 保護機能拡張(μITRON4.0/PX仕様) == 保護機能拡張は、昨今のソフトウェアの大規模化・複雑化、および開発期間短縮の要求の中で、ソフトウェアの品質・信頼性の向上を維持するために検討した。 === 拡張の目的 === 保護機能拡張の目的は次の3点である。 * セキュリティ確保 * 信頼性の向上 * デバッグ支援 === 主な追加・変更点 === 保護機能拡張では、保護ドメインを単位としたメモリアクセス制御を中心として、以下の点が追加・変更している。 * アクセス許可ベクタによる保護ドメインごとのアクセス制御 * 可変長メモリプール機能のサポート廃止 * 保護メモリプール機能のサポート * 保護メールボックス機能のサポート * メモリオブジェクトのサポート == 最近の動向 == 最近ではμITRONの実装を統合するための試みも開始している。[[高田広章]]教授([[名古屋大学]])が開始した[[TOPPERS]]プロジェクトでは、[[オープンソース]]の実装を開発・公開し、μITRONの決定版を目指している。 [[T-Engine]]プロジェクトは、μITRONからT-Kernelへの移行を呼びかけている。[[T-Kernel]]は、仕様上はμITRON3.0と酷似しておりいくつかの機能拡張を施したものとみなすことができる。2013年9月に打ち上げられた国産ロケット[[イプシロンロケット|イプシロン]]と、それに搭載された観測衛星[[ひさき]]に、μITRONとT-Kernelがそれぞれ使われた<ref name="MV">[http://www.t-engine.org/ja/2014/mail-magazine-201401-1.html/ [T-Engine Forum Japan]【2014.1】トロンプロジェクト30周年]</ref>。 2017年3月に発売された家庭用ゲーム機[[Nintendo Switch]]の[[Nintendo Switch#Joy-Con|Joy-Conコントローラー]]の[[近距離無線通信|NFC]]制御用OSにイーソル株式会社が開発したμITRON4.0準拠のOSが採用されている<ref>{{Cite web|和書|title=「Nintendo Switch」がμITRON4.0仕様準拠リアルタイムOSを採用|url=https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/1707/07/news029.html|work=MONOist|publisher=[[ITmedia]]|date=2017-07-07|accessdate=2017-07-07}}</ref>。 == 参考文献 == *坂村健 監修 『μITRON4.0標準ガイドブック』 パーソナルメディア ISBN 4893621912 2001年11月 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 外部リンク == *[https://www.tron.org/ja/specifications/ TRON関連資料] *[http://www.ertl.jp/ITRON/SPEC/mitron4-j.html μITRON4.0仕様] {{TRON}} {{Computer-stub}} {{Software-stub}} {{DEFAULTSORT:ΜITRON}} [[Category:TRONプロジェクト]] [[Category:組み込みOSの製品]] [[Category:OSのカーネル]]
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応供
応供(おうぐ、巴: arahant アラハント, 梵: arhat アルハット, अर्हत् , 音写 : 阿羅漢(あらかん))とは、仏教を信仰し修行する比丘の中でも、供養を受けるにふさわしい者という意味。釈迦在世時代のインドでは、宗教的に最高の境地に達した聖者をこのように呼んだ。如来の別号である十号の一つにあげられており、仏そのものを指す呼び名である。 上座部仏教などの部派仏教でも、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者・声聞(しょうもん)の最高位と位置づけられている。一方、成仏(仏陀に成る)を標榜する大乗仏教では、「小乗仏教(部派仏教への蔑称)を実践しても阿羅漢止まりである」として軽んじる傾向が強い。
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応供とは、仏教を信仰し修行する比丘の中でも、供養を受けるにふさわしい者という意味。釈迦在世時代のインドでは、宗教的に最高の境地に達した聖者をこのように呼んだ。如来の別号である十号の一つにあげられており、仏そのものを指す呼び名である。 上座部仏教などの部派仏教でも、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者・声聞(しょうもん)の最高位と位置づけられている。一方、成仏(仏陀に成る)を標榜する大乗仏教では、「小乗仏教(部派仏教への蔑称)を実践しても阿羅漢止まりである」として軽んじる傾向が強い。
'''応供'''(おうぐ、{{lang-pi-short|arahant}} '''アラハント''', {{lang-sa-short|arhat}} '''アルハット''', अर्हत् , 音写 : '''[[阿羅漢]]'''(あらかん))とは、[[仏教]]を信仰し修行する[[比丘]]の中でも、[[供養]]を受けるにふさわしい者という意味。[[釈迦]]在世時代のインドでは、宗教的に最高の境地に達した聖者をこのように呼んだ。[[如来]]の別号である[[十号]]の一つにあげられており、[[仏]]そのものを指す呼び名である。 [[上座部仏教]]などの[[部派仏教]]でも、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者・[[声聞]](しょうもん)の最高位と位置づけられている。一方、成仏([[仏陀]]に成る)を標榜する[[大乗仏教]]では、「[[小乗|小乗仏教]](部派仏教への蔑称)を実践しても阿羅漢止まりである」として軽んじる傾向が強い。 {{四向四果}} == 脚注 == <references /> ==関連項目== *[[四向四果]] *[[煩悩]] {{Buddhism-stub}} {{Buddhism2}} {{デフォルトソート:おうく}} [[category:阿羅漢|*おうく]] [[Category:仏教の称号・役職]]
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阿羅漢
仏教用語の阿羅漢(あらかん)とは、サンスクリット語: अर्हत् , arhat(アルハット)、パーリ語: arahant(アラハント)に由来し、仏教において最高の悟りを得た、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと。この境地に達すると迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができるという。略称して羅漢(らかん)ともいう。サンスクリット語 arhat の主格 arhan やパーリ語 arahant の音写語。漢訳には応供(おうぐ)という意訳もある。 梵: arhatや巴: arahant, arahantaの漢訳である応供は釈迦牟尼仏の別称である十号の1つでもある。阿羅漢は、もとは仏の別称であったが、後に仏と区別され、声聞(仏の弟子)を指す言葉となった。大乗仏教では声聞を批判的に阿羅漢と呼び、仏と区別した。大乗仏教の漢訳圏では総じて、阿羅漢を声聞(小乗)と同一視し、菩薩や仏と対置して批判的にみる俗説が通流した。 僧団の規則である律においては、阿羅漢でない者が、自分が阿羅漢でないことを知っていながら、故意に阿羅漢を名乗ることを「大妄語」とし、最も重い波羅夷罪を科して僧団追放の対象とした。 梵: arhatは、インドの宗教一般において、尊敬されるべき修行者を指した。通俗語源解釈として、煩悩の賊(ari)を殺す(han)から殺賊(せつぞく)と言われたり、涅槃に入って迷いの世界(三界)に生れない(a(不) + ruh(生ずる))から不生(ふしょう)と言われたりする。arhat を語幹に持つ अर्हत्फल(arhatphala)や अर्हत्त्व(arhattva)は阿羅漢果と漢訳され、英訳では arhatship が当てられている。 原始仏教・部派仏教において阿羅漢は、修行者の到達し得る最高位である。漏(煩悩)が尽き滅し終えて解脱した者である。既に不還となって五下分結が絶たれており、さらに五上分結を絶った者である。 Katamo ca bhikkhave catuttho samaṇo? Idha bhikkhave bhikkhu āsavānaṃ khayā anāsavaṃ cetovimuttiṃ paññāvimuttiṃ diṭṭheva dhamme sayaṃ abhiññā sacchikatvā upasampajja viharati. Ayaṃ bhikkhave catuttho samaṇo. 比丘たちよ、いかなるものが第四の沙門なのか。 比丘たちよ、ここに比丘がいて、諸漏(āsavā)を滅尽したゆえに、無漏の心解脱・慧解脱を現世において自ら証知し、作証し、具足して住む。 比丘たちよ、これが第四の沙門である。 学道を完成してこれ以上に学ぶ要がないので阿羅漢果を無学位(むがくい)という。それ未満の、不還果(ふげんか)・一来果(いちらいか)・預流果(よるか)を「有学位」(うがくい)という。阿羅漢果を経てしまうと、欲界への執着を失うため世間にとどまることができず、出離し出家するしかなくなる。 相応部ジャンブカーダカ相応では、遊行者に「阿羅漢果とはどのようなものか?」と問われたサーリプッタは、三毒の滅尽であると答えている。更に阿羅漢果に至る道を問われ、それは八正道であると答えている。 Yo kho āvuso rāgakkhayo dosakkhayo mohakkhayo idaṃ vuccati arahattanti. 友よ、貪欲の滅尽、瞋恚の滅尽、愚痴の滅尽。これを阿羅漢果というのです。 禅宗の中には、阿羅漢(にして四大声聞)だった摩訶迦葉に釈迦の正法が直伝されたとして、釈迦の弟子たちの修行の姿を理想化し、阿羅漢の図像を正法護持の祈願の対象とした宗派がある。 中国・日本では仏法を護持することを誓った16人の弟子を十六羅漢、第1回の仏典編集(結集:けちじゅう)に集まった500人の弟子を五百羅漢と称して尊崇することも盛んになった。 玄奘訳『大阿羅漢難提蜜多羅所説法住記』(だいあらかんなんだいみたらしょせつほうじゅうき、Nandimitrāvadāna)によると、仏滅800年経ち、ナンディミトラ(慶友)大阿羅漢が大衆に説いたとされる、仏勅を受けて永くこの世に住し衆生を済度する役割をもった16人の阿羅漢。 十六羅漢に大迦葉・軍徒鉢歎の2人か又は慶友(難提蜜多羅)・賓頭盧の2人を追加して十八羅漢と呼ばれる。追加される羅漢は経典によって差異がある。また、チベット仏教では、17番目をナンディミトラとし、18番目を玄奘三蔵としている。 仏陀に常に付き添った500人の弟子、または仏滅後の第1回の結集(けつじゅう、仏典編集)に集まった弟子を五百羅漢と称して尊崇・敬愛することも盛んにおこなわれてきた。
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仏教用語の阿羅漢(あらかん)とは、サンスクリット語: अर्हत्, arhat(アルハット)、パーリ語: arahant(アラハント)に由来し、仏教において最高の悟りを得た、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと。この境地に達すると迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができるという。略称して羅漢(らかん)ともいう。サンスクリット語 arhat の主格 arhan やパーリ語 arahant の音写語。漢訳には応供(おうぐ)という意訳もある。 梵: arhatや巴: arahant, arahantaの漢訳である応供は釈迦牟尼仏の別称である十号の1つでもある。阿羅漢は、もとは仏の別称であったが、後に仏と区別され、声聞(仏の弟子)を指す言葉となった。大乗仏教では声聞を批判的に阿羅漢と呼び、仏と区別した。大乗仏教の漢訳圏では総じて、阿羅漢を声聞(小乗)と同一視し、菩薩や仏と対置して批判的にみる俗説が通流した。 僧団の規則である律においては、阿羅漢でない者が、自分が阿羅漢でないことを知っていながら、故意に阿羅漢を名乗ることを「大妄語」とし、最も重い波羅夷罪を科して僧団追放の対象とした。
{{otheruses||映画|阿羅漢 (映画)}} {{Infobox Buddhist term |title=阿羅漢, アラハン |en = arhat |pi=arahant |sa=अर्हत् |bn=অর্হৎ |bn-Latn=ôrhôt |my=ရဟန္တာ |my-Latn=jəhàɴdà |zh=阿羅漢, 羅漢 |zh-Latn=āluóhàn, luóhàn |ja=阿羅漢, 羅漢 |ja-Latn=arakan, rakan |km= អរហន្ត<br>(Arahon) |ko=아라한, 나한 |ko-Latn=arahan, nahan |vi=a-la-hán |bo=dgra bcom pa |th=อรหันต์<br>({{RTGS|arahan}}) |si=අරහත්, රහත් |si-Latn=Arahat, Rahat }} [[仏教用語]]の'''阿羅漢'''(あらかん)とは、{{lang-sa|अर्हत् , arhat}}(アルハット)、{{lang-pi|arahant}}(アラハント)に由来し、[[仏教]]において最高の[[悟り]]を得た{{refnest|name="nipponica"|[[藤田宏達]]、[https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E7%BE%85%E6%BC%A2-27700#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「阿羅漢」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]、小学館。}}、尊敬や施しを受けるに相応しい[[聖人|聖者]]のこと<ref name="ib19">{{Cite |和書 |editor=中村元ほか |date=2002-10 |title=岩波仏教辞典 |edition=2 |publisher=岩波書店 |page=19 |isbn=}}</ref>。この境地に達すると迷いの[[輪廻]]から脱して[[涅槃]]に至ることができるという<ref name="daijirin">[https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E7%BE%85%E6%BC%A2%E6%9E%9C-199228#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 「阿羅漢果」 - 大辞林 第三版]、三省堂。</ref>。略称して'''羅漢'''(らかん)ともいう<ref name="ib19" />。[[サンスクリット]]語 arhat の主格 arhan や[[パーリ語]] arahant の音写語<ref name="kb">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E7%BE%85%E6%BC%A2-27700|title=阿羅漢(アラカン)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2018-07-01}}</ref><ref name="ib19" />。漢訳には'''[[応供]]'''(おうぐ)という意訳もある<ref name="ib19" />{{efn|応供とは、尊敬・施しを受けるに値する聖者のこと<ref name="ib19" />。}}。 {{lang-sa-short|arhat}}や{{lang-pi-short|arahant, arahanta}}の漢訳である'''応供'''は[[釈迦牟尼仏]]の別称である[[十号]]の1つでもある<ref name="ib19" />。阿羅漢は、もとは[[仏]]の別称であったが、後に仏と区別され、'''[[声聞]]'''(仏の弟子)を指す言葉となった<ref name="ib19" />。[[大乗仏教]]では声聞を批判的に阿羅漢と呼び、仏と区別した<ref name="ib19" />。大乗仏教の漢訳圏では総じて、阿羅漢を声聞(小乗)と同一視し、菩薩や仏と対置して批判的にみる{{refnest|name="梅原"|[[梅原猛]]著 『羅漢 - 仏と人のあいだ』(講談社現代新書)。}}{{要ページ番号|date=2017年6月17日 (土) 07:27 (UTC)}}俗説が通流した。 [[僧団]]の規則である[[律 (仏教)|律]]においては、阿羅漢でない者が、自分が阿羅漢でないことを知っていながら、故意に阿羅漢を名乗ることを「大妄語」とし、最も重い[[波羅夷罪]]を科して僧団追放の対象とした<ref>[http://horakuji.com/lecture/sibunritsu/contents/harai.htm 真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺 *『四分律』戒相 * 四波羅夷法]</ref>。 == 原語と漢訳 == {{lang-sa-short|arhat}}は、[[インド]]の宗教一般において、尊敬されるべき修行者を指した<ref name="ib19" />。通俗語源解釈として、煩悩の賊(ari)を殺す(han)から'''殺賊'''(せつぞく)と言われたり、[[涅槃]]に入って迷いの世界([[三界]])に生れない(a(不) + ruh(生ずる))から'''不生'''(ふしょう)と言われたりする<ref name="ib19" />。arhat を語幹に持つ अर्हत्फल(arhatphala)や अर्हत्त्व(arhattva)は阿羅漢果と[[漢訳]]され{{要出典|date=2018年3月10日 (土) 06:44 (UTC)|title=}}、英訳では arhatship が当てられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://ejje.weblio.jp/content/arhatship|title=arhatshipの意味・使い方 - 英和辞典 Weblio辞書|publisher=Weblio|accessdate=2018-03-10}}</ref>。 == 教義 == === 原始仏教 === {{See also|四向四果}} [[原始仏教]]・[[部派仏教]]において阿羅漢は、修行者の到達し得る最高位である{{refnest|name="デジタル大辞泉"|[https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E7%BE%85%E6%BC%A2-427839 阿羅漢(デジタル大辞泉)]}}<ref name="ib19" />。[[漏]]([[煩悩]])が尽き滅し終えて[[解脱]]した者である<ref name=fuji>{{Cite |和書|title=悟りの4つのステージ : 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果|author=藤本晃著|publisher=サンガ |date=2015-11 |isbn=9784865640267 |at=Chapt.6}}</ref>。既に[[不還]]となって[[五下分結]]が絶たれており、さらに[[五上分結]]を絶った者である<ref name=fuji />。 * [[五下分結]]([[三結]]および、[[貪]]、[[瞋]]) * [[五上分結]] *# 色貪(rūpa-rāga) - [[色界]]に対する欲望・執着 *# 無色貪(arūpa-rāga) - [[無色界]]に対する欲望・執着 *# [[慢]](māna) - 慢心 *# [[掉挙]](uddhacca) - 心の浮動 *# [[無明]](avijjā) - 根本の無知 {{Quote| Katamo ca bhikkhave catuttho samaṇo? Idha bhikkhave bhikkhu āsavānaṃ khayā anāsavaṃ cetovimuttiṃ paññāvimuttiṃ diṭṭheva dhamme sayaṃ abhiññā sacchikatvā upasampajja viharati. Ayaṃ bhikkhave catuttho samaṇo. 比丘たちよ、いかなるものが第四の沙門なのか。<br> 比丘たちよ、ここに比丘がいて、[[漏|諸漏]](āsavā)を滅尽したゆえに、無漏の心[[解脱]]・[[慧]]解脱を現世において自ら証知し、作証し、具足して住む。<br> 比丘たちよ、これが第四の沙門である。 | {{SLTP|[[増支部]][[四集 (増支部)|四集]] 241,沙門経 Samaṇasuttaṃ }} <ref name=fuji/>}} 学道を完成してこれ以上に学ぶ要がないので阿羅漢果を無学位(むがくい)という<ref name="ib19" />。それ未満の、[[不還]]果(ふげんか)・[[一来]]果(いちらいか)・[[預流]]果(よるか)を「有学位」(うがくい)という<ref name="ib19" />。阿羅漢果を経てしまうと、欲界への執着を失うため[[世間]]にとどまることができず、[[出離]]し[[出家]]するしかなくなる<ref name=fuji/>。 {{四向四果}} [[相応部]][[ジャンブカーダカ相応]]では、遊行者に「阿羅漢果とはどのようなものか?」と問われた[[サーリプッタ]]は、[[三毒]]の滅尽であると答えている<ref name=sn38>{{SLTP|[[相応部]][[ジャンブカーダカ相応]] Nibbānasuttaṃ}}</ref>。更に阿羅漢果に至る道を問われ、それは[[八正道]]であると答えている<ref name=sn38 />。 {{Quote| Yo kho āvuso rāgakkhayo dosakkhayo mohakkhayo idaṃ vuccati arahattanti. <ref name=sn38 /> 友よ、貪欲の滅尽、瞋恚の滅尽、愚痴の滅尽。これを阿羅漢果というのです。 }} === 大乗仏教 === [[禅宗]]の中には、阿羅漢(にして四大声聞)だった[[大迦葉|摩訶迦葉]]に釈迦の[[正法]]が直伝されたとして、釈迦の弟子たちの修行の姿を理想化し、阿羅漢の図像を正法護持の祈願の対象とした宗派がある<ref name="ib19" />。 中国・日本では仏法を護持することを誓った16人の弟子を[[#十六羅漢|十六羅漢]]、第1回の仏典編集([[結集]]:けちじゅう)に集まった500人の弟子を[[#五百羅漢|五百羅漢]]と称して尊崇することも盛んになった<ref name="ib19" />。 == 阿羅漢の例 == {{出典の明記|date=2018年3月10日 (土) 06:58 (UTC)|section=1}} === 十六羅漢 === [[ファイル:Rakan5918.JPG|thumb|300px|十六羅漢、羅漢の廻りには邪鬼もいる、六角堂、京都市中京区]] [[Image:Lightmatter Hsi Lai Temple Arhat Garden.jpg|right|thumb|300px|十六羅漢像<!--(コモンズより)-->]] [[玄奘]]訳『[[大阿羅漢難提蜜多羅所説法住記]]』(だいあらかんなんだいみたらしょせつほうじゅうき、{{lang|sa|Nandimitrāvadāna}})によると、仏滅800年経ち、ナンディミトラ(慶友)大阿羅漢が大衆に説いたとされる、仏勅を受けて永くこの世に住し衆生を済度する役割をもった16人の阿羅漢。 #'''[[賓頭盧|賓度羅跋囉惰闍]]'''(びんどらばらだじゃ、ピンドーラ・バーラドゥヴァージャ Piṇḍola-bhāradvāja)<ref name=ek /> #:眷属として1000阿羅漢を有し、西瞿陀尼洲(さいくだにしゅう、あるいは西牛貨洲:さいごけしゅう)に住す。 #:西瞿陀尼洲とは、須弥山世界の四大洲のうちの西大陸、アパラゴダーニーヤ・ドヴィーパ(Aparagodānīya-dvīpa)。 #:賓度羅跋囉惰闍は、'''賓頭盧尊者'''(びんずるそんじゃ)即ち「'''おびんずる様'''」として知られる。 #'''迦諾迦伐蹉'''(かなかばっさ、カナカヴァツァ Kanakavatsa)<ref name=ek /> #:眷属として500阿羅漢を有し、北方の迦湿弥羅国(かしゅうみらこく、[[カシミール]] Uttarapradeśa-Kāśmīra)に住す。 #'''迦諾迦跋釐堕闍'''(かなかばりだじゃ、カナカバーラドゥヴァージャ Kanakabhāradvāja)<ref name=ek /> #:眷属として600阿羅漢を有し、東勝身洲(とうしょうしんしゅう)に住す。 #:東勝身洲とは、須弥山世界の四大洲のうちの東大陸、プールヴァヴィデーハ・ドヴィーパ(Pūrvavideha-dvīpa)。 #'''蘇頻陀'''(すびんだ、スヴィンダ Suvinda)<ref name=ek /> #:眷属として700阿羅漢を有し、北倶盧洲(ほっくるしゅう)に住す。 #:北倶盧洲とは、須弥山世界の四大洲のうちの北大陸、ウッタラクル・ドヴィーパ(Uttarakuru-dvīpa)。 #'''諾距羅'''(なこら、ナクラ Nakula)<ref name=ek /> #:眷属として800阿羅漢を有し、[[閻浮提|南贍部洲]](なんせんぶしゅう)に住す。 #:南贍部洲とは、須弥山世界の四大洲のうちの南大陸、ジャンブー・ドヴィーパ(Jambū-dvīpa)。 #'''跋陀羅'''(ばだら、バドラ Bhadra)<ref name=ek /> #:眷属として900阿羅漢を有し、[[セイロン島|躭没羅洲]](たんもらしゅう、ターンラ・ドヴィーパ Tāmra-dvīpa)に住す。 #:諸寺の浴室では[[首楞厳経]]の記述に随いこの尊者像が安置される事が多い。 #'''迦理迦'''(かりか、カーリカ Kālika)<ref name=ek /> #:眷属として1000阿羅漢を有し、僧伽羅洲(そうからしゅう、シンハラ・ドヴィーパ Siṃhala-dvīpa)に住す。 #'''伐闍羅弗多羅'''(ばじゃらほたら、ヴァジュラプトラ Vajraputra)<ref name=ek /> #:眷属として1100阿羅漢を有し、鉢剌拏洲(はらなしゅう、プラナサ・ドヴィーパ Pranasa-dvīpa)に住す。 #'''戍博迦'''(じゅばか、ジーヴァカ Jīvaka)<ref name=ek /> #:眷属として900阿羅漢を有し、香酔山(こうすいせん、ガンダマーダナ・ギリ Gandhamādana-giri)中に住す。 #:香酔山とは、須弥山世界での南贍部洲の最北辺の山脈(これより北は、七金山(しちこんせん))。 #'''半託迦'''(はんたか、パンタカ Panthaka)<ref name=ek /> #:眷属として1300阿羅漢を有し、三十三天([[忉利天]])に住す。 #:第16の注荼半託迦([[周利槃特]])の兄。摩訶槃特(マハー・パンタカ)のこと。 #:忉利天とは、須弥山世界の須弥山頂上。 #'''[[羅睺羅|囉怙羅]]'''(らごら、ラーフラ Rāhula)<ref name=ek /> #:眷属として900阿羅漢を有し、畢利颺瞿洲(びりようくしゅう、プリヤング・ドヴィーパ Priyaṃgu-dvīpa)に住す。 #:[[十大弟子]]の一人で、釈迦の実子。 #'''那迦犀那'''(なかさいな、ナーガセーナ Nāgasena)<ref name=ek /> #:眷属として1200阿羅漢を有し、[[パーンダヴァ|半度波]]山(はんどはせん、パーンダヴァ・ギリ Pāṇḍava-giri)に住す。 #:[[ミリンダ王の問い]]に出る[[ナーガセーナ]]と思われる。 #'''因掲陀'''(いんがだ、インガダ Ingada)<ref name=ek /> #:眷属として1300阿羅漢を有し、廣脇山(こうぎょうせん、ヴィプラパールシュヴァ・ギリ Vipulapārśva-giri)に住す。 #'''伐那婆斯'''(ばなばす、ヴァナヴァーシン Vanavāsin)<ref name=ek /> #:眷属として1400阿羅漢を有し、可住山(かじゅうせん、ヴァイデーハ・パルヴァタ Vaideha-parvata)に住す。 #:ヴァイデハは小ヒマラヤ山脈に比定される。 #'''阿氏多'''(あじた、アジタ Ajita)<ref name=ek /> #:眷属として1500阿羅漢を有し、[[霊鷲山|鷲峯山]](じゅふせん、グリドラクータ・パルヴァタ Gṛdhrakūṭa-parvata)に住す。 #:仏典の一部で[[弥勒菩薩]]と同一視されることがある。 #'''[[周利槃特|注荼半託迦]]'''(ちゅだはんたか、チューダパンタカ Cūḍpanthaka)<ref name=ek /> #:眷属として1600阿羅漢を有し、持軸山(じじくせん、イーシャーダラ・ギリ Īṣādhara-giri)に住す。 #:[[周利槃特]]のこと。 #:持軸山とは、須弥山世界の四大洲から須弥山に至る七金山(しちこんせん)のうち6番目(須弥山側からは2番目)の山脈。 === 十八羅漢 === 十六羅漢に[[大迦葉]]・[[軍徒鉢歎]]の2人か又は[[慶友]](難提蜜多羅)・[[賓頭盧]]の2人を追加して十八羅漢と呼ばれる{{refnest|name="コトバンク"}}。追加される羅漢は経典によって差異がある{{refnest|name="コトバンク"|[https://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%BE%85%E6%BC%A2-527535 十八羅漢とは(コトバンク)] }}。また、[[チベット仏教]]では、17番目をナンディミトラとし、18番目を[[玄奘三蔵]]としている。 === 五百羅漢 === {{main|五百羅漢}} [[仏陀]]に常に付き添った500人の弟子、または[[仏滅]]後の第1回の[[結集]](けつじゅう、仏典編集)に集まった弟子を'''五百羅漢'''と称して尊崇・敬愛することも盛んにおこなわれてきた{{refnest|name="Yahoo!百科"|[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%BA%94%E7%99%BE%E7%BE%85%E6%BC%A2/ 五百羅漢(Yahoo!百科)] }}<ref name="ib19" />。 == 羅漢図・羅漢像 == === 阿羅漢の像容 === {{節スタブ}} === 著名な羅漢図・羅漢像 === [[File:Sixteen Arhats, Second Arhat, Heian period, 11th century, color on silk - Tokyo National Museum - DSC05737.JPG|thumb|right|十六羅漢像([[東京国立博物館]]) <br>{{Commons-inline|Category:Sixteen_Arhats_Paintings_(National_Treasures_of_Japan)|東京国立博物館 十六羅漢像}} ]] *[[国宝]]・絹本著色十六羅漢像 16幅([[東京国立博物館]])- 金大受, 南宋時代<ref name=ek>{{E国宝|id=100157|title=絹本著色十六羅漢像|accessdate=2023-05|所蔵=東京国立博物館}}</ref>。滋賀・[[聖衆来迎寺]]より購入 *国宝・絹本著色十六羅漢図 10幅 ([[東京国立博物館]])- 金大受, 南宋時代<ref>{{E国宝|id=100836|title=絹本著色十六羅漢図|accessdate=2023-05|所蔵=東京国立博物館}}</ref> *十六羅漢像 **[[建仁寺]]([[京都府]][[京都市]]) **[[相国寺]](京都府京都市、[[陸信忠]]作) **[[久遠寺]]([[山梨県]][[南巨摩郡]][[身延町]]) **[[ボストン美術館]](米国、[[伊藤若冲]]作) **[[らかん児童公園]]([[岩手県]][[盛岡市]]) **[[十六羅漢岩]] ([[山形県]][[遊佐町]]) *十六羅漢図 **[[高台寺]]([[京都府]][[京都市]])<ref>森田聖子・小林詔子・許永晝編著『十六羅漢図の原点』(文人画研究会、2019年11月25日)に[[高台寺]]所蔵十六画幅の図像を掲載。</ref> *十八羅漢像 **[[萬福寺]](京都府[[宇治市]]) **[[總持寺]]([[神奈川県]][[横浜市]]鶴見区:[[重要文化財]]) *五百羅漢像 **[[報恩寺 (盛岡市)|報恩寺]]([[岩手県]][[盛岡市]]) **[[五百羅漢 (遠野市)|五百羅漢]](岩手県[[遠野市]]) **[[瑞祥院 (稲敷市)|瑞祥院]](江上山瑞祥禪院・五百羅漢、[[茨城県]][[稲敷市]][[江戸崎]]) **[[喜多院]]([[埼玉県]][[川越市]]) **[[少林寺 (埼玉県)|少林寺]](埼玉県[[寄居町]]末野) **[[成田山新勝寺]]釈迦堂([[千葉県]][[成田市]]) **[[日本寺 (千葉県鋸南町)|乾坤山日本寺]]([[千葉県]][[鋸南町]]) - 千五百羅漢 **[[五百羅漢寺]]([[東京都]][[目黒区]]) **[[増上寺]](東京都[[港区 (東京都)|港区]]) - [[狩野一信]]・五百羅漢図 **[[玉宝寺 (小田原市)|玉宝寺]]([[神奈川県]][[小田原市]]) **[[長安寺 (箱根町)|長安寺]](神奈川県[[足柄下郡]][[箱根町]]) **[[願成就院]]([[静岡県]][[伊豆の国市]]) **[[大法寺]]([[長野県]][[青木村]]) **[[長慶寺 (富山市)|長慶寺]]([[富山県]][[富山市]]) **[[竹成五百羅漢]]([[三重県]][[三重郡]][[菰野町]])大日堂境内 **[[天寧寺 (彦根市)|天寧寺]]([[滋賀県]][[彦根市]]) **[[円福院 (滋賀県)|円福院]](滋賀県[[大津市]]) **[[南法華寺|壺阪寺]][[香高山五百羅漢]]([[奈良県]][[高取町]]高取) **[[愛宕念仏寺]]([[京都市]][[右京区]]) - 千二百羅漢 **[[石峯寺 (京都市)|石峯寺]](京都市[[伏見区]]) **[[羅漢寺 (加西市)|羅漢寺]]([[兵庫県]][[加西市]]) - 北条五百羅漢 **[[羅漢寺 (大田市)|羅漢寺]]([[島根県]][[大田市]][[大森 (大田市)|大森町]]) **[[地蔵寺 (徳島県板野町)|地蔵寺]]([[徳島県]][[板野郡]][[板野町]]) **[[山野の石像群]]([[福岡県]][[嘉麻市]]) **[[羅漢寺 (中津市)|羅漢寺]]([[大分県]][[中津市]]) **[[東光寺 (宇佐市)|東光寺]](大分県[[宇佐市]]) **[[大雄寺 (諫早市)|大雄寺]]([[長崎県]][[諫早市]]) **[[碧雲寺]]([[中華人民共和国|中国]][[北京市|北京]]) **[[千手観音]]と[[五百羅漢]](中国[[遼寧省]][[大連市]][[旅順口区]]大黒石) **[[西園寺 (蘇州市)|西園寺]](中国[[江蘇省]][[蘇州市|蘇州]]) **[[九華山]][[百歳宮]](中国[[安徽省]][[池州]]) **[[帰元禅寺]](中国[[湖北省]][[武漢]]) **[[宝光寺 (成都市)|宝光寺]](中国[[四川省]][[成都]]) **[[筇竹寺]](中国[[雲南省]][[昆明]]) **[[萬佛寺]](中国[[香港]]) === ギャラリー === <gallery> 画像:Gohyaku_Rakan.jpg|喜多院(川越市) 画像:Kitain-2155.jpg|喜多院(川越市) 画像:Gohyakurakan Hyogo-Kasai.jpg|羅漢寺(加西市) 画像:Otagi nenbutsuji01s3200.jpg|愛宕念仏寺 画像:GOHYAKURAKAN_CHOUKEIJI.JPG|長慶寺(富山市) </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *[[袴谷憲昭]]「Nandimitrāvadānaの両訳対照本とチベット訳和訳」『駒澤短期大学研究紀要』35:2007年3月 *[[袴谷憲昭]]「羅漢信仰の思想背景-『法住記』私釈-(序)」『駒澤大學佛敎學部硏究紀要』65:2007年3月 *[[森田聖子]]・[[小林詔子]]・[[村越貴代美]]・[[許永晝]]訳注『法住経と法住記』(文人画研究会:2018年11月) == 関連項目 == {{commons category|Arhat}} {{ウィキプロジェクトリンク|仏教|[[File:Dharma wheel 1.png]]}} * [[四向四果]] * [[十大弟子]] * [[羅漢寺]] * [[ラカンカ]](羅漢果) * [[羅漢齋]] * [[羅漢駅]] * [[五百羅漢駅]] {{Buddhism2}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あらかん}} [[Category:阿羅漢|*]] [[Category:仏教の称号・役職]]
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TOPPERSプロジェクト
TOPPERSプロジェクトは、ITRON仕様の技術開発成果を出発点として、組込みシステム構築の基盤となる各種のソフトウェアを開発し、良質なオープンソースソフトウェアとして公開することで、組込みシステム技術と産業の振興を図ることを目的とした特定非営利活動法人である。また、教育コースや教材の開発と、それを用いた教育の場を提供するなどの活動を通じて、組込みシステム技術者の育成に貢献することも目的としている。 TOPPERSは、Toyohashi Open Platform for Embedded Real-time Systemsの略であり、トッパーズと読む。 TOPPERSプロジェクトから公開されている組込みシステム向けリアルタイムカーネル(リアルタイムOS)およびソフトウェア部品群を、TOPPERS、TOPPERSカーネル(TOPPERS OS)、TOPPERSソフトウェア等と呼ぶことがある。 高田広章教授(名古屋大学)が豊橋技術科学大学在職中に研究室の学生とともに開発した、μITRONカーネルのソースコードの公開がTOPPERSプロジェクトの発端である。その後、多くの教育機関、公的機関、企業、および個人の協力を得て成長を続け、2003年には特定非営利活動法人として再編成した。 μITRON仕様による成果物が出発点であったことから、TRON陣営と見なされることがある。しかし、TOPPERSプロジェクトの成果にはμITRON仕様とは違う,ISOによる国際規格となったOSEK/VDX仕様に準拠したカーネル(TOPPERS/ATK1)やAUTOSAR仕様に準拠したソフトウェアも公開している。TRON系という括りはインタフェースの関連性という視点以外には技術的な意味がない。
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TOPPERSプロジェクトは、ITRON仕様の技術開発成果を出発点として、組込みシステム構築の基盤となる各種のソフトウェアを開発し、良質なオープンソースソフトウェアとして公開することで、組込みシステム技術と産業の振興を図ることを目的とした特定非営利活動法人である。また、教育コースや教材の開発と、それを用いた教育の場を提供するなどの活動を通じて、組込みシステム技術者の育成に貢献することも目的としている。 TOPPERSは、Toyohashi Open Platform for Embedded Real-time Systemsの略であり、トッパーズと読む。 TOPPERSプロジェクトから公開されている組込みシステム向けリアルタイムカーネル(リアルタイムOS)およびソフトウェア部品群を、TOPPERS、TOPPERSカーネル(TOPPERS OS)、TOPPERSソフトウェア等と呼ぶことがある。
{{基礎情報 特定非営利活動法人 |組織名 = TOPPERSプロジェクト |英文組織名 = TOPPERS Project |画像 = [[File:Toppers logo.jpg|109px|TOPPERSプロジェクトロゴ]] |国籍 = {{JPN}} |格付 = [[特定非営利活動法人|NPO法人]] |専門分野 = [[組み込みシステム|組込みシステム]]技術<br />[[リアルタイムOS]]<br />[[オープンソースソフトウェア]] |設立日 = 2003年9月3日 |代表者 = [[高田広章]] |郵便番号 = 〒103-0011 |事務所 = [[東京都]][[中央区_(東京都)|中央区]][[日本橋大伝馬町]]6-7<br />住長第2ビル3F |外部リンク = https://www.toppers.jp/ }} '''TOPPERSプロジェクト'''は、[[ITRON]]仕様の技術開発成果を出発点として、[[組込みシステム]]構築の基盤となる各種のソフトウェアを開発し、良質な[[オープンソースソフトウェア]]として公開することで、[[組込みシステム]]技術と産業の振興を図ることを目的とした[[特定非営利活動法人]]である。また、教育コースや教材の開発と、それを用いた教育の場を提供するなどの活動を通じて、[[組込みシステム]]技術者の育成に貢献することも目的としている。 TOPPERSは、'''T'''oyohashi '''Op'''en '''P'''latform for '''E'''mbedded '''R'''eal-time '''S'''ystemsの略であり、トッパーズと読む<ref>https://www.toppers.jp/project.html</ref>。 TOPPERSプロジェクトから公開されている[[組込みシステム]]向けリアルタイムカーネル([[リアルタイムOS]])およびソフトウェア部品群を、TOPPERS、TOPPERSカーネル(TOPPERS OS)、TOPPERSソフトウェア等と呼ぶことがある。 == 概要 == [[高田広章]]教授([[名古屋大学]])が[[豊橋技術科学大学]]在職中に研究室の学生とともに開発した、[[μITRON]][[カーネル]]のソースコードの公開がTOPPERSプロジェクトの発端である。その後、多くの教育機関、公的機関、企業、および個人の協力を得て成長を続け、[[2003年]]には[[特定非営利活動法人]]として再編成した。 μITRON仕様による成果物が出発点であったことから、TRON陣営と見なされることがある。しかし、TOPPERSプロジェクトの成果にはμITRON仕様とは違う,ISOによる国際規格となった[[OSEK|OSEK/VDX]]仕様に準拠したカーネル(TOPPERS/ATK1)や[[AUTOSAR]]仕様に準拠したソフトウェアも公開している。TRON系という括りはインタフェースの関連性という視点以外には技術的な意味がない。 * 2012年、第8回[[日本OSS奨励賞]]を受賞した<ref>http://ossforum.jp/ossaward8th2</ref>。 * 2014年、第12回産学官連携功労者表彰において、科学技術政策担当大臣賞を受賞した<ref>https://www8.cao.go.jp/cstp/sangakukan/sangakukan2014/about.pdf</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} {{TRON}} {{DEFAULTSORT:とつはあす}} [[Category:東京都の特定非営利活動法人]] [[Category:東京都中央区の組織]] [[Category:TRONプロジェクト]] [[Category:リアルタイムオペレーティングシステム|TOPPERS]] [[Category:フリーソフトウェアのプロジェクト]] [[Category:組み込みシステム]]
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浮世絵
浮世絵()は、日本の江戸時代初期に成立した、絵画のジャンルのひとつ。 江戸時代までの絵画は公家、大名などの庇護による土佐派や狩野派が主であった。その中で風俗画も描かれていたが承応年間頃(1654年)には衰退し、庶民階級による風俗画が描かれるようになった。 これは、土佐派や狩野派から転身した者や庶民階級から出現した絵師が浮世絵の源流を形作ることになったことによる。明暦の大火により江戸の町が焼き尽くされた後、町人の経済力は強くなり風俗画はその階級の気風の要求に応えるものに変化していった。岩佐又兵衛の工房による風俗画はそれまでの風俗画と浮世絵を繋ぐものであり、菱川師宣に至り風俗画を1枚の独立した絵画作品としたことで浮世絵の始祖と呼ばれている。 浮世絵の作品形態は、肉筆画(筆で直に描いたもの)と木版画(印刷物)に分かれ、後者は一枚摺と版本(書籍)に分かれるが、庶民に広まった背景として、大量生産とそれによる低価格化が可能な版画形式があげられる。商業資本たる版元の企画の下での、絵師(作画)、彫師(原版彫)、摺師(印刷)の分業体制が確立され、まとまった部数を摺ることによって、廉価で販売、版本の場合は貸し出すことが出来た。 題材は、大名や武家などの支配階級ではなく庶民町民階級からみた風俗が主であり多岐に及ぶ。初期には歌舞伎や遊郭などの享楽的歓楽的世界が対象となっており多くの役者絵や美人画が描かれていった。後に武者絵や風景画(名所絵)など数多くの題材に拡がっていった。同時に流行や報道的な社会性を帯びていることから、江戸幕府に対する体制批判や風俗の乱れを封じるために度々内容に規制をかける禁令が幕府より出される事態にもなった。 19世紀後半になるとパリ万国博覧会(1867年)に浮世絵も正式出品され反響を呼び、ジャポニスムのきっかけにもなり印象派の画家たちに影響を与えた。 20世紀以降では、変化・消失した名所、人々の生活や生業、文化などを伝える歴史資料としても活用されている。 「浮世絵」の語の初出は、1681年(延宝9年)の俳書『それそれ草』での「浮世絵や 下に生いたる 思ひ草 夏入」である。 「浮世」とは、平安時代初期に見られる「苦しい」「辛い」を意味する「憂し」の連体系である「憂き」に名詞の「世」がついた「憂き世」が語源であり、一例として『伊勢物語』では「つらいことの多い世の中」という意味で用いられる。一方で、同時代の「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺和歌集」の三代集では「世のうき時」「うき世の中」といった表現が多く未だ語句として定まっておらず、「うき世」が多用されるのは平安時代中期の「後拾遺和歌集」以降である。平安時代末期になると定めない無常の世という観念が付加され「浮き世」と表記されるようになるが、これには漢語「浮生」の影響もあったとされる。 中世末・江戸時代初頭になると、前代の厭世的思想の裏返しとして享楽的に生きるべき世の中と逆の意味で使われるようになる 。そこから「浮世絵」に代表されるように当代流行の風俗を指す「当世風」といった意味でも用いられるようになる。 『柳亭記』(1826・文政9年頃)において、「浮世といふに二つあり。一つは憂世の中、これは誰々も知る如く、歌にも詠て古き詞なり。一つの浮世は今様といふに通へり。浮世絵は今様絵なり。」と説明している。 諏訪(2008)に従って、以下の4期に分けて説明する。 最初期の浮世絵には、版画がなく、肉筆画のみであった。桃山期の「洛中洛外図屏風」と比べ、岩佐又兵衛の同屏風(通称「舟木本」。慶長19年-元和元年〈1614-15年〉)は、民衆の描写が目立つようになり、そこから寛永年間(1624-44年)頃に「彦根屏風」「松浦(まつら)屏風」(3点とも国宝)といった、当世人物風俗を全面に出す作品が生まれた。「湯女図」(MOA美術館蔵。重要文化財)での、左から三番目の桜花柄小袖の女に見る、体を「く」の字に折る姿勢は、後の菱川師宣や、懐月堂派らの見返り美人図の原型になったとの指摘がある。 美人画は、風俗画からの発展だけでなく、禅寺にあった明朝の楊貴妃像を日本女性にあてはめた説があるが、落款に「日本絵師」「大和絵師」と書したのが、菱川師宣である。安房国の縫箔(金銀箔を交えた刺繍)屋出身。「見返り美人」(東京国立博物館蔵)に代表される掛物(掛け軸)のほかに、巻子(かんす。まきもの。)、浮世草子、枕絵などの版本と、多彩な活動をした。師宣の登場は、17世紀後半に、江戸の文化が、上方のそれに肩を並べる契機となる。版本は、最初は墨一色だが、後期作品として、墨摺本に筆で彩色する「丹絵」が表れ、一枚摺りも登場する。 師宣没後、奥村政信は、赤色染料を筆彩した紅絵や、墨に膠を多く混ぜ、光沢を出す漆絵、柱絵に浮絵も創始し、2・3色摺りを可能にした紅摺絵や、拓本を応用した、白黒反転の石摺絵の創始にもかかわった。そして、絵師だけでなく、版元「奥村や」を運営し、自由な作画と販売経路を得た。また、自身の作品を取り扱うだけでなく、他の版元と商品を卸しあい、商機を広めた。活動期間も半世紀に渡った。 歌舞伎は江戸初期に生まれ、幕府の禁令もあり、成人男性のみが演ずる形になった。歌舞伎の役者絵に特化したのが鳥居派である。「瓢箪足蚯蚓描(ひょうたんあし みみずがき)」と呼ばれる、瓢箪のようなくびれた足に、蚯蚓が這いまわったような強い墨線を生かした描写、「大々判」という大きな判型(約55×33センチ)で知られた。鳥居派は現在も継承されており、歌舞伎座の看板を手がけている(鳥居清光)。 懐月堂安度ら懐月堂派は、工房で肉筆の美人画を量産した。庶民を購入層とし、安価な泥絵具を用いた。 1720年(享保5年)に8代将軍徳川吉宗が禁書令を緩和し、キリスト教に関係のない蘭書の輸入を認めたことで、遠近法を用いて描かれた銅版画等を見る機会が生まれた。遠近法は、奥村らによる浮絵を生むこととなる。 明和元年(1764年)、旗本など趣味人の間で絵暦交換会が流行した。彼らの需要に応えたのが鈴木春信である。彼らの金に糸目をつけない姿勢が、多色(7・8色)摺り版画を生みだすこととなった。錦のような美しい色合いから「錦絵」(東・吾妻錦絵)と呼ばれる。上述の奥村政信らが、重ね摺りの際、ずれを防止する目印、「見当」を考案したことと、高価で丈夫な越前奉書紙が用いられたことが、錦絵を生み出す要因となった 。 春信の錦絵は、絵暦以外でも、和歌や狂歌 、『源氏物語』『伊勢物語』『平家物語』などの物語文学を、当世風俗画に当てはめて描く「見立絵 」が多く、教養人でないと、春信の意図が理解できなかった。高価格の摺物であり、ユニセックスな人物描写も含め、購入対象を庶民にしていなかった。 墨の代わりに露草等の染料を用いた「水絵」(みずえ)が、明和年間初頭に流行り、春信らの作品が残るが、現存する作品は、大部分が褪色してしまっている。 勝川春章は安永年間(1772-81年)に細判錦絵にて、どの役者か見分けられる描写をし、役者名が記されていなければ特定不能な、鳥居派のそれを圧倒した。同様の手法で、相撲絵市場も席巻した。天明年間(1781-89年)には、肉筆美人画に軸足を移し、武家が購入するほど、高額でも好評であった。弟子の春好 は、役者大首絵を初めて制作した。 鳥居清長は書肆(しょし。書店のこと。)出身で、屋号の「白子屋」をそのまま号とした。天明年間(1781-1789年)に、長身美人群像を大判横2・3枚続きで表現した。前景の群像と後景の名所図は、違和感なく繋がり、遠近法の理解が、前世代の奥村らより進んだことが分かる。鳥居派として、役者絵も描いたが、上述の組み合わせを応用し、役者の後ろに出語り(三味線と太夫)を入れ込む工夫をした。春画『袖の巻』は、12.5×67センチという、小絵 のように極端な横長サイズに、愛する男女をトリミングして入れ込んだ、斬新な構図である 。 喜多川歌麿が名声を得るのは、版元蔦屋重三郎と組み、1791年(寛政3年)頃に、美人大首絵を版行してからである。 雲母摺りの「婦人相学拾躰」、市井の美人の名前を出せないお触れが出たので、絵で当て字にした「高名美人六家撰」、顔の輪郭線を無くした「無線摺」、花魁から最下層の遊女まで描く等、さまざまな試みを蔦重の下で行った。また絵入狂歌本『画本虫撰』『潮干のつと』等では、贅を尽くした料紙、彫摺技術がつぎ込まれた 。1804年(文化元年)、『絵本 太閤記』が大坂で摘発され、手鎖50日の刑を受け、その2年後に没した。 寛政2年(1790年)、「寛政の改革」の一環として、改印(あらためいん)制度ができた。以降も松平定信が老中を辞す寛政5年(1793年)まで、浮世絵への取り締まりが度々行われた。上述の歌麿が受けた、「市井の美人の名前を出せないお触れ」もその一つである。改印制度自体は、明治5年(1872年)まで続く。 寛政7年(1795年)5月、蔦屋重三郎が、東洲斎写楽による大首役者絵28点を一挙に版行する。無名の絵師に、大部でかつ高価な黒雲母摺大判を任せるのは異例である。版元の判断だけでなく、何らかのスポンサーがいたのではと考えられる。また当時、歌舞伎座が不況にあえいでおり、鳥居派もそのあおりを食らっていた。その間隙を縫ったのが蔦重である 。それまでの役者絵は、贔屓客に買ってもらう為、役者を美化して描いたが、写楽は、悪役の醜さや、女形の老いを描いた。28点の当時の評価については、記録が無いが、その後の作品からは、写実描写が影を潜め、定紋や屋号の誤りも見られるようになり、太田南畝ほか『浮世絵類考』(享和2年・1802年)に記されるように「あまりに真を画かんとてあらぬさまに書なせしかば長く世に行はれず。一両年にして止む」こととなった。活動期間は10か月以下だった。 対して、歌川豊国は、典型的な美化した役者絵や、曲亭馬琴・山東京伝らの読本挿絵を描いて、商業的成功を得る。『絵本太閤記』で歌麿と共に摘発されたが、歌麿没後は、美人画でも彼の隙間を埋めることとなる。多くの弟子を得、浮世絵最大流派となる歌川派の基礎を築く。 渓斎英泉は遊女屋や白粉屋の経営をしていた経験があり、それが美人画に活かされたのか、「婀娜あだ 」と呼ばれる、「鼻筋が通った面長で、つり目で受け口の歪曲された顔貌表現 」といった、その時代特有の美を示した。 英泉と同時代の祇園井特は、京で廃頽的な美人肉筆画を描いた。文化・文政期(1804-30年)には、下唇が緑色に見える笹紅が流行する。 葛飾北斎は、勝川春章の下で役者絵を描き、その後、俵屋宗理(そうり)を名乗り、独自の肉筆美人画様式を得、そして北斎を名乗る。銅版画を真似た名所絵木版実験作を発刊、曲亭馬琴の読本『椿説弓張月』で挿絵を担当し、馬琴との共著が続くこととなり、絵師としての名声を得る。その後『北斎漫画』もヒットし、版元西村屋与八と組んだ『富嶽三十六景』で輸入染料ベロ藍を用い、藍一色摺りや拭きぼかしを駆使し、斬新な構図も含め、広く世間に受け入れられる。その後西村屋と『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』や、版本『富嶽百景』も版行し、名所絵という新ジャンルを確立した。90歳で亡くなるまで絵師であり続けた。娘応為 は、晩年の父の作画を手伝ったとされ、自身も明暗を強調した肉筆画を残した 。 歌川広重は、『東都名所』(文政13-天保2年・1830年-31年)以降、ベロ藍を用いるが、北斎に比べ、抑えた色使いであった。天保5年(1834年)頃、版元保永堂から『東海道五十三次』全55枚揃えを版行する。残存枚数及び版木の消耗具合から、相当売れたことが推察できる。また、全揃いを画帖に仕立てたものもあり、武家や豪商の購入が考えられる。『富嶽三十六景』と版行時期が近く、版元と広重が、北斎を意識していたと考えられる。安政3-5年(1856年-58年)に、版元魚屋(さかなや・ととや )栄吉の下、目録を含め120枚揃い(うち1枚は二代広重筆)の『名所江戸百景』が版行される。 本シリーズでは、ベロ藍に加え、洋紅も用いられるが、『東都名所』同様、色使いは抑制される。また広角レンズで覗いたような、前景を極端に大きく画く「近接拡大法」を、多くの作品で採用している。全て縦長であることも、これまでの名所絵には無いもので、『東海道五十三次』同様、画帖仕立の為と考えられる。 歌川国貞は豊国門下で名を上げ、三代豊国を襲名する。柳亭種彦と組み、『偐紫田舎源氏』等の合巻の挿絵で成功を得る。役者絵や美人画でも人気を得、最晩年、版元恵比寿屋庄七での、役者大首絵シリーズ全60図は、生え際の彫りや空摺り・布目摺り、高価な顔料を用いる等、手間暇がかけられており、一枚百数十文から二百文で売られたようだ。市場の成熟ぶりが見られるが、このシリーズでは、出資者に関する史料が残っている。浮世絵師として、最も多くの作品を残したといわれる。 元 ・明期に成立し、日本でも読本に取り入れられて人気を得た「水滸伝」は、当然のごとく、浮世絵でも取り扱われる。歌川国芳は、版元加賀屋吉右衛門での『通俗水滸伝豪傑百八人』シリーズで人気を得る。2・3枚続きもあり、国貞の役者絵同様、高価だったと思われる。天保14年(1843年)の「源頼光公館土蜘作妖怪図(みなもとの よりみつこうの やかたに つちぐも ようかいを なすの ず)」は『太平記』に記される平安時代中期の逸話だが、版行後、「 天保の改革」での贅沢禁止を揶揄し、12代将軍家慶 と 老中 水野忠邦を描き込んだと噂が立ち、加賀屋は摺物を回収、版木を削り落としたが、海賊版が横行した。 なお、江戸時代は、大坂冬の陣・夏の陣 や、島原の乱を除けば、泰平の世であり、かつ織豊期以降の時代風刺は禁じられていた ので、それ以前の史実を、当世の暗喩として表現する方法を取った。暗喩の有無を問わず、これらの作品を「武者絵」と呼ぶ 。 国芳は役者絵以外に、「戯画」も多く作画し、「金魚づくし」シリーズ等、動物を擬人化したり、「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」のように、複数の裸の男を組み合わせ、顔を表現したり、天保の改革で役者絵が禁止されたので、「荷宝蔵壁のむだ書」のように、壁のひっかき傷で役者をひそかに表現したりした。改革に抵抗し、笑い飛ばす姿勢が窺える。 安政2年(1855年)10月、江戸で大地震が発生し、その直後、「鯰絵」が多くの版元から版行された。ナマズが地震を起こすという言い伝えは、江戸時代中期からあった。ナマズは日本列島を下から支え、その頭部が鹿島神宮にあたり、神宮境内に鎮座する「要石(かなめいし)」でナマズを押さえていたと考えられたが、地震当日は神無月だった為、鹿島明神が出雲大社 での神々の会議で出払っていたせいで、地震を抑えられなかったと江戸の人々は考えた。 その為、鹿島明神がナマズを要石で押さえつける鯰絵が緊急版行された。それ以外にも多くの図柄があり、ナマズが町人に地震を起こしたことを謝ったり、家屋の普請を手伝ったりする絵もある。緊急版行なので、改印および版元・絵師印は皆無だが、画風から歌川派作品が多いと推測される。前向きに生きていこうとする町人の勢いが垣間見える。 嘉永7年(1854年)3月、 日米和親条約により、200年以上に渡る「鎖国」は終焉した。安政5年(1858年)には 日米修好通商条約及びオランダ・ ロシア・フランス・イギリスと、同等の条約が結ばれ、和親条約で定められた 下田・ 函館2港に加え、4港開港とそこでの居住が許された。その内、江戸から最も近い横浜は、翌安政6年(1859年)に開放され、江戸・神奈川の人々は、これまでに見たこともない、外国人の顔貌や服装、建造物に興味を引かれた。その結果生まれたのが「横浜絵」である。1860年(安政7・万延元年)から1872年(明治5年)にかけて、大部分が江戸の版元から版行された。絵師は 歌川芳虎 ・ 芳員ら、国芳門下が多い。また、五姓田芳柳らによる、居留者の似顔を、絹地に在来顔料で陰影を付けて描き、それに和装姿をモンタージュした「絹こすり絵」(絹本肉筆画)も、横浜絵に含まれる 。 慶応2-3年(1866年-67年)に、国芳の門人である月岡芳年と、芳年の弟子である落合芳幾による「英名二十八衆句」が版行された。これらの28点は、鶴屋南北作『東海道四谷怪談』の歌舞伎ものや、史実から取られ、全点が殺戮を描く「血みどろ絵」である。同時期に、土佐国の町絵師絵金が、芝居の題材を元に、「血みどろ絵」二双屏風(二つ折りの屏風)を残した。これらの作品が生まれたのは、その時代、実際に切り捨てられた屍骸を見たためではと指摘される。 慶応3年(1867年)、徳川慶喜の大政奉還により、徳川幕府260年余の歴史は終わる。その後、反幕府側の薩摩藩が、慶喜に圧力を掛けたため、翌慶応4年(1868年)に、鳥羽・伏見の戦い、後の戊辰戦争 に至る。それらを版行したのが「戦争画」であり、江戸期の「武者絵」とは区別する。特に江戸が戦場となった、上野山での、彰義隊と新政府軍との戦いが多く版行された。旧幕府側には、旧来の「改め」をする力は無く、新政府側にとっては、自派の宣伝になるのだから、版行を黙認した。それ以降も、佐賀の乱、台湾出兵(ともに明治7年・1874年)、西南戦争(明治10年・1877年)、日清戦争(明治27年-28年・1894年-95年)、日露戦争(明治37年-38年・1904年-05年)が版行された。 1868年(慶応4年)7月、江戸は「東京」に改められ、9月に明治に改元、翌明治2年(1869年)2月に天皇が旧江戸城に入り、名実ともに日本の首都となる。明治5年(1872年)には、新橋-横浜間に鉄道が開通し、日本橋周辺に、木造に石材を併用し、2階建て以上、バルコニー付きの「擬洋風建築」が建てられてゆく。それに人力車・馬車やガス燈など、東京の変遷ぶりを描いたのが「開化絵」である。三代広重や、国輝らの歌川派が代表例で、「洋紅」を多用した、どぎつい色調のものが多い。 小林清親は、下級武士として、将軍家茂・慶喜に従い、鳥羽・伏見の戦いに加わり、旧幕府敗北後、謹慎する慶喜に従い、静岡へ。明治7年(1874年)、東京に戻り、絵師として立つ。光を意識した東京名所図を描き、「光線画」と呼ばれる。都市を描く点では「開化絵」の要素もあるが、絵師ごとの個性が乏しいそれとは、物の見方や色使いが異なる。 幕末に血みどろ絵を描いた月岡(大蘇)芳年は、明治10年代半ばになると、「歴史画」に注力する。 開国・新政府成立により、欧化政策が勧められ、明治9年(1876年)には、工部省が「工部美術学校」を設立し、イタリア人画家・彫刻家・建築家を招聘する。しかし政府は、輸出品として、ヨーロッパの真似ではなく、在来の工芸品の方が売れることを認識する。そして、国内体制を強固にするには、天皇の権威を高め、「国史」の重要性を認識し、歴史画が尊ばれることとなる。また、欧化政策によって冷や飯を食わされていた狩野芳崖・橋本雅邦らは、文部官僚の岡倉天心と、政治学・哲学のお雇い教師 として来日したが、その後日本美術に開眼し、天心と行動を共にするアーネスト・フェノロサの、洋画と南画を排斥した、新しい絵画を生み出す主張に同調する。 その時代に注目されたのが、菊池容斎の『前賢故実』(全10冊。天保14年-明治元年・1843年-68年)である。神武天皇から南朝時代の後亀山天皇時代までの公家・貴族・僧・武士・女房ら571人の故実と、彼らに見合う装束と顔貌を見開き一丁(2ページ)に描いたもので、明治10年代以降、画家の「粉本」として盛んに引用される。浮世絵師を含む在来画家に限らず、洋画家も『前賢故実』を参照して描くことになる。 日清・日露戦争後、新聞や雑誌、石版画・写真に絵葉書が普及し、浮世絵師は、挿絵画家などへの転向を余儀なくされる。明治40年(1907年)10月4日朝刊の朝日新聞「錦絵問屋の昨今」には、「江戸名物の一に数へられし錦絵は近年見る影もなく衰微し(略)写真術行はれ、コロタイプ版起り殊に近来は絵葉書流行し錦絵の似顔絵は見る能はず昨今は書く者も無ければ彫る人もなし」とある。鏑木清方は、かろうじて大正時代まで絵草紙屋があったと語る。 逆風のなか渡辺庄三郎は、1905年(明治38年)に摺師と彫師を雇用して、版元を興す。当初は古版木摺り、及び良質な摺り物からの版木起こしと、復刻品だけだったが、大正に入り、絵師と交渉して、新版画を制作するようになる。橋口五葉・伊東深水・川瀬巴水・山村耕花らを起用し、また彼らも木版画による表現に刺激を受けた。 1923年(大正12年)、関東大震災 によって、渡辺も壊滅的な被害を負い、多くの版元が廃業に追い込まれた。しかし彼は再起し、渡米経験のある吉田博を起用、欧米で売れる作品を版行した。渡辺は昭和37年(1962年)に亡くなるが、彼の版元は21世紀でも健在である。また、アダチ版画研究所も同様の制作・営業を行っている。 大久保(1994)を参考に、区分する。そこに記載されていない「死絵」「長崎絵」「歴史画」「おもちゃ絵」を追加した。大久保(1994)以外の文献を用いた場合は、注を付す。 娯楽出版物を扱う地本問屋(じほんといや・とんや)が浮世絵の版元となっている。「地本」とは、上方から齎されたものではなく、江戸独自のものであることを示す。 この章は、安達・小林(1994年)池田(1997年)を基に記述する。 企画を立てる人を版元、版元からの注文で描く人を絵師と呼ぶ。絵師が描いた下絵を版に彫るのが彫師、版木に色具を付け、紙に摺るのが摺師である。版元と絵師の名だけが作品に記されることが多いが、彫師・摺師の名が入ることもある。 浮世絵の値段は、しばしば「そば一杯」と同じとされる。実際の価格を調べると、浮世絵の形式や年代などによってバラつきがあるが、19世紀前後の大判錦絵の実勢価格は約20文前後で、19世紀半ばになっても総じて20文台で推移した事が、当時の史料や日記、紀行類などで裏付けられる。そば代は幕末で16文だったことから、ほぼ同等と見なせる。 山東京伝の黄表紙『荏土自慢名産杖』(文化2年〈1805年〉刊)には、「二八十六文でやくしやゑ二まい 二九の十八文でさうしが二さつ 四五の廿なら大にしき一まい」というくだりがあり、しばしば諸書で引用される。なお、2枚で16文の役者絵とは、用紙もやや劣る細版の事だと考えられる。時代が遡った宝暦頃(1751-61年)の細判紅摺絵の役者絵は、1枚4文だったと記されている(随筆『塵塚談』文化11年〈1814年〉刊)が、これは紅摺絵が僅か2,3色摺りで、紙質も薄い分安価だったからだと考えられる。 寛政7年(1795年)の町触では、20文以上の錦絵は在庫限りは売ってよいが、新たに制作するものは16文から18文に制限されている(『類聚撰要』)。天保の改革では、色摺りは7,8回まで、値段は1枚16文以下に規制を受けている。この数字は採算割れすら招きかねない厳しい数字だったらしく、『藤岡屋日記』天保14年〈1843年〉春の記事には、紅を多用した極彩色の神田祭の錦絵は売れはしたが、16文の値段では売れば売るほど赤字になったという話が記されている。 鈴木春信の中版は、65文程度で売られ、代表作である「座舗八景」は8枚揃いで桐箱に入れられ、金1分(=銭1000文)もした。他にも、天保の改革の風刺との風評が立った歌川国芳の大判三枚続『源頼光公館土蜘作妖怪図』は、商品回収のうえ、版木は削られる憂き目を見たが、歌川貞秀の模刻は、密かに100文で売られた(『藤岡屋日記』)り、同じく国芳の大判三枚続『八犬伝之内芳流閣』(1840・天保11年)は、1枚38文、3枚揃いで118文で売られ、曲亭馬琴は割高だと感じつつも、色版を多く使い通常より手間がかかっているからと聞き及んで、それを買い求めている(馬琴日記)。 北斎研究家の永田生慈が、『北斎漫画』の版元であった名古屋の永楽屋東四郎に、値段を聞いたところ、「当時(幕末明初)の出版物は猛烈に高くて、普通の人が簡単に本を買いましょうという値段ではなかった」と証言している。 明治になると出版条例改正によって定価表示が義務付けられ、浮世絵の値段がわかる。総じて1枚2銭、2枚続・3枚続でもこれに準じ、手間がかかるものはこの基準価格に5厘から1銭程度割増価格で売られている。 現代の美術館では、中性紙の厚紙(マット)の中央をくりぬき、もう一枚のマットと挟み込んで、保存する。展示時はそれを額装する。紫外線による褪色を防ぐため、直射日光を避け、紫外線カットの照明下で展示すべきである。通年展示してはならない。 展示しないときの保存方法としては、額から外し、水平に置くことが望ましく、変色を防ぐため、防虫剤の入っていない桐箪笥など、湿度調整が効く箱に仕舞うことが良い。 浮世絵版画に用いられたのは、植物由来の染料や鉱物由来の顔料であるが、19世紀になると、化学染料が輸入、使用される。 黒は墨が用いられ、多色刷り版画では以下の顔料・染料が用いられる。 などがあり、中間色はこれらを混ぜ合わせて表現した。 その他、版画の表現に以下のものが用いられた。 19世紀以降、多量の作品が国外に渡り、ヨーロッパの芸術家たちに影響を与えた。ボストン美術館には約5万点、ヴィクトリア&アルバート博物館には約3万8000点、大英博物館には2万点、プーシキン美術館には約3万点、その他ドイツ、イタリア等、欧米美術館、大学等教育機関収蔵品、個人コレクションなど、海外にはおよそ50万の浮世絵が収蔵されており、これは国内の30万を超えるとされる。 版木を所蔵している美術館や博物館、図書館などもある。版木は使用後に破棄されることが多かったため、貴重な文化遺産であり、版木の調査・修復、さらに所蔵施設との許可を得て、摺りを再現する版画家もいる。 国内では、大名家や実業家のコレクションがある。 浮世絵がヨーロッパに最も早く渡った例として、1798年(寛政10年)に、カピタンらが葛飾北斎に日本人男女の一生を図した巻子を注文し、故国に持ち帰ったことが挙げられる。またシーボルトは多量の日本資料を持ち帰り、1832-52年に『Japonica』20分冊を刊行するが、そこには『北斎漫画』が掲載されている。 1856年、ブラックモンが、日本から輸入された陶磁器の包み紙に使われていた『北斎漫画』を見せ回ったことで、美術家に知られるようになったとの「逸話」は、1990年以降では、疑問視されている。 ゴッホが『タンギー爺さん』の背景に浮世絵を描き込んだり、歌川広重の作品を模写した。エドゥアール・マネ、エドガー・ドガ、メアリー・カサット、ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、ロートレック、ゴーギャンらにも影響を与えた(ジャポニスム)。 日本美術を取り扱っていたビングは、自身の工芸作品に浮世絵表現を取り入れた。 クロード・ドビュッシーは、葛飾北斎の神奈川沖波裏を所蔵し、同図の波の形状を、『交響詩“海”』の楽譜表紙に採用した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "浮世絵()は、日本の江戸時代初期に成立した、絵画のジャンルのひとつ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "江戸時代までの絵画は公家、大名などの庇護による土佐派や狩野派が主であった。その中で風俗画も描かれていたが承応年間頃(1654年)には衰退し、庶民階級による風俗画が描かれるようになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "これは、土佐派や狩野派から転身した者や庶民階級から出現した絵師が浮世絵の源流を形作ることになったことによる。明暦の大火により江戸の町が焼き尽くされた後、町人の経済力は強くなり風俗画はその階級の気風の要求に応えるものに変化していった。岩佐又兵衛の工房による風俗画はそれまでの風俗画と浮世絵を繋ぐものであり、菱川師宣に至り風俗画を1枚の独立した絵画作品としたことで浮世絵の始祖と呼ばれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "浮世絵の作品形態は、肉筆画(筆で直に描いたもの)と木版画(印刷物)に分かれ、後者は一枚摺と版本(書籍)に分かれるが、庶民に広まった背景として、大量生産とそれによる低価格化が可能な版画形式があげられる。商業資本たる版元の企画の下での、絵師(作画)、彫師(原版彫)、摺師(印刷)の分業体制が確立され、まとまった部数を摺ることによって、廉価で販売、版本の場合は貸し出すことが出来た。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "題材は、大名や武家などの支配階級ではなく庶民町民階級からみた風俗が主であり多岐に及ぶ。初期には歌舞伎や遊郭などの享楽的歓楽的世界が対象となっており多くの役者絵や美人画が描かれていった。後に武者絵や風景画(名所絵)など数多くの題材に拡がっていった。同時に流行や報道的な社会性を帯びていることから、江戸幕府に対する体制批判や風俗の乱れを封じるために度々内容に規制をかける禁令が幕府より出される事態にもなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "19世紀後半になるとパリ万国博覧会(1867年)に浮世絵も正式出品され反響を呼び、ジャポニスムのきっかけにもなり印象派の画家たちに影響を与えた。 20世紀以降では、変化・消失した名所、人々の生活や生業、文化などを伝える歴史資料としても活用されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "「浮世絵」の語の初出は、1681年(延宝9年)の俳書『それそれ草』での「浮世絵や 下に生いたる 思ひ草 夏入」である。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「浮世」とは、平安時代初期に見られる「苦しい」「辛い」を意味する「憂し」の連体系である「憂き」に名詞の「世」がついた「憂き世」が語源であり、一例として『伊勢物語』では「つらいことの多い世の中」という意味で用いられる。一方で、同時代の「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺和歌集」の三代集では「世のうき時」「うき世の中」といった表現が多く未だ語句として定まっておらず、「うき世」が多用されるのは平安時代中期の「後拾遺和歌集」以降である。平安時代末期になると定めない無常の世という観念が付加され「浮き世」と表記されるようになるが、これには漢語「浮生」の影響もあったとされる。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "中世末・江戸時代初頭になると、前代の厭世的思想の裏返しとして享楽的に生きるべき世の中と逆の意味で使われるようになる 。そこから「浮世絵」に代表されるように当代流行の風俗を指す「当世風」といった意味でも用いられるようになる。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "『柳亭記』(1826・文政9年頃)において、「浮世といふに二つあり。一つは憂世の中、これは誰々も知る如く、歌にも詠て古き詞なり。一つの浮世は今様といふに通へり。浮世絵は今様絵なり。」と説明している。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "諏訪(2008)に従って、以下の4期に分けて説明する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "最初期の浮世絵には、版画がなく、肉筆画のみであった。桃山期の「洛中洛外図屏風」と比べ、岩佐又兵衛の同屏風(通称「舟木本」。慶長19年-元和元年〈1614-15年〉)は、民衆の描写が目立つようになり、そこから寛永年間(1624-44年)頃に「彦根屏風」「松浦(まつら)屏風」(3点とも国宝)といった、当世人物風俗を全面に出す作品が生まれた。「湯女図」(MOA美術館蔵。重要文化財)での、左から三番目の桜花柄小袖の女に見る、体を「く」の字に折る姿勢は、後の菱川師宣や、懐月堂派らの見返り美人図の原型になったとの指摘がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "美人画は、風俗画からの発展だけでなく、禅寺にあった明朝の楊貴妃像を日本女性にあてはめた説があるが、落款に「日本絵師」「大和絵師」と書したのが、菱川師宣である。安房国の縫箔(金銀箔を交えた刺繍)屋出身。「見返り美人」(東京国立博物館蔵)に代表される掛物(掛け軸)のほかに、巻子(かんす。まきもの。)、浮世草子、枕絵などの版本と、多彩な活動をした。師宣の登場は、17世紀後半に、江戸の文化が、上方のそれに肩を並べる契機となる。版本は、最初は墨一色だが、後期作品として、墨摺本に筆で彩色する「丹絵」が表れ、一枚摺りも登場する。 師宣没後、奥村政信は、赤色染料を筆彩した紅絵や、墨に膠を多く混ぜ、光沢を出す漆絵、柱絵に浮絵も創始し、2・3色摺りを可能にした紅摺絵や、拓本を応用した、白黒反転の石摺絵の創始にもかかわった。そして、絵師だけでなく、版元「奥村や」を運営し、自由な作画と販売経路を得た。また、自身の作品を取り扱うだけでなく、他の版元と商品を卸しあい、商機を広めた。活動期間も半世紀に渡った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "歌舞伎は江戸初期に生まれ、幕府の禁令もあり、成人男性のみが演ずる形になった。歌舞伎の役者絵に特化したのが鳥居派である。「瓢箪足蚯蚓描(ひょうたんあし みみずがき)」と呼ばれる、瓢箪のようなくびれた足に、蚯蚓が這いまわったような強い墨線を生かした描写、「大々判」という大きな判型(約55×33センチ)で知られた。鳥居派は現在も継承されており、歌舞伎座の看板を手がけている(鳥居清光)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "懐月堂安度ら懐月堂派は、工房で肉筆の美人画を量産した。庶民を購入層とし、安価な泥絵具を用いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1720年(享保5年)に8代将軍徳川吉宗が禁書令を緩和し、キリスト教に関係のない蘭書の輸入を認めたことで、遠近法を用いて描かれた銅版画等を見る機会が生まれた。遠近法は、奥村らによる浮絵を生むこととなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "明和元年(1764年)、旗本など趣味人の間で絵暦交換会が流行した。彼らの需要に応えたのが鈴木春信である。彼らの金に糸目をつけない姿勢が、多色(7・8色)摺り版画を生みだすこととなった。錦のような美しい色合いから「錦絵」(東・吾妻錦絵)と呼ばれる。上述の奥村政信らが、重ね摺りの際、ずれを防止する目印、「見当」を考案したことと、高価で丈夫な越前奉書紙が用いられたことが、錦絵を生み出す要因となった 。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "春信の錦絵は、絵暦以外でも、和歌や狂歌 、『源氏物語』『伊勢物語』『平家物語』などの物語文学を、当世風俗画に当てはめて描く「見立絵 」が多く、教養人でないと、春信の意図が理解できなかった。高価格の摺物であり、ユニセックスな人物描写も含め、購入対象を庶民にしていなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "墨の代わりに露草等の染料を用いた「水絵」(みずえ)が、明和年間初頭に流行り、春信らの作品が残るが、現存する作品は、大部分が褪色してしまっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "勝川春章は安永年間(1772-81年)に細判錦絵にて、どの役者か見分けられる描写をし、役者名が記されていなければ特定不能な、鳥居派のそれを圧倒した。同様の手法で、相撲絵市場も席巻した。天明年間(1781-89年)には、肉筆美人画に軸足を移し、武家が購入するほど、高額でも好評であった。弟子の春好 は、役者大首絵を初めて制作した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "鳥居清長は書肆(しょし。書店のこと。)出身で、屋号の「白子屋」をそのまま号とした。天明年間(1781-1789年)に、長身美人群像を大判横2・3枚続きで表現した。前景の群像と後景の名所図は、違和感なく繋がり、遠近法の理解が、前世代の奥村らより進んだことが分かる。鳥居派として、役者絵も描いたが、上述の組み合わせを応用し、役者の後ろに出語り(三味線と太夫)を入れ込む工夫をした。春画『袖の巻』は、12.5×67センチという、小絵 のように極端な横長サイズに、愛する男女をトリミングして入れ込んだ、斬新な構図である 。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "喜多川歌麿が名声を得るのは、版元蔦屋重三郎と組み、1791年(寛政3年)頃に、美人大首絵を版行してからである。 雲母摺りの「婦人相学拾躰」、市井の美人の名前を出せないお触れが出たので、絵で当て字にした「高名美人六家撰」、顔の輪郭線を無くした「無線摺」、花魁から最下層の遊女まで描く等、さまざまな試みを蔦重の下で行った。また絵入狂歌本『画本虫撰』『潮干のつと』等では、贅を尽くした料紙、彫摺技術がつぎ込まれた 。1804年(文化元年)、『絵本 太閤記』が大坂で摘発され、手鎖50日の刑を受け、その2年後に没した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "寛政2年(1790年)、「寛政の改革」の一環として、改印(あらためいん)制度ができた。以降も松平定信が老中を辞す寛政5年(1793年)まで、浮世絵への取り締まりが度々行われた。上述の歌麿が受けた、「市井の美人の名前を出せないお触れ」もその一つである。改印制度自体は、明治5年(1872年)まで続く。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "寛政7年(1795年)5月、蔦屋重三郎が、東洲斎写楽による大首役者絵28点を一挙に版行する。無名の絵師に、大部でかつ高価な黒雲母摺大判を任せるのは異例である。版元の判断だけでなく、何らかのスポンサーがいたのではと考えられる。また当時、歌舞伎座が不況にあえいでおり、鳥居派もそのあおりを食らっていた。その間隙を縫ったのが蔦重である 。それまでの役者絵は、贔屓客に買ってもらう為、役者を美化して描いたが、写楽は、悪役の醜さや、女形の老いを描いた。28点の当時の評価については、記録が無いが、その後の作品からは、写実描写が影を潜め、定紋や屋号の誤りも見られるようになり、太田南畝ほか『浮世絵類考』(享和2年・1802年)に記されるように「あまりに真を画かんとてあらぬさまに書なせしかば長く世に行はれず。一両年にして止む」こととなった。活動期間は10か月以下だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "対して、歌川豊国は、典型的な美化した役者絵や、曲亭馬琴・山東京伝らの読本挿絵を描いて、商業的成功を得る。『絵本太閤記』で歌麿と共に摘発されたが、歌麿没後は、美人画でも彼の隙間を埋めることとなる。多くの弟子を得、浮世絵最大流派となる歌川派の基礎を築く。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "渓斎英泉は遊女屋や白粉屋の経営をしていた経験があり、それが美人画に活かされたのか、「婀娜あだ 」と呼ばれる、「鼻筋が通った面長で、つり目で受け口の歪曲された顔貌表現 」といった、その時代特有の美を示した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "英泉と同時代の祇園井特は、京で廃頽的な美人肉筆画を描いた。文化・文政期(1804-30年)には、下唇が緑色に見える笹紅が流行する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "葛飾北斎は、勝川春章の下で役者絵を描き、その後、俵屋宗理(そうり)を名乗り、独自の肉筆美人画様式を得、そして北斎を名乗る。銅版画を真似た名所絵木版実験作を発刊、曲亭馬琴の読本『椿説弓張月』で挿絵を担当し、馬琴との共著が続くこととなり、絵師としての名声を得る。その後『北斎漫画』もヒットし、版元西村屋与八と組んだ『富嶽三十六景』で輸入染料ベロ藍を用い、藍一色摺りや拭きぼかしを駆使し、斬新な構図も含め、広く世間に受け入れられる。その後西村屋と『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』や、版本『富嶽百景』も版行し、名所絵という新ジャンルを確立した。90歳で亡くなるまで絵師であり続けた。娘応為 は、晩年の父の作画を手伝ったとされ、自身も明暗を強調した肉筆画を残した 。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "歌川広重は、『東都名所』(文政13-天保2年・1830年-31年)以降、ベロ藍を用いるが、北斎に比べ、抑えた色使いであった。天保5年(1834年)頃、版元保永堂から『東海道五十三次』全55枚揃えを版行する。残存枚数及び版木の消耗具合から、相当売れたことが推察できる。また、全揃いを画帖に仕立てたものもあり、武家や豪商の購入が考えられる。『富嶽三十六景』と版行時期が近く、版元と広重が、北斎を意識していたと考えられる。安政3-5年(1856年-58年)に、版元魚屋(さかなや・ととや )栄吉の下、目録を含め120枚揃い(うち1枚は二代広重筆)の『名所江戸百景』が版行される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "本シリーズでは、ベロ藍に加え、洋紅も用いられるが、『東都名所』同様、色使いは抑制される。また広角レンズで覗いたような、前景を極端に大きく画く「近接拡大法」を、多くの作品で採用している。全て縦長であることも、これまでの名所絵には無いもので、『東海道五十三次』同様、画帖仕立の為と考えられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "歌川国貞は豊国門下で名を上げ、三代豊国を襲名する。柳亭種彦と組み、『偐紫田舎源氏』等の合巻の挿絵で成功を得る。役者絵や美人画でも人気を得、最晩年、版元恵比寿屋庄七での、役者大首絵シリーズ全60図は、生え際の彫りや空摺り・布目摺り、高価な顔料を用いる等、手間暇がかけられており、一枚百数十文から二百文で売られたようだ。市場の成熟ぶりが見られるが、このシリーズでは、出資者に関する史料が残っている。浮世絵師として、最も多くの作品を残したといわれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "元 ・明期に成立し、日本でも読本に取り入れられて人気を得た「水滸伝」は、当然のごとく、浮世絵でも取り扱われる。歌川国芳は、版元加賀屋吉右衛門での『通俗水滸伝豪傑百八人』シリーズで人気を得る。2・3枚続きもあり、国貞の役者絵同様、高価だったと思われる。天保14年(1843年)の「源頼光公館土蜘作妖怪図(みなもとの よりみつこうの やかたに つちぐも ようかいを なすの ず)」は『太平記』に記される平安時代中期の逸話だが、版行後、「 天保の改革」での贅沢禁止を揶揄し、12代将軍家慶 と 老中 水野忠邦を描き込んだと噂が立ち、加賀屋は摺物を回収、版木を削り落としたが、海賊版が横行した。 なお、江戸時代は、大坂冬の陣・夏の陣 や、島原の乱を除けば、泰平の世であり、かつ織豊期以降の時代風刺は禁じられていた ので、それ以前の史実を、当世の暗喩として表現する方法を取った。暗喩の有無を問わず、これらの作品を「武者絵」と呼ぶ 。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "国芳は役者絵以外に、「戯画」も多く作画し、「金魚づくし」シリーズ等、動物を擬人化したり、「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」のように、複数の裸の男を組み合わせ、顔を表現したり、天保の改革で役者絵が禁止されたので、「荷宝蔵壁のむだ書」のように、壁のひっかき傷で役者をひそかに表現したりした。改革に抵抗し、笑い飛ばす姿勢が窺える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "安政2年(1855年)10月、江戸で大地震が発生し、その直後、「鯰絵」が多くの版元から版行された。ナマズが地震を起こすという言い伝えは、江戸時代中期からあった。ナマズは日本列島を下から支え、その頭部が鹿島神宮にあたり、神宮境内に鎮座する「要石(かなめいし)」でナマズを押さえていたと考えられたが、地震当日は神無月だった為、鹿島明神が出雲大社 での神々の会議で出払っていたせいで、地震を抑えられなかったと江戸の人々は考えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "その為、鹿島明神がナマズを要石で押さえつける鯰絵が緊急版行された。それ以外にも多くの図柄があり、ナマズが町人に地震を起こしたことを謝ったり、家屋の普請を手伝ったりする絵もある。緊急版行なので、改印および版元・絵師印は皆無だが、画風から歌川派作品が多いと推測される。前向きに生きていこうとする町人の勢いが垣間見える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "嘉永7年(1854年)3月、 日米和親条約により、200年以上に渡る「鎖国」は終焉した。安政5年(1858年)には 日米修好通商条約及びオランダ・ ロシア・フランス・イギリスと、同等の条約が結ばれ、和親条約で定められた 下田・ 函館2港に加え、4港開港とそこでの居住が許された。その内、江戸から最も近い横浜は、翌安政6年(1859年)に開放され、江戸・神奈川の人々は、これまでに見たこともない、外国人の顔貌や服装、建造物に興味を引かれた。その結果生まれたのが「横浜絵」である。1860年(安政7・万延元年)から1872年(明治5年)にかけて、大部分が江戸の版元から版行された。絵師は 歌川芳虎 ・ 芳員ら、国芳門下が多い。また、五姓田芳柳らによる、居留者の似顔を、絹地に在来顔料で陰影を付けて描き、それに和装姿をモンタージュした「絹こすり絵」(絹本肉筆画)も、横浜絵に含まれる 。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "慶応2-3年(1866年-67年)に、国芳の門人である月岡芳年と、芳年の弟子である落合芳幾による「英名二十八衆句」が版行された。これらの28点は、鶴屋南北作『東海道四谷怪談』の歌舞伎ものや、史実から取られ、全点が殺戮を描く「血みどろ絵」である。同時期に、土佐国の町絵師絵金が、芝居の題材を元に、「血みどろ絵」二双屏風(二つ折りの屏風)を残した。これらの作品が生まれたのは、その時代、実際に切り捨てられた屍骸を見たためではと指摘される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "慶応3年(1867年)、徳川慶喜の大政奉還により、徳川幕府260年余の歴史は終わる。その後、反幕府側の薩摩藩が、慶喜に圧力を掛けたため、翌慶応4年(1868年)に、鳥羽・伏見の戦い、後の戊辰戦争 に至る。それらを版行したのが「戦争画」であり、江戸期の「武者絵」とは区別する。特に江戸が戦場となった、上野山での、彰義隊と新政府軍との戦いが多く版行された。旧幕府側には、旧来の「改め」をする力は無く、新政府側にとっては、自派の宣伝になるのだから、版行を黙認した。それ以降も、佐賀の乱、台湾出兵(ともに明治7年・1874年)、西南戦争(明治10年・1877年)、日清戦争(明治27年-28年・1894年-95年)、日露戦争(明治37年-38年・1904年-05年)が版行された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1868年(慶応4年)7月、江戸は「東京」に改められ、9月に明治に改元、翌明治2年(1869年)2月に天皇が旧江戸城に入り、名実ともに日本の首都となる。明治5年(1872年)には、新橋-横浜間に鉄道が開通し、日本橋周辺に、木造に石材を併用し、2階建て以上、バルコニー付きの「擬洋風建築」が建てられてゆく。それに人力車・馬車やガス燈など、東京の変遷ぶりを描いたのが「開化絵」である。三代広重や、国輝らの歌川派が代表例で、「洋紅」を多用した、どぎつい色調のものが多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "小林清親は、下級武士として、将軍家茂・慶喜に従い、鳥羽・伏見の戦いに加わり、旧幕府敗北後、謹慎する慶喜に従い、静岡へ。明治7年(1874年)、東京に戻り、絵師として立つ。光を意識した東京名所図を描き、「光線画」と呼ばれる。都市を描く点では「開化絵」の要素もあるが、絵師ごとの個性が乏しいそれとは、物の見方や色使いが異なる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "幕末に血みどろ絵を描いた月岡(大蘇)芳年は、明治10年代半ばになると、「歴史画」に注力する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "開国・新政府成立により、欧化政策が勧められ、明治9年(1876年)には、工部省が「工部美術学校」を設立し、イタリア人画家・彫刻家・建築家を招聘する。しかし政府は、輸出品として、ヨーロッパの真似ではなく、在来の工芸品の方が売れることを認識する。そして、国内体制を強固にするには、天皇の権威を高め、「国史」の重要性を認識し、歴史画が尊ばれることとなる。また、欧化政策によって冷や飯を食わされていた狩野芳崖・橋本雅邦らは、文部官僚の岡倉天心と、政治学・哲学のお雇い教師 として来日したが、その後日本美術に開眼し、天心と行動を共にするアーネスト・フェノロサの、洋画と南画を排斥した、新しい絵画を生み出す主張に同調する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "その時代に注目されたのが、菊池容斎の『前賢故実』(全10冊。天保14年-明治元年・1843年-68年)である。神武天皇から南朝時代の後亀山天皇時代までの公家・貴族・僧・武士・女房ら571人の故実と、彼らに見合う装束と顔貌を見開き一丁(2ページ)に描いたもので、明治10年代以降、画家の「粉本」として盛んに引用される。浮世絵師を含む在来画家に限らず、洋画家も『前賢故実』を参照して描くことになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "日清・日露戦争後、新聞や雑誌、石版画・写真に絵葉書が普及し、浮世絵師は、挿絵画家などへの転向を余儀なくされる。明治40年(1907年)10月4日朝刊の朝日新聞「錦絵問屋の昨今」には、「江戸名物の一に数へられし錦絵は近年見る影もなく衰微し(略)写真術行はれ、コロタイプ版起り殊に近来は絵葉書流行し錦絵の似顔絵は見る能はず昨今は書く者も無ければ彫る人もなし」とある。鏑木清方は、かろうじて大正時代まで絵草紙屋があったと語る。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "逆風のなか渡辺庄三郎は、1905年(明治38年)に摺師と彫師を雇用して、版元を興す。当初は古版木摺り、及び良質な摺り物からの版木起こしと、復刻品だけだったが、大正に入り、絵師と交渉して、新版画を制作するようになる。橋口五葉・伊東深水・川瀬巴水・山村耕花らを起用し、また彼らも木版画による表現に刺激を受けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1923年(大正12年)、関東大震災 によって、渡辺も壊滅的な被害を負い、多くの版元が廃業に追い込まれた。しかし彼は再起し、渡米経験のある吉田博を起用、欧米で売れる作品を版行した。渡辺は昭和37年(1962年)に亡くなるが、彼の版元は21世紀でも健在である。また、アダチ版画研究所も同様の制作・営業を行っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "大久保(1994)を参考に、区分する。そこに記載されていない「死絵」「長崎絵」「歴史画」「おもちゃ絵」を追加した。大久保(1994)以外の文献を用いた場合は、注を付す。", "title": "浮世絵の画題" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "娯楽出版物を扱う地本問屋(じほんといや・とんや)が浮世絵の版元となっている。「地本」とは、上方から齎されたものではなく、江戸独自のものであることを示す。", "title": "主な版元" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "この章は、安達・小林(1994年)池田(1997年)を基に記述する。", "title": "浮世絵版画の制作法" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "企画を立てる人を版元、版元からの注文で描く人を絵師と呼ぶ。絵師が描いた下絵を版に彫るのが彫師、版木に色具を付け、紙に摺るのが摺師である。版元と絵師の名だけが作品に記されることが多いが、彫師・摺師の名が入ることもある。", "title": "浮世絵版画の制作法" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "浮世絵の値段は、しばしば「そば一杯」と同じとされる。実際の価格を調べると、浮世絵の形式や年代などによってバラつきがあるが、19世紀前後の大判錦絵の実勢価格は約20文前後で、19世紀半ばになっても総じて20文台で推移した事が、当時の史料や日記、紀行類などで裏付けられる。そば代は幕末で16文だったことから、ほぼ同等と見なせる。", "title": "値段" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "山東京伝の黄表紙『荏土自慢名産杖』(文化2年〈1805年〉刊)には、「二八十六文でやくしやゑ二まい 二九の十八文でさうしが二さつ 四五の廿なら大にしき一まい」というくだりがあり、しばしば諸書で引用される。なお、2枚で16文の役者絵とは、用紙もやや劣る細版の事だと考えられる。時代が遡った宝暦頃(1751-61年)の細判紅摺絵の役者絵は、1枚4文だったと記されている(随筆『塵塚談』文化11年〈1814年〉刊)が、これは紅摺絵が僅か2,3色摺りで、紙質も薄い分安価だったからだと考えられる。", "title": "値段" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "寛政7年(1795年)の町触では、20文以上の錦絵は在庫限りは売ってよいが、新たに制作するものは16文から18文に制限されている(『類聚撰要』)。天保の改革では、色摺りは7,8回まで、値段は1枚16文以下に規制を受けている。この数字は採算割れすら招きかねない厳しい数字だったらしく、『藤岡屋日記』天保14年〈1843年〉春の記事には、紅を多用した極彩色の神田祭の錦絵は売れはしたが、16文の値段では売れば売るほど赤字になったという話が記されている。", "title": "値段" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "鈴木春信の中版は、65文程度で売られ、代表作である「座舗八景」は8枚揃いで桐箱に入れられ、金1分(=銭1000文)もした。他にも、天保の改革の風刺との風評が立った歌川国芳の大判三枚続『源頼光公館土蜘作妖怪図』は、商品回収のうえ、版木は削られる憂き目を見たが、歌川貞秀の模刻は、密かに100文で売られた(『藤岡屋日記』)り、同じく国芳の大判三枚続『八犬伝之内芳流閣』(1840・天保11年)は、1枚38文、3枚揃いで118文で売られ、曲亭馬琴は割高だと感じつつも、色版を多く使い通常より手間がかかっているからと聞き及んで、それを買い求めている(馬琴日記)。", "title": "値段" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "北斎研究家の永田生慈が、『北斎漫画』の版元であった名古屋の永楽屋東四郎に、値段を聞いたところ、「当時(幕末明初)の出版物は猛烈に高くて、普通の人が簡単に本を買いましょうという値段ではなかった」と証言している。", "title": "値段" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "明治になると出版条例改正によって定価表示が義務付けられ、浮世絵の値段がわかる。総じて1枚2銭、2枚続・3枚続でもこれに準じ、手間がかかるものはこの基準価格に5厘から1銭程度割増価格で売られている。", "title": "値段" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "現代の美術館では、中性紙の厚紙(マット)の中央をくりぬき、もう一枚のマットと挟み込んで、保存する。展示時はそれを額装する。紫外線による褪色を防ぐため、直射日光を避け、紫外線カットの照明下で展示すべきである。通年展示してはならない。", "title": "展示と保存法" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "展示しないときの保存方法としては、額から外し、水平に置くことが望ましく、変色を防ぐため、防虫剤の入っていない桐箪笥など、湿度調整が効く箱に仕舞うことが良い。", "title": "展示と保存法" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "", "title": "絵具" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "浮世絵版画に用いられたのは、植物由来の染料や鉱物由来の顔料であるが、19世紀になると、化学染料が輸入、使用される。", "title": "絵具" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "黒は墨が用いられ、多色刷り版画では以下の顔料・染料が用いられる。", "title": "絵具" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "などがあり、中間色はこれらを混ぜ合わせて表現した。", "title": "絵具" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "その他、版画の表現に以下のものが用いられた。", "title": "絵具" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "", "title": "後世の評価・収集" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "19世紀以降、多量の作品が国外に渡り、ヨーロッパの芸術家たちに影響を与えた。ボストン美術館には約5万点、ヴィクトリア&アルバート博物館には約3万8000点、大英博物館には2万点、プーシキン美術館には約3万点、その他ドイツ、イタリア等、欧米美術館、大学等教育機関収蔵品、個人コレクションなど、海外にはおよそ50万の浮世絵が収蔵されており、これは国内の30万を超えるとされる。", "title": "後世の評価・収集" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "版木を所蔵している美術館や博物館、図書館などもある。版木は使用後に破棄されることが多かったため、貴重な文化遺産であり、版木の調査・修復、さらに所蔵施設との許可を得て、摺りを再現する版画家もいる。", "title": "後世の評価・収集" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "国内では、大名家や実業家のコレクションがある。", "title": "後世の評価・収集" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "", "title": "後世の評価・収集" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "浮世絵がヨーロッパに最も早く渡った例として、1798年(寛政10年)に、カピタンらが葛飾北斎に日本人男女の一生を図した巻子を注文し、故国に持ち帰ったことが挙げられる。またシーボルトは多量の日本資料を持ち帰り、1832-52年に『Japonica』20分冊を刊行するが、そこには『北斎漫画』が掲載されている。", "title": "後世の評価・収集" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1856年、ブラックモンが、日本から輸入された陶磁器の包み紙に使われていた『北斎漫画』を見せ回ったことで、美術家に知られるようになったとの「逸話」は、1990年以降では、疑問視されている。", "title": "後世の評価・収集" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ゴッホが『タンギー爺さん』の背景に浮世絵を描き込んだり、歌川広重の作品を模写した。エドゥアール・マネ、エドガー・ドガ、メアリー・カサット、ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、ロートレック、ゴーギャンらにも影響を与えた(ジャポニスム)。", "title": "後世の評価・収集" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "日本美術を取り扱っていたビングは、自身の工芸作品に浮世絵表現を取り入れた。", "title": "後世の評価・収集" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "クロード・ドビュッシーは、葛飾北斎の神奈川沖波裏を所蔵し、同図の波の形状を、『交響詩“海”』の楽譜表紙に採用した。", "title": "後世の評価・収集" } ]
浮世絵は、日本の江戸時代初期に成立した、絵画のジャンルのひとつ。
<noinclude> {| style="float:right; width:360px;" class="infobox" |- | {| border="0" style="border-collapse:collapse;" |- | rowspan="2" | [[File:Beauty looking back.jpg|alt=Painting of a finely dressed Japanese woman in 16th-century style.|150px]] | colspan="2" | [[File:MASANOBU-Theater.jpg|214px]] |- | [[File:The actor Otani Oniji II as Yakko Edobei - Sharaku - TNM.jpg|alt=Colour print of a colourfully made-up Japanese actor making a bold expression with his fingers extended, facing right.|105px]] | [[File:Ase o fuku onna.jpg|alt=Colour print of a closeup of a heavily made-up woman's face. The woman cranes her head left as she wipes her face with a patterned cloth.|105px]] |- | |} {| border="0" style="border-collapse:collapse;" |- | colspan="3" | [[File:Takiyasha the Witch and the Skeleton Spectre.jpg|alt=A set of three colour prints of a samurai being menaced by a gigantic skeleton|367px]] |- |} |- | ''左上から:'' * [[菱川師宣]]『[[見返り美人図]]』 17世紀後半 * [[奥村政信]]『芝居狂言浮絵根元』 1743年 * [[東洲斎写楽]]『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』 1794年 * [[喜多川歌麿]]『汗を拭く女』 1798年 * [[歌川国芳]]『相馬の古内裏』 1845年-1846年 |- |} </noinclude> {{読み仮名|'''浮世絵'''|うきよえ}}は、[[日本]]の[[江戸時代]]初期に成立した、[[絵画]]の[[ジャンル]]のひとつ。 == 概要 == [[ファイル:Ejiri in the Suruga province.jpg|thumb|300px|{{Anchors|北斎江尻}}[[葛飾北斎]]『[[富嶽三十六景]] {{Ruby|駿州江尻|すんしゅうえじり}}』/1831-35年頃。[[東海道]][[江尻宿]]傍の{{Ruby|姥ヶ池|うばがいけ}}手前を描く。]] 江戸時代までの絵画は公家、大名などの庇護による[[土佐派]]や[[狩野派]]が主であった。その中で風俗画も描かれていたが承応年間頃([[1654年]])には衰退し、庶民階級による風俗画が描かれるようになった{{sfn|吉田|1962|pp=25-26}}。 これは、土佐派や狩野派から転身した者や庶民階級から出現した絵師が浮世絵の源流を形作ることになったことによる。[[明暦の大火]]により江戸の町が焼き尽くされた後、町人の経済力は強くなり風俗画はその階級の気風の要求に応えるものに変化していった{{sfn|吉田|1962|pp=51-57}}。[[岩佐又兵衛]]の工房による風俗画はそれまでの風俗画と浮世絵を繋ぐものであり{{efn|岩佐又兵衛を浮世絵の父と評することもある{{sfn|吉田|1962|pp=57-59}}}}、菱川師宣に至り風俗画を1枚の独立した絵画作品としたことで浮世絵の始祖と呼ばれている{{Sfn|山口|1995|p=21}}{{Sfn|田辺|2011|p=108}}{{Sfn|小林|1998|pp=24-29}}。 浮世絵の作品形態は、[[肉筆画]]{{Refnest|group=注釈|[[肉筆浮世絵]]ともいう}}(筆で直に描いたもの)と[[木版画]](印刷物)に分かれ{{Sfn|大久保|2013|p=8}}、後者は一枚摺と[[版本]](書籍)に分かれるが、庶民に広まった背景として、大量生産とそれによる低価格化が可能な版画形式があげられる{{R|ブリタニカ国際大百科事典}}。商業資本たる版元の企画の下での、絵師(作画)、彫師(原版彫)、摺師(印刷)の分業体制が確立され、まとまった部数を摺ることによって、廉価で販売、版本の場合は貸し出すことが出来た{{R|日本大百科全書}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=120-121|ps=長友千代治「貸本屋」}}。 題材は、大名や武家などの支配階級ではなく庶民町民階級からみた風俗が主であり多岐に及ぶ。初期には[[歌舞伎]]や[[遊郭]]などの享楽的歓楽的世界{{efn|歌舞伎や芝居町、遊里遊郭は風俗を乱す場所とされ「悪所」と呼ばれた{{Sfn|日本生活史辞典|2016|p=6}}。}}が対象となっており多くの[[役者絵]]や[[美人画]]が描かれていった。後に[[武者絵]]や[[風景画]]([[名所絵]])など数多くの題材に拡がっていった{{Sfn|山口|1995|pp=18-20}}{{Sfn|吉田|1962|pp=26-31}}。同時に流行や報道的な社会性を帯びていることから、[[江戸幕府]]に対する体制批判や風俗の乱れを封じるために度々内容に規制をかける禁令が幕府より出される事態にもなった{{Sfn|稲垣|1990|p=7}}。 19世紀後半になると[[パリ万国博覧会]](1867年)に浮世絵も正式出品され反響を呼び、[[ジャポニスム]]のきっかけにもなり印象派の画家たちに影響を与えた{{sfn|田辺|2011|p=90}}。 20世紀以降では、変化・消失した名所、人々の生活や生業、文化などを伝える歴史資料としても活用されている{{Sfn|神谷|2014|p=18}}。 == 語源 == 「浮世絵」の語の初出は、1681年(延宝9年)の俳書『それそれ草』での「浮世絵や 下に生いたる 思ひ草 夏入」である{{Refnest|group=注釈|頴原退蔵(1947)『江戸時代語の研究』臼井書房{{Sfn|田辺|2016|p=10}}より孫引き。}}。 「浮世」とは、平安時代初期に見られる「苦しい」「辛い」を意味する「憂し」の連体系である「憂き」に名詞の「世」がついた「憂き世」が語源であり<ref name=日本国語大辞典>{{Cite news|url=https://kotobank.jp/word/%E6%86%82%E4%B8%96%E3%83%BB%E6%B5%AE%E4%B8%96-2010051|title=精選版 日本国語大辞典|accessdate=2020-06-01}}</ref><ref name=大辞泉>{{Cite news|url=https://kotobank.jp/word/%E6%B5%AE%E4%B8%96-439212#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89|title=デジタル大辞泉|accessdate=2020-06-02}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://gogen-yurai.jp/ukiyo/|title=語源由来辞典|accessdate=2020-06-01}}</ref><ref name=古語辞典>{{Cite news|url=https://kobun.weblio.jp/content/%E6%86%82%E3%81%8D%E4%B8%96|title=学研全訳古語辞典|accessdate=2020-06-02}}</ref>、一例として『[[伊勢物語]]』では「つらいことの多い世の中」という意味で用いられる<ref name=日本国語大辞典/>{{Sfn|大津|1964|p=56}}{{Refnest|group=注釈|『伊勢物語』八二(10世紀前半) 「散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になにか久しかるべき」}}。一方で、同時代の「[[古今和歌集]]」「[[後撰和歌集]]」「[[拾遺和歌集]]」の[[三代集]]では「世のうき時」「うき世の中」といった表現が多く未だ語句として定まっておらず、「うき世」が多用されるのは平安時代中期の「[[後拾遺和歌集]]」以降である<ref name=日本国語大辞典/>。平安時代末期になると定めない無常の世という観念が付加され「浮き世」と表記されるようになるが、これには漢語「浮生」の影響もあったとされる<ref name=日本国語大辞典/><ref name=大辞泉/><ref name=古語辞典/>{{Refnest|group=注釈|『[[荘子 (書物)|荘子]]』刻意篇第十五』「聖人之生也天行、其死也物化、靜而與陰同德、動而與陽同波(略)其生若浮、其死若休。」「聖人が生きている時は自然のままにふるまい、死んで行くときは万物の変化のままに従い、静かにしているときは陰の気にその徳(もちまえ)を合わせ、動くときは陽の気に変化を合わせる、と(略)その生きているときは流れのままに浮かぶかのように、その死んでいくときは休息するかのようである」{{Sfn|金谷|1975|pp=222-224}}。}}。 中世末・江戸時代初頭になると、前代の厭世的思想の裏返しとして享楽的に生きるべき世の中と逆の意味で使われるようになる<ref name=日本国語大辞典/>{{Refnest|group=注釈|『隆達節歌謡』(1593-1611・文禄2-慶長16年)の「花よ月よと暮らせただ、ほどはないものうき世は」 はかなく定めないのだから、深刻に考えないで、うきうきと享楽的にすごすべき世の中の意}} {{Refnest|group=注釈|『隆達節歌謡』(1593-1611・文禄2-慶長16年)の「後生を願ひ、うき世も召され、朝顔の花の露より徒な身を」 享楽的欲望をみたしてくれる世界。遊里。また、遊里の遊びに夢中になること。浮世遊び。の意}} {{Refnest|group=注釈|『仮名草子・恨の介』(1609‐1617)の「『心の慰みはうき世ばかり』とうちしげる」 男女間の恋愛。いろごと。情事。また、恋、好色、情事などの対象となる人の意}}。そこから「浮世絵」に代表されるように当代流行の風俗を指す「当世風」といった意味でも用いられるようになる<ref name=日本国語大辞典/>。 『[[柳亭種彦#生涯|柳亭記]]』(1826・文政9年頃)において、「浮世といふに二つあり。一つは憂世の中、これは誰々も知る如く、歌にも詠て古き詞なり。一つの浮世は今様といふに通へり。浮世絵は今様絵なり。」と説明している<ref name=日本国語大辞典/>{{Sfn|小学館国語辞典編集部|2001|p=150}}。 == 歴史 == [[File:IWASA Matabee, Grand View of Kyoto(Funaki version).jpg|thumb|250px|岩佐又兵衛『洛中洛外図屏風(舟木本)』右隻6扇より。1615年頃。国宝。歌舞伎踊りが見られる{{Refnest|group=注釈|東京国立博物館画像検索より引用{{Cite web|和書|url=https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0021446|title=洛中風俗図屏風(舟木本)|accessdate=2020-05-3}}}}。]] {{See also|浮世絵師一覧}} 諏訪(2008){{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=44-45|ps=諏訪春雄「浮世絵」}}に従って、以下の4期に分けて説明する{{Refnest|group=注釈|4期以外に、石田ほか(1987){{Sfn|石田ほか|1987|pp=61-62}}の3期、稲垣(2011){{Sfn|稲垣|2011|pp=8-13、14-15、32-33、78、114-115}}の5期区分もある。}}。 *[[#江戸前期|江戸前期]] – [[慶長]]・[[元和 (日本)|元和]]年間(1596年-1624年)から[[宝暦]]年間(1751年-1764年)、約150年 *[[#江戸中期|江戸中期]] - [[明和]]元年(1764年)から[[寛政]]年間(1789年-1801年)、約35年 *[[#江戸後期|江戸後期]] - [[享和]]年間(1801年-1804年)から[[慶応]]年間(1865年-1868年)、約70年 *[[#明治以降|明治以降]] - 明治元年(1868年)以降<!--「現代」は[[WP:DATED]なので、使用不可 --> ===江戸前期=== [[File:YUNA ( SERVICE WOMEN IN BATHHOUSE ) - Google Art Project.jpg|thumb|湯女図、MOA美術館蔵。重要文化財。]] 最初期の浮世絵には、版画がなく、[[肉筆]]画のみであった。[[安土桃山時代|桃山期]]の「[[洛中洛外図屏風]]」と比べ、[[岩佐又兵衛]]の同屏風(通称「舟木本」。慶長19年-元和元年〈1614-15年{{Sfn|辻|2008|pp=229-230}}〉)は、民衆の描写が目立つようになり、そこから寛永年間(1624-44年)頃に「[[彦根屏風]]」「松浦(まつら{{Refnest|group=注釈|[[松浦氏]]旧蔵なので、「まつら」と読む{{Sfn|成瀬|2006|p=1}}。}})屏風{{Refnest|{{Cite web|和書|url=https://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/yamato/collection/collect01/04.html|title=婦女遊楽図屏風(松浦屏風)|accessdate=2020-03-30}}}}」(3点とも[[国宝]])といった、当世人物風俗を全面に出す作品が生まれた{{Sfn|辻|2005|pp=293-294}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=429-431|ps=河野元昭「風俗画」}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=178-179|ps=河野「近世初期風俗画」}}{{Sfn|狩野|2014|pp=243-257}}。「湯女図」([[MOA美術館]]蔵。[[重要文化財]])での、左から三番目の桜花柄[[小袖]]の女に見る、体を「く」の字に折る姿勢は、後の[[菱川師宣]]や、[[懐月堂派]]らの[[見返り美人図]]の原型になったとの指摘がある{{Sfn|佐藤|1993|p=51}}。 [[美人画]]は、風俗画からの発展だけでなく、禅寺にあった[[明朝]]の[[楊貴妃]]像を日本女性にあてはめた説があるが{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=431|ps=河野元昭「風俗画」}}、[[落款]]に「日本絵師」「大和絵師」と書したのが、菱川師宣である。[[安房国]]の縫箔(金銀箔を交えた刺繍)屋出身。「見返り美人」([[東京国立博物館]]蔵)に代表される掛物(掛け軸)のほかに、巻子(かんす。まきもの。)、[[浮世草子]]、[[枕絵]]などの版本と、多彩な活動をした。師宣の登場は、17世紀後半に、江戸の文化が、[[上方]]のそれに肩を並べる契機となる{{Sfn|田辺|2016|pp=8-11}}。版本は、最初は墨一色だが、後期作品として、墨摺本に筆で彩色する「[[丹絵]]」が表れ、一枚摺りも登場する{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=300-301|ps=武藤純子「丹絵」}}{{Sfn|千葉市美術館|2016|p=78|ps=田辺昌子「[[杉村治兵衛]] 女三宮とかしわぎのゑもん 」(東京国立博物館蔵。[[重要美術品]]。 )など}}。 師宣没後、[[奥村政信]]は、赤色染料を筆彩した[[紅絵]]や、墨に[[膠]]を多く混ぜ、光沢を出す[[漆絵]]、[[柱絵]]に[[浮絵]]も創始し、2・3色摺りを可能にした[[紅摺絵]]や、[[拓本]]を応用した、白黒反転の[[石摺絵]]の創始にもかかわった。そして、絵師だけでなく、[[版元]]「奥村や」を運営し、自由な作画と販売経路を得た。また、自身の作品を取り扱うだけでなく、他の版元と商品を卸しあい、商機を広めた。活動期間も半世紀に渡った{{Sfn|藤澤|1996|p=129}}{{Sfn|日野原|2014|pp=189-190}}{{Sfn|千葉市美術館|2016|p=187}}。 [[歌舞伎]]は江戸初期に生まれ、幕府の禁令もあり、成人男性のみが演ずる形になった{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=137-138|ps=諏訪春雄「歌舞伎」}}。歌舞伎の[[役者絵]]に特化したのが鳥居派である。「瓢箪足蚯蚓描(ひょうたんあし みみずがき)」と呼ばれる、瓢箪のようなくびれた足に、蚯蚓が這いまわったような強い墨線を生かした描写{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=422|ps=武藤純子「瓢箪足蚯蚓描」}}、「大々判」という大きな判型(約55×33センチ{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=409-410|ps=田辺昌子「判型」}})で知られた。鳥居派は現在も継承されており、歌舞伎座の看板を手がけている([[鳥居清光]]){{Sfn|武藤|2016|pp=12-15}}。 [[懐月堂安度]]ら懐月堂派は、工房で肉筆の美人画を量産した。庶民を購入層とし、安価な泥絵具を用いた{{Sfn|千葉市美術館|2016|p=167}}。 1720年(享保5年)に8代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川吉宗]]が禁書令を緩和し、[[キリスト教]]に関係のない蘭書の輸入を認めたことで、[[遠近法]]を用いて描かれた[[銅版画]]等を見る機会が生まれた。遠近法は、奥村らによる浮絵を生むこととなる{{Sfn|岸|1994|pp=1-289}}<ref name=名所>{{Cite news|url=https://www.ndl.go.jp/landmarks/column/1.html|title=国立国会図書館 名所絵の誕生|accessdate=2020-03-30}}</ref>。 ===江戸中期 === [[ファイル:Suzuki Harunobu - Evening Snow on the Heater.jpg|thumb|200px|[[鈴木春信]]「坐敷八景 塗桶の暮雪」、1766年。]] 明和元年(1764年)、[[旗本]]など趣味人の間で[[絵暦]]交換会が流行した。彼らの需要に応えたのが[[鈴木春信]]である。彼らの金に糸目をつけない姿勢が、多色(7・8色)摺り版画を生みだすこととなった。錦のような美しい色合いから「[[錦絵]]」(東・吾妻錦絵)と呼ばれる{{Sfn|大久保|2014|pp=172-173}}{{Sfn|千葉市美術館|2016|pp=229、268-271}}<ref name=名所/>。上述の奥村政信らが、重ね摺りの際、ずれを防止する目印、「[[浮世絵#浮世絵版画の制作法|見当]]」を考案したことと、高価で丈夫な[[越前]][[奉書紙]]が用いられたことが、錦絵を生み出す要因となった{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=409-411|ps=岩崎均史「判型」}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=444|ps=田辺昌子「奉書紙」}}{{Sfn|大久保|2014|pp=172-173}} 。 春信の錦絵は、絵暦以外でも、[[和歌]]や[[狂歌]] 、『[[源氏物語]]』『伊勢物語』『[[平家物語]]』などの物語文学を、当世風俗画に当てはめて描く「[[見立絵]] 」が多く、教養人でないと、春信の意図が理解できなかった。高価格{{Refnest|group=注釈|宝暦年間(1751-64年)の細判(約33×15センチ)紅摺絵が1枚四文程度だったのに対し、春信の中判(約29×22センチ)錦絵は百六十文だった。{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=260|ps=藤澤紫「鈴木晴信」}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=409|ps=岩崎均史「判型」}}}}の[[摺物]]{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=266-269|ps=浅野秀剛「摺物」}}であり、[[ユニセックス]]な人物描写も含め、購入対象を庶民にしていなかった{{Refnest|group=注釈|春信と交流のあった[[太田南畝]]の『半日閑話』明和七年六月の項に「この人一生役者の絵をかかずして云、我は大和絵師なり。何ぞ河原者の形を画くにたへんやと」とある。実際は、宝暦10年(1760年)以降に、複数の役者絵が残されている{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=260|ps=藤澤紫「鈴木晴信」}}。}}。 墨の代わりに[[ツユクサ|露草]]等の[[染料]]を用いた「水絵」(みずえ)が、明和年間初頭に流行り、春信らの作品が残るが、現存する作品は、大部分が褪色してしまっている{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=463|ps=田辺昌子「水絵」}}{{Refnest|group=注釈|20世紀の終盤、立原位貫(たちはら・いぬき)は、春信らが用いた染料を復元し、摸刻摸摺をした{{Sfn|目黒区美術館|2016|pp=126-129、156-157}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://inuki-art.com/profile.html|title=立原位貫オフィシャルホームページ|accessdate=2020-04-01}}</ref>。}}。 [[勝川春章]]は安永年間(1772-81年)に細判{{Refnest|group=注釈|約33×15センチ{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=409-411|ps=岩崎均史「判型」}}役者絵は、興行を見てから下絵を描き、彫摺するので、小さい判の方が早く版行出来て、有利である{{Sfn|大久保|2014|pp=173-174}}}}錦絵にて、どの役者か見分けられる描写をし、役者名が記されていなければ特定不能な、鳥居派のそれを圧倒した。同様の手法で、[[相撲絵]]市場も席巻した。天明年間(1781-89年)には、肉筆美人画に軸足を移し、武家が購入するほど、高額でも好評であった{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=126-127|ps=内藤正人「勝川春章」}}{{Refnest|{{Cite web|和書|url=http://www.moaart.or.jp/collections/077/|title=雪月花図 勝川春章筆。MOA美術館所蔵。重要文化財。|accessdate=2020-04-03}}}}。弟子の[[勝川春好|春好]] は、役者[[大首絵]]を初めて制作した{{Sfn|大久保|2014|pp=226-227|ps=田辺昌子「二代目市川門之助の曽我五郎 勝川春好」}}。 [[File:TORII Kiyonaga. Cherry blossoms viewing at Asukayama.Edo,Japan.Metroporitan Museum collection.,USA.jpg|thumb|300px|鳥居清長「飛鳥山の花見」、1780年代後半。]] [[鳥居清長]]は書肆(しょし。書店のこと。)出身で、屋号の「白子屋」をそのまま号とした。天明年間(1781-1789年)に、長身美人群像を大判横2・3枚続きで表現した。前景の群像と後景の名所図は、違和感なく繋がり、遠近法の理解が、前世代の奥村らより進んだことが分かる。鳥居派として、役者絵も描いたが、上述の組み合わせを応用し、役者の後ろに[[出語り]]([[三味線]]と[[太夫]])を入れ込む工夫をした{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=349-350|ps=鈴木浩平「鳥居清長」}}{{Sfn|大久保|2014|p=175}}{{Sfn|大久保|2014|pp=228-229|ps=田辺昌子「飛鳥山の花見・三代目沢村宗十郎の治兵衛と四代目岩井半四郎の小春」}}。春画『袖の巻』は、12.5×67センチという、小絵{{Refnest|group=注釈|こえ。室町時代後期の、幅17センチ程度の小ぶりな絵巻物{{Sfn|サントリー美術館|2017|p=222|ps=土屋真紀「地蔵堂草紙絵巻」}}。}} のように極端な横長サイズに、愛する男女をトリミングして入れ込んだ、斬新な構図である{{Sfn|永青文庫・春画展日本開催実行委員会|2015|pp=322-330|id=国際日本文化研究センター・東洋文庫蔵}} 。 [[File:KITAGAWAUtamaro Sea shells & short poems book.jpg|thumb|300px|喜多川歌麿、絵入狂歌本『潮干のつと』、1789年頃]] [[喜多川歌麿]]が名声を得るのは、版元[[蔦屋重三郎]]と組み、1791年(寛政3年)頃に、美人[[大首絵]]を版行してからである。 [[雲母]]摺りの「婦人相学拾躰」、市井の美人の名前を出せないお触れが出たので、絵で当て字にした「高名美人六家撰」、顔の輪郭線を無くした「[[無線摺]]」、[[花魁]]から最下層の[[遊女]]まで描く等、さまざまな試みを蔦重の下で行った。また絵入[[狂歌]]本『画本虫撰』『潮干のつと』等では、贅を尽くした料紙、彫摺技術がつぎ込まれた 。1804年(文化元年)、『絵本 [[太閤記]]』が[[大阪市#近世|大坂]]で摘発され、[[手鎖]]50日の刑を受け、その2年後に没した{{Sfn|小林・大久保|1994|pp=205-208|ps=森山悦乃「版元の役割と蔦屋重三郎の活躍」}}{{Sfn|浅野・クラーク|1995|pp=47-54、65-66}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=167-169|ps=浅野秀剛「喜多川歌麿」}}{{Sfn|日野原|2014|pp=187-188}}。 [[File:KITAGAWAUtamaro Hideyoshi& his servant Lady.jpg|thumb|300px|歌麿「太閤秀吉と側室たちの花見」、1804年。この作品で彼は手鎖刑を受ける。]] 寛政2年(1790年)、「[[寛政の改革]]」の一環として、改印(あらためいん)制度{{Refnest|group=注釈|浮世絵版画に対し、幕府批判等、問題がないか調べ、問題なければ捺印した制度{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=14|ps=佐藤悟「改印」}}。}}ができた。以降も[[松平定信]]が老中を辞す寛政5年(1793年)まで、浮世絵への取り締まりが度々行われた。上述の歌麿が受けた、「市井の美人の名前を出せないお触れ」もその一つである。改印制度自体は、明治5年(1872年)まで続く{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=15-16|ps=佐藤悟「改印」}}。 寛政7年(1795年)5月、蔦屋重三郎が、[[東洲斎写楽]]による大首役者絵28点を一挙に版行する。無名の絵師に、大部でかつ高価な黒雲母摺大判を任せるのは異例である。版元の判断だけでなく、何らかのスポンサーがいたのではと考えられる。また当時、[[歌舞伎]]座が不況にあえいでおり、鳥居派もそのあおりを食らっていた。その間隙を縫ったのが蔦重である{{Sfn|大久保|2014|p=176}} 。それまでの役者絵は、贔屓客に買ってもらう為、役者を美化して描いたが、写楽は、[[悪役]]の醜さや、[[女形]]の老いを描いた。28点の当時の評価については、記録が無いが、その後の作品からは、写実描写が影を潜め、[[定紋]]や[[屋号]]の誤りも見られるようになり{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=333|ps=浅野秀剛「東洲斎写楽」}}、[[太田南畝]]ほか『[[浮世絵類考]]』(享和2年・1802年)に記されるように「あまりに真を画かんとてあらぬさまに書なせしかば長く世に行はれず。一両年にして止む」こととなった。活動期間は10か月以下だった{{Sfn|大久保|2014|p=176}}。 対して、[[歌川豊国]]は、典型的な美化した役者絵や、[[曲亭馬琴]]・[[山東京伝]]らの[[読本]]挿絵を描いて、商業的成功を得る。『絵本[[太閤記]]』で歌麿と共に摘発されたが、歌麿没後は、美人画でも彼の隙間を埋めることとなる。多くの弟子を得、浮世絵最大流派となる歌川派の基礎を築く{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=62-63|ps=大久保純一「歌川豊国」}}。 === 江戸後期 === [[File:Keisai Eisen, Erotic Book() List and the Snows of Mount Fuji (Enpon shunjo fuji no yuki), vol. 1 of 3, 1824.jpg|thumb|200px|渓斎英泉『艶本春情富士乃雪 上巻』、1824年。]] [[渓斎英泉]]は[[遊女]]屋や[[白粉]]屋の経営をしていた経験があり、それが美人画に活かされたのか、「婀娜あだ{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=11|ps=[[諏訪春雄]]「あだ」}} 」と呼ばれる、「鼻筋が通った面長で、つり目で受け口の歪曲された顔貌表現{{Sfn|大久保|2014|p=246|ps=田辺昌子「美艶仙女香といふ 潮くさき… 渓斎英泉」}} 」といった、その時代特有の美を示した{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=186-187|ps=鈴木浩平「渓斎英泉」}}。 英泉と同時代の[[祇園井特]]は、[[京都|京]]で廃頽的な美人肉筆画を描いた。文化・文政期(1804-30年)には、下唇が緑色に見える[[艶紅#化粧品・艶紅の歴史|笹紅]]{{Refnest|group=注釈|1813年(文化10年)に版行され、(大正12年)1923年の[[関東大震災]]で、版木が焼失するまで、100年以上摺り続けらけた、『 [[都風俗化粧伝]](みやこふうぞくけわいでん)』には、「紅を口に染むるは、下唇には濃くぬり、上唇には淡く付けべし。上下ともに濃きは賤し(略)紅を濃く光らさんとするには、まず下地に墨をぬり、その上へ紅を濃く付けべし。濃く見え、紅の色青みて光る也(略)又法。紅を濃く光らさんとするに、下地に[[行燈 ]]にたまりたる油煙をとりて、筆の先切れたるにつけてぬり、その上に紅を付けるもよしといえり」とある{{Sfn|高橋|1982|p=179}}。}}が流行する{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=169|ps=太壽堂素子「祇園井特」}}。 [[File:Amida Waterfall, Deep beyond the Kiso Highway. Series Tour of Waterfalls in Various Provinces.jpg|thumb|200px|葛飾北斎「諸國瀧廻り 木曽路ノ奥阿弥陀ヶ瀧」1833年頃。]] [[葛飾北斎]]は、勝川春章の下で役者絵を描き、その後、[[俵屋]]宗理(そうり)を名乗り、独自の肉筆美人画様式を得、そして北斎を名乗る。[[銅版画]]を真似た名所絵木版実験作を発刊、[[曲亭馬琴]]の[[読本]]『[[椿説弓張月]]』で挿絵を担当し、馬琴との共著が続くこととなり、絵師としての名声を得る。その後『[[北斎漫画]]』もヒットし、版元[[西村屋与八]]と組んだ『[[富嶽三十六景]]』で輸入染料[[紺青|ベロ藍]]を用い、藍一色摺りや[[ぼかし (浮世絵)|拭きぼかし]]を駆使し、斬新な構図も含め、広く世間に受け入れられる。その後西村屋と『[[諸国瀧廻り]]』『諸国名橋奇覧』や、版本『[[富嶽百景 (北斎)|富嶽百景]]』も版行し、名所絵という新ジャンルを確立した。90歳で亡くなるまで絵師であり続けた{{Sfn|鈴木|1999|pp=13-409}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=129-131|ps=伊藤めぐみ「葛飾北斎」}}{{Sfn|大久保|2014|pp=178-179}}。娘[[葛飾応為|応為]] は、晩年の父の作画を手伝ったとされ、自身も明暗を強調した肉筆画を残した{{Sfn|鈴木|1999|pp=217-218、308-313}} 。 [[歌川広重]]は、『東都名所』(文政13-天保2年・1830年-31年)以降、ベロ藍を用いるが、北斎に比べ、抑えた色使いであった。天保5年(1834年)頃、版元[[保永堂]]から『[[東海道五十三次 (浮世絵)|東海道五十三次]]』全55枚揃えを版行する。残存枚数及び版木の消耗具合から、相当売れたことが推察できる。また、全揃いを[[画帖]]に仕立てたものもあり、武家や豪商の購入が考えられる。『富嶽三十六景』と版行時期が近く、版元と広重が、北斎を意識していたと考えられる{{Sfn|日野原|2014|p=191}}。安政3-5年(1856年-58年)に、版元[[魚屋栄吉|魚屋(さかなや・ととや )栄吉]]{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=212|ps=市川信也「魚屋栄吉」}}の下、目録を含め120枚揃い(うち1枚は[[歌川広重 (2代目)|二代広重]]筆)の『[[名所江戸百景]]』が版行される。 [[File:Utagawa Kunisada II - Actor Nakamura Tsuruzô I as Awayuki Nashirô.jpg|thumb|200px|歌川国貞「淡雪奈四郎としての中村鶴蔵」、1852年。]] 本シリーズでは、ベロ藍に加え、[[アニリン|洋紅]]も用いられるが、『東都名所』同様、色使いは抑制される。また広角レンズで覗いたような、前景を極端に大きく画く「近接拡大法」を、多くの作品で採用している。全て縦長であることも、これまでの名所絵には無いもので、『東海道五十三次』同様、画帖仕立の為と考えられる{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=67-68|ps=市川信也「歌川広重」}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=476-478|ps=原信田実「名所江戸百景」}}{{Sfn|大久保|2014|pp=179-181}}{{Refnest|画帖は、[[東洋文庫]]に収蔵されている{{Cite web|和書|url= http://124.33.215.236/gazou/Edohyakkei.html|title=財団法人 東洋文庫 所蔵・岩崎文庫江戸百景 歌川廣重 一世画・二世補|accessdate=2020-04-04}}}}。 [[歌川国貞]]は豊国門下で名を上げ、三代豊国を襲名する。[[柳亭種彦]]と組み、『[[偐紫田舎源氏]]』等の[[合巻]]の挿絵で成功を得る。役者絵や美人画でも人気を得、最晩年、版元[[恵比寿屋庄七]]での、役者大首絵シリーズ全60図は、生え際の彫りや[[空摺り]]・[[布目摺り]]、高価な[[顔料]]を用いる等、手間暇がかけられており、一枚百数十文から二百文で売られたようだ。市場の成熟ぶりが見られるが、このシリーズでは、出資者に関する史料が残っている{{Sfn|小林・大久保|1994|pp=64-65|ps=大久保「役者絵製作の舞台裏」}}。浮世絵師として、最も多くの作品を残したといわれる{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=53-54|ps=藤澤茜「歌川国貞」}}{{Sfn|大久保|2014|pp=178、255-256}}。 [[File:Warrior Minamoto Raiko and the Earth Spider LACMA M.2006.136.292a-c (1 of 2).jpg|thumb|270px|歌川国芳「源頼光公館土蜘作妖怪図(部分)」、1843年。]] [[元 (王朝)|元]] ・[[明]]期に成立し、日本でも[[読本]]に取り入れられて人気を得た「[[水滸伝]]」は、当然のごとく、浮世絵でも取り扱われる。[[歌川国芳]]は、版元[[加賀屋吉右衛門]]での『通俗水滸伝豪傑百八人』シリーズで人気を得る。2・3枚続きもあり、国貞の役者絵同様、高価だったと思われる。天保14年(1843年)の「[[源頼光]]公館土蜘作妖怪図(みなもとの よりみつこうの やかたに つちぐも ようかいを なすの ず)」は『[[太平記]]』に記される平安時代中期の逸話だが、版行後、「 [[天保の改革]]」での贅沢禁止を揶揄し、12代将軍[[徳川家慶|家慶]] と [[老中]] [[水野忠邦]]を描き込んだと噂が立ち、加賀屋は摺物を回収、[[版木]]を削り落としたが、[[海賊版]]が横行した{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=59-60|ps=稲垣進一「歌川国芳」}}{{Sfn|大久保|2014|pp=257-258}}。 なお、江戸時代は、[[大坂の陣|大坂冬の陣・夏の陣]] や、[[島原の乱]]を除けば、泰平の世であり、かつ[[安土桃山時代|織豊期]]以降の時代[[風刺]]は禁じられていた {{Refnest|group=注釈|先述した、歌麿・豊国の『絵本太閤記』摘発、国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」回収例を参照。}}ので、それ以前の史実を、当世の暗喩として表現する方法を取った。暗喩の有無を問わず、これらの作品を「[[武者絵]]」と呼ぶ{{Sfn|小林・大久保|1994|pp=98-103|ps=大久保「武者絵・物語絵」}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=471-472|ps=岩切友里子「武者絵」}} 。 国芳は役者絵以外に、「[[戯画]]」も多く作画し、「金魚づくし」シリーズ等、動物を擬人化したり、「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」のように、複数の裸の男を組み合わせ、顔を表現したり、天保の改革で役者絵が禁止されたので、「荷宝蔵壁のむだ書」のように、壁のひっかき傷で役者をひそかに表現したりした。改革に抵抗し、笑い飛ばす姿勢が窺える{{Sfn|菊地ほか|1982|p=36|ps=「釘絵」}}{{Sfn|小林・大久保|1994|pp=104-105|ps=大久保「戯画」}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=59-60|ps=稲垣進一「歌川国芳」}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=159-160|ps=及川茂「戯画」}}{{Sfn|藤澤|2008|pp=42-44}}。 [[File:Takemikazuchi-pins-Namazu-with-Kaname-ishi-spirit-stone-1855.png|thumb|200px|鯰絵。鹿嶋明神が地震を起こす鯰を要石で押さえつけている。]] 安政2年(1855年)10月、江戸で大地震が発生し、その直後、「[[鯰絵]]」が多くの版元から版行された。[[ナマズ]]が地震を起こすという言い伝えは、江戸時代中期からあった。ナマズは[[日本列島]]を下から支え、その頭部が[[鹿島神宮]]にあたり、神宮境内に鎮座する「要石(かなめいし)」でナマズを押さえていたと考えられたが、地震当日は神無月だった為、[[鹿島明神]]が[[出雲大社]] での神々の会議で出払っていたせいで、地震を抑えられなかったと江戸の人々は考えた。 その為、鹿島明神がナマズを要石で押さえつける鯰絵が緊急版行された。それ以外にも多くの図柄があり、ナマズが町人に地震を起こしたことを謝ったり、家屋の普請を手伝ったりする絵もある。緊急版行なので、改印および版元・絵師印は皆無だが、画風から歌川派作品が多いと推測される。前向きに生きていこうとする町人の勢いが垣間見える{{Sfn|アウエハント|1986|pp=24-334}}{{Sfn|宮田・高田|1995|pp=5-147、182-189、221-363}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=364|ps=及川茂「鯰絵」}}。 [[File:Import harbor at Yokohama in19century.jpg|thumb|350px|横浜絵。歌川貞秀「横濱交易西洋人荷物運送之圖」]] 嘉永7年(1854年)3月、 [[日米和親条約]]により、200年以上に渡る「[[鎖国]]」は終焉した。安政5年(1858年)には [[日米修好通商条約]]及び[[オランダ]]・ [[ロシア]]・[[フランス]]・[[イギリス]]と、同等の条約が結ばれ、和親条約で定められた [[下田]]・ [[函館市|函館]]2港に加え、4港開港とそこでの居住が許された。その内、江戸から最も近い[[横浜市|横浜]]は、翌安政6年(1859年)に開放され、江戸・神奈川{{Refnest|group=注釈| 県名の神奈川ではなく、東海道五十三次に含まれる地名。当初は横浜ではなく、神奈川が開港される予定だった。}}の人々は、これまでに見たこともない、外国人の顔貌や服装、建造物に興味を引かれた。その結果生まれたのが「[[横浜絵]]」である。1860年(安政7・万延元年)から1872年(明治5年)にかけて、大部分が江戸の版元から版行された。絵師は [[歌川芳虎]] ・ [[歌川芳員|芳員]]ら、国芳門下が多い{{Sfn|小林・大久保|1994|pp=109-110|ps=大久保「横浜絵」}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=504-505|ps=横田洋一「横浜浮世絵」}}。また、[[五姓田芳柳]]らによる、居留者の似顔を、絹地に在来顔料で陰影を付けて描き、それに和装姿をモンタージュした「絹こすり絵」(絹本肉筆画)も、横浜絵に含まれる{{Sfn|鍵岡|2008|pp=12-16}} 。 慶応2-3年(1866年-67年)に、国芳の門人である[[月岡芳年]]と、芳年の弟子である[[落合芳幾]]による「英名二十八衆句」が版行された。これらの28点は、[[鶴屋南北]]作『[[四谷怪談#『東海道四谷怪談』|東海道四谷怪談]]』の歌舞伎ものや、史実から取られ、全点が殺戮を描く「[[無残絵|血みどろ絵]]」である{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=283-284|ps=菅原真弓「大蘇芳年」}}{{Sfn|山下|2013|p=234|ps=菅原真弓「英名二十八衆句 直助権兵衛 稲田久兵衛新助」}}。同時期に、[[土佐国]]の町絵師[[絵金]]が、芝居の題材を元に、「血みどろ絵」二双屏風(二つ折りの屏風)を残した{{Sfn|高知県立美術館|2012|pp=1-238}}{{Refnest|{{Citeweb|url=https://www.ekingura.com/index.html|title=絵金蔵|accessdate=2020-04-24}}}}。これらの作品が生まれたのは、その時代、実際に切り捨てられた屍骸を見たためではと指摘される{{Sfn|山下|2013|p=234|ps=菅原真弓「英名二十八衆句 直助権兵衛 稲田久兵衛新助」}}。 === 明治以降 === [[File:The Battle at Honnô-ji Temple yoshimori 1869.jpg|thumb|300px|戦争絵。[[歌川芳盛]]筆。1869年。「本能寺合戦之図」と題するが、実際は戊辰戦争・上野山の戦い]] 慶応3年(1867年)、[[徳川慶喜]]の[[大政奉還]]により、徳川幕府260年余の歴史は終わる。その後、反幕府側の[[薩摩藩]]が、慶喜に圧力を掛けたため、翌慶応4年(1868年)に、[[鳥羽・伏見の戦い]]、後の[[戊辰戦争]] に至る{{Sfn|松戸市戸定歴史館・静岡市美術館|2013|pp=4-7、44-46、171}}。それらを版行したのが「[[戦争画]]」であり、江戸期の「武者絵」とは区別する。特に江戸が戦場となった、[[上野]]山での、[[彰義隊]]と新政府軍との戦いが多く版行された。旧幕府側には、旧来の「改め」をする力は無く{{Refnest|group=注釈|実際の改めは、[[地本問屋]]同士の自主検閲だったので、混乱下での版行も可能だった{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=14-16|ps=佐藤悟「改印」}}。}}、新政府側にとっては、自派の宣伝になるのだから、版行を黙認した。それ以降も、[[佐賀の乱]]、[[台湾出兵]](ともに明治7年・1874年)、[[西南戦争]](明治10年・1877年)、[[日清戦争]](明治27年-28年・1894年-95年)、[[日露戦争]](明治37年-38年・1904年-05年)が版行された{{Sfn|兵庫県立近代美術館・神奈川県立近代美術館|1993|pp=24-30、103-144}}{{Sfn|小林・大久保|1994|p=110a|ps=大久保「戦争絵」}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=276|ps=菅原真弓「戦争絵」}}。 [[File:KOBAYASHI Kiyochika View of Fireworks at Ryohgoku,Tokyo.jpg|thumb|240px|小林清親「東京名所図・両国花火之図」、1880年。]] 1868年(慶応4年)7月、江戸は「[[東京]]」に改められ、9月に明治に改元、翌明治2年(1869年)2月に[[明治天皇|天皇]]が[[江戸城|旧江戸城]]に入り、名実ともに日本の[[首都]]となる。明治5年(1872年)には、[[汐留駅 (国鉄)|新橋]]-[[桜木町駅|横浜]]間に[[鉄道]]が開通し{{Refnest|group=注釈|先述の「横浜絵」の下限を1872年としたのは、鉄道開通によって、時代の最先端が、横浜から東京に移ったことを意味している。}}、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]周辺に、木造に石材を併用し、2階建て以上、バルコニー付きの「[[擬洋風建築]]」が建てられてゆく{{Sfn|清水|2013|p=212}}。それに[[人力車]]・[[馬車]]や[[ガス燈]]など、東京の変遷ぶりを描いたのが「[[開化絵]]」である。[[歌川広重 (3代目)|三代広重]]や、[[歌川国輝|国輝]]らの歌川派が代表例で、「洋紅」を多用した、どぎつい色調のものが多い{{Sfn|小林・大久保|1994|p=110b|ps=大久保「開化絵」}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=55|ps=藤澤茜「(二代)歌川国輝」}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=68|ps=市川信也「(三代)歌川広重」}}{{Refnest|{{Cite web|和書|url=https://www.gasmuseum.jp/mnw/?tag=%e3%81%8c%e3%81%99%e3%81%a8%e3%81%86|title=ガスミュージアム・明治浮世絵の世界・ガス燈|accessdate=2020-04-18}}}}。 [[File:Autumn Moon at Tōin - Hirai Inaba-no-kami Yasumasa and the Thief Hakamadare Yasusuke.jpg|thumb|280px|月岡芳年・春亭「美談武者八景 洞院の秋月」。]] [[小林清親]]は、下級武士として、将軍[[徳川家茂|家茂]]・慶喜に従い、鳥羽・伏見の戦いに加わり、旧幕府敗北後、謹慎する慶喜に従い、[[静岡県#近代|静岡]]へ。明治7年(1874年)、東京に戻り、絵師として立つ。光を意識した東京名所図を描き、「[[光線画]]」と呼ばれる。都市を描く点では「開化絵」の要素もあるが、絵師ごとの個性が乏しいそれとは、物の見方や色使いが異なる{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=203-204|ps=岡本祐美「小林清親」}}{{Sfn|練馬区立美術館・静岡市美術館|2015|pp=194-202}}。 [[File:Zenken-kojitu vol.6 FUJIWARA Yasumasa.jpg|thumb|160px|菊池容斎『前賢故実』巻6「藤原朝臣保昌」{{Refnest|{{Cite book|和書|author=菊池容斎|authorlink=菊池容斎|title=前賢故実卷六|year=1868|doi=10.11501/778242}}}}。]] 幕末に血みどろ絵を描いた月岡(大蘇)芳年は、明治10年代半ばになると、「[[歴史画]]」に注力する。 開国・新政府成立により、欧化政策が勧められ、明治9年(1876年)には、[[工部省]]が「[[工部美術学校]]」を設立し、イタリア人画家・[[彫刻]]家・建築家を招聘する。しかし政府は、輸出品として、ヨーロッパの真似ではなく、在来の[[工芸品]]の方が売れることを認識する。そして、国内体制を強固にするには、天皇の権威を高め、「国史」の重要性を認識し、歴史画が尊ばれることとなる。また、欧化政策によって冷や飯を食わされていた[[狩野芳崖]]・[[橋本雅邦]]らは、[[文部省|文部]]官僚の[[岡倉天心]]と、政治学・哲学の[[お雇い外国人|お雇い教師]] として来日したが、その後日本美術に開眼し、天心と行動を共にする[[アーネスト・フェノロサ]]の、洋画と[[南画]]を排斥した、新しい絵画{{Refnest|group=注釈|山下は『狩野派復古主義』と呼ぶ{{Sfn|山下|2013|p=176}}。なお「日本画」という用語は、「洋画」に対する対立概念であり、明治20年代に登場し、30年代に一般にも定着する{{Sfn|古田|2018|p=85-108}}。}}を生み出す主張に同調する{{Sfn|辻|2005|pp=346-350}}。 その時代に注目されたのが、[[菊池容斎]]の『[[前賢故実]]』(全10冊。天保14年-明治元年・1843年-68年)である。[[神武天皇]]から[[南北朝時代 (日本)|南朝時代]]の[[後亀山天皇]]時代までの公家・貴族・僧・武士・[[女房]]ら571人の故実と、彼らに見合う装束と顔貌を見開き一丁(2ページ)に描いたもので、明治10年代以降、画家の「粉本」{{Refnest|group=注釈|ふんぽん。狩野派で用いられた、見習い用の絵手本。これを写して絵を学んだ。}}として盛んに引用される。浮世絵師を含む在来画家に限らず、洋画家も『前賢故実』を参照して描くことになる{{Sfn|兵庫県立近代美術館・神奈川県立近代美術館|1993|pp=11-23、33-102}}{{Sfn|塩谷|2013|pp=185-190}}。 日清・日露戦争後、[[新聞]]や[[雑誌]]、[[石版画]]・[[写真]]に[[絵葉書]]が普及し、浮世絵師は、挿絵画家などへの転向を余儀なくされる{{Sfn|鈴木|2010|pp=243-24 7}}。明治40年(1907年)10月4日朝刊の朝日新聞「錦絵問屋の昨今」には、「江戸名物の一に数へられし錦絵は近年見る影もなく衰微し(略)写真術行はれ、コロタイプ版起り殊に近来は絵葉書流行し錦絵の似顔絵は見る能はず昨今は書く者も無ければ彫る人もなし」とある{{Refnest|{{Cite web|和書|url=https://www.ndl.go.jp/landmarks/column/5.html|title=国立国会図書館 明治の錦絵|accessdate=2020-03-30}}}}。[[鏑木清方]]は、かろうじて[[大正時代]]まで絵草紙屋があったと語る{{Sfn|鈴木|2010|p=248}}。 [[File:YAMAMURA kohka Morita Kanya XIII 1921.jpg|thumb|130px|山村耕花「『梨園の華』より、十三世守田勘弥のジャン・バルジャン」、1921年。]] 逆風のなか[[渡辺庄三郎]]は、1905年(明治38年)に摺師と彫師を雇用して、版元を興す。当初は古版木摺り、及び良質な摺り物からの版木起こしと、復刻品だけだったが、大正に入り、絵師と交渉して、[[新版画]]を制作するようになる。[[橋口五葉]]・[[伊東深水]]・[[川瀬巴水]]・[[山村耕花]]らを起用し、また彼らも木版画による表現に刺激を受けた。 1923年(大正12年)、[[関東大震災]] によって、渡辺も壊滅的な被害を負い、多くの版元が廃業に追い込まれた。しかし彼は再起し、渡米経験のある[[吉田博]]を起用、欧米で売れる作品を版行した。渡辺は昭和37年(1962年)に亡くなる{{Sfn|山梨|1997|pp=71-80}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=522-523|ps=岩切信一郎「渡辺庄三郎」}}が、彼の版元は21世紀でも健在である{{Refnest|{{Cite web|url=https://www.hangasw.com/|title=株式会社渡邊木版美術画舗|accessdate=2020-05-01}}}}。また、アダチ版画研究所も同様の制作・営業を行っている{{Refnest|{{Cite web|和書|url=https://www.adachi-hanga.com/|title=株式会社アダチ版画研究所|accessdate=2020-05-01}}}}。 ==浮世絵の画題 == {{See also|:Category:浮世絵の種類}} 大久保(1994){{Sfn|小林・大久保|1994|pp=27-110|ps=大久保「主題を知るための基礎知識」}}を参考に、区分する。そこに記載されていない「死絵」「長崎絵」「歴史画」「おもちゃ絵」を追加した。大久保(1994)以外の文献を用いた場合は、注を付す。 [[File:Journey to the Nirvana, ICHIKAWA DanjuroVIII.jpg|thumb|230px|死絵。[[市川團十郎 (8代目)|八代目市川團十郎]]。1854年。[[涅槃図]]の[[見立絵|見立て]]。32歳で自死し、約300種の死絵があるとされる。{{Refnest|{{Cite web|和書|url=https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/imgdb/index.html|title=大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館 画像データベース|accessdate=2020-05-17}}}}。]] ;[[美人画]]: 成人女性を描いたもので、遊女や茶屋の看板娘が多く描かれた。 ;[[見立絵]]:和漢の故事や[[謡曲]]の場面を当世装束に当てはめて描いたもの。和歌や漢詩は記されても、細かな説明はない。 ;[[春画]]:枕絵とも呼ぶ。男女(同性同士もある)の営みを描いたもの。非合法であり、[[地本問屋|絵草紙屋(書店)]]に並ぶことはなく、富裕層が肉筆画を注文したりした。 ;[[役者絵]]: 歌舞伎の人気役者や上演場面を公演ごとに描いたもの。 ;[[死絵]]:人気役者が亡くなった時、報道を兼ねて出されたもの。[[歌川広重]]・[[歌川国貞]]のものもある{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=227-228|ps=藤澤茜「死絵」}}{{Sfn|藤澤茜|2022|pp=90-91}}。 ;[[名所絵]]: 明治以降の、画家が良いと思った所ではなく、人々に広く知られたところを描いた。絵師は取材せずに、既にある絵から写したものが多い。 ;[[浮絵]]: 蘭書の挿絵を見た絵師が、そこでの線遠近法を誇張して建造物等を描いたもの。 [[File:Sharaku - Boy Wrestler Daidozan in the Ring.jpg|thumb|350px|相撲絵。写楽「大童山土俵入」1794年。[[取組]]はしない[[見世物]]の肥満少年。]] ;[[花鳥画]]: 主要画題ではなかったが、喜多川歌麿・葛飾北斎・歌川広重・小林清親らが質の高い作品を残した。 ;[[武者絵]]: 故実だけでなく、当世事情を[[安土桃山時代|織豊期]]以前の武将に当てはめ(直接表現はご法度だった)、ひそかに幕府批判をする例があった。 ;[[戯画]]: 葛飾北斎『北斎漫画』の他に、歌川国芳が得意とした。[[浮世絵#江戸後期]]参照。 ;[[相撲絵]]:力士や土俵入り、取り組みを描いたもの。役者絵同様、興行ごとに新作が出る。 ;[[長崎絵]]:蘭船や[[出島]]での[[カピタン]]や唐人、彼らの風習を描いた。一枚絵は[[合羽摺]]が多く、長崎の版元から売り出された{{Sfn|植松・印田|2017|pp=6-171}}。 [[File:Nagasakie. Dutch man with his slave.jpg|thumb|200px|長崎絵。カピタンと彼に仕える少年。18世紀後半。合羽摺。]] ;[[鯰絵]]:1855年(安政2年)の大震直後に出た絵。[[浮世絵#江戸後期]]参照。 ;[[横浜絵]]:開国後、横浜を舞台にした外国人の風俗を描いたもの。[[浮世絵#江戸後期]]参照。 ;[[開化絵]]:維新後の東京での、洋館・鉄道・馬車・人力車・ガス燈などを描いたもの。[[浮世絵#明治以降]]参照。 ;[[戦争絵]]:戊辰戦争から日露戦争までの戦争を描いたもの。[[浮世絵#明治以降]]参照。 ;[[錦絵新聞|新聞錦絵]]:1874(明治7年)、[[東京日日新聞]]別刷りに[[落合芳幾]]が描き、商業的成功を得、[[郵便報知新聞]]は月岡芳年を起用、追随する。純粋な新聞には速報性で劣るので、殺人など、過激な題材をどぎつい色を用いて描写した{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=330-331|ps=菅原真弓「東京日日新聞」}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=371-372|ps=菅原真弓「錦絵新聞」}}。  ;[[歴史画]]: 明治10-20年代に、国民意識を高めることを意識した、歴代天皇やその血族、忠君を描いたもの。[[浮世絵#明治以降]]参照。 ;[[おもちゃ絵]]:[[上方]]で組み立て模型「立板古」(たてばんこ)が流行し、江戸でも18世紀末に受け入れられる。明治期には[[歌川芳藤]]がおもちゃ絵専門絵師として活躍{{Sfn|中村|1990|pp=11-134}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=109-110|ps=稲垣進一「おもちゃ絵」}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=184-185|ps=岩崎均史「組上燈籠家」}}。 == 主な版元 == [[ファイル:Yoshiiku (1862) key block face b.jpg|サムネイル|木版 1862年]] {{See also|地本問屋}} 娯楽出版物を扱う[[地本問屋]](じほんといや・とんや)が浮世絵の版元となっている。「地本」とは、上方から齎されたものではなく、江戸独自のものであることを示す{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=232-233|ps=金井圭太郎「地本問屋」}}。 * [[松会三四郎]] - 江戸最古の版元といわれる。[[菱川師宣]]の絵本などを出版。 * [[鱗形屋三左衛門]] - 菱川師宣の絵本、浄瑠璃本を出版。 * [[伊賀屋勘右衛門]] - [[懐月堂度繁]]などの作品を出版。 * [[鶴屋喜右衛門]](鶴屋) - 老舗の一つ。『[[東海道五十三次 (浮世絵)|東海道五十三次]]』を途中まで出版。 * [[奥村屋政信]](鶴寿堂) - 自らの作品などを出版。 * [[和泉屋市兵衛]](甘泉堂・泉市) - 天明-明治初期の代表的版元。[[喜多川歌麿]]、[[歌川広重]]、[[歌川国貞]]などの作品を手がける。 * [[西村屋与八]] - 『[[富嶽三十六景|冨嶽三十六景]]』など[[葛飾北斎]]の作品を多く手掛ける。 * [[蔦屋重三郎]] - 喜多川歌麿、[[東洲斎写楽]]らを輩出。 * [[三平 (地本問屋) |三平]] ‐ 歌川広重の団扇絵を出版している。 * 伊場屋仙三郎 / [[伊場屋久兵衛]]([[伊場仙]] / 伊場久) - 東海道張交図絵(歌川広重)。元は[[江戸幕府|幕府]][[御用達|御用]]の和紙・竹製品店。それにもかかわらず、[[風刺画|風刺絵]]や役者絵禁止令が出された後にも「[[落書き]]」と称して役者絵を出版している。団扇絵を多く手掛け、現在は[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]で団扇、[[扇子]]、[[カレンダー]]業を営み、[[新宿]][[伊勢丹]]、日本橋[[三越]]、[[銀座]][[伊東屋]]などに出店している。 * [[有田屋清右衛門]] - 「東海道五十三次・有田屋版」(歌川広重) * [[伊勢屋利兵衛]] - 「東海道五十三次 絵本駅路鈴」(葛飾北斎) * [[魚屋栄吉]](魚栄) - 歌川広重、歌川国貞らの作品を手がける。 * [[上村与兵衛]](上ヨ / 上村) - 後発の新興版元。22歳の[[歌川国政]]を抜擢し、鮮烈なデビューを飾らせた。 * [[川口屋正蔵]] ‐ 歌川広重、[[歌川国芳]]の錦絵を出版。 * [[蔦屋吉蔵]] - 「東海道五十三驛之図」、「東海道・蔦屋版」(歌川広重) * [[西村屋祐蔵]] - 「富嶽百景」(葛飾北斎) * [[藤岡屋彦太郎]] / [[藤岡屋慶次郎]] - 「東海道風景図会」(歌川広重・文:[[柳下亭種員]]) == 浮世絵版画の制作法 == [[ファイル:Ukiyo-e dsc04679.jpg|thumb|250px|浮世絵版画の工房。]] [[ファイル:Ukiyo-e dsc04680.jpg|thumb|250px|浮世絵版画の版木。]] この章は、安達・小林(1994年){{Sfn|小林・大久保|1994|pp=177-204|ps=大久保純一「制作の現場から」安達以乍牟・小林忠「浮世絵と共に50年」}}池田(1997年){{Sfn|池田|1997|pp=148-150}}を基に記述する。 企画を立てる人を[[版元]]、版元からの注文で描く人を[[絵師]]と呼ぶ。絵師が描いた下絵を版に彫るのが[[彫師]]、版木に色具を付け、紙に摺るのが[[摺師]]である。版元と絵師の名だけが作品に記されることが多いが、彫師・摺師の名が入ることもある。 # 版元が企画を立案し、絵師に作画を依頼する。 # 絵師が[[版下 (浮世絵)|版下絵]]を描く。 #: 絵師は墨線だけを用いて主版(おもはん)の版下を描く。 # 版元は版下絵を、[[絵草子]]掛りの[[名主]]に提出、出版許可の印を捺してもらい、彫師に渡す。 # 彫師が主版を彫る。 #: 版材には、[[サクラ]]の[[板目]]材を用いる。版の大きさは、18世紀終盤になると、「大判」と呼ばれる、[[奉書紙]]を縦に半切した大きさ(約39cm×約26.5cm)が主流となる。彫師は版下を版木に裏返しに貼り付け、主版を彫る。この工程で、絵師が描いた版下絵は、彫られて消滅する。 #: この工程で出来上がった主版を校合摺り(きょうごうずり)という。 #摺師は主版の墨摺り(校合摺り)を10数枚摺って絵師に渡す。 #絵師は校合摺りに各色版別に朱で色指定をする。また、着物の模様などの細かい個所を描き込む。 #指示に従い、彫師は色版を作る。 #:色指定された校合摺りを裏返して版木に貼り、刀入れを行う。まず三角刀で各版に模様を彫り込むが、墨版については各色版の部分も含めて彫りを加える(無駄彫りという)。この無駄彫り版で摺った紙を版木に貼り付けて色数に応じた色版を彫る。無駄彫り版と色版とを絵合わせし、調整後、無駄彫り版の墨以外の部分を削り取る。 #:次に各版の不要な部分をのみと木槌で大まかに削り、さらに細いのみで仕上げ彫りを行う。 #:仕上げ彫りの工程で見当合わせ用の「鍵」と「引き付け」を残しておく。多色刷りの際に色がずれないように紙の位置を示す「見当」([[トンボ (印刷)|トンボ]])を作る。 #摺師は絵師の指示通りに試し摺りを作る。 #:[[墨]]は固形のものを半年間水につけて乳鉢で細かくしたものを用いる。また、絵具には[[岩絵具]]に[[膠]]と水を混ぜて作る。紙は[[奉書紙#奉書紙の現代の用途|越前奉書]]が多く用いられ、滲み防止のため、膠と[[ミョウバン]]の混合液「ドウサ(礬砂)」を塗っておく。 #:版木に墨及び顔料を[[刷毛]](21世紀では[[ブラシ]])で摺り込む。版木の表面に顔料を乗せるのではない。 #絵師の同意が得られれば、初摺り200枚を[[馬楝]]で摺る。 #[[地本問屋|絵草子屋]]から作品を販売する。 == 値段 == 浮世絵の値段は、しばしば「[[蕎麦|そば]]一杯」と同じとされる。実際の価格を調べると、浮世絵の形式や年代などによってバラつきがあるが、19世紀前後の大判錦絵の実勢価格は約20文前後で、19世紀半ばになっても総じて20文台で推移した事が、当時の史料や日記、紀行類などで裏付けられる。そば代は幕末で16文だったことから、ほぼ同等と見なせる{{Sfn|浮世絵図鑑|2014|p=180}}。 [[山東京伝]]の[[黄表紙]]『荏土自慢名産杖』(文化2年〈1805年〉刊)には、「二八十六文でやくしやゑ二まい 二九の十八文でさうしが二さつ 四五の廿なら大にしき一まい」というくだりがあり、しばしば諸書で引用される。なお、2枚で16文の役者絵とは、用紙もやや劣る細版の事だと考えられる。時代が遡った宝暦頃(1751-61年)の細判[[紅摺絵]]の役者絵は、1枚4文だったと記されている(随筆『塵塚談』文化11年〈1814年〉刊)が、これは紅摺絵が僅か2,3色摺りで、紙質も薄い分安価だったからだと考えられる。 寛政7年(1795年)の[[町触]]では、20文以上の錦絵は在庫限りは売ってよいが、新たに制作するものは16文から18文に制限されている(『類聚撰要』)。[[天保の改革]]では、色摺りは7,8回まで、値段は1枚16文以下に規制を受けている。この数字は採算割れすら招きかねない厳しい数字だったらしく、『[[藤岡屋日記]]』天保14年〈1843年〉春の記事には、紅を多用した極彩色の[[神田祭]]の錦絵は売れはしたが、16文の値段では売れば売るほど赤字になったという話が記されている。 [[鈴木春信]]の中版は、65文程度で売られ、代表作である「座舗八景」は8枚揃いで桐箱に入れられ、金1分(=銭1000文)もした{{Refnest|group=注釈|高橋誠一郎(1932)「商品としての浮世絵版画」『三田学会雑誌』32(1)。{{Sfn|小林・大久保|1994|p=216|ps=大久保「錦絵の値段」}}より孫引き。}}。他にも、天保の改革の風刺との風評が立った[[歌川国芳]]の大判三枚続『源頼光公館土蜘作妖怪図』は、商品回収のうえ、版木は削られる憂き目を見たが、[[歌川貞秀]]の模刻は、密かに100文で売られた(『藤岡屋日記』)り、同じく国芳の大判三枚続『八犬伝之内芳流閣』(1840・天保11年)は、1枚38文、3枚揃いで118文で売られ、[[曲亭馬琴]]は割高だと感じつつも、色版を多く使い通常より手間がかかっているからと聞き及んで、それを買い求めている(馬琴日記){{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=48|ps=大久保純一「浮世絵の価格」}}。 北斎研究家の[[永田生慈]]が、『北斎漫画』の版元であった[[名古屋]]の[[永楽屋東四郎]]に、値段を聞いたところ、「当時(幕末明初)の出版物は猛烈に高くて、普通の人が簡単に本を買いましょうという値段ではなかった」と証言している{{Sfn|根本・永田|1990|p=146}}。 明治になると出版条例改正によって定価表示が義務付けられ、浮世絵の値段がわかる。総じて1枚2銭、2枚続・3枚続でもこれに準じ、手間がかかるものはこの基準価格に5厘から1銭程度割増価格で売られている{{Sfn|岩切|1998|pp=89-118}}。 == 展示と保存法 == 現代の美術館では、中性紙の厚紙(マット)の中央をくりぬき、もう一枚のマットと挟み込んで、保存する。展示時はそれを額装する{{Refnest|{{Cite web|和書|url=https://webshop.sekaido.co.jp/feature/580|title=世界堂オンラインショップ-額の種類と用途|accessdate=2020-03-30}}}}。紫外線による褪色を防ぐため、直射日光を避け、紫外線カットの照明下で展示すべきである。通年展示してはならない{{Sfn|田邊・登石|1994|pp=291-294、317-318}}{{Refnest|{{Cite web|和書|url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/hokoku/pdf/r1401204_01.|format=PDF|title=平成8年7月12日文化庁長官裁定平成30年1月29日改訂国宝・重要文化財の公開に関する取扱要項|accessdate=2020-03-30}}}}。 展示しないときの保存方法としては、額から外し、水平に置くことが望ましく、変色を防ぐため、[[防虫剤]]の入っていない[[箪笥|桐箪笥]]など、湿度調整が効く箱に仕舞うことが良い{{Sfn|田邊・登石|1994|pp=317-318}}。 == 絵具 == {{Anchors|神奈川沖浪裏}}[[ファイル:The Great Wave off Kanagawa.jpg|thumb|280px|[[葛飾北斎]]『[[富嶽三十六景]] [[神奈川沖浪裏]]』]] [[ファイル:Shimbashi Station Hiroshige III.jpg|thumb|280px|{{Anchors|3代広重新橋駅}}[[歌川広重 (3代目)|三代目歌川広重]]『新橋駅』]] 浮世絵版画に用いられたのは、植物由来の[[染料]]や鉱物由来の[[顔料]]であるが、19世紀になると、化学染料が輸入、使用される{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=86-87|ps=田辺昌子「絵具」}}{{Sfn|松井|2012|pp=181-183}}{{Sfn|目黒区美術館|2016|pp=156-157}}。 黒は[[墨]]が用いられ、多色刷り版画では以下の顔料・染料が用いられる。 ;赤色系 *染料 ** [[紅色|紅]]:[[紅花]]から精製される *顔料 ** 弁柄([[紅殻]]):[[酸化鉄|酸化第二鉄]] ** 丹([[鉛丹]]・光明丹):[[鉛|酸化鉛]] ** 朱:[[硫化水銀]] ;黄色系 *染料 ** [[ウコン]]:根茎から抽出 ** [[黄檗]]:黄蘗(オオバク)の樹皮から抽出 ** 籐黄:[[ガンボージ]] *顔料 ** [[石黄]](生黄):[[硫化砒素]] ;青色系 *染料 ** 露草青:[[露草]]の花弁絞り汁を濃縮したもの ** [[藍色|藍]]:[[アイ (植物)|藍]]葉を発酵させたもの *顔料 ** [[ベルリンブルー]](ペルシャンブルー):ベルリン酸塩(ベロ、ベロ藍とも) などがあり、中間色はこれらを混ぜ合わせて表現した。 その他、版画の表現に以下のものが用いられた。 * [[雲母]]:ケイ酸化合物(背景に用いたものは[[雲母摺|雲母刷]](きらずり)と呼ばれる{{Sfn|藤澤|2008|p=85}}。 * [[金属]]:[[金]]、[[銀]]、[[銅]]を粉や箔として。高価な為、商業用ではなく、パトロン対象の「摺物」で使用。 *白色顔料は、「摺物」を除き、和紙の地の色を生かし、ほとんど用いられなかった。 == 後世の評価・収集 == {{Anchors|凱風快晴}}[[ファイル:Katsushika Hokusai - Fine Wind, Clear Morning (Gaifū kaisei) - Google Art Project.jpg|thumb|280px|[[葛飾北斎]]『[[富嶽三十六景]] [[凱風快晴]]』]] [[ファイル:Hiroshige Van Gogh 2.JPG|thumb|280px|{{Anchors|広重ゴッホ}}(左)[[歌川広重]]『[[名所江戸百景]] 大はしあたけの夕立』<br />(右)[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]による[[模写]]([[油彩画]])]] 19世紀以降、多量の作品が国外に渡り、ヨーロッパの芸術家たちに影響を与えた。[[ボストン美術館]]には約5万点<ref>{{Cite news|url=https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/special/2171/%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8-%E6%B5%AE%E4%B8%96%E7%B5%B5%E5%90%8D%E5%93%81%E5%B1%95/|title=2008年10月07日(火)〜11月30日(日)ボストン美術館 浮世絵名品展|accessdate=2020-03-29}}</ref>、[[ヴィクトリア&アルバート博物館]]には約3万8000点<ref name=カタロギング>{{Cite news|url=https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-24401019/24401019seika.pdf|title=在欧州絵入版本・浮世絵のカタロギング|accessdate=2020-04-26}}</ref>、大英博物館には2万点<ref name=カタロギング/>、[[プーシキン美術館]]には約3万点{{要出典|date=2020年4月}}、その他ドイツ、イタリア等、欧米美術館<ref name=カタロギング/>、大学等教育機関収蔵品、個人コレクションなど、海外にはおよそ50万の浮世絵が収蔵されており、これは国内の30万を超えるとされる<ref>{{Cite news|url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_11447283_po_245.pdf?contentNo=1&alternativeNo=|title=立命館大学校友会報 p22 デジタルアーカイブで 世界に散らばる日本の美術品の共有化を実現 |accessdate=2020-06-02}}</ref>。 版木を所蔵している美術館や博物館、図書館などもある。版木は使用後に破棄されることが多かったため、貴重な文化遺産であり、版木の調査・修復、さらに所蔵施設との許可を得て、摺りを再現する版画家もいる<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGKKZO19172550U7A720C1BC8000/|title=竹中健司「甦れ世界の浮世絵版木◇各地の図書館や美術館調査海を渡って再び摺る◇」|work=|publisher=『[[日本経済新聞]]』朝刊(文化面)|date=2017年7月25日}}</ref>。 === 日本の主要な個人コレクション === 国内では、大名家や実業家のコレクションがある。 {{Columns-list|2| * 津島コレクション:房総浮世絵美術館 * 浦上コレクション:[[山口県立萩美術館・浦上記念館]] * [[小針暦二|小針コレクション]]:[[光記念館]] * 酒井コレクション:[[日本浮世絵博物館]] * [[高橋誠一郎|高橋コレクション]]:[[慶應義塾]]図書館 * [[松方コレクション]]:[[東京国立博物館]] * 青木コレクション:[[那珂川町馬頭広重美術館]] *氏家武雄コレクション:[[鎌倉国宝館]] * [[出光佐三|出光コレクション]]:[[出光美術館]] * [[大谷米太郎|大谷コレクション]]:旧[[ニューオータニ美術館]]{{Refnest|group=注釈|2014年に閉館し、コレクションの行方は公表されていない。}} * [[太田清蔵 (5代目)|太田コレクション]]:[[浮世絵 太田記念美術館]] * 今西コレクション:[[熊本県立美術館]] * [[平木信二|平木コレクション]]:[[平木浮世絵美術館 UKIYO-e TOKYO]] * 松井コレクション:[[礫川浮世絵美術館]] }} === 日本国外への影響 === {{Anchors|タンギー}}[[ファイル:Van Gogh - Portrait of Pere Tanguy 1887-8.JPG|thumb|180px|[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]『[[タンギー爺さん]](1887年夏)』]] 浮世絵がヨーロッパに最も早く渡った例として、1798年(寛政10年)に、[[カピタン]]らが[[葛飾北斎]]に日本人男女の一生を図した[[巻子]]を注文し、故国に持ち帰ったことが挙げられる。また[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]は多量の日本資料を持ち帰り、1832-52年に『Japonica』20分冊を刊行するが、そこには『[[北斎漫画]]』が掲載されている{{Sfn|永田|1990|p=150}}。 1856年、[[フェリックス・ブラックモン|ブラックモン]]が、日本から輸入された陶磁器の包み紙に使われていた『北斎漫画』を見せ回ったことで、美術家に知られるようになったとの「逸話」は、1990年以降では、疑問視されている{{Sfn|永田|1990|p=150}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=445|ps=津田卓子「北斎漫画」}}。 [[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]が『[[タンギー爺さん]]』の背景に浮世絵を描き込んだり、[[歌川広重]]の作品を模写した。[[エドゥアール・マネ]]、[[エドガー・ドガ]]、[[メアリー・カサット]]、[[ピエール・ボナール]]、[[エドゥアール・ヴュイヤール]]、[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|ロートレック]]、[[ゴーギャン]]らにも影響を与えた([[ジャポニスム]]){{Refnest|{{Cite web|last=Ives|first=Colta Feller|date=1974|url=http://www.metmuseum.org/art/metpublications/|title=The Great Wave The Influence of Japanese Woodcuts on French Prints The Great Wave:The Influence of Japanese Woodcuts on French Prints|publisher=Metropolitan Museum of Art|accessdate=2020-04-20}}}}。 日本美術を取り扱っていた[[ビング]]は、自身の工芸作品に浮世絵表現を取り入れた{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=426|ps=及川茂「ビング、ジークフリート」}}。 [[クロード・ドビュッシー]]は、葛飾北斎の[[神奈川沖波裏]]を所蔵し、同図の波の形状を、『[[海 (ドビュッシー)|交響詩“海”]]』の楽譜表紙に採用した{{Sfn|神谷|2014|pp=19-20}}{{Sfn|袴田|2017|pp=248-249}}{{Refnest|group=注釈|[[国立音楽大学]]付属図書館の[[レファレンス|レファレンス調査]]では、神奈川沖波裏が「海」の楽曲自体に影響を与えたと述べる資料は無いとの回答が得られた{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000132429|title=[[レファレンス協同データベース]] レファレンス事例詳細|publisher=[[国立国会図書館]]|accessdate=2022-09-25}}}}。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Reflist|2|group=注釈}} ===出典=== {{Reflist|25em|refs= <ref name="日本大百科全書">{{Cite web2 | url = https://kotobank.jp/word/%E6%B5%AE%E4%B8%96%E7%B5%B5-34372 | title = 浮世絵 | publisher = 日本大百科全書(ニッポニカ) | website = [[コトバンク]] | author = [[小林忠]] | accessdate = 2020-03-30 }}</ref> <ref name="ブリタニカ国際大百科事典">{{Cite web2 | url = https://kotobank.jp/word/%E6%B5%AE%E4%B8%96%E7%B5%B5-34372 | title = 浮世絵 | publisher = ブリタニカ国際大百科事典 | website = [[コトバンク]] | accessdate = 2020-03-30 }}</ref> }} == 参考文献 == *{{Cite journal|和書|author=[[井上和雄 (浮世絵研究者) |井上和雄]]|date=1917-11|title=錦繪の版元|publisher=浮世絵社|journal=浮世絵|issue=20|pages=5-8|ref={{SfnRef|井上|1917}}}} *{{Cite book|和書|author=樋口弘|date=1955|title=幕末明治の浮世絵集成|publisher=味灯書屋|ref={{SfnRef|樋口|1955}}}} *{{Cite book|和書|author=大津有一校注|date=1964-12-16|title=伊勢物語|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波文庫]]|isbn=4-00-300081-1|ref={{SfnRef|大津|1964}}}} *{{Cite book|last=Ouwehand|first=Cornelius|year=1964|title=Namazu‐E AND THEIR THEMES:An Interpretative Approach to Some Aspects ofJapanese Fork Religion|location=Leiden|publisher=E.J.Brill|ref=harv}} **{{Cite book|和書|last=アウエハント|first=コルネリウス|translator=小松和彦ほか|date=1986-6-15|title=鯰絵-民俗的想像力の世界|publisher=[[せりか書房]]|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=渡辺規編|date=1974-1|title=渡辺庄三郎|publisher=渡辺木版美術画舗|ref={{SfnRef|渡辺|1974}}}} *{{Cite book|和書|author=金谷治訳注|date=1975-5-16|title=荘子 第二冊外篇|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波文庫]]|isbn=4-00-332062-X|ref={{SfnRef|金谷|1975}}}} *{{Cite book|和書|author1=菊地貞夫|author2=ほか|date=1982-4-15|title=原色浮世絵大百科事典3 様式・彫摺・版元|publisher=[[大修館書店]]|ref={{SfnRef|菊地ほか|1982}}}} *{{Cite book|和書|author1=高橋雅夫校注|author2=佐山半七丸著|author3=速水春暁斎図画|authorlink3=速水春暁斎|date=1982-10-8|title=都風俗化粧伝|publisher=[[平凡社]]|series=[[東洋文庫]]|ref={{SfnRef|高橋|1982}}}} *{{Cite book|和書|author=石田尚豊ほか監修|date=1987-5|title=日本美術史事典|publisher=[[平凡社]]|ref={{SfnRef|石田ほか|1987}}}} *{{Cite book|和書|editor=早稲田大学図書館|editor-link=早稲田大学図書館|date=1987-10|title=幕末・明治のメディア展―新聞・錦絵・引札|publisher=[[早稲田大学出版部]]|isbn=978-4-6578-7024-7|ref={{SfnRef|早稲田大学図書館|1987}}}} *{{Cite book|和書|author=中村光夫編著|date=1990-6|title=よし藤・子ども浮世絵|publisher=富士出版|isbn=4-938607-30-1|ref={{SfnRef|中村|1990}}}} *{{Cite book|和書|author=稲垣進一編|date=1990-09|title=図説 浮世絵入門|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4-3097-2476-8|ref={{SfnRef|稲垣|1990}}}} *{{Cite book|和書|author=永田生慈監修|authorlink=永田生慈|title=北斎美術館4 名所絵|publisher=[[集英社]]|year=1990|isbn=4-08-597004-6|ref={{SfnRef|永田|1990}}}} **{{Cite book|和書|author1=根本進|authorlink1=根本進|author2=永田生慈対談|title=北斎美術館4 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book|和書|author=山口桂三郎|date=1995-01-31|title=浮世絵の歴史|publisher=[[三一書房]]|isbn=4-380-95206-1|ref={{SfnRef|山口|1995}}}} *{{Cite book|和書|author1=木村茂光|author2=安田常雄|author3=白川部達夫|author4=宮瀧交二|date=2016-11-10|title=日本生活史辞典|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4-642-01476-2|ref={{SfnRef|日本生活史辞典|2016}}}} == 関連項目 == {{Commons&cat|浮世絵|Ukiyo-e}} * [[浮世絵師一覧]] * [[浮世絵切手]] ;関連作品 * [[夢の浮世に咲いてみな#ミュージック・ビデオ(PV)]] - [[歌川国芳]]による浮世絵をアニメーションで表現している。[[ももいろクローバーZ]]の楽曲。 * [[磯部磯兵衛物語]] - 作者の「浮世絵に台詞を書いてみたい」という思いを具現化させた[[漫画]]。 == 外部リンク == * [https://ebiki.jp/about/ 渋沢栄一記念財団 実業史錦絵・絵引] * [http://www.japan-ukiyoe-museum.com/ 日本浮世絵博物館] * [http://www.kamigata.jp/ 上方浮世絵館] 役者絵を中心とする浮世絵専門美術館 * [http://www.ukiyo-e.gr.jp/ 国際浮世絵学会] * [http://edohanga.jp/ 東京伝統木版画工芸協同組合] * [https://digitalmuseum.rekibun.or.jp/ TOKYO DIGITAL MUSEUM] * [http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/ 江戸東京博物館] * [http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html 東京大学史料編纂所] * [http://www.library.metro.tokyo.jp/ 東京都立図書館] * [https://www.rekihaku.ac.jp/ 国立歴史民俗博物館] * [https://www.ntj.jac.go.jp/ 独立行政法人 日本芸術文化振興会] * [https://www.hum.pref.yamaguchi.lg.jp/ 山口県立萩美術館・浦上記念館] * [https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/ 静岡県立中央図書館] * [https://www.kobecitymuseum.jp/ 神戸市立博物館] * [http://www.pref.nara.jp/11842.htm 奈良県立美術館] * [http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/ukiyoe.html 米国議会図書館所蔵浮世絵データベース] 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国際日本文化研究センターのデータベースで、米国議会図書館のP&P(Prints and Photographs Division)が保有する日本の浮世絵コレクションである。 * [https://www.brooklynmuseum.org/ ブルックリン美術館] {{en icon}} 楊洲周延「時代かがみ」の版木が収蔵されている。 * [https://ukiyoe.today/ 浮世絵プロジェクト] {{en icon}} {{浮世絵}} {{美術}} {{日本関連の項目}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:うきよえ}} [[Category:浮世絵|*]] [[Category:版画]] [[Category:日本美術史]] [[Category:日本の伝統工芸品]] [[Category:江戸時代の文化]]
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C99
C99は、ISOで定められたC言語の規格である。正式な規格名は ISO/IEC 9899:1999。 ANSIの標準化プロセス(C89)のあと、C言語仕様はC++が標準化の取り組みによって進化しているのと比べて停滞していた。1995年には標準追補を作成したが、これはC89への細かい修正および国際文字集合対応の追加であった。1990年代の後半にいくつかの訂正を経て、ISO/IEC 9899:1999 として1999年に発行した。この標準は"C99"と呼ばれ、ANSI標準としても2000年5月に受理。国際的なC標準は作業部会ISO/IEC JTC1/SC22/WG14で保守している。 C99にはさまざまな新機能が導入された。その多くはさまざまなコンパイラによってすでに拡張として実装されていた。 C99はほとんどC89と後方互換であるが、いくつかの場面でより厳格である。特に、型が省略された宣言で、暗黙的にintと見なされるということはなくなった。C標準委員会は暗黙的にintに依存している古いコードを黙って処理するよりも、型指定が不注意により欠落していると診断する方により価値を置く決定をした。実際には、コンパイラは型の欠落を警告するが、型をintと見なし処理を続けることになる。また、C89では宣言されなかった関数は返り値の型がintで、引数の数、型が任意の関数と解釈されたが、C99では文法違反となる。 整数型、ヘッダファイルやライブラリファンクションなど、C99の標準のうちある部分はC++ Technical Report 1やC++11に取り入れられている。 GCC、Clang、Intel C++ Compiler 等はC99の新機能の大半をサポートしている。ただし、GCCは、ほとんど準拠しているが、規格への100%完全準拠は果たしていない。GCC 4.x までのデフォルトは C89 に GNU 拡張を加えた -std=gnu89、Clang のデフォルトは C99 に GNU 拡張を加えた -std=gnu99 である。GCC 5.0 から C11 に GNU 拡張を加えた -std=gnu11 がデフォルトになる。 Microsoft Visual C++ は 2013 から C99 の大半を実装した。2015までは、tgmath.h や snprintf() などが未実装であったが 2017 で実装された。 Open Watcom C compiler は標準のうち最もよく使われている部分を実装している。かつては、ドキュメント化されていないコマンドラインスイッチを指定しないと有効化されなかった。2010年現在の最新版である 1.9 では -za99 オプションを付けることで有効化される旨、明記されている。 Sun Studioは、サン・マイクロシステムズによればC99を完全にサポートしている。 Cインタプリタ ChはC99の主要な機能をサポートしている。 GCCがC99の多くの機能に対応しているため、フリーソフトウェア開発などにおいて広く使われている。C99には複合リテラルと指示初期化子によるメンテナンス性の向上という大きな利点があり、特に大規模なプロジェクトにおいて使われることが多い。Linuxカーネルにおいては、C99の指示初期化子を使う前から構文の異なるGCC拡張の指示初期化子を使っていた。以前はVisual StudioがC99に対応していなかったため、使いたくても使えないプロジェクトが多かった。QEMUでは指示初期化子を使いながらC89との互換性を保つために、INIT_FIELDマクロを導入したものの、それにはメンバの省略ができないなどの欠点がある。FFmpeg/libavでは、C99のソースコードをC89へと変換するトランスレータのc99conv及びc99wrapを用意することで、この問題を解決している。 標準のマクロ__STDC_VERSION__はC99のサポートが可能であることを示すために199901Lと定義されている。C89のための__STDC__マクロと同様に、__STDC_VERSION__はC89とC99のコンパイラで違うようにコンパイルされるコードを書くために使用することができる。例えば、この例では、inlineをどちらの場合でも利用可能である。 C99 の後継の仕様は C11 (ISO/IEC 9899:2011)。 C99の受理の後、標準作業部会は組み込み分野、文字データ型の追加(Unicodeのサポート)、境界チェック付きのライブラリ関数などのためのテクニカルレポートを準備してきた。作業は十進浮動小数、数学の特殊関数の追加、動的メモリ確保関数の追加についてのテクニカルレポートについて継続している。CとC++の標準委員会はスレッドについての規格制定に協調して取り組んでいる。 2007年以降、非公式に"C1x"と呼ばれるさらなるC標準が期待され始めた。標準委員会は現在の実装でテストされていない新しい機能の採用を制限するというガイドラインを採用した。 安全でないインタフェースの設計に関する不具合報告に応えて公式に廃止予定とされているgets関数がC11では削除され、gets_sを使わなくてはならなくなった。
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C99は、ISOで定められたC言語の規格である。正式な規格名は ISO/IEC 9899:1999。
{{Pathnav|C言語|frame=1}} '''C99'''は、[[国際標準化機構|ISO]]で定められた[[C言語]]の規格である。正式な規格名は ISO/IEC 9899:1999。 == 歴史 == [[米国国家規格協会|ANSI]]の標準化プロセス([[C89]])のあと、[[C言語]]仕様は[[C++]]が標準化の取り組みによって進化しているのと比べて停滞していた。[[1995年]]には標準追補を作成したが、これは[[C89]]への細かい修正および国際文字集合対応の追加であった。[[1990年代]]の後半にいくつかの訂正を経て、ISO/IEC 9899:1999 として[[1999年]]に発行した。この標準は"C99"と呼ばれ、ANSI標準としても2000年5月に受理。国際的なC標準は作業部会[[CS22|ISO/IEC JTC1/SC22]]/WG14で保守している。 == 新機能 == C99にはさまざまな新機能が導入された。その多くはさまざまな[[コンパイラ]]によってすでに拡張として実装されていた。 * [[インライン関数]] * ファイルスコープでない[[変数 (プログラミング)|変数]]宣言がブロックの先頭になければならないという制限の撤廃 * いくつかの新しい[[データ型]]。{{code|lang=c|long long int}}、拡張整数型、明示的な[[ブーリアン型]]、[[複素数型]] など * [[BCPL]]やC++のような、{{code|lang=c|//}}から始まる一行コメント * {{code|lang=c|snprintf}}のような新しいライブラリ関数 * <code>[[stdbool.h]]</code>や<code>[[inttypes.h]]</code>などの新しい[[ヘッダファイル]] * 型総称的な数学関数 (<code>[[tgmath.h]]</code>) * [[IEEE 754|IEEE 浮動小数]]のより進んだサポート * 指示初期化子<ref name="gcc-c99-designated-initialization"/><code>struct foo f = {.x = 10, .y = 20};</code> * 可変引数マクロのサポート * 最適化のための[[restrict|{{code|lang=c|restrict}}]]修飾子 == C89との後方互換性 == C99はほとんど[[C89]]と後方互換であるが、いくつかの場面でより厳格である。特に、型が省略された宣言で、暗黙的に{{code|lang=c|int}}と見なされるということはなくなった。C標準委員会は暗黙的に{{code|lang=c|int}}に依存している古いコードを黙って処理するよりも、型指定が不注意により欠落していると診断する方により価値を置く決定をした。実際には、コンパイラは型の欠落を警告するが、型を{{code|lang=c|int}}と見なし処理を続けることになる。また、[[C89]]では宣言されなかった関数は返り値の型が{{code|lang=c|int}}で、引数の数、型が任意の関数と解釈されたが、C99では文法違反となる。 == C++との互換性 == 整数型、ヘッダファイルやライブラリファンクションなど、C99の標準のうちある部分は[[C++ Technical Report 1]]や[[C++11]]に取り入れられている。 == 主要なコンパイラによるサポート == [[GNUコンパイラコレクション|GCC]]、[[Clang]]、[[Intel C++ Compiler]] 等はC99の新機能の大半をサポートしている。ただし、GCCは、ほとんど準拠しているが、規格への100%完全準拠は果たしていない<ref name="gcc-c99-status">[http://gcc.gnu.org/c99status.html Status of C99 features in GCC]</ref>。GCC 4.x までのデフォルトは C89 に GNU 拡張を加えた <code>-std=gnu89</code>、[[Clang]] のデフォルトは C99 に GNU 拡張を加えた <code>-std=gnu99</code> である。GCC 5.0 から C11 に GNU 拡張を加えた <code>-std=gnu11</code> がデフォルトになる<ref>{{cite web|url=https://gcc.gnu.org/gcc-5/changes.html |title=GCC 5 Release Series — Changes, New Features, and Fixes |date=2018-09-30 |publisher=GCC team |accessdate=2019-08-24}}</ref>。 [[Microsoft Visual C++]] は 2013 から C99 の大半を実装した<ref>[http://blogs.msdn.com/b/vcblog/archive/2013/07/19/c99-library-support-in-visual-studio-2013.aspx C99 library support in Visual Studio 2013 - Visual C++ Team Blog - Site Home - MSDN Blogs]</ref>。2015までは、tgmath.h や snprintf() などが未実装であったが 2017 で実装された。 [[Watcom C Compiler|Open Watcom C compiler]] は標準のうち最もよく使われている部分を実装している。かつては、ドキュメント化されていないコマンドラインスイッチを指定しないと有効化されなかった<ref>{{cite web |url=http://www.openwatcom.org/index.php/C99_Compliance |title=C99 compliance in Open Watcom |accessdate=2009-03-11 }}</ref>。2010年現在の最新版である 1.9 では -za99 オプションを付けることで有効化される旨、明記されている。 [[Sun Studio (software)|Sun Studio]]は、[[サン・マイクロシステムズ]]によればC99を完全にサポートしている<ref>{{cite web |url=http://developers.sun.com/sunstudio/documentation/ss12/mr/READMEs/c.html#about |title=Sun Studio 12: C Compiler 5.9 Readme |publisher=Sun Microsystems, Inc. |date=2007-05-31 |accessdate=2008-01-09 }}</ref>。 C[[インタプリタ]] ChはC99の主要な機能をサポートしている<ref>{{cite web |url=http://www.softintegration.com/demos/chstandard/c99.html |title=C/C++ interpreter Ch C99 features |publisher=SoftIntegration, Inc. |date=2008-02-15 |accessdate=2008-02-15 }}</ref>。 == ユーザー == GCCがC99の多くの機能に対応しているため<ref name="gcc-c99-status"/>、フリーソフトウェア開発などにおいて広く使われている。C99には複合リテラルと指示初期化子によるメンテナンス性の向上という大きな利点があり<ref>[http://www.ibm.com/developerworks/library/l-c99.html Open source development using C99]</ref>、特に大規模なプロジェクトにおいて使われることが多い。Linuxカーネルにおいては、C99の指示初期化子を使う前から構文の異なるGCC拡張の指示初期化子を使っていた<ref name="gcc-c99-designated-initialization">[http://lwn.net/Articles/5536/ On the initialization of structures]</ref>。以前はVisual StudioがC99に対応していなかったため、使いたくても使えないプロジェクトが多かった。[[QEMU]]では指示初期化子を使いながら[[C89]]との互換性を保つために、INIT_FIELDマクロを導入したものの、それにはメンバの省略ができないなどの欠点がある。[[FFmpeg]]/[[libav]]では、C99のソースコードをC89へと変換するトランスレータのc99conv及びc99wrapを用意することで、この問題を解決している。<!-- 無数にあるので、コメントアウト * [[Linuxカーネル]](多くのGNU拡張も使われている<ref>[http://kernel.org/doc/htmldocs/kernel-hacking.html Unreliable Guide To Hacking The Linux Kernel]</ref>) * [[FFmpeg]](多くのGNU拡張も使われているが、他のコンパイラとの互換性も保っている<ref>[http://www.ffmpeg.org/developer.html#SEC4 Developer Documentation 1.3 Coding Rules]</ref>) * [[Bonanza]] * [[memcached]] * Tokyo Cabinet * [[elfutils]] --> == バージョンの検知 == 標準のマクロ{{code|lang=c|__STDC_VERSION__}}はC99のサポートが可能であることを示すために<code>199901L</code>と定義されている。[[C89]]のための{{code|lang=c|__STDC__}}マクロと同様に、{{code|lang=c|__STDC_VERSION__}}は[[C89]]とC99のコンパイラで違うようにコンパイルされるコードを書くために使用することができる。例えば、この例では、{{code|lang=c|inline}}をどちらの場合でも利用可能である。 {{sxhl|lang=c|code= #if __STDC_VERSION__ >= 199901L /* "inline"は予約語 */ #else # define inline /* 何も行わない */ #endif }} == 後継 == {{main|C11 (C言語)}} C99 の後継の仕様は [[C11 (C言語)|C11]] (ISO/IEC 9899:2011)。 C99の受理の後、標準作業部会は組み込み分野、文字データ型の追加([[Unicode]]のサポート)、[[境界チェック]]付きのライブラリ関数などのためのテクニカルレポートを準備してきた。作業は十進[[浮動小数点数|浮動小数]]、数学の[[特殊関数]]の追加、[[動的メモリ確保]]関数の追加についてのテクニカルレポートについて継続している。CとC++の標準委員会は[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]についての規格制定に協調して取り組んでいる。 2007年以降、非公式に"C1''x''"と呼ばれるさらなるC標準が期待され始めた。標準委員会は現在の実装でテストされていない新しい機能の採用を制限するというガイドラインを採用した。 安全でない[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]の設計に関する不具合報告に応えて公式に廃止予定とされている[[gets|{{code|lang=c|gets}}]]関数がC11では削除され、{{code|lang=c|gets_s}}を使わなくてはならなくなった。 == 参照 == {{Reflist}} {{CProLang}} [[Category:C言語|C99]] [[Category:UNIXプログラミングツール]]
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アウステルリッツの戦い
アウステルリッツの戦い(アウステルリッツのたたかい、仏: Bataille d'Austerlitz、独: Schlacht von Austerlitz、露: Битва под Аустерлицем)は、1805年12月2日(露暦11月20日、フランス革命暦フリメール11日)にオーストリア領(現チェコ領)モラヴィアのブルノ近郊の町アウステルリッツ(現在のスラフコフ・ウ・ブルナ)郊外で、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍(大陸軍)が、ロシア・オーストリア連合軍を破った戦いである。 フランス皇帝ナポレオン1世、オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)、ロシア皇帝アレクサンドル1世の3人の皇帝が参加したことから三帝会戦(さんていかいせん、仏: bataille des Trois Empereurs、独: Dreikaiserschlacht、露: битва трёх императоров)とも呼ばれる。なお、実際にはフランツ2世は戦場から離れた場所にいた。 1805年、オーストリアはロシア、イギリスなどと第三次対仏大同盟を結成し、バイエルンへ侵攻した。ナポレオン率いるフランス軍はウルムの戦いでオーストリア軍部隊を降伏させ、11月13日にウィーンへ入城した。フランツ1世はモラヴィアへ後退し、アレクサンドル1世とクトゥーゾフの率いるロシア軍と合流した。 ナポレオンもドナウ川を渡ってモラヴィアへ進出し、アウステルリッツ西方へ布陣した。そのころ、いまだイタリア方面にはカール大公のオーストリア軍部隊がほぼ無傷で残っており、これらの部隊が集結する前にロシア・オーストリア連合軍主力を叩く必要があった。そこでナポレオンは、敵の攻撃を誘うため、罠を仕掛けた。 ナポレオンの戴冠式から1周年の記念日にあたる1805年12月2日午前8時、ロシア・オーストリア連合軍約85,000はアウステルリッツ西方のプラツェン高地へ進出し、優勢な兵力をもってフランス軍への攻撃を開始した。 フランス軍は73,000と劣勢であった。またその布陣は、後方との連絡線確保のうえで重要な右翼(南側)が手薄であった。アレクサンドル1世はこれを好機とみて、主力をプラツェン高地からフランス軍右翼へと向かわせた。フランス軍右翼を守るダヴーの第3軍団は攻撃に耐え切れずに押し下げられたかに見え、さらに多くの連合軍部隊がフランス軍の陣前を横切ってフランス軍右翼へ殺到した。 だが、ナポレオンは、手薄になった連合軍の中央部にニコラ=ジャン・ド・デュ・スールトの第4軍団を突入させた。中央を守っていたクトゥーゾフはロシア近衛軍団を投入し、フランス軍と激戦を繰り広げたが、ベルナドットの第1軍団の援護とナポレオンによる近衛隊の投入によってプラツェン高地の連合軍は突破された。中央突破に成功したスルト軍団は、ダヴー軍団と協力して、フランス軍右翼へ殺到していた連合軍部隊を挟撃した。夕刻までに、連合軍は15,000人の死傷者と多数の捕虜を出し、散り散りになって敗走した。 12月26日、オーストリアはプレスブルクの和約を締結してフランスへ屈服し、第三次対仏大同盟は崩壊した。フランツ2世は神聖ローマ皇帝位から退位。神聖ローマ帝国は解体され、ドイツにはライン同盟が成立した。 アウステルリッツの戦いとそれまでの戦役はヨーロッパ政治の性格を大きく変えた。3ヶ月間でフランス軍はウィーンを占領し、2カ国の軍隊を打ち破り、オーストリア帝国を屈服させた。アウステルリッツの戦いは10年近くに及ぶフランスによるヨーロッパの覇権を容易にしたが、より直接的な影響は翌1806年の対プロイセン戦役である。 1792年に勃発したフランス革命戦争以降、ヨーロッパは騒乱状態にあった。戦争5年目の1797年にフランス共和国は第一次対仏大同盟を屈服させた。1798年に第二次対仏大同盟が結成されたが、1801年までにこの同盟も敗退し、イギリスのみが新たに成立したフランス統領政府の敵として残された。1802年にフランスとイギリスはアミアンの和約を結んだ。 この10年間で初めて全てのヨーロッパ諸国に平和がもたらされたが、両陣営には依然として多くの問題が残されており、和約の実施は困難だった。イギリス政府は1793年以降の植民地征服のほとんどを無効にされたことに憤っていた。一方、ナポレオンはイギリス軍がマルタから撤収しないことに腹を立てていた。この緊張状態はナポレオンがハイチ革命を鎮圧すべく派兵したことで更に悪化する。1803年、イギリスはフランスに対して宣戦布告した。 1804年12月に締結されたイギリス=スウェーデン協定が第三次対仏大同盟の端緒となった。イギリス首相ウィリアム・ピットは1804年から1805年にかけて新たな対仏同盟を結成すべく活発な外交を展開し、1805年4月にロシアとの同盟を成立させた。二度に渡りフランスに敗北を喫し、復仇を望んでいたオーストリアも8月9日に同盟に加わった。 ナポレオンは第三次対仏大同盟が結成されるよりも前にイギリス侵攻軍を編成し、北フランスのブローニュに6箇所の野営地をつくっていた。ナポレオンはこの軍隊でイギリスを撃破することを考えており、彼はイギリス征服を記念するメダルを製作させるほど成功を確信していた。ナポレオンの兵隊がイギリスの土を踏むことはなかったが、彼らはあらゆる作戦に対応できるよう、入念かつ重要な訓練を受けていた。兵士の間ではしばしば倦怠気分が引き起こされたが、ナポレオンは頻繁に彼らの元を訪問し、士気を高めるための軍事パレードを催している。 このブローニュの兵士たちが後に大陸軍(La Grande Armée)と呼ばれる軍隊の中核となった。当初、このフランス軍は7個軍団から成る約20万人で、各軍団は36から40門の大砲を有し、他の軍団が来援するまで単独で戦う能力を有していた。1個軍団は(もしも適切な防御拠点に配置されていたなら)支援なしで丸1日戦い続けることができ、このことは全ての戦役において大陸軍に計り知れない戦術的選択肢を与えることになる。これらの軍隊に加えて、ナポレオンは22,000人の予備騎兵部隊を創設しており、これは2個胸甲騎兵師団、4個乗馬竜騎兵師団、1個下馬竜騎兵師団、1個軽騎兵師団から成り、各々が砲24門を装備していた。1805年時点で、大陸軍は35万人に拡大しており、装備状況は良好で、よく訓練されており、優れた指揮官に率いられていた。 1805年時点のロシア軍は旧体制組織(Ancien Régime)の性格を色濃く残しており、連隊より上には恒常的な編制はなく、上級将校は主に貴族階層から採用されており、任官は能力によるものではなく売官によるものであった。ロシア人兵士は訓練が不足しており、そして(18世紀の基準でも)頻繁に鞭打たれ、「修練を注入するために」手荒く扱われていた。加えて、将校の多くは能力不足であり、戦闘に必要な複雑な機動を兵士たちに実行させることは難しかった。しかしながら、ロシア軍は優秀な砲兵部隊を有しており、砲兵たちは大砲が敵の手に落ちぬよう常に勇敢に戦った。 ロシア軍の兵站は現地調達と同盟軍のオーストリアに依るところが大きく、ロシア軍の補給の7割はオーストリアが提供していた。ロシア軍は確固とした兵站組織を欠き、その上に補給線が伸びきった状態であり、兵士たちは士気と健康を維持することが難しかった。 カール大公(オーストリア皇帝の弟)は1801年に軍制改革に着手し、宮廷戦争会議(Hofkriegsrat:オーストリア軍の意思決定を行う政治軍事会議)から実権を奪った。カール大公はオーストリア軍では最優秀の指揮官であったが、宮廷内では人気がなく、彼の意見に反して対仏開戦が決定された際には影響力を失っていた。代わってカール・マック中将が新たな総司令官となった。戦争の直前に彼は連隊の編制をこれまでの6個中隊から成る大隊が3個から、4個中隊から成る大隊4個に改編させた。この突然の改編に対応する士官の訓練は全く行われておらず、この結果、新編制の部隊は以前と同様の指揮統率をすることができなくなっていた。オーストリア騎兵はヨーロッパ最良と見なされていたが、騎兵部隊は多数の歩兵部隊に分遣されており、集中運用されたフランス騎兵に比してその有効性を減じていた。 1805年8月、ナポレオン(前年12月にフランス皇帝に即位)は新たに現れたオーストリアおよびロシアの脅威に対処すべく、軍の目標をイギリス海峡からライン川へ振りかえた。9月10日にオーストリア軍がフランスの同盟国であるバイエルンに侵攻した。これに対して、ナポレオンは元老院においてバイエルン救援を宣言する。 約20万のフランス軍が隠密かつ迅速な行軍で、ライン川を渡河した。マック中将はオーストリア軍の主力をシュワーベン(現在の南ドイツ)のウルム要塞に集結させていた。ナポレオンは敵を欺くため一旦北へ軍を向けさせ、その後、大陸軍各軍団は南へ旋回してダニューブ川への強行軍を敢行し、フランス軍をオーストリア軍の背後に回り込ませた。この強行軍の成功により、ウルムに篭城していたマックのオーストリア軍23,000は10月20日に降伏を余儀なくされた。ナポレオンは皇后ジョゼフィーヌに宛てた手紙で、ここまでの戦役でオーストリア兵6万を捕虜にしたと述べている。 この大勝利は、翌日に発生したトラファルガーの海戦での大敗によって水を差されたが、陸上での勝利は続き、11月にはフランス軍はウィーンを占領してマスケット銃10万丁、大砲500門を鹵獲し、更にドナウ川に架かる橋を無傷で手に入れた。 一方、ロシア軍の到着は遅れ、オーストリア軍救援に失敗した。このためロシア軍は北東へ退却して増援を待ち、その上でオーストリア軍の残存兵力と合流することにした 。ロシア皇帝アレクサンドル1世はミハイル・クトゥーゾフ大将をロシア=オーストリア連合軍の総司令官に任命した。1805年9月9日にクトゥーゾフは情報収集のため戦場へと赴いた。彼はオーストリア皇帝や廷臣たちと作戦計画や補給関連の協議を持った。クトゥーゾフの圧力により、オーストリアは軍需品や武器を適時かつ十分に提供することに同意させられた。また、彼はオーストリア軍の防衛計画の欠陥を指摘して「非常に教条主義的である」と評した。更に彼は、最近までナポレオンに統治されていた土地の併合にも住民の信頼を失う危険があるとして反対していた。しかしながら、クトゥーゾフの提案の多くは拒否されてしまう。 フランス軍は追撃したが、直ぐに自らが困難な状況にあることに気づいた。プロイセンの意図は不明確ではあるが、恐らくは敵対的であり、ロシア軍とオーストリア軍は既に合流しており、そして、イタリアを守っていたカール大公・ヨハン大公のオーストリア軍9万が未だ健在であり皇帝を救援すべく北上していた。これに加えてフランス軍の後方連絡線は極端に長くなっており、これを維持するために多数の守備兵を必要とした。ナポレオンはウルムでの勝利を確固たるものとする唯一の手段は連合軍に決戦を強いて撃破することであると確信していた。 一方のロシア軍では、総司令官クトゥーゾフは「自殺的な」オーストリア軍の防御計画に固執することなく、退却を決意していた。彼はピョートル・バグラチオン中将に兵600を率いてウィーンのフランス軍を牽制するよう命じ、フランス軍のミュラ元帥と停戦交渉をして撤退の時間稼ぎをした。ナポレオンはすぐにミュラの失敗に気づき、彼に迅速な追撃を命じたが、この時には既に連合軍はオルミュッツにまで退却していた。 クトゥーゾフの計画では連合軍はカルパティア地方にまで退却することになっており、「ガリツィアで、私はフランス軍を葬る」と語っている。 だが、ナポレオンはこの事態を座視はしなかった。彼は連合軍を誘い出すために心理的な罠を仕掛けた。会戦前の数日間、ナポレオンは自軍が窮状にあり、交渉による和平を望んでいるとの印象を連合軍に与えた。スールト元帥、ランヌ元帥そしてミュラ元帥の部隊を含む約53,000人のフランス軍がアウステルリッツとオルミュッツを結ぶ街道に布陣しており、敵軍の注意を引いていた。連合軍の兵力は89,000人であり、数で圧倒しており、劣勢なフランス軍を攻撃する誘惑に駆られていた。だが、連合軍は気づいていなかったが、ベルナドット元帥、モルティエ元帥そしてダヴー元帥の部隊が来援可能な距離にまで到着しており、更に必要ならばウィーンやイフラヴァの駐留部隊を強行軍によって呼び寄せることも可能だった。これによってフランス軍の兵力は75,000になり、数的劣勢を補うことができる。 策略はこれに留まらなかった。11月25日、サヴァリ (en) 将軍をオルミュッツの連合軍本営へ派遣して連合軍の状況を秘密裏に調べさせるとともに、戦闘を避けたい旨のナポレオンの伝言を伝えさせた。想定通りにこの伝言はナポレオンの弱気と見なされた。27日にフランツ1世が休戦を申し出るとナポレオンはこの受け入れに非常に乗り気な態度を示した。同日、ナポレオンはスールトにアウステルリッツおよびプラッツェン高地からの撤退と、退却に際して混乱している様子をつくり出すよう命じた。これによって連合軍はこの高地を占拠することになる。翌28日、ナポレオンはアレクサンドル1世との会見を申し出て、ロシア皇帝の側近であるドルゴロウキー伯爵の訪問を受け入れた。伯爵との会見は次の段階の策略だった。ナポレオンは敵に対して意図的に憂慮や焦燥の態度を見せ、ドルゴルーキーはこの様子をフランス軍の弱さの証拠としてロシア皇帝に報告した。 策略は成功した。ロシア皇帝の側近や、オーストリア軍参謀長フランツ・フォン・ワイロッテル (en) 少将を含む連合軍指揮官の多くが即時攻撃を支持し、アレクサンドル1世の意思を変えさせた。クトゥーゾフの意見は却下され、ここに連合軍はナポレオンの仕掛けた罠に嵌る事となった。 会戦に際してナポレオンは兵73,000、砲139門を集めたが、この内ダヴー元帥の兵7,000は未だウィーンからの行軍途上にあった。連合軍の総兵力は約84,500、砲278門であり、この内の7割がロシア兵である。フランス軍は兵数では劣勢であった。 当初、ナポレオンは勝利への完全な自信はなかった。外務大臣タレーランへの手紙で、皇后ジョゼフィーヌを不安にさせたくないので、来たる会戦については誰にも言わないよう依頼している。歴史学者フレデリック・C・シュナイドはナポレオンの関心はジョゼフィーヌの平静ではなく、フランス軍が敗れた時に彼女にどう言い訳するかであったと述べている。 会戦はブリュン(ブルノ)から南西 9.7 kmの地点、アウステルリッツ(現在のチェコ共和国領スラフコフ・ウ・ブルナ)との間で行われた。戦場の北部は標高210mのザソトン丘陵と標高260mのズラン高地に占められており、これらの丘陵からオルミュッツ=ブリュン街道を望むことができた。これらの丘陵の西側にはベロウィッツ村があり、間にボズニッツ川が流れ、南でゴルトバッハ川と合流しており、後者の川はコベルニッツ村、ソコルニッツ村そしてテルニッツ村にまたがって流れている。戦場の中央部はプラッツェン高地で標高11-12mのゆるやかな丘陵である。ナポレオンは元帥たちに繰り返しこう語っている。「諸君。この土地を念入りに調べておけ。ここが戦場となる。君達はここで戦うのだ。」 12月1日に開かれた連合軍の作戦会議では、連合軍指揮官の多くが会敵して南側面を制圧し、ウィーンとの連絡線を遮断する作戦を提案した。ロシア皇帝とその側近たちは攻撃を主張していたが、オーストリア皇帝はやや慎重であり、彼は連合軍総司令官であるクトゥーゾフの助言を受けていた。だが、ロシア貴族やオーストリア軍指揮官たちの攻撃論は強硬であり、最終的に連合軍はオーストリア軍参謀長ワイロッテルの作戦案を採用した。 この作戦案ではフランス軍右翼(南側)に対する攻撃を主攻とし、この意図を隠す為に敵軍左翼(北側)に助攻を仕掛けることになっていた。連合軍は戦力の大部分を4つの縦隊に編成させており、クトゥーゾフとブクスホーデンが指揮する、これらの縦隊がフランス軍右翼を攻撃、コンスタンツ大公のロシア軍近衛軍は予備戦力とされ、バグラチオン中将が右翼(北側)を守ることになった。 その上、ロシア皇帝は総司令官の権限をクトゥーゾフから奪い、オーストリア軍のワイロッテル少将に委ねてしまった。会戦ではクトゥーゾフは連合軍第4縦隊を率いるのみとなったが、ロシア皇帝は自らが選んだ作戦が失敗した際の責任を恐れてクトゥーゾフを名目上の総司令官職に留めている。 ナポレオンは連合軍からの攻撃を望んでおり、このため彼は意図的に右翼(南側)を弱体化させている。11月28日、本営でナポレオンと元帥たちとが会見した際に元帥たちは来たる戦いへの懸念を表明した。彼らは撤退さえ進言したが、ナポレオンは部下たちの不安に対して肩をすくめるだけだった。 フランス軍とウィーンとの連絡線を断つべく連合軍はフランス軍右翼に対して戦力を集中させるとナポレオンは予想していた。その結果、連合軍中央部の側面が曝され弱体化する。彼らにそうさせるべく、ナポレオンは緊要地形であるプラッツェン高地の放棄までし、自軍の弱体化を装い、更には彼自身の焦燥した様子を敵に見せた。その一方でナポレオンは主力部隊を高地から死角になる場所に隠させている。作戦計画では、フランス軍はプラッツェン高地を奪回し、この高地から連合軍主力に対して決定的な攻撃を仕掛けて混乱させ、背面から包囲することになっていた。 連合軍中央部に対する主攻勢はスールト元帥率いる第4軍団の兵16,000によって行われる。第4軍団の位置は深い霧に覆われており、この霧がいつまで続くかがナポレオンの作戦にとって極めて重要であった。霧が早く晴れればスールトの部隊が暴露されてしまう。だが、霧があまりに長く残れば、連合軍がプラッツェン高地から離れたか否か分からず、攻撃のタイミングを適切に判断できなくなる。 その一方で、弱い右翼(南側)を補強するために、ナポレオンはウィーンにいるダヴー元帥の第3軍団に強行軍を命じ、連合軍主力からの猛攻を耐えねばならないフランス軍南方面を守備するルグラン (en) 師団将軍の部隊との合流を図らせた。ダヴーの部隊は110kmを48時間行軍せねばならなかった。彼らの到着には作戦の成否がかかっていた。 実際、ナポレオンの布陣では右翼は非常に危険なほど過少な兵力が守備に着いているだけだった。しかしながら、ナポレオンがこの様に危険な策を採った理由は二つあり、一つは第3軍団司令官のダヴーは配下の中でも最良の元帥だったこと、もう一つは右翼は河川と湖沼が入り混じった複雑な地形だったことである。更に、フランス軍は既にブリュン方面への第二の退却路を新設していた。皇帝近衛隊 (en) とベルナドット元帥の第1軍団は予備兵力とされ、ランヌ元帥の第5軍団が新設された連絡線を守る戦場北方面の守備に充てられた。 1805年12月1日、連合軍がナポレオンの想定通りに南方へ移動し始めるに従い、フランス軍は配備位置に布陣した。 会戦前夜、ナポレオンが少数の護衛とともに前線の視察に出ると兵士たちが皇帝であると気づき、すぐに兵士たちは「皇帝万歳!」を叫び松明に火を灯して戴冠一周年を祝った。連合軍の司令官や兵士たちはこの様子を見て撤退の準備であると信じた。 戦いは12月2日午前8時に連合軍第1縦隊によるテルニッツ村攻撃で始まった。この村はフランス軍第3戦列歩兵連隊が守っていた。ここでは激しい戦闘が繰り広げられ、数次に渡る連合軍の突撃によってフランス軍は村から追い払われ、ゴルトバッハ川への後退を余儀なくされた。この時、ダヴー元帥の最初の部隊が戦場に到着し、テルニッツ村を奪回したが、彼らもまた連合軍驃騎兵からの攻撃を受けて村の放棄を余儀なくされた。テルニッツ村郊外からの連合軍の別の攻撃はフランス軍砲兵によって阻止されている。 連合軍縦隊はフランス軍右翼へと殺到し始めたが、期待された速さではなく、フランス軍はほとんどの場所で防御に成功している。実際に連合軍の展開は過ちを犯しており、戦機をも失していた。例えば連合軍左翼に布陣していたリヒテンシュタイン公の騎兵縦隊が右翼へ配置されることになり、配備地点へと移動する際にフランス軍右翼攻撃に向かっていた第2縦隊の歩兵部隊の中に飛び込んでしまい進軍を遅らせている。この時、指揮官たちは災厄と考えたが、後にこれが連合軍を助けることになる。 一方、第2縦隊先鋒はフランス軍第26戦列歩兵連隊と狙撃兵部隊(Tirailleur)が守るソコルニッツ村を攻撃した。連合軍の最初の攻撃は失敗するが、ランジュロン (en) 中将が村への砲撃を命じた。この猛砲撃によってフランス兵は村からの撤退を余儀なくされ、連合軍第3縦隊はソコルニッツ城を攻撃する。フランス軍は反撃をして村を奪回するも、再び退却を余儀なくされる。この区域の戦闘は第3軍団のフリアン (en) 師団が村を奪回することにより一時的に収まった。テルニッツ村とソコルニッツ村は、恐らくこの会戦最大の激戦区であり、この日は幾度も主を変えている。 連合軍がフランス軍右翼を攻撃している間、クトゥーゾフの第4縦隊はプラッツェン高地に留まり動かなかった。ナポレオンと同じく、クトゥーゾフはプラッツェン高地の重要性を認識しており、この場所を守る決意をしていた。だが、若いロシア皇帝の意思は異なり、クトゥーゾフに高地からの移動を厳命し、これが連合軍を死地へと追いやることになる。 午前8時45分頃、敵軍中央部が手薄になったと確認したナポレオンがスールト元帥に対して部隊が高地に到達する為に必要な時間を尋ねると彼は「20分以内です。陛下」と答えた。その15分後、ナポレオンは攻撃命令を下し、「ただ一撃で、この戦争は終わる」と付け加えた。 中央部攻撃を担当する部隊はスールト元帥の第4軍団に所属するサンティレール (en) 師団将軍とヴァンダム師団将軍が指揮する2個師団である。深い霧がサンティレール師団の前進を覆い隠したが、彼らが斜面を登っていると霧が晴れて太陽が浮き上がり、前進する兵たちを奮起させた。このエピソードは「アウステルリッツの太陽」(soleil d'Austerlitz)として知られる。丘の上のロシア兵と指揮官たちは、多数のフランス兵が彼らに向かって進撃している姿を見て驚愕した。 ここで、フランス軍右翼への兵力移動が遅滞していたことが幸いし、連合軍指揮官は第4縦隊の一部を高地争奪戦に投入できた。だが、1時間を越える戦闘の後、この部隊のほとんどが壊滅してしまう。第2縦隊の兵士(そのほとんどが経験の浅いオーストリア兵)もまたこの戦闘に投入されて兵力が膨れ上がり、フランス軍に後退を強いた。だが死に物狂いになったサンティレールの兵士たちは再度猛攻撃を仕掛け、銃剣突撃により、連合軍を丘から撃退した。 北側ではヴァンダム師団がシュターレ・ヴィノフラディ(「古い葡萄園」)と呼ばれる地区で攻撃を行い、優れた小部隊戦術と痛烈な一斉射撃により、幾つかの連合軍大隊を撃破している。 クトゥーゾフは左翼軍司令のブクスホーデンに主力部隊を中央部へ差し向けるよう要請したが、ブクスホーデンは事態の重要性を未だに理解できておらず拒絶してしまう。 戦いはフランス軍優勢に転じたが、まだ終わってはいなかった。ナポレオンはベルナドット元帥の第1軍団にヴァンダム師団の左翼を支援するよう命じ、自らの本営をズラン高地からプラッツェン高地の聖アントニウス礼拝堂へ進めた。 危機的状況を受け、ロシア皇帝はロシア近衛軍の投入を決意した。ロシア皇帝の弟であるコンスタンチン大公が近衛騎兵を率いてヴァンダム師団に反撃を行い、この戦いにおいて唯一フランス軍旗(第4戦列歩兵連隊所属大隊の軍旗)を奪い取った。 ナポレオンは自軍の苦戦を見て親衛重騎兵隊に前進を命じた。フランス軍親衛重騎兵隊がロシア軍近衛騎兵隊に突進したが、両軍とも多数の騎兵を送り込んだため決着はつかなかった。ロシア軍が数的には優勢だったが、程なくドルーエ師団(第1軍団所属)が参戦したため流れが変わった。ドルーエ師団が側面に展開して騎兵隊を退避させた。近衛隊の騎馬砲兵がロシア軍騎兵やフュージリアに多数の損害を与えた。ナポレオンは止めを刺すべく近衛擲弾兵とマムルーク兵を投入する。再起したフランス騎兵から400mに渡る追撃を受けてロシア近衛兵は撃破され、多数の戦死者を出した。犠牲者には重傷を負ったクトゥーゾフと戦死した彼の娘婿のティーゼンハウゼン伯爵 (en) も含まれる。 戦場の北側でも激戦が繰り広げられていた。ようやく配置位置に到着したリヒテンシュタイン公の重騎兵隊がケレルマン軽騎兵師団に攻撃を始めた。戦闘は当初フランス軍優勢であったが、ロシア兵の数が非常に多いと分かり、カファレリ (en) 師団の援護下に後退している。カファレリ師団がロシア軍の攻撃を食い止めたため、ミュラ元帥は2個胸甲騎兵師団(師団長はオートポール (en) とナンスティ (en) )を投入させ、ロシア騎兵の撃退に成功した。 混戦が激しくそして長く続いたが、最終的にフランス軍が打ち勝った。ランヌ元帥の第5軍団がバグラチオンの部隊に対して攻撃をし、熾烈な戦いの末にこの熟練したロシア軍司令官を戦場から後退させた。ランヌは追撃を求めたが、この地区の戦闘指揮を担当するミュラは反対した。 ナポレオンの焦点は未だ両軍の間で戦闘が続いている戦場南端のソコルニッツ村とテルニッツ村へと移された。サンティレール師団と第3軍団の一部による二方向からの効果的な攻撃によってソコルニッツ村の連合軍は蹴散らされ、この方面の連合軍二個縦隊の司令官キンマイヤー (en) 中将とランジュロン中将に早急な撤退を決意させた。この時、泥酔していた連合軍左翼司令官ブクスホーデン (en) 大将もまた逃げ出した。キンマイヤーとオライリー軽騎兵部隊が殿(しんがり)を務め、襲いかかる6個フランス騎兵連隊の内5個までを撃退する奮戦をした後に撤退した。 パニックが連合軍全体に広がり、持ち場を離れて潰走し始めた。有名かつ凄惨なエピソードはこの敗走に際して起こった。フランス軍に敗れウィーン方向へと逃れようとしたロシア兵が凍結したザッチャン池を渡っていた。フランス砲兵が彼らを砲撃すると氷が割れ、ロシア兵たちと大砲数十門が冷たい池に落ちた。犠牲者数は資料によって異なり、少ないもので100人程度であり、多いものでは1万人以上になっている。 『大陸軍戦闘詳報』はこの事件で2万人が溺死したと誇張して報告しており、ロシア皇帝はこの破滅的な大敗の言い訳としてこの見積もりを黙認した。溺れたロシア兵の多くが、勝者となったフランス兵によって救助されている。暫く後に公になった現地の地方判事の記録によると、この大惨事に関するナポレオンの記録は全くの創作ということになる。会戦の数日後、皇帝の命令により池の水が排水させられたが、池の底からは僅か2から3体の死体と150頭の馬の死体が発見されただけだった。 連合軍の死傷者は15,000人に上った。フランス軍の死傷者は8,233人である。加えて、連合軍は大砲180門と軍旗50本を失っている。この大勝利の報は前日まで財政破綻の危機に動揺していたパリに大きな歓喜と昂奮状態をもたらした。ナポレオンは皇后ジョゼフィーヌに対し「私は二人の皇帝に率いられたオーストリア=ロシア軍を叩きのめした。私は少しばかり疲れた...あなたを抱きしめたい」と書き送っている。一方、皇帝アレクサンドル1世は「我々は巨人の前の赤子だった」と嘆いている。 12月4日、オーストリア皇帝フランツ1世はナポレオンと会見して和平を求めた。この22日後にプレスブルクの和約が締結され、オーストリアは戦争から脱落した。 オーストリアはカンポ・フォルミオ条約(1797年)とリュネヴィルの和約(1801年)での領土のフランスへの割譲を再確認して5000万フランもの賠償金を課せられ、加えてナポレオンの同盟国であったバイエルン、ヴュルテンベルクそしてバーデンに領土の割譲を強いられ、またナポレオンの衛星国であるイタリア王国へヴェネツィア、イストリア、ダルマチアを譲渡せねばならなかった。これらの条項は過酷ではあったが、オーストリアにとって破滅的なものではなかったのも確かである。 ロシア軍は祖国への撤退を許され、フランス軍は南ドイツに駐屯した。翌1806年1月にイギリス首相ウィリアム・ピットが急死し、第三次対仏大同盟は瓦解した。 アウステルリッツの勝利によって、フランスと中欧との緩衝地帯としてのライン同盟が成立する。1806年、神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位を表明し、オーストリア皇帝フランツ1世の称号のみを留めた。これらの成果は、ヨーロッパ大陸に恒久的な平和をもたらしはしなかった。プロイセンは中欧へのフランスの影響力伸長を警戒し、翌1806年に第四次対仏大同盟戦争を引き起こすことになる。 会戦後、ナポレオンは兵士たちを讃える演説を行った。 兵士たちよ、私は諸君に満足している。 諸君は、アウステルリッツの戦いにおいて、私が諸君の勇敢にかけた期待を裏切らなかった。諸君は諸君の軍旗を不滅の栄光によって飾った。ロシア皇帝とオーストリア皇帝の指揮する10万の軍は、4時間足らずして、分断され四散させられた。諸君の砲火を免れた者も湖に溺れて死んだ。ロシアの近衛隊の40本の軍旗、120門の大砲、20人の将軍、3万以上の捕虜が、永久に栄光に輝くこの日の戦果である。諸君にはもはや恐れるべき敵はいない。 兵士たちよ、我々の祖国の幸福と繁栄のために必要なことがなされたときには、私は諸君をフランスへ帰すであろう。国民は諸君の帰還を喜ぶであろう。そして諸君は、「アウステルリッツの戦いに加わっていた」と言いさえすれば、こういう答えを受けるであろう。「ああ、この人は勇士だ!」と。 ナポレオンは上級将校に200万フラン、兵士には各々200フランを下賜し、戦死した兵士の未亡人たちには多額の年金が与えられた。孤児となった子供たちはナポレオンが養子とし、洗礼名または家名に「ナポレオン」を称することを許した。一方で、彼はこの様な大勝利の後では通例である司令官たちの叙爵を行っていない。ナポレオンはアウステルリッツはあくまでも彼個人の勝利であり、他人を昇進させるべきものではないと考えていたためであろう。 パリ市内のヴァンドーム広場に立つコラム(立柱)はアウステルリッツの戦いで鹵獲した大砲を鋳潰して製作された。このコラムはナポレオンの没落後のフランスの国内情勢の変遷により論争の対象になり、頂上のナポレオン立像を取り除かれたり、パリ・コミューンの際には倒されたこともあった。コラムはパリ・コミューン崩壊後に再建され、現在の姿で残っている。また、アウステルリッツの戦勝を記念して1806年にエトワール凱旋門の建設が決められた(完成は1836年)。パリにはこの会戦に由来するオステルリッツ駅(Gare d'Austerlitz)がある。 古戦場であるチェコのスラフコフ・ウ・ブルナには平和記念碑や戦跡碑がある。会戦200周年となる2005年には同市で記念式典が開かれたが、フランス国内でナポレオンの歴史的評価を巡る後述の論争が引き起こされ、大統領や首相は出席せず、ミシェル・アリヨ=マリー国防大臣のみが出席した。この町では毎年アウステルリッツの戦いを再現するイベントが催されている。 オランダのユトレヒトには「アウステルリッツのピラミッド」(Pyramide van Austerlitz)と呼ばれる記念碑がある。これはオランダに駐屯していたオーギュスト・マルモン将軍が1804年に築かせたもので、エジプト・シリア戦役の際に目にしたピラミッドをモチーフにしている。元々はアウステルリッツの戦いとは関係のない建築物だったが、1806年にオランダ王となったナポレオンの弟ルイ・ボナパルトが兄の戦勝を記念して命名したものである。ルイ・ボナパルトは更にユトレヒト近郊の町をアウステルリッツ (en) と命名している。 アウステルリッツの戦いはレフ・トルストイの小説『戦争と平和』のストーリーの重要なイベントとなっている。この会戦はフランス人の粗雑な論理や傲慢さに対してロシア人の価値観や超俗的な伝統そして素朴さを称揚する役割を果たすエピソードとなっている。会戦が始まろうとしていたとき、主要登場人物であるアンドレイ公は「来たる日が、彼にとってのトゥーロンまたはアルコラ(ナポレオンの初期の戦勝)になるのだろうか」と思いを巡らせている。アンドレイ公は栄光を望み、「私は先頭に立って進み、私の前に来るもの全てを一掃してやる」と決意した。だが、戦闘後に彼は敵の捕虜になり、彼にとっての英雄であるナポレオンと出会う。そして、それ以前の心酔は打ち砕かれ、彼はもうナポレオンについて考えなくなる。「つまらない虚栄心や勝利への喜びを称えた英雄の姿は、彼が見た高く、高潔で、寛大な空に比べて、ひどくちっぽけなものに見えた。」 トルストイはアウステルリッツの戦いをロシア人の最初の試練として描いている。兵士たちが栄光や報酬のために戦うという過ちを犯したためこの戦いに敗れた。トルストイは1812年のナポレオンによるロシア遠征のボロジノの戦いの際により崇高な価値が生み出されたとしている。 ナポレオンは連合軍撃滅に関して、その望みを完全に達成したわけはなかったが、歴史家や信奉者たちは当初の作戦により、十分な勝利を得たと考えてきた。このため、アウステルリッツの戦いはカンナエの戦いやブレンハイムの戦いといったその他の戦術的大勝利としばしば比肩される。幾人かの歴史家たちは、アウステルリッツの戦いで大勝しすぎたため、ナポレオンは現実感覚を失ってしまい、この戦い以降、フランス外交は「ナポレオンの私有物」と化したと指摘している。 フランス史においてこの戦いは偉大な勝利と認識されており、第一帝政に対する憧憬が高まった19世紀にこの戦いは敬慕され、同時代の詩人ヴィクトル・ユーゴーは「深い思索の中で...アウステルリッツへ向けた大砲の轟音が鳴り響く」と描写している。 しかしながら、2005年の会戦200周年に際してはジャック・シラク大統領またはドミニク・ガルゾー・ド・ビルパン首相が記念式典に出席すべきか否かを巡って論争が起こっている。一方、フランス海外県の住民の一部はナポレオンは植民地での虐殺に関与したと見なしており、アウステルリッツの戦いは祝われるべきではないと主張し「ナポレオンを公的に祝賀する」式典に反対した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アウステルリッツの戦い(アウステルリッツのたたかい、仏: Bataille d'Austerlitz、独: Schlacht von Austerlitz、露: Битва под Аустерлицем)は、1805年12月2日(露暦11月20日、フランス革命暦フリメール11日)にオーストリア領(現チェコ領)モラヴィアのブルノ近郊の町アウステルリッツ(現在のスラフコフ・ウ・ブルナ)郊外で、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍(大陸軍)が、ロシア・オーストリア連合軍を破った戦いである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "フランス皇帝ナポレオン1世、オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)、ロシア皇帝アレクサンドル1世の3人の皇帝が参加したことから三帝会戦(さんていかいせん、仏: bataille des Trois Empereurs、独: Dreikaiserschlacht、露: битва трёх императоров)とも呼ばれる。なお、実際にはフランツ2世は戦場から離れた場所にいた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1805年、オーストリアはロシア、イギリスなどと第三次対仏大同盟を結成し、バイエルンへ侵攻した。ナポレオン率いるフランス軍はウルムの戦いでオーストリア軍部隊を降伏させ、11月13日にウィーンへ入城した。フランツ1世はモラヴィアへ後退し、アレクサンドル1世とクトゥーゾフの率いるロシア軍と合流した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ナポレオンもドナウ川を渡ってモラヴィアへ進出し、アウステルリッツ西方へ布陣した。そのころ、いまだイタリア方面にはカール大公のオーストリア軍部隊がほぼ無傷で残っており、これらの部隊が集結する前にロシア・オーストリア連合軍主力を叩く必要があった。そこでナポレオンは、敵の攻撃を誘うため、罠を仕掛けた。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ナポレオンの戴冠式から1周年の記念日にあたる1805年12月2日午前8時、ロシア・オーストリア連合軍約85,000はアウステルリッツ西方のプラツェン高地へ進出し、優勢な兵力をもってフランス軍への攻撃を開始した。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "フランス軍は73,000と劣勢であった。またその布陣は、後方との連絡線確保のうえで重要な右翼(南側)が手薄であった。アレクサンドル1世はこれを好機とみて、主力をプラツェン高地からフランス軍右翼へと向かわせた。フランス軍右翼を守るダヴーの第3軍団は攻撃に耐え切れずに押し下げられたかに見え、さらに多くの連合軍部隊がフランス軍の陣前を横切ってフランス軍右翼へ殺到した。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "だが、ナポレオンは、手薄になった連合軍の中央部にニコラ=ジャン・ド・デュ・スールトの第4軍団を突入させた。中央を守っていたクトゥーゾフはロシア近衛軍団を投入し、フランス軍と激戦を繰り広げたが、ベルナドットの第1軍団の援護とナポレオンによる近衛隊の投入によってプラツェン高地の連合軍は突破された。中央突破に成功したスルト軍団は、ダヴー軍団と協力して、フランス軍右翼へ殺到していた連合軍部隊を挟撃した。夕刻までに、連合軍は15,000人の死傷者と多数の捕虜を出し、散り散りになって敗走した。", "title": null }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "12月26日、オーストリアはプレスブルクの和約を締結してフランスへ屈服し、第三次対仏大同盟は崩壊した。フランツ2世は神聖ローマ皇帝位から退位。神聖ローマ帝国は解体され、ドイツにはライン同盟が成立した。", "title": null }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "アウステルリッツの戦いとそれまでの戦役はヨーロッパ政治の性格を大きく変えた。3ヶ月間でフランス軍はウィーンを占領し、2カ国の軍隊を打ち破り、オーストリア帝国を屈服させた。アウステルリッツの戦いは10年近くに及ぶフランスによるヨーロッパの覇権を容易にしたが、より直接的な影響は翌1806年の対プロイセン戦役である。", "title": null }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1792年に勃発したフランス革命戦争以降、ヨーロッパは騒乱状態にあった。戦争5年目の1797年にフランス共和国は第一次対仏大同盟を屈服させた。1798年に第二次対仏大同盟が結成されたが、1801年までにこの同盟も敗退し、イギリスのみが新たに成立したフランス統領政府の敵として残された。1802年にフランスとイギリスはアミアンの和約を結んだ。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "この10年間で初めて全てのヨーロッパ諸国に平和がもたらされたが、両陣営には依然として多くの問題が残されており、和約の実施は困難だった。イギリス政府は1793年以降の植民地征服のほとんどを無効にされたことに憤っていた。一方、ナポレオンはイギリス軍がマルタから撤収しないことに腹を立てていた。この緊張状態はナポレオンがハイチ革命を鎮圧すべく派兵したことで更に悪化する。1803年、イギリスはフランスに対して宣戦布告した。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1804年12月に締結されたイギリス=スウェーデン協定が第三次対仏大同盟の端緒となった。イギリス首相ウィリアム・ピットは1804年から1805年にかけて新たな対仏同盟を結成すべく活発な外交を展開し、1805年4月にロシアとの同盟を成立させた。二度に渡りフランスに敗北を喫し、復仇を望んでいたオーストリアも8月9日に同盟に加わった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ナポレオンは第三次対仏大同盟が結成されるよりも前にイギリス侵攻軍を編成し、北フランスのブローニュに6箇所の野営地をつくっていた。ナポレオンはこの軍隊でイギリスを撃破することを考えており、彼はイギリス征服を記念するメダルを製作させるほど成功を確信していた。ナポレオンの兵隊がイギリスの土を踏むことはなかったが、彼らはあらゆる作戦に対応できるよう、入念かつ重要な訓練を受けていた。兵士の間ではしばしば倦怠気分が引き起こされたが、ナポレオンは頻繁に彼らの元を訪問し、士気を高めるための軍事パレードを催している。", "title": "両軍" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "このブローニュの兵士たちが後に大陸軍(La Grande Armée)と呼ばれる軍隊の中核となった。当初、このフランス軍は7個軍団から成る約20万人で、各軍団は36から40門の大砲を有し、他の軍団が来援するまで単独で戦う能力を有していた。1個軍団は(もしも適切な防御拠点に配置されていたなら)支援なしで丸1日戦い続けることができ、このことは全ての戦役において大陸軍に計り知れない戦術的選択肢を与えることになる。これらの軍隊に加えて、ナポレオンは22,000人の予備騎兵部隊を創設しており、これは2個胸甲騎兵師団、4個乗馬竜騎兵師団、1個下馬竜騎兵師団、1個軽騎兵師団から成り、各々が砲24門を装備していた。1805年時点で、大陸軍は35万人に拡大しており、装備状況は良好で、よく訓練されており、優れた指揮官に率いられていた。", "title": "両軍" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1805年時点のロシア軍は旧体制組織(Ancien Régime)の性格を色濃く残しており、連隊より上には恒常的な編制はなく、上級将校は主に貴族階層から採用されており、任官は能力によるものではなく売官によるものであった。ロシア人兵士は訓練が不足しており、そして(18世紀の基準でも)頻繁に鞭打たれ、「修練を注入するために」手荒く扱われていた。加えて、将校の多くは能力不足であり、戦闘に必要な複雑な機動を兵士たちに実行させることは難しかった。しかしながら、ロシア軍は優秀な砲兵部隊を有しており、砲兵たちは大砲が敵の手に落ちぬよう常に勇敢に戦った。", "title": "両軍" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ロシア軍の兵站は現地調達と同盟軍のオーストリアに依るところが大きく、ロシア軍の補給の7割はオーストリアが提供していた。ロシア軍は確固とした兵站組織を欠き、その上に補給線が伸びきった状態であり、兵士たちは士気と健康を維持することが難しかった。", "title": "両軍" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "カール大公(オーストリア皇帝の弟)は1801年に軍制改革に着手し、宮廷戦争会議(Hofkriegsrat:オーストリア軍の意思決定を行う政治軍事会議)から実権を奪った。カール大公はオーストリア軍では最優秀の指揮官であったが、宮廷内では人気がなく、彼の意見に反して対仏開戦が決定された際には影響力を失っていた。代わってカール・マック中将が新たな総司令官となった。戦争の直前に彼は連隊の編制をこれまでの6個中隊から成る大隊が3個から、4個中隊から成る大隊4個に改編させた。この突然の改編に対応する士官の訓練は全く行われておらず、この結果、新編制の部隊は以前と同様の指揮統率をすることができなくなっていた。オーストリア騎兵はヨーロッパ最良と見なされていたが、騎兵部隊は多数の歩兵部隊に分遣されており、集中運用されたフランス騎兵に比してその有効性を減じていた。", "title": "両軍" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1805年8月、ナポレオン(前年12月にフランス皇帝に即位)は新たに現れたオーストリアおよびロシアの脅威に対処すべく、軍の目標をイギリス海峡からライン川へ振りかえた。9月10日にオーストリア軍がフランスの同盟国であるバイエルンに侵攻した。これに対して、ナポレオンは元老院においてバイエルン救援を宣言する。", "title": "1805年オーストリア戦役" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "約20万のフランス軍が隠密かつ迅速な行軍で、ライン川を渡河した。マック中将はオーストリア軍の主力をシュワーベン(現在の南ドイツ)のウルム要塞に集結させていた。ナポレオンは敵を欺くため一旦北へ軍を向けさせ、その後、大陸軍各軍団は南へ旋回してダニューブ川への強行軍を敢行し、フランス軍をオーストリア軍の背後に回り込ませた。この強行軍の成功により、ウルムに篭城していたマックのオーストリア軍23,000は10月20日に降伏を余儀なくされた。ナポレオンは皇后ジョゼフィーヌに宛てた手紙で、ここまでの戦役でオーストリア兵6万を捕虜にしたと述べている。", "title": "1805年オーストリア戦役" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この大勝利は、翌日に発生したトラファルガーの海戦での大敗によって水を差されたが、陸上での勝利は続き、11月にはフランス軍はウィーンを占領してマスケット銃10万丁、大砲500門を鹵獲し、更にドナウ川に架かる橋を無傷で手に入れた。", "title": "1805年オーストリア戦役" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "一方、ロシア軍の到着は遅れ、オーストリア軍救援に失敗した。このためロシア軍は北東へ退却して増援を待ち、その上でオーストリア軍の残存兵力と合流することにした 。ロシア皇帝アレクサンドル1世はミハイル・クトゥーゾフ大将をロシア=オーストリア連合軍の総司令官に任命した。1805年9月9日にクトゥーゾフは情報収集のため戦場へと赴いた。彼はオーストリア皇帝や廷臣たちと作戦計画や補給関連の協議を持った。クトゥーゾフの圧力により、オーストリアは軍需品や武器を適時かつ十分に提供することに同意させられた。また、彼はオーストリア軍の防衛計画の欠陥を指摘して「非常に教条主義的である」と評した。更に彼は、最近までナポレオンに統治されていた土地の併合にも住民の信頼を失う危険があるとして反対していた。しかしながら、クトゥーゾフの提案の多くは拒否されてしまう。", "title": "1805年オーストリア戦役" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "フランス軍は追撃したが、直ぐに自らが困難な状況にあることに気づいた。プロイセンの意図は不明確ではあるが、恐らくは敵対的であり、ロシア軍とオーストリア軍は既に合流しており、そして、イタリアを守っていたカール大公・ヨハン大公のオーストリア軍9万が未だ健在であり皇帝を救援すべく北上していた。これに加えてフランス軍の後方連絡線は極端に長くなっており、これを維持するために多数の守備兵を必要とした。ナポレオンはウルムでの勝利を確固たるものとする唯一の手段は連合軍に決戦を強いて撃破することであると確信していた。", "title": "1805年オーストリア戦役" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "一方のロシア軍では、総司令官クトゥーゾフは「自殺的な」オーストリア軍の防御計画に固執することなく、退却を決意していた。彼はピョートル・バグラチオン中将に兵600を率いてウィーンのフランス軍を牽制するよう命じ、フランス軍のミュラ元帥と停戦交渉をして撤退の時間稼ぎをした。ナポレオンはすぐにミュラの失敗に気づき、彼に迅速な追撃を命じたが、この時には既に連合軍はオルミュッツにまで退却していた。 クトゥーゾフの計画では連合軍はカルパティア地方にまで退却することになっており、「ガリツィアで、私はフランス軍を葬る」と語っている。", "title": "1805年オーストリア戦役" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "だが、ナポレオンはこの事態を座視はしなかった。彼は連合軍を誘い出すために心理的な罠を仕掛けた。会戦前の数日間、ナポレオンは自軍が窮状にあり、交渉による和平を望んでいるとの印象を連合軍に与えた。スールト元帥、ランヌ元帥そしてミュラ元帥の部隊を含む約53,000人のフランス軍がアウステルリッツとオルミュッツを結ぶ街道に布陣しており、敵軍の注意を引いていた。連合軍の兵力は89,000人であり、数で圧倒しており、劣勢なフランス軍を攻撃する誘惑に駆られていた。だが、連合軍は気づいていなかったが、ベルナドット元帥、モルティエ元帥そしてダヴー元帥の部隊が来援可能な距離にまで到着しており、更に必要ならばウィーンやイフラヴァの駐留部隊を強行軍によって呼び寄せることも可能だった。これによってフランス軍の兵力は75,000になり、数的劣勢を補うことができる。", "title": "1805年オーストリア戦役" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "策略はこれに留まらなかった。11月25日、サヴァリ (en) 将軍をオルミュッツの連合軍本営へ派遣して連合軍の状況を秘密裏に調べさせるとともに、戦闘を避けたい旨のナポレオンの伝言を伝えさせた。想定通りにこの伝言はナポレオンの弱気と見なされた。27日にフランツ1世が休戦を申し出るとナポレオンはこの受け入れに非常に乗り気な態度を示した。同日、ナポレオンはスールトにアウステルリッツおよびプラッツェン高地からの撤退と、退却に際して混乱している様子をつくり出すよう命じた。これによって連合軍はこの高地を占拠することになる。翌28日、ナポレオンはアレクサンドル1世との会見を申し出て、ロシア皇帝の側近であるドルゴロウキー伯爵の訪問を受け入れた。伯爵との会見は次の段階の策略だった。ナポレオンは敵に対して意図的に憂慮や焦燥の態度を見せ、ドルゴルーキーはこの様子をフランス軍の弱さの証拠としてロシア皇帝に報告した。", "title": "1805年オーストリア戦役" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "策略は成功した。ロシア皇帝の側近や、オーストリア軍参謀長フランツ・フォン・ワイロッテル (en) 少将を含む連合軍指揮官の多くが即時攻撃を支持し、アレクサンドル1世の意思を変えさせた。クトゥーゾフの意見は却下され、ここに連合軍はナポレオンの仕掛けた罠に嵌る事となった。", "title": "1805年オーストリア戦役" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "会戦に際してナポレオンは兵73,000、砲139門を集めたが、この内ダヴー元帥の兵7,000は未だウィーンからの行軍途上にあった。連合軍の総兵力は約84,500、砲278門であり、この内の7割がロシア兵である。フランス軍は兵数では劣勢であった。", "title": "作戦" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "当初、ナポレオンは勝利への完全な自信はなかった。外務大臣タレーランへの手紙で、皇后ジョゼフィーヌを不安にさせたくないので、来たる会戦については誰にも言わないよう依頼している。歴史学者フレデリック・C・シュナイドはナポレオンの関心はジョゼフィーヌの平静ではなく、フランス軍が敗れた時に彼女にどう言い訳するかであったと述べている。", "title": "作戦" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "会戦はブリュン(ブルノ)から南西 9.7 kmの地点、アウステルリッツ(現在のチェコ共和国領スラフコフ・ウ・ブルナ)との間で行われた。戦場の北部は標高210mのザソトン丘陵と標高260mのズラン高地に占められており、これらの丘陵からオルミュッツ=ブリュン街道を望むことができた。これらの丘陵の西側にはベロウィッツ村があり、間にボズニッツ川が流れ、南でゴルトバッハ川と合流しており、後者の川はコベルニッツ村、ソコルニッツ村そしてテルニッツ村にまたがって流れている。戦場の中央部はプラッツェン高地で標高11-12mのゆるやかな丘陵である。ナポレオンは元帥たちに繰り返しこう語っている。「諸君。この土地を念入りに調べておけ。ここが戦場となる。君達はここで戦うのだ。」", "title": "作戦" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "12月1日に開かれた連合軍の作戦会議では、連合軍指揮官の多くが会敵して南側面を制圧し、ウィーンとの連絡線を遮断する作戦を提案した。ロシア皇帝とその側近たちは攻撃を主張していたが、オーストリア皇帝はやや慎重であり、彼は連合軍総司令官であるクトゥーゾフの助言を受けていた。だが、ロシア貴族やオーストリア軍指揮官たちの攻撃論は強硬であり、最終的に連合軍はオーストリア軍参謀長ワイロッテルの作戦案を採用した。", "title": "作戦" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "この作戦案ではフランス軍右翼(南側)に対する攻撃を主攻とし、この意図を隠す為に敵軍左翼(北側)に助攻を仕掛けることになっていた。連合軍は戦力の大部分を4つの縦隊に編成させており、クトゥーゾフとブクスホーデンが指揮する、これらの縦隊がフランス軍右翼を攻撃、コンスタンツ大公のロシア軍近衛軍は予備戦力とされ、バグラチオン中将が右翼(北側)を守ることになった。", "title": "作戦" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "その上、ロシア皇帝は総司令官の権限をクトゥーゾフから奪い、オーストリア軍のワイロッテル少将に委ねてしまった。会戦ではクトゥーゾフは連合軍第4縦隊を率いるのみとなったが、ロシア皇帝は自らが選んだ作戦が失敗した際の責任を恐れてクトゥーゾフを名目上の総司令官職に留めている。", "title": "作戦" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ナポレオンは連合軍からの攻撃を望んでおり、このため彼は意図的に右翼(南側)を弱体化させている。11月28日、本営でナポレオンと元帥たちとが会見した際に元帥たちは来たる戦いへの懸念を表明した。彼らは撤退さえ進言したが、ナポレオンは部下たちの不安に対して肩をすくめるだけだった。", "title": "作戦" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "フランス軍とウィーンとの連絡線を断つべく連合軍はフランス軍右翼に対して戦力を集中させるとナポレオンは予想していた。その結果、連合軍中央部の側面が曝され弱体化する。彼らにそうさせるべく、ナポレオンは緊要地形であるプラッツェン高地の放棄までし、自軍の弱体化を装い、更には彼自身の焦燥した様子を敵に見せた。その一方でナポレオンは主力部隊を高地から死角になる場所に隠させている。作戦計画では、フランス軍はプラッツェン高地を奪回し、この高地から連合軍主力に対して決定的な攻撃を仕掛けて混乱させ、背面から包囲することになっていた。", "title": "作戦" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "連合軍中央部に対する主攻勢はスールト元帥率いる第4軍団の兵16,000によって行われる。第4軍団の位置は深い霧に覆われており、この霧がいつまで続くかがナポレオンの作戦にとって極めて重要であった。霧が早く晴れればスールトの部隊が暴露されてしまう。だが、霧があまりに長く残れば、連合軍がプラッツェン高地から離れたか否か分からず、攻撃のタイミングを適切に判断できなくなる。", "title": "作戦" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "その一方で、弱い右翼(南側)を補強するために、ナポレオンはウィーンにいるダヴー元帥の第3軍団に強行軍を命じ、連合軍主力からの猛攻を耐えねばならないフランス軍南方面を守備するルグラン (en) 師団将軍の部隊との合流を図らせた。ダヴーの部隊は110kmを48時間行軍せねばならなかった。彼らの到着には作戦の成否がかかっていた。", "title": "作戦" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "実際、ナポレオンの布陣では右翼は非常に危険なほど過少な兵力が守備に着いているだけだった。しかしながら、ナポレオンがこの様に危険な策を採った理由は二つあり、一つは第3軍団司令官のダヴーは配下の中でも最良の元帥だったこと、もう一つは右翼は河川と湖沼が入り混じった複雑な地形だったことである。更に、フランス軍は既にブリュン方面への第二の退却路を新設していた。皇帝近衛隊 (en) とベルナドット元帥の第1軍団は予備兵力とされ、ランヌ元帥の第5軍団が新設された連絡線を守る戦場北方面の守備に充てられた。", "title": "作戦" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1805年12月1日、連合軍がナポレオンの想定通りに南方へ移動し始めるに従い、フランス軍は配備位置に布陣した。", "title": "作戦" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "会戦前夜、ナポレオンが少数の護衛とともに前線の視察に出ると兵士たちが皇帝であると気づき、すぐに兵士たちは「皇帝万歳!」を叫び松明に火を灯して戴冠一周年を祝った。連合軍の司令官や兵士たちはこの様子を見て撤退の準備であると信じた。", "title": "作戦" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "戦いは12月2日午前8時に連合軍第1縦隊によるテルニッツ村攻撃で始まった。この村はフランス軍第3戦列歩兵連隊が守っていた。ここでは激しい戦闘が繰り広げられ、数次に渡る連合軍の突撃によってフランス軍は村から追い払われ、ゴルトバッハ川への後退を余儀なくされた。この時、ダヴー元帥の最初の部隊が戦場に到着し、テルニッツ村を奪回したが、彼らもまた連合軍驃騎兵からの攻撃を受けて村の放棄を余儀なくされた。テルニッツ村郊外からの連合軍の別の攻撃はフランス軍砲兵によって阻止されている。", "title": "会戦" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "連合軍縦隊はフランス軍右翼へと殺到し始めたが、期待された速さではなく、フランス軍はほとんどの場所で防御に成功している。実際に連合軍の展開は過ちを犯しており、戦機をも失していた。例えば連合軍左翼に布陣していたリヒテンシュタイン公の騎兵縦隊が右翼へ配置されることになり、配備地点へと移動する際にフランス軍右翼攻撃に向かっていた第2縦隊の歩兵部隊の中に飛び込んでしまい進軍を遅らせている。この時、指揮官たちは災厄と考えたが、後にこれが連合軍を助けることになる。", "title": "会戦" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "一方、第2縦隊先鋒はフランス軍第26戦列歩兵連隊と狙撃兵部隊(Tirailleur)が守るソコルニッツ村を攻撃した。連合軍の最初の攻撃は失敗するが、ランジュロン (en) 中将が村への砲撃を命じた。この猛砲撃によってフランス兵は村からの撤退を余儀なくされ、連合軍第3縦隊はソコルニッツ城を攻撃する。フランス軍は反撃をして村を奪回するも、再び退却を余儀なくされる。この区域の戦闘は第3軍団のフリアン (en) 師団が村を奪回することにより一時的に収まった。テルニッツ村とソコルニッツ村は、恐らくこの会戦最大の激戦区であり、この日は幾度も主を変えている。", "title": "会戦" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "連合軍がフランス軍右翼を攻撃している間、クトゥーゾフの第4縦隊はプラッツェン高地に留まり動かなかった。ナポレオンと同じく、クトゥーゾフはプラッツェン高地の重要性を認識しており、この場所を守る決意をしていた。だが、若いロシア皇帝の意思は異なり、クトゥーゾフに高地からの移動を厳命し、これが連合軍を死地へと追いやることになる。", "title": "会戦" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "午前8時45分頃、敵軍中央部が手薄になったと確認したナポレオンがスールト元帥に対して部隊が高地に到達する為に必要な時間を尋ねると彼は「20分以内です。陛下」と答えた。その15分後、ナポレオンは攻撃命令を下し、「ただ一撃で、この戦争は終わる」と付け加えた。", "title": "会戦" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "中央部攻撃を担当する部隊はスールト元帥の第4軍団に所属するサンティレール (en) 師団将軍とヴァンダム師団将軍が指揮する2個師団である。深い霧がサンティレール師団の前進を覆い隠したが、彼らが斜面を登っていると霧が晴れて太陽が浮き上がり、前進する兵たちを奮起させた。このエピソードは「アウステルリッツの太陽」(soleil d'Austerlitz)として知られる。丘の上のロシア兵と指揮官たちは、多数のフランス兵が彼らに向かって進撃している姿を見て驚愕した。", "title": "会戦" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ここで、フランス軍右翼への兵力移動が遅滞していたことが幸いし、連合軍指揮官は第4縦隊の一部を高地争奪戦に投入できた。だが、1時間を越える戦闘の後、この部隊のほとんどが壊滅してしまう。第2縦隊の兵士(そのほとんどが経験の浅いオーストリア兵)もまたこの戦闘に投入されて兵力が膨れ上がり、フランス軍に後退を強いた。だが死に物狂いになったサンティレールの兵士たちは再度猛攻撃を仕掛け、銃剣突撃により、連合軍を丘から撃退した。", "title": "会戦" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "北側ではヴァンダム師団がシュターレ・ヴィノフラディ(「古い葡萄園」)と呼ばれる地区で攻撃を行い、優れた小部隊戦術と痛烈な一斉射撃により、幾つかの連合軍大隊を撃破している。", "title": "会戦" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "クトゥーゾフは左翼軍司令のブクスホーデンに主力部隊を中央部へ差し向けるよう要請したが、ブクスホーデンは事態の重要性を未だに理解できておらず拒絶してしまう。", "title": "会戦" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "戦いはフランス軍優勢に転じたが、まだ終わってはいなかった。ナポレオンはベルナドット元帥の第1軍団にヴァンダム師団の左翼を支援するよう命じ、自らの本営をズラン高地からプラッツェン高地の聖アントニウス礼拝堂へ進めた。", "title": "会戦" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "危機的状況を受け、ロシア皇帝はロシア近衛軍の投入を決意した。ロシア皇帝の弟であるコンスタンチン大公が近衛騎兵を率いてヴァンダム師団に反撃を行い、この戦いにおいて唯一フランス軍旗(第4戦列歩兵連隊所属大隊の軍旗)を奪い取った。", "title": "会戦" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ナポレオンは自軍の苦戦を見て親衛重騎兵隊に前進を命じた。フランス軍親衛重騎兵隊がロシア軍近衛騎兵隊に突進したが、両軍とも多数の騎兵を送り込んだため決着はつかなかった。ロシア軍が数的には優勢だったが、程なくドルーエ師団(第1軍団所属)が参戦したため流れが変わった。ドルーエ師団が側面に展開して騎兵隊を退避させた。近衛隊の騎馬砲兵がロシア軍騎兵やフュージリアに多数の損害を与えた。ナポレオンは止めを刺すべく近衛擲弾兵とマムルーク兵を投入する。再起したフランス騎兵から400mに渡る追撃を受けてロシア近衛兵は撃破され、多数の戦死者を出した。犠牲者には重傷を負ったクトゥーゾフと戦死した彼の娘婿のティーゼンハウゼン伯爵 (en) も含まれる。", "title": "会戦" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "戦場の北側でも激戦が繰り広げられていた。ようやく配置位置に到着したリヒテンシュタイン公の重騎兵隊がケレルマン軽騎兵師団に攻撃を始めた。戦闘は当初フランス軍優勢であったが、ロシア兵の数が非常に多いと分かり、カファレリ (en) 師団の援護下に後退している。カファレリ師団がロシア軍の攻撃を食い止めたため、ミュラ元帥は2個胸甲騎兵師団(師団長はオートポール (en) とナンスティ (en) )を投入させ、ロシア騎兵の撃退に成功した。", "title": "会戦" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "混戦が激しくそして長く続いたが、最終的にフランス軍が打ち勝った。ランヌ元帥の第5軍団がバグラチオンの部隊に対して攻撃をし、熾烈な戦いの末にこの熟練したロシア軍司令官を戦場から後退させた。ランヌは追撃を求めたが、この地区の戦闘指揮を担当するミュラは反対した。", "title": "会戦" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ナポレオンの焦点は未だ両軍の間で戦闘が続いている戦場南端のソコルニッツ村とテルニッツ村へと移された。サンティレール師団と第3軍団の一部による二方向からの効果的な攻撃によってソコルニッツ村の連合軍は蹴散らされ、この方面の連合軍二個縦隊の司令官キンマイヤー (en) 中将とランジュロン中将に早急な撤退を決意させた。この時、泥酔していた連合軍左翼司令官ブクスホーデン (en) 大将もまた逃げ出した。キンマイヤーとオライリー軽騎兵部隊が殿(しんがり)を務め、襲いかかる6個フランス騎兵連隊の内5個までを撃退する奮戦をした後に撤退した。", "title": "会戦" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "パニックが連合軍全体に広がり、持ち場を離れて潰走し始めた。有名かつ凄惨なエピソードはこの敗走に際して起こった。フランス軍に敗れウィーン方向へと逃れようとしたロシア兵が凍結したザッチャン池を渡っていた。フランス砲兵が彼らを砲撃すると氷が割れ、ロシア兵たちと大砲数十門が冷たい池に落ちた。犠牲者数は資料によって異なり、少ないもので100人程度であり、多いものでは1万人以上になっている。", "title": "会戦" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "『大陸軍戦闘詳報』はこの事件で2万人が溺死したと誇張して報告しており、ロシア皇帝はこの破滅的な大敗の言い訳としてこの見積もりを黙認した。溺れたロシア兵の多くが、勝者となったフランス兵によって救助されている。暫く後に公になった現地の地方判事の記録によると、この大惨事に関するナポレオンの記録は全くの創作ということになる。会戦の数日後、皇帝の命令により池の水が排水させられたが、池の底からは僅か2から3体の死体と150頭の馬の死体が発見されただけだった。", "title": "会戦" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "連合軍の死傷者は15,000人に上った。フランス軍の死傷者は8,233人である。加えて、連合軍は大砲180門と軍旗50本を失っている。この大勝利の報は前日まで財政破綻の危機に動揺していたパリに大きな歓喜と昂奮状態をもたらした。ナポレオンは皇后ジョゼフィーヌに対し「私は二人の皇帝に率いられたオーストリア=ロシア軍を叩きのめした。私は少しばかり疲れた...あなたを抱きしめたい」と書き送っている。一方、皇帝アレクサンドル1世は「我々は巨人の前の赤子だった」と嘆いている。", "title": "会戦" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "12月4日、オーストリア皇帝フランツ1世はナポレオンと会見して和平を求めた。この22日後にプレスブルクの和約が締結され、オーストリアは戦争から脱落した。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "オーストリアはカンポ・フォルミオ条約(1797年)とリュネヴィルの和約(1801年)での領土のフランスへの割譲を再確認して5000万フランもの賠償金を課せられ、加えてナポレオンの同盟国であったバイエルン、ヴュルテンベルクそしてバーデンに領土の割譲を強いられ、またナポレオンの衛星国であるイタリア王国へヴェネツィア、イストリア、ダルマチアを譲渡せねばならなかった。これらの条項は過酷ではあったが、オーストリアにとって破滅的なものではなかったのも確かである。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ロシア軍は祖国への撤退を許され、フランス軍は南ドイツに駐屯した。翌1806年1月にイギリス首相ウィリアム・ピットが急死し、第三次対仏大同盟は瓦解した。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "アウステルリッツの勝利によって、フランスと中欧との緩衝地帯としてのライン同盟が成立する。1806年、神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位を表明し、オーストリア皇帝フランツ1世の称号のみを留めた。これらの成果は、ヨーロッパ大陸に恒久的な平和をもたらしはしなかった。プロイセンは中欧へのフランスの影響力伸長を警戒し、翌1806年に第四次対仏大同盟戦争を引き起こすことになる。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "会戦後、ナポレオンは兵士たちを讃える演説を行った。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "兵士たちよ、私は諸君に満足している。 諸君は、アウステルリッツの戦いにおいて、私が諸君の勇敢にかけた期待を裏切らなかった。諸君は諸君の軍旗を不滅の栄光によって飾った。ロシア皇帝とオーストリア皇帝の指揮する10万の軍は、4時間足らずして、分断され四散させられた。諸君の砲火を免れた者も湖に溺れて死んだ。ロシアの近衛隊の40本の軍旗、120門の大砲、20人の将軍、3万以上の捕虜が、永久に栄光に輝くこの日の戦果である。諸君にはもはや恐れるべき敵はいない。 兵士たちよ、我々の祖国の幸福と繁栄のために必要なことがなされたときには、私は諸君をフランスへ帰すであろう。国民は諸君の帰還を喜ぶであろう。そして諸君は、「アウステルリッツの戦いに加わっていた」と言いさえすれば、こういう答えを受けるであろう。「ああ、この人は勇士だ!」と。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ナポレオンは上級将校に200万フラン、兵士には各々200フランを下賜し、戦死した兵士の未亡人たちには多額の年金が与えられた。孤児となった子供たちはナポレオンが養子とし、洗礼名または家名に「ナポレオン」を称することを許した。一方で、彼はこの様な大勝利の後では通例である司令官たちの叙爵を行っていない。ナポレオンはアウステルリッツはあくまでも彼個人の勝利であり、他人を昇進させるべきものではないと考えていたためであろう。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "パリ市内のヴァンドーム広場に立つコラム(立柱)はアウステルリッツの戦いで鹵獲した大砲を鋳潰して製作された。このコラムはナポレオンの没落後のフランスの国内情勢の変遷により論争の対象になり、頂上のナポレオン立像を取り除かれたり、パリ・コミューンの際には倒されたこともあった。コラムはパリ・コミューン崩壊後に再建され、現在の姿で残っている。また、アウステルリッツの戦勝を記念して1806年にエトワール凱旋門の建設が決められた(完成は1836年)。パリにはこの会戦に由来するオステルリッツ駅(Gare d'Austerlitz)がある。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "古戦場であるチェコのスラフコフ・ウ・ブルナには平和記念碑や戦跡碑がある。会戦200周年となる2005年には同市で記念式典が開かれたが、フランス国内でナポレオンの歴史的評価を巡る後述の論争が引き起こされ、大統領や首相は出席せず、ミシェル・アリヨ=マリー国防大臣のみが出席した。この町では毎年アウステルリッツの戦いを再現するイベントが催されている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "オランダのユトレヒトには「アウステルリッツのピラミッド」(Pyramide van Austerlitz)と呼ばれる記念碑がある。これはオランダに駐屯していたオーギュスト・マルモン将軍が1804年に築かせたもので、エジプト・シリア戦役の際に目にしたピラミッドをモチーフにしている。元々はアウステルリッツの戦いとは関係のない建築物だったが、1806年にオランダ王となったナポレオンの弟ルイ・ボナパルトが兄の戦勝を記念して命名したものである。ルイ・ボナパルトは更にユトレヒト近郊の町をアウステルリッツ (en) と命名している。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "アウステルリッツの戦いはレフ・トルストイの小説『戦争と平和』のストーリーの重要なイベントとなっている。この会戦はフランス人の粗雑な論理や傲慢さに対してロシア人の価値観や超俗的な伝統そして素朴さを称揚する役割を果たすエピソードとなっている。会戦が始まろうとしていたとき、主要登場人物であるアンドレイ公は「来たる日が、彼にとってのトゥーロンまたはアルコラ(ナポレオンの初期の戦勝)になるのだろうか」と思いを巡らせている。アンドレイ公は栄光を望み、「私は先頭に立って進み、私の前に来るもの全てを一掃してやる」と決意した。だが、戦闘後に彼は敵の捕虜になり、彼にとっての英雄であるナポレオンと出会う。そして、それ以前の心酔は打ち砕かれ、彼はもうナポレオンについて考えなくなる。「つまらない虚栄心や勝利への喜びを称えた英雄の姿は、彼が見た高く、高潔で、寛大な空に比べて、ひどくちっぽけなものに見えた。」", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "トルストイはアウステルリッツの戦いをロシア人の最初の試練として描いている。兵士たちが栄光や報酬のために戦うという過ちを犯したためこの戦いに敗れた。トルストイは1812年のナポレオンによるロシア遠征のボロジノの戦いの際により崇高な価値が生み出されたとしている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ナポレオンは連合軍撃滅に関して、その望みを完全に達成したわけはなかったが、歴史家や信奉者たちは当初の作戦により、十分な勝利を得たと考えてきた。このため、アウステルリッツの戦いはカンナエの戦いやブレンハイムの戦いといったその他の戦術的大勝利としばしば比肩される。幾人かの歴史家たちは、アウステルリッツの戦いで大勝しすぎたため、ナポレオンは現実感覚を失ってしまい、この戦い以降、フランス外交は「ナポレオンの私有物」と化したと指摘している。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "フランス史においてこの戦いは偉大な勝利と認識されており、第一帝政に対する憧憬が高まった19世紀にこの戦いは敬慕され、同時代の詩人ヴィクトル・ユーゴーは「深い思索の中で...アウステルリッツへ向けた大砲の轟音が鳴り響く」と描写している。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "しかしながら、2005年の会戦200周年に際してはジャック・シラク大統領またはドミニク・ガルゾー・ド・ビルパン首相が記念式典に出席すべきか否かを巡って論争が起こっている。一方、フランス海外県の住民の一部はナポレオンは植民地での虐殺に関与したと見なしており、アウステルリッツの戦いは祝われるべきではないと主張し「ナポレオンを公的に祝賀する」式典に反対した。", "title": "評価" } ]
アウステルリッツの戦いは、1805年12月2日(露暦11月20日、フランス革命暦フリメール11日)にオーストリア領(現チェコ領)モラヴィアのブルノ近郊の町アウステルリッツ(現在のスラフコフ・ウ・ブルナ)郊外で、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍(大陸軍)が、ロシア・オーストリア連合軍を破った戦いである。 フランス皇帝ナポレオン1世、オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)、ロシア皇帝アレクサンドル1世の3人の皇帝が参加したことから三帝会戦とも呼ばれる。なお、実際にはフランツ2世は戦場から離れた場所にいた。 1805年、オーストリアはロシア、イギリスなどと第三次対仏大同盟を結成し、バイエルンへ侵攻した。ナポレオン率いるフランス軍はウルムの戦いでオーストリア軍部隊を降伏させ、11月13日にウィーンへ入城した。フランツ1世はモラヴィアへ後退し、アレクサンドル1世とクトゥーゾフの率いるロシア軍と合流した。 ナポレオンもドナウ川を渡ってモラヴィアへ進出し、アウステルリッツ西方へ布陣した。そのころ、いまだイタリア方面にはカール大公のオーストリア軍部隊がほぼ無傷で残っており、これらの部隊が集結する前にロシア・オーストリア連合軍主力を叩く必要があった。そこでナポレオンは、敵の攻撃を誘うため、罠を仕掛けた。 ナポレオンの戴冠式から1周年の記念日にあたる1805年12月2日午前8時、ロシア・オーストリア連合軍約85,000はアウステルリッツ西方のプラツェン高地へ進出し、優勢な兵力をもってフランス軍への攻撃を開始した。 フランス軍は73,000と劣勢であった。またその布陣は、後方との連絡線確保のうえで重要な右翼(南側)が手薄であった。アレクサンドル1世はこれを好機とみて、主力をプラツェン高地からフランス軍右翼へと向かわせた。フランス軍右翼を守るダヴーの第3軍団は攻撃に耐え切れずに押し下げられたかに見え、さらに多くの連合軍部隊がフランス軍の陣前を横切ってフランス軍右翼へ殺到した。 だが、ナポレオンは、手薄になった連合軍の中央部にニコラ=ジャン・ド・デュ・スールトの第4軍団を突入させた。中央を守っていたクトゥーゾフはロシア近衛軍団を投入し、フランス軍と激戦を繰り広げたが、ベルナドットの第1軍団の援護とナポレオンによる近衛隊の投入によってプラツェン高地の連合軍は突破された。中央突破に成功したスルト軍団は、ダヴー軍団と協力して、フランス軍右翼へ殺到していた連合軍部隊を挟撃した。夕刻までに、連合軍は15,000人の死傷者と多数の捕虜を出し、散り散りになって敗走した。 12月26日、オーストリアはプレスブルクの和約を締結してフランスへ屈服し、第三次対仏大同盟は崩壊した。フランツ2世は神聖ローマ皇帝位から退位。神聖ローマ帝国は解体され、ドイツにはライン同盟が成立した。 アウステルリッツの戦いとそれまでの戦役はヨーロッパ政治の性格を大きく変えた。3ヶ月間でフランス軍はウィーンを占領し、2カ国の軍隊を打ち破り、オーストリア帝国を屈服させた。アウステルリッツの戦いは10年近くに及ぶフランスによるヨーロッパの覇権を容易にしたが、より直接的な影響は翌1806年の対プロイセン戦役である。
{{Battlebox |battle_name=アウステルリッツの戦い |campaign= |colour_scheme=background:#cccccc |image=[[画像:Austerlitz-baron-Pascal.jpg|350px]] |caption=アウステルリッツの戦いのナポレオン<br>[[フランソワ・ジェラール]]{{enlink|François Gérard|en}}画<ref>{{Cite book|和書 |author=中野京子|authorlink=中野京子 |year = 2014 |title = 名画で読み解く ロマノフ家12の物語 |publisher = [[光文社]] |page = 128 |isbn = 978-4-334-03811-3}}</ref> |conflict=[[オーストリア戦役 (1805年)]]([[ナポレオン戦争]]) |date=[[1805年]][[12月2日]]<ref>{{Cite news|url=https://book.asahi.com/jinbun/article/13564561|title=「空飛ぶ救急車」やトリアージが、世界史に初登場するのはいつ?|newspaper=じんぶん堂|date=2020-07-23|accessdate=2020-12-02}}</ref> |place=[[オーストリア帝国]]領(現[[チェコ]]領)[[ブルノ]]近郊の町アウステルリッツ(現在の[[スラフコフ・ウ・ブルナ]]) |result=フランスの勝利<br> *[[第三次対仏大同盟]]崩壊 *[[神聖ローマ帝国]]消滅 *[[ライン同盟]]成立 |combatant1={{FRA1804}} |combatant2={{AUT1804}}<br>{{RUS1883}} |commander1={{Flagicon|FRA}} [[ナポレオン・ボナパルト]] |commander2={{Flagicon|AUT1804}} [[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]<br>{{Flagicon|RUS}} [[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]<br>{{Flagicon|RUS}} [[ミハイル・クトゥーゾフ]] |strength1=73,000人<ref group=nb name="frenchnumbers"> フランス軍の総兵力は資料によって異なる。65,000人、67,000人、73,000人または75,000などの人数があるが、文学ではこれらとも異なる人数も現れる。この様な食い違いが生じる理由はダヴー元帥の第3軍団7,000人が開戦時には戦場に到着していなかったためである。この部隊の兵数を含めるか否かは解釈による。この項目では開戦時に戦場に布陣した67,000に加えている。David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon. p. 416 では第3軍団を除外して67,000人としている。</ref> |strength2=84,500人<ref group=nb name="alliednumbers">連合軍の兵数は資料によって大きく異なる。73,000、84,000または85,000などの人数があり、文学では更に異なる人数もある。 *73,000人 - Andrew Uffindell, Great Generals of the Napoleonic Wars. p. 25 *85,400人 - David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon. p. 417 ''In Napoleon and Austerlitz'' (1997)でScott Bowdenは連合軍総兵力の通説は85,000人だが、これは部隊編制からの理論上の人数であり、実際に戦場にいた人数ではないと指摘している。 </ref> |casualties1=戦死1,305人<ref name="sigaki130">[[#志垣(1996)|志垣(1996)]],p.130.</ref><br>負傷6,940人{{R|sigaki130}}<br>捕虜573人{{R|sigaki130}}<br>軍旗1本喪失{{R|casualties}} |casualties2=死傷者15,000人<ref group=nb name=sisyou>[[#志垣(1996)|志垣(1996)]],p.130.および大橋(1983),p.197.より。連合軍の死傷者数は資料によって異なり、[[#ジョフラン(2011)|ジョフラン(2011)]],p.139.では27,000人になっている。</ref><br>捕虜20,000人<ref group=nb>[[#長塚(1986)|長塚(1986)]],p.206.および[[#大橋(1983)|大橋(1983)]],p.197.より。捕虜の人数は資料によって異動があり、[[#志垣(1996)|志垣(1996)]],p.130.では30,000人になっている。</ref><br>砲180門{{R|nagatuka206}}<br>軍旗50本喪失{{R|casualties}} |}} '''アウステルリッツの戦い'''(アウステルリッツのたたかい、{{lang-fr-short|Bataille d'Austerlitz}}、{{lang-de-short|Schlacht von Austerlitz}}、{{lang-ru-short|Битва под Аустерлицем}})は、[[1805年]][[12月2日]]([[ユリウス暦|露暦]]11月20日、[[フランス革命暦]]フリメール11日)に[[オーストリア帝国|オーストリア]]領(現[[チェコ]]領)[[モラヴィア]]の[[ブルノ]]近郊の町アウステルリッツ(現在の[[スラフコフ・ウ・ブルナ]])郊外で、[[ナポレオン・ボナパルト]]率いるフランス軍([[大陸軍 (フランス)|大陸軍]])が、ロシア・オーストリア連合軍を破った戦いである。 [[フランス皇帝]]ナポレオン1世、[[オーストリア皇帝]][[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]([[神聖ローマ皇帝]]フランツ2世)、[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]の3人の[[皇帝]]が参加したことから'''三帝会戦'''(さんていかいせん、{{lang-fr-short|bataille des Trois Empereurs}}、{{lang-de-short|Dreikaiserschlacht}}、{{lang-ru-short|битва трёх императоров}})とも呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/アウステルリッツの戦い-23995 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-18 }}</ref>。なお、実際にはフランツ2世は戦場から離れた場所にいた<ref>[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]], p. 432–433.</ref>。 1805年、[[オーストリア帝国|オーストリア]]は[[ロシア帝国|ロシア]]、[[イギリス]]などと[[第三次対仏大同盟]]を結成し、[[バイエルン選帝侯領|バイエルン]]へ侵攻した。ナポレオン率いるフランス軍は[[ウルムの戦い]]でオーストリア軍部隊を降伏させ、11月13日に[[ウィーン]]へ入城した。[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]は[[モラヴィア]]へ後退し、[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]と[[ミハイル・イラリオーノヴィチ・クトゥーゾフ|クトゥーゾフ]]の率いるロシア軍と合流した。 ナポレオンも[[ドナウ川]]を渡って[[モラヴィア]]へ進出し、アウステルリッツ西方へ布陣した。そのころ、いまだイタリア方面には[[カール・フォン・エスターライヒ=テシェン|カール大公]]のオーストリア軍部隊がほぼ無傷で残っており、これらの部隊が集結する前にロシア・オーストリア連合軍主力を叩く必要があった。そこでナポレオンは、敵の攻撃を誘うため、罠を仕掛けた。 ナポレオンの戴冠式から1周年の記念日にあたる1805年12月2日午前8時、ロシア・オーストリア連合軍約85,000はアウステルリッツ西方のプラツェン高地へ進出し、優勢な兵力をもってフランス軍への攻撃を開始した。 [[フランス軍]]は73,000と劣勢であった。またその布陣は、後方との連絡線確保のうえで重要な右翼(南側)が手薄であった。[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]はこれを好機とみて、主力を[[プラツェン高地]]からフランス軍右翼へと向かわせた。フランス軍右翼を守る[[ルイ=ニコラ・ダヴー|ダヴー]]の第3軍団は攻撃に耐え切れずに押し下げられたかに見え、さらに多くの連合軍部隊がフランス軍の陣前を横切ってフランス軍右翼へ殺到した。 だが、ナポレオンは、手薄になった連合軍の中央部に[[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト]]の第4軍団を突入させた。中央を守っていたクトゥーゾフはロシア近衛軍団を投入し、フランス軍と激戦を繰り広げたが、[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ベルナドット]]の第1軍団の援護とナポレオンによる[[古参近衛隊|近衛隊]]の投入によってプラツェン高地の連合軍は突破された。中央突破に成功したスルト軍団は、ダヴー軍団と協力して、フランス軍右翼へ殺到していた連合軍部隊を挟撃した。夕刻までに、連合軍は15,000人の死傷者<ref>[[#志垣(1996)|志垣(1996)]],p.130.</ref>と多数の捕虜を出し、散り散りになって敗走した。 12月26日、オーストリアは[[プレスブルクの和約]]を締結してフランスへ屈服し、第三次対仏大同盟は崩壊した。フランツ2世は神聖ローマ皇帝位から退位。[[神聖ローマ帝国]]は解体され、ドイツには[[ライン同盟]]が成立した。 アウステルリッツの戦いとそれまでの戦役はヨーロッパ政治の性格を大きく変えた。3ヶ月間でフランス軍はウィーンを占領し、2カ国の軍隊を打ち破り、オーストリア帝国を屈服させた。アウステルリッツの戦いは10年近くに及ぶフランスによるヨーロッパの覇権を容易にしたが、より直接的な影響は[[第四次対仏大同盟|翌1806年の対プロイセン戦役]]である。 ==背景== 1792年に勃発した[[フランス革命戦争]]以降、ヨーロッパは騒乱状態にあった。戦争5年目の1797年に[[フランス第一共和政|フランス共和国]]は[[第一次対仏大同盟]]を屈服させた。1798年に[[第二次対仏大同盟]]が結成されたが、1801年までにこの同盟も敗退し、イギリスのみが新たに成立したフランス[[統領政府]]の敵として残された。1802年にフランスとイギリスは[[アミアンの和約]]を結んだ。 この10年間で初めて全てのヨーロッパ諸国に平和がもたらされたが、両陣営には依然として多くの問題が残されており、和約の実施は困難だった。イギリス政府は1793年以降の植民地征服のほとんどを無効にされたことに憤っていた。一方、ナポレオンはイギリス軍が[[マルタ]]から撤収しないことに腹を立てていた<ref name="amiens">[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]],p. 304.</ref>。この緊張状態はナポレオンが[[ハイチ革命]]を鎮圧すべく派兵したことで更に悪化する<ref name="force">[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]],p. 320.</ref>。1803年、イギリスはフランスに対して宣戦布告した。 1804年12月に締結されたイギリス=スウェーデン協定が第三次対仏大同盟の端緒となった。イギリス首相[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]]は1804年から1805年にかけて新たな対仏同盟を結成すべく活発な外交を展開し、1805年4月にロシアとの同盟を成立させた<ref group=nb name="suspicion&mistakes">イギリスはバルト海経由で木材、タール、麻といった生活必需品を輸入しており、ロシアによるバルト海支配は好ましいものではなかった。加えてイギリスはロシアの[[地中海]]進出を阻止すべく[[オスマン帝国]]を支援していた。一方、フランスによるドイツ諸邦再編はロシアとの協議なく行われており、ナポレオンによる[[ポー川|ポー渓谷]]併合は両国関係を険悪化させた。[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]],p. 328. </ref>。二度に渡りフランスに敗北を喫し、復仇を望んでいたオーストリアも8月9日に同盟に加わった<ref name="revenge">[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]],p. 331.</ref><ref>[[#長塚(1986)|長塚(1986)]],p172.</ref>。 == 両軍 == [[画像:Napoleon Grenadier of 1808 by Bellange.jpg|サムネイル|150px|大陸軍の擲弾兵(左)と選抜歩兵(右)]] ===大陸軍(フランス軍)=== {{main|大陸軍 (フランス)}} ナポレオンは第三次対仏大同盟が結成されるよりも前にイギリス侵攻軍を編成し、北フランスの[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]に6箇所の野営地をつくっていた。ナポレオンはこの軍隊でイギリスを撃破することを考えており、彼はイギリス征服を記念するメダルを製作させるほど成功を確信していた<ref>[http://www.channel4.com/history/microsites/H/history/guide18/timeline16.html Channel4 Time Traveller series]</ref>。ナポレオンの兵隊がイギリスの土を踏むことはなかったが、彼らはあらゆる作戦に対応できるよう、入念かつ重要な訓練を受けていた。兵士の間ではしばしば倦怠気分が引き起こされたが、ナポレオンは頻繁に彼らの元を訪問し、士気を高めるための軍事パレードを催している<ref name="morale">[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]],p. 323.</ref>。 このブローニュの兵士たちが後に'''大陸軍'''(''La Grande Armée'')と呼ばれる軍隊の中核となった。当初、このフランス軍は7個[[軍団]]から成る約20万人で、各軍団は36から40門の[[カノン砲|大砲]]を有し、他の軍団が来援するまで単独で戦う能力を有していた<ref name="Chandler 332">[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]],p. 332.</ref>。1個軍団は(もしも適切な防御拠点に配置されていたなら)支援なしで丸1日戦い続けることができ、このことは全ての戦役において大陸軍に計り知れない戦術的選択肢を与えることになる。これらの軍隊に加えて、ナポレオンは22,000人の予備騎兵部隊を創設しており、これは2個[[胸甲騎兵]][[師団]]、4個乗馬[[竜騎兵]]師団、1個下馬竜騎兵師団、1個軽騎兵師団から成り、各々が砲24門を装備していた{{R|Chandler 332}}。1805年時点で、大陸軍は35万人に拡大しており<ref name="grown">[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]],p. 333.</ref>、装備状況は良好で、よく訓練されており、優れた指揮官に率いられていた。 ===ロシア軍=== {{multiple image|image1=Un-hus8Luben.jpg|image2=K.u.k. InfRgt Nr. 4 1804.jpg|width1=150|width2=150|footer=ロシア軍軽騎兵(左)とオーストリア軍歩兵連隊の兵士(右)}} 1805年時点のロシア軍は旧体制組織(''[[:en:Ancien Régime|Ancien Régime]]'')の性格を色濃く残しており、[[連隊]]より上には恒常的な編制はなく、上級将校は主に貴族階層から採用されており、任官は能力によるものではなく売官によるものであった。ロシア人兵士は訓練が不足しており<ref>[[#藤沼(1966)|藤沼(1966)]],pp.548-549</ref>、そして(18世紀の基準でも)頻繁に鞭打たれ、「修練を注入するために」手荒く扱われていた。加えて、将校の多くは能力不足であり<ref>[[#藤沼(1966)|藤沼(1966)]],p.549.</ref>、戦闘に必要な複雑な機動を兵士たちに実行させることは難しかった。しかしながら、ロシア軍は優秀な砲兵部隊を有しており、砲兵たちは大砲が敵の手に落ちぬよう常に勇敢に戦った<ref name="russianarmy">[[#Fisher&Fremont-Barnes(2004)|Fisher&Fremont-Barnes(2004)]], p. 33</ref>。 ロシア軍の兵站は現地調達と同盟軍のオーストリアに依るところが大きく、ロシア軍の補給の7割はオーストリアが提供していた。ロシア軍は確固とした兵站組織を欠き、その上に補給線が伸びきった状態であり、兵士たちは士気と健康を維持することが難しかった。 ===オーストリア軍=== [[カール・フォン・エスターライヒ=テシェン|カール大公]](オーストリア皇帝の弟)は1801年に軍制改革に着手し、[[宮廷戦争会議]](''[[:en:Hofkriegsrat|Hofkriegsrat]]'':オーストリア軍の意思決定を行う政治軍事会議)から実権を奪った<ref name="hofkriegsrat">[[#Fisher&Fremont-Barnes(2004)|Fisher&Fremont-Barnes(2004)]], p. 31.</ref>。カール大公はオーストリア軍では最優秀の指揮官であったが<ref name="best">[[#Uffindell(2003)|Uffindell(2003)]], p. 155</ref>、宮廷内では人気がなく、彼の意見に反して対仏開戦が決定された際には影響力を失っていた。代わって[[カール・マック・フォン・ライベリッヒ|カール・マック]]中将が新たな総司令官となった。戦争の直前に彼は連隊の編制をこれまでの6個[[中隊]]から成る[[大隊]]が3個から、4個中隊から成る大隊4個に改編させた。この突然の改編に対応する士官の訓練は全く行われておらず、この結果、新編制の部隊は以前と同様の指揮統率をすることができなくなっていた<ref name="Fisher Fremont-Barnes 32">[[#Fisher&Fremont-Barnes(2004)|Fisher&Fremont-Barnes(2004)]], p. 32.</ref><ref>[[#Stutterheim(1807)|Stutterheim(1807)]],p.46.</ref>。オーストリア騎兵はヨーロッパ最良と見なされていたが、騎兵部隊は多数の歩兵部隊に分遣されており、集中運用されたフランス騎兵に比してその有効性を減じていた{{R|Fisher Fremont-Barnes 32}}。 ==1805年オーストリア戦役== {{main|第三次対仏大同盟}} [[画像:Charles Thévenin - Reddition de la ville d'Ulm.jpg|320px|サムネイル|左|ナポレオンはウルムでマック中将のオーストリア軍の降伏を受け入れた。[[シャルル・テブナン (画家)|シャルル・テブナン]](Charles Thévenin)画。]] 1805年8月、ナポレオン(前年12月に[[フランス皇帝]]に即位)は新たに現れたオーストリアおよびロシアの脅威に対処すべく、軍の目標を[[イギリス海峡]]から[[ライン川]]へ振りかえた<ref>[[#長塚(1986)|長塚(1986)]],pp.173-174.</ref>。9月10日にオーストリア軍がフランスの同盟国である[[バイエルン公国|バイエルン]]に侵攻した。これに対して、ナポレオンは[[護憲元老院|元老院]]においてバイエルン救援を宣言する<ref>[[#長塚(1986)|長塚(1986)]],pp.175-176.</ref>。 約20万のフランス軍が隠密かつ迅速な行軍で<ref name="troops">[[#Brooks(2000)|Brooks(2000)]], p. 108.</ref>、ライン川を渡河した<ref name="miles">[[#Uffindell(2003)|Uffindell(2003)]],p. 15.</ref>。マック中将はオーストリア軍の主力をシュワーベン(現在の南ドイツ)の[[ウルム]]要塞に集結させていた。ナポレオンは敵を欺くため一旦北へ軍を向けさせ、その後、大陸軍各軍団は南へ旋回して[[ダニューブ川]]への強行軍を敢行し、フランス軍をオーストリア軍の背後に回り込ませた<ref>[[#ジョフラン(2011)|ジョフラン(2011)]],pp.117-122.</ref>。この強行軍の成功により、ウルムに篭城していたマックのオーストリア軍23,000は10月20日に降伏を余儀なくされた。ナポレオンは皇后[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ|ジョゼフィーヌ]]に宛てた手紙で、ここまでの戦役でオーストリア兵6万を捕虜にしたと述べている{{R|miles}}<ref>[[#長塚(1986)|長塚(1986)]],p.181.</ref><ref group=nb>これは誇大報告で、実際には捕虜は25,000人程度とみられている。[[#本池(1996)|本池(1996)]],p.35</ref>。 この大勝利は、翌日に発生した[[トラファルガーの海戦]]での大敗によって水を差されたが、陸上での勝利は続き、11月にはフランス軍は[[ウィーン]]を占領してマスケット銃10万丁、大砲500門を鹵獲し、更に[[ドナウ川]]に架かる橋を無傷で手に入れた<ref name="vienna">[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]], p.407.;[[#ジョフラン(2011)|ジョフラン(2011)]],p.124.</ref><ref group=nb>オーストリア軍は橋を爆破しようとしていたが、ランヌ元帥とミュラ元帥の機転により、無傷でフランス軍に奪取された。[[#大橋(1983)|大橋(1983)]],p.206.</ref>。 一方、ロシア軍の到着は遅れ、オーストリア軍救援に失敗した。このためロシア軍は北東へ退却して増援を待ち、その上でオーストリア軍の残存兵力と合流することにした 。ロシア皇帝[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]は[[ミハイル・クトゥーゾフ]]大将をロシア=オーストリア連合軍の総司令官に任命した。1805年9月9日にクトゥーゾフは情報収集のため戦場へと赴いた。彼はオーストリア皇帝や廷臣たちと作戦計画や補給関連の協議を持った。クトゥーゾフの圧力により、オーストリアは軍需品や武器を適時かつ十分に提供することに同意させられた。また、彼はオーストリア軍の防衛計画の欠陥を指摘して「非常に教条主義的である」と評した。更に彼は、最近までナポレオンに統治されていた土地の併合にも住民の信頼を失う危険があるとして反対していた。しかしながら、クトゥーゾフの提案の多くは拒否されてしまう{{R| lvq10 }}。 {{-}} [[画像:Austerlitz campaign - General situation, 25 November 1805.jpg|サムネイル|350px|1805年オーストリア戦役関係地図]] フランス軍は追撃したが、直ぐに自らが困難な状況にあることに気づいた。プロイセンの意図は不明確ではあるが、恐らくは敵対的であり<ref name="joffrin125">[[#ジョフラン(2011)|ジョフラン(2011)]],p.125.</ref>、ロシア軍とオーストリア軍は既に合流しており、そして、イタリアを守っていたカール大公・[[ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ|ヨハン大公]]のオーストリア軍9万が未だ健在であり皇帝を救援すべく北上していた{{R|joffrin125}}<ref name="ohashi194">[[#大橋(1983)|大橋(1983)]],p.194.</ref>。これに加えてフランス軍の後方連絡線は極端に長くなっており、これを維持するために多数の守備兵を必要とした<ref>[[#ジョフラン(2011)|ジョフラン(2011)]],pp.124-125.</ref>。ナポレオンはウルムでの勝利を確固たるものとする唯一の手段は連合軍に決戦を強いて撃破することであると確信していた<ref name="battle">[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]], p. 409.</ref>。 一方のロシア軍では、総司令官クトゥーゾフは「自殺的な」オーストリア軍の防御計画に固執することなく、退却を決意していた。彼は[[ピョートル・バグラチオン]]中将に兵600を率いてウィーンのフランス軍を牽制するよう命じ、フランス軍の[[ジョアシャン・ミュラ|ミュラ]]元帥と停戦交渉をして撤退の時間稼ぎをした<ref>[[#長塚(1986)|長塚(1986)]],p.191.</ref>。ナポレオンはすぐにミュラの失敗に気づき、彼に迅速な追撃を命じたが、この時には既に連合軍は[[オロモウツ|オルミュッツ]]にまで退却していた{{R| lvq10 }}。 クトゥーゾフの計画では連合軍は[[カルパティア山脈|カルパティア]]地方にまで退却することになっており<ref name="dornbrose46">[[#Brose(1997)|Brose(1997)]],p.46.</ref>、「[[ガリツィア]]で、私はフランス軍を葬る」と語っている{{R| lvq10 }}。 だが、ナポレオンはこの事態を座視はしなかった。彼は連合軍を誘い出すために心理的な罠を仕掛けた。会戦前の数日間、ナポレオンは自軍が窮状にあり、交渉による和平を望んでいるとの印象を連合軍に与えた<ref name="peace">[[#McLynn(1997)|McLynn(1997)]], p. 342</ref>。[[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト|スールト]]元帥、[[ジャン・ランヌ|ランヌ]]元帥そしてミュラ元帥の部隊を含む約53,000人のフランス軍がアウステルリッツとオルミュッツを結ぶ街道に布陣しており、敵軍の注意を引いていた。連合軍の兵力は89,000人であり、数で圧倒しており、劣勢なフランス軍を攻撃する誘惑に駆られていた。だが、連合軍は気づいていなかったが、[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ベルナドット]]元帥、[[エドゥアール・モルティエ|モルティエ]]元帥そして[[ルイ=ニコラ・ダヴー|ダヴー]]元帥の部隊が来援可能な距離にまで到着しており、更に必要ならばウィーンや[[イフラヴァ]]の駐留部隊を強行軍によって呼び寄せることも可能だった。これによってフランス軍の兵力は75,000になり、数的劣勢を補うことができる<ref name="chandler410">[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]], p.410.</ref>。 策略はこれに留まらなかった。11月25日、[[アン・ジャン・マリールネ・サヴァリ|サヴァリ]]{{enlink|Anne Jean Marie René Savary|en}}将軍をオルミュッツの連合軍本営へ派遣して連合軍の状況を秘密裏に調べさせるとともに、戦闘を避けたい旨のナポレオンの伝言を伝えさせた<ref name="nagatuka195">[[#長塚(1986)|長塚(1986)]],p.195.</ref>。想定通りにこの伝言はナポレオンの弱気と見なされた。27日にフランツ1世が休戦を申し出るとナポレオンはこの受け入れに非常に乗り気な態度を示した。同日、ナポレオンはスールトにアウステルリッツおよびプラッツェン高地からの撤退と、退却に際して混乱している様子をつくり出すよう命じた。これによって連合軍はこの高地を占拠することになる。翌28日、ナポレオンはアレクサンドル1世との会見を申し出て、ロシア皇帝の側近であるドルゴロウキー伯爵の訪問を受け入れた{{R|nagatuka195}}。伯爵との会見は次の段階の策略だった。ナポレオンは敵に対して意図的に憂慮や焦燥の態度を見せ、ドルゴルーキーはこの様子をフランス軍の弱さの証拠としてロシア皇帝に報告した{{R|chandler410}}<ref name="chandler411">[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]], p.411.</ref>。 策略は成功した。ロシア皇帝の側近や、オーストリア軍参謀長[[フランツ・フォン・ワイロッテル]]{{enlink|Franz von Weyrother|en}}少将を含む連合軍指揮官の多くが即時攻撃を支持し、アレクサンドル1世の意思を変えさせた{{R|chandler411}}。クトゥーゾフの意見は却下され、ここに連合軍はナポレオンの仕掛けた罠に嵌る事となった。 ==作戦== 会戦に際してナポレオンは兵73,000、砲139門を集めたが、この内ダヴー元帥の兵7,000は未だウィーンからの行軍途上にあった<ref name="napoleon">[[#Uffindell(2003)|Uffindell(2003)]], p. 19.</ref>。連合軍の総兵力は約84,500、砲278門であり、この内の7割がロシア兵である{{R|napoleon}}。フランス軍は兵数では劣勢であった<ref name="nicholls910">[[#Nicholls(1999)|Nicholls(1999)]],pp. 9-10.</ref>。 当初、ナポレオンは勝利への完全な自信はなかった。外務大臣[[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン]]への手紙で、皇后[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ|ジョゼフィーヌ]]を不安にさせたくないので、来たる会戦については誰にも言わないよう依頼している。歴史学者フレデリック・C・シュナイドはナポレオンの関心はジョゼフィーヌの平静ではなく、フランス軍が敗れた時に彼女にどう言い訳するかであったと述べている<ref name="schneid137">[[#Schneid(2005)|Schneid(2005)]],p.137.</ref>。 ===戦場=== 会戦は[[ブルノ|ブリュン]](ブルノ)から南西 9.7&nbsp;kmの地点、アウステルリッツ(現在の[[チェコ共和国]]領[[スラフコフ・ウ・ブルナ]])との間で行われた。戦場の北部は標高210mのザソトン丘陵と標高260mのズラン高地に占められており、これらの丘陵からオルミュッツ=ブリュン街道を望むことができた。これらの丘陵の西側にはベロウィッツ村があり、間にボズニッツ川が流れ、南でゴルトバッハ川と合流しており、後者の川はコベルニッツ村、ソコルニッツ村そしてテルニッツ村にまたがって流れている。戦場の中央部はプラッツェン高地で標高11-12mのゆるやかな丘陵である。ナポレオンは元帥たちに繰り返しこう語っている。「諸君。この土地を念入りに調べておけ。ここが戦場となる。君達はここで戦うのだ。<ref name="quote">[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]], p. 412–413.</ref>」 {{Wide image|Panorama Austerlitz Battle Field Prace Czech Rep.jpg|1500px|現在のスラフコフ・ウ・ブルナ(アウステルリッツ)の風景}} {{-}} ===連合軍の作戦と布陣=== [[画像:Battle of Austerlitz, Situation at 1800, 1 December 1805.png|350px|サムネイル|1805年12月1日時点の布陣。フランス軍(青)、連合軍(赤)]] 12月1日に開かれた連合軍の作戦会議では、連合軍指揮官の多くが会敵して南側面を制圧し、ウィーンとの連絡線を遮断する作戦を提案した。ロシア皇帝とその側近たちは攻撃を主張していたが、オーストリア皇帝はやや慎重であり、彼は連合軍総司令官であるクトゥーゾフの助言を受けていた<ref name="emperor">[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]], p. 416.</ref>。だが、ロシア貴族やオーストリア軍指揮官たちの攻撃論は強硬であり、最終的に連合軍はオーストリア軍参謀長ワイロッテルの作戦案を採用した{{R|emperor}}。 この作戦案ではフランス軍右翼(南側)に対する攻撃を主攻とし、この意図を隠す為に敵軍左翼(北側)に助攻を仕掛けることになっていた。連合軍は戦力の大部分を4つの縦隊に編成させており、クトゥーゾフとブクスホーデンが指揮する、これらの縦隊がフランス軍右翼を攻撃、コンスタンツ大公のロシア軍近衛軍は予備戦力とされ、バグラチオン中将が右翼(北側)を守ることになった<ref>[[#長塚(1986)|長塚(1986)]],pp.200-201.</ref>。 その上、ロシア皇帝は総司令官の権限をクトゥーゾフから奪い、オーストリア軍のワイロッテル少将に委ねてしまった<ref>[[#桑原他(1975)|桑原他(1975)]],p.392.</ref>。会戦ではクトゥーゾフは連合軍第4縦隊を率いるのみとなったが、ロシア皇帝は自らが選んだ作戦が失敗した際の責任を恐れてクトゥーゾフを名目上の総司令官職に留めている{{R| lvq10 }}。 ===フランス軍の作戦と布陣=== ナポレオンは連合軍からの攻撃を望んでおり、このため彼は意図的に右翼(南側)を弱体化させている<ref name="flank">[[#Brooks(2000)|Brooks(2000)]] p. 109</ref>。11月28日、本営でナポレオンと元帥たちとが会見した際に元帥たちは来たる戦いへの懸念を表明した。彼らは撤退さえ進言したが、ナポレオンは部下たちの不安に対して肩をすくめるだけだった<ref name="Fisher Fremont-Barnes 48">[[#Fisher&Fremont-Barnes(2004)|Fisher&Fremont-Barnes(2004)]], p. 48.</ref>。 フランス軍とウィーンとの連絡線を断つべく連合軍はフランス軍右翼に対して戦力を集中させるとナポレオンは予想していた{{R| lvq10 }}。その結果、連合軍中央部の側面が曝され弱体化する<ref name="barnes19">[[#Barnes(2010)|Barnes(2010)]],p. 19.</ref>。彼らにそうさせるべく、ナポレオンは緊要地形であるプラッツェン高地の放棄までし、自軍の弱体化を装い、更には彼自身の焦燥した様子を敵に見せた{{R|Fisher Fremont-Barnes 48|barnes19}}。その一方でナポレオンは主力部隊を高地から死角になる場所に隠させている<ref name="chandler413">[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]], p. 413.</ref>。作戦計画では、フランス軍はプラッツェン高地を奪回し、この高地から連合軍主力に対して決定的な攻撃を仕掛けて混乱させ、背面から包囲することになっていた{{R| lvq10 | barnes19 }}。 {{cquote|もしも、ロシア軍が右翼へ向かうべくプラッツェン高地を離れたなら、彼らは確実に敗北するだろう。|||ナポレオン<ref name="lvq10"/>}} [[画像:Bivouac on the Eve of the Battle of Austerlitz, 1st December 1805.PNG|サムネイル|300px|alt=Colored painting showing French troops lighting torches for Napoleon. |会戦前夜のナポレオンと兵士。<br>[[ルイ=フランソワ (ルジューヌ男爵)|ルイ=フランソワ]]{{enlink|Louis-François, Baron Lejeune|en}}画。]] 連合軍中央部に対する主攻勢はスールト元帥率いる第4軍団の兵16,000によって行われる。第4軍団の位置は深い霧に覆われており、この霧がいつまで続くかがナポレオンの作戦にとって極めて重要であった。霧が早く晴れればスールトの部隊が暴露されてしまう。だが、霧があまりに長く残れば、連合軍がプラッツェン高地から離れたか否か分からず、攻撃のタイミングを適切に判断できなくなる<ref name="barnes21">[[#Barnes(2010)|Barnes(2010)]],p.21.</ref>。 その一方で、弱い右翼(南側)を補強するために、ナポレオンはウィーンにいるダヴー元帥の第3軍団に強行軍を命じ、連合軍主力からの猛攻を耐えねばならないフランス軍南方面を守備する[[クロード・ジュストゥ・アレクサンドル・ルグラン|ルグラン]]{{enlink|Claude Juste Alexandre Legrand|en}}師団将軍の部隊との合流を図らせた。ダヴーの部隊は110kmを48時間行軍せねばならなかった。彼らの到着には作戦の成否がかかっていた。 実際、ナポレオンの布陣では右翼は非常に危険なほど過少な兵力が守備に着いているだけだった。しかしながら、ナポレオンがこの様に危険な策を採った理由は二つあり、一つは第3軍団司令官のダヴーは配下の中でも最良の元帥だったこと<ref>[[#ブカーリ(2001)|ブカーリ(2001)]],p.9.</ref>、もう一つは右翼は河川と湖沼が入り混じった複雑な地形だったことである{{R| lvq10 }}。更に、フランス軍は既にブリュン方面への第二の退却路を新設していた<ref name="chandler412">[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]], p. 412.</ref><ref>[[#大橋(1983)|大橋(1983)]],pp.193-194.</ref>。[[近衛隊 (ナポレオン1世)|皇帝近衛隊]]{{enlink|Imperial Guard (Napoleon I)|en}}とベルナドット元帥の第1軍団は予備兵力とされ、ランヌ元帥の第5軍団が新設された連絡線を守る戦場北方面の守備に充てられた{{R| lvq10 }}。 1805年12月1日、連合軍がナポレオンの想定通りに南方へ移動し始めるに従い、フランス軍は配備位置に布陣した{{R|barnes19}}。 会戦前夜、ナポレオンが少数の護衛とともに前線の視察に出ると兵士たちが皇帝であると気づき、すぐに兵士たちは「皇帝万歳!」を叫び松明に火を灯して戴冠一周年を祝った<ref>[[#ジョフラン(2011)|ジョフラン(2011)]],pp.107-108.</ref>。連合軍の司令官や兵士たちはこの様子を見て撤退の準備であると信じた<ref name="名前なし-1">[[#ジョフラン(2011)|ジョフラン(2011)]],p.108.</ref>。 ===戦闘序列 === {{main|w:Order of Battle at the Austerlitz campaign}} {| class="wikitable" style="background-color:#FFFFFF" |- ! style="width:50%;background-color:#18c6f8" | {{flagicon|France}} 大陸軍 ! style="background-color:#00e100" |{{flagicon|Russia}} {{Flagicon|AUT1804}} ロシア=オーストリア連合軍 |- | style="vertical-align:top" | [[File:Detail from a painting of Napoleon.jpg|left|120px]] '''総司令官:'''<br>[[フランス皇帝]][[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]<br> '''参謀長:'''<br>[[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ]]元帥<br> 総兵力:73,000人<ref group=nb name="frenchnumbers"/>、砲139門 || {{multiple image|align= right|image1=Alexander Pavlovich coloured drawing.png|image2=Franz II. (Joseph Kreutzinger, um 1805).jpg|width1=110|width2=90}} '''総司令官(名目上):<br>'''[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]](画像左)<br>[[オーストリア皇帝]][[フランツ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ1世]](画像右)<br>'''実質的司令官:'''<br>[[ミハイル・クトゥーゾフ]]大将(露)<br>[[ヨーハン1世 (リヒテンシュタイン公)|ヨーハン・フォン・リヒテンシュタイン]]中将(墺)<br>'''参謀長:'''<br>フランツ・フォン・ワイロッテル少将(墺)<br>総兵力84,500人<ref group=nb name="alliednumbers"/>、砲278門 |- |style="vertical-align:top" | *'''[[近衛隊 (ナポレオン1世)|皇帝近衛隊]]'''([[ジャン=バティスト・ベシェール]]元帥)<br>兵5,500、砲24門 *'''第1軍団''' ([[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット]]元帥)<br>兵13,000、砲24門。 **前衛隊(第27[[軽歩兵]]連隊) **第1師団([[オリヴィエ・リヴォー・ド・ラ・ラフィエンヌ]]{{enlink|Olivier Rivaud de la Raffinière|en}}師団将軍) **第2師団([[ジャン=バティスト・ドルーエ]]{{enlink|Jean-Baptiste Drouet, Comte d'Erlon|en}}師団将軍) *'''第3軍団'''([[ルイ=ニコラ・ダヴー]]元帥)<br>兵4,300(騎兵830を含む)、砲12門。 **第2師団([[ルイ・フリアン]]{{enlink|Louis Friant|en}}師団将軍) **第4竜騎兵師団([[フランソワ・アントワーヌ・ルイ・ブルシェ]]{{enlink|François Antoine Louis Bourcier|en}}師団将軍) *'''第4軍団'''([[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト]]元帥)<br>兵23,600、砲35門。 **第1師団 ([[ルイ・ヴィンセント・ラ・ブロンド・ド・サンティレール]]{{enlink|Louis Vincent Le Blond de Saint-Hilaire|en}}師団将軍) **第2師団 ([[ドミニク・ヴァンダム|ドミニク=ジョーゼフ・レネ・ヴァンダム]]師団将軍) **第3師団 ([[クロード・ジュストゥ・アレクサンドル・ルグラン]]{{enlink|Claude Juste Alexandre Legrand|en}}師団将軍) **軽騎兵師団(ピエール・マルガロン旅団将軍) *'''第5軍団'''([[ジャン・ランヌ]]元帥)<br>兵12,700、砲20門。 **第1師団([[マリー=フランソワ・オーギュスト・ド・カファレリ]]{{enlink|Marie-François Auguste de Caffarelli du Falga|en}}師団将軍) **第3師団([[ルイ=ガブリエル・スーシェ]]師団将軍) **軽騎兵師団([[:en:Anne-François-Charles Trelliard]]旅団将軍) *'''擲弾兵師団'''([[ジェラール・デュロック|ジェラール・クリストフ・ミッシェル・デュロック]]{{enlink|Géraud Duroc|en}}師団将軍<ref group=nb>[[ニコラ・ウディノ]]師団将軍が負傷療養中のため指揮を代行。[[#ブカーリ(2001)|ブカーリ(2001)]],p.19.</ref>) :兵5,700。 *'''騎兵予備'''([[ジョアシャン・ミュラ]]元帥)<br>騎兵7,400、砲36門 **第1重騎兵師団([[エティエンヌ・マリー・アントワーヌ・チャンピオン・ド・ナンスティ]]{{enlink|Étienne Marie Antoine Champion de Nansouty|en}}師団将軍 ) **第2重騎兵師団([[ジャン=ジョゼフ・アンジュ・オートポール]]{{enlink|Jean-Joseph Ange d'Hautpoul|en}}師団将軍) **第2竜騎兵師団([[フレデリック=アンリ・ワルシャー]]{{enlink|Frédéric Henri Walther|en}}師団将軍) **第3竜騎兵師団([[マルク・アントワーヌ・ド・ボーモン]]{{enlink|Marc Antoine de Beaumont|en}}師団将軍) **軽騎兵師団([[フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン]]師団将軍、第1軍団所属) **軽騎兵旅団([[エドアルド=ジャン=パプディスト・ミヨー]]{{enlink|Édouard Jean Baptiste Milhaud|en}}旅団将軍) || *'''ロシア近衛軍'''([[コンスタンチン・パヴロヴィチ|コンスタンチン大公]]) :歩兵6,730、騎兵3,700、工兵100、砲40門。 *'''ロシア前衛隊(右翼軍)'''([[ピョートル・バグラチオン]]中将) :歩兵9,200、騎兵4,500、砲42門。 *'''左翼軍'''([[フョードル・ブクスホーデン]]{{enlink|Friedrich Wilhelm von Buxhoeveden|en}}大将) **'''前衛隊'''([[ミヒャエル・フォン・キンマイヤー]]{{enlink|Michael von Kienmayer|en}}中将)<br>歩兵3,440、騎兵3,440、軽砲12門。 ***第1歩兵旅団(ゲオルグ・シモン・ド・カルヌヴィル少将) ***第1騎兵旅団([[カール・ウィルヘルム・フォン・スタッターハイム]]{{enlink|Karl Wilhelm von Stutterheim|en}}少将) ***第2騎兵旅団(ヨハン・ネーポムク・フォン・ノスティッツ=リーネック少将) ***第3騎兵旅団(モーリッツ・リヒテンシュタイン少将) **'''第1縦隊'''([[デミトリー・ドフトゥローフ]]{{enlink|Dmitry Dokhturov|en}}中将)<br>歩兵13,240、騎兵250、軽砲14門、重砲24門。 ***第1歩兵旅団(ルートヴィヒ少将) ***第2歩兵旅団(ウルーソフ少将) ***コサック連隊×1 **'''第2縦隊'''([[ルイ=アレクサンドル・アンドロート・ド・ランジュロン]]{{enlink|Louis Alexandre Andrault de Langeron|en}}中将)<br>歩兵11,250、騎兵300、軽砲30門。 ***第1歩兵旅団(オルソヴィエフ少将) ***第2歩兵旅団([[セルゲイ・カメンスキー]]{{enlink|Sergei Kamensky|en}}少将) ***竜騎兵連隊×1 ***コサック連隊×1 **'''第3縦隊'''(プリピチェフスキー中将)<br>歩兵7,700、砲兵30門。 ***第1歩兵旅団(ミュラ少将) ***第2歩兵旅団(セレイコフ少将) *'''第4縦隊'''([[ミハイル・ミロラドヴィチ]]中将および[[ヨハン・コロワルト]]{{enlink|Johann Kollowrat|en}}中将)<br>歩兵23,900、軽砲52門、重砲24門。 **前衛隊(歩兵連隊×2、竜騎兵連隊×1) **第1歩兵旅団(Wodniansky少将) **第2歩兵旅団(ハインリッヒ・フォン・ロテルムンド少将) **第3歩兵旅団(フランツ・フォン・ユークゼック少将) *'''第5(騎兵)縦隊'''([[ヨーハン1世 (リヒテンシュタイン公)|ヨーハン・フォン・リヒテンシュタイン]]中将)<br>騎兵5,375、軽砲24門。 **第1騎兵旅団(ヨハン・カール・カラメッリ少将) **第2騎兵旅団(ヨハン・ヴェーバー・フォン・トロイエンフェルス少将) **第3騎兵旅団(グラトコフ少将) **第4騎兵旅団(F. P. ウヴァーロフ中将、副将) |- | colspan="2" |'''参考文献''' <small> * Duffy, Christopher. ''Austerlitz 1805''. Hamden, Conn.: Archon Books, 1977. * Smith, Digby. ''The Napoleonic Wars Data Book.'' London: Greenhill, 1998. ISBN 1-85367-276-9 *[http://www.napoleon-series.org/research/biographies/Austria/AustrianGenerals/c_AustrianGeneralsIndexA.html Austrian generals by Digby Smith, compiled by Leopold Kudrna] </small> |} <gallery widths="100px" perrow="8" caption="大陸軍主要将帥"> ファイル:Louisberthier1.jpg|<small>ベルティエ元帥<br>参謀長</small> ファイル:Bess reisne.jpg|<small>ベシェール元帥<br>皇帝近衛隊長</small> ファイル:Jean Baptiste Bernadotte.jpg|<small>ベルナドット元帥<br>第1軍団長</small> ファイル:Marshal Davout by Maulet.jpg|<small>ダヴー元帥<br>第3軍団長</small> ファイル:Jean-de-Dieu Soult - Wächter.jpg|<small>スールト元帥<br>第4軍団</small>長 ファイル:Marechal-Lannes.jpg|<small>ランヌ元帥<br>第5軍団長</small> ファイル:JoachimMurat Post.jpg|<small>ミュラ元帥<br>騎兵予備司令</small> </gallery> <gallery widths="80px" perrow="10" caption="ロシア=オーストリア連合軍主要将帥"> ファイル:Kutuzov by Volkov.jpg|<small>ミハイル・クトゥーゾフ大将(露)</small> ファイル:Johann Josef I von Liechtenstein.jpg|<small>ヨーハン・フォン・リヒテンシュタイン中将(墺)</small> ファイル:Grand Duke Constantine Pavlovich of Russia.JPG|<small>コンスタンチン大公(露)<br>ロシア近衛軍司令</small> ファイル:Buxhoevden F.jpg|<small>ブクスホーデン大将(露)<br>左翼軍司令</small> ファイル:George Dawe - Portrait of General Pyotr Bagration (1765-1812) - Google Art Project.jpg|<small>バグラチオン中将(露)<br>ロシア前衛隊(右翼軍)司令</small> ファイル:Dmitry Sergeyevich Dokhturov.jpg|<small>ドフトゥローフ中将(露)<br>第1縦隊司令</small> ファイル:Langeron A F.jpg|<small>ランジュロン中将(露)<br>第2縦隊司令</small> ファイル:Miloradovich.jpg|<small>ミロラドヴィチ中将(露)<br>第4縦隊司令</small> ファイル:Johann Kolowrat.jpg|<small>コロワルト中将(墺)<br>第4縦隊司令</small> </gallery> == 会戦 == ===緒戦=== [[画像:Napoleon.Austerlitz.jpg|350px|サムネイル|『アウステルリッツのナポレオン』<br>シャルル・ヴェルネおよびジャック・フランソワ・ゼーバハ画。]] 戦いは12月2日午前8時に連合軍第1縦隊によるテルニッツ村攻撃で始まった。この村はフランス軍第3戦列歩兵連隊が守っていた。ここでは激しい戦闘が繰り広げられ、数次に渡る連合軍の突撃によってフランス軍は村から追い払われ、ゴルトバッハ川への後退を余儀なくされた。この時、ダヴー元帥の最初の部隊が戦場に到着し、テルニッツ村を奪回したが、彼らもまた連合軍[[ユサール|驃騎兵]]からの攻撃を受けて村の放棄を余儀なくされた。テルニッツ村郊外からの連合軍の別の攻撃はフランス軍砲兵によって阻止されている<ref name="attacks">[[#Fisher&Fremont-Barnes(2004)|Fisher&Fremont-Barnes(2004)]], p. 48–49.</ref>。 連合軍縦隊はフランス軍右翼へと殺到し始めたが、期待された速さではなく、フランス軍はほとんどの場所で防御に成功している。実際に連合軍の展開は過ちを犯しており、戦機をも失していた。例えば連合軍左翼に布陣していた[[ヨーハン1世 (リヒテンシュタイン公)|リヒテンシュタイン公]]の騎兵縦隊が右翼へ配置されることになり、配備地点へと移動する際にフランス軍右翼攻撃に向かっていた第2縦隊の歩兵部隊の中に飛び込んでしまい進軍を遅らせている{{R|Fisher Fremont-Barnes 48}}。この時、指揮官たちは災厄と考えたが、後にこれが連合軍を助けることになる。 一方、第2縦隊先鋒はフランス軍第26戦列歩兵連隊と[[散兵|狙撃兵部隊]](''[[:en:Tirailleur|Tirailleur]]'')が守るソコルニッツ村を攻撃した。連合軍の最初の攻撃は失敗するが、[[ルイ=アレクサンドル・アンドロート・ド・ランジュロン|ランジュロン]]{{enlink|Louis Alexandre Andrault de Langeron|en}}中将が村への砲撃を命じた。この猛砲撃によってフランス兵は村からの撤退を余儀なくされ、連合軍第3縦隊はソコルニッツ城を攻撃する。フランス軍は反撃をして村を奪回するも、再び退却を余儀なくされる。この区域の戦闘は第3軍団の[[ルイ・フリアン|フリアン]]{{enlink|Louis Friant|en}}師団が村を奪回することにより一時的に収まった。テルニッツ村とソコルニッツ村は、恐らくこの会戦最大の激戦区であり、この日は幾度も主を変えている<ref name="Fisher Fremont 49">[[#Fisher&Fremont-Barnes(2004)|Fisher&Fremont-Barnes(2004)]], p. 49.</ref><ref name="名前なし-1"/>。 連合軍がフランス軍右翼を攻撃している間、クトゥーゾフの第4縦隊はプラッツェン高地に留まり動かなかった。ナポレオンと同じく、クトゥーゾフはプラッツェン高地の重要性を認識しており、この場所を守る決意をしていた<ref name="nagatuka202">[[#長塚(1986)|長塚(1986)]],pp.202-203.</ref>。だが、若いロシア皇帝の意思は異なり、クトゥーゾフに高地からの移動を厳命し{{R|nagatuka202}}、これが連合軍を死地へと追いやることになる{{R| lvq10 }}。 ===「ただ一撃で、この戦争は終わる」=== [[画像:Battle of Austerlitz - Situation at 0900, 2 December 1805.png|350px|サムネイル|左|第4軍団のサンティレール師団とヴァンダム師団による連合軍中央部攻撃によって連合軍は分断され、フランス軍は会戦を決する最重要の位置を手に入れた。]] 午前8時45分頃、敵軍中央部が手薄になったと確認したナポレオンがスールト元帥に対して部隊が高地に到達する為に必要な時間を尋ねると彼は「20分以内です。陛下」と答えた。その15分後、ナポレオンは攻撃命令を下し、「ただ一撃で、この戦争は終わる」と付け加えた<ref name="over">[[#Uffindell(2003)|Uffindell(2003)]], p. 21.</ref>。 中央部攻撃を担当する部隊はスールト元帥の第4軍団に所属する[[ルイ・ヴィンセント・ラ・ブロンド・ド・サンティレール|サンティレール]]{{enlink|Louis-Vincent-Joseph Le Blond de Saint-Hilaire|en}}師団将軍と[[ドミニク・ヴァンダム|ヴァンダム]]師団将軍が指揮する2個師団である。深い霧がサンティレール師団の前進を覆い隠したが、彼らが斜面を登っていると霧が晴れて太陽が浮き上がり、前進する兵たちを奮起させた{{R|Fisher Fremont 49}}。このエピソードは「'''アウステルリッツの太陽'''」(''soleil d'Austerlitz'')として知られる{{R|Fisher Fremont 49}}<ref>[[#武本(1979)|武本(1979)]],p.36.</ref>。丘の上のロシア兵と指揮官たちは、多数のフランス兵が彼らに向かって進撃している姿を見て驚愕した<ref name="stunned">[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]], p. 425.</ref>。 ここで、フランス軍右翼への兵力移動が遅滞していたことが幸いし、連合軍指揮官は第4縦隊の一部を高地争奪戦に投入できた。だが、1時間を越える戦闘の後、この部隊のほとんどが壊滅してしまう<ref name="名前なし-1"/>。第2縦隊の兵士(そのほとんどが経験の浅いオーストリア兵)もまたこの戦闘に投入されて兵力が膨れ上がり、フランス軍に後退を強いた。だが死に物狂いになったサンティレールの兵士たちは再度猛攻撃を仕掛け、銃剣突撃により、連合軍を丘から撃退した。 [[画像:Mazurovsky - Fight for the banner (1805), 1910-12.jpg|200px|サムネイル|ロシア兵とフランス兵との軍旗争奪戦。<br>Viktor Mazurovsky画]] 北側ではヴァンダム師団がシュターレ・ヴィノフラディ(「古い葡萄園」)と呼ばれる地区で攻撃を行い、優れた小部隊戦術と痛烈な一斉射撃により、幾つかの連合軍大隊を撃破している<ref name="sun">[[#Fisher&Fremont-Barnes(2004)|Fisher&Fremont-Barnes(2004)]], p. 49–50.</ref>。 クトゥーゾフは左翼軍司令のブクスホーデンに主力部隊を中央部へ差し向けるよう要請したが、ブクスホーデンは事態の重要性を未だに理解できておらず拒絶してしまう<ref>[[#ジョフラン(2011)|ジョフラン(2011)]],p.136.</ref>。 戦いはフランス軍優勢に転じたが、まだ終わってはいなかった。ナポレオンはベルナドット元帥の第1軍団にヴァンダム師団の左翼を支援するよう命じ、自らの本営をズラン高地からプラッツェン高地の聖アントニウス礼拝堂へ進めた。 危機的状況を受け、ロシア皇帝はロシア近衛軍の投入を決意した。ロシア皇帝の弟である[[コンスタンチン・パヴロヴィチ|コンスタンチン大公]]が近衛騎兵を率いてヴァンダム師団に反撃を行い、この戦いにおいて唯一フランス軍旗(第4戦列歩兵連隊所属大隊の軍旗)を奪い取った<ref name="joffrin137">[[#ジョフラン(2011)|ジョフラン(2011)]],p.137.</ref>。 ナポレオンは自軍の苦戦を見て親衛重騎兵隊に前進を命じた。フランス軍親衛重騎兵隊がロシア軍近衛騎兵隊に突進したが、両軍とも多数の騎兵を送り込んだため決着はつかなかった。ロシア軍が数的には優勢だったが、程なく[[ジャン=バティスト・ドルーエ (エルロン伯爵)|ドルーエ]]師団(第1軍団所属)が参戦したため流れが変わった。ドルーエ師団が側面に展開して騎兵隊を退避させた。近衛隊の[[騎馬砲兵]]がロシア軍騎兵や[[フュージリア]]に多数の損害を与えた。ナポレオンは止めを刺すべく近衛擲弾兵と[[マムルーク]]兵を投入する{{R|joffrin137}}。再起したフランス騎兵から400mに渡る追撃を受けてロシア近衛兵は撃破され、多数の戦死者を出した<ref name="broke">[[#Fisher&Fremont-Barnes(2004)|Fisher&Fremont-Barnes(2004)]], p. 51.</ref>。犠牲者には重傷を負ったクトゥーゾフと戦死した彼の娘婿のティーゼンハウゼン伯爵{{enlink|Ferdinand von Tiesenhausen|en}}も含まれる<ref name="lvq10">[[#Lê Vinh Quốc, Nguyễn Thị Thư, Lê Phụng Hoàng(2001)|Lê Vinh Quốc, Nguyễn Thị Thư, Lê Phụng Hoàng(2001)]], pp. 154-160.</ref>。 {{-}} ===終局=== [[画像:Battle of Austerlitz - Situation at 1400, 2 December 1805.png|350px|サムネイル|午後2時までに連合軍は致命的に分断された。ナポレオンは両翼いずれをも選択できた。敵軍右翼は既に掃討されたか後退中であったため、ナポレオンは左翼攻撃を決めた。]] 戦場の北側でも激戦が繰り広げられていた。ようやく配置位置に到着したリヒテンシュタイン公の重騎兵隊が[[フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン|ケレルマン]]軽騎兵師団に攻撃を始めた。戦闘は当初フランス軍優勢であったが、ロシア兵の数が非常に多いと分かり、[[マリー=フランソワ・オーギュスト・ド・カファレリ|カファレリ]]{{enlink|Marie-François Auguste de Caffarelli du Falga|en}}師団の援護下に後退している。カファレリ師団がロシア軍の攻撃を食い止めたため、ミュラ元帥は2個胸甲騎兵師団(師団長は[[ジャン=ジョゼフ・アンジュ・オートポール|オートポール]]{{enlink|Jean-Joseph Ange d'Hautpoul|en}}と[[エティエンヌ・マリー・アントワーヌ・チャンピオン・ド・ナンスティ|ナンスティ]]{{enlink|Étienne Marie Antoine Champion de Nansouty|en}})を投入させ、ロシア騎兵の撃退に成功した。 混戦が激しくそして長く続いたが、最終的にフランス軍が打ち勝った。ランヌ元帥の第5軍団がバグラチオンの部隊に対して攻撃をし、熾烈な戦いの末にこの熟練したロシア軍司令官を戦場から後退させた。ランヌは追撃を求めたが、この地区の戦闘指揮を担当するミュラは反対した<ref name="Fisher Fremont-Barnes 52">[[#Fisher&Fremont-Barnes(2004)|Fisher&Fremont-Barnes(2004)]], p. 52.</ref>。 ナポレオンの焦点は未だ両軍の間で戦闘が続いている戦場南端のソコルニッツ村とテルニッツ村へと移された。サンティレール師団と第3軍団の一部による二方向からの効果的な攻撃によってソコルニッツ村の連合軍は蹴散らされ、この方面の連合軍二個縦隊の司令官[[ミヒャエル・フォン・キンマイヤー|キンマイヤー]]{{enlink|Michael von Kienmayer|en}}中将とランジュロン中将に早急な撤退を決意させた。この時、泥酔していた連合軍左翼司令官[[フョードル・ブクスホーデン|ブクスホーデン]]{{enlink|Friedrich Wilhelm von Buxhoeveden|en}}大将もまた逃げ出した<ref>[[#Fisher&Fremont-Barnes(2004)|Fisher&Fremont-Barnes(2004)]].p.52.</ref>。キンマイヤーとオライリー軽騎兵部隊が殿(しんがり)を務め、襲いかかる6個フランス騎兵連隊の内5個までを撃退する奮戦をした後に撤退した{{R|Fisher Fremont-Barnes 52}}。 パニックが連合軍全体に広がり、持ち場を離れて潰走し始めた。有名かつ凄惨なエピソードはこの敗走に際して起こった。フランス軍に敗れウィーン方向へと逃れようとしたロシア兵が凍結したザッチャン池を渡っていた。フランス砲兵が彼らを砲撃すると氷が割れ、ロシア兵たちと大砲数十門が冷たい池に落ちた。犠牲者数は資料によって異なり、少ないもので100人程度<ref name="jpffrin139">[[#ジョフラン(2011)|ジョフラン(2011)]],p.139.</ref>であり、多いものでは1万人以上<ref>[[#大橋(1983)|大橋(1983)]],p.196</ref>になっている。 『大陸軍戦闘詳報』はこの事件で2万人が溺死したと誇張して報告しており<ref name="名前なし-1"/>、ロシア皇帝はこの破滅的な大敗の言い訳としてこの見積もりを黙認した。溺れたロシア兵の多くが、勝者となったフランス兵によって救助されている<ref name="casualties">[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]], p. 432.</ref><ref>[[#Rose(1910)|Rose(1910)]],p.38.</ref>。暫く後に公になった現地の地方判事の記録によると、この大惨事に関するナポレオンの記録は全くの創作ということになる。会戦の数日後、皇帝の命令により池の水が排水させられたが、池の底からは僅か2から3体の死体と150頭の馬の死体が発見されただけだった<ref>[[#Rose(1910)|Rose(1910)]],p.46.</ref>。 連合軍の死傷者は15,000人に上った<ref group=nb name=sisyou/>。フランス軍の死傷者は8,233人である<ref name="nagatuka206">[[#長塚(1986)|長塚(1986)]],p.206.</ref>。加えて、連合軍は大砲180門{{R|nagatuka206}}と軍旗50本{{R|casualties}}を失っている。この大勝利の報は前日まで財政破綻の危機に動揺していたパリに大きな歓喜と昂奮状態をもたらした<ref>[[#武本(1979)|武本(1979)]],p.40.</ref>。ナポレオンは皇后ジョゼフィーヌに対し「私は二人の皇帝に率いられたオーストリア=ロシア軍を叩きのめした。私は少しばかり疲れた…あなたを抱きしめたい」と書き送っている<ref group=nb name="josephine">この手紙の中のナポレオンの言及により、有名な「三帝会戦」の名称が生まれた。しかしながら、実際にはオーストリア皇帝フランツ1世は戦場にはいなかった。[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]], p. 432–433. </ref>。一方、皇帝アレクサンドル1世は「我々は巨人の前の赤子だった」と嘆いている<ref name="giant">[[#Fisher&Fremont-Barnes(2004)|Fisher&Fremont-Barnes(2004)]], p. 54.</ref>。 ==戦後== [[画像:Gros - Entrevue - 1812.jpg|サムネイル|300px|会戦後のナポレオンとフランツ1世との会見。<br>[[アントワーヌ=ジャン・グロ]]画]] 12月4日、オーストリア皇帝フランツ1世はナポレオンと会見して和平を求めた<ref>[[#長塚(1986)|長塚(1986)]],pp.207-208.</ref>。この22日後に[[プレスブルクの和約]]が締結され、オーストリアは戦争から脱落した。 オーストリアは[[カンポ・フォルミオ条約]](1797年)と[[リュネヴィルの和約]](1801年)での領土のフランスへの割譲を再確認して5000万フランもの賠償金を課せられ<ref name="nihondaihyakkaAusterlitz">{{Cite web|和書|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/|title=アウステルリッツの戦い|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=22 October 2011}}{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>、加えてナポレオンの同盟国であったバイエルン、[[ヴュルテンベルク]]そして[[バーデン (領邦)|バーデン]]に領土の割譲を強いられ、またナポレオンの衛星国である[[イタリア王国 (1805年-1814年)|イタリア王国]]へ[[ヴェネツィア]]、[[イストリア]]、[[ダルマチア]]を譲渡せねばならなかった<ref>{{Cite web|和書|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%81%AE%E5%92%8C%E7%B4%84/|title=プレスブルクの和約|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=22 October 2011}}{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。これらの条項は過酷ではあったが、オーストリアにとって破滅的なものではなかったのも確かである。 ロシア軍は祖国への撤退を許され、フランス軍は南ドイツに駐屯した。翌1806年1月にイギリス首相ウィリアム・ピットが急死し、第三次対仏大同盟は瓦解した{{R|nihondaihyakkaAusterlitz}}。 アウステルリッツの勝利によって、フランスと中欧との緩衝地帯としての[[ライン同盟]]が成立する。1806年、[[神聖ローマ皇帝]]フランツ2世は退位を表明し、[[オーストリア皇帝]][[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]の称号のみを留めた。これらの成果は、ヨーロッパ大陸に恒久的な平和をもたらしはしなかった。[[プロイセン王国|プロイセン]]は中欧へのフランスの影響力伸長を警戒し、翌1806年に[[第四次対仏大同盟|第四次対仏大同盟戦争]]を引き起こすことになる。 {{-}} ===報償=== 会戦後、ナポレオンは兵士たちを讃える演説を行った<ref>[[#O.オブリ(1983)|O.オブリ(1983)]]</ref>。 {{quotation| 兵士たちよ、私は諸君に満足している。<br> <br> 諸君は、アウステルリッツの戦いにおいて、私が諸君の勇敢にかけた期待を裏切らなかった。諸君は諸君の軍旗を不滅の栄光によって飾った。ロシア皇帝とオーストリア皇帝の指揮する10万の軍は、4時間足らずして、分断され四散させられた。諸君の砲火を免れた者も湖に溺れて死んだ。ロシアの近衛隊の40本の軍旗、120門の大砲、20人の将軍、3万以上の捕虜が、永久に栄光に輝くこの日の戦果である。諸君にはもはや恐れるべき敵はいない。<br> <br> 兵士たちよ、我々の祖国の幸福と繁栄のために必要なことがなされたときには、私は諸君をフランスへ帰すであろう。国民は諸君の帰還を喜ぶであろう。そして諸君は、「アウステルリッツの戦いに加わっていた」と言いさえすれば、こういう答えを受けるであろう。「ああ、この人は勇士だ!」と。 }} ナポレオンは上級将校に200万フラン、兵士には各々200フランを下賜し、戦死した兵士の未亡人たちには多額の年金が与えられた。孤児となった子供たちはナポレオンが養子とし、洗礼名または家名に「ナポレオン」を称することを許した<ref name="soldats">[[#Chandler(1995)|Chandler(1995)]], p. 439.</ref>。一方で、彼はこの様な大勝利の後では通例である司令官たちの叙爵を行っていない。ナポレオンはアウステルリッツはあくまでも彼個人の勝利であり、他人を昇進させるべきものではないと考えていたためであろう<ref name="Uffindell 25">[[#Uffindell(2003)|Uffindell(2003)]], p. 25.</ref>。 ==評価== === モニュメント=== [[パリ]]市内の[[ヴァンドーム広場]]に立つコラム(立柱)はアウステルリッツの戦いで鹵獲した大砲を鋳潰して製作された<ref name="takemoto38">[[#武本(1979)|武本(1979)]],p.38.</ref>。このコラムはナポレオンの没落後のフランスの国内情勢の変遷により論争の対象になり、頂上のナポレオン立像を取り除かれたり、[[パリ・コミューン]]の際には倒されたこともあった。コラムはパリ・コミューン崩壊後に再建され、現在の姿で残っている。また、アウステルリッツの戦勝を記念して1806年に[[エトワール凱旋門]]の建設が決められた{{R|takemoto38}}(完成は1836年)。パリにはこの会戦に由来する[[オステルリッツ駅]](''Gare d'Austerlitz'')がある。 古戦場であるチェコの[[スラフコフ・ウ・ブルナ]]には平和記念碑や戦跡碑がある。会戦200周年となる2005年には同市で記念式典が開かれたが、フランス国内でナポレオンの歴史的評価を巡る[[#歴史的解釈|後述の論争]]が引き起こされ、大統領や首相は出席せず、[[ミシェル・アリヨ=マリー]]国防大臣のみが出席した<ref>{{cite web|url=http://www.rfi.fr/actufr/articles/072/article_40207.asp|title=RFI - Bicentenaire de la bataille d’Austerlitz - La République prend ses distances|publisher=|accessdate=22 October 2011}}</ref>。この町では毎年アウステルリッツの戦いを再現するイベントが催されている<ref>{{cite web|url=http://www.czechtourism.com/News/Only-near-Austerlitz-can-you-see-a-famous-battlefi.aspx?lang=ja-JP|title=Only near Austerlitz can you see a famous battlefield of a Napoleonic battle…|publisher=Czech Tourismーチェコ共和国オフィシャル観光案内|accessdate=22 October 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101223182813/http://www.czechtourism.com/News/Only-near-Austerlitz-can-you-see-a-famous-battlefi.aspx?lang=ja-JP|archivedate=2010年12月23日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。 [[オランダ]]の[[ユトレヒト]]には「[[アウステルリッツのピラミッド]]」(''[[:nl:Pyramide van Austerlitz|Pyramide van Austerlitz]]'')と呼ばれる記念碑がある。これはオランダに駐屯していた[[オーギュスト・マルモン]]将軍が1804年に築かせたもので、[[エジプト・シリア戦役]]の際に目にした[[ピラミッド]]をモチーフにしている<ref name="Pyramide">{{cite web|url=http://www.pyramidevanausterlitz.nl/monument.htm|title=Pyramide van Austerlitz monument|publisher=|accessdate=21 October 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111026101318/http://www.pyramidevanausterlitz.nl/monument.htm|archivedate=2011年10月26日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。元々はアウステルリッツの戦いとは関係のない建築物だったが、1806年に[[オランダ王]]となったナポレオンの弟[[ルイ・ボナパルト]]が兄の戦勝を記念して命名したものである{{R|Pyramide}}。ルイ・ボナパルトは更にユトレヒト近郊の町を[[アウステルリッツ (オランダ)|アウステルリッツ]]{{enlink|Austerlitz, Netherlands|en}}と命名している。 <gallery widths="130"> ファイル:Place Vendome 1.jpg|<small>ヴァンドーム広場のコラム。<br>パリ。</small> ファイル:Arc de Triomphe de l'Étoile, 3 June 2007.jpg|<small>エトワール凱旋門。<br>パリ。</small> ファイル:Mohyla míru - Prace.jpg|<small>平和記念碑。<br>スラフコフ・ウ・ブルナ。</small> ファイル:Zuran.jpg|<small>ナポレオンが本営を置いたズラン高地の戦跡碑。<br>スラフコフ・ウ・ブルナ。</small> ファイル:081207 NL Pyramide van Austerlitz.JPG|<small>アウステルリッツのピラミッド。<br>ユトレヒト。</small> ファイル:Austerlitz 3 001.jpg|<small>200周年記念のアウステルリッツの戦い再現イベント。</small> ファイル:French Battery 1805.jpg|<small>再現イベントのフランス砲兵。</small> </gallery> ===『戦争と平和』=== [[画像:Tolstoy - War and Peace - first edition, 1869.jpg|サムネイル|180px|『戦争と平和』初版本表紙]] アウステルリッツの戦いは[[レフ・トルストイ]]の小説『[[戦争と平和]]』のストーリーの重要なイベントとなっている。この会戦はフランス人の粗雑な論理や傲慢さに対してロシア人の価値観や超俗的な伝統そして素朴さを称揚する役割を果たすエピソードとなっている。会戦が始まろうとしていたとき、主要登場人物であるアンドレイ公は「来たる日が、彼にとってのトゥーロンまたはアルコラ(ナポレオンの初期の戦勝)になるのだろうか<ref name="day">[[#Tolstoy(1982)|Tolstoy(1982)]], p. 317.</ref>」と思いを巡らせている。アンドレイ公は栄光を望み、「私は先頭に立って進み、私の前に来るもの全てを一掃してやる」と決意した{{R|day}}。だが、戦闘後に彼は敵の捕虜になり、彼にとっての英雄であるナポレオンと出会う。そして、それ以前の心酔は打ち砕かれ、彼はもうナポレオンについて考えなくなる。「つまらない虚栄心や勝利への喜びを称えた英雄の姿は、彼が見た高く、高潔で、寛大な空に比べて、ひどくちっぽけなものに見えた<ref name="sky">[[#Tolstoy(1982)|Tolstoy(1982)]],p. 340.</ref>。」 トルストイはアウステルリッツの戦いをロシア人の最初の試練として描いている。兵士たちが栄光や報酬のために戦うという過ちを犯したためこの戦いに敗れた。トルストイは[[1812年ロシア戦役|1812年のナポレオンによるロシア遠征]]の[[ボロジノの戦い]]の際により崇高な価値が生み出されたとしている。 ===歴史的解釈=== ナポレオンは連合軍撃滅に関して、その望みを完全に達成したわけはなかったが{{R|Uffindell 25}}、歴史家や信奉者たちは当初の作戦により、十分な勝利を得たと考えてきた。このため、アウステルリッツの戦いは[[カンナエの戦い]]や[[ブレンハイムの戦い]]といったその他の戦術的大勝利としばしば比肩される。幾人かの歴史家たちは、アウステルリッツの戦いで大勝しすぎたため、ナポレオンは現実感覚を失ってしまい、この戦い以降、フランス外交は「ナポレオンの私有物」と化したと指摘している<ref name="policy">[[#McLynn(1997)|McLynn(1997)]], p. 350</ref>。 [[フランスの歴史|フランス史]]においてこの戦いは偉大な勝利と認識されており、第一帝政に対する憧憬が高まった19世紀にこの戦いは敬慕され、同時代の詩人[[ヴィクトル・ユーゴー]]は「深い思索の中で…アウステルリッツへ向けた大砲の轟音が鳴り響く」と描写している<ref name="cannons">[http://mondediplo.com/2006/02/14postcolonial France's history wars], Accessed 20 March 2006</ref>。 しかしながら、2005年の会戦200周年に際しては[[ジャック・シラク]]大統領または[[ドミニク・ガルゾー・ド・ビルパン]]首相が記念式典に出席すべきか否かを巡って論争が起こっている<ref name="controversy">[http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/4491668.stm BBC - Furore over Austerlitz ceremony], Accessed 20 March 2006</ref>。一方、フランス海外県の住民の一部はナポレオンは植民地での虐殺に関与したと見なしており、アウステルリッツの戦いは祝われるべきではないと主張し「ナポレオンを公的に祝賀する」式典に反対した{{R|controversy}}。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|2|group="nb"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==参考文献== <!-- *{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=|year=|title=|series=|publisher=|isbn=|ref=}} *{{cite book | last= | first = | title = | publisher = | year = |isbn= |ref=}} *{{cite book|author=|title=|year=|publisher=|ref=}} --> *{{cite book | last=Barnes | first =Gregory Fremont| title =Napoleon Bonaparte: leadership, strategy, conflict | publisher =Osprey Publishing | year =2010 |isbn= |ref=Barnes(2010)}} *{{cite book | last=Brooks | first =Richard (editor) | title =Atlas of World Military History | publisher =HarperCollins | year =2000 |isbn=0-7607-2025-8 |ref=Brooks(2000)}} *{{cite book | last=Brose | first =Eric Dorn | title =German history, 1789-1871: from the Holy Roman Empire to the Bismarckian Reich | publisher =Berghahn Books | year =1997 |isbn= |ref=Brose(1997)}} *{{cite book | last=Castle | first =Ian | title =Austerlitz - Napoleon and the Eagles of Europe | publisher =Pen & Sword Books| year =2005 |isbn=1-84415-171-9 |ref=Castle(2005)}} *{{cite book | last=Castle | first =Ian | title =Austerlitz 1805: The Fate of Empires | publisher =Osprey Publishing | year =2002 |isbn=1-84176-136-2 |ref=Castle(2002)}} *{{cite book | last=Chandler | first =David G | title =The Campaigns of Napoleon | publisher =Simon & Schuster | year =1995 |isbn=0-02-523660-1 |ref=Chandler(1995)}} *{{cite book | last=Fisher | first =Todd & Fremont-Barnes, Gregory | title =The Napoleonic Wars: The Rise and Fall of an Empire | publisher =Osprey Publishing Ltd | year =2004 |isbn=1-84176-831-6 |ref=Fisher&Fremont-Barnes(2004)}} *{{cite book | last=Goetz | first =Robert | title =1805: Austerlitz: Napoleon and the Destruction of the Third Coalition | publisher =Greenhill Books | year =2005 |isbn=1-85367-644-6 |ref=Goetz(2005)}} *{{cite book | last=Marbot | first =Jean-Baptiste-Antoine-Marcelin | title =The Battle of Austerlitz -Napoleon: Symbol for an Age, A Brief History with Documents| publisher =Bedford/St. Martin's | year =2008 |isbn= |ref=Marbot(2008)}} *{{cite book | last=McLynn | first =Frank | title =Napoleon: A Biography | publisher =Arcade Publishing Inc | year =1997 |isbn=1-55970-631-7 |ref=McLynn(1997)}} *{{cite book | last=Nicholls | first =David | title =Napoleon: a biographical companion | publisher =ABC-Clio Inc; annotated | year =1999 |isbn= |ref=Nicholls(1999)}} *{{cite book | last=Schneid | first =Frederick C. | title =Napoleon's conquest of Europe: the War of the Third Coalition | publisher =Praeger Pub | year =2005 |isbn= |ref=Schneid(2005)}} *{{cite book | last=Tolstoy | first =Leo | title =War and Peace | publisher =Penguin Group | year =1982 |isbn=0-14-044417-3 |ref=Tolstoy(1982)}} *{{cite book | last=Uffindell | first =Andrew | title =Great Generals of the Napoleonic Wars | publisher =Spellmount Ltd | year =2003 |isbn=1-86227-177-1 |ref=Uffindell(2003)}} *{{cite book| last = Stutterheim | first = Karl | authorlink = | coauthors = Pine-Coffin, John (trans.) | title = A Detailed Account of The Battle of Austerlitz | publisher = Thomas Goddard | year = 1807 | location = London | pages = | url = https://books.google.co.jp/books?id=KlNEAAAAIAAJ&printsec=frontcover&dq=battle+of+austerlitz&ei=-oyTSK3SLYj2jgHy4OTHBA&client=firefox-a&redir_esc=y&hl=ja#PRA1-PA46,M1 | doi = | id = | isbn =|ref=Stutterheim(1807)}} *{{cite book|author = Lê Vinh Quốc (chief editor), Lê Phụng Hoàng, Nguyễn Thị Thư|title=Các nhân vật lịch sử cận đại. Tập II: Nga|publisher=Nhà xuất bản Giáo dục|location=Vietnam|year=2001|language = Vietnamese|ref=Lê Vinh Quốc, Nguyễn Thị Thư, Lê Phụng Hoàng(2001)}} *{{cite book|last=Rose|first=John Holland|authorlink=ジョン・ホランド・ローズ|title=The Life of Napoleon I|publisher=G Bell and Sons|location=London|year=1910|edition=third|volume=2|pages=|chapter=XXIII. Austerlitz |url=http://www.gutenberg.org/files/14290/14290-8.txt|accessdate=10 December 2008|ref=Rose(1910)}} *{{Cite book|和書|author=エミール・ブカーリ|translator=小牧大介 |editor=|year=2001|title=ナポレオンの元帥たち―フランス帝国の群雄伝|series=オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ|publisher=[[新紀元社]]|isbn=978-4883178865|ref=ブカーリ(2001)}} *{{Cite book|和書|author=ローラン・ジョフラン|translator=渡辺格|editor=|year=2011|title=ナポレオンの戦役|series=|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4120041907|ref=ジョフラン(2011)}} *{{Cite book|和書|author=ボナパルト・ナポレオン、O.オブリ|translator= [[大塚幸男]]|editor=|year=1983|title=ナポレオン言行録|series=[[岩波文庫]] 青 435-1|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4003343517|ref=O.オブリ(1983)}} *{{Cite book|和書|author=大橋武夫|authorlink=大橋武夫|translator=|editor=|year=1983|title=兵法 ナポレオン―命令戦法で勝ち訓令戦法に敗れた天才的指導者|series=|publisher=マネジメント社|isbn=978-4837801221|ref=大橋(1983)}} *{{Cite book|和書|author=志垣嘉夫|translator=|editor=|year=1996|title=独裁への道に影をなげた民族の目覚め|series=歴史群像 47『ナポレオン (皇帝編)』収録|publisher=[[Gakken|学研]]|isbn=978-4056013610 |ref=志垣(1996)}} *{{Cite book|和書|author=長塚隆二|authorlink=長塚隆二|translator=|editor=|year=1986|title=ナポレオン〈下〉―覇者専横の末路|series=|publisher=[[読売新聞社]]|isbn=978-4643746501|ref=長塚(1986)}} *{{Cite book|和書|author=本池立|translator=|editor=|year=1996|title=ナポレオン戦争の全貌|series=歴史群像 48『ナポレオン (戦争編)』収録|publisher=学研|isbn=978-4056013627|ref=本池(1996)}} *{{Cite book|和書|author=藤沼貴|authorlink=藤沼貴|translator=|editor=|year=1966|title=戦争と平和の歴史的・社会的背景|series=世界文学全集〈第20巻〉『戦争と平和』収録|publisher=河出書房新社|isbn=|ref=藤沼(1966)}} *{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=桑原武夫(責任編集)|editor-link=桑原武夫|year=1975|title=フランス革命とナポレオン|series=世界の歴史 10|publisher=[[中央公論新社]] |isbn=978-4122001992 |ref=桑原他(1975)}} *{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=武本竹生(編訳)|year=1979|title=ナポレオン|series=世界を創った人びと〈23〉|publisher=[[平凡社]]|isbn=|ref=武本(1979)}} ==外部リンク== {{Commons category|Battle of Austerlitz}} {{Wikisourcelang|en|Proclamation after the Battle of Austerlitz|アウステルリッツの戦い後のナポレオンの演説}} * [http://www.pousse-pion.fr/blog/wan/ordre-de-bataille-austerlitz/ '' Austerlitz order of battle''] * [http://www.zamky-hrady.cz/1/slavkov-e.htm Austerlitz] * [http://www.zamky-hrady.cz/1/slavkov-d.htm The Battle of Austerlitz 2005] {{de icon}} * [http://www.vialupo.com/austerlitz Austerlitz 2005: la bataille des trois empereurs] {{fr icon}} * [http://www.pousse-pion.fr/mp/La-bataille-d-Austerlitz.php ''Austerlitz Online Game''] (Pousse-pion éditions, 2010) {{fr icon}} * [https://web.archive.org/web/20060825071354/http://www.napoleonicminiatureswargame.com/austerlitz.html Austerlitz: The Battle of the Three Emperors] (Napoleonic Miniatures Wargame Society of Toronto) * [https://www.imdb.com/title/tt0053638/ Austerlitz in Internet Movie Database] {{Coord|49|07|40|N|16|45|49|E|region:CZ_type:event|display=title}} {{ナポレオン戦争}} {{Good article}} {{authority control}} {{デフォルトソート:あうすてるりつつのたたかい}} [[Category:チェコの歴史]] [[Category:ナポレオン戦争の戦闘]] [[Category:ハプスブルク帝国の戦闘]] [[Category:ロシア帝国の戦闘]] [[Category:1805年の戦闘]] [[Category:1805年のフランス]] [[Category:1805年のオーストリア]] [[Category:チェコの戦闘]] [[Category:オーストリア帝国]] [[Category:アレクサンドル1世]] [[Category:フランツ2世]] [[Category:ミハイル・クトゥーゾフ]] [[Category:ピョートル・バグラチオン]] [[Category:カール・フォン・エスターライヒ=テシェン]] [[Category:カール14世ヨハン]] [[Category:ジャン・ランヌ]]
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アイラウの戦い
アイラウの戦い(アイラウのたたかい、英: Battle of Eylau)は、1807年2月7日から2月8日にかけて東プロイセン南部の小さな村アイラウ(Eylau 現:バグラティオノフスク)の付近でおこなわれた会戦。当時としては異例の冬季に発生した。その原因はフランス軍の補給状態の悪化にあり、まだ補給が続く内にイエナ・アウエルシュタットの戦いで勝利したフランス軍が余勢を駆って、残余の敵を撃滅するための短期決戦が望まれていたからである。 イエナの戦い・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を撃破した後、ナポレオン・ボナパルトは75,000の兵でポーランドへ逃げたプロイセン軍(レストク将軍指揮下の残余9,000)と、その援軍に現れたベニグセン将軍麾下のロシア軍(69,000)に決戦を挑んだ。しかし、吹雪や情報不足(一方、フランスの伝令がコサック騎兵に命令書ごと捕獲されたことで、フランス側の動きは連合軍に捕捉されていた)でフランス軍は苦戦を強いられた。 プロイセンに援軍として派遣されたものの、形勢不利と見たロシア軍はフランス軍との交戦をさけて後退を続けていた。だが、2月6日、ホフでの小規模戦闘でミュラ、スールトの両軍団がロシア軍と交戦。ロシア側は兵2,000と砲5門を失った。 翌7日、ロシア軍を率いるベニグセン将軍はアイラウ村で後退を止めて防御態勢に入る。これを見たナポレオンは全軍をアイラウ村の西方尾根上に展開させた。 アイラウ村は東西を小高い尾根に挟まれた小村で、小川や池があるが会戦当時、積雪や寒気によってそれらは凍結し、その上は歩兵はおろか砲すら通行可能であった。折から寒気は厳しく、両軍の兵は寒さに震え上がっていた。気象条件も悪く、吹雪が舞っているので兵士達は「この天候では当分、戦端は開かれない」と、もっぱら暖を取るのに忙しかった。 フランス軍は3軍団39,000+親衛隊6,000。対するロシア軍は8個師団67,000であり、劣勢のフランス軍は当日、攻撃を仕掛ける予定はなかった。攻撃は後続のダヴーの第三軍団15,000と、プロイセン軍を追撃中のネイの第六軍団15,000が到着後に行うべく連絡を取ったのである。だが、命令はネイの元に届かず、これがナポレオンにとって第一の誤算となる。 7日に戦闘が開始されたのは偶発的であった。夕刻に到着したナポレオンの随員が不用意にもロシア軍の前哨線に引っかかり、敵軍の攻撃を受けたのが第二の誤算であった。これを見たフランス軍老親衛隊の一部が随員一行を救出すべく打って出たのだが、この『フランス親衛隊動く』の報はベニグセンの判断を狂わせた。彼はこれを、アイラウ村奪取の動きと判断して、直ちにオステルマン将軍へ砲兵による支援射撃を行わせると共に、歩兵も前線へと投入した。これにフランス砲兵隊も猛然と応射。両軍は全くの偶然から、突発的に戦端を開いてしまったのである。 吹雪のただ中、ミュラー、スールトの両軍団投入の結果、ロシア軍はアイラウ村から駆逐された。しかし、ベニグセンは夜半、自軍を敗走ではなく秩序を保ったまま後退させており、フランス軍はロシア軍に決定打を与えてはいなかった。 両軍の損害はそれぞれ各4,000に達したが、これは前哨戦に過ぎなかった。 8日。いわゆるアイラウの戦いの当日。ロシア軍はアイラウ村東の尾根に再編成した自軍を展開していた。天候は変わらず吹雪である。 戦闘は夜明け直後のロシア軍の先制砲撃から開始された。砲撃に加えてスールトの第四軍団はトゥチコフ将軍の歩兵とマルコフ将軍の騎兵に押されまくり、ようやく右翼に駆け付けたタヴー第三軍団の前衛部隊も前進を阻まれてしまう。フランス砲兵隊の砲撃は尾根上の敵に有効打を与えられず、門数でも遙かに劣る(下から撃ち上げると射程が短くなる。また、ロシア軍の砲460門に対して、フランス軍は砲200門と半数以下であった)。 この状況を観察したナポレオンは午前10時、予備として控えていたオージュロー元帥の投入を決意する。だが猛吹雪の中、オージュロー第七軍団の隊列は乱れ、方向を見失い、気が付いた時にはザッケン将軍麾下のロシア軍砲兵隊(砲72門)の真正面に位置していた。砲からケースショット(キャニスター弾)の猛射が浴びせられ、そこへ「ウラー!」の叫びと共にロシア兵が突っ込んでくる。オージュローの第七軍団は兵4,000の犠牲を出して瞬時に潰走してしまったのである。 オージュロー軍団の敗退はフランス全軍を揺るがしたが、ナポレオンは慌てずにミュラー元帥の騎兵団を投入する。本会戦におけるミュラーの騎兵突撃は「戦史の中でもっとも苛烈な騎兵突撃」と評されるほどで、ロシア軍の第一線を破り、第二戦も突破するや反転し、第二線を背後から突いて暴れ回った。これが一つの転機となり、フランス軍は全軍崩壊の危機を脱する。 時間と共にタヴーの軍団も前衛に引き続き、右翼に続々と到着しており、フランス軍はようやく一息付ける形となった。しかし、レストク将軍率いるプロイセン軍9,000も同時に戦場に到着しており、戦況は予断を許さなかった。一進一退を繰り返す中、仏露両軍は対峙したまま日没を迎える。 ナポレオンは自軍の情勢が不利であることを省みて「このままだと、退却もやむなし」を決意していた。退却は甚だ不本意である。ロシア側はここぞとばかりに『ナポレオン不敗神話の終焉』を宣伝するだろうからだ。だが、ナポレオンはこのポーランド片田舎の雪中で、手塩をかけて育てた大陸軍(ラ・グランダルメ)の軍勢をすり潰す訳にはいかなかったのだ。 しかし、事態は思わぬ方向へと動く。ベニグセンはフランス軍の力を誤認し、その夜の内に全軍を撤退させてしまったのである。 これを知ったナポレオンは即座に大勝利の報をパリへと送ったが、無論、本当の勝利は掴んでいなかった。 ロシア軍の攻撃によりオージュロー元帥が重傷を負うなど、あやうくフランスの大敗北になるところであった。プロイセン・ロシア連合軍は15,000名の死傷者を出し、フランス軍も25,000名の死傷者を出して損害はフランス軍の方が多い。 この会戦で常勝フランス軍が痛み分けに甘んじたことはヨーロッパ中に知れ渡ったが、その後ナポレオンは軍を立てなおし、雪解け後の5月27日にプロイセンが守るダンツィヒを攻略(ダンツィヒ攻囲戦)し、6月14日にフリートラントの戦いでロシアに大勝した。
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アイラウの戦いは、1807年2月7日から2月8日にかけて東プロイセン南部の小さな村アイラウの付近でおこなわれた会戦。当時としては異例の冬季に発生した。その原因はフランス軍の補給状態の悪化にあり、まだ補給が続く内にイエナ・アウエルシュタットの戦いで勝利したフランス軍が余勢を駆って、残余の敵を撃滅するための短期決戦が望まれていたからである。 イエナの戦い・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を撃破した後、ナポレオン・ボナパルトは75,000の兵でポーランドへ逃げたプロイセン軍(レストク将軍指揮下の残余9,000)と、その援軍に現れたベニグセン将軍麾下のロシア軍(69,000)に決戦を挑んだ。しかし、吹雪や情報不足(一方、フランスの伝令がコサック騎兵に命令書ごと捕獲されたことで、フランス側の動きは連合軍に捕捉されていた)でフランス軍は苦戦を強いられた。
{{Battlebox| battle_name= アイラウの戦い |campaign= |image= [[Image:Gros, Napoleon at Eylau.jpg|300px|"Napoléon on the field of Eylau" by Antoine-Jean Gros]] |caption= アイラウの戦いでのナポレオン1世<br>(作:[[アントワーヌ=ジャン・グロ]]) |conflict= [[ナポレオン戦争]] |date= [[1807年]][[2月7日]] - [[2月8日]] |place= [[東プロイセン]]南部の[[バグラティオノフスク|アイラウ]] |result= フランス軍の辛勝(実質は引き分け) |combatant1= {{FRA1804}} |combatant2= {{PRU1803}}<br>{{RUS1883}} |commander1= [[ナポレオン・ボナパルト]] |commander2= [[レオンティイ・レオンティイエビッチ・ベニグセン|ベニグセン]] |strength1= 45,000(砲200門、開始時)+15,000(増援) |strength2= 67,000(砲460門、開始時)+9,000(増援) |casualties1= 25,000 |casualties2= 15,000 |}} '''アイラウの戦い'''(アイラウのたたかい、{{Lang-en-short|Battle of Eylau}})は、[[1807年]][[2月7日]]から[[2月8日]]にかけて[[東プロイセン]]南部の小さな村アイラウ('''Eylau''' 現:[[バグラティオノフスク]])の付近でおこなわれた[[会戦]]。当時としては異例の冬季に発生した。その原因は[[大陸軍 (フランス)|フランス軍]]の[[補給]]状態の悪化にあり、まだ補給が続く内に[[イエナ・アウエルシュタットの戦い]]で勝利したフランス軍が余勢を駆って、残余の敵を撃滅するための短期決戦が望まれていたからである<ref name="Eylau1">『[[タクテクス|TACTICS]]』No10、83頁。</ref>。 イエナの戦い・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を撃破した後、[[ナポレオン・ボナパルト]]は75,000の兵でポーランドへ逃げたプロイセン軍(レストク将軍指揮下の残余9,000)と、その援軍に現れた[[レオンティイ・レオンティイエビッチ・ベニグセン|ベニグセン]]将軍麾下の[[ロシア帝国陸軍|ロシア軍]](69,000)に決戦を挑んだ。しかし、[[吹雪]]や情報不足(一方、フランスの伝令が[[コサック]]騎兵に命令書ごと捕獲されたことで、フランス側の動きは連合軍に捕捉されていた)でフランス軍は苦戦を強いられた。 == 2月6日 - 2月7日、前哨戦 == [[プロイセン王国|プロイセン]]に援軍として派遣されたものの、形勢不利と見たロシア軍はフランス軍との交戦をさけて後退を続けていた。だが、[[2月6日]]、ホフでの小規模戦闘で[[ジョアシャン・ミュラ|ミュラ]]、[[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト|スールト]]の両軍団がロシア軍と交戦。ロシア側は兵2,000と砲5門を失った<ref>『TACTICS』No10、82頁。</ref>。 翌7日、ロシア軍を率いる[[レオンティイ・レオンティイエビッチ・ベニグセン|ベニグセン]]将軍はアイラウ村で後退を止めて防御態勢に入る。これを見たナポレオンは全軍をアイラウ村の西方尾根上に展開させた。 アイラウ村は東西を小高い尾根に挟まれた小村で、小川や池があるが会戦当時、積雪や寒気によってそれらは凍結し、その上は歩兵はおろか砲すら通行可能であった<ref name="Eylau1">『[[タクテクス|TACTICS]]』No10、83頁。</ref>。折から寒気は厳しく、両軍の兵は寒さに震え上がっていた。気象条件も悪く、[[吹雪]]が舞っているので兵士達は「この天候では当分、戦端は開かれない」と、もっぱら暖を取るのに忙しかった。 フランス軍は3軍団39,000+親衛隊6,000。対するロシア軍は8個師団67,000であり<ref name="Eylau1">『[[タクテクス|TACTICS]]』No10、83頁。</ref>、劣勢のフランス軍は当日、攻撃を仕掛ける予定はなかった。攻撃は後続の[[ルイ=ニコラ・ダヴー|ダヴー]]の第三軍団15,000と、プロイセン軍を追撃中の[[ミシェル・ネイ|ネイ]]の第六軍団15,000が到着後に行うべく連絡を取ったのである。だが、命令はネイの元に届かず、これがナポレオンにとって第一の誤算となる。 7日に戦闘が開始されたのは偶発的であった。夕刻に到着したナポレオンの随員が不用意にもロシア軍の前哨線に引っかかり、敵軍の攻撃を受けたのが第二の誤算であった。これを見たフランス軍[[古参近衛隊|老親衛隊]]の一部が随員一行を救出すべく打って出たのだが<ref>親衛隊にとって近くの味方救出のために行った当然の行動であって、無論、この出動にナポレオンは関与していない。</ref>、この『フランス親衛隊動く』の報はベニグセンの判断を狂わせた<ref name="Eylau2">『TACTICS』No10、84頁。</ref>。彼はこれを、アイラウ村奪取の動きと判断して、直ちに[[アレクサンドル・オステルマン=トルストイ|オステルマン]]将軍へ[[砲兵]]による支援射撃を行わせると共に、[[歩兵]]も前線へと投入した。これにフランス砲兵隊も猛然と応射。両軍は全くの偶然から、突発的に戦端を開いてしまったのである。 吹雪のただ中、ミュラー、スールトの両軍団投入の結果、ロシア軍はアイラウ村から駆逐された。しかし、ベニグセンは夜半、自軍を敗走ではなく秩序を保ったまま後退させており、フランス軍はロシア軍に決定打を与えてはいなかった。 両軍の損害はそれぞれ各4,000に達したが、これは前哨戦に過ぎなかった。 == 2月8日、猛吹雪での決戦 == 8日。いわゆるアイラウの戦いの当日。ロシア軍はアイラウ村東の尾根に再編成した自軍を展開していた。天候は変わらず吹雪である。 戦闘は夜明け直後のロシア軍の先制砲撃から開始された。砲撃に加えてスールトの第四軍団はトゥチコフ将軍の歩兵とマルコフ将軍の[[騎兵]]に押されまくり、ようやく右翼に駆け付けたタヴー第三軍団の前衛部隊も前進を阻まれてしまう。フランス砲兵隊の砲撃は尾根上の敵に有効打を与えられず、門数でも遙かに劣る(下から撃ち上げると射程が短くなる<ref>当時の砲は[[榴弾]]を用いることが少なく、多くは弾着後は爆発しない鉄の砲丸(ラウンドショット)であり、[[ボウリング]]の球のよう地面を跳ねながら敵を薙ぎ倒す物であった。下から撃ち上げた場合、勢いは当然落ちるので効果は半減してしまう上、地面が雪なので(これはロシア軍の砲撃も同じ)砲弾がバウンドしにくい状況も重なっていた。</ref>。また、ロシア軍の砲460門に対して、フランス軍は砲200門と半数以下であった)。 この状況を観察したナポレオンは午前10時、予備として控えていた[[シャルル・ピエール・フランソワ・オージュロー|オージュロー]]元帥<ref>当時のオージュローは持病の[[リューマチ]]に苦しんでおり、今回の作戦に不参加を表明していたが、歴戦の勇将である彼を戦列から外すのをナポレオンは好まず、皇帝たっての願いで参加を余儀なくされていたが、さすがに彼とその麾下の第七軍団は、それまで前線投入は避けられていた。『TACTICS』No10、84頁。</ref>の投入を決意する。だが猛吹雪の中、オージュロー第七軍団の隊列は乱れ、方向を見失い、気が付いた時にはザッケン将軍麾下のロシア軍砲兵隊(砲72門)の真正面に位置していた<ref name="Eylau2">『TACTICS』No10、84頁。</ref>。砲から[[キャニスター弾|ケースショット(キャニスター弾)]]の猛射が浴びせられ、そこへ「ウラー!」の叫びと共にロシア兵が突っ込んでくる。オージュローの第七軍団は兵4,000の犠牲を出して瞬時に潰走してしまったのである。 オージュロー軍団の敗退はフランス全軍を揺るがしたが、ナポレオンは慌てずにミュラー元帥の騎兵団を投入する。本会戦におけるミュラーの騎兵突撃は「戦史の中でもっとも苛烈な騎兵突撃」<ref name="Eylau3">『TACTICS』No10、85頁。</ref>と評されるほどで、ロシア軍の第一線を破り、第二戦も突破するや反転し、第二線を背後から突いて暴れ回った。これが一つの転機となり、フランス軍は全軍崩壊の危機を脱する。 時間と共にタヴーの軍団も前衛に引き続き、右翼に続々と到着しており、フランス軍はようやく一息付ける形となった。しかし、レストク将軍率いるプロイセン軍9,000も同時に戦場に到着しており、戦況は予断を許さなかった。一進一退を繰り返す中、仏露両軍は対峙したまま日没を迎える。 ナポレオンは自軍の情勢が不利であることを省みて「このままだと、退却もやむなし」を決意していた<ref name="Eylau3">『TACTICS』No10、85頁。</ref>。退却は甚だ不本意である。ロシア側はここぞとばかりに『ナポレオン不敗神話の終焉』を宣伝するだろうからだ。だが、ナポレオンはこのポーランド片田舎の雪中で、手塩をかけて育てた[[大陸軍 (フランス)|大陸軍(ラ・グランダルメ)]]の軍勢をすり潰す訳にはいかなかったのだ。 しかし、事態は思わぬ方向へと動く。ベニグセンはフランス軍の力を誤認し、その夜の内に全軍を撤退させてしまったのである。 これを知ったナポレオンは即座に大勝利の報を[[パリ]]へと送ったが、無論、本当の勝利は掴んでいなかった。 == 結末 == ロシア軍の攻撃によりオージュロー元帥が重傷を負うなど、あやうくフランスの大敗北になるところであった。プロイセン・ロシア連合軍は15,000名の死傷者を出し、フランス軍も25,000名の死傷者を出して損害はフランス軍の方が多い<ref name="Eylau3">『TACTICS』No10、85頁。</ref>。 この会戦で常勝フランス軍が痛み分けに甘んじたことはヨーロッパ中に知れ渡ったが、その後ナポレオンは軍を立てなおし、雪解け後の[[5月27日]]にプロイセンが守る[[グダニスク|ダンツィヒ]]を攻略([[ダンツィヒ攻囲戦 (1807年)|ダンツィヒ攻囲戦]])し、[[6月14日]]に[[フリートラントの戦い]]でロシアに大勝した。 == 参考文献 == [[Image:Eylau Campaign Map 1807.JPG|thumb|right|upright=1.8|alt=Eylau Campaign Map 1807|2月25日までの両軍の動き]] : 『[[タクテクス|TACTICS]]』No10、「大陸軍その光と影 その9 アイラウの戦い」森谷利雄。 == 作品 == * 『キング・オブ・キングス』(原題『ナポレオン』) - [[イタリア]]・[[ドイツ]]の[[コラボレーション|合作テレビ映画]]([[2002年]])。アイラウ戦の描写があり、ミュラーの騎兵突撃シーンを見ることが出来る。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[燻製ニシンの虚偽]] - [[ウィリアム・コベット]]がナポレオンの敗北を誤報した[[イギリス]]の[[新聞]]を批判する[[記事]]の中で使われたのが始まりとされる。 {{ナポレオン戦争}} {{DEFAULTSORT:あいらうのたたかい}} [[Category:ナポレオン戦争の戦闘]] [[Category:プロイセンの戦闘]] [[Category:ロシア帝国の戦闘]] [[Category:東プロイセン]] [[Category:1807年の戦闘]] [[Category:1807年のフランス]] [[Category:ミハイル・バルクライ・ド・トーリ]] [[Category:ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト]] [[Category:ジョアシャン・ミュラ]] {{authority control}}
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ペアノの公理
ペアノの公理(ペアノのこうり、英: Peano axioms) とは、自然数の全体を特徴づける公理である。ペアノの公準(英: Peano postulates)あるいはデデキント=ペアノの公理(英: Dedekind-Peano axioms)とも呼ばれる。1891年にイタリアの数学者ジュゼッペ・ペアノにより定式化された。 ペアノの公理を起点にして、初等算術と整数・有理数・実数・複素数の構成などを実際に展開してみせた古典的な書物に、1930年に出版されたランダウによる『解析学の基礎』(Grundlagen Der Analysis)がある。 集合 N と定数 0 と関数 Sと命題Eに関する次の公理をペアノの公理という。 このとき N の元を自然数といい、自然数 n に対して自然数 S(n) をその後者 (successor)という。 第五公理は、数学的帰納法の原理である。 これらの公理は互いに独立であり、いずれも残りから導くことはできない。 ペアノの公理から 2 + 2 = 4 や 2 ⋅ 2 = 4 のような「定理」を証明するには 2 = S(S(0)) などの項を導入したり、加法 + や乗法 ⋅ の存在や性質を示したりする必要がある。たとえば Henle (1986, pp. 17, 18, 103, 104) を見よ。 次の主張を回帰定理(recursion theorem)という。 集合 X に属する元 x と写像 g: X → X が与えられたとき を満たす写像 が一意的に存在する。 たとえば X = N のとき写像 f は初項が x の漸化式により定義される数列に他ならない。回帰定理はこのような再帰的に定義される写像の存在と一意性を数学的帰納法の原理により保証する。 集合 N^ と定数 0^ と関数 S^ がペアノの公理を満たすとき組 (N^, 0^, S^) をペアノ構造(Peano structure)という。ペアノ構造は同型を除いてただ一つに定まる、つまりペアノの公理は範疇的(categorical)であることがわかる。 一方で後述するペアノ算術はレーヴェンハイム=スコーレムの定理から超準モデルをもつので範疇的ではない。 現代数学において標準的な数学の対象はすべて集合として実現されている。集合論における自然数の標準的な構成法としては がある。これらの集合は存在して、ペアノの公理を満たすことが確かめられる。 このとき具体的な自然数は のようになる。この構成法はジョン・フォン・ノイマンによる。 自然数の集合が定義されたとき、その構成と自然数上での帰納法から、自然数上の算術や順序を定めることができる。 自然数の加法は次のように再帰的に定義される。 自然数の乗法は次のように再帰的に定義される。 自然数の順序は次のように定義される。 ある k について が成り立つとき と定義する。 また n ≤ m かつ n ≠ m のとき n < m と定義する。 非論理記号として定数記号 0 と関数記号 S, +, ⋅ と述語記号 < をもつ等号つき一階述語論理の形式言語上で、以下の公理によって定まる理論をペアノ算術(Peano arithmetic)あるいは PA という(形式言語や公理の選び方には本質的に同じものが色々とある。)。 自然数の標準モデル N において真である Σ1 閉論理式はペアノ算術から証明ができること(PA の Σ1 完全性)が知られている。 一方でゲーデルの第一不完全性定理によりペアノ算術からは証明も反証もできない命題が存在する。有名な例としてはグッドスタインの定理やパリス=ハーリントンの定理がある。 ペアノは 1889年に「Arithmetices Principia, nova methodo exposita(算術原理)」と題するラテン語で書かれた論文で自然数の公理の原型となるべきものを発表しているが、それらは自然数以外の公理を含み本来必要とされるよりも多くの命題が述べられているなど、自然数の公理系としては不十分なものであった。1889 年の記載は以下の通り。原論文には誤植があるが正しい形に修正。本論文では、この後、四則演算の定義などが続き、ここでは明示的に自然数を定義しようとしている。 現在ペアノの公理系として知られる形のものが発表されたのは 1891年の「数の概念について」である。 この論文の中でペアノは次の 5 項目を自然数の満たすべき原始命題として与え、さらにこれら 5 つの命題が互いに独立であることを証明した。ペアノは現代の用語で言うところの公理と推論規則を合わせて原始命題と呼んだ。ここで挙げているものは公理にあたる。 ペアノがこれらの原始命題によって自然数そのものを定義しようとはしなかった点には注意を払う必要がある。 彼は自然数の持つべき性質を挙げ、自然数 や 1 などの原始命題中に現れる用語を無定義述語として扱っている。 これは後にヒルベルトらによって強力に進められることになる、形式主義的方法の格好の例といえる。
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ペアノの公理 とは、自然数の全体を特徴づける公理である。ペアノの公準あるいはデデキント=ペアノの公理とも呼ばれる。1891年にイタリアの数学者ジュゼッペ・ペアノにより定式化された。 ペアノの公理を起点にして、初等算術と整数・有理数・実数・複素数の構成などを実際に展開してみせた古典的な書物に、1930年に出版されたランダウによる『解析学の基礎』がある。
{{混同|ペアノ算術({{lang|en|Peano arithmetic}})|x1=[[一階述語論理]]による自然数論の形式化である}} '''ペアノの公理'''(ペアノのこうり、{{lang-en-short|Peano axioms}}) とは、[[自然数]]の全体を[[特徴づけ (数学)|特徴づけ]]る[[公理]]である。'''ペアノの公準'''({{lang-en-short|Peano postulates}})あるいは'''デデキント=ペアノの公理'''({{lang-en-short|Dedekind-Peano axioms}})とも呼ばれる<ref>{{cite book |和書 |author1=G. バーコフ |authorlink1=ガーレット・バーコフ |author2=S. マクレーン |authorlink2=ソンダース・マクレーン |title=現代代数学概論 |edition=改訂3版 |publisher=白水社 |year=1967 |id={{国立国会図書館デジタルコレクション|2422244|format=NDLJP}} |pages=82–86 }}</ref>{{sfn|菊池|2014|p=98}}。[[1891年]]にイタリアの数学者[[ジュゼッペ・ペアノ]]により定式化された。 ペアノの公理を起点にして、初等算術と[[整数]]・[[有理数]]・[[実数]]・[[複素数]]の構成などを実際に展開してみせた古典的な書物に、1930年に出版された[[エトムント・ランダウ|ランダウ]]による『解析学の基礎』({{lang|de|Grundlagen Der Analysis}})がある。 == 公理 == 集合 {{math|ℕ}} と定数 {{math|0}} と関数 {{mvar|S}}と集合{{mvar|E}}に関する次の公理を'''ペアノの公理'''という{{sfn|ハルモス|1975|p=82}}{{efn2|自然数を {{math|0}} からではなく {{math|1}} から始める流儀もある{{sfn|彌永|1972|p=66}}。また自然数の全体が[[順序数]]であることを意識するときにはギリシャ文字の {{mvar|ω}} を用いることがある。}}。 # {{math|0 [[元 (数学)|∈]] ℕ}} # 任意の {{math|''n'' ∈ ℕ}} について {{math|''S''(''n'') ∈ ℕ}} # 任意の {{math|''n'' ∈ ℕ}} について {{math|''S''(''n'') ≠ 0}} # 任意の {{math|''n'', ''m'' ∈ ℕ}} について {{math|''n'' ≠ ''m''}} ならば {{math|''S''(''n'') ≠ ''S''(''m'')}} # 任意の {{math|''E'' [[部分集合|⊆]] ℕ}} について {{math|0 ∈ ''E''}} かつ任意の {{math|''n'' ∈ ℕ}} について {{math|''n'' ∈ ''E'' [[ならば|→]] ''S''(''n'') ∈ ''E''}} ならば {{math|''E'' {{=}} ℕ}} このとき {{math|ℕ}} の元を'''自然数'''といい、自然数 {{mvar|n}} に対して自然数 {{math|''S''(''n'')}} をその'''後者''' ({{lang|en|successor}}){{efn2|自然数 {{math|''S''(''n'')}} は直後の数 {{math|''n'' + 1}} に相当する。ただし定数 {{math|1}} や関数 {{math|+}} はまだ定義されていないことに注意。}}という。 第五公理は、'''[[数学的帰納法]]の原理'''である{{efn2|任意の[[部分集合]]に関する[[量化]]を行っているので、これは[[一階述語論理]]では形式化できない。}}。 これらの公理は互いに独立であり、いずれも残りから導くことはできない{{sfn|EoM|2001}}。 ペアノの公理から {{math|2 + 2 {{=}} 4}} や {{math|2 ⋅ 2 {{=}} 4}} のような「定理」を証明するには {{math|2 {{=}} ''S''(''S''(0))}} などの項を導入したり、加法 {{math|+}} や乗法 {{math|⋅}} の存在や性質を示したりする必要がある。たとえば {{harvtxt|Henle|1986|pp=17, 18, 103, 104}} を見よ。 == 回帰定理 == 次の主張を'''回帰定理'''({{lang|en|recursion theorem}})という{{sfn|足立|2002|p=77|loc=定理 3.2(回帰定理)}}。 集合 {{mvar|X}} に属する元 {{mvar|x}} と[[写像]] {{math|''g'': ''X'' → ''X''}} が与えられたとき :<math> f(0) = x,\ f \circ S = g \circ f </math> を満たす写像 :<math> f \colon \mathbb N \to X </math> が[[一意性|一意的]]に存在する。 たとえば {{math|''X'' {{=}} ℕ}} のとき写像 {{mvar|f}} は初項が {{mvar|x}} の[[漸化式]]により定義される[[数列]]に他ならない。回帰定理はこのような再帰的に定義される写像の存在と一意性を数学的帰納法の原理により保証する。 == 範疇性 == 集合 {{math|ℕ^}} と定数 {{math|0^}} と関数 {{math|''S''^}} がペアノの公理を満たすとき組 {{math|(ℕ^, 0^, ''S''^)}} を'''ペアノ構造'''({{lang|en|Peano structure}})という。ペアノ構造は同型を除いてただ一つに定まる{{efn2|すなわち[[全単射]] {{math|''φ'': ℕ → ℕ^}} で {{math|''φ''(0) {{=}} 0^}} かつ {{math|''φ'' ∘ ''S'' {{=}} ''S''^ ∘ ''φ''}} を満たすものが存在する。}}、つまりペアノの公理は[[モデル理論#範疇性|範疇的]]({{lang|en|categorical}})であることがわかる。 一方で後述するペアノ算術は[[レーヴェンハイム=スコーレムの定理]]から[[算術の超準モデル|超準モデル]]をもつので範疇的ではない。 == 集合論的な構成 == 現代数学において標準的な数学の対象はすべて集合として実現されている。[[公理的集合論|集合論]]における自然数の標準的な構成法としては :<math> \mathbb N := \bigcap \{\, x \mid \emptyset \in x \land \forall y[ y \in x \to y \cup \{ y \} \in x ] \,\} </math> :<math> 0 := \emptyset </math> :<math> S(x) := x \cup \{ x \} </math> がある{{efn2|ハルモス曰く「読者がこの自然数の定義に関連して味わうかもしれない軽微な不快感はまったく普通のまた大ていの場合は一時的なものである」{{sfn|ハルモス|1975|p=77}}。}}。これらの集合は存在して、ペアノの公理を満たすことが確かめられる。 このとき具体的な自然数は *<math>0 = \emptyset = \{\}</math> *<math>1 := S(0) = \{0\} = \{\{\}\}</math> *<math>2 := S(1) = \{0, 1\} = \{\{\}, \{\{\}\}\}</math> *<math>3 := S(2) = \{0, 1, 2\} = \{\{\}, \{\{\}\}, \{\{\}, \{\{\}\}\}\}</math> のようになる。この構成法は[[ジョン・フォン・ノイマン]]による<ref>{{Harvnb|von Neumann|1923}}</ref>。 自然数の集合が定義されたとき、その構成と自然数上での帰納法から、自然数上の算術や順序を定めることができる。 === 加法 === 自然数の加法は次のように再帰的に定義される。 :<math> n + 0 = n </math> :<math> n + S(m) = S(n + m) </math> === 乗法 === 自然数の乗法は次のように再帰的に定義される。 :<math> n \cdot 0 = 0 </math> :<math> n \cdot S(m) = n \cdot m + n </math> === 順序 === 自然数の順序は次のように定義される。 ある {{mvar|k}} について :<math> n + k = m </math> が成り立つとき :<math> n \le m </math> と定義する。 また {{math|''n'' ≤ ''m''}} かつ {{math|''n'' ≠ ''m''}} のとき {{math|''n'' < ''m''}} と定義する。 == ペアノ算術 == 非論理記号として定数記号 {{math|0}} と関数記号 {{mvar|S}}, {{math|+}}, {{math|⋅}} と述語記号 {{math|<}} をもつ等号つき[[一階述語論理]]の[[形式言語]]上で、以下の公理によって定まる理論を'''ペアノ算術'''({{lang|en|Peano arithmetic}})あるいは PA という{{sfn|鹿島|2007|p=64}}(形式言語や公理の選び方には本質的に同じものが色々とある。)。 #<math> \forall n \lnot[S(n) = 0] </math> #<math> \forall n \forall m [S(n) = S(m) \to n = m] </math> #<math> \forall n [n + 0 = n] </math> #<math> \forall n \forall m[n + S(m) = S(n + m)] </math> #<math> \forall n [n \cdot 0 = 0] </math> #<math> \forall n \forall m [n \cdot S(m) = n \cdot m + n] </math> #<math> \forall n \lnot[n < 0] </math> #<math> \forall n \forall m [ [n < S(m)] \leftrightarrow [n < m] \lor [n = m]] </math> #<math> [\varphi(0) \land \forall n [\varphi(n) \to \varphi(S(n))]] \to \forall n [\varphi(n)] </math> 自然数の標準モデル {{math|ℕ}} において真である {{math|[[算術的階層|Σ{{sub|1}}]]}} 閉[[論理式 (数学)|論理式]]はペアノ算術から[[証明 (数学)|証明]]ができること(PA の {{math|Σ{{sub|1}}}} [[完全性]])が知られている{{sfn|鹿島|2007|p=70}}。 一方で[[ゲーデルの不完全性定理|ゲーデルの第一不完全性定理]]によりペアノ算術からは証明も反証もできない命題が存在する。有名な例としては[[グッドスタインの定理]]や[[パリス=ハーリントンの定理]]がある。 {{関連記事|ロビンソン算術|[[原始帰納的算術|原始再帰的算術]]}} == 無矛盾性 == {{節スタブ|1=[[ゲンツェン]]の仕事|date=2023年1月}} == 歴史 == ペアノは [[1889年]]に「Arithmetices Principia, nova methodo exposita(算術原理)」と題する[[ラテン語]]で書かれた論文で自然数の公理の原型となるべきものを発表している<ref>{{Harvnb|ペアノ|1969}}</ref><ref>{{Harvnb|Peano|1889}}</ref>が、それらは自然数以外の公理を含み本来必要とされるよりも多くの命題が述べられているなど、自然数の公理系としては不十分なものであった。1889 年の記載は以下の通り。原論文には誤植があるが正しい形に修正。本論文では、この後、[[四則演算]]の定義などが続き、ここでは明示的に自然数を定義しようとしている。 # 1 は自然数 # ''a'' が自然数なら ''a'' = ''a'' # ''a'', ''b'' が自然数で ''a'' = ''b'' なら ''b'' = ''a'' # ''a'', ''b'', ''c'' が自然数で ''a'' = ''b'', ''b'' = ''c'' なら ''a'' = ''c'' # ''a'' = ''b'' で ''b'' が自然数なら ''a'' は自然数 # ''a'' が自然数なら ''a'' + 1 は自然数 # ''a'', ''b'' が自然数で ''a'' = ''b'' なら ''a'' + 1 = ''b'' + 1 # ''a'' が自然数なら、''a'' + 1 と 1 は等しくない # もし集合 ''K'' が、1 を含み かつ 自然数 ''x'' が ''K'' に含まれるなら ''x'' + 1 が ''K'' に含まれる、という条件を満たすなら ''K'' は全ての自然数を含む 現在ペアノの公理系として知られる形のものが発表されたのは [[1891年]]の「数の概念について」である。 この論文の中でペアノは次の 5 項目を自然数の満たすべき原始命題として与え、さらにこれら 5 つの命題が互いに独立であることを証明した。ペアノは現代の用語で言うところの[[公理]]と[[推論規則]]を合わせて原始命題と呼んだ。ここで挙げているものは公理にあたる。 # 1 は自然数である # 任意の自然数 ''a'' に対して、''a+'' が自然数を与えるような右作用演算 ''+'' が存在する # もし ''a'', ''b'' を自然数とすると、 ''a+'' = ''b+'' ならば ''a'' = ''b'' である # ''a+'' = 1 を満たすような自然数 ''a'' は存在しない # 集合''s'' が二条件「(i) 1 は ''s'' に含まれる, (ii) 自然数 ''a'' が ''s'' に含まれるならば ''a+'' も ''s'' に含まれる」を満たすならば、あらゆる自然数は ''s'' に含まれる。 ペアノがこれらの原始命題によって自然数そのものを定義しようとはしなかった点には注意を払う必要がある。 彼は自然数の持つべき性質を挙げ、自然数 や 1 などの原始命題中に現れる用語を無定義述語として扱っている。 これは後に[[ダフィット・ヒルベルト|ヒルベルト]]らによって強力に進められることになる、[[形式主義 (数学)|形式主義]]的方法の格好の例といえる。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2|2}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author=足立恒雄 |authorlink=足立恒雄 |year=2002 |title=数:体系と歴史 |publisher=[[朝倉書店]] |isbn=4-254-11088-X |ref={{Harvid|足立|2002}} }} * {{Cite book|和書 |author=彌永昌吉 |authorlink=彌永昌吉 |year=1972 |title=数の体系 |volume=上 |series=岩波新書(青版)815 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=4-00-416001-4 |ref={{Harvid|彌永|1972}} }} * {{Citation |author=鹿島亮 |year=2007 |contribution=第一不完全性定理と第二不完全性定理 |title=不完全性定理と算術の体系 |series=ゲーデルと20世紀の論理学 |volume=3 |publisher=[[東京大学出版会]] |isbn=978-4-13-064097-8 |ref={{Harvid|鹿島|2007}} }} * {{Cite book|和書 |author=菊池誠 |year=2014 |title=不完全性定理 |publisher=[[共立出版]] |isbn=978-4-320-11096-0 |ref={{Harvid|菊池|2014}} }} * {{Cite book|和書 |last=ハルモス |first=P.R. |authorlink=ポール・ハルモス |translator=富川滋 |year=1975 |title=素朴集合論 |publisher=[[ミネルヴァ書房]] |ref={{Harvid|ハルモス|1975}} }} *{{Citation |last=Dedekind |first=Richard |author-link=リヒャルト・デーデキント |origyear=1901 |date=1963-06-01 |title=Essays on the Theory of Numbers |publisher=Dover Publications |edition=Paparback |series=Dover Books on Mathematics |isbn=978-0-486-21010-0 }} **{{Cite book|和書|author=デーデキント|authorlink=リヒャルト・デーデキント|translator=[[河野伊三郎]]|date=1961-11-16|title=数について――連続性と数の本質――|series=岩波文庫 青924-1|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-339241-6|ref={{Harvid|デーデキント|1961}}}} **{{Cite book|和書|author=リヒャルト・デデキント|others=[[渕野昌]] 訳・解説|date=2013-07-10|title=数とは何かそして何であるべきか|series=ちくま学芸文庫 テ9-1 Math & Science|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4-480-09547-3|ref={{Harvid|デデキント|2013}}}} - 「数とは何かそして何であるべきか?」・「連続性と無理数」を収録。 *{{Cite book|和書|author=ジュゼッペ・ペアノ|authorlink=ジュゼッペ・ペアノ|others=小野勝次・梅沢敏郎 訳・解説|date=1969-08-30|title=数の概念について|series=現代数学の系譜 2|publisher=共立出版|isbn=978-4-320-01155-7|ref={{Harvid|ペアノ|1969}}}} * {{citation |editor-last=van Heijenoort |editor-first=Jean |year=1967|title=From Frege to Gödel: A Source Book in Mathematical Logic, 1879–1931|publisher=Harvard University Press |location=[[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|Cambridge, Mass]] |isbn=978-0-674-32449-7}} ** {{citation |last=Peano|first=Giuseppe|author-link=ジュゼッペ・ペアノ|year=1889 |title=The principles of arithmetic, presented by a new method|pages=83–97 |url={{google books|v4tBTBlU05sC|page=PA83|plainurl=yes}} }} ** {{citation |last=Dedekind|first=Richard|author-link=リヒャルト・デーデキント|year=1890|title=Letter to Keferstein.|pages=98–103|url={{google books|v4tBTBlU05sC|page=PA98|plainurl=yes}}}} ** {{citation |last=von Neumann|first=John|author-link=ジョン・フォン・ノイマン|year=1923|title=On the introduction of transfinite numbers.|pages=346–354|url={{google books|v4tBTBlU05sC|page=PA346|plainurl=yes}}}} * {{Cite book|last=Henle|first=J.M.|title=An Outline of Set Theory|publisher=Springer-Verlag|year=1986|isbn=978-0-387-96368-6|url={{google books|fkntBwAAQBAJ|plainurl=yes}}|mr=861950|zbl=0613.04001|ref=harv}} ** {{Cite book|和書|last=ヘンレ|first=J.R.|translator=[[一松信]]|title=集合論問題ゼミ|publisher=シュプリンガー・フェアラーク東京|year=1987|isbn=4-431-70531-7}} ==関連項目== {{Div col}} *[[算術の超準モデル]] *[[プレスバーガー算術]] *[[ラムダ計算]] *[[レーヴェンハイム=スコーレムの定理]] *[[ロビンソン算術]] {{Div col end}} == 外部リンク == *{{Kotobank|ペアノの公理}} *{{Kotobank|自然数}} *{{SpringerEOM|title=Peano axioms|urlname=Peano_axioms|ref={{sfnref|EoM|2001}}}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:へあののこうり}} [[Category:公理]] [[Category:ジュゼッペ・ペアノ]] [[Category:数学のエポニム]] [[Category:数学に関する記事]]
2003-08-08T11:26:16Z
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仮面ライダーBLACK RX
『仮面ライダーBLACK RX』(かめんライダーブラック アールエックス)は、1988年10月23日から1989年9月24日まで、TBS系列で毎週日曜10時から10時30分(JST)に全47話が放送された、毎日放送・東映制作の特撮テレビドラマ作品、および作中で主人公が変身するヒーローの名称。 毎日放送、ならびに原作者である石ノ森章太郎が関与した最後のテレビシリーズである。放送期間中に元号が昭和から平成に改められているが、『仮面ライダークウガ』以降のいわゆる平成仮面ライダーシリーズには含まれない。 前作『仮面ライダーBLACK』の主人公がスタイルを変えて続投した作品。『BLACK』の続編ではあるものの、登場人物の多くが一新され、続投となったのは主役の南光太郎とゲスト出演という形でのシャドームーン、他はシャドームーンとの再戦時に回想という形で、秋月杏子と紀田克美の出演シーンが流用されたのみである。 シリーズ中、モノラル放送および16mmフィルム撮影による最後の作品となった。 前作『BLACK』では企画段階で仮面ライダーの特徴をピックアップした上で、それらをリメイクするのか否定するのか検討した末にリメイク案が採用された。放送2年目となる本作品では旧作からの継承要素にこだわらない方向で制作されることになった。その結果、スーパー戦隊シリーズやメタルヒーローシリーズといった東映制作の他シリーズを意識した数多くの新しい試みが取り入れられ、前作とは異なるアプローチによる新しいライダー像の追求が行われた。 その一環として、原則としてキック技が必殺技であった当時の仮面ライダーシリーズでは初めて、剣や銃などの武器による攻撃をメイン必殺技として採用したほか、専用バイクだけではなく専用の四輪車が導入され、さらにはバイクも含めた多段変身などそれまでの仮面ライダーとは一線を画す要素が取り入れられており、後年のシリーズにおける諸設定の先駆けとなった。 また人物設定でも、主人公である南光太郎の性格が前作のラストを感じさせないほど明るめに描写されたり、前作とは対照的に主人公の周囲を敵味方共に数多くのサブキャラクターが取り巻いているなど、「家族でも楽しめる」という前提の元に作品作りが行われている。一方で、前作から続けて担当した監督の小笠原猛がはじめて『RX』の撮影に参加する際、倉田に対して「今の明るいままのライダーじゃいけない」と語るなど、スタッフ内部でもこの路線変更に対して意見が分かれていた。この他、前作には無かった戦闘員の登場やシャドームーンの再登場によるライバルキャラの復活劇、そして敵幹部間の軋轢など、過去の石ノ森ヒーローの集大成とも呼べる要素も多く盛り込まれた。 物語終盤の第41話「百目婆ァの恐怖」より、1号からZXまでの10人の歴代仮面ライダーが登場した。歴代仮面ライダーの登場には、「『RX』後に仮面ライダーは制作しない」という決定を受けて放送当時の好調な売り上げが番組の終了とともに低下することを危惧した玩具メーカーや出版社の意向が関与しており、RXと歴代ライダーが共演する漫画を児童誌で展開するに当たって、テレビからの引き継ぎを円滑に行うための意味があった。当時は歴代ライダーの登場に否定的な声も出たものの、売り上げ面での成果や後の企画『仮面ライダーSD』への足がかりとなったことを鑑みれば、制作側の狙いは成功したと言われている。 仮面ライダーBLACK=南光太郎が暗黒結社ゴルゴムを滅ぼしてから半年が経過した。かつての友を失い心身ともに傷ついた光太郎は、叔父の佐原俊吉の家に身を寄せ、佐原の航空会社でヘリコプターパイロットの職を得て平和な日々を過ごしていた。 ある日、光太郎は光を発する3本の不思議な杭を目撃。杭を設置する怪人の目撃情報を得て調査を行う途中、怪魔界から現れたクライシス帝国の前線基地であるクライス要塞に拘束・拉致される。そこでクライシス軍司令官ジャーク将軍は、光太郎にクライシス帝国の尖兵となって地球の全人類を抹殺することを要求する。だが、光太郎はこれを拒否したことで、変身機能を破壊されて宇宙空間へと放り出されてしまった。 しかし、光太郎の体内の太陽の石 / キングストーンが太陽光線を吸収し、光太郎を仮面ライダーBLACK RXに転生させた。さらに、かつての相棒・バトルホッパーもアクロバッターとして転生して駆けつける。 かくして、RXとクライシス帝国との戦いの火蓋は切られた。 本作品が初出の仮面ライダーのみを記述。他の仮面ライダーについては各項目を参照。 異次元世界である怪魔界に存在する独裁国家。皇帝の圧政と地球の文明の発展とともに汚染や砂漠化といった環境汚染が深刻化したため、地球環境を破壊し、地球の全人類を抹殺して臣民50億人を1年後に移民させようと目論み、その戦略基地を確保するために日本を狙う。 クライシス皇帝の命を受けたジャーク将軍の指揮の下、4大隊長がそれぞれの配下である怪魔戦士を用いて作戦を展開。計画の妨げとなる仮面ライダーBLACKのデータを徹底的に調べ上げ、能力を封じ、光太郎の変身機能を破壊したが、そこから思わぬ事態によって誕生した仮面ライダーBLACK RXの活躍により作戦は遅々として進まず、このため中盤以降は皇帝直属の査察官・ダスマダー大佐が加わった。 大隊長ら上級幹部や怪魔戦士には、地球の環境に適応する強化細胞を移植されており、この細胞がなければ怪魔界の住人は地球に生存することができない。 怪魔界の住民の中には、クライシス帝国から逃れ地球に移り住む者も存在する。彼らが前述の強化細胞を移植しているかどうかは作中では語られていない。 本格的な侵攻以前に、少なくとも物語の始まる10年前から計画を進めていたことが作中でも言及されている(第24話)。また、10人ライダーやナレーターの発言から海外支部も存在する(第41話)。 地球攻撃兵団において、実際に戦闘や作戦の実行に当たる4つの部隊の隊長。いずれも劣らぬ実力の持ち主揃いだが、功名心の強さからかお互いに足を引っ張ることが多く、それが原因で失敗に終わった作戦も少なくはない。 クライシス帝国の存在する異次元世界。怪魔空間ともいわれる。異次元世界内にある、地球に瓜二つの惑星の形をとっていることが最終回で判明。 かつては「桃源郷」と呼ばれていたが、地球の環境汚染の進行で消滅寸前の状態にあり、その大半が1年間に30日間しか陽が差さない風の砂漠へと化した。ダスマダーは最終回で「怪魔界とは地球の影というべき双子の惑星であり、地球人の環境汚染によって衰亡させられた」とRXに告げた。しかしクライシス皇帝の横暴な開発政策で怪魔界の環境が破壊されたという第3話のワールド博士の証言、37話でクライシスが地球の大気を亜硫酸ガスで改造する作戦を実行した前例も存在するため真偽は不明である。 怪魔界の自然に棲む生物は怪魔異生獣の元となる不気味な生物しか存在しない。 最終回においてクライシス皇帝がRXに倒された直後、皇帝と運命を共にするように、遂に消滅(爆発)を迎えるが、劇中ではこの怪魔界の消滅の原因について特に説明はない。 ジャーク将軍、ボスガン、クライシス皇帝、ナレーション以外は全てノンクレジット 参考文献:『仮面ライダー大図鑑 (7)』(バンダイ・1992年) p.116 - 123 ※ その他のゲストは、放送日程の節を参照。 前作『仮面ライダーBLACK』でBGMの作曲を担当した川村栄二が、本作品ではオープニングや挿入歌の作曲も担当した。 傾向としては劇団俳優座からの起用が目立っている。主演の倉田てつををはじめ、飯塚昭三、高橋利道といった敵側のレギュラー、前作の終盤からナレーションを担当した政宗一成も続投している。 シャドームーンの声は前作同様寺杣昌紀、怪魔戦士の声は、当時俳協に所属していた声優を主に起用していた。なお、オープニングクレジットにはジャーク将軍、ボスガン、クライシス皇帝の声優のみが表記され、その他の声優の表記はないが例外として、ゲドリアンの声を担当していた新井一典の名は第9話のみ表記されている。高橋は、スーツアクターとしてジャーク将軍を、声優としてガテゾーンを演じている。 諜報参謀マリバロンを演じた高畑淳子は、当時劇団青年座の活動だけでは生活できなかったことから東映作品に参加していた。このマリバロンは高畑の当たり役となり、それ以降、出演依頼が多くなったという。後年のインタビューで高畑自身が当時を回想し「RX(の出演)がきっかけで私はようやく役者として食べていけるようになった」と述べている。 俳優座の研究生であった小山力也は、本作品で霞のジョー役として俳優デビューした。小山は、オーディションでは周りの若手俳優より年齢が高かったため受からないと思っていたが、プロデューサーの堀長文からの推薦により合格したと述べている。一部の危険なシーンを除き、ワイヤーアクションやナパーム爆破などアクションシーンのほとんどを小山自身が演じていた。 スタッフの顔ぶれは基本的に前作と同じであるが、メインライターにはシリーズでは『仮面ライダースーパー1』以来となる江連卓が起用され、大映ドラマさながらの作劇が展開されることになる。また、キャラクターデザインとして当時メタルヒーローシリーズにも携わっていた雨宮慶太や野口竜が参加。 音楽は前作『BLACK』に引き続き川村栄二が担当。新曲の他、『BLACK』のBGMも一部流用されている。主題歌は『BLACK』の倉田に代わり宮内タカユキが担当し、挿入歌にはこの2名に加えそれまでの本シリーズでも主題歌・挿入歌を多数手がけた水木一郎が参加している。 本作品の終了をもってテレビシリーズの制作は三度中断し、『仮面ライダークウガ』(2000年)まで約10年の休止期間に入った。企画立案やオーディションなど、後番組を制作する動きは東映社内ではなかったと、当時キャスティングを担当していた高寺成紀は証言しているが、本作品の続編としての仮面ライダーの企画自体は存在し、同時期に『機動刑事ジバン』に出演していた小林良平が主役として起用される予定だったことが、小林本人へのインタビューで語られているが、最終的に実現には至らなかった。 本作品の終了後、1時間枠に拡大した日曜10時台はローカルセールス枠となったため、後番組は地域によって異なり、制作局である毎日放送では『桂三枝のスポーツマガジン』、TBSでは『噂の!東京マガジン』がそれぞれ充てられた。 平成仮面ライダーシリーズの多くの作品のプロデューサーである白倉伸一郎が東映に入社する際、面接で岡田茂ら当時の役員を前に本作品を挙げて批判したという逸話も残っているが、実際には「番組視聴中にその内容からスポンサーやテレビ局の圧力が感じられたので、自分は局やスポンサーと現場の間の調整役になりたい」という主旨を述べたとのことである。 いずれも発売元は東映ビデオ。 いずれも発売元はバンダイナムコゲームス(バンダイレーベルと旧バンプレストレーベル)。 仮面ライダーBLACKとしてのゲスト出演は仮面ライダーBLACKを、シャドームーンおよびジャーク将軍の登場作品についてはシャドームーン・ジャーク将軍をそれぞれ参照。
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『仮面ライダーBLACK RX』は、1988年10月23日から1989年9月24日まで、TBS系列で毎週日曜10時から10時30分(JST)に全47話が放送された、毎日放送・東映制作の特撮テレビドラマ作品、および作中で主人公が変身するヒーローの名称。 毎日放送、ならびに原作者である石ノ森章太郎が関与した最後のテレビシリーズである。放送期間中に元号が昭和から平成に改められているが、『仮面ライダークウガ』以降のいわゆる平成仮面ライダーシリーズには含まれない。
{{半保護}} {{Pathnav|仮面ライダーシリーズ|frame=1}} {|style="float: right; text-align:center; border-collapse:collapse; border:2px solid black; white-space:nowrap" |- |colspan="3" style="background-color:#90ff90; border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''[[仮面ライダーシリーズ]]''' |- |style="border:1px solid black; white-space:nowrap; background-color:#90ff90"|'''第7作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[仮面ライダースーパー1]] |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1980年10月<br />- 1981年9月 |- |style="border:1px solid black; white-space:nowrap; background-color:#90ff90"|'''第8作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[仮面ライダーBLACK]] |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1987年10月<br />- 1988年10月 |- |style="border:1px solid black; white-space:nowrap; background-color:#90ff90"|'''第9作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''仮面ライダーBLACK RX''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1988年10月<br />- 1989年9月 |} {{基礎情報 テレビ番組 | 番組名 = 仮面ライダーBLACK RX | ジャンル = [[特撮]][[テレビドラマ]] | 原作 = [[石ノ森章太郎]] | 脚本 = [[江連卓]] 他 | 監督 = [[小林義明]] 他 | 出演者 = {{Plainlist| * [[倉田てつを]] * [[澄川真琴|高野槇じゅん]] * [[赤塚真人]] * [[鶴間エリ]] * [[小山力也]] * [[高畑淳子]] }} | 声の出演 = {{Plainlist| * [[加藤精三 (声優)|加藤精三]] * [[飯塚昭三]] }} | ナレーター = [[政宗一成]] | 音楽 = [[川村栄二]] | OPテーマ = 「[[仮面ライダーBLACK RX (曲)|仮面ライダーBLACK RX]]」<br />歌:[[宮内タカユキ]] | EDテーマ = 「[[仮面ライダーBLACK RX (曲)|誰かが君を愛してる]]」<br />歌:宮内タカユキ | 言語 = [[日本語]] | プロデューサー = {{Plainlist| * [[吉川進]] * [[堀長文]]([[東映]]) * 井口亮 * 山田尚良([[毎日放送]]) }} | 製作 = {{Plainlist| * 東映 * 毎日放送 }} | 放送局 = [[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]] | 音声形式 = [[モノラル放送]] | 放送国 = {{JPN}} | 放送期間 = [[1988年]][[10月23日]]<br />- [[1989年]][[9月24日]] | 放送時間 = 日曜 10:00 - 10:30 | 放送分 = 30 | 放送回数 = 47 | 前作 = [[仮面ライダーBLACK]] | 特記事項 = 「[[仮面ライダーシリーズ]]」 第9作 }} 『'''仮面ライダーBLACK RX'''』(かめんライダーブラック アールエックス)は、[[1988年]][[10月23日]]から[[1989年]][[9月24日]]まで、[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]で毎週日曜10時から10時30分([[日本標準時|JST]])に全47話が放送された、[[毎日放送]]・[[東映]]制作の[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]作品、および作中で主人公が変身するヒーローの名称。 毎日放送、ならびに原作者である[[石ノ森章太郎]]が関与した最後のテレビシリーズである。放送期間中に[[元号]]が[[昭和]]から[[平成]]に改められているが、『[[仮面ライダークウガ]]』以降のいわゆる[[仮面ライダーシリーズ#平成仮面ライダーシリーズ|平成仮面ライダーシリーズ]]には含まれない。 == 概要 == 前作『[[仮面ライダーBLACK]]』の主人公がスタイルを変えて続投した作品{{R|映画大全集114}}{{efn2|TBSでの放送時におけるエンドカード画面では、前作から一貫して『仮面ライダーBLACK』のロゴが使用されており、番組タイトルは変更されなかった。}}。『BLACK』の続編ではあるものの、登場人物の多くが一新され、続投となったのは主役の南光太郎とゲスト出演という形での[[シャドームーン]]{{efn2|秋月信彦の素顔は直接見せず。}}、他はシャドームーンとの再戦時に回想という形で、秋月杏子と紀田克美の出演シーンが流用されたのみである。 シリーズ中、[[モノラル]]放送および[[16mmフィルム]]撮影による最後の作品となった。 === 特徴 === 前作『BLACK』では企画段階で仮面ライダーの特徴をピックアップした上で、それらをリメイクするのか否定するのか検討した末にリメイク案が採用された。放送2年目となる本作品では旧作からの継承要素にこだわらない方向で制作されることになった{{Sfn|超全集|1992|p=103}}。その結果、[[スーパー戦隊シリーズ]]や[[メタルヒーローシリーズ]]といった東映制作の他シリーズを意識した数多くの新しい試みが取り入れられ、前作とは異なるアプローチによる新しいライダー像の追求が行われた。 その一環として、原則としてキック技が必殺技であった当時の仮面ライダーシリーズでは初めて、剣や銃などの[[武器]]による攻撃をメイン必殺技として採用したほか、専用バイクだけではなく専用の[[自動車|四輪車]]が導入され{{R|映画大全集114}}、さらにはバイクも含めた多段変身などそれまでの仮面ライダーとは一線を画す要素が取り入れられており{{R|画報}}、後年のシリーズにおける諸設定の先駆けとなった。 また人物設定でも、主人公である南光太郎の性格が前作のラストを感じさせないほど明るめに描写されたり{{R|映画大全集114}}、前作とは対照的に主人公の周囲を敵味方共に数多くのサブキャラクターが取り巻いているなど、「家族でも楽しめる」という前提の元に作品作りが行われている。一方で、前作から続けて担当した監督の[[小笠原猛]]がはじめて『RX』の撮影に参加する際、倉田に対して「今の明るいままのライダーじゃいけない」と語るなど、スタッフ内部でもこの路線変更に対して意見が分かれていた。この他、前作には無かった戦闘員の登場やシャドームーンの再登場によるライバルキャラの復活劇、そして敵幹部間の軋轢など、過去の石ノ森ヒーローの集大成とも呼べる要素も多く盛り込まれた。 物語終盤の第41話「百目婆ァの恐怖」より、1号からZXまでの10人の歴代仮面ライダーが登場した。歴代仮面ライダーの登場には、「『RX』後に仮面ライダーは制作しない」という決定を受けて<ref name="taka_69sのツイート(984751994639273984)">{{Twitter status|taka_69s|984751994639273984}}</ref>放送当時の好調な売り上げが番組の終了とともに低下することを危惧した玩具メーカーや出版社の意向が関与しており、RXと歴代ライダーが共演する漫画を児童誌で展開するに当たって、テレビからの引き継ぎを円滑に行うための意味があった。当時は歴代ライダーの登場に否定的な声も出たものの、売り上げ面での成果や後の企画『[[仮面ライダーSD]]』への足がかりとなったことを鑑みれば、制作側の狙いは成功したと言われている<ref>{{Cite journal|和書|journal=週刊 仮面ライダー オフィシャルデータファイル|issue=102|publisher=デアゴスティーニ}}{{要ページ番号|date=2019年2月}}</ref>。 == あらすじ == 仮面ライダーBLACK=南光太郎が暗黒結社ゴルゴムを滅ぼしてから半年が経過した。かつての友を失い心身ともに傷ついた光太郎は、叔父の佐原俊吉の家に身を寄せ、佐原の航空会社でヘリコプターパイロットの職を得て平和な日々を過ごしていた。 ある日、光太郎は光を発する3本の不思議な杭{{efn2|杭の尖った先端が地面から突き出ていることで、地下には何があるのかという視聴者の想像力と興味を煽る狙いがあったという{{R|CHRONICLE60}}。}}を目撃。杭を設置する怪人の目撃情報を得て調査を行う途中、'''怪魔界'''から現れた'''クライシス帝国'''の前線基地であるクライス要塞に拘束・拉致される。そこでクライシス軍司令官'''ジャーク将軍'''は、光太郎にクライシス帝国の尖兵となって地球の全人類を抹殺することを要求する。だが、光太郎はこれを拒否したことで、変身機能を破壊されて宇宙空間へと放り出されてしまった。 しかし、光太郎の体内の'''太陽の石 / キングストーン'''が太陽光線を吸収し、光太郎を'''仮面ライダーBLACK RX'''に転生させた。さらに、かつての相棒・バトルホッパーも'''アクロバッター'''として転生して駆けつける。 かくして、RXとクライシス帝国との戦いの火蓋は切られた。 == 登場人物 == === 主人公と支援者 === ; [[仮面ライダーBLACK (キャラクター)|{{読み仮名|南 光太郎|みなみ こうたろう}} / 仮面ライダーBLACK RX]] : 前作より引き続き登場する主人公。ゴルゴムを滅ぼして日本に平和を取り戻した後、叔父である俊吉の元にやってきた。俊吉によると当時は何かに打ちのめされたようにボロボロな状態だったようで、佐原家で茂やひとみと暮らすうちに次第に明るくなっていき、俊吉のすすめでヘリコプター操縦士として新しい生活を送り始めた。 : 新たなる侵略者であるクライシス帝国の襲撃を知りBLACKに変身しようとしたところを妨害されて捕えられ、BLACKへの変身機能を破壊され怪魔空間に放り出されてしまうが、地球の影によって発生した[[太陽光線]]による日食の光を直接浴びたことによるエネルギーのオーバーロードと[[仮面ライダーBLACK (キャラクター)#仮面ライダーBLACK|キングストーン]]の力により新たなる姿・仮面ライダーBLACK RXへと変身する能力を得る。 : 詳細や客演作品での動向については、[[仮面ライダーBLACK (キャラクター)]]を参照。 : ; {{読み仮名|白鳥 玲子|しらとり れいこ}} : 光太郎のガールフレンドで仕事仲間でもあるフリーカメラマン。20歳。性格は姉御肌で面倒見が良く気が強い面もあり、光太郎たちを度々様々な場所へ引っ張りまわしてはクライシスの陰謀に巻き込まれる。 : 第29話で的場響子と共に光太郎がRXであることを知り、戦いに身を投じる覚悟をして空手の訓練をする。その稽古の時点で黒帯を着用していたことからして、元々空手の心得はあったようである。 : カメラマンということもあり、不思議な事件が起こるとクライシスの仕業ではと光太郎によく話していた。光太郎との関係は、友達以上恋人未満といった感じであるが時折、親密ぶりをアピールする描写も見受けられた。 : クライシス帝国壊滅後は、カメラマンとしての活動を再開した。 : ; {{読み仮名|霞のジョー|かすみのジョー}} : 第15話から登場。クライシスによって拉致され、改造された地球人で、改造手術のために過去の記憶を一切失っている。霞流忍術の使い手で[[釵]]を得意武器としている他、爆発物の扱いにも長けている。 : 当初は、怪魔界で出会った光太郎と同じ地球人であるということで意気投合し行動を共にするが、実は怪魔ロボット・ネックスティッカーの洗脳ユニットによって操られており、光太郎への刺客として差し向けられる。後に洗脳が解けてからは仲間になり、光太郎を「兄貴」と慕い共にクライシス帝国と闘うこととなる。 : 大雑把な性格で、アルバイトとして雇われた吾郎の食堂でも接客の態度を注意されていた<ref group="ep">第26話</ref>。また、光太郎とは対照的にゲストキャラの子供に対する扱い・接し方も極めて荒い<ref group="ep">第23、24話</ref>。その一方でコミカルな面も見せ度々場を和ませた。 : 第26話にてボスガンとの戦いで重傷を負い、戦線離脱を余儀なくされるが第37話で復帰を果たす。 : 第21話では、ジョーがクライシスにいたころに婚約を交わしたレイカ族のセーラという女性が登場し、クライシス帝国打倒を達成したその日に会う約束を交わしたが、クライシス帝国壊滅後、自身は「自分の過去を探す旅に出る」と発言している。 : 当初、ジョーをリーダーとする反クライシスゲリラ軍が、怪魔界再建の移民団として旅立つというラストシーンも考案されていた{{Sfn|大図鑑|1992|p=94}}。 : 『仮面ライダーディケイド』では直接登場はしないが、RXの世界で光太郎と共に戦っていたが、行方不明となり、その後BLACKの世界で士によってその存在が確認される{{efn2|霞のジョーを演じた小山力也は、『ディケイド』でも出演依頼を受けていたが、役柄のイメージに対する違和感や自身の年齢などからこれを断った{{R|U163}}。}}。 : ; {{読み仮名|的場 響子|まとば きょうこ}} : 第29、30話で登場した女子中学生。父の勇介と母の美沙子が怪魔異生獣ムンデガンデに殺され、仇を取るために戦いへの参加を決意。 : 物静かな少女だが芯は強く、両親の仇を討ちたい一心で超能力開発の特訓に励んだり、全く無力だったころにも両親の仇であるムンデガンデに「パパとママを返して!」と詰め寄ったりした。特訓の末、遂に念動力と水を操る能力や水を介した遠隔視能力、および水を作り出す能力を身に付けてRXに協力する。だが、能力を多用すると体力を大幅に消費してしまう。 : 第38話にて再登場。命の水を操る超能力や得意のアーチェリーも披露しており、戦士としても十分な戦力として戦線に参加。その腕前でRXの窮地を救ったこともある。単身クライシスの部隊にスパイとして潜入したり、アジトを攻撃したりするなどの勇気と行動力も見せた。 : クライシス帝国壊滅後は、同じく両親を失った佐原兄妹の母親代わりとして共に暮らすことになる。 === 周囲の人々 === ; {{読み仮名|佐原 俊吉|さはら しゅんきち}} : 光太郎の勤める佐原航空の社長で、光太郎の叔父にあたる{{efn2|光太郎は俊吉をおじさんと呼んでいるが、実際は光太郎と俊吉の親族関係は定かではない{{R|CHRONICLE32|CHRONICLE34}}。}}。40歳。婿養子。ゴルゴムとの戦いによって心身ともにボロボロだった光太郎を庇護し、立ち直らせた第一人者。光太郎がヘリの免許を持っているのも「光太郎に生きがいを持たせたい」という彼の考えによるものである。 : 光太郎がRXであることも最後まで知らなかった。一度娘のひとみが光太郎がRXだと口を滑らせてしまったことがあったが、「何を馬鹿なことを」と一笑に付している<ref group="ep">第35話</ref>。 : 第46話でRX打倒の人質として茂とひとみを捕らえようとするジャークミドラ(ジャーク将軍)の手から子供たちを守るためにジャークミドラの脚にしがみついて逃げるように促し、妻の唄子ともども殺害された。 : ; {{読み仮名|佐原 唄子|さはら うたこ}} : 俊吉の妻で、光太郎の叔母にあたる。36歳。俊吉と同じく光太郎を支えるが、光太郎やその周りに起こる不思議な事件に訝しさを感じている部分もある。そのため、その事件に子供たちが巻き込まれると冷静さを失って感情任せに光太郎を責めてしまうことが度々あり、玲子やジョーに窘められるケースも少なくない。俊吉とは考えが食い違うと度々口喧嘩となる。俊吉同様、光太郎がRXであることを最後まで知らされなかった。第46話で子供たちを守ろうとしてジャークミドラに夫共々殺害された。 : ; {{読み仮名|佐原 茂|さはら しげる}} : 佐原家の長男で、光太郎を理想の男性像として敬愛する{{R|CHRONICLE34}}無鉄砲ながらも勇敢な少年。小学5年生。将来の夢は宇宙飛行士。当初より度々クライシスの陰謀に巻き込まれることが多かったが、怪魔界に連れ去られた際に光太郎がRXであることを知る。その際に「僕もクライシスと戦う戦士だから」と宣言し、光太郎の秘密を妹以外には口外しないなど、精神的にも成長していった。 : ; {{読み仮名|佐原 ひとみ|さはら ひとみ}} : 茂の妹。小学1年生。兄よりしっかり者だが、少々口が軽いのが玉に瑕で何度もRXの正体が光太郎であることを暴露しかけた。クライシス皇帝の愛娘であるガロニア姫の替え玉として、マリバロンに誘拐された後、奇跡の谷での儀式により成人の姿になった状態でガロニア姫として洗脳され、光太郎(RX)や霞のジョー、茂に対して攻撃をしかけたこともある。しかし、完全にひとみの記憶が消え去ったわけではなく、兄である茂の決死の説得で自分を取り戻した。 : ; {{読み仮名|健吾|けんご}}、{{読み仮名|三郎|さぶろう}}{{R|CHRONICLE36}} : 茂の友人。眼鏡をかけているのが健吾で、背が高いほうが三郎である{{R|CHRONICLE36}}。茂とともに度々クライシスの陰謀に巻き込まれる。 : ; {{読み仮名|吾郎|ごろう}}{{efn2|書籍によっては、'''五郎'''と記述している{{R|CHRONICLE36}}。}} : 佐原航空の社員食堂で働くコック長{{R|CHRONICLE36}}。[[カレーライス]]が得意料理{{R|CHRONICLE36}}。七七子という同僚の給仕担当のガールフレンドがいる{{R|CHRONICLE36}}。光太郎に協力してクライシスに立ち向かう一面を見せることもあるが、散々な目に遭うことが多い。だが、霊界怪人として蘇ったガイナニンポーが仮面ライダー1号に化けていることをいち早く察知するなど、鋭い洞察力を持っているという一面もある(第45話)。途中からは光太郎がRXであることも知った。 : ; {{読み仮名|速水 隼人|はやみず はやと}} : 警視庁特捜部の警部補。常人離れした能力を持つ光太郎を不審に思って彼を逮捕するべく追い回すが、そのためにクライシスの作戦に巻き込まれ、散々な目に遭うことが多かった。第13話以降は登場しない。 == 仮面ライダー == 本作品が初出の仮面ライダーのみを記述。他の仮面ライダーについては各項目を参照。 * [[仮面ライダーBLACK (キャラクター)#仮面ライダーBLACK RX|仮面ライダーBLACK RX]] - 前作に登場した[[仮面ライダーBLACK (キャラクター)#仮面ライダーBLACK|仮面ライダーBLACK]]の自己進化形態。 ** [[仮面ライダーBLACK (キャラクター)#ロボライダー|ロボライダー]] - 「'''悲しみの王子'''」「'''炎の王子'''」の異名を持つ特殊形態。 ** [[仮面ライダーBLACK (キャラクター)#バイオライダー|バイオライダー]] - 「'''怒りの王子'''」の異名を持つ特殊形態。 * [[シャドームーン]] - 前作に登場したBLACKの宿敵。南光太郎の友人だった秋月信彦が改造された姿。 ; 歴代の10人ライダー : 本作品以前の仮面ライダーシリーズに登場し、日本を守った10人の仮面ライダー。[[仮面ライダーZX#バダン(バダン帝国)|バダン]]壊滅後は世界各地に旅立ち<ref group="ep">テレビスペシャル『[[10号誕生!仮面ライダー全員集合!!]]』より</ref>、その後も引き続き、世界各地でクライシスと戦っていた。 : クライシスの日本総攻撃を予期し、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で[[アリゾナ州|アリゾナ]]を中心に戦っていた1号ライダーのもとに集結。アリゾナ砂漠{{R|CHRONICLE37}}で共同での特訓を経た後、第44話で10人揃って日本に帰国してRXと共闘。RX=光太郎は彼らと対面したことで自分以外のライダーの存在を初めて知ったが、クライシスは10人ライダーの存在を以前から知っていた可能性がマリバロンの台詞から示唆されていた。クライシスが壊滅した後、世界中の新たな悪と戦うためにRXを11号としてメンバーに加え、再び海外に旅立った。 :* スーツアクターの演技と声優のアフレコによる登場であり、映画『[[仮面ライダー 8人ライダーVS銀河王|8人ライダーVS銀河王]]』同様、オリジナルキャストは出演していない。また、バイクで移動する描写もなかったため、[[サイクロン号]]からヘルダイバーまでの各マシーンは一切登場しなかった。 :* スーツは『仮面ライダーZX』まで使用されていたものを改修している{{R|映画大全集114}}。 :{| class="wikitable" style="text-align: center; font-size:smaller;" |- !仮面ライダーの名称!!海外での活動地域<ref>「仮面ライダー OFFCIAL DATA FILE」No.108-28「海外で活躍する10人ライダー」</ref> |- | [[仮面ライダー1号#昭和第3期|仮面ライダー1号]]||[[アメリカ大陸]]の西半分(アリゾナ州を拠点) |- | [[仮面ライダースーパー1#仮面ライダースーパー1|仮面ライダースーパー1]]||アメリカ大陸の東半分 |- | [[仮面ライダー2号#『仮面ライダーBLACK RX』|仮面ライダー2号]] || [[南米]]の[[チリ]]や[[アルゼンチン]] |- | [[仮面ライダーアマゾン#仮面ライダーアマゾン|仮面ライダーアマゾン]] || 南米の[[アマゾン熱帯雨林|アマゾン]] |- | [[仮面ライダーV3 (キャラクター)#『仮面ライダー (スカイライダー)』から『仮面ライダーBLACK RX』|仮面ライダーV3]] || [[東ヨーロッパ]]([[ロシア]]を拠点) |- | [[仮面ライダー (スカイライダー)#仮面ライダー(スカイライダー)|スカイライダー]] || [[西ヨーロッパ]] |- | [[仮面ライダーストロンガー#仮面ライダーストロンガー|仮面ライダーストロンガー]] || [[アフリカ大陸]]の南半分 |- | [[仮面ライダーZX#仮面ライダーZX|仮面ライダーZX]] || アフリカ大陸の北半分([[サハラ砂漠]]を拠点) |- | [[ライダーマン#ライダーマン|ライダーマン]] || [[東南アジア]]([[インド]]を拠点) |- | [[仮面ライダーX#仮面ライダーX|仮面ライダーX]] ||[[南太平洋]]([[オーストラリア]]を拠点) |} == クライシス帝国 == 異次元世界である怪魔界に存在する独裁国家。皇帝の圧政と地球の文明の発展とともに汚染や砂漠化といった環境汚染が深刻化したため、地球環境を破壊し、地球の全人類を抹殺して臣民50億人を1年後に移民させようと目論み、その戦略基地を確保するために日本を狙う{{R|CHRONICLE38}}。 クライシス皇帝の命を受けたジャーク将軍の指揮の下、4大隊長がそれぞれの配下である怪魔戦士を用いて作戦を展開。計画の妨げとなる仮面ライダーBLACKのデータを徹底的に調べ上げ、能力を封じ、光太郎の変身機能を破壊したが、そこから思わぬ事態によって誕生した仮面ライダーBLACK RXの活躍により作戦は遅々として進まず、このため中盤以降は皇帝直属の査察官・ダスマダー大佐が加わった。 大隊長ら上級幹部や怪魔戦士には、地球の環境に適応する強化細胞を移植されており、この細胞がなければ怪魔界の住人は地球に生存することができない。 怪魔界の住民の中には、クライシス帝国から逃れ地球に移り住む者も存在する。彼らが前述の強化細胞を移植しているかどうかは作中では語られていない{{efn2|強化細胞の設定は、怪魔界の住民が地球に住み着く話があまり見られなくなった物語終盤に語られたものである。}}。 本格的な侵攻以前に、少なくとも物語の始まる10年前から計画を進めていたことが作中でも言及されている(第24話)。また、10人ライダーやナレーターの発言から海外支部も存在する(第41話)。 ; クライシス皇帝 : 1,000年前に怪魔界に現れ、クライシス帝国を築き上げた怪魔界の支配者{{R|映画大全集169}}。全能の神として怪魔界で恐れられていた。普段は地獄谷にある地下要塞の祭壇にその身を隠しており、かつてその姿を見た者はいなかったが、最終話で巨大な顔だけの怪物という正体を現す。その顔の額にはさらに3つの小さい顔がある。 : 身体中に生えた無数の棘の間から触手を伸ばし相手を絡め取るほか、頭部の3つの人面の目や口などから放つ強力な破壊光線や光の矢{{Sfn|オールライダー&全怪人昭和|2013|p=93}}、本体の目から放つ念力光線を武器とする{{R|CHRONICLE43}}。 : 最後はボルティックシューターとRXキックで怯んだところをリボルケインで貫かれ「人間が地球を汚せば新たな怪魔界が生まれ、地球を襲うであろう。全てはお前たち人間どもの罪」と叫んで怪魔界をも巻き込んだ大爆発を起こし、爆死した。 : 声の担当は、昭和仮面ライダーシリーズの歴代首領を演じた[[納谷悟朗]]。 :* 企画当初の名前はバリオム{{Sfn|超辞典|2011|p=278}}。 : ; ジャーク将軍 : 四大隊長を指揮する最高指揮官。 :{{Main2|詳細|ジャーク将軍}} : ; ダスマダー大佐 : 第28話から登場。遅々として進まない地球侵攻に痺れを切らしたクライシス皇帝が派遣した特別査察官{{R|映画大全集169}}で、皇帝の直属代理人{{Sfn|超辞典|2011|p=483}}。地球攻撃兵団の幹部クラスでも、その働き次第で皇帝の名により処罰、場合によっては処刑する権限を有する{{R|映画大全集169}}。 : 作戦行動や作戦の失敗は逐一皇帝に報告するだけでなく、皇帝の威光を笠に着て居丈高に振る舞い、独断で大隊長を処罰したり作戦を独自に立案・実行したりするなど、ジャーク将軍の指揮権に干渉する行動も目立った。そのためジャーク将軍や四大隊長との仲は険悪そのものだが、彼の登場でジャーク将軍と四大隊長たちの結束が強まった面もある。 : しかし、ただの虎の威を借る狐ではなく、鮮やかな身のこなしと愛用のサーベルによる巧みな剣技でRXに度々挑んでおり、ボスガンに勝るとも劣らぬ剣豪である。また、念動力や金縛りの術なども操る。兜の冠からは電撃{{Sfn|画報|2001|p=198}}{{efn2|資料によっては破壊光線と記述している{{Sfn|超辞典|2011|p=483}}。}}を放つ。何度か殺害されても妖気によって再生し、平然と復活する不死身ぶりを見せる。RXの弱点がキングストーンであることを突き止めるなど、情報収集と分析力にも秀でている。 : その正体は、クライシス皇帝の分身であることが終盤になって明かされ、クライス要塞内での戦闘を経てクライシス皇帝としての真の姿を見せる{{efn2|ただし、物語中盤では自分が皇帝の怒りを買うことを恐れる描写も見られ、『週刊仮面ライダーオフィシャルデータファイル』ではダスマター大佐とクライシス皇帝の意思は別にあるのではと推測されている{{Full|date=2016年1月}}。}}。 :* コスチュームのデザインは、クライシス帝国の幹部のなかで唯一、石ノ森章太郎のラフスケッチがもとになっている。その他の幹部は雨宮慶太と篠原保によるデザインである。石ノ森によるデザインでは左目に眼帯を付けていた{{Sfn|映画大全集|1993|p=152|loc=「仮面ライダー デザイン画集 ACT1 石ノ森章太郎デザイン画」}}。 : ; 官房長ロボット・チャックラム : ジャーク将軍に地球侵攻作戦の進捗状況や母星からの指令などの情報を提供する役目を担う小型AIロボット{{R|CHRONICLE39}}。地球攻撃用の戦略データがインプットされており{{Sfn|オールライダー&全怪人昭和|2013|p=88}}、狡猾な自我と機智を備えているが、戦闘能力は皆無に等しい{{R|CHRONICLE38}}。クライシス帝国からの緊急連絡の報告を担当する。英語交じりの喋り方が特徴。常に司令室を浮遊している。 : 最終話にてクライス要塞に潜入してきたRXに倒された。 === 四大隊長 === 地球攻撃兵団において、実際に戦闘や作戦の実行に当たる4つの部隊の隊長。いずれも劣らぬ実力の持ち主揃いだが、功名心の強さからかお互いに足を引っ張ることが多く、それが原因で失敗に終わった作戦も少なくはない。 * 4つの部隊に分類されたのは、怪魔戦士に奇怪さのみならずSF的要素を加えたデザインにするためであった{{Sfn|超辞典|2011|p=279}}。 ; 海兵隊長ボスガン : ナイトの称号を持つ、貴族出身の四大隊長の1人{{R|映画大全集169}}。怪魔界一の剣の使い手で、左肩の短剣{{R|CHRONICLE40}}や長剣、電磁波剣などを駆使しRXと度々剣を交えた。スマートな体型、赤いバイザーのヘルメットのような頭部が特徴で、額には小さな人面があり、そこから言葉を喋る。また、呼吸は後頭部の左右に付いたパイプで行う。垢抜けた言葉遣いで話し、飄々とした態度で立ち振る舞う。一人称は基本的に「私」を使う。 : 貴族の出身でプライドが高く{{R|映画大全集169}}、ロボットであるガテゾーンや純粋なクライシス人ではないゲドリアンを見下している。そのため、自分より格下の者と同等に扱われることを嫌っている。また、皇帝の使者ではあるものの怪人であるグランザイラスに呼び捨てにされた時は「無礼者」と激怒していた。騎士然とした立居振舞、RXとの直接対決に固執する誇り高い戦士としての面を示す反面、密かに次期将軍の座を狙っており、栄達のチャンスや、プライドを傷つけられた折には卑劣な手段を辞さないこともあった。本人曰く「慈悲深い方」だと語っている。 : RXによる度重なる作戦失敗に業を煮やし、ロボライダーの装甲をもやすやすと斬り裂く怪魔稲妻剣を独断で開発させて自らRXに挑むも、結果的には霞のジョーを戦線離脱させただけに留まっており、怪魔稲妻剣もジャーク将軍に折られた。これ以後は将軍に忠義を尽くし、将軍に利するためにあえてダスマダーに与することもあった。 : その後、電磁波剣を武器にするもグランザイラスの台頭に焦りを感じてRXに最後の[[一騎討ち]]を挑むが、剣の腕の差を見せつけられリボルケインの二連突きを受けて敗北。貴族としてのプライドゆえか勝敗が完全に決した後も敗北を認めず、絶命するその瞬間まで地面に膝を付かず仁王立ちのまま最期を遂げた。 : ; 諜報参謀マリバロン : 四大隊長の1人で、ボスガンと同じく貴族の出身の純粋なクライシス人。異次元空間を何百年も漂流し、呪術や妖魔術{{Sfn|超辞典|2011|p=713}}に始まり変装術に至るまで百数種類の妖魔力を身につけた{{R|映画大全集169}}。変身能力も持っている。戦闘時にはその妖術のほか、手や口から発する火炎、兜の黄金の羽根と赤い光線状の電磁鞭を操っての攻撃を得意とし{{R|CHRONICLE40}}、怒りが頂点に達すると目が赤く輝く。また、羽根飾りを媒体にすることで霊界の怪魔戦士を復活させることが出来る。 : 諜報網を張り巡らし多くの作戦情報を提供する、ジャーク将軍や他の大隊長に作戦を進言するなど、「諜報参謀」の名に相応しい働きを見せた。反目しあうことの多い四大隊長の中にあって比較的ガテゾーンとは仲が良く、共同作戦を行なうことも多い。また、帝国への忠誠心は厚く、その妖術と様々な策略で光太郎を苦しめた。 : 心理的に人間を追い詰める諜略を得意とする{{R|CHRONICLE40}}冷静沈着な知略家だが肝心の場面で私情が勝ってしまう短所があり、光太郎やその仲間を仕留めるチャンスを逸したり、敵前で重要機密を吹聴するなどのミスも目立った。 : 4隊長のなかでもとりわけRXの力を恐れており、直接対決は努めて回避する傾向にあった。直接対決に持ち込まれそうになったとき、RXに懐柔を図ったこともある(第30話)。RX打倒にはもっぱら謀略をもって臨む。 : ジャーク将軍への忠誠心は曲者揃いの四大隊長の中で最も厚く、ジャーク将軍の生命に危険が迫ると我を忘れて将軍の助命を請う場面も見られた。それゆえに将軍からの信頼も深く、幾度も処刑の危機を救われている。 : 第45話で、バイオブレードで顔を傷つけられる。四大隊長の中では最後まで生き残るも、クライシスの敵である光太郎を懐柔しようとしたクライシス皇帝に逆らったために処刑された。 : ; 機甲隊長ガテゾーン : 四大隊長の1人で、出自不明のロボット戦士。モノアイの頭部と革ジャン姿が特徴で、頭部を分離させてボディのみを動かすこともできる。目からは破壊光線を発射する。戦闘では[[ソードオフ・ショットガン|ソードオフ]]の形状をしたレーザーショットガンを使用するほか、愛用する重武装軍用[[オートバイ|バイク]]・'''ストームダガー'''を駆り、部下の怪魔ロボットと共に戦うこともある。また、左手でクライス要塞など怪魔界にあるあらゆるメカニックを制御することが可能。第39話では老人姿の人間態を披露した。 : 一匹狼かつニヒルな性格で、皮肉っぽい言動が多く、アウトローな雰囲気を纏いつつも、クールな態度を崩さない。くだけた口調で会話し、ジャーク将軍の指令は「アイアイサー!」と答えて承諾する。 : 四大隊長の中では地位や名誉には最も興味を示しておらず{{efn2|ただし、四大隊長に抜擢したジャーク将軍に対する忠誠と恩義はある。}}、自分の腕や技術を持って、打倒RXを信条としており、そちらを優先することも多い。そのためにスクラップ処分された怪魔ロボット・スクライドをジャーク将軍の命令に背いて復活させたり、自分の造った怪魔ロボットを活かすためにジャーク将軍の怒りを買ってまで、ダスマダーと結託したこともある。他の隊長との合同作戦においては、マリバロンとゲドリアンと組むことが多い。 : 第43話では遂に隊長の座をも捨て、ダスマダーと組んで入手したクライシスチャージャーによって強化修復された'''ネオストームダガー'''を駆り、最強最後の怪魔ロボット・ヘルガデムと共に勝負に臨んだ。RXを窮地に追い込むが的場響子らに邪魔され形勢が逆転、ネオストームダガーはロボライダーに破壊される。最後の手段として頭部を切り離し、自らのボディを時限爆弾にしてRXを葬り去ろうとするも、液化したバイオライダーに脱出されて失敗し、残った頭部本体にRXキックを受けて敗北。「地獄で待ってるぜ、RX」を言い残した後に爆死した。 : ; 牙隊長ゲドリアン : 四大隊長の1人。額や両手から放つ破壊光線、電撃棒が武器で、小柄な身体と身軽かつ素早い動きを活かした戦法を得意とする。高い声、常に落ち着きのない動きが特徴。侵略作戦によって人間が苦しむのを楽しむ、残虐な性格の持ち主。 : 怪魔界一暗くて寒い辺境地のゲドラー域の出身であり{{R|映画大全集169}}、太陽の光にあふれる地球に住む人類をこの上なく憎悪する。このような出自から、自身を大隊長に取り立てたジャーク将軍に対して並々ならぬ恩義を抱いており、地位に対する執着は他の3人以上に強い{{efn2|22話では、ゴルゴムの世紀王だったころの記憶を失いながらも生きていたシャドームーンを、ジャーク将軍が招聘しRX撃破に当たらせた際には、他の3人以上に隊長の地位を奪われることを恐れていた。}}。高い攻撃力を持つが、知能指数は心もとなく、他の隊長からは体よく利用されている{{R|CHRONICLE41}}。また、自身と同じく生粋のクライシス人でないガテゾーンとも組むことが多かったが、地位への執着ゆえに他の3人の足を度々引っ張り、酷い形で作戦をぶち壊してしまうことも少なくなかったため、ジャーク将軍から処罰される回数が特に多く、ダスマダーの初登場には、そのダスマダーにも処罰された。 : 第42話にて皇帝から送られた最終時計抹消のため、他の大隊長たちに裏切られたことに怒りを感じ、自らを媒介にクライス要塞のエネルギーを分身である最後にして最強の怪魔異生獣ゲドルリドルに送り込むが、ゲドルリドルがRXに倒されたことによって逆流してきたエネルギーを直撃させられて消滅。四大隊長最初の戦死者となる。 === その他 === ; ガロニア姫 : クライシス皇帝の娘で、うなじに皇帝の娘の証であるホクロがある。また、強力な念動力を使うこともでき、その際は目が赤く光る。 : クライシス帝国の次期皇位継承者として皇帝の細胞の1つから生み出され、養育係であるムーロン博士の指揮の元、クライス要塞内で特殊な成長促進光線を当てられて養育されていた。誕生して3ヶ月で(外観・身体的には)6歳まで成長しており、程なく20歳程度に達するはずだった。しかしあるチャップのミスによって光線発生装置が故障し、その影響で消滅してしまう。 : 養育係であったマリバロンとムーロン博士は替え玉となる少女を探し出し、消滅した事実を隠蔽しようとしたが失敗に終わり、ジャーク将軍が皇帝に対しガロニア姫はRXによって暗殺されたと嘘の報告を行う結果となった。また、最終話にて皇帝が光太郎と会談した際にもこのことについては言及せず、「サーの称号を与える」と発言している。 : 劇中で「歴代の姫君」の存在が語られており、過去にも何人もの皇女が存在したはずだが、すでに存命でない模様。 : 皇帝自身は「父君」と呼ばれており男性であるようだが、その細胞から生み出された後継者の彼女は女性となっている。 :* 書籍によっては、「ガロニヤ姫」と記述される{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=164}}。 === 怪人・戦闘員 === ; 怪魔戦士 : クライシス帝国が送り込む怪人の総称。新しい戦士が登場するたびに「怪魔○○大隊最強の戦士」と幹部に紹介されることが多い。「最強の戦士」と紹介された怪人が強いとは限らず、直接対決でRXにさしたる善戦もできないまま倒された敵も少なくない。 :; 怪魔獣人 :: ボスガンが率いる'''怪魔獣人大隊'''に属する戦士たち。クライシス人の中で優れた者を改造強化したもので、動物などの特性を有する者が多い。名称は「ガイナ〜」で統一されている。 :; 怪魔妖族 :: マリバロンが率いる'''怪魔妖族大隊'''に属するサイキック戦士。戦闘訓練を受けてより強力な妖魔力を身につけたクライシス人によって構成されており、いずれも妖怪的な風貌が特徴。なお、真正面から直接的に敵と戦闘するより、裏で暗躍したり相手をジワジワと追い詰めていく戦法を得意としている。名前には必ず漢字が含まれている。マリバロンの大叔母である百目婆ァのみ唯一立場が上である。 :; 怪魔ロボット :: ガテゾーンが率いる'''怪魔ロボット大隊'''に属する戦闘用ロボット。いずれも怪魔界の超科学の枠を集めて作られた堅牢な機兵集団で並の攻撃ではビクともしないばかりか、人間並の知能を有する精強な者が揃っている。また、並外れた火力とパワーを有するものも多く、RXがパワーアップを重ねた後も苦戦させることが多かった。他の大隊の怪魔戦士とは異なり名称に統一されたパターンはなく、各々が持ち合わせる特性に由来したネーミングが多い。 :; 怪魔異生獣 :: ゲドリアンが率いる'''怪魔異生獣大隊'''に属する戦闘獣。怪魔界の生物をクライシスの科学力で戦闘用に強化改造した生物兵器と言えるもので、人間並の知能と高い戦闘本能を有するが、地球の環境に適応できない個体が多く見られた。名前はキュルキュルテンを除き、類似した語句を連続させ韻を踏んだ形となっている。 : ; 最強怪人グランザイラス : 第44・45話に登場する、RX打倒のためにクライシス皇帝の使者として送られた最終破壊兵器。両眼から放つ破壊光線{{R|映画大全集169}}、右腕の電磁ハンマー{{R|映画大全集169}}からの火炎弾{{R|映画大全集169}}に、刃の部分にエネルギーを収束させての攻撃、ロボライダーの装甲にもダメージを与えるほどの1,000度を超える高熱を帯びた巨大な火球に変身する{{R|映画大全集169|CHRONICLE86}}など強大な戦闘能力を有し、体内には別の破壊兵器と言われる所以、街一つを廃墟とするほどの威力のメガトン級爆弾が内蔵されている。 : RXはおろか、歴代10人ライダーの同時攻撃や大気圏突入の衝撃すらものともしない装甲を誇り{{R|CHRONICLE86}}、作中に登場した敵の中では唯一リボルクラッシュをも阻止するほどの実力の持ち主でもある。2度目の対決では体内に進入したバイオライダーに内側から攻撃されて倒されるが、それもまたRXとの相討ちを目論んだダスマダーの思惑通りであった。しかしバイオライダーは水の粒子となって爆発と同時に脱出したため、作戦は失敗に終わる。だが、倒されてもその際に発生する爆発の威力はすさまじく、東京の市街地の広範囲が壊滅状態に追い込まれている。 : 前述の通り皇帝の使者であるため、皇帝の代理人であるダスマダーの命令にしか従わない。また、四大隊長であるボスガンを呼び捨てにしていた。 :* [[スティラコサウルス]]のような頭部、機械的な外観が特徴。本来は、怪魔獣人と怪魔ロボットの合体怪人「ガイナトリゲラン」として、石ノ森章太郎がデザインしたもの{{Sfn|大図鑑|1992|p=108}}。 : ; チャップ : 第3話より登場。地球攻撃兵団の一般兵士。黒・茶色・灰色の3色のタイプが存在し、3人一組で行動することが多い。主に機械音しか発さないが、人語も話すことも可能。いわゆる従来の敵組織に見られる戦闘員に相当する存在であり、前作で廃されていた戦闘員との立ち回りがある程度復活した形となったが、基本的には偵察・工作活動要員で戦闘向きではない。 : 特殊火薬を用いたマシンガンやバズーカ、ボウガンが武器で、人間に変身する能力を有する。また、マリバロン配下の'''怪魔道化師'''やボスガン配下の'''チャップ悪魔分隊'''、四国空母化計画に参加した'''怪魔遍路部隊'''も存在する。終盤では、生粋のクライシス人に隷属する[[サーベル]]が武器で胸に紋章がある礼装の金色のマントに身を包んだ'''チャップ親衛隊'''が登場した。 :* スーツは『[[特捜ロボ ジャンパーソン]]』に登場するダベ星人、ブラボータウンのロボット(マスクのみ)などに流用された。 === 主な戦力 === ; クライス要塞 : 地球攻撃兵団の前線基地でもある巨大戦闘母艦{{R|CHRONICLE39}}。艦首の巨大な頭部や昆虫のような多数の節足が特徴で、通常は異次元空間に潜んでおり、怪魔界と宇宙空間とを自由に次元移動することが可能で、物質や兵力の移送にも使用される{{R|CHRONICLE39}}。武器としては、牽引ビームや破壊光線を発射する砲台を備えている。 :* ミニチュアは、特撮研究所美術部の[[三池敏夫]]と[[佛田洋]]が製作{{R|CHRONICLE63}}。原型を発泡スチロールでこさえ、それをポリで型抜きしている{{R|CHRONICLE63}}。脚のギミックは、操演部の尾上克郎と鈴木昶が担当{{R|CHRONICLE63}}。 === 怪魔界 === クライシス帝国の存在する異次元世界。怪魔空間ともいわれる。異次元世界内にある、地球に瓜二つ{{efn2|地形が日本列島をはじめ地球と同じ形状をしている。}}の惑星の形をとっていることが最終回で判明。 かつては「桃源郷」と呼ばれていたが、地球の環境汚染の進行で消滅寸前の状態にあり、その大半が1年間に30日間しか陽が差さない風の砂漠へと化した{{R|CHRONICLE38}}。ダスマダーは最終回で「怪魔界とは地球の影というべき双子の惑星であり、地球人の環境汚染によって衰亡させられた」とRXに告げた。しかしクライシス皇帝の横暴な開発政策で怪魔界の環境が破壊されたという第3話のワールド博士の証言、37話でクライシスが地球の大気を亜硫酸ガスで改造する作戦を実行した前例も存在するため真偽は不明である。 怪魔界の自然に棲む生物は怪魔異生獣の元となる不気味な生物しか存在しない。 最終回においてクライシス皇帝がRXに倒された直後、皇帝と運命を共にするように、遂に消滅(爆発)を迎えるが、劇中ではこの怪魔界の消滅の原因について特に説明はない。 ; 怪魔界の住民 : 怪魔界でクライシス帝国の支配に服する人民たち。クルミン族、レイカ族などの種族の存在が確認されている。 : 外見的には、触角のような耳を除けば地球人とほぼ同じで、地球人との間に生殖も可能(第8話、第24話)。レイカ族や第28話に登場した兵士たちのように、地球人と全く変わらない外観の者たちもいる。また、特徴的な耳を有する種族でも、何らかの方法で地球人同様の外観になることが可能である(第12、13話)。 : ボスガンは自らが生粋のクライシス人であることを誇りにしており、一方でゲドリアンが純粋なクライシス人ではないことが語られており、「怪魔界の住人」=「クライシス人」とは限らないようである。 == 出演者 == === レギュラー・準レギュラー === * 南光太郎 / 仮面ライダーBLACK RX - [[倉田てつを]] * 白鳥玲子 - [[澄川真琴|高野槇じゅん]](1 - 12,14 - 19,21,23 - 26,28 - 30,32 - 47) * 佐原俊吉 - [[赤塚真人]](1 - 12,14,17,20,25,29,30,35,36,44,46) * 佐原唄子 - [[鶴間エリ]](1 - 12,14,17,20,25,29,30,35,36,44,46) * 霞のジョー - [[小山力也]](15 - 18,20 - 26,37 - 47) * 的場響子 - [[深山凛|上野めぐみ]](29,30,38 - 47) * 吾郎 - [[小野寺丈]](6,14,20,26,35,37,40,45 - 47) * 佐原茂 - [[井上豪]](1 - 10,12 - 18,20,23,25,26,29,30,35,36,39,44,46,47) * 佐原ひとみ - [[井村翔子]](1 - 10,12,14 - 18,23,25,26,29,30,35,36,39,44,46,47) * 三郎{{efn2|name="no"|オープニングテロップでは役名未表記。}} - [[中島義実]](1,3 - 7,10,14,18,20,36,39) * 健吾{{efn2|name="no"}} - 片岡伸吾(1,3 - 7,10,13,14,18,20,36,39) * 七七子{{efn2|name="no"}} - [[山形亜裕子|優希亜裕子]](6,14,20,26,35,37,40) * 速水刑事{{efn2|第12話のオープニングクレジットでは役名未表記。}} - [[佐渡稔]](2,6,7,12) * マリバロン - [[高畑淳子]](1 - 24,27 - 47) * ダスマダー - [[松井哲也]](28 - 30,33 - 47) === 声の出演 === ジャーク将軍、ボスガン、クライシス皇帝、ナレーション以外は全てノンクレジット * キングストーン - [[大宮悌二]](2,16) * ジャーク将軍 - [[加藤精三 (声優)|加藤精三]](1 - 44)、[[柴田秀勝]](45,46) * ボスガン - [[飯塚昭三]](1 - 16,18 - 44) * ガテゾーン - [[高橋利道]](1 - 15,18 - 25,27 - 43) * ゲドリアン - [[新井一典]](1 - 15,18 - 25,27 - 42) * チャックラム - [[森篤夫]](1,2,4,5,8,12 - 15,21,31,37,47) * クライシス皇帝 - [[納谷悟朗]](42,46,47) * シャドームーン - [[てらそままさき|寺杣昌紀]](22,27) * 仮面ライダー1号 - [[鳥井林太朗|鳥居賞也]](41 - 47) * ナレーター - [[政宗一成]] === 主なゲスト出演者 === 参考文献:『仮面ライダー大図鑑 (7)』(バンダイ・1992年) p.116 - 123 ※ その他のゲストは、放送日程の節を参照。 * 吉野教授{{efn2|name="no"}} - [[長沢大]](5) * 森田陽介{{efn2|name="no"}} - [[佐藤健太]](7) * 岸田美佐江{{efn2|name="no"}} - [[木村有里]](8) * 岸田友子{{efn2|name="no"}} - 浅川奈月(8) * 岸田誠一{{efn2|name="no"}} - [[加藤佳男]](8) * 小泉千草{{efn2|name="no"}} - [[本名陽子]](9) * 佑一{{efn2|name="no"}} - 丸山具視(10) * 正樹{{efn2|name="no"}} - [[飯塚洋介]](11) * 廃棄物処理業者の男{{efn2|name="no"}} - [[城春樹]]、[[泉福之助]](11) * 相原文吾{{efn2|name="no"}} - [[石山輝夫|石山律雄]](19) * マサオ{{efn2|name="no"}} - 中田貴裕(23) * 塾の先生{{efn2|name="no"}} - [[千葉繁]](23) * 武藤{{efn2|name="no"}} - [[片岡五郎]](24) * 医師{{efn2|name="no"}} - [[仲野裕]](24) * ニュースキャスター{{efn2|name="no"}} - [[江原正士]](25,29,33) * 柴田茜{{efn2|name="no"}} - 田村美幸(27) * 柴田弘{{efn2|name="no"}} - 中山竜二(27) * 三田ユキオ{{efn2|name="no"}} - 市川浩(28) * 三田{{efn2|name="no"}} - 川端槙二 (28) * 的場勇介{{efn2|name="no"}} - [[市川勉]](29) * ユーコ・ミドリカワ{{efn2|name="no"}} - [[西崎みどり]](31,32) * ジム{{efn2|name="no"}} - ロニ・サンタナ(31) * 雲田ミカ{{efn2|name="no"}} - 荒船麻子(32) * 雲田{{efn2|name="no"}} - [[永井秀明]](32) * 田所政信{{efn2|name="no"}} - [[きくち英一]](33) * 九条勝{{efn2|name="no"}} - [[大葉健二]](34) * 沢田勝{{efn2|name="no"}} - [[小沢和義|小沢一義]](36) * 大沢先生{{R|CHRONICLE73}}{{efn2|name="no"}} - 新井一典(37) * 係員{{efn2|name="no"}} - カタリーナ(39) * 老人(ガテゾーン){{R|CHRONICLE73}}{{efn2|name="no"}} - [[大木史郎]](39) === スーツアクター === * 仮面ライダーBLACK RX{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|NAKED|2010|p=34|loc=LIST OF WORKS 岡元次郎}}{{R|映画大全集114|仮面俳優47|THM6490}}}} / ロボライダー{{Refnest|group="出典"|{{R|映画大全集116|THM6490}}{{Sfn|NAKED|2010|p=34|loc=LIST OF WORKS 岡元次郎}}}} / バイオライダー{{Refnest|group="出典"|{{R|映画大全集117|THM6490}}{{Sfn|NAKED|2010|p=22|loc=岡元次郎}}}}、仮面ライダー1号{{R|yukio}} - [[岡元次郎]] * 仮面ライダーBLACK RX(代役){{R|映画大全集114}}、ロボライダー{{R|映画大全集116}}、バイオライダー(後期){{R|映画大全集117}} - [[岩田時男]] * 仮面ライダーBLACK RX(代役){{R|映画大全集114}}、ロボライダー{{R|映画大全集116}}、ジャークミドラ<ref>{{Twitter status|or07pyqyzfg5xwq|1205483120432046080}}</ref> - [[菊地寿幸]] * 仮面ライダーBLACK RX(代役)<ref>『東映ヒーローMAX』vol26、辰巳出版、2008年、91頁</ref> - [[新堀和男]] * 仮面ライダーBLACK RX(代役)<ref>{{Twitter status|or07pyqyzfg5xwq|1228996175954530304}}</ref>、バイオライダー(代役)<ref>{{Twitter status|or07pyqyzfg5xwq|1200819261314228227}}</ref>、ガテゾーン{{R|OP}}、クライシス皇帝<ref>{{Twitter status|or07pyqyzfg5xwq|1242792798266347520}}</ref>、怪人{{efn2|キューブリカン<ref>{{Twitter status|or07pyqyzfg5xwq|1205260447353458689}}</ref>、キュルキュルテン<ref>{{Twitter 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ライダーマン{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|NAKED|2010|p=141|loc=LIST OF WORKS 高岩成二}}{{Sfn|ディケイド公式読本|2009|p=173}}{{R|21st5}}}} - [[高岩成二]] * ライダーマン<ref>{{Twitter status|or07pyqyzfg5xwq|1243149792517083137}}</ref> - 渡邉昌宏 * 仮面ライダーアマゾン{{R|yukio}} - 内田博之 * スカイライダー{{R|yukio}}、兵士チャップ{{R|21st14}}、ガイナジャグラム<ref>{{Twitter status|or07pyqyzfg5xwq|1200823632928239616}}</ref> - [[竹内康博]] * 仮面ライダースーパー1{{R|yukio}} - [[横山一敏]] * 仮面ライダーZX<ref>{{Twitter status|yukio4811|1381214189113405442}}</ref> - 末永貴久 * ガンガディン<ref>{{Twitter status|or07pyqyzfg5xwq|1227191968821702656}}</ref>、アントロント<ref>{{Twitter status|or07pyqyzfg5xwq|1234083172993789952}}</ref> - 山本貴浩 * ヘルガデム{{R|h}} - 得居寿 * ヘルガデム{{R|h}} - 片桐理 * その他 - [[中川素州]]<ref>{{Cite web |title=『ライダー!』 |url=https://ameblo.jp/motokuni55v/entry-10303226217.html |website=motoブログ |access-date=2023-12-31 |language=ja}}</ref> == スタッフ == * 原作 - [[石ノ森章太郎]] * 連載 - [[てれびくん]]、[[小学館の学年別学習雑誌|小学館学習雑誌]]、[[月刊コロコロコミック|コロコロコミック]]、[[テレビマガジン]]{{efn2|1989年2月号から。}}、[[コミックボンボン]]、[[テレビランド]] * プロデューサー - [[吉川進]]・[[堀長文]]([[東映]])、井口亮・山田尚良([[毎日放送]]) * 脚本 - [[江連卓]]、[[荒木憲一]]、[[鷺山京子]]、[[宮下隼一]]、[[山田隆司]]、村山隆策 * 音楽 - [[川村栄二]] * キャラクターデザイン - [[雨宮慶太]]、[[野口竜]]、[[篠原保]]、石ノ森章太郎{{efn2|篠原保と石ノ森章太郎はノンクレジット。篠原保は雨宮慶太のアシスタントとしての参加。石ノ森章太郎は番組中期から後期の怪人の多くのラフスケッチを起こしており、多くはそのまま着ぐるみとして造形された。}} * 監督 - [[小林義明]]、[[蓑輪雅夫]]、[[蔦林淳望]]、[[辻理]]、[[小笠原猛]]、松井昇 * 特撮監督 - [[矢島信男]] * 撮影 - [[松村文雄]] * 照明 - 中川勇雄 * 美術 - 河村寅次郎、稲野実、宮国登、[[佛田洋]] * 助監督 - 松井昇、[[岩原直樹]]、[[田﨑竜太]]、竹内英孝 * 計測 - 岡部正治 * プロデューサー補 - [[髙寺成紀]] * アクション監督 - [[金田治]]・[[村上潤]]([[ジャパンアクションクラブ]]) * 製作 - 東映、毎日放送 == 音楽 == 前作『[[仮面ライダーBLACK]]』でBGMの作曲を担当した川村栄二が、本作品ではオープニングや挿入歌の作曲も担当した。 === 主題歌 === ==== オープニングテーマ ==== ; 「[[仮面ライダーBLACK RX (曲)|仮面ライダーBLACK RX]]」 :* 作詞 - [[康珍化]] / 作曲・編曲 - 川村栄二 / 歌 - [[宮内タカユキ]] : 宮内タカユキはシリーズ初参加。第1話では挿入歌としてNGテイクが使用されており、他に歌詞違いでも録音されているが商品化はされていない。 : 第1 - 11,13.14,19,20,22 - 24,26,27,32,33,35,37 - 39,41,43 - 47話では挿入歌として使用された。 : 第5話から、ライドロンのカットが、第18話からロボライダーとバイオライダーのカットがインサートされた。 ==== エンディングテーマ ==== ; 「誰かが君を愛してる」 :* 作詞 - 康珍化 / 作曲 - [[林哲司]] / 編曲 - 川村栄二 / 歌 - 宮内タカユキ : 第5話から、飛行するクライス要塞、サンライザーやサンバスクの起動シーン、ポーズを決めるRXのシーンが追加された{{R|CHRONICLE73}}。 :* スーツアクターの岡元は「これから戦いに向かう」力強い歩きをイメージしており、拳を握っているという{{R|CHRONICLE62}}。 === 挿入歌・イメージソング === ; 「光の戦士」(第10 - 12,14 - 16,21,25 - 27,30,31,33,42 - 44話) :* 作詞 - 江連卓 / 作曲・編曲 - 川村栄二 / 歌 - 宮内タカユキ ; 「バトルoh!RX」(第11,18,20,23,25,26,28,29,32,34,35,37,39,44,45話) :* 作詞 - 小林義明 / 作曲・編曲 - 川村栄二 / 歌 - 宮内タカユキ ; 「激進RX」(第13,19,27,30,33,40話) :* 作詞 - 石ノ森章太郎 / 作曲・編曲 - [[渡辺宙明]] / 歌 - 宮内タカユキ ; 「戦場のライダーRX」(第19,39話) :* 作詞 - 石ノ森章太郎 / 作曲・編曲 - 渡辺宙明 / 歌 - 宮内タカユキ ; 「すべては君を愛するために」(第21,24,27,28,30,44,45,47話) :* 作詞 - 康珍化 / 作曲 - 林哲司 / 編曲 - [[石田勝範]] / 歌 - 宮内タカユキ ; 「運命の戦士」(第21,29,47話) :* 作詞 - 康珍化 / 作曲 - 林哲司 / 編曲 - 石田勝範 / 歌 - 宮内タカユキ ; 「黒い勇者」(第24話) :* 作詞 - 平出よしかつ / 作曲 - 林哲司 / 編曲 - 石田勝範 / 歌 - 倉田てつを : 第33,34,38,39,42,47話ではコーラス・パートのみ使用された。 ; 「永遠のために君のために」(第26,28,33,36,40 - 42,45,47話) :* 作詞 - 平出よしかつ / 作曲 - 川村栄二 / 編曲 - 石田勝範 / 歌 - [[水木一郎]] : 挿入歌アルバム発売後のリリースである。初出の[[コロちゃんパック]]はカセットのみで、CDは発売されなかった。 ; 「11(イレブン)ライダー大讃歌」 :* 作詞 - [[髙寺成紀|赤井圭]] <ref> {{Cite tweet|user=taka_69s |number= 1387389142598766593 | title=高寺成紀「 『11ライダー大讃歌』でお仕事をさせて頂いた 」|access-date=2023-12-07}}</ref> / 作曲・編曲 - [[菊池俊輔]] / 歌 - 水木一郎 : 番組終了後に発表されたイメージソング。シングル(8cmCDとカセット)での発売で、C/Wは「永遠のために君のために」。カラオケはカセットのみ収録。 ; 「仮面ライダー・99のうた」 :* 作詞 - 赤井圭 / 作曲・編曲 - [[小森昭宏]] / 歌 - 水木一郎 : 番組終了後に発表された企画もので、発売形態は8cmシングルCDとカセット。カップリングは「[[魔法使いサリー]]99のうた」(歌:[[朝川ひろこ]]) == 制作 == === 配役・スタッフ === 傾向としては[[劇団俳優座]]からの起用が目立っている。主演の[[倉田てつを]]をはじめ、[[飯塚昭三]]、[[高橋利道]]といった敵側のレギュラー、前作の終盤からナレーションを担当した[[政宗一成]]も続投している。 シャドームーンの声は前作同様[[てらそままさき|寺杣昌紀]]、怪魔戦士の声は、当時[[東京俳優生活協同組合|俳協]]に所属していた声優を主に起用していた。なお、オープニングクレジットにはジャーク将軍、ボスガン、クライシス皇帝の声優のみが表記され、その他の声優の表記はないが例外として、ゲドリアンの声を担当していた[[新井一典]]の名は第9話のみ表記されている。高橋は、スーツアクターとしてジャーク将軍を、声優としてガテゾーンを演じている。 諜報参謀マリバロンを演じた[[高畑淳子]]は、当時[[劇団青年座]]の活動だけでは生活できなかったことから東映作品に参加していた。このマリバロンは高畑の当たり役となり、それ以降、出演依頼が多くなったという。後年のインタビュー{{Full|date=2019年2月}}で高畑自身が当時を回想し「RX(の出演)がきっかけで私はようやく役者として食べていけるようになった」と述べている。 俳優座の研究生であった[[小山力也]]は、本作品で霞のジョー役として俳優デビューした{{R|U163}}。小山は、オーディションでは周りの若手俳優より年齢が高かったため受からないと思っていたが、プロデューサーの[[堀長文]]からの推薦により合格したと述べている{{R|U163}}。一部の危険なシーンを除き、ワイヤーアクションやナパーム爆破などアクションシーンのほとんどを小山自身が演じていた{{R|U163}}。 スタッフの顔ぶれは基本的に前作と同じであるが、メインライターにはシリーズでは『[[仮面ライダースーパー1]]』以来となる[[江連卓]]が起用され、[[大映テレビ|大映ドラマ]]さながらの作劇が展開されることになる。また、キャラクターデザインとして当時[[メタルヒーローシリーズ]]にも携わっていた[[雨宮慶太]]や[[野口竜]]が参加。 音楽は前作『BLACK』に引き続き[[川村栄二]]が担当。新曲の他、『BLACK』のBGMも一部流用されている。主題歌は『BLACK』の倉田に代わり[[宮内タカユキ]]が担当し、挿入歌にはこの2名に加えそれまでの本シリーズでも主題歌・挿入歌を多数手がけた[[水木一郎]]が参加している。 === テレビシリーズの中断 === 本作品の終了をもってテレビシリーズの制作は三度中断し、『[[仮面ライダークウガ]]』(2000年)まで約10年の休止期間に入った。企画立案やオーディションなど、後番組を制作する動きは東映社内ではなかったと、当時キャスティングを担当していた[[高寺成紀]]は証言しているが{{R|taka_69sのツイート(984751994639273984)}}、本作品の続編としての仮面ライダーの企画自体は存在し、同時期に『[[機動刑事ジバン]]』に出演していた[[小林良平]]が主役として起用される予定だったことが、小林本人へのインタビューで語られているが、最終的に実現には至らなかった<ref>『超世紀全戦隊大全集』[[講談社]]、1993年11月、p.190。ISBN 4-06-178416-1</ref>。 本作品の終了後、1時間枠に拡大した日曜10時台はローカルセールス枠となったため、後番組は地域によって異なり、制作局である毎日放送では『桂三枝のスポーツマガジン』、TBSでは『[[噂の!東京マガジン]]』がそれぞれ充てられた。 平成仮面ライダーシリーズの多くの作品のプロデューサーである[[白倉伸一郎]]が東映に入社する際、面接で[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]ら当時の役員を前に本作品を挙げて批判したという逸話も残っているが<ref>{{Cite book|和書 |chapter= STAFF INTERVIEW 白倉伸一郎|date = 2002-08-31 |title =超光戦士シャンゼリオン アルバム|publisher = [[朝日ソノラマ]] |series = [[ファンタスティックコレクション]] |page=87 |isbn = 4-257-03664-8}}</ref>、実際には「番組視聴中にその内容からスポンサーやテレビ局の圧力が感じられたので、自分は局やスポンサーと現場の間の調整役になりたい」という主旨を述べたとのことである<ref>白倉伸一郎、[[國分功一郎]]「存在論的なヒーローのために」『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 9月臨時増刊号]]』通巻615号、[[青土社]]、2012年8月、p.11</ref>。 == 放送日程 == {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size:smaller;" |- !放送日!!放送回!!サブタイトル!!登場怪人!!ゲストライダー<br/>シャドームーン<br/>その他 怪魔界人!!脚本!!監督 |- |align="right"|1988年10月23日 |1||太陽の子だ!RX |align="left" rowspan="2"| * 怪魔妖族 ** スカル魔 ** スカル魔スター * 怪魔ロボット ** キューブリカン(声 − [[岸野一彦]]:2話) ** 人間態(演 − [[高橋利道]]:2話) |align="left" rowspan="2"| | rowspan="7"|江連卓 | rowspan="2"|小林義明 |- |align="right"|10月30日 |2||光を浴びて!RX |- |align="right"|11月{{0}}6日 |3||RX対風の騎士 |align="left"| * 怪魔獣人 ** ガイナギスカン(声 - [[滝雅也]]) |align="left"| * ワールド博士(演 - [[牧口元美]]) | rowspan="2"|蓑輪雅夫 |- |align="right"|11月13日 |4||光の車ライドロン |align="left"| * 怪魔ロボット ** ガンガディン(声 - [[西尾徳]]) |align="left" rowspan="8"|- |- |align="right"|11月20日 |5||洞窟探険の落し穴 |align="left"| * 怪魔獣人 ** ガイナガモス(声 - 岸野一彦) | rowspan="2"|蔦林淳望 |- |align="right"|11月27日 |6||怪魔ET大暴れ! |align="left"| * 怪魔異生獣 ** キュルキュルテン |- |align="right"|12月{{0}}4日 |7||SOS! 友情の輪 |align="left"| * 怪魔妖族 ** 武陣(声:[[新井一典]]) | rowspan="2"|辻理 |- |align="right"|12月11日 |8||パパとママの秘密 |align="left"| * 怪魔獣人 ** ガイナマイト(声 - [[依田英助]]) ** 人間態(演 - 仲塚康介) |荒木憲一 |- |align="right"|12月18日 |9||マリバロンの妖術 |align="left"| * 怪魔異生獣 ** アッチペッチー(声 - [[斉藤茂一|斉藤茂]]) * 怪魔妖族 ** スカル魔 |鷺山京子 | rowspan="2"|蓑輪雅夫 |- |align="right"|12月25日 |10||ニセ者でドッキリ |align="left"| * 怪魔異生獣 ** ドグマログマ(声 - 西尾徳) | rowspan="3"|宮下隼一 |- |align="right"|1989年{{0}}1月15日<br />{{efn2|1月1日は放送休止。また、同話数は1月8日に放送予定であったが、昭和天皇崩御のニュースのために一週順延。}} |11||スクラップの反乱 |align="left"| * 怪魔ロボット ** スクライド(声 - 森篤夫) | rowspan="2"|小笠原猛 |- |align="right"|1月22日 |12||夢の中の暗殺者 |align="left"| * 怪魔妖族 ** ズノー陣(声 - 岸野一彦) |align="left"| * ガル(演 - [[福田健次]]) |- |align="right"|1月29日 |13||狙われた怪魔少女 |align="left"| * 怪魔異生獣 ** フラーミグラーミ(声 - 依田英助) |align="left"| * キララ(演 - [[南風見恵子]]) * サム博士(演 - [[早坂直家]]) |鷺山京子 | rowspan="2"|松井昇 |- |align="right"|2月{{0}}5日 |14||ひとみちゃん誘拐 |align="left" rowspan="4"| * 怪魔ロボット ** デスガロン(声 - 森篤夫:14話・15話) ** トリプロン1号(15話 - 17話) ** トリプロン2号(声 - 岸野一彦:15話 - 17話) ** トリプロン3号(声 - 斉藤茂:15話 - 17話) *** 合体トリプロン(17話) ** ネックスティッカー(声 - 西尾徳:16話) |align="left" rowspan="4"| * ガロニア姫 ** 幼年態(演 - 井村翔子:14話) ** 成長態(演 - [[丸山真穂]]:16話・17話) * ムーロン博士(演 - 井上三千男:14話) * クルミン族 ** ミンバ村長(演 - [[西本裕行]]:16話・17話) | rowspan="5"|江連卓 |- |align="right"|2月12日 |15||ロボライダー誕生 | rowspan="3"|蓑輪雅夫 |- |align="right"|2月19日 |16||奇跡の谷の姫君 |- |align="right"|2月26日 |17||バイオライダー! |- |align="right"|3月{{0}}5日 |18||怪!夢の空中遊泳 |align="left"| * 怪魔異生獣 ** ムサラビサラ(声 - 依田英助) |align="left" rowspan="3"|- | rowspan="2"|小笠原猛 |- |align="right"|3月12日 |19||恐怖の人工太陽! |align="left"| * 怪魔ロボット ** クロイゼル(声 - 新井一典) * 怪魔妖族 ** スカル魔 |荒木憲一 |- |align="right"|3月19日 |20||バナナを喰う鬼 |align="left"| * 怪魔妖族 ** ビャッ鬼(声 - [[奥村公延]]) *** 人間態(白老)(演 - 奥村公延) |江連卓 | rowspan="2"|松井昇 |- |align="right"|3月26日 |21||愛と友情の戦線 |align="left"| * 怪魔異生獣 ** バングゴング(声 - [[桑原たけし]]) |align="left" rowspan="2"| * シャドームーン * レイカ族 ** セーラ(演 - 木村公美:21話) ** ヨダム(21話) ** カイ(21話) | rowspan="2"|宮下隼一 |- |align="right"|4月{{0}}2日 |22||シャドームーン! |align="left"| * 怪魔異生獣 ** アントロント(声 - 岸野一彦) | rowspan="2"|蓑輪雅夫 |- |align="right"|4月{{0}}9日 |23||ブタになったRX |align="left"| * 怪魔獣人 ** ガイナバラス(声 - 斉藤茂) |align="left" rowspan="4"|- |鷺山京子 |- |align="right"|4月16日 |24||パパはドラキュラ |align="left"| * 怪魔異生獣 ** リックバック(声 - 依田英助) |宮下隼一 | rowspan="2"|蔦林淳望 |- |align="right"|4月23日 |25||さそり座の花嫁 |align="left" rowspan="2"| * 怪魔獣人 ** ガイナカマキル(声 - 斉藤茂:25話) ** ガイナギンガム(声 - 岸野一彦) * チャップ悪魔分隊 | rowspan="2"|江連卓 |- |align="right"|4月30日 |26||ボスガンの反撃 | rowspan="2"|小笠原猛 |- |align="right"|5月{{0}}7日 |27||大逆襲!影の王子 |align="left"| * 怪魔異生獣 ** マットボット(声 - 西尾徳) |align="left"| * シャドームーン |宮下隼一 |- |align="right"|5月14日 |28||皇帝陛下の代理人 |align="left"| * 怪魔異生獣 ** ギメラゴメラ(声 - 斉藤茂) |align="left" rowspan="13"|- |鷺山京子 |蓑輪雅夫 |- |align="right"|5月21日 |29||水のない世界 |align="left" rowspan="2"| * 怪魔異生獣 ** ムンデガンデ(声 - 依田英助:29話) *** ムンデガンデ(寄生体:29話) * 怪魔ロボット ** メタヘビー(声 - [[二又一成]]:30話) * 怪魔道化師 | rowspan="2"|江連卓 | rowspan="2"|小笠原猛 |- |align="right"|5月28日 |30||明日なき東京砂漠 |- |align="right"|6月{{0}}4日 |31||怪魔界を見た女 |align="left"| * 怪魔ロボット ** エレギトロン(声 - 岸野一彦) | rowspan="2"|鷺山京子 | rowspan="2"|蔦林淳望 |- |align="right"|6月11日 |32||愛と希望の大空 |align="left"| * 怪魔妖族 ** 岩魔(声 - 桑原たけし) ** スカル魔 |- |align="right"|6月18日 |33||瀬戸大橋の大決戦 |align="left"| * 怪魔異生獣 ** ガゾラゲゾラ(声 - [[徳丸完]]) | rowspan="4"|宮下隼一 | rowspan="2"|蓑輪雅夫 |- |align="right"|6月25日 |34||四国空母化計画!! |align="left"| * 怪魔ロボット ** シュライジン(声 - 岸野一彦) *** 人間態(演 - 高橋利道、声 - 岸野一彦) * 怪魔お遍路 |- |align="right"|7月{{0}}2日 |35||光太郎指名手配!! |align="left"| * 怪魔妖族 ** ウィル鬼(声 - 依田英助) | rowspan="2"|小笠原猛 |- |align="right"|7月{{0}}9日 |36||ヒーローは誰だ!? |align="left"| * 怪魔異生獣 ** バルンボルン(声 - 西尾徳) *** 人間態(グレートマスク)(演 - 高橋利道、声 - 新井一典) |- |align="right"|7月16日 |37||牙むく獣人忍者隊 |align="left"| * 怪魔獣人 ** ガイナニンポー(声 - [[神山卓三]]) * 怪魔忍者隊 | rowspan="2"|江連卓 | rowspan="2"|蔦林淳望 |- |align="right"|7月23日 |38||白骨ヶ原の妖舞団 |align="left"| * 怪魔妖族 ** 天空(声 - 木村有里) *** 人間態(演 - 木村有里) * 奇跡の舞踏団 |- |align="right"|7月30日 |39||爆走!ミニ4WD |align="left"| * 怪魔ロボット ** スピングレー(声 - 森篤夫) |山田隆司 | rowspan="2"|蓑輪雅夫 |- |align="right"|8月{{0}}6日 |40||ユーレイ団地の罠 |align="left"| * 怪魔獣人 ** ガイナジャグラム(声 - 徳丸完) |宮下隼一 |- |align="right"|8月13日 |41||百目婆ァの恐怖 |align="left"| * 怪魔妖族 ** 百目婆ァ(声 - [[伊倉一恵]]) |align="left" rowspan="7"| * 10人ライダー ** 仮面ライダー1号(声 - 鳥居賞也) ** 仮面ライダー2号(声 - 桑原たけし) ** 仮面ライダーV3(声 - 鳥居賞也) ** ライダーマン(声 - 岸野一彦) ** 仮面ライダーX(声 - 桑原たけし) ** 仮面ライダーアマゾン(声 - 岸野一彦) ** 仮面ライダーストロンガー(声 - 桑原たけし) ** スカイライダー(声 - 鳥居賞也) ** 仮面ライダースーパー1(声 - 岸野一彦) ** 仮面ライダーZX(声 - 桑原たけし) |江連卓 | rowspan="2"|小笠原猛 |- |align="right"|8月20日 |42||四隊長は全員追放 |align="left"| * 怪魔異生獣 ** ゲドルリドル(声 - [[丸山詠二]]) *** ゲドルリドル(強化){{R|CHRONICLE86}} * 怪魔妖族 ** スカル魔 |鷺山京子 |- |align="right"|8月27日 |43||敗れたり!! RX |align="left"| * ネオストームダガー * 怪魔ロボット ** ヘルガデム(声 - 桑原たけし) |宮下隼一<br />村山隆策 | rowspan="2"|松井昇 |- |align="right"|9月{{0}}3日 |44||戦え!全ライダー |align="left" rowspan="2"| * 最強怪人 ** グランザイラス(声 - 岸野一彦) * 親衛隊チャップ(44話) * 霊界怪人{{R|映画大全集169}}(45話){{efn2|スカル魔スター、キュルキュルテン、ズノー陣、アントロント、メタヘビー、エレギトロン、ガイナカマキル、ガイナニンポー(声 - 神山卓三)}} | rowspan="4"|江連卓 |- |align="right"|9月10日 |45||偽ライダーの末路 | rowspan="3"|蓑輪雅夫 |- |align="right"|9月17日 |46||ライダーの総突撃 |align="left" rowspan="2"| * 最強怪人 ** ジャークミドラ(声 - [[柴田秀勝]]:46話) * クライシス皇帝 |- |align="right"|9月24日 |47||輝ける明日! |} == 放送ネット局 == ; 特記のない局については、いずれもTBS系列局 * [[大阪府]]・[[近畿地方|近畿]][[広域放送|広域圏]]:MBS [[毎日放送]] ※制作局 * [[東京都]]・[[関東地方|関東広域圏]]:TBS 東京放送(現・[[TBSテレビ]]) * [[北海道]]:HBC [[北海道放送]] * [[青森県]]:ATV [[青森テレビ]] * [[岩手県]]:IBC 岩手放送(現・[[IBC岩手放送]])([[仙台放送]]制作[[新・サンデートーク]]放送のため、30分遅れネット、日曜10時30分 - 11時放送) * [[宮城県]]:TBC [[東北放送]] * [[秋田県]]:ABS [[秋田放送]]([[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系]]) * [[山形県]]:YBC [[山形放送]](日本テレビ系、当時[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系]]とのクロスネット) * [[福島県]]:TUF [[テレビユー福島]] * [[山梨県]]:UTY [[テレビ山梨]] * [[長野県]]:SBC [[信越放送]] * [[新潟県]]:BSN [[新潟放送]]([[日曜日]]10時30分 - 11時放送) * [[静岡県]]:SBS [[静岡放送]](遅れネット、日曜日10時30分 - 11時放送) * [[愛知県]]・[[東海3県|中京広域圏]]:CBC 中部日本放送(現・[[CBCテレビ]]、日曜10時30分 - 11時放送) * [[富山県]]:KNB [[北日本放送]](日本テレビ系・1990年2月7日まで遅れネット、水曜17時 - 17時30分放送<ref>『北國新聞』1990年2月7日付朝刊、テレビ欄。</ref>) * [[石川県]]:MRO [[北陸放送]] * [[福井県]]:FTB [[福井テレビジョン放送|福井テレビ]]([[フジネットワーク|フジテレビ系]]・遅れネット) * [[岡山県]]・[[香川県]]:RSK [[RSKテレビ|山陽放送]] * [[広島県]]:RCC [[中国放送]] * [[鳥取県]]・[[島根県]]:BSS [[山陰放送]] * [[山口県]]:TYS [[テレビ山口]] * [[徳島県]]:JRT [[四国放送]](日本テレビ系) * [[愛媛県]]:RNB [[南海放送]](日本テレビ系) * [[高知県]]:KUTV [[テレビ高知]](遅れネット、水曜16時30分 - 17時放送。TBS系列局でありながら番販扱い) * [[福岡県]]:RKB [[RKB毎日放送]] * [[長崎県]]:NBC [[長崎放送]] * [[熊本県]]:RKK [[熊本放送]] * [[大分県]]:OBS [[大分放送]](遅れネット、日曜11時 - 11時30分放送) * [[宮崎県]]:MRT [[宮崎放送]] * [[鹿児島県]]:MBC [[南日本放送]] * [[沖縄県]]:RBC [[琉球放送]] == 他媒体展開 == === イベント映画 === * [[仮面ライダー世界に駆ける]] - 本作品、および前作『仮面ライダーBLACK』のキャラクターが登場する短編[[3D映画]]。1989年4月から10月にかけて、[[夕張市]][[石炭の歴史村]]内の3D映像施設、「アラモ砦パビリオン」にて上映。 === 映像ソフト化 === いずれも発売元は[[東映ビデオ]]。 ; ビデオ([[VHS]]セル・レンタル共通) : [[1993年]][[9月]]から[[1994年]][[8月]]にかけて、全12巻(各巻4話(最終巻のみ3話)収録)がリリースされている。 ; [[レーザーディスク|LD]] : [[1999年]][[3月21日]]から[[2000年]][[1月21日]]にかけて、全6巻がリリースされている<ref>{{Cite book|和書|date = 2000-04-20|title = 宇宙船YEAR BOOK 2000|series = [[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]別冊|publisher = [[朝日ソノラマ]] |page = 62 |chapter = '99TV・映画 特撮DVD・LD・ビデオ&CD |id = 雑誌コード:01844-04}}</ref><ref>{{Cite book|和書|date = 2001-04-30|title = 宇宙船YEAR BOOK 2001|series = 宇宙船別冊|publisher = 朝日ソノラマ |page = 66 |chapter = 2000TV・映画 特撮DVD・LD・ビデオ&CD |id = 雑誌コード:01844-04}}</ref>。 ; [[DVD]] : [[2005年]][[5月21日]]から[[8月5日]]にかけて、全4巻(各巻2枚組・12話(Vol.1のみ11話)収録)がリリースされた<ref>{{Cite journal |和書|date=2005-05-01 |journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]] |volume=Vol.118 |issue=(2005年5月号) |publisher=[[朝日ソノラマ]] |page=60 |chapter=Visual Radar |id=雑誌コード:01843-05 }}</ref>。この他、[[2008年]][[7月21日]]発売の「石ノ森章太郎 生誕70周年 DVD-BOX」に第1話が収録されている。 ; [[Blu-ray Disc]] : [[2015年]]6月10日から10月7日にかけて、Blu-ray BOX全3巻(各巻3枚組・16話(BOX1のみ15話)収録)がリリースされた。映像特典としてBOX1には「仮面ライダー1号〜RX大集合」を、BOX1 - BOX3に新規収録インタビューを収録。封入特典はブックレットであり、BOX1のみ初回限定特典として全巻収納BOXを同梱。 === ネット配信 === ; 東映特撮 [[YouTube]] Official * [[2012年]][[1月23日]] - [[7月1日]] * [[2014年]][[6月16日]] - [[11月29日]] * [[2017年]][[11月4日]] - [[2018年]][[4月21日]] * [[2021年]][[12月15日]] - [[2022年]][[5月25日]] ; 東映特撮[[ニコニコ動画|ニコニコ]]おふぃしゃる * [[2013年]][[4月21日]] - [[2014年]][[3月9日]] === 漫画版 === ==== 放送当時の連載 ==== * [[てれびくん]] 1988年11月号 - 1989年11月号連載 [[小林たつよし]] :{| class="wikitable" font-size:smaller;" |- !掲載号!!サブタイトル(登場怪人) |- ||1988年11月号 ||戦え!アールエックス!!のまき |- ||1988年12月号 ||不明記(ガイナギスカン) |- ||1989年1月号 ||不明記(ガイナマイト) |- ||1989年2月号 ||不明記(デスガロン) |- ||1989年3月号 ||不明記(トリプロン) |- ||1989年4月号 ||不明記(アントロント) |- ||1989年5月号 ||不明記(ボスガン) |- ||1989年6月号 ||不明記(マットポット) |- ||1989年7月号 ||不明記(エレギトロン) |- ||1989年8月号 ||不明記(ウィル鬼) |- ||1989年9月号 ||不明記(ブョムブョム) |- ||1989年10月号 ||不明記(グランザイラス) |- ||1989年11月号 ||不明記(クライシス皇帝) |- |} * [[テレビランド]] 1988年11月号 - 1989年11月号連載 [[シュガー佐藤 (漫画家)|シュガー佐藤]] :{| class="wikitable" font-size:smaller;" |- !掲載号!!サブタイトル(登場怪人) |- ||1988年11月号 ||不明記(キューブリカン) |- ||1988年12月号 ||不明記(ガイナギスカン) |- ||1989年1月号 ||不明記(ガイナマイト) |- ||1989年2月号 ||不明記(デスガロン) |- ||1989年3月号 ||不明記(エンマ) |- ||1989年4月号 ||不明記(リュウサンダー) |- ||1989年5月号 ||不明記(シャドームーン) |- ||1989年6月号 ||不明記(シャドームーン) |- ||1989年7月号 ||不明記(モヒガン) |- ||1989年8月号 ||不明記(キングゴクウ) |- ||1989年9月号 ||不明記(アイアンシャーク) |- ||1989年10月号 ||不明記(ジャーク将軍、他) |- ||1989年11月号 ||不明記(クライシス皇帝) |- |} * [[コミックボンボン]] 1989年4月号 - 11月号連載 [[岩田和久]] :{| class="wikitable" font-size:smaller;" |- !掲載号!!サブタイトル(登場怪人) |- ||1989年4月号 ||不明記(毒液怪人兄弟) |- ||1989年5月号 ||不明記(合成魔神) |- ||1989年6月号 ||不明記(増殖魔神) |- ||1989年7月号 ||不明記(エイリアン怪人) |- ||1989年8月号 ||不明記(エイリアン怪人) |- ||1989年9月号 ||不明記(マリバロン怪人) |- |} * [[ケイブンシャ]] 仮面ライダーBLACK RX大百科 :: 『誕生の刻・RX』 [[きむらひでふみ]] * ケイブンシャ 仮面ライダーBLACK RX大百科2 :: 『夏のRX・海へ』 きむらひでふみ ==== 放送終了後の連載 ==== * 『時空英雄仮面ライダー』 テレビランド 1989年12月号 - 1991年1月号連載 [[シュガー佐藤 (漫画家)|シュガー佐藤]]、構成:[[平山亨]] * 『宇宙の11・仮面ライダー銀河大決戦』 てれびくん 1990年1月号 - 12月号連載 [[居村真二]] ; 『仮面ライダー11戦記』 : 「[[テレビマガジン]]」1989年12月号から1990年11月号まで連載された漫画作品。作者は[[成井紀郎]]。同時期に連載された上記2作と異なり、『RX』放送当時に漫画連載を行っていなかった雑誌において連載された作品である{{R|ReferenceA}}。 : 同作品の特徴として、上記2作と異なり、仮面ライダーの変身前の姿も描かれている{{R|ReferenceA}}。また同作品における変身前の絵柄は、成井がかつて執筆した『[[仮面ライダーストロンガー]]』の漫画作品でのものと統一されている{{R|ReferenceA}}。 :; 用語 ::; ガイスト ::: 11人ライダーとクライシス帝国との戦いが終わった後に現れた<ref>『仮面ライダー11戦記 時空英雄仮面ライダー 宇宙の11仮面ライダー銀河大戦』(ISBN 4-8130-1078-4)のP6より。</ref>組織。 ::: 名前が登場する怪人や幹部は『仮面ライダー』から『仮面ライダーストロンガー』までのものであり、作品開始時点の大幹部として[[ゲルショッカー#ブラック将軍|ブラック将軍]]・[[ドクトルG]]・[[ジェネラル・シャドウ]]が登場、その後、ブラック将軍の後任として[[アポロガイスト]]が登場している。各キャラクターの詳細については、それぞれの登場キャラクターの項目を参照。 ::; K・D計画/ネオ・キングダーク ::: 全12話のうち、8話をかけて描かれたガイストの主要な計画。物語が進むまでK・D計画とキングダークのイニシャルをとった計画名だけが明かされていたが、ネオ・キングダーク製造を目的とした計画と明らかとなる。詳しくは[[キングダーク]]を参照。 ::; ガイストライダー ::: 本郷猛のデータを元に改造された、[[ジェネラル・シャドウ]]の5体のクローン。息の合ったチームプレーで仮面ライダーたちに立ち向かうが、ライダーサザンクロスキックに倒される。 === リメイク === * [[マスクド・ライダー]] - 本作品に登場する仮面ライダーBLACK RXを用いた、[[パワーレンジャー]]と同様の制作方式によるアメリカ版ローカライズ作品。制作に際し、人種問題への配慮から設定が大幅に変更され、主人公が居候する一家は、主人が白人、夫人が東洋人、娘が白人、養子の息子が黒人という構成となった。 === ゲーム === いずれも発売元は[[バンダイナムコゲームス]](バンダイレーベルと旧[[バンプレスト]]レーベル)。 * [[コンパチヒーローシリーズ]] - 『[[ウルトラシリーズ|ウルトラマン]]』、『[[SDガンダム|ガンダム]]』と共に共演する[[クロスオーバー作品]]シリーズ。『グレイトバトル』シリーズやバラエティ系(スポーツ系も含む)など、数多くの作品に登場。 * 『[[仮面ライダー クライマックスヒーローズ|仮面ライダー クライマックスヒーローズ フォーゼ]]』 - シリーズ4作目以降から昭和シリーズと共に参加。RX、ロボライダー、バイオライダーが登場。 * [[スーパーヒーロージェネレーション]] - RX、ロボライダー、バイオライダー登場 * [[仮面ライダー バトライド・ウォー]] - シリーズ3作目に RX、ロボライダー、バイオライダー、シャドームーン&レッド・シャドームーンが登場。 == 他の仮面ライダーシリーズとの関連 == <!--タイトルに「BLACK RX」を含まない作品を、あるいは本作品の登場人物が“ゲスト”扱いの作品を列挙する。(ノート:仮面ライダーシリーズでの合意に基く)--> 仮面ライダーBLACKとしてのゲスト出演は[[仮面ライダーBLACK]]を、シャドームーンおよびジャーク将軍の登場作品については[[シャドームーン]]・[[ジャーク将軍]]をそれぞれ参照。 * 『[[仮面ライダーZO]]』 - 漫画版に南光太郎/仮面ライダーBLACK RXが登場。 * 『[[仮面ライダーディケイド]]』 - テレビシリーズに南光太郎/仮面ライダーBLACK RXと霞のジョー(名前のみ)が登場。[[劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー|劇場版]]に南光太郎/仮面ライダーBLACK RXが登場。 * 『[[仮面ライダーオーズ/OOO]]』 - テレビシリーズにチャップが登場。『[[仮面ライダー電王]]』との[[オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー|クロスオーバー作品]]に仮面ライダーBLACK RXが登場。 * 『[[仮面ライダーフォーゼ]]』 - テレビシリーズに仮面ライダーBLACK RXが登場。 * スーパーヒーロー大戦シリーズ - [[仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦|第1作]]、[[仮面ライダー×スーパー戦隊×宇宙刑事 スーパーヒーロー大戦Z|第2作]]、[[平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊|第3作]]、[[スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号|第4作]]に仮面ライダーBLACK RX(第4作目には南光太郎も含む)が登場。 * 『[[仮面ライダー電王 プリティ電王とうじょう!]]』 - チャップ、仮面ライダーBLACK RXがゲスト出演。 * 『[[セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記]]』 - 仮面ライダーBLACK RXが登場。 * 『[[仮面ライダー ビヨンド・ジェネレーションズ]]』 - 仮面ライダーBLACK RXが登場。 == 関連項目 == * 『[[総天然色バラエティー 北野テレビ]]』 *: 番組放送期間中にキー局のTBSが制作した番組で、番組内のショートコントにRXが登場。当時他局では『[[仮面ノリダー]]』などのパロディも存在したが、こちらは本作品の公式なパロディである。 * 『[[右曲がりのダンディー]]』 *: 番組放送期間中の1989年8月に公開された映画作品。RXとアクロバッターが出演し、[[玉置浩二]]演じる主人公とのタンデムシーンを披露している。 * 『[[発表!全仮面ライダー大投票]]』 *: 2021年11月6日に[[NHK BSプレミアム]]にて放送された特別番組。本作品からは「仮面ライダー部門」にてRXが16位、「音楽部門」にてオープニングテーマの「[[仮面ライダーBLACK RX (曲)|仮面ライダーBLACK RX]]」が14位に、それぞれランクインした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/anime/kamen-rider/index.html |title=発表!全仮面ライダー大投票公式サイト |access-date=2021-11-06 |publisher=NHK}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="OP">OPクレジットより。</ref> <ref name="映画大全集114">{{Harvnb|映画大全集|1993|pp=114-115|loc=「MASKED RIDER REALISTIC ALBUM 仮面ライダーBLACK RX」}}</ref> <ref name="映画大全集116">{{Harvnb|映画大全集|1993|p=116|loc=「MASKED RIDER REALISTIC ALBUM 仮面ライダーBLACK RX ロボライダー」}}</ref> <ref name="映画大全集117">{{Harvnb|映画大全集|1993|p=117|loc=「MASKED RIDER REALISTIC ALBUM 仮面ライダーBLACK RX バイオライダー」}}</ref> <ref name="映画大全集169">{{Harvnb|映画大全集|1993|pp=169-178|loc=「仮面ライダー怪人大全集 PART II」}}</ref> <ref name = "画報">{{Cite book |和書 |editor=竹書房/イオン編 |date=1995-11-30 |title=超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み |publisher=[[竹書房]] |pages=192 |id=C0076 |isbn=4-88475-874-9}}</ref> <ref name="仮面俳優47">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=47-60|loc=「第2章 昭和から平成へ仮面の下のイノベーション 04 [[岡元次郎]]」(東映ヒーローMAX vol.31掲載)}}</ref> <ref name="21st5">{{Cite book|和書|date=2017-07-10|title=スーパー戦隊 Official Mook 21世紀|volume=vol.5|volume-title=[[魔法戦隊マジレンジャー]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|page=33|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[高岩成二]]|isbn=978-4-06-509516-4}}</ref> <ref name="21st14">{{Cite book|和書|date=2017-08-25|title=スーパー戦隊 Official Mook 21世紀|volume=vol.14|volume-title=烈車戦隊トッキュウジャー|series=講談社シリーズMOOK|publisher=[[講談社]]|page=32|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[竹内康博]]|isbn=978-4-06-509525-6}}</ref> <ref name="U163">{{Cite journal|和書|date=2018-12-29|journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]|volume=vol.163|issue=(WINTER 2019.冬)|publisher=[[ホビージャパン]]|pages=38-39|title=[インタビュー]小山力也|isbn=978-4-7986-1842-5}}</ref> <ref name="CHRONICLE32">{{Harvnb|CHRONICLE|2020|pp=32-33|loc=「南光太郎」}}</ref> <ref name="CHRONICLE34">{{Harvnb|CHRONICLE|2020|pp=34-35|loc=「佐原一家/白鳥玲子/霞のジョー」}}</ref> <ref name="CHRONICLE36">{{Harvnb|CHRONICLE|2020|p=36|loc=「的場響子/速水隼人/三郎、健吾/五郎」}}</ref> <ref name="CHRONICLE37">{{Harvnb|CHRONICLE|2020|p=37|loc=「10人ライダー」}}</ref> <ref name="CHRONICLE38">{{Harvnb|CHRONICLE|2020|p=38|loc=「クライシス帝国 ジャーク将軍」}}</ref> <ref name="CHRONICLE39">{{Harvnb|CHRONICLE|2020|p=39|loc=「官房長ロボ チャックラム/クライス要塞/チャップ/ほか」}}</ref> <ref 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journal|和書|date=2022-02-15<!--奥付表記-->|journal=東映ヒーローMAX|volume=VOLUME 64|issue=(2022 SPRING)|publisher=辰巳出版|isbn=978-4-7778-2865-4|ref={{SfnRef|東映HM64|2022}}}} {{前後番組 | 放送局 = [[毎日放送]] | 放送枠 = 日曜10:00 - 10:30 | 番組名 = 仮面ライダーBLACK RX<br />(1988年10月23日 - 1989年9月24日) | 前番組 = 仮面ライダーBLACK<br />(1987年10月4日 - 1988年10月9日) | 次番組 = 板東英二のスポーツパラダイス | 次番組備考 = ※10:00 - 10:54、 | 次番組備考B = 同番組より[[ローカルセールス枠]] | 2放送局 = [[TBSテレビ|TBS]]|<!--後番組が[[関東ローカル]]のため、「系」は不要---> | 2放送枠 = 日曜10:00 - 10:30 | 2番組名 = 仮面ライダーBLACK RX<br />(1988年10月23日 - 1989年9月24日) | 2番組名備考 = ※本番組まで毎日放送制作 | 2前番組 = 仮面ライダーBLACK<br />(1987年10月4日 - 1988年10月9日) | 2次番組 = [[噂の!東京マガジン]]<br />(1989年10月1日 - 1992年9月27日) | 2次番組備考 = ※10:00 - 10:54、 | 2次番組備考B = 同番組よりローカルセールス枠 }} {{仮面ライダーシリーズ}} {{DEFAULTSORT:かめんらいたあふらつくああるえつくす}} [[Category:仮面ライダーBLACK]] [[Category:仮面ライダーシリーズの特撮テレビドラマ|ふらつくああるえつくす]] [[Category:毎日放送の特撮番組]] [[Category:1980年代の特撮作品]] [[Category:1988年のテレビドラマ]] [[Category:江連卓脚本のテレビドラマ]] [[Category:荒木憲一脚本のテレビドラマ]] [[Category:鷺山京子脚本のテレビドラマ]] 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ガミラス帝国
ガミラス帝国(ガミラスていこく)は、「宇宙戦艦ヤマトシリーズ」に登場する架空の帝国。母星のガミラス星は大マゼラン星雲にあり、恒星間航行可能な宇宙艦隊を擁して銀河系にまで進出。初作『宇宙戦艦ヤマト』では地球人類を滅亡寸前に追い詰めた敵対勢力であり、後に和解する。母星を失った後は、ガミラス民族発祥の地である銀河系のガルマン星をボラー連邦から解放してガルマン・ガミラス帝国を建国する。 本記事は本文中に作品名が多く登場するため、冒頭の本節に便宜上の略称をあらかじめ明記する。 物語時点の国家元首はデスラー総統。ガミラス本星が惑星の寿命を終えようとしていたため地球を移住先として選び、冥王星前線基地からの遊星爆弾攻撃で地球を放射能汚染して人類を滅亡させると同時にガミラス人に適した環境に改変しようとしていた。地球征服を目前にしていたが、ガミラス星の双子星(二重惑星)であるイスカンダル星のスターシャの技術協力を得た地球人が建造した宇宙戦艦ヤマトの反撃を受けて滅亡する。 続編の『ヤマトIII』ではガルマン・ガミラス帝国として再興する。 なお、ナチス・ドイツにおけるハーケンクロイツのようなシンボルマークを制定しており、ガミラス星にある銀河方面軍司令本部の建物、DMF-3型高速戦闘機の機体などに掲げられている。 『ヤマト』の企画段階では、敵勢力の名称は「ガミラス」ではなく、豊田有恒によって「ラジェンドラ」の名がつけられていた。ラジェンドラ星人は謎の存在で、人工生命体やロボットを操ってヤマトを攻撃していた。実はラジェンドラ星の人類は既に滅亡しており、ラジェンドラ星のマザーコンピューターが母星に生える、醜い一本の蔓草を主人と崇めて守っている。この蔓草を植える土地がほしいために地球を攻撃していたのだが、ついに正体を知ったヤマトの乗組員が蔓草を踏みにじると、マザーコンピューターが発狂してラジェンドラ星は滅びるというストーリーだった。「ラジェンドラ」という名称は松本零士が参加してストーリーを全面改稿した時点で没となったが、後にボラー連邦の軍艦名として復活する。ストーリー改稿時に松本零士がヤマトの敵役として「吸血鬼のような集団」の設定を導入し、「バンパレラ」あるいは「カーミラ」という名称が考えられた。当初は全員が女性という設定もあったが「チャールトン・ヘストンのようないい男の集団」というイメージに変化し、「カーミラ」からの連想・発展で「ガミラス」となった。 大マゼラン星雲内の太陽系サンザーの第8番惑星。なお、第1番や第3番となっている場合もある。 ガミラス帝国の主星であり、ガミラス大帝星とも呼称される。直径1万6,000キロメートルの地球型惑星であり、イスカンダル星とは双子星であり、中心太陽から約3億キロメートルの軌道を周る。ガミラス星の構造上の特色は、長年の侵食作用により地下に空洞が広がって外殻と内殻の二重構造になっており、内殻上面に大陸と海があることである(内殻星)。大陸には山脈が柱状にそびえ、それを支えとして厚さ約10キロメートルの岩盤の外殻が内殻を覆っている。 地球の西暦2199年時点では天体としての惑星の寿命を終えつつあり、地底物質は急速に硫化現象が進み、火山活動の影響で硫酸性の溶岩が海に流れ込み、海は濃硫酸、大気は亜硫酸ガス、雨は希硫酸である。 内殻上面には、キノコを模したような有機的デザインの高層ビルが聳え立ち、各ビルをチューブトンネルが繋いでいる。外殻下面には天井都市がぶら下がる形で連なっており、第24話で描かれるガミラス本土決戦では、天井都市のビルがミサイルとなってヤマトめがけて降り注いだ。総統府はガミラス星壊滅の折には脱出艦となり、デスラー艦としてイスカンダルからの帰還途上にあったヤマトを攻撃した。 宇宙物理学者でもあるヤマト艦長沖田十三の推測によれば、ガミラス星も太古には(イスカンダル星と同様の)綺麗な水の海を持つ普通の惑星であったとされる。そして中性だった海が酸性化したのは、ガミラス星の火山活動が活発であるからと看破。その推測に基づき、ガミラス本土決戦において、ヤマトを濃硫酸の海に潜らせ、海底火山脈を波動砲で撃ち、火山活動を誘発することで、ガミラス本土防衛軍をガミラス星ごと壊滅させる作戦を立案し、ヤマト艦長代理古代進に遂行を命じたことがヤマトの勝利の決め手となったが、ガミラス星の文明も崩壊した。 ガミラス帝国滅亡後は、『新たなる旅立ち』に登場。暗黒星団帝国によってガミラス星に埋蔵されている放射性物質「ガミラシウム」の採掘が行われていた。故郷に別れを告げるため帰還したデスラーがこの光景を見て激怒して戦闘を始めた結果、ガミラシウムが誘爆して、元より地殻が脆くなっていたガミラス星は爆発、消滅した。ひおあきらの漫画版では、スターシャが、ヤマトのイスカンダル出港後、ガミラス星を道連れにイスカンダル星を自爆・消滅させている。 青い肌を持つということ以外は基本的に地球人とほぼ同じ容姿と体格を有する宇宙人であり、地球人を知らないビーメラ星人は生け捕りにした森雪をガミラス人と誤認してしまった。ただし、漫画『永遠のジュラ編』に登場するデスラーの長女ジュラは手の指の構造が地球人と全く異なっており、サイレン人等の異種族の血が混じったガミラス人は地球人とかなり異なる容姿になる一例を示している。 機械文明に依存・過信している描写があり、ヤマト乗組員がデスラー機雷を人力で排除した行動を、アニメではデスラーが「野蛮人の素朴な発想」、松本零士の漫画版ではヒスが「我々には想像もつかない方法」と評した。 劇中に登場するのは軍人のほかに総統府や司令部に勤める女性のみで、民間人の生活描写は無い。松本零士の初期ラフ設定画によれば一般人も存在し、中枢部の要人のように必ずしも長身ではなく、服装も貧相なものを着ている例も多い。軍法会議のシーンでは、そのように粗末な格好をした人物が大勢審理を傍聴しているが、彼らが民間人なのかどうかは不明。 ガミラス人の設定には統一されていない点も多い。 デスラー総統を指導者に戴く軍事独裁国家である。総統を補佐する副総統にはヒスがおり、主に内政や各戦線司令官との連絡を担当する。総統の権力は絶大で、駄洒落を発した将軍を「ガミラスに下品な男は不要だ」と処刑(『ヤマト』第11話)、ドメル将軍については軍法会議により死刑の判決が下されていたが、ヤマトに対抗できる将軍が他にいないという理由で判決を破棄(『ヤマト』第21話)、ヤマトとの和平交渉を進言したヒスを射殺(『ヤマト』第24話)するなどしている。 ガミラスでは財政や外交を担当する組織(『ヤマト』第16話に登場する、惑星第8タックス部)にも軍人が従事しており、文官に相当するキャラクターは登場しない。 劇中には登場しないが、設定上は総統直属の親衛隊が存在しており、ヤマト撃滅に手間取るシュルツは、デスラーの「親衛隊を送ろうか」のセリフに怯える描写がある(『ヤマト』第9話)。 『ヤマト』第13話と第21話では、地球攻略戦線(銀河方面)以外にも「ルビー」「サファイヤ」「ダイヤ」「オメガ」の4つの戦線の存在が語られている。『ヤマト2』第3話では、パーシバル戦区やガルク戦区などの存在も確認されている。 前線部隊は方面軍司令部(地球攻略時は、銀河方面軍司令部)からの命令で行動しているが、デスラーのいるガミラス総統司令部から直接指令が送られることもある。 総兵力は不明だが、作中において登場した中では、ドメル率いる3000隻の艦隊が最大であり、この時はヤマトは戦力的に敵わないとして一方的に逃走を余儀なくされた。しかしその後、ヤマトとガミラスの大艦隊が正面から対決することはなく、七色星団でのドメル率いる艦艇戦力は5隻であった。ガミラス帝国崩壊後は、デスラー率いる残存艦隊として現存したが、合計隻数は不明。 ガミラス艦などの宇宙艦艇は魚類、反射衛星砲などの他の兵器は植物などを彷彿とさせる有機的なデザインが多い。数は少ないが、高速空母やドメラーズ2世などの円盤型の艦艇も保有している。色使いは緑色、青灰色、デスラー艦に使用されている青などを基調としている。ガミラスの所有する宇宙艦艇は、ヤマト以前の地球の宇宙艦艇よりも高性能で、光線兵器の威力ではガミラス艦の主砲は地球艦をたやすく撃沈可能であるのに対して地球艦の主砲はガミラス艦には効果が無かった。ただ、地球艦のミサイルはガミラス艦を撃沈可能であり、古代守の艦がミサイルを用いてガミラス艦を撃沈している。ヤマトやその艦載機(ブラックタイガーなど)は、ガミラス艦を撃沈できる火力を備えている。 磁力兵器も発達しており、艦艇の速力を落としやがて停止させる磁力バリヤー、あらゆる機械の繋ぎ目を外して分解するマグネトロンウェーブを発する宇宙要塞13号などを実用化している。 砲兵器の光弾色は概ねピンク色で統一されている。 役職は、大まかに将軍と一般兵に区別されており、細かい階級描写は描かれていない。 将校・司令官は、『ヤマト』初期では、冥王星前線基地の司令官シュルツおよび副官ガンツ、浮遊大陸基地司令官(美男司令)らが、一般兵と同じ茶色の戦闘用スーツを着用していた。副総統のヒスは、赤色のスカーフに、左胸に短剣状のものを着けた茶色の軍服姿だった。 『ヤマト』第11話を境に、副総統のヒスも含めて将校は、胸から腰にかけての6対の点線がある緑の上衣に、上着の上にベルトを締め、黒の長手袋、肩のボタンで止めるタイプのものの裏地が赤で表地が黒のロングマント。手には黒いロンググローブをつけ、黒の乗馬型ズボンに緑の長靴と、デスラーの制服に沿ったデザインの軍服となる。点線は、『ヤマト』では様々な色が存在していたが、『さらば』以降は白色に統一されている。さらに『ヤマト』において、肩の部分に3対の点線がある物と無い物(ゲールなどの一部の将校)があり、『ヤマト2』以降は省略する形で統一されている。これらの軍服のデザインは、後のガルマン・ガミラス軍でも概ね踏襲されている。 なお、ドメルだけは例外として、終始つなぎ型の独自の戦闘服を着用している。 一般兵は、前腕が黒色で他が茶色の戦闘用スーツに、黒の戦闘ブーツ、茶色のバイザー付きヘルメットを被る。ベルトのバックルの意匠はV字型である。制服のデザインは作画によってぶれがある。航空機のパイロットは、黒色バイザーがついた赤色のヘルメット、緑のつなぎ状のスーツに、黄緑色の襟、青灰色の手袋・長靴を身に付けている。『ヤマト』初期ではパイロットも、一般兵と同じ茶色の軍服だったが、同作第13話以降、専用のパイロットスーツを着用するようになった。 一般兵以外には、司令官の下で戦闘指示を与えたり、身の回りの世話をしたりする兵がおり、「幕僚」と呼ばれている。制服は縦に水色の太い線が入り、耳部に突起が付いたベール状の黒色ヘルメットに、水色の上衣、黒の手袋・乗馬型ズボン・ブーツである。軍服の胸から腰にかけての6対、肩の部分に3対の黒の点線がある。基本的に白目を剥いた無表情であり、人間味のある容姿をしていない。ただし、『ヤマト』第17話に登場する、ゲールに従属していた1名の幕僚のみ黒目が描かれており、感情の変化を露わにしている。その後、『ヤマトIII』で、ガルマン・ガミラス帝国建国後に、デスラーの身の回りを世話する、薄紫色の制服を着た幕僚が再び登場している。 そのほかにも、小姓や女衛兵、侍女などが登場している。 『遥かなる星イスカンダル』では、原作となる『ヤマト』に準じて、「ガミラス人は地球型大気の中では生きていけない」とスターシアが説明している。その一方、『PS版さらば』のストーリー19「木星圏・ガニメデ近海」では、こちらも原作となる『さらば』『ヤマト2』に準拠して、古代とデスラーが両者とも生身の状態で相対している。 こういった曖昧なままだったガミラス人の特性について、『イスカンダルへの追憶』では、新たに設定を追加・変更し、理屈をつけている。 ステージ10「青き地表へ」プロローグムービー中においてタランやデスラーが説明した内容によると、ガミラス人の呼吸大気は硫化水素であり、さらに放射線によって体内代謝が支えられるため、放射線が偏在する環境なら短時間とはいえ真空中でも活動できる。一方で、地球のような酸素大気は彼らにとっては猛毒にあたる。したがって隣星であるイスカンダルにすら、それまでガミラス人は足を踏み入れたことは無かった。ステージ13「最後の戦い」エピローグムービーにおいて、以前ガミラス人の捕虜をヤマト艦内に入れた時は、真田が開発した酸素中和剤を投与したと説明されている。短時間の効果しか無い薬だが、ゴルバとの戦いの後、この製剤法をガミラス側に渡したことにより、一応はガミラス人も地球型大気の中で生きられることになった。 遊星爆弾で地球を攻撃する謎の異星人。『gami-ilas bony-rock-organism』骨形岩鉱石質生命の意思の集合体である。 人類はガミラスと呼称し、自らはデスラーと名乗った。地球よりも高度な文明を築いていたが、母星が滅びようとしていたために地球を移住先と決め、遊星爆弾による攻撃を行い地表を放射能で汚染、人類を絶滅寸前まで追い込む。この遊星爆弾による攻撃は自らが住みやすい星に環境を改造する意味も含まれている。 自らを「個であり全体」と呼び、意識体と呼ばれる青いガス状ならびに結晶体こそがガミラスの真の姿である。劇中に登場する二足歩行のガミラス兵の体は、地球圏内で発見されていない岩石質と鉱石質が組み合わされたもので構成されており、ガミラス星地下では二足歩行型よりも大型の四足歩行型も登場するが、ガミラス全てがこの形態をしているわけではなく、上記の通り生命体としての本体は体の青く発光している部分(クリスタル状)のみである。意識体は人間に乗り移ることが可能で、行動を操り潜在意識を調べることも可能であり、劇中では斉藤始が取り憑かれた。 本作品で登場するイスカンダルとは同一の意思集合体として描かれ、母星の寿命に際して他の惑星に移住して生き延びようとする意識ガミラスと、星と共に運命を共にしようとする意識イスカンダルとは、ガミラス/デスラーという同じ惑星に住む意識生命体の中での表裏一体・コインの表と裏のような関係である。 劇中では地球に移住するため、人類に対して圧倒的な力の差を見せ付けて絶滅寸前まで追い込んだが、放射能除去装置を受け取るために旅立ったヤマト及びクルーとガミラス星地下都市で激突、技師長真田志郎と空間騎兵隊隊長斉藤始の命を賭した戦いにより、自身のエネルギー本体を爆破されて大部分が死滅し地下都市も壊滅。しかし生き残った一部が、デスラー艦を用いて地球帰還を目前にしたヤマトを急襲し大破させる。 その後ヤマト第一艦橋にクリスタルブルーの人間体として現われ、地球侵略を諦めたことを伝えるが、「地球はお前達にも渡さない」「我々は屈辱を忘れぬ種族だ」と言い残し消滅。デスラー艦からガミラスミサイルを発射し地球を滅ぼそうとするが、古代進とヤマトの特攻で防がれる。しかし、完全に全滅したかどうかは不明である。 第1作(以下、旧作)のリメイクである『宇宙戦艦ヤマト2199』を初作とする本シリーズでは、設定が再構築されている。 本作では「大ガミラス帝星」に変更されている。ただし、「ガミラス帝国建国千年祭」などの名称から、「ガミラス帝国」の名称も併せて使用されていることが確認できる。また、旧作と同じく数字の「4」を反転させたようなシンボルマークを掲げている。 本シリーズのガミラスは『永遠に讃えよ我が光』という国歌が設定されている。劇中では反乱を起こした惑星への攻撃を行う際に、ギムレーが「殲滅のメロディー」と称して流したこともある一方で、兵の士気向上のためにも歌われているほか、二等ガミラス臣民がガミラスへの忠誠を端的に示す際にも歌うこともある。 大マゼラン銀河サレザー恒星系第4惑星で、イスカンダルとは双子星。正式名称は国名と同じ「大ガミラス帝星」である。旧作同様二重構造の惑星であり、外殻には所々穴が開いている。外殻の穴から望むことができる空は、旧作では総じて暗いものだったが、本作ではやや緑がかった明るい青空を望ませている。内殻では地球と大差ない生活様式が営まれており、純粋なガミラス人のほか、併合した惑星から取り立てた「二等ガミラス臣民」が存在し、ヴァルケ・シュルツやゲルフ・ガンツ等のザルツ人の他にも、ミーゼラ・セレステラのようなジレル人をはじめ、赤や緑などの肌の色など様々な特徴をもつ多くの臣民が登場している。 内殻の地表には都市があり、帝都の名は「バレラス」である。都市の建造物は旧作同様、ツクシやキノコに近い形をしている。都市の中心には全高2400メートルの巨大な総統府がそびえ立っている。なお、旧作と異なりチューブトンネルはない。また、ガミラス星とイスカンダル星の間のラグランジュポイントL1の空間には、イスカンダルへの遷都を目的として建造された空間機動要塞都市「第二バレラス」が存在する。 総統府近傍の湖には宇宙軍港が設置されており、高さのある台形状の大規模な構造物となっている。上面は航宙艦船の発着スペースで、乾ドック状の発着スポットが配置されている。構造物内は整備ドックであり、発着スポットから艦船をリフトで降ろして整備を行う。 『2199』では星の寿命についての言及はなかったが、『2202』において、旧作のような惑星環境の変動等の兆候こそ未だ表に出ていないが、「星の寿命が残り数十年程度しかない」という事実がデスラー一族と僅かな側近の間で極秘裏に知られていたことが明かされ、『2205』において、古代イスカンダル人がコスモリバースの応用による惑星改造をイスカンダルの双子星に施しガルマン人(後のガミラス人)に適した生存環境を持つ「ガミラス星」へと強制的に作り変えたことが「星の寿命を縮めた原因」だったと判明している。 『2205』前編では、ガルマン星へのガミラス臣民移住が開始されて間もなく、多数のデザリアム・ハンマーが飛来して地殻の破壊を開始。デスラー艦隊が救出活動を続ける中で地殻崩壊を引き起こし、ガミラス星は爆散・消滅してしまった。 本シリーズでは各人物にファーストネームが設定されている。 肌の色は旧作と同じ青だが、地球人と同様に個人によって若干色合いは異なる。血液の色は紫色。本シリーズにおけるガミラス人は地球人と同一環境下で生活でき、『2199』第11話でガミラス人のDNA配列が地球人類と同じであることが判明しているほか、古代にはメンタリティーも地球人と同じと分析されている。『2202』において、「主星サレザーに起因するガミラス星の特殊な環境下以外では、ガミラス人は長く生きられない」ということが明かされ、ガミラス星の環境下での生活に特化され過ぎたガミラス人の肉体は他の惑星の風土病などに対する抵抗力が極めて弱く、数年程度ならともかく10年以上長期滞在するとそれらの病気に罹患して死亡するリスクが跳ね上がるとされている。 ガミラス人は自分たちの青い肌を当然視しており、肌が青くない非ガミラス人や地球人を「劣等人種」と見下して「差別」したり、青を「高貴なる蒼」と称し他の色より重視して上に扱ったりする傾向がある。 ガミラス人はイスカンダルを崇拝の対象としており、イスカンダル人を「高貴なるイスカンダル」と称し、ガミラス人以外では唯一例外的に最大級の敬意を払う存在としている。ガミラスの創世神話では、かつて星の海に漕ぎ出すも長き旅路の果てに多くの同胞を失い彷徨っていた王様が「女神」に導かれ、住む星と「ガミラス」という名を与えられたと伝えられている。 『2205』にて「ガミラス」とは古代イスカンダル語で「ガルマンの人猿」を意味し、かつてイスカンダル人が自分達に代わって「イスカンダルの救済」を実行させる「奴隷」としてガルマン星から強制的にサレザー恒星系へ移住させたガルマン人こそがガミラス人の始祖であるという真実が明かされ、ガミラス人の「純血を尊ぶ」「イスカンダルを崇める」という民族性は、「もともと限られた環境下でしか生存できないガルマン人が混血により生存可能域を拡大し、イスカンダルに代わる支配民族となる事を防ぐ」「イスカンダルへの無条件の服従を促し、支配下に置く」為のマインドコントロールや本能レベルでの刷り込みであったことが推察されている。 『2199』では言語学者の監修によるガミラス語も設定されている。シーンによって吹き替えのように日本語を喋る場合(主要なセリフや、翻訳機を使用して地球人と会話する時など)と、ガミラス語に字幕がつけられる場合(背景のセリフや、翻訳機無しで地球人と会話する時など)が併用される。一部の単語は吹き替えの時でもそのままとなっている。 また、ガミラス語の文字も同様に設定されており、第五章からは一部の文字にも字幕が入る。文字は独自の形をしているが、それぞれアルファベットとアラビア数字に対応している。太陽および太陽系の一部惑星にもガミラス呼称が存在し、地球側の呼称を分析し、ガミラス人なりに命名したと設定されている 。 言語能力や翻訳機の性能においても地球側を凌駕しており、個人で装着できるほど小型の翻訳機を用いて他言語を流暢に話すことができるが、『2199』時点の地球人はアナライザーによる通訳がなければ会話できない。 『星巡る方舟』において、ヤマトに提供されたガミラス製の翻訳機からの異星言語解析シーンの映像によると、ガミラス語は「ガミラス語族」に連なる複数の言語が存在し、「標準ガミラス語」「標準(大衆)ガミラス語」「西半球高地ポルメリア語」「西半球高地ゲルバデン地方語」などが存在するとされている。加えてイスカンダル語には「神聖ガミラス語」なる別名が存在する。 なお、『2202』では、セリフの印象が変わってしまうという演出面の都合から、異星言語の使用を基本的に意識しない方針となっている。 『2199』における組織構造は、おおよそは第二次世界大戦時の軍事国家体制をモチーフにしている。旧作同様、アベルト・デスラーを総統として仰ぐ独裁政治体制である。 独裁体制はデスラーの圧倒的カリスマによって成り立っている部分も多く、国民や一般軍人の多くは旧作同様に総統を慕い帝国に絶対の忠誠を誓っている。上層部は旧作と違い政治的思惑がかなり交錯しており、一枚岩とは言いがたい状態となっている。特に、大ガミラス帝星への改称以降、貴族制度の撤廃と上述の被征服民族の同化政策が行われたが、それを快く思わない貴族出身者や純血主義者もおり、実際に劇中では貴族の家柄でなおかつ純血主義者のゼーリックがクーデターを画策している。また、親衛隊などによる苛烈な弾圧により、一等、二等問わず現体制に不満を抱く国民もいる。さらに、過剰な版図拡大政策による人員不足で、ガミロイド兵なしでは領土を維持できなくなっており、国家としての基盤は弱くなっている。 旧作とは異なり文官がはっきりと存在しており、制服は対点線を共通として、旧作での緑基調のほか、青基調・茶色基調・黄色基調・クリーム色基調などがある。また、制服は階級によっても若干形状が異なっている。 旧作同様、右腕を真横に伸ばして肘を真上に曲げ、掌を正面に向けた状態で開く、ガミラス式の敬礼が存在する。この敬礼は軍人以外も行う模様で、『2199』第8話では文官のヒスがデスラーに対して行っている。 軍事面以外は副総統であるヒスが統括しており、下位にヴェルテ・タランの軍需省や国防総省、セレステラの宣伝情報省などがある。各植民惑星も支配統治省の管轄だが、暴動の鎮圧などには親衛隊が出動している。 国軍として、「帝星国防軍」が存在している。規模は非常に大きく、艦艇はバラン星の観艦式に参加したものだけで1万隻を超える。旧作同様地球以外の勢力とも交戦しており、外宇宙から侵攻してきた勢力に対する防衛行動なども取っている。旧作では将官は「将軍」として一括りにされ、将校や司令官と兵卒の違いは外見や役職によって区別できたが、本作では階級が細分化されている。 総統直属の準軍事組織として「デスラー親衛隊」が存在している。大ガミラス帝星建国の際に創設され、ギムレーが長官に就任してからは、独自の艦隊戦力である「航宙親衛艦隊」を組織し、軍事面でも急成長を遂げている。傘下の秘密警察を使って、反体制派と見なした者への苛烈な弾圧も辞さず、他の軍人や国民からは忌み嫌われている。親衛隊員は灰色基調の軍服を着用しており、一般隊員は旧作の幕僚をベースにした服装をしている。隊員はごく一部を除いて思想・能力ともに優れた人物を幹部・一般兵などのランクごとのモデルに分けたクローン兵である。また、宣伝情報省と連動して「デスラー少年団」や「ガミラス少女同盟」といった団体も創設しており、帝星臣民の子供達へのガミラス主義の浸透と、将来の青年隊員の育成を行っている。 メカニカルデザインは主に石津泰志と出渕裕が担当。 所有するメカの大半には、旧作よりも細かいディテールアップがされている一方でデザイン自体に大きな変更はないが、艦艇などはサイズが大幅に拡張されているものが多く、「デストリア級航宙重巡洋艦」などの艦級・艦種名が設定(本編で登場したネームシップはゼルグート級の1番艦「ゼルグートII世」のみ)されている。艦級・艦種名については、出渕による意向でガミラス側に「〜級」と「航宙〜」という接頭辞 / 接尾辞を付け、地球側には「〜型」と「宇宙〜」と付けることにより、両者を区別している。 ダークグリーンがガミラスの国防色と設定されており、艦体色は旧作同様に基本的には濃い緑色で統一されているが、所属する基地・軍団によっては同じ等級艦でも配色が異なるものも存在している。また、ほぼすべての艦体に駆逐型デストロイヤー艦の最大の特徴であった目玉状の発光部が、意匠のように追加されている。この部分は巡航時は薄緑色で、戦闘時のみ黄色から赤へ段階を踏みながら発光するが、機関停止時はまったく発光しなくなり、黒ずんだ色になる。これは、どのガミラス艦にも共通する特徴である。 主兵装は陽電子砲で、ビームはおおむね赤みがかったピンク色をしている。また、兵器の装甲には防御装備として帯磁性特殊加工(ミゴウェザー・コーティング)が施されており、ヤマト登場以前の地球の宇宙艦艇光線砲程度なら易々と弾く。 機関についても、波動エンジンと同じ次元波動理論に基づく「ゲシュ=タム機関」を搭載していると改めて設定されている。また、ガミラス側ではワープを「ゲシュタムジャンプ」と呼称している。ゲシュ=タム機関に異次元空間の航行能力はなく、航行には「ゲシュ=ヴァール機関」という別機関が必要であるため、ゲシュ=ヴァール機関を搭載している次元潜航艦を除くガミラス艦は旧作と異なり、異次元空間での航行能力は持ち合わせていない。 艦艇の艦橋内などには模様の入った黄色いパネルが使用されているが、これはガミラスの勢力圏内で採掘される「ガミラス大理石」という材料である。 『2202』では、第2話でクラウス・キーマンが地球連邦政府の監視から逃れようとしていた古代に接触する際、手首に装着したリングによって肌の色を地球人(黄色人種)と同じ色に変化させている。 劇中以前の歴史設定については、『2202』および『2205』で追加された部分を含めて解説する。 2001年6月にバンプレストから発売された、松本零士の作品群のクロスオーバー作品であるPlayStation用ゲーム『松本零士999 〜Story of Galaxy Express 999〜』では、第七章「銀河の交差点」や再演「魂の旅人」などに「ネオガミラス」という勢力が登場する。デスラーが率いているわけではなく機械化人で構成されており、『銀河鉄道999』の主人公・星野鉄郎の母の敵である機械伯爵と結託している宇宙海賊というゲームオリジナル設定となった。 2012年から2013年にかけてグライドメディアから出版された和智正喜の小説『GALAXY EXPRESS 999 ULTIMATE JOURNEY』(上巻:2012年12月26日発売、ISBN 9784813021902 / 下巻:2013年8月29日発売、ISBN 9784813021919)も、松本の関わった全作品が同じ世界観として描かれるクロスオーバー作品の体裁を取っており、デスラーによって再興された「ネオ・ガミラス」という勢力が登場する。
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"『ヤマト』の企画段階では、敵勢力の名称は「ガミラス」ではなく、豊田有恒によって「ラジェンドラ」の名がつけられていた。ラジェンドラ星人は謎の存在で、人工生命体やロボットを操ってヤマトを攻撃していた。実はラジェンドラ星の人類は既に滅亡しており、ラジェンドラ星のマザーコンピューターが母星に生える、醜い一本の蔓草を主人と崇めて守っている。この蔓草を植える土地がほしいために地球を攻撃していたのだが、ついに正体を知ったヤマトの乗組員が蔓草を踏みにじると、マザーコンピューターが発狂してラジェンドラ星は滅びるというストーリーだった。「ラジェンドラ」という名称は松本零士が参加してストーリーを全面改稿した時点で没となったが、後にボラー連邦の軍艦名として復活する。ストーリー改稿時に松本零士がヤマトの敵役として「吸血鬼のような集団」の設定を導入し、「バンパレラ」あるいは「カーミラ」という名称が考えられた。当初は全員が女性という設定もあったが「チャールトン・ヘストンのようないい男の集団」というイメージに変化し、「カーミラ」からの連想・発展で「ガミラス」となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "大マゼラン星雲内の太陽系サンザーの第8番惑星。なお、第1番や第3番となっている場合もある。", "title": "ガミラス星" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ガミラス帝国の主星であり、ガミラス大帝星とも呼称される。直径1万6,000キロメートルの地球型惑星であり、イスカンダル星とは双子星であり、中心太陽から約3億キロメートルの軌道を周る。ガミラス星の構造上の特色は、長年の侵食作用により地下に空洞が広がって外殻と内殻の二重構造になっており、内殻上面に大陸と海があることである(内殻星)。大陸には山脈が柱状にそびえ、それを支えとして厚さ約10キロメートルの岩盤の外殻が内殻を覆っている。", "title": "ガミラス星" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "地球の西暦2199年時点では天体としての惑星の寿命を終えつつあり、地底物質は急速に硫化現象が進み、火山活動の影響で硫酸性の溶岩が海に流れ込み、海は濃硫酸、大気は亜硫酸ガス、雨は希硫酸である。", "title": "ガミラス星" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "内殻上面には、キノコを模したような有機的デザインの高層ビルが聳え立ち、各ビルをチューブトンネルが繋いでいる。外殻下面には天井都市がぶら下がる形で連なっており、第24話で描かれるガミラス本土決戦では、天井都市のビルがミサイルとなってヤマトめがけて降り注いだ。総統府はガミラス星壊滅の折には脱出艦となり、デスラー艦としてイスカンダルからの帰還途上にあったヤマトを攻撃した。", "title": "ガミラス星" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "宇宙物理学者でもあるヤマト艦長沖田十三の推測によれば、ガミラス星も太古には(イスカンダル星と同様の)綺麗な水の海を持つ普通の惑星であったとされる。そして中性だった海が酸性化したのは、ガミラス星の火山活動が活発であるからと看破。その推測に基づき、ガミラス本土決戦において、ヤマトを濃硫酸の海に潜らせ、海底火山脈を波動砲で撃ち、火山活動を誘発することで、ガミラス本土防衛軍をガミラス星ごと壊滅させる作戦を立案し、ヤマト艦長代理古代進に遂行を命じたことがヤマトの勝利の決め手となったが、ガミラス星の文明も崩壊した。", "title": "ガミラス星" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ガミラス帝国滅亡後は、『新たなる旅立ち』に登場。暗黒星団帝国によってガミラス星に埋蔵されている放射性物質「ガミラシウム」の採掘が行われていた。故郷に別れを告げるため帰還したデスラーがこの光景を見て激怒して戦闘を始めた結果、ガミラシウムが誘爆して、元より地殻が脆くなっていたガミラス星は爆発、消滅した。ひおあきらの漫画版では、スターシャが、ヤマトのイスカンダル出港後、ガミラス星を道連れにイスカンダル星を自爆・消滅させている。", "title": "ガミラス星" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "青い肌を持つということ以外は基本的に地球人とほぼ同じ容姿と体格を有する宇宙人であり、地球人を知らないビーメラ星人は生け捕りにした森雪をガミラス人と誤認してしまった。ただし、漫画『永遠のジュラ編』に登場するデスラーの長女ジュラは手の指の構造が地球人と全く異なっており、サイレン人等の異種族の血が混じったガミラス人は地球人とかなり異なる容姿になる一例を示している。", "title": "ガミラス人" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "機械文明に依存・過信している描写があり、ヤマト乗組員がデスラー機雷を人力で排除した行動を、アニメではデスラーが「野蛮人の素朴な発想」、松本零士の漫画版ではヒスが「我々には想像もつかない方法」と評した。", "title": "ガミラス人" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "劇中に登場するのは軍人のほかに総統府や司令部に勤める女性のみで、民間人の生活描写は無い。松本零士の初期ラフ設定画によれば一般人も存在し、中枢部の要人のように必ずしも長身ではなく、服装も貧相なものを着ている例も多い。軍法会議のシーンでは、そのように粗末な格好をした人物が大勢審理を傍聴しているが、彼らが民間人なのかどうかは不明。", "title": "ガミラス人" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ガミラス人の設定には統一されていない点も多い。", "title": "ガミラス人" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "デスラー総統を指導者に戴く軍事独裁国家である。総統を補佐する副総統にはヒスがおり、主に内政や各戦線司令官との連絡を担当する。総統の権力は絶大で、駄洒落を発した将軍を「ガミラスに下品な男は不要だ」と処刑(『ヤマト』第11話)、ドメル将軍については軍法会議により死刑の判決が下されていたが、ヤマトに対抗できる将軍が他にいないという理由で判決を破棄(『ヤマト』第21話)、ヤマトとの和平交渉を進言したヒスを射殺(『ヤマト』第24話)するなどしている。", "title": "組織・政治体制" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ガミラスでは財政や外交を担当する組織(『ヤマト』第16話に登場する、惑星第8タックス部)にも軍人が従事しており、文官に相当するキャラクターは登場しない。", "title": "組織・政治体制" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "劇中には登場しないが、設定上は総統直属の親衛隊が存在しており、ヤマト撃滅に手間取るシュルツは、デスラーの「親衛隊を送ろうか」のセリフに怯える描写がある(『ヤマト』第9話)。", "title": "組織・政治体制" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "『ヤマト』第13話と第21話では、地球攻略戦線(銀河方面)以外にも「ルビー」「サファイヤ」「ダイヤ」「オメガ」の4つの戦線の存在が語られている。『ヤマト2』第3話では、パーシバル戦区やガルク戦区などの存在も確認されている。", "title": "組織・政治体制" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "前線部隊は方面軍司令部(地球攻略時は、銀河方面軍司令部)からの命令で行動しているが、デスラーのいるガミラス総統司令部から直接指令が送られることもある。", "title": "組織・政治体制" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "総兵力は不明だが、作中において登場した中では、ドメル率いる3000隻の艦隊が最大であり、この時はヤマトは戦力的に敵わないとして一方的に逃走を余儀なくされた。しかしその後、ヤマトとガミラスの大艦隊が正面から対決することはなく、七色星団でのドメル率いる艦艇戦力は5隻であった。ガミラス帝国崩壊後は、デスラー率いる残存艦隊として現存したが、合計隻数は不明。", "title": "組織・政治体制" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ガミラス艦などの宇宙艦艇は魚類、反射衛星砲などの他の兵器は植物などを彷彿とさせる有機的なデザインが多い。数は少ないが、高速空母やドメラーズ2世などの円盤型の艦艇も保有している。色使いは緑色、青灰色、デスラー艦に使用されている青などを基調としている。ガミラスの所有する宇宙艦艇は、ヤマト以前の地球の宇宙艦艇よりも高性能で、光線兵器の威力ではガミラス艦の主砲は地球艦をたやすく撃沈可能であるのに対して地球艦の主砲はガミラス艦には効果が無かった。ただ、地球艦のミサイルはガミラス艦を撃沈可能であり、古代守の艦がミサイルを用いてガミラス艦を撃沈している。ヤマトやその艦載機(ブラックタイガーなど)は、ガミラス艦を撃沈できる火力を備えている。", "title": "組織・政治体制" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "磁力兵器も発達しており、艦艇の速力を落としやがて停止させる磁力バリヤー、あらゆる機械の繋ぎ目を外して分解するマグネトロンウェーブを発する宇宙要塞13号などを実用化している。", "title": "組織・政治体制" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "砲兵器の光弾色は概ねピンク色で統一されている。", "title": "組織・政治体制" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "役職は、大まかに将軍と一般兵に区別されており、細かい階級描写は描かれていない。", "title": "組織・政治体制" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "将校・司令官は、『ヤマト』初期では、冥王星前線基地の司令官シュルツおよび副官ガンツ、浮遊大陸基地司令官(美男司令)らが、一般兵と同じ茶色の戦闘用スーツを着用していた。副総統のヒスは、赤色のスカーフに、左胸に短剣状のものを着けた茶色の軍服姿だった。", "title": "組織・政治体制" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "『ヤマト』第11話を境に、副総統のヒスも含めて将校は、胸から腰にかけての6対の点線がある緑の上衣に、上着の上にベルトを締め、黒の長手袋、肩のボタンで止めるタイプのものの裏地が赤で表地が黒のロングマント。手には黒いロンググローブをつけ、黒の乗馬型ズボンに緑の長靴と、デスラーの制服に沿ったデザインの軍服となる。点線は、『ヤマト』では様々な色が存在していたが、『さらば』以降は白色に統一されている。さらに『ヤマト』において、肩の部分に3対の点線がある物と無い物(ゲールなどの一部の将校)があり、『ヤマト2』以降は省略する形で統一されている。これらの軍服のデザインは、後のガルマン・ガミラス軍でも概ね踏襲されている。", "title": "組織・政治体制" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "なお、ドメルだけは例外として、終始つなぎ型の独自の戦闘服を着用している。", "title": "組織・政治体制" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "一般兵は、前腕が黒色で他が茶色の戦闘用スーツに、黒の戦闘ブーツ、茶色のバイザー付きヘルメットを被る。ベルトのバックルの意匠はV字型である。制服のデザインは作画によってぶれがある。航空機のパイロットは、黒色バイザーがついた赤色のヘルメット、緑のつなぎ状のスーツに、黄緑色の襟、青灰色の手袋・長靴を身に付けている。『ヤマト』初期ではパイロットも、一般兵と同じ茶色の軍服だったが、同作第13話以降、専用のパイロットスーツを着用するようになった。", "title": "組織・政治体制" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "一般兵以外には、司令官の下で戦闘指示を与えたり、身の回りの世話をしたりする兵がおり、「幕僚」と呼ばれている。制服は縦に水色の太い線が入り、耳部に突起が付いたベール状の黒色ヘルメットに、水色の上衣、黒の手袋・乗馬型ズボン・ブーツである。軍服の胸から腰にかけての6対、肩の部分に3対の黒の点線がある。基本的に白目を剥いた無表情であり、人間味のある容姿をしていない。ただし、『ヤマト』第17話に登場する、ゲールに従属していた1名の幕僚のみ黒目が描かれており、感情の変化を露わにしている。その後、『ヤマトIII』で、ガルマン・ガミラス帝国建国後に、デスラーの身の回りを世話する、薄紫色の制服を着た幕僚が再び登場している。", "title": "組織・政治体制" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "そのほかにも、小姓や女衛兵、侍女などが登場している。", "title": "組織・政治体制" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "『遥かなる星イスカンダル』では、原作となる『ヤマト』に準じて、「ガミラス人は地球型大気の中では生きていけない」とスターシアが説明している。その一方、『PS版さらば』のストーリー19「木星圏・ガニメデ近海」では、こちらも原作となる『さらば』『ヤマト2』に準拠して、古代とデスラーが両者とも生身の状態で相対している。", "title": "PSゲームシリーズ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "こういった曖昧なままだったガミラス人の特性について、『イスカンダルへの追憶』では、新たに設定を追加・変更し、理屈をつけている。", "title": "PSゲームシリーズ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ステージ10「青き地表へ」プロローグムービー中においてタランやデスラーが説明した内容によると、ガミラス人の呼吸大気は硫化水素であり、さらに放射線によって体内代謝が支えられるため、放射線が偏在する環境なら短時間とはいえ真空中でも活動できる。一方で、地球のような酸素大気は彼らにとっては猛毒にあたる。したがって隣星であるイスカンダルにすら、それまでガミラス人は足を踏み入れたことは無かった。ステージ13「最後の戦い」エピローグムービーにおいて、以前ガミラス人の捕虜をヤマト艦内に入れた時は、真田が開発した酸素中和剤を投与したと説明されている。短時間の効果しか無い薬だが、ゴルバとの戦いの後、この製剤法をガミラス側に渡したことにより、一応はガミラス人も地球型大気の中で生きられることになった。", "title": "PSゲームシリーズ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "遊星爆弾で地球を攻撃する謎の異星人。『gami-ilas bony-rock-organism』骨形岩鉱石質生命の意思の集合体である。", "title": "SPACE BATTLESHIP ヤマト" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "人類はガミラスと呼称し、自らはデスラーと名乗った。地球よりも高度な文明を築いていたが、母星が滅びようとしていたために地球を移住先と決め、遊星爆弾による攻撃を行い地表を放射能で汚染、人類を絶滅寸前まで追い込む。この遊星爆弾による攻撃は自らが住みやすい星に環境を改造する意味も含まれている。", "title": "SPACE BATTLESHIP ヤマト" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "自らを「個であり全体」と呼び、意識体と呼ばれる青いガス状ならびに結晶体こそがガミラスの真の姿である。劇中に登場する二足歩行のガミラス兵の体は、地球圏内で発見されていない岩石質と鉱石質が組み合わされたもので構成されており、ガミラス星地下では二足歩行型よりも大型の四足歩行型も登場するが、ガミラス全てがこの形態をしているわけではなく、上記の通り生命体としての本体は体の青く発光している部分(クリスタル状)のみである。意識体は人間に乗り移ることが可能で、行動を操り潜在意識を調べることも可能であり、劇中では斉藤始が取り憑かれた。", "title": "SPACE BATTLESHIP ヤマト" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "本作品で登場するイスカンダルとは同一の意思集合体として描かれ、母星の寿命に際して他の惑星に移住して生き延びようとする意識ガミラスと、星と共に運命を共にしようとする意識イスカンダルとは、ガミラス/デスラーという同じ惑星に住む意識生命体の中での表裏一体・コインの表と裏のような関係である。", "title": "SPACE BATTLESHIP ヤマト" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "劇中では地球に移住するため、人類に対して圧倒的な力の差を見せ付けて絶滅寸前まで追い込んだが、放射能除去装置を受け取るために旅立ったヤマト及びクルーとガミラス星地下都市で激突、技師長真田志郎と空間騎兵隊隊長斉藤始の命を賭した戦いにより、自身のエネルギー本体を爆破されて大部分が死滅し地下都市も壊滅。しかし生き残った一部が、デスラー艦を用いて地球帰還を目前にしたヤマトを急襲し大破させる。", "title": "SPACE BATTLESHIP ヤマト" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "その後ヤマト第一艦橋にクリスタルブルーの人間体として現われ、地球侵略を諦めたことを伝えるが、「地球はお前達にも渡さない」「我々は屈辱を忘れぬ種族だ」と言い残し消滅。デスラー艦からガミラスミサイルを発射し地球を滅ぼそうとするが、古代進とヤマトの特攻で防がれる。しかし、完全に全滅したかどうかは不明である。", "title": "SPACE BATTLESHIP ヤマト" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "第1作(以下、旧作)のリメイクである『宇宙戦艦ヤマト2199』を初作とする本シリーズでは、設定が再構築されている。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "本作では「大ガミラス帝星」に変更されている。ただし、「ガミラス帝国建国千年祭」などの名称から、「ガミラス帝国」の名称も併せて使用されていることが確認できる。また、旧作と同じく数字の「4」を反転させたようなシンボルマークを掲げている。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "本シリーズのガミラスは『永遠に讃えよ我が光』という国歌が設定されている。劇中では反乱を起こした惑星への攻撃を行う際に、ギムレーが「殲滅のメロディー」と称して流したこともある一方で、兵の士気向上のためにも歌われているほか、二等ガミラス臣民がガミラスへの忠誠を端的に示す際にも歌うこともある。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "大マゼラン銀河サレザー恒星系第4惑星で、イスカンダルとは双子星。正式名称は国名と同じ「大ガミラス帝星」である。旧作同様二重構造の惑星であり、外殻には所々穴が開いている。外殻の穴から望むことができる空は、旧作では総じて暗いものだったが、本作ではやや緑がかった明るい青空を望ませている。内殻では地球と大差ない生活様式が営まれており、純粋なガミラス人のほか、併合した惑星から取り立てた「二等ガミラス臣民」が存在し、ヴァルケ・シュルツやゲルフ・ガンツ等のザルツ人の他にも、ミーゼラ・セレステラのようなジレル人をはじめ、赤や緑などの肌の色など様々な特徴をもつ多くの臣民が登場している。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "内殻の地表には都市があり、帝都の名は「バレラス」である。都市の建造物は旧作同様、ツクシやキノコに近い形をしている。都市の中心には全高2400メートルの巨大な総統府がそびえ立っている。なお、旧作と異なりチューブトンネルはない。また、ガミラス星とイスカンダル星の間のラグランジュポイントL1の空間には、イスカンダルへの遷都を目的として建造された空間機動要塞都市「第二バレラス」が存在する。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "総統府近傍の湖には宇宙軍港が設置されており、高さのある台形状の大規模な構造物となっている。上面は航宙艦船の発着スペースで、乾ドック状の発着スポットが配置されている。構造物内は整備ドックであり、発着スポットから艦船をリフトで降ろして整備を行う。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "『2199』では星の寿命についての言及はなかったが、『2202』において、旧作のような惑星環境の変動等の兆候こそ未だ表に出ていないが、「星の寿命が残り数十年程度しかない」という事実がデスラー一族と僅かな側近の間で極秘裏に知られていたことが明かされ、『2205』において、古代イスカンダル人がコスモリバースの応用による惑星改造をイスカンダルの双子星に施しガルマン人(後のガミラス人)に適した生存環境を持つ「ガミラス星」へと強制的に作り変えたことが「星の寿命を縮めた原因」だったと判明している。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "『2205』前編では、ガルマン星へのガミラス臣民移住が開始されて間もなく、多数のデザリアム・ハンマーが飛来して地殻の破壊を開始。デスラー艦隊が救出活動を続ける中で地殻崩壊を引き起こし、ガミラス星は爆散・消滅してしまった。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "本シリーズでは各人物にファーストネームが設定されている。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "肌の色は旧作と同じ青だが、地球人と同様に個人によって若干色合いは異なる。血液の色は紫色。本シリーズにおけるガミラス人は地球人と同一環境下で生活でき、『2199』第11話でガミラス人のDNA配列が地球人類と同じであることが判明しているほか、古代にはメンタリティーも地球人と同じと分析されている。『2202』において、「主星サレザーに起因するガミラス星の特殊な環境下以外では、ガミラス人は長く生きられない」ということが明かされ、ガミラス星の環境下での生活に特化され過ぎたガミラス人の肉体は他の惑星の風土病などに対する抵抗力が極めて弱く、数年程度ならともかく10年以上長期滞在するとそれらの病気に罹患して死亡するリスクが跳ね上がるとされている。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ガミラス人は自分たちの青い肌を当然視しており、肌が青くない非ガミラス人や地球人を「劣等人種」と見下して「差別」したり、青を「高貴なる蒼」と称し他の色より重視して上に扱ったりする傾向がある。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ガミラス人はイスカンダルを崇拝の対象としており、イスカンダル人を「高貴なるイスカンダル」と称し、ガミラス人以外では唯一例外的に最大級の敬意を払う存在としている。ガミラスの創世神話では、かつて星の海に漕ぎ出すも長き旅路の果てに多くの同胞を失い彷徨っていた王様が「女神」に導かれ、住む星と「ガミラス」という名を与えられたと伝えられている。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "『2205』にて「ガミラス」とは古代イスカンダル語で「ガルマンの人猿」を意味し、かつてイスカンダル人が自分達に代わって「イスカンダルの救済」を実行させる「奴隷」としてガルマン星から強制的にサレザー恒星系へ移住させたガルマン人こそがガミラス人の始祖であるという真実が明かされ、ガミラス人の「純血を尊ぶ」「イスカンダルを崇める」という民族性は、「もともと限られた環境下でしか生存できないガルマン人が混血により生存可能域を拡大し、イスカンダルに代わる支配民族となる事を防ぐ」「イスカンダルへの無条件の服従を促し、支配下に置く」為のマインドコントロールや本能レベルでの刷り込みであったことが推察されている。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "『2199』では言語学者の監修によるガミラス語も設定されている。シーンによって吹き替えのように日本語を喋る場合(主要なセリフや、翻訳機を使用して地球人と会話する時など)と、ガミラス語に字幕がつけられる場合(背景のセリフや、翻訳機無しで地球人と会話する時など)が併用される。一部の単語は吹き替えの時でもそのままとなっている。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "また、ガミラス語の文字も同様に設定されており、第五章からは一部の文字にも字幕が入る。文字は独自の形をしているが、それぞれアルファベットとアラビア数字に対応している。太陽および太陽系の一部惑星にもガミラス呼称が存在し、地球側の呼称を分析し、ガミラス人なりに命名したと設定されている 。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "言語能力や翻訳機の性能においても地球側を凌駕しており、個人で装着できるほど小型の翻訳機を用いて他言語を流暢に話すことができるが、『2199』時点の地球人はアナライザーによる通訳がなければ会話できない。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "『星巡る方舟』において、ヤマトに提供されたガミラス製の翻訳機からの異星言語解析シーンの映像によると、ガミラス語は「ガミラス語族」に連なる複数の言語が存在し、「標準ガミラス語」「標準(大衆)ガミラス語」「西半球高地ポルメリア語」「西半球高地ゲルバデン地方語」などが存在するとされている。加えてイスカンダル語には「神聖ガミラス語」なる別名が存在する。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "なお、『2202』では、セリフの印象が変わってしまうという演出面の都合から、異星言語の使用を基本的に意識しない方針となっている。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "『2199』における組織構造は、おおよそは第二次世界大戦時の軍事国家体制をモチーフにしている。旧作同様、アベルト・デスラーを総統として仰ぐ独裁政治体制である。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "独裁体制はデスラーの圧倒的カリスマによって成り立っている部分も多く、国民や一般軍人の多くは旧作同様に総統を慕い帝国に絶対の忠誠を誓っている。上層部は旧作と違い政治的思惑がかなり交錯しており、一枚岩とは言いがたい状態となっている。特に、大ガミラス帝星への改称以降、貴族制度の撤廃と上述の被征服民族の同化政策が行われたが、それを快く思わない貴族出身者や純血主義者もおり、実際に劇中では貴族の家柄でなおかつ純血主義者のゼーリックがクーデターを画策している。また、親衛隊などによる苛烈な弾圧により、一等、二等問わず現体制に不満を抱く国民もいる。さらに、過剰な版図拡大政策による人員不足で、ガミロイド兵なしでは領土を維持できなくなっており、国家としての基盤は弱くなっている。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "旧作とは異なり文官がはっきりと存在しており、制服は対点線を共通として、旧作での緑基調のほか、青基調・茶色基調・黄色基調・クリーム色基調などがある。また、制服は階級によっても若干形状が異なっている。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "旧作同様、右腕を真横に伸ばして肘を真上に曲げ、掌を正面に向けた状態で開く、ガミラス式の敬礼が存在する。この敬礼は軍人以外も行う模様で、『2199』第8話では文官のヒスがデスラーに対して行っている。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "軍事面以外は副総統であるヒスが統括しており、下位にヴェルテ・タランの軍需省や国防総省、セレステラの宣伝情報省などがある。各植民惑星も支配統治省の管轄だが、暴動の鎮圧などには親衛隊が出動している。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "国軍として、「帝星国防軍」が存在している。規模は非常に大きく、艦艇はバラン星の観艦式に参加したものだけで1万隻を超える。旧作同様地球以外の勢力とも交戦しており、外宇宙から侵攻してきた勢力に対する防衛行動なども取っている。旧作では将官は「将軍」として一括りにされ、将校や司令官と兵卒の違いは外見や役職によって区別できたが、本作では階級が細分化されている。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "総統直属の準軍事組織として「デスラー親衛隊」が存在している。大ガミラス帝星建国の際に創設され、ギムレーが長官に就任してからは、独自の艦隊戦力である「航宙親衛艦隊」を組織し、軍事面でも急成長を遂げている。傘下の秘密警察を使って、反体制派と見なした者への苛烈な弾圧も辞さず、他の軍人や国民からは忌み嫌われている。親衛隊員は灰色基調の軍服を着用しており、一般隊員は旧作の幕僚をベースにした服装をしている。隊員はごく一部を除いて思想・能力ともに優れた人物を幹部・一般兵などのランクごとのモデルに分けたクローン兵である。また、宣伝情報省と連動して「デスラー少年団」や「ガミラス少女同盟」といった団体も創設しており、帝星臣民の子供達へのガミラス主義の浸透と、将来の青年隊員の育成を行っている。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "メカニカルデザインは主に石津泰志と出渕裕が担当。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "所有するメカの大半には、旧作よりも細かいディテールアップがされている一方でデザイン自体に大きな変更はないが、艦艇などはサイズが大幅に拡張されているものが多く、「デストリア級航宙重巡洋艦」などの艦級・艦種名が設定(本編で登場したネームシップはゼルグート級の1番艦「ゼルグートII世」のみ)されている。艦級・艦種名については、出渕による意向でガミラス側に「〜級」と「航宙〜」という接頭辞 / 接尾辞を付け、地球側には「〜型」と「宇宙〜」と付けることにより、両者を区別している。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ダークグリーンがガミラスの国防色と設定されており、艦体色は旧作同様に基本的には濃い緑色で統一されているが、所属する基地・軍団によっては同じ等級艦でも配色が異なるものも存在している。また、ほぼすべての艦体に駆逐型デストロイヤー艦の最大の特徴であった目玉状の発光部が、意匠のように追加されている。この部分は巡航時は薄緑色で、戦闘時のみ黄色から赤へ段階を踏みながら発光するが、機関停止時はまったく発光しなくなり、黒ずんだ色になる。これは、どのガミラス艦にも共通する特徴である。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "主兵装は陽電子砲で、ビームはおおむね赤みがかったピンク色をしている。また、兵器の装甲には防御装備として帯磁性特殊加工(ミゴウェザー・コーティング)が施されており、ヤマト登場以前の地球の宇宙艦艇光線砲程度なら易々と弾く。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "機関についても、波動エンジンと同じ次元波動理論に基づく「ゲシュ=タム機関」を搭載していると改めて設定されている。また、ガミラス側ではワープを「ゲシュタムジャンプ」と呼称している。ゲシュ=タム機関に異次元空間の航行能力はなく、航行には「ゲシュ=ヴァール機関」という別機関が必要であるため、ゲシュ=ヴァール機関を搭載している次元潜航艦を除くガミラス艦は旧作と異なり、異次元空間での航行能力は持ち合わせていない。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "艦艇の艦橋内などには模様の入った黄色いパネルが使用されているが、これはガミラスの勢力圏内で採掘される「ガミラス大理石」という材料である。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "『2202』では、第2話でクラウス・キーマンが地球連邦政府の監視から逃れようとしていた古代に接触する際、手首に装着したリングによって肌の色を地球人(黄色人種)と同じ色に変化させている。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "劇中以前の歴史設定については、『2202』および『2205』で追加された部分を含めて解説する。", "title": "リメイクアニメシリーズ" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2001年6月にバンプレストから発売された、松本零士の作品群のクロスオーバー作品であるPlayStation用ゲーム『松本零士999 〜Story of Galaxy Express 999〜』では、第七章「銀河の交差点」や再演「魂の旅人」などに「ネオガミラス」という勢力が登場する。デスラーが率いているわけではなく機械化人で構成されており、『銀河鉄道999』の主人公・星野鉄郎の母の敵である機械伯爵と結託している宇宙海賊というゲームオリジナル設定となった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "2012年から2013年にかけてグライドメディアから出版された和智正喜の小説『GALAXY EXPRESS 999 ULTIMATE JOURNEY』(上巻:2012年12月26日発売、ISBN 9784813021902 / 下巻:2013年8月29日発売、ISBN 9784813021919)も、松本の関わった全作品が同じ世界観として描かれるクロスオーバー作品の体裁を取っており、デスラーによって再興された「ネオ・ガミラス」という勢力が登場する。", "title": "その他" } ]
ガミラス帝国(ガミラスていこく)は、「宇宙戦艦ヤマトシリーズ」に登場する架空の帝国。母星のガミラス星は大マゼラン星雲にあり、恒星間航行可能な宇宙艦隊を擁して銀河系にまで進出。初作『宇宙戦艦ヤマト』では地球人類を滅亡寸前に追い詰めた敵対勢力であり、後に和解する。母星を失った後は、ガミラス民族発祥の地である銀河系のガルマン星をボラー連邦から解放してガルマン・ガミラス帝国を建国する。
'''ガミラス帝国'''(ガミラスていこく)は、「[[宇宙戦艦ヤマトシリーズ]]」に登場する架空の[[帝国]]。母星のガミラス星は[[大マゼラン星雲]]にあり、[[恒星間航行]]可能な宇宙艦隊を擁して[[天の川銀河|銀河系]]にまで進出。初作『[[宇宙戦艦ヤマト]]』では[[地球人|地球人類]]を滅亡寸前に追い詰めた敵対勢力であり、後に和解する。母星を失った後は、ガミラス民族発祥の地である銀河系のガルマン星を[[ボラー連邦]]から解放して[[ガルマン・ガミラス帝国]]を建国する。 == 登場作品と凡例 == 本記事は本文中に作品名が多く登場するため、冒頭の本節に便宜上の略称をあらかじめ明記する。 * 『[[宇宙戦艦ヤマト]]』 - 『ヤマト』 * 『[[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]]』 - 『さらば』 * 『[[宇宙戦艦ヤマト2]]』 - 『ヤマト2』 * 『[[宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち]]』 - 『新たなる旅立ち』 * 『[[ヤマトよ永遠に]]』 - 『永遠に』 * 『[[宇宙戦艦ヤマトIII]]』 - 『ヤマトIII』 * 『[[宇宙戦艦ヤマト 完結編]]』 - 『完結編』 * 『宇宙戦艦ヤマト2199』から始まるリメイク版のアニメシリーズ(以下、便宜上「リメイクアニメシリーズ」) ** 『[[宇宙戦艦ヤマト2199]]』 - 『2199』 ** 『[[宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟]]』 - 『星巡る方舟』 ** 『[[宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち]]』 - 『2202』 * [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]および[[PlayStation 2]]においてゲーム化したシリーズ(以下、便宜上「[[宇宙戦艦ヤマトシリーズ (PlayStation)|PSゲームシリーズ]]」) ** PS版『[[宇宙戦艦ヤマトシリーズ (PlayStation)#宇宙戦艦ヤマト 遥かなる星イスカンダル|宇宙戦艦ヤマト 遥かなる星イスカンダル]]』 - 『遥かなる星イスカンダル』 ** PS版『[[宇宙戦艦ヤマトシリーズ (PlayStation)#さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち|さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]]』 - 『PS版さらば』 ** PS版『[[宇宙戦艦ヤマトシリーズ (PlayStation)#宇宙戦艦ヤマト 英雄の軌跡|宇宙戦艦ヤマト 英雄の軌跡]]』 - 『英雄の軌跡』 ** PS2版『[[宇宙戦艦ヤマトシリーズ (PlayStation)#宇宙戦艦ヤマト イスカンダルへの追憶|宇宙戦艦ヤマト イスカンダルへの追憶]]』 - 『イスカンダルへの追憶』 ** PS2版『[[宇宙戦艦ヤマトシリーズ (PlayStation)#宇宙戦艦ヤマト 暗黒星団帝国の逆襲|宇宙戦艦ヤマト 暗黒星団帝国の逆襲]]』 - 『暗黒星団帝国の逆襲』 == 概要 == {{出典の明記|date=2017年7月5日 (水) 02:21 (UTC)|section=1}} 物語時点の[[元首|国家元首]]は[[デスラー]][[総統]]。ガミラス本星が[[惑星]]の寿命を終えようとしていたため[[地球]]を移住先として選び、[[冥王星]]前線基地からの[[遊星爆弾]]攻撃で地球を[[放射能汚染]]して人類を滅亡させると同時にガミラス人に適した環境に改変しようとしていた。地球征服を目前にしていたが、ガミラス星の双子星([[二重惑星]])である[[イスカンダル (宇宙戦艦ヤマト)|イスカンダル星]]の[[スターシャ]]の技術協力を得た地球人が建造した[[ヤマト (宇宙戦艦ヤマト)|宇宙戦艦ヤマト]]の反撃を受けて滅亡する。 続編の『ヤマトIII』では[[ガルマン・ガミラス帝国]]として再興する。 なお、[[ナチス・ドイツ]]における[[ハーケンクロイツ]]のようなシンボルマークを制定しており、ガミラス星にある銀河方面軍司令本部の建物、[[宇宙戦艦ヤマトシリーズの航空機・宇宙艇#DMF-3|DMF-3型高速戦闘機]]の機体などに掲げられている。 『ヤマト』の企画段階では、敵勢力の名称は「ガミラス」ではなく、[[豊田有恒]]によって「[[ラージェンドラ1世|ラジェンドラ]]」の名がつけられていた。ラジェンドラ星人は謎の存在で、人工生命体やロボットを操ってヤマトを攻撃していた。実はラジェンドラ星の人類は既に滅亡しており、ラジェンドラ星のマザーコンピューターが母星に生える、醜い一本の[[つる植物|蔓草]]を主人と崇めて守っている。この蔓草を植える土地がほしいために地球を攻撃していたのだが、ついに正体を知ったヤマトの乗組員が蔓草を踏みにじると、マザーコンピューターが発狂してラジェンドラ星は滅びるというストーリーだった<ref>「ヤマト制作秘話 Sheet02 ラジェンドラ星人の秘密」『週刊宇宙戦艦ヤマト OFFICIAL FACTFILE』第2号 p.33</ref>。「ラジェンドラ」という名称は松本零士が参加してストーリーを全面改稿した時点で没となったが、後に[[ボラー連邦]]の[[ラジェンドラ号|軍艦名]]として復活する<ref>「宇宙戦艦ヤマトIII DVD MEMORIAL BOX」([[バンダイビジュアル]]、2001年、BCBA-0532)解説小冊子『宇宙戦艦ヤマトIII DVDメモリアルボックス 保完ファイル』p.11</ref>。ストーリー改稿時に[[松本零士]]がヤマトの敵役として「[[吸血鬼]]のような集団」の設定を導入し、「バンパレラ」あるいは「カーミラ」という名称が考えられた。当初は全員が女性という設定もあったが「[[チャールトン・ヘストン]]のようないい男の集団」というイメージに変化し、「カーミラ」からの連想・発展で「ガミラス」となった。 == ガミラス星 == {{出典の明記|date=2017年7月5日 (水) 02:21 (UTC)|section=1}} [[大マゼラン雲|大マゼラン星雲]]内の太陽系サンザーの第8番惑星。なお、第1番<ref>松本零士『宇宙戦艦ヤマト(1)イスカンダル遥か』[[秋田書店]]([[秋田文庫]])、1994年8月15日、p.29, p.212。ISBN 4-253-17017-X</ref>や第3番となっている場合もある。 ガミラス帝国の主星であり、'''ガミラス大帝星'''とも呼称される。直径1万6,000キロメートルの[[地球型惑星]]であり、イスカンダル星とは双子星であり、中心太陽から約3億キロメートルの[[軌道 (力学)#惑星軌道|軌道]]を周る。ガミラス星の構造上の特色は、長年の[[侵食]]作用により地下に空洞が広がって外殻と内殻の二重構造になっており、内殻上面に[[大陸]]と[[海]]があることである(内殻星)。大陸には[[山脈]]が柱状にそびえ、それを支えとして厚さ約10キロメートルの岩盤の外殻が内殻を覆っている。 地球の[[西暦]]2199年時点では[[天体]]としての惑星の寿命を終えつつあり、地底物質は急速に[[硫化物|硫化]]現象が進み、[[火山活動]]の影響で[[硫酸]]性の[[溶岩]]が海に流れ込み、海は[[硫酸|濃硫酸]]<ref group=注>松本零士の漫画版では「有機[[王水]]」と記述されている。</ref>、[[大気]]は[[二酸化硫黄|亜硫酸ガス]]、[[雨]]は希硫酸である。 内殻上面には、キノコを模したような有機的デザインの[[高層建築物|高層ビル]]が聳え立ち、各ビルをチューブトンネルが繋いでいる。外殻下面には天井都市がぶら下がる形で連なっており、第24話で描かれるガミラス本土決戦では、天井都市のビルが[[ミサイル]]となってヤマトめがけて降り注いだ<ref group=注>ひおあきらの漫画版ではガミラス星の地殻が二重であるという描写はなく、ビル群は地表から直立しており、ヤマトを追撃するデスラー艦は総統府と兼ねてはいない。</ref>。総統府はガミラス星壊滅の折には脱出艦となり、[[デスラー艦]]としてイスカンダルからの帰還途上にあったヤマトを攻撃した。 宇宙物理学者でもあるヤマト艦長[[沖田十三]]の推測によれば、ガミラス星も太古には(イスカンダル星と同様の)綺麗な水の海を持つ普通の惑星であったとされる。そして中性だった海が酸性化したのは、ガミラス星の火山活動が活発であるからと看破。その推測に基づき、ガミラス本土決戦において、ヤマトを濃硫酸の海に潜らせ、海底火山脈を[[波動砲]]で撃ち、火山活動を誘発することで、ガミラス本土防衛軍をガミラス星ごと壊滅させる作戦を立案し、ヤマト艦長代理[[古代進]]に遂行を命じたことがヤマトの勝利の決め手となったが、ガミラス星の文明も崩壊した。 ガミラス帝国滅亡後は、『新たなる旅立ち』に登場。[[暗黒星団帝国]]によってガミラス星に埋蔵されている[[放射性物質]]「ガミラシウム」の採掘が行われていた。故郷に別れを告げるため帰還したデスラーがこの光景を見て激怒して戦闘を始めた結果、ガミラシウムが誘爆して、元より地殻が脆くなっていたガミラス星は爆発、消滅した。[[ひおあきら]]の漫画版では、スターシャが、ヤマトのイスカンダル出港後、ガミラス星を道連れにイスカンダル星を自爆・消滅させている。 == ガミラス人 == {{出典の明記|date=2017年7月5日 (水) 02:21 (UTC)|section=1}} 青い肌を持つということ以外は基本的に地球人とほぼ同じ容姿と体格を有する宇宙人であり、地球人を知らないビーメラ星人は生け捕りにした[[森雪]]をガミラス人と誤認してしまった。ただし、漫画『永遠のジュラ編』に登場するデスラーの長女ジュラは手の指の構造が地球人と全く異なっており、サイレン人等の異種族の血が混じったガミラス人は地球人とかなり異なる容姿になる一例を示している。 機械文明に依存・過信している描写があり、ヤマト乗組員が[[デスラー機雷]]を人力で排除した行動を、アニメではデスラーが「野蛮人の素朴な発想」、[[松本零士]]の漫画版ではヒスが「我々には想像もつかない方法」と評した。 劇中に登場するのは軍人のほかに総統府や司令部に勤める女性のみで、民間人の生活描写は無い。松本零士の初期ラフ設定画によれば一般人も存在し、中枢部の要人のように必ずしも長身ではなく、服装も貧相なものを着ている例も多い。[[軍法会議]]のシーンでは、そのように粗末な格好をした人物が大勢審理を傍聴しているが、彼らが民間人なのかどうかは不明。 ガミラス人の設定には統一されていない点も多い。 ;「[[放射能]]」および「無放射能環境」への耐性 :『ヤマト』第13話では、[[捕虜]]となったガミラス人がヤマト艦内で特に支障なく生存して、身体検査でも[[ヒト|地球人]]とほぼ同一と語られている<ref group=注>このエピソードでは、ガミラス人が肌の色を除けば地球人と同じ外見をしている事に古代が驚いているシーンが存在するが、古代はこれ以前にタイタンと冥王星基地でガミラス人の外観を見ているため、矛盾が生じている。リメイク版の『2199』では[[エンケラドゥス (衛星)|エンケラドゥス]](旧作における[[タイタン (衛星)|タイタン]]に相当)で遭遇した相手は機械化兵のガミロイドに、冥王星の反射衛星砲攻略も敵兵士に遭遇しない航空偵察に変更されたため、この矛盾は解消(このため古代はヤマトを訪問したメルダの顔を見るまでガミロイドを基準に捉えており、ガミラス人が全員機械化人間ではないかと考えていた。)されている。</ref>。一方、最終回ではヤマト艦内へ放射能ガスを注入して[[白兵戦]]を挑んだデスラーは、[[宇宙戦艦ヤマト#コスモクリーナーD|コスモクリーナーD]]の作動による放射能除去を機に撤退する際に「地球型の大気の中では、こちらが[[宇宙服]]を着なければならない」と言っている。また、劇場版の[[スターシャ]]のメッセージの中の「地球型の大気の中ではガミラス人は生きてはいけない」というセリフもある。そもそも冥王星基地からの遊星爆弾による攻撃は、攻撃であると同時にガミラス版「[[テラフォーミング]]」であると言え、地球の大気を放射能で満たしガミラス人が住みよい環境にして移住しようという計画であったはずだが、『[[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]]』以降の続編では、地球と同じ大気の元で生活できる設定に統一されている。 ;肌の色・服装 :『ヤマト』第2話から第10話までガミラス人の体色は地球人と同じに描かれていたが、第11話の総統デスラーが司令部への通路を歩くシーンで、[[肌色]]だった皮膚の色が照明によって徐々に変化して最終的に青色になるというシーンがある。「地球人と同じ肌色では敵手と見なしがたい」という指摘に応え、それまで肌色に見えていたのは室内照明のためと理由付けしたシーンである。第1シリーズで肌色で描かれた物語序盤登場の主要キャラクターである[[シュルツ (宇宙戦艦ヤマト)|シュルツ]]や[[ガンツ (宇宙戦艦ヤマト)|ガンツ]]は後のゲーム作品などでの登場シーンでは肌の設定は青色になっている。 :口内の色は当初赤だったが、『ヤマト2』第5話からは肌より若干濃い青に変更されている<ref group=注>ただし、その後も稀に赤に塗り間違えられているシーンもある。PSゲーム版では赤で統一されている。</ref>。 :このガミラス人の外観の変更は、『ヤマト』第11話の[[絵コンテ]]が完成し、原画に取り掛かった1974年10月末(3話か4話の放送前後)の時点で決定していたとされる<ref name="豪華版ファイル">「宇宙戦艦ヤマト TV BD-BOX(豪華版)」(バンダイビジュアル、2012年、BCXA-0452)解説小冊子『豪華版ファイル』{{要ページ番号|date=2017年4月}}</ref>。第11話仕上げ前に行われた1974年11月19日(第7話放送後)のスタッフ会議の記録メモには、「かっこよく」「統一服装」「生活感を出さない」「[[カーキ色]]・茶系統はさける」「地球人よりもかっこよく」「冷たさと明るさ」といった要望事項が記載されており、設定変更の決定がうかがえる<ref name="豪華版ファイル"/>。 ;ガミラスの時間経過 :{{独自研究範囲|date=2017年7月5日 (水) 02:21 (UTC)|『ヤマト』第11話でヒスが「デスラー紀元103年、801日にヤマトが地球を出発、805日、[[木星]]の浮遊大陸基地を撃破」と発言しているが、ヤマトが地球を出発して木星の浮遊大陸基地を撃破するまで地球時間では2日しか経過していない。そのため、ガミラスの[[暦]]は地球の倍以上で進む計算になる。このデスラー紀元がデスラー個人が制定したものであるなら、彼自身50年近く独裁制を敷いていることになり、ガミラス人は地球人より相当長命な種族ということにもなる。}} == 組織・政治体制 == {{出典の明記|date=2017年7月5日 (水) 02:21 (UTC)|section=1}} デスラー総統を指導者に戴く軍事[[独裁政治|独裁]]国家である。総統を補佐する副総統には[[ヒス]]がおり、主に内政や各戦線司令官との連絡を担当する。総統の権力は絶大で、[[駄洒落]]を発した将軍を「ガミラスに下品な男は不要だ」と処刑(『ヤマト』第11話)、[[ドメル]]将軍については軍法会議により死刑の判決が下されていたが、ヤマトに対抗できる将軍が他にいないという理由で判決を破棄(『ヤマト』第21話)、ヤマトとの和平交渉を進言したヒスを射殺(『ヤマト』第24話)するなどしている。 ガミラスでは財政や外交を担当する組織(『ヤマト』第16話に登場する、惑星第8タックス部)にも軍人が従事しており、文官に相当するキャラクターは登場しない。 劇中には登場しないが、設定上は総統直属の[[親衛隊]]が存在しており、ヤマト撃滅に手間取る[[シュルツ (宇宙戦艦ヤマト)|シュルツ]]は、デスラーの「親衛隊を送ろうか」のセリフに怯える描写がある(『ヤマト』第9話)。 === ガミラス帝国軍 === 『ヤマト』第13話と第21話では、地球攻略戦線(銀河方面)以外にも「ルビー」「サファイヤ」「ダイヤ」「オメガ」の4つの[[戦線]]の存在が語られている。『ヤマト2』第3話では、パーシバル戦区やガルク戦区などの存在も確認されている。 前線部隊は方面軍司令部(地球攻略時は、銀河方面軍司令部)からの命令で行動しているが、デスラーのいるガミラス総統司令部から直接指令が送られることもある。 総兵力は不明だが、作中において登場した中では、[[ドメル]]率いる3000隻の艦隊が最大であり、この時はヤマトは戦力的に敵わないとして一方的に逃走を余儀なくされた。しかしその後、ヤマトとガミラスの大艦隊が正面から対決することはなく、七色星団でのドメル率いる艦艇戦力は5隻であった。ガミラス帝国崩壊後は、デスラー率いる残存艦隊として現存したが、合計隻数は不明。 [[ガミラス艦]]などの宇宙艦艇は魚類、[[反射衛星砲]]などの他の兵器は植物などを彷彿とさせる有機的なデザインが多い。数は少ないが、[[ガミラス帝国の戦闘艦#高速空母|高速空母]]や[[ドメラーズ2世]]などの円盤型の艦艇も保有している。色使いは緑色、青灰色、デスラー艦に使用されている青などを基調としている。ガミラスの所有する宇宙艦艇は、ヤマト以前の地球の宇宙艦艇よりも高性能で、光線兵器の威力ではガミラス艦の主砲は地球艦をたやすく撃沈可能であるのに対して地球艦の主砲はガミラス艦には効果が無かった。ただ、地球艦のミサイルはガミラス艦を撃沈可能であり、[[古代守]]の艦がミサイルを用いてガミラス艦を撃沈している。ヤマトやその[[艦載機]]([[ブラックタイガー (宇宙戦艦ヤマト)|ブラックタイガー]]など)は、ガミラス艦を撃沈できる火力を備えている。 磁力兵器も発達しており<ref>「大銀河科学技術講座 Sheet58B 星間国家の超兵器(2)」『週刊宇宙戦艦ヤマト OFFICIAL FACTFILE』第41号p.26</ref>、艦艇の速力を落としやがて停止させる磁力バリヤー、あらゆる機械の繋ぎ目を外して分解するマグネトロンウェーブを発する宇宙要塞13号などを実用化している。 砲兵器の光弾色は概ねピンク色で統一されている<ref group=注>例外として、『ヤマト』パイロットフィルム版および『ヤマト』第15話では、赤と黄が混ざった光弾色が描写されている。また『完結編』では橙色で描かれている。</ref>。 === 役職 === {{出典の明記|date=2017年7月5日 (水) 02:21 (UTC)|section=1}} 役職は、大まかに将軍と一般兵に区別されており、細かい階級描写は描かれていない。 [[将校]]・[[司令官]]は、『ヤマト』初期では、冥王星前線基地の司令官[[シュルツ (宇宙戦艦ヤマト)|シュルツ]]および副官[[ガンツ (宇宙戦艦ヤマト)|ガンツ]]、浮遊大陸基地司令官(美男司令)らが、一般兵と同じ茶色の戦闘用スーツを着用していた。副総統の[[ヒス]]は、赤色の[[スカーフ]]に、左胸に短剣状のものを着けた茶色の軍服姿だった。 『ヤマト』第11話を境に、副総統のヒスも含めて将校は、胸から腰にかけての6対の点線がある緑の上衣に、上着の上にベルトを締め、黒の[[オペラ・グローブ|長手袋]]、肩のボタンで止めるタイプのものの裏地が赤で表地が黒のロングマント。手には黒いロンググローブをつけ、黒の乗馬型ズボンに緑の長靴と、デスラーの制服に沿ったデザインの軍服となる。点線は、『ヤマト』では様々な色が存在していたが、『さらば』以降は白色に統一されている。さらに『ヤマト』において、肩の部分に3対の点線がある物と無い物(ゲールなどの一部の将校)があり、『ヤマト2』以降は省略する形で統一されている。これらの軍服のデザインは、後のガルマン・ガミラス軍でも概ね踏襲されている。 なお、[[ドメル]]だけは例外として、終始[[つなぎ]]型の独自の戦闘服を着用している。 一般兵は、前腕が黒色で他が茶色の戦闘用スーツに、黒の戦闘ブーツ、茶色のバイザー付きヘルメットを被る。ベルトのバックルの意匠はV字型である。制服のデザインは作画によってぶれがある。航空機のパイロットは、黒色バイザーがついた赤色のヘルメット、緑のつなぎ状のスーツに、黄緑色の襟、青灰色の手袋・長靴を身に付けている。『ヤマト』初期ではパイロットも、一般兵と同じ茶色の軍服だったが、同作第13話以降、専用のパイロットスーツを着用するようになった。 一般兵以外には、司令官の下で戦闘指示を与えたり、身の回りの世話をしたりする兵がおり、「幕僚」と呼ばれている。制服は縦に水色の太い線が入り、耳部に突起が付いた[[ベール (服飾)|ベール]]状の黒色ヘルメットに、水色の上衣、黒の手袋・乗馬型ズボン・ブーツである。軍服の胸から腰にかけての6対、肩の部分に3対の黒の点線がある。基本的に白目を剥いた無表情であり、人間味のある容姿をしていない。ただし、『ヤマト』第17話に登場する、ゲールに従属していた1名の幕僚のみ黒目が描かれており、感情の変化を露わにしている。その後、『ヤマトIII』で、ガルマン・ガミラス帝国建国後に、デスラーの身の回りを世話する、薄紫色の制服を着た幕僚が再び登場している。 そのほかにも、[[小姓]]や女衛兵、[[侍女]]などが登場している。 == 劇中での描写 == ; 劇中以前の歴史 : 「銀河系核恒星系のガルマン民族の一支族が長い[[恒星間航行]]の末、大マゼラン星雲サンザー太陽系に到達し、第8番惑星にガミラスを建国した」という歴史が『ヤマトIII』第16話で語られる。ひおあきらの漫画版()では、ヤマトによる帝都バレラス攻撃に対して、デスラーが「大ガミラス帝国2万5千年の歴史はじまって以来なかったこと」と怒りを露わにしている。 ; [[宇宙戦艦ヤマト]] : 地球の西暦で[[21世紀]]初頭から宇宙侵略を開始。西暦2190年代には、大マゼラン星雲・[[小マゼラン雲|小マゼラン星雲]]に及ぶ一大星間帝国を形成する。 : 西暦2192年、ガミラス星が惑星の寿命を終えようとしていたため、[[太陽系]]に前線部隊を派遣し、地球を移住先として遊星爆弾での攻撃を開始。同時に[[地球防衛軍 (宇宙戦艦ヤマト)|地球防衛軍]]と交戦状態に入る。西暦2199年時点で事実上勝利しており、遊星爆弾による[[放射能汚染]]により、地球人類を滅亡まで1年に追い込む。しかし、地球から出撃したヤマトの活躍により情勢が変化。ヤマトはガミラス側の執拗な妨害を退けて大マゼラン星雲まで到達し、西暦2200年のガミラス本星での決戦の末、逆にヤマトに滅ぼされる結果となる。ガミラス星を脱出したデスラーは、デスラー艦でヤマトを強襲するも敗北する。 ; [[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]] : デスラーと[[タラン]]の2名のみが生き残る。国家としてもはや成り立っておらず、[[白色彗星帝国]]の大帝[[ズォーダー]]に仕える一将軍の立場に甘んじている。ヤマトとの再戦で2人とも死亡し、完全に滅亡する。 ; [[宇宙戦艦ヤマト2]] : 西暦2201年に、デスラーが命を救われた白色彗星帝国と同盟関係を結び、ガミラス残存艦隊を率いてヤマトへの復讐の機会を狙う。その後、サーベラーの計略を発端とする騒動により彗星帝国と袂を分かち、独自にヤマトへ挑む。しかし、戦いの中でヤマトの艦長代理・[[古代進]]との間に芽生えた奇妙な[[友情]]から、白色彗星攻略のヒントを与え、第2のガミラスとなる惑星を探索するため大マゼラン星雲に去っていく。 ; [[宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち]] : 新たなる旅立ちを前にガミラス星に立ち寄るが、故郷を汚す[[暗黒星団帝国]]を発見して戦闘状態に陥った結果、ガミラス星は消滅してしまう。その後、ヤマトとの共同戦線で暗黒星団帝国の[[自動惑星ゴルバ]]を撃退。その後も第2のガミラス本星となる惑星を探して流浪の旅を続ける。 ; [[宇宙戦艦ヤマトIII]] : 劇中から1年前に、残存艦隊を率いて、銀河系核恒星系のガルマン民族を[[ボラー連邦]]の圧制から解放。新国家として[[ガルマン・ガミラス帝国]]を建国する。 == 主要人物 == {{main|宇宙戦艦ヤマトシリーズの登場人物一覧}} == メカ・技術 == {{出典の明記|date=2017年7月5日 (水) 02:21 (UTC)|section=1}} === 所有艦船 === {{main|宇宙戦艦ヤマトシリーズの登場艦船一覧|ガミラス帝国の戦闘艦}} === 航空機・宇宙艇 === {{main|宇宙戦艦ヤマトシリーズの航空機・宇宙艇#ガミラス帝国}} === 宇宙要塞=== {{main|宇宙戦艦ヤマトシリーズの宇宙要塞#ガミラス帝国}} === 陸上兵器・地上部隊 === {{main|宇宙戦艦ヤマトシリーズの陸上兵器・地上部隊#ガミラス帝国 / ガルマン・ガミラス帝国}} === 衛星兵器 === *[[反射衛星砲]] **反射衛星 *空間監視用宇宙塵 **冥王星周辺に配備されていた小型の偵察衛星。可動レンズでヤマトの位置を捉え、常時冥王星基地司令部へ報告した。 *リレー衛星 **ドメルがヤマトの背後に差し向けた通信衛星で、地球との通信を回復させて地球の惨状を見せることで、乗組員の心をかき乱す狙いがあった。実際に通信担当の[[相原義一]]は一時的な精神錯乱をきたして宇宙服姿で宇宙に飛び出してしまうが、偶然リレー衛星に漂着し、通信が回復したのは偶然ではなくガミラスの策だったことを悟る。相原は古代が乗るコスモ・ゼロに救出され、機銃を掃射して衛星を撃破した。 *人工太陽 **『宇宙戦艦ヤマト』第20話に登場。太陽のないバラン星のために設置されており、これ自体がバラン星を周る。ドメルはこれを兵器に転用し、バラン星基地を攻撃しようとするヤマトの背後からぶつけ、基地のミサイルとの挟撃を目論むが、ゲールの密告によってデスラー直々に作戦中止を命令され、人工太陽を停止させる。その隙にヤマトに波動砲を撃たれ、粉砕された破片がバラン星に降り注ぎ、バラン星基地を失うことになった。なお、動かす際にはバラン星基地からエネルギー光線が送られ、ドメラーズ3世の光線によって作動していた。 === 海中兵器 === *潜水艇 **冥王星基地の海底[[ドック]]に配備されていた一人乗りの小型[[潜水艇]]。ガミラス戦闘機に似たような外観を持ち、機首先端に[[魚雷発射管]]を1門持つ。編隊を組んで海に沈んだヤマトにとどめを刺そうとするが、艦首ミサイルによって壊滅した模様。 === 生物兵器 === *ガス生命体 **『宇宙戦艦ヤマト』第12話に登場。人工的に生み出された黒いガス状の生命体で、時折身体に赤い稲妻が走る。あらゆる物質のエネルギーを取り込んで成長する。デスラー曰く「ちょっとした思い付きで作った」。[[オリオン座]]前線基地に配備されてヤマトを追尾し、[[真田志郎]]には「金属腐食ガス」と断定された。物質を取り込もうとする性質が災いし、大容量のエネルギーを持つ[[ベテルギウス|アルファ星]]に食らい付き、燃え尽きた。 **『[[宇宙戦艦ヤマト2199]]』では、ミルベリア星系で発見された原始的なガス状生命体を兵器開発局が改良して作り上げたと設定されている。物質を変換・同化・吸収して無限に増殖する性質を持ち、説明に当たったミーゼラ・セレステラ宣伝情報相には「究極の[[化学兵器]]」と評された。作中ではガイテロール級航宙戦艦「シュバリエル」から発射されたデスラー魚雷の弾頭部に搭載される形で使用されヤマトを追尾するが、やはり見境なく餌に喰らいつく性質が災いし、デスラーと廷臣たちの眼前で恒星[[グリーゼ581]]に突入して燃え尽き、デスラーは憮然とした不興の色を見せた。 *[[宇宙戦艦ヤマトシリーズの天体#バラン星|バラノドン]] *金属腐食性バクテリア(宇宙ボタル) **『宇宙戦艦ヤマト2』第11話・第12話に登場。「宇宙ボタル」の別名通り発光するが、しばらくすると消えてしまう。ヤマトに補充された新人乗組員たちのホームシック気味の心情を読んだデスラーの作戦に使用される。癒しを求めて艦内に持ち込むであろうとの目論みから、[[宇宙戦艦ヤマトシリーズの登場人物一覧#バンデベル|バンデベル]]の指揮によって宇宙空間に放たれ(実際に持ち込んだのは[[アナライザー (宇宙戦艦ヤマト)|アナライザー]]だが)、その狙い通りヤマトは内部から破壊され、ついには重力発生装置を破壊されてしまい、ろくに防御もできないまま[[戦闘空母]]艦上機の攻撃に晒される。だが、当の戦闘空母自身がバクテリアへの防護処理をしていなかったという大失態により、伝導体を喰い破られて攻撃不能となり、重力装置部分の修理が成ったヤマトの主砲によって中破させられたうえ、自艦にバクテリアが迫ってきたため、撤退を余儀なくされた。 === その他兵器・関連技術 === *[[デスラー砲]] *[[瞬間物質移送器]] - これを利用した[[奇襲]]戦法は「デスラー戦法」と呼ばれる。 *[[デスラー機雷]] *[[ドリルミサイル]] *[[遊星爆弾]] *超磁力バリヤー **『宇宙戦艦ヤマト』第12話に登場。艦艇がこの中に入ると速力が下がり、やがて停止してしまううえ、バリアへの接触に反応して近くの基地からミサイルが発射される。デスラーはアルファ星の方向だけわざとこれを貼らず、アルファ星とガス生命体、ミサイル攻撃でヤマトを包囲しようとするが、沖田の策によって逃げられてしまう。 **『宇宙戦艦ヤマト2199』では、磁力ではなく[[太陽風]]と同質の[[プラズマ]][[フィラメント]]と設定され、接触すると激しい衝撃が走り、電子機器にも異常が生じる。なお、旧作と違い、接触してもミサイルは発射されない。 *変圧装置 **『宇宙戦艦ヤマト』第23話・第24話に登場。ガミラス星内部の大気圧を変化させ、ヤマトに硫酸の雨を降らせた。円盤型の形をしており、空中に浮いていた。 *磁力線封鎖装置 **『宇宙戦艦ヤマト2』第12話に登場。[[宇宙戦艦ヤマトシリーズの天体#テレザート星|テレザート星]]への進路上にあった[[竹輪]]型空洞惑星をヤマトがドックとして使うことを狙い、タランの指揮によって惑星表面に埋め込まれていた。装置が稼動すると艦艇は動けなくなり、通常速力では脱出不可能。デスラー艦から光線が送られて作動するようになっている。実際にヤマトは空洞惑星を宇宙ボタル除去のために使い、磁力線封鎖装置によって行動不能になるが、[[宇宙戦艦ヤマトシリーズの登場人物一覧#新米俵太|新米俵太]]のアイディアによって重力[[錨|アンカー]]を停止させ、波動砲の発射時の反動で脱出した。 == PSゲームシリーズ == {{出典の明記|date=2017年7月5日 (水) 02:21 (UTC)|section=1}} 『遥かなる星イスカンダル』では、原作となる『ヤマト』に準じて、「ガミラス人は地球型大気の中では生きていけない」とスターシアが説明している。その一方、『PS版さらば』のストーリー19「木星圏・[[ガニメデ]]近海」では、こちらも原作となる『さらば』『ヤマト2』に準拠して、古代とデスラーが両者とも生身の状態で相対している<ref>『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち 設定資料集』([[一迅社|スタジオDNA]]、2001年、ISBN 4-921066-84-1)p.035掲載のゲーム画面キャプチャ画像より。</ref>。 こういった曖昧なままだったガミラス人の特性について、『イスカンダルへの追憶』では、新たに設定を追加・変更し、理屈をつけている。 ステージ10「青き地表へ」プロローグムービー中においてタランやデスラーが説明した内容によると、ガミラス人の呼吸大気は硫化水素であり、さらに放射線によって体内[[代謝]]が支えられるため、放射線が偏在する環境なら短時間とはいえ[[真空]]中でも活動できる。一方で、地球のような[[酸素]]大気は彼らにとっては猛毒にあたる。したがって隣星であるイスカンダルにすら、それまでガミラス人は足を踏み入れたことは無かった。ステージ13「最後の戦い」エピローグムービーにおいて、以前ガミラス人の捕虜をヤマト艦内に入れた時は、真田が開発した酸素中和剤を投与したと説明されている。短時間の効果しか無い薬だが、ゴルバとの戦いの後、この製剤法をガミラス側に渡したことにより、一応はガミラス人も地球型大気の中で生きられることになった。 == SPACE BATTLESHIP ヤマト == {{出典の明記|date=2017年7月5日 (水) 02:21 (UTC)|section=1}} 遊星爆弾で地球を攻撃する謎の異星人。『gami-ilas bony-rock-organism』骨形岩鉱石質生命の'''意思の集合体'''である。 人類は'''ガミラス'''と呼称し、自らは'''デスラー'''と名乗った。地球よりも高度な文明を築いていたが、母星が滅びようとしていたために地球を移住先と決め、遊星爆弾による攻撃を行い地表を放射能で汚染、人類を絶滅寸前まで追い込む。この遊星爆弾による攻撃は自らが住みやすい星に環境を改造する意味も含まれている。 自らを「個であり全体」と呼び、意識体と呼ばれる青いガス状ならびに結晶体こそがガミラスの真の姿である。劇中に登場する二足歩行のガミラス兵の体は、地球圏内で発見されていない岩石質と鉱石質が組み合わされたもので構成されており、ガミラス星地下では二足歩行型よりも大型の四足歩行型も登場するが、ガミラス全てがこの形態をしているわけではなく、上記の通り生命体としての本体は体の青く発光している部分(クリスタル状)のみである。意識体は人間に乗り移ることが可能で、行動を操り潜在意識を調べることも可能であり、劇中では[[斉藤始]]が取り憑かれた。 本作品で登場する[[イスカンダル (宇宙戦艦ヤマト)|イスカンダル]]とは同一の意思集合体として描かれ、母星の寿命に際して他の惑星に移住して生き延びようとする意識ガミラスと、星と共に運命を共にしようとする意識イスカンダルとは、ガミラス/デスラーという同じ惑星に住む意識生命体の中での表裏一体・コインの表と裏のような関係である。 劇中では地球に移住するため、人類に対して圧倒的な力の差を見せ付けて絶滅寸前まで追い込んだが、放射能除去装置を受け取るために旅立ったヤマト及びクルーとガミラス星地下都市で激突、技師長[[真田志郎]]と[[空間騎兵隊]]隊長斉藤始の命を賭した戦いにより、自身のエネルギー本体を爆破されて大部分が死滅し地下都市も壊滅。しかし生き残った一部が、デスラー艦を用いて地球帰還を目前にしたヤマトを急襲し大破させる。 その後ヤマト第一艦橋に'''クリスタルブルーの人間体'''として現われ、地球侵略を諦めたことを伝えるが、「地球はお前達にも渡さない」「我々は屈辱を忘れぬ種族だ」と言い残し消滅。デスラー艦からガミラスミサイルを発射し地球を滅ぼそうとするが、古代進とヤマトの特攻で防がれる。しかし、完全に全滅したかどうかは不明である。 ;ガミラス人(ガミラスロイド(本編字幕) / ガミラスボーグ(ノベライズ版)) :;二足歩行型 ::ガミラスの最も基本的な形態。岩石質・鉱石質のボディを持っているが、生命体としての本体は頭部や腹部にある青く発光している部分である。人間よりも二回りほど小さいが、素早く壁を自由自在に這いずり回り、槍のように尖った両手は凶器としても使用できる他、そこから青い光弾を発射する。 ::ガミラス星地下で無数に出現した他、下記の戦闘機にも1匹乗り込んでいる(正確には先端部に埋め込まれている)。 :;四足歩行型 ::ガミラス星地下都市で登場。馬のような四足歩行の形態をしており、背中には羽状の突起物が見受けられる。数自体は上記の二足歩行型に比べればかなり少ない。 ::大きさは軽自動車ほどの大きさで、口からは上陸用車両を簡単に転覆させる威力を持つ青い光線を発射する。 :;意識体 ::青いガス状から透明の[[クリスタル]]状に変化する物体。自ら「我々は個人であり全体」という意思の集合体であり、これがガミラスの生命体としての本体である。人間に憑依することが可能で、意識や行動を操ることが出来る。 ::自在に姿を変化させることが出来、物語終盤にイスカンダルから地球へ帰還途中であったヤマトを襲撃、第一艦橋に出現した際はクリスタルブルーの人間体(シルエットは原作のデスラー総統そのもの)で現れた。これには古代らヤマトクルーとコミュニケーションを取る意味合いがある。 ;登場兵器 :全てが能力や性能から地球防衛軍が便宜上呼称している名称であり、ガミラス自身がこれらをどういった名称で呼称しているかは不明である。 :またガミラス兵同様、船体や兵器を構成している物質は金属などを含んだ鉱石のような材質で構成され、黒褐色の船体に所々青い発光部分が見られる。 :高い学習能力を有し、敵の武器や兵器に学習・対応する能力を持つ。 :;遊星爆弾 ::ガミラスが地球攻撃及び、惑星改造に用いた[[隕石]]に似た爆弾。都市を破壊し、海を一滴残らず干上がらせ、地上を放射能で汚染した。これにより人類を始めとする地表の生物は大半が死滅、地球は赤茶けた[[クレーター]]だらけの星へと変わってしまった。 ::2199年時点ではガミラス戦艦同様に強固になっているが、戦争が始まったばかりの頃は小型戦闘機の攻撃で破壊したり、進路を変えて地球への直撃を防いだりすることが可能だった。 :;ガミラス戦艦 ::全長(推定)430m / 全高(推定)140m / 全幅(推定)280m ::ビーム状のエネルギー攻撃を行い、艦隊的連携を行う。地球侵攻直後は遊星爆弾と同じく破壊する事が可能であったとみられるが、冒頭の火星域での戦闘では[[ショックカノン]]攻撃に耐えうるほど強固となっている。 ::形状・能力ともに、原作でのガミラス艦とは大きく異なっている。 :;ガミラス空母 ::全長(推定)700m / 全高(推定)250m / 全幅(推定)910m ::空母といっても、翼を広げたコウモリまたは昆虫のような外観を有し、後部からガミラス戦闘機を送り出す。両側の翼状のものがワープエンジンではないかと推測されており、常に上記のガミラス戦艦を従えて本艦を中心に現実世界での[[空母機動部隊]]のような艦隊行動をとる。 ::ヤマトの主砲攻撃で撃沈された際は、艦が光に包まれてバラバラになりながら吸い込まれるかのごとくに小さな光の球になったかと思うと、直後に随伴の戦艦3隻を巻き込んで大爆発する。 :;ガミラス戦闘機 ::全長7.02m / 全高4.03m / 全幅10.36m / 重量3196kg ::昆虫ないし生物的な外観を有しており、戦闘機/攻撃機的な行動をとり、追尾ミサイルやエネルギー弾攻撃を行う。上記のガミラス兵が先端部に埋め込まれる形で操縦している。 ::劇中ではヤマトによって上記の空母が破壊されて帰る所を無くした機体群がヤマトに自爆特攻を行った他、ワープに巻き込まれエンジンが停止した一機がヤマトに拿捕されるも、その際に自らの位置を示す信号を発信している。 :;デスラー艦 ::全長(推定) 2km / 全高(推定)2.8km / 全幅(推定)3.5km ::原作と同じく元々はガミラス星地下都市を構成している一部であるが、その他は原作のデスラー艦とは大きく異なり、悪魔が翼を広げたような巨大な外観をしている他、原作のような脱出艦や御座艦・総旗艦というよりもガミラスの最終兵器、あるいは報復のための置き土産という意味合いが強い。劇中ではクライマックスに登場。地球帰還目前のヤマトを襲撃し大破させ、ほとんどの戦闘能力を奪った。 ::下部にガミラスミサイル(後述)を搭載している。 :;大型砲艦 ::劇中では名称のみで姿は確認できず、波動砲により随伴艦と共に破壊される。能力や大きさなどは不明だが、波動砲のターゲットスコープに映し出されたシルエットには上記の戦艦下部と空母上部を組み合わせたようなものが確認出来る。 :;ステルス機 ::詳しい設定は不明だが円盤状の外観をしており、名前の通りヤマトのレーダーに映らないまま接近し、アーム状の物で下部の第三艦橋に固定し自爆する。しかし第三艦橋ごと切り離されたために大きなダメージは与えられず。 ::外観や役割などでは原作の[[ドメラーズ2世]]に比較的近い。 :;惑星間ミサイル ::ヤマトの発進を探知し、突如として出現した巨大ミサイル。植物の球根かニンニクに似た有機的な形状で、発射の際に先端部の翼状のものが十字に開く。ヤマト初機動時には波動砲で破壊されるも、その爆発・爆煙が破壊力の大きさを物語る。ガミラス星では多数のミサイルが空中に浮遊し、機雷のような役割を果たしている。 ::下記のガミラスミサイルを含め、今作品でガミラスが使用するミサイルと称される兵器は全て同一形状であり、上記の戦闘機が発射するミサイル、ヤマトがイスカンダル星域に到達した際に発射された物は、サイズは違えどすべて同形である。後者では第一・第二主砲の攻撃で破壊され爆発も然程では無かったが、そこから原作での[[ドリルミサイル]]に近い役割を持つ弾頭がヤマトの波動砲の砲口を塞いだ。 :;対空砲 ::ガミラス星地下都市への入り口にあたる巨大な穴の周りに配備されている。上陸作戦の際、古代の乗るコスモゼロがこれら対空装備を無力化するためターゲティングを行い、その古代機に攻撃を始める直前、ヤマトにより全て破壊された。 :;ガミラスミサイル ::上記のデスラー艦下部に搭載されている巨大ミサイルで、発射直後にデスラー艦は四散する。惑星間ミサイルと同一の形状であるが、圧倒的な大きさはもちろん、強力な核反応とエネルギー量を持ち、地球を破壊するほどの破壊力を有していると思われる。 ::最後はヤマトの特攻により破壊されるが、その際レーザーを発射しヤマトを迎撃している。 ;ガミラス星(ガミラス・イスカンダル星) :地球から14万8千光年離れた[[大マゼラン雲]]にある惑星。惑星としての寿命が近づいており、半分はガミラス攻撃前の地球のような青く美しい惑星だが、もう半分は現在の地球のような赤茶けた惑星である。 :厳密に言えばイスカンダルもガミラス / デスラーという種族の一部であり、惑星全てがガミラス星なのだが、パンフレットなどでは半分の美しい惑星がイスカンダル星、もう半分の赤茶けた惑星がガミラス星とされている。 == リメイクアニメシリーズ == {{Anchors|宇宙戦艦ヤマト2199}}第1作(以下、旧作)のリメイクである『[[宇宙戦艦ヤマト2199]]』を初作とする本シリーズでは、設定が再構築されている。 === 国名・国歌(リメイクアニメ) === 本作では「'''大ガミラス帝星'''」に変更されている。ただし、「ガミラス帝国建国千年祭」などの名称から、「'''ガミラス帝国'''」の名称も併せて使用されていることが確認できる。また、旧作と同じく数字の「4」を反転させたようなシンボルマークを掲げている。 本シリーズのガミラスは『永遠に讃えよ我が光』という[[国歌]]が設定されている。劇中では反乱を起こした惑星への攻撃を行う際に、ギムレーが「殲滅のメロディー」と称して流したこともある一方で、兵の士気向上のためにも歌われているほか、二等ガミラス臣民がガミラスへの忠誠を端的に示す際にも歌うこともある。 === ガミラス星(リメイクアニメ) === [[大マゼラン銀河]]サレザー恒星系第4惑星で、イスカンダルとは双子星。正式名称は国名と同じ「大ガミラス帝星」である。旧作同様二重構造の惑星であり、外殻には所々穴が開いている{{refnest|group=注|この穴は外殻の一部を他星系に移植して出来た物であり、移植した外殻の内の一つが木星の浮遊大陸である<ref>『「宇宙戦艦ヤマト2199 第二章 太陽圏の死闘」劇場パンフレット』p.16</ref>}}。外殻の穴から望むことができる空は、旧作では総じて暗いもの<ref group=注>穴から光が差し込む画もわずかながら存在するが、空は暗いままである。</ref>だったが、本作ではやや緑がかった明るい青空を望ませている。内殻では地球と大差ない生活様式が営まれており、純粋なガミラス人のほか、併合した惑星から取り立てた「二等ガミラス臣民」<ref group=注>より上位の「名誉ガミラス臣民」も存在し、戦死したヴァルケ・シュルツの妻子はアベルト・デスラーの計らいでこれに昇格している。</ref><ref group=注>別の民族であることを明確化するという制作上の理由からも、肌や血液の色はガミラス人とは異なっている。</ref>が存在し、ヴァルケ・シュルツやゲルフ・ガンツ等のザルツ人の他にも、ミーゼラ・セレステラのようなジレル人をはじめ、赤や緑などの肌の色など様々な特徴をもつ多くの臣民が登場している。 内殻の地表には都市があり、帝都の名は「バレラス{{refnest|group=注|旧作本編中では出てこず、ひおあきらの漫画版に出てきた<ref>ひおあきら『宇宙戦艦ヤマト(2)』([[メディアファクトリー]]〈[[MFコミックス]]〉、2009年、ISBN 978-4-8401-2949-7)p.262</ref>名称である。}}」である。都市の建造物は旧作同様、ツクシやキノコに近い形をしている。都市の中心には全高2400メートル<ref>『宇宙戦艦ヤマト2199 COMPLETE WORKS-全記録集-Vol.2』p.349</ref>の巨大な総統府がそびえ立っている。なお、旧作と異なりチューブトンネルはない。また、ガミラス星とイスカンダル星の間の[[ラグランジュ点|ラグランジュポイントL1]]の空間には、イスカンダルへの遷都を目的として建造された空間機動要塞都市「第二バレラス」が存在する<ref>『宇宙戦艦ヤマト2199 公式設定資料集 [GARMILLAS]』p.215,p.217</ref>。 総統府近傍の湖には宇宙軍港が設置されており、高さのある台形状の大規模な構造物となっている<ref name=2199資料集G.213-214>『宇宙戦艦ヤマト2199 公式設定資料集 [GARMILLAS]』pp.213-214</ref><ref>『宇宙戦艦ヤマト2199 COMPLETE WORKS-全記録集-Vol.2』p.324</ref>。上面は航宙艦船の発着スペースで、乾ドック状の発着スポットが配置されている<ref name=2199資料集G.213-214/><ref>『宇宙戦艦ヤマト2199 COMPLETE WORKS-全記録集-Vol.2』p.324, p.342。</ref>。構造物内は整備ドックであり、発着スポットから艦船をリフトで降ろして整備を行う<ref>『宇宙戦艦ヤマト2199 COMPLETE WORKS-全記録集-Vol.2』p.330, p.342</ref><ref>[[福井晴敏]](ストーリー)、[[皆川ゆか]]『小説 宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち I《地球復興》』(KADOKAWA、2017年10月13日、初版、ISBN 978-4041062081)pp.258-259, 265</ref>。 『2199』では星の寿命についての言及はなかったが、『2202』において、旧作のような惑星環境の変動等の兆候こそ未だ表に出ていないが、「'''星の寿命が残り数十年程度しかない'''」<ref group="注">アベルト・デスラーが幼少の頃に星の寿命が残り100年程と判明し、内核が融解を始めていることが確認されていた。</ref>という事実がデスラー一族と僅かな側近の間で極秘裏に知られていたことが明かされ、『2205』において、古代イスカンダル人がコスモリバースの応用による惑星改造をイスカンダルの双子星に施しガルマン人(後のガミラス人)に適した生存環境を持つ「ガミラス星」へと強制的に作り変えたことが「'''星の寿命を縮めた原因'''」{{refnest|group=注|古代イスカンダル人が行った「'''惑星全体規模のエレメントを使用する'''」場合と異なり、知的生命体(ガルマン人)の持つ星のエレメントを使ったことで効果が限定的なものとなったため。ヤマトのコスモリバースシステムで再生した地球がガミラス侵攻前の環境の完全な再現にはならなかったのと同様の理由だが、地球の場合と違い、環境の再構築を異なる惑星に対して行ったことで非常に不安定な状態なり、コアの異常活性化と融解を招いてしまった<ref name=2205パンフ後.11>『「宇宙戦艦ヤマト2205 後章 -STASHA-」劇場パンフレット』p.11</ref>。}}だったと判明している。 『2205』前編では、ガルマン星へのガミラス臣民移住が開始されて間もなく、多数のデザリアム・ハンマーが飛来して地殻の破壊を開始。デスラー艦隊が救出活動を続ける中で地殻崩壊を引き起こし、ガミラス星は爆散・消滅してしまった。 === ガミラス人(リメイクアニメ) === 本シリーズでは各人物に[[人名|ファーストネーム]]が設定されている。 肌の色は旧作と同じ青だが、地球人と同様に個人によって若干色合いは異なる。血液の色は紫色<ref group=注>『2199』第10話で射殺された、親衛隊情報将校パレン・ネルゲの流血シーンや、第15話で射殺された惑星オルタリア総督の血などより。</ref>。本シリーズにおけるガミラス人は地球人と同一環境下で生活でき<ref group=注>飲食物も地球人と同じものを摂取できる。味覚も大きな違いは無く、『2199』第22話でメルダ・ディッツが初めて食べた[[パフェ]]の味に感動したり、小説版『星巡る方舟』ではフォムト・バーガーがヤマトの糧食を「ガミラスのより美味い」と評したりしている。</ref>、『2199』第11話でガミラス人の[[デオキシリボ核酸|DNA]]配列が地球人類と同じであることが判明している<ref group=注>青い肌に関しては、現実でも[[ファゲイト一族]]の例がある。この例では遺伝的に「シトクロム-b5 メトヘモグロビン還元酵素」と呼ばれる[[酵素]]が欠けていることが原因で「メトヘモグロビン血症」という常染色体劣性疾患を引き起こすことで青い肌になっている。</ref>ほか、古代にはメンタリティーも地球人と同じと分析されている。『2202』において、「'''主星サレザーに起因するガミラス星の特殊な環境下以外では、ガミラス人は長く生きられない'''」ということが明かされ、ガミラス星の環境下での生活に特化され過ぎたガミラス人の肉体は他の惑星の[[風土病]]などに対する抵抗力が極めて弱く、数年程度ならともかく10年以上長期滞在するとそれらの病気に罹患して死亡するリスクが跳ね上がるとされている<ref>「設定メモ(2) 『ヤマト2202』における「二人のデスラー」」『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち -全記録集- シナリオ編 COMPLETE WORKS』KADOKAWA、2019年6月、p.295。ISBN 978-4-04-108341-3</ref>。 ガミラス人は自分たちの青い肌を当然視しており、肌が青くない非ガミラス人や地球人を「劣等人種」と見下して「差別」したり<ref group=注>その一方で、エルク・ドメルやレドフ・ヒス、ヴォルフ・フラーケンとUX-01のクルー達等の様に、差別感情を持たず、ザルツ人や地球人にも分け隔てなく接するガミラス人も多く存在している。</ref>、青を「'''高貴なる蒼'''」と称し他の色より重視して上に扱ったりする<ref group=注>『2199』第10話におけるメルダ・ディッツの発言より。ただし、青以外の色が決して軽んじられているわけでもなく、メルダは赤をパーソナルカラーにしている。</ref>傾向がある。 ガミラス人はイスカンダルを崇拝の対象としており、イスカンダル人を「高貴なるイスカンダル」と称し、ガミラス人以外では唯一例外的に最大級の敬意を払う存在としている。ガミラスの[[創世神話]]では、かつて星の海に漕ぎ出すも長き旅路の果てに多くの同胞を失い彷徨っていた王様が「女神」に導かれ、住む星と「ガミラス」という名を与えられたと伝えられている。 『2205』にて「ガミラス」とは古代イスカンダル語で「'''ガルマンの人猿'''」を意味し、かつてイスカンダル人が自分達に代わって「イスカンダルの救済」<ref group=注>“実体”としての知的生命体及び星を消滅させて「星のエレメント」を収集し、イスカンダル星の聖所サンクテルに保管すること。</ref>を実行させる「'''奴隷'''」としてガルマン星から強制的にサレザー恒星系へ移住させたガルマン人こそがガミラス人の始祖である{{refnest|group=注|[[豊田巧]]の小説版『2199』では、イスカンダル人を祖として誕生した民族であると語られている<ref>豊田巧『宇宙戦艦ヤマト2199 下』([[マッグガーデン]]、2014年、ISBN 978-4-8000-0246-4)p.274</ref>。}}{{refnest|group=注|ガルマン星の環境が「奇跡的な程に」ガミラス人の生存に一致していたのは、ガミラス人にとって「'''紛れもない故郷'''」だったからであり、また、イスカンダルがガルマン人とガルマン星そのものに「救済の儀式」を執り行わなかったのは、「ガルマン星を銀河系救済の拠点とする」ために敢えて残していたと推察されている<ref name=2205パンフ後.11>『「宇宙戦艦ヤマト2205 後章 -STASHA-」劇場パンフレット』p.11</ref>。}}という真実が明かされ、ガミラス人の「純血を尊ぶ」「イスカンダルを崇める」という民族性は、「もともと限られた環境下でしか生存できないガルマン人が混血により生存可能域を拡大し、イスカンダルに代わる支配民族となる事を防ぐ」「イスカンダルへの無条件の服従を促し、支配下に置く」為の[[マインドコントロール]]や本能レベルでの[[刷り込み]]であったことが推察されている。 === 言語 === 『2199』では言語学者の監修<ref>『YRAラジオヤマト』第2回(2012年[[4月9日]]配信)で[[チョー (俳優)|チョー]]が明言。</ref><ref name="公式設定資料集G-P261">『宇宙戦艦ヤマト2199 公式設定資料集 [GARMILLAS]』p.261</ref>によるガミラス語も設定されている。シーンによって[[吹き替え]]のように日本語を喋る場合(主要なセリフや、翻訳機を使用して地球人と会話する時など)と、ガミラス語に[[字幕]]がつけられる場合(背景のセリフや、翻訳機無しで地球人と会話する時など)が併用される。一部の単語は吹き替えの時でもそのままとなっている。 また、ガミラス語の文字も同様に設定されており、第五章からは一部の文字にも字幕が入る。文字は独自の形をしているが、それぞれアルファベットとアラビア数字に対応している<ref name="公式設定資料集G-P261"/>。太陽および太陽系の一部惑星にもガミラス呼称が存在し、地球側の呼称を分析し、ガミラス人なりに命名したと設定されている<ref>『[[ハイパーホビー]]』2012年9月号p.103より。</ref> 。 言語能力や翻訳機の性能においても地球側を凌駕しており、個人で装着できるほど小型の翻訳機を用いて他言語を流暢に話すことができるが、『2199』時点の地球人はアナライザーによる通訳がなければ会話できない<ref group=注>そのアナライザーに関してもメルダからは「わかりにくい」と一蹴されている。</ref>。 『星巡る方舟』において、ヤマトに提供されたガミラス製の翻訳機からの異星言語解析シーンの映像によると、ガミラス語は「ガミラス[[語族]]」に連なる複数の言語が存在し、「標準ガミラス語」「標準(大衆)ガミラス語」「西半球高地ポルメリア語」「西半球高地ゲルバデン地方語」などが存在するとされている。加えてイスカンダル語には「神聖ガミラス語」なる別名が存在する。 なお、『2202』では、セリフの印象が変わってしまうという演出面の都合から、異星言語の使用を基本的に意識しない方針となっている<ref>[[サンケイスポーツ]]特別版2017年3月24日号『宇宙戦艦ヤマト2202新聞』(産業経済新聞社、2017年2月24日発行)25面</ref><ref group=注>第五章時点で使用されているのは、「ガーレ」と「ゾル星系」(こちらはガトランティスが使用)のみ。</ref>。 {| class="wikitable" |+主な単語<ref>『「宇宙戦艦ヤマト2199 第二章 太陽圏の死闘」劇場パンフレット』p.18および『宇宙戦艦ヤマト2199 公式設定資料集 [GARMILLAS]』pp.260-261を参照。</ref> !ガミラス (Garmillas) 民族(帝国臣民の意味もある) |ガミロン (garmillon) |- !総統 |フュゼロン (phuzeron) |- !万歳!(讃える・賞賛する) |ガーレ! (ghale) |- !了解しました(上官からの命令に対して) |ザー・ベルク (zah belk){{refnest|group=注|英語の「イエス・サー」に当てはめると、「ザー」は「イエス」、「ベルク」は「サー」に相当する<ref>『宇宙戦艦ヤマト2199 公式設定資料集 [GARMILLAS]』p.261</ref>。}} |- !ビーム / ビーム砲 |ヴェザー / ヴェザーバム |- !0・1・2・3・4・5・6・7・8・9・10 |ゼオ・アル・ベオ・ネル・ジー・ガル・ギグ・ゼク・パク・ピア・ケス |- !イスカンダル |イスカンダ (Iskander) |- !ヤマト |ヤマッテ |- !太陽(ソル) |ゾル |- !地球(テラ) / 地球人 |テローア / テロン<ref group=注>「テローア」は設定のみで、『2199』劇中では地球自体も「テロン」と呼称している。なお「テローア」は、劇中では『2199』第24話でイスカンダル語での使用シーンがある。</ref> |- ![[ワープ]] |ゲシュタムジャンプ |} === 組織・政治体制(リメイクアニメ) === 『2199』における組織構造は、おおよそは第二次世界大戦時の軍事国家体制をモチーフにしている<ref>『宇宙戦艦ヤマト2199ぴあ』p. 25</ref>。旧作同様、アベルト・デスラーを総統として仰ぐ独裁政治体制である。 独裁体制はデスラーの圧倒的[[カリスマ]]によって成り立っている部分も多く、国民や一般軍人の多くは旧作同様に総統を慕い帝国に絶対の忠誠を誓っている。上層部は旧作と違い政治的思惑がかなり交錯しており、一枚岩とは言いがたい状態となっている。特に、大ガミラス帝星への改称以降、貴族制度の撤廃と上述の被征服民族の同化政策が行われたが、それを快く思わない貴族出身者や純血主義者もおり、実際に劇中では貴族の家柄でなおかつ純血主義者のゼーリックが[[クーデター]]を画策している<ref name="全記録集Vol.2P143">『宇宙戦艦ヤマト2199 COMPLETE WORKS-全記録集-Vol.2』p.143</ref>。また、親衛隊などによる苛烈な弾圧により、一等、二等問わず現体制に不満を抱く国民もいる。さらに、過剰な版図拡大政策による人員不足で、ガミロイド兵なしでは領土を維持できなくなっており、国家としての基盤は弱くなっている。 旧作とは異なり文官がはっきりと存在しており、制服は対点線を共通として、旧作での緑基調のほか、青基調・茶色基調・黄色基調・クリーム色基調などがある。また、制服は階級によっても若干形状が異なっている。 旧作同様、右腕を真横に伸ばして肘を真上に曲げ、掌を正面に向けた状態で開く、ガミラス式の敬礼が存在する。この敬礼は軍人以外も行う模様で、『2199』第8話では文官のヒスがデスラーに対して行っている。 軍事面以外は副総統であるヒスが統括しており、下位にヴェルテ・タランの軍需省や国防総省、セレステラの宣伝情報省などがある<ref name="全記録集Vol.2P142">『宇宙戦艦ヤマト2199 COMPLETE WORKS-全記録集-Vol.2』p.142</ref>。各植民惑星も支配統治省の管轄<ref name="全記録集Vol.2P142"/>だが、暴動の鎮圧などには親衛隊が出動している。 国軍として、「帝星国防軍」が存在している<ref name="全記録集Vol.2P143"/>。規模は非常に大きく、艦艇はバラン星の観艦式に参加したものだけで1万隻を超える。旧作同様地球以外の勢力とも交戦しており、外宇宙から侵攻してきた勢力に対する防衛行動なども取っている。旧作では将官は「将軍」として一括りにされ、将校や司令官と兵卒の違いは外見や役職によって区別できたが、本作では階級が細分化されている。 総統直属の準軍事組織として「デスラー親衛隊」が存在している。大ガミラス帝星建国の際に創設され、ギムレーが長官に就任してからは、独自の艦隊戦力である「航宙親衛艦隊」を組織し、軍事面でも急成長を遂げている<ref name=2199パンフ5.16>『「宇宙戦艦ヤマト2199 第五章 望郷の銀河間空間」劇場パンフレット』p.16</ref>。傘下の秘密警察を使って、反体制派と見なした者への苛烈な弾圧も辞さず、他の軍人や国民からは忌み嫌われている。親衛隊員は灰色基調の軍服を着用しており、一般隊員は旧作の幕僚をベースにした服装をしている。隊員はごく一部を除いて思想・能力ともに優れた人物を幹部・一般兵などのランクごとのモデルに分けたクローン兵である<ref>『宇宙戦艦ヤマト2199 公式設定資料集 [GARMILLAS]』p.181</ref>。また、宣伝情報省と連動して「デスラー少年団」や「ガミラス少女同盟」といった団体も創設しており、帝星臣民の子供達へのガミラス主義の浸透と、将来の青年隊員の育成を行っている<ref name=2199パンフ5.16 />。 === 技術・メカ(リメイクアニメ) === {{main2|個別の登場メカ|宇宙戦艦ヤマト2199#ガミラス軍}} メカニカルデザインは主に[[石津泰志]]と[[出渕裕]]が担当<ref name="ホビージャパン">{{Cite journal|和書 |editor=村瀬直志 |dete = 2012-03-24 |title = 『宇宙戦艦ヤマト2199』出渕裕・西井正典インタビュー |journal = [[月刊ホビージャパン]] |issue = 2012年5月号 |page = 168-169 |publisher = [[ホビージャパン]]}}</ref>。 所有するメカの大半には、旧作よりも細かいディテールアップがされている一方でデザイン自体に大きな変更はないが、艦艇などはサイズが大幅に拡張されているものが多く、「デストリア級航宙重巡洋艦」などの艦級・艦種名が設定(本編で登場したネームシップはゼルグート級の1番艦「ゼルグートII世」のみ)されている。艦級・艦種名については、出渕による意向でガミラス側に「〜級」と「航宙〜」という接頭辞 / 接尾辞を付け、地球側には「〜型」と「宇宙〜」と付けることにより、両者を区別している<ref name="ホビージャパン" />。 ダークグリーンがガミラスの国防色と設定されており<ref>『宇宙戦艦ヤマト2199 公式設定資料集 [GARMILLAS]』p.101</ref>、艦体色は旧作同様に基本的には濃い緑色で統一されているが、所属する基地・軍団によっては同じ等級艦でも配色が異なるものも存在している。また、ほぼすべての艦体に駆逐型デストロイヤー艦の最大の特徴であった目玉状の発光部が、意匠のように追加されている。この部分は巡航時は薄緑色で、戦闘時のみ黄色から赤へ段階を踏みながら発光するが、機関停止時はまったく発光しなくなり、黒ずんだ色になる。これは、どのガミラス艦にも共通する特徴である{{efn2|この機構自体に<!--『2199』の時点では-->設定は特になく、メカにキャラクター性を与えるという演出的意図で作られた<ref>『宇宙戦艦ヤマト2199 公式設定資料集 [GARMILLAS]』p.260</ref>。}}。 主兵装は陽電子砲で、ビームはおおむね赤みがかったピンク色をしている。また、兵器の装甲には防御装備として帯磁性特殊加工(ミゴウェザー・コーティング)が施されており、ヤマト登場以前の地球の宇宙艦艇光線砲程度なら易々と弾く<ref name=2199資料集G.4>『宇宙戦艦ヤマト2199 公式設定資料集 [GARMILLAS]』p.004</ref>。 機関についても、波動エンジンと同じ次元波動理論に基づく「ゲシュ=タム機関」を搭載していると改めて設定されている<ref name=2199資料集G.4 />。また、ガミラス側ではワープを「ゲシュタムジャンプ」と呼称している<ref name=2199資料集G.4 />。ゲシュ=タム機関に異次元空間の航行能力はなく、航行には「ゲシュ=ヴァール機関」という別機関が必要であるため、ゲシュ=ヴァール機関を搭載している次元潜航艦を除くガミラス艦は旧作と異なり、異次元空間での航行能力は持ち合わせていない。 艦艇の艦橋内などには模様の入った黄色いパネルが使用されているが、これはガミラスの勢力圏内で採掘される「ガミラス[[大理石]]」という材料である<ref name="home">{{Cite web|和書|url=https://gigazine.net/amp/20190312-yamato2202-yoshio-tanioka-interview |title=ヤマトらしい美術を「愛」と「根拠ある理由」で支える「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」美術監督・谷岡善王さんインタビューイ|accessdate=2019-3-13 |author= |date=2019-3-12|work= |publisher=[[GIGAZINE]]}}</ref>。 『2202』では、第2話でクラウス・キーマンが地球連邦政府の監視から逃れようとしていた古代に接触する際、手首に装着したリングによって肌の色を地球人(黄色人種)と同じ色に変化させている。 === 劇中での描写(リメイクアニメ) === 劇中以前の歴史設定については、『2202』および『2205』で追加された部分を含めて解説する。 ; 劇中以前の歴史 : ガミラスの有史以前、イスカンダルは遠く銀河系まで勢力圏を広げていた。イスカンダルは、波動エネルギー技術の末に惑星単位で情報化して保存する技術を開発した。その技術を用いて、知的生命体の救済の名の下に、周辺文明を情報化して保存していく過程で知的生命体がいる惑星を破壊して大虐殺を行った。イスカンダル人もまた情報化して保存する道を選んだ。それによって不足する人材を補うためにガルマン星からガルマン人を奴隷として強制連行し、イスカンダルの伴星をコスモリバースシステムの応用でガルマン星そっくりに改造して奴隷達に与え、ガミラスの名を与えた。イスカンダル人が管理人たる王族を除いて情報化を完了する頃には、ガミラス人もまた自らの出自を忘れていき、時の流れはその出自をイスカンダルによって救済され約束の地を与えられたという神話へと変質していった。 : サレザー恒星暦において『2199』時代から1000年前に建国され<ref>『「宇宙戦艦ヤマト2199 第三章 果てしなき航海」劇場パンフレット』p.17</ref>、103年前の時点では'''ガミラス大公国'''という国号の下、複数の王侯貴族により統治されていた<ref name=2199パンフ3.16>『「宇宙戦艦ヤマト2199 第三章 果てしなき航海」劇場パンフレット』p.16</ref>。そして、その年(後にデスラー紀元元年と定められる)から、有力貴族の1つであったデスラー家がガミラス統一に乗り出し、デスラー紀元74年に[[宇宙戦艦ヤマト2199の登場人物#エーリク・ヴァム・デスラー|エーリク・ヴァム・デスラー]]大公の代で火種を抱えつつも一応の統一が成し遂げられる<ref name="2202パンフ5.10">『「宇宙戦艦ヤマト2202 第五章 煉獄篇」劇場パンフレット』p.10</ref>。 : しかし、その4年後にガミラス星の寿命があと100年ほどしか残っていないことが発覚し、エーリクやその甥である[[宇宙戦艦ヤマト2199の登場人物#マティウス・デスラー|マティウス]]、アベルト兄弟、および一部の側近の間でのみその事実が共有され、対応策の検討が進められる<ref name=2202パンフ5.10/>。そして、6年後と10年後にマティウスとエーリクが相次いで死去し<ref name=2202パンフ5.10/>、内乱状態となった国家をアベルト・デスラーが再統一して国号を'''大ガミラス帝星'''と改称し、永世総統の地位に就く<ref name=2199パンフ3.16 />。デスラーは「宇宙恒久の平和を達成させるためにはイスカンダル主義{{refnest|group=注|「全宇宙の知的生命体を救済する」というイスカンダルの理念<ref>『宇宙戦艦ヤマト2199 COMPLETE WORKS-全記録集-Vol.2』p.143。</ref>。}}の拡大と浸透が必要」であり、「他星へ侵攻し武力をもって併合するのが神の意志でありガミラス民族の使命である」と説く'''デスラー・ドクトリン'''を宣言し、周辺惑星国家への侵攻を開始する<ref name=2199パンフ3.16 />。幾多の星間国家を武力によって次々と併合し、他民族で帰順を示した者には同化政策によって「二等ガミラス臣民」の権利を与え、ガミラスに帰順させていった<ref>『「宇宙戦艦ヤマト2199 第二章 太陽圏の死闘」劇場パンフレット』p.18</ref>。その裏には、版図拡大によって移住可能な惑星をできる限り早く発見するという目的があった<ref name=2202パンフ5.10/>。 ; [[宇宙戦艦ヤマト2199]] / [[宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟]] : 第8話劇中において、ガミラス帝国建国千年およびデスラー紀元103年を迎えている。 : 大小マゼラン銀河の統一を成し遂げて天の川銀河へ進出している。西暦2191年には太陽系への進撃を経て地球と[[総力戦|全面戦争]]になるが、技術力と物量の差で戦局は優位に推移し、地球を滅亡まであと1年に追い込む。 : 前述の併合を続ける一方で交戦中の星間国家もあり、小マゼラン銀河外縁部へ侵入を繰り返している[[白色彗星帝国#リメイクアニメ|ガトランティス]]と攻防を繰り広げている(他の星間国家との交戦については不明)。[[#組織・政治体制(リメイクアニメ)|先述]]した通り、貴族社会の復権を目論むゼーリックの一党の暗躍や、親衛隊の過激な弾圧行為、それに反発する穏健派との対立や臣民の反政府活動など、政権としては限界が近づいている。 : 第23話において、デスラーがイスカンダルとの大統合計画を実行に移し、帝都バレラスごと腐敗した現体制を破壊して空間機動要塞都市「[[宇宙戦艦ヤマトシリーズの宇宙要塞#第二バレラス|第二バレラス]]」を新たなる帝都とし、イスカンダルへの遷都をもくろむ。しかし、ヤマトや雪、[[宇宙戦艦ヤマト2199の登場人物#ノラン・オシェット|ノラン・オシェット]]の活動によってバレラス破壊は防がれ、逆に第二バレラスは波動コアの暴走により爆発・崩壊する。大統合は失敗に終わり、デスラーも公的には死亡したと発表され、彼による独裁政権は終焉を迎える。その後、穏健派が政権を握り、ヒスを臨時首班として再出発する<ref>『宇宙戦艦ヤマト2199 COMPLETE WORKS-全記録集-Vol.2』p.143</ref>。 : なお、『2202』では、地球が移住先候補の1つであったことや、第二バレラスの一件はイスカンダルから環境再生システム「コスモリバースシステム」を強奪しようとする軍の強硬派を粛正する目的があったという設定が追加された。 ; [[宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち]] : ヤマトの帰還によって復興を遂げつつある地球と和平条約を締結しており、月面に構えた大使館には地球大使として[[宇宙戦艦ヤマト2199の登場人物#ローレン・バレル|ローレン・バレル]]を駐在させている。また、戦時中にガミラスが開拓して和平後は地球連邦の管理下となった[[宇宙戦艦ヤマトシリーズの天体#第11番惑星|第十一番惑星]]では、地球人とガミラス人の入植者が共に暮らしている<ref>『グレートメカニックG 2017 SUMMER』([[双葉社]]、2017年、ISBN 978-4-575-46503-7)p.009</ref>。 : 政治は民主体制へ移行しつつあるが、デスラー政権の強権を失ったことで植民星の独立運動が活発化しており、ガミラス内部でも旧デスラー政権への復古派や、それ以前の大公国時代への復古を目指す勢力が跋扈するなど、混迷をきわめている<ref name=2202パンフ3.19>『「宇宙戦艦ヤマト2202 第三章 純愛篇」劇場パンフレット』([[バンダイビジュアル]]、2017年10月)p.19</ref>。劇中ではそれらの一党である反乱軍「反ガミラス統治破壊解放軍」が武力闘争を繰り広げている<ref name=2202パンフ3.19/>ほか、外伝小説<ref>「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 外伝I ガミラス万歳(ガーレ・ガミロン)」『月刊ニュータイプ2017年3月号』([[KADOKAWA]]、2017年2月10日)pp. 114-115</ref>および小説版第1巻<ref>[[福井晴敏]](ストーリー)、[[皆川ゆか]]『小説 宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち I《地球復興》』(KADOKAWA、2017年10月13日、初版、ISBN 978-4041062081)pp.194-198</ref>では同軍が地球の「反地ガ安保連合委員会」という反政府組織に支援されていることが描かれている。 : このような状態にあるため、地球政府と裏取引を行い、持て余した植民星をコスモリバースの副作用で地球上に生じた「時間断層」の使用権を得る見返りとして割譲している。 ; [[宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち]] : 民主政府が本格始動しており、レドフ・ヒスが首相に就いている<ref>『「宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち 前章 -TAKE OFF-」劇場パンフレット』([[バンダイナムコアーツ]]、2021年10月)p.10</ref>。『2202』の最終話から少し前の時期にデスラーからの接触を受け、ガミラス星の寿命問題についての情報を共有し、協力関係を築く<ref name=2205パンフ_前_p5>『「宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち 前章 -TAKE OFF-」劇場パンフレット』(バンダイナムコアーツ、2021年10月)p.05</ref>。 : 各方面へ移住可能惑星を探す探査艦隊が派遣され、デスラーもその一翼を担った<ref name=2205パンフ_前_p5/>。そして2205年にデスラー艦隊が[[ガルマン・ガミラス帝国#リメイクアニメ|ガルマン星]]という移住可能惑星を発見し、支配していた[[ボラー連邦#リメイクアニメ|ボラー連邦]]を武力を以て放逐<ref>『「宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち 前章 -TAKE OFF-」劇場パンフレット』(バンダイナムコアーツ、2021年10月)pp.05-06</ref>。移住先を確保したことにより、移民計画が本格始動することになる。しかし、ボラー連邦との軋轢、国民の反発や護衛艦の不足により遅々として進まない移民など、多くの問題要素を抱えている。 : その最中、[[暗黒星団帝国#リメイクアニメ|デザリアム]]と名乗る勢力がガミラス星を破壊し、巻き添えで総人口の7割が失われてしまう。 == その他 == 2001年6月に[[バンプレスト]]から発売された、松本零士の作品群の[[クロスオーバー作品]]である[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用ゲーム『[[松本零士999 〜Story of Galaxy Express 999〜]]』では、第七章「銀河の交差点」や再演「魂の旅人」などに「ネオガミラス」という勢力が登場する。デスラーが率いているわけではなく機械化人で構成されており、『[[銀河鉄道999]]』の主人公・[[星野鉄郎]]の母の敵である機械伯爵と結託している[[宇宙海賊]]というゲームオリジナル設定となった。 2012年から2013年にかけてグライドメディアから出版された[[和智正喜]]の小説『GALAXY EXPRESS 999 ULTIMATE JOURNEY』(上巻:2012年12月26日発売、{{ISBN2|9784813021902}} / 下巻:2013年8月29日発売、{{ISBN2|9784813021919}})も、松本の関わった全作品が同じ世界観として描かれるクロスオーバー作品の体裁を取っており、デスラーによって再興された「ネオ・ガミラス」という勢力が登場する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * 『週刊宇宙戦艦ヤマト OFFICIAL FACTFILE』[[デアゴスティーニ・ジャパン]]、2010 - 2011年 * 『「宇宙戦艦ヤマト2199 第二章 太陽圏の死闘」劇場パンフレット』[[松竹]]、2012年 * 『「宇宙戦艦ヤマト2199 第三章 果てしなき航海」劇場パンフレット』松竹、2012年 * 『「宇宙戦艦ヤマト2199 第五章 望郷の銀河間空間」劇場パンフレット』松竹、2013年 * 『宇宙戦艦ヤマト2199 公式設定資料集 [GARMILLAS]』[[マッグガーデン]]、2013年、ISBN 978-4-8000-0193-1 * 『宇宙戦艦ヤマト2199ぴあ』[[ぴあ]]、2014年。ISBN 978-4-8356-2392-4 * 『宇宙戦艦ヤマト2199 COMPLETE WORKS-全記録集-Vol.2』マッグガーデン、2014年。ISBN 978-4800004680 {{宇宙戦艦ヤマト}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |header=この記事は以下のカテゴリからも参照できます |redirect1=ネオガミラス |1-1=銀河鉄道999|1-2=宇宙海賊 }} {{DEFAULTSORT:かみらすていこく}} [[Category:宇宙戦艦ヤマトシリーズの登場勢力]] [[Category:架空の帝国]] [[en:Space_Battleship_Yamato_planets]]
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フェンダー・テレキャスター
テレキャスター(Telecaster)は、フェンダーの創業者、レオ・フェンダーが開発したエレクトリック・ギター。 1949年頃、「エスクワイヤー」の名前で発売されたテレキャスター・シリーズは、ソリッド・ボディやボルトオン・ネックなどの斬新な構造を持ち、従来の伝統的なギターの概念からは大きく離れたものであったが、市場からは好評を博した。テレキャスターの成功により、保守的な製品ラインナップを敷いていたギブソンもレス・ポール・モデルを発表し、以降、大手メーカー各社がソリッド・ボディー市場へ参入した。その後もフェンダーの主力機種、ひいてはエレクトリックギターの定番として、ストラトキャスターと共に現在まで生産が継続されている。 テレキャスターはボディが削り出しの板で空洞部分がなく、ネックも一本の木材から削り出し、さらにネックとボディを別々の工程で製作し、最終的に両者を4本の木ネジで繋ぐという、「デタッチャブル方式(ボルトオン方式とも呼ばれる)」と呼ばれる構造、製法である。発売当初のボディはアッシュ材などを継いで整形した一枚板(ソリッド・ボディ)で、ギブソンのギターのようにボディ表面をなめらかな曲面仕上げにする手間を省いた、真っ平な形状が特徴であった。ネックはメイプル材を削り出し、ヘッドに角度を付けず(ナットにかかるテンションを稼ぐためにストリング・リテイナーを留めてある)、指板材は貼り合わせずにフレットを直接打ちこんだもの(ワンピース・ネック)であった。それまで主流だったフルアコースティックタイプのギターでは、ボディが空洞で、しかもネックとボディをニカワなどで接着していたため、非常に正確で緻密な作業が必要とされたが、フェンダーは工程を単純化する大胆な手法を採用した。 さらにボリューム、トーン・コントロールなどのスイッチ類を、ボディ裏から木をくり抜いてセットするのではなく、一連のユニットとしてひとつの金属プレートにまとめてボディ表面にネジ止めされている。さらにリア・ピックアップには金属プレートが設置されており、配線(弦アース)もこのプレートとブリッジプレートの導通を生かしてピックアップ・プレート→ネジ→ブリッジ・プレート→サドル→弦と導通されている。このため弦アースの配線穴を通す必要がない。 ピックアップはボディ表面から取り付けられ、ブリッジユニットはリアピックアップのマウント台を兼ねており、テールピースは省略され、弦はボディ裏から通されるなど、信頼性と音質とコストダウンを両立させ、流れ作業的な大量生産を可能にする構造になっていた。 ピックアップは、フロントとリアにそれぞれ異なるものが搭載されている。フロントピックアップは細いボビンに金属のカバーをかぶせたものであり、リアはカバーのない幅広のボビンで、ブリッジ・ユニットから直接吊るされる。リアピックアップには、フェンダーがそれまで作っていたスティール・ギターの影響が残っているとも言われる。 フロントピックアップは、当時発売されていなかったエレクトリックベース代わりとしても使用できるように開発したとの説や、ジャズミュージシャンに人気のあったギブソンのような音を狙ったという説もある。だが、このフロント・ピックアップを若干パワー不足と感じる者もおり、キース・リチャーズやロビー・ロバートソン、アンディ・サマーズ、アルバート・コリンズ、マイク・スターンなど、フロントをギブソン型のハムバッキング・ピックアップに交換してしまうギタリストも多い。 フェンダーオリジナルのハムバッカーを搭載したカスタム、シンラインやデラックスといった派生機種も、ギブソンのそれとは異なる独特な音色が支持されている。 ヘッドは6個の糸巻きを直列に並べたデザイン、ボディはマーティンのドレッドノートモデルに影響を受けたシェイプに、高音域の演奏性を考えてカッタウェイを設けたスタイルである。樹脂製の大型のピックガードが装着され、色は木目の透けたクリーム色(ブロンド)がメインカラーで、追ってサンバースト、ブラック、レッドなど各色のバリエーションが増えていった。 1970年代になるとNCルーターが導入されたが、左肩のネックポケット部分が正しく切り出されなくなってしまった(それまでのテレキャスターは左肩のネックポケットはLのように切り出されていたが、70年代に入ると若干曲線があがり、Lではなくなってしまった)。1981年に入ると、この間違いに気付き、NCルーターの見直しが図られ、ボディ・シェイプは元に戻された。 フェンダーのギターの特徴はシングルコイルを活かした、澄んだ高音域である。ギブソンのハムバッカーに比べるとノイズを拾いやすいという欠点はあるが、硬質ではっきりとした音を出すことが容易である。 ピックアップはフロントとリアでそれぞれ巻き方が異なっており、ピックアップセレクターでセンター(フロント+リア)を選んだ場合、ハムバッカーの原理のようにノイズを消す事ができる。この状態を「ハムキャンセル」と言う。 トレモロユニットを装着した後年のフェンダー(ストラトキャスター、ジャズマスターなど)のギターに較べ、テレキャスターはよりタイトで独特のアタック音を持つ。また、リアピックアップの周囲にある金属プレートもテレキャスターならではの音の要因と考えられている。 当初はエスクワイヤー(Esquire)の名称で1949年に発表、ブロードキャスター(Broadcaster)という名前で1950年に発売された。。だがグレッチが既に類似の名称(Broadkaster、読みは同じ)をスネアドラムで商標登録していたため、名前が似ていて紛らわしいと苦情が来て使えなくなってしまった。これにより名称変更を余儀なくされたフェンダーだがすぐに決定とは行かず、とりあえず製造済みのデカールからBroadcasterの名前を撤去した古いデカールを使用して販売、この時期の物はノーキャスター(Nocaster)と呼ばれる。そして発売から2年後の1951年に「テレキャスター」が新しい名前として採用された。「ブロードキャスター」、「テレキャスター」は、どちらも当時開始されたばかりだった新技術、テレビジョン放送(ブロードとテレビジョンのテレ)にあやかったネーミングである。 50年代中期にはテレキャスターの欠点を改良した新型のギター、ストラトキャスターが発表されたが、その後も根強い支持を受け、カタログ落ちすることなく、現在に至るまで製造が続けられている。50年代後半にはローズウッド指板のモデルも追加された。 1968年と69年にはサイケ・ブームもあってピンク・ペイズリーとブルー・フラワーの柄を貼り付けたモデルを発売した。壁紙を貼り付けて、シースルー塗装し、クリアを吹くという方法で製造された。1968年にはボディに中空部分を設けてfタイプのサウンドホールを開けたテレキャスター・シンラインモデルを追加。 1969年にはギターの指板に使われるローズウッドでボディとネックを制作したオール・ローズ・テレキャスターが発売される。ネックはローズウッド1ピースで、ローズ・ボディは軽量化のために中をくりぬいたホロウ加工されている。互いにホロウ加工したローズのボディ同士を薄いメイプルを挟んで接着した3層構造である。メイプルを挟んでいるのはローズウッド同士を接着することが困難だったためである。 1970年代に追加された他のバリエーションとしてテレキャスター・カスタムやデラックス、1983年に発売されたエリートなど派生機種が多数存在する。なお、1959年から68年まで発売されたモデルと72年に発売されたものと2種類ある「カスタム」については後者を「72年カスタム」と呼ぶことなどで区別するのが一般的である(下表を参照)。 フェンダー社はヴィンテージ・シリーズやカスタムショップのタイムマシン・シリーズなどで過去のモデルの再生産を行う一方、アメリカン・テレキャスターなどでは6分割のサドルや新開発のピックアップを搭載するなど、使い勝手と汎用性を備えたラインナップを展開している。 また、フェンダー社以外にも多くのメーカーがテレキャスターを模した、もしくは影響を強く受けたモデルを開発・製造している。 カントリー・シンガーソングライターのマール・トラヴィス(Merle Travis)が1947年にポール・ビグスビーに特注したギターをレオ・フェンダーに貸し出し、それをもとにレオがテレキャスターを作ったという説がある。これはトラヴィス自身が語ることによって有名になった話で、エスクワイアとこのギターの共通点として、ソリッド・ボディのシングルカッタウェイ、片側6連のペグ、弦の裏通しなどがある。 この時期、当事者達にはそれぞれ面識があり、レオがビグスビーのギターを全く知らないと言うことは考えづらいが、レオはこの話を完全に否定している。ただ、ビグスビーは死ぬまで自分のアイディアを横取りされたと思い、レオを恨んでいたと言われる。 なお、問題のマール・トラヴィスのギターは、ボディとネックはバーズアイ・メイプル、指板はローズウッドの19フレットまで。ポジション・マークは3フレットがハート、5フレットがクローバー、7フレットがダイア、9フレッドがスペードである。ネック構造はスルーネック。ボディ・シェイプはむしろレスポール・モデルに似ているがボディトップはフラットである。ピックアップはブレード型ポールピースのシングルコイルがリアに1つ。ブリッジは木製で、バイオリンのテイルピースを模した装飾部材の前端に、ボディ裏から通された弦の出口が6つ並んでいる。コントロールはボリュームノブ3つとテレキャスターに似た3ポジション・スイッチが1つ。木製のピックガードに「MERLE TRAVIS」のインレイが入っている。特筆すべきはヘッドストックの形状で、バイオリンのヘッドストックを横から見た所をイメージしたとされるそれは、ストラトキャスターのヘッドストックに酷似している。 エレクトリックギター界において非常にポピュラーな存在で、多少の流行り廃りはあるが、1950年代から現在に至るまで、使用者はジャンルを問わず多い。また、バンドのボーカリストがギターを弾きながら歌うときに使用されることが多い傾向がある。 ブルース・スプリングスティーン ウィルコ・ジョンソン その他に、プリンスはフェンダーの物ではないが、ホーナー製のテレキャスタータイプ通称「MAD CAT」をデビュー当初からキャリア後期に至るまでメインのギターの1つとしてトレードマークにもなっている。 また、ジミ・ヘンドリックスは公演の直前にストラトキャスターのネックが折れてしまい、代替としてテレキャスターのネックをストラトキャスターにつけたと語られているが、実際にはテレキャスターのネックとストラトキャスターのボディには互換性は全くなく、取り付けることはできない。彼のギターはカスタム・モデルであった。
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"さらにボリューム、トーン・コントロールなどのスイッチ類を、ボディ裏から木をくり抜いてセットするのではなく、一連のユニットとしてひとつの金属プレートにまとめてボディ表面にネジ止めされている。さらにリア・ピックアップには金属プレートが設置されており、配線(弦アース)もこのプレートとブリッジプレートの導通を生かしてピックアップ・プレート→ネジ→ブリッジ・プレート→サドル→弦と導通されている。このため弦アースの配線穴を通す必要がない。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ピックアップはボディ表面から取り付けられ、ブリッジユニットはリアピックアップのマウント台を兼ねており、テールピースは省略され、弦はボディ裏から通されるなど、信頼性と音質とコストダウンを両立させ、流れ作業的な大量生産を可能にする構造になっていた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ピックアップは、フロントとリアにそれぞれ異なるものが搭載されている。フロントピックアップは細いボビンに金属のカバーをかぶせたものであり、リアはカバーのない幅広のボビンで、ブリッジ・ユニットから直接吊るされる。リアピックアップには、フェンダーがそれまで作っていたスティール・ギターの影響が残っているとも言われる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "フロントピックアップは、当時発売されていなかったエレクトリックベース代わりとしても使用できるように開発したとの説や、ジャズミュージシャンに人気のあったギブソンのような音を狙ったという説もある。だが、このフロント・ピックアップを若干パワー不足と感じる者もおり、キース・リチャーズやロビー・ロバートソン、アンディ・サマーズ、アルバート・コリンズ、マイク・スターンなど、フロントをギブソン型のハムバッキング・ピックアップに交換してしまうギタリストも多い。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": 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テレキャスター(Telecaster)は、フェンダーの創業者、レオ・フェンダーが開発したエレクトリック・ギター。
{{出典の明記|date=2020-05-26}} {{Infobox Guitar model | モデル名 = フェンダー・テレキャスター<br />Fender Telecaster | 画像 = [[Image:FenderTelecaster.jpg|160px]] | YouTube = Fenderスペックビンテージ | メーカー/ブランド = [[フェンダー (楽器メーカー)|フェンダー]] | 製造時期 = [[1950年]]- | ボディタイプ = ソリッド/セミホロウ | ペグヘッド角度 = | スケール長 = 25 1/2インチ | ネックジョイント = ボルト・オン・ネック | フレット数 = 21フレット/22フレット | ボディ(材) = [[ホワイト八バスウッドホワイトウッド]]/[[シカモア防腐剤]]/[[ハードウッド]]など | ネック(材) = [[カエデ|メイプル]]など | フィンガーボード(材) = ホワイトウッド/[[クルミ|ウォルナット]]など | ナット(材) = | ペグ = シールド・チューニング・マシーンなど | ブリッジ = アメリカン・テレ(6ステンレス・スチール・サドル)など | テールピース = | コントロールノブ = | ピックアップ = [[シングルコイル]]×2、[[ハムバッキング]]×1・シングルコイル×1、ハムバッキング×2 | フロントピックアップ = | ミドルピックアップ = | リアピックアップ = | コントロール = マスター・ボリューム、マスター・デルタ・トーン、3ポジションスイッチ(1.ブリッジ・ピックアップ/2.ブリッジ&ネックピックアップ/3.ネックピックアップ)など | カラー = | その他 = 時代やモデルによって、材や仕様は多岐にわたる }} '''テレキャスター'''(''Telecaster'')は、[[フェンダー (楽器メーカー)|フェンダー]]の創業者、[[レオ・フェンダー]]が開発した[[エレクトリック・ギター]]。 == 概要 == 1949年頃、「[[フェンダー・エスクワイヤー|エスクワイヤー]]」の名前で発売されたテレキャスター・シリーズは、ソリッド・ボディやボルトオン・ネックなどの斬新な構造を持ち、従来の伝統的なギターの概念からは大きく離れたものであったが、市場からは好評を博した。テレキャスターの成功により、保守的な製品ラインナップを敷いていた[[ギブソン (楽器メーカー)|ギブソン]]も[[ギブソン・レスポール|レス・ポール・モデル]]を発表し、以降、大手メーカー各社がソリッド・ボディー市場へ参入した。その後もフェンダーの主力機種、ひいてはエレクトリックギターの定番として、[[フェンダー・ストラトキャスター|ストラトキャスター]]と共に現在まで生産が継続されている。 == 構造 == === 工業製品としての電気ギター === テレキャスターはボディが削り出しの板で空洞部分がなく、ネックも一本の木材から削り出し、さらにネックとボディを別々の工程で製作し、最終的に両者を4本の木ネジで繋ぐという、「デタッチャブル方式(ボルトオン方式とも呼ばれる)」と呼ばれる構造、製法である。発売当初のボディはアッシュ材などを継いで整形した一枚板(ソリッド・ボディ)で、[[ギブソン (楽器メーカー)|ギブソン]]のギターのようにボディ表面をなめらかな曲面仕上げにする手間を省いた、真っ平な形状が特徴であった。ネックはメイプル材を削り出し、ヘッドに角度を付けず(ナットにかかるテンションを稼ぐためにストリング・リテイナーを留めてある)、指板材は貼り合わせずにフレットを直接打ちこんだもの(ワンピース・ネック)であった。それまで主流だった[[エレクトリックギター|フルアコースティックタイプ]]のギターでは、ボディが空洞で、しかもネックとボディを[[膠|ニカワ]]などで接着していたため、非常に正確で緻密な作業が必要とされたが、フェンダーは工程を単純化する大胆な手法を採用した<ref group="注">ただし、これらは以前より存在した工法であり、テレキャスターが初めてと言うわけではない。</ref>。 さらにボリューム、トーン・コントロールなどのスイッチ類を、ボディ裏から木をくり抜いてセットするのではなく、一連のユニットとしてひとつの金属プレートにまとめてボディ表面にネジ止めされている。さらにリア・ピックアップには金属プレートが設置されており、配線(弦アース)もこのプレートとブリッジプレートの導通を生かしてピックアップ・プレート→ネジ→ブリッジ・プレート→サドル→弦と導通されている。このため弦アースの配線穴を通す必要がない。 ピックアップはボディ表面から取り付けられ、ブリッジユニットはリアピックアップのマウント台を兼ねており、テールピースは省略され、弦はボディ裏から通されるなど、信頼性と音質とコストダウンを両立させ、流れ作業的な大量生産を可能にする構造になっていた。 === ピックアップ === [[Image:Telecaster_bridge.jpg|240px|thumb|right|ヴィンテージ・モデルのブリッジ部分。リア・ピックアップはセイモア・ダンカン社の製品に換装されている。]] ピックアップは、フロントとリアにそれぞれ異なるものが搭載されている。フロントピックアップは細いボビンに金属のカバーをかぶせたものであり、リアはカバーのない<ref group="注">リアピックアップ自体にカバーはないが、ブリッジ部にとりつけるブリッジカバーが存在する。当初はカバーを装着されて販売されていたが、現在は付属しない状態がスタンダードになっている。これはギターを弾けないレオ・フェンダーがブリッジ・ミュートの奏法を知らなかったので、ブリッジに手を置く際に弦をミュートされては困ると考えたという説、またはネジなどを含む調整機構は見えないように隠すべきという美意識からという説がある。</ref>幅広のボビンで、ブリッジ・ユニットから直接吊るされる。リアピックアップには、フェンダーがそれまで作っていた[[スティール・ギター]]の影響が残っているとも言われる<ref group="注">ブリッジカバーは[[スティール・ギター]]の影響から装着されたとも考えられている。</ref>。 フロントピックアップは、当時発売されていなかった[[エレクトリックベース]]代わりとしても使用できるように開発したとの説や{{要出典|date=2008年3月}}、ジャズミュージシャンに人気のあった[[ギブソン (楽器メーカー)|ギブソン]]のような音を狙ったという説もある{{要出典|date=2008年3月}}。だが、このフロント・ピックアップを若干パワー不足と感じる者もおり、[[キース・リチャーズ]]や[[ロビー・ロバートソン]]、[[アンディ・サマーズ]]、[[アルバート・コリンズ]]、[[マイク・スターン]]など、フロントをギブソン型のハムバッキング・ピックアップに交換してしまうギタリストも多い<ref group="注">ただし、テレキャスターの回路は時期によって変遷があり、全てのテレキャスターのフロントピックアップがパワー不足傾向というわけではない。またアルバート・コリンズとキース・リチャーズはフロントピックアップを使用しないので、ハムバッカーに交換するのは外見的な理由と考えられる。</ref>。 フェンダーオリジナルのハムバッカーを搭載した[[フェンダー・テレキャスター・カスタム|カスタム]]、[[フェンダー・テレキャスター・シンライン|シンライン]]や[[フェンダー・テレキャスター・デラックス|デラックス]]といった派生機種も、ギブソンのそれとは異なる独特な音色が支持されている。 === デザイン === [[Image:Fender_Telecaster_Head.jpg|thumb|200px|ローラー式ストリングガイド、ロトマチック・タイプの糸巻きなどを装備した現行スタンダード・モデルのヘッドストック。]] ヘッドは6個の糸巻きを直列に並べたデザイン、ボディは[[マーティン (楽器メーカー)|マーティン]]の[[ドレッドノートモデル]]に影響を受けたシェイプに、高音域の演奏性を考えてカッタウェイを設けたスタイルである。樹脂製の大型のピックガードが装着され、色は木目の透けたクリーム色(ブロンド)がメインカラーで、追ってサンバースト、ブラック、レッドなど各色のバリエーションが増えていった。 1970年代になると[[NCルーター]]が導入されたが、左肩のネックポケット部分が正しく切り出されなくなってしまった(それまでのテレキャスターは左肩のネックポケットはLのように切り出されていたが、70年代に入ると若干曲線があがり、Lではなくなってしまった)。1981年に入ると、この間違いに気付き、NCルーターの見直しが図られ、ボディ・シェイプは元に戻された。 == 音色 == フェンダーのギターの特徴は[[シングルコイル]]を活かした、澄んだ高音域である。ギブソンの[[ハムバッキング|ハムバッカー]]に比べるとノイズを拾いやすいという欠点はあるが、硬質ではっきりとした音を出すことが容易である。 ピックアップはフロントとリアでそれぞれ巻き方が異なっており、ピックアップセレクターでセンター(フロント+リア)を選んだ場合、ハムバッカーの原理のようにノイズを消す事ができる。この状態を「ハムキャンセル」と言う。 トレモロユニットを装着した後年のフェンダー(ストラトキャスター、ジャズマスターなど)のギターに較べ、テレキャスターはよりタイトで独特のアタック音を持つ。また、リアピックアップの周囲にある金属プレートもテレキャスターならではの音の要因と考えられている<ref group="注">ただし、音質は構造、組み込みの精度、塗装、パーツや木材の質、そして設計思想などが複雑に絡み合って作り出されるものであり、同じスペックでも出音は大きく異なる。特に初期にボディ材に使用されたアッシュ材は、個体により重さや音性特質は大きく異なる。例として、60年代以降は音が硬質な傾向があり、50年代のオールドは太い音がするという見解がある。</ref>。 == 歴史 == [[Image:Guitarra2.jpg|thumb|200px|ペイズリー柄]] [[Image:Fender 72 Telecaster Thinline.png|thumb|120px|1972年製テレキャスター・シンライン]] [[Image:TeleCustom_76_horiz.jpg|200px|thumb|1976年型テレキャスター・カスタム]] === 創成期 === 当初は'''エスクワイヤー'''(Esquire)<ref group="注">エスクワイヤーの名称は、後にテレキャスターのシングルピックアップ・モデルの名称として残っていく。</ref>の名称で1949年に発表、'''ブロードキャスター'''(Broadcaster)という名前で1950年に発売された。<ref group="注">但し発表年や発売年、プロトタイプの内容など開発当初の事項については関係者の発言等に違いがみられる以前には、レオの発言から1948年に発売されたことになっていた。</ref>。だが[[グレッチ]]が既に類似の名称(Broadkaster、読みは同じ)を[[スネアドラム]]で[[商標登録]]していたため、名前が似ていて紛らわしいと[[苦情]]が来て使えなくなってしまった。これにより名称変更を余儀なくされたフェンダーだがすぐに決定とは行かず、とりあえず製造済みのデカールからBroadcasterの名前を撤去した古いデカールを使用して販売、この時期の物は'''ノーキャスター'''(Nocaster)と呼ばれる。そして発売から2年後の1951年に「テレキャスター」が新しい名前として採用された。「ブロードキャスター」、「テレキャスター」は、どちらも当時開始されたばかりだった新技術、[[テレビジョン]]放送(ブロードとテレビジョンのテレ)にあやかったネーミングである。 === バリエーション展開の開始 === 50年代中期にはテレキャスターの欠点を改良した新型のギター、ストラトキャスターが発表されたが、その後も根強い支持を受け、カタログ落ちすることなく、現在に至るまで製造が続けられている。50年代後半にはローズウッド指板のモデルも追加された。 1968年と69年にはサイケ・ブームもあってピンク・ペイズリーとブルー・フラワーの柄を貼り付けたモデルを発売した。壁紙を貼り付けて、シースルー塗装し、クリアを吹くという方法で製造された。1968年にはボディに中空部分を設けて[[f字孔|fタイプのサウンドホール]]を開けた'''[[フェンダー・テレキャスター・シンライン|テレキャスター・シンライン]]'''モデルを追加。 1969年にはギターの指板に使われるローズウッドでボディとネックを制作した'''オール・ローズ・テレキャスター'''が発売される。ネックはローズウッド1ピースで、ローズ・ボディは軽量化のために中をくりぬいたホロウ加工されている。互いにホロウ加工したローズのボディ同士を薄いメイプルを挟んで接着した3層構造である。メイプルを挟んでいるのはローズウッド同士を接着することが困難だったためである。 1970年代に追加された他のバリエーションとして'''[[フェンダー・テレキャスター・カスタム|テレキャスター・カスタム]]'''や'''[[フェンダー・テレキャスター・デラックス|デラックス]]'''、1983年に発売された'''エリート'''など派生機種が多数存在する。なお、1959年から68年まで発売されたモデルと72年に発売されたものと2種類ある「カスタム」については後者を「72年カスタム」と呼ぶことなどで区別するのが一般的である(下表を参照)。 === 現在のテレキャスター === フェンダー社はヴィンテージ・シリーズや[[フェンダー・カスタム・ショップ|カスタムショップ]]のタイムマシン・シリーズなどで過去のモデルの再生産を行う一方、アメリカン・テレキャスターなどでは6分割のサドル<ref group="注">伝統的なテレキャスターのブリッジは3分割のサドルである。これはストラトキャスターやレスポール・モデルに比べるとオクターブ・ピッチが合いづらいので、改造用の6連サドルのブリッジも広く普及している。</ref>や新開発のピックアップを搭載するなど、使い勝手と汎用性を備えたラインナップを展開している。 また、フェンダー社以外にも多くのメーカーがテレキャスターを模した、もしくは影響を強く受けたモデルを開発・製造している。 {{-}} === 略年表 === {|class="wikitable" style="font-size: 85%;" ! width="10%"|年度 !! width="60%"|仕様の変遷 !! width="30%"|バリエーションモデルの発売・変遷 |- | 1950年 | '''ブロードキャスター'''として発売開始。 | |- | 1951年 | 一時期ヘッドの商品ロゴが剥がされる(通称'''ノーキャスター''')。'''テレキャスター'''と名称を変更。 | |- | 1952年 | ピックアップセレクターが「フロントベーストーン/フロント/リア+フロント(ブレンドで調整)」から「フロントベーストーン/フロント/リア」に変更、同時に下側の[[ポテンショメータ|ポット]]がブレンドからトーンに変更。 | |- | 1953年 | ピックガードを固定するネジがマイナスからプラスへ変更。 | |- | 1955年 | ピックガードがブラック1プライからホワイト1プライに変更、塗装を変え白っぽい色に変更。サドルがブラスからスチールに変更。 | |- | 1957年 | ヘッドのストリングガイドが、ボタン型からカモメ型に変更。 | |- | 1958年後期 | サドルが溝なしスチールからネジを切ったようなスチール製スパイラル・サドルに変更。一時的に弦がボディの裏通しから、ブリッジプレートの後ろ留めに変更。 | |- | 1959年 | メイプルワンピースネックを廃止し、指板材をローズウッド(スラブボード)に変更、ボディにバインディングを施し、アッシュ材からアルダー材に変更。カラーバリエーションの追加。追加カラーには、3プライのピックガードを採用。ピックガードが5点留めから8点留めに変更。 |rowspan="2"| ''←このモデルは通常仕様だが、'''カスタム・テレキャスター'''としてバリエーションモデルのような扱いをされる場合がある。この仕様は68年まで継続。'' |- | 1963年 | ローズウッド指板がスラブボードからラウンド貼りに変更。 |- | 1965年 ||colspan="2"| ''フェンダー社がCBSに売却、これ以前を"Pre-CBS"モデル、以降を"CBS期"モデルと呼ぶ'' |- | 1966年 | 社名ロゴがスパゲッティロゴから、トランジションロゴに変更。ローズウッドの代わりメイプル指板を選択できるようになる(貼りメイプル)。 | |- | 1967年 | 社名ロゴがCBSロゴに変更、"Telecaster"のロゴも大きくなる。ピックアップセレクターが「フロント/フロント+リア/リア」に変更。 | |- | 1968年 | サドルがスチール製スパイラル・サドルから溝の深いステンレス製に変更。フィニッシュがラッカーからポリウレタンに変更。 | '''テレキャスター・シンライン'''発売。ピックアップはシングルコイル搭載。 |- | 1969年 | 貼りメイプル廃止、メイプル・ワンピース・ネックが再開。 | '''ローズウッド・テレキャスター'''発売。 |- | 1972年 | | '''テレキャスター・カスタム'''発売、テレキャスター・シンラインに搭載されるピックアップがハムバッキングに。 |- | 1973年 | | '''テレキャスター・デラックス'''発売。 |- | 1982年 ||colspan="2"| 過去のテレキャスターのリイシューが始まる。 |- | 1983年 | 枠なしブリッジ・プレート、6連サドルが採用。 |'''テレキャスター・エリート'''発売。 |- | 1985年 ||colspan="2"| ''Bill Schultzによる会社買収で"CBS時代"が終焉、現行のFMIC体制へ'' |} == マール・トラヴィスとテレキャスター == カントリー・シンガーソングライターのマール・トラヴィス([[:en:Merle Travis|Merle Travis]])が1947年にポール・ビグスビーに特注したギターをレオ・フェンダーに貸し出し、それをもとにレオがテレキャスターを作ったという説がある。これはトラヴィス自身が語ることによって有名になった話で、エスクワイアとこのギターの共通点として、ソリッド・ボディのシングルカッタウェイ、片側6連のペグ<ref group="注">エスクワイアのプロトタイプは両側3連のペグだった。またストラトキャスターのラージヘッドはビグスビーのヘッドに酷似している。</ref>、弦の裏通しなどがある。 この時期、当事者達にはそれぞれ面識があり、レオがビグスビーのギターを全く知らないと言うことは考えづらいが、レオはこの話を完全に否定している。ただ、ビグスビーは死ぬまで自分のアイディアを横取りされたと思い、レオを恨んでいたと言われる。{{要出典|date=2014年11月}} なお、問題のマール・トラヴィスのギターは、ボディとネックはバーズアイ・メイプル、指板はローズウッドの19フレットまで。ポジション・マークは3フレットがハート、5フレットがクローバー、7フレットがダイア、9フレッドがスペードである。ネック構造はスルーネック。ボディ・シェイプはむしろレスポール・モデルに似ているがボディトップはフラットである。ピックアップはブレード型ポールピースのシングルコイルがリアに1つ。ブリッジは木製で、バイオリンのテイルピースを模した装飾部材の前端に、ボディ裏から通された弦の出口が6つ並んでいる。コントロールはボリュームノブ3つとテレキャスターに似た3ポジション・スイッチが1つ。木製のピックガードに「MERLE TRAVIS」のインレイが入っている。特筆すべきはヘッドストックの形状で、バイオリンのヘッドストックを横から見た所をイメージしたとされる<ref>『ギター・マガジン』1991年2月号18-19ページ</ref>それは、ストラトキャスターのヘッドストックに酷似している<ref>[http://www.guitarraonline.com.ar/genealogia5.htm Genealogía de la Guitarra] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080410222100/http://www.guitarraonline.com.ar/genealogia5.htm |date=2008年4月10日 }}</ref>。 == 使用ミュージシャン == === 洋楽ミュージシャン === [[Image:Keith_Richards_Hannover_2006.jpg|240px|thumb|テレキャスターを弾くキース・リチャーズ]] [[Image:JOE STRUMMER 20011219.jpg|180px|thumb|ジョー・ストラマーのテレキャスター]] エレクトリックギター界において非常にポピュラーな存在で、多少の流行り廃りはあるが、1950年代から現在に至るまで、使用者はジャンルを問わず多い。また、バンドのボーカリストがギターを弾きながら歌うときに使用されることが多い傾向がある。 ; [[ジェームズ・バートン]] :[[1953年]]製のテレキャスターを愛用。言わずと知れた「ミスター・テレキャスター」。彼は、本来ワウンド弦であった3弦をプレーン弦に張り替え、チョーキングを簡単にした(当時、一般的に売られていたエレキギター用の弦のうち5弦(A)〜1弦(E)を6弦(Low E)〜2弦(B)の位置に張り、空いた1弦の位置には[[バンジョー]]の1弦(D)を張る)。これが現在のライト・ゲージである。つまり、ジェームズ・バートンがライト・ゲージを開発したと言っても良い。ニュー・ギャロッピング奏法を開発し、バンジョー用のフィンガー・ピックで演奏するチキン・ピッキングを得意とする。 :1970年からのエルヴィスのステージでは、ピンク・ペイズリー模様の69年テレキャスターを使用した。「エルヴィス・イン・コンサート」では、3ピックアップのテレキャスターを使っている。色々なギターに持ち替えているものの、ジェームズは「自分の愛用ギターは常に53年テレキャスターなんだ。持ち替えたのは面白そうだからだ。すべてのレコーディングに53年テレキャスターを使った」と発言している{{要出典|date=2008年3月}}。 ;[[ジミー・ペイジ]] :[[ヤードバーズ]]在籍時代や[[レッド・ツェッペリン]]の初期においては、[[ジェフ・ベック]]から譲り受けた、ペイジが[[サイケデリック]]風に[[ドラゴン]]のペイントを描いた[[1958年]]製のテレキャスターがトレードマークであった。また、ペイジが使用するレスポールは、ネックを薄く削り落し電気回路の変更等を行い、テレキャスターを意識したサウンドに調整されていると言われている。レコーディングでもテレキャスターは多用されたが、ステージにおいてもレッド・ツェッペリン後期のツアーにおいてブロンド(白っぽい)色や"Botswana Brown"と呼ばれる濃いチョコレート色の、ストラップによる2弦の1音ベンドができる[[:en:Gene Parsons|パーソンズ製]]の[[:en:B-Bender|Bベンダー(ストリングベンダー)]]付きの、個体が使用された。[[The Firm (イギリスのロックバンド)|ザ・ファーム]]ではテレキャスターがメインの使用ギターとして返り咲いた。レスポールに持ち替えてから作られた楽曲「[[天国への階段 (レッド・ツェッペリンの曲)|天国への階段]]」のギターソロは、テレキャスターによるものである。 ;[[ジョー・ストラマー]] :シンガーが持つギターとしてのテレキャスターを広めた人物とされる{{要出典|date=2008年3月}}。元は、サンバーストだった[[1966年]]製テレキャスターを黒に塗りなおして使用。この個体は、クラッシュ解散後も最晩年まで使われ続けた。こうしてボロボロになったテレキャスターを元に、クラッシュのデビュー30周年となる[[2007年]]、フェンダーから「ジョー・ストラマー・テレキャスター」が限定発売された<ref>{{cite web |url=http://www.fender.jp/joestrummer/tele.html |title=Fender×JOE STRUMMER |accessdate=2008年1月19日 |publisher=fender.jp }}</ref>。 ;[[キース・リチャーズ]] :現在はテレキャスターのイメージが強い彼だが、初期の頃はレス・ポールやセミアコといったギターを使用していた。1971年の「[[メイン・ストリートのならず者]]」セッション時にギターが大量に盗まれる事件が起きた。この事件後に集められたギターでテレキャスターを入手、1972年の北米ツアーからステージ初お披露目された。これが後に世界一有名な「ミカウバー」である。その後も、「テレキャスター・カスタム」、「ミカウバー」と並ぶ有名なテレキャスター「マルコム」等のテレキャスターを手にしていく。なおキースは、6弦をはずす「5弦オープンGチューニング」で有名だが、もちろんこれらのテレキャスターで使用されている。 '''[[ブルース・スプリングスティーン]]''' :「[[明日なき暴走]]」のジャケット写真では、彼が愛用のエスクワイヤーを抱え、[[クラレンス・クレモンズ]]にもたれかかる、まるでライブの一場面を切り取ったかのような、有名な写真が使われている。メインのエスクワイヤーの他に、仕様の異なるテレキャスターを複数本所有。 '''[[ウィルコ・ジョンソン]]''' :USA製のメインギターの他にサブとしてジャパン製のテレキャスターを使用。指の出血を目立たなくさせるため、ピックガードが赤く塗られた黒いボディに仕様を統一している。 その他に、[[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]]はフェンダーの物ではないが、ホーナー製のテレキャスタータイプ通称「MAD CAT」をデビュー当初からキャリア後期に至るまでメインのギターの1つとしてトレードマークにもなっている。 また、[[ジミ・ヘンドリックス]]は公演の直前にストラトキャスターのネックが折れてしまい、代替としてテレキャスターのネックをストラトキャスターにつけたと語られている{{要出典|date=2020年6月}}が、実際にはテレキャスターのネックとストラトキャスターのボディには互換性は全くなく{{要出典|date=2020年6月}}、取り付けることはできない。彼のギターはカスタム・モデル{{要出典|date=2020年6月}}であった。 === 邦楽ミュージシャン === ; [[村上啓介]] :1991年WINDY ROAD Tourにて使用。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|2|group="注"}} === 出典 === <references /> == 関連項目 == {{Commonscat|Telecaster|テレキャスター}} {{Commonscat|Fender Telecaster|フェンダー・テレキャスター}} * [[リッケンバッカー]] * [[レスポール]] == 外部リンク == *[http://www.fender.com/products/index.php?bodyShape=Telecaster%C2%AE&section=guitars Fender USA Telecaster Series] *[http://www.fenderjapan.co.jp/products_telecaster.html Fender Japan Telecaster Series] {{Fender}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てれきやすたあ}} [[Category:ギターの機種]]
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フェンダー・ストラトキャスター
ストラトキャスター(Stratocaster)は、フェンダー社が1954年から発表・発売を行っているエレクトリック・ギターの機種。同社社長のレオ・フェンダーらによって開発された。 ギブソン社のレスポールモデルと並ぶエレクトリックギターの代表的な存在で、現在はフェンダー社の2つのブランド(フェンダー、スクワイア)から販売されている。 ストラトキャスターの基本構造は、同じフェンダー社のテレキャスターを発展させたものといえる。従来のギターはボディとネックをニカワなどで接着して製造されていたが、テレキャスターは両者を木ねじで結合するという大胆な設計になっており(ボルトオンネック)、大量生産を可能にした。ボディは木取りや木目の関係で切り出した木材を接着したものを成形しており、内部に共鳴部(空洞部分)が無い構造である(ソリッドボディ)。ボディに共鳴部がないため、大音量で演奏してもハウリングを起こしづらい。ボディとネックは角度を持たずに接合されており、ヘッドとネックも角度をもたずに成形されている。 ストラトキャスターはそれらテレキャスターの構造をほぼそのまま受け継いだ上で、さらに簡略化が図られていた。具体的には、ピックアップやボリュームやスイッチといった電装部品を樹脂製のピックガードにまとめて取り付け、これをボディ表面に木ねじで固定するという方式の採用である。そのため、ジャック(ボディに固定)を除けば、電装部品すべてをピックガードとともにポン付けできるようになった。この簡略化のお陰でボディやネックの加工と電装部品の配線をそれぞれ別工程にすることが可能になり、後年のコンポーネント・ギター(ボディやネックや電装品などを、純正以外のものと交換して作られた改造ギター)登場への道を開くことにもなった。 ストラトキャスターはテレキャスターと同様、本来はカントリー・ミュージックなどで使用することを想定して設計された。シンクロナイズド・トレモロ(後段で解説)も、カントリーやハワイアンで多用されるスティール・ギターのスライド奏法に近いサウンドを出すのが、本来の目的であった。 ボディ形状もテレキャスターが母体になってはいるが、より工夫が施されている。高音部の弾きやすさに影響するカッタウェイはテレキャスターと変らないが、ストラップを使用した時のバランスを改善するため、低音弦側のボディを上部に伸ばしたダブルカッタウェイシェイプが採用されている。さらに、ギターを構えた際の身体とボディの当たり具合を改善するため、腰や肘の当たる部分が大きく曲線的に削り取られており(コンタード・ボディ)、ボディ全周の角も丸く削られている。 ヘッドはネックに対して角度を持たず、平行に成型されている。また糸巻き(ペグ)は、ギターを構えた際の上部側に一列に配置されている。そのため、1弦側と6弦側で弦の角度(弦がナットに圧着される度合い)が大きく異なってしまい、そのままでは弦のテンションが1弦側と6弦側で大きく違ってしまう。これを補正するため、1弦側(1弦と2弦、または1弦〜4弦など)にストリングガイド(弦の角度を大きくする)が取り付けられている。 ヘッド部の形状はテレキャスターに比べて大型化しており、大きく分けてスモールヘッド(PRE CBS)とラージヘッド(POST CBS)の2種類が存在する。初期(60年代半ばまで)はスモールヘッド、その後はラージヘッドという流れであったが、1985年のCBS撤退・フェンダー社の再興に伴う品質の再構築の流れを受けてスモールヘッドが一般的なヘッド形状となり、ラージヘッド形状はPOST CBS期を彷彿とさせるバリエーションとして製造されるといった形となり現在に至る。 装着されるペグ(糸巻き)は、Fキイと呼ばれるFの字がプレスされた物、クルーソン・タイプやロトマチック・タイプ、ロック式など、数種類が存在する。ストリングスガイドを使わなくても良いように弦を巻く軸の長さが1弦側が短くなっているタイプもある。アフターマーケットでは様々な物が手に入るので好みの物に交換できる。 0フレットのない、一般的な物である。アフターマーケットにはブラス製やデルリン製といった様々な材質やチューニングを正確にする工夫をされた変形品もある。また、弦を受ける部分にローラーが使われた「ローラー・ナット」というものが存在し、ジェフ・ベックモデルやアメリカン・デラックスシリーズに採用されている。 ピックアップは通常、シングルコイルを3つ(フロント=ネック側、ミドル=中央、リア=ブリッジ側)搭載していて、スイッチで切り替えることが出来る。工場出荷時の配線状態では、ツマミは3つ(ピックアップに近い方からマスター・ヴォリューム、フロント・トーン、ミドル・トーン)。 従来はリア・ピックアップにはトーン・コントロールがなかったが、近年のモデルではミドル・トーンが、リア・ピックアップのトーンコントロールを兼ねている製品(アメリカンシリーズ等)もある。 ピックアップの切り替えスイッチは、初期にはフロント/ミドル/リアの3ポジションだったが、ハーフトーン(2つのピックアップを利用しミックスしたサウンド)を得るためサードパーティから5ポジションスイッチが発売された後、現在では最初から5ポジション(フロント/フロント+ミドル/ミドル/ミドル+リア/リア)が採用されている。 アンプへのシールド・ケーブルを接続するジャックは、テレキャスターはボディ側面とプラグが垂直に接続される方式だったが、ストラトキャスターではボディ表面に対してプラグが斜めに接続されるよう工夫されている。 ストラトキャスターの革新的な特徴の一つが、シンクロナイズド・トレモロ・ユニットというフェンダー社によって名づけられたビブラート・ユニットである。実際にはビブラート効果(音程の変化)を出す目的の装置で、トレモロ効果(音量の変化)のための物ではない。 これは、ブリッジ部に取り付けられているトレモロ・アームと呼ばれる棒を、ボディに向かって押す、あるいは(調整して、それを可能にした上で)引いてビブラート効果を得る装置である。トレモロアームはねじ込み式で、取り外すことができる。 ブリッジはテールピースと一体で、ボディ裏側にスプリングがついており、弦の張力と拮抗してブリッジおよびテールピースの位置を維持している。トレモロアームの操作でブリッジとテールピースの位置を移動させて弦の張力を変え、音程を変化させる。 ばねを利用したビブラート・ユニットはすでにビグスビー社などによって開発されていたが、シンクロナイズド・トレモロは、構造の単純さ、音程の可変幅の大きさ、チューニングの狂いの少なさなどで群を抜いていた。 初期モデルはブリッジに手が当たらないよう、金属製のブリッジカバーを装備していたが、現行モデルでは省略されている。 開発時、ビブラート・ユニットの追加はセールスからも強く求められた。完成直前の段階でそれまで予定していたビブラート・ユニットに深刻な欠点が見つかり(サスティーンが非常に不足したらしい)すでに型も製作され発注済みであった部品を廃棄する羽目になり、そこで一から設計をし直し完成したのがシンクロナイズド・トレモロ・ユニットである。 ボディ材は、1954年の発売当初はアッシュを用いていたが、後にアルダーや少量だがアメリカン・バスウッドも用いられるようになった。アッシュは音の立ち上がりがよく存在感がある、アルダーは中域に特徴がある、アメリカン・バスウッドは音質にくせがないといったように、それぞれの木材には音質に特徴があり、用途や好みによってユーザーに選好されている。その後、発売当初にサッサフラスも用いられていたことが判明しており、エリック・ジョンソンの愛器「ヴァージニア」のシグネイチャーモデルに用いられた ネックは、発売当初はメイプル1ピース(指板を持たない一体成形)が主だった。しかし、指板面の塗装が剥がれると汚れが目立つというユーザーからの要望もあり、メイプルのネックにブラジリアン・ローズウッドを指板として貼り付けたネックが採用されるようになった。それと並行して、メイプルのネックにメイプルの指板を貼り付けたタイプも一時的に生産された。この仕様は「貼りメイプル」と呼ばれ、ジミ・ヘンドリックスが使っていた影響から、現在では珍重されている。現在ではメイプル1ピース(指板が白っぽい)と、ローズウッドなどの指板を張ったタイプ(指板が黒っぽい)と、両方が製造されている。 同一の材で製作した場合、テレキャスターに比べるとやや柔らかい音という評価がある。これは、ボディ表面側がピックアップや電装類を収納するために比較的大きく削られており、その上に樹脂製ピックガードが取り付けられ、さらにシンクロナイズド・トレモロの機構を収めるための空間(スプリング・キャビティ)も存在し、セミアコースティックギターに似た構造であるためと言われる。ボディ裏に張られたスプリング(シンクロナイズド・トレモロの機構の一部)が、弦の振動に共振する点も、ストラトキャスターの音質に影響を与えているという説もある。 3つのピックアップは同じ部品だが、取り付け位置の違いにより、取り出される音質は大きく異なる。ブリッジ(リア)側は高域が強調され、ネック(フロント)側は逆に高域の成分が少ない「甘い音」になる。ピックアップ・セレクター・スイッチをブリッジ・ミドルあるいはミドル・ネックの中間で止めて音をミックスさせる、いわゆるハーフトーン(ガラスの弾けるような繊細なトーン)も使用できるため、サウンドのバリエーションが広い。 ギブソン・レスポールに搭載されているダブルコイルのハムバッキングピックアップと比べると、シングルコイルピックアップは出力が弱く、帯域の広いサウンドが特色だが、マーシャルに代表される大音量のアンプや、歪みエフェクターとの組み合わせにより、ディストーションサウンドを得ることもできる。ディストーションサウンドが不可欠なハードロックに用いるギタリストも数多く存在する。 ストラトキャスターが、エレキギターのスタンダードとなる上で最も重大な役割を演じたのはジミ・ヘンドリックスである。 1950年代には、ハンク・マーヴィン(シャドウズ)やバディ・ホリーなどがストラトキャスターを使用していたが、1960年代半ばには人気が低下し使用するミュージシャンもほとんどおらず、製造中止も検討されていた。しかし1966年にジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスがデビューして、この状況は大きく変化する。ヘンドリックスは、大音量のマーシャルのギターアンプにストラトキャスターを接続し、ギブソン社のレスポール・モデルにも劣らないディストーション・サウンドを引き出した。またシンクロナイズド・トレモロを生かした変幻自在の演奏(アーミング)も相まって、ストラトキャスターが持つロック用エレキギターとしての潜在能力の高さを見せつけたのである。 ヘンドリックスの影響を受けてストラトキャスターを手にしたのが、エリック・クラプトンやジェフ・ベックである。 クラプトンによるストラトキャスターの演奏は、ヘンドリックスとはかなり対照的である。ヘンドリックスほどは音を歪ませず、シングルコイル・ピックアップ本来の音色を生かした彼の演奏は、ストラトキャスターの新たな魅力を引き出した。ハーフトーン(センター・ピックアップとのミックスポジション)を一般化させたのも、彼の功績であるという意見がある(ハーフトーン自体は、ヘンドリックスなども使用しており、前記の意見に反論する意見もある)。なお、クラプトンはトレモロ・ユニットを使わず固定し、アームを外している。 ヘンドリックスに多大な影響を受け、そのアクロバティックな側面を受け継いだギタリストの一人に、ディープ・パープルやレインボーで活躍したリッチー・ブラックモアがいる。彼は、ストラトキャスターの唯一の弱点とも言える出力不足を、ピックアップを高出力のシェクター製のF500やセイモア・ダンカン製のSSL-4(クオーター・パウンドタイプと呼ばれる一般的なシングル・コイルピックアップのポールピースの径より大きいタイプのもの)に交換することで補い、ストラトキャスターがハードロックにも十分通用することを証明して見せた。 また、ピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモアもストラトキャスターを愛用しており、彼の場合は1970年代後半から1980年代においては、ピック・アップをディマジオ社の「スーパーディストーション」に交換して使用していた。彼のように、ピック・アップをスーパーディストーションに交換するのは当時の流行であり、多くのミュージシャンが模倣している。ちなみに、ペグをシャーラー社のものに交換するのも当時の流行であった。 ジャズ/フュージョン系やブルース系、ソウル系のギタリストの中にも、ストラトキャスターを愛用する者が増えた。ブルース系ギタリストではバディ・ガイやロバート・クレイ、スティーヴィー・レイ・ヴォーンなどが、ジャズ/フュージョン系ではハイラム・ブロック、デビュー当時のマイク・スターンなどが、有名なストラト愛用者である。こうしてストラトキャスターは、ソリッド・ボディ・エレキギターの定番中の定番として、その地位を不動のものとする。 1970年代にはシェクター社などの、ストラトキャスター用の改造部品を製造・販売するメーカーが登場し始めた。これは既に見たように、ストラトキャスターが大量生産される工業製品として設計されていたため、部品の交換が容易であったことによる。また、グレコやフェルナンデス、アイバニーズなど、ストラトキャスターのコピーモデルを製造販売する会社も現れる。 1980年代に入ると、本家であるフェンダー社のストラトキャスターよりも高価な材料を用い、高精度な工作によって製造された高級なストラトキャスター派生モデルが一般化する。また、1970年代末に登場したギタリスト、エドワード・ヴァン・ヘイレンが自作の改造ストラトキャスター(ストラトキャスター型ボディにハムバッキング・ピックアップをダイレクトマウントし、クレイマー社製のネックを装着)を使用していた影響もあり、ハムバッキング・ピックアップをリアにマウントしたストラトキャスター派生モデルが大流行する。現在では、ストラトキャスターにハムバッキング・ピックアップを搭載するスタイルは定番として多く見られる。これらは英語圏では"スーパーストラト"と呼ばれるが、日本ではモダンST、カスタムST程度の呼び方が一般的である。 このストラトキャスター派生モデルは、1980年代にはブラッド・ギルス(ナイト・レンジャー)やスティーヴ・ルカサーが使用していた、SSHレイアウト+フロイド・ローズ・トレモロユニットというデザインが定番であり、シャーベル社やジャクソン社の製品が有名であった。この時期、ボディのデザインもさらに多様化し、ジャクソン社が考案したディンキー・モデル(一回り小さいサイズ)や、ピックガードレス・デザインなどが広く普及する。 1990年頃からは、スティーヴ・ヴァイがアイバニーズ社に作らせたシグネチャーモデル(ディンキー・ボディ+HSHレイアウト)の影響もあり、フロイド・ローズ装着型のストラトキャスター派生モデルの定番は、HSHレイアウトへと変化する。 1980年代は、ストラトキャスター派生モデルの全盛期であった。しかし、ハードロック・ブームの終息と共に、ストラトキャスター派生モデルの人気も沈静化する。 新たにストラトキャスター分野の人気商品となったのは、フェンダー社が展開した有名ギタリストのシグネチャーモデルである。フェンダー社や日本における代理店である山野楽器は、オーソドックスなストラトキャスターを愛用している有名ギタリストのシグネチャーモデルを次々に企画し、発売していった。特に有名なものは、エリック・クラプトン・モデルとリッチー・ブラックモア・モデル(指板をえぐる加工が施されており、スキャロップド・フィンガーボードと呼ばれる)であるが、他にもジェフ・ベックやスティーヴィー・レイ・ヴォーン、ロリー・ギャラガー、エリック・ジョンソン(ロック・フュージョンのギタリスト)など、様々なシグネチャーモデルが発売された。これらのシグネチャ・モデルは、製造品質において些かという以上に評判を落としていたレギュラー・ラインのストラトキャスターとは異なり、カスタムショップと名付けられた別ラインで組み上げられることが多かったため、ストラトキャスターの上位モデルとしての役割も担うようになった。中でも、ミッド・ブースト回路が装備されたエリック・クラプトン・モデルは、既にストラトキャスター分野の定番モデルと捉えられるようになっており、ジョージ・ハリスンやピート・タウンゼントなどの著名なギタリストも愛用している。 近年は、トリビュートシリーズの中で、実際に本人が所有したギターを詳細に分析したレプリカが発売されている。スティーヴィー・レイ・ヴォーンのNO.1及びレニー、エリック・クラプトンのブラッキーなどが代表的である。 また、1987年に、ドン・レースが開発したレース・センサーピックアップの独占使用および販売のライセンスを取得し(供給元はAGI)、ライセンス終了の1996年頃まで幅広いモデルに搭載して販売していた。レギュラー・ラインである「アメリカン・スタンダード」は一時期全てレース・センサーが搭載されていたほどである。また、トレモロ・ユニットは新たに2点ナイフエッジ支持の「アメリカン・スタンダード・トレモロ」が開発され、「アメリカン・スタンダード」や「アメリカン・デラックス」に搭載されるようになった。 「ストラトキャスター」はフェンダー社によって商標登録された商品であり、一般的な商標法に基づき、同社のみ商標として商品自体やパッケージ、宣伝広告などとして独占使用できる。また、意匠登録もされており、一般的な法律解釈では同形状の物を作る権利を独占使用できる。 『ストラトキャスター』という名称をエレキギターの一つのジャンル名として、他社の類似の形状の物も含めるという考えもある。一方で、フェンダー社が製造した物のみが『ストラトキャスター』という考えもある。 他社は『ストラトキャスター』や『ストラト』という表記を商標ではなく形状や品質を示す目的として使うことはできるが、前述の「意匠登録」により類似の形状の物の製造はできない。 ジャンルとしてのストラトキャスター・タイプとなると、その全てを網羅的に解説することは困難である。以下ではフェンダー社の商品に限って、その現状を解説する。 フェンダー社のストラトキャスターは、様々な部品の組み合わせによって無限に仕様を増やすことが出来るのが特徴である。別の言い方をすれば、組み合わされる部品の種類の方が、組み合わされた製品の種類よりも少ないのである。 以下に大まかな部品構成を示す。これらの部品を様々な形で組み合わせたものが、現在「フェンダー・ストラトキャスター」として販売されている。 大まかな時代に分けた上で、少数生産品などを含めないレギュラーモデルの主な仕様、および変更点を示す。機能や外観に大きく影響しない変更点は省略。(出典:) ストラトキャスターの中でも製造年の古い個体は「ヴィンテージ」と呼ばれ、中古市場において高価格で取引されている。2013年にはボブ・ディランが使用した1964年製のストラトキャスターがクリスティーズで競売にかけられ、ギターとしては史上最高額の96万5000ドル(約9930万円)で落札された。 ヴィンテージ市場は1980年代末から一貫して高騰基調にあり、現在ではフェンダー社がCBS社に買収される以前(1954年から1965年前期までのモデル。Pre-CBSと呼ばれる)が状態によっては数百万円、またはそれ以上の価格で取引されることもある。またフェンダー・ジャパンの最初期モデルは「ジャパン・ヴィンテージ」と呼ばれ、日本独自の中古市場が形成されている。 ストラトキャスターの製造初年である1954年製のシリアルナンバー#0001の個体(英語版 "The 0001 Strat")は、ピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモアが1970年代から現在まで所有している。2004年に、イギリスで行われたストラトキャスターの50周年記念のライヴの際も使用された。ただし、このギターはあくまでも「ネック・ジョイントプレートにシリアルナンバーが記載されている」物としての1号機であり、これ以前に、「ボディ裏面にあるスプリングカバー(バックプレート)にシリアルナンバーが記載されている」物を含め250台程度存在するので、正真正銘の第1号機ではない。なお、この「ネックシリアル1号機」は、ブロンドカラー、ゴールドパーツの特注品である。正真正銘の第1号(バックプレートシリアル0001)機については、一時北米のコレクターが所有していると言う噂が飛び交ったがデマと判明し、現在に至るまで発見されていない(バックプレートは紛失し易く、弦交換の手順を簡素化させるため取り外して弾くプレイヤーが多く、更には容易に取り替えが効くため、事実確認が困難)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ストラトキャスター(Stratocaster)は、フェンダー社が1954年から発表・発売を行っているエレクトリック・ギターの機種。同社社長のレオ・フェンダーらによって開発された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ギブソン社のレスポールモデルと並ぶエレクトリックギターの代表的な存在で、現在はフェンダー社の2つのブランド(フェンダー、スクワイア)から販売されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ストラトキャスターの基本構造は、同じフェンダー社のテレキャスターを発展させたものといえる。従来のギターはボディとネックをニカワなどで接着して製造されていたが、テレキャスターは両者を木ねじで結合するという大胆な設計になっており(ボルトオンネック)、大量生産を可能にした。ボディは木取りや木目の関係で切り出した木材を接着したものを成形しており、内部に共鳴部(空洞部分)が無い構造である(ソリッドボディ)。ボディに共鳴部がないため、大音量で演奏してもハウリングを起こしづらい。ボディとネックは角度を持たずに接合されており、ヘッドとネックも角度をもたずに成形されている。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ストラトキャスターはそれらテレキャスターの構造をほぼそのまま受け継いだ上で、さらに簡略化が図られていた。具体的には、ピックアップやボリュームやスイッチといった電装部品を樹脂製のピックガードにまとめて取り付け、これをボディ表面に木ねじで固定するという方式の採用である。そのため、ジャック(ボディに固定)を除けば、電装部品すべてをピックガードとともにポン付けできるようになった。この簡略化のお陰でボディやネックの加工と電装部品の配線をそれぞれ別工程にすることが可能になり、後年のコンポーネント・ギター(ボディやネックや電装品などを、純正以外のものと交換して作られた改造ギター)登場への道を開くことにもなった。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ストラトキャスターはテレキャスターと同様、本来はカントリー・ミュージックなどで使用することを想定して設計された。シンクロナイズド・トレモロ(後段で解説)も、カントリーやハワイアンで多用されるスティール・ギターのスライド奏法に近いサウンドを出すのが、本来の目的であった。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ボディ形状もテレキャスターが母体になってはいるが、より工夫が施されている。高音部の弾きやすさに影響するカッタウェイはテレキャスターと変らないが、ストラップを使用した時のバランスを改善するため、低音弦側のボディを上部に伸ばしたダブルカッタウェイシェイプが採用されている。さらに、ギターを構えた際の身体とボディの当たり具合を改善するため、腰や肘の当たる部分が大きく曲線的に削り取られており(コンタード・ボディ)、ボディ全周の角も丸く削られている。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ヘッドはネックに対して角度を持たず、平行に成型されている。また糸巻き(ペグ)は、ギターを構えた際の上部側に一列に配置されている。そのため、1弦側と6弦側で弦の角度(弦がナットに圧着される度合い)が大きく異なってしまい、そのままでは弦のテンションが1弦側と6弦側で大きく違ってしまう。これを補正するため、1弦側(1弦と2弦、または1弦〜4弦など)にストリングガイド(弦の角度を大きくする)が取り付けられている。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ヘッド部の形状はテレキャスターに比べて大型化しており、大きく分けてスモールヘッド(PRE CBS)とラージヘッド(POST CBS)の2種類が存在する。初期(60年代半ばまで)はスモールヘッド、その後はラージヘッドという流れであったが、1985年のCBS撤退・フェンダー社の再興に伴う品質の再構築の流れを受けてスモールヘッドが一般的なヘッド形状となり、ラージヘッド形状はPOST CBS期を彷彿とさせるバリエーションとして製造されるといった形となり現在に至る。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "装着されるペグ(糸巻き)は、Fキイと呼ばれるFの字がプレスされた物、クルーソン・タイプやロトマチック・タイプ、ロック式など、数種類が存在する。ストリングスガイドを使わなくても良いように弦を巻く軸の長さが1弦側が短くなっているタイプもある。アフターマーケットでは様々な物が手に入るので好みの物に交換できる。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "0フレットのない、一般的な物である。アフターマーケットにはブラス製やデルリン製といった様々な材質やチューニングを正確にする工夫をされた変形品もある。また、弦を受ける部分にローラーが使われた「ローラー・ナット」というものが存在し、ジェフ・ベックモデルやアメリカン・デラックスシリーズに採用されている。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ピックアップは通常、シングルコイルを3つ(フロント=ネック側、ミドル=中央、リア=ブリッジ側)搭載していて、スイッチで切り替えることが出来る。工場出荷時の配線状態では、ツマミは3つ(ピックアップに近い方からマスター・ヴォリューム、フロント・トーン、ミドル・トーン)。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "従来はリア・ピックアップにはトーン・コントロールがなかったが、近年のモデルではミドル・トーンが、リア・ピックアップのトーンコントロールを兼ねている製品(アメリカンシリーズ等)もある。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ピックアップの切り替えスイッチは、初期にはフロント/ミドル/リアの3ポジションだったが、ハーフトーン(2つのピックアップを利用しミックスしたサウンド)を得るためサードパーティから5ポジションスイッチが発売された後、現在では最初から5ポジション(フロント/フロント+ミドル/ミドル/ミドル+リア/リア)が採用されている。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アンプへのシールド・ケーブルを接続するジャックは、テレキャスターはボディ側面とプラグが垂直に接続される方式だったが、ストラトキャスターではボディ表面に対してプラグが斜めに接続されるよう工夫されている。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ストラトキャスターの革新的な特徴の一つが、シンクロナイズド・トレモロ・ユニットというフェンダー社によって名づけられたビブラート・ユニットである。実際にはビブラート効果(音程の変化)を出す目的の装置で、トレモロ効果(音量の変化)のための物ではない。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "これは、ブリッジ部に取り付けられているトレモロ・アームと呼ばれる棒を、ボディに向かって押す、あるいは(調整して、それを可能にした上で)引いてビブラート効果を得る装置である。トレモロアームはねじ込み式で、取り外すことができる。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ブリッジはテールピースと一体で、ボディ裏側にスプリングがついており、弦の張力と拮抗してブリッジおよびテールピースの位置を維持している。トレモロアームの操作でブリッジとテールピースの位置を移動させて弦の張力を変え、音程を変化させる。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ばねを利用したビブラート・ユニットはすでにビグスビー社などによって開発されていたが、シンクロナイズド・トレモロは、構造の単純さ、音程の可変幅の大きさ、チューニングの狂いの少なさなどで群を抜いていた。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "初期モデルはブリッジに手が当たらないよう、金属製のブリッジカバーを装備していたが、現行モデルでは省略されている。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "開発時、ビブラート・ユニットの追加はセールスからも強く求められた。完成直前の段階でそれまで予定していたビブラート・ユニットに深刻な欠点が見つかり(サスティーンが非常に不足したらしい)すでに型も製作され発注済みであった部品を廃棄する羽目になり、そこで一から設計をし直し完成したのがシンクロナイズド・トレモロ・ユニットである。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ボディ材は、1954年の発売当初はアッシュを用いていたが、後にアルダーや少量だがアメリカン・バスウッドも用いられるようになった。アッシュは音の立ち上がりがよく存在感がある、アルダーは中域に特徴がある、アメリカン・バスウッドは音質にくせがないといったように、それぞれの木材には音質に特徴があり、用途や好みによってユーザーに選好されている。その後、発売当初にサッサフラスも用いられていたことが判明しており、エリック・ジョンソンの愛器「ヴァージニア」のシグネイチャーモデルに用いられた", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ネックは、発売当初はメイプル1ピース(指板を持たない一体成形)が主だった。しかし、指板面の塗装が剥がれると汚れが目立つというユーザーからの要望もあり、メイプルのネックにブラジリアン・ローズウッドを指板として貼り付けたネックが採用されるようになった。それと並行して、メイプルのネックにメイプルの指板を貼り付けたタイプも一時的に生産された。この仕様は「貼りメイプル」と呼ばれ、ジミ・ヘンドリックスが使っていた影響から、現在では珍重されている。現在ではメイプル1ピース(指板が白っぽい)と、ローズウッドなどの指板を張ったタイプ(指板が黒っぽい)と、両方が製造されている。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "同一の材で製作した場合、テレキャスターに比べるとやや柔らかい音という評価がある。これは、ボディ表面側がピックアップや電装類を収納するために比較的大きく削られており、その上に樹脂製ピックガードが取り付けられ、さらにシンクロナイズド・トレモロの機構を収めるための空間(スプリング・キャビティ)も存在し、セミアコースティックギターに似た構造であるためと言われる。ボディ裏に張られたスプリング(シンクロナイズド・トレモロの機構の一部)が、弦の振動に共振する点も、ストラトキャスターの音質に影響を与えているという説もある。", "title": "音色" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "3つのピックアップは同じ部品だが、取り付け位置の違いにより、取り出される音質は大きく異なる。ブリッジ(リア)側は高域が強調され、ネック(フロント)側は逆に高域の成分が少ない「甘い音」になる。ピックアップ・セレクター・スイッチをブリッジ・ミドルあるいはミドル・ネックの中間で止めて音をミックスさせる、いわゆるハーフトーン(ガラスの弾けるような繊細なトーン)も使用できるため、サウンドのバリエーションが広い。", "title": "音色" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ギブソン・レスポールに搭載されているダブルコイルのハムバッキングピックアップと比べると、シングルコイルピックアップは出力が弱く、帯域の広いサウンドが特色だが、マーシャルに代表される大音量のアンプや、歪みエフェクターとの組み合わせにより、ディストーションサウンドを得ることもできる。ディストーションサウンドが不可欠なハードロックに用いるギタリストも数多く存在する。", "title": "音色" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ストラトキャスターが、エレキギターのスタンダードとなる上で最も重大な役割を演じたのはジミ・ヘンドリックスである。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1950年代には、ハンク・マーヴィン(シャドウズ)やバディ・ホリーなどがストラトキャスターを使用していたが、1960年代半ばには人気が低下し使用するミュージシャンもほとんどおらず、製造中止も検討されていた。しかし1966年にジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスがデビューして、この状況は大きく変化する。ヘンドリックスは、大音量のマーシャルのギターアンプにストラトキャスターを接続し、ギブソン社のレスポール・モデルにも劣らないディストーション・サウンドを引き出した。またシンクロナイズド・トレモロを生かした変幻自在の演奏(アーミング)も相まって、ストラトキャスターが持つロック用エレキギターとしての潜在能力の高さを見せつけたのである。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ヘンドリックスの影響を受けてストラトキャスターを手にしたのが、エリック・クラプトンやジェフ・ベックである。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "クラプトンによるストラトキャスターの演奏は、ヘンドリックスとはかなり対照的である。ヘンドリックスほどは音を歪ませず、シングルコイル・ピックアップ本来の音色を生かした彼の演奏は、ストラトキャスターの新たな魅力を引き出した。ハーフトーン(センター・ピックアップとのミックスポジション)を一般化させたのも、彼の功績であるという意見がある(ハーフトーン自体は、ヘンドリックスなども使用しており、前記の意見に反論する意見もある)。なお、クラプトンはトレモロ・ユニットを使わず固定し、アームを外している。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ヘンドリックスに多大な影響を受け、そのアクロバティックな側面を受け継いだギタリストの一人に、ディープ・パープルやレインボーで活躍したリッチー・ブラックモアがいる。彼は、ストラトキャスターの唯一の弱点とも言える出力不足を、ピックアップを高出力のシェクター製のF500やセイモア・ダンカン製のSSL-4(クオーター・パウンドタイプと呼ばれる一般的なシングル・コイルピックアップのポールピースの径より大きいタイプのもの)に交換することで補い、ストラトキャスターがハードロックにも十分通用することを証明して見せた。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、ピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモアもストラトキャスターを愛用しており、彼の場合は1970年代後半から1980年代においては、ピック・アップをディマジオ社の「スーパーディストーション」に交換して使用していた。彼のように、ピック・アップをスーパーディストーションに交換するのは当時の流行であり、多くのミュージシャンが模倣している。ちなみに、ペグをシャーラー社のものに交換するのも当時の流行であった。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ジャズ/フュージョン系やブルース系、ソウル系のギタリストの中にも、ストラトキャスターを愛用する者が増えた。ブルース系ギタリストではバディ・ガイやロバート・クレイ、スティーヴィー・レイ・ヴォーンなどが、ジャズ/フュージョン系ではハイラム・ブロック、デビュー当時のマイク・スターンなどが、有名なストラト愛用者である。こうしてストラトキャスターは、ソリッド・ボディ・エレキギターの定番中の定番として、その地位を不動のものとする。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1970年代にはシェクター社などの、ストラトキャスター用の改造部品を製造・販売するメーカーが登場し始めた。これは既に見たように、ストラトキャスターが大量生産される工業製品として設計されていたため、部品の交換が容易であったことによる。また、グレコやフェルナンデス、アイバニーズなど、ストラトキャスターのコピーモデルを製造販売する会社も現れる。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1980年代に入ると、本家であるフェンダー社のストラトキャスターよりも高価な材料を用い、高精度な工作によって製造された高級なストラトキャスター派生モデルが一般化する。また、1970年代末に登場したギタリスト、エドワード・ヴァン・ヘイレンが自作の改造ストラトキャスター(ストラトキャスター型ボディにハムバッキング・ピックアップをダイレクトマウントし、クレイマー社製のネックを装着)を使用していた影響もあり、ハムバッキング・ピックアップをリアにマウントしたストラトキャスター派生モデルが大流行する。現在では、ストラトキャスターにハムバッキング・ピックアップを搭載するスタイルは定番として多く見られる。これらは英語圏では\"スーパーストラト\"と呼ばれるが、日本ではモダンST、カスタムST程度の呼び方が一般的である。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "このストラトキャスター派生モデルは、1980年代にはブラッド・ギルス(ナイト・レンジャー)やスティーヴ・ルカサーが使用していた、SSHレイアウト+フロイド・ローズ・トレモロユニットというデザインが定番であり、シャーベル社やジャクソン社の製品が有名であった。この時期、ボディのデザインもさらに多様化し、ジャクソン社が考案したディンキー・モデル(一回り小さいサイズ)や、ピックガードレス・デザインなどが広く普及する。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1990年頃からは、スティーヴ・ヴァイがアイバニーズ社に作らせたシグネチャーモデル(ディンキー・ボディ+HSHレイアウト)の影響もあり、フロイド・ローズ装着型のストラトキャスター派生モデルの定番は、HSHレイアウトへと変化する。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1980年代は、ストラトキャスター派生モデルの全盛期であった。しかし、ハードロック・ブームの終息と共に、ストラトキャスター派生モデルの人気も沈静化する。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "新たにストラトキャスター分野の人気商品となったのは、フェンダー社が展開した有名ギタリストのシグネチャーモデルである。フェンダー社や日本における代理店である山野楽器は、オーソドックスなストラトキャスターを愛用している有名ギタリストのシグネチャーモデルを次々に企画し、発売していった。特に有名なものは、エリック・クラプトン・モデルとリッチー・ブラックモア・モデル(指板をえぐる加工が施されており、スキャロップド・フィンガーボードと呼ばれる)であるが、他にもジェフ・ベックやスティーヴィー・レイ・ヴォーン、ロリー・ギャラガー、エリック・ジョンソン(ロック・フュージョンのギタリスト)など、様々なシグネチャーモデルが発売された。これらのシグネチャ・モデルは、製造品質において些かという以上に評判を落としていたレギュラー・ラインのストラトキャスターとは異なり、カスタムショップと名付けられた別ラインで組み上げられることが多かったため、ストラトキャスターの上位モデルとしての役割も担うようになった。中でも、ミッド・ブースト回路が装備されたエリック・クラプトン・モデルは、既にストラトキャスター分野の定番モデルと捉えられるようになっており、ジョージ・ハリスンやピート・タウンゼントなどの著名なギタリストも愛用している。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "近年は、トリビュートシリーズの中で、実際に本人が所有したギターを詳細に分析したレプリカが発売されている。スティーヴィー・レイ・ヴォーンのNO.1及びレニー、エリック・クラプトンのブラッキーなどが代表的である。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "また、1987年に、ドン・レースが開発したレース・センサーピックアップの独占使用および販売のライセンスを取得し(供給元はAGI)、ライセンス終了の1996年頃まで幅広いモデルに搭載して販売していた。レギュラー・ラインである「アメリカン・スタンダード」は一時期全てレース・センサーが搭載されていたほどである。また、トレモロ・ユニットは新たに2点ナイフエッジ支持の「アメリカン・スタンダード・トレモロ」が開発され、「アメリカン・スタンダード」や「アメリカン・デラックス」に搭載されるようになった。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "「ストラトキャスター」はフェンダー社によって商標登録された商品であり、一般的な商標法に基づき、同社のみ商標として商品自体やパッケージ、宣伝広告などとして独占使用できる。また、意匠登録もされており、一般的な法律解釈では同形状の物を作る権利を独占使用できる。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "『ストラトキャスター』という名称をエレキギターの一つのジャンル名として、他社の類似の形状の物も含めるという考えもある。一方で、フェンダー社が製造した物のみが『ストラトキャスター』という考えもある。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "他社は『ストラトキャスター』や『ストラト』という表記を商標ではなく形状や品質を示す目的として使うことはできるが、前述の「意匠登録」により類似の形状の物の製造はできない。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ジャンルとしてのストラトキャスター・タイプとなると、その全てを網羅的に解説することは困難である。以下ではフェンダー社の商品に限って、その現状を解説する。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "フェンダー社のストラトキャスターは、様々な部品の組み合わせによって無限に仕様を増やすことが出来るのが特徴である。別の言い方をすれば、組み合わされる部品の種類の方が、組み合わされた製品の種類よりも少ないのである。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "以下に大まかな部品構成を示す。これらの部品を様々な形で組み合わせたものが、現在「フェンダー・ストラトキャスター」として販売されている。", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "大まかな時代に分けた上で、少数生産品などを含めないレギュラーモデルの主な仕様、および変更点を示す。機能や外観に大きく影響しない変更点は省略。(出典:)", "title": "ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ストラトキャスターの中でも製造年の古い個体は「ヴィンテージ」と呼ばれ、中古市場において高価格で取引されている。2013年にはボブ・ディランが使用した1964年製のストラトキャスターがクリスティーズで競売にかけられ、ギターとしては史上最高額の96万5000ドル(約9930万円)で落札された。", "title": "「ヴィンテージ」市場の存在" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ヴィンテージ市場は1980年代末から一貫して高騰基調にあり、現在ではフェンダー社がCBS社に買収される以前(1954年から1965年前期までのモデル。Pre-CBSと呼ばれる)が状態によっては数百万円、またはそれ以上の価格で取引されることもある。またフェンダー・ジャパンの最初期モデルは「ジャパン・ヴィンテージ」と呼ばれ、日本独自の中古市場が形成されている。", "title": "「ヴィンテージ」市場の存在" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ストラトキャスターの製造初年である1954年製のシリアルナンバー#0001の個体(英語版 \"The 0001 Strat\")は、ピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモアが1970年代から現在まで所有している。2004年に、イギリスで行われたストラトキャスターの50周年記念のライヴの際も使用された。ただし、このギターはあくまでも「ネック・ジョイントプレートにシリアルナンバーが記載されている」物としての1号機であり、これ以前に、「ボディ裏面にあるスプリングカバー(バックプレート)にシリアルナンバーが記載されている」物を含め250台程度存在するので、正真正銘の第1号機ではない。なお、この「ネックシリアル1号機」は、ブロンドカラー、ゴールドパーツの特注品である。正真正銘の第1号(バックプレートシリアル0001)機については、一時北米のコレクターが所有していると言う噂が飛び交ったがデマと判明し、現在に至るまで発見されていない(バックプレートは紛失し易く、弦交換の手順を簡素化させるため取り外して弾くプレイヤーが多く、更には容易に取り替えが効くため、事実確認が困難)。", "title": "「ヴィンテージ」市場の存在" } ]
ストラトキャスター(Stratocaster)は、フェンダー社が1954年から発表・発売を行っているエレクトリック・ギターの機種。同社社長のレオ・フェンダーらによって開発された。 ギブソン社のレスポールモデルと並ぶエレクトリックギターの代表的な存在で、現在はフェンダー社の2つのブランド(フェンダー、スクワイア)から販売されている。
{{Redirect|ストラト|1980年発売の商品|フェンダー・ストラト|みゆはんの曲|ストラト (みゆはんの曲)|NICO Touches the Wallsの曲|ストラト (NICO Touches the Wallsの曲)}} {{Infobox Guitar model | モデル名 = フェンダー・ストラトキャスター<br />Fender Stratocaster | 画像 = [[Image:Fender strat.jpg|160px]] | キャプション = | メーカー/ブランド = [[フェンダー (楽器メーカー)|フェンダー]]、[[スクワイア]] | 製造時期 = [[1954年]] – | ボディタイプ = ソリッド | ペグヘッド角度 = | スケール長 = 25 1/2インチ | ネックジョイント = ボルト・オン | フレット数 = 21フレット/22フレット | ボディ(材) = [[タモ|アッシュ]]、[[ハンノキ|アルダー]]または[[シナノキ|バスウッド]] | ネック(材) = [[サトウカエデ|メイプル]] | フィンガーボード(材) = [[ローズウッド (木材)|ローズウッド]]または[[メイプル]] | ナット(材) = | ペグ = | ブリッジ = | テールピース = [[シンクロナイズド・トレモロ]] | コントロールノブ = | ピックアップ = [[シングルコイル]]×3 | フロントピックアップ = | ミドルピックアップ = | リアピックアップ = | コントロール = ボリューム×1、トーン×2、3/5ウェイセレクタースイッチ | カラー = '''スタンダード・シリーズ:''' <br>ブラック、クローム・レッド、ブラウン・サンバースト、エレクトロン・ブルー、ミッドナイト・ワイン、アークティック・ホワイト<br />'''アメリカンシリーズ:''' <br>ブラック、3トーンサンバースト、オリンピック・ホワイト、クローム・レッド、ショア・ゴールド, バタースコッチ・ブロンド, チャコール・メタリック | その他 = }} '''ストラトキャスター'''('''Stratocaster''')は、[[フェンダー (楽器メーカー)|フェンダー]]社が[[1954年]]から発表・発売を行っている[[エレクトリック・ギター]]の機種。同社[[社長]]の[[レオ・フェンダー]]らによって[[開発]]された。 [[ギブソン (楽器メーカー)|ギブソン]]社の[[ギブソン・レスポール|レスポール]]モデルと並ぶエレクトリックギターの代表的な存在で、現在はフェンダー社の2つのブランド(フェンダー、[[スクワイア]])から販売されている。 == 設計 == === 基本構造 === ストラトキャスターの基本構造は、同じフェンダー社の[[フェンダー・テレキャスター|テレキャスター]]を発展させたものといえる。従来のギターはボディとネックを[[ゼラチン|ニカワ]]などで接着して製造されていたが、テレキャスターは両者を木ねじで結合するという大胆な設計になっており(ボルトオンネック)、大量生産を可能にした。ボディは木取りや木目の関係で切り出した木材を接着したもの<ref group="注">ボディの中心、または中心から左側にズレた部分で木取りをして接合した2ピースボディ、ネックを接合する部分を中心に両サイドを挟むようにして木材を接合している3ピースボディ等が存在している。</ref>を成形しており、内部に共鳴部(空洞部分)が無い構造である(ソリッドボディ)。ボディに共鳴部がないため、大音量で演奏しても[[ハウリング]]を起こしづらい。ボディとネックは角度を持たずに接合されており、ヘッドとネックも角度をもたずに成形されている。 ストラトキャスターはそれらテレキャスターの構造をほぼそのまま受け継いだ上で、さらに簡略化が図られていた。具体的には、[[ピックアップ (楽器)|ピックアップ]]やボリュームやスイッチといった電装部品を樹脂製のピックガードにまとめて取り付け、これをボディ表面に木ねじで固定するという方式の採用である<ref group="注">テレキャスターは、フロント・ピックアップはボディに直接固定、リア・ピックアップはブリッジ・プレートに固定、ボリュームやトーンのポットとピックアップセレクターは金属製プレートに固定)</ref>。そのため、ジャック(ボディに固定)を除けば、電装部品すべてをピックガードとともにポン付けできるようになった。この簡略化のお陰でボディやネックの加工と電装部品の配線をそれぞれ別工程にすることが可能になり、後年のコンポーネント・ギター(ボディやネックや電装品などを、純正以外のものと交換して作られた改造ギター)登場への道を開くことにもなった。 ストラトキャスターはテレキャスターと同様、本来は[[カントリー・ミュージック]]などで使用することを想定して設計された。シンクロナイズド・トレモロ(後段で解説)も、カントリーや[[ハワイの音楽|ハワイアン]]で多用される[[スティール・ギター]]のスライド奏法に近いサウンドを出すのが、本来の目的であった{{Refnest|レオ・フェンダーはギターは全く演奏出来なかった。彼と共に開発に当たった[[:en:Freddie Tavares|フレディ・タバレス]]はスパニッシュ・ギターよりも寧ろ[[スティールギター]]の名手であった。また彼らは当時社に出入りしていた[[:en:Bill Carson (musician)|ビル・カーソン]]というウェスタン・スィング・ギター奏者の意見を取り入れている。6分割されたサドルは彼の要望であり、ヴィブラート・ユニットはビグスビー・ビブラートに対抗する必要があるというフェンダー社のセールス側からの要望であった<ref>『フェンダー・ストラトキャスター』(2004年, 新装増補版, リットーミュージック・ムック) ''pp.75-76'' ISBN 4845611244</ref>。|group="注"}}。 === ボディ形状 === [[Image:Vaughanstrat.jpg|thumb|ボディ]] ボディ形状もテレキャスターが母体になってはいるが、より工夫が施されている。高音部の弾きやすさに影響する[[カッタウェイ]]はテレキャスターと変らないが、ストラップを使用した時のバランスを改善するため、低音弦側のボディを上部に伸ばしたダブルカッタウェイシェイプが採用されている<ref group="注">このボディ形状は、1951年に発表された[[フェンダー・プレシジョンベース]]の形状に大きく影響されている。プレシジョンベースは、大型のボディをストラップで吊った際のバランスを取るため、テレキャスターの低音弦側のツノを伸ばしたようなボディ形状になっている。</ref>。さらに、ギターを構えた際の身体とボディの当たり具合を改善するため、腰や肘の当たる部分が大きく曲線的に削り取られており(コンタード・ボディ)、ボディ全周の角も丸く削られている<ref group="注">テレキャスターは全周が角張っている。</ref>。 ===ヘッド=== [[Image:Squier_Stratocaster_headstock.jpg|thumb|120px|スクワイア・ストラトキャスターのラージヘッド]] ヘッドはネックに対して角度を持たず、平行に成型されている。また糸巻き(ペグ)は、ギターを構えた際の上部側に一列に配置されている。そのため、1弦側と6弦側で弦の角度(弦が[[ナット]]に圧着される度合い)が大きく異なってしまい、そのままでは弦のテンションが1弦側と6弦側で大きく違ってしまう。これを補正するため、1弦側(1弦と2弦、または1弦〜4弦など)にストリングガイド(弦の角度を大きくする)が取り付けられている。 ヘッド部の形状はテレキャスターに比べて大型化しており、大きく分けてスモールヘッド(PRE CBS)とラージヘッド(POST CBS)の2種類が存在する。初期(60年代半ばまで)はスモールヘッド、その後はラージヘッドという流れであったが、1985年のCBS撤退・フェンダー社の再興に伴う品質の再構築の流れを受けてスモールヘッドが一般的なヘッド形状となり、ラージヘッド形状はPOST CBS期を彷彿とさせるバリエーションとして製造されるといった形となり現在に至る。 ===ペグ(糸巻、転手、チューナー)=== 装着されるペグ(糸巻き)は、Fキイと呼ばれるFの字がプレスされた物、クルーソン・タイプやロトマチック・タイプ、ロック式など、数種類が存在する。ストリングスガイドを使わなくても良いように弦を巻く軸の長さが1弦側が短くなっているタイプもある。アフターマーケットでは様々な物が手に入るので好みの物に交換できる。 ===ナット=== 0フレットのない、一般的な物である。アフターマーケットにはブラス製やデルリン製といった様々な材質やチューニングを正確にする工夫をされた変形品もある。また、弦を受ける部分にローラーが使われた「ローラー・ナット」というものが存在し、ジェフ・ベックモデルやアメリカン・デラックスシリーズに採用されている。<ref group="注">ジェフ・ベックモデルは現在フェンダー製のLSR ローラー・ナットが使用されているが、過去にはウィルキンソン製のローラー・ナットが使用されていた。</ref> === 電装部品 === ピックアップは通常、[[シングルコイル]]を3つ(フロント=ネック側、ミドル=中央、リア=ブリッジ側)搭載していて、スイッチで切り替えることが出来る。工場出荷時の配線状態では、ツマミは3つ(ピックアップに近い方からマスター・ヴォリューム、フロント・トーン、ミドル・トーン)。 従来はリア・ピックアップにはトーン・コントロールがなかったが、近年のモデルではミドル・トーンが、リア・ピックアップのトーンコントロールを兼ねている製品(アメリカンシリーズ等)もある。 ピックアップの切り替えスイッチは、初期にはフロント/ミドル/リアの3ポジションだったが、[[ハーフトーン]](2つのピックアップを利用しミックスしたサウンド)を得るためサードパーティから5ポジションスイッチが発売された後、現在では最初から5ポジション(フロント/フロント+ミドル/ミドル/ミドル+リア/リア)が採用されている。<ref group="注">ストラトの中古を買い集めていたクラプトンは、錆び始めて固くなったスイッチと錆び始めてゆるくなり定位置に固定できなくなったスプリングによって3ポジションのスイッチからハーフトーンを引き出したという伝説がある。</ref> アンプへのシールド・ケーブルを接続するジャックは、テレキャスターはボディ側面とプラグが垂直に接続される方式だったが、ストラトキャスターではボディ表面に対してプラグが斜めに接続されるよう工夫されている。 === ブリッジ === [[Image:Fender_Tremolo.JPG|thumb|シンクロナイズド・トレモロユニット(ヴィンテージ・タイプ)]] [[Image:Strat_copy.jpg|thumb|ボディ下面に設けられたスプリング・キャビティ内部。左からスプリングハンガー、ばね、サステインブロック。]] ストラトキャスターの革新的な特徴の一つが、[[トレモロ・ユニット#シンクロナイズド・トレモロ・ユニット|シンクロナイズド・トレモロ・ユニット]]というフェンダー社によって名づけられた[[ビブラート・ユニット]]である。実際にはビブラート効果(音程の変化)を出す目的の装置で、トレモロ効果(音量の変化)のための物ではない。<ref group="注">当時のフェンダー社は「トレモロ」と「ビブラート」を混同・誤解して使用していたと思われる。</ref> これは、[[弦楽器#駒、柱(箏)|ブリッジ]]部に取り付けられているトレモロ・アームと呼ばれる棒を、ボディに向かって押す、あるいは(調整して、それを可能にした上で)引いて[[ビブラート]]効果を得る装置である。トレモロアームはねじ込み式で、取り外すことができる。 ブリッジはテールピースと一体で、ボディ裏側に[[ばね|スプリング]]がついており、弦の張力と拮抗してブリッジおよびテールピースの位置を維持している。トレモロアームの操作でブリッジとテールピースの位置を移動させて弦の張力を変え、音程を変化させる。 ばねを利用したビブラート・ユニットはすでに[[ビグスビー]]社などによって開発されていたが、シンクロナイズド・トレモロは、構造の単純さ、音程の可変幅の大きさ、チューニングの狂いの少なさなどで群を抜いていた。 初期モデルはブリッジに手が当たらないよう、金属製のブリッジカバーを装備していたが、現行モデルでは省略されている。 開発時、ビブラート・ユニットの追加はセールスからも強く求められた。完成直前の段階でそれまで予定していたビブラート・ユニットに深刻な欠点が見つかり(サスティーンが非常に不足したらしい)すでに型も製作され発注済みであった部品を廃棄する羽目になり、そこで一から設計をし直し完成したのがシンクロナイズド・トレモロ・ユニットである。 === 材料 === ボディ材は、1954年の発売当初は[[ヤチダモ|アッシュ]]を用いていたが、後に[[ハンノキ|アルダー]]や少量だが[[シナノキ|アメリカン・バスウッド]]も用いられるようになった。アッシュは音の立ち上がりがよく存在感がある、アルダーは中域に特徴がある、アメリカン・バスウッドは音質にくせがないといったように、それぞれの木材には音質に特徴があり、用途や好みによってユーザーに選好されている。その後、発売当初に[[サッサフラス]]も用いられていたことが判明しており、[[エリック・ジョンソン]]の愛器「ヴァージニア」のシグネイチャーモデルに用いられた<ref>[https://www.fender.com/en-US/eric-johnson-signature.html Eric Johnson 1954 "Virginia" Stratocaster], Fender.com</ref> ネックは、発売当初は[[サトウカエデ|メイプル]]1ピース(指板を持たない一体成形)が主だった。しかし、[[指板]]面の塗装が剥がれると汚れが目立つというユーザーからの要望もあり、メイプルのネックに[[ブラジリアン・ローズウッド]]を指板として貼り付けたネックが採用されるようになった。それと並行して、メイプルのネックにメイプルの指板を貼り付けたタイプも一時的に生産された。この仕様は「貼りメイプル」と呼ばれ、[[ジミ・ヘンドリックス]]が使っていた影響から、現在では珍重されている。現在ではメイプル1ピース(指板が白っぽい)と、ローズウッドなどの指板を張ったタイプ(指板が黒っぽい)と、両方が製造されている。 == 音色 == 同一の材で製作した場合、テレキャスターに比べるとやや柔らかい音という評価がある。これは、ボディ表面側がピックアップや電装類を収納するために比較的大きく削られており、その上に樹脂製ピックガードが取り付けられ、さらにシンクロナイズド・トレモロの機構を収めるための空間(スプリング・キャビティ)も存在し、[[エレクトリックギター|セミアコースティックギター]]に似た構造であるためと言われる。ボディ裏に張られたスプリング(シンクロナイズド・トレモロの機構の一部)が、弦の振動に共振する点も、ストラトキャスターの音質に影響を与えているという説もある<ref>[[キャパリソン|菅野至]], {{Cite web|和書|url=http://members.at.infoseek.co.jp/umanohone/sec6.htm |title=Rockin'Web「ROCK GUITARの世界」第6話 Fender Stratocaster その2 |accessdate=2014年11月7日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040102230339/http://members.at.infoseek.co.jp/umanohone/sec6.htm |archivedate=2004年1月2日 }}</ref><ref>『フェンダー・ストラトキャスター』 ''pp.64-65, pp.68-69''</ref>。 3つのピックアップは同じ部品だが、取り付け位置の違いにより、取り出される音質は大きく異なる。ブリッジ(リア)側は高域が強調され、ネック(フロント)側は逆に高域の成分が少ない「甘い音」になる。ピックアップ・セレクター・スイッチをブリッジ・ミドルあるいはミドル・ネックの中間で止めて音をミックスさせる、いわゆるハーフトーン(ガラスの弾けるような繊細なトーン)も使用できるため、サウンドのバリエーションが広い<ref group="注">当初、ストラトキャスターは3ポジションスイッチだったため、ハーフトーンを使用するためにはスイッチノブをセンター位置に注意深く合わせる必要があり、一部のアーティスト達が裏技的に使用していただけだった。後にハーフトーンが有名になると、ノブ位置を簡単に合わせられるよう、正式に5ポジションスイッチ(ハーフトーンの位置にもクリックがある)に変更された。</ref>。 [[ギブソン・レスポール]]に搭載されているダブルコイルの[[ハムバッキング]]ピックアップ<ref group="注">フェンダー社の純正ピックアップでも、「ノイズレス」モデルや「レースセンサー」モデルなど、ハムキャンセリング仕様のピックアップは存在する。</ref>と比べると、シングルコイルピックアップは出力が弱く、帯域の広いサウンドが特色だが、[[マーシャル (アンプ)|マーシャル]]に代表される大音量の[[アンプ (楽器用)|アンプ]]や、歪みエフェクターとの組み合わせにより、[[ディストーション (音響機器)|ディストーション]]サウンドを得ることもできる。ディストーションサウンドが不可欠な[[ハードロック]]に用いるギタリストも数多く存在する<ref group="注">[[リッチー・ブラックモア]]や[[イングヴェイ・マルムスティーン]]、[[ゲイリー・ムーア]]、[[ジョン・ノーラム]]など。ただし、ピックアップが変更されている例も多い。例えば、ブラックモアの場合は過去に[[シェクター]]社やレース社のモデル、マルムスティーンの場合は過去にはディマジオ社、現在は[[セイモア・ダンカン]]のモデルにピックアップを変更している。</ref>。 == ストラトキャスターの進化と使用ギタリスト == ===ロックギターのスタンダードへ === [[画像:JeffBeckCrossroads2007.jpg|thumb|[[ジェフ・ベック]]]] [[画像:Ritchie Blackmore 1977.jpg|thumb|right|180px|[[リッチー・ブラックモア]]。1977年のライブより。]] [[画像:Steve_Lukather_Toto_IV_World_Tour_1982.jpg|240px|right|thumb|TOTOの[[スティーヴ・ルカサー]]。1982年のツアーより。]] [[画像:EVH_frankenstrat.jpg|thumb|[[エドワード・ヴァン・ヘイレン]]のストラトタイプギター。]] [[画像:Fendersrvstratfront.jpg|240px|right|thumb|[[スティーヴィー・レイ・ヴォーン]]・モデル]] [[画像:Yngwie_Malmsteen%27s_electric_guitar.jpg|240px|right|thumb|[[イングヴェイ・マルムスティーン]]・モデル]] ストラトキャスターが、エレキギターのスタンダードとなる上で最も重大な役割を演じたのは[[ジミ・ヘンドリックス]]である<ref group="注">[[エリック・クラプトン]]もヘンドリックスに並ぶという意見もごく一部に存在するが、一般には認められていない。椎野秀聰『僕らが作ったギターの名器』文春新書、2010年、134ページ ISBN 4166607707</ref>。 1950年代には、[[ハンク・マーヴィン]](シャドウズ)や[[バディ・ホリー]]などがストラトキャスターを使用していたが、1960年代半ばには人気が低下し使用するミュージシャンもほとんどおらず、製造中止も検討されていた。しかし[[1966年]]にジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスがデビューして、この状況は大きく変化する。ヘンドリックスは、大音量の[[マーシャル (アンプ)|マーシャル]]のギターアンプにストラトキャスターを接続し、ギブソン社のレスポール・モデルにも劣らないディストーション・サウンドを引き出した。また[[ビブラート・ユニット|シンクロナイズド・トレモロ]]を生かした変幻自在の演奏([[アーミング]])も相まって、ストラトキャスターが持つロック用エレキギターとしての潜在能力の高さを見せつけたのである。 ヘンドリックスの影響を受けてストラトキャスターを手にしたのが、[[エリック・クラプトン]]や[[ジェフ・ベック]]である。<ref group="注">ただし、クラプトンもベックもヘンドリックスの生前には表だってストラトキャスターを使用することはほとんどなく、多用するようになったのはヘンドリックスの没([[1970年]][[9月18日]])後である。</ref> クラプトンによるストラトキャスターの演奏は、ヘンドリックスとはかなり対照的である。ヘンドリックスほどは音を歪ませず、シングルコイル・ピックアップ本来の音色を生かした彼の演奏は、ストラトキャスターの新たな魅力を引き出した。ハーフトーン(センター・ピックアップとのミックスポジション)を一般化させたのも、彼の功績であるという意見がある(ハーフトーン自体は、ヘンドリックスなども使用しており、前記の意見に反論する意見もある)。なお、クラプトンはトレモロ・ユニットを使わず固定し、アームを外している。 ヘンドリックスに多大な影響を受け、そのアクロバティックな側面を受け継いだギタリストの一人に、[[ディープ・パープル]]や[[レインボー (バンド)|レインボー]]で活躍した[[リッチー・ブラックモア]]がいる。彼は、ストラトキャスターの唯一の弱点とも言える出力不足を、ピックアップを高出力の[[シェクター]]製のF500やセイモア・ダンカン製のSSL-4(クオーター・パウンドタイプと呼ばれる一般的なシングル・コイルピックアップのポールピースの径より大きいタイプのもの)に交換することで補い、ストラトキャスターがハードロックにも十分通用することを証明して見せた。 また、[[ピンク・フロイド]]の[[デヴィッド・ギルモア]]もストラトキャスターを愛用しており、彼の場合は1970年代後半から1980年代においては、ピック・アップを[[ディマジオ]]社の「スーパーディストーション」に交換して使用していた。彼のように、ピック・アップをスーパーディストーションに交換するのは当時の流行であり、多くのミュージシャンが模倣している。ちなみに、ペグを[[シャーラー]]社のものに交換するのも当時の流行であった。 ジャズ/フュージョン系やブルース系、ソウル系のギタリストの中にも、ストラトキャスターを愛用する者が増えた。ブルース系ギタリストでは[[バディ・ガイ]]や[[ロバート・クレイ]]、[[スティーヴィー・レイ・ヴォーン]]などが、ジャズ/フュージョン系では[[ハイラム・ブロック]]、デビュー当時の[[マイク・スターン]]などが、有名なストラト愛用者である。こうしてストラトキャスターは、ソリッド・ボディ・エレキギターの定番中の定番として、その地位を不動のものとする。 === ストラトキャスターの派生モデル及び改造モデルの広がり === 1970年代には[[シェクター]]社などの、ストラトキャスター用の改造部品を製造・販売するメーカーが登場し始めた。これは既に見たように、ストラトキャスターが大量生産される工業製品として設計されていたため、部品の交換が容易であったことによる。また、[[グレコ]]や[[フェルナンデス]]、[[アイバニーズ]]など、ストラトキャスターのコピーモデルを製造販売する会社も現れる。 1980年代に入ると、本家であるフェンダー社のストラトキャスターよりも高価な材料を用い、高精度な工作によって製造された高級なストラトキャスター派生モデルが一般化する。また、1970年代末に登場したギタリスト、[[エドワード・ヴァン・ヘイレン]]が自作の改造ストラトキャスター(ストラトキャスター型ボディにハムバッキング・ピックアップをダイレクトマウントし、クレイマー社製のネックを装着)を使用していた影響もあり、ハムバッキング・ピックアップをリアにマウントしたストラトキャスター派生モデルが大流行する。現在では、ストラトキャスターにハムバッキング・ピックアップを搭載するスタイルは定番として多く見られる。これらは英語圏では"[[スーパーストラト]]"と呼ばれるが、日本ではモダンST、カスタムST程度の呼び方が一般的である。 このストラトキャスター派生モデルは、1980年代には[[ブラッド・ギルス]](ナイト・レンジャー)や[[スティーヴ・ルカサー]]が使用していた、SSHレイアウト+[[フロイド・ローズ]]・トレモロユニットというデザインが定番であり、[[シャーベル]]社や[[ジャクソン (楽器メーカー)|ジャクソン]]社の製品が有名であった。この時期、ボディのデザインもさらに多様化し、ジャクソン社が考案したディンキー・モデル(一回り小さいサイズ)や、ピックガードレス・デザインなどが広く普及する。 1990年頃からは、[[スティーヴ・ヴァイ]]がアイバニーズ社に作らせたシグネチャーモデル(ディンキー・ボディ+HSHレイアウト)の影響もあり、フロイド・ローズ装着型のストラトキャスター派生モデルの定番は、HSHレイアウトへと変化する。 === シグネチャーモデルの登場とオーソドックスなデザインへの回帰 === 1980年代は、ストラトキャスター派生モデルの全盛期であった。しかし、ハードロック・ブームの終息と共に、ストラトキャスター派生モデルの人気も沈静化する。 新たにストラトキャスター分野の人気商品となったのは、フェンダー社が展開した有名ギタリストのシグネチャーモデルである。フェンダー社や日本における代理店である山野楽器は、オーソドックスなストラトキャスターを愛用している有名ギタリストのシグネチャーモデルを次々に企画し、発売していった。特に有名なものは、エリック・クラプトン・モデルと[[リッチー・ブラックモア]]・モデル([[指板]]をえぐる加工が施されており、[[スキャロップド・フィンガーボード]]と呼ばれる)であるが、他にもジェフ・ベックやスティーヴィー・レイ・ヴォーン、[[ロリー・ギャラガー]]、[[エリック・ジョンソン]](ロック・フュージョンのギタリスト)など、様々なシグネチャーモデルが発売された。これらのシグネチャ・モデルは、製造品質において些かという以上に評判を落としていたレギュラー・ラインのストラトキャスターとは異なり、カスタムショップと名付けられた別ラインで組み上げられることが多かったため、ストラトキャスターの上位モデルとしての役割も担うようになった。中でも、ミッド・ブースト回路が装備されたエリック・クラプトン・モデルは、既にストラトキャスター分野の定番モデルと捉えられるようになっており、[[ジョージ・ハリスン]]や[[ピート・タウンゼント]]などの著名なギタリストも愛用している。 近年は、トリビュートシリーズの中で、実際に本人が所有したギターを詳細に分析したレプリカが発売されている。[[スティーヴィー・レイ・ヴォーン]]のNO.1及びレニー、エリック・クラプトンの[[ブラッキー (ギター)|ブラッキー]]などが代表的である。 また、1987年に、ドン・レースが開発した[[レース・センサー]]ピックアップの独占使用および販売のライセンスを取得し(供給元はAGI)、ライセンス終了の1996年頃まで幅広いモデルに搭載して販売していた。レギュラー・ラインである「アメリカン・スタンダード」は一時期全てレース・センサーが搭載されていたほどである。また、トレモロ・ユニットは新たに2点ナイフエッジ支持の「アメリカン・スタンダード・トレモロ」が開発され、「アメリカン・スタンダード」や「アメリカン・デラックス」に搭載されるようになった。 === ストラトキャスターの現状 === 「ストラトキャスター」はフェンダー社によって商標登録された商品であり、一般的な商標法に基づき、同社のみ商標として商品自体やパッケージ、宣伝広告などとして独占使用できる。また、意匠登録もされており、一般的な法律解釈では同形状の物を作る権利を独占使用できる。 『ストラトキャスター』という名称をエレキギターの一つのジャンル名として、他社の類似の形状の物も含めるという考えもある。一方で、フェンダー社が製造した物のみが『ストラトキャスター』という考えもある。 他社は『ストラトキャスター』や『ストラト』という表記を商標ではなく形状や品質を示す目的として使うことはできるが、前述の「意匠登録」により類似の形状の物の製造はできない。 ジャンルとしてのストラトキャスター・タイプとなると、その全てを網羅的に解説することは困難である。以下ではフェンダー社の商品に限って、その現状を解説する。 フェンダー社のストラトキャスターは、様々な部品の組み合わせによって無限に仕様を増やすことが出来るのが特徴である。別の言い方をすれば、組み合わされる部品の種類の方が、組み合わされた製品の種類よりも少ないのである。 以下に大まかな部品構成を示す。これらの部品を様々な形で組み合わせたものが、現在「フェンダー・ストラトキャスター」として販売されている。 ;ボディ :使用される材はアルダー、アッシュ、[[ハリギリ|セン]]<ref group="注">センを用いるのはフェンダー・ジャパンのみである。センは、ジャパン・アッシュとも呼ばれる。</ref>、[[シナノキ|バスウッド]]、[[ポプラ]]が中心である。ボディデザインは共通である。 ;ピックアップ :基本的にフェンダー社が開発、またはライセンスを受けて製造・流通しているピックアップが搭載されている。アーティストモデルなどにおいてはディマジオやダンカンといった他社製ピックアップやそのモデルのために製造、搭載されパーツとしては市販はされないピックアップが搭載されている場合もある。(過去の例ではジョン・メイヤーモデルのストラトキャスターに搭載された「Big Dipper」など) ;ネック :メイプル1ピース、ローズウッドonメイプルの2種類が基本であるが、「貼りメイプル」のモデルが、カスタムショップで製作されることもある。ヘッドストックの形状は、スモールとラージの2種類である。ラージはハイウェイワンシリーズ、デラックスシリーズのSSHモデル、クラシックシリーズの1970年モデル、アメリカン・ヴィンテージシリーズの1970年モデル、カスタムショップの1969年モデルに使用されている。 ;トレモロ・ユニット :シンクロナイズド・タイプとアメリカン・スタンダード・トレモロ、[[アメリカン・デラックス・トレモロ]]の3種類である。 ;塗装 :基本的に[[ポリウレタン]]塗装、一部のモデルには[[ニトロセルロース]]塗装がなされる。 === ストラトキャスターの変遷 === 大まかな時代に分けた上で、少数生産品などを含めないレギュラーモデルの主な仕様、および変更点を示す。機能や外観に大きく影響しない変更点は省略。<small>(出典:<ref>『ストラトキャスター・オーソリティ』シンコー・ミュージック、ヤングギター編集部、2014年 ISBN 9784401639588</ref>)</small> {|class="wikitable" style="font-size: 85%;" |- !width="10%"|年式!!width="20%"|ヘッドストック!!width="20%"|ネック!!width="20%"|ボディ!!width="20%"|電装系統 |- |1954年-||スモールヘッド、スパゲティロゴ、丸型ストリングガイド、クルーソンペグ||メイプル1Pネック、「U」ネックシェイプ||アッシュボディ、2トーンサンバースト||1プライ8点留めピックガード、3wayセレクタースイッチ、布被膜配線材及び0.1[[ファラド|MFD]]ペーパーオイル・[[キャパシタ]] |- |1956年-||羽根型ストリングガイド||「V」ネックシェイプ(57年)、「C」ネックシェイプ(58年-) ||アルダーボディ、3トーンサンバースト(58年-)、ブロンド色はアッシュボディ継続|| |- |1959年後期-|| ||「スラブ貼り」方式ローズウッド指板 || ||3プライ11点留めピックガード([[セルロイド]])、0.1MFDセラミック・キャパシタ(61年-) |- |1962年後期-||トランジションロゴ(64年-、「移行期ロゴ」の意)||「ラウンド貼り」方式ローズウッド指板||||ピックガードのネジ位置が1箇所変更(63年-) |- |colspan="5"|''1965年 CBS社による会社買収、これ以前を"Pre-CBS"モデル、以降を"CBS期"モデルと呼ぶ'' |- |1965年後期- ||ラージヘッド、前期「Fキー」ペグ(67年-)、「CBS」ロゴ(68年-)||「貼りメイプル」指板が正式オプションに(67年-)、通常仕様でメイプル又はローズウッド指板が選択可能に(70年-)||下地塗装がポリエステルに(68年-)|| ピックガード材質変更([[塩化ビニール]])、ピックアップキャビティ形状変更(69年-)、ビニール被膜配線材及び0.05MFDセラミックキャパシタ(69年-) |- |1971年後期-||後期「Fキー」ペグ、ブレットトラスロッドナット、ストリングガイドが2個に増設(72年-)||3点止め及びマイクロティルト機構を備えたジョイント方式||ナチュラル色アッシュ材がオプションに、[[ダイキャスト]]製ブリッジサドル及びブロック(72年-)|| |- |1976年-||シャーラー社製「Fキー」ペグ|| ||サンバースト色はアッシュ材に||黒3プライピックガード、黒コントロールノブ及びスイッチノブ(77年-)、5wayセレクタースイッチ(77年後期) |- |1982年-83年||"Dan Smith"スモールヘッド(旧来のスモールヘッドとは異なる)||4点止めジョイントへの回帰||「インターナショナル・カラー」他、カラースキームの全面改訂||キャビティ内導電塗料等アース処理方式の全面改訂 |- |1983年中期-||colspan="4"|無印のモデル名「ストラトキャスター」は廃番に、<br/>「スタンダード・ストラトキャスター」「エリート・ストラトキャスター」他へとモデルが分岐 |- |colspan="5"|''1985年 Bill Schultzによる会社買収で"CBS時代"が終焉、現行のFMIC体制へ'' |} == 「ヴィンテージ」市場の存在 == ストラトキャスターの中でも製造年の古い個体は「ヴィンテージ」と呼ばれ、中古市場において高価格で取引されている。[[2013年]]には[[ボブ・ディラン]]が使用した1964年製のストラトキャスターが[[クリスティーズ]]で[[競売]]にかけられ、ギターとしては史上最高額の96万5000ドル(約9930万円)で落札された<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/8325434/ ボブ・ディランさん使用のエレキギター、史上最高額で落札] AFPBB News 2013年12月8日</ref>。 ヴィンテージ市場は1980年代末から一貫して高騰基調にあり、現在ではフェンダー社がCBS社に買収される以前(1954年から1965年前期までのモデル。Pre-CBSと呼ばれる)が状態によっては数百万円、またはそれ以上の価格で取引されることもある。またフェンダー・ジャパンの最初期モデルは「ジャパン・ヴィンテージ」と呼ばれ、日本独自の中古市場が形成されている。 ストラトキャスターの製造初年である1954年製のシリアルナンバー#0001の個体(<small>英語版 "[[:en:The 0001 Strat|The 0001 Strat]]"</small>)は、ピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモアが1970年代から現在まで所有している。2004年に、イギリスで行われたストラトキャスターの50周年記念のライヴの際も使用された。ただし、このギターはあくまでも「ネック・ジョイントプレートにシリアルナンバーが記載されている」物としての1号機であり、これ以前に、「ボディ裏面にあるスプリングカバー(バックプレート)にシリアルナンバーが記載されている」物を含め250台程度存在するので、正真正銘の第1号機ではない。なお、この「ネックシリアル1号機」は、ブロンドカラー、ゴールドパーツの特注品である。正真正銘の第1号(バックプレートシリアル0001)機については、一時北米のコレクターが所有していると言う噂が飛び交ったがデマと判明し、現在に至るまで発見されていない(バックプレートは紛失し易く、弦交換の手順を簡素化させるため取り外して弾くプレイヤーが多く、更には容易に取り替えが効くため、事実確認が困難)。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Reflist|2|group="注"}} ===出典=== <references /> == 外部リンク == {{commonscat|Stratocaster}} *[http://www.fender.com/ 公式サイト] {{Fender}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:すとらときやすたあ}} [[Category:ギターの機種]]
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第5の力
第5の力(だいごのちから、英: fifth force)とは、次の表式: によって示されるポテンシャル Vij(r) の勾配として現れる力である。ただし、G は万有引力定数で、mi, mj は2つの物体(指標i, j )の質量、r は2物体間の距離、αij は |αij| ≤ 1程度の i, j に依存した定数、λ は相互作用の到達し得る距離を表す量で、およそ数メートルから数キロメートルのオーダーと考えられている。 自然界を支配するといわれる4つの力(重力、電磁気力、弱い力、強い力)以外の力として存在する可能性が指摘されているため、第5の力との名がある。(1 / r)e は湯川型ポテンシャルの形をしている。 1970年代初めに藤井保憲によって提案され、後にエフライム・フィッシュバッハ(ドイツ語版)によって第5の力と呼ばれるようになった。実験的な検証で、第5の力の存在を確証付ける結果はまだ得られていない。但し、αij に関しては検証の結果、 と上限があることが分かっている。 1950年代に李政道と楊振寧によって予言された、バリオン数と関係した場の存在に第5の力の端緒が見られる。 1986年には、フィッシュバッハによる新たな第5の力の理論が提唱された。 また、第5の力の存在に否定的な実験結果が得られた以降には、第5の力を打ち消す第6の力の存在を予言する理論も提唱されている。
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{{出典の明記|date=2011年4月}} {{正確性|date=2009年4月}} '''第5の力'''(だいごのちから、{{lang-en-short|fifth force}})とは、次の表式: :<math> V_{ij}(r) = - G {m_i m_j \over {r}} \alpha_{ij} e^{-{r \over {\lambda}}} </math> によって示されるポテンシャル ''V''<sub>''ij''</sub>(''r'') の[[勾配 (ベクトル解析)|勾配]]として現れる[[力 (物理学)|力]]である。ただし、''G'' は[[万有引力定数]]で、''m''<sub>''i''</sub>, ''m''<sub>''j''</sub> は2つの物体(指標''i'', ''j'' )の[[質量]]、''r'' は2物体間の[[距離]]、&alpha;<sub>''ij''</sub> は |α<sub>''ij''</sub>| &le; 1程度の ''i'', ''j'' に依存した定数、&lambda; は[[基本相互作用|相互作用]]の到達し得る距離を表す量で、およそ数メートルから数キロメートルのオーダーと考えられている。 自然界を支配するといわれる[[基本相互作用|4つの力]]([[万有引力|重力]]、[[電磁気力]]、[[弱い相互作用|弱い力]]、[[強い相互作用|強い力]])以外の力として存在する可能性が指摘されているため、'''第5の力'''との名がある。(1 / ''r'')''e''<sup>-''r'' / &lambda;</sup> は[[湯川ポテンシャル|湯川型ポテンシャル]]の形をしている。 [[1970年代]]初めに[[藤井保憲]]によって提案され、後に{{仮リンク|エフライム・フィッシュバッハ|de|Ephraim Fischbach}}によって第5の力と呼ばれるようになった。実験的な検証で、第5の力の存在を確証付ける結果はまだ得られていない。但し、&alpha;<sub>''ij''</sub> に関しては検証の結果、 :<math> |\alpha_{ij}| \le 10^{-4} </math> と上限があることが分かっている。 1950年代に[[李政道]]と[[楊振寧]]によって予言された、[[バリオン数]]と関係した[[場]]の存在に第5の力の端緒が見られる<ref name="fifth force">[http://www.sice.jp/handbook/第5の力 第5の力(提供: 計測自動制御学会)]{{リンク切れ|date=2020年2月}}</ref>。 1986年には、フィッシュバッハによる新たな第5の力の理論が提唱された<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/110002076321 第5の力は存在するか?]</ref>。 また、第5の力の存在に否定的な実験結果が得られた以降には、第5の力を打ち消す第6の力の存在を予言する理論も提唱されている<ref name="fifth force"/>。 == 関連項目 == * [[ブランス=ディッケ理論]] ([[:en:Brans-Dicke theory|en]]) - 第五の力を仮定している重力理論。1961年に提唱された。 * [[クインテッセンス (宇宙論)|クインテッセンス]] == 脚注 == {{reflist}} {{基本相互作用}} {{DEFAULTSORT:たい5のちから}} [[Category:素粒子物理学]] [[Category:インタラクション]]
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907年
907年(907 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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907年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|907}} {{year-definition|907}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丁卯]] * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[唐]] : [[天祐 (唐)|天祐]]4年 ** [[五代十国時代|五代]] *** [[後梁]] : [[開平 (五代後梁)|開平]]元年 ** [[五代十国時代|十国]] *** [[呉 (十国)|呉]] : [[天祐 (唐)|天祐]]4年(唐の元号を使用) *** [[前蜀]] : [[天復 (唐)|天復]]7年(唐[[昭宗 (唐)|昭宗]]の元号を使用) ** [[遼]]{{Sup|*}} : [[耶律阿保機|太祖]]元年 * 中国周辺 ** [[渤海 (国)|渤海]] : {{lang|zh|[[大イン譔|大諲譔]]}}元年 ** [[南詔]] : [[安国 (南詔)|安国]]5年 * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[延喜]]7年 ** [[皇紀]]1567年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[新羅]] : [[孝恭王]]10年 ** [[後高句麗|泰封]] : [[聖冊]]3年 ** [[後百済]] : [[正開]]8年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3240年 * [[仏滅紀元]] : 1449年 - 1450年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 294年 - 295年 * [[ユダヤ暦]] : 4667年 - 4668年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=907|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[6月2日]](天祐4年/開平元年[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]) - [[朱全忠]]が[[唐]]の[[哀帝 (唐)|哀帝]]から[[禅譲]]を受けて[[後梁]]を建国し、唐が滅亡、そして五代十国時代が始まる。 * [[延喜通宝]]を鋳造 * [[延喜格]]が完成 == 誕生 == {{see also|Category:907年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[ヴァーツラフ1世 (ボヘミア公)|ヴァーツラフ1世]]、[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア公]](+ [[935年]]) * [[式明親王]]、[[平安時代]]の[[皇族]](+ [[967年]]) == 死去 == {{see also|Category:907年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[7月20日]](延喜7年[[6月8日 (旧暦)|6月8日]]) - [[藤原温子]]、[[宇多天皇]]の[[女御]](* [[872年]]) * [[哀帝 (唐)|哀帝]]、[[唐]]の末代[[皇帝]](* [[892年]]) * [[アールパード]]、[[マジャル人]]の首長、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の[[アールパード朝]]初代の君主(* [[845年]]) * [[イスマーイール・サーマーニー]]、[[サーマーン朝]]の[[アミール]](* 生年未詳) * [[紀友則]]、[[平安時代]]の[[公家]]、[[歌人]]、[[三十六歌仙]]の一人(* [[845年]]?) * [[曲承裕]]、[[ベトナム]]の[[豪族]]、自称'''静海軍節度使'''(* 生年未詳) * [[大瑋カイ|大瑋瑎]]、[[渤海 (国)|渤海]]の第14代王(* 生年未詳) * [[藤原敏行]]、平安時代の公家、歌人、[[書家]]、三十六歌仙の一人(* 生年未詳) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|907}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=10|年代=900}} {{デフォルトソート:907ねん}} [[Category:907年|*]]
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Ya-Ya-yah
Ya-Ya-yah(ヤーヤーヤー)は、ジャニーズ事務所に所属していたジャニーズJr.内 男性アイドルグループ。 グループ名の由来については、結成時のメンバーの頭文字、初期メンバーのイニシャル、ビートルズの曲『A Hard Day's Night』(旧邦題『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』)など諸説ある。 プロフィール出典 タイアップに関してはジャニーズ タイアップ一覧#Ya-Ya-yahを参照のこと。JASRAC公式サイトの「作品データベース検索サービス」において、アーティスト名に「Ya-Ya-yah」を含む楽曲の検索結果をもとに記述。 各メンバー単独出演は、それぞれの記事に記載。 ジャニーズJr.としての出演のみ。その他は#単独コンサートを参照。
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Ya-Ya-yah(ヤーヤーヤー)は、ジャニーズ事務所に所属していたジャニーズJr.内 男性アイドルグループ。 グループ名の由来については、結成時のメンバーの頭文字、初期メンバーのイニシャル、ビートルズの曲『A Hard Day's Night』(旧邦題『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』)など諸説ある。
{{Otheruses|アイドルグループ|テレビ番組|Ya-Ya-yah (テレビ番組)|[[CHAGE and ASKA]]の楽曲|YAH YAH YAH/夢の番人}} {{出典の明記|date=2020年9月}} {{TVWATCH}}{{告知|議論|利用者 Aikata28氏による「記事の私有化」の疑い|date=2022年8月3日}}{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照--> | 名前 = Ya-Ya-yah | 画像 = | 画像説明 = | 画像サイズ = <!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | 画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | 背景色 = group | 別名 = | 出身地 = {{JPN}} | ジャンル = [[J-POP]] | 活動期間 = [[2001年]]冬<ref name="tsite" /> - [[2007年]][[10月]] | レーベル = [[ポニーキャニオン]]([[2002年]]) | 事務所 = [[ジャニーズ事務所]] | 共同作業者 = | 公式サイト = | メンバー = [[薮宏太]]<br/>[[八乙女光]]<br/>[[鮎川太陽]]<br/>[[山下翔央]]<!-- グループのみ --> | 旧メンバー = [[赤間直哉]]<br/>星野正樹<br/>安藤靖浩<br/>吉田雄基<!-- グループのみ --> | 著名使用楽器 = }} '''Ya-Ya-yah'''(ヤーヤーヤー)は、[[ジャニーズ事務所]]に所属していた[[ジャニーズJr.]]内[[男性アイドルグループ]]。 グループ名の由来については、結成時のメンバーの頭文字<ref name="duet200204_50-51">{{Cite journal|和書|title = YA-YA-YAH発進!|pages = 50-51|journal = Duet|issue = 2002年4月号|publisher = ホーム社}}</ref>、初期メンバー{{Refnest|group="注"|出典<ref name="読売20030306"/>にはY(藪)、A(赤間)、Y(山下)、A(鮎川)、H(星野)と記載されている。}}のイニシャル<ref name="読売20030306">田中誠「[ZipZap]仕事、気合入る いえーいッ Ya-Ya-yahの皆さん」『読売新聞』2003年3月6日、朝刊2部、第1面。</ref>、[[ビートルズ]]の曲『[[ア・ハード・デイズ・ナイト (曲)|A Hard Day's Night]]』(旧邦題『[[ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (映画)|ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!]]』)<ref>{{Cite news | title = ジャニーズJr.が最年少武道館ライブ| newspaper = [[デイリースポーツ|Daily Sports online]]| date = 2006-11-26| url = http://www.daily.co.jp/gossip/2006/11/26/0000176808.shtml| accessdate = 2017-02-16|archiveurl= https://web.archive.org/web/20061128074940/http://www.daily.co.jp/gossip/2006/11/26/0000176808.shtml|archivedate= 2006-11-28}}</ref><ref name="sponichi20070103">{{Cite news | title = 「ジャニーズJr」武道館で新春公演| newspaper = [[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]| date = 2007-01-03| url = http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/2005jya/KFullNormal20070103008.html| accessdate = 2016-12-25|archiveurl= https://web.archive.org/web/20070110005917/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/2005jya/KFullNormal20070103008.html|archivedate= 2007-01-10}}</ref>など諸説ある。 == メンバー == プロフィール出典<ref name="duet200204_50-51" /> * '''[[薮宏太]]'''(やぶ こうた、[[1990年]][[1月31日]] - ) - 神奈川県出身。 * '''[[八乙女光]]'''(やおとめ ひかる、[[1990年]][[12月2日]] - ) - 宮城県出身。[[2003年]]に加入<ref name="tower">{{Cite web|和書|title=アーティスト詳細 - 八乙女光 |work=TOWER RECORDS ONLINE |publisher=[[タワーレコード]] |date=2012-08-30 |url=https://tower.jp/artist/1062579 |accessdate=2016-02-21 }}</ref>。 * '''[[鮎川太陽]]'''(あゆかわ たいよう、[[1991年]][[1月18日]] - ) - 東京都出身。 * '''[[山下翔央]]'''(やました しょおん、[[1988年]][[12月20日]] - ) - 東京都出身。 === 旧メンバー === * '''[[赤間直哉]]'''(あかま なおや、[[1991年]][[4月5日]] - ) - 東京都出身。 * '''星野正樹'''(ほしの まさき、[[1987年]][[10月10日]] - ) - 東京都出身。 * '''安藤靖浩'''(あんどう やすひろ、1987年1月21日 - ) - 大阪府出身。 * '''吉田雄基'''(よしだ ゆうき、1987年11月16日 - ) - 東京都出身。 == 来歴 == ;2001年 :* [[2001年]]冬にグループが結成される<ref name="tsite" />。 : ;2002年 :* 2月23日発売の『Myojo』4月号にて薮宏太・鮎川太陽・赤間直哉・山下翔央の4名で、平均年令11.5才の新ユニット「YA-YA」(ヤーヤー)として紹介される。グループ名はメンバーのイニシャルから<ref>{{Cite journal|和書 |title=来!来!Jr.軒 はじめまして!Jr.平均年令11.5才の新ユニット誕生! YA-YA|journal=Myojo |publisher=集英社|issue=2002年4月号|pages=102-103|date=2002-02-23}}</ref>。 :* 『[[Duet]]』4月号にて薮宏太・鮎川太陽・山下翔央・赤間直哉・星野正樹・安藤靖浩・吉田雄基の7名で、平均年齢12.7才のJr.新ユニット「YA-YA-YAH」として紹介される<ref name="duet200204_50-51" />。 :* [[フジテレビジョン|フジテレビ]]の大型スポーツイベント「KICK!ODAIBA 2002」(4月27日 - 5月6日)のオープニングイベントに参加してスペシャルライブを行い、CDデビュー決定を発表<ref name="sanspo20020428">{{cite news |title= Ya-Ya-Yah、光GENJIの曲でCDデビュー |newspaper = [[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]] |date= 2002-04-28 |url= http://www.sanspo.com/geino/top/gt200204/g_top2002042804.html|accessdate=2016-01-08 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20031005150927/http://www.sanspo.com/geino/top/gt200204/g_top2002042804.html|archivedate= 2003-10-05}}</ref>。この時のメンバーは薮宏太、赤間直哉、山下翔央、鮎川太陽、星野正樹の5人<ref name="tsite" /><ref name="sanspo20020428" />。 :* 5月15日、『[[勇気100%/世界がひとつになるまで]]』にてCDデビュー<ref name="tsite">{{Cite web|和書| author =高城龍二| title = 【ジャニーズ深堀】幻のグループ「Ya-Ya-yah」 Hey!Say!JUMP登場で複雑なファン心理と、メンバーの今| publisher = T-SITEニュース| date = 2015-11-17| url = http://top.tsite.jp/news/johnnys/i/26269869/| accessdate = 2015-11-28|archiveurl= https://archive.is/rLqSe|archivedate= 2015-11-28}}</ref>。ユニットの平均年齢は当時の事務所において史上最年少のCDデビューであった<ref name="tsite" /><ref name="sanspo20020428" />。 : ;2003年 :* 1月5日、[[テレビ東京]]系列バラエティ番組『[[Ya-Ya-yah (テレビ番組)|Ya-Ya-yah]]』が放送開始される<ref name="tsite" />。7月のグループ主演舞台『[[Stand by Me]]』から八乙女光が加入し<ref name="tower" /><ref name="nikkan20030725">{{Cite news | title = ジャニーズJr.藪宏太が宿題抱えて舞台| newspaper = [[日刊スポーツ|nikkansports.com]]| date = 2003-07-25| url = http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/p-et-tp0-030725-0005.html| accessdate = 2016-12-25|archiveurl= https://web.archive.org/web/20030810014118/http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/p-et-tp0-030725-0005.html|archivedate= 2003-08-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書| title =Johnny’snet>Artists>Hey!Say!JUMP>Biography>2003 | url = https://www.johnnys-net.jp/page?id=bio&artist=15&year=2003| accessdate = 2019-10-02}}</ref>、6人体制となる。 : ;2004年 :* アイドル雑誌のYa-Ya-yahのページから赤間・星野の姿がなくなり、薮・八乙女・鮎川・山下の4人で紹介される<ref>{{Cite journal|和書|title = アラタメマシテ!|pages = 56-59|journal = duet|issue = 2004年6月号|publisher = [[ホーム社]]}}</ref>。 :* 10月15日より、薮・八乙女・鮎川が[[TBSテレビ|TBS]]系ドラマ『[[3年B組金八先生|3年B組金八先生 第7シリーズ]]』に出演<ref>{{Cite news | title = Ya-Ya-yahの鮎川ら出演…TBS金八先生| newspaper = [[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]]| date = 2004-09-05| url = http://www.sanspo.com/geino/top/gt200409/gt2004090508.html| accessdate = 2016-07-07|archiveurl= https://web.archive.org/web/20050207085849/http://www.sanspo.com/geino/top/gt200409/gt2004090508.html|archivedate= 2005-02-07}}</ref>し「[[ジャニーズJr.解散グループ (1990年以降)#金八トリオ|金八トリオ]]」と呼ばれる。 : ;2005年 :* 1月、[[横浜アリーナ]]にて初の単独コンサートを行なう<ref name="tsite" /><ref name="sanspo20050103">{{cite news |title= Ya-Ya-yah初の単独コンサート…春休みにも |newspaper = [[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]] |date= 2005-01-03 |url= http://www.sanspo.com/geino/top/gt200501/gt2005010305.html|accessdate=2016-02-21 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20051113091751/http://www.sanspo.com/geino/top/gt200501/gt2005010305.html|archivedate= 2005-11-13}}</ref>。「金八トリオ」が第8回[[日刊スポーツ]]・ドラマグランプリ新人賞を受賞<ref name="nikkan_dramagp">{{Cite news | title = 金八トリオ 麻薬・自殺未遂 重いテーマに10代が体当たり| newspaper = [[日刊スポーツ|nikkansports.com]]| date = 2005| url = http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/drama_gp/2005/dgp-0507shinjin.html| accessdate = 2017-08-01|archiveurl= https://web.archive.org/web/20051219123449/http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/drama_gp/2005/dgp-0507shinjin.html|archivedate= 2005-12-19}}</ref>。 : ;2007年 :* 9月21日、薮と八乙女が同事務所所属グループ「[[Hey! Say! JUMP]]」のメンバーとなり<ref name="tsite" />、番組『Ya-Ya-yah』も10月27日放送分で最終回を迎え、その後活動が見られなくなる{{Refnest|group="注"|解散との公式声明は無し<ref name="modelpress20170119">{{Cite web|和書| title = 薮宏太&八乙女光、“Ya-Ya-yah”復活が話題「帝劇が揺れた」| publisher = [[モデルプレス]]| date = 2017-01-19| url = https://mdpr.jp/news/detail/1656826| accessdate = 2017-01-25}}</ref>。}}。 : ; 2017年 :* [[帝国劇場]]で行われていた舞台『[[JOHNNYS' World -ジャニーズ・ワールド-#JOHNNYS' ALL STARS IsLAND(2016年-2017年)|JOHNNYS' ALL STARS IsLAND]]』の1月19日の公演に「Ya-Ya-yah」として薮宏太と八乙女光がゲスト出演して話題になる<ref name="modelpress20170119" />。 == 作品 == === CD === :* [[勇気100%/世界がひとつになるまで|勇気100%/世界がひとつになるまで]](2002年5月15日) - 薮・赤間・鮎川・山下・星野<ref name="tsite" /> === 楽曲 === タイアップに関しては[[ジャニーズ タイアップ一覧#Ya-Ya-yah]]を参照のこと。[[日本音楽著作権協会|JASRAC]]公式サイトの「作品データベース検索サービス」において、アーティスト名に「Ya-Ya-yah」を含む楽曲の検索結果をもとに記述。 <!--ソロ楽曲はそれぞれの個人ページに記載--> * LOVE together 2002<ref name="sanspo20020428" />(作詞:[[堂本光一]]、作曲:[[馬飼野康二]]){{Refnest|group="注"|原曲は2001年に発表された[[☆☆I★N★G★進行形]]のオリジナル曲<ref>{{cite news |title= 光一“演出”ジャニーズ新ユニット|newspaper = [[スポーツニッポン|Sponichi Annex]] |date= 2001-06-27 |url= http://www.sponichi.co.jp/entertainment/kiji/2001/06/27/02.html|accessdate=2016-07-07 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20011213232208/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/kiji/2001/06/27/02.html|archivedate= 2001-12-13}}</ref>。}} ** JASRAC作品コード:092-9792-8 * 合言葉はYa-Ya-yah<ref name="winkup200506_74-75">{{Cite journal|和書|title = 金八トリオ卒業記念 Ya-Ya-yah 05春休み横浜アリーナコンサート|pages = 74-75|journal = Wink up|issue = 2005年6月号|publisher = ワニブックス}}</ref>(作詞:YUKAKO、作曲:馬飼野康二) ** JASRAC作品コード:106-0850-8 * Singin for you<ref name="winkup200506_74-75" />(作詞:[[TAKESHI]]、作曲:[[ha-j]]) ** JASRAC作品コード:108-0870-1 * Just wanna lovin' you<ref name="winkup200506_74-75" />(作詞:[[平田純子]]、作曲:[[清水達也]]) ** JASRAC作品コード:109-9452-1 * Up Down Ya-Ya-yah<ref name="winkup200506_74-75" />(作詞・作曲:[[永井真人]]) ** JASRAC作品コード:109-9349-5: * START!<ref name="winkup200506_74-75" />(作詞・作曲:酒井ミキオ) ** JASRAC作品コード:122-6017-7 * Never stop the Music<ref name="winkup200506_74-75" />(作詞:[[成瀬英樹]]・[[飯田建彦]]、作曲:飯田建彦) ** JASRAC作品コード:122-6021-5 * 2 of Us<ref name="winkup200506_74-75" />(作詞:[[821R]]・飯田建彦、作曲:飯田建彦) ** JASRAC作品コード:122-6022-3 * 風に乗って(作詞・作曲:[[岩崎貴文]]) ** JASRAC作品コード:126-6173-2 * ひまわりのメロディ(作詞:相田毅、作曲:谷本新) ** JASRAC作品コード:128-7037-4 * 新しい夜明け(作詞:小間浩子、作曲:[[酒井ミキオ]]) ** JASRAC作品コード:122-6018-5 * BAD★NICE(作詞:相田毅、作曲:西岡和哉) ** JASRAC作品コード:134-9085-1 * IKUJINASHI(作詞・作曲:[[宮崎歩]]) ** JASRAC作品コード:128-7059-5 * JEWEL STAR(作詞:821R/[[漆野淳哉]]、作曲:[[清水昭男]]) ** JASRAC作品コード:132-4821-9 * サマー×サマー×サマー!(作詞:日比野裕史・821R、作曲:日比野裕史) ** JASRAC作品コード:132-7454-6 * TO THE FREEDOM(作詞・作曲:[[Gajin]]) ** JASRAC作品コード:134-9082-6 * 愛しのプレイガール(作詞:[[Zopp]]、作曲:熊谷憲康) ** JASRAC作品コード:137-0182-7 * 手をつないでゆこう(作詞:Ya-Ya-yah・酒井ミキオ、作曲:酒井ミキオ) ** JASRAC作品コード:137-0192-4 * 世界がひとつになるまで(作詞:松井五郎、作曲:馬飼野康二) ** JASRAC作品コード:028-9763-6 * 憧れのEGOIST(作詞:古屋真、作曲:[[TSUKASA (作曲家)|TSUKASA]]) ** JASRAC作品コード:134-9096-6 * いま進もう(作詞:八乙女光、作曲:磯崎建史) ** JASRAC作品コード:140-7468-1 * BABY BABE(作詞:[[白井裕紀]]、作曲:JOVETTE RIVERA AND [[ジョーイ・カーボーン|JOEY CARBONE]]) ** JASRAC作品コード:142-9646-2 * U-WA U-WA(作詞:TAKESHI、作曲:飯田建彦) ** JASRAC作品コード:103-5110-8 == 出演 == 各メンバー単独出演は、それぞれの記事に記載。 === バラエティ === <!-- レギュラー出演のみ --> * [[ポンキッキーズ21]](2002年4月 - 2004年3月、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) * [[Ya-Ya-yah (テレビ番組)|Ya-Ya-yah]](2003年1月5日 - 2007年10月27日、[[テレビ東京]])<ref name="sanspo20031103">{{cite news |title= 関ジャニ8が「Ya-Ya-yah」の年末拡大版出演 |newspaper = [[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]] |date= 2003-11-03 |url= http://www.sanspo.com/geino/top/gt200311/gt2003110306.html|accessdate=2016-07-07 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20050207223841/http:/www.sanspo.com/geino/top/gt200311/gt2003110306.html|archivedate= 2005-02-07}}</ref> * [[ザ少年倶楽部]](2002年1月 - 2007年10月、[[NHK衛星第2テレビジョン|NHK-BS2]]・[[NHKデジタル衛星ハイビジョン|BShi]]) === CM === * KICK!フジテレビ - 薮・赤間・鮎川・山下・星野 * [[不二家]] ファイブスター - 薮・赤間・鮎川・山下・星野 * [[ピザーラ]] スーパービンゴ篇 - 薮・八乙女・鮎川・山下<ref name="sanspo20031103" /> * [[進研ゼミ高校講座]](2007年) - 鮎川・山下<ref>{{Cite web|和書| title = 鮎川太陽のCM出演情報| publisher = [[オリコン|ORICON STYLE]]| url = https://www.oricon.co.jp/prof/475480/cm/| accessdate = 2015-12-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書| title = 山下翔央のCM出演情報| publisher = [[オリコン|ORICON STYLE]]| url = https://www.oricon.co.jp/prof/383875/cm/| accessdate = 2015-12-27}}</ref> === 舞台 === * [[Stand by Me]](2003年7月25日 - 8月10日、[[東京芸術劇場]]中ホール) - '''主演'''(薮・山下・鮎川・八乙女)<ref name="nikkan20030725" /><ref>{{Cite news | title = Ya-Ya-yah主演で6年ぶり「スタンド・バイ・ミー」 | newspaper = [[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]]| date = 2003-07-25| url = http://www.sanspo.com/geino/top/gt200307/gt2003072524.html| accessdate = 2016-07-07|archiveurl= https://web.archive.org/web/20050206040044/http://www.sanspo.com/geino/top/gt200307/gt2003072524.html|archivedate= 2005-02-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書| title ="Johnny's net>Artists>Hey!Say!JUMP>Biography>Hey!Say!JUMP>2003" | url = https://www.johnnys-net.jp/page?id=bio&artist=15&year=2003 | accessdate = 2019-10-01}}</ref> ** Stand by Me(2004年7月16日 - 8月1日、[[東京グローブ座]]) - '''主演'''(薮・山下・鮎川・八乙女)<ref>{{Cite news | title = 「Ya−Ya−yah」がスタンド・バイ・ミー | newspaper = [[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]| date = 2004-05-17| url = http://www.sponichi.co.jp/entertainment/kiji/2004/05/17/05.html| accessdate = 2016-07-07|archiveurl= https://web.archive.org/web/20040624212021/http:/www.sponichi.co.jp/entertainment/kiji/2004/05/17/05.html|archivedate= 2004-06-24}}</ref><ref>{{Cite news | title = Ya-Ya-yah1年ぶりの「スタンド・バイ・ミー」| newspaper = SANSPO.COM| date = 2004-05-16| url = http://www.sanspo.com/geino/top/gt200405/gt2004051715.html| accessdate = 2021-08-08|archiveurl= https://web.archive.org/web/20050207183646/http://www.sanspo.com/geino/top/gt200405/gt2004051715.html|archivedate= 2005-02-07}}</ref> * One!-the history of Tackey-(2006年9月15日 - 28日、[[日生劇場]]) - 薮・八乙女<ref>DVD『One! -the history of Tackey-』の付属ブックレットにあるクレジットにて確認。</ref> === コンサート === ジャニーズJr.としての出演のみ。その他は[[#単独コンサート]]を参照。 * お客様は神サマーConcert 55万人愛のリクエストに応えて!!(2002年8月10日 - 8月28日) - 薮・赤間・鮎川・山下・星野 * A Happy "NEWS" year 2004新春(2004) - 薮・鮎川・山下 * [[SUMMARY#SUMMARY 2004|Johnnys Theater “SUMMARY” of Johnnys World]](2004年8月8日 - 29日、原宿・新ビッグトップ)<ref>{{Cite news | title = 歴史的舞台「ジャニーズ」の42年をショー化 | newspaper = [[夕刊フジ|zakzak]]| date = 2004-06-03| url = http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_06/g2004060305.html| accessdate = 2017-08-01|archiveurl= https://web.archive.org/web/20041010103410/http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_06/g2004060305.html|archivedate= 2004-10-10}}</ref> - 薮・八乙女・鮎川・山下・星野 * [[SUMMARY#SUMMARY 2005|SUMMARY Ya-Ya-yah show time]](2005年7月29日 - 31日、[[エプソン アクアパーク品川#ステラボール|品川アクアスタジアムステラボール]])<ref name="nikkan_dramagp" /><ref>{{Cite news | title = 「ジャニーズサマリー」品川がラスベガスに| newspaper = [[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]| date = 2005-06-18| url = http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/2005jya/KFullNormal20050618031.html| accessdate = 2017-02-16|archiveurl= https://web.archive.org/web/20051220165118/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/2005jya/KFullNormal20050618031.html|archivedate= 2005-12-20}}</ref> - 薮・八乙女・鮎川・山下 * ジャニーズJr.の大冒険!(2006年8月15日 - 25日、[[ホテル・グランパシフィック・メリディアン]])<ref>{{Cite journal|和書|title=ジュニアの夏も熱い!|pages=65-66|journal=POTATO|issue=2006年9月号|date=2006-08-07|publisher=[[Gakken|学研]]}}</ref> * you達の音楽大運動会(2006年9月30日、10月1日、[[国立代々木競技場]])<ref>{{Cite news | title = ジャニーズJr.大集合!「you達の音楽大運動会」開催| newspaper = [[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]]| date = 2006-10-02| url = http://www.sanspo.com/geino/top/gt200610/gt2006100207.html| accessdate = 2016-07-07|archiveurl= https://web.archive.org/web/20061130215635/http://www.sanspo.com/geino/top/gt200610/gt2006100207.html|archivedate= 2006-11-30}}</ref> * 2007 謹賀新年 あけましておめでとう ジャニーズJr.大集合(2007年1月2日 - 1月7日、[[日本武道館]])<ref name="sponichi20070103" /><ref>{{Cite news | title = ジャニーズJr.デビュー前に武道館5公演| newspaper = [[スポーツ報知]]| date = 2007-01-03| url = https://web.archive.org/web/20070105090830/http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/johnnys/news/20070103-OHT1T00051.htm| accessdate = 2016-07-07|archiveurl= https://web.archive.org/web/20080522080853/http:/hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/johnnys/news/20070103-OHT1T00051.htm|archivedate= 2008-05-22}}</ref> * ジャニーズJr.の大冒険!@メリディアン'07(2007年8月15日 - 24日、ホテル・グランパシフィック・メリディアン パレ・ロワイヤル)<ref>{{Cite journal|和書|title = 完全燃焼夏LIVE!!ジャニーズJr.の大冒険!'07@メリディアン|pages = 87-90|journal = POTATO|issue = 2007年10月号|publisher = [[Gakken|学研]]}}</ref> * JOHNNYS'Jr. Hey Say 07 in YOKOHAMA ARENA(2007年9月23日、9月24日(第1部のみ)) ==== 単独コンサート ==== {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- | rowspan=2|2005年 | 1月2日 | 新年so-soh [[ジャニーズJr.解散グループ (1990年以降)#金八トリオ|金八トリオ]]Ya-Ya-yah コンサート | 1か所1公演<br />1万5000人動員<ref name="sanspo20050103" /> | [[横浜アリーナ]] | 初の単独コンサート<ref name="sanspo20050103" />。[[NEWS (グループ)|NEWS]]や[[KAT-TUN]]が応援に駆け付けた<ref name="sanspo20050103" />。 |- | 3月26日 | Ya-Ya-yah 春休み横浜アリーナコンサート | 1か所2公演<br />3万人動員<ref name="chunichi20050327">{{Cite news | title = 金八卒コンYa-Ya-yahハマで弾ける4人組、2度目単独ライブ| newspaper = [[中日スポーツ|CHUNICHI Web Press]]| date = 2005-03-27| url = http://chuspo.chunichi.co.jp/00/hou/20050327/spon____hou_____000.shtml| accessdate = 2019-02-07|archiveurl= https://web.archive.org/web/20050327035429/http:/chuspo.chunichi.co.jp/00/hou/20050327/spon____hou_____000.shtml|archivedate= 2005-03-27}}</ref> | 横浜アリーナ | 2度目の単独コンサート<ref name="sanspo20050327">{{Cite news | title = Ya-Ya-yahが2度目の単独コンサート| newspaper = [[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]]| date = 2005-03-27| url = http://www.sanspo.com/geino/top/gt200503/gt2005032704.html| accessdate = 2019-02-07|archiveurl= https://web.archive.org/web/20051203222334/http:/www.sanspo.com/geino/top/gt200503/gt2005032704.html|archivedate= 2005-12-03}}</ref>。オリジナル曲を中心に全25曲を披露。「金八トリオ卒業記念コンサート」と題され、[[亀梨和也]]がスペシャルゲストとして登場。『[[3年B組金八先生]]』で八乙女が演じた丸山しゅうの“特別卒業式”が行われ、劇中では受け取れなかった卒業証書が渡される演出もあった。<ref name="chunichi20050327" /><ref name="sanspo20050327" /> |} === イベント === * KICK! ODAIBA 2002(2002年4月29日 - 5月6日、[[お台場]] フジテレビ) - 薮・赤間・鮎川・山下・星野<ref name="sanspo20020428" /> * 忍たま乱太郎 10周年記念イベント(2002年5月12日、[[Zepp|Zepp TOKYO]]) - 薮・赤間・鮎川・山下・星野<ref>{{Cite news | title = 「Ya-Ya-yah」にキャーキャーキャー1万人| newspaper = [[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]]| date = 2002-05-13| url = http://www.sanspo.com/geino/top/gt200205/g_top2002051303.html| accessdate = 2016-07-07|archiveurl= https://web.archive.org/web/20031208050818/http:/www.sanspo.com/geino/top/gt200205/g_top2002051303.html|archivedate= 2003-12-08}}</ref> * 忍たま乱太郎 公開イベント(2002年6月22日、Zepp TOKYO) - 薮・赤間・鮎川・山下・星野 * パタヤミュージックフェスティバル(2003年3月19日 - 24日、[[タイ王国]]) - 薮・八乙女(メンバー外として出演)・山下 === 連載 === * [[学習研究社]]『[[TV LIFE]]』「課外授業」(2007年)※首都圏版・関西版のみ<ref>{{Cite web|和書|title=アーティスト情報 > ジャニーズJr. |url=http://www.johnnys-net.jp/artist/info/jr.html |website=Johnny's net|publisher=ジャニーズ事務所 |access-date=2022-11-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070225144605/http://www.johnnys-net.jp:80/artist/info/jr.html|archivedate= 2007-02-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ジャニーズJr. > Media |url=http://www.johnnys-net.jp/j/artists/j_jr/media/media.html |website=Johnnys net|publisher=ジャニーズ事務所 |access-date=2022-11-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071027011921/http://www.johnnys-net.jp/j/artists/j_jr/media/media.html|archivedate= 2007-10-27}}</ref> === 関連書籍 === * [[Ya-Ya-yahがやってくる!]]([[集英社]]『[[りぼん]]』)<ref>{{Cite news | title = “ジャニーズ作品”漫画化ラッシュ| newspaper = [[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]| date = 2005-06-26| url = http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/2005jya/KFullNormal20050626011.html| accessdate = 2016-07-07}}</ref> - [[北沢薫]]の漫画。メンバーと架空のキャラクターの交流を描いている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} {{ポンキッキシリーズ}} {{Hey! Say! JUMP}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:やあやあやあ}} [[Category:Ya-Ya-yah|*]] [[Category:Hey! Say! JUMP]] [[Category:4人組の音楽グループ]] [[Category:2001年に結成した音楽グループ]] [[Category:2007年に解散した音楽グループ]]
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三種の浄肉
三種の浄肉(さんしゅのじょうにく)とは、初期仏教の僧が托鉢の際、自らが戒律中五戒の不殺生戒を犯さない布施の場合は肉食してよいというもの。 四分律よりその条件は、次のとおり。 訳して、 (見聞知) 簡単な例を挙げると、こういう事になる。 夕刻、托鉢の際に僧侶が村を訪れた。ある家では鶏肉のカレーを作っていた。この際、 比丘・比丘尼とは当時の言語で「乞食」という意味であり、托鉢は他人の余りものを物乞いして食するという意味であったからである。あくまでも他人の食事の余りものを食べているのだからその肉を食べようとも間接殺にはならない。また他人から物乞いして食べ物を享受している立場にありながら、食事に好き嫌いを示すのはよろしくないという理由である。比丘・比丘尼は托鉢によって日々の糧を得るが、食物を布施する在家の者の皆が食事を選り好み出来る身分の者ばかりではなかった。獣の肉しか提供できない者からの布施を拒むことは、善行を積む機会を奪うことになる。そのため托鉢僧は、布施された食物は選り好みせず、ありがたく受け取るということである。 実際、托鉢で受け取ったものはすべて食さなければならないとされている。一例としてハンセン病を患うものから托鉢を受けたときその人の指の肉がほげ落ちた場合にその人肉を食したとの記録が教典に存在する。ただし摩訶僧祇律や四分律など各部派仏教の律では十種の不浄肉、あるいは十種肉禁(人間、アジアゾウ、馬、犬、ヘビ、インドライオン、ベンガルトラ、ヒョウ、クマ、シマハイエナ)として三種の浄肉ではなく食べてはならないものがあった。これらの動物の肉を食することによってその匂いが体に移り、これらの動物から身の危険にさらされるからであるとされている。このように仏典には一見矛盾する記述が多く見られる。 大乗仏教では後に中国で大般涅槃経などにより肉食そのものが禁止された。これは大寺院が発展し、在家信者が僧に食事を特別に用意することが広まったため、肉食と間接殺の関係が強まったからではないかといわれている。 日本でもこの思想が輸入され、末法無戒思想を持つ浄土真宗や日蓮宗等を除き肉食が忌避された。1872年(明治5年)に明治政府が「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」という御触れを出したが、その後も伝統を守って肉食自体を忌避する宗派は多い。
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三種の浄肉(さんしゅのじょうにく)とは、初期仏教の僧が托鉢の際、自らが戒律中五戒の不殺生戒を犯さない布施の場合は肉食してよいというもの。 四分律よりその条件は、次のとおり。 訳して、 殺されるところを見ていない 自分に供するために殺したと聞いていない 自分に供するために殺したと知らない  (見聞知) 簡単な例を挙げると、こういう事になる。 夕刻、托鉢の際に僧侶が村を訪れた。ある家では鶏肉のカレーを作っていた。この際、 托鉢中に僧侶が、カレーを作るのを鶏を潰すところから見学したり、家族もしくはその僧侶が鶏を潰した場合――× 同。「自らが殺した獣でない」こと、「殺されるところを見ていない」ことに反する。 恐らく僧侶がこの村を通りかかるであろうから、家族の数より余分にカレーを作り、布施する際、僧侶に「せっかく鶏を潰すのだからお坊さんの分も作りました」と告白した場合――× 口にしてはならない。「自分に供するために殺したと聞いていない」ことに反する。 見当や分量の違いなどからカレーが余ってしまい、たまたま通りかかった僧侶に布施をした場合――○  比丘・比丘尼とは当時の言語で「乞食」という意味であり、托鉢は他人の余りものを物乞いして食するという意味であったからである。あくまでも他人の食事の余りものを食べているのだからその肉を食べようとも間接殺にはならない。また他人から物乞いして食べ物を享受している立場にありながら、食事に好き嫌いを示すのはよろしくないという理由である。比丘・比丘尼は托鉢によって日々の糧を得るが、食物を布施する在家の者の皆が食事を選り好み出来る身分の者ばかりではなかった。獣の肉しか提供できない者からの布施を拒むことは、善行を積む機会を奪うことになる。そのため托鉢僧は、布施された食物は選り好みせず、ありがたく受け取るということである。 実際、托鉢で受け取ったものはすべて食さなければならないとされている。一例としてハンセン病を患うものから托鉢を受けたときその人の指の肉がほげ落ちた場合にその人肉を食したとの記録が教典に存在する。ただし摩訶僧祇律や四分律など各部派仏教の律では十種の不浄肉、あるいは十種肉禁(人間、アジアゾウ、馬、犬、ヘビ、インドライオン、ベンガルトラ、ヒョウ、クマ、シマハイエナ)として三種の浄肉ではなく食べてはならないものがあった。これらの動物の肉を食することによってその匂いが体に移り、これらの動物から身の危険にさらされるからであるとされている。このように仏典には一見矛盾する記述が多く見られる。 大乗仏教では後に中国で大般涅槃経などにより肉食そのものが禁止された。これは大寺院が発展し、在家信者が僧に食事を特別に用意することが広まったため、肉食と間接殺の関係が強まったからではないかといわれている。 日本でもこの思想が輸入され、末法無戒思想を持つ浄土真宗や日蓮宗等を除き肉食が忌避された。1872年(明治5年)に明治政府が「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」という御触れを出したが、その後も伝統を守って肉食自体を忌避する宗派は多い。
'''三種の浄肉'''(さんしゅのじょうにく)とは、[[初期仏教]]の[[僧]]が[[托鉢]]の際、自らが[[戒律]]中[[五戒]]の[[アヒンサー|不殺生戒]]を犯さない[[布施]]の場合は[[肉食]]してよいというもの。 [[四分律]]より<ref>下田正弘「三種の浄肉再考―部派における肉食制限の方向―」(『佛教文化』、第22巻、通巻25号、東京大学仏教青年会、1989年)</ref>その条件は、次のとおり。 :有三種淨肉應食。若不故見不故聞不故疑應食。若不見爲我故殺。不聞爲我故殺。若不見家中有頭脚皮毛血。又彼人非是殺者。乃至持十善。彼終不爲我故斷衆生命。如是三種淨肉應食。 訳して、 *殺されるところを見ていない *自分に供するために殺したと聞いていない *自分に供するために殺したと知らない  (見聞知) 簡単な例を挙げると、こういう事になる。 夕刻、托鉢の際に僧侶が村を訪れた。ある家では鶏肉の[[カレー_(代表的なトピック)|カレー]]を作っていた。この際、 * 托鉢中に僧侶が、カレーを作るのを鶏を潰すところから見学したり、家族もしくはその僧侶が鶏を潰した場合――× 同。「自らが殺した[[獣]]でない」こと、「殺されるところを見ていない」ことに反する。 * 恐らく僧侶がこの村を通りかかるであろうから、家族の数より余分にカレーを作り、布施する際、僧侶に「せっかく鶏を潰すのだからお坊さんの分も作りました」と告白した場合――× 口にしてはならない。「自分に供するために殺したと聞いていない」ことに反する。 * 見当や分量の違いなどからカレーが余ってしまい、たまたま通りかかった僧侶に布施をした場合――○  比丘・比丘尼とは当時の言語で「乞食」という意味であり、托鉢は他人の余りものを物乞いして食するという意味であったからである。あくまでも他人の食事の余りものを食べているのだからその肉を食べようとも間接殺にはならない。また他人から物乞いして食べ物を享受している立場にありながら、食事に好き嫌いを示すのはよろしくないという理由である。比丘・比丘尼は托鉢によって日々の糧を得るが、食物を布施する在家の者の皆が食事を選り好み出来る身分の者ばかりではなかった。獣の肉しか提供できない者からの布施を拒むことは、善行を積む機会を奪うことになる。そのため托鉢僧は、布施された食物は選り好みせず、ありがたく受け取るということである。 実際、托鉢で受け取ったものはすべて食さなければならないとされている。一例として[[ハンセン病]]を患うものから托鉢を受けたときその人の指の肉がほげ落ちた場合にその人肉を食したとの記録が教典に存在する。ただし摩訶僧祇律や四分律など各[[部派仏教]]の律では十種の不浄肉、あるいは十種肉禁([[人間]]、[[アジアゾウ]]、[[ウマ|馬]]、[[犬]]、[[ヘビ]]、[[ライオン|インドライオン]]、[[トラ|ベンガルトラ]]、[[ヒョウ]]、[[クマ]]、[[シマハイエナ]])として三種の浄肉ではなく食べてはならないものがあった。これらの動物の肉を食することによってその匂いが体に移り、これらの動物から身の危険にさらされるからであるとされている。このように仏典には一見矛盾する記述が多く見られる。 [[大乗仏教]]では後に[[中国]]で[[大般涅槃経]]などにより肉食そのものが禁止された。これは大寺院が発展し、在家信者が僧に食事を特別に用意することが広まったため、肉食と間接殺の関係が強まったからではないかといわれている。 日本でもこの思想が輸入され、[[末法]]無戒思想を持つ[[浄土真宗]]や[[日蓮宗]]等を除き肉食が忌避された。[[1872年]]([[明治5年]])に[[明治政府]]が「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」という御触れを出したが、その後も伝統を守って肉食自体を忌避する宗派は多い。 == 脚注 == {{reflist}} {{buddhism-stub}} {{動物の権利}} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:さんしゆのしようにく}} [[Category:仏教倫理]] [[category:原始仏教]] [[Category:仏教の名数3|しゆのしようにく]]
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サザンブロッティング
サザンブロッティング (Southern blotting) とは、エドウィン・サザンが考案した、DNAを同定するための手法である。この手法により、異なる塩基配列を持つさまざまな二重らせんのDNAの混合溶液から、ある特定の塩基配列を持つ分子が存在するかどうかを確かめることが可能である。 名前の由来は、開発者であるエドウィン・サザンの名によるが、この技術を応用して考案された他の方法は、氏の名にあやかりノーザンブロッティングやウェスタンブロッティングと名づけられた。サザンブロッティングは人名由来のため、英文中においてもSouthern-と大文字で書き始められるが、ノーザンブロッティングやウェスタンブロッティングは人名ではないため、northern-、western-と小文字で書き始める慣例がある。 サザンブロット法の第一段階はゲル電気泳動である。ゲル電気泳動とは、試料溶液を流したゲル上で電荷を持つ溶質を大きさや形、全体の電荷密度によって分離する操作である。溶質がDNAの場合、形と電荷密度は一定なので、その長さのみで分けられる。この操作により、塩基対数によりDNAが集まったゲル上の領域を出現した斑点をスポットという。 次の段階は、ゲルを強塩基溶液に浸しながら、ナイロンなどの膜に接触させることである。膜には、二重らせんよりも一本鎖のDNAへの吸着性が強いものを選ぶ。ゲルは多孔性の構造をしているため、強塩基溶液に浸かったゲルのDNAに毛細管現象が働く。そのため、DNAは変性し、一本鎖として膜に移動する。そして、UVもしくは煮沸により膜に固定する。この後、最後の段階として膜上のDNAの塩基配列を同定する。 同定には、ハイブリッド形成を利用する。確認したい塩基配列と相補的な一本鎖に標識を施したものをスポットに付着させる。標識には、リンの放射性同位体やジゴキシゲニン (DIG)、アルカリフォスファターゼ付加などが用いられる。スポットにその配列を含むDNAがあるのなら、二重らせんDNAが発生する。そのため、オートラジオグラフィーなどによって二重らせんを確認することで、同定することができる。 サザンブロット法を使うと、試料に100万個ものDNAがあっても、その中から特定の配列の有無を容易に判定できる。これは、ゲル電気泳動の精度が優れているためだ。ゲル電気泳動では、数百ほどのヌクレオチドからなる核酸で、ヌクレオチドの数が1つだけ違ってもそれを区別することができる(1)。また、構成するヌクレオチドが数百万にもなる全染色体からでも、パルスフィールドゲル電気泳動という方法で個々の染色体を分離することができる。 サザンブロット法はさまざまな研究や技術に貢献している。例えば、ある遺伝子が変異したと思われるとき、それが本当なのかを確認することである。この場合、確かめる遺伝子の配列を認識部位とする制限酵素でDNAを処理し、得られた試料にサザンブロット法を適用する。もし、その遺伝子に変異が起きていたら、その部位が切断されないので、その部位を含む断片は長くなる。このため、ゲル電気泳動で生じる、その断片のスポットの位置が変化する。 このようにして検出される変異には、病気の原因となる場合や、病気の原因となる変異と密接に関係している場合もある。例えば、鎌状赤血球、のう胞繊維症、ハンチントン舞踏病などの遺伝病は、サザンブロット法を用いた制限断片長多型解析によって診断できる。
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サザンブロッティング とは、エドウィン・サザンが考案した、DNAを同定するための手法である。この手法により、異なる塩基配列を持つさまざまな二重らせんのDNAの混合溶液から、ある特定の塩基配列を持つ分子が存在するかどうかを確かめることが可能である。 名前の由来は、開発者であるエドウィン・サザンの名によるが、この技術を応用して考案された他の方法は、氏の名にあやかりノーザンブロッティングやウェスタンブロッティングと名づけられた。サザンブロッティングは人名由来のため、英文中においてもSouthern-と大文字で書き始められるが、ノーザンブロッティングやウェスタンブロッティングは人名ではないため、northern-、western-と小文字で書き始める慣例がある。
'''サザンブロッティング''' (Southern blotting) とは、[[エドウィン・サザン]]が考案した、[[デオキシリボ核酸|DNA]]を同定するための手法である。この手法により、異なる[[塩基配列]]を持つさまざまな[[二重らせん]]のDNAの混合溶液から、ある特定の塩基配列を持つ[[分子]]が存在するかどうかを確かめることが可能である。 名前の由来は、開発者であるエドウィン・サザンの名によるが、この技術を応用して考案された他の方法は、氏の名にあやかり[[ノーザンブロッティング]]や[[ウェスタンブロッティング]]と名づけられた。サザンブロッティングは人名由来のため、英文中においても'''Southern-'''と大文字で書き始められるが、ノーザンブロッティングやウェスタンブロッティングは人名ではないため、'''northern-'''、'''western-'''と小文字で書き始める慣例がある。 ==概要== サザンブロット法の第一段階は[[ゲル電気泳動]]である。ゲル電気泳動とは、試料溶液を流した[[ゲル]]上で[[電荷]]を持つ[[溶質]]を大きさや形、全体の[[電荷密度]]によって分離する操作である。溶質がDNAの場合、形と電荷密度は一定なので、その長さのみで分けられる。この操作により、塩基対数によりDNAが集まったゲル上の領域を出現した斑点を'''スポット'''という。 次の段階は、ゲルを強塩基溶液に浸しながら、[[ナイロン]]などの[[膜]]に接触させることである。膜には、二重らせんよりも一本鎖のDNAへの吸着性が強いものを選ぶ。ゲルは[[多孔性]]の構造をしているため、強塩基溶液に浸かったゲルのDNAに[[毛細管現象]]が働く。そのため、DNAは[[変性]]し、一本鎖として膜に移動する。そして、[[UV]]もしくは煮沸により膜に固定する。この後、最後の段階として膜上のDNAの塩基配列を同定する。 同定には、[[ハイブリダイゼーション|ハイブリッド形成]]を利用する。確認したい塩基配列と相補的な一本鎖に標識を施したものをスポットに付着させる。標識には、[[リン]]の[[放射性同位体]]や[[ジゴキシゲニン]] (DIG)、[[アルカリフォスファターゼ付加]]などが用いられる。スポットにその配列を含むDNAがあるのなら、二重らせんDNAが発生する。そのため、[[オートラジオグラフィー]]などによって二重らせんを確認することで、同定することができる。 サザンブロット法を使うと、試料に100万個ものDNAがあっても、その中から特定の配列の有無を容易に判定できる<ref name="irimura132">「ストライヤー生化学(第6版)」2008年、入村達郎ほか監修・訳、東京化学同人、p132</ref>。これは、ゲル電気泳動の精度が優れているためだ。ゲル電気泳動では、数百ほどのヌクレオチドからなる[[核酸]]で、[[ヌクレオチド]]の数が1つだけ違ってもそれを区別することができる(1)。また、構成するヌクレオチドが数百万にもなる全染色体からでも、パルスフィールドゲル電気泳動という方法で個々の染色体を分離することができる<ref name="irimura131">「ストライヤー生化学(第6版)」2008年、入村達郎ほか監修・訳、東京化学同人、p131</ref>。 サザンブロット法はさまざまな研究や技術に貢献している。例えば、ある遺伝子が変異したと思われるとき、それが本当なのかを確認することである。この場合、確かめる遺伝子の配列を認識部位とする制限酵素でDNAを処理し、得られた試料にサザンブロット法を適用する。もし、その遺伝子に変異が起きていたら、その部位が切断されないので、その部位を含む断片は長くなる。このため、ゲル電気泳動で生じる、その断片のスポットの位置が変化する。 このようにして検出される変異には、病気の原因となる場合や、病気の原因となる変異と密接に関係している場合もある。例えば、鎌状赤血球、のう胞繊維症、ハンチントン舞踏病などの遺伝病は、サザンブロット法を用いた制限断片長多型解析によって診断できる<ref name="irimura132"/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == {{節スタブ}} * ストライヤー生化学(第6版) 2008年、入村達郎ほか監修・訳、[[東京化学同人]] == 関連項目 == *[[サウスウェスタン法]] *[[ノーザンブロッティング]] *[[ウェスタンブロッティング]] == 外部リンク == {{節スタブ}} {{Biosci-stub}} {{デフォルトソート:ささんふろつていんく}} [[Category:分子生物学的技法]] [[Category:生物学の研究技術]] [[Category:電気泳動]] [[Category:エポニム]]
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ノーザンブロッティング
ノーザンブロッティング(英: Northern blotting、ノーザンブロット Northern blot とも)あるいはRNAブロッティング(英: RNA blotting、RNAブロット RNA blot とも)とは、分子生物学研究において用いられる、RNAを検出することによって遺伝子の発現を解析する手法である。「ノーザン(northern; 北の〜)ブロッティング」の名称は、DNAを検出するサザンブロッティングと同様の原理によることから、一種の洒落として名づけられた通称である[「サザンブロッティング」は開発者エドウィン・サザン(Southern; 英語で南の〜、の意)の名からとられている)]。 ノーザンブロッティングを用いることによって、形態形成や細胞分化、病気の発病などの様々な状況下で、ある特定の遺伝子がどのように発現しているかを比較・解析することが可能である。ノーザンブロッティングにおいては、まずサンプルから抽出したRNAを電気泳動によってそのサイズごとに分離したのち、メンブレン(フィルター膜)への転写を行なう。その後RNAが転写されたメンブレン上で、標識した核酸プローブ(英語版)を用いて目的とするRNAの量、サイズを検出する。なお本来「ノーザンブロッティング」という言葉が指すのは、RNAを電気泳動ゲルからメンブレンへ転写(「ブロッティング」)する過程のみである。しかし、一般的には電気泳動、検出といったその前後の一連の過程を合わせて「ノーザンブロッティング」と呼ぶことが多い。ノーザンブロッティングの手法は1977年にスタンフォード大学のJames Alwine、David Kemp、そしてGeorge Starkによって米国科学アカデミー紀要に発表された。サザンブロッティングとの主な違いは、ノーザンブロッティングにおいてはDNAではなくRNAが解析の対象となることである。 一般的なノーザンブロッティングの手順は、まずホモジェナイズ(均質化)された組織または細胞サンプルからRNAを抽出することから始まる。真核生物のメッセンジャーRNA(mRNA)は、その末端にポリA尾部を持つことから、それに結合するオリゴdTを用いたクロマトグラフィーによって単離することができる。こうして得られたRNAサンプルはゲル電気泳動によって分離される。電気泳動に用いるゲルは崩れやすく、またRNAの検出に用いる核酸プローブ(英語版)はゲルの基質に侵入することができないので、分離されたRNAは続いてメンブレンと呼ばれるナイロン膜へ、吸引もしくはキャピラリーを用いた拡散によって転写(ブロット)される。 ナイロンでできたメンブレンは正の電荷を帯びているため、負の電荷を帯びている核酸を効率よく吸着することができる。転写に用いるバッファーはホルムアミドを含んでおり、RNAとプローブのハイブリダイゼーションに必要な温度を下げる働きを果たしている。これにより、反応を低温で行うことができ、高温によるRNAの分解を防ぐことができる。RNAがメンブレンに転写された後、UV照射や熱処理によって、RNAをメンブレンへ固定化する。その後、標識のついたプローブをRNAとハイブリダイズさせる。この段階でハイブリダイゼーションの効率と特異性に影響を与える因子として、イオン強度や粘度、RNAおよびプローブの長さ、不対合塩基対の数、塩基組成などが挙げられる。ハイブリダイゼーションののちメンブレンを洗浄して、非特異的な結合を生じているプローブを洗い流す。ハイブリダイゼーションしたプローブとRNAの複合体を、標識の種類によってX線写真などの方法によって検出したのち、デンシトメトリー(英語版)によってそのシグナルの強さを定量し、RNAの量を定量する。対照実験(ネガティブコントロール)として、マイクロアレイやRT-PCRによって標的のRNAが存在しないことが確認されているサンプルを用いることもある。 RNAサンプルはRNAの二次構造形成を阻害するための変性剤としてホルムアルデヒドを含んだアガロースゲルを用いた電気泳動によって分離されるのが一般的である。泳動後のゲルをブロッティングする前にエチジウムブロマイドで染色し、UV照射下で観察することで、RNAの量と品質を確認することもある。尿素を加えたポリアクリルアミドゲルを用いた電気泳動でもRNAを分離することができるが、これは断片化したRNAやマイクロRNAに対して用いられることが多い。 サンプルの隣にはRNAラダー(分子量マーカー)を共に泳動して、得られたRNAの長さなどを調べることも多いが、全RNAサンプルの場合はリボソームRNAをマーカーの代わりとして用いることもできる。リボソームの大サブユニットは分子量28S(約5,000 塩基対)、小サブユニットは分子量18S(約2,000 塩基対)であるため、泳動像には2本の目立つバンドが現れる(右図)。 ノーザンブロッティングにおけるRNAの検出には、標的RNAの一部または全部と相補的な塩基配列の核酸でできたプローブを用いる。プローブはDNAでもRNAでもよく、標的RNAと相補的な最低でも25塩基対以上のオリゴヌクレオチドであれば用いることができる。一般に、in vitroでの転写反応によって作成されたRNAプローブの方が、複数回の洗浄に耐え、バックグランドのノイズを一部低減することができる。プローブは放射性同位体(P)、またはアルカリホスファターゼや西洋ワサビペルオキシダーゼ(HRP)などを用いた化学発光による方法で標識されるため、前者であれば写真の感光、後者であれば発光というかたちでプローブの存在する位置(すなわち、標的RNAの存在する位置)を検出できる。化学発光による標識の方法は主に2つに分けられる。つまり、プローブを化学発光を起こす酵素で直接標識して検出する方法と、プローブを何らかの小分子(例えばビオチン)で標識し、それと結合する別の分子(例えばアビジンかストレプトアジビン)に化学発光を起こす酵素(例えばHRP)を繋げてプローブと結合させることで化学発光を起こす方法である。放射性同位体による標識に比べ、化学発光による標識は短時間で検出が可能で感度も高い。また、前者は放射性物質を扱う事による健康への危険も伴うので、近年では放射性同位体を用いた方法よりも化学発光を用いた方法を用いる研究者が多い。一枚のメンブレンで最大で5回、異なるプローブによる異なる標的遺伝子の検出を行うことができることが分かっている。 ノーザンブロッティングによって異なる組織、器官、環境ストレスのレベル、または感染の有無、何らかの処理の有無などによってある特定の遺伝子の発現がどのように変動しているかを解析することができる。例えば、がん細胞において、通常の細胞と比べてがん遺伝子が過剰発現されていて、逆にがん抑制遺伝子の発現は下がっていることを示すのに、ノーザンブロッティングが用いられてきた。他の例として、移植された臓器の拒絶反応における遺伝子の発現変化を調べるのに用いられたこともある。ある特定の条件における遺伝子発現のパターンから、その遺伝子の機能を推測することもできる。RNAはまずそのサイズによって分離されるが、一つのプローブを用いてサイズの異なる複数のRNAが検出されれば、同一遺伝子における選択的スプライシングの存在、または共通する配列モチーフ(英語版)を持つ複数の遺伝子の存在などが示唆されることになる。突然変異体における遺伝子の欠失や転写後修飾の異常によってRNAサイズの違いが生じる場合もあるが、これもノーザンブロッティングによって検出が可能である。同一遺伝子の中でも異なる標的配列に対して複数のプローブを設計することで、変異体においてRNAのどの部分で欠失が起こっているかを調べることもできる。 ノーザンブロッティングと同様に遺伝子発現を解析する手法として、RT-PCR、ヌクレアーゼプロテクションアッセイ(英語版)、DNAマイクロアレイ、RNA-seq(英語版)、SAGE法などが挙げられ、それぞれが場面に応じて使い分けられている。例えばそのうちマイクロアレイを例にとると、この手法は通常1から少数の遺伝子のみを対象にするノーザンブロッティングと比べ、何千もの遺伝子の発現を同時に可視化できる点が優れている。逆にノーザンブロッティングは、マイクロアレイでは検出できないような遺伝子発現における微小な差異を検出できることがある。 RT-PCRと比較すると、ノーザンブロッティングは感度が低いという欠点があるものの、特異性が非常に高いため、偽陽性シグナルを検出してしまうことが少ないという利点がある。その他、上述のようにRNAのサイズを検出し選択的スプライシングなどについても解析できる点や、メンブレンが数年単位で保管可能であるため追実験が可能である点などがノーザンブロッティングの利点として挙げられることがある。 ノーザンブロッティングを行う際に頻発するトラブルとして、サンプルに残存していた、または環境中から混入したリボヌクレアーゼ(RNase)によってRNAサンプルが分解されてしまうことが挙げられる。これは使用器具を適切に滅菌すること、ジエチルピロカーボネート(DEPC)といったRNase阻害剤を用いることなどによって予防できる。また、ノーザンブロッティングで用いられるDEPC、エチジウムブロマイド、放射性同位体といった薬品は、人体にとって危険なものが多いことにも注意が必要である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ノーザンブロッティング(英: Northern blotting、ノーザンブロット Northern blot とも)あるいはRNAブロッティング(英: RNA blotting、RNAブロット RNA blot とも)とは、分子生物学研究において用いられる、RNAを検出することによって遺伝子の発現を解析する手法である。「ノーザン(northern; 北の〜)ブロッティング」の名称は、DNAを検出するサザンブロッティングと同様の原理によることから、一種の洒落として名づけられた通称である[「サザンブロッティング」は開発者エドウィン・サザン(Southern; 英語で南の〜、の意)の名からとられている)]。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ノーザンブロッティングを用いることによって、形態形成や細胞分化、病気の発病などの様々な状況下で、ある特定の遺伝子がどのように発現しているかを比較・解析することが可能である。ノーザンブロッティングにおいては、まずサンプルから抽出したRNAを電気泳動によってそのサイズごとに分離したのち、メンブレン(フィルター膜)への転写を行なう。その後RNAが転写されたメンブレン上で、標識した核酸プローブ(英語版)を用いて目的とするRNAの量、サイズを検出する。なお本来「ノーザンブロッティング」という言葉が指すのは、RNAを電気泳動ゲルからメンブレンへ転写(「ブロッティング」)する過程のみである。しかし、一般的には電気泳動、検出といったその前後の一連の過程を合わせて「ノーザンブロッティング」と呼ぶことが多い。ノーザンブロッティングの手法は1977年にスタンフォード大学のJames Alwine、David Kemp、そしてGeorge Starkによって米国科学アカデミー紀要に発表された。サザンブロッティングとの主な違いは、ノーザンブロッティングにおいてはDNAではなくRNAが解析の対象となることである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "一般的なノーザンブロッティングの手順は、まずホモジェナイズ(均質化)された組織または細胞サンプルからRNAを抽出することから始まる。真核生物のメッセンジャーRNA(mRNA)は、その末端にポリA尾部を持つことから、それに結合するオリゴdTを用いたクロマトグラフィーによって単離することができる。こうして得られたRNAサンプルはゲル電気泳動によって分離される。電気泳動に用いるゲルは崩れやすく、またRNAの検出に用いる核酸プローブ(英語版)はゲルの基質に侵入することができないので、分離されたRNAは続いてメンブレンと呼ばれるナイロン膜へ、吸引もしくはキャピラリーを用いた拡散によって転写(ブロット)される。", "title": "手法" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ナイロンでできたメンブレンは正の電荷を帯びているため、負の電荷を帯びている核酸を効率よく吸着することができる。転写に用いるバッファーはホルムアミドを含んでおり、RNAとプローブのハイブリダイゼーションに必要な温度を下げる働きを果たしている。これにより、反応を低温で行うことができ、高温によるRNAの分解を防ぐことができる。RNAがメンブレンに転写された後、UV照射や熱処理によって、RNAをメンブレンへ固定化する。その後、標識のついたプローブをRNAとハイブリダイズさせる。この段階でハイブリダイゼーションの効率と特異性に影響を与える因子として、イオン強度や粘度、RNAおよびプローブの長さ、不対合塩基対の数、塩基組成などが挙げられる。ハイブリダイゼーションののちメンブレンを洗浄して、非特異的な結合を生じているプローブを洗い流す。ハイブリダイゼーションしたプローブとRNAの複合体を、標識の種類によってX線写真などの方法によって検出したのち、デンシトメトリー(英語版)によってそのシグナルの強さを定量し、RNAの量を定量する。対照実験(ネガティブコントロール)として、マイクロアレイやRT-PCRによって標的のRNAが存在しないことが確認されているサンプルを用いることもある。", "title": "手法" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "RNAサンプルはRNAの二次構造形成を阻害するための変性剤としてホルムアルデヒドを含んだアガロースゲルを用いた電気泳動によって分離されるのが一般的である。泳動後のゲルをブロッティングする前にエチジウムブロマイドで染色し、UV照射下で観察することで、RNAの量と品質を確認することもある。尿素を加えたポリアクリルアミドゲルを用いた電気泳動でもRNAを分離することができるが、これは断片化したRNAやマイクロRNAに対して用いられることが多い。 サンプルの隣にはRNAラダー(分子量マーカー)を共に泳動して、得られたRNAの長さなどを調べることも多いが、全RNAサンプルの場合はリボソームRNAをマーカーの代わりとして用いることもできる。リボソームの大サブユニットは分子量28S(約5,000 塩基対)、小サブユニットは分子量18S(約2,000 塩基対)であるため、泳動像には2本の目立つバンドが現れる(右図)。", "title": "手法" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ノーザンブロッティングにおけるRNAの検出には、標的RNAの一部または全部と相補的な塩基配列の核酸でできたプローブを用いる。プローブはDNAでもRNAでもよく、標的RNAと相補的な最低でも25塩基対以上のオリゴヌクレオチドであれば用いることができる。一般に、in vitroでの転写反応によって作成されたRNAプローブの方が、複数回の洗浄に耐え、バックグランドのノイズを一部低減することができる。プローブは放射性同位体(P)、またはアルカリホスファターゼや西洋ワサビペルオキシダーゼ(HRP)などを用いた化学発光による方法で標識されるため、前者であれば写真の感光、後者であれば発光というかたちでプローブの存在する位置(すなわち、標的RNAの存在する位置)を検出できる。化学発光による標識の方法は主に2つに分けられる。つまり、プローブを化学発光を起こす酵素で直接標識して検出する方法と、プローブを何らかの小分子(例えばビオチン)で標識し、それと結合する別の分子(例えばアビジンかストレプトアジビン)に化学発光を起こす酵素(例えばHRP)を繋げてプローブと結合させることで化学発光を起こす方法である。放射性同位体による標識に比べ、化学発光による標識は短時間で検出が可能で感度も高い。また、前者は放射性物質を扱う事による健康への危険も伴うので、近年では放射性同位体を用いた方法よりも化学発光を用いた方法を用いる研究者が多い。一枚のメンブレンで最大で5回、異なるプローブによる異なる標的遺伝子の検出を行うことができることが分かっている。", "title": "手法" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ノーザンブロッティングによって異なる組織、器官、環境ストレスのレベル、または感染の有無、何らかの処理の有無などによってある特定の遺伝子の発現がどのように変動しているかを解析することができる。例えば、がん細胞において、通常の細胞と比べてがん遺伝子が過剰発現されていて、逆にがん抑制遺伝子の発現は下がっていることを示すのに、ノーザンブロッティングが用いられてきた。他の例として、移植された臓器の拒絶反応における遺伝子の発現変化を調べるのに用いられたこともある。ある特定の条件における遺伝子発現のパターンから、その遺伝子の機能を推測することもできる。RNAはまずそのサイズによって分離されるが、一つのプローブを用いてサイズの異なる複数のRNAが検出されれば、同一遺伝子における選択的スプライシングの存在、または共通する配列モチーフ(英語版)を持つ複数の遺伝子の存在などが示唆されることになる。突然変異体における遺伝子の欠失や転写後修飾の異常によってRNAサイズの違いが生じる場合もあるが、これもノーザンブロッティングによって検出が可能である。同一遺伝子の中でも異なる標的配列に対して複数のプローブを設計することで、変異体においてRNAのどの部分で欠失が起こっているかを調べることもできる。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ノーザンブロッティングと同様に遺伝子発現を解析する手法として、RT-PCR、ヌクレアーゼプロテクションアッセイ(英語版)、DNAマイクロアレイ、RNA-seq(英語版)、SAGE法などが挙げられ、それぞれが場面に応じて使い分けられている。例えばそのうちマイクロアレイを例にとると、この手法は通常1から少数の遺伝子のみを対象にするノーザンブロッティングと比べ、何千もの遺伝子の発現を同時に可視化できる点が優れている。逆にノーザンブロッティングは、マイクロアレイでは検出できないような遺伝子発現における微小な差異を検出できることがある。", "title": "利点と欠点" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "RT-PCRと比較すると、ノーザンブロッティングは感度が低いという欠点があるものの、特異性が非常に高いため、偽陽性シグナルを検出してしまうことが少ないという利点がある。その他、上述のようにRNAのサイズを検出し選択的スプライシングなどについても解析できる点や、メンブレンが数年単位で保管可能であるため追実験が可能である点などがノーザンブロッティングの利点として挙げられることがある。", "title": "利点と欠点" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ノーザンブロッティングを行う際に頻発するトラブルとして、サンプルに残存していた、または環境中から混入したリボヌクレアーゼ(RNase)によってRNAサンプルが分解されてしまうことが挙げられる。これは使用器具を適切に滅菌すること、ジエチルピロカーボネート(DEPC)といったRNase阻害剤を用いることなどによって予防できる。また、ノーザンブロッティングで用いられるDEPC、エチジウムブロマイド、放射性同位体といった薬品は、人体にとって危険なものが多いことにも注意が必要である。", "title": "利点と欠点" } ]
ノーザンブロッティングあるいはRNAブロッティングとは、分子生物学研究において用いられる、RNAを検出することによって遺伝子の発現を解析する手法である。「ノーザンブロッティング」の名称は、DNAを検出するサザンブロッティングと同様の原理によることから、一種の洒落として名づけられた通称である[「サザンブロッティング」は開発者エドウィン・サザンの名からとられている)]。 ノーザンブロッティングを用いることによって、形態形成や細胞分化、病気の発病などの様々な状況下で、ある特定の遺伝子がどのように発現しているかを比較・解析することが可能である。ノーザンブロッティングにおいては、まずサンプルから抽出したRNAを電気泳動によってそのサイズごとに分離したのち、メンブレン(フィルター膜)への転写を行なう。その後RNAが転写されたメンブレン上で、標識した核酸プローブを用いて目的とするRNAの量、サイズを検出する。なお本来「ノーザンブロッティング」という言葉が指すのは、RNAを電気泳動ゲルからメンブレンへ転写(「ブロッティング」)する過程のみである。しかし、一般的には電気泳動、検出といったその前後の一連の過程を合わせて「ノーザンブロッティング」と呼ぶことが多い。ノーザンブロッティングの手法は1977年にスタンフォード大学のJames Alwine、David Kemp、そしてGeorge Starkによって米国科学アカデミー紀要に発表された。サザンブロッティングとの主な違いは、ノーザンブロッティングにおいてはDNAではなくRNAが解析の対象となることである。
[[File:Northern blot diagram.png|thumb|212x212px|ノーザンブロッティングによるRNAの検出の流れを示した図。抽出したRNAをゲル(黄色)を用いて電気泳動して分離したのち、それをメンブレン(赤色)に転写した上で、核酸プローブ(緑色の矢印)を用いて目的のRNAのみを検出する。]] '''ノーザンブロッティング'''({{lang-en-short|[[:w:Northern blotting|Northern blotting]]}}、'''ノーザンブロット''' Northern blot とも)あるいは'''RNAブロッティング'''({{lang-en-short|RNA blotting}}、'''RNAブロット''' RNA blot とも)<ref name=Gilbert2000>Gilbert, S. F. (2000) Developmental Biology, 6th Ed. Sunderland MA, Sinauer Associates.</ref><ref name = photo>{{Cite web|和書|url=https://photosyn.jp/pwiki/index.php?RNA%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88%E6%B3%95 |title=RNAブロット法 |work = 光合成事典|publisher=日本光合成学会 |accessdate=2020-09-21}}</ref>とは、[[分子生物学]]研究において用いられる、[[リボ核酸|RNA]]を検出することによって[[遺伝子]]の[[遺伝子発現|発現]]を解析する手法である<ref name="Alberts2008" /><ref name=Kevil1997>Kevil, C. G., Walsh, L., Laroux, F. S., Kalogeris, T., Grisham, M. B., Alexander, J. S. (1997) An Improved, Rapid Northern Protocol. Biochem. and Biophys. Research Comm. 238:277–279.</ref>。「ノーザン(northern; 北の〜)ブロッティング」の名称は、[[デオキシリボ核酸|DNA]]を検出する[[サザンブロッティング]]と同様の原理によることから、一種の洒落として名づけられた通称である[「サザンブロッティング」は開発者[[エドウィン・サザン]](Southern; 英語で南の〜、の意)の名からとられている)]<ref name = photo /><ref name=Alberts2008>Alberts, B., Johnson, A., Lewis, J. Raff, M., Roberts, K., Walter, P. 2008. Molecular Biology of the Cell, 5th ed. Garland Science, Taylor & Francis Group, NY, pp 538–539.</ref>。 ノーザンブロッティングを用いることによって、[[形態形成]]や[[細胞分化]]、[[病気]]の発病などの様々な状況下で、ある特定の遺伝子がどのように発現しているかを比較・解析することが可能である<ref name=Schlamp2008>{{cite journal | last1 = Schlamp | first1 = K. | last2 = Weinmann | first2 = A. | last3 = Krupp | first3 = M. | last4 = Maass | first4 = T. | last5 = Galle | first5 = P. R. | last6 = Teufel | first6 = A. | year = 2008 | title = BlotBase: A northern blot database | url = | journal = Gene | volume = 427 | issue = 1–2| pages = 47–50 | doi = 10.1016/j.gene.2008.08.026 | pmid = 18838116 }}</ref>。ノーザンブロッティングにおいては、まずサンプルから抽出したRNAを[[電気泳動]]によってそのサイズごとに分離したのち、メンブレン(フィルター膜)への転写を行なう。その後RNAが転写されたメンブレン上で、標識した{{仮リンク|核酸プローブ|en|hybridization probe}}を用いて目的とするRNAの量、サイズを検出する。なお本来「ノーザンブロッティング」という言葉が指すのは、RNAを電気泳動ゲルからメンブレンへ転写(「ブロッティング」)する過程のみである。しかし、一般的には電気泳動、検出といったその前後の一連の過程を合わせて「ノーザンブロッティング」と呼ぶことが多い<ref name = photo/><ref name=Trayhurn1996>Trayhurn, P. (1996) Northern Blotting. Pro. Nutrition Soc. 55:583–589.</ref>。ノーザンブロッティングの手法は1977年に[[スタンフォード大学]]のJames Alwine、[[:w:David Kemp (Australian scientist)|David Kemp]]、そしてGeorge Starkによって[[米国科学アカデミー紀要]]に発表された<ref>{{cite journal |vauthors=Alwine JC, Kemp DJ, Stark GR |title=Method for detection of specific RNAs in agarose gels by transfer to diazobenzyloxymethyl-paper and hybridization with DNA probes |journal=Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A. |volume=74 |issue=12 |pages=5350–4 |year=1977 |pmid=414220| doi = 10.1073/pnas.74.12.5350 |pmc=431715}}</ref>。サザンブロッティングとの主な違いは、ノーザンブロッティングにおいてはDNAではなくRNAが解析の対象となることである<ref name=Bor2006>{{Cite journal | last = Bor | year = 2006 | first1 = Y.C. | last2 = Swartz | first2 = J. | last3 = Li | first3 = Y. | last4 = Coyle | first4 = J. | last5 = Rekosh | first5 = D. | last6 = Hammarskjold | first6 = Marie-Louise | title = Northern Blot analysis of mRNA from mammalian polyribosomes | journal = Nature Protocols | doi = 10.1038/nprot.2006.216 | postscript = <!--None--> }}</ref>。 ==手法== ===概要=== 一般的なノーザンブロッティングの手順<ref name="Trayhurn1996" /><ref name = GE>{{Cite web|和書|url=https://www.cytivalifesciences.co.jp/contact/imaging/pdf/238491.pdf |date=2004-12|title=蛍光検出基礎知識 検出の達人への道⑤ 核酸のブロッティングと標識・検出 |work = 蛍光アプリケーション~milestone|publisher=[[GEヘルスケア・ジャパン|GEヘルスケアバイオサイエンス]] |accessdate=2020-09-21}}</ref>は、まずホモジェナイズ(均質化)された[[組織]]または[[細胞]]サンプルから[[RNA]]を抽出することから始まる。[[真核生物]]の[[メッセンジャーRNA]](mRNA)は、その末端に[[ポリアデニル化|ポリA尾部]]を持つことから、それに結合するオリゴdTを用いた[[クロマトグラフィー]]によって単離することができる<ref name=Durand1993>{{cite journal | last1 = Durand | first1 = G. M. | last2 = Zukin | first2 = R. S. | year = 1993 | title = Developmental Regulation of mRNAs Encoding Rat Brain Kainate/AMPA Receptors: A Northern Analysis Study | url = | journal = J. Neurochem. | volume = 61 | issue = 6| pages = 2239–2246 | doi = 10.1111/j.1471-4159.1993.tb07465.x | pmid = 8245974 }}</ref><ref name=Mori1991>{{cite journal | last1 = Mori | first1 = H. | last2 = Takeda-Yoshikawa | first2 = Y. | last3 = Hara-Nishimura | first3 = I. | last4 = Nishimura | first4 = M. | year = 1991 | title = Pumpkin malate synthase Cloning and sequencing of the cDNA and Northern blot analysis | url = | journal = Eur. J. Biochem. | volume = 197 | issue = 2| pages = 331–336 | doi = 10.1111/j.1432-1033.1991.tb15915.x | pmid = 1709098 }}</ref>。こうして得られたRNAサンプルは[[ゲル電気泳動]]によって分離される。電気泳動に用いるゲルは崩れやすく、またRNAの検出に用いる{{仮リンク|核酸プローブ|en|hybridization probe}}はゲルの基質に侵入することができないので、分離されたRNAは続いてメンブレンと呼ばれる[[ナイロン]]膜へ、吸引もしくは[[毛細管|キャピラリー]]を用いた拡散によって転写(ブロット)される。[[Image:capillary blot setup.svg|thumb|キャピラリー([[毛細管]])を用いて電気泳動ゲルからメンブレンへRNAを転写する装置の例。[[毛細管現象]]を利用して下側に位置するゲル(黄色)から上方のメンブレン(赤)へRNAを移動させる。]] ナイロンでできたメンブレンは正の[[電荷]]を帯びているため、負の電荷を帯びている[[核酸]]を効率よく吸着することができる。転写に用いる[[緩衝液|バッファー]]は[[ホルムアミド]]を含んでおり、RNAとプローブの[[ハイブリダイゼーション]]に必要な温度を下げる働きを果たしている。これにより、反応を低温で行うことができ、高温によるRNAの分解を防ぐことができる<ref name=Yang1993>{{cite journal | last1 = Yang | first1 = H. | last2 = McLeese | first2 = J. | last3 = Weisbart | first3 = M. | last4 = Dionne | first4 = J.-L. | last5 = Lemaire | first5 = I. | last6 = Aubin | first6 = R. A. | year = 1993 | title = Simplified high throughput protocol for Northern hybridization | url = | journal = Nucleic Acids Research | volume = 21 | issue = 14| pages = 3337–3338 | doi = 10.1093/nar/21.14.3337 | pmid = 8341618 | pmc = 309787 }}</ref>。RNAがメンブレンに転写された後、[[紫外線|UV]]照射や熱処理によって、RNAをメンブレンへ固定化する。その後、標識のついたプローブをRNAとハイブリダイズさせる。この段階でハイブリダイゼーションの効率と特異性に影響を与える因子として、イオン強度や粘度、RNAおよびプローブの長さ、不対合[[塩基対]]の数、[[塩基]]組成などが挙げられる<ref name=Streit2009>{{cite journal | last1 = Streit | first1 = S. | last2 = Michalski | first2 = C. W. | last3 = Erkan | first3 = M. | last4 = Kleef | first4 = J. | last5 = Friess | first5 = H. | year = 2009 | title = Northern blot analysis for detection of RNA in pancreatic cancer cells and tissues | url = | journal = Nature Protocols | volume = 4 | issue = 1| pages = 37–43 | pmid = 19131955 | doi = 10.1038/nprot.2008.216 }}</ref>。ハイブリダイゼーションののちメンブレンを洗浄して、非特異的な結合を生じているプローブを洗い流す。ハイブリダイゼーションしたプローブとRNAの複合体を、標識の種類によって[[X線写真]]などの方法によって検出したのち、{{仮リンク|デンシトメトリー|en|densitometry}}によってそのシグナルの強さを定量し、RNAの量を定量する。[[対照実験]]([[陰性対照|ネガティブコントロール]])として、[[マイクロアレイ]]や[[RT-PCR]]によって標的のRNAが存在しないことが確認されているサンプルを用いることもある<ref name="Streit2009" />。 ===ゲル=== [[Image:RNA agarose gel.svg|thumb|[[ホルムアルデヒド]]を含んだ[[アガロース]]ゲルで電気泳動された真核生物の全RNA。28S(最も上のバンド)、および18S(その下の明るいバンド)[[リボソームRNA]]が目立つ。左側にはRNAラダーが一緒に泳動されている。]] RNAサンプルはRNAの[[RNA#RNAの高次構造|二次構造]]形成を阻害するための[[変性剤]]として[[ホルムアルデヒド]]を含んだ[[アガロースゲル電気泳動|アガロースゲルを用いた電気泳動]]によって分離されるのが一般的である<ref name="Streit2009" /><ref name=Yamanka1997>{{cite journal | last1 = Yamanaka | first1 = S. | last2 = Poksay | first2 = K. S. | last3 = Arnold | first3 = K. S. | last4 = Innerarity | first4 = T. L. | year = 1997 | title = A novel translational repressor mRNA is edited extensively in livers containing tumors caused by the transgene expression of the apoB mRNA-editing enzyme | url = | journal = Genes Dev. | volume = 11 | issue = 3| pages = 321–333 | doi = 10.1101/gad.11.3.321 | pmid = 9030685 | doi-access = free }}</ref>。泳動後のゲルをブロッティングする前に[[エチジウムブロマイド]]で染色し、UV照射下で観察することで、RNAの量と品質を確認することもある<ref name="Streit2009" />。[[尿素]]を加えた[[ポリアクリルアミドゲル電気泳動|ポリアクリルアミドゲルを用いた電気泳動]]でもRNAを分離することができるが、これは断片化したRNAや[[マイクロRNA]]に対して用いられることが多い<ref name=Valoczi2004>Valoczi, A., Hornyik, C., Varga, N., Burgyan, J., Kauppinen, S., Havelda, Z. (2004) Sensitive and specific detection of microRNAs by northern blot analysis using LNA-modified oligonucleotide probes. Nuc. Acids Research. 32: e175.</ref>。 サンプルの隣にはRNAラダー([[分子量]]マーカー)を共に泳動して、得られたRNAの長さなどを調べることも多いが、全RNAサンプルの場合は[[リボソームRNA]]をマーカーの代わりとして用いることもできる<ref name="Streit2009" />。リボソームの大[[サブユニット]]は分子量28[[沈降係数|S]](約5,000 [[塩基対]])、小サブユニットは分子量18S(約2,000 塩基対)であるため、泳動像には2本の目立つバンドが現れる(右図)<ref name="Streit2009" /><ref name=Gortner1996>{{cite journal | last1 = Gortner | first1 = G. | last2 = Pfenninger | first2 = M. | last3 = Kahl | first3 = G. | last4 = Weising | first4 = K. | year = 1996 | title = Northern blot analysis of simple repetitive sequence transcription in plants | url = | journal = Electrophoresis | volume = 17 | issue = 7| pages = 1183–1189 | doi = 10.1002/elps.1150170702 | pmid = 8855401 }}</ref>。 ===プローブ=== ノーザンブロッティングにおけるRNAの検出には、標的RNAの一部または全部と相補的な[[塩基配列]]の[[核酸]]でできたプローブを用いる。プローブはDNAでもRNAでもよく、標的RNAと相補的な最低でも25塩基対以上の[[オリゴヌクレオチド]]であれば用いることができる<ref name="Trayhurn1996" />。一般に、[[in vitro]]での[[転写 (生物学)|転写]]反応によって作成されたRNAプローブの方が、複数回の洗浄に耐え、バックグランドの[[ノイズ]]を一部低減することができる<ref name="Streit2009" />。プローブは[[放射性同位体]](<sup>32</sup>[[リンの同位体|P]])、または[[アルカリホスファターゼ]]や[[西洋ワサビペルオキシダーゼ]](HRP)などを用いた[[化学発光]]による方法で標識されるため、前者であれば写真の感光、後者であれば発光というかたちでプローブの存在する位置(すなわち、標的RNAの存在する位置)を検出できる<ref name=Engler-Blum1993>{{cite journal | last1 = Engler-Blum | first1 = G. | last2 = Meier | first2 = M. | last3 = Frank | first3 = J. | last4 = Muller | first4 = G. A. | year = 1993 | title = Reduction of Background Problems in Nonradioactive Northern and Southern Blot Analysis Enables Higher Sensitivity Than 32P-Based Hybridizations | url = | journal = Anal. Biochem. | volume = 210 | issue = 2| pages = 235–244 | doi = 10.1006/abio.1993.1189 | pmid = 7685563 }}</ref>。化学発光による標識の方法は主に2つに分けられる。つまり、プローブを化学発光を起こす酵素で直接標識して検出する方法と、プローブを何らかの小分子(例えば[[ビオチン]])で標識し、それと結合する別の分子(例えば[[アビジン]]か[[ストレプトアビジン|ストレプトアジビン]])に化学発光を起こす酵素(例えばHRP)を繋げてプローブと結合させることで化学発光を起こす方法である<ref name="Streit2009" />。放射性同位体による標識に比べ、化学発光による標識は短時間で検出が可能で感度も高い。また、前者は[[放射性物質]]を扱う事による健康への危険も伴うので、近年では放射性同位体を用いた方法よりも化学発光を用いた方法を用いる研究者が多い<ref name="Engler-Blum1993" />。一枚のメンブレンで最大で5回、異なるプローブによる異なる標的遺伝子の検出を行うことができることが分かっている<ref name="Yang1993" />。 ==応用== ノーザンブロッティングによって異なる[[組織 (生物学)|組織]]、[[器官]]、環境ストレスのレベル、または[[感染]]の有無、何らかの処理の有無などによってある特定の[[遺伝子]]の[[遺伝子発現|発現]]がどのように変動しているかを解析することができる<ref name="Mori1991" /><ref name="Liang1995">Liang, P. Pardee, A. B. (1995) Recent advances in differential display. Current Opinion Immunol. 7: 274–280.</ref><ref name=Baldwin1999>Baldwin, D., Crane, V., Rice, D. (1999) A comparison of gel-based, nylon filter and microarray techniques to detect differential RNA expression in plants. Current Opinion in Plant Biol. 2: 96–103.</ref>。例えば、[[悪性腫瘍|がん細胞]]において、通常の細胞と比べて[[がん遺伝子]]が過剰発現されていて、逆に[[がん抑制遺伝子]]の発現は下がっていることを示すのに、ノーザンブロッティングが用いられてきた<ref name="Streit2009" />。他の例として、[[移植 (医療)|移植]]された臓器の[[拒絶反応]]における遺伝子の発現変化を調べるのに用いられたこともある<ref name="Utans1994">{{cite journal|last1=Utans|first1=U.|last2=Liang|first2=P.|last3=Wyner|first3=L. R.|last4=Karnovsky|first4=M. J.|last5=Russel|first5=M. E.|year=1994|title=Chronic cardiac rejection: Identification of five upregulated genes in transplanted hearts by differential mRNA display|url=|journal=Proc. Natl. Acad. Sci. USA|volume=91|issue=14|pages=6463–6467|doi=10.1073/pnas.91.14.6463|pmid=8022806|pmc=44222}}</ref>。ある特定の条件における遺伝子発現のパターンから、その遺伝子の機能を推測することもできる。RNAはまずそのサイズによって分離されるが、一つのプローブを用いてサイズの異なる複数のRNAが検出されれば、同一遺伝子における[[選択的スプライシング]]の存在、または共通する{{仮リンク|配列モチーフ|en|Sequence motif}}を持つ複数の遺伝子の存在などが示唆されることになる<ref name="Durand1993" /><ref name="Gortner1996" />。[[突然変異体]]における遺伝子の欠失や転写後修飾の異常によってRNAサイズの違いが生じる場合もあるが、これもノーザンブロッティングによって検出が可能である。同一遺伝子の中でも異なる標的配列に対して複数のプローブを設計することで、変異体においてRNAのどの部分で欠失が起こっているかを調べることもできる<ref name="Alberts2008" />。 ==利点と欠点== ノーザンブロッティングと同様に遺伝子発現を解析する手法として、[[RT-PCR]]、{{仮リンク|ヌクレアーゼプロテクションアッセイ|en|Nuclease protection assay}}、[[DNAマイクロアレイ]]、{{仮リンク|RNA-seq|en|RNA-seq}}、[[SAGE法]]などが挙げられ、それぞれが場面に応じて使い分けられている<ref name="Schlamp2008" /><ref name="Trayhurn1996" />。例えばそのうちマイクロアレイを例にとると、この手法は通常1から少数の遺伝子のみを対象にするノーザンブロッティングと比べ、何千もの遺伝子の発現を同時に可視化できる点が優れている<ref name="Baldwin1999" /><ref name="Taniguchi2001" />。逆にノーザンブロッティングは、マイクロアレイでは検出できないような遺伝子発現における微小な差異を検出できることがある<ref name=Taniguchi2001>{{cite journal | last1 = Taniguchi | first1 = M. | last2 = Miura | first2 = K. | last3 = Iwao | first3 = H. | last4 = Yamanaka | first4 = S. | year = 2001 | title = Quantitative Assessment of DNA Microarrays – Comparison with Northern Blot Analysis | url = | journal = Genomics | volume = 71 | issue = 1| pages = 34–39 | doi = 10.1006/geno.2000.6427 | pmid = 11161795 }}</ref>。 RT-PCRと比較すると、ノーザンブロッティングは感度が低いという欠点があるものの、特異性が非常に高いため、[[偽陽性]]シグナルを検出してしまうことが少ないという利点がある<ref name="Streit2009" />。その他、上述のようにRNAのサイズを検出し選択的スプライシングなどについても解析できる点や、メンブレンが数年単位で保管可能であるため追実験が可能である点などがノーザンブロッティングの利点として挙げられることがある<ref name="Streit2009" />。 ノーザンブロッティングを行う際に頻発するトラブルとして、サンプルに残存していた、または環境中から[[コンタミネーション|混入]]した[[リボヌクレアーゼ]](RNase)によってRNAサンプルが分解されてしまうことが挙げられる。これは使用器具を適切に滅菌すること、[[ジエチルピロカーボネート]](DEPC)といったRNase[[阻害剤]]を用いることなどによって予防できる<ref name="Trayhurn1996" />。また、ノーザンブロッティングで用いられるDEPC、エチジウムブロマイド、放射性同位体といった薬品は、人体にとって危険なものが多いことにも注意が必要である<ref name="Streit2009" />。 ==関連項目== *[[サザンブロッティング]] *[[ウェスタンブロッティング]] == 出典 == {{Reflist}} ==外部リンク== *{{脳科学辞典|ノザンブロット}} {{デフォルトソート:のさんふろつていんく}} [[Category:分子生物学]] [[Category:分子生物学的技法]] [[Category:生物学の研究技術]] [[Category:電気泳動]]
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デバッグ
デバッグ(英: debug)とは、コンピュータプログラムや電気機器中のバグ・欠陥を特定して取り除き、動作を仕様通りのものとするための作業である。“de-”は「〜から離れて/分離して/除去して」といった否定の意味を持つ接頭辞であり、「虫」を意味する英語名詞“bug”と結びついた複合語が“debug”である。 サブシステムが密結合であると、1箇所の変更が別の箇所でのバグを作り出すので、バグの修正がより困難となる。 「デバッグ」という語を初めて使った人物については論争がある(バグを参照)。1976年に Glenford J. Myers の Software Reliability: Principles and Practices で"debugging"が「既知のエラーの原因を突き止め、そのエラーを修正すること」と定義されて使われたのが初めてだとする者がいる一方、1940年代にグレース・ホッパーによるとする者もいる。 その逸話は以下のようなものである。ホッパーがある初期のコンピュータに携わっていたとき、蛾がリレーの中に入って動作不良を起こすのを見た。ここから、プログラムからエラーを取り除く作業を指してデバッグという語が使われ始めたと信じている者もいる。ホッパーによればバグという語はそれ以前にも使われており、実際にその場面に遭遇したのがおもしろかったという。 一般的に言って、デバッグは面倒で退屈な作業である。実際の作業ではプログラマのデバッグに関するスキルがおそらく最も重要な要素となるが、ソフトウェアのデバッグの難易度は使用するプログラミング言語やデバッガなどのツールによって大きく左右される。デバッガを使うとプログラムの実行について観測、停止、再開、速度を落としての実行、メモリ中の値の変更が行え、さらには時間を巻き戻すことさえ可能な場合がある。また、デバッグ作業を行う人のことを指してデバッガと呼ぶこともある。 一般的に高級言語―例えばJava―でのデバッグはより簡単である。なぜなら例外処理などの機能が使え、異常なふるまいの原因となっている箇所を特定するのがより簡単となるからである。低級言語、例えばC言語やアセンブリ言語では気づかないうちにメモリ破壊(不正なアドレスへのアクセスやメモリアロケーションミスなど)を引き起こすことがあり、問題がどこから生まれているのか突き止めるのが困難なことが多い。そのような場面では高度なデバッグツールが必要とされる。 状況によっては、特にソース・ツリーが巨大でウォークスルーが困難な場合など、言語に特化した汎用ソフトウェアツールが非常に役立つことがある。それらは静的コード解析ツールの一種であり、限られたいくつかの既知の問題をソースコード中から探す。問題にはよくあるものも、稀なものも含まれる。このようなツールに検出される問題はコンパイラやインタプリタにはほとんど検出されないものである。つまり、これらのツールは文法チェッカーではなく意味チェッカーである。300以上の問題を検出できると宣伝するツールもある。様々な言語において商用やフリーのものが存在する。検出される問題として典型的なものに、変数に値を代入する前に起きるデリファレンスがある。また、言語仕様にない場合でも強い型検査を行うことができる。したがって、実際のエラーよりも潜在的なエラーに強い。このため、これらのツールは誤検出の悪評がある。このようなツールの初期の例としてlintがある。 電気機器(コンピュータ・ハードウェアなど)やローレベルソフトウェア(BIOS、デバイスドライバなど)、ファームウェアのデバッグでは、オシロスコープやロジックアナライザ、インサーキット・エミュレータ (ICE) が単独または組み合わせでよく使われる。ICEではソフトウェアデバッガが行うことのできる典型的な作業の多くをローレベルソフトウェアやファームウェアに対して行うことができる。 デバッグ作業は対象によってさまざまであるが、一般的なデバッグの原則を見つけることができる。本節ではソフトウェアのデバッグについて扱うが、ハードウェアについても適用できることは多い。 デバッグの基本的なステップは以下である。 バグの存在は予知できることも結果的に判明することもある。 経験を積んだプログラマはどこでエラーが起きやすいかをよく知っている。それはプログラムの部分ごとの複雑性やデータ破壊の危険性などから判断できる。例えば、ユーザが入力したデータは疑って扱うべきである。注意深く、データの形式および内容が正しいものであると検証すべきである。通信によって得たデータならば、メッセージ(データ)の全体を受信したか確かめねばならない。複雑なデータをパースまたは加工する際には、値の予期しない組み合わせを含んでいて正しく扱えないことがある。エラーの兆候らしき箇所にチェックを挿むことで、データがいつ破壊された、または正しく処理されなかったかを検出することができる。 もしエラーがプログラムを異常終了させるほど深刻なものだったなら、バグの存在は明らかである。プログラムがそこまで深刻ではない問題を検出した場合、エラーとなるかログメッセージが表示されるかすると、バグの存在を認識できる。しかしエラーが軽微で間違った結果を出すだけであったら、バグの存在を検出するのははるかに難しくなる。これはプログラムの結果を検証するのが困難であるか不可能である場合に特に成り立つ。 このステップの目的はバグのしるしを特定することである。問題のしるし、どのような条件の下で問題が起き、(可能なら)どのような回避策があったか、を観測することは後のステップで問題点をデバッグする大きな助けとなる。 このステップはシステムのどの部分が問題を引き起こしているかを特定するものである。これは度々デバッグ作業で最も困難な(ゆえにやりがいのある)ステップとなる。都合の悪いことに問題の発生箇所は兆候の出現箇所と常に同じであるわけではない。例えば、入力レコードが破壊されていたら、プログラムが別のレコードを処理したり間違った情報に基づいて動作するまでエラーは起きないことがあり、その場合レコードが読み込まれてから長い時間が経ってしまっている。 このステップは反復的なテストを必要とすることが多い。プログラマは最初に入力が正しいことを検証し、次に正しく読み込まれたか、正しく処理されたかなどを検証していく。モジュール化されたシステムではモジュール間のインタフェースを通してやり取りされるデータの妥当性を検査することで、このステップをわずかに楽にすることができる。入力が正しく、しかし出力がそうでなければ、エラーの発生源はそのモジュールの中にある。入力と出力を反復的にテストすることでデバッガはエラーが起きている箇所を数行のコードまで特定することができる。 経験の厚いプログラマは、以前の似た状況からの類推でどこに問題があるか仮説を立てることができる。そして疑わしい箇所の入力と出力をテストする。このようなデバッグは科学的手法の一種である。経験の浅いデバッガはプログラムをステップ実行して、プログラムの振る舞いが期待のものと異なる箇所を探そうとする。異常な振る舞いを探すためにどの変数に着目するか決めなければならないので、これもまた科学的手法の一種である。別のアプローチは二分探索の類を使うことである。処理またはデータのフローの中央付近でテストすることで、エラーがプログラムのそれより前で起きているか後で起きているかを確定することができる。データに何も問題が検出されなければ、エラーはそれより後で起きていることになる。二分探索を使わない場合の探索時間が最大tだとすれば、二分探索を使った場合の探索時間は最大log2 tである。 バグの位置を見つけたら、次のステップはバグの実際の理由を突き止めることである。これにはプログラムの他の部分を調べることが必要な場合がある。例えば、データのフィールドが間違っていたためにプログラムが停止したとする。この次のステップはフィールドが間違っていた理由を特定することであり、それがバグの真の発生源である。プログラムが不正なデータに対処できないこともバグとみなせると主張する者もいるが。 システムをよく理解していることはバグの原因をうまく特定するのに不可欠である。熟練したデバッガなら問題がどこに由来するのかを特定することができるが、システムに詳しい者だけがそのエラーの真の原因を的確に突き止めることができる。原因が、例えば入力データなど、システムの外部に在ることもある。また、正しいデータを間違った方法で扱っているなど、ロジック上のエラーもありうる。他の可能性としてはデータの与えられ方(値の組み合わせ、数など)が予期しないものであったり、不正な参照など様々なものがある。 バグの原因を突き止めたら、コード中の類似した箇所を調べて間違いが繰り返されていないかを確認するのが良い考えである。重複コードが多ければこれはより面倒な作業となる。エラーがはっきりとしたタイポであったら可能性は低いが、プログラマが設計や仕様を誤解したものであったのなら同じか類似した間違いが他で犯されている可能性がある。 問題の源を特定したら、次はどのようにその問題を修正するかを決定する作業である。問題が非常に単純なものである場合を除いて、システムの深い理解が必要不可欠となる。なぜなら、修正によってシステムの現状の振る舞いを変更してしまい、予期しない結果を生むことになるかもしれないからである。その上、既存のバグの修正は新しいバグを生み出したり、修正したバグに隠れていたバグを顕在化させることがよくある。このような問題はコード中でそれまでテストされていなかった部分を実行する際によく発生する。 場合によっては、修正は単純で明確である。これはオリジナルの設計を間違って実装しているようなロジック上のエラーに特に当てはまる。反対に、問題がシステムの大部分に渡るような重大な設計上の不備を浮き彫りにした場合には、修正は悪ければ不可能となり、ソフトウェアの一からの書き直しが必要となる。 状況によって、恒久的な修正の前に"quick fix"の実装が応急処置的に望まれることがある。これは修正の性質や製品のスケジュール(またはさらに切迫した問題)以外にも、問題の緊急度、現れやすさ、頻度、副作用などを考慮して決定されることが多い。 修正が適用された後にシステムをテストしてその修正が以前の問題に正しく対処しているか確認するのは重要である。テストを行うべき理由は2つある: の確認のためである。 規模の大きなシステムではリグレッションテストを行うのがよい考えである。重大な変更やバグ修正の後で、このテストはシステムが依然仕様通りに動作することを検証するためにいつでも繰り返し実行される。新しい機能が追加されると、追加のテストがテストスイートに収録される。
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デバッグとは、コンピュータプログラムや電気機器中のバグ・欠陥を特定して取り除き、動作を仕様通りのものとするための作業である。“de-”は「〜から離れて/分離して/除去して」といった否定の意味を持つ接頭辞であり、「虫」を意味する英語名詞“bug”と結びついた複合語が“debug”である。 サブシステムが密結合であると、1箇所の変更が別の箇所でのバグを作り出すので、バグの修正がより困難となる。
{{ソフトウェア開発工程}}'''デバッグ'''({{lang-en-short|debug}})とは、[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータプログラム]]や[[電気機器]]中の[[バグ]]・[[欠陥]]を特定して取り除き、動作を[[仕様]]通りのものとするための[[作業]]である。“{{lang|en|de-}}”は「〜から離れて/分離して/除去して」といった否定の意味を持つ[[接頭辞]]であり<ref>[https://eow.alc.co.jp/search?q=de- de-の意味・使い方|英辞郎 on the WEB]</ref>、「虫」を意味する英語名詞“{{lang|en|bug}}”と結びついた[[複合語]]が“{{lang|en|debug}}”である。 サブ[[システム]]が[[密結合]]であると、1箇所の変更が別の箇所でのバグを作り出すので、バグの修正がより困難となる。 == 語源 == 「デバッグ」という語を初めて使った人物については論争がある([[バグ]]を参照)。[[1976年]]に Glenford J. Myers の ''Software Reliability: Principles and Practices'' で"debugging"が「既知の[[エラー]]の原因を突き止め、そのエラーを[[修正]]すること」と定義されて使われたのが初めてだとする者がいる一方、[[1940年代]]に[[グレース・ホッパー]]によるとする者もいる。 その逸話は以下のようなものである。ホッパーがある[[Harvard Mark I|初期のコンピュータ]]に携わっていたとき、蛾が[[継電器|リレー]]の中に入って動作不良を起こすのを見た。ここから、プログラムから[[エラー]]を取り除く作業を指してデバッグという語が使われ始めたと信じている者もいる。ホッパーによればバグという語はそれ以前にも使われており、実際にその場面に遭遇したのがおもしろかったという<ref>{{Cite web|title=bug|work=The Jargon File|date=2003-12-29|url=http://www.catb.org/~esr/jargon/html/B/bug.html|accessdate=2013-03-21}}</ref>。 == ツール == 一般的に言って、デバッグは面倒で[[退屈]]な作業である。実際の作業では[[プログラマ]]のデバッグに関するスキルがおそらく最も重要な要素となるが、ソフトウェアのデバッグの難易度は使用する[[プログラミング言語]]や'''[[デバッガ]]'''などのツールによって大きく左右される。デバッガを使うとプログラムの[[実行]]について観測、停止、再開、速度を落としての実行、メモリ中の値の変更が行え、さらには時間を巻き戻すことさえ可能な場合がある。また、デバッグ作業を行う人のことを指してデバッガと呼ぶこともある。 一般的に[[高級言語]]―例えば[[Java]]―でのデバッグはより簡単である。なぜなら[[例外処理]]などの機能が使え、異常なふるまいの原因となっている箇所を特定するのがより簡単となるからである。[[低級言語]]、例えば[[C言語]]や[[アセンブリ言語]]では気づかないうちにメモリ破壊(不正な[[メモリアドレス|アドレス]]へのアクセスや[[動的メモリ確保|メモリアロケーション]]ミスなど)を引き起こすことがあり、問題がどこから生まれているのか突き止めるのが困難なことが多い。そのような場面では高度なデバッグツールが必要とされる。 状況によっては、特にソース・ツリーが巨大でウォークスルーが困難な場合など、言語に特化した汎用[[ソフトウェアツール]]が非常に役立つことがある。それらは[[静的コード解析]]ツールの一種であり、限られたいくつかの既知の問題を[[ソースコード]]中から探す。問題にはよくあるものも、稀なものも含まれる。このようなツールに検出される問題はコンパイラやインタプリタにはほとんど検出されないものである。つまり、これらのツールは文法チェッカーではなく意味チェッカーである。300以上の問題を検出できると宣伝するツールもある。様々な言語において商用やフリーのものが存在する。検出される問題として典型的なものに、変数に値を代入する前に起きる[[参照 (計算機科学)|デリファレンス]]がある。また、言語仕様にない場合でも強い型検査を行うことができる。したがって、実際のエラーよりも潜在的なエラーに強い。このため、これらのツールは誤検出の悪評がある。このようなツールの初期の例として[[lint]]がある。 電気機器([[ハードウェア|コンピュータ・ハードウェア]]など)やローレベルソフトウェア([[Basic Input/Output System|BIOS]]、[[デバイスドライバ]]など)、[[ファームウェア]]のデバッグでは、[[オシロスコープ]]や[[ロジックアナライザ]]、[[インサーキット・エミュレータ]] (ICE) が単独または組み合わせでよく使われる。ICEではソフトウェアデバッガが行うことのできる典型的な作業の多くをローレベルソフトウェアやファームウェアに対して行うことができる。 == 基本的な手順 == デバッグ作業は対象によってさまざまであるが、一般的なデバッグの原則を見つけることができる。本節ではソフトウェアのデバッグについて扱うが、ハードウェアについても適用できることは多い。 デバッグの基本的なステップは以下である。 # バグの存在を認識する # バグの発生源を分離する # バグの原因を特定する # バグの修正方法を決定する # 修正し、テストする === バグの存在を認識する === バグの存在は予知できることも結果的に判明することもある。 経験を積んだプログラマはどこでエラーが起きやすいかをよく知っている。それはプログラムの部分ごとの[[複雑性]]やデータ破壊の危険性などから判断できる。例えば、ユーザが入力したデータは疑って扱うべきである。注意深く、データの形式および内容が[[データ完全性|正しい]]ものであると検証すべきである。通信によって得たデータならば、メッセージ(データ)の全体を受信したか確かめねばならない。複雑なデータをパースまたは加工する際には、値の予期しない組み合わせを含んでいて正しく扱えないことがある。エラーの兆候らしき箇所にチェックを挿むことで、データがいつ破壊された、または正しく処理されなかったかを検出することができる。 もしエラーがプログラムを異常終了させるほど深刻なものだったなら、バグの存在は明らかである。プログラムがそこまで深刻ではない問題を検出した場合、エラーとなるかログメッセージが表示されるかすると、バグの存在を認識できる。しかしエラーが軽微で間違った結果を出すだけであったら、バグの存在を検出するのははるかに難しくなる。これはプログラムの結果を検証するのが困難であるか不可能である場合に特に成り立つ。 このステップの目的はバグのしるしを特定することである。問題のしるし、どのような条件の下で問題が起き、(可能なら)どのような回避策があったか、を観測することは後のステップで問題点をデバッグする大きな助けとなる。 === バグの発生源を分離する === このステップはシステムのどの部分が問題を引き起こしているかを特定するものである。これは度々デバッグ作業で最も困難な(ゆえにやりがいのある)ステップとなる。都合の悪いことに問題の発生箇所は兆候の出現箇所と常に同じであるわけではない。例えば、入力レコードが破壊されていたら、プログラムが別のレコードを処理したり間違った情報に基づいて動作するまでエラーは起きないことがあり、その場合レコードが読み込まれてから長い時間が経ってしまっている。 このステップは反復的な[[ソフトウェアテスト|テスト]]を必要とすることが多い。プログラマは最初に入力が正しいことを検証し、次に正しく読み込まれたか、正しく処理されたかなどを検証していく。[[モジュール]]化されたシステムではモジュール間のインタフェースを通してやり取りされるデータの妥当性を検査することで、このステップをわずかに楽にすることができる。入力が正しく、しかし出力がそうでなければ、エラーの発生源はそのモジュールの中にある。入力と出力を反復的にテストすることでデバッガはエラーが起きている箇所を数行のコードまで特定することができる。 経験の厚いプログラマは、以前の似た状況からの類推でどこに問題があるか仮説を立てることができる。そして疑わしい箇所の入力と出力をテストする。このようなデバッグは[[科学的方法|科学的手法]]の一種である。経験の浅いデバッガはプログラムをステップ実行して、プログラムの振る舞いが期待のものと異なる箇所を探そうとする。異常な振る舞いを探すためにどの変数に着目するか決めなければならないので、これもまた科学的手法の一種である。別のアプローチは[[二分探索]]の類を使うことである。処理またはデータのフローの中央付近でテストすることで、エラーがプログラムのそれより前で起きているか後で起きているかを確定することができる。データに何も問題が検出されなければ、エラーはそれより後で起きていることになる。二分探索を使わない場合の探索時間が最大tだとすれば、二分探索を使った場合の探索時間は最大log<sub>2</sub> tである。 === バグの原因を特定する === バグの位置を見つけたら、次のステップはバグの実際の理由を突き止めることである。これにはプログラムの他の部分を調べることが必要な場合がある。例えば、データのフィールドが間違っていたためにプログラムが停止したとする。この次のステップはフィールドが間違っていた理由を特定することであり、それがバグの真の発生源である。プログラムが不正なデータに対処できないこともバグとみなせると主張する者もいるが。 システムをよく理解していることはバグの原因をうまく特定するのに不可欠である。熟練したデバッガなら問題がどこに由来するのかを特定することができるが、システムに詳しい者だけがそのエラーの真の原因を的確に突き止めることができる。原因が、例えば入力データなど、システムの外部に在ることもある。また、正しいデータを間違った方法で扱っているなど、ロジック上のエラーもありうる。他の可能性としてはデータの与えられ方(値の組み合わせ、数など)が予期しないものであったり、不正な参照など様々なものがある。 バグの原因を突き止めたら、コード中の類似した箇所を調べて間違いが繰り返されていないかを確認するのが良い考えである。[[重複コード]]が多ければこれはより面倒な作業となる。エラーがはっきりとした[[誤植|タイポ]]であったら可能性は低いが、プログラマが設計や仕様を誤解したものであったのなら同じか類似した間違いが他で犯されている可能性がある。 === バグの修正方法を決定する === 問題の源を特定したら、次はどのようにその問題を修正するかを決定する作業である。問題が非常に単純なものである場合を除いて、システムの深い理解が必要不可欠となる。なぜなら、修正によってシステムの現状の振る舞いを変更してしまい、予期しない結果を生むことになるかもしれないからである。その上、既存のバグの修正は新しいバグを生み出したり、修正したバグに隠れていたバグを顕在化させることがよくある。このような問題はコード中でそれまでテストされていなかった部分を実行する際によく発生する。 場合によっては、修正は単純で明確である。これはオリジナルの設計を間違って実装しているようなロジック上のエラーに特に当てはまる。反対に、問題がシステムの大部分に渡るような重大な設計上の不備を浮き彫りにした場合には、修正は悪ければ不可能となり、ソフトウェアの一からの書き直しが必要となる。 状況によって、恒久的な修正の前に"quick fix"の実装が応急処置的に望まれることがある。これは修正の性質や製品のスケジュール(またはさらに切迫した問題)以外にも、問題の緊急度、現れやすさ、頻度、副作用などを考慮して決定されることが多い。 === 修正し、テストする === 修正が適用された後にシステムをテストしてその修正が以前の問題に正しく対処しているか確認するのは重要である。テストを行うべき理由は2つある: # その修正が問題に正しく対処しているか # その修正が望ましくない副作用を引き起こしていないか の確認のためである。 規模の大きなシステムでは[[ソフトウェアテスト|リグレッションテスト]]を行うのがよい考えである。重大な変更やバグ修正の後で、このテストはシステムが依然仕様通りに動作することを検証するためにいつでも繰り返し実行される。新しい機能が追加されると、追加のテストがテストスイートに収録される。 == 注釈・出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{cite book | last = Agans | first = David J. | title = Debugging: The Nine Indispensable Rules for Finding Even the Most Elusive Software and Hardware Problems | publisher = AMACOM | isbn = 0-8144-7168-4 }} * {{cite book | last = Telles | first = Matthew A. | coauthors = Yuan Hsieh, Matt Telles | title = The Science of Debugging | publisher = The Coriolis Group | isbn = 1-57610-917-8 }} * {{cite book | last = Metzger | first = Robert | title = Debugging by Thinking : A Multidisciplinary Approach | publisher = Digital Press | isbn = 1-55558-307-5 }} * {{cite book | last = Robbins | first = John | title = Debugging Applications | publisher = Microsoft Press | isbn = 0-7356-0886-5 }} * {{cite book | last = Ford | first = Ann R. | coauthors = Toby J. Teorey | title = Practical Debugging in C++ | publisher = Prentice Hall | isbn = 0-13-065394-2 }} * {{cite book | last = Blunden | first = Bill | title = Software Exorcism: A Handbook for Debugging and Optimizing Legacy Code | publisher = APress | isbn = 1-59059-234-4 }} * {{cite book | last = Brooks | first = Frederick Phillips | title = The Mythical Man-Month: Essays on Software Engineering | publisher = Pearson Addison Wesley | isbn = 0-201-00650-2 }} * {{cite book | last = Myers | first = Glenford J | title = Software Reliability: Principles and Practices | publisher = John Wiley &amp; Sons inc | isbn = 0-471-62765-8 }} * {{cite book | last = Myers | first = Glenford J | title = The Art of Software Testing | publisher = John Wiley &amp; Sons inc | isbn = 0-471-04328-1 }} * {{cite book | last = Zeller | first = Andreas | title = Why Programs Fail: A Guide to Systematic Debugging | publisher = Morgan Kaufmann | isbn = 1-55860-866-4 }} * Andreas Zeller:「デバッグの理論と実践 ―なぜプログラムはうまく動かないのか」、オライリージャパン、ISBN 978-4873115931(2012年12月22日)。 == 関連項目 == * [[パッチ]] * [[デバッガ]] * [[ソフトウェアテスト]] * [[プログラミング (コンピュータ)]] * [[誤り検出訂正]] * [[デバッグルーム]] * [[トラブルシューティング]] == 外部リンク == 以下英語 * [http://www.lambdacs.com/debugger/USENIX/Debugger_USENIX_2003.html Debugging Backwards in Time] - Omniscient Debugging * [http://citeseer.ist.psu.edu/cs?q=debugging Citations from CiteSeer] * [http://www-106.ibm.com/developerworks/web/library/wa-debug.html?ca=dgr-lnxw03Dbug Learn the essentials of debugging] デバッグの方法論に関する記事 * [http://www.eventhelix.com/RealtimeMantra/Basics/debugging_software_crashes.htm Debugging Software Crashes in C] * [http://www.eventhelix.com/RealtimeMantra/Basics/debugging_software_crashes_2.htm Debugging Software Crashes in C++] 以下日本語 * [http://www.csg.is.titech.ac.jp/~chiba/notes/debug.html 職人的デバッグと科学的デバッグ] 千葉滋、bit vol.29、no.1、pp. 24-25、共立出版、January, 1997. * [http://i.loveruby.net/ja/misc/readingcode.html ソースコードを読むための技術] * [http://dream.ie.ariake-nct.ac.jp/~bashi/tips/gdb/ 使いながら覚えるGDB] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てはつく}} [[Category:デバッグ|*]]
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ウェスタンブロッティング
ウェスタンブロッティング (western blotting; WB) は電気泳動によって分離したタンパク質を膜に転写し、任意のタンパク質に対する抗体でそのタンパク質の存在を検出する手法。別名ウェスタンブロット法(western blot analysis)。サザンブロッティング(南)、ノーザンブロッティング(北)の流れから、半ばジョークで命名されている(ちなみに様々な手法に「イースタン」と名付けられているが、確立したものはない)。前二者は核酸どうしの相補性を利用しているが、本法は抗体の特異性によって目的のタンパク質分子を区別している。よってイムノブロット (immunoblot; IB) とも呼ばれる。生命科学の研究者の間では、単に「ウェスタン」といえばこれを指す。 通常はタンパク質の立体構造を破壊し、さらに陰性に荷電させるために、陰イオン系界面活性剤であるドデシル硫酸ナトリウム(SDS)や2-メルカプトエタノールを加えたバッファーにタンパク質を溶解させる。これをSDS-PAGEにて展開し、ニトロセルロース膜やPVDF膜に転写する。この膜に対して免疫染色を行うことで、タンパク質を検出する。 単にタンパク質の存在を検出するだけでなく、そのタンパク質がどのような状態にあるか(例えばリン酸基の修飾を受けているかなど)も適当な抗体を用いる事で検出できる。また免疫沈降法(IP:immunoprecipitation)という手法により、目的のタンパク質がどのようなタンパク質と結合しているかも調べる事ができる。このように生命科学の分野においては現在も極めて重要な手法として多くの研究者の間で重宝されている。狂牛病の二次検査で異常型プリオンの検出に用いられている手法の一つでもある。 以上を踏まえ、それぞれの実験に応じた装置を選択する必要がある。
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ウェスタンブロッティング は電気泳動によって分離したタンパク質を膜に転写し、任意のタンパク質に対する抗体でそのタンパク質の存在を検出する手法。別名ウェスタンブロット法(western blot analysis)。サザンブロッティング(南)、ノーザンブロッティング(北)の流れから、半ばジョークで命名されている(ちなみに様々な手法に「イースタン」と名付けられているが、確立したものはない)。前二者は核酸どうしの相補性を利用しているが、本法は抗体の特異性によって目的のタンパク質分子を区別している。よってイムノブロット とも呼ばれる。生命科学の研究者の間では、単に「ウェスタン」といえばこれを指す。
[[画像:A-gfpwestern.jpg|thumb|ウェスタンブロットの例:[[GFP]]に対する抗体で行った間接標識ウェスタンブロッティングの結果例。レーン1は[[分子量]]マーカ。レーン2、3、4にはそれぞれ異なった試料を使って[[電気泳動]]を行った。PVDF膜に転写後、[[GFP]]に対する抗体を反応させ、一次抗体に対する[[西洋ワサビ]][[ペルオキシダーゼ]](Horse Radish Peroxidase;HRP)標識二次抗体を結合させた。[[ペルオキシダーゼ]]の[[酵素]]活性に由来する化学[[発光]]を[[X線]][[写真フィルム|フィルム]]で検出した。レーン2と4には黒い物が見える。これが抗体が結合したタンパク質を表すバンドと呼ばれるもの。レーン3にはバンドがないことからレーン3のサンプルには[[GFP]]が検出限界量以下しか含まれていないといえる。]] '''ウェスタンブロッティング''' (western blotting; WB) は[[電気泳動]]によって分離した[[タンパク質]]を膜に転写し、任意のタンパク質に対する[[抗体]]でそのタンパク質の存在を検出する手法。別名'''ウェスタンブロット法'''(western blot analysis)。[[サザンブロッティング]](南)、[[ノーザンブロッティング]](北)の流れから、半ばジョークで命名されている(ちなみに様々な手法に「イースタン」と名付けられているが、確立したものはない)。前二者は[[核酸]]どうしの相補性を利用しているが、本法は[[抗体]]の特異性によって目的の[[タンパク質]]分子を区別している。よってイムノブロット (immunoblot; IB) とも呼ばれる。[[生命科学]]の研究者の間では、単に「'''ウェスタン'''」といえばこれを指す。 == 概要 == 通常はタンパク質の立体構造を破壊し、さらに陰性に荷電させるために、陰イオン系[[界面活性剤]]である[[ドデシル硫酸ナトリウム]](SDS)や[[2-メルカプトエタノール]]を加えたバッファーにタンパク質を溶解させる。これを[[SDS-PAGE]]にて展開し、[[ニトロセルロース]]膜や[[PVDF]]膜に転写する。この膜に対して[[免疫染色]]を行うことで、タンパク質を検出する。 単にタンパク質の存在を検出するだけでなく、そのタンパク質がどのような状態にあるか(例えば[[リン酸基]]の修飾を受けているかなど)も適当な抗体を用いる事で検出できる。また[[免疫沈降法]](IP:immunoprecipitation)という手法により、目的のタンパク質がどのようなタンパク質と結合しているかも調べる事ができる。このように生命科学の分野においては現在も極めて重要な手法として多くの研究者の間で重宝されている。[[牛海綿状脳症|狂牛病]]の二次検査で異常型[[プリオン]]の検出に用いられている手法の一つでもある。 == 装置 == *セミドライ式 :短時間でブロッティングが可能でありバッファー量も少なくて済むが、その反面バッファーによる冷却ができないため熱を持ちやすい。低分子量タンパク質の転写効率は高いが、高分子量側の転写効率は低い。 *タンク式 :高分子量側でも転写可能だが転写効率は低い。バッファーは多く使うが、冷却しながらの転写が可能である。アクリルアミドゲルだけでなくアガロースゲルにも使用可能。 *セミウェット式 以上を踏まえ、それぞれの実験に応じた装置を選択する必要がある。 == 外部リンク == *[http://www.cstj.co.jp/support/protocols/Western.php ウェスタンブロッティング プロトコール] *[http://www.cstj.co.jp/support/protocols/Western_Trouble.php ウェスタンブロッティング トラブルシューティングガイド] == 関連項目 == *[[免疫染色]] *[[サウスウェスタン法]] *[[サザンブロッティング]] *[[ノーザンブロッティング]] {{DEFAULTSORT:うえすたんふろつていんく}} [[Category:分子生物学]] [[Category:生化学的技法]] [[Category:生物学の研究技術]] [[Category:電気泳動]] [[Category:プロテオミクス]] {{Biosci-stub}}
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五代
五代(ごだい)
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五代(ごだい) 五代 - 中国で唐の滅亡後、北宋が興るまでに華北に興亡した後梁、後唐、後晋、後漢、後周の5つの王朝のこと。その周辺で興亡した王朝群と合わせて五代十国時代と総称する。 五代 (弘前市) - 青森県弘前市の大字。 五代 (宇都宮市) - 栃木県宇都宮市の町名。 五代 - 鹿児島県薩摩郡川内町にあった大字。現在の薩摩川内市五代町。 さつま五代 - 山元酒造が製造する焼酎の銘柄。 日本人の姓の一つ。五代友厚など。
'''五代'''(ごだい) * 五代 - 中国で唐の滅亡後、北宋が興るまでに華北に興亡した後梁、後唐、後晋、後漢、後周の5つの王朝のこと。その周辺で興亡した王朝群と合わせて[[五代十国時代]]と総称する。 * [[五代 (弘前市)]] - 青森県弘前市の大字。 * [[五代 (宇都宮市)]] - 栃木県[[宇都宮市]]の町名。 * 五代 - 鹿児島県薩摩郡川内町にあった大字。現在の薩摩川内市[[五代町 (薩摩川内市)|五代町]]。 * さつま五代 - [[山元酒造]]が製造する焼酎の銘柄。 * 日本人の姓の一つ。[[五代友厚]]など。 == 関連項目 == * [[五代町 (曖昧さ回避)]] * {{Prefix}} {{aimai}} {{デフォルトソート:こたい}} [[Category:日本の地名]] [[Category:同名の地名]] [[Category:日本語の姓]]
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十国
十国(じっこく)
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十国(じっこく) 五代十国時代の略称。特に中原の5王朝(五代)を除く地方政権(前蜀・後蜀・呉・南唐・荊南・呉越・閩・楚・南漢・北漢)を指す。 かつて国鉄が運行していた準急列車。静岡県熱海市の十国峠にちなむ。踊り子 (列車) を参照。 G10
'''十国'''(じっこく) * [[五代十国時代]]の略称。特に[[中原]]の5王朝(五代)を除く地方政権([[前蜀]]・[[後蜀 (十国)|後蜀]]・[[呉 (十国)|呉]]・[[南唐]]・[[荊南]]・[[呉越]]・[[閩]]・[[楚 (十国)|楚]]・[[南漢]]・[[北漢]])を指す。 * かつて国鉄が運行していた[[準急列車]]。[[静岡県]][[熱海市]]の[[十国峠]]にちなむ。[[踊り子 (列車)]] を参照。 * [[G10]] {{aimai}} {{デフォルトソート:しつこく}}
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