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アナトリア半島
アナトリア半島(アナトリアはんとう、ギリシア語: Ανατολία, Anatolia / Aνατολή, Anatolē、トルコ語: Anadolu)は、アジア大陸最西部で西アジアの一部をなす地域である。現在はトルコ共和国のアジア部分をなす。日本語ではアナトリア半島と呼ばれる事が多いが、英語圏では「半島」をつけない、単なるアナトリア(アナトール)であり、地形ではなく人文地理的な地域を表す言葉である。小アジア(希: Μικρά Ασία, Mikra Asia, 羅: Asia Minor)とも言い、漢字では小亜細亜と表記される。 北と西と南西の境界は海だが、陸続きである南東と東の境界は曖昧である。簡便のためにはトルコ国境とされることも多く、現在のトルコの東アナトリア地方と南東アナトリア地方はトルコ東部に位置している。 しかし、トルコの国境線は1921年のアンカラ条約で確定したにすぎず、歴史的な意味は成さない。現在の国境は東地中海世界との関係が薄く、近代にはトルコ人が主要民族でないトルコ東部がアナトリアや小アジアとして言及されることは少ない。現代でも、「アナトリア」や「小アジア」がトルコ西部から中部にかけて書かれている地図は多い。 なお、トルコのヨーロッパ地域、沿岸のギリシャ領の島々やキプロスなどの島嶼は含まない。 北は黒海、北西はマルマラ海、西はエーゲ海、南西は地中海に面す。東と南東は陸続きで、ジョージア、アルメニア、イラン、イラク、シリアと接する。 地勢は高地性である。平地は海岸沿いにわずかにあるのみである。河川は大部分が黒海・マルマラ海・エーゲ海・地中海に流れるが、南東部には、ペルシア湾に注ぐチグリス川・ユーフラテス川の上流や支流が流れ、北東部には、カスピ海に注ぐクラ川の上流や支流が流れる。 トルコの行政区画はアナトリアとヨーロッパを分ける境界になっていない。7つの地方のうちマルマラ地方はヨーロッパからアナトリアにかけて広がり(ヨーロッパ地域の全域が含まれる)、同様に、81の県のうちイスタンブール県が、また基礎自治体ではイスタンブールがヨーロッパからアナトリアにかけ広がっている。そのため、アナトリアに関する人口や経済などの統計情報は得ることが難しい。 民族はトルコ人が大多数だが、南東部にはクルド人、および若干のアラブ人、北東部にはアルメニア人が住む。かつては黒海海岸地帯のポントス地方にポントス人と呼ばれるギリシャ人が古代から住んでいたが、第一次世界大戦後の住民交換でほぼすべてがギリシャに移住した。 アジアとヨーロッパを繋ぐ戦略的に重要な地点に位置するため、アナトリア半島は先史時代からいくつかの文明の発祥地となり、新石器時代の神殿遺跡と言われるギョベクリ・テペや、人類最古の定住遺跡と言われるチャタル・ヒュユクなどの、数多くの遺跡が発見されている。 古くは単に「アジア」と呼ばれていたが、アジアはさらに東方に広大であることがわかり、「小アジア」と区別されるようになった。アナトリアの名称は東ローマ皇帝コンスタンティノス7世の時代、エーゲ海に面した西岸地方に軍管区を置き、「アナトリコン」(ギリシャ語で日出る処の意)と名付けたことに由来する。 アナトリア半島に存在した主要な諸文明には以下が挙げられる。
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アナトリア半島は、アジア大陸最西部で西アジアの一部をなす地域である。現在はトルコ共和国のアジア部分をなす。日本語ではアナトリア半島と呼ばれる事が多いが、英語圏では「半島」をつけない、単なるアナトリア(アナトール)であり、地形ではなく人文地理的な地域を表す言葉である。小アジアとも言い、漢字では小亜細亜と表記される。
{{redirect|アナドル|揚陸艦|アナドル (揚陸艦)}} {{出典の明記|date=2017年9月}} [[File:Modern-day Turkey and Europe NASA modified.png|300px|thumb|ヨーロッパとアジアを繋ぐアナトリア半島(赤く囲まれた部分)]] [[File:AnatolieLimits.jpg|thumb|アナトリア半島の拡大図]] '''アナトリア半島'''(アナトリアはんとう、{{lang-el|Ανατολία, Anatolia / Aνατολή, Anatolē}}、{{lang-tr|Anadolu}})は、[[アジア大陸]]最西部で[[西アジア]]の一部をなす地域である。現在は[[トルコ|トルコ共和国]]のアジア部分をなす。[[日本語]]ではアナトリア半島と呼ばれる事が多いが、[[英語圏]]では「半島」をつけない、単なる'''アナトリア'''(アナトール)であり、地形ではなく人文地理的な地域を表す言葉である。'''小アジア'''({{lang-el-short|Μικρά Ασία, Mikra Asia}}, {{lang-la-short|Asia Minor}})とも言い、漢字では'''小亜細亜'''と表記される。 == 範囲 == [[File:Ethnicturkey1911.jpg|thumb|[[第一次世界大戦]]前の1911年の[[地図]]。小アジア (ASIA MINOR) は現在のトルコ西部から中部に書かれており、東部には[[アルメニア]] (ARMENIA) と書かれている。]] 北と西と南西の境界は海だが、陸続きである南東と東の境界は曖昧である。簡便のためにはトルコ[[国境]]とされることも多く、現在のトルコの[[東アナトリア地方]]と[[南東アナトリア地方]]はトルコ東部に位置している。 しかし、トルコの国境線は[[1921年]]の[[アンカラ条約 (1921年)|アンカラ条約]]で確定したにすぎず、歴史的な意味は成さない。現在の国境は東[[地中海]]世界との関係が薄く、近代には[[トルコ人]]が主要民族でないトルコ東部がアナトリアや小アジアとして言及されることは少ない。現代でも、「アナトリア」や「小アジア」がトルコ西部から中部にかけて書かれている地図は多い。 なお、トルコの[[ヨーロッパ]]地域、沿岸の[[ギリシャ]]領の島々や[[キプロス]]などの島嶼は含まない。 == 地理 == [[File:Turkey Regions.png|thumb|トルコの7地方]] 北は[[黒海]]、北西は[[マルマラ海]]、西は[[エーゲ海]]、南西は[[地中海]]に面す。東と南東は陸続きで、[[ジョージア (国)|ジョージア]]、[[アルメニア]]、[[イラン]]、[[イラク]]、[[シリア]]と接する。 地勢は高地性である。平地は海岸沿いにわずかにあるのみである。河川は大部分が黒海・マルマラ海・エーゲ海・地中海に流れるが、南東部には、[[ペルシア湾]]に注ぐ[[チグリス川]]・[[ユーフラテス川]]の上流や支流が流れ、北東部には、[[カスピ海]]に注ぐ[[クラ川]]の上流や支流が流れる。 [[トルコの地方行政区画|トルコの行政区画]]はアナトリアとヨーロッパを分ける境界になっていない。7つの地方のうち[[マルマラ地方]]はヨーロッパからアナトリアにかけて広がり(ヨーロッパ地域の全域が含まれる)、同様に、81の県のうち[[イスタンブール県]]が、また[[基礎自治体]]では[[イスタンブール]]がヨーロッパからアナトリアにかけ広がっている。そのため、アナトリアに関する人口や経済などの統計情報は得ることが難しい。 民族はトルコ人が大多数だが、南東部には[[クルド人]]<ref>{{Cite journal|和書|author=松浦範子 |title=クルド : 翻弄の歴史と現在 |journal=プライム |ISSN=13404245 |publisher=明治学院大学国際平和研究所 |year=2010 |month=oct |issue=32 |pages=45-56 |naid=40017427733 |url=https://hdl.handle.net/10723/1014 |accessdate=2021-10-01}}</ref>、および若干の[[アラブ人]]、北東部には[[アルメニア人]]が住む。かつては黒海海岸地帯の[[ポントス]]地方に[[ポントス人]]と呼ばれる[[ギリシャ人]]が古代から住んでいたが、[[第一次世界大戦]]後の[[ギリシャとトルコの住民交換|住民交換]]でほぼすべてが[[ギリシャ]]に移住した。 ==歴史== === 文明の発祥地 === [[アジア]]と[[ヨーロッパ]]を繋ぐ戦略的に重要な地点に位置するため、アナトリア半島は[[先史時代]]からいくつかの[[文明]]の発祥地となり、[[新石器時代]]の[[神殿]]遺跡と言われる[[ギョベクリ・テペ]]や、[[人類]]最古の定住遺跡と言われる[[チャタル・ヒュユク]]などの、数多くの遺跡が発見されている。 古くは単に「アジア」と呼ばれていたが、アジアはさらに東方に広大であることがわかり、「小アジア」と区別されるようになった。アナトリアの名称は[[東ローマ]]皇帝[[コンスタンティノス7世]]の時代、[[エーゲ海]]に面した西岸地方に[[テマ制|軍管区]]を置き、「アナトリコン」([[ギリシャ語]]で日出る処の意)と名付けたことに由来する。 === 主要な諸文明 === [[ファイル:Hitt Egypt Perseus.png|thumb| {{legend|#F15B33|[[ヒッタイト]]の最大勢力}} {{legend|#61EB33|同時代の[[古代エジプト|エジプト]]の勢力}} ]] アナトリア半島に存在した主要な諸文明には以下が挙げられる。 * [[ヒッタイト]] * [[ウラルトゥ]] * [[フリュギア]] * [[リディア]] * [[古代ギリシア]] **[[マケドニア王国]] **[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]] * [[アッタロス朝|アッタロス朝ペルガモン王国]] * [[ポントス王国]] * 大[[アルメニア王国]] * [[ローマ帝国]] * [[東ローマ帝国]] * [[ニカイア帝国]] * [[トレビゾンド帝国]] * 小アルメニア王国([[キリキア・アルメニア王国]]) [[:en:Lesser Armenia]] * [[セルジューク朝]] * [[ルーム・セルジューク朝]] * [[オスマン帝国]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons category|Anatolia}} * [[アジア]] * [[ヨーロッパ]] * [[カッパドキア]] * [[アララト山]] * [[トルコの歴史]] * [[クルド人]] * [[アナトリア語派]] * [[アナドル通信社]] * [[アナドル大学]] * [[7つの教会]] {{Coord|39|N|32|E|display=title}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あなとりあ}} [[Category:アナトリア|*]] [[Category:トルコの半島]] [[Category:アジアの半島]]
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こまわり君
こまわり君
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こまわり君 がきデカの登場人物。 江ノ電バスの小型バスの愛称。
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パスカル
パスカル(Pascal、Pascale)は、フランス語圏の姓・男性名、女性名。日本語のパスカルには、Pascall、Paskal、Paschal、Pascual、Pasqual、Pasqualeも該当する。
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パスカル(Pascal、Pascale)は、フランス語圏の姓・男性名、女性名。日本語のパスカルには、Pascall、Paskal、Paschal、Pascual、Pasqual、Pasqualeも該当する。
'''パスカル'''(Pascal、Pascale)は、[[フランス語圏]]の姓・男性名、女性名。日本語のパスカルには、Pascall、Paskal、Paschal<ref>“[https://www.weblio.jp/content/Paschal Paschalの意味・解説]”. ''外国人名読み方字典''. [[weblio]]. 2018年9月22日閲覧。</ref>、Pascual<ref>“[https://www.weblio.jp/content/Pascual Pascualの意味・解説]”. ''外国人名読み方字典''. weblio. 2018年9月22日閲覧。</ref>、Pasqual<ref>“[https://www.weblio.jp/content/Pasqual Pasqualの意味・解説]”. ''外国人名読み方字典''. weblio. 2018年9月22日閲覧。</ref>、Pasquale<ref>“[https://www.weblio.jp/content/Pasquale Pasqualeの意味・解説]”. ''外国人名読み方字典''. weblio. 2018年9月22日閲覧。</ref>も該当する。 == 科学技術 == * [[パスカル (単位)]] - [[圧力]]・[[応力]]の単位。記号 Pa。[[ブレーズ・パスカル]]にちなむ。 * [[Pascal]] - [[ニクラウス・ヴィルト]]が開発した構造化[[プログラミング言語]]。ブレーズ・パスカルにちなんで名付けられた。 == 姓 == * [[ブレーズ・パスカル]](1623年生)- フランスの数学者・物理学者・哲学者。 *:[[パスカルの原理]]や[[パスカルの三角形]]、[[パスカルの定理]]、[[パスカルの蝸牛形]]に名を残し、『[[パンセ]]』や「人間は考える葦である」でも著名。 * [[ジャクリーヌ・パスカル]](1625年生)- フランスの詩人、修道女。ブレーズ・パスカルの妹。 * [[ジャン=ルイ・パスカル]](1837年生)- フランスの建築家。 * ジェファーソン・パスカル(1912年生)- [[コーネル・ワイルド]]の脚本家名。アメリカ合衆国の俳優、映画監督、映画プロデューサー。 * [[クロード・パスカル (作曲家)]](1921年生)- フランスの作曲家、批評家。[[パリ音楽院]][[教授]]。[[ローマ賞]]受賞者。 * [[カミロ・パスカル]](1934年生)- [[キューバ]]出身の野球選手。 * [[エイミー・パスカル]](1958年生)- 経営者。2006年に[[ハリウッド・リポーター]]選出「エンターテインメント界の女性100人」で1位。 * [[ラファエル・パスカル]](1970年生)- スペインの男子バレーボール選手。 * [[ペドロ・パスカル]](1975年生)- [[チリ]]出身の俳優。 * [[アルノー・ディ・パスカル]](1979年生)- フランスの男子テニス選手。 * [[ジャン・パスカル]](1982年生)- カナダのプロボクサー。 == 女性名(Pacale) == * [[パスカル・プティ]](1938年生)- フランス出身の女優。 * [[パスカル・コサール]](1948年生)- フランスの細菌学者。 * [[パスカル・ローズ]](1954年生)- フランスの劇作家、小説家。 * [[パスカル・ドジェ]](1961年生)- フランスの女子柔道選手。 * [[パスカル・ジュラン]](1987年生)- フランスの女子自転車競技選手。 == 男性名 == === 政治・経済 === * [[パスカル・パオリ]](1725年生)- [[コルシカ独立戦争]]の指導者、政治家、軍人。 * [[パスカル・リスバ]](1931年生)- [[コンゴ共和国]]の政治家、元[[大統領]]。 * [[パスカル・クレモン]](1945年生)- フランスの政治家、元[[法務大臣]]。 * [[パスカル・ラミー]](1947年生)- フランス出身の官僚、国家公務員、実業家。[[欧州委員会]]欧州委員、WTO([[世界貿易機関]])事務局長を歴任。 * [[パスカル・ヨアジマナジ]](1950年?生)- [[チャド]]の弁護士、政治家。[[首相]]。 * [[パスカル・カンファン]](1974年生)- フランスの政治家、大臣。 === 学者・技術者 === * [[パスカル・ボイヤー]](年生)- フランス出身のアメリカの[[人類学者]]。 * [[パスカル・アンジェル]](1954年生)- フランスの[[哲学者]]。 * [[パスカル・バセロン]](1963年生)- フランスの自動車技術者。[[ルノー]]、[[ミシュラン]]、[[トヨタ]]で[[フォーミュラ1|F1]]開発に携わる。 === 文化・芸能 === * [[パスカル・トマ]](1945年生)- フランスの映画監督。代表作は『[[アガサ・クリスティーの奥さまは名探偵]]』、『[[ゼロ時間の謎]]』。 * [[パスカル・ボニゼール]](1946年生)- フランスの脚本家、映画監督、映画批評家、俳優。 * [[パスカル・キニャール]](1948年生)- フランスの小説家。[[アカデミー・フランセーズ賞]]、[[ゴンクール賞]]受賞者。 *[[パスカル・ブリュックネール]](1948年生)- フランスの作家、評論家。 * [[パスカル・グレゴリー]](1953年生)- フランスの俳優。『[[愛する者よ、列車に乗れ]]』で[[セザール賞]]主演男優賞候補。 * [[パスカル・フェラン]](1960年生)- フランスの映画監督、脚本家。 * [[パスカル・ラバテ]](1961年生)- フランスのバンド・デジネ作家(漫画家)、漫画原作者、映画監督。 === 音楽 === * [[ヤン・パスカル・トルトゥリエ]](1947年生)- フランスの指揮者、ヴァイオリニスト。[[BBCフィルハーモニック]]首席指揮者。 * [[パスカル・ロジェ]](1951年生)- フランスのピアニスト。[[ロン=ティボー国際コンクール]]1位。 * [[パスカル・ドヴォワヨン]](1953年生)- フランス出身のピアニスト。[[ベルリン芸術大学]][[教授]]。 * [[パスカル・デュサパン]](1955年生)- フランスの作曲家([[現代音楽]])。 * [[パスカル・デュメイ]](1956年生)- フランスのピアニスト。[[ラジオ・フランス]]音楽監督、[[パリ国立高等音楽・舞踊学校]]学長などを歴任。 * [[パスカル・ヴェロ]](1959年生)- フランスの指揮者。[[仙台フィルハーモニー管弦楽団]]桂冠指揮者、[[東京フィルハーモニー交響楽団]]首席客演指揮者。 * [[パスカル・ネミロフスキ]](1962年生)- フランスのピアニスト。[[英国王立音楽院]]ピアノ教授。 * [[パスカル・オビスポ]](1965年生)- フランスのシンガーソングライター。 === サッカー選手 === * [[パスカル・ツベルビューラー]](1971年生)- スイスのサッカー選手。 * [[パスカル・シガン]](1974年生)- フランスのサッカー選手。 * [[パスカル・シンボンダ]](1979年生)- フランスのサッカー選手。 * [[パスカル・ベレンゲール]](1981年生)- フランスのサッカー選手。 * [[パスカル・ファンドゥーノ]](1981年生)- ギニア出身のサッカー選手。 * [[パスカル・グロス]](1991年生)- ドイツのサッカー選手。 * [[パスカル・イター]](1995年生)- ドイツのサッカー選手。 * [[パスカル・ケプケ]](1995年生)- ドイツのサッカー選手。 * [[パスカル・シュテンツェル]](1996年生)- ドイツのサッカー選手。 === その他スポーツ選手 === * [[パスカル・ペレス (ボクサー)]](1926年生)- アルゼンチン出身のプロボクサー * [[パスカル・リシャール]](1964年生)- スイスの自転車ロードレース選手。 * [[パスカル・ラヴァンシー]](1968年生)- フランス出身の男性フィギュアスケートアイスダンス選手 * [[パスカル・ボドマー]](1991年生)- ドイツのジャンプスキー選手。 * [[パスカル・シアカム]](1994年生)- カメルーン出身のバスケットボール選手。 * [[パスカル・アッカーマン]](1994年生)- ドイツの自転車競技選手。 == その他 == * [[au (携帯電話)#販売店|auショップ]]の窓口でかつて使用されていた顧客情報管理端末([[パーソナルコンピュータ|パソコン]])の名称。2014年より顧客情報管理端末はオレンジに更新されたが、通称として現在もパスカルと呼ばれる場合がある。 * [[パスカル定期券]] - [[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の特急料金定期券。 * [[道の駅パスカル清見|パスカル清見]] - [[岐阜県]][[高山市]]にある[[国道257号]]の[[道の駅]]。 * [[パスカル (企業)]] - [[カラオケ]]機器統合システム'''[[Σsystem]]'''を開発、販売する会社。 * [[パスカル (小惑星)]] - ブレーズ・パスカルの名前にちなんで命名された[[小惑星]]。[[小惑星番号]]は[[小惑星の一覧 (4001-5000)|4500]]<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=4500|title=(4500) Pascal = 1931 TE1 = 1954 XG = 1965 WT = 1981 QK1 = 1981 QY1 = 1987 TF = 1989 CL|publisher=MPC|accessdate=2021-10-09}}</ref>。 * パスカル - [[Wii]]のゲーム作品「[[テイルズ オブ グレイセス]]」に登場する女性キャラクター。 * パスカル - [[スーパーファミコン]]・[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]のゲーム作品「[[真・女神転生]]」に登場するハスキー犬。 * パスカル - [[ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ|ディズニー]]のアニメ映画「[[塔の上のラプンツェル]]」に登場するカメレオン。 * パスカル先生 - [[永井ゆうじ]]の[[ギャグ漫画]]作品「[[100%パスカル先生]]」の主人公。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[パスカル・ペレス]] - 曖昧さ回避 * [[クロード・パスカル]] - 曖昧さ回避 * 英語版の曖昧さ回避 - [[:en:Pascale|Pascale]]、[[:en:Pascall|Pascall]]、[[:en:Paskal|Paskal]]、[[:en:Paschal (disambiguation)|Paschal]]、[[:en:Pascual|Pascual]]、[[:en:Pasqual|Pasqual]]、[[:en:Pasquale|Pasquale]] *{{prefix}} *{{intitle}} {{aimai}} {{デフォルトソート:はすかる}} [[Category:フランス語の姓]] [[Category:フランス語の男性名]] [[Category:フランス語の女性名]]
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トラファルガーの海戦
トラファルガーの海戦(トラファルガーのかいせん、英: Battle of Trafalgar、仏: Bataille de Trafalgar)は、1805年10月21日に、スペインのトラファルガー岬ナポレオン戦争における最大の海戦で、イギリスはこの海戦の勝利により、ナポレオン1世の英本土上陸の野望を粉砕した。 ネルソンが戦闘に先立ち、麾下の艦隊に送った「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」は今日でも名文句として知られる。 しかし、陸上においてはアウステルリッツの戦いでフランスが他のヨーロッパ諸国軍を破るなど依然として優勢で、自国本土は守り切ったが、大陸での戦争自体にすぐさま大勢を及ぼすことはなかった。 1805年、ヨーロッパ大陸は皇帝ナポレオン率いるフランス帝国の支配下に置かれていたが、海上の支配権はイギリスのもとにあった。イギリスは海上封鎖を行ってフランスの海軍力を抑止し、イギリス本土侵攻を防いでいた。 ナポレオンはこの状況を打破すべく、ナポレオンのイギリス遠征軍による対英上陸作戦を援護すべく封鎖を突破することを命令。フランスとスペイン(当時、ナポレオンの支配下にあった)の連合艦隊を編成し、海上封鎖を突破し、ブーローニュの港に集結させた35万と号した侵攻軍(実際には15万人程度)と総勢2500隻の舟艇(平底の輸送船)によるイギリス本土上陸を援護することを命じた。 ナポレオンの立案した計画では、イギリス海軍の海上封鎖によって封鎖されている各地の根拠地――ブレスト、ツーロン、ロシュフォール、フェロルの各港から艦隊を出撃させて封鎖を突破、ブレスト艦隊がアイルランド方面でイギリス海軍をひきつけ分散させている間に、他港の艦隊を合同させて輸送舟艇群の護衛にあたる事になっていた。しかしこの計画は主力と陽動のタイミングを合わせなければ成功は望めないが、風任せの帆走軍艦と天候の変化(特に高波)に弱い平底の輸送船ではそのタイミングの精確な予測が出来るわけがなかった。 一方イギリスは海軍卿セント・ヴィンセント伯爵ジョン・ジャーヴィスの指揮の下フランスの主要港湾の全てに封鎖船を配置していた。ただしこの時点ではフランス側の作戦計画は察知できてはいなかった。地中海艦隊司令長官であるホレーショ・ネルソンの艦隊はツーロン沖で封鎖に当たっていた。 フランス艦隊の作戦計画は変更を余儀なくされる。ツーロン艦隊司令長官ラトゥーシュ・トレヴィル(fr:Louis-René-Madeleine de Latouche-Tréville)が病死したためである。これにより、元は陽動だったブレスト艦隊によるアイルランド方面侵攻を主作戦のひとつとし、イングランド侵攻と同時に実行することとした。新たな陽動作戦としてツーロンとロシュフォールの艦隊を西インド諸島へと送ることでイギリス海軍を分散させることになった。 トレヴィルの後任となったヴィルヌーヴ提督は1805年1月にネルソンの目をくらませる為荒天を突いてツーロンを出撃したが、この荒天で戦列艦3隻が航行不能となったため作戦を中断した。このためにナポレオンは再び計画を変更した。それはアイルランド侵攻を取りやめ、ブレスト・ツーロン・ロシュフォールの艦隊に加えて更にカディスからスペイン艦隊を出撃させ、その全てを一度西インド諸島で合流させてからイギリス海峡に突入する、というものだった。以下の経緯はフィニステレ岬の海戦項の戦略的背景の条に詳しいので割愛する。 フィニステレ岬の海戦から撤退したヴィルヌーヴはスペイン領カディスに入り艦隊の整備に当たっていた。なおこの間にナポレオンはイングランド侵攻中止を決断、9月3日にブーローニュの陣を引き払い一度パリに帰還している。ナポレオンは続いてオーストリアへの攻撃を準備していたが、この支援作戦としてカディスのフランス・スペイン連合艦隊にナポリ攻撃命令を下した。 しかしヴィルヌーヴは準備は進めながらも、8月21日にカディスに帰ってきて間もない艦隊は修理や人員補充が必要であり、出港することはなかった。10月16日にヴィルヌーヴとスペイン側指揮官の間で会談が持たれた際にも、好機が訪れるまで待機することが決まった。ところが10月18日にヴィルヌーヴは一転して出港を決定し、急速に準備を進めて翌19日朝にカディスを出港した。ヴィルヌーヴの急な態度の変化は、ナポレオンが命令に反して出港しないヴィルヌーヴを解任し、後任としてフランソワ=エティエンヌ・ロジリー中将を派遣したという情報をつかみ、ロジリーがカディスに到着して命令が発効する前に出港をしたかったからとされる。 そのヴィルヌーヴ艦隊をカディス沖で監視していたのがネルソン率いるイギリス地中海艦隊であった。哨戒にあたっていたフリゲート「シリアス」がカディスでフランス・スペイン連合艦隊が出港準備中であることを確認し、その後出港を始めたことを信号旗で僚艦に伝えた。その信号はフリゲート「ユライアラス」他数隻の艦を中継して、9時30分に約80km離れた「ヴィクトリー」艦上のネルソンに伝わった。ネルソンは直ちに主力を南東に向けて連合艦隊を追った。 ネルソン提督のイギリス艦隊は「ヴィクトリー」を旗艦とする27隻。ピエール・ヴィルヌーヴ率いるフランス・スペイン連合艦隊は「ビューサントル」を旗艦とする33隻であった。ネルソン提督は敵の隊列を分断するため2列の縦隊で突っ込むネルソン・タッチという戦法を使った。ネルソンは過去のフランスとの度重なる海戦の経験から、フランス艦隊は容易に逃走することを知っており(現存艦隊主義)フランス軍のイギリス侵攻を阻止するために決定的な勝利を求めていた。そのためイギリス艦隊を2列の縦列陣に編成し、左陣を敵の戦列前方三分の一に突入させ中央部を、右陣は後方三分の一に突入させ後部を担当させることで数的劣勢を挽回するとともに、早期に接舷してフランス艦隊の逃走を阻止する戦略をとることとした。この戦法はダンカン提督のキャンパーダウンの海戦やジャービス提督のサン・ビセンテ岬の海戦の戦訓が反映されているとされる。ヴィルヌーヴも多縦列による分断作戦を予測しており、訓示を受けた連合艦隊の艦長の中にはマストに多数の狙撃兵を配置して接近戦に備える者もあった。 連合艦隊は数で勝っていたが、スペイン海軍も混じっていて指揮系統が複雑な上、士気や錬度が低く、艦載砲の射速も3分に1発と劣っていた。一方イギリス海軍は士気も錬度も高く、射速も1分30秒に1発と優れていた。イギリス艦艇は艦載砲の着火にフリントを使用していたがフランス連合はマッチを使用していたのである。 ネルソンの計画に従って、午前11時45分に主な戦いは行われた。ネルソンは「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」という有名な信号旗を送った。戦闘が始まった時、フランス・スペイン艦隊は北方向にカーブした陣形を取っていた。ネルソンの計画通り英国艦隊は2列に縦列でフランス・スペイン艦隊に接近した。風上の縦列はネルソンのヴィクトリーが、風下の縦列は火砲を100門装備したコリングウッドのロイヤル・ソブリンがそれぞれ艦隊を北の方向へと導いた。 激戦の末、連合艦隊は撃沈1隻、捕獲破壊18隻、戦死4,000、捕虜7,000という被害を受け、ヴィルヌーヴ提督も捕虜となった。一方イギリス艦隊は喪失艦0、戦死400、戦傷1,200という被害で済んだが、ネルソン提督はフランス艦ルドゥタブルの狙撃兵の銃弾に倒れた。 ネルソンは「神に感謝する。私は義務を果たした」と言い残して絶息した。 ナポレオンはこの敗戦の報に対し、嵐による壊滅であると黙殺したが、制海権を失った以上、イギリス侵攻を諦めざるを得なくなった。ただしイギリスではピット首相が祝宴を催したものの、ロンドンでは、この海戦の勝利による昂揚に沸き立つこともなかった。ナポレオンはこの海戦の敗退による危機を、2ヶ月後のアウステルリッツの勝利で打開した。 イギリスのピット首相は、アウステルリッツでの敗北にショックを受け、翌年失意の内に病死している。トラファルガーの勝利の意味とは、イギリスの海上制覇という部分にあり、ナポレオン戦争の戦局の一大転機ではなかった。1815年のワーテルローの戦いでナポレオンに勝利して初めて、トラファルガーの勝利の意味が評価されるようになるのである。 しかしイギリスにとってこの戦いの勝利はフランス海軍にイギリス本土攻撃を阻止しただけでなかった。イギリス海軍は1807年の第二次コペンハーゲンの海戦で積極的に行動する事が出来、1808年の戦役において、他国の艦隊がフランス海軍の手に落ちる事を防いだ。 これらの一連の作戦は成功したが、フランスでは1814年までに80隻に及ぶ大規模な造船計画が進められていたのに対し、イギリスは最大でも99隻の船しか1814年の時点で稼働できる状態でなかった。あと数年あれば、フランス海軍は150隻の艦隊を編成して、乗員の質を艦隊の数でカバーして、再度イギリス海軍に挑む計画を思い至ったと思われる。 この戦勝を記念して造られたのがロンドンのトラファルガー広場(Trafalgar Square)である。広場にはネルソン提督の記念碑が建てられている。 一方、フランス国民にとってこの敗北はトラウマとなり、ありえない敗北による衝撃を「トラファルガー」と表現するようになった。モーリス・ルブランの冒険推理小説『ルパン対ホームズ』において、フランスの怪盗アルセーヌ・ルパンがイギリスの名探偵シャーロック・ホームズに送りつけた挑戦状の中で「トラファルガーの敵討ち」と挑発しているように、その後の英仏の対決においてたびたび引き合いに出されるようになったのである。 なお、奇しくも海戦から99年後の1904年のこの日、戦勝記念日の当日にロシア帝国のバルチック艦隊が日露戦争に際して極東へ向かう際に、北海のドッガーバンクで偽情報と誤認から、日本の軍艦と誤認してイギリスのタラ漁に出ていたトロール船を誤って撃沈。さらに救助せずに立ち去った事からイギリス国民の怒りを買ってしまい、ロシア帝国の日露戦争敗北の遠因となったドッガーバンク事件が発生している。
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"なお、奇しくも海戦から99年後の1904年のこの日、戦勝記念日の当日にロシア帝国のバルチック艦隊が日露戦争に際して極東へ向かう際に、北海のドッガーバンクで偽情報と誤認から、日本の軍艦と誤認してイギリスのタラ漁に出ていたトロール船を誤って撃沈。さらに救助せずに立ち去った事からイギリス国民の怒りを買ってしまい、ロシア帝国の日露戦争敗北の遠因となったドッガーバンク事件が発生している。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "", "title": "影響" } ]
トラファルガーの海戦は、1805年10月21日に、スペインのトラファルガー岬ナポレオン戦争における最大の海戦で、イギリスはこの海戦の勝利により、ナポレオン1世の英本土上陸の野望を粉砕した。 ネルソンが戦闘に先立ち、麾下の艦隊に送った「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」は今日でも名文句として知られる。 しかし、陸上においてはアウステルリッツの戦いでフランスが他のヨーロッパ諸国軍を破るなど依然として優勢で、自国本土は守り切ったが、大陸での戦争自体にすぐさま大勢を及ぼすことはなかった。
{{otheruses||絵画|トラファルガーの海戦 (ターナー)}} {{脚注の不足|date=2012年2月}} {{Battlebox |battle_name=トラファルガーの海戦 |campaign= |image=[[ファイル:Turner, The Battle of Trafalgar (1806).jpg|300px]] |caption=トラファルガーの海戦([[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー|ターナー]]画)<ref>{{Cite book|和書 |author = 荒川裕子 |year = 2017 |title = もっと知りたいターナー 生涯と作品 |publisher = [[東京美術]] |page = 32 |isbn = 978-4-8087-1094-1}}</ref> |conflict=[[ナポレオン戦争]] |date=[[1805年]][[10月21日]] |place=[[スペイン]]の[[トラファルガー岬]]沖 |result=[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]の勝利 |combatant1=[[File:Flag of the United Kingdom.svg|border|25px]] [[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]] |combatant2={{FRA1804}}<br />{{ESP1785}} |commander1=[[File:Naval Ensign of the United Kingdom.svg|border|25px]] [[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]{{KIA}}<br>[[File:Naval Ensign of the United Kingdom.svg|border|25px]] [[カスバート・コリングウッド]] |commander2={{Flagicon|FRA}} [[ピエール・ヴィルヌーヴ]]<br />{{Flagicon|ESP1785}} [[フェデリコ・グラビーナ]] |strength1=[[戦列艦]] 27、フリゲート 4、他 2 |strength2=仏:戦列艦 18、他 8<br />西:戦列艦 15 |casualties1=死者 449<br />戦傷 1,214 |casualties2=死者 4,480<br />戦傷 2,250<br />捕虜 7,000<br />大破・拿捕 22隻 |}} [[ファイル:Trafalgar 1200hr.svg|thumb|300px|right|ネルソン・タッチの図。フランス・スペイン連合艦隊(青)の脇腹をイギリス艦隊(赤)が突く]] '''トラファルガーの海戦'''(トラファルガーのかいせん、{{lang-en-short|Battle of Trafalgar}}、{{lang-fr-short|Bataille de Trafalgar}})は、[[1805年]][[10月21日]]に、[[スペイン]]の[[トラファルガー岬]][[ナポレオン戦争]]における最大の海戦で、イギリスはこの海戦の勝利により、[[ナポレオン1世]]の英本土上陸の野望を粉砕した。 ネルソンが戦闘に先立ち、麾下の艦隊に送った「[[英国は各員がその義務を尽くすことを期待する]]」は今日でも名文句として知られる。 しかし、陸上においては[[アウステルリッツの戦い]]でフランスが他のヨーロッパ諸国軍を破るなど依然として優勢で、自国本土は守り切ったが、大陸での戦争自体にすぐさま大勢を及ぼすことはなかった。 == 背景 == [[1805年]]、ヨーロッパ大陸は皇帝[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]率いる[[フランス第一帝政|フランス帝国]]の支配下に置かれていたが、海上の支配権は[[イギリス]]のもとにあった。イギリスは[[海上封鎖]]を行ってフランスの海軍力を抑止し、イギリス本土侵攻を防いでいた。 ナポレオンはこの状況を打破すべく、ナポレオンのイギリス遠征軍による対英上陸作戦を援護すべく封鎖を突破することを命令。フランスとスペイン(当時、ナポレオンの支配下にあった)の連合艦隊を編成し、海上封鎖を突破し、[[ブローニュ=シュル=メール|ブーローニュ]]の港に集結させた35万と号した侵攻軍(実際には15万人程度)と総勢2500隻の舟艇(平底の輸送船)によるイギリス本土上陸を援護することを命じた。 ナポレオンの立案した計画では、イギリス海軍の海上封鎖によって封鎖されている各地の根拠地――[[ブレスト (フランス)|ブレスト]]、[[ツーロン]]、[[ロシュフォール (シャラント=マリティーム県)|ロシュフォール]]、[[フェロル]]の各港から艦隊を出撃させて封鎖を突破、ブレスト艦隊がアイルランド方面でイギリス海軍をひきつけ分散させている間に、他港の艦隊を合同させて輸送舟艇群の護衛にあたる事になっていた。しかしこの計画は主力と陽動のタイミングを合わせなければ成功は望めないが、風任せの帆走軍艦と天候の変化(特に高波)に弱い平底の輸送船ではそのタイミングの精確な予測が出来るわけがなかった。 一方イギリスは海軍卿[[ジョン・ジャーヴィス|セント・ヴィンセント伯爵ジョン・ジャーヴィス]]の指揮の下フランスの主要港湾の全てに封鎖船を配置していた。ただしこの時点ではフランス側の作戦計画は察知できてはいなかった。地中海艦隊司令長官である[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]の艦隊はツーロン沖で封鎖に当たっていた。 フランス艦隊の作戦計画は変更を余儀なくされる。ツーロン艦隊司令長官[[ラトゥーシュ・トレヴィル]]([[:fr:Louis-René-Madeleine de Latouche-Tréville]])が病死したためである。これにより、元は陽動だったブレスト艦隊によるアイルランド方面侵攻を主作戦のひとつとし、イングランド侵攻と同時に実行することとした。新たな陽動作戦としてツーロンとロシュフォールの艦隊を[[西インド諸島]]へと送ることでイギリス海軍を分散させることになった。 トレヴィルの後任となった[[ピエール・ヴィルヌーヴ|ヴィルヌーヴ]]提督は1805年1月にネルソンの目をくらませる為荒天を突いてツーロンを出撃したが、この荒天で戦列艦3隻が航行不能となったため作戦を中断した。このためにナポレオンは再び計画を変更した。それはアイルランド侵攻を取りやめ、ブレスト・ツーロン・ロシュフォールの艦隊に加えて更に[[カディス]]からスペイン艦隊を出撃させ、その全てを一度西インド諸島で合流させてからイギリス海峡に突入する、というものだった。以下の経緯は[[フィニステレ岬の海戦]]項の戦略的背景の条に詳しいので割愛する。 [[フィニステレ岬の海戦]]から撤退したヴィルヌーヴはスペイン領カディスに入り艦隊の整備に当たっていた。なおこの間にナポレオンはイングランド侵攻中止を決断、9月3日にブーローニュの陣を引き払い一度パリに帰還している。ナポレオンは続いて[[オーストリア戦役 (1805年)|オーストリアへの攻撃]]を準備していたが、この支援作戦としてカディスのフランス・スペイン連合艦隊に[[ナポリ]]攻撃命令を下した。 しかしヴィルヌーヴは準備は進めながらも、8月21日にカディスに帰ってきて間もない艦隊は修理や人員補充が必要であり、出港することはなかった。10月16日にヴィルヌーヴとスペイン側指揮官の間で会談が持たれた際にも、好機が訪れるまで待機することが決まった。ところが10月18日にヴィルヌーヴは一転して出港を決定し、急速に準備を進めて翌19日朝にカディスを出港した。ヴィルヌーヴの急な態度の変化は、ナポレオンが命令に反して出港しないヴィルヌーヴを解任し、後任としてフランソワ=エティエンヌ・ロジリー中将を派遣したという情報をつかみ、ロジリーがカディスに到着して命令が発効する前に出港をしたかったからとされる。<ref>{{Cite book|和書 |title=トラファルガル海戦物語(上) |year=2005 |publisher=原書房 |pages=83-93 |author=ロイ・アドキンズ |translator=山本史郎}}</ref> そのヴィルヌーヴ艦隊をカディス沖で監視していたのがネルソン率いるイギリス地中海艦隊であった。哨戒にあたっていたフリゲート「シリアス」がカディスでフランス・スペイン連合艦隊が出港準備中であることを確認し、その後出港を始めたことを信号旗で僚艦に伝えた。その信号はフリゲート「ユライアラス」他数隻の艦を中継して、9時30分に約80km離れた「ヴィクトリー」艦上のネルソンに伝わった。ネルソンは直ちに主力を南東に向けて連合艦隊を追った。<ref>{{Cite book|和書 |title=トラファルガル海戦物語(上) |year=2005 |publisher=原書房 |pages=93-96 |translator=山本史郎 |author=ロイ・アドキンズ}}</ref> == 経過 == ネルソン提督のイギリス艦隊は「[[ヴィクトリー (戦列艦)|ヴィクトリー]]」を旗艦とする27隻。[[ピエール・ヴィルヌーヴ]]率いるフランス・スペイン連合艦隊は「ビューサントル」を旗艦とする33隻であった。ネルソン提督は敵の隊列を分断するため2列の縦隊で突っ込む'''ネルソン・タッチ'''という戦法を使った。ネルソンは過去のフランスとの度重なる海戦の経験から、フランス艦隊は容易に逃走することを知っており([[現存艦隊主義]])フランス軍のイギリス侵攻を阻止するために決定的な勝利を求めていた。そのためイギリス艦隊を2列の縦列陣に編成し、左陣を敵の戦列前方三分の一に突入させ中央部を、右陣は後方三分の一に突入させ後部を担当させることで数的劣勢を挽回するとともに、早期に接舷してフランス艦隊の逃走を阻止する戦略をとることとした。この戦法は[[:en:Adam Duncan, 1st Viscount Duncan|ダンカン提督]]の[[キャンパーダウンの海戦]]や[[:en:John Jervis, 1st Earl of St Vincent|ジャービス提督]]の[[サン・ビセンテ岬の海戦]]の戦訓が反映されているとされる<ref>White, Colin (2002). The Nelson Encyclopaedia. Park House, Russell Gardens, London.: Chatham Publishing, Lionel Leventhal Limited. P.238</ref>。ヴィルヌーヴも多縦列による分断作戦を予測しており<ref>{{Cite book|和書 |title=トラファルガル海戦物語(上) |year=2005 |publisher=原書房 |pages=99-100 |author=ロイ・アドキンズ |translator=山本史郎}}</ref>、訓示を受けた連合艦隊の艦長の中には[[マスト]]に多数の[[狙撃手|狙撃兵]]を配置して接近戦に備える者もあった。 連合艦隊は数で勝っていたが、スペイン海軍も混じっていて指揮系統が複雑な上、士気や錬度が低く、艦載砲の射速も3分に1発と劣っていた。一方イギリス海軍は士気も錬度も高く、射速も1分30秒に1発と優れていた。イギリス艦艇は艦載砲の着火に[[燧石|フリント]]を使用していたがフランス連合はマッチを使用していたのである。 ネルソンの計画に従って、午前11時45分に主な戦いは行われた。ネルソンは「[[英国は各員がその義務を尽くすことを期待する]]」という有名な信号旗を送った。戦闘が始まった時、フランス・スペイン艦隊は北方向にカーブした陣形を取っていた。ネルソンの計画通り英国艦隊は2列に縦列でフランス・スペイン艦隊に接近した。風上の縦列はネルソンのヴィクトリーが、風下の縦列は火砲を100門装備した[[カスバート・コリングウッド|コリングウッド]]の[[ロイヤル・ソブリン (戦列艦・3代)|ロイヤル・ソブリン]]がそれぞれ艦隊を北の方向へと導いた。 激戦の末、連合艦隊は撃沈1隻、捕獲破壊18隻、戦死4,000、捕虜7,000という被害を受け、ヴィルヌーヴ提督も捕虜となった。一方イギリス艦隊は喪失艦0、戦死400、戦傷1,200という被害で済んだが、ネルソン提督はフランス艦[[シュフラン (戦列艦・初代)|ルドゥタブル]]の狙撃兵の銃弾に倒れた。 ネルソンは「神に感謝する。私は義務を果たした」と言い残して絶息した。 == 影響 == ナポレオンはこの敗戦の報に対し、嵐による壊滅であると黙殺したが、[[制海権]]を失った以上、イギリス侵攻を諦めざるを得なくなった。ただしイギリスでは[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ピット首相]]が祝宴を催したものの、[[ロンドン]]では、この海戦の勝利による昂揚に沸き立つこともなかった。ナポレオンはこの海戦の敗退による危機を、2ヶ月後の[[アウステルリッツの戦い|アウステルリッツ]]の勝利で打開した。 イギリスのピット首相は、アウステルリッツでの敗北にショックを受け、翌年失意の内に病死している。トラファルガーの勝利の意味とは、イギリスの海上制覇という部分にあり、[[ナポレオン戦争]]の戦局の一大転機ではなかった。[[1815年]]の[[ワーテルローの戦い]]でナポレオンに勝利して初めて、トラファルガーの勝利の意味が評価されるようになるのである。 しかしイギリスにとってこの戦いの勝利はフランス海軍にイギリス本土攻撃を阻止しただけでなかった。イギリス海軍は1807年の[[第二次コペンハーゲンの海戦]]で積極的に行動する事が出来、1808年の戦役において、他国の艦隊がフランス海軍の手に落ちる事を防いだ{{要出典|date=2019年8月}}。 これらの一連の作戦は成功したが、フランスでは1814年までに80隻に及ぶ大規模な造船計画が進められていたのに対し、イギリスは最大でも99隻の船しか1814年の時点で稼働できる状態でなかった。あと数年あれば、フランス海軍は150隻の艦隊を編成して、乗員の質を艦隊の数でカバーして、再度イギリス海軍に挑む計画を思い至ったと思われる。 この戦勝を記念して造られたのが[[ロンドン]]の[[トラファルガー広場]](Trafalgar Square)である。広場にはネルソン提督の記念碑が建てられている。 一方、フランス国民にとってこの敗北は[[トラウマ]]となり、ありえない敗北による衝撃を「トラファルガー」と表現するようになった。[[モーリス・ルブラン]]の冒険推理小説『[[ルパン対ホームズ]]』において、フランスの怪盗[[アルセーヌ・ルパン]]がイギリスの名探偵[[シャーロック・ホームズ]]に送りつけた挑戦状の中で「トラファルガーの敵討ち」と挑発しているように、その後の英仏の対決においてたびたび引き合いに出されるようになったのである。 なお、奇しくも海戦から99年後の[[1904年]]のこの日、戦勝記念日の当日に[[ロシア帝国]]の[[バルチック艦隊]]が[[日露戦争]]に際して[[極東]]へ向かう際に、[[北海]]の[[ドッガーバンク]]で偽情報と誤認から、日本の軍艦と誤認してイギリスの[[タラ]]漁に出ていた[[トロール船]]を誤って撃沈。さらに救助せずに立ち去った事からイギリス国民の怒りを買ってしまい、ロシア帝国の日露戦争敗北の遠因となった[[ドッガーバンク事件]]が発生している。 ==関連作品== ;映画 *『[[美女ありき]]』1941年のイギリスの恋愛映画。ネルソン提督とハミルトン夫人の不倫の恋を主題に、トラファルガー海戦とネルソンの戦死も描かれている。 ; ;[[パソコンゲーム]] *『トラファルガー海戦』[[CSK (企業)|CSK]]、1984年、[[PC-8800シリーズ]]。 ;漫画 *『[[トラファルガー (漫画)|トラファルガー]]』同海戦を舞台とした[[青池保子]]による[[漫画]]。 ;美術 *『瓶の中のネルソンの船』(2007年)。ナイジェリア系イギリス人の芸術家[[インカ・ショニバレ]]の作品。トラファルガーの海戦をイギリスの[[イギリス帝国|植民地帝国]]のきっかけとして象徴的に扱っている。ネルソンの乗った[[ヴィクトリー (戦列艦)|ヴィクトリー]]の帆に{{仮リンク|アフリカン・プリント|en|African wax prints}}が張られ、船体は瓶の中に閉じ込められている。トラファルガー広場の[[フォース・プリンス]]で屋外展示された<ref>正路佐知子「初の日本個展 インカ・ショニバレの姿」、[[ウスビ・サコ]], [[清水貴夫]]編 『現代アフリカ文化の今 15の視点から、その現在地を探る』 青幻舎、2020年。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * ジョン・テレン 著、石島晴夫 訳 『トラファルガル海戦』 [[原書房]]、2004年、ISBN 4562037792 * ロイ・アドキンズ 著、山本史郎 訳 『トラファルガル海戦物語』 原書房、2005年、ISBN 4562039612(上巻)、ISBN 4562039620(下巻) * [[両角良彦]] 著、反ナポレオン考 <新版> 朝日選書、1998年、ISBN 4022597151 *Encyclopedia Britannica {{commonscat|Battle of Trafalgar}} {{ナポレオン戦争}} {{authority control}} {{デフォルトソート:とらふあるかあのかいせん}} [[Category:ナポレオン戦争の海戦]] [[Category:スペインの海戦]] [[Category:イギリスの海戦]] [[Category:フランスの海戦]] [[Category:1805年の戦闘]] [[Category:1805年のヨーロッパ]] [[Category:ホレーショ・ネルソン]] [[Category:フェデリコ・グラビーナ]]
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多重散乱理論
散乱理論では単独のポテンシャルにおける電子(散乱するものは電子以外にも光や他の粒子など様々なものが存在)の散乱を扱ったが、現実の散乱は、多数のポテンシャル下でかつ散乱される対象も多数存在する。また一つの電子に限っても、散乱は一回限りでなく複数回散乱される。このような多重な散乱を扱う理論が多重散乱理論(Multiple scattering theory)である。 多重散乱理論には扱う対象により様々なものが考えられるが、以下に一つの例として並進対称に配置した格子系において、各格子(サイト)上にポテンシャルがランダム(非周期的)に配置した場合を考える。以下、散乱されるのは電子としておく。 サイトnにあるポテンシャルをVn、自由電子(または無摂動)のハミルトニアンをH0として、系を記述するハミルトニアンHを、 H = H 0 + ∑ n V n {\displaystyle H=\,H_{0}+\sum _{n}V_{n}} とする。次にこれを以下のように変形する。 H = [ H 0 + V ~ ( z ) ] + ∑ n [ V n − V ~ n ( z ) ] = H ~ ( z ) + v ( z ) {\displaystyle H=[H_{0}+{\tilde {V}}(z)]+\sum _{n}[V_{n}-{\tilde {V}}_{n}(z)]={\tilde {H}}(z)+v(z)} ここで、 V ~ ( z ) = ∑ n V ~ n ( z ) {\displaystyle {\tilde {V}}(z)=\sum _{n}{\tilde {V}}_{n}(z)} であり、 V ~ n ( z ) {\displaystyle {\tilde {V}}_{n}(z)} は任意の周期ポテンシャル。つまりポテンシャルVnを周期的部分 V ~ {\displaystyle {\tilde {V}}} と非周期的部分 v {\displaystyle \,v} とに分けた訳である。zは複素エネルギー。上式で、v(z)は次のようvn(z)の和になっている。 v ( z ) = ∑ n [ V n − V ~ n ( z ) ] = ∑ n v n ( z ) {\displaystyle v(z)=\sum _{n}[V_{n}-{\tilde {V}}_{n}(z)]=\sum _{n}v_{n}(z)} 更に、この系におけるグリーン関数をG(z)とすると、G(z)は、 G ( z ) = 1 z − H ~ − v = 1 ( z − H ~ ) ( 1 − v z − H ~ ) {\displaystyle G(z)={\frac {1}{z-{\tilde {H}}-v}}={\frac {1}{(z-{\tilde {H}})\left(1-{\frac {v}{z-{\tilde {H}}}}\right)}}} であり、 G ~ = 1 z − H ~ {\displaystyle {\tilde {G}}={\frac {1}{z-{\tilde {H}}}}} とし、非周期ポテンシャル部分vに関して展開すると、 G ( z ) = G ~ { 1 + v G ~ + v G ~ v G ~ + ⋯ } = G ~ + G ~ T G ~ {\displaystyle G(z)={\tilde {G}}\{1+v{\tilde {G}}+v{\tilde {G}}v{\tilde {G}}+\cdots \}={\tilde {G}}+{\tilde {G}}T{\tilde {G}}} T = v + v G ~ v + v G ~ v G ~ v + ⋯ {\displaystyle T=v+v{\tilde {G}}v+v{\tilde {G}}v{\tilde {G}}v+\cdots } となる。Tを総散乱行列と言う。総散乱行列Tをサイトの和の形で表すと、 T = ∑ n v n + ∑ n v n G ~ ∑ m v m + ∑ n G ~ ∑ m v m G ~ ∑ p v p ⋯ {\displaystyle T=\sum _{n}v_{n}+\sum _{n}v_{n}{\tilde {G}}\sum _{m}v_{m}+\sum _{n}{\tilde {G}}\sum _{m}v_{m}{\tilde {G}}\sum _{p}v_{p}\cdots } となる。サイトnのポテンシャルvnのみを考え、散乱理論の場合と同じ要領でt行列が定義できる。 t n = v n { 1 + G ~ v n + G ~ v n G ~ v n ⋯ } = v n 1 1 − v n G ~ = v n [ 1 − v n G ~ ] − 1 {\displaystyle t_{n}=v_{n}\{1+{\tilde {G}}v_{n}+{\tilde {G}}v_{n}{\tilde {G}}v_{n}\cdots \}=v_{n}{\frac {1}{1-v_{n}{\tilde {G}}}}=v_{n}[1-v_{n}{\tilde {G}}]^{-1}} 加えて、 t n = v n + v n G ~ { v n + v n G ~ v n + v n G ~ v n G ~ v n ⋯ } = v n + v n G ~ t n {\displaystyle t_{n}=v_{n}+v_{n}{\tilde {G}}\{v_{n}+v_{n}{\tilde {G}}v_{n}+v_{n}{\tilde {G}}v_{n}{\tilde {G}}v_{n}\cdots \}=v_{n}+v_{n}{\tilde {G}}t_{n}} である。総散乱行列TはサイトnでのTnの和、 T = ∑ n T n {\displaystyle T=\,\sum _{n}T_{n}} と表現でき、各Tnは、 T n = v n + v n G ~ ∑ m v m + v n G ~ ∑ m v m G ~ ∑ p v p + ⋯ = v n { 1 + G ~ [ ∑ m v m + ∑ m v m G ~ ∑ p v p + ⋯ ] } = v n [ 1 + G ~ ∑ m T m ] {\displaystyle {\begin{aligned}T_{n}&=v_{n}+v_{n}{\tilde {G}}\sum _{m}v_{m}+v_{n}{\tilde {G}}\sum _{m}v_{m}{\tilde {G}}\sum _{p}v_{p}+\cdots \\&=v_{n}\left\{1+{\tilde {G}}\left[\sum _{m}v_{m}+\sum _{m}v_{m}{\tilde {G}}\sum _{p}v_{p}+\cdots \right]\right\}\\&=v_{n}\left[1+{\tilde {G}}\sum _{m}T_{m}\right]\end{aligned}}} 更に、 T n = v n + v n G ~ T n + v n G ~ ∑ m ≠ n T m = t n [ 1 + G ~ ∑ m ≠ n T m ] {\displaystyle T_{n}=v_{n}+v_{n}{\tilde {G}}T_{n}+v_{n}{\tilde {G}}\sum _{m\neq n}T_{m}=t_{n}\left[1+{\tilde {G}}\sum _{m\neq n}T_{m}\right]} である。ここで、 ( 1 − v n G ~ ) T n = v n + v n G ~ ∑ m ≠ n T m , t n = v n [ 1 − v n G ~ ] − 1 {\displaystyle (1-v_{n}{\tilde {G}})T_{n}=v_{n}+v_{n}{\tilde {G}}\sum _{m\neq n}T_{m},\quad t_{n}=v_{n}[1-v_{n}{\tilde {G}}]^{-1}} よりtnが出てくる。以上から総散乱行列Tは、t行列により次のように表される。 T = ∑ n t n + ∑ n t n G ~ ∑ m ≠ n t m + ∑ n t n G ~ ∑ m ≠ n t m G ~ ∑ p ≠ m t p + ⋯ {\displaystyle T=\sum _{n}t_{n}+\sum _{n}t_{n}{\tilde {G}}\sum _{m\neq n}t_{m}+\sum _{n}t_{n}{\tilde {G}}\sum _{m\neq n}t_{m}{\tilde {G}}\sum _{p\neq m}t_{p}+\cdots } ここでポテンシャルが全て同じであると考える。そして総散乱行列Tを次のように分解する。 T = ∑ n , n ′ T n n ′ {\displaystyle T=\,\sum _{n,n'}T_{nn'}} 分解されたTnn'は、 T n n ′ = t n δ n n ′ + t n G 0 ∑ m ≠ n T m n ′ {\displaystyle T_{nn'}=t_{n}\delta _{nn'}+t_{n}G_{0}\sum _{m\neq n}T_{mn'}} となる。G0は自由電子のグリーン関数とする( G ~ → G 0 {\displaystyle {\tilde {G}}\to G_{0}} )。これにより、厳密な形式解を得ることができる。Tnn'は更に、 T n n ′ = t n δ n n ′ + t n G 0 ∑ m ≠ n ( t m δ m n ′ + t m G 0 ∑ p ≠ m T p n ′ ) = t n δ n n ′ + t n G 0 t n ′ + t n G 0 ∑ m ≠ n t m G 0 t n ′ + ⋯ {\displaystyle {\begin{aligned}T_{nn'}&=t_{n}\delta _{nn'}+t_{n}G_{0}\sum _{m\neq n}(t_{m}\delta _{mn'}+t_{m}G_{0}\sum _{p\neq m}T_{pn'})\\&=t_{n}\delta _{nn'}+t_{n}G_{0}t_{n'}+t_{n}G_{0}\sum _{m\neq n}t_{m}G_{0}t_{n'}+\cdots \end{aligned}}} となる。Tnn'はサイトnから始まって、サイトn'で終わる全ての散乱過程を記述していることとなる。一方Tnは、 T n = ∑ n ′ T n n ′ {\displaystyle T_{n}=\,\sum _{n'}T_{nn'}} であり、これはサイトnは考慮されるが、終点としてのサイトn'を考えていない。そして、Tnn'の形式解は(但し、ここでr→kへのフーリエ変換及び、角運動量表示を導入している)、 T n n ′ L L ′ ( κ ) = τ n l ( κ ) [ δ n n ′ L L ′ + ∑ n 1 , L 1 B n n 1 L L 1 ( κ ) ⋅ T n 1 n ′ L 1 L ′ ( κ ) ] {\displaystyle T_{nn'}^{LL'}(\kappa )=\tau _{n}^{l}(\kappa )\left[\delta _{nn'}^{LL'}+\sum _{n_{1},L_{1}}B_{nn_{1}}^{LL_{1}}(\kappa )\cdot T_{{n_{1}}n'}^{{L_{1}}L'}(\kappa )\right]} T n n ′ ( k , k ′ ) = ( 4 π ) 2 ∑ L , L ′ Y L ( k ) T n n ′ L L ′ ( k , k ′ ) Y L ′ ( k ′ ) {\displaystyle T_{nn'}(\mathbf {k} ,\mathbf {k'} )=(4\pi )^{2}\sum _{L,L'}Y_{L}(\mathbf {k} )T_{nn'}^{LL'}(k,k')Y_{L'}(\mathbf {k'} )} : 角運動量表示 となる(形式解導出の詳細は省略)。 B n n 1 L L 1 {\displaystyle B_{nn_{1}}^{LL_{1}}} は構造定数と言われるもので、結晶格子の種類にのみ依存する定数である。 κ = k = E {\displaystyle \kappa =k={\sqrt {E}}} であり。L,L',lなどは軌道角運動量に関しての指標である。τn(κ)はt行列tnに相当する。ここで構造定数は具体的には、 B n n 1 L L 1 ( κ ) = − [ 4 π i κ ∑ L 1 i l − l ′ − l 1 C L L ′ L 1 Y L 1 ( R n − R n ′ ) h l + ( κ | R n − R n ′ | ) ] ( 1 − δ n n ′ ) C L L ′ L 1 = ∫ Y L ( q ) Y L ′ ( q ) Y L 1 ( q ) d Ω q {\displaystyle {\begin{aligned}B_{nn_{1}}^{LL_{1}}(\kappa )&=-\left[4\pi i\kappa \sum _{L_{1}}i^{l-l'-l_{1}}C_{LL'L_{1}}Y_{L_{1}}(\mathbf {R} _{n}-\mathbf {R} _{n'})h_{l}^{+}(\kappa |\mathbf {R} _{n}-\mathbf {R} _{n'}|)\right](1-\delta _{nn'})\\C_{LL'L_{1}}&=\int Y_{L}(\mathbf {q} )Y_{L'}(\mathbf {q} )Y_{L_{1}}(\mathbf {q} )\,d\Omega _{q}\end{aligned}}} となる。 h l + {\displaystyle h_{l}^{+}} は球ハンケル関数、YLは球面調和関数である。尚、形式解は次のようにも表される。 T n n ′ L L ′ ( κ ) = { [ τ − 1 ( κ ) − B ( κ ) ] − 1 } n n ′ L L ′ {\displaystyle T_{nn'}^{LL'}(\kappa )=\{[\tau ^{-1}(\kappa )-B(\kappa )]^{-1}\}_{nn'}^{LL'}} この形式解から、状態密度をD(E)の表式を得ることができる。この時、上式左辺を T n n ′ L L ′ ( κ ) = T ( κ ) {\displaystyle T_{nn'}^{LL'}(\kappa )=T(\kappa )} と略して表示。 D ( E ) − D 0 ( E ) = 2 N π I m T r d d E ln [ T ( κ ) ] = − 2 N π I m T r d d E ln [ τ − 1 − B ( κ ) ] = − 2 N π I m T r [ T ( κ ) ( d τ − 1 d E − d B ( κ ) d E ) ] = − 2 N π I m ∑ n , L ∑ n 1 , L 1 T n n 1 L L 1 [ δ n 1 n L 1 L d ( τ n l ( κ ) ) − 1 d E − d d E B n 1 n L 1 L ( κ ) ] {\displaystyle {\begin{aligned}D(E)-D_{0}(E)&={\frac {2}{N\pi }}\mathrm {Im\,Tr} {\frac {d}{dE}}\ln[T(\kappa )]\\&=-{\frac {2}{N\pi }}\mathrm {Im\,Tr} {\frac {d}{dE}}\ln[\tau ^{-1}-B(\kappa )]\\&=-{\frac {2}{N\pi }}\mathrm {Im\,Tr} \left[T(\kappa )\left({\frac {d\tau ^{-1}}{dE}}-{\frac {dB(\kappa )}{dE}}\right)\right]\\&=-{\frac {2}{N\pi }}\mathrm {Im} \sum _{n,L}\sum _{n_{1},L_{1}}T_{nn_{1}}^{LL_{1}}\left[\delta _{{n_{1}}n}^{{L_{1}}L}{\frac {d(\tau _{n}^{l}(\kappa ))^{-1}}{dE}}-{\frac {d}{dE}}B_{{n_{1}}n}^{{L_{1}}L}(\kappa )\right]\end{aligned}}} ここで、係数2はスピンの縮重度、Nは全サイト数、Imは虚数部分、Trはトレース(跡)を取ることを意味する。D0(E)は自由電子の状態密度。 グリーン関数から状態密度を求める式は(エネルギーは全てEとする)、 D ( E ) = − 1 π I m G ( E ) = − 1 π I m { G ~ ( E ) + G ~ ( E ) T ( E ) G ~ ( E ) } {\displaystyle D(E)=-{\frac {1}{\pi }}\mathrm {Im} \,G(E)=-{\frac {1}{\pi }}\mathrm {Im} \,\{{\tilde {G}}(E)+{\tilde {G}}(E)T(E){\tilde {G}}(E)\}} であり(スピン縮重度などの係数は省略)、ここで G ~ ( E ) → G 0 ( E ) {\displaystyle {\tilde {G}}(E)\to G_{0}(E)} とすると、 D ( E ) = − 1 π I m G ( E ) = − 1 π I m { G 0 ( E ) + G 0 ( E ) T ( E ) G 0 ( E ) } = D 0 ( E ) − 1 π I m G 0 ( E ) T ( E ) G 0 ( E ) {\displaystyle {\begin{aligned}D(E)=-{\frac {1}{\pi }}\mathrm {Im} \,G(E)&=-{1 \over {\pi }}\mathrm {Im} \,\{G_{0}(E)+G_{0}(E)\,T(E)\,G_{0}(E)\}\\&=D_{0}(E)-{\frac {1}{\pi }}\mathrm {Im} \,G_{0}(E)\,T(E)\,G_{0}(E)\end{aligned}}} となりD0(E)を移項すると、D(E) - D0(E)が出てくる。 以上は、ポテンシャルを全て同一とみなしたが、最初の前提であるポテンシャルがランダムである場合、その扱いは難しくなる。ランダムさ(乱れ)には構造的な乱れ、配置の乱れなど多様な状況を考えることができるが、ここでは先にあるように原子の配置のみが乱れた系である置換型の不規則二元合金を考えるのが比較的扱いが楽である。このランダムな問題を解くものとして、平均化によってランダムさを一様なものとして扱うアプローチがある。これに関係する近似手法として単サイト近似、平均場近似(有効媒質近似)がある。多重散乱理論を出発点として、このようなランダムな系を扱うバンド計算手法として、ATAやCPAがある。ランダムでない通常の周期的な系を、多重散乱理論を利用して解くバンド計算手法にKKR法がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "散乱理論では単独のポテンシャルにおける電子(散乱するものは電子以外にも光や他の粒子など様々なものが存在)の散乱を扱ったが、現実の散乱は、多数のポテンシャル下でかつ散乱される対象も多数存在する。また一つの電子に限っても、散乱は一回限りでなく複数回散乱される。このような多重な散乱を扱う理論が多重散乱理論(Multiple scattering theory)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "多重散乱理論には扱う対象により様々なものが考えられるが、以下に一つの例として並進対称に配置した格子系において、各格子(サイト)上にポテンシャルがランダム(非周期的)に配置した場合を考える。以下、散乱されるのは電子としておく。", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "サイトnにあるポテンシャルをVn、自由電子(または無摂動)のハミルトニアンをH0として、系を記述するハミルトニアンHを、", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "H = H 0 + ∑ n V n {\\displaystyle H=\\,H_{0}+\\sum _{n}V_{n}}", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "とする。次にこれを以下のように変形する。", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "H = [ H 0 + V ~ ( z ) ] + ∑ n [ V n − V ~ n ( z ) ] = H ~ ( z ) + v ( z ) {\\displaystyle H=[H_{0}+{\\tilde {V}}(z)]+\\sum _{n}[V_{n}-{\\tilde {V}}_{n}(z)]={\\tilde {H}}(z)+v(z)}", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ここで、", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "V ~ ( z ) = ∑ n V ~ n ( z ) {\\displaystyle {\\tilde {V}}(z)=\\sum _{n}{\\tilde {V}}_{n}(z)}", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "であり、 V ~ n ( z ) {\\displaystyle {\\tilde {V}}_{n}(z)} は任意の周期ポテンシャル。つまりポテンシャルVnを周期的部分 V ~ {\\displaystyle {\\tilde {V}}} と非周期的部分 v {\\displaystyle \\,v} とに分けた訳である。zは複素エネルギー。上式で、v(z)は次のようvn(z)の和になっている。", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "v ( z ) = ∑ n [ V n − V ~ n ( z ) ] = ∑ n v n ( z ) {\\displaystyle v(z)=\\sum _{n}[V_{n}-{\\tilde {V}}_{n}(z)]=\\sum _{n}v_{n}(z)}", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "更に、この系におけるグリーン関数をG(z)とすると、G(z)は、", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "G ( z ) = 1 z − H ~ − v = 1 ( z − H ~ ) ( 1 − v z − H ~ ) {\\displaystyle G(z)={\\frac {1}{z-{\\tilde {H}}-v}}={\\frac {1}{(z-{\\tilde {H}})\\left(1-{\\frac {v}{z-{\\tilde {H}}}}\\right)}}}", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "であり、", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "G ~ = 1 z − H ~ {\\displaystyle {\\tilde {G}}={\\frac {1}{z-{\\tilde {H}}}}}", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "とし、非周期ポテンシャル部分vに関して展開すると、", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "G ( z ) = G ~ { 1 + v G ~ + v G ~ v G ~ + ⋯ } = G ~ + G ~ T G ~ {\\displaystyle G(z)={\\tilde {G}}\\{1+v{\\tilde {G}}+v{\\tilde {G}}v{\\tilde {G}}+\\cdots \\}={\\tilde {G}}+{\\tilde {G}}T{\\tilde {G}}}", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "T = v + v G ~ v + v G ~ v G ~ v + ⋯ {\\displaystyle T=v+v{\\tilde {G}}v+v{\\tilde {G}}v{\\tilde {G}}v+\\cdots }", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "となる。Tを総散乱行列と言う。総散乱行列Tをサイトの和の形で表すと、", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "T = ∑ n v n + ∑ n v n G ~ ∑ m v m + ∑ n G ~ ∑ m v m G ~ ∑ p v p ⋯ {\\displaystyle T=\\sum _{n}v_{n}+\\sum _{n}v_{n}{\\tilde {G}}\\sum _{m}v_{m}+\\sum _{n}{\\tilde {G}}\\sum _{m}v_{m}{\\tilde {G}}\\sum _{p}v_{p}\\cdots }", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "となる。サイトnのポテンシャルvnのみを考え、散乱理論の場合と同じ要領でt行列が定義できる。", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "t n = v n { 1 + G ~ v n + G ~ v n G ~ v n ⋯ } = v n 1 1 − v n G ~ = v n [ 1 − v n G ~ ] − 1 {\\displaystyle t_{n}=v_{n}\\{1+{\\tilde {G}}v_{n}+{\\tilde {G}}v_{n}{\\tilde {G}}v_{n}\\cdots \\}=v_{n}{\\frac {1}{1-v_{n}{\\tilde {G}}}}=v_{n}[1-v_{n}{\\tilde {G}}]^{-1}}", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "加えて、", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "t n = v n + v n G ~ { v n + v n G ~ v n + v n G ~ v n G ~ v n ⋯ } = v n + v n G ~ t n {\\displaystyle t_{n}=v_{n}+v_{n}{\\tilde {G}}\\{v_{n}+v_{n}{\\tilde {G}}v_{n}+v_{n}{\\tilde {G}}v_{n}{\\tilde {G}}v_{n}\\cdots \\}=v_{n}+v_{n}{\\tilde {G}}t_{n}}", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "である。総散乱行列TはサイトnでのTnの和、", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "T = ∑ n T n {\\displaystyle T=\\,\\sum _{n}T_{n}}", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "と表現でき、各Tnは、", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "T n = v n + v n G ~ ∑ m v m + v n G ~ ∑ m v m G ~ ∑ p v p + ⋯ = v n { 1 + G ~ [ ∑ m v m + ∑ m v m G ~ ∑ p v p + ⋯ ] } = v n [ 1 + G ~ ∑ m T m ] {\\displaystyle {\\begin{aligned}T_{n}&=v_{n}+v_{n}{\\tilde {G}}\\sum _{m}v_{m}+v_{n}{\\tilde {G}}\\sum _{m}v_{m}{\\tilde {G}}\\sum _{p}v_{p}+\\cdots \\\\&=v_{n}\\left\\{1+{\\tilde {G}}\\left[\\sum _{m}v_{m}+\\sum _{m}v_{m}{\\tilde {G}}\\sum _{p}v_{p}+\\cdots \\right]\\right\\}\\\\&=v_{n}\\left[1+{\\tilde {G}}\\sum _{m}T_{m}\\right]\\end{aligned}}}", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "更に、", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "T n = v n + v n G ~ T n + v n G ~ ∑ m ≠ n T m = t n [ 1 + G ~ ∑ m ≠ n T m ] {\\displaystyle T_{n}=v_{n}+v_{n}{\\tilde {G}}T_{n}+v_{n}{\\tilde {G}}\\sum _{m\\neq n}T_{m}=t_{n}\\left[1+{\\tilde {G}}\\sum _{m\\neq n}T_{m}\\right]}", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "である。ここで、", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "( 1 − v n G ~ ) T n = v n + v n G ~ ∑ m ≠ n T m , t n = v n [ 1 − v n G ~ ] − 1 {\\displaystyle (1-v_{n}{\\tilde {G}})T_{n}=v_{n}+v_{n}{\\tilde {G}}\\sum _{m\\neq n}T_{m},\\quad t_{n}=v_{n}[1-v_{n}{\\tilde {G}}]^{-1}}", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "よりtnが出てくる。以上から総散乱行列Tは、t行列により次のように表される。", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "T = ∑ n t n + ∑ n t n G ~ ∑ m ≠ n t m + ∑ n t n G ~ ∑ m ≠ n t m G ~ ∑ p ≠ m t p + ⋯ {\\displaystyle T=\\sum _{n}t_{n}+\\sum _{n}t_{n}{\\tilde {G}}\\sum _{m\\neq n}t_{m}+\\sum _{n}t_{n}{\\tilde {G}}\\sum _{m\\neq n}t_{m}{\\tilde {G}}\\sum _{p\\neq m}t_{p}+\\cdots }", "title": "格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ここでポテンシャルが全て同じであると考える。そして総散乱行列Tを次のように分解する。", "title": "形式解の提示" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "T = ∑ n , n ′ T n n ′ {\\displaystyle T=\\,\\sum _{n,n'}T_{nn'}}", "title": "形式解の提示" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "分解されたTnn'は、", "title": "形式解の提示" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "T n n ′ = t n δ n n ′ + t n G 0 ∑ m ≠ n T m n ′ {\\displaystyle T_{nn'}=t_{n}\\delta _{nn'}+t_{n}G_{0}\\sum _{m\\neq n}T_{mn'}}", "title": "形式解の提示" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "となる。G0は自由電子のグリーン関数とする( G ~ → G 0 {\\displaystyle {\\tilde {G}}\\to G_{0}} )。これにより、厳密な形式解を得ることができる。Tnn'は更に、", "title": "形式解の提示" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "T n n ′ = t n δ n n ′ + t n G 0 ∑ m ≠ n ( t m δ m n ′ + t m G 0 ∑ p ≠ m T p n ′ ) = t n δ n n ′ + t n G 0 t n ′ + t n G 0 ∑ m ≠ n t m G 0 t n ′ + ⋯ {\\displaystyle {\\begin{aligned}T_{nn'}&=t_{n}\\delta _{nn'}+t_{n}G_{0}\\sum _{m\\neq n}(t_{m}\\delta _{mn'}+t_{m}G_{0}\\sum _{p\\neq m}T_{pn'})\\\\&=t_{n}\\delta _{nn'}+t_{n}G_{0}t_{n'}+t_{n}G_{0}\\sum _{m\\neq n}t_{m}G_{0}t_{n'}+\\cdots \\end{aligned}}}", "title": "形式解の提示" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "となる。Tnn'はサイトnから始まって、サイトn'で終わる全ての散乱過程を記述していることとなる。一方Tnは、", "title": "形式解の提示" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "T n = ∑ n ′ T n n ′ {\\displaystyle T_{n}=\\,\\sum _{n'}T_{nn'}}", "title": "形式解の提示" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "であり、これはサイトnは考慮されるが、終点としてのサイトn'を考えていない。そして、Tnn'の形式解は(但し、ここでr→kへのフーリエ変換及び、角運動量表示を導入している)、", "title": "形式解の提示" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "T n n ′ L L ′ ( κ ) = τ n l ( κ ) [ δ n n ′ L L ′ + ∑ n 1 , L 1 B n n 1 L L 1 ( κ ) ⋅ T n 1 n ′ L 1 L ′ ( κ ) ] {\\displaystyle T_{nn'}^{LL'}(\\kappa )=\\tau _{n}^{l}(\\kappa )\\left[\\delta _{nn'}^{LL'}+\\sum _{n_{1},L_{1}}B_{nn_{1}}^{LL_{1}}(\\kappa )\\cdot T_{{n_{1}}n'}^{{L_{1}}L'}(\\kappa )\\right]}", "title": "形式解の提示" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "T n n ′ ( k , k ′ ) = ( 4 π ) 2 ∑ L , L ′ Y L ( k ) T n n ′ L L ′ ( k , k ′ ) Y L ′ ( k ′ ) {\\displaystyle T_{nn'}(\\mathbf {k} ,\\mathbf {k'} )=(4\\pi )^{2}\\sum _{L,L'}Y_{L}(\\mathbf {k} )T_{nn'}^{LL'}(k,k')Y_{L'}(\\mathbf {k'} )} : 角運動量表示", "title": "形式解の提示" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "となる(形式解導出の詳細は省略)。 B n n 1 L L 1 {\\displaystyle B_{nn_{1}}^{LL_{1}}} は構造定数と言われるもので、結晶格子の種類にのみ依存する定数である。 κ = k = E {\\displaystyle \\kappa =k={\\sqrt {E}}} であり。L,L',lなどは軌道角運動量に関しての指標である。τn(κ)はt行列tnに相当する。ここで構造定数は具体的には、", "title": "形式解の提示" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "B n n 1 L L 1 ( κ ) = − [ 4 π i κ ∑ L 1 i l − l ′ − l 1 C L L ′ L 1 Y L 1 ( R n − R n ′ ) h l + ( κ | R n − R n ′ | ) ] ( 1 − δ n n ′ ) C L L ′ L 1 = ∫ Y L ( q ) Y L ′ ( q ) Y L 1 ( q ) d Ω q {\\displaystyle {\\begin{aligned}B_{nn_{1}}^{LL_{1}}(\\kappa )&=-\\left[4\\pi i\\kappa \\sum _{L_{1}}i^{l-l'-l_{1}}C_{LL'L_{1}}Y_{L_{1}}(\\mathbf {R} _{n}-\\mathbf {R} _{n'})h_{l}^{+}(\\kappa |\\mathbf {R} _{n}-\\mathbf {R} _{n'}|)\\right](1-\\delta _{nn'})\\\\C_{LL'L_{1}}&=\\int Y_{L}(\\mathbf {q} )Y_{L'}(\\mathbf {q} )Y_{L_{1}}(\\mathbf {q} )\\,d\\Omega _{q}\\end{aligned}}}", "title": "形式解の提示" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "となる。 h l + {\\displaystyle h_{l}^{+}} は球ハンケル関数、YLは球面調和関数である。尚、形式解は次のようにも表される。", "title": "形式解の提示" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "T n n ′ L L ′ ( κ ) = { [ τ − 1 ( κ ) − B ( κ ) ] − 1 } n n ′ L L ′ {\\displaystyle T_{nn'}^{LL'}(\\kappa )=\\{[\\tau ^{-1}(\\kappa )-B(\\kappa )]^{-1}\\}_{nn'}^{LL'}}", "title": "形式解の提示" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "この形式解から、状態密度をD(E)の表式を得ることができる。この時、上式左辺を T n n ′ L L ′ ( κ ) = T ( κ ) {\\displaystyle T_{nn'}^{LL'}(\\kappa )=T(\\kappa )} と略して表示。", "title": "形式解の提示" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "D ( E ) − D 0 ( E ) = 2 N π I m T r d d E ln [ T ( κ ) ] = − 2 N π I m T r d d E ln [ τ − 1 − B ( κ ) ] = − 2 N π I m T r [ T ( κ ) ( d τ − 1 d E − d B ( κ ) d E ) ] = − 2 N π I m ∑ n , L ∑ n 1 , L 1 T n n 1 L L 1 [ δ n 1 n L 1 L d ( τ n l ( κ ) ) − 1 d E − d d E B n 1 n L 1 L ( κ ) ] {\\displaystyle {\\begin{aligned}D(E)-D_{0}(E)&={\\frac {2}{N\\pi }}\\mathrm {Im\\,Tr} {\\frac {d}{dE}}\\ln[T(\\kappa )]\\\\&=-{\\frac {2}{N\\pi }}\\mathrm {Im\\,Tr} {\\frac {d}{dE}}\\ln[\\tau ^{-1}-B(\\kappa )]\\\\&=-{\\frac {2}{N\\pi }}\\mathrm {Im\\,Tr} \\left[T(\\kappa )\\left({\\frac {d\\tau ^{-1}}{dE}}-{\\frac {dB(\\kappa )}{dE}}\\right)\\right]\\\\&=-{\\frac {2}{N\\pi }}\\mathrm {Im} \\sum _{n,L}\\sum _{n_{1},L_{1}}T_{nn_{1}}^{LL_{1}}\\left[\\delta _{{n_{1}}n}^{{L_{1}}L}{\\frac {d(\\tau _{n}^{l}(\\kappa ))^{-1}}{dE}}-{\\frac {d}{dE}}B_{{n_{1}}n}^{{L_{1}}L}(\\kappa )\\right]\\end{aligned}}}", "title": "形式解の提示" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ここで、係数2はスピンの縮重度、Nは全サイト数、Imは虚数部分、Trはトレース(跡)を取ることを意味する。D0(E)は自由電子の状態密度。", "title": "形式解の提示" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "グリーン関数から状態密度を求める式は(エネルギーは全てEとする)、", "title": "D0(E)の起源" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "D ( E ) = − 1 π I m G ( E ) = − 1 π I m { G ~ ( E ) + G ~ ( E ) T ( E ) G ~ ( E ) } {\\displaystyle D(E)=-{\\frac {1}{\\pi }}\\mathrm {Im} \\,G(E)=-{\\frac {1}{\\pi }}\\mathrm {Im} \\,\\{{\\tilde {G}}(E)+{\\tilde {G}}(E)T(E){\\tilde {G}}(E)\\}}", "title": "D0(E)の起源" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "であり(スピン縮重度などの係数は省略)、ここで G ~ ( E ) → G 0 ( E ) {\\displaystyle {\\tilde {G}}(E)\\to G_{0}(E)} とすると、", "title": "D0(E)の起源" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "D ( E ) = − 1 π I m G ( E ) = − 1 π I m { G 0 ( E ) + G 0 ( E ) T ( E ) G 0 ( E ) } = D 0 ( E ) − 1 π I m G 0 ( E ) T ( E ) G 0 ( E ) {\\displaystyle {\\begin{aligned}D(E)=-{\\frac {1}{\\pi }}\\mathrm {Im} \\,G(E)&=-{1 \\over {\\pi }}\\mathrm {Im} \\,\\{G_{0}(E)+G_{0}(E)\\,T(E)\\,G_{0}(E)\\}\\\\&=D_{0}(E)-{\\frac {1}{\\pi }}\\mathrm {Im} \\,G_{0}(E)\\,T(E)\\,G_{0}(E)\\end{aligned}}}", "title": "D0(E)の起源" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "となりD0(E)を移項すると、D(E) - D0(E)が出てくる。", "title": "D0(E)の起源" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "以上は、ポテンシャルを全て同一とみなしたが、最初の前提であるポテンシャルがランダムである場合、その扱いは難しくなる。ランダムさ(乱れ)には構造的な乱れ、配置の乱れなど多様な状況を考えることができるが、ここでは先にあるように原子の配置のみが乱れた系である置換型の不規則二元合金を考えるのが比較的扱いが楽である。このランダムな問題を解くものとして、平均化によってランダムさを一様なものとして扱うアプローチがある。これに関係する近似手法として単サイト近似、平均場近似(有効媒質近似)がある。多重散乱理論を出発点として、このようなランダムな系を扱うバンド計算手法として、ATAやCPAがある。ランダムでない通常の周期的な系を、多重散乱理論を利用して解くバンド計算手法にKKR法がある。", "title": "ランダムな系の多重散乱" } ]
散乱理論では単独のポテンシャルにおける電子(散乱するものは電子以外にも光や他の粒子など様々なものが存在)の散乱を扱ったが、現実の散乱は、多数のポテンシャル下でかつ散乱される対象も多数存在する。また一つの電子に限っても、散乱は一回限りでなく複数回散乱される。このような多重な散乱を扱う理論が多重散乱理論(Multiple scattering theory)である。
{{出典の明記|date=2016年4月}} [[散乱理論]]では単独のポテンシャルにおける[[電子]](散乱するものは電子以外にも光や他の粒子など様々なものが存在)の散乱を扱ったが、現実の散乱は、多数のポテンシャル下でかつ散乱される対象も多数存在する。また一つの電子に限っても、散乱は一回限りでなく複数回散乱される。このような多重な散乱を扱う理論が'''多重散乱理論'''(Multiple scattering theory)である。 ==格子上に配置したランダムなポテンシャル下での電子== 多重散乱理論には扱う対象により様々なものが考えられるが、以下に一つの例として並進対称に配置した格子系において、各格子(サイト)上にポテンシャルが[[ランダム]](非周期的)に配置した場合を考える。以下、散乱されるのは電子としておく。 サイトnにあるポテンシャルをV<sub>n</sub>、[[自由電子]](または無摂動)の[[ハミルトニアン]]をH<sub>0</sub>として、系を記述するハミルトニアンHを、 {{Indent|<math> H =\, H_0 + \sum_n V_n </math>}} とする。次にこれを以下のように変形する。 {{Indent|<math> H = [H_0 + \tilde{V}(z)] + \sum_n [V_n - \tilde{V}_n(z)] = \tilde{H}(z) + v(z) </math>}} ここで、 {{Indent|<math> \tilde{V}(z) = \sum_n \tilde{V}_n (z) </math>}} であり、<math> \tilde{V}_n(z) </math>は任意の周期ポテンシャル。つまりポテンシャルV<sub>n</sub>を周期的部分<math> \tilde{V} </math>と非周期的部分<math>\,v</math>とに分けた訳である。zは複素エネルギー。上式で、v(z)は次のようv<sub>n</sub>(z)の和になっている。 {{Indent|<math> v(z) = \sum_n [V_n - \tilde{V}_n (z)] = \sum_n v_n(z) </math>}} 更に、この系における[[グリーン関数]]をG(z)とすると、G(z)は、 {{Indent|<math> G(z) = \frac{1}{z-\tilde{H}-v} = \frac{1}{ (z-\tilde{H})\left(1-\frac{v}{z-\tilde{H}}\right) } </math>}} であり、 {{Indent|<math> \tilde{G} = \frac{1}{z-\tilde{H}}</math>}} とし、非周期ポテンシャル部分vに関して展開すると、 {{Indent| <math> G(z) = \tilde{G} \{1 + v \tilde{G} + v \tilde{G} v \tilde{G} + \cdots \} = \tilde{G} + \tilde{G} T \tilde{G} </math> <math> T = v + v \tilde{G} v + v \tilde{G} v \tilde{G} v + \cdots </math> }} となる。Tを'''総散乱行列'''と言う。総散乱行列Tをサイトの和の形で表すと、 {{Indent|<math> T = \sum_n v_n + \sum_n v_n \tilde{G} \sum_m v_m + \sum_n \tilde{G} \sum_m v_m \tilde{G} \sum_p v_p \cdots </math>}} となる。サイトnのポテンシャルv<sub>n</sub>のみを考え、[[散乱理論]]の場合と同じ要領でt行列が定義できる。 {{Indent|<math> t_n = v_n \{1 + \tilde{G} v_n + \tilde{G} v_n \tilde{G} v_n \cdots \} = v_n \frac{1}{1 - v_n \tilde{G} } = v_n [1 - v_n \tilde{G}]^{-1} </math>}} 加えて、 {{Indent|<math> t_n = v_n + v_n \tilde{G} \{ v_n + v_n \tilde{G} v_n + v_n \tilde{G} v_n \tilde{G} v_n \cdots \} = v_n + v_n \tilde{G} t_n </math>}} である。総散乱行列TはサイトnでのT<sub>n</sub>の和、 {{Indent|<math> T = \, \sum_n T_n </math>}} と表現でき、各T<sub>n</sub>は、 {{Indent|<math> \begin{align} T_n & = v_n + v_n \tilde{G} \sum_m v_m + v_n \tilde{G} \sum_m v_m \tilde{G} \sum_p v_p + \cdots \\ &= v_n \left\{ 1 + \tilde{G} \left[ \sum_m v_m + \sum_m v_m \tilde{G} \sum_p v_p + \cdots\right] \right\} \\ & = v_n \left[1 + \tilde{G} \sum_m T_m \right] \end{align} </math>}} 更に、 {{Indent|<math> T_n = v_n + v_n \tilde{G} T_n + v_n \tilde{G} \sum_{m \ne n} T_m = t_n \left[1 + \tilde{G} \sum_{m \ne n} T_m \right] </math>}} である。ここで、 {{Indent|<math> (1 - v_n \tilde{G})T_n = v_n + v_n \tilde{G} \sum_{m \ne n} T_m, \quad t_n = v_n [1 - v_n \tilde{G}]^{-1} </math>}} よりt<sub>n</sub>が出てくる。以上から総散乱行列Tは、t行列により次のように表される。 {{Indent|<math> T = \sum_n t_n + \sum_n t_n \tilde{G} \sum_{m \ne n} t_m + \sum_n t_n \tilde{G} \sum_{m \ne n} t_m \tilde{G} \sum_{p \ne m} t_p + \cdots</math>}} ==形式解の提示== ここでポテンシャルが全て同じであると考える。そして総散乱行列Tを次のように分解する。 {{Indent|<math> T = \, \sum_{n,n'}T_{nn'} </math>}} 分解されたT<sub>nn'</sub>は、 {{Indent|<math> T_{nn'} = t_n \delta_{nn'} + t_n G_0 \sum_{m \ne n} T_{mn'} </math>}} となる。G<sub>0</sub>は自由電子のグリーン関数とする(<math> \tilde{G} \to G_0 </math>)。これにより、厳密な形式解を得ることができる。T<sub>nn'</sub>は更に、 {{Indent|<math> \begin{align} T_{nn'} & = t_n \delta_{nn'} + t_n G_0 \sum_{m \ne n} (t_m \delta_{mn'} + t_m G_0 \sum_{p \ne m} T_{pn'}) \\ & = t_n \delta_{nn'} + t_n G_0 t_{n'} + t_n G_0 \sum_{m \ne n} t_m G_0 t_{n'} + \cdots \end{align} </math>}} となる。T<sub>nn'</sub>はサイトnから始まって、サイトn'で終わる全ての散乱過程を記述していることとなる。一方T<sub>n</sub>は、 {{Indent|<math> T_n = \, \sum_{n'} T_{nn'} </math>}} であり、これはサイトnは考慮されるが、終点としてのサイトn'を考えていない。そして、T<sub>nn'</sub>の形式解は(但し、ここで'''r'''→'''k'''への[[フーリエ変換]]及び、角運動量表示を導入している)、 {{Indent| <math> T_{nn'}^{LL'}(\kappa) = \tau_{n}^{l}(\kappa) \left[ \delta_{nn'}^{LL'} + \sum_{n_1,L_1} B_{nn_1}^{LL_1}(\kappa) \cdot T_{{n_1}n'}^{{L_1}L'}(\kappa)\right] </math> {{Indent| <math> T_{nn'} (\mathbf{k}, \mathbf{k'}) = (4 \pi)^2 \sum_{L,L'} Y_L (\mathbf{k}) T_{nn'}^{LL'} (k, k')Y_{L'} (\mathbf{k'}) </math> : 角運動量表示}} }} となる(形式解導出の詳細は省略)。<math> B_{nn_1}^{LL_1} </math>は構造定数と言われるもので、結晶格子の種類にのみ依存する定数である。<math> \kappa = k = \sqrt{E} </math>であり。L,L',lなどは軌道角運動量に関しての指標である。τ<sub>n</sub>(κ)はt行列t<sub>n</sub>に相当する。ここで構造定数は具体的には、 {{Indent|<math>\begin{align} B_{nn_1}^{LL_1}(\kappa) &= - \left[4 \pi i \kappa \sum_{L_1} i^{l-l'-l_1} C_{LL'L_1} Y_{L_1}(\mathbf{R}_n - \mathbf{R}_{n'}) h_l^{+}(\kappa | \mathbf{R}_n - \mathbf{R}_{n'} | ) \right](1 - \delta_{nn'}) \\ C_{LL'L_1} &= \int Y_L(\mathbf{q}) Y_{L'} (\mathbf{q}) Y_{L_1}(\mathbf{q})\,d \Omega_q \end{align} </math>}} となる。<math> h_l^{+} </math>は[[球ハンケル関数]]、Y<sub>L</sub>は[[球面調和関数]]である。尚、形式解は次のようにも表される。{{Indent|<math> T_{nn'}^{LL'}(\kappa) = \{ [\tau^{-1}(\kappa) - B(\kappa)]^{-1} \}_{nn'}^{LL'} </math>}} この形式解から、[[状態密度]]をD(E)の表式を得ることができる。この時、上式左辺を<math> T_{nn'}^{LL'}(\kappa) = T(\kappa) </math>と略して表示。 {{Indent|<math> \begin{align} D(E) - D_0(E) &= {\frac{2}{N \pi} } \mathrm{Im\,Tr} {\frac{d}{dE} } \ln [T(\kappa)] \\ & = - {\frac{2}{N \pi} } \mathrm{Im\,Tr}\frac{d}{dE}\ln [\tau^{-1} - B(\kappa)] \\ & = -\frac{2}{N \pi}\mathrm{Im\,Tr} \left[T(\kappa) \left(\frac{d\tau^{-1}}{dE}-\frac{dB(\kappa)}{dE}\right) \right] \\ & = - \frac{2}{N \pi}\mathrm{Im} \sum_{n,L} \sum_{n_1, L_1} T_{nn_1}^{LL_1} \left[ \delta_{{n_1}n}^{{L_1}L} \frac{d (\tau_n^l (\kappa) )^{-1}}{dE} - \frac{d}{dE} B_{{n_1}n}^{{L_1}L} (\kappa) \right] \end{align} </math>}} ここで、係数2はスピンの縮重度、Nは全サイト数、Imは虚数部分、Trはトレース(跡)を取ることを意味する。D<sub>0</sub>(E)は自由電子の状態密度。 ==D<sub>0</sub>(E)の起源== グリーン関数から状態密度を求める式は(エネルギーは全てEとする)、 {{Indent|<math> D(E) = - \frac{1}{\pi} \mathrm{Im}\,G(E) = - \frac{1}{\pi} \mathrm{Im}\, \{ \tilde{G}(E) + \tilde{G}(E) T(E) \tilde{G} (E) \} </math>}} であり(スピン縮重度などの係数は省略)、ここで<math> \tilde{G}(E) \to G_0(E) </math>とすると、 {{Indent|<math> \begin{align} D(E) = - \frac{1}{\pi} \mathrm{Im}\,G(E) & = - {1 \over {\pi}} \mathrm{Im}\,\{ G_0(E) + G_0(E)\,T(E) \,G_0 (E) \} \\ & = D_0 (E) - \frac{1}{\pi}\mathrm{Im}\,G_0(E) \,T(E)\,G_0(E) \end{align} </math>}} となりD<sub>0</sub>(E)を移項すると、D(E) - D<sub>0</sub>(E)が出てくる。 == ランダムな系の多重散乱 == 以上は、ポテンシャルを全て同一とみなしたが、最初の前提であるポテンシャルがランダムである場合、その扱いは難しくなる。ランダムさ(乱れ)には構造的な乱れ、配置の乱れなど多様な状況を考えることができるが、ここでは先にあるように原子の配置のみが乱れた系である置換型の[[不規則二元合金]]を考えるのが比較的扱いが楽である。このランダムな問題を解くものとして、平均化によってランダムさを一様なものとして扱うアプローチがある。これに関係する近似手法として[[単サイト近似]]、[[平均場近似]](有効媒質近似)がある。多重散乱理論を出発点として、このようなランダムな系を扱うバンド計算手法として、[[Averaged t-matrix Approximation|ATA]]や[[コヒーレントポテンシャル近似|CPA]]がある。ランダムでない通常の周期的な系を、多重散乱理論を利用して解くバンド計算手法に[[KKR法]]がある。 {{DEFAULTSORT:たしゆうさんらんりろん}} [[Category:量子力学]] [[Category:散乱理論]]
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ユゼフ・ポニャトフスキ
ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ(波: Józef Antoni Poniatowski, 1763年5月7日 - 1813年10月19日)は、ポーランド・リトアニア共和国の貴族、オーストリア軍の将校、のちナポレオン1世の下で将軍として活躍し元帥となった軍人である。フランス語名はジョゼフ・アントワーヌ・ポニャトウスキ(Joseph Antoine Poniatowski)。 ユゼフ・ポニャトフスキは1763年、ウィーンに生まれた。ポニャトフスキ家はシュラフタの家系で、祖父スタニスワフはスウェーデン王カール12世に仕えたのちポーランドに帰り、クラクフ城代になった軍人であった。父アンジェイはオーストリアの将軍であった。さらに、ポーランド・リトアニア共和国最後の国王スタニスワフ2世アウグストが父の兄であったため、一族とともに大公(プリンス)の称号を与えられた。 はじめオーストリアで軍務に就き、オスマン帝国との戦闘にも従軍する。1789年、叔父の請いにより祖国に帰ってポーランド陸軍少将となるが、オーストリア・ロシア帝国・プロイセン王国によるポーランド分割を防げなかった。 1806年、ナポレオンがプロイセンをイエナ・アウエルシュタットの戦いで破るのを見て、祖国を再興してくれると思い、ポーランド軍を率いてナポレオンの指揮下に入る。翌1807年、ナポレオンがワルシャワ公国を建国すると、ポニャトフスキはその名目上の軍司令官になった。 1809年、オーストリアとの戦役で、ワルシャワを一時的に占領されるも奪回し、逆にポーランドの旧領クラクフの占領に成功する。 ボロディノの戦いでポニャトフスキのポーランド軍団は勇戦したが、ナポレオンがロシア遠征に失敗するとワルシャワ公国の存在も危うくなり、敵側になびくポーランド人も多かったが、ポニャトフスキはナポレオンを裏切らなかった。1813年、自ら13,000のポーランド軍を組織し、リュッツェンの戦いに参加した。ライプツィヒの戦いの最中にフランス元帥に叙せられ、その3日後にライプツィヒからのフランス軍の退却を殿軍として支援して奮戦したが、自らは渡河中に溺死した。
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ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキは、ポーランド・リトアニア共和国の貴族、オーストリア軍の将校、のちナポレオン1世の下で将軍として活躍し元帥となった軍人である。フランス語名はジョゼフ・アントワーヌ・ポニャトウスキ。
{{基礎情報 軍人 |氏名 = ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ |各国語表記 = Józef Antoni Poniatowski |箱サイズ = |生年月日 = 1763年5月7日 |没年月日 = 1813年10月19日 |画像 = Prince Joseph Poniatowski by Józef Grassi.jpg |画像サイズ = |画像説明 = |渾名 = |生誕地 = {{HRR}}<br />{{AUT1358}}、[[ウィーン]] |死没地 = {{SAC}}、[[ライプツィヒ]]近郊[[白エルスター川]] |所属組織 = |軍歴 = |最終階級 = [[フランス元帥]] |除隊後 = |墓所 = |署名 = }} '''ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ'''({{lang-pl-short|Józef Antoni Poniatowski}}, [[1763年]][[5月7日]] - [[1813年]][[10月19日]])は、[[ポーランド・リトアニア共和国]]の貴族、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]軍の将校、のち[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]の下で将軍として活躍し[[元帥]]となった軍人である。[[フランス語]]名は'''ジョゼフ・アントワーヌ・ポニャトウスキ'''({{lang|fr|Joseph Antoine Poniatowski}})。 == 生涯 == [[ファイル:Konstytucja 3 Maja.jpg|thumb|left|250px|[[5月3日憲法|ポーランド5月3日憲法]]公布のシーン。<br>右端の馬上の人物が若きユゼフ・ポニャトフスキ。<br>左のほうの黒帽子と赤マントの人物が叔父でポーランド国王のスタニスワフ2世アウグスト。]] [[ファイル:Napoleon i Poniatowski Lipsk.jpg|thumb|left|250px|ライプツィヒのナポレオンとポニャトフスキ。]] ユゼフ・ポニャトフスキは1763年、[[ウィーン]]に生まれた。[[ポニャトフスキ家]]は[[シュラフタ]]の家系で、祖父スタニスワフは[[スウェーデン]]王[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]に仕えたのちポーランドに帰り、[[クラクフ]]城代になった軍人であった。父[[アンジェイ・ポニャトフスキ|アンジェイ]]は[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の将軍であった。さらに、[[ポーランド・リトアニア共和国]]最後の国王[[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ|スタニスワフ2世アウグスト]]が父の兄であったため、一族とともに大公([[プリンス]])<ref>名家であるポニャトフスキ家は大公家系、侯爵家系、伯爵家系など複数の分家がある。</ref>の称号を与えられた。 はじめオーストリアで軍務に就き、[[オスマン帝国]]との戦闘にも従軍する。1789年、叔父の請いにより祖国に帰ってポーランド陸軍少将となるが、オーストリア・[[ロシア帝国]]・[[プロイセン王国]]による[[ポーランド分割]]を防げなかった。 1806年、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]がプロイセンを[[イエナ・アウエルシュタットの戦い]]で破るのを見て、祖国を再興してくれると思い、ポーランド軍を率いてナポレオンの指揮下に入る。翌1807年、ナポレオンが[[ワルシャワ公国]]を建国すると、ポニャトフスキはその名目上の軍司令官になった。 [[1809年]]、[[ポーランド・オーストリア戦争|オーストリアとの戦役]]で、[[ワルシャワ]]を一時的に占領されるも奪回し、逆にポーランドの旧領[[クラクフ]]の占領に成功する。 [[ボロディノの戦い]]でポニャトフスキのポーランド軍団は勇戦したが、ナポレオンが[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]に失敗するとワルシャワ公国の存在も危うくなり、敵側になびくポーランド人も多かったが、ポニャトフスキはナポレオンを裏切らなかった。1813年、自ら13,000のポーランド軍を組織し、{{仮リンク|リュッツェンの戦い (1813年)|en|Battle of Lützen (1813)|label=リュッツェンの戦い}}に参加した。[[ライプツィヒの戦い]]の最中に[[フランス元帥]]に叙せられ、その3日後にライプツィヒからのフランス軍の退却を[[殿軍]]として支援して奮戦したが、自らは渡河中に溺死した。{{-}} == その他 == *[[池田理代子]]の漫画『天の涯まで ポーランド秘史』で主人公となっている。 *26元帥の1人であるため、[[パリ]]の[[ブルヴァール・デ・マレショー]]にはポニャトフスキの名前を冠した通りがある。 == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{commonscat|Józef Antoni Poniatowski}} * [https://web.archive.org/web/20120811170731/http://members.core.com/~gugalo/ Jozef Poniatowski] {{フランス第一帝政の元帥}} {{Normdaten}} {{Mil-bio-stub}} {{デフォルトソート:ほにやとふすき ゆせふ}} [[Category:ユゼフ・ポニャトフスキ|*]] [[Category:ポーランド・リトアニア共和国の軍人]] [[Category:フランス第一帝政の元帥]] [[category:ポニャトフスキ家|ゆせふ]] [[Category:コシチュシュコの蜂起]] [[Category:18世紀の軍人]] [[Category:19世紀の軍人]] [[Category:レジオンドヌール勲章受章者]] [[Category:エトワール凱旋門に名前を記された人物]] [[Category:フランス・ポーランド関係]] [[Category:戦死した人物]] [[Category:水難死した人物]] [[Category:ウィーン出身の人物]] [[Category:1763年生]] [[Category:1813年没]]
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会戦
会戦(かいせん、英: pitched battle)は、陸軍部隊が比較的に大規模な戦力を準備して互いに対峙し、戦われる戦闘である。 会戦は、偶然の出会いなどによって成り行きで起こることもあるが、しばしば敵を圧倒殲滅することを狙い、概ね(近代以降の軍制なら)軍以上の大規模な戦力を以て行われる戦闘である。場合によればその戦闘の前後の機動も含める。複雑な地形では会戦の形態上から戦闘展開が困難であるために、通常は野戦の形態をとる。近代以前は遭遇戦や小競り合いの対概念として考えられていたが、戦闘教義、兵器などの変化・発展のために会戦の意義・頻度は低下している。 国家総力戦体制が整う近代よりも前の時代においては、国の指導者が運用可能な戦力が極めて限定的であった。そのため敵の戦力を徹底的に撃滅する性格を持つ会戦は戦争や戦役の帰趨を決める大きな戦闘であった。そのために軍事作戦は制限戦争の思想が一般的であり、軍人たちは会戦での勝利を至上目標とし、会戦を敵よりも有利な態勢で行なうための準備と駆け引きに残りの期間の努力を向けていた。 19世紀までは会戦が指揮官の視界をはるかに超えることも、また時間的にも一日の範囲を超えることはめったになかった。しかし国家総力戦の体制が整備され、参加兵力が大幅に増え、兵器開発が進み、作戦地域も拡大した第一次世界大戦から戦線が延伸し、会戦の期間は延長する傾向が顕著になり、持久戦の形態へと移行していったが、当時の大規模な戦闘は会戦として呼称されていた。 現代においては全般的に戦闘がかつての会戦よりも流動的、大規模になったために会戦の形態は殆ど見られなくなった。
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会戦は、陸軍部隊が比較的に大規模な戦力を準備して互いに対峙し、戦われる戦闘である。
{{出典の明記|date=2019年3月}} '''会戦'''(かいせん、{{Lang-en-short|pitched battle}})は、[[陸軍]]部隊が比較的に大規模な戦力を準備して互いに対峙し、戦われる[[戦闘]]である。 == 概要 == 会戦は、偶然の出会いなどによって成り行きで起こることもあるが、しばしば敵を圧倒殲滅することを狙い、概ね(近代以降の軍制なら)[[軍]]以上の大規模な戦力を以て行われる戦闘である。場合によればその戦闘の前後の[[機動]]も含める。複雑な地形では会戦の形態上から戦闘展開が困難であるために、通常は[[野戦]]の形態をとる。近代以前は[[遭遇戦]]や小競り合いの対概念として考えられていたが{{誰2|date=2010年3月}}、[[戦闘教義]]、[[兵器]]などの変化・発展のために会戦の意義・頻度は低下している。 == 歴史 == 国家総力戦体制が整う近代よりも前の時代においては、国の指導者が運用可能な戦力が極めて限定的であった。そのため敵の戦力を徹底的に撃滅する性格を持つ会戦は[[戦争]]や[[戦役]]の帰趨を決める大きな戦闘であった。そのために軍事作戦は[[制限戦争]]の思想が一般的であり、軍人たちは会戦での勝利を至上目標とし、会戦を敵よりも有利な態勢で行なうための準備と駆け引きに残りの期間の努力を向けていた。 [[19世紀]]までは会戦が指揮官の視界をはるかに超えることも、また時間的にも一日の範囲を超えることはめったになかった。しかし国家総力戦の体制が整備され、参加兵力が大幅に増え、兵器開発が進み、作戦地域も拡大した[[第一次世界大戦]]から戦線が延伸し、会戦の期間は延長する傾向が顕著になり、持久戦の形態へと移行していったが、当時の大規模な戦闘は会戦として呼称されていた。 現代においては全般的に戦闘がかつての会戦よりも流動的、大規模になったために会戦の形態は殆ど見られなくなった。 ==戦い一覧== *[[奉天会戦]] *[[マルヌ会戦]] *[[遼陽会戦]] *[[黒溝台会戦]] *第一次、[[第二次シャンパーニュ会戦]] *[[ソンムの戦い]] *[[クルスクの戦い]] *[[プエブラの会戦]] *[[第一次エル・アラメイン会戦]] *[[イラワジ会戦]] *[[アウステルリッツの戦い]] == 関連項目 == *[[陸戦]] *[[遭遇戦]] *[[会戦分]] {{normdaten}} {{デフォルトソート:かいせん}} [[Category:戦術]] [[Category:戦闘]] [[Category:戦争]]
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オブジェクト
オブジェクト (Object)
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オブジェクト (Object) 「物体」のこと。 転じて、3DCGソフトウェア等で、空間に配置される各物体のこと。 「対象」のこと。 「客体」のこと。 「目的語」のこと。 オブジェクト (プログラミング) - プログラミングにおいて、プログラム上の手続きの対象を抽象化する概念。 オブジェクトファイル - ソースコードをコンパイルしたときに、コンパイラが生成するファイル。 オブジェクト (芸能事務所) - 東京都渋谷区富ヶ谷に所在する声優事務所。 ヘヴィーオブジェクト - 鎌池和馬原作のライトノベル。 オブイェークト(Объект) - ソビエト連邦・ロシアの試作型戦車に対する便宜的呼称。英語のObjectに相当。
{{Wiktionary|オブジェクト}} '''オブジェクト''' (Object) *「[[物体]]」のこと。 ** 転じて、[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]ソフトウェア等で、空間に配置される各物体のこと。 *「[[対象]]」のこと。 *「[[客体]]」のこと。 *「[[目的語]]」のこと。 * [[オブジェクト (プログラミング)]] - プログラミングにおいて、プログラム上の手続きの対象を抽象化する概念。 * [[オブジェクトファイル]] - [[ソースコード]]を[[コンパイル]]したときに、[[コンパイラ]]が生成するファイル。 * [[オブジェクト (芸能事務所)]] - [[東京都]][[渋谷区]][[富ヶ谷]]に所在する声優事務所。 * [[ヘヴィーオブジェクト]] - [[鎌池和馬]]原作の[[ライトノベル]]。 * [[オブイェークト]](Объект) - [[ソビエト連邦]]・[[ロシア]]の試作型[[戦車]]に対する便宜的呼称。英語のObjectに相当。 {{Aimai}} {{デフォルトソート:おふしえくと}} [[Category:プログラミング]]
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CG (曖昧さ回避)
CG、Cg、cg
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CG、Cg、cg
'''CG'''、'''Cg'''、'''cg''' == CG == * [[コンピュータグラフィックス]] (computer graphics) * [[スーパーインポーズ (映像編集)|キャラクタジェネレータ]] (character generator) - コンピュータが表示する[[キャラクタ (コンピュータ)|文字]]を生成する装置。画面に字幕などを入れるために用いられるものは[[映像編集#文字発生装置|映像編集]]参照。 * [[コンゴ共和国]]の[[国名コード]] * [[鉄道]]の[[駅ナンバリング]]で、[[東海旅客鉄道|JR]][[高山本線]]([[岐阜駅]] - [[猪谷駅]])('''C'''entral) の路線記号。 * [[カーグラフィック]] - 自動車雑誌。 * [[ミサイル巡洋艦]]の[[アメリカ海軍]]艦種記号 * [[沿岸警備隊]](Coast guard) * [[重心]](center of gravity) * [[カプコンジェネレーション]] - [[カプコン]]のゲームソフト。 * [[NHK旭川放送局]]の[[NHKラジオ第1放送|ラジオ第1放送]]・[[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]・[[NHK-FM放送|FM放送]](JOCG/-DTV/-FM)のコールサイン。 * [[帯状回]] (cingulate gyrus) - 大脳半球内側部の[[脳回]]。脳梁の周りを囲む位置にある。 * [[共役勾配法]] (conjugate gradient method) - [[連立一次方程式]]の数値解法。 * [[DCG#CG(累積利得)|累積利得]] - [[情報検索]]において検索性能を測る評価指標である。 == Cg == * [[Cg (プログラミング言語)]]。コンピュータグラフィックスのための[[プログラミング言語]]。 == cg == * [[センチ]][[グラム]] (cg) * [[.cg]]。コンゴ共和国の[[国別ドメイン]]。 {{aimai}}
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水銀柱ミリメートル
水銀柱ミリメートル(すいぎんちゅうミリメートル)またはミリメートル水銀柱(ミリメートルすいぎんちゅう)は、圧力の非SI単位である。国際単位系 (SI) の単位ではないが、いくつかの国で血圧の計量単位として使われている。使用は推奨されておらず、SI国際文書「国際単位系 (SI)」の2006年の第8版では、「その他の非SI単位」(「SI併用単位、その他の非SI単位の削除」)に挙げられていたが、2019年の第9版では削除された。 日本の計量法では、「特殊の計量に用いる計量単位」(計量法第5条第2項、計量単位令)に分類されており、血圧の計量と生体内の圧力の計量に限定して使用することが認められている。 日本の計量法において、水銀柱ミリメートルは正確に 101 325/760 Pa と定義されている。これは標準大気圧の⁄760という意味である。約 133.322 Pa に当たる。 かつては、水銀柱ミリメートルの定義は「高さ1ミリメートルの水銀柱が与える圧力」であった。そして水銀柱ミリメートルとトルは同じ値となるよう定義されていた。現在では日本において、水銀柱ミリメートルとトルの定義は完全に同一である。上記の歴史的定義はその後廃止され、現在では定義の項にあるとおり、パスカルによって直接に定義されている。 この単位の名称は、英語で 英: millimetre of mercury 、米: millimeter of mercury と規定されており、その日本語訳として「水銀柱ミリメートル」または「ミリメートル水銀柱」の呼称があてられている。また、それを省略した「ミリ水銀」「ミリエイチジー」「ミリメートルエイチジー」という呼称が使用されることがある。また、単位の記号は、「mmHg」であり、大文字と小文字を区別しなければならない。 水銀圧力計は、初の精密な圧力計だった。水銀圧力計は、接続された2つの水銀溜まりの液面の違いで、2つの流体の圧力の違いを示した。このため、かつては「水銀柱ミリメートル(又は水銀柱インチ)」で圧力を測るのが慣例となっていた。 今日では、水銀の毒性や、水銀柱の感度が温度と局地的な重力加速度の影響を受けること、他の計測器の方が扱いやすいことから、水銀圧力計はあまり使用されない。水銀に関する水俣条約により、水銀を用いた圧力計は原則として2020年までに製造・輸出入が禁じられる。 2つの水銀柱の液面の高さの差に、局地的な重力加速度と水銀の密度を掛けることで、実際の水銀柱の示度は、他の圧力の基本単位に換算することができる。水銀の密度が温度と重力加速度に依存するため、これらの2つのパラメータの特定の基準値が採用された。この結果、「水銀柱ミリメートル」は、重力加速度が正確に 9.80665 m/s のときに、高さ1ミリメートルの、密度が正確に 13595.1 kg/m の水銀柱により与えられる圧力と定義されていた。 ここで、13595.1 kg/m は温度 0 °C のときの水銀の密度であり、9.80665 m/s は標準重力加速度である。この定義による水銀柱ミリメートルの値は、133.322387415 Pa ( 13.5951 g/cm × 9.80665 m/s × 1 mm ) ということになり、イギリスの工業規格ではこの値を水銀柱ミリメートルの定義値としているが、計測値が不安定なので、このような12桁もの数値は意味がない。実際、NISTのSIガイドでも、トル及び水銀柱ミリメートルの換算値として、133.3224 Pa という有効数値7桁の数値を掲げており、これ以上の桁数は水銀の圧縮率や密度の安定性の点で無意味としている。 かつて、実際の水銀柱を使って圧力の計測を行う場合は、そのときの温度での水銀の密度、その場所の重力加速度、大気・水・その他の流体の密度を考慮に入れて値を修正する必要があった。 圧力のSI単位はパスカルである。水銀柱ミリメートルとトルはSI併用単位にもなっていない非SI単位である点で共通している。しかし、SI国際文書「国際単位系 (SI)」の旧版(2006年第8版)においては水銀柱ミリメートルの方が、次の3点でトルよりも、より認められていた単位であったということができる。 トルは、SIでは、石油のバレルやインチ、ヤードと同様に「使うことが推奨されないその他の非SI単位」とされて、同文書に全く扱われておらず、したがって定義も数値も定められていなかった。 いくつかの国では、水銀柱ミリメートルを血圧の計量に使うことができる。ヨーロッパでは、1979年欧州経済共同体 (EEC) の Council Directive 80/181/EEC により、mmHg は「血圧及び他の体液の圧力」に使用が限定された。 日本の計量法体系は、血圧の計量と生体内の圧力の計量に用いる計量単位を次のように使い分けている。 真空工学等の分野ではいまだにトルが使用されることがあるが、これはパスカルへ置き換えることが推奨されている。 「生体内の圧力」に水銀柱ミリメートル及び水柱メートル並びにこれらに十の整数乗を乗じたものを表す計量単位である水銀柱ミリメートル、水銀柱センチメートル、水柱ミリメートル及び水柱センチメートル(まとめて「6単位」という。)が使用できるのは、2013年9月30日までの予定であったが、トル・パスカルへの移行が一向に進まず水銀柱メートル等が使用され続けていること、各国の法定計量機関においても生体内の圧力に係る単位についてもはや SI 化を志向していないこと、などにかんがみ、水銀柱ミリメートルの使用を期限の定めなく認めることになった。このため、計量単位令の別表第6の項番11「生体内の圧力の計量」に用いることのできる単位として、これまでのトル、ミリトル、マイクロトルに加えて、水銀柱ミリメートルなどの「6単位」を追加することになり、関係政令・省令が2013年9月26日に改正された。これによって、血圧の計量には水銀柱ミリメートルのみが使用することができるのに対して、生体内圧力の計量には、従来のトル、ミリトル、マイクロトル以外にも上記の6単位、合わせて9単位が使用できることになった。 なお、「生体内の圧力」とは、例えば、頭蓋内圧力、眼圧、気道内圧、膀胱内圧力のことであり、「血圧」はここでいう「生体内の圧力」ではないことに注意。 以下の単位は、mmHgと同様に、歴史的には水銀柱の高さに基づく単位であったが、現在はパスカルから直接に定義されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "水銀柱ミリメートル(すいぎんちゅうミリメートル)またはミリメートル水銀柱(ミリメートルすいぎんちゅう)は、圧力の非SI単位である。国際単位系 (SI) の単位ではないが、いくつかの国で血圧の計量単位として使われている。使用は推奨されておらず、SI国際文書「国際単位系 (SI)」の2006年の第8版では、「その他の非SI単位」(「SI併用単位、その他の非SI単位の削除」)に挙げられていたが、2019年の第9版では削除された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本の計量法では、「特殊の計量に用いる計量単位」(計量法第5条第2項、計量単位令)に分類されており、血圧の計量と生体内の圧力の計量に限定して使用することが認められている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本の計量法において、水銀柱ミリメートルは正確に 101 325/760 Pa と定義されている。これは標準大気圧の⁄760という意味である。約 133.322 Pa に当たる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "かつては、水銀柱ミリメートルの定義は「高さ1ミリメートルの水銀柱が与える圧力」であった。そして水銀柱ミリメートルとトルは同じ値となるよう定義されていた。現在では日本において、水銀柱ミリメートルとトルの定義は完全に同一である。上記の歴史的定義はその後廃止され、現在では定義の項にあるとおり、パスカルによって直接に定義されている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "この単位の名称は、英語で 英: millimetre of mercury 、米: millimeter of mercury と規定されており、その日本語訳として「水銀柱ミリメートル」または「ミリメートル水銀柱」の呼称があてられている。また、それを省略した「ミリ水銀」「ミリエイチジー」「ミリメートルエイチジー」という呼称が使用されることがある。また、単位の記号は、「mmHg」であり、大文字と小文字を区別しなければならない。", "title": "単位の名称および記号" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "水銀圧力計は、初の精密な圧力計だった。水銀圧力計は、接続された2つの水銀溜まりの液面の違いで、2つの流体の圧力の違いを示した。このため、かつては「水銀柱ミリメートル(又は水銀柱インチ)」で圧力を測るのが慣例となっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "今日では、水銀の毒性や、水銀柱の感度が温度と局地的な重力加速度の影響を受けること、他の計測器の方が扱いやすいことから、水銀圧力計はあまり使用されない。水銀に関する水俣条約により、水銀を用いた圧力計は原則として2020年までに製造・輸出入が禁じられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2つの水銀柱の液面の高さの差に、局地的な重力加速度と水銀の密度を掛けることで、実際の水銀柱の示度は、他の圧力の基本単位に換算することができる。水銀の密度が温度と重力加速度に依存するため、これらの2つのパラメータの特定の基準値が採用された。この結果、「水銀柱ミリメートル」は、重力加速度が正確に 9.80665 m/s のときに、高さ1ミリメートルの、密度が正確に 13595.1 kg/m の水銀柱により与えられる圧力と定義されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ここで、13595.1 kg/m は温度 0 °C のときの水銀の密度であり、9.80665 m/s は標準重力加速度である。この定義による水銀柱ミリメートルの値は、133.322387415 Pa ( 13.5951 g/cm × 9.80665 m/s × 1 mm ) ということになり、イギリスの工業規格ではこの値を水銀柱ミリメートルの定義値としているが、計測値が不安定なので、このような12桁もの数値は意味がない。実際、NISTのSIガイドでも、トル及び水銀柱ミリメートルの換算値として、133.3224 Pa という有効数値7桁の数値を掲げており、これ以上の桁数は水銀の圧縮率や密度の安定性の点で無意味としている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "かつて、実際の水銀柱を使って圧力の計測を行う場合は、そのときの温度での水銀の密度、その場所の重力加速度、大気・水・その他の流体の密度を考慮に入れて値を修正する必要があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "圧力のSI単位はパスカルである。水銀柱ミリメートルとトルはSI併用単位にもなっていない非SI単位である点で共通している。しかし、SI国際文書「国際単位系 (SI)」の旧版(2006年第8版)においては水銀柱ミリメートルの方が、次の3点でトルよりも、より認められていた単位であったということができる。", "title": "使用" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "トルは、SIでは、石油のバレルやインチ、ヤードと同様に「使うことが推奨されないその他の非SI単位」とされて、同文書に全く扱われておらず、したがって定義も数値も定められていなかった。", "title": "使用" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "いくつかの国では、水銀柱ミリメートルを血圧の計量に使うことができる。ヨーロッパでは、1979年欧州経済共同体 (EEC) の Council Directive 80/181/EEC により、mmHg は「血圧及び他の体液の圧力」に使用が限定された。", "title": "使用" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本の計量法体系は、血圧の計量と生体内の圧力の計量に用いる計量単位を次のように使い分けている。", "title": "使用" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "真空工学等の分野ではいまだにトルが使用されることがあるが、これはパスカルへ置き換えることが推奨されている。", "title": "使用" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "「生体内の圧力」に水銀柱ミリメートル及び水柱メートル並びにこれらに十の整数乗を乗じたものを表す計量単位である水銀柱ミリメートル、水銀柱センチメートル、水柱ミリメートル及び水柱センチメートル(まとめて「6単位」という。)が使用できるのは、2013年9月30日までの予定であったが、トル・パスカルへの移行が一向に進まず水銀柱メートル等が使用され続けていること、各国の法定計量機関においても生体内の圧力に係る単位についてもはや SI 化を志向していないこと、などにかんがみ、水銀柱ミリメートルの使用を期限の定めなく認めることになった。このため、計量単位令の別表第6の項番11「生体内の圧力の計量」に用いることのできる単位として、これまでのトル、ミリトル、マイクロトルに加えて、水銀柱ミリメートルなどの「6単位」を追加することになり、関係政令・省令が2013年9月26日に改正された。これによって、血圧の計量には水銀柱ミリメートルのみが使用することができるのに対して、生体内圧力の計量には、従来のトル、ミリトル、マイクロトル以外にも上記の6単位、合わせて9単位が使用できることになった。", "title": "使用" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "なお、「生体内の圧力」とは、例えば、頭蓋内圧力、眼圧、気道内圧、膀胱内圧力のことであり、「血圧」はここでいう「生体内の圧力」ではないことに注意。", "title": "使用" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "以下の単位は、mmHgと同様に、歴史的には水銀柱の高さに基づく単位であったが、現在はパスカルから直接に定義されている。", "title": "他の水銀柱単位" } ]
水銀柱ミリメートル(すいぎんちゅうミリメートル)またはミリメートル水銀柱(ミリメートルすいぎんちゅう)は、圧力の非SI単位である。国際単位系 (SI) の単位ではないが、いくつかの国で血圧の計量単位として使われている。使用は推奨されておらず、SI国際文書「国際単位系 (SI)」の2006年の第8版では、「その他の非SI単位」(「SI併用単位、その他の非SI単位の削除」)に挙げられていたが、2019年の第9版では削除された。 日本の計量法では、「特殊の計量に用いる計量単位」(計量法第5条第2項、計量単位令)に分類されており、血圧の計量と生体内の圧力の計量に限定して使用することが認められている。
{{単位 |名称=水銀柱ミリメートル |英語={{lang|en|millimeter of mercury}} |他言語= |記号=mmHg |単位系=[[メートル法]] |度量衡=[[非SI単位]] |物理量=[[圧力]] |定義= 101 325 / 760 [[パスカル (単位)|Pa]](計量法<ref name=tanirei>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357&openerCode=1#82 計量単位令]別表第六(第五条関係) 項番12</ref>) |SI= 約133.322 368 [[パスカル (単位)|Pa]] |由来=高さ 1 mm の[[水銀]]柱が与える圧力 |語源= |画像=[[File:Mercury manometer.jpg|200x200px|水銀式血圧計]] }} '''水銀柱ミリメートル'''(すいぎんちゅうミリメートル)または'''ミリメートル水銀柱'''(ミリメートルすいぎんちゅう)は、[[圧力]]の[[非SI単位]]である。[[国際単位系]] (SI) の単位ではないが、いくつかの国で[[血圧]]の計量単位として使われている。使用は推奨されておらず、SI国際文書「国際単位系 (SI)」の2006年の第8版では、「その他の[[非SI単位]]」([[SI併用単位#その他の非SI単位の削除|「SI併用単位、その他の非SI単位の削除」]])に挙げられていたが、2019年の第9版では削除された。 日本の計量法では、「特殊の計量に用いる計量単位」(計量法第5条第2項<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404AC0000000051#24 計量法第5条]</ref>、計量単位令<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#16 計量単位令第5条]</ref>)に分類されており、血圧の計量と生体内の圧力の計量に'''限定'''して使用することが認められている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#83 計量単位令 別表第6] 項番12「血圧の計量」、項番11「生体内の圧力の計量」</ref>。 ==定義== 日本の[[計量法]]<ref name=tanirei/>において、水銀柱ミリメートルは正確に {{sfrac|101 325|760}}&nbsp;[[パスカル (単位)|Pa]] と定義されている。これは[[標準大気圧]]の{{frac|760}}という意味である。約 133.322&nbsp;Pa に当たる。 === 歴史的な由来 === かつては、水銀柱ミリメートルの定義は「高さ1[[ミリメートル]]の[[水銀]]柱が与える圧力」であった。そして水銀柱ミリメートルと[[トル]]は同じ値となるよう定義されていた。現在では日本において、水銀柱ミリメートルと[[トル]]の定義は完全に同一である。上記の歴史的定義はその後廃止され、現在では定義の項にあるとおり、パスカルによって直接に定義されている。 == 単位の名称および記号 == この単位の名称は、[[英語]]で {{lang-en-gb-short|millimetre of mercury}} 、{{lang-en-us-short|millimeter of mercury}} と規定されており、その[[日本語]]訳として「水銀柱ミリメートル」または「ミリメートル水銀柱」の呼称があてられている。また、それを省略した「ミリ水銀」「ミリエイチジー」「ミリメートルエイチジー」という呼称が使用されることがある。また、単位の記号は、「mmHg」であり、大文字と小文字を区別しなければならない<ref>{{SIbrochure8th|page=127}}4.1 SIと併用される非SI単位,及び基礎定数をよりどころとする単位 表8 その他の非SI単位、p.40</ref><ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080&openerCode=1#93 計量単位規則] 別表第4、生体内の圧力の計量及び血圧の計量の欄</ref>。 ==歴史== {{See|圧力測定}} 水銀圧力計は、初の精密な圧力計だった。水銀圧力計は、接続された2つの水銀溜まりの液面の違いで、2つの流体の圧力の違いを示した。このため、かつては「水銀柱ミリメートル(又は[[水銀柱インチ]])」で圧力を測るのが慣例となっていた。 今日では、[[水銀中毒|水銀の毒性]]や、水銀柱の感度が[[温度]]と局地的な[[重力加速度]]の影響を受けること、他の計測器の方が扱いやすいことから、水銀圧力計はあまり使用されない。[[水銀に関する水俣条約]]により、水銀を用いた圧力計は原則として2020年までに製造・輸出入が禁じられる<ref>{{PDFLink|[https://www.env.go.jp/chemi/tmms/convention/treaty_outline.pdf 水銀に関する水俣条約の概要]}} [[環境省 (日本)|環境省]]、平成25年9月(2019年2月24日閲覧。)、p.14</ref>。 2つの水銀柱の液面の高さの差に、局地的な重力加速度と水銀の密度を掛けることで、実際の水銀柱の示度は、他の圧力の基本単位に換算することができる。水銀の密度が温度と重力加速度に依存するため、これらの2つのパラメータの特定の基準値が採用された。この結果、「水銀柱ミリメートル」は、重力加速度が正確に 9.80665&nbsp;m/s<sup>2</sup> のときに、高さ1ミリメートルの、密度が正確に 13595.1&nbsp;kg/m<sup>3</sup> の水銀柱により与えられる圧力と定義されていた。 ここで、13595.1&nbsp;kg/m<sup>3</sup> は温度 0 [[セルシウス度|℃]] のときの水銀の密度であり、9.80665&nbsp;m/s<sup>2</sup> は[[標準重力加速度]]である。この定義による水銀柱ミリメートルの値は、{{val|133.322387415|u=Pa}} ( {{val|13.5951|u=g/cm3}} × {{val|9.80665|u=m/s2}} × {{val|1|u=mm}} ) ということになり、イギリスの工業規格ではこの値を水銀柱ミリメートルの定義値としている<ref>{{cite book|title=BS 350: Part 1: 1974 - Conversion factors and tables|date=1974|publisher=[[British Standards Institution]]|page=49}}</ref>が、計測値が不安定なので、このような12桁もの数値は意味がない。実際、[[アメリカ国立標準技術研究所|NIST]]のSIガイドでも、トル及び水銀柱ミリメートルの換算値として、133.3224 Pa という有効数値7桁の数値を掲げており、これ以上の桁数は[[水銀]]の[[圧縮率]]や[[密度]]の安定性の点で無意味としている<ref>[https://www.nist.gov/pml/special-publication-811/nist-guide-si-footnotes NIST Guide to the SI, Footnotes] Special Publication 811、PHYSICAL MEASUREMENT LABORATORY、NIST、Footnotes 12. Conversion factors for mercury manometer pressure units are calculated using the standard value for the acceleration of gravity and the density of mercury at the stated temperature. Additional digits are not justified because the definitions of the units do not take into account the compressibility of mercury or the change in density caused by the revised practical temperature scale, ITS-90. Similar comments also apply to water manometer pressure units. Conversion factors for conventional mercury and water manometer pressure units are based on Ref. 4: ISO 80000-3.</ref>。 かつて、実際の水銀柱を使って圧力の計測を行う場合は、そのときの温度での水銀の密度、その場所の重力加速度、大気・水・その他の流体の密度を考慮に入れて値を修正する必要があった<ref>{{cite book|last1=Kaye|first1=G.W.C.|last2=Laby|first2=T.H.|title=Tables of Physical and Chemical Constants|date=1986|publisher=Longman|isbn=0582463548|pages=22-23|edition=XV}}</ref>。 == 使用 == === SI === [[圧力]]の[[国際単位系|SI]]単位は[[パスカル (単位)|パスカル]]である。水銀柱ミリメートルと[[トル]]は[[SI併用単位]]にもなっていない[[非SI単位]]である点で共通している。しかし、SI国際文書「国際単位系 (SI)」の旧版(2006年第8版)においては水銀柱ミリメートルの方が、次の3点でトルよりも、より認められていた単位であったということができる。 * 水銀柱ミリメートルは、SIについての[[国際度量衡局]] (BIPM) の旧版文書(2006年第8版)<ref>{{PDFlink|[http://www.bipm.org/utils/common/pdf/si_brochure_8_en.pdf The International System of Units (SI)]}}{{en icon}}</ref>では、「SIと併用される非SI単位,及び基礎定数をよりどころとする単位」のひとつとされ、表8<ref>[http://www.bipm.org/en/si/si_brochure/chapter4/table8.html BIPM - Table 8] - 翻訳は、{{PDFlink|[http://www.nmij.jp/library/units/si/R8/SI8J.pdf 「国際単位系(SI)」]}}のp.&nbsp;40</ref>に、[[海里]]や[[オングストローム]]と並んで記載されていた。これに対して、[[トル]]は同文書に掲げられていなかった。 * 水銀柱ミリメートルは、「圧力」全般の計量に使用できる。 * 水銀柱ミリメートルの数値は、約 133.322&nbsp;Pa とされていた。これに対して、[[トル]]の数値は掲げられていなかった。 [[トル]]は、SIでは、石油の[[バレル]]や[[インチ]]、[[ヤード]]と同様に「使うことが推奨されないその他の[[非SI単位]]」<ref>[http://www.bipm.org/en/si/si_brochure/chapter4/4-2.html BIPM - other units (contd)] - 翻訳は、「国際単位系(SI)」のp.&nbsp;41</ref>とされて、同文書に全く扱われておらず、したがって定義も数値も定められていなかった。 === 各国 === いくつかの国では、水銀柱ミリメートルを[[血圧]]の計量に使うことができる。ヨーロッパでは、1979年[[欧州経済共同体]] (EEC) の Council Directive 80/181/EEC により、mmHg は「血圧及び他の体液の圧力」に使用が限定された<ref name="sizecom">[http://www.sizes.com/units/mmHg.htm conventional millimeters of mercury]{{en icon}}</ref>。 === 日本における使い分け === 日本の[[計量法]]体系は、血圧の計量と生体内の圧力の計量に用いる計量単位を次のように使い分けている。 *「'''血圧'''」の計量には水銀柱ミリメートルのみを用いることができる<ref name=tanirei/>。その他の特殊の計量に用いる単位(水銀柱メートル、水銀柱センチメートル、水柱メートル、水柱センチメートル、水柱ミリメートル、トル、ミリトル、マイクロトル)を用いることはできない。もちろん、[[パスカル (単位)|パスカル]] (Pa) とその整数乗倍を用いることができることは言うまでもない。 *「'''生体内の圧力'''」の計量には、水銀柱メートル、水銀柱センチメートル、'''水銀柱ミリメートル'''、水柱メートル、水柱センチメートル、水柱ミリメートル、トル、ミリトル、マイクロトルを用いることができる<ref name=tanirei2>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357&openerCode=1#82 計量単位令]別表第六(第五条関係) 項番11 生体内の圧力の計量</ref>。もちろん、パスカル (Pa) とその整数乗倍を用いることができることは言うまでもない。 真空工学等の分野ではいまだにトルが使用されることがあるが、これは[[パスカル (単位)|パスカル]]へ置き換えることが推奨されている。 === 生体内圧力における恒久使用 === 「生体内の圧力」に水銀柱ミリメートル及び水柱メートル並びにこれらに十の整数乗を乗じたものを表す計量単位である水銀柱ミリメートル、水銀柱センチメートル、水柱ミリメートル及び水柱センチメートル(まとめて「6単位」という。)が使用できるのは、[[2013年]][[9月30日]]までの予定であったが、トル・パスカルへの移行が一向に進まず水銀柱メートル等が使用され続けていること、各国の法定計量機関においても生体内の圧力に係る単位についてもはや SI 化を志向していないこと、などにかんがみ、水銀柱ミリメートルの使用を期限の定めなく認めることになった<ref>{{PDFlink|[http://www.meti.go.jp/committee/keiryo_gyosei/kihon/pdf/25_01_02_00.pdf 計量単位令の一部を改正する政令案についてー生体内圧力単位(「水銀柱メートル」・「水柱メートル」)の使用期限の到来-]}}、計量行政審議会 基本部会(第1回)2013年8月1日開催‐配布資料、産業技術環境局 計量行政室、2013年8月</ref>。このため、計量単位令の別表第6の項番11「生体内の圧力の計量」に用いることのできる単位として、これまでのトル、ミリトル、マイクロトルに加えて<ref name=tanirei2/>、水銀柱ミリメートルなどの「6単位」を追加することになり、関係政令・省令が2013年9月26日に改正された<ref>{{PDFlink|[http://www.meti.go.jp/policy/policy_management/RIA/25fy-ria/keiryou.pdf 計量単位令の一部改正に係る事前評価書]}}、経済産業省 技術環境局 知的基盤課 計量行政室長 高野 芳久</ref><ref>[http://www.meti.go.jp/press/2013/09/20130920002/20130920002.html 「計量単位令の一部を改正する政令が閣議決定されました」]、経済産業省 産業技術環境局 計量行政室、2013年9月20日</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/7125/00120845/Jimu0926.pdf 生体内の圧力の計量単位に係る計量単位令の改正について(周知依頼)]}}、経済産業省 技術環境局 知的基盤課 計量行政室長 高野 芳久</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.ja-ces.or.jp/ce/wp-content/uploads/2013/10/1c179122f60297bb78878d8fe040a6a1.pdf 計量法上の水銀柱メートル及び水柱メートルに係る計量単位令の改正について]}}、厚生労働省医政局総務課長</ref>。これによって、'''血圧の計量'''には水銀柱ミリメートルのみが使用することができるのに対して、'''生体内圧力の計量'''には、従来のトル、ミリトル、マイクロトル以外にも上記の6単位、合わせて9単位が使用できることになった。 なお、「生体内の圧力」とは、例えば、[[頭蓋]]内圧力、[[眼圧]]、[[気道]]内圧、[[膀胱]]内圧力のことであり、'''「血圧」はここでいう「生体内の圧力」ではない'''ことに注意<ref>{{PDFlink|[http://ajhc.or.jp/info/pascul.pdf 生体内圧力の計量単位について(周知)]}} 2011年12月 経済産業省 計量行政室</ref>。 ==他の水銀柱単位== 以下の単位は、mmHgと同様に、歴史的には水銀柱の高さに基づく単位であったが、現在はパスカルから直接に定義されている<ref name=tanirei2/>。 * 水銀柱メートル (mHg) = {{sfrac|101 325|0.76}}&nbsp;[[パスカル (単位)|Pa]] * 水銀柱センチメートル (cmHg) = 水銀柱メートルの{{sfrac|1|100}} * [[水銀柱インチ]] (inHg) = 3386.39&nbsp;Pa(この単位は、[[ヤード・ポンド法]]の単位であり、いくつかの例外的な場合([[ヤード・ポンド法#日本における使用|「日本におけるヤード・ポンド法の使用」]])以外は使用できない。) ==関連項目== * [[トル]] * [[水柱メートル]] * [[パスカル (単位)]] * [[バール (単位)]] * [[気圧]] {{圧力の単位}} ==出典== {{reflist}} {{デフォルトソート:すいきんちゆうみりめとる}} [[Category:圧力の単位]] [[Category:メートル法]] [[Category:水銀]]
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MM, Mm, mm
'''MM''', '''Mm''', '''mm''' == 一般名詞 == * [[メールマガジン]] ({{en|mail magazine}}) * [[マーケットメイク]] ({{en|market make}}) - 金融商品の価格決定方式。 * [[モビリティ・マネジメント]] ({{en|mobility management}}) * [[修士 (経営学)|経営学修士]] ({{en|Master of Management}}) * [[音楽修士]] ({{interlang|en|Master of Music}}) * [[1000000]] ({{en|million}}) * [[2000]]の[[ローマ数字]]。特に[[2000年]]を表す。 * [[メルカリ震度階級|改正メルカリ]] ({{en|modified Mercalli}}) - アメリカ等の震度基準 * [[分子力学法]] ({{en|molecular mechanics}}) * [[多発性骨髄腫]] ({{en|multiple myeloma}}) * [[電動機|主電動機]] ({{en|main motor}}) * [[マジックマッシュルーム]] ({{en|magic mushroom}}) - 幻覚性のキノコ * [[動力車#MM'ユニット方式|MM'ユニット方式]] - 電車の制御方式 * [[短期金融市場]] ({{interlang|en|money market}}) * [[分子構造モデリング]] ({{interlang|en|molecular modelling}}) * [[中央無線位置標識]] ({{interlang|en|middle marker}}) - 計器着陸用ビーコン * [[妹妹]] ([[:zh:妹妹|{{en|mei mei}}]]) - [[中国]]のインターネットスラング。文字通り通常の「妹」か若い女の子を指す。 * {{de|Mälzels Metronom}} - 「拍毎分」を表す[[演奏記号]] * Middle marker - [[計器着陸装置]]のマーカービーコン == 固有名詞 == === 地名 === * [[メトロ・マニラ]]({{en|Metro Manila}}) - [[フィリピン]]の首都。 * [[ミャンマー]]({{en|Myanmar}})の[[ISO国別コード]]。 * [[横浜みなとみらい21]]({{en|Minato Mirai 21}}) - [[横浜市]]の再開発地域。 * [[ぴあアリーナMM]] - 横浜市にある音楽専用アリーナ。[[ぴあ|ぴあ株式会社]]が運営している。 === 商品・製品名 === * [[ミニッツメイド]]({{en|Minute Maid}}) - アメリカ・ミニッツメイド社の果実ジュース。 * [[M&M's]] - アメリカ・[[マース (企業)|マース社]]のチョコレートブランド。 * [[ミリタリーミニチュアシリーズ|ミリタリーミニチュア]]({{en|Millitary Miniature}}) - [[タミヤ]]のプラモデル。 * [[三菱ふそう・エアロスターMM|三菱ふそう MMシリーズ]] - [[三菱ふそうトラック・バス|三菱ふそう]]のバス車両。 * [[mmツリー]] - [[アンドリュー・モートン]]の[[Linux]]カーネルツリー。 * [[Music Maker]] - ドイツ・マジックス社の音楽作成ソフト。 * [[MediaMonkey]] - Ventis Media 社の音楽管理ソフト。 * {{interlang|en|Micro Mart}} - イギリスのコンピュータ週刊誌。 === 企業名 === * [[モト・モリーニ]]({{it|Moto Morini}}) - イタリアの[[オートバイ]]メーカー。 * [[マクロメディア]]({{en|Macromedia}}) * [[宮城テレビ放送]](JOMM-DTV) * [[SAMコロンビア]]({{interlang|en|SAM Colombia}}) - [[Peach Aviation]]の[[IATA航空会社コード]]。 === 人名・グループ名 === * [[マイケル・ムーア]]({{en|Michael Moore}}) * [[マリリン・モンロー]]({{en|Marilyn Monroe}}) * [[マリリン・マンソン]]({{en|Marilyn Manson}}) * [[モーニング娘。]]({{en|Morning Musume。}}) * [[MM (音楽ユニット)|MM]] - 読み:メイメイ。[[ジェンダーレス]]男性2人<!--ぎんしゃむ、ぷうたん-->からなる日本の[[音楽ユニット|アイドルユニット]]。<!--由来は[[中国語]]で「かわいい子」という意味。--> === ゲーム === * [[ゼルダの伝説 ムジュラの仮面]]({{en|Majora’s Mask}}) * [[ロックマン (ゲーム)|メガマン]]({{en|Mega Man}}) * [[マイト・アンド・マジック]]({{en|Might and Magic}}) * [[メイプルストーリー]]({{en|Mushmom}}) * [[メタルマックス]]({{en|Metal Max}}) * [[Midtown Madness]] * [[モンスターメーカー]]({{en|Monster Maker}}) * [[meet-me]](ミートミー) - 東京23区を3D再現した無料の仮想空間。 === キャラクター === * [[マイメロディ]]({{en|My Melody}}) - [[サンリオ]]のキャラクター。 * MMボーイズ - [[とっとこハム太郎]]のまいどくんとめがねくん。 * [[ミッキーマウス]]({{en|Mickey Mouse}}) - [[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]の[[シンボル]]的キャラクター。 === その他 === * [[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[横浜高速鉄道]][[みなとみらい線]] ('''M'''inato'''M'''irai) の[[路線記号]]として用いられる。 * [[マルチメディアカード]]({{en|Multimedia Card}}) - メモリカードの規格。 * [[マイケルソン・モーリーの実験]]({{en|Michelson-Morley experiment}}) * [[Monkey Magic]] - [[ゴダイゴ]]のシングル。 * [[無罪モラトリアム]] - [[椎名林檎]]のアルバム。 * [[マーチマッドネス]]({{en|March Madness}}) * {{interlang|en|Mad Money}} - アメリカのビジネステレビ番組(2005 – )。 * {{interlang|bg|ММ}} - ブルガリアの音楽専門チャンネル。 * [[MM 記憶師たちの夜明け]] - [[吉田親司]]の[[ライトノベル]]。 * [[えむえむっ!]] - [[松野秋鳴]]のライトノベル。 * モンスター・[[マグニチュード]](Monster Magnitude) - [[山本弘 (作家)|山本弘]]の[[SF小説]]『[[MM9]]』に登場する架空の指標値。 * MM思想 - [[本田技研工業]]が[[1980年代]]頃にアピールしていた、乗用車の居住空間を広く確保するための設計コンセプト。"Machine Minimum Man Maximum" の略。 * [[MM理論|MM]]定理 - 企業の資金調達構造に関するモジリアニ=ミラー定理(Modigliani-Miller Theorem)。 * MM - 日本の航空会社、[[Peach Aviation]]の[[IATA]]コード。 == Mm == * [[メガメートル]] ({{fr|megametré}}) *[[ミッシュメタル]] ({{en|mischmetall}}) ==mM== * ミリ[[モル毎リットル]] ({{en|millimole per litre}}) - 体積[[モル濃度]]の単位 == mm == * [[ミリメートル]] ({{fr|millimetré}}) - 1/1000[[メートル]]。 ** 自衛隊が弾薬の直径(口径)の大きさを表す単位として'''mm'''を使うが、自衛隊内における読み方は'''ミリ'''である。 <!-- * [[匁]] ({{en|momme}}) --> * [[.mm]] - [[ミャンマー]]の[[国別ドメイン]] * [[ミニメール]] ({{en|mini mail}}) - ある種の[[ゲーム]]の中で使われるEメール。 {{Aimai}}
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{{WikipediaPage|ウィキペディアの一覧(リスト)記事については「[[一覧の一覧]]」を、ウィキペディアにおける番号付き・なしリストについては「[[Help:箇条書き]]」をご覧下さい。}} ==一般名詞== {{wiktionarypar|list}} * ({{Lang-en|list}}) - [[目録]]、[[名簿]]、[[一覧]]表。 ** [[リスト (抽象データ型)]] - [[コンピュータ|コンピューター]]における[[データ型]]の1つ。 {{wiktionarypar|wrist}} * ({{Lang-en|wrist|links=no}}) - [[手首]]。 == 固有名詞 == === 人名 === ; Liszt<!-- [[Liszt]]のリダイレクト先を[[フランツ・リスト]]に設定しています。この綴の人名が追加された場合、[[Liszt]]のリダイレクト先をこちらに変更願います。 --> :* [[リスト・アーダーム]] (1776 - 1827) - ハンガリーのピアニスト、チェリスト、フランツの父 :* [[フランツ・リスト]] (1811 - 1886) - ハンガリーの作曲家、ピアニスト。 :* [[フランツ・フォン・リスト]] (1851 - 1919) - ドイツの刑法学者。フランツ・リストの従弟。<!-- [[フランツ・リスト]]に{{otehruses}}設置済み --> :<!----> ; List :* [[ヴィルヘルム・リスト]] (1880 - 1971) - ドイツの軍人。 :* [[ヴィルヘルム・リスト (画家)]] (1864 - 1918) - オーストリアの画家、イラストレーター。 :* {{仮リンク|エリオット・リスト|en|Elliott List}} (1997 - ) - イングランドのサッカー選手 ([[フォワード (サッカー)|FW]]) :* [[グイド・フォン・リスト]] (1848 - 1919) - オーストリアの[[オカルティスト]]、作家。 :* {{仮リンク|スペンサー・リスト|en|Spencer List}} (1998 - ) - アメリカの俳優、ペイトンの双子の弟。 :* [[ハーバート・リスト]] (1903 - 1975) - ドイツの写真家。 :* [[フリードリッヒ・リスト]] (1789 - 1846) - ドイツの経済学者。 :* [[ペイトン・リスト (1998年生の女優)|ペイトン・リスト]] (1998 - ) - アメリカの女優、スペンサーの双子の姉。 :* [[ベンジャミン・リスト]] (1968 - ) - ドイツの化学者、[[ノーベル化学賞]]。 :* [[ユージン・リスト]] (1918 - 1985) - アメリカのピアニスト。 :<!----> ; Rist :* [[ピピロッティ・リスト]] (1962 - ) - スイス出身の芸術家。 :<!----> ; Risto :* [[リスト・ヴィルタネン]] (1975 - ) - フィンランドのレーシングドライバー :* [[リスト・ヤンコフ]] (1998 - ) - [[北マケドニア]]のサッカー選手 ([[ゴールキーパー (サッカー)|GK]]) :* [[リスト・ユシライネン]] (1975 - ) - フィンランドのスキージャンプ選手 :* [[リスト・ラーコネン]] (1967 - ) - フィンランドのスキージャンプ選手 :* [[リスト・リュティ]] (1889 - 1956) - フィンランドの政治家。 === 地名 === ; List :* [[リスト (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州)]] - ドイツの[[基礎自治体]]。ドイツ最北端に位置する。 === その他 === * [[リスト (不動産)]] - 神奈川県の不動産会社 - [[上大岡駅]]前の商業施設運営も行う。 == 関連項目 == * [[リスター]] (Lister) * [[:en:Liston]] * {{Prefixindex}} * {{Intitle}} {{Aimai}} {{デフォルトソート:りすと}} [[カテゴリ:英語の語句]] [[カテゴリ:ドイツ語の姓]] [[Category:フィンランド語の男性名]] [[Category:エストニア語の人名]] [[Category:セルビア語の男性名]] [[Category:マケドニア語の人名]]
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ハッシュ
ハッシュ ほかタイトルへの使用多数
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ハッシュ", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ほかタイトルへの使用多数", "title": "hush" } ]
ハッシュ
'''ハッシュ''' == hash == {{wikt|en:hash}} *[[英語]]で「細かく切る」、「切り刻む」の意。 *ハッシュ、ハッシュ値 - データから算出した小さな値。各データを区別・表現する目的に用いる。 ** [[ハッシュ関数]] - データからハッシュ値を算出する関数、そのコンピュータ技術。 ***[[ハッシュテーブル]]([[連想配列]]の実装方法の1つ) ***[[ハッシュセット]]([[集合 (プログラミング)|集合]]の実装方法の1つ) ***[[暗号学的ハッシュ関数]] ***{{interlang|en|hash (Unix)}} - Unixコマンド *[[番号記号|「#」記号]] **[[ハッシュタグ]] *[[大麻]]を表す隠語 *{{仮リンク|ハッシュ (料理)|en|Hash (food)}} - 牛肉などを細切れにして炒めた料理。[[ハッシュドビーフ]]など。 *{{仮リンク|ハッシュハウスハリアーズ|en|Hash House Harriers}} - 国際的なランニング([[走る]])愛好会 == hush == {{wikt|hush}} *[[英語]]で「静かになる」、「静かにさせる」。 *[[ハッシュ (アルバム)]] - [[ディープ・パープル]]の1968年のアルバムおよびその収録曲 *[[HUSH (倖田來未の曲)]] - [[倖田來未]]のシングル。 *{{仮リンク|沈黙のジェラシー|en|Hush (1998 film)|preserve=1}} - 1998年のアメリカ映画 *[[ハッシュ!]] - 2001年の日本映画 *{{仮リンク|ハッシュ (漫画)|en|Hush (comics)}} - [[DCコミックス]]の漫画の登場人物 *{{仮リンク|ハッシュ (ラッパー)|en|Hush (rapper)}} - アメリカ[[ミシガン州]]出身のHIPHOPラッパー ほかタイトルへの使用多数 == 関連項目 == * {{prefix}} {{aimai}} {{デフォルトソート:はつしゆ}} [[Category:同名の作品]]
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深さ優先探索
深さ優先探索(ふかさゆうせんたんさく、英: depth-first search, DFS、バックトラック法ともいう)は、木やグラフを探索するためのアルゴリズムである。アルゴリズムは根から(グラフの場合はどのノードを根にするか決定する)始まり、バックトラックするまで可能な限り探索を行う。「縦型探索」とも呼ばれる。 形式的には、深さ優先探索は、探索対象となる木の最初のノードから、目的のノードが見つかるか子のないノードに行き着くまで、深く伸びていく探索である。その後はバックトラックして、最も近くの探索の終わっていないノードまで戻る。非再帰的な実装では、新しく見つかったノードはスタックに貯める。 深さ優先探索の空間計算量は幅優先探索の空間計算量より最悪のケースでは同じだが一般的なケースではずっと小さい。また、探索の種類によっては、分岐を選択するためのヒューリスティックな方法にも向いている。両者の時間計算量は、最悪のケースではノード数とたどる辺の数の合計に比例する。 以下は、2頂点間の経路を探す例。なお、これを幅優先探索でやると、辺の重みなしの最短経路問題になる。
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深さ優先探索は、木やグラフを探索するためのアルゴリズムである。アルゴリズムは根から(グラフの場合はどのノードを根にするか決定する)始まり、バックトラックするまで可能な限り探索を行う。「縦型探索」とも呼ばれる。
{{pathnav|探索|frame=1}} {| class="infobox" style="margin-left: 0.5em; border:1px #aaa solid; border-collapse: collapse;" ! style="background-color: #ffc0c0; border:1px #aaa solid;" | 深さ優先探索 |- | style="margin: 0 auto; text-align: center; font-size: smaller;"| [[ファイル:Depth-first-tree.png|none|300px|Order in which the nodes get expanded]]<br />探索順 |- ! style="background-color: #ffc0c0; border:1px #aaa solid;" | '''一般的な情報''' |- | {| style="border: 0;" |- | ''分類'': || [[探索|探索アルゴリズム]] |- | ''データ構造'': || [[グラフ (データ構造)|グラフ]] |- | ''時間計算量'': || <math>O(|E|)</math> |- | ''空間計算量'': || <math>O(|V|)</math> |- | ''最適'': || いいえ |- | ''完全'': || いいえ |- |} |- |} [[ファイル:Depthfirst.png|thumb|right|200px|深さ優先探索のイメージ]] '''深さ優先探索'''(ふかさゆうせんたんさく、{{lang-en-short|depth-first search, DFS}}、バックトラック法ともいう)は、[[木構造 (データ構造)|木]]や[[グラフ (データ構造)|グラフ]]を探索するための[[アルゴリズム]]である。アルゴリズムは根から(グラフの場合はどのノードを根にするか決定する)始まり、[[バックトラッキング|バックトラック]]するまで可能な限り探索を行う。「'''縦型探索'''」とも呼ばれる。 == 概要 == 形式的には、深さ優先探索は、探索対象となる木の最初のノードから、目的のノードが見つかるか子のないノードに行き着くまで、深く伸びていく探索である。その後はバックトラックして、最も近くの探索の終わっていないノードまで戻る。非再帰的な実装では、新しく見つかったノードは[[スタック]]に貯める。 深さ優先探索の空間計算量は[[幅優先探索]]の[[計算複雑性理論|空間計算量]]より最悪のケースでは同じだが一般的なケースではずっと小さい。また、探索の種類によっては、分岐を選択するための[[ヒューリスティック]]な方法にも向いている。両者の[[計算複雑性理論|時間計算量]]は、最悪のケースではノード数とたどる辺の数の合計に比例する。 == 擬似コード == === 再帰あり === '''function''' 深さ優先探索(v) v に訪問済みの印を付ける v を処理する '''for each''' v に接続している頂点 i '''do''' '''if''' i が未訪問 '''then''' 深さ優先探索(i) === 再帰なし === '''function''' 深さ優先探索(v) S ← 空のスタック v に訪問済みの印を付ける v を S に積む '''while''' S が空ではない '''do''' v ← S から取り出す v を処理する '''for each''' v に接続している頂点 i '''do''' '''if''' i が未訪問 '''then''' i に訪問済みの印を付ける i を S に積む == Pythonでの実装(再帰なし) == 以下は、2頂点間の経路を探す例。なお、これを[[幅優先探索]]でやると、辺の重みなしの[[最短経路問題]]になる。 <syntaxhighlight lang="python"> def depthFirstSearch( start, goal ): stack = Stack() start.setVisited() stack.push( start ) while not stack.empty(): node = stack.top() if node == goal: return stack # stack には2頂点間の経路が入っている else: child = node.findUnvisitedChild() if child == none: stack.pop() else: child.setVisited() stack.push( child ) </syntaxhighlight> == 反復深化深さ優先探索 == {{main|反復深化深さ優先探索}} == 関連項目 == * [[深さ制限探索]] * [[幅優先探索]] == 外部リンク == * {{高校数学の美しい物語|1247|深さ優先探索と幅優先探索}} * [http://www.cs.duke.edu/csed/jawaa/DFSanim.html Depth-First Search Animation (for a directed graph)] * [http://dima.jd-software.org/dfs/DFS.html Another Depth-First Search Animation (for a directed graph - recursive)] {{アルゴリズム}} {{DEFAULTSORT:ふかさゆうせんたんさく}} [[Category:検索アルゴリズム]] [[Category:組合せ最適化]]
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幅優先探索
幅優先探索(はばゆうせんたんさく、英: breadth first search)はグラフ理論(Graph theory)において木構造(tree structure)やグラフ(graph)の探索に用いられるアルゴリズム。アルゴリズムは根ノードで始まり隣接した全てのノードを探索する。それからこれらの最も近いノードのそれぞれに対して同様のことを繰り返して探索対象ノードをみつける。「横型探索」とも言われる。 幅優先探索は解を探すために、グラフの全てのノードを網羅的に展開・検査する。最良優先探索とは異なり、ノード探索にヒューリスティクスを使わずに、グラフ全体を目的のノードがみつかるまで、目的のノードに接近しているかどうかなどは考慮せず探索する。 ノードの展開により得られる子ノードはキューに追加される。訪問済みの管理は配列やセットなどでも行える。 v は頂点。 最悪の場合、幅優先探索は全ての経路を考慮に入れる必要があるので、幅優先探索の時間計算量はO(|E|)である。ここで|E|はグラフ内の辺の数である。 見つかったノードを全て記録する必要があるので、幅優先探索の空間計算量はO(|V|)となる。ここで|V|はグラフ内のノードの数である。または、 O ( B M ) {\displaystyle O(B^{M})} ということができる。Bは枝分かれの最大数で、Mは木の最長経路の長さ。指数関数故に、幅優先探索は大量の情報から探索する事に向かない根拠になる。 幅優先探索は完全である。つまり解が存在する場合はグラフの構造によらず、解をみつけることができる。しかしグラフが無限で探索対象の解が存在しない場合、幅優先探索は終了しない。 一般に幅優先探索は最適で、常に開始ノードと終了ノードの長さが最も少ない辺を返す。もしグラフが重みつきならば、最初のノードの隣のノードが最良のゴールとは限らないが、この問題は辺のコストを考慮に入れた均一コスト探索(Uniform cost search)で解決できる。 幅優先探索はグラフ理論における多くの問題を解くために使うことができる。以下は一例である。 参照透過な関数型言語の場合は余再帰と遅延評価を使うと簡潔に書ける。下記は Scala の場合で、Scalaz の unfold が余再帰で、Stream が遅延リスト。
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幅優先探索はグラフ理論(Graph theory)において木構造(tree structure)やグラフ(graph)の探索に用いられるアルゴリズム。アルゴリズムは根ノードで始まり隣接した全てのノードを探索する。それからこれらの最も近いノードのそれぞれに対して同様のことを繰り返して探索対象ノードをみつける。「横型探索」とも言われる。 幅優先探索は解を探すために、グラフの全てのノードを網羅的に展開・検査する。最良優先探索とは異なり、ノード探索にヒューリスティクスを使わずに、グラフ全体を目的のノードがみつかるまで、目的のノードに接近しているかどうかなどは考慮せず探索する。
{{出典の明記|date=2015年10月9日 (金) 06:19 (UTC)}} {{pathnav|探索|frame=1}} {| class="infobox" style="margin-left: 0.5em; border:1px #aaa solid; border-collapse: collapse;" ! style="background-color: #ffc0c0; border:1px #aaa solid;" | 幅優先探索 |- | style="margin: 0 auto; text-align: center; font-size: smaller;"| [[ファイル:Breadth-first-tree.svg|none|300px|Order in which the nodes get expanded]]<br />探索順 |- ! style="background-color: #ffc0c0; border:1px #aaa solid;" | '''一般的な情報''' |- | {| style="border: 0;" |- | ''分類'': || [[探索|探索アルゴリズム]] |- | ''データ構造'': || [[グラフ (データ構造)|グラフ]] |- | ''時間計算量'': || <math>O(|E|)</math> |- | ''空間計算量'': || <math>O(|V|)</math> |- | ''最適'': || はい |- | ''完全'': || はい |- |} |- |} [[ファイル:MapGermanyGraph.svg|thumb|250px|ドイツの都市間の接続を示した例]] [[ファイル:GermanyBFS.svg|thumb|250px|フランクフルトから幅優先検索を行った場合にできる木構造]] '''幅優先探索'''(はばゆうせんたんさく、{{lang-en-short|breadth first search}})は[[グラフ理論]]([[:en:graph theory|Graph theory]])において[[木構造 (データ構造)|木構造]]([[:en:tree structure|tree structure]])や[[グラフ (データ構造)|グラフ]]([[:en:graph (data structure)|graph]])の[[探索的研究|探索]]に用いられる[[アルゴリズム]]。アルゴリズムは根ノードで始まり隣接した全てのノードを探索する。それからこれらの最も近いノードのそれぞれに対して同様のことを繰り返して探索対象ノードをみつける。「'''横型探索'''」とも言われる。 幅優先探索は解を探すために、グラフの全てのノードを網羅的に展開・検査する。[[最良優先探索]]とは異なり、ノード探索に[[ヒューリスティクス]]を使わずに、グラフ全体を目的のノードがみつかるまで、目的のノードに接近しているかどうかなどは考慮せず探索する。 == アルゴリズム == # 根ノードを空のキューに加える。 # ノードをキューの先頭から取り出し、以下の処理を行う。 #* ノードが探索対象であれば、探索をやめ結果を返す。 #* そうでない場合、ノードの子で未探索のものを全てキューに追加する。 # もしキューが空ならば、グラフ内の全てのノードに対して処理が行われたので、探索をやめ"not found"と結果を返す。 # 2に戻る。 ノードの展開により得られる子ノードは[[キュー (コンピュータ)|キュー]]に追加される。訪問済みの管理は[[配列]]や[[セット (抽象データ型)|セット]]などでも行える。 == 擬似コード == v は頂点。 '''function''' 幅優先探索(v) Q ← 空のキュー v に訪問済みの印を付ける v を Q に追加 '''while''' Q が空ではない '''do''' v ← Q から取り出す v を処理する '''for each''' v に接続している頂点 i '''do''' '''if''' i が未訪問 '''then''' i に訪問済みの印を付ける i を Q に追加 == アルゴリズムの特徴 == === 時間計算量 === 最悪の場合、幅優先探索は全ての経路を考慮に入れる必要があるので、幅優先探索の時間計算量はO(|E|)である。ここで|E|はグラフ内の辺の数である。 === 空間計算量 === 見つかったノードを全て記録する必要があるので、幅優先探索の空間計算量はO(|V|)となる。ここで|V|はグラフ内のノードの数である。または、<math>O(B ^ M)</math>ということができる。Bは枝分かれの最大数で、Mは木の最長経路の長さ。指数関数故に、幅優先探索は大量の情報から探索する事に向かない根拠になる。 === 完全性 === 幅優先探索は完全である。つまり解が存在する場合はグラフの構造によらず、解をみつけることができる。しかしグラフが無限で探索対象の解が存在しない場合、幅優先探索は終了しない。 === 最適性 === 一般に幅優先探索は最適で、常に開始ノードと終了ノードの長さが最も少ない辺を返す。もしグラフが重みつきならば、最初のノードの隣のノードが最良のゴールとは限らないが、この問題は辺のコストを考慮に入れた[[均一コスト探索]]([[:en:uniform-cost search|Uniform cost search]])で解決できる。 == 幅優先探索の応用 == 幅優先探索はグラフ理論における多くの問題を解くために使うことができる。以下は一例である。 * グラフ内の全ての連結成分をみつける。幅優先探索で到達するノードの集合は初期ノードを含む最大の連結成分である。 * 1つの連結成分内の全てのノードをみつける。 * 辺の重みなしグラフの最小[[全域木]]を求める。 * 辺の重みなしグラフの単一始点[[最短経路問題]]を解く。 * グラフが[[2部グラフ]]([[:en:Bipartite|Bipartite graph]])かどうかテストする。もし幅優先探索の同じ段階のノード集合に存在するノードに合流する辺があるならば、グラフには奇数長の閉路が存在し2部グラフではない。 == 参照透過な関数型言語の場合 == [[参照透過性|参照透過]]な[[関数型言語]]の場合は余再帰と[[遅延評価]]を使うと簡潔に書ける。下記は [[Scala]] の場合で、Scalaz の unfold が余再帰で、Stream が遅延リスト。 <syntaxhighlight lang="scala"> import scala.collection.immutable.Queue import scalaz.Scalaz.unfold case class Tree[T](value: T, children: Seq[Tree[T]]) def breadthFirstSearch[T](root: Tree[T]): Stream[T] = unfold(Queue(root))(_.dequeueOption.map { case (tree, queue) => (tree.value, queue ++ tree.children) }) </syntaxhighlight> == Pythonによる幅優先探索アルゴリズムの実装 == <syntaxhighlight lang="python"> import networkx as nx import collections def bfs(G): V = [ v for v in G.nodes() ] Q = collections.deque([V[0]]) searched = { v: False for v in G.nodes() } searched[V[0]] = True T = [] while len(Q) != 0: v = Q.popleft() edges = [ (v, i ) for (v, i) in G.edges(v) if not searched[i] ] for edge in edges: v, i = edge Q.append(i) T += [ (v, i) ] searched[i] = True return T </syntaxhighlight> === Grid 描画 === <syntaxhighlight lang="python"> G = nx.grid_2d_graph(4,3) p = { v: v for v in G.nodes() } nx.draw_networkx(G, pos=p, node_color='lightgray', node_size=1300, with_labels=True) plt.axis('off') plt.show() </syntaxhighlight> === 幅優先による探索結果描画 === <syntaxhighlight lang="python"> p = { v: v for v in G.nodes() } V = [ v for v in G.nodes() ] bfst = bfs(G) DG = nx.DiGraph() DG.add_edges_from(bfst) nx.draw_networkx(DG, edgelist=bfst, pos=p, node_color='lightgray', node_size=1500, with_labels=True) plt.axis('off') plt.show() </syntaxhighlight> == 関連項目 == * [[深さ優先探索]] == 外部リンク == * {{高校数学の美しい物語|1247|深さ優先探索と幅優先探索}} * [http://www.boost.org/libs/graph/doc/breadth_first_search.html C++ Boost Graph Library: Breadth-First Search] * [http://www.kirupa.com/developer/actionscript/depth_breadth_search.htm Depth First and Breadth First Search: Explanation and Code] {{アルゴリズム}} {{DEFAULTSORT:ははゆうせんたんさく}} [[Category:検索アルゴリズム]] [[Category:アルゴリズム]] [[Category:組合せ最適化]] [[Category:数学に関する記事]]
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根本分裂
根本分裂(こんぽんぶんれつ)とは、仏教教団において、釈迦の死後100年頃、第二回結集の後、それまで1つであった弟子たちの集団が、大衆部と上座部の2つの教団に分裂した出来事のことである。これが起きた時代は、『婆沙論』によればアショーカ王の時代とされ、マハーワンサによればカーラーショーカ王の時代とされている。 分裂の原因については南・北両伝で大きな相違がある。今となってはどちらの説が正しく事件の様相を伝えているのかは明確ではないが、南伝北伝ともに「上座部」に属するグループが伝えた説であることを知っておくべきであろう。 南伝の『島史』(ディーパワンサ、dīpavaṃsa)、『大史』(マハーワンサ、mahāvaṃsa)によると、ヴァイシャリーのヴァッジ族の比丘が唱えた十事の問題が分裂の原因である。十事とは、従来の戒律(教団の規則)を緩和した十の除外例であり、この中に「金銀を扱ってもよい」という条項が入っていた。ところが、実際に托鉢などに出ると食事だけでなく金銭を布施されることがあり、この布施を認めるかどうかが大きな問題となった。これを認める現実派は、多人数であったので「大衆部」と呼ばれ、この除外例を認めない厳格なグループは少人数で長老上座が多かったので「上座部」と名づけられた。上座部ではこの十事を非法と定めたことから、これを十事非法(じゅうじのひほう)という。 ただし有部の記録によれば、問題になったが収まったとされ、分裂の原因とはされていない。スリランカの大寺派の記録によると、分裂の原因だったとされている。 北伝の『異部宗輪論』では、大天(だいてん)の唱えた五事の問題が原因であったという。五事とは、修行者の達する究極の境地である阿羅漢(アルハット、arhat)の内容を低くみなす5つの見解のことである。この五事を認めたのが「大衆部」となり、反対したのが「上座部」となった。これをいわゆる大天五事(だいてんのごじ)という。 仏教学者の中村元は、根本分裂の原因としては、南方所伝の十事問題説が正しく、北方所伝の五事新説は、のちの大衆部から分裂した制多山部の祖である同名の「大天」の言行が拡大投影されたものではないかと述べている。また十事によって、すぐに分裂が起こったのではなく、しだいに上座部と大衆部が対立するようになり分裂したとも述べている。 その後、100年頃には、北伝所説では20の部派が成立する。これを枝末分裂(しまつぶんれつ)という。 これが起きた年代も、大寺派の主張と、有部の主張では異なっており、大寺派の主張であるマハーワンサに従えば、アショーカ王が統治した時代には既に枝末分裂が終わっていた事になる。一方で有部の主張(婆沙論)によれば、アショーカ王時代に、やっと根本分裂が起こった事になる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "根本分裂(こんぽんぶんれつ)とは、仏教教団において、釈迦の死後100年頃、第二回結集の後、それまで1つであった弟子たちの集団が、大衆部と上座部の2つの教団に分裂した出来事のことである。これが起きた時代は、『婆沙論』によればアショーカ王の時代とされ、マハーワンサによればカーラーショーカ王の時代とされている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "分裂の原因については南・北両伝で大きな相違がある。今となってはどちらの説が正しく事件の様相を伝えているのかは明確ではないが、南伝北伝ともに「上座部」に属するグループが伝えた説であることを知っておくべきであろう。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "南伝の『島史』(ディーパワンサ、dīpavaṃsa)、『大史』(マハーワンサ、mahāvaṃsa)によると、ヴァイシャリーのヴァッジ族の比丘が唱えた十事の問題が分裂の原因である。十事とは、従来の戒律(教団の規則)を緩和した十の除外例であり、この中に「金銀を扱ってもよい」という条項が入っていた。ところが、実際に托鉢などに出ると食事だけでなく金銭を布施されることがあり、この布施を認めるかどうかが大きな問題となった。これを認める現実派は、多人数であったので「大衆部」と呼ばれ、この除外例を認めない厳格なグループは少人数で長老上座が多かったので「上座部」と名づけられた。上座部ではこの十事を非法と定めたことから、これを十事非法(じゅうじのひほう)という。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ただし有部の記録によれば、問題になったが収まったとされ、分裂の原因とはされていない。スリランカの大寺派の記録によると、分裂の原因だったとされている。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "北伝の『異部宗輪論』では、大天(だいてん)の唱えた五事の問題が原因であったという。五事とは、修行者の達する究極の境地である阿羅漢(アルハット、arhat)の内容を低くみなす5つの見解のことである。この五事を認めたのが「大衆部」となり、反対したのが「上座部」となった。これをいわゆる大天五事(だいてんのごじ)という。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "仏教学者の中村元は、根本分裂の原因としては、南方所伝の十事問題説が正しく、北方所伝の五事新説は、のちの大衆部から分裂した制多山部の祖である同名の「大天」の言行が拡大投影されたものではないかと述べている。また十事によって、すぐに分裂が起こったのではなく、しだいに上座部と大衆部が対立するようになり分裂したとも述べている。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "その後、100年頃には、北伝所説では20の部派が成立する。これを枝末分裂(しまつぶんれつ)という。", "title": "枝末分裂" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "これが起きた年代も、大寺派の主張と、有部の主張では異なっており、大寺派の主張であるマハーワンサに従えば、アショーカ王が統治した時代には既に枝末分裂が終わっていた事になる。一方で有部の主張(婆沙論)によれば、アショーカ王時代に、やっと根本分裂が起こった事になる。", "title": "枝末分裂" } ]
根本分裂(こんぽんぶんれつ)とは、仏教教団において、釈迦の死後100年頃、第二回結集の後、それまで1つであった弟子たちの集団が、大衆部と上座部の2つの教団に分裂した出来事のことである。これが起きた時代は、『婆沙論』によればアショーカ王の時代とされ、マハーワンサによればカーラーショーカ王の時代とされている。
{{脚注の不足|date=2018年2月24日 (土) 08:27 (UTC)}} {{出典の明記|date=2023年7月7日}} {{Wiktionary}} {{初期仏教・部派仏教}} '''根本分裂'''(こんぽんぶんれつ)とは、[[仏教]]教団において、[[釈迦]]の死後100年頃、第二回[[結集]]の後、それまで1つであった弟子たちの集団が、[[大衆部]]と[[上座部]]の2つの教団に分裂した出来事のことである。これが起きた時代は、『[[阿毘達磨大毘婆沙論|婆沙論]]』によれば[[アショーカ王]]の時代とされ、[[マハーワンサ]]によればカーラーショーカ王の時代とされている。 == 原因 == 分裂の原因については南・北両伝で大きな相違がある。今となってはどちらの説が正しく事件の様相を伝えているのかは明確ではないが、南伝北伝ともに「上座部」に属するグループが伝えた説であることを知っておくべきであろう。 === 南伝 === 南伝の『島史』([[ディーパワンサ]]、{{lang|pi|dīpavaṃsa}})、『大史』([[マハーワンサ]]、{{lang|pi|mahāvaṃsa}})によると、[[ヴァイシャリー]]の[[ヴァッジ族]]の比丘が唱えた十事の問題が分裂の原因である<ref> [[マハーワンサ]]4章 The Second Council [http://lakdiva.org/mahavamsa/chap004.html]</ref>。十事とは、従来の[[戒律]](教団の規則)を緩和した十の除外例であり、この中に「金銀を扱ってもよい」という条項が入っていた。ところが、実際に[[托鉢]]などに出ると食事だけでなく金銭を[[布施]]されることがあり、この布施を認めるかどうかが大きな問題となった。これを認める現実派は、多人数であったので「大衆部」と呼ばれ、この除外例を認めない厳格なグループは少人数で長老上座が多かったので「上座部」と名づけられた。上座部ではこの十事を非法と定めたことから、これを[[十事非法]](じゅうじのひほう)という。 {{要出典範囲|ただし有部の記録によれば、問題になったが収まったとされ、分裂の原因とはされていない。スリランカの大寺派{{efn2|[[マハーヴィハーラ]]参照({{lang-pi-short|Mahāvihāravāsin}}[[パーリ語]])}}の記録によると、分裂の原因だったとされている。|date=2023年7月}} === 北伝 === 北伝の『異部宗輪論』では、[[大天]](だいてん)の唱えた五事の問題が原因であったという。五事とは、修行者の達する究極の境地である[[阿羅漢]](アルハット、arhat)の内容を低くみなす5つの見解のことである。この五事を認めたのが「大衆部」となり、反対したのが「上座部」となった。これをいわゆる[[大天#五事|大天五事]](だいてんのごじ)という。 === 学説 === 仏教学者の[[中村元 (哲学者)|中村元]]は、根本分裂の原因としては、南方所伝の十事問題説が正しく、北方所伝の五事新説は、のちの大衆部から分裂した制多山部の祖である同名の「大天」の言行が拡大投影されたものではないかと述べている{{要出典|date=2023年7月}}。また十事によって、すぐに分裂が起こったのではなく、しだいに上座部と大衆部が対立するようになり分裂したとも述べている{{要出典|date=2023年7月}}。 == 枝末分裂 == その後、100年頃には、北伝所説では20{{efn2|21部派とも、なお南伝所説では18部派とする}}の部派が成立する。これを'''枝末分裂'''(しまつぶんれつ)という。 これが起きた年代も、[[上座部仏教|大寺派]]の主張と、有部の主張では異なっており、大寺派の主張であるマハーワンサに従えば、アショーカ王が統治した時代には既に枝末分裂が終わっていた事になる。一方で有部の主張(婆沙論)によれば、アショーカ王時代に、やっと根本分裂が起こった事になる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * [[:zh:%E5%8D%B0%E9%A0%86|印順]] * [http://www.mahabodhi.org/files/yinshun/35/yinshun35-00.html 印度之佛教] * [http://www.mahabodhi.org/files/yinshun/35/yinshun35-07.html 第六章 學派之分裂] {{Buddhism-stub}} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:こんほんふんれつ}} [[Category:部派仏教]] [[Category:仏教の歴史]] [[Category:アショーカ王]]
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Bootstrap Protocol
Bootstrap Protocol(ブートストラップ プロトコル、BOOTP)は、コンピュータネットワークに接続されたクライアントが、IPアドレスやホスト名、サブネットマスク等を自動的に取得するためのプロトコルである。元々は RFC 951 で定義された。主に、オペレーティングシステムがブート(起動)する際に用いられる。 ネットワークに接続されているコンピュータの電源を入れてオペレーティングシステムを起動すると、システムソフトウェアはBOOTPメッセージをネットワークにブロードキャストで送信し、IPアドレスの割り当てを要求する。BOOTP設定サーバは、要求に基づいて、管理者によって設定されたアドレスプールからIPアドレスを割り当てる。 BOOTPは転送プロトコルとしてUDPを使用する。サーバがクライアントの要求を受信するためにポート番号67を、クライアントがサーバからの応答を受信するためにポート番号68が使用される。なお、これらのポート番号はDHCPと同じである。BOOTPはIPv4でのみ動作する。 歴史的に、BOOTPはIPアドレスの割り当てのほか、UNIX系のディスクレスノード(英語版)でブートイメージ(英語版)のネットワーク上での場所を取得するのにも使用された。企業では、これを使用して、事前に設定されたクライアントのブートイメージを新しく導入したPCにロールアウトした。 ネットワークカードの製造元は、当初は初期のネットワーク接続を確立するためにブート用のフロッピーディスクを用意する必要があったが、後にインターフェイスカードのBIOSやオンボードネットワークアダプタを備えたシステムボードにプロトコルを組み込み、直接ネットワークブートを行うことが可能となった。 BOOTPにリースの機能を追加したDynamic Host Configuration Protocol(DHCP)によりBOOTPは置き換えられているが、BOOTPの一部はDHCPプロトコルにサービスを提供するために使用される。DHCPサーバは、従来のBOOTP機能も提供する。 BOOTPは、1985年9月に公開された RFC 951 で最初に定義された。これは、1984年6月に RFC 903 で公開されたReverse address resolution protocol(逆アドレス解決プロトコル、RARP)を置き換えるものだった。RARPをBOOTPに置き換えることになったのは、RARPがリンク層プロトコルだったからである。このため、多くのサーバープラットフォームでの実装が困難となり、かつ、サーバを個々のサブネットに配置する必要があったためである。 BOOTPは、標準IPルーティングを使用してローカルネットワークからBOOTPパケットを転送するリレーエージェントの技術を導入し、これによって1つのBOOTPサーバで多数のサブネット上のホストにサービスを提供できるようになった。 BOOTPサーバ側では、MACアドレスとIPアドレス・ホスト名の対応表を事前に用意する。ネットワークに接続された機器は自らのMACアドレスをブロードキャストし、これを受け取ったBOOTPサーバが、対応表に従ってIPアドレスを配布する。DHCPのような動的なIPアドレスの配布は行えない。 BOOTPリクエストの問題は、リクエストがブロードキャストで送信されることある。ブロードキャストのIPデータグラムはルータによって破棄されるため、ルータを通過することができない(異なるサブネットへ送信できない)。この問題を解決するために、リレーエージェントが導入された。ホストまたはルータは、リレーエージェントとして動作するようにアプリケーション層で設定できる。以下に、リレーエージェントの動作を示す。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Bootstrap Protocol(ブートストラップ プロトコル、BOOTP)は、コンピュータネットワークに接続されたクライアントが、IPアドレスやホスト名、サブネットマスク等を自動的に取得するためのプロトコルである。元々は RFC 951 で定義された。主に、オペレーティングシステムがブート(起動)する際に用いられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ネットワークに接続されているコンピュータの電源を入れてオペレーティングシステムを起動すると、システムソフトウェアはBOOTPメッセージをネットワークにブロードキャストで送信し、IPアドレスの割り当てを要求する。BOOTP設定サーバは、要求に基づいて、管理者によって設定されたアドレスプールからIPアドレスを割り当てる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "BOOTPは転送プロトコルとしてUDPを使用する。サーバがクライアントの要求を受信するためにポート番号67を、クライアントがサーバからの応答を受信するためにポート番号68が使用される。なお、これらのポート番号はDHCPと同じである。BOOTPはIPv4でのみ動作する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "歴史的に、BOOTPはIPアドレスの割り当てのほか、UNIX系のディスクレスノード(英語版)でブートイメージ(英語版)のネットワーク上での場所を取得するのにも使用された。企業では、これを使用して、事前に設定されたクライアントのブートイメージを新しく導入したPCにロールアウトした。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ネットワークカードの製造元は、当初は初期のネットワーク接続を確立するためにブート用のフロッピーディスクを用意する必要があったが、後にインターフェイスカードのBIOSやオンボードネットワークアダプタを備えたシステムボードにプロトコルを組み込み、直接ネットワークブートを行うことが可能となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "BOOTPにリースの機能を追加したDynamic Host Configuration Protocol(DHCP)によりBOOTPは置き換えられているが、BOOTPの一部はDHCPプロトコルにサービスを提供するために使用される。DHCPサーバは、従来のBOOTP機能も提供する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "BOOTPは、1985年9月に公開された RFC 951 で最初に定義された。これは、1984年6月に RFC 903 で公開されたReverse address resolution protocol(逆アドレス解決プロトコル、RARP)を置き換えるものだった。RARPをBOOTPに置き換えることになったのは、RARPがリンク層プロトコルだったからである。このため、多くのサーバープラットフォームでの実装が困難となり、かつ、サーバを個々のサブネットに配置する必要があったためである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "BOOTPは、標準IPルーティングを使用してローカルネットワークからBOOTPパケットを転送するリレーエージェントの技術を導入し、これによって1つのBOOTPサーバで多数のサブネット上のホストにサービスを提供できるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "BOOTPサーバ側では、MACアドレスとIPアドレス・ホスト名の対応表を事前に用意する。ネットワークに接続された機器は自らのMACアドレスをブロードキャストし、これを受け取ったBOOTPサーバが、対応表に従ってIPアドレスを配布する。DHCPのような動的なIPアドレスの配布は行えない。", "title": "動作" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "BOOTPリクエストの問題は、リクエストがブロードキャストで送信されることある。ブロードキャストのIPデータグラムはルータによって破棄されるため、ルータを通過することができない(異なるサブネットへ送信できない)。この問題を解決するために、リレーエージェントが導入された。ホストまたはルータは、リレーエージェントとして動作するようにアプリケーション層で設定できる。以下に、リレーエージェントの動作を示す。", "title": "動作" } ]
Bootstrap Protocolは、コンピュータネットワークに接続されたクライアントが、IPアドレスやホスト名、サブネットマスク等を自動的に取得するためのプロトコルである。元々は RFC 951 で定義された。主に、オペレーティングシステムがブート(起動)する際に用いられる。
{{IPstack}} '''Bootstrap Protocol'''(ブートストラップ プロトコル、'''BOOTP''')は、[[コンピュータネットワーク]]に接続された[[クライアント]]が、[[IPアドレス]]や[[ホスト名]]、[[サブネットマスク]]等を自動的に取得するための[[プロトコル]]である。元々は {{IETF RFC|951}} で定義された。主に、[[オペレーティングシステム]]が[[ブート]](起動)する際に用いられる。 == 概要 == ネットワークに接続されているコンピュータの電源を入れてオペレーティングシステムを起動すると、システムソフトウェアはBOOTPメッセージをネットワークに[[ブロードキャスト]]で送信し、IPアドレスの割り当てを要求する。BOOTP設定サーバは、要求に基づいて、管理者によって設定されたアドレスプールからIPアドレスを割り当てる。 BOOTPは転送プロトコルとして[[User Datagram Protocol|UDP]]を使用する。サーバがクライアントの要求を受信するために[[ポート番号]]67を、クライアントがサーバからの応答を受信するためにポート番号68が使用される。なお、これらのポート番号は[[Dynamic Host Configuration Protocol|DHCP]]と同じである。BOOTPは[[IPv4]]でのみ動作する。 歴史的に、BOOTPはIPアドレスの割り当てのほか、[[UNIX系]]の{{仮リンク|ディスクレスノード|en|Diskless node}}で{{仮リンク|ブートイメージ|en|Boot image}}のネットワーク上での場所を取得するのにも使用された。企業では、これを使用して、事前に設定されたクライアントのブートイメージを新しく導入したPCにロールアウトした。 ネットワークカードの製造元は、当初は初期のネットワーク接続を確立するためにブート用の[[フロッピーディスク]]を用意する必要があったが、後にインターフェイスカードの[[BIOS]]やオンボードネットワークアダプタを備えたシステムボードにプロトコルを組み込み、直接ネットワークブートを行うことが可能となった。 BOOTPにリースの機能を追加した[[Dynamic Host Configuration Protocol]](DHCP)によりBOOTPは置き換えられているが、BOOTPの一部はDHCPプロトコルにサービスを提供するために使用される。DHCPサーバは、従来のBOOTP機能も提供する。 ==歴史== BOOTPは、1985年9月に公開された {{IETF RFC|951}} で最初に定義された。これは、1984年6月に {{IETF RFC|903}} で公開された[[Reverse address resolution protocol]](逆アドレス解決プロトコル、RARP)を置き換えるものだった。RARPをBOOTPに置き換えることになったのは、RARPが[[リンク層]]プロトコルだったからである。このため、多くのサーバープラットフォームでの実装が困難となり、かつ、サーバを個々の[[サブネット]]に配置する必要があったためである。 BOOTPは、標準IPルーティングを使用してローカルネットワークからBOOTPパケットを転送するリレーエージェントの技術を導入し、これによって1つのBOOTPサーバで多数のサブネット上のホストにサービスを提供できるようになった<ref>{{cite web|url=https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc951#section-6 |title=RFC 951 - Bootstrap Protocol |author=Bill Croft|author2=John Gilmore|date=September 1985|work=Network Working Group|access-date=2019-03-28}}</ref>。 ==動作== === クライアントとサーバが同じネットワーク上にある場合 === BOOTPサーバ側では、[[MACアドレス]]とIPアドレス・ホスト名の対応表を事前に用意する。ネットワークに接続された機器は自らのMACアドレスを[[ブロードキャスト]]し、これを受け取ったBOOTPサーバが、対応表に従ってIPアドレスを配布する。DHCPのような動的なIPアドレスの配布は行えない。 # BOOTPサーバはUDPポート67でパッシブオープンコマンドを発行し、クライアントを待ち受ける。 # クライアントは起動時にポート68でアクティブオープンコマンドを発行する。このメッセージはUDPユーザデータグラムにカプセル化されており、UDPユーザデータグラムはIPデータグラムにカプセル化されている。クライアントは送信元アドレスにオール0(0.0.0.0)、宛先アドレスにオール1(255.255.255.255)を使用する。 # サーバはクライアントのMACアドレスから割り当てるべきIPアドレスを認識する。サーバは、送信元ポート67・宛先ポート68のブロードキャストまたはユニキャストのUDPメッセージで応答する。 === クライアントとサーバが異なるネットワーク上にある場合 === BOOTPリクエストの問題は、リクエストがブロードキャストで送信されることある。ブロードキャストのIPデータグラムはルータによって破棄されるため、ルータを通過することができない(異なるサブネットへ送信できない)。この問題を解決するために、リレーエージェントが導入された。ホストまたはルータは、リレーエージェントとして動作するようにアプリケーション層で設定できる。以下に、リレーエージェントの動作を示す。 # リレーエージェントはBOOTPサーバのユニキャストアドレスを知っており、ポート67でブロードキャストメッセージを待ち受ける。 # リレーエージェントがブロードキャストパケットを受信すると、メッセージをユニキャストデータグラムにカプセル化し、BOOTPサーバに要求を送信する。 # ユニキャストのパケットはルータを通過することができ、パケットがBOOTPサーバに到達する。BOOPサーバはリレーエージェント宛に応答を送信する。 # BOOPサーバからの応答を受け取ったリレーエージェントは、それをクライアントに送る。 ==IETF標準ドキュメント== {| class="wikitable sortable mw-collapsible" |+ |- ! RFC # ! タイトル ! 発行日 ! 廃止・更新 |- | {{IETF RFC|3942}} | Reclassifying Dynamic Host Configuration Protocol version 4 (DHCPv4) Options | 2004年11月 | {{IETF RFC|2132}} を更新 |- | {{IETF RFC|2132}} | DHCP Options and BOOTP Vendor Extensions | 1997年3月 | {{IETF RFC|1533}} を廃止。 {{IETF RFC|3442}}, {{IETF RFC|3942}}, {{IETF RFC|4361}}, {{IETF RFC|4833}}, {{IETF RFC|5494}} により更新。 |- | {{IETF RFC|1542}} | Clarifications and Extensions for the Bootstrap Protocol | 1993年10月 | {{IETF RFC|1532}} を廃止。 {{IETF RFC|951}} を更新。 |- | {{IETF RFC|1534}} | Interoperation Between DHCP and BOOTP | 1993年10月 | &nbsp; |- | {{IETF RFC|1533}} | DHCP Options and BOOTP Vendor Extensions | 1993年10月 | {{IETF RFC|1497}}, {{IETF RFC|1395}}, {{IETF RFC|1084}}, {{IETF RFC|1048}} を廃止。 {{IETF RFC|2132}} により廃止。 |- | {{IETF RFC|1532}} | Clarifications and Extensions for the Bootstrap Protocol | 1993年10月 | {{IETF RFC|1542}} により廃止。{{IETF RFC|951}} を更新。 |- | {{IETF RFC|1497}} | BOOTP Vendor Information Extensions | 1993年8月 | {{IETF RFC|1395}}, {{IETF RFC|1084}}, {{IETF RFC|1048}} を廃止。{{IETF RFC|1533}} により廃止。 {{IETF RFC|951}} を更新。 |- | {{IETF RFC|1395}} | BOOTP Vendor Information Extensions | 1993年1月 | {{IETF RFC|1084}}, {{IETF RFC|1048}} を廃止。 {{IETF RFC|1497}}, {{IETF RFC|1533}} により廃止。 {{IETF RFC|951}} を更新。 |- | {{IETF RFC|1084}} | BOOTP vendor information extensions | 1988年12月 | {{IETF RFC|1048}} を廃止。 {{IETF RFC|1395}}, {{IETF RFC|1497}}, {{IETF RFC|1533}} により廃止。 |- | {{IETF RFC|1048}} | BOOTP vendor information extensions | 1988年2月 | {{IETF RFC|1084}}, {{IETF RFC|1395}}, {{IETF RFC|1497}}, {{IETF RFC|1533}} により廃止。 |- | {{IETF RFC|951}} | Bootstrap Protocol | 1985年9月 | {{IETF RFC|1395}}, {{IETF RFC|1497}}, {{IETF RFC|1532}}, {{IETF RFC|1542}}, {{IETF RFC|5494}} により更新。 |- |} == 関連項目 == * [[Dynamic Host Configuration Protocol]] (DHCP) * [[Preboot Execution Environment]] (PXE) * {{仮リンク|Remote Initial Program Load|en|Remote Initial Program Load}} (RIPL) * [[UDPヘルパーアドレス]] * {{仮リンク|Boot Service Discovery Protocol|en|Boot Service Discovery Protocol}} (BSDP) ==脚注== {{reflist}} ==外部リンク== * {{IETF RFC|951}} - BOOTSTRAP PROTOCOL (BOOTP) * [http://www.eventhelix.com/RealtimeMantra/Networking/Bootp.pdf BOOTP Sequence Diagram] (PDF) * [http://mbootp.sourceforge.net/ Multicast BOOTP for configuring a network device] [[Category:インターネットのプロトコル]] [[Category:インターネット標準]] [[Category:ネットワークブート]] [[Category:RFC|0951]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Bootstrap_Protocol
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部派仏教
部派仏教(ぶはぶっきょう、英: Early Buddhist schools)とは、釈尊の死後百年から数百年の間に仏教の原始教団が分裂して成立した諸派の仏教。アビダルマ仏教ともいう。部派(ぶは)とはパーリ語のNikāya(ニカーヤ)に由来し、原義では集団を意味する。仏教においては戒や仏典の伝承系統によって分岐した、出家者の集団を指す。 紀元前3世紀頃に原始教団が上座部と大衆部に分裂(根本分裂)したのち、この2部派がさらに分裂して行った。各部派は、釈尊が残した教法を研究・整理して、独自の教義を論(アビダルマ)として作り、互いに論争した。部派仏教は、釈尊と直弟子時代の初期仏教を継承し、大乗仏教の成立後も数世紀に渡りインドで大きな勢力を有していたとされる。のちに興った大乗仏教はこれらの部派仏教を小乗仏教と貶称した。 部派仏教は、欧米では Early Buddhist schools または(しばしば分裂前も含めて)Early Buddhism(初期仏教)と称される。Nikaya Buddhism と呼ばれることもあるが、この語は1980年にハーバード大学の永富正俊が使い始めた用語である。 Paul Williamsは『Mahayana Buddhism the Doctrinal Foundations』で「小乗」(Hīnayāna)の変わりに「主流仏教」(Mainstream Buddhism)と呼ぶと述べ、以後この呼称を使用する学者が他にもいる。 釈迦の死から100年後ごろのアショーカ王(前3世紀)のころ、仏教教団は上座部(じょうざぶ、テーラワーダ、theravāda、sthaviravāda)と大衆部(だいしゅぶ、マハーサンギーティカ、mahāsaṃgītika、mahāsāṃghika)とに分裂した。これを根本分裂と呼ぶ。根本分裂は、戒律や教理の解釈の対立(南伝の所説では、十事に関し、第十の金銀銭の布施を受け取ることの緩和如何、いわゆる「十事問題」だとするが、北伝の所説では「大天五事」だとしている)が原因だとする説などがある。 以後、分派が繰り返され、北伝の伝承では上座部系11部派と大衆部系9部派が成立した。これらの諸部派が「部派仏教」と呼ばれる。その代表的な部派には、 などがある。義浄の報告によれば、北インドはほとんどが説一切有部の勢力下にあり、まれに大衆部が存在し、西インドのラータ、シンドゥでは正量部が最も多く、南インドはほとんどが上座部であった。中央インドのマガダでは4つの部派が行われていたが有部が最有力であった。 大衆部や法蔵部や経量部の教理は大乗仏教の教理と一致することが多く、大乗仏教成立の起源に彼らの教理の影響があったと考えられている。 スリランカに伝えられた上座部は「南方上座部」(赤銅鍱部)と呼ばれ、特に大寺派(Mahāvihāravāsin)の学灯に連なる集団は「上座部大寺派」といい、ミャンマー・タイ・カンボジア・ラオスなどの東南アジア諸国で正統説とされ、今日にいたっている。 それぞれの部派の三蔵について、現存しているものは以下の通り。 部派の分派の様子は、北伝と南伝では少し異なっている。それを図示すれば以下のようになる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "部派仏教(ぶはぶっきょう、英: Early Buddhist schools)とは、釈尊の死後百年から数百年の間に仏教の原始教団が分裂して成立した諸派の仏教。アビダルマ仏教ともいう。部派(ぶは)とはパーリ語のNikāya(ニカーヤ)に由来し、原義では集団を意味する。仏教においては戒や仏典の伝承系統によって分岐した、出家者の集団を指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "紀元前3世紀頃に原始教団が上座部と大衆部に分裂(根本分裂)したのち、この2部派がさらに分裂して行った。各部派は、釈尊が残した教法を研究・整理して、独自の教義を論(アビダルマ)として作り、互いに論争した。部派仏教は、釈尊と直弟子時代の初期仏教を継承し、大乗仏教の成立後も数世紀に渡りインドで大きな勢力を有していたとされる。のちに興った大乗仏教はこれらの部派仏教を小乗仏教と貶称した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "部派仏教は、欧米では Early Buddhist schools または(しばしば分裂前も含めて)Early Buddhism(初期仏教)と称される。Nikaya Buddhism と呼ばれることもあるが、この語は1980年にハーバード大学の永富正俊が使い始めた用語である。 Paul Williamsは『Mahayana Buddhism the Doctrinal Foundations』で「小乗」(Hīnayāna)の変わりに「主流仏教」(Mainstream Buddhism)と呼ぶと述べ、以後この呼称を使用する学者が他にもいる。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "釈迦の死から100年後ごろのアショーカ王(前3世紀)のころ、仏教教団は上座部(じょうざぶ、テーラワーダ、theravāda、sthaviravāda)と大衆部(だいしゅぶ、マハーサンギーティカ、mahāsaṃgītika、mahāsāṃghika)とに分裂した。これを根本分裂と呼ぶ。根本分裂は、戒律や教理の解釈の対立(南伝の所説では、十事に関し、第十の金銀銭の布施を受け取ることの緩和如何、いわゆる「十事問題」だとするが、北伝の所説では「大天五事」だとしている)が原因だとする説などがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "以後、分派が繰り返され、北伝の伝承では上座部系11部派と大衆部系9部派が成立した。これらの諸部派が「部派仏教」と呼ばれる。その代表的な部派には、", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "などがある。義浄の報告によれば、北インドはほとんどが説一切有部の勢力下にあり、まれに大衆部が存在し、西インドのラータ、シンドゥでは正量部が最も多く、南インドはほとんどが上座部であった。中央インドのマガダでは4つの部派が行われていたが有部が最有力であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "大衆部や法蔵部や経量部の教理は大乗仏教の教理と一致することが多く、大乗仏教成立の起源に彼らの教理の影響があったと考えられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "スリランカに伝えられた上座部は「南方上座部」(赤銅鍱部)と呼ばれ、特に大寺派(Mahāvihāravāsin)の学灯に連なる集団は「上座部大寺派」といい、ミャンマー・タイ・カンボジア・ラオスなどの東南アジア諸国で正統説とされ、今日にいたっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "それぞれの部派の三蔵について、現存しているものは以下の通り。", "title": "現存資料" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "部派の分派の様子は、北伝と南伝では少し異なっている。それを図示すれば以下のようになる。", "title": "分裂の様子" } ]
部派仏教とは、釈尊の死後百年から数百年の間に仏教の原始教団が分裂して成立した諸派の仏教。アビダルマ仏教ともいう。部派(ぶは)とはパーリ語のNikāya(ニカーヤ)に由来し、原義では集団を意味する。仏教においては戒や仏典の伝承系統によって分岐した、出家者の集団を指す。 紀元前3世紀頃に原始教団が上座部と大衆部に分裂(根本分裂)したのち、この2部派がさらに分裂して行った。各部派は、釈尊が残した教法を研究・整理して、独自の教義を論(アビダルマ)として作り、互いに論争した。部派仏教は、釈尊と直弟子時代の初期仏教を継承し、大乗仏教の成立後も数世紀に渡りインドで大きな勢力を有していたとされる。のちに興った大乗仏教はこれらの部派仏教を小乗仏教と貶称した。
{{Infobox Buddhist term | title = 部派仏教 | en = Early Buddhist schools | pi = | sa = | my = | my-Latn = | zh =部派佛教 | zh-Latn = | ko =부파불교 | ja = 部派仏教 | ja-Latn = }} {{初期仏教・部派仏教}} '''部派仏教'''(ぶはぶっきょう、{{lang-en-short|Early Buddhist schools}}<ref>[https://www.wisdomlib.org/definition/early-schools Early Schools, Early Buddhist Schools: 1 definition - WISDOM LIBRARY]</ref>)とは、[[釈尊]]の死後百年から数百年の間に[[仏教]]の原始教団が分裂して成立した諸派の仏教<ref name="コトバンク部派仏教">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E9%83%A8%E6%B4%BE%E4%BB%8F%E6%95%99-125612|title=部派仏教(ぶはぶっきょう)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-10-02}}</ref>。'''アビダルマ仏教'''ともいう<ref name=コトバンク部派仏教 />。'''部派'''(ぶは)とは[[パーリ語]]のNikāya(ニカーヤ)に由来し、原義では集団を意味する{{Sfn|馬場|2018|pp=59-60}}。仏教においては戒や仏典の伝承系統によって分岐した、出家者の集団を指す{{Sfn|馬場|2018|pp=59-60}}。 [[紀元前3世紀]]頃に原始教団が[[上座部]]と[[大衆部]]に分裂([[根本分裂]])したのち、この2部派がさらに分裂して行った<ref name=コトバンク部派仏教 />。各部派は、釈尊が残した教法を研究・整理して、独自の教義を[[論 (仏教)|論]](アビダルマ)として作り、互いに論争した<ref name=コトバンク部派仏教 />。部派仏教は、釈尊と直弟子時代の[[初期仏教]]を継承し、[[大乗仏教]]の成立後も数世紀に渡り[[インド]]で大きな勢力を有していたとされる<ref name=コトバンク部派仏教 />。のちに興った大乗仏教はこれらの部派仏教を[[小乗仏教]]と貶称した<ref name=コトバンク部派仏教 />。 == 名称 == 部派仏教は、欧米では [[:en: Early Buddhist schools|Early Buddhist schools]] または(しばしば分裂前も含めて)[[:en:Early Buddhism|Early Buddhism]]('''初期仏教''')と称される。[[:en:Nikaya Buddhism|Nikaya Buddhism]] と呼ばれることもあるが、この語は1980年に[[ハーバード大学]]の永富正俊が使い始めた用語である<ref>Robert Thurman and Professor Masatoshi Nagatomi of Harvard University: ''"Nikaya Buddhism" is a coinage of Professor Masatoshi Nagatomi of Harvard University who suggested it to me as a usage for the eighteen schools of Indian Buddhism, to avoid the term "Hinayana Buddhism," which is found offensive by some members of the Theravada tradition''. Robert Thurman, in [https://openjournals.library.sydney.edu.au/index.php/RT/article/view/12994 The Emptiness That is Compassion: An Essay on Buddhist Ethics] (footnote 10), 1980.</ref>。 Paul Williamsは『Mahayana Buddhism the Doctrinal Foundations』で「小乗」(Hīnayāna)の変わりに「'''主流仏教'''」(Mainstream Buddhism)と呼ぶと述べ<ref>Paul Williams, Mahayana Buddhism the Doctrinal Foundations, 1989, 2nd. ed.2009, 268頁註7</ref>、以後この呼称を使用する学者が他にもいる。 == 概要 == {{出典の明記|date=2017年10月2日 (月) 14:39 (UTC)|section=1|title=特に後半に出典が無い。}} [[釈迦]]の死から100年後ごろの[[アショーカ]]王(前3世紀)のころ、仏教教団は[[上座部]](じょうざぶ、テーラワーダ、{{IAST|theravāda}}、{{IAST|sthaviravāda}})と[[大衆部]](だいしゅぶ、マハーサンギーティカ、{{IAST|mahāsaṃgītika}}、{{IAST|mahāsāṃghika}})とに分裂した<ref name=コトバンク部派仏教 /><ref name="コトバンク上座部">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8A%E5%BA%A7%E9%83%A8-79232|title=上座部(じょうざぶ)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-10-02}}</ref><ref name="コトバンク大衆部">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E8%A1%86%E9%83%A8-91298|title=大衆部(だいしゅぶ)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-10-02}}</ref>。これを[[根本分裂]]と呼ぶ<ref name=コトバンク部派仏教 />。根本分裂は、戒律や教理の解釈の対立([[上座部仏教|南伝]]の所説では、十事に関し、第十の金銀銭の布施を受け取ることの緩和如何、いわゆる「[[十事非法|十事問題]]」だとするが、[[大乗仏教|北伝]]の所説では「[[大天#五事|大天五事]]」だとしている)が原因だとする説などがある<ref> [[マハーワンサ]]4章 The Second Council [http://lakdiva.org/mahavamsa/chap004.html]</ref><ref name=コトバンク部派仏教 />。 以後、分派が繰り返され、北伝の伝承では上座部系11部派と大衆部系9部派が成立した<ref name=コトバンク部派仏教 />。これらの諸部派が「部派仏教」と呼ばれる。その代表的な部派には、 *西北インドの[[説一切有部]](せついっさいうぶ){{Sfn|釈|2017|page=15}} *中西インドの[[正量部]](しょうりょうぶ){{Sfn|釈|2017|page=15}} *西南インドの[[上座部#枝末分裂|上座部]](じょうざぶ){{Sfn|釈|2017|page=15}} *中南方インドの大衆部(だいしゅぶ){{Sfn|釈|2017|page=15}} などがある。[[義浄]]の報告によれば、北インドはほとんどが説一切有部の勢力下にあり、まれに大衆部が存在し、西インドのラータ、シンドゥでは正量部が最も多く、南インドはほとんどが上座部であった{{Sfn|小林|2000|page=39}}。中央インドのマガダでは4つの部派が行われていたが有部が最有力であった{{Sfn|小林|2000|page=39}}。 [[大衆部]]{{refnest|name="britanca_大衆部"|[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E8%A1%86%E9%83%A8-91298#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 「大衆部」 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]、2014、Britannica Japan}}や[[法蔵部]]や[[経量部]]の教理は大乗仏教の教理と一致することが多く、大乗仏教成立の起源に彼らの教理の影響があったと考えられている。 スリランカに伝えられた上座部は「南方上座部」([[赤銅よう部|赤銅鍱部]])と呼ばれ、特に[[マハーヴィハーラ|大寺派]]({{lang|pi|Mahāvihāravāsin}})の学灯に連なる集団は「上座部大寺派」といい、ミャンマー・タイ・カンボジア・ラオスなどの東南アジア諸国で正統説とされ、今日にいたっている。 == 現存資料 == それぞれの部派の三蔵について、現存しているものは以下の通り。 {| class="wikitable" style="margin:1em" |+ 部派仏教の三蔵(現存するもの){{Sfn|馬場|2018|p=83}} !style="min-width:9em"| ! [[上座部]]大寺派 !! [[化地部]] !! [[法蔵部]] !! [[説一切有部]] !! [[大衆部]] |- |{{rh}}| [[法 (仏教)|法]](Dharma) || [[長部 (パーリ)|長部]]<br>[[中部 (パーリ)|中部]]<br>[[相応部]]<br>[[増支部]] | - || [[長阿含経]] || ([[長阿含経]]{{efn2|『長阿含経』はもともと法蔵部所伝のものを漢訳しているが、伝持の過程で説一切有部系写本によって改訳されている{{Sfn|辛嶋|2015|pp=166-167}}。}})<br>[[中阿含経]]<br>[[雑阿含経]] || [[増一阿含経]] |- |{{rh}}| [[律 (仏教)|律]](Vinaya) || [[パーリ律]] || [[五分律]] || [[四分律]] || [[十誦律]]<br>[[根本説一切有部律]] || [[摩訶僧祇律]] |} == 分裂の様子 == {{一次資料|date=2017年10月2日 (月) 14:39 (UTC)|title=第一段落の脚注内に書いてあるのはいずれも一次資料だと思われる。ガイガーのものも、マハーワンサ原典が英訳されているだけのようなので一次資料。|section=1}} 部派の分派の様子は、[[大乗仏教|北伝]]{{Sfn|吉澤|2005|page=71}}と[[上座部仏教|南伝]]{{Sfn|佐々木|1998|page=385}}{{Sfn|吉澤|2005|page=65}}では少し異なっている。それを図示すれば以下のようになる。 ===北伝(20部派)=== *[[大衆部]] **[[一説部]] **[[説出世部]] **{{仮リンク|鶏胤部|zh|雞胤部}} **[[多聞部]] **[[説仮部]] **{{仮リンク|制多山部|zh|制多部}} **[[西山住部]] **[[北山住部]] *[[上座部]] **[[説一切有部]] ***[[犢子部]] ****{{仮リンク|法上部|zh|法上部}} ****[[賢冑部]] ****[[正量部]] ****[[密林山部]] ***[[化地部]] ****[[法蔵部]] ***[[飲光部]] ***[[経量部]] **{{仮リンク|雪山部|zh|雪山部}} ===南伝(18部派)=== *大合誦 ([[大衆部]])(Mahāsaṃgītika) **{{仮リンク|牛家部|zh|雞胤部}}(Gokulika) **[[一説部]](Ekabyohāra) ***[[多聞部]](Bahussutaka) ***[[説仮部]](Paññatti) **{{仮リンク|制多山部|zh|制多部}}(Cetiya) *[[上座部仏教|上座部]](Theravāda) **[[犢子部]](Vajjiputtaka) ***{{仮リンク|法上部|zh|法上部}}(Dhammuttarika) ***[[賢冑部]](Bhaddayānika) ***[[六城部]](Chandagārika) ***[[正量部]](Sammiti) **[[化地部]](Mahiṃsāsaka) ***[[説一切有部]](Sabbatthavāda) ****[[飲光部]](Kassapika) *****{{仮リンク|説転部|zh|說轉部}}(Saṃkantika) ******[[経量部|説経部]](Suttavāda) ***[[法蔵部]](Dhammagutta) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist}} ==参考文献== *{{疑問点範囲|[[中村元 (哲学者)|中村元]] (他編) 『仏教辞典 第2版 [部派仏教]』(岩波書店、2002)|date=2017年6月1日 (木) 01:55 (UTC)|title=この文献の名前は、正確には『岩波仏教辞典』ではないのでしょうか。}} * [[:zh:%E5%8D%B0%E9%A0%86|印順]],[http://www.mahabodhi.org/files/yinshun/35/yinshun35-00.html 印度之佛教][http://www.mahabodhi.org/files/yinshun/35/yinshun35-07.html 第六章 學派之分裂] * {{Cite |和書|title=初期仏教――ブッダの思想をたどる |series=岩波新書 |author=馬場紀寿 |publisher= 岩波書店|isbn=978-4004317357 |date=2018 |ref={{SfnRef|馬場|2018}}}} * {{Cite |和書|title=『維摩経』 2017年6月 |series=100分 de 名著 |author=[[釈徹宗]] |publisher= NHK出版|isbn=978-4142230754 |date=2017 |ref={{SfnRef|釈|2017}}}} * {{Cite journal |last=佐々木 |first=閑 |title= 部派分派図の表記方法 |url=https://doi.org/10.4259/ibk.47.385 |journal=印度學佛教學研究 |volume=47 |issue=1 |date=1998 |publisher=日本印度学仏教学会 |pages=385-377 |ref={{SfnRef|佐々木|1998}} }} * {{Cite journal |last=吉澤 |first=秀知 |title= 根本分裂に関する一考察:部派系統図の表記について |url=https://doi.org/10.5845/bukkyobunka.2005.l62 |journal=佛教文化学会紀要 |volume=2005 |issue=14 |date=2005 |publisher=佛教文化学会 |pages=62-80 |ref={{SfnRef|吉澤|2005}} }} * {{Cite journal |last=小林 |first=信彦 |title= 教団法(戒律)と心掛け(戒) : 日本人の気づかなかった区別 |url=http://id.nii.ac.jp/1420/00001029/ |journal=桃山学院大学総合研究所紀要 |volume=25 |issue=2 |date=2000 |publisher=桃山学院大学総合研究所 |pages=35-50 |ref={{SfnRef|小林|2000}} }} * {{Cite journal | 和書 | author=辛嶋静志 | title=法蔵部『長阿含経・十上経』に見える説一切有部の"侵食" | journal=国際シンポジウム報告書2014: 東アジア仏教写本研究 |publisher= |volume= |issue= | pages=157-172 |url= |issn= | year=2015 | ref={{SfnRef|辛嶋|2015}} }} ==関連項目== *[[異部宗輪論]] *[[ディーパワンサ]]島史(スリランカ) *[[マハーワンサ]]大史(スリランカ) {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:ふはふつきよう}} [[Category:部派仏教|*ふはふつきよう]]
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Reverse address resolution protocol
Reverse address resolution protocol(逆アドレス解決プロトコル、略称:RARP、リバースARP)は、機器の物理アドレス(MACアドレス)からIPアドレスを取得するためのプロトコルである。 機器は自らのMACアドレスをブロードキャストし(RARPリクエスト)、それに対してRARPサーバが応答してIPアドレスを配布する。そのため、RARPサーバは必須である。RARPサーバにはMACアドレスとそれに対応するIPアドレスを登録してある。 データリンク層に属する。 IPを要求してきた機器に渡せるのはIPアドレスのみで、サブネットマスク、デフォルトゲートウェイ、DNSサーバーのアドレスなどは渡せない。また、データリンク層の技術なのでルータを越えて利用できない。さらに、RARPサーバーには事前に要求機器のMACアドレスを登録しておく必要があり、柔軟性に欠ける。このため、近年では同機能でより高機能なDHCPなどにより代替されることが多い。
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{{IPstack}} {{OSIModel}} '''Reverse address resolution protocol'''(逆アドレス解決プロトコル、略称:'''RARP'''、リバースARP)は、機器の物理アドレス([[MACアドレス]])から[[IPアドレス]]を取得するための[[プロトコル]]である。 == 概要 == 機器は自らのMACアドレスを[[ブロードキャスト]]し(RARPリクエスト)、それに対してRARPサーバが応答してIPアドレスを配布する。そのため、'''RARPサーバ'''は必須である。RARPサーバにはMACアドレスとそれに対応するIPアドレスを登録してある。 [[データリンク層]]に属する。 IPを要求してきた機器に渡せるのはIPアドレスのみで、サブネットマスク、デフォルトゲートウェイ、DNSサーバーのアドレスなどは渡せない。また、データリンク層の技術なのでルータを越えて利用できない。さらに、RARPサーバーには事前に要求機器のMACアドレスを登録しておく必要があり、柔軟性に欠ける。このため、近年では同機能でより高機能なDHCPなどにより代替されることが多い。 <!-- この記述は誤りに思えるのでとりあえずコメントアウトしておきます 主に、上位プロトコルである[[Dynamic Host Configuration Protocol|DHCP]]や[[Bootstrap Protocol|BOOTP]]に於いて、自らのIPアドレスを得るためにRARPが用いられる。 簡単に言えば[[Address Resolution Protocol|ARP]]の逆ということになるが、ARPと違い実装にするには非常に困難な技術である。そのためより多くの情報を提供するBOOTPが現在の主流である。 --> == 関連項目 == * [[Address Resolution Protocol|ARP]](Address Resolution Protocol) - [[IPアドレス]]から[[MACアドレス]]に変換する[[プロトコル]] == 関連RFC == *[https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc903 A Reverse Address Resolution Protocol] ({{IETF RFC|903}}) {{OSI}} {{DEFAULTSORT:Reverse address resolution protocol}} {{Network-stub}} [[Category:リンク層プロトコル]] [[Category:インターネット標準]] [[Category:RFC|0903]] [[Category:長大な項目名]]
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満洲
満洲(まんしゅう、拼音: Mǎnzhōu、英語: Manchuria)は、黒竜江(アムール川)・松花江流域を中心とするユーラシア東北部、現在の中国東北地方からロシア沿海地方にかけての地域を指す呼称。「満州」と表記されることも多いが、語源上「満洲」が正式な漢字表記である(後述)。 歴史的にツングース系諸集団の活動空間であり、ヨーロッパ人が「東のタルタリ (la Tartarie orientale)」と呼び、日本語で東韃と訳され、満洲族の台頭とともに「満洲族の地 (terres des Mantchoux)」とも言われた。19世紀以降、日本や欧米では地域名として一般的に用いられるようになり、ロシア沿海地方も含まれていたが、1860年の北京条約により沿海地方を清がロシア帝国へ割譲して以降、日本や欧米では「満洲」とは「東三省」地方を意味するようになった。 「満洲」という言葉は、もともとは17世紀にはおもに民族名を指していたが、のちに地域名に転用されたものである。19世紀以降の日本では満洲および満洲国とは地域をさし、民族は「満洲族」と呼ぶようになった。 おおむね北辺はスタノヴォイ山脈、南辺は万里の長城、西辺は大興安嶺、東辺は鴨緑江・図們江(豆満江)の内側を想定している。しかしながら、歴史的変化に伴いその範囲は伸縮していた。 日本で満洲と呼ばれる地域は、満洲国の建国時の地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省・吉林省・黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲とする。この地域は、北と東はアムール川(黒竜江)・ウスリー川を隔ててロシアの東シベリア地方に接し、南は鴨緑江を隔てて朝鮮半島と接し、西は大興安嶺山脈を隔ててモンゴル高原(内モンゴル自治区)と接している。南西では万里の長城の東端にあたる山海関が、華北との間を隔てている。広義には、モンゴル民族の居住地域であるが満洲国に属していた内モンゴル自治区の東部を含む。 また、スタノヴォイ山脈(外興安嶺)以南、黒竜江以北、ウスリー川以東のロシア領の地域を外満洲と呼び、場合によってはこの地域をも含むことがある。外満洲は満洲と同様に、ネルチンスク条約(1689年)で清朝領とされたが、その後、1858年にロシアとの間にアイグン条約を結んで、清領とされてきた外満洲のうちアムール川左岸をロシアに割譲し、ウスリー川以東を両国の共同管理とすることとなった。さらに2年後の1860年には北京条約によって、この共同管理地も正式にロシア領となった。外満洲を含めた面積は、約1,550,000 kmに及ぶ。 満洲は本来、地名というより民族名である。民族名としての「マンジュ」(Manchu、manju、満洲民族)の由来は、16世紀後半のヌルハチ(死後に清朝の太祖の廟号が贈られた)に遡る。ヌルハチは、自らの集団(建州女直)の名称を「マンジュ」、支配領域を「マンジュ・グルン」(manju gurun、満洲国)と呼んだ。民族名としては「ジュシェン」(女真/女直)も依然として用いられていたが、清の創始者であるホンタイジが、大元の玉璽(ハスボー・タムガ)を入手した翌年の1635年に、「ジュシェン」を禁止し「マンジュ」の呼称に統一し、漢字表記を「満洲」と定めた。これは「ジュシェン」が「属民」を意味したためであるという。マンジュの五行説の「水」徳を意識して、民族名の「満」「洲」と王朝名の「清」の漢字はいずれもさんずいの字が選ばれた。 「マンジュ」の由来については諸説あり、一般には民族信仰の対象であった仏教のマンジュシリ(文殊師利=文殊菩薩。曼殊・満殊などとも書く)によるといわれることが多い。しかし近年この通説に対し、ヌルハチの勢力圏がすでに「マンジュ・グルン」と呼称されていたことや、史料ではどれも「マンジュ」と「マンジュシリ」を明確に区別していること等の理由をもって、チベット仏教由来説を否定する説も提示されている。また、建州衛の首長の李満住からとったという説もある。 「満洲」が地名として用いられたのは、この地域が満洲民族の故地であったことから、西洋で「満洲」の派生語(英語: Manchuria、ロシア語: Маньчжурия)を用いて呼ばれるようになったのが始まりである。これに押されて漢字文化圏でもこの地域を「満洲」と呼ぶようになった。なお、「満洲」の語を民族名ではなく地名としても使用するようになったのは、江戸期の日本であるという説もある。その説では高橋景保の「日本辺疆略図」(1809年)・「新訂万国全図」(1810年)が初出とされる。この地図ではネルチンスク条約で定められた国境線の清朝側を「満洲」と表記している。それがヨーロッパに伝わったという。 現在の中華人民共和国では地域名称として「満洲」を使うことは避けられ、かわりに「中国東北部」という表現が用いられる。これは中国における歴史に対する公式見解で、満洲国の存在を認めず、また満洲の地を太古から不可分の中国人(中華民族)固有の地としているためである。今日の中国では、20世紀の満洲国を清朝の前身である満洲を詐称しているとして、「偽満洲国」の呼び方以外は認めていない。民族名としても「満族」の呼称を使用している。ただし、現在でも「満洲里」のように一部の地域名としては用いられている。 また、中国共産党もかつては中国共産党満洲省委員会(中国語版)をハルビンに設置するなど、「偽」の字を冠さずに満洲という言葉を使用した例はあった。 前述の通り、元来の表記は「満洲」(旧字体:滿洲)である。しかし、現代日本では(とりわけ満洲国に言及する際に)「満州」の表記も用いられている。これは一般的には当用漢字・常用漢字に「洲」がないためとされるが、「満州」が中国の一部であるという点を強調するためと説明されることもある。また、「満州」表記が広く用いられるようになったのは戦後であるが、それ以前にも用例が無いわけではない。例えば、間宮林蔵の『東韃地方紀行』(1810年)、満鉄歴史調査室の『満洲歴史地理』第1巻(1913年)では「滿洲」と「滿州」が混用されている。また、日本海軍の通報艦の満州は、ロシア語で満洲地域を表すマニジューリヤ(ロシア語: Маньчжурия)を改称したものであるが、大正9年8月13日の官報や昭和5年度海軍省年報では「滿州」と表記されている。 一方で、清朝史研究者を中心に、「満州」表記は誤りであり「満洲」の表記を用いるべきという主張がなされている。その根拠は、 などというものである。 歴史的にこの地域は、古くは遼河文明が栄え、その後は主にツングース系諸民族や濊貊族などの北方諸民族の興亡の場であった。北方民族のみならず、西部からはモンゴル系、東部からは朝鮮系の民族が勢力を張る事もあり、南部からは記録上周王朝に周に属する燕が勢力を伸ばし、後に遼東郡・遼西郡などが置かれていた。この頃の万里の長城は現在より北に位置し遼西・遼東をも囲んでいた。三国時代には公孫氏の地盤となり、公孫瓚が群雄の一人として勢力を張り、公孫淵が自立を図るなどしている。周王朝の時代から粛慎が遊牧しており、時代と共に挹婁・勿吉・靺鞨へと古代中国側から見た名称は変遷した。 満洲の南部には濊貊族が建てた夫余(前1世紀から5世紀)、夫余の王族が建てたとされる高句麗(前1世紀から7世紀)、靺鞨族の建てた渤海(698年から926年)など、モンゴル系とされる鮮卑の前燕・後燕などや契丹の遼(916年から1125年)なども存在した。チベット系の氐族の立てた前秦(351年から394年)の支配が一部及んだ事もある。12世紀には靺鞨の子孫とされる女真族が金を建国、遼と北宋を滅ぼして中国北半分をも支配するに至る。 金はモンゴル民族のモンゴル帝国(元朝)に滅ぼされ、この地は元朝の支配下に入る(モンゴルのマンチュリア侵攻)。次いで元朝は漢民族の明朝に倒され、一時は明朝の支配下となり、明朝に山海関と名付けられることになった長城最東端の関よりも外の土地という意味で「関外の地」、あるいは、関よりも東の土地という意味で「関東」とも呼ばれた。後に女真族等、現住氏族居住域は冊封による間接統治に改められたが、撫順などの拠点は残されており、遼西・遼東の地は万里の長城の支線が囲っており、明の支配下にあった。 17世紀に女真族から名称変更した満洲族が後金を起こして同地を統一支配した後、国号を改めた清朝が明朝に代わり、満洲地域及び中国内地全体が満洲民族の支配下に入る。清朝は建国の故地で後金時代の皇居(瀋陽故宮)がある満洲地域を特別扱いし、奉天府を置いて治めた。後には奉天府を改めて東三省総督を置き、東省または東三省(奉天・吉林及び黒竜江の3省)と呼んだ。 当初は1653年から1668年まで遼東招民開墾令をはじめとする勧民招墾の諸法令を公布し、漢族の満洲植民を奨励していたが、1740年以降は封禁政策を取り漢民族が移入することを禁じた。一方、17世紀以降、ロシア・ツァーリ国(のちロシア帝国)の東漸運動が顕著になり、ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が数度起きた(清露国境紛争)。ヴァシーリー・ポヤルコフやエロフェイ・ハバロフなど、ロシア人の探検隊が黒竜江(アムール川)流域に南下・侵入し、村落を焼いたり捕虜をとったり毛皮を取り立てたりして植民地化の動きを見せたため、これを追い出し国境を定める必要が生じた。1689年にネルチンスク条約が締結され、国際的にも満洲全域が正式に清朝の国土と定められた。その後、清朝はロシアの脅威に対抗するため、兵士を駐屯させた。 西側の境界については、清朝が1734年(雍正12年)にハルハ東端部(外蒙古)とフルンボイル平原南部の新バルガ(内蒙古)との境界を定め、モンゴルの独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと中華民国の間で踏襲されてきた。 しかし、王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出を抑えきれなかった。1858年5月28日のアイグン条約、1860年11月14日の北京条約の2つの不平等条約によって、満洲地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満洲地域はロシアに割譲されることとなった。そして1860年には特普欽らの献策を容れて政策を転換し、東三省への漢族の移住を認め、農地開発を進めて、次第に荒野を農地に変化させた。この民族移動のことを「闖関東」という。漢人人口は急増して満洲人人口を上回り、その生活域は蚕食された。1860年の満洲(遼寧・吉林・黒竜江の東三省)の人口は320-370万人ほどと見積もられており、それが、1908年には1583万あるいは1734万人、1931年の満洲事変前には3000万人、1945年の満洲国崩壊前には熱河省も含めて4500万人まで増加している。また、イギリス領事館が営口に置かれるなど外国人勢力が満洲の南方からも入り込んで、満洲人の故郷は大きな変貌を遂げた。 1900年には義和団の乱に乗じてロシアが満洲を軍事占領した。このとき、ロシア軍によってブラゴヴェシチェンスクで清国人数千人が虐殺されるアムール川事件が起きている。戦後、北京議定書が結ばれ、日本は北京と天津に清国駐屯軍(後に支那駐屯軍)を置く権利を得た。一方、乱後も満洲に駐兵を継続したことについて、他の列強や清国から批判を受けたロシアが、満洲からの撤退を3度にわたっておこなうことなどを清国との間で取り決めた満洲還付条約が1902年に結ばれた。 1904年から勃発した日露戦争は日本の勝利に終わり、ポーツマス条約によって、ロマノフ王朝の満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益のうち、南満洲に属するものは日本へ引き渡された。弱体化した清朝は1911年の辛亥革命で倒された。翌1912年成立した中華民国は清朝領土の継承を宣言し、袁世凱の勢力圏であった満洲も中華民国政府の統治下に入った。しかし、袁世凱と孫文の対立から、中華民国は各地域の軍閥による群雄割拠の状態となり、満洲でも張作霖の軍閥が台頭しその支配下となる。 1905年に欧米視察旅行をおこなった白鳥庫吉は、日本のアジア研究の遅れを痛感し、後藤新平に「満洲の歴史編纂の急務」と題する書簡を送り、「満洲の地は漢人種と北方諸民族と韓民族との会合点にあり、此の地に勢を得しもの常に四隣を脅かして東亜の形勢を変動せしめ、韓半島は其の南下の衝に当りて常に之に圧服せられ、我が国また之によって至大の影響をうくというにあり」という認識にたち、満洲研究が最も緊切必要であることを説いている。 北満洲におけるロシア権益は保持されていたが、第一次世界大戦やロシア革命の混乱により支配力は低下し、ロシア革命に対する干渉戦争として行われたシベリア出兵により、外満洲に属するウラジオストクを連合軍が、北満洲及び外満洲の大部分、さらにはバイカル湖周辺までを日本軍が占領する事になった。1920年には日本占領下のニコラエフスクを赤軍パルチザンが襲撃し、破壊と住民虐殺が行われ6,000人余りが処刑され、日本人も700人余りが殺戮された(尼港事件)。日本以外の連合軍は1920年に、日本は1922年に撤退し占領は解除された。 ソビエト連邦は東清鉄道の経営権をロシアから継承していたが、1928年に満洲を実効支配する張学良政権はこの権益の武力による略奪を行おうとした。これに対しソ連は権益地を有する北満洲に侵功、占領し、中華民国軍を破り中東鉄道の権益を確保し、権益を再確認する協定を結んだ後撤退した(中東路事件)。一方、張学良政権は排外主義政策を打ち出し、排日策を展開した。 1931年に日本(大日本帝国)は自ら起こした柳条湖事件を契機に、権益地が含まれる南満洲のみならず満洲全域を侵攻、占領した(満洲事変)。翌1932年に満洲国を建国した。満洲国は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政、のち皇帝)とした。満洲国は事実上日本の支配下となり、傀儡政権と称された。日本は南満洲鉄道や満洲重工業開発を通じて産業投資を行い、品種改良で寒さに強い品種を植えることで不毛の地ばかりだった満洲に農地が多数開墾され、荒野には工場を建設して開発した。満洲で治安が良くなり、交通が開け、貨幣が統一された。満洲国建国以前の満洲では、軍閥が独自紙幣を発行し、奥地になるほど治安が悪く、農民は安心して耕作ができなかった。満洲国は統一した通貨を発行して、満洲各地で流通させたことで信頼のある貨幣経済が成立した。奥地にまで道路や鉄道が建設され、治安が良くなると農民も農作物を市場に出して稼ぐようになった。電話線など通信網も張りめぐらせ、奥地など満洲の地方にも病院や工場、また初等教育への進学率も低かったが、学校も設立した。日本による投資を受けて経済的に豊かになり、群雄割拠状態で乱れていた中華民国時代からの突然の経済発展を受けて、中華民国側から豊かさを求めて多くの移民が流入した。そのため、満洲国地域における日本人以外の人口は満洲国建国以前よりも増加した。背景にはインフラストラクチャーがほとんどなかったが投資・開発を受けて居住可能地域が増加したこと、日本から持ち込まれた品種からも農耕作可能地域が増加したことにある。満洲国が成立した1932年には約3000万人だったが終戦までには約4500万人に増加した。3万人の小さな町が近代都市に発展して、約13年間で300万人に膨れ上がっている。 また、満洲国はモンゴルとの境界線について、自領を広げる形で新たにハルハ川を境界として主張し、それを認めないモンゴル人民共和国との間で武力衝突(ノモンハン事件)を起こした。 1945年8月9日、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻。皇帝溥儀は退位と満洲帝国の廃止を宣言し、日本に逃亡を図るが失敗に終わった。ソ連は満洲を占領し、南満洲鉄道を接収して中華民国との共同管理下に置き(中国長春鉄路)、1946年に撤収するまでさまざまな鉄道施設や工場施設、発電所・変電所などを接収した。ソ連による満洲占領は長引き、中華民国への返還は遅れた(東北問題)。 その後、中国共産党が国共内戦に勝利し、1949年、満洲は中華人民共和国の領土となった。しばらくはソ連との結びつきの強い高崗が独自の地方運営を行っていた。しかし高崗は1954年、毛沢東によって粛清されている。満洲地域は満洲国時代のインフラ整備・開発政策の成果が残っていたため、共産主義体制下の中華人民共和国でも活用され、比較的豊かな土地であった。しかし、1990年代以降の改革開放政策により、上海や深圳など華東・華南の経済特区の経済成長が著しくなる一方、満洲国時代のインフラのままだったことで、逆に経済的には立ち遅れた地域となった。 中国政府はインフラ設備の更新や古い工場の立替、外資の導入、遼東半島を含む環渤海経済圏を設定した。 また21世紀初頭には、中国とロシアとの間に明確な国境を画定する動きが高まりつつあるなか、2004年に中露国境協定が結ばれ、2008年10月14日に、議定書発効により国境が確定した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "満洲(まんしゅう、拼音: Mǎnzhōu、英語: Manchuria)は、黒竜江(アムール川)・松花江流域を中心とするユーラシア東北部、現在の中国東北地方からロシア沿海地方にかけての地域を指す呼称。「満州」と表記されることも多いが、語源上「満洲」が正式な漢字表記である(後述)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "歴史的にツングース系諸集団の活動空間であり、ヨーロッパ人が「東のタルタリ (la Tartarie orientale)」と呼び、日本語で東韃と訳され、満洲族の台頭とともに「満洲族の地 (terres des Mantchoux)」とも言われた。19世紀以降、日本や欧米では地域名として一般的に用いられるようになり、ロシア沿海地方も含まれていたが、1860年の北京条約により沿海地方を清がロシア帝国へ割譲して以降、日本や欧米では「満洲」とは「東三省」地方を意味するようになった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「満洲」という言葉は、もともとは17世紀にはおもに民族名を指していたが、のちに地域名に転用されたものである。19世紀以降の日本では満洲および満洲国とは地域をさし、民族は「満洲族」と呼ぶようになった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "おおむね北辺はスタノヴォイ山脈、南辺は万里の長城、西辺は大興安嶺、東辺は鴨緑江・図們江(豆満江)の内側を想定している。しかしながら、歴史的変化に伴いその範囲は伸縮していた。", "title": "満洲の範囲" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本で満洲と呼ばれる地域は、満洲国の建国時の地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省・吉林省・黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲とする。この地域は、北と東はアムール川(黒竜江)・ウスリー川を隔ててロシアの東シベリア地方に接し、南は鴨緑江を隔てて朝鮮半島と接し、西は大興安嶺山脈を隔ててモンゴル高原(内モンゴル自治区)と接している。南西では万里の長城の東端にあたる山海関が、華北との間を隔てている。広義には、モンゴル民族の居住地域であるが満洲国に属していた内モンゴル自治区の東部を含む。", "title": "満洲の範囲" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、スタノヴォイ山脈(外興安嶺)以南、黒竜江以北、ウスリー川以東のロシア領の地域を外満洲と呼び、場合によってはこの地域をも含むことがある。外満洲は満洲と同様に、ネルチンスク条約(1689年)で清朝領とされたが、その後、1858年にロシアとの間にアイグン条約を結んで、清領とされてきた外満洲のうちアムール川左岸をロシアに割譲し、ウスリー川以東を両国の共同管理とすることとなった。さらに2年後の1860年には北京条約によって、この共同管理地も正式にロシア領となった。外満洲を含めた面積は、約1,550,000 kmに及ぶ。", "title": "満洲の範囲" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "満洲は本来、地名というより民族名である。民族名としての「マンジュ」(Manchu、manju、満洲民族)の由来は、16世紀後半のヌルハチ(死後に清朝の太祖の廟号が贈られた)に遡る。ヌルハチは、自らの集団(建州女直)の名称を「マンジュ」、支配領域を「マンジュ・グルン」(manju gurun、満洲国)と呼んだ。民族名としては「ジュシェン」(女真/女直)も依然として用いられていたが、清の創始者であるホンタイジが、大元の玉璽(ハスボー・タムガ)を入手した翌年の1635年に、「ジュシェン」を禁止し「マンジュ」の呼称に統一し、漢字表記を「満洲」と定めた。これは「ジュシェン」が「属民」を意味したためであるという。マンジュの五行説の「水」徳を意識して、民族名の「満」「洲」と王朝名の「清」の漢字はいずれもさんずいの字が選ばれた。", "title": "呼称としての満洲" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「マンジュ」の由来については諸説あり、一般には民族信仰の対象であった仏教のマンジュシリ(文殊師利=文殊菩薩。曼殊・満殊などとも書く)によるといわれることが多い。しかし近年この通説に対し、ヌルハチの勢力圏がすでに「マンジュ・グルン」と呼称されていたことや、史料ではどれも「マンジュ」と「マンジュシリ」を明確に区別していること等の理由をもって、チベット仏教由来説を否定する説も提示されている。また、建州衛の首長の李満住からとったという説もある。", "title": "呼称としての満洲" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「満洲」が地名として用いられたのは、この地域が満洲民族の故地であったことから、西洋で「満洲」の派生語(英語: Manchuria、ロシア語: Маньчжурия)を用いて呼ばれるようになったのが始まりである。これに押されて漢字文化圏でもこの地域を「満洲」と呼ぶようになった。なお、「満洲」の語を民族名ではなく地名としても使用するようになったのは、江戸期の日本であるという説もある。その説では高橋景保の「日本辺疆略図」(1809年)・「新訂万国全図」(1810年)が初出とされる。この地図ではネルチンスク条約で定められた国境線の清朝側を「満洲」と表記している。それがヨーロッパに伝わったという。", "title": "呼称としての満洲" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "現在の中華人民共和国では地域名称として「満洲」を使うことは避けられ、かわりに「中国東北部」という表現が用いられる。これは中国における歴史に対する公式見解で、満洲国の存在を認めず、また満洲の地を太古から不可分の中国人(中華民族)固有の地としているためである。今日の中国では、20世紀の満洲国を清朝の前身である満洲を詐称しているとして、「偽満洲国」の呼び方以外は認めていない。民族名としても「満族」の呼称を使用している。ただし、現在でも「満洲里」のように一部の地域名としては用いられている。", "title": "呼称としての満洲" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、中国共産党もかつては中国共産党満洲省委員会(中国語版)をハルビンに設置するなど、「偽」の字を冠さずに満洲という言葉を使用した例はあった。", "title": "呼称としての満洲" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "前述の通り、元来の表記は「満洲」(旧字体:滿洲)である。しかし、現代日本では(とりわけ満洲国に言及する際に)「満州」の表記も用いられている。これは一般的には当用漢字・常用漢字に「洲」がないためとされるが、「満州」が中国の一部であるという点を強調するためと説明されることもある。また、「満州」表記が広く用いられるようになったのは戦後であるが、それ以前にも用例が無いわけではない。例えば、間宮林蔵の『東韃地方紀行』(1810年)、満鉄歴史調査室の『満洲歴史地理』第1巻(1913年)では「滿洲」と「滿州」が混用されている。また、日本海軍の通報艦の満州は、ロシア語で満洲地域を表すマニジューリヤ(ロシア語: Маньчжурия)を改称したものであるが、大正9年8月13日の官報や昭和5年度海軍省年報では「滿州」と表記されている。", "title": "呼称としての満洲" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一方で、清朝史研究者を中心に、「満州」表記は誤りであり「満洲」の表記を用いるべきという主張がなされている。その根拠は、", "title": "呼称としての満洲" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "などというものである。", "title": "呼称としての満洲" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "歴史的にこの地域は、古くは遼河文明が栄え、その後は主にツングース系諸民族や濊貊族などの北方諸民族の興亡の場であった。北方民族のみならず、西部からはモンゴル系、東部からは朝鮮系の民族が勢力を張る事もあり、南部からは記録上周王朝に周に属する燕が勢力を伸ばし、後に遼東郡・遼西郡などが置かれていた。この頃の万里の長城は現在より北に位置し遼西・遼東をも囲んでいた。三国時代には公孫氏の地盤となり、公孫瓚が群雄の一人として勢力を張り、公孫淵が自立を図るなどしている。周王朝の時代から粛慎が遊牧しており、時代と共に挹婁・勿吉・靺鞨へと古代中国側から見た名称は変遷した。", "title": "満洲略史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "満洲の南部には濊貊族が建てた夫余(前1世紀から5世紀)、夫余の王族が建てたとされる高句麗(前1世紀から7世紀)、靺鞨族の建てた渤海(698年から926年)など、モンゴル系とされる鮮卑の前燕・後燕などや契丹の遼(916年から1125年)なども存在した。チベット系の氐族の立てた前秦(351年から394年)の支配が一部及んだ事もある。12世紀には靺鞨の子孫とされる女真族が金を建国、遼と北宋を滅ぼして中国北半分をも支配するに至る。", "title": "満洲略史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "金はモンゴル民族のモンゴル帝国(元朝)に滅ぼされ、この地は元朝の支配下に入る(モンゴルのマンチュリア侵攻)。次いで元朝は漢民族の明朝に倒され、一時は明朝の支配下となり、明朝に山海関と名付けられることになった長城最東端の関よりも外の土地という意味で「関外の地」、あるいは、関よりも東の土地という意味で「関東」とも呼ばれた。後に女真族等、現住氏族居住域は冊封による間接統治に改められたが、撫順などの拠点は残されており、遼西・遼東の地は万里の長城の支線が囲っており、明の支配下にあった。", "title": "満洲略史" }, { "paragraph_id": 17, 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"1904年から勃発した日露戦争は日本の勝利に終わり、ポーツマス条約によって、ロマノフ王朝の満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益のうち、南満洲に属するものは日本へ引き渡された。弱体化した清朝は1911年の辛亥革命で倒された。翌1912年成立した中華民国は清朝領土の継承を宣言し、袁世凱の勢力圏であった満洲も中華民国政府の統治下に入った。しかし、袁世凱と孫文の対立から、中華民国は各地域の軍閥による群雄割拠の状態となり、満洲でも張作霖の軍閥が台頭しその支配下となる。", "title": "満洲略史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1905年に欧米視察旅行をおこなった白鳥庫吉は、日本のアジア研究の遅れを痛感し、後藤新平に「満洲の歴史編纂の急務」と題する書簡を送り、「満洲の地は漢人種と北方諸民族と韓民族との会合点にあり、此の地に勢を得しもの常に四隣を脅かして東亜の形勢を変動せしめ、韓半島は其の南下の衝に当りて常に之に圧服せられ、我が国また之によって至大の影響をうくというにあり」という認識にたち、満洲研究が最も緊切必要であることを説いている。", "title": "満洲略史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "北満洲におけるロシア権益は保持されていたが、第一次世界大戦やロシア革命の混乱により支配力は低下し、ロシア革命に対する干渉戦争として行われたシベリア出兵により、外満洲に属するウラジオストクを連合軍が、北満洲及び外満洲の大部分、さらにはバイカル湖周辺までを日本軍が占領する事になった。1920年には日本占領下のニコラエフスクを赤軍パルチザンが襲撃し、破壊と住民虐殺が行われ6,000人余りが処刑され、日本人も700人余りが殺戮された(尼港事件)。日本以外の連合軍は1920年に、日本は1922年に撤退し占領は解除された。", "title": "満洲略史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ソビエト連邦は東清鉄道の経営権をロシアから継承していたが、1928年に満洲を実効支配する張学良政権はこの権益の武力による略奪を行おうとした。これに対しソ連は権益地を有する北満洲に侵功、占領し、中華民国軍を破り中東鉄道の権益を確保し、権益を再確認する協定を結んだ後撤退した(中東路事件)。一方、張学良政権は排外主義政策を打ち出し、排日策を展開した。", "title": "満洲略史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1931年に日本(大日本帝国)は自ら起こした柳条湖事件を契機に、権益地が含まれる南満洲のみならず満洲全域を侵攻、占領した(満洲事変)。翌1932年に満洲国を建国した。満洲国は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政、のち皇帝)とした。満洲国は事実上日本の支配下となり、傀儡政権と称された。日本は南満洲鉄道や満洲重工業開発を通じて産業投資を行い、品種改良で寒さに強い品種を植えることで不毛の地ばかりだった満洲に農地が多数開墾され、荒野には工場を建設して開発した。満洲で治安が良くなり、交通が開け、貨幣が統一された。満洲国建国以前の満洲では、軍閥が独自紙幣を発行し、奥地になるほど治安が悪く、農民は安心して耕作ができなかった。満洲国は統一した通貨を発行して、満洲各地で流通させたことで信頼のある貨幣経済が成立した。奥地にまで道路や鉄道が建設され、治安が良くなると農民も農作物を市場に出して稼ぐようになった。電話線など通信網も張りめぐらせ、奥地など満洲の地方にも病院や工場、また初等教育への進学率も低かったが、学校も設立した。日本による投資を受けて経済的に豊かになり、群雄割拠状態で乱れていた中華民国時代からの突然の経済発展を受けて、中華民国側から豊かさを求めて多くの移民が流入した。そのため、満洲国地域における日本人以外の人口は満洲国建国以前よりも増加した。背景にはインフラストラクチャーがほとんどなかったが投資・開発を受けて居住可能地域が増加したこと、日本から持ち込まれた品種からも農耕作可能地域が増加したことにある。満洲国が成立した1932年には約3000万人だったが終戦までには約4500万人に増加した。3万人の小さな町が近代都市に発展して、約13年間で300万人に膨れ上がっている。", "title": "満洲略史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また、満洲国はモンゴルとの境界線について、自領を広げる形で新たにハルハ川を境界として主張し、それを認めないモンゴル人民共和国との間で武力衝突(ノモンハン事件)を起こした。", "title": "満洲略史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1945年8月9日、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻。皇帝溥儀は退位と満洲帝国の廃止を宣言し、日本に逃亡を図るが失敗に終わった。ソ連は満洲を占領し、南満洲鉄道を接収して中華民国との共同管理下に置き(中国長春鉄路)、1946年に撤収するまでさまざまな鉄道施設や工場施設、発電所・変電所などを接収した。ソ連による満洲占領は長引き、中華民国への返還は遅れた(東北問題)。", "title": "満洲略史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "その後、中国共産党が国共内戦に勝利し、1949年、満洲は中華人民共和国の領土となった。しばらくはソ連との結びつきの強い高崗が独自の地方運営を行っていた。しかし高崗は1954年、毛沢東によって粛清されている。満洲地域は満洲国時代のインフラ整備・開発政策の成果が残っていたため、共産主義体制下の中華人民共和国でも活用され、比較的豊かな土地であった。しかし、1990年代以降の改革開放政策により、上海や深圳など華東・華南の経済特区の経済成長が著しくなる一方、満洲国時代のインフラのままだったことで、逆に経済的には立ち遅れた地域となった。", "title": "満洲略史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "中国政府はインフラ設備の更新や古い工場の立替、外資の導入、遼東半島を含む環渤海経済圏を設定した。", "title": "満洲略史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また21世紀初頭には、中国とロシアとの間に明確な国境を画定する動きが高まりつつあるなか、2004年に中露国境協定が結ばれ、2008年10月14日に、議定書発効により国境が確定した。", "title": "満洲略史" } ]
満洲は、黒竜江(アムール川)・松花江流域を中心とするユーラシア東北部、現在の中国東北地方からロシア沿海地方にかけての地域を指す呼称。「満州」と表記されることも多いが、語源上「満洲」が正式な漢字表記である(後述)。 歴史的にツングース系諸集団の活動空間であり、ヨーロッパ人が「東のタルタリ」と呼び、日本語で東韃と訳され、満洲族の台頭とともに「満洲族の地」とも言われた。19世紀以降、日本や欧米では地域名として一般的に用いられるようになり、ロシア沿海地方も含まれていたが、1860年の北京条約により沿海地方を清がロシア帝国へ割譲して以降、日本や欧米では「満洲」とは「東三省」地方を意味するようになった。 「満洲」という言葉は、もともとは17世紀にはおもに民族名を指していたが、のちに地域名に転用されたものである。19世紀以降の日本では満洲および満洲国とは地域をさし、民族は「満洲族」と呼ぶようになった。
{{Otheruses|北東アジアの地域名|1932年から1945年まで存在した中国東北部の国家|満洲国|民族名|満洲民族|その他|満洲 (曖昧さ回避)}} {{Redirect|満州|その他|満州 (曖昧さ回避)}} {{表記揺れ案内|表記1=満洲|表記2=滿洲|表記3=満州|議論ページ=[[プロジェクト‐ノート:中国#記事名に「満州」を含むページの改名提案|詳細]]}} {{Chinese | pic = [[File:Northeast China.svg|300px]] | piccap = '''満洲'''(''Manchuria'')は多くの場合、赤色の[[中国東北部]](「[[東三省]]」、[[南満洲|内満洲]])と薄赤色の[[内モンゴル自治区|内モンゴル]]東部を合わせた呼称として用いられる。 | s = {{linktext|满洲}} | t = {{linktext|滿洲}} | p = Mǎnzhōu | w = Man<sup>3</sup>-chou<sup>1</sup> | gr = Maanjou | tp = Mǎnjhou | bpmf = ㄇㄢˇㄓㄡ | mi = {{IPAc-cmn|m|an|3|.|zh|ou|1}} | j = Mun<sup>5</sup>-zau<sup>1</sup> | wuu = Moe<sup>上</sup>-tseu<sup>平</sup> | mnc = ᡩᡝᡵᡤᡳ<br/>ᡳᠯᠠᠨ<br/>ᡤᠣᠯᠣ | mnc_rom = Dergi Ilan Golo | rus = Маньчжурия | rusr = Man'chzhuriya | kanji = {{linktext|満洲}} | kyujitai = 滿洲 | kana = まんしゅう | hepburn = Manshū | kunrei = Mansyû | order = st | c = | ci = | altname = | hangul = {{linktext|만주}} | hanja = 滿洲 | rr = Manju | mr = Manju }} '''満洲'''(まんしゅう、{{ピン音|Mǎnzhōu}}、{{lang-en|Manchuria}})は、黒竜江([[アムール川]])・[[松花江]]流域を中心とする[[ユーラシア]]東北部<ref>[[#杉山|杉山(2008)p.238]]</ref>、現在の[[中華人民共和国|中国]][[中国東北部|東北地方]]から[[ロシア]][[沿海地方]]にかけての地域を指す呼称。「満'''州'''」と表記されることも多いが、語源上「満'''洲'''」が正式な漢字表記である<ref>{{Cite web|和書|title=読むページ {{!}} 生活の中の仏教用語 {{!}} 満洲|url=http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000r55.html|website=www.otani.ac.jp|accessdate=2021-01-14|publisher=大谷大学}}</ref>{{refnest|group="注釈"|「満洲」は語源が地名ではなく、本来は民族名であり、国名でもあるところから地名に転用された語なので、「満州」と表記するのは間違いではないにせよ、正式には「満洲」としなければならない。しかし、満洲の名前はかつての傀儡政権を想起させるため嫌がる人も多いことも注意されたし<ref name="kobayashi16">[[#小林|小林(2008)pp.16-17]]</ref>。}}([[#呼称としての満洲|後述]])。 歴史的に[[ツングース系民族|ツングース系]]諸集団の活動空間であり、ヨーロッパ人が「東のタルタリ (la Tartarie orientale)」と呼び、日本語で東韃と訳され、[[満洲族]]の台頭とともに「満洲族の地 (terres des Mantchoux)」とも言われた<ref>[[#中見2012|中見立夫(2012)『二〇世紀満洲歴史辞典』解説p.2]]</ref>。19世紀以降、日本や欧米では地域名として一般的に用いられるようになり、ロシア沿海地方も含まれていたが、1860年の[[北京条約]]により沿海地方を[[清]]が[[ロシア帝国]]へ割譲して以降、日本や欧米では「満洲」とは「[[東三省]]」地方を意味するようになった<ref>[[#中見2012|中見立夫(2012)『二〇世紀満洲歴史辞典』解説p.4]]</ref>。 「満洲」という言葉は、もともとは[[17世紀]]にはおもに[[民族]]名を指していたが、のちに地域名に転用されたものである。[[19世紀]]以降の日本では満洲および[[満洲国]]とは地域をさし、民族は「満洲族」と呼ぶようになった。 == 満洲の範囲 == [[画像:Greatwall-shanhaiguan-2003-10-s.jpg|thumb|250px|right|山海関]] おおむね北辺は[[スタノヴォイ山脈]]、南辺は[[万里の長城]]、西辺は[[大興安嶺]]、東辺は[[鴨緑江]]・[[図們江]](豆満江)の内側を想定している。しかしながら、歴史的変化に伴いその範囲は伸縮していた<ref>[[塚瀬進]]『マンチュリア史研究 「満洲」六〇〇年の社会変容』吉川弘文館、2014年11月1日、ISBN 978-4-642-03837-9、1頁。</ref>。 [[日本]]で満洲と呼ばれる地域は、[[満洲国]]の建国時の地域全体を意識することが多く、おおよそ、[[中華人民共和国]]の「'''[[中国東北部|東北部]]'''」と呼ばれる、現在の[[遼寧省]]・[[吉林省]]・[[黒竜江省]]の3省と、[[内モンゴル自治区]]の東部を範囲とする<ref name="manju">{{kotobank|満州}}</ref>。この地域は、北と東は[[アムール川]](黒竜江)・[[ウスリー川]]を隔てて[[ロシア]]の[[東シベリア]]地方に接し、南は[[鴨緑江]]を隔てて[[朝鮮半島]]と接し、西は[[大興安嶺山脈]]を隔てて[[モンゴル高原]]([[内モンゴル自治区]])と接している<ref name="manju" />。南西では[[万里の長城]]の東端にあたる[[山海関]]が、[[華北]]との間を隔てている。広義には、[[モンゴル民族]]の居住地域であるが満洲国に属していた内モンゴル自治区の東部を含む{{refnest|group="注釈"|現在の行政区分では、「東四盟」と呼ばれる[[赤峰市]](旧ジョーオダ[[アイマク (内モンゴル)|盟]])・[[通遼市]](旧ジェリム盟)・[[フルンボイル市]](旧フルンボイル盟)・[[ヒンガン盟]]に相当する。}}。 また、[[スタノヴォイ山脈]](外興安嶺)以南、黒竜江以北、ウスリー川以東のロシア領の地域を[[外満洲]]と呼び、場合によってはこの地域をも含むことがある。[[外満洲]]は満洲と同様に、[[ネルチンスク条約]]([[1689年]])で[[清朝]]領とされたが、その後、[[1858年]]にロシアとの間に[[アイグン条約]]を結んで、清領とされてきた外満洲のうち[[アムール川]]左岸をロシアに割譲し、[[ウスリー川]]以東を両国の共同管理とすることとなった<ref name="aigun">{{kotobank|愛琿条約}}</ref>。さらに2年後の[[1860年]]には[[北京条約]]によって、この共同管理地も正式にロシア領となった<ref name="peking">{{kotobank|北京条約}}</ref>{{refnest|group="注釈"|北京条約は[[アロー戦争]]終結のための[[イギリス]]・[[フランス]]との講和条約であった一方、ロシアが清と英仏との講和を斡旋したことから、ロシアの要求を受け入れて同国と結んだ条約である<ref name="peking" />。}}。外満洲を含めた面積は、約1,550,000&nbsp;[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]に及ぶ。 == 呼称としての満洲 == === 由来 === {{see also|満洲民族}} 満洲は本来、地名というより民族名である<ref name="kobayashi16" />。民族名としての「マンジュ」(Manchu、manju、[[満洲民族]])の由来は、16世紀後半の[[ヌルハチ]](死後に[[清|清朝]]の太祖の廟号が贈られた)に遡る。ヌルハチは、自らの集団([[建州女直]])の名称を「マンジュ」、支配領域を「マンジュ・グルン」(manju gurun、満洲国)と呼んだ{{sfn|綿貫哲郎|2021|page=57}}。民族名としては「ジュシェン」(女真/女直)も依然として用いられていたが、清の創始者である[[ホンタイジ]]が、[[元 (王朝)|大元]]の[[玉璽]]([[ハスボー・タムガ]])を入手した翌年の[[1635年]]に、「ジュシェン」を禁止し「マンジュ」の呼称に統一し、漢字表記を「満洲」と定めた<ref name="matsumura156">[[#松村|松村(2006)pp.156-159]]</ref><ref name="matsumura159">[[#松村|松村(2006)pp.159-160]]</ref>。これは「ジュシェン」が「属民」を意味したためであるという。マンジュの[[五行説]]の「水」徳を意識して、民族名の「満」「洲」と王朝名の「清」の漢字はいずれも[[水部|さんずい]]の字が選ばれた{{sfn|岡本隆司|2017|page=99}}{{sfn|綿貫哲郎|2021|page=58}}。 「マンジュ」の由来については諸説あり、一般には民族信仰の対象であった[[仏教]]のマンジュシリ(文殊師利=[[文殊菩薩]]。曼殊・満殊などとも書く)によるといわれることが多い{{sfn|神田信夫|1992|p=98}}{{sfn|綿貫哲郎|2021|page=58}}。しかし近年この通説に対し、ヌルハチの勢力圏がすでに「マンジュ・グルン」と呼称されていたことや、史料ではどれも「マンジュ」と「マンジュシリ」を明確に区別していること等の理由をもって、[[チベット仏教]]由来説を否定する説も提示されている。また、[[建州衛]]の首長の[[李満住]]からとったという説もある{{sfn|綿貫哲郎|2021|page=58}}。 「満洲」が地名として用いられたのは、この地域が満洲民族の故地であったことから、西洋で「満洲」の派生語({{lang-en|Manchuria}}、{{lang-ru|Маньчжурия}})を用いて呼ばれるようになったのが始まりである{{sfn|中見立夫|2006|pp=17-20}}{{sfn|綿貫哲郎|2021|page=62}}。これに押されて[[漢字文化圏]]でもこの地域を「満洲」と呼ぶようになった。なお、「満洲」の語を民族名ではなく地名としても使用するようになったのは、[[江戸時代|江戸期]]の日本であるという説もある。その説では[[高橋景保]]の「日本辺疆略図」([[1809年]])・「新訂万国全図」([[1810年]])が初出とされる。この地図ではネルチンスク条約で定められた国境線の清朝側を「満洲」と表記している。それが[[ヨーロッパ]]に伝わったという{{sfn|綿貫哲郎|2021|page=62}}{{sfn|中見立夫|2006|pp=17-22}}。 === 現代中国 === 現在の[[中華人民共和国]]では地域名称として「満洲」を使うことは避けられ、かわりに「[[中国東北部]]」という表現が用いられる。これは中国における歴史に対する公式見解で、[[満洲国]]の存在を認めず、また満洲の地を太古から不可分の[[中国人]]([[中華民族]])固有の地としているためである。今日の中国では、20世紀の満洲国を清朝の前身である満洲を詐称しているとして、「偽満洲国」の呼び方以外は認めていない。民族名としても「満族」の呼称を使用している{{refnest|group="注釈"|1950年代以降の中国共産党政府による民族識別工作では、蒙古八旗や漢軍八旗の末裔たちを「[[蒙古族]]」や「[[漢族]]」に区分するのではなく、「旗人」全体をまとめて「満族」と区分した。}}。ただし、現在でも「[[満洲里市|満洲里]]」のように一部の地域名としては用いられている。 また、[[中国共産党]]もかつては{{仮リンク|中国共産党満洲省委員会|zh|中国共产党满洲省委员会}}を[[ハルビン市|ハルビン]]に設置するなど、「偽」の字を冠さずに満洲という言葉を使用した例はあった{{refnest|group="注釈"|「中国的夢」を掲げる[[習近平]]が政権に就いてからは、以前にも増していっそう抑圧的な少数民族政策がとられるようになった<ref name="hirano">{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/539782|title=中国が少数民族に抑圧的な政策を採る構造的要因|author=[[平野聡 (歴史学者)|平野聡]]|date=2022-03-21|accessdate=2022-09-10|website=東洋経済 ON LINE|publisher=[[東洋経済新報社]]}}</ref>。}}。 === 日本での「満洲」「満州」表記 === 前述の通り、元来の表記は「満'''洲'''」(旧字体:滿洲)である。しかし、現代日本では(とりわけ満洲国に言及する際に)「満'''州'''」の表記も用いられている。これは一般的には[[当用漢字]]・[[常用漢字]]に「洲」がないためとされるが([[同音の漢字による書きかえ]]){{sfn|神田信夫|1992|p=98}}{{sfn|中見立夫|2006|pp=17-22}}{{sfn|綿貫哲郎|2021|page=64}}{{sfn|中見立夫|2006|pp=25-26}}、「満州」が中国の一部であるという点を強調するためと説明されることもある{{sfn|綿貫哲郎|2021|pages=65-68}}。 また、「満州」表記が広く用いられるようになったのは戦後であるが、それ以前にも用例が無いわけではない。例えば、[[間宮林蔵]]の『東韃地方紀行』(1810年)、[[満鉄調査部|満鉄歴史調査室]]の『満洲歴史地理』第1巻(1913年)では「滿洲」と「滿州」が混用されている{{sfn|中見立夫|2006|pp=20-22}}{{sfn|綿貫哲郎|2021|pages=68-69}}。また、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[通報艦]]の[[満州 (通報艦)|満州]]は、ロシア語で満洲地域を表すマニジューリヤ({{lang-ru|Маньчжурия}})を改称したものであるが、[[1920年|大正9年]]8月13日の官報や[[1930年|昭和5年度]]海軍省年報では「滿州」と表記されている<ref>{{Cite journal|和書|year=1920|date=1920-08-13|title=敍任及辭令|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954524/3|journal=官報|editor=大蔵省印刷局|publisher=日本マイクロ写真|issue=2410|page=317}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|year=1924|title=第三編 海軍:第一 軍艦|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1447287/36|journal=昭和5年度海軍省年報|editor=海軍大臣官房}}</ref>。 一方で、清朝史研究者を中心に、「満'''州'''」表記は誤りであり「満'''洲'''」の表記を用いるべきという主張がなされている。その根拠は、 * 固有名詞であるため、別字で代替すべきでない(満/滿と異なり、州/洲は同字の旧字体/新字体ではない)。現に「[[八重洲]]」「[[洲本市|洲本]]」「[[長洲一二]]」などは「洲」のまま表記されており、満洲のみ「州」に置き換えるのはおかしい{{sfn|岡本隆司|2017|page=99}}{{sfn|中見立夫|2006|pp=25-26}}{{sfn|神田信夫|1992|pp=98-99}}{{sfn|綿貫哲郎|2021|pages=63-64}}。 * 五行の水徳を意識してさんずいのつく「洲」を選んでいる([[#由来|前述]])のだから、さんずいのない「州」を用いるべきではない{{sfn|岡本隆司|2017|page=99}}。 * 「満洲」は「[[杭州]]」「[[蘇州市|蘇州]]」などとは成り立ちが異なるのであるから、中国の地名だから「州」でいいと考えるのは誤っている{{sfn|岡本隆司|2017|page=99}}{{sfn|綿貫哲郎|2021|page=67}}。 などが挙げられている{{refnest|group="注釈"|実際に、近年の中国史の概説書の多くは「満洲」表記を用いている<ref>{{Cite book|和書|author=増井経夫|author-link=増井経夫|title=大清帝国|year=2002|publisher=講談社|series=講談社学術文庫1526}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=上田信|author-link=上田信 (歴史学者)|title=海と帝国 : 明清時代|year=2002|publisher=講談社|series=中国の歴史9}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=神田信夫|title=明-清|year=1994|publisher=山川出版社|series=世界歴史大系}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=概説中国史 下|year=2016|publisher=昭和堂|chapter=清|author=岡本隆司|editor1-first=至|editor1-last=冨谷|editor1-link=冨谷至|editor2-first=憲司|editor2-last=森田}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=岡本隆司|title=「中国」の形成 : 現代への展望|year=2020|publisher=岩波書店|series=中国の歴史5}}</ref>。}}。 == 満洲略史 == {{満州の歴史}} === 近代以前 === 歴史的にこの地域は、古くは[[遼河文明]]が栄え、その後は主にツングース系諸民族や[[濊貊]]族などの北方諸民族の興亡の場であった<ref name="kotozoku">{{kotobank|満洲族}}</ref>。北方民族のみならず、西部からはモンゴル系、東部からは朝鮮系の民族が勢力を張る事もあり、南部からは記録上[[周|周王朝]]に周に属する[[燕 (春秋)|燕]]が勢力を伸ばし、後に[[遼東郡]]・[[遼西郡]]などが置かれていた。この頃の[[万里の長城]]は現在より北に位置し遼西・遼東をも囲んでいた。[[三国時代 (中国)|三国時代]]には[[公孫氏 (遼東)|公孫氏]]の地盤となり、[[公孫瓚]]が群雄の一人として勢力を張り、[[公孫淵]]が自立を図るなどしている。周王朝の時代から[[粛慎 (中国)|粛慎]]が遊牧しており、時代と共に[[挹婁]]・[[勿吉]]・[[靺鞨]]へと古代中国側から見た名称は変遷した<ref name="kotozoku" />。 満洲の南部には濊貊族が建てた[[夫余]]([[前1世紀]]から[[5世紀]])、夫余の王族が建てたとされる[[高句麗]]([[前1世紀]]から[[7世紀]])、靺鞨族の建てた[[渤海 (国)|渤海]]([[698年]]から[[926年]])など、モンゴル系とされる[[鮮卑]]の[[前燕]]・[[後燕]]などや[[契丹]]の[[遼]]([[916年]]から[[1125年]])なども存在した。チベット系の[[氐]]族の立てた[[前秦]]([[351年]]から[[394年]])の支配が一部及んだ事もある。[[12世紀]]には靺鞨の子孫とされる[[女真族]]が[[金 (王朝)|金]]を建国、遼と[[北宋]]を滅ぼして中国北半分をも支配するに至る<ref name="kawauchi230">[[#河内|河内(1989)pp.230-232]]</ref><ref name="mikami819">[[#三上|三上(1975)pp.819-823]]</ref>。 金はモンゴル民族の[[モンゴル帝国]]([[元 (王朝)|元朝]])に滅ぼされ、この地は元朝の支配下に入る([[モンゴルのマンチュリア侵攻]])<ref name="kawauchi230" />。次いで元朝は[[漢民族]]の[[明|明朝]]に倒され、一時は明朝の支配下となり、明朝に[[山海関]]と名付けられることになった長城最東端の'''関'''よりも外の土地という意味で「関外の地」、あるいは、関よりも東の土地という意味で「[[関東 (中国)|関東]]」とも呼ばれた。後に女真族等、現住氏族居住域は冊封による間接統治に改められたが、[[撫順市|撫順]]などの拠点は残されており、遼西・遼東の地は万里の長城の支線が囲っており、明の支配下にあった<ref name="ishibashi131">[[#石橋|石橋(2000)pp.131-132]]</ref>。 17世紀に女真族から名称変更した満洲族が[[後金]]を起こして同地を統一支配した後、[[国号]]を改めた[[清|清朝]]が明朝に代わり、満洲地域及び[[中国内地]]全体が満洲民族の支配下に入る<ref name="ishibashi131">[[#石橋|石橋(2000)pp.131-132]]</ref>。清朝は建国の故地で後金時代の皇居([[瀋陽故宮]])がある満洲地域を特別扱いし、奉天府を置いて治めた。後には奉天府を改めて[[東三省総督]]を置き、東省または[[東三省]]([[遼寧省|奉天]]・[[吉林省|吉林]]及び[[黒竜江省|黒竜江]]の3省)と呼んだ。 当初は[[1653年]]から[[1668年]]まで[[遼東招民開墾令]]をはじめとする勧民招墾の諸法令を公布し、漢族の満洲植民を奨励していたが、1740年以降は封禁政策を取り漢民族が移入することを禁じた<ref name="mikami819" />。一方、17世紀以降、[[ロシア・ツァーリ国]](のちロシア帝国)の東漸運動が顕著になり、ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が数度起きた([[清露国境紛争]])。[[ヴァシーリー・ポヤルコフ]]や[[エロフェイ・ハバロフ]]など、ロシア人の探検隊が黒竜江([[アムール川]])流域に南下・侵入し、村落を焼いたり捕虜をとったり毛皮を取り立てたりして植民地化の動きを見せたため、これを追い出し国境を定める必要が生じた。[[1689年]]に[[ネルチンスク条約]]が締結され、国際的にも満洲全域が正式に清朝の国土と定められた<ref name="katoh454">[[#加藤|加藤(1989)pp.454-456]]</ref><ref name="kishimoto345">[[#岸本|岸本(2008)pp.345-347]]</ref>{{refnest|group="注釈"|[[雍正帝]]時代の[[1727年]]には西方で[[キャフタ条約 (1727年)|キャフタ条約]]を結んだ<ref name="kishimoto345" />。ネルチンスク条約・キャフタ条約が正式に破棄されたのは、1860年の北京条約においてであった<ref name="kishimoto345" />。}}。その後、清朝はロシアの脅威に対抗するため、兵士を駐屯させた。 西側の境界については、清朝が1734年([[雍正帝|雍正]]12年)に[[ハルハ]]東端部([[外蒙古]])と[[フルンボイル市|フルンボイル]]平原南部の新バルガ([[内蒙古]])との境界を定め、[[ボグド・ハーン政権|モンゴル]]の独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]の間で踏襲されてきた。 === 近代 === [[ファイル:MANCHURIA-U.S.S.R BOUNDARY Ct002999.jpg|250px|left|thumb|清露国境の変遷 ---- 太い赤線がネルチンスク条約(1689年)での国境線。黄土色部分はアイグン条約での、朱色部分は北京条約でのロシア獲得地。 ]] しかし、王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出を抑えきれなかった。[[1858年]]5月28日の[[アイグン条約]]、[[1860年]]11月14日の[[北京条約]]の2つの[[不平等条約]]によって、満洲地域の黒竜江以北及び[[ウスリー川]]以東のいわゆる[[外満洲]]地域はロシアに割譲されることとなった<ref name="aigun" /><ref name="peking" />。そして1860年には[[特普欽]]らの献策を容れて政策を転換し、東三省への漢族の移住を認め、農地開発を進めて、次第に荒野を農地に変化させた。この民族移動のことを「[[闖関東]]」という。漢人人口は急増して満洲人人口を上回り、その生活域は蚕食された。1860年の満洲([[遼寧省|遼寧]]・[[吉林省|吉林]]・[[黒竜江省|黒竜江]]の[[東三省]])の人口は320-370万人ほどと見積もられており、それが、1908年には1583万あるいは1734万人、1931年の満洲事変前には3000万人、1945年の満洲国崩壊前には[[熱河省 (満洲国)|熱河省]]も含めて4500万人まで増加している{{refnest|group="注釈"|清朝崩壊後、満洲へは社会不安から流民となった漢民族の移入が急増したともいわれるが、清朝崩壊前と後では人口増加率に大きな違いはない。}}。また、[[イギリス]]領事館が[[営口市|営口]]に置かれるなど外国人勢力が満洲の南方からも入り込んで、満洲人の故郷は大きな変貌を遂げた<ref name="mikami819" />。 [[1900年]]には[[義和団の乱]]に乗じてロシアが満洲を軍事占領した<ref name="asada38">[[#麻田|麻田(2008)pp.38-44]]</ref>。このとき、ロシア軍によって[[ブラゴヴェシチェンスク]]で清国人数千人が虐殺される[[アムール川事件]]が起きている。戦後、[[北京議定書]]が結ばれ、日本は北京と天津に[[支那駐屯軍|清国駐屯軍]](後に支那駐屯軍)を置く権利を得た。一方、乱後も満洲に駐兵を継続したことについて、他の列強や清国から批判を受けたロシアが、満洲からの撤退を3度にわたっておこなうことなどを清国との間で取り決めた[[満洲還付条約]]が[[1902年]]に結ばれた<ref name="asada46">[[#麻田|麻田(2008)pp.46-50]]</ref>。 [[1904年]]から勃発した[[日露戦争]]は日本の勝利に終わり、[[ポーツマス条約]]によって、[[ロマノフ王朝]]の満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益のうち、南満洲に属するものは日本へ引き渡された<ref name="asada50">[[#麻田|麻田(2008)pp.50-55]]</ref>。弱体化した清朝は[[1911年]]の[[辛亥革命]]で倒された<ref name="kobayashi49">[[#小林|小林(2008)pp.49-51]]</ref>。翌[[1912年]]成立した[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]は清朝領土の継承を宣言し、[[袁世凱]]の勢力圏であった満洲も中華民国政府の統治下に入った<ref name="kobayashi49" />。しかし、袁世凱と[[孫文]]の対立から、中華民国は各地域の軍閥による群雄割拠の状態となり、満洲でも[[張作霖]]の[[軍閥]]が台頭しその支配下となる<ref name="kobayashi49" /><ref name="suzuki116">[[#鈴木|鈴木(2021)pp.116-118]]</ref>。 [[1905年]]に[[欧米]]視察旅行をおこなった[[白鳥庫吉]]は、日本の[[東洋学|アジア研究]]の遅れを痛感し、[[後藤新平]]に「満洲の歴史編纂の急務」と題する[[手紙|書簡]]を送り、「満洲の地は[[漢民族|漢人種]]と[[北狄|北方諸民族]]と[[朝鮮民族|韓民族]]との会合点にあり、此の地に勢を得しもの常に四隣を脅かして東亜の形勢を変動せしめ、[[朝鮮半島|韓半島]]は其の南下の衝に当りて常に之に[[征服|圧服]]せられ、我が国また之によって至大の影響をうくというにあり」という認識にたち、満洲研究が最も緊切必要であることを説いている<ref>{{Cite journal|和書|author=[[酒寄雅志]]|date=1999-12|title=渤海史研究と近代日本|journal=駿台史學|volume=108|publisher=[[明治大学史学地理学会]]|url=https://hdl.handle.net/10291/1522|page=7|naid=120001438972 }}</ref>。 {{Gallery |width=220 |File:Picture of Manchurian Plague victims in 1910 -1911.jpg|[[1910年]]から[[1911年]]の満洲における[[ペスト]]の犠牲者 |File:Nikolayevsk Incident-1.jpg|[[1920年]]の[[尼港事件]]で焼け落ちた日本領事館 }} 北満洲におけるロシア権益は保持されていたが、[[第一次世界大戦]]や[[ロシア革命]]の混乱により支配力は低下し、ロシア革命に対する干渉戦争として行われた[[シベリア出兵]]により、外満洲に属する[[ウラジオストク]]を連合軍が、北満洲及び外満洲の大部分、さらにはバイカル湖周辺までを日本軍が占領する事になった。[[1920年]]には日本占領下の[[ニコラエフスク]]を[[赤軍]]パルチザンが襲撃し、破壊と住民虐殺が行われ6,000人余りが処刑され、日本人も700人余りが殺戮された([[尼港事件]])。日本以外の連合軍は[[1920年]]に、日本は[[1922年]]に撤退し占領は解除された。 [[ソビエト連邦]]は東清鉄道の経営権をロシアから継承していたが、[[1928年]]に満洲を実効支配する[[張学良]]政権はこの権益の武力による略奪を行おうとした<ref name="kobayashi56">[[#小林|小林(2008)pp.56-61]]</ref>。これに対しソ連は権益地を有する北満洲に侵功、占領し、中華民国軍を破り[[東清鉄道|中東鉄道]]の権益を確保し、権益を再確認する協定を結んだ後撤退した([[中東路事件]])<ref name="kobayashi71">[[#小林|小林(2008)pp.71-72]]</ref>。一方、張学良政権は排外主義政策を打ち出し、排日策を展開した<ref name="suzuki118">[[#鈴木|鈴木(2021)pp.118-120]]</ref>。 === 現代 === {{see also|満洲事変|満洲国|中ソ国境紛争}} [[ファイル: Manchukuo map.png|thumb|250px|left|満洲国の領域]] [[1931年]]に日本([[大日本帝国]])は自ら起こした[[柳条湖事件]]を契機に、権益地が含まれる南満洲のみならず満洲全域を侵攻、占領した([[満洲事変]])<ref name="kobayashi90">[[#小林|小林(2008)pp.90-92]]</ref>。翌[[1932年]]に[[満洲国]]を建国した<ref name="kobayashi92">[[#小林|小林(2008)pp.92-95]]</ref><ref name="suzuki129">[[#鈴木|鈴木(2021)pp.129-132]]</ref>。満洲国は清朝最後の[[皇帝]]であった[[愛新覚羅溥儀]]を元首([[執政]]、のち[[皇帝]])とした<ref name="kobayashi92" /><ref name="suzuki129" />。満洲国は事実上日本の支配下となり、[[傀儡政権]]と称された。日本は[[南満洲鉄道]]や[[満洲重工業開発]]を通じて産業投資を行い<ref name="suzuki170">[[#鈴木|鈴木(2021)pp.170-172]]</ref>、品種改良で寒さに強い品種を植えることで不毛の地ばかりだった満洲に農地が多数開墾され、荒野には工場を建設して開発した。満洲で治安が良くなり、交通が開け、貨幣が統一された。満洲国建国以前の満洲では、軍閥が独自紙幣を発行し、奥地になるほど治安が悪く、農民は安心して耕作ができなかった。満洲国は統一した通貨を発行して、満洲各地で流通させたことで信頼のある貨幣経済が成立した。奥地にまで道路や鉄道が建設され、治安が良くなると農民も農作物を市場に出して稼ぐようになった。電話線など通信網も張りめぐらせ、奥地など満洲の地方にも病院や工場、また初等教育への進学率も低かったが、学校も設立した。日本による投資を受けて経済的に豊かになり、群雄割拠状態で乱れていた中華民国時代からの突然の経済発展を受けて、中華民国側から豊かさを求めて多くの移民が流入した。そのため、満洲国地域における日本人以外の人口は満洲国建国以前よりも増加した。背景には[[インフラストラクチャー]]がほとんどなかったが投資・開発を受けて居住可能地域が増加したこと、日本から持ち込まれた品種からも農耕作可能地域が増加したことにある。満洲国が成立した1932年には約3000万人だったが終戦までには約4500万人に増加した{{refnest|group="注釈"|ただし、人口増加率で見ると満洲建国前と大差はないといわれている。}}。3万人の小さな町が近代都市に発展して、約13年間で300万人に膨れ上がっている<ref>[[#黄|黄(2006)p.56]]</ref>。 また、満洲国はモンゴルとの境界線について、自領を広げる形で新たに[[ハルハ川]]を境界として主張し、それを認めない[[モンゴル人民共和国]]との間で武力衝突([[ノモンハン事件]])を起こした。 [[1945年]]8月9日、[[第二次世界大戦]]終結直前にソ連軍が満洲に侵攻<ref name="kobayashi248">[[#小林|小林(2008)pp.248-249]]</ref><ref name="suzuki302">[[#鈴木|鈴木(2021)pp.302-304]]</ref>。皇帝溥儀は退位と満洲帝国の廃止を宣言し<ref name="kobayashi248" />、日本に逃亡を図るが失敗に終わった<ref name="suzuki307">[[#鈴木|鈴木(2021)pp.307-310]]</ref>。ソ連は満洲を占領し、南満洲鉄道を接収して中華民国との共同管理下に置き([[中国長春鉄路]])、[[1946年]]に撤収するまでさまざまな鉄道施設や工場施設、[[発電所]]・[[変電所]]などを接収した<ref name="kobayashi248" /><ref name="suzuki310">[[#鈴木|鈴木(2021)pp.310-313]]</ref>{{refnest|group="注釈"|その被害は8億ドルとも20億ドルともいわれる<ref name="kobayashi248" />。}}。ソ連による満洲占領は長引き、中華民国への返還は遅れた(東北問題)。 その後、[[中国共産党]]が[[国共内戦]]に勝利し、[[1949年]]、満洲は[[中華人民共和国]]の領土となった<ref name="suzuki310" />。しばらくはソ連との結びつきの強い[[高崗]]が独自の地方運営を行っていた<ref>[[#天児|天児(2004)p.117]]</ref>。しかし高崗は[[1954年]]、[[毛沢東]]によって[[粛清]]されている。満洲地域は満洲国時代のインフラ整備・開発政策の成果が残っていたため、共産主義体制下の中華人民共和国でも活用され、比較的豊かな土地であった<ref name="suzuki314">[[#鈴木|鈴木(2021)pp.314-316]]</ref>。しかし、[[1990年代]]以降の[[改革開放|改革開放政策]]により、[[上海市|上海]]や[[深圳市|深圳]]など[[華東]]・[[華南]]の[[経済特区]]の経済成長が著しくなる一方、満洲国時代のインフラのままだったことで、逆に経済的には立ち遅れた地域となった<ref>[[#黄|黄(2006)p.143]]</ref>。 中国政府はインフラ設備の更新や古い工場の立替、外資の導入、[[遼東半島]]を含む[[環渤海経済圏]]を設定した{{refnest|group="注釈"|この経済圏は中国東北部、[[華北]]、[[華東]]にまたがり、[[瀋陽市]]、[[青島市]]、[[大連市]]、[[煙台市]]など[[黄海]]沿岸の渤海沿岸地域に隣接する都市も経済圏内に含まれる<ref>{{cite web|url=http://he.ce.cn/ztpd/hbyhkfx/yhxt/201305/26/t20130526_910421.shtml|title=环渤海经济圈介绍:天然的聚宝盆|work=中国经济网|language=中国語|date=2014-06-08|accessdate=2015-11-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151102061813/http://he.ce.cn/ztpd/hbyhkfx/yhxt/201305/26/t20130526_910421.shtml|archivedate=2015-11-02}}</ref>。}}。 また21世紀初頭には、中国とロシアとの間に明確な[[中露国境|国境]]を画定する動きが高まりつつあるなか、[[2004年]]に中露国境協定が結ばれ、[[2008年]][[10月14日]]に、議定書発効により国境が確定した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{reflist|30em}} == 参考文献 == === 雑誌 === * {{Citation|和書|author=神田信夫|author-link=神田信夫|year=1992|title=満洲という呼称|journal=満学五十年|publisher=刀水書房}} * {{Citation|和書|author=中見立夫|author-link=中見立夫|year=2006|title=歴史のなかの“満洲”像|journal=満洲とは何だったのか|publisher=藤原書店}} * {{Citation|和書|author=岡本隆司|author-link=岡本隆司|year=2017|date=2017-09-23|title=満洲を「満州」と書く歴史への無知・鈍感|url=https://premium.toyokeizai.net/articles/-/16503|journal=週刊東洋経済|page=99}} * {{Citation|和書|author=綿貫哲郎|year=2021|title=「満洲」と「満州」:ある清朝史研究者の憂鬱|url=https://www.amazon.co.jp/gp/product/B093Y3XVZP/|journal=中国史史料研究会会報|volume=12}} * {{Cite journal|和書|author=[[酒寄雅志]]|date=1999-12|title=渤海史研究と近代日本|journal=駿台史學|volume=108|publisher=[[明治大学史学地理学会]]|url=https://hdl.handle.net/10291/1522|page=7|naid=120001438972 }} === 書籍 === * {{Cite book|和書|author=麻田雅文|authorlink=麻田雅文|year=2014|month=8|title=満蒙 日露中の「最前線」|publisher=[[講談社]]|series=講談社選書メチエ|isbn=978-4-06-258583-5|ref=麻田}} * {{Cite book|和書|author=天児慧|authorlink=天児慧|year=2004|month=5|title=中国の歴史11 巨龍の胎動 毛沢東vs鄧小平|publisher=講談社|isbn=9784062740616|ref=天児}} * {{Cite book|和書|author=石橋崇雄|authorlink=石橋崇雄|year=2000|month=1|title=大清帝国|publisher=講談社|series=講談社選書メチエ|isbn=4-06-258174-4|ref=石橋}} * {{Cite book|和書|author1=岡田英弘|author2=神田信夫|author3=松村潤|year=2006|month=5|title=紫禁城の栄光|publisher=講談社|series=[[講談社学術文庫]]|isbn=4-06-159784-1}} ** {{Cite book|和書|author=松村潤|authorlink=松村潤|year=2006|chapter=第7章 大元伝国の璽|title=紫禁城の栄光|publisher=講談社|ref=松村}} * {{Cite book|和書|editor=[[貴志俊彦]]・松重充浩・松村史紀|year=2012|month=12|title=二〇世紀満洲歴史事典|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4-642-01469-4}} ** {{Cite book|和書|author=[[中見立夫]]|editor=貴志・松重・松村|year=2012|chapter=二〇世紀における「満洲/Manchuria」とは?|title=二〇世紀満洲歴史事典|publisher=吉川弘文館|ref=中見2012}} * {{Cite book|和書|author1=岸本美緒|authorlink1=岸本美緒|author2=宮嶋博史|authorlink2=宮嶋博史|year=2008|month=9|title=世界の歴史12 明清と李朝の時代|publisher=[[中央公論新社]]|series=中公文庫|isbn=978-4-12-205054-9}} ** {{Cite book|和書|author=岸本美緒|year=2008|chapter=7章 清朝の平和|title=世界の歴史12 明清と李朝の時代|publisher=中央公論新社|ref=岸本1}} * {{Cite book|和書|author=黄文雄|authorlink=黄文雄|year=2006|month=|title=今こそ中国人に突きつける 日中戦争真実の歴史|publisher=徳間書店|isbn=|ref=黄}} * {{Cite book|和書|author=小林英夫|authorlink=小林英夫|year=2008|month=11|title=〈満洲〉の歴史|publisher=講談社|series=講談社現代新書|isbn=4-06-258174-4|ref=小林}} * {{Cite book|和書|editor=左近幸村|editor-link=左近幸村|year=2008|month=12|title=近代東北アジアの誕生—跨境史への試み—<small>北海道大学スラブ研究センター スラブ・ユーラシア叢書4</small>|publisher=[[北海道大学|北海道大学出版会]]|series=|isbn=978-4-8329-6700-7}} ** {{Cite book|和書|author=杉山清彦|authorlink=杉山清彦|edotor=左近幸村|year=2008|chapter=大清帝国のマンチュリア統治と帝国統合の構造|title=近代東北アジアの誕生—跨境史への試み|series=スラブ・ユーラシア叢書|publisher=北海道大学出版会|ref=杉山}} * {{Cite book|和書|author=鈴木貞美|authorlink=鈴木貞美|year=2021|month=2|title=満洲国 交錯するナショナリズム|publisher=[[平凡社]]|series=平凡社新書|isbn=978-4-582-85967-6|ref=鈴木}} * {{Cite book|和書|editor=フランク・B・ギブニー|year=1975|month=5|title=ブリタニカ国際大百科事典18 ペチ-ミツク|publisher=[[TBSブリタニカ|ティビーエス・ブリタニカ]]}} ** {{Cite book|和書|author=三上次男|authorlink=三上次男|chapter=満州|year=1975|title=ブリタニカ国際大百科事典18|publisher=ティビーエス・ブリタニカ|ref=三上}} * {{Cite book|和書|editor=三上次男・[[神田信夫]]|year=1989|month=9|title=東北アジアの民族と歴史|series=民族の世界史3|publisher=山川出版社|isbn=4-634-44030-X}} ** {{Cite book|和書|author=河内良弘|authorlink=河内良弘|chapter=第2部第I章2 契丹・女真|editor=三上・神田|year=1989|title=東北アジアの民族と歴史|series=民族の世界史3|publisher=山川出版社|ref=河内}} ** {{Cite book|和書|author=加藤九祚|authorlink=加藤九祚|chapter=第2部第III章 ロシア人の進出とシベリア原住民|editor=三上・神田|year=1989|title=東北アジアの民族と歴史|series=民族の世界史3|publisher=山川出版社|ref=加藤}} == 関連項目 == * [[南満洲]]・[[外満洲]] * [[満洲国]] * [[李成梁]] * [[女真]] * [[関東州]] * [[靺鞨]] * [[満洲善後条約]] * [[露清密約]] * [[日露戦争]] * [[羽毛恐竜]] - 南満洲に相当する遼寧省で化石が多数発見されている。 * [[満洲関係記事の一覧]] == 外部リンク== * [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112014/ 全満洲名勝写真帖](松村好文堂、1939) * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:まんしゆう}} [[Category:満洲|*]] [[Category:満洲国]] [[Category:中国の地理]] [[Category:中国の歴史的地域]] [[Category:ロシアの地域]]
2003-08-10T17:56:45Z
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[ "Template:Cite journal", "Template:Cite book", "Template:ピン音", "Template:Lang-en", "Template:See also", "Template:Sfn", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Otheruses", "Template:Redirect", "Template:表記揺れ案内", "Template:Gallery", "Template:Cite web", "Template:Lang-ru", "Template:Kotobank", "Template:Citation", "Template:Normdaten", "Template:Chinese", "Template:Refnest", "Template:仮リンク", "Template:満州の歴史", "Template:Reflist" ]
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政党制
政党制(せいとうせい)とは、政党政治の担い手である政党を構成要素とする制度やシステム。政党システム、政党機構、政党体系、政党制度とも。 従来の類型と分析は、主に政党の数に焦点を当てて「一党制、二党制、多党制」などに分類することが一般的だった。 ジョヴァンニ・サルトーリは数に加えて政党間の関係やイデオロギーへの移入度などを指標に追加し、「一党制(一党独裁制)、ヘゲモニー政党制、一党優位政党制、二党制(二大政党制)、穏健な多党制、分極的多党制、原子化政党制」の7つに分類した。二党制と多党制の間よりも穏健な多党制と分極的多党制の間に決定的な分割線があるとした。 アーレンド・レイプハルトは有効議会政党数を使用して「2党制、2.5党制、優位政党のある多党制、優位政党のない多党制」に分類した。 社会的・経済的要因、歴史的・文化的要因、選挙制度などの技術的要因は各国の政党制を決定する。小選挙区制や一回投票制は二党制を生む傾向があり、比例代表制や二回投票制は多党制を生む傾向がある。 類型と分析において影響力があったのはモーリス・デュヴェルジェの検証だった。デュヴェルジェは一党制、二党制、多党制に三分し、その中で二党制を推奨した。政治対立は二者の対立になるものであり、中間的な立場は不自然であるため、二党の対立が良いと考えた。また、小選挙区制が二党制を生み、比例代表制が多党制を生むという「デュヴェルジェの法則」を提唱した。 この三分法では、一党制は独裁を、多党制は混乱をもたらすとされた。二党制のアメリカとイギリスが最も優れているとされた。 1970年代以後の修正では、多党制は必ずしも混乱をもたらさないことが示された。 1970年代にサルトーリは数とイデオロギーを基準にした類型を提唱し、政治学者に広く受け入れられた。サルトーリはまず非競合的なものと競合的なものに分類し、次に数とイデオロギーによって分類した。 競合的かつ非効率的な民主主義として一党優位政党制と分極的多党制を指摘した。一党優位政党制に入れられたのはジャワハルラール・ネルーやインディラ・ガンディーの時代におけるインドなどである。分極的多党制に入れられたのはサルトーリの母国であるイタリア、ヴァイマル共和政のドイツ、フランス第三共和政のフランス、フランス第四共和政のフランスなどである。これらの政党制における特徴は、イデオロギーの差異が大きいことである。 競合的かつ効率的な民主主義として二大政党制と穏健な多党制を指摘した。二大政党制に入れられたのはアメリカ、イギリスなどである。穏健な多党制に入れられたのはベネルクス三国などである。これらの政党制における特徴は、イデオロギーの差異が小さいことである。 サルトーリの念頭にあったのは、デュベルジェに対する批判ではなく、その拡張である。デュベルジェは二党制が効率的な民主主義であると結論づけたものの、サルトーリは穏健な多党制も効率的な民主主義であると結論づけた。 様々な修正を受けながらも、この分析は最も大きな影響力を持つものとして政治学者の間で広く受け入れられている。 反論したのはレイプハルトである。レイプハルトは政治制を取り扱ったものの、政党制が理論の核とも言える重要性を持つ。 レイプハルトは有効議会政党数を手がかりに、2党制、2.5党制、優位政党のある多党制、優位政党のない多党制とに分類した。その上で2党制と2.5党制とを多数決型民主主義またはウェストミンスター・システム・モデルとし、優位政党のある多党制と優位政党のない多党制とを合意形成型民主主義またはコンセンサス・システム・モデルとした。サルトーリによる分析との関連性は以下の通りである。 そして、レイプハルトは多くの面において多数決型民主主義より合意形成型民主主義が優れているという分析を36か国の検証により提唱した。マイノリティの代表性における度合いでは高いことに加えて、経済的業績では両者に有意な差がないことを主張している。サルトーリはレイプハルトに「全く付いてゆけない」と再反論している。 無党制は政党活動が禁止されているか、事実上存在しない間接民主主義である。前者は1986年から2005年までのウガンダであり、後者はミクロネシアである。全議員が無所属という形となる。 一党独裁制、一党制、ヘゲモニー政党制は独裁政治である。一党独裁制はナチス・ドイツなどである。一党制はソビエトなどである。ヘゲモニー政党制は東ドイツなどである。 複数政党制はロシアなどである。 一大政党制はラジーヴ・ガンディーの時代におけるインドなどである。 三大政党制は西ドイツなどである。 北欧五党制はスカンディナヴィア三国などである。有効議会政党数は五党という形となる。 原子化政党制はマレーシアなどである。混乱期や政治体制の移行期、いわゆる「上からの民主化」が成された国家などに多くみられるとされる。マレーシアの他に、クライアンテリズム(恩顧主義)の影響力が強く政党の組織力が弱いフィリピン、王権の強い立憲君主制のタイなどが原子化政党制に近いとされるが、相違点もある。 サルトーリはフランス第五共和政における二回投票制が優れた選挙制度であるという結論を著述している。 フランス第五共和政のフランスは二大政党制と穏健な多党制の中間的な政党制となる二大ブロック制または二ブロック的多党制である。二つの政党群が選挙によって競い合い、勝者となる政党群におけるリーダー格である政党の党首が首班指名を受けるのがサルトーリの想定である。 しかし、近年のフランスでは第三勢力の国民連合が台頭してきているほか、イギリスやカナダでも伝統的なトーリー党・ホイッグ党・レイバー党が併存している状況となっているため、想定外の事態になっていると言えなくもない。1993年以降のイタリアにおける状況の方が想定に近いものの、小選挙区制と比例代表制が混在している選挙制度には批判もある。なお、サルトーリは母国のイタリアで選挙制度改革による分極的多党制の解消と二大政党制の実現を目指している。 日本の政治家も政党制のあり方に対する支持・不支持を表明している。国民民主党は二大政党制を推奨しており、社会民主党は穏健な多党制を推奨している。 冷戦の終了とグローバル化・情報化の進展は影響を与えつつある。 日本の政党は、1874年1月の征韓論論争に敗れて下野した板垣退助が結成した愛国公党に起源を持つ。1881年には自由党、1882年には大隈重信の立憲改進党が結成された。フランス流進歩主義やイギリス流自由主義を目指す民党と吏党は対立関係となったため、政府は民党を取り締まったり、ドイツ流保守主義を目指す御用政党の立憲帝政党を創設したりしたものの、有効な対策とならなかった。1889年に明治憲法が制定された後も政府はしばらく議会や政党に対して超然主義を採ったものの、日清戦争で政府と民党の協力関係が成立したのを契機に流れが変わり、1898年には自由党と進歩党が合同して憲政党を結成し、日本最初の政党内閣として「隈板内閣」が誕生した。 憲政党が自由党系の憲政党と改進党系の憲政本党に分裂し、前者は1900年に伊藤博文の立憲政友会を結成した。これを与党とした第4次伊藤内閣は政党政治に道を開いた。 一方の憲政本党は1910年の立憲国民党、1913年の立憲同志会、1916年の憲政会を経て、1927年に立憲民政党となった。そして明治時代末まで政友会の西園寺公望と立憲同志会の桂太郎による政権交代が繰り返された。 さらに二度の「憲政擁護運動」に代表される大正デモクラシーを経て「憲政の常道」による慣例が生まれ、政友会と民政党による政党政治が展開されるようになった。 またロシア革命や資本主義の高度化による労働者階級の発展などを背景として日本共産党(1922年結党、1935年中央委員会壊滅)や労働農民党(1926年結成、後に分裂して日本労農党、社会民衆党、全国大衆党結党)などの無産政党が出現するようになり、1928年の普通選挙では無産政党から計8名の当選者が出ている。 政党は財界から多額の選挙資金を必要とするようになり、様々な汚職事件を起こすようになった。「政党政治の腐敗」による批判から青年将校や国家主義団体などの間で政党政治打倒を目指す動きが活発となった。それが事件となって表れたのが1932年に青年将校が中心となって起こした五・一五事件だった。首相の犬養毅は暗殺されて政党内閣の犬養内閣が崩壊し、政友会の後継総裁となった鈴木喜三郎に大命降下はされなかった。退役海軍大将の斎藤実が首相になり、政友会と民政党から閣僚を採用して挙国一致内閣を組織した。退役海軍軍人を首班とする内閣の発足を経て「憲政の常道」による政党政治は終焉した。 政治の新体制運動も盛んになり、1940年10月には各政党が解散して大政翼賛会に合流した。大政翼賛会は政治結社のため、一党独裁制には該当しない。 アメリカ軍占領下で無産政党に連なる政治家たちが革新政党の集合体として日本社会党を結成し、また保守政党に連なる政治家たちが日本自由党、日本進歩党、日本協同党などに分裂して派閥を取り込む包括政党を結成した。1947年に日本国憲法が施行され、1948年秋まで日本社会党と民主党による連立内閣(片山内閣、芦田内閣)が続き、吉田茂の自由党内閣が続いた。 1955年の保守合同で自由民主党が誕生し、40年近く同党の一党優位体制が続いた(自民党の派閥による55年体制)。1993年の総選挙で自民党は過半数を下回って宮澤内閣は敗北し、日本新党の細川護熙を首班とする日本新党、新党さきがけ、新生党、社会党、公明党による非自民・非共産連立政権が成立し、55年体制は崩壊した。非自民政権は短期間で崩壊し、社会党と自民党の連立による村山内閣を経て、1999年から自民党は公明党と連立するようになった。その間、非自民・非共産勢力が結集し、民主党を結党。民主党が自民党の議席数に迫るなど自民党の一党優位体制が崩壊し、二大政党制になりつつあった。2009年の総選挙における民主党大勝で再び非自民政権が誕生したものの、短期間で崩壊し、2012年の総選挙で自公連立政権に戻った。民主党政権の崩壊後、民主党の党勢低迷もあり、再び自民党の一党優位体制に戻った。
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政党制(せいとうせい)とは、政党政治の担い手である政党を構成要素とする制度やシステム。政党システム、政党機構、政党体系、政党制度とも。
{{政党政治}} '''政党制'''(せいとうせい)とは、[[政党|政党政治]]の担い手である[[政党]]を構成要素とする制度やシステム<ref name="kotobank">[https://kotobank.jp/word/%E6%94%BF%E5%85%9A%E5%88%B6-86289 政党制 - コトバンク]</ref>。'''政党システム'''、'''政党機構'''、'''政党体系'''、'''政党制度'''とも。 == 概要 == 従来の類型と分析は、主に政党の数に焦点を当てて「[[一党制]]、[[複数政党制|二党制]]、[[複数政党制|多党制]]」などに分類することが一般的だった<ref name="kotobank"/>。 [[ジョヴァンニ・サルトーリ]]は[[数]]に加えて政党間の関係や[[イデオロギー]]への移入度などを指標に追加し、「一党制([[一党独裁制]])、[[ヘゲモニー政党制]]、[[一党優位政党制]]、二党制([[二大政党制]])、[[穏健な多党制]]、[[分極的多党制]]、原子化政党制」の7つに分類した。二党制と多党制の間よりも穏健な多党制と分極的多党制の間に決定的な分割線があるとした<ref name="kotobank"/>。 [[アーレンド・レイプハルト]]は有効議会政党数を使用して「2党制、2.5党制、優位政党のある多党制、優位政党のない多党制」に分類した。 社会的・経済的要因、歴史的・文化的要因、選挙制度などの技術的要因は各国の政党制を決定する。[[小選挙区制]]や一回投票制は二党制を生む傾向があり、[[比例代表制]]や[[二回投票制]]は多党制を生む傾向がある<ref name="kotobank"/>。 == デュヴェルジェ == 類型と分析において影響力があったのは[[モーリス・デュヴェルジェ]]の検証だった。デュヴェルジェは'''一党制'''、'''二党制'''、'''多党制'''に三分し、その中で二党制を推奨した。政治対立は二者の対立になるものであり、中間的な立場は不自然であるため、二党の対立が良いと考えた。また、[[小選挙区制]]が二党制を生み、[[比例代表制]]が多党制を生むという「[[デュヴェルジェの法則]]」を提唱した<ref name="93頁">[[#政治学の第一歩2015|政治学の第一歩]]、93頁。</ref>。 この三分法では、一党制は[[独裁政治|独裁]]を、多党制は混乱をもたらすとされた。二党制の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[イギリス]]が最も優れているとされた。 [[1970年代]]以後の修正では、多党制は必ずしも混乱をもたらさないことが示された。 == サルトーリ == 1970年代にサルトーリは数とイデオロギーを基準にした類型を提唱し、[[政治学者]]に広く受け入れられた。サルトーリはまず非競合的なものと競合的なものに分類し、次に数とイデオロギーによって分類した<ref name="89頁">[[#政治学の第一歩2015|政治学の第一歩]]、89頁。</ref>。 競合的かつ非効率的な[[民主主義]]として'''一党優位政党制'''と'''分極的多党制'''を指摘した<ref name="92頁">[[#政治学の第一歩2015|政治学の第一歩]]、92頁。</ref>。一党優位政党制に入れられたのは[[ジャワハルラール・ネルー]]や[[インディラ・ガンディー]]の時代における[[インド]]などである。分極的多党制に入れられたのはサルトーリの母国である[[イタリア]]、[[ヴァイマル共和政]]の[[ドイツ]]、[[フランス第三共和政]]の[[フランス]]、[[フランス第四共和政]]のフランスなどである。これらの政党制における特徴は、イデオロギーの差異が大きいことである。 競合的かつ効率的な民主主義として'''二大政党制'''と'''穏健な多党制'''を指摘した<ref name="92頁"/>。二大政党制に入れられたのはアメリカ、イギリスなどである。穏健な多党制に入れられたのは[[ベネルクス]]三国などである。これらの政党制における特徴は、イデオロギーの差異が小さいことである。 サルトーリの念頭にあったのは、デュベルジェに対する批判ではなく、その拡張である。デュベルジェは二党制が効率的な民主主義であると結論づけたものの、サルトーリは穏健な多党制も効率的な民主主義であると結論づけた。 様々な修正を受けながらも、この分析は最も大きな影響力を持つものとして政治学者の間で広く受け入れられている<ref name="120頁">[[#吉野2018|政治学<第2版> (Next教科書シリーズ)]]、120頁。</ref>。 * 無党制 * [[一党独裁制]] ** [[一党制]] ** [[ヘゲモニー政党制]] * [[複数政党制]] ** [[一党優位政党制]] *** 一大政党制 ** 二大ブロック制 *** [[二大政党制]] ** [[穏健な多党制]] *** 三大政党制 *** 北欧五党制 ** [[分極的多党制]] ** 原子化政党制 - 無数に政党が存在するものの、他党に影響力のある政党が一つも存在せず、すべての政党がめぼしい実績や大衆からの支持を持たない。また、この政党制では、政党自体が[[大衆政党]]のように高度な組織化がされておらず(すべての政党が[[名望家政党]]や[[ミニ政党]]に等しい)、なおかつ[[選挙]]や[[政局]]によって離合集散を繰り返す流動的・便宜的な組織である。 == レイプハルト == 反論したのはレイプハルトである。レイプハルトは[[政治システム|政治制]]を取り扱ったものの、政党制が理論の核とも言える重要性を持つ。 レイプハルトは有効議会政党数を手がかりに、2党制、2.5党制、優位政党のある多党制、優位政党のない多党制とに分類した。その上で2党制と2.5党制とを'''多数決型民主主義'''または'''ウェストミンスター・システム・モデル'''とし、優位政党のある多党制と優位政党のない多党制とを'''合意形成型民主主義'''または'''コンセンサス・システム・モデル'''とした<ref name="109頁">[[#政治学の第一歩2015|政治学の第一歩]]、109頁。</ref>。サルトーリによる分析との関連性は以下の通りである。 * 多数決型民主主義 ** 二大ブロック制 * 合意形成型民主主義 ** 一党優位政党制 ** 穏健な多党制 ** 分極的多党制 ** 原子化政党制 そして、レイプハルトは多くの面において多数決型民主主義より合意形成型民主主義が優れているという分析を36か国の検証により提唱した。マイノリティの代表性における度合いでは高いことに加えて、経済的業績では両者に有意な差がないことを主張している。サルトーリはレイプハルトに「全く付いてゆけない」と再反論している。 == 議論 == '''無党制'''は政党活動が禁止されているか、事実上存在しない[[間接民主主義]]である。前者は[[1986年]]から[[2005年]]までの[[ウガンダ]]であり<ref group="注釈">[[ヨウェリ・ムセベニ]]による[[国民抵抗軍|国民抵抗運動]]は存在した。</ref>、後者は[[ミクロネシア連邦|ミクロネシア]]である<ref group="注釈">政党活動が禁止されている訳ではないが、地域別に無所属議員が選出されている。議員の選出には思想よりも血縁や地縁の影響力が強いとされる。<br>かつて[[ナウル]]も無党制だった。</ref>。全議員が[[無所属]]という形となる。 '''一党独裁制'''、一党制、'''ヘゲモニー政党制'''は[[独裁政治]]である。一党独裁制は[[ナチス・ドイツ]]などである。一党制は[[ソビエト連邦|ソビエト]]などである。ヘゲモニー政党制は[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]などである。 '''複数政党制'''は[[ロシア]]などである。 '''一大政党制'''は[[ラジーヴ・ガンディー]]の時代におけるインドなどである<ref>[[#三輪2007|インドにおける選挙政治と政党政治に関する分析]]。</ref><ref>[[#大串2013|旧ソ連諸国における憲法動態と支配政党体制の比較研究]]。</ref>。 '''三大政党制'''は[[西ドイツ]]などである<ref>[[#佐々木2016|西ドイツ「68年運動」と戦後政治秩序の変容]]。</ref>。 '''北欧五党制'''は[[スカンディナヴィア]]三国などである。有効議会政党数は五党という形となる<ref>[[#渡辺2006|スウェーデンの年金改革における政党政治の影響に関する比較政治過程論的考察]]。</ref>。 '''原子化政党制'''は[[マレーシア]]<ref group="注釈">マレーシアは一種のヘゲモニー政党制に該当し、原子化政党制に該当しないとする説もある。</ref>などである。混乱期や政治体制の移行期、いわゆる「上からの民主化」が成された国家などに多くみられるとされる。マレーシアの他に、[[クライアンテリズム]]<ref group="注釈">ある政治家(クライアント)が特定の有権者や団体(パトロン)から支援を受け、クライアントはパトロンに有利になるよう国会や行政に働きかける互酬的関係を指す(例:パトロンの借金を棒引きしてもらうため、クライアントが銀行に掛け合う。謝礼としてパトロンは選挙においてクライアントに投票し、ときにはクライアントの選挙運動も補助する)。パトロン・クライアント関係とも言われる。<br>フィリピンでは特にこうした関係は「パドリノ・システム」と呼ばれる。{{See also|パトロン#フィリピン}}</ref>(恩顧主義)の影響力が強く政党の組織力<ref group="注釈">議員の政党間の転籍が比較的容易に行なわれており、二重党籍を持つ議員も存在する。また、選挙においては政党指導部よりも議員個人主導による選挙運動が行なわれている。<br>[[フィリピン共産党 (CPP)|フィリピン共産党]]は組織化されており大衆政党に近い存在であるが、フィリピン政府によって非合法化されている。</ref>が弱い[[フィリピン]]、王権の強い立憲君主制の[[タイ王国|タイ]]などが原子化政党制に近いとされるが、相違点もある。 サルトーリは[[フランス第五共和政]]における二回投票制が優れた選挙制度であるという結論を著述している。 フランス第五共和政のフランスは二大政党制と穏健な多党制の中間的な政党制となる'''二大ブロック制'''または'''二ブロック的多党制'''である<ref>[[#野党 1998|野党(Opposition)の研究]]。</ref>。二つの政党群が選挙によって競い合い、勝者となる政党群におけるリーダー格である政党の党首が首班指名を受けるのがサルトーリの想定である。 しかし、近年のフランスでは第三勢力の[[国民連合 (フランス)|国民連合]]が台頭してきているほか、イギリスや[[カナダ]]でも伝統的な[[保守党 (イギリス)|トーリー党]]・[[自由民主党 (イギリス)|ホイッグ党]]・[[労働党 (イギリス)|レイバー党]]が併存している状況となっているため、想定外の事態になっていると言えなくもない<ref name="498頁">[[#政治学2011|政治学 補訂版 (New Liberal Arts Selection)]]、507頁。</ref>。[[1993年]]以降のイタリアにおける状況の方が想定に近いものの、小選挙区制と比例代表制が混在している選挙制度には批判もある。なお、サルトーリは母国のイタリアで選挙制度改革による分極的多党制の解消と二大政党制の実現を目指している。 [[日本]]の[[政治家]]も政党制のあり方に対する支持・不支持を表明している。[[国民民主党 (日本 2018)|国民民主党]]は二大政党制を推奨しており<ref>[https://www.sankei.com/politics/news/180819/plt1808190012-n1.html 前原誠司氏が再始動 国民民主党京都府連会長に就任 「二大政党制へ、原点に戻って頑張る」]</ref>、[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]は穏健な多党制を推奨している<ref>[http://www5.sdp.or.jp/vision/vision.htm 社民党OfficialWeb 理念]</ref>。 [[冷戦]]の終了と[[グローバリゼーション|グローバル化]]・[[情報化社会|情報化]]の進展は影響を与えつつある<ref>[[#網谷2011|ヨーロッパにおける政党競合構造の変容と政党戦略]]。</ref>。 == 日本 == === 憲法制定前および明治憲法下 === [[日本の政党]]は、[[1874年]]1月の[[征韓論]]論争に敗れて下野した[[板垣退助]]が結成した[[愛国公党]]に起源を持つ。[[1881年]]には[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]、[[1882年]]には[[大隈重信]]の[[立憲改進党]]が結成された。フランス流[[進歩主義 (政治)|進歩主義]]やイギリス流[[リベラル|自由主義]]を目指す[[民党]]と[[吏党]]は対立関係となったため、[[政府]]は民党を取り締まったり、ドイツ流[[保守|保守主義]]を目指す御用政党の[[立憲帝政党]]を創設したりしたものの、有効な対策とならなかった。[[1889年]]に[[大日本帝国憲法|明治憲法]]が制定された後も政府はしばらく[[議会]]や政党に対して[[超然主義]]を採ったものの、[[日清戦争]]で政府と民党の協力関係が成立したのを契機に流れが変わり、[[1898年]]には自由党と[[進歩党 (日本 1896-1898)|進歩党]]が合同して[[憲政党]]を結成し、日本最初の[[政党内閣]]として「[[第1次大隈内閣|隈板内閣]]」が誕生した<ref name="nipponica">[https://kotobank.jp/word/%E6%94%BF%E5%85%9A-86273#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ)「政党」]</ref>。 憲政党が自由党系の憲政党と改進党系の[[憲政本党]]に分裂し、前者は[[1900年]]に[[伊藤博文]]の[[立憲政友会]]を結成した。これを与党とした[[第4次伊藤内閣]]は政党政治に道を開いた<ref>[https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87-15413#E6.9C.9D.E6.97.A5.E6.97.A5.E6.9C.AC.E6.AD.B4.E5.8F.B2.E4.BA.BA.E7.89.A9.E4.BA.8B.E5.85.B8 朝日日本歴史人物事典「伊藤博文」]</ref>。 一方の憲政本党は[[1910年]]の[[立憲国民党]]、[[1913年]]の[[立憲同志会]]、[[1916年]]の[[憲政会]]を経て、[[1927年]]に[[立憲民政党]]となった。そして明治時代末まで政友会の[[西園寺公望]]と立憲同志会の[[桂太郎]]による[[政権交代]]が繰り返された<ref name="nipponica"/>。 さらに二度の「[[護憲運動|憲政擁護運動]]」に代表される[[大正デモクラシー]]を経て「[[憲政の常道]]」による慣例が生まれ、政友会と民政党による政党政治が展開されるようになった<ref name="nipponica"/>。 また[[ロシア革命]]や[[資本主義]]の高度化による労働者階級の発展などを背景として[[日本共産党]]([[1922年]]結党、[[1935年]]中央委員会壊滅)や[[労働農民党]]([[1926年]]結成、後に分裂して[[日本労農党]]、[[社会民衆党]]、[[全国大衆党]]結党)などの[[無産政党]]が出現するようになり、[[1928年]]の普通選挙では無産政党から計8名の当選者が出ている<ref name="nipponica"/>。 政党は財界から多額の選挙資金を必要とするようになり、様々な汚職事件を起こすようになった。「政党政治の腐敗」による批判から青年将校や国家主義団体などの間で政党政治打倒を目指す動きが活発となった<ref>[https://sekainorekisi.com/japanese_history/%E6%94%BF%E5%85%9A%E6%94%BF%E6%B2%BB%E3%81%AE%E5%B1%95%E9%96%8B/ 世界の歴史まっぷ 「政党政治の展開」]</ref>。それが事件となって表れたのが[[1932年]]に青年将校が中心となって起こした[[五・一五事件]]だった。首相の[[犬養毅]]は暗殺されて政党内閣の犬養内閣が崩壊し、政友会の後継総裁となった[[鈴木喜三郎]]に大命降下はされなかった。退役海軍大将の[[斎藤実]]が首相になり、政友会と民政党から閣僚を採用して[[挙国一致内閣]]を組織した。退役海軍軍人を首班とする内閣の発足を経て「憲政の常道」による政党政治は終焉した<ref name="181頁">[[#学び直す日本史2011|学び直す日本史<近代編>]]、181頁。</ref>。 政治の[[新体制運動]]も盛んになり、[[1940年]]10月には各政党が解散して[[大政翼賛会]]に合流した<ref name="nipponica"/>。大政翼賛会は[[結社|政治結社]]のため、一党独裁制には該当しない<ref>[[#三谷1992|政党システムの比較政治史的研究-起源から「凍結解除」まで-]]。</ref>。 === アメリカ軍占領下と日本国憲法下 === アメリカ軍占領下で無産政党に連なる政治家たちが[[革新政党]]の集合体として[[日本社会党]]を結成し、また[[保守政党]]に連なる政治家たちが[[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]、[[日本進歩党]]、[[日本協同党]]などに分裂して[[派閥]]を取り込む[[包括政党]]を結成した。[[1947年]]に[[日本国憲法]]が施行され、[[1948年]]秋まで日本社会党と[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]による連立内閣([[片山内閣]]、[[芦田内閣]])が続き、[[吉田茂]]の[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]内閣が続いた<ref name="nipponica"/>。 [[1955年]]の[[保守合同]]で[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]が誕生し、40年近く同党の一党優位体制が続いた([[自由民主党の派閥|自民党の派閥]]による[[55年体制]])。1993年の総選挙で自民党は過半数を下回って[[宮澤内閣 (改造)|宮澤内閣]]は敗北し、[[日本新党]]の[[細川護熙]]を首班とする日本新党、[[新党さきがけ]]、[[新生党]]、社会党、[[公明党]]による[[非自民・非共産連立政権]]が成立し、55年体制は崩壊した。非自民政権は短期間で崩壊し、社会党と自民党の連立による[[村山内閣]]を経て、[[1999年]]から自民党は公明党と連立するようになった。その間、非自民・非共産勢力が結集し、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]を結党。民主党が自民党の議席数に迫るなど自民党の一党優位体制が崩壊し、二大政党制になりつつあった。[[2009年]]の総選挙における[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]大勝で再び非自民政権が誕生したものの、短期間で崩壊し、[[2012年]]の総選挙で[[自公連立政権]]に戻った<ref name="nipponica"/>。民主党政権の崩壊後、民主党の党勢低迷もあり、再び自民党の一党優位体制に戻った。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=三谷太一郎|authorlink=三谷太一郎|date=1992|title=政党システムの比較政治史的研究|ref=三谷1992}} * {{Cite book|和書|author=若松新|date=1998|title=野党(Opposition)の研究|ref=若松1998}} * {{Cite book|和書|author=渡辺博明|date=2006|title=スウェーデンの年金改革における政党政治の影響に関する比較政治過程論的考察|ref=渡辺2006}} * {{Cite book|和書|author=三輪博樹|date=2007|title=インドにおける選挙政治と政党政治に関する分析|ref=三輪2007}} * {{Cite book|和書|author=ジョヴァンニ・サルトーリ|authorlink=ジョヴァンニ・サルトーリ|date=2009|title=現代政党学|ref=サルトーリ2009}} * {{Cite book|和書|date=2011|title=学び直す日本史<近代編>|ref=学び直す日本史2011}} * {{Cite book|和書|author=平野浩|authorlink=平野浩|date=2011|title=変動期における投票行動の全国的・時系列的調査研究|ref=平野2011}} * {{Cite book|和書|author=網谷龍介|date=2011|title=ヨーロッパにおける政党競合構造の変容と政党戦略|ref=網谷2011}} * {{Cite book|和書|date=2011|title=政治学 補訂版 (New Liberal Arts Selection)|ref=政治学2011}} * {{Cite book|和書|author=大串敦|authorlink=大串敦|date=2013|title=旧ソ連諸国における憲法動態と支配政党体制の比較研究|ref=大串2013}} * {{Cite book|和書|author=アーレンド・レイプハルト|authorlink=アーレンド・レイプハルト|date=2014|title=民主主義対民主主義|ref=レイプハルト2014}} * {{Cite book|和書|date=2015|title=政治学の第一歩|ref=政治学の第一歩2015}} * {{Cite book|和書|author=佐々木淳希|date=2016|title=西ドイツ「68年運動」と戦後政治秩序の変容|ref=佐々木2016}} * {{Cite book|和書|author=村上誠一郎|authorlink=村上誠一郎|date=2016|title=自民党ひとり良識派|ref=村上2016}} * {{Cite book|和書|author=安井宏樹|date=2017|title=「半議院内閣制」の日独比較研究|ref=安井2017}} * {{Cite book|和書|author=吉野篤|date=2018|title=政治学<第2版> (Next教科書シリーズ)|ref=吉野2018}} == 関連項目 == * [[ウェストミンスター・システム]] * [[合意形成]] {{DEFAULTSORT:せいとうせい}} [[Category:政党制|*]] [[Category:間接民主主義|せいとうせい]]
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満洲国
満洲国(まんしゅうこく、旧字体: 滿洲國、拼音: Mǎnzhōu Guó)は、満洲事変により日本軍が占領した満洲(現在の中国東北3省遼寧省、吉林省、黒竜江省)、内蒙古、熱河省を領土として1932年(昭和7年/大同元年)に成立した国家。一般に日本の傀儡国家と見做されている。 首都は新京(旧長春)。日本民族・満洲民族・漢民族・モンゴル民族・朝鮮民族の「五族協和」による「王道楽土」建設をスローガンとし、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀を執政に迎え、1934年(昭和9年/康徳元年)から溥儀を皇帝とした帝制へ移行し、各大臣は満洲族で占められたが、要職は関東軍司令官のもと日本人が掌握した。1945年(昭和20年/康徳12年)8月に対日参戦したソ連軍に占領されたことで消滅した。ただし完全占領前の8月17日に重臣会議により満洲国の廃止が決定され、翌日に皇帝溥儀が退位を宣言している。 「洲」が常用漢字でないため、日本の教育用図書を含め一般的に「満州国」の表記が使われるが、日本の法令や一部の文献では「満洲国」が用いられる(表記については「満洲#呼称としての満洲」も参照)。 清が領有していた満洲と呼ばれる地域のうち、外満洲はアイグン条約及び北京条約でロシア帝国に割譲され、内満洲の旅順・大連は日露戦争までは旅順(港)大連(湾)租借に関する条約でロシアの、戦後はポーツマス条約と満洲善後条約により日本の租借地となっていた。さらに内満洲ではロシアにより東清鉄道の建設が開始され、義和団の乱の際には進駐して来たロシア帝国陸軍が鉄道附属地を中心に展開し、満洲を軍事占領した。朝鮮半島と満洲の権益をめぐる日露戦争の後、長春(寛城子)以北の北満洲にロシア陸軍が、以南の南満洲にロシアの権益を引き継いだ日本陸軍が南満洲鉄道附属地を中心に展開して半植民地の状態だった。 清朝は満洲族の故地満洲に当たる東三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)には総督を置かず、奉天府と呼ばれる独自の行政制度を持っていたが、光緒33年(1907年)の東北改制を機に、他の省に合わせて東三省総督を設置し、管轄地域の軍政・民政の両方を統括させた。歴代の総督はいずれも袁世凱の派閥に属し、東三省は袁世凱の勢力圏であった。 1912年の清朝滅亡後は中華民国(北京政府)が清朝領土の継承を主張し、袁世凱の臨時大総統就任に伴ない、当時の東三省総督趙爾巽も奉天都督に任命され、東三省も中華民国の統治下に入った。しかし、袁世凱と孫文の対立から中華民国は分裂、内戦状態に陥り、満洲では、趙爾巽の部下だった張作霖が日本の後押しもあって台頭し、奉天軍閥を形成し、満洲を実効支配下に置くようになった。 また日本は1922年(大正11年)の支那ニ関スル九国条約第1条により中華民国の領土的保全の尊重を盟約していたが、中華民国中央政府(北京政府)の満洲での権力は極めて微力で、張作霖率いる奉天軍閥を満洲を実効支配する地方政権と見なして交渉相手とし、協定などを結んでいた。北伐により北京政府が崩壊し、北京政府を掌握していた張作霖が満洲に引き揚げてきたところを日本軍によって殺される(張作霖爆殺事件)と、後を継いだ息子の張学良は、1928年(昭和3年)12月29日に奉天軍閥を国民政府(南京政府)に帰順(易幟)させた。実質的には奉天軍閥の支配は継続していたが、満洲に青天白日満地紅旗が掲げられる事になった。 1929年、日本は南京国民政府を中華民国の代表政府として正式承認した。 1931年(昭和6年)9月18日、柳条湖事件に端を発して満洲事変が勃発、関東軍により満洲全土が占領される。その後、関東軍主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年(昭和7年)3月1日の満洲国建国に至った。元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いた。 満洲国は建国にあたって自らを満洲民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げた。しかし、日本の関東軍が占領した日本の植民地であり、傀儡国家であったという意見もある。 満洲国は建国以降、日本、特に関東軍と南満洲鉄道の強い影響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。当時の国際連盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中華民国の主権下にあるべきとした。このことが1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。 しかし1937年11月29日にイタリアが満洲国を承認。 続いて同年12月2日にフランコ体制下のスペイン、 1938年5月12日にはドイツ さらにタイ王国などの第二次世界大戦の日本の同盟国や友好国、枢軸陣営寄りの中立国や、エルサルバドルやポーランド、コスタリカなどの後の連合国の構成国も満洲国を承認した。さらに国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦をも領土不可侵を約束して公館を設置した。またイギリスやアメリカ合衆国、フランスなど国交を樹立していなかった国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。 第二次世界大戦末期の1945年(康徳12年)、日ソ中立条約を破った赤軍(ソ連陸軍)による関東軍への攻撃と、その後の日本の降伏により、8月18日に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡。満洲地域はソ連の占領下となり、その後国共内戦で中国国民党と中国共産党が争奪戦を行い、最終的に1949年に建国された中華人民共和国の領土となっている。 日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満洲」という修飾と共に呼称する。 1932年(大同元年)3月1日の満洲国佈告1により、国号は「滿洲國」と定められている。この国号は、1934年(康徳元年)3月1日に溥儀が皇帝に即位しても変更されなかった。ただし、法令や公文書では「満洲国」と「満洲帝国」が併用された。帝制実施後の英称は正称が「Manchoutikuo」または「The Empire of Manchou」、略称が「Manchoukuo」または「The Manchou Empire」と定められた。 満洲地方には、ツングース系、モンゴル系、扶余系など多くの国や民族が勃興し、あるいは漢民族王朝が一部を支配下に置いたり撤退したりしていた。土着民族として濊貊・粛慎・東胡・挹婁・夫余・勿吉・靺鞨・女真などが知られるが、その来歴や相互関係については不明な点が多い。満洲南部から朝鮮半島の一部にかけては遼東郡、遼西郡が置かれるなど、中華王朝の支配下にあった時期が長い。土着民族による国家としては高句麗、渤海国、女真族(後の満州族)の金、後金(清)などが知られる。モンゴル系であり東胡の子孫とされる鮮卑族による前燕などや鮮卑の子孫とされる契丹族による遼が支配した事もある。チベット系の氐族の立てた前秦の支配が及んだ事もある。12世紀以降、金、元、明、清と、首都を中国本土に置く、あるいは移した王朝による支配が続いていた。 清朝の中国支配の後、満洲族の中国本土への移出が続き満洲の空洞化が始まった。当初清朝は漢人の移入によって空洞化を埋めるべく1644年(順治元年)より一連の遼東招民開墾政策を実施した。この開墾策は1668年(康熙7年)に停止され、1740年(乾隆5年)には、満洲は後金創業の地として本格的に封禁され、漢人の移入は禁止され私墾田は焼き払われ流入民は移住させられていた(封禁政策)。旗人たちも首都北京に移住したため満洲の地は「ほぼ空白地」と化していた。19世紀前半には封禁政策は形骸化し、満洲地域には無数の移民が流入しはじめた。研究者の試算によれば1851年に320万人の満洲人口は1900年には1239万人に増加した。1860年にはそれ以前には禁止されていた旗人以外の満洲地域での土地の所有が部分的に開放され、清朝は漢人の移入を対露政策の一環として利用しはじめた(闖関東)。内モンゴル(奉天から哈爾濱・北安に至る満洲鉄道沿線の西側)については、蒙地と呼ばれモンゴルの行政区画である「旗」の地域があり、清朝の時代は封禁政策により牧地の開墾は禁止されていたが実際は各地域で開墾が行われ(蒙地開放)「県」がおかれていた。これらの地域は「旗」からは押租銀や蒙租を、「県」からは税を課され、蒙租は旗と国とが分配していた。また土地の所有権(業主権)は入植者になく永佃権や永租権が与えられ開放蒙地の所有権はモンゴル人王公・旗に帰属するとされていた。これらの地域ではモンゴル人と入植した漢人との間でしばしば民族対立が生じており、1891年の金丹道暴動事件では内モンゴルのジョソト盟地域に入植した漢人の秘密結社が武装し現住モンゴル人に対して虐殺をおこなっていた。その後、秘密結社が葉志超により鎮圧されたが、入植した漢人に対して復讐事件が生じていた。 清朝はアヘン戦争後の1843年に締結された虎門寨追加条約により領事裁判権を含む治外法権を受け入れることになった。 ロシア帝国もまたアロー戦争後の1858年に天津条約を締結して同等の権利を獲得することに成功し、1860年の北京条約でアムール川左岸および沿海州の領有権を確定させていた。 日本の満洲に対する関心は、江戸時代後期の1823年、経世家の佐藤信淵が満洲領有を説き、幕末の尊皇攘夷家の吉田松陰も似た主張をした。明治維新後の日本は1871年(明治4年)の日清修好条規において清国と対等な国交条約を締結した。さらに日清戦争後の下関条約及び日清通商航海条約により、清国に対する領事裁判権を含めた治外法権を得た。 ロシアは日清戦争直後の三国干渉による見返りとして李鴻章より満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功し(露清密約)、1897年のロシア艦隊の旅順強行入港を契機として1898年3月には旅順(港)大連(湾)租借に関する条約を締結、ハルピンから大連、旅順に至る東清鉄道南満洲支線の敷設権も獲得した。日本は、すでに外満洲(沿海州など)を領有し、残る満洲全体を影響下に置くことを企図するロシアの南下政策が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなした。1900年(明治33年)、ロシアは義和団の乱に乗じて満洲を占領、権益の独占を画策した。これに対抗して日本はアメリカなどとともに満洲の各国への開放を主張し、さらにイギリスと日英同盟を結んだ。 日露両国は1904年から翌年にかけて日露戦争を満洲の地で戦い、日本は戦勝国となり、南樺太割譲、ポーツマス条約で朝鮮半島における自国の優位の確保や、遼東半島の租借権と東清鉄道南部の経営権を獲得した。その後日本は当初の主張とは逆にロシアと共同して満洲の権益の確保に乗り出すようになり、中国大陸における権益獲得に出遅れていたアメリカの反発を招いた。駐日ポルトガル外交官ヴェンセスラウ・デ・モラエスは、「日米両国は近い将来、恐るべき競争相手となり対決するはずだ。広大な中国大陸は貿易拡大を狙うアメリカが切実に欲しがる地域であり、同様に日本にとってもこの地域は国の発展になくてはならないものになっている。この地域で日米が並び立つことはできず、一方が他方から暴力的手段によって殲滅させられるかもしれない」との自身の予測を祖国の新聞に伝えている。 1911年から1912年にかけての辛亥革命により満洲族による王朝は打倒され(駆除韃虜)、漢民族による共和政体中華民国が成立したが、清朝が領土としていた満洲・モンゴル・トルキスタン・チベットなど周辺地域の政情は不安定となり、1911年にモンゴルは独立を宣言、1913年にはチベット・モンゴル相互承認条約が締約されチベット・モンゴルは相互に独立承認を行った。 満洲は中華民国臨時大総統に就任した袁世凱が大きな影響力を持っていたため、東三省総督の体制、組織をそのまま引き継ぎ、中華民国の統治下に入っている。この中に、東三省総督の趙爾巽の下で、革命派の弾圧で功績を上げた張作霖もいた。しかし、袁世凱と孫文が対立し、中華民国が分裂、内戦状態に入ると、張作霖が台頭し、奉天軍閥を形成し、日本の後押しも得て、満洲を実効支配下に置いた。 日本は日露戦争後の1905年に日清協約、1909年には間島協約において日清間での権益・国境線問題について重要な取り決めをおこなっていたが、中華民国成立によりこれらを含む過去の条約の継承問題が発生していた。 第一次世界大戦に参戦した日本は1914年(大正3年)10月末から11月にかけイギリス軍とともに山東半島の膠州湾租借地を攻略占領し(青島の戦い)その権益処理として対華21カ条要求を行い、2条約13交換公文からなる取り決めを交わした。この中に南満洲及東部内蒙古に関する条約など、満蒙問題に関する重要な取り決めがなされ、満洲善後条約や満洲協約、北京議定書・日清追加通商航海条約などを含め日本の中国特殊権益が条約上固定された。日本と中華民国によるこれら条約の継続有効(日本)と破棄無効(中国)をめぐる争いが宣戦布告なき戦争へ導くこととなる。 1917年(大正6年)、第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、ソビエト連邦が成立する。旧ロシア帝国の対外条約のすべてを無効とし継承を拒否したソビエトに対し、第一次世界大戦に参戦していた連合国は「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分により干渉戦争を開始した(シベリア出兵)。日本はコルチャク政権を支持しボリシェヴィキを攻撃したが、コルチャク政権内の分裂やアメリカを初めとする連合国の撤兵により失敗。共産主義の拡大に対する防衛基地として満洲の重要性が高まり、満蒙は「日本の生命線」と見なされるようになった。とくに1917年及び1919年のカラハン宣言は人民によりなされた共産主義政府であるソビエトが旧ロシア帝国の有していた対中権益(領事裁判権や各種条約による治外法権など)の無効・放棄を宣言したものであり、孫文をはじめとした中華民国政府を急速に親ソビエト化させ、あるいは1920年には上海に社会共産党が設立され、のち1921年の中国共産党第一次全国代表大会につながった。 その間の1919年には満洲鉄道が2~3万人の組合員からなる満鉄消費組合を結成して日本人向けの市場を寡占しはじめて日本人小売商らの利益が害されたため、満洲商業会議所連合会は満鉄消費組合撤廃活動を1930年まで4次に渡って展開した。結果的には和解に至ったが、これらの活動が満洲輸入組合及び満洲輸入組合連合会の設立に繋がった。 1928年7月19日、第一次国共合作により北伐を成功させた蔣介石の南京国民政府は一方的に日清通商航海条約の破棄を通告し、日本側はこれを拒否して継続を宣言したが、中国における在留日本人(朝鮮人含む)の安全や財産、及び条約上の特殊権益は重大な危機に晒されることになった。 満洲は清朝時代には「帝室の故郷」として漢民族の植民を強く制限していたが、清末には中国内地の窮乏もあって直隷・山東から多くの移民が発生し、急速に漢化と開拓が進んでいた。清末の袁世凱は満洲の自勢力化をもくろむとともに、ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとした。しかしこの計画も清末民初の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁の死後、満洲で生まれ育った馬賊上がりの将校・張作霖が台頭、張は袁が任命した奉天都督の段芝貴を追放し、在地の郷紳などの支持の下軍閥として独自の勢力を確立した。満洲を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満洲における日本の権益を確保しようとしたが、叛服常ない張の言動に苦しめられた。また、日中両軍が衝突した1919年の寛城子事件(長春事件)では張作霖の関与が疑われたが日本政府は証拠をつかむことができなかった。 さらに中国内地では蔣介石率いる中国国民党が戦力をまとめあげて南京から北上し、この影響力が満洲に及ぶことを恐れた。こうした状況のなか1920年3月には、外満洲のニコラエフスク(尼港)で赤軍によって日本軍守備隊の殲滅と居留民が虐殺される尼港事件が起き、満洲が赤化されていくことについての警戒感が強まった。1920年代後半から対ソ戦の基地とすべく、関東軍参謀の石原莞爾らによって万里の長城以東の全満洲を中国国民党の支配する中華民国から切り離し、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになった。 1928年(昭和3年)5月、中国内地を一時押さえていた張作霖が国民革命軍に敗れて満洲へ撤退した。田中義一首相ら日本政府は張作霖への支持の方針を継続していたが、高級参謀河本大作ら現場の関東軍は日本の権益の阻害になると判断し、張作霖を殺害した(張作霖爆殺事件)。河本らは自ら実行したことを隠蔽する工作を事前におこなっていたものの、報道や宣伝から当初から関東軍主導説がほぼ公然の事実となり、張作霖の跡を継いだ張学良は日本の関与に抵抗し楊宇霆ら日本寄りの幕僚を殺害、国民党寄りの姿勢を強めた。このような状況を打開するために関東軍は、1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変(柳条湖事件)を起こして満洲全土を占領した。張学良は国民政府の指示によりまとまった抵抗をせずに満洲から撤退し、満洲は関東軍の支配下に入った。 日本国内の問題として、世界恐慌や昭和恐慌と呼ばれる不景気から抜け出せずにいる状況があった。明治維新以降、日本の人口は急激に増加しつつあったが、農村、都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなく、1890年代以後、アメリカやブラジルなどへの国策的な移民によってこの問題の解消が図られていた。ところが1924年(大正13年)にアメリカで排日移民法が成立、貧困農民層の国外への受け入れ先が少なくなったところに恐慌が発生し、数多い貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていた。そこへ満洲事変が発生すると、当時の若槻禮次郎内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞をはじめ国民世論は強く支持し、対外強硬世論を政府は抑えることができなかった。 柳条湖事件発生から4日後の1931年9月22日、関東軍の満蒙領有計画は陸軍首脳部の反対で実質的な独立国家案へと変更された。参謀本部は石原莞爾らに溥儀を首班とする親日国家を樹立すべきと主張し、石原は国防を日本が担い、鉄道・通信の管理条件を日本に委ねることを条件に満蒙を独立国家とする解決策を出した。現地では、関東軍の工作により、反張学良の有力者が各地に政権を樹立しており、9月24日には袁金鎧を委員長、于冲漢を副委員長として奉天地方自治維持会が組織され、26日には煕洽を主席とする吉林省臨時政府が樹立、27日にはハルビンで張景恵が東省特別区治安維持委員会を発足した。 翌1932年2月に、奉天・吉林・黒龍江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。2月16日、奉天に張景恵、臧式毅、煕洽、馬占山の四巨頭が集まり、張景恵を委員長とする東北行政委員会が組織された。2月18日には「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された。 1932年3月1日、上記四巨頭と熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞が委員とする東北行政委員会が、元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を満洲国執政とする満洲国の建国を宣言した(元号は大同)。首都には長春が選ばれ、新京と命名された。国務院総理(首相)には鄭孝胥が就任した。 その後、1934年3月1日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行した(元号は康徳に改元)。国務総理大臣(国務院総理から改称)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任した。 一方、満洲事変の端緒となる柳条湖事件が起こると、中華民国は国際連盟にこの事件を提起し、国際連盟理事会はこの問題を討議し、1931年12月に、イギリス人の第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とするリットン調査団の派遣を決議した。1932年3月から6月まで日本、中華民国と満洲を調査したリットン調査団は、同年10月2日に至って報告書を提出し、満洲の地域を「法律的には完全に支那の一部分なるも」とし、満洲国政権を「現在の政権は純粋且自発的なる独立運動に依りて出現したるものと思考することを得ず」とし、「満洲に於ける現政権の維持及承認も均しく不満足なるべし」と指摘した。その上で満洲地域自体には「本紛争の根底を成す事項に関し日本と直接交渉を遂ぐるに充分なる自治的性質を有したり」と表現し、中華民国の法的帰属を認める一方で、日本の満洲における特殊権益を認め、満洲に中国主権下の満洲国とは異なる自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を提案した。 同年9月15日に齋藤内閣のもとで政府として満洲国の独立を承認し、日満議定書を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーヴで開かれた国際連盟総会に送り、満洲国建国の正当性を訴えた。 リットン報告書をもとに連盟理事会は「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」を作成し、1933年2月24日には国際連盟総会で同意確認の投票が行われた。この結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)であり、国際連盟規約15条4項および6項についての条件が成立した。日本はこれを不服として1933年3月に国際連盟を脱退する。 隣国かつ仮想敵国でもあったソビエト連邦は、当時はまだ国際連盟未加盟であり、リットン調査団の満洲北部の調査活動に対しての便宜を与えなかっただけでなく、建国後には満洲国と相互に領事館設置を承認するなど事実上の国交を有していたが、正式な国家承認については満洲事変発生から建国後まで終始一定しない態度を取り続けた。1935年にソ連は満洲国内に保有する北満鉄路を満洲国政府に売却した。国境に関しても日満-ソ連間に認識の相違があり、張鼓峰事件などの軍事衝突が起きている。 1932年7月、満洲国内の郵政接受が断行されると、満洲と中国間の郵便は遮断されることとなった。その後、山海関の返還など情勢緩和が続くと、1934年4月、国際連盟が「満洲国の郵便物は事務的、技術的に取り扱うべし」との決議を行う。国民政府側も「通郵は文化機関」との判断から、満洲国不承認の原則と切り離して郵便協定の交渉につくことを受諾。同年12月までに協定が成立し、1935年1月からは普通郵便が、翌2月からは小包、為替の取り扱いが始まった。 モンゴル人民共和国との間にも国境に関して認識の相違があり、1939年にはノモンハン事件などの紛争が起きた。 1941年4月13日、日ソ間の領土領域の不可侵を約した日ソ中立条約締結に伴い、日本のモンゴル人民共和国]への及びソ連の満洲国への領土保全と不可侵を約す共同声明が出された。 日本軍占領後、各地で各種宗教・政治思想で結びついた団体による抗日ゲリラ闘争が起こった。一時は燎原の火のように満洲各地に広がり、関東軍にもとても終結するとは思えないような時期もあったといわれるが、関東軍は殲滅を繰り返し、1935年頃には治安は安定していった。その過程で平頂山事件のような事件も起きているが、このような事件は氷山の一角で、1932年9月には暫行懲治盗匪法を制定、この条文では清朝の法制にもあった臨陣格殺が定められ、軍司令官や高級警察官が匪賊を裁判なしで自己の判断で処刑する権限を認めていたため、関東軍ないし実質的に日本人が指導する現地警察はこれを濫用し、各地で匪賊とされた者らの殺戮が繰り返され、彼らの生首が見せしめに晒されることが横行していたとされる。とくに満鉄及びその付属地を警備する独立守備隊は質が悪く、現地住民らに恐れられたという。また、ゲリラ鎮圧は最終的に成功したものの、この成功が経済構造・社会構造の異なる中国本土でも同様にうまくいくと日本軍を誤信させ、後の日中戦争拡大に繋がっていったのではないかと東京大学東洋文化研究所教授の安冨歩は疑っている。また、この満洲でのやり方は、山下奉文中将を通じて、後の日中戦争や太平洋戦争におけるマレー・シンガポール占領期にも持ち込まれたものと林博史は考えている。 大東亜戦争(第二次世界大戦)に日本が開戦する直前の1941年12月4日、日本の大本営政府連絡会議は「国際情勢急転の場合満洲国をして執らしむ可き措置」を決定し、その「方針」において「帝国の開戦に当り差当り満洲国は参戦せしめず、英米蘭等に対しては満洲国は帝国との関係、未承認等を理由に実質上敵性国としての取締の実行を収むる如く措置せしむるものとす」として、満洲国の参戦を抑止する一方、在満洲の連合国領事館(奉天に英米蘭、ハルビンに英米仏蘭、営口に蘭(名誉領事館))の閉鎖を行わさせた。また館員らは警察により軟禁され、1942年に運航された交換船で帰国した。 このため、満洲国は国際法上の交戦国とはならず、第二次世界大戦の下で、満洲国軍が日本軍に協力してイギリスやアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどとと戦っている南方や太平洋、インド洋やオーストラリア方面に進出するということも無かった。 日本の敗色が濃くなった1944年の下半期に入ると、同年7月29日に鞍山の昭和製鋼所(鞍山製鉄所)など重要な工業基地が連合軍、特にイギリス領インド帝国のイギリス軍基地内に展開したアメリカ軍のボーイングB29爆撃機の盛んな空襲を受け、工場の稼働率は全般に「等しい低下を示し」(1944年当時の稼動状況記録文書より)たとしている。特に、奉天の東郊外にある「満洲飛行機」では、1944年6月には平均で70%だった従業員の工場への出勤率が、鞍山の空襲から1週間後の8月5日には26%まで低下した。次の標的になるのではという従業員の強い不安感から、稼働率の極端な下落を招くことになった。 また、戦争後期には大豆等の穀物を徴発、しかし、連合軍の通商破壊により船で日本本土や南方に輸送することが出来なくなり、満洲で飢餓が始まる中、満洲の鉄道沿線や朝鮮の釜山の港で大豆等が野晒しで腐っていったという。一方で、代わりに日本から入れる筈の衣類・繊維がやはり通商破壊のため、あるいは南方優先ということで満洲には入らず、1944年頃の冬には凍死する者、(成長とともに服が合わなくなるため)衣類無しでオンドルに頼って過ごさねばならない子供らが続出したとされる。 1945年2月11日にソ連、アメリカ、イギリスはヤルタ会談を開き、満洲を中華民国へ返還、北満鉄路・南満洲鉄道をソ連・中華民国の共同管理とし、大連をソビエト海軍の租借地とする見返りとして、ソ連が参戦することを満洲国政府に秘密裏に決定した。なおこの頃満洲国の駐日本大使館は、東京の麻布町から神奈川県箱根に疎開する。 1945年5月には同盟国のドイツが降伏し、日本は1国で連合国との戦いを続けることになる。太平洋戦線では3月には硫黄島が、6月には沖縄がアメリカ軍の手に落ち、アメリカ軍やイギリス軍機による本土への攻撃が行われるなど、日本の敗戦は時間の問題となっていた。 1945年6月、日本は終戦工作の一環として、満洲国の中立化を条件に未だ日ソ中立条約が有効であったソビエト連邦に和平調停の斡旋を求めたが、既にソ連はヤルタ会談での秘密協定に基づき、ドイツ降伏から3か月以内の対日参戦を決定していたため、日本の提案を取り上げなかった。 8月8日、ソ連は1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告し、直後に対日参戦した。ソ連軍は満洲国に対しても西の外蒙古(モンゴル人民共和国)及び東の沿海州、北の孫呉方面及びハイラル方面、3方向からソ満国境を越えて侵攻した。ソ連は参戦にあたり、直前に駐ソ日本大使に対して宣戦布告したが、満洲国に対しては国家として承認していなかったため、外交的通告はなかった。満洲国は防衛法(1938年4月1日施行)を発動して戦時体制へ移行したが、外交機能の不備、新京放棄の混乱などにより最後まで満洲国側からの対ソ宣戦は行われなかった。 関東軍首脳は撤退を決定し、新京の関東軍関係者は8月10日、憲兵の護衛付き特別列車で脱出した。満洲国を防衛する日本の関東軍は、1942年以降増強が中止され、後に南方戦線などへ戦力を抽出されて十分な戦力を持っていなかったため、国境付近で多くの部隊が全滅した。そのため、ソ連軍の侵攻で犠牲となったのは、主に満蒙開拓移民をはじめとする日本人居留民たちであった。通化への司令部移動の際に民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、軍事的な面から民間人の大規模な移動は「全軍的意図の(ソ連への)暴露」にあたること、邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材、時間もなく、東京の開拓総局にも拒絶され、結果彼らは武器も持たないまま置き去りにされ、満洲領に攻め込んだソ連軍の侵略に直面する結果になった。 一説にはとくに初期のソ連軍兵士らは囚人兵が主体だったともいわれ、軍紀が乱れ、戦時国際法の基礎教育もなく、兵士らによる日本人居留民に対する殺傷や強姦、略奪事件が多発した。また、それを怖れる日本人居留民や開拓団らの中には集団自決に奔るもの、あるいは逆に、ソ連軍将校らと取引し未婚の若い女性らを自ら犠牲に差出すものも続出したという。8月14日には葛根廟事件が起こっている。戦後、このような形で強姦され妊娠し、博多港に引き揚げてきた女性のためにと厚生省引揚援護局が、二日市に診療所を設け、当時違法であったが中絶手術を行った。もっとも満洲でとくに初期にはソ連兵による強姦が多発したのは間違いないが、開拓移民を多く出した石川県の満蒙開拓団関係者の依頼で開拓団史をまとめた藤田繁の調査・検証によれば、この二日市での中絶のケースでは、ソ連兵による強姦と考えるにはその多くが妊娠時期が合わなかったという。実際には暴行ばかりでなく、外地で生き延びるために、満洲や朝鮮等で現地の男性あるいは同じ引揚者の日本人男性らと一時的にでも夫婦同然となるような生活を送るしかなかった女性らが、郷里帰還を前にして中絶の選択を迫られた等の事情が考えられることを示唆している(参照:二日市保養所)。 皇帝溥儀をはじめとする国家首脳たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い、通化省臨江県大栗子に8月13日夕刻到着。同地に避難していたが、8月15日に行われた日本の昭和天皇による「玉音放送」で戦争と自らの帝国の終焉を知った。 2日後の8月17日に、国務総理大臣の張景恵が主宰する重臣会議は通化市で満洲国の廃止を決定、翌18日未明には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満洲国は誕生から僅か13年で滅亡した。退位詔書は20日に公布する予定だったが、実施できなかった。 8月19日に旧満洲国政府要人による東北地方暫時治安維持委員会が組織されたが、8月24日にソ連軍の指示で解散された。溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場より飛行機で日本に亡命する途中、奉天でソ連軍の空挺部隊によって拘束され、通遼を経由してソ連のチタの収容施設に護送された。そのほか、旧政府要人も8月31日に一斉に逮捕された。 占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。その後ソ連軍により、シベリアや外蒙古、中央アジア等に連行・抑留された者もいる(シベリア抑留)。 ソ連軍の侵攻を中国人や蒙古人の中には「解放」と捉える人もおり、ソ連軍を解放軍として迎え、当初関東軍と共にソ連軍と戦っていた満洲国軍や関東軍の朝鮮人・漢人・蒙古人兵士らのソ連側への離反が一部で起こったため、結果として関東軍の作戦計画を妨害することになった。中華民国政府に協力し反乱を起こしたことから日本人数千名が中国共産党の八路軍に虐殺された通化事件も発生した。 また、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った中国残留日本人孤児が数多く発生した。その後、日本人は新京や大連などの大都市に集められたが、日本本国への引き揚げ作業は遅れ、ようやく1946年から開始された(葫芦島在留日本人大送還)。さらに、帰国した「引揚者」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、苦しい生活を強いられた。政府が満蒙開拓団や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者たちは後々まで困窮した。 満洲はソ連軍の軍政下に入り、中華民国との中ソ友好同盟条約では3か月以内に統治権の返還と撤兵が行われるはずであったが、実際には翌1946年4月までソ連軍の軍政が続き、撫順市や長春市などには八路軍が進出して中国共産党が人民政府をつくっていた(東北問題)。この間、ソ連軍は、東ヨーロッパの場合と同様に工場地帯などから持ち出せそうな機械類を根こそぎ略奪して本国に持ち帰った。 1946年5月にはソ連軍は撤退し、満洲は蔣介石率いる中華民国に移譲された。中華民国政府は、行政区分を満洲国建国以前の遼寧・吉林・黒竜江の東北3省や熱河省に戻した。しかしその後国共内戦が再開され、中華民国軍は、人民解放軍に敗北し、中華民国政府は台湾島に移転することとなる。 1948年秋の遼瀋戦役でソ連の全面的な支援を受けた中国共産党の中国人民解放軍が満洲全域を制圧した。毛沢東は満洲国がこの地に残した近代国家としてのインフラや統治機構を非常に重要視し、「中国本土を国民政府に奪回されようとも、満洲さえ手中にしたならば抗戦の継続は可能であり、中国革命を達成することができる」として、満洲の制圧に全力を注いだ。八路軍きっての猛将・林彪と当時の中国共産党ナンバー2・高崗が満洲での解放区の拡大を任されていた。 旧満洲国軍興安軍である東モンゴル自治政府自治軍はウランフによって人民解放軍に編入され、チベット侵攻などに投入された。 1949年に中国共産党は中華人民共和国を成立させ、満洲国領だった東モンゴル地域に新たに内モンゴル自治区を設置した。満洲国時代に教育を受けた多くのモンゴル人たちは内モンゴル人民革命党に関係するものとして粛清された(内モンゴル人民革命党粛清事件)。ソ連軍から引き渡された満洲国関係者の多くは撫順戦犯管理所で中国共産党の思想改造を受けたが、毛沢東によって元満洲国皇帝の溥儀はロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世とその一家を虐殺したソ連より優越している中国共産党の証左として政治利用されることとなった。溥儀は釈放後、満洲族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出された。 1908年の時点で満洲の人口は1583万人だったが、満洲国が建国された1932年10月1日には2928万8千人になっていた。人口比率としては女性100に対して男性123〜125の割合で、1942年10月1日には人口は4424万2千人にまで増加していた。移民国家としての側面もあり、内地からの日本本土人以外でも、隣接する外地の朝鮮からの移住者が増加した他、台湾人も5000人移り住んだ。 国務院総務庁と治安部警務司の統計では1940年(康徳7年)10月1日の満洲国の人口は4108万0907人、男女比は120:100。国務院国勢調査では、同時期の満洲国の人口は4323万3954人、男女比は123.8:100であった。統計に開きがあるのは、警察戸口調査においては現住人口調査主義を、臨時国勢調査においては現在人口調査主義を採用したことによる。 人口の構成としては、 上記の「日本人」の中には、130万9千人の朝鮮人を含む。台湾人は朝鮮人に含まれている。 主要都市の人口は下記のとおり。 満洲国においては最後まで国籍法が制定されなかったため、満洲国籍を有する者の範囲は法令上明確にされず、慣習法により定まっているものとする学説が有力であった。国籍法が制定されなかった背景として、二重国籍を認めない日本の国籍法上、日本人入植者が「日本系満洲国人」となって日本国籍を放棄せざるを得ないこととなれば、新規日本人入植者が減少する恐れがあること、日本の統治下にあった朝鮮人を日本国民として扱っていた朝鮮政策との整合性の問題や、白系ロシア人の帰化問題などがあった。1940年(康徳7年)に「暫行民籍法」(康徳7年8月1日勅令第197号)が制定され、民籍に記載された者は満洲国人民として扱われた。日本人が満洲国で出生した場合には国籍が不明確になるが、満洲国の特命全権大使にその旨を届け出て、大使が内地の本籍地にそれを回送することで日本人として内地の戸籍に登録された。 1931年(昭和6年)から1932年(昭和7年)の満洲には59万人の日本人(朝鮮・台湾籍を含む)が居住し、うち10万人は農民だった。営口では人口の25%が日本人だったという。 満洲事変以前において、漢族以外の満洲への移住農民の内の多数は半島人とも呼ばれた朝鮮籍日本人であり、日本内地から満洲への移住者の大半は軍関係者あるいは南満洲鉄道および附属地の企業関係者とその家族であった。満洲国の成立以降、日本政府は国内における貧困農村の集落住民や都市部の農業就業希望者を中心に、「満蒙開拓団」と称する満蒙開拓移民を募集した。さらに日本政府は1936年(昭和11年)から1956年(昭和31年)の間に、500万人の日本人の移住を計画していた。当時満洲は実際には4千万人の人口がいたとみられるが、誤って3千万人程度と考えられていた。それが20年後には5千万人に増えるのではないかとみなして、漢・満・日・蒙・朝の五族中、日本人がその一割を確保したいと考えたのである。結局は、1945年(昭和20年)のポツダム宣言受諾での日本の降伏により満洲国は消滅したために、この計画は頓挫に終わった。1938年(昭和13年)から1942年(昭和17年)の間には20万人の農業青年を、1936年(昭和11年)には2万人の家族移住者を送り込んだ。なお、満洲で逐次開設されていった小学校の日本人教員の募集は内地の給与の7割から17割5分増しで募集された。 これらの開拓団の土地を確保するため、先に現地で耕作していた農民らの土地を強制的に安値で買い取っていったという。しかし、日本内地からの移民はとても数百万人規模の計画を満たすものでなく、その結果、長野県などの貧しい農村を標的に、今でいう補助金の停止をちらつかせるような形で、各地の中学校の教諭らにもその生徒からの確保を命じて強引に行われていったとされる。計画を進めた東宮鉄男らの考えでは、日本人移民はソ連を攻撃する際の現地近辺での徴兵の基盤作りあるいは逆に攻められた際の防御の盾とするためであり、したがって都市などに出て行って商売等に従事したりしないよう、彼らの多くは僻地に送られたが、中には、比較的都市に近いような場所で追い出された現地人らを小作人・使用人として使って比較的商品性の高い作物を作っていた例もあったという。 終戦時、ソ連対日参戦によりソビエト連邦が満洲に侵攻した際には、85万人の日本人移住者を抑留している。公務員や軍人を例外として、基本的にはこれらの人々は1946年(昭和21年)から1947年(昭和22年)にかけて段階的に連合国軍占領下の日本に送還されている。 もともと朝鮮との国境に近い地域には朝鮮民族の居住者も多く、歴史的にも満洲族との交流が深かったため、建国当時日本領であった朝鮮半島からも多くの朝鮮籍日本人が満洲国へ移住した。農業以外にも水商売や小規模商店などの事業を行うものも多かった。しかし現地の住民たちの反感を買う事例もあったという。 1934年(昭和9年)10月30日、岡田内閣(岡田啓介首相)は朝鮮人の内地への移入(在日韓国・朝鮮人)によって失業率や治安の悪化が進んでいる日本本土を守るとして、朝鮮人が満洲に向かうよう満洲国の経済開発を推し進めることを閣議決定している。 満洲事変以前からヨーロッパにおけるユダヤ人問題に関心を持ち始めていた日本政府は、満洲国内におけるユダヤ教徒によるユダヤ人自治州を企図し、反ユダヤ政策を推進していたナチス・ドイツ政府に対し、その受け入れを打診していた(河豚計画)。 しかしその後、日中戦争(支那事変)に突入したことなどにより、日満両政府が本格的に遂行することはなく、第二次世界大戦前夜のナチス・ドイツやソビエト連邦による反ユダヤ人政策を嫌悪し、満洲国経由でアメリカ合衆国や南米諸国に亡命しようとしたユダヤ人のうち少数が満洲国に移住したにとどまった。 満洲国は公式には五族協和の王道楽土を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとして建設され、アジアでの多民族共生の実験国家であるとされた。共和制国家であるアメリカ合衆国をモデルとするとしていたものの、皇帝を国家元首とする立憲君主制国家である。五族協和とは、満蒙漢日朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、王道楽土とは、西洋の「覇道」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満洲国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味している。満洲にはこの五族以外にも、ロシア革命後に共産主義政権を嫌いソビエトから逃れてきた白系ロシア人等も居住していた。 その中でも特に、ボリシェヴィキとの戦争に敗れて亡ぼされた緑ウクライナのウクライナ人勢力と満洲国は接触を図っており、戦前には日満宇の三国同盟で反ソ戦争を開始する計画を協議していた。しかし、1937年にはウクライナ人組織にかわってロシア人のファシスト組織(ロシアファシスト党)を支援する方針に変更し、ロシア人組織と対立のあるウクライナ人組織とは断交した。第二次世界大戦中に再びウクライナ人組織と手を結ぼうとしたが、太平洋方面での苦戦もあり、極東での反ソ武力抗争は実現しなかった。 満洲国は建国の経緯もあって日本の計画的支援の下、きわめて短期間で発展した。内戦の続く中国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人などの移民があり、とりわけ日本政府の政策に従って満洲国内に用意された農地に入植する日本内地人などの移民は大変多かった。これらの移民によって満洲国の人口も急激な勢いで増加した。 満洲国政府は、国家元首として執政(後に皇帝)、諮詢機関として参議府、行政機関として国務院、司法機関として法院、立法機関として立法院、監察機関として監察院を置いた。 国務院には総務庁が設置され、官制上は首相の補佐機関ながら、日本人官吏のもと満洲国行政の実質的な中核として機能した(総務庁中心主義)。それに対し国務院会議の議決や参議府の諮詢は形式的なものにとどまり、立法院に至っては正式に開設すらされなかった。 元首(執政、のち皇帝)は、愛新覚羅溥儀がつき、1937年(康徳4年)3月1日に公布された帝位継承法第一条により、溥儀皇帝の男系子孫たる男子が帝位を継承すべきものとされた。 帝位継承法の想定外の事態に備えて、満洲帝国駐箚(駐在)大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官との会談で、皇帝は、清朝復辟派の策謀を抑え、関東軍に指名権を確保させるため、自身に帝男子孫が無いときは、日本の天皇の叡慮によって帝位継承者を定める旨を皇帝が宣言することなどを内容とした覚書などに署名している(なお、溥儀にはこの時点で実子がおらず、その後も死去するまで誕生していない)。 満洲国は瓦解に至るまで国籍法を定めず、法的な国民の規定はなされなかった。結果、移民や官僚も含めた満洲居住の日本人は日本国籍を有したままであり、敗戦後、法的な障害無しに日本へ引き揚げる事が出来た。1940年(康徳7年)に「暫行民籍法」(康徳7年8月1日勅令第197号)が制定され、民籍に記載された者は満洲国人民として扱われた。 1932年(大同元年)の建国時には首相(執政制下では国務院総理、帝政移行後は国務総理大臣)として鄭孝胥が就任し、1935年(康徳2年)には軍政部大臣の張景恵が首相に就任した。 しかし実際の政治運営は、満洲帝国駐箚大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官の指導下に行われた。元首は首相や閣僚をはじめ官吏を任命し、官制を定める権限が与えられたが、関東軍が実質的に満洲国高級官吏、特に日本人が主に就任する総務庁長官や各部次長(次官)などは、高級官吏の任命や罷免を決定する権限をもっていたので、関東軍の同意がなければこれらを任免することができなかった。 公務員の約半分が日本内地人で占められ、高い地位ほど日本人占有率が高かった。これらの日本内地人は日本国籍を有したままである。俸給、税率面でも日本人が優遇された。関東軍は満洲国政府をして日本内地人を各行政官庁の長・次長に任命させてこの国の実権を握らせた。これを内面指導と呼んだ(弐キ参スケ)。これに対し、石原莞爾は強く批難していた。しかし、台湾人(満洲国人)の謝介石は外交部総長に就任しており、裁判官や検察官なども日本内地人以外の民族から任用されるなど、日本内地人以外の民族にも高位高官に達する機会がないわけではなかった。しかし、これも日本に従順である事が前提で、初代首相の鄭孝胥も関東軍を批判する発言を行ったことから、半ば解任の形で辞任に追い込まれている。 省長等の地方長官は建国当初は現地有力者が任命される事が多かったが、これも次第に日本人に置き換えられていった。 憲法に相当する組織法には、一院制議会として立法院の設置が規定されていたが選挙は一度も行われなかった。政治結社の組織も禁止されており、満洲国協和会という官民一致の唯一の政治団体のみが存在し、実質的に民意を汲み取る機関として期待された。 憲法に相当する組織法や人権保障法をはじめ、民法や刑法などの基本法典について、日本に倣った法制度が整備された。当時の日本法との相違としては、組織法において、各閣僚や合議体としての内閣ではなく、首相個人が皇帝の輔弼機関とされたこと、刑法における構成要件はほぼ同様であるが、法定刑が若干日本刑法より重く規定されていること、検察庁が裁判所から分離した独自の機関とされたことなどが挙げられる。 満洲国版図では日露中の支配域ごとに異なる標準時が用いられていたが、満洲国は東経120度を子午線とし、UTC+8を標準時として統一した。1937年1月1日に日本標準時に合わせてUTC+9に変更された。変更後の子午線は東経135度となり、満洲国内を通っていない。 日本は建国宣言が出されて約半年後の1932年9月に承認し、エルサルバドルとコスタリカは1934年と早期に承認した。エチオピア侵略で経済制裁を受け国際連盟を脱退したイタリアは、1937年12月に承認した。 ドイツは1936年に日本と防共協定を結んでいたが、一方で当初は満洲国承認は行わず、中独合作で中華民国とも結ばれていたこともあり極東情勢に不干渉の立場をとっていた。しかし防共協定が日独伊三国防共協定になった翌年の1938年2月に承認した)。 第二次世界大戦の勃発後にもフィンランドをはじめとする枢軸国、タイ王国などの日本の同盟国、クロアチア独立国やスペインなどの枢軸国の友好国、ドイツの占領下にあったデンマークなど、合計20か国が満洲国を承認した(1939年当時の世界の独立国は60か国ほどであった)。また、イギリスとフランスは「日本の言い分もわかる、我々の権益が確保できるならいいだろう」として、陰では承認する用意があった。 満洲国は上記の国のうち、日本と南京国民政府に常駐の大使を、ドイツとイタリアとタイに常駐の公使を置いていた。東京に置かれていた満洲国大使館は麻布区桜田町50(現在の港区元麻布)にあり、ここは日本国と中華民国との間の平和条約の締結後に中華民国大使館となり、日中国交正常化後に中華人民共和国大使館に代わった。 1941年(康徳8年)にはハンガリーやスペインとともに防共協定に加わっている。一方、日独伊三国同盟には加盟せず、第二次世界大戦においても連合国への宣戦布告は行っていない。しかしながら日本と同盟関係を結び日本軍(関東軍)の駐留を許すほか、軍の主導権を握る位置に日本人が多数送られていた上に、軍備の多くが日本から提供もしくは貸与されているなど、軍事上は日本と一体化しており実質的には枢軸国の一部であったとも解釈できる。 また、経済部大臣の韓雲階を団長にした「満洲帝国修好経済使節団」がイタリアやバチカン、ドイツやスペインなどの友好国を訪問し、ピウス12世やベニート・ムッソリーニ、アドルフ・ヒトラーらと会談している。また1943年(康徳10年)に東京で開催された大東亜会議にも張景恵国務総理大臣が参加し、タイや自由インドなど各国の指導者と会談している。 満洲国は正式な外交関係が樹立されていない諸国とも事実上の外交上の交渉接点を複数保有していた。奉天とハルピンにはアメリカとイギリスの総領事館、ハルピンにはソ連とポーランドの総領事館など13の総領事館が設置されていた。 ソビエト連邦とは満洲国建国直後から事実上の国交があり、イタリアやドイツよりも長い付き合いが存在した。満洲国が1928年の「ソ支間ハバロフスク協定」にもとづき在満ソビエト領事館の存続を認めるとソ連は極東ソ連領の満洲国領事館の設置を認め、ソ連国内のチタとブラゴヴェシチェンスクに満洲国の領事館設置を認めた。さらに日ソ中立条約締結時には「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重する声明を発するなど一定の言辞を与えていたほか、北満鉄道讓渡協定により北満鉄道(東清鉄道から改称)を満洲国政府に譲渡するなど、満洲国との事実上の外交交渉を行っていた。 また、満洲国を正式承認しなかったドミニカ共和国やエストニア、リトアニアなども満洲国と国書の交換を行っていた。このほか、バチカン(ローマ教皇庁)は、教皇使節(Apostolic delegate)を満洲国に派遣していた。 満洲国の国軍は、1932年(大同元年)4月15日公布の陸海軍条例(大同元年4月15日軍令第1号)をもって成立した。日満議定書によって日本軍(関東軍)の駐留を認めていた満洲国自体の性質上もあり、「関東軍との連携」を前提とし、「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした、軍隊というより関東軍の後方支援部隊、準軍事組織や国境警備隊としての性格が強かった。 後年、太平洋戦争の激化を受けた関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、ソ連対日参戦の際は所轄上部機関より離反してソ連側へ投降・転向する部隊が続出し、関東軍の防衛戦略を破綻させた。 政府主導・日本資本導入による重工業化、近代的な経済システム導入、大量の開拓民による農業開発などの経済政策は成功を収め、急速な発展を遂げるが、日中戦争(日華事変)による経済的負担、そしてその影響によるインフレーションは、満洲国体制に対する満洲国民の不満の要因ともなった。政府の指導による計画経済が基本政策で、企業間競争を排するため、一業界につき一社を原則とした。 三井財閥や三菱財閥の財閥系企業をはじめとする多くの日本企業が進出したほか、国交樹立していたドイツやイタリアの企業であるテレフンケンやボッシュおよびフィアットも進出していた。なお、日産コンツェルンは1937年(康徳4年)に持株会社の日本産業を満洲に移転し、満洲重工業開発(満業)を設立している。さらに国交のないアメリカの大企業であるフォード・モーターやゼネラルモーターズおよびクライスラーやゼネラル・エレクトリック等、イギリスの香港上海銀行なども進出し、1941年7月に日英米関係が悪化するまで企業活動を続けた。 法定通貨は満洲中央銀行が発行した満洲国圓(圓、yuan)で、1圓=10角=100分=1000厘だった。当時の中華民国や現在の中華人民共和国の通貨単位も圓(元、yuan)で同じだが、中華民国の通貨が「法幣」と呼ばれたのに対し、同じく法幣の意味をもつ満洲国の通貨は「国幣」と表記して区別した。中華民国の銀圓・法幣(及び現在の人民元、台湾元、香港元)と同様、漢字で「元」と表記したが、満洲国内の貨幣法では、日本国と同様に「圓」(円)の表記が採用された。 貨幣法(教令第25号)の公布は、満洲国が成立した同年(1932年)6月11日である。 金解禁が世界的な流れとなる中で日本では金解禁が行われていたが、通貨は中華民国と同じく銀本位制でスタートし、現大洋(袁世凱弗、孫文弗と呼ばれた銀元通貨)と等価とされたが、1935年11月に日本円を基準とする管理通貨制度に移行した。このほか主要都市の満鉄付属地を中心に、関東州の法定通貨だった朝鮮銀行発行の朝鮮券も使用されていたが、1935年(昭和10年)11月4日に日本政府が「満洲国の国幣価値安定及幣制統一に関する件」を閣議決定したことにより、満洲国内で流通していた日本側の銀行券は回収され、国幣に統一された。 満洲国崩壊後もソ連軍の占領下や国民政府の統治下で国幣は引き続き使用されたが、1947年に中華民国中央銀行が発行した東北九省流通券(東北流通券)に交換され、流通停止となった。 満洲国建国以前の貨幣制度は、きわめて混乱していた。すなわち銅本位の鋳貨(制銭、銅元)および紙幣(官帖、銅元票)、銀本位の鋳貨(大洋銭、小洋銭、銀錠)および紙幣(大洋票、小洋票、過爐銀、私帖)があり、うち不換紙幣が少なくなかった。ほかに外国貨幣である円銀、墨銀、日本補助貨、日本銀行券、金票(朝鮮銀行券)、鈔票(横浜正金銀行発行の円銀を基礎とした兌換券)などが流通し、購買力は一定せず、流通範囲は一様でなかった。満洲国建国直後に満洲中央銀行が設立されるとともに旧紙幣の回収整理が開始され、1935年(康徳2年)8月末までにほとんどすべてが回収された。 こうして貨幣は国幣に統一され、鈔票の流通は関東州のみとなり、その額は小さく、金票は1935年(康徳2年)11月4日の満洲国幣対金円等値維持に関する日満両国政府による声明以来、金票から国幣に換えられることが増えて、満鉄、関東州内郵便局および満洲国関係の諸会社の国幣払実施とあいまって国幣の使用範囲は広がった。国幣は円単位で、純銀 23.91g の内容を有すると定められたが、本位貨幣が造られないためにいわば銀塊本位で、兌換の規定が無いために変則の制度であった。 貨幣は百圓、十圓、五圓、一圓、五角の紙幣、一角、五分、一分、五厘の鋳貨(硬貨)が発行され、紙幣は無制限法貨として通用された。紙幣は満洲中央銀行が発行し、正貨準備として発行額に対して3割以上の金銀塊、確実な外国通貨、外国銀行に対する金銀預金を、保証準備として公債証書、政府の発行または保証した手形、その他確実な証券または商業手形を保有すべきことが命じられた。後に鋳貨の代用として一角、五分の小額紙幣が発行された。 やがて軍の軍費要求はもとより私用同然の物資調達を安易にこれに頼ろうとする日本人官吏層の堕落等から、満洲中央銀行は実体としての正貨準備と関係なく様々な便法を駆使して紙幣を濫発、インフレを急速化させ、住民を困窮させていくことになる。もともと経済力では中国が日本より上回っていると見られていたこと、中国には英国からの経済支援があったこともあるが、日中戦争中に同様な現象が中国本土においても惹き起こされ、これは日本軍が勝っても日本側の法幣や軍票の値打ちは上がらないといわれる事態の一因となっている。 中華郵政が行っていた郵便事業を1932年7月26日に接収し、同日「満洲国郵政」(帝政移行後は「満洲帝国郵政」)による郵政事業が開始された。中華郵政は満洲国が発行した切手を無効としたため、1935年から1937年までの期間、中国本土との郵便物に添付するために国名表記を取り除き「郵政」表記のみとした「満華通郵切手」が発行されていた。 同郵政が満洲国崩壊までに発行した切手の種類は159を数え、記念切手も多く発行した。日本との政治的つながりを宣伝する切手も多く、1935年の「皇帝訪日紀念」や1942年の「満洲国建国十周年紀念」・「新嘉坡(シンガポール)陥落紀念」・「大東亜戦争一周年紀念」などの記念切手は日本と同じテーマで切手を発行していた。 1944年の「日満共同体宣伝」のように、中国語の他に日本語も表記した切手もあった。郵便貯金事業も行っており、1941年には「貯金切手」も発行している。 満洲国で最後の発行となった郵便切手は、1945年5月2日に発行された満洲国皇帝の訓民詔書10周年を記念する切手である。予定ではその後、戦闘機3機を購入するための寄附金付切手が発行を計画されていたが、満洲国崩壊のために発行中止となり大半が廃棄処分になった。だが第二次世界大戦後、満洲に進駐したソ連軍により一部が流出し、市場で流通している。 日本は内地及び朝鮮を除いてアヘン(阿片)専売制と漸禁政策を採用しており、満洲地域でもアヘン栽培は実施されていた。名目上はモルヒネ原料としての薬事処方方原料の栽培だが、これらアヘン栽培が馬賊の資金源や関東軍の工作資金に流用され、上海などで売りさばかれた。 1932年(大同元年)に阿片法(大同元年11月30日教令第111號)が制定され、アヘンの吸食が禁止された。ただし未成年者以外のアヘン中毒者で治療上必要がある場合は、管轄警察署長の発給した証明書を携帯した上で政府の許可を受けた阿片小売人から購入することができた。 日本の半官半民の国策会社・南満洲鉄道(満鉄)は、ロシアが敷設した東清鉄道南満洲支線を日露戦争において日本が獲得して設立されたが、満洲国の成立後は特に満洲国の経済発展に大きな役割を果たした。同社は満洲国内における鉄道経営を中心に、フラッグ・キャリアの満洲航空、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林、牧畜に加えてホテル、図書館、学校などのインフラストラクチャー整備も行った。 新京〜大連・旅順間を本線として各地に支線を延ばしていた。「超特急」とも呼ばれた流線形のパシナ形蒸気機関車と専用の豪華客車で構成される特急列車「あじあ」の運行など、主に日本から導入された南満洲鉄道の車両の技術は世界的に見ても高いレベルにあった。 一方、満洲国成立前から満鉄に対抗して中国資本の鉄道会社が満鉄と競合する鉄道路線の建設を進めていた。これらの鉄道会社は、満洲国成立後に公布された「鉄道法」に基づいて国有化され、満洲国有鉄道となった。しかし満洲国鉄による独自の鉄道運営は行われず、即日満鉄に運営が委託されて、実際には満洲国内のほぼすべての鉄道の運営を満鉄が担うことになった。新規に建設された鉄道路線、1935年にソビエト連邦との交渉の末に満洲国に売却された北満鉄路(東清鉄道)など私鉄の接収・買収路線も全て満洲国鉄に編入され、満鉄が委託経営を行っていた。特に新規路線は建設から満鉄に委託と、「国鉄」とは名ばかりで全てが満鉄にまかせきりの状況であった。この他にも満鉄は朝鮮半島の朝鮮総督府鉄道のうち、国境に近い路線の経営を委託されている。車両などは共通のものが広く使われていたが、運賃の計算などでは満鉄の路線(社線)と満洲国鉄の路線(国線)に区別が設けられていた。しかしこれも後に旅客規程上は区別がなくなり、事実上一体化した。 満鉄は単なる鉄道会社としての存在にとどまらず、沿線各駅一帯に広大な南満洲鉄道附属地(満鉄附属地)を抱えていた。満鉄附属地では満洲国の司法権や警察権、徴税権、行政権は及ばず、満鉄がこれらの行政を行っていた。首都新京特別市(現在の長春市)や奉天市(現在の瀋陽市)など主要都市の新市街地も大半が満鉄附属地だった。都市在住の日本人の多くは満鉄附属地に住み、日本企業も満鉄附属地を拠点として治外法権の特権を享受し続け、満洲国の自立を阻害する結果となったため、1937年に満鉄附属地の行政権は満洲国へ返還された。 満鉄・国鉄の他にも、領内には小さな私鉄がいくつも存在した。これらの中には国有化され、改修されて満洲国鉄の路線となったものや、満洲国鉄が並行する路線を敷設したために補償買収されてから廃止になったものもある。以下に満洲国が存在した時期に一貫して私鉄であったものを挙げる(※印は補償買収後に廃止になった路線)。 1940年前後から、満鉄が請負の形で積極的にこれら私鉄の建設に携わるようになり、戦争末期の頃には相当数の路線が満鉄の手によって建設されるようになっていた。ただしその多くが竣工する前、竣工しても試運転をしただけの状態で満洲国崩壊に遭って建設中止となり、未成線になっている。 この他、首都・新京を始めとして奉天・哈爾濱など主要都市の市内には路面電車が敷設されていた。新京及び奉天では地下鉄建設計画もあったが、実現しなかった。 1931年に南満洲鉄道の系列会社として設立されたフラッグ・キャリアの満洲航空が、新京飛行場を拠点に満洲国内と日本(朝鮮半島を含む)を結ぶ定期路線を運航していた。 中島AT-2やユンカースJu 86、ロッキード L-14 スーパーエレクトラなどの外国製旅客機の他にも、自社製の満洲航空MT-1や、ライセンス生産したフォッカー スーパーユニバーサルなどで満洲国内の主都市を結んだ他、新京とベルリンを結ぶ超長距離路線を運航することを目的とした系列会社である国際航空を設立した。 満洲航空は単なる営利目的の民間航空会社ではなく、民間旅客、貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送、チャーター便の運行や測量調査、航空機整備から航空機製造まで広範囲な業務を行った。 電話・ファックスなどの通信業務やラジオ放送業務も、1933年に設立された満洲電信電話(MTT)に統合された。放送局はハルビン、新京、瀋陽などに置かれており、ロシア人を中心に作られたハルビン交響楽団、後に日本人を中心に作られた新京交響楽団による音楽演奏も毎週これら放送局だけでなく、日本租借地にある大連放送局へも中継された。聴取者から聴取料を徴収していたが、内地に先駆けて広告も扱っており、また海外へ外国語による放送も行われていた。 「満語」と称された標準中国語と日本語が事実上の公用語として使用された。軍、官公庁においては日本語が第一公用語であり、ほとんどの教育機関で日本語が教授言語とされた。モンゴル語、ロシア語などを母語とする住民も存在した。また、簡易的な日本語として協和語もあった。1938年1月以降、中国語(満語)、日本語、モンゴル語(蒙古語)が「国語」と定められ授業で教えられた。 大本の教祖である出口王仁三郎は布教活動の一環としてエスペラントの普及活動も行っており、満洲国の建国に際し、信奉者である石原莞爾の協力を得てエスペラントを普及させる計画があったが実現しなかった。 満洲国の教育の根本は、儒教であった。教育行政は、中央教育行政機関は文教部であり、文教部大臣は教育、宗教、礼俗および国民思想に関する事項を掌理した。大臣の下には次長が置かれ、さらに部内は総務、学務および礼教の3司に分けられ、それぞれ司長が置かれた。総務司は秘書、文書、庶務および調査の4科に、学務司は総務、普通教育および専門教育の3科に、礼教司は社会教育および宗教の2科に分けられ、それぞれ教育行政を掌した。視学機関は、督学官が置かれた。地方教育行政は、各省では省公署教育庁が、特別市では市政公署教育科が、各県では県公署教育局が、それぞれ管内の教育行政を司った。 最高学府として建国大学の他、国立大学の大同学院、ハルピン学院などが設置された。 小学校は、修業年限は6年で、初級小学校4年+高級小学校2年とするのが本体であったが、初級小学校のみを設けることも認められた。教育科目は、初級小学校は修身、国語、算術、手工、図画、体操および唱歌であり、高等小学校は、初級小学校のそれのほかに歴史、地理および自然の3科目が加えられ、その地方の特状によっては日本語をも加えられた。後に、初級小学校は国民学校、高級小学校は国民優級学校にそれぞれ改称された。教科書は、建国以前に用いられていた三民主義教科書に代わってあらたに国定教科書が編纂された。僻地では、寺子屋ふうの「書房」がなおも初等教育機関として残されていた。 中学校は、初級および高級の2段階で、修業年限はそれぞれ3年で、併置されるのが原則で、初級中等には小学校修了者を入学させた。教科目は初級は国文、外国語、歴史、地理、自然科、生理衛生、図画、音楽、体育、工芸(農業、工業、家事の1科)および職業科目で、一定範囲の選択科目制度が認められ、高級は普通科、師範科、農科、工科、商科、家事科その他に分かれ、その教育は職業化されていた。 師範教育は、小学校教員は、省立師範学校および高級中学師範科で、養成された。省立師範学校は修業年限3年、初級中学校卒業者を入学させた。普通科目のほかに教育、心理その他を課し、最上級の生徒は付属小学校その他の小学校で教生として教育実習を行った。ほか実業教育機関として職業学校があった。 ただし、日本人のほとんどは、満鉄が管轄する付属地の日本人学校に通っていた。1937年の治外法権撤廃により付属地が消滅した後も、教育、神社、兵事に関する事項は日本の管轄に残され、日本人が通う学校は駐満全権大使が管轄し、日本国内に準じて運営された。この方針は日本人開拓団の学校にも適用され、日本人学校は満洲国の教育制度の外に置かれていた。 1928年に南満洲鉄道が広報部広報係映画班、通称「満鉄映画部」を設け、広報(プロパガンダ)用記録映画を製作していた。その後1937年に設立された国策映画会社である「満洲映画協会」が映画の制作や配給、映写業務もおこない各地で映画館の設立、巡回映写なども行った。 田河水泡の当時の人気漫画「のらくろ」の単行本のうち、1937年(昭和12年)12月15日発行の「のらくろ探検隊」では、猛犬聯隊を除隊したのらくろが山羊と豚を共だって石炭の鉱山を発見するという筋で、興亜のため、大陸建設の夢のため、無限に埋もれる大陸の宝を、滅私興亜の精神で行うという話が展開された。 序の中で、「おたがひに自分の長所をもって、他の民族を助け合って行く、民族協和という仲のよいやり方で、東洋は東洋人のためにという考え方がみんな(のらくろが旅の途中で出会って仲間になった朝鮮生まれの犬、シナ生まれの豚、満洲生まれの羊、蒙古生まれの山羊等の登場人物達)の心の中にゑがかれました。」とあり、当時の軍部が国民に説明していたところの「興亜」と「民族協和の精神」を知ることができる。 新京の藝文社が1942年1月から、満洲国で初で唯一の日本語総合文化雑誌「藝文」を発行した。1943年11月、「満洲公論」に改題。 多民族国家・満洲国では、各民族の衣装が混在していた。初代国務院総理の鄭孝胥は、溥儀の皇帝即位式典はじめ、公私ともに生涯中国服を通したといわれる。 一方、後任の張景恵は、「協和(会)服」と呼ばれる満洲国協和会の公式服を着用することが多かった。国民服に似たデザインと色だが、国民服より先に考案された。階層によって材質・デザインに違いがあったとされるが、上は国務総理大臣から下は一般学生まで、民族を問わず広く着用され、石原莞爾や甘粕正彦のような日本人の軍人・官僚・有力者も着用した。協和服には、飾緒のような金モールと、満洲国国旗と同じ色をした五色の房からなる儀礼章が付属した。ループタイのように首からかけて玉留めで締め、左胸に房をかける形で佩用する。慶事には房の赤と白、弔事には黒と白の部分を強調することで対応した。 なお、宮廷行事等では、日本の大礼服と酷似したものが用いられた。 1927年には同志社大学ラグビー部が遠征に来て8試合行った。1928年1月に満州代表による日本遠征が行われ明治大学などと対戦し、同年には満州ラグビー協会が誕生し、日本の西部ラグビー協会(西日本担当、現在の関西ラグビーフットボール協会と九州ラグビーフットボール協会)の支部となった。 1932年に満洲国体育協会が設立された。満洲国の国技はサッカーであり、満洲国蹴球協会やサッカー満洲国代表チームも結成されている。野球でも、日本の都市対抗野球大会に参加したチームがあり、日本プロ野球初の海外公式戦として、1940年に夏季リーグ戦を丸々使って満洲リーグ戦が行われている。 建国当初の満洲国ではオリンピックへの参加も計画されており、1932年5月21日に満洲国体育協会はロサンゼルスオリンピック(1932年7月開催)への選手派遣を同オリンピックの組織委員会に対して正式に申し込んでいるが、結局参加は出来なかった。ちなみに、派遣する選手としては陸上競技短距離走の劉長春や、中距離走の于希渭(謂)などが挙げられていた(ただし劉は満洲国代表としての出場を拒否し、中華民国代表として出場している)。 1936年に開催されたベルリンオリンピックへの参加も見送られたが、1940年に開催される予定であった東京オリンピックには選手団を送る予定であった。しかし、日中戦争の激化などを受けて同大会の開催が返上されたため、オリンピックに参加することはできなかった。なおその後、実質的な代替大会である東亜競技大会が開催されている。 満洲国へは多くの日本人音楽家が渡り、西洋音楽の啓蒙活動を行った。満洲国建国以前よりこの地には白系ロシア人を中心としたハルビン交響楽団が存在したが、これに加えて日本人を中心に新京交響楽団が結成され、両者は関東軍の後援を受けてコンサートや放送のための演奏を行った。1939年には「新満洲音楽の確立及び近代音楽の普及」を目的として新京音楽院が設立された。 園山民平は音楽教育や満洲民謡の収集・研究に尽力した他、満洲国国歌を作曲した。その他、指揮者の朝比奈隆、作曲家の太田忠、大木正夫、深井史郎、伊福部昭、紙恭輔などの音楽家が日本から短期間招かれ、例えば太田は「牡丹江組曲」、大木は交響詩「蒙古」、深井は交響組曲「大陸の歌」、伊福部は音詩「寒帯林」、紙は交響詩「ホロンバイル」を作曲した。 崔承喜は1940年代当時、世界的に有名な舞踏家であるが、当時の満洲、および中国各地を巡業していた。 満洲国の国花は「蘭」とされることが多いが、「蘭」は「皇室の花(ローヤル・フラワー)」であり、日本における菊に相当するものであった。いわゆる「国花(ナショナル・フラワー)」は高粱であり、1933(大同2)年4月に決定されたとの記録がある。 満洲国の消滅後は、満洲族も数ある周辺少数民族の一つと位置付けられ、「満洲」という言葉自体が中華民国、中華人民共和国両国内で排除されている(「満洲族」を「満族」と呼び、清朝の「満洲八旗」は「満清八旗」と呼びかえるなど)。例外的に地名として満洲里がその名をとどめている程度である。また、「中国共産党満洲省委員会」のように歴史的な事柄を記述する場合、満洲という言葉は変更されずに残されている。今日、満洲国の残像は歴史資料や文学、一部の残存建築物などの中にのみ存在する。 「Category:満洲国を舞台とした作品」を参照。 満洲国で出生した日本における人物についてはCategory:満洲国出身の人物を参照。 中華人民共和国の歴史書や事典などでは、日本が東三省を武力侵略した後に建国した傀儡政権、傀儡国家とされ、その傀儡性や反人民性を示すために「偽満洲国」あるいは「偽満」と称しており、中華民国(国民党・台湾政府)で出版されたものでも同じである。日本での見方は当然のように違い、おおむね満洲国の政治実態に重点をおく「傀儡国家」論と、満洲国の政治言説の分析力点をおく「理想国家」論の二つに分類できるが、また、満洲国が傀儡国家か理想国家かという二者択一の問題を重要視しない第3の歴史認識ともいうべき新たな視点が日中両国の歴史マニアの間で浮上してきたとも言われている。 日本国内においては、満洲国を、日本や関東軍の傀儡国家とみなす立場に関して、研究者として山室信一、加藤陽子、並木頼寿らが挙げられる。辞書や歴史辞典の類においてみれば、日本または関東軍の傀儡国家と規定するものが多い。 大日本帝国の立場において、以下のような論述がある。 農業学者新渡戸稲造は在米中の1932年(昭和7年)8月20日、CBSラジオでスティムソンドクトリンに反論する形で「満洲事変と不戦条約」について言明し、「満洲事変は自己防衛の手段としてなされたものであって侵略ではなく、満洲国は一般に考えられているように日本の傀儡政権ではない」と表明している。親日運動家シドニー・ギューリックは1939年の自著『日本へ寄せる書』において、「支那における排日運動は極めて徹底したものである。一般民衆に排日思想をふき込む許りでなく子供の排日教育にも力を注ぎ、このためには歴史上の事実さへも歪め、虚偽の歴史を教えて子供の敵愾心をそそり、憎悪の念を植え付けていった」「例えば満洲は支那本土の一部であるにもかかわらず日本がそれを奪ったと教える。しかし歴史上満洲が支那の一部であった事実は未だ一度もなく、逆に支那本土が満洲の属国であった歴史上の事実がある位である。これなどは全然逆な事実を教えるものであるが、その目的は一に満洲から日本の勢力を駆逐しようとするところにあったわけである」と述べている。 オーウェン・ラティモアは、The Mongols of Manchuria(1934年)のなかで、中国は確かに西洋列強の半植民地に転落したが、同時に中国はモンゴルやチベットなどの諸民族に対し、西洋列強よりも苛烈な植民地支配を強制し、無数の漢民族をモンゴルの草原に入植させては軍閥政権を打ち立て、現地人が少しでも抵抗すれば、容赦なく虐殺しており、西洋列強と中国に比べて、新生の満洲国はモンゴル人の生来の権益を守り、民族自治が実現できている、と評価している。 近年の研究に基づくものでは、民族自治どころか日本内地人が圧倒的優位に立つ植民地的国家であったという評価がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "満洲国(まんしゅうこく、旧字体: 滿洲國、拼音: Mǎnzhōu Guó)は、満洲事変により日本軍が占領した満洲(現在の中国東北3省遼寧省、吉林省、黒竜江省)、内蒙古、熱河省を領土として1932年(昭和7年/大同元年)に成立した国家。一般に日本の傀儡国家と見做されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "首都は新京(旧長春)。日本民族・満洲民族・漢民族・モンゴル民族・朝鮮民族の「五族協和」による「王道楽土」建設をスローガンとし、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀を執政に迎え、1934年(昭和9年/康徳元年)から溥儀を皇帝とした帝制へ移行し、各大臣は満洲族で占められたが、要職は関東軍司令官のもと日本人が掌握した。1945年(昭和20年/康徳12年)8月に対日参戦したソ連軍に占領されたことで消滅した。ただし完全占領前の8月17日に重臣会議により満洲国の廃止が決定され、翌日に皇帝溥儀が退位を宣言している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「洲」が常用漢字でないため、日本の教育用図書を含め一般的に「満州国」の表記が使われるが、日本の法令や一部の文献では「満洲国」が用いられる(表記については「満洲#呼称としての満洲」も参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "清が領有していた満洲と呼ばれる地域のうち、外満洲はアイグン条約及び北京条約でロシア帝国に割譲され、内満洲の旅順・大連は日露戦争までは旅順(港)大連(湾)租借に関する条約でロシアの、戦後はポーツマス条約と満洲善後条約により日本の租借地となっていた。さらに内満洲ではロシアにより東清鉄道の建設が開始され、義和団の乱の際には進駐して来たロシア帝国陸軍が鉄道附属地を中心に展開し、満洲を軍事占領した。朝鮮半島と満洲の権益をめぐる日露戦争の後、長春(寛城子)以北の北満洲にロシア陸軍が、以南の南満洲にロシアの権益を引き継いだ日本陸軍が南満洲鉄道附属地を中心に展開して半植民地の状態だった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "清朝は満洲族の故地満洲に当たる東三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)には総督を置かず、奉天府と呼ばれる独自の行政制度を持っていたが、光緒33年(1907年)の東北改制を機に、他の省に合わせて東三省総督を設置し、管轄地域の軍政・民政の両方を統括させた。歴代の総督はいずれも袁世凱の派閥に属し、東三省は袁世凱の勢力圏であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1912年の清朝滅亡後は中華民国(北京政府)が清朝領土の継承を主張し、袁世凱の臨時大総統就任に伴ない、当時の東三省総督趙爾巽も奉天都督に任命され、東三省も中華民国の統治下に入った。しかし、袁世凱と孫文の対立から中華民国は分裂、内戦状態に陥り、満洲では、趙爾巽の部下だった張作霖が日本の後押しもあって台頭し、奉天軍閥を形成し、満洲を実効支配下に置くようになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また日本は1922年(大正11年)の支那ニ関スル九国条約第1条により中華民国の領土的保全の尊重を盟約していたが、中華民国中央政府(北京政府)の満洲での権力は極めて微力で、張作霖率いる奉天軍閥を満洲を実効支配する地方政権と見なして交渉相手とし、協定などを結んでいた。北伐により北京政府が崩壊し、北京政府を掌握していた張作霖が満洲に引き揚げてきたところを日本軍によって殺される(張作霖爆殺事件)と、後を継いだ息子の張学良は、1928年(昭和3年)12月29日に奉天軍閥を国民政府(南京政府)に帰順(易幟)させた。実質的には奉天軍閥の支配は継続していたが、満洲に青天白日満地紅旗が掲げられる事になった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1929年、日本は南京国民政府を中華民国の代表政府として正式承認した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1931年(昭和6年)9月18日、柳条湖事件に端を発して満洲事変が勃発、関東軍により満洲全土が占領される。その後、関東軍主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年(昭和7年)3月1日の満洲国建国に至った。元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "満洲国は建国にあたって自らを満洲民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げた。しかし、日本の関東軍が占領した日本の植民地であり、傀儡国家であったという意見もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "満洲国は建国以降、日本、特に関東軍と南満洲鉄道の強い影響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。当時の国際連盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中華民国の主権下にあるべきとした。このことが1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "しかし1937年11月29日にイタリアが満洲国を承認。 続いて同年12月2日にフランコ体制下のスペイン、 1938年5月12日にはドイツ さらにタイ王国などの第二次世界大戦の日本の同盟国や友好国、枢軸陣営寄りの中立国や、エルサルバドルやポーランド、コスタリカなどの後の連合国の構成国も満洲国を承認した。さらに国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦をも領土不可侵を約束して公館を設置した。またイギリスやアメリカ合衆国、フランスなど国交を樹立していなかった国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦末期の1945年(康徳12年)、日ソ中立条約を破った赤軍(ソ連陸軍)による関東軍への攻撃と、その後の日本の降伏により、8月18日に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡。満洲地域はソ連の占領下となり、その後国共内戦で中国国民党と中国共産党が争奪戦を行い、最終的に1949年に建国された中華人民共和国の領土となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満洲」という修飾と共に呼称する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1932年(大同元年)3月1日の満洲国佈告1により、国号は「滿洲國」と定められている。この国号は、1934年(康徳元年)3月1日に溥儀が皇帝に即位しても変更されなかった。ただし、法令や公文書では「満洲国」と「満洲帝国」が併用された。帝制実施後の英称は正称が「Manchoutikuo」または「The Empire of Manchou」、略称が「Manchoukuo」または「The Manchou Empire」と定められた。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "満洲地方には、ツングース系、モンゴル系、扶余系など多くの国や民族が勃興し、あるいは漢民族王朝が一部を支配下に置いたり撤退したりしていた。土着民族として濊貊・粛慎・東胡・挹婁・夫余・勿吉・靺鞨・女真などが知られるが、その来歴や相互関係については不明な点が多い。満洲南部から朝鮮半島の一部にかけては遼東郡、遼西郡が置かれるなど、中華王朝の支配下にあった時期が長い。土着民族による国家としては高句麗、渤海国、女真族(後の満州族)の金、後金(清)などが知られる。モンゴル系であり東胡の子孫とされる鮮卑族による前燕などや鮮卑の子孫とされる契丹族による遼が支配した事もある。チベット系の氐族の立てた前秦の支配が及んだ事もある。12世紀以降、金、元、明、清と、首都を中国本土に置く、あるいは移した王朝による支配が続いていた。 清朝の中国支配の後、満洲族の中国本土への移出が続き満洲の空洞化が始まった。当初清朝は漢人の移入によって空洞化を埋めるべく1644年(順治元年)より一連の遼東招民開墾政策を実施した。この開墾策は1668年(康熙7年)に停止され、1740年(乾隆5年)には、満洲は後金創業の地として本格的に封禁され、漢人の移入は禁止され私墾田は焼き払われ流入民は移住させられていた(封禁政策)。旗人たちも首都北京に移住したため満洲の地は「ほぼ空白地」と化していた。19世紀前半には封禁政策は形骸化し、満洲地域には無数の移民が流入しはじめた。研究者の試算によれば1851年に320万人の満洲人口は1900年には1239万人に増加した。1860年にはそれ以前には禁止されていた旗人以外の満洲地域での土地の所有が部分的に開放され、清朝は漢人の移入を対露政策の一環として利用しはじめた(闖関東)。内モンゴル(奉天から哈爾濱・北安に至る満洲鉄道沿線の西側)については、蒙地と呼ばれモンゴルの行政区画である「旗」の地域があり、清朝の時代は封禁政策により牧地の開墾は禁止されていたが実際は各地域で開墾が行われ(蒙地開放)「県」がおかれていた。これらの地域は「旗」からは押租銀や蒙租を、「県」からは税を課され、蒙租は旗と国とが分配していた。また土地の所有権(業主権)は入植者になく永佃権や永租権が与えられ開放蒙地の所有権はモンゴル人王公・旗に帰属するとされていた。これらの地域ではモンゴル人と入植した漢人との間でしばしば民族対立が生じており、1891年の金丹道暴動事件では内モンゴルのジョソト盟地域に入植した漢人の秘密結社が武装し現住モンゴル人に対して虐殺をおこなっていた。その後、秘密結社が葉志超により鎮圧されたが、入植した漢人に対して復讐事件が生じていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "清朝はアヘン戦争後の1843年に締結された虎門寨追加条約により領事裁判権を含む治外法権を受け入れることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ロシア帝国もまたアロー戦争後の1858年に天津条約を締結して同等の権利を獲得することに成功し、1860年の北京条約でアムール川左岸および沿海州の領有権を確定させていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "日本の満洲に対する関心は、江戸時代後期の1823年、経世家の佐藤信淵が満洲領有を説き、幕末の尊皇攘夷家の吉田松陰も似た主張をした。明治維新後の日本は1871年(明治4年)の日清修好条規において清国と対等な国交条約を締結した。さらに日清戦争後の下関条約及び日清通商航海条約により、清国に対する領事裁判権を含めた治外法権を得た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ロシアは日清戦争直後の三国干渉による見返りとして李鴻章より満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功し(露清密約)、1897年のロシア艦隊の旅順強行入港を契機として1898年3月には旅順(港)大連(湾)租借に関する条約を締結、ハルピンから大連、旅順に至る東清鉄道南満洲支線の敷設権も獲得した。日本は、すでに外満洲(沿海州など)を領有し、残る満洲全体を影響下に置くことを企図するロシアの南下政策が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなした。1900年(明治33年)、ロシアは義和団の乱に乗じて満洲を占領、権益の独占を画策した。これに対抗して日本はアメリカなどとともに満洲の各国への開放を主張し、さらにイギリスと日英同盟を結んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "日露両国は1904年から翌年にかけて日露戦争を満洲の地で戦い、日本は戦勝国となり、南樺太割譲、ポーツマス条約で朝鮮半島における自国の優位の確保や、遼東半島の租借権と東清鉄道南部の経営権を獲得した。その後日本は当初の主張とは逆にロシアと共同して満洲の権益の確保に乗り出すようになり、中国大陸における権益獲得に出遅れていたアメリカの反発を招いた。駐日ポルトガル外交官ヴェンセスラウ・デ・モラエスは、「日米両国は近い将来、恐るべき競争相手となり対決するはずだ。広大な中国大陸は貿易拡大を狙うアメリカが切実に欲しがる地域であり、同様に日本にとってもこの地域は国の発展になくてはならないものになっている。この地域で日米が並び立つことはできず、一方が他方から暴力的手段によって殲滅させられるかもしれない」との自身の予測を祖国の新聞に伝えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1911年から1912年にかけての辛亥革命により満洲族による王朝は打倒され(駆除韃虜)、漢民族による共和政体中華民国が成立したが、清朝が領土としていた満洲・モンゴル・トルキスタン・チベットなど周辺地域の政情は不安定となり、1911年にモンゴルは独立を宣言、1913年にはチベット・モンゴル相互承認条約が締約されチベット・モンゴルは相互に独立承認を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "満洲は中華民国臨時大総統に就任した袁世凱が大きな影響力を持っていたため、東三省総督の体制、組織をそのまま引き継ぎ、中華民国の統治下に入っている。この中に、東三省総督の趙爾巽の下で、革命派の弾圧で功績を上げた張作霖もいた。しかし、袁世凱と孫文が対立し、中華民国が分裂、内戦状態に入ると、張作霖が台頭し、奉天軍閥を形成し、日本の後押しも得て、満洲を実効支配下に置いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "日本は日露戦争後の1905年に日清協約、1909年には間島協約において日清間での権益・国境線問題について重要な取り決めをおこなっていたが、中華民国成立によりこれらを含む過去の条約の継承問題が発生していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦に参戦した日本は1914年(大正3年)10月末から11月にかけイギリス軍とともに山東半島の膠州湾租借地を攻略占領し(青島の戦い)その権益処理として対華21カ条要求を行い、2条約13交換公文からなる取り決めを交わした。この中に南満洲及東部内蒙古に関する条約など、満蒙問題に関する重要な取り決めがなされ、満洲善後条約や満洲協約、北京議定書・日清追加通商航海条約などを含め日本の中国特殊権益が条約上固定された。日本と中華民国によるこれら条約の継続有効(日本)と破棄無効(中国)をめぐる争いが宣戦布告なき戦争へ導くこととなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1917年(大正6年)、第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、ソビエト連邦が成立する。旧ロシア帝国の対外条約のすべてを無効とし継承を拒否したソビエトに対し、第一次世界大戦に参戦していた連合国は「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分により干渉戦争を開始した(シベリア出兵)。日本はコルチャク政権を支持しボリシェヴィキを攻撃したが、コルチャク政権内の分裂やアメリカを初めとする連合国の撤兵により失敗。共産主義の拡大に対する防衛基地として満洲の重要性が高まり、満蒙は「日本の生命線」と見なされるようになった。とくに1917年及び1919年のカラハン宣言は人民によりなされた共産主義政府であるソビエトが旧ロシア帝国の有していた対中権益(領事裁判権や各種条約による治外法権など)の無効・放棄を宣言したものであり、孫文をはじめとした中華民国政府を急速に親ソビエト化させ、あるいは1920年には上海に社会共産党が設立され、のち1921年の中国共産党第一次全国代表大会につながった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "その間の1919年には満洲鉄道が2~3万人の組合員からなる満鉄消費組合を結成して日本人向けの市場を寡占しはじめて日本人小売商らの利益が害されたため、満洲商業会議所連合会は満鉄消費組合撤廃活動を1930年まで4次に渡って展開した。結果的には和解に至ったが、これらの活動が満洲輸入組合及び満洲輸入組合連合会の設立に繋がった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1928年7月19日、第一次国共合作により北伐を成功させた蔣介石の南京国民政府は一方的に日清通商航海条約の破棄を通告し、日本側はこれを拒否して継続を宣言したが、中国における在留日本人(朝鮮人含む)の安全や財産、及び条約上の特殊権益は重大な危機に晒されることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "満洲は清朝時代には「帝室の故郷」として漢民族の植民を強く制限していたが、清末には中国内地の窮乏もあって直隷・山東から多くの移民が発生し、急速に漢化と開拓が進んでいた。清末の袁世凱は満洲の自勢力化をもくろむとともに、ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとした。しかしこの計画も清末民初の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁の死後、満洲で生まれ育った馬賊上がりの将校・張作霖が台頭、張は袁が任命した奉天都督の段芝貴を追放し、在地の郷紳などの支持の下軍閥として独自の勢力を確立した。満洲を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満洲における日本の権益を確保しようとしたが、叛服常ない張の言動に苦しめられた。また、日中両軍が衝突した1919年の寛城子事件(長春事件)では張作霖の関与が疑われたが日本政府は証拠をつかむことができなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "さらに中国内地では蔣介石率いる中国国民党が戦力をまとめあげて南京から北上し、この影響力が満洲に及ぶことを恐れた。こうした状況のなか1920年3月には、外満洲のニコラエフスク(尼港)で赤軍によって日本軍守備隊の殲滅と居留民が虐殺される尼港事件が起き、満洲が赤化されていくことについての警戒感が強まった。1920年代後半から対ソ戦の基地とすべく、関東軍参謀の石原莞爾らによって万里の長城以東の全満洲を中国国民党の支配する中華民国から切り離し、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1928年(昭和3年)5月、中国内地を一時押さえていた張作霖が国民革命軍に敗れて満洲へ撤退した。田中義一首相ら日本政府は張作霖への支持の方針を継続していたが、高級参謀河本大作ら現場の関東軍は日本の権益の阻害になると判断し、張作霖を殺害した(張作霖爆殺事件)。河本らは自ら実行したことを隠蔽する工作を事前におこなっていたものの、報道や宣伝から当初から関東軍主導説がほぼ公然の事実となり、張作霖の跡を継いだ張学良は日本の関与に抵抗し楊宇霆ら日本寄りの幕僚を殺害、国民党寄りの姿勢を強めた。このような状況を打開するために関東軍は、1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変(柳条湖事件)を起こして満洲全土を占領した。張学良は国民政府の指示によりまとまった抵抗をせずに満洲から撤退し、満洲は関東軍の支配下に入った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "日本国内の問題として、世界恐慌や昭和恐慌と呼ばれる不景気から抜け出せずにいる状況があった。明治維新以降、日本の人口は急激に増加しつつあったが、農村、都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなく、1890年代以後、アメリカやブラジルなどへの国策的な移民によってこの問題の解消が図られていた。ところが1924年(大正13年)にアメリカで排日移民法が成立、貧困農民層の国外への受け入れ先が少なくなったところに恐慌が発生し、数多い貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていた。そこへ満洲事変が発生すると、当時の若槻禮次郎内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞をはじめ国民世論は強く支持し、対外強硬世論を政府は抑えることができなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "柳条湖事件発生から4日後の1931年9月22日、関東軍の満蒙領有計画は陸軍首脳部の反対で実質的な独立国家案へと変更された。参謀本部は石原莞爾らに溥儀を首班とする親日国家を樹立すべきと主張し、石原は国防を日本が担い、鉄道・通信の管理条件を日本に委ねることを条件に満蒙を独立国家とする解決策を出した。現地では、関東軍の工作により、反張学良の有力者が各地に政権を樹立しており、9月24日には袁金鎧を委員長、于冲漢を副委員長として奉天地方自治維持会が組織され、26日には煕洽を主席とする吉林省臨時政府が樹立、27日にはハルビンで張景恵が東省特別区治安維持委員会を発足した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "翌1932年2月に、奉天・吉林・黒龍江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。2月16日、奉天に張景恵、臧式毅、煕洽、馬占山の四巨頭が集まり、張景恵を委員長とする東北行政委員会が組織された。2月18日には「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1932年3月1日、上記四巨頭と熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞が委員とする東北行政委員会が、元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を満洲国執政とする満洲国の建国を宣言した(元号は大同)。首都には長春が選ばれ、新京と命名された。国務院総理(首相)には鄭孝胥が就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "その後、1934年3月1日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行した(元号は康徳に改元)。国務総理大臣(国務院総理から改称)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "一方、満洲事変の端緒となる柳条湖事件が起こると、中華民国は国際連盟にこの事件を提起し、国際連盟理事会はこの問題を討議し、1931年12月に、イギリス人の第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とするリットン調査団の派遣を決議した。1932年3月から6月まで日本、中華民国と満洲を調査したリットン調査団は、同年10月2日に至って報告書を提出し、満洲の地域を「法律的には完全に支那の一部分なるも」とし、満洲国政権を「現在の政権は純粋且自発的なる独立運動に依りて出現したるものと思考することを得ず」とし、「満洲に於ける現政権の維持及承認も均しく不満足なるべし」と指摘した。その上で満洲地域自体には「本紛争の根底を成す事項に関し日本と直接交渉を遂ぐるに充分なる自治的性質を有したり」と表現し、中華民国の法的帰属を認める一方で、日本の満洲における特殊権益を認め、満洲に中国主権下の満洲国とは異なる自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を提案した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "同年9月15日に齋藤内閣のもとで政府として満洲国の独立を承認し、日満議定書を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーヴで開かれた国際連盟総会に送り、満洲国建国の正当性を訴えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "リットン報告書をもとに連盟理事会は「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」を作成し、1933年2月24日には国際連盟総会で同意確認の投票が行われた。この結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)であり、国際連盟規約15条4項および6項についての条件が成立した。日本はこれを不服として1933年3月に国際連盟を脱退する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "隣国かつ仮想敵国でもあったソビエト連邦は、当時はまだ国際連盟未加盟であり、リットン調査団の満洲北部の調査活動に対しての便宜を与えなかっただけでなく、建国後には満洲国と相互に領事館設置を承認するなど事実上の国交を有していたが、正式な国家承認については満洲事変発生から建国後まで終始一定しない態度を取り続けた。1935年にソ連は満洲国内に保有する北満鉄路を満洲国政府に売却した。国境に関しても日満-ソ連間に認識の相違があり、張鼓峰事件などの軍事衝突が起きている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1932年7月、満洲国内の郵政接受が断行されると、満洲と中国間の郵便は遮断されることとなった。その後、山海関の返還など情勢緩和が続くと、1934年4月、国際連盟が「満洲国の郵便物は事務的、技術的に取り扱うべし」との決議を行う。国民政府側も「通郵は文化機関」との判断から、満洲国不承認の原則と切り離して郵便協定の交渉につくことを受諾。同年12月までに協定が成立し、1935年1月からは普通郵便が、翌2月からは小包、為替の取り扱いが始まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "モンゴル人民共和国との間にも国境に関して認識の相違があり、1939年にはノモンハン事件などの紛争が起きた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1941年4月13日、日ソ間の領土領域の不可侵を約した日ソ中立条約締結に伴い、日本のモンゴル人民共和国]への及びソ連の満洲国への領土保全と不可侵を約す共同声明が出された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "日本軍占領後、各地で各種宗教・政治思想で結びついた団体による抗日ゲリラ闘争が起こった。一時は燎原の火のように満洲各地に広がり、関東軍にもとても終結するとは思えないような時期もあったといわれるが、関東軍は殲滅を繰り返し、1935年頃には治安は安定していった。その過程で平頂山事件のような事件も起きているが、このような事件は氷山の一角で、1932年9月には暫行懲治盗匪法を制定、この条文では清朝の法制にもあった臨陣格殺が定められ、軍司令官や高級警察官が匪賊を裁判なしで自己の判断で処刑する権限を認めていたため、関東軍ないし実質的に日本人が指導する現地警察はこれを濫用し、各地で匪賊とされた者らの殺戮が繰り返され、彼らの生首が見せしめに晒されることが横行していたとされる。とくに満鉄及びその付属地を警備する独立守備隊は質が悪く、現地住民らに恐れられたという。また、ゲリラ鎮圧は最終的に成功したものの、この成功が経済構造・社会構造の異なる中国本土でも同様にうまくいくと日本軍を誤信させ、後の日中戦争拡大に繋がっていったのではないかと東京大学東洋文化研究所教授の安冨歩は疑っている。また、この満洲でのやり方は、山下奉文中将を通じて、後の日中戦争や太平洋戦争におけるマレー・シンガポール占領期にも持ち込まれたものと林博史は考えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "大東亜戦争(第二次世界大戦)に日本が開戦する直前の1941年12月4日、日本の大本営政府連絡会議は「国際情勢急転の場合満洲国をして執らしむ可き措置」を決定し、その「方針」において「帝国の開戦に当り差当り満洲国は参戦せしめず、英米蘭等に対しては満洲国は帝国との関係、未承認等を理由に実質上敵性国としての取締の実行を収むる如く措置せしむるものとす」として、満洲国の参戦を抑止する一方、在満洲の連合国領事館(奉天に英米蘭、ハルビンに英米仏蘭、営口に蘭(名誉領事館))の閉鎖を行わさせた。また館員らは警察により軟禁され、1942年に運航された交換船で帰国した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "このため、満洲国は国際法上の交戦国とはならず、第二次世界大戦の下で、満洲国軍が日本軍に協力してイギリスやアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどとと戦っている南方や太平洋、インド洋やオーストラリア方面に進出するということも無かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "日本の敗色が濃くなった1944年の下半期に入ると、同年7月29日に鞍山の昭和製鋼所(鞍山製鉄所)など重要な工業基地が連合軍、特にイギリス領インド帝国のイギリス軍基地内に展開したアメリカ軍のボーイングB29爆撃機の盛んな空襲を受け、工場の稼働率は全般に「等しい低下を示し」(1944年当時の稼動状況記録文書より)たとしている。特に、奉天の東郊外にある「満洲飛行機」では、1944年6月には平均で70%だった従業員の工場への出勤率が、鞍山の空襲から1週間後の8月5日には26%まで低下した。次の標的になるのではという従業員の強い不安感から、稼働率の極端な下落を招くことになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "また、戦争後期には大豆等の穀物を徴発、しかし、連合軍の通商破壊により船で日本本土や南方に輸送することが出来なくなり、満洲で飢餓が始まる中、満洲の鉄道沿線や朝鮮の釜山の港で大豆等が野晒しで腐っていったという。一方で、代わりに日本から入れる筈の衣類・繊維がやはり通商破壊のため、あるいは南方優先ということで満洲には入らず、1944年頃の冬には凍死する者、(成長とともに服が合わなくなるため)衣類無しでオンドルに頼って過ごさねばならない子供らが続出したとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1945年2月11日にソ連、アメリカ、イギリスはヤルタ会談を開き、満洲を中華民国へ返還、北満鉄路・南満洲鉄道をソ連・中華民国の共同管理とし、大連をソビエト海軍の租借地とする見返りとして、ソ連が参戦することを満洲国政府に秘密裏に決定した。なおこの頃満洲国の駐日本大使館は、東京の麻布町から神奈川県箱根に疎開する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1945年5月には同盟国のドイツが降伏し、日本は1国で連合国との戦いを続けることになる。太平洋戦線では3月には硫黄島が、6月には沖縄がアメリカ軍の手に落ち、アメリカ軍やイギリス軍機による本土への攻撃が行われるなど、日本の敗戦は時間の問題となっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1945年6月、日本は終戦工作の一環として、満洲国の中立化を条件に未だ日ソ中立条約が有効であったソビエト連邦に和平調停の斡旋を求めたが、既にソ連はヤルタ会談での秘密協定に基づき、ドイツ降伏から3か月以内の対日参戦を決定していたため、日本の提案を取り上げなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "8月8日、ソ連は1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告し、直後に対日参戦した。ソ連軍は満洲国に対しても西の外蒙古(モンゴル人民共和国)及び東の沿海州、北の孫呉方面及びハイラル方面、3方向からソ満国境を越えて侵攻した。ソ連は参戦にあたり、直前に駐ソ日本大使に対して宣戦布告したが、満洲国に対しては国家として承認していなかったため、外交的通告はなかった。満洲国は防衛法(1938年4月1日施行)を発動して戦時体制へ移行したが、外交機能の不備、新京放棄の混乱などにより最後まで満洲国側からの対ソ宣戦は行われなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "関東軍首脳は撤退を決定し、新京の関東軍関係者は8月10日、憲兵の護衛付き特別列車で脱出した。満洲国を防衛する日本の関東軍は、1942年以降増強が中止され、後に南方戦線などへ戦力を抽出されて十分な戦力を持っていなかったため、国境付近で多くの部隊が全滅した。そのため、ソ連軍の侵攻で犠牲となったのは、主に満蒙開拓移民をはじめとする日本人居留民たちであった。通化への司令部移動の際に民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、軍事的な面から民間人の大規模な移動は「全軍的意図の(ソ連への)暴露」にあたること、邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材、時間もなく、東京の開拓総局にも拒絶され、結果彼らは武器も持たないまま置き去りにされ、満洲領に攻め込んだソ連軍の侵略に直面する結果になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "一説にはとくに初期のソ連軍兵士らは囚人兵が主体だったともいわれ、軍紀が乱れ、戦時国際法の基礎教育もなく、兵士らによる日本人居留民に対する殺傷や強姦、略奪事件が多発した。また、それを怖れる日本人居留民や開拓団らの中には集団自決に奔るもの、あるいは逆に、ソ連軍将校らと取引し未婚の若い女性らを自ら犠牲に差出すものも続出したという。8月14日には葛根廟事件が起こっている。戦後、このような形で強姦され妊娠し、博多港に引き揚げてきた女性のためにと厚生省引揚援護局が、二日市に診療所を設け、当時違法であったが中絶手術を行った。もっとも満洲でとくに初期にはソ連兵による強姦が多発したのは間違いないが、開拓移民を多く出した石川県の満蒙開拓団関係者の依頼で開拓団史をまとめた藤田繁の調査・検証によれば、この二日市での中絶のケースでは、ソ連兵による強姦と考えるにはその多くが妊娠時期が合わなかったという。実際には暴行ばかりでなく、外地で生き延びるために、満洲や朝鮮等で現地の男性あるいは同じ引揚者の日本人男性らと一時的にでも夫婦同然となるような生活を送るしかなかった女性らが、郷里帰還を前にして中絶の選択を迫られた等の事情が考えられることを示唆している(参照:二日市保養所)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "皇帝溥儀をはじめとする国家首脳たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い、通化省臨江県大栗子に8月13日夕刻到着。同地に避難していたが、8月15日に行われた日本の昭和天皇による「玉音放送」で戦争と自らの帝国の終焉を知った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2日後の8月17日に、国務総理大臣の張景恵が主宰する重臣会議は通化市で満洲国の廃止を決定、翌18日未明には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満洲国は誕生から僅か13年で滅亡した。退位詔書は20日に公布する予定だったが、実施できなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "8月19日に旧満洲国政府要人による東北地方暫時治安維持委員会が組織されたが、8月24日にソ連軍の指示で解散された。溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場より飛行機で日本に亡命する途中、奉天でソ連軍の空挺部隊によって拘束され、通遼を経由してソ連のチタの収容施設に護送された。そのほか、旧政府要人も8月31日に一斉に逮捕された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。その後ソ連軍により、シベリアや外蒙古、中央アジア等に連行・抑留された者もいる(シベリア抑留)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ソ連軍の侵攻を中国人や蒙古人の中には「解放」と捉える人もおり、ソ連軍を解放軍として迎え、当初関東軍と共にソ連軍と戦っていた満洲国軍や関東軍の朝鮮人・漢人・蒙古人兵士らのソ連側への離反が一部で起こったため、結果として関東軍の作戦計画を妨害することになった。中華民国政府に協力し反乱を起こしたことから日本人数千名が中国共産党の八路軍に虐殺された通化事件も発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "また、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った中国残留日本人孤児が数多く発生した。その後、日本人は新京や大連などの大都市に集められたが、日本本国への引き揚げ作業は遅れ、ようやく1946年から開始された(葫芦島在留日本人大送還)。さらに、帰国した「引揚者」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、苦しい生活を強いられた。政府が満蒙開拓団や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者たちは後々まで困窮した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "満洲はソ連軍の軍政下に入り、中華民国との中ソ友好同盟条約では3か月以内に統治権の返還と撤兵が行われるはずであったが、実際には翌1946年4月までソ連軍の軍政が続き、撫順市や長春市などには八路軍が進出して中国共産党が人民政府をつくっていた(東北問題)。この間、ソ連軍は、東ヨーロッパの場合と同様に工場地帯などから持ち出せそうな機械類を根こそぎ略奪して本国に持ち帰った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1946年5月にはソ連軍は撤退し、満洲は蔣介石率いる中華民国に移譲された。中華民国政府は、行政区分を満洲国建国以前の遼寧・吉林・黒竜江の東北3省や熱河省に戻した。しかしその後国共内戦が再開され、中華民国軍は、人民解放軍に敗北し、中華民国政府は台湾島に移転することとなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1948年秋の遼瀋戦役でソ連の全面的な支援を受けた中国共産党の中国人民解放軍が満洲全域を制圧した。毛沢東は満洲国がこの地に残した近代国家としてのインフラや統治機構を非常に重要視し、「中国本土を国民政府に奪回されようとも、満洲さえ手中にしたならば抗戦の継続は可能であり、中国革命を達成することができる」として、満洲の制圧に全力を注いだ。八路軍きっての猛将・林彪と当時の中国共産党ナンバー2・高崗が満洲での解放区の拡大を任されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "旧満洲国軍興安軍である東モンゴル自治政府自治軍はウランフによって人民解放軍に編入され、チベット侵攻などに投入された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1949年に中国共産党は中華人民共和国を成立させ、満洲国領だった東モンゴル地域に新たに内モンゴル自治区を設置した。満洲国時代に教育を受けた多くのモンゴル人たちは内モンゴル人民革命党に関係するものとして粛清された(内モンゴル人民革命党粛清事件)。ソ連軍から引き渡された満洲国関係者の多くは撫順戦犯管理所で中国共産党の思想改造を受けたが、毛沢東によって元満洲国皇帝の溥儀はロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世とその一家を虐殺したソ連より優越している中国共産党の証左として政治利用されることとなった。溥儀は釈放後、満洲族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1908年の時点で満洲の人口は1583万人だったが、満洲国が建国された1932年10月1日には2928万8千人になっていた。人口比率としては女性100に対して男性123〜125の割合で、1942年10月1日には人口は4424万2千人にまで増加していた。移民国家としての側面もあり、内地からの日本本土人以外でも、隣接する外地の朝鮮からの移住者が増加した他、台湾人も5000人移り住んだ。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "国務院総務庁と治安部警務司の統計では1940年(康徳7年)10月1日の満洲国の人口は4108万0907人、男女比は120:100。国務院国勢調査では、同時期の満洲国の人口は4323万3954人、男女比は123.8:100であった。統計に開きがあるのは、警察戸口調査においては現住人口調査主義を、臨時国勢調査においては現在人口調査主義を採用したことによる。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "人口の構成としては、", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "上記の「日本人」の中には、130万9千人の朝鮮人を含む。台湾人は朝鮮人に含まれている。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "主要都市の人口は下記のとおり。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "満洲国においては最後まで国籍法が制定されなかったため、満洲国籍を有する者の範囲は法令上明確にされず、慣習法により定まっているものとする学説が有力であった。国籍法が制定されなかった背景として、二重国籍を認めない日本の国籍法上、日本人入植者が「日本系満洲国人」となって日本国籍を放棄せざるを得ないこととなれば、新規日本人入植者が減少する恐れがあること、日本の統治下にあった朝鮮人を日本国民として扱っていた朝鮮政策との整合性の問題や、白系ロシア人の帰化問題などがあった。1940年(康徳7年)に「暫行民籍法」(康徳7年8月1日勅令第197号)が制定され、民籍に記載された者は満洲国人民として扱われた。日本人が満洲国で出生した場合には国籍が不明確になるが、満洲国の特命全権大使にその旨を届け出て、大使が内地の本籍地にそれを回送することで日本人として内地の戸籍に登録された。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1931年(昭和6年)から1932年(昭和7年)の満洲には59万人の日本人(朝鮮・台湾籍を含む)が居住し、うち10万人は農民だった。営口では人口の25%が日本人だったという。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "満洲事変以前において、漢族以外の満洲への移住農民の内の多数は半島人とも呼ばれた朝鮮籍日本人であり、日本内地から満洲への移住者の大半は軍関係者あるいは南満洲鉄道および附属地の企業関係者とその家族であった。満洲国の成立以降、日本政府は国内における貧困農村の集落住民や都市部の農業就業希望者を中心に、「満蒙開拓団」と称する満蒙開拓移民を募集した。さらに日本政府は1936年(昭和11年)から1956年(昭和31年)の間に、500万人の日本人の移住を計画していた。当時満洲は実際には4千万人の人口がいたとみられるが、誤って3千万人程度と考えられていた。それが20年後には5千万人に増えるのではないかとみなして、漢・満・日・蒙・朝の五族中、日本人がその一割を確保したいと考えたのである。結局は、1945年(昭和20年)のポツダム宣言受諾での日本の降伏により満洲国は消滅したために、この計画は頓挫に終わった。1938年(昭和13年)から1942年(昭和17年)の間には20万人の農業青年を、1936年(昭和11年)には2万人の家族移住者を送り込んだ。なお、満洲で逐次開設されていった小学校の日本人教員の募集は内地の給与の7割から17割5分増しで募集された。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "これらの開拓団の土地を確保するため、先に現地で耕作していた農民らの土地を強制的に安値で買い取っていったという。しかし、日本内地からの移民はとても数百万人規模の計画を満たすものでなく、その結果、長野県などの貧しい農村を標的に、今でいう補助金の停止をちらつかせるような形で、各地の中学校の教諭らにもその生徒からの確保を命じて強引に行われていったとされる。計画を進めた東宮鉄男らの考えでは、日本人移民はソ連を攻撃する際の現地近辺での徴兵の基盤作りあるいは逆に攻められた際の防御の盾とするためであり、したがって都市などに出て行って商売等に従事したりしないよう、彼らの多くは僻地に送られたが、中には、比較的都市に近いような場所で追い出された現地人らを小作人・使用人として使って比較的商品性の高い作物を作っていた例もあったという。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "終戦時、ソ連対日参戦によりソビエト連邦が満洲に侵攻した際には、85万人の日本人移住者を抑留している。公務員や軍人を例外として、基本的にはこれらの人々は1946年(昭和21年)から1947年(昭和22年)にかけて段階的に連合国軍占領下の日本に送還されている。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "もともと朝鮮との国境に近い地域には朝鮮民族の居住者も多く、歴史的にも満洲族との交流が深かったため、建国当時日本領であった朝鮮半島からも多くの朝鮮籍日本人が満洲国へ移住した。農業以外にも水商売や小規模商店などの事業を行うものも多かった。しかし現地の住民たちの反感を買う事例もあったという。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "1934年(昭和9年)10月30日、岡田内閣(岡田啓介首相)は朝鮮人の内地への移入(在日韓国・朝鮮人)によって失業率や治安の悪化が進んでいる日本本土を守るとして、朝鮮人が満洲に向かうよう満洲国の経済開発を推し進めることを閣議決定している。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "満洲事変以前からヨーロッパにおけるユダヤ人問題に関心を持ち始めていた日本政府は、満洲国内におけるユダヤ教徒によるユダヤ人自治州を企図し、反ユダヤ政策を推進していたナチス・ドイツ政府に対し、その受け入れを打診していた(河豚計画)。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "しかしその後、日中戦争(支那事変)に突入したことなどにより、日満両政府が本格的に遂行することはなく、第二次世界大戦前夜のナチス・ドイツやソビエト連邦による反ユダヤ人政策を嫌悪し、満洲国経由でアメリカ合衆国や南米諸国に亡命しようとしたユダヤ人のうち少数が満洲国に移住したにとどまった。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "満洲国は公式には五族協和の王道楽土を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとして建設され、アジアでの多民族共生の実験国家であるとされた。共和制国家であるアメリカ合衆国をモデルとするとしていたものの、皇帝を国家元首とする立憲君主制国家である。五族協和とは、満蒙漢日朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、王道楽土とは、西洋の「覇道」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満洲国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味している。満洲にはこの五族以外にも、ロシア革命後に共産主義政権を嫌いソビエトから逃れてきた白系ロシア人等も居住していた。", "title": "国家体制" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "その中でも特に、ボリシェヴィキとの戦争に敗れて亡ぼされた緑ウクライナのウクライナ人勢力と満洲国は接触を図っており、戦前には日満宇の三国同盟で反ソ戦争を開始する計画を協議していた。しかし、1937年にはウクライナ人組織にかわってロシア人のファシスト組織(ロシアファシスト党)を支援する方針に変更し、ロシア人組織と対立のあるウクライナ人組織とは断交した。第二次世界大戦中に再びウクライナ人組織と手を結ぼうとしたが、太平洋方面での苦戦もあり、極東での反ソ武力抗争は実現しなかった。", "title": "国家体制" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "満洲国は建国の経緯もあって日本の計画的支援の下、きわめて短期間で発展した。内戦の続く中国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人などの移民があり、とりわけ日本政府の政策に従って満洲国内に用意された農地に入植する日本内地人などの移民は大変多かった。これらの移民によって満洲国の人口も急激な勢いで増加した。", "title": "国家体制" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "満洲国政府は、国家元首として執政(後に皇帝)、諮詢機関として参議府、行政機関として国務院、司法機関として法院、立法機関として立法院、監察機関として監察院を置いた。", "title": "国家体制" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "国務院には総務庁が設置され、官制上は首相の補佐機関ながら、日本人官吏のもと満洲国行政の実質的な中核として機能した(総務庁中心主義)。それに対し国務院会議の議決や参議府の諮詢は形式的なものにとどまり、立法院に至っては正式に開設すらされなかった。", "title": "国家体制" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "元首(執政、のち皇帝)は、愛新覚羅溥儀がつき、1937年(康徳4年)3月1日に公布された帝位継承法第一条により、溥儀皇帝の男系子孫たる男子が帝位を継承すべきものとされた。", "title": "国家体制" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "帝位継承法の想定外の事態に備えて、満洲帝国駐箚(駐在)大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官との会談で、皇帝は、清朝復辟派の策謀を抑え、関東軍に指名権を確保させるため、自身に帝男子孫が無いときは、日本の天皇の叡慮によって帝位継承者を定める旨を皇帝が宣言することなどを内容とした覚書などに署名している(なお、溥儀にはこの時点で実子がおらず、その後も死去するまで誕生していない)。", "title": "国家体制" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "満洲国は瓦解に至るまで国籍法を定めず、法的な国民の規定はなされなかった。結果、移民や官僚も含めた満洲居住の日本人は日本国籍を有したままであり、敗戦後、法的な障害無しに日本へ引き揚げる事が出来た。1940年(康徳7年)に「暫行民籍法」(康徳7年8月1日勅令第197号)が制定され、民籍に記載された者は満洲国人民として扱われた。", "title": "国家体制" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "1932年(大同元年)の建国時には首相(執政制下では国務院総理、帝政移行後は国務総理大臣)として鄭孝胥が就任し、1935年(康徳2年)には軍政部大臣の張景恵が首相に就任した。", "title": "国家体制" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "しかし実際の政治運営は、満洲帝国駐箚大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官の指導下に行われた。元首は首相や閣僚をはじめ官吏を任命し、官制を定める権限が与えられたが、関東軍が実質的に満洲国高級官吏、特に日本人が主に就任する総務庁長官や各部次長(次官)などは、高級官吏の任命や罷免を決定する権限をもっていたので、関東軍の同意がなければこれらを任免することができなかった。", "title": "国家体制" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "公務員の約半分が日本内地人で占められ、高い地位ほど日本人占有率が高かった。これらの日本内地人は日本国籍を有したままである。俸給、税率面でも日本人が優遇された。関東軍は満洲国政府をして日本内地人を各行政官庁の長・次長に任命させてこの国の実権を握らせた。これを内面指導と呼んだ(弐キ参スケ)。これに対し、石原莞爾は強く批難していた。しかし、台湾人(満洲国人)の謝介石は外交部総長に就任しており、裁判官や検察官なども日本内地人以外の民族から任用されるなど、日本内地人以外の民族にも高位高官に達する機会がないわけではなかった。しかし、これも日本に従順である事が前提で、初代首相の鄭孝胥も関東軍を批判する発言を行ったことから、半ば解任の形で辞任に追い込まれている。", "title": "国家体制" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "省長等の地方長官は建国当初は現地有力者が任命される事が多かったが、これも次第に日本人に置き換えられていった。", "title": "国家体制" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "憲法に相当する組織法には、一院制議会として立法院の設置が規定されていたが選挙は一度も行われなかった。政治結社の組織も禁止されており、満洲国協和会という官民一致の唯一の政治団体のみが存在し、実質的に民意を汲み取る機関として期待された。", "title": "国家体制" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "憲法に相当する組織法や人権保障法をはじめ、民法や刑法などの基本法典について、日本に倣った法制度が整備された。当時の日本法との相違としては、組織法において、各閣僚や合議体としての内閣ではなく、首相個人が皇帝の輔弼機関とされたこと、刑法における構成要件はほぼ同様であるが、法定刑が若干日本刑法より重く規定されていること、検察庁が裁判所から分離した独自の機関とされたことなどが挙げられる。", "title": "国家体制" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "満洲国版図では日露中の支配域ごとに異なる標準時が用いられていたが、満洲国は東経120度を子午線とし、UTC+8を標準時として統一した。1937年1月1日に日本標準時に合わせてUTC+9に変更された。変更後の子午線は東経135度となり、満洲国内を通っていない。", "title": "国家体制" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "日本は建国宣言が出されて約半年後の1932年9月に承認し、エルサルバドルとコスタリカは1934年と早期に承認した。エチオピア侵略で経済制裁を受け国際連盟を脱退したイタリアは、1937年12月に承認した。", "title": "外交" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "ドイツは1936年に日本と防共協定を結んでいたが、一方で当初は満洲国承認は行わず、中独合作で中華民国とも結ばれていたこともあり極東情勢に不干渉の立場をとっていた。しかし防共協定が日独伊三国防共協定になった翌年の1938年2月に承認した)。", "title": "外交" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦の勃発後にもフィンランドをはじめとする枢軸国、タイ王国などの日本の同盟国、クロアチア独立国やスペインなどの枢軸国の友好国、ドイツの占領下にあったデンマークなど、合計20か国が満洲国を承認した(1939年当時の世界の独立国は60か国ほどであった)。また、イギリスとフランスは「日本の言い分もわかる、我々の権益が確保できるならいいだろう」として、陰では承認する用意があった。", "title": "外交" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "満洲国は上記の国のうち、日本と南京国民政府に常駐の大使を、ドイツとイタリアとタイに常駐の公使を置いていた。東京に置かれていた満洲国大使館は麻布区桜田町50(現在の港区元麻布)にあり、ここは日本国と中華民国との間の平和条約の締結後に中華民国大使館となり、日中国交正常化後に中華人民共和国大使館に代わった。", "title": "外交" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "1941年(康徳8年)にはハンガリーやスペインとともに防共協定に加わっている。一方、日独伊三国同盟には加盟せず、第二次世界大戦においても連合国への宣戦布告は行っていない。しかしながら日本と同盟関係を結び日本軍(関東軍)の駐留を許すほか、軍の主導権を握る位置に日本人が多数送られていた上に、軍備の多くが日本から提供もしくは貸与されているなど、軍事上は日本と一体化しており実質的には枢軸国の一部であったとも解釈できる。", "title": "外交" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "また、経済部大臣の韓雲階を団長にした「満洲帝国修好経済使節団」がイタリアやバチカン、ドイツやスペインなどの友好国を訪問し、ピウス12世やベニート・ムッソリーニ、アドルフ・ヒトラーらと会談している。また1943年(康徳10年)に東京で開催された大東亜会議にも張景恵国務総理大臣が参加し、タイや自由インドなど各国の指導者と会談している。", "title": "外交" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "満洲国は正式な外交関係が樹立されていない諸国とも事実上の外交上の交渉接点を複数保有していた。奉天とハルピンにはアメリカとイギリスの総領事館、ハルピンにはソ連とポーランドの総領事館など13の総領事館が設置されていた。", "title": "外交" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "ソビエト連邦とは満洲国建国直後から事実上の国交があり、イタリアやドイツよりも長い付き合いが存在した。満洲国が1928年の「ソ支間ハバロフスク協定」にもとづき在満ソビエト領事館の存続を認めるとソ連は極東ソ連領の満洲国領事館の設置を認め、ソ連国内のチタとブラゴヴェシチェンスクに満洲国の領事館設置を認めた。さらに日ソ中立条約締結時には「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重する声明を発するなど一定の言辞を与えていたほか、北満鉄道讓渡協定により北満鉄道(東清鉄道から改称)を満洲国政府に譲渡するなど、満洲国との事実上の外交交渉を行っていた。", "title": "外交" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "また、満洲国を正式承認しなかったドミニカ共和国やエストニア、リトアニアなども満洲国と国書の交換を行っていた。このほか、バチカン(ローマ教皇庁)は、教皇使節(Apostolic delegate)を満洲国に派遣していた。", "title": "外交" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "満洲国の国軍は、1932年(大同元年)4月15日公布の陸海軍条例(大同元年4月15日軍令第1号)をもって成立した。日満議定書によって日本軍(関東軍)の駐留を認めていた満洲国自体の性質上もあり、「関東軍との連携」を前提とし、「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした、軍隊というより関東軍の後方支援部隊、準軍事組織や国境警備隊としての性格が強かった。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "後年、太平洋戦争の激化を受けた関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、ソ連対日参戦の際は所轄上部機関より離反してソ連側へ投降・転向する部隊が続出し、関東軍の防衛戦略を破綻させた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "政府主導・日本資本導入による重工業化、近代的な経済システム導入、大量の開拓民による農業開発などの経済政策は成功を収め、急速な発展を遂げるが、日中戦争(日華事変)による経済的負担、そしてその影響によるインフレーションは、満洲国体制に対する満洲国民の不満の要因ともなった。政府の指導による計画経済が基本政策で、企業間競争を排するため、一業界につき一社を原則とした。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "三井財閥や三菱財閥の財閥系企業をはじめとする多くの日本企業が進出したほか、国交樹立していたドイツやイタリアの企業であるテレフンケンやボッシュおよびフィアットも進出していた。なお、日産コンツェルンは1937年(康徳4年)に持株会社の日本産業を満洲に移転し、満洲重工業開発(満業)を設立している。さらに国交のないアメリカの大企業であるフォード・モーターやゼネラルモーターズおよびクライスラーやゼネラル・エレクトリック等、イギリスの香港上海銀行なども進出し、1941年7月に日英米関係が悪化するまで企業活動を続けた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "法定通貨は満洲中央銀行が発行した満洲国圓(圓、yuan)で、1圓=10角=100分=1000厘だった。当時の中華民国や現在の中華人民共和国の通貨単位も圓(元、yuan)で同じだが、中華民国の通貨が「法幣」と呼ばれたのに対し、同じく法幣の意味をもつ満洲国の通貨は「国幣」と表記して区別した。中華民国の銀圓・法幣(及び現在の人民元、台湾元、香港元)と同様、漢字で「元」と表記したが、満洲国内の貨幣法では、日本国と同様に「圓」(円)の表記が採用された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "貨幣法(教令第25号)の公布は、満洲国が成立した同年(1932年)6月11日である。 金解禁が世界的な流れとなる中で日本では金解禁が行われていたが、通貨は中華民国と同じく銀本位制でスタートし、現大洋(袁世凱弗、孫文弗と呼ばれた銀元通貨)と等価とされたが、1935年11月に日本円を基準とする管理通貨制度に移行した。このほか主要都市の満鉄付属地を中心に、関東州の法定通貨だった朝鮮銀行発行の朝鮮券も使用されていたが、1935年(昭和10年)11月4日に日本政府が「満洲国の国幣価値安定及幣制統一に関する件」を閣議決定したことにより、満洲国内で流通していた日本側の銀行券は回収され、国幣に統一された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "満洲国崩壊後もソ連軍の占領下や国民政府の統治下で国幣は引き続き使用されたが、1947年に中華民国中央銀行が発行した東北九省流通券(東北流通券)に交換され、流通停止となった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "満洲国建国以前の貨幣制度は、きわめて混乱していた。すなわち銅本位の鋳貨(制銭、銅元)および紙幣(官帖、銅元票)、銀本位の鋳貨(大洋銭、小洋銭、銀錠)および紙幣(大洋票、小洋票、過爐銀、私帖)があり、うち不換紙幣が少なくなかった。ほかに外国貨幣である円銀、墨銀、日本補助貨、日本銀行券、金票(朝鮮銀行券)、鈔票(横浜正金銀行発行の円銀を基礎とした兌換券)などが流通し、購買力は一定せず、流通範囲は一様でなかった。満洲国建国直後に満洲中央銀行が設立されるとともに旧紙幣の回収整理が開始され、1935年(康徳2年)8月末までにほとんどすべてが回収された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "こうして貨幣は国幣に統一され、鈔票の流通は関東州のみとなり、その額は小さく、金票は1935年(康徳2年)11月4日の満洲国幣対金円等値維持に関する日満両国政府による声明以来、金票から国幣に換えられることが増えて、満鉄、関東州内郵便局および満洲国関係の諸会社の国幣払実施とあいまって国幣の使用範囲は広がった。国幣は円単位で、純銀 23.91g の内容を有すると定められたが、本位貨幣が造られないためにいわば銀塊本位で、兌換の規定が無いために変則の制度であった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "貨幣は百圓、十圓、五圓、一圓、五角の紙幣、一角、五分、一分、五厘の鋳貨(硬貨)が発行され、紙幣は無制限法貨として通用された。紙幣は満洲中央銀行が発行し、正貨準備として発行額に対して3割以上の金銀塊、確実な外国通貨、外国銀行に対する金銀預金を、保証準備として公債証書、政府の発行または保証した手形、その他確実な証券または商業手形を保有すべきことが命じられた。後に鋳貨の代用として一角、五分の小額紙幣が発行された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "やがて軍の軍費要求はもとより私用同然の物資調達を安易にこれに頼ろうとする日本人官吏層の堕落等から、満洲中央銀行は実体としての正貨準備と関係なく様々な便法を駆使して紙幣を濫発、インフレを急速化させ、住民を困窮させていくことになる。もともと経済力では中国が日本より上回っていると見られていたこと、中国には英国からの経済支援があったこともあるが、日中戦争中に同様な現象が中国本土においても惹き起こされ、これは日本軍が勝っても日本側の法幣や軍票の値打ちは上がらないといわれる事態の一因となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "中華郵政が行っていた郵便事業を1932年7月26日に接収し、同日「満洲国郵政」(帝政移行後は「満洲帝国郵政」)による郵政事業が開始された。中華郵政は満洲国が発行した切手を無効としたため、1935年から1937年までの期間、中国本土との郵便物に添付するために国名表記を取り除き「郵政」表記のみとした「満華通郵切手」が発行されていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "同郵政が満洲国崩壊までに発行した切手の種類は159を数え、記念切手も多く発行した。日本との政治的つながりを宣伝する切手も多く、1935年の「皇帝訪日紀念」や1942年の「満洲国建国十周年紀念」・「新嘉坡(シンガポール)陥落紀念」・「大東亜戦争一周年紀念」などの記念切手は日本と同じテーマで切手を発行していた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "1944年の「日満共同体宣伝」のように、中国語の他に日本語も表記した切手もあった。郵便貯金事業も行っており、1941年には「貯金切手」も発行している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "満洲国で最後の発行となった郵便切手は、1945年5月2日に発行された満洲国皇帝の訓民詔書10周年を記念する切手である。予定ではその後、戦闘機3機を購入するための寄附金付切手が発行を計画されていたが、満洲国崩壊のために発行中止となり大半が廃棄処分になった。だが第二次世界大戦後、満洲に進駐したソ連軍により一部が流出し、市場で流通している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "日本は内地及び朝鮮を除いてアヘン(阿片)専売制と漸禁政策を採用しており、満洲地域でもアヘン栽培は実施されていた。名目上はモルヒネ原料としての薬事処方方原料の栽培だが、これらアヘン栽培が馬賊の資金源や関東軍の工作資金に流用され、上海などで売りさばかれた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "1932年(大同元年)に阿片法(大同元年11月30日教令第111號)が制定され、アヘンの吸食が禁止された。ただし未成年者以外のアヘン中毒者で治療上必要がある場合は、管轄警察署長の発給した証明書を携帯した上で政府の許可を受けた阿片小売人から購入することができた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "日本の半官半民の国策会社・南満洲鉄道(満鉄)は、ロシアが敷設した東清鉄道南満洲支線を日露戦争において日本が獲得して設立されたが、満洲国の成立後は特に満洲国の経済発展に大きな役割を果たした。同社は満洲国内における鉄道経営を中心に、フラッグ・キャリアの満洲航空、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林、牧畜に加えてホテル、図書館、学校などのインフラストラクチャー整備も行った。", "title": "交通・通信" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "新京〜大連・旅順間を本線として各地に支線を延ばしていた。「超特急」とも呼ばれた流線形のパシナ形蒸気機関車と専用の豪華客車で構成される特急列車「あじあ」の運行など、主に日本から導入された南満洲鉄道の車両の技術は世界的に見ても高いレベルにあった。", "title": "交通・通信" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "一方、満洲国成立前から満鉄に対抗して中国資本の鉄道会社が満鉄と競合する鉄道路線の建設を進めていた。これらの鉄道会社は、満洲国成立後に公布された「鉄道法」に基づいて国有化され、満洲国有鉄道となった。しかし満洲国鉄による独自の鉄道運営は行われず、即日満鉄に運営が委託されて、実際には満洲国内のほぼすべての鉄道の運営を満鉄が担うことになった。新規に建設された鉄道路線、1935年にソビエト連邦との交渉の末に満洲国に売却された北満鉄路(東清鉄道)など私鉄の接収・買収路線も全て満洲国鉄に編入され、満鉄が委託経営を行っていた。特に新規路線は建設から満鉄に委託と、「国鉄」とは名ばかりで全てが満鉄にまかせきりの状況であった。この他にも満鉄は朝鮮半島の朝鮮総督府鉄道のうち、国境に近い路線の経営を委託されている。車両などは共通のものが広く使われていたが、運賃の計算などでは満鉄の路線(社線)と満洲国鉄の路線(国線)に区別が設けられていた。しかしこれも後に旅客規程上は区別がなくなり、事実上一体化した。", "title": "交通・通信" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "満鉄は単なる鉄道会社としての存在にとどまらず、沿線各駅一帯に広大な南満洲鉄道附属地(満鉄附属地)を抱えていた。満鉄附属地では満洲国の司法権や警察権、徴税権、行政権は及ばず、満鉄がこれらの行政を行っていた。首都新京特別市(現在の長春市)や奉天市(現在の瀋陽市)など主要都市の新市街地も大半が満鉄附属地だった。都市在住の日本人の多くは満鉄附属地に住み、日本企業も満鉄附属地を拠点として治外法権の特権を享受し続け、満洲国の自立を阻害する結果となったため、1937年に満鉄附属地の行政権は満洲国へ返還された。", "title": "交通・通信" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "満鉄・国鉄の他にも、領内には小さな私鉄がいくつも存在した。これらの中には国有化され、改修されて満洲国鉄の路線となったものや、満洲国鉄が並行する路線を敷設したために補償買収されてから廃止になったものもある。以下に満洲国が存在した時期に一貫して私鉄であったものを挙げる(※印は補償買収後に廃止になった路線)。", "title": "交通・通信" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "1940年前後から、満鉄が請負の形で積極的にこれら私鉄の建設に携わるようになり、戦争末期の頃には相当数の路線が満鉄の手によって建設されるようになっていた。ただしその多くが竣工する前、竣工しても試運転をしただけの状態で満洲国崩壊に遭って建設中止となり、未成線になっている。", "title": "交通・通信" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "この他、首都・新京を始めとして奉天・哈爾濱など主要都市の市内には路面電車が敷設されていた。新京及び奉天では地下鉄建設計画もあったが、実現しなかった。", "title": "交通・通信" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "1931年に南満洲鉄道の系列会社として設立されたフラッグ・キャリアの満洲航空が、新京飛行場を拠点に満洲国内と日本(朝鮮半島を含む)を結ぶ定期路線を運航していた。", "title": "交通・通信" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "中島AT-2やユンカースJu 86、ロッキード L-14 スーパーエレクトラなどの外国製旅客機の他にも、自社製の満洲航空MT-1や、ライセンス生産したフォッカー スーパーユニバーサルなどで満洲国内の主都市を結んだ他、新京とベルリンを結ぶ超長距離路線を運航することを目的とした系列会社である国際航空を設立した。", "title": "交通・通信" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "満洲航空は単なる営利目的の民間航空会社ではなく、民間旅客、貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送、チャーター便の運行や測量調査、航空機整備から航空機製造まで広範囲な業務を行った。", "title": "交通・通信" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "電話・ファックスなどの通信業務やラジオ放送業務も、1933年に設立された満洲電信電話(MTT)に統合された。放送局はハルビン、新京、瀋陽などに置かれており、ロシア人を中心に作られたハルビン交響楽団、後に日本人を中心に作られた新京交響楽団による音楽演奏も毎週これら放送局だけでなく、日本租借地にある大連放送局へも中継された。聴取者から聴取料を徴収していたが、内地に先駆けて広告も扱っており、また海外へ外国語による放送も行われていた。", "title": "交通・通信" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "「満語」と称された標準中国語と日本語が事実上の公用語として使用された。軍、官公庁においては日本語が第一公用語であり、ほとんどの教育機関で日本語が教授言語とされた。モンゴル語、ロシア語などを母語とする住民も存在した。また、簡易的な日本語として協和語もあった。1938年1月以降、中国語(満語)、日本語、モンゴル語(蒙古語)が「国語」と定められ授業で教えられた。", "title": "言語" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "大本の教祖である出口王仁三郎は布教活動の一環としてエスペラントの普及活動も行っており、満洲国の建国に際し、信奉者である石原莞爾の協力を得てエスペラントを普及させる計画があったが実現しなかった。", "title": "言語" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "満洲国の教育の根本は、儒教であった。教育行政は、中央教育行政機関は文教部であり、文教部大臣は教育、宗教、礼俗および国民思想に関する事項を掌理した。大臣の下には次長が置かれ、さらに部内は総務、学務および礼教の3司に分けられ、それぞれ司長が置かれた。総務司は秘書、文書、庶務および調査の4科に、学務司は総務、普通教育および専門教育の3科に、礼教司は社会教育および宗教の2科に分けられ、それぞれ教育行政を掌した。視学機関は、督学官が置かれた。地方教育行政は、各省では省公署教育庁が、特別市では市政公署教育科が、各県では県公署教育局が、それぞれ管内の教育行政を司った。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "最高学府として建国大学の他、国立大学の大同学院、ハルピン学院などが設置された。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "小学校は、修業年限は6年で、初級小学校4年+高級小学校2年とするのが本体であったが、初級小学校のみを設けることも認められた。教育科目は、初級小学校は修身、国語、算術、手工、図画、体操および唱歌であり、高等小学校は、初級小学校のそれのほかに歴史、地理および自然の3科目が加えられ、その地方の特状によっては日本語をも加えられた。後に、初級小学校は国民学校、高級小学校は国民優級学校にそれぞれ改称された。教科書は、建国以前に用いられていた三民主義教科書に代わってあらたに国定教科書が編纂された。僻地では、寺子屋ふうの「書房」がなおも初等教育機関として残されていた。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "中学校は、初級および高級の2段階で、修業年限はそれぞれ3年で、併置されるのが原則で、初級中等には小学校修了者を入学させた。教科目は初級は国文、外国語、歴史、地理、自然科、生理衛生、図画、音楽、体育、工芸(農業、工業、家事の1科)および職業科目で、一定範囲の選択科目制度が認められ、高級は普通科、師範科、農科、工科、商科、家事科その他に分かれ、その教育は職業化されていた。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "師範教育は、小学校教員は、省立師範学校および高級中学師範科で、養成された。省立師範学校は修業年限3年、初級中学校卒業者を入学させた。普通科目のほかに教育、心理その他を課し、最上級の生徒は付属小学校その他の小学校で教生として教育実習を行った。ほか実業教育機関として職業学校があった。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "ただし、日本人のほとんどは、満鉄が管轄する付属地の日本人学校に通っていた。1937年の治外法権撤廃により付属地が消滅した後も、教育、神社、兵事に関する事項は日本の管轄に残され、日本人が通う学校は駐満全権大使が管轄し、日本国内に準じて運営された。この方針は日本人開拓団の学校にも適用され、日本人学校は満洲国の教育制度の外に置かれていた。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "1928年に南満洲鉄道が広報部広報係映画班、通称「満鉄映画部」を設け、広報(プロパガンダ)用記録映画を製作していた。その後1937年に設立された国策映画会社である「満洲映画協会」が映画の制作や配給、映写業務もおこない各地で映画館の設立、巡回映写なども行った。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "田河水泡の当時の人気漫画「のらくろ」の単行本のうち、1937年(昭和12年)12月15日発行の「のらくろ探検隊」では、猛犬聯隊を除隊したのらくろが山羊と豚を共だって石炭の鉱山を発見するという筋で、興亜のため、大陸建設の夢のため、無限に埋もれる大陸の宝を、滅私興亜の精神で行うという話が展開された。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "序の中で、「おたがひに自分の長所をもって、他の民族を助け合って行く、民族協和という仲のよいやり方で、東洋は東洋人のためにという考え方がみんな(のらくろが旅の途中で出会って仲間になった朝鮮生まれの犬、シナ生まれの豚、満洲生まれの羊、蒙古生まれの山羊等の登場人物達)の心の中にゑがかれました。」とあり、当時の軍部が国民に説明していたところの「興亜」と「民族協和の精神」を知ることができる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "新京の藝文社が1942年1月から、満洲国で初で唯一の日本語総合文化雑誌「藝文」を発行した。1943年11月、「満洲公論」に改題。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "多民族国家・満洲国では、各民族の衣装が混在していた。初代国務院総理の鄭孝胥は、溥儀の皇帝即位式典はじめ、公私ともに生涯中国服を通したといわれる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "一方、後任の張景恵は、「協和(会)服」と呼ばれる満洲国協和会の公式服を着用することが多かった。国民服に似たデザインと色だが、国民服より先に考案された。階層によって材質・デザインに違いがあったとされるが、上は国務総理大臣から下は一般学生まで、民族を問わず広く着用され、石原莞爾や甘粕正彦のような日本人の軍人・官僚・有力者も着用した。協和服には、飾緒のような金モールと、満洲国国旗と同じ色をした五色の房からなる儀礼章が付属した。ループタイのように首からかけて玉留めで締め、左胸に房をかける形で佩用する。慶事には房の赤と白、弔事には黒と白の部分を強調することで対応した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "なお、宮廷行事等では、日本の大礼服と酷似したものが用いられた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "1927年には同志社大学ラグビー部が遠征に来て8試合行った。1928年1月に満州代表による日本遠征が行われ明治大学などと対戦し、同年には満州ラグビー協会が誕生し、日本の西部ラグビー協会(西日本担当、現在の関西ラグビーフットボール協会と九州ラグビーフットボール協会)の支部となった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "1932年に満洲国体育協会が設立された。満洲国の国技はサッカーであり、満洲国蹴球協会やサッカー満洲国代表チームも結成されている。野球でも、日本の都市対抗野球大会に参加したチームがあり、日本プロ野球初の海外公式戦として、1940年に夏季リーグ戦を丸々使って満洲リーグ戦が行われている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "建国当初の満洲国ではオリンピックへの参加も計画されており、1932年5月21日に満洲国体育協会はロサンゼルスオリンピック(1932年7月開催)への選手派遣を同オリンピックの組織委員会に対して正式に申し込んでいるが、結局参加は出来なかった。ちなみに、派遣する選手としては陸上競技短距離走の劉長春や、中距離走の于希渭(謂)などが挙げられていた(ただし劉は満洲国代表としての出場を拒否し、中華民国代表として出場している)。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "1936年に開催されたベルリンオリンピックへの参加も見送られたが、1940年に開催される予定であった東京オリンピックには選手団を送る予定であった。しかし、日中戦争の激化などを受けて同大会の開催が返上されたため、オリンピックに参加することはできなかった。なおその後、実質的な代替大会である東亜競技大会が開催されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "満洲国へは多くの日本人音楽家が渡り、西洋音楽の啓蒙活動を行った。満洲国建国以前よりこの地には白系ロシア人を中心としたハルビン交響楽団が存在したが、これに加えて日本人を中心に新京交響楽団が結成され、両者は関東軍の後援を受けてコンサートや放送のための演奏を行った。1939年には「新満洲音楽の確立及び近代音楽の普及」を目的として新京音楽院が設立された。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "園山民平は音楽教育や満洲民謡の収集・研究に尽力した他、満洲国国歌を作曲した。その他、指揮者の朝比奈隆、作曲家の太田忠、大木正夫、深井史郎、伊福部昭、紙恭輔などの音楽家が日本から短期間招かれ、例えば太田は「牡丹江組曲」、大木は交響詩「蒙古」、深井は交響組曲「大陸の歌」、伊福部は音詩「寒帯林」、紙は交響詩「ホロンバイル」を作曲した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "崔承喜は1940年代当時、世界的に有名な舞踏家であるが、当時の満洲、および中国各地を巡業していた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "満洲国の国花は「蘭」とされることが多いが、「蘭」は「皇室の花(ローヤル・フラワー)」であり、日本における菊に相当するものであった。いわゆる「国花(ナショナル・フラワー)」は高粱であり、1933(大同2)年4月に決定されたとの記録がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "満洲国の消滅後は、満洲族も数ある周辺少数民族の一つと位置付けられ、「満洲」という言葉自体が中華民国、中華人民共和国両国内で排除されている(「満洲族」を「満族」と呼び、清朝の「満洲八旗」は「満清八旗」と呼びかえるなど)。例外的に地名として満洲里がその名をとどめている程度である。また、「中国共産党満洲省委員会」のように歴史的な事柄を記述する場合、満洲という言葉は変更されずに残されている。今日、満洲国の残像は歴史資料や文学、一部の残存建築物などの中にのみ存在する。", "title": "現在" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "「Category:満洲国を舞台とした作品」を参照。", "title": "満洲国を扱った作品" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "満洲国で出生した日本における人物についてはCategory:満洲国出身の人物を参照。", "title": "満洲国生まれの人物" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "中華人民共和国の歴史書や事典などでは、日本が東三省を武力侵略した後に建国した傀儡政権、傀儡国家とされ、その傀儡性や反人民性を示すために「偽満洲国」あるいは「偽満」と称しており、中華民国(国民党・台湾政府)で出版されたものでも同じである。日本での見方は当然のように違い、おおむね満洲国の政治実態に重点をおく「傀儡国家」論と、満洲国の政治言説の分析力点をおく「理想国家」論の二つに分類できるが、また、満洲国が傀儡国家か理想国家かという二者択一の問題を重要視しない第3の歴史認識ともいうべき新たな視点が日中両国の歴史マニアの間で浮上してきたとも言われている。", "title": "傀儡国家・理想国家・第3の歴史認識" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "日本国内においては、満洲国を、日本や関東軍の傀儡国家とみなす立場に関して、研究者として山室信一、加藤陽子、並木頼寿らが挙げられる。辞書や歴史辞典の類においてみれば、日本または関東軍の傀儡国家と規定するものが多い。", "title": "傀儡国家・理想国家・第3の歴史認識" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "大日本帝国の立場において、以下のような論述がある。", "title": "傀儡国家・理想国家・第3の歴史認識" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "農業学者新渡戸稲造は在米中の1932年(昭和7年)8月20日、CBSラジオでスティムソンドクトリンに反論する形で「満洲事変と不戦条約」について言明し、「満洲事変は自己防衛の手段としてなされたものであって侵略ではなく、満洲国は一般に考えられているように日本の傀儡政権ではない」と表明している。親日運動家シドニー・ギューリックは1939年の自著『日本へ寄せる書』において、「支那における排日運動は極めて徹底したものである。一般民衆に排日思想をふき込む許りでなく子供の排日教育にも力を注ぎ、このためには歴史上の事実さへも歪め、虚偽の歴史を教えて子供の敵愾心をそそり、憎悪の念を植え付けていった」「例えば満洲は支那本土の一部であるにもかかわらず日本がそれを奪ったと教える。しかし歴史上満洲が支那の一部であった事実は未だ一度もなく、逆に支那本土が満洲の属国であった歴史上の事実がある位である。これなどは全然逆な事実を教えるものであるが、その目的は一に満洲から日本の勢力を駆逐しようとするところにあったわけである」と述べている。", "title": "傀儡国家・理想国家・第3の歴史認識" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "オーウェン・ラティモアは、The Mongols of Manchuria(1934年)のなかで、中国は確かに西洋列強の半植民地に転落したが、同時に中国はモンゴルやチベットなどの諸民族に対し、西洋列強よりも苛烈な植民地支配を強制し、無数の漢民族をモンゴルの草原に入植させては軍閥政権を打ち立て、現地人が少しでも抵抗すれば、容赦なく虐殺しており、西洋列強と中国に比べて、新生の満洲国はモンゴル人の生来の権益を守り、民族自治が実現できている、と評価している。", "title": "傀儡国家・理想国家・第3の歴史認識" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "近年の研究に基づくものでは、民族自治どころか日本内地人が圧倒的優位に立つ植民地的国家であったという評価がある。", "title": "傀儡国家・理想国家・第3の歴史認識" } ]
満洲国は、満洲事変により日本軍が占領した満洲(現在の中国東北3省遼寧省、吉林省、黒竜江省)、内蒙古、熱河省を領土として1932年(昭和7年/大同元年)に成立した国家。一般に日本の傀儡国家と見做されている。 首都は新京(旧長春)。日本民族・満洲民族・漢民族・モンゴル民族・朝鮮民族の「五族協和」による「王道楽土」建設をスローガンとし、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀を執政に迎え、1934年(昭和9年/康徳元年)から溥儀を皇帝とした帝制へ移行し、各大臣は満洲族で占められたが、要職は関東軍司令官のもと日本人が掌握した。1945年(昭和20年/康徳12年)8月に対日参戦したソ連軍に占領されたことで消滅した。ただし完全占領前の8月17日に重臣会議により満洲国の廃止が決定され、翌日に皇帝溥儀が退位を宣言している。 「洲」が常用漢字でないため、日本の教育用図書を含め一般的に「満州国」の表記が使われるが、日本の法令や一部の文献では「満洲国」が用いられる(表記については「満洲#呼称としての満洲」も参照)。
{{Otheruses|1932年から1945年まで存在した東アジアの国家|[[後金]]・[[清]]の前身で、「満洲国」(マンジュ・グルン)と称した集団|建州女直|その他の「満洲」の用法|満洲 (曖昧さ回避)}} {{Redirect|満洲国政府|2019年に結成された組織|満洲国政府 (政治団体)}} {{表記揺れ案内|表記1=満洲国|表記2=滿洲國|表記3=満州国}} {{基礎情報 過去の国 | 略名 = 満洲国 | 日本語国名 = 満洲国 | 公式国名 = {{kyujitai|'''滿洲國'''}}<br>{{lang|zht|滿洲國}} | 建国時期 = [[1932年]] | 亡国時期 = [[1945年]] | 先代1 = 中華民国 (1912年-1949年) | 先旗1 = Flag of the Republic of China.svg | 次代1 = 中華民国 (1912年-1949年) | 次旗1 = Flag of the Republic of China.svg | 次代2 = ソビエト連邦による満洲占領 | 次旗2 = Flag_of_the_Soviet_Union_(1923-1955).svg | 国旗画像 = Flag of Manchukuo.svg | 国旗リンク = | 国旗幅 = | 国旗縁 = | 国章画像 = Emblem of the Emperor of Manchukuo.svg | 国章リンク = | 国章幅 = | 標語 = 五族協和の王道楽土 | 標語追記 = | 国歌 = [[満洲国の国歌|満洲国国歌]] | 国歌追記 = {{efn|[[1942年]]から[[1945年]]まで。それ以前は同名の別の曲だった。詳細は[[満洲国の国歌]]を参照。}} | 位置画像 = Manchu State.png | 位置画像説明 = | 位置画像幅 = | 公用語 = [[中国語|満語]]<ref>[[北京官話]]のことで[[満洲語]]とは異なる。満洲語の方は「固有満洲語」と呼ばれる。</ref>、[[モンゴル語]]、[[日本語]]、[[ロシア語]] | 首都 = [[長春市|長春]]{{efn|正式には1932年3月10日の国務院佈告第1号で国都と定められた。}}(1932年3月1日 - 1932年3月14日)<br />[[新京]]{{efn|1932年3月14日の国務院佈告第2号により長春から改称。}}(1932年3月14日 - 1945年8月9日)<br />[[通化市|通化]]{{efn|臨時首都という扱いであり、正式な首都は新京のまま。}}(1945年8月9日 - 1945年8月18日) | 元首等肩書 = 満洲国執政(1932年 - 1934年)<br />[[満洲国皇帝]](1934年 - 1945年) | 元首等年代始1 = [[1932年]] | 元首等年代終1 = [[1934年]] | 元首等氏名1 = [[愛新覚羅溥儀]] | 元首等年代始2 = [[1934年]] | 元首等年代終2 = [[1945年]] | 元首等氏名2 = [[愛新覚羅溥儀|康徳帝]] | 首相等肩書 = 国務院総理(1932年 - 1934年)<br />[[国務総理大臣]](1934年 - 1945年) | 首相等年代始1 = [[1932年]] | 首相等年代終1 = [[1935年]] | 首相等氏名1 = [[鄭孝胥]] | 首相等年代始2 = [[1935年]] | 首相等年代終2 = [[1945年]] | 首相等氏名2 = [[張景恵]] | 面積測定時期1 = | 面積値1 = 1,133,437 | 面積測定時期2 = 1933年 | 面積値2 = 1,191,000 | 人口測定時期1 = 1933年 | 人口値1 = 33,697,920 | 人口測定時期2 = [[1937年]] | 人口値2 = 36,933,206 | 人口測定時期3 = [[1942年]][[10月1日]]<ref>満洲帝国治安部警務司『康徳八年十月一日 満洲帝国現住人口統計』による。</ref> | 人口値3 = 44,242,000 | 変遷1 = 建国宣言 | 変遷年月日1 = [[1932年]][[3月1日]] | 変遷2 = 皇帝即位・帝制実施 | 変遷年月日2 = [[1934年]][[3月1日]] | 変遷3 = [[ソビエト連邦による満洲侵攻|ソ連の侵攻]]によって滅亡 | 変遷年月日3 = [[1945年]][[8月18日]] | 通貨 = [[満洲国圓|圓]] | 通貨追記 = <ref>1圓=10[[角 (曖昧さ回避)|角]]=100[[分 (曖昧さ回避)|分]]=1000[[厘]]</ref> | 時間帯 = +9 | 夏時間 = | 時間帯追記 = <ref>[[1937年]]以降。[[1936年]]まではUTC+8。</ref> | 現在 = {{PRC}}<br>([[中国東北部]])<br>{{DPRK}}<br>(ごく一部) | 注記 = <references /> }} [[ファイル:Manchukuo map.png|thumb|250px|right|満洲国の地図]] '''満洲国'''(まんしゅうこく、{{旧字体|'''滿洲國'''}}、{{ピン音|Mǎnzhōu Guó}})は、[[満洲事変]]により[[日本軍]]が占領した[[満洲]](現在の[[中華人民共和国|中国]][[中国東北部|東北]]3省[[遼寧省]]、[[吉林省]]、[[黒竜江省]])、[[内蒙古]]、[[熱河省 (満洲国)|熱河省]]を領土として[[1932年]]([[昭和]]7年/[[大同 (満洲)|大同]]元年{{efn|name=geng|満洲国の元号は、[[大同 (満洲)|大同]]([[1932年]][[3月1日]] - [[1934年]][[3月1日]])、[[康徳]]([[1934年]]3月1日 - [[1945年]][[8月18日]])}})に成立した国家<ref name="a1">[https://kotobank.jp/word/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD-137955 日本大百科全書(ニッポニカ)「満州国」 (小学館)]</ref><ref name="a2">[https://kotobank.jp/word/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD-137955#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「満州国」]</ref><ref name="a3">[https://kotobank.jp/word/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD-137955#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 世界大百科事典 第2版「満州国」 (平凡社)]</ref>。一般に[[日本]]の[[傀儡政権|傀儡国家]]と見做されている<ref>{{Cite web|和書|title=満州国(マンシュウコク)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD-137955 |website=コトバンク |access-date=2023-11-15 |language=ja |first=デジタル大辞泉,日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,山川 日本史小辞典 改訂新版,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,世界大百科事典 第2版,旺文社日本史事典 三訂版,旺文社世界史事典 |last=三訂版,世界大百科事典内言及}}</ref>。 首都は新京(旧[[長春市|長春]])<ref name="a1"/>。[[大和民族|日本民族]]・[[満洲民族]]・[[漢民族]]・[[モンゴル民族]]・[[朝鮮民族]]の「[[五族協和 (満洲国)|五族協和]]」による「[[王道楽土]]」建設をスローガンとし<ref name="a4"/>、[[清|清朝]]の廃帝[[愛新覚羅溥儀]]を執政に迎え、[[1934年]](昭和9年/[[康徳]]元年)から溥儀を[[満洲国皇帝|皇帝]]とした[[帝国|帝制]]へ移行し、各大臣は[[満洲族]]で占められたが、要職は[[関東軍]]司令官のもと[[日本人]]が掌握した<ref name="a2"/>。[[1945年]](昭和20年/[[康徳]]12年)8月に[[ソ連対日参戦|対日参戦]]した[[赤軍|ソ連軍]]に占領されたことで消滅した<ref name="a4">[https://kotobank.jp/word/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD-137955#E6.97.BA.E6.96.87.E7.A4.BE.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.8F.B2.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E4.B8.89.E8.A8.82.E7.89.88 旺文社日本史事典 三訂版「満州国」]</ref>。ただし完全占領前の8月17日に重臣会議により満洲国の廃止が決定され、翌日に皇帝溥儀が退位を宣言している。 「'''洲'''」が[[常用漢字]]でないため、[[日本]]の[[文部科学省検定済教科書|教育用図書]]を含め一般的に「満'''州'''国」の表記が使われるが、日本の[[法令]]や一部の文献では「満'''洲'''国」が用いられる(表記については「[[満洲#呼称としての満洲]]」も参照)。 == 概要 == {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} [[清]]が領有していた満洲と呼ばれる地域のうち、[[外満洲]]は[[アイグン条約]]及び[[北京条約]]で[[ロシア帝国]]に割譲され、内満洲の[[旅順口区|旅順]]・[[大連湾|大連]]は[[日露戦争]]までは[[露清密約#密約以後の中露間条約と日本|旅順(港)大連(湾)租借に関する条約]]でロシアの、戦後は[[ポーツマス条約]]と[[満洲善後条約]]により日本の[[租借地]]となっていた。さらに内満洲ではロシアにより[[東清鉄道]]の建設が開始され、[[義和団の乱]]の際には進駐して来た[[ロシア帝国陸軍]]が[[鉄道附属地]]を中心に展開し、満洲を軍事占領した。[[朝鮮半島]]と満洲の権益をめぐる日露戦争の後、[[長春市|長春]]([[寛城区|寛城子]])以北の北満洲にロシア陸軍が、以南の[[南満洲]]にロシアの権益を引き継いだ[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]が[[南満洲鉄道附属地]]を中心に展開して半[[植民地]]の状態だった。 清朝は[[満洲族]]の故地[[満洲]]に当たる[[東三省]]([[遼寧省]]・[[吉林省]]・[[黒竜江省]])には[[総督]]を置かず、[[奉天府]]と呼ばれる独自の行政制度を持っていたが、光緒33年([[1907年]])の東北改制を機に、他の省に合わせて[[東三省総督]]を設置し、管轄地域の軍政・民政の両方を統括させた。歴代の総督はいずれも[[袁世凱]]の派閥に属し、東三省は袁世凱の勢力圏であった。 [[1912年]]の清朝滅亡後は[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]([[北京政府]])が清朝領土の継承を主張し、袁世凱の臨時大総統就任に伴ない、当時の東三省総督[[趙爾巽]]も奉天都督に任命され、東三省も中華民国の統治下に入った。しかし、袁世凱と[[孫文]]の対立から中華民国は分裂、内戦状態に陥り、満洲では、[[趙爾巽]]の部下だった[[張作霖]]が日本の後押しもあって台頭し、[[奉天派|奉天軍閥]]を形成し、満洲を[[実効支配]]下に置くようになった。 また日本は[[1922年]](大正11年)の[[九カ国条約|支那ニ関スル九国条約]]第1条により中華民国の領土的保全の尊重を盟約していたが、中華民国中央政府([[北京政府]])の満洲での権力は極めて微力で、[[張作霖]]率いる[[奉天派|奉天軍閥]]を満洲を実効支配する地方政権と見なして交渉相手とし、協定などを結んでいた。[[北伐 (中国国民党)|北伐]]により北京政府が崩壊し、北京政府を掌握していた張作霖が満洲に引き揚げてきたところを日本軍によって殺される([[張作霖爆殺事件]])と、後を継いだ息子の[[張学良]]は、[[1928年]](昭和3年)12月29日に奉天軍閥を[[国民政府]](南京政府)に帰順([[易幟]])させた。実質的には奉天軍閥の支配は継続していたが、満洲に[[青天白日満地紅旗]]が掲げられる事になった。 1929年、日本は南京国民政府を中華民国の代表政府として正式承認した。 [[1931年]](昭和6年)9月18日、[[柳条湖事件]]に端を発して[[満洲事変]]が勃発、[[関東軍]]により満洲全土が[[占領]]される。その後、関東軍主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣言し、[[1932年]](昭和7年)3月1日の満洲国建国に至った。[[元首]]([[満洲国皇帝#執政|満洲国執政]]、後に[[満洲国皇帝]])には清朝最後の[[皇帝]]・[[愛新覚羅溥儀]]が就いた。 [[ファイル:Puyi-colorized.jpg|サムネイル|286x286ピクセル|[[満洲国皇帝]]・溥儀]] 満洲国は建国にあたって自らを[[満洲民族]]と[[漢民族]]、[[モンゴル|蒙古民族]]からなる「'''満洲人'''、'''満人'''」による[[民族自決]]の原則に基づく[[国民国家]]であるとし、建国理念として日本人・漢人・[[朝鮮民族|朝鮮人]]・満洲人・蒙古人による'''[[五族協和 (満洲国)|五族協和]]'''と'''[[王道楽土]]'''を掲げた。しかし、日本の[[関東軍]]が占領した日本の植民地であり<ref>[https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00032418#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-2191%2C-1%2C7597%2C2011 満洲国建国式の光景(三月九日)、京都大学貴重資料デジタルアーカイブ]</ref>、傀儡国家<ref>{{Cite web|和書 | url = https://www.ndl.go.jp/modern/cha4/description01.html | title = 4-1 満洲事変 | work = 史料にみる日本の近代 | publisher = 国立国会図書館 | accessdate = 2021-12-15 }}</ref>であったという意見もある。 満洲国は建国以降、日本、特に関東軍と[[南満洲鉄道]]の強い影響下にあり、「[[大日本帝国]]と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた<ref>「[https://rnavi.ndl.go.jp/cabinet/bib00092.html 満洲国指導方針要綱]」、昭和8年(1933年)8月8日閣議決定</ref>。当時の[[国際連盟]]加盟国の多くは満洲地域は法的には[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]の[[主権]]下にあるべきとした。このことが[[1933年]](昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。 しかし1937年11月29日に[[イタリア王国|イタリア]]が満洲国を承認<ref>イタリアが正式承認を発表『東京朝日新聞』(昭和12年11月30日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p692 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。 続いて同年12月2日に[[フランコ体制下のスペイン]]、<ref>満洲国とフランコ政府が相互承認『東京朝日新聞』(昭和12年12月3日夕刊)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p692 </ref> 1938年5月12日には[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]<ref>ドイツが満洲国を正式承認『東京朝日新聞』(昭和13年5月13日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p693 </ref> さらに[[タイ王国]]などの[[第二次世界大戦]]の日本の同盟国や友好国、[[枢軸国|枢軸陣営]]寄りの[[中立国]]や、[[エルサルバドル]]や[[ポーランド]]、[[コスタリカ]]などの後の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の構成国も満洲国を承認した。さらに[[日ソ国境紛争|国境紛争]]をしばしば引き起こしていた[[ソビエト連邦]]をも[[領土]]不可侵を約束して[[在外公館|公館]]を設置した<ref name="tanakaseimeisho"/>。また[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国]]、[[フランス]]など国交を樹立していなかった国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。 第二次世界大戦末期の[[1945年]]([[康徳]]12年)、[[日ソ中立条約]]を破った[[赤軍]](ソ連陸軍)による関東軍への攻撃と、その後の[[日本の降伏]]により、[[8月18日]]に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡。満洲地域はソ連の占領下となり、その後[[国共内戦]]で[[中国国民党]]と[[中国共産党]]が争奪戦を行い、最終的に[[1949年]]に建国された[[中華人民共和国]]の領土となっている。 {{要出典範囲|日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満洲」という修飾と共に呼称する。|date=2021年1月}} == 国名 == {{wikisource|國號ヲ滿洲國トナスヲ佈吿ノ件|国号ヲ満洲国トナスヲ佈告ノ件}} {{wikisource|本國國名英文制定ノ件|本国国名英文制定ノ件}} [[1932年]]([[大同 (満洲)|大同]]元年)3月1日の満洲国佈告1により、[[国号]]は「'''滿洲國'''」と定められている。この国号は、[[1934年]]([[康徳]]元年)3月1日に溥儀が皇帝に即位しても変更されなかった。ただし、法令や公文書では「満洲国」と「'''満洲帝国'''」が併用された<ref>同[[1934年]]([[康徳]]元年)3月1日施行された[[組織法]]第1条に「満洲帝国ハ皇帝之ヲ統治ス」(『[[満洲国政府公報|政府公報日譯]]』による)。</ref>。帝制実施後の英称は正称が「Manchoutikuo」または「The Empire of Manchou」、略称が「Manchoukuo」または「The Manchou Empire」と定められた<ref>1934年(康徳元年)4月6日の外交部佈告第5号</ref>。 == 歴史 == {{満洲の歴史}} 満洲地方には、[[ツングース系民族|ツングース系]]、[[モンゴル系民族|モンゴル系]]、[[扶余語族|扶余系]]など多くの国や民族が勃興し、あるいは漢民族王朝が一部を支配下に置いたり撤退したりしていた。土着民族として[[濊貊]]・[[粛慎 (中国)|粛慎]]・[[東胡]]・[[挹婁]]・[[夫余]]・[[勿吉]]・[[靺鞨]]・[[女真]]などが知られるが、その来歴や相互関係については不明な点が多い<ref>なおこの点については学術的に議論があり、また現代における国際政治的焦点でもある。詳しくは[[中国朝鮮関係史]]及び[[東北工程]]を参照</ref>。満洲南部から朝鮮半島の一部にかけては[[遼東郡]]、[[遼西郡]]が置かれるなど、中華王朝の支配下にあった時期が長い。土着民族による国家としては[[高句麗]]、[[渤海 (国)|渤海国]]、[[女真|女真族]](後の[[満洲民族|満州族]])の金、[[後金]]([[清]])などが知られる。モンゴル系であり東胡の子孫とされる[[鮮卑]]族による[[前燕]]などや鮮卑の子孫とされる[[契丹]]族による[[遼]]が支配した事もある。[[チベット民族|チベット系]]の[[氐|氐族]]の立てた[[前秦]]の支配が及んだ事もある。[[12世紀]]以降、[[金 (王朝)|金]]、[[元 (王朝)|元]]、[[明]]、清と、[[首都]]を[[中国本土]]に置く、あるいは移した王朝による支配が続いていた。 清朝の中国支配の後、満洲族の中国本土への移出が続き満洲の空洞化が始まった。当初清朝は漢人の移入によって空洞化を埋めるべく[[1644年]]([[順治]]元年)より一連の遼東招民開墾政策を実施した<ref>小林秀夫「〈満洲〉の歴史」講談社現代新書</ref>。この開墾策は[[1668年]]([[康熙]]7年)に停止され、[[1740年]]([[乾隆]]5年)には、満洲は[[後金]]創業の地として本格的に封禁され、漢人の移入は禁止され私墾田は焼き払われ流入民は移住させられていた(封禁政策)。[[八旗|旗人]]たちも首都北京に移住したため満洲の地は「ほぼ空白地」<ref name=hdl.2344.00007546>荒武達朗、「[https://hdl.handle.net/2344/00007546 論文 1870-90年代北満洲における辺境貿易と漢民族の移住]」『アジア経済』 2005年8月 46巻 8号 p.2-21, 日本貿易振興機構アジア経済研究所</ref>と化していた。19世紀前半には封禁政策は形骸化し、満洲地域には無数の移民が流入しはじめた。研究者<ref>Chen Nai-Ruenn1970 "Labor Absorption in a Newly Settled Agricultural Region:The Case of Manchuria"Economic Essays(国立台湾大学経済学研究所経済論文叢刊)、直接の引用は荒武2005.8 </ref>の試算によれば1851年に320万人の満洲人口は1900年には1239万人に増加した<ref name=hdl.2344.00007546 />。1860年にはそれ以前には禁止されていた旗人以外の満洲地域での土地の所有が部分的に開放され、清朝は漢人の移入を対露政策の一環として利用しはじめた([[闖関東]])。内モンゴル(奉天から哈爾濱・北安に至る満洲鉄道沿線の西側)については、蒙地と呼ばれモンゴルの行政区画である「旗」の地域があり、清朝の時代は封禁政策により牧地の開墾は禁止されていたが実際は各地域で開墾が行われ(蒙地開放)「県」がおかれていた。これらの地域は「旗」からは押租銀や蒙租を、「県」からは税を課され、蒙租は旗と国とが分配していた。また土地の所有権(業主権)は入植者になく永佃権や永租権が与えられ開放蒙地の所有権はモンゴル人王公・旗に帰属するとされていた<ref>{{Cite journal|和書|author=広川佐保 |title=満州国における「蒙地奉上」について--「蒙地整理案」と「開放蒙地調査資料」をもとに |journal=アジア経済 |issn=00022942 |publisher=日本貿易振興会アジア経済研究所 |year=2002 |month=aug |volume=43 |issue=8 |pages=2-23 |naid=110000104424 |url=https://hdl.handle.net/2344/00007872}}</ref>。これらの地域ではモンゴル人と入植した漢人との間でしばしば民族対立が生じており、1891年の金丹道暴動事件では内モンゴルのジョソト盟地域に入植した漢人の秘密結社が武装し現住モンゴル人に対して虐殺をおこなっていた。その後、秘密結社が葉志超により鎮圧されたが、入植した漢人に対して復讐事件が生じていた{{efn|同事件の根底にはモンゴル人と移住者である漢人との間の土地を巡る争いがあったとされる。モンゴル人や旗の王府は襲撃を受け、モンゴル人は数十万規模でジェリム盟やジョーオダ盟北部に避難移住した<ref>娜荷芽、「[https://doi.org/10.15083/00037354 清末における「教育興蒙」について : 内モンゴル東部を中心に]」『アジア地域文化研究』 2011年 7巻 p.61-81, 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部アジア地域文化研究会</ref>。}}。 清朝は[[アヘン戦争]]後の[[1843年]]に締結された[[虎門寨追加条約]]により[[領事裁判権]]を含む[[治外法権]]を受け入れることになった。 [[ロシア帝国]]もまた[[アロー戦争]]後の[[1858年]]に[[天津条約 (1858年)|天津条約]]を締結して同等の権利を獲得することに成功し、[[1860年]]の[[北京条約]]で[[アムール川]]左岸および[[沿海州]]の領有権を確定させていた。 日本の満洲に対する関心は、[[江戸時代]]後期の[[1823年]]、[[経世家]]の[[佐藤信淵]]が満洲領有を説き<ref>[[1823年]]([[文政]]6年)に著した『[[混同秘策]]』「凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き処より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満洲より取り易きはなし。」</ref>、[[幕末]]の[[尊王攘夷|尊皇攘夷家]]の[[吉田松陰]]も似た主張をした<ref>『幽囚録』にて「北は満洲の地を割き、南は台湾、[[フィリピン|呂宋諸島]]を収め、進取の勢を漸示すべし」</ref>。[[明治維新]]後の日本は[[1871年]]([[明治]]4年)の[[日清修好条規]]において清国と対等な国交条約を締結した。さらに[[日清戦争]]後の[[下関条約]]及び[[日清通商航海条約]]により、清国に対する領事裁判権を含めた治外法権を得た。 ロシアは日清戦争直後の[[三国干渉]]による見返りとして[[李鴻章]]より満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功し([[露清密約]])、[[1897年]]のロシア艦隊の[[旅順口区|旅順]]強行入港を契機として[[1898年]]3月には[[露清密約#密約以後の中露間条約と日本|旅順(港)大連(湾)租借に関する条約]]を締結、[[ハルビン市|ハルピン]]から[[大連市|大連]]、旅順に至る[[東清鉄道]]南満洲支線の敷設権も獲得した。日本は、すでに外満洲(沿海州など)を領有し、残る満洲全体を影響下に置くことを企図するロシアの[[南下政策]]が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなした。[[1900年]](明治33年)、ロシアは[[義和団の乱]]に乗じて満洲を占領、権益の独占を画策した。これに対抗して日本は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などとともに満洲の各国への開放を主張し、さらに[[イギリス]]と[[日英同盟]]を結んだ。 日露両国は[[1904年]]から翌年にかけて[[日露戦争]]を満洲の地で戦い、日本は戦勝国となり、[[南樺太]]割譲、[[ポーツマス条約]]で[[朝鮮半島]]における自国の優位の確保や、[[遼東半島]]の租借権と東清鉄道南部の経営権を獲得した。その後日本は当初の主張とは逆にロシアと共同して満洲の権益の確保に乗り出すようになり、中国大陸における権益獲得に出遅れていたアメリカの反発を招いた。駐日[[ポルトガル]]外交官[[ヴェンセスラウ・デ・モラエス]]は、「日米両国は近い将来、恐るべき競争相手となり対決するはずだ。広大な中国大陸は貿易拡大を狙うアメリカが切実に欲しがる地域であり、同様に日本にとってもこの地域は国の発展になくてはならないものになっている。この地域で日米が並び立つことはできず、一方が他方から暴力的手段によって殲滅させられるかもしれない」との自身の予測を祖国の新聞に伝えている<ref>[http://www.kufs.ac.jp/toshokan/hearn&moraes/heamor-fra2.htm ヴェンセスラウ・デ・モラエス『日本通信』] 京都外国語大学付属図書館</ref>。 ;清朝から中華民国へ {{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} 1911年から1912年にかけての[[辛亥革命]]により満洲族による王朝は打倒され(駆除韃虜)、漢民族による共和政体中華民国が成立したが、清朝が領土としていた満洲・モンゴル・[[トルキスタン]]・[[チベット]]など周辺地域の政情は不安定となり、1911年にモンゴルは独立を宣言、1913年には[[チベット・モンゴル相互承認条約]]が締約されチベット・モンゴルは相互に独立承認を行った。 満洲は中華民国臨時大総統に就任した袁世凱が大きな影響力を持っていたため、東三省総督の体制、組織をそのまま引き継ぎ、中華民国の統治下に入っている。この中に、東三省総督の趙爾巽の下で、革命派の弾圧で功績を上げた[[張作霖]]もいた。しかし、袁世凱と孫文が対立し、中華民国が分裂、内戦状態に入ると、張作霖が台頭し、奉天軍閥を形成し、日本の後押しも得て、満洲を実効支配下に置いた。 日本は日露戦争後の1905年に日清協約、1909年には[[間島協約]]において日清間での権益・国境線問題について重要な取り決めをおこなっていたが、中華民国成立によりこれらを含む過去の条約の継承問題が発生していた。 ;満蒙問題と日中対立 {{See|満蒙問題}}{{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} [[第一次世界大戦]]に参戦した日本は[[1914年]](大正3年)10月末から11月にかけ[[イギリス軍]]とともに山東半島の[[膠州湾租借地]]を攻略占領し([[青島の戦い]])その権益処理として[[対華21カ条要求]]を行い、2条約13交換公文からなる取り決めを交わした。この中に南満洲及東部内蒙古に関する条約など、[[満蒙問題]]に関する重要な取り決めがなされ、[[満洲善後条約]]や[[日清協約|満洲協約]]、[[北京議定書]]・[[日清通商航海条約|日清追加通商航海条約]]などを含め日本の中国特殊権益が条約上固定された。日本と中華民国によるこれら条約の継続有効(日本)と破棄無効(中国)をめぐる争いが宣戦布告なき戦争{{efn|モーゲンソー日記によれば、ルーズベルト大統領は「結局、イタリアと日本が宣戦布告せず交戦する技術を進化させてきたとすれば、なぜ我々は同様の技術を開発できないのか」と語ったとされる<ref>{{Cite journal|和書|author=高橋文雄 |title=経済封鎖から見た太平洋戦争開戦の経緯--経済制裁との相違を中心にして |journal=戦史研究年報 |issn=13455117 |publisher=防衛省防衛研究所 |year=2011 |month=mar |issue=14 |pages=27-56 |naid=40018877832 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10366917}}</ref>。}}へ導くこととなる。 [[1917年]](大正6年)、第一次世界大戦中に[[十月革命|ロシア革命]]が起こり、[[ソビエト連邦]]が成立する。旧ロシア帝国の対外条約のすべてを無効とし継承を拒否したソビエトに対し、第一次世界大戦に参戦していた[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]は「革命軍によって囚われた[[チェコ軍団]]を救出する」という大義名分により干渉戦争を開始した([[シベリア出兵]])。日本は[[アレクサンドル・コルチャーク|コルチャク]]政権を支持し[[ボリシェヴィキ]]を攻撃したが、コルチャク政権内の分裂やアメリカを初めとする連合国の撤兵により失敗。[[共産主義]]の拡大に対する防衛基地として満洲の重要性が高まり、満蒙は「'''日本の生命線'''」と見なされるようになった。とくに[[1917年]]及び[[1919年]]の[[レフ・カラハン|カラハン宣言]]は人民によりなされた共産主義政府であるソビエトが旧ロシア帝国の有していた対中権益(領事裁判権や各種条約による治外法権など)の無効・放棄を宣言したものであり、[[孫文]]をはじめとした[[中華民国政府]]を急速に親ソビエト化させ、あるいは[[1920年]]には上海に社会共産党が設立され、のち[[1921年]]の[[中国共産党第一次全国代表大会]]につながった。 その間の1919年には[[満洲鉄道]]が2~3万人の組合員からなる満鉄消費組合を結成して日本人向けの市場を寡占しはじめて日本人小売商らの利益が害されたため、満洲商業会議所連合会は満鉄消費組合撤廃活動を1930年まで4次に渡って展開した。結果的には和解に至ったが、これらの活動が満洲輸入組合及び満洲輸入組合連合会の設立に繋がった{{sfn|柳沢遊|1980}}。 [[1928年]]7月19日、[[第一次国共合作]]により[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を成功させた[[蔣介石]]の[[蔣介石政権|南京国民政府]]は一方的に日清通商航海条約の破棄を通告し、日本側はこれを拒否して継続を宣言したが、中国における在留日本人(朝鮮人含む)の安全や財産、及び[[満蒙問題|条約上の特殊権益]]は重大な危機に晒されることになった。 満洲は清朝時代には「帝室の故郷」として漢民族の植民を強く制限していたが、清末には[[中国本土|中国内地]]の窮乏もあって[[直隷]]・[[山東省|山東]]から多くの[[移民]]が発生し、急速に[[漢化]]と開拓が進んでいた。清末の[[袁世凱]]は満洲の自勢力化をもくろむとともに、ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとした。しかしこの計画も[[清末民初]]の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁の死後、満洲で生まれ育った[[馬賊]]上がりの将校・[[張作霖]]が台頭、張は袁が任命した奉天都督の[[段芝貴]]を追放し、在地の[[郷紳]]などの支持の下[[軍閥]]として独自の勢力を確立した。満洲を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満洲における日本の権益を確保しようとしたが、叛服常ない張の言動に苦しめられた。また、日中両軍が衝突した1919年の[[寛城子事件]](長春事件)では張作霖の関与が疑われたが日本政府は証拠をつかむことができなかった。 さらに中国内地では蔣介石率いる[[中国国民党]]が戦力をまとめあげて[[南京市|南京]]から北上し、この影響力が満洲に及ぶことを恐れた。こうした状況のなか[[1920年]]3月には、外満洲の[[ニコラエフスク・ナ・アムーレ|ニコラエフスク]](尼港)で赤軍によって日本軍[[守備隊]]の殲滅と居留民が虐殺される[[尼港事件]]が起き、満洲が[[赤化]]されていくことについての警戒感が強まった。[[1920年代]]後半から対ソ戦の基地とすべく、関東軍参謀の[[石原莞爾]]らによって[[万里の長城]]以東の全満洲を中国国民党の支配する中華民国から切り離し、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになった。 ;満洲事変 [[ファイル:Zhang zuolin.jpg|right|220px|thumb|張作霖爆殺事件の現場]] {{Main|満洲事変}}{{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} [[1928年]](昭和3年)5月、中国内地を一時押さえていた張作霖が[[国民革命軍]]に敗れて満洲へ撤退した。[[田中義一]][[内閣総理大臣|首相]]ら日本政府は張作霖への支持の方針を継続していたが、高級参謀[[河本大作]]ら現場の関東軍は日本の権益の阻害になると判断し、張作霖を殺害した([[張作霖爆殺事件]])。河本らは自ら実行したことを隠蔽する工作を事前におこなっていたものの、報道や宣伝から当初から関東軍主導説がほぼ公然の事実となり、張作霖の跡を継いだ[[張学良]]は日本の関与に抵抗し[[楊宇霆]]ら日本寄りの幕僚を殺害、国民党寄りの姿勢を強めた。このような状況を打開するために関東軍は、[[1931年]](昭和6年)[[9月18日]]、[[満洲事変]]([[柳条湖事件]])を起こして満洲全土を占領した。張学良は国民政府の指示によりまとまった抵抗をせずに満洲から撤退し、満洲は関東軍の支配下に入った。 日本国内の問題として、世界恐慌や[[昭和恐慌]]と呼ばれる不景気から抜け出せずにいる状況があった。[[明治維新]]以降、日本の人口は急激に増加しつつあったが、農村、都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなく、[[1890年代]]以後、アメリカや[[ブラジル]]などへの国策的な移民によってこの問題の解消が図られていた。ところが[[1924年]](大正13年)にアメリカで[[排日移民法]]が成立、貧困農民層の国外への受け入れ先が少なくなったところに恐慌が発生し、数多い貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていた。そこへ満洲事変が発生すると、当時の[[若槻禮次郎]]内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞をはじめ国民世論は強く支持し、対外強硬世論を政府は抑えることができなかった。 === 満洲国建国とその経緯 === {{Multiple image |direction = vertical |width = 220 |image1 = Inauguration Ceremony of Chief Executive of Manchukuo.JPG |caption1 = 「執政」就任式典 |image2 = Signature of Japan-Manchukuo Protocol.JPG |caption2 = 日満議定書の調印式 }} [[ファイル:Lytton Commission in Shanghai.jpg|thumb|220px|right|リットン調査団]]{{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} [[柳条湖事件]]発生から4日後の1931年9月22日、関東軍の満蒙領有計画は陸軍首脳部の反対で実質的な独立国家案へと変更された{{sfn|山室信一|2004|p=64}}。[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]は石原莞爾らに溥儀を首班とする親日国家を樹立すべきと主張し、石原は国防を日本が担い、鉄道・通信の管理条件を日本に委ねることを条件に満蒙を独立国家とする解決策を出した。現地では、関東軍の工作により、反張学良の有力者が各地に政権を樹立しており、9月24日には[[袁金鎧]]を委員長、[[于冲漢]]を副委員長として奉天地方自治維持会が組織され、26日には[[煕洽]]を主席とする吉林省臨時政府が樹立、27日にはハルビンで[[張景恵]]が[[東省特別行政区|東省特別区]]治安維持委員会を発足した。 翌[[1932年]]2月に、[[遼寧省 (中華民国)|奉天]]・[[吉林省 (中華民国)|吉林]]・[[黒竜江省 (中華民国)|黒龍江省]]の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。2月16日、奉天に張景恵、[[臧式毅]]、煕洽、[[馬占山]]の四巨頭が集まり、張景恵を委員長とする[[東北最高行政委員会|東北行政委員会]]が組織された。2月18日には「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された。 [[File:Flag of the Northeast Supreme Administrative Council (1932).svg|thumb|150px|東北行政委員会の旗]] 1932年3月1日、上記四巨頭と熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞が委員とする東北行政委員会が、元首として清朝最後の皇帝'''[[愛新覚羅溥儀]]'''を'''満洲国執政'''とする満洲国の建国を宣言した(元号は大同)。[[首都]]には[[長春市|長春]]が選ばれ、'''[[新京]]'''と命名された。国務院総理([[首相]])には[[鄭孝胥]]が就任した。 その後、[[1934年]]3月1日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行した([[元号]]は[[康徳]]に[[改元]]<ref>当初は「啓運」を予定していたが、関東軍の干渉によって変更</ref>)。[[国務総理大臣]](国務院総理から改称)には鄭孝胥(後に[[張景恵]])が就任した。 ;満洲国をめぐる国際関係 一方、満洲事変の端緒となる柳条湖事件が起こると、中華民国は国際連盟にこの事件を提起し、国際連盟理事会はこの問題を討議し、1931年12月に、[[イギリス人]]の第2代[[リットン伯爵]][[ヴィクター・ブルワー=リットン]]を団長とする[[リットン調査団]]の派遣を決議した。1932年3月から6月まで日本、中華民国と満洲を調査したリットン調査団は、同年[[10月2日]]に至って報告書を提出し、満洲の地域を「法律的には完全に支那の一部分なるも」<ref>リットン報告書9章「問題の複雑性」『右地域ハ法律的ニハ完全ニ支那ノ一部分ナルモ其ノ地方政権ハ本紛争ノ根底ヲナス事項ニ関シ日本ト直接交渉ヲナス程度ノ広範ナル自治的性質ノモノナリキ』</ref>とし、満洲国政権を「現在の政権は純粋且自発的なる独立運動に依りて出現したるものと思考することを得ず」<ref>リットン報告書6章「満洲国」第1節「新国家建設の階段」</ref>とし、「満洲に於ける現政権の維持及承認も均しく不満足なるべし」<ref>リットン報告書9章「問題の複雑性」『前二章ニ述ヘタル所ニ鑑ミ満洲ニ於ケル現政権ノ維持及承認モ均シク不満足ナルヘシ。斯ル解決ハ現行国際義務ノ根本的原則若ハ極東平和ノ基礎タルヘキ両国間ノ良好ナル了解ト両立スルモノト認メラレス。』</ref>と指摘した。その上で満洲地域自体には「本紛争の根底を成す事項に関し日本と直接交渉を遂ぐるに充分なる自治的性質を有したり」<ref>リットン報告書9章「問題の複雑性」</ref>と表現し、中華民国の法的帰属を認める一方で、日本の満洲における特殊権益を認め、満洲に中国主権下の満洲国とは異なる自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を提案した。 同年[[9月15日]]に[[齋藤内閣]]のもとで政府として満洲国の独立を[[国家の承認|承認]]し、[[日満議定書]]を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、[[松岡洋右]]を主席全権とする代表団を[[ジュネーヴ]]で開かれた国際連盟総会に送り、満洲国建国の正当性を訴えた。 リットン報告書をもとに連盟理事会は「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」を作成し、[[1933年]][[2月24日]]には国際連盟総会で同意確認の投票が行われた。この結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現[[タイ王国|タイ]])、投票不参加1国([[チリ]])であり、[[国際連盟規約]]15条4項<ref>紛爭解決ニ至ラサルトキハ聯盟理事會ハ全會一致又ハ過半數ノ表決ニ基キ當該紛爭ノ事實ヲ述へ公正且適當ト認ムル勸告ヲ載セタル報告書ヲ作成シ之ヲ公表スヘシ</ref>および6項<ref>聯盟理事會ノ報告書カ【紛爭當事國ノ代表者ヲ除キ】他ノ聯盟理事會員全部ノ同意ヲ得タルモノナルトキハ聯盟國ハ該報告書ノ勸告ニ應スル紛爭當事國ニ對シ戰爭ニ訴ヘサルヘキコトヲ約ス(報告書が当事国を除く理事会全部の同意を得たときは連盟国はその勧告に応じた紛争当事国に対しては戦争に訴えない)</ref>についての条件が成立した。日本はこれを不服として1933年3月に国際連盟を脱退する。 隣国かつ仮想敵国でもあった[[ソビエト連邦]]は、当時はまだ国際連盟未加盟であり、リットン調査団の満洲北部の調査活動に対しての便宜を与えなかっただけでなく{{Sfn|森島守人|1984|p=86}}、建国後には満洲国と相互に領事館設置を承認するなど事実上の国交を有していたが、正式な国家承認については満洲事変発生から建国後まで終始一定しない態度を取り続けた。[[1935年]]にソ連は満洲国内に保有する[[東清鉄道|北満鉄路]]を満洲国政府に売却した。国境に関しても日満-ソ連間に認識の相違があり、[[張鼓峰事件]]などの軍事衝突が起きている。 1932年7月、満洲国内の郵政接受が断行されると、満洲と中国間の郵便は遮断されることとなった<ref>満洲・中国間の郵便交渉成立『東京日日新聞』昭和10年1月1日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p685 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。その後、[[山海関]]の返還など情勢緩和が続くと、1934年4月、国際連盟が「満洲国の郵便物は事務的、技術的に取り扱うべし」との決議を行う。国民政府側も「通郵は文化機関」との判断から、満洲国不承認の原則と切り離して郵便協定の交渉につくことを受諾。同年12月までに協定が成立し、1935年1月からは普通郵便が、翌2月からは小包、為替の取り扱いが始まった<ref>業務再開まで二年半の難交渉『大阪毎日新聞』昭和10年1月1日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p685)</ref>。 [[モンゴル人民共和国]]との間にも国境に関して認識の相違があり、1939年には[[ノモンハン事件]]などの紛争が起きた。 [[1941年]][[4月13日]]、日ソ間の領土領域の不可侵を約した[[日ソ中立条約]]締結に伴い、日本のモンゴル人民共和国]への及びソ連の満洲国への領土保全と不可侵を約す共同声明が出された{{efn|「大日本帝国政府及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦政府ハ千九百四十一年四月十三日大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦間ニ締結セラレタル中立条約ノ精神ニ基キ両国間ノ平和及友好ノ関係ヲ保障スル為大日本帝国カ蒙古人民共和国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨又「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦カ満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨厳粛ニ声明ス」<ref name="tanakaseimeisho">{{Cite web|和書 | url = https://worldjpn.net/documents/texts/JPRU/19410413.D1J.html | title = 日ソ中立条約,声明書 | work = 日本外交主要文書・年表 (1), 52ページ | publisher = 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室 | date = 1941年4月13日 | accessdate = 2011-04-05 }}</ref>。}}。 === 統治 === 日本軍占領後、各地で各種宗教・政治思想で結びついた団体による抗日ゲリラ闘争が起こった。一時は燎原の火のように満洲各地に広がり、関東軍にもとても終結するとは思えないような時期もあったといわれるが、関東軍は殲滅を繰り返し、1935年頃には治安は安定していった。その過程で[[平頂山事件]]のような事件も起きているが、このような事件は氷山の一角で、1932年9月には暫行懲治盗匪法を制定、この条文では清朝の法制にもあった臨陣格殺が定められ、軍司令官や高級警察官が匪賊を裁判なしで自己の判断で処刑する権限を認めていたため<ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000110530 |title=旧満州の暫行懲治盗匪法という法律の中に「臨陣格殺」という言葉が出てくるが、意味を知りたい。 |access-date=2023-1-1 |publisher=国立国会図書館 |website=レファレンス協同データベース}}</ref>、関東軍ないし実質的に[[日本人]]が指導する現地警察はこれを濫用し、各地で匪賊とされた者らの殺戮が繰り返され、彼らの生首が見せしめに晒されることが横行していたとされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://withnews.jp/article/f0210919002qq000000000000000W0h710101qq000023612A |title=行ってはいけなかった奉天の「城内」 101歳の日本人が語る満州事変 |access-date=2023-01-04 |publisher=朝日新聞社 |website=withnews}}</ref>。とくに満鉄及びその付属地を警備する独立守備隊は質が悪く、現地住民らに恐れられたという。また、ゲリラ鎮圧は最終的に成功したものの、この成功が経済構造・社会構造の異なる中国本土でも同様にうまくいくと日本軍を誤信させ、後の日中戦争拡大に繋がっていったのではないかと[[東京大学東洋文化研究所]]教授の[[安冨歩]]は疑っている<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=満洲暴走 隠された構造|date=2015-6-15|publisher=(株)KADOKAWA|pages=57-60,137-138,134-135,205-206,140-147|author=安冨 歩}}</ref>。また、この満洲でのやり方は、山下奉文中将を通じて、後の日中戦争や[[太平洋戦争]]におけるマレー・シンガポール占領期にも持ち込まれたものと林博史は考えている<ref>{{Cite book|和書 |title=シンガポール華僑粛清 |date=2007-6-25 |publisher=(株)高文研 |page=192-193 |author=林博史}}</ref>。 === 第二次世界大戦へ === [[ファイル:Showa Steel Works.JPG|220px|thumb|鞍山製鉄所]]{{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} [[大東亜戦争]]([[第二次世界大戦]])に日本が開戦する直前の[[1941年]][[12月4日]]、日本の[[大本営政府連絡会議]]は「国際情勢急転の場合満洲国をして執らしむ可き措置」を決定し、その「方針」において「帝国の開戦に当り差当り満洲国は参戦せしめず、英米蘭等に対しては満洲国は帝国との関係、未承認等を理由に実質上敵性国としての取締の実行を収むる如く措置せしむるものとす」として、満洲国の参戦を抑止する一方、在満洲の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]領事館(奉天に英米蘭、ハルビンに英米仏蘭、営口に蘭(名誉領事館))の閉鎖を行わさせた。また館員らは警察により軟禁され、1942年に運航された[[交換船]]で帰国した。 このため、満洲国は国際法上の交戦国とはならず、第二次世界大戦の下で、満洲国軍が日本軍に協力してイギリスやアメリカ、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]などとと戦っている南方や太平洋、インド洋やオーストラリア方面に進出するということも無かった。 日本の敗色が濃くなった[[1944年]]の[[下半期]]に入ると、同年7月29日に鞍山の[[昭和製鋼所]](鞍山製鉄所)など重要な工業基地が[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]、特に[[イギリス領インド帝国]]の[[イギリス軍]]基地内に展開した[[アメリカ軍]]の[[ボーイング]][[B-29 (航空機)|B29]][[爆撃機]]の盛んな[[空襲]]を受け、工場の稼働率は全般に「等しい低下を示し」(1944年当時の稼動状況記録文書より)たとしている。特に、奉天の東郊外にある「満洲飛行機」では、1944年6月には平均で70%だった従業員の工場への出勤率が、鞍山の空襲から1週間後の8月5日には26%まで低下した。次の標的になるのではという従業員の強い不安感から、稼働率の極端な下落を招くことになった。 また、戦争後期には大豆等の穀物を徴発、しかし、連合軍の通商破壊により船で日本本土や南方に輸送することが出来なくなり、満洲で飢餓が始まる中、満洲の鉄道沿線や朝鮮の釜山の港で大豆等が野晒しで腐っていったという<ref name=":0" />。一方で、代わりに日本から入れる筈の衣類・繊維がやはり通商破壊のため、あるいは南方優先ということで満洲には入らず、1944年頃の冬には凍死する者、(成長とともに服が合わなくなるため)衣類無しでオンドルに頼って過ごさねばならない子供らが続出したとされる<ref>{{Cite book|和書|title=聞き書き ある憲兵の記録|date=1991-2-20|publisher=朝日新聞社|page=187-191|author=朝日新聞山形支局}}</ref>。 [[1945年]][[2月11日]]に[[ソビエト連邦|ソ連]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[イギリス]]は[[ヤルタ会談]]を開き、満洲を中華民国へ返還、北満鉄路・南満洲鉄道をソ連・中華民国の共同管理とし、大連をソビエト海軍の[[租借地]]とする見返りとして、ソ連が参戦することを満洲国政府に秘密裏に決定した<ref>{{Cite book|和書 | url = https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j04.html | title = ヤルタ協定 | publisher = 米国国務省 | date = 1945-02-11 }}</ref>。なおこの頃満洲国の駐日本大使館は、[[東京]]の[[麻布]]町から神奈川県[[箱根]]に疎開する。 1945年5月には同盟国のドイツが降伏し、日本は1国で連合国との戦いを続けることになる。[[太平洋]]戦線では3月には[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]が、6月には[[沖縄本島|沖縄]]が[[アメリカ軍]]の手に落ち、アメリカ軍やイギリス軍機による本土への攻撃が行われるなど、日本の敗戦は時間の問題となっていた。 ===ソ連の満洲侵攻=== {{see also|ソビエト連邦による満洲侵攻}}{{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} 1945年6月、日本は[[終戦工作]]の一環として、満洲国の中立化を条件に未だ日ソ中立条約が有効であったソビエト連邦に和平調停の斡旋を求めたが、既にソ連は[[ヤルタ会談]]での秘密協定に基づき、ドイツ降伏から3か月以内の[[ソ連対日参戦|対日参戦]]を決定していたため、日本の提案を取り上げなかった{{Sfn|塚瀬進|1998|p=147}}。 [[8月8日]]、ソ連は[[1946年]][[4月26日]]まで有効だった日ソ中立条約を破棄して日本に[[ソ連対日宣戦布告|宣戦布告]]し、直後に[[ソ連対日参戦|対日参戦]]した。[[赤軍|ソ連軍]]は満洲国に対しても西の[[外蒙古]](モンゴル人民共和国)及び東の[[沿海州]]、北の[[孫呉県|孫呉]]方面及びハイラル方面、3方向からソ満国境を越えて侵攻した。ソ連は参戦にあたり、直前に駐ソ日本大使に対して[[宣戦布告]]したが、満洲国に対しては国家として承認していなかったため、外交的通告はなかった。満洲国は防衛法(1938年4月1日施行)を発動して戦時体制へ移行したが、外交機能の不備、新京放棄の混乱などにより最後まで満洲国側からの対ソ宣戦は行われなかった。 関東軍首脳は撤退を決定し、新京の関東軍関係者は[[8月10日]]、[[憲兵]]の護衛付き特別列車で脱出した。満洲国を防衛する日本の関東軍は、[[1942年]]以降増強が中止され、後に南方戦線などへ戦力を抽出されて十分な戦力を持っていなかったため、国境付近で多くの部隊が全滅した。そのため、ソ連軍の侵攻で犠牲となったのは、主に[[満蒙開拓移民]]をはじめとする日本人居留民たちであった。通化への司令部移動の際に民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、軍事的な面から民間人の大規模な移動は「全軍的意図の(ソ連への)暴露」にあたること、邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材、時間もなく、東京の開拓総局にも拒絶され、結果彼らは武器も持たないまま置き去りにされ、満洲領に攻め込んだソ連軍の侵略に直面する結果になった。 一説にはとくに初期のソ連軍兵士らは囚人兵が主体だったともいわれ、軍紀が乱れ、[[戦時国際法]]の基礎教育もなく、兵士らによる日本人居留民に対する殺傷や強姦、略奪事件が多発した。また、それを怖れる日本人居留民や開拓団らの中には集団自決に奔るもの、あるいは逆に、ソ連軍将校らと取引し未婚の若い女性らを自ら犠牲に差出すものも続出したという。[[8月14日]]には[[葛根廟事件]]が起こっている<ref name="秦-2002-130">[[秦郁彦]]「日本開拓民と葛根廟の惨劇 (満州)」秦郁彦・佐瀬昌盛・常石敬一編『世界戦争犯罪事典』文藝春秋、2002年8月10日 第1刷、ISBN 4-16-358560-5、260~261頁。</ref><ref name="坂部-2012-534">[[坂部晶子]]「開拓民の受難」[[貴志俊彦]]・[[松重充浩]]・[[松村史紀]]編『二〇世紀満洲歴史事典』吉川弘文館、二〇一二年 (平成二十四年) 十二月十日 第一刷発行、ISBN 978-4-642-01469-4、543頁。</ref>。戦後、このような形で強姦され妊娠し、博多港に引き揚げてきた女性のためにと厚生省引揚援護局が、二日市に診療所を設け、当時違法であったが中絶手術を行った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20200812-ZHMSFBHVV5ODJGF2ST7B6V6KSU/ |title=【戦後75年】秘密の中絶施設、二日市保養所(福岡県筑紫野市) |access-date=2023-1-1 |publisher=産経新聞社 |website=産経ニュース}}</ref>。もっとも満洲でとくに初期にはソ連兵による強姦が多発したのは間違いないが、開拓移民を多く出した石川県の満蒙開拓団関係者の依頼で開拓団史をまとめた藤田繁の調査・検証によれば、この二日市での中絶のケースでは、ソ連兵による強姦と考えるにはその多くが妊娠時期が合わなかったという<ref>{{Cite book|和書 |title=石川県満蒙開拓史 |date=1982-9-1 |publisher=石川県満蒙開拓者慰霊奉賛会 |editor=藤田 繁 |page=90}}</ref>。実際には暴行ばかりでなく、外地で生き延びるために、満洲や朝鮮等で現地の男性あるいは同じ引揚者の日本人男性らと一時的にでも夫婦同然となるような生活を送るしかなかった女性らが、郷里帰還を前にして中絶の選択を迫られた等の事情が考えられることを示唆している(参照:[[二日市保養所]])。 === 滅亡 === {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} 皇帝溥儀をはじめとする国家首脳たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い、[[通化省]][[臨江市|臨江県]][[大栗子街道|大栗子]]に8月13日夕刻到着。同地に避難していたが、[[8月15日]]に行われた日本の[[昭和天皇]]による「[[玉音放送]]」で戦争と自らの帝国の終焉を知った。 2日後の[[8月17日]]に、国務総理大臣の[[張景恵]]が主宰する重臣会議は[[通化市]]で満洲国の廃止を決定、翌18日未明には溥儀が大栗子の地で退位の[[詔勅]]を読み上げ、満洲国は誕生から僅か13年で滅亡した{{Sfn|児島襄|1983|loc=3巻、p283-292}}。退位詔書は20日に公布する予定だったが、実施できなかった。 8月19日に旧満洲国政府要人による東北地方暫時治安維持委員会が組織されたが、8月24日にソ連軍の指示で解散された。溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場より飛行機で日本に亡命する途中、奉天でソ連軍の空挺部隊によって拘束され、[[通遼市|通遼]]を経由してソ連の[[チタ]]の収容施設に護送された。そのほか、旧政府要人も8月31日に一斉に逮捕された。 === その後の満洲地域 === ;日本兵と日本人入植者 占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。その後ソ連軍により、シベリアや外蒙古、[[中央アジア]]等に連行・抑留された者もいる([[シベリア抑留]])。 ソ連軍の侵攻を[[中国人]]や蒙古人の中には「解放」と捉える人もおり、ソ連軍を解放軍として迎え、当初関東軍と共にソ連軍と戦っていた満洲国軍や関東軍の朝鮮人・漢人・蒙古人兵士らのソ連側への離反が一部で起こったため、結果として関東軍の作戦計画を妨害することになった。中華民国政府に協力し反乱を起こしたことから日本人数千名が[[中国共産党]]の八路軍に虐殺された[[通化事件]]も発生した。 また、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った[[中国残留日本人|中国残留日本人孤児]]が数多く発生した。その後、日本人は新京や[[大連市|大連]]などの大都市に集められたが、日本本国への引き揚げ作業は遅れ、ようやく[[1946年]]から開始された([[葫芦島在留日本人大送還]])。さらに、帰国した「引揚者」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、苦しい生活を強いられた。政府が[[満蒙開拓団]]や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者たちは後々まで困窮した。 ;ソ連軍政下 満洲はソ連軍の軍政下に入り、中華民国との[[中ソ友好同盟条約]]では3か月以内に統治権の返還と撤兵が行われるはずであったが、実際には翌[[1946年]]4月までソ連軍の軍政が続き、[[撫順市]]や[[長春市]]などには[[八路軍]]が進出して中国共産党が人民政府をつくっていた([[東北問題]])。この間、ソ連軍は、[[東ヨーロッパ]]の場合と同様に工場地帯などから持ち出せそうな機械類を根こそぎ略奪して本国に持ち帰った。 ;中華民国 1946年5月にはソ連軍は撤退し、満洲は[[蔣介石]]率いる中華民国に移譲された。中華民国政府は、行政区分を満洲国建国以前の遼寧・吉林・黒竜江の東北3省や[[熱河省 (中華民国)|熱河省]]に戻した。しかしその後[[国共内戦]]が再開され、中華民国軍は、人民解放軍に敗北し、中華民国政府は[[台湾島]]に移転することとなる。 ;中華人民共和国 [[1948年]]秋の遼瀋戦役でソ連の全面的な支援を受けた中国共産党の[[中国人民解放軍]]が満洲全域を制圧した。[[毛沢東]]は満洲国がこの地に残した近代国家としてのインフラや統治機構を非常に重要視し、「[[中国本土]]を[[国民政府]]に奪回されようとも、満洲さえ手中にしたならば抗戦の継続は可能であり、中国革命を達成することができる」として、満洲の制圧に全力を注いだ。[[八路軍]]きっての猛将・[[林彪]]と当時の中国共産党ナンバー2・[[高崗]]が満洲での解放区の拡大を任されていた。 旧満洲国軍[[興安軍]]である[[東モンゴル自治政府]]自治軍は[[ウランフ]]によって人民解放軍に編入され、[[中華人民共和国によるチベット併合|チベット侵攻]]などに投入された<ref>{{Cite|author=楊海英 |title=チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史 |date=2014年11月15日 |publisher=文芸春秋 |isbn= |ref=}}</ref>。 [[1949年]]に中国共産党は[[中華人民共和国]]を成立させ、満洲国領だった東モンゴル地域に新たに[[内モンゴル自治区]]を設置した。満洲国時代に教育を受けた多くのモンゴル人たちは内モンゴル人民革命党に関係するものとして粛清された([[内モンゴル人民革命党粛清事件]])<ref>{{Cite book|和書|author=楊海英 |title=墓標なき草原 : 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録 |date=2009 |publisher=岩波書店 |isbn=9784000247719 |ref=harv}}</ref><ref>[http://www.lupm.org/japanese/pages/080711j.htm モンゴル自由連盟党とは?] モンゴル自由連盟党</ref>。ソ連軍から引き渡された満洲国関係者の多くは[[撫順戦犯管理所]]で中国共産党の思想改造を受けたが、[[毛沢東]]によって元満洲国皇帝の溥儀は[[ロシア帝国]]最後の皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]とその一家を[[ロマノフ家の処刑|虐殺]]したソ連より優越している中国共産党の証左として政治利用されることとなった<ref>Behr, Edward (1987). The Last Emperor. Toronto: Futura. p. 283-285</ref>。溥儀は釈放後、満洲族の代表として[[中国人民政治協商会議]]全国委員に選出された。 == 地理 == [[ファイル:Manchuria.jpg|right|300px|thumb|満洲国地図]] === 主な都市 === {{表2列| * [[新京]] * [[奉天市|奉天]] * [[満洲里市|満洲里]] * [[吉林市|吉林]] * [[通化市|通化]] * [[ハルビン市|哈爾浜]] | * [[チチハル市|斉斉哈爾]] * [[営口市|営口]] * [[東港市|安東]] * [[敦化市|敦化]] * [[ハイラル区|海拉爾]] }} === 行政区分 === {{main|満洲国の地方行政区画}} [[ファイル:Map of Manchukuo divisions zh-hant.svg|thumb|left|満洲国の地方行政区画]] {{表4列| * [[新京|新京特別市]] * [[吉林省 (満洲国)|吉林省]] * [[四平省]] * [[通化省]] * [[間島省]] * [[竜江省|龍江省]] ** ([[吉林省]]) | * [[浜江省]] * [[牡丹江省]] * [[東安省]] * [[三江省]] * [[北安省]] * [[黒河省]] ** ([[黒竜江省]]) | * [[安東省 (満洲国)|安東省]] * [[奉天省 (満洲国)|奉天省]] * [[錦州省]] * [[関東州]] ** ([[遼寧省]]) | * [[興安総省]] * [[熱河省 (満洲国)|熱河省]] ** ([[内モンゴル自治区]]) ** ([[河北省]]) }} : <small>上記の括弧内に記載した省・自治区はこれらの満洲の省が属する現在の中華人民共和国の行政区分である。</small> * [[関東州]] - 日露戦争後の[[満洲善後条約]]により、日本の中国からの[[租借地]]とされたが、満洲国建国後は満洲国領土の一部とされ、満洲国からの租借地とされた。 == 人口 == {{Multiple image |direction = vertical |width = 220 |image1 = Manchukuo Hsinking avenue.jpg |caption1 = 新京・大同大街 |image2 = Tokiwa Department Store in Harbin.JPG |caption2 = ハルビンの「ときわデパート」 }} [[1908年]]の時点で満洲の人口は1583万人だったが、満洲国が建国された1932年10月1日には2928万8千人になっていた<ref>満洲国国務院統計処『大同元年末 現住戸口統計』、1933年([[大同 (満洲)|大同]]2年)</ref>。人口比率としては女性100に対して男性123〜125の割合で、1942年10月1日には人口は4424万2千人にまで増加していた<ref>満洲帝国治安部警務司『康徳八年十月一日 満洲帝国現住人口統計』、1943年(康徳10年)</ref>。[[移民]][[国家]]としての側面もあり、内地からの日本本土人以外でも、隣接する外地の[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]からの移住者が増加した{{Sfn|森島守人|1984|p=83}}他、[[台湾人]]も5000人移り住んだ。 国務院総務庁と治安部警務司の統計では1940年([[康徳]]7年)10月1日の満洲国の人口は4108万0907人、男女比は120:100<ref name="人口統計">国務院総務庁統計処・国務院治安部警務司『満洲帝国現住人口統計(職業別編)』、1942年(康徳9年)</ref>。国務院[[国勢調査]]では<ref>国務院総務庁臨時[[国勢調査]]事務局『康徳七年 臨時国勢調査速報』</ref>、同時期の満洲国の人口は4323万3954人、男女比は123.8:100であった<ref name="人口統計"/>。統計に開きがあるのは、警察戸口調査においては現住人口調査主義{{efn|住民台帳を利用して人口を算出したもの。}}を、臨時国勢調査においては現在人口調査主義{{efn|調査票を集計して人口を算出したもの。}}を採用したことによる<ref>『満洲帝国現住人口統計(職業別編)』凡例、1942年(康徳9年)</ref>。 人口の構成としては、 {| class="wikitable" !!!全人口!!全人口に占める割合 |- |満洲人(漢族、満洲族) |38,885,562人||94.65% |- |日本人 |2,128,582人||5.18% |- |その他外国人(白系ロシア人を含む) |66,783人||0.16% |- |} 上記の「日本人」の中には、130万9千人の朝鮮人を含む。台湾人は朝鮮人に含まれている<ref name="人口統計"/>。 主要都市の人口は下記のとおり<ref name="人口統計"/>。 {| class="wikitable" !都市名!!全人口!!その内の日本人の人口||データ |- |[[奉天市|奉天]] |1,003,716人||170,580人||1940年 |- |[[ハルビン市|哈爾浜]] |558,829人||51,650人||1940年 |- |[[新京]] |490,253人||129,321人||1940年 |- |[[大連市|大連]] |338,872人||84,794人||1938年 |- |[[東港市|安東]] |246,129人||43,358人||1940年 |- |[[営口市|営口]] |176,917人||8,320人||1940年 |- |[[吉林市|吉林]] |145,035人||17,941人||1940年 |- |[[チチハル市|斉斉哈爾]] |118,708人||14,290人||1940年 |- |} === 国籍法の不存在 === 満洲国においては最後まで[[国籍法]]が制定されなかったため、満洲国籍を有する者の範囲は法令上明確にされず、慣習法により定まっているものとする学説が有力であった<ref>山室信一『キメラ』p.298</ref><ref name=endo/>。国籍法が制定されなかった背景として、[[二重国籍]]を認めない日本の国籍法上、日本人入植者が「日本系満洲国人」となって日本国籍を放棄せざるを得ないこととなれば、新規日本人入植者が減少する恐れがあること、日本の統治下にあった朝鮮人を日本国民として扱っていた朝鮮政策との整合性の問題や、[[白系ロシア人]]の[[帰化]]問題などがあった<ref name=endo>{{Cite journal|和書|author=遠藤正敬 |title=満洲国草創期における国籍創設問題--複合民族国家における「国民」の選定と帰化制度 |journal=早稲田政治経済学雑誌 |issn=02877007 |publisher=早稻田大學政治經濟學會 |year=2007 |month=oct |volume=369 |pages=143-161 |naid=120002228420 |url=https://hdl.handle.net/2065/30574}}</ref>。1940年(康徳7年)に「[[暫行民籍法]]」(康徳7年8月1日勅令第197号)が制定され、民籍に記載された者は満洲国人民として扱われた。日本人が満洲国で出生した場合には国籍が不明確になるが、満洲国の[[満洲国駐箚特命全権大使|特命全権大使]]にその旨を届け出て、大使が内地の本籍地にそれを回送することで日本人として内地の戸籍に登録された。 === 日本人・満蒙開拓移民の人口 === {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} [[1931年]](昭和6年)から[[1932年]](昭和7年)の満洲には59万人の日本人(朝鮮・台湾籍を含む)が居住し、うち10万人は[[農家|農民]]だった。営口では人口の25%が日本人だったという。 満洲事変以前において、漢族以外の満洲への移住農民の内の多数は半島人とも呼ばれた朝鮮籍日本人であり、日本内地から満洲への移住者の大半は軍関係者あるいは南満洲鉄道および附属地の企業関係者とその家族であった。満洲国の成立以降、日本政府は国内における貧困農村の集落住民や都市部の農業就業希望者を中心に、「[[満蒙開拓団]]」と称する[[満蒙開拓移民]]を募集した。さらに日本政府は[[1936年]](昭和11年)から[[1956年]](昭和31年)の間に、500万人の日本人の移住を計画していた。当時満洲は実際には4千万人の人口がいたとみられるが、誤って3千万人程度と考えられていた。それが20年後には5千万人に増えるのではないかとみなして、漢・満・日・蒙・朝の五族中、日本人がその一割を確保したいと考えたのである<ref name=":0" />。結局は、[[1945年]](昭和20年)の[[ポツダム宣言]]受諾での[[日本の降伏]]により満洲国は消滅したために、この計画は頓挫に終わった。[[1938年]](昭和13年)から[[1942年]](昭和17年)の間には20万人の農業青年を、[[1936年]](昭和11年)には2万人の家族移住者を送り込んだ。なお、満洲で逐次開設されていった小学校の日本人教員の募集は内地の給与の7割から17割5分増しで募集された{{efn|「満洲国小学校教員募集ニ関スル件」昭和13年(1938年)1月14日秋田県学務部長通牒<ref>{{Cite journal|和書|author=逸見勝亮 |title=師範学校「特別学級」について |journal=北海道大學教育學部紀要 |issn=04410637 |publisher=北海道大學教育學部 |year=1978 |month=nov |volume=32 |pages=105-121 |naid=120000955725 |url=https://hdl.handle.net/2115/29186}}</ref>。}}。 これらの開拓団の土地を確保するため、先に現地で耕作していた農民らの土地を強制的に安値で買い取っていったという。しかし、日本[[内地]]からの移民はとても数百万人規模の計画を満たすものでなく、その結果、長野県などの貧しい農村を標的に、今でいう補助金の停止をちらつかせるような形で、各地の中学校の教諭らにもその生徒からの確保を命じて強引に行われていったとされる。計画を進めた東宮鉄男らの考えでは、日本人移民はソ連を攻撃する際の現地近辺での徴兵の基盤作りあるいは逆に攻められた際の防御の盾とするためであり、したがって都市などに出て行って商売等に従事したりしないよう、彼らの多くは僻地に送られたが、中には、比較的都市に近いような場所で追い出された現地人らを小作人・使用人として使って比較的商品性の高い作物を作っていた例もあったという。<ref name=":0" /> 終戦時、[[ソ連対日参戦]]によりソビエト連邦が満洲に侵攻した際には、85万人の日本人移住者を抑留している。公務員や軍人を例外として、基本的にはこれらの人々は[[1946年]](昭和21年)から[[1947年]](昭和22年)にかけて段階的に[[連合国軍占領下の日本]]に送還されている。 === 朝鮮人移住者 === もともと朝鮮との国境に近い地域には朝鮮民族の居住者も多く、歴史的にも満洲族との交流が深かったため、建国当時[[日本統治時代の朝鮮|日本領であった朝鮮半島]]からも多くの朝鮮籍日本人が満洲国へ移住した。農業以外にも[[水商売]]や小規模商店などの事業を行うものも多かった。しかし現地の住民たちの反感を買う事例もあったという{{Sfn|森島守人|1984|p=83}}。 [[1934年]](昭和9年)[[10月30日]]、[[岡田内閣]]([[岡田啓介]]首相)は[[朝鮮人]]の内地への移入([[在日韓国・朝鮮人]])によって失業率や治安の悪化が進んでいる日本本土を守るとして、朝鮮人が満洲に向かうよう満洲国の経済開発を推し進めることを閣議決定している<ref>{{アジア歴史資料センター|A03023591400|朝鮮人移住対策ノ件}}(1934年10月30日)</ref>。 === ユダヤ人自治州 === {{Main|河豚計画}} {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} 満洲事変以前から[[ヨーロッパ]]における[[ユダヤ人]]問題に関心を持ち始めていた日本政府は、満洲国内における[[ユダヤ教]]徒によるユダヤ人[[自治州]]を企図し、反ユダヤ政策を推進していた[[ナチス・ドイツ]]政府に対し、その受け入れを打診していた([[河豚計画]])。 しかしその後、[[日中戦争]]([[支那事変]])に突入したことなどにより、日満両政府が本格的に遂行することはなく、第二次世界大戦前夜の[[ナチス・ドイツ]]や[[ソビエト連邦]]による反ユダヤ人政策を嫌悪し、満洲国経由で[[アメリカ合衆国]]や[[南アメリカ|南米]]諸国に亡命しようとしたユダヤ人のうち少数が満洲国に移住したにとどまった。 == 国家体制 == === 国旗・国歌 === {{main2|国旗|満洲国の国旗}} {{main2|国歌|満洲国の国歌}} === 政治 === [[ファイル:Manchukuo politician.jpg|right|220px|thumb|満洲国の初代内閣]] {{wikisource|王道立國之要旨宣示ノ件|王道立国之要旨宣示ノ件}} {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} 満洲国は公式には'''[[五族協和 (満洲国)|五族協和]]の[[王道楽土]]'''を理念とし、[[アメリカ合衆国]]をモデルとして建設され、[[アジア]]での多民族共生の実験国家であるとされた。[[共和制]]国家であるアメリカ合衆国をモデルとするとしていたものの、皇帝を[[国家元首]]とする[[立憲君主制]]国家である。'''五族協和'''とは、満蒙漢日朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、'''王道楽土'''とは、西洋の「[[覇道]]」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満洲国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味している。満洲にはこの五族以外にも、[[十月革命|ロシア革命]]後に[[共産主義]]政権を嫌いソビエトから逃れてきた[[白系ロシア人]]等も居住していた。 その中でも特に、[[ボリシェヴィキ]]との戦争に敗れて亡ぼされた[[緑ウクライナ]]の[[ウクライナ人]]勢力と満洲国は接触を図っており、戦前には日満宇の三国同盟で反ソ戦争を開始する計画を協議していた。しかし、[[1937年]]にはウクライナ人組織にかわって[[ロシア人]]のファシスト組織([[ロシアファシスト党]])を支援する方針に変更し、ロシア人組織と対立のあるウクライナ人組織とは断交した。第二次世界大戦中に再びウクライナ人組織と手を結ぼうとしたが、[[太平洋]]方面での苦戦もあり、極東での反ソ武力抗争は実現しなかった。 満洲国は建国の経緯もあって日本の計画的支援の下、きわめて短期間で発展した。内戦の続く中国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人などの移民があり、とりわけ日本政府の政策に従って満洲国内に用意された農地に入植する日本内地人などの移民は大変多かった。これらの移民によって満洲国の人口も急激な勢いで増加した。 === 国家機関 === [[ファイル:Manchukuo state concil.jpg|right|220px|thumb|国務院]] {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} 満洲国政府は、[[国家元首]]として'''[[満洲国皇帝#執政|執政]]'''(後に'''[[満洲国皇帝|皇帝]]''')、諮詢機関として'''[[満洲国参議府|参議府]]'''、行政機関として'''[[満洲国国務院|国務院]]'''、司法機関として'''[[法院 (満洲国)|法院]]'''、立法機関として'''[[立法院 (満洲国)|立法院]]'''、監察機関として'''[[満洲国監察院|監察院]]'''を置いた。 国務院には'''[[総務庁 (満洲国)|総務庁]]'''が設置され、官制上は[[国務総理大臣|首相]]の補佐機関ながら、日本人官吏のもと満洲国行政の実質的な中核として機能した(総務庁中心主義)。それに対し国務院会議の議決や参議府の諮詢は形式的なものにとどまり、立法院に至っては正式に開設すらされなかった。 === 元首 === [[ファイル:Manchukuo palace.jpg|right|220px|thumb|皇宮として建てられた同徳殿]] {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} [[元首]](執政、のち皇帝)は、愛新覚羅溥儀がつき、1937年(康徳4年)3月1日に公布された[[帝位継承法 (満洲国)|帝位継承法]]第一条により、溥儀皇帝の男系子孫たる男子が帝位を継承すべきものとされた<ref>建国五周年に帝位承継法を公布『東京朝日新聞』(昭和12年4月1日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p688 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。 帝位継承法の想定外の事態に備えて、満洲帝国駐箚(駐在)大日本帝国[[特命全権大使]]兼関東軍司令官との会談で、皇帝は、清朝[[王政復古|復辟]]派の策謀を抑え、関東軍に指名権を確保させるため、自身に帝男子孫が無いときは、日本の天皇の叡慮によって帝位継承者を定める旨を皇帝が宣言することなどを内容とした覚書などに署名している(なお、溥儀にはこの時点で実子がおらず、その後も死去するまで誕生していない)。 === 国民 === {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} 満洲国は瓦解に至るまで国籍法を定めず、法的な国民の規定はなされなかった。結果、移民や官僚も含めた満洲居住の日本人は日本国籍を有したままであり、敗戦後、法的な障害無しに日本へ引き揚げる事が出来た。1940年(康徳7年)に「[[暫行民籍法]]」(康徳7年8月1日勅令第197号)が制定され、民籍に記載された者は満洲国人民として扱われた。 === 行政 === {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} [[ファイル:Government ministers of Manchukuo in 1933.png|サムネイル|鄭孝胥(中央)ほか首脳]] 1932年(大同元年)の建国時には首相(執政制下では'''国務院総理'''、帝政移行後は'''[[国務総理大臣]]''')として鄭孝胥が就任し、1935年(康徳2年)には軍政部大臣の張景恵が首相に就任した。 しかし実際の政治運営は、満洲帝国駐箚大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官の指導下に行われた。元首は首相や閣僚をはじめ官吏を任命し、官制を定める権限が与えられたが、関東軍が実質的に満洲国高級官吏、特に日本人が主に就任する[[総務庁 (満洲国)|総務庁]]長官や各部次長([[次官]])などは、高級官吏の任命や罷免を決定する権限をもっていたので、関東軍の同意がなければこれらを任免することができなかった。 公務員の約半分が日本内地人で占められ、高い地位ほど日本人占有率が高かった。これらの日本内地人は日本国籍を有したままである。俸給、税率面でも日本人が優遇された。関東軍は満洲国政府をして日本内地人を各行政官庁の長・次長に任命させてこの国の実権を握らせた。これを'''内面指導'''と呼んだ([[弐キ参スケ]])。これに対し、[[石原莞爾]]は強く批難していた。しかし、台湾人(満洲国人)の[[謝介石]]は外交部総長に就任しており、裁判官や検察官なども日本内地人以外の民族から任用されるなど<ref>[[権逸]]</ref>、日本内地人以外の民族にも高位高官に達する機会がないわけではなかった。しかし、これも日本に従順である事が前提で、初代首相の鄭孝胥も[[関東軍]]を批判する発言を行ったことから、半ば解任の形で辞任に追い込まれている。 省長等の地方長官は建国当初は現地有力者が任命される事が多かったが、これも次第に日本人に置き換えられていった。 === 選挙・政党 === {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} [[憲法]]に相当する'''[[組織法]]'''には、[[一院制]][[議会]]として'''[[立法院 (満洲国)|立法院]]'''の設置が規定されていたが選挙は一度も行われなかった。[[結社|政治結社]]の組織も禁止されており、'''[[満洲国協和会]]'''という官民一致の唯一の政治団体のみが存在し、実質的に民意を汲み取る機関として期待された。 === 法制度 === {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} 憲法に相当する組織法や[[人権保障法]]をはじめ、[[民法 (満洲国)|民法]]や[[刑法 (満洲国)|刑法]]などの基本法典について、日本に倣った法制度が整備された。当時の日本法との相違としては、組織法において、各閣僚や合議体としての内閣ではなく、首相個人が皇帝の[[輔弼]]機関とされたこと、刑法における構成要件はほぼ同様であるが、法定刑が若干日本刑法より重く規定されていること、検察庁が裁判所から分離した独自の機関とされたことなどが挙げられる。 === 標準時 === 満洲国版図では日露中の支配域ごとに異なる標準時が用いられていたが、満洲国は[[東経120度線|東経120度]]を子午線とし、[[UTC+8]]を標準時として統一した。1937年1月1日に[[日本標準時]]に合わせて[[UTC+9]]に変更された<ref>「内地時間と歩調を合せ行政的な統一が成った」満洲日日新聞 1936.11.11</ref>。変更後の子午線は[[東経135度]]となり、満洲国内を通っていない。 == 外交 == === 外交関係 === 日本は建国宣言が出されて約半年後の[[1932年]]9月に承認し<ref>{{Cite web |title=昭和7年(1932)9月|日満議定書に調印し、満州国を承認する:日本のあゆみ |url=https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/s07_1932_03.html |website=www.archives.go.jp |access-date=2023-12-13}}</ref>、エルサルバドルとコスタリカは[[1934年]]と早期に承認した。エチオピア侵略で経済制裁を受け国際連盟を脱退した[[イタリア王国|イタリア]]は、[[1937年]]12月に承認<ref>1937年(昭和12年)12月1日、満洲国承認([https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/bunsho/h23.html 外務省: 『日本外交文書 第二次欧州大戦と日本 第一冊』(日独伊三国同盟・日ソ中立条約)])</ref>した。 [[ナチス・ドイツ|ドイツ]]は[[1936年]]に日本と[[防共協定]]を結んでいたが、一方で当初は満洲国承認は行わず、[[中独合作]]で中華民国とも結ばれていたこともあり極東情勢に不干渉の立場をとっていた。しかし防共協定が日独伊三国防共協定になった翌年の[[1938年]]2月に承認した<ref>1938年(昭和13年)2月10日のヒトラー演説により、実質的に満洲国承認。同年5月12日に満独修好条約を締結。([https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/bunsho/h23.html 外務省: 『日本外交文書 第二次欧州大戦と日本 第一冊』(日独伊三国同盟・日ソ中立条約)])</ref><ref>『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』ハインツ・E・マウル 芙蓉書房出版 P.54, ISBN 978-4829503386</ref>)。 第二次世界大戦の勃発後にも[[フィンランド]]をはじめとする[[枢軸国]]、[[タイ王国]]などの日本の同盟国、[[クロアチア独立国]]や[[フランコ体制下のスペイン|スペイン]]などの枢軸国の友好国、ドイツの占領下にあった[[デンマーク]]など、合計20か国が満洲国を承認した([[1939年]]当時の世界の独立国は60か国ほどであった)。{{信頼性要検証範囲|また、[[イギリス]]と[[フランス第三共和政|フランス]]は「日本の言い分もわかる、我々の[[既得権益|権益]]が確保できるならいいだろう」として、陰では承認する用意があった|date=2023年5月}}<ref name="ベストセラーズ">{{Cite book|和書|author1=田原総一朗|authorlink1=田原総一朗|author2=百田尚樹|authorlink2=百田尚樹|date=2014-12-09 |title=愛国論 |series=|publisher=[[ベストセラーズ]] |isbn=978-4584136119 |page=39 }}{{信頼性要検証|date=2023-05}}</ref>。 {{出典の明記|date=2023年5月}} * {{JPN}} - 1932年(大同元年)9月15日、[[日満議定書]]によって承認 * {{DEU1935}} - 1938年(康徳5年)5月12日、満独修好条約締結 * {{ITA1861}} - 後に日満伊貿易協定を締結 * {{SLV}}- 1934年(康徳元年)3月3日、日本に続いて2番目の承認国<ref>飯島みどり、「[https://hdl.handle.net/20.500.12099/3987 ある「親日国」の誕生 : 「満州国」問題と1930年代エル・サルバドル外交の意図(その1)]」「岐阜大学教養部研究報告』 1995年 32巻 p.59-78,岐阜大学教養部</ref> * {{CRI}}- エルサルバドルと同時に承認<ref>[http://www.jca.apc.org/costarica/cosinfo.html JCA-NET]</ref> * {{CHN1940}} - [[1940年]](康徳7年)11月30日の[[s:日滿華共同宣言|日満華共同宣言]]によって相互承認 * {{THA}} - 1941年8月1日付けで承認の通告を発出<ref>タイも承認『東京日日新聞』(昭和16年8月2日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p742 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref> * {{BIR1943}} * [[ファイル:Philippines Flag Original.svg|border|25px]] [[フィリピン第二共和国|フィリピン]] * {{MJG}} * {{ESP1939}} * {{POL1928}} - ポーランドについては1938年10月19日交換公文により相互に最恵国待遇を承認し、満洲国からは事実上の国家承認とみなされていた<ref name=morita>{{Cite journal|和書|author=森田光博 |title=「満洲国」の対ヨーロッパ外交(2・完) |journal=成城法学 |issn=03865711 |publisher=成城大学 |year=2007 |month=mar |issue=76 |pages=61-164 |naid=110006470968 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I8834772-00}}</ref> * [[ファイル:1931 Flag of India.svg|border|25px]] [[自由インド仮政府]] * {{HRV1941}} * {{HUN1920}} * {{SVK1939}} * {{ROM1881}} - 1940年12月3日付けで承認する旨の公文を手交<ref>ルーマニアが正式承認『大阪毎日新聞』(昭和15年12月5日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p742 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref> * {{BIR1943}} * {{BGR1908}} * {{DEN}}(ドイツ占領下) * {{FIN}} === 外交活動 === {{出典の明記|date=2014年5月|section=1}} 満洲国は上記の国のうち、日本と南京国民政府に常駐の[[大使]]を、ドイツとイタリアとタイに常駐の[[公使]]を置いていた{{Sfn|塚瀬進|1998|p=155}}。東京に置かれていた満洲国大使館は[[麻布|麻布区]][[桜田町]]50(現在の[[港区 (東京都)|港区]][[元麻布]])にあり、ここは[[日本国と中華民国との間の平和条約]]の締結後に中華民国大使館となり、[[日中国交正常化]]後に[[中華人民共和国]]大使館に代わった<ref name="tokyojinimao">[[今尾恵介]]「失われた地名を手がかりに東京町歩き」 特集・東京の地名 町それぞれの物語 『東京人』(都市出版株式会社)第20巻第5号、平成17年5月3日発行。</ref>{{efn|[[在日本中国大使#在大日本帝国満州国公使・大使|在日本大使の一覧]]も参照。}}。 [[1941年]](康徳8年)にはハンガリーやスペインとともに[[防共協定]]に加わっている。一方、[[日独伊三国同盟]]には加盟せず、第二次世界大戦においても[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]への[[宣戦布告]]は行っていない。{{誰範囲2|date=2020年8月22日 (土) 08:35 (UTC)|しかしながら日本と同盟関係を結び日本軍(関東軍)の駐留を許すほか、軍の主導権を握る位置に日本人が多数送られていた上に、軍備の多くが日本から提供もしくは貸与されているなど、軍事上は日本と一体化しており実質的には[[枢軸国]]の一部であったとも解釈できる}}。 また、経済部大臣の[[韓雲階]]を団長にした「満洲帝国修好経済使節団」がイタリアやバチカン、ドイツやスペインなどの友好国を訪問し、[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]や[[ベニート・ムッソリーニ]]、[[アドルフ・ヒトラー]]らと会談している。また[[1943年]](康徳10年)に東京で開催された[[大東亜会議]]にも[[張景恵]][[国務総理大臣]]が参加し、タイや自由インドなど各国の指導者と会談している<ref>『黎明の世紀 大東亜会議とその主役たち』 文藝春秋 1991年 {{要ページ番号|date=2020年8月22日}}</ref>。 === 外交上の交渉接点があった諸国 === {{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} 満洲国は正式な外交関係が樹立されていない諸国とも事実上の外交上の交渉接点を複数保有していた。奉天とハルピンにはアメリカとイギリスの総領事館、ハルピンにはソ連とポーランドの総領事館など13の総領事館が設置されていた。 [[ソビエト連邦]]とは満洲国建国直後から事実上の国交があり、イタリアやドイツよりも長い付き合いが存在した<ref name=morita />。満洲国が1928年の「ソ支間ハバロフスク協定」にもとづき在満ソビエト領事館の存続を認めるとソ連は極東ソ連領の満洲国領事館の設置を認め、ソ連国内の[[チタ]]と[[ブラゴヴェシチェンスク]]{{Sfn|塚瀬進|1998|p=154}}に満洲国の[[領事館]]設置を認めた{{Sfn|森島守人|1984|p=86}}。さらに[[日ソ中立条約]]締結時には「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重する声明を発するなど一定の言辞を与えていたほか、[[北満鉄道讓渡協定]]により北満鉄道(東清鉄道から改称)を満洲国政府に譲渡するなど、満洲国との事実上の外交交渉を行っていた。 また、満洲国を正式承認しなかった[[ドミニカ共和国]]や[[エストニア共和国 (1918年-1940年)|エストニア]]、[[リトアニア共和国 (1918年-1940年)|リトアニア]]なども満洲国と国書の交換を行っていた。このほか、[[バチカン]]([[ローマ教皇庁]])は、教皇使節(Apostolic delegate)を満洲国に派遣していた{{efn|バチカンの[[福音宣教省]]が派遣する教皇使節はバチカンとの外交関係がない国々にも派遣される派遣される例がある<ref>[[上野景文]]、『バチカンの聖と俗』、かまくら春秋社、2011、pp91-92</ref>。}}。 == 軍事 == [[ファイル:Manchukuo Honor Guard.JPG|thumb|[[禁衛隊 (満洲国)|禁衛隊]]]] {{main|満洲国軍}} {{出典の明記|date=2020年12月|section=1}} [[満洲国軍|満洲国の国軍]]は、1932年(大同元年)4月15日公布の陸海軍条例(大同元年4月15日軍令第1号)をもって成立した。'''[[日満議定書]]'''によって日本軍([[関東軍]])の駐留を認めていた満洲国自体の性質上もあり、「関東軍との連携」を前提とし、「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした、軍隊というより関東軍の後方支援部隊、[[準軍事組織]]や[[国境警備隊]]としての性格が強かった。 後年、太平洋戦争の激化を受けた関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、ソ連対日参戦の際は所轄上部機関より離反してソ連側へ投降・転向する部隊が続出し、関東軍の防衛戦略を破綻させた。 == 経済 == [[ファイル:Central Bank of Manchou.JPG|220px|thumb|満洲中央銀行]] {{main|満洲国の経済}} {{出典の明記|date=2020年12月|section=1}} 政府主導・日本資本導入による[[重工業]]化、近代的な経済システム導入、大量の開拓民による[[農業]]開発などの経済政策は成功を収め、急速な発展を遂げるが、[[日中戦争]](日華事変)による経済的負担、そしてその影響による[[インフレーション]]は、満洲国体制に対する満洲国民の不満の要因ともなった。政府の指導による計画経済が基本政策で、企業間競争を排するため、一業界につき一社を原則とした。 [[三井財閥]]や[[三菱財閥]]の[[財閥]]系企業をはじめとする多くの日本企業が進出したほか、国交樹立していたドイツやイタリアの企業である[[テレフンケン]]や[[ロバート・ボッシュ (企業)|ボッシュ]]および[[フィアット]]も進出していた。なお、[[日産コンツェルン]]は[[1937年]](康徳4年)に[[持株会社]]の[[日本産業]]を満洲に移転し、[[満洲重工業開発]](満業)を設立している。さらに国交のないアメリカの大企業である[[フォード・モーター]]や[[ゼネラルモーターズ]]および[[クライスラー]]や[[ゼネラル・エレクトリック]]等、イギリスの[[香港上海銀行]]なども進出し、1941年7月に日英米関係が悪化するまで企業活動を続けた。 === 通貨 === {{main|満洲国圓}} {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} [[法定通貨]]は[[満洲中央銀行]]が発行した[[満洲国圓]](圓、yuan)で、1圓=10角=100分=1000厘だった。当時の中華民国や現在の中華人民共和国の[[通貨単位]]も圓(元、yuan)で同じだが、中華民国の通貨が「[[法幣]]」と呼ばれたのに対し、同じく法幣の意味をもつ満洲国の通貨は「国幣」と表記して区別した。中華民国の[[銀元|銀圓]]・[[法幣]](及び現在の[[人民元]]、[[ニュー台湾ドル|台湾元]]、[[香港ドル|香港元]])と同様、漢字で「元」と表記したが、満洲国内の貨幣法では、日本国と同様に「圓」(円)の表記が採用された。 貨幣法(教令第25号)の公布は、満洲国が成立した同年(1932年)6月11日である。 [[金解禁]]が世界的な流れとなる中で日本では金解禁が行われていたが、通貨は中華民国と同じく[[銀本位制]]でスタートし、現大洋(袁世凱弗、孫文弗と呼ばれた[[銀元|銀元通貨]])と等価とされたが、[[1935年]]11月に[[円 (通貨)|日本円]]を基準とする[[管理通貨制度]]に移行した。このほか主要都市の満鉄付属地を中心に、関東州の法定通貨だった[[朝鮮銀行]]発行の朝鮮券も使用されていたが、1935年(昭和10年)11月4日に日本政府が「満洲国の国幣価値安定及幣制統一に関する件」を閣議決定したことにより、満洲国内で流通していた日本側の銀行券は回収され、国幣に統一された。 満洲国崩壊後もソ連軍の占領下や国民政府の統治下で国幣は引き続き使用されたが、[[1947年]]に[[中華民国中央銀行]]が発行した[[:zh:东北九省流通券|東北九省流通券]](東北流通券)に交換され、流通停止となった。 満洲国建国以前の貨幣制度は、きわめて混乱していた。すなわち銅本位の鋳貨(制銭、銅元)および紙幣(官帖、銅元票)、銀本位の鋳貨(大洋銭、小洋銭、銀錠)および紙幣(大洋票、小洋票、過爐銀、私帖)があり、うち不換紙幣が少なくなかった。ほかに外国貨幣である円銀、墨銀、日本補助貨、日本銀行券、金票(朝鮮銀行券)、鈔票(横浜正金銀行発行の円銀を基礎とした兌換券)などが流通し、購買力は一定せず、流通範囲は一様でなかった。満洲国建国直後に満洲中央銀行が設立されるとともに旧紙幣の回収整理が開始され、1935年(康徳2年)8月末までにほとんどすべてが回収された。 こうして貨幣は国幣に統一され、鈔票の流通は関東州のみとなり、その額は小さく、金票は1935年(康徳2年)11月4日の満洲国幣対金円等値維持に関する日満両国政府による声明以来、金票から国幣に換えられることが増えて、満鉄、関東州内郵便局および満洲国関係の諸会社の国幣払実施とあいまって国幣の使用範囲は広がった。国幣は円単位で、純銀 23.91g の内容を有すると定められたが、本位貨幣が造られないためにいわば銀塊本位で、兌換の規定が無いために変則の制度であった。 貨幣は百圓、十圓、五圓、一圓、五角の紙幣、一角、五分、一分、五厘の鋳貨(硬貨)が発行され、紙幣は無制限法貨として通用された。紙幣は満洲中央銀行が発行し、正貨準備として発行額に対して3割以上の金銀塊、確実な外国通貨、外国銀行に対する金銀預金を、保証準備として公債証書、政府の発行または保証した手形、その他確実な証券または商業手形を保有すべきことが命じられた。後に鋳貨の代用として一角、五分の小額紙幣が発行された。 やがて軍の軍費要求はもとより私用同然の物資調達を安易にこれに頼ろうとする日本人官吏層の堕落等から、[[満洲中央銀行]]は実体としての正貨準備と関係なく様々な便法を駆使して紙幣を濫発、インフレを急速化させ、住民を困窮させていくことになる<ref name=":0" /><ref>{{Cite book|和書|title=昭和の迷走  「第二満州国」に憑かれて|date=2014-12-11|publisher=筑摩選書|author=多田井 喜生}}</ref>。もともと経済力では中国が日本より上回っていると見られていたこと、中国には英国からの経済支援があったこともあるが、日中戦争中に同様な現象が中国本土においても惹き起こされ、これは日本軍が勝っても日本側の法幣や軍票の値打ちは上がらないといわれる事態の一因となっている。 === 郵政事業 === {{main|満洲国の郵便史コレクション}} {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} [[ファイル:Stamp Manchukuo 1935 15f.jpg|right|thumb|150px|皇帝溥儀を描く15分普通切手(1934年11月発行)]] [[ファイル:Manchukuo stamp and a postcard.jpg|right|thumb|150px|各種紀念切手と葉書]] [[中華郵政]]が行っていた郵便事業を1932年7月26日に接収し、同日「満洲国郵政」(帝政移行後は「満洲帝国郵政」)による郵政事業が開始された。中華郵政は満洲国が発行した切手を無効としたため、1935年から1937年までの期間、中国本土との郵便物に添付するために国名表記を取り除き「郵政」表記のみとした「[[満洲国の郵便史コレクション#%E6%BA%80%E8%8F%AF%E9%80%9A%E9%83%B5%E5%88%87%E6%89%8B|満華通郵切手]]」が発行されていた。 同郵政が満洲国崩壊までに発行した切手の種類は159を数え、記念切手<ref>中国語では「紀念」と表記するが、「建国一周年記念」切手は日本語の「記念」表記となっている</ref>も多く発行した。日本との政治的つながりを宣伝する切手も多く、[[1935年]]の「皇帝訪日紀念」や[[1942年]]の「満洲国建国十周年紀念」・「新嘉坡(シンガポール)陥落紀念」・「大東亜戦争一周年紀念」などの記念切手は日本と同じテーマで切手を発行していた。 [[1944年]]の「日満共同体宣伝」のように、中国語の他に日本語も表記した切手もあった。郵便貯金事業も行っており、[[1941年]]には「貯金切手」も発行している。 満洲国で最後の発行となった郵便切手は、1945年5月2日に発行された満洲国皇帝の訓民詔書10周年を記念する切手である。予定ではその後、戦闘機3機を購入するための[[寄附金付切手]]が発行を計画されていたが、満洲国崩壊のために発行中止となり大半が廃棄処分になった。だが第二次世界大戦後、満洲に進駐したソ連軍により一部が流出し、市場で流通している。 === アヘン栽培 === {{See also|アヘン#日本におけるアヘン史}} {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} 日本は内地及び朝鮮を除いて[[アヘン]](阿片)[[専売制]]と漸禁政策を採用しており、満洲地域でもアヘン栽培は実施されていた。名目上は[[モルヒネ]]原料としての薬事処方方原料の栽培だが、これらアヘン栽培が馬賊の資金源や関東軍の工作資金に流用され、上海などで売りさばかれた。 1932年(大同元年)に阿片法(大同元年11月30日教令第111號)が制定され、アヘンの吸食が禁止された。ただし未成年者以外のアヘン中毒者で治療上必要がある場合は、管轄警察署長の発給した証明書を携帯した上で政府の許可を受けた阿片小売人から購入することができた。 == 交通・通信 == === 鉄道 === [[ファイル:Super Express Asia.jpg|220px|thumb|満鉄のシンボル、[[あじあ (列車)|特急「あじあ」]]]] [[ファイル:Manchukuo SMR headquarters.jpg|220px|thumb|大連満鉄総部]] [[ファイル:South Manchuria Railway LOC 03283.jpg|220px|thumb|満鉄の列車]] {{main|南満洲鉄道|満洲国有鉄道}} {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}} 日本の半官半民の[[国策会社]]・南満洲鉄道(満鉄)は、ロシアが敷設した東清鉄道南満洲支線を日露戦争において日本が獲得して設立されたが、満洲国の成立後は特に満洲国の経済発展に大きな役割を果たした。同社は満洲国内における鉄道経営を中心に、[[フラッグ・キャリア]]の[[満洲航空]]、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林、牧畜に加えてホテル、図書館、学校などの[[インフラストラクチャー]]整備も行った。 新京〜大連・旅順間を本線として各地に支線を延ばしていた。「[[超特急]]」とも呼ばれた流線形のパシナ形蒸気機関車と専用の豪華客車で構成される特急列車「[[あじあ (列車)|あじあ]]」の運行など、主に日本から導入された[[南満洲鉄道の車両]]の技術は世界的に見ても高いレベルにあった。 一方、満洲国成立前から満鉄に対抗して中国資本の鉄道会社が満鉄と競合する鉄道路線の建設を進めていた。これらの鉄道会社は、満洲国成立後に公布された「鉄道法」に基づいて[[国有化]]され、[[満洲国有鉄道]]となった。しかし満洲国鉄による独自の鉄道運営は行われず、即日満鉄に運営が委託されて、実際には満洲国内のほぼすべての鉄道の運営を満鉄が担うことになった。新規に建設された鉄道路線、[[1935年]]に[[ソビエト連邦]]との交渉の末に満洲国に売却された北満鉄路([[東清鉄道]])など私鉄の接収・買収路線も全て満洲国鉄に編入され、満鉄が委託経営を行っていた。特に新規路線は建設から満鉄に委託と、「国鉄」とは名ばかりで全てが満鉄にまかせきりの状況であった。この他にも満鉄は[[朝鮮半島]]の[[朝鮮総督府鉄道]]のうち、国境に近い路線の経営を委託されている。車両などは共通のものが広く使われていたが、運賃の計算などでは満鉄の路線(社線)と満洲国鉄の路線(国線)に区別が設けられていた。しかしこれも後に旅客規程上は区別がなくなり、事実上一体化した。 満鉄は単なる鉄道会社としての存在にとどまらず、沿線各駅一帯に広大な[[南満洲鉄道附属地]](満鉄附属地)を抱えていた。満鉄附属地では満洲国の司法権や警察権、徴税権、行政権は及ばず、満鉄がこれらの行政を行っていた。首都[[新京|新京特別市]](現在の長春市)や[[奉天市]](現在の瀋陽市)など主要都市の新市街地も大半が満鉄附属地だった。都市在住の日本人の多くは満鉄附属地に住み、日本企業も満鉄附属地を拠点として治外法権の特権を享受し続け、満洲国の自立を阻害する結果となったため、[[1937年]]に満鉄附属地の行政権は満洲国へ返還された。 満鉄・国鉄の他にも、領内には小さな私鉄がいくつも存在した。これらの中には国有化され、改修されて満洲国鉄の路線となったものや、満洲国鉄が並行する路線を敷設したために補償買収されてから廃止になったものもある。以下に満洲国が存在した時期に一貫して私鉄であったものを挙げる(※印は補償買収後に廃止になった路線)。 {{colbegin}} * [[斉昂軽便鉄路]]※ * [[渓堿鉄路]]※ * [[天図軽便鉄路]]※ * [[開豊鉄道]] * 鶴岡鉄道(鶴立鉄路)※ * [[東満洲鉄道]] * [[天理鉄道]](天理村鉄道) * 錦西鉄道 * 吉林鉄道 * 楡樹鉄道 {{colend}} [[1940年]]前後から、満鉄が請負の形で積極的にこれら私鉄の建設に携わるようになり、戦争末期の頃には相当数の路線が満鉄の手によって建設されるようになっていた。ただしその多くが竣工する前、竣工しても試運転をしただけの状態で満洲国崩壊に遭って建設中止となり、[[未成線]]になっている。 この他、首都・新京を始めとして奉天・[[ハルビン市|哈爾濱]]など主要都市の市内には[[路面電車]]が敷設されていた。[[新京#交通|新京]]及び[[奉天市地下鉄道|奉天]]では[[地下鉄]]建設計画もあったが、実現しなかった<ref>「[http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/15-10/15-10-2850.pdf 橋本敬之氏の新京地下鉄調査談]」『土木建築工事画報』第15巻第10号、1939年10月</ref><ref>大阪市電気局高速鉄道部編『奉天市地下鉄道計画書』、[[今尾恵介]]・[[原武史]]監修『日本鉄道旅行地図帳 歴史編成 満洲樺太』(新潮社刊、2009年)</ref>。 === 航空 === [[ファイル:Manchukuo Airlines Tag.jpg|220px|thumb|満洲航空の新型機([[ユンカース]]86)の就航を祝う荷札]] {{main|満洲航空}} 1931年に南満洲鉄道の系列会社として設立された[[フラッグ・キャリア]]の[[満洲航空]]が、新京飛行場を拠点に満洲国内と日本(朝鮮半島を含む)を結ぶ定期路線を運航していた。 [[中島AT-2]]や[[ユンカース]][[Ju 86 (航空機)|Ju 86]]、[[ロッキード L-14 スーパーエレクトラ]]などの外国製旅客機の他にも、自社製の満洲航空[[MT-1]]や、ライセンス生産した[[フォッカー スーパーユニバーサル]]などで満洲国内の主都市を結んだ他、新京と[[ベルリン]]を結ぶ超長距離路線を運航することを目的とした系列会社である[[国際航空]]を設立した。 満洲航空は単なる営利目的の民間航空会社ではなく、民間旅客、貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送、チャーター便の運行や測量調査、航空機整備から航空機製造まで広範囲な業務を行った。 === 通信・放送 === [[ファイル:非武装地带.png|220px|thumb|「非武装地帯」「天国と地獄」当時プロパガンダ目的で制作されたもの]] [[電話]]・[[ファックス]]などの[[通信]]業務や[[ラジオ]]放送業務も、1933年に設立された[[満洲電信電話]](MTT)に統合された。[[放送局]]はハルビン、新京、瀋陽などに置かれており<ref>[http://www.japanradiomuseum.jp/chinaradio.html 満州国の放送とラジオ]{{リンク切れ|date=2022-3}}</ref>、[[ロシア人]]を中心に作られた[[ハルビン交響楽団]]、後に日本人を中心に作られた[[新京交響楽団]]による音楽演奏も毎週これら放送局だけでなく、日本[[租借地]]にある[[大連放送局 (租借地)|大連放送局]]へも中継された。聴取者から聴取料を徴収していたが、内地に先駆けて広告も扱っており、また海外へ外国語による放送も行われていた<ref>[http://norip-009.at.webry.info/201401/article_1.html 満州文化物語(2)]</ref>。 == 言語 == 「満語」と称された標準[[中国語]]と日本語が事実上の公用語として使用された。軍、官公庁においては日本語が第一公用語であり、ほとんどの教育機関で[[日本語]]が教授言語とされた。[[モンゴル語]]、[[ロシア語]]などを母語とする住民も存在した。また、簡易的な日本語として[[協和語]]もあった。1938年1月以降、中国語(満語)、日本語、モンゴル語(蒙古語)が「国語」と定められ授業で教えられた<ref>{{Cite journal|和書|author=張守祥 |url=https://hdl.handle.net/10959/2750 |title=「満洲国」における言語接触 : 新資料に見られる言語接触の実態 |journal=人文 |publisher=学習院大学 |year=2011 |issue=10 |pages=52-53(p.51-68) |naid=110008922383 |issn=1881-7920}}</ref>。 [[大本]]の教祖である[[出口王仁三郎]]は布教活動の一環として[[エスペラント]]の普及活動も行っており、満洲国の建国に際し、信奉者である[[石原莞爾]]の協力を得てエスペラントを普及させる計画があったが実現しなかった。 == 教育 == [[Image:National Foundation University.JPG|thumb|220px|[[建国大学]]]] [[ファイル:Daido Gakuin.JPG|220px|thumb|[[大同学院]]]] {{main2|高等教育機関|満洲国・関東州の高等教育機関}}{{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} 満洲国の教育の根本は、[[儒教]]であった<ref>院令第2号(1932年3月25日公布)「各学校課程ニハ四書孝経ヲ使用講授シ以テ礼教ヲ尊崇セシム凡ソ党義ニ関スル教科書ノ如キハ之ヲ全廃ス」</ref>。教育行政は、中央教育行政機関は文教部であり、文教部大臣は教育、宗教、礼俗および国民思想に関する事項を掌理した。大臣の下には次長が置かれ、さらに部内は総務、学務および礼教の3司に分けられ、それぞれ司長が置かれた。総務司は秘書、文書、庶務および調査の4科に、学務司は総務、普通教育および専門教育の3科に、礼教司は社会教育および宗教の2科に分けられ、それぞれ教育行政を掌した。視学機関は、督学官が置かれた。地方教育行政は、各省では省公署教育庁が、特別市では市政公署教育科が、各県では県公署教育局が、それぞれ管内の教育行政を司った。 最高学府として[[建国大学]]の他、国立大学の[[大同学院]]、[[ハルピン学院 (旧制専門学校)|ハルピン学院]]などが設置された。 小学校は、修業年限は6年で、初級小学校4年+高級小学校2年とするのが本体であったが、初級小学校のみを設けることも認められた。教育科目は、初級小学校は修身、国語、算術、手工、図画、体操および唱歌であり、高等小学校は、初級小学校のそれのほかに歴史、地理および自然の3科目が加えられ、その地方の特状によっては日本語をも加えられた。後に、初級小学校は国民学校、高級小学校は国民優級学校にそれぞれ改称された。教科書は、建国以前に用いられていた[[三民主義]]教科書に代わってあらたに国定教科書が編纂された。僻地では、寺子屋ふうの「書房」がなおも初等教育機関として残されていた。 中学校は、初級および高級の2段階で、修業年限はそれぞれ3年で、併置されるのが原則で、初級中等には小学校修了者を入学させた。教科目は初級は国文、外国語、歴史、地理、自然科、生理衛生、図画、音楽、体育、工芸(農業、工業、家事の1科)および職業科目で、一定範囲の選択科目制度が認められ、高級は普通科、師範科、農科、工科、商科、家事科その他に分かれ、その教育は職業化されていた。 師範教育は、小学校教員は、省立師範学校および高級中学師範科で、養成された。省立師範学校は修業年限3年、初級中学校卒業者を入学させた。普通科目のほかに教育、心理その他を課し、最上級の生徒は付属小学校その他の小学校で教生として教育実習を行った{{efn|高級中学師範科もこれとほぼ同様の教育内容であった。}}。ほか実業教育機関として職業学校があった。 ただし、日本人のほとんどは、満鉄が管轄する付属地の日本人学校に通っていた。1937年の治外法権撤廃により付属地が消滅した後も、教育、神社、兵事に関する事項は日本の管轄に残され、日本人が通う学校は駐満全権大使が管轄し、日本国内に準じて運営された。この方針は日本人開拓団の学校にも適用され、日本人学校は満洲国の教育制度の外に置かれていた。<ref>{{Cite book|和書|title=満洲国 「民族協和」の実像|year=1998|publisher=吉川弘文館|page=80|author=塚瀬 進|isbn=4-642-07752-9}}</ref> == 文化 == === 映画 === [[ファイル:Manchukuo Film Association Studio.JPG|220px|thumb|満洲映画協会のスタジオ]] {{main|満洲映画協会}} [[1928年]]に南満洲鉄道が広報部広報係[[映画]]班、通称「満鉄映画部」を設け、広報([[プロパガンダ]])用記録映画を製作していた。その後[[1937年]]に設立された国策[[映画]]会社である「[[満洲映画協会]]」が映画の制作や配給、映写業務もおこない各地で映画館の設立、巡回映写なども行った。 === 漫画 === {{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} [[田河水泡]]の当時の人気漫画「[[のらくろ]]」の単行本のうち、1937年(昭和12年)12月15日発行の「のらくろ探検隊」では、猛犬聯隊を除隊したのらくろが山羊と豚を共だって石炭の鉱山を発見するという筋で、興亜のため、大陸建設の夢のため、無限に埋もれる大陸の宝を、滅私興亜の精神で行うという話が展開された。 序の中で、「おたがひに自分の長所をもって、他の民族を助け合って行く、民族協和という仲のよいやり方で、[[東洋]]は東洋人のためにという考え方がみんな(のらくろが旅の途中で出会って仲間になった[[朝鮮]]生まれの犬、[[支那|シナ]]生まれの豚、満洲生まれの羊、[[蒙古]]生まれの山羊等の登場人物達)の心の中にゑがかれました。」とあり、当時の軍部が国民に説明していたところの「興亜」と「民族協和の精神」を知ることができる。 === 雑誌 === [[新京]]の藝文社が1942年1月から、満洲国で初で唯一の日本語総合文化雑誌「藝文」を発行した。1943年11月、「満洲公論」に改題。 === 服装 === {{Multiple image |direction = vertical |width = 200 |image1 = Three different nationalities on Kitaiskaia Street.JPG |caption1 = [[哈爾浜]]のキタイスカヤ通り。ロシア人向け店舗前を中国服・洋服・和服を着た人々が闊歩する。 |image2 = Masahiko Amakasu in Manchukuo2.jpg |caption2 = 協和服を着た[[甘粕正彦]]。首からかけた儀礼章を左胸で留めている。 |image3 = Feng Hanqing.JPG |caption3 = 特任官(日本の[[親任官]]に相当)の文官大礼服を着用した[[馮涵清]]。 }} 多民族国家・満洲国では、各民族の衣装が混在していた。初代国務院総理の[[鄭孝胥]]は、溥儀の皇帝即位式典はじめ、公私ともに生涯中国服を通したといわれる{{誰2|date=2023年12月}}。 一方、後任の[[張景恵]]は、「協和(会)服」と呼ばれる[[満洲国協和会]]の公式服を着用することが多かった。[[国民服]]に似たデザインと色だが、国民服より先に考案された。階層によって材質・デザインに違いがあったとされるが、上は[[国務総理大臣]]から下は一般学生まで、民族を問わず広く着用され、石原莞爾や[[甘粕正彦]]のような日本人の軍人・官僚・有力者も着用した。協和服には、[[飾緒]]のような金モールと、満洲国国旗と同じ色をした五色の房からなる儀礼章が付属した。[[ループタイ]]のように首からかけて玉留めで締め、左胸に房をかける形で佩用する。慶事には房の赤と白、弔事には黒と白の部分を強調することで対応した<ref>山下幸生『花も嵐も わが一代記』(文芸社)117ページ。</ref>。 なお、宮廷行事等では、日本の[[大礼服]]と酷似したものが用いられた。 === スポーツ === 1927年には[[同志社大学ラグビー部]]が遠征に来て8試合行った<ref>{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/jrfu/text-list/d100010/ht000290 |title=年代史 昭和2年(1927)度 |access-date=2023-04-20 |publisher=日本ラグビーフットボール協会}}</ref>。1928年1月に[[1928年ラグビー満洲代表の日本遠征|満州代表による日本遠征]]が行われ[[明治大学ラグビー部|明治大学]]などと対戦し、同年には満州ラグビー協会が誕生し、日本の西部ラグビー協会(西日本担当、現在の[[関西ラグビーフットボール協会]]と[[九州ラグビーフットボール協会]])の支部となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://adeac.jp/jrfu/text-list/d100010/ht000300 |title=年代史 昭和3年(1928)度 |access-date=2023-04-20 |publisher=日本ラグビーフットボール協会}}</ref>。 1932年に満洲国体育協会が設立された。満洲国の[[国技]]は[[サッカー]]であり<ref>[http://fukuju3.cocolog-nifty.com/footbook/2010/10/post-bfa7.html 満洲国の国技は“蹴球”-読売新聞記事より]、蹴球本日誌</ref>、満洲国蹴球協会や[[サッカー満洲国代表]]チームも結成されている。[[野球]]でも、日本の[[都市対抗野球大会]]に[[都市対抗野球大会 (満洲)|参加]]したチームがあり、[[日本プロ野球]]初の[[海外]]公式戦として、1940年に夏季リーグ戦を丸々使って[[満洲リーグ戦]]が行われている。 建国当初の満洲国では[[近代オリンピック|オリンピック]]への参加も計画されており、1932年5月21日に満洲国体育協会は[[1932年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルスオリンピック]](1932年7月開催)への選手派遣を同オリンピックの組織委員会に対して正式に申し込んでいるが、結局参加は出来なかった<ref name="A">{{Cite journal|和書|author=入江克己 |url=https://repository.lib.tottori-u.ac.jp/1853 |title=近代日本における植民地体育政策の研究(第2報) : 満州国の成立と体育・スポーツ政策の理念 |journal=鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 |issn=02878011 |publisher=鳥取大学教育学部 |year=1994 |month=aug |volume=36 |issue=1 |pages=86-87(p.69-92) |naid=110000288373}} 本内容は『満洲建国十年史』からの引用。</ref>。ちなみに、派遣する選手としては[[陸上競技]][[短距離走]]の[[劉長春]]や、[[中距離走]]の于希渭(謂)などが挙げられていた(ただし劉は満洲国代表としての出場を拒否し、中華民国代表として出場している)<ref name="example">{{Cite journal|和書|author=高嶋航 |title=「満洲国」の誕生と極東スポーツ界の再編 |date=2008-03 |publisher=京都大學大學院文學研究科 |journal=京都大學文學部研究紀要 |number=47 |naid=40018917923 |pages=131-181 |url=https://hdl.handle.net/2433/72827 |ref=harv}}, {{hdl|2433/72827}}</ref>{{efn|劉らの動きに関わりなく満洲国側は[[日本体育協会|大日本体育協会]]の支援を受けて参加に向けた活動を続けたものの、最終的に断念した。断念理由について、上記高嶋論文には二つの説が挙げられている。}}。 1936年に開催された[[1936年ベルリンオリンピック|ベルリンオリンピック]]への参加も見送られたが、1940年に開催される予定であった[[1940年東京オリンピック|東京オリンピック]]には選手団を送る予定であった。しかし、日中戦争の激化などを受けて同大会の開催が返上されたため、オリンピックに参加することはできなかった。なおその後、実質的な代替大会である[[東亜競技大会]]が開催されている。 === 音楽 === 満洲国へは多くの日本人音楽家が渡り、西洋音楽の啓蒙活動を行った。満洲国建国以前よりこの地には白系ロシア人を中心とした[[ハルビン交響楽団]]が存在したが、これに加えて日本人を中心に[[新京交響楽団]]が結成され、両者は関東軍の後援を受けてコンサートや放送のための演奏を行った。1939年には「新満洲音楽の確立及び近代音楽の普及」を目的として新京音楽院が設立された。 [[園山民平]]は音楽教育や満洲民謡の収集・研究に尽力した他、満洲国国歌を作曲した。その他、指揮者の[[朝比奈隆]]、作曲家の[[太田忠]]、[[大木正夫]]、[[深井史郎]]、[[伊福部昭]]、[[紙恭輔]]などの音楽家が日本から短期間招かれ、例えば太田は「牡丹江組曲」、大木は交響詩「蒙古」、深井は交響組曲「大陸の歌」、伊福部は音詩「[[管絃楽のための音詩「寒帯林」|寒帯林]]」、紙は交響詩「ホロンバイル」を作曲した。 [[崔承喜]]は1940年代当時、世界的に有名な舞踏家であるが、当時の満洲、および中国各地を巡業していた<ref>『中国東北部の「昭和」を歩く』 2011年7月28日発刊 東洋経済新報社 ISBN=978-4-492-04429-2 68p</ref>。 === 祝祭日 === {{main|満洲国の祝祭日}} === 国花 === 満洲国の[[国花]]は「蘭」<ref>{{アジア歴史資料センター|B05015686200|18.東京高等師範学校教授末松直次満洲視察 昭和十一年十二月}}</ref>{{efn|国章にも用いられている「蘭」については、正しくは[[フジバカマ]]を指すが、しばしば[[ラン科]]の花(Orchid)と誤解された<ref>{{Cite book |和書 |author=[[牧野富太郎]] |year=1943 |title=植物記 |chapter=満洲国皇室の御紋章と蘭 |publisher=桜井書店 |pages=125-131 |accessdate=2022-11-08 |id={{NDLJP |1064158/68}} |ref=harv }}</ref>。}}とされることが多いが、「蘭」は「皇室の花(ローヤル・フラワー)」であり、日本における菊に相当するものであった。いわゆる「国花(ナショナル・フラワー)」は[[高粱]]であり<ref>千田萬三『満洲事典』満鉄社員会、1939年(昭和14年)</ref>、1933(大同2)年4月に決定されたとの記録がある<ref>[{{新聞記事文庫|url|0100173993|title=建国後三年間の堅実な歩み : 満洲国の重要記録|oldmeta=00472759}} 「建国後三年間の堅実な歩み 満洲国の重要記録」]、『満洲日報』1935年(昭和10年)3月1日付</ref>。 == 現在 == {{出典の明記|date=2021年12月|section=1}} 満洲国の消滅後は、満洲族も数ある周辺少数民族の一つと位置付けられ、「満洲」という言葉自体が中華民国、中華人民共和国両国内で排除されている(「満洲族」を「満族」と呼び、清朝の「満洲八旗」は「満清八旗」と呼びかえるなど)。例外的に地名として[[満洲里]]がその名をとどめている程度である。また、「中国共産党満洲省委員会」のように歴史的な事柄を記述する場合、満洲という言葉は変更されずに残されている。今日、満洲国の残像は歴史資料や文学、一部の残存建築物などの中にのみ存在する。 == 満洲国を扱った作品 == 「[[:Category:満洲国を舞台とした作品]]」を参照。 == 満洲国生まれの人物 == ''満洲国で出生した日本における人物については[[:Category:満洲国出身の人物]]を参照。'' == 満洲国に存在した日本の株式会社 == {{Seealso|Category:かつて満洲国に存在した企業}} * [[南満洲鉄道|南満洲鉄道株式会社]] * [[満洲重工業開発|満洲重工業株式会社]] * [[満洲軽金属製造株式会社]] * [[満洲航空|満洲航空株式会社]] * [[満洲海運|満洲海運株式会社]] * [[満洲映画協会|株式会社満洲映画協会]] * [[満殖公社]] * [[満洲電信電話|満洲電信電話株式会社]] * [[昭和製鋼所|株式会社昭和製鋼所]](後の[[満洲製鉄株式会社]]) * [[日満商事株式会社]] * [[辰村組|株式会社辰村組]] == 傀儡国家・理想国家・第3の歴史認識 == [[中華人民共和国]]の歴史書や事典などでは、日本が[[東三省]]を武力侵略した後に建国した[[傀儡政権]]{{sfn|山室信一|2004|pp=6-7}}、[[傀儡国家]]<ref name="村上1998-232">[[村上勝彦]]「満州国」[[山根幸夫]]・[[藤井昇三]]・[[中村義]]・[[太田勝洪]]編『〈増補〉近代日中関係史研究入門』[[研文出版]]、1998年4月151日 増補版第1刷発行、ISBN 4-87636-102-9、232頁。</ref><ref name="川村1998-6">[[川村湊]]『文学から見る「満洲」 「五族協和」の夢と現実』[[吉川弘文館]]、一九九八年一二月一日 第一刷発行、ISBN 4-642-05458-8、6頁。</ref><ref>姜念東・解学詩ほか『偽満洲国史』(吉林人民出版社、1980年)など</ref>とされ、その傀儡性や反人民性を示すために「偽満洲国」あるいは「偽満」と称しており、[[中華民国]]([[中国国民党|国民党]]・[[台湾政府]]<ref name="村上1998-232"/>)で出版されたものでも同じである<ref name="山室2004-7">山室 (2004)、7頁。</ref>。日本での見方は当然のように違い<ref name="川村1998-6"/>、おおむね満洲国の政治実態に重点をおく「傀儡国家」論と、満洲国の政治言説の分析力点をおく「理想国家」論の二つに分類できる<ref>[[孫江]] [[doi:10.15055/00000691「宗教結社、権力と植民地支配|「満州国」における宗教結社の統合」]]『日本研究 国際日本文化研究センター紀要』24巻、2002年2月28日、163頁、{{issn|0915-0900}}、{{naid|120005681646}}、{{doi|10.15055/00000691}}。</ref>が、また、満洲国が傀儡国家か理想国家かという二者択一の問題を重要視しない第3の歴史認識ともいうべき新たな視点が日中両国の歴史マニアの間で浮上してきた<ref>[[樋口秀実]]「満州国史の争点—同時代と後世の視角」劉傑・三谷博・楊大慶『国境を越える歴史認識—日中対話の試み』東京大学出版会、2006年5月22日 初版、ISBN 978-4130230537、114~115、134~135頁。</ref>とも言われている。 日本国内においては、満洲国を、日本や関東軍の[[傀儡政権|傀儡国家]]とみなす立場<ref>The Puppet State of Manchukuo, {{cite book |last=Louise |first=Young |author= |year=1999 |title=Japan's Total Empire: Manchuria and the Culture of Wartime Imperialism|url= |location= |publisher=University of California Press |page=40 |isbn=9780520219342 |author-link= }}</ref>に関して、研究者として[[山室信一]]、[[加藤陽子]]、[[並木頼寿]]<ref>[[山室信一]]『キメラ-満洲国の肖像-』[[中公新書]]1138、1993年、p.6。[[加藤陽子]]『満州事変から日中戦争へ』[[岩波新書]]1046、2007年、p.i<!--ページ番号記載済-->、{{Harv|並木頼寿|2008|p=70}}</ref>らが挙げられる。辞書や歴史辞典の類においてみれば、日本または[[関東軍]]の傀儡国家と規定するものが多い<ref name="山室2004-6">山室 (2004)、6頁。</ref><ref>小学館デジタル大辞泉「満州国」</ref><ref>三省堂大辞林「満州国」</ref><ref>小学館日本大百科全書(ニッポニカ)「満州国」[君島和彦]</ref>。 大日本帝国の立場において、以下のような論述がある。 農業学者[[新渡戸稲造]]は在米中の1932年(昭和7年)8月20日、CBSラジオで[[ヘンリー・スティムソン|スティムソン]]ドクトリンに反論する形で「満洲事変と不戦条約」について言明し、「満洲事変は自己[[防衛]]の手段としてなされたものであって[[侵略]]ではなく、満洲国は一般に考えられているように日本の傀儡政権ではない」と表明している<ref>この点についてはその背景についても {{Cite journal|和書|author=福原好喜 |title=新渡戸と軍国主義 |journal=駒沢大学経済学論集 |issn=03899853 |publisher=駒沢大学経済学会 |year=2003 |month=mar |volume=34 |issue=3/4 |pages=1-33 |naid=120006608161 |url=http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/10910/}}</ref>。親日運動家[[シドニー・ギューリック]]は[[1939年]]の自著『日本へ寄せる書』において、「[[支那]]における排日運動は極めて徹底したものである。一般民衆に排日思想をふき込む許りでなく[[子供]]の排日教育にも力を注ぎ、このためには歴史上の事実さへも歪め、虚偽の歴史を教えて子供の敵愾心をそそり、憎悪の念を植え付けていった」「例えば満洲は支那本土の一部であるにもかかわらず日本がそれを奪ったと教える。しかし歴史上満洲が支那の一部であった事実は未だ一度もなく{{Efn|この記述は漢代に遼西郡、遼東郡、さらにはその先の朝鮮半島に楽浪郡などが置かれた事実、明代にも永楽帝の時代に征服され、後に間接統治になるも、撫順などの拠点に軍を置き支配が及んでいた事実に反する。}}、逆に支那本土が満洲の[[従属国|属国]]であった歴史上の事実がある位である。これなどは全然逆な事実を教えるものであるが、その目的は一に満洲から日本の勢力を駆逐しようとするところにあったわけである」と述べている<ref>{{Cite book|和書|author=拳骨拓史|authorlink=拳骨拓史||date=2013-06-01 |title=「反日思想」歴史の真実 |series=[[扶桑社新書]] |publisher=[[扶桑社]] |ISBN=978-4594068202 |page=17 }}</ref>。 [[オーウェン・ラティモア]]は、''The Mongols of Manchuria''([[1934年]])のなかで、中国は確かに[[列強|西洋列強]]の[[植民地|半植民地]]に転落したが、同時に中国は[[モンゴル民族|モンゴル]]や[[チベット]]などの諸民族に対し、西洋列強よりも苛烈な[[植民地|植民地支配]]を強制し、無数の[[漢民族]]をモンゴルの[[草原]]に[[入植地|入植]]させては[[軍閥|軍閥政権]]を打ち立て、現地人が少しでも抵抗すれば、容赦なく[[虐殺]]しており、西洋列強と中国に比べて、新生の満洲国は[[モンゴル民族|モンゴル人]]の生来の権益を守り、[[民族自決|民族自治]]が実現できている、と評価している<ref>{{Cite news|author=[[楊海英]]|url=https://www.sankei.com/article/20180807-D4NYX4HB5NP43GLTWSIMLTI72Q/3/|title=出現した中国の「新植民地主義」 文化人類学者静岡大学教授・楊海英|newspaper=[[産経新聞]]|publisher=|date=2018-08-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211006134317/https://www.sankei.com/article/20180807-D4NYX4HB5NP43GLTWSIMLTI72Q/3/|archivedate=2021-10-06}}</ref>。 <!-- いずれも柳条湖事件の自作自演が判明するなどの近年の研究以前の古い知見に基づくものである。また、日本と英米が物的資源だけでなく全ての人材まで結局は巻込む総力戦に至ったために今日忘れ去られがちなことであるが、当時において日本側もプロパガンダに金を使い、欧米諸国における親日主義者・御用マスコミ等の養成にも努めていて、これらの意見が一般的な見方や客観的な意見を代表しているとは限らない点に注意する必要がある。--><!--出典のない記述。wikipedianのエッセイ--> 近年の研究に基づくものでは、民族自治どころか日本内地人が圧倒的優位に立つ植民地的国家であったという評価<ref>「(関東憲兵隊は)民族共和どころか民族間の反目、離間をはかることを統治手段とみていたことがうかがえる」(山室信一『キメラ—満洲国の肖像』中公新書1138、1993年、p.282)、菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』([[講談社]]、2005年、p.313)、[[宮脇淳子]]『世界史のなかの満洲帝国』([[PHP新書]]387、2006年、p.220)。</ref>がある。 == 脚注 == === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * [[浅野豊美]]『帝国日本の植民地法制-法域統合と帝国秩序』([[名古屋大学]]出版会、2008年、ISBN 4-815-80585-7) * [[加藤陽子]]『満州事変から日中戦争へ』[[岩波新書]]1046、2007年 * {{Cite book|和書|author=並木頼寿 |authorlink=並木頼寿 |title=日本人のアジア認識 |date=2008 |publisher=山川出版社 |isbn=9784634346604 |series=世界史リブレット, 66 |ref=harv}} * [[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]『満州国は日本の植民地ではなかった』[[ワック・マガジンズ]]、2005年 * ブロンソン・レー『満洲国出現の合理性』 田村幸策翻訳、日本国際協会、1936年 * [[大杉一雄]]『日中戦争への道』講談社学術文庫、2007 * 植民地文化学会・中国東北淪陥14年史総編室 編『「満洲国」とは何だったのか 日中共同研究』小学館、2008 * 山田豪一『満洲国の阿片専売-「わが満蒙の特殊権益」の研究』 汲古書院、2004 * {{Cite book|和書|author=山室信一|authorlink=山室信一|title=キメラ 満洲国の肖像 増補版|date=2004-07|publisher=[[中公新書]]|isbn=978-4-12-191138-4|ref=harv}} * 田中隆一『満洲国と日本の帝国支配』有志舎、2007 * {{Cite book|和書|author=塚瀬進 |title=満洲国 : 「民族協和」の実像 |date=1998 |publisher=吉川弘文館 |isbn=9784642077521 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=森島守人|authorlink=森島守人 |title=陰謀・暗殺・軍刀 一外交官の回想 |date=1984 |publisher=岩波書店 |ncid=BN09840221 |series=岩波新書 青版38 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=児島襄 |authorlink=児島襄 |title=満州帝国 |date=1983 |publisher=文藝春秋 |series=[[文春文庫]] 全3巻 |ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=柳沢遊 |authorlink=柳沢遊 |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/tochiseido/23/4/23_KJ00005119193/_article/-char/ja|title=1920年代「満州」における日本人中小商人の動向 |volume-title=土地制度史学|volume= 23巻4号|date=1980 |publisher= 土地制度史学会 |series= |ref=harv}} == 関連図書 == * [[レジナルド・ジョンストン]]『[[紫禁城の黄昏]]』 * [[貴志俊彦]]・松重充浩・松村史紀編『二〇世紀満洲歴史事典』吉川弘文館、2012 * [[貴志俊彦]]『満洲国のビジュアル・メディア-<small>ポスター・絵はがき・切手</small>』吉川弘文館、2010 * 山田勝芳『溥儀の忠臣・工藤忠-<small>忘れられた日本人の満洲国</small>』朝日新聞出版、2010 * {{Cite |和書 |author = [[緒方貞子]] |title = 満州事変――政策の形成過程 |date = 2011年8月 |publisher = [[岩波書店]] |isbn = 978-4006002527 |series = [[岩波現代文庫]] }} * [[木立順一]]『偉人伝:児玉源太郎(後篇)現代人が今一番目指すべき姿』メディアポート、2014 == 関連人物 == * [[工藤忠]] * [[川島芳子]] * [[笹川良一]] * [[甘粕正彦]] * [[杉原千畝]] == 関連項目 == {{Commonscat|Manchukuo}} {{wikisourcecat}} * [[満洲族]]・[[南満洲|南満洲(内満洲)]]・[[外満洲]] * {{仮リンク|中央軍事博物館(ロシア)|en|Central Armed Forces Museum|ru|Центральный музей Вооружённых Сил}} - モスクワにある同館に満洲国の御神体として祀られていた鏡が保存されている。ここにあるのは終戦の翌年シベリアに抑留された日本人から没収したもの。 * [[九カ国条約]] * [[ワシントン体制]] * [[東四盟]] * [[満洲関係記事の一覧]] * [[消滅した政権一覧]] * [[731部隊]] * [[蒙古自治邦政府]] * [[満洲国赤十字社]] * [[塘沽停戦協定]] * [[防共協定]] * [[プレスコード]] * [[出産税]] * [[日本統治時代]] * [[間島特設隊]] * {{仮リンク|満洲独立運動|zh|满洲独立}} * [[琿春市#甩湾子橋|甩湾子橋]] - 満洲国と日本(朝鮮)を結ぶ橋で、穏城大橋と同じく断橋。 * [[図們市#穏城大橋|穏城大橋]] - 満洲国と日本(朝鮮)を結ぶ橋で、ソ連侵攻の際日本軍が爆破したとされる断橋。 * [[満洲国政府 (政治団体)]] == 外部リンク == * [https://www.jacar.go.jp/glossary/term2/0050-0030-0040.html 満洲国|アジ歴グロッサリー] - アジア歴史資料センター * [https://www.jacar.go.jp/glossary/gaichitonaichi/table/history2.html 表から検索(年表:関東州・満洲/樺太)|公文書に見る外地と内地 -旧植民地・占領地をめぐる人的還流-] - アジア歴史資料センター * {{国立国会図書館デジタルコレクション|1879326|満洲国名士録. 康徳1年版|format=EXTERNAL}} * 『[https://dl.ndl.go.jp/pid/1444123 満洲国移住指針]』 - 国立国会図書館デジタルコレクション {{満洲国政府機構}} {{大東亜共栄圏}} {{DEFAULTSORT:まんしゆうこく}} {{Normdaten}} [[Category:満洲国|*]]
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正岡子規
正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日(旧暦慶応3年9月17日)- 1902年(明治35年)9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。子規は筆名で、本名は正岡 常規(まさおか つねのり)。幼名を処之助(ところのすけ)といい、後に升(のぼる)と改めた。 俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人である。 伊予国温泉郡藤原新町(現:愛媛県松山市花園町)に生まれる。同地は伊予松山藩領で、父は藩士の正岡隼太常尚(?〜1872年)、母の八重(1845〜1927年)は藩儒大原観山の長女で、長男であった。 1872年(明治5年)、幼くして父が没したために家督を相続し、大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)の後見を受けた。外祖父である観山の私塾に通って漢書の素読を習い、翌年には末広小学校に入学し、のちに勝山学校に転校。少年時代は漢詩や戯作、軍談、書画などに親しみ、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いた。また自由民権運動の影響を受け、政談にも関心を熱中したという。 1880年(明治13年)、旧制松山中学(現:愛媛県立松山東高等学校)に入学。1883年(明治16年)、同校を中退して上京し、漢文を学ぶため赤坂丹後町の須田学舎や、受験英語のために共立学校(現:開成中学・高校)に入学。翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現:東大教養学部)に入学し、常盤会寄宿舎に入った。1890年(明治23年)、帝国大学哲学科に進学したものの、文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。この頃から「子規」と号して句作を行う。 松山中と共立学校で同級だった秋山真之(後に日露戦争時の連合艦隊参謀)とは、松山在住時からの友人であり、また共通の友人として勝田主計がいた。東大予備門では夏目漱石、南方熊楠、山田美妙らと同窓だった。 大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で1892年(明治25年)に新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せて文芸活動の拠点とした。1893年(明治26年)に「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始した。1894年(明治27年)夏に日清戦争が勃発すると、翌1895年(明治28年)4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)らに挨拶をして帰国の途についた。その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月、須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。喀血した(血を吐いた)ことから、「鳴いて血を吐く」と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。 短歌(和歌)においても、「歌よみに与ふる書」を新聞『日本』に連載。『古今集』を否定して『万葉集』を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催して短歌の革新に努めた。根岸短歌会は、のちに伊藤左千夫、長塚節、岡麓らにより短歌結社『アララギ』へと発展していく。 やがて病に臥しつつ『病牀六尺』を書いた。これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録として、現在まで読まれている。同時期に病床で書かれた日記『仰臥漫録』の原本は、兵庫県芦屋市の虚子記念文学館に収蔵されている。 1902年(明治35年)9月19日午前1時頃に息を引き取った。21日の葬儀には150名以上が参列し、生前に弟子へ遺言していた「静かな寺に葬ってほしい」という願いに合わせて、田端の大龍寺に埋葬され、現在も墓所がある。戒名は子規居士。 ※日付は1872年までは旧暦 子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、1889年(明治22年)に喀血してやめるまで続けていた。ポジションは捕手であった。 子規の最良の理解者であった河東碧梧桐ですら、彼が他のスポーツには全く関心を示さなかったのに、ベースボールに限って夢中になったことについては理解できないという風に「変態現象」と呼んだほどであった。 1890年5月17日の一高ベースボール会対明治学院白金倶楽部によるベースボールの試合で「インブリー事件」が起こった際の観客の一人でもあった。0-6と一高が大差をつけられた6回に事件が起こり、試合は中止となった。同年5月の『筆まかせ・第三のまき』に一高の負け方が見苦しい、と書き記している(注:十八日は誤記。十余程というのは実際の得点を意味しない)。 自身の幼名である「升(のぼる)」に因んで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある。これは、中馬庚がベースボールを野球(やきゅう)と翻訳する4年前の1890年(明治23年)のことで、読み方こそ異なるが「野球」という表記を最初に用いた人物となる。ただしこれはベースボールに対する訳語ではなく、あくまで自身の雅号として使っていたものである。実際1896年(明治29年)7月27日付で新聞『日本』に掲載された随筆記事によると、 とあり、「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語に対して、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」という翻訳案を創作して提示しているが、ベースボールに対する訳語は提示されていない(野球も参照のこと)。その他「まり投げて見たき広場や春の草」「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす」など野球を題材とした句や歌を詠んだり、新海非風との連作で、日本初の野球小説と目される『山吹の一枝』を執筆するなど、文学を通じて野球の普及に貢献した。これらの功績が評価され、子規は2002年(平成14年)、野球殿堂入りを果たした。ちなみに子規の出身地である愛媛県には、子規の野球好きに因んで、野球資料館「の・ボールミュージアム」がオープンしている。 雅号の子規とはホトトギスの異称で、結核を病み喀血した自分自身を、鳴いて血を吐くといわれるホトトギスに喩えたものである。 また別号として、獺祭書屋主人・竹の里人・香雲・地風升・越智処之助(おち ところのすけ)なども用いた。「獺祭書屋主人」の「獺」とは川獺のことである。これは『禮記』月令篇に見える「獺祭魚」なる一文を語源とする。かつて中国において、カワウソは捕らえた魚を並べてから食べる習性があり、その様はまるで人が祭祀を行い、天に供物を捧げるときのようであると信じられていた。「カワウソですら祭祀を行う、いわんや人間をや」というわけである。そして後世、唐代の大詩人である李商隠は尊敬する詩人の作品を短冊に書き、左右に並べ散らしながら詩想に耽ったため、短冊の並ぶさまを先の『禮記』の故事になぞらえ、自らを「獺祭魚庵」と號した。ここから「獺祭魚」には「書物の散らかるさま」という意味が転じる。「獺祭書屋主人」という號は単に「書物が散らかった部屋の主人」という意味ではなく、李商隠のごとく高名な詩人たらんとする子規の気概の現れである。病臥の枕元に資料を多く置いて獺のようだといったわけである。 その他、随筆『筆まかせ』の「雅号」にて自身が54種類の号を用いていることを示し、さらに多くのペンネームが用いられているとされる。上述の「野球(のぼーる)」もこの中に含まれる。 喀血した自身をホトトギスになぞらえて子規と号したことに象徴されるように、子規の文学はその病と切っても切り離せないものであった。母八重の回想では、乳児の頃の子規は顔が異常に丸く、見苦しく、鼻も低かった。体質虚弱で背も低く、内向的だったことからよくいじめられていたという。子規が最初に喀血したのは、1888年(明治21年)8月の鎌倉旅行の最中であった。子規本人は、翌1889年(明治22年)4月の水戸への旅行を、旅行の半年後に病の原因と書いている。5月には大喀血をし、医師に肺結核と診断される。当時結核は不治の病とみなされており、この診断を受けたものは必然的に死を意識せざるを得なかった。このとき子規はホトトギスの句を作り、初めて子規の号を用いるようになった。 子規の病を大きく進行させたのは日清戦争への記者としての従軍であった。1895年(明治28年)5月、帰国途上の船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院。須磨で保養したあと松山に帰郷し、当時松山中学校に赴任していた親友・夏目漱石の下宿で静養した。この年10月に再上京する途上の頃より腰痛で歩行に困難をきたすようになり、当初はリューマチと考えていたが翌1896年(明治29年)、結核菌が脊椎を冒し脊椎カリエスを発症していると診断される。以後、床に伏す日が多くなり、数度の手術も受けたが病状は好転せず、やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになった。 歩行不能になったあとも折々は人力車で外出もしていたが、1899年(明治32年)夏頃以後は座ることさえ困難になった。この頃から子規は約3年間ほぼ寝たきりで、寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句・短歌・随筆を書き続け(一部は口述)、また病床を訪れた高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節ら後進の指導をし続けた。碧梧桐は、暑さに参る寝たきりの師匠に手動の扇風機を作ったと言われている。子規は、それを「風板」と名付け喜び、季語にならぬかと考えたとも言われている。 講談社は、1975年4月から『子規全集』(全25巻)の配本を始めるに際し、1974年7月からプロジェクトチーム「子規全集編集部」を作り、編集作業を開始した。このとき子規の俳句に「穢多」の語を使った句が5つあることが分かったため、1975年1月、編集担当者が大阪の部落解放同盟本部へ赴いて協議した。その結果、次の条件で折り合いがついた。 そして監修陣4人の中には、部落解放同盟に近い立場の詩人ぬやま・ひろし(西沢隆二)が加えられた。通常の監修料は有名人でも数万円が相場であるところ、部落解放同盟には巨額の監修料が支払われたといわれる。 講談社によるこの措置については、当時部落解放同盟による糾弾の嵐が吹き荒れていた中、糾弾の動きを事前に回避して「金で解決するならという大出版資本らしい発想」の存在を指摘する声もある。 短い生涯において俳句・短歌の改革運動を成し遂げた子規は、近現代文学における短詩型文学の方向を位置づけた改革者として高く評価されている。 俳句においてはいわゆる月並俳諧の陳腐を否定し、松尾芭蕉の詩情を高く評価する一方、江戸期の文献を漁って与謝蕪村のように忘れられていた俳人を発掘するなどの功績が見られる。またヨーロッパにおける19世紀自然主義の影響を受けて写生・写実による現実密着型の生活詠を主張したことが、俳句における新たな詩情を開拓するに至った。 その一方で、その俳論・実作においては以下のような課題も指摘されている。 などは近代俳句に大きな弊害を与えていると考える向きもある。 俳句における子規の後継者である高浜虚子は、子規の「写生」(写実)の主張も受け継いだが、それを「客観写生」から「花鳥諷詠」へと方向転換していった。これは子規による近代化と江戸俳諧への回帰を折衷させた主張であると見ることもできる。 短歌においては、子規の果たした役割は実作よりも歌論において大きい。当初、俳句に大いなる情熱を注いだ子規は、短歌についてはごく大まかな概論的批評を残す時間しか与えられていなかった。彼の著作のうち短歌に最も大きな影響を与えた『歌よみに与ふる書』がそれである。『歌よみに与ふる書』における歌論は俳句のそれと同様、写生・写実による現実密着型の生活詠の重視と『万葉集』の称揚と『古今集』の否定に重点が置かれている。特に『古今集』に対する全面否定には拒否感を示す文学者が多いが、明治という疾風怒涛の時代の落し子としてその主張は肯定できるものが多い。 子規の理論には文学を豊かに育てていく方向へは向かいにくい部分もあるという批判もあるが、「写生」は明治という近代主義とも重なった主張であった。今でも否定できない俳句観である。日本語散文の成立における、子規の果たした役割はすこぶる大きいとされる。 また、あまり知られていないが漢詩作者としても著名である。鈴木虎雄(陸羯南の娘婿で、子規とは新聞『日本』の同僚でもあった)が、子規の漢詩を漱石の漢詩よりも評価していたことを、弟子の吉川幸次郎が回想している。 森銑三は、明治期の優れた随筆家の中に正岡子規の名を挙げている。子規は俳人・歌人であったのみならず、文章家にして名随筆家であったという。加えて、「...奇文家としての子規など、全く度外視せられてゐるのではないかと思はれるが...」とした上で、子規の奇文には注目すべき文章がいくらでもあると述べ、その代表に「子規自撰の碑文」「闇汁図解」「柚味噌会」を挙げる。
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"自身の幼名である「升(のぼる)」に因んで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある。これは、中馬庚がベースボールを野球(やきゅう)と翻訳する4年前の1890年(明治23年)のことで、読み方こそ異なるが「野球」という表記を最初に用いた人物となる。ただしこれはベースボールに対する訳語ではなく、あくまで自身の雅号として使っていたものである。実際1896年(明治29年)7月27日付で新聞『日本』に掲載された随筆記事によると、", "title": "子規と野球" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "とあり、「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語に対して、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」という翻訳案を創作して提示しているが、ベースボールに対する訳語は提示されていない(野球も参照のこと)。その他「まり投げて見たき広場や春の草」「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす」など野球を題材とした句や歌を詠んだり、新海非風との連作で、日本初の野球小説と目される『山吹の一枝』を執筆するなど、文学を通じて野球の普及に貢献した。これらの功績が評価され、子規は2002年(平成14年)、野球殿堂入りを果たした。ちなみに子規の出身地である愛媛県には、子規の野球好きに因んで、野球資料館「の・ボールミュージアム」がオープンしている。", "title": "子規と野球" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "雅号の子規とはホトトギスの異称で、結核を病み喀血した自分自身を、鳴いて血を吐くといわれるホトトギスに喩えたものである。", "title": "雅号" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また別号として、獺祭書屋主人・竹の里人・香雲・地風升・越智処之助(おち ところのすけ)なども用いた。「獺祭書屋主人」の「獺」とは川獺のことである。これは『禮記』月令篇に見える「獺祭魚」なる一文を語源とする。かつて中国において、カワウソは捕らえた魚を並べてから食べる習性があり、その様はまるで人が祭祀を行い、天に供物を捧げるときのようであると信じられていた。「カワウソですら祭祀を行う、いわんや人間をや」というわけである。そして後世、唐代の大詩人である李商隠は尊敬する詩人の作品を短冊に書き、左右に並べ散らしながら詩想に耽ったため、短冊の並ぶさまを先の『禮記』の故事になぞらえ、自らを「獺祭魚庵」と號した。ここから「獺祭魚」には「書物の散らかるさま」という意味が転じる。「獺祭書屋主人」という號は単に「書物が散らかった部屋の主人」という意味ではなく、李商隠のごとく高名な詩人たらんとする子規の気概の現れである。病臥の枕元に資料を多く置いて獺のようだといったわけである。", "title": "雅号" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その他、随筆『筆まかせ』の「雅号」にて自身が54種類の号を用いていることを示し、さらに多くのペンネームが用いられているとされる。上述の「野球(のぼーる)」もこの中に含まれる。", "title": "雅号" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "喀血した自身をホトトギスになぞらえて子規と号したことに象徴されるように、子規の文学はその病と切っても切り離せないものであった。母八重の回想では、乳児の頃の子規は顔が異常に丸く、見苦しく、鼻も低かった。体質虚弱で背も低く、内向的だったことからよくいじめられていたという。子規が最初に喀血したのは、1888年(明治21年)8月の鎌倉旅行の最中であった。子規本人は、翌1889年(明治22年)4月の水戸への旅行を、旅行の半年後に病の原因と書いている。5月には大喀血をし、医師に肺結核と診断される。当時結核は不治の病とみなされており、この診断を受けたものは必然的に死を意識せざるを得なかった。このとき子規はホトトギスの句を作り、初めて子規の号を用いるようになった。", "title": "子規と病" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "子規の病を大きく進行させたのは日清戦争への記者としての従軍であった。1895年(明治28年)5月、帰国途上の船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院。須磨で保養したあと松山に帰郷し、当時松山中学校に赴任していた親友・夏目漱石の下宿で静養した。この年10月に再上京する途上の頃より腰痛で歩行に困難をきたすようになり、当初はリューマチと考えていたが翌1896年(明治29年)、結核菌が脊椎を冒し脊椎カリエスを発症していると診断される。以後、床に伏す日が多くなり、数度の手術も受けたが病状は好転せず、やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになった。", "title": "子規と病" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "歩行不能になったあとも折々は人力車で外出もしていたが、1899年(明治32年)夏頃以後は座ることさえ困難になった。この頃から子規は約3年間ほぼ寝たきりで、寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句・短歌・随筆を書き続け(一部は口述)、また病床を訪れた高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節ら後進の指導をし続けた。碧梧桐は、暑さに参る寝たきりの師匠に手動の扇風機を作ったと言われている。子規は、それを「風板」と名付け喜び、季語にならぬかと考えたとも言われている。", "title": "子規と病" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "講談社は、1975年4月から『子規全集』(全25巻)の配本を始めるに際し、1974年7月からプロジェクトチーム「子規全集編集部」を作り、編集作業を開始した。このとき子規の俳句に「穢多」の語を使った句が5つあることが分かったため、1975年1月、編集担当者が大阪の部落解放同盟本部へ赴いて協議した。その結果、次の条件で折り合いがついた。", "title": "講談社『子規全集』事件" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "そして監修陣4人の中には、部落解放同盟に近い立場の詩人ぬやま・ひろし(西沢隆二)が加えられた。通常の監修料は有名人でも数万円が相場であるところ、部落解放同盟には巨額の監修料が支払われたといわれる。", "title": "講談社『子規全集』事件" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "講談社によるこの措置については、当時部落解放同盟による糾弾の嵐が吹き荒れていた中、糾弾の動きを事前に回避して「金で解決するならという大出版資本らしい発想」の存在を指摘する声もある。", "title": "講談社『子規全集』事件" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "短い生涯において俳句・短歌の改革運動を成し遂げた子規は、近現代文学における短詩型文学の方向を位置づけた改革者として高く評価されている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "俳句においてはいわゆる月並俳諧の陳腐を否定し、松尾芭蕉の詩情を高く評価する一方、江戸期の文献を漁って与謝蕪村のように忘れられていた俳人を発掘するなどの功績が見られる。またヨーロッパにおける19世紀自然主義の影響を受けて写生・写実による現実密着型の生活詠を主張したことが、俳句における新たな詩情を開拓するに至った。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "その一方で、その俳論・実作においては以下のような課題も指摘されている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "などは近代俳句に大きな弊害を与えていると考える向きもある。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "俳句における子規の後継者である高浜虚子は、子規の「写生」(写実)の主張も受け継いだが、それを「客観写生」から「花鳥諷詠」へと方向転換していった。これは子規による近代化と江戸俳諧への回帰を折衷させた主張であると見ることもできる。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "短歌においては、子規の果たした役割は実作よりも歌論において大きい。当初、俳句に大いなる情熱を注いだ子規は、短歌についてはごく大まかな概論的批評を残す時間しか与えられていなかった。彼の著作のうち短歌に最も大きな影響を与えた『歌よみに与ふる書』がそれである。『歌よみに与ふる書』における歌論は俳句のそれと同様、写生・写実による現実密着型の生活詠の重視と『万葉集』の称揚と『古今集』の否定に重点が置かれている。特に『古今集』に対する全面否定には拒否感を示す文学者が多いが、明治という疾風怒涛の時代の落し子としてその主張は肯定できるものが多い。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "子規の理論には文学を豊かに育てていく方向へは向かいにくい部分もあるという批判もあるが、「写生」は明治という近代主義とも重なった主張であった。今でも否定できない俳句観である。日本語散文の成立における、子規の果たした役割はすこぶる大きいとされる。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また、あまり知られていないが漢詩作者としても著名である。鈴木虎雄(陸羯南の娘婿で、子規とは新聞『日本』の同僚でもあった)が、子規の漢詩を漱石の漢詩よりも評価していたことを、弟子の吉川幸次郎が回想している。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "森銑三は、明治期の優れた随筆家の中に正岡子規の名を挙げている。子規は俳人・歌人であったのみならず、文章家にして名随筆家であったという。加えて、「...奇文家としての子規など、全く度外視せられてゐるのではないかと思はれるが...」とした上で、子規の奇文には注目すべき文章がいくらでもあると述べ、その代表に「子規自撰の碑文」「闇汁図解」「柚味噌会」を挙げる。", "title": "評価" } ]
正岡 子規は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。子規は筆名で、本名は正岡 常規。幼名を処之助(ところのすけ)といい、後に升(のぼる)と改めた。 俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人である。
{{出典の明記|date=2011-02}} {{Infobox 作家 |name = 正岡 子規<br />{{small|まさおか しき}} |image = Masaoka Shiki.jpg |image_size = 200px |caption = <!--画像説明--> |pseudonym = <!--ペンネーム--> |birth_name = 正岡 處之助 |birth_date = [[1867年]][[10月14日]] |birth_place = {{JPN}} [[伊予国]][[温泉郡]]<br />(現:[[愛媛県]][[松山市]])<br />藤原新町 |death_date = {{死亡年月日と没年齢|1867|10|14|1902|9|19}} |death_place = {{JPN}}<br />[[東京市]][[下谷区]]<br />[[根岸 (台東区)|上根岸]] |resting_place = [[大龍寺 (東京都北区)|大龍寺]]([[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[田端 (東京都北区)|田端]]) |occupation = [[俳人]]、[[歌人]]、[[新聞記者]] |language = [[日本語]] |nationality = {{JPN}} |education = <!--受けた教育、習得した博士号など--> |alma_mater = [[東京大学|帝国大学]][[国文科]]中退 |period = [[1893年]] - [[1902年]] |genre = [[俳句]]、[[短歌]]、新体詩、[[小説]]、[[評論]]、[[随筆]] |subject = <!--全執筆対象、主題(ノンフィクション作家の場合)--> |movement = <!--作家に関連した、もしくは関わった文学運動--> |religion = <!--信仰する宗教--> |notable_works = 『[[歌よみに与ふる書]]』 |relations = <!--親族。その中に著名な人物がいれば記入する--> |influences = <!--影響を受けた作家名--> |influenced = <!--影響を与えた作家名--> |awards = <!--主な受賞歴--> |debut_works = <!--処女作--> |signature = <!--署名・サイン--> }} [[画像:Shiki Memorial Museum(Matsuyama City).JPG|275px|thumb|[[松山市]]にある[[子規記念博物館]]]] '''正岡 子規'''(まさおか しき、[[1867年]][[10月14日]]([[旧暦]][[慶応]]3年[[9月17日 (旧暦)|9月17日]])- [[1902年]]([[明治]]35年)[[9月19日]])<ref name=松山市立子規記念博物館/>は、[[日本]]の[[俳人]]、[[歌人]]、[[国語学]]研究家。子規は筆名で、本名は'''正岡 常規'''(まさおか つねのり)<ref name=松山市立子規記念博物館>[https://shiki-museum.com/masaokashiki/ 正岡子規について] 松山市立子規記念博物館(2023年11月25日閲覧)</ref>。[[幼名]]を處之助(ところのすけ)といい、後に升(のぼる)と改めた<ref name=子規庵/>。 [[俳句]]、[[短歌]]、[[新体詩]]、[[小説]]、[[評論]]、[[随筆]]など多方面にわたり創作活動を行い、日本の[[近代文学]]に多大な影響を及ぼした、明治を代表する[[文学者]]の一人である。 == 経歴 == [[伊予国]][[温泉郡]]藤原新町(現:[[愛媛県]][[松山市]]花園町)に生まれる<ref name=子規庵>[https://shikian.or.jp/about_siki/ 正岡子規について] 子規庵(2023年11月25日閲覧)</ref>。同地は[[伊予松山藩]]領で、父は藩士の正岡隼太常尚<ref name=子規庵/>(?〜1872年)、母の八重(1845〜1927年)は[[儒者|藩儒]][[大原観山]]の長女<ref name=子規庵/>で、長男であった。 [[1872年]](明治5年)、幼くして父が没したために[[家督]]を相続し、大原家と叔父の[[加藤恒忠]](拓川)の後見を受けた。外祖父である観山の[[私塾]]に通って[[四書|漢書]]の素読を習い、翌年には末広小学校に入学し、のちに勝山学校に転校。少年時代は[[漢詩]]や[[戯作]]、[[軍記物|軍談]]、書画などに親しみ、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いた。また[[自由民権運動]]の影響を受け{{efn|[[天田愚庵]]が自由民権の思想を伝えたという。[[松山市立子規記念博物館]]には「子規の国会開設に関する演説」という資料がある<ref>{{harv|中村政則|2010}}</ref>。}}、政談にも関心を熱中したという。 [[1880年]](明治13年)、旧制松山中学(現:[[愛媛県立松山東高等学校]])に入学。[[1883年]](明治16年)、同校を中退して上京し、漢文を学ぶため[[赤坂 (東京都港区)|赤坂丹後町]]の須田学舎や、受験英語のために共立学校(現:[[開成中学校・高等学校|開成中学・高校]])に入学。翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち[[第一高等学校 (旧制)|一高]]、現:[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|東大教養学部]])に入学し、常盤会寄宿舎に入った。[[1890年]](明治23年)、[[東京大学|帝国大学]]哲学科に進学したものの、文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。この頃から「子規」と号して句作を行う。 松山中と共立学校で同級だった[[秋山真之]](後に[[日露戦争]]時の[[連合艦隊]][[参謀]])とは、松山在住時からの友人であり、また共通の友人として[[勝田主計]]がいた。東大予備門では[[夏目漱石]]、[[南方熊楠]]、[[山田美妙]]らと同窓だった。 大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で[[1892年]](明治25年)に新聞『[[日本_(新聞)|日本]]』の記者となり、家族を呼び寄せて文芸活動の拠点とした。[[1893年]](明治26年)に「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始した。[[1894年]](明治27年)夏に[[日清戦争]]が勃発すると、翌[[1895年]](明治28年)4月、[[近衛師団]]つきの従軍記者として[[遼東半島]]に渡ったものの、上陸した2日後に[[下関条約]]が調印されたため、同年5月、[[第2軍 (日本軍)#日清戦争における第2軍|第2軍]]兵站部軍医部長の[[森鷗外|森林太郎]](鴎外)らに挨拶をして帰国の途についた{{efn|森鴎外などとの交際は、「遼東五友の交わり」と称された。その五友とは、鴎外、『新聞 日本』の[[中村不折]]、『読売新聞』の河東銓(かわひがし せん。俳人[[河東碧梧桐]]の兄)、[[久松定謨]]、子規の5人である<ref>[[佐谷眞木人]]『日清戦争』([[講談社現代新書]]、2009年)54頁</ref>。なお、子規と鴎外の交際は、没するまで続いた{{要出典|date=2018年8月|title=}}。}}。その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月、須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。喀血した(血を吐いた)ことから、「鳴いて血を吐く」{{efn|中国の故事「杜鵑の吐血」に因む。長江流域に(秦以前にあった)[[古蜀|蜀]]という傾いた国があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、[[長江]]の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身の[[ホトトギス]]は鋭く鳴くようになったという。また後に蜀が[[秦]]によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去(ゆ)くに如かず)と鳴きながら血を吐いた、と言い、ホトトギスのくちばしが赤いのはそのためだ、と言われるようになった。}}と言われている[[ホトトギス]]と自分を重ね合わせ、ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の[[俳号]]とした。俳句分類や[[与謝蕪村]]などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。 短歌([[和歌]])においても、「[[歌よみに与ふる書]]」を新聞『[[日本 (新聞)|日本]]』に連載。『[[古今和歌集|古今集]]』を否定して『[[万葉集]]』を高く評価して、[[江戸時代]]までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、[[根岸短歌会]]を主催して短歌の革新に努めた。根岸短歌会は、のちに[[伊藤左千夫]]、[[長塚節]]、[[岡麓]]らにより短歌[[結社]]『[[アララギ]]』へと発展していく。 やがて病に臥しつつ『[[病牀六尺]]』を書いた。これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録として、現在まで読まれている。同時期に病床で書かれた日記『[[仰臥漫録]]』の原本は、[[兵庫県]][[芦屋市]]の[[虚子記念文学館]]に収蔵されている。 1902年(明治35年)9月19日午前1時頃に息を引き取った<ref name=子規庵/>。21日の葬儀には150名以上が参列し<ref name=子規庵/>、生前に弟子へ遺言していた「静かな寺に葬ってほしい」という願いに合わせて、[[大龍寺 (東京都北区)|田端の大龍寺]]に埋葬され、現在も墓所がある<ref>[http://www.kanko.city.kita.tokyo.jp/spot/495-2/ 観光スポット ≫ 田端エリア ≫ 大龍寺] 東京都北区役所地域振興部(2023年11月25日閲覧)</ref>。[[戒名]]は子規居士<ref name=子規庵/>。 == 年譜 == ※日付は1872年までは旧暦 * [[1867年]](慶応3年)9月:[[伊予国]][[温泉郡]]藤原新町(現:[[愛媛県]][[松山市]]花園町)に松山藩士の[[正岡常尚]]の長男として生まれる。 * [[1868年]](明治元年):湊町新町に転居。 * [[1872年]](明治5年)4月:父が死去。 * [[1873年]](明治6年):[[寺子屋]]式の末広学校に通う。 * [[1875年]](明治8年) ** 1月:勝山学校(現:[[松山市立番町小学校]])へ転校。 ** 4月:祖父の観山が死去。土屋久明に漢学を学ぶ。 * [[1878年]](明治11年):初めて漢詩を作り、久明の添削を受ける。 * [[1879年]](明治12年)12月:勝山学校を卒業。 * [[1880年]](明治13年)3月:松山中学(現:[[愛媛県立松山東高等学校]])入学。 [[画像:Masaoka Shiki.jpg|300px|thumb|[[1883年]](明治16年)11月、[[東京府]][[新橋 (東京都港区)|新橋]]での記念写真。前列左より[[藤野古白]]、安長知之、正岡子規、後列左より[[三並良]]、太田正躬。]] * [[1883年]](明治16年) ** 5月:[[大学予備門]]受験のために松山中学を退学。 ** 6月:東京へ出る。 ** 10月:共立学校(現:[[開成中学校・高等学校|開成中学・高校]])入学。 * [[1884年]](明治17年)9月:東京大学予備門(のち[[第一高等学校 (旧制)|第一高等中学校]])へ入学。俳句を作り始める。 * [[1887年]](明治20年)7月:松山三津浜の宗匠、[[大原其戎]]を訪れ句稿を見せる。この年、其戎の主宰する『真砂の志良辺』に俳句が掲載される。 * [[1888年]](明治21年) ** 7月:第一高等中学校予科卒業。 ** 9月:本科へ進級、常磐会寄宿舎に入る。 * [[1889年]](明治22年) **4月3日 - :常磐会の友人と2人で、[[菊池謙二郎]]の実家のある水戸まで、徒歩旅行を行う<ref name="mito">国立国会図書館 デジタルコレクション 正岡子規 著 大正14 アルス『子規全集. 第8巻 (少年時代創作篇)』「水戸紀行」 info:ndljp/pid/978844 請求記号 520-9 書誌ID(国立国会図書館オンラインへのリンク)000000590499 DOI 10.11501/978844『水戸紀行』</ref>。 **5月:喀血。初めて「子規」と[[号 (称号)|号]]す。 * [[1890年]](明治23年) ** 7月:第一高等中学校本科卒業。 ** 9月:[[東京大学|帝国大学]]文科大学哲学科入学。 * [[1891年]](明治24年)1月:国文科に転科。 * [[1892年]](明治25年) **{{要出典|範囲=10月:退学|date=2021年11月}}。 ** 12月:[[日本新聞社]]に入社。 * [[1895年]](明治28年)4月:[[日清戦争]]に記者として従軍、その帰路に喀血。 * [[1896年]](明治29年)1月:現在の子規庵で句会。 * [[1898年]](明治31年)3月:子規庵で歌会。 * [[1900年]](明治33年)8月:大量の喀血。 * [[1902年]](明治35年)9月:死去。満34歳。東京都北区田端の大龍寺に眠る。 *:[[辞世の句]]「[[ヘチマ|糸瓜]]咲て[[痰]]のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」より、子規の忌日9月19日を「糸瓜忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。 == 人物 == * 英語が苦手だった。試験の際に[[カンニング]]をしたことがある。"judicature" の意味が分からなかった子規が隣の男に意味を聞いたところ、「ほうかん」と言われた。本当は「[[裁判官|法官]]」という意味だったが、「[[幇間]]」だと思って解答用紙に書いてしまった。ちなみに、子規はこの試験に合格したが、その「隣の男」は不合格になったという<ref>正岡子規 [{{NDLDC|2532407/45}} 『墨汁一滴』]春陽堂、1932年</ref>。 * 松山に漱石がいたときに[[鰻丼]]を奢ると言って、その代金を漱石に払わせた。 * 子規が東京帝国大学入学後に哲学専攻を辞めたのには理由がある。夏目漱石の親友<ref>[https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/2680_10233.html 処女作追懐談 夏目漱石] 青空文庫</ref><ref>[https://www.aozora.gr.jp/cards/000866/files/2928_20676.html 漱石と自分 狩野亨吉] 青空文庫</ref>に米山保三郎{{efn|明治2年1月金沢生まれ。明治26年東京帝国大学卒業後大学院在学中の明治30年3月29日腹膜炎で死亡。}}<ref>{{Cite journal|和書 |author=上田正行 |title=「哲学雑誌」と漱石 |url=https://hdl.handle.net/2297/5199 |journal=金沢大学文学部論集 文学科篇 |publisher=金沢大学 |date=1988-02 |issue=8 |pages=1-37 |naid=110000976302 |issn=02856530}}</ref><ref>『哲学雑誌』124号、125号</ref>がおり、会話をして驚嘆して諦めたという。「哲学というのはわけがわかんらんぞなもし。わしには手に負えん」と言ったという<ref>[[伊集院静]]「それがどうした 男たちの流儀」第264回『[[週刊現代]]』2015年5月23日号(講談社)pp.68-69</ref>。 * 本来、毎月や月ごとなどを意味する「月並み」という言葉が、「陳腐、平凡」という意味も含んだのは、正岡子規がありふれた俳句や短歌を「月並み調」と批判したことが始まりとされる。当時、和歌や発句は「月並み句会」と呼ばれる月例の句会で詠み合わせをすることが多かった。 * 同郷の言語学者・[[小川尚義]]は、松山中学、一高、帝大の後輩にあたり、一高時代から交友があった。小川が帝大を卒業した1896年7月に一時帰省する際、「十年の汗を道後のゆに洗へ」の句を贈った([[道後温泉]]「椿の湯」湯釜にも刻印されているが、そこでは「ゆ」が「温泉」となっている)。 * 「柿くへば…」の名句は、療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた漱石作「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の句への返礼の句である。なお、病床においてもいくつも食べるほど柿好きであり、夏目漱石に「柿」というあだ名をつけたこともある。 * 子規没後の正岡家が描かれる後日談的な作品に『[[ひとびとの跫音]]』がある。 == 子規と野球 == [[画像:Masaoka Shiki1889.jpg|200px|thumb|プレイヤー引退直前の1890年3月末に撮影された[[野球ユニフォーム|ベースボールユニフォーム]]姿の子規。1899年にこの写真を見ながら、「球と球をうつ木を手握りてシャツ着し見ればその時思ほぬ」との短歌をつけた。]] 子規は日本に[[野球]]が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、[[1889年]](明治22年)に喀血してやめるまで続けていた。ポジションは[[捕手]]であった。 子規の最良の理解者であった[[河東碧梧桐]]ですら、彼が他のスポーツには全く関心を示さなかったのに、ベースボールに限って夢中になったことについては理解できないという風に「変態現象」と呼んだほどであった<ref>[[#城井(1996年)|城井(1996年)]] pp.118-119</ref>。 [[1890年]][[5月17日]]の一高ベースボール会対明治学院白金倶楽部によるベースボールの試合で「[[インブリー事件]]」が起こった際の観客の一人でもあった。0-6と一高が大差をつけられた6回に事件が起こり、試合は中止となった。同年5月の『筆まかせ・第三のまき』に一高の負け方が見苦しい、と書き記している(注:十八日は誤記。十余程というのは実際の得点を意味しない)<ref>[[#城井(1996年)|城井(1996年)]] p.102</ref><ref>[[#君島(1972年)|君島(1972年)]] p.75</ref>。 {{quotation|''十八日学校と明治学院とのベースボール・マッチありと聞きて往きて観る。第四イニングの終りに学校は巳二十余程まけたり。其まけかた見苦しき至り也。折柄明治学院の教師、インブリー氏学校の垣をこえて入り来りしかば、校生大に怒り之を打擲し負傷せしめたり。明治学院のチャンピオンにも負傷ありければマッチは中止となりたり。''}} 自身の幼名である「升(のぼる)」に因んで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある<ref name="殿堂">[https://baseball-museum.or.jp/hall-of-famers/hof-144/ 殿堂入りリスト] 公益財団法人野球殿堂博物館(2020年10月13日閲覧)</ref>。これは、[[中馬庚]]がベースボールを野球(やきゅう)と翻訳する4年前の[[1890年]](明治23年)のことで、読み方こそ異なるが「野球」という表記を最初に用いた人物となる。ただしこれはベースボールに対する訳語ではなく、あくまで自身の雅号として使っていたものである。実際[[1896年]](明治29年)7月27日付で新聞『日本』に掲載された随筆記事によると<ref>正岡子規 [{{NDLDC|1109901/19}} 『香雪紫雲』]春陽堂、1932年</ref>、{{quotation|''ベースボール未だ曽て訳語あらず、今こゝに揚げたる訳語は吾の創意に係る。訳語妥当ならざるは自ら之を知るといえども匆卒の際改竄するに由なし。君子幸に正を賜え。''}}とあり、「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語に対して、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が[[遊撃手]]と表現する前の呼び名)」という翻訳案を創作して提示しているが、ベースボールに対する訳語は提示されていない([[野球#概説|野球]]も参照のこと)。その他「''まり投げて見たき広場や春の草''」「''九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす''」など野球を題材とした句や歌を詠んだり、新海非風との連作で、日本初の野球小説と目される『[[山吹の一枝]]』を執筆するなど、文学を通じて野球の普及に貢献した。これらの功績が評価され、子規は[[2002年]]([[平成]]14年)、[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入りを果たした<ref name="殿堂"/>。ちなみに子規の出身地である愛媛県には、子規の野球好きに因んで、野球資料館「の・ボールミュージアム」がオープンしている。 == 雅号 == 雅号の子規とは[[ホトトギス]]の異称で、[[結核]]を病み喀血した自分自身を、鳴いて血を吐くといわれるホトトギスに喩えたものである。 また別号として、獺祭書屋主人・竹の里人・香雲・地風升・越智処之助(おち ところのすけ)なども用いた。「[[獺祭]]書屋主人」の「獺」とは[[カワウソ|川獺]]のことである。これは『[[礼記|禮記]]』月令篇に見える「[[獺祭魚]]」なる一文を語源とする。かつて[[中国]]において、カワウソは捕らえた魚を並べてから食べる習性があり、その様はまるで人が祭祀を行い、天に供物を捧げるときのようであると信じられていた。「カワウソですら祭祀を行う、いわんや人間をや」というわけである。そして後世、唐代の大詩人である[[李商隠]]は尊敬する詩人の作品を[[短冊]]に書き、左右に並べ散らしながら詩想に耽ったため、短冊の並ぶさまを先の『禮記』の故事になぞらえ、自らを「獺祭魚庵」と號した。ここから「獺祭魚」には「書物の散らかるさま」という意味が転じる。「獺祭書屋主人」という號は単に「書物が散らかった部屋の主人」という意味ではなく、李商隠のごとく高名な詩人たらんとする子規の気概の現れである。病臥の枕元に資料を多く置いて獺のようだといったわけである。 その他、随筆『筆まかせ』の「雅号」にて自身が54種類の号を用いていることを示し{{efn|子規記念博物館の展示でも確認できる。}}、さらに多くのペンネームが用いられているとされる。上述の「野球(のぼーる)」もこの中に含まれる。 == 子規と病 == [[画像:Self-portrait of Masaoka Shiki, NDL.jpg|300px|thumb|子規が晩年の[[1900年]]に描いた自画像([[国立国会図書館]]所蔵)]] 喀血した自身をホトトギスになぞらえて子規と号したことに象徴されるように、子規の文学はその病と切っても切り離せないものであった。母八重の回想では、乳児の頃の子規は顔が異常に丸く、見苦しく、鼻も低かった。体質虚弱で背も低く、内向的だったことからよくいじめられていたという<ref>[[末延芳晴]]「従軍記者正岡子規」『[[愛媛新聞]]』2010年2月7日付。のち『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)。</ref>。子規が最初に喀血したのは、[[1888年]](明治21年)8月の鎌倉旅行の最中であった。子規本人は、翌[[1889年]](明治22年)4月の水戸への旅行を、旅行の半年後に病の原因と書いている<ref name="mito"/>。5月には大喀血をし、医師に肺結核と診断される。当時[[結核]]は不治の病とみなされており、この診断を受けたものは必然的に死を意識せざるを得なかった。このとき子規はホトトギスの句を作り、初めて子規の号を用いるようになった。 子規の病を大きく進行させたのは日清戦争への記者としての従軍であった。[[1895年]](明治28年)5月、帰国途上の船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院。須磨で保養したあと松山に帰郷し、当時松山中学校に赴任していた親友・夏目漱石の下宿で静養した。この年10月に再上京する途上の頃より腰痛で歩行に困難をきたすようになり、当初は[[リューマチ]]と考えていたが翌[[1896年]](明治29年)、[[結核菌]]が脊椎を冒し[[脊椎]][[カリエス]]を発症していると診断される。以後、床に伏す日が多くなり、数度の手術も受けたが病状は好転せず、やがて臀部や背中に穴があき[[膿]]が流れ出るようになった。 歩行不能になったあとも折々は[[人力車]]で外出もしていたが、[[1899年]](明治32年)夏頃以後は座ることさえ困難になった。この頃から子規は約3年間ほぼ寝たきりで、寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句・短歌・随筆を書き続け(一部は口述)、また病床を訪れた[[高浜虚子]]、[[河東碧梧桐]]、[[伊藤左千夫]]、[[長塚節]]ら後進の指導をし続けた。碧梧桐は、暑さに参る寝たきりの師匠に手動の扇風機を作ったと言われている。子規は、それを「風板」と名付け喜び、[[季語]]にならぬかと考えたとも言われている。 == 著名作 == [[画像:Shiki Masaoka stone monument is recognized as one of the symbols of Matsuyama-City.JPG|180px|thumb|松山を代表する俳句(JR松山駅前)]] ; 俳句 * ''[[柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺]]'' * ''松山や秋より高き天主閣'' * ''春や昔十五万石の城下哉'' * ''牡丹画いて絵の具は皿に残りけり'' * ''山吹も菜の花も咲く小庭哉'' * ''をとゝひのへちまの水も取らざりき'' * ''風呂敷をほどけば柿のころげけり'' * ''柿くふも今年ばかりと思ひけり'' * ''紫の蒲團に坐る春日かな'' * ''[[鶏頭の十四五本もありぬべし]]'' * ''赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり'' ; 短歌 * ''くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる'' * ''松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く'' * ''いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす'' * ''足たたば不尽の高嶺のいただきをいかづちなして踏み鳴らさましを'' * ''足たたば黄河の水をから渉り崋山の蓮の花剪らましを'' * ''足たたば北インヂヤのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを'' ;随想・日記 * 『[[墨汁一滴 (随筆)|墨汁一滴]]』(各 [[岩波文庫]]と同ワイド版) * 『[[病狀六尺]]』 * 『[[仰臥漫録]]』([[角川ソフィア文庫]]、2009年) :子規[[三部作]]とされ、一冊本が[[講談社学術文庫]]で刊行(1986年) ; 漢詩 :以下の文献は、近年の研究。 * 加藤国安『漢詩人子規 俳句開眼の土壌』([[研文出版]]、2006年) * 徐前『漱石と子規の漢詩 対比の視点から』([[明治書院]]、2005年) * 清水房雄『子規漢詩の周辺』(明治書院、1996年) * 飯田利行『海棠花 子規漢詩と漱石』([[柏書房]]、1991年ほか) == 系譜 == === 正岡家 === : 正岡子規家の[[系図]]は子規から遡って8代前まで分かっている。初代は[[戒名|法名]]以外は不明。寺路良久は[[今治市|今治]]の[[手代]]。寺路将重は今治波止浜の手代で、のちに正岡姓を名乗る。正岡常寅は[[風早郡]]の元締めであった。 [[画像:Masaoka Family.jpg|300px|thumb|忠三郎が養子となってまもない頃の写真。左より[[正岡律|律]](子規の妹)、忠三郎、八重(子規の母)。]] : 玄祖父・正岡常一は[[京都|京]]へ上がり[[千宗室]]に入門して[[茶道|茶人]]となる。子規は玄祖父・常一について「余が玄祖父は正岡一甫といふてお茶坊主の役をしたまひき。……[[翁]]が[[正月]]礼にまはる時には必ず一枝の寒梅を袖にして“のどかな[[春]]でございます”といひ給ひしとか。またかつて五右衛門風呂を[[木炭]]にてわかしその湯に入りて“[[薪]]にてわかせしとは入り心地が違う”といひ給ひしと。[[洒落]]の風、想ひ見るべし」と書いている<ref>『筆まかせ{{small|抄}}』95頁。</ref>。 : [[曽祖父]]の正岡常武は[[鎖鎌]]の名手であった。 : 父・正岡常尚は常武の孫[[養子縁組|養子]]で御馬廻の下級[[武士]]。子規は父・常尚について「父は[[武術]]にもたけ給はず。さりとて[[学問]]とてもし給はざりし如く見ゆ」と書いている<ref>『筆まかせ{{small|抄}}』97頁。</ref>。妹の[[正岡律|律]]は、叔父・[[加藤恒忠]]の三男・忠三郎を養子として正岡家を継がせた。{{clear}} <pre> 梅室道寒禅定門─良久─将重─常寅─常一─常武─常尚─常規─律─忠三郎 </pre> <pre> 正岡常尚 ┃ ┏正岡常規 ┣━━━┫ 加藤重孝━━大原有恒 ┃ ┗律 ┃ ┏八重 ┣━━┫ ┃ ┗加藤恒忠━━正岡忠三郎 歌原松陽━━━━重 ┃ ┏正岡浩 ┣━━━┫ ┃ ┗正岡明 野上俊夫━━━あや </pre> == 講談社『子規全集』事件 == [[講談社]]は、[[1975年]]4月から『子規全集』(全25巻)の配本を始めるに際し、[[1974年]]7月からプロジェクトチーム「子規全集編集部」を作り、編集作業を開始した<ref name="sabetsuyougo">『差別用語』(汐文社、1975年)pp.76-77</ref>。このとき子規の俳句に「[[穢多]]」の語を使った句が5つあることが分かったため、1975年1月、編集担当者が[[大阪]]の[[部落解放同盟]]本部へ赴いて協議した<ref name="sabetsuyougo" />。その結果、次の条件で折り合いがついた<ref name="sabetsuyougo" />。 * 部落解放同盟による監修を受け、監修料を支払うこと<ref name="sabetsuyougo" />。 * 第1回配本の「月報」パンフレットに部落解放同盟の主張を載せること<ref name="sabetsuyougo" />。 そして監修陣4人の中には、部落解放同盟に近い立場の詩人ぬやま・ひろし([[西沢隆二]])が加えられた<ref name="sabetsuyougo" />。通常の監修料は有名人でも数万円が相場であるところ、部落解放同盟には巨額の監修料が支払われたといわれる<ref name="sabetsuyougo" />。 講談社によるこの措置については、当時部落解放同盟による糾弾の嵐が吹き荒れていた中、糾弾の動きを事前に回避して「金で解決するならという大出版資本らしい発想」の存在を指摘する声もある<ref name="sabetsuyougo" />。 == 評価 == 短い生涯において俳句・短歌の改革運動を成し遂げた子規は、近現代文学における短詩型文学の方向を位置づけた改革者として高く評価されている。 俳句においてはいわゆる[[月並]]俳諧の陳腐を否定し、[[松尾芭蕉]]の詩情を高く評価する一方、江戸期の文献を漁って[[与謝蕪村]]のように忘れられていた俳人を発掘するなどの功績が見られる。また[[ヨーロッパ]]における19世紀[[自然主義]]の影響を受けて[[写生]]・[[写実]]による現実密着型の生活詠を主張したことが、俳句における新たな詩情を開拓するに至った。 その一方で、その俳論・実作においては以下のような課題も指摘されている{{誰2|date=2020年7月}}。 * [[俳諧]]における豊かな言葉遊びや修辞技巧を強く否定したこと。 * あまりに写生にこだわりすぎて句柄の大らかさや、昭和期に[[山本健吉]]が述べた「挨拶」の心を失ったこと。 * [[連句]](歌仙)にはきわめて低い評価しか与えず、[[発句]]のみをもって俳句の概念を作り上げたこと。 などは近代俳句に大きな弊害を与えていると考える向きもある{{誰2|date=2020年7月}}。 俳句における子規の後継者である[[高浜虚子]]は、子規の「写生」(写実)の主張も受け継いだが、それを「[[客観写生]]」から「[[花鳥諷詠]]」へと方向転換していった。これは子規による近代化と江戸俳諧への回帰を折衷させた主張であると見ることもできる{{誰2|date=2020年7月}}。 短歌においては、子規の果たした役割は実作よりも歌論において大きい<ref>復本一郎『歌よみ人正岡子規 病ひに死なじ歌に死ぬとも』(岩波現代全書、2014年)に詳しい。</ref>。当初、俳句に大いなる情熱を注いだ子規は、短歌についてはごく大まかな概論的批評を残す時間しか与えられていなかった。彼の著作のうち短歌に最も大きな影響を与えた『歌よみに与ふる書』がそれである。『歌よみに与ふる書』における歌論は俳句のそれと同様、写生・[[写実]]による現実密着型の生活詠の重視と『万葉集』の称揚と『古今集』の否定に重点が置かれている。特に『古今集』に対する全面否定には拒否感を示す文学者が多いが、明治という疾風怒涛の時代の落し子としてその主張は肯定できるものが多い{{誰2|date=2020年7月}}。 子規の理論には文学を豊かに育てていく方向へは向かいにくい部分もあるという批判もあるが、「写生」は明治という近代主義とも重なった主張であった。今でも否定できない俳句観である。日本語[[散文]]の成立における、子規の果たした役割はすこぶる大きいとされる<ref name="siba">司馬遼太郎『ひとびとの跫音』{{Full citation needed|date=2018-08-01|title=ページ番号も不明。}}</ref>。 また、あまり知られていないが漢詩作者としても著名である。[[鈴木虎雄]]([[陸羯南]]の娘婿で、子規とは新聞『日本』の同僚でもあった)が、子規の漢詩を漱石の漢詩よりも評価していたことを、弟子の[[吉川幸次郎]]が回想している。 [[森銑三]]は、明治期の優れた随筆家の中に正岡子規の名を挙げている。子規は俳人・歌人であったのみならず、文章家にして名随筆家であったという<ref>森銑三『森銑三著作集:続編 第六巻』(中央公論社、1993年、)226頁</ref>。加えて、「…奇文家としての子規など、全く度外視せられてゐるのではないかと思はれるが…」とした上で、子規の奇文には注目すべき文章がいくらでもあると述べ、その代表に「子規自撰の碑文」「闇汁図解」「柚味噌会」を挙げる<ref>森銑三『森銑三著作集:続編 第六巻』(中央公論社、1993年)238-241頁</ref>。 == 著作 == {{節スタブ}} === 近年 === * 『筆まかせ{{small|抄}}』(粟津則雄編、[[岩波文庫]]、1985年) * 『飯待つ間 {{small|正岡子規随筆選}}』([[阿部昭]]編、岩波文庫、1985年) * 『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』(岩波文庫、1983 - 1984年改版、ワイド版) * 岩波文庫で同時期に改版されたのは『子規句集』『子規歌集』『俳諧大要』『歌よみに与ふる書』『松蘿玉液』の計5冊。 * 他に『[[夏目漱石|漱石]]・子規往復書簡集』([[和田茂樹]]編、岩波文庫、2002年) * 『獺祭書屋俳話・芭蕉雑談』『子規紀行文集』(各 [[復本一郎]]編、岩波文庫、2016-2019年) * 『俳人[[与謝蕪村|蕪村]]』(講談社文芸文庫、1999年) * 『子規人生論集』(講談社文芸文庫、2001年) * 『正岡子規 [[高浜虚子]] 近代浪漫派文庫7』([[新学社]]文庫、2006年)- 旧かな版 * 『正岡子規 [[ちくま日本文学]] 040』([[筑摩書房]]、2009年) * 『俳句の出発』([[中村草田男]]編、[[みすず書房]]、2002年) * 『正岡子規集 {{small|[[新日本古典文学大系]]明治編27}}』([[中野三敏]]ほか編、[[岩波書店]]、2003年) * 『正岡子規 {{small|明治の文学第20巻}}』([[坪内祐三]]編集、[[筑摩書房]]、2001年) * 『子規全集』(全22巻別巻3、[[講談社]]、1979年完結)[[正岡忠三郎]]、[[司馬遼太郎]]、[[大岡昇平]]らで監修された。 * 『子規選集』(全15巻、[[増進会出版社]]・静岡、2001 - 2003年)[[大岡信]]、[[長谷川櫂]]、[[島田修二]]、[[佐佐木幸綱]]ほか編 * 『子規随筆 正続』沖積舎 2001年、新版2009年、合本の復刻版(初刊は日本叢書:[[吉川弘文館]]) == 評伝文献 == * [[柴田宵曲]]『評伝正岡子規』(岩波文庫、1986年6月。{{ISBN|4003110633}})解説・[[佐伯彰一]]、新版刊 ** 柴田宵曲『子規居士の周囲』(岩波文庫、2018年2月。{{ISBN|4003110668}})解説・小出昌洋 * [[粟津則雄]]『正岡子規』({{small|現代日本の評伝}} [[講談社文芸文庫]]、1995年9月。{{ISBN|4061963368}}) * [[長谷川櫂]]『子規の宇宙』([[角川学芸出版]]〈角川選書〉、2010年10月。{{ISBN|9784047034778}}) * 坪内稔典 『正岡子規の〈楽しむ力〉』([[日本放送出版協会]]〈[[生活人新書]]〉、2009年11月。{{ISBN|9784140883051}}) * [[坪内稔典]]『正岡子規:言葉と生きる』([[岩波新書]]、2010年12月。{{ISBN|4004312833}}) * [[山下一海]]『俳句で読む正岡子規の生涯』(永田書房、1992年3月。{{ISBN|4816106006}}) **『正岡子規』(「山下一海著作集」第8巻、おうふう、2016年11月。{{ISBN|9784273037185}}) * [[ドナルド・キーン]]『正岡子規』([[角地幸男]]訳、新潮社、2012年8月。{{ISBN|9784103317081}}/[[新潮文庫]]、2022年5月。{{ISBN|9784101313573}})、「著作集 第15巻」新潮社、2018年10月。{{ISBN|9784106471155}} * [[井上泰至]]『正岡子規:俳句あり則ち日本文学あり』([[ミネルヴァ書房]]〈[[ミネルヴァ日本評伝選|日本評伝選]]〉、2020年9月。{{ISBN|9784623090136}}) * [[久保田正文]]『正岡子規』(吉川弘文館〈[[人物叢書]]144〉1967年7月、新装版1986年7月。{{ISBN|4642050477}}) * [[復本一郎]]『正岡子規伝:わが心世にしのこらば』([[岩波書店]]、2021年12月。{{ISBN|9784000248334}}) ** 復本一郎『正岡子規:人生のことば』(岩波新書、2017年4月。{{ISBN|9784004316602}}) * [[土井中照]]『子規の生涯:そこが知りたい 同時代人の証言でたどる俳人・正岡子規』(アトラス出版、2006年10月。{{ISBN|4901108522}}) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=池井優|authorlink=池井優|title=白球太平洋を渡る―日米野球交流史|year=1976|publisher=[[中央公論社]]|isbn=978-4121004475|ref=池井(1976年)}} * {{Cite book|和書|author=城井睦夫|title=正岡子規―ベースボールに賭けたその生涯|year=1996|publisher=紅書房|isbn=978-4893810892|ref=城井(1996年)}} * {{Cite book|和書|author=君島一郎|authorlink=君島一郎 (銀行家)|title=日本野球創世記―創始時代と一高時代|year=1972|publisher=ベースボール・マガジン社|asin=B000J9MVMM|ref=君島(1972年)}} * {{Cite journal|和書|author=[[中村政則]]|year=2010|title=正岡子規と民権運動(百話百言)|journal=本郷|issue=90|page=1|publisher=[[吉川弘文館]]|ref=harv}} * 浦辺登『東京の片隅からみた近代日本』[[弦書房]]、2012年、ISBN 978-4863290723 == 関連項目 == {{Div col|cols=2}} * [[アララギ]] * [[ホトトギス]] - [[ホトトギス (雑誌)]] * [[政教社]] * [[愚陀仏庵]] * [[神戸文学館]] * [[子規堂]] * [[渋柿]] * [[俳句団体]] - [[日本派]] * [[俳句王国]] * [[正岡子規記念球場]] * [[市坪駅]] - [[松山中央公園野球場]](坊っちゃんスタジアム)および野球歴史資料館の最寄り駅であり、子規の号の一つである「の・ボール」の愛称が付されている。 * [[松山市立子規記念博物館]] * [[坂の上の雲]] - [[司馬遼太郎]]の歴史小説 ** [[坂の上の雲 (テレビドラマ)]] ** [[坂の上の雲ミュージアム]] ** [[ひとびとの跫音]] - 司馬の長編小説 * [[正岡子規国際俳句賞]] * [[奈良きたまち]] * [[子規の庭]] {{Div col end}} === 関連人物 === {{Div col|cols=3}} * [[秋山真之]] * [[夏目漱石]] * [[尾崎紅葉]] * [[勝田主計]] * [[小川尚義]] * [[陸羯南]] * [[中村不折]] * [[福本日南]] * [[鈴木虎雄]] * [[高浜虚子]] * [[河東碧梧桐]] * [[藤野古白]] * [[服部嘉香]] * [[寒川鼠骨]] * [[松根東洋城]] * [[久松定謨]] * [[森鷗外]] * [[伊藤左千夫]] * [[長塚節]] * [[香取秀真]] * [[岡麓]] * [[桃澤如水]] * [[阪本四方太]] * [[森山汀川]] * [[若尾瀾水]] * [[和田性海]] * [[南方熊楠]] * [[邦枝完二]] - 作家『小説 子規』 {{Div col end}} == 外部リンク == {{Wikiquote|正岡子規}} {{Commonscat|Masaoka Shiki}} * [https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/329/ 正岡子規 | 近代日本人の肖像] * [https://shiki-museum.com/ 松山市立子規記念博物館] * [https://www.shikian.or.jp/ 子規庵](財団法人 子規庵保存会)[[東京都]][[台東区]][[根岸 (台東区)|根岸]] * {{青空文庫著作者|305|正岡 子規}} * [https://web.archive.org/web/20170430000450/http://www.netwave.or.jp/rekishi/matsu/matsuyama.html 松山歴史文化道]([[四国歴史文化道]]) * 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満洲語
満洲語(満州語、まんしゅうご、満洲語: ᠮᠠᠨᠵᡠᡤᡳᠰᡠᠨ、転写:manju gisun)は、満洲民族が話すツングース諸語に属する言語。かつては清朝の公用語の一つで「清語」「国語」などと呼ばれた。 満洲族は中国の統計で、1千万人を超える人口を有する。しかし、一方で清代の長年にわたり、人口の上では圧倒的な少数派でありながら支配者として漢民族を含む中国全体に君臨した結果、満洲族の文化は中国文化と融合・同化していった。そして清が滅び、漢民族が主体の時代に入ると、その同化速度は加速していくこととなり、多くの固有の文化が失われていった。 満洲語もそのようにして失われていった文化の一つであり、清朝末期には、ほとんどの満洲族は満洲語を使用しなくなった。満洲語の話者は満洲族の間でも極めて少なく、2023年現在、消滅危険度が最も高い「極めて深刻」と評価されている消滅危機言語の一つである。2019年時点で、満洲語を母語とする者は15人ほどしかいないとされる(但し、満洲語と相互に意思疎通が可能とされ、満洲語の方言とされることもあるシベ語を含めば3万人ほど話者がいる)。 清朝では、民間の漢人による満洲語と満洲文字の習得が禁止されていた。漢人で満洲語と満洲文字を学ぶことを許されたのは、科挙合格者のうち第一等及び第二等を獲得し中央政治への参加を認められた者(状元・榜眼)のみであった。 満洲語は中国の歴史学者にとっては高い歴史的価値を有し、特に清朝の研究については、漢文の文献には表記されていない内容を提供することが可能である。漢文と共に併記されている場合は、それを理解するための補助言語になり得る。満洲語は限られた母音調和がみられる膠着語で、単語は主に女真語に対応することが実証されている。モンゴル語と中国語からの借用語が存在する。 満洲文字はアラム文字、ソグド文字、ウイグル文字、モンゴル文字などを親の文字体系とし、縦書き専用の文字で、行は左から右に進む。各文字は、語頭・語中・語尾により異なった字形を持つ。ᠠᠮᠠ (ama, 「父親」)、ᠠᡧᠠ (aša, 「叔父(母方の兄弟)」)、ᡝᠮᡝ (eme, 「母親」)、ᡝᡧᡝ (eše, 「叔母(母方の兄弟の妻)」)のように、母音の違いにより性別を区別することがある。満洲語版のネルチンスク条約では、「中国の書」を意味する ᡩ᠋ᡠ᠋ᠯᡳᠮᠪᠠᡳᡤᡠᡵᡠᠨ ᡳᠪᡳᡨ᠌ᡥᡝ (dulimbai gurun -i bithe)と表記される。 アイデンティティを維持すべく、清朝は旗人に向けて満洲語の授業と試験を行い、秀でた者を奨励した。漢文の儒学に関する書籍が満洲語に翻訳され、満洲語の文学は発展を遂げた。 満洲語の辞書を作ることも行われ、特に1787-94年(乾隆52-59)頃には乾隆帝の勅命により満洲語、チベット語、モンゴル語、ウイグル語(アラビア文字表記)、漢語に対応した辞書の「御製五体清文鑑」 (ᡥᠠᠨ ᡳᠠᡵᠠᡥᠠᠰᡠᠨᠵᠠᡥᠠᠴᡳᠨ ᡳᡥᡝᡵᡤᡝᠨᡴᠠᠮᠴᡳᡥᠠᠮᠠᠨᠵᡠᡤᡳᠰᡠᠨ ᡳᠪᡠᠯᡝᡴᡠᠪᡳᡨ᠌ᡥᡝhan-i araha sunja hacin-i hergen kamciha manju gisun-i buleku bithe) が編纂された。 イエズス会士も満洲語と満洲文字を習得し、フェルディナント・フェルビーストが康熙帝に天文学・数学・地理学を満洲語で講義を行った。漢文書籍でヨーロッパに紹介されたものは満洲語訳からフランス語に翻訳されたものが多く、ヨーロッパの科学知識も満洲語訳を介して漢文にされたものも多い。 しかし、旗人の間における満洲語の使用は、少なくとも18世紀、即ち乾隆帝の時代から減少する兆しがあった。記録によると、盛京(現: 遼寧省瀋陽)の筆帖式ゴルミン(果爾敏)は、乾隆帝が満洲語で話した内容を理解することができず、漢文で乾隆帝とコミュニケーションを取った。 清王朝中後期に至ると満洲族は徐々に漢語を使用するようになり、現在満洲語及び満洲文字を解す人は少ないとされている。しかし、21世紀に入るとインターネットが普及し、満洲語も僅かだが回復する兆しが見えた。 中華人民共和国の満洲族自治地域では消印や公文書、政府機関の標識などに満洲文字が漢字と併記されている。 21世紀初頭の中国では一部の学生の間にも満洲語が広まっており、部活やサークルなどが次々と生まれた。2005年10月1日にはハルピン工程大学で満洲-ツングース言語研究会が成立し、同年10月23日には当大学で初心者向けの第1期満洲語義務教育初級クラスが開講した。同年11月には黒竜江大学の趙阿平教授がハルピン工程大学にて満洲語の現状に関する学術報告を行った。2006年4月9日、第2期義務教育初級クラスが開講した。 2006年5月15日、東北農業大学で満洲語協会が成立し、同月27日に第1期満洲語義務教育初級クラスが開講した。 2008年6月、ハルピン市阿城区のハルピン科学技術職業学院が満洲語専門を生徒募集範囲内に置き、中国国内初の満洲語を学べる専門学校となった。第1期は生徒を30人募集する計画であった。 メディアの報道によると、2009年4月、ハルピン市香坊区莫力街村小学校が満洲語クラスを初めてから2年間で、生徒不足に陥ったという。 2010年6月、東北師範大学が満洲文字書法協会を設置、会員登録者数は70人、当大学の満洲文字クラスの学習者数は32人に登った。同年9月、吉林建築工程学院にて満洲語クラスが開講し、学習者は20人であった。吉林大学の学生が自発的に開設した満洲語のクラスには学習者が80人余りおり、長春市の民間人や吉林省社会科学院は満洲語のクラス及び満洲語の読書会を設けている。 定かでは無いが、2011年6月、中国大陸で満洲語使用者の人数は2000人を超えているとされている(シベ族を除く)。その中でも吉林省長春市と白山市には200人余りが満洲文字を解すことができる。学習者の人数は既に見積もることはできないとされている。 2011年2月、吉林省白山市満洲族学堂が18日にわたる満洲語の特訓を行い、吉林省と遼寧省の満洲族自治地方に満洲語の教師を提供した。その後、毎年の夏休みと冬休みに特訓クラスが開催されている。 2012年9月、「満族在線(満洲族オンライン)」サイトの会員が吉林省延吉市と天津市で満洲語のクラスを開設した。 現在、中国大陸では北京、瀋陽、長春、ハルピン、天津、西安、成都などで固定の時間帯で受講する満洲語のクラスが存在する。受講者の人数も少なくはない。 2012年12月、北京市索倫珠(ソロンジュ)満洲語文トレーニングセンター(中国語:索伦珠满语文培训中心)の協力のもとで、中国人民大学附属中学校が満洲語の部活を開始した。その後撫順第一中学校、北京大学附属中学校でも満洲語関連の部活や選択科目が設置された。 満洲語は、言語学的にはツングース諸語に分類される膠着語である。アルタイ語族があるとすればツングース語派に分類されることになる。シベ語、ナナイ語、ウリチ語、ウィルタ語と同じく南ツングース語群に属する。女真語とは対応する単語が多数存在し、近縁とされるが、親子関係にはない。 南北2つの方言があるとされる。 2021年現在、中国東北部(黒龍江省富裕県友誼ダウール族満洲族キルギス族郷三家子村など)で継承されている満洲語は、東音を主体として北音の影響を受けた変種である。 西音は北京にて消失した。南音は中国東北部では既に消滅したものの、新疆にてシベ語として継承されている。 以下に満洲文語の音韻を概観する(ローマ字はメレンドルフ方式による満洲文字の翻字である)。必要に応じて国際音声記号による補足説明を加える。 男性(陽性)母音・女性(陰性)母音・中性母音による母音調和が存在するが、厳格ではない。 音素の配列において以下のような特徴があり、それらの中には日本語と類似するものも少なくない。ただしrとlの区別がある。 満洲語の表記は、モンゴル文字を改良して作られた満洲文字を使う。一方でラテン文字転写も盛んに行われている。主な転写法にメレンドルフ式と漢語拼音式があり、違いは以下の通りである。 満洲語は類型論的に膠着語に分類され、語順は日本語と同じく「主語―補語―述語 (SOV)」の順である。修飾語は被修飾語の前に置かれる。 また、関係代名詞がなく代わりに動詞が連体形を取って名詞を修飾する。 さらに、動詞を活用する(動詞語幹に接尾辞を付ける)ことで、日本語で言う過去形や連用形と同じ働きを、動詞に持たせることができる。 例えば、動詞 ᡤᡝᠨᡝᠮᠪᡳ genembi(行く)の語幹 ᡤᡝᠨᡝ᠊ gene- に、過去を表す hV (Vは母音)をつけ ᡤᡝᠨᡝᡥᡝ gene-he とすると"行った"となる。大抵の場合、"hV"で過去を表せるが、例外もある。 ᡨᡠ᠋ᠴᡳᠮᠪᡳ tucimbi(出る), ᠵᠠᠯᠠᠮᠪᡳ jalambi(止める), ᠵᠣᠮᠪᡳ jombi(思い出す), ᠰᠠᠮᠪᡳ sambi(知る), ᠰᡝᠮᠪᡳ sembi(言う), ᡠᡴᠠᠮᠪᡳ ukambi(逃げる), ᠰᡠᠩᡴᡝ sumbi(脱ぐ)などには-kVを付け、其々ᡨᡠ᠋ᠴᡳᡴᡝ tucike (出た), ᠵᠠᠯᠠᡴᠠ jalaka (止めた), ᠵᠣᠩᡴᠣ jongko (思い出した), ᠰᠠᡥᠠ saha (知った), ᠰᡝᡥᡝ sehe (言った), ᡠᡴᠠᡴᠠ ukaka (逃げた), ᠰᡠᠩᡴᡝ sungke(脱いだ) とするのが一般的である。 満洲語の語彙には以下の特徴がある。
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"満洲語は中国の歴史学者にとっては高い歴史的価値を有し、特に清朝の研究については、漢文の文献には表記されていない内容を提供することが可能である。漢文と共に併記されている場合は、それを理解するための補助言語になり得る。満洲語は限られた母音調和がみられる膠着語で、単語は主に女真語に対応することが実証されている。モンゴル語と中国語からの借用語が存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "満洲文字はアラム文字、ソグド文字、ウイグル文字、モンゴル文字などを親の文字体系とし、縦書き専用の文字で、行は左から右に進む。各文字は、語頭・語中・語尾により異なった字形を持つ。ᠠᠮᠠ (ama, 「父親」)、ᠠᡧᠠ (aša, 「叔父(母方の兄弟)」)、ᡝᠮᡝ (eme, 「母親」)、ᡝᡧᡝ (eše, 「叔母(母方の兄弟の妻)」)のように、母音の違いにより性別を区別することがある。満洲語版のネルチンスク条約では、「中国の書」を意味する ᡩ᠋ᡠ᠋ᠯᡳᠮᠪᠠᡳᡤᡠᡵᡠᠨ ᡳᠪᡳᡨ᠌ᡥᡝ (dulimbai gurun -i bithe)と表記される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "アイデンティティを維持すべく、清朝は旗人に向けて満洲語の授業と試験を行い、秀でた者を奨励した。漢文の儒学に関する書籍が満洲語に翻訳され、満洲語の文学は発展を遂げた。 満洲語の辞書を作ることも行われ、特に1787-94年(乾隆52-59)頃には乾隆帝の勅命により満洲語、チベット語、モンゴル語、ウイグル語(アラビア文字表記)、漢語に対応した辞書の「御製五体清文鑑」 (ᡥᠠᠨ ᡳᠠᡵᠠᡥᠠᠰᡠᠨᠵᠠᡥᠠᠴᡳᠨ ᡳᡥᡝᡵᡤᡝᠨᡴᠠᠮᠴᡳᡥᠠᠮᠠᠨᠵᡠᡤᡳᠰᡠᠨ ᡳᠪᡠᠯᡝᡴᡠᠪᡳᡨ᠌ᡥᡝhan-i araha sunja hacin-i hergen kamciha manju gisun-i buleku bithe) が編纂された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": 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"title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2008年6月、ハルピン市阿城区のハルピン科学技術職業学院が満洲語専門を生徒募集範囲内に置き、中国国内初の満洲語を学べる専門学校となった。第1期は生徒を30人募集する計画であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "メディアの報道によると、2009年4月、ハルピン市香坊区莫力街村小学校が満洲語クラスを初めてから2年間で、生徒不足に陥ったという。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2010年6月、東北師範大学が満洲文字書法協会を設置、会員登録者数は70人、当大学の満洲文字クラスの学習者数は32人に登った。同年9月、吉林建築工程学院にて満洲語クラスが開講し、学習者は20人であった。吉林大学の学生が自発的に開設した満洲語のクラスには学習者が80人余りおり、長春市の民間人や吉林省社会科学院は満洲語のクラス及び満洲語の読書会を設けている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "定かでは無いが、2011年6月、中国大陸で満洲語使用者の人数は2000人を超えているとされている(シベ族を除く)。その中でも吉林省長春市と白山市には200人余りが満洲文字を解すことができる。学習者の人数は既に見積もることはできないとされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2011年2月、吉林省白山市満洲族学堂が18日にわたる満洲語の特訓を行い、吉林省と遼寧省の満洲族自治地方に満洲語の教師を提供した。その後、毎年の夏休みと冬休みに特訓クラスが開催されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2012年9月、「満族在線(満洲族オンライン)」サイトの会員が吉林省延吉市と天津市で満洲語のクラスを開設した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "現在、中国大陸では北京、瀋陽、長春、ハルピン、天津、西安、成都などで固定の時間帯で受講する満洲語のクラスが存在する。受講者の人数も少なくはない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2012年12月、北京市索倫珠(ソロンジュ)満洲語文トレーニングセンター(中国語:索伦珠满语文培训中心)の協力のもとで、中国人民大学附属中学校が満洲語の部活を開始した。その後撫順第一中学校、北京大学附属中学校でも満洲語関連の部活や選択科目が設置された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "満洲語は、言語学的にはツングース諸語に分類される膠着語である。アルタイ語族があるとすればツングース語派に分類されることになる。シベ語、ナナイ語、ウリチ語、ウィルタ語と同じく南ツングース語群に属する。女真語とは対応する単語が多数存在し、近縁とされるが、親子関係にはない。", "title": "系統" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "南北2つの方言があるとされる。", "title": "方言および変種" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2021年現在、中国東北部(黒龍江省富裕県友誼ダウール族満洲族キルギス族郷三家子村など)で継承されている満洲語は、東音を主体として北音の影響を受けた変種である。", "title": "方言および変種" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "西音は北京にて消失した。南音は中国東北部では既に消滅したものの、新疆にてシベ語として継承されている。", "title": "方言および変種" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "以下に満洲文語の音韻を概観する(ローマ字はメレンドルフ方式による満洲文字の翻字である)。必要に応じて国際音声記号による補足説明を加える。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "男性(陽性)母音・女性(陰性)母音・中性母音による母音調和が存在するが、厳格ではない。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "音素の配列において以下のような特徴があり、それらの中には日本語と類似するものも少なくない。ただしrとlの区別がある。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "満洲語の表記は、モンゴル文字を改良して作られた満洲文字を使う。一方でラテン文字転写も盛んに行われている。主な転写法にメレンドルフ式と漢語拼音式があり、違いは以下の通りである。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "満洲語は類型論的に膠着語に分類され、語順は日本語と同じく「主語―補語―述語 (SOV)」の順である。修飾語は被修飾語の前に置かれる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、関係代名詞がなく代わりに動詞が連体形を取って名詞を修飾する。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "さらに、動詞を活用する(動詞語幹に接尾辞を付ける)ことで、日本語で言う過去形や連用形と同じ働きを、動詞に持たせることができる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "例えば、動詞 ᡤᡝᠨᡝᠮᠪᡳ genembi(行く)の語幹 ᡤᡝᠨᡝ᠊ gene- に、過去を表す hV (Vは母音)をつけ ᡤᡝᠨᡝᡥᡝ gene-he とすると\"行った\"となる。大抵の場合、\"hV\"で過去を表せるが、例外もある。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ᡨᡠ᠋ᠴᡳᠮᠪᡳ tucimbi(出る), ᠵᠠᠯᠠᠮᠪᡳ jalambi(止める), ᠵᠣᠮᠪᡳ jombi(思い出す), ᠰᠠᠮᠪᡳ sambi(知る), ᠰᡝᠮᠪᡳ sembi(言う), ᡠᡴᠠᠮᠪᡳ ukambi(逃げる), ᠰᡠᠩᡴᡝ sumbi(脱ぐ)などには-kVを付け、其々ᡨᡠ᠋ᠴᡳᡴᡝ tucike (出た), ᠵᠠᠯᠠᡴᠠ jalaka (止めた), ᠵᠣᠩᡴᠣ jongko (思い出した), ᠰᠠᡥᠠ saha (知った), ᠰᡝᡥᡝ sehe (言った), ᡠᡴᠠᡴᠠ ukaka (逃げた), ᠰᡠᠩᡴᡝ sungke(脱いだ) とするのが一般的である。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "満洲語の語彙には以下の特徴がある。", "title": "語彙" } ]
満洲語は、満洲民族が話すツングース諸語に属する言語。かつては清朝の公用語の一つで「清語」「国語」などと呼ばれた。
{{otheruses|[[満洲族]]の話すツングース諸語の一種|[[満洲国]]の言語(満語)|[[中国語]][[東北官話]]}} {{複数の問題|出典の明記=2014年1月|独自研究=2014年1月}} {{表記揺れ案内|表記1=満洲語|表記2=滿洲語|表記3=満州語|議論ページ=[[プロジェクト‐ノート:中国#記事名に「満州」を含むページの改名提案|詳細]]}} {{特殊文字|説明=[[満洲文字]]}} {{Infobox Language |name=満洲語 |nativename={{ManchuSibeUnicode|lang=mnc|ᠮᠠᠨᠵᡠ<br />ᡤᡳᠰᡠᠨ}}<br />{{nobold|''manju gisun''}} |image=File:Sealeg25.png |imagecaption=[[満洲文字]]で書かれた 「{{ManchuSibeUnicode|ᡧᠠᠨᠶᠠᠨ<br>ᠠᠯᡳᠨ<br>ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ<br>ᠮᡠᡴᡝ<br>ᠰᡝᡴᡳᠶᡝᠨ<br>ᡤᠣᡵᠣ<br>ᡝᠶᡝᠨ<br>ᡤᠣᠯᠮᡳᠨ}}」 (šanyan alin sahaliyan muke sekiyen goro eyen golmin、[[長白山|白山]][[アムール川|黒水]]源遠流長)の印章 |states={{PRC}} |region=[[黒竜江省]] |ethnicity=[[File:A symbol of Manchu.svg|20px]] [[満洲族]] |speakers=10人(2015年)<ref>{{cite news| url=http://www.unesco.org/culture/languages-atlas/en/atlasmap/language-id-454.html | title=UNESCO Atlas of the World's Languages in Danger | date=27 October 2015}}</ref> |familycolor=アルタイ諸語 |fam1=[[ツングース語族]] |fam2=南ツングース語派 |fam3=満洲語群 |script=[[満洲文字]] |nation= |agency= |iso1=-- |iso2=mnc |iso3=mnc |glotto=manc1252 |glotto2=bala1242 |glotto3=jing1263 |glotto4=lali1241 |vitality=深刻 }} '''満洲語'''('''満州語'''、まんしゅうご、満洲語:{{MongolUnicode|ᠮᠠᠨᠵᡠ<br/>ᡤᡳᠰᡠᠨ}}、転写:manju gisun)は、[[満洲民族]]が話す[[ツングース諸語]]に属する[[言語]]。かつては[[清|清朝]]の公用語の一つで「清語」「国語」などと呼ばれた。 == 概要 == [[Image:Manchu chinese.jpg|thumb|right|[[紫禁城]]・乾清門の扁額。左が漢文(ピンイン:qián qīng mén)、右が満洲語({{ManchuSibeUnicode|ᡴᡳᠶᠠᠨ<br>ᠴᡳᠩ<br>ᠮᡝᠨ}}、ローマ字転写: kiyan cing men)]] [[Image:Dulimbai_gurun.svg|thumb|right|満洲語で表記された「中国」({{ManchuSibeUnicode|ᡩ᠋ᡠ᠋ᠯᡳᠮᠪᠠᡳ<br>ᡤᡠᡵᡠᠨ}}, dulimbai gurun, 「中央の国」の意)]] 満洲族は中国の統計で、1千万人を超える人口を有する{{Sfn|鋤田|2019|p=49}}。しかし、一方で[[清]]代の長年にわたり、人口の上では圧倒的な少数派でありながら支配者として[[漢民族]]を含む中国全体に君臨した結果、満洲族の文化は中国文化と融合・同化していった。そして清が滅び、漢民族が主体の時代に入ると、その同化速度は加速していくこととなり、多くの固有の文化が失われていった。 満洲語もそのようにして失われていった文化の一つであり、[[清|清朝]]末期には、ほとんどの満洲族は満洲語を使用しなくなった{{Sfn|鋤田|2019|p=58}}。満洲語の話者は満洲族の間でも極めて少なく、2023年現在、消滅危険度が最も高い'''「極めて深刻」'''と評価されている[[消滅危機言語]]の一つである<ref>現在の中国で識別されている「満族」のうち、満洲語を母語として話す(または話していた)ことが確認されているのは[[黒竜江省]]の農村部に分布するごく少数である。それ以外、特に都市部に居住する「満族」は中国語を母語としている。満洲語と満洲文字は清朝の第一公用語で行政言語であり[[清|清朝]]は満洲族に対し満洲語の学習をたびたび奨励したが、[[書記言語]]は公用文として使用されたものの、音声言語の使用は次第にすたれた。最後の[[皇帝 (中国)|皇帝]]であった[[愛新覚羅溥儀]]は幼少時にイクタン({{仮リンク|伊克坦|zh|伊克坦 (繙譯進士)}})という教師から満洲語を学んだが、習得できたのは、宮中儀礼の際、平伏しご機嫌伺いをした満洲人大臣に対し発する「イリ」(「ili」、立つを意味する「ilimbi」の命令形)のみだった。</ref>{{Sfn|鋤田|2019|pp=49-50}}。2019年時点で、満洲語を[[母語]]とする者は15人ほどしかいないとされる<ref>{{cite news |title=絵画・映像・音楽で魅せる世界 「アルル。」で金大偉さんの展示 |newspaper=[[タウンニュース社]] |date=2019-3-7|url=https://www.townnews.co.jp/0304/2019/03/07/472203.html|accessdate=2019-3-17}}</ref>(但し、満洲語と相互に意思疎通が可能とされ、満洲語の方言とされることもある[[シベ語]]を含めば3万人ほど話者がいる{{Sfn|鋤田|2019|p=50}})。 清朝では、民間の漢人による満洲語と[[満洲文字]]の習得が禁止されていた{{Sfn|鋤田|2019|p=51}}。漢人で満洲語と満洲文字を学ぶことを許されたのは、[[科挙]]合格者のうち第一等及び第二等を獲得し中央政治への参加を認められた者([[状元]]・[[榜眼]])のみであった。 満洲語は中国の歴史学者にとっては高い歴史的価値を有し、特に清朝の研究については、漢文の文献には表記されていない内容を提供することが可能である。漢文と共に併記されている場合は、それを理解するための補助言語になり得る<ref>{{Cite book|title=Essays on the sources for Chinese history|date=|year=1973|publisher=Canberra : Australian National University Press|pages=141-146|chapter=xv: Manchu Sources|editor=Donald D. Leslie, Colin Mackerras & Wang Gungwu|isbn=0708103987|author=|url=https://hdl.handle.net/1885/115137 |first=Fletcher|last=Joseph}}</ref>。満洲語は限られた母音調和がみられる膠着語で、単語は主に女真語に対応することが実証されている。モンゴル語と中国語からの借用語が存在する。 [[満洲文字]]は[[アラム文字]]、[[ソグド文字]]、[[ウイグル文字]]、[[モンゴル文字]]などを親の文字体系とし、[[縦書きと横書き|縦書き]]専用の文字で、行は左から右に進む。各文字は、語頭・語中・語尾により異なった字形を持つ。{{ManchuSibeUnicode|ᠠᠮᠠ}} (ama, 「父親」)、{{ManchuSibeUnicode|ᠠᡧᠠ}} (aša, 「叔父(母方の兄弟)」)、{{ManchuSibeUnicode|ᡝᠮᡝ}} (eme, 「母親」)、{{ManchuSibeUnicode|ᡝᡧᡝ}} (eše, 「叔母(母方の兄弟の妻)」)のように、母音の違いにより性別を区別することがある。満洲語版の[[ネルチンスク条約]]では、「中国の書」を意味する {{ManchuSibeUnicode|ᡩ᠋ᡠ᠋ᠯᡳᠮᠪᠠᡳ<br>ᡤᡠᡵᡠᠨ ‍ᡳ<br>ᠪᡳᡨ᠌ᡥᡝ}} (dulimbai gurun -i bithe)と表記される。 アイデンティティを維持すべく、清朝は[[旗人]]に向けて満洲語の授業と試験を行い、秀でた者を奨励した。[[漢文]]の儒学に関する書籍が満洲語に翻訳され、満洲語の文学は発展を遂げた。 満洲語の辞書を作ることも行われ、特に1787-94年(乾隆52-59)頃には乾隆帝の勅命により満洲語、[[チベット語]]、[[モンゴル語]]、[[ウイグル語]]([[アラビア文字]]表記)、漢語に対応した辞書の「御製五体清文鑑」 ({{ManchuSibeUnicode|ᡥᠠᠨ ‍ᡳ<br>ᠠᡵᠠᡥᠠ<br>ᠰᡠᠨᠵᠠ<br>ᡥᠠᠴᡳᠨ ‍ᡳ<br>ᡥᡝᡵᡤᡝᠨ<br>ᡴᠠᠮᠴᡳᡥᠠ<br>ᠮᠠᠨᠵᡠ<br>ᡤᡳᠰᡠᠨ ‍ᡳ<br>ᠪᡠᠯᡝᡴᡠ<br>ᠪᡳᡨ᠌ᡥᡝ}}han-i araha sunja hacin-i hergen kamciha manju gisun-i buleku bithe) が編纂された。 [[File:Yuzhi Wuti Qingwen Jian Tian.svg|thumb|200px|「御製五体清文鑑」の一部。上から満洲語、チベット語、チベット語の発音を満洲文字で示したもの、モンゴル語、ウイグル語(アラビア文字表記)、ウイグル語の発音を満洲文字で示したもの、漢文]] [[イエズス会]]士も満洲語と満洲文字を習得し、[[フェルディナント・フェルビースト]]が[[康熙帝]]に天文学・数学・地理学を満洲語で講義を行った。漢文書籍でヨーロッパに紹介されたものは満洲語訳から[[フランス語]]に翻訳されたものが多く、ヨーロッパの科学知識も満洲語訳を介して漢文にされたものも多い。 しかし、旗人の間における満洲語の使用は、少なくとも18世紀、即ち乾隆帝の時代から減少する兆しがあった。記録によると、盛京(現: [[遼寧省]][[瀋陽]])の筆帖式ゴルミン(果爾敏)は、乾隆帝が満洲語で話した内容を理解することができず、漢文で乾隆帝とコミュニケーションを取った。 清王朝中後期に至ると満洲族は徐々に[[中国語|漢語]]を使用するようになり、現在満洲語及び満洲文字を解す人は少ないとされている。しかし、21世紀に入るとインターネットが普及し、満洲語も僅かだが回復する兆しが見えた。 [[中華人民共和国]]の満洲族自治地域では消印や公文書、政府機関の標識などに満洲文字が[[漢字]]と併記されている。 21世紀初頭の中国では一部の学生の間にも満洲語が広まっており、部活やサークルなどが次々と生まれた。2005年10月1日には[[ハルピン工程大学]]で満洲-[[ツングース諸語|ツングース]]言語研究会が成立し、同年10月23日には当大学で初心者向けの第1期満洲語義務教育初級クラスが開講した。同年11月には[[黒竜江大学]]の趙阿平教授がハルピン工程大学にて満洲語の現状に関する学術報告を行った。2006年4月9日、第2期義務教育初級クラスが開講した。 2006年5月15日、[[東北農業大学]]で満洲語協会が成立し、同月27日に第1期満洲語義務教育初級クラスが開講した。 2008年6月、ハルピン市[[阿城区]]のハルピン科学技術職業学院が満洲語専門を生徒募集範囲内に置き、中国国内初の満洲語を学べる専門学校となった。第1期は生徒を30人募集する計画であった。 メディアの報道によると、2009年4月、ハルピン市[[香坊区]]莫力街村小学校が満洲語クラスを初めてから2年間で、生徒不足に陥ったという。 2010年6月、[[東北師範大学]]が満洲文字書法協会を設置、会員登録者数は70人、当大学の満洲文字クラスの学習者数は32人に登った。同年9月、吉林建築工程学院にて満洲語クラスが開講し、学習者は20人であった。吉林大学の学生が自発的に開設した満洲語のクラスには学習者が80人余りおり、長春市の民間人や[[吉林省]]社会科学院は満洲語のクラス及び満洲語の読書会を設けている。 定かでは無いが、2011年6月、中国大陸で満洲語使用者の人数は2000人を超えているとされている(シベ族を除く)。その中でも吉林省[[長春市]]と[[白山市 (吉林省)|白山市]]には200人余りが満洲文字を解すことができる。学習者の人数は既に見積もることはできないとされている。 2011年2月、吉林省白山市満洲族学堂が18日にわたる満洲語の特訓を行い、吉林省と遼寧省の満洲族自治地方に満洲語の教師を提供した。その後、毎年の夏休みと冬休みに特訓クラスが開催されている。 2012年9月、「満族在線(満洲族オンライン)」サイトの会員が吉林省[[延吉市]]と[[天津市]]で満洲語のクラスを開設した。 現在、中国大陸では[[北京]]、[[瀋陽]]、長春、ハルピン、天津、[[西安]]、[[成都]]などで固定の時間帯で受講する満洲語のクラスが存在する。受講者の人数も少なくはない。 2012年12月、北京市索倫珠(ソロンジュ)満洲語文トレーニングセンター(中国語:索伦珠满语文培训中心)の協力のもとで、[[中国人民大学]]附属中学校が満洲語の部活を開始した。その後[[撫順]]第一中学校、[[北京大学]]附属中学校でも満洲語関連の部活や選択科目が設置された。 == 系統 == 満洲語は、言語学的には[[ツングース諸語]]に分類される[[膠着語]]である。[[アルタイ諸語|アルタイ語族]]があるとすれば[[ツングース語派]]に分類されることになる{{Sfn|鋤田|2019|p=47}}。[[シベ語]]、[[ナナイ語]]、[[ウリチ語]]、[[ウィルタ語]]と同じく南ツングース語群に属する。[[女真語]]とは対応する単語が多数存在し、近縁とされるが、親子関係にはない。 == 方言および変種 == 南北2つの方言があるとされる。 === 北部方言 === * 北音:[[アムール川|黒龍江]]一帯の方言。 * 東音:[[寧古塔]]を中心に東は[[日本海]]に至る地域の方言。 2021年現在、[[中国東北部]]([[黒龍江省]][[富裕県]]友誼[[ダウール族]]満洲族[[ハカス人|キルギス族]]郷三家子村など)で継承されている満洲語は、東音を主体として北音の影響を受けた変種である。 === 南部方言 === * 南音:[[長白山]]一帯の方言。盛京([[瀋陽]])でも話されていた方言であり、この方言([[女真語]]建州方言)を基に満洲語文語(満洲文字)が作られた。 * 西音:入関(清の中原支配開始)後、北京で話されていた方言。「京語」ともいう。南音を基盤に北音と東音の影響を受けて成立した。 西音は北京にて消失した。南音は中国東北部では既に消滅したものの、[[新疆]]にて[[シベ語]]として継承されている。 == 音韻 == 以下に満洲文語の音韻を概観する(ローマ字は[[パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ|メレンドルフ]]方式による満洲文字の翻字である)。必要に応じて[[国際音声記号]]による補足説明を加える。 === 母音 === ==== 単母音 ==== * 以下の7つがある。 {| class="wikitable" |+ !文字 !IPA !位置及び備考 |- | rowspan="3" |a |{{IPA|ɑ}} |大部分 |- |{{IPA|a}} |t,d,n,l,mの前 |- |{{IPA|ɛ}} |[[口蓋化]]子音の後 |- | rowspan="3" |e |{{IPA|ɤ}} |大部分(現代[[中国語]]と同じ) |- |{{IPA|ə}} |アクセントのない音節の場合 |- |{{IPA|e}} |口蓋化子音の後 |- |i |[i] | |- | rowspan="2" |o |{{IPA|ɔ}} | |- |{{IPA|o}} |アクセントのない音節と語頭は{{IPA|o}}になることがある |- |u |{{IPA|u}} |円唇 |- |ū |{{IPA|ʊ}} |通常g, k, hの直後にのみ現れ、{{IPA|ʊ}}のような音であるとみられる |- |ioi |{{IPA|y}} |{{IPA|y}}のような音であるとみられる(外来音) |} * ==== 二重母音 ==== {| class="wikitable" |+ ! !文字 !IPA !備考 |- | rowspan="5" | -i系統 |ai | | |- |ei | | |- |oi | | |- |ui | | |- |ūi | | |- | rowspan="4" | -o系統 |ao |{{IPA|ɑu}} | |- |eo |{{IPA|ɤu}} | |- |io |{{IPA|iu}} | |- |oo | |ooはoの長母音ではなくむしろaoに近く発音 |} * ==== 母音調和 ==== 男性(陽性)母音・女性(陰性)母音・中性母音による[[母音調和]]が存在するが、厳格ではない。 {| class="wikitable" !男性母音 |a, o, ū |- !女性母音 |e |- !中性母音 |i, u |} === 子音 === {| class="wikitable" ! !唇音 !歯茎音 !後部歯茎音 !そり舌音 !硬口蓋音 !軟口蓋音 ![[口蓋垂音]] |- !鼻音 |m[m] |n[n] | | | |ng[ŋ] | |- !破裂音 |p[p], b[b] |t[t], d[d] |c[tʃ], j[dʒ] | | |k[k], g[ɡ] |k[q], g[ɢ] |- !破擦音 | |(ts[ts], dz[dz]) | | | | | |- !摩擦音 |f[f] |s[s] |š[ʃ] |(ž[ʐ]) | |h[x] |h[χ] |- !震え音 | |r[r] | | | | | |- !側面音 | |l[l] | | | | | |- !接近音(半母音) |w[w] | | | |y[j] | | |} * p―bなど無声・有声の対立は、かつて有気・無気({{ipa|pʰ}}―{{ipa|p}}など)の対立だったという見方もある。 * sは{{IPA|s}}であるがiの直前でのみ{{IPA|ʃ}}であった。 * c, jは硬口蓋破擦音{{IPA|ʧ, ʤ}}であった。 * šは{{IPA|ʃ}}であるがiの直前でのみ{{IPA|ʂ}}であった。šiは固有の満洲語にはなく、漢文を音訳する際に用いる。 * k, g, hは男性母音a, o, ūの直前では口蓋垂音{{IPA|q, ɢ, χ}}、女性母音・中性母音e, u, iの直前では軟口蓋音{{IPA|k, ɡ, x}}であったと見られる。 * ngはnとgの2音ではなく軟口蓋鼻音{{IPA|ŋ}}を表す。 * ts, dz, žは中国語を音訳するときに用いる。 === 音素配列上の特徴 === 音素の配列において以下のような特徴があり、それらの中には日本語と類似するものも少なくない。ただしrとlの区別がある。 * wの直後にはa, e以外の母音が来ない。 * 借用語を除いてt, dの直後にはiが来ない。 * yの直後には母音iが来ない。{{要出典|またこの特色は[[普通話]]にも影響を与えており、[[拼音]]では母音iで始まる単語には発音されないyを付けて表記される。|date=2021年1月25日}} * ūは通常k, g, hの直後にのみ来うる。 * 固有語においてrは語頭に立たない。 * ngは音節頭に立たない。語中のngはk, gの直前にのみ現れる。 * 音節末に立ちうる[[子音]]はb, m, t, n, r, l, s, k, ngである。 * 語末に来うる子音はnのみである(ただし外来語はこの限りでない)。 * 通常、音節頭あるいは音節末に子音が連続しない(ただし、音節末子音と音節頭子音が連続することはありうる)。 == 表記 == 満洲語の表記は、[[モンゴル文字]]を改良して作られた[[満洲文字]]を使う{{Sfn|鋤田|2019|p=48}}。一方で[[ラテン文字]]転写も盛んに行われている。主な転写法に[[パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ|メレンドルフ]]式と漢語[[拼音]]式があり、違いは以下の通りである。 {| class="wikitable" !音素 !メレンドルフ式 !漢語拼音式 |- |{{IPA|ʊ}} |ū |v |- |[ʃ] |š |x |- |[tʃ] |c |q |- |[ts] |ts |c |- |[dz] |dz |z |- |[ʐ] |ž |ŕ |- |[y] |ioi |iui |- |二重母音 |ao,eo,io,oo |au,eu,iu,ou |} == 文法 == 満洲語は類型論的に[[膠着語]]に分類され、語順は[[日本語]]と同じく「主語―補語―述語 (SOV)」の順である。修飾語は被修飾語の前に置かれる。 {| border="0" |&nbsp;&nbsp;&nbsp; | align="center" |<u>&nbsp;si&nbsp;</u> |&nbsp; | align="center" nowrap |<u>manju</u> &nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;<u>bithe</u>&nbsp;&nbsp;&nbsp; |&nbsp; | align="center" |<u>tacimbi</u>. |&nbsp; |(汝は満洲の書を学ぶ) |- |&nbsp; | align="center" valign="top" |主語 |&nbsp; | align="center" nowrap |<u>修飾語&nbsp;&nbsp;被修飾語</u><br>補&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 語 |&nbsp; | align="center" valign="top" |述語 | | |} また、関係代名詞がなく代わりに[[動詞]]が[[連体形]]を取って名詞を修飾する。 {| border="0" |&nbsp;&nbsp;&nbsp; | align="center" |<u>soktoho</u> |&nbsp; | align="center" |<u>niyalma</u> |&nbsp; |(酔った人) |- |&nbsp;&nbsp;&nbsp; | align="center" |連体形 |&nbsp; | align="center" |名詞 | | |} さらに、動詞を活用する(動詞語幹に接尾辞を付ける)ことで、日本語で言う過去形や連用形と同じ働きを、動詞に持たせることができる。 例えば、動詞 {{ManchuSibeUnicode|ᡤᡝᠨᡝᠮᠪᡳ}} genembi(行く)の語幹 {{ManchuSibeUnicode|ᡤᡝᠨᡝ᠊}} gene- に、過去を表す hV (Vは母音)をつけ {{ManchuSibeUnicode|ᡤᡝᠨᡝᡥᡝ}} gene-he とすると"行った"となる。大抵の場合、"hV"で過去を表せるが、例外もある。 {{ManchuSibeUnicode|ᡨᡠ᠋ᠴᡳᠮᠪᡳ}} tucimbi(出る), {{ManchuSibeUnicode|ᠵᠠᠯᠠᠮᠪᡳ}} jalambi(止める), {{ManchuSibeUnicode|ᠵᠣᠮᠪᡳ}} jombi(思い出す), {{ManchuSibeUnicode|ᠰᠠᠮᠪᡳ}} sambi(知る), {{ManchuSibeUnicode|ᠰᡝᠮᠪᡳ}} sembi(言う), {{ManchuSibeUnicode|ᡠᡴᠠᠮᠪᡳ}} ukambi(逃げる), {{ManchuSibeUnicode|ᠰᡠᠩᡴᡝ}} sumbi(脱ぐ)などには-kVを付け、其々{{ManchuSibeUnicode|ᡨᡠ᠋ᠴᡳᡴᡝ}} tucike (出た), {{ManchuSibeUnicode|ᠵᠠᠯᠠᡴᠠ}} jalaka (止めた), {{ManchuSibeUnicode|ᠵᠣᠩᡴᠣ}} jongko (思い出した), {{ManchuSibeUnicode|ᠰᠠᡥᠠ}} saha (知った), {{ManchuSibeUnicode|ᠰᡝᡥᡝ}} sehe (言った), {{ManchuSibeUnicode|ᡠᡴᠠᡴᠠ}} ukaka (逃げた), {{ManchuSibeUnicode|ᠰᡠᠩᡴᡝ}} sungke(脱いだ) とするのが一般的である。 *{{ManchuSibeUnicode|ᡨᡝ᠋ᡵᡝ<br>ᠰᠠᡵᡤᠠᠨ<br>ᠵᡠᡳ<br>ᡥᠣᡨ᠋ᠣᠨ<br>ᡩ᠋ᡝ᠋<br>ᡤᡝᠨᡝᡥᡝ᠉}} tere sargan jui hoton de gene-he.(その娘は町へ行った) *{{ManchuSibeUnicode|ᡨᡝ᠋᠋ᡵᡝ<br>ᠰᠠᡵᡤᠠᠨ<br>ᠵᡠᡳ<br>ᠪᠣᠣ<br>ᠴᡳ<br>ᡨᡠ᠋ᠴᡳᡴᡝ᠉}} tere sargan jui boo ci tuci-ke.(その娘は家から出た) *{{ManchuSibeUnicode|ᡨᡝ᠋ᡵᡝ<br>ᠰᠠᡵᡤᠠᠨ<br>ᠵᡠᡳ<br>ᠪᠣᠣ<br>ᠴᡳ<br>ᡨᡠ᠋ᠴᡳᠮᡝ᠈<br>ᡥᠣᡨ᠋ᠣᠨ<br>ᡩ᠋ᡝ᠋<br>ᡤᡝᠨᡝᡥᡝ᠉}} tere sargan jui boo ci tuci-me, hoton de gene+he.(その娘は家から出て、町へ行った) *{{ManchuSibeUnicode|ᡨᡝ᠋ᡵᡝ<br>ᠰᠠᡵᡤᠠᠨ<br>ᠵᡠᡳ<br>ᠪᠣᠣ<br>ᠴᡳ<br>ᡨᡠ᠋ᠴᡳᡶ᠋ᡳ᠈<br>ᡥᠣᡨ᠋ᠣᠨ<br>ᡩ᠋ᡝ᠋<br>ᡤᡝᠨᡝᡥᡝ᠉}} tere sargan jui boo ci tuci-fi, hoton de gene+he.(その娘は家から出た後、町へ行った) *{{ManchuSibeUnicode|ᡨᡝ᠋ᡵᡝ<br>ᠰᠠᡵᡤᠠᠨ<br>ᠵᡠᡳ<br>ᠪᠣᠣ<br>ᠴᡳ<br>ᡨᡠ᠋ᠴᡳᠴᡳᠪᡝ᠈<br>ᡥᠣᡨ᠋ᠣᠨ<br>ᡩ᠋ᡝ᠋<br>ᡤᡝᠨᡝᡥᡝ᠉}} tere sargan jui boo ci tuci-cibe, hoton de gene+he.(あの娘は家から出たが、町へ行った) *体言の[[曲用]]は語幹の後ろに膠着的な語尾(助詞)が付くことによって表される。体言の格は主格(語尾なし)・属格 ({{ManchuSibeUnicode| ‍ᡳ}} -i/ {{ManchuSibeUnicode| ᠨᡳ}} -ni)・対格 ({{ManchuSibeUnicode|ᠪᡝ}} -be)・与位格 ({{ManchuSibeUnicode|ᡩ᠋ᡝ᠋}} -de)・具格 ({{ManchuSibeUnicode| ‍ᡳ}} -i/ {{ManchuSibeUnicode| ᠨᡳ}} -ni)・奪格 ({{ManchuSibeUnicode|ᠴᡳ}} -ci)・沿格 ({{ManchuSibeUnicode|ᡩ᠋ᡝ᠋ᡵᡳ}} -deri) がある。終格 ({{ManchuSibeUnicode|᠊ᡨ᠋ᠠᠯᠠ}} -tala/{{ManchuSibeUnicode|᠊ᡨᡝ᠋ᠯᡝ}} -tele/{{ManchuSibeUnicode|᠊ᡨ᠋ᠣᠯᠣ}} -tolo) を認める場合もある。 *人称代名詞には1人称単数 {{ManchuSibeUnicode|ᠪᡳ}} bi、1人称複数 {{ManchuSibeUnicode|ᠪᡝ}} be および {{ManchuSibeUnicode|ᠮᡠᠰᡝ}} muse、2人称単数 {{ManchuSibeUnicode|ᠰᡳ}} si、2人称複数 {{ManchuSibeUnicode|ᠰᡠᠸᡝ}} suwe、3人称単数 {{ManchuSibeUnicode|ᡳ}} i、3人称複数 {{ManchuSibeUnicode|ᠴᡝ}} ce がある。1人称複数 be は聞き手を除外した形、muse は聞き手を含めた形である。 *指示詞は近称と遠称の2系列からなる。{{ManchuSibeUnicode|ᡝᡵᡝ}} ere(これ)― {{ManchuSibeUnicode|ᡨᡝ᠋ᡵᡝ}} tere(それ)、{{ManchuSibeUnicode|ᡠᠪᠠ}} uba(ここ)― {{ManchuSibeUnicode|ᡨᡠ᠋ᠪᠠ}} tuba(そこ)、{{ManchuSibeUnicode|ᡝᠨ᠋ᡨᡝ᠋ᡴᡝ}} enteke(こんな)― {{ManchuSibeUnicode|ᡨᡝ᠋ᠨ᠋ᡨᡝ᠋ᡴᡝ}} tenteke(そんな)、{{ManchuSibeUnicode|ᡠᡨ᠌ᡨᡠ᠋}} uttu(このように)― {{ManchuSibeUnicode|ᡨᡠ᠋ᡨ᠌ᡨᡠ᠋}} tuttu(そのように)などがある。 *疑問詞には {{ManchuSibeUnicode|ᠸᡝ}} we(誰)、{{ManchuSibeUnicode|ᠶᠠ}} ya(どれ、誰)、{{ManchuSibeUnicode|ᠠᡳ}} ai(何)、{{ManchuSibeUnicode|ᠠᡳ᠌ᠪᠠ}} aiba(どこ)、{{ManchuSibeUnicode|ᠶᠠᠪᠠ}} yaba(どこ)、 {{ManchuSibeUnicode|ᠠᠨ᠋ᡨ᠋ᠠᡴᠠ}} antaka(どう)、{{ManchuSibeUnicode|ᠠᡳ᠌ᠨᡠ}} ainu(なぜ)、{{ManchuSibeUnicode|ᠠᡨ᠋ᠠᠩᡤᡳ}} atanggi(いつ)、{{ManchuSibeUnicode|ᠠᡩ᠋ᠠᡵᠠᠮᡝ}} adarame(どのように)などがある。 *満洲語の[[形容詞]]は語形変化をしない[[不変化詞]]である。 *動詞は終止形・連体形・副動詞形(接続形)がある。連体形は文末に来て終止形として用いられることが少なくない。 *後置詞は、ある種の単語の後ろに来て様々な文法的意味を付け加える付属語である。大きく分けて、体言の格形の後ろに来て格関係を表すもの、用言の後ろに来て副動詞的に用いられるもの、文末について様々なニュアンスを表すもの(日本語の[[終助詞]]に似る)がある。 == 語彙 == 満洲語の語彙には以下の特徴がある。 * 漁労、採集、畜産、騎射に関する語彙が非常に豊富である。これは満洲族が本来は狩猟民族であったことに由来する。 * ツングース諸語の一種であるため、他のツングース系言語と共通する語彙が多い。 * {{or|満洲語の語彙の3分の1は外来語であるとみられる|date=2023年11月15日}}。最も多いのは中国語(北京官話)からの借用であるが、[[モンゴル語]]、[[チベット語]]、[[サンスクリット語]]由来とみられる単語もある。 == 研究者および研究機関 == ===研究者=== *[[愛新覚羅烏拉熙春|烏拉熙春(愛新覚羅氏)]]:満洲語、[[女真語]]・[[女真文字]]、[[契丹語]]・[[契丹文字]]を研究。 *[[金啓孮]]:満洲語、女真語・女真文字を研究。 *[[劉厚生]]:『漢満詞典』の作者。 *[[呉元豊]]:中国第一歴史檔案館の研究員。 *[[河内良弘]]:『満洲語辞典』の作者。 *[[清瀬義三郎則府]]:『満洲語文語入門』の作者。 *[[安双成]]:『満漢大辞典』の作者。 *[[季永海]]:『満洲語文法』の作者。 *[[津曲敏郎]]:『満洲語入門20講』の作者。 *[[胡増益]]:『新満漢大詞典』の作者。 *[[廣定遠]]:満洲語の専門家。 ===研究機関=== *[https://manchu.hlju.edu.cn/index.htm 黒龍江省満洲語研究所({{ManchuSibeUnicode|ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ <br>ᡠᠯᠠ <br>ᡤᠣᠯᠣ <br>ᠮᠠᠨᠵᡠ <br>ᡤᡳᠰᡠᠨ <br>ᠪᡝ <br>ᠰᡳᠪᡴᡳᡵᡝ <br>ᡶᠠᠯᡤᠠᠩᡤᠠ}}, sahaliyan ula golo manju gisun be sibkire falgangga)と黒龍江大学満学研究院({{ManchuSibeUnicode|ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ <br>ᡠᠯᠠ <br>ᠠᠮᠪᠠ <br>ᡨ᠋ᠠᠴᡳᡴᡡᡳ <br>ᠮᠠᠨᠵᡠ <br>ᡨ᠋ᠠᠴᡳᠨ <br>ᠪᡝ <br>ᠰᡳᠪᡴᡳᡵᡝ <br>ᡴᡠᡵᡝᠨ}}, sahaliyan ula amba tacikūi manju tacin be sibkire kuren)] *[[中央民族大学]]中国少数民族語言文学学院少数民族語言文学系 *[[日本大学]]文理学部史学科加藤研究室 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 書籍および参考文献 == * 著者不明 『満洲実録』({{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨᠵᡠ ‍ᡳ<br>ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ<br>ᡴᠣᠣᠯᡳ}}, manju -i yargiyan kooli) * [[沈啓亮]]『大清全書』({{ManchuSibeUnicode|ᡩᠠᡳ᠌ᠴᡳᠩ<br>ᡤᡠᡵᡠᠨ ‍ᡳ<br>ᠶᠣᠣᠨᡳ<br>ᠪᡳᡨ᠌ᡥᡝ}}, daicing gurun -i yooni bithe) [[北京|京師]]宛羽斎 1683年 * 著者不明 『御製増訂清文鑑』({{ManchuSibeUnicode|ᡥᠠᠨ ‍ᡳ<br>ᠠᡵᠠᡥᠠ<br>ᠨᠣᠩᡤᡳᠮᡝ<br>ᡨ᠋ᠣᡴ᠋ᡨ᠋᠋ᠣᠪᡠᡥᠠ<br>ᠮᠠᠨᠵᡠ<br>ᡤᡳᠰᡠᠨ ‍ᡳ<br>ᠪᡠᠯᡝᡴᡠ<br>ᠪᡳᡨ᠌ᡥᡝ}}, han -i araha nonggime toktobuha manju gisun -i buleku bithe) * 『満漢字清文啓蒙』({{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨᠵᡠ<br>ᠨᡳᡴᠠᠨ<br>ᡥᡝᡵᡤᡝᠨ ‍ᡳ<br>ᠴᡳᠩ<br>ᠸᡝᠨ<br>ᡴᡳ<br>ᠮᡝᠩ<br>ᠪᡳᡨ᠌ᡥᡝ}}, manju nikan hergen -i cing wen ki meng bithe) * 『庸言知旨』({{ManchuSibeUnicode|ᠠᠨ ‍ᡳ<br>ᡤᡳᠰᡠᠨ<br>ᡩ᠋ᡝ᠋<br>ᠠᠮᡨ᠋ᠠᠨ<br>ᠪᡝ<br>ᠰᠠᡵᠠ<br>ᠪᡳᡨ᠌ᡥᡝ}}, an -i gisun de amtan be sara bithe) 1802年 * 著者不明 『[[ニシャン・サマン伝]]』({{lang-mnc|ᠨᡳᡧᠠᠨ<br>ᠰᠠᠮᠠᠨ ‍ᡳ<br>ᠪᡳᡨ᠌ᡥᡝ}}, nišan saman -i bithe) * [[羽田亨]]著 『満和辞典』([[京都大学|京都帝国大学]]満蒙調査会) 1937年 ISBN 9-576-14233-4、または ISBN 978-9-57614-233-8 * 『ツングース-満洲(諸言)語比較辞典』({{lang-ru|Сравнительный словарь тунгусо-маньчжурских языков}}) ツィンツィウス({{lang|ru|Цинциус}})/編 [[ソビエト連邦]]科学出版社 (1975) ISBN 不明 * [[安双成]]編著 『満漢大辞典』({{lang-zh|满汉大辞典}}) 遼寧民族出版社 [[1993年]]12月第1版発行 ISBN 7-80527-378-2、または ISBN 978-7-80527-378-5 * [[胡増益]]編著 『新満漢大辞典』({{lang-zh|新满汉大辞典}}、'''満洲語''': {{ManchuSibeUnicode|ᡳᠴᡝ<br>ᠮᠠᠨᠵᡠ<br>ᠨᡳᡴᠠᠨ<br>ᡤᡳᠰᡠᠨ<br>ᡴᠠᠮᠴᡳᠪᡠᡥᠠ<br>ᠪᡠᠯᡝᡴᡠ<br>ᠪᡳᡨ᠌ᡥᡝ}}, ice manju nikan gisun kamcibuha buleku bithe/iche manzhu nikan gisun kamchibuha buleku bithe) 新疆人民出版社 1994年 * [[津曲敏郎]]著 『満洲語入門20講』([[大学書林]]) [[2002年]][[1月20日]]第1版発行 ISBN 4-475-01857-9、または ISBN 978-4-47501-857-9 * [[河内良弘]]、[[清瀬義三郎則府]]編著 『満洲語文語入門』(京都大学学術出版会) 2002年6月25日 * [[安双成]]編著 『漢満大辞典』({{lang-zh|汉满大辞典}}、'''満洲語''': {{ManchuSibeUnicode|ᠨᡳᡴᠠᠨ<br>ᠮᠠᠨᠵᡠ<br>ᠶᠣᠩᡴᡳᠶᠠᠩᡤᠠ<br>ᠪᡠᠯᡝᡴᡠ<br>ᠪᡳᡨ᠌ᡥᡝ}}, nikan manju yongkiyangga buleku bithe) 遼寧民族出版社 2007年10月 ISBN 7-80722-160-7、または ISBN 978-7-80722-160-9 * 季永海編著『満洲語文法』({{lang-zh|满语语法}})(中央民族大学出版社)2011年3月第1版発行 ISBN 7-81108-967-X、または ISBN 978-7-81108-967-7 * 瀛生(愛新覚羅氏)著『満洲語口語音典』({{lang-zh|满语口语音典}})(華芸出版社)2014年12月第1版発行 {{ISBN2| 7-80252-445-8}}、または {{ISBN2| 978-78025-244-53}} * {{Cite journal|和書|last=鋤田|author=|first=智彦 |date=2019-03 |title=清代における言語接触 |url=http://id.nii.ac.jp/1399/00014650/ |journal=岩手大学人文社会科学部創立40周年記念国際シンポジウム報告書 |publisher=岩手大学人文社会科学部 |pages=47-58 |naid=120006705874 |ref=harv}} == 関連項目 == *[[満洲文字]] *[[満洲族]] *[[シベ語]](シボ語、錫伯語) - 満洲語の一方言{{what||date=2022年3月19日}}から派生した言語(方言であるか言語であるかは研究者により見解が分かれる)。 **[[シベ文字]](シボ文字、錫伯文字) *[[シベ族]](シボ族、錫伯族) *[[女真語]] - 満洲語の基となった。 *[[モンゴル文字]] - 満洲文字の基となった。 *[[神弓-KAMIYUMI-]]、[[天命の城]] - 満洲語が劇中で登場する[[大韓民国|韓国]]の映画作品 **[[華政]]・[[花たちの戦い -宮廷残酷史-]]・[[三銃士 (2014年のテレビドラマ)|三銃士]]など[[東北工程|一時期]]の韓国ドラマでは女真・満洲人が出てくる。その中では満洲語を使っているものも存在する。 *[[ラストエンペラー]] - 劇中で大幅に使用されている言語は英語だが、[[宣統帝]]即位式で僅かに満洲語を用いた台詞が見られる。 == 外部リンク == {{Incubator|code= mnc|language= 満洲語}} {{Incubator|prefix=Wt|code= mnc|language= 満洲語}} {{Incubator|prefix=Wq|code= mnc|language= 満洲語}} {{WikisourceWiki|満洲語|code=oldwikisource|page=Main Page/ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡤᡳᠰᡠᠨ}} {{wikibookslang|zh|满语}} {{wikibookslang|en|Manchu}} *{{Wayback|url=http://itunes.apple.com/us/app/you-jiao-qi-meng-man-yu/id487071486?mt=8 |title=幼教啓蒙滿語ipad版本世界首款滿語文教育軟件 |date=20150401165652}} *[http://abkai.net/ 太清 — Unicodeの満洲語、シボ語、ダフール語のフォントと入力メソッド](中国語と英語) *[http://alchemia.yamanoha.com/manchu.html#MAIN 満洲語 学習 Links] *[http://www.manchusoc.org/ 中華民国満族協会] *オンライン満漢和辞典: [http://hkuri.cneas.tohoku.ac.jp/p06/manchu/list?groupId=11 Manchu/満洲語辞典]([http://hkuri.cneas.tohoku.ac.jp/ 東北大学 東北アジア研究センター – モンゴル諸語・満州語の資料検索システム]内) {{ツングース諸語}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:まんしゆうこ}} [[Category:満洲民族]] [[Category:中国の言語]] [[Category:アルタイ諸語]] [[Category:ツングース語族]] [[Category:危機に瀕する言語]] [[Category:母音調和言語]] [[Category:膠着語]] [[Category:SOV型言語]]
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八旗
八旗(はっき・ジャクン・グサ、満洲語:ᠵᠠᡴᡡᠨᡤᡡᠰᠠ, メレンドルフ転写:jakūn gūsa)は、清代に支配階層である満洲人が所属した社会組織・軍事組織のことである。また、この制度を指して八旗制と呼ぶ。 八旗は旗と呼ばれる社会・軍事集団からなり、すべての満洲人は8個の旗のいずれかに配属された。後にはモンゴル人や漢人によって編成された八旗も創設される。八旗に所属する満洲人・モンゴル人・漢人は旗人(きじん、gūsa i niyalma)と総称され、清の支配階層を構成した。 八旗は、清の始祖である太祖ヌルハチが、満洲人の前身である女真(jušen)を統一する過程で、女真固有の社会組織を「旗」と呼ばれる軍事集団として編成、掌握したことに始まる。 1601年にヌルハチがこの制度を創始した当初は ・黄(ᠰᡠᠸᠠᠶᠠᠨ, suwayan) ・白(ᡧᠠᠩᡤᡳᠶᠠᠨ, šanggiyan) ・紅(ᡶᡠᠯᡤᡳᠶᠠᠨ, fulgiyan) ・藍(ᠯᠠᠮᡠᠨ, lamun) の4旗であったが、ヌルハチの統一事業の進展によって旗人の数が増えたため、各色に縁取り(「鑲 (金+襄)」ショウ)のある4旗が加えられ、1615年に ・正黄(ᡤᡠᠯᡠ ᠰᡠᠸᠠᠶᠠᠨ, gulu suwayan) ・鑲黄(ᡴᡠᠪᡠᡥᡝ ᠰᡠᠸᠠᠶᠠᠨ, kubuhe suwayan) ・正白(ᡤᡠᠯᡠ ᡧᠠᠩᡤᡳᠶᠠᠨ/ᡤᡠᠯᡠ ᡧᠠᠨᠶᠠᠨ, gulu šanggiyan/gulu šanyan) ・鑲白(ᡴᡠᠪᡠᡥᡝ ᡧᠠᠩᡤᡳᠶᠠᠨ/ᡴᡠᠪᡠᡥᡝ ᡧᠠᠨᠶᠠᠨ, kubuhe šanggiyan/kubuhe šanyan) ・正紅(ᡤᡠᠯᡠ ᡶᡠᠯᡤᡳᠶᠠᠨ, gulu fulgiyan) ・鑲紅(ᡴᡠᠪᡠᡥᡝ ᡶᡠᠯᡤᡳᠶᠠᠨ, kubuhe fulgiyan) ・正藍(ᡤᡠᠯᡠ ᠯᠠᠮᡠᠨ, gulu lamun) ・鑲藍(ᡴᡠᠪᡠᡥᡝ ᠯᠠᠮᡠᠨ, kubuhe lamun) の8旗が整備された。 八旗は、ヌルハチが支配する後金(清の前身)に属するすべての構成員が編成された軍事・行政組織であった。このため、後金に服属したモンゴル人や投降した漢人将兵も、女真人同様に八旗に編入された。ホンタイジの時代、八旗内のモンゴル人集団と漢人集団をそれぞれ分離して独自のニルに組織し、かつこのニルをそれぞれグサ・ジャランに編成した結果、八旗各旗の内部は満・蒙・漢の三グサ編成となり、これが八旗満洲・八旗蒙古・八旗漢軍(「ujen cooha/烏真超哈」ともいう)となった 。 八旗に属する旗人たちは、平時は農耕・狩猟に従事しつつ要地の警備や兵役にあたった。要地の警備のために特定の場所に集団で移住させられた八旗を駐防八旗という。また、清が入関して万里の長城以南の全中国を支配するようになると、数多くの旗人が新たに首都となった北京へと移住させられ、北京の内城は旗人の街になった。こうした北京に住まう八旗を禁旅八旗という。 旗人には旗地と呼ばれる農地が支給されるなど、さまざまに優遇された。また旗人は、清の官制の特色である満漢偶数官制によって被支配民族である漢人とは別枠で同数のポストに就くことができ、相対的に人口が少ない旗人は清朝一代を通じて官僚の地位を世襲した。 しかし、旗人の人口が増大するとともに、支給される土地の窮乏や貧困が慢性化した。特に旗人の中核を占める満洲人は満洲語や民族文化を失って武芸を衰えさせた。18世紀末に起こった白蓮教徒の乱以降、各地で反乱が多発し国庫が窮乏して軍事訓練を行う余裕が失われたことや、人口増加に伴ってかつて騎射訓練などを行っていたモンゴル高原の南端まで華北の農民が入植して演習場が失われていったことなども挙げられる。こうして、清末までに八旗制は形骸化した。旗人は清朝の中期以降、言語的にはほとんど漢族と一体化しており、名前も漢語でつけられるようになっていたが、中華民国期以降は姓も漢人と同じように漢字一字の姓を名乗るようになり、ほとんど漢族に埋没していった。 その後も多くの旗人の末裔の中では、満洲人の後裔であるという意識は残ることになった。中華人民共和国は満洲人を満族として公式に少数民族のひとつに認めたが、旧支配者の満洲人であると登録する者は1万人に満たなかった。文化大革命中は旧特権層の後裔というだけで迫害の理由となったが、文革終結後は少数民族優遇措置によるメリットの方が大きくなり、現在は満族を民族籍とするかつての旗人の後裔は1000万人にものぼる。 八旗制による基本的な編成形体は、有事の際に兵士となる成年男子300人を供出しえる集団をニル(niru、「矢」の意)とし、5ニルをジャラン(jalan、1500人)とし、5ジャランをグサ(gūsa、25ニル、7500人)とするものである。各グサは、各固有の旗を持って識別され、グサのことを漢語では「旗」と呼ぶようになった。なお、満洲語で旗(大旗、または旗印)自体は「gūsa」ではなく「turun」(略して「tu」)、小旗は「kiru」である。 新たに「満洲」という民族名で呼ばれるようになった女真人は、みな8個のグサ(旗)のうちいずれかの旗に所属させられたので、八旗は軍事組織であると同時に社会組織・行政組織であった。 各ニルにはニル・イ・エジェン(後、ニル・イ・ジャンギンに改称、佐領と漢訳)、各ジャランにはジャラン・イ・エジェン(後、ジャラン・イ・ジャンギンと改称、参領と漢訳)、そして各グサにはグサイ・エジェン(gūsai ejen、都統)が司令官として任じられ、グサイ・エジェンの下には副司令官として2人のメイレン・ジャンギン(meiren janggin、副都統)が任命され統括された(それらは八旗官と呼ばれる)。各グサにはさらにその上に、清朝の皇族である愛新覚羅氏の旗王が置かれ、グサイ・ベイレ(gūsai beile)、省略してベイレ(beile、貝勒)と呼ばれた。皇帝自身は正黄旗・鑲黄旗・正白旗3旗の王で、八旗による社会組織は、皇帝の領する3旗(dergi ilan gūsa、上三旗)と諸王の領するその他の5旗(fejergi sunja gūsa、下五旗)による部族連合国家という側面もある。下五旗の各旗の旗王は1人ではなく複数人おり、その中では爵位を元に序列が存在し、最も爵位の高い旗王が旗全体を代表していた。 各旗の内部は満洲・蒙古・漢軍グサと、奴僕で家政を担う下級旗人のボーイ(満文:ᠪᠣᠣᠢ, 転写:boo-i, 漢語:包衣)に分かれる。各旗王には各隷下に満洲・蒙古・漢軍ニルとボーイニルが与えられた。編成上は満洲・蒙古・漢軍は同旗の同種グサが集まって八旗満洲・八旗蒙古・八旗漢軍を構成する。これに対しボーイは各旗王に直属し、上三旗の場合は皇帝の内務府、下五旗の場合は各旗王の王府を構成した。 八旗の構造は元々満洲人に存在した部族(氏族)における族長と構成員の主従関係である主(ベイレ)と大臣(アンバン)と民(ジュシェン)、家(ボー)における主僕の関係である主(エジェン)と奴僕(アハ)の関係をそのまま発展させたものである。 八旗官はかつては家臣・領民を従えて割拠していた大小の領主(アンバンやベイレ)であり、それが八旗制の元に所領はニルという形に、領主という地位はジャンギン職という形に置き換えられて再編成されたものであり、領主の連合という側面も有していた。 八旗は実際には満・蒙・漢人に限っていたわけではなく、ニルに編成されいずれかの旗に属するという基準さえ満たせばあらゆる帰順者が編入された。八旗満洲にもエヴェンキ、オロチョン、ダウール等の満洲人以外の北方民族(新満洲人)が編入された他、朝鮮人(高麗佐領)のニルも存在し、ロシア人捕虜(俄羅斯佐領)や亡命ベトナム人(安南黎氏佐領)、テュルク系ムスリム(現在のウイグル人。回子佐領)、チベット人(番子佐領)のニルも編成され八旗満洲や八旗漢軍に配属された。またヌルハチ時代などの初期に臣従したモンゴル人や漢人、朝鮮人は八旗満洲に配属されたままの場合もあった。 ボーイは戦争捕虜や拉致、困窮による身売りにより満洲人の元に連れてこられ仕えた漢人、高麗・朝鮮人が元になっており、主人が狩猟、交易、戦争を担うのに対し、家政、農業、牧畜を担い、どちらが欠けても生活が成立しえない関係であったため、上下関係は身分の差は厳格であるが親密な物であった。 旗人の忠誠はあくまで直属の旗王に向けられるものであり、皇帝直属の上三旗以外の旗人の皇帝に対する忠誠は、主人である旗王が忠誠を誓っているという間接的なものである。そのため康熙帝時の後継者争いのように派閥争いの危険性を内包していた。また旗人が官僚として各地に配属された時も、密かにその土地で得た利益や情報を主人である旗王に上納することも多く行われている。 臣従したモンゴル諸勢力も八旗制を元にした盟旗制度の元に再編成され、その長とされたモンゴル王侯であるジャサクは爵位を与えられ、旗王と同格とされた。 清初期に部隊ごと投降した明の武将孔有徳・耿仲明・尚可喜の集団も、八旗と同形式の組織に再編された上で天祐兵・天助兵という独立した軍団として従属し、彼らは三順王と呼ばれ旗王と同格に扱われた。後に呉三桂が加わって孔有徳が戦死して脱藩し、三藩となったが、三藩の乱後はこれらの漢人軍団は解体され八旗漢軍に編入された。 禁旅八旗は、清が長城以南に入関した後、首都となった北京を警備するために北京城に移住させた八旗のことで、清朝皇帝の近衛兵である。 順治帝時代、禁旅八旗には、驍騎営(aliha coohai kūwaran)、前鋒営(gabsihiyan i kūwaran)、護軍営(bayara i kūwaran)、歩兵営が設けられ、各々驍騎(馬甲、馬兵とも称する)、前鋒、護軍、親軍(gocika bayara)及び歩兵(yafahan cooha)を統括した。その後、火器営(tuwa i agūra i kūwaran)、健鋭営(silin dacungga kūwaran)、内府三旗護軍営(booi ilan gūsai bayara i kūwaran)、前鋒営、驍騎営、円明園八旗護軍営、三旗虎槍営等も設置された。 前鋒、護軍、驍騎、親軍、歩兵は、八旗佐領の下から選抜され、人数は、時代によって変化している。乾隆帝時代、驍騎3万4000、護軍1万5000、前鋒1700、歩軍2万1000、親軍1700、健鋭兵2000、火器営兵6000、虎槍営兵600、及び藤牌兵(kalkangga cooha)等、計約9万人がいた。 これ以外に領侍衛府が設置され、領侍衛内大臣6人、内大臣6人が置かれ、上三旗の一等、二等、三等満洲蒙古侍衛570人、藍翎侍衛(lamun funggala)90人、四等待衛(duici jergi i hiya)、御前侍衛(gocika hiya)、乾清門侍衛(kiyan cing men i hiya)、漢侍衛若干名、計1800人余りを管轄した。紫禁城の警備に関しては、領侍衛府の責任が最も重く、地位も最高で、宮殿の宿衛と巡幸等の諸事を総括した。紫禁城内の各門、各宮殿には、領侍衛内大臣(hiya kadalara dorgi amban)が侍衛、親軍、上三旗、内府三旗前鋒、護軍、驍騎宿衛を派遣した。 紫禁城外の周囲は、下五旗護軍が守衛した。紫禁城外から皇城以内は、満洲八旗歩軍が守衛し、皇城外から大城以内は、満洲、蒙古、漢軍八旗歩軍が守衛した。大城外は、五城巡捕営からの1万の緑営兵が守衛、巡邏した。 駐防八旗は、清の入関後、各地の反清運動を鎮圧し、統制を強化するために派遣された八旗である。駐防八旗は、畿輔駐防、東三省駐防、各省駐防、新疆駐防の4系統に分けることができる。 畿輔駐防は、直隷駐防とも称され、乾隆帝後期、良郷、昌平、水平、保定等25ヶ所に8000人が駐屯した。 東三省駐防は、盛京、吉林、黒龍江駐防に分かれる。盛京駐防は、盛京将軍が統括し、盛京、遼陽、開原等40ヶ所に1万6000人が駐屯した。吉林駐防は、吉林将軍が統括し、兵力は9000人だった。黒龍江駐防の八旗兵とソロン(索倫)族兵7000人は、黒龍江将軍が統括した。 各省駐防は、山東、山西、河南、江蘇、浙江、四川、福建、広東、湖北、陝西、甘粛等11省の20都市に駐屯し、乾隆帝後期、計4万5000人に達した。各省駐防は、各都市に設けられた将軍又は副都統が管轄し、各省駐防の兵数は300 - 3000人程度だった。 新疆駐防は、西域兵とも称され、ジュンガル部、ウイグル部の征服後に設置された。兵数は1万5000人で、イリ将軍が統括した。
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"paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "畿輔駐防は、直隷駐防とも称され、乾隆帝後期、良郷、昌平、水平、保定等25ヶ所に8000人が駐屯した。", "title": "駐防八旗(seremšeme tehe jakūn gūsa)[6]" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "東三省駐防は、盛京、吉林、黒龍江駐防に分かれる。盛京駐防は、盛京将軍が統括し、盛京、遼陽、開原等40ヶ所に1万6000人が駐屯した。吉林駐防は、吉林将軍が統括し、兵力は9000人だった。黒龍江駐防の八旗兵とソロン(索倫)族兵7000人は、黒龍江将軍が統括した。", "title": "駐防八旗(seremšeme tehe jakūn gūsa)[6]" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "各省駐防は、山東、山西、河南、江蘇、浙江、四川、福建、広東、湖北、陝西、甘粛等11省の20都市に駐屯し、乾隆帝後期、計4万5000人に達した。各省駐防は、各都市に設けられた将軍又は副都統が管轄し、各省駐防の兵数は300 - 3000人程度だった。", "title": "駐防八旗(seremšeme tehe jakūn gūsa)[6]" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "新疆駐防は、西域兵とも称され、ジュンガル部、ウイグル部の征服後に設置された。兵数は1万5000人で、イリ将軍が統括した。", "title": "駐防八旗(seremšeme tehe jakūn gūsa)[6]" } ]
八旗は、清代に支配階層である満洲人が所属した社会組織・軍事組織のことである。また、この制度を指して八旗制と呼ぶ。 八旗は旗と呼ばれる社会・軍事集団からなり、すべての満洲人は8個の旗のいずれかに配属された。後にはモンゴル人や漢人によって編成された八旗も創設される。八旗に所属する満洲人・モンゴル人・漢人は旗人と総称され、清の支配階層を構成した。
{{出典の明記|date=2017年6月6日 (火) 02:01 (UTC)}} {{独自研究|date=2022年3月25日 (金) 11:34 (UTC)}} [[File:Emperor qianlong blue banner.jpg|thumb|350px|乾隆帝の治世下の正藍旗]] '''八旗'''(はっき・ジャクン・グサ、[[満洲語]]:{{ManchuSibeUnicode|ᠵᠠᡴᡡᠨ<br>ᡤᡡᠰᠠ}}, [[パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ|メレンドルフ転写]]:''jakūn gūsa'')は、[[清]]代に支配階層である[[満洲民族|満洲人]]が所属した社会組織・軍事組織のことである。また、この制度を指して'''八旗制'''と呼ぶ。 八旗は'''旗'''と呼ばれる社会・軍事集団からなり、すべての満洲人は8個の旗のいずれかに配属された。後には[[モンゴル|モンゴル人]]や[[漢人]]によって編成された八旗も創設される。八旗に所属する満洲人・モンゴル人・漢人は'''旗人'''(きじん、gūsa i niyalma)と総称され、清の支配階層を構成した。 == 歴史 == [[File:Qing hunting party.jpg|350px|thumb|皇帝の狩りに随行する兵士たち]] [[File:A Manchu Soldier from the North of China Wellcome L0040986.jpg|250px|thumb|八旗の火縄銃兵<ref>『新世界史図説』 帝国書院、1986年、p.69</ref>(19世紀後期)]] 八旗は、清の始祖である太祖[[ヌルハチ]]が、満洲人の前身である[[女真]](jušen)を統一する過程で、[[女真]]固有の社会組織を「旗」と呼ばれる軍事集団として編成、掌握したことに始まる。 [[1601年]]にヌルハチがこの制度を創始した当初は ・黄(ᠰᡠᠸᠠᠶᠠᠨ, suwayan) ・白(ᡧᠠᠩᡤᡳᠶᠠᠨ, šanggiyan) ・紅(ᡶᡠᠯᡤᡳᠶᠠᠨ, fulgiyan) ・藍(ᠯᠠᠮᡠᠨ, lamun) の4旗であったが、ヌルハチの統一事業の進展によって旗人の数が増えたため、各色に縁取り(「{{lang|zh|鑲}} (金+襄)」ショウ)のある4旗が加えられ、[[1615年]]に ・'''正黄'''(ᡤᡠᠯᡠ ᠰᡠᠸᠠᠶᠠᠨ, gulu suwayan) ・'''{{lang|zh|鑲}}黄'''(ᡴᡠᠪᡠᡥᡝ ᠰᡠᠸᠠᠶᠠᠨ, kubuhe suwayan) ・'''正白'''(ᡤᡠᠯᡠ ᡧᠠᠩᡤᡳᠶᠠᠨ/ᡤᡠᠯᡠ ᡧᠠᠨᠶᠠᠨ, gulu šanggiyan/gulu šanyan) ・'''{{lang|zh|鑲}}白'''(ᡴᡠᠪᡠᡥᡝ ᡧᠠᠩᡤᡳᠶᠠᠨ/ᡴᡠᠪᡠᡥᡝ ᡧᠠᠨᠶᠠᠨ, kubuhe šanggiyan/kubuhe šanyan) ・'''正紅'''(ᡤᡠᠯᡠ ᡶᡠᠯᡤᡳᠶᠠᠨ, gulu fulgiyan) ・'''{{lang|zh|鑲}}紅'''(ᡴᡠᠪᡠᡥᡝ ᡶᡠᠯᡤᡳᠶᠠᠨ, kubuhe fulgiyan) ・'''正藍'''(ᡤᡠᠯᡠ ᠯᠠᠮᡠᠨ, gulu lamun) ・'''鑲藍'''(ᡴᡠᠪᡠᡥᡝ ᠯᠠᠮᡠᠨ, kubuhe lamun) の8旗が整備された。 八旗は、ヌルハチが支配する[[後金]](清の前身)に属するすべての構成員が編成された軍事・行政組織であった。このため、後金に服属したモンゴル人や投降した漢人将兵も、女真人同様に八旗に編入された。ホンタイジの時代、八旗内のモンゴル人集団と漢人集団をそれぞれ分離して独自の[[ニル (八旗制度)|ニル]]に組織し、かつこのニルをそれぞれグサ・ジャランに編成した結果、八旗各旗の内部は満・蒙・漢の三グサ編成となり、これが'''八旗満洲'''・'''八旗蒙古'''・'''八旗漢軍'''(「ujen cooha/烏真超哈」<ref>「重い兵」の意。漢人の中でも火器の扱いに長けたものを集めた専門の砲兵部隊として編成されたことによる。</ref>ともいう)となった<ref>杉山清彦「大清帝国の支配構造 【マンジュ(満洲)王朝としての】」134-137頁。(岡田英弘編2009所収)</ref> 。 八旗に属する旗人たちは、平時は農耕・狩猟に従事しつつ要地の警備や兵役にあたった。要地の警備のために特定の場所に集団で移住させられた八旗を[[#駐防八旗(seremšeme tehe jakūn gūsa)|駐防八旗]]という。また、清が入関して[[万里の長城]]以南の全中国を支配するようになると、数多くの旗人が新たに首都となった[[北京市|北京]]へと移住させられ、北京の内城は旗人の街になった。こうした北京に住まう八旗を[[八旗#禁旅八旗|禁旅八旗]]という。 旗人には'''旗地'''と呼ばれる農地が支給されるなど、さまざまに優遇された。また旗人は、清の官制の特色である満漢偶数官制によって被支配民族である漢人とは別枠で同数のポストに就くことができ、相対的に人口が少ない旗人は清朝一代を通じて官僚の地位を世襲した。 しかし、旗人の人口が増大するとともに、支給される土地の窮乏や貧困が慢性化した。特に旗人の中核を占める満洲人は[[満洲語]]や民族文化を失って武芸を衰えさせた。[[18世紀]]末に起こった[[白蓮教徒の乱]]以降、各地で反乱が多発し国庫が窮乏して軍事訓練を行う余裕が失われたことや、人口増加に伴ってかつて騎射訓練などを行っていたモンゴル高原の南端まで華北の農民が入植して演習場が失われていったことなども挙げられる。こうして、清末までに八旗制は形骸化した。旗人は清朝の中期以降、言語的にはほとんど漢族と一体化しており、名前も[[漢語]]でつけられるようになっていたが、[[中華民国]]期以降は姓も漢人と同じように漢字一字の姓を名乗るようになり、ほとんど漢族に埋没していった。 その後も多くの旗人の末裔の中では、満洲人の後裔であるという意識は残ることになった。[[中華人民共和国]]は満洲人を[[満族]]として公式に少数民族のひとつに認めたが、旧支配者の満洲人であると登録する者は1万人に満たなかった。[[文化大革命]]中は旧特権層の後裔というだけで迫害の理由となったが、文革終結後は少数民族優遇措置によるメリットの方が大きくなり、現在は満族を民族籍とするかつての旗人の後裔は1000万人にものぼる。 == 八旗の編成 == 八旗制による基本的な編成形体は、有事の際に兵士となる成年男子300人を供出しえる集団を'''[[ニル (八旗制度)|ニル]]'''(niru、「矢」の意)とし、5ニルを'''ジャラン'''(jalan、1500人)とし、5ジャランを'''グサ'''(gūsa、25ニル、7500人)とするものである。各グサは、各固有の旗を持って識別され、グサのことを[[中国語|漢語]]では「旗」と呼ぶようになった。なお、満洲語で旗(大旗、または旗印)自体は「gūsa」ではなく「turun」(略して「tu」)、小旗は「kiru」である。 新たに「満洲」という民族名で呼ばれるようになった女真人は、みな8個のグサ(旗)のうちいずれかの旗に所属させられたので、八旗は軍事組織であると同時に社会組織・行政組織であった。 各ニルにはニル・イ・エジェン<ref>ejen(ᡝᠵᡝᠨ, 額眞):満洲語で「主」の意。</ref>(後、ニル・イ・ジャンギン<ref>janggin(章京):漢語「将軍」を満洲語風に読んだ語がジャンギン(janggin)で、更にそれを漢語で音訳したのが「章京」。現代中国語(普通話)では「將軍 jiàngjūn」「章京 zhāngjīng」と発音するが、それぞれ清代の発音とは少し異なる。</ref>に改称、佐領と漢訳)、各ジャランにはジャラン・イ・エジェン(後、ジャラン・イ・ジャンギンと改称、参領と漢訳)、そして各グサにはグサイ・エジェン(gūsai ejen、都統)が司令官として任じられ、グサイ・エジェンの下には副司令官として2人のメイレン・ジャンギン(meiren janggin、副都統)が任命され統括された(それらは八旗官と呼ばれる)。各グサにはさらにその上に、清朝の皇族である[[愛新覚羅氏]]の旗王が置かれ、'''グサイ・ベイレ'''(gūsai beile)、省略して'''ベイレ'''(beile、貝勒)と呼ばれた。皇帝自身は正黄旗・{{lang|zh|鑲}}黄旗・正白旗3旗の王で、八旗による社会組織は、皇帝の領する3旗(dergi ilan gūsa、'''上三旗''')と諸王の領するその他の5旗(fejergi sunja gūsa、'''下五旗''')による部族連合国家という側面もある。下五旗の各旗の旗王は1人ではなく複数人おり、その中では爵位を元に序列が存在し、最も爵位の高い旗王が旗全体を代表していた。 各旗の内部は満洲・蒙古・漢軍グサと、奴僕で家政を担う下級旗人のボーイ(満文:ᠪᠣᠣᠢ, 転写:boo-i, 漢語:包衣)に分かれる。各旗王には各隷下に満洲・蒙古・漢軍ニルとボーイニルが与えられた。編成上は満洲・蒙古・漢軍は同旗の同種グサが集まって八旗満洲・八旗蒙古・八旗漢軍を構成する。これに対しボーイは各旗王に直属し、上三旗の場合は皇帝の内務府、下五旗の場合は各旗王の王府を構成した。 八旗の構造は元々満洲人に存在した部族(氏族)における族長と構成員の主従関係である主(ベイレ)と大臣(アンバン)と民(ジュシェン)、家(ボー)における主僕の関係である主(エジェン)と奴僕(アハ)の関係をそのまま発展させたものである。 八旗官はかつては家臣・領民を従えて割拠していた大小の領主(アンバンやベイレ)であり、それが八旗制の元に所領はニルという形に、領主という地位はジャンギン職という形に置き換えられて再編成されたものであり、領主の連合という側面も有していた。 [[ファイル:Албазинцы на литургии.jpg|thumb|オロス・ニルでの[[正教会]]の[[奉神礼]]。編入された各民族はその言語や宗教などアイデンティティを維持することが求められ、出身地への案内役や交渉でも通訳や仲介役などの役割を求められた。]] 八旗は実際には満・蒙・漢人に限っていたわけではなく、ニルに編成されいずれかの旗に属するという基準さえ満たせばあらゆる帰順者が編入された。八旗満洲にも[[エヴェンキ]]、[[オロチョン]]、[[ダウール]]等の満洲人以外の北方民族(新満洲人)が編入された他、朝鮮人(高麗佐領)のニルも存在し、[[オロス族|ロシア人捕虜]](俄羅斯佐領)や亡命ベトナム人([[黎愍帝|安南黎氏佐領]])、[[テュルク系]]ムスリム(現在の[[ウイグル人]]。回子佐領)、チベット人(番子佐領)のニルも編成され八旗満洲や八旗漢軍に配属された。またヌルハチ時代などの初期に臣従したモンゴル人や漢人、朝鮮人は八旗満洲に配属されたままの場合もあった。 ボーイは戦争捕虜や拉致、困窮による身売りにより満洲人の元に連れてこられ仕えた漢人、高麗・朝鮮人が元になっており、主人が狩猟、交易、戦争を担うのに対し、家政、農業、牧畜を担い、どちらが欠けても生活が成立しえない関係であったため、上下関係は身分の差は厳格であるが親密な物であった。 旗人の忠誠はあくまで直属の旗王に向けられるものであり、皇帝直属の上三旗以外の旗人の皇帝に対する忠誠は、主人である旗王が忠誠を誓っているという間接的なものである。そのため康熙帝時の後継者争いのように派閥争いの危険性を内包していた。また旗人が官僚として各地に配属された時も、密かにその土地で得た利益や情報を主人である旗王に上納することも多く行われている。 臣従したモンゴル諸勢力も八旗制を元にした盟旗制度の元に再編成され、その長とされたモンゴル王侯であるジャサクは爵位を与えられ、旗王と同格とされた。 清初期に部隊ごと投降した明の武将[[孔有徳]]・[[耿仲明]]・[[尚可喜]]の集団も、八旗と同形式の組織に再編された上で天祐兵・天助兵という独立した軍団として従属し、彼らは三順王と呼ばれ旗王と同格に扱われた。後に[[呉三桂]]が加わって孔有徳が戦死して脱藩し、三藩となったが、[[三藩の乱]]後はこれらの漢人軍団は解体され八旗漢軍に編入された。 {{wide image|The Grand Review - No.3 - Reviewing Battle Formation cropped center.jpg|3000px|乾隆帝の観覧閲兵のために編成された八旗軍。左翼は閲覧者の右側、右翼は右側に描かれている。}} === 各八旗の概要 === [[画像:Bordered Yellow Banner.svg|120px|thumb|{{lang|zh|鑲}}黄旗]] *'''{{lang|zh|鑲}}黄旗''' (kubuhe suwayan gūsa、クブヘ・スワヤン・グサ): 上三旗に列する。 :【清末期の管轄兵力】:84個佐領、2個半分佐領、約2万6000の兵 :【総人口】:約13万人 :【旗王】:大清帝国皇帝 :【有名な出身者】:[[孝和睿皇后]]([[嘉慶帝]]の皇后)、[[東太后|慈安]]等 {{-}} [[画像:Plain Yellow Banner.svg|120px|thumb|正黄旗]] *'''正黄旗''' (gulu suwayan gūsa、グル・スワヤン・グサ): 上三旗に列する。 :【清末期の管轄兵力】:92個佐領、2個半分佐領、約3万の兵(八旗満洲中で最多人口) :【総人口】:約15万人 :【旗王】:大清帝国皇帝 :【有名な出身者】:[[納蘭性徳|性徳]]([[康熙帝]]の寵臣)、[[ソニン (清)|ソニン]](重臣) {{-}} [[画像:Plain White Banner.svg|120px|thumb|正白旗]] *'''正白旗''' (gulu šanggiyan gūsa、グル・シャンギャン・グサ): 上三旗に列する。 :【清末期の管轄兵力】:86個佐領、約2万6000の兵 :【総人口】:約13万人 :【旗王】:大清帝国皇帝 :【有名な出身者】:[[婉容]]、[[栄禄]]、[[端方]]([[1905年]]、憲政視察使節団の一員) {{-}} [[画像:Plain Red Banner.svg|120px|thumb|正紅旗]] *'''正紅旗''' (gulu fulgiyan gūsa、グル・フルギャン・グサ): 下五旗に列する。 :【清末期の管轄兵力】:74個佐領、兵2万3000 :【総人口】:約11万5000人 :【旗王】:礼親王、順承郡王 :【有名な出身者】:[[ヘシェン]]([[乾隆帝]]の奸臣)、[[老舎]] {{-}} [[画像:Bordered White Banner.svg|120px|thumb|{{lang|zh|鑲}}白旗]] *'''{{lang|zh|鑲}}白旗'''(kubuhe šanggiyan gūsa、クブヘ・シャンギャン・グサ) : 下五旗に列する。 :【清末期の管轄兵力】:84個佐領、約2万6000の兵 :【総人口】:約13万人 :【旗王】:粛親王 :【有名な出身者】:[[曹雪芹]]、[[アグイ]]、[[善耆]]([[粛親王]])とその娘顯㺭(日本名[[川島芳子]])、[[愛新覚羅載澤|載澤]]([[1905年]]、憲政視察使節団の一員)、[[雍正帝]](皇子時代(雍親王)は旗王) {{-}} [[画像:Bordered Red Banner.svg|120px|thumb|{{lang|zh|鑲}}紅旗]] *'''{{lang|zh|鑲}}紅旗'''(kubuhe fulgiyan gūsa、クブヘ・フルギャン・グサ) : 下五旗に列する。 :【清末期の管轄兵力】:86個佐領、兵2万6000 :【総人口】:約13万人 :【旗王】:克勤郡王、荘親王 :【有名な出身者】:[[珍妃]]([[光緒帝]]の寵妃) {{-}} [[画像:Plain Blue Banner.svg|120px|thumb|正藍旗]] *'''正藍旗'''(gulu lamun gūsa、グル・ラムン・グサ) : 下五旗に列する。 :【清末期の管轄兵力】:83個佐領、11個半分佐領、兵2万6000 :【総人口】:約13万人 :【旗王】:睿親王、予親王 :【有名な出身者】:[[崇綺]]([[1864年]]の[[状元]]。戸部尚書。[[同治帝]]の[[孝哲毅皇后]]の父) {{-}} [[画像:Bordered Blue Banner.svg|120px|thumb|{{lang|zh|鑲}}藍旗]] *'''{{lang|zh|鑲}}藍旗'''(kubuhe lamun gūsa、クブヘ・ラムン・グサ) : 下五旗に列する。 :【清末期の管轄兵力】:87個佐領、1個半分佐領、兵2万7000 :【総人口】:約13万5000人 :【旗王】:鄭親王 :【有名な出身者】:[[侯宝林]](演芸芸術家)、慈禧([[咸豊帝]]の貴妃、[[西太后]])、[[粛順]]([[辛酉政変]]で処刑された戸部尚書) == 禁旅八旗 == 禁旅八旗は、清が長城以南に入関した後、首都となった北京を警備するために北京城に移住させた八旗のことで、清朝皇帝の[[近衛兵]]である。 [[順治帝]]時代、禁旅八旗には、驍騎営(aliha coohai kūwaran)、前鋒営(gabsihiyan i kūwaran)、護軍営(bayara i kūwaran)、歩兵営が設けられ、各々驍騎(馬甲、馬兵とも称する)、前鋒、護軍、親軍(gocika bayara)及び歩兵(yafahan cooha)を統括した。その後、火器営(tuwa i agūra i kūwaran)、健鋭営(silin dacungga kūwaran)、内府三旗護軍営(booi ilan gūsai bayara i kūwaran)、前鋒営、驍騎営、円明園八旗護軍営、三旗虎槍営等も設置された。 前鋒、護軍、驍騎、親軍、歩兵は、八旗佐領の下から選抜され、人数は、時代によって変化している。乾隆帝時代、驍騎3万4000、護軍1万5000、前鋒1700、歩軍2万1000、親軍1700、健鋭兵2000、火器営兵6000、虎槍営兵600、及び藤牌兵(kalkangga cooha)等、計約9万人がいた。 これ以外に領侍衛府が設置され、領侍衛内大臣6人、内大臣6人が置かれ、上三旗の一等、二等、三等満洲蒙古侍衛570人、藍翎侍衛(lamun funggala)90人、四等待衛(duici jergi i hiya)、御前侍衛(gocika hiya)、乾清門侍衛(kiyan cing men i hiya)、漢侍衛若干名、計1800人余りを管轄した。紫禁城の警備に関しては、領侍衛府の責任が最も重く、地位も最高で、宮殿の宿衛と巡幸等の諸事を総括した。紫禁城内の各門、各宮殿には、領侍衛内大臣(hiya kadalara dorgi amban)が侍衛、親軍、上三旗、内府三旗前鋒、護軍、驍騎宿衛を派遣した。 [[紫禁城]]外の周囲は、下五旗護軍が守衛した。紫禁城外から皇城以内は、満洲八旗歩軍が守衛し、皇城外から大城以内は、満洲、蒙古、[[漢軍八旗]]歩軍が守衛した。大城外は、五城巡捕営からの1万の[[緑営]]兵が守衛、巡邏した。 == 駐防八旗(seremšeme tehe jakūn gūsa)<ref>https://qingarchives.npm.edu.tw/index.php?act=Display/image/31747C02jSRs#7bC</ref> == [[File:China; Manchu soldiers, 1869, by John Thomson Wellcome L0056535.jpg|300px|thumb|広州の駐防旗兵(1869年)]] 駐防八旗は、清の入関後、各地の反清運動を鎮圧し、統制を強化するために派遣された八旗である。駐防八旗は、畿輔駐防、東三省駐防、各省駐防、新疆駐防の4系統に分けることができる。 '''畿輔駐防'''は、直隷駐防とも称され、乾隆帝後期、良郷、昌平、水平、保定等25ヶ所に8000人が駐屯した。 '''東三省駐防'''は、盛京、吉林、黒龍江駐防に分かれる。盛京駐防は、盛京将軍が統括し、盛京、遼陽、開原等40ヶ所に1万6000人が駐屯した。吉林駐防は、吉林将軍が統括し、兵力は9000人だった。黒龍江駐防の八旗兵とソロン(索倫)族兵7000人は、黒龍江将軍が統括した。 '''各省駐防'''は、山東、山西、河南、江蘇、浙江、四川、福建、広東、湖北、陝西、甘粛等11省の20都市に駐屯し、乾隆帝後期、計4万5000人に達した。各省駐防は、各都市に設けられた将軍又は副都統が管轄し、各省駐防の兵数は300 - 3000人程度だった。 '''新疆駐防'''は、西域兵とも称され、[[ジュンガル]]部、[[ウイグル]]部の征服後に設置された。兵数は1万5000人で、[[イリ将軍]]が統括した。 == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == *岡田英弘編『清朝とは何か』藤原書店、2009年 == 関連項目 == {{Div col}} * [[清の兵制]] ** [[新軍]] * [[外藩蒙古]] *[[盟旗制度]] *[[旗 (行政単位)]] * [[内属蒙古]] * [[猛安・謀克]] * [[衛所制|千戸制]] * [[近衛兵]] * [[八旗通志]] * [[漢軍八旗]] * [[緑営]] * [[旗本]] * [[国民皆兵]] * [[屯田兵]] {{Div col end}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はつき}} [[Category:社会組織の種類]] [[Category:満洲民族]] [[Category:清朝の軍事]] [[Category:後金]] [[Category:中国の制度史]] [[Category:中国の名数8|き]] [[Category:ヌルハチ]]
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僧(そう、梵: संघ Saṃgha)は、サンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。 「僧伽に属する人々」の意である僧侶(そうりょ)が転じて個人を僧と呼ぶことが多くなっていったが、原義として僧とは戒師により親しく具足戒(波羅提木叉)を授けられ(=受戒)、これを守る出家修行者たちの集団そのものを集合的に指す。 古代インドでは、仏教に限らず、婆羅門以外の出家者・遊行者のことを、一般に「沙門」と呼ぶ。その中でもこの仏教の僧伽の正式な構成員は、男性であれば比丘(びく、乞食の意)、女性であれば比丘尼(びくに)と呼び表される。 僧伽(サンガ)は、一般に「僧団」と言いかえられてもいるが、釈迦当時の時代から現代まで上座部仏教、大乗仏教、密教を問わず、在家信者を含まない純粋な、出家者たちの共同体である(比丘僧伽)。 大迦葉、サーリプッタなど仏弟子たちは、みな釈迦に以下の願いを訴え、認められて子弟となっている(三帰依)。 Esāhaṃ bhante bhagavantaṃ saraṇaṃ gacchāmi dhammañca bhikkhusaṅghañca. Labheyyāhaṃ bhante bhagavato santike pabbajjaṃ, labheyyaṃ upasampadanti". 私は、世尊、法、比丘僧伽(bhikkhusaṅghañca)へ帰依いたします。 尊者よ、願わくば世尊の許しにて、出家することを得、具足戒を得んことを。 元々の意味は集団や集会であり、仏教以前の時代の古代インドでは、自治組織をもつ同業者組合や、貴族による共和政体などもサンガと呼んだ。 比丘・比丘尼は、出家者における男女の区別によるが、いずれも具足戒をうけた出家修行者を指す。比丘(Bhikkhu)の原義は「乞食」(こつじき)を意味している。出家者として全く生産に従事しない比丘・比丘尼は、他者から布施されるものによって、生活を維持している。衣は糞掃衣を着し、食は「托鉢」によって得たものを食し、住は森林や園林に生活したのが、これら出家者であり、現在でも比較的これらに近い生活形態は、東南アジアの上座部仏教圏で見られる。少数ながら大乗仏教圏でも見られることがある。 これら比丘・比丘尼は女犯戒によって結婚はおろか接触もできないのが伝統的姿勢であるが、チベット主流であるゲルク派以外の宗派や日本(当初は各派「沙弥、比丘のいずれにしても妻帯は全く問題外のこと」としていたが、時代が下ると共に許容するようになる)等では妻帯による世襲を行っており、タイやミャンマーでは儀礼として一時出家した僧侶がすぐに還俗して子を成すことが珍しくない。 僧伽に属してはいるが、具足戒(波羅提木叉)をまだ授けられておらず、僧伽の正式なメンバーとなっていない「見習い僧・小僧」は、男性(少年)であれば「沙弥」(しゃみ)、女性(少女)であれば「沙弥尼」(しゃみに)と呼ばれる。 仏教の在家信徒は、「三帰依」を誓い、通常は「五戒」、「八斎戒」の二種類の戒を守ることが求められるが、この沙弥・沙弥尼には、代わりに「三帰依」を誓った後、沙弥の「十戒」や、沙弥尼の「十八戒」が授けられる。彼らは通常、20歳になって、具足戒(波羅提木叉)を授けられることで、正式な僧伽のメンバーである「比丘」や「比丘尼」となることができる。 しかしながら、日本仏教とチベット仏教において妻帯を認めるニンマ派とカギュ派は、実態に於いても、教義上からも、これらの宗派では具足戒が完全に守られているとは言えず、定義上は僧伽ではないと見る向きもある。日本の影響下にある、韓国仏教の少数派太古宗でも同じである。しかし、チベット仏教の主流派であるゲルク派、および韓国仏教の最大宗派曹渓宗は妻帯を認めていない。 日本やネパールにおけるネワール仏教のグバジュ(Gubhaju)など、世襲の仏教特権階級から具足戒を(破戒によって失われない戒体として)形式的にのみ受けるケースも見られるが、儀礼的なもので実践されるものではない。 釈迦の布教によって彼の教えに帰依する出家修行者は増加していき、それぞれ5人から20人程度の小単位に分かれて活動を行うようになった。このような集団を現前僧伽と呼ぶ。ところが、現前僧伽の活動が活発になると、僧伽自身の統制、さらに相互の連絡等の必要が生じ、やがて四方僧伽と呼ばれるような僧伽全体の組織が必要となってきた。これが今日の一般的な意味における僧伽である。 釈迦の死から100年後の第二回結集における根本分裂以降、それぞれの考えの違いから僧伽は分裂して行き、部派仏教の時代に入る。各部派はそれぞれに独自のアビダルマ(論書)を著して教義を明確化して行き、最終的に約20程度の部派が成立することになった。 僧の構成員はすべて律を遵守し、インドにおいては大乗の出家者でさえ在来の部派仏教に所属し、それぞれの部派の律に従っていた。純粋な大乗の教団を持つチベットでは、在来の僧を「声聞僧伽」(しょうもんそうぎゃ)と呼び、大乗の僧を「菩薩僧伽」と呼ぶようになった。 日本の仏教においては、奈良時代に至り、唐から律宗の鑑真によってもたらされた法蔵部の『四分律』と、それに基づく戒壇・授戒制度により、正式な僧伽が成立した。朝廷も租税・軍役逃れの私度僧を取り締まるために、それを積極的に活用した。 しかし、平安時代に至り、中国から天台宗を移植した日本天台宗の開祖最澄が、大乗経典の『梵網経』の書面と、それまで中国天台宗にはなかった解釈に基づく戒法を法華三部経に数える『観普賢菩薩行法経』(大正蔵:No277)を基にして、筆授により感得して提唱し、時の朝廷に出願した。最澄の没後、弘仁13年(822年)に最澄への追悼の意味から朝廷も公認し勅許を得て、翌年の弘仁14年に延暦寺の一乗止観院において弟子の光定を筆頭とする14名の大乗戒壇による授戒が行われた。これより、比叡山では旧来の戒律である具足戒と数種類の大乗戒を併用する体系的な戒法を無視した、鳩摩羅什訳とする『梵網経』による大乗戒の「梵網戒」(円頓戒)のみに基づく大乗戒壇による授戒を行うようになり、いわゆる日本仏教独自の「具足戒」を持たない宗派が生まれた。 ただし、最澄の唱えた大乗戒壇の基礎となる、大乗の『梵網経』には十重禁戒として、殺生戒により生き物を殺すことと、その原因となる全ての行為を禁止し、女犯とその原因となる全ての行為を禁止し、酒の売買と飲酒の原因となる全ての行為を禁止し、更にそれらを含む十重禁戒のどれかに違反した際には、僧籍に加えて全ての資格を失い仏教徒ではなくなるとしている。また、かつての比叡山においては、大乗戒壇で出家した僧は、12年に亘る籠山(ろうざん)の後、下山する際に「具足戒」を授かってから、比叡山を離れるのが通例となっていた。それゆえ「梵網戒」(円頓戒)が生きていた時代には、女犯(妻帯)や飲酒等の行為は、大乗戒壇の僧には最澄の直筆による『山家学生式』により、あってはならない行為と規定されていた。 やがて、鎌倉時代に至ると、天台宗から派生した各宗派(鎌倉仏教)が普及するに従って、円頓戒などのみ受持する僧侶が多く現れた。その中でも日蓮(1222-1282)は、最澄に仮託される『末法灯明記』を信じ、それを典拠として「末法無戒」を主張し、いわゆる末法の世の中においてはあらゆる戒律を必要とせず、ただ題目を唱えることを主張した。また、三宝のうちの僧伽を伴わない浄土真宗のような宗派も生じた。それに倣って、本来は「具足戒」を守るはずの宗派も戒律の形骸化が著しく、男色を行い、加えて妻帯する僧侶も数多くいた。しかし、その一方で叡尊を祖とする真言律宗のように、自得の戒である『自誓授戒』による「具足戒」を復興しようとする動きも一部ではあったが、鎌倉時代以降は戒律が形骸化する全体の流れを変えるまでには至らなかった。 江戸時代に至ると、政治的には統制が厳しい江戸幕府の下、僧職者の肉食と妻帯(女犯)が国法などでは禁じられ、仏教側からは叡尊以来の戒律復興運動が実を結ぶ形で最低限の規律は守られるようになったが、本来の戒律(「具足戒」を基礎とする体系的な戒法)や僧伽を復興するまでには至らなかったとの評価もある。 この時代に戒律復興運動を行った人物としては、禅宗では黄檗宗の開祖であり、中国の皇帝の師でありながら鑑真と同様に栄誉を捨てて日本に渡来して、「禅密双修」や「禅浄双修」(念仏禅)等の特色を持つ中国禅に加えて、当時の出家戒を伝えた隠元禅師が挙げられる。隠元禅師が伝えた中国流の「具足戒」と「出家作法」は、京都を中心とする一帯の仏教教派の注目を集め、曹洞宗や臨済宗の復興に役立っただけではなく、招来の文物は書道・煎茶道・普茶料理・隠元豆等、後の鉄眼和尚の『黄檗版大蔵経』と共に日本の仏教に多大な影響を与えた。 『正法律』を提唱した慈雲尊者や、『如法真言律』を提唱した浄厳覚彦が活躍した。 近代(明治時代)に至り、日本では明治政府が明治5年4月25日公布の太政官布告第133号「僧侶肉食妻帯蓄髪等差許ノ事」を布告、僧侶の妻帯(女犯)・肉食・蓄髪・法要以外での平服着用等を公的に許可した。こうして僧職者に対する国法による他律的縛りはなくなり、職業化したり世襲化した者が僧侶として公然と存在することができるようになった。 なお、戦前に戒律・僧伽復興運動を行った人物としては、真言宗の釈雲照、更には、その甥でスリランカに留学し、日本人初の上座部仏教徒となって日本で「釈尊正風会」を組織した釈興然がいる。 近年では、『日本テーラワーダ仏教協会』や『龍蔵院デプン・ゴマン学堂日本別院』のように、上座部仏教やチベット仏教系の僧院も輸入・移植され、その僧伽の構成員である比丘や比丘尼もいる。このように、現在は上座部仏教やチベット仏教系の僧伽が日本に存在し、それらの僧の指導に基づく各種の正式な戒律を学ぶことができる。また、事実として既成の伝統仏教を離れ、上座部仏教やチベット仏教に基づく日本人の正式な受戒者の僧侶や仏教徒が、正統な戒律を新たに受け継ぎ活動している。 一方で、日本仏教においては、平安時代の最澄以降、戒律(具足戒:波羅提木叉)の戒脈や、それを基にした僧伽の伝統は、基本的に途絶えており、具足戒を受持する出家者・修行者は、他国の僧伽で受戒したごく少数者を除いて、現代の日本仏教各宗派には存在しない。 しかしながら現状を肯定する新しい解釈によって、職業として儀式のみを行い、具足戒を遵守しない、伝統の宗派におけるこれらの僧職者と檀信徒のみで構成される「在家教団」を僧伽(サンガ)と見做すべきであるという意見もある。だが、この場合かつては私度僧に分類されたであろう自称僧侶の宗教家や祈祷師、仏教系新宗教の出家者や教団職員との区別基準が既得権益のみである事にもなりかねない。 上座部仏教において、歴史的に広く用いられてきた律である。比丘は二百五十戒を遵守する。正式な戒師が居ない等の理由で自国での授戒が難しい場合、国外から戒師を招来する必要がある。 戒律の条項は以下の通りである。 僧侶の規律として剃髪がある。また、剃髪した僧侶が、還俗して髪を伸ばすことは蓄髪(ちくはつ)という。 ちなみに、『小事犍度』には、螺髻梵志(バラモン教の僧侶)は頭髪を伸ばして、それを頭の上で輪にして留めていた。しかし仏教では「僧は長髪を持すべからず。二カ月もしくは二指間は許す」と伝え、『四分律』では、「応に鬚髪を剃るべし。極長は長さ両指、もしくは二カ月に一剃する。これは極長なり」と記し、『十誦律』は、「六群比丘が髪を留めて捲かしめ、留めて長くしていた時に、髪を留めて長からしめるべからず」と説いた。ただし、人気のない静かな場所で独住して修行する林住比丘の場合、長さ二寸(約6cm)までは無罪であるとする。 大衆部の律には、釈尊は「四カ月に一度、剃髪をされた」と伝承されている。
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僧は、サンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。 「僧伽に属する人々」の意である僧侶(そうりょ)が転じて個人を僧と呼ぶことが多くなっていったが、原義として僧とは戒師により親しく具足戒(波羅提木叉)を授けられ(=受戒)、これを守る出家修行者たちの集団そのものを集合的に指す。 古代インドでは、仏教に限らず、婆羅門以外の出家者・遊行者のことを、一般に「沙門」と呼ぶ。その中でもこの仏教の僧伽の正式な構成員は、男性であれば比丘(びく、乞食の意)、女性であれば比丘尼(びくに)と呼び表される。
{{Otheruses|仏教の僧|その他の僧、僧侶|僧侶 (曖昧さ回避)}} {{Infobox Buddhist term | title = 僧(そう) | en = Sangha | image = [[File:Phutthamonthon Buddha.JPG|280px]] | caption= タイのサンガ | pi = Saṅgha | sa = संघ Saṃgha | bn = | my = | my-Latn = | zh = 僧, 僧伽, 和合眾 | zh-Latn = | ja = 僧伽 | ja-Latn = sanga | km = សង្ឃ<br />([[Romanization of Khmer#UNGEGN|UNGEGN]]: {{transl|km|sângkh}}; [[Romanization of Khmer#ALA-LC Romanization Tables|ALA-LC]]: {{transl|km|sanggh}}) | ko = 승가<br />僧伽 | ko-Latn = seungga | mnw = | mnw-Latn = | shn = | shn-Latn = sangaya | si = සංඝයා | si-Latn = | ta = சங்கம் | th = (พระ)สงฆ์ | th-Latn = (phra)song | bo = དགེ་འདུན་ | bo-Latn = dge 'dun<ref name=Buswell-2013>{{cite book |editor1-last=Buswell |editor1-first=Robert Jr. |editor2-last=Lopez |editor2-first=Donald S. Jr. |editor1-link=Robert Buswell Jr. |editor2-link=Donald S. Lopez Jr. |title=Princeton Dictionary of Buddhism |date=2013 |publisher=Princeton University Press |location=Princeton, NJ |isbn=9780691157863}}</ref> | vi = Tăng đoàn<br/>Tăng già<br/>僧團<br/>僧伽 | id = | tl = Sangha<br>ᜐᜀᜈᜄᜑᜀ }} '''僧'''(そう、{{lang-sa-short|संघ Saṃgha}})は、サンガを音写した「'''僧伽'''」の略で[[仏教]]の[[波羅提木叉|戒律]]を守る男性の[[出家|出家修行者]]である「[[比丘]](びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと{{refnest|name="nipponica_僧"|[[平川彰]][https://kotobank.jp/word/%E5%83%A7-89093#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「僧」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]、小学館。}}。仏教の[[三宝]]の一つ{{refnest|name="mypedia_僧"|[https://kotobank.jp/word/%E5%83%A7-89093#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 「僧」 - 百科事典マイペディア]、平凡社}}。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる{{refnest|name="nipponica_僧"}}。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という{{refnest|name="nipponica_僧"}}。衆あるいは和合衆と訳される{{refnest|name="mypedia_僧"}}。 「僧伽に属する人々」の意である'''僧侶'''(そうりょ)が転じて個人を僧と呼ぶことが多くなっていったが、原義として僧とは戒師により親しく[[具足戒]](波羅提木叉)を授けられ(=受戒)、これを守る出家修行者たちの集団そのものを集合的に指す<ref name=sasaki />{{efn2|「サンガとは、[[中国語]]で「衆」という意味である。「戒律を守る出家者([[比丘]])が一処に和合すること、これをサンガというのである。」原文:「[[僧伽]]、秦に衆という。多くの比丘、一処に和合する。これを僧伽となずく」(『''[[大智度論]]'' 』)}}。 [[インドの歴史|古代インド]]では、[[仏教]]に限らず、[[婆羅門]]以外の出家者・遊行者のことを、一般に「[[沙門]]」と呼ぶ。その中でもこの仏教の僧伽の正式な構成員は、男性であれば[[比丘]](びく、乞食の意)、女性であれば[[比丘尼]](びくに)と呼び表される。 == サンガ(僧伽)とは == '''僧伽'''(サンガ)は、一般に「僧団」と言いかえられてもいるが、[[釈迦]]当時の時代から現代まで[[上座部仏教]]、[[大乗仏教]]、[[密教]]を問わず、在家信者を含まない純粋な、出家者たちの共同体である(比丘僧伽)<ref name=sasaki/>。 [[大迦葉]]、[[サーリプッタ]]など仏弟子たちは、みな釈迦に以下の願いを訴え、認められて子弟となっている([[三帰依]])<ref name=sasaki>{{Cite journal|和書|title=仏教における僧伽の基本的理念について|author=佐々木教悟 |journal=佛教学セミナー |volume=18 |pages=22-36 |date=1973 |naid=120006724417}}</ref>。 {{Quote| Esāhaṃ bhante bhagavantaṃ saraṇaṃ gacchāmi dhammañca bhikkhusaṅghañca.<br> Labheyyāhaṃ bhante bhagavato santike pabbajjaṃ, labheyyaṃ upasampadanti". 私は、世尊、法、比丘僧伽(bhikkhusaṅghañca)へ帰依いたします。<br> 尊者よ、願わくば世尊の許しにて、出家することを得、具足戒を得んことを。 | {{SLTP|[[長部 (パーリ)|長部]] [[大師子吼経]] }} }} 元々の意味は集団や集会であり、仏教以前の時代の古代インドでは、自治組織をもつ同業者組合や、貴族による共和政体などもサンガと呼んだ{{Sfn|宮元|2005|page=87}}。 ===比丘・比丘尼=== {{Main|比丘|雲水}} 比丘・比丘尼は、出家者における男女の区別によるが、いずれも'''具足戒をうけた出家修行者'''を指す<ref name=sasaki>{{Cite journal|和書|title=仏教における僧伽の基本的理念について|author=佐々木教悟 |journal=佛教学セミナー |volume=18 |pages=22-36 |date=1973 |naid=120006724417}}</ref>。比丘({{lang|pi|Bhikkhu}})の原義は「[[乞食]]」(こつじき)を意味している。出家者として全く生産に従事しない比丘・比丘尼は、他者から[[布施]]されるものによって、生活を維持している。衣は[[袈裟|糞掃衣]]を着し、食は「[[托鉢]]」によって得たものを食し、住は森林や園林に生活したのが、これら出家者であり、現在でも比較的これらに近い生活形態は、東南アジアの上座部仏教圏で見られる。少数ながら大乗仏教圏でも見られることがある。 これら比丘・比丘尼は女犯戒によって結婚はおろか接触もできないのが伝統的姿勢であるが、チベット主流であるゲルク派以外の宗派や日本(当初は各派「沙弥、比丘のいずれにしても妻帯は全く問題外のこと」としていたが、時代が下ると共に許容するようになる<ref>{{Cite journal|和書|journal=一橋論叢 |publisher=一橋大学一橋学会一橋論叢編集所 |title=チベットにおける仏教々団主の相続形態 |author=中井英基 |volume=63 |issue=6 |date=1970 |pages=82-101}}</ref>)等では妻帯による世襲を行っており{{Sfn|四津谷|2003|page=96}}、[[タイ王国|タイ]]や[[ミャンマー]]では儀礼として一時出家した僧侶がすぐに還俗して子を成すことが珍しくない<ref>{{Cite journal|和書|journal=ASIA 21 基礎教材編 |publisher=大東文化大学国際関係学部現代アジア研究所広報出版部会 |title=結婚考:7.タイ―新旧結婚式比鮫 |author=小泉康一 |volume=2 |date=1992 |pages=98-102}}</ref>。 ===沙弥・沙弥尼=== 僧伽に属してはいるが、具足戒(波羅提木叉)をまだ授けられておらず、僧伽の正式なメンバーとなっていない「見習い僧・小僧」は、男性(少年)であれば「'''沙弥'''」(しゃみ)、女性(少女)であれば「'''沙弥尼'''」(しゃみに)と呼ばれる。 仏教の在家信徒は、「[[三帰依]]」を誓い、通常は「[[五戒]]」、「[[八斎戒]]」の二種類の戒を守ることが求められるが、この沙弥・沙弥尼には、代わりに「[[三帰依]]」を誓った後、沙弥の「[[十戒 (仏教)|十戒]]」や、沙弥尼の「十八戒」が授けられる。彼らは通常、20歳になって、[[具足戒]](波羅提木叉)を授けられることで、正式な僧伽のメンバーである「[[比丘]]」や「[[比丘尼]]」となることができる。 === 現代において === しかしながら、[[日本の仏教|日本仏教]]と[[チベット仏教]]において妻帯を認める[[ニンマ派]]と[[カギュ派]]は、実態に於いても{{efn2|[[鑑真]]和上の戒や、その後の[[中国]]伝来の戒に繋がる[[真言宗]]や[[真言律宗]]、南都六宗の[[律宗]]、[[法相宗]]などは本来、[[具足戒]]を保持すべきである。チベット仏教も、主要四派の[[ニンマ派]]、[[カギュ派]]、[[サキャ派]]、[[ゲルク派]]は全て具足戒を授かるが、ニンマ派とカギュ派は妻帯を認め{{Sfn|四津谷|2003|page=96}}、サキャ派は教団の法主が歴代世襲制であり、}}、教義上からも{{efn2|天台宗およびそこから派生した諸宗は基本的に具足戒を伝授されない。カギュ派も具足戒よりタントラの実践ヨーガを重視し、女犯戒や不飲酒を不問とするのが現状となっている。}}、これらの宗派では[[具足戒]]が完全に守られているとは言えず{{Sfn|四津谷|2003|page=96}}、定義上は僧伽ではないと見る向きもある。日本の影響下にある、[[韓国仏教]]の少数派[[太古宗]]でも同じである。しかし、チベット仏教の主流派である[[ゲルク派]]{{Sfn|四津谷|2003|page=97}}、および韓国仏教の最大宗派[[曹渓宗]]は妻帯を認めていない。 [[僧#日本仏教における僧伽|日本]]や[[ネパール]]における[[ネパールの仏教|ネワール仏教]]の[[グバジュ]](Gubhaju)など、世襲の仏教特権階級から具足戒を(破戒によって失われない[[戒体]]として)形式的にのみ受けるケースも見られるが、儀礼的なもので実践されるものではない。 ==歴史== ===初期仏教=== 釈迦の布教によって彼の教えに帰依する出家修行者は増加していき、それぞれ5人から20人程度の小単位に分かれて活動を行うようになった。このような集団を'''現前僧伽'''と呼ぶ。ところが、現前僧伽の活動が活発になると、僧伽自身の統制、さらに相互の連絡等の必要が生じ、やがて'''四方僧伽'''と呼ばれるような僧伽全体の組織が必要となってきた。これが今日の一般的な意味における僧伽である。<!--悟った聖者の集団を「聖者僧伽」と呼び、三宝の一つとしての僧はこの聖者僧伽であるともなされ、[[凡夫]]の僧を「[[凡夫僧伽]]」「[[世俗僧伽]]」ともいう<ref name=mahayana_sangha1/>。--> ===部派仏教=== 釈迦の死から100年後の第二回[[結集]]における[[根本分裂]]以降、それぞれの考えの違いから僧伽は分裂して行き、[[部派仏教]]の時代に入る。各部派はそれぞれに独自の[[アビダルマ]](論書)を著して教義を明確化して行き、最終的に約20程度の部派が成立することになった。 ===大乗仏教=== 僧の構成員はすべて律を遵守し、インドにおいては大乗の出家者でさえ在来の部派仏教に所属し、それぞれの部派の律に従っていた{{Sfn|小林|2000|page=39}}。純粋な大乗の教団を持つチベットでは、在来の僧を「[[声聞僧伽]]」(しょうもんそうぎゃ)と呼び、大乗の僧を「菩薩僧伽」と呼ぶようになった<ref name=mahayana_sangha1>[https://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index4.html 僧伽(修行者たちの集まり=僧)の本質 - ニンマ派高僧トゥルシック・リンポチェによる「37の菩薩の実践」]</ref>。 ==日本仏教における僧伽== === 古代・中世 === 日本の仏教においては、[[奈良時代]]に至り、[[唐]]から[[律宗]]の[[鑑真]]によってもたらされた[[法蔵部]]の『[[四分律]]』と、それに基づく[[戒壇]]・[[授戒]]制度により、正式な僧伽が成立した。[[朝廷 (日本)|朝廷]]も租税・軍役逃れの[[私度僧]]を取り締まるために、それを積極的に活用した。 しかし、[[平安時代]]に至り、中国から[[天台宗]]を移植した日本天台宗の開祖[[最澄]]が、大乗経典の『[[梵網経]]』の書面と、それまで[[中国天台宗]]にはなかった解釈に基づく戒法を[[法華三部経]]に数える『[[観普賢菩薩行法経]]』(大正蔵:№277){{Sfn|恵谷|1976|pages=40-44, 59-68}}を基にして、[[筆授]]により感得して提唱し、時の朝廷に出願した。最澄の没後、[[弘仁]]13年(822年)に[[最澄]]への[[追悼]]の意味から朝廷も公認し勅許を得て、翌年の弘仁14年に[[延暦寺]]の[[一乗止観院]]において弟子の[[光定]]を筆頭とする14名の[[大乗戒壇]]による授戒が行われた{{efn2|この時、[[嵯峨天皇]]が授けた授戒の証明書である『[[光定戒牒]]』([[国宝]]:弘仁14年4月14日付)が比叡山に残されている。}}。これより、[[比叡山]]では旧来の[[戒律]]である[[具足戒]]と数種類の大乗戒を併用する体系的な戒法を無視した、[[鳩摩羅什]]訳とする『[[梵網経]]』による大乗戒の「[[梵網戒]]」([[円頓戒]])のみに基づく[[大乗仏教|大乗]][[戒壇]]による授戒を行うようになり、いわゆる[[日本仏教]]独自の「[[具足戒]]」を持たない宗派が生まれた。 ただし、[[最澄]]の唱えた[[大乗仏教|大乗]][[戒壇]]の基礎となる、大乗の『[[梵網経]]』には[[十重禁戒]]として、[[殺生戒]]により生き物を殺すことと、その原因となる全ての行為を禁止し<ref>『梵網菩薩戒経』(四季社)、pp.21-23。『梵網経』(大蔵出版)、pp.75-76。</ref>、[[女犯]]とその原因となる全ての行為を禁止し<ref>『梵網菩薩戒経』(四季社)、pp.25-27。『梵網経』(大蔵出版)、pp.88-89。</ref>、酒の売買と飲酒の原因となる全ての行為を禁止し<ref>『梵網菩薩戒経』(四季社)、pp.30-31。『梵網戒』(大蔵出版)、pp.99-100。</ref>、更にそれらを含む[[十重禁戒]]のどれかに違反した際には、僧籍に加えて全ての資格を失い仏教徒ではなくなる{{efn2|これらの戒を破れば大乗戒の「[[波羅夷罪]]」となる。{{Sfn|恵谷|1976|page=46}}}}としている。また、かつての[[比叡山]]においては、大乗戒壇で出家した僧は、12年に亘る[[籠山]](ろうざん)の後{{efn2|[[比叡山]]の結界内、または特定の寺院内に篭って、そこから外に出ることを禁止し、学問と修行の完成に尽力した。}}、下山する際に「[[具足戒]]」を授かってから、比叡山を離れるのが通例となっていた。それゆえ「[[梵網戒]]」(円頓戒)が生きていた時代には、[[女犯]](妻帯)や[[飲酒]]等の行為は、[[大乗仏教|大乗]][[戒壇]]の僧には[[最澄]]の直筆による『[[山家学生式]]』により、あってはならない行為と規定されていた。 やがて、[[鎌倉時代]]に至ると、天台宗から派生した各宗派([[鎌倉仏教]])が普及するに従って、[[円頓戒]]などのみ受持する僧侶が多く現れた。その中でも[[日蓮]](1222-1282)は、[[最澄]]に仮託される『[[末法灯明記]]』<ref>『末法燈明記』(安居事務所)、[引用]p9、[末法燈明記原文]pp.176-205。</ref>{{efn2|[[インド仏教]]にはない、「[[終末思想]]」に基づく[[中国仏教]]独自の[[末法]]観を背景とした日本の[[緯書]]。最澄の死後の400年後に世に出て、出典の経名に誤りが多く誤字や脱字も見られるので、[[最澄]]に仮託されるも[[文献学]]的には「[[偽書]]」とされる。[[緯書]]としての性格から[[鎌倉仏教]]に与えた影響は大きく、[[法然]](1133-1212)の『[[逆修説法]]』等をはじめとして、[[日蓮]]の『[[四信五品鈔]]』、[[親鸞]](1173-1263)の『[[教行信証]]』、[[明菴栄西|栄西]](1141-1215)の『[[興禅護国論]]』に依用するところから、各宗派の[[宗学]]においては[[神聖視]]され、最澄の著作として疑うことを許さない。いわゆる[[緯書]]は時代の変わり目に出現し、中国では革命思想を生む切っ掛けともなったが、この書は本来の目的を離れて、[[日本仏教]]における[[戒律]]否定の大きな原因となった。}}を信じ、それを典拠として「[[末法無戒]]」を主張し、いわゆる'''[[末法]]の世の中'''においてはあらゆる[[戒律]]を必要とせず、ただ[[題目]]を唱えることを主張した。また、三宝のうちの僧伽を伴わない{{efn2|浄土真宗には、開祖の親鸞が還俗したのを先例として、正式な僧はいない。現在、実質上は僧侶と呼ぶべき人々はいるが、浄土真宗では受戒はまったく行わず、形式上も、実践的にも僧侶ではない。}}[[浄土真宗]]のような宗派も生じた。それに倣って、本来は「[[具足戒]]」を守るはずの宗派も戒律の形骸化が著しく、男色を行い、加えて妻帯する僧侶も数多くいた{{efn2|特に男色の弊害を示す好例として、自らの男性遍歴を告白する文書を残した[[東大寺]]の僧侶・[[宗性]]をあげることができる{{Sfn|松尾|2008|pages=70-80, 95-96}}。}}。しかし、その一方で[[叡尊]]を祖とする[[真言律宗]]のように、自得の戒である『'''[[自誓授戒]]'''』による「[[具足戒]]」を復興しようとする動きも<ref>『叡尊教団における戒律復興運動』、p21-41。</ref>一部ではあったが、[[鎌倉時代]]以降は戒律が形骸化する全体の流れを変えるまでには至らなかった。 === 江戸時代 === [[江戸時代]]に至ると、政治的には統制が厳しい[[江戸幕府]]の下、僧職者の[[肉食]]と妻帯([[女犯]])が国法などでは禁じられ、仏教側からは[[叡尊]]以来の[[戒律復興運動]]が実を結ぶ形で最低限の規律は守られるようになったが、本来の戒律(「[[具足戒]]」を基礎とする体系的な戒法)や僧伽を復興するまでには至らなかったとの評価もある。 この時代に[[戒律復興運動]]を行った人物としては、禅宗では[[黄檗宗]]の開祖であり、中国の皇帝の師でありながら[[鑑真]]と同様に栄誉を捨てて日本に渡来して、「[[禅密双修]]」や「[[禅浄双修]]」([[念仏禅]])等の特色を持つ中国禅に加えて、当時の[[出家]]戒を伝えた[[隠元隆琦|隠元]]禅師が挙げられる。[[隠元隆琦|隠元]]禅師が伝えた中国流の「具足戒」と「出家作法」は、京都を中心とする一帯の仏教教派の注目を集め、[[曹洞宗]]や[[臨済宗]]の復興に役立っただけではなく、招来の文物は[[書道]]・[[煎茶道]]・[[普茶料理]]・[[隠元豆]]等、後の[[鉄眼]]和尚の『[[黄檗版]][[大蔵経]]』{{efn2|この版は[[明代]]の『[[大蔵経]]』に基づくもので、別名を『鉄眼版大蔵経』とも呼ばれる。}}と共に日本の仏教に多大な影響を与えた。 『[[正法律]]』を提唱した[[慈雲]]尊者や、『[[如法真言律]]』を提唱した[[浄厳]]覚彦が活躍した。 === 近現代 === 近代([[明治時代]])に至り、日本では<!--[[廃仏毀釈]]の影響下のなかで、[[富国強兵]]の政策を進めるために-->[[明治政府]]が[[明治5年]][[4月25日]]公布の[[太政官布告]]第133号「'''[{{NDLDC|788366/7}} 僧侶肉食妻帯蓄髪等差許ノ事]'''」を布告、僧侶の妻帯([[女犯]])・[[肉食]]・蓄髪・法要以外での平服着用等を公的に許可した。こうして僧職者に対する国法による他律的縛りはなくなり、[[職業]]化したり[[世襲]]化した者が僧侶として公然と存在することができるようになった。 なお、戦前に戒律・僧伽復興運動を行った人物としては、[[真言宗]]の[[釈雲照]]、更には、その甥で[[スリランカ]]に留学し、日本人初の[[上座部仏教]]徒となって日本で「釈尊正風会」を組織した[[釈興然]]がいる{{Sfn|東元|1982|pages=52-54,56}}。 近年では、『[[日本テーラワーダ仏教協会]]』や『[[龍蔵院デプン・ゴマン学堂日本別院]]』のように、[[上座部仏教]]や[[チベット仏教]]系の僧院も輸入・移植され、その僧伽の構成員である比丘や比丘尼もいる。このように、現在は[[上座部仏教]]や[[チベット仏教]]系の僧伽が日本に存在し、それらの僧の指導に基づく各種の正式な[[戒律]]を学ぶことができる。また、事実として既成の[[伝統仏教]]を離れ、上座部仏教やチベット仏教に基づく日本人の正式な[[受戒者]]の[[僧侶]]や[[仏教徒]]が、正統な戒律を新たに受け継ぎ活動している。 一方で、[[日本仏教]]においては、平安時代の[[最澄]]以降、戒律([[具足戒]]:[[波羅提木叉]])の戒脈や、それを基にした僧伽の伝統は、基本的に途絶えており、具足戒を受持する出家者・修行者は、他国の僧伽で受戒したごく少数者を除いて、現代の日本仏教各宗派には存在しない。 しかしながら現状を肯定する新しい解釈によって、[[職業]]として儀式のみを行い、[[具足戒]]を遵守しない、伝統の宗派におけるこれらの僧職者と檀信徒のみで構成される「在家教団」を僧伽(サンガ)と見做すべきであるという意見<!--<ref group="注">ただし、このことは僧伽(サンガ)のあり方を根底から変えることになるため、[[波羅夷罪]]に抵触する。また、伝統的な仏教において説かれる[[無間地獄]]に落ちるとされる[[五逆罪]]を犯すことにもなる。また、熱心な僧形の信者や祈祷師、仏教系宗教の出家者や教団職員も僧侶に含めても良い事になる。</ref>-->もある。だが、この場合かつては私度僧に分類されたであろう自称僧侶の宗教家や祈祷師、仏教系新宗教の出家者や教団職員との区別基準が既得権益のみである事にもなりかねない。 ==四分律== {{main|四分律}} 上座部仏教において、歴史的に広く用いられてきた[[律 (仏教)|律]]である。比丘は'''二百五十戒'''を遵守する。正式な戒師が居ない等の理由で自国での授戒が難しい場合、国外から戒師を招来する必要がある。 [[戒律]]の条項は以下の通りである<ref>戒律の条項については、真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺HP [http://www.horakuji.hello-net.info/lecture/sibunritsu/contents/index.htm]を参照した。</ref>。 *'''波羅夷法'''[四ヶ条](これを犯した場合、全ての資格と財産を剥奪された上、'''僧伽'''とあらゆる仏教教団から追放され、2年間一切の宗教活動を禁止された上、二度と僧侶となることは出来ないもの;「[[波羅夷罪]]」ともいう) *#'''婬戒''' : いかなる性行為も行なってはならない。 *#'''盗戒''' : 盗心をもって与えられていないものを取ってはならない。 *#'''殺人戒''' : 殺人を犯してはならない。 *#'''大妄語戒''' : 未だその境地を得ていないのに悟りを得たなどと嘘をついてはならない。ただし自信過剰による思い上がりの場合は除く。また、仏教教団としての'''僧伽'''の調和を著しく乱すようなことや、そのあり方を変えてはならない。 *僧残法 [十三ヶ条] *不定法 [二ヶ条] *尼薩耆波逸提法 [三十ヶ条] *波逸提法 [九十ヶ条] *波羅提提舎尼法 [四ヶ条] *衆学法 [百ヶ条] *滅諍法 [七ヶ条] ===剃髪=== 僧侶の規律として[[剃髪]]がある。また、剃髪した僧侶が、[[還俗]]して髪を伸ばすことは'''蓄髪'''(ちくはつ)という{{refnest|name="精選版_蓄髪"|[https://kotobank.jp/word/%E8%93%84%E9%AB%AA-565630#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 「蓄髪」 - 精選版 日本国語大辞典]、小学館。}}。 ちなみに、『小事犍度』には、螺髻梵志(バラモン教の僧侶)は頭髪を伸ばして、それを頭の上で輪にして留めていた。しかし仏教では「僧は長髪を持すべからず。二カ月もしくは二指間は許す」と伝え、『四分律』では、「応に鬚髪を剃るべし。極長は長さ両指、もしくは二カ月に一剃する。これは極長なり」と記し、『十誦律』は、「[[六群比丘]]が髪を留めて捲かしめ、留めて長くしていた時に、髪を留めて長からしめるべからず」と説いた。ただし、人気のない静かな場所で独住して修行する林住比丘{{efn2|{{lang-pi-short|āraññika-bhikkhu}}, 阿練児比丘}}の場合、長さ二寸(約6cm)までは無罪であるとする。<ref>「仏在王舎城。(…)爾時六群比丘。留髪令長。仏言。不応留髪令長。若留者突吉羅。若阿練児比丘長至二寸無罪。」(『十誦律』巻第三十七)</ref> 大衆部の律には、釈尊は「四カ月に一度、剃髪をされた」<ref>「復次仏住舎衛城。広説如上。爾時世尊四月一剃髪。世人聞仏剃髪故。送種種供養」(『摩訶僧祇律』十八)</ref>と伝承されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2016年3月|section=1}} *{{Cite book|和書|author=宮元啓一|authorlink=宮元啓一|year = 2005|title = 仏教かく始まりき―パーリ仏典『大品』を読む|publisher = 春秋社|ref = {{SfnRef|宮元|2005}} }} *[[浅井證善]] 著 『初心の修行者の戒律 - 訳註「教戒律儀」- 』([[中川善教]]師校訂「教誡新学比丘行護律儀」)、高野山出版社、2010年刊。 *[[鈴木修学]] 著 『仏説観普賢菩薩行法経』、青山書院、昭和57年刊。 *[[岩井憲照]] 著 『叡尊教団における戒律復興運動』(「歴史研究」、№36)、大阪教育大学歴史学研究室、1999年刊。 *『梵網菩薩戒経』、株式会社 四季社、2002年刊。 *[[石田瑞磨]] 著 『梵網経』、大蔵出版株式会社、2002年刊。 *[[壬生台舜]] 著 「日本の仏教 第三巻 『叡山の新風』 山家学生式([[最澄]])、入唐求法巡礼記([[円仁]])」、筑摩書房、昭和42年(1977年)刊。 *{{Cite book|和書|author=恵谷隆戒|authorlink=恵谷隆戒|year = 1976|title = 円頓戒概説|publisher = [[浄土宗]]宗務庁|ref = {{SfnRef|恵谷|1976}} }} *[[松原祐善]] 著 『末法燈明記』(非売品)、安居事務所、昭和35年(1960年)刊。 **松原祐善 著 『末法燈明記の研究』、法蔵館、1978年刊。[上記の再版] *{{Cite book |和書 |author=中村元他|authorlink=中村元|year=1989 |title=岩波仏教辞典 |edition=第2版 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-080072-8 |ref={{SfnRef|岩波仏教辞典第2版|1989}} }} *{{Cite book|和書|author = 柴山全慶、秋月龍珉|year = 1967|title = 講座 禅 第二巻 禅の実践|publisher = 筑摩書房|ref = {{SfnRef|講座禅第二巻|1967}} }} * {{Cite journal |last=東元 |first=慶喜 |title= 釈尊正風会のひとびと〔含 釈興然略年譜〕 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110007014839 |journal=駒沢大学仏教学部研究紀要 |volume= |issue=40 |date=1982 |publisher=駒澤大学 |pages=51-61 |ref={{SfnRef|東元|1982}} }} * {{Cite journal |last=小林 |first=信彦 |title= 教団法(戒律)と心掛け(戒) : 日本人の気づかなかった区別 |url=http://id.nii.ac.jp/1420/00001029/ |journal=桃山学院大学総合研究所紀要 |volume=25 |issue=2 |date=2000 |publisher=桃山学院大学総合研究所 |pages=35-50 |ref={{SfnRef|小林|2000}} }} *{{Cite book|和書|author = 松尾剛次|year = 2008|title = 破戒と男色の仏教史||series=平凡社新書 |publisher = 平凡社|ref = {{SfnRef|松尾|2008}} }} *{{Cite journal|和書|journal=日本仏教学会年報 |publisher=日本仏教学会西部事務所 |title=チベット仏教における継承・相続 |author=四津谷孝道 |volume=69 |date=2003 |pages=95-103 |ref={{SfnRef|四津谷|2003}} }} == 関連項目 == * [[律 (仏教)|律]] - [[戒律]] - [[具足戒]]([[波羅提木叉]]) * [[僧位]]・[[僧綱]] * [[坊主]] * [[出家]] * [[ティラシン]] - [[ミャンマー]]における女性出家者 * [[梵網経]] * [[末法思想]] * {{ill2|宗教服|en|Religious habit}} - [[仏教]]の[[袈裟]]など宗教で着る事が義務付けられている服装について == 外部リンク == *「[https://web.archive.org/web/20211020111214/http://www.horakuji.com/lecture/samgha/about.htm 法楽寺僧伽(サンガ)とは何か]」([[真言宗泉涌寺派]]大本山 [[法楽寺 (大阪市)|法楽寺]]) * {{Kotobank}} {{Buddhism2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:そう}} [[Category:仏教用語]] [[Category:僧|*]]
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比丘
比丘(びく、巴: Bhikkhu、梵: Bhikṣu)は、仏教において出家し、具足戒を守る男性の修行者である。女性の出家修行者は比丘尼(びくに, Bhikkhunī)。梵語形のBhikṣuの音写から苾芻(びっしゅ)ともいう。日本では一般には僧侶又はお坊さんと呼ぶ。 比丘の生活は涅槃に達することを目的としており、質素な生活を送ることで自身の修行の助けとなるよう設計されている。 インドでは紀元前六世紀ごろから、出家し各地を遊行しながら托鉢する修行者がおり、釈迦もその一人であった。釈迦の弟子が増え仏教教団(サンガ)が成立してからは、その主要な構成員として、信徒に教えを説き、教団を維持する働きをもつ。しかし日本の伝統宗派とネパールのネワール仏教、チベットのニンマ派とカギュ派(ならびにその影響下にあるブータン)においては、僧侶の妻帯と世襲が常態化しており、戒律を始めから受けていないか、あるいは受戒しても守っていない。 元来は「食べ物を乞う人」という意味の言葉。 ブッダゴーサは『清浄道論』で、「輪廻において恐れを見るので、比丘である」 (Pāli: Saṃsāre bhayaṃ ikkhatīti bhikkhu)と通俗語源解釈によって定義しており、「輪廻からの解脱を求めて出家した者」としている。 Na tena bhikkhū hoti yāvatā bhikkhate pare; Vissaṃ dhammaṃ samādāya bhikkhu hoti na tāvatā. Yo'dha puññca pāpañca bāhetvā brahmacariyavā; Saṅkhāya loke carati sa ce bhikkhū'ti vuccati. 他に乞ふのみにては比丘ならず、一切の所應行を服膺するのみにては比丘ならず。 人若し現世に於て罪福を離れて淨行に住し、愼重にして世を行けば眞の比丘と謂はる。 禅宗では、行雲流水という句から、修行者を雲水(うんすい)と呼ぶ。宋史蘇軾伝に「文を作るは行雲流水の如く、初めより定質なし」とあることから、行雲流水の語は、行く雲や流れる水のような、大自然とおのずからなる無心無作のはたらきをいう。禅の修行者は一か所にとどまらず諸方に師を求めて行脚することから、行雲流水の句が禅の修行僧をさすようになった。そこから一般に、一定の僧堂に留まって修行する修行者をも雲水という。雲水はまた、雲衲(うんのう:なお、衲は、雲水の着る破れ衣のこと)、衲子(のっす)、行脚僧ともいう。
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比丘は、仏教において出家し、具足戒を守る男性の修行者である。女性の出家修行者は比丘尼。梵語形のBhikṣuの音写から苾芻(びっしゅ)ともいう。日本では一般には僧侶又はお坊さんと呼ぶ。 比丘の生活は涅槃に達することを目的としており、質素な生活を送ることで自身の修行の助けとなるよう設計されている。 インドでは紀元前六世紀ごろから、出家し各地を遊行しながら托鉢する修行者がおり、釈迦もその一人であった。釈迦の弟子が増え仏教教団(サンガ)が成立してからは、その主要な構成員として、信徒に教えを説き、教団を維持する働きをもつ。しかし日本の伝統宗派とネパールのネワール仏教、チベットのニンマ派とカギュ派(ならびにその影響下にあるブータン)においては、僧侶の妻帯と世襲が常態化しており、戒律を始めから受けていないか、あるいは受戒しても守っていない。
{{Infobox Buddhist term | title = 比丘 | image = [[File:Ta Prohm Monk - Siem Reap.jpg|220px]] | caption = [[袈裟]]を着たカンボジアの比丘 | en = Monk | pi = Bhikkhu | sa = Bhikṣu | my = | my-Latn = | zh = 比丘 | zh-Latn = bǐqiū | ja = 比丘 | ja-Latn = Biku | km = ភិក្ខុ | km-Latn = Bhikkhu | ko = | ko-Latn = | lo = | mnw = | mnw-Latn = | shn = | shn-Latn = | si = භික්ෂුව | si-Latn = | ta = | th = ภิกษุ | bo = | bo-Latn = | vi = | id = }} '''比丘'''(びく、{{lang-pi-short|Bhikkhu}}、{{lang-sa-short|Bhikṣu}})は、[[仏教]]において出家し、[[波羅提木叉|具足戒]]を守る男性の[[僧|修行者]]である{{refnest|name="比丘_nipponica"|[[三枝充悳]]、[https://kotobank.jp/word/%E6%AF%94%E4%B8%98-119359#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「比丘」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]、小学館}}。女性の出家修行者は'''[[尼|比丘尼]]'''(びくに, Bhikkhunī)。梵語形の{{lang|sa|Bhikṣu}}の音写から'''苾芻'''(びっしゅ)ともいう{{refnest|name="精選版_比丘"|[https://kotobank.jp/word/%E6%AF%94%E4%B8%98-119359#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 「比丘」 - 精選版 日本国語大辞典]、小学館。}}{{refnest|name="デジ大辞泉_ひっしゅ"|[https://kotobank.jp/word/%E8%8B%BE%E8%92%AD-610846#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 「苾蒭」 - デジタル大辞泉]、小学館。}}。日本では一般には'''僧侶'''、'''お坊さん'''と呼ぶ。 比丘の生活は[[涅槃]]に達することを目的としており、質素な生活を送ることで自身の[[瞑想|修行]]の助けとなるよう設計されている<ref>[http://en.dhammadana.org/sangha/monks.htm What is a bhikkhu?]</ref>。 [[インド]]では紀元前六世紀ごろから、[[出家]]し各地を遊行しながら[[托鉢]]する修行者がおり、[[釈迦]]もその一人であった。釈迦の弟子が増え仏教教団([[僧伽|サンガ]])が成立してからは、その主要な構成員として、信徒に教えを説き、教団を維持する働きをもつ{{refnest|name="比丘_nipponica"}}。しかし日本の伝統宗派とネパールのネワール仏教、[[チベット]]の[[ニンマ派]]と[[カギュ派]](ならびにその影響下にある[[ブータン]])においては、僧侶の[[結婚|妻帯]]と[[世襲]]が常態化しており、戒律を始めから受けていないか、あるいは受戒しても守っていない<ref>{{Cite journal|和書|journal=日本仏教学会年報 |publisher=日本仏教学会西部事務所 |title=チベット仏教における継承・相続 |author=四津谷孝道 |volume=69 |date=2003 |pages=95-103}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|journal=一橋論叢 |publisher=一橋大学一橋学会一橋論叢編集所 |title=チベットにおける仏教々団主の相続形態 |author=中井英基 |volume=63 |issue=6 |date=1970 |pages=82-101}}</ref>。 == 定義 == 元来は「食べ物を乞う人」という意味の言葉{{refnest|name="比丘_nipponica"}}。 [[ブッダゴーサ]]は『[[清浄道論]]』で、「[[輪廻]]において恐れを見るので、比丘である」 (Pāli: {{IAST|Saṃsāre bhayaṃ ikkhatīti bhikkhu}})と[[民間語源|通俗語源解釈]]によって{{efn2|'''bh'''ayaṃ '''ikkha'''tiでbhikkhuとなる。}}定義しており、「輪廻からの解脱を求めて出家した者」としている<ref name="vows">[http://www.palyul.org/eng_about_monasticvows.htm Resources: Monastic Vows]</ref>。 {{Quote| Na tena bhikkhū hoti yāvatā bhikkhate pare; Vissaṃ dhammaṃ samādāya bhikkhu hoti na tāvatā.<br> Yo'dha puññca pāpañca bāhetvā brahmacariyavā; Saṅkhāya loke carati sa ce bhikkhū'ti vuccati. 他に乞ふのみにては比丘ならず、一切の所應行を服膺するのみにては比丘ならず。<br> 人若し現世に於て罪福を離れて淨行に住し、愼重にして世を行けば眞の比丘と謂はる。 | {{SLTP| [[ダンマパダ]],266-267}} }} == 雲水 == [[禅宗]]では、行雲流水という句から、修行者を'''雲水'''(うんすい)と呼ぶ{{sfn|講座禅第二巻|1967}}。[[宋 (王朝)|宋]]史[[蘇軾]]伝に「文を作るは行雲流水の如く、初めより定質なし」とあることから、行雲流水の語は、行く雲や流れる水のような、大自然とおのずからなる無心無作のはたらきをいう{{sfn|岩波仏教辞典第2版|1989|p=247}}。禅の修行者は一か所にとどまらず諸方に師を求めて行脚することから、行雲流水の句が禅の修行僧をさすようになった{{sfn|岩波仏教辞典第2版|1989|p=65}}。そこから一般に、一定の[[道場|僧堂]]に留まって修行する修行者をも雲水という{{sfn|岩波仏教辞典第2版|1989|p=65}}。雲水はまた、'''雲衲'''(うんのう:なお、衲は、雲水の着る破れ衣のこと)、'''衲子'''(のっす)、'''行脚僧'''ともいう{{sfn|岩波仏教辞典第2版|1989|p=65}}。 == ギャラリー == <gallery widths="140px" heights="180px"> Young Indian Buddhist monk in Indian monastery.png|インド Ajahn Outhai.jpg|ラオス(上座部仏教) Tianjin Chinese Buddhist Monk.jpeg|中国 心培和尚.JPG|台湾 Hengsure.jpg|米国(中国仏教) Buddhist Monk in Drepung Monastery near Lhasa Tibet Luca Galuzzi 2006.jpg|チベット Luang Prabang Takuhatsu ルアンパバーン 托鉢僧 DSCF6990.JPG|ラオス [[ルアンパバーン郡]] Watpailom 07.jpg|タイ Vowz_Band_坊主バンド_2023.jpg|日本 </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=中村元他|authorlink=中村元|year=1989 |title=岩波仏教辞典 |edition=第2版 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=4-00-080072-8 |ref={{SfnRef|岩波仏教辞典第2版|1989}} }} *{{Cite book|和書|author=柴山全慶、秋月龍珉|year=1967 |title=講座 禅 第二巻 禅の実践|publisher=[[筑摩書房]] |ref={{SfnRef|講座禅第二巻|1967}} }} == 関連項目 == * [[サンガ]] * [[僧]] == 外部リンク == &ensp;{{wikiquote-inline}}<br> &ensp;{{commonscat-inline|Buddhist monks|Buddhist monks}} {{buddhism2}} {{Normdaten}} {{buddhism-stub}} {{DEFAULTSORT:ひく}} [[Category:僧]]
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比丘尼
比丘尼(びくに)
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比丘尼(びくに) 尼 八百比丘尼(伝説の比丘尼) 尼の格好をした私娼
'''比丘尼'''(びくに) * [[尼]]<ref>{{kotobank|2=ブリタニカ 国際大百科事典 小項目事典の解説}}</ref> ** [[八百比丘尼]](伝説の比丘尼) * 尼の格好をした[[私娼]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{aimai}} {{デフォルトソート:ひくに}} [[Category:尼僧|*ひくに]]
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伝統医学
伝統医学(でんとういがく)は、現代の医学が発達する以前から存在する世界各地の文化圏伝統の医学体系の総称。一般的には、三大伝統医学とそこから派生した各地の医学を指す。
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'''伝統医学'''(でんとういがく)は、現代の[[医学]]が発達する以前から存在する世界各地の[[文化圏]]伝統の医学体系の総称。一般的には、三大伝統医学とそこから派生した各地の医学を指す。 == 三大伝統医学 == *[[ユナニ医学]](ギリシア医学を起源とし、アラビア文化圏・イスラーム勢力圏で発展した伝統医学。ヨーロッパでも19世紀まで行われた。) *[[アーユルヴェーダ]](北インドを中心に発展した伝統医学。チベットや東南アジアの医学に影響を与えた。) *[[中医学|中国医学]](中医学。中国地域に伝わる伝統医学。[[漢方]](和法、日本の伝統医学)、東医学([[韓医学]]、朝鮮半島の伝統医学)などに影響を与えた。) == その他 == *[[チベット医学]]:アーユルヴェーダから派生。ギリシャ医学と中国医学からも多くの理論・技術を取り込んでいる。 *[[モンゴル医学]]:薬物療法の理論は主にチベット医学によるが、その他に独自の[[食事療法]]や外科的治療を行う。 *[[漢方医学]]:中国医学から多くの理論・技術を取り込んでいるため、混同されやすい。中国伝統医学が日本で独自に発展したもの。 *[[シッダ医学]]:南インドタミル地方の医学で、インド、アーユルヴェーダの起源とも言われる。ハーブだけでなく水銀をはじめ金属、鉱物を薬物として利用する。 * {{仮リンク|南アフリカの伝統医療|en|Traditional healers of South Africa}}:伝統的治療者としては、植物性・動物性の薬ムーティ{{enlink|muti|英語版}}を用いて治療を行うイニャンガと、祈祷や呪術による治療を主に行うサンゴマが存在する<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.asahi.com/special/mukeiisan/TKY201010200290.html |title=伝統療法師 政府も活用 暮らしの知恵―下 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=2010-10-20 |accessdate=2017-11-9 }}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.asahi.com/international/africa/mosaic/TKY201007210371.html |title=予言タコも顔負け 南アフリカ式W杯の占い方 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=2010-7-21 |accessdate=2017-11-9 }}</ref>。 *[[呪術医]]:主に少数民族などを中心とした[[シャーマニズム]]社会に於いて、医療を担当する役職の者を呪術医と呼ぶが、彼等の使用する薬草などに対し、[[民俗学]]・[[文化人類学]]に加え、[[薬物学]]上からも関心が寄せられている。 *その他の伝統医学は'''[[:Category:伝統医学]]'''を参照のこと。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == *{{Cite web|和書 |url=https://web.archive.org/web/20171109192152/http://www.miraikoso.org/67mirai/Hirose/Iryoujijyo/iryoujijyo.html |title=世界の医療事情 |date=2006-9-14 |author=Medical Tribune 日本医療経営学会 理事長 廣瀬輝夫 |publisher=NPO法人 未来構想戦略フォーラム |accessdate=2017-11-9 }}{{リンク切れ|date=2019年11月}} *{{Cite web|和書 |url=https://web.archive.org/web/20171109191340/http://www.mt-pharma.co.jp/healthcare/school/index_medicine.html |title=<!--「人類の叡智」左記文言を削除:リンク先タイトルに記述がない為:2017年11月9日--> 伝統医学を学ぶ {{!}} 田辺三菱製薬ヘルスケア |publisher=[[田辺三菱製薬]]株式会社 |work=生薬学校 |accessdate=2017-11-9 }}{{リンク切れ|date=2019年11月}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てんとういかく}} [[Category:伝統医学|*てんとういかく]] [[Category:医療人類学]]
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ゾフィー (ウルトラシリーズ)
ゾフィー (Zoffy) は、円谷プロ制作の特撮テレビドラマ『ウルトラマン』をはじめとする「ウルトラシリーズ」に登場するキャラクター。1967年放送の『ウルトラマン』第39話で初登場。 古い資料ではゾフィなどと表記されることもある。作品によってはウルトラマンゾフィーとも呼ばれる。 なお、本記事では2022年公開の映画『シン・ウルトラマン』に登場する別キャラクター・ゾーフィについても記述する。 ウルトラ兄弟の長兄。M78星雲光の国の宇宙警備隊の隊長でもあり、ウルトラの父に次ぐ立場にある。容姿は初代ウルトラマンに似ているが、リベット状の小突起が胸に6対、肩に3対付いており(詳細は#身体特徴を参照)、身体の赤色部分の形状が若干異なる。 地球に長期間滞在したことや主演した作品はないが、弟たちがピンチに陥った際には必ず駆けつけている。その実力はウルトラ戦士の中でもトップクラスとされているが、昭和ウルトラシリーズでは弟たちと同様に敵の罠に落ちたことや、単独で戦って敗北したこともあった。 しかし、主人公のサポート役に徹した時は効果的な働きをすることが多い。『ウルトラマンメビウス』では、新たに地球人サコミズ・シンゴとの絆が明かされた。 『ウルトラマン列伝』では、ウルトラマンゼロへの説明役として登場したことや、彼に代わって司会を務めたことがある。 初登場の『ウルトラマン』最終回(第39話)では、シナリオに「ゾフィ」(英語では「SOURFY」)と表記され、『ウルトラマンレオ』までの出演クレジットも同様だったが、出版物や関連商品では「ゾフィー」と記されることが多く(英語では「Zophy」)、1984年の映画『ウルトラマンZOFFY』以降は「ゾフィー」に統一された。 本放送の終了時期の1967年4月に大伴昌司が作成した登場怪獣の設定表では、ベムラーら他の怪獣と共にゾフィーも宇宙人「ゾフィ」として「身長:2メートル / 体重:50キロトン」とのスペックのほか、主要武器として「ゼットンを自由にあやつる」との説明や、弱点として「スーパーガン」が挙げられている。終了直後に円谷プロが配布した文字資料でも「ゼットンを操る宇宙人」と記載されたため、それ以降の1960年代の書籍や雑誌ではゼットン星人と混同されて「謎の宇宙人ゾーフィ」と表記されたものや、「ゼットンを操っている悪の宇宙人」と記述されたものも存在し、不正確なイラスト(多くの場合、ウルトラマンのデザインにウルトラマンジャックのような細いラインを付けたもので、リベット状の突起〈1973年ごろの学年誌にてスターマーク、ウルトラブレスターと命名〉が胸の赤いラインの下部などに多々配されたもの)で紹介されたこともある。その後、『ウルトラマンA』第1話まで長らく登場しないなど出番に恵まれなかったが、出演の機会が増えてウルトラ兄弟の長兄として認知された1972年ごろからは、知名度が上がってソフビ人形などの商品化もされるようになった。 『メビウス』以降のシリーズでは、ウルトラ兄弟の中でも伝説的存在とされる「ウルトラ6兄弟」の1人に数えられている。 『ウルトラマン』第39話では宇宙警備隊員として登場したが、やがて隊長に昇格した。1991年に発売されたビデオ『ウルトラビッグファイトスペシャル1 誕生!光の超戦士』では、ウルトラマンを救ったことで隊長に昇格したと解説されている。 また、映画『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説THE MOVIE』の回想シーンや『ウルトラマンOFFICIAL DATA FILE』No.98から、新人時代に「ウルトラ大戦争」や「ベリアルの乱」において戦闘に参加していたことが判明した。 ※一部の作品では、初代ウルトラマンやウルトラマンジャックの音声を加工したものが用いられている。 ※出典が確認できたもののみ記載 ゾフィーは胸と肩に複数のボタン状の突起を備えている。 1970年代の資料では、これらはエネルギー増幅装置「ウルトラブレスター」とされていた。取り外しが可能で、戦況に応じて装備数を変えられるが、『ウルトラマンA』客演時のエースキラー戦では油断して肩のブレスターを付け忘れたことが敗因になったと語られていた。 その後は以下のように設定が整理されている。 最終回(第39話)に登場。ウルトラマンを倒したゼットンが科学特捜隊に倒された直後、赤い球体の姿で地球に飛来する。この際、ムラマツとフジにウルトラマンと誤認され、岩本博士には「光の国の使い」と称されている。2つ所有していた命の1つを与えて瀕死のウルトラマンを復帰させると、地球の平和は人間の手で掴み取ることに価値があると諭して光の国へ帰るようにウルトラマンを説得したが、自分の生命をハヤタに譲りたいと願うウルトラマンに感銘を受けてハヤタにも新たな生命を与えて蘇生させ、2人を分離させてからウルトラマンを光の国へ連れ帰った。 『帰ってきたウルトラマン』本編には未登場だが、放映当時に雑誌上でウルトラ兄弟が設定され、その長兄と位置づけられた。最終回(第51話)では、バット星人がウルトラ兄弟のメンバーとして彼の名前を挙げている。第2期ウルトラシリーズでは、主人公のサポート役としては活躍したものの、怪獣を単独で退治したことはなく、不覚をとる場面が多かった。 テレビシリーズ『ウルトラマンメビウス』のほか、劇場版『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟(以下、劇場版)』や、インターネット配信番組『ウルトラマンメビウス外伝 ヒカリサーガ』、OV『ウルトラマンメビウス外伝 ゴーストリバース』に登場。 以下、時系列順に解説。 第1話では、初代マン、セブン、ジャック、エース、タロウとともにイメージのみ登場。 第15話では、ウルトラマンヒカリの意識内に現れ、彼に光の国への帰還を命令する。その後、『ヒカリサーガ』SAGA2でベムスターに苦戦するヒカリを援護してベムスターを倒すと、ヒカリを宇宙警備隊に勧誘する。 劇場版では、初代マンからエースまでの4兄弟やメビウスに、危機が迫っていることをウルトラサインで告げる。そして、Uキラーザウルス・ネオの復活時、タロウとともに登場してメビウスらにエネルギーを与え、ともにUキラーザウルス・ネオを倒す。その直後、第24話でヤプールの復活を察知してメビウスの救援に向かおうとしていたタロウを制止し、メビウスの成長を促そうとする。 『ヒカリサーガ』SAGA3では、ヒカリに大いなる危機(途方もない脅威)が地球に迫っていることを話し、彼がその調査を希望した際に難色を示すウルトラの父を説得し、ヒカリの希望を認めさせる。 第42話では、サコミズの回想シーンに登場。亜光速移動実験中に異星からの侵略者に包囲されたサコミズの前に現れて円盤群を一掃すると、地球から遠く離れた場所で人知れず人類を守っていることや、人類の将来に期待していることを語る。 最終回(第50話)では、ウルトラ戦士と人類の絆を示すためにサコミズと再会して一体化し、メビウスとともにエンペラ星人と戦い、消滅させる。 OV『ゴーストリバース』では、ヒカリからのウルトラサインを見てエースとタロウを怪獣墓場へ向かわせる。 そのほか、劇場版映画『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』『ウルトラマン物語』『新世紀ウルトラマン伝説』『新世紀2003ウルトラマン伝説 THE KING'S JUBILEE』などにも兄弟とともに出演した。 シリーズ作品の主人公ではないために映像作品での出番は少ないが、小学館の学年別学習雑誌や月刊コロコロコミックで断続的に掲載された漫画作品(内山まもる著、後に『ザ・ウルトラマン』の単行本に収録)や月刊コロコロコミックに連載された『ウルトラ兄弟物語』(かたおか徹治著)では、主役級の活躍をすることがあった。また、多くの部下を率いて怪獣や宇宙人との戦いの最前線に立ったり、さまざまな強敵を相手に戦うその強さから、個人的に命を狙われたこともあった。 『ウルトラマン80』本編にはゾフィー自身は登場しないものの、80の過去を描いた漫画版(かたおか徹治著、後に『ウルトラ兄弟物語』の単行本に収録)では、態度が悪く未熟な80に手を焼いていたが、80の改心と怪獣打倒をきっかけに一人前の戦士と認め、地球へ派遣したことが描かれている。 ゾフィーとしてではないが、アンドロ警備隊のアンドロメロスとして活躍していた時期もあった。詳細は『アンドロメロス』を参照。 ゲーム『ウルトラマン Fighting Evolution』シリーズには、『2』から登場。ウルトラモードではウルトラマンからレオまでのウルトラ兄弟6人がゼットンに敗れた際、救援に駆けつけている。『3』のウルトラモード「さらばウルトラマン」では、特定の条件を満たすとゼットンに敗北したウルトラマンのもとに駆けつけ、そのままゼットンと対決している。また、チュートリアルでは、タロウにゲームの操作方法を教えている。 2012年の小説『ウルトラマン妹』では、登場ウルトラマンの1人であるアムールの直属の上司という設定になっており、彼女を地球に派遣した。 ゾフィーのオリジナルテーマ曲は、バラード調の「ゾフィのバラード」を除けば映画『ウルトラマンZOFFY ウルトラの戦士VS大怪獣軍団』まで作られていなかったため、『ウルトラマンA』以降の登場時は「ウルトラセブンの歌 パート2」の2番-3番の間奏にアレンジを加えたものが、『ウルトラマンタロウ』での戦闘時は「ウルトラ六兄弟」が主に使われた。 映画『シン・ウルトラマン』に登場。カラーリングはゾフィーと異なり、ゴールドとダークネイビーを基調として頭部中央のツバが黒くなっている。カラータイマーのほか、ゾフィーの特徴であるスターマークとウルトラブレスターも存在しない。 光の星の新たな使いとして、ウルトラマン / 神永新二の前に現れる。登場当初はウルトラマンの本来の名であるリピアーで呼んでいたが、地球人の呼び方に合わせてウルトラマンと改める。光の星で禁じられていた人間との融合を果たしたウルトラマンが他者を守るために命を絶った神永を理解したいということを知り、マルチバースすべての知的生命体にその行為こそが地球人類を生物兵器に転用することが可能であると知らせたとして、現時点で地球が廃棄処分になったことを告げると、すべてを今のうちに刈り取ることが最適と判断し、天体制圧用最終兵器であるゼットンを配備する。しかし、人類がゼットン攻略法を編み出したことと、命をかけてゼットンに挑んだウルトラマンの姿を見て考えを改め、人類に敬意を表すると共に地球を滅ぼさず残置することを決定する。瀕死の重傷を負ったウルトラマンには、光の星に戻って掟を破った罪を償うべきと諭すが、地球と人類を心から愛するようになっていたウルトラマンの自分の命を神永に与えてほしいという願いを聞き入れ、彼から神永を分離させると命を与えて地球へ帰還させた。
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神永新二の前に現れる。登場当初はウルトラマンの本来の名であるリピアーで呼んでいたが、地球人の呼び方に合わせてウルトラマンと改める。光の星で禁じられていた人間との融合を果たしたウルトラマンが他者を守るために命を絶った神永を理解したいということを知り、マルチバースすべての知的生命体にその行為こそが地球人類を生物兵器に転用することが可能であると知らせたとして、現時点で地球が廃棄処分になったことを告げると、すべてを今のうちに刈り取ることが最適と判断し、天体制圧用最終兵器であるゼットンを配備する。しかし、人類がゼットン攻略法を編み出したことと、命をかけてゼットンに挑んだウルトラマンの姿を見て考えを改め、人類に敬意を表すると共に地球を滅ぼさず残置することを決定する。瀕死の重傷を負ったウルトラマンには、光の星に戻って掟を破った罪を償うべきと諭すが、地球と人類を心から愛するようになっていたウルトラマンの自分の命を神永に与えてほしいという願いを聞き入れ、彼から神永を分離させると命を与えて地球へ帰還させた。", "title": "ゾーフィ" } ]
ゾフィー (Zoffy) は、円谷プロ制作の特撮テレビドラマ『ウルトラマン』をはじめとする「ウルトラシリーズ」に登場するキャラクター。1967年放送の『ウルトラマン』第39話で初登場。 古い資料ではゾフィなどと表記されることもある。作品によってはウルトラマンゾフィーとも呼ばれる。 なお、本記事では2022年公開の映画『シン・ウルトラマン』に登場する別キャラクター・ゾーフィについても記述する。
{{Redirect|ウルトラマンゾフィー|1984年の映画|ウルトラマンZOFFY ウルトラの戦士VS大怪獣軍団}} {{Pathnav|ウルトラシリーズ|ウルトラマン|frame=1}} {{告知|議論|ゾーフィについて|date=2022年5月24日 (火) 11:44 (UTC)}} {{Infobox character | series= [[ウルトラシリーズ]] | image=Zoffy Soshigaya.jpg | caption=ゾフィーアーチ([[東京都]][[世田谷区]][[祖師谷]]) | first= 『[[ウルトラマン]]』第39話 | voice=[[浦野光]](『ウルトラマン』ほか)<br />[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]](『メビウス』 - 『つなぐぜ! 願い!!』)<br />[[武内駿輔]](『ウルトラギャラクシーファイト』以降)ほか }} '''ゾフィー''' ('''Zoffy''') は、[[円谷プロダクション|円谷プロ]]制作の[[特撮]][[テレビドラマ]]『[[ウルトラマン]]』をはじめとする「[[ウルトラシリーズ]]」に登場するキャラクター。[[1967年]]放送の『ウルトラマン』第39話で初登場。 古い資料では'''ゾフィ'''などと表記されることもある{{Sfn|白書|1982|p=80}}。作品によっては'''ウルトラマンゾフィー'''とも呼ばれる{{efn|『ウルトラマン物語』では最初に「ウルトラマンゾフィー」とナレーションされているほか、『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』では「ウルトラマンゾフィー」とクレジットされている。}}。 なお、本記事では[[2022年]]公開の映画『[[シン・ウルトラマン]]』に登場する別キャラクター・'''ゾーフィ'''についても記述する。 == 概要 == [[ウルトラ兄弟]]の長兄。[[M78星雲]]光の国の[[宇宙警備隊]]の隊長でもあり、[[ウルトラの父]]に次ぐ立場にある。容姿は[[ウルトラマン#ウルトラマン|初代ウルトラマン]]に似ているが、[[リベット]]状の小突起が胸に6対、肩に3対付いており(詳細は[[#身体特徴]]を参照)、身体の赤色部分の形状が若干異なる。 地球に長期間滞在したことや主演した作品はないが、弟たちがピンチに陥った際には必ず駆けつけている。その実力はウルトラ戦士の中でもトップクラスとされているが、昭和ウルトラシリーズでは弟たちと同様に敵の罠に落ちたことや、単独で戦って敗北したこともあった{{efn|ゾフィーが救援に来るのは、弟たちが単身では勝てない相応の強敵(ヒッポリト星人やバードンなど)が相手であるケースが多い。}}。 しかし、主人公のサポート役に徹した時は効果的な働きをすることが多い。『[[ウルトラマンメビウス]]』では、新たに地球人サコミズ・シンゴとの絆が明かされた。 『[[ウルトラマン列伝]]』では、[[ウルトラマンゼロ]]への説明役として登場したことや、彼に代わって司会を務めたことがある。 === 設定の変遷 === 初登場の『[[ウルトラマン]]』最終回(第39話)では、シナリオに「'''ゾフィ'''」(英語では「SOURFY」{{R|F29261}})と表記され、『[[ウルトラマンレオ]]』までの出演クレジットも同様だったが、出版物や関連商品では「'''ゾフィー'''」と記されることが多く(英語では「Zophy」{{R|怪獣大全集}})、1984年の映画『[[ウルトラマンZOFFY ウルトラの戦士VS大怪獣軍団|ウルトラマンZOFFY]]』以降は「ゾフィー」に統一された。 本放送の終了時期の[[1967年]]4月に[[大伴昌司]]が作成した登場怪獣の設定表では、ベムラーら他の怪獣と共にゾフィーも宇宙人「ゾフィ」として「身長:2メートル / 体重:50キロトン」とのスペックのほか、主要武器として「ゼットンを自由にあやつる」との説明や、弱点として「スーパーガン」が挙げられている<ref>{{Cite news|url=https://ascii.jp/elem/000/001/400/1400874/|title=ふろく多すぎ! ウルトラマン放送開始50年記念超豪華本『ウルトラマン トレジャーズ』ついに発売|newspaper=ASCII.jp|publisher=角川アスキー総合研究所|date=2016-12-08|accessdate=2023-03-17}}</ref>。終了直後に円谷プロが配布した文字資料でも「ゼットンを操る宇宙人」と記載されたため、それ以降の1960年代の書籍や雑誌では[[ゼットン星人]]と混同されて「'''謎の宇宙人ゾーフィ'''」と表記されたものや、「'''ゼットンを操っている悪の宇宙人'''」と記述されたものも存在し{{R|F29261}}、不正確なイラスト(多くの場合、ウルトラマンのデザインに[[帰ってきたウルトラマン#帰ってきたウルトラマン(ウルトラマンジャック)|ウルトラマンジャック]]のような細いラインを付けたもので、リベット状の突起〈1973年ごろの学年誌にてスターマーク、ウルトラブレスターと命名〉が胸の赤いラインの下部などに多々配されたもの)で紹介されたこともある。その後、『ウルトラマンA』第1話まで長らく登場しないなど出番に恵まれなかったが、出演の機会が増えてウルトラ兄弟の長兄として認知された[[1972年]]ごろからは、知名度が上がってソフビ人形などの商品化もされるようになった。 『メビウス』以降のシリーズでは、ウルトラ兄弟の中でも伝説的存在とされる「'''ウルトラ6兄弟'''」の1人に数えられている{{Refnest|group="出典"|<ref>「てれびくんデラックス 愛蔵版ウルトラマンメビウス超全集」(小学館・2007年)p60「ウルトラマンメビウス大辞泉 / ウルトラ6兄弟」</ref><ref>『ゴーストリバース』STAGE.1封入の作品解説書<!--ページ数表記なし--></ref><ref>「てれびくんデラックス 愛蔵版大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE超全集」(小学館・2009年)p30「ゾフィー」</ref>{{Sfn|ウルトラ銀河伝説VisualFile|2010|p=24|loc=「ゾフィー」}}}}。 『ウルトラマン』第39話では'''宇宙警備隊員'''として登場したが、やがて隊長に昇格した。[[1991年]]に発売されたビデオ『ウルトラビッグファイトスペシャル1 誕生!光の超戦士』では、ウルトラマンを救ったことで隊長に昇格したと解説されている。 また、映画『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説THE MOVIE』の回想シーンや『ウルトラマンOFFICIAL DATA FILE』No.98{{要ページ番号|date=2017-02-19}}から、新人時代に「ウルトラ大戦争」や「ベリアルの乱」において戦闘に参加していたことが判明した。 == 登場作品 == === テレビシリーズ === * 『[[ウルトラマン]]』(1966年):第39話 * 『[[ウルトラマンA]]』([[1972年]]):第1話、第5話、第13・14話、第23話、第26・27話、第35話 * 『[[ウルトラマンタロウ]]』([[1973年]]):第1話、第18・19話、第25話、第33・34話、第40話 * 『[[ウルトラマンレオ]]』([[1974年]]):第38・39話 * 『[[ウルトラマンボーイのウルころ]]』([[2003年]]):第175話、第205話、第210話、第225話、第255話 * 『[[ウルトラマンメビウス]]』([[2006年]]):第15話、第24話、第42話、第50話、後期OP * 『[[ウルトラマン列伝]]』([[2011年]]):第35話、第39話、第86 - 90話 * 『[[劇場版 ウルトラマンオーブ 絆の力、おかりします!#ウルトラファイトオーブ|ウルトラファイトオーブ 親子の力、おかりします!]]』(2017年) === 映画 === * 『[[ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団]]』(1979年) * 『[[ウルトラマン怪獣大決戦]]』(1979年) * 『[[ウルトラマンZOFFY ウルトラの戦士VS大怪獣軍団]]』(1984年) * 『[[ウルトラマン物語]]』(1984年) * 『[[新世紀ウルトラマン伝説]]』([[2002年]]) * 『[[新世紀2003ウルトラマン伝説 THE KING'S JUBILEE]]』(2003年) * 『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』(2006年) * 『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』(2009年) * 『[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国]]』(2010年) === オリジナルビデオ === * 『[[ウルトラマングラフィティ おいでよ!ウルトラの国]]』(1990年) * 『[[ウルトラマン超闘士激伝]]』(1996年) * 『[[ウルトラマンネオス]]』(2000年):第2話、第11・12話 * 『[[ウルトラマンメビウス外伝 ヒカリサーガ]]』SAGA2、SAGA3(2006年) * 『[[ウルトラマンゼロ外伝 キラー ザ ビートスター]]』(2011年) * 『[[ウルトラマンゼロの作品一覧#ウルトラマンサーガ ゼロ&ウルトラ兄弟 飛び出す!ハイパーバトル!!|ウルトラマンサーガ ゼロ&ウルトラ兄弟 飛び出す!ハイパーバトル!!]]』(2012年) === Webドラマ === * 『[[ウルトラギャラクシーファイト#『ウルトラギャラクシーファイト ニュージェネレーションヒーローズ』|ウルトラギャラクシーファイト ニュージェネレーションヒーローズ]]』(2019年) * 『[[ウルトラギャラクシーファイト#『ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀』|ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀]]』(2020 - 2021年) * 『[[ウルトラギャラクシーファイト#『ウルトラギャラクシーファイト 運命の衝突』|ウルトラギャラクシーファイト 運命の衝突]]』(2021 - 2022年) === 雑誌連載 === * 雑誌連載『[[アンドロメロス]]』([[1981年]]) * 雑誌連載『[[ウルトラマンノア|ウルトラマンノア バトルオブドリームNOA]]』(2003年) === 漫画 === * ウルトラゾフィ([[斉藤あきら (漫画家)|さいとうあきら]] [[小学一年生]] 1972年9月増刊号掲載) * 帰ってきたウルトラ兄弟・隊長ゾフィー([[居村真二]] [[てれびくん]] 1979年1月号 - 2月号連載) * なくなゾフィー([[制野秀一]] [[小学三年生]] 1979年5月号付録まんが大行進掲載) * ゾフィーの伝説([[かたおか徹治]] [[コロコロコミック]] 1979年12月号 - 1980年1月号連載) * ゾフィー死闘五番勝負(制野秀一 小学三年生 1980年2月号付録まんが大行進掲載) * ゾフィーの戦い(かたおか徹治 コロコロコミック 1980年11月号 - 1981年3月号連載) * ゾフィー死の決戦(制野秀一 小学三年生 1981年1月号付録まんが大行進掲載) == ゾフィーを演じた人物 == === 声の出演 === ; [[浦野光]] :* 『[[ウルトラマン]]』第39話 :* 『[[ウルトラマンZOFFY ウルトラの戦士VS大怪獣軍団]]』 :* 『ウルトラマンフェスティバル2016』(特別出演) ; [[阪脩]] :* 『[[ウルトラマンA]]』第5・35話 ; [[納谷悟朗]] :* 『ウルトラマンA』第5話(一部の掛け声のみ) ; [[中曽根雅夫]] :* 『ウルトラマンA』第5・13・26話(一部の掛け声のみ) ; [[市川治]] :* 『ウルトラマンA』第13話 ; [[山下啓介]] :* 『ウルトラマンA』第23話 ; [[篠田三郎]] :* 『[[ウルトラマンタロウ]]』第18・34話(後者は掛け声のみ) ; [[鹿島信哉]] :* 『ウルトラマンタロウ』第33・34話 ; [[酒井郷博]] :* 『[[ウルトラマンレオ]]』第38・39話 ; [[津田喬]] :* 『[[ウルトラマン物語]]』 ; [[二又一成]] :* 『[[ウルトラマングラフィティ おいでよ!ウルトラの国]]』 ; [[江原正士]] :* 『[[ウルトラマン超闘士激伝]]』 ; [[大滝明利]]{{R|平成ウルトラビデオ全集_55p}} :* 『[[ウルトラマンネオス]]』第2・11・12話 ; [[宮林康]] :* ゲーム『[[ウルトラマン (PlayStation 2)|ウルトラマン]]』 ; [[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]] :* 『[[ウルトラマンメビウス]]』第15・24・42・50話 :* 『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』 :* 『[[ウルトラマンメビウス外伝 ヒカリサーガ]]』SAGA2・3 :* 『[[ウルトラマンメビウス外伝 ゴーストリバース]]』 :* 『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』 :* 『[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国]]』 :* 『[[ウルトラマンゼロ外伝 キラー ザ ビートスター]]』 :* 『[[ウルトラマン列伝]]』第35・39・86 - 90話 :* 『[[ウルトラマンゼロの作品一覧#ウルトラマンサーガ ゼロ&ウルトラ兄弟 飛び出す!ハイパーバトル!!|ウルトラマンサーガ ゼロ&ウルトラ兄弟 飛び出す!ハイパーバトル!!]]』 :* 『[[ウルトラマン列伝|新ウルトラマン列伝]]』第1話 :* 『[[劇場版 ウルトラマンオーブ 絆の力、おかりします!#ウルトラファイトオーブ|ウルトラファイトオーブ 親子の力、おかりします!]]』 :* 『[[ウルトラマンジード#映画|ウルトラマンジード つなぐぜ! 願い!!]]』 ; [[武内駿輔]] :* 『ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀』<ref name="GFAC"/> :* 『ウルトラギャラクシーファイト 運命の衝突』<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/471646|title=「ウルトラギャラクシーファイト」にウルトラフォース参戦、PVや声優発表|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-03-29|accessdate=2022-03-29}}</ref> ※一部の作品では、初代ウルトラマンやウルトラマンジャックの音声を加工したものが用いられている。 === スーツアクター === ※出典が確認できたもののみ記載 ; [[古谷敏]] :* 『ウルトラマン』第39話<ref>{{Cite book|和書|author= 古谷敏|authorlink=古谷敏|year = 2009-12-26|title = ウルトラマンになった男|pages=182-183|publisher = [[小学館]]|isbn = 978-4-09-387894-4}}</ref>{{R|UPM vol.026}} ; [[久須美欽一|久須美護]] :* 『ウルトラマンA』第13話・第14話<ref>{{Cite book|和書|year=2016-08-27|title=別冊[[映画秘宝]] 特撮秘宝|volume=Vol.4|series=洋泉社MOOK|page=244|publisher=[[洋泉社]]|isbn=978-4-8003-1005-7}}</ref> ; [[西条満 (スーツアクター)|西条満]] :* 『ウルトラマンタロウ』第18話<ref>{{Cite book|和書|year=2017-01-05|title=別冊[[映画秘宝]] 特撮秘宝|volume=Vol.5|series=洋泉社MOOK|page=283|publisher=[[洋泉社]]|isbn=978-4-8003-1127-6}}</ref>{{R|UPM vol.1111}} ; [[影信之介]] :* 『ウルトラマンレオ』第38話・第39話{{R|UPM vol.0910}} ; [[稲田芳寛]] :* 『ウルトラマン物語』 ; [[小宮啓志]] :* 『[[ウルトラマンネオス]]』{{R|平成ウルトラビデオ全集_55p|UPM vol.3610}} ; 大滝明利 :* 『ウルトラマンネオス』{{R|UPM vol.3610}} ; [[外島孝一]] :* 『[[新世紀2003ウルトラマン伝説 THE KING'S JUBILEE]]』 ; [[福田大助 (スーツアクター)|福田大助]] :* 『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』 ; [[大西雅樹]] :* 『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』{{Sfn|ウルトラ銀河伝説超全集|2009|p=74|loc=「アクションチーム座談会」}} ; [[稲庭渉]] :* 『[[ウルトラマンオーブ]]』第25話{{Sfn|キャラクターランドSP|2017|p=55|loc=「『ウルトラマンオーブ』スーツアクターヒーローズリスト」}} == データ == {{キャラスペック |名称=ゾフィー |身長=45{{nbsp}}[[メートル|m]]{{Refnest|group="出典"|name="zoffy"|{{R|怪獣大全集|銀河伝説超全集|UPM vol.026}}{{Sfn|完全超百科|2004|p=32}}{{Sfn|全ウルトラマン増補改訂|2018|p=11}}}} |体重=4万5千{{nbsp}}[[トン|t]]{{R|group="出典"|zoffy}} |年齢=約2万5千歳{{R|UPM vol.026}} |飛行速度=[[マッハ数|マッハ]]10{{R|UPM vol.026}} |走行速度=時速650{{nbsp}}[[キロメートル|km]]{{R|UPM vol.026}} |水中速度=300{{nbsp}}[[ノット|kt]]{{R|UPM vol.026}} |地中速度=マッハ5{{Sfn|ウルトラヒーローナンバーワン|2012|p=9}} |ジャンプ力=450{{nbsp}}m{{R|UPM vol.026}} |腕力=16万{{nbsp}}t[[タンカー]]を持ち上げる }} * 地球上活動時間:3分間{{R|UPM vol.026}} * 職業:宇宙警備隊隊長 * 趣味:体操<ref>株式会社雪書房 編「ウルトラの国ひみつ百科」 『ウルトラ怪獣全百科』小学館〈コロタン文庫30〉、1978年10月10日、332頁。</ref> * 家族構成 ** 父:[[ウルトラの父]]の親友であったが、ゾフィーが子供のころに戦死した。 ** 母:詳細は不明であるが、すでに亡くなっている。 * 普段は支部の1つ、M25星雲で指揮をとっている。 === 身体特徴 === ゾフィーは胸と肩に複数のボタン状の突起を備えている。 1970年代の資料では、これらはエネルギー増幅装置「ウルトラブレスター」とされていた{{refnest|「ウルトラファミリーひみつ大かいぼう」、『小学三年生』1979年8月号、p.70{{Sfn|学年誌|2017|p=114}}}}。取り外しが可能で、戦況に応じて装備数を変えられるが、『ウルトラマンA』客演時のエースキラー戦では油断して肩のブレスターを付け忘れたことが敗因になったと語られていた{{refnest|「ウルトラファミリーひみつ大かいぼう」、『小学三年生』1979年8月号、p.70{{Sfn|学年誌|2017|p=114}}}}。 その後は以下のように設定が整理されている。 ; スターマーク : 胸にある6対の突起。ウルトラ戦士でこれを持つのはゾフィーと[[ウルトラマンメビウス#ウルトラマンヒカリ / ハンターナイトツルギ|ウルトラマンヒカリ]]だけで、ゾフィーのものは対怪獣軍団戦の武功を、ヒカリのものは調査研究などの功績を称えた勲章である。 : 『[[劇場版 ウルトラマンオーブ 絆の力、おかりします!#ウルトラファイトオーブ|ウルトラファイトオーブ 親子の力、おかりします!]]』では、ゾフィーが[[ウルトラマンオーブ]]に対[[劇場版 ウルトラマンオーブ 絆の力、おかりします!#亡霊魔導士 レイバトス|レイバトス]]戦の武功を称えて授与しようとしたが、辞退されている。 ; ウルトラブレスター : 宇宙警備隊隊長の地位を示す肩の3対の突起。 === 能力 === ; M87光線{{R|必殺技SG12|UPM vol.1111}} : ウルトラ兄弟最強の威力を持つとされる熱エネルギーを凝縮した高熱光線{{Sfn|完全超百科|2004|p=32}}。名称は、「光の国公認宇宙記録の87万度を達成した奇跡(ミラクル、Miracle)の熱線」を意味すると説明されている{{efn|ただし、この説明は後年に創作された後付けの設定である。当初、脚本家の金城哲夫はウルトラマンの故郷の名前を「M87星雲」とするつもりだったが、『ウルトラマン』第1話の撮影用台本に誤記された「M78星雲」がそのまま劇中で発音され、既成事実となってしまった。そのため、未使用に終わった「M87」の名称を後にゾフィーの光線の名前として流用したのが、M87光線の名前の真の由来である{{要出典|date=2015-10-18}}。1970年代初期の雑誌媒体などでは、実在の天体M87がジェットや電波など比較的高エネルギーを発する天体であることから、M87のエネルギー源を物質と反物質の対消滅によるものと設定し、M87光線は天体M87と同じく対消滅を用いた強力光線とされていた。87万度の設定はかたおか徹治の漫画が初出{{要出典|date=2016-01-16}}。}}。発射ポーズは、右手を前方に伸ばして発射するAタイプと両腕をL字型に組んで発射するBタイプがある{{R|超技94}}。ゲーム『[[ウルトラマン Fighting Evolution 0]]』では、M87光線を真の威力で使えるのはゾフィーのみとされている。 : 当初は披露の機会が少なく、『ウルトラマンA』では第1話、第13話、第23話でAタイプのポーズを取っているが、発射はしていない。初登場は『ウルトラマンA』第14話でゾフィーの能力を奪った[[エースキラー (ウルトラ怪獣)|エースキラー]]がエースロボットに対して使用したものであった。その後、『ウルトラマンタロウ』第34話でゾフィー本人がBタイプと思われる光線を放っているが、ポーズも形状も一定していない{{efn|『ウルトラ怪獣大全集』や『ウルトラ戦士超技全書』ではM87光線と紹介している{{R|怪獣大全集}}{{Sfn|超技全書|1990|p=97}}。}}。明確に映像化されたのは、映画『ウルトラマンZOFFY』(1984年)の劇中が初であり、その後は映画『ウルトラマン物語』(1984年)や『[[ウルトラマンメビウス]]』(2006年)への客演時などで披露されるようになった。 : ポーズの関係上、AタイプはBタイプより発射時の照射範囲が狭いが、『ウルトラマンメビウス』第42話で科学特捜隊当時のサコミズの回想シーンでは広範囲へ拡散させながらの発射や、発射中に身体の向きを変えることでなぎ払うような長時間発射が可能なことが描写されており、彼の乗機を囲んだ異星人の円盤群をこれで一掃している。 : 劇場版『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』(2006年)では、地球の成層圏外から地上に向けて放ったため、地球を傷付けないよう威力を10分の1程度に抑えたとされる<ref>劇場版『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』限定版DVDのオーディオコメンタリーでの[[板野一郎]]の発言より。</ref>。 : 『[[劇場版 ウルトラマンオーブ 絆の力、おかりします!#ウルトラファイトオーブ|ウルトラファイトオーブ 親子の力、おかりします!]]』(2017年)では、[[劇場版 ウルトラマンオーブ 絆の力、おかりします!#亡霊魔導士 レイバトス|レイバトス]]に復活させられたバードンを一撃で葬り、かつての雪辱を果たした。 : [[内山まもる]]の漫画『ジャッカル対ウルトラ兄弟』(1975年から1976年まで発表後、『[[ザ・ウルトラマン (漫画)|ザ・ウルトラマン]]』第1巻に収録{{R|ザウル1}})では、メロスの鎧を借りて彼に扮しているシーンで一度だけ、スペシウム光線と同じく両腕を十字型に組むポーズで発射している。しかし、後年のアニメ化作品『ザ・ウルトラマン ジャッカル 対 ウルトラマン』では、該当シーンでもAタイプのポーズで発射している。 : [[真船一雄]]の漫画『ウルトラマンSTORY 0』第1話では、ゼットン3体を一撃で葬り、その余波だけで周辺の街さえ跡形も残さず消し去ってしまうほどの威力を見せた。 : 呼称については『ウルトラマンA』の作中では「エムハチジュウナナ」光線と呼ばれていたが、1990年の帯番組『[[ウルトラマンM715]]』以降は「エムハチナナ」光線と呼ばれている。しかし、『[[ウルトラマンギンガS]]』でウルトラマンギンガストリウムが使用する際は「エムハチジュウナナ」光線と発声されている。 :; ビッグM87光線{{R|ザウル4|Z完全超全集176}} :: 内山の漫画『飛べ!ウルトラ戦士』の一編「死闘!ウルトラ月要さい」(1979年に発表後、『ザ・ウルトラマン』第4巻に「月面要さい大作戦」と改題して収録{{R|ザウル4}})で使用。月面にてベーダー人との最終決戦時、[[組体操]]のピラミッド状に積み重なったウルトラ5兄弟とウルトラマンレオの上にゾフィーが立ち、自分のカラータイマーに7人全員のエネルギーを集めて放つ、最強のM87光線である。月すら破壊しかねない威力と7人全員を瀕死に陥らせるほどのエネルギーの消耗にはゾフィーも使用を躊躇しており、最終的には月面に対して平行に放ったために月はかろうじて無事だったものの、集結していたベーダー人たちは武器や円盤ごと跡形もなく消滅した。 :: 2021年には、[[博品館劇場|銀座博品館劇場]]にて開催されたライブステージ『ウルトラ6兄弟 THE LIVE in博品館劇場 -ゾフィー編-』でも使用された{{R|Z完全超全集176}}。こちらでは、ゾフィーがウルトラ5兄弟に支えられながら全力で放つM87光線という設定になっており{{R|Z完全超全集176}}、[[エンペラ星人]]による復活を経て合体した[[ウルトラマンタイガ#邪神魔獣 グリムド|グリムド]]を一撃で倒している<ref>{{Cite web|和書|author=タカハシヒョウリ|authorlink=タカハシヒョウリ|date=2021-02-15|url=https://note.com/hyouri/n/n4ffce0669d43|title=『ウルトラ6兄弟 THE LIVE in 博品館劇場 ゾフィー編』を見た。|publisher=note|accessdate=2023-03-17}}</ref>。 ; Z光線{{R|超技94|必殺技SG12}}(ゼット光線{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|完全超百科|2004|p=32}}{{Sfn|全ウルトラマン増補改訂|2018|p=11}}{{R|UPM vol.1111}}}}) : 両手の先を合わせて発射する敵を痺れさせる電撃光線{{Sfn|完全超百科|2004|p=32}}。『[[ウルトラマンタロウ]]』第18話で使用してバードンを一時的に麻痺させたが、大ダメージには至らなかった。『[[ウルトラマンゼロの作品一覧#ウルトラマンサーガ ゼロ&ウルトラ兄弟 飛び出す!ハイパーバトル!!|ウルトラマンサーガ ゼロ&ウルトラ兄弟 飛び出す!ハイパーバトル!!]]』でも、ウルトラマンゼロの救援に駆けつけた際にバードンへ使用している。 : 『ウルトラマンタロウ』当時の設定や映画『[[ウルトラマン怪獣大決戦]]』ではこの光線がM87光線と紹介されたこともあったが、その後は別物として扱われている。 ; ウルトラフロスト{{Refnest|group="出典"|{{R|超技94|必殺技SG238|UPM vol.1111}}}} : ウルトラマンジャックが光怪獣プリズ魔戦で使用した技と同じで、両手を合わせて「ウルトラフロスト」の技名と共に超低温の冷凍ガスを放射する。バードンに倒されたタロウを治療するためにウルトラの星へ運ぶ際、この技を使ってタロウの身体を冷凍状態にした。 ; ウルトラ霞斬り{{R|必殺技SG238}} : ウルトラマンの技と同じ。『[[ウルトラマンボーイのウルころ]]』で[[ウルトラマン (プラネタリウム特別編)#ブラックホール怪獣 ブラキウム|ブラキウム]]に大ダメージを与えた。 ; トゥインクルウェイ{{R|超技94|UPM vol.1111}} : 宇宙空間を越えて物体を転送する特殊誘導光線。バードンに倒されたタロウを[[ウルトラの母]]に治療してもらうため、ウルトラの星へ運んだ。 ; テレポーテーション{{R|超技94|必殺技SG238}}(異次元テレポーテーション{{R|怪獣大全集}}) : 通常空間から異次元空間へ瞬時に移動が可能。『ウルトラマンA』第23話で南夕子を異次元へ送った。 ; ウルトラクロスガード{{R|必殺技SG238}} : 映画『ウルトラマンZOFFY』で、突然襲ってきた宇宙船の光線を両腕を交差させて防いだ。 ; ウルトラチャージ{{R|怪獣大全集|必殺技SG238}} : ゴルゴダ星でヤプールの罠にかかった時に使用。ウルトラ4兄弟がAを取り囲み、自分たちのエネルギーを与えてAだけを脱出させた。『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』では、緑色の光エネルギーをウルトラマンメビウスのカラータイマーに向けて放ち、回復させた。 ; ウルトラリバース{{R|UPM vol.1111}} : 人間と一体化してその姿を一時的に借りるというウルトラ6兄弟共通の特殊能力。『ウルトラマンタロウ』第33話・第34話で使用。 ; ゾフィーチョップ{{R|必殺技SG238}} : 高い身体能力から繰り出すチョップ。突進してくるバードンを跳躍でかわしながら瞬時に鋭い手刀を浴びせ、池へ転落させた。 ; ゾフィーキック{{R|超技94|必殺技SG238}} : ゾフィーの放つ、多彩なキックの総称。アリブンタやグランドキングなどとの戦いで放った飛び蹴りのほか、復活したウルトラマンベリアルとの戦いでも、連続回し蹴りなど数種類のキックを披露した。 ; スペシウム光線 : 内山の漫画『かがやけ ウルトラの星』で使用。ウルトラマンやウルトラマンジャックの使用する技と同じで、作中ではプルーマを倒した。 : 2013年から稼動されたアーケードゲーム『[[大怪獣ラッシュ ウルトラフロンティア]]』でも、持ち技の1つとして使用している{{efn|ゾフィーが使用キャラクターとして参戦したのは、2015年3月19日より稼動の『ウルトラ10勇士集結編』からである。}}。 : Webドラマ『[[ウルトラギャラクシーファイト#『ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀』|ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀]]』では初代マンやジャックと共に使用{{R|Z完全超全集7}}。 ; M87光剣{{R|必殺技SG140}} : [[かたおか徹治]]の漫画『[[ウルトラ兄弟物語|ゾフィーの戦い]]』で使用。剣を持った状態でM87光線の構えを取り、剣先から光の剣を放って敵を貫く技{{R|必殺技SG140}}。 ; プラズマ発光 : 漫画『ゾフィーの戦い』で使用。全身にプラズマエネルギーを纏って突撃する。作中では大剣を抱えて発動し、敵を貫いた。 ; ウルトラビッグ : 漫画『ゾフィーの戦い』で使用。自分より数十倍以上の巨大な怪獣とほぼ同じくらいのサイズにまで、巨大化できる。 ; ウルトラギロチン、ストリウム光線、フォッグ光線、アタック光線 : 漫画『ゾフィーの戦い』で使用。いずれも他のウルトラ兄弟の技であり、怪獣に対する連続攻撃として、前述のスペシウム光線も含めて連射した。 ; フリーザー光線 : 漫画『ゾフィーの戦い』で使用。すべてを凍らせる光線で、より威力の高い'''ウルトラフリーザー'''という上位技も持つ。 ; フリーザーボール : 漫画『ゾフィーの戦い』で使用。ウルトラフリーザーで作り出したボールを用い、ウルトラスピンキックで怪獣に向けて蹴り込み、直撃した怪獣を凍結・粉砕した。 ; レインボー光線 : 漫画『ゾフィーの戦い』で使用。ウルトラ56部隊の隊長・レッドファイターから教わった技。7人に分身し、7分身の光線を合体させて放つ光線技。 ; テレパシー : ゾフィーはウルトラ族の年長者が使えるこの能力が特に秀でており、ウルトラサインなしでも兄弟の危機を察知できる{{refnest|「ウルトラファミリーひみつ大かいぼう」、『小学三年生』1979年8月号、p.70{{Sfn|学年誌|2017|p=114}}}}。 : ウルトラマンヒカリに、光の国への帰還を促す際に使用。また、メビウスフェニックスブレイブとエンペラ星人との最終決戦の際には、CREW GUYSのサコミズ隊長に自身への一体化を促した。 === 他の戦士との連帯技 === ; 5兄弟リフター{{Sfn|超技全書|1990|p=98}}{{R|UPM vol.1111}} : ウルトラ5兄弟が高速回転しながら敵を空中に放り投げる合体技。『ウルトラマンタロウ』第34話でこの技を受けた[[テンペラー星人]]は空中を舞い、タロウのネオストリウム光線で撃破されることとなる。 ; 必殺光線一斉発射{{Sfn|超技全書|1990|p=97}}{{R|UPM vol.1111}}(グランドスパーク<ref>『週刊 ウルトラマン OFFICIAL DATA FILENo.87』P.1</ref>{{R|必殺技SG238}}) : テンペラー星人の宇宙船に向けて自身のM87光線と共に、初代ウルトラマンがスペシウム光線、ウルトラセブンがワイドショット、ウルトラマンジャックがシネラマショット、ウルトラマンAがメタリウム光線を一斉に発射し、大爆発させた。『ウルトラマン物語』でもグランドキングに対して使用したが、効果は無かった。 : 映画『[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国]]』ではダークロプスの大群を倒した{{Sfn|ゼロTHE MOVIE超全集|2011|pp=46-47}}。 ; ウルトラ6重合体{{R|UPM vol.1111}} : ウルトラベルを炎の中から取り出す際にタロウの体にウルトラ5兄弟が合体した。 ; 合体光線フルパワー : 内山まもるの漫画『ウルトラ戦士 銀河大戦争』で使用。ゾフィーによる指揮のもと、初代マンから80までのウルトラ兄弟9人でスクラムを組んで発射する合体光線で、作中では[[バルタン星人]]と[[エースキラー (ウルトラ怪獣)|エースキラー]]の大軍を一撃で吹き飛ばした。 ; ウルトラブリット : 漫画『[[ウルトラマンSTORY 0]]』で登場。セブンとの連携技。ミクロ化して身体をバリアで覆ったセブンが、ゾフィーの光線を背後から受けて加速しながらアイスラッガーを手に持ったまま相手の身体へ突貫し、元の大きさに戻りながら突き抜ける。 ; 赤い光線 : 正式名称は不明。OV『[[ウルトラマンゼロ外伝 キラー ザ ビートスター]]』で初代マンやセブンと使用した技。3人が手をつないで輪を作り、回転することで発射される。ビートスターが惑星ブラムに衝突する際、時間稼ぎとして使用した。 ; ゼロとゾフィーのコンビネーション戦法{{Sfn|サーガ超全集|2012|p=87}} : 『てれびくん』の付録DVD『[[ウルトラマンゼロの作品一覧#ウルトラマンサーガ ゼロ&ウルトラ兄弟 飛び出す!ハイパーバトル!!|ウルトラマンサーガ ゼロ&ウルトラ兄弟 飛び出す!ハイパーバトル!!]]』で使用。[[ウルトラマンゼロ]]のゼロツインソードにM87光線を当てて、撃ち出す技。[[バードン (ウルトラ怪獣)#『ウルトラマンサーガ ゼロ&ウルトラ兄弟 飛び出す!ハイパーバトル!!』に登場するバードン|怪獣兵器バードン]]を倒した。 === 道具・武器 === ; ベーターカプセル : ハヤタ隊員がウルトラマンに変身する際に使用するものと同一形状。『ウルトラマン』第39話で、赤い球体内へ収容したウルトラマンとハヤタの身体を分離させるために使用した。 ; ウルトラコンバーター{{Refnest|group="出典"|name="zoffy2"|{{R|怪獣大全集|超技94|UPM vol.1011}}}} : 『ウルトラマンA』第5話で装着していたエネルギー補給する際に用いる十字形のブレスレット型アイテム。活動用エネルギーを蓄えており、これを与えてエネルギーが尽きかけていたAを回復させた。 : 『ウルトラマンサーガ ゼロ&ウルトラ兄弟 飛び出す!ハイパーバトル!!』でも、バット星人のアンチウルトラフィールドによってエネルギーを奪われていたゼロに与え、回復させた。 ; ウルトラマジックレイ{{R|group="出典"|zoffy2}} : 熱エネルギーを放射{{Sfn|完全超百科|2004|p=32}}する多面体アイテム。『A』第35話で[[ウルトラマンAの登場怪獣#夢幻超獣 ドリームギラス|ドリームギラス]]との水中戦に苦戦するAを助けるために天空から投下し、湖水を蒸発させた。 == 劇中での活躍 == === 『ウルトラマン』に登場したゾフィー === 最終回(第39話)に登場。ウルトラマンを倒した[[ゼットン]]が科学特捜隊に倒された直後、赤い球体の姿で地球に飛来する。この際、ムラマツとフジにウルトラマンと誤認され、岩本博士には「光の国の使い」と称されている。2つ所有していた命の1つを与えて瀕死のウルトラマンを復帰させると、地球の平和は人間の手で掴み取ることに価値があると諭して光の国へ帰るようにウルトラマンを説得したが、自分の生命をハヤタに譲りたいと願うウルトラマンに感銘を受けてハヤタにも新たな生命を与えて蘇生させ、2人を分離させてからウルトラマンを光の国へ連れ帰った。 * 胴体部分は新造ではなく、ウルトラマンの最初期スーツであるAタイプを改造した[[ザラブ星人#にせウルトラマン|にせウルトラマン]]のスーツを再改造したもの{{R|特秘3|マガジンVOL.267}}。マスクはCタイプの原型から抜かれたものである{{R|特秘3|マガジンVOL.267}}が、目がウルトラマンより微妙に上の位置についており、覗き穴が開いていないため、古谷敏は助監督の声に合わせて演じ、ウルトラマンより固い動きを意識したという<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20201124-1524669/3|title=『ウルトラマン』を演じ続けた古谷敏が語る、世界的ヒーローの原点と55周年への思い (3)|newspaper=マイナビニュース|publisher=マイナビ|date=2020-11-24|accessdate=2020-12-03}}</ref>。また、顔の中央のとさか部分の先端が黒く塗装されているなどの特徴がある{{R|特秘3|マガジンVOL.267}}。撮影後は再びウルトラマンに改造され、アトラクション用スーツとして用いられた{{R|特秘3}}。 * 企画の初期段階では「ウルトラマンの実兄」という発想であり、美術デザインを担当した彫刻家の[[成田亨]]は「ウルトラマンの兄を登場させるのでウルトラマンに何かを付け加えて」との指示を受けた。なお、成田のデザイン画では上記のとさかの黒い部分は存在しない。 * 準備稿の段階では、ウルトラマンに代わってゼットンと戦い、上空からスペシウム光線を浴びせてゼットンを撃退している。その後、ウルトラマンが自身を犠牲にしてその命をハヤタに譲るという展開が考えられていた<ref>{{Cite book|和書 |date = 2013 |title = 別冊映画秘宝ウルトラマン研究読本 |series = 洋泉社MOOK |publisher = [[洋泉社]] |isbn = 978-4-8003-0262-5 |page = 203|chapter=エピソードガイド第39話}}</ref>。ゼットンとゾフィーが戦う展開は、後年のゲーム『[[ウルトラマン Fighting Evolution|ウルトラマン Fighting Evolution3]]』([[PlayStation 2]])で実現している。また、『メビウス』第27話でイカルガ・ジョージが言った「真上にバリアーはない」という台詞は、この初稿シナリオに書かれていたゼットンの最期に起因している。 * 『[[ウルトラマン]]』第7話にノアの神と呼ばれるウルトラマンに酷似した像が登場しているが、漫画『[[ウルトラマンSTORY 0]]』ではノアの神のモデルとなったのはゾフィーとされており、古代の地球に訪れて[[アントラー (ウルトラ怪獣)#『ウルトラマンSTORY 0』|アントラー]]と戦っている。 === 第2期ウルトラシリーズに登場したゾフィー === 『[[帰ってきたウルトラマン]]』本編には未登場だが、放映当時に雑誌上でウルトラ兄弟が設定され、その長兄と位置づけられた。最終回(第51話)では、[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#触角宇宙人 バット星人|バット星人]]が[[ウルトラ兄弟]]のメンバーとして彼の名前を挙げている。第2期ウルトラシリーズでは、主人公のサポート役としては活躍したものの、怪獣を単独で退治したことはなく、不覚をとる場面が多かった。 ; 『[[ウルトラマンA]]』 : 第1話、第5話、第13・14話、第23話、第26・27話、第35話に登場し、単独客演は第5話、第23話、第35話。 : 第1話ではウルトラ兄弟の長男として5年ぶりに姿を見せ、ウルトラマンエースが北斗星司と南夕子にウルトラリングを授けるのを見届けた。 : 第5話では、苦戦するエースのエネルギーをウルトラコンバーターで回復させると、エースとともに[[ウルトラマンAの登場怪獣#地底エージェント ギロン人|ギロン人]]や[[アリブンタ#『ウルトラマンA』に登場するアリブンタ|アリブンタ]]と戦い、初の実戦を披露した。 : 第13・14話では[[ヤプール人]]の罠に落ち、ゴルゴダ星の十字架に磔にされてしまう。第23話では夕子をエースに変身させるため、北斗のいる異次元に運んだ。 : 第26・27話でヒッポリト星人にブロンズ像にされたAのウルトラサインをキャッチして地球に飛来したが、初代マンとともに一瞬でカプセルに閉じこめられ、エースを含めた4兄弟とともにブロンズ像にされてしまう。だが、[[ウルトラの父]]とエースの活躍により復活する。 : 第35話では少年の超獣[[ウルトラマンAの登場怪獣#夢幻超獣 ドリームギラス|ドリームギラス]]が出現したとの言葉を信じなかった北斗を、ウルトラの星からのテレパシー映像で叱責し、水中戦を苦手とするエースを援助するため、「ウルトラマジックレイ」を送り込んで一時的に湖の水を蒸発させた。 :* 第1話のゾフィーの着ぐるみは、[[帰ってきたウルトラマン#帰ってきたウルトラマン(ウルトラマンジャック)|ジャック]]のスーツをリペイントしてボタンを加えたもの{{Sfn|白書|1982|p=74}}。掛け声はジャックの流用。 :* 第23話は、準備稿ではセブンが客演予定だった<ref>「ウルトラマン創世記展 -ウルトラQ誕生からウルトラマン80へ-」([[2012年]])p94</ref>。 ; 『[[ウルトラマンタロウ]]』 : 第1話、第18・19話、第25話、第33・34話、第40話に登場し、単独客演は第18話のみ。 : 第1話では、[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#宇宙大怪獣 アストロモンス|アストロモンス]]との戦いで瀕死の重傷を負った東光太郎をウルトラの国に運び、[[ウルトラマンタロウ#ウルトラマンタロウ|ウルトラマンタロウ]]と合体させた。 : 第18話では[[バードン (ウルトラ怪獣)|バードン]]に敗れたタロウをウルトラの国に運んだ後、バードンと戦って序盤は善戦するが敗死してしまう{{efn|この戦いの際に「バードンの炎で頭を焼かれる」という姿(敗死後にウルトラの母に抱き抱えられるシーンでも、頭は焦げたままである)は後に「'''ファイアーヘッド'''」と呼ばれ、[[円谷プロダクション]]も[[2007年]]以降、バードンが[[エイプリルフール]]の企画の中で言及している。バンダイから発売された[[ULTRA-ACT]]においても、光線エフェクト以外に「ファイアーヘッド」のエフェクトパーツがついている。また、後述する『ウルトラファイトオーブ 親子の力、おかりします!』ではこれを意識した場面がある。}}。この際は北島隊員や南原隊員、子供たちに名前を認知されていたほか、ナレーションに「ウルトラゾフィー」と呼称されている。 : 後に第25話で元気な姿で再登場し、タロウらとともにウルトラ6重合体を果たしてウルトラベルを入手した。ゾフィーの復活については劇中で何の説明もないが、設定の補遺は当時の視聴者層の児童に圧倒的な浸透率を誇っていた[[小学館の学年別学習雑誌]]で行われていた{{Sfn|学年誌|2017|p=243}}。『小学二年生』1973年10月号の「ウルトラ大特集 ゾフィー物語」に[[ウルトラの母]]による手術が始まったことが掲載され、翌11月号の「ウルトラの国100のひみつ」で無事に手術が成功したと伝えられていた{{Sfn|学年誌|2017|p=243}}。 : 第33・34話ではタロウに招かれたウルトラ兄弟が地球の海岸でバーベキューパーティーを行うことになったが、他の兄弟が人間の姿で海岸にいた中、自分だけは人間に変身できないため<ref>「入門百科シリーズ96 決定版ウルトラ兄弟」([[1979年]]・小学館)p165</ref>、巨大化した状態で海中に立っていた。ウルトラ兄弟を打倒する目的でウルトラの国ではなく地球を襲うことになった[[テンペラー星人]]との戦いでは、当初はタロウの戦いを海岸から見守っていたが、タロウを陰ながら助けようと、ZATに協力する大谷博士の身体を借りた(初代マン、セブン、ジャック、エースはZAT隊員の身体を借りた)ほか、通りすがりのバレーボールチームの身体を一時的に借りてテンペラー星人と戦った。 : 第40話では[[海王星]]で[[タイラント (ウルトラ怪獣)|タイラント]]と対戦するものの敗れる。 ; 『[[ウルトラマンレオ]]』 : 第38・39話に登場。[[ババルウ星人]]の計略にかかり、[[ウルトラマンレオ#ウルトラマンレオ|レオ]]と同士討ちをしてしまう。初代マン、ジャック、エースとは違い、冷静な態度を見せている。また、兄弟を代表して[[ウルトラマンキング]]と握手している。 === 『ウルトラマンメビウス』に登場したゾフィー === テレビシリーズ『[[ウルトラマンメビウス]]』のほか、劇場版『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]](以下、劇場版)』や、インターネット配信番組『[[ウルトラマンメビウス外伝 ヒカリサーガ]]』、OV『[[ウルトラマンメビウス外伝 ゴーストリバース]]』に登場。 以下、時系列順に解説。 第1話では、初代マン、セブン、ジャック、エース、タロウとともにイメージのみ登場。 第15話では、[[ウルトラマンメビウス#ウルトラマンヒカリ / ハンターナイトツルギ|ウルトラマンヒカリ]]の意識内に現れ、彼に光の国への帰還を命令する。その後、『ヒカリサーガ』SAGA2で[[ベムスター]]に苦戦するヒカリを援護してベムスターを倒すと、ヒカリを宇宙警備隊に勧誘する。 劇場版では、初代マンからエースまでの4兄弟や[[ウルトラマンメビウス#ウルトラマンメビウス|メビウス]]に、危機が迫っていることをウルトラサインで告げる。そして、[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟#究極巨大超獣 Uキラーザウルス・ネオ|Uキラーザウルス・ネオ]]の復活時、タロウとともに登場してメビウスらにエネルギーを与え、ともにUキラーザウルス・ネオを倒す。その直後、第24話で[[ヤプール人|ヤプール]]の復活を察知してメビウスの救援に向かおうとしていたタロウを制止し、メビウスの成長を促そうとする。 『ヒカリサーガ』SAGA3では、ヒカリに大いなる危機(途方もない脅威)が地球に迫っていることを話し、彼がその調査を希望した際に難色を示すウルトラの父を説得し、ヒカリの希望を認めさせる。 第42話では、サコミズの回想シーンに登場。亜光速移動実験中に異星からの侵略者に包囲されたサコミズの前に現れて円盤群を一掃すると、地球から遠く離れた場所で人知れず人類を守っていることや、人類の将来に期待していることを語る。 最終回(第50話)では、ウルトラ戦士と人類の絆を示すためにサコミズと再会して一体化し、メビウスとともに[[エンペラ星人#『ウルトラマンメビウス』に登場するエンペラ星人|エンペラ星人]]と戦い、消滅させる。 OV『ゴーストリバース』では、ヒカリからのウルトラサインを見てエースとタロウを[[怪獣墓場]]へ向かわせる。 * 肩や前腕のラインは第15話や第24話、『ヒカリサーガ』では見られる(『[[新世紀ウルトラマン伝説]]』で作られたスーツ)が、劇場版と第42話以降では見られない(新規スーツ{{Sfn|アーカイブ・ドキュメント|2007|p=47}})。これは、初代マンのマスクが劇場版ではテレビシリーズのいわゆるAタイプを模した姿となっていた一方、テレビシリーズ客演時にはCタイプに基づいていたことと同様に、旧シリーズでの設定の錯綜がそのまま残されている。 * 第29話での登場も予定されていたが、作中での立場が確定していなかったため、タロウに変更された{{R|FILE}}{{Sfn|アーカイブ・ドキュメント|2007|p=68|loc=「ウルトラマンメビウス白書 [[佐野智樹]]」}}。 * 「『メビウス』でゾフィーの人間体が発覚する」という紹介が番組公式サイトや一部雑誌で発表されていたが、これはCBCの広報担当者が勘違いしただけであり、シリーズ構成担当の[[赤星政尚]]は「ゾフィーの人間体を明かす気はなかった」と述べている{{R|FILE}}。しかし、サコミズをゾフィーの変身態として登場させる案は存在した<ref>「君にも見える ウルトラの証言 赤星政尚×谷崎あきら メビウス座談会」『ウルトラ特撮 PERFECT MOOK vol.5 ウルトラマンメビウス』講談社〈講談社シリーズMOOK〉、[[2020年]]9月、p.32。{{ISBN2|978-4-06-520800-7}}</ref>。 === 『大怪獣バトルシリーズ』以降に登場したゾフィー === ; 映画『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』 : [[ウルトラマンベリアル]]を[[ウルトラマン#ウルトラマン|ウルトラマン]]や[[ウルトラセブン]]とともに迎え撃ち、彼らが敗北した後は単独でベリアルに善戦するもののM87光線をギガバトルナイザーで防御されたうえ、高高度から地面に叩きつけられて動けなくなり、ウルトラの星の凍結に巻き込まれてしまう。だがその後、[[ウルトラマンゼロ]]がベリアルを倒してエネルギーコアを取り戻したことで復活する。ラストシーンでは他のウルトラ戦士たちとともに[[ウルトラマンキング]]の演説を聞いている。また、過去のベリアルの襲来シーンにて、スターマークがない若いゾフィーが登場している。 :* 当初は過去の姿を登場させる予定はなかったが、造型の品田冬樹からウルトラの父の過去の姿を制作することが提案されたことを受け、監督の[[坂本浩一]]がゾフィーの過去の姿も登場させることを提案した{{Sfn|ウルトラ銀河伝説VisualFile|2010|pp=25、100}}。 :* 本作品のパンフレットの初版では「宇宙整備隊隊長」と誤植されていたが、重版では「宇宙警備隊隊長」と修正されている。 ; 映画『[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国]]』 : 光の国を襲撃した[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国#帝国猟兵 ダークロプス|ダークロプス]]の痕跡を宇宙警備隊本部で調べる。アナザースペース(異世界宇宙)へ旅立つゼロに他のウルトラ戦士たちとともにエネルギーを与えて見送った後、[[ウルトラマンベリアル#銀河皇帝 カイザーベリアル|カイザーベリアル]]によって光の国へ送り込まれてきたダークロプス軍団を他のウルトラ戦士たちとともに迎え撃つ。 ; OV『[[ウルトラマンゼロ外伝 キラー ザ ビートスター]]』 : ビートスター天球で戦っていたウルティメイトフォースゼロの危機に初代ウルトラマンやウルトラセブンとともに駆けつけ、天球のコースを変える時間稼ぎを行う。事件解決後、ゼロに宇宙で不穏な動き(映画『[[ウルトラマンサーガ]]』における[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#『ウルトラマンサーガ』に登場するバット星人|バット星人]]の暗躍)が起きていることや、近いうちにまた会うことになるかもしれないことを告げ、光の国に帰還する。 ; 『[[ウルトラマン列伝]]』 : 第35話ではゼロを光の国に呼び戻し、[[ゼットン]]によく似たマイナスエネルギーが感知されたことを伝え、その対策としてこれまでのゼットンとウルトラ戦士たちの戦いをゼロに見せ、警告と助言を送る。第86話から第90話までの『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』分割放送の際には、各話の解説や次回予告のナレーションをゼロに代わって行っている(これは同時放送の[[ウルトラマンベリアル#ゼロダークネス|『ウルトラゼロファイト』でのゼロの状況]]を考慮してのこと)。 ; 『てれびくん』付録DVD『[[ウルトラマンゼロの作品一覧#ウルトラマンサーガ ゼロ&ウルトラ兄弟 飛び出す!ハイパーバトル!!|ウルトラマンサーガ ゼロ&ウルトラ兄弟 飛び出す!ハイパーバトル!!]]』 : バット星人によって送り込まれてきた怪獣兵器バードンに苦戦するゼロの救援にウルトラコンバーターを持って駆けつけ、ゼロとともにバードンと戦う。このエピソードは、『ウルトラマン列伝』第43話でも触れられている。 ; 『[[ウルトラマン列伝|新ウルトラマン列伝]]』 : 第1話にて初代マンやセブンと共に歴代ウルトラ戦士と地球人の出会いを振り返った後、新たなる戦士である[[ウルトラマンギンガ]]を紹介する。 ; 『[[ウルトラマンギンガS]]』 : 本人は登場しないが、[[ウルトラマンギンガS#ウルトラマンギンガストリウム|ウルトラマンギンガストリウム]]の持つウルトラ6兄弟の力のうち2つにM87光線とZ光線のイメージが登場。M87光線は、ファイヤーゴルザ(SD)を倒す際やファイブキング(SDU)のガンQの部位を破壊する際に使用されている。 ; 『[[劇場版 ウルトラマンオーブ 絆の力、おかりします!#ウルトラファイトオーブ|ウルトラファイトオーブ 親子の力、おかりします!]]』 : レイバトスに召喚された亡霊怪獣軍団に苦戦するゼロを救援するため、セブンやジャックとともに駆けつける。自身はバードンと戦って勝利したほか、オーブがセブンとゼロによる特訓を受けている間にはジャックとともにタイラントを足止めする。 ; 『[[ウルトラマンジード]]』 : 第1話と劇場版に登場。 : 第1話では他のウルトラ兄弟やゼロ、宇宙警備隊訓練生とともにベリアルと戦った。劇場版では、ウルトラサインでウルティメイトフォースゼロをサイドスペースに向かうように指示した。 : そのほか、ウルトラマンジード ロイヤルメガマスターが第17話でブラザーズシールド、第22話で87フラッシャーを使用した際、それぞれイメージとして登場した。 ; Webドラマ『[[ウルトラギャラクシーファイト]]』 : 第1作『ウルトラギャラクシーファイト ニュージェネレーションヒーローズ』ではウルトラ5兄弟とともに登場し、光の国からニュージェネレーションヒーローズの戦いを見守る。 : 第2作『ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀』では、第1章および第2章に登場。第1章ではマガオロチおよびルーゴサイトの討伐を指揮する。第2章ではウルトラ大戦争終結後のスターマークやウルトラブレスターがない若年期の姿が登場し{{Refnest|group="出典"|<ref name="GFAC">{{Cite web|和書|url=https://m-78.jp/galaxy-fight/tac/|title=ULTRA GALAXY FIGHT THE ABUSOLUTE CONSPIRACY 【公式】『ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀』|publisher=円谷プロダクション|accessdate=2020-09-24}}</ref>{{R|U170|Z完全超全集7}}}}、力への欲求で暴走したベリアルを止めようとするものの撃退される。その後、現在の時間軸ではウルトラ5兄弟とともに並行同位体のグア軍団やベリアル、[[ウルトラマントレギア]]と交戦する。 === その他の映像作品 === ; 映画『[[ウルトラマンZOFFY ウルトラの戦士VS大怪獣軍団]]』 : ホスト役として歴代ウルトラマンの活躍を観客に語った。なお、この映画では劇中ではゼットンに敗れたウルトラマンを助けに来た際のウルトラマンとの会話がテレビシリーズのものとは大きく異なっており、ウルトラマンからゼットンはどうなったかの尋ねられると自分がゼットンを倒したような答えを返している。 ; OV作品『[[ウルトラマンネオス]]』 : 宇宙警備隊隊長として登場し、地球にネオスを派遣したほか、物語終盤でネオスが生命の危機に陥った際にはセブン21とともに支援や警告を行なった。 :* スーツは新造型{{R|平成ウルトラビデオ全集_55p}}。 ; 『[[ウルトラマンボーイのウルころ]]』 : 新撮部分にも幾度か登場している。 : 第175話では[[ウルトラマンレオの登場怪獣#『ウルトラマンボーイのウルころ』に登場するケットル星人|ケットル星人]]とバレーボールのパス練習を行った。 : 第205話では[[ウルトラマンガイアの登場怪獣#『ウルトラマンボーイのウルころ』に登場するサタンビゾー|サタンビゾー]]を倒した[[ウルトラマン (プラネタリウム特別編)#ブラックホール怪獣 ブラキウム|ブラキウム]]と対決した。 : 第210話ではピンチに陥るもGUTS遊撃隊登場の支援を受けた。 : 第225話では[[ゴース星人#『ウルトラマンボーイのウルころ』に登場するゴース星人|ゴース星人]]の実況を受けながらケットル星人と1対1でバレーボール対決を行った。 : 第255話には[[ウルトラマンガイアの登場怪獣#『ウルトラマンボーイのウルころ』に登場するアルギュロス|アルギュロス]]が化けたにせゾフィーの罠にかかったレオを助け、アルギュロスとサタンビゾーを倒した。 そのほか、劇場版映画『[[ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団]]』『[[ウルトラマン物語]]』『[[新世紀ウルトラマン伝説]]』『[[新世紀2003ウルトラマン伝説 THE KING'S JUBILEE]]』などにも兄弟とともに出演した。 === 他作品に登場したゾフィー === シリーズ作品の主人公ではないために映像作品での出番は少ないが、[[小学館の学年別学習雑誌]]や[[月刊コロコロコミック]]で断続的に掲載された[[漫画]]作品([[内山まもる]]著、後に『[[ザ・ウルトラマン (漫画)|ザ・ウルトラマン]]』の単行本に収録)や月刊コロコロコミックに連載された『[[ウルトラ兄弟物語]]』([[かたおか徹治]]著)では、主役級の活躍をすることがあった。また、多くの部下を率いて怪獣や宇宙人との戦いの最前線に立ったり、さまざまな強敵を相手に戦うその強さから、個人的に命を狙われたこともあった。 『[[ウルトラマン80]]』本編にはゾフィー自身は登場しないものの、80の過去を描いた漫画版(かたおか徹治著、後に『ウルトラ兄弟物語』の単行本に収録)では、態度が悪く未熟な80に手を焼いていたが、80の改心と怪獣打倒をきっかけに一人前の戦士と認め、地球へ派遣したことが描かれている。 ゾフィーとしてではないが、アンドロ警備隊のアンドロメロスとして活躍していた時期もあった。詳細は『[[アンドロメロス]]』を参照。 ゲーム『[[ウルトラマン Fighting Evolution]]』シリーズには、『2』から登場。ウルトラモードではウルトラマンからレオまでのウルトラ兄弟6人がゼットンに敗れた際、救援に駆けつけている。『3』のウルトラモード「さらばウルトラマン」では、特定の条件を満たすとゼットンに敗北したウルトラマンのもとに駆けつけ、そのままゼットンと対決している。また、チュートリアルでは、タロウにゲームの操作方法を教えている。 2012年の小説『[[ウルトラマン妹]]』では、登場ウルトラマンの1人であるアムールの直属の上司という設定になっており、彼女を地球に派遣した。 == テーマ曲 == ゾフィーのオリジナルテーマ曲は、バラード調の「ゾフィのバラード」を除けば映画『ウルトラマンZOFFY ウルトラの戦士VS大怪獣軍団』まで作られていなかったため、『ウルトラマンA』以降の登場時は「[[ウルトラセブン|ウルトラセブンの歌 パート2]]」の2番-3番の間奏にアレンジを加えたものが、『ウルトラマンタロウ』での戦闘時は「[[ウルトラマンタロウ|ウルトラ六兄弟]]」が主に使われた。 ; 「ゾフィのバラード」 : 作曲・編曲:[[蒔田尚昊|冬木透]] : 『ウルトラマンA』の劇中曲。当時から詞はあったが録音は行われなかった。 ; 「ゾフィーのバラード」 : 作詞:[[上原正三]] / 作曲・編曲・補作詞:冬木透 / 歌:[[水木一郎]] : 「ゾフィのバラード」の歌入りバージョン。1992年のアルバム「TSUBURAYA PRODUCTION HISTORY OF MUSIC」で初めて録音された。 ; 「ウルトラマンゾフィー」 : 作詞:[[円谷皐|谷のぼる]] / 作曲・編曲:[[菊池俊輔]] / 歌:近藤光子、[[音羽ゆりかご会|コロムビアゆりかご会]] : 『ウルトラマンZOFFY ウルトラの戦士VS大怪獣軍団』の主題歌。 == ゾーフィ == === 『シン・ウルトラマン』に登場するゾーフィ === 映画『[[シン・ウルトラマン]]』に登場。カラーリングはゾフィーと異なり、ゴールドとダークネイビーを基調として頭部中央のツバが黒くなっている{{R|F29222}}。カラータイマーのほか、ゾフィーの特徴であるスターマークとウルトラブレスターも存在しない。 光の星の新たな使いとして、ウルトラマン / 神永新二の前に現れる。登場当初はウルトラマンの本来の名であるリピアーで呼んでいたが、地球人の呼び方に合わせてウルトラマンと改める。光の星で禁じられていた人間との融合を果たしたウルトラマンが他者を守るために命を絶った神永を理解したいということを知り、マルチバースすべての知的生命体にその行為こそが地球人類を生物兵器に転用することが可能であると知らせたとして、現時点で地球が廃棄処分になったことを告げると、すべてを今のうちに刈り取ることが最適と判断し、天体制圧用最終兵器である[[ゼットン#『シン・ウルトラマン』に登場するゼットン|ゼットン]]を配備する{{Sfn|パンフレット|2022|loc=「STORY V 第5の事件」}}。しかし、人類がゼットン攻略法を編み出したことと、命をかけてゼットンに挑んだウルトラマンの姿を見て考えを改め、人類に敬意を表すると共に地球を滅ぼさず残置することを決定する。瀕死の重傷を負ったウルトラマンには、光の星に戻って掟を破った罪を償うべきと諭すが、地球と人類を心から愛するようになっていたウルトラマンの自分の命を神永に与えてほしいという願いを聞き入れ、彼から神永を分離させると命を与えて地球へ帰還させた。 * 声:[[山寺宏一]]<ref name="mantan_20220627">{{Cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20220627dog00m200016000c.html|title=シン・ウルトラマン:ゾーフィ役に山寺宏一 「『ゾフィーの間違いだよ』と」 ゾーフィ&ゼットンの名場面集も|newspaper=まんたんウェブ|publisher=MANTAN|date=2022-06-27|accessdate=2022-06-27}}</ref> * ゼットンを操るという設定は、放送当時の雑誌の「宇宙人ゾーフィ」という間違った内容の記述が元になっている{{R|デザインワークス74}}。 * モチーフは『NEXT』という[[成田亨]]が個人的に企画・構想し、ビジュアルデザインを描いていたが、未だ映像化されていない「幻の作品」の金色のボディに黒いラインが入ったヒーロー像となっている{{R|デザインワークス74}}。 * マスクは、『[[帰ってきたウルトラマン]]』に登場したウルトラマンジャックのマスク(撮影用オリジナル)を3Dスキャンしてデザインされた{{R|デザインワークス40}}{{efn|その結果、ゾーフィのマスクにはジャックのマスクで微妙に左右非対称だった目の配置や角度(右目が左目よりわずかに吊り上がっている)も継承されている<ref>{{Cite news|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2205/25/news156.html|title=「シン・ウルトラマン」のゾーフィ、金色だった 「銀色かと思ってた」「色が変わる例のドレスっぽい」と話題に(1/2 ページ)|newspaper=ねとらぼ|publisher=アイティメディア|date=2022-05-25|accessdate=2022-06-27}}</ref>。}}。体表ラインは、『ウルトラマン』に登場したゾフィーに近いパターンと『A』以降に登場したゾフィーの体表ラインに近いパターンが検討されたほか、頭部中央のラインが黒いものも検討された{{R|デザインワークス40}}。 * [[メディア・ヴァーグ]]のウェブメディア「マグミクス」には、ゼットンの配備を「人間をまったく理解していないゆえの行動」「人間にとっての害虫駆除と同じ感覚」と評されている<ref>{{Cite news|url=https://magmix.jp/post/97594|title=謎の宇宙人ゾーフィって誰?『シンウル』まさかの公式化にファン騒然【ネタバレ】|newspaper=マグミクス|publisher=メディア・ヴァーグ|date=2022-06-26|accessdate=2022-06-27}}</ref>。 * 山寺は、『ウルトラマン』世代ではない若いマネージャーからの「ゾーフィの声」との連絡に「ゾフィーの間違いだよ」と返したところ、本当にゾーフィだったので驚いたほか、抑揚や年齢感も含めて監督陣と相談しながら数パターンを収録した結果、最も若い感じで演じたものが採用されたという{{R|mantan_20220627}}。 == 関連キャラクター == ; シリーズ内でのオマージュキャラクター : 共通してピンチに駆けつける上官として描かれる。 :; [[ウルトラセブン (キャラクター)#セブン上司|セブン上司]] :: 『[[ウルトラセブン]]』最終話に登場。セブンの上官であるM78星雲人。 :; [[ウルトラマンマックス#ウルトラマンゼノン|ウルトラマンゼノン]] :: 『[[ウルトラマンマックス]]』に登場。当初はゾフィーをそのまま登場させる予定だったが諸事情から実現せず、ゾフィーをイメージした新規ウルトラマンのゼノンとなった<ref>{{Cite book |和書 |date=2006-07-07 |title=ウルトラマンマックス |series=パーフェクト・アーカイブ・シリーズ6 |publisher=[[竹書房]] |page=153 |chapter=[[八木毅]]インタビュー |isbn=4-8124-2802-5 }}</ref>。 ; ゾフィーの能力を持つ他のウルトラ戦士の形態 :; [[ウルトラマンギンガS#ウルトラマンギンガストリウム|ウルトラマンギンガストリウム]] :: ストリウムブレスでゾフィーの能力を使用可能。 :; [[ウルトラマンオーブ#形態|ウルトラマンオーブ サンダーブレスター]] :; ウルトラマンオーブ ブレスターナイト :; [[ウルトラマンジード#形態|ウルトラマンジード ファイヤーリーダー]] :; [[ウルトラマンZ#形態|ウルトラマンゼット シグマブレスター]] == その他 == * [[高橋源一郎]]のパロディ小説『ペンギン村に陽は落ちて』 ({{ISBN2|978-4-591-11861-0}}) では、女性として登場している(ゾフィーは本来ドイツ人女性に多くみられる名前である)。 * [[柳田理科雄]]原作、[[筆吉純一郎]]作画の漫画『[[空想科学大戦!]]』では、ゾフィーを基にしたヒーローの「ソフィー」が登場している。 * バラエティ番組『[[決定!これが日本のベスト100全国一斉○○テスト|決定!これが日本のベスト100]]』([[テレビ朝日]]系列、[[2002年]][[9月8日]]放送分)の「あなたが選んだヒーローベスト100」では、第100位にランクインした。その際、紹介映像として『レオ』第38話の映像が使用された。 * 2014年から2023年まで[[ゾフィー (お笑いコンビ)|同名のお笑いコンビ]]が活動していた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="怪獣大全集">{{Harvnb|ウルトラ怪獣大全集|1984|pp=42-45|loc=「ゾフィー」}}</ref> <ref name="超技94">{{Harvnb|超技全書|1990|pp=94-95|loc=「ゾフィー 全技」}}</ref> <ref name="平成ウルトラビデオ全集_55p">{{Cite book|和書|title=平成ウルトラビデオ全集|publisher=講談社|date=2002-05|ISBN=978-4-06-178427-7|page=55}}</ref> <ref name="銀河伝説超全集">{{Harvnb|ウルトラ銀河伝説超全集|2009|p=30|loc=「ゾフィー」}}</ref> <ref name="特秘3">{{Cite journal |和書 |date =2016-03-13<!--奥付表記--> |title=ウルトラマンマスクABC大研究 ここまでわかった!初代マンABC徹底検証 |publisher =[[洋泉社]] |journal =別冊[[映画秘宝]] 特撮秘宝 |volume =vol.3 |pages=pp.208-211 |isbn=978-4-8003-0865-8 }}</ref> <ref name="FILE">『メビウス』のDVD封入の作品解説書「MEBIUS FILE」より。</ref> <ref name="必殺技SG12">{{Harvnb|必殺技SG|2014|pp=12-13|loc=「ゾフィー」}}</ref> <ref name="必殺技SG140">{{Harvnb|必殺技SG|2014|p=140|loc=「Column ウルトラ戦士の未公開能力を探る 「幻の必殺技」を追え!!」}}</ref> <ref name="必殺技SG238">{{Harvnb|必殺技SG|2014|p=238|loc=「ウルトラヒーロー主要必殺技リスト」}}</ref> <ref name="U170">{{Harvnb|宇宙船170|2020|p=87|loc=「ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀」}}</ref> <ref name="マガジンVOL.267">{{Harvnb|マガジンVOL.2|2021|p=67|loc=「ウルトラQ ウルトラマン55周年記念 ヒーロー、怪獣の世界」}}</ref> <ref name="Z完全超全集7">{{Harvnb|Z完全超全集|2021|p=7|loc=「ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀 超全集」}}</ref> <ref name="Z完全超全集176">{{Harvnb|Z完全超全集|2021|p=176|loc=「ウルトライベント 2020 - 2021」}}</ref> <ref name="UPM vol.026">{{Harvnb|UPM vol.02|2020|p=6|loc=「ウルトラマン」}}</ref> <ref name="UPM vol.0910">{{Harvnb|UPM vol.09|2020|pp=10-11|loc=「ウルトラセブン、アストラ」}}</ref> <ref name="UPM vol.1011">{{Harvnb|UPM vol.10|2020|p=11|loc=「ウルトラ兄弟」}}</ref> <ref name="UPM vol.1111">{{Harvnb|UPM vol.11|2020|p=11|loc=「ウルトラ兄弟」}}</ref> <ref name="UPM vol.3610">{{Harvnb|UPM vol.36|2021|p=10|loc=「宇宙警備隊、ゾフィー」}}</ref> <ref 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アイスラッガー
アイスラッガー
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アイスラッガー 円谷プロ制作の特撮テレビドラマ作品『ウルトラセブン』の主人公「ウルトラセブン」が頭部に装着しているスペースブーメラン。→ウルトラセブン (キャラクター)#念力技 ハドソンのコンピュータゲームシリーズ「ボンバーマンシリーズ」に登場するキャラボン「シャークン」の特殊攻撃。
'''アイスラッガー''' * [[円谷プロダクション|円谷プロ]]制作の[[特撮]][[テレビドラマ]]作品『[[ウルトラセブン]]』の主人公「ウルトラセブン」が頭部に装着しているスペース[[ブーメラン]]。→[[ウルトラセブン (キャラクター)#念力技]] * [[ハドソン]]の[[コンピュータゲーム]]シリーズ「[[ボンバーマンシリーズ]]」に登場する[[キャラボン]]「シャークン」の特殊攻撃。 {{aimai}} {{デフォルトソート:あいすらつかあ}}
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ページランク
ページランク (PageRank) は、ウェブページの重要度を決定するためのアルゴリズムであり、検索エンジンのGoogleにおいて、検索語に対する適切な結果を得るために用いられている中心的な技術。Googleの創設者のうちラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンによって1998年に発明された。名称の由来は、ウェブページの"ページ"とラリー・ペイジの姓をかけたものである。 PageRankはGoogleの商標であり、またPageRankの処理は特許が取得されている。ただし、特許はGoogleではなくスタンフォード大学に帰属しており、Googleはスタンフォード大学から同特許の権利を独占的にライセンスされている。なお、同大学は特許の使用権と交換にGoogleから180万株を譲渡されているが、その株式は2005年に3億3,600万ドルで売却された。 PageRank アルゴリズムの発想は、引用に基づく学術論文の評価に似ている。 この発想を、数億~数十億ページにのぼるウェブページのリンク関係にも適用したのが PageRank である(PageRank の登場まで、このような大規模なリンク関係に適用するのは難しかった)。 この方法を適用することにより、仲間内でリンクし合っているだけのサイトの重要度が上がりにくくなり、リンク集のような多くのリンクを張っているだけのサイトからのリンクの重要性を相対的に減らす効果がある。 以上を少し単純化して数学的に表すと、次のような方法が考えられる。 すなわち、各ページに「流れ込む」リンクの得点の総和と、各ページから「流れ出す」リンクの得点の総和が等しくなるようにして、その総和をそのページの得点と考えるのである。 この得点が高いほど、そのページは重要であると考えられる。 全体にわたって矛盾が生じないようにうまく得点を割り振る必要があるが、これは一種のフローの問題であり、この問題の解法については様々な理論が考え出されている。 グラフ理論の言葉を使うなら、次のようなことである。 補足すると、上の定義において、B は A の各要素をその列の非零要素の数で割ったものである。 従って、B の各列の和は 1 になっている。 B は推移確率行列と呼ばれ、あるページからあるページへリンクによってジャンプする確率を表しているものと考えられる。 Brin & Page (1998)によれば、あるページAのページランクPR(A)は、次の式で定義される。 リンクに属性 rel="nofollow" を加えることで、同リンクをページランクの計算対象から除外することが可能となっている。これは、ブログにおけるコメントスパムへの対策などを主目的として、2005年のはじめにGoogleにより提案されたものである。例えばページAからページBにリンクする場合、ページBのURLを仮にhttp://ja.wikipedia.org/とするならば、<a href="http://ja.wikipedia.org/" rel="nofollow"></a>とすることで、ページBがページAから受け取る(便宜的表現)ページランクは無となる。 なお、Wikipediaを含むMediaWikiの外部リンクにはすべてこの属性を持たせている。これは、Wikipedia(MediaWiki)が宣伝の道具に利用されるのを防ぐためである。 Buzzurl、del.icio.usといったソーシャルブックマークにおいても、ブックマークスパム対策として、この属性が使われる傾向にある。
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ページランク (PageRank) は、ウェブページの重要度を決定するためのアルゴリズムであり、検索エンジンのGoogleにおいて、検索語に対する適切な結果を得るために用いられている中心的な技術。Googleの創設者のうちラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンによって1998年に発明された。名称の由来は、ウェブページの"ページ"とラリー・ペイジの姓をかけたものである。 PageRankはGoogleの商標であり、またPageRankの処理は特許が取得されている。ただし、特許はGoogleではなくスタンフォード大学に帰属しており、Googleはスタンフォード大学から同特許の権利を独占的にライセンスされている。なお、同大学は特許の使用権と交換にGoogleから180万株を譲渡されているが、その株式は2005年に3億3,600万ドルで売却された。
'''ページランク''' (PageRank) は、[[ウェブページ]]の重要度を決定するための[[アルゴリズム]]であり、[[検索エンジン]]の[[Google]]において、検索語に対する適切な結果を得るために用いられている中心的な技術。Googleの創設者のうち[[ラリー・ペイジ]]と[[セルゲイ・ブリン]]によって[[1998年]]に発明された{{sfn|Langville|Meyer|2011|loc=Glossary - PageRank}}{{sfn|Brin|Page|1998}}。名称の由来は、ウェブページの"ページ"とラリー・ペイジの[[姓]]をかけたものである。 PageRankはGoogleの[[商標]]であり、またPageRankの処理は[[特許]]が取得されている<ref>{{US patent|6285999}}</ref>。ただし、特許はGoogleではなく[[スタンフォード大学]]に帰属しており、Googleはスタンフォード大学から同特許の権利を独占的にライセンスされている。なお、同大学は特許の使用権と交換にGoogleから180万株を譲渡されているが、その株式は2005年に3億3,600万ドルで売却された<ref> {{cite web |url=http://www.redorbit.com/news/education/318480/stanford_earns_336_million_off_google_stock/ |title=Stanford Earns $336 Million Off Google Stock |author=Lisa M. Krieger |publisher=San Jose Mercury News, cited by redOrbit |date=1 December 2005 |accessdate=2009-02-25}} </ref><ref> {{cite web |url=http://www.stanfordalumni.org/news/magazine/2004/novdec/features/startingup.html |title=Starting Up. How Google got its groove |author=Richard Brandt |accessdate=2009-02-25 |publisher=Stanford magazine}} </ref>。 == 概要 == === 発想 === [[File:PageRank-hi-res.png|thumb|250px|PageRankの動作概念図]] PageRank アルゴリズムの発想は、[[引用]]に基づく[[学術論文]]の評価に似ている。 # 学術論文の重要性を測る指標としては、被引用数がよく使われる。重要な論文はたくさんの人によって引用されるので、被引用数が多くなると考えられる。同様に、注目に値する重要なウェブページはたくさんの[[ウェブページ|ページ]]から[[ハイパーリンク|リンク]]されると考えられる。 # さらに、被引用数を用いる考え方に加えて、「被引用数の多い論文から引用されている論文は、重要度が高い」とする考え方が以前から存在した。ウェブページの場合も同様に、重要なページからのリンクは価値が高いと考えられる。 # ただし、乱発されたリンクにはあまり価値がないと考えられる。[[リンク集]]のように、とにかくたくさんリンクすることを目的としている場合には、リンク先のウェブページに強く注目しているとは言い難い。 この発想を、数億~数十億ページにのぼるウェブページのリンク関係にも適用したのが PageRank である(PageRank の登場まで、このような大規模なリンク関係に適用するのは難しかった)。 この方法を適用することにより、仲間内でリンクし合っているだけのサイトの重要度が上がりにくくなり、リンク集のような多くのリンクを張っているだけのサイトからのリンクの重要性を相対的に減らす効果がある。 === 方法 === 以上を少し単純化して[[数学]]的に表すと、次のような方法が考えられる。 # 各ページは、固有の得点を持っている。<br/>各リンクもまた、固有の得点を持っている。 # あるページ X に対して、 #* X の得点を P とする。 #* 他のページから X に対して張られているリンクの得点をそれぞれ <math>I_1, \dotsc, I_n</math> とする。 #* X から他のページに張られているリンクの得点をそれぞれ <math>O_1, \dotsc, O_m</math> とする。 # このとき、次が成り立つものとする。 : <math>I_1 + \dotsb + I_n = P</math> : <math>O_1 = \dotsb = O_m = \frac{P}{m} \left( = \frac{\sum_{i=1}^n I_i}{m} \right)</math> すなわち、各ページに「流れ込む」リンクの得点の総和と、各ページから「流れ出す」リンクの得点の総和が等しくなるようにして、その総和をそのページの得点と考えるのである。 この得点が高いほど、そのページは重要であると考えられる。 全体にわたって矛盾が生じないようにうまく得点を割り振る必要があるが、これは一種の[[フローネットワーク|フロー]]の問題であり、この問題の解法については様々な理論が考え出されている。 === グラフ理論 === [[グラフ理論]]の言葉を使うなら、次のようなことである。 # WWW上の各ページをノードと見なし、リンクをエッジと見なした[[有向グラフ]]を考える。 # この有向グラフの[[隣接行列]]を[[転置行列|転置]]したものを A =(a<sub>ij</sub>) とし、[[行列 (数学)|行列]] B = (b<sub>ij</sub>) を <math> b_{ij} = a_{ij} \bigg/ \textstyle\sum_{k} a_{kj}</math> で定義する。 # B の最大[[固有値]]に属する[[固有ベクトル]]を求める。固有ベクトルの各要素の値が、求めるべき各ページの得点である。 補足すると、上の定義において、B は A の各要素をその列の非零要素の数で割ったものである。 従って、B の各列の和は 1 になっている。 B は'''[[マルコフ連鎖|推移確率行列]]'''と呼ばれ、あるページからあるページへリンクによってジャンプする確率を表しているものと考えられる。 === 別の定義式 === {{harvtxt|Brin|Page|1998}}によれば、あるページAのページランクPR(A)は、次の式で定義される{{sfn|Brin|Page|1998|loc=2.2.1 Description of PageRank Calculation}}。 :<math>PR\left(A\right) = \left(1-d \right) + d\sum_{i=1}^n \frac{PR\left(T_i \right)}{C\left(T_i \right)}</math> * <math>PR\left(T_n\right)</math>:ページAにリンクしているページ<math>T_n</math>のページランク。仮にページAに対して3つのページがリンクしているとした場合、<math>T_1</math>から<math>T_3</math>までの各ページを表す。 * <math>C\left(T_n\right)</math>:ページ<math>T_n</math>に含まれる他ページ(Aでも<math>T_n</math>でもないページ)へのリンクの総数。(注:『他ページ』に内部リンクが含まれるのか否かについてはstub) * d:ダンピング・ファクター。通常0.85に設定されるが、作為的にページランクを上げようとする者に対しては、より小さい値に設定される。(常に<math>0 \le d \le 1</math>) == rel="nofollow" == リンクに属性 ''rel="nofollow"'' を加えることで、同リンクをページランクの計算対象から除外することが可能となっている。これは、[[ブログ]]における[[マルチポスト|コメントスパム]]への対策などを主目的として、2005年のはじめにGoogleにより提案されたものである。例えばページAからページBにリンクする場合、ページBのURLを仮に<nowiki>http://ja.wikipedia.org/</nowiki>とするならば、<nowiki><a href="http://ja.wikipedia.org/" rel="nofollow"></a></nowiki>とすることで、ページBがページAから受け取る(便宜的表現)ページランクは無となる。 なお、[[Wikipedia]]を含む[[MediaWiki]]の外部リンクにはすべてこの属性を持たせている。これは、Wikipedia(MediaWiki)が宣伝の道具に利用されるのを防ぐためである。 Buzzurl、[[del.icio.us]]といった[[ソーシャルブックマーク]]においても、ブックマークスパム対策として、この属性が使われる傾向にある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *{{citation |last1 = Brin |first1 = S. |author1-link = セルゲイ・ブリン |last2 = Page |first2 = L. |author2-link = ラリー・ペイジ |year = 1998 |title = The Anatomy of a Large-Scale Hypertextual Web Search Engine |url = http://ilpubs.stanford.edu:8090/361/ |ref = harv }} *{{cite book |last1 = Langville |first1 = Amy N. |last2 = Meyer |first2 = Carl D. |year = 2011 |origyear = 2006 |title = Google's PageRank and Beyond |url = {{google books|KsHTl_2Pfl8C|plainurl=yes}} |publisher = Princeton University Press |isbn = 140083032X |ref = harv }} ** [[邦訳]] {{cite book |和書 |last1 = Langville |first1 = Amy N. |last2 = Meyer |first2 = Carl D. |translator = 岩野和生, 黒川利明, 黒川洋 |year = 2009 |title = Google PageRankの数理 |isbn = 9784320122390 |publisher = 共立出版 }} *{{citation |last1 = Page |first1 = L. |author1-link = ラリー・ペイジ |last2 = Brin |first2 = S. |author2-link = セルゲイ・ブリン |last3 = Motwani |first3 = Rajeev |last4 = Winograd |first4 = Terry |author4-link = テリー・ウィノグラード |year = 1999 |title = The PageRank Citation Ranking: Bringing Order to the Web |url = http://ilpubs.stanford.edu:8090/422/ |ref = harv }} == 関連項目 == * [[検索エンジン最適化]] - SEO。対象ページのページランクを上げるために行われるサイト構成などの最適化 == 外部リンク == * [http://www.ams.org/featurecolumn/archive/pagerank.html How Google Finds Your Needle in the Web's Haystack (数学者による最も平易かつ信頼性の高いページランクの解説。英文)] {{デフォルトソート:へえしらんく}} [[Category:アルゴリズム]] [[Category:グラフ理論]] [[Category:検索エンジン]] [[Category:Google]] [[Category:クラウドソーシング]] [[Category:エポニム]]
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アクションロールプレイングゲーム
アクションロールプレイングゲームとは、コンピュータゲームのジャンルの一つである。アクティブロールプレイングゲームとも呼ばれる。 アクションゲームの要素とロールプレイングゲーム(RPG)の要素とアドベンチャーゲームの要素を併せ持ったものを指す。アクションRPGやARPG(A-RPG)と略される。また、現実世界で行われる「ライブアクションロールプレイングゲーム」とは別物である。 キャラクターを成長させつつ冒険を重ねていくというロールプレイングゲームの要素と、戦闘シーンでの選択する戦術だけではなく操作のタイミングなどが考慮されるアクションゲーム的な処理と、隠された謎や仕掛けを見つけていくアドベンチャーゲームの要素が備わったものが基本型である。特にこれらのシーンがシームレスに繋がるゲームを「アクションロールプレイングゲーム」と呼ぶことが多い。 また、ローグライクゲームは画面構成や操作法がアクションRPGに類似するが、ローグライクゲームはプレイヤー側が一度の行動をとるごとに相手側も一度の行動をとるターン制であり、アクションゲーム的要素を持ち合わせていないため、アクションRPGではない。 アクティブロールプレイングゲームは、1980年代前半に主流だった「自由度が高いが展開が淡白で操作方法自体が難しいロールプレイングゲーム」に対してのアンチテーゼとして登場した経緯があり、1980年代後半のパソコン雑誌で山下章などが中心となって使用したジャンル表記である。 1980年代は「アクティブロールプレイングゲーム」と「アクションロールプレイングゲーム」の表記が混在していたが、次第に「アクティブ〜」の表記は使われなくなっていった。 1980年代前半、『ドルアーガの塔』(1984年)、『ハイドライド』(1984年)が登場し、ARPGの分野成立の基となった。続いて日本ファルコムの『ドラゴンスレイヤーシリーズ』、特に第2作の『ザナドゥ』(1985年)は記録的な売り上げとなるなどARPGは大きな支持を得る。 当時のARPGは攻略対象を求めるアーケードやPCゲーマーの性質から難度の高さを競っていたが、1987年、「今、RPGは優しさの時代へ。」をキャッチコピーとした日本ファルコムの『イースI』が出、誰でもクリアできること(クリアする楽しみ)を売りとし「優しいけれども易しくはない」と評される絶妙なゲームバランスを提示し、さらに支持を拡大した。 同年にはハイドライド3も発売され、アクションを売りにする一方、貧弱であった物語性の提示も重厚になっていった。
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アクションロールプレイングゲームとは、コンピュータゲームのジャンルの一つである。アクティブロールプレイングゲームとも呼ばれる。 アクションゲームの要素とロールプレイングゲーム(RPG)の要素とアドベンチャーゲームの要素を併せ持ったものを指す。アクションRPGやARPG(A-RPG)と略される。また、現実世界で行われる「ライブアクションロールプレイングゲーム」とは別物である。
{{Pathnavbox| * {{Pathnav|コンピュータゲームのジャンル|アクションゲーム}} * {{Pathnav|コンピュータゲームのジャンル|コンピュータRPG}} }} {{出典の明記|date=2013年9月2日 (月) 10:50 (UTC)}} {{独自研究|date=2014年8月}} [[File:DOTGv0.31screenshot.png|thumb|right|[[ファーストパーソンゲーム|ファーストパーソン]][[ダンジョン]]探索ゲーム''Damnation of Gods''([[ダンジョンマスター]]の[[クローンゲーム|クローン]])]] '''アクションロールプレイングゲーム'''とは、[[コンピュータゲームのジャンル]]の一つである。'''アクティブロールプレイングゲーム'''とも呼ばれる。 [[アクションゲーム]]の要素と[[コンピュータRPG|ロールプレイングゲーム]](RPG)の要素と[[アドベンチャーゲーム]]の要素を併せ持ったものを指す。'''アクションRPG'''や'''ARPG'''('''A-RPG''')と略される。また、現実世界で行われる「[[ライブRPG|ライブアクションロールプレイングゲーム]]」とは別物である。 == 概要 == [[キャラクター]]を[[成長]]させつつ[[冒険]]を重ねていくというロールプレイングゲームの要素と、戦闘シーンでの選択する戦術だけではなく操作のタイミングなどが考慮されるアクションゲーム的な処理と、隠された謎や仕掛けを見つけていく[[アドベンチャーゲーム]]の要素が備わったものが基本型である。特にこれらのシーンがシームレスに繋がるゲームを「アクションロールプレイングゲーム」と呼ぶことが多い。 また、[[ローグライクゲーム]]は画面構成や操作法がアクションRPGに類似するが、ローグライクゲームはプレイヤー側が一度の行動をとるごとに相手側も一度の行動をとる[[ターン (ゲーム)|ターン]]制であり、アクションゲーム的要素を持ち合わせていないため、アクションRPGではない。 == 歴史 == アクティブロールプレイングゲームは、1980年代前半に主流だった「自由度が高いが展開が淡白で操作方法自体が難しいロールプレイングゲーム」に対しての[[アンチテーゼ]]として登場した経緯があり、1980年代後半のパソコン雑誌で[[山下章]]などが中心となって使用したジャンル表記である。 1980年代は「アクティブロールプレイングゲーム」と「アクションロールプレイングゲーム」の表記が混在していたが、次第に「アクティブ〜」の表記は使われなくなっていった。 1980年代前半、『[[ドルアーガの塔]]』(1984年)、『[[ハイドライドシリーズ#ハイドライド|ハイドライド]]』(1984年)が登場し、ARPGの分野成立の基となった。続いて[[日本ファルコム]]の『[[ドラゴンスレイヤーシリーズ]]』、特に第2作の『[[ザナドゥ (ゲーム)|ザナドゥ]]』(1985年)は記録的な売り上げとなるなどARPGは大きな支持を得る。 当時のARPGは攻略対象を求めるアーケードやPCゲーマーの性質から難度の高さを競っていたが、1987年、「'''今、RPGは優しさの時代へ。'''」を[[キャッチコピー]]とした[[日本ファルコム]]の『[[イースI]]』が出、誰でもクリアできること(クリアする楽しみ)を売りとし「優しいけれども易しくはない」と評される絶妙なゲームバランスを提示し、さらに支持を拡大した。 同年には[[ハイドライドシリーズ#ハイドライド3|ハイドライド3]]も発売され、アクションを売りにする一方、貧弱であった物語性の提示も重厚になっていった。 == 代表作品 == * [[ドルアーガの塔]] *: リアルタイムの戦闘システムを生み、その後の『ハイドライド』などに強い影響を与えた。 * [[ハイドライドシリーズ|ハイドライド]] *: プレイヤー・レベルによってモンスターから得られる経験値が異なるシステムを採用している。LIFE(HP)が0になったら最大まで回復する「生き返りの薬」は同ジャンルの標準アイテムとなる。 * ガンダーラ *: ハイドライドに類似した経験値取得システムを採用している。当該システムが内在的に持つ「プレイヤー側に適正レベルを意識させ、ゲーム進行を促す作用」を意図的に活用した作品。 * [[ザナドゥ (ゲーム)|ザナドゥ]] *: 世界内に配置された敵の数やアイテムの数が固定であり、経験値・資金などを積極的に管理しない場合はゲームのクリア条件を満たせない状況に陥る。アクション要素とリソース・マネジメント要素を兼ね備えた作品。トリッキーな操作を要する場所、実はワンキー操作で到達できる場所等々のパズル要素も多く設置されている。 * [[イシターの復活]] *: 『ドルアーガの塔』の続編。 * [[ブランディッシュ]] *: 即死トラップが大量に設置されている他、「解き方を間違えると即死」するパズルも多数存在する。操作は全て[[マウス (コンピュータ)|マウス]]のみで行う。 * [[サーク]] *: 基本的にはイースのシステムと酷似するが、[[シューティングゲーム]]要素のあるポイントも存在する。 * [[聖剣伝説]] *: 『ゼルダの伝説』と似ているが、こちらはパラメータ制を採用しており、それによる成長表現が強い点が異なる。2作目以降は複数人同時プレイなど独自の要素が取り入れられている。後に「[[ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクルシリーズ]]」でも採用されている。 * [[ドラッグ オン ドラグーン シリーズ]] *: ワールドマップは存在せず、アクションのようにステージ・ミッションのクリア形式だが、「ニーア シリーズ」ではクエストのクリア形式となっている。 * [[BUSHI青龍伝〜二人の勇者〜]] *: 「自分が1回行動すれば、敵も1回行動する」という[[ローグライクゲーム]]の要素をアクション部分と違和感無く融合させている。 * [[ファミコンジャンプ 英雄列伝]] *: [[対戦型格闘ゲーム]]形式のボス戦やシューティングゲーム、[[スポーツゲーム]]、[[レースゲーム]]の要素を取り入れたミニゲームも存在するため、RPGよりも[[アクションゲーム]]として要素が濃い。 * [[レンタヒーロー]] *: 敵を倒す事だけではなく、出前の手伝いや小学生の使い走りなどで報酬となるお金を受けて取り、成長させる要素が濃い。 * [[キングダム ハーツ シリーズ]] *: 敵を倒すことによる成長の概念はあるが、アクションRPGよりもアクションとしての要素が濃い。 * [[悪魔城ドラキュラ]] *: 当初は純然たる[[アクションゲーム]]だったが、近年の作品はRPG要素が濃い作品となっている。 * [[ロックマンエグゼシリーズ]] *: [[カプコン]]の公称は[[データ]]アクションRPGであり、レベルはバスティングレベルというものになっていて、敵を倒した成績(リザルト)でその数値が決まる。しかし、「[[バトルチップ]]」という武器・防具・回復アイテムデータでプレイヤーの能力が決まるときもある。戦闘画面は移動画面から切り替わる。後に「[[流星のロックマンシリーズ]]」でも採用されている。 * [[ボクらの太陽]] *: レベルの概念はあるが、武器のみでプレイヤーの能力が決まることが多い。『続・ボクらの太陽』からロックマンエグゼシリーズと[[コラボレーション]]していた。武器にはスキルがある。また、防具は鎧のみ。装備すれば防御力が上がる。[[コナミ]]は「[[太陽]]アクションRPG」と称している。 * [[喧嘩番長]] *: 2作目から「漢の器」という成長システムが導入された。こちらも「キングダム ハーツ シリーズ」と同様にアクションゲームとしての要素が濃い。 * [[キングスフィールド]] *: 3D空間を[[ファーストパーソン・シューティングゲーム|1人称視点]]で移動するアクション要素、敵との戦闘による成長要素、お使いや謎解きのイベントを備えており『3DリアルタイムRPG』を謳っている。 *: 開発元の[[フロム・ソフトウェア]]では、[[Demon's Souls]]や[[DARK SOULS]]など3DアクションとRPGを組み合わせた作品を多数リリースしている。 * [[モンスターハンターシリーズ]] *: 公式のジャンル名は「ハンティングアクション」でありレベルの概念はないものの、装備の強化や属性の概念など、RPGの要素も副次的に持ち合わせている。 * [[ゼルダの伝説シリーズ]] *: ダンジョンでの謎解きや至る所で起こるイベントと敵との戦闘ではタイミングが必要のアクションアドベンチャー要素と、敵の様々なアクションとハート(HP)が増える要素と武器が強くなる要素とルピー(お金)の要素といろんなミニゲームのA-RPG要素が加えられている。 * [[アサシン クリードシリーズ]] *: [[ステルスゲーム]]要素の強い[[アクションアドベンチャー]]といった作風だったが、シリーズが進むごとにスキル強化などの要素やレベルの概念が登場していき、特に『[[アサシン クリード オリジンズ|Origins]]』以降はARPGと言っていいゲームになっている。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[サードパーソン・シューティングゲーム]] * [[アクションアドベンチャーゲーム]] {{Video-game-stub}} {{コンピュータゲームのジャンル}} {{デフォルトソート:あくしよんろおるふれいんくけえむ}} [[Category:アクションRPG|*]]
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交響曲第5番 (ベートーヴェン)
交響曲第5番 ハ短調 作品67(こうきょうきょくだい5ばん ハたんちょう さくひん67)は、ベートーヴェンの作曲した5番目の交響曲である。「運命」という通称でも知られ、クラシック音楽の中でも最も有名な曲の1つである。 ロマン・ロランの評するいわゆる「傑作の森」の一角をなす作品である。この作曲家の作品中でも形式美・構成力において非常に高い評価を得ており、ベートーヴェンの創作活動の頂点のひとつと考えられている。ベートーヴェンの交響曲の中でも最も緻密に設計された作品であり、その主題展開の技法や「暗から明へ」というドラマティックな楽曲構成は後世の作曲家に模範とされた。なおピアノソナタ第23番『熱情』などが、主題や構成の面から関連作品と考えられている。 本交響曲は、日本では『運命』、ドイツ語圏では『運命交響曲 (Schicksalssinfonie)』という名称で知られているが、これは通称であってベートーヴェン自身による正式な命名ではない。 この通称は、ベートーヴェンの秘書アントン・シンドラーの「冒頭の4つの音は何を示すのか」という質問に対し「このように運命は扉をたたく」とベートーヴェンが答えた(後述)ことに由来するとされる。しかし、シンドラーはベートーヴェンの「会話帳」の内容を改竄(かいざん)していたことが明らかになっており、信憑性に問題がある。またベートーヴェンの弟子だったカール・チェルニーはこの冒頭について「ベートーヴェンがプラーター公園を散歩中に聞いたキアオジという鳥の鳴き声から発想を得た」と述べている。 このように学術的な妥当性は欠くものの、日本では現在でも積極的に『運命』の名称が用いられており、一般的にも「交響曲第5番」より通じると言える。海外においても同様の通称は存在するが、日本のように積極的に用いられてはいない。たとえばCD のジャケットに「交響曲第5番『運命』」と必ず書かれているのが日本なら、海外では通常「交響曲第5番」とだけ書かれている。 ラフマニノフは『運命』(Судьба op. 21-1) という歌曲を作曲しており(セルゲイ・ラフマニノフの作品一覧#歌曲参照)、ベートーヴェンの交響曲第5番の冒頭の動機(原曲は長3度)が、短3度、長3度、長6度などに変化して繰り返し引用される。 こうした事例は本作に限ったものではなく、他の作品にもある。詳細は「交響曲#交響曲の番号」、「交響曲の副題」を参照のこと。 交響曲第3番『英雄』完成直後の1804年頃にスケッチが開始されたが、まず先に交響曲第4番の完成が優先され、第5番はより念入りにあたためられることになった。そのほか、オペラ『フィデリオ』、ピアノソナタ第23番『熱情』、ラズモフスキー弦楽四重奏曲、ヴァイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲第4番などを作曲した後、1807年から1808年にかけて、交響曲第6番『田園』と並行して作曲された。 ロマン派的な標題音楽の先駆けとも言われる第6番とは対照的に、交響曲第5番では極限まで絶対音楽の可能性が追求された。この2つの交響曲はロプコヴィッツ侯爵とラズモフスキー伯爵に併せて献呈された。 楽譜の初版は1809年4月にブライトコプフ・ウント・ヘルテル社より出版された。同年中の増刷においても若干の修正が加えられた。 1808年12月22日、オーストリア・ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場にて「交響曲第6番」として初演。現在の第6番『田園』は、同じ演奏会で第5番として初演された。 初演時のプログラムは以下の通りであった。 この演奏会の記録によると、当日は「暖房もない劇場で、少数の観客が寒さに耐えながら演奏を聴いていた」とされている。 コンサートのプログラムは交響曲を2曲、ピアノ協奏曲、合唱幻想曲、全体で4時間を越えるという非常に長いものであって、聴衆や演奏家の体力も大きく消耗したこともあり成功しなかった。さらに、第1部で演奏されるはずであったアリアは、出演予定歌手が演奏会当日に急遽出演できなくなり、代わりの歌手が緊張のあまり歌えなくなって割愛された。また第2部のフィナーレを飾る合唱幻想曲も演奏途中で混乱して演奏を始めからやり直すという不手際もありコンサートは完全な失敗に終わっている。 交響曲第5番は初演こそ失敗に終わったが、評価はすぐに高まり多くのオーケストラのレパートリーとして確立されていった。また、後世の作曲家にも大きな影響を与え、ヨハネス・ブラームス(交響曲第1番で顕著)やピョートル・チャイコフスキー(交響曲第4番、第5番で顕著)といった形式美を重んじる古典主義的な作曲家ばかりでなく、エクトル・ベルリオーズやアントン・ブルックナー、グスタフ・マーラーのような作曲家も多大な影響を受けている。 ベートーヴェン以降は「第5」という数字は作曲家にとって非常に重要な意味を持つ番号となり、後世の交響曲作曲家はこぞって第5交響曲に傑作を残している。とりわけブルックナー、チャイコフスキー、マーラー、シベリウス、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ヴォーン・ウィリアムズのものは特に有名であり名作として知られている。 ベートーヴェンは交響曲第5番で、史上初めて交響曲にピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンを導入した。当時の管弦楽では「珍しい楽器」だったこれらの楽器がやがて管弦楽の定席を占めるようになったことを考えると、後の管弦楽法に与えた影響ははかり知れず、この点においても非常に興味深い作品であるといえる。 自筆譜の最初のページにはBASSIと書かれたパートが、BASSOに訂正されている。これはヴィオローネではなく、コントラバスを指定したことを示す。当時の調弦はC-G-Dの三弦であり、初演に加わったドメニコ・ドラゴネッティの名人芸抜きには、この作品は成立しなかったといっても良いだろう。 交響曲の定型通り、4つの楽章で構成されている。演奏時間は約35分。 「暗から明へ」という構成をとり、激しい葛藤を描いた第1楽章から瞑想的な第2楽章、第3楽章の不気味なスケルツォを経て、第4楽章で歓喜が解き放たれるような曲想上の構成をとっている。 ハ短調、4分の2拍子、ソナタ形式(提示部反復指定あり)。 「ジャジャジャジャーン」、もしくは「ダダダダーン」という有名な動機に始まる。これは全曲を通して用いられるきわめて重要な動機である。特に第1楽章は楽章全体がこの「ジャジャジャジャーン」という動機に支配されており、ティンパニも終始この動機を打つ。 冒頭の動機は演奏家の解釈が非常に分かれる部分である。ゆっくりと強調しながら演奏する指揮者もいれば、Allegro con brio(速く活発に)という言葉に従ってこの楽章の基本となるテンポとほぼ同じ速さで演奏する指揮者もいる。往年の大指揮者には前者の立場が多く、この演奏スタイルがいわゆる「ダダダダーン」のイメージを形成したと考えられる。しかし、近年では作曲当時の演奏スタイルを尊重する立場から後者がより好まれる傾向にある。ハインリヒ・シェンカーによると、この8音は全体でひとつの属和音のような機能を果たしており、最後のD音に最も重点があるとされている。 この動機を基にした主題を第1主題として、古典的なソナタ形式による音楽が展開される。第2主題は、ソナタ形式の通例に従い第1主題とは対照的な穏やかな主題が採用されている。ただし第2主題提示の直前に、ホルンが第2主題の旋律の骨格を運命の動機のリズムで提示することで第1主題部から第2主題部へのスムーズな連結が図られ、ふたつの主題を統制する役割を果たしている。また、第2主題においても運命の動機のリズムが対旋律としてまとわり付く。この楽章は動機の展開技法に優れたベートーヴェンの、最も緊密に構成された作品のひとつとなっている。 なお、ソナタ形式における提示部の繰り返しの有無は演奏家の解釈によってさまざまだが、この楽章の提示部の繰り返しが省略されることはほとんどない。例外として、ブルーノ・ワルターが反復せずに演奏している他、アルトゥーロ・トスカニーニの放送録音の中にも反復なしの演奏がある。 提示部では、第2主題が提示される直前に、ハ短調の主和音(C、Es、G)からC、Es、Ges、Aからなる減七の和音に移行し、それが変ホ長調のドッペルドミナントとして機能し、変ホ長調の属和音に解決して、第2主題がハ短調の平行長調の変ホ長調で現される。対して再現部では、対応する箇所で、ハ短調の主和音(C、Es、G)から同じ減七の和音に移行するが、Gesが異名同音のFisで表記され、今度はそれがハ長調のドッペルドミナントとして機能し、ハ長調の属和音に解決して、第2主題がハ短調の同主調、ハ長調で再現される。 変イ長調、8分の3拍子、変奏曲。A-B-A'-B-A"-B'-A'"-A""-codaから成る緩徐楽章。 A(第1主題)はヴィオラとチェロで出る穏やかなもの。B(第2主題)は木管、続いて金管で歌われる力強いものである。A'で16分音符に分解された第1主題は、A"では、さらに32分音符に分解され、その流れに乗ってひとつの山場を築いたのち、木管による経過句が添えられる。短縮されたB'を経て、A'"では、変イ短調となって木管に出、続くA""の全奏で第1主題の変奏はクライマックスを迎える。ピウモッソで駆け足になってコーダに入るが、すぐにア・テンポとなり、第1主題の結尾部で敢然と締められる。 変奏の名手であったベートーヴェンは、優しさから力強さまで、主題に隠された要素を巧みに引き出している。同時期に書かれたピアノソナタ第23番「熱情」でも中間緩徐楽章は流麗な変奏曲であり、筆致に共通した点が読み取れる。 なおハ短調の作品の緩徐楽章に変イ長調を選択することはベートーヴェンにはよく見られることであり、ピアノソナタ第8番『悲愴』の第2楽章が非常に有名であるほか、ヴァイオリンソナタ第7番にも見られる。 見方によっては、ソナタ形式の要素も指摘される。上記A-B-A'-Bは提示部とそのリピート、A"-B'が自由な展開部、そして、A'"-A""はBを除した再現部である。 二重変奏曲の形式は、後に交響曲第9番の第3楽章でも利用されている。 ハ短調、4分の3拍子、複合三部形式であり、スケルツォ - トリオ - スケルツォ - コーダという構成を採る。 チェロとコントラバスによる低音での分散和音のあとにホルンによって提示されるスケルツォの主題は、「運命の主題」の冒頭の休符を取り去り、スケルツォの3拍子にうまく当てはめたような形になっている。トリオではハ長調に転じ、チェロとコントラバスがトリオの主題を提示したあと、他の楽器がそれに重なっていく、フガートのスタイルをとっている。トリオのあと再びスケルツォに戻り、不気味なコーダから、アタッカで次の楽章に繋がってゆく。 ベルリオーズはこの楽章のトリオの部分を「象のダンス」と形容した。また演奏会でこの曲を聴いた子ども時代のロベルト・シューマンは、不気味なコーダの部分に差し掛かったときに、同伴していた大人に「とても怖い」と言ったと伝えられている。 なお、主部とトリオに反復指示のある版もあり、指示に従って繰り返して演奏される場合もある。1968年、ピエール・ブーレーズが弟子のカニジウス(Claus Canisius)の助言を受けて第3楽章トリオの後ダ・カーポ(最初から繰り返し)を行う五部形式をとった録音を行い、1977年にはペータース社からダ・カーポを採用したペーター・ギュルケ(ドイツ語版)校訂の新版が刊行された。これは初版パート譜に断片的に残っている音形を元にしたものだが、初版刊行後に作成された筆写資料がダ・カーポ無しになっていることやベートーヴェンがダ・カーポの削除を指示した書簡も残っていることから、1990年代に入って刊行されたブライトコプフ社のクライヴ・ブラウン(Clive Brown)校訂による新原典版では「アド・リブ(任意)」とされ、2013年の新全集版でも括弧付き。ジョナサン・デル・マー(英語版)校訂のベーレンライター版でも正式な採用はされていない。ただしフランツ・リストによるピアノ編曲版を演奏したグレン・グールドをはじめ、ベーラ・ドラホシュ(英語版)、ノリントン、ホグウッド、アーノンクール、デル・マー版使用と銘打ったジンマンなどリピート採用の演奏がCDになっているケースは幾つもある。 ハ長調、4分の4拍子、ソナタ形式(提示部反復指定あり)。第3楽章から続けて演奏される。 この楽章では楽器編成にピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンが加わる。そのため色彩的な管楽器が増強され他の楽章に比べて響きが非常に華やかになっている。 第1主題はド・ミ・ソの分散和音をもとに構成されたシンプルなものである。第2主題は運命の動機を用いたもので、続く小結尾主題は力強いものとなっている。展開部は第2主題に始まり、新たな動機も加わり短いが充実した内容となっている。その後第3楽章が回想されるが、再び明るい再現部に入り、型どおりの再現の後、第二の展開部の様相を呈する長大なコーダに入る。コーダでは加速し「暗から明へ」における「明」の絶頂で華やかに曲を閉じる。ベートーヴェンの交響曲は比較的あっけない音で終わることが多いが、この第5では執拗に念を押し、彼の交響曲の中では唯一「ジャーン」とフェルマータの音で終わる。 なお提示部に反復の指示があるが、現在では反復されないことも多く、反復するかどうかは指揮者次第となっている。ただし、オーセンティックな演奏の影響が強まった20世紀終盤からは、反復されるケースが多くなっている。 交響曲第5番について論じられた論文や書籍は非常に多い。ここでは特に学術的な議論の的になる代表的な点を挙げる。 ベートーヴェンの弟子のカール・チェルニーによれば、キアオジという鳥のさえずりがヒントだという。中期のピアノソナタ第18番、ピアノソナタ第23番『熱情』いずれにも現れている。ただし、第1主題として激しく現れるのは本作が初めてである。 なお、アントン・シントラーの伝記には以下のように記されている(注:シントラーが多数の記録の破棄、改ざん、捏造を行った事は周知の事実であり、彼の言葉の多くが現在では信用されていない)。 運命の動機と関連する動機は、上述したほかの作品でも見られ、たとえばピアノ協奏曲第4番、弦楽四重奏曲第10番『ハープ』などがある。そのほか、同一のリズムや音形が楽章全体を支配する前例としてはピアノソナタ第17番『テンペスト』の第3楽章が有名である。 また、フルトヴェングラーは著書『音と言葉』の中で冒頭の5小節に関して、2小節目のフェルマータは一つの小節にかけられたものであるが、5小節目のフェルマータはタイでつながれた4小節目を含んだ2つの小節にわたってかけられたものであり、つまりこれは最初のフェルマータより後のフェルマータを長く伸ばすことを指示したものである、と分析している。他の同じ部分、例えば展開部の冒頭、そして終結部の終わりにも同じフェルマータの指示があるが、これは、この部分が作品全体に対しての箴言としての機能を果たすことを聴衆に叩き込むため、この部分を調和した一つの全体として、その他の作品の部分から切り離すためだったに違いない、と述べている。 第1楽章の第2主題の冒頭のホルン信号が楽器法においてよく問題になる。提示部ではホルンで演奏されるのに対して再現部ではファゴットで演奏されるように指定されていることをめぐって、再現部はファゴットで演奏されるべきかホルンで演奏されるべきかで意見が分かれている。 ホルンで演奏されるべきだと主張する意見の根拠は、「当時のEs管ホルンでは再現部のホルン信号は演奏困難であったため、ベートーヴェンは音色が似通っているファゴットで代用した。しかし楽器が発達した現代ではこの代用は不要である」ということを挙げる者が多い。 一方、ファゴットで演奏されるべきだと主張する意見の根拠は、「ベートーヴェン自身が書いた音符を尊重すべきである」「Es管ホルンで演奏困難なのは事実だが、C管ホルンに持ち替えさせれば容易に演奏できる(実際ベートーヴェンは、交響曲第3番の第1楽章再現部と第4楽章のごく一部で、ヘ長調のソロを吹く1番ホルンに対して「ここだけEs管からF管に持ち替えよ」という指示をしている)。第4楽章で歓喜を表現するために、わざわざ当時珍しい楽器だったピッコロやトロンボーンを導入した作曲家が、これほど重要な箇所で中途半端な妥協をしたとは考えにくい」などのものがある。 現在では、音色の違うファゴットをあえてベートーヴェンが指定したものと解釈し、そのままファゴットに演奏させることが多い。 ベートーヴェンの選んだハ短調という調性はベートーヴェンにとって特別な意味を持つ調性であるといわれ、それらの作品はみな嵐のようでかつ英雄的な曲調という共通点を持つといわれる。有名な例としてはピアノソナタ第8番『悲愴』、ピアノソナタ第32番、ピアノ協奏曲第3番、弦楽四重奏曲第4番、ヴァイオリンソナタ第7番、序曲『コリオラン』、交響曲第3番『英雄』の葬送行進曲などがある。 楽譜の初版はブライトコプフ・ウント・ヘルテル社より出版された。20世紀末までに出版された原典版~ブラウン校訂によるブライトコプフ社新版、デルマー版、ギュルケ版については既述。 ヘンレ社から刊行されている『新ベートーヴェン全集』では、5番と6番の校訂を児島新が担当していたが、児島は1983年に死去。1996年に一度発刊が予告されたものの新資料の発見で再校訂が必要となり出版は中断、長年5番と6番の巻は校訂者未定のままであったが、2007年になってようやくベートーヴェン研究所のイェンス・ドゥフナーに決定。2013年末に5・6番が交響曲第3巻として刊行された。ヘンレ社ではこの新版を第1楽章のみ無料公開している。
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"paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "「ジャジャジャジャーン」、もしくは「ダダダダーン」という有名な動機に始まる。これは全曲を通して用いられるきわめて重要な動機である。特に第1楽章は楽章全体がこの「ジャジャジャジャーン」という動機に支配されており、ティンパニも終始この動機を打つ。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "冒頭の動機は演奏家の解釈が非常に分かれる部分である。ゆっくりと強調しながら演奏する指揮者もいれば、Allegro con brio(速く活発に)という言葉に従ってこの楽章の基本となるテンポとほぼ同じ速さで演奏する指揮者もいる。往年の大指揮者には前者の立場が多く、この演奏スタイルがいわゆる「ダダダダーン」のイメージを形成したと考えられる。しかし、近年では作曲当時の演奏スタイルを尊重する立場から後者がより好まれる傾向にある。ハインリヒ・シェンカーによると、この8音は全体でひとつの属和音のような機能を果たしており、最後のD音に最も重点があるとされている。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "この動機を基にした主題を第1主題として、古典的なソナタ形式による音楽が展開される。第2主題は、ソナタ形式の通例に従い第1主題とは対照的な穏やかな主題が採用されている。ただし第2主題提示の直前に、ホルンが第2主題の旋律の骨格を運命の動機のリズムで提示することで第1主題部から第2主題部へのスムーズな連結が図られ、ふたつの主題を統制する役割を果たしている。また、第2主題においても運命の動機のリズムが対旋律としてまとわり付く。この楽章は動機の展開技法に優れたベートーヴェンの、最も緊密に構成された作品のひとつとなっている。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "なお、ソナタ形式における提示部の繰り返しの有無は演奏家の解釈によってさまざまだが、この楽章の提示部の繰り返しが省略されることはほとんどない。例外として、ブルーノ・ワルターが反復せずに演奏している他、アルトゥーロ・トスカニーニの放送録音の中にも反復なしの演奏がある。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "提示部では、第2主題が提示される直前に、ハ短調の主和音(C、Es、G)からC、Es、Ges、Aからなる減七の和音に移行し、それが変ホ長調のドッペルドミナントとして機能し、変ホ長調の属和音に解決して、第2主題がハ短調の平行長調の変ホ長調で現される。対して再現部では、対応する箇所で、ハ短調の主和音(C、Es、G)から同じ減七の和音に移行するが、Gesが異名同音のFisで表記され、今度はそれがハ長調のドッペルドミナントとして機能し、ハ長調の属和音に解決して、第2主題がハ短調の同主調、ハ長調で再現される。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "変イ長調、8分の3拍子、変奏曲。A-B-A'-B-A\"-B'-A'\"-A\"\"-codaから成る緩徐楽章。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "A(第1主題)はヴィオラとチェロで出る穏やかなもの。B(第2主題)は木管、続いて金管で歌われる力強いものである。A'で16分音符に分解された第1主題は、A\"では、さらに32分音符に分解され、その流れに乗ってひとつの山場を築いたのち、木管による経過句が添えられる。短縮されたB'を経て、A'\"では、変イ短調となって木管に出、続くA\"\"の全奏で第1主題の変奏はクライマックスを迎える。ピウモッソで駆け足になってコーダに入るが、すぐにア・テンポとなり、第1主題の結尾部で敢然と締められる。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "変奏の名手であったベートーヴェンは、優しさから力強さまで、主題に隠された要素を巧みに引き出している。同時期に書かれたピアノソナタ第23番「熱情」でも中間緩徐楽章は流麗な変奏曲であり、筆致に共通した点が読み取れる。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なおハ短調の作品の緩徐楽章に変イ長調を選択することはベートーヴェンにはよく見られることであり、ピアノソナタ第8番『悲愴』の第2楽章が非常に有名であるほか、ヴァイオリンソナタ第7番にも見られる。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "見方によっては、ソナタ形式の要素も指摘される。上記A-B-A'-Bは提示部とそのリピート、A\"-B'が自由な展開部、そして、A'\"-A\"\"はBを除した再現部である。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "二重変奏曲の形式は、後に交響曲第9番の第3楽章でも利用されている。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ハ短調、4分の3拍子、複合三部形式であり、スケルツォ - トリオ - スケルツォ - コーダという構成を採る。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "チェロとコントラバスによる低音での分散和音のあとにホルンによって提示されるスケルツォの主題は、「運命の主題」の冒頭の休符を取り去り、スケルツォの3拍子にうまく当てはめたような形になっている。トリオではハ長調に転じ、チェロとコントラバスがトリオの主題を提示したあと、他の楽器がそれに重なっていく、フガートのスタイルをとっている。トリオのあと再びスケルツォに戻り、不気味なコーダから、アタッカで次の楽章に繋がってゆく。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ベルリオーズはこの楽章のトリオの部分を「象のダンス」と形容した。また演奏会でこの曲を聴いた子ども時代のロベルト・シューマンは、不気味なコーダの部分に差し掛かったときに、同伴していた大人に「とても怖い」と言ったと伝えられている。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "なお、主部とトリオに反復指示のある版もあり、指示に従って繰り返して演奏される場合もある。1968年、ピエール・ブーレーズが弟子のカニジウス(Claus Canisius)の助言を受けて第3楽章トリオの後ダ・カーポ(最初から繰り返し)を行う五部形式をとった録音を行い、1977年にはペータース社からダ・カーポを採用したペーター・ギュルケ(ドイツ語版)校訂の新版が刊行された。これは初版パート譜に断片的に残っている音形を元にしたものだが、初版刊行後に作成された筆写資料がダ・カーポ無しになっていることやベートーヴェンがダ・カーポの削除を指示した書簡も残っていることから、1990年代に入って刊行されたブライトコプフ社のクライヴ・ブラウン(Clive Brown)校訂による新原典版では「アド・リブ(任意)」とされ、2013年の新全集版でも括弧付き。ジョナサン・デル・マー(英語版)校訂のベーレンライター版でも正式な採用はされていない。ただしフランツ・リストによるピアノ編曲版を演奏したグレン・グールドをはじめ、ベーラ・ドラホシュ(英語版)、ノリントン、ホグウッド、アーノンクール、デル・マー版使用と銘打ったジンマンなどリピート採用の演奏がCDになっているケースは幾つもある。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ハ長調、4分の4拍子、ソナタ形式(提示部反復指定あり)。第3楽章から続けて演奏される。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "この楽章では楽器編成にピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンが加わる。そのため色彩的な管楽器が増強され他の楽章に比べて響きが非常に華やかになっている。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "第1主題はド・ミ・ソの分散和音をもとに構成されたシンプルなものである。第2主題は運命の動機を用いたもので、続く小結尾主題は力強いものとなっている。展開部は第2主題に始まり、新たな動機も加わり短いが充実した内容となっている。その後第3楽章が回想されるが、再び明るい再現部に入り、型どおりの再現の後、第二の展開部の様相を呈する長大なコーダに入る。コーダでは加速し「暗から明へ」における「明」の絶頂で華やかに曲を閉じる。ベートーヴェンの交響曲は比較的あっけない音で終わることが多いが、この第5では執拗に念を押し、彼の交響曲の中では唯一「ジャーン」とフェルマータの音で終わる。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "なお提示部に反復の指示があるが、現在では反復されないことも多く、反復するかどうかは指揮者次第となっている。ただし、オーセンティックな演奏の影響が強まった20世紀終盤からは、反復されるケースが多くなっている。", "title": "曲の構成" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "交響曲第5番について論じられた論文や書籍は非常に多い。ここでは特に学術的な議論の的になる代表的な点を挙げる。", "title": "学術的な問題" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ベートーヴェンの弟子のカール・チェルニーによれば、キアオジという鳥のさえずりがヒントだという。中期のピアノソナタ第18番、ピアノソナタ第23番『熱情』いずれにも現れている。ただし、第1主題として激しく現れるのは本作が初めてである。", "title": "学術的な問題" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "なお、アントン・シントラーの伝記には以下のように記されている(注:シントラーが多数の記録の破棄、改ざん、捏造を行った事は周知の事実であり、彼の言葉の多くが現在では信用されていない)。", "title": "学術的な問題" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "運命の動機と関連する動機は、上述したほかの作品でも見られ、たとえばピアノ協奏曲第4番、弦楽四重奏曲第10番『ハープ』などがある。そのほか、同一のリズムや音形が楽章全体を支配する前例としてはピアノソナタ第17番『テンペスト』の第3楽章が有名である。", "title": "学術的な問題" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "また、フルトヴェングラーは著書『音と言葉』の中で冒頭の5小節に関して、2小節目のフェルマータは一つの小節にかけられたものであるが、5小節目のフェルマータはタイでつながれた4小節目を含んだ2つの小節にわたってかけられたものであり、つまりこれは最初のフェルマータより後のフェルマータを長く伸ばすことを指示したものである、と分析している。他の同じ部分、例えば展開部の冒頭、そして終結部の終わりにも同じフェルマータの指示があるが、これは、この部分が作品全体に対しての箴言としての機能を果たすことを聴衆に叩き込むため、この部分を調和した一つの全体として、その他の作品の部分から切り離すためだったに違いない、と述べている。", "title": "学術的な問題" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "第1楽章の第2主題の冒頭のホルン信号が楽器法においてよく問題になる。提示部ではホルンで演奏されるのに対して再現部ではファゴットで演奏されるように指定されていることをめぐって、再現部はファゴットで演奏されるべきかホルンで演奏されるべきかで意見が分かれている。", "title": "学術的な問題" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ホルンで演奏されるべきだと主張する意見の根拠は、「当時のEs管ホルンでは再現部のホルン信号は演奏困難であったため、ベートーヴェンは音色が似通っているファゴットで代用した。しかし楽器が発達した現代ではこの代用は不要である」ということを挙げる者が多い。", "title": "学術的な問題" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "一方、ファゴットで演奏されるべきだと主張する意見の根拠は、「ベートーヴェン自身が書いた音符を尊重すべきである」「Es管ホルンで演奏困難なのは事実だが、C管ホルンに持ち替えさせれば容易に演奏できる(実際ベートーヴェンは、交響曲第3番の第1楽章再現部と第4楽章のごく一部で、ヘ長調のソロを吹く1番ホルンに対して「ここだけEs管からF管に持ち替えよ」という指示をしている)。第4楽章で歓喜を表現するために、わざわざ当時珍しい楽器だったピッコロやトロンボーンを導入した作曲家が、これほど重要な箇所で中途半端な妥協をしたとは考えにくい」などのものがある。", "title": "学術的な問題" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "現在では、音色の違うファゴットをあえてベートーヴェンが指定したものと解釈し、そのままファゴットに演奏させることが多い。", "title": "学術的な問題" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ベートーヴェンの選んだハ短調という調性はベートーヴェンにとって特別な意味を持つ調性であるといわれ、それらの作品はみな嵐のようでかつ英雄的な曲調という共通点を持つといわれる。有名な例としてはピアノソナタ第8番『悲愴』、ピアノソナタ第32番、ピアノ協奏曲第3番、弦楽四重奏曲第4番、ヴァイオリンソナタ第7番、序曲『コリオラン』、交響曲第3番『英雄』の葬送行進曲などがある。", "title": "学術的な問題" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "楽譜の初版はブライトコプフ・ウント・ヘルテル社より出版された。20世紀末までに出版された原典版~ブラウン校訂によるブライトコプフ社新版、デルマー版、ギュルケ版については既述。", "title": "出版" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ヘンレ社から刊行されている『新ベートーヴェン全集』では、5番と6番の校訂を児島新が担当していたが、児島は1983年に死去。1996年に一度発刊が予告されたものの新資料の発見で再校訂が必要となり出版は中断、長年5番と6番の巻は校訂者未定のままであったが、2007年になってようやくベートーヴェン研究所のイェンス・ドゥフナーに決定。2013年末に5・6番が交響曲第3巻として刊行された。ヘンレ社ではこの新版を第1楽章のみ無料公開している。", "title": "出版" } ]
交響曲第5番 ハ短調 作品67は、ベートーヴェンの作曲した5番目の交響曲である。「運命」という通称でも知られ、クラシック音楽の中でも最も有名な曲の1つである。
{{出典の明記|date=2013年10月}} {{External media | width = 310px | topic = 全曲を試聴する | audio1 = [https://www.youtube.com/watch?v=T2HCnAy74EM トーマス・ヘンゲルブロック指揮] | audio2 = [https://www.youtube.com/watch?v=de7QndXj5is ギュンター・ヴァント指揮] | audio3 = [https://www.youtube.com/watch?v=peAADcnCldI アラン・ギルバート指揮]<br />以上3演奏は何れも[[NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団|NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団(旧・北ドイツ放送交響楽団)]]の管弦楽で、同楽団を保有する[[北ドイツ放送|北ドイツ放送(NDR)]]のYouTube内公式アカウントより。 | audio4 = [https://www.youtube.com/watch?v=3ug835LFixU Beethoven:Symphony No.5] - [[ヘルベルト・ブロムシュテット]]指揮[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]による演奏。[[ドイチェ・ヴェレ|ドイチェ・ヴェレ(DW)]]公式YouTube。 | audio5 = [https://www.youtube.com/watch?v=fuPrcnpIRx8 Beethoven:5. Sinfonie・hr-Sinfonieorchester・Andrés Orozco-Estrada] - [[アンドレス・オロスコ=エストラーダ]]指揮[[hr交響楽団]]による演奏。hr交響楽団公式YouTube。 }} {{Portal クラシック音楽}} '''交響曲第5番 ハ短調 作品67'''(こうきょうきょくだい5ばん ハたんちょう さくひん67)は、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[作曲]]した5番目の[[交響曲]]である。「'''運命'''」という通称でも知られ、[[クラシック音楽]]の中でも最も有名な曲の1つである。 == 概要 == [[ロマン・ロラン]]の評するいわゆる「傑作の森」の一角をなす作品である<ref>[[諸井三郎]]「解説」『ベートーヴェン 交響曲 第5番 ハ短調 作品67』[[全音楽譜出版社]]、2015年、3頁。ISBN 9784118970059。</ref>。この作曲家の作品中でも形式美・構成力において非常に高い評価を得ており、ベートーヴェンの創作活動の頂点のひとつと考えられている。ベートーヴェンの交響曲の中でも最も緻密に設計された作品であり、その主題展開の技法や「暗から明へ」というドラマティックな楽曲構成は後世の作曲家に模範とされた。なお[[ピアノソナタ第23番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第23番『熱情』]]などが、主題や構成の面から関連作品と考えられている。 == 『運命』という名称 == 本交響曲は、[[日本]]では『[[運命]]』、ドイツ語圏では『運命交響曲 ([[:de:Schicksalssinfonie|Schicksalssinfonie]])』という名称で知られているが、これは通称であってベートーヴェン自身による正式な命名ではない。 この通称は、ベートーヴェンの秘書[[アントン・シンドラー]]の「冒頭の4つの音は何を示すのか」という質問に対し「このように運命は扉をたたく」とベートーヴェンが答えた(後述)ことに由来するとされる。しかし、シンドラーは[[ベートーヴェンの会話帳|ベートーヴェンの「会話帳」]]の内容を改竄(かいざん)していたことが明らかになっており、信憑性に問題がある。またベートーヴェンの弟子だった[[カール・チェルニー]]はこの冒頭について「ベートーヴェンが[[プラーター公園]]を散歩中に聞いた[[キアオジ]]という鳥の鳴き声から発想を得た」と述べている<ref>『名曲の暗号 : 楽譜の裏に隠された真実を暴く』[[佐伯茂樹]](音楽之友社 2013.12)p16-17</ref>。 このように学術的な妥当性は欠くものの、日本では現在でも積極的に『運命』の名称が用いられており、一般的にも「交響曲第5番」より通じると言える。日本国外においても同様の通称は存在する<ref group="注釈">英語 "Fate" または "Destiny Symphony"[http://www.lvbeethoven.de/en/beethoven-compositions/bekannte-werke/sinfonie-nr-5][https://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=5473894]、フランス語 "Symphonie du Destin"[https://music.line.me/webapp/track/mt0000000009e65f6b]、イタリア語 "La sinfonia del destino"[http://guide.supereva.it/musica_classica/interventi/2008/10/la-sinfonia-del-destino-prima-parte]、中国語 "命運交響曲"、朝鮮語 "운명(運命)"など。</ref>が、日本のように積極的に用いられてはいない。たとえばCD のジャケットに「交響曲第5番『運命』」と必ず書かれているのが日本なら、日本国外では通常「交響曲第5番」とだけ書かれている。 [[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]は『運命』(Судьба op. 21-1) という歌曲を作曲しており([[セルゲイ・ラフマニノフの作品一覧#歌曲]]参照)、ベートーヴェンの交響曲第5番の冒頭の動機(原曲は長3度)が、短3度、長3度、長6度などに変化して繰り返し引用される。 こうした事例は本作に限ったものではなく、他の作品にもある。詳細は「[[交響曲#交響曲の番号]]」、「[[交響曲の副題]]」を参照のこと。 == 作曲の経緯 == [[ファイル:Beethoven 3.jpg|thumb|right|100px|第5交響曲の作曲に着手した頃のベートーヴェン]] [[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番『英雄』]]完成直後の[[1804年]]頃にスケッチが開始されたが、まず先に[[交響曲第4番 (ベートーヴェン)|交響曲第4番]]の完成が優先され、第5番はより念入りにあたためられることになった。そのほか、オペラ『[[フィデリオ]]』、[[ピアノソナタ第23番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第23番『熱情』]]、[[弦楽四重奏曲第9番 (ベートーヴェン)|ラズモフスキー弦楽四重奏曲]]、[[ヴァイオリン協奏曲 (ベートーヴェン)|ヴァイオリン協奏曲]]、[[ピアノ協奏曲第4番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第4番]]などを作曲した後、[[1807年]]から[[1808年]]にかけて、[[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|交響曲第6番『田園』]]と並行して作曲された。 ロマン派的な[[標題音楽]]の先駆けとも言われる第6番とは対照的に、交響曲第5番では極限まで[[絶対音楽]]の可能性が追求された。この2つの交響曲は[[フランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツ|ロプコヴィッツ]][[侯爵#欧州の爵位との対応|侯爵]]と[[アンドレイ・ラズモフスキー|ラズモフスキー]][[爵位#西洋の爵位|伯爵]]に併せて献呈された。 楽譜の初版は[[1809年]]4月に[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル]]社より出版された。同年中の増刷においても若干の修正が加えられた。 {{-}} == 初演 == {{multiple image | footer = 【左】献呈先2名の名前が入った総譜表紙。【右】自筆スコアの第1楽章冒頭部。 | width1 = 160 | image1 = Beethoven-Deckblatt.png | alt1 = 総譜表紙。献呈先2名の名前入り。 | width2 = 250 | image2 = Beethoven Autograph.png | alt2 = 自筆譜・第1楽章冒頭部 }} [[File:TheateranDerWienJakobAlt.jpg|thumb|right|200px|当楽曲などの初演会場となったアン・デア・ウィーン劇場]] {{main|1808年12月22日のベートーヴェンの演奏会}} [[1808年]][[12月22日]]、[[オーストリア]]・[[ウィーン]]の[[アン・デア・ウィーン劇場]]にて「交響曲第6番」として初演。現在の[[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|第6番『田園』]]は、同じ演奏会で第5番として初演された。 初演時のプログラムは以下の通りであった。 * 交響曲第5番ヘ長調『田園』(注:現在の第6番) * アリア "Ah, perfido"(作品65) * ミサ曲ハ長調(作品86)より、グロリア * [[ピアノ協奏曲第4番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第4番]] * (休憩) * '''交響曲第6番ハ短調'''(注:現在の第5番) * ミサ曲ハ長調より、サンクトゥスとベネディクトゥス * [[合唱幻想曲]] この演奏会の記録によると、当日は「暖房もない劇場で、少数の観客が寒さに耐えながら演奏を聴いていた」とされている。 コンサートのプログラムは交響曲を2曲、ピアノ協奏曲、合唱幻想曲、全体で4時間を越えるという非常に長いものであって、聴衆や演奏家の体力も大きく消耗したこともあり成功しなかった。さらに、第1部で演奏されるはずであったアリアは、出演予定歌手が演奏会当日に急遽出演できなくなり、代わりの歌手が緊張のあまり歌えなくなって割愛された。また第2部のフィナーレを飾る合唱幻想曲も演奏途中で混乱して演奏を始めからやり直すという不手際もありコンサートは完全な失敗に終わっている。 == 評価と影響 == 交響曲第5番は初演こそ失敗に終わったが、評価はすぐに高まり多くのオーケストラのレパートリーとして確立されていった。また、後世の作曲家にも大きな影響を与え、[[ヨハネス・ブラームス]]([[交響曲第1番 (ブラームス)|交響曲第1番]]で顕著)や[[ピョートル・チャイコフスキー]]([[交響曲第4番 (チャイコフスキー)|交響曲第4番]]、[[交響曲第5番 (チャイコフスキー)|第5番]]で顕著)といった形式美を重んじる古典主義的な作曲家ばかりでなく、[[エクトル・ベルリオーズ]]や[[アントン・ブルックナー]]、[[グスタフ・マーラー]]のような作曲家も多大な影響を受けている。 ベートーヴェン以降は「第5」という数字は作曲家にとって非常に重要な意味を持つ番号となり、後世の交響曲作曲家はこぞって第5交響曲に傑作を残している。とりわけ[[交響曲第5番 (ブルックナー)|ブルックナー]]、[[交響曲第5番 (チャイコフスキー)|チャイコフスキー]]、[[交響曲第5番 (マーラー)|マーラー]]、[[交響曲第5番 (シベリウス)|シベリウス]]、[[交響曲第5番 (ショスタコーヴィチ)|ショスタコーヴィチ]]、[[交響曲第5番 (プロコフィエフ)|プロコフィエフ]]、[[交響曲第5番 (ヴォーン・ウィリアムズ)|ヴォーン・ウィリアムズ]]のものは特に有名であり名作として知られている。 == 楽器編成 == {{管弦楽編成 |フルート=2, [[ピッコロ|Fl.picc.]] 1 (第4楽章) |オーボエ=2 |クラリネット=2 (第1~第3楽章B管、第4楽章C管) |ファゴット=2, [[コントラファゴット|Cfg.]] 1 (第4楽章) |ホルン=2 (第1、第3楽章はEs管2、第2、第4楽章はC管2) |トランペット=2 (C管) |トロンボーン=3 (アルト、テノール、[[バストロンボーン|バス]]各1、第4楽章のみ) |ティンパニ=● |第1ヴァイオリン=● |第2ヴァイオリン=● |ヴィオラ=● |チェロ=● |コントラバス=● }} ベートーヴェンは交響曲第5番で、史上初めて交響曲に[[ピッコロ]]、[[コントラファゴット]]、[[トロンボーン]]を導入した。当時の管弦楽では「珍しい楽器」だったこれらの楽器がやがて管弦楽の定席を占めるようになったことを考えると、後の[[管弦楽法]]に与えた影響ははかり知れず、この点においても非常に興味深い作品であるといえる。 自筆譜の最初のページにはBASSIと書かれたパートが、BASSOに訂正されている。これは[[ヴィオローネ]]ではなく、[[コントラバス]]を指定したことを示す。当時の調弦はC-G-Dの三弦であり、初演に加わった[[ドメニコ・ドラゴネッティ]]の名人芸抜きには、この作品は成立しなかったといっても良いだろう。 == 曲の構成 == 交響曲の定型通り、4つの楽章で構成されている。演奏時間は約35分。 「暗から明へ」という構成をとり、激しい葛藤を描いた第1楽章から瞑想的な第2楽章、第3楽章の不気味な<!--(というより、まさに「運命的」な)-->スケルツォを経て、第4楽章で歓喜が解き放たれるような曲想上の構成をとっている。 === 第1楽章 Allegro con brio === {| style="float:right;" |- | [[ファイル:FuenfteDeckblatt.png|thumb|250px|第1楽章冒頭譜例]] | {{Listen | image = none | filename = Ludwig van Beethoven - Symphonie 5 c-moll - 1. Allegro con brio.ogg | title = 第1楽章 Allegro con brio | description = ジーモン・シントラー指揮フルダ交響楽団 }} |} {{multiple image | footer = 第1楽章に登場する2つの主題。【譜例左】第1主題。【譜例右】第2主題。 | width1 = 280 | image1 = 5. Sinfonie (Beethoven) - Erstes Thema.png | alt1 = 第1楽章・第1主題 | width2 = 230 | image2 = Fuenfte-1-Seitenthema.png | alt2 = 第1楽章・第2主題 }} [[ファイル:Hörner in Es.png|260px|thumb|right|第2主題提示の直前に据えられている、ホルンによる旋律。第1主題から第2主題へのスムースな橋渡しと、これら両主題の統制──という2つの役割を担う。]] [[ハ短調]]、4分の2[[拍子]]、[[ソナタ形式]](提示部反復指定あり)。 「ジャジャジャジャーン」、もしくは「ダダダダーン」という有名な[[モチーフ (音楽)|動機]]に始まる。これは全曲を通して用いられるきわめて重要な動機である。特に第1楽章は楽章全体がこの「ジャジャジャジャーン」という動機に支配されており、[[ティンパニ]]も終始この動機を打つ。 冒頭の動機は演奏家の解釈が非常に分かれる部分である。ゆっくりと強調しながら演奏する指揮者もいれば、Allegro con brio(速く活発に)という言葉に従ってこの楽章の基本となるテンポとほぼ同じ速さで演奏する指揮者もいる。往年の大指揮者には前者の立場が多く、この演奏スタイルがいわゆる「ダダダダーン」のイメージを形成したと考えられる。しかし、近年では作曲当時の演奏スタイルを尊重する立場から後者がより好まれる傾向にある。[[ハインリヒ・シェンカー]]によると、この8音は全体でひとつの[[属和音]]のような機能を果たしており、最後のD音に最も重点があるとされている。 この動機を基にした[[主題 (音楽)|主題]]を第1主題として、古典的な[[ソナタ形式]]による音楽が展開される。第2主題は、ソナタ形式の通例に従い第1主題とは対照的な穏やかな主題が採用されている。ただし第2主題提示の直前に、[[ホルン]]が第2主題の旋律の骨格を運命の動機のリズムで提示することで第1主題部から第2主題部へのスムーズな連結が図られ、ふたつの主題を統制する役割を果たしている。また、第2主題においても運命の動機のリズムが対旋律としてまとわり付く。この楽章は動機の展開技法に優れたベートーヴェンの、最も緊密に構成された作品のひとつとなっている。 なお、ソナタ形式における提示部の繰り返しの有無は演奏家の解釈によってさまざまだが、この楽章の提示部の繰り返しが省略されることはほとんどない。例外として、[[ブルーノ・ワルター]]が反復せずに演奏している他、[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]の放送録音の中にも反復なしの演奏がある。 提示部では、第2主題が提示される直前に、ハ短調の主和音(C、Es、G)からC、Es、Ges、Aからなる[[減七の和音]]に移行し、それが[[変ホ長調]]の[[和声#和音の機能|ドッペルドミナント]]として機能し、変ホ長調の属和音に解決して、第2主題がハ短調の平行長調の変ホ長調で現される。対して再現部では、対応する箇所で、ハ短調の主和音(C、Es、G)から同じ[[減七の和音]]に移行するが、Gesが異名同音のFisで表記され、今度はそれが[[ハ長調]]のドッペルドミナントとして機能し、ハ長調の属和音に解決して、第2主題がハ短調の同主調、ハ長調で再現される。 === 第2楽章 Andante con moto === {{multiple image | align = right | direction = vertical | width = 340 | image1 = Fuenfte-Satz2-1.png | alt1 = 第2楽章・第1主題 | caption1 = 第2楽章の第1主題 | image2 = Fuenfte-Satz2-2.png | alt2 = 第2楽章・第2主題 | caption2 = 第2楽章の第2主題 }} {{Listen | image = none | filename = Ludwig van Beethoven - Symphonie 5 c-moll - 2. Andante con moto.ogg | title = 第2楽章 Andante con moto | description = ジーモン・シントラー指揮フルダ交響楽団 }} [[変イ長調]]、8分の3拍子、[[変奏曲]]。A-B-A'-B-A"-B'-A'"-A""-codaから成る緩徐楽章。 A(第1主題)はヴィオラとチェロで出る穏やかなもの。B(第2主題)は木管、続いて金管で歌われる力強いものである。A'で16分音符に分解された第1主題は、A"では、さらに32分音符に分解され、その流れに乗ってひとつの山場を築いたのち、木管による経過句が添えられる。短縮されたB'を経て、A'"では、変イ短調となって木管に出、続くA""の全奏で第1主題の変奏はクライマックスを迎える。ピウモッソで駆け足になってコーダに入るが、すぐにア・テンポとなり、第1主題の結尾部で敢然と締められる。 変奏の名手であったベートーヴェンは、優しさから力強さまで、主題に隠された要素を巧みに引き出している。同時期に書かれたピアノソナタ第23番「熱情」でも中間緩徐楽章は流麗な変奏曲であり、筆致に共通した点が読み取れる。 なおハ短調の作品の緩徐楽章に変イ長調を選択することはベートーヴェンにはよく見られることであり、[[ピアノソナタ第8番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第8番『悲愴』]]の第2楽章が非常に有名であるほか、[[ヴァイオリンソナタ第7番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第7番]]にも見られる。 見方によっては、ソナタ形式の要素も指摘される。上記A-B-A'-Bは提示部とそのリピート、A"-B'が自由な展開部、そして、A'"-A""はBを除した再現部である。 二重変奏曲の形式は、後に交響曲第9番の第3楽章でも利用されている。 === 第3楽章 Allegro. atacca === {{multiple image | align = right | direction = vertical | width = 400 | image1 = Fuenfte-Scherzomotiv.png | alt1 = 第3楽章冒頭 | caption1 = 第3楽章の冒頭部分 | image2 = Beethoven-Trio.png | alt2 = 第3楽章フガート | caption2 = 第3楽章のフガート部分 }} {{Listen | image = none | filename = Ludwig van Beethoven - Symphonie 5 c-moll - 3. Allegro.ogg | title = 第3楽章 Allegro. atacca | description = ジーモン・シントラー指揮フルダ交響楽団 }} ハ短調、4分の3拍子、[[複合三部形式]]であり、[[スケルツォ]] - [[トリオ]] - スケルツォ - [[コーダ (音楽)|コーダ]]という構成を採る。 [[チェロ]]と[[コントラバス]]による低音での[[分散和音]]のあとに[[ホルン]]によって提示されるスケルツォの主題は、「運命の主題」の冒頭の休符を取り去り、スケルツォの3拍子にうまく当てはめたような形になっている。トリオでは[[ハ長調]]に転じ、チェロとコントラバスがトリオの主題を提示したあと、他の楽器がそれに重なっていく、[[フガート]]のスタイルをとっている。トリオのあと再びスケルツォに戻り、不気味なコーダから、[[アタッカ]]で次の楽章に繋がってゆく。 [[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]はこの楽章のトリオの部分を「象のダンス」と形容した。また演奏会でこの曲を聴いた子ども時代の[[ロベルト・シューマン]]は、不気味なコーダの部分に差し掛かったときに、同伴していた大人に「とても怖い」と言ったと伝えられている。 なお、主部とトリオに反復指示のある版もあり、指示に従って繰り返して演奏される場合もある。[[1968年]]、[[ピエール・ブーレーズ]]が弟子のカニジウス(Claus Canisius)の助言を受けて第3楽章トリオの後ダ・カーポ(最初から繰り返し)を行う五部形式をとった録音を行い、[[1977年]]には[[ペータース社]]からダ・カーポを採用した{{仮リンク|ペーター・ギュルケ|de|Peter Gülke}}校訂の新版が刊行された。これは初版パート譜に断片的に残っている音形を元にしたものだが、初版刊行後に作成された筆写資料がダ・カーポ無しになっていることやベートーヴェンがダ・カーポの削除を指示した書簡も残っていることから、1990年代に入って刊行されたブライトコプフ社のクライヴ・ブラウン(Clive Brown)校訂による新原典版では「アド・リブ(任意)」とされ、2013年の新全集版でも括弧付き。{{仮リンク|ジョナサン・デル・マー|en|Jonathan Del Mar}}校訂の[[ベーレンライター出版社|ベーレンライター]]版でも正式な採用はされていない。ただし[[フランツ・リスト]]による[[ピアノ]]編曲版を演奏した[[グレン・グールド]]をはじめ、{{仮リンク|ベーラ・ドラホシュ|en|Béla Drahos}}、[[ロジャー・ノリントン|ノリントン]]、[[クリストファー・ホグウッド|ホグウッド]]、[[ニコラウス・アーノンクール|アーノンクール]]、デル・マー版使用と銘打った[[デイヴィッド・ジンマン|ジンマン]]などリピート採用の演奏がCDになっているケースは幾つもある。 === 第4楽章 Allegro - Presto === {| style="float:right;" |- | [[ファイル:Fuenfte-Viertersatz-1.png|thumb|250px|第4楽章第1主題]] |- | {{Listen | image = none | filename = Ludwig van Beethoven - Symphonie 5 c-moll - 4. Allegro.ogg | title = 第4楽章 Allegro - Presto | description = ジーモン・シントラー指揮フルダ交響楽団 }} |} [[ハ長調]]、4分の4拍子、ソナタ形式(提示部反復指定あり)。第3楽章から続けて演奏される。 この楽章では楽器編成に[[ピッコロ]]、[[コントラファゴット]]、[[トロンボーン]]が加わる。そのため色彩的な管楽器が増強され他の楽章に比べて響きが非常に華やかになっている。 第1主題はド・ミ・ソの分散和音をもとに構成されたシンプルなものである。第2主題は運命の動機を用いたもので、続く小結尾主題は力強いものとなっている。展開部は第2主題に始まり、新たな動機も加わり短いが充実した内容となっている。その後第3楽章が回想されるが、再び明るい再現部に入り、型どおりの再現の後、第二の展開部の様相を呈する長大なコーダに入る。コーダでは加速し「暗から明へ」における「明」の絶頂で華やかに曲を閉じる。ベートーヴェンの交響曲は比較的あっけない音で終わることが多いが、この第5では執拗に念を押し、彼の交響曲の中では唯一「ジャーン」とフェルマータの音で終わる。 なお提示部に反復の指示があるが、現在では反復されないことも多く、反復するかどうかは指揮者次第となっている。ただし、[[古楽#古楽の演奏|オーセンティックな演奏]]の影響が強まった20世紀終盤からは、反復されるケースが多くなっている。 == 学術的な問題 == 交響曲第5番について論じられた論文や書籍は非常に多い。ここでは特に学術的な議論の的になる代表的な点を挙げる。 === 運命の動機 === ベートーヴェンの弟子の[[カール・チェルニー]]によれば、[[キアオジ]]という鳥のさえずりがヒントだという。中期の[[ピアノソナタ第18番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第18番]]、[[ピアノソナタ第23番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第23番『熱情』]]いずれにも現れている。ただし、第1主題として激しく現れるのは本作が初めてである。 なお、[[アントン・シントラー]]の伝記には以下のように記されている(注:シントラーが多数の記録の破棄、改ざん、捏造を行った事は周知の事実であり、彼の言葉の多くが現在では信用されていない)。 {{Cquote|作曲家はこの作品の深みを理解する手助けとなる言葉を与えてくれた。ある日、著者の前で第1楽章の楽譜の冒頭を指差して、「このようにして運命は扉を開くのだ」という言葉をもってこの作品の真髄を説明して見せた。}} 運命の動機と関連する動機は、上述したほかの作品でも見られ、たとえば[[ピアノ協奏曲第4番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第4番]]、[[弦楽四重奏曲第10番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第10番『ハープ』]]などがある。そのほか、同一のリズムや音形が楽章全体を支配する前例としては[[ピアノソナタ第17番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第17番『テンペスト』]]の第3楽章が有名である。 また、[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|フルトヴェングラー]]は著書『[[音と言葉]]』の中で冒頭の5小節に関して、2小節目のフェルマータは一つの小節にかけられたものであるが、5小節目のフェルマータはタイでつながれた4小節目を含んだ2つの小節にわたってかけられたものであり、つまりこれは最初のフェルマータより後のフェルマータを長く伸ばすことを指示したものである、と分析している。他の同じ部分、例えば展開部の冒頭、そして終結部の終わりにも同じフェルマータの指示があるが、これは、この部分が作品全体に対しての箴言としての機能を果たすことを聴衆に叩き込むため、この部分を調和した一つの全体として、その他の作品の部分から切り離すためだったに違いない、と述べている。<!--逐語的な引用でしたら、戻してカッコ書きにしてください--> {{節スタブ}} === 第1楽章の第2主題の冒頭 === 第1楽章の第2主題の冒頭のホルン信号が楽器法においてよく問題になる。提示部では[[ホルン]]で演奏されるのに対して再現部では[[ファゴット]]で演奏されるように指定されていることをめぐって、再現部はファゴットで演奏されるべきかホルンで演奏されるべきかで意見が分かれている。 ホルンで演奏されるべきだと主張する意見の根拠は、「当時のEs管ホルンでは再現部のホルン信号は演奏困難<!--「演奏不可能」となっていたが、Es管でもストップ奏法を使えば音は出せる。ただしその場合は開放音とストップ音が混じって音色や音量が不均一となり、音楽的に満足な演奏をするのが極めて難しい。よって「演奏不可能」ではなく「演奏困難」に修正した。-->であったため、ベートーヴェンは音色が似通っているファゴットで代用した。しかし楽器が発達した現代ではこの代用は不要である」ということを挙げる者が多い。 一方、ファゴットで演奏されるべきだと主張する意見の根拠は、「ベートーヴェン自身が書いた音符を尊重すべきである」「Es管ホルンで演奏困難なのは事実だが、C管ホルンに持ち替えさせれば容易に演奏できる(実際ベートーヴェンは、[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番]]の第1楽章再現部と第4楽章のごく一部で、ヘ長調のソロを吹く1番ホルンに対して「ここだけEs管からF管に持ち替えよ」という指示をしている)。第4楽章で歓喜を表現するために、わざわざ当時珍しい楽器だったピッコロやトロンボーンを導入した作曲家が、これほど重要な箇所で中途半端な妥協をしたとは考えにくい」などのものがある。 現在では、音色の違うファゴットをあえてベートーヴェンが指定したものと解釈し、そのままファゴットに演奏させることが多い。 === 調性 === ベートーヴェンの選んだ[[ハ短調]]という調性はベートーヴェンにとって特別な意味を持つ調性であるといわれ、それらの作品はみな嵐のようでかつ英雄的な曲調という共通点を持つといわれる。有名な例としては[[ピアノソナタ第8番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第8番『悲愴』]]、[[ピアノソナタ第32番 (ベートーヴェン)|ピアノソナタ第32番]]、[[ピアノ協奏曲第3番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第3番]]、[[弦楽四重奏曲第4番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第4番]]、[[ヴァイオリンソナタ第7番 (ベートーヴェン)|ヴァイオリンソナタ第7番]]、[[序曲]][[コリオラン|『コリオラン』]]、[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番『英雄』]]の葬送行進曲などがある。 == 出版 == 楽譜の初版は[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル]]社より出版された。20世紀末までに出版された原典版~ブラウン校訂によるブライトコプフ社新版、デルマー版、ギュルケ版については既述。 ヘンレ社から刊行されている『新ベートーヴェン全集』では、5番と6番の校訂を[[児島新]]が担当していたが、児島は[[1983年]]に死去。[[1996年]]に一度発刊が予告されたものの新資料の発見で再校訂が必要となり出版は中断、長年5番と6番の巻は校訂者未定のままであったが、2007年になってようやく[[ベートーヴェン研究所]]のイェンス・ドゥフナーに決定。[[2013年]]末に5・6番が交響曲第3巻として刊行された。ヘンレ社ではこの新版を第1楽章のみ無料公開している。 == 逸話 == {{出典の明記|section=1|date=2021年11月}} *「ダダダダーン」のリズム(・・・-)が[[モールス符号]]では[[V]]に当たることから、[[第二次世界大戦]]中、[[英国放送協会|BBC]]ではこれを ''victory'' の頭文字として[[インターバル・シグナル|放送開始時]]にこの曲を放送していた。ほぼ同じ理由で、[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]はイタリアが降伏した[[1943年]][[9月9日]]の放送では[[NBC交響楽団]]とともに第1楽章だけを演奏し、「残りはドイツが降伏してから」と予告。そしてドイツが降伏した[[1945年]][[5月8日]]の放送で全曲を演奏している。 *日本では通俗的に、「ダダダダーン」のフレーズがおしおきの前兆など「不幸の訪れ」の表現として冗談や漫画などに広く使われる(例えば、アニメ『[[ヤッターマン]]』の「ママより怖い[[おしおき]]タイム」で、ドクロベーが「ミュージック」とコールしたときに流れる「[[おしおき]][[ファンファーレ]]」)。同様の使われ方をする楽曲として、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]の[[トッカータとフーガニ短調]] や[[フレデリック・ショパン]]の[[ピアノソナタ第2番 (ショパン)|ピアノソナタ第2番『葬送』]]第3楽章があげられる。 *[[1977年]]に[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]が打ち上げた[[ボイジャー1号]]と[[ボイジャー2号]]には、[[宇宙人]]へのプレゼントとして[[銅]]製の[[レコード]]([[ボイジャーのゴールデンレコード]])が積み込まれているが、この曲の第1楽章も収録されている<ref>[http://voyager.jpl.nasa.gov/spacecraft/music.html Music From Earth (Music on the Golden Record)]{{en icon}} - NASA Jet Propulsion Laboratory([[ジェット推進研究所]])Webサイトより</ref>。 *第2楽章が一種の[[レクイエム]]として単独で演奏されることも稀にあり、第二次世界大戦中の[[スターリングラード攻防戦]]終結を告げるドイツ側の放送でこの楽章が流されている。 *[[日本]]の作曲家・[[吉松隆]]が[[2001年]]に作曲した『[[交響曲第5番 (吉松隆)|交響曲第5番]]』は、本曲の番号と共に、本曲の「冒頭のリズムで始まり、ハ長調で終わる」というコンセプトを基に作曲されている。 *[[コナミ]]の[[ガンシューティングゲーム]]、『狙撃/SOGEKI』([[サイレントスコープ]]シリーズの外伝的作品)に於いて、最終ボスが[[核ミサイル]]の発射コードにこの楽曲を使っていて、[[ピアノ]]で演奏している。プレイヤーである狙撃兵は30秒以内にボスの頭を1発で撃ち抜かなくてはならない。また、デモ画面の[[BGM]]でも使われている。 *[[ライトノベル]]の作品の1つである「[[乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…]]」がアニメ化された際にオープニングである「[[乙女のルートはひとつじゃない!]]」にフレーズである「ダダダダーン」を使用している。 *戦争映画「[[史上最大の作戦]]」においても、冒頭のタイトルが出てくる場面にも同様のフレーズが使用されている。 *爆竜戦隊アバレンジャーにこの曲をモチーフとするキャラクターが登場する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{commonscat|Symphonie Nr. 5 c-moll}} * [http://www.dlib.indiana.edu/variations/scores/bgp5237/large/index.html ベートーヴェンの交響曲第5番の総譜 (HTML)] - IUDLP: The Indiana University Digital Library Program * [http://imslp.org/wiki/Symphony_No.5%2C_Op.67_%28Beethoven%2C_Ludwig_van%29 ベートーヴェンの交響曲第5番の総譜 (PDF)] - IMSLP: The International Music Score Library Project * [https://musopen.org/ja/music/2567-symphony-no-5-in-c-minor-op-67/ Symphony no.5 in C minor, Op.67] - 『[[Musopen]]』より * 『Free-scores.com』より《何れも演奏音源掲載も有り》 ** [http://www.free-scores.com/download-sheet-music.php?pdf=1203 Symphony No.5 in C Minor Op.67] - [[アンリ・リトルフ|アンリ・リトルフ(Henry Litolff)]]出版分 ** [http://www.free-scores.com/download-sheet-music.php?pdf=5837 Symphony No.5 (1st Movement) Op.67] - [[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル]]出版分《第1楽章総譜のみ》 * 『Leon Levy Digital Archives』([[ニューヨーク・フィルハーモニック|ニューヨーク・フィル]]公式)より ** [https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/0ed7c7de-0481-4f04-a1b9-13ed8ba56abc-0.1 Beethoven, Ludwig van/SYMPHONY NO.5 IN C MINOR, OP.67 - Score and Parts (ID:1823)] - [[レナード・バーンスタイン|バーンスタイン]]が実際に使用した総譜(特製)およびパート譜 ** [https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/886207c1-2d57-4554-b6a2-f4d660891d26-0.1 Beethoven, Ludwig van/SYMPHONY NO.5 IN C MINOR, OP.67 - Score and Parts (ID:5185)] - [[ハードカバー]]の総譜、及び「パート譜一式」 ** [https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/62ffca6b-7067-4841-b44d-ea9ea09e0438-0.1 Beethoven, Ludwig van/SYMPHONY NO.5 IN C MINOR, OP.67 - Score and Parts (ID:5186)] - チェロとコントラバスの両パートに係るパート譜が欠落 ** [https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/f75d138c-7d1a-487d-8108-5cd3a6465d17-0.1 Beethoven, Ludwig van/SYMPHONY NO.5 IN C MINOR, OP.67 - Score (ID:4213)] - 1842/43年楽季に於ける最初の公演でニューヨーク・フィル創立者ヒル([[:en:Ureli Corelli Hill|Ureli Corelli Hill]])が実際に使用した総譜《別ID(ID:8255)にて、[https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/9e7229e9-cf5a-43ed-a8bf-6051a9a013a1-0.1 第1楽章のみのデジタルコピーも存在]》 * [https://www.allmusic.com/composition/symphony-no-5-in-c-minor-fate-op-67-mc0002424528 Symphony No.5 in C minor ('Fate'), Op.67] - 『AllMusic』より《[[ディスコグラフィ]]一覧有り》 * [https://www.liberliber.it/online/autori/autori-b/ludwig-van-beethoven/sinfonia-n-5-in-do-minore-op-67/ Sinfonia n°5 in Do minore, Op.67]{{it icon}} - 『Liber Liber』より《[[ヴィクトル・デ・サバタ|デ・サバタ]]指揮ニューヨーク・フィルによる演奏音源([https://www.classiccat.net/beethoven_l_van/67.php#mp3 1952年収録])》 * [[インターネットアーカイブ]]より ** [https://archive.org/details/BeethovenSymphonyNo.5-Ormandy Symphony No.5 in C Minor (Publication date 1938)] - [[ユージン・オーマンディ|オーマンディ]]指揮による演奏音源《楽団名不詳;1938年10月収録》 ** [https://archive.org/details/BeethovenSymphonyNo.5 Beethoven Symphony No.5] - [[アルトゥーロ・トスカニーニ|トスカニーニ]]指揮[[NBC交響楽団|NBC響]]による演奏音源《1939年収録》 ** [https://archive.org/details/BEETHOVENSymphonyNo.5-Walter-NEWTRANSFER BEETHOVEN:Symphony No.5 (Publication date 1941)] - [[ブルーノ・ワルター|ワルター]]指揮ニューヨーク・フィルによる演奏音源《1941年12月収録》 ** [https://archive.org/details/CsoBeethovenSymphonyNo.5Fm96-24/09-B5-allegro.flac CSO Beethoven Symphony No.5 1967 FM 96-24] - [[ジョージ・セル|セル]]指揮[[クリーヴランド管弦楽団|クリーヴランド管]]による演奏音源《1967年収録;FM放送から》 * [http://www.magazzini-sonori.it/esplora/teatro_comunale_bologna/sinfonia_minore_beethoven.aspx Sinfonia in Do minore op.67 n.5 (L. Van Beethoven)]{{it icon}} - 『Magazzini Sonori』より《2013年12月に[[ボローニャ]]で収録された演奏音源([[ローター・ツァグロセク]]指揮)を掲載》 * {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/goshikinuma2/index.html |title=第5番の部屋 |date=20181106152106}} {{ベートーヴェンの交響曲}} {{ファンタジア}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こうきようきよく5 へとうえん}} [[Category:ベートーヴェンの交響曲|*05]] [[Category:ハ短調]] [[Category:1808年の楽曲]] [[Category:楽曲 こ|うきようきよく05 へとうえん]]
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東京外環自動車道
東京外環自動車道(とうきょうがいかんじどうしゃどう、英語: (TOKYO-)GAIKAN EXPWY)は、東京都世田谷区東名ジャンクションから、埼玉県を経由し、千葉県市川市高谷の高谷ジャンクションに至る高速道路の道路名である。略称は東京外環道(とうきょうがいかんどう)、外環道、東京外環、外環など。全線が大都市近郊区間に指定されている。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、「C3」が割り振られている。 都心から約15キロメートル (km) の圏域を環状に連絡する道路である東京外かく環状道路の自動車専用道路として供用されている区間であり、並行する一般部の国道298号と併せて東京外かく環状道路を構成する。 「東京外かく環状道路」は高速道路部と一般道路部の総称であり、「東京外環自動車道」は供用中の高速道路部の路線名である。どちらも「外環」あるいは「外環道」と略称される。建設中区間の名称は、一般道路部および高速道路部の東名JCT(仮称)- 中央JCT(仮称)については「東京外かく環状道路」となっており、高速道路部の中央JCT(仮称) - 大泉JCT間については「東京外環自動車道」となっている(ただしこれらの区間についても「東京外かく環状道路」となっている場合もある)。 都市計画法に基づく都市計画道路名称は、東京都内は東京都市計画道路都市高速道路外郭環状線、埼玉県内は各都市計画区域(和光・戸田・さいたま・川口・草加)とも高速外環状道路である。 現在、国土交通省と東京都とNEXCOが共同で建設・整備を行い、開通区間についてはNEXCO東日本が管理を行っている。 東京外環自動車道とは一般向け案内に用いられる道路名であり、高速自動車国道の路線を指定する政令で指定されている路線名ではない。政令上の正式な路線名は、下記のように複数の高速自動車国道の一部ということになっている。 東京外かく環状道路として事業中・計画中。 環状道路は、通過交通の都心部への流入を抑制し、慢性的な渋滞が発生していた都心部の都市機能を再生する効果や、災害や事故等で一部区間が不通になっても迂回路を確保できる効果など、多くの機能と効果がある。2018年6月2日には三郷南IC - 高谷JCT間(千葉区間)が開通し、4つの放射道路(東関東道・常磐道・東北道・関越道)が当自動車道経由で結ばれ、外環の約6割が完成した。 国土交通省は外環道について、沿線に立地する物流施設が約5.5倍に増加し、中央環状内側の首都高(中央環状含む)の渋滞損失時間が約3割減少するなど物流の円滑化や、千葉県へのアクセス経路のうち5割が外環道を利用して埼玉・北関東方面から訪れる為観光客の増加に寄与、国道298号に並行する県道での交通事故件数が約3割減少し安全性が向上するなど多くの整備効果があったと分析している。 近畿自動車道と同じく、道路照明灯は全線にわたり設置されている。 外環道にサービスエリア(SA)は設置されていない。又、休憩施設は現時点では新倉パーキングエリア (PA) のみとなっているが、外環八潮PA(仮称)が設置事業中である。 また、当高速道路上にはガソリンスタンドが設置されておらず、経由地によっては100 km近くにわたって給油ができないため、周辺のサービスエリア (SA) ・PAにはガス欠防止のため給油を促す標識が設置されている。 新倉PAの駐車場は、内回り・外回り共用(上下集約型)となっており、外環道はここでUターンを可能としている。 全て方向別放送となっており、コールサインは「ハイウェイラジオ外環○○」と放送される(例 :大泉であれば 「ハイウェイラジオ外環大泉」)。 大泉、和光北では電波状態が悪く聞き取りづらい場合がある。これは、直近に送信所があるAFN Tokyoの電波の第2高調波 (810 kHz×2=1620 kHz) が、ハイウェイラジオの周波数 (1620 kHz) と同じであり混信を起こしてしまうためである。 2017年(平成29年)2月25日までは、当時の開通区間(大泉IC/JCT - 三郷南IC)は、距離に関わらず均一料金だったが、圏央道境古河IC - つくば中央IC間の開通に合わせて、2月26日午前0時からETC利用を基本とする対距離制へ移行し、それに先立ち2017年(平成29年)1月11日より、外環道IC・JCT出口でのETC料金徴収が始まった。 これは2016年(平成28年)4月1日、国土交通省による「首都圏の新たな高速道路料金」に基づくもので、高速自動車国道の大都市近郊区間の水準(普通車29.52 円/km・税抜き)に統一されることとなった。しかし、この基準をそのまま当てはめると、2017年2月25日時点での最長区間(大泉IC/JCT - 三郷南IC)の料金が1230円(普通車)となり、それまでの均一料金510円から大幅値上げとなってしまうため、以下の激変緩和措置が講じられることとなった。 この激変緩和措置により、極端な値上げにはならなかったが、国土交通省の意図した「発・着地点が同一ならば利用ルートに関わらず同一料金」が崩れ、複雑な料金体系となったことへの批判がある。 2017年(平成29年)2月25日まで、走行距離に関わらず、ETC車も均一料金であった。 24時間交通量(台) 道路交通センサス (出典:「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成) 2018年に千葉区間が開通したことにより、全線にわたり交通量が増加した。開通前後における川口JCT - 三郷JCTの区間の比較では、渋滞回数が外回りで43回から289回、内回りでは34回から538回と大きく増加した。2020年には、外回り外環三郷西IC出口からの流出をスムーズにする改良工事や、サグ付近に速度低下を警告する看板、ペースメーカーライトの設置を完了した。 大泉JCT - 新倉PAにかけては急カーブが連続し、大泉付近では大型車の横転事故が多発、さらに大部分がトンネルで見通しが悪くなっている。美女木JCTの首都高速道路 - 外環連絡道路には、高速道路では全国でも珍しい交通信号機付きの平面交差点が整備されている。
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東京外環自動車道は、東京都世田谷区東名ジャンクションから、埼玉県を経由し、千葉県市川市高谷の高谷ジャンクションに至る高速道路の道路名である。略称は東京外環道(とうきょうがいかんどう)、外環道、東京外環、外環など。全線が大都市近郊区間に指定されている。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、「C3」が割り振られている。
{{Infobox_road |種別・系統 = [[高速自動車国道]]<br />([[有料道路|有料]]) |アイコン = [[ファイル:GAIKAN EXP(C3).svg|130px|東京外環自動車道]] |名前 = {{Ja Exp Route Sign|C3}} 東京外環自動車道 |地図画像 = {{Highway system OSM map | frame-lat = 35.75 | frame-long = 139.75 | frame-width = 300 | frame-height = 300 | zoom = 9 | length = | plain = yes }} |総距離 = 49.2 [[キロメートル|km]](供用区間) |開通年 = [[1992年]] (平成4年)- |起点 = 東京都世田谷区 |主な経由都市 = [[練馬区]]、[[和光市]]、[[戸田市]]、[[さいたま市]]<br />[[川口市]]、[[草加市]]、[[八潮市]]、[[三郷市]]、[[葛飾区]]、[[松戸市]] |終点 = [[千葉県]][[市川市]][[高谷 (市川市)|高谷]]([[高谷ジャンクション|高谷JCT]]) |接続する主な道路 = 記事参照 }} {{Osm box|r|3952390}} '''東京外環自動車道'''(とうきょうがいかんじどうしゃどう、{{Lang-en|(TOKYO-)GAIKAN EXPWY}}<ref>{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/en/file/numbering_leaflet_en.pdf|title=Japan's Expressway Numbering System|accessdate=2022-04-04|publisher=Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism|format=PDF}}</ref>)は、[[東京都]][[世田谷区]]東名[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]から、[[埼玉県]]を経由し、[[千葉県]][[市川市]][[高谷 (市川市)|高谷]]の高谷[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]に至る[[日本の高速道路|高速道路]]の道路名である。[[略語|略称]]は'''東京外環道'''(とうきょうがいかんどう)、'''外環道'''、'''東京外環'''、'''外環'''など。全線が[[大都市近郊区間 (高速道路)|大都市近郊区間]]に指定されている。 [[高速道路ナンバリング]]による路線番号は、「'''C3'''」が割り振られている{{Refnest|group=注釈|[[東海環状自動車道]]にも「C3」が割り振られているが、本道路と関連はない。当初は[[名古屋高速都心環状線]]の路線番号が「R」であることから名古屋圏の環状道路網を「R」とし、東海環状自動車道も「R3」とすることが検討されたが<ref>{{Cite web|和書|date=2016-09-09|url=https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/numbering/pdf05/2.pdf|title=高速道路ナンバリング案の考え方|publisher=国土交通省 高速道路ナンバリング検討委員会|format=PDF|accessdate=2020-09-22}}</ref>、最終的に両都市圏とも環状道路を「C」とする方針となったため、路線番号の重複が生じた。}}<ref>{{Cite web|和書|date=2017-02-14 |url=http://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/files/numbering_tsuchi002.pdf |title=高速道路ナンバリングの導入について |format=PDF |publisher=国土交通省 道路局長 |accessdate=2018-01-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170217063651/http://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/files/numbering_tsuchi002.pdf |archivedate=2017年2月17日}}</ref>。 == 概要 == {{出典の明記|date=2019年7月|section=1}} {{Main2|一般道路部も含めた外環整備計画|東京外かく環状道路}} [[都心]]から約15[[キロメートル]] (km) の圏域を[[放射線・環状線|環状]]に連絡する道路である'''[[東京外かく環状道路]]'''の[[自動車専用道路]]として供用されている区間であり、並行する一般部の[[国道298号]]と併せて東京外かく環状道路を構成する。 「東京外かく環状道路」は高速道路部と一般道路部の総称であり、「東京外環自動車道」は供用中の高速道路部の路線名である。どちらも「外環」あるいは「外環道」と略称される。建設中区間の名称は、一般道路部および高速道路部の[[東名ジャンクション|東名JCT]](仮称)- [[中央ジャンクション|中央JCT]](仮称)については「東京外かく環状道路」となっており、高速道路部の中央JCT(仮称) - [[大泉ジャンクション|大泉JCT]]間については「東京外環自動車道」となっている(ただしこれらの区間についても「東京外かく環状道路」となっている場合もある)。 [[都市計画法]]に基づく[[都市計画道路]]名称は、東京都内は'''東京都市計画道路[[都市高速道路]]外郭環状線'''、埼玉県内は各都市計画区域(和光・戸田・さいたま・川口・草加)とも'''高速外環状道路'''である。 現在、[[国土交通省]]と[[東京都]]と[[ネクスコ|NEXCO]]が共同で建設・整備を行い、開通区間については[[東日本高速道路|NEXCO東日本]]が管理を行っている。 === 政令上の正式な路線名 === 東京外環自動車道とは一般向け案内に用いられる道路名であり、[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]で指定されている路線名ではない。政令上の正式な路線名は、下記のように複数の高速自動車国道の一部ということになっている。 * [[中央自動車道|中央自動車道富士吉田線]]、西宮線、長野線:東名JCT(仮称) - 中央JCT(仮称) * [[関越自動車道|関越自動車道新潟線]]、上越線:中央JCT(仮称) - 大泉JCT * [[東北縦貫自動車道]]、[[常磐自動車道]]、[[東関東自動車道|東関東自動車道水戸線]]重複:大泉JCT - [[川口JCT]] * [[常磐自動車道]]、東関東自動車道水戸線重複:川口JCT - [[三郷ジャンクション|三郷JCT]] * [[東関東自動車道|東関東自動車道水戸線]]:三郷JCT - 高谷JCT == インターチェンジなど == * IC番号欄の背景色が<span style="color:#BFB">■</span>である部分については道路が供用済みの区間を示している。また、施設名欄の背景色が<span style="color:#CCC">■</span>である部分は施設が供用されていない、または完成していないことを示す。未開通区間の名称は仮称。 * [[スマートインターチェンジ]] (SIC) およびETC専用の出入口は背景色を<span style="color:#eda5ff">■</span>で示す。 * 松戸IC付近 - 市川南IC付近は半地下区間でトンネルがある箇所もあるが、危険物積載車両は通行可能である。 * 当路線は高谷JCTをそのまま南下し、[[第二東京湾岸道路|第二湾岸]](調査中)と接続する計画がある([[首都圏 (日本)|首都圏]]の[[3環状9放射]]の高速道路計画による<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jigyo/road/kensetsu/sankanjyo/gaiyou/index.html|title=三環状道路の概要|date=2015-10|accessdate=2021-03-22|publisher=東京都建設局}}</ref>)。 {|class="wikitable" |- !style="border-bottom:3px solid green;white-space:nowrap;"|IC<br />番号 !style="border-bottom:3px solid green"|施設名 !style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名 !style="border-bottom:3px solid green"|起点<span style="font-size:small"><br />から</span><br /><span style="font-size:small">([[キロメートル|km]])</span> !style="border-bottom:3px solid green"|備考 !colspan="2" style="border-bottom:3px solid green"|所在地 |- |colspan="7" style="background-color:#CCC; text-align:center"|{{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外かく環状道路]](東京区間)(事業中) |- !style="background-color:#BFB"|50 |[[大泉インターチェンジ|大泉IC]]/[[大泉ジャンクション|JCT]] |[[東京都道・埼玉県道24号練馬所沢線|都道24号練馬所沢線]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E17}} [[関越自動車道]] |style="text-align:right"|0.0 |関越道のIC番号およびJCT番号は「'''2'''」 |colspan="2"|[[東京都]]<br />[[練馬区]] |- !style="background-color:#BFB"|51 |[[和光インターチェンジ|和光IC]] |[[埼玉県道88号和光インター線|県道88号和光インター線]]<br/>[[国道254号]]([[川越街道]]) |style="text-align:right"|3.2 | |rowspan="17" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[埼玉県]]}} |rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[和光市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[新倉パーキングエリア|新倉PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|5.1 |PA内で[[Uターン]]が可能<br />「和光SA化」構想あり |- !style="background-color:#BFB"|52 |[[和光北インターチェンジ|和光北IC]] |[[国道298号]]<br />国道254号([[和光富士見バイパス]])<br />県道88号和光インター線 |style="text-align:right"|5.3 | |- !style="background-color:#BFB"|53 |style="background-color:#eda5ff"|[[戸田西インターチェンジ|戸田西IC]] |style="background-color:#eda5ff"|国道298号 |style="text-align:right"|7.4 |大泉JCT方面への入口、<br />大泉JCT方面からの出口のみ<br />出口は非ETC車利用可 |rowspan="3"|[[戸田市]] |- !style="background-color:#BFB"|60 |[[美女木ジャンクション|美女木JCT]] |[[ファイル:Shuto Urban Expwy Sign 0005.svg|30px]][[首都高速5号池袋線|首都高速池袋線]]<br />[[ファイル:Shuto Urban Expwy Sign S5.svg|30px]][[首都高速埼玉大宮線]] |style="text-align:right"|8.3 |ランプ内に[[交通信号機|信号機]]あり |- !style="background-color:#BFB"|61 |style="background-color:#eda5ff"|[[戸田東インターチェンジ|戸田東IC]] |style="background-color:#eda5ff"|国道298号 |style="text-align:right"|9.7 |高谷JCT方面への入口、<br />高谷JCT方面からの出口のみ<br />出口は非ETC車利用可 |- !style="background-color:#BFB"|62 |[[外環浦和インターチェンジ|外環浦和IC]] |rowspan="3"|国道298号 |style="text-align:right"|12.1 |高谷JCT方面への入口、<br />高谷JCT方面からの出口のみ |rowspan="5"|[[川口市]] |- !style="background-color:#BFB"|63 |[[川口西インターチェンジ|川口西IC]] |style="text-align:right"|13.8 |大泉JCT方面への入口、<br />大泉JCT方面からの出口のみ |- !style="background-color:#BFB"|64 |[[川口中央インターチェンジ|川口中央IC]] |style="text-align:right"|16.6 |高谷JCT方面への入口、<br />高谷JCT方面からの出口のみ |- !style="background-color:#BFB"|70 |[[川口ジャンクション|川口JCT]] |[[File:Shuto Urban Expwy Sign S1.svg|30px]][[首都高速川口線]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E4}} [[東北自動車道]] |style="text-align:right"|17.5 |東北道のJCT番号は「'''1'''」 |- !style="background-color:#BFB"|71 |[[川口東インターチェンジ|川口東IC]] |国道298号 |style="text-align:right"|18.8 |高谷JCT方面への入口、<br />高谷JCT方面からの出口のみ |- !style="background-color:#BFB"|72 |[[草加インターチェンジ|草加IC]] |国道298号<br />[[国道4号]]([[草加バイパス]]) |style="text-align:right"|22.2 | |[[草加市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|[[草加八潮ジャンクション|外環八潮PA/SIC/草加八潮JCT]] |style="background-color:#CCC"|[[東埼玉道路]](事業中) |style="text-align:right"|25.8 |分岐準備あり<br />PAは事業中で2026年度供用開始予定<ref name="press20201023">{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/assets/pdf/company/law_ordinance/2010business_license/2010business_license01.pdf|title=高速道路事業の事業許可(令和2年10月23日)新設又は改築に係る工事の内容の一部変更 別紙1-65(85頁 - 87頁) 常磐自動車道 (八潮PA)に関する 工事の内容|date=2020-10-23|accessdate=2021-03-18|publisher=東日本高速道路株式会社}}</ref><br />SICは事業中<ref name="press20220930">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001515200.pdf|title=スマートインターチェンジの高速道路会社への事業許可および準備段階調査着手について|date=2022-09-30|accessdate=2022-09-30|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref><br />JCTの設置時期は未定 |[[八潮市]] |- !style="background-color:#BFB"|74 |[[外環三郷西インターチェンジ|外環三郷西IC]] |国道298号<br />[[東京都道・埼玉県道67号葛飾吉川松伏線|県道67号葛飾吉川松伏線]] |style="text-align:right"|28.2 |大泉JCT方面への入口、<br />大泉JCT方面からの出口のみ |rowspan="4"|[[三郷市]] |- !style="background-color:#BFB"|80 |[[三郷ジャンクション|三郷JCT]] |[[ファイル:Shuto Urban Expwy Sign 6-Misato.svg|30px]][[首都高速6号三郷線|首都高速三郷線]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E6}} [[常磐自動車道]] |style="text-align:right"|29.4 |常磐道のJCT番号は「'''1'''」 |- !style="background-color:#BFB"|81 |[[三郷中央インターチェンジ|三郷中央IC]] |国道298号 |style="text-align:right"|30.8 |高谷JCT方面への入口、<br />高谷JCT方面からの出口のみ |- !style="background-color:#BFB"|82 |[[三郷南インターチェンジ|三郷南IC]] |国道298号<br />[[千葉県道・埼玉県道295号松戸三郷線|県道295号松戸三郷線]] |style="text-align:right"|33.5 |大泉JCT方面への入口、<br />大泉JCT方面からの出口のみ |- !style="background-color:#BFB"|83 |[[松戸インターチェンジ|松戸IC]] |国道298号<br />[[千葉県道1号市川松戸線|県道1号市川松戸線]] |style="text-align:right;"|38.9 |高谷JCT方面への入口、<br />高谷JCT方面からの出口のみ |rowspan="7" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[千葉県]]}} |[[松戸市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|[[北千葉ジャンクション|北千葉JCT]] |style="background-color:#CCC"|[[北千葉道路]](事業中<ref name="kokkosyo-2021jigyo">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-hyouka/r3sinki/1_r2_009.pdf|title=新規事業採択時評価結果(令和3年度新規事業化箇所)|accessdate=2021-04-11|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref>) |style="text-align:right;"|39.8 |設置時期は未定、分岐準備あり |rowspan="6"|[[市川市]] |- !style="background-color:#BFB"|85 |[[市川北インターチェンジ|市川北IC]] |国道298号<br />[[千葉県道264号高塚新田市川線|県道264号高塚新田市川線]] |style="text-align:right;"|41.0 |大泉JCT方面への入口、<br />大泉JCT方面からの出口のみ<br/>IC傍に[[道の駅いちかわ]]設置 |- !style="background-color:#BFB"|86 |[[市川中央インターチェンジ|市川中央IC]] |国道298号 |style="text-align:right;"|44.4 |高谷JCT方面への入口、<br />高谷JCT方面からの出口のみ |- !style="background-color:#BFB"|90 |[[京葉ジャンクション|京葉JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E14}} [[京葉道路]] |style="text-align:right;"|45.6 |高谷JCT方面⇔[[宮野木ジャンクション|宮野木JCT]]方面ランプは事業中<br />京葉道路のJCT番号は「'''1-1'''」 |- !style="background-color:#BFB"|91 |[[市川南インターチェンジ|市川南IC]] |国道298号<br/>[[国道357号]] |style="text-align:right;"|47.4 |大泉JCT方面への入口、<br />大泉JCT方面からの出口のみ |- !style="background-color:#BFB"|92 |[[高谷ジャンクション|高谷JCT]] |[[File:Shuto Urban Expwy Sign B.svg|30px]][[首都高速湾岸線]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E51}} [[東関東自動車道]] |style="text-align:right;"|49.0 |東関東道のJCT番号は「'''1'''」 |} == 歴史 == * [[1992年]]([[平成]]4年)[[11月27日]] : 和光IC - 三郷JCT間26.2 km開通、川口JCTで東北自動車道・首都高速川口線、三郷JCTで常磐自動車道・首都高速6号三郷線と接続<ref>{{Cite news |title=東京外環道来月開通へ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-10-23 |page=3 }}</ref>。 * [[1993年]](平成5年)[[10月26日]] : 美女木JCTで首都高速5号池袋線と接続。 * [[1994年]](平成6年)[[3月30日]] : 大泉IC - 和光IC間3.4 kmが開通、大泉JCTで関越自動車道と接続<ref>{{Cite news |title=「外環」「関越」30日に連結 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1994-03-11 |page=3 }}</ref>。和光北IC開通。 * [[1998年]](平成10年)[[5月18日]] : 美女木JCTで首都高速埼玉大宮線と接続、美女木JCTの池袋線 → 外環道外回りランプ供用開始。 * [[2005年]](平成17年) ** [[2月25日]] : 大泉JCTの外環道内回り → 関越道ランプ2車線化。 ** [[11月27日]] : 三郷JCT - 三郷南IC間4.1 kmが開通<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/head_office/2005/1027/00006027.html|title=東京外環自動車道 三郷JCT〜三郷南ICが開通|publisher=東日本高速道路株式会社|date=2005-10-27|accessdate=2020-12-23}}</ref>。 * [[2016年]](平成28年)[[11月30日]] : 大泉JCTの外環道内回り→関越自動車道下りへのランプウェイ経路が変更される。本線から直接接続路へと進んでいたものを出口ランプと途中まで共有する線形となる<ref>[http://www.e-nexco.co.jp/road_info/important_info/h28/1219b/pdfs/02.pdf 大泉JCT ランプの運用変更について]</ref>。 * [[2018年]](平成30年)[[6月2日]] : 三郷南IC - 高谷JCT間15.5 kmが開通、京葉道路と接続する京葉JCT、東関東自動車道・首都高速湾岸線と接続する高谷JCTと三郷中央IC供用開始<ref name="press20180602">{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/kanto/h30/0323/pdfs/pdf.pdf|title=東京外かく環状道路(三郷南IC〜高谷JCT) 今年6月2日(土)に開通|date=2018-03-23|accessdate=2018-03-23|publisher=国土交通省関東地方整備局 首都国道事務所・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref><ref name="asahi201863">{{Cite news|title=都心部を経由せずに常磐・東北・関越道へ 外環道、三郷南―高谷JCT開通|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2018-06-03|author=長屋護|publisher=朝日新聞社|page=朝刊 ちば首都圏版}}</ref>。 === 開通予定年度 === [[東京外かく環状道路]]として事業中・計画中。 * [[東名ジャンクション|東名JCT]]以南 : 未定(調査中) * 東名JCT - [[大泉ジャンクション|大泉JCT]] : 未定(事業中) * [[草加八潮ジャンクション|外環八潮PA]] : 2026年度<ref name="press20201023" /> * [[草加八潮ジャンクション|外環八潮SIC]] : 未定(事業中<ref name="press20220930" />) * [[草加八潮ジャンクション|草加八潮JCT]] : 未定(事業中) * [[北千葉ジャンクション|北千葉JCT]] : 未定(事業中<ref name="kokkosyo-2021jigyo" />) * [[京葉ジャンクション|京葉JCT]]のBランプとGランプ : 未定(事業中) === 東京外環自動車道の整備効果 === 環状道路は、通過交通の都心部への流入を抑制し、慢性的な[[渋滞]]が発生していた都心部の都市機能を再生する効果や、[[災害]]や[[交通事故|事故]]等で一部区間が不通になっても迂回路を確保できる効果など、多くの機能と効果がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/road/shihon/road_shihon00000124.html|title=首都圏を取り巻く現状と課題|date=|accessdate=2021-03-22|publisher=国土交通省関東地方整備局}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/road/shihon/road_shihon00000125.html|title=環状道路の機能と効果|date=|accessdate=2021-03-22|publisher=国土交通省関東地方整備局}}</ref>。2018年6月2日には三郷南IC - 高谷JCT間([[東京外かく環状道路#千葉区間|千葉区間]])が開通し、4つの放射道路([[東関東自動車道|東関東道]]・[[常磐自動車道|常磐道]]・[[東北自動車道|東北道]]・[[関越自動車道|関越道]])が当自動車道経由で結ばれ、外環の約6割が完成した<ref name="press20180602" />。 [[国土交通省]]は外環道について、沿線に立地する物流施設が約5.5倍に増加し、[[首都高速中央環状線|中央環状]]内側の[[首都高速道路|首都高]](中央環状含む)の渋滞損失時間が約3割減少するなど[[物流]]の円滑化や、[[千葉県]]へのアクセス経路のうち5割が外環道を利用して埼玉・北関東方面から訪れる為[[観光|観光客]]の増加に寄与、[[国道298号]]に並行する県道での[[交通事故]]件数が約3割減少し安全性が向上するなど多くの整備効果があったと分析している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000764884.pdf|title=〜都心を迂回して埼玉と千葉をつなぎ広がる効果〜 東京外かく環状道路(三郷南IC〜高谷JCT)開通後の整備効果|date=2019-12-25|accessdate=2021-03-22|publisher=国土交通省関東地方整備局|format=PDF}}</ref>。 == 路線状況 == === 車線・最高速度 === {| border="1" class="wikitable" style="text-align:center" |- !区間!![[車線]]<br />上下線=内回り+外回り!![[最高速度]] |- | 大泉JCT/IC - 和光北IC||6=3+3||rowspan="4" |80 [[キロメートル毎時|km/h]] |- | 和光北IC - 川口中央IC||4=2+2 |- | 川口中央IC - 川口JCT||6=3+3 |- | 川口JCT - 高谷JCT||4=2+2 |} [[近畿自動車道]]と同じく、[[道路照明灯]]は全線にわたり設置されている。 === 道路施設 === {{出典の明記|date=2018年6月|section=1}} ==== サービスエリア・パーキングエリア ==== 外環道にサービスエリア(SA)は設置されていない。又、休憩施設は現時点では[[新倉パーキングエリア]] (PA) のみとなっているが、外環八潮PA(仮称)が設置事業中である<ref name="press20201023" />。 また、当高速道路上には[[ガソリンスタンド]]が設置されておらず、経由地によっては100 km近くにわたって給油ができないため、周辺の[[サービスエリア]] (SA) ・PAには[[ガス欠]]防止のため給油を促す標識が設置されている。 新倉PAの駐車場は、内回り・外回り共用(上下集約型)となっており、外環道はここで[[Uターン]]を可能としている。 ==== 主な橋梁 ==== * [[幸魂大橋]](和光北IC - 戸田西IC) - 1,485 m === 道路管理者 === * [[東日本高速道路]] [[東日本高速道路関東支社|関東支社]] ** 三郷管理事務所 : 全線 ==== ハイウェイラジオ ==== * 大泉(和光IC - 大泉JCT 大泉方面) * 和光北(和光IC - 戸田西IC 高谷方面) * 戸田東(外環浦和IC - 美女木JCT 大泉方面) * 川口西(川口西IC - 川口JCT 高谷方面) * 川口東(草加IC - 川口JCT 大泉方面) * 三郷(草加IC - 三郷JCT 高谷方面) * 三郷南(三郷南IC - 三郷JCT 大泉方面) * 菅野(市川北IC - 京葉JCT 高谷方面) 全て方向別放送となっており、[[識別信号|コールサイン]]は「ハイウェイラジオ外環○○」と[[放送]]される(例 :大泉であれば 「ハイウェイラジオ外環大泉」)。 大泉、和光北では電波状態が悪く聞き取りづらい場合がある。これは、直近に[[送信所]]がある[[AFN|AFN Tokyo]]の電波の第2[[高調波]] (810 kHz×2=1620 kHz) が、ハイウェイラジオの周波数 (1620 kHz) と同じであり[[混信]]を起こしてしまうためである。 === 料金 === [[2017年]]([[平成]]29年)[[2月25日]]までは、当時の開通区間(大泉IC/JCT - 三郷南IC)は、距離に関わらず均一料金だったが、[[首都圏中央連絡自動車道|圏央道]][[境古河インターチェンジ|境古河IC]] - [[つくば中央インターチェンジ|つくば中央IC]]間の開通に合わせて、[[2月26日]]午前0時から[[ETC]]利用を基本とする対距離制へ移行し、それに先立ち2017年(平成29年)[[1月11日]]より、外環道IC・JCT出口でのETC料金徴収が始まった<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/head_office/2016/1220/00006738.html | format=PDF |title=圏央道の開通に伴い、東京外環自動車道(大泉IC・JCT〜三郷南IC)は対距離制料金へ移行します 〜ETCはご利用距離に応じた料金へ 平成29年2月26日午前0時に導入〜 |date=2016-12-20 |accessdate=2016-12-20 |publisher=東日本高速道路株式会社・首都高速道路株式会社 }}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/head_office/2016/0301/00006700.html | format=PDF | title=「首都圏の新たな高速道路料金」について | accessdate=2016-05-11 | date=2016-03-01 | work=「首都圏の新たな高速道路料金について」 添付資料 | publisher=東日本高速道路 |page=24 }}</ref>。 これは[[2016年]](平成28年)[[4月1日]]、[[国土交通省]]による「[[首都圏 (日本)|首都圏]]の新たな高速道路料金」に基づくもので<ref>{{cite press release|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001121325.pdf | format=PDF |title=首都圏の新たな高速道路料金について |publisher=国土交通省道路局 | date = 2016-03-01 |accessdate=2016-05-01}}</ref>、高速自動車国道の[[大都市近郊区間 (高速道路)|大都市近郊区間]]の水準(普通車29.52 円/km・税抜き)に統一されることとなった。しかし、この基準をそのまま当てはめると、2017年2月25日時点での最長区間(大泉IC/JCT - 三郷南IC)の料金が1230円(普通車)となり、それまでの均一料金510円から大幅値上げとなってしまうため、以下の激変緩和措置が講じられることとなった<ref>{{Cite press release |和書 |url=http://www.driveplaza.com/info/detail/syutoken_seamless/fee05.html |title=東京外環道の料金について | publisher=東日本高速道路株式会社 | accessdate=2017-02-16}}</ref>。 * 当面の間は、ETC利用車に対して「上限料金」および「下限料金」を設定している(2018 (平成30)年6月2日に開通区間が増えたため、上限料金が値上げされた)。 {| class="wikitable" style="text-align: center; margin: 0 2em 0.5em;" |+ETC車下限・上限/現金車料金 !rowspan="2" colspan="2"|&nbsp;!!colspan="2"|[[軽自動車|軽]]・[[普通自動二輪車|普二輪]]・[[大型自動二輪車|大二輪]]&nbsp;!!colspan="2"|[[普通自動車|普通車]]&nbsp;!!colspan="2"|[[中型自動車|中型車]]&nbsp;!!colspan="2"|[[大型自動車|大型車]]&nbsp;!!colspan="2"|[[特定大型車|特大車]] |- !下限料金!!上限料金 !下限料金!!上限料金 !下限料金!!上限料金 !下限料金!!上限料金 !下限料金!!上限料金 |- !colspan="2"|[[ETC]]車 | 250円 || 850円 || 270円 || 1,020円 || 290円 || 1,190円 || 340円 || 1,570円 || 450円 || 2,510円 |- !colspan="2"|現金車 |colspan="2"| 850円 || colspan="2"| 1,020円 || colspan="2"| 1,190円 || colspan="2"| 1,570円 || colspan="2"| 2,510円 |} {| class="wikitable" style="text-align: center; margin: 0 2em 0.5em;" |+【参考】2018 (平成30)年6月2日16時までのETC車下限・上限/現金車料金 !rowspan="2" colspan="2"|&nbsp;!!colspan="2"|[[軽自動車|軽]]・[[普通自動二輪車|普二輪]]・[[大型自動二輪車|大二輪]]&nbsp;!!colspan="2"|[[普通自動車|普通車]]&nbsp;!!colspan="2"|[[中型自動車|中型車]]&nbsp;!!colspan="2"|[[大型自動車|大型車]]&nbsp;!!colspan="2"|[[特定大型車|特大車]] |- !下限料金!!上限料金 !下限料金!!上限料金 !下限料金!!上限料金 !下限料金!!上限料金 !下限料金!!上限料金 |- !colspan="2"|[[ETC]]車 | 250円 ||630円|| 270円 || 750円 || 290円 || 860円 || 340円 || 1,120円 || 450円 || 1,770円 |- !colspan="2"|現金車 |colspan="2"| 630円 || colspan="2"| 750円 || colspan="2"| 860円 || colspan="2"| 1,120円 || colspan="2"| 1,770円 |} * 外環道と放射高速道路との1JCT間(大泉JCT - 川口JCT間、川口JCT - 三郷JCT、三郷JCT - 高谷JCT間)の利用について、2017年2月25日までの料金に据置。 * [[新倉パーキングエリア|新倉PA]]でUターンしたETC車については、走行距離に応じて課金するが、最高でも上限料金までの料金徴収で打ち切る(例:市川北IC→新倉PA→市川南IC、市川南IC→新倉PA→三郷南ICは普通車の場合、ともに上限の1,020円)。 * 現金車については「若干の例外措置」があり、末端部のみの利用(内回り:和光IC・和光北IC → 大泉JCT、外回り:川口中央IC〜京葉JCT → 高谷JCT)では、上記現金車の一律金額より安価になる区間が存在する。 * 外環道と他の高速道路とは、[[ターミナルチャージ]]を別途支払う<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/head_office/2016/1220/00006738.html|format=PDF |title=別添1 圏央道の開通に伴う外環道の新料金について|publisher=東日本高速道路株式会社|accessdate=2018-06-03}}</ref>。 この激変緩和措置により、極端な値上げにはならなかったが、国土交通省の意図した「発・着地点が同一ならば利用ルートに関わらず同一料金」が崩れ、複雑な料金体系となったことへの批判がある<ref>{{Cite news |author=森口将之 | url=https://citrus-net.jp/article/13836 | title=複雑すぎる首都圏高速道路の料金設定、結局どこを走れば得なのか!? | newspaper = citrus | publisher= オールアバウトナビ | date = 2017-01-27 | accessdate=2017-02-16}}</ref>。 ==== 均一料金時代 ==== 2017年(平成29年)[[2月25日]]まで、走行距離に関わらず、ETC車も均一料金であった。 {| class="wikitable" style="text-align: center; margin: 0 2em 0.5em;" |+2017 (平成29)年2月25日までの通行料金 ! 種別 !! [[軽自動車]]<br/>[[普通自動二輪車|普二輪]]<br/>[[大型自動二輪車|大二輪]] !! [[普通自動車|普通車]] !! [[中型自動車|中型車]] !! [[大型自動車|大型車]] !! [[特定大型車|特大車]] |- !現金車<br/>ETC車 | 410円 || 510円 || 620円 || 870円 || 1,290円 |} ==== ETC割引 ==== ; 時間帯割引 : [[大都市近郊区間 (高速道路)|大都市近郊区間]]扱いであり、2014年(平成26年)4月1日以降は[[ETC割引制度#深夜割引|深夜割引]](30%割引)のみとなっている。 ; 外環道迂回利用割引 : 2016年(平成28年)4月1日開始。首都高速道路の交通分散を図るため、[[首都高速都心環状線]]内の出入口を発着して放射高速道路(東北道、常磐道、東関東道、首都高速埼玉大宮線)通行する車が、迂回して外環道の1JCT間を通行する場合、外環道の通行料金を全額免除。大泉JCT - 美女木JCT間は割引対象外<ref>{{Cite press release | 和書 | url = http://www.driveplaza.com/info/detail/syutoken_seamless/discount_detour.html | title = 外環道迂回利用割引 | publisher = 東日本高速道路 | accessdate=2016-05-11 }}</ref>。 :* 下り方向(都心から放射高速へ)の場合、首都高速出口から外環道の入口料金所までを1時間以内、かつ、外環道の入口料金所から放射高速入口(NEXCO路線は本線料金所、埼玉大宮線は入口アンテナ)までを、2時間以内に通過しなければならない。上り方向(放射高速から都心へ)の場合、放射高速出口(NEXCO路線は本線料金所、埼玉大宮線は出口アンテナ)から外環道入口料金所までを、1時間以内、かつ、外環道入口料金所から首都高速入口までを、2時間以内に通過しなければならない<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.driveplaza.com/info/detail/syutoken_seamless/pdf/seamless02.pdf|format=PDF |title=外環道迂回利用割引の乗継時間(平成29年2月25日まで) |publisher=東日本高速道路株式会社|accessdate=2017-02-16}}</ref>。 === 交通量 === '''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]] {| class="wikitable" style="text-align:center" |- ! 区間 !! 平成17(2005)年度 !! 平成22(2010)年度 !! 平成27(2015)年度 !! 令和3(2021)年度 |- | style="background-color:#CCC;" | 東名JCT以南間 || colspan="4" style="background-color:#CCC;" | 未開通 |- | style="background-color:#CCC;" | 東名JCT - 大泉IC/JCT間 || colspan="4" style="background-color:#CCC;" | 未開通 |- |大泉IC/JCT - 和光IC || 70,908 || 79,893 || 79,231 || 74,365 |- | 和光IC - 和光北IC || 82,423 || 89,997 || 88,435 || 82,640 |- | 和光北IC - 戸田西IC || 86,333 || 94,860 || 93,065 || 87,785 |- | 戸田西IC - 美女木JCT || 82,090 || 88,522 || 87,952 || 82,286 |- | 美女木JCT - 戸田東IC || 72,306 || 80,382 || 76,053 || 71,753 |- | 戸田東IC - 外環浦和IC || 78,018 || 86,611 || 81,918 || 78,762 |- | 外環浦和IC - 川口西IC || 85,701 || 94,653 || 91,216 || 88,475 |- | 川口西IC - 川口中央IC || 76,235 || 86,117 || 82,858 || 80,031 |- | 川口中央IC - 川口JCT || 79,999 || 90,843 || 87,850 || 88,000 |- | 川口JCT - 川口東IC || 63,422 || 79,743 || 78,267 || 92,794 |- | 川口東IC - 草加IC || 65,416 || 82,844 || 81,231 || 96,426 |- | 草加IC - 外環三郷西IC || 50,945 || 67,178 || 67,248 || 87,435 |- | 外環三郷西IC - 三郷JCT || 32,153 || 60,287 || 59,426 || 60,704 |- | 三郷JCT - 三郷中央IC(旧外環三郷東TB) || rowspan="2"|調査当時未開通 || 18,970 || 19,770 || 67,875 |- | 三郷中央IC(旧外環三郷東TB) - 三郷南IC || 21,866 || 22,051 || 71,581 |- | 三郷南IC - 松戸IC || rowspan="6" colspan="3"|調査当時未開通 || 57,801 |- | 松戸IC - 市川北IC || 71,745 |- | 市川北IC - 市川中央IC || 66,035 |- | 市川中央IC - 京葉JCT || 73,445 |- | 京葉JCT - 市川南IC || 39,386 |- | 市川南IC - 高谷JCT || 29,046 |} <small>(出典:「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www1.mlit.go.jp/road/census/r3/index.html 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)</small> * 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|影響]]で延期された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www1.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/ict/pdf04/01.pdf|title=令和2年度全国道路・街路交通情勢調査の延期について|date=2020-10-114|accessdate=2021-05-01|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。 === 渋滞 === 2018年に千葉区間が開通したことにより、全線にわたり交通量が増加した。開通前後における川口JCT - 三郷JCTの区間の比較では、[[渋滞]]回数が外回りで43回から289回、内回りでは34回から538回と大きく増加した。2020年には、外回り外環三郷西IC出口からの流出をスムーズにする改良工事や、[[サグ]]付近に速度低下を警告する看板、ペースメーカーライトの設置を完了した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-02-15 |url=https://trafficnews.jp/post/93818 |title=なぜ混む「外環道 埼玉区間」 千葉区間の延伸で渋滞激化 対策はあるのか? |publisher=乗りものニュース編集部 |accessdate=2020-02-15}}</ref>。 == 地理 == === 通過する自治体 === * [[東京都]] ** [[練馬区]] * [[埼玉県]] ** [[和光市]] - [[戸田市]] - [[さいたま市]][[南区 (さいたま市)|南区]] - [[川口市]] - [[草加市]] - [[八潮市]] - [[三郷市]] * 東京都 ** [[葛飾区]] * [[千葉県]] ** [[松戸市]] - [[市川市]] == ギャラリー == {{Commons|Category:Tokyo Gaikan Expressway}} <gallery> ファイル:Tokyo_Gaikan_Expressway_and_Japanese_national_route_298.jpg|外環道と下を走る国道298号 ファイル:Sakitama_bridge,_Saitama,_Japan2.JPG|幸魂大橋 画像:Bijogi-Jct-2005 02 18.jpg|美女木JCT </gallery> 大泉JCT - 新倉PAにかけては急カーブが連続し、大泉付近では大型車の横転事故が多発、さらに大部分が[[トンネル]]で見通しが悪くなっている。[[美女木ジャンクション|美女木JCT]]の首都高速道路 - 外環連絡道路には、高速道路では全国でも珍しい[[交通信号機]]付きの平面交差点が整備されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[高速自動車国道]] * [[国道298号]] * [[関東地方の道路一覧]] * [[首都高速中央環状線]](3環状の内側) * [[首都圏中央連絡自動車道]](3環状の外側) * [[綾瀬川放水路]] == 外部リンク == * [https://www.e-nexco.co.jp/ 東日本高速道路] * [https://www.c-nexco.co.jp/ 中日本高速道路] * [https://www.ktr.mlit.go.jp/gaikan/gaiyo/index.html 国土交通省公式サイトの地図] * [https://www.city.yashio.lg.jp/shisei/machizukuri/toshikeikaku/hokubu_keikaku.files/machizukuri_hoshinzu_r2.pdf まちづくり方針図] * [https://radiate.jp/20180801/tomei-jct_2018/ 東京外かく環状道路 東名JCT工事現場見学会] * [https://www.kozobutsu-hozen-journal.net/news/detail.php?id=356&page=0 NEXCO東日本 外環道(関越~東名)の2020年開通は困難] * [https://trafficnews.jp/post/93126 外環道唯一のPA 格上げか? 新倉PA「和光SA化」構想 外環の東名延伸で状況変化か] * [https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/press_release/head_office/r02/0331/ 事業許可について] * [https://www.saitama-np.co.jp/articles/4218 東埼玉道路、着工へ 外環道・八潮JCT―庄和IC、10年かけて整備 レイクタウン周辺へアクセス向上] {{日本の高速道路}} {{東日本高速道路}} {{3環状9放射}} {{東京外環自動車道}} {{DEFAULTSORT:とうきようかいかんしとうしやとう}} [[Category:日本の高速道路]] [[Category:環状道路]] [[Category:東日本高速道路]] [[Category:関東地方の道路]] [[Category:首都圏]]
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四諦
四諦(したい、梵: catur-ārya-satya, チャトゥル・アーリヤ・サティヤ)または四聖諦(ししょうたい、巴: cattāri ariya-saccāni, チャッターリ・アリヤ・サッチャーニ、4つの・聖なる・真理(諦))とは、仏教が説く4種の基本的な真理。苦諦、集諦、滅諦、道諦のこと。四真諦や苦集滅道。 苦諦と集諦は、迷妄の世界の果と因とを示し、滅諦と道諦は、証悟の世界の果と因とを示す。 四諦は概ね、十二縁起説の表す意味を教義的に組織したものであり、原始仏教の教義の大綱が示されているとされる。原始仏教経典にかなり古くから説かれ、特に初期から中期にかけてのインド仏教において最も重要視され、その代表的教説とされた。 伝統仏教では、四諦は釈迦が最初の説法で説いたとされている(初転法輪)。ただし近現代の仏教研究によれば、四諦は最古層経典には見られず、次の古層経典の段階から「五根」より遅れて「八正道(八聖道)」とともに説かれるようになったことが判明している(仏教#釈迦の修行法)。 Maggānaṭṭhaṅgiko seṭṭho, saccānaṃ caturo padā; Virāgo seṭṭho dhammānaṃ, dvipadānañca cakkhumā. あらゆる道の中で八正道が最も優れている。 あらゆる諦(サティヤ)の中で四諦が最も優れている。 あらゆる状態の中で離欲が最も優れている。 あらゆる両足で立つ者の中で具眼者(仏陀)が最も優れている。 苦諦(くたい、梵: duḥkha satya, ドゥッカ・サティヤ、巴: dukkha sacca, ドゥッカ・サッチャ)とは、迷いの生存が苦であるという真理。苦しみの真理。人生が苦であるということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿とされる。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。 四苦とは、根本的な四つの思うがままにならないこと、出生・老・病・死である。これらに、下の四つの苦を加えて八苦という。 非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句の四苦八苦はここから来ている。 集諦(じったい、じゅうたい、梵: samudaya satya, サムダヤ・サティヤ、巴: samudaya sacca, サムダヤ・サッチャまたは苦集諦(くじゅうたい)とは、欲望の尽きないことが苦を生起させているという真理、つまり「苦には原因がある」という真理。苦しみの生起の真理。 集諦とは「苦の源」、苦が表れる素となる煩悩をいうので、苦集諦ともいわれる。集(じゅう(じふ))とは、招き集める意味で、苦を招き集めるものは煩悩であるとされる。 集諦の原語は samudaya(サムダヤ)であり、一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「積み重ねる」などを意味し、さらに「結合する」などを意味する。したがって、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。 苦集諦とは "duḥkha samudaya-satya" とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。具体的には貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛(かつあい, トリシュナー)をいう。これらは、欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。 仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起である。十二縁起とは、苦の12の原因とその縁を示している。苦は12の原因のシステムであって、12個集まってそれ全体が苦なのである。だから、無明も渇愛も、苦の根本原因であり、苦集諦である。 滅諦(めったい、梵: nirodha satya, ニローダ・サティヤ、巴: nirodha sacca, ニローダ・サッチャ、苦滅諦, くめつたい)とは、欲望のなくなった状態が苦滅の理想の境地であるという真理。苦しみの消滅の真理。修行者の理想のあり方。なお、ニローダはせき止める、制止する、の意味。 道諦(どうたい、梵: mārga satya, マールガ・サティヤ、巴: magga sacca, マッガ・サッチャ、苦滅道諦, くめつどうたい)とは、苦滅にいたるためには、七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程である八正道によらなければならないという真理。苦しみの消滅に至る道の真理。これが仏道、すなわち仏陀の体得した解脱への道である。 顕揚聖教論巻七では、四諦の内容を分類して八諦とする。また、小乗の四諦観は不完全であるとするのに対して大乗の四諦観は完全であるとする。小乗の四諦観を有作の四諦と貶称し、大乗の四諦観を無作の四諦と称する。この両方を合わせて八諦ともいう。 法相宗では、滅諦に三滅諦を、道諦に三道諦を立てる。天台宗では四種の四諦(生滅の四諦、無生の四諦、無量の四諦、無作の四諦)を立て、これらを蔵・通・別・円の四教に配当する。 パーリ仏典では釈迦は初転法輪において、四諦それぞれを以下の三転から説き(三転十二行相, dvādasākāraṃ yathābhūtaṃ)、如実知見を得たので、神々と人間を含む衆生の中で「最上の正しい目覚め」に到達したと宣言するに至ったとする。 Yato ca kho me bhikkhave, imesu catusu ariyasaccesu evaṃ tiparivaṭṭaṃ dvādasākāraṃ yathābhūtaṃ ñāṇadassanaṃ suvisuddhaṃ ahosi. Athāhaṃ bhikkhave, sadevake loke samārake sabuhmake sassamaṇabrāhmaṇiyā pajāya sadevamanussāya anuttaraṃ sammāsambodhiṃ abhisambudadho paccaññāsiṃ 比丘たちよ、私はこれら四諦の三段階(tiparivaṭṭaṃ)十二側面(dvādasākāraṃ)の、如実な知見(ñāṇadassanaṃ)を得て清浄となったので、それゆえ私は、天部、悪魔、沙門婆羅門の人々、天人らが達したことがない、無上正等覚(sammāsambodhiṃ)に至ったと宣言したのである。 パーリ語経典長部の『沙門果経』では、四諦は、沙門(出家修行者、比丘・比丘尼)が、戒律(具足戒・波羅提木叉)順守によって清浄な生活を営みながら、止観(瞑想)修行に精進し続けることで得られる六神通の最終段階「漏尽通」に至って、はじめてありのままに知ることができると述べられている。 仏教学者の三枝充悳は、スッタニパータをはじめとする詩句を表現するパーリ語には異同が見られるとし、調査によって、1苦集滅道のみで四諦の語がない→2苦集滅道も四諦の語もある→3四諦の語のみあり、の順に発展して、四諦の語が広く知られてからは、とくに苦集滅道を説く必要性が消えたと推測している。 大乗の『大般涅槃経』の四諦品(したいぼん)では、通常の四諦に新しい大乗的な解釈を加えた、涅槃の教理的な四聖諦を説いている。
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四諦または四聖諦とは、仏教が説く4種の基本的な真理。苦諦、集諦、滅諦、道諦のこと。四真諦や苦集滅道。 苦諦(くたい) - 迷いのこの世は一切が苦(ドゥッカ)であるという真実。 集諦(じったい) - 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実。 滅諦(めったい) - 苦の原因の滅という真実。無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ。 道諦(どうたい) - 悟りに導く実践という真実。悟りに至るためには八正道によるべきであるということ。 苦諦と集諦は、迷妄の世界の果と因とを示し、滅諦と道諦は、証悟の世界の果と因とを示す。 四諦は概ね、十二縁起説の表す意味を教義的に組織したものであり、原始仏教の教義の大綱が示されているとされる。原始仏教経典にかなり古くから説かれ、特に初期から中期にかけてのインド仏教において最も重要視され、その代表的教説とされた。 伝統仏教では、四諦は釈迦が最初の説法で説いたとされている(初転法輪)。ただし近現代の仏教研究によれば、四諦は最古層経典には見られず、次の古層経典の段階から「五根」より遅れて「八正道(八聖道)」とともに説かれるようになったことが判明している(仏教#釈迦の修行法)。
{{Infobox Buddhist term |title=四諦(したい) |en=Four Noble Truths |pi=चत्तारि अरियसच्चानि<br/>(cattāri ariyasaccāni) |si=[[:si:චතුරාර්ය සත්‍යය|චතුරාර්ය සත්ය]] |bo=འཕགས་པའི་བདེན་པ་བཞི་ | bo-Latn=[[ワイリー方式|Wylie]]: 'phags pa'i bden pa bzhi<br/>[[THL Simplified Phonetic Transcription|THL]]: pakpé denpa shyi |zh=四聖諦(T) / [[:zh:四圣谛|四圣谛]](S) |zh-Latn=sìshèngdì |ja=四諦 |ja-Latn=shitai |ko=[[:ko:사성제|사성제]](四聖諦)<br/>(sa-seong-je) |mn=[[:mn:Хутагт дөрвөн үнэн|Хутагт дөрвөн үнэн]]<br/>(Khutagt durvun unen) |vi=[[:vi:Tứ Diệu Đế|Tứ Diệu Đế]] (四妙諦) |th=[[:th:อริยสัจสี่|อริยสัจสี่]]<br/>(ariyasat sii) |my=သစ္စာလေးပါး |my-Latn=θɪʔsà lé bá }} [[File:Astasahasrika Prajnaparamita Dharmacakra Discourse.jpeg|thumb|right|320px|四諦を説く釈迦(サンスクリット写本)]] '''四諦'''(したい、{{lang-sa-short|catur-ārya-satya}}{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=360}}, チャトゥル・アーリヤ・サティヤ)または'''四聖諦'''(ししょうたい、{{lang-pi-short|cattāri ariya-saccāni}}<ref> 水野弘元『増補改訂パーリ語辞典』春秋社、2013年3月、増補改訂版第4刷、p.124</ref>, チャッターリ・アリヤ・サッチャーニ、4つの・聖なる・真理([[諦]]))とは、[[仏教]]が説く4種の基本的な真理<ref name="kb680">中村元 『広説佛教語大辞典』中巻 東京書籍、2001年6月、680頁。</ref><ref name="kb670">中村元 『広説佛教語大辞典』中巻 東京書籍、2001年6月、670頁。</ref>。'''苦諦'''、'''集諦'''、'''滅諦'''、'''道諦'''のこと<ref name="kb680" /><ref name="kb670" />。'''四真諦'''<ref name="sb550">総合仏教大辞典編集委員会 『総合仏教大辞典』 法蔵館、1988年1月、550-551頁。</ref>や'''苦集滅道'''{{Sfn|アルボムッレ・スマナサーラ|2015|loc={{Kindle版|2025|134}}}}。 *苦諦(くたい) - 迷いのこの世は一切が[[苦 (仏教)|苦]](ドゥッカ)であるという真実<ref name="kb670" /><ref name="sb550" /><ref name="コトバンク四諦" />。 *集諦(じったい) - 苦の[[原因]]は[[煩悩]]・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実<ref name="kb670" /><ref name="sb550" /><ref name="コトバンク四諦" />。 *滅諦(めったい) - 苦の原因の滅という真実<ref name="kb670" />。[[無常]]の世を超え、[[執着]]を断つことが、苦しみを滅した[[悟り]]の境地であるということ<ref name="kb670" /><ref name="コトバンク四諦" />。 *道諦(どうたい) - 悟りに導く実践という真実<ref name="kb670" />。悟りに至るためには[[八正道]]によるべきであるということ<ref name="kb670" /><ref name="sb550" /><ref name="コトバンク四諦" />。 苦諦と集諦は、迷妄の世界の[[結果|果]]と[[原因|因]]とを示し、滅諦と道諦は、証悟の世界の果と因とを示す<ref name="sb550" />。 四諦は概ね、[[十二縁起]]説の表す意味を教義的に組織したものであり、[[原始仏教]]の教義の大綱が示されているとされる<ref name="sb550" />。原始仏教経典にかなり古くから説かれ、特に初期から中期にかけての[[インド仏教]]において最も重要視され、その代表的教説とされた<ref name="コトバンク四諦">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E8%AB%A6-520274|title=四諦(シタイ)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-07-23}}</ref>。 伝統仏教では、四諦は[[釈迦]]が[[初転法輪|最初の説法]]で説いたとされている([[初転法輪]])<ref name="sb550" /><ref name="コトバンク四諦" />。ただし近現代の仏教研究によれば、四諦は最古層経典には見られず、次の古層経典の段階から「五根」より遅れて「八正道(八聖道)」とともに説かれるようになったことが判明している([[仏教#釈迦の修行法]])。 == 四つの真理 == {{複数の問題|出典の明記=2017年7月23日 (日) 00:18 (UTC)|独自研究=2017年7月23日 (日) 00:18 (UTC)|section=1}} {{Quote box| Maggānaṭṭhaṅgiko seṭṭho, saccānaṃ caturo padā;<br> Virāgo seṭṭho dhammānaṃ, dvipadānañca cakkhumā. あらゆる道の中で[[八正道]]が最も優れている。<br> あらゆる[[諦]](サティヤ)の中で四諦が最も優れている。<br> あらゆる状態の中で[[離欲]]が最も優れている。<br> あらゆる両足で立つ者の中で[[仏陀|具眼者]](仏陀)が最も優れている。 | {{SLTP|[[ダンマパダ]] 273}} }} === 苦諦 === 苦諦(くたい、{{lang-sa-short|duḥkha satya}}, ドゥッカ・サティヤ、{{lang-pi-short|dukkha sacca}}, ドゥッカ・サッチャ{{Sfn|アルボムッレ・スマナサーラ|2015|loc={{Kindle版|2025|134}}}})とは、迷いの生存が苦であるという真理{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=360}}。苦しみの真理{{sfn|今枝|2015|p=92}}。人生が苦であるということは、[[釈迦|仏陀]]の[[人生観]]の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿とされる。このような人間苦を示すために、仏教では[[四苦八苦]]を説く。 四苦とは、根本的な四つの思うがままにならないこと、[[生 (仏教)|出生]]・[[老化|老]]・[[病気|病]]・[[死]]である。これらに、下の四つの苦を加えて八苦という。 * 愛別離苦(あいべつりく) - [[愛#仏教での愛と慈悲|愛]]する対象と別れること * 怨憎会苦(おんぞうえく) - 憎む対象に出会うこと * 求不得苦(ぐふとっく) - 求めても得られないこと * [[五蘊盛苦]](ごうんじょうく) - [[五蘊]](身体・感覚・概念・決心・記憶)に執着すること 非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句の四苦八苦はここから来ている。 === 集諦 === 集諦(じったい、じゅうたい、{{lang-sa-short|samudaya satya}}, サムダヤ・サティヤ、{{lang-pi-short|samudaya sacca}}, サムダヤ・サッチャ{{Sfn|アルボムッレ・スマナサーラ|2015|loc={{Kindle版|2025|134}}}}または苦集諦(くじゅうたい)とは、欲望の尽きないことが苦を生起させているという真理{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=360}}、つまり「苦には原因がある」という真理。苦しみの生起の真理{{sfn|今枝|2015|p=92}}。 集諦とは「苦の源」、苦が表れる素となる<!--過去の-->[[煩悩]]をいうので、苦集諦ともいわれる。集(じゅう(じふ))とは、招き集める意味で、苦を招き集めるものは煩悩であるとされる。 集諦の原語は {{lang|sa|samudaya}}(サムダヤ)であり、一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「積み重ねる」などを意味し、さらに「結合する」などを意味する。したがって、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。 苦集諦とは "{{lang|sa|duḥkha samudaya-satya}}" とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。具体的には[[貪欲]]や[[瞋恚]](しんに)、[[愚痴]]などの心のけがれをいい、その根本である[[トリシュナー|渇愛]](かつあい, トリシュナー)をいう。これらは、欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。 仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、[[十二縁起]]である。十二縁起とは、苦の12の原因とその[[因縁|縁]]を示している。苦は12の原因の[[システム]]であって、12個集まってそれ全体が苦なのである。だから、無明も渇愛も<!--愛欲も-->、苦の根本原因であり、苦集諦である。 === 滅諦 === 滅諦(めったい、{{lang-sa-short|nirodha satya}}, ニローダ・サティヤ、{{lang-pi-short|nirodha sacca}}, ニローダ・サッチャ{{Sfn|アルボムッレ・スマナサーラ|2015|loc={{Kindle版|2025|134}}}}、'''苦滅諦''', くめつたい)とは、欲望のなくなった状態が苦滅の理想の境地であるという真理{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=360}}。苦しみの消滅の真理{{sfn|今枝|2015|p=92}}。修行者の理想のあり方{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=360}}。なお、ニローダはせき止める、制止する、の意味{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=360}}。 === 道諦 === {{seealso|解脱への道}} 道諦(どうたい、{{lang-sa-short|mārga satya}}, マールガ・サティヤ、{{lang-pi-short|magga sacca}}, マッガ・サッチャ{{Sfn|アルボムッレ・スマナサーラ|2015|loc={{Kindle版|2025|134}}}}、'''苦滅道諦''', くめつどうたい)とは、苦滅にいたるためには{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=360}}、[[七科三十七道品]]といわれる修行の中の一つの課程である[[八正道]]によらなければならないという真理{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=360}}。苦しみの消滅に至る道の真理{{sfn|今枝|2015|p=92}}。これが仏道、すなわち仏陀の体得した[[解脱への道]]である。 == 宗派ごとの扱い == === 有部教学の修証論 === {{節スタブ}} === 大乗仏教 === 顕揚聖教論巻七では、四諦の内容を分類して八諦とする<ref name="sb550" />。また、[[小乗]]の四諦観は不完全であるとするのに対して大乗の四諦観は完全であるとする<ref name="sb550" />。小乗の四諦観を有作の四諦と貶称し、大乗の四諦観を無作の四諦と称する<ref name="sb550" />。この両方を合わせて八諦ともいう<ref name="sb550" />。 [[法相宗]]では、滅諦に三滅諦を、道諦に三道諦を立てる<ref name="sb550" />。[[天台宗]]では四種の四諦(生滅の四諦、無生の四諦、無量の四諦、無作の四諦)を立て、これらを蔵・通・別・円の四教に配当する<ref name="sb550" />。 == 仏典における扱い == === パーリ仏典 === [[パーリ仏典]]では釈迦は[[初転法輪]]において、四諦それぞれを以下の三転から説き('''三転十二行相''', dvādasākāraṃ yathābhūtaṃ)<ref name=Sna22 />{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p=325}}、如実知見を得たので、神々と人間を含む[[衆生]]の中で「[[正覚|最上の正しい目覚め]]」に到達したと宣言するに至ったとする<ref>{{SLTP|律蔵大品[[犍度]] 1.大犍度}}</ref><ref name=shogai>{{Cite |和書|title=ゴータマ・ブッダ : 釈尊の生涯 |author=中村元 |publisher=春秋社 |date=1969}}</ref>。 * 示(Saccañāṅa; これこそ苦であるなどと四諦をそれぞれ示すこと) * 勧(Kiccañāṅa; 苦は知るべきものであるなどと四諦の修行を勧めること) * 証(Katañāṅa; 私はすでに苦を知ったなどと四諦を証したことを明らかにすること) {{Quote| Yato ca kho me bhikkhave, imesu catusu ariyasaccesu evaṃ tiparivaṭṭaṃ dvādasākāraṃ yathābhūtaṃ ñāṇadassanaṃ suvisuddhaṃ ahosi. Athāhaṃ bhikkhave, sadevake loke samārake sabuhmake sassamaṇabrāhmaṇiyā pajāya sadevamanussāya anuttaraṃ sammāsambodhiṃ abhisambudadho paccaññāsiṃ 比丘たちよ、私はこれら四諦の三段階(tiparivaṭṭaṃ)十二側面(dvādasākāraṃ)の、如実な知見(ñāṇadassanaṃ)を得て清浄となったので、それゆえ私は、天部、悪魔、沙門婆羅門の人々、天人らが達したことがない、[[正覚|無上正等覚]](sammāsambodhiṃ)に至ったと宣言したのである。 | {{SLTP|律蔵大品[[犍度]] 1.大犍度}} <ref name=shogai/> }} *三転十二行相: 真理を理解する、真理に対するアクションを示す、そのアクションを実践する<ref name=Sna22>{{Cite |和書|title=テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え |author=[[アルボムッレ・スマナサーラ]] |publisher=Evolving |date=2018 |edition=kindle |at=Chapt.22 |isbn=978-4804613574}}</ref>。 ** 苦諦 : 生は苦であると真理を知る。苦の真理は理解可能である。苦の真理を理解する。 ** 集諦 : 苦の原因は渇愛だと知る。渇愛は滅すべきと知る。渇愛を滅することを目指す。 ** 滅諦 : 苦を滅した境地が涅槃だと知る。涅槃を達成すべきと知る。涅槃の達成に努める。 ** 道諦 : 涅槃への道は八正道だと知る。八正道を実践すべきと知る。八正道の完成を目指す。 パーリ語経典長部の『[[沙門果経]]』では、四諦は、[[沙門]](出家修行者、[[比丘]]・[[比丘尼]])が、[[戒律]]([[具足戒]]・[[波羅提木叉]])順守によって清浄な生活を営みながら、[[止観]]([[瞑想]])修行に精進し続けることで得られる[[六神通]]の最終段階「漏尽通」に至って、はじめてありのままに知ることができると述べられている<ref>長尾雅人(責任編集) 『世界の名著 1 バラモン経典 原始仏典』 中央公論社、1969年、503-537頁。</ref>{{要検証|date=2017年5月22日 (月) 00:49 (UTC)|title=537頁のみでは出典として足りず、少なくとも503-537頁までの範囲が出典として必要なことは明らかであるが、それのみで足りるかどうかはなお未検証。}}。 仏教学者の[[三枝充悳]]は、[[スッタニパータ]]をはじめとする詩句を表現するパーリ語には異同が見られるとし、調査によって、①苦集滅道のみで四諦の語がない→②苦集滅道も四諦の語もある→③四諦の語のみあり、の順に発展して、四諦の語が広く知られてからは、とくに苦集滅道を説く必要性が消えた{{sfn|三枝|2009|p=197~198}}と推測している。 === 大般涅槃経 === {{一次資料|date=2017年7月21日 (金) 02:49 (UTC)|section=1}} 大乗の『[[大般涅槃経]]』の四諦品(したいぼん)では、通常の四諦に新しい大乗的な解釈を加えた、涅槃の教理的な四聖諦を説いている。 ;苦聖諦 :この世の苦を明らかに徹見し、如来常住の真理を会得すること。また常住の法身を信じないことが生死の苦の根源であると知ること。 ;集聖諦 :苦の根源は煩悩妄執であることを徹見し、それに対して如来の深法は常住にして不変易であり、窮まりないと證知すること。また非法を先とし正法を断滅することが生死の苦悩を受け集める原因であると知ること。 ;滅聖諦 :苦の原因である一切の煩悩を除き、苦を滅することが悟りの境地であるが、如来の秘密蔵(ひみつぞう)を正しく知り修智(しゅち)すれば、煩悩があっても除くことができる。また、衆生の一人一人が自己に内蔵する如来蔵(にょらいぞう)([[仏性]])を信ずる一念が苦を滅するということ。 ;道聖諦 :仏道修行を通して一体三宝(仏法僧は差別なく一体である)と解脱涅槃の常住不変易を知り、修習すること。また如来が常住不変易であるから、[[三宝]]の一体、解脱は涅槃経の2つも常住不変易であると知ること。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=中村元他|authorlink=中村元 |year=1989 |title=岩波仏教辞典 |edition=第2版 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-080072-8 |ref={{SfnRef|岩波仏教辞典第2版|1989}} }} * {{Cite book |和書 |translator=[[今枝由郎]] |year=2015 |title=ダンマパダ ブッダの<真理の言葉> |edition=改訂第1刷 |publisher=トランスビュー |isbn=978-4-7987-0142-4 |ref={{SfnRef|今枝|2015}} }} * {{Cite book|和書|author1=中村元|author2=三枝充悳|authorlink2=三枝充悳|year = 2009|title = バウッダ(佛教)|publisher = 講談社学術文庫|isbn = 978-4-06-291973-9|ref = {{SfnRef|中村・三枝|2009}} }} * {{Cite |和書 |author=[[アルボムッレ・スマナサーラ]] |date=2015 |title=苦の見方 |publisher=[[サンガ (出版社)|サンガ]] |isbn=978-4865640199 |ref=harv}} == 関連項目 == * [[因果]] == 外部リンク == * [http://manikana.la.coocan.jp/canon/tathagata.html 心にしみる原始仏典 如来所説(『サンユッタ・ニカーヤ』56.11)] - [[石飛道子]]による訳 {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:したい}} [[Category:仏教哲学の概念]] [[Category:仏教の名数4|たい]]
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信濃の国
『信濃の国』(しなののくに)は、長野県の県歌である。1900年(明治33年)発表。 作詞は旧松本藩士族の浅井洌(1849年 - 1938年)、作曲は東京府出身の北村季晴(1872年 - 1930年)により、1900年(明治33年)に成立した。元は長野県師範学校附属小学校の郷土唱歌として作られ、その後身に当たる信州大学教育学部附属長野小学校の校歌としても歌い継がれている。 太平洋戦争が終結した1945年(昭和20年)以前は「秋田県民歌」や山形県の「最上川」と並ぶ「三大県民歌」と称され、戦後も実質的な長野県歌として歌われて来たが1968年(昭和43年)5月20日の県告示で正式に長野県歌として制定された。 1998年に開催された第18回冬季オリンピック・長野大会での開会式、閉会式の日本選手団の入場にも使われた。 全6番からなり、4番のみメロディーとテンポが異なる(転調ではない)。4番が異なるのは、七五調の歌詞の中で「寝覚の床」「姨捨山」と字余りが2回出てくるのと、情緒を持たせるためだと言われている。 歌詞の内容は、各節で次のように分かれている。 全般に長野県域の地理・歴史・文化を賞揚するものであり、御嶽山・乗鞍岳・木曽駒ヶ岳・浅間山・犀川・千曲川・木曽川・天竜川・木曽谷・諏訪湖・佐久間象山と、長野県各地の事物や長野県に縁を持つ人物が列挙されている。但し、作詞者の浅井は中信地方出身の旧松本藩士族であるためか、取り挙げられている事物や人物には偏りが見られる。 その内容から、「複数の盆地の寄せ集め」「連邦」と揶揄される、長野県の一体性と結び付きを高める為の精神的支柱として使用されてきた。これに関連して、「信濃の国」には直接登場しない下高井郡では、独自に郡歌を作っている。 なお、5番において「仁科五郎盛信」が「仁科五郎信盛」として歌われている。仁科盛信は一般に「盛信」として知られているが、近年には「信盛」と記された文書が残されていることから、改名していた可能性が指摘されている。 「信濃の国」はもともと郷土教育を目的として作られた歌であり、その歴史は明治時代初期までさかのぼる。現在の長野県域にほぼ相当する信濃国内の各地域は、山地・気候・交通網によって随所で細分されており、江戸時代にも多くの藩や天領に分かれており、明治時代に至っても尚、旧藩や旧天領に住民の帰属意識が残存していたため、県域全体の一体感は希薄であった。 1871年(明治4年)の廃藩置県とその後の府県再編により、現在の長野県は長野に県庁を置く長野県と、松本に県庁を置く筑摩県(現在は岐阜県に属する飛騨国の領域も含んだ)に分かれていた。しかし、1876年(明治9年)に松本の筑摩県庁舎が火災で焼失したことを機に、同年8月20日、筑摩県が廃止され同県が管轄していた信濃国の部分が長野県に編入された。その結果、信濃国全域が長野県の管轄下に入ったが、以来「南北戦争」「南北格差」とまで呼ばれる、長野市と松本市との激しい地域対立が続いており、県民意識の一体性を高めることが大きな課題となっている。 「信濃の国」は本来、同時期に作られて流行していた「鉄道唱歌」などと同様に、県内の地理教育の教材として作られたものである。当時、同様の地理唱歌は他の県や地域でも多く作られており、長野県だけに特異な事例ではない。しかし、上記のような事情を背景に、県内各地の事象をほぼ万遍なく歌いこみ、本来は都市名である「長野」ではなく県内の大方の地域が該当する「信濃」という旧国名で県域を包括したことで、本来の地理唱歌という枠を超えて、地域全体の共同体意識を喚起する歌として歌い継がれてきた。時代はまさに日清戦争・日露戦争の狭間の時期にあり、国家主義的地域ナショナリズムを鼓舞する目的も存在した。 「信濃の国」の最初のバージョンは、1898年(明治31年)10月に信濃教育会が組織した小学校唱歌教授細目取調委員会の委嘱により、長野県師範学校(現信州大学教育学部)教諭であった浅井が作詞し、同僚の依田弁之助が作曲して創作したものである。この曲は「信濃教育雑誌」(1899年(明治32年)6月発行)に掲載されたが、あまり歌われることはなかった。翌1900年(明治33年)、同師範学校女子部生徒が、依田の後任であった北村に同年10月の運動会の遊戯用の曲の作曲を依頼した。このとき新たに作曲されたバージョンが現在歌われているものである。師範学校から巣立った教員たちが長野県内各地の学校で教え伝えたことから、この曲は戦前から長野県内に普く定着した。 1947年(昭和22年)には日本国憲法公布を記念して新しい「長野県民歌」(作詞・北村隆男、作曲・前田孝)が公募を経て制定され、県内各地で発表会を開催したり歌詞と楽譜を配布するなど普及が図られたが県民の間では戦前から歌われて来た「信濃の国」が余りにも浸透していたため、この「県民歌」は遂に受容されること無く忘れ去られて行った。 「信濃の国」にまつわる逸話として以下のようなものがよく語られる。1948年(昭和23年)春の第74回定例県議会で、長野県を南北に分割しようとする分県意見書案が中信・南信地方(合併前の筑摩県域)出身議員らから提出され、分割に反対する北信出身議員の病欠などもあって可決されそうになった。この際に、傍聴に詰めかけた、分割に反対する北信地方と東信地方(合併前の長野県域)の住民達が突如として「信濃の国」の大合唱を行ない、分割を求める県会議員たちの意思を潰して分割を撤回させたと言われている。しかし、当時の県職員は、投票前に歌が歌われていた記憶が無く、また、仮に県議会で分割案が可決されたとしても政府や国会は分県を認めない方針であったとしている。長野県議会によれば、1948年3月19日の本会議採決において、分県反対派議員が牛歩戦術を行った上に、傍聴人が「信濃の国」を大合唱するなど議事が混乱したことで、この日の本会議が流会になったとされる。しかし、その後もなお分県賛成派は意見書の採決を諦めず、4月1日の本会議で改めて分割案の採決が行われたが、反対派であった県議会議長の欠席したため、賛成派の副議長が代理として議長席に座ることになった。賛成派の副議長が議長代理となったために賛成派による過半数による可決が不可能になったが、可否同数だと議長代理による裁決で可決できる可能性があったため、反対派議員の一部があえて白票を投じるという機転を効かせたことで最終的には「賛成:29票 反対:26票 白票:3票」となり、可決に必要な過半数の票を得られず、なおかつ可否同数も防げたため意見書は廃案となった。 以下は主なレコード会社から発売された音源である。ここで挙げた以外にも、高等学校の校歌や青年団歌などの非売品レコードにカップリングで歌唱されたものを含めて膨大な数の音源が存在するとみられる。 歌詞・旋律のいずれも著作権の保護期間を満了しているため、アレンジも盛んに行われている(#普及度を参照)。 初めて市販されたのは1931年(昭和6年)12月に日本コロムビアから発売された内田栄一の歌唱によるSPレコード(規格品番:26591)で、収録時間の都合により全6番中4番までに短縮されていた。B面収録曲は「信州男児」(作詞・田中常憲、作曲・山下信太郎)。 1949年(昭和24年)には小山清茂の編曲で浅野千鶴子がソプラノ、鷲崎良三がテナー、三枝喜美子がアルト、尾籠晴夫がバスをそれぞれ担当する合唱でA面/B面にそれぞれ曲の前・後半を収録したSP盤(B313)が製造され、これが全6番を完全に収録した初の音源となった。後年には同内容で規格を変更したシングル盤(SA-921)も製造されている。 制定告示翌年の1969年(昭和44年)にはステレオで新録を行ったコンパクト盤(ASS-447)が発売され、A面に山本直純の編曲で戸田政子がソプラノ、成田絵智子がアルト、鈴木寛一がテナー、平田栄寿がバリトンをそれぞれ担当する〈歌唱編〉、B面に〈行進曲編〉と〈軽音楽編〉のアレンジ2種が収録された。このコンパクト盤の〈歌唱編〉は「安曇節」のシングル(FK-115)B面にも再録されている。 ビクターでは藤井典明と女声合唱団が歌うSP盤(AE-98)を最初に製造していた。このSP盤も収録時間の都合により、全6番中1・4・6番を抜粋したものとなっている。 制定告示翌年の1969年(昭和44年)には立川清登(澄人)と東京混声合唱団歌唱のバージョンが『信濃の国 長野県歌 =歌唱編=』と題したシングル盤(SGC-119)として発売され、1997年(平成9年)5月21日に8センチCD(VIDG-30001)化された。2014年(平成26年)8月20日には12センチCDとしてシングル盤のジャケットを復元した新装盤のマキシシングル(VICL-36950)が発売されており、2023年(令和5年)時点でもこの立川版がダウンロード配信を含めて入手が容易な音源となっている。 立川版はアルバム『決定盤 信濃の民謡』(VZCG-87)にも収録された。また、立川の『歌唱編』と同時に『信濃の国 器楽編』と題したシングル盤(SGC-120)も発売されA面に吹奏楽、B面に器楽合奏・管弦楽のインストゥルメンタルをそれぞれ収録していた。 キングレコードでは上條恒彦と花井真里子(両名とも長野県出身)によるデュエットを発売しており、2016年(平成28年)発売の6枚組『山の歌ベスト』(NKCD-7790〜7795)ディスク5のトラック11に収録された。このレコードのB面には行進曲アレンジが収録されているが、CD化はされていない。 「信濃の国」はかつて、長野県内の多くの小学校・中学校・高校で、さまざまな行事の際に歌われてきたため、俗に「信州育ち(長野県で義務教育を受けた)なら『信濃の国』を歌える」「会議や宴会の締めでは、必ず『信濃の国』が合唱される」「県内在住者であっても『信濃の国』を歌えなければ他所者」とやや誇張気味に語られるほど、信州人(長野県民)に深く浸透していた。 日本の都道府県歌は、住民にとってあまりなじみがない場合が多く、存在すら認識されていない例もあるため、「信濃の国」は、「日本で最も有名な県歌」とも言える歌である。現在でも、県外から(多くは日本国政府からの出向)県幹部職員を着任させる時、県会に同意了解を求めるが、他県出身の人事を快しとしない長野県議会議員からは、「信濃の国」を知っているかどうかを、質疑で詰問する風景が見られることもある。 「信濃の国」は、長野県師範学校附属小学校の後身である信州大学教育学部附属長野小学校のように校歌として採用されている例はあるものの、昭和末期からは、長野県内でも「信濃の国」を歌わない学校が現れており、「信濃の国」を歌えない県民も徐々に増えつつある。しかし、カラオケのレパートリーや、携帯電話の着信メロディに用いられるなど、地元・長野県民の支持は依然として根強い。 長野県の各地域では、公共放送でのジングルや特別急行列車等の車内アナウンスでの採用例(1997年(平成9年)に北陸新幹線が長野駅まで開業する以前の特急「あさま」号の長野駅到着時、特急「あずさ」号の松本駅到着時)も多く、2020年(令和2年)7月4日よりしなの鉄道で営業運転を開始した新製車両・SR1系の乗降促進メロディーにも採用された。JRでは、2002年(平成14年)2月にはJR東日本長野支社から、列車が走る風景を背景にして「信濃の国」の歌詞を1番ずつあしらった6枚組オレンジカードが発行された。 2000年(平成12年)と2012年(平成24年)、2018年(平成30年)には「信濃の国」の歌詞が入った切手が発売されている。 2014年(平成26年)11月7日、JR東日本長野支社は2015年(平成27年)3月14日に北陸新幹線の金沢駅延伸に先駆け、同年1月から長野駅新幹線ホームの発車メロディを「信濃の国」にすると発表し、同年1月31日の始発から変更された。 信越放送ラジオ(SBC)においても、開局時から放送開始・終了時にインストゥルメンタルでこの楽曲を放送している(現在は終夜放送<除・日曜深夜~月曜未明>となっており、毎日午前5時前の1日の基点に1番等のインストゥルメンタルが、及び、日曜付放送終了時に4番のインストゥルメンタルが放送されている。また、かつては信越放送テレビ(SBC)においても、放送開始・終了時にインストゥルメンタルでこの楽曲を放送していた)。2005年(平成17年)には、パラパラが踊れるユーロビートバージョンも登場した。ユーロビートバージョンは、CMなどで流れていることもある。2013年7月からはこのユーロビートバージョンをバックに、長野県観光PRキャラクターのアルクマが様々なイベントでダンスを披露している。 また、この曲は全国の自治体歌のなかでも特に知名度が高く、県外からの観光や修学旅行などでバスガイドが歌うことも多い。 2005年(平成17年)長野青年会議所の手により、上高井郡小布施町在住のセーラ・マリ・カミングスの翻訳監修で、全て英語の歌詞の信濃の国(英語: Our Shinano)が制作された(外部リンク参照)。 2015年(平成27年)6月に宇宙で6ヶ月程度滞在することが決まっている宇宙飛行士の油井亀美也(南佐久郡川上村出身)は、「機内放送されるかわからないが、『信濃の国』をISSで歌いたい」と話している。 また北陸新幹線の一部先行開通記念の長野駅でのセレモニー(1997年10月)や、長野オリンピック(1998年2月)の開会式における国歌「君が代」斉唱の次に「信濃の国」を歌ったほか、日本選手団の入場行進時などに代表されるように、長野県に関わる公的行事の伴奏音楽としても頻繁に採り上げられている。高校野球の全国大会で長野県代表の応援歌としても使用されており、出場校の出身者でなくても、殆どの長野県人が歌えるという普及度の高さが生かされている。 長野県を本拠地とするスポーツチームの応援歌として使用されることが増えている。1999年のNTT再編によりクラブチーム化したNTT信越硬式野球クラブ(当時、現・信越硬式野球クラブ)が従来のNTT社歌・応援歌に変わり使い始めたのを皮切りに、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟する松本山雅FCの試合ではチャント(サポーターソング)として歌われている。プロ野球独立リーグ・ベースボール・チャレンジ・リーグ(ルートインBCリーグ)に所属する信濃グランセローズの主催試合でも歌われる。Bリーグに所属する信州ブレイブウォリアーズの試合でも使用される。 「歴史」の項目で述べている分県問題にまつわる逸話を題材にして、作家内田康夫が『「信濃の国」殺人事件』を書いており、「信濃のコロンボ事件ファイル」の一編としてTVドラマも作られた。 2018年(平成30年)には県歌制定50周年となることを記念し、現代語訳版の7番を作成する計画があったが、計画は頓挫し、代わりに歌詞の1番と2番の手話表現がつくられた。 県内では長野市に2基(長野県庁舎前と東京大学地震研究所信越地震観測所前)、佐久市に1基(佐久市立国保浅間総合病院前「吉沢先生歌碑」の裏面)、松本市に1基(信州スカイパークの噴水池付近)の合計4基の歌碑が建立されている。また、県外では兵庫県神戸市中央区の大倉山公園内「ふるさとの森」に現地の長野県人会が建立した歌碑が設置されている。 県歌「しなののくに」の名称のアクセントは「しなの - の - くに」(「信濃」が尾高型)となる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『信濃の国』(しなののくに)は、長野県の県歌である。1900年(明治33年)発表。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "作詞は旧松本藩士族の浅井洌(1849年 - 1938年)、作曲は東京府出身の北村季晴(1872年 - 1930年)により、1900年(明治33年)に成立した。元は長野県師範学校附属小学校の郷土唱歌として作られ、その後身に当たる信州大学教育学部附属長野小学校の校歌としても歌い継がれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "太平洋戦争が終結した1945年(昭和20年)以前は「秋田県民歌」や山形県の「最上川」と並ぶ「三大県民歌」と称され、戦後も実質的な長野県歌として歌われて来たが1968年(昭和43年)5月20日の県告示で正式に長野県歌として制定された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1998年に開催された第18回冬季オリンピック・長野大会での開会式、閉会式の日本選手団の入場にも使われた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "全6番からなり、4番のみメロディーとテンポが異なる(転調ではない)。4番が異なるのは、七五調の歌詞の中で「寝覚の床」「姨捨山」と字余りが2回出てくるのと、情緒を持たせるためだと言われている。", "title": "歌詞" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "歌詞の内容は、各節で次のように分かれている。", "title": "歌詞" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "全般に長野県域の地理・歴史・文化を賞揚するものであり、御嶽山・乗鞍岳・木曽駒ヶ岳・浅間山・犀川・千曲川・木曽川・天竜川・木曽谷・諏訪湖・佐久間象山と、長野県各地の事物や長野県に縁を持つ人物が列挙されている。但し、作詞者の浅井は中信地方出身の旧松本藩士族であるためか、取り挙げられている事物や人物には偏りが見られる。", "title": "歌詞" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "その内容から、「複数の盆地の寄せ集め」「連邦」と揶揄される、長野県の一体性と結び付きを高める為の精神的支柱として使用されてきた。これに関連して、「信濃の国」には直接登場しない下高井郡では、独自に郡歌を作っている。", "title": "歌詞" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "なお、5番において「仁科五郎盛信」が「仁科五郎信盛」として歌われている。仁科盛信は一般に「盛信」として知られているが、近年には「信盛」と記された文書が残されていることから、改名していた可能性が指摘されている。", "title": "歌詞" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "「信濃の国」はもともと郷土教育を目的として作られた歌であり、その歴史は明治時代初期までさかのぼる。現在の長野県域にほぼ相当する信濃国内の各地域は、山地・気候・交通網によって随所で細分されており、江戸時代にも多くの藩や天領に分かれており、明治時代に至っても尚、旧藩や旧天領に住民の帰属意識が残存していたため、県域全体の一体感は希薄であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1871年(明治4年)の廃藩置県とその後の府県再編により、現在の長野県は長野に県庁を置く長野県と、松本に県庁を置く筑摩県(現在は岐阜県に属する飛騨国の領域も含んだ)に分かれていた。しかし、1876年(明治9年)に松本の筑摩県庁舎が火災で焼失したことを機に、同年8月20日、筑摩県が廃止され同県が管轄していた信濃国の部分が長野県に編入された。その結果、信濃国全域が長野県の管轄下に入ったが、以来「南北戦争」「南北格差」とまで呼ばれる、長野市と松本市との激しい地域対立が続いており、県民意識の一体性を高めることが大きな課題となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "「信濃の国」は本来、同時期に作られて流行していた「鉄道唱歌」などと同様に、県内の地理教育の教材として作られたものである。当時、同様の地理唱歌は他の県や地域でも多く作られており、長野県だけに特異な事例ではない。しかし、上記のような事情を背景に、県内各地の事象をほぼ万遍なく歌いこみ、本来は都市名である「長野」ではなく県内の大方の地域が該当する「信濃」という旧国名で県域を包括したことで、本来の地理唱歌という枠を超えて、地域全体の共同体意識を喚起する歌として歌い継がれてきた。時代はまさに日清戦争・日露戦争の狭間の時期にあり、国家主義的地域ナショナリズムを鼓舞する目的も存在した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "「信濃の国」の最初のバージョンは、1898年(明治31年)10月に信濃教育会が組織した小学校唱歌教授細目取調委員会の委嘱により、長野県師範学校(現信州大学教育学部)教諭であった浅井が作詞し、同僚の依田弁之助が作曲して創作したものである。この曲は「信濃教育雑誌」(1899年(明治32年)6月発行)に掲載されたが、あまり歌われることはなかった。翌1900年(明治33年)、同師範学校女子部生徒が、依田の後任であった北村に同年10月の運動会の遊戯用の曲の作曲を依頼した。このとき新たに作曲されたバージョンが現在歌われているものである。師範学校から巣立った教員たちが長野県内各地の学校で教え伝えたことから、この曲は戦前から長野県内に普く定着した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1947年(昭和22年)には日本国憲法公布を記念して新しい「長野県民歌」(作詞・北村隆男、作曲・前田孝)が公募を経て制定され、県内各地で発表会を開催したり歌詞と楽譜を配布するなど普及が図られたが県民の間では戦前から歌われて来た「信濃の国」が余りにも浸透していたため、この「県民歌」は遂に受容されること無く忘れ去られて行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "「信濃の国」にまつわる逸話として以下のようなものがよく語られる。1948年(昭和23年)春の第74回定例県議会で、長野県を南北に分割しようとする分県意見書案が中信・南信地方(合併前の筑摩県域)出身議員らから提出され、分割に反対する北信出身議員の病欠などもあって可決されそうになった。この際に、傍聴に詰めかけた、分割に反対する北信地方と東信地方(合併前の長野県域)の住民達が突如として「信濃の国」の大合唱を行ない、分割を求める県会議員たちの意思を潰して分割を撤回させたと言われている。しかし、当時の県職員は、投票前に歌が歌われていた記憶が無く、また、仮に県議会で分割案が可決されたとしても政府や国会は分県を認めない方針であったとしている。長野県議会によれば、1948年3月19日の本会議採決において、分県反対派議員が牛歩戦術を行った上に、傍聴人が「信濃の国」を大合唱するなど議事が混乱したことで、この日の本会議が流会になったとされる。しかし、その後もなお分県賛成派は意見書の採決を諦めず、4月1日の本会議で改めて分割案の採決が行われたが、反対派であった県議会議長の欠席したため、賛成派の副議長が代理として議長席に座ることになった。賛成派の副議長が議長代理となったために賛成派による過半数による可決が不可能になったが、可否同数だと議長代理による裁決で可決できる可能性があったため、反対派議員の一部があえて白票を投じるという機転を効かせたことで最終的には「賛成:29票 反対:26票 白票:3票」となり、可決に必要な過半数の票を得られず、なおかつ可否同数も防げたため意見書は廃案となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "以下は主なレコード会社から発売された音源である。ここで挙げた以外にも、高等学校の校歌や青年団歌などの非売品レコードにカップリングで歌唱されたものを含めて膨大な数の音源が存在するとみられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "歌詞・旋律のいずれも著作権の保護期間を満了しているため、アレンジも盛んに行われている(#普及度を参照)。", "title": "歴史" }, { 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"県内では長野市に2基(長野県庁舎前と東京大学地震研究所信越地震観測所前)、佐久市に1基(佐久市立国保浅間総合病院前「吉沢先生歌碑」の裏面)、松本市に1基(信州スカイパークの噴水池付近)の合計4基の歌碑が建立されている。また、県外では兵庫県神戸市中央区の大倉山公園内「ふるさとの森」に現地の長野県人会が建立した歌碑が設置されている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "県歌「しなののくに」の名称のアクセントは「しなの - の - くに」(「信濃」が尾高型)となる。", "title": "その他" } ]
『信濃の国』(しなののくに)は、長野県の県歌である。1900年(明治33年)発表。
{{Otheruses|長野県歌|[[令制国]]の信濃国|信濃国}} {{Infobox anthem |題名= 信濃の国 |翻字= |和訳例= |画像= 長野県庁前 信濃の国 歌碑 (表面).jpg |画像サイズ= 300px |画像代替= |画像説明= [[長野県庁舎]]前にある「信濃の国」の 歌碑 |採用対象= 県 |採用共同体= [[File:Flag of Nagano Prefecture.svg|25px]] [[長野県]] |別名= |別名和訳= |別名2= |別名2和訳= |作詞者= [[浅井洌]] |作詞時期= [[1899年]] |作曲者= [[北村季晴]] |作曲時期= [[1900年]] |採用時期= [[1968年]][[5月20日]](制定告示) |採用終了= |言語= [[日本語]] |試聴= |試聴タイトル= }} 『'''信濃の国'''』(しなののくに)は、[[長野県]]の[[都道府県民歌|県歌]]である。[[1900年]]([[明治]]33年)発表。 == 概要 == 作詞は旧[[松本藩]]士族の[[浅井洌]]([[1849年]] - [[1938年]])、作曲は[[東京府]]出身の[[北村季晴]]([[1872年]] - [[1930年]])により、[[1900年]]([[明治]]33年)に成立した。元は長野県師範学校附属小学校の郷土唱歌として作られ、その後身に当たる[[信州大学教育学部附属長野小学校]]の校歌としても歌い継がれている。 [[太平洋戦争]]が終結した[[1945年]]([[昭和]]20年)以前は「[[秋田県民歌]]」や[[山形県]]の「[[最上川 (曲)|最上川]]」と並ぶ「三大県民歌」と称され、戦後も実質的な長野県歌として歌われて来たが[[1968年]](昭和43年)[[5月20日]]の県告示で正式に長野県歌として制定された。  [[1998年]]に開催された[[1998年長野オリンピック|第18回冬季オリンピック・長野大会]]での開会式、閉会式の日本選手団の入場にも使われた。 == 歌詞 == {{Lyric-safe}} 全6番からなり、4番のみ[[メロディー]]と[[テンポ]]が異なる([[転調]]ではない)。4番が異なるのは、七五調の歌詞の中で「[[寝覚の床]]」「[[冠着山|姨捨山]]」と字余りが2回出てくるのと、情緒を持たせるためだと言われている。 歌詞の内容は、各節で次のように分かれている。 # 長野県の地理に関する概要 # 山河 # 産業 # 旧跡/名勝 # 長野県出身の著名人 # [[碓氷峠]]と鉄道(作曲の数年前に開通した[[信越本線]])・結句 {| class="wikitable" style="width:100%" |- !style="width:4%; padding-bottom:0px" | 番 !!style="width:42%; padding-bottom:0px;" | 歌詞 !! style="width:54%; padding-bottom:0px;" |現代語訳(例) |- |一、 | : <ruby><rb>信濃</rb><rp>(</rp><rt>しなの</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>国</rb><rp>(</rp><rt>くに</rt><rp>)</rp></ruby>は<ruby><rb>十州</rb><rp>(</rp><rt>じっしゅう</rt><rp>)</rp></ruby>に <ruby><rb>境連</rb><rp>(</rp><rt>さかいつら</rt><rp>)</rp></ruby>ぬる<ruby><rb>国</rb><rp>(</rp><rt>くに</rt><rp>)</rp></ruby>にして : <ruby><rb>聳</rb><rp>(</rp><rt>そび</rt><rp>)</rp></ruby>ゆる<ruby><rb>山</rb><rp>(</rp><rt>やま</rt><rp>)</rp></ruby>はいや<ruby><rb>高</rb><rp>(</rp><rt>たか</rt><rp>)</rp></ruby>く <ruby><rb>流</rb><rp>(</rp><rt>なが</rt><rp>)</rp></ruby>るる<ruby><rb>川</rb><rp>(</rp><rt>かわ</rt><rp>)</rp></ruby>はいや<ruby><rb>遠</rb><rp>(</rp><rt>とお</rt><rp>)</rp></ruby>し : <ruby><rb>松本</rb><rp>(</rp><rt>まつもと</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>伊那</rb><rp>(</rp><rt>いな</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>佐久</rb><rp>(</rp><rt>さく</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>善光寺</rb><rp>(</rp><rt>ぜんこうじ</rt><rp>)</rp></ruby> <ruby><rb>四</rb><rp>(</rp><rt>よっ</rt><rp>)</rp></ruby>つの<ruby><rb>平</rb><rp>(</rp><rt>たいら</rt><rp>)</rp></ruby>は<ruby><rb>肥沃</rb><rp>(</rp><rt>ひよく</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>地</rb><rp>(</rp><rt>ち</rt><rp>)</rp></ruby> : <ruby><rb>海</rb><rp>(</rp><rt>うみ</rt><rp>)</rp></ruby>こそなけれ<ruby><rb>物</rb><rp>(</rp><rt>もの</rt><rp>)</rp></ruby>さわに <ruby><rb>万</rb><rp>(</rp><rt>よろ</rt><rp>)</rp></ruby>ず<ruby><rb>足</rb><rp>(</rp><rt>た</rt><rp>)</rp></ruby>らわぬ<ruby><rb>事</rb><rp>(</rp><rt>こと</rt><rp>)</rp></ruby>ぞなき | :[[信濃国]]は、10か国の[[令制国]]([[上野国]]、[[越後国]]、[[越中国]]、[[飛騨国]]、[[美濃国]]、[[三河国]]、[[遠江国]]、[[駿河国]]、[[甲斐国]]、[[武蔵国]])と境を接する広大な国である。 :当地にそびえる山は遥かに高く、流れる川は長大である。 :山国ではあるが、[[松本盆地|松本平]]、[[伊那谷]]、[[佐久盆地|佐久平]]、[[長野盆地|善光寺平]]の、計4つの肥沃な平地がある。 :海がない[[内陸県]]ではあるが様々な物品を産し、物に不足することは無い。 |- |二、 | : <ruby><rb>四方</rb><rp>(</rp><rt>よも</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>聳</rb><rp>(</rp><rt>そび</rt><rp>)</rp></ruby>ゆる<ruby><rb>山々</rb><rp>(</rp><rt>やまやま</rt><rp>)</rp></ruby>は <ruby><rb>御嶽</rb><rp>(</rp><rt>おんたけ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>乗鞍</rb><rp>(</rp><rt>のりくら</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>駒ヶ岳</rb><rp>(</rp><rt>こまがたけ</rt><rp>)</rp></ruby> : <ruby><rb>浅間</rb><rp>(</rp><rt>あさま</rt><rp>)</rp></ruby>は<ruby><rb>殊</rb><rp>(</rp><rt>こと</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>活火山</rb><rp>(</rp><rt>かつかざん</rt><rp>)</rp></ruby> いずれも<ruby><rb>国</rb><rp>(</rp><rt>くに</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>鎮</rb><rp>(</rp><rt>しず</rt><rp>)</rp></ruby>めなり : <ruby><rb>流</rb><rp>(</rp><rt>なが</rt><rp>)</rp></ruby>れ<ruby><rb>淀</rb><rp>(</rp><rt>よど</rt><rp>)</rp></ruby>まずゆく<ruby><rb>水</rb><rp>(</rp><rt>みず</rt><rp>)</rp></ruby>は <ruby><rb>北</rb><rp>(</rp><rt>きた</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>犀川千曲川</rb><rp>(</rp><rt>さいがわちくまがわ</rt><rp>)</rp></ruby> : <ruby><rb>南</rb><rp>(</rp><rt>みなみ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>木曽川天竜川</rb><rp>(</rp><rt>きそがわてんりゅうがわ</rt><rp>)</rp></ruby> これまた<ruby><rb>国</rb><rp>(</rp><rt>くに</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>固</rb><rp>(</rp><rt>かた</rt><rp>)</rp></ruby>めなり | :四方に聳える山々で著名なものを挙げるなら、[[御嶽山]]、[[乗鞍岳]]、[[木曽駒ケ岳]]。 :[[浅間山]]は活火山として著名である。これら山はいずれも信州の地を鎮っている。 :澱むことなく軽快に流れる川で著名なものを挙げるならば、北へ流れた末に[[日本海]]へ注ぐ[[犀川 (長野県)|犀川]]に[[千曲川]]。南へ流れ[[太平洋]]へ注ぐ[[木曽川]]に[[天竜川]]。 :これら川も信濃の地の基である。 |- |三、 | : <ruby><rb>木曽</rb><rp>(</rp><rt>きそ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>谷</rb><rp>(</rp><rt>たに</rt><rp>)</rp></ruby>には<ruby><rb>真木茂</rb><rp>(</rp><rt>まきしげ</rt><rp>)</rp></ruby>り <ruby><rb>諏訪</rb><rp>(</rp><rt>すわ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>湖</rb><rp>(</rp><rt>うみ</rt><rp>)</rp></ruby>には<ruby><rb>魚多</rb><rp>(</rp><rt>うおおお</rt><rp>)</rp></ruby>し : <ruby><rb>民</rb><rp>(</rp><rt>たみ</rt><rp>)</rp></ruby>のかせぎも<ruby><rb>豊</rb><rp>(</rp><rt>ゆた</rt><rp>)</rp></ruby>かにて <ruby><rb>五穀</rb><rp>(</rp><rt>ごこく</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>実</rb><rp>(</rp><rt>みの</rt><rp>)</rp></ruby>らぬ<ruby><rb>里</rb><rp>(</rp><rt>さと</rt><rp>)</rp></ruby>やある : しかのみならず<ruby><rb>桑</rb><rp>(</rp><rt>くわ</rt><rp>)</rp></ruby>とりて <ruby><rb>蚕飼</rb><rp>(</rp><rt>こが</rt><rp>)</rp></ruby>いの<ruby><rb>業</rb><rp>(</rp><rt>わざ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>打</rb><rp>(</rp><rt>う</rt><rp>)</rp></ruby>ちひらけ : <ruby><rb>細</rb><rp>(</rp><rt>ほそ</rt><rp>)</rp></ruby>きよすがも<ruby><rb>軽</rb><rp>(</rp><rt>かろ</rt><rp>)</rp></ruby>からぬ <ruby><rb>国</rb><rp>(</rp><rt>くに</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>命</rb><rp>(</rp><rt>いのち</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>繋</rb><rp>(</rp><rt>つな</rt><rp>)</rp></ruby>ぐなり | :[[木曽谷]]には[[ヒノキ]]はじめ有用な針葉樹が茂り、[[諏訪湖]]は水産物の宝庫である。 :住民はさまざまな生業に励み、[[五穀]]の実らない村落など無い。 :そればかりか[[クワ|桑]]の葉で[[カイコ]]を飼う、[[養蚕業|養蚕]]の技術も広範に広まっている。 :養蚕は家ごとの零細な家内工業であり、生産された[[生糸]]は細くて軽い。しかし、その意味は決して軽くはない。信州の基幹産業として、さらに日本の重要輸出品として国の命運を繋いでいるのだ。 |- |四、 | : <ruby><rb>尋</rb><rp>(</rp><rt>たず</rt><rp>)</rp></ruby>ねまほしき<ruby><rb>園原</rb><rp>(</rp><rt>そのはら</rt><rp>)</rp></ruby>や <ruby><rb>旅</rb><rp>(</rp><rt>たび</rt><rp>)</rp></ruby>のやどりの<ruby><rb>寝覚の床</rb><rp>(</rp><rt>ねざめ とこ</rt><rp>)</rp></ruby> : <ruby><rb>木曽</rb><rp>(</rp><rt>きそ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>桟</rb><rp>(</rp><rt>かけはし</rt><rp>)</rp></ruby>かけし<ruby><rb>世</rb><rp>(</rp><rt>よ</rt><rp>)</rp></ruby>も <ruby><rb>心</rb><rp>(</rp><rt>こころ</rt><rp>)</rp></ruby>してゆけ<ruby><rb>久米路橋</rb><rp>(</rp><rt>くめじばし</rt><rp>)</rp></ruby> : くる<ruby><rb>人多</rb><rp>(</rp><rt>ひとおお</rt><rp>)</rp></ruby>き<ruby><rb>筑摩</rb><rp>(</rp><rt>つかま</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>湯</rb><rp>(</rp><rt>ゆ</rt><rp>)</rp></ruby> <ruby><rb>月</rb><rp>(</rp><rt>つき</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>名</rb><rp>(</rp><rt>な</rt><rp>)</rp></ruby>にたつ<ruby><rb>姨捨山</rb><rp>(</rp><rt>おばすてやま</rt><rp>)</rp></ruby> : しるき<ruby><rb>名所</rb><rp>(</rp><rt>めいしょ</rt><rp>)</rp></ruby>と<ruby><rb>風雅士</rb><rp>(</rp><rt>みやびお</rt><rp>)</rp></ruby>が <ruby><rb>詩歌</rb><rp>(</rp><rt>しいか</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>詠</rb><rp>(</rp><rt>よみ</rt><rp>)</rp></ruby>てぞ<ruby><rb>伝</rb><rp>(</rp><rt>つた</rt><rp>)</rp></ruby>えたる | :信州の名所を挙げるなら、[[万葉集]]の時代から[[歌枕]]の地であった[[阿智村]]智里の「[[園原]]」をぜひとも訪ねたい。あるいは[[浦島太郎]]が[[玉手箱]]を開けた地との伝承がある「[[寝覚ノ床]]」で一夜の宿を結びたい。 :旅人の便宜を図り、木曽川の断崖には「[[木曽の桟]]」が、犀川の流れには[[水内ダム#周辺|久米路橋]]が架けられた。だが、険しい道は心して進みたいものである。 :奈良時代からの歴史がある[[美ヶ原温泉|筑摩の湯]]は旅客で賑わう。[[古今集]]が編纂された時代より、月見の名所と詠われた[[姨捨山]]。 :これら名所は風流人に愛され、[[和歌]]や[[漢詩]]に詠み込まれて伝えられてきた。 |- |五、 | : <ruby><rb>旭将軍</rb><rp>(</rp><rt>あさひしょうぐん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>義仲</rb><rp>(</rp><rt>よしなか</rt><rp>)</rp></ruby>も <ruby><rb>仁科</rb><rp>(</rp><rt>にしな</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>五郎</rb><rp>(</rp><rt>ごろう</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>信盛</rb><rp>(</rp><rt>のぶもり</rt><rp>)</rp></ruby>も : <ruby><rb>春台</rb><rp>(</rp><rt>しゅんだい</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>太宰先生</rb><rp>(</rp><rt>だざいせんせい</rt><rp>)</rp></ruby>も <ruby><rb>象山</rb><rp>(</rp><rt>ぞうざん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>佐久間</rb><rp>(</rp><rt>さくま</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>先生</rb><rp>(</rp><rt>せんせい</rt><rp>)</rp></ruby>も : <ruby><rb>皆此国</rb><rp>(</rp><rt>みなこのくに</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>人</rb><rp>(</rp><rt>ひと</rt><rp>)</rp></ruby>にして <ruby><rb>文武</rb><rp>(</rp><rt>ぶんぶ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>誉</rb><rp>(</rp><rt>ほまれ</rt><rp>)</rp></ruby>たぐいなく : <ruby><rb>山</rb><rp>(</rp><rt>やま</rt><rp>)</rp></ruby>と<ruby><rb>聳</rb><rp>(</rp><rt>そび</rt><rp>)</rp></ruby>えて<ruby><rb>世</rb><rp>(</rp><rt>よ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>仰</rb><rp>(</rp><rt>あお</rt><rp>)</rp></ruby>ぎ <ruby><rb>川</rb><rp>(</rp><rt>かわ</rt><rp>)</rp></ruby>と<ruby><rb>流</rb><rp>(</rp><rt>なが</rt><rp>)</rp></ruby>れて<ruby><rb>名</rb><rp>(</rp><rt>な</rt><rp>)</rp></ruby>は<ruby><rb>尽</rb><rp>(</rp><rt>つき</rt><rp>)</rp></ruby>ず | :[[治承・寿永の乱|源平合戦]]で都に凱旋し、「旭将軍」と讃えられた[[源義仲]]。[[織田信長]]の[[甲州征伐|甲州攻め]]の折、[[高遠城]]で対峙した[[仁科盛信]]。 :[[儒学者]]として「[[経済]]」の語を世に知らしめた[[太宰春台]]。[[幕末]]の[[洋学者]]であり、維新の志士を教育した[[佐久間象山]]。 :みな信州にゆかりのある偉人である。 :文武両道に優れた彼らを世人は山のように振り仰いで尊敬し、名声を川の流れのように末永く語り継いでいる。 |- |六、 | : <ruby><rb>吾妻</rb><rp>(</rp><rt>あづま</rt><rp>)</rp></ruby>はやとし<ruby><rb>日本武</rb><rp>(</rp><rt>やまとたけ</rt><rp>)</rp></ruby> <ruby><rb>嘆</rb><rp>(</rp><rt>なげ</rt><rp>)</rp></ruby>き<ruby><rb>給</rb><rp>(</rp><rt>たま</rt><rp>)</rp></ruby>いし<ruby><rb>碓氷山</rb><rp>(</rp><rt>うすいやま</rt><rp>)</rp></ruby> : <ruby><rb>穿</rb><rp>(</rp><rt>うが</rt><rp>)</rp></ruby>つ<ruby><rb>隧道二十六</rb><rp>(</rp><rt>トンネルにじゅうろく</rt><rp>)</rp></ruby> <ruby><rb>夢</rb><rp>(</rp><rt>ゆめ</rt><rp>)</rp></ruby>にもこゆる<ruby><rb>汽車</rb><rp>(</rp><rt>きしゃ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>道</rb><rp>(</rp><rt>みち</rt><rp>)</rp></ruby> : みち<ruby><rb>一筋</rb><rp>(</rp><rt>ひとすじ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>学</rb><rp>(</rp><rt>まな</rt><rp>)</rp></ruby>びなば <ruby><rb>昔</rb><rp>(</rp><rt>むかし</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>人</rb><rp>(</rp><rt>ひと</rt><rp>)</rp></ruby>にや<ruby><rb>劣</rb><rp>(</rp><rt>おと</rt><rp>)</rp></ruby>るべき : <ruby><rb>古来山河</rb><rp>(</rp><rt>こらいさんが</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>秀</rb><rp>(</rp><rt>ひい</rt><rp>)</rp></ruby>でたる <ruby><rb>国</rb><rp>(</rp><rt>くに</rt><rp>)</rp></ruby>は<ruby><rb>偉人</rb><rp>(</rp><rt>いじん</rt><rp>)</rp></ruby>のある<ruby><rb>習</rb><rp>(</rp><rt>なら</rt><rp>)</rp></ruby>い | :かの[[ヤマトタケル]]が東国遠征の折、入水した妻・[[オトタチバナヒメ]]を想い「吾妻はや」と嘆いた。そんな伝承がある[[碓氷峠]]。 :[[中山道]]の難所だった碓氷峠にも、今や夢に見た鉄道([[信越本線]])が開通した。26か所もの[[トンネル]]が開削され、苦難の旅路は汽車でひと眠りのうちに通過できる文明開化の時代である。 :山中を一直線に貫く鉄路のように、一心不乱で勉学したならば、先人に劣ることがあるだろうか。 :古来より美しい山河、自然環境に恵まれた信州。そんな郷土から偉人が輩出されるのは道理である。 |} 全般に長野県域の地理・歴史・文化を賞揚するものであり、[[御嶽山]]・[[乗鞍岳]]・[[木曽駒ヶ岳]]・[[浅間山]]・[[犀川 (長野県)|犀川]]・[[信濃川|千曲川]]・[[木曽川]]・[[天竜川]]・[[木曽谷]]・[[諏訪湖]]・[[佐久間象山]]と、長野県各地の事物や長野県に縁を持つ人物が列挙されている。但し、作詞者の浅井は[[中信地方]]出身の旧[[松本藩]]士族であるためか、取り挙げられている事物や人物には偏りが見られる。 その内容から、「複数の[[盆地]]の寄せ集め」「[[連邦]]」と揶揄される、長野県の一体性と結び付きを高める為の精神的支柱として使用されてきた。これに関連して、「信濃の国」には直接登場しない[[下高井郡]]では、独自に郡歌を作っている。 なお、5番において「[[仁科盛信|仁科五郎'''盛信''']]」が「仁科五郎'''信盛'''」として歌われている。仁科盛信は一般に「盛信」として知られているが、近年には「信盛」と記された文書が残されていることから、改名していた可能性が指摘されている<ref>丸島和洋「武田勝頼と一門」([[柴辻俊六]]・[[平山優]]編『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年){{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref>。 == 楽譜(抄) == <score vorbis=1 midi=1>{ \key f \major \time 4/4 \tempo 4 = 104 \relative g' { c4 c c4. f,8| g4 a g4. r8| f4. d8 d4 c| f2. r4| d8. d16 d8 d d c c f| g8. f16 g8 a g4. r8| a8. a16 a8 f g8. g16 f8 d| c f a8. f16 g4. r8| f8. f16 f8 d d c c f| g c, a'8. g16 f4. r8| g4. g8 g4 g| g8 f g a c4 c| d4. c8 d c a f| g2. r4| a8. a16 a8 f g8. g16 f8 d| c f a8. f16 g4. r8| f8. f16 f8 d d c c f| g c, a'8. g16 f4. r8| g4. g8 g4 g| g8 f g a c4 c| d2 c4 f,| g a8 g f4 r \bar "|." } \addlyrics { し な の の く に は じ っ しゅ う に さ ー か い つ ら ぬ る く に に し て そ び ゆ る や ー ま は い や た か く な が る る か ー わ は い や と お し ま つ も と い ー な ー さ く ぜ ん こ ー う ー じ よ っ つ の た い ら は ひ よ く の ち う み こ そ な ー け れ も の さ わ に よ ー ろ ず た ー ら ー わ ぬ こ と ー ぞ な ー き } }</score> == 歴史 == {{Double image aside|right|Asai_Kiyoshi_1932.jpg|174|Kitamura,_Sueharu.jpg|180|作詞:浅井洌(左、1849年 - 1938年)<br />作曲:北村季晴(右、1872年 - 1930年)}} 「信濃の国」はもともと郷土教育を目的として作られた歌であり、その歴史は明治時代初期までさかのぼる。現在の長野県域にほぼ相当する[[信濃国]]内の各地域は、山地・気候・交通網によって随所で細分されており、[[江戸時代]]にも多くの[[藩]]や[[天領]]に分かれており、明治時代に至っても尚、旧藩や旧天領に住民の帰属意識が残存していたため<ref name=shinshugaku/>、県域全体の一体感は希薄であった。 [[1871年]](明治4年)の[[廃藩置県]]とその後の府県再編により、現在の長野県は[[長野市|長野]]に県庁を置く'''長野県'''と、[[松本市|松本]]に県庁を置く'''[[筑摩県]]'''(現在は[[岐阜県]]に属する[[飛騨国]]の領域も含んだ)に分かれていた。しかし、[[1876年]](明治9年)に松本の筑摩県庁舎が[[火災]]で焼失したことを機に、同年8月20日、筑摩県が廃止され同県が管轄していた信濃国の部分が長野県に編入された。その結果、信濃国全域が長野県の管轄下に入ったが、以来「南北戦争」「南北格差」とまで呼ばれる、長野市と松本市との激しい地域対立が続いており、県民意識の一体性を高めることが大きな課題となっている。 「信濃の国」は本来、同時期に作られて流行していた「[[鉄道唱歌]]」などと同様に、県内の地理教育の教材として作られたものである。当時、同様の地理唱歌は他の県や地域でも多く作られており、長野県だけに特異な事例ではない<ref>渡辺裕『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』中公新書、2010年{{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref>。しかし、上記のような事情を背景に、県内各地の事象をほぼ万遍なく歌いこみ、本来は都市名である「長野」ではなく県内の大方の地域が該当する「信濃」という旧国名で県域を包括したことで、本来の地理唱歌という枠を超えて、地域全体の共同体意識を喚起する歌として歌い継がれてきた。時代はまさに[[日清戦争]]・[[日露戦争]]の狭間の時期にあり、[[国家主義]]的[[愛郷心|地域ナショナリズム]]を鼓舞する目的も存在した<ref name=shinshugaku/><ref>角憲和『本当の信州 信濃の国のかたち』2003年{{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref>。 「信濃の国」の最初のバージョンは、[[1898年]](明治31年)10月に[[信濃教育会]]が組織した小学校唱歌教授細目取調委員会の委嘱により、長野県師範学校(現[[信州大学]]教育学部)教諭であった浅井が作詞し、同僚の依田弁之助が作曲して創作したものである。この曲は「信濃教育雑誌」([[1899年]](明治32年)6月発行)に掲載されたが、あまり歌われることはなかった。翌1900年(明治33年)、同師範学校女子部生徒が、依田の後任であった北村に同年10月の運動会の遊戯用の曲の作曲を依頼した。このとき新たに作曲されたバージョンが現在歌われているものである。師範学校から巣立った教員たちが長野県内各地の学校で教え伝えたことから、この曲は戦前から長野県内に普く定着した。 [[1947年]](昭和22年)には[[日本国憲法]]公布を記念して新しい「[[長野県民歌]]」(作詞・北村隆男、作曲・前田孝)が公募を経て制定され、県内各地で発表会を開催したり歌詞と楽譜を配布するなど普及が図られたが県民の間では戦前から歌われて来た「信濃の国」が余りにも浸透していたため、この「県民歌」は遂に受容されること無く忘れ去られて行った<ref>中山裕一郎 監修『[http://www.tokyodoshuppan.com/book/b105576.html 全国 都道府県の歌・市の歌]』([[東京堂出版]]、[[2012年]]) ISBN 978-4-490-20803-0 、p.227。</ref>。 「信濃の国」にまつわる逸話として以下のようなものがよく語られる。[[1948年]](昭和23年)春の第74回定例県議会で、長野県を南北に分割しようとする分県意見書案が[[中信地方|中信]]・[[南信地方]](合併前の筑摩県域)出身議員らから提出され、分割に反対する北信出身議員の病欠などもあって可決されそうになった。この際に、傍聴に詰めかけた、分割に反対する[[北信地方]]と[[東信地方]](合併前の長野県域)の住民達が突如として「信濃の国」の大合唱を行ない、分割を求める県会議員たちの意思を潰して分割を撤回させたと言われている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.nagano.jp/kids/menu1/kenka04.htm|title=県歌信濃の国4|author=長野県|accessdate=2006-09-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050913055655/http://www.pref.nagano.jp/kids/menu1/kenka04.htm|archivedate=2005年9月13日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref name="asahi-0522-kenka15">{{Cite web|和書|url=http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagano/kikaku/092/7.htm|title=県歌 信濃の国 第1部〈5〉県会大合唱伝説の真相(5月22日)|author=読売新聞|date=2007-05-22 |accessdate=2009年5月18日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131014173605/http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagano/kikaku/092/7.htm |archivedate=2013-10-14 |deadlinkdate=2019年4月}}</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20160909144123/http://www.pref.nagano.lg.jp/koho/kensei/gaiyo/shoukai/documents/2013-01-p01-03webkoho.pdf インターネット版広報ながのけん vol4、2013年1月、 特集 歌い継がれる県歌「信濃の国」]、2014年3月閲覧。</ref>。しかし、当時の県職員は、投票前に歌が歌われていた記憶が無く、また、仮に県議会で分割案が可決されたとしても政府や国会は分県を認めない方針であったとしている<ref name="asahi-0522-kenka15" />。[[長野県議会]]によれば、1948年3月19日の本会議採決において、分県反対派議員が[[牛歩戦術]]を行った上に、傍聴人が「信濃の国」を大合唱するなど議事が混乱したことで、この日の本会議が流会になったとされる。しかし、その後もなお分県賛成派は意見書の採決を諦めず、4月1日の本会議で改めて分割案の採決が行われたが、反対派であった県議会議長の欠席したため、賛成派の副議長が代理として議長席に座ることになった。賛成派の副議長が議長代理となったために賛成派による過半数による可決が不可能になったが、可否同数だと議長代理による裁決で可決できる可能性があったため、反対派議員の一部があえて白票を投じるという機転を効かせたことで最終的には「賛成:29票 反対:26票 白票:3票」となり、可決に必要な過半数の票を得られず、なおかつ可否同数も防げたため意見書は廃案となった<ref>[https://www.pref.nagano.lg.jp/gikai/chosa/gaiyo/enkaku/index.html 議会の沿革](長野県議会、2020年5月5日閲覧)</ref>。 === 音源 === {{Infobox Single | Name = 信濃の国{{font|(創唱盤)|size=small}} | Artist = [[内田栄一 (歌手)|内田栄一]] | Album = | A-side = 信濃の国 | B-side = 信州男児 | Released = [[1931年]]12月 | Format = [[SPレコード|30cmSP盤]] | Recorded = 1931年 | Genre = 地理唱歌 | Length = <!-- 分秒 --> | Label = [[日本コロムビア]](26591) | Writer = (A面)作詞:[[浅井洌]]、作曲:[[北村季晴]]<br />(B面)作詞:田中常憲、作曲:山下信太郎 | Producer = | Certification = | Chart position = | Last single = | This single = | Next single = | Misc = }} {{Infobox Single | Name = 信濃の国 {{font|長野県歌 =歌唱編=|size=small}} | Artist = [[立川清登|立川澄人]]/[[東京混声合唱団]]、<br />ビクター少年少女合唱団 | Album = 決定盤 信濃の民謡<ref>[https://www.jvcmusic.co.jp/-/Discography/A010090/VEATP-39658.html 決定盤 信濃の民謡] - JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント</ref> | A-side = 信濃の国【斉唱】<br/>(各盤共通) | B-side = 信濃の国【合唱】<br/>(17cmEP盤)<br/>信濃の国【[[カラオケ]]】<br/>(8cmCD/12cmCD) | Released = [[1969年]]<br/>(発売日不詳・17cmEP盤)<br/>[[1997年]][[5月21日]]<br/>(8cmCD)<br/>[[2014年]][[8月20日]]<br/>(12cmCD) | Format = [[レコード#EP盤|17cmEP盤]]<br/>[[コンパクトディスク|8cmCD]]<br/>[[コンパクトディスク|12cmCD]] | Recorded = 1969年 | Genre = [[都道府県民歌|県歌]] | Length = (A面)5分50秒 | Label = [[ニッパー (犬)#商標の現在|V<small>ICTOR</small>]]/<br/>[[日本ビクター]]<br/>(17cmEP盤)<br/>[[ニッパー (犬)#商標の現在|Victor]]/<br/>[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクターエンタテインメント]]<br/>(8cmCD/12cmCD) | Writer = 作詞:浅井洌、作曲:北村季晴、編曲:[[小山清茂]] | Producer = | Certification = | Chart position = | Last single = | This single = | Next single = | Misc = }} 以下は主な[[レコード会社]]から発売された音源である。ここで挙げた以外にも、[[高等学校]]の校歌や青年団歌などの非売品レコードにカップリングで歌唱されたものを含めて膨大な数の音源が存在するとみられる。 歌詞・旋律のいずれも[[著作権の保護期間]]を満了しているため、アレンジも盛んに行われている([[#普及度]]を参照)。 ==== コロムビア ==== 初めて市販されたのは[[1931年]](昭和6年)12月に[[日本コロムビア]]から発売された[[内田栄一 (歌手)|内田栄一]]の歌唱による[[SPレコード]]([[規格品番]]:26591)で、収録時間の都合により全6番中4番までに短縮されていた。B面収録曲は「信州男児」(作詞・田中常憲、作曲・山下信太郎)。 [[1949年]](昭和24年)には[[小山清茂]]の編曲で浅野千鶴子が[[ソプラノ]]、鷲崎良三が[[テナー]]、三枝喜美子が[[アルト]]、尾籠晴夫が[[バス (声域)|バス]]をそれぞれ担当する合唱で[[A面/B面]]にそれぞれ曲の前・後半を収録したSP盤(B313)が製造され<ref>[[国立国会図書館]]デジタルコレクション「信濃の国(上)」 {{NDLJP|2915474}}、「信濃の国(下)」 {{NDLJP|2915475}}</ref>、これが全6番を完全に収録した初の音源となった。後年には同内容で規格を変更した[[シングル#シングル・レコード|シングル盤]](SA-921)も製造されている。 制定告示翌年の[[1969年]](昭和44年)には[[ステレオ]]で新録を行った[[コンパクト盤]](ASS-447)が発売され、A面に[[山本直純]]の編曲で戸田政子がソプラノ、成田絵智子がアルト、鈴木寛一がテナー、平田栄寿が[[バリトン]]をそれぞれ担当する〈歌唱編〉、B面に〈行進曲編〉と〈軽音楽編〉のアレンジ2種が収録された。このコンパクト盤の〈歌唱編〉は「安曇節」のシングル(FK-115)B面にも再録されている。 ==== ビクター ==== ビクター<ref group="注釈">[[日本ビクター]](現:[[JVCケンウッド]])音楽レコード事業部 → ビクター音楽産業(分社) → ビクターエンタテインメント → [[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント]]。</ref>では[[藤井典明]]と女声合唱団が歌うSP盤(AE-98)を最初に製造していた。このSP盤も収録時間の都合により、全6番中1・4・6番を抜粋したものとなっている。 制定告示翌年の1969年(昭和44年)には[[立川清登]](澄人)と[[東京混声合唱団]]歌唱のバージョンが『信濃の国 長野県歌 =歌唱編=』と題したシングル盤(SGC-119)として発売され、[[1997年]]([[平成]]9年)[[5月21日]]に[[8センチCD]](VIDG-30001<ref>[https://www.jvcmusic.co.jp/-/Discography/-/VIDG-30001.html 信濃の国 -長野県歌-] - JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント</ref>)化された。[[2014年]](平成26年)[[8月20日]]には[[シングル|12センチCD]]としてシングル盤のジャケットを復元した新装盤の[[シングル|マキシシングル]](VICL-36950<ref>[https://www.jvcmusic.co.jp/-/Discography/A024832/VICL-36950.html 立川清登、東京混声合唱団、ビクター少年少女合唱団 信濃の国] - JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント</ref>)が発売されており<ref>[http://nakanohito.jvcmusic.co.jp/entry/2014/08/17/163551 日本一有名な県歌「信濃の国」](ビクター中の人ブログ)</ref>、[[2023年]](令和5年)時点でもこの立川版が[[音楽配信|ダウンロード配信]]を含めて入手が容易な音源となっている。 立川版はアルバム『決定盤 信濃の民謡』(VZCG-87)にも収録された。また、立川の『歌唱編』と同時に『信濃の国 器楽編』と題したシングル盤(SGC-120)も発売されA面に吹奏楽、B面に器楽合奏・管弦楽のインストゥルメンタルをそれぞれ収録していた。 ==== キングレコード ==== [[キングレコード]]では[[上條恒彦]]と[[花井真里子]](両名とも長野県出身)による[[デュエット]]を発売しており、[[2016年]](平成28年)発売の6枚組『山の歌ベスト』(NKCD-7790〜7795)ディスク5のトラック11に収録された。このレコードのB面には[[行進曲]]アレンジが収録されているが、CD化はされていない。 == 普及度 == 「信濃の国」はかつて、長野県内の多くの小学校・中学校・高校で、さまざまな行事の際に歌われてきたため、俗に「信州育ち(長野県で義務教育を受けた)なら『信濃の国』を歌える」「会議や宴会の締めでは、必ず『信濃の国』が合唱される」「県内在住者であっても『信濃の国』を歌えなければ他所者」とやや誇張気味に語られるほど、信州人(長野県民)に深く浸透していた。 日本の[[都道府県民歌|都道府県歌]]は、住民にとってあまりなじみがない場合が多く、存在すら認識されていない例もあるため、「信濃の国」は、「日本で最も有名な県歌」とも言える歌<ref>{{Cite web|和書|title=#ケンミンショー! [[羽賀朱音]](2023年6月8日) |url=https://ameblo.jp/mm-12ki/entry-12806831653.html |website=[[モーニング娘。|モーニング娘。'23]] 12期オフィシャルブログ by [[アメーバブログ|Ameba.]]([[サイバーエージェント]]) |access-date=2023-10-17}}</ref>である。現在でも、県外から(多くは[[日本国政府]]からの出向)県幹部職員を着任させる時、県会に同意了解を求めるが、他県出身の人事を快しとしない[[長野県議会]]議員からは、「信濃の国」を知っているかどうかを、質疑で詰問する風景が見られることもある。 「信濃の国」は、長野県師範学校附属小学校の後身である[[信州大学教育学部附属長野小学校]]<ref>[http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/fuzoku/nagano-sho/01gaiyou/index.html 信州大学教育学部附属長野小学校 本校の概要(校歌・校章)]</ref>のように[[校歌]]として採用されている例はあるものの、昭和末期からは、長野県内でも「信濃の国」を歌わない学校が現れており、「信濃の国」を歌えない県民も徐々に増えつつある。しかし、[[カラオケ]]のレパートリーや、携帯電話の[[着信メロディ]]に用いられるなど、地元・長野県民の支持は依然として根強い。 長野県の各地域では、公共放送でのジングルや[[特別急行列車]]等の車内アナウンスでの採用例([[1997年]](平成9年)に[[北陸新幹線]]が長野駅まで開業する以前の特急「[[あさま]]」号の[[長野駅]]到着時、特急「[[あずさ (列車)|あずさ]]」号の[[松本駅]]到着時)も多く、[[2020年]]([[令和]]2年)[[7月4日]]より[[しなの鉄道]]で営業運転を開始した新製車両・[[しなの鉄道SR1系電車|SR1系]]の乗降促進メロディーにも採用された。[[JR]]では、[[2002年]](平成14年)2月には[[東日本旅客鉄道長野支社|JR東日本長野支社]]から、列車が走る風景を背景にして「信濃の国」の歌詞を1番ずつあしらった6枚組[[オレンジカード]]が発行された。 [[2000年]](平成12年)と[[2012年]](平成24年)、[[2018年]](平成30年)には「信濃の国」の歌詞が入った切手が発売されている<ref>{{Cite web|和書|title=平成12年ふるさと切手「信濃の国」 |url=https://www.post.japanpost.jp/kitte_hagaki/stamp/furusato/2000/1215_sinano/index.html |website=www.post.japanpost.jp |access-date=2023-10-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=オリジナル フレーム切手「長野県歌 信濃の国」の販売開始について - 日本郵便 |url=https://www.post.japanpost.jp/notification/pressrelease/2012/06_shinetsu/1017_01.html |website=www.post.japanpost.jp |access-date=2023-10-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=切手・趣味の通信販売|スタマガネット 県歌 信濃の国 制定五十周年: フレーム切手 |url=https://www.yushu.co.jp/shop/g/g606101/ |website=www.yushu.co.jp |access-date=2023-10-02}}</ref>。 [[2014年]](平成26年)[[11月7日]]、[[東日本旅客鉄道長野支社|JR東日本長野支社]]は[[2015年]](平成27年)[[3月14日]]に[[北陸新幹線]]の[[金沢駅]]延伸に先駆け、同年1月から[[長野駅]]新幹線ホームの[[発車メロディ]]を「信濃の国」にすると発表し<ref>[https://web.archive.org/web/20141110204752/http://www.shinmai.co.jp/news/20141108/KT141107FTI090016000.php 新幹線発車メロディーは長野「信濃の国」、飯山「故郷」] (信濃毎日新聞:2014年11月8日)</ref>、同年[[1月31日]]の始発から変更された<ref>[https://web.archive.org/web/20150213161351/http://www.shinmai.co.jp/news/20150127/KT150126FTI090003000.php 長野駅の新幹線発車メロディー 31日から「信濃の国」] (信濃毎日新聞:2015年1月27日)</ref><ref>[http://www.jreast.co.jp/nagano/pdf/150126-3.pdf 長野駅新幹線ホーム発車メロディ、県歌「信濃の国」の使用開始日について]</ref>。 [[信越放送]]ラジオ(SBC)においても、開局時から放送開始・終了時にインストゥルメンタルでこの楽曲を放送している(現在は終夜放送<除・日曜深夜~月曜未明>となっており、毎日午前5時前の1日の基点に1番等のインストゥルメンタルが<ref group="注釈">2009年から2012年の一時期は4時前、中島みゆきのオールナイトニッポン月イチの放送日は3時前</ref>、及び、日曜付放送終了時に4番のインストゥルメンタルが放送されている。また、かつては信越放送テレビ(SBC)においても、放送開始・終了時にインストゥルメンタルでこの楽曲を放送していた)。[[2005年]](平成17年)には、[[パラパラ]]が踊れる[[ユーロビート]]バージョンも登場した。ユーロビートバージョンは、CMなどで流れていることもある。2013年7月からはこのユーロビートバージョンをバックに、長野県観光PRキャラクターの[[アルクマ]]が様々なイベントでダンスを披露している{{要出典|date=2019年4月|title=ブログはリンク切れの上に信頼のある出典になりません。}}。 また、この曲は全国の自治体歌のなかでも特に知名度が高く、県外からの[[観光]]や[[修学旅行]]などで[[バスガイド]]が歌うことも多い。 [[2005年]](平成17年)長野青年会議所の手により、[[上高井郡]][[小布施町]]在住の[[セーラ・マリ・カミングス]]の翻訳監修で、全て英語の歌詞の信濃の国({{lang-en|'''Our Shinano'''}})が制作された(外部リンク参照)。 [[2015年]](平成27年)6月に宇宙で6ヶ月程度滞在することが決まっている[[宇宙飛行士]]の[[油井亀美也]]([[南佐久郡]][[川上村 (長野県)|川上村]]出身)は、「機内放送されるかわからないが、『信濃の国』を[[国際宇宙ステーション|ISS]]で歌いたい」と話している<ref>[https://web.archive.org/web/20121020230401/http://www.shinmai.co.jp/news/20121019/KT121018FTI090025000.php 宇宙で「信濃の国」歌いたい] (信濃毎日新聞:2012年10月19日)</ref>。 また[[北陸新幹線]]の一部先行開通記念の長野駅でのセレモニー([[1997年]]10月)や、[[1998年長野オリンピック|長野オリンピック]]([[1998年]]2月)の開会式における国歌「[[君が代]]」斉唱の次に「信濃の国」を歌ったほか、[[1998年長野オリンピックの日本選手団|日本選手団]]の入場行進時などに代表されるように、長野県に関わる公的行事の伴奏音楽としても頻繁に採り上げられている。[[日本の高校野球|高校野球]]の全国大会で長野県代表の[[応援歌]]としても使用されており、出場校の出身者でなくても、殆どの長野県人が歌えるという普及度の高さが生かされている<ref>[https://web.archive.org/web/20131029194522/http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagano/kikaku/092/9.htm YOMIURI ONLINE 「県歌 信濃の国」第1部〈7〉]</ref>。 長野県を本拠地とするスポーツチームの応援歌として使用されることが増えている。[[1999年]]のNTT再編により[[クラブチーム_(社会人野球)|クラブチーム]]化したNTT信越硬式野球クラブ(当時、現・[[信越硬式野球クラブ]])が従来のNTT社歌・応援歌に変わり使い始めたのを皮切りに、[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)に加盟する[[松本山雅FC]]の試合では[[チャント]](サポーターソング)として歌われている。プロ野球独立リーグ・[[ベースボール・チャレンジ・リーグ]](ルートインBCリーグ)に所属する[[信濃グランセローズ]]の主催試合でも歌われる。[[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|Bリーグ]]に所属する[[信州ブレイブウォリアーズ]]の試合でも使用される。 「歴史」の項目で述べている分県問題にまつわる逸話を題材にして、作家[[内田康夫]]が『「信濃の国」殺人事件』を書いており、「[[信濃のコロンボ|信濃のコロンボ事件ファイル]]」の一編としてTVドラマも作られた。 2018年(平成30年)には県歌制定50周年となることを記念し、現代語訳版の7番を作成する計画があったが、計画は頓挫し<ref>{{Cite news|和書 |title=県歌「信濃の国」制定50周年 県、特設HP開設へ 一時検討の「7番」募集は取りやめ |newspaper=信濃毎日新聞 |date=2018-01-31 |edition=朝刊、9版 |page=37}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=若い世代も歌い継げるか 長野県歌「信濃の国」50年 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO31278480R00C18A6940M00/ |website=日本経済新聞 |date=2018-06-02 |access-date=2023-10-02 |language=ja}}</ref>、代わりに歌詞の1番と2番の手話表現がつくられた<ref>{{Cite news|和書 |title=「信濃の国」手話で「合唱」 制定50周年、長野で披露 |newspaper=信濃毎日新聞 |date=2018-07-30 |edition=朝刊、6版 |page=22}}</ref>。 == その他 == 県内では長野市に2基([[長野県庁舎]]前と[[東京大学地震研究所]]信越地震観測所前)、[[佐久市]]に1基([[佐久市立国保浅間総合病院]]前「吉沢先生歌碑」の裏面)、[[松本市]]に1基([[長野県松本平広域公園|信州スカイパーク]]の噴水池付近)の合計4基の[[石碑|歌碑]]が建立されている。また、県外では[[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]の[[大倉山 (神戸市)|大倉山公園]]内「ふるさとの森」に現地の長野県人会が建立した歌碑が設置されている<ref>[https://kobe-park.or.jp/wp/wp-content/uploads/2018/11/1cf01bdd3a03cc51eea9e66cde32a4c9.pdf 長野県の森](神戸市公園緑化協会)</ref>。 県歌「しなののくに」の名称の[[アクセント]]は「し'''なの''' - の - く'''に'''」(「信濃」が尾高型)となる<ref group="注釈">令制国の「信濃」は[[三省堂]]の『[[新明解日本語アクセント辞典]]』(第2版、2016年)では古いアクセントが尾高型、新しいアクセントが頭高型となっている </ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name=shinshugaku>[[市川健夫]]『信州学大全』信濃毎日新聞社、2005年{{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref> }} == 外部リンク == {{Wikisource}} * [https://www.pref.nagano.lg.jp/koho/kensei/gaiyo/shoukai/kenka.html 県歌「信濃の国」] - 長野県 * {{Wayback|url=https://shinanonokuni.com/|title=信濃の国県歌制定50周年特設Webサイト「未来へつなごう!信濃の国」|date=20210225012958}} * {{青空文庫|000380|50555|新字新仮名|県歌 信濃の国}} * {{青空文庫|000380|50549|旧字旧仮名|信濃国}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しなののくに}} [[Category:都道府県民歌]] [[Category:学校歌]]<!--信州大学附属長野小学校校歌--> [[Category:長野県の象徴]] [[Category:長野県の音楽]] [[Category:明治時代の自治体歌]] [[Category:1900年の楽曲]] [[Category:立川清登の楽曲]] [[Category:局名告知|曲しなののくに]] [[Category:信越放送|局しなののくに]] [[Category:楽曲 し|なののくに]] [[Category:長野駅]] [[Category:JR東日本の発車メロディ]]
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戦国時代
戦国時代(せんごくじだい)とは、地方政権が群雄割拠して互いに相争った戦乱の時代のことを指す。 転じて、同じコンセプトの商品が各社から一斉に売り出され凄まじい競争が起こっていたり、その世界においてさしたる牽引役がおらず主導権争いが絶えず続いている状況を指して戦国時代と呼ぶこともある。
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戦国時代(せんごくじだい)とは、地方政権が群雄割拠して互いに相争った戦乱の時代のことを指す。 転じて、同じコンセプトの商品が各社から一斉に売り出され凄まじい競争が起こっていたり、その世界においてさしたる牽引役がおらず主導権争いが絶えず続いている状況を指して戦国時代と呼ぶこともある。 戦国時代 (日本) - 日本における戦国時代、15世紀末期から16世紀末期にかけて戦乱が頻発した。 戦国時代 (中国) - 中国における戦国時代、紀元前403年から紀元前221年に中国統一されるまでの期間。 3世紀の危機 - ローマ帝国(現・ローマ)における戦国時代
'''戦国時代'''(せんごくじだい)とは、地方政権が群雄割拠して互いに相争った戦乱の時代のことを指す。 転じて、同じコンセプトの商品が各社から一斉に売り出され凄まじい競争が起こっていたり、その世界においてさしたる牽引役がおらず主導権争いが絶えず続いている状況を指して戦国時代と呼ぶこともある。 * [[戦国時代 (日本)]] - [[日本]]における戦国時代、[[15世紀]]末期から[[16世紀]]末期にかけて戦乱が頻発した。 * [[戦国時代 (中国)]] - [[中華人民共和国|中国]]における戦国時代、[[紀元前403年]]から[[紀元前221年]]に中国統一されるまでの期間。 * [[3世紀の危機]] - [[ローマ帝国]](現・[[ローマ]])における戦国時代 == その他の用例 == * [[戦国時代 (映画)]] - [[1937年]]に公開された[[松田定次]]監督・[[協同映画]]制作の[[映画]]。 * {{仮リンク|戦国 (映画)|zh|战国 (电影)}} - [[2011年]]に公開された中国映画。日本未公開。 == 関連項目 == * [[戦国策]] - [[前漢]]時代に編纂された中国における戦国時代の言行録。「戦国時代」の語源と言われている。 * [[戦国自衛隊]] - [[戦国時代 (日本)]]に[[自衛隊]]が[[タイムスリップ]]するという設定の[[日本]]の[[小説]]、および映画などの[[派生作品]]。 * [[南北朝時代]] - 国が南北の2大勢力に分かれて争う分裂抗争時代であり、[[南北朝時代 (中国)|中国]]と[[南北朝時代 (日本)|日本]]・[[南北朝時代 (ベトナム)|ベトナム]]などに存在する。 * [[三国時代]] - 国が3大勢力に分かれて争う分裂抗争時代であり、[[三国時代 (中国)|中国]]と[[三国時代 (朝鮮半島)|朝鮮]](前後2回)などに存在する。 {{aimai}} {{デフォルトソート:せんこくしたい}}
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東急目蒲線
目蒲線(めかません)は、かつて東京都品川区の目黒駅と大田区の蒲田駅との間を結んでいた東京急行電鉄(東急)の鉄道路線である。 東京急行電鉄の母体でもある目黒蒲田電鉄が最初に開業させた路線である。2000年8月6日に多摩川駅(同日、多摩川園駅から改称)を境に以下の路線に分割され、「目蒲線」という名称は消滅した。 路線の分割直前のもの。 東急目蒲線の最終運行日(2000年8月5日)時点のダイヤで解説する。 すべての列車が各駅停車で運転され、原則として目黒駅 - 蒲田駅間の通し運転だが、朝と夜を中心に奥沢駅発着(田園調布 - 多摩川間の改良工事開始前までは朝に田園調布駅発着)の区間列車も存在した。朝は3分30秒間隔、日中は7分30秒間隔、夜は5分間隔で運転されていた。 1923年3月11日に目黒蒲田電鉄(目蒲電鉄)が目黒駅 - 丸子(現・沼部)駅間を開業させ、次いで同年11月1日に蒲田駅まで全通させた。この路線が後の東急目蒲線である。この年は9月に関東大震災があった直後であり、沿線には被災者が一時の住まいを求めて集まり、そのまま住みつく人も多かったため、原町、月光町、大岡山、洗足の人口が一挙に増え、目蒲電鉄は経営成績を順調に伸ばした。 また、池上電気鉄道(現・池上線)も目黒 - 蒲田間の路線を計画し、同年5月には一部区間を開通させていたが、目蒲電鉄の全通によって計画の変更を余儀なくされた。 当時の営団地下鉄南北線・都営地下鉄三田線との相互直通運転が2000年9月26日に開始されるのに伴い、同年8月6日に運転系統が分離され、目蒲線は目黒線と東急多摩川線の2路線に分割された。 東急目蒲線の最終運行日(2000年8月5日)時点の停車駅とその接続路線を記述する。現在の各停車駅の接続路線については「東急目黒線」・「東急多摩川線」の項を参照。全駅東京都内に所在。 現在は多摩川駅で目黒線と東急多摩川線に系統分離されているが、かつても似たような運行形態をとっていた時期があった。1926年(大正15年)2月14日に東京横浜電鉄(後の東横線)の丸子多摩川駅(後の多摩川駅) - 神奈川駅(廃止)間が開業すると、 目黒駅- 神奈川駅間の直通運転が実施された。これに伴い、丸子多摩川駅 - 蒲田駅間は折り返し運転となった。1927年(昭和2年)8月28日に東京横浜電鉄が渋谷駅まで全通したことで、運行形態は元に戻った。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "目蒲線(めかません)は、かつて東京都品川区の目黒駅と大田区の蒲田駅との間を結んでいた東京急行電鉄(東急)の鉄道路線である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東京急行電鉄の母体でもある目黒蒲田電鉄が最初に開業させた路線である。2000年8月6日に多摩川駅(同日、多摩川園駅から改称)を境に以下の路線に分割され、「目蒲線」という名称は消滅した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "路線の分割直前のもの。", "title": "路線データ" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "東急目蒲線の最終運行日(2000年8月5日)時点のダイヤで解説する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "すべての列車が各駅停車で運転され、原則として目黒駅 - 蒲田駅間の通し運転だが、朝と夜を中心に奥沢駅発着(田園調布 - 多摩川間の改良工事開始前までは朝に田園調布駅発着)の区間列車も存在した。朝は3分30秒間隔、日中は7分30秒間隔、夜は5分間隔で運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1923年3月11日に目黒蒲田電鉄(目蒲電鉄)が目黒駅 - 丸子(現・沼部)駅間を開業させ、次いで同年11月1日に蒲田駅まで全通させた。この路線が後の東急目蒲線である。この年は9月に関東大震災があった直後であり、沿線には被災者が一時の住まいを求めて集まり、そのまま住みつく人も多かったため、原町、月光町、大岡山、洗足の人口が一挙に増え、目蒲電鉄は経営成績を順調に伸ばした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、池上電気鉄道(現・池上線)も目黒 - 蒲田間の路線を計画し、同年5月には一部区間を開通させていたが、目蒲電鉄の全通によって計画の変更を余儀なくされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "当時の営団地下鉄南北線・都営地下鉄三田線との相互直通運転が2000年9月26日に開始されるのに伴い、同年8月6日に運転系統が分離され、目蒲線は目黒線と東急多摩川線の2路線に分割された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "東急目蒲線の最終運行日(2000年8月5日)時点の停車駅とその接続路線を記述する。現在の各停車駅の接続路線については「東急目黒線」・「東急多摩川線」の項を参照。全駅東京都内に所在。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "現在は多摩川駅で目黒線と東急多摩川線に系統分離されているが、かつても似たような運行形態をとっていた時期があった。1926年(大正15年)2月14日に東京横浜電鉄(後の東横線)の丸子多摩川駅(後の多摩川駅) - 神奈川駅(廃止)間が開業すると、 目黒駅- 神奈川駅間の直通運転が実施された。これに伴い、丸子多摩川駅 - 蒲田駅間は折り返し運転となった。1927年(昭和2年)8月28日に東京横浜電鉄が渋谷駅まで全通したことで、運行形態は元に戻った。", "title": "その他" } ]
目蒲線(めかません)は、かつて東京都品川区の目黒駅と大田区の蒲田駅との間を結んでいた東京急行電鉄(東急)の鉄道路線である。 東京急行電鉄の母体でもある目黒蒲田電鉄が最初に開業させた路線である。2000年8月6日に多摩川駅(同日、多摩川園駅から改称)を境に以下の路線に分割され、「目蒲線」という名称は消滅した。
{{otheruses||2000年8月6日に目蒲線から分割された目黒線|東急目黒線|おなじく東急多摩川線|東急多摩川線}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:TokyuLogotype.svg|baseline|20px|東京急行電鉄|link=東京急行電鉄]] 目蒲線 |路線色=#009cd2 |画像=Tokyu 7200 in Mekama line01.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=末期の目蒲線で運用された[[東急7200系電車|7200系]]<br />(2000年8月3日 [[鵜の木駅]]) |国={{JPN}} |所在地=[[東京都]] |起点=[[目黒駅]] |終点=[[蒲田駅]] |駅数=15駅 |開業=[[1923年]][[3月11日]] |休止= |廃止=[[2000年]][[8月6日]](この日に目黒線と東急多摩川線に分割) |所有者=[[東京急行電鉄]] |運営者=東京急行電鉄 |車両基地= |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線距離=12.9 [[キロメートル|km]] |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[複線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]] |最大勾配= |最小曲線半径= |閉塞方式=自動閉塞式 |保安装置= |最高速度= |路線図= }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線<br />(2000年8月5日現在)|#009cd2}} {{BS-table}} {{BS5||||tKBHFa|vSTR-BHF|0.0|[[目黒駅]]||}} {{BS5||||tSTR|vSTR-STRl|||↑JR東:山手線→|}} {{BS5||||tSTRe|vSTRl-|||↑JR東:山手貨物線<!--当時、湘南新宿ラインは未設定・埼京線は恵比寿が起点-->→|}} {{BS5||||hKRZWa||||[[目黒川]]|}} {{BS5||||hBHF||1.0|[[不動前駅]]||}} {{BS5||||hSTRe||||}} {{BS5||||BHF||1.9|[[武蔵小山駅]]||}} {{BS5||||hBHF||2.6|[[西小山駅]]||}} {{BS5||||tSTRa||||}} {{BS5||||tBHF||3.3|[[洗足駅]]||}} {{BS5||||tSTRe||||}} {{BS5|||tSTR+l|KRZt|tSTReq|||↓[[東急大井町線|大井町線]]→|}} {{BS5|||tSTR|tSTRa||||}} {{BS5|||tXBHF-L|tXBHF-R||4.3|[[大岡山駅]]||}} {{BS5|||tSTRe|tSTRe|||||}} {{BS5|||KRWgl|KRWg+r||||←大井町線↑|}} {{BS5||dSTRq|O2=lHST|STRr|STR|d|||[[緑が丘駅 (東京都)|緑が丘駅]]|}} {{BS5|||KRW+l|KRWgr||||[[奥沢検車区|元住吉検車区奥沢車庫]]||}} {{BS5|||KDSTe|BHF||5.5|[[奥沢駅]]||}} {{BS5||dSTRq|O2=dPORTALl|tSTR+r|tSTRa|d|||←[[東急東横線|東横線]]↓|}} {{BS5|||tXBHF-L|tXBHF-R||6.5|[[田園調布駅]]||}} {{BS5|||tKRWgl+l|tKRWgr+r|||||}} {{BS5|||tSTR|etKRWgl|extKRW+r||||}} {{BS5|||tSTRe|tSTRe|extSTRe|||}} {{BS5|||hSTRa@g|tSTRa|exhSTRa@g|||}} {{BS5|||hBHF-L|tBHF-M|exhBHF-R|7.3|[[多摩川駅|多摩川園駅]]||}} {{BS5|||STRr|tSTR|exSTR|||←東横線↑}} {{BS5|||exSTRq|etKRZ|exSTRr|||←([[東急目黒線|目黒線]])|}} {{BS5||||tSTRe||||}} {{BS5||||BHF||8.2|[[沼部駅]]||}} {{BS5||||KRZu|||[[東海道新幹線]]|}} {{BS5||||KRZu|||[[横須賀線]]|}} {{BS5||||BHF||9.3|[[鵜の木駅]]||}} {{BS5||||BHF||9.9|[[下丸子駅]]||}} {{BS5||||BHF||10.7|[[武蔵新田駅]]||}} {{BS5||||BHF||11.6|[[矢口渡駅]]||}} {{BS5|||exKRW+l|eKRWgr|||||}} {{BS5|||exBHF|STR|||''[[道塚駅]]''||}} {{BS5|||exSTR|STR|STR+l|||[[東急池上線|池上線]]|}} {{BS5|||exSTR|hSTRa|hSTRa||||}} {{BS5|||exKBHFe|hKBHFe-L|hKBHFe-R|12.9|[[蒲田駅]]||}} {{BS5|||STRq|BHFq|STRq|||[[京浜東北線]]|}} |} |} '''目蒲線'''(めかません)は、かつて[[東京都]][[品川区]]の[[目黒駅]]と[[大田区]]の[[蒲田駅]]との間を結んでいた[[東急電鉄|東京急行電鉄]](東急<ref>東京急行電鉄は法人としては現在の[[東急]]にあたり、鉄道事業は[[東急電鉄]]が継承しているが、ここでの「東急」は東京急行電鉄の略称。</ref>)の[[鉄道路線]]である。 東京急行電鉄の母体でもある[[目黒蒲田電鉄]]が最初に開業させた路線である。[[2000年]][[8月6日]]に[[多摩川駅]](同日、多摩川園駅から改称)を境に以下の路線に分割<ref name="東横線">東横線と並走していた田園調布 - 多摩川園(現・多摩川)間は東横線へ複々線区間として編入された。</ref>され、「目蒲線」という名称は消滅した。 ; 系統名としての分割 :* 目黒駅 - 多摩川駅 - 武蔵小杉駅:[[東急目黒線|目黒線]](分割と同時に[[武蔵小杉駅]]まで延伸。2008年6月22日に[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]まで延伸) :* 多摩川駅 - 蒲田駅:[[東急多摩川線]] : ; 路線名としての分割 :* 目黒駅 - [[田園調布駅]]:目黒線 :* 田園調布駅 - 多摩川駅:[[東急東横線|東横線]][[複々線]]区間 :* 多摩川駅 - 蒲田駅:東急多摩川線 __TOC__ == 路線データ == 路線の分割直前のもの。 * 路線距離:12.9km * [[軌間]]:1067mm * 駅数:15駅(起終点含む) * 複線区間:全線 * 電化区間:全線(直流1500V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 == 運行形態 == 東急目蒲線の最終運行日(2000年8月5日)時点のダイヤで解説する。 すべての列車が各駅停車で運転され、原則として目黒駅 - 蒲田駅間の通し運転だが、朝と夜を中心に奥沢駅発着(田園調布 - 多摩川間の改良工事開始前までは朝に田園調布駅発着)の区間列車も存在した。朝は3分30秒間隔、日中は7分30秒間隔、夜は5分間隔で運転されていた。 == 歴史 == [[1923年]][[3月11日]]に[[目黒蒲田電鉄]](目蒲電鉄)が目黒駅 - 丸子(現・沼部)駅間を開業させ、次いで同年11月1日に蒲田駅まで全通させた。この路線が後の東急目蒲線である。この年は9月に[[関東大震災]]があった直後であり、沿線には被災者が一時の住まいを求めて集まり、そのまま住みつく人も多かったため、[[原町 (目黒区)|原町]]、月光町、[[大岡山]]、[[洗足]]の人口が一挙に増え、目蒲電鉄は経営成績を順調に伸ばした<ref>[http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/rekishi/megurorekishi/tetsudo1.html  歴史を訪ねて 目黒の鉄道 1] - 目黒区役所、2013年10月1日</ref>。 また、[[池上電気鉄道]](現・[[東急池上線|池上線]])も目黒 - 蒲田間の路線を計画し、同年5月には一部区間を開通させていたが、目蒲電鉄の全通によって計画の変更を余儀なくされた。 当時の[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]][[東京メトロ南北線|南北線]]・[[都営地下鉄]][[都営地下鉄三田線|三田線]]との[[直通運転|相互直通運転]]が[[2000年]][[9月26日]]に開始されるのに伴い、同年[[8月6日]]に運転系統が分離され、目蒲線は目黒線と東急多摩川線の2路線に分割された。 * [[1923年]](大正12年) ** 3月11日 目黒線として目黒駅 - 丸子駅(現、沼部駅)間 (8.3km) 開業。 ** 10月 目黒不動前駅を不動前駅に改称<ref name="chizucho">今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳』4号 関東2、新潮社、2008年、p.41</ref>。 ** [[11月1日]] 蒲田線として丸子駅 -蒲田駅間 (4.9km) 開業(全通)。全通後は目黒線と統合し、目蒲線に改称。 * [[1924年]](大正13年) ** [[2月29日]] 丸子駅 - 武蔵新田駅間に鵜ノ木駅(現、鵜の木駅)開業<ref name="chizucho" />。 ** [[5月2日]] 鵜ノ木駅 - 武蔵新田駅間に下丸子駅開業<ref name="chizucho" />。 ** [[6月1日]] 小山駅を武蔵小山駅に、丸子駅を武蔵丸子駅に改称。 * [[1925年]](大正14年)[[10月12日]] 矢口駅(後の矢口渡駅) - 蒲田間に本門寺道駅開業<ref name="chizucho" />。 * [[1926年]](大正15年)[[1月1日]] 調布駅を田園調布駅に、多摩川駅を丸子多摩川駅に、武蔵丸子駅を沼部駅に改称<ref name="chizucho" />。 * [[1928年]](昭和3年)[[8月1日]] 武蔵小山駅 - 洗足駅間に西小山駅開業<ref name="chizucho" />。 * [[1930年]](昭和5年)[[5月21日]] 矢口駅を矢口渡駅に改称<ref name="chizucho" />。 * [[1931年]](昭和6年)1月1日 丸子多摩川駅を多摩川園前駅に改称<ref name="chizucho" />。 * [[1936年]](昭和11年)1月1日 本門寺道駅を道塚駅に改称<ref name="chizucho" />。 * [[1945年]](昭和20年) ** 6月1日 矢口渡駅 - 道塚駅 - 蒲田駅間休止(1946年(昭和21年)廃止)。 ** [[8月14日]] 矢口渡駅 - 蒲田駅間の新線開業。 * [[1955年]](昭和30年)[[11月15日]] 架線電圧を600Vから1500Vに昇圧<ref name="tokyu1023">[[#50th|50年史]]、p.1023。</ref>。 * [[1963年]](昭和38年)[[4月1日]] 保安度向上のため、ATSの前身となる車内警報装置を導入<ref name="tokyu668">[[#50th|50年史]]、pp.668 - 669・1018 - 1020。</ref>。 * [[1965年]](昭和40年) 洗足駅を[[東京都道318号環状七号線|環七通り]]との立体交差のため地下化。 * [[1966年]](昭和41年)[[1月20日]] 鵜ノ木駅を鵜の木駅に改称<ref name="chizucho" />。 * [[1967年]](昭和42年)[[4月1日]] 朝夕ラッシュ時の目黒 - 田園調布間区間列車にかぎり、4両編成での運転を開始<ref name="PIC-ARCHIVE1985">{{Cite journal|和書|author=小林和明|title=東急’84-チャレンジ100キロ|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1985-01-10|volume=35|issue=第1号(通巻第442号)|page=194|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[1969年]](昭和44年)[[8月1日]] さらなる保安度向上のため、ATS(東急ATS)を導入<ref name="tokyu668"/>。 * [[1974年]](昭和49年)11月 朝夕ラッシュ時の区間列車の4両編成運転を廃止、全列車3両編成に戻る<ref name="PIC-ARCHIVE1985"/>。 * [[1977年]](昭和52年)12月16日 多摩川園前駅を多摩川園駅に改称<ref name="chizucho" />。 * [[1981年]](昭和56年)[[11月30日]] 田園調布駅 - 武蔵新田駅間の[[チッキ|荷物]]輸送を廃止<ref>{{Cite news |title=東急の貨物運輸営業一部廃止を軽微認定 運輸審議会 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1983-10-30 |page=1 }}</ref>。 * [[1989年]](平成元年) ** [[3月18日]] 最後まで目蒲線に残っていた[[吊り掛け駆動方式]]の初代3000系列3両編成が運転を終了<ref name="PIC-1989-6">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1989年6月号「東京急行電鉄目蒲・池上線車両の刷新と最近の車両情勢」pp.97 - 101。</ref>。 ** [[3月19日]] [[東急7000系電車 (初代)|初代7000系]]・[[東急7700系電車|7700系]]による4両編成運転が始まる<ref name="PIC-1989-6"/>。東急鉄道全線の車両(営業用車両)がオールステンレスカーとなる<ref name="PIC-1989-6"/>。最高速度が70km/hから85km/hに向上<ref>{{Cite news |title=営業用電車 東急がオールステンレス化 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1989-02-21 |page=1 }}</ref>。ホームが4両編成分に延伸できない鵜の木駅は、[[ドアカット|ドア非扱い]]を開始。 * [[1994年]](平成6年)11月27日 田園調布駅と多摩川園駅を地下化<ref>{{Cite journal|和書 |date =1996-03 |title =東急 田園調布駅の東横・目蒲4線地下線化が完成 |journal =[[鉄道ジャーナル]] |volume =30 |issue =3 |serial =353 |publisher =鉄道ジャーナル社 |page =90 }}</ref>。 * [[1997年]](平成9年) ** 6月27日 大岡山駅地下化工事完成。 ** 7月27日 目黒駅地下化。 * [[2000年]](平成12年) ** [[8月4日]] 系統分離に先立ち、同日をもって4両編成運転を終了。 ** [[8月6日]] 目黒線と東急多摩川線に分割<ref name="東横線" />され、目蒲線が消滅。多摩川園駅を多摩川駅に改称。 == 使用車両 == {{Vertical_images_list |幅= 250px |1=Tokyu 7700 in Mekama line.jpg |3=Tokyu 1312 at Den-en-chōfu Station 20000806.jpg |4=末期は4両編成であったが、分割直前には多摩川線用となった3両編成が目蒲線を走った。写真は上から7700系(2000年8月5日、奥沢駅)、1000系(同日深夜、田園調布駅)。 }} * [[目黒蒲田電鉄デハ1形電車|デハ1号形・デハ6号形→モハ1形]] * [[東急3000系電車 (初代)|3000系(初代)]] * [[東急5000系電車 (初代)|5000系(初代)]] * [[東急5200系電車|5200系]] * [[東急7000系電車 (初代)|7000系(初代)]] * [[東急7200系電車|7200系]] * [[東急7600系電車|7600系]] * [[東急7700系電車|7700系]] * [[東急1000系電車|1000系]] == 駅一覧 == 東急目蒲線の最終運行日(2000年8月5日)時点の停車駅とその接続路線を記述する。現在の各停車駅の接続路線については「[[東急目黒線]]」・「[[東急多摩川線]]」の項を参照。全駅[[東京都]]内に所在。 {| class="wikitable" rules="all" ! style="width:6em; border-bottom:3px solid #009cd2;"|駅名 ! style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #009cd2;"|駅間キロ ! style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #009cd2;"|累計キロ ! style="border-bottom:3px solid #009cd2;"|接続路線・備考 ! style="border-bottom:3px solid #009cd2;"|所在地 |- |[[目黒駅]] | style="text-align:center;"|- | style="text-align:right;"|0.0 |[[東日本旅客鉄道]]:{{Color|#80c241|■}}[[山手線]] | rowspan="4"|[[品川区]] |- |[[不動前駅]] | style="text-align:right;"|1.0 | style="text-align:right;"|1.0 |&nbsp; |- |[[武蔵小山駅]] | style="text-align:right;"|0.9 | style="text-align:right;"|1.9 |&nbsp; |- |[[西小山駅]] | style="text-align:right;"|0.7 | style="text-align:right;"|2.6 |&nbsp; |- |[[洗足駅]] | style="text-align:right;"|0.7 | style="text-align:right;"|3.3 |&nbsp; |[[目黒区]] |- |[[大岡山駅]] | style="text-align:right;"|1.0 | style="text-align:right;"|4.3 |[[東京急行電鉄]]:{{color|#f18c43|■}}[[東急大井町線|大井町線]] |[[大田区]] |- |[[奥沢駅]] | style="text-align:right;"|1.2 | style="text-align:right;"|5.5 |&nbsp; |style="white-space:nowrap;"|[[世田谷区]] |- |[[田園調布駅]] | style="text-align:right;"|1.0 | style="text-align:right;"|6.5 |東京急行電鉄:{{color|#da0442|■}}[[東急東横線|東横線]]([[自由が丘駅|自由が丘]]・[[渋谷駅|渋谷]]方面、[[菊名駅|菊名]]・[[横浜駅|横浜]]・[[桜木町駅|桜木町]]方面 急行・各停) | rowspan="8"|大田区 |- | [[多摩川駅|多摩川園駅]] | style="text-align:right;" | 0.8 | style="text-align:right;" | 7.3 | 東京急行電鉄:{{color|#da0442|■}}東横線(菊名・横浜・桜木町方面 各停) |- | [[沼部駅]] | style="text-align:right;" | 0.9 | style="text-align:right;" | 8.2 | &nbsp; |- | [[鵜の木駅]] | style="text-align:right;" | 1.1 | style="text-align:right;" | 9.3 | ※4両編成時、目黒寄りの1両は締切扱い。 |- | [[下丸子駅]] | style="text-align:right;" | 0.6 | style="text-align:right;" |9.9 | &nbsp; |- | [[武蔵新田駅]] | style="text-align:right;" | 0.8 | style="text-align:right;" | 10.7 | &nbsp; |- | [[矢口渡駅]] | style="text-align:right;" | 0.9 | style="text-align:right;" | 11.6 | &nbsp; |- | [[蒲田駅]] | style="text-align:right;" | 1.3 | style="text-align:right;" | 12.9 | 東京急行電鉄:{{color|#ee86a7|■}}[[東急池上線|池上線]]<br />東日本旅客鉄道:{{Color|#00B2E5|■}}[[京浜東北線]] |} === 廃駅 === ; 多摩川駅(初代)(多摩川駅 - 沼部駅間) : 1923年(大正12年)3月11日に開業し、1926年(大正15年)1月1日に現在の場所に移転したことにより廃止された。 ; [[道塚駅]](矢口渡駅 - 蒲田駅間) : 1925年(大正14年)10月12日に本門寺道駅として開業し、1936年(昭和11年)に道塚駅に改称され、1946年(昭和21年)5月31日に廃止された。 == 東急目蒲線を題材にした作品 == ; 目蒲線物語([[おおくぼ良太]]) : 「ぼくの名前は目蒲線〜」というフレーズで知られ、擬人化した目蒲線の視点から、[[1980年代]]の目蒲線のローカルっぷりをコミカルに唄う。東京近辺をモチーフにした「本編」と本当の親などの設定が北海道・九州に広がる「全国篇」、さらに「糸井重里篇」「大島渚篇」が存在する。 : 「本編」は[[1983年]]にシングル(発売:[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]]、規格品番:SV-7283)として発売。「全国篇」はシングル「週刊TVガイド物語」(発売:ビクター音楽産業、規格品番:SV-7308)B面に収録。 : [[文化放送]]のナイターシーズンオフ番組「[[竹内靖夫の電リク・ハローパーティー]]」で、シーズンごとに1回だけこの曲をかけることが恒例であった。<!--(2006年度は[[2006年]][[10月4日]]に放送)(2007年度は[[2007年]][[10月12日]]に放送)--> ; 目蒲線の女(歌:[[日吉ミミ]]) : 沿線のゲームメーカー[[ナムコ]](後の[[バンダイナムコエンターテインメント]])のゲーム作品「[[リブルラブル]]」に登場する楽曲をアレンジした、[[歌謡曲]]風の[[コミックソング]]。アルバム『[[ビデオ・ゲーム・グラフィティ]]』(発売:ビクター音楽産業)収録曲。歌詞には目蒲線の駅名が多数登場し、地下化される前の[[田園調布駅]]を目蒲線に乗って通過する女が目撃したホーム上の光景から、破局を迎える男女の別れが歌われている。 == その他 == 現在は多摩川駅で目黒線と東急多摩川線に系統分離されているが、かつても似たような運行形態をとっていた時期があった。1926年(大正15年)2月14日に[[東京横浜電鉄]](後の東横線)の丸子多摩川駅(後の多摩川駅) - 神奈川駅(廃止)間が開業すると、 目黒駅- 神奈川駅間の直通運転が実施された。これに伴い、丸子多摩川駅 - 蒲田駅間は折り返し運転となった。1927年(昭和2年)8月28日に東京横浜電鉄が渋谷駅まで全通したことで、運行形態は元に戻った<ref>『東急の駅 今昔・昭和の面影』82頁</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=東京急行電鉄50年史|publisher=東京急行電鉄|date=1973-04-18|ref=50th}} == 関連項目 == *[[蒲蒲線]] == 外部リンク == * [[ぶらり途中下車の旅]]内([[日本テレビ放送網|日テレ]]系)・[http://www.ntv.co.jp/burari/990529/0529housou.html 1999年5月29日放送分 リンク]{{リンク切れ|date=2023年3月}} {{東急電鉄の路線}} {{デフォルトソート:とうきゆうめかません}} [[Category:関東地方の鉄道路線|めかません]] [[Category:東急電鉄の鉄道路線|旧めかま]] [[Category:東京都の交通史]]
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初等関数
初等関数(しょとうかんすう、英: Elementary function)とは、以下の一変数関数、及びこれらの関数を有限回合成して得られる合成関数の総称である。 初等関数のうち、代数関数でないものを初等超越関数という。 指数関数によって定義される双曲線関数・逆双曲線関数は初等関数である。 初等関数の微分(導関数)は初等関数である。 ガンマ関数、楕円関数、ベッセル関数、誤差関数などは初等関数でない。 初等関数の不定積分や初等関数を用いた微分方程式の解などは一般に初等関数にはならない。例えば、次の二つの不定積分 は似た形であるにもかかわらず、f (x) は初等関数の範囲で解けて Arcsin x + C となるが、g (x) は初等関数の範囲では解けない。 g (x) は、特殊関数である楕円積分を用いて F(Arcsin x, −1) + C と表示される。 初等関数の逆関数は必ずしも初等関数になるとは限らない(例えばランベルトのW関数)。
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初等関数とは、以下の一変数関数、及びこれらの関数を有限回合成して得られる合成関数の総称である。 代数関数 指数関数・対数関数 三角関数・逆三角関数 初等関数のうち、代数関数でないものを初等超越関数という。 指数関数によって定義される双曲線関数・逆双曲線関数は初等関数である。 初等関数の微分(導関数)は初等関数である。
'''初等関数'''(しょとうかんすう、{{Lang-en-short|Elementary function}})とは、以下の一変数関数、及びこれらの関数を有限回合成して得られる[[写像の合成|合成関数]]の総称である<ref name="kato2">{{Harvnb|加藤ほか|2007}}</ref><ref name="takenouchi2">{{Harvnb|竹之内ほか|2005}}</ref>。 * [[代数関数]] * [[指数関数]]・[[対数関数]] * [[三角関数]]・[[逆三角関数]] 初等関数のうち、代数関数でないものを'''初等超越関数'''という<ref name="kato">{{Harvnb|加藤ほか|2007}}</ref><ref name="takenouchi">{{Harvnb|竹之内ほか|2005}}</ref>。 指数関数によって定義される[[双曲線関数]]・[[逆双曲線関数]]は初等関数である<ref name="kato" />。 初等関数の[[微分]]([[導関数]])は初等関数である。 == 初等関数ではない関数 == [[ガンマ関数]]、[[楕円関数]]、[[ベッセル関数]]、[[誤差関数]]などは初等関数でない<ref name="kato" /><ref name="takenouchi" />。 === 初等関数になるとは限らない関数 === 初等関数の[[原始関数|不定積分]]や初等関数を用いた[[微分方程式]]の解などは一般に初等関数にはならない<ref name="takenouchi" />。例えば、次の二つの不定積分 :<math>\begin{align} f(x) = \int \frac{dx}{\sqrt{1-x^2}},\\ g(x) = \int \frac{dx}{\sqrt{1-x^4}} \end{align}</math> は似た形であるにもかかわらず、{{math|''f'' (''x'')}} は初等関数の範囲で解けて Arcsin ''x'' + ''C'' となるが、{{math|''g'' (''x'')}} は初等関数の範囲では解けない。 {{math|''g'' (''x'')}} は、[[特殊関数]]である[[楕円積分]]を用いて F(Arcsin ''x'', −1) + ''C'' と表示される。 初等関数の逆関数は必ずしも初等関数になるとは限らない(例えば[[ランベルトのW関数]])。 ==初等関数の例== *[[定数関数]]、[[冪関数]]、[[多項式関数]]、[[有理関数]] *[[指数関数]]、[[対数関数]]、[[三角関数]]、[[逆三角関数]] *[[双曲線関数]]、[[逆双曲線関数]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author=加藤周一 ほか|authorlink=加藤周一 |title=世界大百科事典 |year=2007 |publisher=平凡社 |isbn=978-4-582-03400-4 |edition=改訂新版 |ref={{harvid|加藤ほか|2007}}}} * {{Cite book|和書 |author=竹之内脩 ほか|authorlink=竹之内脩 |title=スーパーニッポニカ プロフェッショナル |year=2005 |publisher=小学館 |isbn=978-4-09-906745-8 |edition=DVD-ROM版 |ref={{harvid|竹之内ほか|2005}}}} == 関連項目 == {{Div col}} *[[代数関数]] *[[超越関数]] *[[微分ガロア理論]] *[[リッシュのアルゴリズム]] {{Div col end}} == 外部リンク == *{{Kotobank|初等関数|2=[[竹之内脩]]}} *{{MathWorld|urlname=ElementaryFunction|title=Elementary function}} {{Mathanalysis-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しよとうかんすう}} [[Category:初等関数|*]] [[Category:解析学]] [[Category:関数]] [[Category:関数の種類]] [[Category:数学に関する記事]]
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品川シーサイド駅
品川シーサイド駅(しながわシーサイドえき)は、東京都品川区東品川四丁目にある、東京臨海高速鉄道(TWR)りんかい線の駅である。副駅名はビッグローブ本社前。駅番号はR 06。 島式ホーム1面2線の地下駅である。2007年8月1日より、ホーム上に掲出されている駅名標の下に「楽天タワー前」と表記され、線路側(壁面)の駅名標の脇にも楽天のロゴマークが掲示されるようになった。その後、楽天本社の二子玉川移転にともない、2015年8月1日より、ホーム上に掲出されている駅名標の下の表記は「ビッグローブ本社前」に変更された。 2010年8月には、通勤時間帯におけるエスカレーター乗り場付近の混雑緩和を目的として、エスカレータの高速化工事が行われた。 2021年度の1日平均乗車人員は13,298人であり、りんかい線内8駅中第6位。 品川シーサイドフォレストおよび周辺の開発により利用者は順調に伸び、2006年に楽天の本社が品川シーサイドノースタワーに移転してきた翌年の2007年には天王洲アイル駅を上回った。一方、改札口付近の混雑が激しくなり、利用者から改善を求める声を受け、2007年9月に改札機が増設された。2015年に楽天が二子玉川へ移転し、一時的に減少したが、別会社が入居した2016年の乗降人員は楽天退去前の2014年を上回った。 開業以後の1日平均乗車人員は下表のとおり。
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品川シーサイド駅(しながわシーサイドえき)は、東京都品川区東品川四丁目にある、東京臨海高速鉄道(TWR)りんかい線の駅である。副駅名はビッグローブ本社前。駅番号はR 06。
{{駅情報 |社色 = #00418e |文字色 = |駅名 = 品川シーサイド駅 |画像 =Rinkai-line-R06-Shinagawa-seaside-station-entrance-B-20220101-124815.jpg |pxl = 300px |画像説明 = B出入口([[2022年]]1月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail-metro}} |よみがな = しながわシーサイド |ローマ字 = Shinagawa Seaside |副駅名 = ビッグローブ本社前 |前の駅 = R 05 [[天王洲アイル駅|天王洲アイル]] |駅間A = 1.1 |駅間B = 1.6 |次の駅 = [[大井町駅#東京臨海高速鉄道|大井町]] R 07 |電報略号 = シサ |駅番号 = {{駅番号r|R|06|#00418e|6|#ADD8E6}} |所属事業者 = [[東京臨海高速鉄道]] |所属路線 = {{Color|#00418e|●}}[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]] |キロ程 = 8.9 |起点駅 = [[新木場駅|新木場]] |所在地 = [[東京都]][[品川区]][[東品川]]四丁目12-22 | 緯度度 = 35 | 緯度分 = 36 | 緯度秒 = 35 | N(北緯)及びS(南緯) = N | 経度度 = 139 |経度分 = 44 | 経度秒 = 59 | E(東経)及びW(西経) = E | 地図国コード = JP | 座標右上表示 = Yes |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[2002年]]([[平成]]14年)[[12月1日]]<ref name="twr20020712" /><ref name="JRC605">{{Cite journal|和書 |title = 鉄道記録帳2002年12月 |date = 2003-03-01 |journal = RAIL FAN |issue = 2 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |page = 25 }}</ref> |廃止年月日 = |乗車人員 = 13,298 |乗降人員 = |統計年度 = 2021年<!--リンク不要--> |乗換 = |備考 = }} [[File:Shinagawa-Seaside-STA_Home.jpg|thumb|200px|ホーム(2022年2月)]] [[ファイル:Shinagawa seaside overview 2009.JPG|thumb|200px|品川シーサイド]] '''品川シーサイド駅'''(しながわシーサイドえき)は、[[東京都]][[品川区]][[東品川]]四丁目にある、[[東京臨海高速鉄道]](TWR)[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]の[[鉄道駅|駅]]である。副駅名は'''ビッグローブ本社前'''。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''R 06'''。 == 歴史 == * [[2002年]]([[平成]]14年)[[12月1日]]:[[東京臨海高速鉄道]][[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]の[[天王洲アイル駅]] - [[大崎駅]]間の開通と同時に開業<ref name="twr20020712">{{Cite press release|和書|url=http://www.twr.co.jp/zensen2002_set.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20021209101402/http://www.twr.co.jp/zensen2002_set.html|language=日本語|title=「りんかい線」今年12月1日に大崎駅まで全線開業!|publisher=東京臨海高速鉄道|date=2002-07-12|accessdate=2022-03-27|archivedate=2002-12-09}}</ref><ref name="JRC605"/>。 * [[2022年]]([[令和]]4年) ** [[2月12日]]:1番線の[[ホームドア]]の使用を開始<ref name="press20220208">{{Cite press release|和書|url=https://www.twr.co.jp/Portals/0/resources/info/2021/shinagawaseaside_homedoor_20220208-1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220208124729/https://www.twr.co.jp/Portals/0/resources/info/2021/shinagawaseaside_homedoor_20220208-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=りんかい線品川シーサイド駅 ホームドア運用開始について|publisher=東京臨海高速鉄道|date=2022-02-08|accessdate=2022-02-09|archivedate=2022-02-08}}</ref>。 ** [[3月13日]]:2番線のホームドアの使用を開始<ref name="press20220208" />。 == 駅構造 == [[島式ホーム]]1面2線の[[地下駅]]である。[[2007年]][[8月1日]]より、ホーム上に掲出されている[[駅名標]]の下に「[[楽天グループ|楽天]]タワー前」と表記され、線路側(壁面)の駅名標の脇にも楽天の[[ロゴタイプ|ロゴマーク]]が掲示されるようになった。その後、[[楽天グループ|楽天]]本社の二子玉川移転にともない、[[2015年]][[8月1日]]より、ホーム上に掲出されている[[駅名標]]の下の表記は「[[ビッグローブ]]本社前」に変更された。 === のりば === <!--番線欄のカラーは発車標などでの上り下りの色分け--> {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!colspan="2"|行先<ref>{{Cite web |url=https://www.twr.co.jp/route/tabid/117/Default.aspx?TabModule1405=0 |title=品川シーサイド駅 時刻表 |publisher=東京臨海高速鉄道 |accessdate=2023-06-06}}</ref> |- ! 1 |rowspan="2"|[[File:Rinkai Line symbol.svg|15px|R]] りんかい線 | style="text-align:center" | 下り | style="background:#00b48d" | | [[大崎駅|大崎]]・[[File:JR JA line_symbol.svg|15px|JA]] [[埼京線]]([[渋谷駅|渋谷]]・[[新宿駅|新宿]]・[[池袋駅|池袋]])方面 |- ! 2 | style="text-align:center" | 上り | style="background:#0072ff" | | [[新木場駅|新木場]]方面 |} 2010年8月には、通勤時間帯における[[エスカレーター]]乗り場付近の混雑緩和を目的として、エスカレータの高速化工事が行われた。 == 利用状況 == 2021年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''13,298人'''であり<ref group="利用客数">[https://www.twr.co.jp/contact/tabid/224/Default.aspx よくあるご質問|お問い合わせ|お台場電車 りんかい線] (ページ上段)</ref>、りんかい線内8駅中第6位。<!---東京都統計年鑑---> [[品川シーサイドフォレスト]]および周辺の開発により利用者は順調に伸び、2006年に[[楽天グループ|楽天]]の本社が品川シーサイドノースタワーに移転してきた翌年の2007年には[[天王洲アイル駅]]を上回った。一方、改札口付近の混雑が激しくなり、利用者から改善を求める声を受け、2007年9月に改札機が増設された。2015年に楽天が二子玉川へ移転し、一時的に減少したが、別会社が入居した2016年の乗降人員は楽天退去前の2014年を上回った。<!---東京臨海高速鉄道株式会社安全報告書2007---> 開業以後の1日平均'''乗車'''人員は下表のとおり。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365(or366)で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/kuseizyoho/kuseizyoho-siryo/kuseizyoho-siryo-toukei/hpg000030691.html 品川区の統計] - 品川区</ref> !年度 !1日平均<br>乗降人員<!--品川区の統計より記載--> !1日平均<br>乗車人員 !出典 |- |2002年(平成14年) |11,450 |5,874 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |16,664 |8,358 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |19,203 |9,670 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |22,203 |11,180 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |28,979 |14,649 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |34,617 |17,478 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |38,520 |19,393 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |40,468 |20,339 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |42,984 |21,576 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |41,789 |20,971 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |41,408 |20,749 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |41,660 |20,881 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |43,239 |21,681 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |39,058 |19,754 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |43,676 |22,045 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |46,245 |23,332 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |46,963 |23,686 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) | |24,414 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) | |14,497 | |- |2021年(令和{{0}}3年) | |13,298 | |} == 駅周辺 == {{Seealso|東品川|南品川|東大井}} * [[品川シーサイドフォレスト]] ** [[イオン品川シーサイドショッピングセンター]] ** 品川シーサイドパークタワー (旧・[[パナソニック]]タワー) ** 品川シーサイドノースタワー(旧・[[楽天グループ|楽天]]タワー) ** [[日立ソリューションズ]]タワー(A/B) ** 品川シーサイドイーストタワー ** 品川シーサイドウエストタワー ** 品川シーサイドサウスタワー ** プライムパークス品川シーサイド * ハートンホテル東品川 * Brilliaタワー品川シーサイド * グラスキューブ品川 * [[ブロードリーフ|株式会社ブロードリーフ本社]] * 株式会社タジマ(ブロードリーフグループ)本社 * [[住友不動産]]品川シーサイドビル  ** [[みずほ情報総研]] * [[鮫洲運転免許試験場]] * [[コナミスポーツクラブ]]本社・品川本店 * 住友不動産品川ビル ‐ [[帝産観光バス]]本社 * [[東京都立八潮高等学校]] * [[東京都立産業技術高等専門学校]] * [[産業技術大学院大学]] * 東京都立城南[[職業能力開発校|職業能力開発センター]] * 品川[[清掃工場]] * 南品川二[[郵便局]] * [[京急本線]] [[青物横丁駅]] == バス路線 == [[東京都交通局]]([[都営バス]])と[[京浜急行バス]]が駅前交通広場に乗り入れている。停留所名は都営バスが'''品川シーサイド駅前'''、京浜急行バスが'''品川シーサイド駅'''。 * 1番乗り場 ** [[都営バス品川営業所#品91・深夜07系統|品91系統・深夜07系統]]:[[品川駅|品川駅港南口]]行(都営バス) * 2番乗り場 ** 品91系統・深夜07系統:八潮パークタウン(循環)・八潮公園前行(都営バス) ** 高速バス:[[東京国際空港|羽田空港]]行(京浜急行バス) == 隣の駅 == ; 東京臨海高速鉄道 : [[File:Rinkai Line symbol.svg|15px|R]] りんかい線 :: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速・{{Color|#0099ff|■}}快速・{{Color|#00ac9a|■}}各駅停車<!-- カラーはE233系のフルカラー方向幕の色に準拠 ---> ::: [[天王洲アイル駅]] (R 05) - '''品川シーサイド駅 (R 06)''' - [[大井町駅]] (R 07) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === <!--==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注"}} --> ==== 出典 ==== {{Reflist}} === 利用状況 === ; 私鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; 私鉄の統計データ {{Reflist|group="統計"}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 関連項目 == {{Commonscat|Shinagawa Seaside Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[品川シーサイドフォレスト]] == 外部リンク == * [https://www.twr.co.jp/route/tabid/116/Default.aspx 東京臨海高速鉄道 品川シーサイド駅] * [http://www.ovalgarden.com/ オーバルガーデン] {{りんかい線}} {{DEFAULTSORT:しなかわしいさいと}} [[Category:品川区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 し|なかわしいさいと]] [[Category:東京臨海高速鉄道|しなかわしいさいとえき]] [[Category:2002年開業の鉄道駅]]
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BH85
『BH85』は森青花の書いたバイオハザード小説。あるいは、その作中に登場する育毛剤。 この小説は1999年の第11回日本ファンタジーノベル大賞の優秀賞を受賞した。 見る見るうちに髪が生えてくる画期的な育毛剤 BH85 の思わぬ性質と、それに重なった偶然の事故が原因となって人類や地球生命が滅亡していく様子を描く。 独特のタッチと吾妻ひでおのイラストにより悲壮感や緊張感は殆ど無く、キャッチコピーによれば「なごみ系バイオハザード」である。 単行本 徳間デュアル文庫
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『BH85』は森青花の書いたバイオハザード小説。あるいは、その作中に登場する育毛剤。 この小説は1999年の第11回日本ファンタジーノベル大賞の優秀賞を受賞した。
『'''BH85'''』は[[森青花]]の書いた[[バイオハザード]]小説。あるいは、その作中に登場する[[育毛剤]]。 この小説は[[1999年]]の第11回[[日本ファンタジーノベル大賞]]の優秀賞を受賞した。 == ストーリー == 見る見るうちに髪が生えてくる画期的な[[育毛剤]] BH85 の思わぬ性質と、それに重なった偶然の事故が原因となって人類や地球生命が滅亡していく様子を描く。 独特のタッチと[[吾妻ひでお]]のイラストにより悲壮感や緊張感は殆ど無く、キャッチコピーによれば「なごみ系バイオハザード」である。 == 書誌情報 == 単行本 *BH85 1999/12刊行 ISBN 978-4-1043-3901-3 新潮社 徳間デュアル文庫 *BH85 青い惑星(ほし)、緑の生命(いのち) 2008/8/6刊行 ISBN 978-4-1990-5184-5 徳間書店 [[Category:日本の小説|ひいえいちはちしゆうこ]]
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ガンマ関数
ガンマ関数(ガンマかんすう、英: gamma function)とは、数学において階乗の概念を複素数全体に拡張した(複素階乗ともいう)特殊関数である。一般的に、ガンマ関数は複素数 z {\displaystyle z} に対して、関数 Γ ( z ) {\displaystyle \Gamma (z)} で表す。 また、自然数 n {\displaystyle n} に対しては、ガンマ関数と n {\displaystyle n} の階乗との間では次の関係式が成り立つ: 互いに同値となるいくつかの定義が存在するが、1729年、数学者レオンハルト・オイラーが無限乗積の形で、最初に導入した。 実部が正となる複素数 z {\displaystyle z} に対して、次の広域積分で定義される複素関数: をガンマ関数と呼ぶ。この積分表示は、アドリアン=マリ・ルジャンドルの定義にしたがって、第二種オイラー積分とも呼ばれる。元は階乗の一般化としてオイラーが得たもので、 Γ {\displaystyle \Gamma } という記号は、1814年にルジャンドルが導入したものである。それ以前にガウスは Π {\displaystyle \Pi } などと表記していた(ただし、 Π ( z ) = Γ ( z + 1 ) {\displaystyle \Pi (z)=\Gamma (z+1)} である)。 一般の複素数 z {\displaystyle z} に対しては、解析接続もしくは次の極限で定義される。 0 {\displaystyle 0} または負の整数でない、かつ実部が正の任意の複素数 z {\displaystyle z} に対して、 となることから、 Γ ( z + 1 ) = z Γ ( z ) {\displaystyle \Gamma (z+1)=z\Gamma (z)} が成り立つ。またさらに、 である。これらの性質から、任意の正の整数 n {\displaystyle n} に対して、 より Γ ( n + 1 ) = n ! {\displaystyle \Gamma (n+1)=n!} が成り立つ。その意味でガンマ関数は階乗の定義域を複素平面に拡張したものとなっている。 歴史的には、ガンマ関数は「階乗の複素数への拡張となるもの」(複素階乗)の実例として、オイラーにより考案された。階乗の複素数への拡張となる関数は無数に存在するが、正の実軸上で対数凸である解析関数という条件を付ければ、それは一意に定まりガンマ関数に他ならない(ボーア・モレルップの定理)。 右半平面においてオイラー積分で定義されたガンマ関数は全平面に有理型に解析接続する。 ガンマ関数は零点を持たず、原点と負の整数に一位の極を持つ。その留数は、 である。 また、 1 / 2 {\displaystyle 1/2} に対するガンマ関数の値は、ガウス積分の結果に一致する。 これより、自然数 n {\displaystyle n} に対して、 が成立することがわかる。ここで ! ! {\displaystyle !!} は二重階乗を表す。この性質を利用して高次元の球の体積と表面積を求めることができる。また、 定義の積分表示と極限表示が一致することを示す。 G n ( z ) = ∫ 0 n t z − 1 ( 1 − t n ) n d t {\displaystyle G_{n}(z)=\int _{0}^{n}{t^{z-1}\left(1-{\frac {t}{n}}\right)^{n}}{\rm {d}}t} とすれば であるから直感的には である。(厳密にははさみうちの原理によって証明される)t = nu の置換により G n ( z ) = n z ∫ 0 1 u z − 1 ( 1 − u ) n d u {\displaystyle G_{n}(z)=n^{z}\int _{0}^{1}{u^{z-1}(1-u)^{n}}{\rm {d}}u} となる.n を除く部分を gn(z) として g 0 ( z ) = ∫ 0 1 u z − 1 d u = [ u z z ] u = 0 1 = 1 z {\displaystyle g_{0}(z)=\int _{0}^{1}{u^{z-1}}{\rm {d}}u=\left[{\frac {u^{z}}{z}}\right]_{u=0}^{1}={\frac {1}{z}}} g n ( z ) = ∫ 0 1 ( u z z ) ′ ( 1 − u ) n d u = n z ∫ u = 0 1 u z ( 1 − u ) n − 1 d u = n z g n − 1 ( z + 1 ) {\displaystyle g_{n}(z)=\int _{0}^{1}{\left({\frac {u^{z}}{z}}\right)'(1-u)^{n}}{\rm {d}}u={\frac {n}{z}}\int _{u=0}^{1}{u^{z}(1-u)^{n-1}}{\rm {d}}u={\frac {n}{z}}g_{n-1}(z+1)} これにより G n ( z ) = n z n ! ∏ k = 0 n ( z + k ) {\displaystyle G_{n}(z)={\frac {n^{z}n!}{\prod _{k=0}^{n}{(z+k)}}}} を得る。故に ∫ 0 ∞ t z − 1 e − t r m d t = lim n → ∞ G n ( z ) = lim n → ∞ n z n ! ∏ k = 0 n ( z + k ) {\displaystyle \int _{0}^{\infty }t^{z-1}e^{-t}{\ rmd}t=\lim _{n\to \infty }G_{n}(z)=\lim _{n\to \infty }{\frac {n^{z}n!}{\prod _{k=0}^{n}{(z+k)}}}} である。 オイラーの乗積表示からオイラーの定数 を括り出すとワイエルシュトラスの乗積表示が得られる。ワイエルシュトラスはガンマ関数が負の整数に極を持つことを嫌って逆数を用いた。ガンマ関数の逆数は複素平面全体で正則である。 1 Γ ( z ) = lim n → ∞ ∏ k = 0 n ( z + k ) n z n ! = lim n → ∞ z n − z ( ∏ k = 1 n e z / k ) ( ∏ m = 1 n z + m m e − z / m ) = z e γ z ∏ m = 1 ∞ ( 1 + z m ) e − z / m {\displaystyle {\frac {1}{\Gamma (z)}}=\lim _{n\to \infty }{\frac {\prod _{k=0}^{n}{(z+k)}}{n^{z}n!}}=\lim _{n\to \infty }zn^{-z}\left(\prod _{k=1}^{n}{e^{z/k}}\right)\left(\prod _{m=1}^{n}{\frac {z+m}{m}}e^{-z/m}\right)=ze^{{\gamma }z}\prod _{m=1}^{\infty }\left(1+{\frac {z}{m}}\right)e^{-z/m}} ガンマ関数は次の周回積分で表される。積分経路は正の無限大から実軸の上側に沿って原点に至り、原点を正の向きに回り、実軸の下側に沿って無限大に戻るものとする。但し、その偏角は − π ≤ arg ( − t ) ≤ π , 0 ≤ arg ( s ) ≤ 2 π {\displaystyle -\pi \leq \arg(-t)\leq \pi ,0\leq \arg(s)\leq 2\pi } とする。 Γ ( z ) = i 2 sin π z ∫ C ( − t ) z − 1 e − t d t ( z ∈ C ∖ Z ) Γ ( z ) = 1 e 2 π i z − 1 ∫ C s z − 1 e − s d s ( z ∈ C ∖ Z ) 1 Γ ( z ) = i 2 π ∫ C ( − t ) − z e − t d t ( z ∈ C ) {\displaystyle {\begin{aligned}&\Gamma (z)={\frac {i}{2\sin {\pi }z}}\int _{C}(-t)^{z-1}e^{-t}{\rm {d}}t\qquad (z\in \mathbb {C} \setminus \mathbb {Z} )\\&\Gamma (z)={\frac {1}{e^{2{\pi }iz}-1}}\int _{C}s^{z-1}e^{-s}{\rm {d}}s\qquad (z\in \mathbb {C} \setminus \mathbb {Z} )\\&{\frac {1}{\Gamma (z)}}={\frac {i}{2\pi }}\int _{C}(-t)^{-z}e^{-t}{\rm {d}}t\qquad (z\in \mathbb {C} )\\\end{aligned}}} これをハンケルの積分表示と呼ぶ。このハンケルの積分表示は、積分経路を適当に変形し、数値積分でガンマ関数の値を求めるために使われることがある。 極座標表示 ( − t ) = r e i θ {\displaystyle (-t)=re^{i\theta }} を用いると、実軸の上側に沿う部分は θ = − π {\displaystyle \theta =-\pi } で r = ∞ {\displaystyle r=\infty } から r = δ {\displaystyle r=\delta } まで、原点を回る部分は r = δ {\displaystyle r=\delta } で θ = − π {\displaystyle \theta =-\pi } から θ = π {\displaystyle \theta =\pi } まで、実軸の下側に沿う部分は θ = π {\displaystyle \theta =\pi } で r = δ {\displaystyle r=\delta } から r = ∞ {\displaystyle r=\infty } までとなる。 ∫ C ( − t ) z − 1 e − t d t = ∫ ∞ δ ( r e − π i ) z − 1 e − r d r + ∫ − π π ( δ e i θ ) z − 1 e δ e i θ ( − i δ e i θ ) d θ + ∫ δ ∞ ( r e π i ) z − 1 e − r d r = ∫ ∞ δ r z − 1 e − π i ( z − 1 ) e − r d r − ∫ − π π i δ z e i θ z e δ e i θ d θ + ∫ δ ∞ r z − 1 e π i ( z − 1 ) e − r d r = ( − e − π i ( z − 1 ) + e π i ( z − 1 ) ) ∫ δ ∞ r z − 1 e − r d r − ∫ − π π i δ z e i θ z e δ e i θ d θ = − 2 i sin π z ∫ δ ∞ r z − 1 e − r d r − ∫ − π π i δ z e i θ z e δ e i θ d θ {\displaystyle {\begin{aligned}\int _{C}(-t)^{z-1}e^{-t}{\rm {d}}t&=\int _{\infty }^{\delta }(re^{-{\pi }i})^{z-1}e^{-r}{\rm {d}}r+\int _{-\pi }^{\pi }({\delta }e^{i\theta })^{z-1}e^{{\delta }e^{i\theta }}(-i{\delta }e^{i\theta }){\rm {d}}\theta +\int _{\delta }^{\infty }(re^{{\pi }i})^{z-1}e^{-r}{\rm {d}}r\\&=\int _{\infty }^{\delta }r^{z-1}e^{-{\pi }i(z-1)}e^{-r}{\rm {d}}r-\int _{-\pi }^{\pi }i\delta ^{z}e^{i{\theta }z}e^{{\delta }e^{i\theta }}{\rm {d}}\theta +\int _{\delta }^{\infty }r^{z-1}e^{{\pi }i(z-1)}e^{-r}{\rm {d}}r\\&=\left(-e^{-{\pi }i(z-1)}+e^{{\pi }i(z-1)}\right)\int _{\delta }^{\infty }r^{z-1}e^{-r}{\rm {d}}r-\int _{-\pi }^{\pi }i\delta ^{z}e^{i{\theta }z}e^{{\delta }e^{i\theta }}{\rm {d}}\theta \\&=-2i\sin {\pi }z\int _{\delta }^{\infty }r^{z-1}e^{-r}{\rm {d}}r-\int _{-\pi }^{\pi }i\delta ^{z}e^{i{\theta }z}e^{{\delta }e^{i\theta }}{\rm {d}}\theta \\\end{aligned}}} R z > 0 {\displaystyle \Re {z}>0} とすると δ → 0 {\displaystyle \delta \to 0} で δ z → 0 {\displaystyle \delta ^{z}\to 0} であるから ∫ C ( − t ) z − 1 e − t d t = − 2 i sin π z ∫ 0 ∞ r z − 1 e − r d r = − 2 i sin π z Γ ( z ) ( R z > 0 ) {\displaystyle {\begin{aligned}\int _{C}(-t)^{z-1}e^{-t}{\rm {d}}t&=-2i\sin {\pi }z\int _{0}^{\infty }r^{z-1}e^{-r}{\rm {d}}r\\&=-2i\sin {\pi }z\Gamma (z)\qquad (\Re {z}>0)\\\end{aligned}}} である。しかし、左辺の被積分関数は z {\displaystyle z} が有界であるかぎり正則であるから、左辺は複素平面全体に解析接続する。従って、 Γ ( z ) = i 2 sin π z ∫ C ( − t ) z − 1 e − t d t ( z ∈ C ∖ Z ) {\displaystyle \Gamma (z)={\frac {i}{2\sin {\pi }z}}\int _{C}(-t)^{z-1}e^{-t}{\rm {d}}t\qquad (z\in \mathbb {C} \setminus \mathbb {Z} )} である。 s = r e i θ {\displaystyle s=re^{i\theta }} とすれば、同様にして Γ ( z ) = 1 e 2 π i z − 1 ∫ C s z − 1 e − t d s ( z ∈ C ∖ Z ) {\displaystyle \Gamma (z)={\frac {1}{e^{2{\pi }iz}-1}}\int _{C}s^{z-1}e^{-t}{\rm {d}}s\qquad (z\in \mathbb {C} \setminus \mathbb {Z} )} を得る。また、相反公式により、 1 Γ ( z ) = sin π z π Γ ( 1 − z ) = i 2 π ∫ C ( − t ) − z e − t d t ( z ∈ C ) {\displaystyle {\frac {1}{\Gamma (z)}}={\frac {\sin {\pi }z}{\pi }}\Gamma (1-z)={\frac {i}{2\pi }}\int _{C}(-t)^{-z}e^{-t}{\rm {d}}t\qquad (z\in \mathbb {C} )} を得る。 z → ∞ {\displaystyle z\to \infty } での漸近展開として、ガンマ関数はスターリングの公式で近似される。この漸近近似は複素平面全体(負の実数を除く)で成立するが、 | arg z | = π {\displaystyle |{\arg z}|={\pi }} に近づくにつれ近似の誤差が大きくなる(極限の収束が遅くなる)ため、応用上は相反公式などを用いて | arg z | ≤ π / 2 {\displaystyle |{\arg z}|\leq {\pi }/2} 程度に制限することもある。 Γ ( z + 1 ) ≈ 2 π z ( z e ) z ( | arg z | < π , | z | ≫ 0 ) {\displaystyle \Gamma (z+1)\approx {\sqrt {2{\pi }z}}\left({\frac {z}{e}}\right)^{z}\qquad (|{\arg z}|<{\pi },|z|\gg 0)} lim z → ∞ Γ ( z + 1 ) 2 π z ( z e ) z = 1 ( | arg z | < π ) {\displaystyle \lim _{z\to \infty }{\frac {\Gamma (z+1)}{{\sqrt {2{\pi }z}}\left({\frac {z}{e}}\right)^{z}}}=1\qquad (|{\arg z}|<{\pi })} 次の恒等式を相反公式(reflection formula)という。 Γ ( z ) Γ ( 1 − z ) = − z Γ ( z ) Γ ( − z ) = π sin π z , z ∉ Z {\displaystyle \Gamma (z)\Gamma (1-z)=-z\Gamma (z)\Gamma (-z)={\frac {\pi }{\sin {{\pi }z}}},\qquad z\not \in \mathbb {Z} } 相補公式とも呼ばれる。 この恒等式はオイラーの乗積表示から得られる。 − z Γ ( z ) Γ ( − z ) = − z ( lim n → ∞ n z n ! ∏ k = 0 n ( z + k ) ) ( lim n → ∞ n − z n ! ∏ k = 0 n ( − z + k ) ) = 1 z ∏ k = 1 ∞ k 2 k 2 − z 2 = π π z ∏ k = 1 ∞ k 2 − z 2 k 2 {\displaystyle {\begin{aligned}-z\Gamma (z)\Gamma (-z)&=-z\left(\lim _{n\to \infty }{\frac {n^{z}n!}{\prod _{k=0}^{n}{(z+k)}}}\right)\left(\lim _{n\to \infty }{\frac {n^{-z}n!}{\prod _{k=0}^{n}{(-z+k)}}}\right)\\&={\frac {1}{z}}\prod _{k=1}^{\infty }{\frac {k^{2}}{k^{2}-z^{2}}}\\&={\frac {\pi }{{\pi }z\displaystyle \prod _{k=1}^{\infty }\displaystyle {\frac {k^{2}-z^{2}}{k^{2}}}}}\\\end{aligned}}} この分母は正弦関数の無限乗積展開であるから、 Γ ( z ) Γ ( 1 − z ) = − z Γ ( z ) Γ ( − z ) = π sin π z {\displaystyle \Gamma (z)\Gamma (1-z)=-z\Gamma (z)\Gamma (-z)={\frac {\pi }{\sin {{\pi }z}}}} である。相反公式に z = 1 2 {\displaystyle z={\frac {1}{2}}} を代入すれば Γ ( 1 2 ) Γ ( 1 − 1 2 ) = π sin π 2 = π {\displaystyle \Gamma \left({\frac {1}{2}}\right)\Gamma \left(1-{\frac {1}{2}}\right)={\frac {\pi }{\sin {\frac {\pi }{2}}}}=\pi } となり Γ ( 1 2 ) = π {\displaystyle \Gamma \left({\frac {1}{2}}\right)={\sqrt {\pi }}} を得る。 次の恒等式をルジャンドルの倍数公式と呼ぶ。これはガウスの乗法公式の特別な場合である。 Γ ( z ) Γ ( z + 1 2 ) = 2 1 − 2 z π Γ ( 2 z ) {\displaystyle \Gamma (z)\Gamma \left(z+{\tfrac {1}{2}}\right)=2^{1-2z}\;{\sqrt {\pi }}\;\Gamma (2z)} ベータ関数は以下のように表される。 ここで z 1 = z 2 = z {\displaystyle z_{1}=z_{2}=z} とおくと、 t = 1 + x 2 {\displaystyle t={\frac {1+x}{2}}} とおくと ( 1 − x 2 ) z − 1 {\displaystyle (1-x^{2})^{z-1}} は偶関数なので ここで とすると よって よって よって以下の式が成り立つ。 次の恒等式をガウスの乗法公式(multiplication formula)という。 Γ ( n z ) = n n z − 1 / 2 ( 2 π ) ( n − 1 ) / 2 ∏ k = 0 n − 1 Γ ( z + k n ) {\displaystyle \Gamma (nz)={\frac {n^{nz-1/2}}{(2\pi )^{(n-1)/2}}}\prod _{k=0}^{n-1}{\Gamma {\left(z+{\frac {k}{n}}\right)}}} 両辺の比を f ( z ) {\displaystyle f(z)} とすると f ( z ) = n n z − 1 / 2 ∏ k = 0 n − 1 Γ ( z + k n ) ( 2 π ) ( n − 1 ) / 2 Γ ( n z ) {\displaystyle {\begin{aligned}f(z)=&{\frac {n^{nz-1/2}\prod _{k=0}^{n-1}{\Gamma {\left(z+{\frac {k}{n}}\right)}}}{(2\pi )^{(n-1)/2}\Gamma (nz)}}\\\end{aligned}}} f ( z + 1 ) = n n z − 1 / 2 n n [ ∏ k = 0 n − 1 ( z + k n ) Γ ( z + k n ) ] ( 2 π ) ( n − 1 ) / 2 [ ∏ k = 0 n − 1 ( n z + k ) ] Γ ( n z ) = n n z − 1 / 2 [ ∏ k = 0 n − 1 ( n z + k ) ] ∏ k = 0 n − 1 Γ ( z + k n ) ( 2 π ) ( n − 1 ) / 2 [ ∏ k = 0 n − 1 ( n z + k ) ] Γ ( n z ) = f ( z ) {\displaystyle {\begin{aligned}f(z+1)&={\frac {n^{nz-1/2}n^{n}\left[\prod _{k=0}^{n-1}\left(z+{\frac {k}{n}}\right)\Gamma {\left(z+{\frac {k}{n}}\right)}\right]}{(2\pi )^{(n-1)/2}\left[\prod _{k=0}^{n-1}(nz+k)\right]\Gamma (nz)}}\\&={\frac {n^{nz-1/2}\left[\prod _{k=0}^{n-1}\left(nz+k\right)\right]\prod _{k=0}^{n-1}\Gamma {\left(z+{\frac {k}{n}}\right)}}{(2\pi )^{(n-1)/2}\left[\prod _{k=0}^{n-1}(nz+k)\right]\Gamma (nz)}}\\&=f(z)\\\end{aligned}}} 故に、任意に大きな自然数 m {\displaystyle m} について f ( z + m ) = f ( z ) {\displaystyle f(z+m)=f(z)} が成立する。スターリングの公式により lim R z → + ∞ f ( z ) = lim R z → + ∞ n n z − 1 / 2 [ ∏ k = 0 n − 1 2 π z + k / n ( z + k / n e ) z + k / n ] ( 2 π ) ( n − 1 ) / 2 2 π n z ( n z e ) n z = lim R z → + ∞ z 1 / 2 [ ∏ k = 0 n − 1 z k / n − 1 / 2 ( 1 + k / n z ) z + k / n − 1 / 2 e − k / n ] = lim R z → + ∞ z 1 / 2 [ ∏ k = 0 n − 1 z k / n − 1 / 2 e k / n e − k / n ] = 1 {\displaystyle {\begin{aligned}\lim _{\Re {z}\to +\infty }f(z)&=\lim _{\Re {z}\to +\infty }{\frac {n^{nz-1/2}\left[\prod _{k=0}^{n-1}{{\sqrt {\frac {2{\pi }}{z+k/n}}}\left({\frac {z+k/n}{e}}\right)^{z+k/n}}\right]}{(2\pi )^{(n-1)/2}{\sqrt {\frac {2{\pi }}{nz}}}\left({\frac {nz}{e}}\right)^{nz}}}\\&=\lim _{\Re {z}\to +\infty }z^{1/2}\left[\prod _{k=0}^{n-1}z^{k/n-1/2}(1+k/nz)^{z+k/n-1/2}e^{-k/n}\right]\\&=\lim _{\Re {z}\to +\infty }z^{1/2}\left[\prod _{k=0}^{n-1}z^{k/n-1/2}e^{k/n}e^{-k/n}\right]\\&=1\end{aligned}}} 途中で lim R z → + ∞ ( 1 + k / n z ) z + k / n − 1 / 2 = lim R z → + ∞ ( 1 + k / n z ) z = e n / k {\displaystyle \lim _{\Re {z}\to +\infty }(1+k/nz)^{z+k/n-1/2}=\lim _{\Re {z}\to +\infty }(1+k/nz)^{z}=e^{n/k}} を適用した。 f ( z ) = lim n → ∞ f ( z + n ) = 1 {\displaystyle f(z)=\lim _{n\to \infty }f(z+n)=1} であり、故に Γ ( n z ) = n n z − 1 / 2 ( 2 π ) ( n − 1 ) / 2 ∏ k = 0 n − 1 Γ ( z + k n ) {\displaystyle \Gamma (nz)={\frac {n^{nz-1/2}}{(2\pi )^{(n-1)/2}}}\prod _{k=0}^{n-1}{\Gamma {\left(z+{\frac {k}{n}}\right)}}} が成立する。 ( x , y , y 1 , ... , y n ) {\displaystyle (x,\ y,\ y_{1},\ \ldots ,\ y_{n})} を変数とする多項式 F ( x , y , y 1 , ... , y n ) {\displaystyle F(x,\ y,\ y_{1},\ \ldots ,\ y_{n})} に対し、 F ( x , y , y 1 , ⋯ , y n ) = 0 , y i = d i y d x i ( i = 1 , ⋯ , n ) {\displaystyle F(x,y,y_{1},\cdots ,y_{n})=0,\quad y_{i}={\frac {d^{i}y}{dx^{i}}}\quad (i=1,\cdots ,n)} の形で表される微分方程式を代数的微分方程式という。ガンマ関数はいかなる代数的微分方程式も満たさないことが知られている。ヘルダーが1887年に最初に証明を与えた後 、E. H. ムーア、A. オストロフスキ(英語版)、E. バーンズ(英語版)、ハウスドルフにより、別証明や一般化がなされた。 Γ ( − 3 2 ) = 4 π 3 ≈ 2.363 {\displaystyle \Gamma \left(-{\frac {3}{2}}\right)\,={\frac {4{\sqrt {\pi }}}{3}}\approx 2.363\,} Γ ( − 1 2 ) = − 2 π ≈ − 3.545 {\displaystyle \Gamma \left(-{\frac {1}{2}}\right)\,=-2{\sqrt {\pi }}\approx -3.545\,} Γ ( 1 2 ) = π ≈ 1.772 {\displaystyle \Gamma \left({\frac {1}{2}}\right)\,={\sqrt {\pi }}\approx 1.772\,} Γ ( 1 ) = 0 ! = 1 {\displaystyle \Gamma (1)\,=0!=1\,} Γ ( 3 2 ) = π 2 ≈ 0.886 {\displaystyle \Gamma \left({\frac {3}{2}}\right)\,={\frac {\sqrt {\pi }}{2}}\approx 0.886\,} Γ ( 2 ) = 1 ! = 1 {\displaystyle \Gamma (2)\,=1!=1\,} Γ ( 5 2 ) = 3 π 4 ≈ 1.329 {\displaystyle \Gamma \left({\frac {5}{2}}\right)\,={\frac {3{\sqrt {\pi }}}{4}}\approx 1.329\,} Γ ( 3 ) = 2 ! = 2 {\displaystyle \Gamma (3)\,=2!=2\,} Γ ( 7 2 ) = 15 π 8 ≈ 3.323 {\displaystyle \Gamma \left({\frac {7}{2}}\right)\,={\frac {15{\sqrt {\pi }}}{8}}\approx 3.323\,} Γ ( 4 ) = 3 ! = 6 {\displaystyle \Gamma (4)\,=3!=6\,} ガンマ関数の対数微分 をディガンマ関数(Digamma function)と呼ぶ。同様の対数微分を繰り返した関数 を、ポリガンマ関数(Polygamma function)と呼ぶ。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ガンマ関数(ガンマかんすう、英: gamma function)とは、数学において階乗の概念を複素数全体に拡張した(複素階乗ともいう)特殊関数である。一般的に、ガンマ関数は複素数 z {\\displaystyle z} に対して、関数 Γ ( z ) {\\displaystyle \\Gamma (z)} で表す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "また、自然数 n {\\displaystyle n} に対しては、ガンマ関数と n {\\displaystyle n} の階乗との間では次の関係式が成り立つ:", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "互いに同値となるいくつかの定義が存在するが、1729年、数学者レオンハルト・オイラーが無限乗積の形で、最初に導入した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "実部が正となる複素数 z {\\displaystyle z} に対して、次の広域積分で定義される複素関数:", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "をガンマ関数と呼ぶ。この積分表示は、アドリアン=マリ・ルジャンドルの定義にしたがって、第二種オイラー積分とも呼ばれる。元は階乗の一般化としてオイラーが得たもので、 Γ {\\displaystyle \\Gamma } という記号は、1814年にルジャンドルが導入したものである。それ以前にガウスは Π {\\displaystyle \\Pi } などと表記していた(ただし、 Π ( z ) = Γ ( z + 1 ) {\\displaystyle \\Pi (z)=\\Gamma (z+1)} である)。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一般の複素数 z {\\displaystyle z} に対しては、解析接続もしくは次の極限で定義される。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "0 {\\displaystyle 0} または負の整数でない、かつ実部が正の任意の複素数 z {\\displaystyle z} に対して、", "title": "基本的性質" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "となることから、 Γ ( z + 1 ) = z Γ ( z ) {\\displaystyle \\Gamma (z+1)=z\\Gamma (z)} が成り立つ。またさらに、", "title": "基本的性質" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "である。これらの性質から、任意の正の整数 n {\\displaystyle n} に対して、", "title": "基本的性質" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "より Γ ( n + 1 ) = n ! {\\displaystyle \\Gamma (n+1)=n!} が成り立つ。その意味でガンマ関数は階乗の定義域を複素平面に拡張したものとなっている。", "title": "基本的性質" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "歴史的には、ガンマ関数は「階乗の複素数への拡張となるもの」(複素階乗)の実例として、オイラーにより考案された。階乗の複素数への拡張となる関数は無数に存在するが、正の実軸上で対数凸である解析関数という条件を付ければ、それは一意に定まりガンマ関数に他ならない(ボーア・モレルップの定理)。", "title": "基本的性質" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "右半平面においてオイラー積分で定義されたガンマ関数は全平面に有理型に解析接続する。", "title": "基本的性質" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ガンマ関数は零点を持たず、原点と負の整数に一位の極を持つ。その留数は、", "title": "基本的性質" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "である。", "title": "基本的性質" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "また、 1 / 2 {\\displaystyle 1/2} に対するガンマ関数の値は、ガウス積分の結果に一致する。", "title": "基本的性質" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "これより、自然数 n {\\displaystyle n} に対して、", "title": "基本的性質" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "が成立することがわかる。ここで ! ! {\\displaystyle !!} は二重階乗を表す。この性質を利用して高次元の球の体積と表面積を求めることができる。また、", "title": "基本的性質" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "定義の積分表示と極限表示が一致することを示す。", "title": "定義の整合性" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "G n ( z ) = ∫ 0 n t z − 1 ( 1 − t n ) n d t {\\displaystyle G_{n}(z)=\\int _{0}^{n}{t^{z-1}\\left(1-{\\frac {t}{n}}\\right)^{n}}{\\rm {d}}t}", "title": "定義の整合性" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "とすれば", "title": "定義の整合性" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "であるから直感的には", "title": "定義の整合性" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "である。(厳密にははさみうちの原理によって証明される)t = nu の置換により", "title": "定義の整合性" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "G n ( z ) = n z ∫ 0 1 u z − 1 ( 1 − u ) n d u {\\displaystyle G_{n}(z)=n^{z}\\int _{0}^{1}{u^{z-1}(1-u)^{n}}{\\rm {d}}u}", "title": "定義の整合性" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "となる.n を除く部分を gn(z) として", "title": "定義の整合性" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "g 0 ( z ) = ∫ 0 1 u z − 1 d u = [ u z z ] u = 0 1 = 1 z {\\displaystyle g_{0}(z)=\\int _{0}^{1}{u^{z-1}}{\\rm {d}}u=\\left[{\\frac {u^{z}}{z}}\\right]_{u=0}^{1}={\\frac {1}{z}}} g n ( z ) = ∫ 0 1 ( u z z ) ′ ( 1 − u ) n d u = n z ∫ u = 0 1 u z ( 1 − u ) n − 1 d u = n z g n − 1 ( z + 1 ) {\\displaystyle g_{n}(z)=\\int _{0}^{1}{\\left({\\frac {u^{z}}{z}}\\right)'(1-u)^{n}}{\\rm {d}}u={\\frac {n}{z}}\\int _{u=0}^{1}{u^{z}(1-u)^{n-1}}{\\rm {d}}u={\\frac {n}{z}}g_{n-1}(z+1)}", "title": "定義の整合性" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "これにより", "title": "定義の整合性" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "G n ( z ) = n z n ! ∏ k = 0 n ( z + k ) {\\displaystyle G_{n}(z)={\\frac {n^{z}n!}{\\prod _{k=0}^{n}{(z+k)}}}}", "title": "定義の整合性" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "を得る。故に", "title": "定義の整合性" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "∫ 0 ∞ t z − 1 e − t r m d t = lim n → ∞ G n ( z ) = lim n → ∞ n z n ! ∏ k = 0 n ( z + k ) {\\displaystyle \\int _{0}^{\\infty }t^{z-1}e^{-t}{\\ rmd}t=\\lim _{n\\to \\infty }G_{n}(z)=\\lim _{n\\to \\infty }{\\frac {n^{z}n!}{\\prod _{k=0}^{n}{(z+k)}}}}", "title": "定義の整合性" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "である。", "title": "定義の整合性" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "オイラーの乗積表示からオイラーの定数", "title": "ワイエルシュトラスの乗積表示" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "を括り出すとワイエルシュトラスの乗積表示が得られる。ワイエルシュトラスはガンマ関数が負の整数に極を持つことを嫌って逆数を用いた。ガンマ関数の逆数は複素平面全体で正則である。", "title": "ワイエルシュトラスの乗積表示" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1 Γ ( z ) = lim n → ∞ ∏ k = 0 n ( z + k ) n z n ! = lim n → ∞ z n − z ( ∏ k = 1 n e z / k ) ( ∏ m = 1 n z + m m e − z / m ) = z e γ z ∏ m = 1 ∞ ( 1 + z m ) e − z / m {\\displaystyle {\\frac {1}{\\Gamma (z)}}=\\lim _{n\\to \\infty }{\\frac {\\prod _{k=0}^{n}{(z+k)}}{n^{z}n!}}=\\lim _{n\\to \\infty }zn^{-z}\\left(\\prod _{k=1}^{n}{e^{z/k}}\\right)\\left(\\prod _{m=1}^{n}{\\frac {z+m}{m}}e^{-z/m}\\right)=ze^{{\\gamma }z}\\prod _{m=1}^{\\infty }\\left(1+{\\frac {z}{m}}\\right)e^{-z/m}}", "title": "ワイエルシュトラスの乗積表示" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ガンマ関数は次の周回積分で表される。積分経路は正の無限大から実軸の上側に沿って原点に至り、原点を正の向きに回り、実軸の下側に沿って無限大に戻るものとする。但し、その偏角は − π ≤ arg ( − t ) ≤ π , 0 ≤ arg ( s ) ≤ 2 π {\\displaystyle -\\pi \\leq \\arg(-t)\\leq \\pi ,0\\leq \\arg(s)\\leq 2\\pi } とする。", "title": "ハンケルの積分表示" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "Γ ( z ) = i 2 sin π z ∫ C ( − t ) z − 1 e − t d t ( z ∈ C ∖ Z ) Γ ( z ) = 1 e 2 π i z − 1 ∫ C s z − 1 e − s d s ( z ∈ C ∖ Z ) 1 Γ ( z ) = i 2 π ∫ C ( − t ) − z e − t d t ( z ∈ C ) {\\displaystyle {\\begin{aligned}&\\Gamma (z)={\\frac {i}{2\\sin {\\pi }z}}\\int _{C}(-t)^{z-1}e^{-t}{\\rm {d}}t\\qquad (z\\in \\mathbb {C} \\setminus \\mathbb {Z} )\\\\&\\Gamma (z)={\\frac {1}{e^{2{\\pi }iz}-1}}\\int _{C}s^{z-1}e^{-s}{\\rm {d}}s\\qquad (z\\in \\mathbb {C} \\setminus \\mathbb {Z} )\\\\&{\\frac {1}{\\Gamma (z)}}={\\frac {i}{2\\pi }}\\int _{C}(-t)^{-z}e^{-t}{\\rm {d}}t\\qquad (z\\in \\mathbb {C} )\\\\\\end{aligned}}}", "title": "ハンケルの積分表示" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "これをハンケルの積分表示と呼ぶ。このハンケルの積分表示は、積分経路を適当に変形し、数値積分でガンマ関数の値を求めるために使われることがある。", "title": "ハンケルの積分表示" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "極座標表示 ( − t ) = r e i θ {\\displaystyle (-t)=re^{i\\theta }} を用いると、実軸の上側に沿う部分は θ = − π {\\displaystyle \\theta =-\\pi } で r = ∞ {\\displaystyle r=\\infty } から r = δ {\\displaystyle r=\\delta } まで、原点を回る部分は r = δ {\\displaystyle r=\\delta } で θ = − π {\\displaystyle \\theta =-\\pi } から θ = π {\\displaystyle \\theta =\\pi } まで、実軸の下側に沿う部分は θ = π {\\displaystyle \\theta =\\pi } で r = δ {\\displaystyle r=\\delta } から r = ∞ {\\displaystyle r=\\infty } までとなる。", "title": "ハンケルの積分表示" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "∫ C ( − t ) z − 1 e − t d t = ∫ ∞ δ ( r e − π i ) z − 1 e − r d r + ∫ − π π ( δ e i θ ) z − 1 e δ e i θ ( − i δ e i θ ) d θ + ∫ δ ∞ ( r e π i ) z − 1 e − r d r = ∫ ∞ δ r z − 1 e − π i ( z − 1 ) e − r d r − ∫ − π π i δ z e i θ z e δ e i θ d θ + ∫ δ ∞ r z − 1 e π i ( z − 1 ) e − r d r = ( − e − π i ( z − 1 ) + e π i ( z − 1 ) ) ∫ δ ∞ r z − 1 e − r d r − ∫ − π π i δ z e i θ z e δ e i θ d θ = − 2 i sin π z ∫ δ ∞ r z − 1 e − r d r − ∫ − π π i δ z e i θ z e δ e i θ d θ {\\displaystyle {\\begin{aligned}\\int _{C}(-t)^{z-1}e^{-t}{\\rm {d}}t&=\\int _{\\infty }^{\\delta }(re^{-{\\pi }i})^{z-1}e^{-r}{\\rm {d}}r+\\int _{-\\pi }^{\\pi }({\\delta }e^{i\\theta })^{z-1}e^{{\\delta }e^{i\\theta }}(-i{\\delta }e^{i\\theta }){\\rm {d}}\\theta +\\int _{\\delta }^{\\infty }(re^{{\\pi }i})^{z-1}e^{-r}{\\rm {d}}r\\\\&=\\int _{\\infty }^{\\delta }r^{z-1}e^{-{\\pi }i(z-1)}e^{-r}{\\rm {d}}r-\\int _{-\\pi }^{\\pi }i\\delta ^{z}e^{i{\\theta }z}e^{{\\delta }e^{i\\theta }}{\\rm {d}}\\theta +\\int _{\\delta }^{\\infty }r^{z-1}e^{{\\pi }i(z-1)}e^{-r}{\\rm {d}}r\\\\&=\\left(-e^{-{\\pi }i(z-1)}+e^{{\\pi }i(z-1)}\\right)\\int _{\\delta }^{\\infty }r^{z-1}e^{-r}{\\rm {d}}r-\\int _{-\\pi }^{\\pi }i\\delta ^{z}e^{i{\\theta }z}e^{{\\delta }e^{i\\theta }}{\\rm {d}}\\theta \\\\&=-2i\\sin {\\pi }z\\int _{\\delta }^{\\infty }r^{z-1}e^{-r}{\\rm {d}}r-\\int _{-\\pi }^{\\pi }i\\delta ^{z}e^{i{\\theta }z}e^{{\\delta }e^{i\\theta }}{\\rm {d}}\\theta \\\\\\end{aligned}}}", "title": "ハンケルの積分表示" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "R z > 0 {\\displaystyle \\Re {z}>0} とすると δ → 0 {\\displaystyle \\delta \\to 0} で δ z → 0 {\\displaystyle \\delta ^{z}\\to 0} であるから", "title": "ハンケルの積分表示" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "∫ C ( − t ) z − 1 e − t d t = − 2 i sin π z ∫ 0 ∞ r z − 1 e − r d r = − 2 i sin π z Γ ( z ) ( R z > 0 ) {\\displaystyle {\\begin{aligned}\\int _{C}(-t)^{z-1}e^{-t}{\\rm {d}}t&=-2i\\sin {\\pi }z\\int _{0}^{\\infty }r^{z-1}e^{-r}{\\rm {d}}r\\\\&=-2i\\sin {\\pi }z\\Gamma (z)\\qquad (\\Re {z}>0)\\\\\\end{aligned}}}", "title": "ハンケルの積分表示" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "である。しかし、左辺の被積分関数は z {\\displaystyle z} が有界であるかぎり正則であるから、左辺は複素平面全体に解析接続する。従って、", "title": "ハンケルの積分表示" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "Γ ( z ) = i 2 sin π z ∫ C ( − t ) z − 1 e − t d t ( z ∈ C ∖ Z ) {\\displaystyle \\Gamma (z)={\\frac {i}{2\\sin {\\pi }z}}\\int _{C}(-t)^{z-1}e^{-t}{\\rm {d}}t\\qquad (z\\in \\mathbb {C} \\setminus \\mathbb {Z} )}", "title": "ハンケルの積分表示" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "である。 s = r e i θ {\\displaystyle s=re^{i\\theta }} とすれば、同様にして", "title": "ハンケルの積分表示" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "Γ ( z ) = 1 e 2 π i z − 1 ∫ C s z − 1 e − t d s ( z ∈ C ∖ Z ) {\\displaystyle \\Gamma (z)={\\frac {1}{e^{2{\\pi }iz}-1}}\\int _{C}s^{z-1}e^{-t}{\\rm {d}}s\\qquad (z\\in \\mathbb {C} \\setminus \\mathbb {Z} )}", "title": "ハンケルの積分表示" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "を得る。また、相反公式により、", "title": "ハンケルの積分表示" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1 Γ ( z ) = sin π z π Γ ( 1 − z ) = i 2 π ∫ C ( − t ) − z e − t d t ( z ∈ C ) {\\displaystyle {\\frac {1}{\\Gamma (z)}}={\\frac {\\sin {\\pi }z}{\\pi }}\\Gamma (1-z)={\\frac {i}{2\\pi }}\\int _{C}(-t)^{-z}e^{-t}{\\rm {d}}t\\qquad (z\\in \\mathbb {C} )}", "title": "ハンケルの積分表示" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "を得る。", "title": "ハンケルの積分表示" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "z → ∞ {\\displaystyle z\\to \\infty } での漸近展開として、ガンマ関数はスターリングの公式で近似される。この漸近近似は複素平面全体(負の実数を除く)で成立するが、 | arg z | = π {\\displaystyle |{\\arg z}|={\\pi }} に近づくにつれ近似の誤差が大きくなる(極限の収束が遅くなる)ため、応用上は相反公式などを用いて | arg z | ≤ π / 2 {\\displaystyle |{\\arg z}|\\leq {\\pi }/2} 程度に制限することもある。", "title": "スターリングの公式" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "Γ ( z + 1 ) ≈ 2 π z ( z e ) z ( | arg z | < π , | z | ≫ 0 ) {\\displaystyle \\Gamma (z+1)\\approx {\\sqrt {2{\\pi }z}}\\left({\\frac {z}{e}}\\right)^{z}\\qquad (|{\\arg z}|<{\\pi },|z|\\gg 0)} lim z → ∞ Γ ( z + 1 ) 2 π z ( z e ) z = 1 ( | arg z | < π ) {\\displaystyle \\lim _{z\\to \\infty }{\\frac {\\Gamma (z+1)}{{\\sqrt {2{\\pi }z}}\\left({\\frac {z}{e}}\\right)^{z}}}=1\\qquad (|{\\arg z}|<{\\pi })}", "title": "スターリングの公式" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "次の恒等式を相反公式(reflection formula)という。", "title": "相反公式" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "Γ ( z ) Γ ( 1 − z ) = − z Γ ( z ) Γ ( − z ) = π sin π z , z ∉ Z {\\displaystyle \\Gamma (z)\\Gamma (1-z)=-z\\Gamma (z)\\Gamma (-z)={\\frac {\\pi }{\\sin {{\\pi }z}}},\\qquad z\\not \\in \\mathbb {Z} }", "title": "相反公式" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "相補公式とも呼ばれる。 この恒等式はオイラーの乗積表示から得られる。", "title": "相反公式" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "− z Γ ( z ) Γ ( − z ) = − z ( lim n → ∞ n z n ! ∏ k = 0 n ( z + k ) ) ( lim n → ∞ n − z n ! ∏ k = 0 n ( − z + k ) ) = 1 z ∏ k = 1 ∞ k 2 k 2 − z 2 = π π z ∏ k = 1 ∞ k 2 − z 2 k 2 {\\displaystyle {\\begin{aligned}-z\\Gamma (z)\\Gamma (-z)&=-z\\left(\\lim _{n\\to \\infty }{\\frac {n^{z}n!}{\\prod _{k=0}^{n}{(z+k)}}}\\right)\\left(\\lim _{n\\to \\infty }{\\frac {n^{-z}n!}{\\prod _{k=0}^{n}{(-z+k)}}}\\right)\\\\&={\\frac {1}{z}}\\prod _{k=1}^{\\infty }{\\frac {k^{2}}{k^{2}-z^{2}}}\\\\&={\\frac {\\pi }{{\\pi }z\\displaystyle \\prod _{k=1}^{\\infty }\\displaystyle {\\frac {k^{2}-z^{2}}{k^{2}}}}}\\\\\\end{aligned}}}", "title": "相反公式" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "この分母は正弦関数の無限乗積展開であるから、", "title": "相反公式" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "Γ ( z ) Γ ( 1 − z ) = − z Γ ( z ) Γ ( − z ) = π sin π z {\\displaystyle \\Gamma (z)\\Gamma (1-z)=-z\\Gamma (z)\\Gamma (-z)={\\frac {\\pi }{\\sin {{\\pi }z}}}}", "title": "相反公式" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "である。相反公式に z = 1 2 {\\displaystyle z={\\frac {1}{2}}} を代入すれば", "title": "相反公式" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "Γ ( 1 2 ) Γ ( 1 − 1 2 ) = π sin π 2 = π {\\displaystyle \\Gamma \\left({\\frac {1}{2}}\\right)\\Gamma \\left(1-{\\frac {1}{2}}\\right)={\\frac {\\pi }{\\sin {\\frac {\\pi }{2}}}}=\\pi }", "title": "相反公式" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "となり", "title": "相反公式" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "Γ ( 1 2 ) = π {\\displaystyle \\Gamma \\left({\\frac {1}{2}}\\right)={\\sqrt {\\pi }}}", "title": "相反公式" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "を得る。", "title": "相反公式" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "次の恒等式をルジャンドルの倍数公式と呼ぶ。これはガウスの乗法公式の特別な場合である。", "title": "ルジャンドルの倍数公式" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "Γ ( z ) Γ ( z + 1 2 ) = 2 1 − 2 z π Γ ( 2 z ) {\\displaystyle \\Gamma (z)\\Gamma \\left(z+{\\tfrac {1}{2}}\\right)=2^{1-2z}\\;{\\sqrt {\\pi }}\\;\\Gamma (2z)}", "title": "ルジャンドルの倍数公式" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ベータ関数は以下のように表される。", "title": "ルジャンドルの倍数公式" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ここで z 1 = z 2 = z {\\displaystyle z_{1}=z_{2}=z} とおくと、", "title": "ルジャンドルの倍数公式" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "t = 1 + x 2 {\\displaystyle t={\\frac {1+x}{2}}} とおくと", "title": "ルジャンドルの倍数公式" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "( 1 − x 2 ) z − 1 {\\displaystyle (1-x^{2})^{z-1}} は偶関数なので", "title": "ルジャンドルの倍数公式" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ここで", "title": "ルジャンドルの倍数公式" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "とすると", "title": "ルジャンドルの倍数公式" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "よって", "title": "ルジャンドルの倍数公式" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "よって", "title": "ルジャンドルの倍数公式" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "よって以下の式が成り立つ。", "title": "ルジャンドルの倍数公式" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "次の恒等式をガウスの乗法公式(multiplication formula)という。", "title": "乗法公式" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "Γ ( n z ) = n n z − 1 / 2 ( 2 π ) ( n − 1 ) / 2 ∏ k = 0 n − 1 Γ ( z + k n ) {\\displaystyle \\Gamma (nz)={\\frac {n^{nz-1/2}}{(2\\pi )^{(n-1)/2}}}\\prod _{k=0}^{n-1}{\\Gamma {\\left(z+{\\frac {k}{n}}\\right)}}}", "title": "乗法公式" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "両辺の比を f ( z ) {\\displaystyle f(z)} とすると", "title": "乗法公式" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "f ( z ) = n n z − 1 / 2 ∏ k = 0 n − 1 Γ ( z + k n ) ( 2 π ) ( n − 1 ) / 2 Γ ( n z ) {\\displaystyle {\\begin{aligned}f(z)=&{\\frac {n^{nz-1/2}\\prod _{k=0}^{n-1}{\\Gamma {\\left(z+{\\frac {k}{n}}\\right)}}}{(2\\pi )^{(n-1)/2}\\Gamma (nz)}}\\\\\\end{aligned}}} f ( z + 1 ) = n n z − 1 / 2 n n [ ∏ k = 0 n − 1 ( z + k n ) Γ ( z + k n ) ] ( 2 π ) ( n − 1 ) / 2 [ ∏ k = 0 n − 1 ( n z + k ) ] Γ ( n z ) = n n z − 1 / 2 [ ∏ k = 0 n − 1 ( n z + k ) ] ∏ k = 0 n − 1 Γ ( z + k n ) ( 2 π ) ( n − 1 ) / 2 [ ∏ k = 0 n − 1 ( n z + k ) ] Γ ( n z ) = f ( z ) {\\displaystyle {\\begin{aligned}f(z+1)&={\\frac {n^{nz-1/2}n^{n}\\left[\\prod _{k=0}^{n-1}\\left(z+{\\frac {k}{n}}\\right)\\Gamma {\\left(z+{\\frac {k}{n}}\\right)}\\right]}{(2\\pi )^{(n-1)/2}\\left[\\prod _{k=0}^{n-1}(nz+k)\\right]\\Gamma (nz)}}\\\\&={\\frac {n^{nz-1/2}\\left[\\prod _{k=0}^{n-1}\\left(nz+k\\right)\\right]\\prod _{k=0}^{n-1}\\Gamma {\\left(z+{\\frac {k}{n}}\\right)}}{(2\\pi )^{(n-1)/2}\\left[\\prod _{k=0}^{n-1}(nz+k)\\right]\\Gamma (nz)}}\\\\&=f(z)\\\\\\end{aligned}}}", "title": "乗法公式" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "故に、任意に大きな自然数 m {\\displaystyle m} について f ( z + m ) = f ( z ) {\\displaystyle f(z+m)=f(z)} が成立する。スターリングの公式により", "title": "乗法公式" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "lim R z → + ∞ f ( z ) = lim R z → + ∞ n n z − 1 / 2 [ ∏ k = 0 n − 1 2 π z + k / n ( z + k / n e ) z + k / n ] ( 2 π ) ( n − 1 ) / 2 2 π n z ( n z e ) n z = lim R z → + ∞ z 1 / 2 [ ∏ k = 0 n − 1 z k / n − 1 / 2 ( 1 + k / n z ) z + k / n − 1 / 2 e − k / n ] = lim R z → + ∞ z 1 / 2 [ ∏ k = 0 n − 1 z k / n − 1 / 2 e k / n e − k / n ] = 1 {\\displaystyle {\\begin{aligned}\\lim _{\\Re {z}\\to +\\infty }f(z)&=\\lim _{\\Re {z}\\to +\\infty }{\\frac {n^{nz-1/2}\\left[\\prod _{k=0}^{n-1}{{\\sqrt {\\frac {2{\\pi }}{z+k/n}}}\\left({\\frac {z+k/n}{e}}\\right)^{z+k/n}}\\right]}{(2\\pi )^{(n-1)/2}{\\sqrt {\\frac {2{\\pi }}{nz}}}\\left({\\frac {nz}{e}}\\right)^{nz}}}\\\\&=\\lim _{\\Re {z}\\to +\\infty }z^{1/2}\\left[\\prod _{k=0}^{n-1}z^{k/n-1/2}(1+k/nz)^{z+k/n-1/2}e^{-k/n}\\right]\\\\&=\\lim _{\\Re {z}\\to +\\infty }z^{1/2}\\left[\\prod _{k=0}^{n-1}z^{k/n-1/2}e^{k/n}e^{-k/n}\\right]\\\\&=1\\end{aligned}}}", "title": "乗法公式" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "途中で", "title": "乗法公式" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "lim R z → + ∞ ( 1 + k / n z ) z + k / n − 1 / 2 = lim R z → + ∞ ( 1 + k / n z ) z = e n / k {\\displaystyle \\lim _{\\Re {z}\\to +\\infty }(1+k/nz)^{z+k/n-1/2}=\\lim _{\\Re {z}\\to +\\infty }(1+k/nz)^{z}=e^{n/k}}", "title": "乗法公式" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "を適用した。", "title": "乗法公式" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "f ( z ) = lim n → ∞ f ( z + n ) = 1 {\\displaystyle f(z)=\\lim _{n\\to \\infty }f(z+n)=1}", "title": "乗法公式" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "であり、故に", "title": "乗法公式" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "Γ ( n z ) = n n z − 1 / 2 ( 2 π ) ( n − 1 ) / 2 ∏ k = 0 n − 1 Γ ( z + k n ) {\\displaystyle \\Gamma (nz)={\\frac {n^{nz-1/2}}{(2\\pi )^{(n-1)/2}}}\\prod _{k=0}^{n-1}{\\Gamma {\\left(z+{\\frac {k}{n}}\\right)}}}", "title": "乗法公式" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "が成立する。", "title": "乗法公式" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "( x , y , y 1 , ... , y n ) {\\displaystyle (x,\\ y,\\ y_{1},\\ \\ldots ,\\ y_{n})} を変数とする多項式 F ( x , y , y 1 , ... , y n ) {\\displaystyle F(x,\\ y,\\ y_{1},\\ \\ldots ,\\ y_{n})} に対し、", "title": "微分方程式" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "F ( x , y , y 1 , ⋯ , y n ) = 0 , y i = d i y d x i ( i = 1 , ⋯ , n ) {\\displaystyle F(x,y,y_{1},\\cdots ,y_{n})=0,\\quad y_{i}={\\frac {d^{i}y}{dx^{i}}}\\quad (i=1,\\cdots ,n)}", "title": "微分方程式" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "の形で表される微分方程式を代数的微分方程式という。ガンマ関数はいかなる代数的微分方程式も満たさないことが知られている。ヘルダーが1887年に最初に証明を与えた後 、E. H. ムーア、A. オストロフスキ(英語版)、E. バーンズ(英語版)、ハウスドルフにより、別証明や一般化がなされた。", "title": "微分方程式" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "Γ ( − 3 2 ) = 4 π 3 ≈ 2.363 {\\displaystyle \\Gamma \\left(-{\\frac {3}{2}}\\right)\\,={\\frac {4{\\sqrt {\\pi }}}{3}}\\approx 2.363\\,} Γ ( − 1 2 ) = − 2 π ≈ − 3.545 {\\displaystyle \\Gamma \\left(-{\\frac {1}{2}}\\right)\\,=-2{\\sqrt {\\pi }}\\approx -3.545\\,} Γ ( 1 2 ) = π ≈ 1.772 {\\displaystyle \\Gamma \\left({\\frac {1}{2}}\\right)\\,={\\sqrt {\\pi }}\\approx 1.772\\,} Γ ( 1 ) = 0 ! = 1 {\\displaystyle \\Gamma (1)\\,=0!=1\\,} Γ ( 3 2 ) = π 2 ≈ 0.886 {\\displaystyle \\Gamma \\left({\\frac {3}{2}}\\right)\\,={\\frac {\\sqrt {\\pi }}{2}}\\approx 0.886\\,} Γ ( 2 ) = 1 ! = 1 {\\displaystyle \\Gamma (2)\\,=1!=1\\,} Γ ( 5 2 ) = 3 π 4 ≈ 1.329 {\\displaystyle \\Gamma \\left({\\frac {5}{2}}\\right)\\,={\\frac {3{\\sqrt {\\pi }}}{4}}\\approx 1.329\\,} Γ ( 3 ) = 2 ! = 2 {\\displaystyle \\Gamma (3)\\,=2!=2\\,} Γ ( 7 2 ) = 15 π 8 ≈ 3.323 {\\displaystyle \\Gamma \\left({\\frac {7}{2}}\\right)\\,={\\frac {15{\\sqrt {\\pi }}}{8}}\\approx 3.323\\,} Γ ( 4 ) = 3 ! = 6 {\\displaystyle \\Gamma (4)\\,=3!=6\\,}", "title": "いくつかの具体的な値" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "ガンマ関数の対数微分", "title": "ポリガンマ関数" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "をディガンマ関数(Digamma function)と呼ぶ。同様の対数微分を繰り返した関数", "title": "ポリガンマ関数" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "を、ポリガンマ関数(Polygamma function)と呼ぶ。", "title": "ポリガンマ関数" } ]
ガンマ関数とは、数学において階乗の概念を複素数全体に拡張した(複素階乗ともいう)特殊関数である。一般的に、ガンマ関数は複素数 z に対して、関数 Γ で表す。 また、自然数 n に対しては、ガンマ関数と n の階乗との間では次の関係式が成り立つ: 互いに同値となるいくつかの定義が存在するが、1729年、数学者レオンハルト・オイラーが無限乗積の形で、最初に導入した。
[[ファイル:Gamma.png|thumb|{{math|1=''y'' = Γ(''x'')}} のグラフ]] [[ファイル:Gamma abs.png|thumb|{{math|1=Γ(''x'' + ''iy'')}} の絶対値<br />(グラフ中「Re」は {{mvar|x}} に相当、「Im」は {{mvar|y}} に相当)]] {{読み仮名_ruby不使用|'''ガンマ関数'''|ガンマかんすう|{{lang-en-short|gamma function}}}}とは、数学において[[階乗]]の概念を[[複素数]]全体に拡張した(複素階乗ともいう)[[特殊関数]]である。一般的に、ガンマ関数は複素数 <math>z</math> に対して、関数 <math>\Gamma (z)</math> で表す。 また、自然数 <math>n</math> に対しては、ガンマ関数と <math>n</math> の階乗との間では次の関係式が成り立つ: :<math> n!=\Gamma (n+1),\ \Gamma (n)=(n-1)!.</math> 互いに同値となるいくつかの定義が存在するが、1729年、数学者[[レオンハルト・オイラー]]が[[無限乗積]]の形で、最初に導入した<ref name="Whittaker&Watson1927_sect12_1">[[#Whittaker&Watson1996|E. T. Whittaker and G. N. Watson (1927), Chapter XII, &sect;12.1]]</ref>。 ==定義== [[複素数|実部]]が正となる複素数 <math>z</math> に対して、次の[[広義積分|広域積分]]で定義される複素関数: :<math>\Gamma(z)=\int^{\infty}_{0} t^{z-1} e^{-t} \,{\rm d}t \qquad(\real{z}>0,)</math> を'''ガンマ関数'''と呼ぶ<ref>[http://mathworld.wolfram.com/GammaFunction.html Wolfram mathworld: Gamma Function]</ref>。この積分表示は、[[アドリアン=マリ・ルジャンドル]]の定義にしたがって、第二種[[オイラー積分]]とも呼ばれる。元は階乗の一般化として[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]が得たもので、<math>\Gamma</math> という記号は、1814年にルジャンドルが導入したものである<ref name="Whittaker&Watson1927_sect12_1"></ref>。それ以前に[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]は <math>\Pi</math> などと表記していた(ただし、<math>\Pi(z) = \Gamma(z+1)</math> である)。 一般の複素数 <math>z</math> に対しては、[[解析接続]]もしくは次の[[極限]]で定義される。 :<math>\Gamma(z)=\lim_{n\to\infty}\frac{n^zn!}{\prod\limits_{k=0}^{n}{(z+k)}}.</math> == 基本的性質 == <math>0</math> または[[正の数と負の数|負の整数]]でない、かつ実部が正の任意の複素数 <math>z</math> に対して、 :<math>\begin{align} \Gamma(z+1) &= \int _0 ^{\infty} e^{-t} t^z \, {\rm d}t\\ &= \Bigl[ -e^{-t} t^z \Bigr] _0 ^{\infty} + z\int _0 ^{\infty} e^{-t} t^{z-1} \, {\rm d}t\\ &= z \Gamma(z) \qquad \left( \because \Bigl[ -e^{-t} t^z \Bigr] _0 ^{\infty} = 0 \right) \! , \end{align}</math> となることから、<math>\Gamma(z+1)=z\Gamma(z)</math> が成り立つ。またさらに、 :<math>\begin{align} \Gamma(1) &= \int _0 ^{\infty} e^{-t} \, {\rm d}t = \Bigl[ -e^{-t} \Bigr] _0 ^{\infty} = \lim _{t\to\infty} \! \left( -e^{-t} +1 \right)\\ &= 1, \end{align}</math> である。これらの性質から、任意の[[自然数|正の整数]] <math>n</math> に対して、 :<math>\Gamma(n+1)=n\Gamma(n)=n(n-1)\Gamma(n-1)=\cdots =n!\,\Gamma(1)=n!,</math> より <math>\Gamma (n+1)=n!</math> が成り立つ。その意味でガンマ関数は[[階乗]]の定義域を[[複素平面]]に拡張したものとなっている。 歴史的には、ガンマ関数は「階乗の複素数への拡張となるもの」(複素階乗)の実例として、[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]により考案された。階乗の複素数への拡張となる関数は無数に存在するが、正の実軸上で[[凸関数|対数凸]]である解析関数という条件を付ければ、それは一意に定まりガンマ関数に他ならない([[ボーア・モレルップの定理]])。 右半平面においてオイラー積分で定義されたガンマ関数は全平面に[[有理型関数|有理型]]に[[解析接続]]する。 ガンマ関数は[[零点]]を持たず、原点と負の整数に一位の極を持つ。その[[留数]]は、 :<math>\operatorname{Res}(\Gamma ,\, -n) = \frac{(-1)^n}{n!}. </math> である{{sfn|福原|1951|p=94}}。 また、<math>1/2</math> に対するガンマ関数の値は、[[ガウス積分]]の結果に一致する。 :<math>\Gamma\!\left(\frac{1}{2}\right) = \sqrt{\pi}.</math> これより、自然数 <math>n</math> に対して、 :<math> \Gamma\!\left(\frac{1}{2}+n\right) = \frac{(2n-1)!!}{2^{n}}\sqrt{\pi}, </math> が成立することがわかる。ここで <math>!!</math> は[[二重階乗]]を表す。この性質を利用して[[超球体の体積|高次元の球の体積]]と表面積を求めることができる。また、 :<math> \Gamma\!\left(\frac{1}{2}-n\right) = \frac{ (-2)^n}{(2n-1)!!} \sqrt{\pi}. </math> == 定義の整合性 == 定義の積分表示と極限表示が一致することを示す。 {{Indent|<math>G_n(z)=\int_{0}^{n}{t^{z-1}\left(1-\frac{t}{n}\right)^{n}}{\rm d}t</math>}} とすれば :<math>\lim_{n\to\infty}{\left(1-\dfrac{t}{n}\right)^n}=e^{-t}</math> であるから直感的には :<math>\lim_{n\to\infty}{G_n(z)}=\int^{\infin}_{0}t^{z-1}e^{-t}{\rm d}t</math> である。(厳密には[[はさみうちの原理]]によって証明される){{math|1=''t'' = ''nu''}} の置換により {{Indent|<math>G_n(z)=n^{z}\int_{0}^{1}{u^{z-1}(1-u)^{n}}{\rm d}u</math>}} となる.{{mvar|n{{sup|z}}}} を除く部分を {{math|''g{{sub|n}}''(''z'')}} として {{Indent|<math>g_0(z)=\int_{0}^{1}{u^{z-1}}{\rm d}u=\left[\frac{u^z}{z}\right]_{u=0}^{1}=\frac{1}{z}</math><br /> <math>g_n(z)=\int_{0}^{1}{\left(\frac{u^{z}}{z}\right)'(1-u)^{n}}{\rm d}u=\frac{n}{z}\int_{u=0}^{1}{u^{z}(1-u)^{n-1}}{\rm d}u=\frac{n}{z}g_{n-1}(z+1)</math>}} これにより {{Indent|<math>G_n(z)=\frac{n^zn!}{\prod_{k=0}^{n}{(z+k)}}</math>}} を得る。故に {{Indent|<math>\int^{\infin}_{0}t^{z-1}e^{-t}{\ d}t=\lim_{n\to\infty}G_n(z)=\lim_{n\to\infty}\frac{n^zn!}{\prod_{k=0}^{n}{(z+k)}}</math>}} である。 == ワイエルシュトラスの乗積表示 == オイラーの乗積表示から[[オイラーの定数]] :<math>\gamma=\lim_{n\to\infty}\left(\sum_{k=1}^{n}\frac{1}{k}-\log{n}\right)</math> を括り出すと'''ワイエルシュトラスの乗積表示'''が得られる。[[カール・ワイエルシュトラス|ワイエルシュトラス]]はガンマ関数が負の整数に[[特異点 (数学)|極]]を持つことを嫌って逆数を用いた{{要出典|date=2019年5月}}。ガンマ関数の逆数は複素平面全体で[[正則関数|正則]]である{{sfn|福原|1951|p=97}}。 {{Indent|<math>\frac{1}{\Gamma(z)}=\lim_{n\to\infty}\frac{\prod_{k=0}^{n}{(z+k)}}{n^zn!}=\lim_{n\to\infty}zn^{-z}\left(\prod_{k=1}^{n}{e^{z/k}}\right)\left(\prod_{m=1}^{n}{\frac{z+m}{m}}e^{-z/m}\right)=ze^{{\gamma}z}\prod_{m=1}^{\infty}\left(1+\frac{z}{m}\right)e^{-z/m}</math>}} == ハンケルの積分表示 == [[File:Hankel Pic.png|right|250px]] ガンマ関数は次の[[線積分|周回積分]]で表される<ref>[http://eom.springer.de/G/g043310.htm Springer Online Reference Works: Gamma-function]</ref>。積分経路は正の無限大から実軸の上側に沿って原点に至り、原点を正の向きに回り、実軸の下側に沿って無限大に戻るものとする。但し、その偏角は<math>-\pi\le\arg(-t)\le\pi,0\le\arg(s)\le2\pi</math>とする。 {{Indent|<math>\begin{align} &\Gamma(z)=\frac{i}{2\sin{\pi}z}\int_C(-t)^{z-1}e^{-t}{\rm d}t\qquad(z\in\mathbb{C}\setminus\mathbb{Z})\\ &\Gamma(z)=\frac{1}{e^{2{\pi}iz}-1}\int_Cs^{z-1}e^{-s}{\rm d}s\qquad(z\in\mathbb{C}\setminus\mathbb{Z})\\ &\frac{1}{\Gamma(z)}=\frac{i}{2\pi}\int_C(-t)^{-z}e^{-t}{\rm d}t\qquad(z\in\mathbb{C})\\ \end{align}</math>}} これを'''ハンケルの積分表示'''と呼ぶ。このハンケルの積分表示は、積分経路を適当に変形し、数値積分でガンマ関数の値を求めるために使われることがある<ref>[http://web.comlab.ox.ac.uk/oucl/work/nick.trefethen/gamma.pdf Schmelzer & Trefethen (2007), Computing the Gamma function using contour integrals and rational approximations]</ref>。 === ハンケルの積分表示の導出 === 極座標表示 <math>(-t)=re^{i\theta}</math> を用いると、実軸の上側に沿う部分は <math>\theta=-\pi</math> で <math>r=\infty</math> から <math>r=\delta</math> まで、原点を回る部分は <math>r=\delta</math> で <math>\theta=-\pi</math> から <math>\theta=\pi</math> まで、実軸の下側に沿う部分は <math>\theta=\pi</math> で <math>r=\delta</math> から <math>r=\infty</math> までとなる。 {{Indent|<math>\begin{align}\int_C(-t)^{z-1}e^{-t}{\rm d}t &=\int_{\infty}^{\delta}(re^{-{\pi}i})^{z-1}e^{-r}{\rm d}r+\int_{-\pi}^{\pi}({\delta}e^{i\theta})^{z-1}e^{{\delta}e^{i\theta}}(-i{\delta}e^{i\theta}){\rm d}\theta+\int_{\delta}^{\infty}(re^{{\pi}i})^{z-1}e^{-r}{\rm d}r\\ &=\int_{\infty}^{\delta}r^{z-1}e^{-{\pi}i(z-1)}e^{-r}{\rm d}r-\int_{-\pi}^{\pi}i\delta^ze^{i{\theta}z}e^{{\delta}e^{i\theta}}{\rm d}\theta+\int_{\delta}^{\infty}r^{z-1}e^{{\pi}i(z-1)}e^{-r}{\rm d}r\\ &=\left(-e^{-{\pi}i(z-1)}+e^{{\pi}i(z-1)}\right)\int_{\delta}^{\infty}r^{z-1}e^{-r}{\rm d}r-\int_{-\pi}^{\pi}i\delta^ze^{i{\theta}z}e^{{\delta}e^{i\theta}}{\rm d}\theta\\ &=-2i\sin{\pi}z\int_{\delta}^{\infty}r^{z-1}e^{-r}{\rm d}r-\int_{-\pi}^{\pi}i\delta^ze^{i{\theta}z}e^{{\delta}e^{i\theta}}{\rm d}\theta\\ \end{align}</math>}} <math>\real{z}>0</math> とすると <math>\delta\to0</math> で <math>\delta^z\to0</math> であるから {{Indent|<math>\begin{align}\int_C(-t)^{z-1}e^{-t}{\rm d}t &=-2i\sin{\pi}z\int_{0}^{\infty}r^{z-1}e^{-r}{\rm d}r\\ &=-2i\sin{\pi}z\Gamma(z)\qquad(\real{z}>0)\\ \end{align}</math>}} である。しかし、左辺の被積分関数は <math>z</math> が有界であるかぎり正則であるから、左辺は複素平面全体に解析接続する。従って、 {{Indent|<math>\Gamma(z)=\frac{i}{2\sin{\pi}z}\int_C(-t)^{z-1}e^{-t}{\rm d}t\qquad(z\in\mathbb{C}\setminus\mathbb{Z})</math>}} である。 <math>s=re^{i\theta}</math> とすれば、同様にして {{Indent|<math>\Gamma(z)=\frac{1}{e^{2{\pi}iz}-1}\int_Cs^{z-1}e^{-t}{\rm d}s\qquad(z\in\mathbb{C}\setminus\mathbb{Z})</math>}} を得る。また、[[#相反公式|相反公式]]により、 {{Indent|<math>\frac{1}{\Gamma(z)}=\frac{\sin{\pi}z}{\pi}\Gamma(1-z)=\frac{i}{2\pi}\int_C(-t)^{-z}e^{-t}{\rm d}t\qquad(z\in\mathbb{C})</math>}} を得る。 == スターリングの公式 == {{main|スターリングの公式}} <math>z \to \infty</math>での漸近展開として、ガンマ関数は[[スターリングの近似|スターリングの公式]]で近似される。この漸近近似は複素平面全体(負の実数を除く)で成立するが、<math>|{\arg z}|={\pi}</math>に近づくにつれ近似の誤差が大きくなる(極限の収束が遅くなる)ため、応用上は[[#相反公式|相反公式]]などを用いて<math>|{\arg z}|\le{\pi}/2</math>程度に制限することもある。 {{Indent|<math>\Gamma(z+1)\approx\sqrt{2{\pi}z}\left(\frac{z}{e}\right)^z\qquad(|{\arg z}|<{\pi},|z|\gg0)</math><br /> <math>\lim_{z\to\infty}\frac{\Gamma(z+1)}{\sqrt{2{\pi}z}\left(\frac{z}{e}\right)^z}=1\qquad(|{\arg z}|<{\pi})</math>}} == 相反公式 == 次の[[恒等式]]を'''相反公式'''(reflection formula)という<ref name="小松2004_第2章">[[#小松2004|小松 (2004)、第2章]]</ref>。 {{Indent|<math>\Gamma(z)\Gamma(1-z)=-z\Gamma(z)\Gamma(-z)=\frac{\pi}{\sin{{\pi}z}}, \qquad z \not\in \Z</math>}} '''相補公式'''とも呼ばれる{{sfn|神保|2003|loc=定理 5.15}}。 この恒等式はオイラーの乗積表示から得られる。 {{Indent|<math>\begin{align} -z\Gamma(z)\Gamma(-z) &=-z\left(\lim_{n\to\infty}\frac{n^zn!}{\prod_{k=0}^{n}{(z+k)}}\right)\left(\lim_{n\to\infty}\frac{n^{-z}n!}{\prod_{k=0}^{n}{(-z+k)}}\right)\\ &=\frac{1}{z}\prod_{k=1}^{\infty}\frac{k^2}{k^2-z^2}\\ &=\frac{\pi}{{\pi}z\displaystyle\prod_{k=1}^{\infty}\displaystyle\frac{k^2-z^2}{k^2}}\\ \end{align}</math>}} この分母は[[三角関数の無限乗積展開|正弦関数の無限乗積展開]]であるから、 {{Indent|<math>\Gamma(z)\Gamma(1-z)=-z\Gamma(z)\Gamma(-z)=\frac{\pi}{\sin{{\pi}z}}</math>}} である。相反公式に<math>z=\frac{1}{2}</math>を代入すれば {{Indent|<math>\Gamma\left(\frac{1}{2}\right)\Gamma\left(1-\frac{1}{2}\right)=\frac{\pi}{\sin{\frac{\pi}{2}}}=\pi</math>}} となり {{Indent|<math>\Gamma\left(\frac{1}{2}\right)=\sqrt{\pi}</math>}} を得る。 ==ルジャンドルの倍数公式== 次の恒等式を'''ルジャンドルの倍数公式'''と呼ぶ。これは'''ガウスの乗法公式'''の特別な場合である。 {{Indent|<math>\Gamma(z) \Gamma\left(z + \tfrac12\right) = 2^{1-2z} \; \sqrt{\pi} \; \Gamma(2z)</math>}} ===証明=== [[ベータ関数]]は以下のように表される。 : <math>\Beta (z_1,z_2)=\frac{\Gamma (z_1)\Gamma (z_2)}{\Gamma (z_1+z_2)}=\int_0^1 t^{z_1-1}(1-t)^{z_2-1} \, dt </math> ここで <math>z_1=z_2=z</math> とおくと、 : <math>\frac{\Gamma^2(z)}{\Gamma (2z)}=\int_0^1 t^{z-1}(1-t)^{z-1} \, dt </math> <math>t=\frac{1+x}{2}</math> とおくと : <math>\frac{\Gamma^2(z)}{\Gamma (2z)}=\frac{1}{2^{2z-1}}\int_{-1}^1 \left(1-x^{2}\right)^{z-1} \, dx</math> <math>(1-x^2)^{z-1}</math> は偶関数なので : <math>2^{2z-1}\Gamma^2(z)=2\Gamma (2z)\int_0^1 (1-x^2)^{z-1} \, dx</math> ここで : <math>\Beta \left(\frac{1}{2},z\right)=\int_0^1 t^{\frac{1}{2}-1}(1-t)^{z-1} \, dt, \quad t=s^2</math> とすると : <math>\Beta \left(\frac{1}{2},z\right)=2\int_0^1 (1-s^2)^{z-1} \, ds = 2\int_0^1 (1-x^2)^{z-1} \, dx</math> よって : <math>2^{2z-1}\Gamma^2(z)=\Gamma (2z)\Beta \left(\frac{1}{2},z\right)</math> よって : <math>\Beta \left(\frac{1}{2},z\right)=\frac{\Gamma \left(\frac{1}{2}\right)\Gamma (z)}{\Gamma \left(z+\frac{1}{2}\right)}, \quad \Gamma \left(\frac{1}{2}\right)=\sqrt{\pi}</math> よって以下の式が成り立つ。 : <math>\Gamma (z)\Gamma \left(z+\frac{1}{2}\right)=2^{1-2z}\sqrt{\pi} \; \Gamma (2z).</math> == 乗法公式 == 次の恒等式を'''ガウスの乗法公式'''(multiplication formula)という。 {{Indent|<math>\Gamma(nz)=\frac{n^{nz-1/2}}{(2\pi)^{(n-1)/2}}\prod_{k=0}^{n-1}{\Gamma{\left(z+\frac{k}{n}\right)}}</math>}} ===証明=== 両辺の比を<math>f(z)</math>とすると {{Indent|<math>\begin{align}f(z)= &\frac{n^{nz-1/2}\prod_{k=0}^{n-1}{\Gamma{\left(z+\frac{k}{n}\right)}}}{(2\pi)^{(n-1)/2}\Gamma(nz)}\\ \end{align}</math><br /> <math>\begin{align}f(z+1) &=\frac{n^{nz-1/2}n^n\left[\prod_{k=0}^{n-1}\left(z+\frac{k}{n}\right)\Gamma{\left(z+\frac{k}{n}\right)}\right]}{(2\pi)^{(n-1)/2}\left[\prod_{k=0}^{n-1}(nz+k)\right]\Gamma(nz)}\\ &=\frac{n^{nz-1/2}\left[\prod_{k=0}^{n-1}\left(nz+k\right)\right]\prod_{k=0}^{n-1}\Gamma{\left(z+\frac{k}{n}\right)}}{(2\pi)^{(n-1)/2}\left[\prod_{k=0}^{n-1}(nz+k)\right]\Gamma(nz)}\\ &=f(z)\\ \end{align}</math>}} 故に、任意に大きな自然数<math>m</math>について<math>f(z+m)=f(z)</math>が成立する。スターリングの公式により {{Indent|<math>\begin{align}\lim_{\real{z}\to+\infty}f(z) &=\lim_{\real{z}\to+\infty}\frac{n^{nz-1/2}\left[\prod_{k=0}^{n-1}{\sqrt{\frac{2{\pi}}{z+k/n}}\left(\frac{z+k/n}{e}\right)^{z+k/n}}\right]}{(2\pi)^{(n-1)/2}\sqrt{\frac{2{\pi}}{nz}}\left(\frac{nz}{e}\right)^{nz}}\\ &=\lim_{\real{z}\to+\infty}z^{1/2}\left[\prod_{k=0}^{n-1}z^{k/n-1/2}(1+k/nz)^{z+k/n-1/2}e^{-k/n}\right]\\ &=\lim_{\real{z}\to+\infty}z^{1/2}\left[\prod_{k=0}^{n-1}z^{k/n-1/2}e^{k/n}e^{-k/n}\right]\\ &=1 \end{align}</math>}} 途中で {{Indent|<math>\lim_{\real{z}\to+\infty}(1+k/nz)^{z+k/n-1/2}=\lim_{\real{z}\to+\infty}(1+k/nz)^{z}=e^{n/k}</math>}} を適用した。 {{Indent|<math>f(z)=\lim_{n\to\infty}f(z+n)=1</math>}} であり、故に {{Indent|<math>\Gamma(nz)=\frac{n^{nz-1/2}}{(2\pi)^{(n-1)/2}}\prod_{k=0}^{n-1}{\Gamma{\left(z+\frac{k}{n}\right)}}</math>}} が成立する。 == 微分方程式 == <math>(x,\ y,\ y_1,\ \ldots ,\ y_n)</math>を変数とする多項式<math>F(x,\ y,\ y_1,\ \ldots ,\ y_n)</math>に対し、 {{Indent|<math>F(x, y, y_1, \cdots, y_n)=0 , \quad y_i=\frac{d^i y}{dx^i} \quad (i=1, \cdots,n)</math>}} の形で表される微分方程式を代数的微分方程式という。ガンマ関数はいかなる代数的微分方程式も満たさないことが知られている<ref name="小松2004_第2章"></ref>。[[オットー・ヘルダー|ヘルダー]]が1887年に最初に証明を与えた後 <ref name ="helder">Otto Ludwig Hölder, "Über die Eigenschaft der Gammafunction keiner algebraischen Differentialgleichung zu genügen," ''Math. Ann.'', '''28''', (1887) pp. 1–13. {{doi|10.1007/BF02430507}}</ref>、{{仮リンク|E. H. ムーア|en|E. H. Moore}}<ref name ="moore"> Eliakim Hastings Moore, "Concerning transcendentally transcendental functions," ''Math. Ann.'', 48 (1897), pp. 49–74. {{doi|10.1007/BF01446334}} </ref>、{{仮リンク|A. オストロフスキ|en|Alexander Ostrowski}}<ref name ="ostrowski1"> A. Ostrowski, "Neuer Beweis der Hölderschen Satzes, dass die Gammafunktion keiner algebraischen Differntialgleichung genügt." ''Math. Ann.'' '''79''' (1919), pp. 286–288. {{doi|10.1007/BF01458212}} </ref><ref name ="ostrowski2">A. Ostrowski, "Zum Hölderschen Satz über Γ(x). ''Math. Ann.'' '''94''' (1925), pp. 248–251. {{doi|10.1007/BF01208657}}</ref>、{{仮リンク|E. バーンズ|en|Ernest Barnes}}<ref name ="barnes"> E. W. Barnes, "The theory of the Gamma function," ''Messenger of Math.'' '''29''' (1900), pp. 64–128.</ref>、[[フェリックス・ハウスドルフ|ハウスドルフ]]<ref name ="hausdorff"> F. Hausdorff, "Zum Hölderschen Satz über Γ(x)," ''Math. Ann.'' '''94''' (1925), pp. 244–247. {{doi|10.1007/BF01208656}}</ref>により、別証明や一般化がなされた。 == いくつかの具体的な値 == {{see also|:en:Particular values of the gamma function}} {{Indent| <math>\Gamma\left(-\frac{3}{2}\right)\,= \frac {4\sqrt{\pi}} {3} \approx 2.363\,</math><br /> <math>\Gamma\left(-\frac{1}{2}\right)\,= -2\sqrt{\pi} \approx -3.545\,</math><br /> <math>\Gamma\left(\frac{1}{2}\right)\,= \sqrt{\pi} \approx 1.772\,</math><br /> <math>\Gamma(1)\,=0!=1 \,</math><br /> <math>\Gamma\left(\frac{3}{2}\right)\,= \frac {\sqrt{\pi}} {2} \approx 0.886\,</math><br /> <math>\Gamma(2)\,=1!=1 \,</math><br /> <math>\Gamma\left(\frac{5}{2}\right)\,= \frac {3 \sqrt{\pi}} {4} \approx 1.329\,</math><br /> <math>\Gamma(3)\,=2!=2 \,</math><br /> <math>\Gamma\left(\frac{7}{2}\right)\,= \frac {15\sqrt{\pi}} {8} \approx 3.323\,</math><br /> <math>\Gamma(4)\,=3!=6 \,</math> }} == ポリガンマ関数 == {{main|ポリガンマ関数}} ガンマ関数の対数微分 :<math>\psi(z)=\frac{d}{dz}\log \Gamma(z)</math> を[[ディガンマ関数]](Digamma function)と呼ぶ。同様の対数微分を繰り返した関数 :<math>\psi^{(n)}(z)=\frac{d^{n+1}}{dz^{n+1}}\log \Gamma(z)</math> を、[[ポリガンマ関数]](Polygamma function)と呼ぶ。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=エミール・アルティン|authorlink=エミール・アルティン|others=[[上野健爾]] 訳・解説|year=2002-10-25|title=ガンマ関数入門|series=はじめよう数学6|publisher=[[日本評論社]]|isbn=4-535-60846-6|url=http://www.nippyo.co.jp/book/1985.html|ref=アルティン2002}} *{{Cite book|和書|author=小松勇作|authorlink=小松勇作|date=2004-03-15|title=特殊函数|edition=復刊|series=近代数学講座5|publisher=[[朝倉書店]]|isbn=978-4-254-11655-7|url=http://www.asakura.co.jp/books/isbn/978-4-254-11655-7/|ref=小松2004}} *{{cite book |和書 |last1 = 神保 |first1 = 道夫 |year = 2003 |title = 複素関数入門 |series = 現代数学への入門 |url = https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/1/0068740.html |publisher = [[岩波書店]] |isbn = 4-00-006874-1 |ref = harv }} *{{Cite book|和書|author=寺沢寛一|authorlink=寺沢寛一|date=1983-05-18|title=自然科学者のための数学概論|edition=増訂版|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-005480-5|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/5/0054800.html|ref=寺沢1983}} *{{Cite book|和書|author=福原満洲雄|authorlink=福原満洲雄|title=ガンマー函数|publisher=弘文堂|year=1951|id={{国立国会図書館デジタルコレクション|1370086|format=NDLJP}}|ref={{sfnref|福原|1951}}}} *{{Cite book|editor=Milton Abramowitz; Irene A. Stegun|date=1965-06-01|title=[[Abramowitz and Stegun|Handbook of Mathematical Functions: with Formulas, Graphs, and Mathematical Tables]]|series=Dover Books on Mathematics|publisher=[[Dover Publications]]|isbn=0-486-61272-4|ref=Abramowitz&Stegun1965}} *{{Cite book|author=E. T. Whittaker|authorlink=エドマンド・テイラー・ホイッテーカー|coauthors=G. N. Watson|origyear=1927|date=1996-09-13|title=A Course of Modern Analysis|edition=4th|series=Cambridge Mathematical Library|publisher=[[Cambridge University Press]]|isbn=0-521-58807-3|ref=Whittaker&Watson1996}} == 関連項目 == *[[特殊関数]] *[[階乗]] *[[関数一覧]] *[[不完全ガンマ関数]] *[[複素解析]] *[[オイラー積分]] *[[ベータ関数]] *[[リーマンゼータ関数]] *[[分数階微積分学]] *[[Abramowitz and Stegun]] *{{仮リンク|整数と半整数におけるガンマ関数の特定の値|en|Particular_values_of_the_Gamma_function}} == 外部リンク == *{{Kotobank|ガンマ関数|2=竹之内脩}} *{{MathWorld|title=Gamma Function|urlname=GammaFunction}} *{{PDFlink|[http://lecture.ecc.u-tokyo.ac.jp/~nkiyono/2006/miya-gamma.pdf ガンマ関数とベータ関数]}} {{ja icon}} {{integral}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かんまかんすう}} [[Category:数学に関する記事]] [[Category:特殊関数]]
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行列の階数
線型代数学における行列の階数(かいすう、rank; ランク)は、行列の最も基本的な特性数 (characteristic) の一つで、その行列が表す線型方程式系および線型変換がどのくらい「非退化」であるかを示すものである。行列の階数を定義する方法は同値なものがいくつもある。 例えば、行列 A の階数 rank(A)(あるいは rk(A) または丸括弧を落として rank A)は、A の列空間(列ベクトルの張るベクトル空間)の次元に等しく、また A の行空間の次元とも等しい。行列の階数は、対応する線型写像の階数である。 行列の階数の概念はジェームス・ジョセフ・シルベスターが考えた。 任意の行列 A について、以下はいずれも同値である。 文献により、上記の条件のいずれかを以って行列 A の階数は定義される。 いま A の列空間の次元を「列階数」、行空間の次元を「行階数」と呼べば、線型代数学における基本的な結果の一つとして、列階数と行階数は常に一致するという事実が成立するから、それらを単に A の階数と呼ぶことができる。これについて、Wardlaw (2005) はベクトルの線型結合の基本性質に基づく四文証明を与えた(これは任意の体上で有効である)。また、Mackiw (1995) は実数体上の行列に対して有効な、直交性を用いたエレガントな別証明を与えている。両証明とも教科書 Banerjee & Roy (2014) に出ている。 A を m × n 行列とする。また、 f を表現行列 A の線型写像とする。 例えば、行列 は、基本変形を行うことによって と書けるから、M の階数は rank M = 2 である。実際、[第 2 行] = [第 1 行] + [第 3 行] であるから、2 行目の行ベクトルは線型独立でない。ここで、1 行目と 3行目は明らかに線型独立であるから、rank M = 2 である。 浮動小数点を用いたコンピューター上の数値計算においては、この基本変形を用いたりLU分解を用いることで階数を求める方法は、精度が落ちることもあり用いられない。替わりに、特異値分解(SVD)やQR分解を用いて求められる。 V, W をベクトル空間とし、線型写像 f: V → W が与えられたとき、f の像 f(V) の次元を線型写像 f の階数と呼び、rk f や rank f などで表す。V や W は一般に無限次元であっても、像の次元 dim f(V) が有限であれば線型写像の階数の概念は意味を持つ。とくに階数有限なる線型写像にはトレースが定義できて、古典群の表現論などで重要な役割を果たす。 V や W が有限次元ならば、行列表現によって f は表現行列 Af の共軛類が対応する。このとき、線型写像の階数と行列の階数との間には rank f = rank Af という関係が成り立つが、行列の階数が正則行列を掛けることに関して不変であることから、この等式の成立は表現行列 Af のとり方に依らない。 ベクトル空間 V, W に対して V が n 次元とすれば、線型写像 f: V → W の階数は n 以下である。実際に、rank f = n となるとき、線型写像 f は非退化(ひたいか、non-degenerate, full rank)であるという。そうでないときには、像 f(V) は f で 0 へ写される元の分だけ「つぶれている」と考えられ、線型写像 f の核 の次元 dim ker f を f の退化次数と呼ぶ。f の退化次数を nl f や null f などで表すことがある。次の公式 が成立し、階数と退化次数の関係式あるいは簡単に階数・退化次数公式などと呼ばれる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "線型代数学における行列の階数(かいすう、rank; ランク)は、行列の最も基本的な特性数 (characteristic) の一つで、その行列が表す線型方程式系および線型変換がどのくらい「非退化」であるかを示すものである。行列の階数を定義する方法は同値なものがいくつもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "例えば、行列 A の階数 rank(A)(あるいは rk(A) または丸括弧を落として rank A)は、A の列空間(列ベクトルの張るベクトル空間)の次元に等しく、また A の行空間の次元とも等しい。行列の階数は、対応する線型写像の階数である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "行列の階数の概念はジェームス・ジョセフ・シルベスターが考えた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "任意の行列 A について、以下はいずれも同値である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "文献により、上記の条件のいずれかを以って行列 A の階数は定義される。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "いま A の列空間の次元を「列階数」、行空間の次元を「行階数」と呼べば、線型代数学における基本的な結果の一つとして、列階数と行階数は常に一致するという事実が成立するから、それらを単に A の階数と呼ぶことができる。これについて、Wardlaw (2005) はベクトルの線型結合の基本性質に基づく四文証明を与えた(これは任意の体上で有効である)。また、Mackiw (1995) は実数体上の行列に対して有効な、直交性を用いたエレガントな別証明を与えている。両証明とも教科書 Banerjee & Roy (2014) に出ている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "A を m × n 行列とする。また、 f を表現行列 A の線型写像とする。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "例えば、行列", "title": "階数の計算" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "は、基本変形を行うことによって", "title": "階数の計算" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "と書けるから、M の階数は rank M = 2 である。実際、[第 2 行] = [第 1 行] + [第 3 行] であるから、2 行目の行ベクトルは線型独立でない。ここで、1 行目と 3行目は明らかに線型独立であるから、rank M = 2 である。", "title": "階数の計算" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "浮動小数点を用いたコンピューター上の数値計算においては、この基本変形を用いたりLU分解を用いることで階数を求める方法は、精度が落ちることもあり用いられない。替わりに、特異値分解(SVD)やQR分解を用いて求められる。", "title": "階数の計算" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "V, W をベクトル空間とし、線型写像 f: V → W が与えられたとき、f の像 f(V) の次元を線型写像 f の階数と呼び、rk f や rank f などで表す。V や W は一般に無限次元であっても、像の次元 dim f(V) が有限であれば線型写像の階数の概念は意味を持つ。とくに階数有限なる線型写像にはトレースが定義できて、古典群の表現論などで重要な役割を果たす。", "title": "線型写像の階数" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "V や W が有限次元ならば、行列表現によって f は表現行列 Af の共軛類が対応する。このとき、線型写像の階数と行列の階数との間には rank f = rank Af という関係が成り立つが、行列の階数が正則行列を掛けることに関して不変であることから、この等式の成立は表現行列 Af のとり方に依らない。", "title": "線型写像の階数" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ベクトル空間 V, W に対して V が n 次元とすれば、線型写像 f: V → W の階数は n 以下である。実際に、rank f = n となるとき、線型写像 f は非退化(ひたいか、non-degenerate, full rank)であるという。そうでないときには、像 f(V) は f で 0 へ写される元の分だけ「つぶれている」と考えられ、線型写像 f の核", "title": "線型写像の階数" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "の次元 dim ker f を f の退化次数と呼ぶ。f の退化次数を nl f や null f などで表すことがある。次の公式", "title": "線型写像の階数" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "が成立し、階数と退化次数の関係式あるいは簡単に階数・退化次数公式などと呼ばれる。", "title": "線型写像の階数" } ]
線型代数学における行列の階数は、行列の最も基本的な特性数 (characteristic) の一つで、その行列が表す線型方程式系および線型変換がどのくらい「非退化」であるかを示すものである。行列の階数を定義する方法は同値なものがいくつもある。 例えば、行列 A の階数 rank(A)は、A の列空間(列ベクトルの張るベクトル空間)の次元に等しく、また A の行空間の次元とも等しい。行列の階数は、対応する線型写像の階数である。 行列の階数の概念はジェームス・ジョセフ・シルベスターが考えた。
{{出典の明記|date=2017年7月}} [[線型代数学]]における[[行列 (数学)|行列]]の'''階数'''(かいすう、{{lang|en|''rank''}}; '''ランク''')は、行列の最も基本的な特性数 (characteristic) の一つで、その行列が表す[[線型方程式系]]および[[線型変換]]がどのくらい「非退化」であるかを示すものである。行列の階数を定義する方法は同値なものがいくつもある。 例えば、行列 {{mvar|A}} の階数 {{math|rank(''A'')}}(あるいは {{math|rk(''A'')}} または丸括弧を落として {{math|rank ''A''}})は、{{mvar|A}} の[[列空間]](列ベクトルの張るベクトル空間)の[[次元 (線型代数学)|次元]]<ref>Bourbaki, ''Algebra'', ch. II, §10.12, p. 359</ref>に等しく、また {{mvar|A}} の[[行空間]]の次元<ref name="mackiw">{{Citation | last= Mackiw | first= G. | title= A Note on the Equality of the Column and Row Rank of a Matrix | year= 1995 | journal= [[Mathematics Magazine]] | volume= 68 | issue= 4 | ref= harv}}</ref>とも等しい。行列の階数は、対応する線型写像の階数である。 行列の階数の概念は[[ジェームス・ジョセフ・シルベスター]]が考えた<ref>{{Cite |和書 | author = 黒木哲徳 | title = なっとくする数学記号 | date = 2021 | pages = 160 | publisher = 講談社 | isbn = 9784065225509 | series = ブルーバックス | ref = harv }}</ref>。 == 定義 == 任意の行列 {{mvar|A}} について、以下はいずれも同値である。 * {{mvar|A}} の列ベクトルの線型独立なものの最大個数({{mvar|A}} の列空間の次元) * {{mvar|A}} の行ベクトルの線型独立なものの最大個数({{mvar|A}} の行空間の次元) * {{mvar|A}} に[[行列の基本変形|基本変形]]を施して[[階段行列]] {{mvar|B}} を得たとする。このときの {{mvar|B}} の零ベクトルでない行(または列)の個数(階段の段数とも表現される) * 表現行列 {{mvar|A}} の[[線型写像]]の像空間の[[次元]]。詳しくは[[#線型写像の階数]]を参照。 * {{mvar|A}} の 0 でないような[[行列式#小行列式|小行列式]]の最大サイズ * {{mvar|A}} の[[特異値]]の数 文献により、上記の条件のいずれかを以って行列 {{mvar|A}} の階数は定義される。 === 注意 === いま {{mvar|A}} の列空間の次元を「列階数」、行空間の次元を「行階数」と呼べば、[[線型代数学の基本定理|線型代数学における基本的な結果]]の一つとして、列階数と行階数は常に一致するという事実が成立するから、それらを単に {{mvar|A}} の階数と呼ぶことができる。これについて、{{harvtxt|Wardlaw|2005}}<ref name="wardlaw">{{Citation | last= Wardlaw | first= William P. | title= Row Rank Equals Column Rank | year= 2005 | journal= [[Mathematics Magazine]] | volume= 78 | issue= 4 | doi= 10.1080/0025570X.2005.11953349 | ref= harv}}</ref> はベクトルの[[線型結合]]の基本性質に基づく四文証明を与えた(これは任意の[[可換体|体]]上で有効である)。また、{{harvtxt|Mackiw|1995}} <ref name="mackiw" />は[[実数]]体上の行列に対して有効な、[[直交|直交性]]を用いたエレガントな別証明を与えている。両証明とも教科書 {{harvtxt|Banerjee|Roy|2014}} <ref name="banerjee-roy">{{Citation | last = Banerjee | first = Sudipto | last2 = Roy | first2 = Anindya | date = 2014 | title = Linear Algebra and Matrix Analysis for Statistics | series = Texts in Statistical Science | publisher = Chapman and Hall/CRC | edition = 1st | isbn = 978-1420095388 | ref= harv}}</ref>に出ている。 == 性質 == {{mvar|A}} を {{math|''m'' × ''n''}} 行列とする。また、 {{mvar|f}} を表現行列 {{mvar|A}} の線型写像とする。 === 一般の体上 === * {{math|''m'' × ''n''}} 行列の階数は[[非負整数]]で、{{mvar|m, n}} の何れも超えない。すなわち {{math|rank(''A'') &le; min(''m'', ''n'')}} が成り立つ。特に {{math|1=rank(''A'') = min(''m'', ''n'')}} のとき、{{mvar|A}} は'''最大階数'''(''full rank''; '''フルランク'''; '''充足階数'''、完全階数)を持つとかフルランク行列などといい、さもなくば{{mvar|A}} は{{ill2|階数落ち|en|rank deficient|preserve=1}} (rank deficient; 階数不足) であるという。 * {{mvar|A}} が[[零行列]]のときかつその時に限り {{math|1=rank(''A'') = 0}}. * {{mvar|f}} が[[単射]]となるための必要十分条件は、{{math|1=rank(''A'') = ''n''}}(これを {{mvar|A}} は'''列充足階数'''を持つという)となることである。 * {{mvar|f}} が[[全射]]となるための必要十分条件は、{{math|1=rank(''A'') = ''m''}} となる({{mvar|A}} が'''行充足階数'''を持つ)ことである。 * {{mvar|A}} が[[正方行列]](つまり {{math|1=''m'' = ''n''}})のとき、{{mvar|A}} が[[正則行列|正則]]であるための必要十分条件は、{{mvar|1=rank(''A'') = ''n''}}({{mvar|A}} が充足階数)となることである。 * {{mvar|B}} を任意の {{math|''n'' × ''k''}} 行列として {{math|rank(''AB'') &le; min(rank(''A''), rank(''B''))}} が成り立つ。 ** {{mvar|B}} が行充足階数 {{math|''n'' × ''k''}} 行列ならば {{math|1=rank(''AB'') = rank(''A'')}} が成り立つ。 ** {{mvar|C}} が列充足階数 {{math|''l'' × ''m''}} 行列ならば {{math|1=rank(''CA'') = rank(''A'')}} が成り立つ。 * {{math|1=rank(''A'') = ''r''}} となるための必要十分条件は、{{math|''m'' × ''m''}} 正則行列 {{mvar|X}} と {{math|''n'' × ''n''}} 正則行列 {{mvar|Y}} が存在して <math display="block">XAY =\begin{bmatrix} I_r & 0 \\ 0 & 0 \end{bmatrix}</math> が成立することである。ただし {{mvar|I{{sub|r}}}} は {{math|''r'' × ''r''}} [[単位行列]]である。右辺の行列は {{mvar|A}} の'''階数標準形'''と呼ばれる。 * {{math|1=rank(''A'') = rank(''A''{{sup|⊤}})}}( {{math|''A''{{sup|⊤}}}} は[[転置行列]]) * [[階数・退化次数の定理]]が成立 ; [[ジェームス・ジョセフ・シルベスター|シルベスター]]の階数不等式: {{math|''m'' × ''n''}} 行列 {{mvar|A}} と {{math|''n'' × ''k''}} 行列 {{mvar|B}} に対し <math display="block"> \operatorname{rank}(A) + \operatorname{rank}(B) - n \leq \operatorname{rank}(A B) </math> が成り立つ。{{efn|証明: 階数–退化次数定理を不等式 <math display="block">\dim\ker(AB) \le \dim\ker(A) + \dim\ker(B)</math> に適用すればよい}} ; フロベニウスの不等式: 行列の積 {{mvar|A, ABC, BC}} がいずれも定義されるとき、<math display="block"> \operatorname{rank}(AB) + \operatorname{rank}(BC) \le \operatorname{rank}(B) + \operatorname{rank}(ABC) </math> が成り立つ。{{efn|証明: 写像 <math display="block">C\colon \ker(ABC) / \ker(BC) \to \ker(AB) / \ker(B)</math> は矛盾なく定義されて、単射である。したがって退化次数に対する不等式が得られるが、それを階数–退化次数定理で階数に関するものへ読み替えればよい。あるいは別法として、任意の部分線型空間 {{mvar|M}} に対し {{math|dim(''AM'') ≤ dim(''M'')}} が成り立つから、これを {{mvar|BC}} の像の {{mvar|B}} の像における(直交)補空間の定める部分空間(次元は {{math|rank(''B'') &minus; rank(''BC'')}})を {{mvar|M}} として適用する。その {{mvar|A}} による像は次元 {{math|rank(''AB'') – rank(''ABC'')}} である。}} ; 劣加法性: {{mvar|A, B}} は同じ型の行列として <math display="block">\operatorname{rank}(A+ B) \le \operatorname{rank}(A) + \operatorname{rank}(B)</math> が成り立つ。この帰結として、{{nowrap|階数 {{mvar|k}}}} の行列は{{nowrap|階数 {{math|1}}}} の行列 {{mvar|k}} 個の和に書くことができ、また {{mvar|k}} 個より少ない{{nowrap|階数 {{math|1}}}}-行列の和には書けない。 === 特定の体上 === * {{mvar|A}} が[[実数]]体上の行列であるとき、{{mvar|A}} の階数は対応する[[グラム行列]]の階数に等しい。すなわち、実行列 {{mvar|A}} に対し <math display="block">\operatorname{rank}(A^{\top}A) = \operatorname{rank}(AA^{\top}) = \operatorname{rank}(A) = \operatorname{rank}(A^{\top})</math> が成り立つ。これは各々の[[核空間]]が等しいことを見れば示される。グラム行列の核は {{math|1=''A''{{sup|⊤}}''Ax'' = 0}} となるベクトル {{mvar|x}} からなる。このときさらに {{math|1=0 = ''x''{{sup|⊤}}''A''{{sup|⊤}}''Ax'' = {{abs|''Ax''}}{{exp|2}}}} も成り立つ<ref>{{cite book| last = Mirsky| first = Leonid| title = An introduction to linear algebra| year = 1955| publisher = Dover Publications| isbn = 978-0-486-66434-7 }}</ref>。 * {{mvar|A}} が[[複素数]]体上の行列であるとき、{{mvar|A}} の複素共軛行列を {{mvar|{{overline|A}}}}, [[随伴行列|共軛転置行列]]を {{mvar|A*}} と書けば、<math display="block"> \operatorname{rank}(A) = \operatorname{rank}(\overline{A}) = \operatorname{rank}(A^\mathrm{T}) = \operatorname{rank}(A^*) = \operatorname{rank}(A^*A) = \operatorname{rank}(AA^*) </math> が成り立つ。 == 階数の計算 == 例えば、行列 : <math> M = \begin{bmatrix} 4 & 2 & 1 \\ 5 & 4 & 1 \\ 1 & 2 & 0 \\ \end{bmatrix} </math> は、[[行列の基本変形|基本変形]]を行うことによって : <math> M \iff \begin{bmatrix} 1 & 2 & 3 \\ 0 & 4 & 5 \\ 0 & 0 & 0 \\ \end{bmatrix} </math> と書けるから、{{mvar|M}} の階数は {{math|1=rank ''M'' = 2}} である。実際、[第 2 行] = [第 1 行] + [第 3 行] であるから、2 行目の行ベクトルは[[線型独立]]でない。ここで、1 行目と 3行目は明らかに線型独立であるから、{{math|1=rank ''M'' = 2}} である。 [[浮動小数点]]を用いたコンピューター上の[[数値計算]]においては、この基本変形を用いたり[[LU分解]]を用いることで階数を求める方法は、精度が落ちることもあり用いられない。替わりに、[[特異値分解]](SVD)や[[QR分解]]を用いて求められる。 == 線型写像の階数 == {{mvar|V, W}} をベクトル空間とし、線型写像 {{math|''f'': ''V'' &rarr; ''W''}} が与えられたとき、{{mvar|f}} の像 {{math|''f''(''V'')}} の次元を線型写像 {{mvar|f}} の'''階数'''と呼び、{{math|rk ''f''}} や {{math|rank ''f''}} などで表す。{{mvar|V}} や {{mvar|W}} は一般に無限次元であっても、像の次元 {{math|dim ''f''(''V'')}} が有限であれば線型写像の階数の概念は意味を持つ。とくに[[有限階作用素|階数有限なる線型写像]]には[[跡 (線型代数学)|トレース]]が定義できて、古典群の表現論などで重要な役割を果たす。 {{mvar|V}} や {{mvar|W}} が有限次元ならば、行列表現によって {{mvar|f}} は表現行列 {{mvar|A{{sub|f}}}} の共軛類が対応する。このとき、線型写像の階数と行列の階数との間には {{math|1=rank ''f'' = rank ''A{{sub|f}}''}} という関係が成り立つが、行列の階数が正則行列を掛けることに関して不変であることから、この等式の成立は表現行列 {{mvar|A{{sub|f}}}} のとり方に依らない。 ベクトル空間 {{mvar|V, W}} に対して {{mvar|V}} が {{mvar|n}} 次元とすれば、線型写像 {{math|''f'': ''V'' &rarr; ''W''}} の階数は {{mvar|n}} 以下である。実際に、{{math|1=rank ''f'' = ''n''}} となるとき、線型写像 {{mvar|f}} は'''非退化'''(ひたいか、{{en|''non-degenerate'', ''full rank''}})であるという。そうでないときには、像 {{math|''f''(''V'')}} は {{mvar|f}} で {{math|0}} へ写される元の分だけ「つぶれている」と考えられ、線型写像 {{mvar|f}} の[[零空間|核]] :<math>\ker f := \{ v \in V \mid f(v)=0\} </math> の次元 {{math|dim ker ''f''}} を {{mvar|f}} の'''退化次数'''と呼ぶ。{{mvar|f}} の退化次数を {{math|nl ''f''}} や {{math|null ''f''}} などで表すことがある。次の公式 :<math> \dim V = \operatorname{rank} f + \operatorname{null}\, f. </math> が成立し、'''階数と退化次数の関係式'''あるいは簡単に'''[[階数・退化次数の定理|階数・退化次数公式]]'''などと呼ばれる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist|30em}} === 出典 === {{reflist|30em}} == 外部リンク == * {{高校数学の美しい物語|1188|行列のランク(rank)の8通りの同値な定義・性質}} * {{MathWorld|urlname=MatrixRank|title=Matrix Rank}} * {{MathWorld|urlname=Nullity|title=Nullity|author=Barile, Margherita.}} * {{PlanetMath|urlname=RankOfAMatrix|title=rank of a matrix}} * {{PlanetMath|urlname=RankOfALinearMapping|title=rank of a linear mapping}} * {{PlanetMath|urlname=ElementaryMatrixOperationsAsRankPreservingOperations|title=elementary matrix operations as rank preserving operations}} * {{PlanetMath|urlname=DeterminingRankOfMatrix|title=determining rank of matrix}} * {{ProofWiki|urlname=Definition:Rank_(Linear_Algebra)|title=Definition:Rank (Linear Algebra)}} {{線形代数}} {{DEFAULTSORT:きようれつのかいすう}} [[Category:行列|かいすう]] [[Category:数学に関する記事]]
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ローマ教会
ローマ教会(ローマきょうかい)
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ローマ教会(ローマきょうかい) カトリック教会 - ローマ教皇(法王)を最高指導者とするキリスト教最大の教派。 ローマ司教区 - ローマ教皇が司教として管轄するカトリック教会を代表するローマの教区。
'''ローマ教会'''(ローマきょうかい) * [[カトリック教会]] - [[ローマ教皇]](法王)を最高指導者とする[[キリスト教]]最大の[[教派]]。 * [[ローマ司教区]] - ローマ教皇が[[司教]]として管轄するカトリック教会を代表する[[ローマ]]の[[教区]]。 {{Aimai}} {{デフォルトソート:ろおまきようかい}}
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魏(じ) はじめ中国古代の都市国家のひとつ、今日の山西省芮城県にあった。戦国時代に領域国家に発展。中国が皇帝の下に統一されてからは諸侯・諸侯王の封号として残り、動乱時には割拠した群雄が自立しての建てた王朝の名としても使われた。ただし、後代の後漢末期・三国時代以降は、現在の河北省と河南省の境界(戦国時代には趙 (戦国)の本拠地であった)地域に魏郡が設置されるなど、時期によって異なった地域を指す場合がある。
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魏(じ) はじめ中国古代の都市国家のひとつ、今日の山西省芮城県にあった。戦国時代に領域国家に発展。中国が皇帝の下に統一されてからは諸侯・諸侯王の封号として残り、動乱時には割拠した群雄が自立しての建てた王朝の名としても使われた。ただし、後代の後漢末期・三国時代以降は、現在の河北省と河南省の境界地域に魏郡が設置されるなど、時期によって異なった地域を指す場合がある。
'''魏'''(ぎ) はじめ[[中国]]古代の[[都市国家]]のひとつ、今日の[[山西省]][[芮城県]]にあった。[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]に領域国家に発展。中国が[[皇帝]]の下に統一されてからは[[諸侯]]・[[諸侯王]]の[[封号]]として残り、動乱時には割拠した群雄が自立しての建てた王朝の名としても使われた。ただし、後代の[[後漢]]末期・[[三国時代 (中国)|三国時代]]以降は、現在の河北省と河南省の境界(戦国時代には[[趙 (戦国)]]の本拠地であった)地域に[[魏郡]]が設置されるなど、時期によって異なった地域を指す場合がある。 == 国名 == * [[魏 (春秋)]] - [[周]]の諸侯国だった古代の都市国家のひとつ。[[春秋時代]]、[[晋 (春秋)|晋]]に滅ぼされその[[邑]]となる。姓は不詳。 * [[魏 (戦国)]] - 姫姓。周王の一族という[[畢公高]]を祖とする[[畢万]]が、春秋時代に晋の[[卿]]となり食邑として封じられた国。のちにともに晋侯の重臣だった趙氏や韓氏と晋領を三分して自立、周王の封建を受けて諸侯国としての地位を獲得した。さらには[[戦国七雄]]の一つに数えられ、王号を称する領域国家に発展した。戦国時代に今の[[山西省]]西部から[[河南省]]北部を領有する。 ** → [[秦]]末に上記の魏国を[[魏咎]]が、次いで[[魏豹]]が一時再興した。 * [[魏 (三国)]] - [[三国時代 (中国)|三国時代]]、[[後漢]]の[[献帝 (漢)|献帝]]から[[禅譲]]を受けて皇位に即いた魏王[[曹丕]]が建てた王朝(220–265年)。曹魏ともいう。 * [[冉魏]] - [[五胡十六国時代]]、[[冉閔]]が立てた政権(350–352年)。 * [[翟魏]] - 五胡十六国時代、[[翟遼]]が立てた政権(388–392年)。 * [[北魏]] - [[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]、[[鮮卑]]族[[拓跋氏]]が建てた王朝(384–534年)。 ** → 534年に[[東魏]]と[[西魏]]に分裂した。 * [[隋]]末に[[李密 (隋)|李密]]が立てた政権。 == 地名 == * [[魏郡]] -[[漢|漢代]]から[[隋|隋代]]にかけて、現在の[[河北省]][[邯鄲市]]と[[河南省]][[安陽市]]にまたがる地域に置かれた郡。 == その他 == * [[魏 (姓)]] - [[漢姓]]の一つ。 == 関連項目 == * [[魏王]] *[[魏晋南北朝時代]] {{aimai}} {{DEFAULTSORT:き}}
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ジョン・ケージ
ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニア(John Milton Cage Jr.、1912年9月5日 - 1992年8月12日)は、アメリカ合衆国の音楽家、作曲家、詩人、思想家、キノコ研究家。実験音楽家として、前衛芸術全体に影響を与えている。独特の音楽論や表現によって音楽の定義をひろげた。「沈黙」を含めたさまざまな素材を作品や演奏に用いており、代表的な作品に『4分33秒』がある。 カリフォルニア州のロサンゼルスに生まれる。父のジョン・ミルトン・ケージ・シニア(1886〜1964)は発明家で、母方の叔母と叔父には音楽家がいた。父は1912年に潜水艦を建造して当時の世界記録を更新したが、ガソリン・エンジンだったため兵器には採用されなかった。ケージは家族の転居によって多くの学校に通い、サンタモニカでピアノを習いはじめる。ロサンゼルスの高校を優秀な成績で卒業し、クレアモントのポモナ・カレッジに入学したが、学業に興味を失い渡欧の計画を立てる。 1930年にパリで建築家エルノ・ゴールドフィンガーに建築を学んだのち、マジョルカではじめて作曲を行なうが、当時の作品は現存していない。31年にアメリカに戻り、ピアニストのリチャード・ビューリックに頼み込んで音楽を学ぶ。 のちにヘンリー・カウエルの紹介でアルノルト・シェーンベルクに師事し、1934年から1937年にかけて南カリフォルニア大学のシェーンベルクのクラスで学んだ。音楽の師であるシェーンベルクに弟子入りするとき「一生を音楽に捧げる気があるか」と問われた。ケージは「はい」と答え、シェーンベルクのもとで2年間音楽を学んだ。その後、シェーンベルクはケージに「音楽を書くためには、和声の感覚をもたなければならない」と言った。それを聞いたケージは自分が和声の感覚を全くもっていないことをシェーンベルクに告白した。すると、シェーンベルクは「それは君にとって音楽を続けることの障害になるだろう。ちょうど通り抜けることのできない壁につきあたるようなものだ」と伝えると、ケージは「それなら、私は壁に頭を打ち続けることに一生を捧げます」と答えた。 1933年から、現存する最初の作品を創る。1937年の文章「音楽の未来 クレイド」(『サイレンス』所収)では、電気楽器の可能性、ノイズの重視、実験的音楽センターなどのアイディアを述べている。 初期の作品はシェーンベルクの音楽を継承するかのような、音列処理やリズム処理のある作品が多数を占める。1930年代の『クラリネットのためのソナタ』やピアノのための『メタモルフォーシス』、いまや打楽器のレパートリーである打楽器合奏の為の第1から第3までの『コンストラクション』がこれにあたる。後者ではウォーター・ゴングなどの新しい奏法の発想が芽を出し始めている。 1940年に、グランドピアノの弦に異物(ゴム・木片・ボルトなど)を挟んで音色を打楽器的なものに変化させたプリペアド・ピアノを考案し、『バッカナル』で初めてこの楽器を用いる。このころからアイディアが最優先する発明作品が増え、居間にある全ての物体を叩いて音楽を作る『居間の音楽』、ピアノの蓋を閉めて声楽を伴奏する『18回目の春を迎えた陽気な未亡人』などを作曲した。 1942年にマックス・エルンストの招きでニューヨークに出て画家たちと親交を持ち、1944年、のちに生涯のパートナーとなるマース・カニンガムとの最初のジョイント・リサイタルを行なう。45年からの2年間、コロンビア大学で鈴木大拙に禅を2年間学び、東洋思想への関心も深める。1948年にはノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジで教鞭をとり、同じく教師であったバックミンスター・フラーや、生徒のロバート・ラウシェンバーグと交友を持つ。この時期の代表作である『プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード』(1946年 - 1948年)はピエール・ブーレーズから称賛され、彼との手紙のやり取りが始まるものの、後に偶然性の音楽のあり方を巡って両者は決裂した。 1951年、ハーバード大学で無響室を体験する。ケージは無響室に入ったときに体内からの音を聴き、沈黙をつくろうとしてもできないこと、自分が死ぬまで音は鳴り、死後も鳴りつづけるだろうと考えた。この体験は作風に大きな影響を与える。1954年に、ストーニー・ポイントで菌類学の勉強をはじめる。1950年代初頭には中国の易などを用いて、作曲過程に偶然性が関わる「チャンス・オペレーション」を始め、貨幣を投げて音を決めた『易の音楽』(1951年)などを作曲。演奏や聴取の過程に偶然性が関与する不確定性の音楽へと進む。やがて、それまでの西洋音楽の価値観をくつがえす偶然性の音楽を創始し、演奏者が通常の意味での演奏行為を行わない『4分33秒』(1952)などを生み出した。 ケージの作品で最も有名なもののひとつである『4分33秒』は、曲の演奏時間である4分33秒の間、演奏者が全く楽器を弾かず最後まで沈黙を通すものである。それはコンサート会場が一種の権力となっている現状に対しての異議申し立てであると同時に、観客自身が発する音、ホールの内外から聞こえる音などに聴衆の意識を向けさせる意図があったが、単なるふざけた振る舞いとみなす者、逆に画期的な音楽と評する者のあいだに論争を巻き起こした。この時期には、芸術運動のフルクサスとも関わりをもっている。 同じころには、任意の42枚のレコードをテープに録音した『心像風景第5番』も現われた。この他、ラジオを楽器に見立てて構成した『ラジオ・ミュージック』(1958年)、声楽の可能性を大幅に拡張し、ルチアーノ・ベリオの『セクエンツァIII』やディーター・シュネーベルの合唱曲『AMN』に影響を与えた『アリア』、独創的な図形楽譜の集合体である『ピアノとオーケストラのためのコンサート』などがある。 1960年代には、プラスチック板を自由に組み合わせて楽譜を作り演奏する不確定性音楽の『カートリッジ・ミュージック』(1960年)、『0分00秒』(1962年)、チェンバロを録音して変調し更に生のチェンバロと合わせる『HPSCHD』(1969年)などを発表し、著書『サイレンス』を出版した。 1962年には来日公演を果たしている。『0分00秒』の初演は東京の草月ホールでケージ自身により行われた。1963年、ニューヨークにてエリック・サティの『ヴェクサシオン』を上演する。世界で初めてサティの指示どおりに840回の反復を行ない、演奏は18時間にわたった。また、サティの『ソクラテス』から派生したピアノ曲『チープ・イミテーション』(1969年)を作曲している。この作品は『ソクラテス』のリズムだけを残し、音高をチャンス・オペレーションに基づいて新たに作曲したものである。 この頃には日本やヨーロッパからの委嘱が増える。『エチュード・オーストラルズ』(1975年)は南天球の星座図を元に作曲されており、リズム・調性を無視し残響で表現をした。ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』に基づくラジオ劇『ロアラトリオ』は、ケージの集大成的な作品であり、『フィネガンズ・ウェイク』に登場する場所で偶然に録音された音や小説の中で言及されている音、アイルランドの伝統音楽、小説から構成されたメソティクスを朗読するケージの声が重ねられてゆく。80年代のオペラ作品『ユーロペラ』I〜Vは、過去のオペラのアリアがチャンス・オペレーションの手法でコラージュされる。 その他、日本との思想的・精神的かかわりが強調された『Haikai・IとII』や『RENGA』、様々な奏者によって演奏される『龍安寺』、史上最長の演奏時間で知られ、ドイツのハルバーシュタットで機械による演奏が続いているオルガン曲『Organ2/ASLSP』(1987)などがあるが、『ASLSP』は「AS SLOW AS POSSIBLE(できるだけ遅く)」の意味であり、ブキャルディの廃教会にて、2000年から2639年にかけて演奏される予定になっているが、全く聴かない方法もあるため、古典的な意味の長大な楽曲とはとらえられない。 晩年は、ナンバー・ピースと呼ばれる題目が数字だけの作品が増える。ナンバー・ピースに属する作品は、タイトルの数字が楽器または演奏者の数(パート譜の数)を示し、その右肩の小数字が、その数のために書かれた何番目の作品なのかを示している。ピアノのための『One』などの独奏曲から、『Seven』や『Eight』などのアンサンブル曲、『101』や『103』、『108』などの巨大編成のオーケストラ曲まで、様々な作品が書かれた。中には、1人のカメラマンのための『One11』(一種の映像作品。この作品は『103』との「同時演奏」が可能。つまり、『103』は映像作品『One11』の一種のライヴ・サウンドトラックである)のような特殊な作品、笙のために書かれた作品もある。 1989年には日本の稲盛財団により京都賞思想・芸術部門を授けられている。京都賞受賞時に「絶対に正装はしない!シャツとジーンズで出る」と言い張り、関係者との間でトラブルになった。このとき、「日本の伝統衣装、たとえば羽織袴なら」というスタッフのアドヴァイスに好意を抱き、羽織袴着用での受賞となった。亡くなる直前に未完のままになっていたヴァイオリンソロのための「フリーマン・エチュード」を完成させ、ピアニストと歌手と演出家のための「ユーロペラ5」を作曲し、そのレコーディングにはケージ自身も立ち会って監修した。 晩年には、チャンス・オペレーションを用いた展覧会「ローリーホーリーオーバー サーカス」を構想していたが、1992年8月12日、脳溢血のためにニューヨークで死去した。79歳没。この展覧会は死後の1993年に実現し、日本では94年から95年にかけて水戸芸術館で開催された。 当初、ケージは自らの音楽が「実験音楽」と呼ばれることに異議を唱えた。いかなる実験も、作品が完成する前に行なわれていると考えたためである。しかしのちには、結果を予知できない行為を「実験的」と表現し、自身が特に興味をおぼえ、傾倒するすべての音楽を実験音楽と呼ぶようになった。 ケージはキノコのアマチュア研究家として、1962年にはニューヨーク菌類学会の創立に関わった。キノコを好む理由の一つは、辞書で "music" の一つ前が "mushroom" だったからだと言われている。ケージはキノコから創作や思想の着想を得ており、みずからの音楽論とキノコの関係について語り、キノコの生態が出す音について想像し、エリック・サティの音楽をキノコにたとえた。キノコの魅力として汲み尽くしがたい点をあげ、知れば知るほど識別する自信が薄れると語った。普段は火を通していた毒キノコを散歩で見つけて食べ、中毒を起こしたことがある。ケージは、キノコを麻薬として使おうと思ったことはないかと質問されたとき、麻薬には興味がなく、一度も思ったことがないと答えた。 また、キノコの性が多様であることから、人間の雌雄の概念は、本来は複雑な状態を単純化したものではないかと考え、性の多様化を提唱した。1958年のイタリア滞在の際は、テレビのクイズ番組「いちかばちか」(Lascia o Raddoppia?)に出演。菌類学について解答し、賞金500万リラと「最も好感を与える競争者賞」を得た。三宅榛名は、ニューヨークのケージの家へ行ったときに真っ黒なキノコのシチューをふるまわれている。 有用性(ユーティリティ)にもとづく独自の思想を展開し、所有や生産性のかわりに有用性を重視して生活することを提唱した。みずからをアナーキストだと見なし、政治とは支配することであり、政治、政府、官僚主義を不要だと語った。 影響を受けた思想家として、フラー、鈴木大拙、マーシャル・マクルーハン、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、ノーマン・ブラウン、マイスター・エックハルト、アナンダ・クーマラスワミ、荘子などをあげている。ケージは自身の思想について、書籍『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』で詳しく述べている。 唯一の日本人の弟子に一柳慧がいるが、伝統的な形式の交響曲も書いており、ケージの作風からは隔たりがある。 エリック・サティの研究で知られる評論家の秋山邦晴は1952年以来ケージと交流を続け、ドイツでのケージ70歳記念番組では『叙雲啓示頌』を作曲した。 秋山邦晴夫人でピアニストの高橋アキは晩年のケージと親交があり、献呈された『家具の音楽エトセトラ』を演奏している。 日本のテレビ放送にて、バラエティ番組としての内容ではあるが、ジョン・ケージの曲が何度か実演されたことがある。例として2004年5月5日、フジテレビの番組「トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜」にて「4分33秒」が紹介された。楽曲の内容については東京音楽大学教授の武田真理が解説し、収録は同年3月25日に東京渋谷Hakuju Hallにて実際に観客を集め、時間を計測した上でピアニストの神田晋一郎によって完全に実演された(ただし、放送では編集されている)。 また、2005年5月6日、テレビ朝日のタモリ倶楽部「ジョン・ケージのこれどうやって弾くの!?」特集にて司会のタモリ、進行のほんこん、ゲストの清水ミチコとまことの4人と共に、東京芸術大学講師の青島広志とソプラノ歌手の横山美奈によって下記8曲の実演や解説が試みられた。
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ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニアは、アメリカ合衆国の音楽家、作曲家、詩人、思想家、キノコ研究家。実験音楽家として、前衛芸術全体に影響を与えている。独特の音楽論や表現によって音楽の定義をひろげた。「沈黙」を含めたさまざまな素材を作品や演奏に用いており、代表的な作品に『4分33秒』がある。
{{Infobox Musician | Name = ジョン・ケージ<br /><small>John Cage</small> | Img = John Cage (1988).jpg | Img_capt = ジョン・ケージ(1988年) | Img_size = 250px | Landscape = | Background = maker | Birth_name = ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニア | Alias = | Blood = | School_background = [[ポモナ・カレッジ]]中退 | Born = {{生年月日と年齢|1912|9|5|no}} | Died = {{死亡年月日と没年齢|1912|9|5|1992|8|12}}<br />{{USA}}、[[ニューヨーク]] | Origin = {{USA1912}}、[[ロサンゼルス]] | Instrument = | Genre = [[実験音楽]](前衛音楽)<br />[[現代音楽]] | Occupation = [[作曲家]]、[[詩人]]、[[音楽理論|音楽理論家]]、[[思想家]]、キノコ研究家 | Years_active = | Label = | Production = | Associated_acts = [[マース・カニンガム]]<br />[[デイヴィッド・チューダー]]など | Influences = | URL = [http://johncage.org John Cage Trust]{{en icon}} | Notable_instruments = [[プリペアド・ピアノ]] }} {{Portal クラシック音楽}} '''ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニア'''(John Milton Cage Jr.、[[1912年]][[9月5日]] - [[1992年]][[8月12日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[音楽家]]、[[作曲家]]、[[詩人]]、思想家、キノコ研究家。[[実験音楽|実験音楽家]]として、[[アバンギャルド|前衛芸術]]全体に影響を与えている。独特の音楽論や表現によって音楽の定義をひろげた。「沈黙」を含めたさまざまな素材を作品や演奏に用いており、代表的な作品に『[[4分33秒]]』がある。 == 人物・来歴 == === 誕生-少年時代 === [[カリフォルニア州]]の[[ロサンゼルス]]に生まれる。父の[[ジョン・ミルトン・ケージ・シニア]](1886〜1964)は発明家で、母方の叔母と叔父には音楽家がいた。父は1912年に潜水艦を建造して当時の世界記録を更新したが、ガソリン・エンジンだったため兵器には採用されなかった。ケージは家族の転居によって多くの学校に通い、[[サンタモニカ]]でピアノを習いはじめる。ロサンゼルスの高校を優秀な成績で卒業し、[[:en:Claremont, California|クレアモント]]の[[:en:Pomona College|ポモナ・カレッジ]]に入学したが、学業に興味を失い渡欧の計画を立てる。 === 1930年代-40年代 === [[1930年]]に[[パリ]]で[[建築家]][[エルノ・ゴールドフィンガー]]に建築を学んだのち、マジョルカではじめて作曲を行なうが、当時の作品は現存していない。31年にアメリカに戻り、ピアニストの[[:en:Richard Buhlig|リチャード・ビューリック]]に頼み込んで音楽を学ぶ。 のちに[[ヘンリー・カウエル]]の紹介で[[アルノルト・シェーンベルク]]に師事し、[[1934年]]から[[1937年]]にかけて[[南カリフォルニア大学]]のシェーンベルクのクラスで学んだ。音楽の師であるシェーンベルクに弟子入りするとき「一生を音楽に捧げる気があるか」と問われた。ケージは「はい」と答え、シェーンベルクのもとで2年間音楽を学んだ。その後、シェーンベルクはケージに「音楽を書くためには、[[和声]]の感覚をもたなければならない」と言った。それを聞いたケージは自分が和声の感覚を全くもっていないことをシェーンベルクに告白した。すると、シェーンベルクは「それは君にとって音楽を続けることの障害になるだろう。ちょうど通り抜けることのできない壁につきあたるようなものだ」と伝えると、ケージは「それなら、私は壁に頭を打ち続けることに一生を捧げます」と答えた<ref>『サイレンス』 408頁、409頁</ref>。 1933年から、現存する最初の作品を創る。1937年の文章「音楽の未来 クレイド」(『サイレンス』所収)では、電気楽器の可能性、ノイズの重視、実験的音楽センターなどのアイディアを述べている。 初期の作品はシェーンベルクの音楽を継承するかのような、音列処理やリズム処理のある作品が多数を占める。1930年代の『クラリネットのためのソナタ』やピアノのための『メタモルフォーシス』、いまや打楽器のレパートリーである打楽器合奏の為の第1から第3までの『コンストラクション』がこれにあたる。後者では[[ウォーター・ゴング]]などの新しい奏法の発想が芽を出し始めている。 [[1940年]]に、[[グランドピアノ]]の[[弦 (楽器)|弦]]に異物(ゴム・木片・ボルトなど)を挟んで音色を[[打楽器]]的なものに変化させた[[プリペアド・ピアノ]]を考案し、『バッカナル』で初めてこの楽器を用いる。このころからアイディアが最優先する発明作品が増え、居間にある全ての物体を叩いて音楽を作る『居間の音楽』、ピアノの蓋を閉めて声楽を伴奏する『18回目の春を迎えた陽気な未亡人』などを作曲した。 [[1942年]]に[[マックス・エルンスト]]の招きで[[ニューヨーク]]に出て画家たちと親交を持ち、[[1944年]]、のちに生涯のパートナーとなる[[マース・カニンガム]]との最初のジョイント・リサイタルを行なう。45年からの2年間、[[コロンビア大学]]で[[鈴木大拙]]に[[禅]]を2年間学び、[[東洋思想]]への関心も深める。[[1948年]]には[[ノースカロライナ州]]の[[:en:Black Mountain College|ブラック・マウンテン・カレッジ]]で教鞭をとり、同じく教師であった[[バックミンスター・フラー]]や、生徒の[[ロバート・ラウシェンバーグ]]と交友を持つ。この時期の代表作である『プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード』([[1946年]] - [[1948年]])は[[ピエール・ブーレーズ]]から称賛され、彼との手紙のやり取りが始まるものの、後に偶然性の音楽のあり方を巡って両者は決裂した。 === 1950年代-60年代 === 1951年、[[ハーバード大学]]で[[無響室]]を体験する。ケージは無響室に入ったときに体内からの音を聴き、沈黙をつくろうとしてもできないこと、自分が死ぬまで音は鳴り、死後も鳴りつづけるだろうと考えた。この体験は作風に大きな影響を与える<ref>『サイレンス』 25頁、36頁</ref>。1954年に、[[:en:Stony_Point,_New_York|ストーニー・ポイント]]で菌類学の勉強をはじめる。[[1950年代]]初頭には中国の[[易]]などを用いて、作曲過程に偶然性が関わる「[[チャンス・オペレーション]]」を始め、貨幣を投げて音を決めた『易の音楽』(1951年)などを作曲。演奏や聴取の過程に偶然性が関与する[[不確定性の音楽]]へと進む。やがて、それまでの[[西洋音楽]]の価値観をくつがえす[[偶然性の音楽]]を創始し、演奏者が通常の意味での演奏行為を行わない『4分33秒』(1952)などを生み出した。 ケージの作品で最も有名なもののひとつである『4分33秒』は、曲の演奏時間である4分33秒の間、演奏者が全く楽器を弾かず最後まで沈黙を通すものである。それはコンサート会場が一種の権力となっている現状に対しての異議申し立てであると同時に、観客自身が発する音、ホールの内外から聞こえる音などに聴衆の意識を向けさせる意図があったが、単なるふざけた振る舞いとみなす者、逆に画期的な音楽と評する者のあいだに論争を巻き起こした。この時期には、芸術運動の[[フルクサス]]とも関わりをもっている。 同じころには、任意の42枚のレコードをテープに録音した『心像風景第5番』も現われた。この他、ラジオを楽器に見立てて構成した『ラジオ・ミュージック』(1958年)、声楽の可能性を大幅に拡張し、[[ルチアーノ・ベリオ]]の『[[セクエンツァ (ベリオ)|セクエンツァ]]III』や[[ディーター・シュネーベル]]の合唱曲『AMN』に影響を与えた『[[アリア]]』、独創的な図形楽譜の集合体である『ピアノとオーケストラのためのコンサート』などがある。 1960年代には、プラスチック板を自由に組み合わせて楽譜を作り演奏する[[偶然性の音楽|不確定性音楽]]の『カートリッジ・ミュージック』(1960年)、『[[0分00秒]]』(1962年)、チェンバロを録音して変調し更に生のチェンバロと合わせる『HPSCHD』(1969年)などを発表し、著書『サイレンス』を出版した。 1962年には来日公演を果たしている。『[[0分00秒]]』の初演は[[東京]]の[[草月ホール]]でケージ自身により行われた。1963年、ニューヨークにて[[エリック・サティ]]の『[[ヴェクサシオン]]』を上演する。世界で初めてサティの指示どおりに840回の反復を行ない、演奏は18時間にわたった。また、サティの『ソクラテス』から派生したピアノ曲『チープ・イミテーション』(1969年)を作曲している。この作品は『ソクラテス』のリズムだけを残し、音高をチャンス・オペレーションに基づいて新たに作曲したものである。 === 1970年代以降 === この頃には日本やヨーロッパからの委嘱が増える。『エチュード・オーストラルズ』(1975年)は南天球の星座図を元に作曲されており、[[リズム]]・[[調性]]を無視し[[残響]]で表現をした。[[ジェイムズ・ジョイス]]の『[[フィネガンズ・ウェイク]]』に基づくラジオ劇『ロアラトリオ』は、ケージの集大成的な作品であり、『フィネガンズ・ウェイク』に登場する場所で偶然に録音された音や小説の中で言及されている音、アイルランドの伝統音楽、小説から構成されたメソティクスを朗読するケージの声が重ねられてゆく。80年代のオペラ作品『ユーロペラ』I〜Vは、過去のオペラのアリアがチャンス・オペレーションの手法でコラージュされる。 その他、日本との思想的・精神的かかわりが強調された『Haikai・IとII』や『RENGA』、様々な奏者によって演奏される『龍安寺』、史上最長の演奏時間で知られ、[[ドイツ]]の[[ハルバーシュタット]]で機械による演奏が続いているオルガン曲『[[オルガン²/ASLSP|Organ²/ASLSP]]』(1987)などがあるが、『ASLSP』は「'''A'''S '''SL'''OW A'''S''' '''P'''OSSIBLE(できるだけ遅く)」の意味であり、ブキャルディの廃教会にて、[[2000年]]から[[2639年]]にかけて演奏される予定になっているが、全く聴かない方法もあるため、古典的な意味の長大な楽曲とはとらえられない<ref>詳細は [http://www.john-cage.halberstadt.de/ John-Cage-Orgelprojekt Halberstadt](英語・ドイツ語)を参照</ref>。 === 晩年 === 晩年は、[[:en:Number Pieces|ナンバー・ピース]]と呼ばれる題目が数字だけの作品が増える。ナンバー・ピースに属する作品は、タイトルの数字が楽器または演奏者の数(パート譜の数)を示し、その右肩の小数字が、その数のために書かれた何番目の作品なのかを示している。ピアノのための『One』などの独奏曲から、『Seven』や『Eight』などのアンサンブル曲、『101』や『103』、『108』などの巨大編成のオーケストラ曲まで、様々な作品が書かれた。中には、1人のカメラマンのための『One11』(一種の映像作品。この作品は『103』との「同時演奏」が可能。つまり、『103』は映像作品『One11』の一種のライヴ・サウンドトラックである)のような特殊な作品、[[笙]]のために書かれた作品もある。 [[1989年]]には日本の稲盛財団により[[京都賞思想・芸術部門]]を授けられている。京都賞受賞時に「絶対に正装はしない!シャツとジーンズで出る」と言い張り、関係者との間でトラブルになった。このとき、「日本の伝統衣装、たとえば[[羽織]][[袴]]なら」というスタッフのアドヴァイスに好意を抱き、羽織袴着用での受賞<ref>{{Cite web|和書|url = https://web.archive.org/web/20191220072838/https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/99/5519b09c7faa16315db060259b605283.jpg|title = 羽織袴|website = blogimg.goo.ne.jp|publisher = ジョン・ケージ京都賞受賞のため来日(1989)|date = |accessdate = 2019-12-20}}</ref>となった。亡くなる直前に未完のままになっていたヴァイオリンソロのための「フリーマン・エチュード」を完成<ref>{{Cite web|和書|url = https://web.archive.org/web/20191220073336/https://www.music-bazaar.com/album-images/vol1008/642/642277/2488071-big/Freeman-Etudes-Books-3-4-2-picture.jpg|title = フリーマン・エチュード3&4|website = www.music-bazaar.com|publisher = MUSIC BAZAAR |date = |accessdate = 2019-12-20}}</ref>させ、ピアニストと歌手と演出家のための「ユーロペラ5」を作曲し、そのレコーディングにはケージ自身も立ち会って監修<ref>{{Cite web|和書|url = https://web.archive.org/web/20191220073529/https://http2.mlstatic.com/cd-john-cage-europera-5-D_NQ_NP_765567-MLB26700691047_012018-F.webp|title = ユーロペラ 5|website = http2.mlstatic.com|publisher = mlstatic |date = |accessdate = 2019-12-20}}</ref>した。 晩年には、チャンス・オペレーションを用いた展覧会「[[ローリーホーリーオーバー サーカス]]」を構想していたが、[[1992年]]8月12日、脳溢血のためにニューヨークで死去した。{{没年齢|1912|9|5|1992|8|12}}。この展覧会は死後の[[1993年]]に実現し、日本では94年から95年にかけて[[水戸芸術館]]で開催された。 == 音楽思考 == 当初、ケージは自らの音楽が「実験音楽」と呼ばれることに異議を唱えた。いかなる実験も、作品が完成する前に行なわれていると考えたためである。しかしのちには、結果を予知できない行為を「実験的」と表現し、自身が特に興味をおぼえ、傾倒するすべての音楽を実験音楽と呼ぶようになった<ref>『サイレンス』 24頁、33頁</ref>。 ;音 :実験音楽においては、音以外に何も起らない。楽譜にない音は沈黙となって現われるが、外界に生じる音に対して開かれていることを意味する。音は常に存在しており、音はあるがままにして聴くべきである。そして実験的な行為は、通知された行為とは異なり、物事をあるがままにとらえるとしている。こうした考えは、無響室での体験がもとになっている。 ;音楽 :音楽という言葉を、「音の組織化」という表現に置き換えようと提案した。音楽という表現は、18世紀から19世紀にかけて完成された楽器を使ったものに使われすぎていると考えた<ref>『サイレンス』 18頁</ref>。 ;作曲者、演奏者、聴衆の関係 :ケージの作品は、演奏者によって内容が大きく異なる。彼は演奏者が作曲者になり、聴衆が演奏者になり、作曲家が聴衆になり、音によって互いに浸透すると考えた<ref>『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』 119頁</ref>。 ;レコード :レコードを用いた作品を発表したが、自作をレコードに録音することには積極的でなく、レコードを「景色を台無しにしてしまう絵葉書」と呼んだ<ref>『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』 27頁</ref>。ただし、CD時代には考えは変わり、moderecordsのケージ全集の初期のリリースは自らが監修していた<ref>{{Cite web |url = http://www.moderecords.com/order.html|title = order|website = www.moderecords.com|publisher = Mode Records|date = |accessdate = 2020-01-01}}</ref>。 == キノコ研究 == ケージは[[キノコ]]のアマチュア研究家として、1962年にはニューヨーク菌類学会の創立に関わった。<ref>『きのこる キノコLOVE111』104頁</ref>キノコを好む理由の一つは、辞書で "music" の一つ前が "mushroom" だったからだと言われている。<ref>『きのこる キノコLOVE111』104頁</ref>ケージはキノコから創作や思想の着想を得ており、みずからの音楽論とキノコの関係について語り、キノコの生態が出す音について想像し、エリック・サティの音楽をキノコにたとえた。キノコの魅力として汲み尽くしがたい点をあげ、知れば知るほど識別する自信が薄れると語った。普段は火を通していた毒キノコを散歩で見つけて食べ、中毒を起こしたことがある。ケージは、キノコを麻薬として使おうと思ったことはないかと質問されたとき、麻薬には興味がなく、一度も思ったことがないと答えた<ref>『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』 191頁</ref>。 また、キノコの性が多様であることから、人間の雌雄の概念は、本来は複雑な状態を単純化したものではないかと考え、性の多様化を提唱した<ref>『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』 186頁、190頁、237頁</ref>。1958年のイタリア滞在の際は、テレビのクイズ番組「いちかばちか」([[:it:Lascia o raddoppia?|Lascia o Raddoppia?]])に出演。菌類学について解答し、賞金500万リラと「最も好感を与える競争者賞」を得た<ref>『きのこる キノコLOVE111』104頁-105頁</ref>。[[三宅榛名]]は、ニューヨークのケージの家へ行ったときに真っ黒なキノコのシチューをふるまわれている<ref>『「ジョン・ケージのローリーホーリーオーバー サーカス」記録集』 29頁</ref>。 == 思想 == 有用性(ユーティリティ)にもとづく独自の思想を展開し、所有や生産性のかわりに有用性を重視して生活することを提唱した。みずからを[[アナーキスト]]だと見なし、政治とは支配することであり、政治、政府、官僚主義を不要だと語った。 影響を受けた思想家として、フラー、[[鈴木大拙]]、[[マーシャル・マクルーハン]]、[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]]、[[ノーマン・ブラウン]]、[[マイスター・エックハルト]]、[[:en:Ananda Coomaraswamy|アナンダ・クーマラスワミ]]、[[荘子]]などをあげている。ケージは自身の思想について、書籍『[[ジョン・ケージ 小鳥たちのために]]』で詳しく述べている。 == 受容と影響 == 唯一の日本人の弟子に[[一柳慧]]がいるが、伝統的な形式の[[交響曲]]も書いており、ケージの作風からは隔たりがある。 エリック・サティの研究で知られる評論家の[[秋山邦晴]]は1952年以来ケージと交流を続け、ドイツでのケージ70歳記念番組では『叙雲啓示頌』を作曲した。 秋山邦晴夫人でピアニストの[[高橋アキ]]は晩年のケージと親交があり、献呈された『家具の音楽エトセトラ』を演奏している<ref>『「ジョン・ケージのローリーホーリーオーバー サーカス」記録集』 26頁</ref>。 == 主要作品 == {{main|ジョン・ケージの楽曲一覧}} === 音楽 === *[[クラリネットソナタ (ケージ)|クラリネットのためのソナタ]] ([[1933年]]) *6つの短いインヴェンション ([[1934年]]) *{{仮リンク|コンストラクション|en|Construction (Cage)}} ([[1937年]]) *バッカナル ([[1938年]]) *{{仮リンク|心象風景第1番|en|Imaginary Landscape No. 1}} ([[1939年]]) *[[居間の音楽]] ([[1940年]]) *ダブル・ミュージック ([[1940年]]) - [[ルー・ハリソン]]との共作 *町はソフト帽をかぶっている ([[1941年]]) - 詩人[[:en:Kenneth Patchen|ケネス・パッチェン]]との共作 *18の春を迎えた陽気な未亡人 ([[1942年]]) - 歌詞は作家[[ジェイムズ・ジョイス]]の小説「[[フィネガンズ・ウェイク]]」より *[[ソナタとインターリュード]] ([[1948年]]) *トイ・ピアノのためのソナタ ([[1948年]]) *[[易の音楽]] ([[1951年]]) *Haiku ([[1951年]]) *[[4分33秒]] ([[1952年]]) *ピアノとオーケストラのためのコンサート ([[1957年]]-[[1958年]]) *ラジオ・ミュージック ([[1958年]]) *{{仮リンク|ヴァリエーションズ|en|Variations (Cage)}} ([[1958年]]-[[1978年]]) *アリア ([[1958年]]) *カートリッジ・ミュージック ([[1960年]]) *[[0分00秒]] ([[1962年]]) *ローツァルト・ミックス ([[1965年]]) *ミュージサーカス ([[1967年]]) *HPSCHD ([[1969年]]) *{{仮リンク|チープ・イミテーション|en|Cheap Imitation}} ([[1969年]]) *{{仮リンク|ソング・ブックス|en|Song Books (Cage)}} ([[1970年]]) *{{仮リンク|エチュード・オーストラル|en|Etudes Australes}} ([[1975年]]) *RENGA ([[1975年]]-[[1976年]]) *{{仮リンク|アパートメントハウス1776|en|Apartment House 1776}} ''([[1976年]]) '' *[[フリーマン・エチュード]] ([[1977年]]-[[1990年]]) *龍安寺 ([[1983年]]-[[1985年]]<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20021201093609/http://www.johncage.info/index2.html|title = Catalog of Cage's music|website = www.johncage.info|publisher = André Chaudron's JOHN CAGE database|date = |accessdate = 2019-12-21}}</ref>) *{{仮リンク|ユーロペラ|en|Europeras}} ([[1985年]]-[[1991年]]) *[[オルガン²/ASLSP]] ([[1987年]]) *Haikai ([[1990年]]) === 楽器 === *[[ウォーター・ゴング]] ([[1934年]]) *[[プリペアド・ピアノ]] ([[1938年]]) === 絵画 === *『表面』 ([[1980年]]) *『シリーズ』 ([[1988年]]) *『ニュー・リバー・ウォーターカラー』 ([[1990年]]) *『食べられるドローイング』 ([[1990年]]) === パフォーマンス === *''Composition as Process'' 『プロセスとしての作曲』 ([[1958年]]) - [[ダルムシュタット]]の国際現代音楽講習のための講演。チャンス・オペレーションを用いている *''[[:en:Roaratorio|Roaratorio]]'' 『ロアラトリオ』 ([[1979年]]) - [[ジェイムズ・ジョイス]]の『[[フィネガンズ・ウェイク]]』をもとにしたラジオ劇 *''Mushrooms et Variations'' 『キノコのバリエーション』 ([[1985年]]) - ラジオ劇 === 書籍、テキスト === *''Virgil Thomson'' (1959) - [[ヴァージル・トムソン]]の伝記。共著 *''[[:en:Silence: Lectures and Writings|Silence]]'' (1961) 邦訳『[[サイレンス (ジョン・ケージ)|サイレンス]]』 [[柿沼敏江]]訳、[[水声社]]、1996年。 *''[[:en:A Year from Monday|A Year from Monday]]'' (1968) *''[[:en:M (John Cage book)|M]]'' (1973) *''John Cage, Pour les oiseaux'' (1976) 邦訳『[[ジョン・ケージ 小鳥たちのために]]』 [[ダニエル・シャルル]]との共著、[[青山マミ]]訳、[[青土社]]、1982年。 - 年譜を収録 *''[[:en:Empty Words|Empty Words]]'' (1979) * 『音楽の零度――ジョン・ケージの世界』 [[近藤譲]]編訳、[[朝日出版社]]、1980年。 *''[[:en:X (John Cage book)|X]]'' (1983) *''Anarchy'' (1988) * Kathan Brown,''John Cage VISUAL ART'', Crown Point Press (2001) * 『ジョン・ケージ著作選』 [[小沼純一]]訳、[[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉、2009年。 === 展覧会 === *''Rolywholyover A Circus'' 「[[ローリーホーリーオーバー サーカス]]」(1993年-) == その他 == 日本のテレビ放送にて、[[バラエティ番組]]としての内容ではあるが、ジョン・ケージの曲が何度か実演されたことがある。例として2004年5月5日、[[フジテレビ]]の番組「[[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜]]」にて「[[4分33秒]]」が紹介された。楽曲の内容については[[東京音楽大学]]教授の武田真理が解説し、収録は同年3月25日に東京渋谷[[Hakuju Hall]]にて実際に観客を集め、時間を計測した上でピアニストの神田晋一郎によって完全に実演された(ただし、放送では編集されている)。<br /> また、2005年5月6日、[[テレビ朝日]]の[[タモリ倶楽部]]「ジョン・ケージのこれどうやって弾くの!?」特集にて司会の[[タモリ]]、進行の[[ほんこん]]、ゲストの[[清水ミチコ]]と[[まこと_(ミュージシャン)|まこと]]の4人と共に、[[東京芸術大学]]講師の[[青島広志]]と[[ソプラノ歌手]]の[[横山美奈]]によって下記8曲の実演や解説が試みられた。 *1. 4'33"『4分33秒』- ピアノ演奏:青島広志 *2. Concert for Piano and Orchestra『ピアノとオーケストラのためのコンサート』(譜面A) - ピアノ演奏:青島広志、タモリ、清水ミチコ *3. Concert for Piano and Orchestra『ピアノとオーケストラのためのコンサート』(譜面I) - ピアノ演奏:青島広志 *4. Concert for Piano and Orchestra『ピアノとオーケストラのためのコンサート』(譜面M) - オルガン演奏:青島広志、横山美奈 *5. Concert for Piano and Orchestra『ピアノとオーケストラのためのコンサート』(譜面P) - ピアノ演奏:タモリ、まこと *6. Concert for Piano and Orchestra『ピアノとオーケストラのためのコンサート』(譜面T) - オルガン演奏:青島広志、清水ミチコ、まこと *7. Concert for Piano and Orchestra『ピアノとオーケストラのためのコンサート』(譜面AC) - ピアノ演奏:青島広志、タモリ、ほんこん *8. The Wonderful Widow of Eighteen Springs『18の春を迎えた陽気な未亡人』※ - ピアノ演奏:青島広志、ソプラノ:横山美奈 ※番組中の曲名は「18回目の春を迎えた素晴らしい未亡人」 == 関連文献 == *[[庄野進]] 「転換期の音楽としての John Cage の偶然性による音楽」 『音楽学』第22巻3号、1976年。 *[[ダニエル・シャルル]] 「ジョン・ケージ年譜」 『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』所収 [[青土社]]、1982年、256頁。 *『「ジョン・ケージのローリーホーリーオーバー サーカス」記録集』 水戸芸術館現代美術センター、1995年。 *ジョン・ケージ特集 『水声通信 no.16』 [[水声社]]、2007年。 *堀博美 「ジョン・ケージ-42歳できのこに目覚め、ニューヨーク菌類学会設立メンバーに!」『きのこる キノコLOVE111』所収 [[山と渓谷社]]、2010年、104頁–105頁.ISBN 978-4-635-33051-0 *Arena, Leonardo Vittorio. 2013. 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ISBN 978-0-19-516979-9 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈・出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{wikiquotelang|en|John Cage|ジョン・ケージ}} * [http://johncage.org/ John Cage Official Website | John Cage Trustによるオフィシャルウェブサイト](英語) * [http://musicircus.on.coocan.jp/cage/jc_links.htm ジョン・ケージ関連リンク集] musicircus * [http://revista.escaner.cl/node/529 現代雅楽 John Cage | Adolfo Vásquez Rocca PH.D.] * [http://www.johncage.info/ John Cage Database](英語) * John Cage at UbuWeb: [http://www.ubu.com/historical/cage/index.html historical], [http://www.ubu.com/sound/cage.html sound], [http://www.ubu.com/film/cage.html film](映画) * [https://www.happano.org/8-johncage ブルース・ダフィーによるインタビュー(1987年6月21日)日本語訳] * [https://artscape.jp/artword/index.php/ref_person/ジョン・ケージ(John%20Milton%20Cage%20Jr.) 「関連人物」に“ジョン・ケージ”を含む用語] (五十音順) アートスケープ {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けえし しよん}} [[Category:20世紀アメリカ合衆国の詩人]] [[Category:アメリカ合衆国の作曲家]] [[Category:現代音楽の作曲家]] [[Category:ポストモダン作曲家]] [[Category:オペラ作曲家]] [[Category:実験音楽家]] [[Category:実験音楽の作曲家]] [[Category:アメリカ合衆国の著作家]] [[Category:アメリカ合衆国の発明家]] [[Category:アメリカ合衆国の菌類学者]] [[Category:アメリカ合衆国のアナキスト]] [[Category:アメリカ合衆国の禅宗]] [[Category:京都賞思想・芸術部門受賞者]] [[Category:グッゲンハイム・フェロー]] [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]] [[Category:アメリカ芸術文学アカデミー会員]] [[Category:フルクサス]] [[Category:ブラックマウンテン大学の教員]] [[Category:コロンビア大学出身の人物]] [[Category:ロサンゼルス出身の人物]] [[Category:カリフォルニア州のLGBTの人物]] [[Category:アメリカ合衆国出身のLGBTの音楽家]] [[Category:アメリカ合衆国出身のLGBTの芸術家]] [[Category:LGBTの仏教徒]] [[Category:LGBTのクラシック音楽の作曲家]] [[Category:バイセクシュアルの音楽家]] [[Category:バイセクシュアルの男性]] [[Category:禅に関連する人物]] [[Category:1912年生]] [[Category:1992年没]]
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1211年
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1211年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1211}} {{year-definition|1211}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[辛未]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[承元]]5年、[[建暦]]元年[[3月9日 (旧暦)|3月9日]] - ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1871年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[南宋]] : [[嘉定 (南宋)|嘉定]]4年 ** [[金 (王朝)|金]] : [[大安 (金)|大安]]3年 * 中国周辺 ** [[西遼]] : [[天禧 (西遼)|天禧]]34年? ** [[西夏]]{{Sup|*}} : [[皇建 (西夏)|皇建]]2年、[[光定 (西夏)|光定]]元年旧8月 - ** [[モンゴル帝国]]{{Sup|*}} : 太祖([[チンギス・カン|チンギス・ハーン]])6年 ** [[大理国]] : [[天開 (大理)|天開]]7年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[熙宗 (高麗王)|熙宗]]7年 ** [[檀君紀元|檀紀]] : 3544年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[建嘉]]元年 * [[仏滅紀元]] : 1753年 - 1754年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 607年 - 608年 * [[ユダヤ暦]] : 4971年 - 4972年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1211|Type=J|表題=可視}} == できごと == * 春 - [[チンギス・カン|チンギスハーン]]が[[金 (王朝)|金]]王朝への攻撃を開始。金王朝が内蒙古(今の[[内蒙古自治区]])に所有していた牧場を襲撃し、大量の馬を強奪する。 * [[西遼]]はチンギス・ハーンの元へ帰参した[[クチュルク]]により国を簒奪され、西遼は滅びた。 == 誕生 == {{see also|Category:1211年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[安達長泰]]、[[鎌倉時代]]の[[御家人]](+ [[1262年]]) * [[カジミェシュ1世 (クヤヴィ公)|カジミェシュ1世]]、[[クヤヴィ]]公、[[シェラツ]]公、[[ウェンチツァ]]公、[[ドブジン]]公(+ [[1267年]]) * [[ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアン]]、第4代[[アカイア公国|アカイア公]](+ [[1278年]]) * [[吉良長氏]]、鎌倉時代の御家人(+ [[1290年]]) * [[九条教実]]、鎌倉時代の[[公卿]](+ [[1235年]]) * [[サイイド・アジャッル]]、[[ブハラ]]出身の[[モンゴル帝国]]の[[官僚]](+ [[1279年]]) * [[陳柳]]、[[大越]][[陳朝]]の王族、武将(+ [[1251年]]) * [[ハインリヒ7世 (ドイツ王)|ハインリヒ7世]]、[[ローマ王|ドイツ王]](+ [[1242年]]) == 死去 == {{see also|Category:1211年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[5月16日]] - [[ミェシュコ1世プロントノギ]]、[[シロンスク公国|シロンスク公]]、[[ラチブシュ]]公、[[オポーレ公国|オポーレ公]]、[[長子領|クラクフ公]]、[[ポーランド大公]](* [[1130年]]) * [[8月1日]](建暦元年[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]) - [[藤原季能]]、平安時代、鎌倉時代の[[公卿]](* [[1153年]]) * [[8月6日]](建暦元年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]) - [[暲子内親王]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[皇族]](* [[1137年]]) * [[アレクシオス3世アンゲロス]]、[[東ローマ帝国]][[アンゲロス王朝]]の第2代[[皇帝]](* [[1156年]]) * [[襄宗 (西夏)|襄宗]]、[[西夏]]の第7代皇帝(* [[1170年]]) <!--== 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1211}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=13|年代=1200}} {{デフォルトソート:1211ねん}} [[Category:1211年|*]]
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1449年
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{{年代ナビ|1449}} {{year-definition|1449}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[己巳]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[文安]]6年、[[宝徳]]元年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]([[ユリウス暦]][[8月16日]]) ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2109年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[正統 (明)|正統]]14年 *** [[陳鑑胡]] : [[泰定 (陳鑑胡)|泰定]]2年 *** [[黄蕭養]] : [[東陽 (黄蕭養)|東陽]]元年9月 - * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[世宗 (朝鮮王)|世宗]]31年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3782年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[大和 (黎朝)|大和]]7年 * [[仏滅紀元]] : 1991年 - 1992年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 852年 - 853年 * [[ユダヤ暦]] : 5209年 - 5210年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1449|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[1月]] - [[室町幕府]]が[[鎌倉公方]]を再興し、[[足利持氏]]の遺児[[足利成氏|成氏]]が任命される。 * [[4月29日]] - [[足利義政]]が室町幕府第8代[[征夷大将軍|将軍]]になる。 * [[9月1日]](正統14年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]) - [[土木の変]]。[[明]]の[[英宗 (明)|英宗]]が[[エセン・ハーン]]の捕虜となる。 * [[11月10日]] - [[百年戦争]]で[[フランス]]軍が[[イングランド]]軍から[[ルーアン]]を奪還。 == 誕生 == {{see also|Category:1449年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]] - [[ロレンツォ・デ・メディチ]]、[[フィレンツェ共和国]]の実質的な統治者、[[メディチ家]]の当主(+ [[1492年]]) * [[4月27日]](文安6年[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]) - [[朝倉氏景 (8代当主)|朝倉氏景]]、[[室町時代]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[戦国大名]]、[[朝倉氏]]の第8代当主(+ [[1486年]]) * [[7月12日]](文安6年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]) - [[小田成治]]、室町時代、戦国時代の戦国大名、[[常陸国|常陸]][[小田氏]]当主(+ [[1514年]]) * [[10月21日]] - [[ジョージ・プランタジネット (クラレンス公)|ジョージ・プランタジネット]]、[[イングランド]]の貴族、[[クラレンス公]]、[[ウォリック伯]]、[[ソールズベリー伯]](+ [[1478年]]) * [[11月11日]] - [[カテジナ・ス・ポジェブラト]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[マーチャーシュ1世 (ハンガリー王)|マーチャーシュ1世]]の最初の妃(+ [[1464年]]) * [[11月14日]] - [[ズデンカ・ス・ポジェブラト]]、[[ザクセン君主一覧|ザクセン公]][[アルブレヒト3世 (ザクセン公)|アルブレヒト3世]]の妃(+ [[1510年]]) * [[菊池重朝]]、室町時代、戦国時代の戦国大名、[[菊池氏]]の第21代当主(+ [[1493年]]) * [[北畠政郷]]、室町時代、戦国時代の[[公卿]]、[[守護]]、[[伊勢国|伊勢]][[国司]][[北畠家]]の第5代当主(+ [[1508年]]) * [[京極政光]]、室町時代の武将(+ [[1472年]]) * [[ドメニコ・ギルランダイオ]]、[[ルネサンス]]期のフィレンツェの[[画家]](+ [[1494年]]) * [[渋川政実]]、室町時代の武将(+ [[1475年]]) * [[長野藤継]]、室町時代、戦国時代の戦国大名、[[長野工藤氏]]の第11代当主(+ [[1486年]]) == 死去 == {{see also|Category:1449年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月21日]](文安6年[[2月27日 (旧暦)|2月27日]]) - [[上杉房朝]]、[[室町時代]]の[[越後国]][[守護]](* [[1421年]]) * [[4月5日]](文安6年[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]) - [[勧修寺経直]]、室町時代の[[公卿]](* 生年不詳) * [[5月20日]] - [[ペドロ・デ・ポルトゥガル (コインブラ公)|ペドロ・デ・ポルトゥガル]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]の[[アヴィス王朝|アヴィス家]]の王族、[[コインブラ公]](* [[1392年]]) * [[5月25日]](文安6年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]]) - [[九条満家]]、室町時代の公卿、[[関白]](* [[1394年]]) * [[8月13日]] - [[ルートヴィヒ4世 (プファルツ選帝侯)|ルートヴィヒ4世]]、[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]](* [[1424年]]) * [[10月27日]] - [[ウルグ・ベク]]、[[ティムール朝]]の第4代君主(* [[1394年]]) * [[10月29日]] - [[尚思達王]]、[[琉球王国]]の[[第一尚氏王統]]第4代国王、第3代[[琉球国王]](* [[1408年]]) * [[王振]]、[[明]]の[[宦官]](* 生年不詳) * [[朱勇]]、明の将軍(* [[1405年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1449}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=15|年代=1400}} {{デフォルトソート:1449ねん}} [[Category:1449年|*]]
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青春ラジメニア
青春ラジメニア(せいしゅんラジメニア)は、ラジオ関西で放送されているアニメファン向けラジオ番組(アニラジ)である。 『アニメ玉手箱』(以下アニ玉)の後番組として、1989年4月1日に放送開始。ラジオ関西本社制作のアニラジ番組で、神戸ハーバーランドの本社スタジオから放送されている。 2017年12月23日に1500回を迎え、2019年4月に放送開始30周年を迎えた、ラジオ関西が誇る長寿番組。2019年4月現在で放送が続いているアニラジとしてはもちろんのこと、終了した番組を含めても『mamiのRADIかるコミュニケーション』(東海ラジオ他、1984年10月13日 - 2009年10月4日)などを超えた、最長寿番組である。リスナーは“ラジメニアン”と呼ばれる。 放送開始から2007年9月29日までの間、18年半にわたって曜日および放送時間帯の変更はあったものの2時間の生放送であったが、2007年10月6日より「1時間の録音放送番組」として『アニ玉』末期時代とほぼ同じ体制に先祖帰りする形で再スタートした。 2006年6月24日の放送で900回を迎えた際に「かおりんのめちゃ聴きたいねんスペシャル」が放送された。2008年10月から、同じパーソナリティーが担当する『青春ラジメニアZ』が同じ土曜日21:00 - 21:50に生放送で開始、従来の放送(通称『本家』)と合わせての2部構成となった。 2010年4月3日からは今までの『青春ラジメニアZ』を『青春ラジメニア』に変更し、放送枠も土曜日19:00 - 22:00に拡大され3時間の生放送となっている。また今までの『青春ラジメニア』(日曜日0:00 - 1:00)の放送も、同月4日から番組名を『ラジメニ玉手箱』に変更したうえで継続し、生放送と併せれば4時間放送となった。しかし『ラジメニ玉手箱』の放送が同年9月26日をもって終了したため、同年10月2日からは『青春ラジメニア』(19:00 - 22:00)のみの放送となっている。 2019年3月2日の放送にて、4月以降(放送31年目・4月6日より)について、2007年10月改編時以来11年半ぶりに、毎週土曜20:00 - 21:00、前日(金曜)収録の1時間の録音番組に再度変更されることが発表された。その後2019年10月より放送時間が1時間半に拡大することになった。一方、同年4月27日には10時から15時の生放送を『青春ラジメニア復活生放送 平成のアニソンSP!!』(10時 - 13時30分)『かおりんの平成さいごにめっちゃ聴きたいねん!SP』(13時30分 - 15時)の2部制が放送、同年12月28日にも『はごろもフーズ presents 青春ラジメニア年末スペシャル』として12時から16時30分の4時間半にわたる生放送を行っている。2022年3月26日には岩崎時代最後となる生放送を約2時間で行い、2022年4月より金曜22時に時間移動している。 岩崎と吉田は源流に当たるナイターオフのリクエスト番組『歌謡曲まかせなさい』でコンビを組んでおり、『アニメ玉手箱』でも「月末特集」の際に吉田がアシスタントとして出演していた。吉田は1991年春改編でワイド番組を担当するに当たり本番組を外れ、これに伴いオーディションで南が選ばれ起用され、以来岩崎と南が長らく番組を担当してきた。 2022年1月1日の番組内において、同年3月26日の放送分をもって岩崎が番組を卒業すると発表した。「この30年でアニメもアニソンも変わってきた。ラジメニアも変わらないといけない」と理由を語っている。4月以降は新パーソナリティとしてこれまでもラジオ関西で『ワタナベフラワームサのアニソン部屋』などを担当し、アニメやサブカルチャーにも明るく、元々リスナーであり本番組やイベントにもゲスト出演するなどして親交のあったムサが就任、南も続投して新体制で番組を継続する。 特記無きは生放送。 2006年のラジオ関西ジャイアンツナイターは、土曜日の試合が延長した場合には青春ラジメニアを含むナイター中継以降の番組は最大1時間繰り下げ(一部の番組は休止)、2005年以前には最大2時間で、更にさかのぼると当時ラジオ関西は全日24時間放送ではなく、日曜日の未明・早朝帯の停波入り時刻と停波明け時刻との間に余裕があったため時間が許す限りナイター中継の延長が行われていた。 なお、ラジオ関西は2007年上半期からは土曜日のナイター中継を原則として行っていない。 番組の根幹としては、リスナーからハガキで寄せられたリクエストに応えアニメソングを「必ずフルコーラスでかける」。「究極の主題歌」を探し求めることが番組のテーマとなっているため、アニメソングだけでなく、特撮や実写のドラマ・映画・ラジオ番組・教育番組の主題歌・BGM、ゲームミュージック(コンピューターゲームで流れる音楽。ボーカル曲または日本音楽著作権協会(JASRAC)・NexToneのいずれかに登録されているBGM)、声優が歌う曲(本人名義の楽曲またはキャラクターソング)まで幅広く扱っている。2019年4月からは、番組放送時間の短縮に加え、放送対象曲の増加もあることから、月ごとにテーマを決め、それに沿ったリクエストを募集する形式に変更されている。 リクエストさえ有れば古今東西、どのレコード会社からの発売かを問わず放送する。一部のゲームミュージックや番組中で話題になったCMソングなどのJASRAC・NexToneいずれも非登録の曲も権利元に直接許諾を取った後にリクエストに対応する。ただし、番組が範疇(範囲)外とする曲の場合は、リクエストしても掛かるのが非常に遅くなる。また、ラジオ関西のライブラリーにある音源(ダウンロード配信楽曲も含む)でのみかけられるため、例えばDVD等の特典ディスクなど特殊な流通形態でリリースされている場合は採用されない可能性が高い。 リクエストについては、後述するように基本的に郵送またはFAXで一人につき1曲のみ受け付ける。岩崎担当時代は病欠などの例外を除き彼が選曲を行っていた。2022年4月からはディレクターの中澤純一がムサの助言を受けながら通常のリクエストをある程度絞り込んだ上で、南が曲順などの構成を考え、番組前の打ち合わせで最終的に決定するほか、新制度として公式サイトの専用メールフォームからリクエストを受け付ける「シン・メルたまリクエスト」を開始、これに寄せられたリクエストについてはムサが専任する形で選曲を行う。 1980年代に主流であったリクエスト番組、代表的なアニソン番組としては『サタディ・バチョン』などのスタイルを維持している。具体的に言うと、フルコーラスかける・曲紹介は曲にかぶせない・曲紹介と曲の間に1秒程度の間をおく・曲紹介を曲を流す前と流した後の2回行うなどである。1970-1980年代のラジオのリクエスト番組は、好きな曲だけをカセットテープに録音、いわゆるエアチェックできるようにするため、このような形式をとっていた。 声優、歌手、アニメ・特撮関係者などがゲスト出演することもある。 2022年10月時点。 2019年4月の1時間化に伴い、一時的に休止状態となったコーナーも含む。 以下の独特なルールは番組の大きな特徴でもあり、その反面新規リスナーを阻む要因ともなっている。 上記以外の語・詳細は、外部リンクの項の「ラジメニアンのお部屋」を参照。 2019年 2020年 2021年 2022年 2023年 アニメーション神戸の賞典が2015年の第20回を持って終了したのを受けて、主題歌賞(ラジオ関西賞)だけでも残せないかと番組で引き継いだ事によって2016年に発足した賞。当該前年の7月1日から当該年の6月30日(2016年なら2015年7月1日から2016年6月30日)にテレビ・映画・Webなどで放送・上映・公開されたアニメーション作品(当該年次の新作だけでなく前年からレギュラーとして続いている作品も含む)・特撮作品(2019年より)で使用された楽曲を選出対象とし、リスナーからの投票で決定する。従来のアニメーション神戸主題歌賞が投票で選ばれた上位5曲の中から実行委員会で審査し決定したのに対し、本賞では単純に投票によって決定する形式へと変更されている。 2020年・2021年については、新型コロナウイルス感染症の影響でアニメ作品の制作・放送・公開の延期が相次いだことや、投票集計のスタッフの確保が困難になったのを受けて、実施を取り止めることになった。2022年に再開したものの、対象となる楽曲の増加で票が分散しすぎることに加え、総投票数も番組で設定したラインに届かなかったことから「賞としての役目を終えた」と判断、再び開催が見送られることになった。 最初期は「大空へジャンプ!」(『のらくろクン』BGM)、のちに「愛と冒険の旅立ち〜トンデケマンメインテーマ〜」(『たいむとらぶるトンデケマン!』BGM)が用いられていた。 「青春ラジメニアスペシャル NAOMI UEMURA FOREVER 2050年のアンノンマン」(1990年2月25日放送)で、1990年日本民間放送連盟賞近畿地区娯楽部門最優秀賞を受賞。 1994年8月に、ラジオ関西本社(当時局舎のあった須磨)で、抽選されたリスナーによる座談会が行われたことがある。 1999年9月1日から12月26日には、JR西日本の、駅におけるデジタルコンテンツ販売実証実験「デジタルキヨスク」に参加し、5分間のフリートークを収録したパソコン用の音声データを毎週販売した。これはデジタルキヨスク販売コンテンツの中で、一番の売り上げを記録した。 2006年1月1日(2005年12月31日深夜)の放送では、冒頭の挨拶には「あけましておめでとうございます」が用いられたが、パーソナリティーの2人はこの後の番組紹介を「(通常放送と同様の)12月31日の放送」とするか「(年明けを考慮した)新年第1回目の放送」とするか大変悩んだようである。 ほか
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青春ラジメニア(せいしゅんラジメニア)は、ラジオ関西で放送されているアニメファン向けラジオ番組(アニラジ)である。 『アニメ玉手箱』(以下アニ玉)の後番組として、1989年4月1日に放送開始。ラジオ関西本社制作のアニラジ番組で、神戸ハーバーランドの本社スタジオから放送されている。
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2017年12月23日に1500回を迎え、2019年4月に放送開始30周年を迎えた<ref>[https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201712/0010844036.shtml ラジ関長寿番組「青春ラジメニア」放送1500回],神戸新聞,2017年12月24日</ref><ref>[https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190323-00010000-wordleafv-ent リクエストは原則はがきのラジオ番組「青春ラジメニア」放送30年 パーソナリティ岩崎アナ「アニソンも変わりました」], THE PAGE(Yahoo!ニュース),2019年3月23日</ref>、ラジオ関西が誇る[[長寿番組の一覧|長寿番組]]。2019年4月現在で放送が続いているアニラジとしてはもちろんのこと、終了した番組を含めても『[[mamiのRADIかるコミュニケーション]]』([[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]他、1984年10月13日 - 2009年10月4日)などを超えた、最長寿番組である。リスナーは“ラジメニアン”と呼ばれる。 放送開始から2007年9月29日までの間、18年半にわたって曜日および放送時間帯の変更はあったものの2時間の[[生放送]]<!--<ref name="non-live"/>-->であったが、2007年10月6日より「1時間の'''録音放送番組'''」として『アニ玉』末期時代とほぼ同じ体制に先祖帰りする形で再スタートした。 2006年6月24日の放送で900回を迎えた際に「かおりんのめちゃ聴きたいねんスペシャル」が放送された。2008年10月から、同じパーソナリティーが担当する『青春ラジメニアZ』が同じ土曜日21:00 - 21:50に生放送で開始、従来の放送(通称『本家』)と合わせての2部構成となった。 2010年4月3日からは今までの『青春ラジメニアZ』を『青春ラジメニア』に変更し、放送枠も土曜日19:00 - 22:00に拡大され3時間の生放送となっている<ref>[http://jocr.jp/new_program/index.html ラジオ関西2010年春の番組改編情報]</ref>。また今までの『青春ラジメニア』(日曜日0:00 - 1:00)の放送も、同月4日から番組名を『ラジメニ玉手箱』に変更したうえで継続し、生放送と併せれば4時間放送となった。しかし『ラジメニ玉手箱』の放送が同年9月26日をもって終了したため、同年10月2日からは『青春ラジメニア』(19:00 - 22:00)のみの放送となっている。 2019年3月2日の放送にて、4月以降(放送31年目・4月6日より)について、2007年10月改編時以来11年半ぶりに、毎週土曜20:00 - 21:00、前日(金曜)収録の'''1時間の録音番組'''に再度変更されることが発表された<ref>[http://jocr.jp/radimenia/20190304092932/ 家族の絆だよ♪ ラジメニア!],青春ラジメニア公式ブログ,2019年3月4日</ref>。その後2019年10月より放送時間が1時間半に拡大することになった<ref>[http://jocr.jp/radimenia/20190830163320/ 8月31日 曲目リストとお知らせ],青春ラジメニア公式ブログ,2019年8月31日</ref>。<!--前後2時間については、平日深夜枠が[[文化放送]]制作の「[[レコメン]]」のフルネット開始による、「[[アニたまどっとコム]]」枠の減少に対する代替枠になるものと思われる。-->一方、同年4月27日{{efn2|通常放送されている『[[GOGO競馬サタデー!]]』が、15時 - 16時に短縮放送になった。}}には10時から15時の生放送を『青春ラジメニア復活生放送 平成のアニソンSP!!』(10時 - 13時30分)『かおりんの平成さいごにめっちゃ聴きたいねん!SP』(13時30分 - 15時)の2部制{{efn2|岩崎が放送時間中に[[青二塾]]大阪校の講義に出るため、2人で放送するパートと南単独パートに分けている。}}が放送<ref>[http://jocr.jp/radimenia/20190413023000/ 4月13日 選曲リスト&お知らせ],青春ラジメニア公式ブログ,2019年4月13日</ref>、同年12月28日{{efn2|その日の『GOGO競馬サタデー!』は、放送休止になった。}}にも『はごろもフーズ presents 青春ラジメニア年末スペシャル』として12時から16時30分の4時間半にわたる生放送を行っている<ref>[https://jocr.jp/radimenia/20191228214441/ はごろもフーズ presents 青春ラジメニア年末スペシャル曲目リスト♪],青春ラジメニア公式ブログ,2019年12月28日</ref>。2022年3月26日には岩崎時代最後となる生放送を約2時間{{efn2|その日の『ワタナベフラワームサのアニソン部屋』を放送休止にした上で放送。ただし当該時間帯にムサが引き継ぎを兼ねて出演している。}}で行い、2022年4月より金曜22時に時間移動している。 === パーソナリティ === * [[岩崎和夫]](開始時はラジオ関西アナウンサーで現在は退職、通称:ひねくれ岩ちゃん、放送開始 - 2022年3月) * [[吉田秀子]](ラジオ関西アナウンサー(当時)、通称:織姫よっちゃん、放送開始 - 1991年3月) * [[南かおり]](MCタレント、通称:ラジメニ小町かおりん、1991年4月より) * ムサ(ミュージシャン・バンド「[[ワタナベフラワー]]」のベーシスト、2022年4月より) 岩崎と吉田は源流に当たるナイターオフのリクエスト番組『歌謡曲まかせなさい』でコンビを組んでおり、『アニメ玉手箱』でも「月末特集」の際に吉田がアシスタントとして出演していた。吉田は1991年春改編でワイド番組を担当するに当たり本番組を外れ、これに伴いオーディションで南が選ばれ起用され、以来岩崎と南が長らく番組を担当してきた。 2022年1月1日の番組内において、同年3月26日の放送分をもって岩崎が番組を卒業すると発表した。「この30年でアニメもアニソンも変わってきた。ラジメニアも変わらないといけない」と理由を語っている<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/b2b018f7c7707c3483c30da2c919053707b2664e 「青春ラジメニア」岩崎和夫アナが3月卒業へ 放送32年・番組は新たな体制で継続],THE PAGE,2022年1月1日</ref><ref name="raditopo20220101">[https://jocr.jp/raditopi/2022/01/01/406642/ 『青春ラジメニア』岩崎和夫さんが降板を発表 前身の番組から35年 「迷いはない」],ラジトピ ラジオ関西トピックス,2022年1月1日</ref>。4月以降は新パーソナリティとしてこれまでもラジオ関西で『[[ワタナベフラワームサのアニソン部屋]]』などを担当し、アニメやサブカルチャーにも明るく、元々リスナーであり本番組やイベントにもゲスト出演するなどして親交のあったムサが就任、南も続投して新体制で番組を継続する<ref>[https://jocr.jp/raditopi/2022/03/05/416045/ 『青春ラジメニア』新パーソナリティーにワタナベフラワーのムサ 「好きなことを好きだと叫んでいきたい」],ラジトピ ラジオ関西トピックス,2022年3月5日</ref>。 === 放送時間 === 特記無きは生放送。 {| class="wikitable" style="font-size:small" |+ |- ! 放送期間 !! 放送日時 !! 備考 |- | 1989年{{0}}4月{{0}}2日(1日深夜) - 1994年{{0}}3月27日(26日深夜) || 日曜(土曜深夜){{0}}0:00 - {{0}}2:00|| |- | 1994年{{0}}4月{{0}}3日(2日深夜) - 1997年{{0}}3月29日(28日深夜) || 土曜(金曜深夜){{0}}0:00 - {{0}}2:00 || |- | 1997年{{0}}4月{{0}}4日 - 1999年{{0}}9月24日 || 金曜23:00 - 翌土曜{{0}}1:00 || |- | 1999年10月{{0}}1日 - 2000年{{0}}3月31日 || 金曜22:00 - 翌土曜{{0}}0:30 || |- | 2000年{{0}}4月{{0}}7日 - 2001年{{0}}3月30日 || 金曜22:00 - 翌土曜{{0}}0:00 || |- | 2001年{{0}}4月{{0}}8日(7日深夜) - 2002年{{0}}3月31日(30日深夜) || 日曜(土曜深夜){{0}}0:00 - {{0}}2:00 || |- | 2002年{{0}}4月{{0}}7日(6日深夜) - 2003年{{0}}9月28日(27日深夜) || 日曜(土曜深夜){{0}}0:30 - {{0}}2:30 || |- | 2003年10月{{0}}5日(4日深夜) - 2007年{{0}}9月30日(29日深夜) || 日曜(土曜深夜){{0}}0:00 - {{0}}2:00 || |- | 2007年10月{{0}}7日(6日深夜) - 2010年{{0}}3月28日(27日深夜) || 日曜(土曜深夜){{0}}0:00 - {{0}}1:00 || 録音放送 |- | 2010年{{0}}4月{{0}}3日 - 2016年{{0}}5月28日 || 土曜日19:00 - 22:00 || |- | 2016年{{0}}6月{{0}}4日 - 2019年{{0}}3月30日 || 土曜日19:00 - 21:55 || |- | 2019年{{0}}4月{{0}}6日 - 2019年{{0}}9月28日 || 土曜日20:00 - 21:00 || 録音放送 |- | 2019年10月{{0}}5日 - 2022年{{0}}3月26日 || 土曜日20:00 - 21:30 || 録音放送<br />2021年4月 - 9月は、ナイター中継のない日に限り、木曜18:00 - 19:30に再放送 |- | 2022年{{0}}4月{{0}}1日 - ||金曜日22:00 - 23:30 || 録音放送 |} 2006年の[[ラジオ関西ジャイアンツナイター]]は、土曜日の試合が延長した場合には青春ラジメニアを含むナイター中継以降の番組は最大1時間繰り下げ(一部の番組は休止)、2005年以前には最大2時間で、更にさかのぼると当時ラジオ関西は全日24時間放送ではなく、日曜日の未明・早朝帯の停波入り時刻と停波明け時刻との間に余裕があったため時間が許す限りナイター中継の延長が行われていた{{efn2|1998年4月11日に本来なら前日の10日に放送するはずの分が2時間45分繰り下げられたのが最長記録。}}。 なお、ラジオ関西は2007年上半期からは土曜日のナイター中継を原則として行っていない。 === 番組構成 === 番組の根幹としては、リスナーからハガキで寄せられたリクエストに応え[[アニメソング]]を「'''必ずフルコーラスでかける'''」。「究極の主題歌」を探し求めることが番組のテーマとなっているため、アニメソングだけでなく、[[特撮]]や[[実写]]の[[テレビドラマ|ドラマ]]・[[映画]]・[[ラジオ]]番組・[[教育番組]]の[[主題歌]]・[[背景音楽|BGM]]、[[ゲームミュージック]]([[コンピューターゲーム]]で流れる音楽。ボーカル曲または[[日本音楽著作権協会]](JASRAC)・[[NexTone]]のいずれかに登録されているBGM{{efn2|ゲーム関連楽曲はJASRAC・NexToneいずれも登録されていない場合が多いため、後述するように権利元に許諾を得る必要があり、その処理が煩雑になったことから、BGMに関しては登録・非登録問わず対象外としていた。これが2022年4月より緩和されJASRAC・NexToneいずれかにに登録されていればBGMは対象とするようルール変更された。}})、声優が歌う曲(本人名義の楽曲または[[キャラクターソング]])まで幅広く扱っている。2019年4月からは、番組放送時間の短縮に加え、放送対象曲の増加もあることから、月ごとにテーマを決め、それに沿ったリクエストを募集する形式に変更されている。 [[リクエスト番組|リクエスト]]さえ有れば古今東西、どの[[レコード会社]]からの発売かを問わず放送する。一部のゲームミュージックや番組中で話題になったCMソング{{efn2|特に「[[パルナス製菓|パルナスの歌]]」・「[[おさかな天国]]」は、本番組で放送後に話題となり一般発売された。}}などのJASRAC・NexToneいずれも非登録の曲も権利元に直接許諾を取った後にリクエストに対応する。ただし、番組が範疇(範囲)外とする曲の場合は、リクエストしても掛かるのが非常に遅くなる。また、ラジオ関西のライブラリーにある音源(ダウンロード配信楽曲も含む)でのみかけられるため、例えばDVD等の特典ディスクなど特殊な流通形態でリリースされている場合は採用されない可能性が高い。 リクエストについては、後述するように基本的に郵送またはFAXで一人につき1曲のみ受け付ける。岩崎担当時代は病欠などの例外を除き彼が選曲を行っていた。2022年4月からはディレクターの中澤純一がムサの助言を受けながら通常のリクエストをある程度絞り込んだ上で、南が曲順などの構成を考え、番組前の打ち合わせで最終的に決定するほか、新制度として公式サイトの専用メールフォームからリクエストを受け付ける「シン・メルたまリクエスト」を開始、これに寄せられたリクエストについてはムサが専任する形で選曲を行う。 1980年代に主流であったリクエスト番組、代表的なアニソン番組としては『[[サタディ・バチョン]]』などのスタイルを維持している。具体的に言うと、フルコーラスかける・曲紹介は曲にかぶせない・曲紹介と曲の間に1秒程度の間をおく・曲紹介を曲を流す前と流した後の2回行うなどである。1970-1980年代のラジオのリクエスト番組は、好きな曲だけをカセットテープに録音、いわゆる[[エアチェック]]できるようにするため、このような形式をとっていた。 [[声優]]、歌手、アニメ・特撮関係者などがゲスト出演することもある。 ===主なコーナー=== 2022年10月時点。 ;感謝感激ラジメニアン :[[ふつおた]]のコーナー。放送時間の都合により2019年4月から9月まで一時休止。 ;シン・メルたまリクエスト :2022年4月より開始。メールでリクエストを受け付け、ムサが1曲選曲する。旧メルたまリクエストとは異なり、通常のリクエストと同じテーマで募集し、公式サイトの専用メールフォームからリクエストを受け付ける。この為、郵送・FAXによるリクエストとは同じ締め切りになるとともに、通常リクエストとは別の曲をリクエストすることも可能となる。開始時のジングルは『[[ウルトラマン]]』主題歌と卵が割れる音を組み合わせたもの。 :毎月最終週にはサブスクチャンネルにおいて、「このコーナーの採用候補にはあったけれどもあと一歩及ばなかったリクエストと惜しかった理由」をムサが語る「影ムサ」のコーナーが配信されている。 ;帰ってきた岩ちゃん :2022年6月11日の[[聴取率|スペシャルウィーク]]で行われた企画で、翌月以降も実質的に継続。番組から勇退した岩崎からその月のテーマに合った曲を1曲リクエストしてもらい、リスナーからのリクエストとしてその曲が採用された(シンクロした)場合『[[帰ってきたウルトラマン]]』主題歌のサビの一節と岩崎の名乗りをあわせたジングルが掛かると共に、曲紹介の前に岩崎からのメッセージが読み上げられる。岩崎のリクエストがリスナーからのリクエストによってその月に採用されなかった場合は月末もしくは翌月に曲名とメッセージのみ紹介される。 :同様のシンクロ企画は2023年6月16日のスペシャルウィークでも[[エフエム大阪|FM大阪]]『[[おふらじ!|おふらじ!EX]]』とのコラボレーション企画として、同番組パーソナリティの[[淡路祐介]]と新井希衣がリクエストした楽曲で行われる<ref>[https://jocr.jp/radimenia/20230609235959/ ROOTSを辿るよ! ラジメニア♪ ],青春ラジメニア公式ブログ,2023年6月12日</ref>。 ;ラジメニ大明神 :受験シーズン限定。毎年[[12月]]から[[3月]]前後、スタジオに「ラジメニ大明神」というお社{{efn2|[[タミヤ]]の「タミヤ おもしろ工作シリーズNo.1 [http://www.tamiya.com/japan/products/list/craft_humor/kit71001.htm 神だな工作基本セット]」の御神体の部分に番組マスコットキャラクターのアニメジラを貼り付けている。}}が設置され、そのお社さまに岩崎→ムサ、南の2人がリスナーの合格を願いつつ[[拍手 (神道)|拍手(かしわで)]]を打つコーナー。1989年12月より開始。現在はリスナーが各自自分の名前と合格を願う教育機関などをセルフサービスとして心の中などで当てはめているが、当初は[[林原めぐみのHeartful Station]]の合格コールのコーナーのようにリスナーから葉書を送ってもらい、各自の名前と教育機関などを読み上げていた。しかしこのコーナー宛に送られてくる葉書の増加に伴い現在の形式に変更された。 ==== 終了したコーナー ==== 2019年4月の1時間化に伴い、一時的に休止状態となったコーナーも含む。 ;特集 :以前は「月末特集」として、リスナーから送られてきたテーマ案のなかから特定の作品や歌手・声優・作曲家などを対象としたもの、曲のジャンルや短い曲、全アニメソングを対象としたリクエストランキングなどテーマを決めて毎月最終週に行われていた。「アニメ玉手箱」の同名の企画に由来する。2004年頃から、他局への出演等岩崎の多忙、特集を組めるような曲の減少、加えて特集を組んだ際、特定の曲にリクエストが集中し「特集にならない」状況が度々起こるようになった。その為、2006年以降は、番組[[改編期]]・ゲームの発売・ゲストの出演・事前録音を行う3月のバスツアー開催時等をきっかけとして不定期に行われる。また、9月には[[アニメーション神戸]]主題歌賞、及び2016年以降はそれを番組で継承した「ラジメニアワード」の対象曲リクエスト特集も行われる。 :2017年4月からは月末特集が復活、前述のバスツアーなど放送スケジュールの都合で別の週に振り返られる事もあるがその月の最終週を上述の「メルたまリクエスト」を拡大する形で特集に割り当てる形となり4月のみ9時台、5月から番組全体に行われる、メールでのリクエストも受付、6月より専用のメールフォームで対応。 :2019年4月からは月ごとにテーマを決めてリクエストを募集するスタイルになったため、実質的に月単位で特集のような形態を取ることになるが、年に1〜2回程度テーマを決めないフリーの月を設けるほか、不定期に通常時とは別に特集を設けるようにもなっている。 ;声優バケツリレー :[[コナミ]]提供。声優へのインタビューコーナーで、インタビューの最後の次週する声優を紹介してもらうという、「声優版[[テレフォンショッキング]]」の要素もあった。基本的に電話出演となるが、イベント等で関西に訪れている時などはスタジオで直接話を聞くこともあった。また、出演した声優が死去した際、追悼の意味を込めて、当時のその部分を放送する時があった。全147回。 ;声優おもちゃ箱 :コナミ→[[カルチュア・コンビニエンス・クラブ|TSUTATA]]あべの橋店提供。声優のオリジナルソングをかけるコーナー。月末特集などがあった際には声優へのインタビューコーナーになる。 ; コナミチャレンジクラブ : コナミ提供時代のコーナー。週替わりで様々な企画を行い、コナミの社員も出演していた。 ; あなたもアニメ歌手 : TSUTAYA提供時代に毎月2週目に放送。リスナーが自ら歌ったアニメソングを収録したテープ等を送ってもらい、それを選考して優秀作を紹介する。毎月採用されるリスナーは特待生として扱われる。 ;[[アニメイト]]HOT情報{{efn2|[[京都放送|KBS京都]]ラジオでも『[[はいぱぁナイト]]』月曜→『[[ハイヤングKYOTO (第二期)|ハイヤングKYOTO]]』月曜→『[[菅原祥子のももんがTIME]]』にて、姉妹コーナー『アニメイトわくわく情報』が放送されていた。}} :当時西日本地区のアニメイトの運営を行っていた株式会社コアデ企画提供。『アニメ玉手箱』時代から続く最も古いコーナーで、アニメVHSビデオレンタル、コミック、音楽CD、DVDなどのリリース情報やキャンペーン情報、店舗情報などの提供を行っていた。後期には西日本地域のアニメイト各店の店長と岩崎が直接電話しながら宣伝告知を行う形となっていた。このコーナーのみ事前収録。2006年3月終了。 ;チェック天誅 :グランド六甲ボウリングセンター提供であったが1995年の[[阪神淡路大震災]]による壊滅的な被害を受けて、親会社の小泉製麻グループの経営の都合上、途中でコーナー提供を降板。夢前ニットグループや[[カメレオンクラブ]]が提供だった時期もある。 :リスナーの「あなたが納得できない事や不満・疑問に思っていることなどをチェック天誅させていただきます。」の挨拶で始まったコーナー24:30頃からのコーナーで長く続いた。コーナー開始当初はテレビ番組や雑誌等の間違いや誤記・誤解にツッコミをいれる投稿が多かったが、実際に悩みを抱えている人や世の中の事件・事故・騒動についてリスナーと岩ちゃん・かおりんで生討論をするコーナーへと変貌、ツッコミ的な内容は「チェック天誅・小ネタ集」としてコーナー後半の別枠とした。その中で最も多く寄せられたベスト3は第3位スタジオへ来るゲストの皆様への質問ハガキ・メール、第2位当時の世相・ブームに対する個人的な論評、第1位[[不登校]]・[[停学]]などによる学校へ行けない[[いじめ]]被害者の救済策や学校へ通えるようにするための専門的なアドバイスのハガキ・メールだった。2001年3月末頃(正確な時期は不詳)で終了。 ;かおりんのアニメQ :リスナーが電話出演する形での参加型クイズコーナー。新アニメ・古アニメ・声優・特撮・ラジメニア・ノンジャンルの6ジャンルから1つを選び、そのジャンルから10問出題されるクイズに答える。5問正解でリクエスト曲がかかり、7問正解でフェローズカードが進呈される。全問正解すると、初期は[[三洋電機]]提供によるコードレス電話が、末期はかおりんからのプレゼントが貰える。1997年12月で終了。 ;かおりんの「めっちゃ聴きたいねん」 :青春ラジメニアでは番組でかける曲は全て、基本的に岩崎が選択、決定しているが、その選に漏れた曲から南が一曲のみ選んでかけるコーナー。なおこのコーナーは放送時間の関係で放送されない場合もある。コーナージングルは南の『めっちゃ会いたいねん』{{efn2|[[吉田古奈美]]とのアルバム『T"IDAL WAVE』収録曲。}}の替え歌。 :2008年10月以降は『青春ラジメニアZ』に移動し、メールリクエストを救うコーナーに衣替えした。ラジメニアが土曜日19:00~22:00の時間帯に放送時間が変更された後2012年10月に再び、その選に漏れた曲を南かおりが一曲のみ選んでかける形式に戻り、現在はその形式で続いている。 :2019年4月より時間短縮に伴い休止していたが、2021年10月から2022年9月にかけてシンクスインターナショナルがスポンサーにつく形で再開。同社が女性の活躍向上を主体とした人材サービス業であることから、これにあわせて女性アーティストによる曲を選曲する。南がシンクス社の社内表彰式等の司会を行った事から同社と関係を持ち、さらに同社社長が中学時代からの番組リスナーだったことから、スポンサーに名乗り出たことでコーナー再開が実現した<ref>[https://ameblo.jp/kaorintanken/entry-12701569925.html 10/3(日) ラジメニアの新しいスポンサーさん!],南かおりオフィシャルブログ「かおりんの関西探検隊R」 Powered by Ameba,2021年10月3日</ref>。 ;TSP[[東京声優プロデュース]]「声優大辞典」 :TSPに通っている学生が毎週一人の声優、もしくは一つのアニメ作品について熱く語るコーナー。 ;ラジメニアのおまけ :エンディングから放送終了ギリギリまで行われた正味数分、場合によっては数十秒ほどのコーナー。フリートークやゲストトーク、放送中に読み切れなかったハガキを読む、リクエスト曲が収録されているCDが見つからない・入手できない旨の報告を行うなど、次の番組への[[つなぎ番組|フィラー]]的要素が強かった。時間が短いため、曲がかかることはなかった。このコーナーの最後は、岩崎「この後は『○○(次の番組名)』です」南「○○時になります。また来週!」と言ったすぐに時報という流れになっていた。なお、ナイター延長などで時報で終了しない場合は南のセリフで番組終了になる。 :元々[[スポットCM]]が付かないために行われたものである。なお、コーナータイトルは岩崎が言い、南は「おまけー」とエコーを返すかのようなやり取りで始まった。1997年4月5日放送をもって終了{{efn2|直後に放送される『[[電脳戦隊ヴギィ'ズ★エンジェル|電脳戦隊ヴギィ'ズ★エンジェルSR]]』の録音テープが再生されないという放送事故が起き、翌週の1997年4月12日放送のラジメニアのエンディングで、万が一の際の機器操作・対応に余裕をもたせるために、コーナーを終了したという説明がなされた。なお当時のラジオ関西の番組送出は、すべて手動で自動化されていなかった。}}。 :翌週から、自動送出による時報の自動読み上げが開始されるまでの間、エンディング→ラジオ関西の番組・イベントのCM(40秒)→AM KOBEジングル(5秒)→岩崎・南による時報の読上げ(3秒)→時報という構成に変わった。 ;今週のよかった探し :パーソナリティの二人やゲストが、この1週間でうれしかった出来事をテーマに語るコーナー。かつて[[阪神・淡路大震災]]後の通常放送から行われていたもの(終了時期不明)だったが、2008年10月『青春ラジメニアZ』の開始によって、翌日未明放送の「本家」(0:00開始)のオープニングコーナーとして復活したが、投稿数が減った為、終了。 ;ラジオTheアニソン館 :アニソン館提供。携帯電話向けの着メロのプロモーションコーナー。2006年7月終了。 ;コミック情報局 :ジャパンブックス提供。主にコミックやライトノベルの新刊情報を提供していた。2006年9月終了。 ;[[ディレクTV]][[アニメシアターX]]クラブ :アニメシアターXで放送されているアニメ番組を紹介するとともに、その番組の主題歌をかけるコーナー。通常はワンコーラスだが、リクエストがあればフルコーラスかけていた。ディレクTVの撤退に伴い終了。 ;ガウちゃんの夜食 :不定期に実施していたコーナー。時折、岩崎・南が、勘違いをそのまま口にしたり、“かんだり”したりして、ラジメニアンのはがきやFAXにて指摘された際、反省するために「ガウちゃん」なる貯金箱{{efn2|長らく[[スタートレック]]登場キャラクターの[[ガウロン]]の貯金箱と説明されていたが、1990年代後半にリスナーからの指摘で[[ウォーフ]]であることが判明した。}}に1件あたり100円を入れる反省のコーナー。この時に貯まったお金は、リスナーとの交流会等に使用される。 ;特撮最前線 :大阪・日本橋に本社を置くホビーショップ、ジャングルが提供の特撮メインのコーナー。放送翌日にジャングル主催のイベントがある日には、そのゲストがこのコーナーにも出演することもあった。 ;あにどんリクエスト :[[ヤマギワソフト]]大阪日本橋店に、リクエストボックスを設置し、その中から選曲する。コーナー名の「あにどん」はヤマギワソフトの店内で配布されていたアニメ情報のフリーペーパーのことを指す。 ;いたずらパイナップル :[[NECアベニュー]]提供。コーナーレギュラーとして柳原みわ(現・[[星河舞]])が出演し、開始当初は毎月テーマを決めてリスナーからの質問や悩みに岩崎・南とともに答えていたが、その後思い出の楽曲のリクエストコーナーへと変わった。 ;アメキャラ合衆国 :大阪・梅田にあったフィギュアショップ、リバティプラネットが提供のアメコミやアメリカ特撮作品などのアメリカンキャラクター作品のリクエストを受け付けるコーナー。リバティプラネット店内のリクエストボックスでもリクエストを受け付けていた。 ;リスナーさん電話でいらっしゃーい! :リスナーに電話をかけて直接話を聞くコーナー。 ;もえそんピックアップ :[[ランティス]]提供。2007年4月7日スタート。ランティスがリリースした、もしくはリリース予定の曲を紹介する。時にはその曲の製作に関わった声優やアーティストが音声メッセージ付きで紹介する、ゲスト出演時は直接話を聞くこともある。2020年4月4日から2021年6月26日は声優の[[熊田茜音]]が<ref>[https://jocr.jp/radimenia/20200329013347/ 3月28日 曲目リストとお知らせ],青春ラジメニア公式ブログ,2020年3月29日</ref>、2021年7月3日からはバーチャルライバーの[[樋口楓]]が<ref>[https://jocr.jp/radimenia/20210620110331/ 「父の日」だよ♪ ラジメニア!],青春ラジメニア公式ブログ,2021年6月20日</ref>、コーナーレギュラーとして電話出演または[[Zoom (アプリケーション)|Zoom]]を使ってリモート出演する。 :かつてとある番組スポンサーが降板して番組終了の危機に立たされた岩崎が、面識のある[[影山ヒロノブ]]に思いを打ち明けた所、影山が自ら所属し、かつ旧知の仲であるランティス社長(当時)の[[井上俊次]]に相談した結果、同社(当時)の提供へと繋がった<ref name ="the_page_3">[http://osaka.thepage.jp/detail/20141227-00000003-wordleaf?page=3 「青春ラジメニア」岩崎和夫アナ ── 毎週800通アニソンリクエストはがき見つめ25年](その3) THE PAGE 大阪 2014年12月27日、同28日閲覧。</ref>。なお、2018年4月に法人としてのランティスは合併により消滅したため、末期はレーベルとしての提供だった{{efn2|2018年4月に合併統合で発足した[[バンダイナムコアーツ]]の音楽部門のブランド・レーベルの名称となり、2022年4月からはバンダイナムコミュージックライブがそれを継承する。}}。 :2022年4月のリニューアルに伴い、同年3月26日をもって本コーナーとしては終了。 ;新人さんいらっしゃーい :リクエストが一度も採用されていないリスナーからのリクエストを毎週一曲のみ優先して採用するコーナー(枠)。なお該当する新人リスナーは青春ラジメニア宛に送るはがきやFAXに丸囲みの「新」という表記を加えるとこのコーナーで採用されることがある。『青春ラジメニアZ』では「新人さんメールでいらっしゃーい」としてメールでのリクエストも受け付けていた。 ;ラジメニアンバケツステーション :リスナーの自己紹介コーナー。当初は「ラジメニアンバケツリレー」として、リスナーの自己紹介と共に、「声優バケツリレー」同様に次にどのリスナーの自己紹介を聞きたいかそのリスナーを指名していたが、ある程度一巡したことから、自己紹介を随時募集しストックした上で毎週紹介するという形式となった。2018年3月で終了。 ;メルたまリクエスト :[[神戸電子専門学校]]提供。番組冒頭にテーマを決めてメールやファックスによるリクエストを20時半までに募集し、その中から数曲を21時台にかける。 :ゲストが複数組出演したり編成の都合で短縮放送するなど時間が取れない場合や、年一回行われるバスツアー開催に伴う録音放送する際は、このコーナーは休止し提供はそのままに通常リクエストに応じる形となる。また、2017年4月からはその月の最終週を後述の月末特集に割り当てるため休止となる。スポンサー降板により2018年3月で終了。 ;今週の質問 :番組冒頭にリスナーより寄せられた質問にパーソナリティの二人やゲストが答える。時報の自動読み上げが始まる前(2007年10月)までは時報直後に「今週の質問!」と声がかかっていたが、現在はパーソナリティの挨拶の後に放送するようになった。その後時報直後に声がかかる形に戻されている。2019年4月より一時休止。 ;先週のホームラン :先週放送分でリクエストが採用され放送された曲を紹介。後述の通りテレフォンサービスが終了したことに伴う代替措置として2018年4月より始まった。2019年4月より一時休止。 :コーナー名が指し示すように、フジテレビ『[[プロ野球ニュース]]』の「今日のホームラン」のパロディで、BGMも[[ジェームス・ラスト]]・バンドの「VIBRATIONS」がそのまま使われている。 ;お宝レコードリクエスト :リクエストをアナログレコードでかけるコーナー。コーナージングルは『[[とんでも戦士ムテキング|ローラーヒーロー・ムテキング]]』の替え歌で、歌唱は同じ[[水木一郎]]。2019年4月より一時休止。 ;ラジメニ思い出バケツ :2018年4月7日開始、放送開始30年目を記念した1年間限定コーナー。30年にも及ぶラジメニアについてのリスナーの思い出を投稿してもらう。 ;青春ラジメモリー :2018年4月7日開始、放送開始30年目を記念した1年間限定コーナー。ラジメニアに関してのこれまでの出来事を岩ちゃん・かおりんが振り返るのをはじめ、関係者などへのインタビュー、過去の放送の同録テープの放送などを行う。その時々の話題にちなんだ曲をかけることもある。 ;クイズ王に俺はなる! :2018年4月15日開始、放送開始30年目を記念した1年間限定コーナー。リスナーが電話出演する形での参加型クイズコーナー。アニメ・アニソンジャンル、人物ジャンル、ラジメニアの歴史の3ジャンルから1つを選び、そこから出題されるクイズに答える。 ;今週の一言 :2019年5月から2021年3月まで放送された、開始のリスナーから寄せられた一言やショートコントなどをオープニングで取り上げるミニコーナー。1時間化でフェローズカードをプレゼントできるコーナーがなくなったため、その代替措置として新たに設けられた。 ;[[はごろもフーズ]]HOT情報 :2019年10月から2020年9月まで、9時台のスポンサーとなったはごろもフーズの商品やそれを用いた料理のレシピなど、生活に役立つ情報を伝える。元リスナーだったはごろもフーズの社員が「[[シーチキン|シーチキンチキン]]」のプロモーション企画で、岩崎にCMナレーションの依頼とともにスポンサーとなることを打診したことによる<ref>[http://jocr.jp/radimenia/20190930063913/ ゾロ目のお祝いだよ♪ ラジメニア!],青春ラジメニア公式ブログ,2019年9月30日</ref>。 ;[[ぴあ]] COMPLETE DVD BOOK HOT情報 :ぴあが発行するアニメ[[DVDマガジン]]「COMPLETE DVD BOOK」シリーズを紹介するコーナー。2021年3月から最終週に放送<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001861.000011710.html 祝! #プロ野球開幕 ! #巨人軍 めざせ栄光の星!! 『 #巨人の星 COMPLETE DVD BOOK』発売 ~ 長嶋茂雄入団会見乱入、悪魔のギブス、王貞治との対決…飛雄馬、波乱の野球人生も開幕!],ぴあ株式会社,2021年3月26日</ref>。編集を手がけているぴあ関西支社編集長の鈴木秀明が『アニメ玉手箱』時代からのリスナーである縁からコーナーを開始する事になった<ref>[https://ameblo.jp/kaorintanken/entry-12664833692.html 3/26(金) ぴあの編集長はリスナーさん!],南かおりオフィシャルブログ「かおりんの関西探検隊R」 Powered by Ameba,2021年3月26日</ref>。 ;MLピックアップ :[[バンダイナムコミュージックライブ]]提供。これまでの「もえそんピックアップ」をフロート番組としてリニューアルする形で2022年4月より開始。1クールごとにバンダイナムコミュージックライブ所属アーティストが出演し自身について語るほか、同社の新譜も紹介する。バンダイナムコミュージックライブのスポンサー撤退に伴い、2023年12月をもって終了。 :*出演アーティスト :**2022年4月 - 6月:[[樋口楓]](もえそんピックアップより続投) :**2022年7月 - 9月:[[渕上舞 (声優)|渕上舞]] :**2022年10月 - 12月:[[MindaRyn]] :**2023年1月 - 3月:[[PON (ミュージシャン)|PON]]([[ラックライフ]]) :**2023年4月 - 12月:[[熊田茜音]](この期間のみ熊田と南・ムサとの[[Zoom (アプリケーション)|Zoom]]を使用した掛け合いによる収録) == 番組の主なルール == 以下の独特なルールは番組の大きな特徴でもあり、その反面新規リスナーを阻む要因ともなっている。 ;リクエストは原則として[[ハガキ]]と[[ファクシミリ|FAX]]限定 :FAX投稿の場合は放送2日前の夕方18時到着分締め切り、それ以降は原則として翌週放送分に回す。電子メールはメルたまリクエスト、シン・メルたまリクエスト、2017年4月からの月末特集、サブスクチャンネル宛など一部コーナーおよびリクエスト以外での投稿・視覚障害者に限り許可されている。長年リスナーの手書きによるリクエストに拘り続けたこの番組にとって、このような限定的な電子メール受け付けは苦肉の策とも言える。 ;ペンネームは20音以内 :20文字ではない。ここで言う音数とは[[モーラ|拍]]のこと。[[長音]]「ー」、[[促音]]「っ」、[[撥音]]「ん」はそれぞれ1音と数えるが、[[拗音]]の場合は「ちゃ」や「てぃ」などのように2文字で1音と数える。この制約は限られた時間内にリクエストを送ってくれた人のペンネームをできるだけ多く読んであげたいという配慮から設けられたもので、20音を超えていることが発覚した場合はペンネームの読み上げを20音目で打ち切る。 ;リクエストは毎週一人1曲のみ :『アニメ玉手箱』初期の時代には3曲までリクエストできたが、リクエストの増加に伴いこのように改められ、現在に至る。ただし、メルたまリクエストは別枠扱いとなり、こちらにも1曲のみリクエスト可能となっている。月末特集に関してはメルたまリクエストの拡大版という扱いとなっているため、ハガキ・FAXだけでなくメールでもリクエストが可能となっている。また、2018年3月までは毎週リクエストを送る必要があったが、2018年4月より1年間制度を変更し、一度リクエストした曲は途中で曲を変更しない限り3ヶ月間{{efn2|[[個人情報保護法]]の制度に伴う}}有効となった。 ;フルコーラスを流す :前述の通り、1980年代に行われていたエアチェックに対応するための形式を踏襲したもの。演奏時間の長い曲でもこのルールは適用されるため、この種の曲はなかなかリクエストに応え辛い。 ;6カ月かからん制 :月末特集を除き、一度かけた曲は原則として半年以内にはもう一度流さない。これは少しでも多くの曲のリクエストに応えるための措置である。しかし実際には同じ曲が半年程度でもう一度掛かる事はほとんどなく、早くから形骸化していた。2010年夏には正式に廃止。 ;他番組で掛かりやすい曲よりも、なかなか聴けない曲を流す :このため、一般アーティストによるタイアップ曲はどうしても後回しになる傾向がある。 ;長期間連続でリクエストハガキが来ている曲を優先的に流す :このため、不人気な作品や曲でも発掘されやすいのがこの番組の利点でもある。 ;リクエストと違った曲が流れたり、各種速報や機材トラブル等で曲が中断された場合は後日かけなおす :「リクエストと違った曲」とは再録音版・アレンジ版・1コーラス版・歌詞が一部違う・明らかなミックス違い等の違いも含むが、リクエスト者が望まない場合はかけ直さない。ただし、1995年の[[阪神・淡路大震災]]発生より数週後に、途中でCDプレーヤーの不調により曲を中断し、そのあとすぐかけ直したことがある。 == 番組専門用語 == ;アニメジラ :番組の[[機関紙]]の名称。「アニメ玉手箱」で発行されていた「アニ玉スープ」が前身。岩崎の手製で、3-4枚のA4コピー紙に放送した曲のリスト、番組宛てに投稿された[[イラストレーション|イラスト]]、パーソナリティからのメッセージを掲載。隔月発行だったが、岩崎の多忙や需要減もあり発行ペースがどんどん落ち、現在は事実上の休刊状態である。 :また、番組[[マスコットキャラクター]]もこの名称である。姿は、かわいらしくデフォルメされた怪獣で、この機関紙をはじめ番組の[[ノベルティ]]グッズなどに描かれている。 :本来はこの番組のタイトル候補のひとつだった。編成部にアニメ色が強い番組名だという理由で却下されたため、これをひっくりかえして「青春ラジメニア」となった。そして「アニメジラ」の名称は番組の機関紙と番組マスコットキャラクターの名称として流用された。 ;違和感曲 :笑わせる目的で作られた楽曲ではないのだが、笑えてしまう曲のこと。珍曲(「ゴジラさん」・[[青木はるみ (歌手)|青木はるみ]]など)・迷曲(「青いゴムゾーリ」・[[バーブ佐竹]]など)・ミスマッチ(「[[戦え! オスパー]]」・作詞:[[寺山修司]]、歌:[[山田太郎 (歌手)|山田太郎]]など)の3種がある。 ;エリア外リスナー :ラジオ関西の放送エリアである[[兵庫県]]以外で聞いている[[リスナー]]のこと。年に2回程度、番組公認のリスナーの自主交流イベントも開催されている。 ;おもふる :「おもいっきり古いアニメ特撮ソング」の略。主に1970年代以前のものをさす。 ;おやぁ? :岩崎にとって違和感のある投稿や、心の琴線に触れる曲を発見したときに発する言葉。 ;究極の主題歌 :「主題歌」の読んで字の如く、作品の主題をきちんと反映した歌で、かつ名曲であるもの。1980年代頃より増え始めたイメージソング的なアニメソングや、作品の主題を全く反映しない一般アーティストによるタイアップ曲へのアンチテーゼとして提唱された。これを捜し求めるのが番組の最大の目的である。「歌謡曲まかせなさい」の同名のコーナーに由来。 ;クロレンジャー :黒川良彦(現ラジオ関西報道制作局長)のこと。長年ラジオ関西営業部に在籍し、番組イベント等でゲストで登場したり、バスツアーでは出発のお見送りに来ることも多い。スポンサー獲得などの営業面でラジメニアを陰から支えていた。 ;KONAMI([[コナミ]]) :初期の青春ラジメニアを支えていたスポンサー。当時本社が神戸にあった縁によるもの{{efn2|その名残からか、「[[クイズマジックアカデミー]]」では『ラジオ関西で放送されているアニメソングを流す番組』としてこの番組を答えさせる問題が存在する。このことは2008年11月7日・15日の放送で取り上げられている。}}。 ;主主主(しゅしゅしゅ) :「主題歌主題歌した主題歌」の略。究極の主題歌の一種。曲・歌詞がその番組の内容にふさわしいものであることが条件で、必殺技・キャラクター名が歌詞に織り込まれている古めのアニソンが多い。 ;大事な週 :[[聴取率]]調査週間のこと。リスナーからプレゼント用にもらった品物を、他のリスナーにプレゼントするという習慣がある。 ;定期ゲスト :長年にわたり、ほぼ一定の時期にやって来るゲストのこと。 ;はばちょ :リクエストハガキを出したのに、何らかの理由で名前を読み上げてもらえないこと。純粋―・天然―・門前―等のバリエーションがある。 :また最低―は、リクエストした曲と同じ作品の中から別の曲がかかってしまい、リクエストが長期間採用されない状態になってしまうこと。なお、「はばちょ」とは元々[[近畿地方]]の一部地域の[[方言]]で、「仲間はずれ」を意味する言葉。 ;フェローズカード :番組のノベルティグッズ。感謝感激ラジメニアンなど一定のコーナーで採用されると、一人1枚に限りもらえる。以前は番組ロゴが入った収納用のパスケースが付いていた。シリアルナンバーが入っており、No.1は岩崎和夫、No.2は吉田秀子、No.558は[[ミンキー・ヤス]]、No.866は南かおり、No.4391はムサが所有している。 ;没ハガキ供養 :毎年[[12月25日]]終天神に、1年間貯めていた没ハガキを[[神戸市]][[須磨区]]の[[綱敷天満宮 (神戸市)|綱敷天満宮]]でお焚き上げするイベントのこと。この習慣は『アニメ玉手箱』から続いている。しかし、[[個人情報保護法]]施行後は至近数ヶ月以内のハガキしかお焚き上げが出来無いとの事である。 ;ラジメニア時間 :1・2年前でも“最近”と呼ばれるような時間間隔のこと。岩崎の時間感覚が基準となっている。 ;ラジメニアン :この番組のリスナーのこと。番組開始と共に番組で定められたオフィシャルな呼称である。『アニメ玉手箱』時代には番組リスナーを指す固有の呼称は無く、単にアニ玉リスナーと呼ばれていた。 ;リスナーたずねて三千里 :主に近畿以外の地方都市に岩ちゃん、かおりんが出向き、公園やホールなどでその地域のリスナーと交流するイベント。年2・3回開催される。開催日の次の週の番組タイトルコールはここで収録されたリスナーによるものを使う。初回開催は1989年3月。近年では2人のスケジュール等の都合上近畿以外に出向くことができなくなっているため、「三千里ちょぼ」として近畿内で行われることが多い。 ;ロボギンガイザー :[[国広正夫]](ラジオ関西アナウンサー)、および[[ぎなた読み]]をしてしまうこと。『アニメ玉手箱』と同時期のナイターオフ版『[[歌謡曲]]まかせなさい』で、岩崎の代役だった国広が「[[超合体魔術ロボ ギンガイザー|超合体魔術ロボ・ギンガイザー]]」を「超合体魔術・ロボギンガイザー」と読み間違えたことに由来。それ以来、国広はロボギンガイザー(ロボギンちゃん)としてたびたび番組に登場していた。 :番組内で話題になったぎなた読みの例としては他に「ダンガー どえ〜す」([[惑星ロボ ダンガードA]])、「超 カロボガラット(ちょう・かろぼがらっと)」([[超力ロボ ガラット|超力(ちょうりき)ロボ ガラット]])がある。 上記以外の語・詳細は、外部リンクの項の「ラジメニアンのお部屋」を参照。 == 声優バケツリレー出演声優 == {{columns-list|3| *[[1989年]][[5月20日]]: [[古谷徹]] *1989年[[5月27日]]: [[難波圭一]] *1989年[[6月3日]]: [[三田ゆう子]] *1989年[[6月10日]]: [[堀江美都子]] *1989年[[6月17日]]: [[玄田哲章]] *1989年[[6月24日]]: [[中尾隆聖]] *1989年[[7月1日]]: [[水島裕 (声優)|水島裕]] *1989年[[7月8日]]: [[横沢啓子]] *1989年[[7月15日]]: [[森功至]] *1989年[[7月22日]]: [[ささきいさお]] *1989年[[7月29日]]: [[富山敬]] *1989年[[8月5日]]: [[佐々木望]] *1989年[[8月12日]]: [[中村大樹]] *1989年[[8月19日]]: [[渡辺久美子]] *1989年[[8月26日]]: [[松本保典]] *1989年[[9月2日]]: [[佐久間レイ]] *1989年[[9月9日]]: [[高山みなみ]] *1989年[[9月16日]]: [[林原めぐみ]] *1989年[[9月23日]]: [[山寺宏一]] *1989年[[9月30日]]: [[田中真弓]] *1989年[[10月7日]]: [[野沢雅子]] *1989年[[10月14日]]: [[古川登志夫]] *1989年[[10月21日]]: [[塩沢兼人]] *1989年[[10月28日]]: [[日髙のり子]] *1989年[[11月4日]]: [[山口勝平]] *1989年[[11月11日]]: [[島本須美]] *1989年[[11月18日]]: [[松井菜桜子]] *1989年[[11月25日]]: [[坂本千夏]] *1989年[[12月2日]]: [[緒方賢一]] *1989年[[12月9日]]: [[池田秀一]] *1989年[[12月16日]]: [[本多知恵子]] *1989年[[12月23日]]: [[川村万梨阿]] *1989年[[12月30日]]: [[笠原弘子]] *[[1990年]][[1月6日]]: [[二又一成]] *1990年[[1月13日]]: [[水谷優子]] *1990年[[1月20日]]: [[関俊彦]] *1990年[[1月27日]]: [[千葉繁]] *1990年[[2月3日]]: [[伊倉一恵]] *1990年[[2月10日]]: [[冨永みーな]] *1990年[[2月17日]]: [[永井一郎]] *1990年[[2月24日]]: [[皆口裕子]] *1990年[[3月3日]]: [[鷹森淑乃]] *1990年[[3月10日]]: [[松岡洋子 (声優)|松岡洋子]] *1990年[[3月17日]]: [[子安武人]] *1990年[[3月24日]]: [[井上和彦 (声優)|井上和彦]] *1990年[[3月31日]]: [[速水奨]] *1990年[[4月7日]]: [[鶴ひろみ]] *1990年[[4月14日]]: [[増岡弘]] *1990年[[4月21日]]: [[竹村拓]] *1990年[[4月28日]]: [[小森まなみ]] *1990年[[5月5日]]: [[草尾毅]] *1990年[[5月12日]]: [[矢尾一樹]] *1990年[[5月19日]]: [[鈴置洋孝]] *1990年[[5月26日]]: [[林原めぐみ]] *1990年[[6月2日]]: [[平野文]] *1990年[[6月9日]]: [[松田辰也]] *1990年[[6月16日]]: [[安達忍]] *1990年[[6月23日]]: [[三ツ矢雄二]] *1990年[[6月30日]]: [[西原久美子]] *1990年[[7月14日]]: [[神谷明]] *1990年[[7月21日]]: [[Chiko|丸尾知子]] *1990年[[7月28日]]: [[大塚周夫]] *1990年[[8月4日]]: [[田の中勇]] *1990年[[8月11日]]: [[江森浩子]] *1990年[[8月18日]]: [[飛田展男]] *1990年[[8月25日]]: [[小林通孝]] *1990年[[9月1日]]: [[鈴木富子]] *1990年[[9月8日]]: [[茶風林]] *1990年[[9月15日]]: [[キートン山田]] *1990年[[9月22日]]: [[高乃麗]] *1990年[[9月29日]]: [[堀絢子]] *1990年[[10月6日]]: [[肝付兼太]] *1990年[[10月13日]]: [[井上瑤]] *1990年[[10月20日]]: [[大平透]] *1990年[[10月27日]]: [[杉山佳寿子]] *1990年[[11月3日]]: [[藤田淑子]] *1990年[[11月10日]]: [[冬馬由美]] *1990年[[11月17日]]: [[堀秀行]] *1990年[[11月24日]]: [[玉川砂記子|玉川紗己子]] *1990年[[12月1日]]: [[小宮和枝]] *1990年[[12月8日]]: [[巴菁子]] *1990年[[12月15日]]: [[折笠愛]] *1990年[[12月22日]]: [[ならはしみき]] *[[1991年]][[1月5日]]: [[真柴摩利]] *1991年[[1月12日]]: [[横山智佐]] *1991年[[1月19日]]: [[天野由梨]] *1991年[[1月26日]]: [[大滝進矢]] *1991年[[2月2日]]: [[梅津秀行]] *1991年[[2月9日]]: [[松井摩味]] *1991年[[2月16日]]: [[渡辺菜生子]] *1991年[[2月23日]]: [[菊池正美]] *1991年[[3月2日]]: [[矢島晶子]] *1991年[[3月9日]]: [[鈴木勝美]] *1991年[[3月16日]]: [[堀内賢雄]] *1991年[[3月23日]]: [[こおろぎさとみ]] *1991年[[3月30日]]: [[龍田直樹]] *1991年[[4月6日]]: [[青野武]] *1991年[[4月13日]]: [[柳沢三千代]] *1991年[[4月20日]]: [[山田栄子]] *1991年[[4月27日]]: [[伊藤美紀 (声優)|伊藤美紀]] *1991年[[5月4日]]: [[沢木郁也]] *1991年[[5月11日]]: [[富沢美智恵]] *1991年[[5月18日]]: [[篠原恵美]] *1991年[[5月25日]]: [[深雪さなえ]] *1991年[[6月1日]]: [[松尾佳子]] *1991年[[6月8日]]: [[北川智絵]] *1991年[[6月15日]]: [[井上真樹夫]] *1991年[[6月22日]]: [[山田康雄]] *1991年[[6月29日]]: [[小林清志]] *1991年[[7月6日]]: [[増山江威子]] *1991年[[7月13日]]: [[山本圭子]] *1991年[[7月20日]]: [[塩屋翼]] *1991年[[7月27日]]: [[橋本晃一]] *1991年[[8月3日]]: [[山本百合子]] *1991年[[8月10日]]: [[神田和佳]] *1991年[[8月17日]]: [[溝口綾]] *1991年[[8月24日]]: [[鈴木みえ]] *1991年[[8月31日]]: [[浦和めぐみ]] *1991年[[9月7日]]: [[西村智博]] *1991年[[9月14日]]: [[青木和代]] *1991年[[9月21日]]: [[松本梨香]] *1991年[[9月28日]]: [[広瀬正志]] *1991年[[10月5日]]: [[峰あつ子]] *1991年[[10月12日]]: [[岸野一彦]] *1991年[[10月19日]]: [[田原アルノ]] *1991年[[10月26日]]: [[神代知衣]] *1991年[[11月2日]]: [[川浪葉子]] *1991年[[11月9日]]: [[藤本譲]] *1991年[[11月16日]]: [[中原茂]] *1991年[[11月23日]]: [[高橋美紀]] *1991年[[11月30日]]: [[島田敏]] *1991年[[12月7日]]: [[松島みのり]] *1991年[[12月14日]]: [[滝沢久美子]] *1991年[[12月21日]]: [[菊池英博 (声優)|菊池英博]] *[[1992年]][[1月4日]]: [[宮内幸平]] *1992年[[1月11日]]: [[信澤三惠子|信沢三恵子]] *1992年[[1月18日]]: [[野村道子]] *1992年[[1月25日]]: [[山本嘉子]] *1992年[[2月1日]]: [[かないみか]] *1992年[[2月8日]]: [[高田由美]] *1992年[[2月15日]]: [[掛川裕彦]] *1992年[[2月22日]]: [[石森達幸]] *1992年[[2月29日]]: [[高木渉]] *1992年[[3月7日]]: [[三石琴乃]] *1992年[[3月14日]]: [[金丸淳一]] *1992年[[3月21日]]: [[兼子由利子]] *1992年[[3月28日]]: [[小林優子]] }} == 月末特集 == {{Multicol}} ''' 1989年 ''' * 4年29日 究極曲特集 * 5月27日 OAV特集 * 6月17日 3時間電話リクエスト * 6月24日 哀愁のエンディング特集 * 7月29日 怪奇もの特集 * 8月26日 ドラマ特集 * 9月30日 思いっきり古い曲特集 * 10月28日 シティーハンター特集 * 11月25日 星に願いを特集 * 12月23日 ゴジラ特集 * 12月30日 究極対通常曲公開録音 ''' 1990年 ''' * 1月27日 ギャグアニメ特集 * 2月24日 恋愛物特集 * 3月24日 ALL ANIMATION TOP 20(前半) * 3月31日 ALL ANIMATION TOP 20(後半) * 4月28日 ウルトラ・シリーズ特集 * 5月26日 林原めぐみ特集from東京 * 6月30日 一度も採用されたことのない人特集 * 7月7日 七夕電話リクエスト * 7月28日 ゲームミュージック特集 * 8月18日 真夏の夜のスーパーラジメニア * 8月25日 どーどど特集パート2 * 9月29日 超マイナー特集 * 10月27日 名作劇場特集パートII * 11月24日 動物もの特集 * 12月22日 クリスマスソング特集 * 12月29日 公開録音・四天王特集 ''' 1991年 ''' * 1月26日 MIO特集 * 2月23日 100回記念3時間生放送in東京 * 3月30日 織姫スペシャル * 4月27日 仮面ライダー特集 * 5月25日 六か月以上採用の無い人特集 * 6月29日 巨大ロボットもの特集 * 7月20日 串田アキラベスト10 * 7月27日 もうすぐ四天王特集 * 8月3日 山本正之ベスト10 * 8月10日 影山ヒロノブベスト10 * 8月17日 宮内タカユキベスト10 * 8月31日 新曲特集 * 9月28日 独り言倶楽部終了残念堀江美都子特集 * 10月26日 レースもの特集 * 11月23日 ALL ANIMATION TOP 20(前半) * 11月30日 ALL ANIMATION TOP 20(後半) * 12月21日 クリスマス&ゴジラ特集 * 12月28日 年忘れファンの集い、冒険もの特集 ''' 1992年 ''' * 1月1日 ラジメニアスペシャル * 1月25日 菊池俊輔作品特集 * 2月29日 野沢雅子特集 * 3月28日 B.G.M.特集 * 4月25日 ガンダム特集 * 5月30日 別バージョン特集 * 6月27日 ゲームミュージック特集 * 7月4日 リクエスチョン大会 * 7月25日 オリンピック特集 * 8月29日 教養アニメ特集 * 9月26日 渡辺宙明特集 * 10月31日 カラオケ特集 * 11月28日 大杉久美子特集 * 12月26日 91年10月〜92年9月ベスト10 ''' 1993年 ''' * 1月2日 初夢ラジメニア * 1月23日 200回記念 思い出はアニメと共に * 1月30日 スーパー戦隊特集 * 2月27日 悪役特集 * 3月27日 OAV特集 * 4月24日 藤子不二雄特集 * 5月29日 リアルロボットもの特集 * 6月26日 棚おろし特集 * 7月31日 竜の子プロ特集 * 8月28日 音頭物特集 * 9月25日 田中公平特集 * 10月2日 とことんラジメニでよってけや * 10月30日 山野さと子・井上あずみ特集 * 11月27日 東映不思議ファンタジーシリーズ特集 * 12月25日 めぞん一刻特集 ''' 1994年 ''' * 1月1日 あんたが大将特集 * 1月8日 250回記念 あんたが大将特集続き * 1月29日 出撃シーンB.G.M.特集 * 2月26日 声優おもちゃ箱特集 * 3月28日 ALL ANIMATION TOP 20(前半) * 4月2日 ALL ANIMATION TOP 20(後半) * 4月29日 手塚治虫特集 * 5月27日 パトレイバー特集 * 6月24日 思い出はアニメと共にパート2 * 7月29日 時代劇特集 * 8月26日 おもちゃ箱9月からかからん曲特集 * 9月30日 東映メタルヒーロー特集 * 10月28日 動物アニメ特集 * 11月25日 みんなのうた・ポンキッキ特集 * 12月23日 300回記念「岩ちゃんの選ぶ究極の主題歌」 ''' 1995年 ''' * 3月31日 短い曲特集 * 5月12日 ルパン三世特集 * 5月26日 人形劇特集 * 6月30日 円谷プロ特集 * 7月28日 OVA特集 * 8月25日 はがきを読むぞ特集 * 9月29日 6か月以上採用されていない人特集 * 10月27日 富山敬さん特集 * 11月24日 妖怪・妖精もの特集 * 12月22日 クリスマス特集 * 12月29日 心安らぐ曲特集 ''' 1996年 ''' * 1月26日 山本正之特集 * 2月23日 ドラゴンボール特集 * 3月29日 ここ2、3年のOP・EDでかかっていない曲特集 * 4月26日 海外SFドラマ特集 * 5月31日 エルドランシリーズ特集 * 6月28日 らんま1/2特集 * 7月19日 池田駿介さん特集 * 8月2日 〜ありがとう須磨〜ハガキを読むぞ特集 * 8月30日 新曲特集 * 9月20日 岩男潤子特集 * 10月25日 山本正之特集 * 11月22日 400回記念 * 11月29日 400+1回記念 かおりんの選ぶ究極の主題歌 * 12月25日 ラジメニアとラジメニアJr.のHot X'mas * 12月27日 思い出はアニメと共に ''' 1997年 ''' * 1月3日 はがきを読むぞ特集 * 1月31日 ギャグアニメ特集 * 2月28日 サイバーフォーミュラ特集 * 3月28日 セーラームーン特集 * 4月25日 名作劇場特集 * 5月31日 流星ラジメニエンジェル〜そのまんまや〜 * 6月27日 渡辺岳夫特集 * 7月25日 ラジオドラマ・ラジオ番組特集 * 8月29日 きまぐれオレンジ☆ロード特集 * 9月26日 藤子・F・不二雄特集 * 10月31日 藤子・F・不二雄特集パート2+アニメーション神戸'97特集 * 11月28日 アニメに登場する歌手特集 * 12月26日 6か月以上採用されていない人特集 ''' 1998年 ''' * 1月30日 拡大声優おもちゃ箱特集 * 2月27日 石ノ森章太郎特集 * 3月27日 勇者シリーズ特集 * 4月24日 林原めぐみ特集 * 5月29日 ゲームミュージック特集 * 6月26日 かおりんのわがまま選曲 * 7月31日 野球アニメ特集 * 8月28日 声優おもちゃ箱特集 * 9月25日 思い出はアニメと共に * 10月2日 岩ちゃん“超”わがまま選曲パート1 * 10月9日 岩ちゃん“超”わがまま選曲パート2 * 10月16日 ミニはがきを読むぞ特集 * 10月23日 500回記念 ALL ANIMATION TOP 20(前半) * 10月30日 500回記念 ALL ANIMATION TOP 20(後半) * 11月27日 関智一さんにちなんだ曲特集 {{Multicol-break}} ''' 1999年 ''' * 1月29日 石ノ森章太郎特集パート2 * 2月26日 魔法少女アニメ特集 * 3月26日 10周年記念・東京銀座スタジオより放送 * 4月30日 ゲームボーカル曲&ゲーム原作アニメ特集 * 6月4日 ガンダム特集 * 6月18日 ラジオファミリー558〜ベストオブおやじアニソン * 6月25日 かおりん三十路記念・國府田マリ子withかおりん特集 * 7月30日 アニメーション神戸協賛・ここ1年間のアニメ主題歌ベスト10 * 8月27日 音頭もの特集 * 9月24日 菅野よう子特集 * 10月29日 思い出はアニメと共に ''' 2000年 ''' * 1月28日 短い曲特集 * 2月25日 特撮ソング特集 * 3月31日 川井憲次特集 * 4月28日 ここ3年のアニメ特集 * 5月26日 タイムボカンシリーズ特集 * 6月23日 井上喜久子特集 * 7月28日 アニメーション神戸AM KOBE賞対象曲特集 * 8月25日 塩沢兼人さん・新山志保さん追悼特集 * 9月22日 600回記念・逆電リク * 9月29日 はがきを読むぞ特集 * 10月27日 探偵もの特集 * 11月17日 水木一郎特集 * 12月22日 21世紀に残したいアニソン特集 * 12月29日 21世紀に残したいアニソン特集つづき ''' 2001年 ''' * 1月26日 松本零士特集 * 2月23日 キャラクターソング特集 * 3月30日 学園もの特集 * 4月28日 NHKアニメ特集 * 5月26日 スーパー戦隊特集 * 6月30日 アニメーション神戸AM KOBE賞対象曲特集 * 7月28日 宮内洋ヒーロー特集 * 8月25日 TVサイズ特集 * 9月29日 スタジオジブリ特集 * 10月27日 怪盗・泥棒特集 * 11月10日 かおりんのめっちゃ聞きたいねんスペシャル * 11月24日 CLAMP特集 * 12月29日 仮面ライダー(悪役寄り)特集 ''' 2002年 ''' * 1月26日 新曲特集 * 2月23日 笠原弘子特集 * 3月30日 長い間採用されていない人特集 * 4月27日 ラブソング特集 * 5月18日 関智一特集 * 6月29日 パチモン戦隊特集 * 7月20日 田中真弓特集 * 8月17日 アニメーション神戸AM KOBE賞対象曲特集 * 8月24日 700回記念・逆電リク * 9月28日 男性声優特集 * 10月26日 コーラスグループ特集 * 11月30日 侍・武者・時代もの特集 * 12月28日 2002年アニメ・特撮紅白歌合戦 ''' 2003年 ''' * 2月1日 おジャ魔女どれみ特集 * 2月22日 大地丙太郎監督特集 * 3月29日 リクエスト25回以上お待たせしている人特集 * 4月26日 スーパーロボット大戦シリーズ特集 * 5月31日 ヒデ夕樹特集 * 6月28日 長寿アニメ特集 * 7月26日 アニメーション神戸AM KOBE賞対象曲特集 * 8月30日 ディズニー特集 * 9月27日 STARCHILD DREAM IN KOBE 2003特集 * 10月25日 少女マンガ特集 * 11月29日 思い出はアニメと共に * 12月20日 クリスマス&ウインターソング特集 * 12月27日 はがきを読むぞ特集 ''' 2004年 ''' * 2月14日 デュエットソング特集 * 3月27日 B.G.M.特集 * 7月24日 アニメーション神戸ラジオ関西賞対象曲特集 * 10月30日 野球アニメ特集 * 12月25日 横山光輝特集 ''' 2005年 ''' * 4月23日 ドラえもん特集 * 5月7日 岡崎律子特集 * 7月2日 あなたが選ぶ名曲アニソン特集 * 7月16日 アニメーション神戸・ラジオ関西賞対象曲特集 * 12月24日 クリスマスソング特集 ''' 2006年 ''' * 3月4日 サクラ大戦特集 * 6月24日 900回記念・かおりんのめっちゃ聞きたいねんスペシャル * 7月29日 逆電リク特集 * 8月19日 アニメーション神戸ラジオ関西賞対象曲特集 * 12月23日 鈴置洋孝特集 ''' 2007年 ''' * 3月31日 串田アキラ・宮内タカユキ特集 * 6月23日 究極のエンディング特集 * 7月21日 アニメーション神戸ラジオ関西賞対象曲特集 * 9月29日 ここ10年の究極のエンディング特集 ''' 2008年 ''' * 5月24日 1000回記念放送 * 7月12日 アニメーション神戸ラジオ関西賞対象曲特集 * 7月19日 アニメーション神戸ラジオ関西賞対象曲特集パート2 ''' 2009年 ''' * 1月3日 マクロス特集 * 7月4日 アニメーション神戸ラジオ関西賞対象曲特集 * 12月26日 声優さんの曲特集 ''' 2010年 ''' * 7月17日 AJF大阪特集 * 7月31日 長田鉄人広場から公開生放送 * 8月14日 アニメーション神戸主題歌賞対象曲特集 * 11月13日 平成仮面ライダー特集 ''' 2011年 ''' * 7月9日 アニメーション神戸・ラジオ関西賞対象曲特集 * 10月1日 スーパー戦隊特集 * 12月24日 クリスマスソング特集 ''' 2012年 ''' * 3月24日 1200回記念 あんな曲こんな曲有名やからかからへんのはおかしいやないか特集 * 9月1日 アニメーション神戸主題歌賞対象曲特集 ''' 2013年 ''' * 2月23日 ロボットもの特集 * 5月11日 かおりんのめっちゃ聞きたいねんスペシャル * 9月14日 アニメーション神戸主題歌賞対象曲特集 ''' 2014年 ''' * 3月8日 渡辺岳夫特集 * 8月16日 アニメーション神戸主題歌賞対象曲特集 * 9月27日 公開生放送・特撮ヒーロー特集 ''' 2015年 ''' * 2月28日 NHKみんなのうた特集 * 5月9日 短い曲特集 * 8月29日 アニメーション神戸主題歌賞対象曲特集 ''' 2016年 ''' * 3月12日 永井豪特集 * 6月25日 平成版 ALL ANIMATION TOP 20 * 9月10日 ラジメニアワード2016主題歌賞対象曲特集 * 12月31日 アニソン・特ソン紅白歌合戦 ''' 2017年 ''' * 3月11日 東日本大震災から6年 聴きたい曲・聴いてもらいたい曲特集 * 4月29日 2007年アニソン・特ソン特集(21時台) * 5月27日 2011年アニソン・特ソン特集 * 6月24日 あなたの好きな劇場アニメ特集 * 8月5日 影山ヒロノブ特集 * 8月26日 ラジメニアワード2017対象曲特集 * 9月30日 アニソン・特ソン カバー特集 * 10月28日 怖い曲特集 * 11月25日 オールイケメン特集 * 12月23日 1500回記念公開生放送・クリスマスソング特集 ''' 2018年 ''' * 1月27日 宮川泰・宮川彬良 親子特集 * 3月10日 旅特集 * 6月30日 範疇外曲特集 * 8月25日 ラジメニアワード2018対象曲特集 * 11月17日 angela特集 ''' 2019年 ''' * 1月5日 子どもの歌特集 * 2月23日 カバーソング特集パート2 * 5月4日 祝50周年 堀江美都子特集 '''2021年''' * 4月3日 まるごと林原めぐみ特集 {{Multicol-end}} == テーマ制 == {{columns-list|2| ''' 2019年 ''' * 4月 スタート * 5月 チェンジ * 6月 映画 * 7月 歴史 * 8月 ガンダム * 9月 ラジメニアワード対象曲特集 *10月 復活 *11月 串田アキラ・神谷明・古川登志夫特集 *12月 あなたの今年の一曲 ''' 2020年 ''' * 1月 十二支 ** 11日のみ、ゲスト出演の山本正之に関する楽曲も受付。 * 2月 鉄道 * 3月 ヒーロー・ヒロイン * 4月 声優 * 5月 待てば海路の日和あり ** 新型コロナウイルス問題で各種公演が中止または延期となった作品・歌手・声優の楽曲のリクエストを受け付ける。 * 6月 フリー * 7月 スポーツ * 8月 新曲棚卸し特集 ** 後述の通りラジメニアワードが開催されないものの、対象期間の作品に使われた新曲のリクエストを受け付ける。 * 9月 ライブ ** アニメ・声優関連のライブ音源のある楽曲、またはライブを題材にした作品の楽曲などのリクエストを受け付ける。 * 10月 あなたのイチオシ! * 11月 文化部! * 12月 12月 '''2021年''' * 1月 フリー * 2月 日曜の朝 ** 日曜の朝(5時から11時)に放送のアニメ・特撮作品が対象。ローカル編成や再放送などで日曜の朝に放送された作品も含む。 * 3月 卒業 * 4月 声優 * 5月 5・ファイブ * 6月 菊池俊輔特集 * 7月 海 * 8月 フリー * 9月 新曲棚卸し特集 * 10月 女性声優さんが2人以上で歌っている曲 ** 最低条件を満たしていれば、男性声優が加わっていても可。 * 11月 男性声優が歌ってる曲 ** 前月とは異なり1人でも可。最低条件を満たしていれば、女性声優が加わっていても可。 * 12月 インストゥルメンタル ** BGMだけでなく通常の歌曲のインストゥルメンタルバージョンも対象となる。 '''2022年''' * 1月 実写作品 * 2月・3月 フリー * 4月 変身 * 5月 家族・ファミリー * 6月 ロボット * 7月 ラブコメ * 8月 渡辺宙明特集 * 9月 新曲棚卸し特集 * 10月 劇場公開作品特集 * 11月 食欲の秋 * 12月 ラジメニアラカルト(この月は週替わりでテーマを設定する) ** 12月3日 魔法 ** 12月9日 タツノコプロ ** 12月16日 時代もの ** 12月24日 クリスマス ** 12月30日 エンディング ''' 2023年 ''' * 1月 福袋(フリー) * 2月 動物 * 3月 水木一郎特集 * 4月 1 * 5月 世界 * 6月 水 * 7月 アイドル * 8月 勉強 * 9月 新曲棚卸し特集 * 10月 乗り物 * 11月 二人で歌ってる曲 * 12月 紅白 ''' 2024年 ''' * 1月 ドラゴン・龍 }} == ラジメニアワード == [[アニメーション神戸]]の賞典が2015年の第20回を持って終了したのを受けて、主題歌賞(ラジオ関西賞)だけでも残せないかと番組で引き継いだ事によって2016年に発足した賞。当該前年の7月1日から当該年の6月30日(2016年なら2015年7月1日から2016年6月30日)にテレビ・映画・Webなどで放送・上映・公開されたアニメーション作品(当該年次の新作だけでなく前年からレギュラーとして続いている作品も含む)・特撮作品(2019年より)で使用された楽曲を選出対象とし、リスナーからの投票で決定する。従来のアニメーション神戸主題歌賞が投票で選ばれた上位5曲の中から実行委員会で審査し決定したのに対し、本賞では単純に投票によって決定する形式へと変更されている。 2020年・2021年については、新型コロナウイルス感染症の影響でアニメ作品の制作・放送・公開の延期が相次いだことや、投票集計のスタッフの確保が困難になったのを受けて、実施を取り止めることになった。2022年に再開したものの、対象となる楽曲の増加で票が分散しすぎることに加え、総投票数も番組で設定したラインに届かなかったことから「賞としての役目を終えた」と判断、再び開催が見送られることになった。 === 受賞曲 === {| class="wikitable" style="font-size:small" |- ! 年次 !! 順位 !! 曲名 !! 作品名 !! 歌手 |- | rowspan="5"|2016年 || 第1位 || DEAD OR ALIVE || 『[[蒼穹のファフナー|蒼穹のファフナー EXODUS]]』第2クールOP主題歌 || [[angela (音楽ユニット)|angela]] |- | 第2位 || [[不安定な神様]] || 『[[うたわれるもの 偽りの仮面]]』OP主題歌 || [[Suara]] |- | 第3位 || FEEL×ALIVE || 『[[ばくおん!!]]』OP主題歌 || [[佐咲紗花]] |- | 第4位 || [[High Free Spirits]] || 『[[ハイスクール・フリート]]』OP主題歌 || [[TrySail]] |- | 第5位 || [[はなまるぴっぴはよいこだけ/183の日本トレビアンROCK'N ROLL|はなまるぴっぴはよいこだけ]] || 『[[おそ松さん]]』第1クールOP主題歌 || [[A応P]] |- | rowspan="5"|2017年 || 第1位 || [[ようこそジャパリパークへ]] || 『[[けものフレンズ (アニメ)|けものフレンズ]]』OP主題歌 || どうぶつビスケッツ×PPP |- | 第2位 || サウンドスケープ || 『[[響け!ユーフォニアム2]]』OP主題歌 || [[唐沢美帆|TRUE]] |- | 第3位 || [[僕は僕であって]] || 『[[亜人 (漫画)|亜人]]』第2期第1クールOP主題歌 || angela×[[fripSide]] |- | 第4位 || 月がきれい || 『[[月がきれい]]』ED主題歌 || [[東山奈央]] |- | 第5位 || ID-0 || 『[[ID-0]]』OP主題歌 || 佐咲紗花 |- | rowspan="6"|2018年 ||rowspan="2"| 第1位 || [[進化理論]] || 『[[新幹線変形ロボ シンカリオン]]』OP主題歌 || [[BOYS AND MEN]] |- | 全力☆Summer! || 『[[アホガール]]』OP主題歌 || angela |- | 第3位 || [[SHINY DAYS (亜咲花の曲)|SHINY DAYS]] || 『[[ゆるキャン△ (アニメ)|ゆるキャン△]]』OP主題歌 || [[亜咲花]] |- | 第4位 || [[POP TEAM EPIC (曲)|POP TEAM EPIC]] || 『[[ポプテピピック]]』OP主題歌 || [[上坂すみれ]] |- |rowspan="2"| 第5位 || Make Debut! || 『[[ウマ娘 プリティーダービー (アニメ)|ウマ娘 プリティーダービー]]』OP主題歌 || スピカ |- | The Girls Are Alright! || 『[[宇宙よりも遠い場所]]』OP主題歌 || Saya |- | rowspan="6"|2019年 || 第1位 || ミッション!健・康・第・イチ || 『[[はたらく細胞]]』OP主題歌 || 赤血球([[花澤香菜]])、白血球([[前野智昭]])、<br />キラーT細胞([[小野大輔]])、マクロファージ([[井上喜久子]]) |- | 第2位 || [[UNION (曲)|UNION]] || 『[[SSSS.GRIDMAN]]』OP主題歌 || [[OxT]] |- | 第3位 || THE BEYOND || 『[[蒼穹のファフナー THE BEYOND]]』OP主題歌 || angela |- | 第4位 || [[徒花ネクロマンシー]] || 『[[ゾンビランドサガ]]』OP主題歌 || フランシュシュ |- |rowspan="2"| 第5位 || SURVIVE! || 『[[K_SEVEN_STORIES]]』OP主題歌 || angela |- | [[aurora arc|月虹]] || 『[[からくりサーカス]]』初代OP主題歌・3代目ED主題歌 || [[BUMP OF CHICKEN]] |- | rowspan="6"| 2022年 || 第1位 || [[ミックスナッツ (曲)|ミックスナッツ]] || 『[[SPY×FAMILY]]』第1クールOP主題歌 || [[Official髭男dism]] |- | rowspan="3"| 第2位 || アンダンテに恋をして! || 『[[乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…|乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…X]]』OP主題歌 || angela |- | [[チキチキバンバン (JOLLYの曲)|チキチキバンバン]] || 『[[パリピ孔明]]』OP主題歌 || QUEENDOM |- | 愛のシュプリーム! || 『[[小林さんちのメイドラゴン|小林さんちのメイドラゴンS]]』OP主題歌 || [[fhána]] |- |rowspan="2"| 第5位 || 海と真珠 || 『[[海賊王女]]』OP主題歌 || [[JUNNA]] |- | [[残響散歌/朝が来る|残響散歌]] || 『[[鬼滅の刃 (アニメ)|鬼滅の刃 遊郭編]]』OP主題歌 || [[Aimer]] |} == テーマ曲 == ===オープニング=== ;「青春ラジメニアの歌」 :作詞 - 高橋秀介・高橋謙介 作曲 - [[菊池俊輔]] 編曲 - [[片岡ヒロマサ]] ブラスアレンジ - 沢井原兒 歌 - [[子門真人]] :番組では原則としてインストを使用。改編直後の回のみボーカル入りを使用する。 :歌詞は番組視聴者からの公募で決定。歌手は番組で人気の高い「アニソン御三家」の水木一郎・ささきいさお・子門真人の中から、投票で子門に決定した<ref name="minpo199212">{{Cite journal|和書|editor=日本民間放送連盟|title=制作ノートから(118) ラジオ関西「青春ラジメニア」 / 岩崎和夫|journal=月刊民放|volume=22|issue=12|publisher=日本民間放送連盟|date=1992-12-01|pages=31 - 33|id={{NDLJP|3471084/16}}}}</ref>。『[[仮面ライダー]]』の主題歌を彷彿とさせる曲調になっている<ref name="minpo199212"/>。 :CDでは1992年4月22日発売の『青春ラジメニア』が初出。 ;「ぼくらの青春ラジメニア」 :作詞・作曲・歌 - [[山本正之]] :山本正之がゲストの回に使用される。 :CDでは2000年7月26日発売の山本のアルバム『十三の魔王』が初出。 最初期は「大空へジャンプ!」(『[[のらくろクン]]』BGM)、のちに「愛と冒険の旅立ち〜トンデケマンメインテーマ〜」(『[[たいむとらぶるトンデケマン!]]』BGM)が用いられていた。 ===エンディング=== ;「リスナーさんにありがとう」 :作詞 - けのくん([[田中公平]]<ref>「[https://ameblo.jp/kenokun/entry-10244178623.html けのくん]」、田中公平のブログ My Quest for Beauty、2009年4月17日</ref>) 作曲 - [[田中公平]] 歌 - [[吉田古奈美]]・[[田中公平]]・[[南かおり]]・[[岩崎和夫]]・「青春ラジメニア」&「[[大アニメ博覧会]]」リスナーのみなさん :番組では冒頭のコーラス部分をカットし、インストにピアノで歌詞メロディーを追加したものが流れている。ピアノ演奏は南かおり。 :CDでは1994年3月23日発売の『ラジオ英雄伝 青春ラジメニアVS大アニメ博覧会』が初出。 == 表彰 == 「青春ラジメニアスペシャル [[植村直己|NAOMI UEMURA]] FOREVER 2050年のアンノンマン」([[1990年]][[2月25日]]放送)で、1990年[[日本民間放送連盟#日本民間放送連盟賞|日本民間放送連盟賞]]近畿地区娯楽部門最優秀賞を受賞。 == 姉妹番組 == {{Infobox animanga/Header2 }} {{Infobox animanga/Radio |タイトル=青春ラジメニアZ |愛称= Z |放送開始= [[2008年]][[10月4日]] |放送終了= [[2010年]][[3月27日]] |放送局= ラジオ関西 |放送時間= 21:00 - 21:50 |放送回数= 全78回 |放送形式= [[生放送]]<!--<ref name="non-live"/>--> |スタジオ= |ネット局= |ネットワーク= |パーソナリティ= 岩崎和夫<br />南かおり |DJ= |アシスタント= |構成作家= |ディレクター= 西口正史 |プロデューサー= 西口正史 |ミキサー= |脚本= |演出= |その他のスタッフ= |提供= |その他= }} {{Infobox animanga/Radio |タイトル= ラジメニ玉手箱 |愛称= |放送開始= [[2010年]][[4月4日]] |放送終了= [[2010年]][[9月26日]] |放送局= ラジオ関西 |放送時間= 0:00 - 1:00 |放送回数= 全26回 |放送形式= [[収録放送]] |スタジオ= |ネット局= |ネットワーク= |パーソナリティ= 岩崎和夫<br />南かおり |DJ= |アシスタント= |構成作家= |ディレクター= 西口正史 |プロデューサー= 西口正史 |ミキサー= |脚本= |演出= |その他のスタッフ= |提供= スポンサーなし |その他= }} {{Infobox animanga/Footer}} ;水曜イけてるリクエスト :1996年放送。パーソナリティは[[渡辺武彦]]・[[疋田由香里]](ニックネームは「ナベちゃん」と「ヒッキー」)。声優が歌っている曲をかける番組。岩崎がディレクターを担当していた。 ;青春ラジメニアJr. :1997年9月13日-1998年3月28日 毎週土曜日18:30-21:00放送。パーソナリティは渡辺武彦・細居久実(細居のニックネームは「くーみん」)。ラジメニアでは掛かりづらい、新しめのアニソンを扱う番組。前番組に引き続き岩崎がディレクターを担当していた。 ;ラジメニじゃに〜 :1998年9月11日-1999年3月26日 毎週金曜日18:00-20:00放送。パーソナリティは細居久実・岡崎恵巳(岡崎のニックネームは「めーたん」)。前半はアニソン、後半は[[ジャニーズ事務所|ジャニーズ系]]の楽曲を放送。この番組以降岩崎は姉妹番組のディレクターを外れている。 ;週刊アニメジラ :1999年10月8日-2000年3月24日 毎週金曜日21:15-21:30放送。ただしナイター中継が延長になった場合は短縮、または中止になった。パーソナリティは岩崎和夫。ラジメニアで没になったハガキを読むトークメインの番組。ワンコーラスバージョンなどラジメニアでは掛かりづらい曲をかけることもあった。 ;青春ラジメニアZ :2008年10月4日-2010年3月27日 毎週土曜日21:00-21:50放送。パーソナリティは岩崎和夫・南かおり。事実上2部制となったラジメニアの第1部で、番組の通称は本番組が“Z”、従来枠のラジメニアは“本家”と呼び分けていた。 ;ラジメニ玉手箱 :2010年4月4日-2010年9月26日 毎週日曜日0:00-1:00(土曜日深夜)放送。パーソナリティは岩崎和夫・南かおり。この時間帯は曲を少なめにして欲しいという局の意向があり、リクエストは4曲と少なめ。ラジメニアの月末特集のように作品・楽曲への思い入れを紹介しながらリクエスト曲をかけたり、ふつおたの紹介がメインとなっている。[[ポッドキャスト]]では楽曲の権利処理の制約があるため、オープニング・エンディング曲を[[ジョー・ジャクソン (ミュージシャン)|Joe Jackson]]の「Steppin' Out」に酷似した放送用フリー音源に差し替え、また楽曲を除いたトーク部分を配信。2010年10月より「ラジメニ玉手箱R」に改題し有料ダウンロード配信に媒体を代えて開始。2017年4月より番組ホームページ及び[[ラジオクラウド]]からのインターネットによる無料配信に変更した。2018年4月2日配信分を持って一旦終了。 ;電話版青春ラジメニア(ラジメニアテレホンサービス) :放送した楽曲名の紹介とフリートーク。通話時間は3分{{efn2|当時の市外通話料金が、3分間で10円であったため。}}。番組終了後に収録されている。電話番号078-362-7383(24時間){{efn2|ただしテレホンサービス用の機械の電源ケーブルを、ラジオ関西の社員が誤って抜いてしまい、聴けない状態になることが度々あったが改善されている。}}。番組公式サイト(下記参照)でも配信。キーワードをリクエストはがきに書くと、抽選で1人に岩崎・南のサイン入り直筆メッセージハガキがもらえた。初回配信は1991年4月8日。 :テレホンサービス用の機材の老朽化に伴い、2018年4月よりテレホンサービスとしての提供は終了し、以降「ネット版青春ラジメニア」に名称変更して公式サイトでの配信のみを継続しつつ、2019年4月までネット環境が無い人のために放送中に前の週に掛かった曲を案内するようになった。2020年10月末に後述のチャンネル開設に伴い、発展的に終了。 ;青春ラジメニアチャンネル :[[CyberZ|OPENREC.tv]]に開設した番組の[[サブスクリプション|サブスク]]チャンネル。2020年11月2日より番組収録後のアフタートークや過去の放送のダイジェスト、バスツアーの車内で流される特別版など配信では初公開となる未公開トークといった、チャンネル限定のコンテンツを配信する。チャンネル登録料やエール([[投げ銭]])など、このチャンネルでの収益は今後の番組本体を存続させるための資金として使われる。 == その他 == [[1994年]]8月に、ラジオ関西本社(当時局舎のあった須磨)で、抽選されたリスナーによる座談会が行われたことがある。 [[1999年]][[9月1日]]から[[12月26日]]には、[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の、駅におけるデジタルコンテンツ販売実証実験「デジタルキヨスク」に参加し、5分間のフリートークを収録したパソコン用の音声データを毎週販売した。これはデジタルキヨスク販売コンテンツの中で、一番の売り上げを記録した。 [[2006年]][[1月1日]](2005年12月31日深夜)の放送では、冒頭の挨拶には「あけましておめでとうございます」が用いられたが、パーソナリティーの2人はこの後の番組紹介を「(通常放送と同様の)12月31日の放送」とするか「(年明けを考慮した)新年第1回目の放送」とするか大変悩んだようである。 == 関連商品 == === CD・CD-ROM === *「青春ラジメニア」([[キングレコード]] 1992年4月22日発売、1997年3月21日再発売) :発売から2か月で6000枚を売り上げ、番組の放送エリア外の関東でもよく売れた<ref name="minpo199212"/>。 *「ラジオ英雄伝 青春ラジメニアVS[[大アニメ博覧会]]」 ([[パイオニアLDC]] 1994年3月23日発売) *「T"IDAL WAVE」(パイオニアLDC 1994年8月25日発売) *「青春ラジメニア おかげ“SUMMER”CDスペシャル! PartI」([[NECアベニュー]] 1996年7月20日発売) *「青春ラジメニア おかげ“SUMMER”CDスペシャル! PartII」(NECアベニュー 1996年8月21日発売) *「青春ラジメニア『いたずらパイナップル』 想いでラヴレターPart1」(NECアベニュー 1996年9月21日発売) *「青春ラジメニア『いたずらパイナップル』 想いでラヴレターPart2」(NECアベニュー 1996年11月21日発売) *「青春ラジメニア『いたずらパイナップル』 想いでラヴレターPart3」(NECアベニュー 1997年1月21日発売) *「青春ラジメニアCD-ROM」(ラジオ関西 2000年発売 通販のみ) *「COMING TO THE RADIO ラジオがだいすき」([[ダイキサウンド]] 2004年4月14日発売) *「青春ラジメニア 20周年記念アルバム アニソン玉手箱〜ひねくれの逆襲〜」([[日本コロムビア|コロムビアミュージックエンタテインメント]] 2009年4月15日発売) *「青春ラジメニア アニソン玉手箱特集」(ラジオ関西 2009年発売) *「青春ラジメニア 30周年記念アルバム「アニソン縦横無尽〜ひねくれの帰還〜」」(日本コロムビア、2019年6月12日発売) === 書籍 === * 「青春ラジメニア30周年記念 アニバーサリーブック」(ラジオ関西 2019年3月24日発売) == 関連人物 == ===ラジメニアと縁の深い声優・業界関係者=== ;[[菊池俊輔]] :ラジメニアのオープニングテーマ「青春ラジメニアの歌」の[[作曲家]]。 ;[[田中公平]] :ラジメニアのエンディングテーマ「リスナーさんにありがとう」の作曲家兼リスナー。 ;[[山本正之]] :「ぼくらの青春ラジメニア」等の作詞作曲。 ;[[林原めぐみ]] :『[[林原めぐみのHeartful Station]]』が開始当初の放送局・[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]で突如打ち切られた後、ラジオ関西で再開した事をきっかけに縁を深める。 ;[[ショッカーO野]] :最多出演ゲストで、イベント等で放送日前後に近畿地方を訪れる際は、よくゲストとして出演する。 ;[[ミンキー・ヤス]](本名:岩崎康雄) :[[ラジオパーソナリティ]]。岩崎和夫と同姓かつ同じ元教師で、落語研究会所属経験もある。このため互いに「生き別れの兄弟」と冗談めかして言う事がある ;[[小森まなみ]] :ラジオパーソナリティ・声優。ラジメニアとほぼ同時期に開始した『mamiのRADIかるコミュニケーション』や『[[小森まなみのPop'n!パジャマ|小森まなみのPop'n!パジャマ EX〜RV〜EYE]]』(いずれもラジオ関西でもネットした時期あり)を通じて縁を深め、イベント開催時にはミンキー・ヤスや[[高橋直純]]と共にゲスト出演することがあった。 ;[[神谷明]]<ref name="raditopo20220101" /> :[[阪神・淡路大震災]]発生後の復興支援チャリティユニット「[[WITH YOU (音楽ユニット)|WITH YOU]]」の発足や、アニメーション神戸でのワークショップに[[大地丙太郎]](アニメーション監督)と共に講師として参加するなど、番組内外で関わりがある。 ;[[國府田マリ子]]<ref name="raditopo20220101" /> :元々南とは[[MBSラジオ]]『これがそうなのね仔猫ちゃん』『謎なぞドリーミン』で共演し、それを通じて親交を持ち、そこから本番組とも関わりと持つようになった。 ;[[中尾隆聖]]<ref name="raditopo20220101" /> :演出出演する舞台の公演を通じて番組と縁ができるようになり、以来公演がある際には告知のコメントを寄せることが多い。 ;[[野中藍]]<ref name="raditopo20220101" /> :同じアニたまドットコム枠で放送された『野中藍 ラリルれ、にちようび。→[[野中藍 ラリルれ、サタデーナイト。]]』を通じて縁を深める。 ===ラジメニアと縁の深い歌手・声優アーティスト=== * [[堀江美都子]] * [[影山ヒロノブ]]ほか[[JAM Project]]メンバー([[水木一郎]]ほか元メンバー含む) * [[山野さと子]] * [[サイキックラバー]] * [[串田アキラ]] * [[奥井雅美]] * [[米倉千尋]] * [[Angela (音楽ユニット)|angela]] * [[岡崎律子]] * [[ささきいさお]]<ref name="raditopo20220101" /> * [[宮内タカユキ]]<ref name="raditopo20220101" /> * [[水樹奈々]]<ref name="raditopo20220101" /> * [[石原慎一]] * [[佐咲紗花]] * [[Suara]] * [[茅原実里]] ほか ===ラジメニアリスナー出身声優・業界関係者=== * [[杉本ゆう]] <ref name="kaorin0910">「[http://minamikaori.blog.eonet.jp/minamikaori/2009/10/1029-a552.html 10/29(木)ー3 元ラジメニアン声優さん発見♪]」、かおりんの関西探検隊♪、2009年10月29日</ref> * [[置鮎龍太郎]] - ラジメニア前身の「歌謡曲まかせなさい」の、さらに前身である「歌謡天国」の頃からのリスナー また彼の以前の妻もリスナーだった<ref name="masakano18">CD「集まれ昌鹿野大全集18 ~逝~」#467、ラジオ関西、2015年 ラジオ関西「[[集まれ昌鹿野編集部]]」2015年3月8日放送にて、置鮎龍太郎談</ref><ref name="kaorin0910" />。 * [[前田愛 (声優)|前田愛]](AiM) <ref name="kaorin0910" /> * [[こやまきみこ]] * [[福山潤]] <ref name="kaorin0910" /> * [[一条和矢]] <ref name="kaorin0910" /> * [[鈴村健一]] <ref name="kaorin0910" /> * [[中村悠一]] <ref name="kaorin0910" /><ref name="masakano18" /> * [[武虎]]<ref name="30thbook">『青春ラジメニア 30th Anniversary Book』P.17,37,59</ref> * [[小西克幸]]<ref name="30thbook"/> * [[関山美沙紀]]<ref name="30thbook"/> * [[野田順子]]<ref name="30thbook"/> * [[岩崎諒太]]<ref>{{Twitter_status|zurixzuri|1568254792627294209}}</ref> * [[伊藤智彦]]([[アニメーション演出家]])<ref name="30thbook"/> * [[若木民喜]](漫画家) * [[上江洲誠]](脚本家)<ref name="30thbook"/> * [[海猫沢めろん]](小説家)<ref>[https://eonet.jp/zing/articles/_4103140.html 「青春ラジメニア」放送30周年。ラジオ番組とラノベのファン層は似てる?],Zing!,2019年4月11日</ref> * [[長田宏]](ラジオディレクター・構成作家)<ref name="30thbook"/> * [[理多|Rita]](声優・歌手)<ref>2019年12月28日放送 はごろもフーズ presents 青春ラジメニア年末スペシャル 内 本人メッセージ</ref> * [[畑健二郎]](漫画家)<ref>{{Twitter_status|hatakenjiro|1284461910264475648}}</ref> <!--関連人物は限りないので、選択が必要。要再考。--> == 関連項目 == * [[アニたまどっとコム]] - [[ラジオ関西]]の深夜[[アニラジ]]枠の総称。 * [[ワタナベフラワームサのアニソン部屋]](ムサ部屋) - ムサがパーソナリティを務めるアニメソング番組。 * [[アニメーション神戸]] - 毎年岩崎・南が授賞式の司会を務めたほか、「ラジオ関西賞(主題歌賞)」の審査にも協力していた。 * [[スーパーアニソン魂|ANIME JAPAN FES]] - 大阪公演では必ず岩崎→ムサと南がMCを担当する。 * [[くり万太郎のオールナイトニッポンR]] - 2009年から2012年に放送された[[ニッポン放送]]がキー局のリクエスト番組で、ラジオ関西でもネットしていた。当番組同様フルコーラスで曲がかかり、当番組と違い歌謡曲がメインだが、ドラマ主題歌・映画のサントラ・アニソン(声優が歌う曲も含む)がまれに掛かることもあった。 * [[痛快! アニメジオ]] - [[和歌山放送]](wbs)のアニラジ番組。パーソナリティを務める[[北尾博伸]](wbsアナウンサー)は岩崎を師と仰ぎ、コメンテーターの 民木☆唯も元ラジメニアンである。 * [[おふらじ!|おふらじ!EX]] - [[エフエム大阪]]のアニラジ番組。本番組と交流があり、2023年6月には相互コラボ企画を行った。またムサについてはムサ部屋と同番組との交流があり、岩崎も一度出演している。 == 参考文献 == * 「ラジオ英雄伝 青春ラジメニアVS大アニメ博覧会」ブックレット、パイオニアLDC、1994年 * 「青春ラジメニア30周年記念 アニバーサリーブック」ラジオ関西、2019年 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{notelist2}} ===出典=== {{reflist}} == 外部リンク == * 公式サイト ** [http://anitama.com/radimenia/ 青春ラジメニア] {{ja icon}} - 「アニたまどっとこむ」内の番組公式ページ ** [http://jocr.jp/blog/radimenia.php ラジメニアブログ] {{ja icon}} - ウェブブログ ** {{Archive.today|url=http://homepage2.nifty.com/rsc/sr.htm |title=PcラジメニアMobile|date=20150820074351}} {{ja icon}} - 番組スタッフ制作による番組公式ページ 2010年3月更新終了 ** {{Twitter|radimenia558}} ** {{OPENREC.tv|radimenia|青春ラジメニアチャンネル}} *関連サイト ** [http://www.radimenia.net/ ラジメニアンのお部屋] - ファンサイトだが、事実上番組公認サイト ** [https://web.archive.org/web/20000306132358/http://www2s.biglobe.ne.jp/~tomg/sr/radimeni.htm 私設青春ラジメニアホームページ] {{radio-stub}} {{anime-stub}} {{デフォルトソート:せいしゆんらしめにあ}} [[Category:アニたまどっとコム]] [[Category:ローカルラジオ局の音楽番組]] [[Category:アニメソングのラジオ番組]] [[Category:リクエスト番組]] [[Category:1989年のラジオ番組 (日本)]] [[Category:ラジオクラウド]]
2003-08-11T14:14:36Z
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1612年
1612年(1612 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。
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1612年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1612}} {{year-definition|1612}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[壬子]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[慶長]]17年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2272年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[万暦]]40年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[光海君]]4年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3945年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[弘定]]13年 *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[乾統 (莫朝)|乾統]]20年 * [[仏滅紀元]] : 2154年 - 2155年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1020年 - 1021年 * [[ユダヤ暦]] : 5372年 - 5373年 * [[ユリウス暦]] : 1611年12月22日 - 1612年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1612}} == できごと == * [[9月24日]] - [[ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)|ロシア・ポーランド戦争]]のさなか、[[クジマ・ミーニン|ミーニン]]と[[ドミートリー・ポジャールスキー|ポジャールスキー]]らが[[ポーランド]]占領下の[[モスクワ]]を解放。ロシア映画『{{仮リンク|1612|en|1612 (film)|ru|1612 (фильм)}}』はこれを題材とする。 * [[神聖ローマ皇帝]][[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]が退位させられ、弟の[[マティアス (神聖ローマ皇帝)|マティアス]]が即位する。 * [[マレー]]の歴史書『{{仮リンク|スジャラ・ムラユ|en|Malay Annals}}({{lang|en|Sejarah Melayu}})』編纂。[[マラッカ王国]]と[[ジョホール王国]]初期の歴史から成る。 * [[山田長政]]が[[タイ王国]]に渡航。 === 日本 === * [[4月21日]]([[慶長]]17年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]) - [[江戸幕府]]が[[江戸]]・[[京都]]・[[駿府]]を始めとする直轄地に対して[[禁教令]]を布告し、教会の破壊と布教の禁止を命じる{{要出典|date=2021-04}}。 * [[5月13日]]([[慶長]]17年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]) - [[宮本武蔵]]と[[佐々木小次郎]]が[[巌流島]]で決闘(『[[二天記]]』による) * [[名人戦 (将棋)|将棋名人戦]]の起こりである[[名人 (将棋)|名人]]制が作られる。 == 誕生 == {{see also|Category:1612年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月17日]] - [[トーマス・フェアファクス (第3代フェアファクス卿)|トーマス・フェアファクス]]、[[イングランド王国|イングランド]]の貴族、軍人(+ [[1671年]]) * [[2月6日]] - [[アントワーヌ・アルノー]]、[[フランス]]の[[神学者の一覧|神学者]](+ [[1694年]]) * [[6月23日]] - [[ユーストゥス・ゲオルク・ショッテル]]、[[ドイツ]]の[[文法]]学者(+ [[1676年]]) * [[11月17日]]([[万暦]]40年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]) - [[ドルゴン]]、[[清]]の皇族(+ [[1650年]]) * [[12月4日]] - [[サミュエル・バトラー (詩人)|サミュエル・バトラー]]、イングランドの[[風刺]][[詩人]](+ [[1680年]]) * [[呉三桂]]、[[明]]末[[清]]初の武将(+ [[1678年]]) == 死去 == {{see also|Category:1612年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[5月24日]] - [[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシル]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Robert-Cecil-1st-earl-of-Salisbury Robert Cecil, 1st earl of Salisbury English statesman] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、イングランドの政治家(* [[1563年]]) * [[5月19日]]([[慶長]]17年[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]) - [[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]、[[常陸国|常陸]]の[[戦国大名]](* [[1547年]]) * [[6月5日]](慶長17年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]) - [[有馬晴信]]、[[大名]]、[[肥前国|肥前]][[島原藩|日野江藩]]初代藩主(* [[1567年]]) * [[6月21日]]([[万暦]]40年[[5月23日 (旧暦)|5月23日]]) - [[顧憲成]]、明の政治家(* [[1550年]]) * [[8月12日]] - [[ジョヴァンニ・ガブリエーリ]]、[[作曲家]]・[[オルガニスト]](* [[1557年]]?) * [[10月7日]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・グァリーニ]]、[[詩人]]・[[劇作家]]・[[外交官]](* [[1538年]]) * [[11月13日]](慶長17年[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]) - [[伊東マンショ]]、[[天正遣欧少年使節]]の主席正使(* [[1569年]]頃) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1612}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1612ねん}} [[Category:1612年|*]]
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1553年
1553年(1553 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1553年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1553}} {{year-definition|1553}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[癸丑]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[天文 (元号)|天文]]22年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2213年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[嘉靖]]32年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[明宗 (朝鮮王)|明宗]]8年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3886年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[莫朝]] : [[景暦]]6年 ** [[黎朝|後黎朝]] : [[順平]]5年 * [[仏滅紀元]] : 2095年 - 2096年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 960年 - 961年 * [[ユダヤ暦]] : 5313年 - 5314年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1553|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[武田信玄]]と[[上杉謙信]]が信濃(長野県)をめぐって[[川中島の戦い]]が勃発(1回目) * イギリス女王にメアリ一世が即位する。 * 四月下旬に尾張国冨田(現在の[[愛知県]][[一宮市]])の[[聖徳寺 (名古屋市)|聖徳寺]]において、[[織田信長]]と[[斎藤道三]]が面会。 == 誕生 == {{see also|Category:1553年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月4日]]([[天文 (元号)|天文]]22年[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]) - [[毛利輝元]]{{Sfn|時山弥八編|1916|p=83}}、[[長州藩]]藩祖、[[大名]](+ [[1625年]]) * [[12月13日]] - [[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]、[[ブルボン朝]]初代の[[フランス国王]] (+ [[1610年]]) * 月日不明 - [[五藤為浄]]、[[安土桃山時代]]の[[武将|戦国武将]](+ [[1583年]]) * 月日不明 - [[大久保忠隣]]、[[相模国|相模]][[小田原藩]]の初代[[藩主]](+ [[1628年]]) <!--* [[セノス・ロウェン]]、[[ハンガリー]](+[[1725年]])--> == 死去 == {{see also|Category:1553年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月19日]] - [[エラスムス・ラインホルト]]、[[天文学者]](* [[1511年]]) * [[2月25日]]([[天文 (元号)|天文]]22年[[閏]][[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - [[平手政秀]]、[[武将]](* [[1492年]]) * [[3月23日]](天文22年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) - [[長尾晴景]]、[[越後国]]の戦国大名(* [[1509年]]) * [[4月9日]](異説あり) - [[フランソワ・ラブレー]]、作家(* [[1483年]]) * [[7月6日]] - [[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]、[[イングランド君主一覧|イングランド王]](* [[1537年]]) * [[7月9日]] - [[モーリッツ (ザクセン選帝侯)|モーリッツ]]、[[ザクセン公国|ザクセン]][[選帝侯]](* [[1521年]]) * [[8月8日]] - [[ジローラモ・フラカストロ]]、天文学者・[[医学者]]・[[地質学|地質学者]](* [[1478年]]) * [[8月17日]] - [[カルロ3世・ディ・サヴォイア]]、[[サヴォイア公国|サヴォイア公]](* [[1486年]]) * [[9月18日]](天文22年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]) - [[安東舜季]]、[[出羽国]]の戦国大名(* [[1514年]]) * [[10月7日]] - [[クリストバル・デ・モラーレス]]、[[作曲家]](* [[1500年]]頃) * [[10月16日]] - [[ルーカス・クラナッハ]]、[[画家]](* [[1472年]]) * [[10月27日]] - [[ミシェル・セルヴェ]]、[[人文主義者]]・[[神学者]](* [[1511年]]) <!--== 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1553}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1553ねん}} [[Category:1553年|*]]
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1697年
1697年(1697 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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1697年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1697}} {{year-definition|1697}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丁丑]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[元禄]]10年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2357年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]36年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]23年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4030年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[正和 (黎朝)|正和]]18年 * [[仏滅紀元]] : 2239年 - 2240年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1108年 - 1109年 * [[ユダヤ暦]] : 5457年 - 5458年 * [[ユリウス暦]] : 1696年12月22日 - 1697年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1697}} == できごと == * [[3月30日]] - [[スペイン]]人の攻撃により[[マヤ王国]]の首都、[[タヤサル]]が陥落。([[マヤ文明]]の滅亡){{要出典|date=2021-02}} * [[7月30日]](元禄10年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[井伊直興]]が江戸幕府の[[大老]]に就任{{要出典|date=2021-03}}。 * スウェーデン王、カール12世即位。 == 誕生 == {{see also|Category:1697年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]] - [[ジョゼフ・フランソワ・デュプレクス]]、[[フランス]]領[[インド]][[総督]](+ [[1763年]]) * [[1月30日]] - [[ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ]]、作曲家、[[フルート]]奏者(+ [[1773年]]) * [[4月24日]](元禄10年[[3月4日 (旧暦)|3月4日]]) - [[賀茂真淵]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://mabuchi-kinenkan.jp/history/index.html|title=賀茂真淵について|publisher=賀茂真淵記念館|accessdate=2021-05-03}}</ref>、[[国学者]]、[[歌人]](+ [[1769年]]) * [[5月10日]] - [[ジャン=マリー・ルクレール]]、[[作曲家]]・[[ヴァイオリニスト]](+ [[1764年]]) * [[8月6日]] - [[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール7世]]、[[神聖ローマ皇帝]](+ [[1745年]]) * [[10月7日]] - [[カナレット]]、[[画家]]・[[版画家]](+ [[1768年]]) * [[11月10日]] - [[ウィリアム・ホガース]]、画家(+ [[1764年]]) * 月日不明 - [[玉田黙翁]]、[[儒学者]](+ [[1785年]]) == 死去 == {{see also|Category:1697年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月1日]] - [[フランチェスコ・レディ]]、[[医学者]](* [[1626年]]) * [[3月19日]] - [[ニコラウス・ブルーンス]]、作曲家(* [[1665年]]) * [[4月5日]] - [[カール11世 (スウェーデン王)|カール11世]]、スウェーデン王(* [[1655年]]) * [[9月8日]]([[元禄]]10年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]) - [[宮崎安貞]]、[[農学者]](* [[1623年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1697}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1697ねん}} [[Category:1697年|*]]
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12,949
1556年
1556年(1556 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1556年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|1556}} {{year-definition|1556}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙辰]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[弘治 (日本)|弘治]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2216年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[嘉靖]]35年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[明宗 (朝鮮王)|明宗]]11年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3889年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[莫朝]] : [[光宝]]3年 ** [[黎朝|後黎朝]] : [[順平]]8年 * [[仏滅紀元]] : 2098年 - 2099年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 963年 - 964年 * [[ユダヤ暦]] : 5316年 - 5317年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1556|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[1月23日]]([[嘉靖]]34年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]) - [[華県地震]]、[[明]]の陝西省(現在の[[中華人民共和国]][[陝西省]])で起きた[[地震]]。死者数約83万人。人類史上最悪の[[地震の年表|自然災害]]となった。 * [[5月28日]]([[弘治 (日本)|弘治]]2年[[4月20日]]) - [[長良川の戦い]] * [[9月27日]](弘治2年[[8月24日]]) - [[織田信長]]が[[尾張国|尾張]]稲生で弟の[[織田信行]]を擁立する[[林秀貞]]と弟の[[林通具]]と[[柴田勝家]]を破る。通具は討死する。([[稲生の戦い]]) == 誕生 == {{see also|Category:1556年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月8日]]([[弘治 (日本)|弘治]]元年[[11月27日 (旧暦)|11月27日]]) - [[上杉景勝]]、[[武将]]・[[豊臣政権]][[五大老]]の1人(+ [[1623年]]) * [[2月16日]](弘治2年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]) - [[藤堂高虎]]、武将・[[伊勢国]][[津藩]]の初代藩主(+ [[1630年]]) == 死去 == {{see also|Category:1556年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月22日]] - [[フマーユーン]]、[[ムガル帝国]]第2代[[皇帝]](* [[1508年]]) * [[5月28日]](弘治2年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]) - [[斎藤道三]]、武将(* [[1494年]]?) <!--== 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1556}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1556ねん}} [[Category:1556年|*]]
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12,950
1499年
1499年(1499 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1499年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1499}} {{year-definition|1499}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[己未]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[明応]]8年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2159年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[弘治 (明)|弘治]]12年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[燕山君]]5年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3832年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景統]]2年 * [[仏滅紀元]] : 2041年 - 2042年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 904年 - 905年 * [[ユダヤ暦]] : 5259年 - 5260年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1499|Type=J|表題=可視}} == できごと == == 誕生 == {{see also|Category:1499年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 人物 === * [[1月29日]] - [[カタリナ・ルター]]、[[宗教改革]]者の[[マルティン・ルター]]の妻(+ [[1552年]]) * [[3月31日]] - [[ピウス4世 (ローマ教皇)|ピウス4世]]、第224代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1565年]]) * [[7月17日]] - [[マリア・サルヴィアティ]]、[[コンドッティエーレ]]の[[ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ]]の妻(+ [[1543年]]) * [[9月3日]] - [[ディアーヌ・ド・ポワチエ]]、[[フランス]]の貴族女性、[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]の愛妾(+ [[1566年]]) * [[10月14日]] - [[クロード・ド・フランス]]、[[フランス王国|フランス]]王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]の王妃(+ [[1524年]]) * [[石亀信房]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]](+ [[1583年]]) * [[大久保忠俊]]、戦国時代の武将(+ [[1581年]]) * [[昌嬪安氏]]、[[李氏朝鮮]]第11代国王[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]の[[後宮]](+ [[1549年]]) * [[竹中重元]]、戦国時代の武将(+ [[1562年]]) * [[津田算長]]、戦国時代の武将(+ [[1568年]]) * [[逸見祥仙]]、戦国時代の武将(+ [[1538年]]) * [[妙玖]]、[[戦国大名]][[毛利元就]]の[[正室]](+ [[1546年]]) * [[李舜臣 (明)|李舜臣]]、[[明]]の官僚、詩人(+ [[1559年]]) * [[ジュリオ・ロマーノ]]、[[イタリア]]の[[ルネサンス]]期の[[建築家]]、[[画家]](+ [[1546年]]) === 人物以外(動物など) === * [[明 (貝)|明]]、最も古い[[軟体動物]]として[[ギネスブック]]に認定された[[アイスランドガイ]](+ [[2007年]]) == 死去 == {{see also|Category:1499年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月9日]] - [[ヨハン・ツィーツェロ (ブランデンブルク選帝侯)|ヨハン・ツィーツェロ]]、[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]](* [[1455年]]) * [[3月13日]](明応8年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]])? - [[山名政豊]]、室町時代、戦国時代の守護大名(* [[1441年]]) * [[3月20日]](明応8年[[1月30日 (旧暦)|1月30日]]) - [[畠山義豊]]、室町時代、戦国時代の守護大名、戦国大名(* [[1469年]]) * [[3月27日]](明応8年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]) - [[杉武明]]、室町時代、戦国時代の武将(* 生年未詳) * [[5月5日]](明応8年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]) - [[蓮如]]、室町時代、戦国時代の[[浄土真宗]]の[[僧]]、[[本願寺]]第8世(* [[1415年]]) * [[5月26日]](明応8年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]) - [[小早川敬平]]、室町時代、戦国時代の武将、[[小早川氏#沼田小早川氏|沼田小早川氏]]の当主(* [[1452年]]) * [[6月8日]] - [[オットー2世 (プファルツ=モスバッハ=ノイマルクト公)|オットー2世]]、[[プファルツ=モスバッハ=ノイマルクト]]公(* [[1435年]]) * [[10月1日]] - [[マルシリオ・フィチーノ]]、イタリアのルネサンス期の[[人文主義者]]、[[哲学者]]、[[神学者]](* [[1433年]]) * [[11月26日]](明応8年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]) - [[大宮長興]]、室町時代、戦国時代の[[官人]](* [[1412年]]) * [[11月28日]] - [[エドワード・プランタジネット (ウォリック伯)|エドワード・プランタジネット]]、イングランドの貴族、[[ウォリック伯]]、[[ソールズベリー伯]](* [[1475年]]) * [[12月15日]](明応8年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]) - [[斎藤又四郎]]、室町時代、戦国時代の武将、[[斎藤氏]]持是院家の第4代当主(* [[1482年]]) * [[パウロ・ダ・ガマ]]、[[ポルトガル]]の航海者、[[探検家]](* [[1465年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1499}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=15|年代=1400}} {{デフォルトソート:1499ねん}} [[Category:1499年|*]]
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12,951
1471年
1471年(1471 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1471年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1471}} {{year-definition|1471}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[辛卯]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[文明 (日本)|文明]]3年 *** [[古河公方]] : [[享徳]]20年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2131年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[成化]]7年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[成宗 (朝鮮王)|成宗]]2年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3804年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[洪徳 (黎朝)|洪徳]]2年 * [[仏滅紀元]] : 2013年 - 2014年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 875年 - 876年 * [[ユダヤ暦]] : 5231年 - 5232年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1471|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[4月14日]] - ([[薔薇戦争]])[[バーネットの戦い]]、[[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]]勝利、[[ウォリック伯]][[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|リチャード・ネヴィル]]戦死{{要出典|date=2021-04}}。 * [[5月4日]] - (薔薇戦争)[[テュークスベリーの戦い]]、ヨーク軍勝利、[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]の王子[[エドワード・オブ・ウェストミンスター]]処刑、王妃[[マーガレット・オブ・アンジュー]]捕らわれる。 * [[8月13日]] - [[蓮如]]が[[越前国|越前]]に[[吉崎御坊]]を建てる。 * [[10月25日]](文明3年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]) - [[桜島]]の「[[桜島#文明大噴火|文明大噴火]]」。 == 誕生 == {{see also|Category:1471年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[5月21日]] - [[アルブレヒト・デューラー]]、[[ドイツ]]の[[ルネサンス|ルネサンス期]]の[[画家]]、[[数学者]](+ [[1528年]]) * [[8月27日]] - [[ゲオルク (ザクセン公)|ゲオルク]]、[[ザクセン公国|ザクセン公]](+ [[1539年]]) * [[10月7日]] - [[フレゼリク1世 (デンマーク王)|フレゼリク1世]]、[[デンマーク]]と[[ノルウェー]]の国王(+ [[1533年]]) * [[赤穴久清]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]](+ [[1553年]]) * [[武田信縄]]、戦国時代の[[甲斐国]]の[[守護大名]]、[[戦国大名]](+ [[1507年]]) * [[千葉勝胤]]、戦国時代の戦国大名(+ [[1532年]]) * [[伴野貞祥]]、戦国時代の武将(+ [[1559年]]) * [[二条尚基]]、[[室町時代]]の[[公卿]](+ [[1497年]]) == 死去 == {{see also|Category:1471年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月18日]](文明2年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]) - [[後花園天皇]]、第102代[[天皇]](* [[1419年]]) * [[1月27日]](文明3年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]) - [[竺雲等連]]、[[室町時代]]の[[臨済宗]]の[[僧]](* [[1383年]]) * [[2月10日]] - [[フリードリヒ2世 (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ2世]]、[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]](* [[1413年]]) * [[3月14日]] - [[トマス・マロリー]]、『[[アーサー王の死]]』の著者、編者(* [[1399年]]?) * [[3月22日]] - [[イジー (ボヘミア王)|イジー]]、[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]](* [[1420年]]) * [[4月13日]](文明3年[[3月23日 (旧暦)|3月23日]]) - [[北畠教具]]、室町時代の[[公卿]]、守護大名、[[北畠家]]の第4代当主(* [[1423年]]) * [[4月14日]] - [[ジョン・ネヴィル (初代モンターギュ侯)|ジョン・ネヴィル]]、[[モンターギュ侯爵]]、[[ノーサンバランド伯|ノーサンバランド伯爵]](* [[1431年]]) * 4月14日 - [[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|リチャード・ネヴィル]]、第16代[[ウォリック伯]]、第6代[[ソールズベリー候|ソールズベリー伯]](* [[1428年]]) * [[5月4日]] - [[エドワード・オブ・ウェストミンスター]]、[[イングランド王国|イングランド王]]ヘンリー6世の[[プリンス・オブ・ウェールズ|王太子]](* [[1453年]]) * 5月4日 - [[エドムンド・ボーフォート (第4代サマセット公)|エドムンド・ボーフォート]]、[[イングランド]]の第4代[[サマセット公]](* [[1438年]]?) * [[5月21日]] - [[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]、第33代、第35代イングランド王(* [[1453年]]) * [[6月20日]](文明3年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[武田信賢]]、室町時代の[[若狭国]]、[[丹後国]]の守護大名(* [[1420年]]) * [[8月20日]] - [[ボルソ・デステ]]、[[フェラーラ公国|フェラーラ公]](* [[1413年]]) * [[10月24日]](文明3年[[9月11日 (旧暦)|9月11日]]) - [[栂野和泉守]]、室町時代の武将(* 生年不詳) * [[10月31日]](文明3年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]) - [[山名豊之]]、室町時代の[[伯耆国]]の守護大名(* 生年未詳) * [[12月2日]](文明3年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]) - [[六角政堯]]、室町時代の[[近江国]]の守護大名(* 生年不詳) * [[12月17日]] - [[イザベル・ド・ポルテュガル]]、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]][[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|善良公フィリップ3世]]の3度目の妃(* [[1397年]]) * [[大舘持房]]、室町時代の武将(* [[1401年]]) * [[京極孫童子丸]]、室町時代の守護大名、[[京極氏]]当主(* [[1466年]]) * [[金春禅竹]]、室町時代の[[能]]役者、能作者(* [[1405年]]) * [[トマス・ア・ケンピス]]、[[ドイツ]]の[[司祭]]、神学者(* [[1380年]]) * [[能阿弥]]、室町時代の[[画家]]、[[茶道|茶人]]、[[連歌師]](* [[1397年]]) * [[パチャクテク]]、[[クスコ王国]]の第9代[[サパ・インカ|サパ・インカ(皇帝)]](* 生年未詳) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1471}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=15|年代=1400}} {{デフォルトソート:1471ねん}} [[Category:1471年|*]]
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1500年
1500年(1500 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。15世紀最後の年である。
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1500年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。15世紀最後の年である。
{{年代ナビ|1500}} {{year-definition|1500}}[[15世紀]]最後の年である。 == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚申]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[明応]]9年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2160年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[弘治 (明)|弘治]]13年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[燕山君]]6年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3833年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景統]]3年 * [[仏滅紀元]] : 2042年 - 2043年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 905年 - 906年 * [[ユダヤ暦]] : 5260年 - 5261年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1500|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[1月26日]] - [[ビセンテ・ヤーニェス・ピンソン]]がヨーロッパ人で初めて現在のブラジルに上陸。 * [[4月21日]] - [[ペドロ・アルヴァレス・カブラル]]の艦隊がインド航海途中で[[ブラジル]]を発見する。 * [[ハルパゴルニスワシ]]が姿を消す。 == 誕生 == {{see also|Category:1500年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月24日]] - [[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]、[[スペイン君主一覧|スペイン国王]]、[[神聖ローマ皇帝]](+ [[1558年]]) * [[5月17日]] - [[フェデリーコ2世・ゴンザーガ]]、[[マントヴァの領主一覧|マントヴァ公]]、[[モンフェッラート侯国|モンフェッラート侯]](+ [[1540年]]) * [[11月3日]] - [[ベンヴェヌート・チェッリーニ]]、[[ルネサンス]]期の[[イタリア]]の[[画家]]、彫金師、[[彫刻家]]、[[音楽家]](* [[1571年]]) * [[明智光安]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]](+ [[1556年]]) * [[一栗放牛]]、戦国時代、[[安土桃山時代]]の武将(+ [[1591年]]) * [[バルトロメー・デ・エスコベド]]、[[スペイン]]の[[ルネサンス音楽]]の[[作曲家]](+ [[1563年]]) * [[フランシスコ・デ・オレリャーナ]]、スペインの[[コンキスタドール]](+ [[1549年]]) * [[桂元澄]]、戦国時代、安土桃山時代の武将(+ [[1569年]]) * [[河野通直 (伊予守)|河野通直]]、戦国時代、安土桃山時代の武将、[[河野氏]]の当主(+ [[1572年]]) * [[ペドロ・デ・バルディビア]]、スペインのコンキスタドール(+ [[1554年]]) * [[ヤーコプ・フッター]]、[[アナバプテスト]]の指導者、[[フッタライト]]の創立者(+ [[1536年]]) * [[レジナルド・ポール]]、[[イングランド]]の[[枢機卿]]、[[カトリック教会|カトリック]]の[[カンタベリー大司教]](+ [[1558年]]) * [[ヤン・マティアス]]、[[オランダ]]の宗教家、[[ミュンスターの反乱]]の指導者(+ [[1534年]]) * [[三淵晴員]]、戦国時代、安土桃山時代の武将(+ [[1570年]]) * [[宗像正氏]]、戦国時代の武将、[[宗像大社|宗像神社]]の[[宮司|大宮司]](+ [[1547年]]) * [[クリストバル・デ・モラーレス]]、スペインのルネサンス音楽の作曲家(+ [[1553年]]) * [[楊維聡]]、[[明]]の官僚、[[状元]](+ 没年未詳) * [[ララ・ムスタファ・パシャ]]、[[オスマン帝国]]の軍人、[[大宰相]](+ [[1580年]]) * [[龍造寺胤久]]、戦国時代の武将、[[龍造寺氏]]の第17代当主(+ [[1539年]]) * [[ジョン・ロジャーズ]]、イングランドの[[神学者]]、教職者、[[聖職者]]、[[聖書翻訳]]者(+ [[1555年]]) == 死去 == {{see also|Category:1500年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月19日]](明応9年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]) - [[河野教通]]、室町時代、戦国時代の戦国大名(* 生年未詳) * [[4月4日]](明応9年[[2月27日 (旧暦)|2月27日]])? - [[越智家栄]]、室町時代、戦国時代の武将、[[越智氏 (大和国)|越智氏]]当主(* [[1432年]]) * [[5月29日]] - [[バルトロメウ・ディアス]]、[[ポルトガル]]の航海者(* 1450年頃) * [[6月17日]](明応9年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]) - [[勧修寺経茂]]、室町時代、戦国時代の[[公卿]]、[[勧修寺家]]の第8代当主(* [[1430年]]) * [[6月30日]](明応9年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]) - [[相良為続]]、室町時代、戦国時代の武将、[[相良氏]]の第12代当主(* [[1447年]]) * [[7月21日]](明応9年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]) - [[日朝]]、室町時代、戦国時代の[[日蓮宗]]の[[僧]](* [[1422年]]) * [[8月31日]](明応9年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]) - [[甘露寺親長]]、室町時代、戦国時代の公卿(* [[1425年]]) * [[9月12日]] - [[アルブレヒト3世 (ザクセン公)|アルブレヒト3世]]、[[ザクセン君主一覧|ザクセン公]](* [[1443年]]) * [[9月25日]](明応9年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]) - [[細川元有]]、室町時代、戦国時代の[[守護]](* [[1459年]]) * [[10月21日]](明応9年[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]) - [[後土御門天皇]]、第103代[[天皇]](* [[1442年]]) * [[12月2日]](明応9年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[島津久逸]]、室町時代、戦国時代の武将、[[伊作家]]の第8代当主(* [[1441年]]) * [[オヤケアカハチ]]、[[石垣島]]の豪族(* 生年未詳) * [[ジャン・ド・フォワ (ナルボンヌ子爵)|ジャン・ド・フォワ]]、[[ナルボンヌ]]子爵(* [[1450年]]) * [[細川春倶]]、室町時代、戦国時代の武将(* 生年未詳) * [[北郷敏久]]、室町時代、戦国時代の武将、[[北郷氏]]の第6代当主(* [[1430年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1500}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=15|年代=1400}} {{デフォルトソート:1500ねん}} [[Category:1500年|*]]
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12,953
1702年
1702年(1702 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1702年(1702 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "フィクションのできごと" } ]
1702年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1702}} {{year-definition|1702}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[壬午]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[元禄]]15年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2362年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]41年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]28年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4035年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[正和 (黎朝)|正和]]23年 * [[仏滅紀元]] : 2244年 - 2245年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1113年 - 1114年 * [[ユダヤ暦]] : 5462年 - 5463年 * [[ユリウス暦]] : 1701年12月21日 - 1702年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1702}} == できごと == * [[清]]、[[広東]]・[[廈門市|廈門]]に行商制度を定める。 === ヨーロッパ === * [[4月23日]] - [[イングランド王国|イングランド]]女王[[アン (イギリス女王)|アン]]即位(-[[1707年]]) * 7月-8月 - イングランドで{{仮リンク|1702年イングランド総選挙|label=総選挙|en|English general election, 1702}}。[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]の勝利。 * [[スペイン継承戦争]]、[[アン女王戦争]]が勃発(-[[1713年]]) * [[イギリス]]、[[コルカタ|カルカッタ]]にウィリアム要塞建設。 * [[デンマーク]]、農奴解放。 * [[ロンドン]]にて世界初の日刊新聞「[[デーリ・カラント]]」発行。 === 日本 === * [[赤穂浪士の仇討ち]]が起きる。 == 誕生 == {{see also|Category:1702年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月14日]]([[元禄]]14年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]) - [[中御門天皇]]、第114代[[天皇]](+ [[1737年]]) * [[1月19日]](元禄14年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]])- [[島津継豊]]、[[薩摩藩]][[大名]](+ [[1760年]]) * [[3月4日]] - [[ジャック・シェパード]]、[[泥棒]](+ [[1724年]]) * [[ムハンマド・シャー (ムガル皇帝)|ムハンマド・シャー]]、[[ムガル帝国]]皇帝(+ [[1748年]]) == 死去 == {{see also|Category:1702年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月10日]]([[元禄]]15年[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]) - [[萱野重実]]、[[赤穂藩]]士(* [[1675年]]) * [[3月8日]] - [[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]、[[イングランド王国|イングランド]]王(* [[1650年]]) * [[5月19日]] - [[フレデリク4世 (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公)|フレデリク4世]]、[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国|シュレースヴィヒ=ホルシュタイン]]大公(* [[1649年]]) * [[7月12日]](元禄15年[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]) - [[南部重信]]、[[陸奥国|陸奥]][[盛岡藩]][[大名]](* [[1616年]]) == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1702|date=2011年7月}} * ダレット伯爵によって[[屍食教典儀]]が刊行される。 <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1702}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1702ねん}} [[Category:1702年|*]]
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12,954
1704年
1704年(1704 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる閏年。
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1704年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1704}} {{year-definition|1704}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[甲申]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[元禄]]17年、[[宝永]]元年3月13日 - ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2364年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]43年 *** [[魏枝葉]] : [[文興]]元年? * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]30年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4037年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[正和 (黎朝)|正和]]25年 * [[仏滅紀元]] : 2246年 - 2247年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1115年 - 1116年 * [[ユダヤ暦]] : 5464年 - 5465年 * [[ユリウス暦]] : 1703年12月21日 - 1704年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1704}} == できごと == * [[3月24日]](元禄17年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]) - 日本、[[市川團十郎 (初代)]]刺殺事件 * [[4月16日]](元禄17年[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]) - 日本、[[改元]]して[[宝永]]元年{{要出典|date=2021-03}} * [[大和川]]付替え工事完成{{要出典|date=2021-04}} * [[8月13日]] -[[スペイン継承戦争]]:[[ブレンハイムの戦い]]で[[イングランド]]軍が[[フランス]]軍に大勝利 == 誕生 == {{see also|Category:1704年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[7月31日]] - [[ガブリエル・クラメール]]、スイスの[[数学者]](+ [[1752年]]) == 死去 == {{see also|Category:1704年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月24日]]([[元禄]]17年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]) - [[市川團十郎 (初代)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1660年]])  *[[5月15日]]([[宝永]]元年[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]) - [[鶴姫 (徳川綱吉長女)]]、第3代[[紀州藩]]主[[徳川綱教]]の[[正室]](* [[1677年]]) * [[10月8日]](宝永元年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]) - [[向井去来]]、[[俳諧師]]、蕉門十哲の一人(* [[1651年]]) * [[10月28日]] - [[ジョン・ロック]]、イギリスの[[哲学者]] (* [[1632年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1704}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1704ねん}} [[Category:1704年|*]]
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1504年
1504年(1504 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1504年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|1504}} {{year-definition|1504}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[甲子]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] **[[文亀]]4年、[[永正]]元年2月30日 - **[[神武天皇即位紀元|皇紀]]2164年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] **[[明]] : [[弘治 (明)|弘治]]17年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] **[[李氏朝鮮]] : [[燕山君]]10年 **[[檀君紀元|檀紀]]3837年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] **[[黎朝|後黎朝]] : [[景統]]7年、[[泰貞]]元年6月6日 - * [[仏滅紀元]] : 2046年 - 2047年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 909年 - 910年 * [[ユダヤ暦]] : 5264年 - 5265年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1504|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[3月16日]](文亀4年[[2月30日 (旧暦)|2月30日]]) - 日本、[[改元]]して[[永正]]元年{{要出典|date=2021-04}} * [[11月13日]](永正元年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]) - [[立河原の戦い]]、[[上杉朝良|扇谷上杉朝良]]・[[今川氏親|氏親]]・伊勢宗瑞([[北条早雲]])の連合軍が[[上杉顕定|山内上杉顕定]]に勝利する。 == 誕生 == {{see also|Category:1504年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月17日]] - [[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]、第225代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1572年]]) * [[4月30日]] - [[フランチェスコ・プリマティッチオ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Francesco-Primaticcio Francesco Primaticcio Italian painter] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[イタリア]]の画家、建築家、彫刻家(+ [[1570年]]) * [[5月5日]] - [[スタニスワフ・ホジュシュ]]、[[ポーランド]]の[[枢機卿]] (+ [[1579年]]) * [[7月18日]] - [[ハインリヒ・ブリンガー]]、[[スイス]]の[[神学者]]、[[宗教改革|宗教改革者]](+ [[1575年]]) * [[8月6日]] - [[マシュー・パーカー]]、[[カンタベリー大主教]](+ [[1575年]]) * [[11月13日]] - [[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|フィリップ1世]]、[[ヘッセン方伯]]((+ [[1567年]]) * [[12月31日]] - [[ベアトリーチェ・デル・ポルトガッロ]]、[[サヴォイア公]][[カルロ3世・ディ・サヴォイア|カルロ3世]]の妃(+ [[1538年]]) * [[ジャック・アルカデルト]]、[[フランドル楽派]]の作曲家(+ [[1568年]]) * [[氏家定直]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将(+ [[1570年]]) * [[シャルル・エチエンヌ]]、[[フランス]]の医師、作家、出版業者(+ [[1564年]]) * [[江馬時盛]]、戦国時代の武将(+ [[1578年]]) * [[飯富虎昌]]、戦国時代の武将(+ [[1565年]]) * [[北向道陳]]、戦国時代の[[茶道|茶匠]](+ [[1562年]]) * [[佐野豊綱]]、戦国時代の武将。[[佐野氏]]の第14代当主(+ [[1559年]]) * [[申師任堂]]、[[李氏朝鮮]]の女流書画家(+ [[1551年]]) * [[高木鑑房]]、戦国時代の武将(+ [[1554年]]) * [[長宗我部国親]]、戦国時代の[[戦国大名]](+ [[1560年]]) * [[ジャン・ド・トゥルヌ]]、フランスの印刷、出版業者(+ [[1564年]]) * [[ドロテア・ア・ダンマーク (1504-1547)|ドロテア・ア・ダンマーク]]、[[プロイセン公国|プロイセン公]][[アルブレヒト (プロイセン公)|アルブレヒト]]の最初の妻(+ [[1547年]]) * [[長野稙藤]]、戦国時代の戦国大名(+ [[1562年]]) * [[西村道仁]]、戦国時代の鋳物師、[[釜師]](+ [[1555年]]) * [[畠山稙長]]、戦国時代の戦国大名(+ [[1545年]]) * [[蜂須賀正利]]、戦国時代の武将(+ [[1553年]]) * [[パトリック・ハミルトン]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]の[[牧師]]、宗教改革者(+ [[1528年]]) * [[細川通政]]、戦国時代の武将(+ [[1553年]]) * [[ボディ・アラク・ハーン]]、[[モンゴル帝国]]の皇帝(+ [[1547年]]) * [[益子勝清]]、戦国時代の武将(+ [[1554年]]) * [[羅洪先]]、[[明]]の[[儒学者]](+ [[1564年]]) * [[龍造寺周家]]、戦国時代の武将(+ [[1545年]]) == 死去 == {{see also|Category:1504年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月17日]] - [[エーバーハルト2世 (ヴュルテンベルク公)|エーバーハルト2世]]、[[ヴュルテンベルク君主一覧|ヴュルテンベルク公]](* [[1447年]]) * [[3月1日]](永正元年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[菊池能運]]、戦国時代の戦国大名。[[菊池氏]]の第22代当主(* [[1482年]]) * [[3月3日]](文亀4年[[2月17日 (旧暦)|2月17日]]) - [[勧修寺経熈]]、戦国時代の公卿、[[勧修寺家]]の第10代当主(* [[1432年]]) * [[3月7日]](永正元年[[2月21日 (旧暦)|2月21日]]) - [[蓮乗]]、戦国時代の[[浄土真宗]]の僧(* [[1446年]]) * 4月 - [[フィリッピーノ・リッピ]]、イタリアの画家(* [[1457年]]) * [[4月10日]](永正元年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]])? - [[鏑木繁常]]、戦国時代の武将(* [[1424年]]) * [[4月27日]] - [[仁粋大妃]]、[[李氏朝鮮|李氏朝鮮王朝]]第9代国王[[成宗 (朝鮮王)|成宗]]の生母(* [[1437年]]) * [[5月23日]] - [[黎憲宗]]、[[ベトナム]]の[[黎朝|後黎朝]]大越国の第6代[[皇帝]](* [[1461年]]) * [[6月5日]](永正元年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]) - [[姉小路基綱]]、戦国時代の戦国大名、[[公卿]](* [[1441年]]) * [[7月2日]] - [[シュテファン3世 (モルドヴァ公)|シュテファン3世]]、[[モルドヴァ公国|モルドヴァ公]]、[[正教会]]の[[聖人]](* 1433年頃) * [[7月26日]](永正元年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]) - [[町広光]]、戦国時代の公卿(* [[1444年]]) * [[7月29日]] - [[トマス・スタンリー (初代ダービー伯爵)|トマス・スタンリー]]、[[イングランド王国|イングランド]]の貴族、[[ダービー伯爵]](* [[1435年]]) * [[8月20日]] - [[ループレヒト・フォン・デア・プファルツ]]、[[ライン宮中伯|プファルツ]]系[[ヴィッテルスバッハ家]]の公子、[[フライジンク]][[司教]](* [[1481年]]) * [[9月10日]] - [[フィリベルト2世・ディ・サヴォイア]]、[[サヴォイア公]] (* [[1480年]]) * [[10月16日]](永正元年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]) - [[最上義淳]]、戦国時代の戦国大名(* 生年未詳) * [[10月27日]](永正元年[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]) - [[薬師寺元一]]、戦国時代の武将(* [[1477年]]) * [[11月9日]] - [[フェデリーコ1世 (ナポリ王)|フェデリーコ1世]]、[[ナポリ王国|ナポリ王]](* [[1452年]]) * [[11月13日]](永正元年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]])? - [[長尾房清]]、戦国時代の武将(* 生年未詳) * [[11月26日]] - [[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]、[[トラスタマラ家|トラスタマラ朝]]の[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]女王(* [[1451年]]) * [[木曾義元]]、戦国時代の戦国大名(* [[1475年]]) * [[佐竹氏義]]、戦国時代の武将(* 生年未詳) * [[孝粛周皇后]]、[[明]]の第6代・第8代[[皇帝]]である[[英宗 (明)|英宗]]の貴妃、[[皇太后]](* 生年未詳) * [[曇英恵応]]、戦国時代の[[曹洞宗]]の[[僧]](* [[1424年]]) * [[ドメニコ・マリア・ノヴァーラ]]、イタリアの[[天文学者]](* [[1454年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- 現状、使用している箇所が無いようなのでマスクします。必要に応じて解除してください。--> <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1504}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1504ねん}} [[Category:1504年|*]]
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アドビ
アドビ(Adobe Inc.)は、ジョン・ワーノックとチャールズ・ゲシキによって1982年12月に設立された、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンノゼ市に本社を置くコンピュータ・ソフトウェア・テクノロジー・カンパニーである。クリエイティブ・デザイン、ビデオ編集ツールとAcrobatPDF等のトップシェア企業。マーケティングツール、AI、ECサービス等も提供している。パロアルト研究所からInterpress(PageScriptLanguage)を開発してスピンアウトし、当初の1982年12月から2018年10月3日まではAdobe Systems Incorporatedという社名であったが2018年にAdobe Inc.に社名変更した。会長、社長兼CEOはシャンタヌ・ナラヤン(2007年 - 2022現在)。 日本法人であるアドビ株式会社(2020年6月18日にアドビシステムズ株式会社から社名変更)は、東京都品川区大崎に所在。2021年4月12日より、神谷知信氏(スタンフォード大大学院、青山学院卒)が、ジェイムズ・マイケル・マクリディ(元メジャーリーガー、NYメッツの投手、現・ServiceNow日本法人社長)の後任として日本法人の社長に就任し、「心、おどる、デジタル」という戦略を発表。アクロバットPDFの生みの親で、フォトショップ、イラストレーターらクリエイティブ・デザイン・ツールではトップシェアで業界のリーダ企業でもあり、"Creativity for All"というヴィジョンを掲げている。Behance(ビハンス:アドビが運営するクリエイターのためのソーシャルメディアプラットフォーム)において、"NFT アート"を展示できる新機能"も提供。 米カリフォルニア州、パロアルト研究所にいたチャールズ・ゲシキとジョン・ワーノックが創業。クリエイティブ・デザイン、ビデオ編集からマーケティング、AI、ドキュメント管理、電子サイン、NFTまでを実践提供するデジタルコラボレーション推進型テクノロジーカンパニーとして、米NASDAQ上場。Acrobat、PDFの生みの親である。当初、ページ記述言語である、「Interpress(インタープレス)」の研究開発を開始した。しかし、ゼロックスはこれをビジネスには利用しようとしなかったため、独立を決意。1982年、Adobe Systemsを設立した。社名は、当時ロスアルトスにあったジョン・ワーノックの自宅の裏を流れる22.9 kmの小川である"Adobe Creek"という川の名前が由来とされている。 当初は、ページ記述言語を元に、DTPシステム自体を事業の核にしようと考えていた。1983年、Apple Computer(現・Apple)では、新しくレーザープリンターを開発していたが、高精度な印刷ができないことに悩んでいたスティーブ・ジョブズが、このようなアドビのInterpressページ記述言語技術の存在を知り、AppleのレーザープリンターLaserWriterに供給することを依頼した。この結果、アドビはハードウェアメーカーではなく、メーカーにInterpress, ページ記述言語を供給するソフトウェア・テクノロジーに軸足を置くこととなった。 1985年に、後にデフォルトとなる、"PostScript"開発を発表。この頃の売り上げの大半はAppleからのライセンス使用料であった(Appleは前金で$100万支払い、そして$250万出資した)。しばらくはPostScriptのライセンス供与がビジネスの柱であったが、1987年にIllustratorを発表。クリエイティブ・デザイン・ツール、アプリケーションプログラムの開発、販売に参入するようになり、クリエイター・デザイナー向けのツールがビジネスの柱となり、現在の礎を築いた。 1989年にはPhotoshopを発売。写真編集・加工ソフトのデファクトとなったが、この頃はまだ、アドビのビジネスは「紙に印刷すること」を実践していた。 1991年に登場したQuickTimeを利用した動画編集ソフトウェアの"ADOBE Premiere"を開発・発売する。 1993年には、こちらも業界のスタンダードとなる、"Acrobat・PDF"を開発することで、ビジネスの方向をデジタル・データのオーサリングに向け、その後の「紙からデジタルへの変革を提唱」したパイオニアとなっていった。 1994年、アルダスを買収。After Effects、Persuasion、PageMakerと後の"InDesign"の元となる技術と開発者を手に入れる。 設立以来、当初は、Apple(macOS、iOSではオペレーティングシステム(OS)レベルでOpenTypeやPDFを採用)、スティーブ・ジョブズ(NeXTでは全面的にPostScriptを採用)との関係が深かったが、Windows 95が発売されて以降、OpenTypeの設計・策定などを含め、徐々に、マイクロソフトとの関係も深くなってきた。 2005年4月19日、競合会社であり訴訟合戦を繰り広げていたマクロメディア買収を発表、12月3日に買収を完了した。 2007年、CEOにインド系CEOの走りである、シャンタヌ・ナラヤンが就任。 2009年10月にアクセス解析関連のマーケティングサービス会社である"オムニチュア(Omniture)"社のすべての発行済み株式を普通株1株当たり現金21.50ドル支払うことにより取得する株式公開買付を実施。株式の希薄化後純資産約18億ドル相当の取引にて10月23日に買収を完了した。 2012年、月額課金制の"Adobe Creative Cloud"を発表。同時にパッケージソフトウェア"Adobe Creative Suite"の販売を中止すると発表(翌2013年に完全移行)し、SaaSビジネスに積極的にトランスフォーメーションを遂げる。同年、Adobe Marketing Cloudの提供を開始した。(2017年にBrand名を、Adobe Experience Cloudに変更)。 2016年、独自のAI・機械学習のテクノロジーである、"Adobe Sensei"を発表。Document Cloud、Acrobat、ExperienceCloudなどでのAI活用を徐々に、開始する事となる。 2018年、電子商取引プラットフォーム、EC運用SaaSであるMagentoを買収し、Adobe Experience Cloudのラインナップ内に統合し、データ活用、カスタマージャーニ、コマース、データインサイトなどをSaaSで実践するラインナップを充実させ、AI、機械学習も取り入れた。 2018年9月20日、アドビシステムズはマーケティング・オートメーション、アナリティクスツールとしてシェアを伸ばしていた有力企業である、"Marketo(マルケト)"を47億5000万ドルで買収することを発表、同年10月に買収を完了し、後にExperience Cloudへと統合した。 2021年、IDC調査で、Acrobat、Document Cloudが、1,000人以上の大企業で日本国内シェアNo.1となりMicrosoftなどのアプリと連携させて、アプリ内から直接、編集コラボレーション処理することも可能であるとし、マイクロソフトとのアライアンスの強化をアナウンス。 Acrobatに代表される、スマホから、PC、またリモートワークでも、"紙からデジタルへの変革"を提唱したパイオニアとして、いつどこでも文書をスキャン、編集、共有、署名、稟議対応できる「デジタル・コラボレーション・ツール」としてAcrobat Sign(電子稟議、電子署名)や、SaaS上でコラボ作業を完結するために生み出された、"Adobe Document Cloud"が、デジタルコラボレーション、共同作業の方法、業務の処理方法に、革新的なエンタープライズ、DXツールとして日本国内でも、評価された。 2021年の、"Adobe Max"において、Behance(ビハンス:アドビが運営するクリエイターのためのソーシャルメディアプラットフォーム)において、"NFT アート"を 展示できる新機能"を発表。デジタルアセットから NFT を新たに発行するには、ブロックチェーン技術を用いて Mint と呼ばれる作業を行う。Behanceが最初に対応したブロックチェーン、イーサリアム(ETH)が現在では、ソラナ(SOL) と ポリゴン(MATIC) で Mint したアートも展示できるよう機能拡張された。 2021年、"Best Company CEO(Large Companies)"に、シャンタヌ・ナラヤンがCreative DesignからAI、MachineLearintg、Marketing、顧客、Experience、AcrobatなどのDocument管理から、電子稟議、電子署名、電子決済までをSaaSで実施可能なAdobeの方向性を示した事などが評価されて選ばれた。(2位:IBM、Arvind Krishna、3位:Microsoft、Satya Nadella)他。
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"米カリフォルニア州、パロアルト研究所にいたチャールズ・ゲシキとジョン・ワーノックが創業。クリエイティブ・デザイン、ビデオ編集からマーケティング、AI、ドキュメント管理、電子サイン、NFTまでを実践提供するデジタルコラボレーション推進型テクノロジーカンパニーとして、米NASDAQ上場。Acrobat、PDFの生みの親である。当初、ページ記述言語である、「Interpress(インタープレス)」の研究開発を開始した。しかし、ゼロックスはこれをビジネスには利用しようとしなかったため、独立を決意。1982年、Adobe Systemsを設立した。社名は、当時ロスアルトスにあったジョン・ワーノックの自宅の裏を流れる22.9 kmの小川である\"Adobe Creek\"という川の名前が由来とされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "当初は、ページ記述言語を元に、DTPシステム自体を事業の核にしようと考えていた。1983年、Apple Computer(現・Apple)では、新しくレーザープリンターを開発していたが、高精度な印刷ができないことに悩んでいたスティーブ・ジョブズが、このようなアドビのInterpressページ記述言語技術の存在を知り、AppleのレーザープリンターLaserWriterに供給することを依頼した。この結果、アドビはハードウェアメーカーではなく、メーカーにInterpress, ページ記述言語を供給するソフトウェア・テクノロジーに軸足を置くこととなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1985年に、後にデフォルトとなる、\"PostScript\"開発を発表。この頃の売り上げの大半はAppleからのライセンス使用料であった(Appleは前金で$100万支払い、そして$250万出資した)。しばらくはPostScriptのライセンス供与がビジネスの柱であったが、1987年にIllustratorを発表。クリエイティブ・デザイン・ツール、アプリケーションプログラムの開発、販売に参入するようになり、クリエイター・デザイナー向けのツールがビジネスの柱となり、現在の礎を築いた。", 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アドビは、ジョン・ワーノックとチャールズ・ゲシキによって1982年12月に設立された、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンノゼ市に本社を置くコンピュータ・ソフトウェア・テクノロジー・カンパニーである。クリエイティブ・デザイン、ビデオ編集ツールとAcrobatPDF等のトップシェア企業。マーケティングツール、AI、ECサービス等も提供している。パロアルト研究所からInterpress(PageScriptLanguage)を開発してスピンアウトし、当初の1982年12月から2018年10月3日まではAdobe Systems Incorporatedという社名であったが2018年にAdobe Inc.に社名変更した。会長、社長兼CEOはシャンタヌ・ナラヤン。 日本法人であるアドビ株式会社(2020年6月18日にアドビシステムズ株式会社から社名変更)は、東京都品川区大崎に所在。2021年4月12日より、神谷知信氏(スタンフォード大大学院、青山学院卒)が、ジェイムズ・マイケル・マクリディ(元メジャーリーガー、NYメッツの投手、現・ServiceNow日本法人社長)の後任として日本法人の社長に就任し、「心、おどる、デジタル」という戦略を発表。アクロバットPDFの生みの親で、フォトショップ、イラストレーターらクリエイティブ・デザイン・ツールではトップシェアで業界のリーダ企業でもあり、"Creativity for All"というヴィジョンを掲げている。Behanceにおいて、"NFT アート"を展示できる新機能"も提供。
{{redirect3|Adobe|企業|Adobeの語義(建築素材)|アドベ}} {{基礎情報 会社 | 社名 = アドビ | 英文社名 = Adobe Inc. | ロゴ = Adobe Corporate logo.svg | 画像 = [[ファイル:Adobe HQ.jpg|320px]] | 画像説明 = アドビの本社 | 種類 = [[株式会社]] | 機関設計 = | 市場情報 = {{上場情報 | NASDAQ | ADBE | |}} | 略称 = Adobe(アドビ) | 国籍 = {{USA}} | 本社所在地 = [[ファイル:Flag of California.svg|25px]] [[カリフォルニア州]][[サンノゼ]] | 本店郵便番号 = | 本店所在地 = | 設立 = 1982年 | 業種 = 情報・通信業 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = デザイン、イメージングおよびパブリッシング用ソフトウェアの提供 | 代表者 = [[シャンタヌ・ナラヤン]]([[取締役]][[社長]]兼[[最高経営責任者]]) | 資本金 = | 発行済株式総数 = | 売上高 = {{increase}} 157億8500万ドル(2021年12月3日に終了した事業年度)<ref name=Annual10K2021>{{cite web|title= Adobe Inc. 2021 Annual Form 10-K Report |url= https://www.adobe.com/content/dam/cc/en/investor-relations/pdfs/ADBE-10K-FY21-FINAL.pdf |archive-url=https://ghostarchive.org/archive/20221009/https://www.adobe.com/content/dam/cc/en/investor-relations/pdfs/ADBE-10K-FY21-FINAL.pdf |archive-date=2022-10-09 |url-status=live |website= adobe.com |accessdate=3 February 2022|date=3 December 2021}}</ref> | 営業利益 = {{increase}} 58億20万ドル(2021年12月3日に終了した会計年度)<ref name=Annual10K2021 /> | 経常利益 = | 純利益 = {{decrease}} 48億2200万ドル(2021年12月3日に終了した会計年度)<ref name=Annual10K2021 /> | 純資産 = {{increase}} 272億4,100万ドル<br />(2021年12月3日に終了した会計年度)<ref name=Annual10K2021 /> | 総資産 = {{increase}} 147億9700万ドル<br />(2021年12月3日に終了した会計年度)<ref name=Annual10K2021 /> | 従業員数 = 25,988人(2021年) | 支店舗数 = | 決算期 = [[11月30日]]に最も近い[[金曜日]] | 会計監査人 = | 所有者 = | 主要株主 = | 主要部門 = | 主要子会社 = | 関係する人物 = | 外部リンク = {{URL|https://www.adobe.com/}} | 特記事項 = }} {{基礎情報 会社 |社名 = アドビ株式会社 |英文社名 = Adobe KK |ロゴ = Adobe Corporate logo.svg |画像 = |画像説明 = |種類 = [[株式会社]] |機関設計 = |市場情報 = |略称 = |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 141-0032 |本社所在地 = [[東京都]][[品川区]][[大崎 (品川区)|大崎]]一丁目11番2号<br />[[ゲートシティ大崎]]イーストタワー |本店郵便番号 = |本店所在地 = |設立 = 1992年 |業種 = 5250 |法人番号 = 7010701011841<!-- 複数法人を扱うため --> |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = ソフトウェアおよび関連サービスの提供 |代表者 = 代表取締役社長 ジェイムズ マイケル マクリディ<ref name="financial">第26期決算公告、2018年(平成30年)5月31日付「官報」(号外第116号)103頁。</ref> |資本金 = 1億80百万円(2017年11月30日現在)<ref name="financial" /> |発行済株式総数 = |売上高 = |営業利益 = |経常利益 = |純利益 = 12億8900万円<br>(2022年11月30日時点)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/f899a/297060 アドビ株式会社 第31期決算公告]</ref> |純資産 = |総資産 = 131億7500万円<br>(2022年11月30日時点)<ref name="fy" /> |従業員数 = 約400人 |支店舗数 = |決算期 = 11月30日 |会計監査人 = |所有者 = |主要株主 = |主要部門 = |主要子会社 = |関係する人物 = |外部リンク = {{URL|https://www.adobe.com/jp/}} |特記事項 =2020年6月18日に、アドビシステムズから社名変更。 }} '''アドビ'''({{en|Adobe Inc.}})は、[[ジョン・ワーノック]]と[[チャールズ・ゲシキ]]によって[[1982年]]12月に設立された、[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[サンノゼ]]市に本社を置く[[コンピュータ]]・[[ソフトウェア]]・テクノロジー・カンパニーである。クリエイティブ・デザイン、ビデオ編集ツールとAcrobatPDF等のトップシェア企業。マーケティングツール、AI、ECサービス等も提供している。パロアルト研究所からInterpress(PageScriptLanguage)を開発してスピンアウトし、当初の1982年12月から2018年10月3日まではAdobe Systems Incorporatedという社名であったが2018年にAdobe Inc.に社名変更した。会長、社長兼CEOは[[シャンタヌ・ナラヤン]](2007年 - 2022現在)。 日本法人である'''アドビ株式会社'''(2020年6月18日にアドビシステムズ株式会社から社名変更<ref name="adobekk">[https://blogs.adobe.com/japan/corporate_adobe_name_change/ アドビ システムズ 株式会社、「アドビ株式会社」へ社名変更] - アドビ 2020年6月18日</ref>)は、[[東京都]][[品川区]][[大崎 (品川区)|大崎]]に所在。2021年4月12日より、神谷知信氏(スタンフォード大大学院、青山学院卒)が、ジェイムズ・マイケル・マクリディ(元メジャーリーガー、NYメッツの投手、現・ServiceNow日本法人社長)の後任として日本法人の社長に就任し、「心、おどる、デジタル」という戦略を発表。アクロバットPDFの生みの親で、フォトショップ、イラストレーターらクリエイティブ・デザイン・ツールではトップシェアで業界のリーダ企業でもあり、"Creativity for All"というヴィジョンを掲げている。Behance(ビハンス:アドビが運営するクリエイターのためのソーシャルメディアプラットフォーム)において、"NFT アート"を展示できる新機能"も提供。 == 歴史 == 米カリフォルニア州、[[パロアルト研究所]]にいたチャールズ・ゲシキとジョン・ワーノックが創業。クリエイティブ・デザイン、ビデオ編集からマーケティング、AI、ドキュメント管理、電子サイン、NFTまでを実践提供するデジタルコラボレーション推進型テクノロジーカンパニーとして、米NASDAQ上場。Acrobat、PDFの生みの親である。当初、ページ記述言語である、「'''Interpress'''(インタープレス)」の研究開発を開始した。しかし、[[ゼロックス]]はこれをビジネスには利用しようとしなかったため、独立を決意。[[1982年]]、Adobe Systemsを設立した。社名は、当時[[ロスアルトス (カリフォルニア州)|ロスアルトス]]にあったジョン・ワーノックの自宅の裏を流れる22.9 kmの小川である"[[:en:Adobe Creek (Santa Clara County)|Adobe Creek]]"という川の名前が由来とされている。 当初は、ページ記述言語を元に、[[DTP]]システム自体を事業の核にしようと考えていた。1983年、Apple Computer(現・[[Apple]])では、新しく[[レーザープリンター]]を開発していたが、高精度な印刷ができないことに悩んでいた[[スティーブ・ジョブズ]]が、このようなアドビのInterpressページ記述言語技術の存在を知り、Appleのレーザープリンター[[LaserWriter]]に供給することを依頼した<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://book.mynavi.jp/macfan/detail_summary/id=49825|title=創業から現在へ連綿と続くアドビの革新の歴史|accessdate=2021/04/19|publisher=[[Mac Fan]]}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=アドビの創立者 - @IT自分戦略研究所|url=https://jibun.atmarkit.co.jp/ljibun01/rensai/gyoukai/018/02.html|website=jibun.atmarkit.co.jp|accessdate=2021-04-19}}</ref>。この結果、アドビはハードウェアメーカーではなく、メーカーにInterpress, ページ記述言語を供給するソフトウェア・テクノロジーに軸足を置くこととなった。 [[1985年]]に、後にデフォルトとなる、"[[PostScript]]"開発を発表。この頃の売り上げの大半はAppleからのライセンス使用料であった(Appleは前金で$100万支払い、そして$250万出資した<ref name=":0" /><ref name=":1" />)。しばらくはPostScriptのライセンス供与がビジネスの柱であったが、[[1987年]]に[[Adobe Illustrator|Illustrator]]を発表。クリエイティブ・デザイン・ツール、アプリケーションプログラムの開発、販売に参入するようになり、クリエイター・デザイナー向けのツールがビジネスの柱となり、現在の礎を築いた。 [[1989年]]には[[Adobe Photoshop|Photoshop]]を発売。写真編集・加工ソフトのデファクトとなったが、この頃はまだ、アドビのビジネスは「紙に印刷すること」を実践していた。 [[1991年]]に登場した[[QuickTime]]を利用した[[動画編集ソフトウェア]]の"[[Adobe Premiere|ADOBE Premiere]]"を開発・発売する。 [[1993年]]には、こちらも業界のスタンダードとなる、[[Adobe Acrobat|"Acrobat]]・[[Portable Document Format|PDF]]"を開発することで、ビジネスの方向を[[デジタル|デジタル・データ]]の[[オーサリングツール|オーサリング]]に向け、その後の「紙からデジタルへの変革を提唱」したパイオニアとなっていった。 [[1994年]]、[[アルダス]]を買収。[[Adobe After Effects|After Effects]]、[[Adobe Persuasion|Persuasion]]、[[Adobe PageMaker|PageMaker]]と後の[[Adobe InDesign|"InDesign]]"の元となる技術と開発者を手に入れる。 設立以来、当初は、Apple([[macOS]]、[[iOS]]では[[オペレーティングシステム]](OS)レベルで[[OpenType]]やPDFを採用)、スティーブ・ジョブズ([[NeXT]]では全面的にPostScriptを採用)との関係が深かったが、[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]が発売されて以降、[[OpenType]]の設計・策定などを含め、徐々に、[[マイクロソフト]]との関係も深くなってきた。 [[2005年]]4月19日、競合会社であり訴訟合戦を繰り広げていた<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/free/ITPro/USNEWS/20020513/1/ 米アドビに対する特許侵害訴訟で米マクロメディアに軍配 2002/05/13] ITpro [[日経コンピュータ]]</ref><ref>[https://internetcom.jp/busnews/20020730/11.html Adobe と Macromedia、泥沼の訴訟合戦に終止符]</ref><ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/0207/30/nebt_06.html AdobeとMacromedia、特許訴訟で和解]</ref>[[マクロメディア]]買収を発表<ref>[https://www.adobe.com/jp/aboutadobe/pressroom/pressreleases/200504/20050419macromedia.html アドビ システムズ社がマクロメディア社を買収] for immediate release - About Adobe</ref>、[[12月3日]]に買収を完了した。 [[2007年]]、CEOにインド系CEOの走りである、[[シャンタヌ・ナラヤン]]が就任。 [[2009年]]10月に[[アクセス解析]]関連の[[マーケティング]]サービス会社である"[[オムニチュア]](Omniture)"社のすべての発行済み[[株式]]を普通株1株当たり[[現金]]21.50ドル支払うことにより取得する[[株式公開買付]]を実施。[[株式の希薄化]]後[[純資産]]約18億ドル相当の取引にて[[10月23日]]に買収を完了した。 [[2012年]]、月額課金制の"[[Adobe Creative Cloud]]"を発表。同時にパッケージソフトウェア"[[Adobe Creative Suite]]"の販売を中止すると発表(翌[[2013年]]に完全移行)し、SaaSビジネスに積極的にトランスフォーメーションを遂げる。同年、[[Adobe Marketing Cloud]]の提供を開始した。([[2017年]]にBrand名を、[[Adobe Experience Cloud]]に変更)。 [[2016年]]、独自のAI・機械学習のテクノロジーである、"[[Adobe Sensei]]"を発表。Document Cloud、Acrobat、ExperienceCloudなどでのAI活用を徐々に、開始する事となる。 [[2018年]]、[[電子商取引]]プラットフォーム、EC運用SaaSである[[Magento]]を買収<ref>[https://www.adobe.com/jp/news-room/news/201805/20180522-magento-commerce.html アドビ、Magento Commerceを買収 2018/05/22]</ref>し、Adobe Experience Cloudのラインナップ内に統合し、データ活用、カスタマージャーニ、コマース、データインサイトなどをSaaSで実践するラインナップを充実させ、AI、機械学習も取り入れた。 2018年9月20日、アドビシステムズはマーケティング・オートメーション、アナリティクスツールとしてシェアを伸ばしていた有力企業である、"Marketo(マルケト)"を47億5000万ドルで買収することを発表、同年10月に買収を完了し、後にExperience Cloudへと統合した。 2021年、IDC調査で、Acrobat、Document Cloudが、1,000人以上の大企業で日本国内シェアNo.1となりMicrosoftなどのアプリと連携させて、アプリ内から直接、編集コラボレーション処理することも可能であるとし、マイクロソフトとのアライアンスの強化をアナウンス。 Acrobatに代表される、スマホから、PC、またリモートワークでも、"紙からデジタルへの変革"を提唱したパイオニアとして、いつどこでも文書をスキャン、編集、共有、署名、稟議対応できる「デジタル・コラボレーション・ツール」としてAcrobat Sign(電子稟議、電子署名)や、SaaS上でコラボ作業を完結するために生み出された、"Adobe Document Cloud"が、デジタルコラボレーション、共同作業の方法、業務の処理方法に、革新的なエンタープライズ、DXツールとして日本国内でも、評価された。 2021年の、"Adobe Max"において、Behance(ビハンス:アドビが運営するクリエイターのためのソーシャルメディアプラットフォーム)において、"NFT アート"を 展示できる新機能"を発表。デジタルアセットから NFT を新たに発行するには、ブロックチェーン技術を用いて Mint と呼ばれる作業を行う。Behanceが最初に対応したブロックチェーン、イーサリアム(ETH)が現在では、ソラナ(SOL) と ポリゴン(MATIC) で Mint したアートも展示できるよう機能拡張された。 2021年、"[https://www.comparably.com/awards/winners/best-ceo-2021-large Best Company CEO(Large Companies)"に、シャンタヌ・ナラヤン]がCreative DesignからAI、MachineLearintg、Marketing、顧客、Experience、AcrobatなどのDocument管理から、電子稟議、電子署名、電子決済までをSaaSで実施可能なAdobeの方向性を示した事などが評価されて選ばれた。(2位:IBM、Arvind Krishna、3位:Microsoft、Satya Nadella)他。 == 製品 == {{main|アドビのソフトウェア一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * PageScript * [[PostScript]] * Acrobat * [[Portable Document Format|PDF]] * [[Digital Negative|DNG]] * [[Flash Video]] * [[Magento]] * Marketo * Acrobat Sign * Behance == 外部リンク == {{Commonscat|Adobe Inc.}} * {{Official website|https://www.adobe.com/}}{{en icon}} * {{Official website|https://www.adobe.com/jp/}}{{ja icon}} * {{Facebook|AdobeJapan|Adobe}}{{ja icon}} * {{Twitter|AdobeJapan|アドビ}}{{ja icon}} * {{YouTube|channel = UCT_ByvEol9W0T6MwdL0j0Dw|AdobeCreativeStation}}{{ja icon}} * {{Worldcat id|id=lccn-n85-057605}}{{en icon}} {{coord|37|19|51|N|121|53|37|W|region:US|display=title}} {{Company-stub}} {{アドビ}} {{S&P 100}} {{NASDAQ 100}} {{日本動画協会}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あとひ}} [[Category:アドビ|*]] [[Category:アメリカ合衆国のソフトウェア会社]] [[Category:サンノゼの企業]] [[Category:アメリカ合衆国の多国籍企業]] [[Category:アメリカ合衆国の電子商取引サイト]] [[Category:NASDAQ上場企業]] [[Category:S&P 500]] [[Category:1983年設立の企業]]
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アンドリュー・カーネギー
アンドリュー・カーネギー(英: Andrew Carnegie [ˈændruː kɑːrˈneɪɡi]、俗に[ˈkɑːrnᵻɡi, kɑːrˈnɛɡi]とも, 1835年11月25日 - 1919年8月11日)は、スコットランド生まれのアメリカの実業家。鉄鋼王と称された。 1835年、カーネギーはスコットランドのダンファームリンで手織り職人の長男として生まれた。生家の一階の半分を占める部屋は隣の手織り職人一家と共有で、居間としてもダイニングルームとしても寝室としても使われた。アンドリューという名前は祖父にちなんでつけられた。 1836年、父ウィリアム・カーネギーがダマスク織りで儲けたため、やや広い家に移り住んだ。叔父のジョージ・ローダーは彼にロバート・バーンズの作品やロバート1世やウィリアム・ウォレスやロブ・ロイ・マグレガーといったスコットランドの歴史上の偉人について教えた。 当時のイギリスの織物産業は、蒸気機関(力織機)を使用した工場に移りつつあり、手織り職人の仕事がなくなってしまったため、1848年に両親はアメリカ(ペンシルベニア州アラゲイニー、2013年現在のピッツバーグ)への移住を決める。移住費用も借金する必要があった。当時のアラゲイニーは貧民街だった。 1848年、13歳で初めて就いた仕事は綿織物工場でのボビンボーイ(織機を操作する女性工員にボビンを供給する係)で、1日12時間週6日働いた。当初の週給は1.20ドルだった。父は当初綿織物工場で働いていたが、リンネルを織って行商する仕事を始めた。母は靴の包装でかせいだ。 その後何度か転職し1850年、叔父の勧めもあってオハイオ電信会社のピッツバーグ電信局で電報配達の仕事に就く(週給2.50ドル)。この仕事は劇場にタダで入れるなどの役得があり、そのおかげでカーネギーはシェイクスピア劇のファンになった。彼は非常に働き者で、ピッツバーグの企業の位置と重要な人物の顔をすべて記憶した。そうやって多くの関係を築いていった。 また、自分の仕事に細心の注意を払い、当時の電信局では受信したモールス信号を紙テープに刻み、テープからアルファベットに解読して電報を作成していたが、カーネギーはモールス信号を耳で聞き分ける特技を身につけ、1年以内に電信技士に昇格した。 ジェームズ・アンダーソン大佐は、働く少年たちのために毎週土曜の夜に約400冊の個人的蔵書を開放しており、カーネギーはそこで勉強し読書好きになった。彼は経済面でも知的・文化的面でも借りられるものは何でも借り、独力で成功を導いた。その能力、重労働を厭わぬ自発性、忍耐力、用心深さは、間もなく好機をもたらした。 1853年、ペンシルバニア鉄道のトマス・アレクサンダー・スコットがカーネギーを秘書兼電信士として引き抜き、週給は4.00ドルになった。18歳の頃に、スコットがペンシルバニア鉄道の副社長に昇進すると、代わりにカーネギーがピッツバーグの責任者になった。このペンシルバニア鉄道での経験は後の成功に大いに役立っている。鉄道会社はアメリカ初の大企業群であり、その中でもペンシルバニア鉄道は最大の企業だった。カーネギーはそこで、特にスコットから経営と原価管理について多くを学んだ。 スコットはまた、彼の最初の投資についても支援している。スコットや社長のJ・エドガー・トムソンは取引関係のある会社の内部情報を知りうる立場にあり、それを利用して株式を売買したり、代償の一部として契約相手の株式を得たりしていた。1855年、スコットはカーネギーに500ドルでアダムス・エクスプレス(英語版)の株式を購入する話をもちかけ、カーネギーの母が700ドルの家を抵当に入れて500ドルを捻出した。 数年後、オハイオへ移動中のカーネギーに、発明家のウードルフが寝台車のアイデアを持ちかけ、ペンシルバニア鉄道は試験的な採用を決めた。ウードルフに誘われたカーネギーは、借金をして寝台車のための会社に出資し、大成功を収めた。彼はそうして得た資金を鉄道関連の会社(鉄鋼業、橋梁建設業、レール製造業など)に再投資していった。そうして徐々に資金を蓄えていき、後の成功の基盤を築いた。 その後も企業を設立する際に、トムソンとスコットとの密接な関係を利用しており、レールと橋梁を供給する会社を設立した際にはこの二人に株主となってもらった。 南北戦争の前に、カーネギーはウードルフの会社とジョージ・プルマンの会社の合併を仲介した。プルマンは800km以上の長距離の旅行が可能な一等寝台車を発明した。その際の投資は大いに成功し、ウードルフとカーネギーの利益の源泉となった。その後もカーネギーはスコットの下で働き、鉄道のサービスにいくつか改善を施している。 1861年春、軍隊輸送の責任者(陸軍次官補)に任命されたスコットはカーネギーを東部の軍用鉄道と合衆国政府の電信網の監督に任命した。カーネギーは南軍によって寸断されたワシントンD.C.までの鉄道路線の再建を支援した。ブルランでの北軍の敗北の直後にワシントンD.C.への北軍の旅団を輸送する機関車に乗り込み、敗軍の輸送も現場で監督した。彼の指揮下で電信サービスは効率化され、北軍が最終的に勝利する一因となった。 南軍を打ち負かすには大量の弾薬を必要とし、補給には鉄道(と電信)が大いに活用された。この戦争で産業の重要性が明らかとなった。 南北戦争の際、艦船の装甲、砲、その他様々な工業製品に使用するため鉄鋼の需要が高まり、ピッツバーグは軍需産業の一大拠点となっていた。カーネギーは戦前から製鉄業に投資しており、それが富の源泉となった。 南北戦争終結後にペンシルバニア鉄道を退職し、製鉄業に専念するようになった。いくつかの製鉄所を創業し、最終的にピッツバーグでキーストン鉄橋会社(英語版)(1865年)とユニオン製鉄所を創業。ペンシルバニア鉄道は辞めたがその経営陣(スコットやトムソン)とは密接な関係を保っていた。その関係を利用し、キーストン鉄橋会社が鉄橋建造の契約を結び、製鉄所がレール生産の契約を結んだ。また、スコットとトムソンには彼の会社の株主になってもらい、ペンシルバニア鉄道は彼の最大の顧客となった。最初の製鋼工場を建設した際は、トムソンの名を冠した。カーネギーは実業家として優れていただけでなく、人間的な魅力と文学的素養も備えていた。多くの社会的行事に招待されるようになり、それをうまく利用した。セントルイスでミシシッピ川をまたいで建設されたイーズ橋(1874年完成)では、キーストン鉄橋を通して鋼製の材料を提供すると共に、このプロジェクト自体にも出資している。このプロジェクトは、材料としての鋼の技術的優位性を実証する試金石という面があったものであるが、それが成功したことで、鋼の市場が拡大した。 1884年、ペンシルベニア州ベナンゴ郡の産油地帯にある農場に4万ドルを出資。その農場に設置した油井から1年で石油が採れ利益が上がるようになり、配当金として100万ドルを得た。 カーネギーの母は彼を結婚させなかった。1886年に母が亡くなると、1887年4月22日、52歳の時、30歳のルイーズ・ホイットフィールドという女性と結婚した。1897年、唯一の子どもである娘が産まれ、自身の母の名をとってマーガレットと名付けた。 カーネギーはそれまでにアメリカで個人が所有する最大の製鋼所を経営し、製鋼業で財産を形成した。彼が成し遂げた2回の重要な技術革新のうち1つは、製鋼にベッセマー法を採用して鋼を安価に大量生産できるようにしたことである。ヘンリー・ベッセマーは、炭素含有量の高い銑鉄を制御された高速な方法で燃焼させる炉を発明した。その結果鋼の価格が下がり、橋や建築用の桁や梁、鉄道レールなどに鋼が使われるようになった。2つめは、原材料の供給元を含めた垂直統合を成し遂げたことである。1880年代後半、カーネギーの会社は銑鉄、コークス、鋼製のレールの世界最大の供給業者となっており、日産2,000トンの銑鉄を生産していた。1888年、ライバルのホームステッド・ワークスを買収し、それに伴って石炭と鉄鉱石の鉱山、685kmもの長い鉄道、大型貨物船を入手した。1892年、所有する会社をまとめて、カーネギー鉄鋼会社を創業。 1889年にはアメリカの鋼生産量はイギリスを抜き、その大きな部分をカーネギーが所有していた。ペンシルバニア鉄道のかつての上司の名を冠したエドガー・トムソン製鋼所(英語版)、ピッツバーグ・ベッセマー製鋼所、ルーシー溶鉱炉、ユニオン製鉄所、ユニオン工場 (Wilson, Walker & County)、キーストン鉄橋会社、ハートマン製鋼所、フリック・コークス、スコットランドの鉱山などを含み、カーネギーの帝国は成長していった。 カーネギーはその後も実業家として活動し続けたが、文学的関心も満たすようになった。イギリスの詩人マシュー・アーノルドやイギリスの哲学者ハーバート・スペンサーを支援し、歴代のアメリカ合衆国大統領や政治家や著名な作家とも親交した。 1879年、故郷ダンファームリンに水泳プールを建設。翌年には、ダンファームリンに無料図書館を建設するために4万ドルを寄付した。1884年、ニューヨーク大学医科大学院の前身であるベルビュー病院医科大学に5万ドルを寄付し、組織学の研究所を創設した(現在カーネギー研究所と呼ばれている)。 1881年、70歳の母を含めた一家でイギリスへ旅行した。馬車でスコットランドを巡り、各地で歓迎された。故郷ダンファームリンへの凱旋がクライマックスであり、そこでカーネギーの寄付で建設されるカーネギー図書館の礎石を母が据えた。カーネギーはイギリス社会に批判的だったが、イギリスを嫌っていたわけではない。むしろ、英語圏の人々の関係強化のために触媒として働こうと考えていた。そのため、1880年代初めに彼はイングランドの複数の新聞を購読している。それも全て君主制を廃止して「イギリス共和国」を創設しようと主張している新聞だった。首相ウィリアム・グラッドストンを含め多くのイギリス人の友人がいた。 1886年、弟のトーマスが43歳で他界。それでも事業での成功は続いた。そのころスペリオル湖周辺の価値の高い鉄鉱山を安く購入している。イギリスへの旅行の後、その経験を An American Four-in-hand in Britain という本にして出版している。また、複数の雑誌に寄稿するようになった。例えば、ジェイムズ・ノウルズ(英語版)が編集する Nineteenth Century やロイド・ブライス(英語版)が編集する North American Review などである。 1886年、Triumphant Democracy(民主主義の勝利)と題した当時としては過激な本を書いた。統計などを駆使し、イギリスの君主制よりもアメリカの共和制のほうが優れていると主張した本である。アメリカの発展を好意的かつ理想的に捉え、イギリス王室を批判している。表紙にはひっくり返った王冠と壊れた王笏が描かれていた。この本はイギリスで大きな議論を呼んだ。アメリカでは好意的に受け入れられ、4万部を売り上げた。 1889年、North American Review 6月号に "Wealth" と題した記事を掲載。これを読んだウィリアム・グラッドストンはイングランドでの出版を持ちかけ、Pall Mall Gazette に "The Gospel of Wealth"(富の福音)として掲載された。この記事も大いに議論を呼んだ。カーネギーは裕福な実業家の人生は2つの部分から成るべきだと主張している。1つめは蓄財の期間、2つめはその富を大衆に分配する期間である。カーネギーは人生を価値あるものとする鍵はフィランソロピーだとした。 カーネギーは偉大なジャーナリストとしても知られており、新聞に寄稿したり編集者に手紙を書いたりした。新聞を読む習慣は幼少期のころからあった。例えば、イングランドとスコットランドを旅行中に書き始めた "Round the world" と題した記事などがある。 1898年、カーネギーはフィリピン独立を画策した。米西戦争終結に伴い、アメリカはスペインから2000万ドルでフィリピンを購入。アメリカの帝国主義に対抗すべく、アメリカからの独立を買い取れるようにフィリピンの人々に個人的に2000万ドルを提供しようとした。しかし、この申し出を受ける者は現れなかった。米西戦争の結果キューバがアメリカに併合されそうになり、これにも反対した。こちらはグロバー・クリーブランドやベンジャミン・ハリソンやマーク・トウェインらと共に結成したアメリカ反帝国主義連盟による反対が若干功を奏した。 1901年、66歳になったカーネギーは引退を考え、その準備として会社を一般的な株式会社化した。当時のアメリカ金融業界の最重要人物である銀行家ジョン・モルガンは、カーネギーは非常に効率的に利益を生み出したと評価していた。モルガンは鉄鋼業界を統一することで、コストを削減し、製品価格を下げ、大量生産し、労働賃金を上げることを考えており、そのためにカーネギーの会社や他の会社を買収して合併させ、無駄の排除を目指した。1901年3月2日、モルガンらの折衝で時価総額10億ドルを越える史上初の企業USスチールが誕生した。 チャールズ・M・シュワブが秘密裏に交渉したこの買収劇は、当時のアメリカ史上最大のものだった。モルガンが組織したトラストとカーネギーが手放した企業がUSスチールに組み入れられた。カーネギーの会社は年間売上高の12倍、4億8千万ドルで買収されており、当時最大の個人的取引だった。 カーネギーの保有していた総額2億2563万9000ドルの株式は、50年間5%の金価格債券と交換された。その株式売却の契約は1901年2月26日になされている。そして3月2日、資本金14億ドル(当時のアメリカの国富の4%に相当)のUSスチールが創設された。債券は2週間以内にニュージャージー州ホーボーケンのハドソン信託会社に運び込まれ、約2億3千万ドルぶんの債券を収めるための地下室が新たに建設された。 引退後のカーネギーは篤志家として活躍した。慈善活動に関する考え方については既に Triumphant Democracy (1886) と『富の福音』(1889) において表明していた。 スコットランドのスキボ城(英語版)を購入し、そことニューヨークを生活拠点とした。それからの人生は、公共の利益と社会的・教育的発展のために資産を使うことに捧げた。また英語の発展のため、綴り字改革(英語版)運動を強力に支持した。 彼の様々な慈善活動の中でも突出しているのは、アメリカ合衆国、イギリス、他の英語圏の国々での公共図書館設置である。それらはカーネギー図書館と呼ばれ、数多くの場所に建てられた。最初の図書館は1883年、故郷ダンファームリンで開館した。彼の手法は、地元の自治体が土地と運営予算を用意できた場合だけ、建物と初期の蔵書を提供するというものだった。地元に対しては、1885年にピッツバーグに公共図書館用に50万ドルを寄付し、1886年にはアラゲイニーに音楽ホールと図書館用に25万ドルを寄付し、エディンバラにも図書館用に25万ドルを寄付した。全部で3,000弱の図書館の設立資金を提供しており、アメリカ47州、カナダ、イギリス、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランド、西インド諸島、フィジーに建設された。また、1899年にはバーミンガム大学創設資金として5万ポンドを寄付している。 19世紀末のアメリカでは、無料図書館を市民に開放すべきだという考え方が一般にみられた。しかし、理想的な無料図書館のデザインについては白熱した議論が戦わされていた。図書館の専門家は管理運営を効率化できるデザインを要求していたが、一方で篤志家らは温情主義的で市民の誇りとなるような建物を好んだ。1886年から1917年にかけて、カーネギーはその両者の考えを折衷し、図書館の慈善的な面と効率的デザインを追求した。 ニューヨーク州のブルーム郡公共図書館は1904年10月に開館した。当初はビンガムトン公共図書館と呼ばれ、カーネギーの7万5千ドルの寄付で建てられたものである。この建物は公共図書館と公民館として使えるよう設計された。 1901年、カーネギーが寄付した200万ドルでピッツバーグにカーネギー工科大学 (Carnegie Institute of Technology) (CIT) が創設され、1902年にも同額を寄付してワシントンD.C.にワシントン・カーネギー協会が創設された。その後も両組織に寄付をしており、他の大学にも寄付をしている。CITは後にカーネギーメロン大学の一部となっている。コーネル大学では理事を務めた。 ジョージ・ヘールはワシントン・カーネギー協会の支援でウィルソン山天文台の257センチ反射望遠鏡建設を建設していたが、カーネギーは存命中にその完成を迎えたいと考え1911年に同協会に1000万ドルを寄付し、建設促進を図った。望遠鏡は1917年11月2日にファーストライトを迎えた。カーネギーが亡くなったのはその後である。 1901年には1000万ドルの醵出によってスコットランド・カーネギー基金(英語版)が設立された。彼が契約書に署名したのは1901年6月7日で、1902年8月21日に設立認許状が発効した。当時スコットランドの4大学への政府の補助金は5万ポンドしかなかった。トラストの目的はスコットランドの大学での科学研究を発展させ、スコットランドの優秀な若者が大学に進学できるようにすることである。カーネギーはセント・アンドルーズ大学の名誉総長に選ばれた。故郷ダンファームリンにも多額の寄付をしている。図書館に加え、個人的に土地を買いピッテンクリーフ公園(英語版)として一般開放した。またダンファームリンの住民のために Carnegie Dunfermline Trust を設立している。2013年現在、ダンファームリンにはカーネギーの像がある。1913年にはさらに Carnegie United Kingdom Trust 設立に1000万ドルを寄付し、補助金の基金とした。 1901年、ホームステッドのかつての従業員のために大規模な年金も創設している。1905年にはカーネギー教育振興財団を設立、さらにアメリカの大学教授たちのための年金を創設し、これはTIAA-CREFの一部となった。なお、何らかの宗教を背景にした大学はその宗教との関係を断ち切ることが年金加入の条件になっていた。 音楽を愛したカーネギーは7,000台の教会用オルガンを作らせている。1891年に建設したカーネギー・ホールは寄贈せずに所有していたが、1925年に彼の未亡人が売却した。ただし2013年現在もそのままの名前が使用されている。 ブッカー・T・ワシントンが黒人教育のために創設したタスキーギ職業訓練校(英語版)も支援している。また、ワシントンが National Negro Business League を創設するのも支援した。 1904年、アメリカとカナダで英雄的行為(自己犠牲的行為)を表彰するカーネギー英雄基金(英語版)を創設。同様の基金を後にイギリス、スイス、ノルウェー、スウェーデン、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、デンマーク、ドイツにも創設した。1903年にはオランダのデン・ハーグで平和宮を建設する資金として150万ドルを寄付し、この建物は後に国際司法裁判所として使用されている。 カーネギーの慈善活動と芸術振興を称えて1917年10月14日、ボストンのニューイングランド音楽院カーネギーを Phi Mu Alpha Sinfonia というフラタニティの名誉会員とする式典が行われた。同フラタニティの理念とカーネギーの若者の才能を伸ばすという価値観が一致したためである。 19世紀当時の富豪の基準をもって判断すれば、カーネギーは特に冷酷な男というわけではなく、「冷徹に利益を追求する貪欲さは十分持ち合わせている人道主義者」、ということになる。別の言い方をするならば(今日的な視点で見ると)、彼の生活(水準)と彼が雇っていた労働者たちや貧困者たちの生活(水準)は著しく異なっていた。伝記作家 Joseph Wall は「おそらくカーネギーは自分の金を分け与えることでその金を集めるためにしてきたことを正当化しようとしたのだろう」とコメントした。 スコットランドからの移民の子が成功したということで、カーネギーをアメリカン・ドリームの体現者だと見る人もいる。彼は成功を収めただけでなく篤志家としても活動し、さらには植民地化された国々の民主化と独立も実現しようと努力した。 1919年4月22日に娘の結婚式を行った4か月後の1919年8月11日、気管支肺炎のためマサチューセッツ州レノックスで亡くなった。生前、既に3億5069万5653ドルを寄付していた。遺産の3000万ドルも基金や慈善団体や年金などに遺贈された。ニューヨーク州ノース・タリータウン(2013年現在のスリーピーホロー)にあるスリーピーホロー墓地に埋葬された。いわゆる金ぴか時代を代表するもう1人の有名人サミュエル・ゴンパーズもすぐ近くに埋葬されている。 カーネギーも会員だったサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブ(英語版)は、1889年に2,209名の死者を出したジョンズタウン洪水の原因を作ったとして非難されている。 友人のベンジャミン・ラフの発案で仕事上のパートナーヘンリー・クレイ・フリック(英語版)がペンシルベニア州ジョンズタウンの上流に作ったのがサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブである。60人余りの会員はペンシルベニア州西部の富豪たちで、フリックの親友アンドリュー・メロン、弁護士フィランダー・ノックス(英語版)、ジェイムズ・ヘイ・リード、カーネギーらが参加していた。ジョーンズタウンの上流にあるサウスフォークという町の近くにサウスフォークダム(英語版)があった。このダムはペンシルベニア州政府が1838年から1853年までの年月をかけて、ジョンズタウンのある盆地に運河網を作るための貯水池として建設したものである。しかし輸送手段が運河から鉄道に移ったためダムは不要となり、ペンシルバニア鉄道が買い取り、さらに1881年にはサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブの所有となった。そして、ダム自体は若干修理しただけで貯水量を増やして人工湖とし、湖畔に別荘やクラブハウスを建設した。このダムから20マイル下流にジョーンズタウンがあった。 ダムの高さは22m、幅は284mだった。1881年にクラブを開設してから1889年までにダムは度々漏水し、主に泥や麦わらで応急修理していた。さらに以前の所有者が鋳鉄製の3本の放水管を撤去しており、制御された形で放水できない状態になっていた。ジョーンズタウンのさらに下流にあるカンブリア製鉄所がダムについての懸念を表明していた。1889年初頭の積雪が春の到来と共に融け、水かさが増えてダムが耐え切れなくなり、5月31日にジョンズタウンに向かって2000万トンの水が流れ込み洪水となった。ダム決壊の一報がピッツバーグに伝えられると、フリックをはじめとするクラブ会員が集まり、被災者支援のためのピッツバーグ救済委員会を作り、クラブと洪水の関係については一切公言しないことを申し合わせた。この戦略は成功し、クラブ会員は訴えられずに済んだ。 カンブリア製鉄所は洪水で多大な被害を被ったが、1年以内に操業再開にこぎつけた。洪水後、カーネギーはジョーンズタウンの図書館を再建している。その図書館は2013年現在では洪水博物館になっている。 1892年に起こったホームステッド・ストライキ(英語版)は143日間も続いた労働争議で流血沙汰になり、アメリカ史上最も深刻なストライキである。カーネギー鉄鋼の本拠地ペンシルベニア州ホームステッドで、組合と会社の間の論争から発展して発生した。 不安がピークに達する前に、カーネギーはスコットランド旅行に出発している。組合との調停はパートナーだったヘンリー・クレイ・フリックに委ねた。フリックは組合を快く思っていないことで有名だった。 前年度会社は60%も利益が増加していたが、会社側は給与を30%以上増やすことを断わった。一部労働者が60%の賃金増を要求したため、経営側は組合員を締め出した。労働者側はこれを経営側によるロックアウトだとし、ストライキが発生した。フリックは数千人のスト破りの作業員を雇い、作業員を守るためにピンカートン探偵社に協力を要請した。 7月6日、ピンカートンがニューヨークとシカゴから300人の護衛を送り込み、乱闘が発生。死者10人(ストライキ側が7人、ピンカートン側が3人)、負傷者数百名の大惨事となった。ペンシルベニア州知事はこれを鎮圧するため州兵を送り込んだ。ストライキとの直接の関係はないが、同年アナキストのアレクサンダー・バークマンがフリック暗殺を試み、フリックは負傷した。バークマンは「フリックを排除すれば、カーネギーがホームステッドの一件の責任者になる」と思ったと述べている。その後、非組合員の移民を労働者として雇い入れることで操業再開にこぎつけ、カーネギーがアメリカに帰国した。しかし、この一件でカーネギーの評判に傷がつく結果となった。 1868年、33歳のとき、カーネギーは「蓄財は偶像崇拝の悪い種の一つだ。金銭崇拝ほど品位を低下させる偶像はない」と書き残している。そして同じ文章の中で、自分の品位を落とさないために35歳で引退してその後は慈善活動を行うと記し「金持ちとして死ぬことほど不名誉なことはない」と書いている。しかし、彼が最初に慈善活動を行ったのは1881年のことで、故郷ダンファームリンでの図書館建設だった。死の際にやむなく行う遺贈ではなく、生存中に活用先への責任を持ちながら行った、スタンフォード大学の創設者スタンフォードのような例を模範として実践した。 彼は著書『富の福音』のなかで、「裕福な人はその富を浪費するよりも、社会がより豊かになるために使うべきだ。」と述べている。 1908年、カーネギーは当時ジャーナリストだったナポレオン・ヒルに500人以上の裕福な成功者にインタビューして成功の共通点を見つけることを無償で依頼した。結局ヒルはカーネギーの協力者となった。彼らの成果はカーネギーの死後に The Law of Success (1928) と Think and Grow Rich (1937) というヒルの著作として出版された。特に後者は初版以降絶版になったことがなく、全世界で総計3000万部を売り上げている。1960年、ヒルはカーネギー式の蓄財法についても記した簡易版を出版している。長らくそれが入手可能な唯一の版だった。2004年、ロス・コーンウェルが Think and Grow Rich!: The Original Version, Restored and Revised を出版。これは本来の版を若干改訂したものに詳細な巻末注と索引と付録を追加したものである。 カーネギーはハーバート・スペンサーの著作を高く評価し、スペンサーが自身の教師だとさえ述べている。しかしその行動はスペンサーの考え方に反する部分も多い。 スペンサー流の社会進化論は、政府の干渉に反対し個人の権利を尊重するもので、適者生存という考え方が根底にある。スペンサーは昆虫が特定の環境に適応して様々な種に分かれていったように、人間社会も自然に分業化されると考えた。生存競争を勝ち抜いた個人は進化の最先端にあり、その世代で選び抜かれた自衛力の最も強い個体だとする。さらにスペンサーは、政府の権限は社会的求心力や人権を保護するために人々から一時的に与えられているに過ぎないとした。スペンサー流の「適者生存」の考え方では不平等な状態を是とし、弱者や貧者への施しは進化を害するとしている。スペンサーは、弱者や堕落した者や障害者を選り分ける厳しい運命に人々が抗うことが社会のためになると強調している。 カーネギーが19世紀末から20世紀初頭にかけてとった政治的・経済的立場は、自由競争主義を擁護するものだった。そのため政府主導の慈善活動や政府による商業活動への干渉には激しく抵抗した。カーネギーは資本の集中が社会の進化に必須だと信じ、奨励されるべきだと考えていた。カーネギーは商業における「適者生存」を熱心に支持し、鉄鋼業のすべての工程を支配する際の障害となるものを排除していった。コスト削減をする際には労働経費削減も行った。スペンサー流の考え方ではコスト削減による物価下落が自然なことであり、組合はコストを押し上げて社会進化を妨げる存在だった。カーネギーは自身の行為が社会全体に役立っていると信じ、組合は少数の私利私欲を体現していると思っていた。 表面上カーネギーはスペンサーを信奉する他の自由競争主義の資本家と同じようであり、自らスペンサーの弟子だと称していた。一方でカーネギーはスペンサー流の適者生存を体現した人と見られていた。1903年にスペンサーが亡くなるまで2人は互いに尊敬しあい、親交していた。しかしスペンサーの社会進化論とカーネギーの資本家としての行為には、いくつか重要な不一致が存在する。 スペンサーは製造業において個人の優れた資質は比較的影響が小さいとし許容できるとしたが、市場の大部分を独占する者が現れると競争が阻害される虞があるとした。そして独占者が同情的自制のない性格だった場合、競合者が打ち負かされる可能性がある点を懸念していた。彼は自由市場競争の果てに戦争状態が必ず到来するとは思っていなかった。さらにスペンサーは経済力が上の者が競争相手を廃業に追い込むためにその経済力を活用する「商業的殺人」も行われていると主張した。カーネギーは垂直統合によって鉄鋼業で富を築いた。また、何社かの競争相手は株式の大部分を押さえるという手法で買収し吸収合併し、自らの会社を成長させていった。さらに鉄道会社との密接な関係もカーネギーの成功の一因であり、鉄道会社が線路などに鉄鋼を必要としただけでなく、原材料や鉄鋼製品の輸送で鉄道会社が潤うという面もあった。鉄鋼業と鉄道業は自由競争に任せずに価格カルテルを結んでいた。 カーネギーが市場操作した以外に、アメリカの関税は自国の鉄鋼業界に有利になるよう設定されていた。カーネギーは有利な関税率が継続されるよう議会にも熱心に働きかけていた。カーネギーはそのことを隠そうとしていたが、1900年にヘンリー・クレイ・フリックがいかに関税率がカーネギー鉄鋼にとって有利に設定されていたかを明らかにした。スペンサーは、規制や関税など政府による経済活動への干渉は絶対反対の立場だった。スペンサーは関税を製造業者や職人など少数の人々に利するために大勢から取り立てる課税形態だと考えていた。カーネギーが友人としてスペンサーと個人的に親しかったのは確かだが、政治的・経済的思想の面では必ずしも忠実な信奉者ではなかった。また、カーネギーはスペンサーの主要な理論の一部を誤解するか意図的に誤り伝えたようである。 慈善活動の面では、カーネギーの行動はスペンサーの哲学から大きく乖離しており、複雑化している。1854年の論文 Manners and Fashion でスペンサーは公教育を「古い体系」(old schemes) と称した。彼はさらに、公立学校や大学は学生の頭を無駄な知識で一杯にし、有益な知識は教えないとした。スペンサーは政治・宗教・文学・慈善など種類を問わずあらゆる組織を信用しないとし、組織が影響力を強めれば規制も強化されると信じていた。それに加えてスペンサーはあらゆる組織は発展するに従って権力と金が集まって堕落し、当初の精神を失い、活気のない機構へと変化するとした。スペンサーは貧しく圧政に苦しむ人々を救おうとする慈善活動は、どんな形であれ無謀であり何も成し遂げられないと主張している。スペンサーは貧困層を救済しようとする試みは後世に増大する禍根を残すだけだと考えていた。スペンサーの信奉者を自称するカーネギーは「私は事業でできるかぎりの良いことを行ってきた。私はその事業から完全に手を引いた」と述べている。 カーネギーは社会の進歩は道徳的義務を果たす個人に依存していると考えていた。したがって本当の慈善とは、自ら成長し目標を達成しようとする人々を助ける形で行うべきだと信じていた。さらに他の富豪にも公園、美術品、図書館、その他コミュニティを改善する何らかの努力など長続きする形での寄付を勧めている。また、遺産相続には強く反対している。成功した実業家の子孫は親ほど有能ではないと信じていた。多額の遺産を子らに残すことは、社会に還元できたはずの富を浪費するだけだと信じていた。特にカーネギーは、自分がそうだったように未来のリーダーは貧困層から生まれると信じていた。彼は、貧しいほど親は子を注意深く育て、職業倫理も叩き込むので、富裕層より貧困層の方が成功しやすいと信じていた。 19世紀のスコットランドでの宗派間の争いを目にしたカーネギーは、教団を持つ宗教には一切関わらなかった。その代わりとして自然主義的用語や科学的用語を通して世界を見ることを好み、「神学と心霊を排除しただけでなく、進化の真実も見つけた」と述べている。 年を経ると、反宗教的態度はやや軟化している。1905年から1926年まで社会的福音が司牧した Madison Avenue Presbyterian Church に属していたが、妻や娘は Brick Presbyterian Church に属していた。また、「万物から生じる無限かつ永遠のエネルギー」への信仰を告白した聖アンデレに対する文書を用意したことがある(公表しなかった)。ナポレオン・ヒルはカーネギーが「無限の知性」(Infinite Intelligence) を信じることが重要だとしていたと書いている(ヒルはそれを「神」または「絶対者」の言い換えとみなした)。 イギリスの自由主義の政治家ジョン・ブライトを英雄と捉えていたカーネギーは、若いころから世界平和の追求を心がけていた。彼のモットー "All is well since all grows better" は事業に関してだけでなく、国際関係についての観点にも当てはまっている。 世界平和への彼の愛好と努力にもかかわらず、カーネギーは多くのジレンマ、国際関係への彼の見方と様々な義理の間の衝突に直面した。例えば1880年代から1890年代にかけて、カーネギーの事業はアメリカ海軍の近代化のため大量の装甲板を受注することで拡大した。その間カーネギーはアメリカの海外侵出に反対している。彼はまた英米関係の友好促進を唱えながら、イギリスの階級社会を批判する本を出版して議論を呼んでいる。 アメリカが外国を併合しようとする件では、カーネギーは常に反対の立場だった。ハワイ、グアム、プエルトリコの併合には反対しなかったが、フィリピン併合には反対の立場を貫いた。フィリピン人が独立を求めて戦ったので、カーネギーはその島を征服することは民主主義の根本原則に反すると信じ、米軍を撤退させフィリピンを独立させることをウィリアム・マッキンリーに進言した。この行動は反帝国主義的な他のアメリカ人に感銘を与え、アメリカ反帝国主義連盟の副会長に彼が選ばれることになった。 1901年に事業を売却すると、カーネギーは平和のために専念できるようになった。資産の多くを平和維持機関の発展のために寄贈した。友人でイギリスのジャーナリストだったウィリアム・トーマス・ステッドが国際社会の平和と調停のための新機関創設を要請したとき、カーネギーは次のように答えている。 カーネギーは国際関係での平和維持は人々の努力と意志によると信じていた。お金は単に行動を促進するだけである。世界平和が財政援助にのみ依存するなら、それは目標ではなくなり、哀れみの行為のようなものになるだろう。 1910年に創設したカーネギー国際平和基金は、戦争根絶という最終目標に至る道程の重要な一里塚とみなされ、司法的手段を提供することで戦争を根絶しようとするものだった。彼はその基金が現行国際法下での国家の権利と責任についての情報収集を促進し、その成文化を促進するものとした。 カーネギー国際平和基金の歴代管財人を挙げておくと、フェルプスドッジ社長のウィリアム(William E. Dodge)、JPモルガンのトーマス・ラモント(ヤング案に干渉)、マサチューセッツ工科大学のヴァネヴァー・ブッシュ、ジャパンロビーのジョン・フォスター・ダレス、ヒューレット・パッカードのウィリアム・ヒューレットなどがいる。 1914年、第一次世界大戦直前にカーネギーは Church Peace Union (CPU) という宗教界、学界、政界のリーダーたちのグループを結成した。彼はCPUを通して世界中の宗教団体や道徳的団体を結集し、戦争根絶に向けたリーダーシップを形成することを目論んでいた。結成イベントとして1914年8月1日、CPUは南ドイツにあるコンスタンス湖畔で国際会議を開催しようとした。しかし参加者が会場に向かおうとしたころ、ドイツによるベルギー侵攻が始まった。 始まりは不吉だったが、CPUは発展した。今日では倫理に重点を置いており、カーネギー国際関係倫理協会(英語版) と呼ばれる独立した非営利組織となっている。その目的は国際関係における倫理的表明をすることである。 第一次世界大戦勃発は世界平和について楽観的だったカーネギーに衝撃を与えた。彼の反帝国主義と平和促進の努力は全て失敗し、カーネギー基金も彼の期待に応えられなかったが、彼の国際関係についての信念と考え方は後の国際連盟結成の基盤を築くのに役立っている。 カーネギーの書簡はアメリカ議会図書館が所蔵している。コロンビア大学図書館のカーネギーコレクションはカーネギーが創設した4つの財団などの文書を集め保管している。カーネギーメロン大学とピッツバーグのカーネギー図書館は共同でアンドリュー・カーネギー・コレクションを創設し、カーネギーの人生に関する資料をデジタル形式で公開している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アンドリュー・カーネギー(英: Andrew Carnegie [ˈændruː kɑːrˈneɪɡi]、俗に[ˈkɑːrnᵻɡi, kɑːrˈnɛɡi]とも, 1835年11月25日 - 1919年8月11日)は、スコットランド生まれのアメリカの実業家。鉄鋼王と称された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1835年、カーネギーはスコットランドのダンファームリンで手織り職人の長男として生まれた。生家の一階の半分を占める部屋は隣の手織り職人一家と共有で、居間としてもダイニングルームとしても寝室としても使われた。アンドリューという名前は祖父にちなんでつけられた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1836年、父ウィリアム・カーネギーがダマスク織りで儲けたため、やや広い家に移り住んだ。叔父のジョージ・ローダーは彼にロバート・バーンズの作品やロバート1世やウィリアム・ウォレスやロブ・ロイ・マグレガーといったスコットランドの歴史上の偉人について教えた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "当時のイギリスの織物産業は、蒸気機関(力織機)を使用した工場に移りつつあり、手織り職人の仕事がなくなってしまったため、1848年に両親はアメリカ(ペンシルベニア州アラゲイニー、2013年現在のピッツバーグ)への移住を決める。移住費用も借金する必要があった。当時のアラゲイニーは貧民街だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1848年、13歳で初めて就いた仕事は綿織物工場でのボビンボーイ(織機を操作する女性工員にボビンを供給する係)で、1日12時間週6日働いた。当初の週給は1.20ドルだった。父は当初綿織物工場で働いていたが、リンネルを織って行商する仕事を始めた。母は靴の包装でかせいだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "その後何度か転職し1850年、叔父の勧めもあってオハイオ電信会社のピッツバーグ電信局で電報配達の仕事に就く(週給2.50ドル)。この仕事は劇場にタダで入れるなどの役得があり、そのおかげでカーネギーはシェイクスピア劇のファンになった。彼は非常に働き者で、ピッツバーグの企業の位置と重要な人物の顔をすべて記憶した。そうやって多くの関係を築いていった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、自分の仕事に細心の注意を払い、当時の電信局では受信したモールス信号を紙テープに刻み、テープからアルファベットに解読して電報を作成していたが、カーネギーはモールス信号を耳で聞き分ける特技を身につけ、1年以内に電信技士に昇格した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ジェームズ・アンダーソン大佐は、働く少年たちのために毎週土曜の夜に約400冊の個人的蔵書を開放しており、カーネギーはそこで勉強し読書好きになった。彼は経済面でも知的・文化的面でも借りられるものは何でも借り、独力で成功を導いた。その能力、重労働を厭わぬ自発性、忍耐力、用心深さは、間もなく好機をもたらした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1853年、ペンシルバニア鉄道のトマス・アレクサンダー・スコットがカーネギーを秘書兼電信士として引き抜き、週給は4.00ドルになった。18歳の頃に、スコットがペンシルバニア鉄道の副社長に昇進すると、代わりにカーネギーがピッツバーグの責任者になった。このペンシルバニア鉄道での経験は後の成功に大いに役立っている。鉄道会社はアメリカ初の大企業群であり、その中でもペンシルバニア鉄道は最大の企業だった。カーネギーはそこで、特にスコットから経営と原価管理について多くを学んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "スコットはまた、彼の最初の投資についても支援している。スコットや社長のJ・エドガー・トムソンは取引関係のある会社の内部情報を知りうる立場にあり、それを利用して株式を売買したり、代償の一部として契約相手の株式を得たりしていた。1855年、スコットはカーネギーに500ドルでアダムス・エクスプレス(英語版)の株式を購入する話をもちかけ、カーネギーの母が700ドルの家を抵当に入れて500ドルを捻出した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "数年後、オハイオへ移動中のカーネギーに、発明家のウードルフが寝台車のアイデアを持ちかけ、ペンシルバニア鉄道は試験的な採用を決めた。ウードルフに誘われたカーネギーは、借金をして寝台車のための会社に出資し、大成功を収めた。彼はそうして得た資金を鉄道関連の会社(鉄鋼業、橋梁建設業、レール製造業など)に再投資していった。そうして徐々に資金を蓄えていき、後の成功の基盤を築いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "その後も企業を設立する際に、トムソンとスコットとの密接な関係を利用しており、レールと橋梁を供給する会社を設立した際にはこの二人に株主となってもらった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "南北戦争の前に、カーネギーはウードルフの会社とジョージ・プルマンの会社の合併を仲介した。プルマンは800km以上の長距離の旅行が可能な一等寝台車を発明した。その際の投資は大いに成功し、ウードルフとカーネギーの利益の源泉となった。その後もカーネギーはスコットの下で働き、鉄道のサービスにいくつか改善を施している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1861年春、軍隊輸送の責任者(陸軍次官補)に任命されたスコットはカーネギーを東部の軍用鉄道と合衆国政府の電信網の監督に任命した。カーネギーは南軍によって寸断されたワシントンD.C.までの鉄道路線の再建を支援した。ブルランでの北軍の敗北の直後にワシントンD.C.への北軍の旅団を輸送する機関車に乗り込み、敗軍の輸送も現場で監督した。彼の指揮下で電信サービスは効率化され、北軍が最終的に勝利する一因となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "南軍を打ち負かすには大量の弾薬を必要とし、補給には鉄道(と電信)が大いに活用された。この戦争で産業の重要性が明らかとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "南北戦争の際、艦船の装甲、砲、その他様々な工業製品に使用するため鉄鋼の需要が高まり、ピッツバーグは軍需産業の一大拠点となっていた。カーネギーは戦前から製鉄業に投資しており、それが富の源泉となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "南北戦争終結後にペンシルバニア鉄道を退職し、製鉄業に専念するようになった。いくつかの製鉄所を創業し、最終的にピッツバーグでキーストン鉄橋会社(英語版)(1865年)とユニオン製鉄所を創業。ペンシルバニア鉄道は辞めたがその経営陣(スコットやトムソン)とは密接な関係を保っていた。その関係を利用し、キーストン鉄橋会社が鉄橋建造の契約を結び、製鉄所がレール生産の契約を結んだ。また、スコットとトムソンには彼の会社の株主になってもらい、ペンシルバニア鉄道は彼の最大の顧客となった。最初の製鋼工場を建設した際は、トムソンの名を冠した。カーネギーは実業家として優れていただけでなく、人間的な魅力と文学的素養も備えていた。多くの社会的行事に招待されるようになり、それをうまく利用した。セントルイスでミシシッピ川をまたいで建設されたイーズ橋(1874年完成)では、キーストン鉄橋を通して鋼製の材料を提供すると共に、このプロジェクト自体にも出資している。このプロジェクトは、材料としての鋼の技術的優位性を実証する試金石という面があったものであるが、それが成功したことで、鋼の市場が拡大した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1884年、ペンシルベニア州ベナンゴ郡の産油地帯にある農場に4万ドルを出資。その農場に設置した油井から1年で石油が採れ利益が上がるようになり、配当金として100万ドルを得た。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "カーネギーの母は彼を結婚させなかった。1886年に母が亡くなると、1887年4月22日、52歳の時、30歳のルイーズ・ホイットフィールドという女性と結婚した。1897年、唯一の子どもである娘が産まれ、自身の母の名をとってマーガレットと名付けた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "カーネギーはそれまでにアメリカで個人が所有する最大の製鋼所を経営し、製鋼業で財産を形成した。彼が成し遂げた2回の重要な技術革新のうち1つは、製鋼にベッセマー法を採用して鋼を安価に大量生産できるようにしたことである。ヘンリー・ベッセマーは、炭素含有量の高い銑鉄を制御された高速な方法で燃焼させる炉を発明した。その結果鋼の価格が下がり、橋や建築用の桁や梁、鉄道レールなどに鋼が使われるようになった。2つめは、原材料の供給元を含めた垂直統合を成し遂げたことである。1880年代後半、カーネギーの会社は銑鉄、コークス、鋼製のレールの世界最大の供給業者となっており、日産2,000トンの銑鉄を生産していた。1888年、ライバルのホームステッド・ワークスを買収し、それに伴って石炭と鉄鉱石の鉱山、685kmもの長い鉄道、大型貨物船を入手した。1892年、所有する会社をまとめて、カーネギー鉄鋼会社を創業。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1889年にはアメリカの鋼生産量はイギリスを抜き、その大きな部分をカーネギーが所有していた。ペンシルバニア鉄道のかつての上司の名を冠したエドガー・トムソン製鋼所(英語版)、ピッツバーグ・ベッセマー製鋼所、ルーシー溶鉱炉、ユニオン製鉄所、ユニオン工場 (Wilson, Walker & County)、キーストン鉄橋会社、ハートマン製鋼所、フリック・コークス、スコットランドの鉱山などを含み、カーネギーの帝国は成長していった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "カーネギーはその後も実業家として活動し続けたが、文学的関心も満たすようになった。イギリスの詩人マシュー・アーノルドやイギリスの哲学者ハーバート・スペンサーを支援し、歴代のアメリカ合衆国大統領や政治家や著名な作家とも親交した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1879年、故郷ダンファームリンに水泳プールを建設。翌年には、ダンファームリンに無料図書館を建設するために4万ドルを寄付した。1884年、ニューヨーク大学医科大学院の前身であるベルビュー病院医科大学に5万ドルを寄付し、組織学の研究所を創設した(現在カーネギー研究所と呼ばれている)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1881年、70歳の母を含めた一家でイギリスへ旅行した。馬車でスコットランドを巡り、各地で歓迎された。故郷ダンファームリンへの凱旋がクライマックスであり、そこでカーネギーの寄付で建設されるカーネギー図書館の礎石を母が据えた。カーネギーはイギリス社会に批判的だったが、イギリスを嫌っていたわけではない。むしろ、英語圏の人々の関係強化のために触媒として働こうと考えていた。そのため、1880年代初めに彼はイングランドの複数の新聞を購読している。それも全て君主制を廃止して「イギリス共和国」を創設しようと主張している新聞だった。首相ウィリアム・グラッドストンを含め多くのイギリス人の友人がいた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1886年、弟のトーマスが43歳で他界。それでも事業での成功は続いた。そのころスペリオル湖周辺の価値の高い鉄鉱山を安く購入している。イギリスへの旅行の後、その経験を An American Four-in-hand in Britain という本にして出版している。また、複数の雑誌に寄稿するようになった。例えば、ジェイムズ・ノウルズ(英語版)が編集する Nineteenth Century やロイド・ブライス(英語版)が編集する North American Review などである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1886年、Triumphant Democracy(民主主義の勝利)と題した当時としては過激な本を書いた。統計などを駆使し、イギリスの君主制よりもアメリカの共和制のほうが優れていると主張した本である。アメリカの発展を好意的かつ理想的に捉え、イギリス王室を批判している。表紙にはひっくり返った王冠と壊れた王笏が描かれていた。この本はイギリスで大きな議論を呼んだ。アメリカでは好意的に受け入れられ、4万部を売り上げた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1889年、North American Review 6月号に \"Wealth\" と題した記事を掲載。これを読んだウィリアム・グラッドストンはイングランドでの出版を持ちかけ、Pall Mall Gazette に \"The Gospel of Wealth\"(富の福音)として掲載された。この記事も大いに議論を呼んだ。カーネギーは裕福な実業家の人生は2つの部分から成るべきだと主張している。1つめは蓄財の期間、2つめはその富を大衆に分配する期間である。カーネギーは人生を価値あるものとする鍵はフィランソロピーだとした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "カーネギーは偉大なジャーナリストとしても知られており、新聞に寄稿したり編集者に手紙を書いたりした。新聞を読む習慣は幼少期のころからあった。例えば、イングランドとスコットランドを旅行中に書き始めた \"Round the world\" と題した記事などがある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1898年、カーネギーはフィリピン独立を画策した。米西戦争終結に伴い、アメリカはスペインから2000万ドルでフィリピンを購入。アメリカの帝国主義に対抗すべく、アメリカからの独立を買い取れるようにフィリピンの人々に個人的に2000万ドルを提供しようとした。しかし、この申し出を受ける者は現れなかった。米西戦争の結果キューバがアメリカに併合されそうになり、これにも反対した。こちらはグロバー・クリーブランドやベンジャミン・ハリソンやマーク・トウェインらと共に結成したアメリカ反帝国主義連盟による反対が若干功を奏した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1901年、66歳になったカーネギーは引退を考え、その準備として会社を一般的な株式会社化した。当時のアメリカ金融業界の最重要人物である銀行家ジョン・モルガンは、カーネギーは非常に効率的に利益を生み出したと評価していた。モルガンは鉄鋼業界を統一することで、コストを削減し、製品価格を下げ、大量生産し、労働賃金を上げることを考えており、そのためにカーネギーの会社や他の会社を買収して合併させ、無駄の排除を目指した。1901年3月2日、モルガンらの折衝で時価総額10億ドルを越える史上初の企業USスチールが誕生した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "チャールズ・M・シュワブが秘密裏に交渉したこの買収劇は、当時のアメリカ史上最大のものだった。モルガンが組織したトラストとカーネギーが手放した企業がUSスチールに組み入れられた。カーネギーの会社は年間売上高の12倍、4億8千万ドルで買収されており、当時最大の個人的取引だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "カーネギーの保有していた総額2億2563万9000ドルの株式は、50年間5%の金価格債券と交換された。その株式売却の契約は1901年2月26日になされている。そして3月2日、資本金14億ドル(当時のアメリカの国富の4%に相当)のUSスチールが創設された。債券は2週間以内にニュージャージー州ホーボーケンのハドソン信託会社に運び込まれ、約2億3千万ドルぶんの債券を収めるための地下室が新たに建設された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "引退後のカーネギーは篤志家として活躍した。慈善活動に関する考え方については既に Triumphant Democracy (1886) と『富の福音』(1889) において表明していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "スコットランドのスキボ城(英語版)を購入し、そことニューヨークを生活拠点とした。それからの人生は、公共の利益と社会的・教育的発展のために資産を使うことに捧げた。また英語の発展のため、綴り字改革(英語版)運動を強力に支持した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "彼の様々な慈善活動の中でも突出しているのは、アメリカ合衆国、イギリス、他の英語圏の国々での公共図書館設置である。それらはカーネギー図書館と呼ばれ、数多くの場所に建てられた。最初の図書館は1883年、故郷ダンファームリンで開館した。彼の手法は、地元の自治体が土地と運営予算を用意できた場合だけ、建物と初期の蔵書を提供するというものだった。地元に対しては、1885年にピッツバーグに公共図書館用に50万ドルを寄付し、1886年にはアラゲイニーに音楽ホールと図書館用に25万ドルを寄付し、エディンバラにも図書館用に25万ドルを寄付した。全部で3,000弱の図書館の設立資金を提供しており、アメリカ47州、カナダ、イギリス、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランド、西インド諸島、フィジーに建設された。また、1899年にはバーミンガム大学創設資金として5万ポンドを寄付している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "19世紀末のアメリカでは、無料図書館を市民に開放すべきだという考え方が一般にみられた。しかし、理想的な無料図書館のデザインについては白熱した議論が戦わされていた。図書館の専門家は管理運営を効率化できるデザインを要求していたが、一方で篤志家らは温情主義的で市民の誇りとなるような建物を好んだ。1886年から1917年にかけて、カーネギーはその両者の考えを折衷し、図書館の慈善的な面と効率的デザインを追求した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ニューヨーク州のブルーム郡公共図書館は1904年10月に開館した。当初はビンガムトン公共図書館と呼ばれ、カーネギーの7万5千ドルの寄付で建てられたものである。この建物は公共図書館と公民館として使えるよう設計された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1901年、カーネギーが寄付した200万ドルでピッツバーグにカーネギー工科大学 (Carnegie Institute of Technology) (CIT) が創設され、1902年にも同額を寄付してワシントンD.C.にワシントン・カーネギー協会が創設された。その後も両組織に寄付をしており、他の大学にも寄付をしている。CITは後にカーネギーメロン大学の一部となっている。コーネル大学では理事を務めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ジョージ・ヘールはワシントン・カーネギー協会の支援でウィルソン山天文台の257センチ反射望遠鏡建設を建設していたが、カーネギーは存命中にその完成を迎えたいと考え1911年に同協会に1000万ドルを寄付し、建設促進を図った。望遠鏡は1917年11月2日にファーストライトを迎えた。カーネギーが亡くなったのはその後である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1901年には1000万ドルの醵出によってスコットランド・カーネギー基金(英語版)が設立された。彼が契約書に署名したのは1901年6月7日で、1902年8月21日に設立認許状が発効した。当時スコットランドの4大学への政府の補助金は5万ポンドしかなかった。トラストの目的はスコットランドの大学での科学研究を発展させ、スコットランドの優秀な若者が大学に進学できるようにすることである。カーネギーはセント・アンドルーズ大学の名誉総長に選ばれた。故郷ダンファームリンにも多額の寄付をしている。図書館に加え、個人的に土地を買いピッテンクリーフ公園(英語版)として一般開放した。またダンファームリンの住民のために Carnegie Dunfermline Trust を設立している。2013年現在、ダンファームリンにはカーネギーの像がある。1913年にはさらに Carnegie United Kingdom Trust 設立に1000万ドルを寄付し、補助金の基金とした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1901年、ホームステッドのかつての従業員のために大規模な年金も創設している。1905年にはカーネギー教育振興財団を設立、さらにアメリカの大学教授たちのための年金を創設し、これはTIAA-CREFの一部となった。なお、何らかの宗教を背景にした大学はその宗教との関係を断ち切ることが年金加入の条件になっていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "音楽を愛したカーネギーは7,000台の教会用オルガンを作らせている。1891年に建設したカーネギー・ホールは寄贈せずに所有していたが、1925年に彼の未亡人が売却した。ただし2013年現在もそのままの名前が使用されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ブッカー・T・ワシントンが黒人教育のために創設したタスキーギ職業訓練校(英語版)も支援している。また、ワシントンが National Negro Business League を創設するのも支援した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1904年、アメリカとカナダで英雄的行為(自己犠牲的行為)を表彰するカーネギー英雄基金(英語版)を創設。同様の基金を後にイギリス、スイス、ノルウェー、スウェーデン、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、デンマーク、ドイツにも創設した。1903年にはオランダのデン・ハーグで平和宮を建設する資金として150万ドルを寄付し、この建物は後に国際司法裁判所として使用されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "カーネギーの慈善活動と芸術振興を称えて1917年10月14日、ボストンのニューイングランド音楽院カーネギーを Phi Mu Alpha Sinfonia というフラタニティの名誉会員とする式典が行われた。同フラタニティの理念とカーネギーの若者の才能を伸ばすという価値観が一致したためである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "19世紀当時の富豪の基準をもって判断すれば、カーネギーは特に冷酷な男というわけではなく、「冷徹に利益を追求する貪欲さは十分持ち合わせている人道主義者」、ということになる。別の言い方をするならば(今日的な視点で見ると)、彼の生活(水準)と彼が雇っていた労働者たちや貧困者たちの生活(水準)は著しく異なっていた。伝記作家 Joseph Wall は「おそらくカーネギーは自分の金を分け与えることでその金を集めるためにしてきたことを正当化しようとしたのだろう」とコメントした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "スコットランドからの移民の子が成功したということで、カーネギーをアメリカン・ドリームの体現者だと見る人もいる。彼は成功を収めただけでなく篤志家としても活動し、さらには植民地化された国々の民主化と独立も実現しようと努力した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1919年4月22日に娘の結婚式を行った4か月後の1919年8月11日、気管支肺炎のためマサチューセッツ州レノックスで亡くなった。生前、既に3億5069万5653ドルを寄付していた。遺産の3000万ドルも基金や慈善団体や年金などに遺贈された。ニューヨーク州ノース・タリータウン(2013年現在のスリーピーホロー)にあるスリーピーホロー墓地に埋葬された。いわゆる金ぴか時代を代表するもう1人の有名人サミュエル・ゴンパーズもすぐ近くに埋葬されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "カーネギーも会員だったサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブ(英語版)は、1889年に2,209名の死者を出したジョンズタウン洪水の原因を作ったとして非難されている。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "友人のベンジャミン・ラフの発案で仕事上のパートナーヘンリー・クレイ・フリック(英語版)がペンシルベニア州ジョンズタウンの上流に作ったのがサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブである。60人余りの会員はペンシルベニア州西部の富豪たちで、フリックの親友アンドリュー・メロン、弁護士フィランダー・ノックス(英語版)、ジェイムズ・ヘイ・リード、カーネギーらが参加していた。ジョーンズタウンの上流にあるサウスフォークという町の近くにサウスフォークダム(英語版)があった。このダムはペンシルベニア州政府が1838年から1853年までの年月をかけて、ジョンズタウンのある盆地に運河網を作るための貯水池として建設したものである。しかし輸送手段が運河から鉄道に移ったためダムは不要となり、ペンシルバニア鉄道が買い取り、さらに1881年にはサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブの所有となった。そして、ダム自体は若干修理しただけで貯水量を増やして人工湖とし、湖畔に別荘やクラブハウスを建設した。このダムから20マイル下流にジョーンズタウンがあった。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ダムの高さは22m、幅は284mだった。1881年にクラブを開設してから1889年までにダムは度々漏水し、主に泥や麦わらで応急修理していた。さらに以前の所有者が鋳鉄製の3本の放水管を撤去しており、制御された形で放水できない状態になっていた。ジョーンズタウンのさらに下流にあるカンブリア製鉄所がダムについての懸念を表明していた。1889年初頭の積雪が春の到来と共に融け、水かさが増えてダムが耐え切れなくなり、5月31日にジョンズタウンに向かって2000万トンの水が流れ込み洪水となった。ダム決壊の一報がピッツバーグに伝えられると、フリックをはじめとするクラブ会員が集まり、被災者支援のためのピッツバーグ救済委員会を作り、クラブと洪水の関係については一切公言しないことを申し合わせた。この戦略は成功し、クラブ会員は訴えられずに済んだ。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "カンブリア製鉄所は洪水で多大な被害を被ったが、1年以内に操業再開にこぎつけた。洪水後、カーネギーはジョーンズタウンの図書館を再建している。その図書館は2013年現在では洪水博物館になっている。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1892年に起こったホームステッド・ストライキ(英語版)は143日間も続いた労働争議で流血沙汰になり、アメリカ史上最も深刻なストライキである。カーネギー鉄鋼の本拠地ペンシルベニア州ホームステッドで、組合と会社の間の論争から発展して発生した。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "不安がピークに達する前に、カーネギーはスコットランド旅行に出発している。組合との調停はパートナーだったヘンリー・クレイ・フリックに委ねた。フリックは組合を快く思っていないことで有名だった。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "前年度会社は60%も利益が増加していたが、会社側は給与を30%以上増やすことを断わった。一部労働者が60%の賃金増を要求したため、経営側は組合員を締め出した。労働者側はこれを経営側によるロックアウトだとし、ストライキが発生した。フリックは数千人のスト破りの作業員を雇い、作業員を守るためにピンカートン探偵社に協力を要請した。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "7月6日、ピンカートンがニューヨークとシカゴから300人の護衛を送り込み、乱闘が発生。死者10人(ストライキ側が7人、ピンカートン側が3人)、負傷者数百名の大惨事となった。ペンシルベニア州知事はこれを鎮圧するため州兵を送り込んだ。ストライキとの直接の関係はないが、同年アナキストのアレクサンダー・バークマンがフリック暗殺を試み、フリックは負傷した。バークマンは「フリックを排除すれば、カーネギーがホームステッドの一件の責任者になる」と思ったと述べている。その後、非組合員の移民を労働者として雇い入れることで操業再開にこぎつけ、カーネギーがアメリカに帰国した。しかし、この一件でカーネギーの評判に傷がつく結果となった。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1868年、33歳のとき、カーネギーは「蓄財は偶像崇拝の悪い種の一つだ。金銭崇拝ほど品位を低下させる偶像はない」と書き残している。そして同じ文章の中で、自分の品位を落とさないために35歳で引退してその後は慈善活動を行うと記し「金持ちとして死ぬことほど不名誉なことはない」と書いている。しかし、彼が最初に慈善活動を行ったのは1881年のことで、故郷ダンファームリンでの図書館建設だった。死の際にやむなく行う遺贈ではなく、生存中に活用先への責任を持ちながら行った、スタンフォード大学の創設者スタンフォードのような例を模範として実践した。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "彼は著書『富の福音』のなかで、「裕福な人はその富を浪費するよりも、社会がより豊かになるために使うべきだ。」と述べている。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1908年、カーネギーは当時ジャーナリストだったナポレオン・ヒルに500人以上の裕福な成功者にインタビューして成功の共通点を見つけることを無償で依頼した。結局ヒルはカーネギーの協力者となった。彼らの成果はカーネギーの死後に The Law of Success (1928) と Think and Grow Rich (1937) というヒルの著作として出版された。特に後者は初版以降絶版になったことがなく、全世界で総計3000万部を売り上げている。1960年、ヒルはカーネギー式の蓄財法についても記した簡易版を出版している。長らくそれが入手可能な唯一の版だった。2004年、ロス・コーンウェルが Think and Grow Rich!: The Original Version, Restored and Revised を出版。これは本来の版を若干改訂したものに詳細な巻末注と索引と付録を追加したものである。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "カーネギーはハーバート・スペンサーの著作を高く評価し、スペンサーが自身の教師だとさえ述べている。しかしその行動はスペンサーの考え方に反する部分も多い。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "スペンサー流の社会進化論は、政府の干渉に反対し個人の権利を尊重するもので、適者生存という考え方が根底にある。スペンサーは昆虫が特定の環境に適応して様々な種に分かれていったように、人間社会も自然に分業化されると考えた。生存競争を勝ち抜いた個人は進化の最先端にあり、その世代で選び抜かれた自衛力の最も強い個体だとする。さらにスペンサーは、政府の権限は社会的求心力や人権を保護するために人々から一時的に与えられているに過ぎないとした。スペンサー流の「適者生存」の考え方では不平等な状態を是とし、弱者や貧者への施しは進化を害するとしている。スペンサーは、弱者や堕落した者や障害者を選り分ける厳しい運命に人々が抗うことが社会のためになると強調している。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "カーネギーが19世紀末から20世紀初頭にかけてとった政治的・経済的立場は、自由競争主義を擁護するものだった。そのため政府主導の慈善活動や政府による商業活動への干渉には激しく抵抗した。カーネギーは資本の集中が社会の進化に必須だと信じ、奨励されるべきだと考えていた。カーネギーは商業における「適者生存」を熱心に支持し、鉄鋼業のすべての工程を支配する際の障害となるものを排除していった。コスト削減をする際には労働経費削減も行った。スペンサー流の考え方ではコスト削減による物価下落が自然なことであり、組合はコストを押し上げて社会進化を妨げる存在だった。カーネギーは自身の行為が社会全体に役立っていると信じ、組合は少数の私利私欲を体現していると思っていた。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "表面上カーネギーはスペンサーを信奉する他の自由競争主義の資本家と同じようであり、自らスペンサーの弟子だと称していた。一方でカーネギーはスペンサー流の適者生存を体現した人と見られていた。1903年にスペンサーが亡くなるまで2人は互いに尊敬しあい、親交していた。しかしスペンサーの社会進化論とカーネギーの資本家としての行為には、いくつか重要な不一致が存在する。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "スペンサーは製造業において個人の優れた資質は比較的影響が小さいとし許容できるとしたが、市場の大部分を独占する者が現れると競争が阻害される虞があるとした。そして独占者が同情的自制のない性格だった場合、競合者が打ち負かされる可能性がある点を懸念していた。彼は自由市場競争の果てに戦争状態が必ず到来するとは思っていなかった。さらにスペンサーは経済力が上の者が競争相手を廃業に追い込むためにその経済力を活用する「商業的殺人」も行われていると主張した。カーネギーは垂直統合によって鉄鋼業で富を築いた。また、何社かの競争相手は株式の大部分を押さえるという手法で買収し吸収合併し、自らの会社を成長させていった。さらに鉄道会社との密接な関係もカーネギーの成功の一因であり、鉄道会社が線路などに鉄鋼を必要としただけでなく、原材料や鉄鋼製品の輸送で鉄道会社が潤うという面もあった。鉄鋼業と鉄道業は自由競争に任せずに価格カルテルを結んでいた。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "カーネギーが市場操作した以外に、アメリカの関税は自国の鉄鋼業界に有利になるよう設定されていた。カーネギーは有利な関税率が継続されるよう議会にも熱心に働きかけていた。カーネギーはそのことを隠そうとしていたが、1900年にヘンリー・クレイ・フリックがいかに関税率がカーネギー鉄鋼にとって有利に設定されていたかを明らかにした。スペンサーは、規制や関税など政府による経済活動への干渉は絶対反対の立場だった。スペンサーは関税を製造業者や職人など少数の人々に利するために大勢から取り立てる課税形態だと考えていた。カーネギーが友人としてスペンサーと個人的に親しかったのは確かだが、政治的・経済的思想の面では必ずしも忠実な信奉者ではなかった。また、カーネギーはスペンサーの主要な理論の一部を誤解するか意図的に誤り伝えたようである。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "慈善活動の面では、カーネギーの行動はスペンサーの哲学から大きく乖離しており、複雑化している。1854年の論文 Manners and Fashion でスペンサーは公教育を「古い体系」(old schemes) と称した。彼はさらに、公立学校や大学は学生の頭を無駄な知識で一杯にし、有益な知識は教えないとした。スペンサーは政治・宗教・文学・慈善など種類を問わずあらゆる組織を信用しないとし、組織が影響力を強めれば規制も強化されると信じていた。それに加えてスペンサーはあらゆる組織は発展するに従って権力と金が集まって堕落し、当初の精神を失い、活気のない機構へと変化するとした。スペンサーは貧しく圧政に苦しむ人々を救おうとする慈善活動は、どんな形であれ無謀であり何も成し遂げられないと主張している。スペンサーは貧困層を救済しようとする試みは後世に増大する禍根を残すだけだと考えていた。スペンサーの信奉者を自称するカーネギーは「私は事業でできるかぎりの良いことを行ってきた。私はその事業から完全に手を引いた」と述べている。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "カーネギーは社会の進歩は道徳的義務を果たす個人に依存していると考えていた。したがって本当の慈善とは、自ら成長し目標を達成しようとする人々を助ける形で行うべきだと信じていた。さらに他の富豪にも公園、美術品、図書館、その他コミュニティを改善する何らかの努力など長続きする形での寄付を勧めている。また、遺産相続には強く反対している。成功した実業家の子孫は親ほど有能ではないと信じていた。多額の遺産を子らに残すことは、社会に還元できたはずの富を浪費するだけだと信じていた。特にカーネギーは、自分がそうだったように未来のリーダーは貧困層から生まれると信じていた。彼は、貧しいほど親は子を注意深く育て、職業倫理も叩き込むので、富裕層より貧困層の方が成功しやすいと信じていた。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "19世紀のスコットランドでの宗派間の争いを目にしたカーネギーは、教団を持つ宗教には一切関わらなかった。その代わりとして自然主義的用語や科学的用語を通して世界を見ることを好み、「神学と心霊を排除しただけでなく、進化の真実も見つけた」と述べている。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "年を経ると、反宗教的態度はやや軟化している。1905年から1926年まで社会的福音が司牧した Madison Avenue Presbyterian Church に属していたが、妻や娘は Brick Presbyterian Church に属していた。また、「万物から生じる無限かつ永遠のエネルギー」への信仰を告白した聖アンデレに対する文書を用意したことがある(公表しなかった)。ナポレオン・ヒルはカーネギーが「無限の知性」(Infinite Intelligence) を信じることが重要だとしていたと書いている(ヒルはそれを「神」または「絶対者」の言い換えとみなした)。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "イギリスの自由主義の政治家ジョン・ブライトを英雄と捉えていたカーネギーは、若いころから世界平和の追求を心がけていた。彼のモットー \"All is well since all grows better\" は事業に関してだけでなく、国際関係についての観点にも当てはまっている。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "世界平和への彼の愛好と努力にもかかわらず、カーネギーは多くのジレンマ、国際関係への彼の見方と様々な義理の間の衝突に直面した。例えば1880年代から1890年代にかけて、カーネギーの事業はアメリカ海軍の近代化のため大量の装甲板を受注することで拡大した。その間カーネギーはアメリカの海外侵出に反対している。彼はまた英米関係の友好促進を唱えながら、イギリスの階級社会を批判する本を出版して議論を呼んでいる。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "アメリカが外国を併合しようとする件では、カーネギーは常に反対の立場だった。ハワイ、グアム、プエルトリコの併合には反対しなかったが、フィリピン併合には反対の立場を貫いた。フィリピン人が独立を求めて戦ったので、カーネギーはその島を征服することは民主主義の根本原則に反すると信じ、米軍を撤退させフィリピンを独立させることをウィリアム・マッキンリーに進言した。この行動は反帝国主義的な他のアメリカ人に感銘を与え、アメリカ反帝国主義連盟の副会長に彼が選ばれることになった。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "1901年に事業を売却すると、カーネギーは平和のために専念できるようになった。資産の多くを平和維持機関の発展のために寄贈した。友人でイギリスのジャーナリストだったウィリアム・トーマス・ステッドが国際社会の平和と調停のための新機関創設を要請したとき、カーネギーは次のように答えている。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "カーネギーは国際関係での平和維持は人々の努力と意志によると信じていた。お金は単に行動を促進するだけである。世界平和が財政援助にのみ依存するなら、それは目標ではなくなり、哀れみの行為のようなものになるだろう。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "1910年に創設したカーネギー国際平和基金は、戦争根絶という最終目標に至る道程の重要な一里塚とみなされ、司法的手段を提供することで戦争を根絶しようとするものだった。彼はその基金が現行国際法下での国家の権利と責任についての情報収集を促進し、その成文化を促進するものとした。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "カーネギー国際平和基金の歴代管財人を挙げておくと、フェルプスドッジ社長のウィリアム(William E. Dodge)、JPモルガンのトーマス・ラモント(ヤング案に干渉)、マサチューセッツ工科大学のヴァネヴァー・ブッシュ、ジャパンロビーのジョン・フォスター・ダレス、ヒューレット・パッカードのウィリアム・ヒューレットなどがいる。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1914年、第一次世界大戦直前にカーネギーは Church Peace Union (CPU) という宗教界、学界、政界のリーダーたちのグループを結成した。彼はCPUを通して世界中の宗教団体や道徳的団体を結集し、戦争根絶に向けたリーダーシップを形成することを目論んでいた。結成イベントとして1914年8月1日、CPUは南ドイツにあるコンスタンス湖畔で国際会議を開催しようとした。しかし参加者が会場に向かおうとしたころ、ドイツによるベルギー侵攻が始まった。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "始まりは不吉だったが、CPUは発展した。今日では倫理に重点を置いており、カーネギー国際関係倫理協会(英語版) と呼ばれる独立した非営利組織となっている。その目的は国際関係における倫理的表明をすることである。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦勃発は世界平和について楽観的だったカーネギーに衝撃を与えた。彼の反帝国主義と平和促進の努力は全て失敗し、カーネギー基金も彼の期待に応えられなかったが、彼の国際関係についての信念と考え方は後の国際連盟結成の基盤を築くのに役立っている。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "カーネギーの書簡はアメリカ議会図書館が所蔵している。コロンビア大学図書館のカーネギーコレクションはカーネギーが創設した4つの財団などの文書を集め保管している。カーネギーメロン大学とピッツバーグのカーネギー図書館は共同でアンドリュー・カーネギー・コレクションを創設し、カーネギーの人生に関する資料をデジタル形式で公開している。", "title": "記念と記録" } ]
アンドリュー・カーネギーは、スコットランド生まれのアメリカの実業家。鉄鋼王と称された。
{{Infobox 人物 | name = アンドリュー・カーネギー | image = Andrew Carnegie, three-quarter length portrait, seated, facing slightly left, 1913-crop.jpg | caption = Andrew Carnegie (1913) | birth_date = {{生年月日と年齢|1835|11|25|no}} | birth_place = {{GBR3}}<br/>{{SCO}}、[[ファイフ]]、[[ダンファームリン]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1835|11|25|1919|8|11}} | death_place = {{USA1912}} [[マサチューセッツ州]]レノックス | occupation = [[実業家]]、[[慈善家|篤志家]] | death_cause = [[気管支肺炎]] | spouse = [[ルイーズ・ホイットフィールド・カーネギー|ルイーズ・ホイットフィールド]] | children = [[マーガレット・カーネギー・ミラー]] | signature = Andrew Carnegie signature.svg }} [[ファイル:Andrew Carnegie in National Portrait Gallery IMG 4441.JPG|200px|right|thumb|カーネギーの肖像([[:en:National Portrait Gallery (United States)|National Portrait Gallery]]、ワシントンD.C.]] '''アンドリュー・カーネギー'''({{lang-en-short|'''Andrew Carnegie'''}}<ref name="MacKay p29">{{Harvnb|MacKay|1997|p=29}}</ref> {{IPA-en|ˈændruː kɑːrˈneɪɡi|}}<ref>[https://www.oxfordlearnersdictionaries.com/definition/english/andrew-carnegie Oxford Learner's Dictionaries - Andrew Carnegie]</ref>、俗に{{IPA-en|ˈkɑːrnᵻɡi, kɑːrˈnɛɡi|}}とも, [[1835年]][[11月25日]] - [[1919年]][[8月11日]])は、[[スコットランド]]生まれの[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[実業家]]。'''鉄鋼王'''と称された。 == 生涯 == === 前半生 === [[ファイル:Birthplace of Andrew Carnegie, Dunfermline.jpg|thumb|right|170px|[[ダンファームリン]]にある生家]] [[1835年]]、カーネギーはスコットランドの[[ダンファームリン]]で[[織り|手織り]][[職人]]の長男として生まれた<ref name="MacKay pp23-24">{{Harvnb|MacKay|1997|pp=23–24}}</ref>。生家の一階の半分を占める部屋は隣の手織り職人一家と共有で、居間としてもダイニングルームとしても寝室としても使われた<ref name="MacKay pp23-24" />。アンドリューという名前は祖父にちなんでつけられた<ref name="MacKay pp23-24" />。 1836年、父ウィリアム・カーネギーが[[ダマスク織|ダマスク織り]]で儲けたため、やや広い家に移り住んだ<ref name="MacKay pp23-24" />。叔父のジョージ・ローダーは彼に[[ロバート・バーンズ]]の作品や[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]]や[[ウィリアム・ウォレス]]や[[ロブ・ロイ・マグレガー]]といったスコットランドの歴史上の偉人について教えた。 ==== アメリカ移住 ==== 当時のイギリスの織物産業は、[[蒸気機関]]([[力織機]])を使用した[[工場]]に移りつつあり、手織り職人の仕事がなくなってしまったため、[[1848年]]に両親はアメリカ(ペンシルベニア州アラゲイニー、2013年現在の[[ピッツバーグ]])への移住を決める<ref name="MacKay pp37-38">{{Harvnb|MacKay|1997|pp=37–38}}</ref>。移住費用も借金する必要があった。当時のアラゲイニーは貧民街だった。 1848年、13歳で初めて就いた仕事は綿織物工場での[[ボビン (裁縫)|ボビン]]ボーイ(織機を操作する女性工員にボビンを供給する係)で、1日12時間週6日働いた。当初の週給は1.20ドルだった<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=RekoAAAAYAAJ&printsec=titlepage&dq=Carnegie+knows+the+presid...&redir_esc=y&hl=ja ''Autobiography of Andrew Carnegie''] p. 34</ref>。父は当初綿織物工場で働いていたが、[[リンネル]]を織って行商する仕事を始めた。母は靴の包装でかせいだ。 ==== 鉄道 ==== [[ファイル:Andrew and Thomas Carnegie - Project Gutenberg eText 17976.jpg|thumb|right|upright|16歳のときのカーネギー。弟のトーマスと]] その後何度か転職し1850年、叔父の勧めもあってオハイオ電信会社の[[ピッツバーグ]]電信局で[[電報]]配達の仕事に就く(週給2.50ドル)<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=RekoAAAAYAAJ&printsec=titlepage&dq=Carnegie+knows+the+presid...&redir_esc=y&hl=ja ''Autobiography of Andrew Carnegie''] p. 37</ref>。この仕事は劇場にタダで入れるなどの役得があり、そのおかげでカーネギーは[[シェイクスピア|シェイクスピア劇]]のファンになった。彼は非常に働き者で、ピッツバーグの企業の位置と重要な人物の顔をすべて記憶した。そうやって多くの[[人間関係|関係]]を築いていった。 また、自分の仕事に細心の注意を払い、当時の[[電信]]局では受信した[[モールス信号]]を紙テープに刻み、テープからアルファベットに解読して電報を作成していたが、カーネギーはモールス信号を耳で聞き分ける特技を身につけ、1年以内に電信技士に昇格した。 ジェームズ・アンダーソン大佐は、働く少年たちのために毎週土曜の夜に約400冊の個人的蔵書を開放しており、カーネギーはそこで勉強し読書好きになった。彼は経済面でも知的・文化的面でも借りられるものは何でも借り、独力で成功を導いた。その能力、重労働を厭わぬ自発性、忍耐力、用心深さは、間もなく好機をもたらした。 1853年、[[ペンシルバニア鉄道]]の[[トマス・アレクサンダー・スコット]]がカーネギーを秘書兼電信士として引き抜き、週給は4.00ドルになった。18歳の頃に、スコットがペンシルバニア鉄道の副社長に昇進すると、代わりにカーネギーがピッツバーグの責任者になった。このペンシルバニア鉄道での経験は後の成功に大いに役立っている。鉄道会社はアメリカ初の大企業群であり、その中でもペンシルバニア鉄道は最大の企業だった。カーネギーはそこで、特にスコットから経営と[[原価計算|原価]]管理について多くを学んだ<ref name="Nasaw">{{Harvnb|Nasaw|2007|pp=54–59, 64–65}}</ref>。 スコットはまた、彼の最初の投資についても支援している。スコットや社長のJ・エドガー・トムソンは取引関係のある会社の内部情報を知りうる立場にあり、それを利用して株式を売買したり、代償の一部として契約相手の株式を得たりしていた<ref name="Nasaw_pg59_60">{{Harvnb|Nasaw|2007|pp=59–60}}</ref>。1855年、スコットはカーネギーに500ドルで{{仮リンク|アダムス・エクスプレス|en|Adams Express Company}}の株式を購入する話をもちかけ、カーネギーの母が700ドルの家を[[抵当]]に入れて500ドルを捻出した<ref name="Nasaw_pg59_60"/><ref> [https://books.google.co.jp/books?id=RekoAAAAYAAJ&printsec=titlepage&dq=Carnegie+knows+the+presid...&redir_esc=y&hl=ja ''Autobiography of Andrew Carnegie''] p. 79</ref>。 数年後、オハイオへ移動中のカーネギーに、発明家のウードルフが[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]のアイデアを持ちかけ、ペンシルバニア鉄道は試験的な採用を決めた。ウードルフに誘われたカーネギーは、借金をして寝台車のための会社に出資し、大成功を収めた。彼はそうして得た資金を鉄道関連の会社(鉄鋼業、橋梁建設業、[[軌条|レール]]製造業など)に再投資していった。そうして徐々に資金を蓄えていき、後の成功の基盤を築いた。 その後も企業を設立する際に、トムソンとスコットとの密接な[[人間関係|関係]]を利用しており、レールと橋梁を供給する会社を設立した際にはこの二人に[[株主]]となってもらった。 ==== 1860–1865: 南北戦争 ==== [[南北戦争]]の前に、カーネギーはウードルフの会社と[[ジョージ・プルマン]]の[[プルマン社|会社]]の合併を仲介した。プルマンは800km以上の長距離の旅行が可能な[[一等車|一等]][[寝台車 (鉄道)|寝台車]]を発明した。その際の投資は大いに成功し、ウードルフとカーネギーの利益の源泉となった。その後もカーネギーはスコットの下で働き、鉄道のサービスにいくつか改善を施している。 1861年春、軍隊輸送の責任者(陸軍次官補)に任命されたスコットはカーネギーを東部の軍用鉄道と合衆国政府の電信網の監督に任命した。カーネギーは南軍によって寸断されたワシントンD.C.までの鉄道路線の再建を支援した。[[第一次ブルランの戦い|ブルラン]]での北軍の敗北の直後にワシントンD.C.への北軍の旅団を輸送する機関車に乗り込み、敗軍の輸送も現場で監督した。彼の指揮下で電信サービスは効率化され、北軍が最終的に勝利する一因となった。 南軍を打ち負かすには大量の[[弾薬]]を必要とし、補給には鉄道(と電信)が大いに活用された。この戦争で産業の重要性が明らかとなった。 ==== キーストン鉄橋会社 ==== [[ファイル:Andrew Carnegie circa 1878 - Project Gutenberg eText 17976.jpg|thumb|1878年ごろの写真]] 南北戦争の際、艦船の装甲、砲、その他様々な工業製品に使用するため鉄鋼の需要が高まり、ピッツバーグは軍需産業の一大拠点となっていた。カーネギーは戦前から製鉄業に投資しており、それが富の源泉となった。 南北戦争終結後にペンシルバニア鉄道を退職し、製鉄業に専念するようになった。いくつかの製鉄所を創業し、最終的にピッツバーグで{{仮リンク|キーストン鉄橋|en|Keystone Bridge Company|label=キーストン鉄橋会社}}(1865年)とユニオン製鉄所を創業。ペンシルバニア鉄道は辞めたがその経営陣(スコットやトムソン)とは密接な関係を保っていた。その関係を利用し、キーストン鉄橋会社が鉄橋建造の[[契約]]を結び、製鉄所がレール生産の契約を結んだ。また、スコットとトムソンには彼の会社の[[株主]]になってもらい、ペンシルバニア鉄道は彼の最大の顧客となった。最初の製鋼工場を建設した際は、トムソンの名を冠した。カーネギーは実業家として優れていただけでなく、人間的な魅力と文学的素養も備えていた。多くの社会的行事に招待されるようになり、それをうまく利用した<ref>{{Harvnb|Nasaw|2007|pp=105–107}}</ref>。[[セントルイス]]で[[ミシシッピ川]]をまたいで建設された[[イーズ橋]](1874年完成)では、キーストン鉄橋を通して鋼製の材料を提供すると共に、このプロジェクト自体にも出資している。このプロジェクトは、材料としての鋼の技術的優位性を実証する試金石という面があったものであるが、それが成功したことで、鋼の市場が拡大した。 1884年、[[ペンシルベニア州]][[ベナンゴ郡 (ペンシルベニア州)|ベナンゴ郡]]の産油地帯にある農場に4万ドルを出資。その農場に設置した油井から1年で石油が採れ利益が上がるようになり、配当金として100万ドルを得た。 === 実業家として === ==== 1885–1900: 鉄鋼王 ==== [[ファイル:Bessemer converter.jpg|right|thumb|300px|ベッセマー転炉]] カーネギーの母は彼を結婚させなかった<ref name="books.google.com">{{Cite web|url= https://books.google.co.jp/books?id=vgi3OveS4b4C&pg=PA78&dq=Andrew+Carnegie+married&hl=en&sa=X&ei=hjChUIjAFIHDygGK2YDgBA&sqi=2&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false |title=Andrew Carnegie: Industrial Philanthropist - Laura Bufano Edge - Google Books |publisher=Books.google.com |date= |accessdate=2012-11-20}}</ref>。1886年に母が亡くなると、[[1887年]][[4月22日]]、52歳の時、30歳の[[ルイーズ・ホイットフィールド・カーネギー|ルイーズ・ホイットフィールド]]という女性と結婚した<ref name="books.google.com"/><ref>{{Cite web|url= https://books.google.co.jp/books?id=CyvHd3LxnIkC&pg=PA72&dq=Andrew+Carnegie+Louise&hl=en&sa=X&ei=6DKhUOvWEOvOyAH1k4DIAQ&redir_esc=y#v=onepage&q=Andrew%20Carnegie%20Louise&f=false |title=Andrew Carnegie: Captain of Industry - Dana Meachen Rau - Google Books |publisher=Books.google.com |date= |accessdate=2012-11-20}}</ref>。1897年、唯一の子どもである[[娘]]が産まれ<ref>{{Cite web|url= https://books.google.co.jp/books?id=vgi3OveS4b4C&pg=PA93&dq=Andrew+Carnegie+Louise&hl=en&sa=X&ei=6DKhUOvWEOvOyAH1k4DIAQ&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false |title=Andrew Carnegie: Industrial Philanthropist - Laura Bufano Edge - Google Books |publisher=Books.google.com |date=1902-06-21 |accessdate=2012-11-20}}</ref>、自身の母の名をとって[[マーガレット・カーネギー・ミラー|マーガレット]]と名付けた<ref>{{Cite web|url= https://books.google.co.jp/books?id=82w0rAyuhUkC&pg=PA40&dq=Andrew+Carnegie+married&hl=en&sa=X&ei=hjChUIjAFIHDygGK2YDgBA&sqi=2&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false |title=Andrew Carnegie: And the Steel Industry - Lewis K. Parker - Google Books |publisher=Books.google.com |date= |accessdate=2012-11-20}}</ref>。 カーネギーはそれまでにアメリカで個人が所有する最大の製鋼所を経営し、[[鋼|製鋼業]]で財産を形成した。彼が成し遂げた2回の重要な技術革新のうち1つは、[[製鋼]]に[[ベッセマー法]]を採用して鋼を安価に大量生産できるようにしたことである。[[ヘンリー・ベッセマー]]は、炭素含有量の高い[[銑鉄]]を制御された高速な方法で燃焼させる炉を発明した。その結果鋼の価格が下がり、橋や建築用の桁や梁、鉄道レールなどに鋼が使われるようになった。2つめは、原材料の供給元を含めた[[垂直統合 (ビジネス用語)|垂直統合]]を成し遂げたことである。1880年代後半、カーネギーの会社は[[銑鉄]]、[[コークス]]、鋼製のレールの世界最大の供給業者となっており、日産2,000トンの銑鉄を生産していた。1888年、ライバルの[[:en:Homestead Steel Works|ホームステッド・ワークス]]を買収し、それに伴って石炭と鉄鉱石の鉱山、685kmもの長い鉄道、大型貨物船を入手した。1892年、所有する会社をまとめて、[[:en:Carnegie Steel Company|カーネギー鉄鋼会社]]を創業。 1889年にはアメリカの鋼生産量はイギリスを抜き、その大きな部分をカーネギーが所有していた。ペンシルバニア鉄道のかつての上司の名を冠した{{仮リンク|エドガー・トムソン製鋼所|en|Edgar Thomson Steel Works}}、ピッツバーグ・ベッセマー製鋼所、ルーシー溶鉱炉、ユニオン製鉄所、ユニオン工場 (Wilson, Walker & County)、キーストン鉄橋会社、ハートマン製鋼所、フリック・コークス、スコットランドの鉱山などを含み、カーネギーの帝国は成長していった。 ==== 1880–1900: 著作家および活動家として ==== カーネギーはその後も実業家として活動し続けたが、文学的関心も満たすようになった。イギリスの詩人[[マシュー・アーノルド]]やイギリスの哲学者[[ハーバート・スペンサー]]を支援し、歴代の[[アメリカ合衆国大統領]]<ref>John K. Winkler ''Incredible Carnegie'', p. 172, Read Books, 2006 ISBN 978-1-4067-2946-7</ref>や政治家や著名な作家とも親交した<ref>John K. Winkler ''Incredible Carnegie'', p. 13, Read Books, 2006 ISBN 978-1-4067-2946-7</ref>。 1879年、故郷[[ダンファームリン]]に水泳プールを建設。翌年には、ダンファームリンに無料図書館を建設するために4万ドルを寄付した。1884年、[[ニューヨーク大学]]医科大学院の前身であるベルビュー病院医科大学に5万ドルを寄付し、[[組織学]]の研究所を創設した(現在カーネギー研究所と呼ばれている)。 1881年、70歳の母を含めた一家でイギリスへ旅行した。馬車でスコットランドを巡り、各地で歓迎された。故郷ダンファームリンへの凱旋がクライマックスであり、そこでカーネギーの寄付で建設されるカーネギー図書館の礎石を母が据えた。カーネギーはイギリス社会に批判的だったが、イギリスを嫌っていたわけではない。むしろ、英語圏の人々の関係強化のために[[触媒]]として働こうと考えていた。そのため、1880年代初めに彼はイングランドの複数の新聞を購読している。それも全て君主制を廃止して「イギリス共和国」を創設しようと主張している新聞だった。首相[[ウィリアム・グラッドストン]]を含め多くのイギリス人の友人がいた。 1886年、弟のトーマスが43歳で他界。それでも事業での成功は続いた。そのころ[[スペリオル湖]]周辺の価値の高い鉄鉱山を安く購入している。イギリスへの旅行の後、その経験を ''An American Four-in-hand in Britain'' という本にして出版している。また、複数の雑誌に寄稿するようになった。例えば、{{仮リンク|ジェイムズ・ノウルズ (建築家)|en|James Knowles (architect)|label=ジェイムズ・ノウルズ}}が編集する ''[[:en:Nineteenth Century (periodical)|Nineteenth Century]]'' や{{仮リンク|ロイド・ブライス|en|Lloyd Bryce}}が編集する ''North American Review'' などである。 1886年、''Triumphant Democracy''(民主主義の勝利)と題した当時としては過激な本を書いた。統計などを駆使し、イギリスの[[君主制]]よりもアメリカの[[共和制]]のほうが優れていると主張した本である。アメリカの発展を好意的かつ理想的に捉え、イギリス王室を批判している。表紙にはひっくり返った[[西洋の冠|王冠]]と壊れた[[王笏]]が描かれていた。この本はイギリスで大きな議論を呼んだ。アメリカでは好意的に受け入れられ、4万部を売り上げた。 1889年、''North American Review'' 6月号に "Wealth" と題した記事を掲載<ref>[http://www.swarthmore.edu/SocSci/rbannis1/AIH19th/Carnegie.html "Wealth"]</ref>。これを読んだ[[ウィリアム・グラッドストン]]はイングランドでの出版を持ちかけ、''[[:en:Pall Mall Gazette|Pall Mall Gazette]]'' に "The Gospel of Wealth"(富の福音)として掲載された。この記事も大いに議論を呼んだ。カーネギーは裕福な実業家の人生は2つの部分から成るべきだと主張している。1つめは蓄財の期間、2つめはその富を大衆に分配する期間である。カーネギーは[[人生の意義|人生を価値あるものとする]]鍵は[[フィランソロピー]]だとした。 カーネギーは偉大な[[ジャーナリスト]]としても知られており、新聞に寄稿したり編集者に手紙を書いたりした。新聞を読む習慣は幼少期のころからあった<ref>Swetnam, George (1980) ''Andrew Carnegie''. Twayne Publishers.</ref>。例えば、イングランドとスコットランドを旅行中に書き始めた "Round the world" と題した記事などがある<ref>{{Harvnb|Livesay|2006}}</ref>。 1898年、カーネギーは[[フィリピン]]独立を画策した。[[米西戦争]]終結に伴い、アメリカはスペインから2000万ドルでフィリピンを購入。アメリカの[[帝国主義]]に対抗すべく、アメリカからの独立を買い取れるようにフィリピンの人々に個人的に2000万ドルを提供しようとした<ref>[http://www.pbs.org/wgbh/amex/carnegie/timeline/timeline2.html Andrew Carnegie timeline of events] PBS.</ref>。しかし、この申し出を受ける者は現れなかった。米西戦争の結果[[キューバ]]がアメリカに併合されそうになり、これにも反対した。こちらは[[グロバー・クリーブランド]]や[[ベンジャミン・ハリソン]]や[[マーク・トウェイン]]らと共に結成した[[アメリカ反帝国主義連盟]]による反対が若干功を奏した<ref>Robert P. Porter ''[https://books.google.co.jp/books?id=t2goAAAAYAAJ&dq=andrew+carnegie+Cuba&lr=&redir_esc=y&hl=ja Industrial Cuba]'', p. 43, G. P. Putnam's Sons, 1899</ref><ref>Katherine Hirschfeld ''Health, Politics and Revolution in Cuba'', p. 117, Transaction Publishers, 2008 ISBN 978-1-4128-0863-7</ref>。 ==== 1901: USスチール ==== 1901年、66歳になったカーネギーは引退を考え、その準備として会社を一般的な株式会社化した。当時のアメリカ金融業界の最重要人物である[[銀行家]][[ジョン・モルガン]]は、カーネギーは非常に効率的に利益を生み出したと評価していた。モルガンは鉄鋼業界を統一することで、コストを削減し、製品価格を下げ、大量生産し、労働賃金を上げることを考えており、そのためにカーネギーの会社や他の会社を買収して合併させ、無駄の排除を目指した。1901年3月2日、モルガンらの折衝で[[時価総額]]10億ドルを越える史上初の企業[[USスチール]]が誕生した。 [[:en:Charles M. Schwab|チャールズ・M・シュワブ]]が秘密裏に交渉したこの買収劇は、当時のアメリカ史上最大のものだった。モルガンが組織した[[トラスト (企業形態)|トラスト]]とカーネギーが手放した企業がUSスチールに組み入れられた。カーネギーの会社は年間売上高の12倍、4億8千万ドルで買収されており、当時最大の個人的取引だった。 カーネギーの保有していた総額2億2563万9000ドルの株式は、50年間5%の金価格債券と交換された。その株式売却の契約は1901年2月26日になされている。そして3月2日、資本金14億ドル(当時のアメリカの国富の4%に相当)のUSスチールが創設された。[[債券]]は2週間以内にニュージャージー州[[ホーボーケン (ニュージャージー州)|ホーボーケン]]のハドソン信託会社に運び込まれ、約2億3千万ドルぶんの債券を収めるための地下室が新たに建設された。 === 引退後 === ==== 1901–1919: 篤志家として ==== [[ファイル:James Bryce, 1st Viscount Bryce & Andrew Carnegie - Project Gutenberg eText 17976.jpg|thumb|150px|カーネギー(左)と[[ジェームズ・ブライス]]]] 引退後のカーネギーは篤志家として活躍した。[[フィランソロピー|慈善活動]]に関する考え方については既に ''Triumphant Democracy'' (1886) と『富の福音』(1889) において表明していた。 スコットランドの{{仮リンク|スキボ城|en|Skibo Castle}}を購入し、そことニューヨークを生活拠点とした。それからの[[人生]]は、公共の利益と社会的・教育的発展のために資産を使うことに捧げた。また英語の発展のため、{{仮リンク|綴り字改革|en|spelling reform}}運動を強力に支持した。 彼の様々な慈善活動の中でも突出しているのは、アメリカ合衆国、イギリス、他の英語圏の国々での[[公共図書館]]設置である。それらは[[カーネギー図書館]]と呼ばれ、数多くの場所に建てられた。最初の図書館は1883年、故郷ダンファームリンで開館した。彼の手法は、地元の自治体が土地と運営予算を用意できた場合だけ、建物と初期の蔵書を提供するというものだった。地元に対しては、1885年にピッツバーグに公共図書館用に50万ドルを寄付し、1886年にはアラゲイニーに音楽ホールと図書館用に25万ドルを寄付し、[[エディンバラ]]にも図書館用に25万ドルを寄付した。全部で3,000弱の図書館の設立資金を提供しており、アメリカ47州、カナダ、イギリス、[[アイルランド]]、オーストラリア、ニュージーランド、[[西インド諸島]]、[[フィジー]]に建設された。また、1899年には[[バーミンガム大学]]創設資金として5万ポンドを寄付している<ref>[http://ecommons.library.cornell.edu/handle/1813/25762 The Carnegie Committee], ''Cornell Alumni News'', II(10), November 29, 1899, p. 6</ref>。 <gallery widths="200px" heights="175px" style="float:right;"> ファイル:Macomb Public Library.JPG|[[イリノイ州]]マコームにある[[カーネギー図書館]] ファイル:Syracuse Carnegie Library.jpg|[[シラキュース大学]]のカーネギー図書館 </gallery> 19世紀末のアメリカでは、無料図書館を市民に開放すべきだという考え方が一般にみられた<ref>{{Harvnb|VanSlyck|1991}}</ref>。しかし、理想的な無料図書館のデザインについては白熱した議論が戦わされていた。図書館の専門家は管理運営を効率化できるデザインを要求していたが、一方で篤志家らは温情主義的で市民の誇りとなるような建物を好んだ。1886年から1917年にかけて、カーネギーはその両者の考えを折衷し、図書館の慈善的な面と効率的デザインを追求した。 ニューヨーク州の[[ブルーム郡 (ニューヨーク州)|ブルーム郡]]公共図書館は1904年10月に開館した。当初はビンガムトン公共図書館と呼ばれ、カーネギーの7万5千ドルの寄付で建てられたものである。この建物は公共図書館と公民館として使えるよう設計された。 <gallery widths="200px" heights="175px" style="float:right;"> ファイル:CMU Hamerschlag Hall.jpg|[[カーネギーメロン大学]] ファイル:Pittencrieff Park, Dunfermline.jpg|ピッテンクリーフ公園(ダンファームリン) </gallery> 1901年、カーネギーが寄付した200万ドルでピッツバーグに[[カーネギー工科大学]]{{enlink|Carnegie Institute of Technology}} (CIT) が創設され、1902年にも同額を寄付してワシントンD.C.に[[カーネギー研究所|ワシントン・カーネギー協会]]が創設された。その後も両組織に寄付をしており、他の大学にも寄付をしている。CITは後に[[カーネギーメロン大学]]の一部となっている。[[コーネル大学]]では理事を務めた。 [[ジョージ・ヘール]]は[[カーネギー研究所|ワシントン・カーネギー協会]]の支援で[[ウィルソン山天文台]]の257センチ反射望遠鏡建設を建設していたが、カーネギーは存命中にその完成を迎えたいと考え1911年に同協会に1000万ドルを寄付し、建設促進を図った。望遠鏡は1917年11月2日に[[ファーストライト]]を迎えた<ref>Simmons, Mike (1984). [http://www.mtwilson.edu/his/art/g1a4.php "History of Mount Wilson Observatory&nbsp;– Building the 100-Inch Telescope"]. [[ウィルソン山天文台|Mount Wilson Observatory]] Association (MWOA).</ref>。カーネギーが亡くなったのはその後である。 1901年には1000万ドルの醵出によって{{仮リンク|スコットランド・カーネギー基金|en|Carnegie Trust for the Universities of Scotland}}が設立された。彼が契約書に署名したのは1901年6月7日で、1902年8月21日に設立認許状が発効した。当時スコットランドの4大学への政府の補助金は5万ポンドしかなかった。トラストの目的はスコットランドの大学での科学研究を発展させ、スコットランドの優秀な若者が大学に進学できるようにすることである<ref>[http://www.carnegie-trust.org/our-history.html Carnegie Trust for the Universities of Scotland]</ref>。カーネギーは[[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|セント・アンドルーズ大学]]の名誉総長に選ばれた。故郷ダンファームリンにも多額の寄付をしている。図書館に加え、個人的に土地を買い{{仮リンク|ピッテンクリーフ公園|en|Pittencrieff Park}}として一般開放した。またダンファームリンの住民のために Carnegie Dunfermline Trust<ref>[https://www.oscr.org.uk/search-charity-register/charity-extract/?charitynumber=sc015710 Carnegie Dunfermline Trust, Registered Charity no. SC015710] at the Office of the Scottish Charity Regulator</ref> を設立している。2013年現在、ダンファームリンにはカーネギーの像がある。1913年にはさらに [[:en:Carnegie United Kingdom Trust|Carnegie United Kingdom Trust]] 設立に1000万ドルを寄付し、補助金の基金とした<ref>[https://www.oscr.org.uk/search-charity-register/charity-extract/?charitynumber=sc012799 Carnegie United Kingdom Trust, Registered Charity no. SC012799] at the Office of the Scottish Charity Regulator</ref><ref>[http://www.carnegieuktrust.org.uk Carnegie United Kingdom Trust website]</ref>。 1901年、ホームステッドのかつての従業員のために大規模な年金も創設している。1905年には[[カーネギー教育振興財団]]を設立、さらにアメリカの大学教授たちのための年金を創設し、これは[[:en:TIAA-CREF|TIAA-CREF]]の一部となった。なお、何らかの宗教を背景にした大学はその宗教との関係を断ち切ることが年金加入の条件になっていた。 音楽を愛したカーネギーは7,000台の教会用オルガンを作らせている。1891年に建設した[[カーネギー・ホール]]は寄贈せずに所有していたが、[[1925年]]に彼の未亡人が売却した。ただし2013年現在もそのままの名前が使用されている。 [[ブッカー・T・ワシントン]]が黒人教育のために創設した{{仮リンク|タスキーギ大学|en|Tuskegee University|label=タスキーギ職業訓練校}}も支援している。また、ワシントンが [[:en:National Negro Business League|National Negro Business League]] を創設するのも支援した。 1904年、アメリカとカナダで英雄的行為(自己犠牲的行為)を表彰する{{仮リンク|カーネギー英雄基金|en|Carnegie Hero Fund}}を創設。同様の基金を後にイギリス、スイス、ノルウェー、スウェーデン、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、デンマーク、ドイツにも創設した。1903年にはオランダの[[デン・ハーグ]]で[[平和宮]]を建設する資金として150万ドルを寄付し、この建物は後に[[国際司法裁判所]]として使用されている。 カーネギーの慈善活動と芸術振興を称えて1917年10月14日、ボストンの[[ニューイングランド音楽院]]カーネギーを [[:en:Phi Mu Alpha Sinfonia|Phi Mu Alpha Sinfonia]] という[[フラタニティとソロリティ|フラタニティ]]の名誉会員とする式典が行われた。同フラタニティの理念とカーネギーの若者の才能を伸ばすという価値観が一致したためである。 19世紀当時の富豪の基準をもって判断すれば、カーネギーは特に冷酷な男というわけではなく、「冷徹に利益を追求する貪欲さは十分持ち合わせている[[人道主義]]者」、ということになる<ref>Krause, Paul. ''The Battle for Homestead 1880–1892'', p. 233, University of Pittsburgh Press, 1992 ISBN 978-0-8229-5466-8</ref>。別の言い方をするならば(今日的な視点で見ると)、彼の生活(水準)と彼が雇っていた労働者たちや貧困者たちの生活(水準)は著しく異なっていた。伝記作家 Joseph Wall は「おそらくカーネギーは自分の金を分け与えることでその金を集めるためにしてきたことを正当化しようとしたのだろう」とコメントした<ref>[http://www.pbs.org/wgbh/amex/carnegie/filmmore/description.html "Andrew Carnegie"]. ''The American Experience''. PBS.</ref>。 スコットランドからの移民の子が成功したということで、カーネギーを[[アメリカン・ドリーム]]の体現者だと見る人もいる。彼は成功を収めただけでなく篤志家としても活動し、さらには植民地化された国々の民主化と独立も実現しようと努力した<ref>Swetnam, George. (1980) Twayne Publishers.</ref>。 === 死 === <gallery widths="200px" heights="150px" style="float:right;"> ファイル:Andrew Carnegie Gravesite.JPG|カーネギーの墓(ニューヨーク州スリーピーホロー) ファイル:Andrew Carnegie Footstone 2010.JPG|アンドリュー・カーネギーの名が刻まれた台石 </gallery> 1919年4月22日に娘の結婚式を行った<ref name="RMObit1983">{{cite news|title=Roswell Miller Jr.|url=https://www.nytimes.com/1983/09/21/obituaries/roswell-miller-jr.html|accessdate=24 April 2018|work=[[The New York Times]]|date=September 29, 1983|language=en}}</ref>4か月後の1919年8月11日、[[気管支肺炎]]のためマサチューセッツ州レノックスで亡くなった。生前、既に3億5069万5653ドルを寄付していた<ref>{{Cite news|title=Andrew Carnegie Dies Of Pneumonia In His 84th Year|url= http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9A05E2DA1338EE32A25751C1A96E9C946896D6CF |quote=Andrew Carnegie died at Shadow Brook of bronchial pneumonia at 7:10 o'clock this morning. |work=The New York Times |date=August 12, 1919 |accessdate=2008-08-01}}</ref>。遺産の3000万ドルも基金や慈善団体や年金などに遺贈された<ref>{{Cite news|title=Carnegie's Estate, At Time Of Death, About $30,000,000 |url= http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9E03E3DF103DE533A2575AC2A96E9C946896D6CF |quote=The will of Andrew Carnegie, filed here yesterday and admitted to probate immediately by Surrogate Fowler, disposes of an estate estimated at between $25,000,000 and $30,000,000. The residuary estate of about $20,000,000 goes to the Carnegie Corporation. |work=The New York Times |date=August 29, 1919 |accessdate=2008-08-01}}</ref>。[[ニューヨーク州]]ノース・タリータウン(2013年現在のスリーピーホロー)にあるスリーピーホロー墓地に埋葬された。いわゆる[[金ぴか時代]]を代表するもう1人の有名人[[サミュエル・ゴンパーズ]]もすぐ近くに埋葬されている<ref>{{Cite web|url= http://www.sleepyhollowcemetery.org/about/famous-interments/|title=Famous Interments |year=2009|publisher=Sleepy Hollow Cemetery Historic Fund|accessdate=2010-04-19}}</ref>。 {{-}} == 批判 == === 1889: ジョーンズタウン洪水 === カーネギーも会員だった{{仮リンク|サウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブ|en|South Fork Fishing and Hunting Club}}は、1889年に2,209名の死者を出した[[ジョンズタウン洪水]]の原因を作ったとして非難されている<ref>Frank, Walter Smoter (2004). "The Cause of the Johnstown Flood". Walter Smoter Frank. According to the source, the article is a version of a May 1988 article in Civil Engineering, pp. 63–66</ref>。 友人のベンジャミン・ラフの発案で仕事上のパートナー{{仮リンク|ヘンリー・クレイ・フリック|en|Henry Clay Frick}}がペンシルベニア州[[ジョンズタウン (ペンシルベニア州)|ジョンズタウン]]の上流に作ったのがサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブである。60人余りの会員はペンシルベニア州西部の富豪たちで、フリックの親友[[アンドリュー・メロン]]、弁護士{{仮リンク|フィランダー・ノックス|en|Philander Knox}}、ジェイムズ・ヘイ・リード、カーネギーらが参加していた。ジョーンズタウンの上流にあるサウスフォークという町の近くに{{仮リンク|サウスフォークダム|en|South Fork Dam}}があった。このダムはペンシルベニア州政府が1838年から1853年までの年月をかけて、ジョンズタウンのある盆地に運河網を作るための貯水池として建設したものである。しかし輸送手段が運河から鉄道に移ったためダムは不要となり、ペンシルバニア鉄道が買い取り、さらに1881年にはサウスフォーク・フィッシング・ハンティングクラブの所有となった。そして、ダム自体は若干修理しただけで貯水量を増やして人工湖とし、湖畔に別荘やクラブハウスを建設した。このダムから20マイル下流にジョーンズタウンがあった。 <gallery widths="200px" heights="175px" style="float:right;"> File:Below dam looking up through Gap, from Robert N. Dennis collection of stereoscopic views.jpg|崩壊したサウスフォークダム File:Bedford Street after the flood, Johnstown, Pa., U.S.A, from Robert N. Dennis collection of stereoscopic views.jpg|ジョーンズタウン市街の惨状 </gallery> ダムの高さは22m、幅は284mだった。1881年にクラブを開設してから1889年までにダムは度々漏水し、主に泥や麦わらで応急修理していた。さらに以前の所有者が[[鋳鉄]]製の3本の放水管を撤去しており、制御された形で放水できない状態になっていた。ジョーンズタウンのさらに下流にあるカンブリア製鉄所がダムについての懸念を表明していた。1889年初頭の積雪が春の到来と共に融け、水かさが増えてダムが耐え切れなくなり、5月31日にジョンズタウンに向かって2000万トンの水が流れ込み洪水となった<ref>David McCullough, "The Johnstown Flood", (1968)</ref>。ダム決壊の一報がピッツバーグに伝えられると、フリックをはじめとするクラブ会員が集まり、被災者支援のためのピッツバーグ救済委員会を作り、クラブと洪水の関係については一切公言しないことを申し合わせた。この戦略は成功し、クラブ会員は訴えられずに済んだ。 カンブリア製鉄所は洪水で多大な被害を被ったが、1年以内に操業再開にこぎつけた。洪水後、カーネギーはジョーンズタウンの図書館を再建している。その図書館は2013年現在では洪水博物館になっている。 === 1892: ホームステッド工場のストライキ === 1892年に起こった{{仮リンク|ホームステッド・ストライキ|en|Homestead Strike}}は143日間も続いた[[労働争議]]で流血沙汰になり、アメリカ史上最も深刻なストライキである。カーネギー鉄鋼の本拠地ペンシルベニア州ホームステッドで、組合と会社の間の論争から発展して発生した。 不安がピークに達する前に、カーネギーはスコットランド旅行に出発している。組合との調停はパートナーだったヘンリー・クレイ・フリックに委ねた。フリックは組合を快く思っていないことで有名だった。 前年度会社は60%も利益が増加していたが、会社側は給与を30%以上増やすことを断わった。一部労働者が60%の賃金増を要求したため、経営側は組合員を締め出した。労働者側はこれを経営側による[[ロックアウト]]だとし、ストライキが発生した。フリックは数千人のスト破りの作業員を雇い、作業員を守るために[[ピンカートン探偵社]]に協力を要請した。 7月6日、ピンカートンがニューヨークとシカゴから300人の護衛を送り込み、乱闘が発生。死者10人(ストライキ側が7人、ピンカートン側が3人)、負傷者数百名の大惨事となった。ペンシルベニア州知事はこれを鎮圧するため州兵を送り込んだ。ストライキとの直接の関係はないが、同年[[アナキズム|アナキスト]]の[[アレクサンダー・バークマン]]がフリック暗殺を試み、フリックは負傷した。バークマンは「フリックを排除すれば、カーネギーがホームステッドの一件の責任者になる」と思ったと述べている<ref>Alexander Berkman ''[https://books.google.co.jp/books?id=FC4UAAAAIAAJ&dq=Alexander+Berkman&lr=&redir_esc=y&hl=ja Prison Memoirs of an Anarchist]'', p. 67, Mother Earth Publishing Association, 1912</ref>。その後、非組合員の移民を労働者として雇い入れることで操業再開にこぎつけ、カーネギーがアメリカに帰国した。しかし、この一件でカーネギーの評判に傷がつく結果となった。 == 哲学 == === 富について === [[ファイル:Andrew Carnegie at Skibo 1914 - Project Gutenberg eText 17976.jpg|thumb|スキボ城にて (1914)]] [[ファイル:Stain Glass Andrew Mellon.JPG|thumb|アンドリュー・カーネギーに捧げられたステンドグラス([[ワシントン大聖堂]])]] 1868年、33歳のとき、カーネギーは「蓄財は偶像崇拝の悪い種の一つだ。金銭崇拝ほど品位を低下させる偶像はない」と書き残している<ref>Maury Klein ''The Change Makers'', p. 57, Macmillan, 2004 ISBN 978-0-8050-7518-2</ref>。そして同じ文章の中で、自分の品位を落とさないために35歳で引退してその後は慈善活動を行うと記し「金持ちとして死ぬことほど不名誉なことはない」と書いている。しかし、彼が最初に慈善活動を行ったのは1881年のことで、故郷ダンファームリンでの図書館建設だった<ref>Dwight Burlingame ''Philanthropy in America'', p. 60, ABC-CLIO, 2004 ISBN 978-1-57607-860-0</ref>。死の際にやむなく行う遺贈ではなく、生存中に活用先への責任を持ちながら行った、[[スタンフォード大学]]の創設者[[リーランド・スタンフォード|スタンフォード]]のような例を模範として実践した。 彼は著書『''富の福音''』のなかで、「裕福な人はその富を浪費するよりも、社会がより豊かになるために使うべきだ。」と述べている。 1908年、カーネギーは当時ジャーナリストだった[[ナポレオン・ヒル]]に500人以上の裕福な成功者にインタビューして成功の共通点を見つけることを無償で依頼した。結局ヒルはカーネギーの協力者となった。彼らの成果はカーネギーの死後に ''[[:en:The Law of Success|The Law of Success]]'' (1928) と ''[[:en:Think and Grow Rich|Think and Grow Rich]]'' (1937) というヒルの著作として出版された。特に後者は初版以降絶版になったことがなく、全世界で総計3000万部を売り上げている。1960年、ヒルはカーネギー式の蓄財法についても記した簡易版を出版している。長らくそれが入手可能な唯一の版だった。2004年、ロス・コーンウェルが ''Think and Grow Rich!: The Original Version, Restored and Revised'' を出版。これは本来の版を若干改訂したものに詳細な巻末注と索引と付録を追加したものである。 === 知的影響 === カーネギーは[[ハーバート・スペンサー]]の著作を高く評価し、スペンサーが自身の教師だとさえ述べている<ref>Carnegie, Andrew (2009-12-14).''The Autobiography of Andrew Carnegie and The Gospel of Wealth''(p. 165). Neeland Media LLC. Kindle Edition.</ref>。しかしその行動はスペンサーの考え方に反する部分も多い。 スペンサー流の[[社会進化論]]は、政府の干渉に反対し個人の権利を尊重するもので、適者生存という考え方が根底にある。スペンサーは昆虫が特定の環境に適応して様々な種に分かれていったように、人間社会も自然に分業化されると考えた<ref>Spencer, Herbert, 1855 (The Principles of Psychology, Chapter 1. Method). (Kindle Locations 7196-7197). Kindle Edition</ref>。生存競争を勝ち抜いた個人は進化の最先端にあり、その世代で選び抜かれた自衛力の最も強い個体だとする<ref>Spencer, Herbert 1904. (An Autobiography, Chapter 23, A More Active Year) (Kindle Location 5572). Peerless Press. Kindle Edition</ref>。さらにスペンサーは、政府の権限は社会的求心力や人権を保護するために人々から一時的に与えられているに過ぎないとした<ref>Spencer, Herbert, 1851 (Social Statics, Chapter 19 The Right to Ignore the State). (Kindle Locations 43303-43309). Kindle Edition.</ref><ref>Spencer, Herbert, 1851 (Social Statics, Chapter 21 The Duty of the State). (Kindle Locations 44159-44168). Kindle Edition.</ref>。スペンサー流の「適者生存」の考え方では不平等な状態を是とし、弱者や貧者への施しは進化を害するとしている<ref name="ReferenceA">Spencer, Herbert, 1851 (Social Statics, chapter 25 poor-laws). (Kindle Locations 45395-45420). Kindle Edition.</ref>。スペンサーは、弱者や堕落した者や障害者を選り分ける厳しい運命に人々が抗うことが社会のためになると強調している<ref name="ReferenceA"/>。 カーネギーが19世紀末から20世紀初頭にかけてとった政治的・経済的立場は、自由競争主義を擁護するものだった。そのため政府主導の慈善活動や政府による商業活動への干渉には激しく抵抗した。カーネギーは資本の集中が社会の進化に必須だと信じ、奨励されるべきだと考えていた<ref name="ReferenceB">Carnegie, Andrew 1901 The Gospel of Wealth and Other Timely Essays (Popular Illusions about Trusts). (Kindle Locations 947-954). Neeland Media LLC. Kindle Edition.</ref>。カーネギーは商業における「適者生存」を熱心に支持し、鉄鋼業のすべての工程を支配する際の障害となるものを排除していった<ref name="Nasaw07">{{Harvnb|Nasaw|2007}}</ref>。コスト削減をする際には労働経費削減も行った<ref>Carnegie, Andrew (2009-12-14). The Autobiography of Andrew Carnegie and The Gospel of Wealth (pp. 118-121). Neeland Media LLC. Kindle Edition.</ref>。スペンサー流の考え方ではコスト削減による物価下落が自然なことであり、組合はコストを押し上げて社会進化を妨げる存在だった<ref>Carnegie, Andrew 1901 The Gospel of Wealth and Other Timely Essays (Popular Illusions about Trusts). (Kindle Locations 1188-1195). Neeland Media LLC. Kindle Edition.</ref>。カーネギーは自身の行為が社会全体に役立っていると信じ、組合は少数の私利私欲を体現していると思っていた<ref name="Nasaw07"/>。 表面上カーネギーはスペンサーを信奉する他の自由競争主義の資本家と同じようであり、自らスペンサーの弟子だと称していた<ref name="Carnegie, Andrew pp. 163-171">Carnegie, Andrew (2009-12-14). The Autobiography of Andrew Carnegie and The Gospel of Wealth (pp. 163-171). Neeland Media LLC. Kindle Edition.</ref>。一方でカーネギーはスペンサー流の適者生存を体現した人と見られていた。1903年にスペンサーが亡くなるまで2人は互いに尊敬しあい、親交していた<ref name="Carnegie, Andrew pp. 163-171"/>。しかしスペンサーの社会進化論とカーネギーの資本家としての行為には、いくつか重要な不一致が存在する。 スペンサーは製造業において個人の優れた資質は比較的影響が小さいとし許容できるとしたが、市場の大部分を独占する者が現れると競争が阻害される虞があるとした。そして独占者が同情的自制のない性格だった場合、競合者が打ち負かされる可能性がある点を懸念していた<ref name="autogenerated1">Spencer, Herbert 1887 (The Ethics of Social Life: Negative Beneficence). The Collected Works of 6 Books (With Active Table of Contents) (Kindle Locations 26500-26524). Kindle Edition.</ref>。彼は自由市場競争の果てに戦争状態が必ず到来するとは思っていなかった。さらにスペンサーは経済力が上の者が競争相手を廃業に追い込むためにその経済力を活用する「商業的殺人」も行われていると主張した<ref name="autogenerated1"/>。カーネギーは垂直統合によって鉄鋼業で富を築いた。また、何社かの競争相手は株式の大部分を押さえるという手法で買収し吸収合併し、自らの会社を成長させていった<ref>{{Harvnb|Morris|2005|p=132}}</ref>。さらに鉄道会社との密接な関係もカーネギーの成功の一因であり、鉄道会社が線路などに鉄鋼を必要としただけでなく、原材料や鉄鋼製品の輸送で鉄道会社が潤うという面もあった。鉄鋼業と鉄道業は自由競争に任せずに価格カルテルを結んでいた<ref name="Nasaw07" />。 カーネギーが市場操作した以外に、アメリカの関税は自国の鉄鋼業界に有利になるよう設定されていた。カーネギーは有利な関税率が継続されるよう議会にも熱心に働きかけていた<ref name="Nasaw07" />。カーネギーはそのことを隠そうとしていたが、1900年にヘンリー・クレイ・フリックがいかに関税率がカーネギー鉄鋼にとって有利に設定されていたかを明らかにした<ref name="Nasaw07" />。スペンサーは、規制や関税など政府による経済活動への干渉は絶対反対の立場だった。スペンサーは関税を製造業者や職人など少数の人々に利するために大勢から取り立てる課税形態だと考えていた<ref>Spencer, Herbert. Principles of Ethics, 1897 (Chapter 22: Political Rights-So-called). (With Active Table of Contents) (Kindle Locations 24948-24956). Kindle Edition.</ref>。カーネギーが友人としてスペンサーと個人的に親しかったのは確かだが、政治的・経済的思想の面では必ずしも忠実な信奉者ではなかった。また、カーネギーはスペンサーの主要な理論の一部を誤解するか意図的に誤り伝えたようである。 {{Quote|人間社会の条件から次のような重要な要求が生まれる。資本の集中化は今日の需要を満たすのに必須であり、疑いの目で見ずに促進されるべきである。それが人間社会に有害ということは全くないが、多くは有益であるかまたは間もなく有益となることを義務付けられる。それは不均質から均質への進化であり、明らかに発展の新たな段階である。|Carnegie, Andrew 1901 The Gospel of Wealth and Other Timely Essays<ref name="ReferenceB"/>}} 慈善活動の面では、カーネギーの行動はスペンサーの哲学から大きく乖離しており、複雑化している。1854年の論文 ''Manners and Fashion'' でスペンサーは公教育を「古い体系」(old schemes) と称した。彼はさらに、公立学校や大学は学生の頭を無駄な知識で一杯にし、有益な知識は教えないとした。スペンサーは政治・宗教・文学・慈善など種類を問わずあらゆる組織を信用しないとし、組織が影響力を強めれば規制も強化されると信じていた。それに加えてスペンサーはあらゆる組織は発展するに従って権力と金が集まって堕落し、当初の精神を失い、活気のない機構へと変化するとした<ref>Spencer, Herbert. 1854 (Manners and Fashion)The Collected Works of 6 Books (With Active Table of Contents) (Kindle Locations 74639-74656). Kindle Edition.</ref>。スペンサーは貧しく圧政に苦しむ人々を救おうとする慈善活動は、どんな形であれ無謀であり何も成し遂げられないと主張している。スペンサーは貧困層を救済しようとする試みは後世に増大する禍根を残すだけだと考えていた<ref>Spencer, Herbert; Eliot, Charles William (2011-09-15). The Collected Works of 6 Books (With Active Table of Contents) (Kindle Locations 45395-45420). Kindle Edition.</ref>。スペンサーの信奉者を自称するカーネギーは「私は事業でできるかぎりの良いことを行ってきた。私はその事業から完全に手を引いた」と述べている<ref>Andrew Carnegie congressional testimony February 5, 1915</ref>。 カーネギーは社会の進歩は道徳的義務を果たす個人に依存していると考えていた<ref name="Nasaw07" />。したがって本当の慈善とは、自ら成長し目標を達成しようとする人々を助ける形で行うべきだと信じていた<ref name="autogenerated2">Carnegie, Andrew (2011-03-31). The Gospel of Wealth and Other Timely Essays (Kindle Locations 747-748). Neeland Media LLC. Kindle Edition.</ref>。さらに他の富豪にも公園、美術品、図書館、その他コミュニティを改善する何らかの努力など長続きする形での寄付を勧めている<ref>Carnegie, Andrew (2009-12-14). The Autobiography of Andrew Carnegie and The Gospel of Wealth . Neeland Media LLC. Kindle Edition.</ref>。また、遺産相続には強く反対している。成功した実業家の子孫は親ほど有能ではないと信じていた<ref name="autogenerated2"/>。多額の遺産を子らに残すことは、社会に還元できたはずの富を浪費するだけだと信じていた。特にカーネギーは、自分がそうだったように未来のリーダーは貧困層から生まれると信じていた<ref name="autogenerated3">Carnegie, Andrew (2011-03-31). The Gospel of Wealth and Other Timely Essays (Kindle Locations 682-689). Neeland Media LLC. Kindle Edition.</ref>。彼は、貧しいほど親は子を注意深く育て、職業倫理も叩き込むので、富裕層より貧困層の方が成功しやすいと信じていた<ref name="autogenerated3"/>。 === 宗教と世界観 === 19世紀のスコットランドでの宗派間の争いを目にしたカーネギーは、教団を持つ宗教には一切関わらなかった<ref name="Nasaw07" />。その代わりとして自然主義的用語や科学的用語を通して世界を見ることを好み、「神学と心霊を排除しただけでなく、進化の真実も見つけた」と述べている<ref>Carnegie, Andrew. ''Autobiography of Andrew Carnegie'' (1920, 2006). ISBN 1-59986-967-5 (p. 339)</ref>。 年を経ると、反宗教的態度はやや軟化している。1905年から1926年まで[[社会的福音]]が司牧した Madison Avenue Presbyterian Church に属していたが、妻や娘は Brick Presbyterian Church に属していた<ref>[http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=FA0E13F6395C1B728DDDAA0A94DC405B898DF1D3 "Bagpipe Tunes at Carnegie Wedding"]. ''The New York Times''. April 23, 1919.{{リンク切れ|date=2012年12月}}</ref>。また、「万物から生じる無限かつ永遠のエネルギー」への信仰を告白した聖[[アンデレ]]に対する文書を用意したことがある(公表しなかった)<ref>{{Harvnb|Nasaw|2007|p=625}}</ref>。ナポレオン・ヒルはカーネギーが「無限の知性」(Infinite Intelligence) を信じることが重要だとしていたと書いている(ヒルはそれを「神」または「絶対者」の言い換えとみなした)<ref>Hill, Napoleon (1953, 1981, revised 2004) ''How To Raise Your Own Salary'', The Napoleon Hill Foundation, pp. 77–78, ISBN 0-9743539-4-9 - also published as ''The Wisdom of Andrew Carnegie as Told to Napoleon Hill'', ISBN 0-937539-45-7</ref><ref>Hill, Napoleon and Cornwell, Ross (2004; 3rd edition 2008) ''Think and Grow Rich!: The Original Version, Restored and Revised'', Aventine Press, p. 330, ISBN 1-59330-200-2</ref>。 === 世界平和 === イギリスの自由主義の政治家[[ジョン・ブライト]]を英雄と捉えていたカーネギーは、若いころから世界平和の追求を心がけていた<ref>Carnegie, Andrew. ''Autobiography of Andrew Carnegie'' (Boston, 1920), Ch. 21, pp. 282–283</ref>。彼のモットー "All is well since all grows better" は事業に関してだけでなく、国際関係についての観点にも当てはまっている。 世界平和への彼の愛好と努力にもかかわらず、カーネギーは多くのジレンマ、国際関係への彼の見方と様々な義理の間の衝突に直面した。例えば1880年代から1890年代にかけて、カーネギーの事業はアメリカ海軍の近代化のため大量の装甲板を受注することで拡大した。その間カーネギーはアメリカの海外侵出に反対している<ref>Carnegie, Andrew. ''An American Four-in-Hand in Britain'' (New York, 1883), pp. 14–15</ref>。彼はまた[[英米関係]]の友好促進を唱えながら、イギリスの階級社会を批判する本を出版して議論を呼んでいる<ref>Carnegie, Andrew. ''Triumphant Democracy'', passim</ref>。 アメリカが外国を併合しようとする件では、カーネギーは常に反対の立場だった。ハワイ、グアム、プエルトリコの併合には反対しなかったが、フィリピン併合には反対の立場を貫いた。フィリピン人が独立を求めて戦ったので、カーネギーはその島を征服することは民主主義の根本原則に反すると信じ、米軍を撤退させフィリピンを独立させることを[[ウィリアム・マッキンリー]]に進言した<ref>Carnegie, Andrew. "Americanism Versus Imperialism", esp. pp. 12–13</ref>。この行動は反帝国主義的な他のアメリカ人に感銘を与え、[[アメリカ反帝国主義連盟]]の副会長に彼が選ばれることになった。 1901年に事業を売却すると、カーネギーは平和のために専念できるようになった。資産の多くを平和維持機関の発展のために寄贈した。友人でイギリスのジャーナリストだった[[ウィリアム・トーマス・ステッド]]が国際社会の平和と調停のための新機関創設を要請したとき、カーネギーは次のように答えている。 {{Quote|私は別の組織を作るのが賢明とは思わない。もちろん私が間違っている可能性もあるが、億万長者の金で作られた組織は哀れみの対象として始まり、嘲笑の対象として終わるだろうことは確実だ。あなたがそれに気づかないとは驚きだ。億万長者の金ほど、その組織の権威の公平性を奪うものはない。だからその組織は汚されてしまう。<ref>Quoted in Hendrick. Carnegie 2: p.337</ref>}} カーネギーは国際関係での平和維持は人々の努力と意志によると信じていた。お金は単に行動を促進するだけである。世界平和が財政援助にのみ依存するなら、それは目標ではなくなり、哀れみの行為のようなものになるだろう。 1910年に創設した[[カーネギー国際平和基金]]は、戦争根絶という最終目標に至る道程の重要な一里塚とみなされ、司法的手段を提供することで戦争を根絶しようとするものだった。彼はその基金が現行国際法下での国家の権利と責任についての情報収集を促進し、その成文化を促進するものとした<ref>{{Harvnb|Patterson|1970|pp=371–383}}</ref>。 カーネギー国際平和基金の歴代管財人を挙げておくと、[[フェルプスドッジ]]社長のウィリアム([[:en:William E. Dodge|William E. Dodge]])、[[JPモルガン]]のトーマス・ラモント([[ヤング案]]に干渉)、[[マサチューセッツ工科大学]]の[[ヴァネヴァー・ブッシュ]]、[[アメリカ対日協議会|ジャパンロビー]]の[[ジョン・フォスター・ダレス]]、[[ヒューレット・パッカード]]の[[ウィリアム・ヒューレット]]などがいる<ref>[[広瀬隆]] 『億万長者はハリウッドを殺す』 下巻 講談社 1986年 49頁</ref>。 1914年、第一次世界大戦直前にカーネギーは Church Peace Union (CPU) という宗教界、学界、政界のリーダーたちのグループを結成した。彼はCPUを通して世界中の宗教団体や道徳的団体を結集し、戦争根絶に向けたリーダーシップを形成することを目論んでいた。結成イベントとして1914年8月1日、CPUは南ドイツにあるコンスタンス湖畔で国際会議を開催しようとした。しかし参加者が会場に向かおうとしたころ、ドイツによるベルギー侵攻が始まった。 始まりは不吉だったが、CPUは発展した。今日では倫理に重点を置いており、{{仮リンク|カーネギー国際関係倫理協会|en|Carnegie Council for Ethics in International Affairs}} と呼ばれる独立した非営利組織となっている。その目的は国際関係における倫理的表明をすることである。 第一次世界大戦勃発は世界平和について楽観的だったカーネギーに衝撃を与えた。彼の反帝国主義と平和促進の努力は全て失敗し、カーネギー基金も彼の期待に応えられなかったが、彼の国際関係についての信念と考え方は後の[[国際連盟]]結成の基盤を築くのに役立っている。 == 著作 == * ''An American Four-in-hand in Britain'' (1883) * ''Round the World'' (1884) * ''Triumphant Democracy'' (1886) * ''[[:en:The Gospel of Wealth|The Gospel of Wealth]]'' (1889) ** 『富の福音』伊藤重治郎 訳、実業之日本社、1903年(明治36.1) ** 『富の福音 - 自分がして欲しいことはまず人にそれを行え!』[[田中孝顕]]監訳 騎虎書房 1990.12、同・文庫 2018 ** 『大富豪の条件 (新・教養の大陸)』幸福の科学出版、2013年5月16日、ISBN 978-4863953246 * ''The Empire of Business'' (1902) ** 実業の帝国 [[小池靖一]]訳 実業之日本社 明35.11 * ''The Secret of Business is the Management of Men'' (1903)<ref>Carnegie, Andrew (1903). ''[https://books.google.co.jp/books?id=ym0AAAAAYAAJ&pg=PA5&dq=the+world%27s+work&lr=&ei=sfMzStrgEqewkQSD3_CLBQ-a&redir_esc=y&hl=ja#PPA42,M2 The Secret of Business is the Management of Men]''</ref> * ''James Watt'' (1905) - スコットランド偉人伝シリーズの1冊 * ''Problems of Today'' (1907) * ''Autobiography of Andrew Carnegie'' (1920) - 自伝<ref>{{Cite book |last=Carnegie |first=Andrew |editor=John Charles Van Dyke |title=Autobiography of Andrew Carnegie |url= https://books.google.co.jp/books?id=RekoAAAAYAAJ&pg=PP1&redir_esc=y&hl=ja |accessdate=2010-12-24 |year=1920 |publisher=Houghton Mifflin company |isbn=1-55553-000-1}}</ref> ** アンドルー・カーネギー自叙伝 小畑久五郎訳 冨山房 大正11年 ** 製鉄王カーネギー自叙伝 大原武夫訳編 東洋書館 1952 ** カーネギー自伝 [[坂西志保]]訳、東京創元社 1959 *:文庫判、角川文庫「鉄鋼王カーネギー自伝」1967、中公文庫「カーネギー自伝」2002、改版2021 ** 世界偉人自伝全集 カーネギー 石川光男訳編 小峰書店 1968 ** 私の履歴書 「黄金律」に生きた心優しい男の物語 ジョン・ダイク編、田中孝顕訳 騎虎書房 1997.7 === 原著不明の邦訳 === *最近五十年間米国繁昌記 高橋光威訳 博文館, 明24 *実業の鍵 伊藤重次郎訳 実業之日本社, 明38.10 *国際平和論 [[都筑馨六]]訳 大日本平和協会, 明41.7 *実業成功への道 山田勝人訳 実業之日本社, 1953 *大富豪の黄金律を活用した生き方 A.カーネギーの人生哲学を学ぶ 田中孝顕監訳 騎虎書房・文庫判 1996 == 記念と記録 == [[ファイル:Andrew Carnegie's statue, Dunfermline.jpg|thumb|right|200px|故郷[[ダンファームリン]]にある立像]] * 大型の恐竜、[[ディプロドクス]]の1種であるD. carnegii(ディプロドクス・カルネギイイ)は、彼の援助で[[ユタ州]]で発掘されたため、カーネギーの名が種小名に献名された。カーネギーはこれを大層誇りに思い、ヨーロッパと南アメリカの博物館に完全骨格のレプリカを寄贈した。実際の化石は[[カーネギー自然史博物館]]にある。 * カーネギーの栄誉を称えて、ペンシルベニア州とオクラホマ州にカーネギーと名付けられた町がある。 * [[サボテン]]のパキケレウス連カルネギア属は、カーネギーから名付けられた。 * [[カーネギー賞]]は、イギリスの児童文学賞である。カーネギー図書館を各地に建てた功績を称えて創設された。 カーネギーの書簡は[[アメリカ議会図書館]]が所蔵している。コロンビア大学図書館のカーネギーコレクション<ref>[http://library.columbia.edu/indiv/rbml/units/carnegie.html Carnegie Collections] the Columbia University Libraries</ref>はカーネギーが創設した4つの財団などの文書を集め保管している。[[カーネギーメロン大学]]とピッツバーグのカーネギー図書館は共同でアンドリュー・カーネギー・コレクションを創設し、カーネギーの人生に関する資料をデジタル形式で公開している<ref>[http://diva.library.cmu.edu/carnegie/ Andrew Carnegie Collection]</ref>。 == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == === 一次文献 === *Carnegie, Andrew. [http://www.wordowner.com/carnegie/preface.htm ''Autobiography of Andrew Carnegie'']. (1920, 2006). ISBN 1-59986-967-5. *Carnegie, Andrew. [http://digital.library.cornell.edu/cgi/t/text/pageviewer-idx?c=nora;cc=nora;rgn=full%20text;idno=nora0148-6;didno=nora0148-6;view=image;seq=0661;node=nora0148-6%3A1 ''Wealth'']. (1888, 1998). *[[ナポレオン・ヒル|Hill, Napoleon]]. ''Think and Grow Rich'' (1937, 2004). ISBN 1-59330-200-2. - カーネギーとの長い関係についての回想とカーネギーについての幅広い巻末注がある。 === 二次文献 === * Goldin, Milton. "Andrew Carnegie and the Robber Baron Myth". In ''Myth America: A Historical Anthology, Volume II''. 1997. Gerster, Patrick, and Cords, Nicholas. (editors.) Brandywine Press, St. James, NY. ISBN 1-881089-97-5 *Josephson; Matthew. (1938, 1987). ''The Robber Barons: The Great American Capitalists, 1861–1901'' ISBN 99918-47-99-5 *Krass, Peter. (2002). ''Carnegie'' Wiley. ISBN 0-471-38630-8 * {{Cite journal|last=Lanier |first=Henry Wysham |year=1901 |month=April |title=The Many-Sided Andrew Carnegie: A Citizen of the Republic |journal=The World's Work: A History of Our Time |volume=I |pages=618–630 |id= |url= https://books.google.co.jp/books?id=688YPNQ5HNwC&pg=PA618-IA2&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=2009-07-09 |quote= }} * Lester, Robert M. (1941). ''Forty Years of Carnegie Giving: A Summary of the Benefactions of Andrew Carnegie and of the Work of the Philanthropic Trusts Which He Created''. C. Scribner's Sons, New York. * {{Citation |last=Livesay |first=Harold C. |year=2006 |title=Andrew Carnegie and the Rise of Big Business |edition=3rd |isbn=978-0321432872 |publisher=Pearson |pages=240}} *{{Cite journal| author = Lorenzen, Michael. | year = 1999 | title = Deconstructing the Carnegie Libraries: The Sociological Reasons Behind Carnegie's Millions to Public Libraries | url = | journal = Illinois Libraries | volume = 81 | issue = 2| pages = 75–78 }} * {{Citation |last=Morris |first=Charles R. |year=2005 |title=The Tycoons: How Andrew Carnegie, John D. Rockefeller, Jay Gould, and J. P. Morgan Invented the American Supereconomy |publisher=Times Books |isbn=0-8050-7599-2}} * {{Citation |title= Andrew Carnegie|last= Nasaw|first= David|year= 2007|publisher= The Penguin Press|location= New York |isbn= 9780143112440 |url= https://books.google.co.jp/books?id=ni0EsmebjYwC&hl=ja&source=gbs_navlinks_s}} *{{Cite journal|last=Patterson |first=David S. |year=1970 | title = Andrew Carnegie's Quest for World Peace | url = | journal = Proceedings of the American Philosophical Society | volume = 114 | issue = 5| pages = 371–383 |ref=harv}} * Rees, Jonathan. (1997). "Homestead in Context: Andrew Carnegie and the Decline of the Amalgamated Association of Iron and Steel Workers." ''Pennsylvania History'' '''64'''(4): 509–533. ISSN 0031-4528 *Ritt Jr., Michael J., and Kirk Landers. (1995). ''A Lifetime of Riches: The Biography of Napoleon Hill'' ISBN 0-525-94001-4 * {{Citation |last=VanSlyck |first=Abigail A. |title='The Utmost Amount of Effective Accommodation': Andrew Carnegie and the Reform of the American Library. |journal=Journal of the Society of Architectural Historians |year=1991 |volume=50 |issue=4 |pages=359–383 |issn=0037-9808}} *Wall, Joseph Frazier. ''Andrew Carnegie'' (1989). ISBN 0-8229-5904-6 *[http://www.eh.net/encyclopedia/article/Whaples.Carnegie Whaples, Robert. "Andrew Carnegie"], ''Encyclopedia of Economic and Business History''. * {{Citation |last=Mackay |first=James Alexander |title=Little Boss: a life of Andrew Carnegie |url= https://books.google.co.jp/books/about/Little_Boss.html?id=t2JmAAAAMAAJ&redir_esc=y |publisher=Mainstream |date=1997 |isbn=9781851588329 |pages=320 |ref=harv}} == 関連項目 == * [[カーネギー研究所]] * [[カーネギー教育振興財団]] * [[カーネギー図書館]] * [[カーネギー・ホール]] * [[カーネギーメロン大学]] * [[カーネギー博物館]] * [[金ぴか時代]] * [[泥棒男爵]] == 外部リンク == {{Wikisource author}} {{Commonscat|Andrew Carnegie}} {{Wikiquotelang|en|Andrew Carnegie}} *[{{NDLDC|782259/2}} 『カーネギー』]([[1903年]]) *{{Gutenberg author| id=Andrew+Carnegie | name=Andrew Carnegie}} *[http://www.carnegiebirthplace.com/ Carnegie Birthplace Museum website] * {{UK National Archives ID}} *{{Wikisource-inline|list= **{{Cite Americana|wstitle=Carnegie, Andrew|noicon=x}} **{{Cite EB1911|wstitle=Carnegie, Andrew|short=x|noicon=x}} **{{Cite Appleton's|wstitle=Carnegie, Andrew|year=1900|author=Anne Lynch Botta|noicon=x}} }} *{{Find A Grave|173|Andrew Carnegie|work=Businessman, Philanthropist|author=Edward Parsons|date=January 1, 2001|accessdate=2011-08-18}} *[http://www.booknotes.org/Watch/173040-1/Peter+Krass.aspx ''Booknotes'' interview with Peter Krass on ''Carnegie'', November 24, 2002.] * {{Internet Archive author|name=Andrew Carnegie}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かあねきい あんとりゆう}} [[Category:アンドリュー・カーネギー|*]] [[Category:アメリカ合衆国の実業家]] [[Category:アメリカ合衆国の慈善家]] [[Category:スコットランド系アメリカ人]] [[Category:ペンシルベニア州の人物]] [[Category:ダンファームリン出身の人物]] [[Category:1835年生]] [[Category:1919年没]]
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サウンドノベル
サウンドノベル(sound novel)は、アドベンチャーゲームの一種である。また、スパイク・チュンソフトの登録商標である。 それまでのアドベンチャーゲームとは異なり、小説をモチーフとしているため、区切られたメッセージウィンドウではなく、画面全体にテキストが表示されるのが特徴。コンピュータゲームである特性を活かし、効果音・BGM・映像効果が盛り込まれている。 第1作は、1992年3月7日にチュンソフトから発売されたスーパーファミコン用ソフト『弟切草』。 「サウンドノベル」は、テレビ画面に背景映像とサウンド(BGMや効果音)をともなって表示される文章を追って、読み進めていくことで進行するものである。以前から存在するものでいえば「ゲームブック」に近く、「サウンドノベル」もその影響を受けたものであった。紙の本には基本的に付属しない音や、絵の動きといった演出が加わることで、プレイヤーに臨場感・緊張感を与えている。文章を追っていく途中で選択肢が提示され、物語の展開にプレイヤーが働きかけることが可能で、クリア回数やストーリーの進行具合によっては、出現する選択肢が増えたり、変わったりするなど、従来のアドベンチャーゲームでは見られなかった特徴を持っている。 シリーズの草分けである『弟切草』『かまいたちの夜』の影響から、恐怖心を煽るホラー物やサスペンス形式の作品が多い。『かまいたちの夜』発売以降、アテナの『夜光虫』を皮切りにチュンソフト以外からもサウンドノベルおよびこれに類するゲームが発売され、新たなゲームジャンルとして確立していく。それらのゲームでは、選択肢によるシナリオ分岐やプラグ管理構造については『かまいたちの夜』に近いスタイルが一般となっている。ゲーム中の文章は一人称で書かれることが多いが、三人称のものも存在する。 類似形式に「ビジュアルノベル」がある。
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サウンドノベルは、アドベンチャーゲームの一種である。また、スパイク・チュンソフトの登録商標である。 それまでのアドベンチャーゲームとは異なり、小説をモチーフとしているため、区切られたメッセージウィンドウではなく、画面全体にテキストが表示されるのが特徴。コンピュータゲームである特性を活かし、効果音・BGM・映像効果が盛り込まれている。 第1作は、1992年3月7日にチュンソフトから発売されたスーパーファミコン用ソフト『弟切草』。
{{Pathnav|frame=1|コンピュータゲームのジャンル|アドベンチャーゲーム}} '''サウンドノベル'''({{lang|en-Lat-jp|sound novel}})は、[[アドベンチャーゲーム]]の一種である。また、[[スパイク・チュンソフト]]の[[商標|登録商標]]である<ref>第4515740号、第5616832号</ref>。 それまでのアドベンチャーゲームとは異なり、[[小説]]をモチーフとしているため、区切られたメッセージウィンドウではなく、画面全体にテキストが表示されるのが特徴。[[コンピュータゲーム]]である特性を活かし、効果音・BGM・映像効果が盛り込まれている。 第1作は、[[1992年]][[3月7日]]に[[チュンソフト]]から発売された[[スーパーファミコン]]用ソフト『[[弟切草 (ゲーム)|弟切草]]』。 == 概要 == 「サウンドノベル」は、テレビ画面に背景映像とサウンド(BGMや効果音)をともなって表示される文章を追って、読み進めていくことで進行するものである。以前から存在するものでいえば「[[ゲームブック]]」に近く、「サウンドノベル」もその影響を受けたものであった<ref>塩田、130頁。</ref>。紙の本には基本的に付属しない音や、絵の動き<ref group="注釈">絵本においては音や絵の動きを取り入れた絵本は存在する。</ref>といった演出が加わることで、プレイヤーに臨場感・緊張感を与えている。文章を追っていく途中で選択肢が提示され、物語の展開にプレイヤーが働きかけることが可能で、クリア回数やストーリーの進行具合によっては、出現する選択肢が増えたり、変わったりするなど、従来のアドベンチャーゲームでは見られなかった特徴を持っている。 シリーズの草分けである『弟切草』『[[かまいたちの夜]]』の影響から、恐怖心を煽るホラー物やサスペンス形式の作品が多い。『かまいたちの夜』発売以降、[[アテナ (ゲーム会社)|アテナ]]の『[[夜光虫 (ゲーム)|夜光虫]]』を皮切りにチュンソフト以外からもサウンドノベルおよびこれに類するゲームが発売され、新たなゲームジャンルとして確立していく<ref>塩田、132-133頁。</ref>。それらのゲームでは、選択肢によるシナリオ分岐やプラグ管理構造については『かまいたちの夜』に近いスタイルが一般となっている<ref>塩田、118-119頁。</ref>。ゲーム中の文章は[[一人称]]で書かれることが多いが<ref>塩田、134頁。</ref>、[[三人称]]のものも存在する。 類似形式に「[[ビジュアルノベル]]」がある。 == 作品一覧 == === コンシューマー(チュンソフト) === * 1992年3月7日 - [[弟切草 (ゲーム)|弟切草]]([[スーパーファミコン|SFC]]) * 1994年11月25日 - [[かまいたちの夜]](SFC) * 1998年1月22日 - [[街 〜運命の交差点〜|サウンドノベル 街 -machi-]]([[セガサターン|SS]]) * 2002年7月18日 - [[かまいたちの夜2 監獄島のわらべ唄]]([[PlayStation 2|PS2]]) * 2006年7月27日 - [[かまいたちの夜×3 三日月島事件の真相]](PS2) * 2007年10月25日 - [[忌火起草]]([[PlayStation 3|PS3]]) * 2008年12月4日 - [[428 〜封鎖された渋谷で〜]]([[Wii]]) * 2011年12月17日 - [[真かまいたちの夜 11人目の訪問者]](PS3・[[PlayStation Vita|PS Vita]]) === コンシューマー(チュンソフト以外) === * 1995年6月16日 - [[夜光虫 (ゲーム)|夜光虫]](SFC、[[アテナ (ゲーム会社)|アテナ]]) * 1995年8月4日 - [[学校であった怖い話]](SFC、[[バンプレスト]]) * 1995年8月4日 - [[百物語〜ほんとにあった怖い話〜]]([[PCエンジン|PCE]]、[[ハドソン]]) * 1995年11月24日 - [[魔女たちの眠り]](SFC、[[パック・イン・ビデオ]]) * 1995年12月22日 - [[月面のアヌビス]](SFC、[[イマジニア]]) * 1995年12月22日 - [[ざくろの味]](SFC、イマジニア) * 1996年2月3日 - [[ラジカル・ドリーマーズ -盗めない宝石-]]([[サテラビュー]]、[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]) * 1996年3月1日 - [[晦-つきこもり]](SFC、バンプレスト) * 1996年4月12日 - [[リングオブサイアス]]([[PlayStation (ゲーム機)|PS]]、アテナ) * 1996年5月31日 - [[サウンドノベルツクール]](SFC、[[アスキー (企業)|アスキー]]) * 1996年6月14日 - [[犯行写真〜縛られた少女たちの見たモノは?〜]](SS、イマジニア) * 1996年9月27日 - [[黒ノ十三]](PS、[[トンキンハウス]]) * 1996年12月27日 - [[ゲゲゲの鬼太郎 幻冬怪奇譚]](SS、[[バンダイ]]) * 1997年5月9日 - [[あかずの間]](PS、ヴィジット) * 1997年5月30日 - [[信長秘録 下天の夢]](PS、アテナ) * 1997年7月18日 - [[リアルサウンド 〜風のリグレット〜]](SS、ワープ) - 画面が表示されず、[[ラジオドラマ]]のように音だけを聴いてストーリーを楽しむ形式である。ストーリーの分岐点でチャイムが鳴り、選択肢を選ぶことでストーリーが変化するマルチエンディングとなっている。 * 1997年8月8日 - [[古伝降霊術 百物語〜ほんとにあった怖い話〜]](SS、ハドソン) * 1997年9月25日 - [[サウンドノベルツクール #続編|サウンドノベルツクール2]](PS・SS、アスキー) * 1998年2月26日 - [[最終電車 (ゲーム)|最終電車]](PS、ヴィジット) * 1998年7月2日 - [[大幽霊屋敷 〜浜村淳の実話怪談〜]](PS、ヴィジット) * 1998年7月16日 - [[夜想曲 (ゲーム)|夜想曲]](PS、[[パック・イン・ビデオ|ビクターインタラクティブソフトウエア]]) * 1998年9月23日 - [[機動戦艦ナデシコ #ゲーム|機動戦艦ナデシコ The blank of 3 years]](SS、[[セガ]]) * 1999年3月4日 - [[19時03分 上野発夜光列車]](PS、ヴィジット) * 1999年5月8日 - [[ノベルズ〜ゲームセンターあらしR〜]](PS、ヴィジット) * 1999年7月1日 - [[稲川淳二 恐怖の屋敷]](PS、ヴィジット) * 1999年8月5日 - [[TERRORS]]([[ワンダースワン|WS]]、バンダイ) * 1999年10月22日 - [[夜光虫II〜殺人航路〜]]([[NINTENDO64|N64]]、アテナ) * 2000年4月20日 - [[閉鎖病院]](PS、ヴィジット) * 2000年7月13日 - [[稲川淳二 真夜中のタクシー]](PS、ヴィジット) * 2000年7月13日 - [[THE サウンドノベル]](PS、[[ディースリー・パブリッシャー]]) * 2000年8月10日 - [[リング (鈴木光司の小説)#ゲーム|リング∞]](WS、バンダイ) * 2000年10月26日 - [[高2→将軍]](PS、[[アスク (出版社)|アスク]]) * 2000年12月21日 - [[アナザヘヴン#ゲーム|アナザヘヴン〜memory of those days〜]](WS、オメガ・ミコット) * 2000年12月21日 - [[TERRORS2]](WS、バンダイ) * 2001年3月21日 - [[サイレントヒル#メインタイトル|プレイノベル サイレントヒル]]([[ゲームボーイアドバンス|GBA]]、[[コナミデジタルエンタテインメント|コナミ]]) * 2001年5月24日 - [[SuperLite 1500シリーズ 魔紀行]](PS、[[サクセス (ゲーム会社)|サクセス]]) * 2001年5月24日 - [[バウンティハンターサラ ホーリーマウンテンの帝王]](PS・[[ドリームキャスト|DC]]、[[カプコン]]) * 2001年6月14日 - [[夜想曲 (ゲーム) #夜想曲2|夜想曲2]](PS、ビクターインタラクティブソフトウエア) * 2001年7月26日 - [[LAST ALIVE]](WS、バンダイ) * 2001年8月2日 - [[五分後の世界 (ゲーム)|五分後の世界]](PS2、[[メディアファクトリー]]) * 2001年8月9日 - [[逢魔が時]](PS、ビクターインタラクティブソフトウエア) * 2001年9月13日 - [[逢魔が時|逢魔が時2]](PS、ビクターインタラクティブソフトウエア) * 2001年9月27日 - [[THE ホラーミステリー]](PS、ディースリー・パブリッシャー) * 2002年1月24日 - [[幽霊屋敷の二十四時間]](GBA、[[GAE|グローバル・A・エンタテインメント]]) * 2002年5月23日 - [[月の光 〜沈める鐘の殺人〜]](PS2、ビクターインタラクティブソフトウエア) * 2002年10月3日 - [[南の海のオデッセイ]](GBA、グローバル・A・エンタテインメント) * 2002年10月24日 - [[クリティカルバレット 7th TARGET]](PS2、カプコン) * 2002年12月26日 - [[歸らずの森]](PS2、グローバル・A・エンタテインメント) * 2002年12月26日 - [[彼岸花 (PlayStation 2)|彼岸花]](PS2、[[サミー]]) * 2004年8月5日 - [[流行り神 警視庁怪異事件ファイル]](PS2、[[日本一ソフトウェア]]) * 2005年12月8日 - [[THE 呪いのゲーム]](PS2、ディースリー・パブリッシャー) * 2006年12月7日 - [[DS電撃文庫]] [[アリソン (小説) #DS電撃文庫|アリソン]]([[ニンテンドーDS|DS]]、[[メディアワークス]]) * 2006年12月7日 - DS電撃文庫 [[いぬかみっ! #その他メディア展開|いぬかみっ! feat.Animation]](DS、メディアワークス) * 2007年1月11日 - DS電撃文庫 [[イリヤの空、UFOの夏 #ゲーム|イリヤの空、UFOの夏]](DS、メディアワークス) * 2007年10月25日 - [[アパシー 鳴神学園都市伝説探偵局]](DS、[[アークシステムワークス]]) * 2007年10月25日 - DS電撃文庫 [[イリヤの空、UFOの夏 #ゲーム|イリヤの空、UFOの夏II]](DS、メディアワークス) * 2007年11月15日 - [[流行り神 警視庁怪異事件ファイル #流行り神2 警視庁怪異事件ファイル|流行り神2 警視庁怪異事件ファイル]](PS2、日本一ソフトウェア) * 2007年11月22日 - [[四八(仮)]](PS2、バンプレスト) * 2008年2月28日 - DS電撃文庫ADV [[バッカーノ! #ゲーム|バッカーノ!]](DS、メディアワークス) * 2008年8月7日 - [[学校のコワイうわさ 花子さんがきた!! (ゲーム)|学校のコワイうわさ 花子さんがきた!! みんなの花子さん]](DS、アークシステムワークス) * 2009年8月6日 - [[流行り神 警視庁怪異事件ファイル #流行り神3 警視庁怪異事件ファイル|流行り神3 警視庁怪異事件ファイル]]([[PlayStation Portable|PSP]]、日本一ソフトウェア) * 2009年10月29日 - [[ソード・ワールド2.0 #コンピューターゲーム|ゲームブックDS ソード・ワールド2.0]](DS、[[ブロッコリー (企業)|ブロッコリー]]) * 2010年1月28日 - [[鋼殻のレギオス #コンピューターゲーム|ゲームブックDS 鋼殻のレギオス]](DS、ブロッコリー) * 2010年2月25日 - [[アクエリアンエイジ #ゲームブックDS アクエリアンエイジ Perpetual Period|ゲームブックDS アクエリアンエイジ Perpetual Period]](DS、ブロッコリー) * 2010年6月3日 - [[怪談レストラン 裏メニュー100選]](DS、[[バンダイナムコエンターテインメント|バンダイナムコゲームス]]) * 2011年6月30日 - [[怪談レストラン 裏メニュー100選 #怪談レストラン ゾク!新メニュー100選|怪談レストラン ゾク!新メニュー100選]](DS、バンダイナムコゲームス) === 携帯電話・スマートフォン === * 2010年8月5日 - [[あざみ-封鎖都市-]]([[携帯アプリ]]「[[君に贈るホラー]]」サイト、[[ナウプロダクション]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references /> == 参考文献 == * 椎野竜彦「サウンドノベルズの方向性」『ゲーム批評 vol.6』第2巻第6号通巻第8号、マイクロデザイン出版局、1995年11月30日、pp.94-97 * {{Cite book ja-jp |author = [[塩田信之 (著作家)|塩田信之]] |chapter = チャート構造解析&サウンドノベルシナリオ講座 |editor2 = 塩田信之&CB's Project |title = 「[[街 〜運命の交差点〜]]」スペシャルガイド〜サウンドノベルシナリオ入門〜 |publisher = [[メディアファクトリー]] |series = [[じゅげむ (ゲーム雑誌)|じゅげむ]]BOOKS |year = 1999年 |isbn = 4-88991-852-3 |pages = 113-143 }} == 関連項目 == * [[ビジュアルノベル]] * [[デジタルコミック]] * [[ツクールシリーズ]] - ラインナップの中に、あらかじめ用意された素材を用いてサウンドノベルを製作できる「'''サウンドノベルツクール'''」がある。 * [[君に贈るホラー]] - 携帯電話でサウンドノベルを制作できる「'''君が創るホラー'''」がある。 * [[システムサコム]] - 80年代後半より“パソコンで読む小説”「ノベルウェア」シリーズを発表。当時のADVの主流であった総当たり的なコマンド入力を排し、簡単な選択肢のみで半自動的に物語が進展・分岐する同シリーズはサウンドノベルへの系譜と捉えることができる。 == 外部リンク == * [http://www.chunsoft.co.jp/ CHUNSOFT] {{コンピュータゲームのジャンル}} {{DEFAULTSORT:さうんとのへる}} [[Category:ノベルゲーム|*]] [[Category:スパイク・チュンソフトのゲームソフト|*]] [[Category:登録商標]]
2003-08-11T16:34:03Z
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君が望む永遠
『君が望む永遠』(きみがのぞむえいえん)は、2001年8月3日にâge(アージュ)より発売された恋愛アドベンチャーゲーム。また、これを原作とするテレビアニメ、OVAなどの関連作品。略称は君望(きみのぞ)、または君のぞ。 従来の恋愛アドベンチャーゲームでは禁じ手とされていた三角関係を描いている。物語の運びが巧妙で、プレイヤーはどのヒロインや選択肢を選ぶのか真剣に悩まされるなど、非常に気持ちの重くなるストーリーとなり、泣きゲーとの評価が高いが選択肢によっては非常に憂鬱なエンディングとなることから鬱ゲーとも呼ばれる。なお、原作者であるまふまふ仔犬ちゃんこと吉田博彦によると、本作の演出にはファンディスク『アージュマニアックス ~伊隅四姉妹最期の日~』で得た知見が活かされているという。 本作発売以前のアージュは『化石の歌』などに代表される難解な作風が売りのメーカーであったが、方向転換が図られ、ドラマ仕立ての恋愛ゲームとなる本作が生まれる事となった。 この作品をきっかけにして栗林みな実がアニメソング歌手として活動を開始し、谷山紀章とこの作品で多数作曲を手掛け鳴海孝之のキャラクターソングで作曲を務めた飯塚昌明とが後に音楽ユニット『GRANRODEO』を結成する事になる。 CD版発売から3週間後の2001年8月20日、アージュは表現に不適当な箇所があったとして、製品の販売を一時停止し自主回収を行った。その後、アージュはメディア倫理協会(通称:メディ倫、現コンテンツ・ソフト協同組合)に加盟し、2003年以降のタイトルはメディ倫の審査を受け販売している。そのため、CD版と2003年に発売されたDVD版では審査機構が異なっている。 ユーザーの間では長らく、この回収騒動をきっかけにアージュはコンピュータソフトウェア倫理機構(通称:ソフ倫)に不信感を持ち、後の審査機構変更に繋がったという説がまことしやかに語られていたが、これについてはアージュ代表の吉田博彦によって明確に否定されている。 第一章と第二章の二部構成。第一章は孝之が高校3年生の夏の話であり、ヒロインは遙に固定されている。第一章の最後は、遙が交通事故に巻き込まれたという情報を孝之が耳にする場面によって締め括られ、そこで初めてオープニングが流れる。本編に相当する第二章は第一章の3年後から始まる。 なお、LE版では遙・水月・茜のエンディング後に第三章が追加されている。第三章は第二章の直後から始まる。 エンディングは8人の攻略対象ヒロインそれぞれに1パターン以上用意され、DVD版で追加されたエンディングを合わせ合計で17種類存在する。 白陵大付属柊学園に通う鳴海孝之は、3年生になっても進路を決められずにいた。目標に向かって頑張る親友の平慎二と速瀬水月を見て焦りを感じつつはあるが、周囲に流されダラダラと日々を過ごしていた。 ある日、本屋に立ち寄った孝之は同級生の内気な女の子と出会う。その数日後、夏祭りに誘われた孝之と慎二の前に現れたのは、本屋で出会った女の子、水月の親友である涼宮遙であった。それ以降、水月は必死に遙を3人の輪の中に加えようとするが、自分を避けようとする遙の仕草に孝之は苛立ちを募らせていく。そんなある日、水月に呼び出され学園裏の丘に向かった孝之だが、待っていたのは水月ではなく遙だった。そこで孝之は突然、遙に好きだと告白される。ただ彼女を傷つけることを恐れた孝之は、その告白を受けてしまう。 流されるままに交際を始め、それゆえに危機を迎えつつも、それを乗り越えて遙との絆を深めた孝之はその関係に落ち着きかける。しかし、その平穏は長く続かなかった。遙は孝之とのデートの約束をしていたある日、交通事故に巻き込まれ、それきり意識が戻らない状態になってしまう。 事故から3年後。回復を絶望視されていた遙が奇跡的に昏睡から目が覚めたとき、既に孝之の周囲の人間関係は3年前とは一変していた。孝之は遙を失った失意から辛うじて立ち直り、その悲しみを共有できる相手でもあった水月を人生のパートナーと定めて、新たな人生を歩み始めていた矢先だったのである。理不尽な事故によって修復不可能になってしまった人間関係と、事故の後遺症により眠っていた3年間の時間経過を認識できない遙との板挟みの中で、運命を狂わされてしまった人々の苦悩が描かれていく。 担当声優はゲーム版 / アニメ版の順に表記。同一の場合は省略し、それ以外のものは別途記載する。 記事については、個別ルートに準拠する。 本作では事前の告知にも力を尽くしており、第一章を丸々体験版として配布(ただし一部背景カット)するという当時としては非常に積極的な告知を行う一方で、物語の中核となる第二章の情報は徹底的に伏せるという広報戦略を採った。このほかにも、各雑誌や公式サイトにショートストーリーを掲載する、コミックマーケットで同人誌判型の冊子を無料配布する、メインヒロイン・遙役の栗林みな実によるコスプレやライブなども展開された。これらの展開について吉田は広告代理店で働いていた時の手法を初めて取り入れたと2006年の「4Gamer.net」とのインタビューの中で話している。 『君が望む永遠〜special FanDisk〜』は、 2004年6月25日に発売された、『君が望む永遠』のファンディスク。「もし遙の告白を断っていたら」、「もし約束の時間に遅れなかったら」、「もしあの事故が起こらなかったら」といった、ifストーリーが展開される「君が望む第一章」や『君のぞらじお』出張版などが収録されている。 ラジオ番組『ちよれんちゃんねる♪』(2002年7月 - 12月)で不定期に放送された『君が望む永遠』のオリジナルドラマ。2002年12月に発売された「君が望む永遠 ドラマシアター Vol.4 らじおすぺしゃる」に未放送話とともに収録されている。 TVアニメ『君が望む永遠』を応援する番組として『音速♪ひとみしりちゃんねる』(2003年7月 - 9月)、『君のぞらじお』(2003年10月 - 2007年12月)が、OVA『君が望む永遠 〜Next Season〜』を応援する番組として『君のぞらじお 〜Next Season〜』(2008年1月 - 12月)、『君のぞらじお Still I love you...』(2008年1月 - 6月)の各番組が放送・配信された。 2003年10月から12月まで、UHFアニメとしてちばテレビ、テレビ神奈川、テレビ埼玉、三重テレビ、サンテレビジョンおよびキッズステーションで放送された。全14話。2011年6月現在、バンダイチャンネルにて各話を有料配信中(第1話、第2話のみ無料)。 ゲーム版の第一章を第1話、第2話に集約しているため、遙伝説が登場しない、孝之と遙が最初に会話するシーンが夏祭りから学校帰りに変更、愛美が登場するのは第二章にあたる部分から(台詞は最終話の一言のみ)、などストーリーが一部変更されている。 第3話以降はゲーム版第二章の水月シナリオを基本にしているが、遙・茜シナリオのイベントやアニメオリジナルのイベントも一部含まれる。2007年12月に発売されたDVD-BOXの付属ブックレットの渡邊監督インタビューによれば、水月エンドはアージュ側の意向とのことである。 なお、全話を通して番組途中にCMを一切挟んでおらず、オープニング前とエンディング後に集中させていることが大きな特徴である。また本編中にはセックス描写が存在する(無論性器の描写等は無いが、それを逆手に取った演出がなされていた)。第1話と第2話は通常のオープニングとエンディングがなく、第2話と最終話のエンディングに関しては、ゲームと同様の演出になっている。 栗林みな実の歌う主題歌「Precious Memories」は多くのアニメスタッフの耳にとまり、以後彼女がアニメソングへ進出するきっかけとなった。 海外では、2006年9月にロシアのXLMediaからロシア語版DVD(全3巻)が他国に先がけて発売された。同年冬にはアメリカ、カナダでFUNimation Entertainmentから北米版DVD『Rumbling Hearts』が、2007年9月にはドイツで『Die Ewigkeit, die Du Dir wünschst』、フランスで『Rumbling Hearts』がそれぞれ発売された。 第3話から次回予告の部分で放送された。レギュラーはスーパー・デフォルメ(SD)のあゆとまゆ。毎回様々なゲストが登場し、シリアスで暗い本編と対照的なハチャメチャなショートコントを繰り広げる。予告そのものはほとんど無く、次回予告であって次回予告でない内容である。 なお、Webアニメ『あゆまゆ劇場』に関しては、あゆまゆ劇場の項を参照のこと。 ※放送日は最速放送局(テレビ埼玉)。 発売元はメディアファクトリー。各巻2話収録。 涼宮茜をメインヒロインに、『君が望む永遠』と『マブラヴ』を繋ぐ物語として製作されたアドベンチャーゲーム『アカネマニアックス〜流れ星伝説剛田〜』(アージュオフィシャルファンクラブ会員専用ソフト、現在は配布終了)をアニメ化したもの。2004年11月から2005年8月にかけて全3巻が発売された。 2006年8月27日に開催されたイベント「速瀬水月聖誕祭」において、遙シナリオを原作とするアニメの制作が発表された。アージュ書き下ろしのオリジナルストーリーで、遙エンドの遙が退院したエンディング部分からエピローグまでを描く。 バンダイビジュアルから遙シナリオでの再アニメ化の話が持ち上がった当初は、TVアニメで遙シナリオを一部使っていること、また冒頭部分(第一章、TVアニメ第1・2話)が全く一緒になることから、アージュは再アニメ化に難色を示した。その後、バンダイビジュアル側からオリジナルストーリーでのOVA化の打診があり、OVAの製作が決定した。 なお、OVAの原作ともいえるシナリオはLE版に収録されている。 3年間の眠りから目覚めた涼宮遙は必死のリハビリの末、ようやく退院することができたが、依然事故のトラウマに苦しめられていた。そんな遙は鳴海孝之や妹の茜、そして両親に支えられ、普通の生活が送られるようリハビリに励んでいた。 しかし、自分を犠牲にしてまで一緒に居る時間を作ろうとする孝之の姿に、やがて遙は困惑してしまう。
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『君が望む永遠』(きみがのぞむえいえん)は、2001年8月3日にâge(アージュ)より発売された恋愛アドベンチャーゲーム。また、これを原作とするテレビアニメ、OVAなどの関連作品。略称は君望(きみのぞ)、または君のぞ。
{{Infobox animanga/Header |タイトル = 君が望む永遠 |ジャンル = }} {{Infobox animanga/Game |タイトル = 君が望む永遠(PC CD/DC)<br />君が望む永遠〜Rumbling hearts〜(PS2)<br />君が望む永遠〜DVD specification〜(PC DVD)<br />君が望む永遠〜Latest Edition〜(PC LE) |ゲームジャンル = 多重恋愛アドベンチャー |対応機種 = [[Microsoft Windows|Windows]] [[Microsoft Windows 95|95]]/[[Microsoft Windows 98|98]]/[[Microsoft Windows 2000|2000]]/[[Microsoft Windows Millennium Edition|Me]](PC CD)<br />[[ドリームキャスト]](DC)<br />[[PlayStation 2]](PS2)<br />Win98/2000/Me/[[Microsoft Windows XP|XP]](PC DVD)<br />Win2000/XP/[[Microsoft Windows Vista|Vista]](PC LE)<br/>[[Windows 10]] (PC LE âge アーカイブス ~20thBOX Edition~同梱版) |必要環境 = 「'''PC LE'''」 * ディスプレイ:1024×768 High Color * CPU:[[Pentium III]] 1.4GHz<br />(MMXテクノロジー必須) * HDD容量:3.5GB以上 * サウンド:PCM * ディスクドライブ:DVD-ROM 4倍速以上 * メモリ:256MB(Vistaは768MB) |ゲームエンジン = rUGP |修正パッチ = あり(PC CD) |開発元 = [[アージュ|âge]] |発売元 = âge(PC) / [[アルケミスト (企業)|アルケミスト]](DC)<br />[[プリンセスソフト]](PS2) |プロデューサー = [[吉田博彦|ヨシダという生き物]] |キャラクターデザイン = バカ王子ペルシャ |メディア = [[CD-ROM]](PC CD) / [[GD-ROM]](DC)<br />[[DVD|DVD-ROM]](PS2)<br />DVD-ROM(PC DVD/PC LE) |プレイ人数 = 1人 |発売日 = [[2001年]][[8月3日]](PC CD)<br />[[2002年]][[9月26日]](DC)<br />[[2003年]][[5月1日]](PS2)<br />2003年[[7月25日]](PC DVD)<br />[[2008年]][[3月28日]](PC LE) |レイティング = 18禁(PC) / CERO未審査(DC/PS2) |キャラクター名設定 = 変更不可 |エンディング数 = |セーブファイル数 = 1,000(PC) |セーブファイル容量 = |クイックセーブ = なし |クイックロード = なし |コンテニュー = あり |全画面表示モード = あり(PC) |音楽フォーマット = PCM |キャラクターボイス = 主人公以外フルボイス |バックログ = あり |CGモード = あり |音楽モード = あり |回想モード = あり |メッセージスキップ = あり |オートモード = あり |その他 = }} |- | colspan="2" style="padding: 0;"| {| class="infobox bordered mw-collapsible innercollapse autocollapse" style="width: 100%; margin: 0;" ! colspan="2" style="text-align: center; background-color: #ccf;"| '''テレビアニメ''' {{Infobox animanga/TVAnime |原作 = アージュ(『君が望む永遠』より) |監督 = 渡邊哲哉 |シリーズ構成 = [[金巻兼一]] |脚本 = 金巻兼一、[[高山カツヒコ]] |キャラクターデザイン = [[菊地洋子]] |メカニックデザイン = 川原智弘、[[海老川兼武]] |アニメーション制作 = [[スタジオ・ファンタジア]] |製作 = 「君が望む永遠」製作委員会 |放送局 = [[#放送局|放送局]]参照 |放送開始 = 2003年10月 |放送終了 = 12月 |話数 = 全14話 }} |} |- | colspan="2" style="padding: 0;"| {| class="infobox bordered mw-collapsible innercollapse autocollapse" style="width: 100%; margin: 0;" ! colspan="2" style="text-align: center; background-color: #ccf;"| '''OVA''' {{Infobox animanga/OVA |タイトル = 君が望む永遠〜Next Season〜 |原作 = アージュ(『君が望む永遠』より) |監督 = [[高山秀樹]] |シリーズ構成 = アージュ |脚本 = [[鴻野貴光]] |キャラクターデザイン = たむらかずひこ |アニメーション制作 = [[ブレインズ・ベース]]<!-- パッケージ表示に基づく --> |製作 = âge/「君が望む永遠」製作委員会<!-- パッケージ表示に基づく --> |開始 = 2007年12月21日 |終了 = 2008年12月19日 |話数 = 全4話 }} |} {{Infobox animanga/Other |タイトル = 関連作品 |コンテンツ = * [[アカネマニアックス〜流れ星伝説剛田〜]] * [[あゆまゆ劇場]] * [[マブラヴ]] * [[マブラヴ オルタネイティヴ]] }} {{Infobox animanga/Footer }} 『'''君が望む永遠'''』(きみがのぞむえいえん)は、[[2001年]][[8月3日]]に[[アージュ|âge]](アージュ)より発売された[[恋愛アドベンチャーゲーム]]。また、これを原作とする[[テレビアニメ]]、[[OVA]]などの関連作品。略称は'''君望'''(きみのぞ)、または'''君のぞ'''。 == 概要 == 従来の恋愛アドベンチャーゲームでは禁じ手とされていた三角関係を描いている。物語の運びが巧妙で、プレイヤーはどのヒロインや選択肢を選ぶのか真剣に悩まされるなど、非常に気持ちの重くなるストーリーとなり、[[泣きゲー]]との評価が高いが選択肢によっては非常に憂鬱なエンディングとなることから[[鬱ゲー]]とも呼ばれる。なお、原作者であるまふまふ仔犬ちゃんこと[[吉田博彦]](吉宗鋼紀)によると、本作の演出にはファンディスク『[[アージュマニアックス ~伊隅四姉妹最期の日~]]』で得た知見が活かされているという<ref name="4Gamer.net20061228P2">{{Cite web|和書|title=「マブラヴ」原作者の吉宗鋼紀×マフィア梶田×BRZRK対談――大ボリュームのインタビューから吉宗氏の人物象を掘り下げた前編をお届けしよう (2ページ目)|url=https://www.4gamer.net/games/032/G003242/20161222197/index_2.html|website=4Gamer.net |access-date=2023-06-10 |publisher=Aetas |date=2016/12/28}}</ref>。 本作発売以前のアージュは『[[化石の歌]]』などに代表される難解な作風が売りのメーカーであったが、方向転換が図られ、ドラマ仕立ての恋愛ゲームとなる本作が生まれる事となった。 この作品をきっかけにして[[栗林みな実]]がアニメソング歌手として活動を開始し、[[谷山紀章]]とこの作品で多数作曲を手掛け鳴海孝之のキャラクターソングで作曲を務めた[[飯塚昌明]]とが後に[[音楽ユニット]]『[[GRANRODEO]]』を結成する事になる。 また、アージュが後にリリースした『[[マブラヴ]]』シリーズとは一部のキャラクターが共通している。両作のストーリーは直接関係性は無いが、『マブラヴ』ポータルサイトの「WORLD-GUIDE」[https://muvluv.com/world/]では、ある時点で分岐した「確率時空」の一つ(マブラヴとは別の時空)に本作が位置付けられている。 === 初回生産版回収騒動 === CD版発売から3週間後の2001年8月20日、アージュは表現に不適当な箇所があった{{efn|一部Hシーンのモザイクが薄くなっていた。}}として、製品の販売を一時停止し自主回収を行った。その後、アージュは[[メディア倫理協会]](通称:メディ倫、現[[コンテンツ・ソフト協同組合]])に加盟し、2003年以降のタイトルはメディ倫の審査を受け販売している。そのため、CD版と2003年に発売されたDVD版では審査機構が異なっている<ref>『君が望む永遠』(CD版)はコンピュータソフトウェア倫理機構、『君が望む永遠 〜DVD specification〜』(DVD版)はメディア倫理協会、『君が望む永遠〜Latest Edition〜』はコンテンツ・ソフト協同組合がそれぞれ審査を行っている。</ref>。 ユーザーの間では長らく、この回収騒動をきっかけにアージュは[[コンピュータソフトウェア倫理機構]](通称:ソフ倫)に不信感を持ち、後の審査機構変更に繋がったという説がまことしやかに語られていたが、これについてはアージュ代表の[[吉田博彦]]によって明確に否定されている<ref>[https://twitter.com/kycow/status/25813527033810944 『君のぞ』は自主審査のうえで自主回収だったんですよ。その点では当時のソフ倫さんを恨む理由はないです。]</ref>。 == 製品バリエーション == ; 『君が望む永遠』 : 2002年9月26日発売。[[ドリームキャスト]]への移植版。全年齢対象<ref name="age">CERO未審査であり、発売当時のメーカー基準による。</ref>。 ; 『君が望む永遠〜Rumbling hearts〜』 : 2003年5月1日発売。[[PlayStation 2]]への移植版。全年齢対象<ref name="age" />。 ; 『君が望む永遠〜DVD specification〜』 : 2003年7月25日発売。メーカーサイトでは「DVD版」と略称される。「CD版」からの主な変更箇所は以下のとおり。 :* [[Microsoft Windows XP|Windows XP]]に正式対応 :* 新シナリオ・CGの追加 :* 新主題歌と、新アバンオープニングを追加 :* 画質と音質の向上 ; 『君が望む永遠〜Latest Edition〜』 : 2008年3月28日発売。通称「君のぞLE」。タイトル決定前は「Vista版」と呼ばれていた。 : OVA『'''君が望む永遠〜Next Season〜'''』の制作発表後、ユーザーから[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]に対応したリニューアル版の発売を求める意見が相次いだ。これを受け、2007年11月に『[[君のぞらじお]]』の番組内番組「マブラヴラジオ」で公開打合せが行われ、12月に製作が正式決定した。『Next Season』の原作に相当するシナリオも収録されている。 : DVD版からの主な変更箇所は以下のとおり。 :* Windows Vistaに対応 :* 演出変更(目パチ、口パクの追加等) :* 画面比率の変更(4:3から約16:9へ) :* CGのリファイン :* 第二章の涼宮遙、速瀬水月、涼宮茜の各エンディング後からエピローグまでの後日談シナリオ(第三章)の追加 :* 新主題歌と、新アバンオープニングを追加 :* ファンディスク収録の『君が望む第一章』を演出変更の上、再録 ;『âge アーカイブス ~20thBOX Edition~』 : 2020年3月27日発売。『〜Latest Edition』を[[Microsoft Windows 10|Windows 10]]に対応させて収録された。 2023年10月には『〜Latest Edition』をベースに全年齢化し、海外も含めて新規ユーザーが入手しやすい形でリリースする事を念頭に[[クラウドファンディング]]を利用した再開発計画を発表。当初目標とした3000万円のファンドはファンディング開始から約4週間で達成し、開発が決定。現在は一定額以上をファンディングした方々向けのリターンとして、2024年の春ごろを予定した先行リリース準備中。<!--正式な作品タイトルについては未定のため、今後の正式発表を受けて追記・改訂予定--> == ストーリー == === 構成 === 第一章と第二章の二部構成。第一章は孝之が高校3年生の夏の話であり、ヒロインは遙に固定されている。第一章の最後は、遙が交通事故に巻き込まれたという情報を孝之が耳にする場面によって締め括られ、そこで初めてオープニングが流れる。本編に相当する第二章は第一章の3年後から始まる。 なお、LE版では遙・水月・茜のエンディング後に第三章が追加されている。第三章は第二章の直後から始まる。 エンディングは8人の攻略対象ヒロインそれぞれに1パターン以上用意され、DVD版で追加されたエンディングを合わせ合計で17種類存在する。 === あらすじ === 白陵大付属柊学園に通う鳴海孝之は、3年生になっても進路を決められずにいた。目標に向かって頑張る親友の平慎二と速瀬水月を見て焦りを感じつつはあるが、周囲に流されダラダラと日々を過ごしていた。 ある日、本屋に立ち寄った孝之は同級生の内気な女の子と出会う。その数日後、夏祭りに誘われた孝之と慎二の前に現れたのは、本屋で出会った女の子、水月の親友である涼宮遙であった。それ以降、水月は必死に遙を3人の輪の中に加えようとするが、自分を避けようとする遙の仕草に孝之は苛立ちを募らせていく。そんなある日、水月に呼び出され学園裏の丘に向かった孝之だが、待っていたのは水月ではなく遙だった。そこで孝之は突然、遙に好きだと告白される。ただ彼女を傷つけることを恐れた孝之は、その告白を受けてしまう。 流されるままに交際を始め、それゆえに危機を迎えつつも、それを乗り越えて遙との絆を深めた孝之はその関係に落ち着きかける。しかし、その平穏は長く続かなかった。遙は孝之とのデートの約束をしていたある日、交通事故に巻き込まれ、それきり意識が戻らない状態になってしまう。 事故から3年後。回復を絶望視されていた遙が奇跡的に昏睡から目が覚めたとき、既に孝之の周囲の人間関係は3年前とは一変していた。孝之は遙を失った失意から辛うじて立ち直り、その悲しみを共有できる相手でもあった水月を人生のパートナーと定めて、新たな人生を歩み始めていた矢先だったのである。理不尽な事故によって修復不可能になってしまった人間関係と、事故の後遺症により眠っていた3年間の時間経過を認識できない遙との板挟みの中で、運命を狂わされてしまった人々の苦悩が描かれていく。 == 登場人物 == 担当[[声優]]はゲーム版 / アニメ版の順に表記。同一の場合は省略し、それ以外のものは別途記載する。 記事については、個別ルートに準拠する。 === 第一章より登場 === ; 鳴海 孝之(なるみ たかゆき) : 声 - なし、[[谷山紀章]](ファンディスク) / 谷山紀章 / [[杉崎和哉]](ドラマCD版) : 主人公。白陵大付属柊学園の3年生。涼宮遙に告白され交際を始めるがうまくいかず、一度は別れを考えるが、速瀬水月のサポートもあり、遙に告白し直し改めて付き合うようになった。遙と同じ白陵大学に進学することに決め、幸せな日々を送っていたが、遙が交通事故に遭い昏睡状態となってしまう。遙の両親から別れを宣告され、失意から[[引きこもり]]を続けていた。 : 第二章開始時は、水月の献身的な支えにより社会復帰し、[[ファミリーレストラン]]「すかいてんぷる」でアルバイトをしながら生活している。水月とは半同棲状態にあり、水月が結婚も考えていることには満更でもない様子。だが、遙が目を覚ましたことにより過去と向き合うことになる。以後、遙のお見舞いを繰り返しながらバイトする日々を送る。 : 優柔不断な性格でヒロインたちを苦しめるだけでなく、重要な場面で選択肢を出してプレイヤーをも苦しめるなど、典型的な[[へたれ|ヘタレ]]の性質を持つ。 : 重いストーリーの中で精神的な弱さばかりが目立つが、実は情に厚い一面もある。ただし自ら理想を追求する気概はないため、いわゆる善意の小市民に落ち着いているのが現状。その曖昧な倫理観が第二章において彼を苦しめることになる。ただし、蛍シナリオなど最終的には人間的に大きく成長するシナリオもある。 : OVA『Next Season』では前向きな性格で、社会復帰を目指す遙を献身的に支える。間接的な続編にあたる『[[マブラヴ オルタネイティヴ]]』では、遙と水月の想い人(故人)として名前のみ登場。 ; {{Anchors|涼宮遙}}涼宮 遙(すずみや はるか) : 声 - [[栗林みな実]] : 誕生日:3月22日 血液型:A型 : メインヒロインの一人。速瀬水月の親友。童話や絵本が好きなおとなしい性格。様々な“伝説”を持ち、ゲーム中でも「遙伝説」として語られる。 : 2年ほど孝之への想いを募らせていたが、水月の紹介で孝之と知り合いになり告白するに至る。一時は別れそうになるが、孝之からの告白で晴れて相思相愛となる。孝之とのデートの待ち合わせ中に交通事故に遭い昏睡状態に陥る。なお、白陵大付属柊学園は卒業したことになっている。 : 第二章の開始時に、3年間の昏睡状態から目覚める。3年が経過したという事実を気づかせないように隔離病棟で生活していたが、あることがきっかけで今の状況が変だと気づき再び昏睡状態になる。数日後に目を覚ました遙は現実を認識し、その後はリハビリに取り組みつつ社会復帰を目指す。 : 第一章ではショートヘアとピンクリボン、第二章においてはロングヘアとホワイトリボン。 : 遙シナリオの後日談となるOVA版では主役を務める。『マブラヴ オルタネイティヴ』では、ロングヘアの姿で登場。 ; {{Anchors|速瀬水月}}速瀬 水月(はやせ みつき) : 声 - [[石橋朋子]] / 石橋朋子(TVアニメ)、[[たかはし智秋]](OVA) : 誕生日:8月27日 血液型:A型 : メインヒロインの一人。遙の親友で孝之・平慎二のクラスメイト。さっぱりした性格。「…3、2,、1、はい」、「ぶっとばすわよ」などとよく言う。 : 水泳部に所属し、実業団から声がかかるほどの実力の持ち主。遙のために孝之に近づいたが自分も孝之を好きになってしまい、その想いを隠しながら遙を孝之に紹介する。そして、誕生日に孝之に指輪を買ってもらって気持ちに区切りをつけようとしたが、その日に遙が交通事故に巻き込まれてしまう。 : 第二章の開始時点では就職してOLとなっている。失意の孝之を3年間献身的に支え、社会復帰できるまでに立ち直らせた。孝之とは半同棲生活をする仲にあり、彼女自身は結婚も考えている。しかし遙が目覚めたことにより、自分自身の過去と再び向き合うことになる。 : 遙の事故が原因で記録が伸び悩み水泳をやめたことになっているが、密かに想いを寄せていた孝之が遙の事故により引きこもってしまった事で、彼がどれほど遙を好きだったのか思い知らされ、記録が伸び悩んだ末、孝之を支えることによって自分に振り向かせるために水泳を投げうったというのが真相である。そのため、遙が目覚めることによって、孝之が自分の許を離れていってしまうのではないかと常に不安に思っていた。なお、慎二や遙の妹である茜はこのことを知っていたが、慎二は水月に口止めされていたこと、茜とは疎遠になったこともあり、孝之には知られていなかった。 : 第一章では腰まで伸びるロングヘアだが、第二章の開始時点ではショートヘアにしている。水泳に不向きな髪形をしていた理由は、彼女のシナリオで明らかにされる。 : TVアニメやPCゲーム版ノベライズは、水月ルートが基本となっている。DVD版では新たにバッドエンドが3つも追加された。『マブラヴ オルタネイティヴ』では第一章と同じ髪型で登場。 ; 平 慎二(たいら しんじ) : 声 - 安藤正輝 / [[青木誠 (声優)|青木誠]] : 誕生日:6月8日 血液型:AB型 : 孝之の親友。面倒見がよく、皆に頼りにされている。孝之とは、いきなり胸をもみしだかれつつアドリブで受け答えできる仲。孝之に「デブ専獣姦マニア(通称、デブジュー)」([[コンシューマーゲーム|コンシューマ]]版では「女子コスチュームのニーソックスマニア(通称、ジョニー)」)というあだ名を付けられた。 : 卒業後は白陵大学へ進学した。孝之たちとは付き合いが少なくなっていたが、遙が目を覚ましたことで久しぶりに再会した。恋愛よりも友情を重んじ、どんな答えを出そうと力になることを約束し、中立の立場から孝之や水月の相談に応じる。密かに水月に好意を寄せていた。 ; {{Anchors|涼宮茜}}涼宮 茜(すずみや あかね) : 声 - 上原ともみ / 上原ともみ(TVアニメ)、[[水橋かおり]](OVA) : 誕生日:10月20日 血液型:A型 : 遙の妹。水泳部に所属しており中学の日本記録保持者でもある。水月に憧れており、そのせいか姉の遙よりも水月に似た性格をしている。遙と付き合っている孝之のことを「お兄ちゃん」と呼んで慕い、自身も孝之に甘えようとしては遙に注意されている。 : 第二章開始時は、白陵大付属柊学園に入学し水泳部のエースとして活躍している。学業と部活動を両立させつつ、毎日遙のお見舞いも欠かさないという厳しい生活を送っている。孝之とは完全に疎遠となっていたが、遙が目覚めた後に再会する。 : 遙の前では無理をして3年前と同じように振舞っているが、宗一郎が孝之に遙の前から去るよう伝えたことを知らないため、遙の前から消え水月と付き合うことになった孝之と、水泳をやめてしまった水月には裏切られたと感じ、様々なきつい言葉を浴びせる。呼び方も、孝之は「鳴海さん」、水月に関しては「あの人」呼ばわりとなっている。孝之と再会してから、孝之が好きな水月の気持ちもわかるようになり、自分も遙を裏切ってしまったと思い苦しむことになる。実は3年前から孝之に片想いしており、孝之が落ち込んでいる時に必死で励まそうとしたことがあった。妹という板挟みの立場から、孝之と男女の関係になった水月には怒りだけではなく嫉妬も混じっていることは自覚していた。 : 2001年秋に発表された外伝『[[アカネマニアックス〜流れ星伝説剛田〜]]』ではメインヒロインを務める。2004年にはOVAとしてアニメ化もされた。間接的な続編とも言える『[[マブラヴ]]』、『マブラヴ オルタネイティヴ』にも登場。 ; 穂村 愛美(ほむら まなみ) : 声 - 雨宮麻紀 / [[尼子真理]] : 誕生日:2月19日 血液型:O型 : 孝之の後輩。カエルの髪飾りと三つ編みのおさげが特徴で、眼鏡をかけている。事情により高校を中退し、後に[[准看護師]]となる。学園時代から孝之を想っていたが結局言い出せず、社会人になってから偶然再会する。ちなみに、孝之は学園時代に落とした財布を届けに来てくれた女の子、という程度の認識しかなかった。 : 遙や水月の事で悩んでいる時に全てを打ち明けると親身になって考えてくれる。実は両親に捨てられた過去を持ち、孝之と関係を持ってしまうと彼への依存心は異常とも呼べるほどにまで強くなっていく。そして、優しさを拒否されると偏執的な愛情で孝之を追い詰めていくことになる。PS2版とDVD版では純愛エンドが追加された。 : TVアニメでは予告([[あゆまゆ劇場]])にも登場する。『マブラヴ オルタネイティヴ』にも、看護兵として登場している。 ; 涼宮 宗一郎(すずみや そういちろう) : 声 - [[ヤスヒロ]] / [[川津泰彦]] : 遙と茜の父親。 : なお、ゲーム・TVアニメ版では両親の名前は不明であったが、[[二次創作]]サイトの小説でこの名前が付けられ、OVAで公式に採用された。 : 孝之には好意的に接していたが、遙の事故により孝之が人生を棒に振ってしまうことを危惧し、遙の前から去るように伝える。 ; 涼宮 薫(すずみや かおる) : 声 - [[金野恵子]](アニメ版) : 遙と茜の母親。孝之には好意的に接していた。 === 第二章より登場 === ; 大空寺 あゆ(だいくうじ あゆ) : 声 - 大友清里(PC版)、[[浅井清己]](家庭用版) / 浅井清己 : 誕生日:12月14日 血液型:B型 : 孝之がアルバイトをしているファミレス「すかいてんぷる」の従業員。口の悪さから「すかいてんぷるの核弾頭」と呼ばれる。口癖は「あんですと〜」、「あにさ」、「うが〜」、「猫のうんこ踏め!」。ヘアスタイルは金髪のツインテールで、小柄だがスタイルは良い。 : 孝之に対してはやたらと差別的で、何かあるたびすぐに口論となるが、実は孝之に想いを寄せており、孝之が自分に気があるかのようなからかいをすると赤面する。時折、孝之に協力的になり、彼の迷いを吹き飛ばすきっかけとなる言葉を言うこともある。ロングヘアで、主人公をあれこれ叱責する強気なキャラクターは、第一章における速瀬水月と同様の役割を担う。 : 実は大空寺財閥のお嬢様で、[[帝王学]]の一環として社会体験するため傘下のすかいてんぷるで働いている。玉野まゆを「まゆまゆ」と呼び、よく行動を共にする。ゴールド免許の持ち主であるが、実際のところはペーパードライバーである。 : TVアニメおよびOVA『[[アカネマニアックス〜流れ星伝説剛田〜|アカネマニアックス]]』の次回予告([[あゆまゆ劇場]])では主役を務める。また、2003年にオフィシャルファンクラブ会員専用ソフトとして、彼女をメインにした『大空寺危機一髪!』がリリースされている。 : ちなみに、初めて'''ツンデレ'''と呼ばれたキャラであり、[[あやしいわーるど]]において彼女に対し「ツンツンデレデレが良い」(カタカナ部分は原文では半角)という投稿がなされたのがツンデレの語源とされている(詳しくは[[ツンデレ]]の項を参照)。 ; 玉野 まゆ(たまの まゆ) : 声 - 吉田恭子 / 吉田恭子(TVアニメ)、[[吉住梢]](OVA) : 誕生日:5月11日 血液型:AB型 : 「すかいてんぷる」の新人従業員。典型的なドジっ子。「御意!」「まことかっ!」など時代劇めいた言葉遣いをする。 : 事故で両親と兄を失っており、孝之を兄のように慕う。ネコの髪飾りが特徴だが、物にもかかわらず時々表情が変化するため、他の従業員から「飾りが本体では」と言われた事もある。あゆに比べショートヘアで、ドジっ娘キャラで主人公を翻弄する姿は、第一章の涼宮遥を彷彿させる。 : TVアニメおよびOVA『アカネマニアックス』の次回予告(あゆまゆ劇場)では主役を務める。 ; 天川 蛍(あまかわ ほたる) : 声 - 窪田聡子 : 誕生日:6月26日 血液型:O型 : 欅総合病院の[[看護師]]。{{efn|看護士と看護婦が看護師に統一されたのは本作発売の翌年であり、本作では後発の移植版を含め【看護婦】となっている。}} : 見かけは幼いが、元気いっぱいで患者からの評判も良い。子供のように扱われるのを避けるため、自分の事を「天川さん」と呼ぶ。星乃文緒の親友であり、彼女を「文緒っち」と呼ぶ。多少常識に欠けるところがあり、文緒から間違った知識を吹き込まれていたりする。 : サブキャラクターのエンディングの中では最も感動できると言われている蛍シナリオでは、[[先天性]]の[[心臓疾患]]を患っている事が分かり、それがストーリーの重要な鍵となる。 ; 星乃 文緒(ほしの ふみを) : 声 - [[北都南]] / [[ひと美]] : 誕生日:7月15日 血液型:B型 : 欅総合病院の看護師で、蛍の親友。遊び慣れした今時のギャル系で、彼女の誘いに乗ってしまうとバッドエンディングが確定してしまう。一方で友達思いな面もあり、蛍シナリオでは意外な顔を見せる。孝之のことを遙の恋人であることから「彼氏」と呼ぶ。 : 『マブラヴ』にもエキストラとして登場している。 ; 香月 モトコ(こうづき モトコ) : 声 - 小林まりこ / 小林まりこ(TVアニメ)、[[小菅真美]](OVA) : 誕生日:11月1日 血液型:A型 : 欅総合病院の[[女医]]で、遙の主治医を務めている。常に咥え煙草で行動し、孝之らに対しては経験豊かな人生の先輩として向き合う。いつも白衣を着ているのは、白衣を着ないと医者に見えないかららしい。 : 香月三姉妹の長女で、妹に『[[君がいた季節]]』の香月ミツコと『マブラヴ』、『マブラヴ オルタネイティヴ』の香月夕呼がいる。妹に勧められ高級スポーツカーを所持しているが愛着はなく、擦ったりぶつけたりしてボロボロになっている。 ; 崎山 健三(さきやま けんぞう) : 声 - 岡島雅夫 / [[岡和男]] : 「すかいてんぷる」の新任店長。和食関係の店で働いていたためファミレスの仕事は初めてらしい。「[[団塊世代]]の男」ゆえの苦労を経験してきた大人でもあり、病人の見舞いに行かなければならなくなった孝之の気持ちを理解し、協力的な配慮をしてくれる。 : 過去に実の娘を亡くしており、孝之だけでなくあゆ・まゆも我が子のように温かく見守る一方、一時あゆから[[ロリータ・コンプレックス|ロリコン]]と疑われてしまったこともある。従業員が問題を起こしても少し困った顔をするだけで、孝之とあゆの戦いは店の活気として公認状態となっている。なお、PC版の声優は非公開。 === 第三章より登場 === ; 辻村 晶代(つじむら あきよ) : 声 - 池端芹 / [[安田未央]] : 白陵大付属柊学園の卒業生。水月と同じく水泳部に所属していた。 ; 榊 千鶴(さかき ちづる) : 声 - 高柳香帆 / [[倉田雅世]] : 白陵大付属柊学園の3年生であり、茜の親友。ラクロス部所属。間接的な続編ともいえる『マブラヴ』『マブラヴ オルタネイティヴ』のヒロインの一人である。 ; 伊隅 やよい(いすみ やよい) : 声 - なし : アージュの第1作『君がいた季節』のメインヒロインの1人で、伊隅4姉妹の長女。本作では孝之の住んでいたマンションの大家として、水月第三章でよく似た人物が登場する。TVアニメの最終話終盤にも彼女らしき人物が登場する。 : 声・セリフともに無いのでやよい本人かの断定は不可だが、2011年に発売されたリメイク版の『君がいた季節』で、主人公・前島正樹が住む彼女の管理するマンションに柊学園に通う3年生の男子生徒が1人で住んでいることや平慎二がその男子生徒の部屋によく遊びにくると語られているため{{efn|他にも、正樹が住むマンションの間取りや外観が本作の孝之が住むマンションと同じであるなどの点が挙げられる。}}、本作に登場したのはやよい本人と思われる。 == 広報 == {{出典範囲|text1=本作では事前の告知にも力を尽くしており、第一章を丸々体験版として配布(ただし一部背景カット)するという当時としては非常に積極的な告知を行う一方で、物語の中核となる第二章の情報は徹底的に伏せるという広報戦略を採った。このほかにも、各雑誌や公式サイトにショートストーリーを掲載する、[[コミックマーケット]]で同人誌判型の冊子を無料配布する、メインヒロイン・遙役の[[栗林みな実]]によるコスプレやライブなども展開された。これらの展開について吉田は広告代理店で働いていた時の手法を初めて取り入れたと2006年の「4Gamer.net」とのインタビューの中で話している。|ref1={{R|4Gamer.net20061228P2}} }} == スタッフ == * 原作 - [[吉田博彦|まふまふ仔犬ちゃん]]・セントポール * 原画・キャラクターデザイン - バカ王子ペルシャ * シナリオ - 鬼畜人タムー、マロ☆ガッツ、反重力生命マー nainai * 音楽 - 渡来亜人 * プログラム - スピンドリル * スクリプト - ミヤ大工トンプソン * 音楽制作 - [[ランティス]] * 製作総指揮 - ヨシダという生き物 * ムービー - [[Iris motion graphics]](DC版、PS2版) == 主題歌 == ; オープニング主題歌「[[Rumbling hearts]]」 : 作詞 - 栗林みな実 / 作曲 - 清水永之、[[飯塚昌明]] / 編曲 - 飯塚昌明 / 歌 - [[栗林みな実]] ; エンディング主題歌「君が望む永遠」 : 作詞 - finito pororo / 作曲・編曲 - 加持久忍 / 歌 - MEGUMI(現・[[rino]]) ; DC版 アバン主題歌「[[風のゆくえ/yours|yours]]」 : 作詞 - [[江幡育子]] / 作曲・編曲 - 飯塚昌明 / 歌 - 栗林みな実 ; PS2版 アバン主題歌「[[風のゆくえ/yours|風のゆくえ]]」 : 作詞 - 栗林みな実 / 編曲 - 飯塚昌明 / 歌 - 栗林みな実 ; DVD版 アバン主題歌「Blue tears」 : 作詞 - 栗林みな実 / 編曲 - 飯塚昌明 / 歌 - 栗林みな実、[[石橋朋子]] ; LE版 アバン主題歌「[[Next Season/sweet passion|sweet passion]]」 : 作詞 - 栗林みな実 / 作曲・編曲 - [[菊田大介]] / 歌 - 栗林みな実 ; 第三章 エンディング主題歌「想い出に変わるまで」 : 作詞・作曲 - [[rino]] / 編曲 - [[大久保薫]] / 歌 - [[CooRie]] == ファンディスク == {{美少女ゲーム系 |タイトル = 君が望む永遠〜special FanDisk〜 |対応機種 = Windows 98/Me/2000/XP |発売元 = âge |発売日 = 2004年6月25日 |ジャンル = ファンディスク |レイティング = 18禁 |キャラクター名設定 = なし |エンディング数 = |セーブファイル数 = 1,000 |画面サイズ = 800×600 High Color 以上 |キャラクターボイス = フルボイス(主人公含む) |CGモード = あり |音楽モード = あり |回想モード = あり |メッセージスキップ = あり |オートモード = あり |備考 = }} 『'''君が望む永遠〜special FanDisk〜'''』は、 2004年6月25日に発売された、『君が望む永遠』のファンディスク。「もし遙の告白を断っていたら」、「もし約束の時間に遅れなかったら」、「もしあの事故が起こらなかったら」といった、ifストーリーが展開される「君が望む第一章」や『[[君のぞらじお]]』出張版などが収録されている。 ; 君が望む第一章 : 『君が望む永遠』第一章を主軸に、各キャラクターごとにイベントが追加されている。ヒロインは遙、水月、茜、愛美の4人で、第一章の通常エンディングの他、各キャラクターごとにオリジナルエンディングが設定されている。 : ゲームの長さは『君が望む永遠』第一章とほぼ同等。また、各キャラクターの担当声優のインタビューも収録されている。 :; エンディング主題歌 :; 遙エンド 「ひとことだけの勇気」 :: 作詞 - 江幡育子 / 作曲・編曲 - 飯塚昌明 / 歌 - 栗林みな実 :; 水月エンド 「silver ring」 :: 作詞・作曲 - 栗林みな実 / 編曲 - 飯塚昌明 / 歌 - 石橋朋子 :; 茜エンド 「innocence」 :: 作詞・作曲 - 栗林みな実 / 編曲 - 飯塚昌明 / 歌 - 上原ともみ :; 通常エンド 「Rumbling hearts」 :: 作詞 - 栗林みな実 / 作曲 - 清水永之、飯塚昌明 / 編曲 - 飯塚昌明 / 歌 - 栗林みな実 ; 君が望む永遠〜another episode collection〜 : 公式サイトのキャラクター紹介ページに掲載されている「アナザーエピソード」をフルボイスで[[ビジュアルノベル]]化したもの。 ; ラジオスペシャル TRUE LIES : 「君が望む永遠 ドラマシアター Vol.4 らじおすぺしゃる」の最終話「TRUE LIES」を基に製作されたゲーム『ラジオスペシャル TRUE LIES』(アダルトゲーム雑誌『[[TECH GIAN]]』の付録DVDに収録)を再収録したもの。本編とは全く無関係で、『[[マブラヴ]]』や『[[アカネマニアックス〜流れ星伝説剛田〜]]』のキャラクターも登場する。 :; エンディング主題歌 「Inside of Light」 :: 作詞 - 片桐幸代 / 作曲 - 大貫忠敬 / 編曲 - 飯塚昌明 / 歌 - [[鮎川麻弥]] :: 『[[宇宙の騎士テッカマンブレード]]』の前期OP「REASON」のパロディである。 ; 君のぞらじお出張版 : ラジオ番組『君のぞらじお』のファンディスク出張版。「ジョイ先生のメイプル授業」や「すかいてんぷるメイプル支店」などのコーナーがある。 {{main|君のぞらじお}} ; マリーのおかたづけ2 あゆまゆ奮闘編 : アージュマニアックスに収録されているパズルゲーム『マリーのおかたづけ』のすかいてんぷる版。 == 君が望む真愛 == == ラジオドラマ == ラジオ番組『[[ちよれんちゃんねる♪]]』(2002年7月 - 12月)で不定期に放送された『君が望む永遠』のオリジナルドラマ。2002年12月に発売された「君が望む永遠 ドラマシアター Vol.4 らじおすぺしゃる」に未放送話とともに収録されている。 ; 出演キャラクター(出演順) : 涼宮遙・速瀬水月・大空寺あゆ・玉野まゆ・鳴海孝之・涼宮茜・剛田城二・平慎二・崎山健三 == ラジオ・インターネットラジオ == TVアニメ『君が望む永遠』を応援する番組として『音速♪ひとみしりちゃんねる』(2003年7月 - 9月)、『君のぞらじお』(2003年10月 - 2007年12月)が、OVA『君が望む永遠 〜Next Season〜』を応援する番組として『君のぞらじお 〜Next Season〜』(2008年1月 - 12月)、『君のぞらじお Still I love you…』(2008年1月 - 6月)の各番組が放送・配信された。 {{Main|音速♪ひとみしりちゃんねる|君のぞらじお|君のぞらじお 〜Next Season〜|君のぞらじお Still I love you…}} == テレビアニメ == 2003年10月から12月まで、[[UHFアニメ]]として[[千葉テレビ放送|ちばテレビ]]、[[テレビ神奈川]]、[[テレビ埼玉]]、[[三重テレビ放送|三重テレビ]]、[[サンテレビジョン]]および[[キッズステーション]]で放送された。全14話。2011年6月現在、[[バンダイチャンネル]]にて各話を有料配信中(第1話、第2話のみ無料)。 ゲーム版の第一章を第1話、第2話に集約しているため、遙伝説が登場しない、孝之と遙が最初に会話するシーンが夏祭りから学校帰りに変更、愛美が登場するのは第二章にあたる部分から(台詞は最終話の一言のみ)、などストーリーが一部変更されている。 第3話以降はゲーム版第二章の水月シナリオを基本にしているが、遙・茜シナリオのイベントやアニメオリジナルのイベントも一部含まれる。2007年12月に発売されたDVD-BOXの付属ブックレットの渡邊監督インタビューによれば、水月エンドはアージュ側の意向とのことである。 なお、全話を通して番組途中にCMを一切挟んでおらず、オープニング前とエンディング後に集中させていることが大きな特徴である。また本編中にはセックス描写が存在する(無論性器の描写等は無いが、それを逆手に取った演出がなされていた)。第1話と第2話は通常のオープニングとエンディングがなく、第2話と最終話のエンディングに関しては、ゲームと同様の演出になっている。 栗林みな実の歌う主題歌「[[Precious Memories]]」は多くのアニメスタッフの耳にとまり、以後彼女が[[アニメソング]]へ進出するきっかけとなった。 海外では、2006年9月にロシアのXLMediaからロシア語版DVD(全3巻)が他国に先がけて発売された。同年冬には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[カナダ]]で[[:en:FUNimation Entertainment|FUNimation Entertainment]]から北米版DVD『Rumbling Hearts』が、2007年9月には[[ドイツ]]で『Die Ewigkeit, die Du Dir wünschst』、[[フランス]]で『Rumbling Hearts』がそれぞれ発売された。 === あゆまゆ劇場 === 第3話から[[次回予告]]の部分で放送された。レギュラーは[[スーパー・デフォルメ]](SD)のあゆとまゆ。毎回様々なゲストが登場し、シリアスで暗い本編と対照的なハチャメチャなショートコントを繰り広げる。予告そのものはほとんど無く、次回予告であって次回予告でない内容である。 なお、[[Webアニメ]]『あゆまゆ劇場』に関しては、[[あゆまゆ劇場]]の項を参照のこと。 === アニメオリジナルキャラクター === ; 石田 あづさ (いしだ あづさ) : 声 - [[伊藤美紀 (声優)|伊藤美紀]] : 水月の会社の先輩。とてもサバサバした性格。自らの経験をもとにすれ違う水月と孝之にアドバイスを送るなど、物語上、重要な役割を果たしている。既婚者であるが、家庭の方は上手く行っていないらしい。アニメの最終回で、離婚届を手にする描写がなされている。 ; 伊藤 善之 (いとう よしゆき) : 声 - [[小形満]] : 「すかいてんぷる」を経営する会社の役員。アルバイトの孝之を正社員として採用しようと考え、その旨を孝之と崎山に持ちかける。名前はゲーム版、アニメ版双方で[[音楽プロデューサー]]を務めた[[ランティス]]の伊藤善之から。 ; 美紀 (みき) : 声 - [[宇和川恵美]] : 白陵大の学生。慎二が気に掛けているクラスメートの女の子。 === スタッフ === * 原作 - アージュ(『君が望む永遠』より) * 監督 - 渡邊哲哉 * シリーズ構成 - [[金巻兼一]] * キャラクターデザイン・総作画監督 - [[菊地洋子]] * キャラクター原案 - 杉原正教 * メカニックデザイン - 川原智弘、[[海老川兼武]] * 色彩設計 - 井上英子 * 美術監督 - 陣西峰、張敏芳 * 美術設定 - 大空五郎 * 撮影監督 - 岩崎敦 * 編集 - 重村建吾 * 音響監督 - [[菊田浩巳]] * 音響制作 - [[楽音舎]] * 音楽 - 渡来亜人、[[須藤賢一]]、南良樹 * 音楽プロデューサー - 伊藤善之 * 音楽制作 - ランティス * プロデューサー - 永田勝治、伊藤善之 * アニメーションプロデューサー - 飯塚智久、月野正志 * アニメーション制作 - [[スタジオ・ファンタジア]] * 製作 - 「君が望む永遠」[[製作委員会方式|製作委員会]] === 主題歌 === ; オープニングテーマ「[[Precious Memories]]」 : 作詞・作曲 - 栗林みな実 / 編曲 - [[飯塚昌明]] / 歌 - [[栗林みな実]] ; エンディングテーマ「星空のワルツ」 : 作詞・作曲 - 栗林みな実 / 編曲 - [[岩崎琢]] / 歌 - 栗林みな実 ; 特別エンディング曲 :; 「Rumbling hearts」(第2話) :: 作詞 - 栗林みな実 / 作曲 - 清水永之、飯塚昌明 / 編曲 - 飯塚昌明 / 歌 - 栗林みな実 :; 「君が望む永遠」(第14話) :: 作詞 - Ikuko Ebata / 作曲・編曲 - 加持久忍 / 歌 - [[rino]] === 各話リスト === ※放送日は最速放送局([[テレビ埼玉]])。 {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !colspan="6"|本編||colspan="3"|あゆまゆ劇場!!rowspan="2"|放送日 |- !話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!絵コンテ!!演出!!原画 |- !1 |第一話||rowspan="4"|[[金巻兼一]]||[[加瀬充子]]||山田弘和||藤沢俊幸||rowspan="2" colspan="3" style="text-align:center"|-||'''2003年'''<br/>10月5日 |- !2 |第二話||東海林真一||山田弘和<br/>松本佳久||[[藤田まり子]]<br/>高野杏||10月12日 |- !3 |第三話||渡邊哲哉||喜多幡徹||シワスタカシ||rowspan="2"|加瀬充子||渡邊哲哉||藤田まり子||10月19日 |- !4 |第四話||[[もりたけし]]||宮田亮||[[竹内哲也]]||宮田亮||[[古賀誠 (アニメーター)|古賀誠]]||10月26日 |- !5 |第五話||[[高山カツヒコ]]||松園公||鈴木薫||内田孝||colspan="2" style="text-align:center"|月野正志||立石聖||11月2日 |- !6 |第六話||rowspan="2"|金巻兼一||加瀬充子||太田知章||三宅雄一郎||加瀬充子||喜多幡徹||藤田まり子||11月9日 |- !7 |第七話||東海林真一||喜多幡徹||[[荒木英樹]]||colspan="2" style="text-align:center"|渡邊哲哉||村上やすひと||11月16日 |- !8 |第八話||高山カツヒコ||中島弘明||秋山朋子||吉本拓二||rowspan="3"|加瀬充子||喜多幡徹||内田孝||11月23日 |- !9 |第九話||rowspan="2"|金巻兼一||colspan="2" style="text-align:center"|[[高柳滋仁]]||石井久美||高柳滋仁||古賀誠||11月30日 |- !10 |第十話||[[片山一良 (アニメ監督)|片山一良]]||山田弘和||藤沢俊幸||山田弘和||藤田まり子||12月7日 |- !11 |第十一話||高山カツヒコ||渡邊哲哉<br/>もりたけし||[[木村寛]]||秋山由樹子<br/>内田孝<br/>桜井正明||rowspan="3"|渡邊哲哉||rowspan="2"|喜多幡徹||村上やすひと||12月14日 |- !12 |第十二話||rowspan="3"|金巻兼一||[[下田正美]]||太田知章||三宅雄一郎||[[渡辺明夫]]||12月21日 |- !13 |第十三話||加瀬充子||宮田亮||古賀誠<br/>山内尚樹||宮田亮||石井久美||12月28日 |- !14 |第十四話||松園公||喜多幡徹<br/>渡邊哲哉||藤田まり子<br/>[[山内則康]]<br/>内田孝||colspan="3" style="text-align:center"|-||'''2004年'''<br/>1月4日 |} === 放送局 === {|class="wikitable" style="font-size:small" |- !放送地域!!放送局!!放送期間!!放送日時!!放送系列!!備考 |- |[[埼玉県]]||[[テレビ埼玉]]||2003年10月5日 - 2004年1月4日||日曜 0:50 - 1:20<ref name="anm">「TV STATION NETWORK」『[[アニメディア]]』2003年12月号、[[学研ホールディングス]]、109 - 111頁。</ref>||rowspan=5|[[全国独立放送協議会|独立UHF局]]|| |- |[[千葉県]]||[[千葉テレビ放送|千葉テレビ]]||2003年10月6日 - 2004年1月5日||日曜 0:00 - 0:30<ref name="anm" />||[[幹事局]]<ref>{{Cite web|和書|author=ctc|date=2003-10-21|url=http://www.kiminozo.com/news/news_031021.html|title=「君が望む永遠」第3話テレビ埼玉放送分に関するお詫びとご連絡 |accessdate=2008年10月11日 }}</ref> |- |[[兵庫県]]||[[サンテレビジョン|サンテレビ]]||rowspan="4"|2003年10月7日 - 2004年1月6日||火曜 0:00 - 0:30<ref name="anm" />|| |- |[[神奈川県]]||[[テレビ神奈川|TVK]]||火曜 0:05 - 0:35<ref name="anm" />|| |- |[[三重県]]||[[三重テレビ放送|三重テレビ]]||火曜 1:30 - 2:00<ref name="anm" />|| |- |[[全国放送|日本全域]]||[[キッズステーション]]||火曜 0:00 - 0:30||[[日本における衛星放送#CS放送|CS放送]]||リピート放送あり |} === DVD === 発売元は[[メディアファクトリー]]。各巻2話収録。 {|class="wikitable" style="font-size:small" |- !タイトル!!発売日!!品番!!備考 |- |第1巻||2004年2月25日||ZMBZ-1763|| |- |「マヤウルのおくりもの」set||2004年2月25日||ZMSZ-1760||第1巻に絵本「マヤウルのおくりもの」同梱 |- |第2巻||2004年3月25日||ZMBZ-1764|| |- |第3巻||2004年4月23日||ZMBZ-1765|| |- |第4巻||2004年5月25日||ZMBZ-1766|| |- |第5巻||2004年6月25日||ZMBZ-1767|| |- |第6巻||2004年7月23日||ZMBZ-1768|| |- |第7巻||2004年8月25日||ZMBZ-1769|| |- |「ほんとうのたからもの」set||2004年8月25日||ZMSZ-1761||第7巻に絵本「ほんとうのたからもの」同梱 |- |DVD-BOX||2007年12月21日||ZMSZ-3701|| |} {{前後番組 |放送局=[[千葉テレビ放送|千葉テレビ]] |放送枠=日曜24:00 - 24:30枠 |番組名=君が望む永遠 |前番組=[[グリーングリーン (ゲーム)|グリーングリーン]] |次番組=[[超重神グラヴィオン|超重神グラヴィオンZwei]] }} == OVA == === アカネマニアックス === '''涼宮茜'''をメインヒロインに、『君が望む永遠』と『[[マブラヴ]]』を繋ぐ物語として製作されたアドベンチャーゲーム『[[アカネマニアックス〜流れ星伝説剛田〜]]』(アージュオフィシャルファンクラブ会員専用ソフト、現在は配布終了)をアニメ化したもの。2004年11月から2005年8月にかけて全3巻が発売された。 {{main|アカネマニアックス〜流れ星伝説剛田〜}} === 君が望む永遠〜Next Season〜 === 2006年8月27日に開催されたイベント「速瀬水月聖誕祭」において、遙シナリオを原作とするアニメの制作が発表された。アージュ書き下ろしのオリジナルストーリーで、遙エンドの遙が退院したエンディング部分からエピローグまでを描く。 [[バンダイビジュアル]]から遙シナリオでの再アニメ化の話が持ち上がった当初は、TVアニメで遙シナリオを一部使っていること、また冒頭部分(第一章、TVアニメ第1・2話)が全く一緒になることから、アージュは再アニメ化に難色を示した。その後、バンダイビジュアル側からオリジナルストーリーでのOVA化の打診があり、OVAの製作が決定した<ref>『君のぞらじお』番組内番組「マブラヴラジオ」第23回(2007年10月5日配信)より</ref>。 なお、OVAの原作ともいえるシナリオはLE版に収録されている。 ==== あらすじ ==== 3年間の眠りから目覚めた涼宮遙は必死のリハビリの末、ようやく退院することができたが、依然事故のトラウマに苦しめられていた。そんな遙は鳴海孝之や妹の茜、そして両親に支えられ、普通の生活が送られるようリハビリに励んでいた。 しかし、自分を犠牲にしてまで一緒に居る時間を作ろうとする孝之の姿に、やがて遙は困惑してしまう。 ==== スタッフ(Next Season) ==== <!-- 以下、OPおよびEDクレジットに基づく --> * 原作・シリーズ構成 - アージュ(『君が望む永遠』より) * 企画 - 吉田博彦、[[森本浩二]]、[[井上俊次]] * 監督 - [[高山秀樹]] * シナリオ - [[鴻野貴光]] * キャラクターデザイン - たむらかずひこ * 音響制作 - [[楽音舎]] * 制作 - [[ブレインズ・ベース]]、マル画ファクトリー * 製作 - [[バンダイビジュアル]]、[[ランティス]] ==== 主題歌(Next Season) ==== ; オープニングテーマ「[[Next Season/sweet passion|Next Season]]」 : 作詞 - 栗林みな実 / 作曲・編曲 - [[菊田大介]] / 歌 - [[栗林みな実]] : 第1巻のみエンディングテーマ。 ; エンディングテーマ「[[dream link|eternity]]」 : 作詞・作曲 - 栗林みな実 / 編曲 - [[大久保薫]] / 歌 - 栗林みな実 ; イメージソング :; 「Still I love you…」 :: 作詞・作曲 - 栗林みな実 / 編曲 - [[飯塚昌明]] / 歌 - 速瀬水月([[たかはし智秋]]) :; 「Still I love you…(surface ver.)」 :: 作詞・作曲 - 栗林みな実 / 編曲 - 大久保薫 / 歌 - 栗林みな実<!-- 歌は「涼宮遙」名義ではない --> :; 「spring chime」 :: 作詞・作曲 - 栗林みな実 / 編曲 - 飯塚昌明 / 歌 - 涼宮茜([[水橋かおり]]) :; 「ウェイトレス物語」 :: 作詞・作曲 - 栗林みな実 / 編曲 - 飯塚昌明 / 歌 - 大空寺あゆ([[浅井清己]])&玉野まゆ([[吉住梢]]) ==== 各巻リスト(Next Season) ==== {|class="wikitable" style="font-size:small" |- !巻数!!脚本!!絵コンテ・演出!!作画監督!!発売日!!品番(限定版)!!品番(通常版)!!備考(限定版特典) |- |1||rowspan="4"|鴻野貴光||rowspan="4"|高山秀樹||rowspan="2"|たむらかずひこ||2007年12月21日||BCBA-3148||BCBA-3152||キャラクターCD Vol.1(速瀬水月・涼宮遙) |- |2||2008年3月25日||BCBA-3149||BCBA-3153||キャラクターCD Vol.2(涼宮茜) |- |3||坂巻貞彦、西田美弥子||2008年6月25日||BCBA-3150||BCBA-3154||キャラクターCD Vol.3(大空寺あゆ・玉野まゆ) |- |4||西田美弥子||2008年12月19日||BCBA-3151||BCBA-3155||オリジナルサウンドトラックCD |} == 関連商品 == === CD === * 主題歌 : [[風のゆくえ/yours]][LACM-4084](PS2/DC版 OPイメージソング) : [[Precious Memories]][LACA-4107] (TVアニメ オープニングテーマ) : [[Next Season/sweet passion]][LACM-4476](OVAオープニングテーマ/LE版アバンテーマ) * サウンドトラック : 君が望む永遠 サウンドトラックプラス[LACA-5062](PC版) : 君が望む永遠 ゲームアレンジサウンドトラック[LACA-5195](PS2版) : 君が望む永遠 オリジナルサウンドトラック Vol.1[LACA-5252](TVアニメ) : 君が望む永遠 オリジナルサウンドトラック Vol.2[LACA-5278](TVアニメ) * ドラマCD : 君が望む永遠 Dramatheater vol.1 涼宮遙[LACA-5072] : 君が望む永遠 Dramatheater vol.2 速瀬水月[LACA-9007/8] : 君が望む永遠 Dramatheater vol.3 涼宮茜[LACA-5106] : 君が望む永遠 Dramatheater vol.4 らじおすぺしゃる[LACA-5142] * TVアニメ キャラクターソングシリーズ : 君が望む永遠 Character Image Song series Portrait*1 水月[LACM-4114] : 君が望む永遠 Character Image Song series Portrait*2 遙[LACM-4116] : 君が望む永遠 Character Image Song series Portrait*3 茜 [LACM-4117] : 君が望む永遠 Character Image Song series Portrait*4 あゆ[LACM-4121] : 君が望む永遠 Character Image Song series Portrait*5 孝之[LACM-4137] * ボーカルアルバム : マイポートレイト・イン・君が望む永遠[LACA-5775] * ラジオ関連 {{main|君のぞらじお}} === 書籍 === * âge official 君が望む永遠 MEMORIAL ART BOOK (発売日:2002年11月8日、発行:[[メディアワークス]] {{ISBN2|4-8402-2126-X}}) * 君が望む永遠 VISUAL COMPLETE (2004年4月、[[メディアファクトリー]] {{ISBN2|4-8401-1051-4}}) * 絵本 : マヤウルのおくりもの (アン・マーガレット・ソウヤー 作、宮崎照代 絵 / 2004年3月25日、メディアファクトリー {{ISBN2|4-8401-1021-2}}) : ほんとうのたからもの (むらかみはるか 作 / 2004年9月25日、メディアファクトリー {{ISBN2|4-8401-1121-9}}) * PCゲーム版ノベライズ (清水マリコ 著、[[パラダイム (出版社)|パラダイムノベルス]]) : 君が望む永遠 上巻 {{ISBN2|4-89490-135-8}} : 君が望む永遠 下巻 {{ISBN2|4-89490-141-2}} * アニメ版ノベライズ (野島けんじ 著、[[MF文庫J]](メディアファクトリー)) : 君が望む永遠(1) {{ISBN2|4-8401-1045-X}} : 君が望む永遠(2) {{ISBN2|4-8401-1071-9}} : 君が望む永遠(3) {{ISBN2|4-8401-1092-1}} === その他 === * [[トレーディングカードゲーム]]「[[ランブリングエンジェル]]」 == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 外部リンク == * [https://www.age-soft.com/former/Product/Kimibo/ Win「君が望む永遠」公式サイト] * [https://www.age-soft.com/former/Product/017/ Win「君が望む永遠〜DVD specification〜」公式サイト] * [https://www.age-soft.com/former/Product/kiminozole/ Win「君が望む永遠〜Latest Edition〜」公式サイト] * [https://www.age-soft.com/former/Product/Kiminozofd/ Win「君が望む永遠〜special FanDisk〜」公式サイト] * [https://web.archive.org/web/20100804170717/http://www.alchemist-net.co.jp/products/kiminozo/ DC「君が望む永遠」公式サイト](2010年8月4日アーカイブ分) * [https://web.archive.org/web/20200218005229/http://www.oaks-soft.co.jp/princess-soft/rumbling/index.html PS2「君が望む永遠〜Rumbling hearts〜」公式サイト](2020年2月18日アーカイブ分) * [https://web.archive.org/web/20041129023106/http://www.kiminozo.com/ アニメ「君が望む永遠」公式サイト](2004年11月29日アーカイブ分) * [https://www.bandaivisual.co.jp/kiminozo/ OVA「君が望む永遠〜Next Season〜」公式サイト] * [https://www.b-ch.com/titles/398/ バンダイチャンネル TVアニメ「君が望む永遠」配信サイト] {{アージュ}} {{スタジオ・ファンタジア}} {{ブレインズ・ベース}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |header = この記事は以下のカテゴリでも参照できます |redirect1 = 君が望む永遠〜special FanDisk〜 |1-1 = 2004年のアダルトゲーム |1-2 = アダルトゲームのファンディスク }} {{DEFAULTSORT:きみかのそむえいえん}} [[Category:君が望む永遠|*]] [[Category:2001年のアダルトゲーム]] [[Category:アルケミストのゲームソフト]] [[Category:プリンセスソフトのゲームソフト]] [[Category:美少女ゲーム]] [[Category:恋愛アドベンチャーゲーム]] [[Category:ドリームキャスト用ソフト]] [[Category:PlayStation 2用ソフト]] [[Category:アージュのゲームソフト]] [[Category:ファミ通クロスレビューシルバー殿堂入りソフト]] [[Category:アニメ作品 き|みかのそむえいえん]] [[Category:UHFアニメ]] [[Category:2003年のテレビアニメ]] [[Category:恋愛アニメ]] [[Category:スタジオ・ファンタジア]] [[Category:メディアファクトリーのアニメ作品]] [[Category:バンダイビジュアルのアニメ作品]] [[Category:ランティスのアニメ作品]] [[Category:神奈川県を舞台としたアニメ作品]] [[Category:テレビアニメ化されたアダルトゲーム]] [[Category:2007年のOVA]] [[Category:ブレインズ・ベース]] [[Category:MF文庫J]] [[Category:ドラマCD]]
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Leaf
Leaf(リーフ)は、株式会社アクアプラスのアダルトゲーム専用ブランドである。 「葉っぱ」、「葉」とも呼ばれる。PINKちゃんねるのleaf,key掲示板やコミックマーケットのジャンルコードの影響もあって、Key(通称「鍵」)とひとまとめにして「葉鍵」という分類をされることもある。Leafファンのことを「葉っ派」と呼ぶこともあるが、Keyにおける「鍵っ子」ほどは使われていない。Leafというブランド名は「僕達はまだ芽が出たばかりの小さな葉っぱ、でもいつも天に向かって手を伸ばしていよう。そして、いつかきっと、大地にしっかりと根付く、見上げるほどの大木になろう。」という、想いを込めて命名された。 人の出入りが激しいメーカーとしても知られる。現代表の下川直哉は、設立当初の代表取締役の実子である。 当初は下川直哉と折戸伸治の2名で音楽事務所U-OFFICEとして活動していたが、1995年よりLeaf名義で活動を開始し、『DRナイト雀鬼』 、続いて『Filsnown -光と刻-』を発表したが、どれも売り上げは芳しくなく泡沫メーカーの域をでなかった。 しかし、スタッフに髙橋龍也を迎え、1996年にビジュアルノベルシリーズとして『雫』、『痕』をリリースし異色の作風でゲームマニアに存在をアピール、口コミやパソコン通信、同人誌などで人気がでる。1997年にビジュアルノベルシリーズの第3弾として発売された『ToHeart』のヒットで、成人向けゲーム業界のトップブランドとしての地位を確立した。 1998年に発売された『WHITE ALBUM』では、浮気をテーマに重いシナリオを展開したが『ToHeart』で掴んだファンは方向性の違いに痛々しいという反応を返す。同時期にはF&Cからみつみ美里を始めとする『Piaキャロットへようこそ!!』開発スタッフ、シルキーズで『恋姫』のシナリオを担当した菅宗光らを迎え、東京開発室を設置。従来の開発ラインは大阪開発室(2000年6月の移転までは伊丹開発室)とし、2ラインの体制となった。なお、両開発室はシナリオ・原画担当が別であるため、事実上の別ブランドとも言える(音楽は共通)。 1999年には『ToHeart』を一般販売用の別ブランドAQUAPLUS名義でPlayStationへ移植し、10万本前後を売り上げるとともに一般向けアニメ化を果たし、一般層にも名前を知られるようになる。さらにPCでは東京開発室から『こみっくパーティー』が発売され、同人誌というマニアックなテーマでありながら新たなファン層の獲得に成功した。 2000年1月28日にはアミューズメントディスク第3弾となる『猪名川でいこう!!』をリリース。同年4月23日に同名のゲーム『こみっくパーティー』を基にした同人即売会を主催したが、会場内での客捌きなどに不慣れなスタッフしか準備できず混乱する。この頃の大阪開発室は、ビジュアルノベルシリーズ三部作の高橋・水無月コンビが開発の現場から離れ管理職の立場に変わったことで開発力が大きく低下する。4月に発売された『まじかる☆アンティーク』では、新人の椎原旬とはぎやまさかげのコンビがメインを務める一方で高橋はおまけシナリオ一本を担当するにとどまり、三部作ほどの評価は得られなかった。その後、6月に原田宇陀児、7月に髙橋龍也や水無月徹といった大阪開発室の主要スタッフがLeafを退社している。 2000年9月14日文章・画像・音楽引用の規制強化、同人誌の委託販売の禁止等、二次創作・素材使用についてへの対応基準を掲載し話題を呼んだ。 2001年2月9日には大阪開発室から盗作騒動の渦中にあった竹林明秀がシナリオを務めるダーク路線への回帰を狙った『誰彼』は売り上げこそ高かったものの出来がファンの期待に反したものだった。2月14日にリーフスタッフが内情を書き綴った掲示板の書き込み文章、通称「552文書」が流出する。この文書によりリーフの内情とともに、上記スタッフらが退社していたことがLeaf,key掲示板利用者を中心に知れ渡る。Leafは3月から1ヶ月間に渡って講談社への盗作に対する謝罪文を自社サイトに掲載したが騒ぎは収まらず、2001年8月にLeaf公式掲示板が一時閉鎖されることとなる。 2002年1月、ファンクラブ会員にABYSS BOATを無料配布。4月には、菅宗光が企画、脚本を務めた東京開発室の『うたわれるもの』が発売され、売り上げは誰彼よりも減少したものの、後にPlayStation 2に移植された。PlayStation 2に移植された『うたわれるもの』は発売後の2ヶ月間で10万本を突破。Amazon.co.jpの2006年ゲーム総合部門売り上げランキングでは年間4位を記録するスマッシュヒットを記録した。また、『うたわれるもの』は2006年、ABCを幹事局とする独立U局系列でアニメ化され、OLMによる作品としてヒット、後にOVAの制作も発表された。 2003年2月大阪開発室はビジュアルノベルを復活させテネレッツァを手がけた永田和久と、新人のまるいたけしをシナリオに据えてビジュアルノベルシリーズ第4弾『Routes』を発売するも、売り上げはさらに減少した。9月の『天使のいない12月』はシナリオライターの主導により、東京開発室では初めてとなる暗い物語を展開。売り上げは『うたわれるもの』と同程度であった。 2004年4月にはアミューズメントディスク第4弾『アルルゥとあそぼ!!』が発売。収録された半リアルタイムSLGの『グエンディーナの魔女』やポンジャン風の脱衣ゲーム『りーぽん』などはそれぞれ後の作品に向けた実験作の意味合いが強いものだった。12月には、大阪・東京開発室合同による『ToHeart』の続編である『ToHeart2』がAQUAPLUS名義でPlayStation 2で発売された。これは旧作のネームバリューも手伝って、前作同様10万本を超えた。 2005年4月には、まるいたけしがメインシナリオ、古寺成が原画を務めたシミュレーションRPG『Tears to Tiara』を発売。さらに9月にはアドベンチャーゲーム『鎖 -クサリ-』を発売した。鎖はこれまでのLeafとは全く違う作品をつくろうという目標のもと、枕流がメインシナリオをつとめ、原画を外注した。これまでも雫や痕など凌辱シーンのある作品を手がけてきたLeafだったが、凌辱をメインに扱ったのはこの作品が初となりファンの評価はまっぷたつに分かれたと言う。両作品とも売り上げはコンスタントにあげているものの大阪開発室による新作の売り上げは『誰彼』以降長らく減少傾向にある。 2005年12月9日には、『ToHeart2』からアダルト要素をとりいれ、パソコンへ逆移植された『ToHeart2 XRATED』が発売され10万本を突破。これにはPS2版プレイヤーの強い後押しがあったと下川はインタビューで語っている。 2006年7月には、東京開発室より『フルアニ』が発売された。これは脱衣麻雀ゲームという『DRナイト雀鬼』への回帰を狙った作品であり、『誰彼』で採用したチップアニメのような演出を進化させる形で大きく予算を割いた実験的な作品であったが、東京開発室のゲームとしてはかなり低い売り上げにとどまっている。 2010年3月には、『WHITE ALBUM2 -introductory chapter-』が発売された。これは丸戸史明の持ち込んだ企画で、2部構成を採用しており、終章の『WHITE ALBUM2 -closing chapter-』は2011年12月に発売された。本作の挿入歌『深愛』はアニメ『WHITE ALBUM(2009年TV放映)』でOP主題歌として用いられた曲で、第60回NHK紅白歌合戦において、緒方理奈役の水樹奈々の歌唱曲に選ばれた。 2011年1月には、『星の王子くん』が発売された。今作も外部スタッフとして、『鎖 -クサリ-』のCGを勤めたQP:flapperが参加している。 2011年12月には、『WHITE ALBUM2 -closing chapter-』が発売された。 前述のようにKey(ビジュアルアーツのアダルトゲームブランド)とは、ファン層や二次創作のジャンル分けで「葉鍵」とセットにされがちである。そもそもは、巨大インターネット掲示板「2ちゃんねる」において、『痕』おまけシナリオの盗作騒動の影響で「隔離」掲示板としてleaf,key掲示板(通称「葉鍵板」)が設立されたことが原因である。 この時に盗作騒動とは無関係なKeyがLeafと一括りにされたのは、1997年に発売された『To Heart』と翌1998年にTacticsから発売された『ONE 〜輝く季節へ〜 』のファン層が重なったことにより、ファン同士の交流や両作品の比較論争が起こっていたことによる。『ONE』には元Leafで当時Tacticsに在籍していた作曲家の折戸伸治が参加しており、このこともファン層の重なりに影響している。ファン層の重なりとそれに伴う交流は、『ONE』開発チームのほとんどがビジュアルアーツに移籍してKeyを設立して以降も続くことになった。 そして、この分類は、同人文化の総本山である『コミックマーケット』のジャンルコードとして「Leaf&Key」が独立して割り当てられた2001年8月の冬コミ (C60) より一般化し、LeafやKeyの作品を知らない者にも広まった。このコードは、2013年開催の冬コミ (C85)まで1ジャンルとして存在していた。 ただし、2013年現在、両ブランドの作品傾向は大きく異なっており、以前よりもファン層の乖離が見られることから、必ずしも現状を表す分類とは言いきれないことには注意が必要である。 両ブランドの企業としての関連性は、共に関西地区にオフィスを構えるということ以外にないが、Leafに在籍したスタッフが退社後にKeyに入社し、逆にKeyに在籍したスタッフが退社後にLeafに入社したことがあった。 ※は大阪(伊丹)開発室開発
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"1998年に発売された『WHITE ALBUM』では、浮気をテーマに重いシナリオを展開したが『ToHeart』で掴んだファンは方向性の違いに痛々しいという反応を返す。同時期にはF&Cからみつみ美里を始めとする『Piaキャロットへようこそ!!』開発スタッフ、シルキーズで『恋姫』のシナリオを担当した菅宗光らを迎え、東京開発室を設置。従来の開発ラインは大阪開発室(2000年6月の移転までは伊丹開発室)とし、2ラインの体制となった。なお、両開発室はシナリオ・原画担当が別であるため、事実上の別ブランドとも言える(音楽は共通)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1999年には『ToHeart』を一般販売用の別ブランドAQUAPLUS名義でPlayStationへ移植し、10万本前後を売り上げるとともに一般向けアニメ化を果たし、一般層にも名前を知られるようになる。さらにPCでは東京開発室から『こみっくパーティー』が発売され、同人誌というマニアックなテーマでありながら新たなファン層の獲得に成功した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2000年1月28日にはアミューズメントディスク第3弾となる『猪名川でいこう!!』をリリース。同年4月23日に同名のゲーム『こみっくパーティー』を基にした同人即売会を主催したが、会場内での客捌きなどに不慣れなスタッフしか準備できず混乱する。この頃の大阪開発室は、ビジュアルノベルシリーズ三部作の高橋・水無月コンビが開発の現場から離れ管理職の立場に変わったことで開発力が大きく低下する。4月に発売された『まじかる☆アンティーク』では、新人の椎原旬とはぎやまさかげのコンビがメインを務める一方で高橋はおまけシナリオ一本を担当するにとどまり、三部作ほどの評価は得られなかった。その後、6月に原田宇陀児、7月に髙橋龍也や水無月徹といった大阪開発室の主要スタッフがLeafを退社している。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": 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Leaf(リーフ)は、株式会社アクアプラスのアダルトゲーム専用ブランドである。 「葉っぱ」、「葉」とも呼ばれる。PINKちゃんねるのleaf,key掲示板やコミックマーケットのジャンルコードの影響もあって、Key(通称「鍵」)とひとまとめにして「葉鍵」という分類をされることもある。Leafファンのことを「葉っ派」と呼ぶこともあるが、Keyにおける「鍵っ子」ほどは使われていない。Leafというブランド名は「僕達はまだ芽が出たばかりの小さな葉っぱ、でもいつも天に向かって手を伸ばしていよう。そして、いつかきっと、大地にしっかりと根付く、見上げるほどの大木になろう。」という、想いを込めて命名された。 人の出入りが激しいメーカーとしても知られる。現代表の下川直哉は、設立当初の代表取締役の実子である。
{{複数の問題|出典の明記=2022-1|精度=2022-1}} {{Otheruses|アダルトゲームブランド|リーフのほかの用法|リーフ}} {{Pathnav|ユメノソラホールディングス|アクアプラス|frame=2}} {{美少女ゲームブランド | ブランド名 = Leaf | ブランドロゴ = [[File:Leaf_Japanese_Company_Cropped_Logo.svg|250px]] | 画像説明 = | ジャンル = | 企業名 = 株式会社[[アクアプラス]] | 代表者 = 三上政高 | 関連ブランド = [[アクアプラス#作品一覧|AQUAPLUS]] | 審査 = [[コンピュータソフトウェア倫理機構|ソフ倫]] | 主要人物 = [[下川直哉]] | 特記事項 = | メインブランド = | デビュー作 = [[DR2ナイト雀鬼|DR<sup>2</sup>ナイト雀鬼]] | デビュー作発売日 = 1995年2月24日 | 最新作 = [[WHITE ALBUM2|WHITE ALBUM2 EXTENDED EDITION]] | 最新作発売日 = 2018年2月14日 | URL = https://leaf.aquaplus.jp/ | サイト名 = Leaf ホーム }} '''Leaf'''(リーフ)は、株式会社アクアプラスの[[アダルトゲーム]]専用ブランドである。 「葉っぱ」、「葉」とも呼ばれる。[[PINKちゃんねる]]の[[leaf,key掲示板]]や[[コミックマーケット]]の[[コミックマーケットのジャンルコード|ジャンルコード]]の影響もあって、[[Key (ゲームブランド)|Key]](通称「鍵」)とひとまとめにして「'''葉鍵'''」という分類をされることもある。Leafファンのことを「葉っ派」と呼ぶこともあるが、Keyにおける「鍵っ子」ほどは使われていない。Leafというブランド名は「僕達はまだ芽が出たばかりの小さな葉っぱ、でもいつも天に向かって手を伸ばしていよう。そして、いつかきっと、大地にしっかりと根付く、見上げるほどの大木になろう。」という、想いを込めて命名された<ref>「[[PC Angel neo|PC Angel]]」1998年12月号より。</ref>。 人の出入りが激しいメーカーとしても知られる。現代表の[[下川直哉]]は、設立当初の代表取締役の実子である。 == 沿革 == === 1990年代 === 当初は下川直哉と[[折戸伸治]]の2名で音楽事務所U-OFFICE{{Efn2|現在はアクアプラスの一部門。}}として活動していたが、[[1995年]]よりLeaf名義で活動を開始し、『[[DR2ナイト雀鬼|DR<sup>2</sup>ナイト雀鬼]]』 、続いて『[[Filsnown|Filsnown -光と刻-]]』を発表したが、どれも売り上げは芳しくなく泡沫メーカーの域をでなかった。 しかし、スタッフに[[髙橋龍也]]を迎え、[[1996年]]に[[ビジュアルノベル]]シリーズとして『[[雫 (アダルトゲーム)|雫]]』、『[[痕]]』をリリースし異色の作風でゲームマニアに存在をアピール、口コミやパソコン通信、同人誌などで人気がでる。[[1997年]]にビジュアルノベルシリーズの第3弾として発売された『[[To Heart|ToHeart]]』<!--"ToHeart"は公式サイトでも見られるように詰め書きするのが正しいみたいです-->のヒットで、成人向けゲーム業界のトップブランドとしての地位を確立した。 [[1998年]]に発売された『[[WHITE ALBUM]]』では、浮気をテーマに重いシナリオを展開したが『ToHeart』で掴んだファンは方向性の違いに痛々しいという反応<ref name="L">『Leaf読本1995-2006』、「[[TECH GIAN]]」2006年6月号付録。</ref>を返す。同時期には[[F&C]]から[[みつみ美里]]を始めとする『[[Piaキャロットへようこそ!!]]』開発スタッフ{{Efn2|主なメンバーとして鷲見努、みつみ美里、甘露樹、秋葉秀樹、ばんろっほ、武内よしみ。}}、[[シルキーズ]]で『[[恋姫]]』のシナリオを担当した[[菅宗光]]<!--同時期のファンクラブ会報より入社していることが確認されている。-->らを迎え、東京開発室を設置。従来の開発ラインは大阪開発室(2000年6月の移転までは伊丹開発室)とし、2ラインの体制となった。なお、両開発室はシナリオ・原画担当が別であるため、事実上の別ブランドとも言える(音楽は共通)。 [[1999年]]には『ToHeart』を一般販売用の別ブランド[[アクアプラス|AQUAPLUS]]名義で[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]へ移植し、10万本前後を売り上げるとともに一般向けアニメ化を果たし、一般層にも名前を知られるようになる。さらにPCでは東京開発室から『[[こみっくパーティー]]』が発売され、同人誌というマニアックなテーマでありながら新たなファン層の獲得に成功した{{R|L}}。 === 2000年代 === [[2000年]]1月28日にはアミューズメントディスク第3弾となる『[[猪名川でいこう!!]]』をリリース。同年4月23日に同名のゲーム『こみっくパーティー』を基にした同人即売会を主催したが、会場内での客捌きなどに不慣れなスタッフしか準備できず混乱する。この頃の大阪開発室は、ビジュアルノベルシリーズ三部作の高橋・水無月コンビが開発の現場から離れ管理職の立場に変わったことで開発力が大きく低下する。4月に発売された『[[まじかる☆アンティーク]]』では、新人の[[椎原旬]]と[[はぎやまさかげ]]のコンビがメインを務める一方で高橋はおまけシナリオ一本を担当するにとどまり、三部作ほどの評価は得られなかった。その後、6月に[[原田宇陀児]]、7月に[[髙橋龍也]]や[[水無月徹]]といった大阪開発室の主要スタッフがLeafを退社している。 2000年9月14日文章・画像・音楽引用の規制強化、同人誌の委託販売の禁止等、二次創作・素材使用についてへの対応基準を掲載し話題を呼んだ{{Efn2|[https://aquaplus.jp/copyright/ 弊社作品の二次創作物について] 発表当時は販売本数が振るわなかった『雫』、『痕』が二次創作によって広まりLeaf人気が高まったという事もあり、エンドユーザー無視の姿勢に批判が集まった。}}。 [[2001年]]2月9日には大阪開発室から盗作騒動の渦中にあった[[竹林明秀]]がシナリオを務めるダーク路線への回帰を狙った『[[誰彼]]』は売り上げこそ高かったものの出来がファンの期待に反したものだった{{Efn2|高橋龍也の日記によると、竹林は一時は業界からの引退を考えていた。[https://web.archive.org/web/20031202013831/www.bungle.info/text/index.html 当時の日記]}}。2月14日にリーフスタッフが内情を書き綴った掲示板の書き込み文章、通称「552文書」が流出する。この文書によりリーフの内情とともに、上記スタッフらが退社していたことがLeaf,key掲示板利用者を中心に知れ渡る<ref>参考・2典「[http://www.media-k.co.jp/jiten/wiki.cgi?mycmd=search&mymsg=2%A1%A614%BB%F6%B7%EF 2・14事件]{{リンク切れ|date=2018年1月}}」、「[http://www.media-k.co.jp/jiten/wiki.cgi?mycmd=search&mymsg=552%CA%B8%BD%F1 552文書]{{リンク切れ|date=2018年1月}}」</ref>。Leafは3月から1ヶ月間に渡って[[講談社]]への盗作に対する謝罪文を自社サイトに掲載したが騒ぎは収まらず、2001年8月にLeaf公式掲示板が一時閉鎖されることとなる{{Efn2|当時、度重なる延期の末に発売された『こみっくパーティー』の[[ドリームキャスト]]移植のシステム改悪や音声の飛びやゲームの途中停止など、致命的なバグへの説明を求めるコメントで非常に荒れていた。}}。 [[2002年]]1月、ファンクラブ会員にABYSS BOATを無料配布。4月には、菅宗光が企画、脚本を務めた東京開発室の『[[うたわれるもの]]』が発売され、売り上げは誰彼よりも減少したものの、後に[[PlayStation 2]]に移植された。PlayStation 2に移植された『うたわれるもの』は発売後の2ヶ月間で10万本を突破。[[Amazon.co.jp]]の2006年ゲーム総合部門売り上げランキングでは年間4位を記録するスマッシュヒットを記録した。また、『うたわれるもの』は2006年、[[朝日放送テレビ|ABC]]を幹事局とする独立U局系列でアニメ化され、[[OLM]]による作品としてヒット、後に[[OVA]]の制作も発表された。 [[2003年]]2月大阪開発室はビジュアルノベルを復活させテネレッツァを手がけた永田和久と、新人のまるいたけしをシナリオに据えてビジュアルノベルシリーズ第4弾『[[Routes]]』を発売するも、売り上げはさらに減少した。9月の『[[天使のいない12月]]』はシナリオライターの主導により、東京開発室では初めてとなる暗い物語を展開。売り上げは『うたわれるもの』と同程度であった。 [[2004年]]4月にはアミューズメントディスク第4弾『[[アルルゥとあそぼ!!]]』が発売。収録された半リアルタイムSLGの『グエンディーナの魔女』や[[ポンジャン]]風の脱衣ゲーム『りーぽん』などはそれぞれ後の作品に向けた実験作の意味合いが強いものだった。12月には、大阪・東京開発室合同による『ToHeart』の続編である『[[ToHeart2]]』がAQUAPLUS名義でPlayStation 2で発売された。これは旧作のネームバリューも手伝って、前作同様10万本を超えた。 [[2005年]]4月には、まるいたけしがメインシナリオ、古寺成が原画を務めたシミュレーションRPG『[[Tears to Tiara]]』を発売。さらに9月にはアドベンチャーゲーム『[[鎖 -クサリ-]]』を発売した。鎖はこれまでのLeafとは全く違う作品をつくろうという目標のもと、枕流がメインシナリオをつとめ、原画を外注した。これまでも雫や痕など凌辱シーンのある作品を手がけてきたLeafだったが、凌辱をメインに扱ったのはこの作品が初となりファンの評価はまっぷたつに分かれたと言う{{R|L}}。両作品とも売り上げはコンスタントにあげているものの大阪開発室による新作の売り上げは『誰彼』以降長らく減少傾向にある。 2005年12月9日には、『ToHeart2』からアダルト要素をとりいれ、パソコンへ逆移植された『ToHeart2 XRATED』が発売され10万本を突破。これにはPS2版プレイヤーの強い後押しがあったと下川はインタビュー{{R|L}}で語っている。 [[2006年]]7月には、東京開発室より『[[フルアニ]]』が発売された。これは脱衣麻雀ゲームという『DR<sup>2</sup>ナイト雀鬼』への回帰を狙った作品であり、『誰彼』で採用したチップアニメのような演出を進化させる形で大きく予算を割いた実験的な作品{{R|L}}であったが、東京開発室のゲームとしてはかなり低い売り上げにとどまっている。 === 2010年代 === [[2010年]]3月には、『[[WHITE ALBUM2|WHITE ALBUM2 -introductory chapter-]]』が発売された。これは[[丸戸史明]]の持ち込んだ企画で、2部構成を採用しており、終章の『WHITE ALBUM2 -closing chapter-』は2011年12月に発売された。本作の挿入歌『[[深愛]]』はアニメ『WHITE ALBUM(2009年TV放映)』でOP主題歌として用いられた曲で、[[第60回NHK紅白歌合戦]]において、緒方理奈役の[[水樹奈々]]の歌唱曲に選ばれた。 [[2011年]]1月には、『[[星の王子くん]]』が発売された。今作も外部スタッフとして、『鎖 -クサリ-』のCGを勤めた[[QP:flapper]]が参加している。 [[2011年]]12月には、『[[WHITE ALBUM2|WHITE ALBUM2 -closing chapter-]]』が発売された。 == Keyとの関連性 == 前述のように[[Key (ゲームブランド)|Key]]([[ビジュアルアーツ]]のアダルトゲームブランド)とは、ファン層や[[二次創作]]のジャンル分けで「葉鍵」とセットにされがちである。そもそもは、巨大[[インターネット]][[電子掲示板|掲示板]]「[[2ちゃんねる]]」において、『痕』おまけシナリオの盗作騒動の影響で「隔離」掲示板として[[leaf,key掲示板]](通称「葉鍵板」)が設立されたことが原因である。 この時に盗作騒動とは無関係なKeyがLeafと一括りにされたのは、1997年に発売された『To Heart』と翌1998年に[[Tactics (ブランド)|Tactics]]から発売された『[[ONE 〜輝く季節へ〜]] 』のファン層が重なったことにより、ファン同士の交流や両作品の比較論争が起こっていたことによる。『ONE』には元Leafで当時Tacticsに在籍していた作曲家の折戸伸治が参加しており、このこともファン層の重なりに影響している。ファン層の重なりとそれに伴う交流は、『ONE』開発チームのほとんどがビジュアルアーツに移籍してKeyを設立して以降も続くことになった。 そして、この分類は、同人文化の総本山である『コミックマーケット』のジャンルコードとして「Leaf&Key」が独立して割り当てられた2001年8月の冬コミ (C60) <ref>[http://www.comiket.co.jp/info-c/C60/C60genre.html C60ジャンルコード一覧]</ref>より一般化し、LeafやKeyの作品を知らない者にも広まった。このコードは、[[2013年]]開催の冬コミ (C85)<ref>[http://www.comiket.co.jp/info-c/C85/C85SubGenre.pdf コミックマーケット85ジャンル補足]</ref>まで1ジャンルとして存在していた。 ただし、2013年現在、両ブランドの作品傾向は大きく異なっており、以前よりもファン層の乖離が見られることから、必ずしも現状を表す分類とは言いきれないことには注意が必要である。 両ブランドの企業としての関連性は、共に[[近畿地方|関西地区]]にオフィスを構えるということ以外にないが、Leafに在籍したスタッフが退社後にKeyに入社し、逆にKeyに在籍したスタッフが退社後にLeafに入社したことがあった。 == 作品リスト == ※は大阪(伊丹)開発室開発 {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" !発売年 !発売日 !タイトル !原画 !シナリオ !備考 |- | rowspan="2" |1995年 |2月24日 |[[DR2ナイト雀鬼|DR<sup>2</sup>ナイト雀鬼]] | rowspan="4" |[[水無月徹]] | rowspan="2" | | rowspan="4" |※ |- |8月3日 |[[Filsnown|Filsnown -光と刻-]] |- | rowspan="3" |1996年 |1月26日 |[[雫 (アダルトゲーム)|雫]] |[[髙橋龍也]] |- |7月26日 |[[痕]] |髙橋龍也、[[竹林明秀|青紫]] |- |11月22日 |[[さおりんといっしょ!!]] | colspan="2" | |[[Leafアミューズメントソフト]] |- | rowspan="2" |1997年 |5月23日 |[[To Heart|ToHeart]] |水無月徹、[[カワタヒサシ|ラー・YOU]] |髙橋龍也、青紫 |※ |- |11月28日 |[[初音のないしょ!!]] | colspan="2" | |Leafアミューズメントソフト |- |1998年 |5月1日 |[[WHITE ALBUM]] |ら〜・YOU、水無月トオル |[[原田宇陀児]] |※ |- |1999年 |5月28日 |[[こみっくパーティー]] |[[みつみ美里]]、[[甘露樹]]、[[なかむらたけし|中村毅]] |三宅章介、む〜む〜、鷲見努 | |- | rowspan="2" |2000年 |1月28日 |[[猪名川でいこう!!]] | colspan="2" | |Leafアミューズメントソフト |- |4月28日 |[[まじかる☆アンティーク]] |[[はぎやまさかげ]] |椎原旬 | rowspan="2" |※ |- |2001年 |2月9日 |[[誰彼|誰彼 〜たそがれ〜]] |[[カワタヒサシ]] |[[竹林明秀]] |- | rowspan="2" |2002年 |4月26日 |[[うたわれるもの]] |甘露樹 |菅宗光 | |- |7月26日 |痕 リニューアル版 |水無月徹 |髙橋龍也 | rowspan="2" |※ |- | rowspan="2" |2003年 |2月28日 |[[Routes]] |カワタヒサシ |永田和久、まるいたけし |- |9月26日 |[[天使のいない12月]] |なかむらたけし、みつみ美里 |三宅章介 | |- | rowspan="2" |2004年 |1月23日 |雫 リニューアル版 |水無月徹、比呂菊乃助 |髙橋龍也 |※ |- |4月28日 |[[アルルゥとあそぼ!!]] | colspan="2" | |Leafアミューズメントソフト |- | rowspan="3" |2005年 |4月28日 |[[Tears to Tiara]] |古寺成 |まるいたけし | rowspan="2" |※ |- |9月22日 |[[鎖 -クサリ-]] |ぴめこ/トメ太、みつみ美里 |枕流 |- |12月9日 |[[ToHeart2|ToHeart2 XRATED]] |みつみ美里、甘露樹、なかむらたけし、カワタヒサシ |三宅章介、菅宗光、まるいたけし、枕流 |大阪・東京合同開発 |- |2006年 |7月28日 |[[フルアニ]] | colspan="2" rowspan="2" | | |- | rowspan="2" |2008年 |2月29日 |[[ToHeart2|ToHeart2 AnotherDays]] |大阪・東京合同開発 |- |12月26日 |[[君が呼ぶ、メギドの丘で]] |Karen、みつみ美里、甘露樹、なかむらたけし、カワタヒサシ |枕流 | rowspan="2" | |- | rowspan="2" |2009年 |6月26日 |痕 -きずあと- |[[甘味みきひろ]] |髙橋龍也、JIGY |- |12月18日 |[[愛佳でいくの!!]] | colspan="2" | |Leafアミューズメントソフト |- |2010年 |3月26日 |[[WHITE ALBUM2]] -introductory chapter- |なかむらたけし、[[桂憲一郎]] |[[丸戸史明]] with 企画屋 | rowspan="5" |外部スタッフ企画 |- | rowspan="3" |2011年 |1月28日 |[[星の王子くん]] |[[QP:flapper]] |永田和久 |- | rowspan="2" |12月22日 |WHITE ALBUM2 -closing chapter- | rowspan="3" |なかむらたけし、桂憲一郎・[[柳沢まさひで]] | rowspan="3" |丸戸史明 with 企画屋 |- |WHITE ALBUM2{{Efn2|introductory chapterとclosing chapterのセット版。}} |- |2018年 |2月14日 |WHITE ALBUM2 EXTENDED EDITION |} == アニメ化作品 == {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- !作品 !放送年 !アニメーション制作 !備考 |- | rowspan="2" |[[To Heart]] |1999年4月 - 6月(第1期) |[[オー・エル・エム]] | rowspan="2" | |- |2004年10月-12月(第2期) |OLM × [[アニメインターナショナルカンパニー|AIC A.S.T.A]] |- | rowspan="2" |[[こみっくパーティー]] |2001年4月 - 6月(第1期) |OLM TEAM IGUCHI | rowspan="2" |OVAあり |- |2005年4月 - 6月(第2期) |[[ラディクスエースエンタテインメント|RADIX]] |- |[[ToHeart2]] |2005年10月 - 2006年1月 |OLM Team IGUCHI |OVAあり |- |[[うたわれるもの]] |2006年4月 - 9月 |OLM TEAM IWASA |OVAあり |- |[[WHITE ALBUM]] |2009年1月 - 3月、10月-12月 |[[Seven Arcs|セブン・アークス]] | |- |[[WHITE ALBUM2]] |2013年10月-12月 |[[サテライト (アニメ制作会社)|サテライト]] | |} == 所属スタッフ == === 大阪開発室(旧 伊丹開発室) === ; プロデューサー * [[下川直哉]] ; シナリオ * まるいたけし * 枕流(まくら ながれ) - [[Active (アダルトゲームブランド)|Active]] * [[涼元悠一]] - [[Key (ゲームブランド)|Key]] *JIGY ; 音楽{{Efn2|一部の楽曲では松岡、石川、下川、中上の頭文字をとったM.I.S.N.と名義されていた。またそのことから音楽スタッフ全体を指してこの名称で呼ばれることもある。}} * 下川直哉 * 中上和英(なかがみ かずひで) * 松岡純也(まつおか じゅんや) * 石川真也(いしかわ しんや DOZA) * 日下隆之介 ; 原画 * [[カワタヒサシ]](河田正人、親父油、ら〜・YOU、河田優) * 甘味みきひろ(あまみ みきひろ) ; プログラム・スクリプト * 二宮一雄(にのみや かずお、一一(にのまえはじめ)) * みゃくさまさかず - [[テイジイエル|TGL]] * かしまゆう(中島祐治(なかじま ゆうじ)) * 山崎岳志(やまざき たけし) * 磯田悟志(いそだ さとし) ; グラフィック * 木村隆夫(きむら たかお) * 村松英孝(むらまつ ひでたか) * 中谷武史(なかたに たけし) * 比呂菊乃助(ひろ きくのすけ) * 池田美智子(いけだ みちこ) * 大谷圭(おおたに けい) * 金丸(かねまる) * TASO * 田川歩美 * 東海林(しょうじ) * こすがかなめ(小菅要) * Ann(あん) ; 広報 * 川上英嗣(かわかみ えいじ) * 田中宏明(たなか ひろあき) * 中上雅司(なかがみ まさし) ; 広告・マニュアル・パッケージデザイン * 河合英明(かわい ひであき) - KEN2と同一人物という説が有力 * 加納修二(かのう しゅうじ) * TAKEMi ; プロモーションマネージメント * [[平田裕介]](ひらた ゆうすけ) - 元[[スクウェア・エニックス]]第5開発事業部部長 === 東京開発室 === ; ディレクター * 鷲見努(わしみ つとむ CHARM) - [[F&C]] ; シナリオ * 三宅章介(みやけ しょうすけ) * 菅宗光(すが むねみつ む〜む〜) - [[シルキーズ]] ; 原画 * [[みつみ美里]](みつみ みさと) - F&C * [[甘露樹]](あまづゆ たつき) - F&C * [[なかむらたけし]](中村毅) - F&C ; プログラム・スクリプト * 岩城猫(いわき ねこ 岩城犬、YUMいわき、岩城雀) * 横尾健一(よこお けんいち) ; グラフィック * 秋葉秀樹(あきば ひでき) * 高橋政吉(たかはし まさきち) - F&C * 座間政秋(ざま まさあき) * さくらいさくら * 藤沢町 - 原画兼任 * 十条たたみ - 原画兼任 * 早織さち * [[さんた茉莉]] * 月島みちや ; 3Dグラフィック * 古寺成(ふるでら なる) - 原画兼任 ; スクリプト * 藤原竜(ふじわら りゅう) - みつみ美里の実弟 ; 音声・アニメーション関係 * 望月雄太郎 === 外注スタッフ === ; シナリオ * 永田和久(ながた かずひさ) - 大阪開発室 * [[小林且典]] with 企画屋 * [[丸戸史明]] with 企画屋 ; 原画 * [[QP:flapper|小原トメ太(トメ太)]] * [[QP:flapper|さくら小春(ぴめこ)]] * Karen(かれん) - [[アリスソフト]] ; 音楽 * 林茂樹 - [[スティング (ゲーム会社)|スティング]] ; 背景 * [[草薙 (アニメ制作会社)|草薙]] == 元スタッフ == ; シナリオ * [[髙橋龍也]] - 大阪開発室、[[プレイム]]。現在はアニメ脚本家 * [[原田宇陀児]] - 大阪開発室 * 椎原旬(しいはら しゅん) - 大阪開発室、[[PULLTOP]]代表、[[ぺんしる|SEVEN WONDER]] * 雨之幸永(あまの ゆきなが) - 大阪開発室、[[ういんどみる]] ; シナリオ・スクリプト * [[竹林明秀]](たけばやし あきひで、青紫、青村早紀、あおむらさき、BluePurple) - 大阪開発室。故人 ; 原画 * [[水無月徹]] - 大阪開発室、プレイム。現在は漫画家 * [[はぎやまさかげ]](月餅) - 大阪開発室、[[アリスソフト]] ; グラフィック * 鳥野正信(とりのまさのぶ、鳥の) - 伊丹開発室、[[Key (ゲームブランド)|Key]]、[[RAM (ブランド)|RAM]] * ろみゅ - 大阪開発室、[[プレイム]]、[[M2_(ゲーム会社)|M2]] * 陣内主税(じんない ちから) - 大阪開発室 * 閂夜明(かんぬき よあけ) - 大阪開発室 * 上田梯子(うえだ はしご) - 大阪開発室、[[スクウェア・エニックス]] * 柏木隆宏(かしわぎ かずひろ) - 大阪開発室 * ねのつきゆきしろ - 大阪開発室 * shigi(鴫(しぎ)) - 大阪開発室 * ばんろっほ - 東京開発室、[[F&C]]、[[ま〜まれぇど]] * 武内よしみ(たけうち よしみ) - 東京開発室、F&C、ま〜まれぇど * 氷山あずき(ひやま あずき) - 東京開発室、[[CROSSNET|クロスネット]] * 香月☆一(こうづき はじめ) - 東京開発室、F&C * 藤原十夜(ふじわら とうや)- 東京開発室 * 水野早桜(みずの さお)- 東京開発室 * 宮田筝治(みやた そうじ)- 東京開発室 ; プログラマ * 生波夢(なまはむ) - 伊丹開発室、RAM * 中尾佳祐(なかお けいすけ) - 大阪開発室 * 乾真樹(いぬい まさき) - 東京開発室、[[ソニー・コンピュータエンタテインメント|SCE]] ; 音楽 * [[折戸伸治]] - 伊丹開発室、[[Tactics (ブランド)|Tactics]]、Key * [[米村高広]](よねむら たかひろ、CHEMOOL(けむーる)) - 大阪開発室、[[テイジイエル|TGL]] * [[豆田将|衣笠道雄]](きぬがさ みちお、豆田将(まめだ すすむ)) - 大阪開発室。故人 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * [https://web.archive.org/web/20080105104557/http://sowhat.magical.gr.jp/bilist/ Bi_List] - 美少女ゲームの20世紀(2008年1月5日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) == 関連項目 == * [[リセ (カードゲーム)|リセ (Lycée)]] - Ver.Leafとして多数のキャラクターが登場している。 * [[leaf,key掲示板]] * [[Key (ゲームブランド)|Key]] == 外部リンク == * [https://leaf.aquaplus.jp/ Leaf] * [https://aquaplus.jp/ AQUAPLUS] {{Leaf}} {{Suara}} {{ユメノソラグループ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りいふ}} [[Category:Leaf|*]] [[Category:日本のコンピュータゲームメーカー・ブランド]] [[Category:アダルトゲームのメーカー・ブランド]] [[Category:アクアプラス]]
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2023-05-27T01:49:20Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Leaf
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月姫 (ゲーム)
『月姫』(つきひめ)は、同人サークル『TYPE-MOON』(有限会社ノーツの前身であり、現在はそのブランド)制作のビジュアルノベルゲーム。シナリオ担当は奈須きのこ、グラフィック担当は武内崇。イメージカラーは「夜の青」。 完全版(ゲームとしての完成形)は、2000年12月29日より東京国際展示場にて開催されたコミックマーケット(以下:コミケ)59が初出。 同人サークル『帽子屋インサイド』が頒布していた変換ソフト『輪廻月姫』でゲームボーイアドバンスでプレイできるようになる。 同人ゲーム。シナリオ枚数原稿用紙5000枚、グラフィックの総数500枚以上。その世界観、細かい設定などがコミケ終了後にユーザー(プレイヤー)の間で大きな評判を呼び、同人ゲームとしては異例のヒット作となった。また、エキサイト ブックス現代作家ガイドにも掲載されている。 月姫の好評を受けて、おまけディスク『月姫PLUS-DISC』やファンディスク『歌月十夜』が制作された。その後、同人サークル渡辺製作所とのコラボレーションによる対戦格闘ゲーム『MELTY BLOOD』も発表され、月姫シリーズを形成した。 また、同人作品であるにも拘わらず、商業作品として展開・派生した作品・商品が多く、『真月譚 月姫』としてのアニメ化・漫画化といった各種メディアへの展開、『MELTY BLOOD Act Cadenza』としてのアーケードゲーム進出、フィギュアやキャラクターグッズの商品化などが挙げられる。詳細は各記事や歴史の節を参照。特にアンソロジーコミックの発行点数は、TYPE-MOONが二次創作をあまり規制していないことから、相当な数となっている。 TYPE-MOON10周年記念として、「TECH GIAN」2008年6月号にて『月姫』のリメイク版の製作が発表された。シナリオ・奈須きのこ、原画・武内崇のコンビは据え置きで、CGは全て新規描き起こしとなるとした。発売時期や対象年齢はこの時点では未定であった。 本作はテレビアニメ『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』とアプリゲーム『Fate/Grand Order』(以下:『FGO』)とシンクロするようにシナリオが執筆されており、『FGO』第1部のクライマックス、本作でのとある言及がTVアニメ第2期の放送と同時に進行する予定であったが、『FGO』の配信が当初の予定より延期したことと、本作の発売延期により実現はしなかった。 2021年3月26日に『月姫 -A piece of blue glass moon-』のタイトルで、2021年8月26日に発売されることが発表された。プラットフォームはPlayStation 4 / Nintendo Switchで、PC版発売から20年余を経てのコンシューマ初移植となる。フルボイスで、過去の関連作品から担当声優は変更されており、新規にキャスティングが行われている。アルクェイドルート「月姫」とシエルルート「夜の虹」を収録した、「月の表側」編として発売される。収録されなかった残りのヒロインのシナリオは、次回作以降で語られるとされている。 物語の主人公である遠野志貴は、幼い頃に一度死にかけた後、「モノ」の壊れやすい部分を黒い線として捉えることのできる特別な眼「直死の魔眼」を持つようになった。その能力を持つ負担に苦しんでいたときに、偶然出会った女性からたしなめられ、その眼の力を封じる眼鏡を受け取ったおかげで、外見上、普通の少年として平凡な生活を送ることができた。 しかし、子供の頃から預けられていた親戚の家から、実家に帰ることが決まった頃と時を同じくして起きる、全身の血液を抜かれて人が殺されていく連続猟奇殺人事件が、志貴の生活を非日常へと急激に変化させてゆくこととなる。 この作品の設定はTYPE-MOON作品の多くが共有するそれと同一である。 共通した設定も参照のこと。 人の血を吸う吸血種(血を吸う生き物の総称)の一種。作中においては後述の真祖(しんそ)、死徒(しと)、ないしそれらに血を受けて吸血種と成ったモノを指す。基本的に太陽光に弱く、血を吸った対象を支配し配下に置いたり、血を入れた対象を手足の延長線のように操ることができる。 吸血種において特異なモノ。性質は精霊に近い。基本は、自然発生で男性体しか生まれないが、ごく稀にアルクェイドのような女性体が生まれることがある。人間に対して直接的な自衛手段を持たない星が生み出した、人間を律する「自然との調停者」「自然の触覚」。発生に人々の想念が関わっていないので神霊の類ではない。世界に望まれるも人々に望まれた存在ではないので神代の終わりには、次第に隠れ住むようになり、その数を減らしていった。(リメイク版では、世界の裏側と呼ばれる、幻想種が逃げて行った場所で人間の理で編まれた編み物(テクスチャー)で覆われた地上と違い、地下にある星のかつての姿を編まれた編み物で覆われた世界で、神代の終焉以降は、幻想種と共に逃げ込んでいる。) 星をかつての姿「真世界」に戻そうとする。人を律するために精神と肉体の構造は「朱い月のブリュンスタッド」と呼ばれる月で生まれたアルテミット・ワンを真似て作られているが、真祖にはそもそも欠陥が含まれるため、吸血衝動という間違いを持っている。高い身体能力と精霊に近い性質を持ち、世界と繋がることで思い描く通りに『自身(精霊)』と『自然』を変貌させる「空想具現化(マーブル・ファンタズム)」という精霊の能力を使える。アルクェイド程の力があるなら全力を尽くせば山奥に街一つ作り上げ、「彼女の世界」の中であれば千年後の月を現代に持ってくることが可能である。なお、動物が相手ならば多少手を出すことが出来るが、自然から独立した存在へ直接の干渉は行えない。例えば、本編でロアの足首以外を消し去ったのは、大気の層を真空状態にした結果である(アルクェイドの空想には床にまで断層を作る、という意思が足りなかった)。 細胞の限界という意味での寿命は無いが、全ての真祖には「律する対象である人間の血を吸いたい」という欲求(欠陥)があり、真祖はその欲求を抑えるのに大半の精神力を消費し、いずれ蓄積された欲求が自身の精神力を超えそうになった時には自ら永劫の眠りに就くため、それが寿命の無い真祖の「寿命」とされる。自ら眠りに就くことなく吸血衝動に負けて欲求のままに無差別に人間の血を吸うようになってしまった真祖は「堕ちた真祖」や「魔王」とも呼ばれ、力の抑制から解き放たれ、真祖としての真の力を発揮できるようになっており、人の力で滅ぼすのは不可能と言われる。 次代の真祖の王族として生を受け「堕ちた真祖」を狩る為に教育を施されたアルクェイドは、ロア(人間時)の姦計により暴走し真祖の大半を消滅させたが、『MELTY BLOOD』では真祖というにはあまりにも純度が低いものの、アルクェイド以外に真祖の生き残りがいることが示唆されている。 吸血鬼の一種。人間から吸血種に成った者たち。真祖や他の死徒に吸血され、その血を体内に入れられた人間のうち、肉体・霊的資質に優れた者が成った場合と、魔術師が研究の果てにその身を吸血種へと変えた場合とがある。吸血による死徒化の場合、血を入れた側を「親」、血を入れられた側を「子」とも呼び、「親」である吸血鬼は「子」の力や吸血衝動に影響を与える。 吸血による死徒化の過程は次の通り。素質ある人間の死体の脳髄が溶けて魂が肉体に完全に“固定”された「食屍鬼(グール)」の状態となり、その後数年かけて他の遺体を喰らい続けることにより腐敗した血肉を補った「生きる死体(リビングデッド)」になり、「生きる死体」がさらに数年かけて人間だった頃の知性を取り戻してはじめて「吸血鬼」となる。ただし、特に資質に恵まれた者であれば、短期間で吸血鬼となる場合もある。 死徒の肉体は不老であるうえ、肉体も人間に比べれば頑強になり、“復元呪詛”と呼ばれる時間逆行によって生きている限りは損傷部位も元に戻る。しかし、精神や魂の劣化を防ぐことはできず、またその肉体は何もしなくても常に崩壊を続ける。そのため、生前と同じ種類の生き物の血を定期的に摂取することで遺伝情報の補完を繰り返す必要のある「不完全な」不老不死である。 死徒の起こりは真祖の吸血衝動の一種の痛み止めとして用意された人間だったが、やがて力を付けることで真祖の支配を破り逃げ出した最初期の死徒たちが「死徒二十七祖」と呼ばれるようになり、特に強力な吸血種の称号として、代替わりや欠番、または死徒以外の吸血種を座に迎えながらも、現在も世界の闇に君臨している。 シエルが所有する教会所蔵「転生批判外典」たる概念武装。 もともとは祭礼用に使われていた一角獣の角。一角獣が臨終した際に、人身御供の少女と角に宿る動物霊を融合させた。融合して生まれたのが精霊「セブン」である。表面には「転生かっこ悪い」といった意味合いの転生批判の文句がびっしりと書き込まれていた、という儀礼用のアイテムが武器として使用されることとなり、槍やら杭となったが、近代化にあわせて銃剣に、現在はシエルの趣味でミサイルランチャー付き大型パイルバンカーに改造されている。 教会が主の威光を示す為に作りあげた、長く使い手不在だった門外不出の聖遺物。 千年前、地上に残っていた稀少な幻想種をおびき寄せ、呼び水となった少女ごと竈にくべる事で神鉄を錬成し、教典として組み上げた概念武装。 魂砕き、すなわち断罪死をはじめとした、人間が背負うであろう死の要因があまねく記され、神鉄はその固有震動でこれを戒める洗礼を詠唱し続ける。 もともとは持ち運べないサイズの祭壇のような装置だが、今はシエルに解体され、一角馬の角を基本骨子に作られた「対吸血鬼武装車両」になっている。 双銃、銃剣、大剣、甲冑、破城弩弓、という六つの武装へと換装可能。更にそれらを組み上げて展開する事によってより強力な形態へと変形可能。 武器工場とも喩えられ、シエルのオーダーに応じて弩弓の使用弾頭などを変更できる。 燃費がすごく悪く、普通の人間が使ったらすぐに衰弱死する。 モノの寿命を視覚情報として捉えることのできる眼。これが読み取って視覚化するのは単なる生命活動の終了ではなく、意味や存在における「いつか来る終わり」「死期」「存在限界」であり、「存在の寿命」そのものである。直死の魔眼所有者にとって「死」は黒い線と点で視認され、強度を持たない。魔眼所有者がこの「死」を切ったり突くと、対象(有機、無機を問わず、時にはより広義・上位概念上の存在も含む)を殺すことができる。 「死の線」はモノの死に易いラインを表し、線をなぞり断てば本体が生きていようとその部分は「死亡」し、結果として対象はどんなに強靭であろうと切断される。「死の点」は死の線の源でもあり、寿命そのもの。死の点を突けばそのモノの意味が死に至る。志貴が点を見るには極度の精神集中が必要となる。 直死の魔眼と称しているが、正しくは魔眼ではなく超能力に分類され、所持者の脳と眼球でワンセットである。見ることができる「死」は所持者の認識に左右される。対象物の中の限定的な部分に関する線や点だけを突くことも可能で、体内の毒物や病んだ内蔵などを限定して殺せば他は傷つけずに排除できるため、治療としての応用が可能。 かつて、ヒトならざるものと交わり力を得た人間の末裔。血の力を引き出すことで人間には無い異能を使い、先祖の血や個人によって能力は大きく異なる。ヒトならざるものの血を引く者が血の力を最大に引き出した状態を先祖還りまたは、魔を示す三大色を冠した紅赤朱(くれないせきしゅ)と呼ぶ。基本的に歳を重ねるごとに人以外の血は強くなっていき、魔としての意識がそれを抑えつける人の意思より強くなった状態を「反転」と呼ぶ。「反転」すると人らしい理性や道徳観が欠如し、ケモノじみた欲望のままに行動するようになる。紅赤朱など、そういった魔としての血が濃くなって人から「外れた者」を処罰する退魔の組織や血筋も存在し、家柄や時と場合によって混血も彼らと協力したり、最大の敵対者となったりする。 声の項は、『MELTY BLOOD』(無印 - 『Actress Again』まで)『カーニバル・ファンタズム』 / 『真月譚 月姫』 / 『月姫 -A piece of blue glass moon-』『MELTY BLOOD:TYPE LUMINA』での担当声優。 リメイク版から新規に登場するキャラクター。 開発スタッフはTYPE-MOON所属スタッフがシナリオ・メインキャラクターデザイン・コンテ・レイアウト・原画・グラフィック・演出・スクリプト・3D・サウンドプロデュースを担当。そのため主に内製スタッフによる少数態勢の制作となるが、サブキャラクター・武器デザイン協力には『FGO』にも参加するデザイナーが参加。その他、コンテ・レイアウトにコミカライズ版『真月譚 月姫』を手掛けた佐々木少年、グラフィック協力に『衛宮さんちの今日のごはん』のTAaが参加している。その他、ゆうろや東地和生などの美術スタッフや深澤秀行などの音楽担当は前作『魔法使いの夜』からの続投である。 絵コンテ・レイアウトは一通りを武内が担当しているほか、同チームのBLACKやこやまひろかずもアイデア出しなどのサポートで参加している。また、漫画版『真月譚 月姫』の作者・佐々木少年が絵コンテ・レイアウトに参加しており、シエルルートのヴローヴ戦、死徒ノエル戦、カルヴァリアを担当した。グラフィックに参加したTAaは、ホワイトボードの書き文字&イラストを担当した。 スクリプトは基本的にBLACKが一人で担当しているが、開発終盤に2020年にノーツに入社した新人である漆之原が参加し、分岐や日常シーンの調整、アルクェイドのデートシーン、「おしえて!シエル先生」のスクリプトを担当している。 開発としてはTYPE-MOONスタッフにてこれまでの作品と同様にPC版を作成後、『FGO』を開発・運営するディライトワークスのプロデュースの下、ヒューネックスを開発企業としてNintendo SwitchとPlayStation 4への移植作業が行われた。 企画は2008年、TYPE-MOON作品の情報誌『TYPE-MOONエース』で発表した直後に始動した。元々、ノーツとしては『月姫』のリメイクはかつてから話題に上がっていたが、2008年以前は『Fate』シリーズをメインに活動しており、実制作には動けない状況であった。しかし、2008年に『Fate』シリーズが一度、ひと段落したことでリメイク企画が始動した。 2014年発売を目標に開発を開始。2008年の発表時点では、武内によるキャラクターデザインのリファインと奈須によるプロット作業が完了していた。2009年からは、「魔法使いの夜」の制作に本格的に参加していなかった武内が先行して立ち絵の準備を開始した。 その後、当初から予定されていた『魔法使いの夜』の開発が一段落した2011年より本格的に開発が始まる。2012年時点ではシエルルートまでのテキストが完成し、武内の描く立ち絵も全体の6割程度が揃った状態であった。しかし、『FGO』の企画・開発が2013年に急遽始動したことにより全体的な計画が変更。2013年末から2017年末まではスクリプトや絵素材の作業を少しずつ進めながらも『FGO』開発のために、4年間開発が実質凍結されることになった。当初は『FGO』の開発と同時進行で作業が進められると想定されていたが、最終的にはそれは不可能という判断になる。 2017年頃に「このままじゃ月姫が出せない」という話題が上がり、同時期に『FGO』の第1部の作業が終了し、1.5部と第2部のシナリオ構成が完成したこともあり、2018年より少しずつ作業が再開。2018年にufotableへのOPアニメーションの制作依頼も行われる。上述のように開発再始動時にはシナリオの多くは完成しており、ノーツスタジオ内ではPC版を完成させるためのグラフィックとスクリプトの作業がメインに行われた。しかし、そこからさらに『FGO』の開発作業を優先することになり、開発期間がさらに伸びることになる。 そして、2019年末にアルクェイドルートのPC版開発はほぼ終了し、シエルルートの開発と並行して、Nintendo SwitchとPlayStation 4でPC版と同様の動作を再現できるのか検証が行われた。 2020年夏からの半年間は全作業を月姫に絞り制作が行われた。2020年末、PC版本編が完成。その後、2021年1月より、おまけコーナー『おしえて!シエル先生』の開発が行われた。『おしえて!シエル先生』に関しては、当初、家庭用ゲーム機向けの作品に内輪ネタのような内容を入れるべきではないと導入予定はなかった。しかし、本編開発終了後、「同人気質と言われても、それが古くからのファンにとって大切なピースになる」と一転、開発が行われた。 本編の開発はテキスト量やイラスト枚数の多さもあり、同人版『月姫』の1ルートと比較して1.1倍程度のシナリオ量である前作、『魔法使いの夜』と同様のスペックで作るには限界があった。そのため、開発初期からクオリティは抑えつつ立ち絵や表情・ポーズ差分の枚数を増やして満足度を上げる方向で開発が進められた。しかし、パイロット版をプレイした際に、『魔法使いの夜』とのクオリティーの違いにギャップを感じた奈須と武内は、最終的にグラフィックのクオリティも『魔法使いの夜』に近いレベルまで向上させることになった。それでも、『魔法使いの夜』にてキャラクターデザイン・総作画監督・原画・色彩設計を担当したTYEP-MOONグラフィックチーフで同作のアートディレクター・こやまひろかずの同作開発当時の作業負担を振り返り、その時に膨大な作業量だったことを考慮して、『月姫』ではディテールを緩めて絵素材を増やす方針は変わらずに継続した。しかし、最終的にはグラフィックのクオリティが上がり、制作期間も長引くことになった。 プレイ時間は通してプレイすると約40時間、フルボイスで約60時間ほど。 『月姫 -A piece of blue glass moon-』の全体的な作業期間は、すべてを合算すると奈須のシナリオ執筆期間が約2年、全体的な開発で約5年ほどとなる。 舞台は2014年。これは当初、発売予定が2014年であったことに加え、2014年放送のテレビアニメ『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』と同時期に配信予定であったアプリゲーム『FGO』とシンクロするようにシナリオが執筆されていた関係もある。 時代設定の変更は上記の理由のほか、1999年が舞台であった『月姫』をその時代設定のまま届けるのは、若いユーザーに遊んでもらうためのテーマや社会性が感じられず娯楽として不十分であると奈須が感じたため。前作、『魔法使いの夜』に関してはバブル時代が物語のテーマになっていたが、『月姫』には時代を関するテーマはないため、各キャラクターを守りつつ時代設定は大きくアップデートされた。 また、事件のスケールも『FGO』の劇中の事件のスケールが大きくなったことに合わせて「都心でハリウッド映画をやる」という考えにより変更され、舞台も「関東近郊の普通の街の三咲町」から「東京都心の総耶」に変更される。また、この変更は「今の時代に月姫を遊んでもらう」ためには現代に舞台を移したほうが良いという考えもあった。 新キャラクターも多く追加された。これは、同人版ではシナリオ上必要最低限のキャラクターしか出せていなかったが、世界観を広げるために必要だと感じた奈須が、新たにキャラクターを数多く設定した。 死徒二十七祖の設定などは大きく変更され、当時の奈須の基準ではトップランカーであったキャラクターたちが『Fate/stay night』以降の作品の基準に合わせて調整されている。削除されたキャラクターもいるが、設定の残ったメンバーに関しては、能力のアップデートなどを行いスケール感を広げている。 新キャラクターのマーリオゥは聖堂教会のバックボーンを語るキャラクターが必要になると判断され制作された。本作では聖堂教会の設定を掘り下げる必要があり、新キャラクターに加え、同組織の歴史を記した「聖堂教会年表」も2010年に作成されている。なお、本作の年表を元にテレビアニメ『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』以降に新たに開示された魔術協会の設定が制作されている。 上記のように、リメイクに際して舞台や設定は大きく変更されているが、「変化してほしくない」ファンの気持ちも尊重し、アルクェイドルートに関しては同人版と内容自体の大きな変更はされていない。一方で、シエルルートに関しては、「同人版の再現はアルクェイドルートで行うから、シエルルートは古参プレイヤーの記憶にない物を作りたい」という奈須の願いにより、シナリオのキーポイントは変更せず、それ以外の要素は大幅に変更した。また、作品全体を通して、本作では同人版と大きな変更点が一つ存在しており、武内はその点について、「同人版に思い入れのある人にとっては残念な要素となる」としつつも「変更した点にはすべて意味がある」と述べている。奈須は、ファンが見たいと思うシーンは残しつつ、それ以外のシーンで「好きではあるけどこれはいらないよね」と感じるシーンは変更し、中身の詰まった新たな『月姫』を作り上げたと述べている。 これらの設定の大幅な変更に至った理由として、奈須は2007年公開の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を視聴したことが大きかったと語り、本作の前半が個々のシーンのディテールを向上させつつ総集編としてまとめながら、後編のラミエル戦以降は完全新作の映像・シナリオであったことに感銘を受け、『月姫』の大幅なシナリオ変更を改めて決断したという。 奈須は本作の開発において最大のライバルをコミカライズ版『真月譚 月姫』を描いた佐々木少年であったと後に述べている。佐々木はアルクェイドルートのダメな要素を全て上手くアレンジして、そこにシエルルート、秋葉ルートの要素も含めた完成度の高いコミカライズを手掛けたため、リメイクを出すのであれば本作を超えないといけないと奈須は感じていた。なお、佐々木に関してはTYPE-MOONスタッフと共同で本作のコンテ・レイアウトを担当しているほか、PC版が完成した際のテストプレイも務め、TYPE-MOONのオフィスで6日間のテストプレイを行っている。 佐々木少年による『真月譚 月姫』の影響を受けたシーンとしては、『旅の終わり』におけるアルクェイドの「大好き!」のシーン。これは奈須が漫画版「真月譚 月姫」8巻の帯に使った一文をリメイクでは絶対入れたいと思っていたため採用した。本来はイベント絵も要望していたが、スケジュールなどの都合で断念された。ただし、曲に関しては奈須の要望で主題歌アレンジ『生命線(piano ver.)』が使用されている。 志貴は奈須の「自分へのご褒美」として、美形度があがっている。アルクェイドは武内の希望で新規のデザインとなっており、「今の自分がアルクェイドのモチーフとなった人物を描いた姿」を参考に再デザインしている。服装に関しては彼女らしさを出すために大きく変更はしていないが、変化を強調するためにミニスカートに変更された。シエルは「お姉さん感」が増しており、「みんなから頼られる憧れの先輩」といったキャラクター像となっている。武内はシエルは髪形を変えると印象が大きく変わることを以前から確信しており、設定でアップデートされた要素も組み合わせて「新しいシエル」になるように大きく再デザインされた。。秋葉・翡翠・琥珀は時代から切り離された存在であるため、デザイン面では元のイメージから大きく変更されていない。 これらのデザインの変更は、古参ユーザーにもう一度『月姫』に出会い体験してもらうために行われた。 キャスティングは従来の関連作品から一新され、今後も長く続いていく作品とするために、若手中心のキャスティングとなっている。 収録ではゲーム作品としては異例ながら、台本のセリフ全てに対応したキャラクターの表情イラストが添付されたものを使用した。これは収録段階でゲーム部分の開発がある程度終了していたため可能となった。声優は文字だけでなく表情からも演技プランを練れ、スタッフとしても良い演技を一発で貰えることから、台本制作のコストは掛かるが奈須はWin-Winの方式であったと語っている。ただし、志貴は表情差分がないため、通常用いられる文字だけの台本が使用された。 本作では同人版にあった性描写を抑えつつもCEROレーティングが18歳以上のみ対象となっている。当初より性描写を加えたアダルトゲームにはしない方向がとられていた本作だが、同人版の残虐な描写を媒体に合わせて表現をマイルドにすることは、月姫の大事な要素を表現できなくなると判断されたため、家庭用機版でありながら、CEROレーティングを18歳以上のみ対象に設定した。 OPアニメーション制作は奈須と武内の要望もあり、これまでTYPE-MOON作品のアニメーションを制作してきたufotableが担当。監督・絵コンテ・演出は同社所属のアニメーター・竹内將が担当。竹内はufotableで演出家として『Fate』シリーズを中心に実績を重ねてきた点や同人版『月姫』もプレイした経験があるという点から選ばれた。キャラクターデザイン・作画監督はこれまでの『TYPE-MOON×ufotable』作品同様に須藤友徳が自ら立候補して手掛けている。須藤は同人版からの本作のファンであり、それが影響して他スタジオが手掛けた『真月譚 月姫』のアニメにも参加した経験がある。アニメCGディレクターは『劇場版 Fate/stay night [Heaven's Feel]』にてランサーVSアサシン戦のCGアニメーションを担当した佐藤号宙が務める。制作依頼は『劇場版 Fate/stay night [Heaven's Feel] 第二章』制作中である2018年に行われ、2020年の第三章制作終了後に本格的にアニメーション制作が開始。竹内と佐藤の二人で映像設計を行い、作画の大半はデジタル作画で手掛けられているほか、これまでの同社作品と同様、背景美術・撮影・CGなどは同社内製チームが手掛けている。 OPは『アルクェイドルート』と『シエルルート』の2本が制作されている。 開発については、FGOの開発もあり2021年9月時点では準備段階で開発は始まっていない。奈須はインタビューで「オリンピックを待つつもりくらいの気持ちでいてほしい」と語っている。そのかわり、間を埋めるプロジェクトは色々と準備されているとのこと。 ルート数に関しては『4ルート』用意されることが2021年9月の4Gamer.netのインタビューで奈須により明言されている。分量はシエルルートほど絵で魅せる必要のある派手な演出は恐らくないとされており、『月姫 -A piece of blue glass moon-』と違い4ルートで一つのゲームに収まるとされている。また、2021年9月の段階で、同人版「月姫」のシナリオをリメイク版の素材を使用してBLACKが作成したプロトタイプ版のPCゲームが既に存在しており、そこには同人版にて未発表であったあるキャラクターのルートも含まれている。 開発については社内にグラフィッカー、スクリプターを増やす方針は現状取られていない。これは純粋に基準を満たす人材の確保ができない点が挙げられている。 歌はReoNa(レオナ)、作詞・作曲・編曲は毛蟹(LIVE LAB.)が担当している。 バッドエンド時のプレーヤー救済コーナー。シエル扮する知得留先生(ちえるではなく、しえると読むのだが、ファンからもちえると呼ばれている)と適当にデフォルメ化されたアルクェイド(ネコアルク)が漫才形式で攻略におけるヒントを教えてくれる。また、トゥルーエンド・グッドエンドのときはエンディングの解説をしてくれる。たまに知得留先生が不在であったり、ゲスト講師が登場したりと多様な場面が見られる。漫画版でもパロディ的なものが行われ、最終巻にまとめて収録された。 元々、バッドエンド時のプレーヤー救済のヒント的なものを作ろうという考えはあったものの、「教えて知得留先生」の構想はなかった。しかし『月姫』のマスターアップを一週間後に控えたある日、サポート役のOKSGと奈須きのこが最終のチェックを行っていたところ、武内崇から突然、知得留先生の絵がFAXで届きそれを見た奈須きのこが「これはやるしかねぇ!」と急遽作成されたという逸話がある。 ネコアルクは一人(一匹?)で『歌月十夜』『MELTY BLOOD』進出や架空の映画『NECOARC-THE MOVIE-』で銀幕デビューと暴走に暴走を重ねている。さらにはアニメ『月詠 -MOON PHASE-』のエンドクレジットに登場したことも。『Fate/hollow ataraxia』にも一瞬ではあるが登場する。『歌月十夜』では、シエル先輩と茶室で見事なクロスカウンターを決めている。このシーンは「週刊少年マガジン」連載中の『はじめの一歩』のパロディである。このバッドエンドのお助けコーナーという趣旨は、Leafビジュアルノベルシリーズ『雫』『痕』にも存在した。また、TYPE-MOONの次作『Fate/stay night』にも「タイガー道場」として受け継がれている。 リメイク版では「おしえて!シエル先生」のタイトルで収録されている。シエル先生とネコアルクのほか、アルクェイドの幼少期の姿であるエコアルクが登場する。 『月姫』(『月姫PLUS-DISC』『歌月十夜』『MELTY BLOOD』を含む)は、それ自体独立した作品であるが世界そのものは同一で、そこに登場する人物やその能力は他のTYPE-MOON作品や奈須きのこの小説とも何らかの繋がりを持っている。 TYPE-MOONスタッフは、『月姫』の商業リメイク作や、『月姫』の続編『月姫2』の作成を示唆する発言を残しているが、真偽のほどは明確ではなかった。しかし、2008年発売の「TYPE-MOONエース」にて、リメイク版『月姫』(Windows)の発売が正式に発表された。対象年齢は未定。 『真月譚 月姫』(しんげつたん つきひめ)のタイトルで、テレビアニメおよびコミカライズが制作されている。両作ともアルクェイドルートをベースとしたストーリーだが、テレビアニメ版が原作を簡略化しているのに対し、漫画版は原作の複数のルートを統合している。 同人誌『宵明星』に掲載された、奈須きのこ著の『月姫』の外伝小説。『月姫読本』にて加筆修正されて再録されている。本編のとあるルートの後から約一年後の時間軸で起きた事件が書かれている。 同人誌『宵明星』に収録された武内崇による漫画作品。シナリオ担当の奈須きのこは一時期、この設定を認めていなかったらしいが、現在は『月姫読本 Plus Period』に収録されている。 DVD『真月譚 月姫 prologue』に収録された作品。絵本のような形式になっている。真祖のあらましとアルクェイドの過去が簡潔に語られている。 TYPE-MOON公式モバイルサイト『まほうつかいの箱』で配信されている4コマ漫画。作画はACPI。タイトルの通り、遠野秋葉を主軸とする遠野屋敷での物語が展開される。第十七話から第十九話は「浅上女学院編」と銘打って、文字通り舞台が浅上女学院に移る。 琥珀と遠野秋葉をメインとして、TYPE-MOONの歴史を振り返るという企画の漫画。 『歌月十夜』ではネタとして、『Character material』では舞台や登場キャラクター設定が語られるなど、様々なところで『月姫2』の内容がほのめかされているが、現在では奈須きのこ曰く「きのこの脳内ゲーム」でしかない。 『歌月十夜』にてネタとして発表された予告編では、真祖の姫を守る殺人貴・遠野志貴と、真祖を狩るために集まった死徒二十七祖の一人である復讐騎・エンハウンスが、敵対関係にありながらも協力し合い他の二十七祖や青の魔法使いを乗り越えていく、というような内容。プレイ時間が一ヒロイン20時間で、推定100時間とのこと。ただし『月姫読本』によると女の子は3、4人ほどしか出ないと答えている。 『Character material』において、『歌月十夜』では『月姫2/The Dark Six』だったものが、『the dark six(仮名)』のみとなっていた。また物語のプロローグらしき「Prelude」が公開された。 また、『月姫』のエピローグ『月蝕』の時系列は『月姫2』の翌日の内容となることや『Fate/hollow ataraxia』のヒロインであるカレン・オルテンシアはもともと『月姫2』のサブキャラだったことなどが奈須きのこによって明かされている。 「TYPE-MOONエース」VOL2では、『月姫』はもう先に進まない話、2010年1月からはまた部屋にこもり『DDD』を書けると思うと奈須きのこが語っている。 死徒勢力がイギリスの片田舎アルズベリ・バレステインで儀式を何十年越しに準備し、ついにその儀式が実行される日がきた。魔術協会・聖堂教会ともに、アルズベリで恐ろしい儀式が準備されていたことは知っていたが、準備の段階では怪異はなく、傍観するしかなかった。実行日がきて怪異が起こり、初めて手が出せる。死徒・魔術協会・聖堂教会にとって待ちわびた日がきたのだ。死徒にとって第六は悲願、魔術協会・聖堂教会にとっては、死徒を一網打尽にし、計画の旨みを独占する絶好の機会。アルズベリに三勢力が一堂に会し、争いが始まる。 『月姫用語辞典』などでは、まだ作中に登場していない設定のみの人物が複数存在する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『月姫』(つきひめ)は、同人サークル『TYPE-MOON』(有限会社ノーツの前身であり、現在はそのブランド)制作のビジュアルノベルゲーム。シナリオ担当は奈須きのこ、グラフィック担当は武内崇。イメージカラーは「夜の青」。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "完全版(ゲームとしての完成形)は、2000年12月29日より東京国際展示場にて開催されたコミックマーケット(以下:コミケ)59が初出。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "同人サークル『帽子屋インサイド』が頒布していた変換ソフト『輪廻月姫』でゲームボーイアドバンスでプレイできるようになる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "同人ゲーム。シナリオ枚数原稿用紙5000枚、グラフィックの総数500枚以上。その世界観、細かい設定などがコミケ終了後にユーザー(プレイヤー)の間で大きな評判を呼び、同人ゲームとしては異例のヒット作となった。また、エキサイト ブックス現代作家ガイドにも掲載されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "月姫の好評を受けて、おまけディスク『月姫PLUS-DISC』やファンディスク『歌月十夜』が制作された。その後、同人サークル渡辺製作所とのコラボレーションによる対戦格闘ゲーム『MELTY BLOOD』も発表され、月姫シリーズを形成した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、同人作品であるにも拘わらず、商業作品として展開・派生した作品・商品が多く、『真月譚 月姫』としてのアニメ化・漫画化といった各種メディアへの展開、『MELTY BLOOD Act Cadenza』としてのアーケードゲーム進出、フィギュアやキャラクターグッズの商品化などが挙げられる。詳細は各記事や歴史の節を参照。特にアンソロジーコミックの発行点数は、TYPE-MOONが二次創作をあまり規制していないことから、相当な数となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "TYPE-MOON10周年記念として、「TECH GIAN」2008年6月号にて『月姫』のリメイク版の製作が発表された。シナリオ・奈須きのこ、原画・武内崇のコンビは据え置きで、CGは全て新規描き起こしとなるとした。発売時期や対象年齢はこの時点では未定であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "本作はテレビアニメ『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』とアプリゲーム『Fate/Grand Order』(以下:『FGO』)とシンクロするようにシナリオが執筆されており、『FGO』第1部のクライマックス、本作でのとある言及がTVアニメ第2期の放送と同時に進行する予定であったが、『FGO』の配信が当初の予定より延期したことと、本作の発売延期により実現はしなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2021年3月26日に『月姫 -A piece of blue glass moon-』のタイトルで、2021年8月26日に発売されることが発表された。プラットフォームはPlayStation 4 / Nintendo Switchで、PC版発売から20年余を経てのコンシューマ初移植となる。フルボイスで、過去の関連作品から担当声優は変更されており、新規にキャスティングが行われている。アルクェイドルート「月姫」とシエルルート「夜の虹」を収録した、「月の表側」編として発売される。収録されなかった残りのヒロインのシナリオは、次回作以降で語られるとされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "物語の主人公である遠野志貴は、幼い頃に一度死にかけた後、「モノ」の壊れやすい部分を黒い線として捉えることのできる特別な眼「直死の魔眼」を持つようになった。その能力を持つ負担に苦しんでいたときに、偶然出会った女性からたしなめられ、その眼の力を封じる眼鏡を受け取ったおかげで、外見上、普通の少年として平凡な生活を送ることができた。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "しかし、子供の頃から預けられていた親戚の家から、実家に帰ることが決まった頃と時を同じくして起きる、全身の血液を抜かれて人が殺されていく連続猟奇殺人事件が、志貴の生活を非日常へと急激に変化させてゆくこととなる。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この作品の設定はTYPE-MOON作品の多くが共有するそれと同一である。", "title": "舞台設定・主な用語" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "共通した設定も参照のこと。", "title": "舞台設定・主な用語" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "人の血を吸う吸血種(血を吸う生き物の総称)の一種。作中においては後述の真祖(しんそ)、死徒(しと)、ないしそれらに血を受けて吸血種と成ったモノを指す。基本的に太陽光に弱く、血を吸った対象を支配し配下に置いたり、血を入れた対象を手足の延長線のように操ることができる。", "title": "舞台設定・主な用語" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "吸血種において特異なモノ。性質は精霊に近い。基本は、自然発生で男性体しか生まれないが、ごく稀にアルクェイドのような女性体が生まれることがある。人間に対して直接的な自衛手段を持たない星が生み出した、人間を律する「自然との調停者」「自然の触覚」。発生に人々の想念が関わっていないので神霊の類ではない。世界に望まれるも人々に望まれた存在ではないので神代の終わりには、次第に隠れ住むようになり、その数を減らしていった。(リメイク版では、世界の裏側と呼ばれる、幻想種が逃げて行った場所で人間の理で編まれた編み物(テクスチャー)で覆われた地上と違い、地下にある星のかつての姿を編まれた編み物で覆われた世界で、神代の終焉以降は、幻想種と共に逃げ込んでいる。)", "title": "舞台設定・主な用語" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "星をかつての姿「真世界」に戻そうとする。人を律するために精神と肉体の構造は「朱い月のブリュンスタッド」と呼ばれる月で生まれたアルテミット・ワンを真似て作られているが、真祖にはそもそも欠陥が含まれるため、吸血衝動という間違いを持っている。高い身体能力と精霊に近い性質を持ち、世界と繋がることで思い描く通りに『自身(精霊)』と『自然』を変貌させる「空想具現化(マーブル・ファンタズム)」という精霊の能力を使える。アルクェイド程の力があるなら全力を尽くせば山奥に街一つ作り上げ、「彼女の世界」の中であれば千年後の月を現代に持ってくることが可能である。なお、動物が相手ならば多少手を出すことが出来るが、自然から独立した存在へ直接の干渉は行えない。例えば、本編でロアの足首以外を消し去ったのは、大気の層を真空状態にした結果である(アルクェイドの空想には床にまで断層を作る、という意思が足りなかった)。", "title": "舞台設定・主な用語" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "細胞の限界という意味での寿命は無いが、全ての真祖には「律する対象である人間の血を吸いたい」という欲求(欠陥)があり、真祖はその欲求を抑えるのに大半の精神力を消費し、いずれ蓄積された欲求が自身の精神力を超えそうになった時には自ら永劫の眠りに就くため、それが寿命の無い真祖の「寿命」とされる。自ら眠りに就くことなく吸血衝動に負けて欲求のままに無差別に人間の血を吸うようになってしまった真祖は「堕ちた真祖」や「魔王」とも呼ばれ、力の抑制から解き放たれ、真祖としての真の力を発揮できるようになっており、人の力で滅ぼすのは不可能と言われる。", "title": "舞台設定・主な用語" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "次代の真祖の王族として生を受け「堕ちた真祖」を狩る為に教育を施されたアルクェイドは、ロア(人間時)の姦計により暴走し真祖の大半を消滅させたが、『MELTY BLOOD』では真祖というにはあまりにも純度が低いものの、アルクェイド以外に真祖の生き残りがいることが示唆されている。", "title": "舞台設定・主な用語" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "吸血鬼の一種。人間から吸血種に成った者たち。真祖や他の死徒に吸血され、その血を体内に入れられた人間のうち、肉体・霊的資質に優れた者が成った場合と、魔術師が研究の果てにその身を吸血種へと変えた場合とがある。吸血による死徒化の場合、血を入れた側を「親」、血を入れられた側を「子」とも呼び、「親」である吸血鬼は「子」の力や吸血衝動に影響を与える。", "title": "舞台設定・主な用語" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "吸血による死徒化の過程は次の通り。素質ある人間の死体の脳髄が溶けて魂が肉体に完全に“固定”された「食屍鬼(グール)」の状態となり、その後数年かけて他の遺体を喰らい続けることにより腐敗した血肉を補った「生きる死体(リビングデッド)」になり、「生きる死体」がさらに数年かけて人間だった頃の知性を取り戻してはじめて「吸血鬼」となる。ただし、特に資質に恵まれた者であれば、短期間で吸血鬼となる場合もある。", "title": "舞台設定・主な用語" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "死徒の肉体は不老であるうえ、肉体も人間に比べれば頑強になり、“復元呪詛”と呼ばれる時間逆行によって生きている限りは損傷部位も元に戻る。しかし、精神や魂の劣化を防ぐことはできず、またその肉体は何もしなくても常に崩壊を続ける。そのため、生前と同じ種類の生き物の血を定期的に摂取することで遺伝情報の補完を繰り返す必要のある「不完全な」不老不死である。", "title": "舞台設定・主な用語" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "死徒の起こりは真祖の吸血衝動の一種の痛み止めとして用意された人間だったが、やがて力を付けることで真祖の支配を破り逃げ出した最初期の死徒たちが「死徒二十七祖」と呼ばれるようになり、特に強力な吸血種の称号として、代替わりや欠番、または死徒以外の吸血種を座に迎えながらも、現在も世界の闇に君臨している。", "title": "舞台設定・主な用語" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "シエルが所有する教会所蔵「転生批判外典」たる概念武装。 もともとは祭礼用に使われていた一角獣の角。一角獣が臨終した際に、人身御供の少女と角に宿る動物霊を融合させた。融合して生まれたのが精霊「セブン」である。表面には「転生かっこ悪い」といった意味合いの転生批判の文句がびっしりと書き込まれていた、という儀礼用のアイテムが武器として使用されることとなり、槍やら杭となったが、近代化にあわせて銃剣に、現在はシエルの趣味でミサイルランチャー付き大型パイルバンカーに改造されている。", "title": "舞台設定・主な用語" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "教会が主の威光を示す為に作りあげた、長く使い手不在だった門外不出の聖遺物。 千年前、地上に残っていた稀少な幻想種をおびき寄せ、呼び水となった少女ごと竈にくべる事で神鉄を錬成し、教典として組み上げた概念武装。 魂砕き、すなわち断罪死をはじめとした、人間が背負うであろう死の要因があまねく記され、神鉄はその固有震動でこれを戒める洗礼を詠唱し続ける。 もともとは持ち運べないサイズの祭壇のような装置だが、今はシエルに解体され、一角馬の角を基本骨子に作られた「対吸血鬼武装車両」になっている。 双銃、銃剣、大剣、甲冑、破城弩弓、という六つの武装へと換装可能。更にそれらを組み上げて展開する事によってより強力な形態へと変形可能。 武器工場とも喩えられ、シエルのオーダーに応じて弩弓の使用弾頭などを変更できる。 燃費がすごく悪く、普通の人間が使ったらすぐに衰弱死する。", "title": "舞台設定・主な用語" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "モノの寿命を視覚情報として捉えることのできる眼。これが読み取って視覚化するのは単なる生命活動の終了ではなく、意味や存在における「いつか来る終わり」「死期」「存在限界」であり、「存在の寿命」そのものである。直死の魔眼所有者にとって「死」は黒い線と点で視認され、強度を持たない。魔眼所有者がこの「死」を切ったり突くと、対象(有機、無機を問わず、時にはより広義・上位概念上の存在も含む)を殺すことができる。", "title": "舞台設定・主な用語" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "「死の線」はモノの死に易いラインを表し、線をなぞり断てば本体が生きていようとその部分は「死亡」し、結果として対象はどんなに強靭であろうと切断される。「死の点」は死の線の源でもあり、寿命そのもの。死の点を突けばそのモノの意味が死に至る。志貴が点を見るには極度の精神集中が必要となる。", "title": "舞台設定・主な用語" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "直死の魔眼と称しているが、正しくは魔眼ではなく超能力に分類され、所持者の脳と眼球でワンセットである。見ることができる「死」は所持者の認識に左右される。対象物の中の限定的な部分に関する線や点だけを突くことも可能で、体内の毒物や病んだ内蔵などを限定して殺せば他は傷つけずに排除できるため、治療としての応用が可能。", "title": "舞台設定・主な用語" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "かつて、ヒトならざるものと交わり力を得た人間の末裔。血の力を引き出すことで人間には無い異能を使い、先祖の血や個人によって能力は大きく異なる。ヒトならざるものの血を引く者が血の力を最大に引き出した状態を先祖還りまたは、魔を示す三大色を冠した紅赤朱(くれないせきしゅ)と呼ぶ。基本的に歳を重ねるごとに人以外の血は強くなっていき、魔としての意識がそれを抑えつける人の意思より強くなった状態を「反転」と呼ぶ。「反転」すると人らしい理性や道徳観が欠如し、ケモノじみた欲望のままに行動するようになる。紅赤朱など、そういった魔としての血が濃くなって人から「外れた者」を処罰する退魔の組織や血筋も存在し、家柄や時と場合によって混血も彼らと協力したり、最大の敵対者となったりする。", "title": "舞台設定・主な用語" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "声の項は、『MELTY BLOOD』(無印 - 『Actress Again』まで)『カーニバル・ファンタズム』 / 『真月譚 月姫』 / 『月姫 -A piece of blue glass moon-』『MELTY BLOOD:TYPE LUMINA』での担当声優。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "リメイク版から新規に登場するキャラクター。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "開発スタッフはTYPE-MOON所属スタッフがシナリオ・メインキャラクターデザイン・コンテ・レイアウト・原画・グラフィック・演出・スクリプト・3D・サウンドプロデュースを担当。そのため主に内製スタッフによる少数態勢の制作となるが、サブキャラクター・武器デザイン協力には『FGO』にも参加するデザイナーが参加。その他、コンテ・レイアウトにコミカライズ版『真月譚 月姫』を手掛けた佐々木少年、グラフィック協力に『衛宮さんちの今日のごはん』のTAaが参加している。その他、ゆうろや東地和生などの美術スタッフや深澤秀行などの音楽担当は前作『魔法使いの夜』からの続投である。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "絵コンテ・レイアウトは一通りを武内が担当しているほか、同チームのBLACKやこやまひろかずもアイデア出しなどのサポートで参加している。また、漫画版『真月譚 月姫』の作者・佐々木少年が絵コンテ・レイアウトに参加しており、シエルルートのヴローヴ戦、死徒ノエル戦、カルヴァリアを担当した。グラフィックに参加したTAaは、ホワイトボードの書き文字&イラストを担当した。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "スクリプトは基本的にBLACKが一人で担当しているが、開発終盤に2020年にノーツに入社した新人である漆之原が参加し、分岐や日常シーンの調整、アルクェイドのデートシーン、「おしえて!シエル先生」のスクリプトを担当している。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "開発としてはTYPE-MOONスタッフにてこれまでの作品と同様にPC版を作成後、『FGO』を開発・運営するディライトワークスのプロデュースの下、ヒューネックスを開発企業としてNintendo SwitchとPlayStation 4への移植作業が行われた。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "企画は2008年、TYPE-MOON作品の情報誌『TYPE-MOONエース』で発表した直後に始動した。元々、ノーツとしては『月姫』のリメイクはかつてから話題に上がっていたが、2008年以前は『Fate』シリーズをメインに活動しており、実制作には動けない状況であった。しかし、2008年に『Fate』シリーズが一度、ひと段落したことでリメイク企画が始動した。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2014年発売を目標に開発を開始。2008年の発表時点では、武内によるキャラクターデザインのリファインと奈須によるプロット作業が完了していた。2009年からは、「魔法使いの夜」の制作に本格的に参加していなかった武内が先行して立ち絵の準備を開始した。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "その後、当初から予定されていた『魔法使いの夜』の開発が一段落した2011年より本格的に開発が始まる。2012年時点ではシエルルートまでのテキストが完成し、武内の描く立ち絵も全体の6割程度が揃った状態であった。しかし、『FGO』の企画・開発が2013年に急遽始動したことにより全体的な計画が変更。2013年末から2017年末まではスクリプトや絵素材の作業を少しずつ進めながらも『FGO』開発のために、4年間開発が実質凍結されることになった。当初は『FGO』の開発と同時進行で作業が進められると想定されていたが、最終的にはそれは不可能という判断になる。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2017年頃に「このままじゃ月姫が出せない」という話題が上がり、同時期に『FGO』の第1部の作業が終了し、1.5部と第2部のシナリオ構成が完成したこともあり、2018年より少しずつ作業が再開。2018年にufotableへのOPアニメーションの制作依頼も行われる。上述のように開発再始動時にはシナリオの多くは完成しており、ノーツスタジオ内ではPC版を完成させるためのグラフィックとスクリプトの作業がメインに行われた。しかし、そこからさらに『FGO』の開発作業を優先することになり、開発期間がさらに伸びることになる。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "そして、2019年末にアルクェイドルートのPC版開発はほぼ終了し、シエルルートの開発と並行して、Nintendo SwitchとPlayStation 4でPC版と同様の動作を再現できるのか検証が行われた。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2020年夏からの半年間は全作業を月姫に絞り制作が行われた。2020年末、PC版本編が完成。その後、2021年1月より、おまけコーナー『おしえて!シエル先生』の開発が行われた。『おしえて!シエル先生』に関しては、当初、家庭用ゲーム機向けの作品に内輪ネタのような内容を入れるべきではないと導入予定はなかった。しかし、本編開発終了後、「同人気質と言われても、それが古くからのファンにとって大切なピースになる」と一転、開発が行われた。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "本編の開発はテキスト量やイラスト枚数の多さもあり、同人版『月姫』の1ルートと比較して1.1倍程度のシナリオ量である前作、『魔法使いの夜』と同様のスペックで作るには限界があった。そのため、開発初期からクオリティは抑えつつ立ち絵や表情・ポーズ差分の枚数を増やして満足度を上げる方向で開発が進められた。しかし、パイロット版をプレイした際に、『魔法使いの夜』とのクオリティーの違いにギャップを感じた奈須と武内は、最終的にグラフィックのクオリティも『魔法使いの夜』に近いレベルまで向上させることになった。それでも、『魔法使いの夜』にてキャラクターデザイン・総作画監督・原画・色彩設計を担当したTYEP-MOONグラフィックチーフで同作のアートディレクター・こやまひろかずの同作開発当時の作業負担を振り返り、その時に膨大な作業量だったことを考慮して、『月姫』ではディテールを緩めて絵素材を増やす方針は変わらずに継続した。しかし、最終的にはグラフィックのクオリティが上がり、制作期間も長引くことになった。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "プレイ時間は通してプレイすると約40時間、フルボイスで約60時間ほど。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "『月姫 -A piece of blue glass moon-』の全体的な作業期間は、すべてを合算すると奈須のシナリオ執筆期間が約2年、全体的な開発で約5年ほどとなる。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "舞台は2014年。これは当初、発売予定が2014年であったことに加え、2014年放送のテレビアニメ『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』と同時期に配信予定であったアプリゲーム『FGO』とシンクロするようにシナリオが執筆されていた関係もある。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "時代設定の変更は上記の理由のほか、1999年が舞台であった『月姫』をその時代設定のまま届けるのは、若いユーザーに遊んでもらうためのテーマや社会性が感じられず娯楽として不十分であると奈須が感じたため。前作、『魔法使いの夜』に関してはバブル時代が物語のテーマになっていたが、『月姫』には時代を関するテーマはないため、各キャラクターを守りつつ時代設定は大きくアップデートされた。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "また、事件のスケールも『FGO』の劇中の事件のスケールが大きくなったことに合わせて「都心でハリウッド映画をやる」という考えにより変更され、舞台も「関東近郊の普通の街の三咲町」から「東京都心の総耶」に変更される。また、この変更は「今の時代に月姫を遊んでもらう」ためには現代に舞台を移したほうが良いという考えもあった。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "新キャラクターも多く追加された。これは、同人版ではシナリオ上必要最低限のキャラクターしか出せていなかったが、世界観を広げるために必要だと感じた奈須が、新たにキャラクターを数多く設定した。 死徒二十七祖の設定などは大きく変更され、当時の奈須の基準ではトップランカーであったキャラクターたちが『Fate/stay night』以降の作品の基準に合わせて調整されている。削除されたキャラクターもいるが、設定の残ったメンバーに関しては、能力のアップデートなどを行いスケール感を広げている。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "新キャラクターのマーリオゥは聖堂教会のバックボーンを語るキャラクターが必要になると判断され制作された。本作では聖堂教会の設定を掘り下げる必要があり、新キャラクターに加え、同組織の歴史を記した「聖堂教会年表」も2010年に作成されている。なお、本作の年表を元にテレビアニメ『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』以降に新たに開示された魔術協会の設定が制作されている。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "上記のように、リメイクに際して舞台や設定は大きく変更されているが、「変化してほしくない」ファンの気持ちも尊重し、アルクェイドルートに関しては同人版と内容自体の大きな変更はされていない。一方で、シエルルートに関しては、「同人版の再現はアルクェイドルートで行うから、シエルルートは古参プレイヤーの記憶にない物を作りたい」という奈須の願いにより、シナリオのキーポイントは変更せず、それ以外の要素は大幅に変更した。また、作品全体を通して、本作では同人版と大きな変更点が一つ存在しており、武内はその点について、「同人版に思い入れのある人にとっては残念な要素となる」としつつも「変更した点にはすべて意味がある」と述べている。奈須は、ファンが見たいと思うシーンは残しつつ、それ以外のシーンで「好きではあるけどこれはいらないよね」と感じるシーンは変更し、中身の詰まった新たな『月姫』を作り上げたと述べている。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "これらの設定の大幅な変更に至った理由として、奈須は2007年公開の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を視聴したことが大きかったと語り、本作の前半が個々のシーンのディテールを向上させつつ総集編としてまとめながら、後編のラミエル戦以降は完全新作の映像・シナリオであったことに感銘を受け、『月姫』の大幅なシナリオ変更を改めて決断したという。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "奈須は本作の開発において最大のライバルをコミカライズ版『真月譚 月姫』を描いた佐々木少年であったと後に述べている。佐々木はアルクェイドルートのダメな要素を全て上手くアレンジして、そこにシエルルート、秋葉ルートの要素も含めた完成度の高いコミカライズを手掛けたため、リメイクを出すのであれば本作を超えないといけないと奈須は感じていた。なお、佐々木に関してはTYPE-MOONスタッフと共同で本作のコンテ・レイアウトを担当しているほか、PC版が完成した際のテストプレイも務め、TYPE-MOONのオフィスで6日間のテストプレイを行っている。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "佐々木少年による『真月譚 月姫』の影響を受けたシーンとしては、『旅の終わり』におけるアルクェイドの「大好き!」のシーン。これは奈須が漫画版「真月譚 月姫」8巻の帯に使った一文をリメイクでは絶対入れたいと思っていたため採用した。本来はイベント絵も要望していたが、スケジュールなどの都合で断念された。ただし、曲に関しては奈須の要望で主題歌アレンジ『生命線(piano ver.)』が使用されている。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "志貴は奈須の「自分へのご褒美」として、美形度があがっている。アルクェイドは武内の希望で新規のデザインとなっており、「今の自分がアルクェイドのモチーフとなった人物を描いた姿」を参考に再デザインしている。服装に関しては彼女らしさを出すために大きく変更はしていないが、変化を強調するためにミニスカートに変更された。シエルは「お姉さん感」が増しており、「みんなから頼られる憧れの先輩」といったキャラクター像となっている。武内はシエルは髪形を変えると印象が大きく変わることを以前から確信しており、設定でアップデートされた要素も組み合わせて「新しいシエル」になるように大きく再デザインされた。。秋葉・翡翠・琥珀は時代から切り離された存在であるため、デザイン面では元のイメージから大きく変更されていない。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "これらのデザインの変更は、古参ユーザーにもう一度『月姫』に出会い体験してもらうために行われた。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "キャスティングは従来の関連作品から一新され、今後も長く続いていく作品とするために、若手中心のキャスティングとなっている。 収録ではゲーム作品としては異例ながら、台本のセリフ全てに対応したキャラクターの表情イラストが添付されたものを使用した。これは収録段階でゲーム部分の開発がある程度終了していたため可能となった。声優は文字だけでなく表情からも演技プランを練れ、スタッフとしても良い演技を一発で貰えることから、台本制作のコストは掛かるが奈須はWin-Winの方式であったと語っている。ただし、志貴は表情差分がないため、通常用いられる文字だけの台本が使用された。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "本作では同人版にあった性描写を抑えつつもCEROレーティングが18歳以上のみ対象となっている。当初より性描写を加えたアダルトゲームにはしない方向がとられていた本作だが、同人版の残虐な描写を媒体に合わせて表現をマイルドにすることは、月姫の大事な要素を表現できなくなると判断されたため、家庭用機版でありながら、CEROレーティングを18歳以上のみ対象に設定した。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "OPアニメーション制作は奈須と武内の要望もあり、これまでTYPE-MOON作品のアニメーションを制作してきたufotableが担当。監督・絵コンテ・演出は同社所属のアニメーター・竹内將が担当。竹内はufotableで演出家として『Fate』シリーズを中心に実績を重ねてきた点や同人版『月姫』もプレイした経験があるという点から選ばれた。キャラクターデザイン・作画監督はこれまでの『TYPE-MOON×ufotable』作品同様に須藤友徳が自ら立候補して手掛けている。須藤は同人版からの本作のファンであり、それが影響して他スタジオが手掛けた『真月譚 月姫』のアニメにも参加した経験がある。アニメCGディレクターは『劇場版 Fate/stay night [Heaven's Feel]』にてランサーVSアサシン戦のCGアニメーションを担当した佐藤号宙が務める。制作依頼は『劇場版 Fate/stay night [Heaven's Feel] 第二章』制作中である2018年に行われ、2020年の第三章制作終了後に本格的にアニメーション制作が開始。竹内と佐藤の二人で映像設計を行い、作画の大半はデジタル作画で手掛けられているほか、これまでの同社作品と同様、背景美術・撮影・CGなどは同社内製チームが手掛けている。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "OPは『アルクェイドルート』と『シエルルート』の2本が制作されている。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "開発については、FGOの開発もあり2021年9月時点では準備段階で開発は始まっていない。奈須はインタビューで「オリンピックを待つつもりくらいの気持ちでいてほしい」と語っている。そのかわり、間を埋めるプロジェクトは色々と準備されているとのこと。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ルート数に関しては『4ルート』用意されることが2021年9月の4Gamer.netのインタビューで奈須により明言されている。分量はシエルルートほど絵で魅せる必要のある派手な演出は恐らくないとされており、『月姫 -A piece of blue glass moon-』と違い4ルートで一つのゲームに収まるとされている。また、2021年9月の段階で、同人版「月姫」のシナリオをリメイク版の素材を使用してBLACKが作成したプロトタイプ版のPCゲームが既に存在しており、そこには同人版にて未発表であったあるキャラクターのルートも含まれている。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "開発については社内にグラフィッカー、スクリプターを増やす方針は現状取られていない。これは純粋に基準を満たす人材の確保ができない点が挙げられている。", "title": "開発(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "歌はReoNa(レオナ)、作詞・作曲・編曲は毛蟹(LIVE LAB.)が担当している。", "title": "主題歌(リメイク版)" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "バッドエンド時のプレーヤー救済コーナー。シエル扮する知得留先生(ちえるではなく、しえると読むのだが、ファンからもちえると呼ばれている)と適当にデフォルメ化されたアルクェイド(ネコアルク)が漫才形式で攻略におけるヒントを教えてくれる。また、トゥルーエンド・グッドエンドのときはエンディングの解説をしてくれる。たまに知得留先生が不在であったり、ゲスト講師が登場したりと多様な場面が見られる。漫画版でもパロディ的なものが行われ、最終巻にまとめて収録された。", "title": "教えて知得留先生" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "元々、バッドエンド時のプレーヤー救済のヒント的なものを作ろうという考えはあったものの、「教えて知得留先生」の構想はなかった。しかし『月姫』のマスターアップを一週間後に控えたある日、サポート役のOKSGと奈須きのこが最終のチェックを行っていたところ、武内崇から突然、知得留先生の絵がFAXで届きそれを見た奈須きのこが「これはやるしかねぇ!」と急遽作成されたという逸話がある。", "title": "教えて知得留先生" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ネコアルクは一人(一匹?)で『歌月十夜』『MELTY BLOOD』進出や架空の映画『NECOARC-THE MOVIE-』で銀幕デビューと暴走に暴走を重ねている。さらにはアニメ『月詠 -MOON PHASE-』のエンドクレジットに登場したことも。『Fate/hollow ataraxia』にも一瞬ではあるが登場する。『歌月十夜』では、シエル先輩と茶室で見事なクロスカウンターを決めている。このシーンは「週刊少年マガジン」連載中の『はじめの一歩』のパロディである。このバッドエンドのお助けコーナーという趣旨は、Leafビジュアルノベルシリーズ『雫』『痕』にも存在した。また、TYPE-MOONの次作『Fate/stay night』にも「タイガー道場」として受け継がれている。", "title": "教えて知得留先生" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "リメイク版では「おしえて!シエル先生」のタイトルで収録されている。シエル先生とネコアルクのほか、アルクェイドの幼少期の姿であるエコアルクが登場する。", "title": "教えて知得留先生" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "『月姫』(『月姫PLUS-DISC』『歌月十夜』『MELTY BLOOD』を含む)は、それ自体独立した作品であるが世界そのものは同一で、そこに登場する人物やその能力は他のTYPE-MOON作品や奈須きのこの小説とも何らかの繋がりを持っている。", "title": "他作品との関連" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "TYPE-MOONスタッフは、『月姫』の商業リメイク作や、『月姫』の続編『月姫2』の作成を示唆する発言を残しているが、真偽のほどは明確ではなかった。しかし、2008年発売の「TYPE-MOONエース」にて、リメイク版『月姫』(Windows)の発売が正式に発表された。対象年齢は未定。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "『真月譚 月姫』(しんげつたん つきひめ)のタイトルで、テレビアニメおよびコミカライズが制作されている。両作ともアルクェイドルートをベースとしたストーリーだが、テレビアニメ版が原作を簡略化しているのに対し、漫画版は原作の複数のルートを統合している。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "同人誌『宵明星』に掲載された、奈須きのこ著の『月姫』の外伝小説。『月姫読本』にて加筆修正されて再録されている。本編のとあるルートの後から約一年後の時間軸で起きた事件が書かれている。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "同人誌『宵明星』に収録された武内崇による漫画作品。シナリオ担当の奈須きのこは一時期、この設定を認めていなかったらしいが、現在は『月姫読本 Plus Period』に収録されている。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "DVD『真月譚 月姫 prologue』に収録された作品。絵本のような形式になっている。真祖のあらましとアルクェイドの過去が簡潔に語られている。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "TYPE-MOON公式モバイルサイト『まほうつかいの箱』で配信されている4コマ漫画。作画はACPI。タイトルの通り、遠野秋葉を主軸とする遠野屋敷での物語が展開される。第十七話から第十九話は「浅上女学院編」と銘打って、文字通り舞台が浅上女学院に移る。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "琥珀と遠野秋葉をメインとして、TYPE-MOONの歴史を振り返るという企画の漫画。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "『歌月十夜』ではネタとして、『Character material』では舞台や登場キャラクター設定が語られるなど、様々なところで『月姫2』の内容がほのめかされているが、現在では奈須きのこ曰く「きのこの脳内ゲーム」でしかない。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "『歌月十夜』にてネタとして発表された予告編では、真祖の姫を守る殺人貴・遠野志貴と、真祖を狩るために集まった死徒二十七祖の一人である復讐騎・エンハウンスが、敵対関係にありながらも協力し合い他の二十七祖や青の魔法使いを乗り越えていく、というような内容。プレイ時間が一ヒロイン20時間で、推定100時間とのこと。ただし『月姫読本』によると女の子は3、4人ほどしか出ないと答えている。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "『Character material』において、『歌月十夜』では『月姫2/The Dark Six』だったものが、『the dark six(仮名)』のみとなっていた。また物語のプロローグらしき「Prelude」が公開された。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "また、『月姫』のエピローグ『月蝕』の時系列は『月姫2』の翌日の内容となることや『Fate/hollow ataraxia』のヒロインであるカレン・オルテンシアはもともと『月姫2』のサブキャラだったことなどが奈須きのこによって明かされている。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "「TYPE-MOONエース」VOL2では、『月姫』はもう先に進まない話、2010年1月からはまた部屋にこもり『DDD』を書けると思うと奈須きのこが語っている。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "死徒勢力がイギリスの片田舎アルズベリ・バレステインで儀式を何十年越しに準備し、ついにその儀式が実行される日がきた。魔術協会・聖堂教会ともに、アルズベリで恐ろしい儀式が準備されていたことは知っていたが、準備の段階では怪異はなく、傍観するしかなかった。実行日がきて怪異が起こり、初めて手が出せる。死徒・魔術協会・聖堂教会にとって待ちわびた日がきたのだ。死徒にとって第六は悲願、魔術協会・聖堂教会にとっては、死徒を一網打尽にし、計画の旨みを独占する絶好の機会。アルズベリに三勢力が一堂に会し、争いが始まる。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "『月姫用語辞典』などでは、まだ作中に登場していない設定のみの人物が複数存在する。", "title": "関連作品" } ]
『月姫』(つきひめ)は、同人サークル『TYPE-MOON』(有限会社ノーツの前身であり、現在はそのブランド)制作のビジュアルノベルゲーム。シナリオ担当は奈須きのこ、グラフィック担当は武内崇。イメージカラーは「夜の青」。 完全版(ゲームとしての完成形)は、2000年12月29日より東京国際展示場にて開催されたコミックマーケット59が初出。 同人サークル『帽子屋インサイド』が頒布していた変換ソフト『輪廻月姫』でゲームボーイアドバンスでプレイできるようになる。
{{Infobox animanga/Header | タイトル = 月姫 | ジャンル = [[サスペンス]][[ファンタジー]]・[[伝奇小説#日本の近現代の伝奇風小説|伝奇]][[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛ゲーム]] }} {{Infobox animanga/Game | タイトル = 月姫 | ゲームジャンル = 伝奇ビジュアルノベル | 対応機種 = [[Microsoft Windows|Windows]] [[Microsoft Windows 95|95]]/[[Microsoft Windows 98|98]] | 必要環境 = | 推奨環境 = | ゲームエンジン = [[NScripter]] | 修正パッチ = | 開発元 = [[TYPE-MOON]] | 発売元 = TYPE-MOON | 開発・発売元 = | 総監督 = | プロデューサー = | ディレクター = | キャラクターデザイン = 武内崇 | プロジェクト起案・原案 = | メカニックデザイン = | シナリオ = 奈須きのこ | 音楽 = KATE | メディア = CD-ROM | ディスクレス起動 = | アクチベーション = | プレイ人数 = | 発売日 = [[2000年]][[12月29日]] | 稼動時期 = | 出荷本数 = | 売上本数 = | レイティング = 18禁 | インタフェース = | コンテンツアイコン = | 基板 = | キャラクター名設定 = | エンディング数 = | セーブファイル数 = | セーブファイル容量 = | コンテニュー = | 画面サイズ = | 全画面表示モード = | 音楽フォーマット = | キャラクターボイス = | 通信機能 = | デバイス = | その他 = }} {{Infobox animanga/Game | タイトル = 月姫 -A piece of blue glass moon- | ゲームジャンル = 長編伝奇ビジュアルノベル | 対応機種 = [[PlayStation 4]]<br />[[Nintendo Switch]] | 必要環境 = | 推奨環境 = | ゲームエンジン = | 修正パッチ = | 開発元 = TYPE-MOON | 発売元 = [[アニプレックス]] | 開発・発売元 = | 総監督 = | プロデューサー = | ディレクター = | キャラクターデザイン = 武内崇 | プロジェクト起案・原案 = | メカニックデザイン = | シナリオ = 奈須きのこ | 音楽 = [[深澤秀行]]、芳賀敬太 | メディア = PS4:BD-ROM<br />Switch:ゲームカード<br />共通:ダウンロード専売 | ディスクレス起動 = | アクチベーション = | プレイ人数 = 1人 | 発売日 = 2021年8月26日 | 稼動時期 = | 出荷本数 = | 売上本数 =[[PlayStation 4]]:8万本<br/>[[Nintendo Switch]]:8.9万本<br/>全体:30万本(2022年12月時点)<ref>{{Cite AV media|url=https://www.youtube.com/watch?v=AnaagkJ29XQ|title=【Fate/Grand Order ウィンターパーティー 2022-2023 北海道会場】FGOスペシャルトークin北海道|work=[[YouTube]]|author=【公式】Fate/Grand Order チャンネル|language=ja|date=2022-12-24|accessdate=2022-12-26|time=44:06}}</ref> | レイティング = {{CERO-Z}} | インタフェース = | コンテンツアイコン = CERO:犯罪・暴力 | 基板 = | キャラクター名設定 = | エンディング数 = | セーブファイル数 = | セーブファイル容量 = | コンテニュー = | 画面サイズ = PS4/Switch(TVモード):1920×1080<br />※Switch版の携帯モードでは1280×720 | 全画面表示モード = | 音楽フォーマット = | キャラクターボイス = フルボイス | 通信機能 = | デバイス = PS4:タッチパッド・マウス対応<br />Switch:タッチスクリーン対応<br />共通:振動非対応 | その他 = }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:コンピュータゲーム|ゲーム]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]] | ウィキポータル = [[Portal:コンピュータゲーム|ゲーム]]・[[Portal:アニメ|アニメ]] }} 『'''月姫'''』(つきひめ)は、[[同人サークル]]『[[TYPE-MOON]]』([[有限会社]]ノーツの前身であり、現在はそのブランド)制作の[[ビジュアルノベル]]ゲーム。シナリオ担当は[[奈須きのこ]]、グラフィック担当は[[武内崇]]。イメージカラーは「夜の青」。 完全版(ゲームとしての完成形)は、2000年12月29日より[[東京国際展示場]]にて開催された[[コミックマーケット]](以下:コミケ)59が初出。 同人サークル『帽子屋インサイド』が頒布していた変換ソフト『輪廻月姫』でゲームボーイアドバンスでプレイできるようになる<ref name="natsukashiGB">M.B.MOOK『懐かしゲームボーイパーフェクトガイド』({{ISBN2|9784866400259}})、64ページ。</ref>。 == 概要 == [[同人ゲーム]]。シナリオ枚数原稿用紙5000枚、グラフィックの総数500枚以上。その世界観、細かい設定などがコミケ終了後にユーザー(プレイヤー)の間で大きな評判を呼び、同人ゲームとしては異例のヒット作となった。また、エキサイト ブックス現代作家ガイドにも掲載されている<ref>[https://web.archive.org/web/20080213113223/http://www.excite.co.jp/book/guide/profile_29.html エキサイト ブックス現代作家ガイド―奈須きのこ(なすきのこ)]</ref>。 月姫の好評を受けて、おまけディスク『[[月姫PLUS-DISC]]』やファンディスク『[[歌月十夜]]』が制作された。その後、同人サークル[[渡辺製作所]]とのコラボレーションによる[[対戦格闘ゲーム]]『[[MELTY BLOOD]]』も発表され、月姫シリーズを形成した。 また、同人作品であるにも拘わらず、商業作品として展開・派生した作品・商品が多く、『[[真月譚 月姫]]』としての[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]化・[[漫画]]化といった各種メディアへの展開、『MELTY BLOOD Act Cadenza』としての[[アーケードゲーム]]進出、[[フィギュア]]や[[キャラクターグッズ]]の商品化などが挙げられる。詳細は各記事や[[#歴史|歴史]]の節を参照。特に[[アンソロジーコミック]]の発行点数は、TYPE-MOONが[[二次創作]]をあまり規制していないことから、相当な数となっている。 === 月姫 -A piece of blue glass moon- === TYPE-MOON10周年記念として、「[[TECH GIAN]]」2008年6月号にて『月姫』のリメイク版の製作が発表された。シナリオ・奈須きのこ、原画・武内崇のコンビは据え置きで、CGは全て新規描き起こしとなるとした。発売時期や対象年齢はこの時点では未定であった。<!--全年齢対象←「TECH GIAN」2008/6月号では未定のままでした。--> 本作はテレビアニメ『[[Fate/stay night (アニメ)#テレビアニメ第2作|Fate/stay night [Unlimited Blade Works]]]』とアプリゲーム『[[Fate/Grand Order]]』(以下:『FGO』)とシンクロするようにシナリオが執筆されており、『FGO』第1部のクライマックス、本作でのとある言及がTVアニメ第2期の放送と同時に進行する予定であったが、『FGO』の配信が当初の予定より延期したことと、本作の発売延期により実現はしなかった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/266/G026651/20170302098/index_2.html |title=「Fate/Grand Order」がもたらす新しいスマホゲームの形――奈須きのこ×塩川洋介が語るFGOの軌跡と未来とは|date=2017-3-11|accessdate=2018-5-27}}</ref>。 2021年3月26日に『'''月姫 -A piece of blue glass moon-'''』のタイトルで、2021年8月26日に発売されることが発表された。プラットフォームは[[PlayStation 4]] / [[Nintendo Switch]]で、PC版発売から20年余を経てのコンシューマ初移植となる。フルボイスで、過去の関連作品から担当声優は変更されており、新規にキャスティングが行われている<ref name="fami1231">{{Cite web|和書|url =https://www.famitsu.com/news/202012/31212316.html|title =『月姫』リメイク版2021年夏にPS4/Switchで発売決定。奈須きのこ氏・TYPE-MOONがおくる伝奇ビジュアルノベルが家庭用ゲームで蘇る|work=[[ファミ通.com]]|accessdate=2021-01-01|date=2020-12-31}}</ref>。アルクェイドルート「月姫」とシエルルート「夜の虹」を収録した、「月の表側」編として発売される{{Sfn|TMA13|2021|p=7}}。収録されなかった残りのヒロインのシナリオは、次回作以降で語られるとされている{{Sfn|TMA13|2021|p=7}}。 == 歴史 == * [[1999年]]8月13日 コミケ56で無料告知フロッピー300枚を配布。 * 1999年12月24日 コミケ57では体験版フロッピー50枚を頒布。 * 2000年8月11日 コミケ58で『'''月姫~半月版~'''』300枚を頒布。 * 2000年12月29日 コミケ59で『'''月姫~完全版~'''』を頒布。 * [[2001年]]1月21日 [[サンシャインクリエイション]]11で『'''月姫PLUS-DISC'''』を頒布。 * 2001年8月10日 コミケ60で『'''[[歌月十夜]]'''』を頒布。 * [[2002年]]12月28日 コミケ63で『'''[[MELTY BLOOD]]'''』を頒布。 * [[2003年]]4月29日 『[[月箱]]』を頒布。 * 2003年8月 「[[月刊コミック電撃大王]]」10月号より漫画『[[真月譚 月姫]]』連載開始。 * 2003年10月 [[BS-TBS|BS-i]]でアニメ『[[真月譚 月姫]]』放送開始。 * [[2004年]]5月30日 TYPE-MOON作品限定同人誌即売会「月詠宴」で『'''MELTY BLOOD Re・ACT'''』を頒布。 * 2004年10月22日 『月姫読本 Plus Period』発売。 * [[2005年]]3月25日 [[アーケードゲーム]]『'''MELTY BLOOD Act Cadenza'''』稼動開始。 * [[2006年]]8月10日 PS2版『MELTY BLOOD Act Cadenza』発売。 * [[2007年]]7月27日 [[Microsoft Windows|Windows]]版『MELTY BLOOD Act Cadenza Ver.B』発売。 * [[2008年]]4月21日 『月姫』(リメイク版)、「TYPE-MOONエース」誌上にて開発開始を発表。 * 2008年9月19日 アーケードゲーム『'''MELTY BLOOD Actress Again'''』稼動開始。 * [[2009年]]8月20日 PS2版『MELTY BLOOD Actress Again』発売。 * [[2010年]]7月29日 アーケードゲーム『'''MELTY BLOOD Actress Again Current Code'''』稼動開始。 * [[2011年]]12月31日 Windows版『MELTY BLOOD Actress Again Current Code』を頒布<ref group="注">OVA『[[TAKE MOON|カーニバル・ファンタズム 3rd Season]]』の初回限定版の特典。</ref>。 * [[2021年]]8月26日 [[PlayStation 4]] / [[Nintendo Switch]]『'''月姫 -A piece of blue glass moon-'''』発売。 * 2021年9月30日 PlayStation 4 / Nintendo Switch / [[Xbox One]] / Windows([[Steam]])『'''MELTY BLOOD: TYPE LUMINA'''』発売。 == スタッフ == === スタッフ(同人版) === * 企画 - 武内崇、奈須きのこ * 原案・シナリオ・シナリオプログラム・ゲームディレクター - 奈須きのこ * キャラクターデザイン・製作総指揮 - 武内崇 * シナリオプログラムアシスタント - OKSG * CGアシスタント - ふみっち * 背景 - 九鬼護、武内崇 * プログラミング・大道具 - 清兵衛 * 作曲・編曲・サウンドエフェクト - KEITA HAGA * 製作 - TYPE-MOON === スタッフ(リメイク版) === {{dl2 | 制作スタッフ | * シナリオ・総監督 - 奈須きのこ * メインキャラクターデザイン・原画・プロデューサー - 武内崇 * サブキャラクターデザイン - 山中虎鉄、PFALZ、坂本みねぢ、[[BUNBUN (イラストレーター)|BUNBUN]] * キャラクターデザイン協力 - [[こやまひろかず]]、[[中央東口]]、[[simo氏|下越]] * 武器デザイン - こやまひろかず、I-IV * 千年城デザイン - タイキ * コンテ・レイアウト - 武内崇、BLACK、こやまひろかず、[[佐々木少年]] * アートディレクター・色彩設計 - こやまひろかず * グラフィックマネージャー - 蒼月タカオ * グラフィック - こやまひろかず、蒼月タカオ、下越、縞うどん * グラフィック協力 - TAa、WINFANWORKS * モブキャラクター原画 - 丸山隆 * 背景 - [[ゆうろ]]、東地和生、下越、中嶌真崇、小島伸一、加藤たいら、[[minori]](株式会社ミノリ) * 演出・メインスクリプト - BLACK * スクリプト - 漆之原 * 3Dモデリング・スクリプトサポート - 砂取音幸 * プログラム - Kiyobee * [[吉里吉里2]]/Z 提供 - W.Dee、じん * サウンドプロデューサー - 芳賀敬太 * サウンドエディター - 一戸良平、河野健祐、山中健司、鬼澤仁之介、加峯廣一、寺内涼祐 * 音楽 - [[深澤秀行]]、芳賀敬太、毛蟹(LIVE LAB.) * 音響監督 - 榎本覚 * 音響制作 - ブレイブハーツ * 録音制作進行 - 工藤由梨 * ロシア語監修 - Dmitry Kumlev * ロゴデザイン・パブリシティ・UIデザイン・WEBデザイン - WINFANWORKS * 宣伝・広報 - 笹谷徳郎 * ビジネス&セールスマネジメント・パッケージ宣伝 - [[アニプレックス]] * 企画・制作 - TYPE-MOON | オープニングアニメーション | * アニメーション制作 - [[ufotable]] ** 監督・絵コンテ - 竹内將(アルクルート・シエルルート){{Sfn|TMA13|2021|p=17}} ** 演出 - 竹内將(アルクルート)、下村晋矢(シエルルート) ** キャラクターデザイン・作画監督 - [[須藤友徳]]{{Sfn|TMA13|2021|p=17}} ** 色彩設計 - 松岡美佳 ** 美術監督 - 樺澤侑里(アルクルート)、[[衛藤功二]](シエルルート) ** 背景美術 - ufotable美術部 ** 撮影監督 - [[寺尾優一]] ** 3D監督 - 佐藤号宙{{Sfn|TMA13|2021|p=17}} ** 撮影・3DCG - ufotableデジタル映像部 | コンシューマ版移植スタッフ | * 移植版プロデュース - [[ディライトワークス]]株式会社 * エグゼクティブプロデューサー - 庄司顕仁 * 開発 - [[ヒューネックス]] * 制作協力 - ディライトワークス株式会社、神羅エージェンシー、クラウドゲート、[[MUGENUP]] }} == ストーリー == {{不十分なあらすじ|date=2021年9月}} 物語の主人公である'''遠野志貴'''は、幼い頃に一度死にかけた後、「モノ」の壊れやすい部分を黒い線として捉えることのできる特別な眼「'''直死の魔眼'''」を持つようになった。その能力を持つ負担に苦しんでいたときに、偶然出会った女性からたしなめられ、その眼の力を封じる眼鏡を受け取ったおかげで、外見上、普通の少年として平凡な生活を送ることができた。 しかし、子供の頃から預けられていた親戚の家から、実家に帰ることが決まった頃と時を同じくして起きる、全身の血液を抜かれて人が殺されていく連続猟奇殺人事件が、志貴の生活を非日常へと急激に変化させてゆくこととなる。 == 舞台設定・主な用語 == この作品の設定はTYPE-MOON作品の多くが共有するそれと同一である。 [[TYPE-MOON#共通した舞台設定|共通した設定]]も参照のこと。 === 吸血鬼 === 人の血を吸う吸血種(血を吸う生き物の総称)の一種。作中においては後述の'''真祖'''(しんそ)、'''死徒'''(しと)、ないしそれらに血を受けて吸血種と成ったモノを指す。基本的に太陽光に弱く、血を吸った対象を支配し配下に置いたり、血を入れた対象を手足の延長線のように操ることができる。 ==== 真祖 ==== 吸血種において特異なモノ。性質は[[精霊]]に近い。基本は、自然発生で男性体しか生まれないが、ごく稀にアルクェイドのような女性体が生まれることがある<ref>歌月十夜の「朱い月」 より</ref>。人間に対して直接的な自衛手段を持たない星が生み出した、人間を律する「自然との調停者」「自然の触覚」。発生に人々の想念が関わっていないので[[神霊]]の類ではない。世界に望まれるも人々に望まれた存在ではないので神代の終わりには、次第に隠れ住むようになり、その数を減らしていった<ref>{{Cite book|和書|author=TYPE-MOON|authorlink=TYPE-MOON|title=月姫読本 Plus Period|publisher=宙出版|year=2004|page=183|isbn=9784776790372}}</ref>。(リメイク版では、世界の裏側と呼ばれる、幻想種が逃げて行った場所で人間の理で編まれた編み物('''テクスチャー''')で覆われた地上と違い、地下にある星のかつての姿を編まれた編み物で覆われた世界で、神代の終焉以降は、幻想種と共に逃げ込んでいる。) 星をかつての姿「真世界」に戻そうとする。人を律するために精神と肉体の構造は「朱い月のブリュンスタッド」と呼ばれる月で生まれたアルテミット・ワンを真似て作られているが、真祖にはそもそも欠陥が含まれるため、吸血衝動という間違いを持っている。高い身体能力と精霊に近い性質を持ち、世界と繋がることで思い描く通りに『自身(精霊)』と『自然』を変貌させる'''「空想具現化(マーブル・ファンタズム)」'''という精霊の能力を使える。アルクェイド程の力があるなら全力を尽くせば山奥に街一つ作り上げ、「彼女の世界」の中であれば千年後の月を現代に持ってくることが可能である。なお、動物が相手ならば多少手を出すことが出来るが、自然から独立した存在へ直接の干渉は行えない。例えば、本編でロアの足首以外を消し去ったのは、大気の層を真空状態にした結果である(アルクェイドの空想には床にまで断層を作る、という意思が足りなかった)<ref>{{Cite book|和書|author=TYPE-MOON|authorlink=TYPE-MOON|title=月姫読本 Plus Period|publisher=宙出版|year=2004|page=178|isbn=9784776790372}}</ref>。 細胞の限界という意味での寿命は無いが、全ての真祖には「律する対象である人間の血を吸いたい」という欲求(欠陥)があり、真祖はその欲求を抑えるのに大半の精神力を消費し、いずれ蓄積された欲求が自身の精神力を超えそうになった時には自ら永劫の眠りに就くため、それが寿命の無い真祖の「寿命」とされる。自ら眠りに就くことなく吸血衝動に負けて欲求のままに無差別に人間の血を吸うようになってしまった真祖は「堕ちた真祖」や「魔王」とも呼ばれ、力の抑制から解き放たれ、真祖としての真の力を発揮できるようになっており、人の力で滅ぼすのは不可能と言われる。 次代の真祖の王族として生を受け「堕ちた真祖」を狩る為に教育を施されたアルクェイドは、ロア(人間時)の姦計により暴走し真祖の大半を消滅させたが、『[[MELTY BLOOD]]』では真祖というにはあまりにも純度が低いものの、アルクェイド以外に真祖の生き残りがいることが示唆されている。 :; リメイク版で追加された設定 :; 事象収納 :: 星の地表で育ったモノを概念的、かつ物理的に収納する能力。時間さえ停止させて、惑星の地表に発生したあらゆる創作物――テクスチャーの没収を行う。 :: 真祖が本気で能力を発現する時、世界の方が真祖に合わせた環境に切り替わる。いわば“簡略化”、土地が一旦更地に戻されたようなもの。 :: 岩の塊で出来た街の残像は惑星の一部として残るが、建物も生物も細菌に至るまで形而上のものに変換され、不要な異物として星の内海に仕舞われる。世界がそのまま裏返しになってしまったら、収納された事象は二度と戻って来られなくなる。また、特定の人物を収納から弾く事が可能。 :: 障壁を張る事で事象収納をある程度耐える。アルクェイドと同質の存在である第七聖典は変換の対象にならないとか。 :; 光体 :: 膨張現象(インフレーション)。離拡光体現象。 :: 真祖の王族のみが持つ励起状態。真祖がなんらかの手段で肉体を完全に破壊されてしまった時、その反作用として起きるとされる。 :: 肉体という筐を失った事で圧縮されていた魔力が開放され、地表から引き出すエネルギーも制限がかけられなくなり、存在規模を膨張させた結果。光体の中心に本人の意識はあるが、肉体という壁がないため、その有り余る魔力量のまま「本人が思い描く、自身のイメージ」が投影・拡散されている状態。いわば精神力だけで作られた自然現象。 :: まだ魔力が有り余っている真祖を下手に破壊してしまうと今度はその体内に蓄えられていたエネルギーのみで出現し、災害となって人間の都市を破壊する、という報復機能。惑星の環境を初期化するシステムである。 :: 作中でアルクェイドは100メートル以上の光の巨人となった。 ==== 死徒 ==== 吸血鬼の一種。人間から吸血種に成った者たち。真祖や他の死徒に吸血され、その血を体内に入れられた人間のうち、肉体・霊的資質に優れた者が成った場合と、魔術師が研究の果てにその身を吸血種へと変えた場合とがある。吸血による死徒化の場合、血を入れた側を「親」、血を入れられた側を「子」とも呼び、「親」である吸血鬼は「子」の力や吸血衝動に影響を与える。 吸血による死徒化の過程は次の通り。素質ある人間の死体の脳髄が溶けて魂が肉体に完全に“固定”された「食屍鬼(グール)」の状態となり、その後数年かけて他の遺体を喰らい続けることにより腐敗した血肉を補った「生きる死体(リビングデッド)」になり、「生きる死体」がさらに数年かけて人間だった頃の知性を取り戻してはじめて「吸血鬼」となる。ただし、特に資質に恵まれた者であれば、短期間で吸血鬼となる場合もある。 死徒の肉体は不老であるうえ、肉体も人間に比べれば頑強になり、“復元呪詛”と呼ばれる時間逆行によって生きている限りは損傷部位も元に戻る。しかし、精神や魂の劣化を防ぐことはできず、またその肉体は何もしなくても常に崩壊を続ける。そのため、生前と同じ種類の生き物の血を定期的に摂取することで遺伝情報の補完を繰り返す必要のある「不完全な」不老不死である。 死徒の起こりは真祖の吸血衝動の一種の痛み止めとして用意された人間だったが、やがて力を付けることで真祖の支配を破り逃げ出した最初期の死徒たちが「死徒二十七祖」と呼ばれるようになり、特に強力な吸血種の称号として、代替わりや欠番、または死徒以外の吸血種を座に迎えながらも、現在も世界の闇に君臨している。 :; リメイク版で追加された設定 :: 死徒の階級が細かく変更された。 ===== 死者 ===== :; Ⅰ階梯:死者 :: 親の死徒の命令通りに動く人形。命令がなければ死体のまま放置され、死に至る。親にただ血を吸われて、血を送られただけの下級兵士。 :: 死徒に殺された後に血を送られたら犠牲者は死者にされてしまう。 :; Ⅱ階梯:屍鬼 :: グール。意思はあるものの、明確な思考はできない、生前の姿を擬態している死者。親の魔力で腐敗こそしないものの、中身は完全に崩壊している。 :: 脳が腐り出しているから本能で血肉を求める分、Ⅰ階梯の死者より凶暴。吸血鬼の兵士。 :: Ⅱ階梯以上になるには適性(吸血種の血に抗える免疫力)が必要。適性を持つ人間は100人中1人ぐらい。ただし、なまじ適性を持っていても生存力次第で絶命することもある。その中で、送り込まれた親の血に適応できて、耐えきれたものだけがⅣ階梯以上になれる。 :; Ⅲ階梯:不死 :: ようやく吸血鬼と呼べる程度の生き物になる。生きる屍。アンデッド。 :: 生前ほどの思考能力はないものの、自分だけで人間生活を偽装できる。自分がどういう生き物になったのかを理解した上で親に従っている上級兵士。 :: 一度死んでから脳を再構成しており、日光も平気だが、正体を秘すためには定期的な防腐処理が必要となる。味覚と痛覚を持たない。親が消滅しても死体には戻らない。 ===== 夜属 ===== :; Ⅳ階梯:夜属 :: 生前のパーソナリティを維持したまま、吸血鬼見習いとして活動する不死者。人間離れした身体能力を持つかわりに極度の冷えと渇きを覚える。いわば下級騎士、半人前の吸血鬼。しかしこの段階で既に代行者は圧倒されるほどの強さとなる。 :: Ⅵ階梯以上のモノが獲物を丁寧に、少しずつ吸血していくと、犠牲者はこの階梯の吸血鬼からスタートする。日光を浴びると貧血になる程度で、まだ焼かれはしない。 :: 魔術世界においては“ヒト”と呼べるのはこの階梯まで。 :: Ⅳ階梯に達した吸血鬼は、もう親基から離れても生きていける。親基から見れば、モノからイキモノに成った、ぐらいの感覚。この階梯になれるのは1000人中1人の割合である。 :; Ⅴ階梯:夜魔 :: Ⅳ階梯の深度に加え、その血液に宿った呪いによって親基、あるいは個人に起因する異能を発揮できるようになる。上級騎士、一人前の吸血鬼。 :: この段階に至っては代行者が束になっても敵わないとされる。 ===== 死徒 ===== :; Ⅵ階梯:死徒(下級) :: 完全に“吸血種”として自立。成り上がりものの限界。あえて言うなら城塞。 :: 自分が作ったグループの頂点「親基」になれる。だが、Ⅵ階梯以上の子は作れない。 :: 生殖機能がすでに失われている、という生き物として致命的な欠点を持つため、死徒は霊長類にカウントされない。 :; Ⅶ階梯:死徒(上級) :: 祖に認められ、更なる異能を与えられたもの。同じ呼び名でもその規模はⅥ階梯とは別物。この階梯になると居るだけで地域を汚染する毒になる。 :: 並の代行者では太刀打ちできない異端であり、貴族として自らの意志を許された吸血鬼。親基である祖に絶対服従という訳ではなく、機会さえあれば祖を倒して、その呪いを受け継ぐ事ができる。 :: ただし、同じ“自由”を得たとしても祖が生きた年月との差は膨大であり、祖の存在規模を上回ることは難しいとされる。 :; Ⅷ階梯:後継者 :: 祖が自分の後継に認めた、才能ある吸血鬼。言うなれば王子、王女。祖の中には吸血鬼ではないものを見初めて、いきなりこの階梯まで引き上げてしまうモノもいる。 :: ひとりの祖に最低ふたりいるらしく、単純計算で50匹以上いる。中には真祖を模して作られた死徒がいるとも言われている。 :: その力は真祖すら寄せ付けないとされる。 :; Ⅸ階梯:祖 :: 死徒の王。 ::“真祖の非常食”という立場から抜け出し、まったく違うモノとして独立を勝ち取った古い死徒。月から地上に落ちた真紅の染み。決して他と相容れない世界を持った猛毒たち。 :: Ⅵ階梯の死徒を生み出し、人間を“寿命”として摂取する長命者。現在に至る吸血鬼社会の構造を創ったとされる。 :: 二十七つ在るため、二十七祖と言われている。存在規模は個体差があり、西暦以前から活動しているのが「古参」、西暦以後から活動を始めたのが「新参」と分類される。 :: 神霊に比肩する強大さを誇り、祖と敵対するのは一つの国の相手をするのと同義だとされる。 :; 原理血戒 :: イデアブラッド。リメイク版で追加された力。祖を祖たらしめている血液の質であり、魂に刻まれた大本の戒め。その血を巡らせるだけで惑星の物理法則を塗り替える特異点。 :: この血を継承した死徒は、どんな階梯であろうと祖に成り上がる事となり、アルクェイドはこれを『王冠』と例えていた。 :: 反面、原理血戒を動かすには千年クラスの土台が必要となり、数百年活動した程度の死徒が継承してもその呪いで潰されてしまう。本来であればヴローヴに耐えられる物ではなかったが、ある死徒から施された術式とその相手に対する復讐心により、彼の正気は最後まで残される事となった。 === 第七聖典 === シエルが所有する教会所蔵「転生批判外典」たる概念武装。 もともとは祭礼用に使われていた一角獣の角。一角獣が臨終した際に、人身御供の少女と角に宿る動物霊を融合させた。融合して生まれたのが精霊「セブン」である。表面には「転生かっこ悪い」といった意味合いの転生批判の文句がびっしりと書き込まれていた、という儀礼用のアイテムが武器として使用されることとなり、槍やら杭となったが、近代化にあわせて銃剣に、現在はシエルの趣味でミサイルランチャー付き大型パイルバンカーに改造されている。 :; リメイク版での設定 教会が主の威光を示す為に作りあげた、長く使い手不在だった門外不出の聖遺物。 千年前、地上に残っていた稀少な幻想種をおびき寄せ、呼び水となった少女ごと竈にくべる事で神鉄を錬成し、教典として組み上げた概念武装。 魂砕き、すなわち断罪死をはじめとした、人間が背負うであろう死の要因があまねく記され、神鉄はその固有震動でこれを戒める洗礼を詠唱し続ける。 もともとは持ち運べないサイズの祭壇のような装置だが、今はシエルに解体され、一角馬の角を基本骨子に作られた「対吸血鬼武装車両」になっている。 双銃、銃剣、大剣、甲冑、破城弩弓、という六つの武装へと換装可能。更にそれらを組み上げて展開する事によってより強力な形態へと変形可能。 武器工場とも喩えられ、シエルのオーダーに応じて弩弓の使用弾頭などを変更できる。 燃費がすごく悪く、普通の人間が使ったらすぐに衰弱死する。 :; 焼死(ブレイズ) :: 第一死因。7.62mm口径のアサルトライフル。十年クラスの死徒なら根こそぎ挽肉にする銃弾の雨を繰り出せる。 :; 病死(シック) :: 第二死因。銃。完全武装シエルのアークドライブなどで姿を見せているが、効果は不明。 :; 出血死(ブレイド) :: 第三死因。2メートルを超える大剣。刃を分解して、短剣ないしワイヤーで繋いだ蛇腹剣として運用が可能で、最大限に伸ばしたら有効範囲は30メートル。 :: シエルがかつて倒した剣術の師である死徒二十七祖の第二十五位「べ・ゼ」から学んだ技術を最大限に生かせる武器。 :; 衝突死(ブレイク) :: 第四死因。杭打ち機(銃剣)。発動時に燃焼ガスが杭を回転させ、相手を消滅させる。 :: 杭打ち機は本来油圧式だったが、特殊環境下で故障する危険性が高いため、メイン動力が魔力による外部圧力に作り直されている。 :: ヴローヴが「どこまでも狡い蛇」と憎しみを見せたことから、ロアとなんらかの関わりがあるようだが詳細は不明。 :: 第三死因と合成することができる。 :; 精神死(ロスト) :: 第五死因。詳細不明が消去法で破城弩弓だと判明できる。 :: 断罪死へと換装し、第一死因、第三死因、第四死因を補助武装として合成すると、アルクェイドにも打倒できる程度の威力を持っている。 :: 3つの死因を補助武装として装備している時の最大射程は5キロメートル。 :; 拷問死(ペイン) :: 拷問具・純潔証明(ヴァージンペイン)。鉛と鉄で組み上げられた甲冑。 :: 鉄の処女(アイアンメイデン)と呼ばれた“死して魔女と証明されないかぎり自由になれない”拷問具に起因する概念武装。 :: “使用者が死ぬまで外す事はできない”特性を持つが、それも転じて“使用者が死ぬまでは壊れない”特性を意味するため、シエルはそれを良しとして利用する。 :: 外部からの暴力や劣悪な環境の影響を防ぎ、内部での責め苦による衰弱死のみで破壊する。使用者の魔力が尽きないかぎり、最低限の生命活動を保証する。 :: ある意味で、甲冑が剥がれた後のインナーこそ本体であって、耐刃、耐火、耐毒、耐衝撃、耐神秘の性能を持ち、戦車の砲弾やアルクェイドの爪の直撃でさえ耐えられる。 :; 断罪死(パニッシュ) :: 第七死因。第七聖典の本質。転生批判の聖典。杭打ち機または破城弩弓による魂砕き。 :: おそらく甲冑以外の他の武器でも使用可能。 === 直死の魔眼 === モノの寿命を視覚情報として捉えることのできる眼。これが読み取って視覚化するのは単なる生命活動の終了ではなく、意味や存在における「いつか来る終わり」「死期」「存在限界」であり、「存在の寿命」そのものである。直死の魔眼所有者にとって「死」は黒い線と点で視認され、強度を持たない。魔眼所有者がこの「死」を切ったり突くと、対象(有機、無機を問わず、時にはより広義・上位概念上の存在も含む)を殺すことができる。 「死の線」はモノの死に易いラインを表し、線をなぞり断てば本体が生きていようとその部分は「死亡」し、結果として対象はどんなに強靭であろうと切断される。「死の点」は死の線の源でもあり、寿命そのもの。死の点を突けばそのモノの意味が死に至る。志貴が点を見るには極度の精神集中が必要となる<ref name="plusperiod184">{{Cite book|和書 |author= TYPE-MOON|authorlink=TYPE-MOON |title = 月姫読本 Plus Period |publisher = 宙出版 |year = 2004 |page = 184 |isbn = 9784776790372 }}</ref>。 直死の魔眼と称しているが、正しくは魔眼ではなく超能力に分類され、所持者の脳と眼球でワンセットである。見ることができる「死」は所持者の認識に左右される。対象物の中の限定的な部分に関する線や点だけを突くことも可能で、体内の毒物や病んだ内蔵などを限定して殺せば他は傷つけずに排除できるため、治療としての応用が可能。 ; 直死の魔眼で殺せない対象 :魔眼所有者が死を理解できないモノ、その時代において殺す(壊す)ことが不可能なモノ、死期が無いモノはその死も理解できないので線も点も視えず、殺すことはできない。それは人間である保持者の基準がその時代の人間の限界に準じるからである。 === 混血 === かつて、ヒトならざるものと交わり力を得た人間の末裔。血の力を引き出すことで人間には無い異能を使い、先祖の血や個人によって能力は大きく異なる。ヒトならざるものの血を引く者が血の力を最大に引き出した状態を先祖還りまたは、魔を示す三大色を冠した'''紅赤朱'''(くれないせきしゅ)と呼ぶ。基本的に歳を重ねるごとに人以外の血は強くなっていき、魔としての意識がそれを抑えつける人の意思より強くなった状態を「反転」と呼ぶ。「反転」すると人らしい理性や道徳観が欠如し、ケモノじみた欲望のままに行動するようになる。紅赤朱など、そういった魔としての血が濃くなって人から「外れた者」を処罰する退魔の組織や血筋も存在し、家柄や時と場合によって混血も彼らと協力したり、最大の敵対者となったりする。 == 登場キャラクター == 声の項は、『[[MELTY BLOOD]]』(無印 - 『Actress Again』まで)『[[カーニバル・ファンタズム]]』 / 『[[真月譚 月姫]]』 / 『月姫 -A piece of blue glass moon-』<ref name="リメイクCV">{{Cite web|和書|url=http://www.typemoon.com/products/tsukihime/|title=キャラクター|work=月姫 -A piece of blue glass moon-|publisher=[[TYPE-MOON]]|accessdate=2021-06-10}}</ref>『MELTY BLOOD:TYPE LUMINA』での担当声優。 === メインキャラクター === ; <span id="遠野志貴">遠野 志貴(とおの しき)</span> : 声:[[野島健児 (声優)|野島健児]]、[[小林由美子]](幼少期)/ [[鈴村健一]]、[[根本圭子]](幼少期) / [[金本涼輔]]{{R|リメイクCV}}{{R|fami1231}}、[[藤原夏海]](幼少期) : 身長:173cm / 体重:57kg : 誕生日:[[10月15日]] / 血液型:AB型 : 本作の主人公。高校二年生。財閥めいた大グループである遠野家の長男だが幼い頃に重傷を負い、それ以後父親に勘当同然に拒絶されて親戚の家「有間」で過ごしていたが、父親の死をきっかけに再び遠野の屋敷に彼が戻るところから物語は始まる。 : 子供の頃の二度にわたる臨死体験がきっかけで、「モノの死」を見ることの出来る「直死の魔眼」を得る。視力は両目とも2.0(あるいはそれ以上)だが、直死の魔眼は脳に非常に重い負担をかけるため、普段は「魔眼殺しの眼鏡」をかけて眼の力を抑えている。 : 基本的には誰にでも優しくできる中立な青年。整ってはいるが、地味な童顔で並みの容姿。運動神経は良いが、幼い頃に重傷を負った事件以降、慢性的な貧血持ちであるため体育は苦手<ref group="注">アニメでは第1話では体育中に倒れ、早退したことがある。</ref>。重傷の傷跡が残っており、胸に大きな傷痕や背中に火傷の痕がある。私物を持ちたがらない性格で部屋の中もさっぱりしているが、刃物の収集癖があり、また殺人鬼としての秀でた素質を持つ。 : 何事も器用にこなすが女性に対して鈍感であるため、各ヒロインから「愚鈍」「鈍感」「野暮天」「朴念仁」「一番悪い人」と言われている。 : 実は養子で遠野の血は引いておらず、旧姓は七夜。魔よりになった混血を暗殺することを生業とする退魔の一族である七夜を恐れた遠野槙久による七夜一族殲滅の際、自分の息子と同じ「シキ」であるという気まぐれから養子に取られ<ref group="注">自身の子が反転衝動に堕ちたときの討伐者としての側面もあり、アニメ版・漫画版ではこちらの面が強く出ている。</ref>、シキ、秋葉、翡翠とともに幼少の一時期を過ごすが、ゲーム開始直後は槙久により幼少時の一部の記憶を暗示により封印されている。七夜志貴であった頃の記憶はほぼ無くしているが、「直死の魔眼」の元となった「ありえざるモノを視る」眼である「淨眼」は残っている。彼が魔眼をフル活動する時に目が蒼くなるのは淨眼の性質である。淨眼の能力の一部として霊体を視ることが可能で、霊視が出来ない者には見ることが出来ない秋葉の「檻髪」も視認できる。「人でないモノ」に対する殺意の衝動や殺人鬼としての資質、極限状態で見せる体術などの七夜の一族の特徴は、いまだ彼に残っている。また、反転衝動で極限状態になった彼は'''殺人貴'''と呼ばれ、もしくは可能性の一つとされる。詳しくは下記を参照。 : 名前と能力は『[[空の境界]]』の主人公の両儀式から、顔立ちは同作の登場人物である黒桐幹也から受け継いでいる。 : 同じ直死の魔眼を保持する両儀式と比べると、彼女のように形なき概念を殺すことは不向きである。それは肉体のスペックの違いであり、彼は二度の臨死体験により起源に触れたことにより魔眼を発現したため、生物殺しに特化している。モノを殺すの言葉通りに物体やそれに対する概念を殺すことが可能であり、作中では死の点を刺すことにより校舎を崩壊させ、また大地の地形効果(真祖の満月における不死性)を無力化し、そして見ることが出来ない満月状態のアルクェイドの死の線を視認している。 ; <span id="アルクェイド・ブリュンスタッド">アルクェイド・ブリュンスタッド(''Arcueid Brunestud'')</span> : 声:[[柚木涼香]] / [[生天目仁美]] / [[長谷川育美]]{{R|リメイクCV}}{{R|fami1231}} : 身長:167cm / 体重:52kg / スリーサイズ:B88/W55/H85 / 姫アルク状態時:神代回帰/質:B / 神代回帰/量:A++ / 神代回帰/編成:西暦以前までの、擬神化される自然現象 : 誕生日:[[12月25日]](自称)/ 血液型:不明 : イメージカラー:白 / イメージソング:[[Nav Katze]]「Crazy Dream」 : 本作の正ヒロイン。[[真祖]]に区分される吸血種。真祖の執行者。真祖の王族('''アーキタイプ・アース''')。 日光を浴びても「なんかだるい」位にしか感じず、人間の血を吸うのを自制している変わった吸血鬼。 : 無邪気で天真爛漫で感情の起伏が激しい。わがままとも取れる行動をとるが、それは社会経験がほとんどないためであり本人に悪気はない。自由奔放な猫のように、明るくしなやかな女性。楽観的に見えるが、根は悲観主義。「教えて知得留先生」ではデフォルメされた謎のキャラ「猫アルク」として登場している。髪の色は金髪で髪型は元々はロングだったが、死徒二十七祖第九位にて姉にあたるアルトルージュ・ブリュンスタッドに長髪を奪われており、取り返さない限り伸びることは無い。 : 12世紀頃、他の真祖と同じく世界の裏側で自然発生で誕生。他の真祖よりも優れたスペックを持っていたため堕ちた真祖を狩るための教育を施された(旧設定は、真祖の一族が「最高の真祖」を求めて生み出した、いわば“人造真祖”であり、堕ちた同胞を処刑するために生み出された戦闘人形とされていた)。しかし、その高すぎるポテンシャルゆえに「朱い月」を復活させる“器”となることを恐れられ、これ以上の成長がないよう、処刑執行後は、他の真祖たちにより記憶と感情をたびたびリセットされるようになる。その後、ミハイル・ロア・バルダムヨォンの姦計に陥れられ、暴走してその場にいた真祖たちを抹殺。ロアを怨敵と認識し、以後ロアが転生するたびに彼を抹殺するため行動していく。それ以外のときは居城「千年城ブリュンスタッド」で自らを拘束して眠り続けていた。 : 他の追随を許さぬ高い身体能力から繰り出される「爪」と「空想具現化」による戦闘力は『[[DDD (小説)|DDD]]』を除くTYPE-MOON作品の多くが共有する統一的世界観において最強クラスである。地球そのものから無限のバックアップを受け、シンプルイズベストであるためオールラウンダーであり、総じて勝率が高い。しかし星からの絶対命令により「相手の個体能力(武器などの外的要素は個体能力に含まれない)よりもやや上の出力」しか許されない。通常アルクェイド(30%)とサーヴァントを比較すると強さは4倍で個体能力はサーヴァント約2体分となる<ref group="注">奈須きのこ曰く「アルクェイドの4分の1くらいかな? 一人頭の強さは。サーヴァント一人だとアルクが勝つだろうけど、サーヴァント二人だとアルクがてこずってる間に後ろからプスッと……いけるかな」「あと、通常アルクェイドはサーヴァント約2体分の個体能力ってことでひとつ」とコメントしている。</ref> とされている。あくまで相手の『個体能力』に応じるため、例え本人の能力がアルクェイドと同格でも、武装数が多く用途も多岐に渡るサーヴァントはアルクェイドより有利となる<ref group="注">ギルガメッシュなどの超火力のサーヴァントには特に。また彼の能力が宝具に依存するのも関係がある。コンプティーク2006年9月号 Fate道場Q&Aより。</ref>。 : 作中ではロアに力の一部を奪われ、また志貴に出会い頭に惨殺された影響で大きく弱体化している。 : 真祖は常に吸血衝動を抑えるために70%の力を使っている。彼女も例外ではなく、普段は吸血衝動を抑えているが、逆上し吸血衝動に飲まれかけた状態の時は100%の力を引き出す<ref group="注">その状態の彼女の怪物ぶりを表す例として、公園 - 学校間の約6kmを一分足らずで走破し(計算上では時速約360km以上で移動したことになる)、普段ならまだ勝負になる相手・シエルを一瞬で倒したことが挙げられる。</ref>。この状態は'''暴走アルクェイド'''あるいは'''悪クェイド(ワルクェイド)'''と称されている。また深層意識である'''朱い月'''と呼ばれる側面が前面に出し別の行動理念が表に出た状態、最高純度の真祖・星の触覚'''真祖アルクェイド'''(通称姫アルク)だと千年城の主として君臨していた時代の体であり、髪を奪われる前の姿だと100%の力に加え、魔術を一切寄せ付けない魔法以前の神秘再現'''神代回帰'''の特性も追加される。 : 本編では表情豊かな女性だが、本来は真祖の処刑道具として一切の感情を排して「運用」されていた。彼女が感情を持ったのは、志貴に殺されたことで「システム」も破壊され、再生する中で「バグ」を起こしたようなものと例えられている。12世紀頃に誕生したとされるが、その活動年数は1年にも満たず、人生のほとんどは城で深い眠りにつくものだった。 : ストーリーが秋葉たちを中心に展開する「遠野家ルート」では全くと言っていいほど出番がないため、正ヒロインであるにもかかわらずヒロイン中最も出番が少ない。そのことについて猫アルクが愚痴をこぼしている。 : 『TAKE-MOON』では志貴と魔法少女の映画を見に行ったことで、アルクェイドがそれに気に入り、魔法少女に扮した「'''[[フェイト/タイガーころしあむ#ファンタズムーン|白き月姫ファンタズムーン]]'''」という姿で登場しており、これが後に『[[Character material]]』に紹介され、また『[[フェイト/タイガーころしあむ|フェイト/タイガーころしあむアッパー]]』に参戦している。ファンタズムーンの杖は『[[Fate/stay night]]』のキャスターから奪い取ったものである。 : 嫌いな食べ物は[[ニンニク|にんにく]]で、摂取すると卒倒してしまう。 : 4回行われた月姫キャラクター公式人気投票で1位を独占する等、高い人気を誇る。なお、2009年のまほうつかいの箱での公式人気投票の「第1回マイBESTキャラランキング」では全TYPE-MOONキャラ中5位であり、月姫キャラクター中では1位。 : デザインのモチーフは[[武内崇]]が大学時代に読んだファッション雑誌の外国人モデル。現在、跡地となっている同人時代の公式ホームページでその写真の閲覧が可能となっている(EXTRA→スタッフ座談会第一夜と進むと、中程からリンクが貼られている)。名前の由来は[[ドラキュラ伯爵|ドラキュラ]]の逆綴りではないかと言われていたが、スタッフによれば名前が中々決まらなかったために奈須きのこの別作品に登場するキャラクターの名前を使うことになっただけで偶然とのこと。 : 『[[Fate/EXTRA]]』ではバーサーカー、『FGO』ではムーンキャンサーのサーヴァントとして登場。 ; <span id="シエル">シエル(''Ciel'')</span> : 声:[[佐久間紅美]] / [[折笠富美子]] / [[本渡楓]]{{R|リメイクCV}}{{R|fami1231}} : 身長:165cm / 体重:52kg / スリーサイズ:B85/W56/H88 : 誕生日:[[5月3日]] / 血液型:O型 : イメージカラー:青 / イメージソング:[[BUCK-TICK]]「[[狂った太陽|地下室のメロディー]]」 : 気さくで物腰の柔らかい、志貴の学校での先輩。しかし実は“普遍的な意味を持つ”一大宗教の裏側、“異端狩り”の組織「聖堂教会」の中でもさらに異端審問に特化した組織「埋葬機関」の代行者として、神に代わって異端を殺すことを生業としている人物。「シエル」は洗礼名で、本来の名はエレイシア。 : 組織の第七位(組織は七人編成。予備役が一人)であり、単独での執行権を持つ。卓越した身体能力、膨大な知識、冷酷な感性を持ち、総合的に非常に高い戦闘力を有する。任務遂行時はクールで冷徹。身体能力を生かした高い格闘技術の他、「黒鍵」と呼ばれる投擲用の剣から銃火器まで数多くの飛び道具を法衣の下にしまい込み愛用するため、埋葬機関から「弓」と呼ばれる。 : 魔術に関しても秀でており、知識だけなら対立組織「魔術協会」の最上位の魔術師に匹敵し、魔力のキャパシティーも通常の魔術師の百倍に相当する。使用する魔術は簡単な[[催眠]]から、戦闘用の投剣「黒鍵」への魔術の付与、身体能力の強化<ref>『[[MELTY BLOOD|Current Code]]』での勝利メッセージより。</ref>、数秘紋による雷撃、[[結界]]に関するものも見られる。ある理由から(任務遂行のためなら拒まないが)魔術を使用することを嫌い、また、ある死徒が死ななければ死ぬことが出来ない。 : シエルの武装の中には転生を否定する「第七聖典」という、絶大な威力を持つ強力な[[パイルバンカー]]がある。元は霊体に対してのみ有効な概念武装だったが、シエルの趣味で改造され、総重量は60kg(オプションパーツを付けると最大でその倍)となり、物理的攻撃力だけでも吸血鬼を殴殺できる鉄塊と化しており<ref name="plusperiod184"/>、『[[MELTY BLOOD|Current Code]]』ではミサイルランチャーが装着されているのが判明している。「セブン」という[[精霊]]が宿っているが、こちらは『[[歌月十夜]]』にて登場。 : メガネにはあまり度が入っておらず、戦闘時は外していることが多い。 : 実は先代17代目のロアの転生体。[[フランス]]の片田舎でパン屋の娘として平凡に生きていたが、ロアが覚醒したことで自身の意識は保ったまま家族や友人を含めた故郷の人間を全て惨殺してしまう。その後、教会と組んだアルクェイドによって滅ぼされるものの、魂のラベルは「ロア」のままだった。このことから、もし彼女が殺されたとしてもロアが生きている以上、「ロア」という魂を持つ彼女の死は世界によって修正される。つまりロアが存在する限り、死ねない体(無限蘇生)となっていた。異端として教会によるありとあらゆる殺戮を経験した彼女は、その不死性に目をつけた埋葬機関長・ナルバレックの誘いを受け、埋葬機関第七位の代行者となる。 : 上記の因縁によりアルクェイドとは折り合いが悪く、隙あらば殺し合いを始める関係。存在自体がある意味で異端である埋葬機関で生きてきた彼女は、自分同様「死」を経験しながら緩い志貴の生き方に強く感化されていく。 :極度の[[カレー (代表的なトピック)|カレー]]好き。食事は学校での昼食以外ほぼカレーだけ「[[カレーうどん]]をおかずにして[[カレーライス]]を食べる」という徹底振り。アニメ版『[[真月譚 月姫]]』第1話では学校の昼食で食事をしているとき、シエルが食べていたのがカレーではなく[[スパゲティ]]だったために激怒したファンがいたとされる。 : 『[[ひぐらしのなく頃に]]』では彼女のオマージュとして知恵留美子(ちえ るみこ)先生というキャラクターが登場し、外見はもちろんのこと、「先生」「カレー好き」という設定も引き継ぎ、アニメの声優は『真月譚』でシエルを演じている折笠富美子である。前述のアニメでの不評要因であるスパゲティを嫌いなものに設定している(ネタで同一人物と捉える向きもある)。最初はただのオマージュだったが、後に作者同士の対談で公認化している。 :名前はフランス語で「弓」は「シエル」だったと思い込んだ(名前の元を[[L'Arc〜en〜Ciel]]から取ったため)シナリオライター[[奈須きのこ]]による命名だが、"Ciel"の実際の意味は「弓」でなく「空」(なお「弓」は"'arc")であった。開発も終盤に差し掛かって判明したが、そのままで行くことになった。 ; <span id="遠野秋葉">遠野 秋葉(とおの あきは)</span> : 声:[[北都南]](『MELTY BLOOD』無印)→ [[ひと美]](『MELTY BLOOD Re・ACT』以降) / [[伊藤静]] / [[下地紫野]]{{R|リメイクCV}}{{R|fami1231}} : 身長:160cm / 体重:45kg / スリーサイズ:B73/W57/H79 : 誕生日:[[9月22日]] / 血液型:A型 : イメージカラー:赤 / イメージソング:[[Swinging Popsicle]]「サテツの塔」 : 志貴の妹で、名門「遠野家」の現当主。志貴を家に呼び戻した張本人であり、礼儀正しく完璧な立ち居振舞いを見せる気の強い令嬢。しかし、小さい頃は大人しく気が弱かった。 : 8年間も離れて暮らしていた志貴に負い目や不満があり、優しくしたいと思いつつも、志貴の気ままな性格や自身のプライドのせいで素直に感情を表せないでいる。血の繋がらない志貴を異性として愛しており、嫉妬深い面も見せる。[[貧乳|胸がない]]ことを[[コンプレックス]]に思っている。黒髪のロングヘアが特徴。(同人版の服装は、赤と白を基調としているのに対し、リメイク版では黒や紺と白色が中心) : 屋敷の中では未成年飲酒を堂々としている。かなりの量を飲んでも顔が僅かに赤くなるだけで、志貴いわく「ざる」。洋酒が好み。 : 浅上女学院という学園で寮生活を送っていたが志貴を遠野家に戻すにあたり自宅からの通学に切り替えた。ルートによっては志貴の通う学校に転校する。 : “略奪”の混血。視界にある無機物・有機物の熱を任意で奪う力を持ち、熱を完全に奪われた物体は形を保てなくなり気化する。この能力を最大に発揮させた状態である略奪呪界「檻髪」に加え、対象に命を分けて再稼動させる「式神行使」の力を持ち、8年前の事件において志貴が一度死んだ際、式神行使の能力により彼に自分の半分の命を与えて彼を蘇生させた。以後彼女は半分しか自分の命を使えなくなり、琥珀の能力で残り半分の命を補っている。なお、能力を使う際には髪が赤く染まり、その髪を用いた物理的攻撃も可能。 : 「兄」遠野志貴がそうであるように同じく「[[空の境界]]」の黒桐鮮花(黒桐幹也の妹)と容姿及び能力のイメージが似ている。この二人に関しては、青子や凛と共にキャラクター的な根源が同一であると述べられている。(紅赤朱)秋葉と青子はお互いに「他人と思えない」と感じている。 ; <span id="翡翠">翡翠(ひすい)</span> : 声:[[松来未祐]] / [[かかずゆみ]] / [[市ノ瀬加那]]{{R|リメイクCV}}{{R|fami1231}} : 身長:156cm / 体重:43kg / スリーサイズ:B76/W58/H82 : 誕生日:[[3月12日]] / 血液型:B型 : イメージカラー:青紫 / イメージソング:[[SOFT BALLET]]「[[INCUBATE|PARADE]]」 : 遠野家の使用人で、琥珀の双子の妹。邸内の食事を除く家事全般と志貴の世話を受け持っている。包丁の扱いが下手なことと味音痴であることから料理することを禁じられている。濃いピンク色の髪にメイドカチューシャが特徴。 : 寡黙で無表情だが、よく見ると感情表現がはっきりとしており、芯も強い。潔癖症で極度の照れ屋で男性恐怖症でもある。志貴が持ち歩いているナイフが初登場したとき、その刃紋に見惚れる一幕も。 : 対象の生命力などを増幅させる「感応」能力を持つ一族の孤児で、志貴と前後する時期に遠野家に使用人として引き取られている。当時から、琥珀とともに彼と縁のある人物。しかし志貴側は記憶が曖昧になっており姉妹側は以前のことをはぐらかしている。 : 幼少時は現在とは違い明るい性格であり、七夜一族が目の前で惨殺され落ち込んでいた志貴を外界に目を向けさせる切っ掛けを作ったのも彼女である。志貴、秋葉、シキらと共に幸せな幼少時代を過ごしていたがシキが反転し、秋葉をかばって重傷を負った志貴を目のあたりにして何もできなかった自分を「まるで人形のよう」と悔やみ、現在のような寡黙な性格になってしまった。男性恐怖症も姉である琥珀が自分の身を削ってまで彼女の純潔を守ったことへの反動である。そのため琥珀に非常に負い目を感じている。 : 『月姫(半月版)』では、「お部屋'''を'''お連れします」などなかなかにぶっ飛んだ発言をしているなど、彼女のセリフに関わる[[誤植|誤字脱字]]が特に酷く、このことから「あなた'''を'''犯人です」という台詞を決め台詞とする「'''洗脳探偵翡翠'''」というネタが生まれた。後の『[[Character material|キャラクターマテリアル]]』においては「翡翠の可能性の1つ」として設定が追加されている。 : 本編以後は前述の連発された誤植や『[[MELTY BLOOD]]』での「暗黒翡翠拳」やメカ翡翠の登場など、ややギャグキャラ化している感は否めない。反面、洗脳探偵は[[ダークヒーロー]]的キャラクターとして設定されている(とはいえ、洗脳探偵自体がギャグキャラであるが)。 ; <span id="琥珀">琥珀(こはく)</span> : 声:[[高野直子 (声優)|高野直子]] / [[植田佳奈]] / [[桑原由気]]{{R|リメイクCV}}{{R|fami1231}} : 身長:156cm / 体重:43kg / スリーサイズ:B78/W58/H80 : 誕生日:[[3月12日]] / 血液型:B型 : イメージカラー:赤紫 イメージソング:[[Cocco]]「やわらかな傷跡」 : 遠野家の使用人で、翡翠の双子の姉。濃いピンク色の髪に青いリボンが特徴。[[和服]]に[[割烹着]]が普段着で、秋葉付として彼女の身の回りの世話や料理や庭の手入れ、遠野家の健康管理や財務管理など幅広く受け持っているが、邸内の掃除は破壊癖があるため禁じられている。また、[[薬学]]の心得があり、遠野家の庭の草で薬品を調合することがある。遠野家において唯一、テレビやゲームなどの娯楽用家電機器を所有する。 : いつも明朗で笑顔を絶やさないが、実は翡翠とは逆に笑顔しか表情を表現できない。その裏には過去の様々な出来事が深く関係している。 : 実は遠野槙久の暴走(反転による紅赤朱化)を抑えるために琥珀・翡翠姉妹の「感応」能力が必要とされ、遠野家に引き取られた経緯がある。琥珀は翡翠に累が及ぶのを食い止めるため、幼少の頃から一人で反転衝動で槙久が凶暴化した際に感情の捌け口としての暴行(感応能力を行わせるため性交の強制も含んでいたため、ほぼ性的虐待)に耐え続ける日々を送っていた。それ以降、彼女は自身を「人形」と思い込むことで苦痛から自分の精神を守ろうとするが、元から寡黙で感情を表に出すのが苦手だった彼女は自分を見失い、喜びも悲しみも感じなくなってしまう。 : 「人間らしさ」を失いつつも「人間らしさ」にすがった結果、自分が受けてきた苦痛を遠野の一族に復讐するという形をとることで「人間らしく」あろうとし、槙久に対する憎しみすら持てない空虚なまま、事件発覚以後寡黙になった翡翠に変わってかつての明るかった翡翠の役割を演じた'''笑顔の仮面'''を被り、裏で密かに策謀を巡らせ、遠野シキを懐柔して槙久を殺害することに成功するが、志貴の帰還は琥珀の復讐を、琥珀本人も気づかないうちに違う方向へと誘っていく。なお、歌月十夜以降は、本編で見せたような冷徹な策士という部分はあまり見せず、かなりはっちゃけたキャラへと変貌する事になる。 : 企画当初はサブキャラであったが、『半月版』で予想以上の人気が出たため、急遽一週間で専用ルートが設けられたという経緯がある。また最初期の『完全版』では、[[フローチャート]]の不備により、渾身の演出として隠しシナリオであったはずの琥珀ルートが初回から攻略可能であったため、フローチャートを作った張本人である[[奈須きのこ]]が激怒、相方の[[武内崇]]に「見たこともないほど怒っていた」と言わしめた逸話もある。 : 前述のアルクェイドや翡翠同様、『キャラクターマテリアル』において「'''[[フェイト/タイガーころしあむ#マジカルアンバー|魔法のお手伝いさんマジカルアンバー]]'''」として登場している。またマジカルアンバーは『[[フェイト/タイガーころしあむ|フェイト/タイガーころしあむアッパー]]』において黒幕的人物の一人という設定で、ある条件を満たせばプレイヤーキャラとして使用できる。 === サブキャラクター === ; <span id="弓塚さつき">弓塚 さつき(ゆみづか さつき)</span> : 声:[[南央美]] / [[田中かほり]] / [[田中美海]]{{R|リメイクCV}} : 身長:161cm / 体重:45kg / スリーサイズ:B79/W59/H82 : 誕生日:[[8月15日]] / 血液型:A型 : イメージソング:[[原田知世]]「[[哀しみのアダージョ|彼と彼女のソネット]]」 : 志貴のクラスメイト。茶髪のツインテールという可愛らしい外見と人当たりの良さから非常に人気がある。ある事が切っ掛けで中学時代から志貴に想いを寄せていたが、志貴は高校まで存在自体に気づいていなかった。本作の舞台・三咲町で起こった連続猟奇殺人事件に巻き込まれ、吸血鬼と化して人を襲うようになってしまう。裏ルートにおける中ボス。 : 人間だった時は普通の少女だったが、死徒としての素質に恵まれていたため、半日程度で吸血鬼として蘇生した。その資質はかつての「死徒二十七祖」に匹敵し、存命していればわずか半年後には固有結界「枯渇庭園」さえ用いるようになる。 : 通称「さっちん」。本来なら彼女にも専用ルートが用意されるはずだったが、諸般の事情でカットされた。シナリオ自体は完成しており、「他のヒロインの話が食われてしまう」ほど完成度が高いと評される。 : 作中では悲劇のキャラであるが、作品の外でも、専用ルートがないことで不遇キャラとしてたびたびネタにされている<ref group="注">例として、『MELTY BLOOD Act Cadenza』でのとあるキャラのシナリオで、「いつかはヒロインになれる」と発言したところ、「[[Fate/stay night#.E7.94.A8.E8.AA.9E.E8.A7.A3.E8.AA.AC|聖杯]]」でも無理といわれるなど。</ref>。 : 同人時代の人気投票ではシエルの直下に必ず張り付き(公式第1回6位-シエル5位、第2回6位-シエル4位、第3回7位-シエル6位、第4回5位-シエル4位)通称、'''シエルキラー'''の名を与えられる。第4回ではついに強敵・翡翠(6位)を下す快挙を果たし、2009年のまほうつかいの箱での「第1回マイBESTキャラランキング」でとうとう翡翠(15位)のみならず、念願のシエル(13位)越えに成功し、全TYPE-MOONキャラ中10位にランクインという大健闘を果たした。 : イラストライターの武内によると、[[ヒカルの碁]]に登場する藤崎あかりがキャラクターデザインのモデルとなっている。 : アニメ版と漫画版では生存している。また漫画版では両親と思われる「弓塚徳春」「弓塚博子」の名前が出ている。アニメ版では両親と思われる名前は「弓塚マサハル」「弓塚ユウ」と読み上げられているほか、もう一人弓塚姓の人名が書かれているように見える。 ; <span id="乾有彦">乾 有彦(いぬい ありひこ)</span> : 声:なし<ref group="注">『MELTY BLOOD』には登場しない。『カーニバル・ファンタズム』の設定資料集には『真月譚 月姫』と同様に櫻井孝宏が担当声優として記載されているが、本編中にセリフはない(映像のみの登場)。</ref> / [[櫻井孝宏]] / [[古川慎]]{{R|リメイクCV}} : 身長:174cm / 体重:62kg : 誕生日:[[10月24日]] / 血液型:B型 : 志貴のクラスメイト。幼馴染で悪友。女好きで、シエルにも好意を持つ。赤毛の不良で志貴とは相性が悪そうな人物だが、いろいろと通ずる部分があり小学校以来の腐れ縁を保ち続けている。中学時代の志貴は、乾家に入り浸っていた。一見陽気で、万年遅刻魔と呼ばれるほどガサツな人物だが、外見に似ない観察眼と思慮深さも持っており、志貴の優しさや人当たりの良さの背後にある空虚さ、死との距離の近さに気付いている。本編においてさつきと志貴が交流を始めた際には「けなげで尽くすタイプの弓塚とお前では、相性が悪過ぎるからやめとけよ」と、まさに後の悲劇を暗示するような忠告をしていた。 : たとえ一夜限りだとしても女性への態度は真剣そのものらしく、女子からの評判は良好。ただし志貴曰く「[[ナンパ]]の成功率2割以下」とのこと。 : 「歌月十夜」のオマケで、シエルの持つ第七聖典に宿る精霊である「セブン」と知り合った。 ; <span id="青崎青子">蒼崎青子(あおざき あおこ)</span> : 声:[[三石琴乃]] / [[木村亜希子]] / [[戸松遥]]<ref>{{YouTube time|zmjsJtweUQA|TYPE-MOON TIMES Vol.2|time=7m50s}}</ref> : 身長:160cm 体重:50kg スリーサイズ:B88/W56/H84 : 誕生日:[[7月7日]] 血液型:A型 : 志貴の人格に多大な影響を与えた女性。フルネームで呼ばれるのを嫌うため、志貴は「先生」と呼んでいる。特異な眼を持ってしまった幼い頃の志貴に、死に掛けていた心に活を入れ、生き方に関する教えと、姉(蒼崎橙子)から奪った「魔眼殺しの眼鏡」を与えた。物語のプロローグとエピローグ『月蝕』で登場する。クールな性格で冷静なツッコミ役でもある。 : 『[[魔法使いの夜]]』の主人公であり、本来なら『月姫』に登場する予定はなかったが、武内崇の強い要望で登場した。 : 「ミス・ブルー」(もしくは「ブルー」)、「マジック・ガンナー」、「人間ミサイルランチャー」、の二つ名を持つ世界に五人しかいない「'''魔法使い'''」の一人である。ただし、「魔術師」としての能力は標準以下で、「壊す」事に関してのみ卓抜した才能を持つといわれている(それでも[[Fate/stay night]]のキャスターには及ばない模様)。 : 『月姫』で志貴と関わっている時は気さくかつ偉大な「賢者」的存在として捉えられているが、普段は傍迷惑な暴れん坊の側面も持っており、『[[MELTY BLOOD]]』ではそういった側面が描かれている。 : 奈須きのこのインタビューによれば、「青子は20から歳を取らない」とのこと<ref name="4G20210927">{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/546/G054681/20210919008/|title=今甦る真月譚,新生「月姫R」クリエイターインタビュー。奈須きのこ&BLACK両氏が語る世界の裏側,そしてこれから|date=2021-09-27|accessdate=2021-10-10}}</ref>。 ; <span id="遠野槙久">遠野 槙久(とおの まきひさ)</span> : 声:なし / [[有本欽隆]] / なし : 故人。遠野家の前頭首にして、秋葉、シキの実父。志貴の本当の血筋である七夜の一族皆殺しの首謀者。 : 家族に対する保護欲は人並み以上だが、自分に甘く被害者意識が強い性格で、他人を道具程度にしか考えなかったことが、後の遠野家の悲劇を招いた。 : 歳を取るごとに「混血」としての反転衝動が強くなり、まともな状態である本来の人格と、残忍・凶暴な反転した性格のほぼ二重人格だった。自己の精神・体力を強化するために琥珀・翡翠の姉妹を使用人として手にいれ、感応能力で自己を保っていたが、道具としか思っていなかった琥珀に騙されて槙久を憎んだシキに殺害される。 : 漫画版ではのちに息子の四季が用いるのと同じ「血刀」を用いるさまが描かれており、志貴の母親を殺害し幼少期の彼の胸にも重傷を負わせている。また漫画版では息子の四季から「志貴を養子にしたのは息子たちが反転したときにいち早く粛清させるため」であると推測され「自分で処理すらしたくねえってことか!!」「ぬるいんだよまったく!」と批判されている。 ; <span id="有間啓子">有間 啓子(ありま けいこ)</span> : 声:なし / [[夏樹リオ]] / なし : 遠野家を勘当された志貴の面倒を見ていた。有間家は華道の家元である。小学生の娘に都古がいる。 : リメイク版では回想シーンに登場するが、ボイスはなし。 ; <span id="有間文臣">有間 文臣(ありま ふみおみ)</span> : 遠野家の分家の一つである有間家の人間。名前が出てくるが、本人は登場しない。 ; <span id="高田陽一">高田 陽一(たかだ よういち)</span> : 志貴や有彦のクラスメート。大柄な体格で、チョコレートが好物。作中で交通事故を起こしている。兄はラーメンの屋台をやっている。 ; <span id="国藤">国藤(くにふじ)</span> : 声:[[伊丸岡篤]] / [[桐井大介]] / なし : 志貴たちのクラスの担任教師。 : リメイク版ではクラス担任が別の人物に置き換えられているため、登場しない。 ; <span id="坂木崎清乃">坂木崎 清乃(さかきざき きよの)</span> : 声:なし / 夏樹リオ / なし : ニュースキャスター。三咲町で起こった殺人事件について報道している。名前は『歌月十夜』のゲストイラストより。 : リメイク版では男性のニュースキャスターは登場するが、女性のニュースキャスターは登場しない。 ; <span id="ナルバレック">ナルバレック</span> : 埋葬機関の創設者の女性。ロアが構成した埋葬機関を管轄する事になった。以後、代々埋葬機関のトップに君臨する一族となった。本編ではロアの回想シーンで登場している。 : 今代のナルバレックも女性で、既に死徒二十七祖を封印した実績を持つ実力者。しかし極度の殺人嗜好者のために半ば幽閉される形で埋葬機関の執務室に閉じこもっているらしい。彼女は本編では登場しないが、コミックス版の回想シーンで登場している。 ; <span id="七夜黄理">七夜 黄理(ななや きり)</span> : 遠野志貴の実の父親。遠野槙久の私兵と、連れてきた軋間紅摩を迎え討ち、敗死する。本編では登場しないが、コミックス版の回想シーンで登場。七夜一族の歴史でも「最高傑作」と評されていた。妻(志貴の母親)でもある側近もいたが彼女は遠野槙久に殺害されている。 ; <span id="軋間紅摩">軋間 紅摩(きしま こうま)</span> : 遠野槙久の七夜一族討伐における切り札として動員され、七夜黄理を殺害した筋骨隆々の巨漢。本編では登場しないが、コミックス版の回想シーンでわずかながら登場している。 === 敵キャラクター === ; <span id="ネロ・カオス">ネロ・カオス(''NRVNQSR Chaos'')</span> : 声:[[中田譲治]] / [[三宅健太]] / なし : 身長:188cm / 体重:84kg : 誕生日:[[2月13日]] : 「死徒二十七祖」の第十位。混沌。「真祖狩り」のためにアルクェイドを追ってきた吸血鬼。元々は魔術協会の一角である「彷徨海」の学者で、西暦1000年頃に入学して、『再生の扉』の師ガヌの弟子となり、魔術の研究の末に死徒となった魔術師上がりの死徒。『[[MELTY BLOOD]]』では「千年を生きた」とされる。 : 肉体そのものが固有結界「'''獣王の巣'''」となっており、体内に666の獣の因子と同数の命が「混沌」として渦巻いている。「ネロ・カオス」という個は、666の獣(命)の集合体であり、彼を滅ぼすには同時に666の命を全て滅ぼす必要がある。集合体として、本来の人間としての意識や知性も薄れており、生きていればそのうち自我を完全に消失してただの「混沌」になっていたという。 : 体外に様々な獣の混沌を放出し、これを使い魔として操り、攻撃や偵察手段とする。放出する獣は、通常、犬や虎といった実在する陸の獣であるが、シャチのような海棲動物から、幻想種まで存在する。ただし、放出される獣は完全なランダムで、ネロ自身わからない。また、ここまでできるようになったのは、盟友のロアがその混沌に法則性(内なる系統樹)を見出したからである。倒された使い魔は、命を保持した状態で再び体内に取り込まれる。ゆえに1匹とて完全に殺すことも難しく、万全な状態のアルクェイドであっても「ネロ・カオス」を完全に滅ぼすことはできなかったとアルクェイド自身に言わせている。 : 人間だった時の名前は「フォアブロ・ロワイン」であり、「ネロ・カオス」とは教会が名づけた通称。ネロとは、キリスト教を迫害したローマ皇帝・[[ネロ]]らしく、アルクェイドにはどれだけ教会に嫌われているのかと言われている。また、奈須きのこによると「ネロ(NRVNQSR)の文字を数字に変換し、全て足すと666になるから」との事。その学者という出自からオマケでは教授と呼称されることもあり、「教えて知得留先生」にも特別講師「ネロ教授」として登場する。 : 獣の混沌は基本的に倒されても上記のように体内に戻るが直死の魔眼で倒された場合は元に戻ることはない。 : 志貴を死の寸前まで追い詰めたせいで殺人貴としての人格を呼び出してしまい、文字通り直死の魔眼により固有結界を破壊され消滅した。 : リメイク版では後述の「ヴローヴ・アルハンゲリ」に置き換えられているため、登場しない。<br/>ネロは当時の“ステレオタイプな吸血鬼のイメージ”に対するカウンターとして登場した、それらしくない吸血鬼だったが、20年の経過によって、型にはまった吸血鬼の方が少なくなってしまったため、新キャラのヴローヴと差し替えになった<ref name="4G20210927"/>。 ; <span id="ミハイル・ロア・バルダムヨォン">ミハイル・ロア・バルダムヨォン(''Micael Roa Valdamjong'')</span> : 声:[[成田剣]] / [[吉野裕行]] / [[阿座上洋平]] : 身長:178cm / 体重:65kg : 誕生日:[[9月29日]] / 血液型:A型 : 通称「ロア」。[[アーカーシャ|アカシャ]]の[[蛇]]。「転生無限者」と呼ばれる死徒。教会側からは死徒二十七祖の一角に数えられているが、その二十七祖からは一介の上級死徒として認識されており、二十七祖としては番外位となっている。ただし、ネロ・カオスとは盟友である。パーソナルデータは今回の転生体である遠野四季のものである。 : 元は「永遠」という命題に憑かれた人間の男で、強力な魔術師であると共に教会の司祭の立場にあった。ネロ同様研究の果てに死徒になる道を選び、アルクェイドに己の血を吸わせ彼女の力の一部を奪って強力な死徒となり逃走、数年後教会と共同戦線を張ったアルクェイドに滅ぼされるが、その間に自身の魂を伝達可能なモノとして加工し、選んだ人間の赤子に乗り移ることで数百年間、転生を繰り返してきた。とある事情からアルクェイドに執着している。 : オリジナルのロアの人格は既にほとんど消えかけており、転生体の人格はロアが覚醒するまでに育った人間としての意識をベースに、「〜をこうしたい」というロアの意思と知識が合わさり主導権を握ることで形成されている。このため、「ロア」が覚醒する前の環境によってベースとなる人格の善・悪といった性格は変わるが、ロアが覚醒すれば善人であろうとその人格を保ったまま凶悪な殺人者になる。また、ロアの魂自体が汚染されているため、ロアが覚醒すれば肉体は吸血鬼化する。 : 現代では遠野家の長男・遠野四季に転生し、表ルートではロアの意識が強く出たため、ロア好みの洋装・黒髪で長髪・片目が髪で隠れた姿で登場する。 : ナイフを得物として、志貴の「モノの死」を捉える「直死の魔眼」に似て非なる、「物を生かしている部分」を線と点として捉える魔眼を持ち、生物に対してしか力を発揮しないが、線や点を切ることで対象の命=生命力を直接削ることが出来る。 : 制作サイドには「ビジュアルジャンキー」、「ピアニスト」とも呼ばれる。第一回目の人気投票で一票も入らなかったり、キャラクターデザインの武内崇自ら「『月姫』の中で一番どうでもいいと思われてるよね、きっと」と発言するなど、裏ルートでのシキの活躍に比べ存在感が薄い。 : 漫画版では白髪に和装の裏ルートでのシキの姿で登場。表と裏のシキが混ざったような性格・能力をしており、シキのような秋葉への過剰な執着心を見せたかと思えば、ロアのように冷徹な態度を取ったり、シキの混血としての能力とロアとしての知識と魔術と魔眼を全て使いこなし、黒いコートワイシャツといったロア好みの洋装も着こなす。魔眼の能力で志貴に致命傷を与えた後は、シキとしての願望(志貴を殺す事)が達成されたためかロアが覚醒、原作と同じ黒髪長髪の容姿へと変貌を遂げた。 : アニメ版では灰色髪に顔を包帯で巻いており、「シキの姿と洋装」に近いもののキャラクターデザインが「月姫」と異なる。第8話登場までは顔のみ(第1話)、あるいは名前のみ(第5話)の登場だったが、第8話で声付きで登場。エンディングクレジットでは第8話、第9話では「包帯男」と表記されていたが、第11話、最終話では「ロア」と表記。 : 『FGO』のドラマCD「英霊伝承異聞 〜巌窟王 エドモン・ダンテス〜」では「タランテラ」(声 - 成田剣)という転生体で登場。並行世界の存在ではあるが死徒として存在しているが、「とある出会いがなかった」がために死徒二十七祖の概念がないために彼はアルクェイドを介せず死徒になった故に『月姫』のロアよりも力は劣るとされている<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.typemoon.org/bbb/diary/log/201704.html|title = 竹箒日記:2017/04|publisher =武内崇, 奈須きのこ|date=2017-04-15||accessdate = 2017-06-05}}</ref>。そして在り方も代わり、最後にはエドモン・ダンテスによって完全に消滅した。 ; <span id="遠野四季">遠野 四季(とおの しき)</span> : 声:なし / 吉野裕行、[[本田貴子]](幼少期) : 身長:178cm 体重:65kg 血液型:A型 : 遠野家の長男。秋葉の実兄。裏ルートで出てくる家系図には「四季」とあるが、作中では「シキ」で通っている。 : 第十八代目ロアの転生体。ロアの意識が強く出た表ルートではロア(の転生体)として扱われ、シキの意識が強く出た裏ルートでは遠野四季として扱われる。容姿・性格・能力等が違うが、どちらも肉体は遠野シキの物である。 : 裏ルートではベースとなるはずの本来のシキの自我が反転の影響によりほぼ完全に崩壊したためロアも正常に顕在化出来ていない。そのため吸血鬼化してはいるものの魔術等のロアの知識の継承はなく、ロアの意思は「全てを殺せ」といった大まかな方向性のみになっており、容姿は和装に白髪、性格はアルクェイドには執着せず実妹の秋葉に対して異常な程に関心を示すなど、「反転したシキ」に近くなっている。 : 「混血」としての力は“不死”。「死なない」ではなく「死に難くなる」という力である。この能力の片鱗として、傷ついた箇所を再生するのではなくそのままの状態でも生きていけるように肉体を組み替える「拒死性肉体」、応用として自身の血液を自在に変形・硬質化させる「血刀」、失った肉体や命を他者から奪うことによって補充する融合呪詛「蝕離」など個性的な能力を持つ。 : 志貴・秋葉とはかつては仲の良い兄弟だったが、遠野に宿る鬼の血を濃く継承していたシキは、ロアの影響で人間としてのシキの意思が消された8年前に幼くして反転、最愛の妹である秋葉を攻撃してしまう。その際秋葉を庇った志貴を殺してしまい、反転した者への処罰として自身も当主の槙久により殺されるが、混血としての能力で奪った志貴の命を共融することで生き長らえた。その後一時的に反転が落ち着いたことで槙久に地下牢へと幽閉され、人格が人よりに戻るまで琥珀が世話をすることになるが、志貴が遠野の長男として扱われたことで自分の全てを奪ったことを知ったこと<ref group="注">志貴はのちに槙久は「四季が完全に回復したら、四季を『遠野志貴として』呼び戻すつもりだった」と推測している。</ref> と、反転して凶暴化したシキに痛めつけられたことでより壊れてしまった琥珀に「槙久はシキを死ぬまで幽閉するつもり」と嘘を吹き込まれたことで、彼らに大きな憎悪を抱くこととなる。 : 少年時代は自分と同音の名前を持つ志貴を「ナナヤ」と呼んでいた。 : 「秋葉」の兄ということから、スタッフによる通称は「春男(ハルオ)」。 : 赤目になったのは吸血鬼化の影響であるが、白髪、和装になった理由について公式からの説明はされていない。 : 佐々木少年の漫画版では、幼少の頃の秋葉と同じ黒髪碧眼にカジュアルな服装をしていた姿や、自分が反転してしまった時は退魔の衝動を持つ志貴に自分を殺すように頼むなど、人間だった時の彼が描かれている。子供でありながら聡く、遠野の血の末路や志貴が退魔の七夜であることなどを全て知った上で、父槙久が志貴を拾った本当の理由も悟っていた。ロアの項にある通り、成長後もしばらくはロアの意識が混濁した状態で、肉体はシキよりの姿で生きていたが、学校の戦いで志貴を倒した直後、狂気の笑みと涙を流し、執着した過去も焼き切れてシキの意識は消え去り、肉体も精神も完全にロアのものへと変わってしまった。 === リメイク版から登場するキャラクター === リメイク版から新規に登場するキャラクター。 ; <span id="ノエル">ノエル(''Noel'')</span> : 声 - [[茅野愛衣]]<ref name="TW0719">{{Twitter status2|TM_TSUKIHIME|1417085667977269249|4=【公式】月姫の2021年7月19日のツイート|5=2021-07-19}}</ref> :身長:169cm 体重:59kg 血液型:A型 : 志貴たちの学校に転任してきた新任教師。担当科目は体育と英語。大半の男子生徒からは人気があるものの、殆どの女子生徒や一部の男子生徒からの評判は悪く、煙たがられている。特に女子生徒達からのブーイングが酷く、優しく接してくれるのは弓塚くらい。志貴も彼女の事をやや苦手としている。 : その正体は聖堂教会に所属する代行者。シエルとは幼馴染み、かつて住んでいた街の同郷でフランス事変の生き残り。武器は斧槍と黒鍵を扱う。斧槍は1tの重さがあり、秘蹟なしでも8回ほど振り回しているが、ノエルの力では筋肉断裂を引き起こしかねないため普段は軽量化の秘蹟をかけて使っている。 : シエルルートでは、阿良句の注射により死徒化した後、原理血戒のレプリカを注射したことにより死徒として位階を上げた、外見はノエルを幼女にしたような姿である。能力は、エーテルで構成された鐘の付いた槍による攻撃と、音にまつわる超抜能力、死徒共通の能力である下僕の使役、ロズィーアンの原理血戒である薔薇の魔眼の劣化版。武内崇によれば「デザインコンセプトは妖蝶で、単に少女時代のノエルではなく顔つきも死徒化によって変容している。ノエルの持つ暗い情念の孵化というイメージもあるかもしれない」である。 ; <span id="マーリオゥ・ジャッロ・ベスティーノ">マーリオゥ・ジャッロ・ベスティーノ(''Mario Gallo Bestino'')</span> : 声 - [[佐倉綾音]]{{R|TW0719}} : 聖堂教会から派遣された司祭代行。金髪にカジュアルな服装をした少年。聖堂教会の重鎮であるラウレンティス枢機卿の息子(対外的には孫)。本来相容れない存在である真祖の姫君であるアルクェイド・ブリュンスタッドとは顔なじみらしい。また魔法使いとして魔術社会のはぐれ者である蒼崎青子とも面識があり、MELTY BLOODでは彼女のストーリーモードで匿名かつ声のみで登場していた。「人形使い(人間使い)」の異名の持ち主。 : 異名通り手に付けた礼装『鍵盤織機』を使って戦闘要員のシスターを操りながら自身は足技で戦う。 ; <span id="ヴローヴ・アルハンゲリ">ヴローヴ・アルハンゲリ(''Vlov Arkhangel'')</span> : 声 - [[津田健次郎]] : 死徒二十七祖の第十九位。原理血戒は『'''凍結'''』。比較的若い二十七祖であるため、二十七祖としての異名などは持たない。年齢は400歳ほどと祖としては若く、最近(100年ほど前に)代替わりをしたためかアルクェイド及び聖堂教会は名前さえ知らなかった。元々は先代である十九位ゼリア・アッヘェンバウムの眷属でⅥ階梯の死徒(下級)であり、Ⅶ階梯以上の死徒(上級)では無いので主である祖を殺せるはずがないのだが、北海に現れたロアの暗躍の果て、主を殺害、代替わりをして祖になった。彼にとって、人間の血液は暖を取るための霊薬であり、血液がなければ我が身は凍死してしまうと述べている。かつて何名もの死徒二十七祖が集まりフランスの片田舎を壊滅させた「フランス事変」にも参加している。 : かつて死徒になる前は、中世暗黒時代に生きた騎士だったが、冤罪により国を追われ、人の住めない極寒の海に流刑にされた。そこで強大な力を持ちながらも人間を嫌い、恐れ、人からも死徒からも逃げ出した先代十九位ゼリア・アッフェンバウムと出会い、その“子”にされ「アルハンゲリ」の銘をもらう。 ; <span id="みお">斎木 みお(さいき みお)</span> : 声 - [[日高里菜]] : 志貴が街中で出会う中学生。家出をしており、ビルの屋上でテント暮らしをしている。 : 本編中では「斎木みお」を名乗るが、エンディングクレジットやマテリアルでは「みお」とのみ記載されている。 ; <span id="阿良句博士">阿良句 寧子(あらく ねこ)</span> : 声 - [[能登麻美子]] : 遠野家に出入りしている女医。槙久の代から遠野家の管理を担当している建築士であり、外科医でもある。 ; <span id="斎木業人">斎木 業人(さいき ごうと)</span> : 声 - [[小林親弘]] : 遠野家のビジネスパートナーを名乗る人物。火傷により、顔を全て黒い包帯で覆っている。遠野家から追い出された志貴の事を見下しており、嫌っている。 ; <span id="アンドウ">安藤 裕吾(あんどう ゆうご)</span> : 声 - [[浅利遼太]] : マーリオゥの部下。愛称は「アンドウ」で、警視庁の刑事でもある。 ; <span id="カリウス">カリウス・ベルルスコーニ(''Karius Berlusconi'')</span> : 声 - [[森嶋秀太]] : マーリオゥの部下。銀髪のイタリア人青年で、判事をしている。 ; ノイ・セオナトール・グランファテマ : 聖堂教会に所属する代行者。埋葬機関第一位、枢機卿。直接の登場は無いが、カリウスの言及では「司祭」と呼ばれているが、マーリオゥやノエルによる埋葬機関の解説では枢機卿と呼ばれている。 [[Fate/Grand Order]]でも、言峰綺礼の上司として言及される。リメイク前の設定ではナルバレックが局長兼第一位であった。 ; アンドレイ・ゴッドビバーク : 埋葬機関第二位。「司祭」。シエル曰く「(戦力的に)本当におかしい人」らしい。直接の登場は無い。 ; キアラ・キッショウイン : 埋葬機関第三位。「尼僧(シスター)」。サバトによって悪魔化しており、この次元において全能を身につけているらしい。その正体は、「月姫」世界における殺生院 キアラである。直接の登場は無い。 ; アーガレオン : 埋葬機関第六位。「代行者」。直接の登場は無い。 ; クロムクレイ・ペタストラクチャ : 死徒二十七祖第二十二位。 「'''城、即ち王国'''」の原理を持つ祖。 : シエルが既に討伐し、原理を奪った祖。 ; べ・ゼ : 死徒二十七祖第二十五位。「剣僧」。「'''剣'''」の原理を持つ祖。シエルとヴローヴの剣術の師。既に討伐し、シエルに原理を取られた。 == 開発(リメイク版) == === スタッフィング === 開発スタッフはTYPE-MOON所属スタッフがシナリオ・メインキャラクターデザイン・コンテ・レイアウト・原画・グラフィック・演出・スクリプト・3D・サウンドプロデュースを担当。そのため主に内製スタッフによる少数態勢の制作となるが、サブキャラクター・武器デザイン協力には『FGO』にも参加するデザイナーが参加。その他、コンテ・レイアウトにコミカライズ版『[[真月譚 月姫]]』を手掛けた[[佐々木少年]]、グラフィック協力に『[[衛宮さんちの今日のごはん]]』のTAaが参加している。その他、[[ゆうろ]]や東地和生などの美術スタッフや[[深澤秀行]]などの音楽担当は前作『[[魔法使いの夜]]』からの続投である<ref name="dn0911"/>。 絵コンテ・レイアウトは一通りを武内が担当しているほか、同チームのBLACKやこやまひろかずもアイデア出しなどのサポートで参加している。また、漫画版『[[真月譚 月姫]]』の作者・[[佐々木少年]]が絵コンテ・レイアウトに参加しており、シエルルートのヴローヴ戦、死徒ノエル戦、カルヴァリアを担当した<ref name="4G20210927"/>。グラフィックに参加したTAaは、ホワイトボードの書き文字&イラストを担当した<ref>月姫リメイクスタッフ本(月姫通信R)32ページ</ref>。 スクリプトは基本的にBLACKが一人で担当しているが、開発終盤に2020年にノーツに入社した新人である漆之原が参加し、分岐や日常シーンの調整、アルクェイドのデートシーン、「おしえて!シエル先生」のスクリプトを担当している<ref name="4G20210927"/>。 === 企画・開発 === 開発としてはTYPE-MOONスタッフにてこれまでの作品と同様にPC版を作成後、『FGO』を開発・運営する[[ディライトワークス]]のプロデュースの下、[[ヒューネックス]]を開発企業としてNintendo SwitchとPlayStation 4への移植作業が行われた<ref name="dn0911">{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/202109/11232354.html|title=『月姫』リメイク版発売記念インタビュー。奈須きのこ氏&武内崇氏が“新しい『月姫』”を語る|date=2021-09-11|accessdate=2021-09-16}}</ref>。 企画は2008年、TYPE-MOON作品の情報誌『TYPE-MOONエース』で発表した直後に始動した。元々、ノーツとしては『月姫』のリメイクはかつてから話題に上がっていたが、2008年以前は『Fate』シリーズをメインに活動しており、実制作には動けない状況であった。しかし、2008年に『Fate』シリーズが一度、ひと段落したことでリメイク企画が始動した<ref name="dn0911"/>。 2014年発売を目標に開発を開始。2008年の発表時点では、武内によるキャラクターデザインのリファインと奈須によるプロット作業が完了していた。2009年からは、「魔法使いの夜」の制作に本格的に参加していなかった武内が先行して立ち絵の準備を開始した<ref name="4G20210927"/>。 その後、当初から予定されていた『魔法使いの夜』の開発が一段落した2011年より本格的に開発が始まる。2012年時点ではシエルルートまでのテキストが完成し、武内の描く立ち絵も全体の6割程度が揃った状態であった。しかし、『FGO』の企画・開発が2013年に急遽始動したことにより全体的な計画が変更。2013年末から2017年末まではスクリプトや絵素材の作業を少しずつ進めながらも『FGO』開発のために、4年間開発が実質凍結されることになった。当初は『FGO』の開発と同時進行で作業が進められると想定されていたが、最終的にはそれは不可能という判断になる<ref name="dn0911"/><ref name="4G20210927"/>。 2017年頃に「このままじゃ月姫が出せない」という話題が上がり、同時期に『FGO』の第1部の作業が終了し、1.5部と第2部のシナリオ構成が完成したこともあり、2018年より少しずつ作業が再開。2018年に[[ユーフォーテーブル|ufotable]]へのOPアニメーションの制作依頼も行われる。上述のように開発再始動時にはシナリオの多くは完成しており、ノーツスタジオ内ではPC版を完成させるためのグラフィックとスクリプトの作業がメインに行われた。しかし、そこからさらに『FGO』の開発作業を優先することになり、開発期間がさらに伸びることになる<ref name="dn0911"/><ref name="4G20210927"/>。 そして、2019年末にアルクェイドルートのPC版開発はほぼ終了し、シエルルートの開発と並行して、Nintendo SwitchとPlayStation 4でPC版と同様の動作を再現できるのか検証が行われた<ref name="dn0911"/>。 2020年夏からの半年間は全作業を月姫に絞り制作が行われた<ref name="4G20210927"/>。2020年末、PC版本編が完成。その後、2021年1月より、おまけコーナー『おしえて!シエル先生』の開発が行われた。『おしえて!シエル先生』に関しては、当初、家庭用ゲーム機向けの作品に内輪ネタのような内容を入れるべきではないと導入予定はなかった。しかし、本編開発終了後、「同人気質と言われても、それが古くからのファンにとって大切なピースになる」と一転、開発が行われた<ref name="dn0911"/>。 本編の開発はテキスト量やイラスト枚数の多さもあり、同人版『月姫』の1ルートと比較して1.1倍程度のシナリオ量である前作、『魔法使いの夜』と同様のスペックで作るには限界があった。そのため、開発初期からクオリティは抑えつつ立ち絵や表情・ポーズ差分の枚数を増やして満足度を上げる方向で開発が進められた。しかし、パイロット版をプレイした際に、『魔法使いの夜』とのクオリティーの違いにギャップを感じた奈須と武内は、最終的にグラフィックのクオリティも『魔法使いの夜』に近いレベルまで向上させることになった。それでも、『魔法使いの夜』にてキャラクターデザイン・総作画監督・原画・色彩設計を担当したTYEP-MOONグラフィックチーフで同作のアートディレクター・[[こやまひろかず]]の同作開発当時の作業負担を振り返り、その時に膨大な作業量だったことを考慮して、『月姫』ではディテールを緩めて絵素材を増やす方針は変わらずに継続した。しかし、最終的にはグラフィックのクオリティが上がり、制作期間も長引くことになった<ref name="dn0911"/>。 プレイ時間は通してプレイすると約40時間、フルボイスで約60時間ほど<ref name="dn0911"/>。 『月姫 -A piece of blue glass moon-』の全体的な作業期間は、すべてを合算すると奈須のシナリオ執筆期間が約2年、全体的な開発で約5年ほどとなる<ref name="4G20210927"/>。 === 設定・シナリオ === 舞台は2014年。これは当初、発売予定が2014年であったことに加え、2014年放送のテレビアニメ『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』と同時期に配信予定であったアプリゲーム『FGO』とシンクロするようにシナリオが執筆されていた関係もある<ref name="4G20210927"/>。 時代設定の変更は上記の理由のほか、1999年が舞台であった『月姫』をその時代設定のまま届けるのは、若いユーザーに遊んでもらうためのテーマや社会性が感じられず娯楽として不十分であると奈須が感じたため。前作、『魔法使いの夜』に関してはバブル時代が物語のテーマになっていたが、『月姫』には時代を関するテーマはないため、各キャラクターを守りつつ時代設定は大きくアップデートされた<ref name="dn0911"/>。 また、事件のスケールも『FGO』の劇中の事件のスケールが大きくなったことに合わせて「都心でハリウッド映画をやる」という考えにより変更され、舞台も「関東近郊の普通の街の三咲町」から「東京都心の総耶」に変更される。また、この変更は「今の時代に月姫を遊んでもらう」ためには現代に舞台を移したほうが良いという考えもあった<ref name="dn0911"/>。 新キャラクターも多く追加された。これは、同人版ではシナリオ上必要最低限のキャラクターしか出せていなかったが、世界観を広げるために必要だと感じた奈須が、新たにキャラクターを数多く設定した<ref name="dn0911"/>。 死徒二十七祖の設定などは大きく変更され、当時の奈須の基準ではトップランカーであったキャラクターたちが『[[Fate/stay night]]』以降の作品の基準に合わせて調整されている。削除されたキャラクターもいるが、設定の残ったメンバーに関しては、能力のアップデートなどを行いスケール感を広げている{{Sfn|TMA13|2021|p=21}}。 新キャラクターのマーリオゥは聖堂教会のバックボーンを語るキャラクターが必要になると判断され制作された。本作では聖堂教会の設定を掘り下げる必要があり、新キャラクターに加え、同組織の歴史を記した「聖堂教会年表」も2010年に作成されている。なお、本作の年表を元にテレビアニメ『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』以降に新たに開示された魔術協会の設定が制作されている<ref name="4G20210927"/>。 上記のように、リメイクに際して舞台や設定は大きく変更されているが、「変化してほしくない」ファンの気持ちも尊重し、アルクェイドルートに関しては同人版と内容自体の大きな変更はされていない。一方で、シエルルートに関しては、「同人版の再現はアルクェイドルートで行うから、シエルルートは古参プレイヤーの記憶にない物を作りたい」という奈須の願いにより、シナリオのキーポイントは変更せず、それ以外の要素は大幅に変更した。また、作品全体を通して、本作では同人版と大きな変更点が一つ存在しており、武内はその点について、「同人版に思い入れのある人にとっては残念な要素となる」としつつも「変更した点にはすべて意味がある」と述べている。奈須は、ファンが見たいと思うシーンは残しつつ、それ以外のシーンで「好きではあるけどこれはいらないよね」と感じるシーンは変更し、中身の詰まった新たな『月姫』を作り上げたと述べている<ref name="dn0911"/>。 これらの設定の大幅な変更に至った理由として、奈須は2007年公開の『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序]]』を視聴したことが大きかったと語り、本作の前半が個々のシーンのディテールを向上させつつ総集編としてまとめながら、後編のラミエル戦以降は完全新作の映像・シナリオであったことに感銘を受け、『月姫』の大幅なシナリオ変更を改めて決断したという<ref name="dn0911"/>。 奈須は本作の開発において最大のライバルをコミカライズ版『[[真月譚 月姫]]』を描いた[[佐々木少年]]であったと後に述べている。佐々木はアルクェイドルートのダメな要素を全て上手くアレンジして、そこにシエルルート、秋葉ルートの要素も含めた完成度の高いコミカライズを手掛けたため、リメイクを出すのであれば本作を超えないといけないと奈須は感じていた。なお、佐々木に関してはTYPE-MOONスタッフと共同で本作のコンテ・レイアウトを担当しているほか、PC版が完成した際のテストプレイも務め、TYPE-MOONのオフィスで6日間のテストプレイを行っている<ref name="dn0911"/>。 佐々木少年による『真月譚 月姫』の影響を受けたシーンとしては、『旅の終わり』におけるアルクェイドの「大好き!」のシーン。これは奈須が漫画版「真月譚 月姫」8巻の帯に使った一文をリメイクでは絶対入れたいと思っていたため採用した。本来はイベント絵も要望していたが、スケジュールなどの都合で断念された。ただし、曲に関しては奈須の要望で主題歌アレンジ『生命線(piano ver.)』が使用されている<ref name="4G20210927"/>。 === キャラクターデザイン === 志貴は奈須の「自分へのご褒美」として、美形度があがっている{{Sfn|TMA13|2021|p=20}}。アルクェイドは武内の希望で新規のデザインとなっており、「今の自分がアルクェイドのモチーフとなった人物を描いた姿」を参考に再デザインしている。服装に関しては彼女らしさを出すために大きく変更はしていないが、変化を強調するためにミニスカートに変更された{{Sfn|TMA13|2021|p=20}}<ref name="dn0911"/>。シエルは「お姉さん感」が増しており、「みんなから頼られる憧れの先輩」といったキャラクター像となっている。武内はシエルは髪形を変えると印象が大きく変わることを以前から確信しており、設定でアップデートされた要素も組み合わせて「新しいシエル」になるように大きく再デザインされた。{{Sfn|TMA13|2021|p=21}}<ref name="dn0911"/>。秋葉・翡翠・琥珀は時代から切り離された存在であるため、デザイン面では元のイメージから大きく変更されていない{{Sfn|TMA13|2021|p=21}}。 これらのデザインの変更は、古参ユーザーにもう一度『月姫』に出会い体験してもらうために行われた<ref name="dn0911"/>。 === キャスティング === キャスティングは従来の関連作品から一新され、今後も長く続いていく作品とするために、若手中心のキャスティングとなっている{{Sfn|TMA13|2021|p=21}}。 収録ではゲーム作品としては異例ながら、台本のセリフ全てに対応したキャラクターの表情イラストが添付されたものを使用した{{Sfn|TMA13|2021|p=21}}。これは収録段階でゲーム部分の開発がある程度終了していたため可能となった{{Sfn|TMA13|2021|p=21}}。声優は文字だけでなく表情からも演技プランを練れ、スタッフとしても良い演技を一発で貰えることから、台本制作のコストは掛かるが奈須はWin-Winの方式であったと語っている{{Sfn|TMA13|2021|p=21}}。ただし、志貴は表情差分がないため、通常用いられる文字だけの台本が使用された{{Sfn|TMA13|2021|p=21}}。 === レーティング === 本作では同人版にあった性描写を抑えつつも[[コンピュータエンターテインメントレーティング機構|CEROレーティング]]が18歳以上のみ対象となっている。当初より性描写を加えたアダルトゲームにはしない方向がとられていた本作だが、同人版の残虐な描写を媒体に合わせて表現をマイルドにすることは、月姫の大事な要素を表現できなくなると判断されたため、家庭用機版でありながら、CEROレーティングを18歳以上のみ対象に設定した<ref name="dn0911"/>。 === OPアニメーション === OPアニメーション制作は奈須と武内の要望もあり、これまでTYPE-MOON作品のアニメーションを制作してきた[[ufotable]]が担当。監督・絵コンテ・演出は同社所属のアニメーター・竹内將が担当。竹内はufotableで演出家として『Fate』シリーズを中心に実績を重ねてきた点や同人版『月姫』もプレイした経験があるという点から選ばれた{{Sfn|TMA13|2021|p=17}}。キャラクターデザイン・作画監督はこれまでの『TYPE-MOON×ufotable』作品同様に[[須藤友徳]]が自ら立候補して手掛けている。須藤は同人版からの本作のファンであり、それが影響して他スタジオが手掛けた『真月譚 月姫』のアニメにも参加した経験がある。アニメCGディレクターは『劇場版 Fate/stay night [Heaven's Feel]』にてランサーVSアサシン戦のCGアニメーションを担当した佐藤号宙が務める。制作依頼は『劇場版 Fate/stay night [Heaven's Feel] 第二章』制作中である2018年に行われ、2020年の第三章制作終了後に本格的にアニメーション制作が開始。竹内と佐藤の二人で映像設計を行い、作画の大半はデジタル作画で手掛けられているほか、これまでの同社作品と同様、背景美術・撮影・CGなどは同社内製チームが手掛けている{{Sfn|TMA13|2021|p=18}}。 OPは『アルクェイドルート』と『シエルルート』の2本が制作されている。 === 後編について === 開発については、FGOの開発もあり2021年9月時点では準備段階で開発は始まっていない。奈須はインタビューで「オリンピックを待つつもりくらいの気持ちでいてほしい」と語っている。そのかわり、間を埋めるプロジェクトは色々と準備されているとのこと<ref name="4G20210927"/>。 ルート数に関しては『4ルート』用意されることが2021年9月の4Gamer.netのインタビューで奈須により明言されている。分量はシエルルートほど絵で魅せる必要のある派手な演出は恐らくないとされており、『月姫 -A piece of blue glass moon-』と違い4ルートで一つのゲームに収まるとされている。また、2021年9月の段階で、同人版「月姫」のシナリオをリメイク版の素材を使用してBLACKが作成したプロトタイプ版のPCゲームが既に存在しており、そこには同人版にて未発表であったあるキャラクターのルートも含まれている<ref name="4G20210927"/>。 開発については社内にグラフィッカー、スクリプターを増やす方針は現状取られていない。これは純粋に基準を満たす人材の確保ができない点が挙げられている<ref name="4G20210927"/>。 == 主題歌(リメイク版) == 歌は[[ReoNa(レオナ)]]、作詞・作曲・編曲は毛蟹(LIVE LAB.)が担当している。 ; 「生命線」 : 主題歌。ストリングス編曲は[[深澤秀行]]。 : BGMとして、ピアノアレンジの「ハッピーエンド」も使用されている。 ; 「ジュブナイル」 : シエルルートのオープニングテーマ。 ; 「Lost」 : アルクェイドルートのエンディングテーマ。訳詞は[[本山清治]]。 ; 「Believer」 : シエルルートのエンディングテーマ。 == 教えて知得留先生 == バッドエンド時のプレーヤー救済コーナー。シエル扮する'''知得留先生'''(ちえるではなく、しえると読むのだが、ファンからもちえると呼ばれている)と適当にデフォルメ化されたアルクェイド(ネコアルク)が[[漫才]]形式で攻略におけるヒントを教えてくれる。また、トゥルーエンド・グッドエンドのときはエンディングの解説をしてくれる。たまに知得留先生が不在であったり、ゲスト講師が登場したりと多様な場面が見られる。漫画版でもパロディ的なものが行われ、最終巻にまとめて収録された。 元々、バッドエンド時のプレーヤー救済のヒント的なものを作ろうという考えはあったものの、「教えて知得留先生」の構想はなかった。しかし『月姫』のマスターアップを一週間後に控えたある日、サポート役のOKSGと[[奈須きのこ]]が最終のチェックを行っていたところ、[[武内崇]]から突然、知得留先生の絵がFAXで届きそれを見た[[奈須きのこ]]が「これはやるしかねぇ!」と急遽作成されたという逸話がある。 ネコアルクは一人(一匹?)で『歌月十夜』『MELTY BLOOD』進出や架空の映画『NECOARC-THE MOVIE-』で銀幕デビューと暴走に暴走を重ねている。さらにはアニメ『[[月詠 -MOON PHASE-]]』のエンドクレジットに登場したことも。『[[Fate/hollow ataraxia]]』にも一瞬ではあるが登場する。『歌月十夜』では、シエル先輩と茶室で見事なクロスカウンターを決めている。このシーンは「週刊少年マガジン」連載中の『[[はじめの一歩]]』のパロディである{{要出典|date=2016年8月}}。このバッドエンドのお助けコーナーという趣旨は、[[Leaf]][[ビジュアルノベル]]シリーズ『[[雫 (アダルトゲーム)|雫]]』『[[痕]]』にも存在した。また、TYPE-MOONの次作『[[Fate/stay night]]』にも「タイガー道場」として受け継がれている。 リメイク版では「'''おしえて!シエル先生'''」のタイトルで収録されている。シエル先生とネコアルクのほか、アルクェイドの幼少期の姿である'''エコアルク'''が登場する。 == 他作品との関連 == 『月姫』(『[[月姫PLUS-DISC]]』『[[歌月十夜]]』『[[MELTY BLOOD]]』を含む)は、それ自体独立した作品であるが世界そのものは同一で、そこに登場する人物やその能力は他のTYPE-MOON作品や奈須きのこの小説とも何らかの繋がりを持っている。 * 世界には「魔術」と「魔法」と呼ばれる奇跡の法が存在し、それぞれを行使できる人間を「魔術師」「魔法使い」と呼ぶ。そして、それらを管理・発展のために「魔術協会」とよばれる組織がそれらを統轄している。魔術協会と対峙している組織に「聖堂教会」があり、神以外の奇跡、特に吸血種の存在を否定している。 * 『空の境界』の場合、主人公・両儀式の能力は、まさに志貴の「直死の魔眼」そのものであり、蒼崎橙子は蒼崎青子の姉、琥珀と翡翠は巫条霧絵と同じく巫淨の分家筋、とされている。また漫画版では遠野を宗家とする刀崎、軋間、久我峰、有間の家系に対して『空の境界』に登場した「浅神、巫浄、両儀」の姓が「違う分類」でまとめられている。 * 『Fate/stay night』では、遠坂一族の師匠筋として、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグという魔法使いが登場するが、彼は『歌月十夜』起動時のメッセージに於いて「魔道元帥」と呼ばれている人物で、死徒二十七祖の第四位にしてアルクェイドのじいや(後見人)にあたる人物である。 * また「魔眼殺し」は3作品すべてに登場する。最初に『空の境界』にて蒼崎橙子が両儀式のために作るが「そんなもんいらん」と一蹴される。『月姫』では遠野志貴のために青子が橙子から失敬してくる。『Fate/stay night』では「石化の魔眼」(呪い)を持つライダーが人間に扮する際にかけている。 * 『[[Fate/hollow ataraxia]]』では、弓塚さつき、翡翠、琥珀、『歌月十夜』からレンがぬいぐるみとしてゲスト出演を果たしている。 * 『[[Fate/EXTRA]]』では、アルクェイド・ブリュンスタッドがサーヴァント、バーサーカーとして出演している。 * 『FGO』のドラマCD『英霊伝承異聞 ~巌窟王 エドモン・ダンテス~』では、『月姫』と異なる歴史を辿る並行世界でのロアが登場する。 * 『路地裏ナイトメア』第1巻の用語一覧によると、Fate世界において、死徒の階級のⅧ階梯:後継者とⅨ階梯:祖は存在しない。また、死徒二十七祖自体が存在しない。 == 関連作品 == TYPE-MOONスタッフは、『月姫』の商業リメイク作や、『月姫』の続編『月姫2』の作成を示唆する発言を残しているが、真偽のほどは明確ではなかった。しかし、2008年発売の「TYPE-MOONエース」にて、リメイク版『月姫』([[Microsoft Windows|Windows]])の発売が正式に発表された。[[レイティング|対象年齢]]は未定。 === テレビアニメ・漫画 === {{main|真月譚 月姫}} 『'''真月譚 月姫'''』(しんげつたん つきひめ)のタイトルで、テレビアニメおよびコミカライズが制作されている。両作ともアルクェイドルートをベースとしたストーリーだが、テレビアニメ版が原作を簡略化しているのに対し、漫画版は原作の複数のルートを統合している。 === Talk. === 同人誌『宵明星』に掲載された、奈須きのこ著の『月姫』の外伝小説。『月姫読本』にて加筆修正されて再録されている。本編のとあるルートの後から約一年後の時間軸で起きた事件が書かれている。 ==== 登場人物 ==== ;シエル :基本的な設定については、本編でのシエルについて書かれた上述の文を参照のこと。 :ロアが滅びたことで不死では無くなっているが、聖堂教会の埋葬機関を抜けておらず、アインナッシュ討伐の任務を受けて腑海林を訪れる。 ;遠野志貴 :基本的な設定については、本編での遠野志貴について書かれた上述の文を参照のこと。 :魔眼殺しの眼鏡だけでは「直死の魔眼」を制御できなくなったのか、戦闘時以外は眼に包帯を巻いている。 :アルクェイドの吸血衝動を抑制するために、アインナッシュの実を求めて 「腑海林」に侵入する。 ;メレム・ソロモン(''Merm Solomon'') :死徒二十七祖の二十位。原理血戒は「'''四肢'''」。死徒でありながら聖堂教会の埋葬機関5位に属し、王冠の通り名を持つ。シエルの先輩。アルクェイドファン。 :デモニッションと呼ばれる異能を持ち、四大魔獣(フォーデーモン・ザ・グレイトビースト)と呼ばれる架空の悪魔を「想造」する悪魔使い。その四肢は四体の悪魔それぞれに支えられているもので、それぞれ左手が“ネズミの王様”、右腕が“機巧令嬢”、右脚が“陸の王者”、左足が“空の王者”のクラスの悪魔になっている。 :見た目は12歳ほどの少年であり、元々は動物と心を通わせ、他人の身勝手な願いをカタチにする異能力を持った故に、幼くして両手両足を切断されて生き神として小さな部落で奉られていた神子だったが、「朱い月」を恐れた人々の願いをカタチにする負荷に耐え切れず死んだ後、「朱い月」の戯れにより死徒として蘇生し、朱い月に忠誠を誓う。 :「仲間意識」により、本来シエルと任務を組むはずだったアインスを食べて、シエルと共に腑海林を訪れる。 ;アインナッシュ(''Einnashe'') :死徒二十七祖の七位。原理血戒は「'''実り'''」 「腑海林」「思考林」の通り名を持つ、一種の固有結界であるとされる「生きた森」を従えている死徒。数十年に一度、数日に渡って活動し、「生きた森」が移動しながら無差別かつ大規模に吸血行為を行う。 :しかし、実際は「生きた森」は固有結界でもなんでもなく、かつて倒された初代アインナッシュの血を偶然吸った吸血植物が、自ら動いて人を襲う化け物に変化し、同種である他の植物も動く吸血植物に変化させて取り込んでいった結果形成された、新種の遊牧民のようなモノである。 :活動が終わった後は休眠するが、その直前に作られる血を凝固させて作られた実は、仮初めの不老不死をもたらすと言われ、教会・死徒・協会などから多くの者が様々な思惑を持って「腑海林」に侵入している。 : リメイク版では既に、約一年前にシエルにより倒された。 ;フォルテ :協会に所属する魔術師で、封印指定の執行者。女性。剣の形状の杖を使い、何百メートルと離れた相手に不可視の衝撃を与える「空気打ち」と呼ばれる風属性の魔術を使う。「フォルテ」は俗称であり、本名は不明。 :目的は不明だが、「腑海林」に侵入している。 ;アインス :埋葬機関の代行者。50過ぎの中年。シエルとともにアインナッシュ討伐に赴くが、突如現れたメレムに殺害された。 === シエルさんインドです === 同人誌『宵明星』に収録された武内崇による漫画作品。シナリオ担当の奈須きのこは一時期、この設定を認めていなかったらしいが、現在は『月姫読本 Plus Period』に収録されている。 ==== 登場人物 ==== ; 遠野志貴、シエル : ; カリー・ド・マルシェ : 死徒としての名は“空駆<ref group="注">資料によっては「空櫃」とも記載されている。</ref> のキルシュタイン”。褐色肌の死徒で、当初はエレイシア時代のロアの傘下にいた。ロアの影響で強大な力を得たが、カレーの美味しさに目覚めてしまい、以降吸血が出来なくなって弱体化した。そのために埋葬機関からは無力な死徒として放置されている。シエルのカレー好きのきっかけを作った人物であり、現在は細かった体格もがっしりしたものとなっている。物質の性質に干渉する特殊能力を有する。 === tale === DVD『真月譚 月姫 prologue』に収録された作品。絵本のような形式になっている。真祖のあらましとアルクェイドの過去が簡潔に語られている。 ==== 登場人物 ==== ; アルクェイド・ブリュンスタッド : 生まれて間もない頃のアルクェイド。外見は、8歳か9歳ぐらいで現在のアルクェイドと違い無垢で無知な性格。しかし、朱い月の器としての資質を持ち、他の真祖達より優れたスペックを持っていたことから真祖達から恐れられ、堕ちた真祖を処刑する処刑用として運営するために教育を施されていた。後にリメイク版で、「おしえて!シエル先生」に'''エコアルク'''として登場。 ; キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ(''Kishua Zelretch Schweinorg'') : 西暦以前から活動している最古の魔術師の一人であり、[[ソロモン]]王の弟子の一人。死徒二十七祖の一角で、三位。現存する四人の魔法使いの一人で、第二魔法の使い手、魔導元帥。朱い月と戦闘に及び、勝利するも死徒になってしまったという経歴を持つ。アルクェイドとも面識があり、その将来を予言する。また『Fate』シリーズでも登場している(詳細は『[[Fate/stay night]]』を参照)。(旧設定では四位) === 秋葉ちゃんにやさしくする会 === TYPE-MOON公式モバイルサイト『[[TYPE-MOON#漫画|まほうつかいの箱]]』で配信されている4コマ漫画。作画は[[ACPI (イラストレーター)|ACPI]]。タイトルの通り、遠野秋葉を主軸とする遠野屋敷での物語が展開される。第十七話から第十九話は「浅上女学院編」と銘打って、文字通り舞台が浅上女学院に移る。 === コハエース === {{main|コハエース}} 琥珀と遠野秋葉をメインとして、TYPE-MOONの歴史を振り返るという企画の漫画。 === 月姫2/the dark six === 『歌月十夜』では[[ネタ]]として、『[[Character material]]』では舞台や登場キャラクター設定が語られるなど、様々なところで『月姫2』の内容がほのめかされているが、現在では奈須きのこ曰く「きのこの脳内ゲーム」でしかない。 『歌月十夜』にてネタとして発表された予告編では、真祖の姫を守る殺人貴<!-- 殺人"鬼"ではありません -->・遠野志貴と、真祖を狩るために集まった死徒二十七祖の一人である復讐騎・エンハウンスが、敵対関係にありながらも協力し合い他の二十七祖や青の魔法使いを乗り越えていく、というような内容。プレイ時間が一ヒロイン20時間で、推定100時間とのこと。ただし『月姫読本』によると女の子は3、4人ほどしか出ないと答えている。 『Character material』において、『歌月十夜』では『月姫2/The Dark Six』だったものが、『the dark six(仮名)』のみとなっていた。また物語のプロローグらしき「Prelude」が公開された。 また、『月姫』のエピローグ『月蝕』の時系列は『月姫2』の翌日の内容となることや『[[Fate/hollow ataraxia]]』のヒロインであるカレン・オルテンシアはもともと『月姫2』のサブキャラだったことなどが奈須きのこによって明かされている。 「TYPE-MOONエース」VOL2では、『月姫』はもう先に進まない話、2010年1月からはまた部屋にこもり『DDD』を書けると思うと奈須きのこが語っている。 ==== プロローグ ==== 死徒勢力がイギリスの片田舎アルズベリ・バレステインで儀式を何十年越しに準備し、ついにその儀式が実行される日がきた。魔術協会・聖堂教会ともに、アルズベリで恐ろしい儀式が準備されていたことは知っていたが、準備の段階では怪異はなく、傍観するしかなかった。実行日がきて怪異が起こり、初めて手が出せる。死徒・魔術協会・聖堂教会にとって待ちわびた日がきたのだ。死徒にとって第六は悲願、魔術協会・聖堂教会にとっては、死徒を一網打尽にし、計画の旨みを独占する絶好の機会。アルズベリに三勢力が一堂に会し、争いが始まる。 ==== 登場キャラクター ==== ; 殺人貴<!-- 殺人"鬼"ではありません -->(遠野志貴) : 『月姫』の主人公、遠野志貴の数年後の姿。志貴の可能性の一つ。魔眼殺しだけでは直死の魔眼を抑えきれなくなったため、両目に包帯をしている。『月姫2』があるとしたらメインキャラクターとなる予定。『月姫』以後、死徒狩りを行い続け、死徒の間でも災禍として噂になりだしている。 : '''殺人貴'''とは殺人鬼+志貴の造語。月姫本編中のサブタイトルの一つにもなっている。 ; シスター : 「Prelude」に登場する代行者。銃器を好むダウンのお得意様。ダウンに先んじて、アルズベリに潜入している。アルズベリにカレーを出す店が無いことに絶望し、香辛料などをダウンに調達させて自分で作ろうとしている。 ; バルトメロイ・ローレライ : '''現代最高峰の魔術師(ザ・クイーン)'''であり、現魔導元帥、時計塔院長補佐。魔術属性は風。単身で二十七祖クラスの死徒と真っ向勝負が可能で、聖歌隊・クロンの大隊を率い、『月姫2』までに彼らの内の2体を撃破している。ロンドン魔術協会でも古い家柄。典型的な貴族主義者であり、今は亡き第一魔法の使い手'''ユミナ'''とその系統「純血の魔女 (マインスター)」のみを同列に見る。そのために他の人間には関心を持たないが、自分にはない特異能力を持つ人間には興味を持つ。 : 『月姫2』においては、メインヒロインとして予定されている。アルズベリ監察連盟のリーダーになっていて、アルズベリ計画を阻止し、宿敵トラフィムと他の死徒を仕留めようとする。「Prelude I」でエンハウンスと出会い、遠野志貴とは出会わなかったが因縁が出来た。 ; エンハウンス(''Enhance'') : 死徒二十七祖の十八位。復讐騎。『月姫2』の主人公の一人とほのめかされている。死徒でありながら、死徒を狩り続ける異端。『月姫』本編において、あるルートで名前のみ出てくる。 : 先代から奪った魔剣「アヴェンジャー」と、教会で作られた銃「聖葬砲典」を用いる。『歌月十夜』のデイリーメッセージによると、「ルックスは[[デビルメイクライシリーズ#本家シリーズ主要キャラクター|『デビルメイク○イ』の主人公]]そのもの」とのこと。 ; ルヴァレ : 「Prelude I」に登場。湖の死徒と呼ばれる。見た目が美しいという理由である真祖に死徒にされた。そのために特異能力は持ち合わせていないが、多数の魔術礼装を集めている。湖畔の城に勢力を誇り、ネロ・カオス亡き後の死徒二十七祖の十位候補でもある。聖堂教会によって一度壊滅状態に追い込まれてからは親族作りを試みるようになり、娘と息子が一人ずついる。 ; ミスター・ダウン : 埋葬機関6位。ただしダウン一人では暫定で、相棒と合わせて二人で正式な第6位。戦闘能力は皆無どころか、有事にはパニックになり足を引っ張るため、代行者から“一緒に任務につきたくない男・ぶっちぎりで第一位”に認定されている。悪魔祓いの力もなく、教会からは「殺し合いに参加しないのだから雑用係として死ね」として武器や食料の調達・運搬などの仕事をしているが、成体に成った悪魔を後に祓ったという、教会唯一の人物でもある。 :元はV&Vインダストリィという会社の主任だったが、ある事件をきっかけに埋葬機関に鞍替えした。ミスター・ダウンは仮の名で、本名を知ろうとしているが、実際は彼の本名は周りは皆知っており、彼も聞いているが、本名を認識できない狂気の中にいる。アルズベリ作戦において自分の名前を取り戻せると預言があったために、アルズベリに向かう。 ; 相棒 : 本名不明。女性。ダウンの運転するトラックに乗ってアルズベリに向かう。『[[Fate/hollow ataraxia]]』のカレンと共通点があるが、同一人物かは明言されていない。 ; メレム・ソロモン : 死徒二十七祖の二十位。基本的な設定については、『Talk.』でのメレムについて書かれた上述の文を参照のこと。 : トラフィムに招集をかけられるも、『月姫2』では聖堂教会側として出陣する。 ; グランスルグ・ブラックモア(''Gransurg Black-more'') : 死徒二十七祖の十六位。月飲み。上位の祖には黒翼公とも蔑称される。現在は教会に封印されているが、今の正体は全長数キロの巨大なカラス。「Prelude」では人の大きさで登場する。所有する固有結界「'''ネバーモア'''」は「宙を覆う死羽の天幕、月も星も飲み込む、絶対無明の“死の世界”」とされ、死徒に対してのみ強力な力を持つ。 :「Prelude」では健在で、トラフィムに招集をかけられる。「朱い月」に絶対の忠誠を誓っており、主の願いとしてトラフィムの計画に加担する。 :「朱い月」に対する思いの違いから、メレム・ソロモンを殺すらしきことが暗示されている。 ; トラフィム・オーテンロッゼ(''Trhvmn Ortenrosse'') : 死徒二十七祖の十七位。白翼公。最古参の死徒の一人で、形式上最大の発言力を持つ死徒の王。魔術師上がりの死徒で、能力に突出する点はないが、最大の勢力と地力を持つ。アルズベリ計画の首謀者。六王権発動のため、アルズベリに祖を招集する。「真祖狩り」の提唱者でもあり、かつて、シエルのいた町で番外位のロアを利用してフランス事変を起こした首謀者(旧設定では、第十位ネロ・カオスを三咲町に差し向けた)。 ; ヴァレリー・フェルナンド・ヴァンデルシュターム : 死徒二十七祖の十四位。最古参の死徒の一人。通称魔城のヴァン・フェム。七大ゴーレム「'''城'''」を有する。 :人として世界有数の巨大財閥のトップの立場も持っており、最近はエコロジーがマイブームだったり、モナコにおいてカジノ船を開いて人々の挑戦を受けたりしている変わり者。『[[Fate/hollow ataraxia]]』でのある平行世界では、衛宮士郎がモナコのフェムの船宴(フェムのカーサ)でギャンブルに参加している。 :第一次世界大戦頃から吸血行為抜きで勢力を拡大したという。彼の船、'''死線歓喜船(クロジェ・アナフェール)''' は従業員が死徒で構成されており、船内には彼の魔術によって様々な見せ物や仕掛けが施されている。この船にて現れた人々の挑戦を受けたりするが、負けたのはこの百年近くでほんの数回というほど強い。 :トラフィムとは仲が悪く、アルズベリ計画を人間の手で行わせ、準備の段階では魔術教会・聖堂教会の妨害を排するための資金を出しただけで参加せず。 ; アルトルージュ・ブリュンスタッド(''Altrouge Blunestud'') : 死徒二十七祖の九位。黒血の月蝕姫。もう一人の真祖の王族(アーキタイプ・アース)。真祖と死徒の混血。血と契約の支配者であり、『[[MELTY BLOOD]]』では死徒ズェピアに「現象」となる力を与えていた。かつてアルクェイドと戦い、長髪を奪った。ロアとも戦ったことがあるが、その際は返り討ちにされた。『月姫2』のメインヒロインの予定。 : アルクェイドの姉とも言える存在。普段は14程の少女の姿だが、二段階変身が可能。護衛としての使い魔“ガイアの怪物”プライミッツ・マーダー、死徒二十七祖の六位の“黒騎士”シュトラウト、八位の“白騎士”ヴラドを連れる。 : 『FGO』で判明した設定によれば、覚醒時のアルクェイドと同規模の"天体を成すもの"であることが判明。アルテミット・ワンと呼ばれるには2人が決着をつけなければいけないことが示唆された。 ; the dark six : 死徒二十七祖の一位。'''闇色の六王権'''。正体不明。最初の死徒であるが未完成らしく、現在蘇生中。正体は誰も知らないが、復活後は二十七祖を束ねる存在となるらしい。『月姫2』の仮題にもなっている。(旧設定は、二位。) ; バゼット・フラガ・マクレミッツ : 魔術協会の封印指定執行者。『[[Fate/hollow ataraxia]]』で登場した人物。 ; コーバック・アルカトラス : 死徒二十七祖の第二十七位。原理血戒は「'''失敗作'''」あるいは「'''余り物'''」。西暦前に朱い月に挑み、見所があったために純血を与えられ、二十七祖の一人になる。死徒になってしまい、かつての仲間や信者たちに合わせる顔も無く、会えば殺してしまう危険があったため地下洞窟に引きこもる。 : AD1000年頃。彼が主の愛を理解し書き留めたものが聖典トライテンである。その実、突き詰めてみたら宇宙のモデルケースであった。『主の愛の存在証明』=『宇宙』という結論に至ったコーバックは自分の正しさを認識、この聖典を他者から守るため、大迷宮・アルカトラスを作成する。迷宮自体がトライテンの応用で宇宙規模の速度で増築されるため、脱出・攻略が不可能となっている。後に『[[まほうつかいの箱]]』にて先んじて登場。 === その他 === 『月姫用語辞典』などでは、まだ作中に登場していない設定のみの人物が複数存在する。 ; オルト(''ORT (One Radiance Thing)'') : 死徒二十七祖の一角、五位。死徒ではないが吸血種であり、先代五位の二十七祖を殺害して以来、祖として扱われている。全長40mの巨大な蜘蛛のようなフォルムをしている。その正体は『[[鋼の大地]]』に登場するアリストテレスことアルテミット・ワンの一体[[ハレー彗星]]のアルテミット・ワン“タイプ・コメット“。(旧設定では“タイプ・マアキュリー”)特殊能力“水晶渓谷”を持ち、普段はそれに閉じこもっている。 ; プライミッツ・マーダー(''Primate Murder'') : アルトルージュに従う白い魔犬で、人間に対する絶対殺害権を持つ「ガイアの怪物」。死徒ではないがアルトルージュを真似て血を吸う事があるらしい。『FGO』に登場する主人公達と共にする動物“フォウ“の正体こそ七つの人類悪の一つ、『比較』の理をもつ獣“ビーストIV / [[キャスパリーグ]]“であり並行世界における“プライミッツ・マーダー“である。人々の競争による闘争心や嫉妬・憎悪などを吸収して成長する特性があり、この世界線においてアルトルージュと出会わなかった事により凶暴化する事がなく、またその事で死徒二十七祖は生まれないためにプライミッツ・マーダー含め他のメンバーや関係者も在り方が代わっている。(旧設定では死徒二十七祖の一角、一位。) ; リィゾ=バール・シュトラウト(''Rizo-Waal Strout'') : 死徒二十七祖の一角、六位。アルトルージュの護衛であり“黒騎士シュトラウト”と呼ばれる。武装は魔剣“真性悪魔ニアダーク”。時の呪いを受けているために不死の肉体を所持している。 ; フィナ=ブラド・スヴェルテン(''Fina-blood Svelten'') : 死徒二十七祖の一角、八位。アルトルージュの護衛の一人で、通称“白騎士ブラド”。また“吸血伯爵”“ストラトバリスの悪魔”とも呼ばれる。固有結界“パレード”を有し、幽霊船団の船長を務める。美少年趣味で、気に入った人物以外からは血を吸わないらしい。 ; スタンローブ・カルハイン(''Stanrobe Calhin'') : 死徒二十七祖の一角、十一位。通称“捕食公爵”“街食うモノ”。既に消滅しているがその怨念が残留しており、その怨念が未だ破壊活動を行っている。 ; リタ・ロズィーアン(''Rita Rozay-en'') : 死徒二十七祖の一角、十五位。芸術家を称する死徒で、先代から正式に跡を継いだ二代目。同じ二十七祖のスミレとは殺し合うほど仲がいいらしい。 : リメイク版で初めて能力の一端が明かされたが、原理血戒として「'''薔薇の魔眼'''」を使える模様。相手の精神を夢の中に閉じ込め、夢の中で殺すことで相手の魂を精神ごと破壊する事が可能とのこと。 ; スミレ : 死徒二十七祖の一角、二十一位。女性。流水を克服した死徒で、水中で暮らしている。その分陸上での行動が苦手となってしまった。死徒の中で唯一空想具現化を使用できる。 ; エル・ナハト(''El Nahat'') : 死徒二十七祖の一角、二十四位。原理血戒は「'''溶ける'''」。 一対一ならば確実に相手と相討ちになれるという特殊能力を持った死徒。その後、蘇生には数十年の時間を要するらしい。現在は埋葬機関によって運営されており、その分身ともいえる概念武装“胃界教典”でもって死徒対策の切り札とされているらしい。 == 関連商品 == === 関連書籍 === ; 月姫読本 Plus Period : [[宙出版]]より刊行。設定資料や長文インタビュー、イラストなどを掲載。{{ISBN2|978-4-7767-9037-2}}(2004年10月22日発売) === カードゲーム === ; Lycee : シルバーブリッツの[[トレーディングカードゲーム]]、[[Lycee]]に参戦している。収録エキスパンションは、TYPE-MOON1.0など。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|30em|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * [[TYPE-MOON#TYPE-MOONエース|TYPE-MOONエース]] ** {{Cite journal|和書|date=2021-3-26|journal=TYPE-MOONエース|volume=vol.13|publisher=[[KADOKAWA]]|isbn=978-4-04-111388-2|ref={{SfnRef|TMA13|2021}}}} == 関連項目 == * [[TYPE-MOON]] * [[Fate/stay night]] * [[空の境界]] * [[泣きゲー]] * [[吸血鬼]] * [[金文体]] == 外部リンク == * [http://www.typemoon.org/box/ 月箱 公式サイト] * [http://www.typemoon.com/products/tsukihime/ 月姫 -A piece of blue glass moon- 公式サイト] * {{Twitter|TM_TSUKIHIME|【公式】月姫}} {{TYPE-MOON}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |collapse= |header= |redirect1=月姫 -A piece of blue glass moon- |1-1=2021年のコンピュータゲーム |1-2=PlayStation 4用ソフト |1-3=Nintendo Switch用ソフト |1-4=アニプレックスのゲームソフト }} {{DEFAULTSORT:つきひめ}} [[Category:月姫|*]] [[Category:TYPE-MOONのゲームソフト]] [[Category:2000年のアダルトゲーム]] [[Category:NScripter製ゲーム]] [[Category:美少女ゲーム]] [[Category:ホラーゲーム]] [[Category:ノベルゲーム]] [[Category:吸血鬼を題材としたコンピュータゲーム]] [[Category:同人ソフト]] [[Category:テレビアニメ化されたアダルトゲーム]] [[Category:ファミ通文庫]] 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ハンガリー語
ハンガリー語あるいはマジャル語(ハンガリーご、マジャルご、magyar nyelv)は、主にハンガリーで話されている言語。現在はハンガリー及びセルビアのヴォイヴォディナ自治州にて公用語となっている。ハンガリーでは住民の93.6%(2002年)のマジャル人がハンガリー語を話し、国語化している。 また厳密には正しくないが、マジャール語(マジャールご)の呼称も慣用的に用いられる事がある。旧来は洪語と略した。 ハンガリーを中心とした周辺の国々(スロバキア、ルーマニア・トランシルバニア地方、セルビア北部、オーストリア中・東部の一部、チェコ・モラビア南端部の一部、スロベニア東部、クロアチア(西部を除く)、モルドバ西端部、イタリア北東端部の一部、ポーランド・シロンスク地方を含む南西部の一部、ウクライナ西部など)にも使用者がおり、話者人口はおよそ1450万人で、うちハンガリーに住む人々は1000万人ほどである。カナダやアメリカ合衆国などのハンガリー系移民共同体の内部でも話される。また、イスラエルでもユダヤ系ハンガリー人移民に話されている。 ウラル語族のフィン・ウゴル語派に分類され、フィンランド語やエストニア語と同系統の言語であるが、意思の疎通がまったくできないほどの大きな隔たりがある。歴史的経緯からスラヴ諸語やルーマニア語とドイツ語(オーストリア語)とイタリア語の影響をある程度受けているが、インド・ヨーロッパ語族(ヨーロッパで話される諸言語の多くが属する)とは系統が異なり、姓名や日付などの語順もインド・ヨーロッパ語族の言語とは異なる。ハンガリー人宇宙人説はこれを根拠の一つとしている。 動詞の語幹末において、一部の子音は動詞の定活用もしくは命令形に現れる -j によって別の長い子音に発音のみが変化する。 一部の子音は、発音のみでなく綴りも変化する。 命令形においてのみ変化する綴りには、次のようなものがある。 現在、主にラテン文字を文字表記方法として採用しているが、近年、古来のハンガリー文字(ロヴァーシュ文字)の使用も広がっている。また、ラテン文字の母音を書記素として表記する際に、いくつかの区分符号を使用している。 ハンガリー語は、形態的には膠着語に分類され、母音調和の原則を持つ点で、同じウラル語族のフィンランド語や、アルタイ諸語と呼ばれるトルコ語、モンゴル語、また朝鮮語や日本語などとも共通する特徴を持つ。 膠着語であるハンガリー語における名詞の格変化は、名詞に20種類近くある格を示す接尾辞(格語尾)を膠着させて(語尾にくっつけて)示す。また、所有接尾辞を名詞の語尾に膠着させてその名詞の所有者を示す。 ハンガリー語の母音は、調音(発音)するときの舌の位置によって前母音(i, e, ö, ü)と後母音(a, u, o)の二種類に分類され、またそれぞれの母音に音価が短、長の二種類があって、区分符号( ́ ̋)を付けて区分する。また、前母音のうちö, üを特に円唇母音と言う。 膠着語であるハンガリー語の母音調和は、ある語(名詞や動詞の語幹など)の末尾に、付属語(格語尾や所有接尾辞などの名詞接尾辞や、動詞の活用語尾)を膠着する際に、接尾される語の母音によって接尾辞の母音が影響を受けるという形であらわれる。このため、ハンガリー語の接尾辞には、数種類の異なった形が存在する。 例えば、着格(~の上へ)を示す格語尾は、 の二種類の形がある。 外来語や複合語(例えば、Buda と Pest からなる複合語 Budapest(ブダペシュト))など、前母音と後母音の両方を持った語に付属語が膠着する場合は、その語の最後の音節にある母音に調和する。Budapest の場合は、前母音の'e'が最後の母音であるから、必ず前母音の接尾辞が膠着し、Visegrád(ヴィシェグラード)の場合は、後母音の'á'が最後の母音であるから、必ず後母音の接尾辞が膠着する。 つまり、地名のブダ、ペシュト、ブダペシュト、ヴィシェグラードにそれぞれ日本語の「~へ」にあたる付属語をつける場合、 と母音調和を行うことになる。 動詞の活用には定活用と不定活用の二種類がある。目的語をとり、その目的語が三人称もしくは定冠詞を伴うものであれば、動詞は定活用を行い、それ以外ならば不定活用を行う。 一方で、ハンガリー国内で売られている一般的な国語辞典は、収録語数が2万語程度である。また合成語も多く、ある程度の語彙があれば意味の判別は容易である。 ハンガリー語はウラル語族フィン・ウゴル語派ウゴル諸語に属し、系統的にはマンシ語やハンティ語に近い。ウラル山麓から遥々西進してきた歴史がうかがえる。 系統図はウラル語族を参照。 ハンガリー語では、単語の強勢は常に第一音節に置かれる。
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ハンガリー語あるいはマジャル語は、主にハンガリーで話されている言語。現在はハンガリー及びセルビアのヴォイヴォディナ自治州にて公用語となっている。ハンガリーでは住民の93.6%(2002年)のマジャル人がハンガリー語を話し、国語化している。 また厳密には正しくないが、マジャール語(マジャールご)の呼称も慣用的に用いられる事がある。旧来は洪語と略した。
{{Infobox Language |name=ハンガリー語 |nativename={{Lang|hu|magyar nyelv}} |pronunciation={{IPA-hu|ˈmɒɟɒr ˈɲɛlv|}} |familycolor=ウラル語族 |states={{HUN}}<br />{{ROU}}<br />{{SRB}}<br />{{SVK}}<br />{{SVN}}<br />{{HRV}}<br />{{MDA}}<br />{{AUT}}<br />{{CZE}}<br />{{ITA}}<br />{{POL}}<br />{{UKR}}<br />{{BIH}}<br />{{CAN}}<br />{{USA}}<br />{{ISR}} |region=[[東ヨーロッパ]] |speakers=1450万人 |rank= |fam1=[[ウラル語族]] |fam2=[[フィン・ウゴル語派]] |fam3=[[ウゴル諸語]] |script=[[ラテン文字]] |nation={{HUN}}<br />{{EUR}}<br />{{Flagicon|RS-VO}} [[ヴォイヴォディナ|ヴォイヴォディナ自治州]] |agency={{flagicon|HUN}} [[ハンガリー科学アカデミー言語学研究所]] |iso1=hu |iso2=hun |iso3=hun |map=[[ファイル:Dist of hu lang europe.png|270px|ハンガリー語話者の多い国]] }} '''ハンガリー語'''あるいは'''マジャル語'''(ハンガリーご、マジャルご、{{lang|hu|magyar nyelv}})は、主に[[ハンガリー]]で話されている言語。現在はハンガリー及び[[セルビア]]の[[ヴォイヴォディナ|ヴォイヴォディナ自治州]]にて[[公用語]]となっている。ハンガリーでは住民の93.6%(2002年)の[[マジャル人]]がハンガリー語を話し、[[国語]]化している。 また厳密には正しくないが、'''マジャール語'''(マジャールご)の呼称も慣用的に用いられることがある<ref group="注釈">「マジャル({{Lang|hu|Magyar}})」は、日本の教科書などにおいて「マジャール」と誤ってカタカナ表記されているものが見られるが、どの母音も伸ばさない「マジャル」が正しい表記・発音となる。ハンガリー語では長母音の場合は[[アキュート・アクセント|アクセント符号]]をつける規則があるため、そうでない場合は長母音ではない(「{{Lang|hu|Magyar}}」であって「{{Lang|hu|Magyár}}」でないため、長母音として発音しないのが正しい)。</ref>。旧来は洪語と略した<ref group="注釈">ハンガリーは漢字で'''洪牙利'''と表記され、'''洪'''と略される。なお、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]は墺洪帝国と記載されることもあった。</ref>。 == 概略 == ハンガリーを中心とした周辺の国々([[スロバキア]]、[[ルーマニア]]・[[トランシルヴァニア|トランシルバニア]]地方、[[セルビア]]北部、[[オーストリア]]中・東部の一部、[[チェコ]]・[[モラヴィア|モラビア]]南端部の一部、[[スロベニア]]東部、[[クロアチア]](西部を除く)、[[モルドバ]]西端部、[[北イタリア|イタリア]]北東端部の一部、[[ポーランド]]・[[シレジア|シロンスク]]地方を含む南西部の一部、[[ウクライナ]]西部など)にも使用者がおり、話者人口はおよそ1450万人で、うちハンガリーに住む人々は1000万人ほどである。[[カナダ]]や[[アメリカ合衆国]]などのハンガリー系移民共同体の内部でも話される。また、[[イスラエル]]でも[[ユダヤ人|ユダヤ系]]ハンガリー人移民に話されている。 [[ウラル語族]]の[[フィン・ウゴル語派]]に分類され、[[フィンランド語]]や[[エストニア語]]と同系統の[[言語]]であるが、意思の疎通がまったくできないほどの大きな隔たりがある。歴史的経緯から[[スラヴ語派|スラヴ諸語]]や[[ルーマニア語]]と[[ドイツ語]]([[オーストリアドイツ語|オーストリア語]])と[[イタリア語]]の影響をある程度受けているが、[[インド・ヨーロッパ語族]]([[ヨーロッパ]]で話される諸言語の多くが属する)とは系統が異なり、姓名や日付などの語順もインド・ヨーロッパ語族の言語とは異なる<!--<ref>こうした特徴から、「アジア系の言語」といわれることがある。しかし、ウラル語族はいわゆる「アルタイ諸語」とは系統関係が実証されておらず([[ウラル・アルタイ語族]])、ウラル山脈以西とされるウラル語の故地からみると誤りであると言える。また、[[インド・イラン語派]]のように、実際にアジアに分布するインド・ヨーロッパ語族の言語もあるため、ウラル語族すなわちアジア系と結論することはできない。</ref>-->。[[ハンガリー人宇宙人説]]はこれを根拠の一つとしている。 == 発音 == [[ファイル:Hungarian vowel chart.svg|right|250px|thumb|ハンガリー語の母音図([[国際音声記号]]による)]] === 母音 === *a [{{IPA|[[円唇後舌広母音|ɒ]]}}]: 円唇。英語の o の短音とほぼ同じ。 *á [aː]非円唇。日本語の「ア」を長く伸ばした音に近い。 *e {{IPA|ɛ}}広めのエ **ë [e] アルファベットには含まれない。方言などで狭いエの発音を表記する際に使われる。 *é [eː] eの長音だが、eよりもやや狭く、エとイの中間のような音。 *i [i] *í [iː] iの長音 *o [o] *ó [oː] oの長音 *ö [ø] *ő [øː] öの長音 *u [u] *ú [uː] uの長音 *ü [y] *ű [yː] üの長音 === 子音 === *c, dz: ツァ行、ヅァ行の子音。 *cs {{IPA|tʃ}}, dzs {{IPA|dʒ}}: チャ行、ヂャ行の子音に近い。 *f, v *h *j, ly [j]: ヤ行。 *k, g *l *m *n *ny {{IPA|ɲ}}: ニャ行。スペイン語の ñ, フランス語、イタリア語の gn. *p, b *r *s {{IPA|ʃ}}, zs {{IPA|ʒ}}: シャ行、ジャ行に近い。 *sz, z *t, d *ty [c], gy {{IPA|ɟ}}: チャ行、ヂャ行に似るが、キャ、ギャに近くなる。 動詞の語幹末において、一部の子音は動詞の定活用もしくは命令形に現れる -j によって別の長い子音に発音のみが変化する。 *d / gy + j→ [ɟ]または[ɟː] *t / ty + j→ [c]または[cː] *n / ny + j→ [ɲː] *l / ly + j→ [jː] 一部の子音は、発音のみでなく綴りも変化する。 *s + j→ ss *z + j→ zz *sz + j→ ssz 命令形においてのみ変化する綴りには、次のようなものがある。 *(-e / -a)t + j → ss *szt + j → ssz *(í)t + j → ts == 文字 == {{Main|ハンガリー語アルファベット}} 現在、主に[[ラテン文字]]を文字表記方法として採用しているが、近年、古来のハンガリー文字([[ロヴァーシュ文字]])の使用も広がっている。また、[[ラテン文字]]の[[母音]]を[[書記素]]として表記する際に、いくつかの[[区分符号]]を使用している。 {{ハンガリー語アルファベット}} == 文法 == ハンガリー語は、形態的には[[膠着語]]に分類され、[[母音調和]]の原則を持つ点で、同じ[[ウラル語族]]の[[フィンランド語]]や、[[アルタイ諸語]]と呼ばれる[[トルコ語]]、[[モンゴル語]]、また[[朝鮮語]]や[[日本語]]などとも共通する特徴を持つ。 === 名詞 === 膠着語であるハンガリー語における[[名詞]]の[[格変化]]は、名詞に20種類近くある格を示す[[接尾辞]](格語尾)を膠着させて(語尾にくっつけて)示す。また、[[所有接尾辞]]を名詞の語尾に膠着させてその名詞の所有者を示す。 {| class="wikitable" |+ház(家)の各種変化 ! !単数 !複数 |- ![[主格]] |ház |ház'''ak''' |- ![[対格]] |ház'''at''' |ház'''akat''' |- ![[与格]] |ház'''nak''' |ház'''aknak''' |- ![[具格]] |ház'''zal''' |ház'''akkal''' |- ![[因格]] |ház'''ért''' |ház'''akért''' |- ![[変格]] |ház'''zá''' |ház'''akká''' |- ![[到格]] |ház'''ig''' |ház'''akig''' |- ![[様格]] |ház'''ként''' |ház'''akként''' |- ![[様態格]] |なし |なし |- ![[内格]] |ház'''ban''' |ház'''akban''' |- ![[上格]] |ház'''on''' |ház'''akon''' |- ![[接格]] |ház'''nál''' |ház'''aknál''' |- ![[入格]] |ház'''ba''' |ház'''akba''' |- ![[着格]] |ház'''ra''' |ház'''akra''' |- ![[向格]] |ház'''hoz''' |ház'''akhoz''' |- ![[出格]] |ház'''ból''' |ház'''akból''' |- ![[離格]] |ház'''ról''' |ház'''akról''' |- ![[奪格]] |ház'''tól''' |ház'''aktól''' |- !非限定単数[[所有 (言語学)|所有]] |ház'''é''' |ház'''aké''' |- !非限定複数[[所有 (言語学)|所有]] |ház'''éi''' |ház'''akéi''' |} * 意味の制約によりházに様態格(essive-modal case)が存在しないが、magyar(ハンガリー語)の様態格はmagyar'''ul'''となる。例:Anna beszél magyarul.(アンナはハンガリー語を話す)。 {| class="wikitable" |+ház(家)の所有接尾辞 !主格 !単数 !複数 |- !一人称単数所有 |ház'''am''' |ház'''aim''' |- !二人称単数所有 |ház'''ad''' |ház'''aid''' |- !三人称単数所有 |ház'''a''' |ház'''ai''' |- !一人称複数所有 |ház'''unk''' |ház'''aink''' |- !二人称複数所有 |ház'''atok''' |ház'''aitok''' |- !三人称複数所有 |ház'''uk''' |ház'''aik''' |} ===母音調和=== {| class="floatright wikitable" style="text-align:center" |- ! !! 短母音 !! 長母音 |- ! {{縦書き|後母音}} | /a/<br/>/o/<br/>/u/ | /á/<br/>/ó/<br/>/ú/ |- ! {{縦書き|前母音}} | /e/<br/>/i/<br/>/ö/<br/>/ü/ | /é/<br/>/í/<br/>/ő/<br/>/ű/ |} ハンガリー語の[[母音]]は、調音(発音)するときの舌の位置によって'''前母音'''(i, e, ö, ü)と'''後母音'''(a, u, o)の二種類に分類され、またそれぞれの母音に音価が短、長の二種類があって、区分符号(´ ˝)を付けて区分する。また、前母音のうちö, üを特に円唇母音と言う。 膠着語であるハンガリー語の[[母音調和]]は、ある語(名詞や動詞の語幹など)の末尾に、付属語(格語尾や所有接尾辞などの名詞接尾辞や、動詞の活用語尾)を膠着する際に、接尾される語の母音によって接尾辞の母音が影響を受けるという形であらわれる。このため、ハンガリー語の接尾辞には、数種類の異なった形が存在する。 例えば、[[着格]](~の上へ)を示す格語尾は、 * -re (前舌母音を持つ語に付属) * -ra (後舌母音を持つ語に付属) の二種類の形がある。 外来語や複合語(例えば、Buda と Pest からなる複合語 Budapest([[ブダペシュト]]))など、前母音と後母音の両方を持った語に付属語が膠着する場合は、その語の最後の音節にある母音に調和する。Budapest の場合は、前母音の'e'が最後の母音であるから、必ず前母音の接尾辞が膠着し、Visegrád([[ヴィシェグラード (ハンガリー)|ヴィシェグラード]])の場合は、後母音の'á'が最後の母音であるから、必ず後母音の接尾辞が膠着する。 つまり、地名の[[ブダ]]、[[ペシュト]]、[[ブダペスト|ブダペシュト]]、[[ヴィシェグラード (ハンガリー)|ヴィシェグラード]]にそれぞれ日本語の「~へ」にあたる付属語をつける場合、 * Budára < Bud'''á'''-r'''a''' * Pestre < P'''e'''st-r'''e''' * Budapestre < Budap'''e'''st-r'''e''' * Visegrádra < Visegr'''á'''d-r'''a''' と母音調和を行うことになる。 ===動詞=== {{main|ハンガリー語の動詞}}動詞の活用には定活用と不定活用の二種類がある。目的語をとり、その目的語が三人称もしくは定冠詞を伴うものであれば、動詞は定活用を行い、それ以外ならば不定活用を行う。 == 語彙 == 一方で、ハンガリー国内で売られている一般的な国語辞典は、収録語数が2万語程度である。また合成語も多く、ある程度の語彙があれば意味の判別は容易である。 == 系統と比較言語学、類型論 == ハンガリー語は[[ウラル語族]][[フィン・ウゴル語派]][[ウゴル諸語]]に属し、系統的には[[マンシ語]]や[[ハンティ語]]に近い。ウラル山麓から遥々西進してきた歴史がうかがえる。 系統図は[[ウラル語族]]を参照。 == 語誌 == {{empty section|date=2020年3月}} == 研究史 == {{empty section|date=2020年3月}} == 用例 == ハンガリー語では、単語の強勢は常に第一音節に置かれる。 *ハンガリー(人/語): ''magyar'' {{IPA|mɒɟɒr}} *こんにちは: **知らない相手に対して、丁寧な言い方: "よい日を(願います)": ''Jó napot (kívánok)!'' {{IPA|joːnɒpot kiːvaːnok}}(kí- は短音で発音されることもある) **よく知っている相手に対して、くだけた言い方: ''Szia!'' {{IPA|siɒ}} (発音は、アメリカ英語における、"See ya!"によく似ている。そのため、英語に由来するという人もいる。別れの挨拶としても用いられる) ***''Helló!''(同じくくだけた言い方としてよく用いられる。英語とは違い、別れの挨拶としても用いられる) *さようなら: ''Viszontlátásra!'' (丁寧な言い方) (see above), ''Viszlát!'' {{IPA|vislaːt}} (やや丁寧) *すみません: ''Elnézést!'' {{IPA|ɛlneːzeːʃt}} *お願いするとき: **''Kérem (szépen)'' {{IPA|keːrɛm seːpɛn}} (直訳では、「美しくお願いします」といったニュアンス。ドイツ語における''Bitte schön''と似ている。次にあげられる、より一般的な丁寧表現も参考のこと。) **''Legyen szíves!'' {{IPA|lɛɟɛn siːvɛʃ}} (直訳: "親切にしてください!") *~が欲しいのですが(丁寧な言い方): ''Szeretnék ____'' {{IPA|sɛrɛtneːk}} (これは仮定形を用いた表現である。仮定形は丁寧なお願いをするときに一般的に用いられる。) *ごめんなさい: ''Bocsánat!'' {{IPA|botʃaːnɒt}} *ありがとう: ''Köszönöm'' {{IPA|køsønøm}} *あれ/これ: ''az'' {{IPA|ɒz}}, ''ez'' {{IPA|ɛz}} *いくらですか?: ''Mennyi?'' {{IPA|mɛɲɲi}} *いくら支払ったらよいですか?: ''Mennyibe kerül?'' {{IPA|mɛɲɲibe kɛryl}} *はい: ''Igen'' {{IPA|iɡɛn}} *いいえ: ''Nem'' {{IPA|nɛm}} *わかりません: ''Nem értem'' {{IPA|nɛm eːrtɛm}} *知りません: ''Nem tudom'' {{IPA|nɛm tudom}} *トイレはどこですか?: **''Hol van a vécé?'' {{IPA|holvɒnɒ veːtseː}} (vécé {{IPA|veːtseː}} はハンガリー語における「WC」の発音) **''Hol van a mosdó?'' {{IPA|holvɒnɒ moʃdoː}} – より丁寧な言い方 *いただきます: ''Egészségünkre!'' {{IPA|ɛɡeːʃʃeːɡynkrɛ}} (直訳では、"私たちの健康のために!") *[[ジュース]]: ''gyümölcslé'' {{IPA|ɟymøltʃleː}} *水: ''víz'' {{IPA|viːz}} *[[ワイン]]: ''bor'' {{IPA|bor}} *[[ビール]]: ''sör'' {{IPA|ʃør}} *お茶([[紅茶]]): ''tea'' {{IPA|tɛɒ}} *[[牛乳]]: ''tej'' {{IPA|tɛj}} *英語を話せますか?: ''Beszél angolul?'' {{IPA|bɛseːl ɒngolul}} 疑問文は正しい抑揚によってのみ表現される。具体的には、最後の一つ前の音節まで上昇したのち、最後の音節に向かって下降する。 *あなたを愛しています: ''Szeretlek'' {{IPA|sɛrɛtlɛk}} *助けて!: ''Segítsen!'' {{IPA|ʃɛgiːtʃɛn}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == === 辞書 === *[[wikt:ja:wiktionary:ハンガリー語の索引]] *[http://www.JapanMagyarSzotar.hu 日本語 ・ ハンガリー語 / ハンガリー語 ・ 日本語 辞典 (Tamino)] (オンライン辞書、説明など日本語) *[http://szotar-magyar.hu/azsianet/nyelv/japanszotar.htm 日本ご ・ ハンガリーご 辞書 (mango-sites)] *[http://relaks.webuda.com/ Japán nyelv - 日本語] ハンガリー語による日本語の独習教材 *[http://adys.org/ Adys japán ↔ magyar szótár] アディス 日本語↔ハンガリー語辞典 *『日本語・ハンガリー語大辞典』({{lang|hu|Japán-magyar nagyszótár}}、ISBN 9789631223514) - 収録項目3万9845、熟語2万4001、慣用句1万6895、諺431、用例4万9894などから成る本格的な日洪辞書 == 関連項目 == *[[マジャル人]] *[[ハンガリー王国の歴史的地域]] *[[ハンガリー科学アカデミー言語学研究所]] *[[パッラス大事典]] *[[ハンガリー語の点字]] *[[今岡十一郎]] *[[バシキール語]] == 外部リンク == {{Wikipedia|hu}} {{Commons|Category:Hungarian pronunciation|ハンガリー語の発音}} * [http://furmint2007.com/Mercedes/kuszirgz_files/index.htm ハンガリー語活用独学プログラム] * {{ethnologue|code=hun}} * {{kotobank}} {{Language-stub}} {{ウラル語族}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はんかりこ}} [[Category:ハンガリー語|!]] [[Category:フィン・ウゴル語派]] [[Category:母音調和言語]] [[Category:ハンガリーの言語]] [[Category:ルーマニアの言語]] [[Category:スロバキアの言語]] [[Category:スロベニアの言語]] [[Category:クロアチアの言語]] [[Category:チェコの言語]] [[Category:セルビアの言語]] [[Category:オーストリアの言語]] [[Category:イタリアの言語]] [[Category:モルドバの言語]] [[Category:ポーランドの言語]] [[Category:ウクライナの言語]] [[Category:イスラエルの言語]] [[Category:SOV型言語]]
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Adobe Photoshop
Adobe Photoshop(アドビ フォトショップ)は、アドビが販売しているビットマップ画像編集アプリケーションソフトウェアである。 主に写真編集(フォトレタッチ)としての役割を担うソフトウェアとして、画像加工、イラストレーション、印刷業界などあらゆる画像分野で使用されており、この分野では代表的な存在である。主に写真などの加工に適しており、さまざまなフィルタやプラグインを追加することによって、機能を拡張することができる。また、Illustrator や InDesign といった同社の他のソフトとは、シームレスな連携がはかられている。 2次元コンピュータグラフィックスを代表するソフトでもあり、編集・加工機能や入稿時のカラーマッチングに優れているPhotoshop、ペンタブレットでの描画機能やナチュラル表現に優れているPainterという位置づけで定着している。 Photoshop の標準画像ファイルフォーマットはPSD形式であり、レイヤーやパス、印刷情報や著作権情報などを付加して保存できる。また多くの画像フォーマットに対応しており、ビットマップ画像だけでなくベクターイメージを扱うこともできる。 フォトショップという単語自体が「画像加工する・加工された画像」という意味で使われることもあり、英語でもPhotoshopが「画像を加工する」動詞として使われる。 1987年、当時ミシガン大学の学生であったトーマス・ノールが Macintosh Plus 向けにグレースケールの画像を扱うソフトウェアを開発した。これに惹かれたインダストリアル・ライト&マジックの画像編集部門の社員であり、トーマスの弟でもあるジョン・ノールが開発に参加し、最初ImageProとして、後にPhotoShopとしてプロトタイプを完成させた。後にこれをAppleとアドビにデモして見せ、1988年9月にアドビがライセンスと販売権の取得を決定し1989年4月に正式契約、1990年に最初のバージョンである Photoshop 1.0 が発売された。2013年にPhotoshop 1.0.1のソースコードがコンピュータ歴史博物館に寄贈され、公開された。 アドビの印刷業界でのノウハウを生かして、その方面の機能強化や、機材やソフトの連携を練り込まれた Photoshop は、それまで高価な機材が必要だった作業をパソコン上で安価に実現させ、デザイナー・出版業・印刷業などのプロフェッショナル業界に浸透していった。Photoshopを使うためにMacintoshを導入するケースも多く、キラーアプリケーションの代名詞的存在であった。 バージョン 2.5からはMicrosoft Windows版も登場し、パソコンの高性能化、低価格化に伴い、そのハードルは低くなり、プロフェッショナルユーザーだけでなく、アマチュアのイラストレーターや写真家、画像加工に興味ある一般ユーザーにも浸透し、画像加工・調整を行う上で、デファクトスタンダードとなっている。英語では動詞にもなっており、"写真をphotoshopする" とは、(自分の顔写真を綺麗に見せるためなどで)デジタル写真をPhotoshopで加工修正することをいうが、これはアドビのイメージダウンになるので、アドビは「photoshopという動詞やphotoshopedという用語は使用しないように」とガイドラインで呼びかけている。 2008年に発売されたCS4(11) から、Windows版には32ビット版に加えて新たに64ビット版も投入され、これにより使用可能なメモリの量からくる制約が軽減されている。Mac OS X版ではPhotoshop CS(8.0)以来利用してきたAPIのCarbonが32ビットのみであったことから、64ビットへの移行に時間が掛かり、2010年に発売されたCS5(12)でCocoaに移行するまで待たされることとなった。 2019年11月4日にiPadOS版がリリースされたが、従来のPhotoshopとUIが大きく異なる上、多くの機能がない為に、当初は芳しくない評価を受けていた。2023年現在では1.3万ユーザによる5段階評価で4.3と非常に高い評価を得ている。 バージョンの数字の表記は 7.0 までで、その後は Photoshop CS (Creative Suite) という新ブランドネームに改訂されている。バージョン 5.5 からは当初別パッケージで供給されていたウェブ用画像作成ソフトウェア ImageReady とセットで販売された(CS3 から機能の統合が行われ、セットでの販売はなくなっている)。その後バージョン 6 になって、インターフェースの変更が行われ、同時にこれまで、弱いとされていた画像プリントエンジンの強化が行われた。 1995年、Windows 95 の発売を機に一般の間にパソコンが爆発的に普及してからは、CGイラストやデジタル同人誌制作に必要不可欠なソフトと認識されるようになった。しかしながら、10万円前後という商業利用を想定した価格設定は一個人が趣味のために利用するにはあまりにも高価なものであったことから、主にバージョン 4 から 5.5 の世代において、金銭的に余裕の無い者を中心に CD-ROM などにソフトウェアをコピーし配布するなどの手段による不正使用が横行した。この影響もあり、バージョン 6 以降からは Adobe Online Manager を利用したシリアル番号情報の回収による不正使用状況の調査を開始し、その結果をもとに Windows 版では CS1(8) から、Mac OS X 版は CS2(9) から不正使用を防ぐ為のアクティベーションが具体的に導入されることとなった。 パーソナルユース向けに機能を限定した廉価版として、Photoshop Elements が発売され(過去には Photoshop LE、Photo Deluxe など)、各種のデジタルカメラやスキャナ、ペンタブレットなどに付属ソフトウェアとして同梱されていたり、パッケージとして販売されている。付属ソフトウェア版は商品版よりも実質的に安く入手できるかわりに、通常商品版よりも1世代前のバージョンのものが同梱されていることが多い。通常版との違いは、レイヤー機能の一部に制限があり、トーンカーブ・パス機能がなく、CMYK画像の編集ができない点などがある。画像管理面の機能も付加され、直感的な操作で作業が行えるなど、パーソナルユース向けの性格を強くしている。また、高機能なデジタルカメラの普及にともない、RAW現像に特化したソフトウェアとして、Photoshop Lightroom が Photoshop ファミリーとしてリリースされている。 オンラインサービスとしてFlashベースのAdobe Photoshop Expressがある。利用には無料のアカウント登録が必要で、用意された2GBのストレージに画像や動画をアップロードして編集・管理できる。また、Facebook、Flickr、Photobucket、Picasaなどの外部サービスと連携することもできる。 CS3(10) からCS6(13)まで、通常版のPhotoshopに加え、映画制作やエンジニア、製造、建築、医療、科学分野を対象に3次元コンピュータグラフィックスや動画ファイルの簡易編集機能が付加された Extendedシリーズも提供されていた。(Image Readyは統合された。) なお、2013年5月に発売されたAdobe Creative Cloudの登場により、パッケージ版の生産が終了し、店頭ではダウンロードカードのみの取り扱いになっている(Photoshop Elements、Lightroomを除く)。 CreativeCloudは、CS6かCCのどちらかをダウンロードでき、3ヶ月もしくは12ヶ月の使用期限が切れた場合は、再度カードを購入するかクレジットカード決済で継続することが可能である。 2023年9月に発表されたバージョン25.0から、同年3月からβテストが始まっていたAIを使用した描画ツールである「生成塗りつぶし」および「生成拡張」が正式機能として搭載されることとなった。 また同じ2023年9月には、インターネットに接続されたパソコンであれば、プログラムをインストールせずにオンラインで作業が可能となるWeb版(Version:2023.19.1.0)が正式にリリースされた。
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Adobe Photoshopは、アドビが販売しているビットマップ画像編集アプリケーションソフトウェアである。
{{redirect3|フォトショップ|[[パソコンソフト]]|[[店舗]]|写真店}} {{出典の明記|date=2014年3月}} {{Infobox Software | 名称 = Adobe Photoshop | ロゴ = [[File:Adobe Photoshop CC icon.svg|100px]] | スクリーンショット = | 説明文 = | 開発元 = [[アドビ]] | 最新版 = 25.3.1 | latest release date = {{release date|2023|12|15}} | 対応OS = [[macOS]], [[Microsoft Windows|Windows]] | 種別 = [[画像編集]][[ソフトウェア]] | ライセンス = [[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]] | 公式サイト = https://www.adobe.com/jp/products/photoshop.html }} {{Infobox Software | 名称 = Adobe Photoshop iPad版 | ロゴ = [[File:Adobe Photoshop CC icon.svg|100px]] | スクリーンショット = | 説明文 = | 開発元 = [[アドビ]] | 最新版 = 5.3 | latest release date = {{release date|2023|11|29}} | 対応OS = [[iPadOS]] | 種別 = [[画像編集]][[ソフトウェア]] | ライセンス = [[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]] | 公式サイト = https://www.adobe.com/jp/products/photoshop/ipad.html }} '''Adobe Photoshop'''(アドビ フォトショップ)は、[[アドビ]]が販売している[[ビットマップ画像]][[画像編集|編集]][[アプリケーションソフトウェア]]である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.adobe.com/jp/products/photoshop.html|title=画像編集・加工ソフト|Adobe Photoshop CC|accessdate=2014年3月28日|work=アドビ}}</ref>。 == 概要 == 主に[[写真編集|写真編集(フォトレタッチ)]]としての役割を担うソフトウェアとして、画像加工、[[イラストレーション]]、印刷業界などあらゆる画像分野で使用されており、この分野では代表的な存在である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.adobe.com/jp/products/photoshop/showcase.html|title=Photoshop CC / ユーザー事例|accessdate=2014年3月28日|work=アドビ}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://e-words.jp/w/Photoshop.html|title=Photoshopとは|accessdate=2014年3月28日|work=IT用語辞典}}</ref>。主に写真などの加工に適しており<ref>{{Cite web|和書|url=http://tech.kihon.jp/photoshop/3782|title=IllustratorとPhotoshopの使い分け方|accessdate=2014年3月28日|work=nanapi}}</ref>、さまざまな[[フィルター|フィルタ]]や[[プラグイン]]を追加することによって、機能を拡張することができる<ref>{{Cite web|和書|url=http://helpx.adobe.com/jp/photoshop/using/presets-preferences-plug-ins.html#plug_ins|title=Photoshop ヘルプ|プリセット、環境設定およびプラグイン|accessdate=2014年3月28日|work=アドビ}}</ref>。また、[[Adobe Illustrator|Illustrator]] や [[Adobe InDesign|InDesign]] といった同社の他のソフトとは、シームレスな連携がはかられている<ref>{{Cite web|和書|url=http://helpx.adobe.com/jp/x-productkb/multi/212525.html|title=Illustrator アートワークを Photoshop で読み込む|accessdate=2016年9月14日|work=アドビ}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://help.adobe.com/ja_JP/indesign/cs/using/WSa285fff53dea4f8617383751001ea8cb3f-6bdea.html|title=InDesign / 他のアプリケーションからのファイルの読み込み|accessdate=2014年3月28日|work=アドビ}}</ref>。 [[コンピュータグラフィックス|2次元コンピュータグラフィックス]]を代表するソフトでもあり、編集・加工機能や入稿時のカラーマッチングに優れているPhotoshop、ペンタブレットでの描画機能やナチュラル表現に優れている[[Painter]]という位置づけで定着している。 Photoshop の標準[[画像ファイルフォーマット]]は'''PSD'''形式であり、[[レイヤー (DTP)|レイヤー]]やパス、印刷情報や著作権情報などを付加して保存できる。また多くの画像フォーマットに対応しており、ビットマップ画像だけでなく[[ベクターイメージ]]を扱うこともできる。 フォトショップという単語自体が「画像加工する・加工された画像」という意味で使われることもあり、英語でもPhotoshopが「画像を加工する」動詞として使われる。 == 歴史 == [[1987年]]、当時[[ミシガン大学]]の学生であったトーマス・ノールが [[Macintosh Plus]] 向けに[[グレースケール]]の画像を扱うソフトウェアを開発した。これに惹かれた[[インダストリアル・ライト&マジック]]の画像編集部門の社員であり、トーマスの弟でもある[[ジョン・ノール]]が開発に参加し、最初ImageProとして、後にPhotoShopとしてプロトタイプを完成させた<ref name="history">{{cite web |url=http://www.photoshopnews.com/feature-stories/photoshop-profile-thomas-john-knoll-10/ |title=Thomas & John Knoll |accessdate=2008年6月8日 |author=Schewe, Jeff |date=2000 |work=PhotoshopNews }}</ref>。後にこれを[[Apple]]とアドビにデモして見せ、[[1988年]]9月にアドビがライセンスと販売権の取得を決定し1989年4月に正式契約<ref name="history" />、[[1990年]]に最初のバージョンである Photoshop 1.0 が発売された。2013年にPhotoshop 1.0.1の[[ソースコード]]が[[コンピュータ歴史博物館]]に寄贈され、公開された<ref>[http://www.computerhistory.org/atchm/adobe-photoshop-source-code/ Adobe Photoshop Source Code]</ref>。 アドビの印刷業界でのノウハウを生かして、その方面の機能強化や、機材やソフトの連携を練り込まれた Photoshop は、それまで高価な機材が必要だった作業を[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]上で安価に実現させ、[[デザイナー]]・[[出版社|出版業]]・[[印刷会社|印刷業]]などの[[プロフェッショナル]]業界に浸透していった。Photoshopを使うために[[Macintosh]]を導入するケースも多く、[[キラーアプリケーション]]の代名詞的存在であった<ref>{{Cite news|title=【Mac OS X Leopard徹底解説 第1回】 勢いに乗る「Mac」を加速させる3つの理由|date=2007-11-16|last=日経トレンディネット|url=http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20071115/1004506/|accessdate=2018-04-08|language=ja-JP|work=日経トレンディネット}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://ascii.jp/elem/000/000/326/326229/index.html|title=ASCII.jp:【WPC 2001 Vol.13】Mac OS X 10.1が初公開――対応ソフトも増えクリエイティブ環境が充実|accessdate=2018-04-08|last=千葉英寿|website=ascii.jp|language=ja}}</ref>。 バージョン 2.5からは[[Microsoft Windows]]版も登場し、パソコンの高性能化、低価格化に伴い、そのハードルは低くなり、プロフェッショナルユーザーだけでなく、[[アマチュア]]の[[イラストレーター]]や[[写真家]]、画像加工に興味ある一般ユーザーにも浸透し、画像加工・調整を行う上で、[[デファクトスタンダード]]となっている。[[英語]]では[[動詞]]にもなっており、"写真をphotoshopする" とは、(自分の顔写真を綺麗に見せるためなどで)[[デジタル写真]]をPhotoshopで加工修正することをいうが、これはアドビのイメージダウンになるので、アドビは「photoshopという動詞やphotoshopedという用語は使用しないように」とガイドラインで呼びかけている。 [[2008年]]に発売されたCS4(11) から、Windows版には[[32ビット]]版に加えて新たに[[64ビット]]版も投入され、これにより使用可能なメモリの量からくる制約が軽減されている。[[macOS|Mac OS X]]版ではPhotoshop CS(8.0)以来利用してきたAPIの[[Carbon (API)|Carbon]]が32ビットのみであったことから、64ビットへの移行に時間が掛かり、[[2010年]]に発売されたCS5(12)で[[Cocoa (API)|Cocoa]]に移行するまで待たされることとなった。 2019年11月4日に[[iPadOS]]版がリリースされたが、従来のPhotoshopとUIが大きく異なる上、多くの機能がない為に、当初は芳しくない評価を受けていた<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=Adobe Photoshop|url=https://apps.apple.com/jp/app/adobe-photoshop/id1457771281|website=App Store|accessdate=2019-11-05|language=ja-jp}}</ref>。2023年現在では1.3万ユーザによる5段階評価で4.3と非常に高い評価を得ている<ref name=":0" />。 == バージョン、シリーズ == バージョンの数字の表記は 7.0 まで<ref>内部バージョンは CS(1)(8.0) 以降も存在する。</ref>で、その後は '''Photoshop CS''' (Creative Suite) という新ブランドネームに改訂されている。バージョン 5.5 からは当初別パッケージで供給されていた[[World Wide Web|ウェブ]]用画像作成ソフトウェア [[Adobe ImageReady|ImageReady]] とセットで販売された(CS3 から機能の統合が行われ、セットでの販売はなくなっている)。その後バージョン 6 になって、インターフェースの変更が行われ、同時にこれまで、弱いとされていた画像プリントエンジンの強化が行われた。 1995年、[[Microsoft Windows 95|Windows 95]] の発売を機に一般の間にパソコンが爆発的に普及してからは、[[2次元コンピュータグラフィックス|CGイラスト]]やデジタル[[同人誌]]制作に必要不可欠なソフトと認識されるようになった。しかしながら、10万円前後という商業利用を想定した価格設定は一個人が趣味のために利用するにはあまりにも高価なものであったことから、主にバージョン 4 から 5.5 の世代において、金銭的に余裕の無い者を中心に [[CD-ROM]] などにソフトウェアをコピーし配布するなどの手段による不正使用が横行した。この影響もあり、バージョン 6 以降からは Adobe Online Manager を利用したシリアル番号情報の回収による不正使用状況の調査を開始し、その結果をもとに Windows 版では CS1(8) から、[[macOS|Mac OS X]] 版は CS2(9) から不正使用を防ぐ為の[[アクティベーション]]が具体的に導入されることとなった。 パーソナルユース向けに機能を限定した[[廉価版]]として、'''[[Adobe Photoshop Elements|Photoshop Elements]]''' が発売され(過去には Photoshop LE、Photo Deluxe など)、各種の[[デジタルカメラ]]や[[イメージスキャナ|スキャナ]]、[[ペンタブレット]]などに付属ソフトウェアとして同梱されていたり、パッケージとして販売されている。付属ソフトウェア版は商品版よりも実質的に安く入手できるかわりに、通常商品版よりも1世代前のバージョンのものが同梱されていることが多い。通常版との違いは、レイヤー機能の一部に制限があり、トーンカーブ・パス機能がなく、[[CMYK]]画像の編集ができない点などがある。画像管理面の機能も付加され、直感的な操作で作業が行えるなど、パーソナルユース向けの性格を強くしている。また、高機能なデジタルカメラの普及にともない、[[RAW画像|RAW]]現像に特化したソフトウェアとして、[[Adobe Photoshop Lightroom|Photoshop Lightroom]] が Photoshop ファミリーとしてリリースされている。 オンラインサービスとしてFlashベースの[[Adobe Photoshop Express]]がある。利用には無料のアカウント登録が必要で、用意された2GBのストレージに画像や動画をアップロードして編集・管理できる。また、[[Facebook]]、[[Flickr]]、[[Photobucket]]、[[Picasa]]などの外部サービスと連携することもできる。 CS3(10) からCS6(13)まで、通常版のPhotoshopに加え、映画制作やエンジニア、製造、建築、医療、科学分野を対象に[[3次元コンピュータグラフィックス]]や[[動画]]ファイルの簡易編集機能が付加された '''Extended'''シリーズも提供されていた。(Image Readyは統合された。) なお、2013年5月に発売された[[Adobe Creative Cloud]]の登場により、パッケージ版の生産が終了し、店頭ではダウンロードカードのみの取り扱いになっている(Photoshop Elements、Lightroomを除く)。 CreativeCloudは、CS6かCCのどちらかをダウンロードでき、3ヶ月もしくは12ヶ月の使用期限が切れた場合は、再度カードを購入するかクレジットカード決済で継続することが可能である。 2023年9月に発表されたバージョン25.0から、同年3月から[[ベータ版|βテスト]]が始まっていたAIを使用した描画ツールである「生成塗りつぶし」および「生成拡張」が正式機能として搭載されることとなった。 また同じ2023年9月には、インターネットに接続されたパソコンであれば、プログラムをインストールせずにオンラインで作業が可能となるWeb版(Version:2023.19.1.0)が正式にリリースされた。 == リリース履歴 == * [[1990年]] Photoshop 1.0<br/>特徴: ** カラー補正 ** トーンカーブ ** レベル補正 ** スタンプツール * [[1991年]] Photoshop 2.0 ** パス ** Illustratorファイル向けラスタライザー ** CMYKカラーをサポート ** ダブルトーン ** ペンツール * [[1993年]] Photoshop 2.5 ** パレット ** 16-bitファイルをサポート *[[1994年]] Photoshop 3.0<ref>{{Cite web|和書|date=1996-4-22 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/960429/phoshop.htm |title=Adobe Photoshop 3.0J(Windows 95対応版) |publisher=PC Watch |accessdate=2012-03-02}}</ref> ** レイヤー ** パレットタブ * [[1996年]] Photoshop 4.0<ref>{{Cite web |date=1996-9-11 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/960911/photosp.htm |title=アドビ、Adobe Photoshop 4.0(英語版)発表 |publisher=PC Watch |accessdate=2012-03-02}}</ref> ** 調整レイヤー ** アクション * [[1998年]] Photoshop 5.0<ref>{{Cite web|和書|date=1998-05-06 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980506/adobe.htm |title=アドビ、PhotoshopとPremiereの日本語版新バージョン |publisher=PC Watch |accessdate=2012-08-30}}</ref> ** 国際カラーコンソーシアム(ICC)準拠のカラーワークフロー ** 複数回のやり直し(ヒストリーパレット) ** マグネット選択ツール ** 編集可能なテキストの入力 * [[1999年]] Photoshop 5.0 Limited Edition * 1999年 Photoshop 5.5 ** PhotoshopにImageReadyを同梱 ** Web用に保存の機能機能 ** 抽出フィルタ ** スライス/ロールオーバー機能 * [[2000年]] Photoshop 6.0 ** ベクトルシェイプツール ** ユーザーインターフェイスのアップデート ** ゆがみフィルタ ** レイヤースタイル/描画モードのダイアログオプション ** レイヤーセット(レイヤーフォルダ) ** レイヤー作成可能枚数の大幅な増加 (ver5.5 背景レイヤ+99枚の計100枚まで →ver6.0 最大8000枚) * [[2001年]] Photoshop Elements 1.0 * [[2002年]] Photoshop 7.0 ** 修復ブラシ ** テキストの完全ベクトル化 ** 新しいペインティングエンジン(ブラシを強化) ** ファイルブラウザ ** XMPサポート * 2002年 Photoshop Elements 2.0 * [[2003年]] Photoshop CS(1) (8.0) ** シャドー/ハイライトコマンド ** カラーの適用コマンド ** ぼかし(レンズ)フィルタ ** ヒストグラムパレット ** スライスツールを大幅に改善 ** レイヤーカンプ ** 包括的な16ビットカラー編集 ** ショートカットキーのカスタマイズ ** アクティベーション搭載(Windowsのみ) * 2003年 Photoshop Elements 3.0 * 2003年 Photoshop Album 1.0 * 2003年 Photoshop Album 2.0 * [[2005年]] Photoshop CS2 (9.0) ** Bridge 1.0 ** スマートオブジェクト ** 画像ワープ ** スポット修復ブラシ ** 赤目修正ツール ** レンズ補正フィルタ ** スマートシャープ ** Vanishing Pointフィルタ ** スマートガイド ** HDR画像サポート ** アクティベーション搭載 (Mac) * 2005年 Photoshop Elements 4.0 * [[2006年]] Photoshop Elements 5.0 * [[2007年]] Photoshop CS3(10.0), CS3(10.0) Extended ** スマートフィルタ ** IntelベースのMacintoshをネイティブにサポート ** クイック選択ツール ** 境界線を調整 ** レイヤーの自動整列と自動合成ツール ** トーンカーブパレットでヒストグラム表示 ** 白黒調整レイヤー ** (Extended) 3D視覚化とテクスチャ編集 ** (Extended) MATLABを統合 ** (Extended) 測定と計算ツール ** (Extended) DICOMフォーマットをサポート ** (Extended) モーショングラフィックとビデオレイヤー ** (Extended) ムービーペイント ** (Extended) 3Dをサポートするバニッシングポイント ** (Extended) 画像のスタック処理 * 2007年 Photoshop Elements 6 (Windows) * [[2008年]] Photoshop Elements 6 (Mac), Elements 7 (Windows) * 2008年 Photoshop CS4(11.0), CS4(11.0) Extended (Windows/Mac) ** 調整パネル ** マスクパネル ** よりスムースなパンとズーム ** キャンバスの回転(GPU使用) ** 共通のユーザーインターフェイス ** コンテンツに応じて拡大縮小 ** GPUアクセラレーション ** (Extended) 画期的な3D編集と合成 ** (Extended) モーショングラフィックの向上 ** (Extended) [[ボリュームレンダリング]] ** (Extended) データの収集と分析の簡便化 * [[2009年]] Photoshop Elements 8 (Windows/Mac) * [[2010年]] Photoshop CS5(12.0), CS5(12.0) Extended(Windows/Mac) ** 混合ブラシ ** パペットワープ ** コンテンツに応じた塗り ** (Extended) 3D成形 * 2010年 Photoshop Elements 9 (Windows/Mac) ※Pseのパッケージ版はこのバージョン以降ハイブリッドDVDによる提供となっている。 * [[2011年]] Photoshop Elements 10 (Windows/Mac) * [[2012年]] Photoshop CS6(13.0), CS6(13.0) Extended(Windows/Mac) ** コンテンツに応じた移動・パッチ ** Mercury Graphics Engine ** 広角補正 ** (Extended) 3Dの直感的なコントロール ** (Extended) 3Dオブジェクトを簡単に整列および分散 * 2012年 Photoshop Elements 11 (Windows/Mac) * [[2013年]][[6月17日]] Photoshop CC(14.0) (Windows/Mac) ** Creative Cloudとの連携性が向上 ** 刷新したスマートシャープ ** 高品位なアップサンプリング ** Photoshop Extendedの機能を搭載 ** Camera Raw 8とレイヤーのサポート ** 編集可能な角丸の長方形 ** 複数のシェイプとパスを選択 ** 手ぶれ補正 ** スマートオブジェクトのサポート強化 ** 改良された3Dペイント ** 文字スタイル機能の強化 ** CSS属性のコピー ** 条件付きアクション ** 改善された3Dシーンパネル ** ワークフローの高速化 ** 3D機能の強化 ** Webファイルからカラーを読み込み ** システムに応じて文字をアンチエイリアス ** 改良された最小値/最大値フィルター * [[2013年]][[9月8日]] Photoshop CC(14.1) (Windows/Mac) * [[2014年]][[1月15日]] Photoshop CC(14.2) (Windows/Mac) * [[2014年]][[6月18日]] Photoshop CC 2014 (15.0) (Windows/Mac) ** 画像の霧を除去したり、追加できる“Dehaze(ディヘイズ)” ** アートボード機能 ** Preview CC ** ノイズフィルター ** レイヤースタイルの複数掛けが可能に ** 字形パネル ** Adobe Stockとの連携(画像素材の購入が楽に) * [[2014年]][[8月5日]] Photoshop CC (2014.1) (Windows/Mac) ** 拡張された3Dプリンタサポート ** 各種3Dファイル形式のサポート ** 最適化された3Dプリンタリソース ** 3Dプリンタワークフローの改善 * [[2014年]][[10月6日]] Photoshop CC (2014.2) (Windows/Mac) ** Creative Cloudライブラリ ** アセットの抽出 ** ガイドの改良 ** 3D PDFファイルのサポート ** 新しい3Dプリンタプロファイル ** SVGエクスポート ** Mercury Graphics Engineのパフォーマンス向上 * [[2015年]][[4月21日]] Photoshop CC (2014.2) (Windows/Mac) ** HDR Merge ** パノラママージ * [[2015年]][[6月15日]] Photoshop CC 2015 (16.0) (Windows/Mac) * [[2015年]][[11月30日]] Photoshop CC 2015.1 (16.0.1) (Windows/Mac) * [[2016年]][[6月20日]] Photoshop CC 2015.5 (17.0) (Windows/Mac) * [[2016年]][[11月2日]] Photoshop CC 2017.0.1 (18.0) (Windows/Mac) * [[2016年]][[12月12日]] Photoshop CC 2017 (18.0.1) (Windows/Mac) * [[2017年]][[10月18日]] Photoshop CC (19.0) (Windows/Mac) ** ストロークのスムージング プルドストリングモード、ストロークのキャッチアップ、ストローク終了時にキャッチアップ、ズーム用に調節 ** 使い勝手が向上したブラシプリセット管理 ** 高度なカスタムブラシの使用 ** PhotoshopでのLightroomの写真へのアクセス ** 可変フォント ** 作品の手軽な配信 ** 曲線ペンツール ** パスオプションが白黒以外でも利用できる ** レイヤーのコピー&ペースト ** 詳細ツールチップ ** Photoshopでの球パノラマの編集 ** プロパティパネルの改善 ** 選択とマスクの機能強化 ** ラーニングパネル ** テクノロジープレビュー機能 ** ディテールを保持2.0アップスケール ** 対象ペイント *[[2019年]][[11月4日]] Photoshop iPad版(iPadOS 13.1)リリース<ref>{{Cite web|和書|title=iPad版Adobe Photoshop提供開始 {{!}} Adobe Photoshop|url=https://www.adobe.com/jp/products/photoshop/ipad.html|website=www.adobe.com|accessdate=2019-11-05}}</ref> *[[2022年]][[6月14日]] Photoshop CC (23.4) (Windows/Mac)[https://helpx.adobe.com/jp/photoshop/using/whats-new/2022-3.html] *[[2023年]][[9月13日]] Photoshop CC (25.0) (Windows/Mac)[https://helpx.adobe.com/jp/photoshop/using/whats-new/2024.html] ** Adobe Firefly を利用した「生成塗りつぶし」および「生成拡張」 ** 削除ツールの機能向上 *[[2023年]][[9月28日]] Photoshop web版 (2023.19.1.0) (Microsoft Edge/Google Chrome/Mozilla Firefox)[https://helpx.adobe.com/jp/photoshop/using/whats-new/web-2024.html] ** プログラムをインストールせずに、インターネットに接続されたパソコン上のWebブラウザから利用できる    == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[GIMP]] * [[Painter]] * [[Corel Paint Shop Pro]] * [[Corel PHOTO-PAINT]] * [[PhotoImpact]] * [[Adobe Fireworks]] *[[Adobe Photoshop Elements]] *[[Adobe Photoshop Lightroom]] *[[Adobe Premiere]] *[[ペイントソフト]] == 外部リンク == {{Commonscat}} * [https://www.adobe.com/jp/products/photoshop.html Adobe Photoshop] * {{App Store Preview App|1457771281}} {{Adobe CS}} {{Raster graphics editors}} {{DEFAULTSORT:Adobe Photoshop}} [[Category:アドビのソフトウェア|Photoshop]] [[Category:写真]] [[Category:DTPソフト]] [[Category:グラフィックソフトウェア]] [[Category:グラフィックデザイン]] [[Category:MacOSのソフトウェア]] [[Category:ペイントソフト]] [[Category:1988年のソフトウェア]] [[Category:アメリカ合衆国の登録商標]] [[Category:C++でプログラムされたソフトウェア]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Adobe_Photoshop
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解脱
解脱(げだつ、梵: vimokṣa, ヴィモークシャ、mokṣa, モークシャ、vimukti, ヴィムクティ、mukti, ムクティ、巴: vimokha, vimokkha, ヴィモッカ、mokkha, モッカ、vimutti, ヴィムッティ、mutti, ムッティ)とは、インド系宗教において、解放、悟り、自由、放免を手に入れた状態を意味する語であり、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シーク教において様々な形で語られる 。解脱を果たした者は、解脱者(梵: vimukta、巴: vimutta)と呼ばれたりする。 もともとは紀元前7世紀前後の古ウパニシャッドで説かれたもので、インド哲学一般に継承されている観念である。解脱はインド発祥の宗教において最高目標とされてきた。 ヒンドゥー教の伝統ではモクシャは中心概念であり、ダルマ(道徳、倫理)、アルタ(英語版)(富、財産、生計)、カーマ(欲望、性欲、情熱)を通して達成される人生の目的である。これら4つの目的はプルシャールタ(Puruṣārtha)と呼ばれている。 仏教においては、煩悩に縛られていることから解放され、迷いの世界、輪廻などの苦を脱して自由の境地に到達すること。悟ること。 ジャイナ教においては、魂という存在にとって至福の状態である。 「解脱」は、梵: vimokṣaや梵: vimuktiの漢訳である。vimuttiは「自由」という意味である。 vimokṣa は毘木叉、毘目叉と音写し、 vimukti は毘木底と音写する。 釈迦は菩提樹で成道し、輪廻からの解放を達成したとされる。 わが解脱は達成された。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれ変わることはない。 比丘たちよ、このように見て、聖なる言葉を聞く弟子は、色を厭離し、受を厭離し、想を厭離し、サンカーラを厭離し、識を厭離する。 厭離のゆえに貪りを離れる。貪りを離れるゆえに解脱する。解脱すれば「解脱した」という智慧が生じる。 「生は尽きた。梵行は完成した。なされるべきことはなされ、もはや二度と生まれ変わることはない」と了知するのである。 仏教における解脱は、本来は涅槃と共に仏教の実践道の究極の境地を表す言葉であったが、後に様々に分類して用いられるようになった。 相応部ラーダ相応では、比丘ラーダより「解脱は何を目的としているのか?」と問われた釈迦は、「解脱は涅槃を目的としている」と答えている。 仏教における解脱には、次のような分類がある。 火ヴァッチャ経では、釈迦はある沙門より「解脱した比丘はどこかへ生まれ変わるのか? あるいは生まれ変わらないのか?」との問いを受けた。釈迦は、その者に「火が消えた場合、その火はどの方角(東西南北)に消え去ったのか?」と問い返した。「その質問は適切ではありません、火は燃料が尽きたために消えます」との返答を受けた釈迦は、同様に如来というのも(生まれ変わるかどうかとは関係なく)、五蘊(色受想行識)が尽きたために解脱した者であると説いた。
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解脱とは、インド系宗教において、解放、悟り、自由、放免を手に入れた状態を意味する語であり、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シーク教において様々な形で語られる。解脱を果たした者は、解脱者と呼ばれたりする。 もともとは紀元前7世紀前後の古ウパニシャッドで説かれたもので、インド哲学一般に継承されている観念である。解脱はインド発祥の宗教において最高目標とされてきた。 ヒンドゥー教の伝統ではモクシャは中心概念であり、ダルマ(道徳、倫理)、アルタ(富、財産、生計)、カーマ(欲望、性欲、情熱)を通して達成される人生の目的である。これら4つの目的はプルシャールタ(Puruṣārtha)と呼ばれている。 仏教においては、煩悩に縛られていることから解放され、迷いの世界、輪廻などの苦を脱して自由の境地に到達すること。悟ること。 ジャイナ教においては、魂という存在にとって至福の状態である。
{{for|歌舞伎の演目|歌舞伎十八番}} {{Infobox Hindu term | title= 解脱 | en= Deliverance, emancipation, liberation, release | pi= vimutti, mokkha | sa= मोक्ष ({{IAST|mokṣa}}), विमुक्ति ({{IAST|vimukti}}) | ban = ᬫᭀᬓ᭄ᬲ | ban-Latn= moksa | bn = মোক্ষ | bn-Latn = mokkho | gu = મોક્ષ | gu-Latn = mōkṣa | hi = मोक्ष | hi-Latn = moksh | jv = ꦩꦺꦴꦏ꧀ꦱ | jv-Latn = moksa | kn = ಮೋಕ್ಷ | kn-Latn = mōkṣa | ml = മോക്ഷം | ml-Latn = mōkṣaṁ | ne = मोक्ष | ne-Latn = moksh | pa = ਮੋਕਸ਼ | pa-Latn = mōkaśa | or = ମୋକ୍ଷ | or-Latn = mokhya | ta = துறவு-முக்தி-வீடுபேறு-விடுதலை | ta-Latn = tuṟavu-mukti-vīṭupēṟu-viḍutalai | te = మోక్షం | te-Latn = moksham | zn = 解脫 | ja = 解脱 }} [[ファイル:Endlessknot.svg|サムネイル|宝結びの意匠]] '''解脱'''(げだつ、{{lang-sa-short|vimokṣa}}<ref name="日本大百科全書_解脱">{{Kotobank|解脱|日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>, ヴィモークシャ、{{lang|sa|mokṣa}}<ref name="日本大百科全書_解脱" />, モークシャ、{{lang|sa|vimukti}}{{sfn|総合仏教大辞典|1988|pp=324-325}}, ヴィムクティ、{{lang|sa|mukti|}}<ref name="日本大百科全書_解脱" />, ムクティ、{{lang-pi-short|vimokha, vimokkha}}{{refnest|name="水野パーリ_298"|水野弘元『増補改訂パーリ語辞典』春秋社、2013年3月、増補改訂版第4刷、p.298}}, ヴィモッカ、{{lang|pi|mokkha}}{{refnest|name="水野パーリ_262"|水野弘元『増補改訂パーリ語辞典』春秋社、2013年3月、増補改訂版第4刷、p.262}}, モッカ、{{lang|pi|vimutti}}<ref name="日本大百科全書_解脱" />, ヴィムッティ、{{lang|pi|mutti}}, ムッティ)とは、[[インド]]系[[宗教]]において、[[解放]]、[[悟り]]、[[自由]]、[[放免]]を手に入れた状態を意味する語であり、[[ヒンドゥー教]]、[[仏教]]、[[ジャイナ教]]、[[シーク教]]において様々な形で語られる<ref>John Bowker, The Oxford Dictionary of World Religions, Oxford University Press, {{ISBN2|978-0192139658}}, p. 650</ref> 。解脱を果たした者は、'''解脱者'''({{lang-sa-short|vimukta}}、{{lang-pi-short|vimutta}})と呼ばれたりする{{refnest|name="水野パーリ_vimutta"|「'''vimutta''': a. [vimuñcati の pp., ''Sk''. vimukta] 解脱した, 解脱者. -atta 自ら解脱した. -citta 解脱心」水野弘元『増補改訂パーリ語辞典』春秋社、2013年3月、増補改訂版第4刷、p.298}}。 もともとは紀元前7世紀前後の古[[ウパニシャッド]]で説かれたもので、インド哲学一般に継承されている観念である<ref name="コトバンク解脱">{{Kotobank|解脱}}</ref>。解脱は[[インド発祥の宗教]]において最高目標とされてきた<ref name="コトバンク解脱" />。 [[ヒンドゥー教]]の伝統ではモクシャは中心概念であり<ref>John Tomer (2002), Human well-being: a new approach based on overall and ordinary functionings, Review of Social Economy, 60(1), pp 23-45; Quote - "The ultimate aim of Hindus is self-liberation or self-realization (moksha)."</ref>、[[ダルマ (インド発祥の宗教)|ダルマ]](道徳、倫理)、{{仮リンク|アルタ (ヒンドゥー教)|en|Artha|label=アルタ}}(富、財産、生計)、[[カーマ (ヒンドゥー教)|カーマ]](欲望、性欲、情熱)を通して達成される[[人生の意義|人生の目的]]である<ref>See: * A. Sharma (1982), The Puruṣārthas: a study in Hindu axiology, Michigan State University, {{ISBN2|9789993624318}}, pp 9-12; See review by Frank Whaling in Numen, Vol. 31, 1 (Jul., 1984), pp. 140-142; * A. Sharma (1999), [https://www.jstor.org/stable/40018229 The Puruṣārthas: An Axiological Exploration of Hinduism], The Journal of Religious Ethics, Vol. 27, No. 2 (Summer, 1999), pp. 223-256; * Chris Bartley (2001), Encyclopedia of Asian Philosophy, Editor: Oliver Learman, {{ISBN2|0-415-17281-0}}, Routledge, Article on Purushartha, pp 443; * The Hindu Kama Shastra Society (1925), [https://archive.org/stream/kamasutraofvatsy00vatsuoft#page/8/mode/2up The Kama Sutra of Vatsyayana], University of Toronto Archives, pp. 8</ref>。これら4つの目的はプルシャールタ(Puruṣārtha)と呼ばれている<ref>See: * Gavin Flood (1996), The meaning and context of the Purusarthas, in [[Julius Lipner]] (Editor) - The Fruits of Our Desiring, {{ISBN2|978-1896209302}}, pp 11-21; * Karl H. Potter (2002), Presuppositions of India's Philosophies, Motilal Banarsidass, {{ISBN2|978-8120807792}}, pp. 1-29</ref>。 [[仏教]]においては、[[煩悩]]に縛られていることから解放され、迷いの世界、[[輪廻]]などの苦<ref name="日本大百科全書_解脱" /><ref name="世界大百科事典_第2版_解脱">{{Kotobank|解脱|世界大百科事典 第2版}}</ref>を脱して自由の境地に到達すること{{sfn|総合仏教大辞典|1988|pp=324-325}}<ref name="コトバンク解脱" />。[[悟り|悟る]]こと<ref name="コトバンク解脱" />。対義語は繋縛(けばく, {{lang-pi-short|bandhana}}; 結縛)<ref>{{Kotobank|繋縛|ブリタニカ国際大百科事典}}</ref>。 [[ジャイナ教]]においては、[[魂]]という[[存在]]にとって[[至福]]の状態である。 == 原語 == 「解脱」は、{{lang-sa-short|vimokṣa}}や{{lang-sa-short|vimukti}}の[[漢訳]]である{{sfn|総合仏教大辞典|1988|pp=324-325}}<ref name="コトバンク解脱" />。vimuttiは「自由」という意味である<ref>{{Cite |和書|title=テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え |author=[[アルボムッレ・スマナサーラ]] |publisher=Evolving |date=2018 |edition=kindle |p=19 |isbn=978-4804613574}}</ref>。 vimokṣa は毘木叉、毘目叉と[[音写]]し、 vimukti は毘木底と音写する{{sfn|総合仏教大辞典|1988|pp=324-325}}。 == ジャイナ教において == {{Main|解脱 (ジャイナ教)}} == 仏教において == [[釈迦]]は[[ゴータマ・ブッダの菩提樹|菩提樹]]で成道し、輪廻からの解放を達成したとされる。 {{Main|聖求経#成道|釈迦#悟り}} {{Quote| わが解脱は達成された。これが最後の[[生 (仏教)|生まれ]]であり、もはや二度と[[有|生まれ変わる]]ことはない。 | [[聖求経]] }} {{Quote| 比丘たちよ、このように見て、聖なる言葉を聞く弟子は、色を厭離し、受を厭離し、想を厭離し、サンカーラを厭離し、識を厭離する。<br> 厭離のゆえに貪りを離れる。貪りを離れるゆえに解脱する。解脱すれば「解脱した」という智慧が生じる。<br> 「生は尽きた。梵行は完成した。なされるべきことはなされ、もはや二度と生まれ変わることはない」と了知するのである。 | [[初転法輪]] <ref>{{SLTP|[[律蔵 (パーリ)|律蔵]]犍度, 大犍度, 38 Mahakkhandhakaṃ}}</ref> }} 仏教における解脱は、本来は[[涅槃]]と共に仏教の実践道の究極の境地を表す言葉であったが、後に様々に分類して用いられるようになった{{sfn|総合仏教大辞典|1988|pp=324-325}}。 [[相応部]][[ラーダ相応]]では、比丘ラーダより「解脱は何を目的としているのか?」と問われた釈迦は、「解脱は[[涅槃]]を目的としている」と答えている<ref>{{SLTP|[[相応部]]蘊篇[[ラーダ相応]]}}</ref>。 === 分類 === {{節スタブ}} 仏教における解脱には、次のような分類がある{{sfn|総合仏教大辞典|1988|pp=324-325}}。 * [[有為法|有為]]解脱と[[無為法|無為]]解脱 * 性浄解脱と障尽解脱 * 心解脱と[[慧]]解脱 * 慧解脱と倶解脱 * 時解脱と不時解脱 === 仏典における記載=== [[火ヴァッチャ経]]では、釈迦はある[[沙門]]より「解脱した比丘はどこかへ生まれ変わるのか? あるいは生まれ変わらないのか?」との問いを受けた。釈迦は、その者に「火が消えた場合、その火はどの方角(東西南北)に消え去ったのか?」と問い返した。「その質問は適切ではありません、火は燃料が尽きたために消えます」との返答を受けた釈迦は、同様に如来というのも(生まれ変わるかどうかとは関係なく)、[[五蘊]](色受想行識)が尽きたために解脱した者であると説いた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!-- === 注釈 === {{notelist}}--> === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=総合仏教大辞典編集委員会(編) |date=1988-01 |title=総合仏教大辞典 |edition= |publisher=法蔵館 |volume=上巻 |ref={{SfnRef|総合仏教大辞典|1988}} }} == 関連項目 == * [[解脱への道]] * [[人生の意義]] * [[菩提]] * [[正覚]] * [[涅槃]] * [[輪廻]] * [[デタッチメント]] {{Buddhism2}} {{Jainism Topics}} {{Hinduism2}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:けたつ}} [[Category:仏教用語]] [[Category:ジャイナ教]] [[Category:ヒンドゥー教]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A3%E8%84%B1
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SOMETHING DREAMS マルチメディアカウントダウン
『SOMETHING DREAMS マルチメディアカウントダウン』(サムシング・ドリームズ マルチメディアカウントダウン)は、1995年4月15日から2002年10月5日まで文化放送をキーステーションに北日本放送、北陸放送、ラジオ関西、RKBラジオで放送されていたアニラジ。HBCラジオにもネットされていた時期がある。放送時間は文化放送で土曜23:00 - 24:00。文化放送、RKBラジオ以外は30分の短縮版で放送された。通称ドリカン。 アニメ、ゲーム、声優の曲に限定してリスナーからのリクエストを募るランキング番組であった。1995年度よりこれまで金曜深夜に編成されていた「アニメ・ゲームゾーン」を土曜深夜に拡大する事に際し、土曜枠の中心番組としてリクエストランキングの他当初はマルチメディア・アニメ・ゲームの最新情報も伝えるとした。 放送開始当初のパーソナリティは冨永と椎名の2名体制であったが、当時コンサートツアーを多くこなしていた関係で椎名が番組を欠席することが増えた影響もあり、1998年10月に降板。代わって番組内グループである「ドリカンクラブ」のメンバーであった田村と堀江の2名がアシスタントに加わった。その後、冨永も番組を一時休業後、2002年3月に降板。最終的に田村と堀江の2名体制になったが、同年10月5日をもって放送終了、ランキング発表など番組の基本コンセプトを踏襲した『A&Gメディアステーション こむちゃっとカウントダウン』へと引き継がれた。 番組の構成は前半が週替わりの企画コーナー(リスナーからのお便り紹介など)で、後半がメインであるランキングの発表に充てられた。番組開始から1年後の1996年4月からは、文化放送アナウンサーの斉藤一美の進行で冨永と椎名が対決するコーナー「姉妹でニャパニャパ」が1か月に1回のペースで放送されていた。しかし、進行役だった斉藤がスポーツ実況に転向する事になり同コーナーは1997年3月いっぱいで終了。翌4月からはその後継コーナーとして当時文化放送アナウンサーだった藤木千穂の進行による「ドリカン通信」がスタートした。こちらは冨永と椎名は登場せず、藤木がドリカンクラブのメンバーを数人呼んでいろんなお題でトークを展開したり、番組からお勧めの新作アニメ・ゲーム・コミックの情報を紹介するというものであった。このコーナーは1か月に1 - 2回の放送であり、椎名の降板直前だった1998年9月まで不定期に放送された。 このほか、リスナー同士がドリカンにまつわる曲のイントロクイズで対決する企画や、冨永と田村と堀江が好きな数字を決め、その数字をリスナーが当てる企画も放送されたことがあった。また、一時期番組のスポンサーにオリコンが入っていたため、『オリコン ウィーク The Ichiban』(後に『オリ★スタ』に改題し休刊)誌にランキングが掲載されており、パーソナリティによる「キュートにドリカン」というコラムも連載されていた。なお番組後期から終了時まで番組ジングルをTWO-MIXが担当していた。 放送初年度の1995年のクリスマスシーズンには冨永と椎名、文化放送アナウンサーの長谷川のび太の3人がパーソナリティを務めた特別番組を放送した他、放送5周年となった2000年には東京の代々木第一体育館で公開録音を行ったこともあった。 文化放送オンエア分は生放送だと思われていたが、最終回にて田村が「(本当は)木曜日でした」と収録であったことをほのめかす発言をしていた。これに対し構成作家の伊福部崇が「ドリカンはずーっと木曜日だったんです」と後に語っている。 当初は6 - 10位はサビの一部分、4・5位は1番、2・3位は1・2番、1位のみフルコーラスの放送で楽曲部分とトーク部分はほぼ半々。トークコーナーでは「ボケ耳ダンボ」や「どーしてもききたい〜」などの複数の人気コーナーが週代わりで放送されていた。後にリスナーからの「下位の曲ももっと長く聞きたい」という投稿から、スペシャル版としてトーク部分を大幅にカットして6 - 10位は1番、4・5位は1・2番、1 - 3位はフルコーラスの放送という形式を採用。それが好評だったためにスペシャル版、月一度と放送頻度が高くなり、冨永みーな休養以降はトーク部分がほとんど無い、この形式での放送に移行した。 本番組のパーソナリティの妹分として、応募数3482人の中から15人が選ばれた、若手の女性声優志望者からなる声優グループ。 冨永の降板後、田村と堀江はメインパーソナリティに昇格した。またメンバーの1人であった生天目仁美は、本グループ活動休止後、暫くは劇団を中心に活動していたが、後に声優として知名度を上げた。 年間ランキング(番組では『ドリカン年間ベストテン』と呼称)は、原則として12月最終週(最終週が特別企画・特番の場合はその前週)に放送。1月第1週から年間ランキング発表前週までの各週ランキングを集計対象とし、ランクインした曲に対して毎週のランキングに応じて1位100ポイント、2位90ポイント、以下順位が1つ下がるごとに10ポイント減算、10位には10ポイントを与える計算方式で年間順位を決定していた。 以下に各年の年間ランキング(1位 - 5位)を記載する。なお、2002年度については番組終了1週前の9月28日発表分が番組最後の週間ランキング発表となっているが、年間ランキングは次番組『A&Gメディアステーション こむちゃっとカウントダウン』放送第1回目以降のランキングデータを加えた上で集計され、こむちゃっとカウントダウンの公式記録として扱われている。しかし、同番組開始後にランクインしたSee-Sawの「あんなに一緒だったのに」は本来であれば年間6位の成績であるが、なぜか除外されている。
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『SOMETHING DREAMS マルチメディアカウントダウン』は、1995年4月15日から2002年10月5日まで文化放送をキーステーションに北日本放送、北陸放送、ラジオ関西、RKBラジオで放送されていたアニラジ。HBCラジオにもネットされていた時期がある。放送時間は文化放送で土曜23:00 - 24:00。文化放送、RKBラジオ以外は30分の短縮版で放送された。通称ドリカン。
{{出典の明記|date=2013年4月23日 (火) 08:45 (UTC)}} {{JIS2004|説明=[[ハート (シンボル)|ハートマーク]]}} {{Infobox animanga/Header |タイトル= SOMETHING DREAMS マルチメディアカウントダウン |画像= |サイズ= |説明= |ジャンル= }} {{Infobox animanga/Radio |タイトル= |愛称= ドリカン |放送開始= [[1995年]][[4月15日]] |放送終了= [[2002年]][[10月5日]] |放送局= [[文化放送]] |放送時間= 毎週[[土曜日]] 23:00 - 24:00 |放送回数= |放送形式= [[収録]] |スタジオ= |ネット局= [[北日本放送]] <br/> [[北陸放送]] <br/> [[ラジオ関西]] <br/> [[RKBラジオ]] |ネットワーク= |パーソナリティ= [[冨永みーな]](-2002年3月) <br/> [[椎名へきる]](-1998年10月) <br/> [[田村ゆかり]](2002年3月-)<ref name="メインパーソナリティとして" /> <br/> [[堀江由衣]](2002年3月-)<ref name="メインパーソナリティとして" /> |DJ= |アシスタント= |構成作家= [[今村良樹]](初代)<ref name="アニソン黄金伝説" /> <br/> [[伊福部崇]](二代目)<ref name="アニソン黄金伝説" /> |ディレクター= 白石仁司(初代)<ref name="アニソン黄金伝説" /> <br/>[[古谷光男]](二代目) |プロデューサー= |ミキサー= |脚本= |演出= |その他のスタッフ= |提供= |その他= |インターネット= }} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト= |ウィキポータル= }} 『'''SOMETHING DREAMS マルチメディアカウントダウン'''』(サムシング・ドリームズ マルチメディアカウントダウン)は、[[1995年]][[4月15日]]から[[2002年]][[10月5日]]まで[[文化放送]]をキーステーションに[[北日本放送]]、[[北陸放送]]、[[ラジオ関西]]、[[RKBラジオ]]で放送されていた[[アニラジ]]。[[HBCラジオ]]にもネットされていた時期がある。放送時間は文化放送で土曜23:00 - 24:00。文化放送、RKBラジオ以外は30分の短縮版で放送された。通称'''ドリカン'''。 == パーソナリティ == ; 番組終了時点 * [[田村ゆかり]](1998年10月10日 - 番組終了) * [[堀江由衣]](1998年10月10日 - 番組終了) ; 過去の出演者 * [[冨永みーな]](番組開始 - 2002年3月16日) * [[椎名へきる]](番組開始 - 1998年10月3日) == 概要 == [[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]、[[ゲーム]]、[[声優]]の曲に限定してリスナーからのリクエストを募るランキング番組であった。1995年度よりこれまで金曜深夜に編成されていた「アニメ・ゲームゾーン」を土曜深夜に拡大する事に際し、土曜枠の中心番組としてリクエストランキングの他当初はマルチメディア・アニメ・ゲームの最新情報も伝えるとした<ref name="アニソン黄金伝説" />。 放送開始当初の[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]は冨永と椎名の2名体制であったが、当時コンサートツアーを多くこなしていた関係で椎名が番組を欠席することが増えた影響もあり、[[1998年]]10月に降板。代わって番組内グループである「ドリカンクラブ」のメンバーであった田村と堀江の2名がアシスタントに加わった。その後、冨永も番組を一時休業後、[[2002年]]3月に降板。最終的に田村と堀江の2名体制になったが、同年10月5日をもって放送終了、ランキング発表など番組の基本コンセプトを踏襲した『[[A&Gメディアステーション こむちゃっとカウントダウン]]』へと引き継がれた。 番組の構成は前半が週替わりの企画コーナー(リスナーからのお便り紹介など)で、後半がメインであるランキングの発表に充てられた。番組開始から1年後の1996年4月からは、文化放送アナウンサーの[[斉藤一美]]の進行で冨永と椎名が対決するコーナー「姉妹でニャパニャパ」が1か月に1回のペースで放送されていた。しかし、進行役だった斉藤がスポーツ実況に転向する事になり同コーナーは1997年3月いっぱいで終了。翌4月からはその後継コーナーとして当時文化放送アナウンサーだった[[藤木千穂]]の進行による「ドリカン通信」がスタートした。こちらは冨永と椎名は登場せず、藤木がドリカンクラブのメンバーを数人呼んでいろんなお題でトークを展開したり、番組からお勧めの新作アニメ・ゲーム・コミックの情報を紹介するというものであった。このコーナーは1か月に1 - 2回の放送であり、椎名の降板直前だった1998年9月まで不定期に放送された。 このほか、リスナー同士がドリカンにまつわる曲のイントロクイズで対決する企画や、冨永と田村と堀江が好きな数字を決め、その数字をリスナーが当てる企画も放送されたことがあった。また、一時期番組のスポンサーに[[オリコン]]が入っていたため、『[[オリコン・エンタテインメント#オリ★スタ|オリコン ウィーク The Ichiban]]』(後に『オリ★スタ』に改題し休刊)誌にランキングが掲載されており、パーソナリティによる「キュートにドリカン」というコラムも連載されていた。なお番組後期から終了時まで番組ジングルを[[TWO-MIX]]が担当していた。 放送初年度の1995年のクリスマスシーズンには冨永と椎名、文化放送アナウンサーの[[長谷川太|長谷川のび太]]の3人がパーソナリティを務めた特別番組を放送した他、放送5周年となった2000年には東京の[[国立代々木競技場|代々木第一体育館]]で公開録音を行ったこともあった。 == 放送形態 == 文化放送オンエア分は[[生放送]]だと思われていたが、最終回にて田村が「(本当は)[[木曜日]]でした」と[[収録]]であったことをほのめかす発言をしていた。これに対し[[構成作家]]の[[伊福部崇]]が「ドリカンはずーっと木曜日だったんです」と後に語っている<ref name="アニソン黄金伝説" />。 当初は6 - 10位はサビの一部分、4・5位は1番、2・3位は1・2番、1位のみフルコーラスの放送で楽曲部分とトーク部分はほぼ半々。トークコーナーでは「ボケ耳ダンボ」や「どーしてもききたい〜」などの複数の人気コーナーが週代わりで放送されていた。後にリスナーからの「下位の曲ももっと長く聞きたい」という投稿から、スペシャル版としてトーク部分を大幅にカットして6 - 10位は1番、4・5位は1・2番、1 - 3位はフルコーラスの放送という形式を採用。それが好評だったためにスペシャル版、月一度と放送頻度が高くなり、冨永みーな休養以降はトーク部分がほとんど無い、この形式での放送に移行した。<ref>年間ランキング発表時はほとんどの年で2週に亘る特別放送になり、1週目で50位から11位、2週目で10位から1位の発表を行っていた。2週目の10位から1位はフルコーラスでのオンエアであった。</ref> == ドリカンクラブ == 本番組のパーソナリティの妹分として、応募数3482人の中から15人が選ばれた、若手の女性[[声優]]志望者からなる声優グループ<ref name="アニソン黄金伝説" />。 冨永の降板後、田村と堀江はメインパーソナリティに昇格した。またメンバーの1人であった[[生天目仁美]]は、本グループ活動休止後、暫くは劇団を中心に活動していたが、後に声優として知名度を上げた。 <!--現在の名義のみでお願いします。--> {{Div col|3}} *[[田村ゆかり]] *[[生天目仁美]] *[[堀江由衣]] *[[浅川悠]] *[[吉住梢]] *[[たなか久美]] *[[中原新]] *吉田智美 *小野まゆみ *朝倉梨奈 *河内智子 *湯沢愛未 *中村沙樹 *木瀬明子 *與座彩乃 {{Div col end}} == 主要記録 == * 連続1位 「[[RHYTHM EMOTION]]」 TWO-MIX 12回(95年12月2日 - 96年3月2日)<ref name=":0">95年12月23日と30日は週間ランキングの発表は無かったため、番組ではこの2週分を公式記録に加えていない。</ref> * 連続ランクイン 「[[残酷な天使のテーゼ]]」 [[高橋洋子 (歌手)|高橋洋子]] 27回(95年10月14日 - 96年4月27日)<ref name=":0" /> * 最多1位獲得(曲数) [[林原めぐみ]] 20曲<ref>キャラクター名義1曲、デュエット曲2曲を含む。以下同様。</ref> * 最多1位獲得(週数) 林原めぐみ 81週 * 最多ランクイン(曲数) [[椎名へきる]] 26曲<ref>デュエット曲1曲を含む。</ref> * 最多ランクイン(週数) 林原めぐみ 285週 * 最多最高2位獲得歌手 [[奥井雅美]]、[[國府田マリ子]] 各7曲 * 歴代ランキング1位 「残酷な天使のテーゼ」 高橋洋子 == 年間ランキング == 年間ランキング(番組では『ドリカン年間ベストテン』と呼称)は、原則として12月最終週(最終週が特別企画・特番の場合はその前週)に放送。1月第1週から年間ランキング発表前週まで<ref>次番組のこむちゃと違い、年間ランキング発表週における週間ランキングの集計・発表は行われなかった。</ref>の各週ランキングを集計対象とし、ランクインした曲に対して毎週のランキングに応じて1位100ポイント、2位90ポイント、以下順位が1つ下がるごとに10ポイント減算、10位には10ポイントを与える計算方式で年間順位を決定していた<ref>毎回、年間ランキング発表前にパーソナリティより集計方法についての説明があった。なお、集計されたポイントが同点となった場合でも同一順位とはせず、週間ランキングの最高位が高い方を上位とし、それも同じだった場合はベストテン登場回数の多い方を上位とした。</ref>。 以下に各年の年間ランキング(1位 - 5位)を記載する。なお、2002年度については番組終了1週前の9月28日発表分が番組最後の週間ランキング発表<ref>10月5日の最終回は放送7年間のランキングを集計した歴代ベストテンを発表。</ref>となっているが、年間ランキングは次番組『[[A&Gメディアステーション こむちゃっとカウントダウン]]』放送第1回目以降のランキングデータを加えた上で集計され、こむちゃっとカウントダウンの公式記録として扱われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.joqr.co.jp/comcha/next/post_854.php|title=こむちゃ年間ベストヒット10|accessdate=2020-05-06|publisher=文化放送}}</ref>。しかし、同番組開始後にランクインした[[See-Saw]]の「[[あんなに一緒だったのに]]」は本来であれば年間6位の成績であるが、なぜか除外されている。 {| class="wikitable" |- !年度 !第1位 !第2位 !第3位 !第4位 !第5位 |- !1995年 |[[JUST COMMUNICATION]]<br/>([[TWO-MIX]]) |[[MIDNIGHT BLUE (林原めぐみの曲)|MIDNIGHT BLUE]]<br/>([[林原めぐみ]]) |[[残酷な天使のテーゼ]]<br/>([[高橋洋子 (歌手)|高橋洋子]]) |[[みみかきをしていると]]<br/>([[國府田マリ子]]) |[[What's Up Guys?]]<br/>([[古本新之輔]]・林原めぐみ) |- !1996年 |[[Give a reason]]<br/>(林原めぐみ) |[[Just be conscious]]<br/>(林原めぐみ) |[[LOVE REVOLUTION]]<br/>(TWO-MIX) |[[RHYTHM EMOTION]]<br/>(TWO-MIX) |[[Successful Mission]]<br/>(林原めぐみ) |- !1997年 |[[魂のルフラン]]<br/>(高橋洋子) |終わらないメモリー<br/>([[藤崎詩織]]) |[[WHITE REFLECTION]]<br/>(TWO-MIX) |色褪せない瞬間<br/>([[椎名へきる]]) |[[don't be discouraged]]<br/>(林原めぐみ) |- !1998年 |[[〜infinity〜∞]]<br/>(林原めぐみ) |[[Looking For]]<br/>(國府田マリ子) |[[A HOUSE CAT]]<br/>(林原めぐみ) |Believe<br/>([[桑島法子]]) |[[LAST IMPRESSION]]<br/>(TWO-MIX) |- !1999年 |[[question at me]]<br/>(林原めぐみ) |[[WILL (米倉千尋の曲)|WILL]]<br/>([[米倉千尋]]) |[[Key (奥井雅美の曲)|Key]]<br/>([[奥井雅美]]) |赤い華<br/>(椎名へきる) |[[BODY MAKES STREAM]]<br/>(TWO-MIX) |- !2000年 |ADVENTURE<br/>([[野田順子]]) |[[未来からのエアメール]]<br/>([[丹下桜]]) |[[しっぽのうた]]<br/>([[坂本真綾]]) |[[サクラサク (林原めぐみの曲)|サクラサク]]<br/>(林原めぐみ) |[[指輪 (坂本真綾の曲)|指輪]]<br/>(坂本真綾) |- !2001年 |[[Love Destiny]]<br/>([[堀江由衣]]) |[[マメシバ]]<br/>(坂本真綾) |LOVE Graduation<br/>(椎名へきる) |Be My Angel<br/>([[榎本温子]]) |Reckless fire<br/>([[井出泰彰]]) |- !2002年 |[[POWER GATE]]<br/>([[水樹奈々]]) |[[ヘミソフィア]]<br/>(坂本真綾) |[[Love♡parade]]<br/>([[田村ゆかり]]) |[[Northern lights]]<br/>(林原めぐみ) |[[ALL MY LOVE (堀江由衣の曲)| ALL MY LOVE]]<br/>(堀江由衣) |} == 脚注 == {{Reflist|refs= <ref name="メインパーソナリティとして">メインパーソナリティとして</ref> <ref name="アニソン黄金伝説">ドリカンからこむちゃへ アニソン黄金伝説!!</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=アニソン黄金伝説制作委員会|title=ドリカンからこむちゃへ アニソン黄金伝説!!|date=2012-03-10|publisher=扶桑社|isbn=978-4-594-06568-3}} == 外部リンク == * {{Cite web|和書|url=http://www.joqr.co.jp/dorican/|title=SOMETHING DREAMS マルチメディアカウントダウン|deadlinkdate=2020年5月|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070927210556/http://www.joqr.co.jp/dorican/|archivedate=2007-09-27}} - 過去のランキングが掲載されていた。最終回では番組歴代ランキングが掲載された。 * {{Cite web|和書|url=http://www.joqr.co.jp/htmls/chart2.html|title=SOMETHING DREAMS マルチメディアカウントダウン 旧ホームページ|archiveurl=https://web.archive.org/web/19961108052314/http://www.joqr.co.jp/htmls/chart2.html|archivedate=1996-11-08|accessdate=2021-01-04}} * {{Cite web|和書|url=http://dorikan.hoops.ne.jp/|title=SOMETHING DREAMS マルチメディアカウントダウン 私設ホームページ|archiveurl=https://web.archive.org/web/20001211011400/http://dorikan.hoops.ne.jp/ |archivedate=2000-12-11|accessdate=2021-01-04}} *[https://web.archive.org/web/20010428234046/http://member.nifty.ne.jp/kaz_mark/drcd/ SOMETHING DREAMS~マルチメディアカウントダウンのページ] *[https://web.archive.org/web/20070302160301/http://homepage3.nifty.com/1986/index.htm あなたが選ぶドリカン歴代ベスト10] {{前後番組 |放送局= [[文化放送]]| |放送枠= 土曜23:00 - 24:00枠 |番組名= SOMETHING DREAMS<br />マルチメディアカウントダウン |前番組= [[大学受験ラジオ講座]]<br />生ワイド「Jランド」<br>(23:00 - 26:00) |次番組= [[A&Gメディアステーション こむちゃっとカウントダウン|A&Gメディアステーション<br />こむちゃっとカウントダウン]]|}} {{堀江由衣}} {{田村ゆかり}} {{DEFAULTSORT:さむしんくとりいむすまるちめてああかうんとたうん}} [[Category:文化放送A&Gゾーン]] [[Category:文化放送の深夜ラジオ番組]] [[Category:文化放送の音楽番組の歴史]] [[Category:アニメソングのラジオ番組]] [[Category:音楽ランキング番組 (ラジオ)]] [[Category:1995年のラジオ番組 (日本)]] [[Category:マルチメディア]] [[Category:リクエスト番組]]
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Adobe Illustrator
Adobe Illustrator(アドビ イラストレーター)は、アドビが販売するベクターイメージ編集ソフトウェア(ドローソフト)である。 イラスト制作は勿論のこと、ロゴタイプや図面、広告、パッケージなどをデザインする描画ツールソフトとして、印刷業界などあらゆる分野で使用されている。特にDTP業界においては印刷物(チラシや小冊子)制作ソフトとしてはデファクトスタンダードとなっていて、デザイナーはAdobe Photoshopと併せて使用する場合も多い。また、プラグインを追加することで、CADや3DCG機能などを拡張することもできるので、様々な分野のクリエイターが使用している。 タブレットやスマートフォン向けには、Adobe Illustrator Drawという簡易アプリを出しており、このアプリを使って描画したものをパソコンへ転送することができる(逆は不可)。2020年、iPadOS版Illustratorがリリースされた。 もとはアドビ社内用のフォント制作・PostScript編集ソフトウェアであったが、1986年12月にMacintosh版が一般向けに開発され、1987年1月に出荷された。 1988年、多くの新しい機能を導入したIllustrator 88(バージョン 1.6)がリリースされた。日本語版も発売されたが、88としての記述はなかった。 1989年バージョン 2.0 Windows版をリリース。 1990年バージョン 3.0 Macintosh版リリース。 1992年バージョン 4.0 Windows 版をリリース。しかし、定番のCorelDRAWの影に潜む結果になった。 1993年バージョン 5.0 Macintosh版リリース。 1994年バージョン 5.5 Macintosh版リリース。 1996年バージョン 6.0 Macintosh版リリース(日本語版未リリース)。 1997年バージョン 7.0リリース。Macintosh版、Windows版両方が販売された。 1998年バージョン 8.0リリース。アンチエイリアス採用。 2000年バージョン 9.0をリリース。アピアランスの要素や透明など効果の機能が付き大幅にパワーアップした。 2001年バージョン 10.0をリリース。このバージョンのMacintosh版はシリーズ中で唯一、Mac OS 9とMac OS Xの双方に対応している。 2003年10月、CS(バージョン 11)をリリース。テキストエンジンの刷新が行われ、PostScriptによる3Dモデリング機能が追加された。このバージョン以降のMacintosh版はMac OS X専用となった。 2005年4月、CS2(バージョン 12)をリリース。ビットマップ画像をベクトル画像に変換する「ライブトレース」機能などが追加された。このバージョンから不正利用を防止する目的でアクティベーション(認証)が導入された。 2007年4月、CS3(バージョン 13)をリリース。「ライブカラー」や「消しゴムツール」、アンカーポイントを強調表示する機能などが追加された。 2008年10月、CS4(バージョン 14)をリリース。複数のアートボード、タブウィンドウが使えるようになった。NPO法人カラーユニバーサルデザイン機構の協力の下でphotoshop と同時に校正メニューの中に色覚シミュレーションツールを標準搭載した。 2010年5月、CS5(バージョン 15)をリリース。「遠近グリッド」や「絵筆ブラシ」などの機能を追加した。 2012年4月23日、CS6(バージョン 16)をリリース。64ビットに対応、線にグラデーションが付けられるようになった。他にもユーザーインターフェース、レイヤーパネル、RGBコードなどが新しくなっている。 互換性を犠牲にし、システムの根幹から構造が見直され数々の基礎的で重要なツールが改善しているが、InDesignでは既に数バージョン前から実現しているバックアップ機能がないなど前時代的な設計も未だに数多く見受けられる。 アドビ社の新戦略であるAdobe Creative Cloudの導入に伴い、Illustrator CCがリリースされた。バージョン17にあたるCCは、他のCreative Suiteに属していたソフト群と同様、サブスクリプションによるサービスモデルのみよって販売されるようになった初めてのバージョンである。カラーやフォント、プログラムの設定の同期、クラウドへのドキュメント保存、Behanceとの連携を始めとして、タッチ入力に対応したTouch Type Toolの導入、イメージを利用したブラシ、CSS書き出し、ファイルのパッケージングなどが新たに実装された。 2023年10月10日、v 28.0 をリリース。同年3月からオープンβテストを行っていた生成AI機能をベータ版として搭載。複数言語によるテキストプロンプトから、ベクターグラフィックやパターンを作成する機能が追加された。 バージョン1からバージョン10まではベットマン・アーカイブ(英語版)のサンドロ・ボッティチェッリ「ヴィーナスの誕生」をモチーフにパッケージデザインとソフト起動時の画面がデザインされていた。 アドビの共同設立者であるジョン・ワーノックによると、ルネサンスのイメージがPostScriptによる出版の再生(ルネサンス)と重なることを意図していたという。最初期のIllustratorのマーケティングの責任者Luanne Seymour Cohenは、ビーナスの流れるような髪の房が、なめらかな曲線を描けるというIllustratorの強みを表現する格好のモチーフであると考えた。バージョンが上がるにつれ、新バージョンで実装された機能を反映した新たなビーナスがパッケージとスプラッシュスクリーンに採用された。 CS1(11)でビーナスのモチーフは廃止され花の図案に一新され、これはその次のCS2(12)まで続いた(イースターエッグにより表示させることもできたが、この機能もCS6で廃止された)。これは新しいCreative Suiteという横並びのソフトウェア群で共通の「自然」をモチーフにしたブランディングの一環である。 その後にリリースされたCS3(13)ではまたしてもアドビはブランディングの方向性を変え、シンプルな一色のボックスに二文字に短縮されたソフトウェア名が書かれるようになった。Illustratorの場合はやや例外的にAdobe Illustratorの略であるAiである(他の姉妹ソフト、例えばPhotoshopはPs,InDesignはIdとなっている)。これは元素記号や周期律表に似せている。ボックスの色はバージョン4.0からの伝統的なカラースキームであるオレンジに白字でAi。CS4でのアイコンはほとんどCS3のものと同一であるが、字形にわずかな変更が加えられており、また文字の色がダークグレイとなっている。CS5のアイコンもほぼ同じだが、3次元的な箱状の図案の上にそれよりも明るいオレンジの文字。CS6では縁取りがなされた。 2005年にAdobeに買収されたために開発停止になったMacromedia FreeHand、Windows 定番のドローツールでAI形式にも対応しているCorelDRAW、Photoshopのような機能も併せ持ったCanvas、Illustratorのオブジェクト等を保持出来るAffinity Designer、フリーソフトのInkscapeがある。 InkscapeのネイティブのフォーマットであるSVGはIllustratorで読み書きできるが、これら2つのソフトの互換性は100%ではない。Inkscapeではアドビ社の開発したPS、EPS、そしてPDFで書き出せるが、これらもまたIllustratorで読み書きできる。 Illustratorは、プラグインソフトの活用により機能性を向上させることができる。
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"2003年10月、CS(バージョン 11)をリリース。テキストエンジンの刷新が行われ、PostScriptによる3Dモデリング機能が追加された。このバージョン以降のMacintosh版はMac OS X専用となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2005年4月、CS2(バージョン 12)をリリース。ビットマップ画像をベクトル画像に変換する「ライブトレース」機能などが追加された。このバージョンから不正利用を防止する目的でアクティベーション(認証)が導入された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2007年4月、CS3(バージョン 13)をリリース。「ライブカラー」や「消しゴムツール」、アンカーポイントを強調表示する機能などが追加された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2008年10月、CS4(バージョン 14)をリリース。複数のアートボード、タブウィンドウが使えるようになった。NPO法人カラーユニバーサルデザイン機構の協力の下でphotoshop と同時に校正メニューの中に色覚シミュレーションツールを標準搭載した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2010年5月、CS5(バージョン 15)をリリース。「遠近グリッド」や「絵筆ブラシ」などの機能を追加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2012年4月23日、CS6(バージョン 16)をリリース。64ビットに対応、線にグラデーションが付けられるようになった。他にもユーザーインターフェース、レイヤーパネル、RGBコードなどが新しくなっている。 互換性を犠牲にし、システムの根幹から構造が見直され数々の基礎的で重要なツールが改善しているが、InDesignでは既に数バージョン前から実現しているバックアップ機能がないなど前時代的な設計も未だに数多く見受けられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "アドビ社の新戦略であるAdobe Creative Cloudの導入に伴い、Illustrator CCがリリースされた。バージョン17にあたるCCは、他のCreative Suiteに属していたソフト群と同様、サブスクリプションによるサービスモデルのみよって販売されるようになった初めてのバージョンである。カラーやフォント、プログラムの設定の同期、クラウドへのドキュメント保存、Behanceとの連携を始めとして、タッチ入力に対応したTouch Type Toolの導入、イメージを利用したブラシ、CSS書き出し、ファイルのパッケージングなどが新たに実装された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2023年10月10日、v 28.0 をリリース。同年3月からオープンβテストを行っていた生成AI機能をベータ版として搭載。複数言語によるテキストプロンプトから、ベクターグラフィックやパターンを作成する機能が追加された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "バージョン1からバージョン10まではベットマン・アーカイブ(英語版)のサンドロ・ボッティチェッリ「ヴィーナスの誕生」をモチーフにパッケージデザインとソフト起動時の画面がデザインされていた。 アドビの共同設立者であるジョン・ワーノックによると、ルネサンスのイメージがPostScriptによる出版の再生(ルネサンス)と重なることを意図していたという。最初期のIllustratorのマーケティングの責任者Luanne Seymour Cohenは、ビーナスの流れるような髪の房が、なめらかな曲線を描けるというIllustratorの強みを表現する格好のモチーフであると考えた。バージョンが上がるにつれ、新バージョンで実装された機能を反映した新たなビーナスがパッケージとスプラッシュスクリーンに採用された。", "title": "ブランディング" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "CS1(11)でビーナスのモチーフは廃止され花の図案に一新され、これはその次のCS2(12)まで続いた(イースターエッグにより表示させることもできたが、この機能もCS6で廃止された)。これは新しいCreative Suiteという横並びのソフトウェア群で共通の「自然」をモチーフにしたブランディングの一環である。 その後にリリースされたCS3(13)ではまたしてもアドビはブランディングの方向性を変え、シンプルな一色のボックスに二文字に短縮されたソフトウェア名が書かれるようになった。Illustratorの場合はやや例外的にAdobe Illustratorの略であるAiである(他の姉妹ソフト、例えばPhotoshopはPs,InDesignはIdとなっている)。これは元素記号や周期律表に似せている。ボックスの色はバージョン4.0からの伝統的なカラースキームであるオレンジに白字でAi。CS4でのアイコンはほとんどCS3のものと同一であるが、字形にわずかな変更が加えられており、また文字の色がダークグレイとなっている。CS5のアイコンもほぼ同じだが、3次元的な箱状の図案の上にそれよりも明るいオレンジの文字。CS6では縁取りがなされた。", "title": "ブランディング" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2005年にAdobeに買収されたために開発停止になったMacromedia FreeHand、Windows 定番のドローツールでAI形式にも対応しているCorelDRAW、Photoshopのような機能も併せ持ったCanvas、Illustratorのオブジェクト等を保持出来るAffinity Designer、フリーソフトのInkscapeがある。 InkscapeのネイティブのフォーマットであるSVGはIllustratorで読み書きできるが、これら2つのソフトの互換性は100%ではない。Inkscapeではアドビ社の開発したPS、EPS、そしてPDFで書き出せるが、これらもまたIllustratorで読み書きできる。", "title": "類似ソフトと互換性" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "Illustratorは、プラグインソフトの活用により機能性を向上させることができる。", "title": "プラグイン" } ]
Adobe Illustratorは、アドビが販売するベクターイメージ編集ソフトウェア(ドローソフト)である。
{{Infobox Software | 名称 = Adobe Illustrator CC | ロゴ = [[File:Adobe Illustrator CC icon.svg|64px|Adobe Illustrator CC Icon]] | スクリーンショット = | 説明文 = | 開発元 = [[アドビ]] | 最新版 = 28.1 | latest release date = {{release date|2023|12|12}} | programming language = [[C++]] | 対応OS = [[macOS]], [[Microsoft Windows|Windows]] | 種別 = [[ドローソフト]] | ライセンス = [[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]] | 公式サイト = [https://www.adobe.com/jp/products/illustrator.html Adobe Illustrator]| }} '''Adobe Illustrator'''(アドビ イラストレーター)は、[[アドビ]]が販売する[[ベクターイメージ]]編集[[ソフトウェア]]([[ドローソフト]])である。 == 概要 == [[イラスト]]制作は勿論のこと、[[ロゴタイプ]]や[[図面]]、[[広告]]、[[包装|パッケージ]]などを[[デザイン]]する描画ツールソフトとして、印刷業界などあらゆる分野で使用されている。特に[[DTP]]業界においては印刷物(チラシや小冊子)制作ソフトとしては[[デファクトスタンダード]]となっていて、[[デザイナー]]は[[Adobe Photoshop]]と併せて使用する場合も多い。また、[[プラグイン]]を追加することで、[[CAD]]や[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]機能などを拡張することもできるので、様々な分野の[[クリエイター]]が使用している。 タブレットやスマートフォン向けには、Adobe Illustrator Drawという簡易アプリを出しており、このアプリを使って描画したものをパソコンへ転送することができる(逆は不可)。2020年、[[iPadOS]]版Illustratorがリリースされた<ref>{{Cite web|和書|title=Adobe、iPad版「Photoshop」「Illustrator」正式発表 その独自機能とは?|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1911/04/news019_2.html|website=ITmedia NEWS|accessdate=2019-11-06|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=Adobe、iPad版のIllustratorを10月21日リリース |url=https://iphone-mania.jp/news-313508/ |website=iPhone Mania |access-date=2023-07-27 |language=ja}}</ref>。 ==歴史== もとはアドビ社内用の[[フォント]]制作・[[PostScript]]編集ソフトウェアであったが、[[1986年]]12月に[[Macintosh]]版が一般向けに開発され、[[1987年]]1月に出荷された。 [[1988年]]、多くの新しい機能を導入したIllustrator 88(バージョン 1.6)がリリースされた。日本語版も発売されたが、88としての記述はなかった。 [[1989年]]バージョン 2.0 [[Microsoft Windows|Windows]]版をリリース。 [[1990年]]バージョン 3.0 Macintosh版リリース。 [[1992年]]バージョン 4.0 Windows 版をリリース。しかし、定番の[[CorelDRAW]]の影に潜む結果になった。 [[1993年]]バージョン 5.0 Macintosh版リリース。 [[1994年]]バージョン 5.5 Macintosh版リリース。 [[1996年]]バージョン 6.0 Macintosh版リリース(日本語版未リリース)。 [[1997年]]バージョン 7.0リリース。Macintosh版、Windows版両方が販売された。 [[1998年]]バージョン 8.0リリース。アンチエイリアス採用。 [[2000年]]バージョン 9.0をリリース。アピアランスの要素や透明など効果の機能が付き大幅にパワーアップした。 [[2001年]]バージョン 10.0をリリース。このバージョンのMacintosh版はシリーズ中で唯一、[[Classic Mac OS#Mac OS 9|Mac OS 9]]と[[macOS|Mac OS X]]の双方に対応している。 [[2003年]]10月、CS(バージョン 11)をリリース。テキストエンジンの刷新が行われ<ref>[https://helpx.adobe.com/jp/illustrator/kb/224488.html Illustrator 10 以前の文書を Illustrator CS で開くとエリア内の文字が上下に移動する] アドビサポート ( 2016年9月14日)</ref>、PostScriptによる3Dモデリング機能が追加された。このバージョン以降のMacintosh版はMac OS X専用となった。 [[2005年]]4月、CS2(バージョン 12)をリリース。[[ビットマップ画像]]をベクトル画像に変換する「ライブトレース」機能などが追加された。このバージョンから不正利用を防止する目的でアクティベーション(認証)が導入された。 [[2007年]]4月、CS3(バージョン 13)をリリース。「ライブカラー」や「消しゴムツール」、アンカーポイントを強調表示する機能などが追加された。 [[2008年]]10月、CS4(バージョン 14)をリリース。複数のアートボード、タブウィンドウが使えるようになった。NPO法人カラーユニバーサルデザイン機構の協力の下でphotoshop と同時に校正メニューの中に色覚シミュレーションツールを標準搭載した。 [[2010年]]5月、CS5(バージョン 15)をリリース。「遠近グリッド」や「絵筆ブラシ」などの機能を追加した。 [[2012年]]4月23日、CS6(バージョン 16)をリリース。[[64ビット]]に対応、線にグラデーションが付けられるようになった<ref>宮本朱美"[https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/609/2609731/?r=1 旧バージョンとの違いは?『Adobe Illustrator CS6』の新機能を大紹介]"[[アスキー・メディアワークス|ASCII MEDIA WORKS]]、2012年5月2日(2012年6月16日閲覧。)</ref>。他にも[[ユーザーインターフェース]]、レイヤーパネル、RGBコードなどが新しくなっている。 互換性を犠牲にし、システムの根幹から構造が見直され数々の基礎的で重要なツールが改善しているが、[[Adobe InDesign|InDesign]]では既に数バージョン前から実現しているバックアップ機能がないなど前時代的な設計も未だに数多く見受けられる。 アドビ社の新戦略である[[Adobe Creative Cloud]]の導入に伴い、Illustrator CCがリリースされた。バージョン17にあたるCCは、他のCreative Suiteに属していたソフト群と同様、サブスクリプションによるサービスモデルのみよって販売されるようになった初めてのバージョンである。カラーやフォント、プログラムの設定の同期、クラウドへのドキュメント保存、[[Behance]]との連携を始めとして、タッチ入力に対応したTouch Type Toolの導入、イメージを利用したブラシ、CSS書き出し、ファイルのパッケージングなどが新たに実装された。 [[2023年]]10月10日、v 28.0 をリリース。同年3月からオープンβテストを行っていた生成AI機能をベータ版として搭載。複数言語によるテキストプロンプトから、ベクターグラフィックやパターンを作成する機能が追加された。 ==ブランディング== バージョン1からバージョン10までは{{仮リンク|ベットマン・アーカイブ|en|Bettmann Archive}}の[[サンドロ・ボッティチェッリ]]「[[ヴィーナスの誕生]]」をモチーフにパッケージデザインと[[スプラッシュスクリーン|ソフト起動時の画面]]がデザインされていた。 アドビの共同設立者である[[ジョン・ワーノック]]によると、ルネサンスのイメージがPostScriptによる出版の再生(ルネサンス)と重なることを意図していたという。最初期のIllustratorのマーケティングの責任者Luanne Seymour Cohenは、ビーナスの流れるような髪の房が、なめらかな曲線を描けるというIllustratorの強みを表現する格好のモチーフであると考えた。バージョンが上がるにつれ、新バージョンで実装された機能を反映した新たなビーナスがパッケージとスプラッシュスクリーンに採用された。 CS1(11)でビーナスのモチーフは廃止され花の図案に一新され、これはその次のCS2(12)まで続いた([[イースター・エッグ (おまけ要素)|イースターエッグ]]により表示させることもできたが、この機能もCS6で廃止された)。これは新しいCreative Suiteという横並びのソフトウェア群で共通の「自然」をモチーフにしたブランディングの一環である<ref>{{cite web | url=http://www.creativepro.com/story/feature/22837.html?cprose=8-01 |title=Inside CS2: MetaDesign Shares Its Secrets |publisher=CreativePro.com |date=2005-04-27 |accessdate=2010-12-04}}</ref>。 その後にリリースされたCS3(13)ではまたしてもアドビはブランディングの方向性を変え、シンプルな一色のボックスに二文字に短縮されたソフトウェア名が書かれるようになった。Illustratorの場合はやや例外的にAdobe Illustratorの略である'''Ai'''である(他の姉妹ソフト、例えばPhotoshopはPs,InDesignはIdとなっている)。これは元素記号や周期律表に似せている<ref>{{cite web|url=http://veerle-v2.duoh.com/blog/comments/the_new_adobe_icons_and_branding |title=The new Adobe icons and branding &#124; Veerle's blog |publisher=Veerle-v2.duoh.com |date= |accessdate=2010-12-04}}</ref>。ボックスの色はバージョン4.0からの伝統的な[[カラースキーム]]であるオレンジに白字でAi。CS4でのアイコンはほとんどCS3のものと同一であるが、字形にわずかな変更が加えられており、また文字の色がダークグレイとなっている。CS5のアイコンもほぼ同じだが、3次元的な箱状の図案の上にそれよりも明るいオレンジの文字。CS6では縁取りがなされた。 ==類似ソフトと互換性== [[2005年]]にAdobeに買収されたために開発停止になった[[Macromedia FreeHand]]、Windows 定番のドローツールでAI形式にも対応している[[CorelDRAW]]、Photoshopのような機能も併せ持った[[Canvas (グラフィックソフト)|Canvas]]、Illustratorのオブジェクト等を保持出来る[[Affinity Designer]]、フリーソフトの[[Inkscape]]がある。 InkscapeのネイティブのフォーマットであるSVGはIllustratorで読み書きできるが、これら2つのソフトの互換性は100%ではない。Inkscapeではアドビ社の開発した[[PostScript|PS]]、[[Encapsulated PostScript|EPS]]、そしてPDFで書き出せるが、これらもまたIllustratorで読み書きできる<ref>[http://wiki.inkscape.org/wiki/index.php/Inkscape_for_Adobe_Illustrator_users#Formats Inkscape for Adobe Illustrator users], ''Inkscape.org''</ref>。 == リリース履歴 == {| class="wikitable" style="font-size:smaller" ! バージョン !! プラットフォーム !! 発売日 !! コードネーム |- | 1.0 || [[Classic Mac OS|Mac OS]] || [[1987年]]1月 || [[パブロ・ピカソ|Picasso]] |- | 1.1 || Mac OS || 1987年3月 || Inca |- | 1.6(88)<!--英語版Wikipediaに証拠写真を発見。--> || Mac OS || [[1988年]]3月 || |- | 2.0 || [[Microsoft Windows|Windows]] || [[1989年]]1月 || Pinnacle |- | 3 || Mac OS、[[NEXTSTEP|NeXT Step]]、他の[[Unix]] || [[1990年]]10月 || Desert Moose |- | rowspan="2" | 3.5 || [[Silicon Graphics|SGI]] || [[1991年]] || |- |[[Solaris]] |[[1993年]] | |- | 4 || Windows || [[1992年]]5月 || [[カンガルー|Kangaroose]] |- | 5 || Mac OS || 1993年6月 || Saturn |- | 5.5 || Mac OS || [[1994年]]6月 || Janus |- | 4.1 || Windows || [[1995年]] || Pavel |- | 6 || Mac OS || [[1996年]]2月 || [[ポパイ|Popeye]] |- | 7 || Mac OS/Windows || [[1997年]]5月 || [[ライオン・キング#シンバ(Simba)|Simba]] |- | 8 || Mac OS/Windows || [[1998年]]9月 || [[エルヴィス・プレスリー|Elvis]] |- | 9 || Mac OS/Windows || [[2000年]]6月 || Matisse |- | 10 || Mac OS・[[macOS|Mac OS X]]/Windows || [[2001年]]11月 || Paloma |- | 11(CS) || Mac OS X/Windows || [[2003年]]10月 || [[パンゲア大陸|Pangaea]]/Sprinkles |- | 12(CS2) || Mac OS X/Windows || [[2005年]][[4月27日]] || Zodiac |- | 13(CS3) || Mac OS X/Windows || [[2007年]][[6月22日]] || Jason |- | 14(CS4) || Mac OS X/Windows || [[2008年]][[12月19日]] || Sonnet |- | 15(CS5) || Mac OS X/Windows || [[2010年]][[5月28日]] || Ajanta |- | 16(CS6) || OS X/Windows || [[2012年]][[5月7日]] || Ellora |- | 17(CC) || OS X/Windows || [[2013年]][[6月17日]] || [[MoFo]] |- | 18(CC2014) || OS X/Windows || [[2014年]][[6月18日]] || |- | 19(CC2015) || OS X/Windows || [[2015年]][[6月15日]] || |- | 20(CC2015.3) || OS X/Windows || [[2016年]][[6月20日]] || |- | 21(CC2017) || macOS/Windows || [[2016年]][[11月2日]] || |- | 22(CC2018) || macOS/Windows || [[2017年]][[10月18日]] || |- | 23(CC2019) || macOS/Windows || [[2018年]][[10月15日]] || |- | 24(2020) || macOS/Windows || [[2019年]][[11月18日]] || |- | 25(2021) || macOS/Windows || [[2020年]][[10月20日]] || |- |26(2022) |macOS/Windows |[[2020年|2021年]][[10月20日|10月26日]] | |- |27(2023) |macOS/Windows |[[2020年|2022年]][[10月20日|10月18日]] | |- |28(2023) |macOS/Windows |[[2023年]][[10月10日]] | |} == プラグイン == Illustratorは、プラグインソフトの活用により機能性を向上させることができる。 * [https://www.adobe.com/jp/informaiton/creativecloud/illustrator-plugin.html アドビサードパーティ製プラグイン] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat}} {{Wikiversity|Adobe Illustrator}} * [https://www.adobe.com/jp/products/illustrator.html Adobe Illustrator] * {{App Store Preview App|1018784575}} {{Adobe CS}} {{Vector graphics editors}} [[Category:アドビのソフトウェア|Illustrator]] [[Category:イラストレーション]] [[Category:DTPソフト]] [[Category:グラフィックソフトウェア]] [[Category:macOSのソフトウェア]] [[Category:ドローソフト]] [[Category:1987年のソフトウェア]] [[Category:C++でプログラムされたソフトウェア]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Adobe_Illustrator
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オンド・マルトノ
オンド・マルトノ (Ondes Martenot) とは、フランス人電気技師モーリス・マルトノ(フランス語版)によって1928年に発明された、電気楽器および電子楽器の一種である。 鍵盤(英名キー key 、仏名クラヴィエ clavier )またはその下につけられたリボン(英名リボン ribbon 、仏名リュバン ruban )を用いて望む音高を指定しつつ、強弱を表現する特殊なスイッチ(英名タッチ touch 、仏名トゥッシュ touche )を押し込むことによって音を発することができる。多くの鍵盤型電子楽器がオルガン同様両手の同時演奏や和音による複数の音を同時に発することができるのに対し、オンド・マルトノはテレミン(テルミン)に類似しており、基本的には単音のみの発音しかできない。 鍵盤とリボンによる2つの奏法、特にリボンを用いた鍵盤に制限されない自由な音高の演奏、トゥッシュと呼ばれる特殊なスイッチによる音の強弱における様々なアーティキュレーション表現、多彩な音色合成の変化、複数の特殊なスピーカーによる音響効果によって、様々な音を表現することが可能である。 発明された時期は電子楽器としては古く、フランスを中心に多くの作曲家がこの楽器を自分の作品に採用した。それらの中には近代音楽以降のクラシック音楽や現代音楽の重要レパートリーとなった曲も多く、現在も頻繁に演奏される。 本来は三極真空管を用いた発振回路で音を得るが、第7世代以降は集積回路を用いたモデルも製造された。 以下の分類はTechnique de l'onde électronique ジャンヌ・ロリオ著に基づくものである。 最初オンド・ミュジカル Ondes musicales (音楽電波)と言う名前で発表されたが、後に多くの同様の仕組みの電子楽器が現れたため、発明者の名を取ってオンド・マルトノと呼ばれるようになった。 一般にオンド・マルトノと呼ばれる楽器の形が整ったのは第5世代からで、オンド・マルトノのために書かれたほとんどの作品は第5世代以降の形において初めて演奏可能である。 第1世代はテレミン(テルミン)を真似てほぼ全く同じ原理のものが作られた。これはもちろんモーリス・マルトノのオリジナルではなく単にテレミンの複製に過ぎないので、オンド・マルトノとは見なされない。詳しくはテレミンの項を参照。 第一次世界大戦において通信技師を務め、三極真空管の発する振動原理に対し興味を持っていたマルトノが、テレミンの構造を伝え聞いて作った楽器である。 第1世代がテレミンとほぼ同型で、つまりテレミンと同様に空間上の手の位置で音程を変えていたのに対し、第2世代は紐の張力により音程を調節することになった。これがリボンの原型にあたる。まだ鍵盤はなく、楽器本体はただの箱型である。楽器に対しては距離をとり、一歩ほど引いた位置に立って紐を構えた。これはテレミンの演奏における姿勢を踏襲している。そして楽器本体から離れたところにばねの張力によるスイッチを置き、左手で音量を調節した。これがトゥッシュの原型になる。 この世代をもって初めてオンド・マルトノが発明されたことになる。 この楽器を用いて、1928年秋にパリのオペラ座で披露演奏会が行われた。 第3世代は楽器前面の木枠に鍵盤を模した絵が書かれたが、これは模造品であり、鍵盤としての機能は果たさない。 第4世代は鍵盤が演奏可能に改良されたが、リボンは相変わらず離れた位置から引っ張って操作するので、鍵盤とリボンを同時に切り替えて演奏することはいまだに全く実用的ではなかった。 伊福部昭の著書「管絃楽法」のオンド・マルトノの項目では、楽器構造の説明に dummy keyboard と書かれているが、この記述はこの第4世代楽器によるものと思われる。また同じ本ではリボン奏法に関して と書かれているが(下線部編集者加筆)、この前後に引く紐は第2世代から第4世代まで用いられた。なお下記の第5世代からはこの紐(リボン)を前後に引く奏法は採用されず、現在の操作法はリボンを平行に操る奏法と鍵盤奏法の2種類である。 これ以降が現行の楽器である。現在我々が目にするオンド・マルトノの主たる外見は、この第5世代で決定された。構造に関しては次章を参照。 オンド・マルトノのために書かれたオリジナル曲は、第2世代のお披露目演奏会に用いられた曲など一部を除いて、ほとんど全てがこの世代以降のモデルを対象としている。 また、樹脂製の細長い板を曲げて、電波を思わせる特徴的なデザインの譜面台も、この第5世代から採用されている。 後述のメタリック・スピーカーとパルム・スピーカーが初めて標準で付属した。 発音原理として真空管の代わりに集積回路が採用された。 操作盤がより視覚的に音色を把握できるように改良された。また音色にピンクノイズが追加された。 リボンがリボン製からワイヤー製に変更された(しかし奏法に関しては引き続きリボンと呼ぶ)。 アトリエ・モーリス・マルトノが開発した最終モデル。 倍音に基づく三和音を同時演奏可能。これはオルガンのストップの構造を模している。 これ以降アトリエ・モーリス・マルトノでは公式な後継機種を発表していない。しかし別の会社が「オンデア」と呼ばれるさらに発展した後継機種を開発している。下記詳述。 トゥッシュは後述の操作盤についており、オンド・マルトノの鍵盤よりも分厚く、色は白だがピアノの黒鍵が一本だけついているような形をしている。全体の演奏表現を司るこのトゥッシュはオンド・マルトノの演奏で最も重要な部分であり、弦楽器における弓に相当する。トゥッシュを押し込む際のさわり心地は非常に柔らかく、グランドピアノのように繊細な指の加減が要求される。この感触は内部の和ばさみ型金属ばねと、それに挟まれ伝導率を調整するカーボン粉の袋によるものである。 左手は通常トゥッシュに置かれるが、鍵盤を広域に使う奏法(後述のトレモロなど)が必要な場合は両手で鍵盤を演奏する場合もある。このトゥッシュは通常左手人差し指で演奏されるが、ペダルによって足でも演奏可能であり、両手で鍵盤を演奏する場合に使われる。しかし左手で演奏した方がより細かな表情を表現できる。 第7世代モデル以降のペダルは2つが組になっており、5pin DINコネクタで操作盤の左脇に接続する。主に右側のペダルを用いるが、左側のペダルで全体の音量つまり右側のペダルの振幅を調節することも可能である。 鍵盤はC1-B6までの6オクターヴ72鍵ある(7オクターヴに1音足りない)。また鍵盤中央部の下にオクターヴ切り替えスイッチがついており、実質B7まで対応している。ピアノはさらにその下のA0まであるので下方に3本、また上方のC7からC8の13本が足りないものの、通常音楽的に使われるオクターヴは全て対応している。教育用楽器として作られた機種では4オクターブのみを持ち、スイッチによってオクターヴを切り替える機種もある。 この鍵盤の一本一本のサイズはピアノよりも狭く、離れた音程間の跳躍やトレモロに適している。鍵盤全体を左右に指で震わせることによってヴィブラートや微分音程への滑らかな移行も可能である。これらは平均律に調律されている。(クラヴィコードのヴィブラートは鍵盤を押し込んで揺らすので、これとは方法が異なる。) 鍵盤中央部の下には、全体の調律のためのダイヤルがついている。通常はA4=440Hzにチューニングされているが、これを変更することも可能である。 鍵盤はネジで楽器本体の枠に固定されており、このネジを緩めることによって鍵盤による微分音程の移行やヴィブラートのかかる範囲が変わってくる。ネジをきつく締めるとほとんどヴィブラートはかからないが、激しい奏法が要求される際に音程が揺らぐのを防ぐことが出来る。 また鍵盤上で素早いトレモロを演奏しながらレゾナンスまたはパルムスピーカー(後述)を用いることにより、擬似的な和音を奏でることも可能である。これはアンドレ・ジョリヴェのオンド・マルトノ協奏曲の第1楽章カデンツァ、トリスタン・ミュライユの「マッハ2.5」(2台のオンド・マルトノのための)などで効果的に用いられている。複数の鍵盤を同時に押した場合は低い音が優先される。このためトレモロでは一番高い音を常に指で押さえ、低い音を素早く押したり離したりする。3音以上の場合は2番目以下の低い複数音を交互に押さえる。弦楽器に於いて低い音を押さえつつ高い音を断続的に押さえるトレモロ奏法に似ているが高低の関係は逆になる。 後述の操作盤上のトリルボタンを用いて、鍵盤の最高音であるB6よりもさらに上の音を出すことも可能である。オクターヴ切り替えスイッチによってB7へ、さらにトリルボタンを併用すると、ボタン一つでは完全五度上のF#8、ボタン3,5,6の組み合わせではC9、さらにあまり現実的ではないが3,4,5,6の組み合わせでC#9まで出すことができる。それに対して下方への拡張はC0の四分音下のみに限られる。 リボンとはワイヤーのついた指輪の事を指す。(フランス語ではリュバンrubanだが、日本語のオンド・マルトノに関する文献が全て「リボン」表記を採用しているのでここではそれらに倣う)第6世代以前の旧型モデルではワイヤーの代わりにリボンが使われていたので、奏法の名前としては常にリボンと呼ぶ。 リボンの指輪部分は右手の人差し指に嵌め、同じ右手で鍵盤も弾く。リボンは鍵盤の手前に平行についており、その下に音高の位置を示す凹凸がつけられている。鍵盤の白鍵にあたる部分はくぼみ、黒鍵の部分は突起がついており、手元を見なくても指の感覚ですぐに音高を察知できる。また奏者は半音単位で隣接した音へゆっくりグリッサンドで移動して演奏する場合、このくぼみや突起の周りを指で円形になぞる事によってグリッサンドをかける。これはその円周によって指の運動が大きくなり、単に指を平行移動指せてグリッサンドするよりも細かく正確に指のコントロールが利くからである。 鍵盤とリボンの奏法は左手にある切り替えスイッチを楽譜上の指定(クラヴィエ clavier 、リュバン ruban )によって弾き分ける。この際、右手人差し指の位置によって音程が変わってくるので、瞬間的な切り替えには注意が必要である。リボンの音高範囲も鍵盤と同じC1からB6までであり、鍵盤のオクターヴ切り替えスイッチと連動してB7まで拡張可能。ただしC1-B7を一気にグリッサンドで駆け上がることはこの切り替えスイッチの問題で出来ず、C1-B6またはC2-B7に制限される。鍵盤奏法と同様、トリル用ボタンを併用すれば通常C9、非実用的ではあるが最大C#9まで音高を拡張できる。 リボンでの奏法の際は常にグリッサンドがかかる。離れた音に移る場合は、トゥッシュを押し込まなければ音が発せられないが、フレーズもそこで切れる。鍵盤で2つ以上の音を順次演奏した際は瞬時に音が立ち上がり固い音の印象になるが、リボンでの奏法は鍵盤よりも音の立ち上がりが遅く、柔らかい印象を持つ。 リボン専用の調律用回転レバーがついており、鍵盤とは別に調律することが可能。ただし本来これは演奏様式の拡張用ではなく、誤差を調整するためのものである。 鍵盤の左側には音色を決めるボタンがついており、引き出しのように本体から出して操作する。様々な音色を変化させながら奏でることが可能である。このボタンが集まった場所つまり操作盤を、「引き出し」英名:ドローワー drawer 、仏名:ティロワール tiroir とよぶ(英名:ボタン・テーブル button table 、仏名:タブル・デ・ブトン table des boutons と呼ぶ記述も見られる)。操作盤の全体よりも右側寄りのところに、演奏の要であるトゥッシュがついている。 アンドレ・ジョリヴェのオンド・マルトノ協奏曲では「トランペットのように」「ピッコロのように」と既存の楽器の音色に似せる指示があるが、後年の多くの作品ではこのボタン配分を完全に指定する場合が多い(メシアンについては後述)。 操作盤はそれぞれの楽器が開発された年代によって、その機構がそれぞれ大きく異なる。ここでは代表的な第6世代と第7世代の2つのモデルの差について述べる。しかしこれより新しい第8世代モデルでは全ての音色が段階的に変化できるなど開発が進んでいる。また後述の後継楽器オンデアではさらに変化が加えられている。 これらの音色は全て大元の信号として発せられる三角波(トライアングルウェーヴ)を加工する仕組みである。これらのボタンを一つあるいは複数組み合わせることによって、音色が決定される。 多くの楽譜の書き方では、最初に音色と後述のスピーカーを決定しておく。例えば最初にO C D1,D3とする。次に音色を変えるとき、ボタンをオンにするものは+をつけ、オフにするものは-をつける。これら変化を指定するボタンは、太字や四角で囲むなどして強調しておくのが望ましい。変化のあるボタンのみ書くこともできるが、フレーズの開始部分などでは変化の無いボタンも併記しておくことが、練習の便宜上望ましい。先ほどの組み合わせにNを足し、Cを抜き、スピーカーD3への出力を止める場合は、+N -C -D3 O D1と書く。 トゥッシュの右横に小さなボタンが並んでおり、それを用いることによって微分音から完全五度までの各音程のトリルまたはトレモロも演奏可能である。この微分音は調律可能で、正確な四分音ではなく若干ずれている場合にはダイヤルで調節することが必要である。長三度と完全五度は純正律上に調律されており、鍵盤でのトレモロよりもずっと効果的に響く。 また複数のボタンを組み合わせることにより、さらに異なる音程を作ることも可能である(下記に詳述)。組み合わせによっては左手のトゥッシュが使えないので、ペダルでの演奏を考慮する必要がある。つまり伸音では使えるが、スタッカートなどトゥッシュの繊細な操作を伴うアーティキュレーションには使えない。また3つ以上のボタンを要求する場合は、とっさの判断に注意を要する。 操作盤の枠内ではなく鍵盤の左脇奥に、クリック音を挿入するためのスイッチがある。これを入れると、鍵盤を押すたびに磁石が打ち合わされることにより、発信される信号音の上に磁石の仕掛けでクリックノイズが乗る。例えばN (Nasillard) の音色と組み合わせると、発音した瞬間のノイズと合わさって、チェンバロが伸びたような印象の音になる。 ただし、このノイズは鍵盤を押し込みまたは離した時のみに鳴り、リボン奏法や、鍵盤を用いても鍵盤を押しっぱなしにしてトゥッシュのアーティキュレーションで演奏する際には鳴らない。オンド・マルトノのスタッカート奏法はピアノのように鍵盤上を指で跳ねるのではなく、右手で鍵盤を常に押さえつつ左手のトゥッシュを瞬間的に押して離すことによって得られるので、このスタッカート奏法とクリックノイズを併せることは不向きだが、逆にレガート奏法と、そのレガートのフレーズの終わりにスタッカート奏法を併用すると特に効果的である。 1から7までのスイッチのうち1から5までが操作盤に、残りの6と7は鍵盤中央部の下に配置されている。これらのスイッチを切り替えつつ組み合わせることにより、音色を決定する。単純な矩形波を一つ作るにしても組み合わせを熟知せねばならず、直感的に音色の組み合わせを想像できる後年の操作盤に比べると操作しにくい。 第7世代モデルに比べて制限される機能は以下の通り。 しかし作曲家が敢えてこの旧型の真空管モデルを使用することを望む場合は、これら一部の機能が制限されることをあらかじめ知っておいた上で、それらの機能を避けるか代替の手段を考慮する必要がある。 4種類のスピーカー(仏名オーパルールhaut parleur)(ただしオンド・マルトノでは英名ディフューザーdiffuser、仏名ディフューズールdiffuseurと呼ぶ)を切り替えることによって、音にいろいろなエフェクトをかけることも可能。これらにはD1からD4までの番号が振られている。Dはディフューザーを意味する。 第7世代モデルでは4つのスピーカーへの出力があるが、第6世代モデルでは3つまでしかない。この場合、レゾナンスが省かれる(つまりレゾナンスは後年になって付け足された)。 このD1からD4までの各フォーンプラグ端子接続は入れ替え可能であり、古い曲ではレゾナンスを伴わずに、D2がメタリック、D3がパルムを意味する楽譜もある。楽譜冒頭で各番号がどのスピーカーを意味するのか明記する必要がある。D2とD3は操作盤右側の回転レバーで音量を調節できる。これはトゥッシュとは別に各スピーカー間の音量バランスを調節するのに使う。 スピーカーとの接続は、まず楽器本体から専用のケーブルでD1プランシパルへ繋ぐ。そしてプランシパルの裏側からD2、D3、D4へと分岐される。同時にD1と同じ出力に、もう一つ拡張用のスピーカーを繋ぐことも可能である。この接続のためのケーブルは、D1からの出力に関してはDINコネクタの一種で2ピンのスピーカーDINメス(フランスでは DIN HP femelle )と呼ばれるもので、かつて欧米ではスピーカーの接続用規格として使われていたが現在はほとんど流通していない(部品を通信販売等で手に入れる事は可能。秋葉原でも売っている)。入力側はフォーンプラグの標準ジャックになっている。つまり、フォーンプラグを使って例えばミキサーテーブルやコンピュータなど他の機器に接続することも可能である。第8世代モデルでは出力側もフォーンプラグが採用されている。 この楽器が主役として出てくる代表的な曲として、まずオリヴィエ・メシアンの「トゥランガリーラ交響曲」が挙げられる。オンド・マルトノを用いる曲としては最も演奏頻度の高い曲であり、またピアノと並んでソロ楽器として扱われるため聴衆に与える楽器の印象は強い。 この曲では、完全なボタン配分での音色指定に加え、その音色が持つ特徴を楽器名などに喩えて書き添えている。第2楽章や第4楽章では特に、同じフレーズを繰り返す箇所でも微妙に音色指定を変えている。また特に第3楽章において、グリッサンド表現に弦楽器を含む、あるいはそれと交替させるオーケストレーションも効果的に用いられている。 第5楽章および第10楽章の終盤には、オンド・マルトノのパートにピアニッシモから始まってフォルテッシモに至る長い伸音でのクレッシェンドがあるが、この音の立ち上がりを柔らかくし、なおかつヴィブラートは鍵盤よりもリボンの方が効果的にかかるため、特にグリッサンドやポルタメントを伴わないにもかかわらずリボン奏法の指定がある。 前述のトレモロ奏法は、第8楽章(「愛の展開」という副題が付いており、楽章全体が全曲の展開部と位置づけられている)において、「花の主題」が再現される際にクラリネットの音色補佐として用いられているが、第1楽章の提示部および第4楽章での同再現部にはクラリネットしか出てこないため、ここでのオンド・マルトノを伴う音色的展開は効果的である。 これらオーケストラの楽器の音色と混ぜる従来の管弦楽法的な使い方のほか、低音部でのグリッサンドなど、効果音として打楽器のようにオーケストラを補助する音色としても用いられる。 メシアンの曲としては他にも、初期の組曲「美しき水の祭典」(6台のオンド・マルトノのための)(後にいくつかの楽章が「世の終わりのための四重奏曲」に転用された。詳しくはメシアンの項を参照)、「神の現存の三つの小典礼」、歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」などでもオンド・マルトノを用いている。 アンドレ・ジョリヴェの「オンド・マルトノ協奏曲」は、メシアンのトゥランガリーラ交響曲と並んでこの楽器の初期である1940年代にオンド・マルトノの可能性を探求した曲として重要である。しかしトゥランガリーラ交響曲に比べ、演奏頻度は低い。 この曲ではオンド・マルトノは精霊を表すものと作曲者によって定義されており、実質の存在であるその他の楽器によるオーケストラと対極をなす存在である。つまり、この曲においてオンド・マルトノは、従来のあらゆる楽器を超える存在であることを念頭に書かれている。その考えは詩的なアイデアだけにとどまらず、楽譜のあらゆる場所で読み取れる。 例えば冒頭のオンド・マルトノのソロは、低音域のF2から始まってC7に至るまでの長くゆっくりのメロディを、一息でしかも全オクターヴにおいて均等な音質で演奏している。このような楽器はそれまで弦楽器も管楽器も存在せず、ピアノも減衰音である以上アーティキュレーションは異なる。オルガンが唯一の例外だが、オンド・マルトノはそれよりずっと繊細なアーティキュレーションやヴィブラートを伴って演奏できる。第1楽章のカデンツァでは、単音しか発し得ないオンド・マルトノに、トレモロによる擬似和音の効果を求めている。しかもその和音は複数の声部に分けてポリフォニックに書かれており、バッハ以来一つの楽器でポリフォニーを求める伝統の、音楽的な表現の豊かさも忘れていない。(この冒頭とカデンツァの二つの譜例は、伊福部昭の著書「管絃楽法」にも記載されている。)第1楽章終盤には、オンド・マルトノがリボン奏法でオクターヴを昇るのに合わせてハープのグリッサンドも重ねられており、管弦楽法としてとても効果的に響く。 第2楽章では変拍子スケルツォに乗せて、楽器の様々な可能性が試みられる。音色の極端な変化、鍵盤奏法とリボン奏法の瞬間的な交替、超高速グリッサンド、スタッカートなどアーティキュレーションの変化と、それらの各音色にあわせてシロフォンやピッコロ、あるいはサクソフォンとの交替によるオーケストレーションの可能性が試されている。クライマックスでは6オクターヴもの異国的な音階を鍵盤上で駆け上がるが、これはジョリヴェの前作である「リノスの歌」のフルートによる5オクターヴの上昇を踏襲している。第3楽章ではリボン奏法とパルム・スピーカーの効果を中心とした、緩徐楽章でのカンタービレであり、第1・第2楽章のヴィルトゥオージティに対して、オンド・マルトノの音色そのものを聴き込む曲となっている(この急・急・緩という楽章構成〔つまり、緩徐楽章が最後に来る〕は、協奏曲としては異例である)。 アルテュール・オネゲル作曲の劇的オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」でもオンド・マルトノが効果的に使われている。 マルセル・ランドフスキも「オンド・マルトノ協奏曲」を作曲しており、オンド・マルトノ奏者にとって欠かせないレパートリーである。 トリスタン・ミュライユの「空間の流れ」(オンド・マルトノとオーケストラのための)では、オンド・マルトノをシンセサイザーに接続し、オンド・マルトノが本来持ち得ない合成音色を要求している。これによって微分音を含む和音の同時演奏が可能になり、ミュライユの音楽書法であるスペクトル楽派が重視する合成された高次倍音の響きが得られる。同じくミュライユの作品『Tigre de verre ガラスの虎』は、ジャンヌ・ロリオの指導書に譜例が掲載されている。 西村朗の「アストラル協奏曲・光の鏡」(オンド・マルトノとオーケストラのための)は、打楽器奏者が水を張ったワイングラスの淵をぬれた指でこすって演奏し、オンド・マルトノとよく似た音を出す事によってこの二つの音色を混ぜ合わせている。このワイングラスの演奏原理はグラスハーモニカと同様だが、グラスハーモニカの楽器そのものは求められていない。これはグラスハーモニカを長期演奏すると神経障害が発生するという俗説が広く知られプロのグラスハーモニカ奏者が世界的にほとんど存在しないのと、この曲で求められるワイングラスの響きが数音に限られていることによる。 その他、下記のジャンヌ・ロリオによるオンド・マルトノの奏法解説書には、第2巻末に約300曲、第3巻は全巻にわたってその倍以上、ソロ曲あるいは室内楽から管弦楽やオペラに至るまで、オンド・マルトノを用いる様々なレパートリーが紹介されている。 映画音楽での使用例としては、次の作品が挙げられる。 また、テレビ番組の音楽としては以下が例として挙げられる。 アニメ、ゲームの例は以下のとおり。 オンド・マルトノの奏者のことをオンディスト ondisteと呼ぶ。 代表的な演奏家 パリ音楽院では1947年よりオンド・マルトノ科が開設され、現在も若い演奏家たちを育てている。 オンド・マルトノ発明者のモーリス・マルトノは1931年2月に来日し(下記参考文献 Jean Laurendeau "Maurice Martenot, luthier de l'électronique" による)、この楽器を初めて日本に紹介した。神戸で楽器運搬の際、駅長に念を押して壊れ物扱いでの運搬を頼んだところ、運搬先で開梱したら調弦が全く狂わず正確に届いたことに感心したと、マルトノは日記に書き記している。また宮中にも招かれ、皇族や貴族の御前で演奏したほか、皇女の一人が強く興味を示してオンド・マルトノを試演したとも書かれている。 このとき日本へ持っていった楽器は、第3世代かもしくは開発途中で公表されていなかった第4世代のいずれかと思われる。日本国内の文献によると、当時の日本の新聞では「音波ピアノ」と紹介されており、何らかの形で鍵盤に似た構造が備え付けられていたと想像できる。 戦後では、小澤征爾が1962年7月4日にメシアンのトゥランガリーラ交響曲を日本初演した演奏会が、日本の聴衆にこの楽器の大きな印象を与えた最初の機会の一つである。詳しくは小澤征爾の項を参照。 同じくこの楽器にとって重要レパートリーであるはずのジョリヴェのオンド・マルトノ協奏曲は、それよりずっと遅れて1997年に原田節独奏、大野和士指揮東京フィルハーモニー交響楽団によって日本初演された。 現在日本にはオンド・マルトノ友の会というオンド・マルトノに関する組織がある。日本人の演奏家も多い。 現在オンド・マルトノは生産技術が途絶えており、モーリス・マルトノ時代と同じ複製品を作成することはきわめて困難となっている。代わっていくつかの機能を備えた新しい楽器が開発されつづけている。 オンデアは、オンド・マルトノを製作したアトリエ・モーリス・マルトノ(現アトリエ・ジャン=ルイ・マルトノ)とは別の会社が製作している。オンド・マルトノは商標登録されているため、新しい呼び名としてオンデアが用いられている。 ジャン・ルプ・ディアスタインは、1988年のマルトノの死による操業停止後23年ぶりにオンド・マルトノを蘇らせた。第7世代マルトノを参照はしているが、様々なアップデートがなされている。 イギリス アナログシステム社が開発した、オンド・マルトノを模して作られたアナログ・コントローラー。アナログシンセサイザーに接続して使う。これは音程と音量の数値をアナログ電圧で出力できるという利点があるが、鍵盤がオンド・マルトノの教育用機種と同様の4オクターブしかなく、またその鍵盤によるヴィブラートができず、トゥッシュの押し込み具合やリボンの感覚もオンド・マルトノ実機とは異なるなど、代替機として使用する際の問題も抱えている。しかし、現在入手できる楽器でオンド・マルトノ的な表現をする際には、現在のシンセサイザーが採用するMIDIでは広範囲にわたる音程のスムースな変化は実現不可能なため、選択肢のひとつとして貴重な存在である。 日本の製作者が4オクターブタイプの開発に成功している。詳しくはondomo.netを参照のこと。 クリプトン・フューチャー・メディアから、オンド・マルトノをライブラリ化した「ONDES(オンド)」が2011年に発売されており(詳細は外部リンクを参照)、2020年現在はダウンロード版のみ入手可能。オンド・マルトノの音を忠実に収録・再現しており、音色のライブラリの他にメインパネル、スピーカーエディットパネル、MIDIコントローラーによって演奏感を再現するためのパフォーマンスセットアップにより詳細な設定が可能。また、ポリフォニック・シンセサイザー風のパッチである「ポリ・オンズ」により和音の演奏も可能となっており、オリジナルにはないパラメーターも搭載されている。
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"以下の分類はTechnique de l'onde électronique ジャンヌ・ロリオ著に基づくものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "最初オンド・ミュジカル Ondes musicales (音楽電波)と言う名前で発表されたが、後に多くの同様の仕組みの電子楽器が現れたため、発明者の名を取ってオンド・マルトノと呼ばれるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一般にオンド・マルトノと呼ばれる楽器の形が整ったのは第5世代からで、オンド・マルトノのために書かれたほとんどの作品は第5世代以降の形において初めて演奏可能である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "第1世代はテレミン(テルミン)を真似てほぼ全く同じ原理のものが作られた。これはもちろんモーリス・マルトノのオリジナルではなく単にテレミンの複製に過ぎないので、オンド・マルトノとは見なされない。詳しくはテレミンの項を参照。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦において通信技師を務め、三極真空管の発する振動原理に対し興味を持っていたマルトノが、テレミンの構造を伝え聞いて作った楽器である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "第1世代がテレミンとほぼ同型で、つまりテレミンと同様に空間上の手の位置で音程を変えていたのに対し、第2世代は紐の張力により音程を調節することになった。これがリボンの原型にあたる。まだ鍵盤はなく、楽器本体はただの箱型である。楽器に対しては距離をとり、一歩ほど引いた位置に立って紐を構えた。これはテレミンの演奏における姿勢を踏襲している。そして楽器本体から離れたところにばねの張力によるスイッチを置き、左手で音量を調節した。これがトゥッシュの原型になる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この世代をもって初めてオンド・マルトノが発明されたことになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "この楽器を用いて、1928年秋にパリのオペラ座で披露演奏会が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "第3世代は楽器前面の木枠に鍵盤を模した絵が書かれたが、これは模造品であり、鍵盤としての機能は果たさない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "第4世代は鍵盤が演奏可能に改良されたが、リボンは相変わらず離れた位置から引っ張って操作するので、鍵盤とリボンを同時に切り替えて演奏することはいまだに全く実用的ではなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "伊福部昭の著書「管絃楽法」のオンド・マルトノの項目では、楽器構造の説明に dummy keyboard と書かれているが、この記述はこの第4世代楽器によるものと思われる。また同じ本ではリボン奏法に関して", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "と書かれているが(下線部編集者加筆)、この前後に引く紐は第2世代から第4世代まで用いられた。なお下記の第5世代からはこの紐(リボン)を前後に引く奏法は採用されず、現在の操作法はリボンを平行に操る奏法と鍵盤奏法の2種類である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "これ以降が現行の楽器である。現在我々が目にするオンド・マルトノの主たる外見は、この第5世代で決定された。構造に関しては次章を参照。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "オンド・マルトノのために書かれたオリジナル曲は、第2世代のお披露目演奏会に用いられた曲など一部を除いて、ほとんど全てがこの世代以降のモデルを対象としている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、樹脂製の細長い板を曲げて、電波を思わせる特徴的なデザインの譜面台も、この第5世代から採用されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "後述のメタリック・スピーカーとパルム・スピーカーが初めて標準で付属した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "発音原理として真空管の代わりに集積回路が採用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "操作盤がより視覚的に音色を把握できるように改良された。また音色にピンクノイズが追加された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "リボンがリボン製からワイヤー製に変更された(しかし奏法に関しては引き続きリボンと呼ぶ)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "アトリエ・モーリス・マルトノが開発した最終モデル。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "倍音に基づく三和音を同時演奏可能。これはオルガンのストップの構造を模している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "これ以降アトリエ・モーリス・マルトノでは公式な後継機種を発表していない。しかし別の会社が「オンデア」と呼ばれるさらに発展した後継機種を開発している。下記詳述。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "トゥッシュは後述の操作盤についており、オンド・マルトノの鍵盤よりも分厚く、色は白だがピアノの黒鍵が一本だけついているような形をしている。全体の演奏表現を司るこのトゥッシュはオンド・マルトノの演奏で最も重要な部分であり、弦楽器における弓に相当する。トゥッシュを押し込む際のさわり心地は非常に柔らかく、グランドピアノのように繊細な指の加減が要求される。この感触は内部の和ばさみ型金属ばねと、それに挟まれ伝導率を調整するカーボン粉の袋によるものである。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "左手は通常トゥッシュに置かれるが、鍵盤を広域に使う奏法(後述のトレモロなど)が必要な場合は両手で鍵盤を演奏する場合もある。このトゥッシュは通常左手人差し指で演奏されるが、ペダルによって足でも演奏可能であり、両手で鍵盤を演奏する場合に使われる。しかし左手で演奏した方がより細かな表情を表現できる。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "第7世代モデル以降のペダルは2つが組になっており、5pin DINコネクタで操作盤の左脇に接続する。主に右側のペダルを用いるが、左側のペダルで全体の音量つまり右側のペダルの振幅を調節することも可能である。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "鍵盤はC1-B6までの6オクターヴ72鍵ある(7オクターヴに1音足りない)。また鍵盤中央部の下にオクターヴ切り替えスイッチがついており、実質B7まで対応している。ピアノはさらにその下のA0まであるので下方に3本、また上方のC7からC8の13本が足りないものの、通常音楽的に使われるオクターヴは全て対応している。教育用楽器として作られた機種では4オクターブのみを持ち、スイッチによってオクターヴを切り替える機種もある。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "この鍵盤の一本一本のサイズはピアノよりも狭く、離れた音程間の跳躍やトレモロに適している。鍵盤全体を左右に指で震わせることによってヴィブラートや微分音程への滑らかな移行も可能である。これらは平均律に調律されている。(クラヴィコードのヴィブラートは鍵盤を押し込んで揺らすので、これとは方法が異なる。)", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "鍵盤中央部の下には、全体の調律のためのダイヤルがついている。通常はA4=440Hzにチューニングされているが、これを変更することも可能である。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "鍵盤はネジで楽器本体の枠に固定されており、このネジを緩めることによって鍵盤による微分音程の移行やヴィブラートのかかる範囲が変わってくる。ネジをきつく締めるとほとんどヴィブラートはかからないが、激しい奏法が要求される際に音程が揺らぐのを防ぐことが出来る。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "また鍵盤上で素早いトレモロを演奏しながらレゾナンスまたはパルムスピーカー(後述)を用いることにより、擬似的な和音を奏でることも可能である。これはアンドレ・ジョリヴェのオンド・マルトノ協奏曲の第1楽章カデンツァ、トリスタン・ミュライユの「マッハ2.5」(2台のオンド・マルトノのための)などで効果的に用いられている。複数の鍵盤を同時に押した場合は低い音が優先される。このためトレモロでは一番高い音を常に指で押さえ、低い音を素早く押したり離したりする。3音以上の場合は2番目以下の低い複数音を交互に押さえる。弦楽器に於いて低い音を押さえつつ高い音を断続的に押さえるトレモロ奏法に似ているが高低の関係は逆になる。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "後述の操作盤上のトリルボタンを用いて、鍵盤の最高音であるB6よりもさらに上の音を出すことも可能である。オクターヴ切り替えスイッチによってB7へ、さらにトリルボタンを併用すると、ボタン一つでは完全五度上のF#8、ボタン3,5,6の組み合わせではC9、さらにあまり現実的ではないが3,4,5,6の組み合わせでC#9まで出すことができる。それに対して下方への拡張はC0の四分音下のみに限られる。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "リボンとはワイヤーのついた指輪の事を指す。(フランス語ではリュバンrubanだが、日本語のオンド・マルトノに関する文献が全て「リボン」表記を採用しているのでここではそれらに倣う)第6世代以前の旧型モデルではワイヤーの代わりにリボンが使われていたので、奏法の名前としては常にリボンと呼ぶ。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "リボンの指輪部分は右手の人差し指に嵌め、同じ右手で鍵盤も弾く。リボンは鍵盤の手前に平行についており、その下に音高の位置を示す凹凸がつけられている。鍵盤の白鍵にあたる部分はくぼみ、黒鍵の部分は突起がついており、手元を見なくても指の感覚ですぐに音高を察知できる。また奏者は半音単位で隣接した音へゆっくりグリッサンドで移動して演奏する場合、このくぼみや突起の周りを指で円形になぞる事によってグリッサンドをかける。これはその円周によって指の運動が大きくなり、単に指を平行移動指せてグリッサンドするよりも細かく正確に指のコントロールが利くからである。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "鍵盤とリボンの奏法は左手にある切り替えスイッチを楽譜上の指定(クラヴィエ clavier 、リュバン ruban )によって弾き分ける。この際、右手人差し指の位置によって音程が変わってくるので、瞬間的な切り替えには注意が必要である。リボンの音高範囲も鍵盤と同じC1からB6までであり、鍵盤のオクターヴ切り替えスイッチと連動してB7まで拡張可能。ただしC1-B7を一気にグリッサンドで駆け上がることはこの切り替えスイッチの問題で出来ず、C1-B6またはC2-B7に制限される。鍵盤奏法と同様、トリル用ボタンを併用すれば通常C9、非実用的ではあるが最大C#9まで音高を拡張できる。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "リボンでの奏法の際は常にグリッサンドがかかる。離れた音に移る場合は、トゥッシュを押し込まなければ音が発せられないが、フレーズもそこで切れる。鍵盤で2つ以上の音を順次演奏した際は瞬時に音が立ち上がり固い音の印象になるが、リボンでの奏法は鍵盤よりも音の立ち上がりが遅く、柔らかい印象を持つ。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "リボン専用の調律用回転レバーがついており、鍵盤とは別に調律することが可能。ただし本来これは演奏様式の拡張用ではなく、誤差を調整するためのものである。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "鍵盤の左側には音色を決めるボタンがついており、引き出しのように本体から出して操作する。様々な音色を変化させながら奏でることが可能である。このボタンが集まった場所つまり操作盤を、「引き出し」英名:ドローワー drawer 、仏名:ティロワール tiroir とよぶ(英名:ボタン・テーブル button table 、仏名:タブル・デ・ブトン table des boutons と呼ぶ記述も見られる)。操作盤の全体よりも右側寄りのところに、演奏の要であるトゥッシュがついている。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "アンドレ・ジョリヴェのオンド・マルトノ協奏曲では「トランペットのように」「ピッコロのように」と既存の楽器の音色に似せる指示があるが、後年の多くの作品ではこのボタン配分を完全に指定する場合が多い(メシアンについては後述)。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "操作盤はそれぞれの楽器が開発された年代によって、その機構がそれぞれ大きく異なる。ここでは代表的な第6世代と第7世代の2つのモデルの差について述べる。しかしこれより新しい第8世代モデルでは全ての音色が段階的に変化できるなど開発が進んでいる。また後述の後継楽器オンデアではさらに変化が加えられている。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "これらの音色は全て大元の信号として発せられる三角波(トライアングルウェーヴ)を加工する仕組みである。これらのボタンを一つあるいは複数組み合わせることによって、音色が決定される。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "多くの楽譜の書き方では、最初に音色と後述のスピーカーを決定しておく。例えば最初にO C D1,D3とする。次に音色を変えるとき、ボタンをオンにするものは+をつけ、オフにするものは-をつける。これら変化を指定するボタンは、太字や四角で囲むなどして強調しておくのが望ましい。変化のあるボタンのみ書くこともできるが、フレーズの開始部分などでは変化の無いボタンも併記しておくことが、練習の便宜上望ましい。先ほどの組み合わせにNを足し、Cを抜き、スピーカーD3への出力を止める場合は、+N -C -D3 O D1と書く。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "トゥッシュの右横に小さなボタンが並んでおり、それを用いることによって微分音から完全五度までの各音程のトリルまたはトレモロも演奏可能である。この微分音は調律可能で、正確な四分音ではなく若干ずれている場合にはダイヤルで調節することが必要である。長三度と完全五度は純正律上に調律されており、鍵盤でのトレモロよりもずっと効果的に響く。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "また複数のボタンを組み合わせることにより、さらに異なる音程を作ることも可能である(下記に詳述)。組み合わせによっては左手のトゥッシュが使えないので、ペダルでの演奏を考慮する必要がある。つまり伸音では使えるが、スタッカートなどトゥッシュの繊細な操作を伴うアーティキュレーションには使えない。また3つ以上のボタンを要求する場合は、とっさの判断に注意を要する。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "操作盤の枠内ではなく鍵盤の左脇奥に、クリック音を挿入するためのスイッチがある。これを入れると、鍵盤を押すたびに磁石が打ち合わされることにより、発信される信号音の上に磁石の仕掛けでクリックノイズが乗る。例えばN (Nasillard) の音色と組み合わせると、発音した瞬間のノイズと合わさって、チェンバロが伸びたような印象の音になる。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ただし、このノイズは鍵盤を押し込みまたは離した時のみに鳴り、リボン奏法や、鍵盤を用いても鍵盤を押しっぱなしにしてトゥッシュのアーティキュレーションで演奏する際には鳴らない。オンド・マルトノのスタッカート奏法はピアノのように鍵盤上を指で跳ねるのではなく、右手で鍵盤を常に押さえつつ左手のトゥッシュを瞬間的に押して離すことによって得られるので、このスタッカート奏法とクリックノイズを併せることは不向きだが、逆にレガート奏法と、そのレガートのフレーズの終わりにスタッカート奏法を併用すると特に効果的である。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1から7までのスイッチのうち1から5までが操作盤に、残りの6と7は鍵盤中央部の下に配置されている。これらのスイッチを切り替えつつ組み合わせることにより、音色を決定する。単純な矩形波を一つ作るにしても組み合わせを熟知せねばならず、直感的に音色の組み合わせを想像できる後年の操作盤に比べると操作しにくい。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "第7世代モデルに比べて制限される機能は以下の通り。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "しかし作曲家が敢えてこの旧型の真空管モデルを使用することを望む場合は、これら一部の機能が制限されることをあらかじめ知っておいた上で、それらの機能を避けるか代替の手段を考慮する必要がある。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "4種類のスピーカー(仏名オーパルールhaut parleur)(ただしオンド・マルトノでは英名ディフューザーdiffuser、仏名ディフューズールdiffuseurと呼ぶ)を切り替えることによって、音にいろいろなエフェクトをかけることも可能。これらにはD1からD4までの番号が振られている。Dはディフューザーを意味する。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "第7世代モデルでは4つのスピーカーへの出力があるが、第6世代モデルでは3つまでしかない。この場合、レゾナンスが省かれる(つまりレゾナンスは後年になって付け足された)。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "このD1からD4までの各フォーンプラグ端子接続は入れ替え可能であり、古い曲ではレゾナンスを伴わずに、D2がメタリック、D3がパルムを意味する楽譜もある。楽譜冒頭で各番号がどのスピーカーを意味するのか明記する必要がある。D2とD3は操作盤右側の回転レバーで音量を調節できる。これはトゥッシュとは別に各スピーカー間の音量バランスを調節するのに使う。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "スピーカーとの接続は、まず楽器本体から専用のケーブルでD1プランシパルへ繋ぐ。そしてプランシパルの裏側からD2、D3、D4へと分岐される。同時にD1と同じ出力に、もう一つ拡張用のスピーカーを繋ぐことも可能である。この接続のためのケーブルは、D1からの出力に関してはDINコネクタの一種で2ピンのスピーカーDINメス(フランスでは DIN HP femelle )と呼ばれるもので、かつて欧米ではスピーカーの接続用規格として使われていたが現在はほとんど流通していない(部品を通信販売等で手に入れる事は可能。秋葉原でも売っている)。入力側はフォーンプラグの標準ジャックになっている。つまり、フォーンプラグを使って例えばミキサーテーブルやコンピュータなど他の機器に接続することも可能である。第8世代モデルでは出力側もフォーンプラグが採用されている。", "title": "構造と演奏法" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "この楽器が主役として出てくる代表的な曲として、まずオリヴィエ・メシアンの「トゥランガリーラ交響曲」が挙げられる。オンド・マルトノを用いる曲としては最も演奏頻度の高い曲であり、またピアノと並んでソロ楽器として扱われるため聴衆に与える楽器の印象は強い。", "title": "オンド・マルトノを用いる音楽作品" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "この曲では、完全なボタン配分での音色指定に加え、その音色が持つ特徴を楽器名などに喩えて書き添えている。第2楽章や第4楽章では特に、同じフレーズを繰り返す箇所でも微妙に音色指定を変えている。また特に第3楽章において、グリッサンド表現に弦楽器を含む、あるいはそれと交替させるオーケストレーションも効果的に用いられている。", "title": "オンド・マルトノを用いる音楽作品" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "第5楽章および第10楽章の終盤には、オンド・マルトノのパートにピアニッシモから始まってフォルテッシモに至る長い伸音でのクレッシェンドがあるが、この音の立ち上がりを柔らかくし、なおかつヴィブラートは鍵盤よりもリボンの方が効果的にかかるため、特にグリッサンドやポルタメントを伴わないにもかかわらずリボン奏法の指定がある。", "title": "オンド・マルトノを用いる音楽作品" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "前述のトレモロ奏法は、第8楽章(「愛の展開」という副題が付いており、楽章全体が全曲の展開部と位置づけられている)において、「花の主題」が再現される際にクラリネットの音色補佐として用いられているが、第1楽章の提示部および第4楽章での同再現部にはクラリネットしか出てこないため、ここでのオンド・マルトノを伴う音色的展開は効果的である。", "title": "オンド・マルトノを用いる音楽作品" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "これらオーケストラの楽器の音色と混ぜる従来の管弦楽法的な使い方のほか、低音部でのグリッサンドなど、効果音として打楽器のようにオーケストラを補助する音色としても用いられる。", "title": "オンド・マルトノを用いる音楽作品" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "メシアンの曲としては他にも、初期の組曲「美しき水の祭典」(6台のオンド・マルトノのための)(後にいくつかの楽章が「世の終わりのための四重奏曲」に転用された。詳しくはメシアンの項を参照)、「神の現存の三つの小典礼」、歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」などでもオンド・マルトノを用いている。", "title": "オンド・マルトノを用いる音楽作品" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "アンドレ・ジョリヴェの「オンド・マルトノ協奏曲」は、メシアンのトゥランガリーラ交響曲と並んでこの楽器の初期である1940年代にオンド・マルトノの可能性を探求した曲として重要である。しかしトゥランガリーラ交響曲に比べ、演奏頻度は低い。", "title": "オンド・マルトノを用いる音楽作品" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "この曲ではオンド・マルトノは精霊を表すものと作曲者によって定義されており、実質の存在であるその他の楽器によるオーケストラと対極をなす存在である。つまり、この曲においてオンド・マルトノは、従来のあらゆる楽器を超える存在であることを念頭に書かれている。その考えは詩的なアイデアだけにとどまらず、楽譜のあらゆる場所で読み取れる。", "title": "オンド・マルトノを用いる音楽作品" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "例えば冒頭のオンド・マルトノのソロは、低音域のF2から始まってC7に至るまでの長くゆっくりのメロディを、一息でしかも全オクターヴにおいて均等な音質で演奏している。このような楽器はそれまで弦楽器も管楽器も存在せず、ピアノも減衰音である以上アーティキュレーションは異なる。オルガンが唯一の例外だが、オンド・マルトノはそれよりずっと繊細なアーティキュレーションやヴィブラートを伴って演奏できる。第1楽章のカデンツァでは、単音しか発し得ないオンド・マルトノに、トレモロによる擬似和音の効果を求めている。しかもその和音は複数の声部に分けてポリフォニックに書かれており、バッハ以来一つの楽器でポリフォニーを求める伝統の、音楽的な表現の豊かさも忘れていない。(この冒頭とカデンツァの二つの譜例は、伊福部昭の著書「管絃楽法」にも記載されている。)第1楽章終盤には、オンド・マルトノがリボン奏法でオクターヴを昇るのに合わせてハープのグリッサンドも重ねられており、管弦楽法としてとても効果的に響く。", "title": "オンド・マルトノを用いる音楽作品" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "第2楽章では変拍子スケルツォに乗せて、楽器の様々な可能性が試みられる。音色の極端な変化、鍵盤奏法とリボン奏法の瞬間的な交替、超高速グリッサンド、スタッカートなどアーティキュレーションの変化と、それらの各音色にあわせてシロフォンやピッコロ、あるいはサクソフォンとの交替によるオーケストレーションの可能性が試されている。クライマックスでは6オクターヴもの異国的な音階を鍵盤上で駆け上がるが、これはジョリヴェの前作である「リノスの歌」のフルートによる5オクターヴの上昇を踏襲している。第3楽章ではリボン奏法とパルム・スピーカーの効果を中心とした、緩徐楽章でのカンタービレであり、第1・第2楽章のヴィルトゥオージティに対して、オンド・マルトノの音色そのものを聴き込む曲となっている(この急・急・緩という楽章構成〔つまり、緩徐楽章が最後に来る〕は、協奏曲としては異例である)。", "title": "オンド・マルトノを用いる音楽作品" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "アルテュール・オネゲル作曲の劇的オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」でもオンド・マルトノが効果的に使われている。", "title": "オンド・マルトノを用いる音楽作品" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "マルセル・ランドフスキも「オンド・マルトノ協奏曲」を作曲しており、オンド・マルトノ奏者にとって欠かせないレパートリーである。", "title": "オンド・マルトノを用いる音楽作品" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "トリスタン・ミュライユの「空間の流れ」(オンド・マルトノとオーケストラのための)では、オンド・マルトノをシンセサイザーに接続し、オンド・マルトノが本来持ち得ない合成音色を要求している。これによって微分音を含む和音の同時演奏が可能になり、ミュライユの音楽書法であるスペクトル楽派が重視する合成された高次倍音の響きが得られる。同じくミュライユの作品『Tigre de verre ガラスの虎』は、ジャンヌ・ロリオの指導書に譜例が掲載されている。", "title": "オンド・マルトノを用いる音楽作品" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "西村朗の「アストラル協奏曲・光の鏡」(オンド・マルトノとオーケストラのための)は、打楽器奏者が水を張ったワイングラスの淵をぬれた指でこすって演奏し、オンド・マルトノとよく似た音を出す事によってこの二つの音色を混ぜ合わせている。このワイングラスの演奏原理はグラスハーモニカと同様だが、グラスハーモニカの楽器そのものは求められていない。これはグラスハーモニカを長期演奏すると神経障害が発生するという俗説が広く知られプロのグラスハーモニカ奏者が世界的にほとんど存在しないのと、この曲で求められるワイングラスの響きが数音に限られていることによる。", "title": "オンド・マルトノを用いる音楽作品" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "その他、下記のジャンヌ・ロリオによるオンド・マルトノの奏法解説書には、第2巻末に約300曲、第3巻は全巻にわたってその倍以上、ソロ曲あるいは室内楽から管弦楽やオペラに至るまで、オンド・マルトノを用いる様々なレパートリーが紹介されている。", "title": "オンド・マルトノを用いる音楽作品" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "映画音楽での使用例としては、次の作品が挙げられる。", "title": "オンド・マルトノを用いる音楽作品" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "また、テレビ番組の音楽としては以下が例として挙げられる。", "title": "オンド・マルトノを用いる音楽作品" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "アニメ、ゲームの例は以下のとおり。", "title": "オンド・マルトノを用いる音楽作品" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "オンド・マルトノの奏者のことをオンディスト ondisteと呼ぶ。", "title": "演奏家" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "代表的な演奏家", "title": "演奏家" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "パリ音楽院では1947年よりオンド・マルトノ科が開設され、現在も若い演奏家たちを育てている。", "title": "演奏家" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "オンド・マルトノ発明者のモーリス・マルトノは1931年2月に来日し(下記参考文献 Jean Laurendeau \"Maurice Martenot, luthier de l'électronique\" による)、この楽器を初めて日本に紹介した。神戸で楽器運搬の際、駅長に念を押して壊れ物扱いでの運搬を頼んだところ、運搬先で開梱したら調弦が全く狂わず正確に届いたことに感心したと、マルトノは日記に書き記している。また宮中にも招かれ、皇族や貴族の御前で演奏したほか、皇女の一人が強く興味を示してオンド・マルトノを試演したとも書かれている。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "このとき日本へ持っていった楽器は、第3世代かもしくは開発途中で公表されていなかった第4世代のいずれかと思われる。日本国内の文献によると、当時の日本の新聞では「音波ピアノ」と紹介されており、何らかの形で鍵盤に似た構造が備え付けられていたと想像できる。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "戦後では、小澤征爾が1962年7月4日にメシアンのトゥランガリーラ交響曲を日本初演した演奏会が、日本の聴衆にこの楽器の大きな印象を与えた最初の機会の一つである。詳しくは小澤征爾の項を参照。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "同じくこの楽器にとって重要レパートリーであるはずのジョリヴェのオンド・マルトノ協奏曲は、それよりずっと遅れて1997年に原田節独奏、大野和士指揮東京フィルハーモニー交響楽団によって日本初演された。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "現在日本にはオンド・マルトノ友の会というオンド・マルトノに関する組織がある。日本人の演奏家も多い。", "title": "日本との関係" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "現在オンド・マルトノは生産技術が途絶えており、モーリス・マルトノ時代と同じ複製品を作成することはきわめて困難となっている。代わっていくつかの機能を備えた新しい楽器が開発されつづけている。", "title": "後継楽器" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "オンデアは、オンド・マルトノを製作したアトリエ・モーリス・マルトノ(現アトリエ・ジャン=ルイ・マルトノ)とは別の会社が製作している。オンド・マルトノは商標登録されているため、新しい呼び名としてオンデアが用いられている。", "title": "後継楽器" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "ジャン・ルプ・ディアスタインは、1988年のマルトノの死による操業停止後23年ぶりにオンド・マルトノを蘇らせた。第7世代マルトノを参照はしているが、様々なアップデートがなされている。", "title": "後継楽器" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "イギリス アナログシステム社が開発した、オンド・マルトノを模して作られたアナログ・コントローラー。アナログシンセサイザーに接続して使う。これは音程と音量の数値をアナログ電圧で出力できるという利点があるが、鍵盤がオンド・マルトノの教育用機種と同様の4オクターブしかなく、またその鍵盤によるヴィブラートができず、トゥッシュの押し込み具合やリボンの感覚もオンド・マルトノ実機とは異なるなど、代替機として使用する際の問題も抱えている。しかし、現在入手できる楽器でオンド・マルトノ的な表現をする際には、現在のシンセサイザーが採用するMIDIでは広範囲にわたる音程のスムースな変化は実現不可能なため、選択肢のひとつとして貴重な存在である。", "title": "後継楽器" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "日本の製作者が4オクターブタイプの開発に成功している。詳しくはondomo.netを参照のこと。", "title": "後継楽器" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "クリプトン・フューチャー・メディアから、オンド・マルトノをライブラリ化した「ONDES(オンド)」が2011年に発売されており(詳細は外部リンクを参照)、2020年現在はダウンロード版のみ入手可能。オンド・マルトノの音を忠実に収録・再現しており、音色のライブラリの他にメインパネル、スピーカーエディットパネル、MIDIコントローラーによって演奏感を再現するためのパフォーマンスセットアップにより詳細な設定が可能。また、ポリフォニック・シンセサイザー風のパッチである「ポリ・オンズ」により和音の演奏も可能となっており、オリジナルにはないパラメーターも搭載されている。", "title": "音楽ソフトウェア" } ]
オンド・マルトノ とは、フランス人電気技師モーリス・マルトノによって1928年に発明された、電気楽器および電子楽器の一種である。 鍵盤またはその下につけられたリボンを用いて望む音高を指定しつつ、強弱を表現する特殊なスイッチを押し込むことによって音を発することができる。多くの鍵盤型電子楽器がオルガン同様両手の同時演奏や和音による複数の音を同時に発することができるのに対し、オンド・マルトノはテレミン(テルミン)に類似しており、基本的には単音のみの発音しかできない。 鍵盤とリボンによる2つの奏法、特にリボンを用いた鍵盤に制限されない自由な音高の演奏、トゥッシュと呼ばれる特殊なスイッチによる音の強弱における様々なアーティキュレーション表現、多彩な音色合成の変化、複数の特殊なスピーカーによる音響効果によって、様々な音を表現することが可能である。 発明された時期は電子楽器としては古く、フランスを中心に多くの作曲家がこの楽器を自分の作品に採用した。それらの中には近代音楽以降のクラシック音楽や現代音楽の重要レパートリーとなった曲も多く、現在も頻繁に演奏される。 本来は三極真空管を用いた発振回路で音を得るが、第7世代以降は集積回路を用いたモデルも製造された。
{{参照方法|date=2011年8月}} [[ファイル:ondes_martenot.jpg|200px|right|thumb|オンド・マルトノ(第7世代モデル)<br />左側が椅子と鍵盤(楽器本体)。その右が各スピーカーで、上部がパルム、下部がプランシパル。このプランシパルは内側の下部にレゾナンスを含む。一番右側がメタリック]] '''オンド・マルトノ''' (Ondes Martenot) とは、[[フランス]]人電気技師{{仮リンク|モーリス・マルトノ|fr|Maurice Martenot|preserve=1}}によって[[1928年]]に発明された、[[電気楽器]]および[[電子楽器]]の一種である<ref>Technique de l'onde électronique, Jeanne Loriod, ed. Alphone Leduc, préface p. VII</ref>。 鍵盤(英名キー key 、仏名クラヴィエ clavier )またはその下につけられたリボン(英名リボン ribbon 、仏名リュバン ruban )を用いて望む音高を指定しつつ、強弱を表現する特殊なスイッチ(英名タッチ touch 、仏名トゥッシュ touche )を押し込むことによって音を発することができる。多くの鍵盤型電子楽器が[[オルガン]]同様両手の同時演奏や和音による複数の音を同時に発することができるのに対し、オンド・マルトノはテレミン([[テルミン]])に類似しており、基本的には単音のみの発音しかできない。 鍵盤とリボンによる2つの奏法、特に'''リボン'''を用いた鍵盤に制限されない自由な音高の演奏、'''トゥッシュ'''と呼ばれる特殊なスイッチによる音の強弱における様々な[[アーティキュレーション]]表現、多彩な音色合成の変化、複数の特殊なスピーカーによる音響効果によって、様々な音を表現することが可能である。 発明された時期は電子楽器としては古く、[[フランス]]を中心に多くの作曲家がこの楽器を自分の作品に採用した。それらの中には[[近代音楽]]以降の[[クラシック音楽]]や[[現代音楽]]の重要レパートリーとなった曲も多く、現在も頻繁に演奏される。 本来は三極[[真空管]]を用いた発振回路で音を得るが、第7世代以降は[[集積回路]]を用いたモデルも製造された。 == 歴史 == 以下の分類はTechnique de l'onde électronique [[ジャンヌ・ロリオ]]著に基づくものである<ref>Jeanne Loriod préface p. VII-VIII</ref>。 最初オンド・ミュジカル Ondes musicales (音楽電波)と言う名前で発表されたが、後に多くの同様の仕組みの電子楽器が現れたため、発明者の名を取ってオンド・マルトノと呼ばれるようになった。 一般にオンド・マルトノと呼ばれる楽器の形が整ったのは第5世代からで、オンド・マルトノのために書かれたほとんどの作品は第5世代以降の形において初めて演奏可能である。 === 第1世代(1918年) === 第1世代はテレミン([[テルミン]])を真似てほぼ全く同じ原理のものが作られた。これはもちろんモーリス・マルトノのオリジナルではなく単にテレミンの複製に過ぎないので、オンド・マルトノとは見なされない。詳しくはテレミンの項を参照。 [[第一次世界大戦]]において通信技師を務め、三極真空管の発する振動原理に対し興味を持っていたマルトノが、テレミンの構造を伝え聞いて作った楽器である。 === 第2世代(1928年) === 第1世代がテレミンとほぼ同型で、つまりテレミンと同様に空間上の手の位置で音程を変えていたのに対し、第2世代は紐の張力により音程を調節することになった。これが'''リボン'''の原型にあたる。まだ鍵盤はなく、楽器本体はただの箱型である。楽器に対しては距離をとり、一歩ほど引いた位置に立って紐を構えた。これはテレミンの演奏における姿勢を踏襲している。そして楽器本体から離れたところに[[ばね]]の張力によるスイッチを置き、左手で音量を調節した。これが'''トゥッシュ'''の原型になる。 この世代をもって初めてオンド・マルトノが発明されたことになる。 この楽器を用いて、[[1928年]]秋にパリの[[ガルニエ宮|オペラ座]]で披露演奏会が行われた。 === 第3世代(1931年) === 第3世代は楽器前面の木枠に鍵盤を模した絵が書かれたが、これは模造品であり、鍵盤としての機能は果たさない。 === 第4世代(1932年) === 第4世代は鍵盤が演奏可能に改良されたが、リボンは相変わらず離れた位置から引っ張って操作するので、鍵盤とリボンを同時に切り替えて演奏することはいまだに全く実用的ではなかった。 [[伊福部昭]]の著書「管絃楽法」のオンド・マルトノの項目では、楽器構造の説明に dummy keyboard と書かれているが、この記述はこの第4世代楽器によるものと思われる。また同じ本ではリボン奏法に関して : 実際の演奏にあつては、このRingの左右移動は右手の担当する処であるが、Martenotにあつては、此の奏法の他に、単にWW1に連る<span style="text-decoration:underline;">紐を前後に引くもの</span>、叉、鍵盤に手を触れることに依つても発音し得る様に作られたもの等がある。此の様に右手には三種の操作法がある。 と書かれているが(下線部編集者加筆)、この前後に引く紐は第2世代から第4世代まで用いられた。なお下記の第5世代からはこの紐(リボン)を前後に引く奏法は採用されず、現在の操作法はリボンを平行に操る奏法と鍵盤奏法の2種類である。 === 第5世代(1935年) === '''これ以降が現行の楽器である。'''現在我々が目にするオンド・マルトノの主たる外見は、この第5世代で決定された。構造に関しては次章を参照。 オンド・マルトノのために書かれたオリジナル曲は、第2世代のお披露目演奏会に用いられた曲など一部を除いて、ほとんど全てがこの世代以降のモデルを対象としている。 また、[[樹脂]]製の細長い板を曲げて、電波を思わせる特徴的なデザインの[[譜面台]]も、この第5世代から採用されている。 === 第6世代(1950年) === 後述のメタリック・スピーカーとパルム・スピーカーが初めて標準で付属した。 === 第7世代(1974年) === 発音原理として[[真空管]]の代わりに[[集積回路]]が採用された。 操作盤がより視覚的に音色を把握できるように改良された。また音色にピンクノイズが追加された。 リボンがリボン製からワイヤー製に変更された(しかし奏法に関しては引き続きリボンと呼ぶ)。 === 第8世代(1980年代) === アトリエ・モーリス・マルトノが開発した最終モデル。 倍音に基づく[[三和音]]を同時演奏可能。これはオルガンのストップの構造を模している。 これ以降アトリエ・モーリス・マルトノでは公式な後継機種を発表していない。しかし別の会社が「オンデア」と呼ばれるさらに発展した後継機種を開発している。下記詳述。 == 構造と演奏法 == === トゥッシュ、鍵盤、リボン === ==== トゥッシュ ==== トゥッシュは後述の操作盤についており、オンド・マルトノの鍵盤よりも分厚く、色は白だがピアノの黒鍵が一本だけついているような形をしている。全体の演奏表現を司るこのトゥッシュはオンド・マルトノの演奏で最も重要な部分であり、弦楽器における弓に相当する。トゥッシュを押し込む際のさわり心地は非常に柔らかく、グランドピアノのように繊細な指の加減が要求される。この感触は内部の和ばさみ型金属ばねと、それに挟まれ伝導率を調整するカーボン粉の袋によるものである<ref>Jeanne Loriod p. 7-8</ref>。 左手は通常トゥッシュに置かれるが、鍵盤を広域に使う奏法(後述の[[トレモロ]]など)が必要な場合は両手で鍵盤を演奏する場合もある。このトゥッシュは通常左手人差し指で演奏されるが、'''ペダル'''によって足でも演奏可能であり、両手で鍵盤を演奏する場合に使われる。しかし左手で演奏した方がより細かな表情を表現できる。 第7世代モデル以降のペダルは2つが組になっており、5pin DINコネクタで操作盤の左脇に接続する。主に右側のペダルを用いるが、左側のペダルで全体の音量つまり右側のペダルの振幅を調節することも可能である。 ==== 鍵盤 ==== 鍵盤はC1-B6までの6オクターヴ72鍵ある(7オクターヴに1音足りない)。また鍵盤中央部の下にオクターヴ切り替えスイッチがついており、実質B7まで対応している。ピアノはさらにその下のA0まであるので下方に3本、また上方のC7からC8の13本が足りないものの、通常音楽的に使われるオクターヴは全て対応している。教育用楽器として作られた機種では4オクターブのみを持ち、スイッチによってオクターヴを切り替える機種もある。 この鍵盤の一本一本のサイズはピアノよりも狭く、離れた音程間の跳躍やトレモロに適している。鍵盤全体を左右に指で震わせることによって[[ヴィブラート]]や微分音程への滑らかな移行も可能である。これらは[[平均律]]に調律されている。([[クラヴィコード]]のヴィブラートは鍵盤を押し込んで揺らすので、これとは方法が異なる。) 鍵盤中央部の下には、全体の調律のためのダイヤルがついている。通常は[[A440|A4=440Hz]]にチューニングされているが、これを変更することも可能である。 鍵盤はネジで楽器本体の枠に固定されており、このネジを緩めることによって鍵盤による微分音程の移行やヴィブラートのかかる範囲が変わってくる。ネジをきつく締めるとほとんどヴィブラートはかからないが、激しい奏法が要求される際に音程が揺らぐのを防ぐことが出来る。 また鍵盤上で素早いトレモロを演奏しながらレゾナンスまたはパルムスピーカー(後述)を用いることにより、擬似的な和音を奏でることも可能である<ref>Jeanne Loriod p. 62-63</ref>。これは[[アンドレ・ジョリヴェ]]のオンド・マルトノ協奏曲の第1楽章カデンツァ、[[トリスタン・ミュライユ]]の「マッハ2.5」(2台のオンド・マルトノのための)などで効果的に用いられている。複数の鍵盤を同時に押した場合は低い音が優先される。このためトレモロでは一番高い音を常に指で押さえ、低い音を素早く押したり離したりする。3音以上の場合は2番目以下の低い複数音を交互に押さえる。弦楽器に於いて低い音を押さえつつ高い音を断続的に押さえるトレモロ奏法に似ているが高低の関係は逆になる。 後述の操作盤上のトリルボタンを用いて、鍵盤の最高音であるB6よりもさらに上の音を出すことも可能である。オクターヴ切り替えスイッチによってB7へ、さらにトリルボタンを併用すると、ボタン一つでは完全五度上のF#8、ボタン3,5,6の組み合わせではC9、さらにあまり現実的ではないが3,4,5,6の組み合わせでC#9まで出すことができる。それに対して下方への拡張はC0の[[四分音]]下のみに限られる。 ==== リボン ==== [[ファイル:Ondes-ruban.jpg|200px|right|thumb|リボン奏法(鍵盤の手前、右手の人差し指部分。楽器は第6世代のもの)]] リボンとはワイヤーのついた指輪の事を指す。(フランス語ではリュバンrubanだが、日本語のオンド・マルトノに関する文献が全て「リボン」表記を採用しているのでここではそれらに倣う)第6世代以前の旧型モデルではワイヤーの代わりにリボンが使われていたので、奏法の名前としては常にリボンと呼ぶ。 リボンの指輪部分は右手の人差し指に嵌め、同じ右手で鍵盤も弾く。リボンは鍵盤の手前に平行についており、その下に音高の位置を示す凹凸がつけられている。鍵盤の白鍵にあたる部分はくぼみ、黒鍵の部分は突起がついており、手元を見なくても指の感覚ですぐに音高を察知できる。また奏者は半音単位で隣接した音へゆっくり[[グリッサンド]]で移動して演奏する場合、このくぼみや突起の周りを指で円形になぞる事によってグリッサンドをかける。これはその円周によって指の運動が大きくなり、単に指を平行移動指せてグリッサンドするよりも細かく正確に指のコントロールが利くからである。 鍵盤とリボンの奏法は左手にある切り替えスイッチを楽譜上の指定(クラヴィエ clavier 、リュバン ruban )によって弾き分ける。この際、右手人差し指の位置によって音程が変わってくるので、瞬間的な切り替えには注意が必要である。リボンの音高範囲も鍵盤と同じC1からB6までであり、鍵盤のオクターヴ切り替えスイッチと連動してB7まで拡張可能。ただしC1-B7を一気にグリッサンドで駆け上がることはこの切り替えスイッチの問題で出来ず、C1-B6またはC2-B7に制限される。鍵盤奏法と同様、トリル用ボタンを併用すれば通常C9、非実用的ではあるが最大C#9まで音高を拡張できる。 リボンでの奏法の際は常にグリッサンドがかかる。離れた音に移る場合は、トゥッシュを押し込まなければ音が発せられないが、フレーズもそこで切れる。鍵盤で2つ以上の音を順次演奏した際は瞬時に音が立ち上がり固い音の印象になるが、リボンでの奏法は鍵盤よりも音の立ち上がりが遅く、柔らかい印象を持つ。 リボン専用の調律用回転レバーがついており、鍵盤とは別に調律することが可能。ただし本来これは演奏様式の拡張用ではなく、誤差を調整するためのものである。 === 音色 === 鍵盤の左側には音色を決めるボタンがついており、引き出しのように本体から出して操作する。様々な音色を変化させながら奏でることが可能である。このボタンが集まった場所つまり操作盤を、「引き出し」英名:ドローワー drawer 、仏名:ティロワール tiroir とよぶ(英名:ボタン・テーブル button table 、仏名:タブル・デ・ブトン table des boutons と呼ぶ記述も見られる)。操作盤の全体よりも右側寄りのところに、演奏の要であるトゥッシュがついている。 アンドレ・ジョリヴェのオンド・マルトノ協奏曲では「[[トランペット]]のように」「[[ピッコロ]]のように」と既存の楽器の音色に似せる指示があるが、後年の多くの作品ではこのボタン配分を完全に指定する場合が多い(メシアンについては後述)。 ==== 操作性 ==== 操作盤はそれぞれの楽器が開発された年代によって、その機構がそれぞれ大きく異なる。ここでは代表的な第6世代と第7世代の2つのモデルの差について述べる。しかしこれより新しい第8世代モデルでは全ての音色が段階的に変化できるなど開発が進んでいる。また後述の後継楽器オンデアではさらに変化が加えられている。 ==== 第7世代における操作盤 ==== [[ファイル:ondes_martenot_table.jpg|200px|right|thumb|第7世代モデルの鍵盤と操作盤部分を接写。D4スイッチは左脇にある]] ===== 音色決定のためのボタン ===== これらの音色は全て大元の信号として発せられる[[三角波]](トライアングルウェーヴ)を加工する仕組みである。これらのボタンを一つあるいは複数組み合わせることによって、音色が決定される<ref>Jeanne Loriod préface p. XVI-XVII</ref>。 * O オンド onde [[正弦波]]、サインウェーヴ * C クルー creux 中空の意味。[[三角波 (波形)|三角波]]、トライアングルウェーヴ * N ナジヤール nasillard 鼻声の意味。[[のこぎり波]]、ソーウェーヴ * G ガンベ Gambé [[矩形波]]、スクウェアウェーヴ * g プチ・ガンベ petit gambé 同じく矩形波だが、スイッチの右、トゥッシュの左に付いたレバーで、三角波からの加工の度合いを調節できる。1から5までの目盛りが付いているが、アナログレバーであり緩やかな変化も可能。目盛りを5にすると、ほぼガンベと同じ音色になる。 * 8 タンブル・オクタヴィアン timbres octaviant オクターブ上の音を出す。左に付いたレバーで効果の度合いを調節できる。プチ・ガンベと同様アナログレバーで5段階の目盛り付き。 * T トゥッティ tutti 全ての音色を同時発信。 * S スフル souffle 息の意味、つまりノイズ。上記のボタンとは離れており、操作盤の右側についている。操作盤上部右側の回転レバーによって音量を調節する。このノイズは[[ホワイトノイズ]]ではなく[[ピンクノイズ]]であり、ノイズのみで出力した場合でも鍵盤やリボンにより若干の音程を聞き取ることが可能である。(ただしピンクノイズは、聴き手ごとの位置や首の傾き方などによる、発信源からのわずかな左右の耳の距離の違いにより、その[[ドップラー効果]]によって感じる音程が変わってくる事に注意が必要である。つまり大まかな音程の指定によるリボン奏法は効果があるが、鍵盤奏法でノイズのみの音程を書き記してもその記譜通りの音が全ての聴き手に聞き取れるわけではない。)メタリックおよびパルムスピーカーを併用することにより、単なるピンクノイズにとどまらない打楽器的な音響効果を生み出すことが出来る。特にメタリック・スピーカーでの出力は、[[ジャズ]]で多用されるように、[[シンバル]]をワイヤー[[ブラシ]]状[[ドラムスティック]]で擦るような音になる。もちろん音程を持つその他の音色と組み合わせることも可能。 多くの楽譜の書き方では、最初に音色と後述のスピーカーを決定しておく。例えば最初にO C D1,D3とする。次に音色を変えるとき、ボタンをオンにするものは+をつけ、オフにするものは-をつける。これら変化を指定するボタンは、太字や四角で囲むなどして強調しておくのが望ましい。変化のあるボタンのみ書くこともできるが、フレーズの開始部分などでは変化の無いボタンも併記しておくことが、練習の便宜上望ましい。先ほどの組み合わせにNを足し、Cを抜き、スピーカーD3への出力を止める場合は、'''+N -C -D3''' O D1と書く。 ===== トリル用ボタン ===== トゥッシュの右横に小さなボタンが並んでおり、それを用いることによって微分音から完全五度までの各音程のトリルまたはトレモロも演奏可能である。この微分音は調律可能で、正確な四分音ではなく若干ずれている場合にはダイヤルで調節することが必要である。長三度と完全五度は[[純正律]]上に調律されており、鍵盤でのトレモロよりもずっと効果的に響く。 また複数のボタンを組み合わせることにより、さらに異なる音程を作ることも可能である(下記に詳述)。組み合わせによっては左手のトゥッシュが使えないので、ペダルでの演奏を考慮する必要がある。つまり伸音では使えるが、スタッカートなどトゥッシュの繊細な操作を伴うアーティキュレーションには使えない。また3つ以上のボタンを要求する場合は、とっさの判断に注意を要する。 * ボタンを単独で押す場合 ** ボタン1 下段左 四分音下 ** ボタン2 下段右 四分音上 ** ボタン3 中段左 半音(短2度)上 ** ボタン4 中段右 全音(長2度)上 ** ボタン5 上段左 長3度上 ** ボタン6 上段右 完全5度上 * ボタンを組み合わせて押す場合 ** ボタン3,4 短3度上 ** ボタン3,5 完全4度上 ** ボタン4,5 増4度上 ** ボタン1,4,5 増4度上の四分音下(自然倍音列の第11倍音に基づく) ** ボタン2,5 長3度と四分音上(平均律上では上記と同様だが実際は微妙に異なる) ** ボタン3,6 短6度上 ** ボタン4,6 長6度上 ** ボタン2,4,6 長6度と四分音上(誤差によって短7度の六分音下になり、自然倍音列の第7倍音に基づく) ** ボタン3,4,6 短7度上 ** ボタン5,6 長7度上 ** ボタン3,5,6 完全8度(1オクターヴ)上 ** ボタン4,5,6 短9度上 ** ボタン3,4,5,6 長9度(左手で4つのボタンを一度に押すことは困難) ===== クリックノイズ ===== 操作盤の枠内ではなく鍵盤の左脇奥に、[[クリック]]音を挿入するためのスイッチがある。これを入れると、鍵盤を押すたびに磁石が打ち合わされることにより、発信される信号音の上に磁石の仕掛けでクリックノイズが乗る。例えばN (Nasillard) の音色と組み合わせると、発音した瞬間のノイズと合わさって、チェンバロが伸びたような印象の音になる。 ただし、このノイズは鍵盤を押し込みまたは離した時のみに鳴り、リボン奏法や、鍵盤を用いても鍵盤を押しっぱなしにしてトゥッシュのアーティキュレーションで演奏する際には鳴らない。オンド・マルトノの[[スタッカート]]奏法は[[ピアノ]]のように鍵盤上を指で跳ねるのではなく、右手で鍵盤を常に押さえつつ左手のトゥッシュを瞬間的に押して離すことによって得られるので、このスタッカート奏法とクリックノイズを併せることは不向きだが、逆に[[レガート]]奏法と、そのレガートのフレーズの終わりにスタッカート奏法を併用すると特に効果的である。 ==== 第6世代における操作盤 ==== 1から7までのスイッチのうち1から5までが操作盤に、残りの6と7は鍵盤中央部の下に配置されている。これらのスイッチを切り替えつつ組み合わせることにより、音色を決定する。単純な矩形波を一つ作るにしても組み合わせを熟知せねばならず、直感的に音色の組み合わせを想像できる後年の操作盤に比べると操作しにくい。 第7世代モデルに比べて制限される機能は以下の通り。 * スピーカーの出力が3つまでしかない。 * スフル(息、ノイズ)出力機能がない。 * タンブル・オクタヴィアンはオンかオフのみで、第7世代モデルのように1から5までの段階的な指定は出来ない。 * トゥッシュの右横についているトリル用ボタンは、四分音上または下の2種類しかない。(この四分音は正確にチューニングされているとは限らない。)その代わり第7世代モデルではスフル用のダイヤルがある場所に、大きめの横に長いボタンがついている。これは音程の指定はないが、左・中・右の押す位置により3段階の音程の上昇が可能であり、トレモロも演奏できる。 * 鍵盤のクリックノイズ出力機能がない。 しかし作曲家が敢えてこの旧型の真空管モデルを使用することを望む場合は、これら一部の機能が制限されることをあらかじめ知っておいた上で、それらの機能を避けるか代替の手段を考慮する必要がある。 === スピーカー === [[ファイル:Ondes-diffuseurs 2006.jpg|200px|right|thumb|スピーカー。左からメタリック、パルム、プランシパルおよびレゾナンス]] [[ファイル:Ondes-diffuseurs-derrieres.jpg|200px|right|thumb|メタリックとパルムの裏側]] 4種類の[[スピーカー]](仏名オーパルールhaut parleur)(ただしオンド・マルトノでは英名ディフューザーdiffuser、仏名ディフューズールdiffuseurと呼ぶ)を切り替えることによって、音にいろいろなエフェクトをかけることも可能。これらにはD1からD4までの番号が振られている。Dはディフューザーを意味する。 第7世代モデルでは4つのスピーカーへの出力があるが、第6世代モデルでは3つまでしかない。この場合、レゾナンスが省かれる(つまりレゾナンスは後年になって付け足された)。 ; D1 (英名プリンシパル principal 、仏名プランシパル principal) : 最も主要なスピーカー。特別なエフェクトはかからず、通常のスピーカーと同様の役割を持つ。 ; D2 (英名レゾナンス resonance 、仏名レゾナンス résonance) : 複数の太い金属ばねによる残響を伴うスピーカー。D4パルムよりも固くて金属的な残響が特徴。矩形波(C)や鋸形波(N)などの固い音色と良く響き合う。D1プランシパルと同じ筐体の中にこのD2の機能も備わっている。このD1・D2スピーカーの裏蓋を開けると、金属ばねの張り具合を調節する大きなネジがついており、電気的ではなく機械的に残響の具合を調節可能である。 ; D3 (英名メタリック metallic 、仏名メタリック métallique) : [[銅鑼]]([[ゴング]]あるいは[[タムタム]])を吊るして電極を通したスピーカーで、その銅鑼の持つ金属的で不規則な倍音を共鳴させるスピーカー。鋸形波(N)やホワイトノイズ(S)と良く響き合う他、正弦波(O)でもグリッサンドを用いることによって銅鑼の倍音が共鳴する。 ; D4 (英名パルム palm 、仏名パルム palme) : [[棕櫚]]の葉を象った[[弦楽器]]状のスピーカー。ギターのような胴に表裏12本ずつ合計24本の弦が張ってあり、この弦に電極を通して振動させ、本体で共鳴させることによって、D2レゾナンスとは質感の異なる柔らかな残響を生み出す。D2レゾナンスが矩形波(G)や鋸形波(N)と良く響き合うのに対し、このパルムは正弦波(O)と良く響き合う。弦は通常[[平均律]]に調弦されているが、トリスタン・ミュライユの「ガラスの虎」など一部ではこの調弦を変える指定を持つ作品もある。 このD1からD4までの各フォーンプラグ端子接続は入れ替え可能であり、古い曲ではレゾナンスを伴わずに、D2がメタリック、D3がパルムを意味する楽譜もある。楽譜冒頭で各番号がどのスピーカーを意味するのか明記する必要がある。D2とD3は操作盤右側の回転レバーで音量を調節できる。これはトゥッシュとは別に各スピーカー間の音量バランスを調節するのに使う。 スピーカーとの接続は、まず楽器本体から専用のケーブルでD1プランシパルへ繋ぐ。そしてプランシパルの裏側からD2、D3、D4へと分岐される。同時にD1と同じ出力に、もう一つ拡張用のスピーカーを繋ぐことも可能である。この接続のためのケーブルは、D1からの出力に関しては[[DINコネクタ]]の一種で2ピンのスピーカーDINメス(フランスでは DIN HP femelle )と呼ばれるもので、かつて欧米ではスピーカーの接続用規格として使われていたが現在はほとんど流通していない(部品を通信販売等で手に入れる事は可能。[[秋葉原]]でも売っている)。入力側は[[フォーンプラグ]]の標準ジャックになっている。つまり、フォーンプラグを使って例えば[[ミキサーテーブル]]やコンピュータなど他の機器に接続することも可能である。第8世代モデルでは出力側もフォーンプラグが採用されている。 == オンド・マルトノを用いる音楽作品 == === メシアン「トゥランガリーラ交響曲」 === この楽器が主役として出てくる代表的な曲として、まず[[オリヴィエ・メシアン]]の「[[トゥランガリーラ交響曲]]」が挙げられる。オンド・マルトノを用いる曲としては最も演奏頻度の高い曲であり、また[[ピアノ]]と並んでソロ楽器として扱われるため聴衆に与える楽器の印象は強い。 この曲では、完全なボタン配分での音色指定に加え、その音色が持つ特徴を楽器名などに喩えて書き添えている。第2楽章や第4楽章では特に、同じフレーズを繰り返す箇所でも微妙に音色指定を変えている。また特に第3楽章において、グリッサンド表現に弦楽器を含む、あるいはそれと交替させるオーケストレーションも効果的に用いられている。 第5楽章および第10楽章の終盤には、オンド・マルトノのパートにピアニッシモから始まってフォルテッシモに至る長い伸音でのクレッシェンドがあるが、この音の立ち上がりを柔らかくし、なおかつヴィブラートは鍵盤よりもリボンの方が効果的にかかるため、特にグリッサンドやポルタメントを伴わないにもかかわらずリボン奏法の指定がある。 前述のトレモロ奏法は、第8楽章(「愛の展開」という副題が付いており、楽章全体が全曲の展開部と位置づけられている)において、「花の主題」が再現される際にクラリネットの音色補佐として用いられているが、第1楽章の提示部および第4楽章での同再現部にはクラリネットしか出てこないため、ここでのオンド・マルトノを伴う音色的展開は効果的である。 これらオーケストラの楽器の音色と混ぜる従来の管弦楽法的な使い方のほか、低音部でのグリッサンドなど、効果音として打楽器のようにオーケストラを補助する音色としても用いられる。 メシアンの曲としては他にも、初期の組曲「[[美しい水の祭典]]」(6台のオンド・マルトノのための)(後にいくつかの楽章が「[[世の終わりのための四重奏曲]]」に転用された。詳しくはメシアンの項を参照)、「[[神の現存についての3つの小典礼|神の現存の三つの小典礼]]」、歌劇「[[アッシジの聖フランチェスコ (メシアン)|アッシジの聖フランチェスコ]]」などでもオンド・マルトノを用いている。 === ジョリヴェ「オンド・マルトノ協奏曲」 === [[アンドレ・ジョリヴェ]]の「[[オンド・マルトノ協奏曲]]」は、メシアンのトゥランガリーラ交響曲と並んでこの楽器の初期である[[1940年代]]にオンド・マルトノの可能性を探求した曲として重要である。しかしトゥランガリーラ交響曲に比べ、演奏頻度は低い。 この曲ではオンド・マルトノは[[精霊]]を表すものと作曲者によって定義されており、実質の存在であるその他の楽器によるオーケストラと対極をなす存在である。つまり、この曲においてオンド・マルトノは、従来のあらゆる楽器を超える存在であることを念頭に書かれている。その考えは詩的なアイデアだけにとどまらず、楽譜のあらゆる場所で読み取れる。 例えば冒頭のオンド・マルトノのソロは、低音域のF2から始まってC7に至るまでの長くゆっくりのメロディを、一息でしかも全オクターヴにおいて均等な音質で演奏している。このような楽器はそれまで弦楽器も管楽器も存在せず、ピアノも減衰音である以上アーティキュレーションは異なる。オルガンが唯一の例外だが、オンド・マルトノはそれよりずっと繊細なアーティキュレーションやヴィブラートを伴って演奏できる。第1楽章のカデンツァでは、単音しか発し得ないオンド・マルトノに、トレモロによる擬似和音の効果を求めている。しかもその和音は複数の声部に分けてポリフォニックに書かれており、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]以来一つの楽器で[[ポリフォニー]]を求める伝統の、音楽的な表現の豊かさも忘れていない。(この冒頭とカデンツァの二つの譜例は、[[伊福部昭]]の著書「管絃楽法」にも記載されている。)第1楽章終盤には、オンド・マルトノがリボン奏法でオクターヴを昇るのに合わせてハープのグリッサンドも重ねられており、管弦楽法としてとても効果的に響く。 第2楽章では変拍子[[スケルツォ]]に乗せて、楽器の様々な可能性が試みられる。音色の極端な変化、鍵盤奏法とリボン奏法の瞬間的な交替、超高速グリッサンド、スタッカートなどアーティキュレーションの変化と、それらの各音色にあわせて[[シロフォン]]や[[ピッコロ]]、あるいは[[サクソフォン]]との交替によるオーケストレーションの可能性が試されている。クライマックスでは6オクターヴもの異国的な音階を鍵盤上で駆け上がるが、これはジョリヴェの前作である「リノスの歌」のフルートによる5オクターヴの上昇を踏襲している。第3楽章ではリボン奏法とパルム・スピーカーの効果を中心とした、緩徐楽章での[[カンタービレ]]であり、第1・第2楽章の[[ヴィルトゥオーゾ|ヴィルトゥオージティ]]に対して、オンド・マルトノの音色そのものを聴き込む曲となっている(この急・急・緩という[[楽章]]構成〔つまり、緩徐楽章が最後に来る〕は、[[協奏曲]]としては異例である)。 === その他の作曲家 === [[アルテュール・オネゲル]]作曲の劇的オラトリオ「[[火刑台上のジャンヌ・ダルク]]」でもオンド・マルトノが効果的に使われている。 [[マルセル・ランドフスキ]]も「オンド・マルトノ協奏曲」を作曲しており、オンド・マルトノ奏者にとって欠かせないレパートリーである。 [[トリスタン・ミュライユ]]の「空間の流れ」(オンド・マルトノとオーケストラのための)では、オンド・マルトノを[[シンセサイザー]]に接続し、オンド・マルトノが本来持ち得ない合成音色を要求している。これによって微分音を含む和音の同時演奏が可能になり、ミュライユの音楽書法である[[スペクトル楽派]]が重視する合成された高次[[倍音]]の響きが得られる。同じくミュライユの作品『Tigre de verre ガラスの虎』は、ジャンヌ・ロリオの指導書に譜例が掲載されている<ref>Jeanne Loriod p. 96</ref>。 [[西村朗]]の「アストラル協奏曲・光の鏡」(オンド・マルトノとオーケストラのための)は、打楽器奏者が水を張ったワイングラスの淵をぬれた指でこすって演奏し、オンド・マルトノとよく似た音を出す事によってこの二つの音色を混ぜ合わせている。このワイングラスの演奏原理は[[グラスハーモニカ]]と同様だが、グラスハーモニカの楽器そのものは求められていない。これはグラスハーモニカを長期演奏すると神経障害が発生するという俗説が広く知られプロのグラスハーモニカ奏者が世界的にほとんど存在しないのと、この曲で求められるワイングラスの響きが数音に限られていることによる。 その他、下記のジャンヌ・ロリオによるオンド・マルトノの奏法解説書には、第2巻末に約300曲、第3巻は全巻にわたってその倍以上、ソロ曲あるいは室内楽から管弦楽やオペラに至るまで、オンド・マルトノを用いる様々なレパートリーが紹介されている。 === 映画、テレビなどの音楽 === 映画音楽での使用例としては、次の作品が挙げられる。 * 「[[とらんぷ譚]]」(1938年[[サシャ・ギトリ]]監督、アドルフ・ボルシャール) マルトノ本人が演奏 * 「[[巴里の空の下セーヌは流れる]]」(1951年、[[ジャン・ヴィエネル]]) * 「[[アラビアのロレンス]]」(1962年、[[モーリス・ジャール]]) * 「[[決死圏SOS宇宙船]]」(1968年、[[バリー・グレイ]]) シルヴェット・アラールが演奏 * 「[[狼は天使の匂い]]」 (1972年、[[フランシス・レイ]]) * 「[[インドへの道]]」(1984年、モーリス・ジャール) * 「[[ゴーストバスターズ]]」(1984年、[[エルマー・バーンスタイン]]) * 「[[レヴェナント: 蘇えりし者]]」(2015年、[[坂本龍一]]) 大矢素子が演奏 * 「[[G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ]]」(2021年、坂本龍一) [[原田節]]が演奏 また、テレビ番組の音楽としては以下が例として挙げられる。 * NHK[[大河ドラマ]]「[[独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]]」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nhk.or.jp/fm-blog/050/29577.html|publisher=NHK-FMブログ|title=2009年11月13日 (金)教育テレビ 特集『N響アワー"大河の調べ とわに"』 ゲストにあの子も登場!|accessdate=2015-3-27}}</ref> * NHK[[大河ドラマ]]「[[八代将軍吉宗]]」 :上記いずれもテーマ音楽作曲は[[池辺晋一郎]]。 * 「[[ウエスタン・マリオネット 魔法のけん銃]]」 * 「[[スーパーカー_(人形劇)|スーパーカー]]」 * 「[[宇宙船XL-5]]」 * 「[[海底大戦争 スティングレイ]]」 * 「[[サンダーバード_(テレビ番組)|サンダーバード]]」 * 「[[キャプテン・スカーレット]]」 * 「[[ジョー90]]」 * 「[[ロンドン指令X]]」 * 「[[謎の円盤UFO]]」 * 「[[スペース1999]]」 :上記いずれもテーマ音楽作曲はバリー・グレイ。 * [[NHK特集]]「[[未来への遺産]]」(テーマ音楽作曲:[[武満徹]]) 但し[[武満徹]]は演奏会用作品ではオンド・マルトノを用いていない。 * [[コドモ警察]](テーマ音楽作曲:[[瀬川英史]]) [[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]、ゲームの例は以下のとおり。 * 「[[ガサラキ]]」 * 「[[パルムの樹]]」([[原田節]]作曲、「ハラダタカシ」名義) * 「[[びんちょうタン]]」サウンドトラック([[岩崎琢]]作曲)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ondes-martenot.net/pblog/article.php?id=50|publisher=オンド・マルトノ友の会 BLOG|title=アニメーション「びんちょうタン」サウンドトラック|accessdate=2015-3-27}}</ref> * 「[[輪廻のラグランジェ]]」 * 「[[わんおふ -one off-]]」([[原田節]]作曲) :上記いずれも[[原田節]]が演奏を担当している。 * 「[[カフカ 田舎医者]]」 * [[PlayStation 2]]用ゲームソフト「[[アークザラッド 精霊の黄昏]]」エンディング曲 == 演奏家 == オンド・マルトノの奏者のことをオンディスト ondisteと呼ぶ。 代表的な演奏家 *{{仮リンク|ジネット・マルトノ|fr|Ginette Martenot}}:マルトノの妹でトゥーランガリラ交響曲の初演におけるオンディスト。 *{{仮リンク|ジャンヌ・ロリオ|fr|Jeanne Loriod}}:トゥーランガリラ交響曲のスペシャリストとして知られる。姉は[[ピアニスト]]でメシアン夫人であった[[イヴォンヌ・ロリオ]]。これまでの同交響曲の録音の多くは、ロリオ姉妹がソリストをつとめたものであった。 *[[トリスタン・ミュライユ]]:作曲家としても有名。 *日本では[[本荘玲子]]、[[原田節]](ハラダタカシ)、[[大井浩明]]、[[長谷綾子]]、[[市橋若菜]]、[[久保智美]]などが知られている。 [[パリ音楽院]]では[[1947年]]よりオンド・マルトノ科が開設され、現在も若い演奏家たちを育てている。 == 日本との関係 == オンド・マルトノ発明者のモーリス・マルトノは[[1931年]][[2月]]に来日し(下記参考文献 Jean Laurendeau "Maurice Martenot, luthier de l'électronique" による)、この楽器を初めて日本に紹介した。神戸で楽器運搬の際、駅長に念を押して壊れ物扱いでの運搬を頼んだところ、運搬先で開梱したら調弦が全く狂わず正確に届いたことに感心したと、マルトノは日記に書き記している。また宮中にも招かれ、皇族や貴族の御前で演奏したほか、皇女の一人が強く興味を示してオンド・マルトノを試演したとも書かれている。 このとき日本へ持っていった楽器は、第3世代かもしくは開発途中で公表されていなかった第4世代のいずれかと思われる。日本国内の文献によると、当時の日本の新聞では「音波ピアノ」と紹介されており、何らかの形で鍵盤に似た構造が備え付けられていたと想像できる。 戦後では、[[小澤征爾]]が[[1962年]][[7月4日]]にメシアンのトゥランガリーラ交響曲を日本初演した演奏会(オンド・マルトノは[[本荘玲子]]が担当)が、日本の聴衆にこの楽器の大きな印象を与えた最初の機会の一つである。詳しくは小澤征爾の項を参照。 同じくこの楽器にとって重要レパートリーであるはずのジョリヴェのオンド・マルトノ協奏曲は、それよりずっと遅れて[[1997年]]に[[原田節]]独奏、[[大野和士]]指揮[[東京フィルハーモニー交響楽団]]によって日本初演された。 現在<!--っていつですか?-->日本には[http://www.ondes-martenot.net/ オンド・マルトノ友の会]というオンド・マルトノに関する組織がある。日本人の演奏家も多い。 == 後継楽器 == 現在オンド・マルトノは生産技術が途絶えており、モーリス・マルトノ時代と同じ複製品を作成することはきわめて困難となっている。代わっていくつかの機能を備えた新しい楽器が開発されつづけている。 === オンデア === オンデアは、オンド・マルトノを製作したアトリエ・モーリス・マルトノ(現アトリエ・ジャン=ルイ・マルトノ)とは別の会社が製作している。オンド・マルトノは商標登録されているため、新しい呼び名としてオンデアが用いられている<ref>{{cite web|url=http://www.nhk.or.jp/fm-blog/050/29577.html|publisher=cslevine.com|title=l'Ondéa La renaissance des Ondes Martenot!|accessdate=2015-3-27}}</ref>。 ====オンド・マルトノとの相違点==== * リボンと呼ばずバーグ Bague (指輪)と呼ぶ。略号もBと記されている。 * トゥッシュ、鍵盤、リボン(バーグ)のガイド溝が木製・木目調。(黒鍵は黒く塗られている) * 鍵盤とリボン(バーグ)のガイド溝の間が広い。 * 指輪が樹脂製で、弾力を利用して挟む形になっている。ただしこの指輪は将来発展の余地があるとされる。 * 鍵盤を振動させることによるヴィブラートの幅を、機械的および電子的に調節できる。機械的な変化は鍵盤の振動幅の感覚が実際に減り、電子的な変化は鍵盤の振動の感覚は同じだが効果が大きくかかる。振幅は最大で1オクターブまで拡張できる。 * 基本的な音色がオンド・マルトノとは大きく異なる。[[デジタルシグナルプロセッサ|DSP]]に特徴的な固い音色を基本とする。ただしフィルターによってある程度音色の固さを柔らげる事は可能で、これによってオンド・マルトノに近い音が出る。このフィルターはローパス(オンド・マルトノ風になる)、ニュートラル(フィルター無し)、ハイパスに分かれており、レバーで段階的に調節可能。 * D1スピーカーの外見は大きく異なる。反響盤が斜めについており、これによりコンサート会場では広い幅に渡って音が飛ぶことを意図して設計されている。 * トリル用ボタンが拡張されており、段階的にオクターブ超の振幅を伴う跳躍が可能。これはオンド・マルトノ第6世代以前のトリルボタンを模しているものの、その機能は独自である。 * オクターブ切り替えボタンが鍵盤の下だけでなく操作盤にもついている。これを組み合わせることによって2オクターブ上げることも可能。トリル用ボタンと組み合わせれば3オクターブまで上昇する。ただし実際に出る最高音はB9までで、C10ないしC#10を出そうとすると無音になる。 * クリック音出力機能のスイッチが鍵盤の左脇ではなく操作盤についている。 * 各スピーカー出力別の音量レバーがついている。 * 操作盤の蓋のねじを開けることにより、以下の調節が可能。 ** 各音色のスイッチ別にネジによるチップ単位での音色調節 ** トゥッシュの押し込み具合の柔らかさ * 背面に同軸ケーブル出力を備える。これに外部機器を組み合わせることによりMIDI出力が可能。 * ヘッドフォンおよび外部スピーカー直接出力を備える。DIN-4Pプラグが必要だがヘッドフォン用にジャック・メスの変換ケーブルがオプションで付く。 === オンド・ミュジカル・バイ・ディアスタイン === [[ジャン・ルプ・ディアスタイン]]は、[[1988年]]のマルトノの死による操業停止後23年ぶりにオンド・マルトノを蘇らせた。第7世代マルトノを参照はしているが、様々なアップデートがなされている<ref>[http://www.thomasbloch.net/new_ondes_martenot new_ondes_martenot]</ref>。 === アナログ・コントローラー・フレンチ・コネクション === イギリス アナログシステム社が開発した、オンド・マルトノを模して作られたアナログ・コントローラー。[[アナログシンセサイザー]]に接続して使う。これは音程と音量の数値を[[アナログ電圧]]で出力できるという利点があるが、鍵盤がオンド・マルトノの教育用機種と同様の4オクターブしかなく、またその鍵盤によるヴィブラートができず、トゥッシュの押し込み具合やリボンの感覚もオンド・マルトノ実機とは異なるなど、代替機として使用する際の問題も抱えている。しかし、現在入手できる楽器でオンド・マルトノ的な表現をする際には、現在のシンセサイザーが採用する[[MIDI]]では広範囲にわたる音程のスムースな変化は実現不可能なため、選択肢のひとつとして貴重な存在である。 === オンドモ === [[日本]]の製作者が4オクターブタイプの開発に成功<ref>[http://ondesmusicales.tumblr.com/image/99272337269 ondesmusicales]</ref>している。詳しくは[https://ondomo.net/jp/ ondomo.net]を参照のこと。 ==音楽ソフトウェア== [[クリプトン・フューチャー・メディア]]から、オンド・マルトノをライブラリ化した「ONDES(オンド)」が[[2011年]]に発売されており(詳細は外部リンクを参照)、[[2020年]]現在はダウンロード版のみ入手可能。オンド・マルトノの音を忠実に収録・再現しており、音色のライブラリの他にメインパネル、スピーカーエディットパネル、[[MIDIコントローラー]]によって演奏感を再現するためのパフォーマンスセットアップにより詳細な設定が可能。また、[[ポリフォニック・シンセサイザー]]風の[[パッチ]]である「ポリ・オンズ」により和音の演奏も可能となっており、オリジナルにはないパラメーターも搭載されている。 == 参考文献 == オンド・マルトノに関する書籍は主に以下のものが見受けられる。現在ここに挙げられているものは、特に注記の無い限り全て[[フランス語]]の書籍である。 * Technique de l'onde électronique [[ジャンヌ・ロリオ]]著 [[オリヴィエ・メシアン]]序文寄稿 アルフォンス・レデュック出版 Alphonse Leduc ** 第1巻 楽器構造、鍵盤奏法 ** 第2巻 リボン奏法、曲目紹介 ** 第3巻 曲目一覧 すべて現在も入手可能。フランス語と英語を併記。流通は楽譜扱い。技法的な解説書。 第1巻は、本の序盤は楽器演奏入門としてオリジナルの曲に限らない易しい譜例(例えば[[モーリス・ラヴェル]]の「眠りの森の美女のパヴァーヌ」など)を用いているが、後半では[[トリスタン・ミュライユ]]や[[マリウス・コンスタン]]などオンド・マルトノのためのオリジナル曲の抜粋を多く含む。鍵盤奏法の解説には、第2巻のリボン奏法のほぼ倍の分量が割かれている。 第2巻はリボン奏法の解説であり、ほぼ全部の章に音階などのシステマティックな練習課題が与えられている。これはリボン奏法の利点と難点を演奏家のみならず作曲家にもわかりやすく解説している。こちらは譜例の紹介はないが、効果的な練習曲例としての部分的な曲目紹介、および本の後半での総括的なレパートリー紹介がある。 いずれも効果的な楽器法を体系的に学習するために演奏家のみならず作曲家にとっても大変有用な本である。ただし第3巻は一冊全てが曲目紹介で第2巻を補完しており、技法的な記述は一切ない。 この他、[[絶版]]ではあるが以下の文献が存在する。 * La première Méthode pour l'enseignement des Ondes Musicales [[モーリス・マルトノ]]著 [[アルフレッド・コルトー]]序文寄稿(絶版) * Jean Laurendeau "Maurice Martenot, luther de l'électronique" (Edition Dervy-Livres) ISBN 2-85076-333-0 モーリス・マルトノの伝記(絶版) * E. Leipp, Maurice Martenot "Les Ondes Martenot" Bulletin du Groupe d'Acoustique Musicale - Université Paris 6 (絶版、ただしパリ第6大学にて閲覧および資料目的のためのコピーが可能) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[電子音楽]] * [[テルミン]] * [[電子楽器]] == 外部リンク == {{Commonscat|Ondes_Martenot}} * [http://www.thomasbloch.net Thomas Bloch's website, a world prominent ondes Martenot player (also glassharmonica and cristal Baschet) - facts, videos, pictures, biography, discography, contact...] * [http://www.christineott.fr Christine Ott website, ondes Martenot modern composer] * [http://www.youtube.com/profile_videos?user=theondes&p=v A large choice of ondes Martenot videos played by Thomas Bloch (solo, orchestra, chamber music from classical to pop music collaboration - also glassharmonica and cristal Baschet): Gorillaz, Tom Waits, Mozart, Olivier Messiaen... ] * [https://web.archive.org/web/20030813231515/http://martenot.com/sommaire.php3 Union des Enseignements MARTENOT] モーリス・マルトノの息子で現在アトリエを運営するジャン=ルイ・マルトノによるオンド・マルトノ公式サイト。 * [https://sonicwire.com/product/34591 ONDES] - [[クリプトン・フューチャー・メディア]]によるオンド・マルトノの音を再現した音楽ソフトウェア(ダウンロード版) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おんとまるとの}} [[Category:電子楽器]] [[Category:鍵盤楽器]] [[Category:エポニム]]
2003-08-12T02:19:48Z
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菅浩江
菅 浩江(すが ひろえ、1963年4月21日 -)は日本のSF作家。京都府京都市生まれ。女性。追手門学院大学中退。 夫は元ガイナックス統括本部長の武田康廣。菅は京都在住で、東京在住の武田とは別居結婚。自身の家系図によると、菅原道真や菅原孝標女の子孫であるという。 日本舞踊の名取で、電子オルガン講師の資格も持ち、ガイナックスのPC用ゲーム『電脳学園』『サイレントメビウス』の作曲を担当するなど、多芸である。 日本推理作家協会会員。本格ミステリ作家クラブ会員。宇宙作家クラブ会員。日本SF作家クラブ会員だったが、2014年に退会。 2013年よりサンライズ制作による日本のテレビアニメ作品であるTIGER & BUNNY、それを題材とした3Dキャラクターモデルを自由に動かして動画を制作できるフリーの3DCGソフトウェアであるMikuMikuDanceに興味を抱き積極的にニコニコ動画に関わっている。 また、上記と関連して、2014年2月にニコニコ動画上でのMikuMikuDanceを用いた動画投稿イベントのひとつであるMMD杯では森永ダース、KADOKAWA、2009年より高岡市長現職である高橋正樹らと共に投稿作品選考委員を務めた。 なお、これに先駆けて2013年8月16日にニコニコ動画上に前述の「TIGER & BUNNY」をモチーフとした「バニかわ音頭」なる自作曲を投稿している。 「」内が菅浩江の作品
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菅 浩江は日本のSF作家。京都府京都市生まれ。女性。追手門学院大学中退。
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[[京都府立桂高等学校]]在学中に第4回日本SFショー開催に参画。当時の事務局長が[[岡田斗司夫]]で、この時に岡田及び[[ゼネラルプロダクツ]]との繋がりが生まれる。 * [[1981年]] - やはり高校在学中、当時所属し、日本SFショーにも協力していた(上述第4回限りで手を引いた)同人誌『星群』(菅は小学生時代から参加)に発表した短編「ブルー・フライト」が、[[矢野徹]]の推薦によって『[[SF宝石]]』([[光文社]]刊)1981年4月号に転載されデビュー。「ブルー・フライト」はその後、短編集『雨の檻』に収録された。 * [[1989年]] - 第1長編『ゆらぎの森のシエラ』([[ソノラマ文庫]])を発表し、再デビュー。 * [[1992年]] -『メルサスの少年』で第23回[[星雲賞]]日本長編部門受賞。 * [[1993年]] - 短編『そばかすのフィギュア』で第24回星雲賞日本短編部門受賞。 * [[2001年]] -『永遠の森 博物館惑星』で第54回[[日本推理作家協会賞]]長編および連作短編集部門、第32回星雲賞日本長編部門を受賞。NHKオーディオドラマ・[[青春アドベンチャー]]にてラジオドラマ化され、同年10月1日より放送された。 * [[2013年]] - [[文部科学省]]教科用図書検定調査審議会臨時委員<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/tosho/meibo/1334240.htm|title=教科用図書検定調査審議会 委員名簿|publisher=[[文部科学省]]|date=2014年4月1日|accessdate=2014年3月21日}}</ref>。 * [[2014年]] - 『誰に見しょとて』で第13回(2013年度)センス・オブ・ジェンダー賞受賞 * [[2020年]] - [[文化庁]]文化審議会著作権分科会基本政策小委員会専門委員<ref>{{Cite web|和書|title=文化審議会著作権分科会 {{!}} 文化庁|url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/chosakuken/index.html|website=www.bunka.go.jp|accessdate=2020-09-08}}</ref>。 * 2020年 - 『不見の月 博物館惑星II』で第51回[[星雲賞]]日本短編部門受賞。 * [[2021年]] - 『歓喜の歌 博物館惑星III』で第41回[[日本SF大賞]]受賞。同年10月26日より、映像配信プラットフォーム「シラス」にて創作講座「菅浩江のネコ乱入!~創作講座と雑学などなど」を配信開始。 == 作品リスト == === 単著 === * 『ゆらぎの森のシエラ』(1989年[[ソノラマ文庫]]、のち[[創元SF文庫]] 2007年)。ISBN 978-4488724016 * 『〈柊の僧兵〉記』(1990年ソノラマ文庫、のち[[徳間デュアル文庫]]2000年) ISBN 978-4199050206 * 『歌の降る星』(センチメンタル・センシティブ・シリーズ、1990年、[[角川スニーカー文庫]])。ISBN 978-4044120016 * 『うたかたの楽園』(センチメンタル・センシティブ・シリーズ、1991年、角川スニーカー文庫)。ISBN 978-4044120023 * 『鷺娘-京の闇舞-』(1991年、ソノラマ文庫)。ISBN 978-4257765646 * 『メルサスの少年 螺旋の街の物語』(1991年、[[新潮文庫]])。ISBN 4101216118 のち徳間デュアル文庫 * 『オルディコスの三使徒』(3部作) *# 「妖魔の爪」(1992年、角川スニーカー文庫)。ISBN 978-4044120030 *# 「紅蓮の絆」(1994年、角川スニーカー文庫)。ISBN 978-4044120047 *# 「巨神の春」(1995年、角川書店スニーカー文庫)。ISBN 978-4044120054 * 『雨の檻』(1993年、ハヤカワ文庫、のち『そばかすのフィギュア』に改題のうえ再刊)。ISBN 978-4150303891 * 『[[暁のビザンティラ]]』(上、1993年、[[ログアウト冒険文庫]])。ISBN 978-4893661395 * 『暁のビザンティラ』(下、1993年、ログアウト冒険文庫)。ISBN 978-4893661470 * 『氷結の魂』(上、1994年、[[トクマ・ノベルズ]])。ISBN 978-4198500924 * 『氷結の魂』(下、1994年、トクマ・ノベルズ)。ISBN 978-4198500931 * 『不屈の女神 ゲッツェンディーナー』(1995年、角川スニーカー文庫)。ISBN 978-4044120061 * 『アンパン的革命』(1995年)。ISBN 978-4893664457 * 『鬼女の都』(1996年[[祥伝社]]、のち祥伝社文庫2005年)。ISBN 978-4396332457 * 『末枯れの花守り』(2002年角川書店、のち角川文庫)ISBN 978-4044120078 * 『博物館惑星』シリーズ *# 『永遠の森 博物館惑星』(2000年[[早川書房]]、のち[[ハヤカワ文庫]]JA 2004年)。ISBN 978-4150307530 *# 『不見の月 博物館惑星II』(2019年早川書房、のちハヤカワ文庫JA)。ISBN 978-4152098597 *# 『歓喜の歌 博物館惑星III』(2020年早川書房、のちハヤカワ文庫JA)。ISBN 978-4152099600 * 『夜陰譚』(2001年[[光文社]]、のち[[光文社文庫]]2004年)。ISBN 978-4334737474 * 『アイ・アム I am.』(2001年、祥伝社文庫)。ISBN 978-4396328856 * 『五人姉妹』(2002年早川書房、のちハヤカワ文庫JA 2005年)。ISBN 978-4150307776 * 『歌の翼に ピアノ教室は謎だらけ』(2003年祥伝社NON NOVEL)。ISBN 978-4396207649 * 『プレシャス・ライアー』(2006年[[カッパ・ノベルス]]、のち光文社文庫)。ISBN 978-4334740924 * 『おまかせハウスの人々』(2006年、[[講談社]])。ISBN 978-4062131490 * 『そばかすのフィギュア』(雨の檻を改題し初期ファンタジーを追加したハヤカワ文庫JA 2007年)。ISBN 978-4150309022 * 『プリズムの瞳』(2007年[[東京創元社]]、のち[[創元SF文庫]])。ISBN 978-4488018115 * 『カフェ・コッペリア』(2008年、早川書房)。ISBN 978-4152089748 * 『誰に見しょとて』(2013年、早川書房)。ISBN 978-4152094124 * 『GEAR [ギア] Another Day 五色の輪舞』(原案:[[小原啓渡]]、絵:[[山田章博]])(2016年、[[出版ワークス]])。ISBN 978-4309920863 === ノベライズ === * 『[[放課後のプレアデス]] みなとの星宙』(2015年、[[一迅社]])。ISBN 978-4758014601 * 『[[ID-0]] I Cognosce te ipsum.――汝自身を知れ 』(2017年、ハヤカワ文庫JA)。ISBN 978-4150312824 * 『ID-0 II Vive hodie. ――今日生きよ』(2017年、ハヤカワ文庫JA)。ISBN 978-4150312831 === アンソロジー === 「」内が菅浩江の作品 * [[異形コレクション]] 侵略!(1998年2月 [[廣済堂出版|廣済堂]]文庫)「子供の領分」 * エロティシズム12幻想(2000年2月 [[エニックス]] / 2002年3月 [[講談社文庫]])「和服継承」 * 短篇ベストコレクション 現代の小説2001(2001年5月 徳間文庫)「五人姉妹」 * 蒼迷宮(2002年3月 祥伝社文庫)「箱の中の猫」 * 本格ミステリ02(2002年5月 講談社ノベルス)「英雄と皇帝」 ** 【分冊・改題】死神と雷鳴の暗号(2006年1月 講談社文庫) * 金田一耕助に捧ぐ九つの狂想曲(2002年6月 角川書店 / 2012年11月 角川文庫)「雪花散り花」 * らせん階段 女流ミステリー傑作選(2003年5月 ハルキ文庫)「つぐない」 * 短篇ベストコレクション 現代の小説2003(2003年6月 徳間文庫)「言葉のない海」 * ミステリア(2003年12月 祥伝社文庫)「鮮やかなあの色を」 * [[ザ・ベストミステリーズ 推理小説年鑑|ザ・ベストミステリーズ]] 2007 推理小説年鑑(2007年7月 講談社)「エクステ効果」 ** 【分冊・改題】ULTIMATE MYSTERY 究極のミステリー、ここにあり ミステリー傑作選(2010年4月 講談社文庫) * ぼくの、マシン ゼロ年代日本SFベスト集成〈S〉(2010年10月 創元SF文庫)「五人姉妹」 * てのひらの宇宙 星雲賞短編SF傑作選(2013年3月 創元SF文庫)「そばかすのフィギュア」 * [[NOVA 書き下ろし日本SFコレクション|NOVA 10 書き下ろし日本SFコレクション]](2013年7月 河出文庫)「妄想少女」 * 日本SF短篇50 日本SF作家クラブ創立50周年記念アンソロジーIV 1993 - 2002(2013年8月 ハヤカワ文庫JA)「永遠の森」 * 私がデビューしたころ ミステリ作家51人の始まり(2014年6月 東京創元社)※エッセイアンソロジー「SFファンからの長い道のり」 * [[年刊日本SF傑作選|アステロイド・ツリーの彼方へ 年刊日本SF傑作選]](2016年6月 創元SF文庫)「アステロイド・ツリーの彼方へ」 * NOVA 2023年夏号(2023年4月 河出文庫)「異世界転生してみたら」 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.gainax.co.jp/hills/suga/ 電脳版PLEIADES] (公式サイト) * {{Twitter|Hiroe_Suga}} * {{Twitter|Hiroe_Suga_2nd}} * [https://shirasu.io/c/SugaNeko 菅浩江のネコ乱入!~創作講座と雑学などなど] - 映像配信プラットフォーム「シラス」 {{星雲賞日本長編部門|第23・32回}} {{星雲賞日本短編部門|第24回}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すか ひろえ}} [[Category:20世紀日本の女性著作家]] [[Category:21世紀日本の女性著作家]] [[Category:日本の女性小説家]] [[Category:日本のSF作家]] [[Category:日本の女性推理作家]] [[Category:ファンダムに関連する人物]] [[Category:日本推理作家協会賞受賞者]] [[Category:京都市出身の人物]] [[Category:1963年生]] [[Category:存命人物]]
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エーゲ海
エーゲ海(エーゲかい、英: Aegean Sea)は、地中海の一部を構成する海域。地中海の東北部にあたり、西と北をバルカン半島(ギリシャ共和国)、東をアナトリア半島(トルコ共和国)に囲まれた入り江状の海である。 古くは固有名詞で「多島海」(英: the Archipelago)と呼ばれたこともある、代表的な多島海であり、多くの島々(エーゲ海諸島)が所在する。 エーゲ海は以下の名称でも呼ばれる。 エーゲは古代ギリシャ語で波を意味した。エーゲ海は、ギリシャ語でアルキペラゴス(アルヒペラゴス、Αρχιπέλαγος / Arkhipélagos)とも呼ばれた。この言葉は「主要な海」( ἄρχι- / arkhi-「主要な」 と πέλαγος / pelagos「海」)を意味する。この語はのちに一般名詞化し「多島海」や「諸島・群島」を意味する「アーキペラゴ」(英: archipelago)の由来となった。英語で語頭を大文字とし定冠詞を付した the Archipelago は、エーゲ海のことを指す。 the Archipelago に対して日本語で「多島海」という訳が宛てられることがあるが、上述の通りもともとの Αρχιπέλαγος 自体には「島が多い」という意味は含まれない。 神話によれば、テーセウスが生贄の一人としてクレータ島へ向かう際に無事脱出した場合には船に白い帆を掲げて帰還すると父王アイゲウスに約束していた。しかし約束を忘れて出航時の黒い帆のまま帰還したため、アイゲウスはテーセウスが死んだものと勘違いして絶望のあまり海へ身を投げて死んだ。この故事より彼の名に因んで「エーゲ海」(エポニムという)となったとされる。 国際水路機関(IHO)は、地中海の下位に8つの海域を定義しており、エーゲ海はそのひとつである。国際水路機関の定義によれば、その境界は以下の各地点を結んだものである。 エーゲ海の南ではその他の地中海(国際水路機関は名称を定義していない)と、ダーダネルス海峡ではマルマラ海と接する。 定義によっては、南西にイオニア海と、南東にレバント海と接するとされることもある。 エーゲ海の一部を、以下のような「海」の名で呼ぶことがある。 このほか、以下のような湾がある。 エーゲ海は大小合わせておよそ 2,500 の島々が浮かぶ多島海である。大半はギリシャに属しているが、ボズジャアダ(ボズジャ島、Bozcaada)とギョクチェアダ(ギョクチェ島、Gökçeada)についてはトルコ領となっている。 エーゲ海の島々はいくつかの諸島に分類される。北エーゲ諸島、エヴィア島、スポラデス諸島、キクラデス諸島、サロニカ諸島、ドデカネス諸島それにクレタ島である。 エーゲ海沿岸はリアス式海岸が多く、天然の良港になっている。しかし、古代・中世にはエーゲ海の航海は決して安全なものではなかった。 周辺はエーゲ文明の発祥地。 古代には、クレタ島のミノス文明とペロポネソス半島のミケーネ文明が誕生した。さらに時代を下ると、アテナイやスパルタに代表される多くの都市国家により形成された古代ギリシャ文明が生じた。他にもペルシャ、ローマ帝国、東ローマ帝国、ヴェネツィア共和国(ヴェネツィア領クレタおよびナクソス公国を参照)、そしてオスマン帝国がエーゲ海周辺に国家を形成した。ヨーロッパとアジアを結ぶ中継地として中世以降も繁栄した。 火山島が多く、大理石や鉄の産地でもある。クレタ島のような比較的面積の大きな島には肥沃な耕地が広がるが、多くの島は農業に適していない。しかし、地中海性気候のため、まばゆい太陽が輝く夏季には、太陽に恵まれない地域から多くの観光客が訪れる。
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エーゲ海は、地中海の一部を構成する海域。地中海の東北部にあたり、西と北をバルカン半島(ギリシャ共和国)、東をアナトリア半島(トルコ共和国)に囲まれた入り江状の海である。 古くは固有名詞で「多島海」と呼ばれたこともある、代表的な多島海であり、多くの島々(エーゲ海諸島)が所在する。
{{Infobox ocean | Ocean_name = エーゲ海 | image_Ocean = | caption_Ocean = | image_bathymetry = Aegean Sea map.png | caption_bathymetry = | location = [[地中海]] | coords = {{Coord|39|N|25|E|type:waterbody_scale:5000000|display=inline,title}} | type = | inflow = | outflow = | catchment_km2 = | basin_countries = {{GRC}}<br />{{TUR}} | length_km = | width_km = | area_km2 = | depth_m = | max-depth_m = | volume_km3 = | residence_time = | temperature_high_C = | temperature_low_C = | shore_km = | islands = | cities = | trenches = | benches = | frozen = }} '''エーゲ海'''(エーゲかい、{{lang-en-short|Aegean Sea}})は、[[地中海]]の一部を構成する[[海域]]。地中海の東北部にあたり、西と北を[[バルカン半島]]([[ギリシャ|ギリシャ共和国]])、東を[[アナトリア半島]]([[トルコ|トルコ共和国]])に囲まれた入り江状の海である。 古くは固有名詞で「'''多島海'''」({{lang-en-short|the Archipelago}})と呼ばれたこともある、代表的な[[多島海]]であり、多くの島々('''[[エーゲ海諸島]]''')が所在する。 == 名称 == エーゲ海は以下の名称でも呼ばれる。 * {{lang-el|Αιγαίο Πέλαγος}} / {{lang|el-Latn|''Egéo Pélagos''}} * {{lang-tr|Ege Denizi}} エーゲは古代ギリシャ語で波を意味した。エーゲ海は、ギリシャ語でアルキペラゴス(アルヒペラゴス、{{lang|el|Αρχιπέλαγος}} / {{lang|el-Latn|''Arkhipélagos''}})とも呼ばれた。この言葉は「主要な海」( {{lang|el|ἄρχι-}} / {{lang|el-Latn|''arkhi-''}}「主要な」 と {{lang|el|πέλαγος}} / {{lang|el-Latn|''pelagos''}}「海」)を意味する。この語はのちに一般名詞化し「[[多島海]]」や「諸島・群島」を意味する「アーキペラゴ」({{lang-en-short|archipelago}})の由来となった。英語で語頭を[[大文字]]とし[[定冠詞]]を付した {{lang|en|the Archipelago}} は、エーゲ海のことを指す。 {{lang|en|the Archipelago}} に対して日本語で「'''多島海'''」という訳が宛てられることがあるが、上述の通りもともとの {{lang|el|Αρχιπέλαγος}} 自体には「島が多い」という意味は含まれない。 神話によれば、[[テーセウス]]が生贄の一人として[[クレータ島]]へ向かう際に無事脱出した場合には船に白い帆を掲げて帰還すると父王[[アイゲウス]]に約束していた。しかし約束を忘れて出航時の黒い帆のまま帰還したため、アイゲウスはテーセウスが死んだものと勘違いして絶望のあまり海へ身を投げて死んだ。この故事より彼の名に因んで「エーゲ海」([[エポニム]]という)となったとされる。 == 地理 == === 範囲 === [[File:Aegean Sea map bathymetry-fr.jpg|300px|thumb|エーゲ海(表示はフランス語)]] [[国際水路機関]](IHO)は、[[地中海]]の下位に8つの海域を定義しており、エーゲ海はそのひとつである。国際水路機関の定義によれば、その境界は以下の各地点を結んだものである<ref>{{Cite web2|url=https://iho.int/uploads/user/pubs/standards/s-23/S-23_Ed3_1953_EN.pdf#page=20 |title=Limits of Oceans and Seas, 3rd edition |format=PDF |year=1953 |publisher=International Hydrographic Organization |accessdate=2021-10-20 |page=18 |quote=(h) Aegean Sea (The Archipelago). |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111008191433/http://www.iho.int/iho_pubs/standard/S-23/S-23_Ed3_1953_EN.pdf#page=20 |archivedate=2011-10-08 |url-status=live |language=en}}</ref>。 ; 南 : 以下の各地点を結んだ線 :* [[アナトリア半島]](小アジア)本土の Cape Aspro(東経28度16分) :* [[ロドス島]]: Cum Burnù (Capo della Sabbia、島の北東端) - {{仮リンク|パラソニシ|en|Prasonisi}}(島の南西端) :* [[カルパトス島]](スカルパント島): Vrontos Point(北緯35度33分) - Castello Point(島の南端) :* [[クレタ島]]: Cape Plaka(島の東端) - Agria Grabusa(島の西端) :* [[アンディキティラ島]]: Cape Apolitares - Psira Rock(島の北西端) :* [[キティラ島]]: Cape Trakhili - Cape Karavugia(北端) :* ギリシャの Cape Santa Maria({{ウィキ座標|36|28|00|N|22|57|00|E|type=landmark|region:GR|北緯36度28分 東経22度57分}}) ; [[ダーダネルス海峡]] : アナトリア半島の Kum Kale から、[[ガリポリ半島]]の{{仮リンク|ヘレス岬|en|Cape Helles}}に至る線 エーゲ海の南ではその他の地中海(国際水路機関は名称を定義していない)と、ダーダネルス海峡では[[マルマラ海]]と接する。 定義によっては、南西に[[イオニア海]]と、南東に[[レバント海]]と接するとされることもある。 === 下位の海域 === エーゲ海の一部を、以下のような「海」の名で呼ぶことがある。 * [[クレタ海]] - エーゲ海の南部、キクラデス諸島とクレタ島の間の海 * {{仮リンク|ミルトア海|en|Myrtoan Sea}}(ミルトー海) - キクラデス諸島のとペロポネソス半島の間の海 * [[イカリア海]] - キクラデス諸島とアナトリア半島の間の海 * {{仮リンク|トラキア海|en|Thracian Sea}}(トラーキ海) - エーゲ海北東部 このほか、以下のような湾がある。 * {{仮リンク|サロス湾|en|Gulf of Saros}} * [[テルマイコス湾]] * [[パガシティコス湾]] * [[サロニコス湾]] * {{仮リンク|アルゴリコス湾|en|Argolic Gulf}} * {{仮リンク|ハニオン湾|en|Gulf of Chania}} * {{仮リンク|ギョコワ湾|tr|Gökova Körfezi}} * {{仮リンク|エドレミット湾|tr|Edremit Körfezi}} * {{仮リンク|イズミル湾|tr|İzmir Körfezi}} === 島 === {{main|エーゲ海諸島}} エーゲ海は大小合わせておよそ 2,500 の島々が浮かぶ[[多島海]]である。大半はギリシャに属しているが、ボズジャアダ(ボズジャ島、Bozcaada)と[[ギョクチェアダ島|ギョクチェアダ]](ギョクチェ島、Gökçeada)についてはトルコ領となっている。 エーゲ海の島々はいくつかの諸島に分類される。[[北エーゲ諸島]]、[[エヴィア島]]、[[スポラデス|スポラデス諸島]]、[[キクラデス諸島]]、[[サロニカ諸島]]、[[ドデカネス諸島]]それに[[クレタ島]]である。 エーゲ海沿岸はリアス式海岸が多く、天然の良港になっている。しかし、古代・中世にはエーゲ海の航海は決して安全なものではなかった。 == 歴史 == 周辺は[[エーゲ文明]]の発祥地。 古代には、[[クレタ島]]の[[ミノア文明|ミノス文明]]と[[ペロポネソス半島]]の[[ミケーネ文明]]が誕生した。さらに時代を下ると、[[アテナイ]]や[[スパルタ]]に代表される多くの[[都市国家]]により形成された古代ギリシャ文明が生じた。他にも[[ペルシャ]]、[[ローマ帝国]]、[[東ローマ帝国]]、[[ヴェネツィア共和国]]([[ヴェネツィア領クレタ]]および[[ナクソス公国]]を参照)、そして[[オスマン帝国]]がエーゲ海周辺に国家を形成した。[[ヨーロッパ]]と[[アジア]]を結ぶ中継地として中世以降も繁栄した。 == 産業 == 火山島が多く、[[大理石]]や鉄の産地でもある。クレタ島のような比較的面積の大きな島には肥沃な耕地が広がるが、多くの島は農業に適していない。しかし、[[地中海性気候]]のため、まばゆい太陽が輝く夏季には、太陽に恵まれない地域から多くの観光客が訪れる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Aegean Sea}} * [[特別:前方一致ページ一覧/エーゲ海]](「エーゲ海」で始まるページ) {{海}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:ええけかい}} [[Category:エーゲ海|*]] [[Category:地中海の海域]] [[Category:ヨーロッパの海域]] [[Category:トルコの水域]] [[Category:エポニム]]
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火(ひ、英: fire)とは、化学的には物質の燃焼(物質の急激な酸化)に伴って起きる現象、あるいは燃焼の一部、と考えられている現象である。 火は、熱や光を発生させると共に、様々な化学物質も生成する。気体が燃焼することによって発生する激しいものは炎と呼ばれる。煙が熱と光を持った形態で、気体の示す一つの姿であり、気体がイオン化してプラズマを生じている状態である。燃焼している物質の種類や含有している物質により、炎の色や強さが変化する。 人類の火についての理解は大きく変遷してきている。象徴的な理解は古代から現代まで力を持っている。また理知的には古代ギリシアにおいては4大元素のひとつと考えられた。西欧では18世紀頃までこうした考え方がされた。18世紀に影響力をもったフロギストン説も科学史的に重要である。 人類は古来、火を照明、調理、暖房、合図のために用いており、また近代以降は動力源としても火を利用してきた。「火の使用により初めて人類は文明を持つ余裕を持てた。」と考える人もおり、火を文明の象徴と考える人もいる。これはギリシャ神話における「プロメーテウスの火」の話を思い起こさせる。その後も火は人間の生活の中で非常に大きな地位を占め、火を起こすための燃料の確保は全ての時代において政治の基本となっている。とくに20世紀中盤以降はもっとも広く使用される燃料は石油であり、石油を産出する産油国はその生産によって莫大な利益を上げ、また石油価格の上下は世界経済に大きな影響を及ぼす。 火は火災を引き起こし、燃焼によって人間が物的損害を被ることがある。また、世界的な生態系にも影響する重要なプロセスである。火はある面では生態系を維持し、生物の成長を促す効果を持つ。また、火は水質・土壌・大気などを汚染する原因という側面もある。 人類は火を様々に理解してきた。いかにして火を手に入れたのかという、火の起源神話も世界各地から知られている。このタイプの火の起源神話として最も知られているものの一つに、ギリシア神話におけるプロメテウスの神話がある。 火を信仰の対象とする宗教もある。古代世界において火は神格化され、畏敬の対象とされた。例えばインド神話におけるアグニがある。また拝火教という異名を持つゾロアスター教もある。仏教もインドの拝火信仰と習合し、火葬などの文化を各地に伝えた。日本でもお盆の送り火(京都市の五山送り火が有名)をはじめ、国内各地で特徴的な火祭りが数多く存在する。なかでも小正月に行われる左義長(どんど焼き)は、日本各地にほぼまんべんなく存在する。信仰の場以外でも、例えばキャンプファイヤーなど多くの行事、象徴的な場などで火は用いられている。現代でも火は象徴としての力を持ち続けている。 前6世紀、ヘラクレイトスは、流転する世界の根源に火を位置づけ、魂を神的な火とみなした。前5世紀のエンペドクレスは、火を四元素のうちのひとつとし、プロメテウスに因んで「パイロ(古代ギリシア語: πυρ)」とした。デモクリトスは、魂と火を同一視し、原子は無数あるとしつつ、「球形のものが火であり、魂である」とした。アリストテレスの『自然学』において、火は四元素のひとつと位置づけられていた。古代ギリシャ哲学の流れを汲むイスラム科学でも火は元素の1つであると考えられた。(また中国大陸の哲学でも類似の考えかたがされていた)。18世紀ころまでのヨーロッパでも、おおむね主にアリストテレスの『自然学』における火の理解のしかたを継承したと考えてよい。ただし、他方で錬金術においては、火は物質や物質に仮託された精神の統合や純化を促す力、と考えられていた。 18世紀になると、多くの思想家は、熱や光に火の本質を求めようとした。カントは、温度上昇を火の元素の移動と関連付けて理解した。 ゲオルク・エルンスト・シュタールは、火というのは可燃性の原質「フロギストン」によって起きていると考え1697年の著書『化学の基礎』でこれを表明した。この説(フロギストン説)は多くの人々に支持され最大の影響力を持っていた。同説に対抗する諸説はあったが、18世紀末にラヴォアジエが行った批判や同氏の理論の説得力などにより、燃焼を酸素との結合現象とする説を採用する人が増え主流となってゆくことになった。 火は炎心と内炎と外炎によって構成されている。最も明るいのは内炎である。これは、炭素(すす)が最も多く含まれているためである。最も熱いのは、外炎である。これは、酸素と最も多く接触しているためである。また、内炎は、不完全燃焼をおこしている。 近年では「燃焼によって解放されたエネルギーのために、燃焼している物体(や気体)は発光する」と説明することがある。 火を付けるには、可燃物、酸素ガスのような酸化剤、それらの混合物が引火点を越えるための熱が必要である。火が点火すると、燃焼によって発生した熱エネルギーがさらなる燃焼を起こすが、燃焼し続けるには連鎖反応を生み出すよう燃料と酸素が連続的に供給される必要がある。火はこれらの要素が揃わない環境では存在しない。燃料と酸素だけでなく、触媒が必要な場合もある。触媒はそれ自体が燃焼するわけではないが、化学反応を促進する役目を果たす。 火を消すには、上述の要素のいずれかを取り除けばよい。例えば天然ガスの火を消すには以下のいずれかを行えばよい。 逆に、燃焼効率を高めることで火を強めることができる。そのためには化学量論的につりあいのとれた形で燃料と酸素の供給量を調整する。これによって火の温度も高くなって連鎖反応も強まるが、同時に触媒を必要とする場合もある。 炎は可視光や赤外光を放つ化学反応中の気体と固体の混合物であり、その周波数スペクトルは燃焼物や中間生成物の化学組成によって異なる。木などの有機物を燃やしたり、ガスを不完全燃焼させると、すすと呼ばれる白熱した固体粒子を生じ、赤からオレンジ色の火になる。火の発する光は連続なスペクトルを有する。ガスが完全燃焼すると、炎の中では励起された分子の電子が様々な遷移を起こして単一の波長の光を発するため、やや暗い青色の光になる。一般に火には酸素が必須だが、水素と塩素が化学反応して塩化水素となる場合も炎を生じる。他にも、フッ素と水素、ヒドラジンと四酸化二窒素の化学反応でも炎を生じる。 炎の発する光は複雑である。すす、ガス、燃料の粒子などが黒体放射するが、すすの粒子は完全な黒体として振舞うには小さすぎる。また、ガス内で下方遷移した原子や分子が光子を放出する。放射のほとんどは可視光と赤外線の範囲にある。色は黒体放射の温度や燃焼に関わる物質の化学組成によって変化する。炎の色を最も左右するのは温度である。山火事の写真を見ると、様々な炎の色が見てとれる。地表付近は最も激しく燃焼しているため、有機物が最も高温で燃焼しているときの白または黄色の炎が見える。その上にはやや温度の低いオレンジ色の炎があり、さらに温度の低い赤い炎が見える。赤い炎の上では燃焼は起きず、燃焼しきらなかった炭素粒子が黒い煙となっている。 アメリカ航空宇宙局 (NASA) は、炎の形成に重力もある役目を果たしていることを発見した。重力の条件が異なれば、炎の形状や色が変化する。通常重力下では対流によってすすが上に登っていくため、右の写真に見られるような形になり、黄色になる。宇宙空間などの無重力状態では対流が起きないため、炎は球状になり、完全に燃焼するため青くなる(ただし、燃焼によって発生したCO2がその場に留まって炎を包むため、ゆっくり炎を移動させないと火が消えてしまう)。この違いの説明はいくつか考えられるが、温度があらゆる方向に等しく伝わるためすすが生じず、完全燃焼するためという説明が最も妥当と見られる。 様々な火や炎の温度は次の通りである。 火の利用は、大きくは二つに分けられる。一つは光源であり、その炎から発する光を利用するものである。もう一つは熱源であり、燃焼による発熱を利用するものである。もっとも古い火の利用は、おそらく焚き火の形であり、これはその両方に利用された。現在でもキャンプにおける重要な事項の一つが焚き火の確保である。 人類がいつごろから火を使い始めたのか、はっきりした事は解っていない。人類が突如、火起こしをはじめたとは考えにくいため、初期の火は落雷や山火事によって燃えている木の枝などを住居あるいは洞窟に持ち帰り、火種として保存していたと考える人も多い。現在、火を使用した痕跡として発見されている最古のものは、南アフリカ、スワルトクランス洞窟の160万年前、東アフリカのケニア、チェソワンジャ遺跡の140万年前、エチオピアのミドル・アワシュ、イスラエルのゲシャー・ベノット・ヤーコブ炉跡といったものがある。この時代の人類はホモ・エレクトスと云われており、一説にはホモ・ハビリスまでさかのぼることができるという人もいる。また北京原人の発見地では、非常に厚い灰の層が発見されており、火を絶やさぬように燃やし続けたためではないかとの説もある。 ごく初期には焚き火がそのまま光源として用いられたと思われる。その薪を持ち上げれば松明になり、この二つが人工的な光源としては最古のものだと考えられている。その後明かりの燃料としては油が使われるようになり、ランプや行燈などは昭和初期までは現役であった。他に蝋燭も明かり用の火を作るもので、これは現在でも停電時に重宝する。近代に入ると、1792年にウィリアム・マードックがガス灯を発明し、19世紀初頭にはヨーロッパで普及した。また19世紀中盤には石油の増産と精製技術の向上によって、それまでの鯨油に替わって石油が照明用油の主力となった。 現在では明かりの主力は電気であるが、蝋燭は宗教行事では多用するし、薪能のように松明の明かりの雰囲気を楽しむ例もある。 生活用熱源としての火の利用は、暖房と調理が主なものだった。たき火は暖を取るためにも使えるが、炎が大きいとあまり近寄ることができない。むしろ炎が小さくても長くじっくり燃える小さな火が望ましい。燃えても炎が出ない炭はそのために有効だったと考えられる。さらに火を弱く長持ちさせるために灰に埋める方法がとられた。 部屋全体を暖かくするような暖房には、より激しく燃える火が必要になる。しかし室内で炎が上がるのは危険なので、火を閉じこめた上で激しく燃やすためにストーブや暖炉が作られた。液体燃料や気体燃料は、それを十分安全に供給する仕組みが発達するまでは利用されなかった。現在ではむしろこちらが主力である。電気はこちらではそれほど燃料の代替をしていない。 食物の加工に火を利用するようになったのは山火事などで逃げ損ねた動物の焼けた肉を食べたといったことがあったのではないかといわれている。食物を火で加熱することを覚えたことは、人類にとって重大な進歩だった。単に火を通すことで食味が良くなるだけではなく、それまで生では食べることの困難だった穀物や豆、芋など多くのものが食用可能になり、さらに動物の肉や魚などに火を通すことで寄生虫や病原菌の危険なしにこうした食物を摂取することができるようになった。こうした加熱消毒は現代においても調理の重要な一側面である。土器が出現すると、食材と水を入れて加熱することで煮ることが可能になった。さらに金属器が登場すると食材をより効率的に加熱することが可能となり、油で炒めたり揚げるといった調理法も開発された。 20世紀になると、電磁調理器や電子レンジなどの登場で、火を使わない加熱調理が可能となった。 山火事などで焼けた土地には草原ができ、これは草食動物のエサ場となり、当時まだ狩猟のみに頼っていた人類においては見逃せないほどの食糧供給の増大をもたらした。山火事が幾度も繰り返されるうちに人々はこのことに気づき、こうして人類の一部は適当な時期を見計らって野焼きを行って人為的に草原を維持するようになった。やがて森林地域においてもこの方法が持ち込まれたが、立木や生木を燃やすのは困難を極めるので、あらかじめ木を切り倒しておき、それを乾燥させてから火を放つようになった。さらに農業がこの地域に持ち込まれると、この野焼きによって空いたところに穀物や芋などを植え、畑とするようになった。これが焼畑農業の起源とされている。火を放つことによって地面に残された灰は良い肥料となり、このため焼畑を行った土地においては数年間は良い収穫を得ることができた。やがて地力が落ちてくるころになると畑は放棄され、新たな土地の木を切り倒してそこを新しい畑とする。放棄された畑には数十年後には再び森林が生い茂り、数か所を回ってきた人間がふたたびそこに火を放って畑にするといった形で循環がおこなわれていた。焼畑農業は現代においても熱帯地域を中心に広く行われているが、サイクルが短くなったため地力の消耗を招き、また森林火災を招き地球温暖化にも悪影響をもたらすとされ、しばしば問題となっている。 また、焼畑以外にも火を農業に利用する例はある。日本においては収穫後の水田に火を放って枯れた収穫後の稲や藁を燃やす、いわゆる火入れが行われることがあるが、これは害虫の駆除と燃えた後の灰を肥料化するという二つの目的で行われている。 火は、高熱によって物質の状態を変化させることができるため、この性質を利用してさまざまな工業に利用されてきた。こうした用途における最も古い利用法は粘土を焼いた、いわゆる土器の焼成である。土器はより高い温度で焼き上げると陶器、さらには磁器となり、より硬度を増すようになった。土器に次いで、人類は金属の精錬を覚えた。まず最初に開発されたものは融点の低い銅の利用であり、やがて錫と混ぜ合わせることで硬い青銅を作り上げることができるようになった。青銅の利用は人類を石器時代から一段階進歩させ、青銅器時代という一時代となった。さらにその後、人類は鉄を精錬できるようになり、鉄器時代が始まった。その後も火は工業にとってなくてはならないものであり、各種工業において広く使われている。 火は歴史上様々な形で戦争に利用されてきた。古くは狩猟採集社会で、野原や森林を焼き払うことで敵を傷つけ食料を得にくくするなど、火は人類がその制御に関する知識を得たころから戦争に利用されている。ホメーロスの『イーリアス』には、トロイの木馬に隠れていた兵士たちがトロイを焼き払う様子が描かれている。東ローマ帝国では戦争にギリシア火薬を用いた。第一次世界大戦では歩兵が初めて火炎放射器を使い、第二次世界大戦ではそれを車両に装備した。また、焼夷弾による爆撃が東京、ロッテルダム、ロンドン、ハンブルク、ドレスデンなどで行われた。それによって火災旋風が起きた都市もある。大戦末期には米軍が日本の各都市を焼夷弾で爆撃した。日本の家屋は木造が多かったため、焼夷弾の効果が大きかった。1945年7月、大戦終結直前にナパーム弾が投入されているが、ナパーム弾が一般に知られるようになるのはベトナム戦争のときである。また、火炎瓶という武器も使われてきた。 燃料に点火することで利用可能なエネルギーが放出される。先史時代から木材が燃料として使われている。石油、天然ガス、石炭といった化石燃料が火力発電で使われており、今日の発電量の大きな部分を占めている。国際エネルギー機関によれば、2007年時点で全世界のエネルギー源の80%強が化石燃料だという。発電所では火によって水を熱し、蒸気を発生させてタービンを駆動する。タービンが発電機を駆動し、発電が行われる。外燃機関や内燃機関では火が直接仕事をする。 火を利用するにあたって、もっとも困難なのは、火種を作ることである。自然界において火を自由に手に入れる機会はほとんどなく、落雷など偶然の機会に頼る他はない。その上、その際に山火事などの危険を生じる場合もあり、人間が近寄れないことも多々ある。このため、人類が火を起こす手段を開発するまではいったん手に入れた火種は大切に守られた。これは下記のような手段によって火を起こす技術が手に入ったのちも変わらず、多くの文明において各家庭にある火種は大切に守られるのが常であった。火の気の全くない場所で火を起こす技術はいくつか発明されているが、現代文明で発明されたもの以外はいずれも技術的に高度なものであり、現代人が安易にまねてもうまく火が点かない例も多い。 発火法には大きく分けると、摩擦法・打撃法・圧縮法・光学法・化学法・電気法の6つに分類できるが、一般的に知られる代表的な例としては、以下の方法がある。 古来使われたのは、最初の2つの方法である。もっとも単純な火おこし法は摩擦法であり、世界中に広く分布している。火打石などを使う打撃法も、摩擦法に比べ簡便であるために広く使用された。光学法は特に技術が不用なので、晴れていれば誰でも利用できるが、専用の機材がなければ無理である。また、安定した太陽光が必要なため晴天でない場合や夜間には用いることができない。こうしたことから一般的な火おこし法ではなかったが、この方法を使って火を起こせることは一部では知られており、まれに利用もされた。また、ボルネオやビルマなど一部においては可燃物をピストンの中に強く押し付ける圧縮法で火を起こす民族も存在した。化学法と電気法は科学革命の起こった19世紀以後の産物であり、それまでの前近代社会において使用されることはなかった。こうしておこされた火種は、火口(ほくち)と呼ばれる燃えやすい物質で受けて、火を大きくさせたのち様々な用途に使用された。しかし、こうした発火法はいずれも手間のかかるものであり、気軽に利用できるとは必ずしも言えなかった。 こうした点を改善し、点火を簡便に行える装置として開発されたのがマッチである。マッチは発火性のある物質をつけた短い軸木をこすり付けて火を起こすもので、系譜としては摩擦法に属する。赤リンの開発によって1852年に安全マッチが発明されると、簡単で安全な点火方法として普及し瞬く間にそれまでの点火方法を駆逐した。さらにライターなどの点火器具が次々と開発され、点火は以前と比べ非常に簡単なものとなった。 火を維持するには、燃料と酸素が必要である。火は燃料を消費して燃え続け、燃料がなくなれば消える。消えると再び点火するのはそれなりに難しいから、使い続けるためには燃料を切らしてはならない。そのためにはそれなりに工夫が必要である。 他方、地球上の普通の環境は、火の温度に比べて遙かに低い。そのため火の周囲の温度が低下すれば火は消えやすい。たき火の場合には、ある程度燃えれば底にたまった灰が良い受け皿になる。これを応用してあらかじめ灰を敷いたところで火を燃やすのが火鉢などである。ちなみに、灰で火のついた炭を覆うことで、火を完全に消さないままに長時間保存できるうまみもある。 逆に火の勢いが強くなると、周囲のものが熱などによって影響を受けやすい。特に人工的なものが多い中では、それらを破壊し、あるいは火事のもとともなる。そのためにも、火の周りに断熱的な構造を作るのは重要な工夫である。 燃料の供給は火の維持には欠かせない。もっとも古い形は薪をたき火に追加していくことである。後にこれは炭に置き換えられた。さらに油やガスなど液体燃料や気体燃料も利用されるようになった。液体燃料や気体燃料はそのまま点火するのは危険だから、一定量ずつ取り出して火に供給する仕組みが必要になる。そのために工業の進まない間は利用が難しかったが、現在ではむしろ主力となっている。 火は高温であり、さらに火事を引き起こすこともあるから、消火を確実に行うことも重要である。火を扱う器具は消火の仕組みも備えなければならない。固体の燃料は消火したように見えても高温を維持している場合があり、再び発火する危険性があるため、事後の処理に注意を要する。 現在の主力である気体燃料や液体燃料の場合、それを供給する構造があるので、ここを操作して供給を絶つことで容易に消火ができる。また、そのあとに燃えさしを生じない点でも簡便である。 火が人間の制御下を離れ燃え広がることを火災と呼ぶ。一旦火災が起こると多くの人命や財産が失われる場合が多い。一旦火災が起こると自然に鎮火することを期待するのは難しく、初期においては消火器により、それでも足りない場合には消防の力を借り消火する事になる。開発の進んだ地域では火災に対処するため消防サービスが提供されている。消防士が消防車などを使い、消火栓などの水を放水して消火する。燃焼している物質によっては化学消防車を使用する。 火災の予防には発火源となるものを除去することが第一である。また、火災を防ぐ方法についての教育も重要である。学校などの大きな建物では、火災に備えて避難訓練を実施している。ほとんどの法治国家では、放火は犯罪である。 多くの国で建築における出火対策を定めている。能動的対策としてスプリンクラー設備がある。受動的対策として先進国では建築材料の耐火性能について法律で規定している。 人口の集中する都市で起こった火災は大きな被害をもたらし、64年のローマ大火や1666年のロンドン大火のように歴史上広く知られているものも存在する。日本では燃えやすい木造家屋が中心だったために都市の大火が多く、なかでも江戸は1657年の明暦の大火を筆頭に、頻繁に大火に見舞われた。その後都市の難燃化や防火体制の整備によって都市の火事は全世界的に減少・小規模化したが、戦争や地震などによって防火体制にほころびが生じたときには大規模な火事が発生する場合がある。 また都市での火事のほか、森林や草原を焼き尽くす、いわゆる山火事も存在する。山火事はどの森林でも発生するが、特にオーストラリアやカリフォルニアといった温帯の半乾燥地や、シベリアやカナダなどの冷帯の針葉樹林では頻発しており、山火事を前提とした生態系が成立している。 生命はしばしば火に喩えられ、また火も生命にたとえられる。炎が動く様や燃料を消費しつつ燃えるのが、生命体が栄養をとりつつ活動するのに類似している。反対に生命体の死は、火が消えることに譬えられる。 一方で火災や戦火など死や破壊の象徴とされる事もある。 処刑の方法としての火あぶりは見せしめ的な印象が強い。また、自殺の方法のひとつである焼身自殺はやはり衆目を引きつける事を目指し、特に訴えるものを持つ者によって行われることが多い。 恋愛感情や怒りのような高ぶる感情はしばしば火や炎にたとえられる(比喩)。「焼け木杭(ぼっくい)に火がついた」という表現は、一度焼けて炭になった木の杭はその後も簡単に火がつくことから、かつて恋愛関係にあった男女がありがちなことに再度恋愛関係になることを意味している。また「火を噴くように」怒ったりするのもこの例である。羞恥などで頬が赤くなるのを「火が出るよう」と形容する例もある。 また、危険なものとの認識から、危機に陥ることを「尻に火がついた」などという例もある。野球において投手が打ち込まれる(立て続けにヒットを打たれる)と「火だるま」や「炎上」といわれる。 「火をつける」は実際に燃料に点火する場合にも使うが、たとえばある計画や活動を立ち上げる際にも使うことがある。一旦点火すると後は勝手に燃え上がるところからの転用であろう。発案者や仕掛け役のことを「火元」とか「火付け役」とかいう例もある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "火(ひ、英: fire)とは、化学的には物質の燃焼(物質の急激な酸化)に伴って起きる現象、あるいは燃焼の一部、と考えられている現象である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "火は、熱や光を発生させると共に、様々な化学物質も生成する。気体が燃焼することによって発生する激しいものは炎と呼ばれる。煙が熱と光を持った形態で、気体の示す一つの姿であり、気体がイオン化してプラズマを生じている状態である。燃焼している物質の種類や含有している物質により、炎の色や強さが変化する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "人類の火についての理解は大きく変遷してきている。象徴的な理解は古代から現代まで力を持っている。また理知的には古代ギリシアにおいては4大元素のひとつと考えられた。西欧では18世紀頃までこうした考え方がされた。18世紀に影響力をもったフロギストン説も科学史的に重要である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "人類は古来、火を照明、調理、暖房、合図のために用いており、また近代以降は動力源としても火を利用してきた。「火の使用により初めて人類は文明を持つ余裕を持てた。」と考える人もおり、火を文明の象徴と考える人もいる。これはギリシャ神話における「プロメーテウスの火」の話を思い起こさせる。その後も火は人間の生活の中で非常に大きな地位を占め、火を起こすための燃料の確保は全ての時代において政治の基本となっている。とくに20世紀中盤以降はもっとも広く使用される燃料は石油であり、石油を産出する産油国はその生産によって莫大な利益を上げ、また石油価格の上下は世界経済に大きな影響を及ぼす。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "火は火災を引き起こし、燃焼によって人間が物的損害を被ることがある。また、世界的な生態系にも影響する重要なプロセスである。火はある面では生態系を維持し、生物の成長を促す効果を持つ。また、火は水質・土壌・大気などを汚染する原因という側面もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "人類は火を様々に理解してきた。いかにして火を手に入れたのかという、火の起源神話も世界各地から知られている。このタイプの火の起源神話として最も知られているものの一つに、ギリシア神話におけるプロメテウスの神話がある。", "title": "火の理解史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "火を信仰の対象とする宗教もある。古代世界において火は神格化され、畏敬の対象とされた。例えばインド神話におけるアグニがある。また拝火教という異名を持つゾロアスター教もある。仏教もインドの拝火信仰と習合し、火葬などの文化を各地に伝えた。日本でもお盆の送り火(京都市の五山送り火が有名)をはじめ、国内各地で特徴的な火祭りが数多く存在する。なかでも小正月に行われる左義長(どんど焼き)は、日本各地にほぼまんべんなく存在する。信仰の場以外でも、例えばキャンプファイヤーなど多くの行事、象徴的な場などで火は用いられている。現代でも火は象徴としての力を持ち続けている。", "title": "火の理解史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "前6世紀、ヘラクレイトスは、流転する世界の根源に火を位置づけ、魂を神的な火とみなした。前5世紀のエンペドクレスは、火を四元素のうちのひとつとし、プロメテウスに因んで「パイロ(古代ギリシア語: πυρ)」とした。デモクリトスは、魂と火を同一視し、原子は無数あるとしつつ、「球形のものが火であり、魂である」とした。アリストテレスの『自然学』において、火は四元素のひとつと位置づけられていた。古代ギリシャ哲学の流れを汲むイスラム科学でも火は元素の1つであると考えられた。(また中国大陸の哲学でも類似の考えかたがされていた)。18世紀ころまでのヨーロッパでも、おおむね主にアリストテレスの『自然学』における火の理解のしかたを継承したと考えてよい。ただし、他方で錬金術においては、火は物質や物質に仮託された精神の統合や純化を促す力、と考えられていた。", "title": "火の理解史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "18世紀になると、多くの思想家は、熱や光に火の本質を求めようとした。カントは、温度上昇を火の元素の移動と関連付けて理解した。", "title": "火の理解史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ゲオルク・エルンスト・シュタールは、火というのは可燃性の原質「フロギストン」によって起きていると考え1697年の著書『化学の基礎』でこれを表明した。この説(フロギストン説)は多くの人々に支持され最大の影響力を持っていた。同説に対抗する諸説はあったが、18世紀末にラヴォアジエが行った批判や同氏の理論の説得力などにより、燃焼を酸素との結合現象とする説を採用する人が増え主流となってゆくことになった。", "title": "火の理解史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "火は炎心と内炎と外炎によって構成されている。最も明るいのは内炎である。これは、炭素(すす)が最も多く含まれているためである。最も熱いのは、外炎である。これは、酸素と最も多く接触しているためである。また、内炎は、不完全燃焼をおこしている。", "title": "火の構造、しくみ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "近年では「燃焼によって解放されたエネルギーのために、燃焼している物体(や気体)は発光する」と説明することがある。", "title": "火の構造、しくみ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "火を付けるには、可燃物、酸素ガスのような酸化剤、それらの混合物が引火点を越えるための熱が必要である。火が点火すると、燃焼によって発生した熱エネルギーがさらなる燃焼を起こすが、燃焼し続けるには連鎖反応を生み出すよう燃料と酸素が連続的に供給される必要がある。火はこれらの要素が揃わない環境では存在しない。燃料と酸素だけでなく、触媒が必要な場合もある。触媒はそれ自体が燃焼するわけではないが、化学反応を促進する役目を果たす。", "title": "火の構造、しくみ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "火を消すには、上述の要素のいずれかを取り除けばよい。例えば天然ガスの火を消すには以下のいずれかを行えばよい。", "title": "火の構造、しくみ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "逆に、燃焼効率を高めることで火を強めることができる。そのためには化学量論的につりあいのとれた形で燃料と酸素の供給量を調整する。これによって火の温度も高くなって連鎖反応も強まるが、同時に触媒を必要とする場合もある。", "title": "火の構造、しくみ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "炎は可視光や赤外光を放つ化学反応中の気体と固体の混合物であり、その周波数スペクトルは燃焼物や中間生成物の化学組成によって異なる。木などの有機物を燃やしたり、ガスを不完全燃焼させると、すすと呼ばれる白熱した固体粒子を生じ、赤からオレンジ色の火になる。火の発する光は連続なスペクトルを有する。ガスが完全燃焼すると、炎の中では励起された分子の電子が様々な遷移を起こして単一の波長の光を発するため、やや暗い青色の光になる。一般に火には酸素が必須だが、水素と塩素が化学反応して塩化水素となる場合も炎を生じる。他にも、フッ素と水素、ヒドラジンと四酸化二窒素の化学反応でも炎を生じる。", "title": "火の構造、しくみ" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "炎の発する光は複雑である。すす、ガス、燃料の粒子などが黒体放射するが、すすの粒子は完全な黒体として振舞うには小さすぎる。また、ガス内で下方遷移した原子や分子が光子を放出する。放射のほとんどは可視光と赤外線の範囲にある。色は黒体放射の温度や燃焼に関わる物質の化学組成によって変化する。炎の色を最も左右するのは温度である。山火事の写真を見ると、様々な炎の色が見てとれる。地表付近は最も激しく燃焼しているため、有機物が最も高温で燃焼しているときの白または黄色の炎が見える。その上にはやや温度の低いオレンジ色の炎があり、さらに温度の低い赤い炎が見える。赤い炎の上では燃焼は起きず、燃焼しきらなかった炭素粒子が黒い煙となっている。", "title": "火の構造、しくみ" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "アメリカ航空宇宙局 (NASA) は、炎の形成に重力もある役目を果たしていることを発見した。重力の条件が異なれば、炎の形状や色が変化する。通常重力下では対流によってすすが上に登っていくため、右の写真に見られるような形になり、黄色になる。宇宙空間などの無重力状態では対流が起きないため、炎は球状になり、完全に燃焼するため青くなる(ただし、燃焼によって発生したCO2がその場に留まって炎を包むため、ゆっくり炎を移動させないと火が消えてしまう)。この違いの説明はいくつか考えられるが、温度があらゆる方向に等しく伝わるためすすが生じず、完全燃焼するためという説明が最も妥当と見られる。", "title": "火の構造、しくみ" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "様々な火や炎の温度は次の通りである。", "title": "火の構造、しくみ" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "火の利用は、大きくは二つに分けられる。一つは光源であり、その炎から発する光を利用するものである。もう一つは熱源であり、燃焼による発熱を利用するものである。もっとも古い火の利用は、おそらく焚き火の形であり、これはその両方に利用された。現在でもキャンプにおける重要な事項の一つが焚き火の確保である。", "title": "火の利用・用途" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "人類がいつごろから火を使い始めたのか、はっきりした事は解っていない。人類が突如、火起こしをはじめたとは考えにくいため、初期の火は落雷や山火事によって燃えている木の枝などを住居あるいは洞窟に持ち帰り、火種として保存していたと考える人も多い。現在、火を使用した痕跡として発見されている最古のものは、南アフリカ、スワルトクランス洞窟の160万年前、東アフリカのケニア、チェソワンジャ遺跡の140万年前、エチオピアのミドル・アワシュ、イスラエルのゲシャー・ベノット・ヤーコブ炉跡といったものがある。この時代の人類はホモ・エレクトスと云われており、一説にはホモ・ハビリスまでさかのぼることができるという人もいる。また北京原人の発見地では、非常に厚い灰の層が発見されており、火を絶やさぬように燃やし続けたためではないかとの説もある。", "title": "火の利用・用途" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ごく初期には焚き火がそのまま光源として用いられたと思われる。その薪を持ち上げれば松明になり、この二つが人工的な光源としては最古のものだと考えられている。その後明かりの燃料としては油が使われるようになり、ランプや行燈などは昭和初期までは現役であった。他に蝋燭も明かり用の火を作るもので、これは現在でも停電時に重宝する。近代に入ると、1792年にウィリアム・マードックがガス灯を発明し、19世紀初頭にはヨーロッパで普及した。また19世紀中盤には石油の増産と精製技術の向上によって、それまでの鯨油に替わって石油が照明用油の主力となった。", "title": "火の利用・用途" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "現在では明かりの主力は電気であるが、蝋燭は宗教行事では多用するし、薪能のように松明の明かりの雰囲気を楽しむ例もある。", "title": "火の利用・用途" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "生活用熱源としての火の利用は、暖房と調理が主なものだった。たき火は暖を取るためにも使えるが、炎が大きいとあまり近寄ることができない。むしろ炎が小さくても長くじっくり燃える小さな火が望ましい。燃えても炎が出ない炭はそのために有効だったと考えられる。さらに火を弱く長持ちさせるために灰に埋める方法がとられた。", "title": "火の利用・用途" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "部屋全体を暖かくするような暖房には、より激しく燃える火が必要になる。しかし室内で炎が上がるのは危険なので、火を閉じこめた上で激しく燃やすためにストーブや暖炉が作られた。液体燃料や気体燃料は、それを十分安全に供給する仕組みが発達するまでは利用されなかった。現在ではむしろこちらが主力である。電気はこちらではそれほど燃料の代替をしていない。", "title": "火の利用・用途" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "食物の加工に火を利用するようになったのは山火事などで逃げ損ねた動物の焼けた肉を食べたといったことがあったのではないかといわれている。食物を火で加熱することを覚えたことは、人類にとって重大な進歩だった。単に火を通すことで食味が良くなるだけではなく、それまで生では食べることの困難だった穀物や豆、芋など多くのものが食用可能になり、さらに動物の肉や魚などに火を通すことで寄生虫や病原菌の危険なしにこうした食物を摂取することができるようになった。こうした加熱消毒は現代においても調理の重要な一側面である。土器が出現すると、食材と水を入れて加熱することで煮ることが可能になった。さらに金属器が登場すると食材をより効率的に加熱することが可能となり、油で炒めたり揚げるといった調理法も開発された。", "title": "火の利用・用途" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "20世紀になると、電磁調理器や電子レンジなどの登場で、火を使わない加熱調理が可能となった。", "title": "火の利用・用途" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "山火事などで焼けた土地には草原ができ、これは草食動物のエサ場となり、当時まだ狩猟のみに頼っていた人類においては見逃せないほどの食糧供給の増大をもたらした。山火事が幾度も繰り返されるうちに人々はこのことに気づき、こうして人類の一部は適当な時期を見計らって野焼きを行って人為的に草原を維持するようになった。やがて森林地域においてもこの方法が持ち込まれたが、立木や生木を燃やすのは困難を極めるので、あらかじめ木を切り倒しておき、それを乾燥させてから火を放つようになった。さらに農業がこの地域に持ち込まれると、この野焼きによって空いたところに穀物や芋などを植え、畑とするようになった。これが焼畑農業の起源とされている。火を放つことによって地面に残された灰は良い肥料となり、このため焼畑を行った土地においては数年間は良い収穫を得ることができた。やがて地力が落ちてくるころになると畑は放棄され、新たな土地の木を切り倒してそこを新しい畑とする。放棄された畑には数十年後には再び森林が生い茂り、数か所を回ってきた人間がふたたびそこに火を放って畑にするといった形で循環がおこなわれていた。焼畑農業は現代においても熱帯地域を中心に広く行われているが、サイクルが短くなったため地力の消耗を招き、また森林火災を招き地球温暖化にも悪影響をもたらすとされ、しばしば問題となっている。", "title": "火の利用・用途" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また、焼畑以外にも火を農業に利用する例はある。日本においては収穫後の水田に火を放って枯れた収穫後の稲や藁を燃やす、いわゆる火入れが行われることがあるが、これは害虫の駆除と燃えた後の灰を肥料化するという二つの目的で行われている。", "title": "火の利用・用途" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "火は、高熱によって物質の状態を変化させることができるため、この性質を利用してさまざまな工業に利用されてきた。こうした用途における最も古い利用法は粘土を焼いた、いわゆる土器の焼成である。土器はより高い温度で焼き上げると陶器、さらには磁器となり、より硬度を増すようになった。土器に次いで、人類は金属の精錬を覚えた。まず最初に開発されたものは融点の低い銅の利用であり、やがて錫と混ぜ合わせることで硬い青銅を作り上げることができるようになった。青銅の利用は人類を石器時代から一段階進歩させ、青銅器時代という一時代となった。さらにその後、人類は鉄を精錬できるようになり、鉄器時代が始まった。その後も火は工業にとってなくてはならないものであり、各種工業において広く使われている。", "title": "火の利用・用途" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "火は歴史上様々な形で戦争に利用されてきた。古くは狩猟採集社会で、野原や森林を焼き払うことで敵を傷つけ食料を得にくくするなど、火は人類がその制御に関する知識を得たころから戦争に利用されている。ホメーロスの『イーリアス』には、トロイの木馬に隠れていた兵士たちがトロイを焼き払う様子が描かれている。東ローマ帝国では戦争にギリシア火薬を用いた。第一次世界大戦では歩兵が初めて火炎放射器を使い、第二次世界大戦ではそれを車両に装備した。また、焼夷弾による爆撃が東京、ロッテルダム、ロンドン、ハンブルク、ドレスデンなどで行われた。それによって火災旋風が起きた都市もある。大戦末期には米軍が日本の各都市を焼夷弾で爆撃した。日本の家屋は木造が多かったため、焼夷弾の効果が大きかった。1945年7月、大戦終結直前にナパーム弾が投入されているが、ナパーム弾が一般に知られるようになるのはベトナム戦争のときである。また、火炎瓶という武器も使われてきた。", "title": "火の利用・用途" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "燃料に点火することで利用可能なエネルギーが放出される。先史時代から木材が燃料として使われている。石油、天然ガス、石炭といった化石燃料が火力発電で使われており、今日の発電量の大きな部分を占めている。国際エネルギー機関によれば、2007年時点で全世界のエネルギー源の80%強が化石燃料だという。発電所では火によって水を熱し、蒸気を発生させてタービンを駆動する。タービンが発電機を駆動し、発電が行われる。外燃機関や内燃機関では火が直接仕事をする。", "title": "火の利用・用途" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "火を利用するにあたって、もっとも困難なのは、火種を作ることである。自然界において火を自由に手に入れる機会はほとんどなく、落雷など偶然の機会に頼る他はない。その上、その際に山火事などの危険を生じる場合もあり、人間が近寄れないことも多々ある。このため、人類が火を起こす手段を開発するまではいったん手に入れた火種は大切に守られた。これは下記のような手段によって火を起こす技術が手に入ったのちも変わらず、多くの文明において各家庭にある火種は大切に守られるのが常であった。火の気の全くない場所で火を起こす技術はいくつか発明されているが、現代文明で発明されたもの以外はいずれも技術的に高度なものであり、現代人が安易にまねてもうまく火が点かない例も多い。", "title": "火の扱い方" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "発火法には大きく分けると、摩擦法・打撃法・圧縮法・光学法・化学法・電気法の6つに分類できるが、一般的に知られる代表的な例としては、以下の方法がある。", "title": "火の扱い方" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "古来使われたのは、最初の2つの方法である。もっとも単純な火おこし法は摩擦法であり、世界中に広く分布している。火打石などを使う打撃法も、摩擦法に比べ簡便であるために広く使用された。光学法は特に技術が不用なので、晴れていれば誰でも利用できるが、専用の機材がなければ無理である。また、安定した太陽光が必要なため晴天でない場合や夜間には用いることができない。こうしたことから一般的な火おこし法ではなかったが、この方法を使って火を起こせることは一部では知られており、まれに利用もされた。また、ボルネオやビルマなど一部においては可燃物をピストンの中に強く押し付ける圧縮法で火を起こす民族も存在した。化学法と電気法は科学革命の起こった19世紀以後の産物であり、それまでの前近代社会において使用されることはなかった。こうしておこされた火種は、火口(ほくち)と呼ばれる燃えやすい物質で受けて、火を大きくさせたのち様々な用途に使用された。しかし、こうした発火法はいずれも手間のかかるものであり、気軽に利用できるとは必ずしも言えなかった。", "title": "火の扱い方" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "こうした点を改善し、点火を簡便に行える装置として開発されたのがマッチである。マッチは発火性のある物質をつけた短い軸木をこすり付けて火を起こすもので、系譜としては摩擦法に属する。赤リンの開発によって1852年に安全マッチが発明されると、簡単で安全な点火方法として普及し瞬く間にそれまでの点火方法を駆逐した。さらにライターなどの点火器具が次々と開発され、点火は以前と比べ非常に簡単なものとなった。", "title": "火の扱い方" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "火を維持するには、燃料と酸素が必要である。火は燃料を消費して燃え続け、燃料がなくなれば消える。消えると再び点火するのはそれなりに難しいから、使い続けるためには燃料を切らしてはならない。そのためにはそれなりに工夫が必要である。", "title": "火の扱い方" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "他方、地球上の普通の環境は、火の温度に比べて遙かに低い。そのため火の周囲の温度が低下すれば火は消えやすい。たき火の場合には、ある程度燃えれば底にたまった灰が良い受け皿になる。これを応用してあらかじめ灰を敷いたところで火を燃やすのが火鉢などである。ちなみに、灰で火のついた炭を覆うことで、火を完全に消さないままに長時間保存できるうまみもある。", "title": "火の扱い方" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "逆に火の勢いが強くなると、周囲のものが熱などによって影響を受けやすい。特に人工的なものが多い中では、それらを破壊し、あるいは火事のもとともなる。そのためにも、火の周りに断熱的な構造を作るのは重要な工夫である。", "title": "火の扱い方" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "燃料の供給は火の維持には欠かせない。もっとも古い形は薪をたき火に追加していくことである。後にこれは炭に置き換えられた。さらに油やガスなど液体燃料や気体燃料も利用されるようになった。液体燃料や気体燃料はそのまま点火するのは危険だから、一定量ずつ取り出して火に供給する仕組みが必要になる。そのために工業の進まない間は利用が難しかったが、現在ではむしろ主力となっている。", "title": "火の扱い方" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "火は高温であり、さらに火事を引き起こすこともあるから、消火を確実に行うことも重要である。火を扱う器具は消火の仕組みも備えなければならない。固体の燃料は消火したように見えても高温を維持している場合があり、再び発火する危険性があるため、事後の処理に注意を要する。", "title": "火の扱い方" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "現在の主力である気体燃料や液体燃料の場合、それを供給する構造があるので、ここを操作して供給を絶つことで容易に消火ができる。また、そのあとに燃えさしを生じない点でも簡便である。", "title": "火の扱い方" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "火が人間の制御下を離れ燃え広がることを火災と呼ぶ。一旦火災が起こると多くの人命や財産が失われる場合が多い。一旦火災が起こると自然に鎮火することを期待するのは難しく、初期においては消火器により、それでも足りない場合には消防の力を借り消火する事になる。開発の進んだ地域では火災に対処するため消防サービスが提供されている。消防士が消防車などを使い、消火栓などの水を放水して消火する。燃焼している物質によっては化学消防車を使用する。", "title": "火災" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "火災の予防には発火源となるものを除去することが第一である。また、火災を防ぐ方法についての教育も重要である。学校などの大きな建物では、火災に備えて避難訓練を実施している。ほとんどの法治国家では、放火は犯罪である。", "title": "火災" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "多くの国で建築における出火対策を定めている。能動的対策としてスプリンクラー設備がある。受動的対策として先進国では建築材料の耐火性能について法律で規定している。", "title": "火災" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "人口の集中する都市で起こった火災は大きな被害をもたらし、64年のローマ大火や1666年のロンドン大火のように歴史上広く知られているものも存在する。日本では燃えやすい木造家屋が中心だったために都市の大火が多く、なかでも江戸は1657年の明暦の大火を筆頭に、頻繁に大火に見舞われた。その後都市の難燃化や防火体制の整備によって都市の火事は全世界的に減少・小規模化したが、戦争や地震などによって防火体制にほころびが生じたときには大規模な火事が発生する場合がある。", "title": "火災" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また都市での火事のほか、森林や草原を焼き尽くす、いわゆる山火事も存在する。山火事はどの森林でも発生するが、特にオーストラリアやカリフォルニアといった温帯の半乾燥地や、シベリアやカナダなどの冷帯の針葉樹林では頻発しており、山火事を前提とした生態系が成立している。", "title": "火災" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "生命はしばしば火に喩えられ、また火も生命にたとえられる。炎が動く様や燃料を消費しつつ燃えるのが、生命体が栄養をとりつつ活動するのに類似している。反対に生命体の死は、火が消えることに譬えられる。", "title": "象徴としての火" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "一方で火災や戦火など死や破壊の象徴とされる事もある。", "title": "象徴としての火" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "処刑の方法としての火あぶりは見せしめ的な印象が強い。また、自殺の方法のひとつである焼身自殺はやはり衆目を引きつける事を目指し、特に訴えるものを持つ者によって行われることが多い。", "title": "象徴としての火" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "恋愛感情や怒りのような高ぶる感情はしばしば火や炎にたとえられる(比喩)。「焼け木杭(ぼっくい)に火がついた」という表現は、一度焼けて炭になった木の杭はその後も簡単に火がつくことから、かつて恋愛関係にあった男女がありがちなことに再度恋愛関係になることを意味している。また「火を噴くように」怒ったりするのもこの例である。羞恥などで頬が赤くなるのを「火が出るよう」と形容する例もある。", "title": "象徴としての火" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "また、危険なものとの認識から、危機に陥ることを「尻に火がついた」などという例もある。野球において投手が打ち込まれる(立て続けにヒットを打たれる)と「火だるま」や「炎上」といわれる。", "title": "象徴としての火" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "「火をつける」は実際に燃料に点火する場合にも使うが、たとえばある計画や活動を立ち上げる際にも使うことがある。一旦点火すると後は勝手に燃え上がるところからの転用であろう。発案者や仕掛け役のことを「火元」とか「火付け役」とかいう例もある。", "title": "象徴としての火" } ]
火とは、化学的には物質の燃焼(物質の急激な酸化)に伴って起きる現象、あるいは燃焼の一部、と考えられている現象である。 火は、熱や光を発生させると共に、様々な化学物質も生成する。気体が燃焼することによって発生する激しいものは炎と呼ばれる。煙が熱と光を持った形態で、気体の示す一つの姿であり、気体がイオン化してプラズマを生じている状態である。燃焼している物質の種類や含有している物質により、炎の色や強さが変化する。 人類の火についての理解は大きく変遷してきている。象徴的な理解は古代から現代まで力を持っている。また理知的には古代ギリシアにおいては4大元素のひとつと考えられた。西欧では18世紀頃までこうした考え方がされた。18世紀に影響力をもったフロギストン説も科学史的に重要である。 人類は古来、火を照明、調理、暖房、合図のために用いており、また近代以降は動力源としても火を利用してきた。「火の使用により初めて人類は文明を持つ余裕を持てた。」と考える人もおり、火を文明の象徴と考える人もいる。これはギリシャ神話における「プロメーテウスの火」の話を思い起こさせる。その後も火は人間の生活の中で非常に大きな地位を占め、火を起こすための燃料の確保は全ての時代において政治の基本となっている。とくに20世紀中盤以降はもっとも広く使用される燃料は石油であり、石油を産出する産油国はその生産によって莫大な利益を上げ、また石油価格の上下は世界経済に大きな影響を及ぼす。 火は火災を引き起こし、燃焼によって人間が物的損害を被ることがある。また、世界的な生態系にも影響する重要なプロセスである。火はある面では生態系を維持し、生物の成長を促す効果を持つ。また、火は水質・土壌・大気などを汚染する原因という側面もある。
{{Otheruses|化学現象としての火}} {{出典の明記|date=2016年5月5日 (木) 13:44 (UTC)}} [[ファイル:Streichholz.JPG|thumb|right|[[マッチ]]の火]] {{Wiktionarypar|火|ひ}} '''火'''(ひ、{{Lang-en-short|fire}})とは、[[化学]]的には[[物質]]の[[燃焼]](物質の急激な[[酸化還元反応|酸化]])に伴って起きる現象、あるいは燃焼の一部、と考えられている現象である。 火は、[[熱]]や[[光]]を発生させると共に、様々な化学物質も生成する<ref>{{Citation|title=Glossary of Wildland Fire Terminology|date=November 2009|year=|postscript=<!--None-->|url=http://www.nwcg.gov/pms/pubs/glossary/pms205.pdf|publisher=National Wildfire Coordinating Group|accessdate=2008-12-18}}</ref>。[[気体]]が燃焼することによって発生する激しいものは[[炎]]と呼ばれる。煙が熱と光を持った形態で、気体の示す一つの姿であり、気体が[[イオン化]]して[[プラズマ]]を生じている状態である<ref>{{Cite web | url= http://chemistry.about.com/od/chemistryfaqs/f/firechemistry.htm | title= What is the State of Matter of Fire or Flame? Is it a Liquid, Solid, or Gas? | publisher = About.com | accessdate = 2009-01-21 | last = Helmenstine | first = Anne Marie | postscript = <!--None-->}}</ref>。燃焼している物質の種類や含有している物質により、炎の[[色]]や強さが変化する。 人類の火についての理解は大きく変遷してきている。[[象徴|象徴的]]な理解は古代から現代まで力を持っている。また理知的には[[古代ギリシア]]においては[[4大元素]]のひとつと考えられた。[[西欧]]では[[18世紀]]頃までこうした考え方がされた。18世紀に影響力をもった[[フロギストン説]]も科学史的に重要である。 人類は古来、火を[[照明]]、[[調理]]、[[暖房]]、[[合図]]のために用いており、また近代以降は[[動力源]]としても火を利用してきた。「火の使用により初めて人類は文明を持つ余裕を持てた。」と考える人もおり、火を文明の象徴と考える人もいる。これは[[ギリシア神話|ギリシャ神話]]における「[[プロメーテウス]]の火」の話を思い起こさせる。その後も火は人間の生活の中で非常に大きな地位を占め、火を起こすための[[燃料]]の確保は全ての時代において政治の基本となっている。とくに20世紀中盤以降はもっとも広く使用される燃料は[[石油]]であり、石油を産出する[[産油国]]はその生産によって莫大な利益を上げ、また石油価格の上下は世界経済に大きな影響を及ぼす。 火は[[火災]]を引き起こし、燃焼によって人間が物的損害を被ることがある。また、世界的な[[生態系]]にも影響する重要なプロセスである。火はある面では生態系を維持し、[[生物]]の成長を促す効果を持つ。また、火は[[環境汚染|水質・土壌・大気などを汚染する]]原因という側面もある<ref>{{Cite journal |author= Lentile, Leigh B.; Holden, Zachary A.; Smith, Alistair M. S.; Falkowski, Michael J.; Hudak, Andrew T.; Morgan, Penelope; Lewis, Sarah A.; Gessler, Paul E.; Benson, Nate C. |title=Remote sensing techniques to assess active fire characteristics and post-fire effects |url= http://www.treesearch.fs.fed.us/pubs/24613 |year=2006 |journal=International Journal of Wildland Fire |issue=15 |volume=3 |pages=319-345}}</ref>。 == 火の理解史 == 人類は火を様々に理解してきた。いかにして火を手に入れたのかという、[[初期のヒト属による火の利用|火の起源]]神話も世界各地から知られている<ref>{{Cite book |和書|last=フレイザー |first=J. G. |authorlink=ジェームズ・フレイザー |others=[[青江舜二郎]]訳 |title=火の起原の神話 |publisher=[[筑摩書房]] |series=[[ちくま学芸文庫]] フ18-3 |date=2009-12 |isbn=978-4-480-09268-7 }} {{要ページ番号|date=2016-05-05 }}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author=山田仁史 |title=発火法と火の起源神話 |url=https://hdl.handle.net/10097/48917 |journal=東北宗教学 |publisher=東北大学大学院文学研究科宗教学研究室 |year=2006 |volume=2 |pages=183-200[含 英語文要旨] |naid=120002511902 |issn=18810187}}</ref>。このタイプの火の起源[[神話]]として最も知られているものの一つに、[[ギリシア神話]]における[[プロメーテウス|プロメテウス]]の神話がある<ref>「図説 火と人間の歴史」p142-143 スティーヴン・J・パイン著 鎌田浩毅監修 生島緑訳 原書房 2014年2月4日第1刷</ref>。 火を[[信仰]]の対象とする[[宗教]]もある。古代世界において火は神格化され、畏敬の対象とされた<ref name="名前なし-1">『[[#岩波哲学・思想事典|岩波哲学・思想事典]]』 {{要ページ番号|date=2016-05-05 }}</ref>。例えばインド神話における[[アグニ]]がある。また拝火教という異名を持つ[[ゾロアスター教]]もある。[[仏教]]もインドの拝火信仰と習合し、[[火葬]]などの文化を各地に伝えた。日本でも[[お盆]]の[[送り火]]([[京都市]]の[[五山送り火]]が有名)をはじめ、国内各地で特徴的な[[火祭り]]が数多く存在する。なかでも[[小正月]]に行われる[[左義長]](どんど焼き)は、日本各地にほぼまんべんなく存在する<ref>「火の科学 エネルギー・神・鉄から錬金術まで」p56-58 西野順也 築地書館 2017年3月3日初版発行</ref>。信仰の場以外でも、例えば[[キャンプファイヤー]]など多くの行事、象徴的な場などで火は用いられている。現代でも火は[[象徴]]としての力を持ち続けている。 [[ファイル:Four elements representation zh.svg|thumb|right|200px|[[四元素説]]における元素の関係図。]] 前6世紀、[[ヘラクレイトス]]は、流転する世界の根源に火を位置づけ<ref>{{Cite web|和書| url= http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/ea/file/231/20131026140302/EA20018000001.pdf|title=ヘラクレイトスの認識論|author=後藤 淳 |format=PDF|accessdate=2021-09-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.eco.nihon-u.ac.jp/about/magazine/kiyo/pdf/76/76-25-46.pdf|title=初期ギリシア哲学者の実在観|author=小坂 国継 |format=PDF|accessdate=2021-09-21}}</ref>、[[魂]]を神的な火とみなした。前5世紀の[[エンペドクレス]]は、火を[[四元素]]のうちのひとつとし、プロメテウスに因んで「パイロ({{lang-grc|πυρ}})」とした。[[デモクリトス]]は、魂と火を同一視し、原子は無数あるとしつつ、「球形のものが火であり、[[魂]]である」とした。[[アリストテレス]]の『[[自然学 (アリストテレス)|自然学]]』において、火は[[四元素]]のひとつと位置づけられていた。古代ギリシャ哲学の流れを汲む[[イスラム科学]]でも火は[[元素]]の1つであると考えられた。(また[[中国大陸]]の[[哲学]]でも類似の考えかたがされていた)。18世紀ころまでのヨーロッパでも、おおむね主にアリストテレスの『自然学』における火の理解のしかたを継承したと考えてよい。ただし、他方で[[錬金術]]においては、火は物質や物質に仮託された[[精神]]の統合や純化を促す力、と考えられていた<ref name="名前なし-1"/>。 [[ファイル:Georg Ernst Stahl.png|thumb|left|100px|ゲオルク・エルンスト・シュタール]] 18世紀になると、多くの思想家は、熱や[[光]]に火の本質を求めようとした<ref name="名前なし-1"/>。[[イマヌエル・カント|カント]]は、温度上昇を火の元素の移動と関連付けて理解した。 [[ゲオルク・エルンスト・シュタール]]は、火というのは可燃性の原質「[[フロギストン]]」によって起きていると考え1697年の著書『化学の基礎』でこれを表明した。この説([[フロギストン説]])は多くの人々に支持され最大の影響力を持っていた。同説に対抗する諸説はあったが、18世紀末に[[アントワーヌ・ラヴォアジエ|ラヴォアジエ]]が行った批判や同氏の理論の説得力などにより、燃焼を[[酸素]]との結合現象とする説を採用する人が増え主流となってゆくことになった。 == 火の構造、しくみ == 火は炎心と内炎と外炎によって構成されている<ref>{{Cite journal|和書|author=幸田清一郎 |date=1987 |title=炎の構造と温度(<特集>燃焼と爆発) |url=https://doi.org/10.20665/kakyoshi.35.3_224 |journal=化学と教育 |publisher=日本化学会 |volume=35 |issue=3 |pages=224-225 |naid=110001826521 |ISSN=0386-2151 |doi=10.20665/kakyoshi.35.3_224 |accessdate=2022-04-01}}</ref>。最も明るいのは内炎である。これは、'''炭素'''(すす)が最も多く含まれているためである。最も熱いのは、外炎である。これは、酸素と最も多く接触しているためである。また、内炎は、不完全燃焼をおこしている。 近年では「燃焼によって解放されたエネルギーのために、燃焼している物体(や気体)は発光する」と説明することがある。 === 燃焼 === {{Main|燃焼}} [[ファイル:Fire tetrahedron ja.svg|thumb|火には、燃料と酸素と熱が必要である。]] 火を付けるには、可燃物、酸素ガスのような[[酸化剤]]、それらの混合物が[[引火点]]を越えるための熱が必要である。火が点火すると、燃焼によって発生した熱エネルギーがさらなる燃焼を起こすが、燃焼し続けるには[[連鎖反応]]を生み出すよう燃料と酸素が連続的に供給される必要がある<ref>「図解よくわかる 火災と消火・防火のメカニズム」p6-7 小林恭一編著 鈴木和男・向井幸雄・加藤秀之・渋谷美智子・清水友子著 日刊工業新聞社 2015年6月30日初版1刷発行</ref>。火はこれらの要素が揃わない環境では存在しない。燃料と酸素だけでなく、[[触媒]]が必要な場合もある。触媒はそれ自体が燃焼するわけではないが、化学反応を促進する役目を果たす。 火を消すには、上述の要素のいずれかを取り除けばよい。例えば天然ガスの火を消すには以下のいずれかを行えばよい。 * ガスの供給を止める - 燃料を除去する。 * 炎を何かで完全に密閉する - 酸素供給を断ち、炎の周囲にCO<sub>2</sub>を充満させる。 * 水を大量にかけ、炎が熱を発生するよりも素早く熱を奪う。冷気を吹き込んでも同じ効果が得られる。 * [[ハロメタン]]のような反応遅延剤を使う。燃焼の化学反応そのものを遅延させ、連鎖反応できなくする。 逆に、燃焼効率を高めることで火を強めることができる。そのためには[[化学量論]]的につりあいのとれた形で燃料と酸素の供給量を調整する。これによって火の温度も高くなって連鎖反応も強まるが、同時に触媒を必要とする場合もある。 === 炎 === {{Main|炎}} [[ファイル:Candleburning.jpg|thumb|upright|200px|[[ろうそく]]の[[炎]]]] [[ファイル:Fire.JPG|thumb|right|200px|高く上がる炎]] [[炎]]は可視光や[[赤外線|赤外]]光を放つ化学反応中の気体と固体の混合物であり、その[[周波数スペクトル]]は燃焼物や中間生成物の化学組成によって異なる。木などの[[有機物]]を燃やしたり、ガスを[[不完全燃焼]]させると、[[すす]]と呼ばれる白熱した固体粒子を生じ、赤からオレンジ色の火になる。火の発する光は連続なスペクトルを有する。ガスが完全燃焼すると、炎の中では励起された分子の電子が様々な遷移を起こして単一の波長の光を発するため、やや暗い青色の光になる。一般に火には酸素が必須だが、[[水素]]と[[塩素]]が化学反応して[[塩化水素]]となる場合も炎を生じる。他にも、[[フッ素]]と[[水素]]、[[ヒドラジン]]と[[四酸化二窒素]]の化学反応でも炎を生じる。 炎の発する光は複雑である。すす、ガス、燃料の粒子などが[[黒体放射]]するが、すすの粒子は完全な黒体として振舞うには小さすぎる。また、ガス内で下方遷移した[[原子]]や分子が[[光子]]を放出する。放射のほとんどは可視光と[[赤外線]]の範囲にある。色は黒体放射の温度や燃焼に関わる物質の化学組成によって変化する。炎の色を最も左右するのは温度である。山火事の写真を見ると、様々な炎の色が見てとれる。地表付近は最も激しく燃焼しているため、有機物が最も高温で燃焼しているときの白または黄色の炎が見える。その上にはやや温度の低いオレンジ色の炎があり、さらに温度の低い赤い炎が見える。赤い炎の上では燃焼は起きず、燃焼しきらなかった炭素粒子が黒い煙となっている。 [[アメリカ航空宇宙局]] (NASA) は、炎の形成に[[重力]]もある役目を果たしていることを発見した。重力の条件が異なれば、炎の形状や色が変化する<ref>[http://science.nasa.gov/headlines/y2000/ast12may_1.htm Spiral flames in microgravity], [[アメリカ航空宇宙局|National Aeronautics and Space Administration]], 2000.</ref>。通常重力下では[[対流]]によってすすが上に登っていくため、右の写真に見られるような形になり、黄色になる。[[宇宙空間]]などの[[無重力状態]]では対流が起きないため、炎は球状になり、完全に燃焼するため青くなる(ただし、燃焼によって発生したCO<sub>2</sub>がその場に留まって炎を包むため、ゆっくり炎を移動させないと火が消えてしまう)。この違いの説明はいくつか考えられるが、温度があらゆる方向に等しく伝わるためすすが生じず、完全燃焼するためという説明が最も妥当と見られる。 === 熱 === {{Main|熱}} 様々な火や炎の温度は次の通りである。 * [[酸水素ガス]]の炎: 2000℃ 以上 * [[ブンゼンバーナー]]の炎: 1300℃から1600℃<ref>{{cite web|url= http://www.derose.net/steve/resources/engtables/flametemp.html|title=Flame Temperatures|accessdate=2010-07-13}}</ref> * [[ブロートーチ]]の炎: 1300℃<ref>{{cite web|url= http://www.cooperhandtools.com/europe/sales_literature/documents/WellerPyropen_GB.pdf|title=Pyropen Cordless Soldering Irons|format=PDF|accessdate=2010-07-13}}</ref> * [[ろうそく]]の炎: 1000℃ * [[紙巻きたばこ]]: ** 吸い込んでいないとき: 外側で400℃、内側で585℃ ** 吸い込んでいるとき: 内側で700℃ ** 常に内側の方が熱い。 == 火の利用・用途 == 火の利用は、大きくは二つに分けられる。一つは[[光源]]であり、その炎から発する[[光]]を利用するものである。もう一つは[[熱源]]であり、燃焼による発熱を利用するものである。もっとも古い火の利用は、おそらく[[焚き火]]の形であり、これはその両方に利用された。現在でも[[キャンプ]]における重要な事項の一つが焚き火の確保である。 === 火の利用の始まり === {{Main|初期のヒト属による火の利用}} [[ヒト|人類]]がいつごろから火を使い始めたのか、はっきりした事は解っていない。人類が突如、火起こしをはじめたとは考えにくいため、初期の火は落[[雷]]や[[山火事]]によって燃えている木の枝などを住居あるいは洞窟に持ち帰り、火種として保存していたと考える人も多い<ref>「図説 火と人間の歴史」p42-43 スティーヴン・J・パイン著 鎌田浩毅監修 生島緑訳 原書房 2014年2月4日第1刷</ref>。現在、火を使用した痕跡として発見されている最古のものは、[[南部アフリカ|南アフリカ]]、スワルトクランス洞窟の160万年前、東アフリカの[[ケニア]]、チェソワンジャ遺跡の140万年前、[[エチオピア]]のミドル・アワシュ、[[イスラエル]]のゲシャー・ベノット・ヤーコブ炉跡といったものがある。この時代の人類は[[ホモ・エレクトス]]と云われており、一説には[[ホモ・ハビリス]]までさかのぼることができるという人もいる<ref>{{Cite book |和書|last=シャクリー |first=マイラ |authorlink=:en:Myra Shackley |others=[[河合信和]]訳 |title=ネアンデルタール人 - その実像と生存説を探る |publisher=[[学生社]] |date=1985-11 |isbn=978-4-311-20080-9 |page=p. 94 }}</ref>。また[[北京原人]]の発見地では、非常に厚い灰の層が発見されており、火を絶やさぬように燃やし続けたためではないかとの説もある{{要出典|date=2016年5月5日 (木) 13:44 (UTC)}}。 === 光源 === ごく初期には焚き火がそのまま光源として用いられたと思われる。その薪を持ち上げれば[[たいまつ|松明]]になり、この二つが人工的な光源としては最古のものだと考えられている<ref>「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p76 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>。その後明かりの燃料としては油が使われるようになり、[[ランプ (照明器具)|ランプ]]や[[行灯|行燈]]などは昭和初期までは現役であった。他に[[ろうそく|蝋燭]]も明かり用の火を作るもので、これは現在でも[[停電]]時に重宝する。近代に入ると、[[1792年]]に[[ウィリアム・マードック]]が[[ガス灯]]を発明し、19世紀初頭にはヨーロッパで普及した<ref>「産業革命歴史図鑑 100の発明と技術革新」p60-61 サイモン・フォーティー著 大山晶訳 原書房 2019年9月27日初版第1刷発行</ref>。また19世紀中盤には[[石油]]の増産と精製技術の向上によって、それまでの[[鯨油]]に替わって石油が照明用油の主力となった<ref>「エネルギー資源の世界史 利用の起源から技術の進歩と人口・経済の拡大」p107-115 松島潤編著 一色出版 2019年4月20日初版第1刷</ref>。 現在では明かりの主力は電気であるが、蝋燭は宗教行事では多用するし、[[薪能]]のように松明の明かりの雰囲気を楽しむ例もある。 === 暖房 === 生活用熱源としての火の利用は、[[暖房]]と[[調理]]が主なものだった。たき火は暖を取るためにも使えるが、炎が大きいとあまり近寄ることができない。むしろ炎が小さくても長くじっくり燃える小さな火が望ましい。燃えても炎が出ない[[炭]]はそのために有効だったと考えられる。さらに火を弱く長持ちさせるために[[灰]]に埋める方法がとられた。 部屋全体を暖かくするような暖房には、より激しく燃える火が必要になる。しかし室内で炎が上がるのは危険なので、火を閉じこめた上で激しく燃やすために[[ストーブ]]や[[暖炉]]が作られた。[[液体燃料]]や[[気体燃料]]は、それを十分安全に供給する仕組みが発達するまでは利用されなかった。現在ではむしろこちらが主力である。電気はこちらではそれほど燃料の代替をしていない。 === 調理 === 食物の加工に火を利用するようになったのは[[山火事]]などで逃げ損ねた動物の焼けた肉を食べたといったことがあったのではないかといわれている<ref>「食と人の歴史大全」p15 リンダ・チヴィテッロ 栗山節子・片柳佐智子訳 柊風社 2019年7月8日第1刷</ref>。食物を火で加熱することを覚えたことは、人類にとって重大な進歩だった。単に火を通すことで食味が良くなるだけではなく、それまで生では食べることの困難だった[[穀物]]や[[豆]]、芋など多くのものが食用可能になり<ref name=":0">「火と人間」p4 磯田浩 法政大学出版局 2004年4月20日初版第1刷</ref>、さらに動物の[[肉]]や[[魚類|魚]]などに火を通すことで[[寄生虫]]や[[病原菌]]の危険なしにこうした食物を摂取することができるようになった。こうした加熱消毒は現代においても調理の重要な一側面である<ref>「図説 火と人間の歴史」p44-45 スティーヴン・J・パイン著 鎌田浩毅監修 生島緑訳 原書房 2014年2月4日第1刷</ref>。[[土器]]が出現すると、食材と水を入れて加熱することで煮ることが可能になった。さらに[[金属器]]が登場すると食材をより効率的に加熱することが可能となり、[[油]]で炒めたり揚げるといった調理法も開発された<ref>「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p114-115 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>。 20世紀になると、[[電磁調理器]]や[[電子レンジ]]などの登場で、火を使わない加熱調理が可能となった。 <Gallery> File:Whole Roasted Suckling Pig.jpg|豚のまる焼き File:Japanese Roast Fish (109387655).jpeg|焼き魚 File:Ofto (cretan roast meat) or Antikristo (cretan roasted meat around the fire).jpg|肉を焼く </Gallery> === 農業 === 山火事などで焼けた土地には[[草原]]ができ、これは[[草食動物]]のエサ場となり、当時まだ狩猟のみに頼っていた人類においては見逃せないほどの食糧供給の増大をもたらした。山火事が幾度も繰り返されるうちに人々はこのことに気づき、こうして人類の一部は適当な時期を見計らって[[野焼き]]を行って人為的に草原を維持するようになった。やがて森林地域においてもこの方法が持ち込まれたが、立木や生木を燃やすのは困難を極めるので、あらかじめ木を切り倒しておき、それを乾燥させてから火を放つようになった。さらに農業がこの地域に持ち込まれると、この野焼きによって空いたところに[[穀物]]や[[芋]]などを植え、[[畑]]とするようになった。これが[[焼畑農業]]の起源とされている<ref>「火と人間」p9 磯田浩 法政大学出版局 2004年4月20日初版第1刷</ref>。火を放つことによって地面に残された灰は良い[[肥料]]となり、このため焼畑を行った土地においては数年間は良い収穫を得ることができた<ref>「図説 火と人間の歴史」p66 スティーヴン・J・パイン著 鎌田浩毅監修 生島緑訳 原書房 2014年2月4日第1刷</ref>。やがて地力が落ちてくるころになると畑は放棄され、新たな土地の木を切り倒してそこを新しい畑とする。放棄された畑には数十年後には再び森林が生い茂り、数か所を回ってきた人間がふたたびそこに火を放って畑にするといった形で循環がおこなわれていた<ref>「図説 火と人間の歴史」p68 スティーヴン・J・パイン著 鎌田浩毅監修 生島緑訳 原書房 2014年2月4日第1刷</ref>。焼畑農業は現代においても[[熱帯]]地域を中心に広く行われているが、サイクルが短くなったため地力の消耗を招き、また森林火災を招き地球温暖化にも悪影響をもたらすとされ、しばしば問題となっている<ref>「現代森林政策学」p26-27 遠藤日雄編著 日本林業調査会 2008年3月16日初版第1刷発行</ref>。 また、焼畑以外にも火を農業に利用する例はある。日本においては収穫後の[[田|水田]]に火を放って枯れた収穫後の[[イネ|稲]]や[[藁]]を燃やす、いわゆる火入れが行われることがあるが、これは[[害虫]]の駆除と燃えた後の灰を肥料化するという二つの目的で行われている。 === 工業 === 火は、高熱によって物質の状態を変化させることができるため、この性質を利用してさまざまな工業に利用されてきた。こうした用途における最も古い利用法は[[粘土]]を焼いた、いわゆる[[土器]]の焼成である。土器はより高い温度で焼き上げると[[陶器]]、さらには[[磁器]]となり、より硬度を増すようになった<ref>「火の科学 エネルギー・神・鉄から錬金術まで」p76-78 西野順也 築地書館 2017年3月3日初版発行</ref>。土器に次いで、人類は金属の[[精錬]]を覚えた。まず最初に開発されたものは融点の低い[[銅]]の利用であり、やがて[[スズ|錫]]と混ぜ合わせることで硬い[[青銅]]を作り上げることができるようになった。青銅の利用は人類を[[石器時代]]から一段階進歩させ、[[青銅器時代]]という一時代となった。さらにその後、人類は[[鉄]]を精錬できるようになり、[[鉄器時代]]が始まった<ref>「火の科学 エネルギー・神・鉄から錬金術まで」p85-89 西野順也 築地書館 2017年3月3日初版発行</ref>。その後も火は工業にとってなくてはならないものであり、各種工業において広く使われている。 === 兵器・武器 === [[ファイル:Hamburg after the 1943 bombing.jpg|thumb|180px|left|1943年7月、[[焼夷弾]]を投下された後のハンブルク市街。約5万人の一般市民が亡くなった<ref>"[http://news.bbc.co.uk/2/shared/spl/hi/pop_ups/03/europe_german_destruction/html/4.stm In Pictures: German destruction]". BBC News.</ref>]] 火は[[軍事史|歴史]]上様々な形で[[戦争]]に利用されてきた。古くは[[狩猟採集社会]]で、野原や森林を焼き払うことで敵を傷つけ食料を得にくくするなど、火は人類がその制御に関する知識を得たころから戦争に利用されている{{Citation needed|date=January 2010}}。[[ホメーロス]]の『[[イーリアス]]』には、[[トロイアの木馬|トロイの木馬]]に隠れていた兵士たちが[[イリオス|トロイ]]を焼き払う様子が描かれている。[[東ローマ帝国]]では戦争に[[ギリシア火薬]]を用いた。[[第一次世界大戦]]では歩兵が初めて[[火炎放射器]]を使い、第二次世界大戦ではそれを車両に装備した。また、[[焼夷弾]]による爆撃が東京、ロッテルダム、ロンドン、ハンブルク、[[ドレスデン]]などで行われた。それによって[[火災旋風]]が起きた都市もある{{Citation needed|date=January 2010}}。大戦末期には米軍が日本の各都市を焼夷弾で爆撃した。日本の家屋は木造が多かったため、焼夷弾の効果が大きかった。1945年7月、大戦終結直前に[[ナパーム弾]]が投入されているが<ref name="napalm">{{cite web |title=Napalm |url= http://www.globalsecurity.org/military/systems/munitions/napalm.htm |publisher=GlobalSecurity.org |accessdate= 8 May 2010}}</ref>、ナパーム弾が一般に知られるようになるのは[[ベトナム戦争]]のときである<ref name="napalm"/>。また、[[火炎瓶]]という武器も使われてきた。 === エネルギー源 === [[燃料]]に点火することで利用可能なエネルギーが放出される。[[先史時代]]から[[木材]]が燃料として使われている。[[石油]]、[[天然ガス]]、[[石炭]]といった[[化石燃料]]が[[火力発電]]で使われており、今日の発電量の大きな部分を占めている。[[国際エネルギー機関]]によれば、2007年時点で全世界のエネルギー源の80%強が化石燃料だという<ref>{{cite web|url= http://www.iea.org/publications/free_new_Desc.asp?PUBS_ID=1199|title="Key World Energy Statistics "|year=2009|publisher=[[国際エネルギー機関|International Energy Agency]]|accessdate=2010-07-13}}</ref>。[[発電所]]では火によって水を熱し、蒸気を発生させて[[タービン]]を駆動する。タービンが[[発電機]]を駆動し、発電が行われる。[[外燃機関]]や[[内燃機関]]では火が直接[[仕事 (物理学)|仕事]]をする。 == 火の扱い方 == === 点火 === 火を利用するにあたって、もっとも困難なのは、[[火種]]を作ることである。自然界において火を自由に手に入れる機会はほとんどなく、落雷など偶然の機会に頼る他はない。その上、その際に山火事などの危険を生じる場合もあり、人間が近寄れないことも多々ある。このため、人類が火を起こす手段を開発するまではいったん手に入れた火種は大切に守られた。これは下記のような手段によって火を起こす技術が手に入ったのちも変わらず、多くの文明において各家庭にある火種は大切に守られるのが常であった<ref>「火と人間」p3-4 磯田浩 法政大学出版局 2004年4月20日初版第1刷</ref>。火の気の全くない場所で火を起こす技術はいくつか発明されているが、現代文明で発明されたもの以外はいずれも技術的に高度なものであり、現代人が安易にまねてもうまく火が点かない例も多い。 [[発火法]]には大きく分けると、摩擦法・打撃法・圧縮法・光学法・化学法・電気法の6つに分類できるが、一般的に知られる代表的な例としては、以下の方法がある。 # [[火花]]を発生させる:[[火打石|火打ち石]]、[[放電]]など。打撃法に属する。 # [[摩擦|摩擦熱]]から発火させる: 弓きりや舞きりなど([[火種]]も参照)。摩擦法に属する。 # 太陽光を集中させる:[[レンズ|凸レンズ]]や[[凹面鏡]]などを使って太陽光を一点に集中させ、火を起こす。光学法に属する。 # 化学反応を利用する。化学法に属する。 古来使われたのは、最初の2つの方法である。もっとも単純な火おこし法は摩擦法であり、世界中に広く分布している。火打石などを使う打撃法も、摩擦法に比べ簡便であるために広く使用された<ref>「火の科学 エネルギー・神・鉄から錬金術まで」p37-39 西野順也 築地書館 2017年3月3日初版発行</ref>。光学法は特に技術が不用なので、晴れていれば誰でも利用できるが、専用の機材がなければ無理である。また、安定した太陽光が必要なため晴天でない場合や夜間には用いることができない。こうしたことから一般的な火おこし法ではなかったが、この方法を使って火を起こせることは一部では知られており、まれに利用もされた。また、ボルネオやビルマなど一部においては可燃物をピストンの中に強く押し付ける圧縮法で火を起こす民族も存在した。化学法と電気法は科学革命の起こった19世紀以後の産物であり、それまでの前近代社会において使用されることはなかった。こうしておこされた火種は、火口(ほくち)と呼ばれる燃えやすい物質で受けて、火を大きくさせたのち様々な用途に使用された<ref>「火の科学 エネルギー・神・鉄から錬金術まで」p37 西野順也 築地書館 2017年3月3日初版発行</ref>。しかし、こうした発火法はいずれも手間のかかるものであり、気軽に利用できるとは必ずしも言えなかった。 こうした点を改善し、[[点火]]を簡便に行える装置として開発されたのが[[マッチ]]である。マッチは発火性のある物質をつけた短い軸木をこすり付けて火を起こすもので、系譜としては摩擦法に属する。赤[[リン]]の開発によって[[1852年]]に安全マッチが発明されると、簡単で安全な点火方法として普及し瞬く間にそれまでの点火方法を駆逐した。さらに[[ライター]]などの点火器具が次々と開発され、点火は以前と比べ非常に簡単なものとなった<ref>「火の科学 エネルギー・神・鉄から錬金術まで」p39-42 西野順也 築地書館 2017年3月3日初版発行</ref>。 === 維持 === 火を維持するには、[[燃料]]と[[酸素]]が必要である。火は燃料を消費して燃え続け、燃料がなくなれば消える。消えると再び点火するのはそれなりに難しいから、使い続けるためには燃料を切らしてはならない。そのためにはそれなりに工夫が必要である。 他方、地球上の普通の環境は、火の温度に比べて遙かに低い。そのため火の周囲の温度が低下すれば火は消えやすい。たき火の場合には、ある程度燃えれば底にたまった灰が良い受け皿になる。これを応用してあらかじめ灰を敷いたところで火を燃やすのが[[火鉢]]などである。ちなみに、灰で火のついた[[炭]]を覆うことで、火を完全に消さないままに長時間保存できるうまみもある。 逆に火の勢いが強くなると、周囲のものが熱などによって影響を受けやすい。特に人工的なものが多い中では、それらを破壊し、あるいは[[火災|火事]]のもとともなる。そのためにも、火の周りに[[断熱材|断熱]]的な構造を作るのは重要な工夫である。 燃料の供給は火の維持には欠かせない。もっとも古い形は薪をたき火に追加していくことである。後にこれは炭に置き換えられた。さらに油やガスなど液体燃料や気体燃料も利用されるようになった。液体燃料や気体燃料はそのまま点火するのは危険だから、一定量ずつ取り出して火に供給する仕組みが必要になる。そのために工業の進まない間は利用が難しかったが、現在ではむしろ主力となっている。 === 消火 === 火は高温であり、さらに火事を引き起こすこともあるから、[[消火]]を確実に行うことも重要である。火を扱う器具は消火の仕組みも備えなければならない。固体の燃料は消火したように見えても高温を維持している場合があり、再び発火する危険性があるため、事後の処理に注意を要する。 現在の主力である気体燃料や液体燃料の場合、それを供給する構造があるので、ここを操作して供給を絶つことで容易に消火ができる。また、そのあとに燃えさしを生じない点でも簡便である。 == 火災 == [[ファイル:Fire inside an abandoned convent in Massueville, Quebec, Canada.jpg|thumb|right|火災]] 火が人間の制御下を離れ燃え広がることを火災と呼ぶ<ref>「図解よくわかる 火災と消火・防火のメカニズム」p20-21 小林恭一編著 鈴木和男・向井幸雄・加藤秀之・渋谷美智子・清水友子著 日刊工業新聞社 2015年6月30日初版1刷発行</ref>。一旦火災が起こると多くの人命や財産が失われる場合が多い。一旦火災が起こると自然に鎮火することを期待するのは難しく、初期においては[[消火器]]により、それでも足りない場合には[[消防]]の力を借り[[消火]]する事になる。開発の進んだ地域では火災に対処するため[[消防]]サービスが提供されている。[[消防士]]が[[消防車]]などを使い、[[消火栓]]などの水を放水して消火する。燃焼している物質によっては[[化学消防車]]を使用する。 火災の予防には発火源となるものを除去することが第一である。また、火災を防ぐ方法についての教育も重要である。学校などの大きな建物では、火災に備えて[[避難訓練]]を実施している。ほとんどの法治国家では、[[放火罪|放火]]は[[犯罪]]である。 多くの国で建築における出火対策を定めている。能動的対策として[[スプリンクラー設備]]がある。受動的対策として[[先進国]]では[[建築材料]]の耐火性能について法律で規定している。 人口の集中する都市で起こった火災は大きな被害をもたらし、[[64年]]の[[ローマ大火]]や[[1666年]]の[[ロンドン大火]]のように歴史上広く知られているものも存在する<ref>「図説 火と人間の歴史」p91-93 スティーヴン・J・パイン著 鎌田浩毅監修 生島緑訳 原書房 2014年2月4日第1刷</ref>。日本では燃えやすい木造家屋が中心だったために都市の大火が多く<ref>「図解よくわかる 火災と消火・防火のメカニズム」p76-77 小林恭一編著 鈴木和男・向井幸雄・加藤秀之・渋谷美智子・清水友子著 日刊工業新聞社 2015年6月30日初版1刷発行</ref>、なかでも[[江戸]]は[[1657年]]の[[明暦の大火]]を筆頭に、頻繁に大火に見舞われた<ref>https://www.bousaihaku.com/ffhistory/11275/ 「江戸時代の大火」消防防災博物館 2022年2月16日閲覧</ref>。その後都市の難燃化や防火体制の整備によって都市の火事は全世界的に減少・小規模化したが、戦争や[[地震]]などによって防火体制にほころびが生じたときには大規模な火事が発生する場合がある<ref>「図説 火と人間の歴史」p71-72 スティーヴン・J・パイン著 鎌田浩毅監修 生島緑訳 原書房 2014年2月4日第1刷</ref>。 また都市での火事のほか、森林や草原を焼き尽くす、いわゆる[[山火事]]も存在する。山火事はどの森林でも発生するが、特にオーストラリアやカリフォルニアといった温帯の半乾燥地や、シベリアやカナダなどの冷帯の針葉樹林では頻発しており、山火事を前提とした生態系が成立している<ref>「森林保護学の基礎」p57-58 小池孝良・中村誠宏・宮本敏澄編著 2021年4月25日第1刷発行</ref>。 {{Seealso|火災}} == 象徴としての火 == * [[灯明]] ‐ 宗教などで崇められる火。無名戦士の墓の「永遠の炎」なども説明 * [[聖火]]、{{ill2|聖なる火|en|Holy Fire}} === 生命や「想い」の象徴 === 生命はしばしば火に喩えられ、また火も生命に[[比喩|たとえ]]られる。[[炎]]が動く様や燃料を消費しつつ燃えるのが、生命体が栄養をとりつつ活動するのに類似している。反対に生命体の[[死]]は、火が消えることに譬えられる。 === 死の象徴 === 一方で火災や[[戦争|戦火]]など[[死]]や破壊の[[象徴]]とされる事もある。 [[死刑|処刑]]の方法としての[[火刑|火あぶり]]は見せしめ的な印象が強い。また、自殺の方法のひとつである[[自殺#自殺の手法|焼身自殺]]はやはり衆目を引きつける事を目指し、特に訴えるものを持つ者によって行われることが多い。 === 比喩 === [[恋愛]]感情や[[怒り]]のような高ぶる感情はしばしば火や炎にたとえられる([[比喩]])。「焼け木杭(ぼっくい)に火がついた」という表現は、一度焼けて炭になった木の杭はその後も簡単に火がつくことから、かつて恋愛関係にあった男女がありがちなことに再度恋愛関係になることを意味している。また「火を噴くように」怒ったりするのもこの例である。羞恥などで頬が赤くなるのを「火が出るよう」と形容する例もある。 また、危険なものとの認識から、危機に陥ることを「尻に火がついた」などという例もある。野球において投手が打ち込まれる(立て続けにヒットを打たれる)と「火だるま」や「炎上」といわれる。 「火をつける」は実際に燃料に点火する場合にも使うが、たとえばある計画や活動を立ち上げる際にも使うことがある。一旦点火すると後は勝手に燃え上がるところからの転用であろう。発案者や仕掛け役のことを「火元」とか「火付け役」とかいう例もある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == <!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい。 宣伝目的での自著の掲載はおやめ下さい--> <!--{{Notice|style=question|1=脚注にあった岩波『哲学・思想辞典』とは下記の書籍で間違いありませんか? }}--> * {{Cite book |和書|editor=[[広松渉]]ほか編 |title=岩波哲学・思想事典 |publisher=[[岩波書店]] |date=1998-03 |isbn=978-4-00-080089-1 |ref=岩波哲学・思想事典 }} == 関連項目 == {{wikiquote|火}} {{Commons|Fire}} * [[炎]] * [[燃焼]] * [[酸化]] * [[火炎崇拝]] * [[炎色反応]] * [[フロギストン説]] * [[パイロキネシス]] * [[熱分解]] * [[煙]] * [[火山]] * [[発火法]] * [[火部]] - 漢字の部首 == 外部リンク == * [http://www.mnc.toho-u.ac.jp/v-lab/combustion/comb01/basic02.html 燃焼科学 物質と火のからくり塾] 東邦大学バーチャルラボラトリ * [http://news.bbc.co.uk/1/hi/sci/tech/3670017.stm Early human fire mastery revealed] 考古学的発見についての[[英国放送協会|BBC]]の記事 * [http://www.youtube.com/watch?v=oPWucNgN8TQ Fun Uses with Fire] [[ルーベンスチューブ]]の実験映像 * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひ}} [[Category:火|*]] [[Category:光]] [[Category:物理化学の現象]]
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飛鳥時代
飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つ。広義には、難波宮や飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年(ただし旧暦12月8日なので、西暦に換算すると593年))から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての101年間、または推古天皇元年(593年)から和銅3年(710年)にかけての117年間を指す。 現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来する。「飛鳥時代」という時代区分は、元々美術史や建築史で使われ始めた言葉である。20世紀初期(1900年前後の明治30年代)に美術学者の関野貞と岡倉天心によって提案された時代名である。関野は大化の改新までを、岡倉は平城京遷都までを飛鳥時代とした。日本史では通常、岡倉案のものを採用しているが、現在でも美術史や建築史などでは関野案のものを使用し、大化の改新以降を白鳳時代(はくほうじだい)として区別する事がある。 5世紀には氏姓制度に基づく部民制が普及していたところ、552年(欽明天皇13年)、或いは538年(宣化天皇3年)に、百済の聖王(聖明王)が、釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り、仏教が公伝されると、587年(用明天皇2年)、大王の仏教帰依について、大連・物部守屋(排仏派)と大臣・蘇我馬子(崇仏派)との対立が激化した。聖徳太子は蘇我氏側につき、武力抗争の末に物部氏を滅ぼした(丁未の乱)。物部氏を滅ぼして以降、約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。588年(崇峻天皇元年)には、蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始める。 587年(用明天皇2年)、馬子は丁未の乱で蘇我氏側についた泊瀬部皇子を大王に擁立したが(崇峻天皇)、次第に天皇と馬子の不仲が目立ち、592年(崇峻天皇5年)、蘇我馬子は東漢駒に命じて崇峻天皇を暗殺させた。こののち馬子は日本初の女帝となる推古天皇を立てた。593年(推古天皇元年)、聖徳太子(厩戸皇子)が皇太子に立てられ、摂政となったといわれている。603年(推古天皇11年)には、冠位十二階を制定。聖徳太子が604年に十七条憲法を作り、仏教の興隆に力を注ぐなど、大王・王族中心の理想の国家体制作りの礎を築いた。 607年(推古天皇15年)、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)の上表文(国書)を送る。留学生・留学僧を隋に留学させて、隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた。620年(推古天皇28年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。 国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていた。国造とは、各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、大和朝廷の地方行政的な性格を持つものである。 621年(推古天皇29年)に摂政であった聖徳太子が、626年(同34年)には蘇我馬子が、さらに628年(同36年)には推古天皇が没した。日本歴史上初めての女帝の時代は36年間の長期に渡った。 聖徳太子と推古天皇が没した後は、蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと『日本書紀』には記されている。推古天皇没後、有力な大王位継承候補となったのは、田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)であった。蝦夷は推古天皇の遺言を元に田村皇子を舒明天皇として擁立するが、同族境部摩理勢は山背大兄王を推したため、蝦夷に滅ぼされる。舒明天皇の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや、643年(皇極天皇2年)、聖徳太子の子・山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治を恣にした。 645年(皇極天皇4年)の乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌足(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。 乙巳の変後、皇極天皇は弟の軽皇子に譲位し、新たに孝徳天皇が即位した。孝徳天皇は、日本で最初の元号の大化を制定するなど次々と改革を進めていった(大化の改新)。『日本書紀』の記述によると、645年(大化元年)12月には都を難波長柄豊碕宮に移している。翌646年(大化2年)正月には、改新の詔を宣して、政治体制の改革を始めた。その後も、今までは蘇我氏の大臣1人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の3人に改めた。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとある。649年(大化5年)、この頃、評(こおり)の制を定める。650年(白雉元年)2月15日、穴門国(後の長門国)より献上された白雉により、改元する。 孝徳天皇が死没した後は、中大兄皇子が政治の実権を握った。中大兄皇子は何らかの理由により大王位には就かず、退位し皇祖母尊(すめみおやのみこと)を称していた母親・皇極天皇を、再度即位(重祚)させた(斉明天皇)。斉明天皇没後も数年の間、皇位に就かず、皇太子の地位で政務に当たった(天皇の位に就かずに政務を執ることを称制という)。 663年(天智天皇2年)、百済の国家復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。664年(天智天皇3年)、筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫など朝鮮半島方面の日本海に防人や烽を置いた。666年(天智天皇5年)には、日本国内の百済人2000人余りを東国へ移すなど、防衛施設の整備が進んだ。667年(天智天皇6年)、都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。そのほか、大和に高安城が築城されて、讃岐に屋島城が築城されて、対馬に金田城が築かれている。 668年(天智天皇7年)に、皇太子だった中大兄皇子が即位して、天智天皇となる。 670年(天智天皇9年)、全国的な戸籍(庚午年籍)を作り、人民を把握する国内政策も推進した。また、東国に柵を造った。 671年 (天智天皇10 年) 、天智天皇が急死する。死因は朝廷編纂の歴史書にも書かれていないため諸説ある。 天智天皇が没すると、天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子(明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で争いが起こった。672年(弘文天皇元年)の壬申の乱である。この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人皇子が勝利、即位後に天武天皇となった。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。 672年(天武天皇元年)の末に、宮を飛鳥浄御原宮に移した。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。 681年(天武天皇10年)には、律令の編纂を開始した。5年後の686年(朱鳥元年)に、天武天皇は没する。8年後の689年(持統天皇3年)には、諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定され、頒布される。律は編纂されず、唐の律令制度である唐律をそのまま用いたのではないかと考えられている。 人民支配のための本格的な戸籍作りも開始される。690年(持統天皇4年)には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となった。692年(持統天皇6年)には、畿内に班田大夫を派遣。公地公民制を基礎とした班田収授法を実施した。702年(大宝2年)には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われ、国民1人1人が政府に把握されるようになった。さらに、条里制による耕地の区画整理が進み、班田が与えられた。 694年(持統天皇8年)には日本初の本格的都城となる藤原京に都を遷した。 持統天皇は、子の草壁皇子に位を譲るつもりであったが、早世したため、孫である文武天皇を即位させる。この間、唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、700年(文武天皇4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武天皇5年)に大宝律令が制定された。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による中央集権支配体制が完成した。これをもって、一応の古代国家成立と見る。 中央行政組織は太政官と神祇官による二官八省制が採られ、地方行政組織は、国制度・郡制度・里制度が採られるようになった。租・庸・調の税制が整備され、国家財政が支えられるようになった。また、律令制度の施行に伴って生じた不備などを調整する目的から、慶雲の改革が行われた。 文武天皇の死後、母の元明天皇が即位。710年(和銅3年)に、平城京へ遷都した。 その他、飛鳥村の多数の遺跡
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"孝徳天皇が死没した後は、中大兄皇子が政治の実権を握った。中大兄皇子は何らかの理由により大王位には就かず、退位し皇祖母尊(すめみおやのみこと)を称していた母親・皇極天皇を、再度即位(重祚)させた(斉明天皇)。斉明天皇没後も数年の間、皇位に就かず、皇太子の地位で政務に当たった(天皇の位に就かずに政務を執ることを称制という)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "663年(天智天皇2年)、百済の国家復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。664年(天智天皇3年)、筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫など朝鮮半島方面の日本海に防人や烽を置いた。666年(天智天皇5年)には、日本国内の百済人2000人余りを東国へ移すなど、防衛施設の整備が進んだ。667年(天智天皇6年)、都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。そのほか、大和に高安城が築城されて、讃岐に屋島城が築城されて、対馬に金田城が築かれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "668年(天智天皇7年)に、皇太子だった中大兄皇子が即位して、天智天皇となる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "670年(天智天皇9年)、全国的な戸籍(庚午年籍)を作り、人民を把握する国内政策も推進した。また、東国に柵を造った。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "671年 (天智天皇10 年) 、天智天皇が急死する。死因は朝廷編纂の歴史書にも書かれていないため諸説ある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": 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飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つ。広義には、難波宮や飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての101年間、または推古天皇元年(593年)から和銅3年(710年)にかけての117年間を指す。
{{出典の明記| date = 2022年6月}} {{日本の歴史|Horyu-ji09s3200.jpg|画像説明=[[法隆寺]]五重塔}} '''飛鳥時代'''(あすかじだい)は、[[日本の歴史]]の時代区分の一つ。広義には、[[難波宮]]や[[飛鳥]]に宮都が置かれていた[[崇峻天皇]]5年([[592年]](ただし旧暦12月8日なので、西暦に換算すると[[593年]]))から[[和銅]]3年([[710年]])にかけての118年間を指す。狭義には、[[聖徳太子]]が[[摂政]]になった[[推古天皇]]元年([[593年]])から[[藤原京]]への[[遷都]]が完了した[[持統天皇]]8年([[694年]])にかけての101年間、または[[推古天皇]]元年([[593年]])から[[和銅]]3年([[710年]])にかけての117年間を指す。 == 名称 == 現在の[[奈良県]][[高市郡]]'''[[明日香村]]'''付近に相当する「'''[[飛鳥]]'''」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来する。「飛鳥時代」という時代区分は、元々[[美術史]]や[[建築史]]で使われ始めた言葉である。[[20世紀]]初期([[1900年]]前後の[[明治]]30年代)に[[美術学者]]の[[関野貞]]と[[岡倉天心]]によって提案された時代名である。関野は[[大化の改新]]までを、岡倉は[[平城京]]遷都までを飛鳥時代とした。[[日本の歴史|日本史]]では通常、岡倉案のものを採用しているが、現在でも美術史や建築史などでは関野案のものを使用し、大化の改新以降を'''白鳳時代'''(はくほうじだい)として区別する事がある。 == 概要 == === 推古朝 === [[File:Horyuji_Monastery_Shotoku_Taishi_of_Shoryoin_(331).jpg|thumb|255px|right|[[聖徳太子]](厩戸皇子)像。[[法隆寺]]聖霊院。]] {{wikisourcecat|飛鳥の法令}} 5世紀には[[氏姓制度]]に基づく[[部民制]]が普及していたところ、[[552年]]([[欽明天皇]]13年)、或いは[[538年]]([[宣化天皇]]3年)に、[[百済]]の[[聖王 (百済)|聖王]](聖明王)が、釈迦仏像や経論などを[[朝廷 (日本)|朝廷]]に贈り、[[仏教]]が公伝されると、[[587年]]([[用明天皇]]2年)、[[大王 (ヤマト王権)|大王]]の仏教[[帰依]]について、大連・[[物部守屋]](排仏派)と大臣・[[蘇我馬子]](崇仏派)との対立が激化した。[[聖徳太子]]は[[蘇我氏]]側につき、武力抗争の末に[[物部氏]]を滅ぼした([[丁未の乱]])。物部氏を滅ぼして以降、約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。[[588年]]([[崇峻天皇]]元年)には、[[蘇我馬子]]が飛鳥に法興寺([[飛鳥寺]])の建立を始める。 [[ファイル:Horyu-ji11s3200.jpg|thumb|255px|[[法隆寺]]金堂(西院伽藍)]] [[587年]](用明天皇2年)、馬子は丁未の乱で蘇我氏側についた泊瀬部皇子を大王に擁立したが([[崇峻天皇]])、次第に天皇と馬子の不仲が目立ち、[[592年]](崇峻天皇5年)、蘇我馬子は[[東漢駒]]に命じて崇峻天皇を暗殺させた。こののち馬子は日本初の[[女帝]]となる[[推古天皇]]を立てた。[[593年]](推古天皇元年)、聖徳太子(厩戸皇子)が[[皇太子]]に立てられ、摂政となったといわれている。[[603年]](推古天皇11年)には、[[冠位十二階]]を制定。聖徳太子が[[604年]]に[[十七条憲法]]を作り、仏教の興隆に力を注ぐなど、大王・王族中心の理想の国家体制作りの礎を築いた。 [[607年]](推古天皇15年)、[[小野妹子]]らを[[隋]]に[[遣隋使]]として遣わして、隋の[[皇帝]]に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)の上表文(国書)を送る。留学生・留学僧を隋に留学させて、隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた。[[620年]](推古天皇28年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。 [[国造]]制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていた。国造とは、各地の有力[[豪族]]に与えられた一種の称号で、大和朝廷の[[日本古代の地方官制|地方行政]]的な性格を持つものである。 [[621年]](推古天皇29年)に摂政であった聖徳太子が、[[626年]](同34年)には蘇我馬子が、さらに[[628年]](同36年)には推古天皇が没した。日本歴史上初めての女帝の時代は36年間の長期に渡った。 === 舒明・皇極朝 === 聖徳太子と推古天皇が没した後は、[[蘇我蝦夷]]と子の[[蘇我入鹿]](いるか)の専横ぶりが目立ったと『[[日本書紀]]』には記されている。推古天皇没後、有力な大王位継承候補となったのは、田村皇子と[[山背大兄王]](聖徳太子の子)であった。蝦夷は推古天皇の遺言を元に田村皇子を舒明天皇として擁立するが、同族[[境部摩理勢]]は山背大兄王を推したため、蝦夷に滅ぼされる。舒明天皇の没後は、大后である[[斉明天皇|宝皇女]]が皇極天皇として[[即位]]した。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや、[[643年]](皇極天皇2年)、聖徳太子の子・山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治を恣にした。 {{wikisource|改新の詔}} === 孝徳朝 === [[File:Portrait_of_Fujiwara_no_Kamatari_by_Shimamura_Shunmei_(1853-1896),_1892_World%27s_Columbian_Exposition,_ivory_-_Tokyo_National_Museum_-_DSC05583.JPG|thumb|255px|牙彫[[藤原鎌足]](宮彫師[[島村俊明]]作、1892年)。[[東京国立博物館]]]] [[645年]](皇極天皇4年)の[[乙巳の変]]で、[[天智天皇|中大兄皇子]]・中臣鎌足([[藤原鎌足]])らが宮中([[板蓋宮|飛鳥板蓋宮]])で[[蘇我入鹿]]を暗殺し、[[蘇我蝦夷]]を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。 乙巳の変後、皇極天皇は弟の軽皇子に譲位し、新たに[[孝徳天皇]]が即位した。孝徳天皇は、日本で最初の[[元号]]の[[大化]]を制定するなど次々と改革を進めていった([[大化の改新]])。『日本書紀』の記述によると、645年(大化[[元年]])12月には都を[[難波宮|難波長柄豊碕宮]]に移している。翌[[646年]](大化2年)正月には、[[改新の詔]]を宣して、政治体制の改革を始めた。その後も、今までは蘇我氏の大臣1人だけの中央官制を[[左大臣]]・[[右大臣]]・[[内臣|内大臣]]の3人に改めた。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとある。[[649年]](大化5年)、この頃、[[評]](こおり)の制を定める<ref>[[1999年]]([[平成]]11年)[[11月]]に、大阪市中央区の前期難波宮跡から「秦人国評」の木簡が出土していることから、この頃評制が施行され始めたことは間違いない。</ref>。[[650年]]([[白雉]]元年)[[2月15日]]、穴門国(後の[[長門国]])より献上された[[白雉]]により、[[改元]]する。 === 天智朝 === 孝徳天皇が死没した後は、中大兄皇子が政治の実権を握った。中大兄皇子は何らかの理由により大王位には就かず、退位し皇祖母尊(すめみおやのみこと)を称していた母親・[[斉明天皇|皇極天皇]]を、再度即位([[重祚]])させた([[斉明天皇]])。斉明天皇没後も数年の間、皇位に就かず、皇太子の地位で政務に当たった(天皇の位に就かずに政務を執ることを[[称制]]という)。 [[663年]](天智天皇2年)、百済の国家復興に助力するため[[朝鮮半島]]へ出兵したが、[[白村江の戦い]]で新羅・唐連合軍に大敗した。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、[[日本列島]]の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。[[664年]](天智天皇3年)、[[筑紫]]に[[大宰府]]を守る[[水城]]を造り、[[対馬]]・[[隠岐諸島|隠岐]]・[[筑紫]]など朝鮮半島方面の[[日本海]]に[[防人]]や烽を置いた。[[666年]](天智天皇5年)には、日本国内の百済人2000人余りを東国へ移すなど、防衛施設の整備が進んだ。[[667年]](天智天皇6年)、都城も防衛しやすい[[近江宮|近江大津宮]]に移された。そのほか、大和に[[高安城]]が築城されて、讃岐に[[屋島|屋島城]]が築城されて、対馬に[[金田城]]が築かれている。 [[668年]](天智天皇7年)に、皇太子だった中大兄皇子が即位して、[[天智天皇]]となる。 [[670年]](天智天皇9年)、全国的な戸籍([[古代の戸籍制度|庚午年籍]])を作り、人民を把握する国内政策も推進した。また、[[東国]]に[[城柵|柵]]を造った。  [[671年]] (天智天皇10 年) 、天智天皇が急死する。死因は[[朝廷 (日本)|朝廷]][[編纂]]の歴史書にも書かれていないため諸説ある。 === 天武・持統朝 === 天智天皇が没すると、天智天皇の弟である大海人皇子(後の[[天武天皇]])と、息子である[[弘文天皇|大友皇子]]([[明治]]時代に弘文天皇と[[諡号]]され、歴代に加えられる)との間で争いが起こった。[[672年]](弘文天皇元年)の[[壬申の乱]]である。この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人皇子が勝利、即位後に天武天皇となった。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。 [[672年]](天武天皇元年)の末に、宮を[[飛鳥浄御原宮]]に移した。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の[[位階]]昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。 [[681年]](天武天皇10年)には、律令の編纂を開始した。5年後の[[686年]]([[朱鳥]]元年)に、天武天皇は没する。8年後の[[689年]](持統天皇3年)には、諸氏に令1部全22巻で構成される[[飛鳥浄御原令]]が制定され、頒布される。律は編纂されず、唐の律令制度である唐律をそのまま用いたのではないかと考えられている。 [[File:Empress_Jitō.jpg|thumb|255px|[[持統天皇]]。三英舎『御歴代百廿一天皇御尊影』、[[1894年]]。]] 人民支配のための本格的な[[古代の戸籍制度|戸籍]]作りも開始される。[[690年]](持統天皇4年)には、[[庚寅年籍]]が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となった。[[692年]](持統天皇6年)には、畿内に班田大夫を派遣。[[公地公民制]]を基礎とした[[班田収授法]]を実施した。[[702年]]([[大宝 (日本)|大宝]]2年)には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われ、国民1人1人が政府に把握されるようになった。さらに、条里制による耕地の区画整理が進み、班田が与えられた。 [[694年]](持統天皇8年)には日本初の本格的都城となる[[藤原京]]に都を遷した。 持統天皇は、子の[[草壁皇子]]に位を譲るつもりであったが、早世したため、孫である[[文武天皇]]を即位させる。この間、[[唐]]の[[律令制|律令制度]]を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、[[700年]](文武天皇4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の[[701年]](文武天皇5年)に[[大宝律令]]が制定された。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による中央集権支配体制が完成した。これをもって、一応の古代国家成立と見る。 [[日本の官制|中央行政組織]]は[[太政官]]と[[神祇官]]による二官八省制が採られ、[[日本古代の地方官制|地方行政組織]]は、国制度・郡制度・里制度が採られるようになった。租・庸・調の税制が整備され、国家財政が支えられるようになった。また、律令制度の施行に伴って生じた不備などを調整する目的から、[[慶雲の改革]]が行われた。 文武天皇の死後、母の[[元明天皇]]が即位。[[710年]]([[和銅]]3年)に、[[平城京]]へ[[遷都]]した。 == 飛鳥・白鳳文化 == {{see|飛鳥文化|白鳳文化}} == 年表 == * [[531年]]([[継体天皇]]25年) - [[安閑天皇]]即位する。 * [[535年]]([[安閑天皇]]2年) - [[屯倉]](みやけ)が全国において多数設置される。 * [[538年]]([[宣化天皇]]3年) - 仏教伝来(『[[元興寺伽藍縁起并流記資財帳]]』の説) * [[540年]](欽明天皇元年) - 秦人・漢人の戸籍が作られる。 * [[552年]](欽明天皇13年) - 仏教伝来(『[[日本書紀]]』の説) * [[571年]](欽明天皇32年) - 欽明天皇没する。 * [[572年]]([[敏達天皇]]元年) - [[敏達天皇]]が即位する。 * [[585年]]([[敏達天皇]]15年)- 敏達天皇崩御。 * [[587年]]([[用明天皇]]2年) - 仏教に帰依せんことを群臣に諮る。[[物部氏]]と[[蘇我氏]]が対立し、蘇我氏が勝つ。用明天皇没する。 * [[588年]]([[崇峻天皇]]元年) - 崇峻天皇が即位する。 * [[592年]](崇峻天皇5年) - 崇峻天皇が暗殺される。[[推古天皇]]即位。 * [[593年]](推古天皇元年)- 厩戸皇子([[聖徳太子]])が[[皇太子]]に立てられ、[[摂政]]となる。 * [[600年]](推古天皇8年) - 『[[隋書]]』によれば、[[倭国]]より遣使。 * [[603年]](推古天皇11年) [[冠位十二階]]を制定する * [[604年]](推古天皇12年) - [[十七条憲法]]制定。 * [[607年]](推古天皇15年) -『[[日本書紀]]』によれば、初の[[遣隋使]](大唐国と記載)。『[[隋書]]』では2回目と記載。 * [[608年]](推古天皇16年) -[[裴世清]]が答礼使として来日。 * [[628年]](推古天皇36年) - 推古天皇没する。遺詔を巡って群臣争う。 * [[629年]]([[舒明天皇]]元年) - 田村皇子即位し、舒明天皇となる。 * [[645年]]([[斉明天皇|皇極天皇]]4年) - [[天智天皇|中大兄皇子]]・[[藤原鎌足|中臣鎌足]]ら、[[蘇我入鹿]]を宮中で殺害する。[[蘇我蝦夷]]自殺する([[乙巳の変]])。軽皇子が即位。[[孝徳天皇]]となる。 * [[646年]]([[大化]]2年) - 改新の詔を宣する。([[大化の改新]]) * [[654年]]([[白雉]]5年) - 10月、孝徳天皇[[難波宮]]で没する。 * [[655年]]([[斉明天皇]]元年) - 1月、皇極天皇重祚し、斉明天皇となる。 * [[663年]]([[天智天皇]]2年) - [[白村江の戦い]]で大敗する。 * [[670年]](天智天皇9年) - 全国的に戸籍を作る([[古代日本の戸籍制度#庚午年籍|庚午年籍]])。 * [[672年]]([[弘文天皇]]元年・[[天武天皇]]元年) - 天智天皇没する。[[壬申の乱]]。[[飛鳥浄御原宮]](きよみはらのみや)に遷る。 * [[681年]](天武天皇10年) - [[飛鳥浄御原令]]の編纂を開始する。 * [[690年]]([[持統天皇]]4年) - 戸令により、[[古代日本の戸籍制度#庚寅年籍|庚寅年籍]]を作る。 * [[694年]](持統天皇8年) - [[藤原京]]に都を移す。 * [[697年]]([[文武天皇]]元年) - 持統天皇譲位し、文武天皇即位する。 * [[701年]]([[大宝 (日本)|大宝]]元年) - [[大宝律令]]の撰定完成する。 * [[707年]]([[慶雲]]4年) - 文武天皇(25)没し、[[元明天皇]]即位する。 * [[708年]]([[和銅]]元年) - [[武蔵国]]から銅を献上する。改元する。[[和同開珎]]を発行する。 * [[710年]](和銅3年) - [[平城京]]に[[遷都]]する。 == 関連する人物 == * [[飛鳥時代以前の人物一覧]] == 遺跡 == * 中ツ道 * 藤原宮跡 その他、飛鳥村の多数の遺跡 ==画像== <gallery> Asuka dera daibutsu.jpg|[[飛鳥寺]]の大仏。609年作製と見られており、日本最古の[[仏像]]である。 Hyakken-Ishigaki stone wall (one of the Onojo-Castle ruins).jpg|[[大野城 (筑前国)|大野城跡]]。[[日本書紀]]によれば、[[白村江の戦い]]の敗北後、[[唐]]の侵略に備えて建造されたという。 Takamat1.jpg|[[高松塚古墳]]の壁画。 Fuhonsen_Asukaike_end_of_7th_century_copper_and_antimony.jpg|[[富本銭]]。 Yakushi Nyorai Kondo Horyuji.jpg|[[法隆寺]]の[[法隆寺金堂薬師如来像光背銘|薬師如来像]] Hokke_Sesso_Bronze_Plaque_Hasedera.JPG|[[長谷寺]]の[[長谷寺銅板法華説相図|法華説相図]] </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Asuka period}} * [[飛鳥]] * [[:s:category:飛鳥の法令|飛鳥の法令]] - [[ウィキソース]] * [[日本の歴史]] * [[日本史時代区分表]] * [[百済]] * [[大和時代]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} * {{Kotobank|飛鳥時代(年表)}} {{日本の歴史一覧}} {{Japanese-history-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あすかしたい}} [[Category:日本の歴史 (時代別)]] [[Category:飛鳥時代|*]]
2003-08-12T07:25:08Z
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四川省
四川省(しせんしょう、スーチュアンしょう、中国語: 四川省、拼音: Sìchuān Shěng、英語: Sichuan)は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は川あるいは蜀。省都は成都。西北部はチベットの伝統的な地方区分でいうアムド地方の東南部、西部はカムの東部にあたる。また、東部の重慶は直轄市として1997年に分離した。 四川省は北西は青海省、北は甘粛省及び陝西省、東は重慶、南は貴州省及び雲南省、西はチベット自治区と接する。 天険の要害に守られた急峻な山岳地帯に位置すること、東部に四川盆地が広がり内陸部にもかかわらず温暖で肥沃な米作地であることから「天府之国」と称される。また、海には面していないが中国最大級の湖瀘沽湖を擁し、水産物、特に蝦の一大産地でもある。かつての巴蜀のうちの巴国にあたる重慶は従来は四川省に属していたが、1997年重慶直轄市として分離した。省北部の岷山山脈や、省西部、南部にはチベット族、イ族、羌族など少数民族が多い。四川省北部はジャイアントパンダの生息地として知られる。中国最大のパンダ保護区は臥竜自然保護区。省内最高標高地点は、大雪山脈のミニヤコンカ山頂7,556m。 近年広漢市で三星堆遺跡が発掘され、3,000年前に古蜀の地に存在した仮面王国が明らかになった。四川は古代の巴蜀(中国語版)(はしょく、「巴(英語版)」は現在の重慶一帯、「蜀」は現在の成都一帯)の地である。(→山海経) 前316年に秦によって巴蜀が滅ぼされ(秦滅巴蜀の戦い(中国語版))、秦の版図に編入され、その険しい山岳地帯である地理的条件から流刑の地とされた。秦の蜀郡郡守李冰(りひょう)は、洪水に悩む人々を救うために紀元前256年から紀元前251年にかけて都江堰を建設しそれにより成都平原では水害も旱魃もなく、古代以来の中国で最も豊かな農業地帯となった。前206年に秦が滅亡し、劉邦が項羽から漢中と巴蜀が与えられる。漢中王を号した劉邦は当地を基盤として勢力を増大し、やがて項羽を討ち中国を統一、中華王朝としての漢朝を建国した。漢王朝が出来た当初は流刑地として以外には開拓が進まなかったが、徐々に豊かになっていく。三国時代には、諸葛亮が益州(四川盆地、漢中盆地)を評して、天然の要害で土壌も豊かな天府の地であり漢の劉邦の帝業の基礎となったと述べている)。彼を幕僚とした前漢の皇族劉勝の末裔劉備によりこの地に蜀漢が建てられ、魏呉と天下を争った。 五胡十六国時代には成漢・後蜀が晋の支配を、五代十国時代には前蜀・後蜀が中原支配を脱し、四川省を中心に独自の政権を樹立している。1001年(咸平4年)、北宋は成都府路・梓州路・利州路・夔州路(現在は重慶市)の4地方を統合して四川路を設置、これより現在までこの地を四川と称する。 明末清初の動乱期に、反乱軍の張献忠によって四川省で最大300万人ほどの大虐殺が行われ(屠蜀(中国語版))、古代から続く四川人はほぼ絶滅した。その後の100年間に湖北省・湖南省・広東省からの移民が流入し復興した。 1926年、イギリス軍によって万県市街が砲撃される(万県事件)。 1938年、日中戦争の結果南京を追われた蔣介石率いる国民政府は重慶に国都を移している。その後、日中戦争終結後の1946年に国民政府は南京に戻るが、国共内戦が激化すると蔣介石は再び重慶に逃れ、1949年12月に成都を経て台湾に脱出している。 1949年12月27日に人民解放軍が成都を占領し、四川省は中華人民共和国の実効支配下に入る。 これとほぼ同じくして西康省の康定も占領、人民政府は西康の名目上の領域ではなく、中華民国時期に西康省政府が実効支配していた地域(カム東部)だけを管轄領域として、西康省蔵族自治区を発足させた。西康に名目上属していたカム地方の西部についてはそれまでチベット政府「ガンデンポタン」が掌握していたが、「西蔵和平解放」の一環として1950年に行われたチャムド戦役の勝利により、占領下に置いた。中国人民政府はこのカム地方西部を西康省蔵族自治区に組み込むことはせず、別途この地に「昌都解放委員会」を設置して、「西康」とは切り離した。 1955年に西康省チベット族自治区は独立した省からカンゼ・チベット族自治州に格下げされた上で、四川省に吸収合併された。昌都解放委員会の委員たちは1956年に発足する「西蔵自治区籌備委員会(チベット自治区準備委員会)」の委員となり、ここに、清末の1905年以来、形成が模索されてきた「西康」という地域的枠組みは姿を消すことになった。 1997年に重慶市が直轄市へ昇格。 2008年、アバ・チベット族チャン族自治州汶川県を震源とした四川大地震が発生し大きな被害を受けた。 詳細は下部テンプレート参照。 四川料理の本場であり、四川料理の形式が形成されたのは秦の始皇帝の時代から三国時代にかけてといわれている。しかし、もともと四川はサトウキビ栽培をはじめとする砂糖生産が盛んで、特に唐から宋の時代にかけて四川では甘いものが好まれたといわれている。 元から明の時代にかけて四川南部の自貢で製塩が盛んになり、次第に濃い味付けに変化した。四川料理が辛みを特徴とする料理となったのは、四川に唐辛子が伝来する明朝末期から清朝初頭以降といわれている。
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四川省は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は川あるいは蜀。省都は成都。西北部はチベットの伝統的な地方区分でいうアムド地方の東南部、西部はカムの東部にあたる。また、東部の重慶は直轄市として1997年に分離した。
{{Otheruses||パズルゲーム|四川省 (ゲーム)}} {{基礎情報 中華人民共和国の一級行政区画 | Header = 四川省 | Name = 四川省 | Abbreviation = 川 / 蜀 | AbbrevPinyin = Chuān / Shŭ | Map = China_Sichuan.svg | AdministrationType = 省 | Simplified = 四川省 | Traditional = 四川省 | Pinyin = {{Audio|zh-Sichuan.ogg|Sìchuān}} | Katakana = スーチュアン | Capital = [[成都市]] | LargestCity = 成都市 | Secretary = [[王暁暉]](前国家電影局局長) | Governor = [[黄強]]( 前河南省人民政府常務副省長、甘粛省人民政府常務副省長) | Area = 48.5万 | AreaRank = 5 | PopYear = 2020 | Pop = 83,674,866<ref name="pop">{{Cite web |url=http://citypopulation.de/en/china/sichuan/admin/ |title=Sìchuān |publisher=Citypopulation |date=2022-11-18 |accessdate=2023-08-23}}</ref> | PopRank = 5 | PopDensity = 172 | PopDensityRank = 22 | GDPYear = 2015 | GDP = 30103.10億 | GDPRank = 6 | GDPperCapita = 36836 | GDPperCapitaRank = 23 | HDIYear = 2014 | HDI = 0.720 | HDIRank = 23 | HDICat = {{Color|#009900|高}} | Nationalities = [[漢民族]] - 95% <br /> [[イ族]] - 2.6% <br /> [[チベット系民族|チベット族]] - 1.5% <br /> [[チャン族]] - 0.4% | Prefectures = 21 | Counties = 183 | Townships = 5,011 | ISOAbbrev = SC | Website = https://www.sc.gov.cn/ }} [[ファイル:SanXingDui ZongMuMianJu.jpg|thumb|250px|[[三星堆遺跡]]の[[青銅縦目仮面]]]] [[ファイル:Sichuan Opera in Chengdu.jpg|thumb|250px|四川省の伝統芸能『[[川劇]]』]] {{Chinese |c=四川 |psp=SzechwanまたはSzechuan |p=Sìchuān |w=Ssu<sup>4</sup>-ch'uan<sup>1</sup> |sic=Si<sup>4</sup>-cuan<sup>1</sup> |mi={{IPAc-cmn|AUD|zh-Sichuan.ogg|s|^|4|ch|uan|1}} |bpmf=ㄙˋㄔㄨㄢ |j=sei<sup>3</sup>cyun<sup>1</sup> |wuu=sy<sup>3</sup>tshoe<sup>1</sup> |poj=Sù-chhoan |tl=Sì-tshuan |h=Si-tshôn |l=Sichuan }} '''四川省'''(しせんしょう、スーチュアンしょう、{{Lang-zh|四川省}}、{{ピン音|Sìchuān Shěng}}、{{Lang-en|Sichuan}})は、[[中華人民共和国]]西南部に位置する[[省]]。略称は'''川'''あるいは'''蜀'''。省都は[[成都]]。西北部は[[チベット]]の伝統的な地方区分でいう[[アムド]]地方の東南部、西部は[[カム (チベット)|カム]]の東部にあたる。また、東部の[[重慶]]は[[直轄市]]として[[1997年]]に分離した。 == 地理 == 四川省は北西は[[青海省]]、北は[[甘粛省]]及び[[陝西省]]、東は[[重慶市|重慶]]、南は[[貴州省]]及び[[雲南省]]、西は[[チベット自治区]]と接する。 天険の要害に守られた急峻な山岳地帯に位置すること、東部に[[四川盆地]]が広がり内陸部にもかかわらず温暖で肥沃な[[米作]]地であることから「天府之国」と称される。また、海には面していないが中国最大級の湖[[瀘沽湖]]を擁し、水産物、特に[[蝦]]の一大産地でもある。かつての巴蜀のうちの巴国にあたる[[重慶市|重慶]]は従来は四川省に属していたが、[[1997年]]重慶[[直轄市]]として分離した。省北部の[[岷山山脈]]や、省西部、南部には[[チベット系民族|チベット族]]、[[イ族]]、[[羌|羌族]]など少数民族が多い。四川省北部は[[ジャイアントパンダ]]の生息地として知られる。中国最大のパンダ保護区は[[臥竜自然保護区]]。省内最高標高地点は、[[大雪山脈]]の[[ミニヤコンカ]]山頂7,556m。 == 歴史 == {{See also|四川省 (中華民国)}} 近年[[広漢市]]で[[三星堆遺跡]]が発掘され、3,000年前に[[古蜀]]の地に存在した仮面王国が明らかになった。四川は古代の'''{{仮リンク|巴蜀 (歴史)|zh|巴蜀|label=巴蜀}}'''(はしょく、「{{仮リンク|巴国|en|Ba (state)|label=巴}}」は現在の重慶一帯、「[[古蜀|蜀]]」は現在の成都一帯)の地である。(→[[山海経]]) [[紀元前316年|前316年]]に[[秦]]によって巴蜀が滅ぼされ({{仮リンク|秦滅巴蜀の戦い|zh|秦滅巴蜀之戰}})、秦の版図に編入され、その険しい山岳地帯である地理的条件から流刑の地とされた。秦の蜀郡郡守李冰(りひょう)は、洪水に悩む人々を救うために紀元前256年から紀元前251年にかけて[[都江堰]]を建設しそれにより成都平原では水害も旱魃もなく、古代以来の中国で最も豊かな農業地帯となった。[[紀元前206年|前206年]]に[[秦]]が滅亡し、[[劉邦]]が[[項羽]]から[[漢中郡|漢中]]と巴蜀が与えられる。漢中王を号した劉邦は当地を基盤として勢力を増大し、やがて項羽を討ち中国を統一、中華王朝としての[[前漢|漢朝]]を建国した。漢王朝が出来た当初は流刑地として以外には開拓が進まなかったが、徐々に豊かになっていく。[[三国時代 (中国)|三国時代]]には、[[諸葛亮]]が益州(四川盆地、漢中盆地)を評して、天然の要害で土壌も豊かな天府の地であり漢の劉邦の帝業の基礎となったと述べている)。彼を幕僚とした前漢の皇族[[劉勝]]の末裔[[劉備]]によりこの地に[[蜀|蜀漢]]が建てられ、[[魏 (三国)|魏]][[呉 (三国)|呉]]と天下を争った。 [[五胡十六国時代]]には[[成漢]]・[[後蜀 (五胡十六国)|後蜀]]が[[晋 (王朝)|晋]]の支配を、[[五代十国時代]]には[[前蜀]]・[[後蜀 (十国)|後蜀]]が中原支配を脱し、四川省を中心に独自の政権を樹立している。[[1001年]]([[咸平]]4年)、[[北宋]]は成都府路・梓州路・利州路・夔州路(現在は重慶市)の4地方を統合して四川路を設置、これより現在までこの地を四川と称する。 [[明]]末[[清]]初の動乱期に、反乱軍の[[張献忠]]によって四川省で最大300万人ほどの[[大量虐殺|大虐殺]]が行われ({{仮リンク|屠蜀|zh|屠蜀}})、古代から続く四川人はほぼ絶滅した。その後の100年間に[[湖北省]]・[[湖南省]]・[[広東省]]からの移民が流入し復興した。 [[1926年]]、イギリス軍によって万県市街が砲撃される([[万県事件]])。 [[1938年]]、[[日中戦争]]の結果[[南京市|南京]]を追われた[[蔣介石]]率いる国民政府は重慶に国都を移している。その後、日中戦争終結後の[[1946年]]に国民政府は南京に戻るが、[[国共内戦]]が激化すると蔣介石は再び重慶に逃れ、[[1949年]][[12月]]に[[成都市|成都]]を経て[[台湾]]に脱出している。 1949年[[12月27日]]に[[中国人民解放軍|人民解放軍]]が成都を占領し、四川省は中華人民共和国の実効支配下に入る。 これとほぼ同じくして[[西康省]]の[[康定市|康定]]も占領、人民政府は西康の名目上の領域ではなく、中華民国時期に西康省政府が実効支配していた地域(カム東部)だけを管轄領域として、[[西康省蔵族自治区]]を発足させた。西康に名目上属していたカム地方の西部についてはそれまでチベット政府「[[ガンデンポタン]]」が掌握していたが、「[[西蔵和平解放]]」の一環として1950年に行われた[[チャムド戦役]]の勝利により、占領下に置いた。中国人民政府はこのカム地方西部を西康省蔵族自治区に組み込むことはせず、別途この地に「[[昌都解放委員会]]」を設置して、「西康」とは切り離した。 [[1955年]]に[[西康省|西康省チベット族自治区]]は独立した省から[[カンゼ・チベット族自治州]]に格下げされた上で、四川省に吸収合併された。昌都解放委員会の委員たちは1956年に発足する「[[西蔵自治区籌備委員会]](チベット自治区準備委員会)」の委員となり、ここに、清末の1905年以来、形成が模索されてきた「[[西康]]」という地域的枠組みは姿を消すことになった。 [[1997年]]に重慶市が[[直轄市]]へ昇格。 [[2008年]]、アバ・チベット族チャン族自治州[[汶川県]]を震源とした[[四川大地震]]が発生し大きな被害を受けた。 == 行政区画 == 詳細は下部テンプレート参照。 {| class="wikitable sortable" style="margin:1em auto 1em auto; width:90%;text-align:center" |- !! scope="col" rowspan="1" | No. !! scope="col" rowspan="1" | 名称 !! scope="col" rowspan="1" | 中国語表記 !! scope="col" rowspan="1" | [[拼音]] !! scope="col" rowspan="1" | 面積<br />(Km{{sup|2}}) !! scope="col" rowspan="1" | 人口<br />(2020<ref name="pop" />) !! scope="col" rowspan="1" | 政府所在地 |- style="font-weight: bold" ! colspan="7" |'''四川省の行政区画''' |- | colspan="7" |[[ファイル:Sichuan prfc map.png|450px]] |-bgcolor=lightblue | colspan="7" style="text-align:center;"|'''— [[副省級市]] —''' |- ! 9 !! [[成都市]] |成都市|| Chéngdū Shì || 14378.18 || 20,937,757 || [[武侯区]] |-bgcolor=lightblue | colspan="7" style="text-align:center;"|'''— [[地級市]] —''' |- ! 3 !! [[綿陽市]] |绵阳市|| Miányáng Shì || 20267.46 || 4,868,243 || [[涪城区]] |- ! 4 !! [[広元市]] |广元市|| Guǎngyuán Shì || 16313.70 || 2,305,657 || [[利州区]] |- ! 5 !! [[南充市]] |南充市|| Nánchōng Shì || 12479.96 || 5,607,565 || [[順慶区]] |- ! 6 !! [[巴中市]] |巴中市|| Bāzhōng Shì || 12301.26 || 2,712,894 || [[巴州区]] |- ! 7 !! [[達州市]] |达州市|| Dázhōu Shì || 16591.00 || 5,385,422 || [[通川区]] |- ! 8 !! [[雅安市]] |雅安市|| Yǎ'ān Shì || 15213.28 || 1,434,603 || [[雨城区]] |- ! 10 !! [[徳陽市]] |德阳市|| Déyáng Shì || 5951.55 || 3,456,161 || [[旌陽区]] |- ! 11 !! [[遂寧市]] |遂宁市|| Sùiníng Shì || 5323.85 || 2,814,196 || [[船山区]] |- ! 12 !! [[広安市]] |广安市|| Guǎng'ān Shì || 6301.41 || 3,254,883 || [[広安区]] |- ! 13 !! [[眉山市]] |眉山市|| Méishān Shì || 7173.82 || 2,955,219 || [[東坡区]] |- ! 14 !! [[資陽市]] |资阳市|| Zīyáng Shì || 5747.54 || 2,308,631 || [[雁江区]] |- ! 15 !! [[楽山市]] |乐山市|| Lèshān Shì || 12827.49 || 3,160,168 || [[市中区 (楽山市)|市中区]] |- ! 16 !! [[内江市]] |内江市|| Nèijiāng Shì || 5385.33 || 3,140,678 || [[市中区 (内江市)|市中区]] |- ! 17 !! [[自貢市]] |自贡市|| Zìgòng Shì || 4373.13 || 2,489,256 || [[自流井区]] |- ! 18 !! [[宜賓市]] |宜宾市|| Yíbīn Shì || 13293.89 || 4,588,804|| [[翠屏区]] |- ! 19 !! [[瀘州市]] |泸州市|| Lúzhōu Shì || 12233.58 || 4,254,149 || [[江陽区]] |- ! 21 !! [[攀枝花市]] |攀枝花市|| Pānzhīhuā Shì || 7423.42 || 1,212,203 || [[東区 (攀枝花市)|東区]] |-bgcolor=lightblue | colspan="7" style="text-align:center;"|'''— [[自治州 (中国)|自治州]] —''' |- ! 1 !! [[カンゼ・チベット族自治州]] |甘孜藏族自治州|| Gānzī Zàngzú Zìzhìzhōu || 147681.37 || 1,107,431 || [[康定市]] |- ! 2 !! [[アバ・チベット族チャン族自治州]] |阿坝藏族羌族自治州|| Ābà Zàngzú Qiāngzú Zìzhìzhōu || 82383.32 || {{display none|0,}}822,587 || [[馬爾康市]] |- ! 20 !! [[涼山イ族自治州]] |凉山彝族自治州|| Liángshān Yízú Zìzhìzhōu || 60422.67 || 4,858,359 || [[西昌市]] |} == 交通 == {{節スタブ}} <gallery> File:Hongzhaobi.jpg|人民南路 File:South Renmin Road.jpg|人民南路(紅照壁) File:S. Renmin Road.jpg|人民南路(倪家橋) File:Hongxing Road.jpg|紅星路 File:Zongfu Road Chengdu.jpg|総府路 File:Jiuyanqiao.jpg|成都シャングリラ・ホテル(錦江) </gallery> == 文化 == [[ファイル:Mapo tofu.JPG|right|thumb|250 px|四川省を代表する料理『[[麻婆豆腐]]』]] {{Location map | China Sichuan | lat_deg = 30.66 | lon_deg = 104.06 | label = 成都市 | position = bottom | width = 250 | float = right | caption = 四川省の白地図 | alt = 四川省の白地図 }} {{節スタブ}} {{see also|Category:四川省の文化}} [[四川料理]]の本場であり、四川料理の形式が形成されたのは[[秦]]の[[始皇帝]]の時代から[[三国時代 (中国)|三国時代]]にかけてといわれている<ref name="jetro">{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/ext_images/_Reports/02/2017/eb8ab6cbdfe08fad/4-food.pdf |title= 4.食 四川料理|publisher=日本貿易振興機構|accessdate=2020-02-11}}</ref>。しかし、もともと四川は[[サトウキビ]]栽培をはじめとする[[砂糖]]生産が盛んで、特に[[唐]]から[[宋 (王朝)|宋]]の時代にかけて四川では甘いものが好まれたといわれている<ref name="jetro" />。 元から明の時代にかけて四川南部の[[自貢市|自貢]]で[[塩#製法|製塩]]が盛んになり、次第に濃い味付けに変化した<ref name="jetro" />。四川料理が[[辛味|辛み]]を特徴とする料理となったのは、四川に[[唐辛子]]が伝来する[[明|明朝]]末期から[[清|清朝]]初頭以降といわれている<ref name="jetro" />。 == 教育 == {{節スタブ}} * [[四川大学]] * [[電子科技大学]] * [[西南財経大学]] * [[西南交通大学]] * [[西南民族大学]] * [[西南科技大学]] * [[四川師範大学]] * [[四川農業大学]] * [[:en:Chengdu University of Technology|成都理工大学]] * [[川北医学院]] * [[成都情報工程学院]] * [[四川音楽学院]] * [[成都体育学院]] <gallery widths="170px" heights="170px"> File:Scuhuaxi.jpg|四川大学 File:Uestc library.jpg|電子科技大学 File:SWUFE Guanghua floor.jpg|西南財経大学 </gallery> == 世界遺産 == * [[九寨溝|九寨溝の渓谷の景観と歴史地区]](1992年、自然遺産) * [[黄龍風景区]](1992年、自然遺産) * [[峨眉山と楽山大仏]](1997年、複合遺産(自然・文化)) * [[青城山]]と[[都江堰]](2000年、文化遺産) * [[四川省のジャイアントパンダ保護区]](2006年、自然遺産) <gallery widths="170px" heights="170px"> File:九寨沟五花海.jpg|九寨溝 五花海 File:Water-of-Five-colored-Pond Huanglong Sichuan China.jpg|黄龍風景区 File:Leshan grosser buddha.JPG|楽山大仏 File:Mount Emei - Sunrise above the clouds.jpg|峨眉山 File:Dujiangyan Irrigation System.jpg|都江堰 File:青城山.jpg|青城山 File:Chengdu-pandas-d10.jpg|ジャイアントパンダ保護区 </gallery> == 友好都市 == * {{JPN}} [[広島県]]: [[1984年]]友好都市提携 * {{JPN}} [[山梨県]]: [[1985年]]友好都市提携 * {{JPN}} [[和歌山県]]: [[2022年]]1月 友好都市提携<ref>{{Cite news|title=県と中国の四川省が友好都市提携|publisher=[[テレビ和歌山]]|date=2022-01-27|url=https://www.tv-wakayama.co.jp/news/detail.php?id=67690|accessdate=2022-01-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220129121205/https://www.tv-wakayama.co.jp/news/detail.php?id=67690|archivedate=2022-01-29}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === <references /> == 参考文献 == * 高田純『中国の核実験 シルクロードで発生した地表核爆発災害』医療科学社、2008年7月 ISBN 4-86-003390-6 == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|中国|[[画像:China.svg|40px|Portal:中国]]}} * [[四川料理]] * [[中華人民共和国によるチベットの分割と再編]] * [[四川大地震]] * [[alan]] - 日本で活動する四川省美人谷出身で[[チベット系民族]]の[[女性]][[歌手]] * [[熊江琉唯]] - 日本で活動する四川省出身の[[モデル (職業)|モデル]]、[[レースクイーン]]、[[グラビアアイドル]] == 外部リンク == {{Wikivoyage|zh:四川|四川省{{zh-hans icon}}}} {{Wikivoyage|Sichuan|四川省{{en icon}}}} {{Wikinews|各国政府、中国四川省大地震への支援を表明}} {{Commons&cat|四川|Sichuan}} {{osm box|r|913068}} * [https://www.sc.gov.cn/ 四川省人民政府] {{zh icon}} {{en icon}} * [http://www.sc.xinhuanet.com/ 新華社四川関連サイト] {{zh icon}} * [https://seinansky.com/sichuan/ 四川省中国旅行社] {{ja icon}} * {{Wayback|url=http://www.panoramio.com/user/3474627/tags/Pro.Sichuan/ |title=四川写真集 |date=20110818070028}}{{リンク切れ|date=2019年5月}} {{ja icon}} * [http://www.ryychina.com/View_90_755.html 四川省の世界遺産] {{ja icon}} * [http://www.ryychina.com/List_4_35.html 四川省観光日程] {{ja icon}} {{中国地理大区}} {{中華人民共和国の行政区画}} {{四川省の行政区画}} {{Authority control}} {{Coord|30|08|N|102|56|E|region:CN-51_type:adm1st|display=title|name=四川省}} {{デフォルトソート:しせんしよう}} [[Category:四川省|*]] [[Category:中華人民共和国の省級行政区画]] [[Category:中華人民共和国の省]] {{China-geo-stub}}
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マルサの女
『マルサの女』(マルサのおんな)は、1987年公開の日本映画。 国税局査察部(通称:マル査)に勤務する女性査察官と脱税者との戦いを、コミカルかつシニカルに描いた映画。 監督・脚本は伊丹十三。 第11回日本アカデミー賞(1988年)において最優秀作品賞、最優秀主演女優賞(宮本信子)、最優秀主演男優賞(山崎努)、最優秀助演男優賞(津川雅彦)、最優秀監督賞および最優秀脚本賞(伊丹十三)を受賞し、主要部門をほぼ独占した。 また、作品の成功を受けてカプコンがファミリーコンピュータ向けにゲーム化。 翌年には続編の『マルサの女2』が製作された。 港町税務署のやり手調査官・板倉亮子は、管内のパチンコ店の所得隠しを発見したり、老夫婦の経営する食品スーパーの売上計上漏れを指摘するなど、地味な仕事を続けている。そんなある日、実業家・権藤英樹の経営するラブホテルに脱税のにおいを感じ、調査を行うが、強制調査権限のない税務署の業務の限界もあり、巧妙に仕組まれた権藤の脱税を暴くことができずにいた。 そんな中、亮子は強制調査権限を持つ東京国税局査察部の査察官(通称「マルサ」)に抜擢される。着任早々に功績を挙げ、やがて仲間からの信頼も得るようになった亮子。ある日、権藤に捨てられた愛人・剣持和江からマルサに密告の電話が入る。亮子は税務署員時代から目をつけていた権藤の調査を自ら進んで引き受ける。亮子の努力が実を結び、権藤に対する本格的な内偵調査が始まる事になった。暴力団・政治家・銀行が絡んだ大型脱税との戦いが始まった。 伊丹本人は本作制作の動機について、『お葬式』などのヒットによる収益を「税金でごっそり持って行かれ、税金や脱税について興味が湧いたため」と語っている。当初制作側は内容が内容だけに国税庁の協力は期待しなかったが、国税庁は「どうせ作るなと言っても作ってしまうだろうから、それなら納税者に誤解を与えない様、正確な内容にして欲しい」と取材に協力的で、査察部のガサ入れシーンではマルサOBも監修に協力している。 「○○の女」と銘打った作品は、後にテーマを変えつつ4作作られる事になり、またそれとともに主演・宮本信子を、日本を代表する演技派女優へと転進させた点で、今作は伊丹映画の路線を決定付ける記念すべき作品となった。なお、当初のタイトルは「特殊関係人」の予定だった。 主演の宮本信子演じる板倉亮子のモデルの一人は、元小石川税務署長で、撮影当時浅草税務署に勤務していた斉藤和子。宮本は、本作のために大型二輪免許を取得した。 これまでの津川雅彦の役どころは、いわゆる「モテ系」が多かったが、本作では伊丹の卓越した着眼点から「中間管理職の中年」を配役され、見事に演じきった。津川本人も自分の新しい側面が引き出せたことに非常に満足し、日本アカデミー賞を始め、あらゆる映画賞を受賞した際には、伊丹への感謝の言葉を述べている。 当初、伊集院の役は二枚目俳優を探していたがスケジュールの都合などで見つからなかった。クランクイン前は、川谷拓三がキャスティングされ、他のキャストやスタッフと共に国税庁査察部見学に参加したが、途中で無断帰宅してしまう。伊丹はこちら側が謝罪すると役者と撮影者側の力関係が固定化すると考えて、川谷をキャストから外した。その後、伊丹が偶然見たドラマ『深川通り魔殺人事件』の犯人役として出演していた大地康雄とコンタクトを取り、映画に参加してもらった。当初は、ヤクザの子分役だったが、配役が難航していた伊集院の役に抜擢した。 メイキング本『マルサの女日記』によると、「あざとい演出だから」といった理由で、全編にわたってクローズ・アップ撮影(いわゆる顔面アップ)はほとんどない。 権藤英樹の足が悪い設定は、伊丹十三自身が膝が悪く杖をついていたところから投影したもの。杖も監督自身の物を使用した。 蜷川喜八郎役の芦田伸介は、当初はよりヤクザらしく顔にキズを入れるメイクを施す予定だったが、もともと、交通事故で作った大きいキズがあったため、そのキズを生かしたメイクにした。 宝くじの男のセリフは、ギリヤーク自身の声ではない。何度もギリヤークにセリフを言わせたものの、伊丹はまったく納得がいかず、別人物の声をアテレコで入れている。 杉野光子役の岡田茉莉子は、自動車の運転免許証を持っていなかったことから、運転シーンは代役を使った。 アバンタイトルの冒頭の雪の中の病室、税務署、国税局などは、初台にあった東京工業試験所の廃建物を利用した。権藤英樹が事務所として使っている家(板倉亮子が内偵で訪れる部屋)の外観は千代田区にある旧渡邊洋治建築事務所で、部屋の中はセット。杉野光子が強制調査の朝、ゴルフの打ちっぱなしに出かけた後立ち寄る美容室は、港区青山にある旧イトーゴロー美容室。強制調査中の自宅を飛び出した権藤太郎を板倉亮子が追いかけるシーンでは、多摩川橋梁付近の多摩川土手と小田急線の踏切が使われている。 すばる銀行は当時伊丹が取引していた三菱銀行(現:三菱UFJ銀行)の六本木支店で撮影した。同行にダメもとで交渉し、二つ返事で許可が下りたものの、全国銀行協会から「三菱銀行と分からないように撮影すること」と通達された。 ラストシーンは、花月園競輪場。 DVDは、2005年2月に限定版の「伊丹十三コレクション たたかうオンナBOX」に組み込まれて、ジェネオンエンタテインメントから発売、追って2005年8月にメイキングDVD「マルサの女をマルサする」(周防正行演出)と同時に、単品でリリースされている。 音楽:本多俊之 1989年にカプコンから「マルサの女」が発売されている。また、同年に双葉社よりゲームブック版がファミコン冒険ゲームブックレーベルにて発売されている。 角川書店の元社長で、映画製作者・監督でもあった角川春樹は、本作の金の隠し方が「こんなことあるのかよ(笑)」と恩うほど面白かったと評価する一方、自身はこういう映画はやらないと断言し、その理由を「夢がない」と一言で述べている。
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『マルサの女』(マルサのおんな)は、1987年公開の日本映画。 国税局査察部に勤務する女性査察官と脱税者との戦いを、コミカルかつシニカルに描いた映画。 監督・脚本は伊丹十三。 第11回日本アカデミー賞(1988年)において最優秀作品賞、最優秀主演女優賞(宮本信子)、最優秀主演男優賞(山崎努)、最優秀助演男優賞(津川雅彦)、最優秀監督賞および最優秀脚本賞(伊丹十三)を受賞し、主要部門をほぼ独占した。 また、作品の成功を受けてカプコンがファミリーコンピュータ向けにゲーム化。 翌年には続編の『マルサの女2』が製作された。
{{Otheruses|伊丹十三の映画作品|ゲームソフト|マルサの女 (ゲーム)}} {{混同|マルホの女}} {{Infobox Film| | 作品名 = マルサの女 | 原題 = A Taxing Woman | 画像 = | 画像サイズ = | 画像解説 = | 監督 = [[伊丹十三]] | 製作総指揮 = | 製作 = 玉置泰<br/>細越省吾 | 脚本 = 伊丹十三 | 出演者 = [[宮本信子]]<br/>[[山﨑努]]<br/>[[津川雅彦]]<br/>[[橋爪功]]<br/>[[大地康雄]]<br/>[[佐藤B作]]<br/>[[室田日出男]]<br/>[[桜金造]]<br/>[[マッハ文朱]]<br/>[[志水季里子]]<br/>[[杉山とく子]]<br/>[[伊東四朗]]<br/>[[大滝秀治]]<br/>[[芦田伸介]]<br/>[[小林桂樹]]<br/>[[小沢栄太郎]]<br/>[[岡田茉莉子]] | 音楽 = [[本多俊之]] | 撮影 = [[前田米造]] | 編集 = [[鈴木晄]] | 配給 = [[東宝]] | 公開 = {{flagicon|JPN}} 1987年2月7日 | 上映時間 = 127分 | 製作国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 制作費 = | 興行収入 = | 配給収入 = 12億5000万円<ref>{{映連配給収入|1987}}</ref> | 前作 = | 次作 = [[マルサの女2]] }} 『'''マルサの女'''』(マルサのおんな)は、[[1987年の映画|1987年]]公開の[[日本映画]]。 [[国税局]][[査察部]](通称:マル査)に勤務する女性査察官と[[脱税]]者との戦いを、コミカルかつシニカルに描いた[[映画]]。 監督・脚本は[[伊丹十三]]。 [[第11回日本アカデミー賞]](1988年)において最優秀作品賞、最優秀主演女優賞(宮本信子)、最優秀主演男優賞(山崎努)、最優秀助演男優賞(津川雅彦)、最優秀監督賞および最優秀脚本賞(伊丹十三)を受賞し、主要部門をほぼ独占した。 また、作品の成功を受けて[[カプコン]]が[[ファミリーコンピュータ]]向けにゲーム化。 翌年には続編の『[[マルサの女2]]』が製作された。 == ストーリー == {{不十分なあらすじ|date=2012年4月}} [[南関東]]の某所にある[[税務署]]、港町税務署のやり手調査官・板倉亮子は、管内の[[パチンコ店]]の[[所得隠し]]を発見したり、老夫婦の経営する食品[[スーパーマーケット|スーパー]]の売上計上漏れを指摘するなど、地味な仕事を続けている。そんなある日、実業家・権藤英樹の経営する[[ラブホテル]]に脱税のにおいを感じ、調査を行うが、[[捜索|強制調査]]権限のない税務署の業務の限界もあり、巧妙に仕組まれた権藤の脱税を暴くことができずにいた。 そんな中、亮子は強制調査権限を持つ[[東京国税局]][[査察部]]の査察官(通称「マルサ」)に抜擢される。着任早々に功績を挙げ、やがて仲間からの信頼も得るようになった亮子。ある日、権藤に捨てられた[[愛人]]・剣持和江からマルサに[[密告]]の電話が入る。亮子は税務署員時代から目をつけていた権藤の調査を自ら進んで引き受ける。亮子の努力が実を結び、権藤に対する本格的な内偵調査が始まる事になった。[[暴力団]]・[[政治家]]・[[銀行]]が絡んだ大型脱税との戦いが始まった。 == 登場人物・キャスト == ; 板倉亮子 : 演 - [[宮本信子]] : 港町税務署員からマルサに異動。仕事一筋でプロ意識が強く、激務である[[東京国税局]][[査察部]]査察官への異動辞令(「税務職員」から本省の「国税専門官」へ栄転)をもらって狂喜乱舞する。彼女が査察官として初めて調査対象者の愛人に臨んだ時に[[貸金庫]]の鍵の隠し方を見抜いた。「ダイちゃん」という5歳の息子をもつ[[シングルマザー]]。レストランで目が合った赤ちゃんに笑いかけたり、権藤の子育ての相談にのったりするなど、やさしい一面も見せる。トレードマークは[[おかっぱ頭]]に[[寝癖]]、[[雀卵斑|そばかす]]。愛車は[[スズキ・マイティボーイ]]。 : ; 権藤英樹 : 演 - [[山﨑努]] : 裏社会や政界と付き合いのあるラブホテルの[[経営者]]。歩行が不自由であり、普段は[[杖]]をついて歩いている。[[ラブホテル]]では[[領収書]]をもらう客がなく、[[売り上げ]]の除外が容易であることを利用し、巨額の脱税をしている。金儲けに執着する一方で、その財産を息子に残すことを夢見る良き父親であり、亮子と同様、人間味のある人物として描かれている。亮子とは敵対する立場にあるものの奇妙な友情が芽生える。 : ; 花村 : 演 - [[津川雅彦]] : マルサにおける亮子の直属の上司。熱血漢。[[国税局]][[査察部]][[統括官]]。 : ; 伊集院 : 演 - [[大地康雄]] : マルサにおける亮子の同僚。その容貌から「マルサの[[ジャック・ニコルソン]]」の異名<ref group="注釈">この異名は撮影当日になって追加されたセリフだった。</ref>を取る。強制調査の際、自動車整備工場で使う[[安全靴]]を履いていたおかげで、ドアチェーンの切断に成功する。久美の部屋に踏み込み、架空名義の[[預金]]口座用の[[印鑑]]を大量に見つけ出す。 : ; 金子 : 演 - [[桜金造]] : マルサにおける亮子の同僚。[[ホームレス]]になりきって、権藤のラブホテルの前で張り込み中に、[[警視庁]]の[[日本の警察官|警察官]]に[[職務質問]]され、不審者として[[警察署]]に連行され、[[留置場]]に入れられてしまう。密行調査なので[[国税局]]の身分を明かせず、花村統括官がもらい下げに行き、ようやく釈放される。 : ; 姫田 : 演 - [[麻生肇]] : マルサにおける亮子の同僚。ガサ入れの際に権藤の取引先の銀行に乗り込む。 : ; 剣持和江 : 演 - [[志水季里子]] : 権藤の特殊関係人(愛人)。権藤に捨てられた事を根に持ち、マルサへ権藤の脱税を[[日本の公衆電話|公衆電話]]から密告する。 : ; 鳥飼久美 : 演 - [[松居一代]] : 権藤の新しい特殊関係人(愛人)。権藤のラブホテルの売り上げ計算書を細かくちぎって[[ゴミ収集車]]に出す事での隠蔽や架空口座の印鑑の保管、銀行員との裏取引の場所の提供などで脱税の片棒を担ぐ。 : ; 石井重吉 : 演 - [[室田日出男]] : 権藤が経営するラブホテルの社長。権藤のブレーン。マルサがガサ入れに入った途端、証拠の書類の束を抱えて経理係と一緒に客室のベッドに身を潜めていた。 : ; 宝くじの男 : 演 - [[ギリヤーク尼ヶ崎]](声:[[加藤精三 (声優)|加藤精三]]<ref>{{Cite book|和書|author=伊丹十三 |authorlink=伊丹十三 |year=1987 |title=「マルサの女」日記 |page=261 |publisher=[[文藝春秋]] |isbn=978-4163414102}}</ref>) : [[資金洗浄|資金洗浄屋]]。[[宝くじ]]の当選金は非課税なので「[[脱税]]に使える」と持ち掛け、権藤に5000万円の当たりくじを手数料を上乗せした5500万円で売りつけようとする。 : ; 食料品店の夫婦 : 演 - [[柳谷寛]]、[[杉山とく子]] : 亮子に申告漏れを指摘され妻が逆上し、夫はそれをなだめる。 : ; リネンサービス社長 : 演 - [[佐藤B作]] : 権藤のラブホテルにリネン類を卸している。取引先として亮子の調査を受け、あからさまに迷惑がる。 : ; 特殊関係人 : 演 - [[絵沢萠子]] : 亮子が査察官として初めて臨んだ調査対象者の愛人。[[貸金庫]]の鍵を服の中に隠したと査察官達に疑われ、怒って下着を脱ぎ捨て[[全裸]]になり、しまいには「女は[[膣|ここ]]に隠すんだ!」と[[M字開脚]]になった挙句、花村が「そこは結構です!」と遠慮した後に、亮子に[[貸金庫]]の鍵の隠し方を見抜かれ泣きじゃくる(着衣の中に隠すふりをして目立たない所に落とした)。 : ; 権藤太郎 : 演 - [[山下大介]] : 権藤の一人息子。父とは正反対のおとなしい性格だったが、徐々に反抗的になる。しかし、内心では父を心配する。 : ; 大谷銀行営業課長 染谷 : 演 - [[橋爪功]] : 権藤の取引先の銀行員。調査に訪れた亮子に大量の書類を閲覧させ辟易させる。 : ; パチンコ店の社長 : 演 - [[伊東四朗]] : 亮子に脱税を指摘され、最後にはウソ泣きして調査を免れようとする。 : ; 税理士 : 演 - [[小沢栄太郎]] : パチンコ店の顧問[[税理士]]。社長から[[税務署]]の肩を持っていると難詰され、怒る。 : ; 露口 : 演 - [[大滝秀治]] : 港町税務署での亮子の上司。亮子がマルサに抜擢されたことを父親のように喜ぶ。 : ; 秋山 : 演 - [[マッハ文朱]] : 港町税務署員。亮子の後輩。 : ; 山田 : 演 - [[加藤善博]] : 港町税務署員。亮子の後輩。 : ; 税務署長 : 演 - [[嵯峨善兵]] : 港町税務署の署長。 : ; 蜷川喜八郎 : 演 - [[芦田伸介]] : 暴力団関東蜷川組の組長。亮子に税務調査に入られた事を根に持ち、税務署に押しかけて[[メガホン]]を片手に大演説をぶつ。亮子の一計により[[塩]]が混入した[[コーヒー]]を出され、[[コーヒーカップ]]を壊してしまう。結果、器物損壊の現行犯で警察に通報される羽目になる。 : ; 査察部管理課長 : 演 - [[小林桂樹]] : マルサにおける亮子の上司。査察当日に関係者に足止めをさせるため、電話上で偽りの商談を持ち掛ける一芝居をする。 : ; 杉野光子 : 演 - [[岡田茉莉子]] : 権藤の[[内縁]]の妻。貸金庫の鍵を管理している。 === その他の登場人物・キャスト === * 査察部統括官:[[江角英明]]、[[小林勝彦]] * 花のような少女<ref group="注釈">相合傘でラブホテルに入るカップルの男にやや強引に誘われるままの女。</ref>:[[山下容莉枝]] * 中年男:[[小坂一也]] * ラブホテルの経理係:[[横山通乃|横山道代]] * すばる銀行支店長:[[田中明夫]] * すばる銀行次長:[[成田次穂]] * すばる銀行取引課長:[[高橋長英]] * 看護婦:[[渡辺まちこ]] - 袴田担当の看護師。権藤の犯罪に手を貸す。 * 袴田利兵衛:[[竹内正太郎]] - [[末期がん]]で入院した身で看護婦のおもちゃにされてしまい、権藤によって勝手に袴田の名義で「袴田不動産」というダミー会社が作られてしまう。 * 蜷川の腹心:[[上田耕一]]、[[ジャンボ杉田]] * 不動産屋:[[汐路章]] * パチンコ屋の店員:[[掛田誠]] * 刑事:[[友金敏雄]]、[[小池雄介]] * 菊池:[[辻村真人]] * マンションの若夫婦:[[ベンガル (俳優)|ベンガル]]、[[畠山明子]] == スタッフ == * 製作 - [[玉置泰]]、[[細越省吾]] * 監督・脚本 - [[伊丹十三]] * 撮影 - [[前田米造]] * 照明 - 桂昭夫 * 美術 - 中村州志 * 録音 - [[小野寺修]] * 編集 - 鈴木晄 * 音楽 - [[本多俊之]] * 音楽プロデューサー - [[立川直樹]] * キャスティング - 笹岡幸三郎 * 演出助手 - [[久保田延廣]] * 助監督 - 白山一城 * 装飾 - [[山崎輝]](山崎装飾) * スクリプター - [[堀北昌子]] * 効果 - 斉藤昌利([[東洋音響効果グループ]]) * 技斗 - [[高瀬将嗣]]([[高瀬道場]]) * 製作プロダクション - ニュー・センチュリー・プロデューサーズ * 伊丹プロダクション作品 * 配給 - [[東宝]] == 作品解説 == 伊丹本人は本作制作の動機について、『[[お葬式]]』などのヒットによる収益を「[[日本の租税|税金]]でごっそり持って行かれ、税金や[[脱税]]について興味が湧いたため」と語っている。当初制作側は内容が内容だけに[[国税庁]]の協力は期待しなかったが、国税庁は「どうせ作るなと言っても作ってしまうだろうから、それなら納税者に誤解を与えない様、正確な内容にして欲しい」と取材に協力的で、[[査察部]]の[[ガサ入れ]]シーンではマルサOBも監修に協力している。 「○○の女」と銘打った作品は、後にテーマを変えつつ4作作られる事になり、またそれとともに主演・宮本信子を、日本を代表する演技派女優へと転進させた点で、今作は伊丹映画の路線を決定付ける記念すべき作品となった。なお、当初のタイトルは「特殊関係人」の予定だった。 === 配役 === 主演の[[宮本信子]]演じる板倉亮子は、複数の大蔵事務官をモデルにしており、その一人が撮影当時浅草税務署勤務で東京国税局調査一部の“特官”を経て小石川税務署長となる斉藤和子<ref>[http://wisdom-japan.co.jp/lecturer/%E9%BD%8A%E8%97%A4%E3%80%80%E5%92%8C%E5%AD%90/ 日本綜合経営協会]</ref><ref>[http://itami-kinenkan.jp/tayori/2009/01/000215.html 伊丹十三記念館 2009.01.30 『マルサの女がマルサを語る』レポート ]</ref><ref group="注釈">メイキング本「マルサの女日記」では「A税務署のSさん」として匿名で書かれている</ref>。宮本は、本作のために[[大型自動二輪車|大型二輪免許]]を取得した。 これまでの[[津川雅彦]]の役どころは、いわゆる「モテ系」が多かったが、本作では伊丹の卓越した着眼点から「中間管理職の中年」を配役され、見事に演じきった。津川本人も自分の新しい側面が引き出せたことに非常に満足し、[[日本アカデミー賞]]を始め、あらゆる映画賞を受賞した際には、伊丹への感謝の言葉を述べている。 当初、伊集院の役は二枚目俳優を探していたがスケジュールの都合などで見つからなかった。クランクイン前は、[[川谷拓三]]がキャスティングされ、他のキャストやスタッフと共に国税庁査察部見学に参加したが、途中で無断帰宅してしまう<ref>『マルサの女日記』P.64</ref>。伊丹はこちら側が謝罪すると役者と撮影者側の力関係が固定化すると考えて、川谷をキャストから外した<ref>著書『マルサの女日記』P.64</ref>。その後、伊丹が偶然見たドラマ『[[深川通り魔殺人事件#テレビドラマ化|深川通り魔殺人事件]]』の犯人役として出演していた[[大地康雄]]とコンタクトを取り、映画に参加してもらった。当初は、ヤクザの子分役だったが、配役が難航していた伊集院の役に抜擢した。 === 演出 === メイキング本『マルサの女日記』によると、「あざとい演出だから」といった理由で、全編にわたってクローズ・アップ撮影(いわゆる顔面アップ)はほとんどない。 権藤英樹の足が悪い設定は、[[伊丹十三]]自身が膝が悪く杖をついていたところから投影したもの。杖も監督自身の物を使用した。 蜷川喜八郎役の芦田伸介は、当初はよりヤクザらしく顔にキズを入れるメイクを施す予定だったが、もともと、交通事故で作った大きいキズがあったため、そのキズを生かしたメイクにした。 [[宝くじ]]の男のセリフは、ギリヤーク自身の声ではない。何度もギリヤークにセリフを言わせたものの、伊丹はまったく納得がいかず、別人物の声をアテレコで入れている<ref>著書『マルサの女日記』より。</ref>。 杉野光子役の岡田茉莉子は、自動車の[[運転免許証]]を持っていなかったことから、運転シーンは代役を使った。 == ロケーション == [[アバンタイトル]]の冒頭の雪の中の病室、税務署、国税局などは、[[初台]]にあった[[東京工業試験所]]の廃建物を利用した。権藤英樹が事務所として使っている家(板倉亮子が内偵で訪れる部屋)の外観は千代田区にある旧[[渡邊洋治]]建築事務所で、部屋の中はセット。杉野光子が強制調査の朝、ゴルフの打ちっぱなしに出かけた後立ち寄る美容室は、[[港区 (東京都)|港区]][[青山 (東京都港区)|青山]]にある旧イトーゴロー美容室。強制調査中の自宅を飛び出した権藤太郎を板倉亮子が追いかけるシーンでは、[[多摩川橋梁 (小田急小田原線)|多摩川橋梁]]付近の多摩川土手と小田急線の踏切が使われている。 すばる銀行は当時伊丹が取引していた三菱銀行(現:[[三菱UFJ銀行]])の六本木支店で撮影した。同行にダメもとで交渉し、二つ返事で許可が下りたものの、[[全国銀行協会]]から「三菱銀行と分からないように撮影すること」と通達された。 ラストシーンは、[[花月園競輪場]]。 == 受賞歴 == * 第5回[[ゴールデングロス賞]]優秀銀賞、マネーメイキング監督賞。 == ソフト == [[DVD-Video|DVD]]は、2005年2月に限定版の「伊丹十三コレクション たたかうオンナBOX」に組み込まれて、[[ジェネオンエンタテインメント]]から発売、追って2005年8月にメイキングDVD「マルサの女をマルサする」([[周防正行]]演出)と同時に、単品でリリースされている。 == サウンドトラック == * マルサの女 (1987年2月25日、[[ユニバーサルミュージック]]) 音楽:[[本多俊之]] == ゲーム化 == 1989年にカプコンから「[[マルサの女 (ゲーム)|マルサの女]]」が発売されている。また、同年に双葉社よりゲームブック版がファミコン冒険ゲームブックレーベルにて発売されている。 * 「[[桃太郎電鉄シリーズ]]」には本作をモチーフとした「マルサカード」というカードが存在する。使用時の演出はFC版で調査対象の建物に亮子が入っていく時のシーンをモチーフとしている他、BGMの名称がメイキングビデオ「マルサの女をマルサする」のもじりとなっている。 == 批評 == [[角川書店]]の元社長で、映画製作者・監督でもあった[[角川春樹]]は、本作の金の隠し方が「こんなことあるのかよ(笑)」と恩うほど面白かったと評価する一方、自身はこういう映画はやらないと断言し、その理由を「夢がない」と一言で述べている<ref>『最後の角川春樹』、2021年11月発行、伊藤彰彦、毎日新聞出版、P184</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references /> == 外部リンク == * {{Allcinema title|150033|マルサの女}} * {{Kinejun title|17786|マルサの女}} * {{映画.com title|39539}} * {{Movie Walker|mv17607}} * {{Yahoo映画 title|150033}} * [https://www.toho.co.jp/dvd/item/html/TBR/TBR21392D.html マルサの女 Blu-ray 紹介 東宝WEBSITE] * {{Cite web|和書|url=http://itami-kinenkan.jp/about/movie03.html|title= 伊丹十三記念館 伊丹十三という人物→監督としての略歴 映画『マルサの女』|publisher= 公益財団法人ITM伊丹記念財団|date=|accessdate=2017-07-27}} * {{Rotten-tomatoes|id=a_taxing_woman}} * {{Amg movie|48735|A Taxing Woman}} * {{IMDb title|0093502|A Taxing Woman}} {{伊丹十三監督作品}} {{日本アカデミー賞最優秀作品賞|第11回}} {{キネマ旬報ベスト・テン日本映画ベスト・ワン}} {{毎日映画コンクール日本映画大賞}} {{ブルーリボン賞作品賞}} {{DEFAULTSORT:まるさのおんな}} [[Category:1987年の映画]] [[Category:日本のサスペンス映画]] [[Category:日本の犯罪映画]] [[Category:伊丹十三の監督映画]] [[Category:本多俊之の作曲映画]] [[Category:日本アカデミー賞最優秀作品賞]] [[Category:国税庁]] [[Category:政治家・公務員を題材とした作品]] [[Category:経済を題材とした映画作品]] [[Category:租税を題材とした作品]]
2003-08-12T07:43:28Z
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ピタゴラス
ピタゴラス(古代ギリシャ語: Πυθαγόρας, ラテン文字転写: Pȳthagórās、ラテン語: Pythagoras、英: Pythagoras、紀元前582年 - 紀元前496年)は、古代ギリシアの数学者、哲学者。「サモスの賢人」と呼ばれた。ピュタゴラスとも表記される。 ピタゴラスが組織した教団は秘密主義で、内部情報を外部に漏らすことを厳しく禁じ、違反者は船から海に突き落として死刑にした。そのため教団内部の研究記録や、ピタゴラス本人の著作物は後世に一点も伝わっていない。そこでピタゴラス個人の言行や人物像は、教団壊滅後に各地に離散した弟子の著作や、後世の伝記、数学に関する本の注釈といった間接的な情報でできあがっている。彼の肖像や彫像類も、すべて後世の伝聞や想像で作られたイメージであり、実際にどういう風貌をした人物だったかも不明である。 ピタゴラスは紀元前6世紀ころ、古代ギリシャ文化圏の東辺に位置する、現在のトルコ沿岸にあるイオニア地方のサモス島で、宝石細工師の息子として生まれた。父親はレバノンのティルス出身であるとする説がある 。近くの町には、やはり著名な数学者のタレスが住んでいた。 伝記によると、彼は若くして知識を求めて島を旅だち、古代オリエント世界の各地を旅した。エジプトでは幾何学と宗教の密儀を学び、フェニキアで算術と比率、カルデア人(バスク語版)から天文学を学んだという。ポルピュリオスなどの伝記によれば、ゾロアスター教の司祭のもとで学んだといわれる。さらにはイギリスやインドにまで旅したという伝説もある。 彼は20年にわたった放浪の末に、当時存在した数学知識のすべてを身につけて、故郷のサモス島に戻ってきた。しかしサモスは僭主ポリュクラテスの抑圧支配下にあり、学問研究に向かなかったため、イタリア半島の植民市に移住し、その弁舌で多くの人々を魅了した。彼はクロトンで、彼の思想に共鳴する多くの弟子とともにピタゴラス教団、またはピタゴラス学派と呼ばれる集団を立ち上げた。この教団はやがて地域の有力者の保護を得て大きな力を持つようになり、数百人の信者を集め、ピタゴラスも弟子だったテアノという女性と結婚して、大いに繁栄した。ところがある時、この後援者が政争に巻き込まれて失脚する。このとき、かつて教団への加入を希望したがテストで落とされて門前払いになった人物が、その遺恨から市民を扇動した。教団は暴徒と化した市民に焼き打ちされて壊滅し、ピタゴラスも殺されたという。 ピタゴラスは紀元前6世紀に、あらゆる事象には数が内在していること、そして宇宙のすべては人間の主観ではなく数の法則に従うのであり、数字と計算によって解明できるという思想を確立した。彼は和音の構成から惑星の軌道まで、多くの現象に数の裏付けがあることに気がついた。そしてついには、宇宙の全ては数から成り立つと宣言した。彼がこの思想にもとづいて創始したピタゴラス教団は、数の性質を研究することにより、宇宙の真理を追究しようとした。教団に入門するには数学の試験があったが、この試験は相当難しく、数学に適性のある者だけが選抜されて教団に集まった。そしてピタゴラス教団は、古代世界で最も著名な数学の研究機関となった。この学派は10を完全な数と考え、10個の点を三角形の形に配置したテトラクテュス(英語版)を紋章とした。 ピタゴラスやピタゴラス教団はさまざまな数学的な定理を発見したが、彼自身の成果か、教団の他の人物の成果か区別する事は難しい。その成果の多くはユークリッド原論に含まれているとされる。 アポロドーロスの詩には「ピタゴラスが、あの有名な定理を発見した時に、立派な牡牛を神に生贄として捧げた」と讃えた句がある。ただし、この定理がどの定理を指すのかは明示されておらず、ピタゴラス教団の禁欲主義的な戒律を考えれば、牛を生贄にした事自体も疑わしい。ピタゴラスの定理を指すとする説もあるが、証拠は無く、ピタゴラス自身がこの定理にどのように関わったのかも不明である。 一方でピタゴラスは数の調和や整合性を不合理なほど重視し、完全数や友愛数を宗教的に崇拝した。そのため教団の1人が無理数を発見したとき、その存在を認めようとするかわり、発見者を死刑にしてしまった。分数でも整数でも書き表せない奇怪な数が存在することは、彼の思想を根本から否定するものだったからである。 ピタゴラスの哲学は、ゾロアスター教や道教と同じく二元論が基礎となっており、現象世界を考察する十項目の対立項を提示した。彼の数学や輪廻転生についての思想はプラトンにも大きな影響を与えた。アリストテレスは『形而上学』のなかで、この対立項を再現している。彼はオルペウス教の影響を受けてその思想の中で輪廻を説いていたとされている。 ピタゴラスは音階の主要な音程に対応する数比を発見したとされている。彼はオクターヴを2:1、完全五度を3:2、完全四度を4:3、そして完全五度と完全四度の差としての全音を9:8と定義した。 ボエティウスは著書の『音楽教程』の冒頭にピタゴラスが音程と数比の関係を発見した経緯を記している。ある日鍛冶屋の前を通ったピタゴラスは、作業場の何人かの職人が打っているハンマーの音が共鳴して、快い協和音を発していることに気が付いた。中に入って調べてみると、ハンマーの音程は、その重量と関係があった。そこには五本のハンマーがあったが、四本の鎚の重さは「12 : 9 : 8 : 6」の単純な数比の関係にあることが解ったのである。単純な比になっていない他の1本のハンマーだけは、鳴らすと不協和音がした(しかし実際にはこの原理は楽器の弦の長さの比率においては正しいが、金槌の重さには当てはまらない)。 ピタゴラスはさらに弦楽器や笛で実験し、弦の長さの比が弦の振動数の比、つまり音程の関係を支配することを発見した。ピタゴラスは発見した音程の法則を確認するために、モノコードと呼ばれる1本のガットと自在に動かせる駒で構成される調律道具を発明したといわれる。 ピタゴラスに由来するとされるもう一つの音楽に関する学説は、「天球の音楽」の理論である。これは各惑星がある楽音に対応し、それらがハーモニーを形成しているというものである。 ピタゴラスの死後、彼の信奉者は音楽理論に関する学派を形成するが、ピタゴラスの学説が古代ギリシアの音楽の実践に影響を及ぼした可能性はほとんどない。 ピタゴラス音律は周波数の比率が3:2の音程の積み重ねに基づく音律である。これは中国の三分損益法と同様である。ピタゴラスコンマはピタゴラス音律における異名同音の差である。 ピタゴラスはなぜか、豆をたいへんに嫌った。そのためピタゴラス教団は、豆を食べない規則を全員に強制した。この奇癖は迷信の多かった当時でも異様に思われ、理由についての色々な憶測があり、アリストテレスは「豆は性器に似ている、あるいはまた地獄の門に似ているから」と書いている。また「食べない方が胃によく安眠が出来るから」という単なる健康上の理由であるともいい、さらに「選挙のときの籤に使われるから」という、政治的理由であったともいう。ディオゲネス・ラエルティオスは『ギリシア哲学者列伝』の中でピタゴラスの最期に関する4つの説を紹介しているが、それによると彼は豆畑を通って逃げるより、追っ手に捕まって殺されることを選んでいる 。
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ピタゴラスは、古代ギリシアの数学者、哲学者。「サモスの賢人」と呼ばれた。ピュタゴラスとも表記される。
[[Image:Kapitolinischer Pythagoras adjusted.jpg|right|200px|thumb|ピタゴラス像([[ローマ]]・[[カピトリーノ美術館]])]] [[Image:Sanzio 01 Pythagoras.jpg|thumb|right|200px|『[[アテナイの学堂]]』に描かれたピタゴラス([[ラファエッロ]]、[[1509年]])]] '''ピタゴラス'''({{翻字併記|grc|{{unicode|Πυθαγόρας}}|{{unicode|Pȳthagórās}}}}<ref>「サモス島のピュータゴラース」{{翻字併記|grc|{{unicode|Πυθαγόρας ὁ Σάμιος}}|{{unicode|Pȳthagórās ho Sámios}}|n|区=、}}、また単純に{{翻字併記|grc|{{unicode|Πυθαγόρας}}|{{unicode|Pȳthagórās}}|N|区=、}}、[[イオニア方言]]形: {{翻字併記|grc|{{unicode|Πυθαγόρης}}|{{unicode|Pȳthagórēs}}|N|区=、}}</ref>、{{lang-la|Pythagoras}}、{{lang-en-short|Pythagoras}}、[[紀元前582年]] - [[紀元前496年]])は、[[古代ギリシア]]の[[数学者]]、[[哲学者]]。「'''[[サモス島|サモス]]の賢人'''」と呼ばれた。'''ピュタゴラス'''とも表記される。 == 生涯 == ピタゴラスが組織した教団は秘密主義で、内部情報を外部に漏らすことを厳しく禁じ、違反者は船から海に突き落として死刑にした。そのため教団内部の研究記録や、ピタゴラス本人の著作物は後世に一点も伝わっていない。そこでピタゴラス個人の言行や人物像は、教団壊滅後に各地に離散した弟子の著作や、後世の伝記、数学に関する本の注釈といった間接的な情報でできあがっている{{sfn|ジェイムス|1998|pp=38-49}}。彼の肖像や彫像類も、すべて後世の伝聞や想像で作られたイメージであり、実際にどういう風貌をした人物だったかも不明である。 ピタゴラスは紀元前6世紀ころ、[[古代ギリシャ]]文化圏の東辺に位置する、現在の[[トルコ]]沿岸にある[[イオニア]]地方の[[サモス島]]で、宝石細工師の息子として生まれた。父親はレバノンの[[ティルス]]出身であるとする説がある<ref>[[アレクサンドリアのクレメンス]]: ''Stromata'' I 62, 2–3, cit. {{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=teoyAQAAQBAJ&lpg=PA20&dq=neanthes%20of%20cyzicus%20pythagoras%20tyre&pg=PA15#v=onepage&q&f=false |editor=Eugene V. Afonasin, John M. Dillon, John Finamore |title=Iamblichus and the Foundations of Late Platonism |last= |first= |date= |website= |publisher= Brill|access-date=|year=2012|place=Leiden and Boston|page=15}}</ref><ref>{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=Cf9Rj_ADZU4C&lpg=PA21&dq=neanthes%20of%20cyzicus%20pythagoras%20tyre&pg=PA21#v=onepage&q&f=false |title=Measuring Heaven: Pythagoras and his influence in thought and Art |last=Joost-Gaugier |first=Christiane |date= |website= |publisher=Cornell University Press|access-date=|page=21|year=2007|place= Ithaca and London}}</ref> 。近くの町には、やはり著名な数学者の[[タレス]]が住んでいた。 伝記によると、彼は若くして知識を求めて島を旅だち、古代オリエント世界の各地を旅した。[[古代エジプト|エジプト]]では[[幾何学]]と宗教の密儀を学び、[[フェニキア]]で算術と比率、{{仮リンク|カルデア人|eu|Kaldear|preserve=1}}から天文学を学んだという。[[テュロスのポルピュリオス|ポルピュリオス]]などの伝記によれば、[[ゾロアスター教]]の司祭のもとで学んだといわれる{{sfn|ジェイムス|1998|pp=38-48}}。さらにはイギリスやインドにまで旅したという伝説もある{{sfn|シン|2000|p=38}}。 彼は20年にわたった放浪の末に、当時存在した数学知識のすべてを身につけて、故郷のサモス島に戻ってきた。しかしサモスは[[僭主]][[ポリュクラテス]]の抑圧支配下にあり、学問研究に向かなかったため、イタリア半島の[[植民市]]に移住し、その弁舌で多くの人々を魅了した{{sfn|ジェイムス|1998|pp=38-49}}。彼は[[クロトーネ|クロトン]]で、彼の思想に共鳴する多くの弟子とともに[[ピタゴラス教団]]、または[[ピタゴラス学派]]と呼ばれる集団を立ち上げた。この教団はやがて地域の有力者の保護を得て大きな力を持つようになり、数百人の信者を集め、ピタゴラスも弟子だった{{仮リンク|テアノ|en|Theano (philosopher)}}という女性と結婚して<ref>[[テュロスのポルピュリオス]], ピタゴラスの生涯, 4,[[スーダ辞典]] Theano θ84,ディオゲネス・ラエルティオス 8巻. p. 42-43,スーダ辞典, ピタゴラス π3120</ref>、大いに繁栄した。ところがある時、この後援者が政争に巻き込まれて失脚する。このとき、かつて教団への加入を希望したがテストで落とされて門前払いになった人物が、その遺恨から市民を扇動した。教団は暴徒と化した市民に焼き打ちされて壊滅し、ピタゴラスも殺されたという。 == 万物は数なり == [[File:Tetractys.svg|thumb|200px|{{仮リンク|テトラクテュス|en|Tetractys}}]] ピタゴラスは紀元前6世紀に、あらゆる事象には数が内在していること、そして宇宙のすべては人間の主観ではなく数の法則に従うのであり、数字と計算によって解明できるという思想を確立した{{sfn|シン|2000|p={{要ページ番号|date=2021年8月}}}}。彼は和音の構成から惑星の軌道まで、多くの現象に数の裏付けがあることに気がついた。そしてついには、[[アルケー|宇宙の全て]]は数から成り立つと宣言した。彼がこの思想にもとづいて創始した[[ピタゴラス教団]]は、数の性質を研究することにより、宇宙の真理を追究しようとした。教団に入門するには数学の試験があったが、この試験は相当難しく、数学に適性のある者だけが選抜されて教団に集まった。そしてピタゴラス教団は、古代世界で最も著名な数学の研究機関となった。この学派は10を完全な数と考え、10個の点を三角形の形に配置した{{仮リンク|テトラクテュス|en|Tetractys}}を紋章とした。 ピタゴラスやピタゴラス教団はさまざまな数学的な[[定理]]を発見したが、彼自身の成果か、教団の他の人物の成果か区別する事は難しい。その成果の多くは[[ユークリッド原論]]に含まれているとされる。 [[アポロドーロス]]の詩には「ピタゴラスが、あの有名な定理を発見した時に、立派な牡牛を神に生贄として捧げた」と讃えた句がある。ただし、この定理がどの定理を指すのかは明示されておらず、ピタゴラス教団の禁欲主義的な戒律を考えれば、牛を生贄にした事自体も疑わしい。[[ピタゴラスの定理]]を指すとする説もあるが、証拠は無く、ピタゴラス自身がこの定理にどのように関わったのかも不明である{{sfn|ヒース|1998|p=77-81}}。 一方でピタゴラスは数の調和や整合性を不合理なほど重視し、[[完全数]]や[[友愛数]]を宗教的に崇拝した。そのため教団の1人が[[無理数]]を発見したとき、その存在を認めようとするかわり、発見者を死刑にしてしまった。分数でも整数でも書き表せない奇怪な数が存在することは、彼の思想を根本から否定するものだったからである{{efn|史料によっては、この事件を次のように伝える。無理数の存在を知ったピタゴラス教団は動揺し、この発見を口外しない誓いを立てあい、無理数の存在を隠蔽しようとした。しかし[[ヒッパソス]]という名の男が反発し、あくまで事実を公表しようとしたため、教団は彼を海に突き落とした{{sfn|マオール|2008|p=39}}。}}。 ピタゴラスの哲学は、[[ゾロアスター教]]や[[道教]]と同じく[[二元論]]が基礎となっており、現象世界を考察する十項目の対立項を提示した{{sfn|ジェイムス|1998|pp=49-68}}。彼の数学や[[輪廻転生]]についての思想は[[プラトン]]にも大きな影響を与えた。[[アリストテレス]]は『[[形而上学 (アリストテレス)|形而上学]]』のなかで、この対立項を再現している。彼は[[オルペウス教]]の影響を受けてその思想の中で[[輪廻]]を説いていたとされている。 == ピタゴラスと音楽 == [[File:Gaffurio_Pythagoras.png|300px|thumb|音程を研究するピタゴラス<br />左上:重さの違う鎚の響きを調べている<br />右上:大きさが比になった鐘、いろいろな水量のコップを叩いている<br />左下:重さの違う錘を吊るした弦を弾いている<br />右下:大きさの違う笛の音を試している]] ピタゴラスは[[音階]]の主要な[[音程]]に対応する数比を発見したとされている<ref name="grove">R. P. Winnington-Ingram, “Pythagoras”, ''The New Grove Dictionary of Music and Musicians'', 1980 edition.</ref>。彼は[[オクターヴ]]を2:1、[[完全五度]]を3:2、[[完全四度]]を4:3、そして完全五度と完全四度の差としての[[全音]]を9:8と定義した<ref name="grove" />。 [[ボエティウス]]は著書の『音楽教程』の冒頭にピタゴラスが音程と数比の関係を発見した経緯を記している。ある日[[鍛冶屋]]の前を通ったピタゴラスは、作業場の何人かの職人が打っている[[ハンマー]]の音が共鳴して、快い協和音を発していることに気が付いた。中に入って調べてみると、ハンマーの音程は、その重量と関係があった。そこには五本のハンマーがあったが、四本の鎚の重さは「12 : 9 : 8 : 6」の単純な数比の関係にあることが解ったのである。単純な比になっていない他の1本のハンマーだけは、鳴らすと不協和音がした(しかし実際にはこの原理は楽器の弦の長さの比率においては正しいが、金槌の重さには当てはまらない)。 ピタゴラスはさらに弦楽器や笛で実験し、弦の長さの比が弦の振動数の比、つまり音程の関係を支配することを発見した。ピタゴラスは発見した音程の法則を確認するために、[[モノコード]]と呼ばれる1本のガットと自在に動かせる駒で構成される[[調律]]道具を発明したといわれる{{sfn|ジェイムス|1998|pp=49-68}}。 ピタゴラスに由来するとされるもう一つの音楽に関する学説は、「天球の音楽」の理論である。これは各[[惑星]]がある楽音に対応し、それらがハーモニーを形成しているというものである<ref name="grove" />。 ピタゴラスの死後、彼の信奉者は音楽理論に関する学派を形成するが、ピタゴラスの学説が古代ギリシアの音楽の実践に影響を及ぼした可能性はほとんどない<ref name="grove" />。 [[ピタゴラス音律]]は[[周波数]]の比率が3:2の音程の積み重ねに基づく[[音律]]である。これは中国の[[三分損益法]]と同様である。[[ピタゴラスコンマ]]はピタゴラス音律における[[異名同音]]の差である。 == ピタゴラスと豆 == [[File:Do_Not_Eat_Beans.jpg|right|220px|thumb|豆から顔をそむけるピタゴラス]] ピタゴラスはなぜか、豆をたいへんに嫌った。そのためピタゴラス教団は、豆を食べない規則を全員に強制した。この奇癖は迷信の多かった当時でも異様に思われ、理由についての色々な憶測があり、[[アリストテレス]]は「豆は性器に似ている、あるいはまた地獄の門に似ているから」と書いている。また「食べない方が胃によく安眠が出来るから」という単なる健康上の理由であるともいい、さらに「選挙のときの籤に使われるから」という、政治的理由であったともいう{{sfn|ラエルティオス|1994|pp=36f}}<ref name="TeradaTorahiko">{{青空文庫|000042|42267|新字新仮名|ピタゴラスと豆}}</ref>。[[ディオゲネス・ラエルティオス]]は『[[ギリシア哲学者列伝]]』の中でピタゴラスの最期に関する4つの説を紹介している{{sfn|ラエルティオス|1994|pp=41-43}}が、それによると彼は豆畑を通って逃げるより、追っ手に捕まって殺されることを選んでいる<ref name="TeradaTorahiko" /> 。 # クロトンで暴徒に家に放火され、逃げ出したが豆畑のふちに追いつめられ、咽喉を切られて殺された。 # [[メタポント|メタポンティオン]]のムゥサの女神たちの神殿に逃げ込み、40日間の断食をした後で死んだ。 - [[ディカイアルコス]]の説 # メタポンティオンに退き、断食をして死んだ。 - [[ヘラクレイトス]]の説 # [[アグリジェント|アクラガス]]人と[[シュラクサイ]]人との戦闘で、アクラガス側に参加して戦った。しかしアクラガス軍が敗走し、ピタゴラスは豆畑を避けて廻り道をしたためシュラクサイ軍に追いつかれて殺された。 - [[ヘルミッポス]]の説 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=E. マオール |authorlink=:en:Eli Maor |others=伊理由美 訳 |title=ピタゴラスの定理 4000年の歴史 |date=2008-02-27 |publisher=岩波書店 |isbn=978-4-00-005878-0 |ref={{sfnref|マオール|2008}} }} * {{Cite book|和書|author=ジェイミー・ジェイムス |others=黒川孝文 訳 |title=天球の音楽 歴史の中の科学・音楽・神秘思想 |date=1998-05-01 |publisher=白揚社 |isbn=978-4-8269-9027-1|ref={{sfnref|ジェイムス|1998}} }} * {{Cite book|和書|author=サイモン・シン |authorlink=サイモン・シン |others=[[青木薫]] 訳 |title=フェルマーの最終定理 ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで |date=2000-01-01 |publisher=[[新潮社]] |isbn=978-4-10-539301-4 |chapter=第一章 |ref={{sfnref|シン|2000}} }} ** {{Cite book|和書|author=サイモン・シン |others=青木薫 訳|date=2006-06|title=フェルマーの最終定理|series=新潮文庫 シ-37-1|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-215971-2|ref={{sfnref|シン|2006}}}} * {{Cite book|和書|author=T.L.ヒース |authorlink=:en:Thomas Heath (classicist) |others=平田 寛・菊池 俊彦・大沼 正則 訳 |title=復刻版 ギリシア数学史 |date=1998-05-01 |publisher=[[共立出版]] |isbn=978-4-320-01588-3 |chapter=第一章 |ref={{sfnref|ヒース|1998}} }} === 関連書籍 === * {{Cite book|和書|author=イアンブリコス |authorlink=イアンブリコス |others=[[中務哲郎]] 監修、佐藤義尚 訳、[[岡道男]] |title=ピュタゴラス伝 |date=2000-01-01 |publisher=[[国文社]] |series=叢書アレクサンドリア図書館 |volume=4 |isbn=978-4-7720-0398-8 |ref={{sfnref|イアンブリコス|2000}} }} ** [[ポルピュリオス]]『ピュタゴラス伝』を併録。 * イアンブリコス『ピタゴラス的生き方』[[水地宗明]]訳、[[京都大学学術出版会]]〈[[西洋古典叢書]]〉、2011年 ** [[フォティオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|フォティオス]]『ビブリオテーケー』所収の要約「ピタゴラスの生涯」を併録。 * {{Cite book|和書|author=ブルーノ・チェントローネ |others=[[斎藤憲]] 訳 |title=ピュタゴラス派 その生と哲学 |date=2000-01-24 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4-00-001923-1 |ref={{sfnref|チェントローネ|2000}} }} * {{Cite book|和書|author=ディオゲネス・ラエルティオス |authorlink=ディオゲネス・ラエルティオス |others=[[加来彰俊]] 訳 |title=ギリシア哲学者列伝 |volume=〈下〉 |date=1994-07-18 |publisher=岩波書店 |series=[[岩波文庫]] 青 663-3 |isbn=978-4-00-336633-2 |ref={{sfnref|ラエルティオス|1994}} }} * ポルピュリオス『ピタゴラスの生涯 付録:黄金の詩』水地宗明訳、晃洋書房、2007年。ISBN 978-4771018921 * ポルピュリオス『ピタゴラス伝 / マルケラへの手紙 / ガウロス宛書簡』山田道夫訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2021年 ISBN 9784814002832 == 関連項目 == {{Commonscat|Pythagoras}} * [[ピタゴラスの定理]] * [[エウポルボス]] - ピタゴラスが、彼自身の前世であると主張したギリシア神話の人物。 * [[ピタゴリオ]] - ギリシャのサモス島にある都市。ピタゴラスにちなんで名付けられた。 * [[ピタゴラス教団]] - ピタゴラスが作った[[宗教結社]]([[教団]])。 * [[新ピタゴラス主義]] * [[ピタゴラスのカップ]] - ピタゴラスが作ったとされるトリック容器。 * [[哲学]] ** [[哲学者]] ** [[ギリシア哲学]] * [[数学]] ** [[数学者]] ** [[ギリシア数学]] == 外部リンク == * {{青空文庫|000042|42267|新字新仮名|ピタゴラスと豆}} * {{Kotobank}} {{ソクラテス以前の哲学者}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひたこらす}} [[Category:ピタゴラス|*]] [[Category:紀元前6世紀の哲学者]] [[Category:ソクラテス以前の哲学者]] [[Category:古代ギリシアの数学者]] [[Category:古代ギリシアの哲学者]] [[Category:古代ギリシアのメタ哲学者]] [[Category:幾何学者]] [[Category:紀元前の数学者|5820000]] [[Category:音楽理論家]] [[Category:音楽の哲学]] [[Category:菜食主義者]] [[Category:サモス島]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:紀元前582年生]] [[Category:紀元前496年没]]
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全日本アラブ大賞典
全日本アラブ大賞典(ぜんにほんあらぶだいしょうてん)とは地方競馬の大井競馬場で開催されていたアングロアラブ系の競馬の重賞競走である。1955年創設、1996年廃止。 1955年に秋の特別として、サラブレッドの秋の鞍(現在の東京大賞典)と対をなす、アラブ系の重賞競走として大井競馬場に設けられた。当初は名前の通り秋口に施行され、年末に開催された川崎のアラブチャンピオンとともに南関東公営競馬の下半期最強アラブ決定戦の位置づけであった。 1964年からはアラブ大賞典に改称されたほか、1968年よりアラブチャンピオンと施行時期が入れ替わったことで、年度末近くの大一番としての性格をより強くしている。さらには1972年12月の第18回から南関東地区以外の地方競馬所属馬も出走可能な交流競走になったことに伴い、全日本アラブ大賞典に改称された。この記念すべき全国交流化第1回は兵庫のタイムラインが勝ち、「アラブのメッカ」の面目を保った。 さらに1985年からは中央競馬の所属馬にも出走枠が設けられ、名実ともに日本のアラブ系競馬の頂点の競走となった。実際、1988年には3年連続でJRA賞の最優秀アラブに輝いたアキヒロホマレが参戦している(結果は8着)。また、全国から有力なアングロアラブが集まるこの競走は、それに騎乗するために全国各地の名手とされる騎手が集い腕を競う一種の騎手オールスター戦の様な様相を呈する事も少なくなかった。 歴代優勝馬にはセンジユ、タイムライン、ミスターヨシゼン、ローゼンホーマ、トチノミネフジなど、日本の戦後アラブ競馬の歴史を彩った錚々たる名馬の名が並ぶ。 しかし在厩頭数の減少に伴う、1996年の大井競馬場でのアラブ系競走廃止に伴い、同年7月に開催された第42回をもってこの競走も廃止されることとなった。 その後は中央競馬より移行したタマツバキ記念がアラブ系の全国交流競走に位置付けられていたが、2007年をもって廃止された。 競走馬名(優勝年度) 特別区競馬組合編『大井競馬のあゆみ : 特別区競馬組合50年史』特別区競馬組合、2001年、365-366頁。
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全日本アラブ大賞典(ぜんにほんあらぶだいしょうてん)とは地方競馬の大井競馬場で開催されていたアングロアラブ系の競馬の重賞競走である。1955年創設、1996年廃止。
'''全日本アラブ大賞典'''(ぜんにほんあらぶだいしょうてん)とは[[地方競馬]]の[[大井競馬場]]で開催されていた[[アングロアラブ]]系の[[競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]である。[[1955年]]創設、[[1996年]]廃止。 == 概要 == 1955年に'''秋の特別'''として、[[サラブレッド]]の[[東京大賞典|秋の鞍]](現在の東京大賞典)と対をなす、[[アングロアラブ|アラブ]]系の重賞競走として大井競馬場に設けられた。当初は名前の通り秋口に施行され、年末に開催された[[川崎競馬場|川崎]]の[[アラブチャンピオン]]とともに[[南関東公営競馬]]の下半期最強アラブ決定戦の位置づけであった。 [[1964年]]からは'''アラブ大賞典'''に改称されたほか、1968年より[[アラブチャンピオン]]と施行時期が入れ替わったことで、年度末近くの大一番としての性格をより強くしている。さらには[[1972年]]12月の第18回から南関東地区以外の[[地方競馬]]所属馬も出走可能な交流競走になったことに伴い、'''全日本アラブ大賞典'''に改称された<ref>同時に前哨戦である[[重賞|準重賞]]の勝島特別も全国から出走可能となり、この年は名古屋競馬所属のトウスイホープ号が制している</ref>。この記念すべき全国交流化第1回は[[兵庫県競馬組合|兵庫]]の[[タイムライン (競走馬)|タイムライン]]が勝ち、「アラブのメッカ」の面目を保った。 さらに[[1985年]]からは[[中央競馬]]の所属馬にも出走枠が設けられ、名実ともに[[日本]]のアラブ系競馬の頂点の競走となった。実際、[[1988年]]には3年連続で[[JRA賞]]の[[JRA賞最優秀アラブ|最優秀アラブ]]に輝いた[[アキヒロホマレ]]が参戦している(結果は8着)。また、全国から有力なアングロアラブが集まるこの競走は、それに騎乗するために全国各地の名手とされる[[騎手]]が集い腕を競う一種の騎手[[オールスター]]戦の様な様相を呈する事も少なくなかった。 歴代優勝馬には[[センジユ]]、[[タイムライン (競走馬)|タイムライン]]、[[ミスターヨシゼン]]、[[ローゼンホーマ]]、[[トチノミネフジ]]など、日本の戦後アラブ競馬の歴史を彩った錚々たる名馬の名が並ぶ。 しかし在厩頭数の減少に伴う、1996年の大井競馬場でのアラブ系競走廃止に伴い、同年7月に開催された第42回をもってこの競走も廃止されることとなった。 その後は中央競馬より移行した[[タマツバキ記念]]がアラブ系の全国交流競走に位置付けられていたが、[[2007年]]をもって廃止された。 == 歴代優勝馬 == {| class="wikitable" !回数!!開催日!!優勝馬!!性齢!!所属!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師 |- |style="teat-align:center"|第1回||[[1955年]][[10月10日]]||ダイゴ||牡5||[[大井競馬場|大井]]||2:40 1/5||荒井貢||荒井貢 |- |style="teat-align:center"|第2回||[[1956年]][[10月12日]]||タカトシ||牡3||[[船橋競馬場|船橋]]||2:39 0/5||[[須田茂]]||廿楽長市郎 |- |style="teat-align:center"|第3回||[[1957年]][[10月5日]]||バラテスタ||牡3||大井||2:39 4/5||須田茂||佐竹海治 |- |style="teat-align:center"|第4回||[[1958年]][[10月1日]]||タカトシ||牡5||大井||2:38 2/5||朝倉文四郎||廿楽長市郎 |- |style="teat-align:center"|第5回||[[1959年]]10月15日||[[センジユ]]||牡3||大井||2:39.4||佐々木正太郎||倉内種太郎 |- |style="teat-align:center"|第6回||[[1960年]][[11月15日]]||タカライザン||牡3||[[川崎競馬場|川崎]]||2:39.1||佐々木國廣||[[井上宥蔵]] |- |style="teat-align:center"|第7回||[[1961年]][[11月1日]]||センジユ||牡5||大井||2:38.6||佐々木正太郎||倉内種太郎 |- |style="teat-align:center"|第8回||[[1962年]][[10月18日]]||グレイトホース||牡4||川崎||2:39.0||佐々木國廣||[[井上宥蔵]] |- |style="teat-align:center"|第9回||[[1963年]][[10月22日]]||ベレアー||牡4||船橋||2:36.7||宮下紀英||木村万吉 |- |style="teat-align:center"|第10回||[[1964年]][[12月29日]]||アデルバウエル||牡3||大井||2:36.1||須田茂||井上宥蔵 |- |style="teat-align:center"|第11回||[[1965年]][[12月2日]]||アデルバウエル||牡4||大井||2:35.3||須田茂||阪本正太郎 |- |style="teat-align:center"|第12回||[[1966年]][[12月8日]]||オーバマイン||牡4||船橋||2:35.7||[[荒山徳一]]||佐藤勘市 |- |style="teat-align:center"|第13回||[[1967年]][[11月21日]]||マスタング||牡3||大井||2:36.4||須田茂||高木清 |- |style="teat-align:center"|第14回||[[1968年]][[12月23日]]||キクマサ||牡4||大井||2:33.9||[[赤間清松]]||竹内美喜男 |- |style="teat-align:center"|第15回||[[1969年]][[12月25日]]||センジユスガタ||牡4||大井||2:34.2||赤間清松||佐野誠三 |- |style="teat-align:center"|第16回||[[1970年]]12月25日||ネバーロスト||牡3||大井||2:36.6||[[福永二三雄]]||[[小暮善清]] |- |style="teat-align:center"|第17回||[[1972年]][[3月10日]]||ナルビハヤテ||牡4||大井||2:34.9||高柳恒男||大南栄蔵 |- |style="teat-align:center"|第18回||1972年[[12月24日]]||[[タイムライン (競走馬)|タイムライン]]||牡3||[[兵庫県競馬組合|兵庫]]||2:33.6||[[佐々木竹見]]||溝橋弘 |- |style="teat-align:center"|第19回||[[1973年]][[12月10日]]||ホウラツキー||牡3||兵庫||2:46.5||佐々木竹見||溝橋弘 |- |style="teat-align:center"|第20回||[[1974年]]12月2日||ポートスーダン||牡4||川崎||2:46.4||竹島春三||井上宥蔵 |- |style="teat-align:center"|第21回||[[1975年]]12月8日||[[ホクトライデン]]||牡3||船橋||2:46.3||[[桑島孝春]]||平島好助 |- |style="teat-align:center"|第22回||[[1976年]][[12月7日]]||ミスダイリン||牝5||[[ホッカイドウ競馬|北海道]]||2:46.3||[[千島武司]]||戸野塚郁郎 |- |style="teat-align:center"|第23回||[[1977年]][[12月6日]]||ヨシノライデン||牡3||大井||2:49.0||[[的場文男]]||長沼正義 |- |style="teat-align:center"|第24回||[[1978年]][[12月12日]]||ダイリキホマレ||牡4||船橋||2:47.3||赤間清松||梶田繁雄 |- |style="teat-align:center"|第25回||[[1979年]][[12月4日]]||エビタカラ||牡3||大井||2:46.3||石川綱夫||山下春茂 |- |style="teat-align:center"|第26回||[[1980年]]12月12日||ミヤノダービー||牡4||[[愛知県競馬組合|愛知]]||2:48.6||塚田隆男||水谷文平 |- |style="teat-align:center"|第27回||[[1981年]][[12月14日]]||エゾノランナー||牡5||北海道||2:49.8||伊藤隆志||戸島牛次郎 |- |style="teat-align:center"|第28回||[[1982年]][[12月16日]]||カツラギセンプー||牡4||大井||2:47.9||[[宮浦正行]]||髙岩隆 |- |style="teat-align:center"|第29回||[[1983年]]12月8日||トキテンリユウ||牡4||愛知||2:50.0||[[坂本敏美]]||安達小八 |- |style="teat-align:center"|第30回||[[1984年]]12月10日||[[キンカイチフジ]]||牡3||[[笠松競馬場|笠松]]||2:49.6||坂本敏美||加藤保行 |- |style="teat-align:center"|第31回||[[1985年]][[12月10日]]||ローゼンガバナー||牡5||船橋||2:49.8||桑島孝春||後藤稔 |- |style="teat-align:center"|第32回||[[1986年]]12月9日||ノムラダイオー||牡4||大井||2:50.9||[[石崎隆之]]||山下春茂 |- |style="teat-align:center"|第33回||[[1987年]]12月10日||[[ローゼンホーマ]]||牡4||[[福山競馬場|福山]]||2:50.9||[[那俄性哲也]]||寺田忠 |- |style="teat-align:center"|第34回||[[1988年]][[12月15日]]||[[ミスターヨシゼン]]||牡4||大井||2:52.4||的場文男||寺田新太郎 |- |style="teat-align:center"|第35回||[[1989年]]12月7日||ミスターヨシゼン||牡5||大井||2:51.2||的場文男||寺田新太郎 |- |style="teat-align:center"|第36回||[[1990年]]12月12日||オオヒエイ||牡4||大井||2:50.7||[[高橋三郎 (競馬)|高橋三郎]]||鈴木冨士雄 |- |style="teat-align:center"|第37回||[[1991年]][[12月5日]]||コスモノーブル||牡7||船橋||2:49.4||石崎隆之||岡島茂 |- |style="teat-align:center"|第38回||[[1992年]][[12月17日]]||コスモノーブル||牡8||船橋||2:50.5||石崎隆之||岡島茂 |- |style="teat-align:center"|第39回||[[1993年]]12月9日||[[トチノミネフジ]]||牡3||大井||2:48.8||[[早田秀治]]||髙岩隆 |- |style="teat-align:center"|第40回||[[1994年]][[12月20日]]||トチノミネフジ||牡4||大井||2:47.2||早田秀治||髙岩隆 |- |style="teat-align:center"|第41回||[[1995年]]12月1日||[[ミスターホンマル]]||牡7||[[岩手県競馬組合|岩手]]||2:51.0||[[菅原勲]]||千葉博 |- |style="teat-align:center"|第42回||[[1996年]][[7月26日]]||カサイオーカン||&#39480;7||大井||2:51.2||[[久保田信之 (競馬)|久保田信之]]||小野寺孝司 |} * 距離:第1~18回 [[ダート]]2400[[メートル|m]]、第19回~ ダート2600m * 時計:第1~4回 1/5秒表示、第5回~ 1/10秒表示 * 出走条件:第18~30回 [[アングロアラブ|アラブ]]系4歳以上・[[地方競馬]]全国、第31~41回 [[中央競馬]]・地方競馬全国、第42回 5歳以上地方競馬全国 * 優勝馬の[[馬齢]]は現表記を用いている。 === 過去の複数回数優勝馬 === 競走馬名(優勝年度) * タカトシ([[1956年]]、[[1958年]]) * [[センジユ]]([[1959年]]、[[1961年]]) * アデルバウエル([[1964年]]~[[1965年]]) * ミスターヨシゼン([[1988年]]~[[1989年]]) * コスモノーブル([[1991年]]~[[1992年]]) * トチノミネフジ([[1993年]]~[[1994年]]) == 脚注・出典 == === 脚注 === <references /> === 出典 === 特別区競馬組合編『大井競馬のあゆみ : 特別区競馬組合50年史』特別区競馬組合、2001年、365-366頁。 {{DEFAULTSORT:せんにほんあらふたいしようてん}} [[Category:地方競馬の競走]] [[Category:廃止された競馬の競走]] 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ディリクレの関数
ディリクレの関数(ディリクレの-かんすう)とは、実数全体の成す集合 R 上で定義される次のような関数のことである。 ただし、Q は有理数全体の成す集合であり、R ∖ Q は無理数全体の成す集合である。式から分かるように、この関数はいたるところで不連続である。ディリクレの関数は数学者のペーター・グスタフ・ディリクレに因んで命名された。 が成り立つから、ディリクレの関数はリーマン積分不可能であることが分かる。一方、ルベーグ積分は可能で、その値は 0 である。これは、可算無限集合である Q はルベーグ測度に関して零集合であることによる。 この関数は、任意の有理数 a {\displaystyle a} に対して f ( x + a ) = f ( x ) {\displaystyle f(x+a)=f(x)} となる。これは有理数体 Q が加法について閉じていることによる。 また、この関数は無限個の周期を持ち、かつ定数関数とならない一例である。 ディリクレの関数は、ディリクレ本人によって、 と表せることが示されている(したがってディリクレ関数は 2 階のベール関数の一例である)。その方法は次による。 任意の有理数 q を考える。n! q は、十分大きな n に対して恒等的に整数である。それに比べ、無理数 r は、いくら n を大きく取っても n! r が整数にならない。従って、ディリクレの関数は、次のように変形できる。 ただし、Z は整数全体の成す集合。さてここで、関数 を表示できれば、f(x) = lim[n→∞] F(n!x) となって決着がつく。(F は単独で考えても興味深い関数である。) F は、不連続でありながらも周期的である。一定の周期を持つ関数として三角関数を考える。cos(πx) は、x が整数であれば 1 を返し、それ以外であれば [0, 1) 内の実数を返す。[0, 1) 内の実数は、無限回冪乗することによって 0 に収束させることが出来る。また、1 はいくら冪乗しても常に 1 となって変化しない。これより、 が結論付けられる。従って、 となる訳である。
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ディリクレの関数(ディリクレの-かんすう)とは、実数全体の成す集合 ℝ 上で定義される次のような関数のことである。 ただし、ℚ は有理数全体の成す集合であり、ℝ ∖ ℚ は無理数全体の成す集合である。式から分かるように、この関数はいたるところで不連続である。ディリクレの関数は数学者のペーター・グスタフ・ディリクレに因んで命名された。
'''ディリクレの関数'''(ディリクレの-かんすう)とは、[[実数]]全体の成す集合 ℝ 上で定義される次のような[[関数 (数学)|関数]]のことである。 : <math> f(x)= \begin{cases} 1 & (x \in \mathbb{Q})\\ 0 & (x \in \mathbb{R}\smallsetminus \mathbb{Q}) \end{cases} </math> ただし、ℚ は[[有理数]]全体の成す集合であり、ℝ ∖ ℚ は[[無理数]]全体の成す集合である。式から分かるように、この関数はいたるところで不連続である。ディリクレの関数は数学者の[[ペーター・グスタフ・ディリクレ]]に因んで命名された<ref>{{citation| first = Peter Gustav | last = Lejeune Dirichlet | title = Sur la convergence des séries trigonométriques qui servent à représenter une fonction arbitraire entre des limites données| journal = Journal für die reine und angewandte Mathematik |volume = 4 | year = 1829 | url = http://www.digizeitschriften.de/dms/img/?PID=PPN243919689_0004%7Clog13 | pages = 157–169}} [https://books.google.de/books?id=ZKwGAAAAYAAJ&pg=PA157 Google Books]; {{arXiv|0806.1294}} </ref>。 ==積分可能性== : <math>\sup \int^a_b f(x)dx=a-b</math> : <math>\inf \int^a_b f(x)dx=0</math> が成り立つから{{efn|sup&int; を[[上積分]]、inf&int; を[[下積分]]という。}}、ディリクレの関数はリーマン[[積分]]不可能であることが分かる。一方、[[ルベーグ積分]]は可能で、その値は 0 である。これは、[[可算無限集合]]である ℚ は[[ルベーグ測度]]に関して[[零集合]]であることによる。 ==周期性== この関数は、任意の有理数<math>a</math>に対して <math>f(x+a)=f(x)</math> となる。これは有理数体 ℚ が[[群 (数学)|加法について閉じている]]ことによる。 また、この関数は無限個の周期を持ち、かつ定数関数とならない一例である。 ==連続関数の極限としての表示== ディリクレの関数は、[[ペーター・グスタフ・ディリクレ|ディリクレ]]本人によって、 : <math>f(x)=\lim_{n\to \infin} \lim_{k\to \infin} \cos^{2k} (n!\, \pi x)</math> と表せることが示されている(したがってディリクレ関数は 2 階の[[ベール関数]]の一例である)。その方法は次による。 任意の有理数 {{Mvar|q}} を考える。[[階乗|{{Mvar|n}}!]] {{Mvar|q}} は、十分大きな {{Mvar|n}} に対して恒等的に[[整数]]である。それに比べ、無理数 {{Mvar|r}} は、いくら {{Mvar|n}} を大きく取っても {{Mvar|n}}! {{Mvar|r}} が整数にならない。従って、ディリクレの関数は、次のように変形できる。 : <math> f(x)= \begin{cases} 1 & (n!\,x \in \mathbb{Z})\\ 0 & (n!\,x \in \mathbb{R} \smallsetminus \mathbb{Z}) \end{cases} (n \to \infin) </math> ただし、ℤ は整数全体の成す集合。さてここで、関数 : <math> F(x)= \begin{cases} 1 & (x \in \mathbb{Z})\\ 0 & (x \in \mathbb{R} \smallsetminus \mathbb{Z}) \end{cases} </math> を表示できれば、{{Mvar|f}}({{Mvar|x}}) = lim[{{Mvar|n}}&rarr;&infin;] F({{Mvar|n}}!{{Mvar|x}}) となって決着がつく。({{Mvar|F}} は単独で考えても興味深い関数である。) {{Mvar|F}} は、[[不連続]]でありながらも[[周期的]]である。一定の[[周期]]を持つ関数として[[三角関数]]を考える。cos<sup>2</sup>(&pi;{{Mvar|x}}) は、{{Mvar|x}} が整数であれば 1 を返し、それ以外であれば [0, 1) 内の実数を返す。[0, 1) 内の実数は、無限回[[冪乗]]することによって 0 に収束させることが出来る。また、1 はいくら冪乗しても常に 1 となって変化しない。これより、 : <math>F(x)=\lim_{k\to \infin} \cos^{2k} (\pi x)</math> が結論付けられる。従って、 : <math>f(x)=\lim_{n\to \infin} F(n!x)=\lim_{n\to \infin} \lim_{k\to \infin} \cos^{2k} (n!\pi x)</math> となる訳である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist|2}} == 関連項目 == {{Div col}} *[[カントール関数]] *[[高木関数]] *[[トマエ関数]] *[[ワイエルシュトラス関数]] {{Div col end}} == 外部リンク == *{{高校数学の美しい物語|title=ディリクレ関数の定義と有名な3つの性質|urlname=dirifunction}} *{{PDFlink|[http://www.libe.nara-k.ac.jp/~yano/biseki2_2015/20151007_resume.pdf Dirichlet関数]}} *{{MathWorld|title=Dirichlet Function|urlname=DirichletFunction}} {{病的な関数の一覧}} {{DEFAULTSORT:ていりくれのかんすう}} [[Category:解析学]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:特殊関数]] [[Category:数学のエポニム]]
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教育漢字
教育漢字(きょういくかんじ)は、義務教育で習う常用漢字2,136字のうち、小学校6年間のうちに学習することが文部科学省によって定められた1,026字の必修漢字の通称。文部科学省による正式名称ではない。「学年別漢字配当表」により小学校の学年別に学習する漢字が定められている。 なお、日本漢字能力検定協会では一貫して「学習漢字」と呼んでいる。 小学校学習指導要領の付録にある「学年別漢字配当表」にある漢字は、読みについては当該学年で、書きについては次の学年までに学ぶことになっている。 なお、1989年版までの学習指導要領においては、配当表にある漢字が読め、かつ「大体の」漢字が書けることを目標としていた。 小中学生向け作品などでも、これを参考にして漢字制限がされることがある。 教育漢字は、当用漢字の別表として1948年に公布された「当用漢字別表」が起源であった。しかし、当用漢字別表は「小学校に通っている間に習う漢字」としか定めていなかったため、たとえば年度変わりに転校して使用する教科書の会社が変わると、小学校を卒業しても習わない漢字が出てきてしまうおそれがあった。 この問題を解消するため、1958年(昭和33年)10月の文部省告示第80号で初めて「学年別漢字配当表」が示された。 その後、1968年(昭和43年)(実施は1971年度(昭和46年度))に備考漢字(備考欄)を新たに設け、115字が追加された。これが1977年(昭和52年)の改定(実施は1980年度(昭和55年度))で正式に「学年別漢字配当表」に昇格し、同時にそれまでの配当漢字の対象学年の変更も大幅に行われ、合計996字となった。 1989年(平成元年)に再度改定され、1,006字となった。小学生は学年が進むごとに漢字の正答率が下がるため、以降は増やすことを避けてきた。 実施は1992年度(平成4年度)。変更のあった漢字は以下のとおり。ほかに60字の配当学年の異動があった。 豆、皿、梅、松、桜、枝、札、箱、笛、束、昔、巣、夢、飼、並、暮、誕、激、装、盛(追加。計20字) 壱、弐、歓、勧、兼、釈、需、称、是、俗(削除。計10字) 2010年(平成22年)に都道府県名がすべて常用漢字となった。都道府県名と位置は小学4年生の社会科の時間で教えるが、教科書では教育漢字に含まれていない都道府県名の漢字には振り仮名(ルビ)を振っていた。 2017年(平成29年)には都道府県名に含まれる以下の20字が編入され、1,026字となった。実施は2020年度(令和2年度)。 茨、媛、岡、潟、岐、熊、香、佐、埼、崎、滋、鹿、縄、井、沖、栃、奈、梨、阪、阜 (漢字が含まれる府県名:茨城県、愛媛県、静岡県・岡山県・福岡県、新潟県、岐阜県、熊本県、香川県、佐賀県、埼玉県、長崎県、滋賀県、鹿児島県、沖縄県、福井県、栃木県、神奈川県・奈良県、山梨県、大阪府) それまで熟語として用いられてきた語の中には、熟語を構成する漢字に「教育漢字に含まれる漢字」と「含まれない漢字」が混在するものが多数存在する。これらの熟語では、含まれている部分だけを漢字で書き、残りを平仮名で書く、いわゆる交ぜ書きが行われることになる(例:環境→かん境、特徴→特ちょう、挑戦→ちょう戦)。 中学入試では小学校では習わない漢字まで用いなければならない問題(日本史や政治家の人名、地名、時事問題など)も数多く出題される。
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教育漢字(きょういくかんじ)は、義務教育で習う常用漢字2,136字のうち、小学校6年間のうちに学習することが文部科学省によって定められた1,026字の必修漢字の通称。文部科学省による正式名称ではない。「学年別漢字配当表」により小学校の学年別に学習する漢字が定められている。 なお、日本漢字能力検定協会では一貫して「学習漢字」と呼んでいる。
{{複数の問題 |出典の明記=2020年12月 |独自研究=2013年3月30日 (土) 13:03 (UTC) }} '''教育漢字'''(きょういくかんじ)は、[[義務教育]]で習う[[常用漢字]]2,136字のうち、[[小学校]]6年間のうちに学習することが[[文部科学省]]によって定められた1,026字の必修[[漢字]]の[[通称]]。文部科学省による正式名称ではない。「[[学年別漢字配当表]]」により小学校の[[学年]]別に学習する漢字が定められている。 なお、[[日本漢字能力検定協会]]では一貫して「'''学習漢字'''」と呼んでいる。 == 概要 == {{Main|学年別漢字配当表}} 小学校[[学習指導要領]]の付録にある「学年別漢字配当表」にある漢字は、読みについては当該学年で、書きについては次の学年までに学ぶことになっている。 {{要出典範囲|なお、[[1989年]]版までの学習指導要領においては、配当表にある漢字が読め、かつ「大体の」漢字が書けることを目標としていた。|date=2020-12-19}} 小中学生向け作品などでも、これを参考にして漢字制限がされることがある。 == 歴史 == {{See also|当用漢字|人名漢字|常用漢字}} === 学年別漢字配当表の制定 === 教育漢字は、[[当用漢字]]の別表として[[1948年]]に公布された「当用漢字別表」が起源であった。しかし、当用漢字別表は「小学校に通っている間に習う漢字」としか定めていなかったため、たとえば年度変わりに転校して使用する教科書の会社が変わると、小学校を卒業しても習わない漢字が出てきてしまうおそれがあった。 この問題を解消するため、[[1958年]](昭和33年)10月の文部省告示第80号で初めて「学年別漢字配当表」が示された。 その後、[[1968年]](昭和43年)(実施は[[1971年]]度(昭和46年度))に備考漢字(備考欄)を新たに設け、115字が追加された。<!--これは正式な教育漢字としては扱われなかった。このため、新たに「学習漢字」「新教育漢字」などの呼び方をされるようになった。-->これが[[1977年]](昭和52年)の改定(実施は[[1980年]]度(昭和55年度))で正式に「学年別漢字配当表」に昇格し、同時にそれまでの配当漢字の対象学年の変更も大幅に行われ、合計996字となった。 === 1989年の追加と削除 === [[1989年]](平成元年)に再度改定され<ref name=":0" />、1,006字となった<ref name=":0" />。小学生は学年が進むごとに漢字の正答率が下がるため、以降は増やすことを避けてきた<ref name=":0" />。 実施は[[1992年]]度(平成4年度)。変更のあった漢字は以下のとおり。ほかに60字の配当学年の異動があった。 '''豆、皿、梅、松、桜、枝、札、箱、笛、束、昔、巣、夢、飼、並、暮、誕、激、装、盛'''(追加。計20字) '''壱、弐、歓、勧、兼、釈、需、称、是、俗'''(削除。計10字) === 都道府県名に含まれる漢字の追加 === [[2010年]](平成22年)に[[都道府県]]名がすべて[[常用漢字]]となった<ref name=":0" />。都道府県名と位置は小学4年生の[[社会科]]の時間で教えるが<ref name=":0" />、教科書では教育漢字に含まれていない都道府県名の漢字には[[振り仮名]]([[ルビ]])を振っていた<ref name=":0" />。 [[2017年]](平成29年)には都道府県名に含まれる以下の20字が編入され、1,026字となった<ref name=":0" />。実施は[[2020年]]度(令和2年度)<ref name=":0">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASJ5K4VGYJ5KUTIL02Q.html|title=小学校の必修漢字に都道府県名20字追加 20年度にも|publisher=[[朝日新聞|朝日新聞デジタル]]|date=2016-05-18|accessdate=2016-06-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160518004607/http://www.asahi.com/articles/ASJ5K4VGYJ5KUTIL02Q.html|archivedate=2016-05-18}}</ref>。 '''茨、媛、岡、潟、岐、熊、香、佐、埼、崎、滋、鹿、縄、井、沖、栃、奈、梨、阪、阜<ref name=":0" />''' (漢字が含まれる府県名:[[茨城県|<u>茨</u>城県]]、[[愛媛県|愛<u>媛</u>県]]、[[静岡県|静<u>岡</u>県]]・[[岡山県|<u>岡</u>山県]]・[[福岡県|福<u>岡</u>県]]、[[新潟県|新<u>潟</u>県]]、[[岐阜県|<u>岐阜</u>県]]、[[熊本県|<u>熊</u>本県]]、[[香川県|<u>香</u>川県]]、[[佐賀県|<u>佐</u>賀県]]、[[埼玉県|<u>埼</u>玉県]]、[[長崎県|長<u>崎</u>県]]、[[滋賀県|<u>滋</u>賀県]]、[[鹿児島県|<u>鹿</u>児島県]]、[[沖縄県|<u>沖縄</u>県]]、[[福井県|福<u>井</u>県]]、[[栃木県|<u>栃</u>木県]]、[[神奈川県|神<u>奈</u>川県]]・[[奈良県|<u>奈</u>良県]]、[[山梨県|山<u>梨</u>県]]、[[大阪府|大<u>阪</u>府]]) == 問題点 == === 交ぜ書き === {{See also|国語国字問題#マスメディアにおける熟語の交ぜ書き・書き換えの減少}} それまで熟語として用いられてきた語の中には、熟語を構成する漢字に「教育漢字に含まれる漢字」と「含まれない漢字」が混在するものが多数存在する。これらの熟語では、含まれている部分だけを漢字で書き、残りを平仮名で書く、いわゆる'''交ぜ書き'''が行われることになる(例:環境→かん境、特徴→特ちょう、挑戦→ちょう戦)。 === 固有名詞との不一致 === [[中学入試]]では小学校では習わない漢字まで用いなければならない問題([[日本史]]や[[政治家]]の人名、地名、[[時事問題]]など)も数多く出題される。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == *[[学年別漢字配当表]] *[[常用漢字]] *[[当用漢字]] *[[人名用漢字]] *[[国語 (教科)]] <!--WP:EL == 外部リンク == * [http://www2.nsknet.or.jp/~azuma/ka/ka0010.htm 漢字] * [http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/kanjibukuro/japan.html kanjibukuro] * [http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/rekishi/ToyoKanjiBetsuhyo.html 当用漢字別表「教育漢字」(昭和23年2月16日 内閣告示第1号)]--> {{DEFAULTSORT:きよういくかんし}} [[Category:日本の漢字]] [[Category:日本の言語政策]] [[Category:日本の教育]] [[Category:言語教育]]
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京極夏彦
京極 夏彦(きょうごく なつひこ、1963年3月26日 - )は、日本の小説家、妖怪研究家、グラフィックデザイナー、アートディレクター。 世界妖怪協会・世界妖怪会議評議員(肝煎)、関東水木会会員、東アジア恠異学会会員。「怪談之怪」発起人の一人。 北海道小樽市出身。北海道倶知安高等学校卒業、専修学校桑沢デザイン研究所中退。代表作に『百鬼夜行シリーズ』、『巷説百物語シリーズ』など。株式会社ラクーンエージェンシー所属。公式サイト「大極宮」も参照。 北海道小樽市生まれ。グラフィックデザイナー・アートディレクターとして桑沢デザイン研究所を経て広告代理店に勤務し、制作部副部長となる。体調不良によりやむなく退職し、その関連で知り合った関係者と共に独立して小さなデザイン会社を設立。 しかし、バブル崩壊後の不景気で会社の仕事はあまりなく底冷えが続く。そんな中で思いついた企画書をいくつか作った後の暇な時間に、何となく小説『姑獲鳥の夏』を書いた。そして休日に出かける金もない1994年のゴールデンウィークに、「会社で小説書いちゃったから印字代などがもったいない」という軽い気持ちで「出来れば原稿に使った用紙とインク代の元だけでも稼げれば」と、威張った編集者に門前払いをされることも期待しながら講談社ノベルスの編集部に電話をかけた。編集者は返事には数カ月から半年かかると伝えたが、箱入りで届いた『姑獲鳥の夏』の原稿を読み始めると、予想外に読みふけり1日で目を通し終え、まず「著名な作家が編集部のリテラシーを試しているイタズラでは」と感じたといい、また原稿を送って僅か2日で返事を貰い「まさかのドッキリではないか」と思ったという。この作品は、上記のように仕事の合間の暇つぶしに書かれたもので、小説の執筆は京極にとって初めてのことであった。作品の構想は10年前に考えた漫画のネタという。 原稿を読んだ編集者である唐木厚により、すぐに講談社ノベルスとしての発売が決定した。『狂骨の夢』の発売日(1995年5月)にプロフィール等が解禁され、集英社・中央公論社・新潮社と続々と執筆依頼が舞い込んだ。自分の会社に対して『姑獲鳥の夏』発売時点では、まだ思いがけず本があっさりと発売されたことの恥ずかしさで伝えれずにいたが、講談社からの依頼で『魍魎の匣』執筆に入る段階で隠すのが心苦しくなって事情を話し、さらに『狂骨の夢』発売後には他の出版社からも執筆依頼が殺到し始め、会社での仕事は出来にくくなったため、会社は一旦退職して、しばらくの後に外部スタッフとして仕事も継続することとなった。その後は自身の単行本や出版社の一部の書籍デザインを会社が担当している。 2010年5月28日、日本でのiPad発売と同日に『死ねばいいのに』を電子書籍として発売。また2011年10月14日には四六判・ノベルス・分冊文庫・電子書籍の4形態で『ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ夢魔』を発売。これは出版史上初のことであった。 京極の活動は小説家のみならず、『ゲゲゲの鬼太郎』第4作101話で脚本および自身をモデルにしたゲストキャラ「一刻堂」のキャラクターデザインと声優を担当、『巷説百物語』がテレビアニメ化された際には声優として京極亭役を演じている。また、京極の処女作を原作とした映画『姑獲鳥の夏』では傷痍軍人(水木しげる)役として出演した。親交の深い宮部みゆき、荒俣宏等には、水木しげるの故郷である境港産の松葉ガニを歳暮として贈っている。 2023年3月1日、日本文学振興会が退任した北方謙三の後任として直木賞選考委員への就任をツイッターで発表した。 本格ミステリ作家クラブ会員。日本SF作家クラブ会員だったが2023年2月時点では退会している。 2019年から2023年まで日本推理作家協会代表理事をつとめた。 和服に指ぬき手袋姿がトレードマークで、公の席では必ずその格好で出席している。 作者のデビュー作から続くシリーズ。 講談社ノベルスより刊行。装幀、表紙妖怪画は辰巳四郎が担当。辰巳の死後、妖怪画は石黒亜矢子が引き継いだ。 講談社文庫版カバーは荒井良製作の紙人形。他に分冊版、愛蔵版が順次刊行されている。 上記の小説に登場するキャラクターを流用し、江戸期を舞台に「仕掛け」を行う小悪党たちの活躍を描いた作品群。 四六判(カバーの裏に細工あり)・文庫判(カバーは荒井良による造形製作)は角川書店刊、新書判は中央公論新社刊。 古典の怪談を、登場人物などの要素や筋立てを利用して、組み直したもの。おどろおどろしい背景と、男女の現代的視点からの心理描写が精緻な作品群である。 角川文庫版カバーは荒井良による造形製作。 ※原作は四代目鶴屋南北の『東海道四谷怪談』とその元となった実録小説『四谷雑談集』で筋立ては後者に近い ※原作は山東京伝の『復讐奇談安積沼(ふくしゅうきだんあさかのぬま)』 ※原作は岡本綺堂の『番町皿屋敷』 当初「女子高生SF小説」として構想が語られていた作品。2010年夏、劇場アニメ公開。 小説媒体で、くだらないギャグ小説をというコンセプトの元に執筆された小説。作品タイトルからして他小説のパロディであり、作者名も毎回変名となっていた。それぞれの作品が、忠臣蔵と四十八手を主題にした変奏曲のような構成で、「先に発表された小説は、次の小説内の世界で発行された小説」というウロボロスや「土俵の輪」のような構造を持つなど、遊び心に富んでいる。 扉絵と劇中に登場する4コマ漫画はしりあがり寿が担当しており、単行本、新書、文庫と再発行される度に4コマ漫画が書き直されている(文庫版は単行本、新書分も収録)。また、本文中のセリフも一部が加筆されており、元よりメタフィクション(自己言及)的なギャグがふんだんに含まれていることから、加筆行為そのものをネタにしている部分もある。 集英社刊、文庫版カバーは荒井良による造形製作。 前述の「どすこい」所収の「すべてがデブになる」の登場人物によるスピンオフ作品。「南極夏彦」なるダメな小説家と周辺の人物が巻き起こす騒動が描かれるギャグ小説「南極探検隊」シリーズをメインとする。メタな描写や特異な仕掛けが多いが、その全てがギャグのために存在するという稀有な小説でもある。コラボ作品以外のタイトルはやはり有名作品のパロディで、最初の3作品のみ「どすこい」同様変名を使っている。 集英社刊 ホラーでも怪談でもなく、ただ「厭」な気分になる小説をというコンセプトで書かれた連作小説集。各話のリンク、内容と、装丁が一つのメタフィクショナルな仕掛けとして機能している。 柳田國男の『遠野物語』を京極夏彦が現代語訳、意訳、説話の収録順をテーマごとに入れ替え、といった「リミックス」したもの。 明治中期の書店・弔堂を舞台に、様々な著名人たちが「人生にふさわしい一冊」に出会っていくという連作短編シリーズ。 国書刊行会刊、文章 角川書店刊 徳間書店刊 リイド社刊
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"しかし、バブル崩壊後の不景気で会社の仕事はあまりなく底冷えが続く。そんな中で思いついた企画書をいくつか作った後の暇な時間に、何となく小説『姑獲鳥の夏』を書いた。そして休日に出かける金もない1994年のゴールデンウィークに、「会社で小説書いちゃったから印字代などがもったいない」という軽い気持ちで「出来れば原稿に使った用紙とインク代の元だけでも稼げれば」と、威張った編集者に門前払いをされることも期待しながら講談社ノベルスの編集部に電話をかけた。編集者は返事には数カ月から半年かかると伝えたが、箱入りで届いた『姑獲鳥の夏』の原稿を読み始めると、予想外に読みふけり1日で目を通し終え、まず「著名な作家が編集部のリテラシーを試しているイタズラでは」と感じたといい、また原稿を送って僅か2日で返事を貰い「まさかのドッキリではないか」と思ったという。この作品は、上記のように仕事の合間の暇つぶしに書かれたもので、小説の執筆は京極にとって初めてのことであった。作品の構想は10年前に考えた漫画のネタという。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "原稿を読んだ編集者である唐木厚により、すぐに講談社ノベルスとしての発売が決定した。『狂骨の夢』の発売日(1995年5月)にプロフィール等が解禁され、集英社・中央公論社・新潮社と続々と執筆依頼が舞い込んだ。自分の会社に対して『姑獲鳥の夏』発売時点では、まだ思いがけず本があっさりと発売されたことの恥ずかしさで伝えれずにいたが、講談社からの依頼で『魍魎の匣』執筆に入る段階で隠すのが心苦しくなって事情を話し、さらに『狂骨の夢』発売後には他の出版社からも執筆依頼が殺到し始め、会社での仕事は出来にくくなったため、会社は一旦退職して、しばらくの後に外部スタッフとして仕事も継続することとなった。その後は自身の単行本や出版社の一部の書籍デザインを会社が担当している。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2010年5月28日、日本でのiPad発売と同日に『死ねばいいのに』を電子書籍として発売。また2011年10月14日には四六判・ノベルス・分冊文庫・電子書籍の4形態で『ルー=ガルー2 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"講談社文庫版カバーは荒井良製作の紙人形。他に分冊版、愛蔵版が順次刊行されている。", "title": "執筆作品" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "上記の小説に登場するキャラクターを流用し、江戸期を舞台に「仕掛け」を行う小悪党たちの活躍を描いた作品群。", "title": "執筆作品" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "四六判(カバーの裏に細工あり)・文庫判(カバーは荒井良による造形製作)は角川書店刊、新書判は中央公論新社刊。", "title": "執筆作品" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "古典の怪談を、登場人物などの要素や筋立てを利用して、組み直したもの。おどろおどろしい背景と、男女の現代的視点からの心理描写が精緻な作品群である。", "title": "執筆作品" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "角川文庫版カバーは荒井良による造形製作。", "title": "執筆作品" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "※原作は四代目鶴屋南北の『東海道四谷怪談』とその元となった実録小説『四谷雑談集』で筋立ては後者に近い", "title": "執筆作品" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "※原作は山東京伝の『復讐奇談安積沼(ふくしゅうきだんあさかのぬま)』", "title": "執筆作品" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "※原作は岡本綺堂の『番町皿屋敷』", "title": "執筆作品" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "当初「女子高生SF小説」として構想が語られていた作品。2010年夏、劇場アニメ公開。", "title": "執筆作品" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "小説媒体で、くだらないギャグ小説をというコンセプトの元に執筆された小説。作品タイトルからして他小説のパロディであり、作者名も毎回変名となっていた。それぞれの作品が、忠臣蔵と四十八手を主題にした変奏曲のような構成で、「先に発表された小説は、次の小説内の世界で発行された小説」というウロボロスや「土俵の輪」のような構造を持つなど、遊び心に富んでいる。", "title": "執筆作品" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "扉絵と劇中に登場する4コマ漫画はしりあがり寿が担当しており、単行本、新書、文庫と再発行される度に4コマ漫画が書き直されている(文庫版は単行本、新書分も収録)。また、本文中のセリフも一部が加筆されており、元よりメタフィクション(自己言及)的なギャグがふんだんに含まれていることから、加筆行為そのものをネタにしている部分もある。", "title": "執筆作品" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "集英社刊、文庫版カバーは荒井良による造形製作。", "title": "執筆作品" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "前述の「どすこい」所収の「すべてがデブになる」の登場人物によるスピンオフ作品。「南極夏彦」なるダメな小説家と周辺の人物が巻き起こす騒動が描かれるギャグ小説「南極探検隊」シリーズをメインとする。メタな描写や特異な仕掛けが多いが、その全てがギャグのために存在するという稀有な小説でもある。コラボ作品以外のタイトルはやはり有名作品のパロディで、最初の3作品のみ「どすこい」同様変名を使っている。", "title": "執筆作品" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "集英社刊", "title": "執筆作品" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ホラーでも怪談でもなく、ただ「厭」な気分になる小説をというコンセプトで書かれた連作小説集。各話のリンク、内容と、装丁が一つのメタフィクショナルな仕掛けとして機能している。", "title": "執筆作品" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "柳田國男の『遠野物語』を京極夏彦が現代語訳、意訳、説話の収録順をテーマごとに入れ替え、といった「リミックス」したもの。", "title": "執筆作品" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "明治中期の書店・弔堂を舞台に、様々な著名人たちが「人生にふさわしい一冊」に出会っていくという連作短編シリーズ。", "title": "執筆作品" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "国書刊行会刊、文章", "title": "執筆作品" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "角川書店刊", "title": "作品提供" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "徳間書店刊", "title": "作品提供" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "リイド社刊", "title": "作品提供" } ]
京極 夏彦は、日本の小説家、妖怪研究家、グラフィックデザイナー、アートディレクター。 世界妖怪協会・世界妖怪会議評議員(肝煎)、関東水木会会員、東アジア恠異学会会員。「怪談之怪」発起人の一人。 北海道小樽市出身。北海道倶知安高等学校卒業、専修学校桑沢デザイン研究所中退。代表作に『百鬼夜行シリーズ』、『巷説百物語シリーズ』など。株式会社ラクーンエージェンシー所属。公式サイト「大極宮」も参照。
{{別人|x1=同姓のアニメ演出家・監督|京極尚彦}} <!--著者は、本名・誕生日・血液型その他の個人情報について非公開を希望しています(『週刊大極宮』第100号より)。公開すると削除の対象になります。--> {{Infobox 作家 |name= 京極 夏彦<br />(きょうごく なつひこ) |birth_date={{生年月日と年齢|1963|3|26}} |birth_place= {{JPN}}・[[北海道]][[小樽市]] |death_date= |death_place= |occupation=[[小説家]] |language =[[日本語]] |nationality={{JPN}} |period=1994年 - |genre=[[推理小説]]・妖怪小説・[[時代小説]] |subject= |production=[[大極宮|ラクーンエージェンシー]] |movement= |notable_works=[[百鬼夜行シリーズ]]<br>[[巷説百物語シリーズ]] |awards=[[日本推理作家協会賞]](1996年)<br>[[泉鏡花文学賞]](1997年)<br>[[山本周五郎賞]](2003年)<br>[[直木三十五賞]](2004年)<br>[[柴田錬三郎賞]](2011年)<br>遠野文化賞 (2016年)<br>[[吉川英治文学賞]] (2022年) |debut_works=『[[姑獲鳥の夏]]』(1994年) | influences =[[水木しげる]]など | influenced = [[奈須きのこ]]<br />[[西尾維新]]<br />[[阿部智里]]<br />[[道尾秀介]]など |signature=Natsuhiko Kyogoku signature.png }} '''京極 夏彦'''(きょうごく なつひこ、[[1963年]][[3月26日]] - )は、[[日本]]の[[小説家]]、[[妖怪]][[研究家]]、[[グラフィックデザイナー]]、[[アートディレクター]]。 [[世界妖怪協会]]・[[世界妖怪会議]]評議員(肝煎)、[[関東水木会]]会員、東アジア恠異学会会員。「[[怪談之怪]]」発起人の一人。 [[北海道]][[小樽市]]出身。[[北海道倶知安高等学校]]卒業、[[専修学校]][[桑沢デザイン研究所]]中退。代表作に『[[百鬼夜行シリーズ]]』、『[[巷説百物語シリーズ]]』など。株式会社ラクーンエージェンシー所属。公式サイト「[[大極宮]]」も参照。 ==略歴== {{出典の明記|section=1|date=2010年10月}} [[北海道]][[小樽市]]生まれ。[[グラフィックデザイナー]]・[[アートディレクター]]として[[桑沢デザイン研究所]]を経て[[広告代理店]]に勤務し、制作部副部長となる<ref>『新本格ミステリはどのようにして生まれてきたのか?』([[太田克史]]・編、[[星海社]]発行、講談社販売)P.120・京極夏彦「秀雄さん」</ref>。体調不良によりやむなく退職し、その関連で知り合った関係者と共に独立して小さなデザイン会社を設立。 しかし、[[バブル崩壊]]後の不景気で会社の仕事はあまりなく底冷えが続く。そんな中で思いついた企画書をいくつか作った後の暇な時間に、何となく小説『[[姑獲鳥の夏]]』を書いた。そして休日に出かける金もない[[1994年]]のゴールデンウィークに、「会社で小説書いちゃったから印字代などがもったいない」という軽い気持ちで「出来れば原稿に使った用紙とインク代の元だけでも稼げれば」と、威張った編集者に門前払いをされることも期待しながら[[講談社ノベルス]]の編集部に電話をかけた<ref name="pocket">『[[IN★POCKET]]』2009年6月号 『邪魅の雫』文庫刊行 京極夏彦 『姑獲鳥の夏』から15年を語る</ref>。編集者は返事には数カ月から半年かかると伝えたが、箱入りで届いた『姑獲鳥の夏』の原稿を読み始めると、予想外に読みふけり1日で目を通し終え、まず「著名な作家が編集部の[[リテラシー]]を試しているイタズラでは」と感じたといい、また原稿を送って僅か2日で返事を貰い「まさかのドッキリではないか」と思ったという<ref name="pocket" />。この作品は、上記のように仕事の合間の暇つぶしに書かれたもので、小説の執筆は京極にとって初めてのことであった。作品の構想は10年前に考えた漫画のネタという。 原稿を読んだ編集者である唐木厚により、すぐに講談社ノベルスとしての発売が決定した。『[[狂骨の夢]]』の発売日(1995年5月)にプロフィール等が解禁され、[[集英社]]・[[中央公論社]]・[[新潮社]]と続々と執筆依頼が舞い込んだ。自分の会社に対して『姑獲鳥の夏』発売時点では、まだ思いがけず本があっさりと発売されたことの恥ずかしさで伝えれずにいたが、講談社からの依頼で『[[魍魎の匣]]』執筆に入る段階で隠すのが心苦しくなって事情を話し、さらに『狂骨の夢』発売後には他の出版社からも執筆依頼が殺到し始め、会社での仕事は出来にくくなったため、会社は一旦退職して、しばらくの後に外部スタッフとして仕事も継続することとなった。その後は自身の単行本や出版社の一部の書籍デザインを会社が担当している。 2010年5月28日、日本での[[iPad]]発売と同日に『[[死ねばいいのに]]』を[[電子書籍]]として発売。また2011年10月14日には四六判・ノベルス・分冊文庫・電子書籍の4形態で『[[ルー=ガルー 忌避すべき狼|ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ夢魔]]』を発売。これは出版史上初のことであった。 京極の活動は小説家のみならず、『[[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第4シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎]]』第4作101話で脚本および自身をモデルにしたゲストキャラ「一刻堂」のキャラクターデザインと声優を担当、『[[巷説百物語シリーズ|巷説百物語]]』がテレビアニメ化された際には[[声優]]として京極亭役を演じている。また、京極の処女作を原作とした映画『姑獲鳥の夏』では傷痍軍人([[水木しげる]])役として出演した。親交の深い[[宮部みゆき]]、[[荒俣宏]]等には、[[水木しげる]]の故郷である[[境港市|境港]]産の[[松葉ガニ]]を歳暮として贈っている。 2023年3月1日、日本文学振興会が退任した北方謙三の後任として直木賞選考委員への就任をツイッターで発表した。 [[本格ミステリ作家クラブ]]会員。[[日本SF作家クラブ]]会員だったが2023年2月時点では退会している。 2019年から2023年まで[[日本推理作家協会]]代表理事をつとめた<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20190527/k00/00m/040/217000c|title=京極夏彦さん 日本推理作家協会新理事長に |publisher=毎日新聞 |date=2019-05-27 |accessdate=2019-05-28}}</ref>。 和服に指ぬき手袋姿がトレードマークで、公の席では必ずその格好で出席している。 ==文学賞受賞・候補歴== *1995年 - 『[[鉄鼠の檻]]』で第9回[[山本周五郎賞]]候補。 *1996年 **『[[魍魎の匣]]』で'''第49回[[日本推理作家協会賞]](長編部門)'''受賞。 **『[[絡新婦の理]]』で第18回[[吉川英治文学新人賞]]候補。 *1997年 - 『[[嗤う伊右衛門]]』で'''第25回[[泉鏡花文学賞]]'''受賞、第118回[[直木三十五賞]]候補。 *1999年 - 『[[百鬼夜行――陰]]』で第21回吉川英治文学新人賞候補。 *2002年 - 『[[覘き小平次]]』で'''第16回[[山本周五郎賞]]'''受賞、第128回直木三十五賞候補。 *2003年 - 『[[後巷説百物語]]』で'''第130回[[直木三十五賞]]'''受賞。 *2007年 - 『[[邪魅の雫]]』で第7回[[本格ミステリ大賞]](小説部門)候補。 *2011年 - 『[[西巷説百物語]]』で'''第24回[[柴田錬三郎賞]]'''受賞。 *2016年 - 『遠野物語remix』や「えほん遠野物語」シリーズなどで'''遠野文化賞'''受賞<ref>{{Cite web|和書|date=2016-06-30 |url=http://tonoculture.com/dealing/prize-winner/3571/ |title=平成28年 遠野文化賞受賞者 |publisher=遠野文化研究センター |accessdate=2018-05-25}}</ref>。 *2019年 - 第62回埼玉文化賞<ref>{{Cite news |title=作家・京極夏彦さん「埼玉の人は誇示、強調がない」埼玉文化賞を受賞、懇親会で京極流の埼玉論を展開 |newspaper=埼玉新聞 |date=|url=https://web.archive.org/web/20200701230826/https://news.line.me/issue/oa-saitama-np/9fd3dea799c0 |accessdate=2020-06-29}}</ref> *2022年 - 『[[遠巷説百物語]]』で'''第56回[[吉川英治文学賞]]'''受賞<ref>{{Cite web|和書|title=吉川英治文学賞に京極夏彦さんと中島京子さん - 社会 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/general/news/202203020000965.html |website=nikkansports.com |accessdate=2022-03-02 |language=ja}}</ref>。 == ミステリ・ランキング == * '''[[週刊文春ミステリーベスト10]]''' ** 1994年 - 『姑獲鳥の夏』7位 ** 1995年 - 『魍魎の匣』4位、『狂骨の夢』次点 ** 1996年 - 『鉄鼠の檻』5位、『絡新婦の理』6位 ** 1997年 - 『嗤う伊右衛門』9位 ** 1998年 - 『塗仏の宴』8位 ** 1999年 - 『巷説百物語』29位 ** 2003年 - 『陰摩羅鬼の瑕』9位 ** 2006年 - 『邪魅の雫』8位 ** 2010年 - 『死ねばいいのに』9位 ** 2023年 - 『鵼の碑』3位 * '''[[このミステリーがすごい!]]''' ** 1995年 - 『姑獲鳥の夏』7位 ** 1996年 - 『魍魎の匣』4位、『狂骨の夢』9位 ** 1997年 - 『鉄鼠の檻』7位 ** 1998年 - 『絡新婦の理』4位、『嗤う伊右衛門』7位 ** 1999年 - 『塗仏の宴』19位 ** 2000年 - 『巷説百物語』20位 ** 2004年 - 『陰摩羅鬼の瑕』20位 ** 2007年 - 『邪魅の雫』12位 ** 2011年 - 『死ねばいいのに』12位 ** 2024年 - 『鵼の碑』2位 * '''[[本格ミステリ・ベスト10]]''' ** 1997年 - 『鉄鼠の檻』'''1位'''、『絡新婦の理』2位 ** 1999年 - 『塗仏の宴』2位 ** 2000年 - 『百鬼徒然袋―雨』14位 ** 2002年 - 『続巷説百物語』28位 ** 2004年 - 『陰摩羅鬼の瑕』5位 ** 2005年 - 『百器徒然袋―風』27位 ** 2007年 - 『邪魅の雫』5位 ** 2024年 - 『鵼の碑』8位 * '''[[ミステリが読みたい!]]''' ** 2011年 - 『死ねばいいのに』19位 ** 2024年 - 『鵼の碑』3位 * '''[[MRC大賞]]''' ** 2023年 - 『鵼の碑』'''1位''' ==作風== {{独自研究|section=1|date=2010年10月}} ;新しい推理スタイル :デビュー作以来続く、京極の代表作と言える[[百鬼夜行シリーズ]]には、憑物落し(つきものおとし)と同時に推理する、新しいスタイルの探偵が出てくる。装飾部分やサブストーリーに様々な伝承、オカルティズムをふんだんに用いながらも骨格は論理的な謎解きに徹しているため、狭義の推理小説の正道を歩むと同時に、作者いわくの「妖怪小説」とも呼び得るという、特異なシリーズとなっている。[[横溝正史]]や[[ディクスン・カー]]の怪奇趣味が本格推理に従属する装飾にとどまるため、オカルト小説として読む余地がまったく無いのに対し、京極のオカルティズムは本筋とは別に独自の掘り下げが行われるため、本格推理ファン以外の読者も少なくない。また、同シリーズ以外の、ミステリをうたっていない作品の中にも、[[怪奇現象]]が実はすべて人為的トリックであったり、古典的怪談に合理的解釈が提示されたり(ただし、それが真実として確定されるわけではない)するものが多い。 ;分厚いページ数 :百鬼夜行シリーズは、(作者独特の文体ゆえか)極めてページ数が多いのも特徴であり、『[[鉄鼠の檻]]』で826ページ、『[[絡新婦の理]]』で829ページ、『[[塗仏の宴 宴の支度]]』『[[塗仏の宴 宴の始末]]』で上下巻に分けて1248ページという厚さに達している(以上、全て[[講談社ノベルス]]版の数字)。そのため、百鬼夜行シリーズ作品は「レンガ本」「サイコロ本」とも呼ばれており、合作の経験がある漫画家[[とり・みき]]には、漫画中の登場人物が京極の本をアコーディオンのように持つという描写をされている。 ;装幀家 :また、作家デビューする以前から[[グラフィックデザイナー]]・[[装幀家]]としての顔も持っており、[[綾辻行人]]の『眼球綺譚』や『フリークス』などではカバーデザインを担当している。 ;独自のルール :作品の見せ方についても、一つの文がページをまたがることのないように、ページ・見開きの末文で改行するよう構成する(文庫化などで字数が変わるとそれに合わせて適宜改行位置を操作する)など、独特のルールを遵守している。グラフィックデザイナーの血がそうさせるのだとも言われるが、それは読者がページを開いたときの第一印象まで、作家の主体的な制御下に置こうという試みといえる。そのこだわりは、みずから[[DTP]]ソフト[[Adobe InDesign]]を駆使して、全ページのレイアウトをこなして印刷所に入稿するレベルにまで至っているが、個人的なこだわりではなく、本人は、リーダビリティを考慮した読者サービスの一環であり<ref name="pocket" />、「小説」と言う商品をよくしようと言う企業努力であると語っている。ただし文字組みに関しては「1ページ破っても読めるように」とも語っている<ref>[https://www.1101.com/suimin/kyogoku/2007-12-24.html ほぼ日刊イトイ新聞によるインタビュー]</ref>。 ;共通の世界観 :京極の作品は様々な時系列のものがあるが、発表された全ての作品は互いに他の京極作品・シリーズとどこかしらリンクしている(登場人物、作中事件等)。 ==執筆作品== ===小説・物語=== ====百鬼夜行シリーズ==== {{Main|百鬼夜行シリーズ}} 作者のデビュー作から続くシリーズ。 [[講談社ノベルス]]より刊行。装幀、表紙[[妖怪]]画は[[辰巳四郎]]が担当。辰巳の死後、妖怪画は[[石黒亜矢子]]が引き継いだ。 [[講談社文庫]]版カバーは[[荒井良]]製作の紙人形。他に分冊版、愛蔵版が順次刊行されている。 *'''長編小説''' **『[[姑獲鳥の夏]]』(1994年9月) **『[[魍魎の匣]]』(1995年1月) **『[[狂骨の夢]]』(1995年5月) **『[[鉄鼠の檻]]』(1996年1月) **『[[絡新婦の理]]』(1996年11月) **『[[塗仏の宴 宴の支度]]』(1998年3月) **『[[塗仏の宴 宴の始末]]』(1998年9月) **『[[陰摩羅鬼の瑕]]』(2003年8月) **『[[邪魅の雫]]』(2006年9月) **『[[今昔百鬼拾遺 (小説シリーズ)|今昔百鬼拾遺]] 鬼』(2019年4月) [[講談社タイガ]] **『今昔百鬼拾遺 河童』(2019年5月)[[角川文庫]] **『今昔百鬼拾遺 天狗』(2019年6月)[[新潮文庫]] **『[[鵼の碑]]』(2023年9月)講談社ノベルス・単行本 *'''連作小説集''' **『[[百鬼夜行――陰]]』(1999年7月) **『[[百器徒然袋――雨]]』(1999年11月) **『[[今昔続百鬼――雲]]』(2001年11月) **『[[百器徒然袋――風]]』(2004年7月) **『[[百鬼夜行――陽]]』(2012年3月) **『今昔百鬼拾遺 月』(2020年8月) - 『今昔百鬼拾遺 鬼』『今昔百鬼拾遺 河童』『今昔百鬼拾遺 天狗』の合本 <!-- *刊行予定 **『[[鵼の碑]]』(長編) --> ====巷説百物語シリーズ==== {{main|巷説百物語シリーズ}} 上記の小説に登場するキャラクターを流用し、江戸期を舞台に「仕掛け」を行う小悪党たちの活躍を描いた作品群。 四六判(カバーの裏に細工あり)・文庫判(カバーは[[荒井良]]による造形製作)は[[角川書店]]刊、新書判は[[中央公論新社]]刊。 *『[[巷説百物語]]』 **四六判 1999年8月 {{ISBN2|4-04-873163-7}} **[[C★NOVELS]] 2002年2月 {{ISBN2|4-12-500749-7}} **角川文庫 2003年6月 {{ISBN2|4-04-362002-0}} *『[[続巷説百物語]]』 **四六判 2001年5月 {{ISBN2|4-04-873300-1}} **C★NOVELS 2003年8月 {{ISBN2|4-12-500816-7}} **角川文庫 2005年2月 {{ISBN2|4-04-362003-9}} *『[[後巷説百物語]]』 **四六判 2003年11月 {{ISBN2|4-04-873501-2}} **C★NOVELS 2006年2月 {{ISBN2|4-12-500933-3}} **角川文庫 2007年4月 {{ISBN2|978-4-04-362004-3}} *『[[前巷説百物語]]』 **四六判 2007年4月 {{ISBN2|4-04-873769-4}} **C★NOVELS 2009年4月 {{ISBN2|4-12-501070-6}} **角川文庫 2009年12月 {{ISBN2|978-4-04-362007-4}} *『[[西巷説百物語]]』 **四六判 2010年7月 {{ISBN2|4-04-874054-7}} **C★NOVELS 2012年8月 {{ISBN2|4-12-501213-X}} **角川文庫 2013年3月 {{ISBN2|978-4-04-100749-5}} *『[[遠巷説百物語]]』 **四六判 2021年7月 {{ISBN2|978-4-04-110995-3}} **C★NOVELS 2022年8月 {{ISBN2|4-12-501457-4}} **角川文庫 2023年2月 {{ISBN2|978-4-04-113109-1}} ====江戸怪談シリーズ==== 古典の怪談を、登場人物などの要素や筋立てを利用して、組み直したもの。おどろおどろしい背景と、男女の現代的視点からの心理描写が精緻な作品群である。 [[角川文庫]]版カバーは[[荒井良]]による造形製作。 *『[[嗤う伊右衛門]](わらういえもん)』 **[[中央公論新社]] 1997年 {{ISBN2|4-12-002689-2}} **C★NOVELS 1999年 {{ISBN2|4-12-500603-2}} **角川文庫 2001年 {{ISBN2|4-04-362001-2}} **中公文庫 2004年 {{ISBN2|4-12-204376-X}} ※原作は四代目[[鶴屋南北]]の『[[四谷怪談|東海道四谷怪談]]』とその元となった実録小説『[[四谷怪談#四谷雑談集|四谷雑談集]]』で筋立ては後者に近い *『[[覘き小平次]](のぞきこへいじ)』 **中央公論新社 2002年 {{ISBN2|4-12-003308-2}} **C★NOVELS 2005年 {{ISBN2|4-12-500889-2}} **角川文庫 2008年 {{ISBN2|4-04-362006-3}} **中公文庫 2012年 {{ISBN2|4-12-205665-9}} ※原作は[[山東京伝]]の『復讐奇談安積沼(ふくしゅうきだんあさかのぬま)』 *『[[数えずの井戸]]』 **中央公論新社 2010年 {{ISBN2|4-12-004090-9}} **C★NOVELS 2013年 {{ISBN2|4-12-501251-2}} **角川文庫 2014年 {{ISBN2|4-04-101596-0}} **中公文庫 2017年8月 {{ISBN2|4-12-206440-6}} ※原作は[[岡本綺堂]]の『[[皿屋敷|番町皿屋敷]]』 ====ルー=ガルー==== <!--{{Main|1=ルー=ガルーシリーズ}}--> 当初「女子高生[[SF小説]]」として構想が語られていた作品。2010年夏、劇場アニメ公開。 *『[[ルー=ガルー 忌避すべき狼]]』 **単行本判 ([[徳間書店]]、2001年6月、{{ISBN2|4-19-861364-8}}) **[[新書]]版 ([[トクマ・ノベルズ]]、2004年11月、{{ISBN2|4-19-850653-1}}) **ノベルス版([[講談社ノベルス]]、2009年10月、{{ISBN2|978-4-06-182674-8}}) **分冊文庫版 ([[講談社文庫]]、2011年9月、[上]{{ISBN2|978-4-06-276899-3}}、[下]{{ISBN2|978-4-06-276910-5}}) **文庫版(講談社文庫、2018年10月 {{ISBN2|978-4-06-513205-0}}) *『[[ルー=ガルー 忌避すべき狼|ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ夢魔]]』 **単行本判 (講談社、2011年10月、{{ISBN2|978-4-06-217294-3}}) **ノベルス版(講談社ノベルス、2011年10月、{{ISBN2|978-4-06-182755-4}}) **分冊文庫版 (講談社文庫、2011年10月、[上]{{ISBN2|978-4-06-277082-8}}、[下]{{ISBN2|978-4-06-277083-5}}) **文庫版(講談社文庫、2018年11月、{{ISBN2|978-4-06-513207-4}}) ====どすこい==== 小説媒体で、くだらないギャグ小説をというコンセプトの元に執筆された小説。作品タイトルからして他小説のパロディであり、作者名も毎回変名となっていた。それぞれの作品が、[[忠臣蔵]]と[[四十八手]]を主題にした[[変奏曲]]のような構成で、「先に発表された小説は、次の小説内の世界で発行された小説」という[[ウロボロス]]や「[[土俵]]の輪」のような構造を持つなど、遊び心に富んでいる。 扉絵と劇中に登場する4コマ漫画は[[しりあがり寿]]が担当しており、単行本、新書、文庫と再発行される度に4コマ漫画が書き直されている(文庫版は単行本、新書分も収録)。また、本文中のセリフも一部が加筆されており、元より[[メタフィクション]](自己言及)的なギャグがふんだんに含まれていることから、加筆行為そのものをネタにしている部分もある。 [[集英社]]刊、文庫版カバーは[[荒井良]]による造形製作。 *連作小説集(集英社刊文芸雑誌『[[小説すばる]]』掲載) **『どすこい(仮)(かり)』 2000年 {{ISBN2|4-08-774414-0}} **『どすこい(安)(やす)』 新書判 2002年 {{ISBN2|4-08-774597-X}} **『どすこい。』 集英社文庫 2004年 {{ISBN2|4-08-747755-X}} ***「[[四十七人の刺客|四十七人の力士]]」:新京極夏彦 ***「[[パラサイト・イブ|パラサイト・デブ]]」:南極夏彦 ***「[[すべてがFになる|すべてがデブになる]]」:N極改め月極夏彦(『すばる』掲載時に途中でペンネームを変えたため) ***「[[リング (鈴木光司の小説)|土俵(リング)]]」・[[らせん (鈴木光司の小説)|でぶせん]]」:京塚昌彦 ***「[[屍鬼|脂鬼]]」:京極夏場所 ***「[[理由 (小説)|理油(意味不明)]]」:京極夏彦 ***「[[ウロボロスの基礎論|ウロボロスの基礎代謝]]」:両国踏四股 ====南極==== 前述の「どすこい」所収の「すべてがデブになる」の登場人物によるスピンオフ作品。「南極夏彦」なるダメな小説家と周辺の人物が巻き起こす騒動が描かれるギャグ小説「南極探検隊」シリーズをメインとする。メタな描写や特異な仕掛けが多いが、その全てがギャグのために存在するという稀有な小説でもある。コラボ作品以外のタイトルはやはり有名作品のパロディで、最初の3作品のみ「どすこい」同様変名を使っている。 [[集英社]]刊 *連作小説集([[集英社]]刊文芸雑誌『[[小説すばる]]』掲載) **『南極(人)』2008年 {{ISBN2|4-08-771274-5}} **『南極(廉)』新書判 2010年 {{ISBN2|4-08-771384-9}} **『南極。』集英社文庫 2011年 {{ISBN2|4-08-746772-4}} ***「[[海は涸いていた|海で乾いていろ!]]」:消極的彦 ***「[[新宿鮫|宍道湖鮫]]」:京極メキシコ ***「[[夜光虫 (小説)|夜尿中]]」:ナッチー京極 ***「ぬらりひょんの褌」(秋本治×京極夏彦) ***「[[デスノート|ガスノート]]」 ***「[[探偵ガリレオ|探偵がリレーを…]]」 ***「[[独白するユニバーサル横メルカトル|毒マッスル海胆ばーさん用米糠盗る]]」 ***「巷説ギャグ物語」(赤塚不二夫÷京極夏彦) ====厭シリーズ==== ホラーでも怪談でもなく、ただ「厭」な気分になる小説をというコンセプトで書かれた連作小説集。各話のリンク、内容と、装丁が一つのメタフィクショナルな仕掛けとして機能している。 *連作小説集([[祥伝社]]刊文芸雑誌『小説NON』掲載) **『厭な小説』2009年 {{ISBN2|978-4-396-63316-5}} **『厭な小説』 [[ノン・ノベル]] 2011年 {{ISBN2|978-4-396-20891-2}} **『厭な小説 文庫版』 [[祥伝社文庫]] 2012年 {{ISBN2|978-4-396-33783-4}} **『厭な小説 文庫版』 [[角川文庫]] 2020年 {{ISBN2|978-4-04-108445-8}} ***「厭な子供」 1999年 (祥伝社文庫『さむけ』所収、『[[世にも奇妙な物語]]』内でドラマ化) ***「厭な老人」 1999年 ***「厭な扉」(『グランドホテル 異形コレクション 9』) ***「厭な先祖」 2002年 ***「厭な彼女」 2008年 ***「厭な家」 2009年 ***「厭な小説」 書き下ろし ====豆腐小僧シリーズ==== *『豆腐小僧双六道中ふりだし 本朝妖怪盛衰録』 講談社 2003年 {{ISBN2|4-06-212214-6}} **『文庫版 豆冨小僧双六道中ふりだし』 角川書店 2010年 {{ISBN2|978-4-04-362008-1}} *『豆腐小僧双六道中おやすみ 本朝妖怪盛衰録』 角川書店 2011年 {{ISBN2|978-4-04-874191-0}} **『文庫版 豆冨小僧双六道中おやすみ』 角川書店 2013年 {{ISBN2|978-4-04-100920-8}} *『豆富小僧』 角川書店 2011年 {{ISBN2|4-04-631151-7}} **ジュブナイル版[[角川つばさ文庫]] *『豆腐小僧その他』角川書店 2011年 {{ISBN2|4-04-362009-8}} **「豆腐小僧」(『豆富小僧』角川つばさ文庫 2011年を再録) **「狂言 豆腐小僧」(『京極噺六儀集』 [[ぴあ]] 2005年より再録) **「狂言 狐狗狸噺(ロングバージョン)」(『京極噺六儀集』 [[ぴあ]] 2005年より再録) **「狂言 新・死に神」(『京極噺六儀集』 [[ぴあ]] 2005年より再録) **「落語 死に神remix」(『京極噺六儀集』 [[ぴあ]] 2005年より再録) ====現代怪談シリーズ==== *『旧怪談(ふるい怪談)耳袋より』メディアファクトリー 2007年 {{ISBN2|4-8401-1879-5}} **『ふるい怪談』 角川つばさ文庫 2013年 {{ISBN2|978-4-04-631374-4}} **『旧談』 角川文庫 2016年 {{ISBN2|978-4-04-103551-1}} *『幽談』メディアファクトリー 2008年 {{ISBN2|4-8401-2373-X}} **『幽談』 [[MF文庫ダ・ヴィンチ]] 2012年 {{ISBN2|978-4-8401-4500-8}} **『幽談』 角川文庫 2013年 {{ISBN2|978-4-04-101153-9}} *『冥談』メディアファクトリー 2010年 {{ISBN2|4-8401-3235-6}} **『冥談』 角川文庫 2013年 {{ISBN2|978-4-04-101152-2}} *『眩談』メディアファクトリー 2012年 {{ISBN2|4-8401-4891-0}} **『眩談』 角川文庫 2015年 {{ISBN2|978-4-04-103552-8}} *『鬼談』KADOKAWA 2015年 {{ISBN2|4-0410-2474-9}} **『鬼談』 角川文庫 2018年2月 {{ISBN2|978-4-04-105737-7}} *『虚談』KADOKAWA 2018年2月 {{ISBN2|978-4-04-105722-3}} **『虚談』 角川文庫 2021年10月 {{ISBN2|978-4-04-111541-1}} ====遠野物語remix==== [[柳田國男]]の『[[遠野物語]]』を京極夏彦が現代語訳、意訳、説話の収録順をテーマごとに入れ替え、といった「リミックス」したもの。 *『遠野物語remix』 [[角川学芸出版]] 2013年 {{ISBN2|978-4-04-653277-0}} **『遠野物語remix 付・遠野物語』 [[角川ソフィア文庫]] 2014年 {{ISBN2|978-4-04-408322-9}} **『遠野物語remix』 角川文庫 2014年 {{ISBN2|978-4-04-400318-0}} *『遠野物語拾遺retold』 角川学芸出版 2014年 {{ISBN2|978-4-04-653301-2}} **『遠野物語拾遺retold 付・遠野物語拾遺』 [[角川ソフィア文庫]] 2015年 {{ISBN2|978-4-04-400322-7}} **『遠野物語拾遺retold』 角川文庫 2015年 {{ISBN2|978-4-04-408330-4}} ====書楼弔堂シリーズ==== {{main|書楼弔堂シリーズ}} 明治中期の書店・弔堂を舞台に、様々な著名人たちが「人生にふさわしい一冊」に出会っていくという連作短編シリーズ。 *『書楼弔堂 破暁』集英社 2013年 {{ISBN2|978-4-08-771540-8}} **『書楼弔堂 破暁 文庫版』 集英社文庫 2016年12月 {{ISBN2|978-4-08-745522-9}} *『書楼弔堂 炎昼』集英社 2016年11月 {{ISBN2|978-4-08-771018-2}} **『書楼弔堂 炎昼 文庫版』 集英社文庫 2019年11月 {{ISBN2|978-4-08-744043-0}} *『書楼弔堂 待宵』集英社 2023年1月 {{ISBN2|978-4-08-771820-1}} ====ヒトでなしシリーズ==== *『ヒトでなし 金剛界の章』 新潮社 2015年 {{ISBN2|978-4-10-339611-6}} ** 新潮文庫 2019年2月 {{ISBN2|978-4-10-135352-4}} *『ヒトごろし』 新潮社 2018年 {{ISBN2|978-4-10-339612-3}} ** ヒトでなしシリーズの前段という位置づけにある。 ** 新潮文庫(上)2020年10月 {{ISBN2|978-4-10-135354-8}} ** 新潮文庫(下)2020年10月 {{ISBN2|978-4-10-135355-5}} ====虚実妖怪百物語シリーズ==== *『虚実妖怪百物語 序』KADOKAWA 2016年 {{ISBN2|978-4-04-104776-7}} **角川文庫 2018年12月 {{ISBN2|978-4-04-107431-2}} *『虚実妖怪百物語 破』KADOKAWA 2016年 {{ISBN2|978-4-04-104778-1}} **角川文庫 2018年12月 {{ISBN2|978-4-04-107432-9}} *『虚実妖怪百物語 急』KADOKAWA 2016年 {{ISBN2|978-4-04-104781-1}} **角川文庫 2018年12月 {{ISBN2|978-4-04-107433-6}} *『虚実妖怪百物語 序/破/急』角川文庫 2018年12月 {{ISBN2|978-4-04-107434-3}} - 上記3冊の合巻版 ====その他小説・物語==== *『[[死ねばいいのに]]』 講談社 2010年 {{ISBN2|4-0621-6172-9}} **今時の青年を狂言回しとし、その視点を通して、市井の人々のコミュニケーション不全を描写する作品。[[iPad]]の電子ブック版がほぼ同時に半額以下で発売されて話題になった<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/368320.html 講談社、京極夏彦氏の新刊「死ねばいいのに」を電子書籍としてiPadでも販売 -INTERNET Watch]。</ref>。 **『文庫版 死ねばいいのに』 講談社文庫 2012年 {{ISBN2|978-4-06-277351-5}} *『オジいサン』 中央公論新社 2011年 {{ISBN2|4-1200-4209-X}} **『オジいサン』 中公文庫 2015年 {{ISBN2|978-4-12-206078-4}} **『オジいサン』 角川文庫 2019年 {{ISBN2|978-4-04-108444-1}} *『虚言少年』 集英社 2011年 {{ISBN2|4-0877-1407-1}} **『虚言少年 文庫版』 集英社文庫 2014年 {{ISBN2|978-4-08-745224-2}} ====選集==== *百鬼夜行シリーズ **『金田一耕助に捧ぐ九つの協奏曲』角川書店 2002年 {{ISBN2|4-048-73362-1}}/角川文庫 2012年 {{ISBN2|4-041-00572-8}} ***「無題」 (『陰摩羅鬼の瑕』より抜粋) **『eRotica』(e-NOVELS 編)講談社 2004年 {{ISBN2|4-062-12289-8}} ***「大首 妖怪小説百鬼夜行第拾弐夜」 (『百鬼夜行――陽』収録) *厭シリーズ **『グランドホテル 異形コレクション 9』 (井上雅彦 監) 廣済堂文庫 廣済堂出版 1999年 {{ISBN2|4-331-60734-8}} ***「厭な扉」 (『厭な小説』収録) **『さむけ』 [[祥伝社|祥伝社文庫]] 1999年 {{ISBN2|4-396-32683-1}} ***「厭な子供」 (『厭な小説』収録) *現代怪談シリーズ **『エロティシズム12幻想』 ([[津原泰水]] 監) [[スクウェア・エニックス|エニックス]] 2000年 {{ISBN2|4-7575-0166-8}} **『エロティシズム12幻想』 (津原泰水 監) 講談社文庫 2002年 {{ISBN2|4-06-273393-5}} ***「鬼交(きこう)」 (『鬼談』収録) **『稲生モノノケ大全 陽之巻』 ([[東雅夫]] 編) [[毎日新聞社]] 2005年 {{ISBN2|4-620-10695-X}} ***「旧耳袋 もう臭わない」 (『旧怪談 耳袋より』収録) **『怪談実話系 書き下ろし怪談文芸競作集』 (『[[幽]]』編集部 編) [[メディアファクトリー]] 2008年 {{ISBN2|4-840-12347-0}} ***「成人」 (『幽談』収録) **『怪談実話系3 書き下ろし怪談文芸競作集』 (『幽』編集部 編) メディアファクトリー 2010年 {{ISBN2|4-840-13199-6}} ***「先輩の話」 (『冥談』収録) *未分類 **『稲生モノノケ大全 陽之巻』 (東雅夫 編) [[毎日新聞社]] 2003年 {{ISBN2|4-620-31649-0}} ***「武大夫木槌を得る――三次実録物語」 **『怪談の学校』 ([[怪談之怪]] 編) メディアファクトリー 2006年 {{ISBN2|4-840-11497-8}} ***「礼儀正しい」 **『小説 [[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』([[秋本治]] 原作/[[日本推理作家協会]] 監修)集英社 2007年 {{ISBN2|4-087-80466-6}}/集英社文庫 2011年 {{ISBN2|4-087-46689-2}} ***「ぬらりひょんの褌」 (『南極』収録) **『文豪てのひら怪談』 (東雅夫 編) [[ポプラ文庫]] 2009年 {{ISBN2|4-591-11104-0}} ***「蒐集者の庭(抄)」※久保竣行 名義 **『NOVA4 書き下ろし日本SFコレクション』 (大森望 編) [[河出文庫]] 2011年 {{ISBN2|4-309-41077-4}} ***「最后の祖父」 **『奇想天外 21世紀版 アンソロジー』 ([[山口雅也 (小説家)|山口雅也]] 編) [[南雲堂]] 2017年 {{ISBN2|4-523-26564-X}} ***「俺たちの俺」 **『[[森見登美彦]]リクエスト! 美女と竹林のアンソロジー』(森見登美彦 編)光文社 2019年1月 {{ISBN2|978-4-334-91259-8}} ***「竹取り」 **『Day to Day』(講談社 編)講談社 2021年3月 {{ISBN2|978-4-065-21842-6}} ***「七月八日」 ====連載中の小説==== *『書楼弔堂』(『[[小説すばる]]』2014年9月号 - (不定期)) *『了巷説百物語』(『[[怪と幽]]』2021年 vol.007 - ) *『病葉草紙』(『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』2022年8月号 - ) ====連載中断小説==== *『新潮落語』 **「まともな小説が書けないのだから、」(『小説新潮』1999年5月号) **「こんな巫山戯た小説書きやがって、」(『小説新潮』1999年10月号) **「死に神remix」(『小説新潮』2002年1月号)※『京極噺六儀集』に収録 :古典落語をメタな自己言及的視線により読み解くというお笑い小説。 *『明けの破鏡(あけのはきょう)』(『KADOKAWAミステリ』1999年11月号 - 2000年7月号(6回)) :江戸時代を舞台にした時代劇小説。作者が愛好する[[必殺シリーズ]]の登場人物を思わせる描写がある。 *『右の方に進むべきである』(『[[小説現代]]』2012年6月号・9月号・2013年1月号・4月号(4回)) ====雑誌掲載短編==== *「その赤いモノ」(『幽』vol.4 2005年) ===評論・エッセイ=== ====エッセイ==== *『妖怪旅日記』 ([[多田克己]]・[[村上健司]] 共著)[[同朋舎]] 2001年 {{ISBN2|4-8104-2728-5}} *『[[大極宮]](たいきょくぐう)』『大極宮2』『大極宮3 コゼニ好きの野望篇』 ([[大沢在昌]]・[[宮部みゆき]] 共著/三人の公式ホームページ『大極宮』のコンテンツ『週刊大極宮』の文庫化) [[角川文庫]] 2002年 {{ISBN2|4-0436-1103-X}} / 2003年 {{ISBN2|4-0436-1105-6}} / 2004年 {{ISBN2|4-0436-1106-4}} **『大極宮3 コゼニ好きの野望篇』には書き下ろし掌編小説「罪と罰 第130回」が収録されている *『地獄の楽しみ方 17歳の特別教室』講談社 2019年 {{ISBN2|978-4-06-517384-8}} **『地獄の楽しみ方 文庫版』講談社 2022年 {{ISBN2|978-4-06-526809-4}} ====対談==== *『アニメ鬼太郎生誕30周年記念出版 水木しげる&京極夏彦 ゲゲゲの鬼太郎解体新書』 [[講談社]] 1998年 {{ISBN2|4-06-330048-X}} ※付録として京極の担当した『ゲゲゲの鬼太郎 言霊使いの罠!』の脚本 *『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 臨時増刊号 総特集 怪談』(「近代という膜が破れる時」)[[青土社]] 1998年8月 {{ISBN2|4-7917-0035-X}} *『水木しげるの妖怪談義』 ([[水木しげる]] 著) [[Softgarage]] 2000年 {{ISBN2|4-921068-56-9}} *『妖怪馬鹿』 ([[多田克己]]・[[村上健司]] 共著/[[荒井良]] カバーの妖怪製作) 新潮OH!文庫 2001年 {{ISBN2|4-10-290073-X}} **『完全復刻 妖怪馬鹿』 新潮文庫 2008年 {{ISBN2|978-4-10-135351-7}} *『異界談義』 ([[国立歴史民俗博物館]] 編) 角川書店 2002年 {{ISBN2|4-04-883757-5}} *『安倍晴明公』 ([[晴明神社]] 編) 講談社 2002年 {{ISBN2|4-06-210983-2}} *『ホラー・ジャパネスクを語る』 ([[東雅夫]] 編) [[双葉社]] 2003年 {{ISBN2|4-575-23469-9}} *『本格ミステリ ベスト10 2004』 (探偵小説研究会 編・著) 原書房 {{ISBN2|4-562-03718-0}} *『怪談之怪之怪談』 ([[怪談之怪]] 編) [[メディアファクトリー]] 2003年 {{ISBN2|4-8401-0848-X}} *『ミステリー迷宮読本』 [[洋泉社|ムックy]] 2003年 {{ISBN2|4-89691-775-8}} *『京極夏彦『巷説百物語』の世界』 [[洋泉社|ムックy]] 2004年 {{ISBN2|4-89691-803-7}} *『多生の縁 玄侑宗久対談集』 ([[玄侑宗久]] 著) 文藝春秋 2004年 {{ISBN2|4-16-365730-4}} *『ゲゲゲの鬼太郎 妖怪百物語』 [[宝島社]] 2004年 {{ISBN2|4-7966-4191-2}} *『闇夜に怪を語れば 百物語ホラー傑作選』 (東雅夫 編) 角川文庫 2005年 {{ISBN2|4-04-359802-5}} *『対談集 妖怪大談義』 角川書店 2005年 {{ISBN2|4-04-883925-X}} **『対談集 妖怪大談義』 角川文庫 2008年 {{ISBN2|978-4-04-362005-0}} *『妖怪文藝 巻之壱 モノノケ大合戦』 (東雅夫 編) 小学館文庫 2005年 {{ISBN2|4-09-402837-4}} *『俺たちのR25時代』 (R25編集部 編) [[日本経済新聞社|日経ビジネス人文庫]] 2005年 {{ISBN2|4-532-19317-6}} *『ホラー・ジャパネスク読本』 (東雅夫 編) [[双葉社|双葉文庫]] 2006年 {{ISBN2|4-575-71312-0}} ===日本画=== [[国書刊行会]]刊、文章 *『絵本百物語 桃山人夜話』 (竹原春泉 画/[[多田克己]] 編) 1997年 {{ISBN2|4-336-03948-8}} *『暁斎妖怪百景』 ([[河鍋暁斎]] 画/多田克己 編) 1998年 {{ISBN2|4-336-04083-4}} *『国芳妖怪百景』 ([[歌川国芳]] 画/[[悳俊彦]] 編・解説) 1999年 {{ISBN2|4-336-04139-3}} *『妖怪図巻』 (多田克己 編・解説) 2000年 {{ISBN2|4-336-04187-3}} *『北斎妖怪百景』 ([[葛飾北斎]] 画/多田克己・久保田一洋 編) 2004年 {{ISBN2|4-336-04636-0}} ===その他=== ;絵本 *怪談えほん3『いるの いないの』 ([[町田尚子]] 絵/[[東雅夫]] 編)岩崎書店 2012年 {{ISBN2|978-4-2650-7953-7}} *京極夏彦の妖怪えほん **『うぶめ』 ([[井上洋介]] 絵/東雅夫 編)岩崎書店 2013年 {{ISBN2|978-4-2650-7971-1}} **『つくもがみ』 ([[城芽ハヤト]] 絵/東雅夫 編)岩崎書店 2013年 {{ISBN2|978-4-2650-7972-8}} **『あずきとぎ』 (町田尚子 絵/東雅夫 編)岩崎書店 2015年 {{ISBN2|978-4-2650-7973-5}} **『とうふこぞう』 ([[石黒亜矢子]] 絵/東雅夫 編)岩崎書店 2015年 {{ISBN2|978-4-2650-7974-2}} **『ことりぞ』 ([[山科理絵]] 絵/東雅夫 編)岩崎書店 2015年 {{ISBN2|978-4-2650-7975-9}} *京極夏彦のえほん遠野物語 **『やまびと』 ([[柳田國男]] 原作/[[中川学]] 絵)汐文社 2016年 {{ISBN2|978-4-8113-2252-0}} **『まよいが』 (柳田國男 原作/[[近藤薫美子]] 絵)汐文社 2016年 {{ISBN2|978-4-8113-2253-7}} **『かっぱ』 (柳田國男 原作/[[北原明日香]] 絵)汐文社 2016年 {{ISBN2|978-4-8113-2254-4}} **『ざしきわらし』 (柳田國男 原作/町田尚子 絵)汐文社 2016年 {{ISBN2|978-4-8113-2255-1}} *京極夏彦のえほん遠野物語 第二期 **『おいぬさま』 (柳田國男 原作/[[中野真典]] 絵)汐文社 2018年 {{ISBN2|978-4-8113-2480-7}} **『おしらさま』 (柳田國男 原作/[[伊野孝行]] 絵)汐文社 2018年 {{ISBN2|978-4-8113-2479-1}} **『ごんげさま』 (柳田國男 原作/[[軽部武宏]] 絵)汐文社 2018年 {{ISBN2|978-4-8113-2481-4}} **『でんでらの』 (柳田國男 原作/[[はたこうしろう]]絵)汐文社 2018年 {{ISBN2|978-4-8113-2482-1}} *京極夏彦のえほん遠野物語 第三期 **『おまく』 (柳田國男 原作/羽尻利門 絵)汐文社 2021年 {{ISBN2|978-4-8113-2845-4}} **『きつね』 (柳田國男 原作/樋口佳絵 絵)汐文社 2021年 {{ISBN2|978-4-8113-2846-1}} **『しびと』 (柳田國男 原作/阿部海太 絵)汐文社 2021年 {{ISBN2|978-4-8113-2847-8}} **『ばけもの』 (柳田國男 原作/[[飯野和好]] 絵)汐文社 2021年 {{ISBN2|978-4-8113-2848-5}} ;台本集 *『京極噺六儀集(きょうごくばなしだいほんしゅう)』 [[ぴあ]] 2005年 {{ISBN2|4-8356-1560-3}} **「豆腐小僧」 **「狐狗狸噺」 **「新・死に神」 **「死に神remix」([[三遊亭圓朝]]没後百周年記念) 2002年 **「茂山千五郎家と上演台本」 **「豆腐小僧」 **「狐狗狸噺」 **「茂山千之丞」 **「茂山千五郎」 **「京極噺について」 **「新・死に神」 **「巷説百物語」 ;妖怪研究 *『百鬼解読 妖怪の正体とは?』 ([[多田克己]] 著/京極夏彦 画) 講談社ノベルス 1999年 {{ISBN2|4-06-182101-6}} *『日本妖怪学大全』 ([[小松和彦]] 編) 小学館 2003年 {{ISBN2|4-09-626208-0}} *『怪異学の技法』 (東アジア恠異学会 編) 臨川書店 2003年 {{ISBN2|4-653-03846-5}} *『妖怪の理 妖怪の檻』 角川書店 2007年 {{ISBN2|4-04-883984-5}} ** 『文庫版 妖怪の理 妖怪の檻』 角川文庫 2011年 {{ISBN2|978-4-04-362010-4}} *『妖怪の宴 妖怪の匣』 角川書店 2015年 {{ISBN2|4-04-103638-0}} **『文庫版 妖怪の宴 妖怪の匣』 角川文庫 2020年 {{ISBN2|978-4-04-109684-0}} *『京極夏彦講演集「おばけ」と「ことば」のあやしいはなし』 文藝春秋 2021年 {{ISBN2|978-4-16-391342-1}} ;戯曲・脚本 *『ゲゲゲの鬼太郎解体新書』 (水木しげる 共著) 講談社 1998年 {{ISBN2|4-06-330048-X}} **「ゲゲゲの鬼太郎 言霊使いの罠!」 *『京極夏彦「怪」 『巷説百物語』のすべて』 角川書店 2000年 {{ISBN2|4-04-883618-8}} **「七人みさき」 *『妖怪文藝 <巻之壱> モノノケ大合戦』 小学館文庫 2005年 {{ISBN2|4-09-402837-4}} **「狂言 豆腐小僧」 *「霊の故郷(みたまのくに)」 (「怪」フォーラム in とっとり 2016 限定販売) ;文学 *『[[綾辻行人]] ミステリ作家徹底解剖』 ([[ザ・スニーカー|スニーカー]]・ミステリ倶楽部 編) 角川書店 2002年 {{ISBN2|4-04-883774-5}} *『怪談の学校』 ([[怪談之怪]] 編) [[メディアファクトリー]] 2006年 {{ISBN2|4-8401-1497-8}} ;演劇 *『狂言の自由 [[茂山逸平]]写真集』 (橘蓮二 撮影) 講談社文庫 2002年 {{ISBN2|4-06-273573-3}} ;作品集 *『稲生モノノケ大全 陰之巻』 ([[東雅夫]] 編) 毎日新聞社 2003年 {{ISBN2|4-620-31649-0}} **新版『[[稲生物怪録]]』[[角川ソフィア文庫]] 2019年 {{ISBN2|4-04-400497-8}} ;漫画 *『のんポリズム』 ([[浜口乃理子]] 著) 講談社 2003年 {{ISBN2|4-06-352053-6}} *『[[猫田一金五郎の冒険]]』 ([[とり・みき]] 著) 講談社 2003年 {{ISBN2|4-06-364515-0}} *『[[永井豪]]SAGA 作品評論集』 (ダイナミックプロ 監) [[扶桑社]] 2003年 {{ISBN2|4-594-04190-6}} *『妖怪幻燈』 ([[森野達弥]] 監) エムディエヌコーポレーション 2004年 {{ISBN2|4-8443-5744-1}} ;格言 *『いのちの響 こころの言葉』 (いのちの響プロジェクト 編) 徳間書店 2005年 {{ISBN2|4-19-861999-9}} ;心霊研究 *『新耳袋 第七夜』 ([[木原浩勝]]・[[中山市朗]] 共著) 角川文庫 2005年 {{ISBN2|4-04-365307-7}} ;音楽 *『荒野の七人みさき』 ([[妖怪プロジェクト]]×全日本妖怪推進委員会) avex trax 2008年 ;題字 *『化け通』([[週刊ファミ通]]『[[妖怪ウォッチ]]』関連コラム)[[KADOKAWA]] - 命名・題字 *『[[必殺仕置長屋]] 一筆啓上編』(原作:[[山田誠二]]、作画:[[木村知夫]]) [[ガイドワークス]] 2019年 ===水木しげる関連=== *[[怪 (ムック)|季刊妖怪マガジン『怪』]] 角川書店 *『ゲゲゲの鬼太郎解体新書』 (水木しげる 共著) 講談社 1998年 {{ISBN2|4-06-330048-X}} *水木しげる作品選集シリーズ (水木しげる 著/京極夏彦 編) ちくま文庫 **『京極夏彦が選ぶ!水木しげる未収録短編集』 1999年 {{ISBN2|4-480-03538-9}} **『京極夏彦が選ぶ!水木しげるの奇妙な劇画集』 2001年 {{ISBN2|4-480-03654-7}} *『ボクの一生はゲゲゲの楽園だ 1』 (水木しげる 著) 講談社 2001年 {{ISBN2|4-06-330125-7}} *Kodansha Bilingual Comicsシリーズ (水木しげる 著/京極夏彦 監/ラルフ・マッカーシー 訳) Kodansha International **『ゲゲゲの鬼太郎 1 バイリンガル版』 2002年 {{ISBN2|4-7700-2827-X}} **『ゲゲゲの鬼太郎 2 バイリンガル版』 2002年 {{ISBN2|4-7700-2828-8}} **『ゲゲゲの鬼太郎 3 バイリンガル版』 2002年 {{ISBN2|4-7700-2829-6}} *『水木しげる80の秘密』 (水木しげる、[[荒俣宏|荒俣 宏]]、[[多田克己]]、[[村上健司]]他 共著) 角川書店 2002年 {{ISBN2|4-04-883763-X}} *『ちりめん本 水木しげる作品集』 大屋書房 2002年 *『水木しげるポストカード・ブックシリーズ』 (水木しげる 著/京極夏彦 編) 小学館クリエイティブ **『水木しげるポストカード・ブック「妖怪名画館」』 2004年 {{ISBN2|4-7780-3005-2}} **『水木しげるポストカード・ブック「鬼太郎名画館」』 2004年 {{ISBN2|4-7780-3006-0}} *『マンガ名作講義 情報センター出版局』 2005年 {{ISBN2|4-7958-2963-2}} *『本日の水木サン 思わず心がゆるむ名言366日』 (水木しげる 著/[[大泉実成]] 編) 草思社 2005年 {{ISBN2|4-7942-1463-4}} *『[[水木しげる漫画大全集]]』 講談社(責任監修) ===京極夏彦トリビュート=== *『妖怪変化 京極堂トリビュート』 ([[あさのあつこ]]・[[西尾維新]]・[[原田眞人]]・[[牧野修]]・[[柳家喬太郎]]・[[フジワラヨウコウ]]・[[松苗あけみ]]・[[諸星大二郎]]・[[石黒亜矢子]]・[[小畑健]] 著) 講談社 2007年 {{ISBN2|4-0621-4475-1}} **作家、映画監督、落語家、漫画家など各界の執筆陣が京極作品に挑戦した意欲作。京極夏彦自身は執筆していない。 ==装幀作品== ===京極夏彦名義=== *『フリークス』 ([[綾辻行人]] 著) [[カッパ・ノベルス]] 1996年 {{ISBN2|4-334-07186-4}} *『哲学者の密室 上』 ([[笠井潔]] 著) カッパ・ノベルス 1996年 {{ISBN2|4-334-07197-X}} *『哲学者の密室 下』 (笠井潔 著) カッパ・ノベルス 1996年 {{ISBN2|4-334-07198-8}} ===「京極夏彦 with FISCO」名義=== *角川書店[[怪 (ムック)|季刊妖怪マガジン『怪』]] *[[光文社]]旬刊文芸雑誌『GIALLO(ジャーロ)』 *[[山口雅也 (小説家)|山口雅也]]著 **『キッド・ピストルズの慢心』 講談社 1995年 {{ISBN2|4-06-207867-8}} ***『キッド・ピストルズの慢心』 講談社ノベルス 1999年 {{ISBN2|4-06-182093-1}} ***『キッド・ピストルズの慢心』 講談社文庫 2000年 {{ISBN2|4-06-273005-7}} **『キッド・ピストルズの冒涜』 [[創元推理文庫]] 1997年 {{ISBN2|4-488-41602-0}} **『マザーグースは殺人鵞鳥(マーダー・グース)』 原書房 1999年 {{ISBN2|4-562-03206-5}} **『キッド・ピストルズの妄想』 [[創元推理文庫]] 2000年 {{ISBN2|4-488-41603-9}} **『13人目の探偵士』 講談社ノベルス 2002年 {{ISBN2|4-06-182262-4}} **『奇偶』 講談社 2002年 {{ISBN2|4-06-182448-1}} *[[綾辻行人]]著 **『眼球綺譚』 集英社 1995年 {{ISBN2|4-08-774166-4}} ***『眼球綺譚』 [[祥伝社|ノン・ノベル]] 1998年 {{ISBN2|4-396-20614-3}} ***『眼球綺譚』 集英社文庫 1999年 {{ISBN2|4-08-747097-0}} **『フリークス』 [[光文社文庫]] 2000年 {{ISBN2|4-334-72970-3}} **『セッション 綾辻行人対談集』 集英社 1996年 {{ISBN2|4-08-747123-3}} ***『セッション 綾辻行人対談集』 集英社文庫 1999年 {{ISBN2|4-08-747123-3}} *[[鮎川哲也]]著、出版芸術社刊 **『名探偵・星影龍三全集―I 赤い密室』 1996年 {{ISBN2|4-88293-124-9}} **『名探偵・星影龍三全集―II 青い密室』 1996年 {{ISBN2|4-88293-125-7}} **『[[鬼貫警部]]全事件―I 碑文谷事件』 1999年 {{ISBN2|4-88293-169-9}} **『鬼貫警部全事件―II 不完全犯罪』 1999年 {{ISBN2|4-88293-170-2}} **『鬼貫警部全事件―III 夜の訪問者』 1999年 {{ISBN2|4-88293-171-0}} **『三番館の全事件―I 竜王氏の不吉な旅』 2003年 {{ISBN2|4-88293-230-X}} **『三番館の全事件―II マーキュリーの靴』 2003年 {{ISBN2|4-88293-231-8}} **『三番館の全事件―III クライン氏の肖像』 2003年 {{ISBN2|4-88293-232-6}} *[[恩田陸]]著、講談社刊 **『[[三月は深き紅の淵を]]』 1997年 {{ISBN2|4-06-208749-9}} **『[[麦の海に沈む果実]]』 2000年 {{ISBN2|4-06-210169-6}} **『黒と茶の幻想 BLACK AND TAN FANTASY』 2001年 {{ISBN2|4-06-211097-0}} *[[竹本健治]]著 **『[[ウロボロス]]の基礎論』 講談社 1995年 {{ISBN2|4-06-207869-4}} ***『ウロボロスの基礎論』 講談社ノベルス 1997年 {{ISBN2|4-06-181980-1}} **『入神』 南雲堂 1999年 {{ISBN2|4-523-51402-X}} *[[水木しげる]]著 **作画活動50周年記念出版原画集 [[妖鬼化|妖鬼化(むじゃら)シリーズ]] ソフトガレージ ***『第1巻 日本編(北海道・東北・関東)』 1998年 {{ISBN2|4-921068-07-0}} ***『第2巻 日本編(中部)』 1998年 {{ISBN2|4-921068-08-9}} ***『第3巻 日本編(近畿・中国)』 1999年 {{ISBN2|4-921068-09-7}} ***『第4巻 日本編(四国・九州・沖縄)』 1999年 {{ISBN2|4-921068-10-0}} ***『第5巻 世界編(アジア・オセアニア・アフリカ・アメリカ)』 1999年 {{ISBN2|4-921068-11-9}} ***『第6巻 世界編(ヨーロッパ)』 1999年 {{ISBN2|4-921068-12-7}} ***『第7巻 世界編(東ヨーロッパ・北ヨーロッパ・中国)/悪魔編』 1999年 {{ISBN2|4-921068-13-5}} ***『第8巻 あの世編/特別編』 1999年 {{ISBN2|4-921068-14-3}} **妖かしの宴シリーズ (水木しげる 監) [[PHP研究所|PHP文庫]]版 ***『妖かしの宴 わらべ唄の呪い』 1999年 {{ISBN2|4-569-57350-9}} ***『妖かしの宴 2 変化』 2000年 {{ISBN2|4-569-57461-0}} ***『妖かしの宴 3 御伽草子』 2001年 {{ISBN2|4-569-57647-8}} **『水木しげるの妖怪談義 ソフトガレージ』 2000年 {{ISBN2|4-921068-56-9}} **Kodansha Bilingual Comicsシリーズ (京極夏彦 監/ラルフ・マッカーシー 訳) Kodansha International ***『ゲゲゲの鬼太郎 1 バイリンガル版』 2002年 {{ISBN2|4-7700-2827-X}} ***『ゲゲゲの鬼太郎 2 バイリンガル版』 2002年 {{ISBN2|4-7700-2828-8}} ***『ゲゲゲの鬼太郎 3 バイリンガル版』 2002年 {{ISBN2|4-7700-2829-6}} *必殺党編、[[ザテレビジョン]]文庫版 **『[[必殺シリーズ]]完全闇知識 やがて愛の日が編』 2001年 {{ISBN2|4-04-930030-3}} **『必殺シリーズ完全闇知識 瞬間(ひととき)の愛編』 2001年 {{ISBN2|4-04-930031-1}} *[[化野燐]]著、講談社ノベルス版 **『蠱猫(こねこ)』 2005年 {{ISBN2|4-06-182421-X}} **『白澤(はくたく)』 2005年 {{ISBN2|4-06-182428-7}} **『渾沌王(こんとんおう)』 2005年 {{ISBN2|4-06-182439-2}} **『件獣(くだんじゅう)』 2006年 {{ISBN2|4-06-182474-0}} *[[大塚英志]]著 **『人身御供論―通過儀礼としての殺人』 2002年 角川文庫 {{ISBN2|978-4-04-419111-5}} **『[[くもはち]](小説版)』 2005年 角川文庫 {{ISBN2|978-4-04-419120-7}} **『[[くもはち]](漫画版)』 2005年 カドカワコミックスエース {{ISBN2|978-4-04-713781-3}} *その他 **『[[長い長い殺人]]』 ([[宮部みゆき]] 著) [[光文社|カッパ・ノベルス]] 1997年 {{ISBN2|4-334-07236-4}} **『崩れる 結婚にまつわる八つの風景』 ([[貫井徳郎]] 著) 集英社 1997年 {{ISBN2|4-08-774279-2}} ***『崩れる 結婚にまつわる八つの風景』 (貫井徳郎 著) 集英社文庫 2000年 {{ISBN2|4-08-747217-5}} **『小説・読書生活』 ([[関戸克己]] 著) [[国書刊行会]] 2003年 {{ISBN2|4-336-04563-1}} ===「京極夏彦+坂野公一」名義=== *『暗黒館の殺人 上』 ([[綾辻行人]] 著) 講談社ノベルス 2004年 {{ISBN2|4-06-182388-4}} *『暗黒館の殺人 下』 (綾辻行人 著) 講談社ノベルス 2004年 {{ISBN2|4-06-182389-2}} ==作品提供== ===テレビドラマ=== *『幻想ミッドナイト』 第10話 「目目連(もくもくれん)」 1997年 ([[テレビ朝日]]系列放送・製作、[[東映]]製作、井坂 聡監督) *[[WOWOW]]放送、[[C.A.L]]製作、[[松竹]]発売・販売、酒井信行監督 **『[[巷説百物語シリーズ|京極夏彦「怪」]]七人みさき(しちにんみさき)』 2000年 **『京極夏彦「怪」隠神だぬき(いぬがみだぬき)』 2000年 **『京極夏彦「怪」赤面ゑびす(あかづらえびす)』 2000年 **『京極夏彦「怪」福神ながし(ふくじんながし)』2000年 *『[[世にも奇妙な物語]] 春の特別編』 「厭な子供」 2001年 ([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列放送、[[共同テレビジョン|共同テレビ]]製作、[[佐藤祐市]]監督) *[[WOWOW]]放送・製作、[[松竹]]発売・販売、[[堤幸彦]]監督 **『[[巷説百物語シリーズ|巷説百物語]] 狐者異(こわい)』 2005年 **『巻説百物語 飛縁魔(ひのえんま)』 2006年 *『世にも奇妙な物語 20周年スペシャル・秋 〜人気作家競演編〜』「厭な扉」 (2010年10月4日(月) 21時から23時18分放送 主演:江口洋介、脚本:正岡謙一郎、演出:佐藤祐市 原作:「厭な小説」祥伝社所載) ===映画=== *『京極夏彦「怪」七人みさき(しちにんみさき)』 2000年 ([[松竹]]公開・発売・販売、[[C.A.L]]製作、酒井信行監督) *『[[嗤う伊右衛門]] Eternal Love 2004年』 ([[東宝]]公開、[[角川映画]]発売、角川エンタテインメント販売、[[蜷川幸雄]]監督) *『[[姑獲鳥の夏#映画|姑獲鳥の夏]] 2005年』([[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド映画]]公開、[[ジェネオン エンタテインメント]]発売・販売、[[実相寺昭雄]]監督) *『[[魍魎の匣#映画|魍魎の匣]]』 2007年 ([[原田眞人]]監督) ===舞台=== *劇団てぃんか〜べる **『魍魎の匣』 1999年 **『小袖の手・鬼一口』 2002年 *[[劇団あぁルナティックシアター]] **『南極(人)』 2009年 2010年 ===テレビアニメ=== *『[[京極夏彦 巷説百物語]]』 2003年 ([[CBCテレビ|中部日本放送]]・[[キッズステーション]]放送、[[東宝]]発売・販売、殿勝秀樹監督) *『魍魎の匣』 2008年<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/program/102071/|title=魍魎の匣:作品情報|publisher=アニメハック|accessdate=2020-06-28}}</ref> ===劇場アニメ=== *『[[ルー=ガルー 忌避すべき狼#劇場アニメ|ルー=ガルー]]』2010年 ([[藤咲淳一]]監督) *『[[豆富小僧]]』2011年 ([[杉井ギサブロー]]監督) ===ラジオドラマ=== *『[[京極夏彦ラジオドラマ 『百器徒然袋』]]』 2006年〜2007年 ([[朝日放送ラジオ|ABCラジオ]]をキーステーションとして放送) ===漫画=== [[角川書店]]刊 *『漫画・巷説百物語』 2001年 {{ISBN2|4-04-853306-1}} ([[森野達弥]] 画) *『漫画・嗤う伊右衛門』 2006年 {{ISBN2|4-04-853921-3}} ([[しかくの]] 画) *『魍魎の匣』 2007年夏〜2010年春まで『コミック怪』で連載 ([[志水アキ]] 画) *『百器徒然袋』 2009年秋より『コミック怪』で連載開始 (志水アキ 画) *『狂骨の夢』 2010年夏〜2012年秋『コミック怪』で連載 (志水アキ 画) *『姑獲鳥の夏』 2014年 『コミック怪』で連載 (志水アキ 画) [[徳間書店]]刊 *『[[ルー=ガルー 忌避すべき狼|ルー=ガルー]]』 ([[樋口彰彦]] 画、[[月刊COMICリュウ]]掲載) [[リイド社刊]] *『巷説百物語』『続巷説百物語』全4巻、2011年1月現在『[[コミック乱]]』にて『後巷説百物語』不定期連載中([[日高建男]]作画) ===演芸=== *『京極噺』 2005年 **[[講談]] 『巷説百物語』 [[神田山陽 (3代目)|神田山陽]] **[[狂言]] 『新・死神』 茂山千五郎家 **[[落語]] 『死神』 [[春風亭小朝]] *『小朝・茂山・昇太の京極噺』 **[[落語]] 『京極夏彦改作落語』 [[春風亭小朝]] **[[狂言]] 『京極夏彦新作狂言「新・死に神」』 茂山千五郎家 **[[落語]] 『新釈「妖怪噺」』 [[春風亭昇太]] ==出演作品== ===テレビドラマ=== *[[巷説百物語シリーズ|京極夏彦「怪」]](2000年) - 京極亭 役 *[[巷説百物語シリーズ|巷説百物語]] 狐者異(2005年) - 八卦見 役 ===映画=== *京極夏彦「怪」七人みさき(2000年) - 京極亭 役 *[[アナザヘヴン]](2000年) - コメンテーター 役※[[綾辻行人]]と友情出演 *[[姑獲鳥の夏]](2005年) - [[水木しげる]](傷痍軍人) 役 *[[妖怪大戦争 (2005年の映画)|妖怪大戦争]](2005年) - [[神野悪五郎|神ン野悪五郎]] 役 *[[ゲゲゲの鬼太郎 (実写映画)#第2作目『ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌』|ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌]](2008年) - 鬼道衆頭目 役 ===オリジナルDVD=== *妖奇怪談全集(2002年)- ナレーション※音響効果・編集も担当 *新怪談残虐非道 女刑事と裸体解剖鬼(2003年)- ナレーション※効果・音響も担当 *新怪談裸女大虐殺 化け猫魔界少女拳(2005年)- 語り※音効・編集も担当 *山田誠二の新・怪談(2008年)- 語り※音効・編集も担当 *新怪談必殺地獄少女拳 吸血ゾンビと妖怪くノ一大戦争(2009年) - ナレーター※音効・編集も担当 ===テレビアニメ=== *[[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第4シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎(第4作)]]第101話「言霊使いの罠!」(1997年) - [[ゲゲゲの鬼太郎の登場キャラクター#一刻堂|一刻堂]] 役※脚本も担当 *[[京極夏彦 巷説百物語]](2003年) - 京極亭 役 *[[墓場鬼太郎 (テレビアニメ)|墓場鬼太郎]]第10話「ブリガドーン」(2008年) - トムポ 役 *[[魍魎の匣]]第12話「脳髄の事」(2008年) - 黒衣の男(殺し屋)役 ===劇場アニメ=== *[[金田一少年の事件簿 (アニメ)|金田一少年の事件簿2 殺戮のディープブルー]](1999年) - 藍沢浩一 役 *[[ブレイブ・ストーリー#映画|ブレイブ ストーリー]](2006年) - トローン 役 *[[劇場版 ゲゲゲの鬼太郎 日本爆裂!!]](2008年) - 天狗ポリス 役 ===ゲーム=== *UNDERCOVER AD2025 Kei(1999年) ===ラジオ=== *[[京極夏彦ラジオドラマ 『百器徒然袋』]] - 榎木津幹麿 役 *[[「怪」ラヂヲ〜妖怪の周辺〜]]([[TBSラジオ]]) *バッカみたい、聴いてランナイ!([[エフエム東京]]) *[[東京ガベージコレクション]](エフエム東京) *東京イヤーワックスショウ(2018年7月2日、エフエム東京) ===テレビ番組=== *[[土曜ソリトン SIDE-B]](1996年1月20日、[[NHK教育テレビ]]) *さくや妖怪伝スペシャル〜京都不思議寺巡り〜(2000年8月12日、[[日本テレビ系列]]) *[[知ってるつもり?!]](2000年8月20日、日本テレビ系列) *[[ニュースステーション]](2000年9月8日、[[テレビ朝日系列]]) *[[いのちの響]](2001年10月21日、[[TBS系列]]) *[[トップランナー]](2002年2月7日、[[NHK総合テレビ]]) *[[アナザーヒーロー]](2003年10月19日、[[フジテレビ系列]]) *[[世界一受けたい授業]](2005年1月22日、日本テレビ系列) *[[スタジオパークからこんにちは]](2005年7月13日、NHK総合テレビ) *[[爆笑問題のススメ]](2005年7月29日、日本テレビ系列) *[[生活ほっとモーニング]](2005年8月5日、NHK総合テレビ) *妖怪水木しげるのゲゲゲ幸福論(2006年3月18日、[[BSジャパン]]) *[[週刊ブックレビュー]](2007年6月3日、[[NHK衛星第2テレビ]]) *[[ザ・ベストハウス123]](2008年7月16日、フジテレビ系列) *知って得する新生活 驚き!!ネット活用法 (2010年5月30日、TBS系列) *講談社リブラリアンの書架(2011年10月17日、[[ミステリチャンネル|AXNミステリー]]) *[[オデッサの階段]](2013年2月21日、フジテレビ系列) *[[王様のブランチ]](2013年4月27日、TBS系列) *[[開運!なんでも鑑定団]](2015年2月24日、[[TXNネットワーク|テレビ東京系列]]) *[[櫻井有吉アブナイ夜会]](2016年3月3日、TBS系列) *〜新番組を現場検証〜 おじゃましま〜す(2016年7月6日、テレビ東京系列) *[[クローズアップ現代+]](2017年1月5日、NHK総合テレビ) *[[SWITCHインタビュー 達人達]]「佐野史郎×京極夏彦」(2020年11月21日、[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]) ==関連項目== *[[メフィスト賞]] *[[本格ミステリ大賞]] *[[必殺シリーズ]] **『[[翔べ! 必殺うらごろし]]』※[[中村敦夫]]の演じた「先生」は、[[百鬼夜行シリーズ|榎木津礼二郎]]のモデル *[[貫井徳郎]] *[[関戸克己]] ===大沢オフィス関連=== *[[大極宮]] *[[大沢在昌]] *[[宮部みゆき]] ===妖怪関連=== *[[水木しげる]] *[[荒俣宏]] *[[多田克己]] *[[村上健司]] *[[小松和彦]] *[[化野燐]](あだしの りん) *[[荒井良]] *[[東雲騎人]](しののめ きじん) *[[鳥山石燕]] ===怪談関連=== *[[東雅夫]] *[[木原浩勝]] *[[中山市朗]] ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==外部リンク== *[http://www.osawa-office.co.jp/ 大極宮(たいきょくぐう)] *{{YouTube|handle=30thAnniversary-nd9xp|京極夏彦30thAnniversary}} *[https://www.1101.com/suimin/kyogoku/index.html 京極夏彦はいつ眠るのか。- ほぼ日刊イトイ新聞] {{百鬼夜行シリーズ}} {{直木賞|第130回}} {{泉鏡花文学賞|第25回}} {{山本周五郎賞|第16回}} {{吉川英治文学賞|第56回}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:きようこく なつひこ}} [[Category:京極夏彦|*]] [[Category:本名非公開の人物]] [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:21世紀日本の小説家]] [[Category:日本のホラー作家]] [[Category:日本の推理作家]] [[Category:日本のSF作家]] 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新村出
新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日 - 1967年(昭和42年)8月17日)は、日本の言語学者・文献学者。京都大学教授・名誉教授で、ソシュールの言語学の受容やキリシタン語の資料研究などを行った日本人の草分けである。 旧幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男として現在の山口市道場門前に生まれる。「出」という名は、父親が山口県と山形県の県令だったことから「山」という字を重ねて命名された。 1889年(明治22年)4月に父・隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、徳川別家の家扶で、慶喜の側室新村信の養父にあたり元小姓頭取の新村猛雄の養子となる。慶喜の多彩な趣味のひとつに写真撮影があったが、彼の遺した写真の中には若き日の出の姿を写したものもある。出は別家で子弟の家庭教師も務めていた。 静岡県尋常中学校(現・静岡県立静岡高等学校)、第一高等学校を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学文科大学博言学科卒業。在学中は上田萬年の指導を受けた。この頃からの友人として亀田次郎がおり、のちに『音韻分布図』を共同して出版した。国語研究室助手を経て、1902年(明治35年)に東京高等師範学校教授となり、1904年(明治37年)には東京帝国大学助教授を兼任した。 1906年(明治38年)から1909年(同41年)までイギリス・ドイツ・フランスに留学し、言語学研究に従事する。その間、1907年(明治39年)に京都帝国大学助教授、帰朝後に同教授となった。言語学講座を担当し、1910年(明治43年)には文学博士、1928年(昭和3年)には帝国学士院会員となる。1936年(昭和10年)に定年退官した。 1933年、宮中の講書始の控えメンバーに選ばれた後、1935年には正メンバーに選ばれた。同年1月28日、昭和天皇に国書の進講を行った。1953年正月には宮中歌会始召人となった。 終生京都に在住して辞書編纂に専念し、1955年(昭和30年)に初版が発刊された『広辞苑』の編纂・著者として知られる。息子の新村猛がこの共同作業に当たった。出は新仮名遣いに反対し、当初予定の『廣辭苑』が『広辞苑』に変更になったときは一晩泣き明かしたという。そのため『広辞苑』の前文は、新仮名遣いでも旧仮名遣いでも同じになるように書き、せめてもの抵抗をした。また、出は形容動詞を認めなかったため『広辞苑』には形容動詞の概念がない。 出はエスペランティストでもあった。1908年にドレスデンで行われた第4回世界エスペラント大会に日本政府代表として日本エスペラント協会代表の黒板勝美とともに参加している。 1956年(昭和31年)文化勲章受章。1967年(昭和42年)の死去時に賜・銀杯一組。 没後、その業績は『全集』(筑摩書房)にまとめられた。南蛮交易研究や吉利支丹文学(キリシタン版関連)は平凡社東洋文庫などで再刊されている。 出の業績を記念して1982年(昭和57年)から毎年、優れた日本語学や言語学の研究者や団体に対し「新村出賞」が授与されている。 谷崎潤一郎を通じ、女優の高峰秀子と交流を持つようになる。自宅に招いた際は、玄関や書斎を高峰のポスターやノベルティで飾り、高峰を驚かせたという。 また「高峰のあめりかだより夕刊に出でしまわりに赤い線引く」と詠み、これは「全集15巻」に収録されている。 同世代の歌人佐佐木信綱とは終生の友人で『佐新書簡 新村出宛佐佐木信綱書簡』(竹柏会心の花、2019年)がある。
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新村 出は、日本の言語学者・文献学者。京都大学教授・名誉教授で、ソシュールの言語学の受容やキリシタン語の資料研究などを行った日本人の草分けである。
{{Infobox 学者 | name = 新村 出 | image = Izuru Sinmura.jpg | image_size = | caption = | birth_date = {{birth date|1876|10|4}} | birth_place = {{JPN}} [[山口県|山口市]] | death_date = {{death date and age|1967|8|17|1876|10|4}} | death_place = | othername = |main_interests = [[言語学]]、[[文献学]] |alma_mater = [[東京大学|東京帝国大学]]文科大学博言学科 |workplaces = [[東京大学|東京帝国大学]] |degree = <!--学位--> | URL = | yearsactive = | spouse = | children = }} '''新村 出'''(しんむら いずる、[[1876年]]([[明治]]9年)[[10月4日]] - [[1967年]]([[昭和]]42年)[[8月17日]])は、[[日本]]の[[言語学者]]・[[文献学者]]。[[京都大学]][[教授]]・[[名誉教授]]で、[[フェルディナン・ド・ソシュール|ソシュール]]の[[言語学]]の受容や[[キリシタン|キリシタン語]]の資料研究などを行った日本人の草分けである。 == 人物・来歴 == 旧[[幕臣]]で当時[[山口県|山口]][[県令]]を務めていた[[関口隆吉]]の次男として現在の[[山口市]]道場門前<ref>[http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a19300/literary/shinmura.html 「やまぐちの文学者たち」80人/新村出] 山口県 2018年8月31日閲覧。</ref>に生まれる。「出」という名は、父親が山口県と[[山形県]]の[[県令]]だったことから「山」という字を重ねて命名された。 1889年(明治22年)4月に父・隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、[[徳川慶喜家|徳川別家]]の家扶で、慶喜の側室[[新村信]]の養父にあたり元小姓頭取の新村猛雄の養子となる<ref name=":0">{{Cite book|title=将軍・殿様が撮った幕末明治|date=1996年4月21日|year=|publisher=新人物往来社|page=|pages=126-127}}</ref>。慶喜の多彩な趣味のひとつに写真撮影があったが、彼の遺した写真の中には若き日の出の姿を写したものもある。出は別家で子弟の家庭教師も務めていた<ref name=":0" />。 [[File:Shinmura Izuru 1891.JPG|thumb|left|130px|15歳]] [[File:Department of Linguistics Tokyo Imperial University in 1905.jpg|thumb|東京帝国大学言語学科(1905年)。<br/>前列右から[[小倉進平]]、[[伊波普猷]]、神田城太郎。中列右から[[保科孝一]]、[[八杉貞利]]、[[上田万年]]、[[藤岡勝二]]、[[新村出]]。後列右から[[橋本進吉]]、徳沢(徳沢健三?)、[[後藤朝太郎]]、[[金田一京助]]。<br/>伊波普猷生誕百年記念会編『伊波普猷 : 1876-1947 生誕百年記念アルバム』1976年、19頁。]] 静岡県尋常中学校(現・[[静岡県立静岡高等学校]])、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て、1899年(明治32年)[[東京大学|東京帝国大学]]文科大学博言学科卒業<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2948098/4 『官報』第4808号、明治32年7月12日、p.194]</ref>。在学中は[[上田萬年]]の指導を受けた。この頃からの友人として[[亀田次郎]]がおり、のちに『音韻分布図』を共同して出版した。国語研究室[[助手 (教育)|助手]]を経て、1902年(明治35年)に[[東京教育大学|東京高等師範学校]]教授<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992343/66 『東京高等師範学校沿革略志』東京高等師範学校、1911年、p.72]</ref>となり、1904年(明治37年)には東京帝国大学[[准教授|助教授]]を兼任した。 1906年(明治38年)から1909年(同41年)まで[[イギリス]]・[[ドイツ帝国|ドイツ]]・[[フランス]]に留学し、言語学研究に従事する。その間、1907年(明治39年)に京都帝国大学助教授、帰朝後に同教授となった。言語学講座を担当し、[[1910年]](明治43年)には[[文学博士]]<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2951458/8 『官報』第8106号、明治43年6月30日、p.695]</ref>、1928年(昭和3年)には[[帝国学士院]]会員となる。1936年(昭和10年)に定年退官した。 1933年、宮中の[[講書始]]の控えメンバーに選ばれた後、1935年には正メンバーに選ばれた。同年1月28日、昭和天皇に国書の進講を行った<ref>「講書始の奉仕者」『東京朝日新聞』昭和10年1月10日3面</ref>。1953年正月には宮中[[歌会始]]召人となった。 終生京都に在住して辞書編纂に専念し、1955年(昭和30年)に初版が発刊された『[[広辞苑]]』の編纂・著者として知られる。息子の[[新村猛]]がこの共同作業に当たった。出は[[新仮名遣い]]に反対し、当初予定の『廣辭苑』が『広辞苑』に変更になったときは一晩泣き明かしたという。そのため『広辞苑』の前文は、新仮名遣いでも[[旧仮名遣い]]でも同じになるように書き、せめてもの抵抗をした。また、出は[[形容動詞]]を認めなかったため『広辞苑』には形容動詞の概念がない。 [[File:Paula Grave UK 1908.jpg|thumb|250px|第4回世界エスペラント大会に参加した新村出(左端)。右端は[[黒板勝美]]。]] 出は[[エスペランティスト]]でもあった。1908年に[[ドレスデン]]で行われた第4回世界エスペラント大会に日本政府代表として[[日本エスペラント協会]]代表の[[黒板勝美]]とともに参加している。 [[File:Shinmura Izuru.jpg|thumb|150px|[[1956年]]]] 1956年(昭和31年)[[文化勲章]]受章。1967年(昭和42年)の死去時に賜・銀杯一組。墓所は[[京都市]][[中京区]]の[[本能寺]]と[[新宿区]][[日宗寺 (新宿区)|日宗寺]]。 没後、その業績は『全集』(筑摩書房)にまとめられた。[[南蛮貿易|南蛮交易]]研究や[[キリシタン|吉利支丹文学]]([[キリシタン版]]関連)は[[平凡社東洋文庫]]などで再刊されている。 出の業績を記念して1982年(昭和57年)から毎年、優れた日本語学や言語学の研究者や団体に対し「[[新村出賞]]」が授与されている。 == エピソード == [[谷崎潤一郎]]を通じ、女優の[[高峰秀子]]と交流を持つようになる。自宅に招いた際は、玄関や書斎を高峰のポスターやノベルティで飾り、高峰を驚かせたという。 また「高峰のあめりかだより夕刊に出でしまわりに赤い線引く」と詠み、これは「全集15巻」に収録されている。 同世代の歌人[[佐佐木信綱]]とは終生の友人で『佐新書簡 新村出宛佐佐木信綱書簡』(竹柏会心の花<ref>[[佐佐木幸綱]](信綱の孫で歌人)監修</ref>、2019年)がある。 == 栄典 == * [[1915年]]([[大正]]4年)[[1月11日]] - [[正五位]]<ref>『官報』第731号「叙任及辞令」1915年1月12日。</ref> * [[1936年]]([[昭和]]11年) **7月 - [[勲一等瑞宝章]] **11月 - [[正三位]] * [[1956年]](昭和31年)11月 **[[文化功労者]] **[[文化勲章]] **京都市名誉市民<ref>{{Cite web|和書|title=京都市名誉市民 新村出氏|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/sogo/page/0000207422.html|website=京都市|accessdate=2022-09-06}}</ref> == 家族 == *父:[[関口隆吉]] *兄弟:[[関口壮吉]]、[https://gakunan763629676.files.wordpress.com/2018/07/e58aa0e897a4e591a8e894b5.pdf 加藤周蔵]、[[関口鯉吉]]、[[関口隆正]]、[[関口操]]、[[関口万寿]] *次男:[[新村猛]] *孫:[[新村祐一郎]](西洋史学者)、[[新村徹]]、[[新村恭]](編集者)<ref>伝記『広辞苑はなぜ生まれたか 新村出の生きた軌跡』(新村恭著、世界思想社、2017年)を著した。</ref><!--なお、徹は[[国立国会図書館]]初代副館長の[[中井正一]]の女婿。--><!--脱線トリビア--><!--[[漫画]]等で広辞苑の[[パロディー]](もしくはそのもの)が使われる際、「古村入」という名前になっていることがある(何も書かれていない場合もある)。例えば、『[[成恵の世界]]』第3巻・第20話にて「硬辞苑」なる辞書が登場、編集者名が「古村入」であった。--> == 著書 == === 単著 === *『南蛮記』 東亜堂書房、1915年 *『南蛮更紗』 [[改造社]]、1924年 *『典籍叢談』 [[岡茂雄|岡書院]]、1925年 *『南蛮廣記』 [[岩波書店]]、1925年 *『続 南蛮廣記』 岩波書店、1925年 *『船舶史考』 更生閣、1927年 *『東方言語史叢考』 岩波書店、1927年 *『薩道先生景仰録 吉利支丹研究史回顧』「ぐろりあ叢書」ぐろりあそさえて、1929年 *『東亜語源志』 岡書院、1930年 *『南国巡礼』 梓書房、1930年 *『琅玕記』 改造社、1930年 *『言語学概説 続国文学講座』 国文学講座刊行会、1933年 *『史伝叢考』 楽浪書院、1934年 *『典籍散語』 書物展望社、1934年 *『遠西叢考』 楽浪書院、1935年 *『花鳥草紙』 [[中央公論新社|中央公論社]]、1935年 *『言語学概論』 日本文学社、1935年 *『随筆 橿』 靖文社、1940年 *『日本の言葉』 [[創元社]]〈創元選書〉、1940年 *『国語問題正義』 [[白水社]]、1941年 *『重山集』 草木社出版部、1941年 *『日本吉利支丹文化史』 [[地人書館]](大観日本文化史薦書)、1941年 *『言葉の歴史』 創元社〈創元選書〉、1942年 *『随筆 ちぎれ雲』 甲鳥書林、1942年 *『日本晴』 靖文社、1942年 *『言語学序説』<ref>ほぼ[[泉井久之助]]の著書(処女作)。新村の「序文」でも「筆録に修訂に校正に、京都帝国大學文學部の泉井久之助助教授および[[松平千秋]]講師から並々ならぬ助力を受けた」とある。</ref> [[星野書店]]、1943年 *『国語学叢録』 一条書房、1943年 *『国語の規準』 敞文館(黎明選書)、1943年 *『'''新村出選集'''』全4巻、甲鳥書林、1943–47年 *『朝霞随筆』 湯川弘文社、1943年 *『南方記』 明治書房、1943年 *『外来語の話』 新日本図書、1944年 *『典籍雑考』 [[筑摩書房]]、1944年 *『童心録』 靖文社、1946年 *『あけぼの』 大八洲出版、1947年 *『吉利支丹研究余録』 国立書院、1948年 *『松笠集』 河原書店、1948年 *『万葉苑枯葉』 生活社、1948年 *『語源をさぐる 第1』 岡書院、1951年 *『五月富士』 [[読売新聞社]](読売新書)、1955年 *『言葉の今昔』 [[河出書房]](河出新書)、1956年 ==== 全集 ==== *『'''新村出全集'''』 [[筑摩書房]](全15巻)、1971–1973年 #言語研究篇I #言語研究篇II #言語研究篇III #言語研究篇IV #南蠻紅毛篇I #南蠻紅毛篇II #南蠻紅毛篇III #書誌典籍篇I #書誌典籍篇II/史伝考証篇I #史伝考証篇II #随筆篇I #随筆篇II #随筆篇III #随筆篇IV #短歌篇・書簡篇 *『新村出全集 別巻』(索引と、書誌・稿本目録・年譜)、新村出記念財団 編・刊、1983年 *『美意延年 新村出追悼文集』([[新村猛]]編)、新村出遺著刊行会、1981年 ====没後出版==== *『歌集 白芙蓉』 初音書房、1968年 *『新村出 国語学概説』 [[金田一京助]] 筆録・[[金田一春彦]] 校訂、教育出版(シリーズ名講義ノート)、1974年 *『語源をさぐる 語源叢談一』 教育出版、1976年/[[旺文社]]文庫(新編)、1981年 **『語源をさぐる』 [[講談社文芸文庫]]、1995年 **『広辞苑先生、語源をさぐる』 [[河出文庫]]、2018年 *『日本語漫談 語源叢談二』 [[教育出版]]、1976年 *『外来語の話 語源叢談三』 教育出版、1976年/講談社文芸文庫、1995年 *『言葉の散歩道 語源叢談四』 教育出版、1976年 *『新編 琅玕記』 旺文社文庫、1981年/[[講談社文芸文庫]]、1994年。新村徹編 *『新村出集 現代の随想24』 [[彌生書房]]、1982年。新村猛編 **『新村出随筆集』[[平凡社ライブラリー]]、2020年 *『南蛮更紗』 [[東洋文庫 (平凡社)|平凡社東洋文庫]]、1995年、ワイド版2009年 *『新編 南蛮更紗』 講談社文芸文庫、1996年。『南蛮広記』も一部収録 *『わが学問生活の七十年ほか』「人間の記録」[[日本図書センター]]、1998年 === 編著 === *『異国情趣集』 更生閣書店、1928年 *『辞苑』 [[博文館]]、1935年 *『言苑』 博文館、1938年 *『万葉図録 文献篇』、『地理篇』 [[佐佐木信綱]] 共編、靖文社、1940年 *『[[聖徳太子]]御年譜』 山口書店、1943年 *『言林』昭和24年版、全国書房、1949年 *『国語博辞典』 甲鳥書林、1952年 *『新辞林』 清文堂書店、1953年 *『新辞泉』 清文堂書店、1954年 *『[[広辞苑]]』 岩波書店、1955年(第1版) *『鑑賞小倉[[百人一首]]』 洛文社、1964年(第2版) === 翻訳・校訂・共著 === *『イエスペルセン氏 言語進歩論』 東京専門学校出版部、1901年 *『佐久間象山先生』 象山会、[[久保田収]] 共著、1964年 *『文禄旧訳 伊曽保物語』 開成館、1911年 *『天草本 伊曽保物語』 [[岩波文庫]]、1939年。復刊1997年ほか *『吉利支丹文学集』(全2巻)、柊源一共編・校註 *:[[朝日新聞社]]([[日本古典全書]])、1957–60年/[[平凡社]]東洋文庫、1993年、ワイド版2008年 *『近代浪漫派文庫18 [[山田孝雄]] 新村出<ref>南蛮記(抄)を収録。</ref>』 [[新学社]]、2006年 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 外部リンク == * {{青空文庫著作者|1938|新村 出}} * {{Wayback|url=http://www.let.osaka-u.ac.jp/~kamiyama/Shinmura.html |title=新村出氏の紹介 |date=20081015014051}} - [[大阪大学]]文学部 * [https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9247.html 新村出 :: 東文研アーカイブデータベース] - [[東京文化財研究所]] * [http://s-chozan.main.jp/ 新村出記念財団 重山文庫] * {{NHK人物録|D0009072291_00000}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しんむら いする}} [[Category:19世紀日本の言語学者]] [[Category:20世紀日本の言語学者]] [[Category:20世紀の辞典編纂者]] [[Category:20世紀日本のノンフィクション作家]] [[Category:20世紀日本のエスペランティスト]] [[Category:日本語学者]] [[Category:日本の辞典編纂者]] [[Category:日本の文献学者]] [[Category:文化勲章受章者]] [[Category:帝国学士院会員]] [[Category:日本学士院会員]] [[Category:文学博士取得者]] [[Category:京都大学の教員]] [[Category:東京教育大学の教員]] [[Category:東京大学の教員]] [[Category:南蛮文化|しんむら]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:旧制第一高等学校出身の人物]] [[Category:静岡県立静岡高等学校出身の人物]] [[Category:在イギリス日本人]] [[Category:在ドイツ日本人]] [[Category:在フランス日本人]] [[Category:新村家|いする]] [[Category:関口氏|いする]] [[Category:山口県出身の人物]] [[Category:1876年生]] [[Category:1967年没]]
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円覚経
『円覚経』(えんがくきょう)、正式名称『大方広円覚修多羅了義経』(だいほうこうえんがくしゅたらりょうぎぎょう)1巻は、唐代中国で撰述された仏典(偽経または疑経)の一つで、「大円覚心」を得るための方法を説く。唐の仏陀多羅訳とされる。訳者の仏陀多羅については『宋高僧傳』『續古今譯經圖紀』『開元釋教録』にそれぞれ小伝があるが、記述内容は何れも類似で漢訳時期等の詳細は不明である。 『円覚経』の内容は、本来、真浄明徹な大円覚心を実証具現するには、上・中・下の三機根に応じて、奢摩他(samatha)・三摩鉢提(samāpatti)・禅那(dhyāna)の三種の浄観を修習すべしと説く。 『円覚経』は7世紀末から8世紀初めにかけての成立であると考えられているが、初期の禅宗の灯史である『伝法宝紀』(でんほうぼうき、713年)に早くも引用されている。中国唐代撰述の偽経ではあるが、圭峰宗密 が25歳で『円覚経』に出会い、29歳で受戒、37歳(816年)以降生涯をかけて多くの疏鈔を撰述した。その後、中国仏教に大きな影響を与えてきた大乗起信論にとって代る重要経典となった。宗密の後、宗派を問わず、多くの注釈書が撰述された。後世、同じく中国撰述経典である『楞厳経』と共に「教禅一致」を説く経典と見なされ、宋・元・明と時代が下がるに従って重視されるようになった。荷沢宗の法系に属する圭峰宗密は、この経を最高のものと位置づけ、生涯をその研究・注疏撰述に献げて、『略疏』4巻・『略疏鈔』12巻・『大疏』12巻・『大疏鈔科』3巻・『大疏釈義鈔』13巻などを著した。 柳田聖山『中国撰述経典 -(仏教経典選 (13)) 円覚経』1987年 筑摩書房 ISBN 978-4480330130
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『円覚経』(えんがくきょう)、正式名称『大方広円覚修多羅了義経』(だいほうこうえんがくしゅたらりょうぎぎょう)1巻は、唐代中国で撰述された仏典(偽経または疑経)の一つで、「大円覚心」を得るための方法を説く。唐の仏陀多羅訳とされる。訳者の仏陀多羅については『宋高僧傳』『續古今譯經圖紀』『開元釋教録』にそれぞれ小伝があるが、記述内容は何れも類似で漢訳時期等の詳細は不明である。
『'''円覚経'''』(えんがくきょう)、正式名称『'''大方広円覚修多羅了義経'''』(だいほうこうえんがくしゅたらりょうぎぎょう)1巻は、[[唐]]代[[中国]]で撰述された[[仏典]]([[偽経]]または疑経)の一つで、「大円覚心」を得るための方法を説く。唐の仏陀多羅訳とされる<ref>大正蔵収録のテキストの標題は『大方廣圓覺修多羅了義經 大唐[[罽賓]][[三蔵法師|三藏]]佛陀多羅譯』SATデータベース (T0842_.17.0913a25-0922a24)となっている。</ref>。訳者の仏陀多羅については『宋高僧傳<ref>『宋高僧傳 唐洛京白馬寺覺救傳』SATデータベース(T2061_.50.0717c06 - c14)「釋佛陀多羅。華言覺救。北天竺罽賓人也。齎多羅夾誓化支那。止洛陽白馬寺。譯出大方廣圓覺了義經。此經近譯不委何年。且隆道爲懷務甄詐妄。但眞詮不謬。豈假具知年月耶。救之行迹莫究其終。大和中圭峯密公著疏。判解經本一卷後分二卷成部。續又爲鈔演暢幽邃。今東京太原三蜀盛行講演焉」</ref>』『續古今譯經圖紀<ref>『續古今譯經圖紀 沙門佛陀多羅傳』SATデータベース(T2152_.55.0369a03 - a06)「沙門仏陀多羅唐云覺救。北印度罽賓人也。於[[白馬寺 (洛陽)| 東都白馬寺]]。譯大方廣圓覺修多羅了義經一卷此經近出不委何年。且弘道爲懷務甄詐妄。但眞詮不謬豈假具知年月耶」</ref>』『開元釋教録<ref>『開元釋教録 沙門佛陀多羅傳』SATデータベース(T2154_.55.0564c28 - a04)「沙門佛陀多羅。唐云覺救。北印度罽賓人也。於東都白馬寺譯圓覺了義經一部。此經近出不委何年。且弘道爲懷務甄詐妄。但眞詮不謬豈假具知年月耶」</ref>』にそれぞれ小伝があるが、記述内容は何れも類似で漢訳時期等の詳細は不明である<ref>[[山崎宏]]『圭峯宗密について』印度學佛教學研究 1967年 15巻 2号 p.490-495、[https://doi.org/10.4259/ibk.15.490 pdf] </ref>。 == 概要 == 『円覚経』の内容は、本来、真浄明徹な大円覚心<ref>文殊師利、普賢、普眼、金剛蔵、弥勒、清浄慧、威徳自在、弁音、浄諸業障、普覚、円覚、賢善首の十二菩薩を対告衆として如来が説いた妙理。</ref><ref> [[鎌田茂雄]]「円覚十二菩薩の形成 -『円覚経』の造像化-」印度學佛教學研究 1998年 47巻 1号 p.38-44 [https://doi.org/10.4259/ibk.47.38 pdf] p.38上</ref>を実証具現するには、上・中・下の三機根に応じて、[[止観|奢摩他]](samatha)・三摩鉢提(samāpatti)・禅那(dhyāna)の三種の浄観を修習すべしと説く。 『円覚経』は[[7世紀]]末から[[8世紀]]初めにかけての成立であると考えられているが、初期の[[禅宗]]の灯史である『伝法宝紀』<ref>SATデータベース(T2838_.85.1291a03 - c13)『傳法寶紀并序』</ref>(でんほうぼうき、[[713年]])に早くも引用されている。中国唐代撰述の偽経ではあるが、[[圭峰宗密]] が25歳で『円覚経』に出会い、29歳で受戒、37歳(816年)以降生涯をかけて多くの疏鈔を撰述した<ref>{{Wikisourcelang-inline|zh|宋高僧傳/卷06|宋高僧傳卷第六(義解篇第二之三〈(正傳十四人中十一:唐圭峯草堂寺宗密傳)}}</ref>。その後、中国仏教に大きな影響を与えてきた[[大乗起信論]]にとって代る重要経典となった。宗密の後、宗派を問わず、多くの注釈書が撰述された<ref>岩城英規*「中国天台における『円覚経』」 印度學佛教學研究 1988年 37巻 1号 p.116-118 [https://doi.org/10.4259/ibk.37.116 pdf] p.116上 (*天台宗鹿島山来迎院常林寺住職)</ref>。後世、同じく中国撰述経典である『[[首楞厳経|楞厳経]]』と共に「教禅一致」を説く経典と見なされ、宋・元・明と時代が下がるに従って重視されるようになった<ref>なお、[[道元]]は「教禅一致」に批判的な立場で、この二経の価値を全く否定したということが知られる。</ref>。[[荷沢宗]]の法系に属する圭峰宗密は、この経を最高のものと位置づけ、生涯をその研究・注疏撰述に献げて、『略疏』4巻・『略疏鈔』12巻・『大疏』12巻・『大疏鈔科』3巻・『大疏釈義鈔』13巻などを著した<ref>[[鎌田茂雄]]によれば、圭峰宗密は前後10回に亘って『円覚経』を註疏している。『円覚経大疏』3巻、『円覚経大疏科文』1巻、『円覚経大疏釈義鈔』13巻、『円覚経略疏』4巻、『円覚経略疏科』2巻、『円覚経略疏鈔』12巻、『円覚経纂要』2巻、『円覚経道場修証儀』18巻、『円覚経道場六時礼』1巻、『円覚経礼懺略本』4巻である。(『宗密教学の思想史的研究-中国華厳思想史の研究第二-』 1975年 東京大学出版会 p.83–85)</ref><ref>岩城英規「『首楞厳経』の解釈 -『円覚経』注釈との比較に焦点を当てて-」印度學佛教學研究 2004年 53巻 1号 p.105-109 [https://doi.org/10.4259/ibk.53.105 pdf] p.105下 </ref>。 == 原文 == * 『[[大正新脩大蔵経]]』巻17「経集部」『大方廣圓覺修多羅了義經』大唐罽賓三藏佛陀多羅譯<ref>SATデータベース(T0842_.17.0913a25-0922a24) </ref> == 日本語訳書 == [[柳田聖山]]『中国撰述経典 -(仏教経典選 (13)) 円覚経』1987年 [[筑摩書房]] ISBN 978-4480330130 {{脚注ヘルプ}} == 注・出典 == {{reflist|2}} {{Buddhism-stub}} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:えんかくきよう}} [[Category:中国仏教]] [[Category:偽経]] [[Category:経集部 (大正蔵)]]
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量子ドット
量子ドット(りょうしドット、英: quantum dot (QD)、古くは量子箱)とは、3次元全ての方向から移動方向が制限された電子の状態のことである。 量子ドットは、半導体などの物質の励起子が三次元空間全方位で閉じ込められている。その結果、そのような物質はバルク半導体と離散分子系の中間的な電子物性を持つ。 主に半導体において、結晶成長や微細加工により原子のド・ブロイ波長に相当する大きさ(数nm~20 nm、nmは1x10 m)の粒状の構造を作ると、電子はその領域に閉じこめられ電子の状態密度は離散化される。閉じ込め方向を1次元にしたものを量子井戸構造、2次元のものを量子細線、そして3次元全ての方向から閉じ込めたものを、量子ドットと呼ぶ。InAs系の量子ドットは赤外領域での、CdE(E = S, Se, Te)系の量子ドットは可視光領域での新しい発光材料として、それぞれ期待されている。 量子ドットは1980年頃にアレクセイ・エキモフによってガラスマトリックスの中で、1983年にはルイ・ブラスによってコロイド溶液の中に発見された。最初の理論付けは1982年にen:Alexander Efrosによってなされた。量子ドットという名前は1986年に:en:Mark Reedによって付けられた。 状態密度がエネルギーに関してデルタ関数的に完全に離散化する。すなわち特定のエネルギーに状態が集中するため、低閾値、高ゲイン、熱特性のよいレーザーが理論的には実現可能である。半導体量子ドットは三次元的な空間閉じ込めをナノスケールで達成する量子構造で、その量子閉じ込め効果は原子と同様な離散的な電子状態を作り出すので量子ドットでコヒーレントに光励起された電子は長時間コヒーレンスを保持する。 量子ドットを作製する技術は現在も発展途上中であり、様々な方法が模索中である。大きく分けると、出来上がった材料をプロセス技術を用いて微細加工する方法と、材料の結晶成長時に形成する方法の2通りに分けることが出来る。 代表例を幾つかあげる。 量子ドットは、その特異な電気的性質により、特に単電子トランジスタ、量子テレポーテーション、量子ドットレーザー、量子ドット太陽電池や量子コンピュータなどへの応用が期待されている。そのためには大きさのそろった量子ドットを作製する必要があるが、現在のところ有効な手段は知られていない。InAs量子ドットを活性層に用いた半導体光増幅器は現在主に用いられている量子井戸構造を用いたものよりも周波数特性がよいため、実用化が期待されている。この応用はドットサイズがそろわずゲイン波長域が広いことが利点になっている。 量子ドットは、蛍光色素としてバイオ研究にも使用されている。この場合、量子ドットはポリマーコーティングされ水中で使用しやすいように作成されている。このポリマー材質は、各製造会社によってまちまちであり、使用者には公開されていないのが現状である。このコーティングされた量子ドットは、2次抗体やストレプトアビジンなどと共役され蛍光染色用色素として販売されている。染色に量子ドットを用いる利点は、長時間の励起光照射でもほとんど退色しないことであり、一つの細胞に関して複数の画像スライスを撮るような場合に絶大な効果を発揮する。さらに励起スペクトルが広範囲に及ぶため、単一励起波長(UV領域など)により蛍光波長の違う量子ドットを用いて同時に複数の蛍光を得ることができる。UVなどの励起光を使用した場合、ストークスシフトが大きくなるため、バックグラウンドが低く抑えられる。量子ドットの蛍光強度も強いため、蛍光フィルターにおける許容波長を±10-20 nmに抑えることができ、バックグラウンドを抑えるとともに、同時に使用できるフィルター(色)数を増やすことも可能である。 また、量子ドットは3次元的な量子井戸でもあり、電子が立体的にトラップされ擬似的な原子として振舞う。特に球対称の量子ドットを作製した場合は、準粒子としての電子・正孔が原子に似た殻構造を示す。 量子ドットのコアに使われるカドミウムは汚染物質として規制されているため、テレビや太陽電池などの民生向け製品として大量生産に供されるためにはカドミウムを使わない「カドミウムフリー量子ドット」の発明が急務となっていた。「カドミウムフリー量子ドット」は2010年代中頃に発明され、量子ドットを用いた民生品の実用化が始まった。ソニーがアメリカのQD-VISIONと共に2013年に発売した液晶テレビ「XBR-X900A」には微量のカドミウム(テレビ1台あたり10mg以下)が使われているが、RoHS指令や使用国の規制値はクリアしている。
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量子ドットとは、3次元全ての方向から移動方向が制限された電子の状態のことである。
{{Expand English|Quantum dot|date=2023-10}} [[File:Quantum Dots with emission maxima in a 10-nm step are being produced at PlasmaChem in a kg scale.jpg|thumbnail|PlasmaChem GmbHで製造された10-nm刻みで発光する量子ドット]] '''量子ドット'''(りょうしドット、{{lang-en-short|''quantum dot'' (''QD'')}}、古くは量子箱)とは、3次元全ての方向から移動方向が制限された[[電子]]の[[状態]]のことである。 == 概要 == 量子ドットは、半導体などの物質の[[励起子]]が[[三次元空間]]全方位で閉じ込められている。その結果、そのような物質はバルク半導体と離散分子系の中間的な電子物性を持つ<ref>{{cite news | accessdate=2009-07-07 | url=http://www.columbia.edu/cu/chemistry/fac-bios/brus/group/pdf-files/semi_nano_website_2007.pdf | author=L.E. Brus|title= Chemistry and Physics of Semiconductor Nanocrystals | year=2007}}</ref><ref>{{cite news | url=https://hdl.handle.net/1721.1/11129 | author=D.J. Norris|title=Measurement and Assignment of the Size-Dependent Optical Spectrum in Cadmium Selenide (CdSe) Quantum Dots, PhD thesis, MIT | year= 1995 | accessdate=2009-07-07}}</ref><ref>{{cite journal | author=C.B. Murray, C.R. Kagan, M. G. Bawendi | title=Synthesis and Characterization of Monodisperse Nanocrystals and Close-Packed Nanocrystal Assemblies | journal=Annual Review of Materials Research | volume=30 | issue=1 | pages=545–610 | year=2000 | doi=10.1146/annurev.matsci.30.1.545 | bibcode = 2000AnRMS..30..545M }}</ref>。 主に[[半導体]]において、[[結晶成長]]や微細加工により原子の[[ド・ブロイ波長]]に相当する大きさ(数nm~20 nm、nmは1x10<sup>-9</sup> m)の粒状の構造を作ると、電子はその領域に閉じこめられ電子の状態密度は[[離散化]]される。閉じ込め方向を1次元にしたものを[[量子井戸]]構造、2次元のものを[[量子細線]]、そして3次元全ての方向から閉じ込めたものを、量子ドットと呼ぶ。InAs系の量子ドットは赤外領域での、CdE(E = S, Se, Te)系の量子ドットは可視光領域での新しい発光材料として、それぞれ期待されている。 量子ドットは1980年頃に[[アレクセイ・エキモフ]]によってガラスマトリックスの中で<ref>{{cite journal | author=Ekimov, A. I. & Onushchenko, A. A. | title=Quantum size effect in three-dimensional microscopic semiconductor crystals | journal=JETP Lett. | volume=34 | issue= | pages=345–349 | year=1981 | doi= | bibcode = 1981JETPL..34..345E }}</ref>、1983年には[[ルイ・ブラス]]によってコロイド溶液の中に発見された。最初の理論付けは1982年に[[:en:Alexander Efros]]によってなされた<ref>{{Cite web|last=superadmin|title=History of Quantum Dots|url=https://nexdot.fr/en/history-of-quantum-dots/|access-date=2020-10-08|website=Nexdot|language=en-GB}}</ref>。量子ドットという名前は1986年に[[:en:Mark Reed (physicist)|:en:Mark Reed]]によって付けられた<ref>{{cite journal|author=Reed MA, Randall JN, Aggarwal RJ, Matyi RJ, Moore TM, Wetsel AE|year=1988|title=Observation of discrete electronic states in a zero-dimensional semiconductor nanostructure|journal=Phys Rev Lett|volume=60|issue=6|pages=535–537|bibcode=1988PhRvL..60..535R|doi=10.1103/PhysRevLett.60.535|pmid=10038575}} (1988).[http://www.eng.yale.edu/reedlab/publications/26%20QDot%20PRL.pdf]</ref>。 == 物理的性質 == 状態密度がエネルギーに関して[[デルタ関数]]的に完全に離散化する。すなわち特定のエネルギーに状態が集中するため、低閾値、高ゲイン、熱特性のよいレーザーが理論的には実現可能である。半導体量子ドットは三次元的な空間閉じ込めを[[ナノスケール]]で達成する量子構造で、その[[量子閉じ込め効果]]は原子と同様な離散的な電子状態を作り出すので量子ドットでコヒーレントに光励起された電子は長時間[[コヒーレンス]]を保持する<ref name="nanostr">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20080119134258/http://www.nanonet.go.jp/japanese/mailmag/2003/015b.html |title=整形光波を使った量子ドットのコヒーレント制御 |date= |accessdate=2016-11-02 |format= |author= |author2= |author3= |author4= |publisher=}}</ref>。 == 具体的な作製方法 == 量子ドットを作製する技術は現在も発展途上中であり、様々な方法が模索中である。大きく分けると、出来上がった材料を[[プロセス (曖昧さ回避)|プロセス]]技術を用いて微細加工する方法と、材料の結晶成長時に形成する方法の2通りに分けることが出来る。 代表例を幾つかあげる。 *プロセスでの作製 ** [[電子線リソグラフィー]]を用いた方法 *結晶成長での作製 ** [[Stranski-Krastanovモード]](S-Kモード) ** 微細マスクを利用した選択成長 ** [[界面活性剤]]を用いた方法 == 応用例・特徴など == 量子ドットは、その特異な電気的性質により、特に[[単電子トランジスタ]]、[[量子テレポーテーション]]、[[量子ドットレーザー]]、[[太陽電池#種類|量子ドット太陽電池]]や[[量子コンピュータ]]などへの応用が期待されている。そのためには大きさのそろった量子ドットを作製する必要があるが、現在のところ有効な手段は知られていない。InAs量子ドットを活性層に用いた半導体光増幅器は現在主に用いられている量子井戸構造を用いたものよりも周波数特性がよいため、実用化が期待されている。この応用はドットサイズがそろわずゲイン波長域が広いことが利点になっている。 量子ドットは、[[蛍光]]色素としてバイオ研究にも使用されている。この場合、量子ドットは[[ポリマーコーティング]]され水中で使用しやすいように作成されている。このポリマー材質は、各製造会社によってまちまちであり、使用者には公開されていないのが現状である。このコーティングされた量子ドットは、2次[[抗体]]やストレプトアビジンなどと共役され蛍光染色用色素として販売されている。染色に量子ドットを用いる利点は、長時間の励起光照射でもほとんど退色しないことであり、一つの細胞に関して複数の画像スライスを撮るような場合に絶大な効果を発揮する。さらに励起スペクトルが広範囲に及ぶため、単一励起波長([[紫外線|UV]]領域など)により蛍光波長の違う量子ドットを用いて同時に複数の蛍光を得ることができる。UVなどの励起光を使用した場合、[[ストークスシフト]]が大きくなるため、バックグラウンドが低く抑えられる。量子ドットの蛍光強度も強いため、蛍光フィルターにおける許容波長を±10-20 nmに抑えることができ、バックグラウンドを抑えるとともに、同時に使用できるフィルター(色)数を増やすことも可能である。 また、量子ドットは3次元的な量子井戸でもあり、電子が立体的にトラップされ擬似的な原子として振舞う。特に球対称の量子ドットを作製した場合は、準粒子としての電子・正孔が原子に似た殻構造を示す。 量子ドットのコアに使われる[[カドミウム]]は汚染物質として規制されているため、テレビや太陽電池などの民生向け製品として大量生産に供されるためにはカドミウムを使わない「カドミウムフリー量子ドット」の発明が急務となっていた。「カドミウムフリー量子ドット」は2010年代中頃に発明され、量子ドットを用いた民生品の実用化が始まった。[[ソニー]]がアメリカのQD-VISIONと共に2013年に発売した液晶テレビ「XBR-X900A」には微量のカドミウム(テレビ1台あたり10mg以下)が使われているが、[[RoHS指令]]や使用国の規制値はクリアしている<ref>[https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/1301/08/news080.html 以前とは違う“トリルミナス”搭載、ソニーが65V型と55V型の4K液晶テレビを発表 - ITmedia NEWS]</ref>。 == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == * R・Turton著、[[川村清]]監訳など『量子ドットへの誘い マイクロエレクトロニクスへの未来へ』1998年、シュプリンガー・フェアラーク東京、ISBN 4-431-70780-8。 * 佐々木昭夫. "InAs 自己形成量子ドット." 応用物理 65.11 (1996): 1149-1152. * 田中悟, 青柳克信. "GaN 系半導体の自己形成量子ドット." 応用物理 67.7 (1998): 828-829. == 関連項目 == * [[量子力学]] * [[物性物理]] * [[半導体レーザー]] * [[太陽電池]] * [[量子井戸]] * [[量子細線]] * [[一分子細胞生物学]] * [[荒川泰彦]] * [[榊裕之]] == 外部リンク == *[https://www.sigmaaldrich.com/JP/ja/technical-documents/technical-article/materials-science-and-engineering/microelectronics-and-nanoelectronics/quantum-dots 量子ドット] - シグマアルドリッチ *[https://www.sigmaaldrich.com/JP/ja/technical-documents/technical-article/materials-science-and-engineering/electron-microscopy/quantum-dots-an-emerging 量子ドット:可溶性光学ナノ材料という新素材] *[https://www.sigmaaldrich.com/JP/ja/technical-documents/technical-article/materials-science-and-engineering/nanoparticle-and-microparticle-synthesis/commercial-volumes 量子ドットの実用化に向けて] *[https://www.sigmaaldrich.com/JP/ja/technical-documents/technical-article/materials-science-and-engineering/nanoparticle-and-microparticle-synthesis/the-application-of ディスプレイ技術への量子ドットの応用] {{新技術|topics=yes|materials=yes}}{{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りようしとつと}} [[Category:固体物理学]] [[Category:ナノテクノロジー]] [[Category:蛍光色素]] [[Category:量子力学]]
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ナポレオン金貨
ナポレオン金貨(ナポレオンきんか、Napoléon)とは、フランスで19世紀初頭から20世紀初頭にかけて鋳造され、流通した金貨のことである。 狭義には1852年から1870年にかけて発行された、ナポレオン3世の肖像を描いた20フラン金貨のことを言うが、日本では、単に「ナポレオン」と呼ぶとナポレオン1世のことを指すため、ナポレオン金貨も、ナポレオン1世の肖像を描いたものと、よく誤解される。但し、広義の解釈としては、フランスの20フラン金貨全てを指して言う場合が多く、さらに拡大解釈としては20フラン金貨以外の同様な金貨である、5、10、40、50、100フラン金貨など、19世紀以降に鋳造された、フランスの金貨の総称として、ナポレオン金貨という言葉が用いられる場合もある。 この項では、広義の解釈に準じ20フラン金貨全体について述べる。 フランスがフランを採用したのは1794年であり、翌1795年にフランは法律で正式にフランスの通貨となった。当時のフランは銀平価1フラン=純銀4.5グラムの銀本位制であったが、1803年に登場したジェルミナル・フラン(フランス革命暦第7の月・Germinalに制定されたためこの名がある)により1フラン=純金0.290322グラムという金平価が決定され、以後実質的に金銀複本位制が続いた。 20フラン金貨が登場するのも1803年であり、以後1914年まで111年に渡って本位金貨として鋳造され、流通した。 直径21ミリメートル、重量6.4516グラム、金品位(純度)は90.00パーセント。 従って純金5.807グラムを含み、これはジェルミナル・フランの金平価に相当し、その後1865年のラテン通貨同盟の基準本位金貨でもあった。 20フラン金貨には、ナポレオン1世、3世をはじめ、ルイ18世、シャルル10世、ルイ・フィリップの各国王肖像のもの、天使を描いたもの、及び共和国の女神ケレースやマリアンヌの肖像を描いた金貨が含まれる。 きわめて大量に鋳造され、現存する為に希少価値は低く、金地金価格と大差ない価格で取引され、小口の金投資の対象としても利用されてきた経緯があり、これらの金貨はイギリスのソブリン金貨同様に、地金型金貨の先駆けとも言える。 フランスの金貨には全てにミントマークと造幣局長の私的なマークであるプリヴィマークが刻印されている。ミントマークについては下の表に記載したが、このミントマークは金貨に限らず、フランスの19世紀~20世紀初頭のコインを研究する上には、非常に重要なものである。 20フラン金貨は現在でも多くが存在しているが、ミントマークや製造年号によっては、希少なものも存在し、これらは収集家間で高プレミアム価格で取引されている。また、20フラン金貨は相当期間流通したので状態の悪いコインが多く、初期のコインの未使用クラスを見つけるのは非常に困難である。 ナポレオン1世の金貨の場合、状態の良いコインは更に少なく、未使用クラスのコインになればミントマークにかかわらず2000ドル以上の価格で取引されている。また、フランス国内ではなくオランダのユトレヒトで鋳造されたものは人気が高く、カタログの評価はそれほど高額ではないが、実際に見かけることはほとんど無く希少価値は高い。ルイ・フィリップ1世以前のコインについては、パリ以外の造幣局で鋳造されたもの、それに状態が非常に良いものは、概ね希少であると思って間違いない。 ナポレオン3世以降のコインになると、1855年にリヨンで鋳造されたものと1888年にパリで鋳造されたものが、比較的少ないが、その他のコインは全て地金に準じた価格で取引されている。 なお、1907年~1914年銘のマリアンヌタイプの20フラン金貨は、オリジナルの刻印を使用して、公式にパリ造幣局で再鋳造された。一般にこの再鋳貨はコインが赤味掛かっているといわれているが、実際にコイン上の年号に鋳造されたものか、最近の再鋳貨かの判別は極めて難しい。
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ナポレオン金貨(ナポレオンきんか、Napoléon)とは、フランスで19世紀初頭から20世紀初頭にかけて鋳造され、流通した金貨のことである。
{{Expand English|Napoléon (coin)|date=2021年2月}} [[File:Louis_Napoleon.JPG|thumb|right|ナポレオン金貨]] '''ナポレオン金貨'''(ナポレオンきんか、''Napoléon'')とは、[[フランス]]で19世紀初頭から20世紀初頭にかけて鋳造され、流通した[[金貨]]のことである。 == 概要 == 狭義には[[1852年]]から[[1870年]]にかけて発行された、[[ナポレオン3世]]の肖像を描いた20[[フラン (通貨)|フラン]][[金貨]]のことを言うが、日本では、単に「ナポレオン」と呼ぶと[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]のことを指すため、ナポレオン金貨も、ナポレオン1世の肖像を描いたものと、よく誤解される。但し、広義の解釈としては、フランスの20フラン金貨全てを指して言う場合が多く、さらに拡大解釈としては20フラン金貨以外の同様な金貨である、5、10、40、50、100フラン金貨など、19世紀以降に鋳造された、フランスの金貨の総称として、ナポレオン金貨という言葉が用いられる場合もある。 この項では、広義の解釈に準じ20フラン金貨全体について述べる。 == 歴史 == フランスがフランを採用したのは1794年であり、翌1795年にフランは法律で正式にフランスの通貨となった。当時のフランは銀平価1フラン=純銀4.5グラムの銀本位制であったが、1803年に登場したジェルミナル・フラン([[フランス革命暦]]第7の月・Germinalに制定されたためこの名がある)により1フラン=純金0.290322グラムという金平価が決定され、以後実質的に金銀複本位制が続いた。 20フラン金貨が登場するのも1803年であり、以後1914年まで111年に渡って[[本位金貨]]として鋳造され、流通した。 == 仕様 == 直径21[[ミリメートル]]、重量6.4516[[グラム]]、[[金]]品位(純度)は90.00[[パーセント]]。 従って純金5.807グラムを含み、これはジェルミナル・フランの金平価に相当し、その後1865年の[[ラテン通貨同盟]]の基準本位金貨でもあった。 == 種類 == 20フラン金貨には、ナポレオン1世、3世をはじめ、[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]、[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]、[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の各国王肖像のもの、天使を描いたもの、及び共和国の女神[[ケレース]]や[[マリアンヌ]]の肖像を描いた金貨が含まれる。 *ボナパルト第一統領 - [[フランス革命暦]]11年(1803年)~14年(1805年) *ナポレオン1世 - 1806年~1814年 *ルイ18世 - 1814年~1824年 *ナポレオン1世百日天下 - 1815年 *シャルル10世 - 1825年~1830年 *ルイ・フィリップ1世 - 1830年~1848年 *[[フランス第二共和政|第2共和国]] 天使 - 1848年~1849年 *第2共和国 ケレース - 1849年~1851年 *第2共和国 ルイ・ナポレオン・ボナパルト - 1852年 *ナポレオン3世 - 1853年~1870年(純正ナポレオン金貨) *[[フランス第三共和政|第3共和国]] 天使 - 1871年~1898年 *第3共和国 マリアンヌ - 1899年~1914年 == 希少価値 == [[File:Napoleon_I_Lorbeer.JPG|thumb|right|ナポレオン1世の20フラン金貨]] きわめて大量に鋳造され、現存する為に希少価値は低く、金地金価格と大差ない価格で取引され、小口の金投資の対象としても利用されてきた経緯があり、これらの金貨はイギリスの[[ソブリン金貨]]同様に、[[地金型金貨]]の先駆けとも言える。 === ミントマーク === フランスの金貨には全てに[[ミントマーク]]と造幣局長の私的なマークであるプリヴィマークが刻印されている。ミントマークについては下の表に記載したが、このミントマークは金貨に限らず、フランスの19世紀~20世紀初頭のコインを研究する上には、非常に重要なものである。 20フラン金貨は現在でも多くが存在しているが、ミントマークや製造年号によっては、希少なものも存在し、これらは収集家間で高プレミアム価格で取引されている。また、20フラン金貨は相当期間流通したので状態の悪いコインが多く、初期のコインの未使用クラスを見つけるのは非常に困難である。 ナポレオン1世の金貨の場合、状態の良いコインは更に少なく、未使用クラスのコインになればミントマークにかかわらず2000ドル以上の価格で取引されている。また、フランス国内ではなく[[オランダ]]の[[ユトレヒト]]で鋳造されたものは人気が高く、カタログの評価はそれほど高額ではないが、実際に見かけることはほとんど無く希少価値は高い。ルイ・フィリップ1世以前のコインについては、パリ以外の造幣局で鋳造されたもの、それに状態が非常に良いものは、概ね希少であると思って間違いない。 ナポレオン3世以降のコインになると、1855年に[[リヨン]]で鋳造されたものと1888年にパリで鋳造されたものが、比較的少ないが、その他のコインは全て地金に準じた価格で取引されている。 なお、1907年~1914年銘のマリアンヌタイプの20フラン金貨は、オリジナルの刻印を使用して、公式に[[パリ造幣局]]で再鋳造された。一般にこの再鋳貨はコインが赤味掛かっているといわれているが、実際にコイン上の年号に鋳造されたものか、最近の再鋳貨かの判別は極めて難しい。 {| class="wikitable" border="1" style="font-size:90%;" |+ '''フランス金貨のミントマーク''' ! マーク !! 鋳造地!! マーク !! 鋳造地!! マーク !! 鋳造地 |- ! A | [[パリ]] !AA | [[メス (フランス)]] !B | [[ルーアン]] |- ! BB |[[ストラスブール]] !CL |ジェネス !D |[[リヨン]] |- ! G |[[ジュネーヴ]] !H |[[ラ・ロシェル]] !I |[[リモージュ]] |- ! K |[[ボルドー]] !L |[[バイヨンヌ]] !M |[[トゥールーズ]] |- ! M/A |[[マルセイユ]] !Q |[[ペルピニャン]] !R | [[オルレアン]] |- ! T |[[ナント]] !W |[[リール (フランス)]] !旗 |[[ユトレヒト]] |- ! U |[[トリノ]] !王冠とR |[[ローマ]] !R | [[ロンドン]] |} {{DEFAULTSORT:なほれおんきんか}} [[Category:フランスの歴史]] [[Category:金貨]] [[Category:通貨統合]]
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炎多留
『炎多留』(ほたる)は、2000年12月から発売されているたるたるもにゃー製の、ゲイ向けゲームのシリーズ作品である。 2000年12月に第1作目となる『炎多留』を発売。 2002年10月にはシリーズ2作目『炎多留2・魂(ソウル)』を発売。こちらも前作同様に男同士の恋愛シミュレーション要素を含むアドベンチャーゲームである。ほとんどストーリー性のなかった前作とは打って変わってテレビ局を舞台にストーリーを重視した作りになっている。2003年10月30日に18禁シーンを全て排除した移植作品がディースリー・パブリッシャーよりPlayStation 2版『シンプル2000シリーズVol.38 漢のためのバイブル THE友情アドベンチャー-炎多留・魂-』として発売された。移植版については該当項目を参照のこと。 2005年9月にはシリーズ3作目『炎多留III 潮』を発売。 2012年12月にシリーズ3作品をまとめた『炎多留-愛蔵版-』を発売。
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『炎多留』(ほたる)は、2000年12月から発売されているたるたるもにゃー製の、ゲイ向けゲームのシリーズ作品である。
『'''炎多留'''』('''ほたる''')は、[[2000年]][[12月]]から発売されている[[たるたるもにゃー]]製の、[[ゲイ向けゲーム]]のシリーズ作品である。 == シリーズ来歴 == [[2000年]][[12月]]に第1作目となる『炎多留』を発売。 [[2002年]][[10月]]にはシリーズ2作目'''『炎多留2・魂(ソウル)』'''を発売。こちらも前作同様に[[男]]同士の[[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛シミュレーション]]要素を含む[[アドベンチャーゲーム]]である。ほとんど[[ストーリー]]性のなかった前作とは打って変わって[[テレビ局]]を舞台にストーリーを重視した作りになっている。[[2003年]][[10月30日]]に18禁シーンを全て排除した移植作品が[[ディースリー・パブリッシャー]]より[[PlayStation 2]]版'''『[[シンプル2000シリーズ]]Vol.38 [[漢のためのバイブル THE友情アドベンチャー-炎多留・魂-]]』'''として発売された。移植版については該当項目を参照のこと。 [[2005年]][[9月]]にはシリーズ3作目'''『炎多留III 潮』'''を発売。 [[2012年]][[12月]]にシリーズ3作品をまとめた'''『炎多留-愛蔵版-』'''を発売。 == 関連事項 == *[[ゲイ向けゲーム]] == 外部リンク == *[http://www.tarutaru.com/ たるたるもにゃ~] {{adultgame-stub}} {{DEFAULTSORT:ほたる}} [[Category:2002年のアダルトゲーム]] [[Category:PlayStation 2用ソフト]] [[Category:SIMPLEシリーズ]] [[Category:ボーイズラブゲーム]]
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13,004
ナノメートル
ナノメートル(nanometre、記号: nm)は、国際単位系の長さの単位で、10メートル (m) = 10億分の1メートル。 SI基本単位であるメートルに、基礎となる単位の10の量である事を示すSI接頭語のナノを付けたものである。 ピコメートル ≪ ナノメートル ≪ マイクロメートル 光の波長(100 - 1000 nmオーダー)や、原子・分子の構造(0.1 - 10 nmオーダー)などを表すのに使われる。 ミクロン(micron, マイクロメートル (micrometre) の旧称)の1/1000であることから、ミリミクロン(millimicron、記号 mμ)とも呼ばれた。1967年の国際度量衡総会でミクロン自体が廃止されており、現在は原則としてミクロンもミリミクロンも使われない。 現在の電子デバイスや微細加工、あるいは分子生物学では、ナノメートルの領域の技術が使われている。そのため半導体産業などでは、ナノテクノロジーという言葉がよく使われている。最近では、微細ナノ加工・ナノスケール技術・ナノ構造物質などについて具体的な長さを示すのではなく、単に「小さい」ということを示すための接頭辞としての用例である。という誤解が見られるが、実際にはそれらの技術はナノスケールで起きる物性の変化と不可分に関わっている技術である。
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ナノメートルは、国際単位系の長さの単位で、10−9メートル (m) = 10億分の1メートル。 SI基本単位であるメートルに、基礎となる単位の10−9の量である事を示すSI接頭語のナノを付けたものである。 1 nm = 0.001 µm = 0.000001 mm 1 nm = 10 Å ピコメートル ≪ ナノメートル ≪ マイクロメートル 光の波長や、原子・分子の構造などを表すのに使われる。
{{単位|名称=ナノメートル (nanometre)|物理量=[[長さ]]|単位系=[[国際単位系|SI]]|定義=10<sup>−9</sup> [[メートル|m]]|記号=nm}} '''ナノメートル'''(nanometre、記号: '''nm''')は、[[国際単位系]]の長さの単位で、10<sup>−9</sup>[[メートル]] (m) = 10[[億]]分の1メートル。 [[SI基本単位]]であるメートルに、基礎となる単位の10<sup>−9</sup>の量である事を示す[[SI接頭語]]の[[ナノ]]を付けたものである。 * 1 nm = 0.001 [[マイクロメートル|µm]] = 0.000001 [[ミリメートル|mm]] * 1 nm = 10 [[オングストローム|Å]] [[ピコメートル]] ≪ '''ナノメートル''' ≪ [[マイクロメートル]] [[光]]の[[波長]](100 - 1000 nmオーダー)や、[[原子]]・[[分子]]の構造(0.1 - 10 nmオーダー)などを表すのに使われる。 ==ミリミクロン== ミクロン(micron, マイクロメートル (micrometre) の旧称)の1/1000であることから、'''ミリミクロン'''(millimicron、記号 mµ)とも呼ばれた。[[1967年]]の[[国際度量衡総会]]でミクロン自体が廃止されており、現在は原則としてミクロンもミリミクロンも使われない。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align:center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|13210|339A|-|ナノメートル}} |} ==ナノメートルに由来する接頭辞ナノ== {{Main|ナノスケール}} 現在の[[電子デバイス]]や[[微細加工]]、あるいは[[分子生物学]]では、ナノメートルの領域の技術が使われている。そのため[[半導体]]産業などでは、[[ナノテクノロジー]]という言葉がよく使われている。最近では、微細ナノ加工・[[ナノスケール]]技術・ナノ構造物質などについて{{要出典範囲|具体的な長さを示すのではなく、単に「小さい」ということを示すための接頭辞としての用例である。という誤解が見られるが|date=2020年10月}}、実際にはそれらの技術はナノスケールで起きる物性の変化と不可分に関わっている技術である。 ==関連項目== *[[長さの比較]] **[[1 E-7 m]] : 100 nm - 1 µm **[[1 E-8 m]] : 10 nm - 100 nm **[[1 E-9 m]] : 1 nm - 10 nm *[[単位一覧]] *[[単位の換算一覧]] *[[ナノテクノロジー]] *[[メゾスコピック領域]] * [[ノーティカルマイル]] - 別名:海里 単位:NM {{DEFAULTSORT:なのめえとる}} [[Category:長さの単位]] [[Category:SI単位の10進の倍量及び分量]] {{Unit of length.(m)}} [[cs:Metr#Nanometr]]
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数値解析
数値解析(すうちかいせき、英: numerical analysis)は、計算機代数(英語版)とは対照的に、数値計算によって解析学の問題を近似的に解く数学の一分野である。 (狭義には「数値解析」とは「数値計算方法」の数学的な解析・分析(mathematical analysis of numerical methods)のことであり,広義の意味=数値を使って問題の解析・分析を行う(Analysis by numerical methods)・式でなく数値で計算を行う「数値計算」(numerical computation, numerical calculation)全般とは区別される。しかし世間一般には両者はあまり区別されていない。理学工学等の分野の応用として計算を行う場合には普通は広義の意味で「数値解析」と称している。このWikipediaでも区別がなされていない。本来この頁のタイトルは「数値解析」ではなくて「数値計算」とする方が正しい。その場合の「数値計算」とは問題を解くための計算を数式を使って行うのではなくてもっぱら数値を使って行うのだという意味合いがある。) 数値解析は自然科学および工学のあらゆる分野に応用がある。計算言語学や社会統計学のように、人文科学や社会科学でも重要である。 現在知られている人類史における最初期の数学的記述の一つとして、バビロニアの粘土板 YBC 7289 を挙げることができる。YBC 7289 は正方形の対角線の長さを近似したものと考えられ、結果として 2 {\displaystyle {\sqrt {2}}} の(六十進法による)近似値を含んでいる。 電子計算機(コンピュータ)の発明以前、数値計算には数表や補助的な計算機も用いられたものの、アルゴリズムの適用は人の手によるところが大きかった。 コンピュータの発明により、汎用的なプログラミングが可能になり、また人の手より速くより多くの計算を実行できるようになった。種々のアルゴリズムのプログラムが実装され、またコンピュータ自身の特性に合わせてアルゴリズムが考案されるようになった。 数値解析の目標は、難しい問題への近似解を与える技法の設計と解析である。この考え方を具体化するため、次のような問題と手法を挙げる。 数値的手段による解析のための計算は、コンピュータの発明以前から多くの国々で行われていた。線型補間は2000年以上前から行われている。ニュートン法、ラグランジュ補間、ガウスの消去法、オイラー法などの名称からも分かるように、歴史上の偉大な数学者の多くが数値的手段による解析にも注力した。 計算を能率化しまた計算の誤りをなるべく減らすために、公式や数表を掲載した印刷物である数表が作られた。例えば関数値を小数点以下16桁まで与える数表を使って、必要に応じて補間を行うことで、関数の精度の良い近似値を得ることができた。この分野での典型的な業績の例として、アブラモビッツ(英語版)とステガン(英語版)の編集したNISTの書籍などが挙げられる(通称“Abramowitz and Stegun”。これは1000ページを超えるもので、典型的な公式、計算式、近似式や関数の数表やグラフなどを多数集めている。コンピュータが利用可能になった後には数表そのものは(関数値のルーチンを作る作業者が計算値の検証に使う場合を除いて)あまり役に立つ機会がなくなったが、公式、計算式、近似式が多く集められており、今日でも数値計算分野にとっては有用性がある)。 機械式計算機やリレー式のデジタル計算機も計算のツールとして開発された。そのような計算機が1940年代に電子式のコンピュータへと進化した。デジタル式のコンピュータは数値の計算以外にも使える機材であるが、例えばENIACの開発目標は、高速な数値計算を行うための機械の実現であった。その後はさらに複雑な計算がより高速に行えるようになっている。(計算機械にはデジタル式以外にもアナログ方式のものがある。例えば計算尺は一種のアナログ式の計算デバイスであるし、機械式や電気式、電子的のアナログ方式のコンピュータもデジタル方式のコンピュータが低価格となりごく当たり前になる以前には良く用いられていた。アナログ方式の弱点は、素子の物理的な特性から決まる誤差やノイズによりある程度以上の高精度な計算を行うことが困難であることや、動作を決めるためのプログラミングは機構や回路そのもので実現するので、ストアドプログラミング方式が実現容易なデジタル方式と違って変更が素早くできないので、用途が専用機械になりがちなことである。) 直接解法は、問題の解を有限個のステップで計算する。その解は、演算精度が無限ならば正確である。例えば、線型方程式系を解くガウスの消去法やQR分解、線形計画問題のシンプレックス法などがある。実際には有限精度の浮動小数点数が使われるため、得られる解は近似値となる。 これに対して反復解法は一定のステップ数で完了するとは限らない。ある初期予測値から開始して、反復的に計算を行って徐々に解に収束させていく。一般にこの場合、たとえ無限の精度で計算したとしても、有限回の反復では正確な解にたどり着くことはない。例として、ニュートン法、二分法、ヤコビ法などがある。数値線形代数の大規模な問題には、反復解法が一般に必要とされる。 数値解析では、反復解法が直接解法よりも一般的である。いくつかの手法は基本的には直接解法だが、GMRES法 や共役勾配法などのように、反復解法として使うことも多い。これらの技法では厳密解を得るために必要なステップ数が大きくなるため、反復解法として利用して近似解を求める。 さらに、連続問題を近似的に離散問題に置き換えて解くことが必要になる。この置き換え操作を「離散化(discretization)」という。たとえば、微分方程式を解く場合が挙げられる。数値的に微分方程式を解くためには、データの数が有限でなければ現実には扱うことができない。そこでたとえば微分方程式の定義領域が連続なものであっても、そのなかから有限個の点を適切に代表点として選び、元の微分方程式をそれらの点での値についてだけの関係に置き換えて扱う。 誤差の研究は、数値解析の重要な一分野である。解に誤差が入り込む原因はいくつかある。 アルゴリズムや計算プログラムに与える入力データ自身が持つ誤差。たとえば入力するデータがそれ自身が既に丸められた値である場合。 あるいは入力する数値を指定された有限桁の浮動小数点数に丸めることでも発生する(たとえば10進数で0.1を入力してもそれをプログラムの内部で2進数にして扱うとすると,0.1は2進数で表現すれば循環小数になるから有限桁数では正確には表せず,それを内部で扱う桁数に丸めて扱うとその段階で丸め誤差が入る。2の平方根や3の自然対数、円周率などの無理数の厳密な値は10進でも2進でも無限に続く小数になるがそれらをプログラム中で有限桁数の小数として近似して扱うならその段階で既に丸め誤差が入る)。あるいは入力が測定や観測から得られるものの場合には,一般的には真の値は未知であり,データ自身が確率的な振る舞いを持った観測誤差を伴う。 有限な素子から構成されているデジタルコンピューターは内部状態の数も有限であり,1つであっても無限の情報(無限の桁数)を持ちうる実数の値を正確に表現することは一般にはできない。 また,ある決まった桁数で表された数値であっても、それらに対する四則演算の結果の値は一般には同じ桁数では正確に表わせないのでそれを決まった有限の桁数に収める(丸める)とすれば、 端数処理にともなう誤差が発生する。この誤差を丸め誤差という。丸め誤差自身は計算を倍精度で行うなど、計算に用いる数値の表現とそれらに対する演算の精度を上げることによって減らすことができる。 打ち切り誤差とは、数学的には繰り返しを無限に続けた極限では真の解を与える計算法を、無限回の操作を行うことは現実にはできないので、繰り返しをある有限回までで打ち切って得られた近似解の真の解との差である。たとえば右の欄にある 3 x 3 + 4 = 28 {\displaystyle 3x^{3}+4=28} を解く問題で、10回程度の反復では、解は約 1.99 となる。このとき打ち切り誤差は 0.01 である。一般には(丸め誤差の影響を無視すれば)反復回数を十分に増やせばこの誤差は減少する。またたとえば収束する無限級数の和を、最初のある項数までの有限部分和に置き換えた場合の誤差も、打ち切り誤差である。 コンピュータは有限個の素子からできていて一般には無限の自由度は扱えないので、本来は連続無限の自由度を持つ問題に対して何らかの近似を導入することにより有限の自由度の問題として定式化する作業のことを問題の離散化という。 たとえば微分方程式は独立変数も従属変数も連続量であるが、それに対して計算点として有限個の分点を代表として選び、微分方程式中の微分を差分で近似して置き換える「差分近似」を行うと、それにより元の微分方程式とは異なる有限個の自由度に対する差分方程式が得られる。差分方程式はテイラー展開の剰余項を微小であると仮定して無視する近似から得られるものであるから、通常その解は元の微分方程式の解には一致しない。このように離散化近似によって得られる近似解の持つ元の方程式の真の解に対する誤差のことを離散化誤差という。この種類の誤差を減らすためには、より高次の離散化近似方法をとる、近似に用いる自由度(計算点の個数)をより多くするなどの方法がある。(なお微分方程式の離散化の方法は差分法だけではなくて、問題の性質や近似手法に応じていろいろなものがある。) 上述までの誤差は、与えられたモデルを「正しく」解いているか、という観点からの誤差であるが、その対立概念として、元の基礎方程式に関して、「正しい」式を解いているか、という問題がある。例えば非線形現象を線形近似することなどがこれに相当する。これは数値解析というより、元の問題が属する科学分野の問題ではあるが、基礎方程式が誤っている(実現象のモデルとして不適切である)場合には上述の誤差を減らしても解が実現象を正しく表すとは限らないため、解の誤差評価をする際には必ず検討しなければならないことである。この検証過程では定式化や仮説における誤り、モデルの適用限界などに対する考察が必要になる。 入力や計算の途中に発生した誤差は計算の過程で後に伝播していく。実際、電卓やコンピュータでの(浮動小数点数の)加算は正確ではなく、反復計算をすると計算はさらに不正確になっていく。このような誤差の研究から数値的安定性の概念が生まれた。あるアルゴリズムが数値的に安定であるとは、誤差が発生・伝播したときに計算が進むにつれてその誤差があまり拡大しないことを意味する。これは問題が良条件の場合にのみ可能である。良条件とは、データが少しだけ変化したとき、解も少しだけ変化するような性質を持つことを意味する。逆に問題が悪条件であれば、データに含まれる誤差は大きく成長する。 しかし、良条件の問題であってもそれを解くアルゴリズムが数値的に安定であるとは限らない。数値解析の技術は、良条件の問題を解く安定なアルゴリズムを見つけるためにある。例えば、2の平方根(約 1.41421)の計算は良条件問題である。この問題を解く多くのアルゴリズムは、初期近似値 x1 から開始して 2 {\displaystyle {\sqrt {2}}} になるべく近い値を求めようとする。つまり、x1=1.4 として、よりよい近似値を x2、x3、...と計算していく。有名なアルゴリズムとしてバビロニアの平方根があり、この場合の式は xk+1 = xk/2 + 1/xk である。別の方法として、例えば、xk + 1 = (xk−2) + xk という式を使うとする(仮に Method X とよんでおく)。この2つのアルゴリズムについて、x1 = 1.4 と x1 = 1.42 の場合の反復結果の一部を以下に示す。 見ての通り、バビロニアの平方根は初期値がどうであっても素早く収束するが、Method X は初期値が1.4の時は収束が遅く、1.42を初期値にすると発散する。したがって、バビロニアの平方根は数値的に安定だが、Method X は数値的に不安定である。 近似値の計算を行うのと同時に計算に含まれる丸め誤差、打切り誤差、離散化誤差をすべて(数学的な意味で)厳密に評価する技術を精度保証付き数値計算という。 区間演算やアフィン演算のような手法では、近似値の代わりに真値を含む区間を与える。 さまざまな数値計算法について結果の精度を保証をするものにする動きが進みつつある。例えば微分方程式の分野では解析的な方法では解の存在の証明が困難な問題に対する数値的なアプローチが確立されつつある。 力学系の研究にも応用されており、有力な道具として注目されている。 数値解析は、解こうとしている問題によっていくつかの分野に分かれる。 最も単純な問題は、関数のある点での値を求めることである。単純に数式に値を代入する直接的な手法は、効率的でないこともある。多項式の場合、ホーナー法を使うことで乗算と加算の回数を減らすことができる。一般に、浮動小数点演算を使うことで生じる丸め誤差を予測して制御することが重要となる。 補間が役立つのは、ある未知の関数のいくつかの点の値があるとき、それら以外の中間点でのその関数の値を求める場合である。単純な手法としては線型補間があり、既知の点の間で関数が線型に変化するとみなすものである。これを一般化した多項式補間はもっと正確となることが多いが、ルンゲ現象に悩まされることもある。その他の補間手法としてはスプラインやウェーブレットといった局所化関数を使うものがある。 補外は補間とよく似ているが、未知の関数の値が判っている点の外側の点について値を求めることをいう。 回帰も類似した手法だが、既存のデータが不正確であることを考慮する。いくつかの点とその値があり、それらデータが誤差を含みつつ何らかの関数に従っているとして、その未知の関数を決定する。このための手法として、最小二乗法がよく知られている。 基本的な問題のひとつとして、与えられた方程式の解を計算する問題がある。その方程式が線型か否かによって手法が分類される。例えば、 2 x + 5 = 3 {\displaystyle 2x+5=3} は線型だが、 2 x 2 + 5 = 3 {\displaystyle 2x^{2}+5=3} は線型ではない。 線型方程式系を解く手法については研究が進んでいる。標準的な直接解法としては何らかの行列分解を使うものがあり、ガウスの消去法、LU分解、対称行列やエルミート行列に関するコレスキー分解、非正方行列に関するQR分解がある。反復解法としては、ヤコビ法、ガウス=ザイデル法、SOR法、共役勾配法があり、大規模な方程式系でよく使われる。 非線型方程式には求根アルゴリズムが用いられる(根とは、関数の値がゼロとなる変数の値を意味する)。関数が可微分で導関数を導き出せる場合には、適切な初期値から開始してニュートン法が利用されることが多い 。他にも線型化などの手法がある。 固有値分解や特異値分解も重要な問題である。例えば、Spectral Image Compression は特異値分解に基づいたアルゴリズムである。これに対応した統計学のツールを主成分分析という。例えば、World Wide Web上での話題トップ100を自動的に抽出し、各Webページをどの話題に属するか分類するといった作業で使われる。 最適化問題は、与えられた関数が最大(または最小)となる点を求める問題である。解には条件として何らかの制約(等式による関係あるいは不等式による関係)を課すことがよくある。 最適化問題はさらに、関数や制約の形式によっていくつかに分類される。例えば、線形計画問題は関数と制約条件の式が共に線型である場合を扱う。線形計画問題の解法としては、シンプレックス法や内点法などが挙げられる。 制約条件付きの最適化問題を制約条件のない問題の形に変換するためにラグランジュの未定乗数法が用いられる。 数値積分(数値的求積法)では、与えられた領域に於ける定積分の値を求める。一般的な手法としては、ニュートン・コーツ系の公式(中点法やシンプソンの公式)やガウスの求積法、二重指数関数型数値積分公式などがある。これらは分割統治戦略に基づいて、大きな領域についての積分を小さな領域の積分に分割して値を求める。これらの手法は領域が高次元であると計算の手間が膨大となり適用が困難になるので、高次元の場合には計算量が領域の空間次元にあまり依存しないモンテカルロ法や準モンテカルロ法などのサンプリング平均により定積分の値を推定する手法がよく用いられる。 数値解析では、微分方程式(常微分方程式や偏微分方程式)を(近似的に)解く問題も扱う。 偏微分方程式を解くには、まずなんらかの方法に基づいて方程式の離散化近似を行い、有限次元の部分空間で計算を行う。そのような手法として、有限要素法、差分法、特に工学分野で使われる有限体積法などを挙げることができる。これらの手法は関数解析学の定理などに基づいている。これら各種の離散化近似手法により生じた有限自由度の連立代数関係式を何らかの手段で正確にあるいは近似して解くことにより、求めたい微分方程式の近似解を得るようにする。 20世紀後半以降、多くの数値計算アルゴリズムはコンピュータ上に向けて実装され、実行されてきた。Netlib には数値解析用の各種ルーチンのソースコードがあり、その多くはFORTRANとC言語により書かれている。各種の数値解析アルゴリズムを実装した商用ライブラリ製品としては IMSL や NAG などがある。オープンな(ソースコードが開示されていて、利用や改変の際の自由度が高い)ものの例としては GNU Scientific Library を挙げることができる。 MATLABは行列計算を中心とする数値計算用の商用プログラミング言語として有名だが、他にも商用ではSAS(統計解析用) 、SPSS(統計解析用)、S-PLUS、IDL などがある。 フリーソフトとして、「MATLAB」と互換性の高い Scilab・GNU Octave・FreeMat、「S言語」や「S-PLUS」の言語仕様に準じるR言語、SPSS の代替を目指す PSPP や gretl、そのほかIT++(C++ライブラリ)、Pythonのライブラリ・パッケージである (SciPy、NumPy) など、様々な数値解析ソフトウェアが使われている。 性能も様々で、ベクトルや行列の演算は一般に高速だが、スカラーのループは10倍以上の差があるものもある。 Mathematica や Maple のような数式処理システム(記号処理システム)は多くの場合に浮動小数点数値の計算機能も含むので数値計算用途にも(性能や効率を問わなければ)一応は使える。SageMath は数値計算と数式処理計算の両方を備えた統合システムである。また、簡単な問題であればMicrosoft Excelなどの表計算ソフトを用いてでも扱える場合がある。
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"電子計算機(コンピュータ)の発明以前、数値計算には数表や補助的な計算機も用いられたものの、アルゴリズムの適用は人の手によるところが大きかった。 コンピュータの発明により、汎用的なプログラミングが可能になり、また人の手より速くより多くの計算を実行できるようになった。種々のアルゴリズムのプログラムが実装され、またコンピュータ自身の特性に合わせてアルゴリズムが考案されるようになった。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "数値解析の目標は、難しい問題への近似解を与える技法の設計と解析である。この考え方を具体化するため、次のような問題と手法を挙げる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "数値的手段による解析のための計算は、コンピュータの発明以前から多くの国々で行われていた。線型補間は2000年以上前から行われている。ニュートン法、ラグランジュ補間、ガウスの消去法、オイラー法などの名称からも分かるように、歴史上の偉大な数学者の多くが数値的手段による解析にも注力した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "計算を能率化しまた計算の誤りをなるべく減らすために、公式や数表を掲載した印刷物である数表が作られた。例えば関数値を小数点以下16桁まで与える数表を使って、必要に応じて補間を行うことで、関数の精度の良い近似値を得ることができた。この分野での典型的な業績の例として、アブラモビッツ(英語版)とステガン(英語版)の編集したNISTの書籍などが挙げられる(通称“Abramowitz and Stegun”。これは1000ページを超えるもので、典型的な公式、計算式、近似式や関数の数表やグラフなどを多数集めている。コンピュータが利用可能になった後には数表そのものは(関数値のルーチンを作る作業者が計算値の検証に使う場合を除いて)あまり役に立つ機会がなくなったが、公式、計算式、近似式が多く集められており、今日でも数値計算分野にとっては有用性がある)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "機械式計算機やリレー式のデジタル計算機も計算のツールとして開発された。そのような計算機が1940年代に電子式のコンピュータへと進化した。デジタル式のコンピュータは数値の計算以外にも使える機材であるが、例えばENIACの開発目標は、高速な数値計算を行うための機械の実現であった。その後はさらに複雑な計算がより高速に行えるようになっている。(計算機械にはデジタル式以外にもアナログ方式のものがある。例えば計算尺は一種のアナログ式の計算デバイスであるし、機械式や電気式、電子的のアナログ方式のコンピュータもデジタル方式のコンピュータが低価格となりごく当たり前になる以前には良く用いられていた。アナログ方式の弱点は、素子の物理的な特性から決まる誤差やノイズによりある程度以上の高精度な計算を行うことが困難であることや、動作を決めるためのプログラミングは機構や回路そのもので実現するので、ストアドプログラミング方式が実現容易なデジタル方式と違って変更が素早くできないので、用途が専用機械になりがちなことである。)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "直接解法は、問題の解を有限個のステップで計算する。その解は、演算精度が無限ならば正確である。例えば、線型方程式系を解くガウスの消去法やQR分解、線形計画問題のシンプレックス法などがある。実際には有限精度の浮動小数点数が使われるため、得られる解は近似値となる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "これに対して反復解法は一定のステップ数で完了するとは限らない。ある初期予測値から開始して、反復的に計算を行って徐々に解に収束させていく。一般にこの場合、たとえ無限の精度で計算したとしても、有限回の反復では正確な解にたどり着くことはない。例として、ニュートン法、二分法、ヤコビ法などがある。数値線形代数の大規模な問題には、反復解法が一般に必要とされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "数値解析では、反復解法が直接解法よりも一般的である。いくつかの手法は基本的には直接解法だが、GMRES法 や共役勾配法などのように、反復解法として使うことも多い。これらの技法では厳密解を得るために必要なステップ数が大きくなるため、反復解法として利用して近似解を求める。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "さらに、連続問題を近似的に離散問題に置き換えて解くことが必要になる。この置き換え操作を「離散化(discretization)」という。たとえば、微分方程式を解く場合が挙げられる。数値的に微分方程式を解くためには、データの数が有限でなければ現実には扱うことができない。そこでたとえば微分方程式の定義領域が連続なものであっても、そのなかから有限個の点を適切に代表点として選び、元の微分方程式をそれらの点での値についてだけの関係に置き換えて扱う。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "誤差の研究は、数値解析の重要な一分野である。解に誤差が入り込む原因はいくつかある。", "title": "誤差の発生と伝播" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アルゴリズムや計算プログラムに与える入力データ自身が持つ誤差。たとえば入力するデータがそれ自身が既に丸められた値である場合。 あるいは入力する数値を指定された有限桁の浮動小数点数に丸めることでも発生する(たとえば10進数で0.1を入力してもそれをプログラムの内部で2進数にして扱うとすると,0.1は2進数で表現すれば循環小数になるから有限桁数では正確には表せず,それを内部で扱う桁数に丸めて扱うとその段階で丸め誤差が入る。2の平方根や3の自然対数、円周率などの無理数の厳密な値は10進でも2進でも無限に続く小数になるがそれらをプログラム中で有限桁数の小数として近似して扱うならその段階で既に丸め誤差が入る)。あるいは入力が測定や観測から得られるものの場合には,一般的には真の値は未知であり,データ自身が確率的な振る舞いを持った観測誤差を伴う。", "title": "誤差の発生と伝播" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "有限な素子から構成されているデジタルコンピューターは内部状態の数も有限であり,1つであっても無限の情報(無限の桁数)を持ちうる実数の値を正確に表現することは一般にはできない。 また,ある決まった桁数で表された数値であっても、それらに対する四則演算の結果の値は一般には同じ桁数では正確に表わせないのでそれを決まった有限の桁数に収める(丸める)とすれば、 端数処理にともなう誤差が発生する。この誤差を丸め誤差という。丸め誤差自身は計算を倍精度で行うなど、計算に用いる数値の表現とそれらに対する演算の精度を上げることによって減らすことができる。", "title": "誤差の発生と伝播" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "打ち切り誤差とは、数学的には繰り返しを無限に続けた極限では真の解を与える計算法を、無限回の操作を行うことは現実にはできないので、繰り返しをある有限回までで打ち切って得られた近似解の真の解との差である。たとえば右の欄にある 3 x 3 + 4 = 28 {\\displaystyle 3x^{3}+4=28} を解く問題で、10回程度の反復では、解は約 1.99 となる。このとき打ち切り誤差は 0.01 である。一般には(丸め誤差の影響を無視すれば)反復回数を十分に増やせばこの誤差は減少する。またたとえば収束する無限級数の和を、最初のある項数までの有限部分和に置き換えた場合の誤差も、打ち切り誤差である。", "title": "誤差の発生と伝播" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "コンピュータは有限個の素子からできていて一般には無限の自由度は扱えないので、本来は連続無限の自由度を持つ問題に対して何らかの近似を導入することにより有限の自由度の問題として定式化する作業のことを問題の離散化という。 たとえば微分方程式は独立変数も従属変数も連続量であるが、それに対して計算点として有限個の分点を代表として選び、微分方程式中の微分を差分で近似して置き換える「差分近似」を行うと、それにより元の微分方程式とは異なる有限個の自由度に対する差分方程式が得られる。差分方程式はテイラー展開の剰余項を微小であると仮定して無視する近似から得られるものであるから、通常その解は元の微分方程式の解には一致しない。このように離散化近似によって得られる近似解の持つ元の方程式の真の解に対する誤差のことを離散化誤差という。この種類の誤差を減らすためには、より高次の離散化近似方法をとる、近似に用いる自由度(計算点の個数)をより多くするなどの方法がある。(なお微分方程式の離散化の方法は差分法だけではなくて、問題の性質や近似手法に応じていろいろなものがある。)", "title": "誤差の発生と伝播" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "上述までの誤差は、与えられたモデルを「正しく」解いているか、という観点からの誤差であるが、その対立概念として、元の基礎方程式に関して、「正しい」式を解いているか、という問題がある。例えば非線形現象を線形近似することなどがこれに相当する。これは数値解析というより、元の問題が属する科学分野の問題ではあるが、基礎方程式が誤っている(実現象のモデルとして不適切である)場合には上述の誤差を減らしても解が実現象を正しく表すとは限らないため、解の誤差評価をする際には必ず検討しなければならないことである。この検証過程では定式化や仮説における誤り、モデルの適用限界などに対する考察が必要になる。", "title": "誤差の発生と伝播" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "入力や計算の途中に発生した誤差は計算の過程で後に伝播していく。実際、電卓やコンピュータでの(浮動小数点数の)加算は正確ではなく、反復計算をすると計算はさらに不正確になっていく。このような誤差の研究から数値的安定性の概念が生まれた。あるアルゴリズムが数値的に安定であるとは、誤差が発生・伝播したときに計算が進むにつれてその誤差があまり拡大しないことを意味する。これは問題が良条件の場合にのみ可能である。良条件とは、データが少しだけ変化したとき、解も少しだけ変化するような性質を持つことを意味する。逆に問題が悪条件であれば、データに含まれる誤差は大きく成長する。", "title": "誤差の発生と伝播" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "しかし、良条件の問題であってもそれを解くアルゴリズムが数値的に安定であるとは限らない。数値解析の技術は、良条件の問題を解く安定なアルゴリズムを見つけるためにある。例えば、2の平方根(約 1.41421)の計算は良条件問題である。この問題を解く多くのアルゴリズムは、初期近似値 x1 から開始して 2 {\\displaystyle {\\sqrt {2}}} になるべく近い値を求めようとする。つまり、x1=1.4 として、よりよい近似値を x2、x3、...と計算していく。有名なアルゴリズムとしてバビロニアの平方根があり、この場合の式は xk+1 = xk/2 + 1/xk である。別の方法として、例えば、xk + 1 = (xk−2) + xk という式を使うとする(仮に Method X とよんでおく)。この2つのアルゴリズムについて、x1 = 1.4 と x1 = 1.42 の場合の反復結果の一部を以下に示す。", "title": "誤差の発生と伝播" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "見ての通り、バビロニアの平方根は初期値がどうであっても素早く収束するが、Method X は初期値が1.4の時は収束が遅く、1.42を初期値にすると発散する。したがって、バビロニアの平方根は数値的に安定だが、Method X は数値的に不安定である。", "title": "誤差の発生と伝播" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "近似値の計算を行うのと同時に計算に含まれる丸め誤差、打切り誤差、離散化誤差をすべて(数学的な意味で)厳密に評価する技術を精度保証付き数値計算という。", "title": "誤差の発生と伝播" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "区間演算やアフィン演算のような手法では、近似値の代わりに真値を含む区間を与える。", "title": "誤差の発生と伝播" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "さまざまな数値計算法について結果の精度を保証をするものにする動きが進みつつある。例えば微分方程式の分野では解析的な方法では解の存在の証明が困難な問題に対する数値的なアプローチが確立されつつある。 力学系の研究にも応用されており、有力な道具として注目されている。", "title": "誤差の発生と伝播" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "数値解析は、解こうとしている問題によっていくつかの分野に分かれる。", "title": "研究分野" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "最も単純な問題は、関数のある点での値を求めることである。単純に数式に値を代入する直接的な手法は、効率的でないこともある。多項式の場合、ホーナー法を使うことで乗算と加算の回数を減らすことができる。一般に、浮動小数点演算を使うことで生じる丸め誤差を予測して制御することが重要となる。", "title": "研究分野" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "補間が役立つのは、ある未知の関数のいくつかの点の値があるとき、それら以外の中間点でのその関数の値を求める場合である。単純な手法としては線型補間があり、既知の点の間で関数が線型に変化するとみなすものである。これを一般化した多項式補間はもっと正確となることが多いが、ルンゲ現象に悩まされることもある。その他の補間手法としてはスプラインやウェーブレットといった局所化関数を使うものがある。", "title": "研究分野" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "補外は補間とよく似ているが、未知の関数の値が判っている点の外側の点について値を求めることをいう。", "title": "研究分野" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "回帰も類似した手法だが、既存のデータが不正確であることを考慮する。いくつかの点とその値があり、それらデータが誤差を含みつつ何らかの関数に従っているとして、その未知の関数を決定する。このための手法として、最小二乗法がよく知られている。", "title": "研究分野" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "基本的な問題のひとつとして、与えられた方程式の解を計算する問題がある。その方程式が線型か否かによって手法が分類される。例えば、 2 x + 5 = 3 {\\displaystyle 2x+5=3} は線型だが、 2 x 2 + 5 = 3 {\\displaystyle 2x^{2}+5=3} は線型ではない。", "title": "研究分野" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "線型方程式系を解く手法については研究が進んでいる。標準的な直接解法としては何らかの行列分解を使うものがあり、ガウスの消去法、LU分解、対称行列やエルミート行列に関するコレスキー分解、非正方行列に関するQR分解がある。反復解法としては、ヤコビ法、ガウス=ザイデル法、SOR法、共役勾配法があり、大規模な方程式系でよく使われる。", "title": "研究分野" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "非線型方程式には求根アルゴリズムが用いられる(根とは、関数の値がゼロとなる変数の値を意味する)。関数が可微分で導関数を導き出せる場合には、適切な初期値から開始してニュートン法が利用されることが多い 。他にも線型化などの手法がある。", "title": "研究分野" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "固有値分解や特異値分解も重要な問題である。例えば、Spectral Image Compression は特異値分解に基づいたアルゴリズムである。これに対応した統計学のツールを主成分分析という。例えば、World Wide Web上での話題トップ100を自動的に抽出し、各Webページをどの話題に属するか分類するといった作業で使われる。", "title": "研究分野" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "最適化問題は、与えられた関数が最大(または最小)となる点を求める問題である。解には条件として何らかの制約(等式による関係あるいは不等式による関係)を課すことがよくある。", "title": "研究分野" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "最適化問題はさらに、関数や制約の形式によっていくつかに分類される。例えば、線形計画問題は関数と制約条件の式が共に線型である場合を扱う。線形計画問題の解法としては、シンプレックス法や内点法などが挙げられる。", "title": "研究分野" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "制約条件付きの最適化問題を制約条件のない問題の形に変換するためにラグランジュの未定乗数法が用いられる。", "title": "研究分野" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "数値積分(数値的求積法)では、与えられた領域に於ける定積分の値を求める。一般的な手法としては、ニュートン・コーツ系の公式(中点法やシンプソンの公式)やガウスの求積法、二重指数関数型数値積分公式などがある。これらは分割統治戦略に基づいて、大きな領域についての積分を小さな領域の積分に分割して値を求める。これらの手法は領域が高次元であると計算の手間が膨大となり適用が困難になるので、高次元の場合には計算量が領域の空間次元にあまり依存しないモンテカルロ法や準モンテカルロ法などのサンプリング平均により定積分の値を推定する手法がよく用いられる。", "title": "研究分野" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "数値解析では、微分方程式(常微分方程式や偏微分方程式)を(近似的に)解く問題も扱う。", "title": "研究分野" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "偏微分方程式を解くには、まずなんらかの方法に基づいて方程式の離散化近似を行い、有限次元の部分空間で計算を行う。そのような手法として、有限要素法、差分法、特に工学分野で使われる有限体積法などを挙げることができる。これらの手法は関数解析学の定理などに基づいている。これら各種の離散化近似手法により生じた有限自由度の連立代数関係式を何らかの手段で正確にあるいは近似して解くことにより、求めたい微分方程式の近似解を得るようにする。", "title": "研究分野" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "20世紀後半以降、多くの数値計算アルゴリズムはコンピュータ上に向けて実装され、実行されてきた。Netlib には数値解析用の各種ルーチンのソースコードがあり、その多くはFORTRANとC言語により書かれている。各種の数値解析アルゴリズムを実装した商用ライブラリ製品としては IMSL や NAG などがある。オープンな(ソースコードが開示されていて、利用や改変の際の自由度が高い)ものの例としては GNU Scientific Library を挙げることができる。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "MATLABは行列計算を中心とする数値計算用の商用プログラミング言語として有名だが、他にも商用ではSAS(統計解析用) 、SPSS(統計解析用)、S-PLUS、IDL などがある。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "フリーソフトとして、「MATLAB」と互換性の高い Scilab・GNU Octave・FreeMat、「S言語」や「S-PLUS」の言語仕様に準じるR言語、SPSS の代替を目指す PSPP や gretl、そのほかIT++(C++ライブラリ)、Pythonのライブラリ・パッケージである (SciPy、NumPy) など、様々な数値解析ソフトウェアが使われている。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "性能も様々で、ベクトルや行列の演算は一般に高速だが、スカラーのループは10倍以上の差があるものもある。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "Mathematica や Maple のような数式処理システム(記号処理システム)は多くの場合に浮動小数点数値の計算機能も含むので数値計算用途にも(性能や効率を問わなければ)一応は使える。SageMath は数値計算と数式処理計算の両方を備えた統合システムである。また、簡単な問題であればMicrosoft Excelなどの表計算ソフトを用いてでも扱える場合がある。", "title": "ソフトウェア" } ]
数値解析は、計算機代数とは対照的に、数値計算によって解析学の問題を近似的に解く数学の一分野である。 数値解析は自然科学および工学のあらゆる分野に応用がある。計算言語学や社会統計学のように、人文科学や社会科学でも重要である。 現在知られている人類史における最初期の数学的記述の一つとして、バビロニアの粘土板 YBC 7289 を挙げることができる。YBC 7289 は正方形の対角線の長さを近似したものと考えられ、結果として 2 の(六十進法による)近似値を含んでいる。 電子計算機(コンピュータ)の発明以前、数値計算には数表や補助的な計算機も用いられたものの、アルゴリズムの適用は人の手によるところが大きかった。 コンピュータの発明により、汎用的なプログラミングが可能になり、また人の手より速くより多くの計算を実行できるようになった。種々のアルゴリズムのプログラムが実装され、またコンピュータ自身の特性に合わせてアルゴリズムが考案されるようになった。
[[画像:Ybc7289-bw.jpg|thumb|250px|right|[[バビロニア]]の[[粘土板]] YBC 7289 (紀元前1800-1600年頃)。[[2の平方根]]の近似値は[[六十進法]]で4桁、[[十進法]]では約6桁に相当する。{{math|1=1 + 24/60 + 51/60<sup>2</sup> + 10/60<sup>3</sup> = 1.41421296...}} [http://www.math.ubc.ca/~cass/Euclid/ybc/ybc.html]。(Image by Bill Casselman)]] '''数値解析'''(すうちかいせき、{{lang-en-short|numerical analysis}})は、{{仮リンク|label=計算機代数|計算機代数学|en|Computer algebra}}とは対照的に、数値計算によって[[解析学]]の問題を[[近似]]的に解く[[数学]]の一分野である。 (狭義には「数値解析」とは「数値計算方法」の数学的な解析・分析(mathematical analysis of numerical methods)のことであり,広義の意味=数値を使って問題の解析・分析を行う(Analysis by numerical methods)・式でなく数値で計算を行う「数値計算」(numerical computation, numerical calculation)全般とは区別される。しかし世間一般には両者はあまり区別されていない。理学工学等の分野の応用として計算を行う場合には普通は広義の意味で「数値解析」と称している。このWikipediaでも区別がなされていない。本来この頁のタイトルは「数値解析」ではなくて「数値計算」とする方が正しい。その場合の「数値計算」とは問題を解くための計算を数式を使って行うのではなくてもっぱら数値を使って行うのだという意味合いがある。) 数値解析は自然科学および工学のあらゆる分野に応用がある。[[計算言語学]]<ref>長尾真. (1986). 計算言語学: 計算言語学の歴史と展望. 情報処理, 27(8).</ref>や[[社会統計学]]<ref>安田三郎. (1977). 社会統計学. 丸善.</ref>のように、[[人文科学]]や[[社会科学]]でも重要である。 現在知られている人類史における最初期の数学的記述の一つとして、[[バビロニア数学|バビロニア]]の[[粘土板]] [[YBC 7289]] を挙げることができる。YBC 7289 は[[正方形]]の[[対角線]]の[[長さ]]を近似したものと考えられ、結果として <math>\sqrt{2}</math> の([[六十進法]]による)近似値を含んでいる<ref>[http://it.stlawu.edu/%7Edmelvill/mesomath/tablets/YBC7289.html Photograph, illustration, and description of the ''root(2)'' tablet from the Yale Babylonian Collection]</ref>。 電子計算機([[コンピュータ]])の発明以前、数値計算には[[数表]]や補助的な計算機も用いられたものの、[[アルゴリズム]]の適用は人の手によるところが大きかった。 コンピュータの発明により、汎用的な[[プログラミング]]が可能になり、また人の手より速くより多くの計算を実行できるようになった。種々のアルゴリズムのプログラムが実装され、またコンピュータ自身の特性に合わせてアルゴリズムが考案されるようになった<ref name="20c">Brezinski, C., & Wuytack, L. (2012). Numerical analysis: Historical developments in the 20th century. Elsevier.</ref>。 == 概要 == 数値解析の目標は、難しい問題への近似解を与える技法の設計と解析である。この考え方を具体化するため、次のような問題と手法を挙げる。 * [[数値予報|気象予報]]には、高度な数値計算手法が不可欠である。 * ロケットの軌道を計算するためには、[[常微分方程式]]の高精度な数値解が必要となる。 * 自動車会社は自動車事故での安全性を向上させるため、衝突のコンピュータシミュレーションを行っている。そのようなシミュレーションには、[[偏微分方程式]]の数値計算が不可欠である。 * [[ヘッジファンド]]は様々な数値解析ツールを駆使し、他の市場参加者よりも正確に株やデリバティブの価値を計算しようとする。 * 航空会社は、チケット価格設定、航空機や乗務員のスケジュール設定、燃料補給のスケジュール設定などに洗練された最適化アルゴリズムを利用する。この分野は[[オペレーションズ・リサーチ]]とも呼ばれる。 * 保険会社は[[アクチュアリー]]分析に数値解析プログラムを利用する。 === 歴史 === 数値的手段による解析のための計算は、コンピュータの発明以前から多くの国々で行われていた。[[線型補間]]は2000年以上前から行われている。[[ニュートン法]]、[[ラグランジュ補間]]、[[ガウスの消去法]]、[[オイラー法]]などの名称からも分かるように、歴史上の偉大な数学者の多くが数値的手段による解析にも注力した<ref name="20c"/>。 計算を能率化しまた計算の誤りをなるべく減らすために、公式や数表を掲載した印刷物である[[数表]]が作られた。例えば関数値を小数点以下16桁まで与える数表を使って、必要に応じて補間を行うことで、関数の精度の良い近似値を得ることができた。この分野での典型的な業績の例として、{{仮リンク|ミルトン・アブラモビッツ|en|Milton Abramowitz|label=アブラモビッツ}}と{{仮リンク|アイリーン・ステガン|en|Irene Stegun|label=ステガン}}の編集した[[アメリカ国立標準技術研究所|NIST]]の書籍などが挙げられる(通称“[[Abramowitz and Stegun]]”。これは1000ページを超えるもので、典型的な公式、計算式、近似式や関数の数表やグラフなどを多数集めている。コンピュータが利用可能になった後には数表そのものは(関数値のルーチンを作る作業者が計算値の検証に使う場合を除いて)あまり役に立つ機会がなくなったが、公式、計算式、近似式が多く集められており、今日でも数値計算分野にとっては有用性がある)。 [[機械式計算機]]やリレー式のデジタル計算機も計算のツールとして開発された。そのような計算機が1940年代に電子式のコンピュータへと進化した。デジタル式のコンピュータは数値の計算以外にも使える機材であるが、例えば[[ENIAC]]の開発目標は、高速な数値計算を行うための機械の実現であった。その後はさらに複雑な計算がより高速に行えるようになっている。(計算機械にはデジタル式以外にもアナログ方式のものがある。例えば計算尺は一種のアナログ式の計算デバイスであるし、機械式や電気式、電子的のアナログ方式のコンピュータもデジタル方式のコンピュータが低価格となりごく当たり前になる以前には良く用いられていた。アナログ方式の弱点は、素子の物理的な特性から決まる誤差やノイズによりある程度以上の高精度な計算を行うことが困難であることや、動作を決めるためのプログラミングは機構や回路そのもので実現するので、ストアドプログラミング方式が実現容易なデジタル方式と違って変更が素早くできないので、用途が専用機械になりがちなことである。) === 直接解法と反復解法 === {| class="wikitable" style="float: right; width: 250px; margin-left: 1em;" |- | '''直接解法と反復解法''' 次の式を ''x'' について解くことを考える。 :3''x''<sup>3</sup>+4=28 {| align="center" |+ 直接解法 |- | || 3''x''<sup>3</sup> + 4 = 28 |- | ''4を引く'' || 3''x''<sup>3</sup> = 24 |- | ''3で割る'' || ''x''<sup>3</sup> = 8 |- | ''立方根を求める'' || ''x'' = 2 |} 反復解法では、''f''(''x'') = 3''x''<sup>3</sup> + 4 に[[二分法]]を適用する。初期値として ''a'' = 0 と ''b'' = 3 を使うと、''f''(''a'') = 4、''f''(''b'') = 85 である。 {| align="center" |+ 反復解法 |- | ''a'' || ''b'' || mid || ''f''(mid) |- | 0 || 3 || 1.5 || 14.125 |- | 1.5 || 3 || 2.25 || 38.17... |- | 1.5 || 2.25 || 1.875 || 23.77... |- | 1.875 || 2.25 || 2.0625 || 30.32... |} ここまでで、解は 1.875 と 2.0625 の間にあるとわかる。このアルゴリズムでは、誤差 0.2 未満でこの範囲にある任意の値を返す。 ==== 離散化と数値積分 ==== [[画像:Schumacher (Ferrari) in practice at USGP 2005.jpg|right|125px]] 2時間のレースで、自動車の速度を3回測定した結果が次表のようになっている。 時間 0:20 1:00 1:40 km/h 140 150 180 '''離散化'''とは、この場合、0:00 から 0:40 までの自動車の速度が一定とみなし、同様に 0:40 から 1:20 までと、1:20 から 2:00 までも一定とみなすことである。すると、最初の40分の走行距離は約 (2/3h x 140 km/h)=93.3 km となる。したがって、全走行距離は 93.3 km + 100 km + 120 km = 313.3 km と見積もられる。これが[[積分法|リーマン和]]を使った一種の'''数値積分'''である(走行距離は速度の[[積分]]であるため)。 '''悪条件問題''': 関数 ''f''(''x'') = 1/(''x'' − 1) を考える。''f''(1.1) = 10 で ''f''(1.001) = 1000 である。''x'' が 0.1 の範囲内で変化したとき、''f''(''x'') は約1000も変化する。この ''f''(''x'') の ''x'' = 1 での評価は悪条件問題である。 '''良条件問題''': 対照的に関数 <math>f(x)=\sqrt{x}</math> は連続であるため、その評価は良条件である。 |} 直接解法は、問題の解を有限個のステップで計算する。その解は、演算精度が無限ならば正確である。例えば、[[線型方程式系]]を解く[[ガウスの消去法]]や[[QR分解]]、[[線形計画問題]]の[[シンプレックス法]]などがある。実際には有限精度の[[浮動小数点数]]が使われるため、得られる解は近似値となる。 これに対して[[反復法 (数値計算)|反復解法]]は一定のステップ数で完了するとは限らない。ある初期予測値から開始して、反復的に計算を行って徐々に解に収束させていく。一般にこの場合、たとえ無限の精度で計算したとしても、有限回の反復では正確な解にたどり着くことはない。例として、[[ニュートン法]]、[[二分法]]、[[ヤコビ法]]などがある。[[数値線形代数]]の大規模な問題には、反復解法が一般に必要とされる<ref>線形方程式の反復解法、 一般社団法人 日本計算工学会 編、藤野清次 著、阿部邦美 著、杉原正顯 著、丸善出版、2013年09月。</ref><ref>藤野清次, & 張紹良. (1996). 反復法の数理. 朝倉書店.</ref><ref>Saad, Y. (2003). Iterative methods for sparse linear systems. SIAM.</ref><ref>Hageman, L. A., & Young, D. M. (2012). Applied iterative methods. Courier Corporation.</ref><ref>Traub, J. F. (1982). Iterative methods for the solution of equations. American Mathematical Society.</ref><ref>Greenbaum, A. (1997). Iterative methods for solving linear systems. SIAM.</ref>。 数値解析では、反復解法が直接解法よりも一般的である。いくつかの手法は基本的には直接解法だが、[[GMRES法]] や[[共役勾配法]]などのように、反復解法として使うことも多い。これらの技法では厳密解を得るために必要なステップ数が大きくなるため、反復解法として利用して近似解を求める。 === 離散化 === さらに、連続問題を近似的に離散問題に置き換えて解くことが必要になる。この置き換え操作を「離散化(discretization)」という。たとえば、[[微分方程式]]を解く場合が挙げられる。数値的に微分方程式を解くためには、データの数が有限でなければ現実には扱うことができない。そこでたとえば微分方程式の定義領域が連続なものであっても、そのなかから有限個の点を適切に代表点として選び、元の微分方程式をそれらの点での値についてだけの関係に置き換えて扱う。 == 誤差の発生と伝播 == {{see also|誤差#計算誤差の種類}} [[誤差]]の研究は、数値解析の重要な一分野である。解に誤差が入り込む原因はいくつかある。 === 入力誤差 === アルゴリズムや計算プログラムに与える入力データ自身が持つ誤差。たとえば入力するデータがそれ自身が既に丸められた値である場合。 あるいは入力する数値を指定された有限桁の浮動小数点数に丸めることでも発生する(たとえば10進数で0.1を入力してもそれをプログラムの内部で2進数にして扱うとすると,0.1は2進数で表現すれば循環小数になるから有限桁数では正確には表せず,それを内部で扱う桁数に丸めて扱うとその段階で丸め誤差が入る。2の平方根や3の自然対数、円周率などの無理数の厳密な値は10進でも2進でも無限に続く小数になるがそれらをプログラム中で有限桁数の小数として近似して扱うならその段階で既に丸め誤差が入る)。あるいは入力が測定や観測から得られるものの場合には,一般的には真の値は未知であり,データ自身が確率的な振る舞いを持った観測誤差を伴う。 === 丸め誤差 === 有限な素子から構成されているデジタルコンピューターは内部状態の数も有限であり,1つであっても無限の情報(無限の桁数)を持ちうる実数の値を正確に表現することは一般にはできない。 また,ある決まった桁数で表された数値であっても、それらに対する四則演算の結果の値は一般には同じ桁数では正確に表わせないのでそれを決まった有限の桁数に収める(丸める)とすれば、 [[端数処理]]にともなう誤差が発生する。この誤差を'''丸め誤差'''という。丸め誤差自身は計算を[[倍精度]]で行うなど、計算に用いる数値の表現とそれらに対する演算の精度を上げることによって減らすことができる。 === 打ち切り誤差 === '''打ち切り誤差'''とは、数学的には繰り返しを無限に続けた極限では真の解を与える計算法を、無限回の操作を行うことは現実にはできないので、繰り返しをある有限回までで打ち切って得られた近似解の真の解との差である。たとえば右の欄にある <math>3x^3+4=28</math> を解く問題で、10回程度の反復では、解は約 1.99 となる。このとき打ち切り誤差は 0.01 である。一般には(丸め誤差の影響を無視すれば)反復回数を十分に増やせばこの誤差は減少する。またたとえば収束する無限級数の和を、最初のある項数までの有限部分和に置き換えた場合の誤差も、打ち切り誤差である。 === 離散化誤差 === コンピュータは有限個の素子からできていて一般には無限の自由度は扱えないので、本来は連続無限の自由度を持つ問題に対して何らかの近似を導入することにより有限の自由度の問題として定式化する作業のことを問題の離散化という。 たとえば[[微分方程式]]は独立変数も従属変数も連続量であるが、それに対して計算点として有限個の分点を代表として選び、微分方程式中の微分を差分で近似して置き換える「差分近似」を行うと、それにより元の微分方程式とは異なる有限個の自由度に対する[[差分方程式]]が得られる。差分方程式は[[テイラー展開]]の剰余項を微小であると仮定して無視する近似から得られるものであるから、通常その解は元の微分方程式の解には一致しない。このように離散化近似によって得られる近似解の持つ元の方程式の真の解に対する誤差のことを'''[[離散化誤差]]'''という。この種類の誤差を減らすためには、より高次の離散化近似方法をとる、近似に用いる自由度(計算点の個数)をより多くするなどの方法がある。(なお微分方程式の離散化の方法は差分法だけではなくて、問題の性質や近似手法に応じていろいろなものがある。) === モデリング誤差 === 上述までの誤差は、与えられたモデルを「正しく」解いているか、という観点からの誤差であるが、その対立概念として、元の[[基礎方程式]]に関して、「正しい」式を解いているか、という問題がある。例えば非線形現象を[[線形近似]]することなどがこれに相当する。これは数値解析というより、元の問題が属する科学分野の問題ではあるが、基礎方程式が誤っている(実現象のモデルとして不適切である)場合には上述の誤差を減らしても解が実現象を正しく表すとは限らないため、解の誤差評価をする際には必ず検討しなければならないことである。この検証過程では定式化や仮説における誤り、モデルの適用限界などに対する考察が必要になる<ref>{{cite|和書 |author=峯村吉泰 |title=JAVAによる流体・熱流動の数値シミュレーション |publisher=森北出版 |year=2001 |isbn=4-627-91751-1 |page=4}}</ref>。 === 数値的安定性と良条件性 === 入力や計算の途中に発生した誤差は計算の過程で後に伝播していく。実際、電卓やコンピュータでの(浮動小数点数の)加算は正確ではなく、[[反復計算]]をすると計算はさらに不正確になっていく。このような誤差の研究から[[数値的安定性]]の概念が生まれた<ref name="stab">Higham, N. J. (2002). Accuracy and stability of numerical algorithms (Vol. 80). SIAM.</ref>。あるアルゴリズムが'''数値的に安定'''であるとは、誤差が発生・伝播したときに計算が進むにつれてその誤差があまり拡大しないことを意味する<ref name="stab"/>。これは問題が[[条件数|良条件]]の場合にのみ可能である。良条件とは、データが少しだけ変化したとき、解も少しだけ変化するような性質を持つことを意味する<ref name="stab"/>。逆に問題が悪条件であれば、データに含まれる誤差は大きく成長する。 しかし、良条件の問題であってもそれを解くアルゴリズムが数値的に安定であるとは限らない。数値解析の技術は、良条件の問題を解く安定なアルゴリズムを見つけるためにある。例えば、[[2の平方根]](約 1.41421)の計算は良条件問題である{{要出典|date=2012年8月}}。この問題を解く多くのアルゴリズムは、初期近似値 ''x''<sub>1</sub> から開始して <math>\sqrt{2}</math> になるべく近い値を求めようとする。つまり、''x''<sub>1</sub>=1.4 として、よりよい近似値を ''x''<sub>2</sub>、''x''<sub>3</sub>、…と計算していく。有名なアルゴリズムとして[[開平法|バビロニアの平方根]]があり、この場合の式は ''x''<sub>''k''+1</sub> = ''x<sub>k</sub>''/2 + 1/''x<sub>k</sub>'' である。別の方法として、例えば、''x''<sub>''k'' + 1</sub> = (''x''<sub>''k''</sub><sup>2</sup>−2)<sup>2</sup> + ''x''<sub>''k''</sub> という式を使うとする(仮に Method X とよんでおく){{efn|これは <math>x=(x^2-2)^2+x=f(x)</math> という方程式についての[[ニュートン法|不動点反復法]]である。この方程式の解には <math>\sqrt{2}</math> もある。<math>f(x)\geq x</math> なので、反復は常に右方向に向かう。そのため、<math>x_1=1.4<\sqrt{2}</math> では収束するが、<math>x_1=1.42>\sqrt{2}</math> では発散する。}}。この2つのアルゴリズムについて、''x''<sub>1</sub> = 1.4 と ''x''<sub>1</sub> = 1.42 の場合の反復結果の一部を以下に示す。 {| class="wikitable" |- ! バビロニア ! バビロニア ! Method X ! Method X |- | ''x''<sub>1</sub> = 1.4 | ''x''<sub>1</sub> = 1.42 | ''x''<sub>1</sub> = 1.4 | ''x''<sub>1</sub> = 1.42 |- | ''x''<sub>2</sub> = 1.4142857... | ''x''<sub>2</sub> = 1.41422535... | ''x''<sub>2</sub> = 1.4016 | ''x''<sub>2</sub> = 1.42026896 |- | ''x''<sub>3</sub> = 1.414213564... | ''x''<sub>3</sub> = 1.41421356242... | ''x''<sub>3</sub> = 1.4028614... | ''x''<sub>3</sub> = 1.42056... |- | | | ... | ... |- | | | ''x''<sub>1000000</sub> = 1.41421... | ''x''<sub>28</sub> = 7280.2284... |} 見ての通り、バビロニアの平方根は初期値がどうであっても素早く収束するが、Method X は初期値が1.4の時は収束が遅く、1.42を初期値にすると発散する。したがって、バビロニアの平方根は数値的に安定だが、Method X は数値的に不安定である。 ===精度保証付き数値計算=== {{main|精度保証付き数値計算}} 近似値の計算を行うのと同時に計算に含まれる丸め誤差、打切り誤差、離散化誤差をすべて(数学的な意味で)厳密に評価する技術を'''精度保証付き数値計算'''という。 [[区間演算]]や[[アフィン演算]]のような手法では、近似値の代わりに真値を含む区間を与える。 さまざまな数値計算法について結果の精度を保証をするものにする動きが進みつつある。例えば微分方程式の分野では解析的な方法では解の存在の証明が困難な問題に対する数値的なアプローチが確立されつつある<ref>Nakao, M. T., Plum, M., & Watanabe, Y. (2019). Numerical Verification Methods and Computer-Assisted Proofs for Partial Differential Equations. Springer.</ref><ref>Tucker, W. (2011). Validated numerics: a short introduction to rigorous computations. Princeton University Press.</ref>。 [[力学系]]の研究にも応用されており、有力な道具として注目されている<ref>中尾充宏、山本野人:「精度保証付き数値計算―コンピュータによる無限への挑戦」、日本評論社、(1998年)</ref><ref>大石進一:「精度保証付き数値計算」、コロナ社、(2000年)</ref><ref>中尾充宏、渡辺善隆:「実例で学ぶ精度保証付き数値計算」、サイエンス社(2011年)</ref><ref>大石進一編著:「精度保証付き数値計算の基礎」、コロナ社、(2018年)</ref>。 == 研究分野 == 数値解析は、解こうとしている問題によっていくつかの分野に分かれる。 === 関数の値の計算 === {| class="wikitable" style="float: right; width: 250px; clear: right; margin-left: 1em;" | '''補間''': 気温の観測値が1:00には20℃、3:00には14℃だったとする。このデータを線型補間すると、2:00の気温は17℃、1:30の気温は18.5℃となる。 '''補外''': ある国の[[国内総生産]]が毎年平均5%伸びていて、昨年の値が1000億ドルだったとする。ここで補外すると、今年は1050億ドルとなる。 [[画像:Normdist regression.png|right|100px|線型回帰の例]] '''回帰''': 線型回帰では、''n'' 個の点が与えられたとき、それら ''n'' 個の点のなるべく近くを通る直線を求める。 [[画像:LemonadeJuly2006.JPG|right|100px|グラス1杯のレモネードの値段は?]] '''最適化''': レモネード売りがレモネードを売っている。1杯1ドルでは、1日に197杯売れる。1杯あたり1セント値段を上げると、1日に売れるレモネードは1杯減る。1杯を1.485ドルにすると売り上げが最大となるが、1セント未満を使った値段は付けられないので、1.49ドルにすると一日の最大売り上げ 220.52 ドルが得られる。 '''微分方程式''': ある部屋で一方からもう一方へ空気が流れるように100個の扇風機を配置し、羽根をそこに落としてみる。何が起きるだろうか? 羽根は空気の流れに従って漂うが、非常に複雑な動きになるかもしれない。その近似としては、羽根が漂っている付近の空気の速度を1秒おきに測定し、シミュレートされた羽根が1秒間は測定された方向にその速度で進むと仮定する。このような手法を[[オイラー法]]と呼び、常微分方程式を解くのに使われる。 |} 最も単純な問題は、関数のある点での値を求めることである{{efn|[[特殊関数]]の値を求める方法、零点を求める方法も盛んに研究されており、<ref>Gil, A., Segura, J., & Temme, N. (2007). Numerical methods for special functions (Vol. 99). Siam.</ref>が詳しい。}}。単純に数式に値を代入する直接的な手法は、効率的でないこともある。多項式の場合、[[ホーナー法]]を使うことで乗算と加算の回数を減らすことができる。一般に、[[浮動小数点数|浮動小数点演算]]を使うことで生じる[[丸め]]誤差を予測して制御することが重要となる。 === 補間、補外、回帰 === [[内挿|補間]]が役立つのは、ある未知の関数のいくつかの点の値があるとき、それら以外の中間点でのその関数の値を求める場合である。単純な手法としては[[線型補間]]があり、既知の点の間で関数が線型に変化するとみなすものである。これを一般化した[[多項式補間]]はもっと正確となることが多いが、[[ルンゲ現象]]に悩まされることもある。その他の補間手法としては[[スプライン曲線|スプライン]]や[[ウェーブレット]]といった局所化関数を使うものがある。 [[外挿|補外]]は補間とよく似ているが、未知の関数の値が判っている点の外側の点について値を求めることをいう<ref>Brezinski, C., & Zaglia, M. R. (2013). Extrapolation methods: theory and practice. Elsevier.</ref>。 [[回帰分析|回帰]]も類似した手法だが、既存のデータが不正確であることを考慮する。いくつかの点とその値があり、それらデータが誤差を含みつつ何らかの関数に従っているとして、その未知の関数を決定する。このための手法として、[[最小二乗法]]がよく知られている。 === 方程式、方程式系の解 === 基本的な問題のひとつとして、与えられた方程式の解を計算する問題がある。その方程式が線型か否かによって手法が分類される。例えば、<math>2x+5=3</math> は線型だが、<math>2x^2+5=3</math> は線型ではない。 ====線型方程式系==== [[線型方程式系]]を解く手法については研究が進んでいる。標準的な直接解法としては何らかの行列分解を使うものがあり、[[ガウスの消去法]]、[[LU分解]]、[[対称行列]]や[[エルミート行列]]に関する[[コレスキー分解]]、非正方行列に関する[[QR分解]]がある。[[反復法 (数値計算)|反復解法]]としては、[[ヤコビ法]]、[[ガウス=ザイデル法]]、[[SOR法]]、[[共役勾配法]]<ref>戸川隼人. (1977). 共役勾配法. シリーズ新しい応用の数学.</ref>があり、大規模な方程式系でよく使われる。 ====非線形方程式==== 非線型方程式には[[求根アルゴリズム]]が用いられる(根とは、関数の値がゼロとなる変数の値を意味する)。関数が[[微分法|可微分]]で導関数を導き出せる場合には、適切な初期値から開始して[[ニュートン法]]が利用されることが多い<ref>Fernández, J. A. E., & Verón, M. Á. H. (2017). Newton’s method: An updated approach of Kantorovich’s theory. Birkhäuser.</ref><ref>Peter Deuflhard, Newton Methods for Nonlinear Problems. Affine Invariance and Adaptive Algorithms, Second printed edition. Series Computational Mathematics 35, Springer (2006)</ref> <ref>小澤一文:「導関数を用いない非線形スカラー方程式の高速多倍長数値解法」、日本応用数理学会論文誌、31巻(2021)2号、pp.44-62。url="https://doi.org/10.11540/jsiamt.31.2_44"</ref>。他にも[[線型化]]などの手法がある。 === 固有値と特異値 === {{seealso|数値線形代数}} [[固有値|固有値分解]]や[[特異値分解]]も重要な問題である。例えば、Spectral Image Compression<ref>[http://online.redwoods.cc.ca.us/instruct/darnold/maw/single.htm The Singular Value Decomposition and Its Applications in Image Compression] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20061004041704/http://online.redwoods.cc.ca.us/instruct/darnold/maw/single.htm |date=2006年10月4日 }}</ref> は[[特異値分解]]に基づいたアルゴリズムである。これに対応した[[統計学]]のツールを[[主成分分析]]という。例えば、[[World Wide Web]]上での話題トップ100を自動的に抽出し、各Webページをどの話題に属するか分類するといった作業で使われる。 === 最適化問題 === {{Main|最適化問題}} 最適化問題は、与えられた関数が最大(または最小)となる点を求める問題である。解には条件として何らかの制約(等式による関係あるいは不等式による関係)を課すことがよくある。 最適化問題はさらに、関数や制約の形式によっていくつかに分類される。例えば、[[線形計画問題]]は関数と制約条件の式が共に線型である場合を扱う。線形計画問題の解法としては、[[シンプレックス法]]や内点法などが挙げられる。 制約条件付きの最適化問題を制約条件のない問題の形に変換するために[[ラグランジュの未定乗数法]]が用いられる。 === 積分 === {{main|数値積分}} [[数値積分]](数値的求積法)では、与えられた領域に於ける[[定積分]]の値を求める<ref>Davis, P. J., & Rabinowitz, P. (2007). Methods of numerical integration. Courier Corporation.</ref>。一般的な手法としては、[[ニュートン・コーツ系の公式]](中点法や[[シンプソンの公式]])や[[ガウスの求積法]]<ref>Weisstein, Eric W. "Gaussian Quadrature." From MathWorld--A Wolfram Web Resource. {{URL|https://mathworld.wolfram.com/GaussianQuadrature.html}}</ref>、[[二重指数関数型数値積分公式]]<ref>Takahasi, H. and Mori, M. (1974). “Double exponential formulas for numerical integration”. Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences (京都大学, Kyoto University) 9 (3): 721–741.</ref><ref>森正武:数値解析における二重指数関数型変換の最適性, 数学(日本数学会), Vol. 50, No. 3 (1998), pp. 248–264.</ref>などがある。これらは[[分割統治法|分割統治戦略]]に基づいて、大きな領域についての積分を小さな領域の積分に分割して値を求める。これらの手法は領域が高次元であると計算の手間が膨大となり適用が困難になるので、高次元の場合には計算量が領域の空間次元にあまり依存しない[[モンテカルロ法]]や準モンテカルロ法などのサンプリング平均により定積分の値を推定する手法がよく用いられる<ref name="JSIAM">手塚集、「[https://doi.org/10.11540/bjsiam.8.4_267 数値多重積分に関する話題(<特集>数値計算)]」 『応用数理』 1998年 8巻 4号 p.267-276, {{doi|10.11540/bjsiam.8.4_267}}, 日本応用数理学会</ref><ref>Geweke, J. (1995). Monte Carlo simulation and numerical integration. Federal Reserve Bank of Minneapolis, Research Department.</ref>。 === 微分方程式 === {{main|常微分方程式の数値解法|偏微分方程式の数値解法}} 数値解析では、[[微分方程式]]([[常微分方程式]]や[[偏微分方程式]])を(近似的に)解く問題も扱う<ref name="tabata">田端正久; 偏微分方程式の数値解析, 2010. 岩波書店.</ref><ref>三井斌友 et. al. (2004). 微分方程式による計算科学入門. 共立出版.</ref><ref name="to">登坂宣好, & 大西和榮. (2003). 偏微分方程式の数値シミュレーション. 東京大学出版会.</ref>。 偏微分方程式を解くには、まずなんらかの方法に基づいて方程式の離散化近似を行い、有限次元の部分空間で計算を行う<ref name="tabata"/><ref name="to"/>。そのような手法として、[[有限要素法]]<ref>森正武. (1986) 有限要素法とその応用. 岩波書店.</ref><ref>菊池文雄. (1999). 有限要素法概説 [新訂版]. サイエンス社.</ref><ref>菊池文雄. (1994). 有限要素法の数理. 培風館.</ref><ref>有限要素法で学ぶ現象と数理―[[FreeFem++]]数理思考プログラミング―, 日本応用数理学会 監修・大塚 厚二・高石 武史著, 共立出版.</ref>、[[差分法]]、特に工学分野で使われる[[有限体積法]]<ref>LeVeque, Randall (2002), Finite Volume Methods for Hyperbolic Problems, Cambridge University Press.</ref>などを挙げることができる。これらの手法は[[関数解析学]]の定理などに基づいている。これら各種の離散化近似手法により生じた有限自由度の連立代数関係式を何らかの手段で正確にあるいは近似して解くことにより、求めたい微分方程式の近似解を得るようにする。 == ソフトウェア== {{Main|数値解析ソフトウェア}} 20世紀後半以降、多くの数値計算アルゴリズムはコンピュータ上に向けて実装され、実行されてきた<ref name="20c"/>。[[Netlib]] には数値解析用の各種ルーチンのソースコードがあり、その多くは[[FORTRAN]]と[[C言語]]により書かれている。各種の数値解析アルゴリズムを実装した商用ライブラリ製品としては [[IMSL]] や [[NAG数値計算ライブラリ|NAG]] などがある。オープンな(ソースコードが開示されていて、利用や改変の際の自由度が高い)ものの例としては [[GNU Scientific Library]] を挙げることができる。 [[MATLAB]]は行列計算を中心とする数値計算用の商用[[プログラミング言語]]として有名だが<ref>Quarteroni, A., Saleri, F., & Gervasio, P. (2006). Scientific computing with MATLAB and Octave. Berlin: Springer.</ref><ref name="gh">Gander, W., & Hrebicek, J. (Eds.). (2011). Solving problems in scientific computing using Maple and Matlab®. [[:en:Springer Science & Business Media]].</ref><ref name="bf">Barnes, B., & Fulford, G. R. (2011). Mathematical modelling with case studies: a differential equations approach using Maple and MATLAB. Chapman and Hall/CRC.</ref>、他にも商用では[[SAS Institute|SAS]](統計解析用)<ref>Khattree, R., & Naik, D. N. (2018). Applied multivariate statistics with SAS software. SAS Institute Inc..</ref> 、[[SPSS]](統計解析用)<ref>Wagner III, W. E. (2019). Using IBM® SPSS® statistics for research methods and social science statistics. Sage Publications.</ref><ref>Pollock III, P. H., & Edwards, B. C. (2019). An IBM® SPSS® Companion to Political Analysis. Cq Press.</ref><ref>Babbie, E., Wagner III, W. E., & Zaino, J. (2018). Adventures in social research: Data analysis using IBM SPSS statistics. Sage Publications.</ref><ref>Aldrich, J. O. (2018). Using IBM® SPSS® Statistics: An interactive hands-on approach. Sage Publications.</ref><ref>Stehlik-Barry, K., & Babinec, A. J. (2017). Data Analysis with IBM SPSS Statistics. Packt Publishing Ltd.</ref>、[[S-PLUS]]、[[IDL (プログラミング言語)|IDL]]<ref>Gumley, L. E. (2001). Practical IDL programming. Elsevier.</ref> などがある。 ===フリーソフト=== フリーソフトとして、「MATLAB」と互換性の高い [[Scilab]]<ref>Bunks, C., Chancelier, J. P., Delebecque, F., Goursat, M., Nikoukhah, R., & Steer, S. (2012). Engineering and scientific computing with Scilab. [[:en:Springer Science & Business Media]].</ref><ref>大野修一. (2009). Scilab 入門: フリーソフトで始める数値シミュレーション. [[CQ出版]].</ref><ref>上坂吉則. (2010). Scilab プログラミング入門. 牧野書店.</ref><ref>Thanki, R. M., & Kothari, A. M. (2019). Digital image processing using SCILAB. Springer International Publishing.</ref>・[[GNU Octave]]<ref>Octaveの精義 - フリーの高機能数値計算ツールを使いこなす, 松田七美男 (2011)</ref>・[[FreeMat]]、「[[S|S言語]]」や「[[S-PLUS]]」の言語仕様に準じる[[R言語]]<ref>Ihaka, R., & Gentleman, R. (1996). R: a language for data analysis and graphics. Journal of computational and graphical statistics, 5(3), 299-314.</ref>、SPSS の代替を目指す [[PSPP]]<ref>Yagnik, J. (2014). PSPP: a free and open source tool for data analysis (No. 2014-03-21).</ref> や [[gretl]]、そのほか[http://itpp.sourceforge.net/ IT++](C++ライブラリ)、[[Python]]のライブラリ・パッケージである ([[SciPy]]<ref>Jones, E., Oliphant, T., & Peterson, P. (2001). SciPy: Open source scientific tools for Python.</ref><ref>Bressert, E. (2012). SciPy and NumPy: an overview for developers. " O'Reilly Media, Inc.".</ref><ref>Blanco-Silva, F. J. (2013). Learning SciPy for numerical and scientific computing. Packt Publishing Ltd.</ref>、[[NumPy]]) など、様々な[[数値解析ソフトウェア]]が使われている。 性能も様々で、ベクトルや行列の演算は一般に高速だが、スカラーのループは10倍以上の差があるものもある<ref>[http://www.sciviews.org/benchmark/ Speed comparison of various number crunching packages] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20061005024002/http://www.sciviews.org/benchmark/ |date=2006年10月5日 }}</ref>。 ===数式処理システム=== [[Mathematica]] や [[Maple]] のような[[数式処理システム]](記号処理システム)は多くの場合に浮動小数点数値の計算機能も含むので数値計算用途にも(性能や効率を問わなければ)一応は使える<ref>Maeder, R. E. (1991). Programming in mathematica. Addison-Wesley Longman Publishing Co., Inc..</ref><ref>Stephen Wolfram. (1999). The MATHEMATICA® book, version 4. [[:en:Cambridge University Press]].</ref><ref>Shaw, W. T., & Tigg, J. (1993). Applied Mathematica: getting started, getting it done. Addison-Wesley Longman Publishing Co., Inc..</ref><ref>中村健蔵. (1998). Mathematica で絵を描こう. 東京電機大学出版局.</ref><ref>椎原浩輔. (2000). Mathematica による金融工学. 東京電機大学出版局.</ref><ref>吉本堅一, & 松下修己. (2004). Mathematica で学ぶ振動とダイナミクスの理論. [[森北出版]].</ref><ref name="mm">Beltzer, A. I. (1995). Engineering analysis with Maple/Mathematica. [[:en:Academic Press]].</ref><ref>Mathematicaによる数値計算, R.D.Skeel ・J.B.Keiper 著・玄光男・辻陽一・尾内俊夫 共訳, [[共立出版]], 1995.</ref><ref>Mathematica による[[テンソル]]解析, 野村靖一 著, [[共立出版]], 2019.</ref><ref>Marasco, A., & Romano, A. (2001). Scientific Computing with Mathematica: Mathematical Problems for Ordinary Differential Equations; with a CD-ROM. [[:en:Springer Science & Business Media]].</ref>。[[SageMath]] は数値計算と数式処理計算の両方を備えた統合システムである<ref>Zimmermann, P., Casamayou, A., Cohen, N., Connan, G., Dumont, T., Fousse, L., ... & Bray, E. (2018). Computational Mathematics with SageMath. SIAM.</ref>。また、簡単な問題であれば[[Microsoft Excel]]などの[[表計算ソフト]]を用いてでも扱える場合がある<ref>吉村忠与志, 吉村三智頼, 佐々和洋, & 青山義弘. (2009). Excel で数値計算の解法がわかる本. 秀和システム.</ref><ref>渋谷道雄, & 渡邊八一. (2001). Excel で学ぶ信号解析と数値シミュレーション. 株式会社 オーム社.</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == <!-- 洋書・和書の順に発行年代順に並べる(発行の日付は奥付のものとは異なることがある)。 主な内容が特定の応用分野や計算技法に限られるものは省く。 狭義では数値解析と数値計算は異なるが、両者を区別しないことにする。 --> {{Div col|rules=yes}} * J. B, Scarborough: "Numerical Mathematical Analysis", Johns Hopkins Press (1930). * W. E, Milne: "Numerical Calculus", Princeton Univ. Press (1949). * D. R, Hartree: "Numerical Analysis", Oxford Clarendon Press, (1952). * A. S, Householder, "Principle of Numerical Analysis", McGraw Hill (1953). *{{cite book |last=Hildebrand |first=F. B. | title=Introduction to Numerical Analysis | edition=2nd edition |date=1974 |publisher=McGraw-Hill |location= |ISBN=0-070-28761-9}} * Gene H. Golub and Charles F. Van Loan: "Matrix Computations", 3rd Edition, The Johns Hopkins University Press, ISBN 0-8018-5413-X(hard cover), ISBN 0-8018-5414-8(pbk), (1996). * Kendall Atkinson and Weimin Han: "Theoretical Numerical Analysis : A Functional Analysis Framework",3rd Ed., Springer, {{ISBN2|978-1441904577}} (2001). * Michael L. Overton: "Numerical computing with IEEE floating point arithmetic", SIAM ,{{ISBN2| 978-0-89871-482-1}}(2001). * Nicholas J. Higham: "Accuracy and Stability of Numerical Algorithms", 2nd Ed., SIAM, ISBN 978-0898715217 (2002). *{{cite book |last=Leader |first=Jeffery J. | title=Numerical Analysis and Scientific Computation |date=2004 |publisher=Addison Wesley |location= |id= ISBN 0-201-73499-0 }} * Trefethen, Lloyd N. (2006). [http://web.comlab.ox.ac.uk/oucl/work/nick.trefethen/NAessay.pdf "Numerical analysis"], 20 pages. To appear in: Timothy Gowers and June Barrow-Green (editors), ''Princeton Companion of Mathematics'', Princeton University Press. * Corless, Robert M., Fillion, Nicolas: "A Graduate Introduction to Numerical Methods: From the Viewpoint of Backward Error Analysis", Springer, ISBN 978-1-4614-8452-3 (2013). * Michael T. Heath: "Scientific Computing: An Introductory Survey", Rev.2nd Ed., SIAM, ISBN 978-1-61197-557-4 (2018). * Claude Brezinski, Gérard Meurant, Michela Redivo-Zaglia: "A Journey through the History of Numerical Linear Algebra", SIAM, ISBN 978-1-611977-22-6 (2022). * [[柴垣和三雄]]:「實用解析:合理的數値計算法」、河出書房(1948年2月). * 谷本勉之助:「実用数値計算法」、森北出版(1958)。 * [[一松信]]:「数値計算」、至文堂 (近代数学新書)(1963年)。 * 山内二郎 (編)、[[森口繁一]] (編)、[[一松信]] (編):「電子計算機のための数値計算法 I, II, III」、[[培風館]](1965年、1967年、1972年)。 * [[雨宮綾夫]](編)、田口武夫(編):「数値解析とFORTRAN」、丸善 (1969年10月)。 * [[一松信]]:「数値解析」、税務経理協会 (情報科学講座) (1971年)。 * [[一松信]]:「電子計算機と数値計算」、[[朝倉書店]](初等数学シリーズ7)(1973年)。 * [[伊理正夫]]:「数値計算―方程式の解法」、朝倉書店 (1981年12月)。 * [[森正武]]、名取亮、鳥居達生:「数値計算」、[[岩波書店]](岩波講座 情報科学18)(1982年1月8日)。 *[[一松信]]:「数値解析」、朝倉書店(新数学講座13)、ISBN 978-4254114430(1982年10月)。 * [[森正武]]:「数値解析法」、朝倉書店(朝倉現代物理学講座 7)、ISBN 978-4254135671 (1984年11月)。 * [[村田健郎]] (ほか著):「スーパーコンピュータ 科学技術計算への適用」、丸善、ISBN 4-621-02984-3(1985年3月)。 * [[伊理正夫]]、藤野和建:「数値計算の常識」、[[共立出版]]、ISBN 978-4320013438(1985年6月3日)。 * 森口繁一、[[伊理正夫]]:「算法通論」第2版、[[東京大学出版会]]、ISBN 978-4130620857(1985年10月)。 * [[村田健郎]]: 「線形代数と線形計算法序説」、サイエンス社、ISBN:4-7819-0427-0(1986年4月)。 * [[村田健郎]] (ほか編著):「工学における数値シミュレーション スーパーコンピュータの応用」、丸善、ISBN 4-621-03234-8(1988年1月)。 * [[村田健郎]] (ほか著):「大型数値シミュレーション」、岩波、ISBN 4-00-005126-1(1990年2月)。 * 大野豊、磯田和男:「新版 数値計算ハンドブック」、オーム社、ISBN 978-4274075841(1990年9月)。 * 森口繁一(編)、[[伊理正夫]](編)、武市正人(編):「Cによる算法通論」、東京大学出版会、ISBN 978-4130621328(1992年2月)。 * William H. Press 他:「ニューメリカルレシピ・イン・シー 日本語版―C言語による数値計算のレシピ」、技術評論社、 ISBN 978-4874085608(1993年6月)。 * 高橋大輔:「数値計算」、岩波書店 (理工系の基礎数学 8)、ISBN 978-4000079785(1996年2月16日)。 * 篠原能材:「数値解析の基礎」(第5版(増補版))、日新出版、ISBN 4-8173-0097-3(1997年6月30日)。 * [[森正武]]:「数値解析」(第2版)、[[共立出版]](共立数学講座)、ISBN 978-4320017016(2002年2月1日)。 * 片岡勲、安田秀幸、高野直樹、芝原正彦:「数値解析入門」、コロナ社、ISBN 978-4-339-06071-3(2002年2月28日)。 * [[杉原正顯]]、室田一雄:「数値計算の数理」、岩波書店(2003年5月23日)。 * 山本哲朗:「数値解析入門【増訂版】」、サイエンス社、ISBN 978-4781910383(2003年6月1日)。 * 二宮市三、長谷川武光、秦野泰世、櫻井鉄也、杉浦洋、吉田年雄:「数値計算のつぼ」、共立出版、ISBN 978-4320120884(2004年1月1日)。 * 田中敏幸:「数値計算法基礎」、コロナ社、ISBN 978-4-339-06078-2 (2006年4月6日)。 * 高倉葉子:「数値計算の基礎-解法と誤差」、コロナ社、ISBN 978-4-339-06092-8 (2007年4月20日)。 * 長谷川武光、細田陽介、吉田俊之:「工学のための数値計算」、数理工学社、ISBN 978-4901683586(2008年8月1日)。 * 杉浦洋:「数値計算の基礎と応用【新訂版】- 数値解析学への入門」、サイエンス社、ISBN 978-4-7819-1240-0(2009年12月10日)。 * 斎藤宣一:「数値解析入門」、東京大学出版会(大学数学の入門9)、ISBN 978-4130629591(2012年10月23日)。 * 柳田英二、三村昌泰、中木達幸:「理工系の数理 数値計算」、[[裳華房]]、ISBN 978-4785315603(2014年10月28日)。 * 菊地文雄、齊藤宣一:「数値解析の原理」、岩波書店(岩波数学叢書)、ISBN 978-4-000298230(2016年8月30日)。 * 下司雅章(編):「計算科学のためのHPC技術1」、大阪大学出版会、ISBN978-4-87259-586-4 (2017年3月)。 * 下司雅章(編):「計算科学のためのHPC技術2」、大阪大学出版会、ISBN978-4-87259-587-1 (2017年3月)。 * 齊藤宣一:「数値解析」、共立出版、ISBN 978-4320111905(2017年3月23日)。 * 大石進一(編):「精度保証付き数値計算の基礎」、コロナ社、ISBN 978-4-339-02887-4 (2018年7月3日)。 * 日本応用数理学会(編)「数値線形代数の数理とHPC」、共立出版、ISBN 978-4-320-01955-3(2018年8月31日)。 * 張紹良(編):「計算科学のための基本数理アルゴリズム」、共立出版、ISBN 978-4-320-12266-6(2019年6月15日)。 * 幸谷智紀:「多倍長精度数値計算」、森北出版、ISBN 978-4-627-85491-8 (2019年11月)。 * 水島二郎、柳瀬眞一郎、石原卓:「理工学のための数値計算法」、第3版、数理工学社、ISBN 978-4864810616(2019年11月1日)。 * 日本計算工学会(編):「固有値計算と特異値計算」、丸善、ISBN 978-4-621-30473-0 (2019年12月20日)。 * 河村哲也、桑名杏奈:「Pythonによる数値計算入門」、朝倉書店、ISBN 978-4254129007(2021年4月5日)。 * 幸谷智紀:「Python 数値計算プログラミング」、講談社、ISBN 978-4-06-522735-0(2021年3月19日)。 * 橋本修、毛塚敦:「Pythonによる数値計算法の基礎」、森北出版、ISBN 978-4627744318(2021年6月24日)。 * 菊地文雄:「数値計算の誤差と精度」、丸善出版、ISBN 978-4-621-30753-3(2022年10月19日)。 * 田中健一郎、岡山友昭:「変数変換型数値計算法」、岩波書店、ISBN 978-4000298605 (2023年5月17日)。 * 三井田惇郎、須田宇宙:「数値計算法(第3版)」、森北出版、ISBN 978-4627801547(2023年10月21日)。 {{Div col end}} == 学会・論文誌 == {{Div col|rules=yes}} * [https://www.jstage.jst.go.jp/browse/bjsiam/-char/ja/ 日本応用数理学会「応用数理」] * [https://www.jstage.jst.go.jp/browse/jsiamt/-char/ja/ 日本応用数理学会論文誌] *[[:en:Journal of Computational and Applied Mathematics]] *[[:en:SIAM Journal of Numerical Analysis]] *[[:en:SIAM Journal on Scientific Computing]] *[[:en:Acta Numerica]] *[[:en:Mathematics of Computation]] *[[:en:Numerische Mathematik]] *[[:en:BIT Numerical Mathematics]] *[[:en:ACM Transactions on Mathematical Software]] * IMA Journal of Numerical Analysis * International Journal for Numerical Methods in Engineering * [http://etna.mcs.kent.edu/ Electronic Transactions on Numerical Analysis] * [[日本シミュレーション学会]](JSST) * [[情報処理学会]]ハイパフォーマンス・コンピューティング研究会(HPC) ※ 旧「数値解析研究会」(NA)を含めて統合。 * [[日本応用数理学会]] * [[日本数学会]]・[[応用数学分科会]] * [[数値解析シンポジウム]] * [[京都大学数理解析研究所]] ※ 数学全般の研究所ではあるが、数値解析に関係した研究集会の開催や講究録の発行もしている。 * [https://www.imi.kyushu-u.ac.jp/ 九州大学マス・フォア・インダストリ研究所] * [https://www.r-ccs.riken.jp/ 理化学研究所計算科学研究センター(R-CCS)] * [https://www.hpci-office.jp/about_hpci/what_is_hpci 革新的ハイパフォーマンス・コンピューティング・インフラ(HPCI)] * [[:en:Society for Industrial and Applied Mathematics]] ([[SIAM (学会)|SIAM]]) * [[EASIAM]] * [[Association for Computing Machinery]] (ACM) * The Institute of Electrical and Electronics Engineers, Inc.([[IEEE]]) * International Symposium on Scientific Computing, Computer Arithmetic, and Validated Numerics ([[SCAN (国際研究集会)|SCAN]]) {{Div col end}} ==関連項目== [[数値解析の項目一覧]]を参照。 ==外部リンク== {{commonscat}} {{ウィキプロジェクトリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics blue-p.svg|34px|Project:数学]]}} {{ウィキポータルリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics-p.svg|34px|Portal:数学]]}} {{Spedia|Numerical_Analysis|Numerical Analysis}} * [http://www.mathcom.com/corpdir/techinfo.mdir/index.html Scientific computing FAQ] * [http://dmoz.org/Science/Math/Numerical_Analysis/ Numerical analysis DMOZ category] * [http://www.indiana.edu/~statmath/bysubject/numerics.html Numerical Computing Resources on the Internet] - a list maintained by Indiana University Stat/Math Center * [http://www.apropos-logic.com/nc/ Java Number Cruncher] 典型的数値解析アルゴリズムのダウンロード可能なコード例と実行可能なアプレットがある。 * [http://math.fullerton.edu/mathews/numerical.html Numerical Analysis Project by John H. Mathews] * [http://www.fceia.unr.edu.ar/~fisicomp/apuntes/biblios/altnr.htm Alternatives to Numerical Recipes] * [https://ece.uwaterloo.ca/~dwharder/NumericalAnalysis/ Numerical Analysis for Engineering] * {{kotobank|数値解析-4792|[[世界大百科事典]] 第2版|数値解析}} * {{kotobank|数値計算-1177360|[[日本大百科全書]](ニッポニカ)|数値計算}} * {{kotobank|数値解法-83282|[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典|数値解法}} * [https://www.icl.utk.edu/files/publications/2020/icl-utk-1392-2020.pdf A Survey of Numerical Methods Utilizing MixedPrecision Arithmetic] * [http://www.caero.mech.tohoku.ac.jp/publicData/Daiguji/ 大宮司久明:「数値流体力学大全」(2015)(GNUフリー文書利用許諾契約書 (GFDL)に基き配布)] * [https://www.probabilistic-numerics.org/ Probabilistic Numerics] * [https://algowiki-project.org/en/Open_Encyclopedia_of_Parallel_Algorithmic_Features Open Encyclopedia of Parallel Algorithmic Features] * [https://www.math.uh.edu/~rohop/teaching.html Prof. Dr. Ronald W. 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2023-12-25T04:04:42Z
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メフィスト賞
メフィスト賞(メフィストしょう)は、株式会社講談社が発行する文芸雑誌『メフィスト』から生まれた公募文学新人賞である。 未発表の小説を対象とした新人賞で、特徴としては対象となるジャンルが『エンタテインメント作品(ミステリー、ファンタジー、SF、伝奇など)』という大まかな区分であること、『メフィスト』の編集者が下読みを介さず直接作品を読んだ上で選考を行うなど、既存の公募文学賞とは異なる。受賞に値する作品がなかった場合は次回持ち越しとなるため、欠番は発生しない。『メフィスト』には選考結果だけでなく、座談会形式で編集者が注目した作品が紹介され、受賞に至らないが興味深い作品の場合は応募者とコンタクトを取るとし、それが講談社からのデビューに繋がることもある。また、かつては明確な応募期間が設けられておらず通年募集で、話題に上らなかったり規定を外れた作品にも1行程度の寸評が必ず掲載されていた。 創設当初から賞金は存在しないが、受賞がそのまま出版につながるため印税が賞金代わりとなる(鮎川哲也賞と同じ)。受賞者には講談社の『江戸川乱歩賞』と同じくシャーロック・ホームズ像が進呈されるが、授賞式は行われず担当の編集者から手渡しされる。 かつて受賞作は講談社ノベルスで出版されることがほとんどで、稀にハードカバーやソフトカバーから出版されていた。2017年以降ではハードカバーあるいは講談社タイガからの刊行が多くなっている。 編集作業の進捗状況により受賞順に出版されるとは限らない(第46回 - 第48回の受賞作は第45回の『図書館の魔女』よりも先に刊行された)。 2013 VOL.3 の巻末座談会で、次号より原稿規定が変更される旨が告知され、2014年4月2日の『メフィスト 2014 VOL.1』で、新しい応募要項が発表された。大きな変更点は、講談社BOX新人賞と統合されたこと、規定のフォーマットで85〜180枚(原稿用紙換算で約330〜700枚)という原稿枚数の規定が設けられたことである。それまでは枚数の上限が設定されておらず、原稿用紙換算で約1400枚の清涼院流水『コズミック』や、約3500枚の高田大介『図書館の魔女』などが受賞していた(講談社BOX新人賞でも原稿用紙換算2170枚の神世希『神戯』などが受賞していた)。また、どちらの賞でもすべての投稿に寸評がついていたが、取りやめが告知された。募集要項に『人生で最も影響を受けた小説』の記載が追加された。 2020年12月に再度応募要項の変更があり、応募期間が上期と下期の2期制、投稿は講談社の文芸サイト「tree」からPDFのみで受付となった。小説の規定は上限が撤廃され、下限が40字×40字で50枚以上となった。枚数に下限があるため短編1作では対象にはならないが、連作形式で規定枚数に達していれば対象となり、第51回の『恋と禁忌の述語論理』は1作が約90ページの短編4作で刊行されている。また旧要項でも第3回の『六枚のとんかつ』は短編15作で刊行されている。 現在では受賞者により同窓会が開催されている。 また、第2回受賞者である清涼院流水が2012年に立ち上げた作家の英語圏進出プロジェクト「The BBB」に、森博嗣(第1回)・蘇部健一(第3回)・積木鏡介(第6回)・高田崇史(第9回)・秋月涼介(第20回)・矢野龍王(第30回)らメフィスト賞受賞者が多数参加している。 創設当初から『究極のエンターテインメント』『面白ければ何でもあり』を標榜しており、第1回受賞者である森博嗣の『すべてがFになる』が『理系ミステリ』と称される理系研究者が活躍する本格ミステリであったのに対し、続く第2回受賞者清涼院流水の『コズミック 世紀末探偵神話』が、ミステリをベースにしつつ既存のジャンルに分類できない奇抜で長大な作品、第3回受賞者蘇部健一の『六枚のとんかつ』は下ネタやギャグが満載されたバカミスの連作短編であるなど、「一作家一ジャンル」と呼ばれるほど個性的な作品が集まるため、受賞作家は「メフィスト賞作家」と呼ばれることもある。 奇抜な実験作品が注目される一方で、殊能将之や古処誠二など正統派な本格ミステリの書き手や、舞城王太郎や佐藤友哉のように純文学に近い領域に移る者、西尾維新のようにライトノベルと接近した作品を発表する者、辻村深月や小路幸也のように非ミステリのエンタメ作品を発表する作家がいる。 受賞者の特徴として、他の職に就きながらデビューしそのまま勤務を続けるケースや、地方に在住したまま活動を続けるケースが挙げられる。 2015年までの最年少受賞者は浦賀和宏の19歳。他にも20歳で受賞した佐藤友哉、西尾維新、岡崎隼人、21歳で受賞した清涼院流水や、22歳で受賞した北山猛邦、高里椎奈など、20代でデビューも多い。逆に最高年齢は丸山天寿の56歳。また、森博嗣は38歳、高田崇史は40歳でのデビューである。ただし、座談会では受賞しなくても、もっと若い応募者が取り上げられることもある(毎号、座談会が載っていた頃の話)。今では受賞時のみ、文芸雑誌『メフィスト』で座談会が掲載されている。 (座談会の後ろの年月は、該当の座談会が収録された『メフィスト』の刊行年月) 年は基本的に出版年。特記以外、初刊は講談社ノベルスまたは単行本、文庫は講談社文庫刊。
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メフィスト賞(メフィストしょう)は、株式会社講談社が発行する文芸雑誌『メフィスト』から生まれた公募文学新人賞である。
{{Portal|文学}} '''メフィスト賞'''(メフィストしょう)は、株式会社[[講談社]]が発行する文芸雑誌『[[メフィスト (文芸誌)|メフィスト]]』から生まれた[[文学賞|公募文学新人賞]]である。 == 沿革と概要 == 未発表の小説を対象とした新人賞で、特徴としては対象となるジャンルが『[[エンタテインメント]]作品([[ミステリー]]、[[ファンタジー]]、[[サイエンス・フィクション|SF]]、[[伝奇小説#日本の近現代の伝奇風小説|伝奇]]など)<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=メフィスト賞応募要項・座談会|メフィスト賞応募要項|tree |url=https://tree-novel.com/works/episode/760115873d434f0d227fa80bd23e0dfb.html?t=1 |website=tree |access-date=2023-07-22 |language=ja}}</ref>』という大まかな区分であること、『メフィスト』の編集者が下読みを介さず直接作品を読んだ上で選考を行うなど、既存の公募文学賞とは異なる<ref name=":0" />。受賞に値する作品がなかった場合は次回持ち越しとなるため、欠番は発生しない。『メフィスト』には選考結果だけでなく、座談会形式で編集者が注目した作品が紹介され、受賞に至らないが興味深い作品の場合は応募者とコンタクトを取るとし、それが講談社からのデビューに繋がることもある。また、かつては明確な応募期間が設けられておらず通年募集で<ref group="注">原稿の到着が選考に間に合わなかった場合は次回の選考に回される。</ref>、話題に上らなかったり規定を外れた作品にも1行程度の寸評が必ず掲載されていた<ref group="注">受け付けないと明記していた手書き原稿にも寸評が掲載されていた。</ref>。 創設当初から賞金は存在しないが、受賞がそのまま出版につながるため[[印税]]が賞金代わりとなる([[鮎川哲也賞]]と同じ)。受賞者には講談社の『[[江戸川乱歩賞]]』と同じく<ref group="注">第48回まで。第49回からは「江戸川乱歩像」に変更。</ref>[[シャーロック・ホームズ]]像が進呈される<ref group="注">ロンドンにある[[シャーロック・ホームズ博物館]]の1階にある土産物屋で販売されている物(10ポンド)であるが、編集者が定期的にまとめ買いしたため値上がりしたという(森博嗣 『作家の収支』 p43)。</ref><ref>[http://kodansha-novels.jp/1304/mephisto/mochizuki.html 「私にとってのメフィスト賞」望月守宮] - [[望月守宮]]</ref>が、授賞式は行われず担当の編集者から手渡しされる<ref>[https://colosseum.hatenablog.jp/entries/2012/12/31 2012-12-31 - 矢野龍王の「ブログ★コロシアム」] - [[矢野龍王]]のブログ。ホームズ像の写真あり</ref>。 かつて受賞作は[[講談社ノベルス]]で出版されることがほとんどで、稀に[[ハードカバー]]や[[ソフトカバー]]から出版されていた。2017年以降ではハードカバーあるいは[[講談社タイガ]]からの刊行が多くなっている。 編集作業の進捗状況により受賞順に出版されるとは限らない(第46回 - 第48回の受賞作は第45回の『図書館の魔女』よりも先に刊行された)。 2013 VOL.3 の巻末座談会で、次号より原稿規定が変更される旨が告知され、[[2014年]][[4月2日]]の『メフィスト 2014 VOL.1』で、新しい応募要項が発表された。大きな変更点は、[[講談社BOX新人賞]]と統合されたこと、規定のフォーマット<ref group="注">メフィスト賞では、A4に縦書き、1段組、1行40字×40行([[講談社文庫]]の2ページ分に相当)</ref>で85〜180枚(原稿用紙換算で約330〜700枚)という原稿枚数の規定が設けられたことである<ref>[http://bookclub.kodansha.co.jp/kodansha-novels/mephisto/manuscript/ 講談社ノベルス講談社BOX 原稿募集!|webメフィスト]</ref>。それまでは枚数の上限が設定されておらず、原稿用紙換算で約1400枚の[[清涼院流水]]『コズミック』や、約3500枚の[[高田大介]]『図書館の魔女』などが受賞していた(講談社BOX新人賞でも原稿用紙換算2170枚の[[神世希]]『神戯』などが受賞していた)。また、どちらの賞でもすべての投稿に寸評がついていたが、取りやめが告知された<ref group="注">『メフィスト 2014 VOL.1』 座談会結び</ref>。募集要項に『人生で最も影響を受けた小説』の記載が追加された。 2020年12月に再度応募要項の変更があり、応募期間が上期と下期の2期制、投稿は講談社の文芸サイト「tree」からPDFのみで受付となった<ref name=":0" />。小説の規定は上限が撤廃され、下限が40字×40字で50枚以上となった<ref name=":0" />。枚数に下限があるため短編1作では対象にはならないが<ref>[http://kodansha-novels.jp/1304/mephisto/amane.html メフィスト賞大特集!「メフィスト賞と幻の短編」][[天祢涼]] - 講談社BOOK倶楽部</ref>、連作形式で規定枚数に達していれば対象となり、第51回の『[[恋と禁忌の述語論理]]』は1作が約90ページ<ref group="注">講談社ノベルス版。全体で320ページ</ref>の短編4作で刊行されている。また旧要項でも第3回の『六枚のとんかつ』は短編15作で刊行されている。 現在では受賞者により同窓会が開催されている<ref>[http://clubtakatakat.jugem.jp/?eid=375 メフィスト賞同窓会] - [[高田崇史]]のブログ</ref>。 また、第2回受賞者である[[清涼院流水]]が2012年に立ち上げた作家の英語圏進出プロジェクト「[[The BBB]]」に、[[森博嗣]](第1回)・[[蘇部健一]](第3回)・[[積木鏡介]](第6回)・[[高田崇史]](第9回)・[[秋月涼介]](第20回)・[[矢野龍王]](第30回)らメフィスト賞受賞者が多数参加している<ref>[http://thebbb.net/jp/ The BBB 日本版] - [[清涼院流水]]が立ち上げた英語圏進出プロジェクト</ref>。 == 賞の特徴 == {{出典の明記|section=1|date=2017年7月}} 創設当初から『'''究極のエンターテインメント'''』『'''面白ければ何でもあり'''』を標榜しており、第1回受賞者である[[森博嗣]]の『[[すべてがFになる]]』が『理系ミステリ』と称される理系研究者が活躍する[[本格ミステリ]]であったのに対し、続く第2回受賞者[[清涼院流水]]の『[[コズミック|コズミック 世紀末探偵神話]]』が、ミステリをベースにしつつ既存のジャンルに分類できない奇抜で長大な作品、第3回受賞者[[蘇部健一]]の『六枚のとんかつ』は下ネタやギャグが満載された[[バカミス]]の連作短編であるなど、「'''一作家一ジャンル'''」と呼ばれるほど個性的な作品が集まるため、受賞作家は「メフィスト賞作家」と呼ばれることもある。 奇抜な実験作品が注目される一方で、[[殊能将之]]や[[古処誠二]]など正統派な本格ミステリの書き手や、[[舞城王太郎]]や[[佐藤友哉]]のように純文学に近い領域に移る者、[[西尾維新]]のように[[ライトノベル]]と接近した作品を発表する者、[[辻村深月]]や[[小路幸也]]のように非ミステリのエンタメ作品を発表する作家がいる。 受賞者の特徴として、他の職に就きながらデビューしそのまま勤務を続けるケース<ref group="注">石崎幸二は化学メーカー勤務、[[石黒耀]]は医師、森博嗣は大学教員</ref>や、地方に在住したまま活動を続けるケース<ref group="注">森博嗣は[[名古屋市]]、丸山天寿は[[北九州市]]、小路幸也は[[江別市]]など。</ref>が挙げられる。 2015年までの最年少受賞者は[[浦賀和宏]]の19歳。他にも20歳で受賞した[[佐藤友哉]]、[[西尾維新]]、[[岡崎隼人]]、21歳で受賞した[[清涼院流水]]や、22歳で受賞した[[北山猛邦]]、[[高里椎奈]]など、20代でデビューも多い。逆に最高年齢は[[丸山天寿]]の56歳。また、森博嗣は38歳、高田崇史は40歳でのデビューである。ただし、座談会では受賞しなくても、もっと若い応募者が取り上げられることもある(毎号、座談会が載っていた頃の話)。今では受賞時のみ、文芸雑誌『メフィスト』で座談会が掲載されている。 == 賞の略歴 == (座談会の後ろの年月は、該当の座談会が収録された『メフィスト』の刊行年月) ;1994年 :この賞の創設には、持ち込み<ref group="注">企画書や原稿を事前に用意して出版社に売り込むこと。</ref>によってデビューした[[京極夏彦]](1994年5月に原稿持ち込み、同年9月デビュー)の存在が大きい。のち『[[姑獲鳥の夏]]』に第0回メフィスト賞とシャーロックホームズ像が送られたとされる<ref>{{Cite book |和書 | author = 大森望 |author2 = 豊崎由美 |title = 文学賞メッタ斬り! |year = 2008 |publisher = 筑摩書房 |isbn = 9784480424136 |series = ちくま文庫 |page = 215}}</ref>。 ;1995年 - 1996年 :1995年8月、当初は文芸賞の創設を目的としておらず<ref group="注">第2回座談会の時点</ref>、誌上での「原稿募集」として開始された。この時点では応募規定は大まかなもので<ref group="注">第2回座談会では性別不明の応募者に対し「次回から明記を求める」、経歴を書かない応募者に対し「応募規定に記入欄があったか覚えていない」という編集者の発言が記録されている。現在ではどちらも記入が求められる</ref>横書きでも受け付けていた<ref group="注">『小説家という職業』森博嗣 ISBN 978-4087205480</ref>。第2回座談会(1995年12月)までに3作品が集まったが、そのうちの1編が森博嗣の『冷たい密室と博士たち』に相当する作品で、これに興味を示した編集部が「森博嗣とコンタクトを取る」として座談会を終えた。 :次の第3回座談会(1996年4月)で森が既に執筆を終えていた「すべてがFになる日」を改稿させ、デビュー作として決定<ref group="注">当初はシリーズ最終作だったが「孤島で殺人事件が起きる」という大まかなプロットを電話で聞いた[[宇山日出臣]](当時の講談社文芸第三部長でメフィスト編集長)が、原稿を見ずにデビュー作に決定したという(森が出版した日記と座談会の記述には一部食い違いがある)。</ref>、誌面で森のデビューが発表された。またこの時に「'''メフィスト賞'''」という賞名が正式に決定した。第3回座談会では、清涼院流水が投稿した『1200年密室伝説』の枚数や特異な作風が話題になっており、森と同じくコンタクトを取る旨が記された。 :1996年4月、[[綾辻行人]]・[[我孫子武丸]]・[[法月綸太郎]]・[[有栖川有栖]]の推薦文が付された、第1回メフィスト賞受賞作『[[すべてがFになる]]』が講談社ノベルスから刊行された。 :同年9月『1200年密室伝説』が『コズミック 世紀末探偵神話』と改題され、第2回受賞作として刊行された。 ;1997年 - 1998年 :その後1年ほど受賞作がない期間が続くが、第7回座談会(1997年8月)で、蘇部健一が投稿した『FILE DARK L』が話題になり、翌月には第3回受賞作『六枚のとんかつ』として刊行された。また、同座談会で[[乾くるみ]]が投稿した『失楽園J』の受賞も確定した。 :この第7回座談会で、メフィスト賞の方針転換が発表された。ヒット作を連発する森博嗣や、奇抜な作風が話題を呼んだ清涼院流水の2人によって賞が注目され、それに続く才能が集まったことで、ペースや次の作品はどうなるのか、といった悩みが編集部内にあったが、第7回座談会で「でも、あと書けなくても、この作品がいま目の前にあることだけでいいのではないか。だから、これから続々メフィスト賞は誕生していきます」とされた。この後、1998年から2002年までの5年間は、年に4 - 6作品の受賞作が刊行されることになる。 :1998年2月には、受賞が確定していた乾くるみの『失楽園J』が第4回受賞作『Jの神話』として、第5回受賞作[[浦賀和宏]]『記憶の果て』、第6回受賞作[[積木鏡介]]『歪んだ創世記』が同時刊行された。 ;1999年 - 2000年 :もともとミステリに限った賞ではなかったが、1999年7月の第12回受賞作[[霧舎巧]]『[[ドッペルゲンガー宮 《あかずの扉》研究会流氷館へ]]』以来、[[殊能将之]](第13回)、[[古処誠二]](第14回)、[[氷川透]](第15回)、[[黒田研二]](第16回)、[[古泉迦十]](第17回)、[[石崎幸二]](第18回)と連続して本格ミステリの書き手が集まった。 :第13回受賞作『[[ハサミ男]]』(殊能将之)と第17回受賞作『火蛾』(古泉迦十)は、「[[本格ミステリ・ベスト10]]」の該当年度でそれぞれ2位となり、古処誠二、黒田研二も2作目以降がベスト10に入っている。 ;2001年 - 2010年 :この時期には、後に[[三島由紀夫賞]]を受賞する[[舞城王太郎]]・[[佐藤友哉]]や、受賞作を含むシリーズが「[[このライトノベルがすごい!]]」で1位を獲得した西尾維新など、ミステリの形式を借りて他のジャンルを書こうとする作家が多く受賞した。この3人は2003年創刊の『[[ファウスト (文芸誌)|ファウスト]]』の中心執筆者となり、これ以降メフィスト賞でも、本格ミステリや実験的な作品以外にも、[[ライトノベル]]や[[伝奇小説#日本の近現代の伝奇風小説|新伝奇]]とミステリが融合したジャンルが多く受賞している。 ;2011年 - 2013年 :[[辻村深月]]、[[舞城王太郎]]らのように、1990年代後半から2000年代前半にデビューし中堅となった作家が、[[芥川龍之介賞|芥川賞]]や[[直木賞]]などの著名な文学賞を受賞、もしくは常連候補となりはじめる。 :[[北夏輝]]の『恋都の狐さん』のようにミステリ要素が薄く、[[恋愛小説]]のようなエンターテインメントが受賞する一方で、[[周木律]]のような『館もの』を志向する作家が登場し『ミステリ作家の登竜門』という側面は継承された。 :2013年3月13日にはメフィスト賞作品が3ヶ月連続刊行された記念企画として『第1回メフィストの会』が開催された<ref>[http://clubtakatakat.jugem.jp/?eid=492 第1回「メフィストの会」] - [[高田崇史]]のブログ</ref>。 ;2014年 - 2020年 :50回を迎えるにあたり、募集要項の変更などがあった。『メフィスト』2014年VOL.1(4月発売)誌上にて、[[講談社BOX新人賞]](募集:2006年 - 2013年)との統合が発表され、以降は講談社ノベルスならびに[[講談社BOX]]の原稿を募集することとされた。また、従来は枚数の上限が設定されていなかったが、同誌上にて上限が40字×40行で180枚(原稿用紙換算約700枚)とされた。 :新要項での第1作目となる第50回受賞作は[[早坂吝]]『○○○○○○○○殺人事件』が『タイトル当て』による『読者への挑戦状』、続く第51回受賞作の[[井上真偽]]『[[恋と禁忌の述語論理]]』は文中に[[数理論理学]]の記号を多用した連作短編であるなど、『一作家一ジャンル』という側面も継承されている。 ;2020年 - :再度応募要項の変更があり、上限が撤廃された。Web応募のみとなる。 == 受賞作一覧 == 年は基本的に出版年。特記以外、初刊は[[講談社ノベルス]]または単行本、文庫は[[講談社文庫]]刊。 {| class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small;" !年!!回!!受賞作!!受賞者!!初刊!!文庫化 |- |rowspan="2"|1996年||第1回||『[[すべてがFになる]]』||[[森博嗣]]||1996年4月||1998年12月 |- |第2回||『[[コズミック|コズミック 世紀末探偵神話]]』<ref group="注">「1200年密室伝説」改題</ref>||[[清涼院流水]]||1996年9月||2000年4月(流)<br>2000年5月(水)<ref group="注">文庫化時に『コズミック』に改題</ref> |- ||1997年||第3回||『六枚のとんかつ』<ref group="注">「FILE DARK L」改題</ref>||[[蘇部健一]]||1997年9月||2002年1月 |- |rowspan="6"|1998年||第4回||『Jの神話』<ref group="注">「失楽園J」改題</ref>||[[乾くるみ]]||1998年2月||2002年6月 |- |第5回||『記憶の果て』||[[浦賀和宏]]||1998年2月||2001年8月 |- |第6回||『歪んだ創世記』||[[積木鏡介]]||1998年2月|| |- |第7回||『血塗られた神話』<ref group="注">「神の戯れ」改題</ref>||[[新堂冬樹]]||1998年8月||2001年7月 |- |第8回||『ダブ(エ)ストン街道』||[[浅暮三文]]||1998年8月||2003年10月 |- |第9回||『[[QED 百人一首の呪]]』<ref group="注">「玉ぞ散りける─百人一首の呪─」改題</ref>||[[高田崇史]]||1998年12月||2002年10月 |- |rowspan="4"|1999年||第10回||『Kの流儀 フルコンタクト・ゲーム』<ref group="注">「フルコンタクト・ゲーム」改題</ref>||[[中島望]]||1999年2月|| |- |第11回||『[[薬屋探偵妖綺談|銀の檻を溶かして 薬屋探偵妖綺談]]』||[[高里椎奈]]||1999年3月||2005年5月 |- |第12回||『[[ドッペルゲンガー宮 《あかずの扉》研究会流氷館へ]]』<ref group="注">「十人そろったら」改題</ref>||[[霧舎巧]]||1999年7月||2003年6月 |- |第13回||『[[ハサミ男]]』||[[殊能将之]]||1999年8月||2002年8月 |- |rowspan="5"|2000年||第14回||『UNKNOWN(アンノン)』<ref group="注">「アイアンゲート」改題</ref>||[[古処誠二]]||2000年4月||2006年11月<ref group="注">[[文春文庫]]刊。文庫化時に「アンノウン」に改題</ref> |- |第15回||『真っ暗な夜明け』||[[氷川透]]||2000年5月|| |- |第16回||『ウェディング・ドレス』||[[黒田研二]]||2000年6月||2008年2月 |- |第17回||『火蛾』||[[古泉迦十]]||2000年9月||2023年5月 |- |第18回||『日曜日の沈黙』||[[石崎幸二]]||2000年12月|| |- |rowspan="4"|2001年||第19回||『[[煙か土か食い物|煙か土か食い物 Smoke, Soil or Sacrifices]]』<ref group="注">「煙か土か食い物か」改題</ref>||[[舞城王太郎]]||2001年3月||2004年12月 |- |第20回||『月長石の魔犬』||[[秋月涼介]]||2001年6月|| |- |第21回||『[[フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人]]』||[[佐藤友哉]]||2001年7月||2007年3月 |- |第22回||『DOOMSDAY―審判の夜―』<ref group="注">「SURVIVOR ―生存者」改題</ref>||[[津村巧]]||2001年9月|| |- |rowspan="4"|2002年||第23回||『[[戯言シリーズ|クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い]]』<ref group="注">「並んで歩く」改題</ref>||[[西尾維新]]||2002年2月||2008年4月 |- |第24回||『[[『クロック城』殺人事件]]』<ref group="注">「失われたきみ」改題</ref>||[[北山猛邦]]||2002年3月||2007年10月 |- |第25回||『それでも、警官は微笑う』<ref group="注">「迎日」改題</ref>||[[日明恩]]||2002年6月||2006年7月 |- |第26回||『[[死都日本]]』||[[石黒耀]]||2002年9月||2008年11月 |- |rowspan="3"|2003年||第27回||『フレームアウト』||[[生垣真太郎]]||2003年1月|| |- |第28回||『蜜の森の凍える女神』<ref group="注">「ハニー・デイズ」改題</ref>||[[関田涙]]||2003年3月|| |- |第29回||『空を見上げる古い歌を口ずさむ』<ref group="注">「GESUMONO」改題</ref>||[[小路幸也]]||2003年4月||2007年5月 |- |rowspan="2"|2004年||第30回||『[[極限推理コロシアム]]』||[[矢野龍王]]||2004年4月||2008年10月 |- |第31回||『[[冷たい校舎の時は止まる]]』<ref group="注">「投身自殺」改題</ref>||[[辻村深月]]||2004年6月(上)<br>2004年7月(中)<br>2004年8月(下)||2007年8月(上・下) |- |rowspan="2"|2005年||第32回||『孤虫症』<ref group="注">「パーフェクト・サイクル」改題</ref>||[[真梨幸子]]||2005年3月||2008年10月 |- |第33回||『黙過の代償』<ref group="注">「虎の尾を踏む者たち」改題</ref>||[[森山赳志]]||2005年12月|| |- ||2006年||第34回||『少女は踊る暗い腹の中踊る』||[[岡崎隼人]]||2006年6月|| |- |rowspan="2"|2007年||第35回||『[[天帝のはしたなき果実]]』||[[古野まほろ]]||2007年1月||2011年10月<ref group="注">[[幻冬舎文庫]]刊</ref> |- |第36回||『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』<ref group="注">「ウルチモ・トルッコ」改題</ref>||[[深水黎一郎]]||2007年4月||2014年10月<ref group="注">[[河出文庫]]刊。文庫化時に「最後のトリック」に改題</ref> |- |rowspan="3"|2008年||第37回||『パラダイス・クローズド THANATOS』||[[汀こるもの]]||2008年1月||2011年2月 |- |第38回||『掘割で笑う女 浪人左門あやかし指南』<ref group="注">「落ちる弦月の鎌」改題</ref>||[[輪渡颯介]]||2008年1月||2010年1月 |- |第39回||『マネーロード』||[[二郎遊真]]||2008年5月|| |- |rowspan="3"|2009年||第40回||『無貌伝 〜双児の子ら〜』<ref group="注">「無貌伝 双子の子ら」改題</ref>||[[望月守宮]]||2009年1月||2012年10月 |- |第41回||『虫とりのうた』||[[赤星香一郎]]||2009年8月|| |- |第42回||『プールの底に眠る』||[[白河三兎]]||2009年12月||2013年4月 |- |rowspan="3"|2010年||第43回||『キョウカンカク』||[[天祢涼]]||2010年2月||2013年7月<ref group="注">文庫化時に「キョウカンカク 美しき夜に」に改題</ref> |- |第44回||『琅邪の鬼』||[[丸山天寿]]||2010年6月||2013年6月 |- |第45回||『図書館の魔女』<ref group="注">2010年Vol.3(2010年12月)の座談会で受賞が決定し、2013年8月に刊行された。</ref>||[[高田大介]]||2013年8月(上・下)||2016年4月(一・二)<br>2016年5月(三・四) |- ||2012年||第46回||『恋都の狐さん』<ref group="注">「如月の頃、狐と出逢うこと」「如月の狐さん」改題</ref>||[[北夏輝]]||2012年2月||2014年3月 |- | rowspan="2" |2013年||第47回||『眼球堂の殺人 〜The Book〜』||[[周木律]]||2013年4月||2016年9月 |- |第48回||『愛の徴 ―天国の方角―』<ref group="注">「黄金の蛇、緑の草原」改題</ref>||[[近本洋一]]||2013年5月|| |- | rowspan="2" |2014年 |第49回||『渦巻く回廊の鎮魂曲(レクイエム) 霊媒探偵アーネスト』||[[風森章羽]]||2014年5月||2016年8月 |- |第50回||『[[○○○○○○○○殺人事件]]』||[[早坂吝]]||2014年9月||2017年4月 |- |2015年 |第51回||『[[恋と禁忌の述語論理|恋と禁忌の{{読み仮名|述語論理|プレディケット}}]]』||[[井上真偽]]||2015年1月||2018年12月 |- | rowspan="3" |2017年||第52回||『[[誰かが見ている (宮西真冬)|誰かが見ている]]』||[[宮西真冬]]<ref group="注">「正路泉己」から改名</ref>||2017年4月||2021年2月 |- |第53回||『NO推理、NO探偵?』||[[柾木政宗]]||2017年9月|| |- |第54回||『毎年、記憶を失う彼女の救いかた』<ref group="注">「リピート・ラブ」改題</ref>||[[望月拓海]]||||2017年12月<ref group="注" name="タイガ">[[講談社タイガ]]刊</ref> |- | rowspan="4" |2018年 |第55回||『[[閻魔堂沙羅の推理奇譚]]』||[[木元哉多]]||||2018年3月<ref group="注" name="タイガ" /> |- |第56回||『コンビニなしでは生きられない』||秋保水菓||2018年4月||2021年7月 |- |第57回||『人間に向いてない』<ref group="注">「異型性変異症候群」改題</ref>||[[黒澤いづみ]]||2018年6月||2020年5月 |- |第58回||『異セカイ系』||名倉編||||2018年8月<ref group="注" name="タイガ" /> |- | rowspan="2" |2019年 |第59回||『[[線は、僕を描く]]』<ref group="注">「黒白の花蕾」改題</ref>||[[砥上裕將]]||2019年6月||2021年10月 |- |第60回||『絞首商會』<ref group="注">「絞首商会の後継人」改題</ref>||[[夕木春央]]||2019年9月||2023年1月 |- | rowspan="2" |2020年 |第61回||『#柚莉愛とかくれんぼ』||[[真下みこと]]||2020年2月||2021年11月 |- |第62回||『法廷遊戯』<ref group="注">「無辜の神様」改題</ref>||[[五十嵐律人]]||2020年7月||2023年4月 |- |2021年 |第63回||『スイッチ 悪意の実験』<ref group="注">「スイッチ」改題</ref>||[[潮谷験]]||2021年4月||2022年9月 |- | rowspan="2" |2023年 |第64回||『ゴリラ裁判の日』||[[須藤古都離]]||2023年3月|| |- |第65回 |『死んだ山田と教室』 |[[金子玲介]] |2024年5月 | |} == 関連書籍・作家 == ; 受賞には至らなかったが、講談社からデビューした作家 * [[立原伸行]] - 1996年4月増刊号の座談会で取り上げられた『法廷の伝書鳩』をきっかけに担当編集者がつき、その後執筆した『社会部長が死んだ夜』(1997年9月増刊号座談会)が『事件記者が死んだ夜』と改題されて1997年10月に出版された。本名の広岩近広名義でノンフィクションの著作もある。 * 鳥羽森 - 『密閉都市のトリニティ』(2009年Vol.2[2009年8月]座談会 / 2010年3月刊行) - 投稿時タイトル『欲望=トリニティ』 * 鏑矢竜 - 『ファミ・コン!』(2011年Vol.2[2011年8月]座談会 / 2012年4月刊行) - 投稿時タイトル『イン ロウ ハビット』 ; 受賞はしなかったが、講談社から刊行された投稿作 * [[山口芳宏]] - 『妖精島の殺人』(2006年5月増刊号座談会 / 2009年9・10月刊行) - 2007年に『雲上都市の大冒険』で第17回[[鮎川哲也賞]]を受賞してデビューし、その後、かつて座談会で取り上げられた『妖精島の殺人』が講談社ノベルスで上下巻で刊行された。 * [[矢口敦子|早見江堂]] - 『本格ミステリ館焼失』(2007年9月増刊号座談会 / 2007年12月刊行) - 1991年4月に講談社ノベルス『かぐや姫連続殺人事件』で「谷口敦子」名義でデビューしていた[[矢口敦子]]の投稿作。「早見江堂」というペンネームで刊行された。 * [[紺野天龍]] - 『神薙虚無最後の事件』(2012年Vol.2 [2012年8月] 座談会 / 2022年6月刊行) - 投稿時タイトル『朝凪水素最後の事件』。現在のタイトルで第29回(2019年)鮎川哲也賞最終候補作にもなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000363102|title=『神薙虚無最後の事件』(紺野 天龍)|website=講談社BOOK倶楽部|publisher=[[講談社]]|accessdate=2022-06-07}}</ref>。2018年、[[電撃文庫]]『ゼロの戦術師』でデビュー。 ; 別の出版社から刊行された投稿作 * [[門前典之]] - 『啞吼の輪廻(あくのりんね)』(1996年12月増刊号座談会) - 第7回(1996年)鮎川哲也賞最終候補作。メフィスト賞に応募後、『死の命題』に改題して[[新風舎]]より自費出版(1997年9月)。その後門前典之は別作品で第11回(2001年)鮎川哲也賞を受賞してデビュー。2010年2月には『死の命題』を改題改稿した『屍(し)の命題』を原書房から刊行した。 * [[柄刀一]] - 『サタンの僧院』(1998年5月増刊号座談会 / [[原書房]]、1999年4月) - 1998年7月、その前年の鮎川哲也賞の最終候補作になった『3000年の密室』で原書房からデビュー。 * 川口祐海 - 『ナゼアライブ』(2009年Vol.1[2009年4月]座談会 / [[文芸社]]、2011年8月[川口愉快名義] / 『イシュタム・コード』に改題、文芸社文庫、2012年10月[川口祐海名義]) ; メフィスト賞に投稿歴のある作家 * [[城戸光子]] - 『ユリス』[http://www.applepie.gr.jp/gallery/yurisu/]をメフィスト賞に投稿(2005年1月増刊号座談会)。座談会で取り上げられ「出版できるレベル」と評されたが、規定違反(他社でデビュー済み)だったこともあり、出版はされなかった。 * [[詠坂雄二]] - メフィスト賞の常連投稿者だったが、[[メフィスト (文芸誌)|メフィスト]]が休刊(2006年春 - 、1年間)になったため別の賞に目標を変え、2007年8月、『リロ・グラ・シスタ』で光文社[[KAPPA-ONE]]からデビュー<ref group="注">早川書房『ミステリマガジン』2010年1月号のインタビュー参照</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連書 == * 毎日は笑わない工学博士たち - I Say Essay Everyday ([[幻冬舎]]文庫) ISBN 4344402766 - 森博嗣が公開していたブログの書籍版。賞の設立経緯、初期の受賞者や編集者について記述がある。 * 密室本 メフィスト巻末編集者座談会 - 2003年までの「巻末編集者座談会」を収める。 * 密室本2 メフィスト巻末編集者座談会 - 2004年以降の「巻末編集者座談会」を収める。 == 外部リンク == * [https://tree-novel.com/author/mephisto/ メフィスト編集部] - 文芸雑誌『メフィスト』の公式サイト {{推理小説の公募新人賞}} {{講談社}} {{デフォルトソート:めふいすとしよう}} [[Category:メフィスト賞|*]] [[Category:日本の公募新人文学賞]] [[Category:講談社主催の賞]] [[Category:1996年開始のイベント]]
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ライトノベル作家一覧
ライトノベル作家一覧(ライトノベルさっかいちらん)とは、ライトノベルを主として書く作家の一覧である。 作者名の後の括弧内は、その人が主に活躍するレーベルを示している。 韓国 台湾
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ライトノベル作家一覧(ライトノベルさっかいちらん)とは、ライトノベルを主として書く作家の一覧である。 作者名の後の括弧内は、その人が主に活躍するレーベルを示している。
'''ライトノベル作家一覧'''(ライトノベルさっかいちらん)とは、[[ライトノベル]]を主として書く[[作家]]の一覧である。 [[作者]]名の後の括弧内は、その人が主に活躍するレーベルを示している。 == 日本の作家名一覧 == ===あ行=== <!-- あ --> <!--可能な限り、人物記事が既存の人のみを列挙してください。赤リンクが増えるだけです。また内容が碌にないのに新規に作るのは控えてください。--> * [[相生生音]](電撃文庫) * [[逢空万太]](GA文庫) * [[英田サキ]](講談社X文庫ホワイトハート) * [[愛七ひろ]](カドカワBOOKS) * [[葵せきな]](富士見ファンタジア文庫) * [[青木祐子]](集英社コバルト文庫) * [[あおしまたかし]](富士見ファンタジア文庫) * [[蒼山サグ]](電撃文庫) * [[青山有]](ぽにきゃんBOOKS) * [[青田竜幸]](富士見ファンタジア文庫(107)) * [[赤川次郎]](集英社コバルト文庫) * [[赤月カケヤ]](ガガガ文庫) * [[暁佳奈]](KAエスマ文庫) * [[暁なつめ]](角川スニーカー文庫) * [[あかつきゆきや]](電撃文庫) * [[茜屋まつり]](電撃文庫) * [[あかほりさとる]](角川スニーカー文庫、富士見ファンタジア文庫) * [[赤松中学]](MF文庫J) * [[秋口ぎぐる]](富士見ミステリー文庫) * [[秋田禎信]](富士見ファンタジア文庫、角川スニーカー文庫) * [[秋津透]](角川スニーカー文庫、富士見ファンタジア文庫) * [[秋山瑞人]](電撃文庫) * [[日日日]](角川スニーカー文庫、ファミ通文庫、MF文庫J、ガガガ文庫) * [[安居院晃]](富士見ファンタジア文庫) * [[浅井ラボ]](角川スニーカー文庫、HJ文庫) * [[アサウラ]](集英社スーパーダッシュ文庫) * [[朝香祥]](集英社コバルト文庫、角川ビーンズ文庫) * [[安里アサト]](電撃文庫) * [[淺沼広太]](集英社スーパーダッシュ文庫、ファミ通文庫、一迅社文庫) * [[あざの耕平]](富士見ファンタジア文庫(96)、富士見ミステリー文庫) * [[あさのハジメ]](MF文庫J) * [[明日香々一]](富士見ファンタジア文庫) * [[あすか正太]](電撃文庫、角川スニーカー文庫、集英社スーパーダッシュ文庫) * [[あずみ圭]](アルファポリス) * [[阿部暁子]](集英社コバルト文庫) * [[阿智太郎]](電撃文庫、MF文庫J) * [[アネコユサギ]](MFブックス) * [[雨川水海]](オーバーラップノベルス) * [[雨木シュウスケ]](富士見ファンタジア文庫) * [[天酒之瓢]](ヒーロー文庫) * [[尼野ゆたか]](富士見ファンタジア文庫(152)) * [[あまさきみりと]](角川スニーカー文庫) * [[雨宮諒]](電撃文庫) * [[雨森たきび]](ガガガ文庫) * [[雨川恵]](角川ビーンズ文庫) * [[天那光汰]](ぽにきゃんBOOKS) * [[天野優志]](UGnovels、HJ文庫) * [[編乃肌]](ファン文庫、スターツ出版文庫) * [[新井輝]](ファミ通文庫、富士見ミステリー文庫(8)) * [[新井素子]](集英社コバルト文庫) * [[新木伸]](電撃文庫、ファミ通文庫) * [[有川浩]](電撃文庫、メディアワークス文庫) * [[有沢まみず]](電撃文庫) * [[綾崎隼]](メディアワークス文庫) * [[綾里けいし]](ファミ通文庫) * [[あわむら赤光]](GA文庫) * [[庵田定夏]](ファミ通文庫) <!-- い --> * [[五十嵐雄策]](電撃文庫) * [[石原宙]](集英社スーパーダッシュ文庫) * [[石踏一榮]](富士見ファンタジア文庫) * [[泉 (ライトノベル作家)|泉]](宝島社) * [[伊瀬 ネキセ]](ダッシュエックス文庫) * [[一条由吏]](ぽにきゃんBOOKS) * [[市川丈夫]](富士見ファンタジア文庫(97)) * [[壱乗寺かるた]](富士見ミステリー文庫(58)) * [[壱日千次]](MF文庫J) * [[伊藤ヒロ]] * [[糸緒思惟]](一迅社文庫、HJ文庫) * [[井上堅二]](ファミ通文庫) * [[入間人間]](電撃文庫、メディアワークス文庫) * [[岩井恭平]](角川スニーカー文庫) * [[岩田洋季]](電撃文庫) * [[岩柄イズカ]](GA文庫) * [[いわなぎ一葉]](富士見ファンタジア文庫(148)) * [[岩本隆雄]](ソノラマ文庫) * [[犬村小六]](ファミ通文庫、ガガガ文庫) <!-- う --> * [[うえお久光]](電撃文庫) * [[上栖綴人]](HJ文庫) * [[上田志岐]](富士見ミステリー文庫(48)) * [[内山靖二郎]](MF文庫J) * [[兎月竜之介]](集英社スーパーダッシュ文庫) * [[宇津田晴]](ルルル文庫) * [[冲方丁]](角川スニーカー文庫、富士見ファンタジア文庫、ハヤカワ文庫JA) * [[郁子匠]](ポプラ文庫) * [[宇野朴人]](電撃文庫) * [[浦根絵夢]](講談社X文庫) * [[うれま庄司]](スマッシュ文庫、富士見ファンタジア文庫) * [[嬉野秋彦]](集英社スーパーダッシュ文庫、ファミ通文庫) * [[虚淵玄]](ガガガ文庫、星海社文庫) * [[えぞぎんぎつね]](GAノベル) <!-- え --> * [[榎田尤利]](角川ビーンズ文庫) * [[榎木洋子]](集英社コバルト文庫) * [[江波光則]](ガガガ文庫) * [[恵比須清司]](富士見ファンタジア文庫) * [[遠藤遼]](オーバーラップ文庫、双葉文庫、スターツ出版文庫、富士見L文庫) <!-- お --> * [[仰木日向]](ぽにきゃんBOOKS) * [[大凹友数]](MF文庫J) * [[大樹連司]] * [[大迫純一]](GA文庫) * [[大森藤ノ]](GA文庫) * [[おかざき登]](MF文庫J) * [[岡野麻里安]](講談社X文庫ホワイトハート) * [[おかゆまさき]](電撃文庫) * [[小河正岳]](電撃文庫) * [[沖田雅]](電撃文庫) * [[沖原朋美]](コバルト文庫) * [[荻野目悠樹]](徳間デュアル文庫) * [[お魚1号]](オーバーラップ文庫) * [[小沢淳]](講談社X文庫ホワイトハート) * [[乙一]](集英社文庫、角川スニーカー文庫) * [[御堂彰彦]](電撃文庫) * [[小野不由美]](新潮文庫、講談社X文庫ホワイトハート) * [[折口良乃]](電撃文庫、ダッシュエックス文庫) * [[折原みと]](ポプラ社、講談社X文庫ティーンズ・ハート、コバルト文庫、レモン文庫) * [[オヤジギショウ]] ===か行=== <!--可能な限り、人物記事が既存の人のみを列挙してください。赤リンクが増えるだけです。また内容が碌にないのに新規に作るのは控えてください。--> <!-- か --> * [[海冬レイジ]](富士見ミステリー文庫(66)、富士見ファンタジア文庫、MF文庫J) * [[海道左近]](HJ文庫) * [[海堂崇]](GA文庫) * [[海原零]](集英社スーパーダッシュ文庫) * [[櫂末高彰]](ファミ通文庫) * [[加賀美真也]](スターツ出版文庫) * [[鏡貴也]](富士見ファンタジア文庫(111)) * [[鏡遊]](MF文庫J) * [[風見周]](富士見ファンタジア文庫(121)、一迅社文庫) * [[蝸牛くも]](GA文庫) * [[風見潤]](講談社X文庫) * [[風見鶏 (作家)|風見鶏]](富士見ファンタジア文庫) * [[柏枝真郷]](講談社X文庫ホワイトハート、光風社出版クリスタル文庫) * [[柏てん]](一迅社文庫アイリス、角川ビーンズ文庫、宝島社、フェアリーキス ピュア) * [[春日みかげ]](電撃文庫、富士見ファンタジア文庫) * [[片山憲太郎]](集英社スーパーダッシュ文庫) * [[片山美保子]](集英社コバルト文庫) * [[かたやま和華]] * [[片遊佐牽太]](ぽにきゃんBOOKS) * [[加地尚武]](ぺんぎん書房) * [[香月美夜]](TOブックス) * [[賀東招二]](富士見ファンタジア文庫、竹書房ゼータ文庫) * [[上遠野浩平]](電撃文庫、徳間デュアル文庫、富士見ミステリー文庫) * [[加納新太]](ファミ通文庫) * [[壁井ユカコ]](電撃文庫) * [[鎌池和馬]](電撃文庫) * [[神野オキナ]](MF文庫J、GA文庫、HJ文庫) * [[紙吹みつ葉]](ファミ通文庫) * [[榎宮祐]](MF文庫J) * [[仮名堂アレ]](ガガガ文庫) * [[鴨志田一]](電撃文庫) * [[蒲生竜哉]](幻冬舎) * [[茅田砂胡]](C★NOVELS、角川スニーカー文庫) * [[殻半ひよこ]](ファミ通文庫、電撃文庫) * [[唐辺葉介]](星海社FICTIONS) * [[カルロ・ゼン]](エンターブレイン) * [[枯野瑛]](富士見ミステリー文庫、角川スニーカー文庫) * [[川上稔]](電撃文庫) * [[川口士]] * [[川崎ヒロユキ]](集英社スーパーダッシュ文庫) * [[川原礫]](電撃文庫) * [[神坂一]](富士見ファンタジア文庫(20)、角川スニーカー文庫) * [[神崎紫電]](電撃文庫、ガガガ文庫) * [[神崎リン]](角川スニーカー文庫) * [[神田暁一郎]](GA文庫) <!-- き --> * [[樹川さとみ]](集英社コバルト文庫) * [[菊石まれほ]](電撃文庫) * [[菊池早苗]](講談社X文庫ホワイトハート) * [[城崎火也]](集英社スーパーダッシュ文庫) * [[木崎ちあき]](メディアワークス文庫、ビーズログ文庫) * [[岸本和葉]](モンスター文庫) * [[北沢慶]](富士見ファンタジア文庫) * [[喜多嶋隆]](パレット文庫、コバルト文庫) * [[喜多みどり]](角川ビーンズ文庫) * [[聴猫芝居]](電撃文庫) * [[衣笠彰梧]](MF文庫J) * [[公野櫻子]](電撃文庫) * [[木村心一]](富士見ファンタジア文庫) * [[木村航]](ファミ通文庫) * [[金蓮花]](集英社コバルト文庫) <!-- く --> * [[久追遥希]](MF文庫J) * [[日下弘文]](富士見ファンタジア文庫(128)) * [[久住四季]](電撃文庫) * [[くまなの]](PASH!ブックス) * [[久美沙織]](集英社コバルト文庫) * [[倉田英之]](電撃文庫、集英社スーパーダッシュ文庫) * [[倉本由布]](集英社コバルト文庫) * [[栗原ちひろ]](角川ビーンズ文庫) * [[黒田洋介]](富士見ファンタジア文庫) * [[桑島由一]](MF文庫J) * [[桑原水菜]](集英社コバルト文庫) * [[珪素 (作家)|珪素]](電撃の新文芸) *コウ(モーニングスターブックス) <!-- け --> * <!-- こ --> * [[甲田学人]](電撃文庫) * [[紅玉いづき]](電撃文庫) * [[上月司]](電撃文庫) * [[豪屋大介]](富士見ファンタジア文庫(117)) * [[五代ゆう]](富士見ファンタジア文庫(43)、MF文庫J) * [[虎走かける]](電撃文庫) * [[小林めぐみ]](富士見ファンタジア文庫) * [[駒崎優]](講談社X文庫ホワイトハート) * [[小松遊木]](GA文庫) * [[小松由加子]](集英社コバルト文庫) * [[今野緒雪]](集英社コバルト文庫) ===さ行=== <!--可能な限り、人物記事が既存の人のみを列挙してください。赤リンクが増えるだけです。また内容が碌にないのに新規に作るのは控えてください。--> <!-- さ --> * [[三枝零一]](電撃文庫) * [[雑賀礼史]](富士見ファンタジア文庫(66)) * [[斉藤真也 (作家)|斉藤真也]](MF文庫J) * [[佐伯さん]](GA文庫) * [[佐伯庸介]](電撃文庫、一迅社文庫、新紀元社) * [[冴木忍]](富士見ファンタジア文庫、富士見ミステリー文庫) * [[榊一郎]](富士見ファンタジア文庫(88)、ファミ通文庫、GA文庫、HJ文庫) * [[榊原モンショー]](ブレイブ文庫、UGnovels) * [[さがら総]](MF文庫J) * [[左京潤]](富士見ファンタジア文庫) * [[昨坂まこと]](講談社ラノベ文庫) * [[桜こう]](ガガガ文庫) * [[櫻井牧]](富士見ファンタジア文庫) * [[桜坂洋]](集英社スーパーダッシュ文庫) * [[桜庭一樹]](富士見ミステリー文庫(38)、ファミ通文庫) * [[佐崎一路]](モーニングスターブックス) * [[細音啓]](富士見ファンタジア文庫) * [[佐々原史緒]](ファミ通文庫) * [[笹本祐一]](ソノラマ文庫) * [[定金伸治]](集英社スーパーダッシュ文庫) * [[佐藤ケイ]](電撃文庫) * [[佐島勤]](電撃文庫) * [[サトウとシオ]](GA文庫) * [[佐藤真登]](GA文庫) * [[佐藤了]](ファミ通文庫) * [[三田誠]](角川スニーカー文庫、TYPE-MOON BOOKS、角川文庫) <!-- し --> * [[椎名蓮月]](富士見ファンタジア文庫) * [[椎野美由貴]](角川スニーカー文庫) * [[志木謙介]](HJ文庫) * [[時雨沢恵一]](電撃文庫) * [[しなな泰之]](集英社スーパーダッシュ文庫) * [[篠崎砂美]](電撃文庫、ファミ通文庫) * [[東雲立風]](角川スニーカー文庫、ファンタジア文庫) * [[柴村仁]](電撃文庫、メディアワークス文庫) * [[清水文化]](富士見ファンタジア文庫(83)、HJ文庫) * [[清水マリコ]](MF文庫J) * [[志瑞祐]](MF文庫J) * [[志村一矢]](電撃文庫) * [[しめさば (作家)|しめさば]](角川スニーカー文庫) * [[霜越かほる]](集英社スーパーダッシュ文庫) * [[霜島ケイ]](小学館キャンバス文庫) * [[秋 (小説家)|秋]](電撃文庫) * [[庄司卓]](富士見ファンタジア文庫) * [[十文字青]](角川スニーカー文庫、オーバーラップ文庫) * [[白石定規]](GAノベル) * [[白米良]](オーバーラップ文庫) * [[しらせはる]](集英社コバルト文庫) * [[白鳥士郎]](GA文庫) * [[白城海]](ぽにきゃんBOOKS) * [[師走トオル]](富士見ミステリー文庫) * [[新城カズマ]](富士見ファンタジア文庫) * [[新保静波]](集英社スーパーダッシュ文庫) <!-- す --> * [[すえばしけん]](HJ文庫) * [[周防ツカサ]](電撃文庫) * [[須賀しのぶ]](集英社コバルト文庫) * [[菅沼理恵]](角川ビーンズ文庫) * [[杉井光]](電撃文庫) * [[杉原智則]](電撃文庫、角川スニーカー文庫) * [[須崎正太郎]](ダッシュエックス文庫) * [[鈴木鈴]](電撃文庫) * [[鈴木大輔 (作家)|鈴木大輔]](富士見ファンタジア文庫(149)、MF文庫J) * [[スズキヒサシ]](電撃文庫) * [[鈴本紅]](集英社コバルト文庫) * [[青春詭弁]](UGnovels、ドラゴンノベルス) <!-- せ --> * [[清涼院流水]](講談社ノベルス、講談社BOX) * [[清家未森]](角川ビーンズ文庫) * [[瀬尾つかさ]](富士見ファンタジア文庫、一迅社文庫) * [[瀬川貴次]](集英社コバルト文庫) * [[瀬戸メグル]](Kラノベブックス) * [[戦記暗転]](ブレイブ文庫) * [[仙波ユウスケ]](講談社ラノベ文庫) <!-- そ --> * [[宗田理]](角川文庫) ===た行=== <!--可能な限り、人物記事が既存の人のみを列挙してください。赤リンクが増えるだけです。また内容が碌にないのに新規に作るのは控えてください。--> <!-- た --> * [[田尾典丈]](ガガガ文庫、GA文庫) * [[高瀬美恵]](講談社X文庫ホワイトハート) * [[高瀬ユウヤ]](富士見ファンタジア文庫(113)) * [[高遠砂夜]](集英社コバルト文庫) * [[高田由紀子]](ポプラ社) * [[高殿円]](角川ビーンズ文庫、GA文庫) * [[貴子潤一郎]](富士見ファンタジア文庫(132)) * [[鷹野祐希]](講談社X文庫ホワイトハート、富士見ミステリー文庫) * [[高橋ななを]](パレット文庫) * [[高橋弥七郎]](電撃文庫) * [[喬林知]](角川ビーンズ文庫) * [[高畑京一郎]](電撃文庫) * [[鷹見一幸]](電撃文庫、角川スニーカー文庫) * [[高峰翔]](モンスター文庫) * [[瀧川武司]](富士見ファンタジア文庫(109)) * [[滝川羊]](富士見ファンタジア文庫) * [[瀧津孝]](一二三書房) * [[田口仙年堂]] * [[田口一]](MF文庫J) * [[竹井10日]](角川スニーカー文庫) * [[竹岡葉月]] * [[竹河聖]](富士見ファンタジア文庫(2)、集英社コバルト文庫) * [[丈月城]](集英社スーパーダッシュ文庫) * [[竹町 (小説家)|竹町]](富士見ファンタジア文庫) * [[竹宮ゆゆこ]](電撃文庫) * [[橘公司]](富士見ファンタジア文庫) * [[伊達将範]](電撃文庫) * [[田代裕彦]](富士見ミステリー文庫(55)) * [[田中哲弥]](電撃文庫) * [[田中芳樹]](講談社ノベルス) * [[田中ロミオ]](ガガガ文庫) * [[谷川流]](角川スニーカー文庫、電撃文庫) * [[田村登正]](電撃文庫) <!-- ち --> * [[千田誠行]](GA文庫) <!-- つ --> * [[月見草平]](MF文庫J) * [[月夜涙]](角川スニーカー文庫、モンスター文庫) * [[ツカサ (作家)|ツカサ]](ガガガ文庫) * [[築地俊彦]](富士見ファンタジア文庫、ファミ通文庫・MF文庫J) * [[筒井康隆]](星海社FICTIONS) * [[長考師]](ぽにきゃんBOOKS) <!-- て --> * [[手島史詞]] * [[てにをは (音楽家)|てにをは]] * [[寺田とものり]](HJ文庫) * [[天堂里砂]](C★NOVELS) <!-- と --> * [[橙乃ままれ]](エンターブレイン) * [[遠見塚わたる]] * [[十目一八]](GA文庫) * [[時無ゆたか]](角川スニーカー文庫) * [[年見悟]](富士見ファンタジア文庫) * [[とみなが貴和]](講談社X文庫ホワイトハート) * [[友野詳]](角川スニーカー文庫、富士見ファンタジア文庫、電撃文庫) * [[土橋真二郎]](電撃文庫) * [[豊田巧]](ガガガ文庫、創芸社クリア文庫、サクセスSuperLite文庫) * [[虎虎]](KAエスマ文庫) * [[鳥居なごむ]](KAエスマ文庫) ===な行=== <!--可能な限り、人物記事が既存の人のみを列挙してください。赤リンクが増えるだけです。また内容が碌にないのに新規に作るのは控えてください。--> <!-- な --> * [[中里融司]](電撃文庫) * [[長田信織]](電撃文庫) * [[長月達平]](MF文庫J) * [[中村うさぎ]](角川スニーカー文庫、富士見ファンタジア文庫) * [[中村恵里加]](電撃文庫) * [[中村九郎 (ライトノベル作家)|中村九郎]](富士見ミステリー文庫(70)) * [[中村颯希]] (ヒーロー文庫、一迅社ノベルス、富士見L文庫) * [[仲村つばき]](ビーズログ文庫、集英社コバルト文庫、集英社オレンジ文庫) * [[流星香]](講談社X文庫ホワイトハート) * [[夏海公司]](電撃文庫) * [[夏緑]](富士見ファンタジア文庫、富士見ミステリー文庫、ファミ通文庫、MF文庫J) * [[七飯宏隆]](電撃文庫) * [[七海花音]](パレット文庫) * [[七烏未奏]](MF文庫J、講談社ラノベ文庫) * [[七月隆文]]([[今田隆文]])(電撃文庫) * [[なみあと]](ぽにきゃんBOOKS) * [[成田良悟]](電撃文庫) * [[南房秀久]](富士見ファンタジア文庫、富士見ミステリー文庫) <!-- に --> * [[二月公]](電撃文庫) * [[二語十]](MF文庫J) * [[西尾維新]](講談社ノベルス、講談社BOX) * [[西野かつみ]](MF文庫J) * [[新田一実]](講談社X文庫ホワイトハート) * [[二丸修一]](電撃文庫) <!-- ぬ --> * <!-- ね --> * [[猫田しゅばる]] * [[年中麦茶太郎]](GAノベル) <!-- の --> * [[野﨑まど]](メディアワークス文庫) * [[野島けんじ]](角川スニーカー文庫、MF文庫J) * [[野尻抱介]](富士見ファンタジア文庫、ファミ通文庫、ハヤカワ文庫JA) * [[望公太]](GA文庫、電撃文庫) * [[野梨原花南]](集英社コバルト文庫、富士見ミステリー文庫(54)) * [[延野正行]](ダッシュエックス文庫) * [[野村美月]](ファミ通文庫) ===は行=== <!--可能な限り、人物記事が既存の人のみを列挙してください。赤リンクが増えるだけです。また内容が碌にないのに新規に作るのは控えてください。--> <!-- は --> * [[橋本紡]](電撃文庫) * [[長谷川勝己]](富士見ファンタジア文庫) * [[ハセガワケイスケ]](電撃文庫) * [[長谷川菜穂子]](富士見ファンタジア文庫) * [[長谷川昌史]] * [[はせがわみやび]] * [[支倉凍砂]](電撃文庫) * [[榛名しおり]](講談社X文庫ホワイトハート) * [[秦野宗一郎]](KAエスマ文庫) * [[八目迷]](ガガガ文庫) * [[初枝れんげ]](TOブックス、SQEXノベルス) * [[花井愛子]](講談社X文庫ティーンズハート・パレット文庫ほか) * [[花果唯]](カドカワBOOKS) * [[花田十輝]] * [[花間燈]](MF文庫J) * [[葉村哲]](MF文庫J) * [[林トモアキ]](角川スニーカー文庫) * [[葉山透]](電撃文庫) * [[番棚葵]](集英社スーパーダッシュ文庫、MF文庫J) <!-- ひ --> * [[柊晴空]] * [[柊★たくみ]](MF文庫J) * [[東出祐一郎]](TYPE-MOON BOOKS、角川文庫、富士見ファンタジア文庫) * [[ひかわ玲子]](富士見ファンタジア文庫、講談社X文庫ホワイトハート) * [[比嘉智康]] * [[日暮茶坊]](ファミ通文庫) * [[日之影ソラ]](カドカワBOOKS) * [[響野夏菜]](集英社コバルト文庫) * [[ひびき遊]](富士見ファンタジア文庫(140)) * [[日昌晶]](富士見ファンタジア文庫) * [[氷室冴子]](集英社コバルト文庫) * [[日向章一郎]](集英社コバルト文庫) * [[日向夏 (小説家)|日向夏]](ヒーロー文庫) * [[平坂読]](MF文庫J、ガガガ文庫) * [[裕夢]](ガガガ文庫) <!-- ふ --> * [[深沢美潮]](角川スニーカー文庫、電撃文庫) * [[深見真]] * [[伏見つかさ]](電撃文庫) * [[藤咲あゆな]] * [[藤本ひとみ]](集英社コバルト文庫) * [[藤原祐]](電撃文庫) * [[伏瀬]](GCノベルズ) * [[FUNA (作家)|FUNA]](アース・スターノベル、SQEXノベル) * [[古橋秀之]](電撃文庫) * [[冬原パトラ]](HJノベルス) <!-- へ --> * [[ベニー松山]](集英社スーパーファンタジー文庫、集英社スーパーダッシュ文庫) <!-- ほ --> * [[星野亮]](富士見ファンタジア文庫(94)) * [[ポモドーロ]](ぽにきゃんBOOKS) * [[本沢みなみ]](集英社コバルト文庫) * [[本田透]](集英社スーパーダッシュ文庫、角川スニーカー文庫、GA文庫、MF文庫J) ===ま行=== <!--可能な限り、人物記事が既存の人のみを列挙してください。赤リンクが増えるだけです。また内容が碌にないのに新規に作るのは控えてください。--> <!-- ま --> * [[真朝ユヅキ]](集英社コバルト文庫) * [[舞阪洸]](富士見ファンタジア文庫(98)、富士見ミステリー文庫) * [[前田珠子]](集英社コバルト文庫) * [[正本ノン]](集英社コバルト文庫) * [[松井千尋]](集英社コバルト文庫) * [[松下寿治]](富士見ファンタジア文庫(127)) * [[松智洋]](集英社スーパーダッシュ文庫) * [[松野秋鳴]](MF文庫J) * [[松村涼哉]](電撃文庫) * [[松山剛]](電撃文庫) * [[丸戸史明]](富士見ファンタジア文庫) * [[丸山くがね]](エンターブレイン) * [[円山夢久]](電撃文庫) <!-- み --> * [[三浦勇雄]](MF文庫J) * [[三浦徹也]](角川スニーカー文庫) * [[御影瑛路]](電撃文庫) * [[三門鉄狼]](MF文庫J、ファミ通文庫) * [[三上延]](電撃文庫、メディアワークス文庫) * [[三上康明]](集英社スーパーダッシュ文庫、小学館ガガガ文庫) * [[みかみてれん]](GA文庫、角川スニーカー文庫) * [[三河ごーすと]](MF文庫J、GA文庫) * [[三木なずな]](集英社スーパーダッシュ文庫) * [[三雲岳斗]](電撃文庫、角川スニーカー文庫) * [[岬鷺宮]](電撃文庫) * [[海空りく]](GA文庫) * [[水市恵]](小学館ガガガ文庫) * [[水落晴美]](電撃文庫) * [[水沢夢]](ガガガ文庫) * [[水城正太郎]](富士見ミステリー文庫、HJ文庫) * [[水野良]](角川スニーカー文庫、富士見ファンタジア文庫、電撃文庫) * [[水杜明珠]](集英社コバルト文庫) * [[瑞山いつき]](角川ビーンズ文庫) * [[溝口智子]](マイナビ出版ファン文庫) * [[皆川ゆか]](講談社X文庫) * [[水瀬葉月]](電撃文庫) * [[三屋咲ゆう]](MF文庫J) * [[深山くのえ]](ルルル文庫) * [[深山森]](電撃文庫) * [[宮元戦車]](HJ文庫) * [[海羽超史郎]](電撃文庫) <!-- む --> * [[霧海正悟]] * [[向清太朗]](ガガガ文庫) * [[六甲月千春]](富士見ファンタジア文庫(150)) * [[六塚光]] * [[むらさきゆきや]] * [[村田栞]](角川ビーンズ文庫) <!-- め --> * <!-- も --> * [[森田季節]](GAノベル) * [[諸星悠]](富士見ファンタジア文庫) ===や行=== <!--可能な限り、人物記事が既存の人のみを列挙してください。赤リンクが増えるだけです。また内容が碌にないのに新規に作るのは控えてください。--> <!-- や --> * [[屋久ユウキ]] (ガガガ文庫) * [[矢崎存美]](徳間デュアル文庫、角川スニーカー文庫) * [[安井健太郎]](角川スニーカー文庫) * [[安田均]](富士見ファンタジア文庫) * [[柳内たくみ]](アルファライト文庫) * 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13,013
俘囚
俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、蝦夷征伐などの後、朝廷の支配に属するようになった者を指す。夷俘とも呼ばれた。 また、主に戦前戦中には戦時捕虜の身分にあるものも俘囚と呼んだ。 7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争(蝦夷征伐)で、大和へ帰服した蝦夷のうち、集団で強制移住(移配)させられたものを指す。 移住させた目的としては、下記のようなものがあった。移住先は九州までの全国に及んだ。 朝廷は国司(受領)に「俘囚専当」を兼任させ、俘囚の監督と教化・保護養育に当たらせた。俘囚は、定住先で生計が立てられるようになるまで、俘囚料という名目で国司から食糧を支給され、庸・調の税が免除された。しかし実際に移配俘囚が定住先で自活することはなく、俘囚料の給付を受け続けた。俘囚は、一般の公民百姓らとは大きく異なる生活様式を有しており、狩猟および武芸訓練が認められた。俘囚と公民百姓との間の摩擦などの問題を抑止するために、812年(弘仁3年)、朝廷は国司に対し、俘囚の中から優れた者を夷俘長に専任し、俘囚社会における刑罰権を夷俘長に与える旨の命令を発出している。 9世紀半ば、各国内の治安維持のための国司(受領)の指揮による国衙軍制へ移行したが、移配俘囚は主要な軍事力として位置づけられた。 870年2月15日、貞観の入寇に対抗するため、朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備したが、在地から徴発した兵は役に立たないことが分かった。これを受けて朝廷は俘囚を動員することとした。弓術と馬術に優れた蝦夷は、徴用された防人よりも戦闘能力が高いと評価された。 9世紀、移配俘囚が次第に騒乱を起こし治安が悪化した。例えば、813年頃の出雲国「荒橿の乱」、875年の「下総俘囚の乱」、883年の「上総俘囚の乱」(寛平・延喜東国の乱)などが起きた。これらの原因は、俘囚らによる処遇改善要求であったと考えられている。 これに対して、当初は、新羅の入寇など九州の防衛に人手が必要だったこともあり、移配俘囚の制度は維持されていたが、最終的に、朝廷は、897年(寛平9)、全国の移配俘囚を奥羽へ還住することを決め実行された。 大和へ帰服した蝦夷のうち、陸奥・出羽にとどまった者を指す。 同じ地域の和人とは異なり、租税を免除されていたと考えられている。彼らは陸奥・出羽の国衙から食糧と布を与えられる代わりに、服従を誓い、特産物を貢いでいた。俘囚という地位は、辺境の人を下位に置こうとする朝廷の態度が作ったものであるが、俘囚たちは無税の条件を基盤に、前記の事実上の交易をも利用して、大きな力を得るようになった。これが、俘囚長を称した安倍氏 (奥州)、俘囚主を称した出羽清原氏、俘囚上頭を称した奥州藤原氏の勢威につながった。 しかし、奥州藤原氏の時代には、俘囚は文化的に他の日本人と大差ないものになっていたと考えられる。奥州藤原氏の滅亡後、鎌倉幕府は関東の武士を送り込んで陸奥・出羽を支配した。俘囚の地位を特別視するようなことは次第になくなり、歴史に記されることもなくなった。 なお、海保嶺夫(1943年 - )は中世津軽地方の豪族安東氏を俘囚長と同様の存在としている。 『続日本紀』神護景雲3年(769年)11月25日条に、元々は蝦夷ではないのに俘囚となってしまった例が記述されている。陸奥国牡鹿郡の俘囚である大伴部押人が朝廷に対し、先祖は紀伊国名草郡片岡里の大伴部直(あたい)といい、蝦夷征伐時に小田郡嶋田村に至り、住むようになったが、その子孫は蝦夷の捕虜となり、数代を経て俘囚となってしまったと説明し、今は蝦夷の地を離れ、天皇の徳の下で民となっているので、俘囚の名を除いて公民になりたいと願い出たため、朝廷はこれを許可したと記される。 神護景雲4年(770年)4月1日条にも、父祖は天皇の民であったが、蝦夷にかどわかされ、蝦夷の身分となってしまったという主張があり、敵である蝦夷を殺し、子孫も増えたため、俘囚の名を除いてほしいと願い出たため、朝廷がこれを許可している。
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俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、蝦夷征伐などの後、朝廷の支配に属するようになった者を指す。夷俘とも呼ばれた。 また、主に戦前戦中には戦時捕虜の身分にあるものも俘囚と呼んだ。
'''俘囚'''(ふしゅう)とは、[[陸奥国|陸奥]]・[[出羽国|出羽]]の[[蝦夷]]のうち、[[蝦夷征伐]]などの後、[[朝廷 (日本)|朝廷]]の支配に属するようになった者を指す。夷俘とも呼ばれた。 また、主に戦前戦中には[[戦時捕虜]]の身分にあるものも俘囚と呼んだ。 == 移配俘囚 == [[7世紀]]から[[9世紀]]まで断続的に続いた[[大和]]と蝦夷の戦争([[蝦夷征伐]])で、大和へ帰服した蝦夷のうち、集団で強制移住([[移配]])させられたものを指す。 移住させた目的としては、下記のようなものがあった<ref>『栃木県史 通史編2 古代二』 p.463.</ref>。移住先は[[九州]]までの全国に及んだ。 * 蝦夷自身が、同族から裏切り者として、[[報復]]や[[侵略]]される危険性があったため、生命の安全と生活の安定化を望んだ。 * 故地([[陸奥国|陸奥]]・[[出羽国|出羽]])から切り離し[[公民]]意識から皇化し、和人へ[[同化]]させようとした。 * [[軍事力]]の備えとして利用しようとした。 朝廷は[[国司]]([[受領]])に「俘囚専当」を兼任させ、俘囚の監督と教化・保護養育に当たらせた。俘囚は、定住先で生計が立てられるようになるまで、俘囚料という名目で国司から食糧を支給され、[[租庸調|庸・調]]の税が免除された。しかし実際に移配俘囚が定住先で自活することはなく、俘囚料の給付を受け続けた。俘囚は、一般の公民[[百姓]]らとは大きく異なる生活様式を有しており、[[狩猟]]および[[武芸 (日本)|武芸]]訓練が認められた。俘囚と公民百姓との間の摩擦などの問題を抑止するために、[[812年]]([[弘仁]]3年)、朝廷は国司に対し、俘囚の中から優れた者を夷俘長に専任し、俘囚社会における刑罰権を夷俘長に与える旨の命令を発出している。 [[9世紀]]半ば、各国内の[[治安]]維持のための[[国司]]([[受領]])の指揮による[[国衙軍制]]へ移行したが、移配俘囚は主要な軍事力として位置づけられた。 [[870年]]2月15日、[[新羅の入寇|貞観の入寇]]に対抗するため、朝廷は[[弩]]師や[[防人]]の選士50人を[[対馬]]に配備したが<ref>[[瀬野精一郎]]、佐伯弘次、小宮木代良、新川登亀男『長崎県の歴史(県史42)』山川出版社、1998年9月30日。ISBN 978-4634324206。</ref>、在地から徴発した兵は役に立たないことが分かった。これを受けて朝廷は俘囚を動員することとした。[[弓術]]と[[馬術]]に優れた蝦夷は、徴用された防人よりも戦闘能力が高いと評価された<ref>川尻秋生『日本の歴史|平安時代 揺れ動く貴族社会』小学館、2008年、294頁</ref>。 9世紀、移配俘囚が次第に騒乱を起こし治安が悪化した。例えば、[[813年]]頃の出雲国「荒橿の乱」、[[875年]]の「下総俘囚の乱」、[[883年]]の「上総俘囚の乱」([[寛平・延喜東国の乱]])などが起きた。これらの原因は、俘囚らによる処遇改善要求であったと考えられている。 これに対して、当初は、[[新羅の入寇]]など九州の防衛に人手が必要だったこともあり、移配俘囚の制度は維持されていたが、最終的に、朝廷は、[[897年]]([[寛平]]9)、全国の移配俘囚を[[奥羽]]へ還住することを決め実行された。<!--が、各地に500を超える俘囚部落が残り、これが被差別部落の一部になったという調査もある。<ref>[[菊池山哉]]『日本の特殊部落』東京史談会、1961年</ref> ただ、この調査は50年以上前のものであり、現代の歴史学では否定されている事象も多く含まれているので要注意すべきもの。被差別部落の古代起源説自体が科学的にきちんと検証できるものかどうかも十分とはいえない--> == 奥羽俘囚 == 大和へ帰服した蝦夷のうち、陸奥・出羽にとどまった者を指す。 同じ地域の和人とは異なり、[[租税]]を免除されていたと考えられている。彼らは陸奥・出羽の[[国衙]]から食糧と布を与えられる代わりに、服従を誓い、特産物を貢いでいた。俘囚という地位は、辺境の人を下位に置こうとする朝廷の態度が作ったものであるが、俘囚たちは無税の条件を基盤に、前記の事実上の交易をも利用して、大きな力を得るようになった。これが、'''[[俘囚長]]'''を称した[[安倍氏 (奥州)]]、'''[[俘囚主]]'''を称した[[出羽清原氏]]、'''[[俘囚上頭]]'''を称した[[奥州藤原氏]]の勢威につながった。 しかし、奥州藤原氏の時代には、俘囚は文化的に他の[[日本人]]と大差ないものになっていたと考えられる。奥州藤原氏の滅亡後、[[鎌倉幕府]]は[[関東]]の武士を送り込んで陸奥・出羽を支配した。俘囚の地位を特別視するようなことは次第になくなり、歴史に記されることもなくなった。 なお、海保嶺夫([[1943年]] - )は[[中世]][[津軽地方]]の豪族[[安東氏]]を俘囚長と同様の存在としている<ref>海保嶺夫『エゾの歴史』[[講談社]]、1996年、ISBN 4062580691</ref>。 == 俘囚となった和人 == 『[[続日本紀]]』[[神護景雲]]3年([[769年]])11月25日条に、元々は蝦夷ではないのに俘囚となってしまった例が記述されている。[[陸奥国]][[牡鹿郡]]の俘囚である[[大伴部押人]]が朝廷に対し、先祖は[[紀伊国]][[名草郡]]片岡里の大伴部直(あたい)といい、蝦夷征伐時に[[小田郡]]嶋田村に至り、住むようになったが、その子孫は蝦夷の捕虜となり、数代を経て俘囚となってしまったと説明し、今は蝦夷の地を離れ、[[天皇]]の徳の下で民となっているので、俘囚の名を除いて公民になりたいと願い出たため、朝廷はこれを許可したと記される。 [[神護景雲]]4年([[770年]])4月1日条にも、父祖は天皇の民であったが、蝦夷にかどわかされ、蝦夷の身分となってしまったという主張があり、敵である蝦夷を殺し、子孫も増えたため、俘囚の名を除いてほしいと願い出たため、朝廷がこれを許可している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == * [[蝦夷]] - [[蝦夷征討]]/[[移配]]・[[別所 (地名解釈)]] * [[捕虜]] * [[国衙軍制]] * [[安倍氏 (奥州)]] * [[出羽清原氏|清原氏]] * [[安東氏]] - [[渡党]](のちに安東氏の管轄下に入る) * [[僦馬の党]] {{日本の民族}} {{DEFAULTSORT:ふしゆう}} [[Category:奈良時代]] [[Category:平安時代]] [[Category:蝦夷]]
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新海誠
新海 誠(しんかい まこと、本名:新津 誠〈にいつ まこと〉、1973年〈昭和48年〉2月9日 - )は、日本の脚本家、アニメーター、アニメーション監督、小説家。コミックス・ウェーブ・フィルム所属。長野県南佐久郡小海町出身。中央大学文学部卒業。 アメリカ合衆国の雑誌『バラエティ』は、2016年に新海を「注目すべきアニメーター10人」のうちの1人に挙げている。2019年、第1回野間出版文化賞受賞。2023年、第73回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。 妻は女優の三坂知絵子、娘は子役の新津ちせ。 長野県南佐久郡小海町に出生。実家は1909年創業の建設会社(ゼネコン)を代々営む新津組。1947年に株式会社として設立されたのち、3代目にあたる父親が代表取締役社長に就任し、年商70億円ほどの規模に成長させた。父いわく、新海の母も絵を描いており、県の美術展に入選することもあったという。 読書体験は本を読むのが好きだった母親の書棚からのもので、子供の時からSFや宇宙関係のものが好きで、学研の『宇宙のひみつ』や『月世界旅行』、『失われた世界』、『ホーキング、宇宙を語る』、アーサー・C・クラーク、アイザック・アシモフ等が愛読書だったほか、当時まだ珍しかったパソコンを買い与えられ遊んでいた。 部活動では、小学校時代はスピードスケート部に所属し、早朝から松原湖で練習に励んでいたという。中学では男子バレーボール部部長を務めた。高校では弓道部に所属。大学在学中は童話サークルに所属して絵本の制作活動をした。特別何かに秀でた存在ではなかったが、学級委員や生徒会といった役を押し付けられるタイプだったという。 片道40分かけて小海線で通った長野県野沢北高等学校を1991年に卒業したあと上京し、埼玉県のJR武蔵浦和駅近くに居住した。 大学在学中に、アルバイトとして立川市のゲーム会社、日本ファルコムで働き始める。1996年に中央大学文学部文学科国文学専攻を卒業後は、4代目として家業を継ぐための修業として、父親の紹介を受けた都内の住宅メーカーに勤める予定だったが断り、アルバイト先の日本ファルコムに正式に入社。 ゲーム開発部門への配属を希望したが叶わず、創業者加藤正幸会長直轄のチームで、ロールプレイングゲームのパッケージ制作を担当し、キャッチコピーやパッケージビジュアルの作成、画像の選定などを行った。同社のパソコンゲーム『英雄伝説 ガガーブトリロジー』『イースIIエターナル』などのオープニングムービーを制作する。 その傍らで業務のためパソコンで本格的に絵を描くようになったことをきっかけに自主制作アニメーションを制作するようになる。1998年に『遠い世界』でeAT'98にて特別賞を、2000年に『彼女と彼女の猫』でプロジェクトチームDoGA主催の第12回CGアニメコンテストでグランプリを獲得した。 会社員時代は、夜中に帰宅したあと午前3時頃までアニメーション制作を行い、6時に起床し出社するというような生活を送っていたが、2001年初夏の頃に5年間勤めた日本ファルコムを退社。退社したひとつの理由として、「日本ファルコムで作っていた映像がファンタジー世界であり、自分が暮らしている世界はそれとは全く別。自分の生活に密接したものを表現したかったから。」と述べている。元々高校生が好きで「高校生女子」を題材にしたアニメーションを創りたいと思っていた。 日本ファルコム退社直後にアダルトゲームブランド・minoriから依頼を受け、同ブランドのデビュー作『BITTERSWEET FOOLS』のオープニングアニメーションを制作。以降、2008年までminori制作のゲーム5作品でオープニングアニメーションを担当した。一方、2002年9月にサブカルチャー誌『新現実』創刊号に短編漫画作品「塔のむこう」を掲載した。さらに2003年、NHK『みんなのうた』でオンエアされた「笑顔」(歌:岩崎宏美)のアニメーションを担当した。 2002年、約25分のフルデジタルアニメーションの短編『ほしのこえ』を発表、小規模の劇場公開とDVDリリースで商業作品デビューを果たす。制作に集中するため会社を辞めて約8ヵ月間部屋にこもりながら、 監督・脚本・演出・作画・美術・3DCG・撮影・編集・声の出演とほとんどの作業を1人でこなし、自宅のパソコンを使って作り上げた。この「1人で作った」という制作手法が大きな話題を呼び、新海の名が世に知られるきっかけになった。またそのやり方が内省的なテーマの探求に対して最適なアプローチだったことで、多くの人々に作品が届いた。 映画としては下北沢トリウッドでのみ上映される単館上映作品だったが、ネット上の口コミによって話題を呼び、DVDは6万本以上の売り上げを記録した。 同作品は第1回新世紀東京国際アニメフェア21公募部門で優秀賞を受賞。他にも、第7回アニメーション神戸 作品賞(パッケージ部門)・第6回文化庁メディア芸術祭 特別賞・第34回星雲賞 メディア部門・第8回AMD Award BestDirector賞など多数の賞を受賞した。 2004年、初の長編作品となる『雲のむこう、約束の場所』を発表。この作品では1人ですべてを手がけることはなく、インディーズながらスタッフを集めて通常の商業アニメ作品のように制作した。また男女の恋愛に社会性を持った世界設定や専門的な科学知識を盛り込んだ難解な本格SFを織り込んだストーリーということもあって前作ほどの絶賛は浴びなかった。それでも新鮮さ・挑戦心を評価され、第59回毎日映画コンクールアニメーション映画賞を、宮崎駿監督の『ハウルの動く城』、押井守監督の『イノセンス』などを抑えて受賞した。このほか、カナダファンタジア映画祭 アニメーション映画部門銀賞、第36回 星雲賞 アート部門、韓国SICAF2005 長編映画部門優秀賞を受賞した。 2007年、短編3本の連作からなるオムニバス映画『秒速5センチメートル』を発表。心機一転、スタッフ数を絞って挑んだこの作品では、SF要素を取り入れた過去2作とは対照的に、「閉じた人間関係」をテーマに日常的な風景の描写に努めた。新海は、登場人物たちを美しい風景の中に置くことで「あなたも美しさの一部です」と肯定することにより誰かが励まされるのではないかと思っていたが、「ひたすら悲しかった」「ショックで座席を立てなかった」という感想が多く、その反省から第3話のラストを補完するかたちで初めての小説作品となる『小説・秒速5センチメートル』(メディアファクトリー、2007年11月刊)を書いた。 劇場公開後、単館上映でありながら半年に及ぶロングランを記録。アジア太平洋映画祭最優秀アニメーション映画賞、イタリアのフューチャーフィルム映画祭で最高賞にあたる「ランチア・プラチナグランプリ」を受賞した。 2011年、長編映画『星を追う子ども』を発表。それまでの作品とはかなり異なる作風であり、スタジオジブリ作品を思わせる造形のキャラクターによる冒険アクションファンタジーということで、メジャー挑戦のための勝負作だと見られたが、新海の「作家性」との齟齬も多く指摘された。新海自身も、「今回の『星を追う子ども』ではジブリ作品を連想させる部分が確かにあると思うのですが、それはある程度自覚的にやっているという部分もあります」と述べている。また、「日本のアニメの伝統的な作り方で完成させてみる」ことを個人的な目標とし、各作業を通常のアニメ同様、専門のスタッフに任せたという。しかしこれまでの作風との隔たりから、ファンからは賛否の分かれる形となり、ショックを受けた新海は熱を出して寝込んでしまうほどだった。ただ絵や話を作るだけでなく、プロデュースやマッチングの大切さを痛感したという。これ以降、アニメーション監督としてやっていくことを決意する。 新海作品としては初めて製作委員会方式をとり、公開劇場も増やしたが、映画興行的には失敗。新海の劇場映画としては唯一の赤字作品となっている。 2013年、『言の葉の庭』を劇場公開。46分の中編で、公開と同時にDVDとブルーレイの販売が上映館で行われる特殊な興行形態という監督の立ち位置としては半歩後退したような作品だった。しかし、作品自体の良さもあり、最終的に1億5000万円の興行収入を得て、次作『君の名は。』の制作へと繋がった。 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2019年7月19日に『天気の子』が公開。前作『君の名は。』から3年ぶりとなる、7作目の劇場用アニメーション映画。公開から3週連続興行収入1位を獲得した。公開から34日目で動員751万人、前作『君の名は。』に続いて興行収入100億円の大台を突破した。8月26日には、アニメ作品として1998年度の『もののけ姫』(宮崎駿監督)以来となる第92回米国アカデミー賞国際長編映画賞部門(旧外国語映画賞)日本代表の出品作品に決定した。最終興行収入は142.3億円となった。また、原作本として自身が執筆した『小説 天気の子』も、相次ぐ重版で65万部を突破し、年間ベストセラー文庫本の1位となった。 2022年11月11日に『すずめの戸締まり』が公開。前作『天気の子』から3年ぶりとなる、8作目の劇場用アニメーション映画。公開から3週連続1位を記録。公開から45日目で動員745万人、『君の名は。』『天気の子』に続いて興行収入100億円を突破。公開87日で観客動員数1000万人突破。自身が執筆した『小説 すずめの戸締まり』は2022年8月24日に発売された。最終興行収入は歴代興収14位の147.9億円となった。 英語部分は英題ではなく、日本語版タイトルロゴに付されているサブタイトル。第1作『ほしのこえ』は大部分を新海1人で制作した自主制作。第2作『雲のむこう、約束の場所』以降はコミックス・ウェーブ・フィルム制作となり、次第に他のスタッフへ任せる部分が増えてきているが、制作の最初の脚本・絵コンテ(ビデオコンテ)と最後の編集作業は一貫して新海が1人で行っている。 いずれもminori作品。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "新海 誠(しんかい まこと、本名:新津 誠〈にいつ まこと〉、1973年〈昭和48年〉2月9日 - )は、日本の脚本家、アニメーター、アニメーション監督、小説家。コミックス・ウェーブ・フィルム所属。長野県南佐久郡小海町出身。中央大学文学部卒業。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国の雑誌『バラエティ』は、2016年に新海を「注目すべきアニメーター10人」のうちの1人に挙げている。2019年、第1回野間出版文化賞受賞。2023年、第73回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "妻は女優の三坂知絵子、娘は子役の新津ちせ。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "長野県南佐久郡小海町に出生。実家は1909年創業の建設会社(ゼネコン)を代々営む新津組。1947年に株式会社として設立されたのち、3代目にあたる父親が代表取締役社長に就任し、年商70億円ほどの規模に成長させた。父いわく、新海の母も絵を描いており、県の美術展に入選することもあったという。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "読書体験は本を読むのが好きだった母親の書棚からのもので、子供の時からSFや宇宙関係のものが好きで、学研の『宇宙のひみつ』や『月世界旅行』、『失われた世界』、『ホーキング、宇宙を語る』、アーサー・C・クラーク、アイザック・アシモフ等が愛読書だったほか、当時まだ珍しかったパソコンを買い与えられ遊んでいた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "部活動では、小学校時代はスピードスケート部に所属し、早朝から松原湖で練習に励んでいたという。中学では男子バレーボール部部長を務めた。高校では弓道部に所属。大学在学中は童話サークルに所属して絵本の制作活動をした。特別何かに秀でた存在ではなかったが、学級委員や生徒会といった役を押し付けられるタイプだったという。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "片道40分かけて小海線で通った長野県野沢北高等学校を1991年に卒業したあと上京し、埼玉県のJR武蔵浦和駅近くに居住した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "大学在学中に、アルバイトとして立川市のゲーム会社、日本ファルコムで働き始める。1996年に中央大学文学部文学科国文学専攻を卒業後は、4代目として家業を継ぐための修業として、父親の紹介を受けた都内の住宅メーカーに勤める予定だったが断り、アルバイト先の日本ファルコムに正式に入社。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ゲーム開発部門への配属を希望したが叶わず、創業者加藤正幸会長直轄のチームで、ロールプレイングゲームのパッケージ制作を担当し、キャッチコピーやパッケージビジュアルの作成、画像の選定などを行った。同社のパソコンゲーム『英雄伝説 ガガーブトリロジー』『イースIIエターナル』などのオープニングムービーを制作する。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "その傍らで業務のためパソコンで本格的に絵を描くようになったことをきっかけに自主制作アニメーションを制作するようになる。1998年に『遠い世界』でeAT'98にて特別賞を、2000年に『彼女と彼女の猫』でプロジェクトチームDoGA主催の第12回CGアニメコンテストでグランプリを獲得した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": 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新海 誠は、日本の脚本家、アニメーター、アニメーション監督、小説家。コミックス・ウェーブ・フィルム所属。長野県南佐久郡小海町出身。中央大学文学部卒業。 アメリカ合衆国の雑誌『バラエティ』は、2016年に新海を「注目すべきアニメーター10人」のうちの1人に挙げている。2019年、第1回野間出版文化賞受賞。2023年、第73回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。 妻は女優の三坂知絵子、娘は子役の新津ちせ。
{{otheruses||小惑星|新海誠 (小惑星)}} {{ActorActress | 芸名 = 新海 誠 | ふりがな = しんかい まこと | 画像ファイル = Makoto Shinkai, 2023.jpg | 画像サイズ = 220px | 画像コメント = 2023年度 [[ベルリン国際映画祭]]にて | 本名 = 新津 誠 | 別名義 = <!-- 別芸名がある場合記載。愛称の欄ではありません。 --> | 出生地 = {{JPN}}・[[長野県]][[南佐久郡]][[小海町]] | 死没地 = | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1973 | 生月 = 2 | 生日 = 9 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 職業 = [[映画監督]]<br />[[作家]] | 事務所 = [[コミックス・ウェーブ・フィルム]] | ジャンル = [[アニメーション映画]] | 活動期間 = [[1996年]] - | 活動内容 = 映画監督 | 配偶者 = [[三坂知絵子]] | 著名な家族 = [[新津ちせ]](長女) | 公式サイト = [http://shinkaimakoto.jp/ Other voices -遠い声-]<br />[https://www.shinkaiworks.com/ 新海誠作品ポータルサイト] | 主な作品 = '''映画監督'''<br />『[[ほしのこえ]]』<br />『[[雲のむこう、約束の場所]]』<br />『[[秒速5センチメートル]]』<br />『[[言の葉の庭]]』<br/>『[[君の名は。]]』<br/>『[[天気の子]]』<br/>『[[すずめの戸締まり]]』 | ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]'''<br />[[第42回ロサンゼルス映画批評家協会賞|2016年]]『君の名は。』 | 日本アカデミー賞 = '''最優秀脚本賞'''<br />[[第40回日本アカデミー賞|2016年]]『君の名は。』<br />'''話題賞・作品部門'''<br />2016年『君の名は。』<br />'''[[日本アカデミー賞アニメーション作品賞|最優秀アニメーション作品賞]]'''<br />[[第43回日本アカデミー賞|2019年]]『天気の子』 | 東京国際映画祭 = '''特別賞'''<br />[[第29回東京国際映画祭|2016年]] | ブルーリボン賞 = '''特別賞'''<br />2016年『君の名は。』 | その他の賞 = '''[[文化庁メディア芸術祭]]'''<br />'''特別賞'''<br />2002年『ほしのこえ』<br />'''[[文化庁メディア芸術祭アニメーション部門|アニメーション部門]]'''<br />'''大賞'''<br />2017年『君の名は。』<br />'''ソーシャル・インパクト賞'''<br />2020年『天気の子』<hr />'''[[毎日映画コンクール]]'''<br />'''[[毎日映画コンクールアニメーション映画賞|アニメーション映画賞]]'''<br />2005年『雲のむこう、約束の場所』<br />[[第71回毎日映画コンクール|2017年]]『君の名は。』<br />'''TUTAYA×Filmarks映画ファン賞 日本映画部門'''<br />2017年『君の名は。』<hr />'''[[アジア太平洋映画賞]]'''<br / >'''[[アジア太平洋映画賞最優秀アニメーション映画賞|最優秀アニメーション映画賞]]'''<br />2007年『秒速5センチメートル』<br />2019年『天気の子』<hr />'''[[シッチェス・カタロニア国際映画祭]]'''<br />'''アニメーション部門最優秀長編作品賞'''<br />2016年『君の名は。』<hr />'''[[報知映画賞]]'''<br />'''特別賞'''<br />2016年『君の名は。』<br />'''アニメ作品賞'''<br />2019年『天気の子』<hr />'''[[日刊スポーツ映画大賞]]'''<br />'''監督賞'''<br />2016年『君の名は。』<hr />'''[[芸術選奨文部科学大臣賞]]'''<br />2023年 メディア芸術部門<hr />[[#受賞歴]]参照 | 国籍 = {{JPN}} }} '''新海 誠'''(しんかい まこと、本名:'''新津 誠'''<ref>{{Cite web|和書| title = アイラブ小海 私のひとりごと (104) | publisher = [[小海町]]公民館 | series= 小海町公民館報 | volume = 410 | date = 2006-06-23 | page = 4 | url = https://web.archive.org/web/20170810211738/http://www.koumi-town.jp/office/files/sonohoka/410.pdf |format=PDF | accessdate =2015-06-02}}</ref>〈にいつ まこと〉<ref>『{{lang|en|The Anime Encyclopedia, 3rd Revised Edition: A Century of Japanese Animation}}』 : “{{lang|en|SHINKAI, MAKOTO}}” [[ジョナサン・クレメンツ]]/ヘレン・マッカーシー2015年 ストーン・ブリッジ・プレス ISBN 9781611729092 {{en icon}} ― “...{{lang|en|1973-. Pseudonym for '''Makoto Niitsu''', a writer and animator who arrived in the industry via Gaming Digital Animation and whose Voices of a Distant Star is one of the landmark works of modern anime.}}”</ref>、[[1973年]]<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=プロフィール {{!}} Makoto Shinkai Works 新海誠作品ポータルサイト |url=http://www.shinkaiworks.com/profile |website=www.shinkaiworks.com |access-date=2023-04-01 |publisher=コミックス・ウェーブ・フィルム |language=ja}}</ref>〈[[昭和]]48年〉[[2月9日]]<ref>{{Twitter status|shinkaimakoto|696728188630609921|新海誠 (@shinkaimakoto)の2016年2月9日のツイート}}</ref> - )は、[[日本]]の[[脚本家]]、[[アニメーター]]、[[アニメ監督|アニメーション監督]]、[[小説家]]。[[コミックス・ウェーブ・フィルム]]所属<ref>{{Cite web|和書|url=http://shinkaimakoto.jp/profile|title=プロフィール|website=Other voices -遠い声-(新海誠の公式サイト)|accessdate=2020-04-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cwfilms.jp/about/|title=会社案内|website=コミックス・ウェーブ・フィルム|accessdate=2020-04-28}}</ref>。[[長野県]][[南佐久郡]][[小海町]]出身。[[中央大学]]文学部卒業。 アメリカ合衆国の雑誌『[[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|バラエティ]]』は、2016年に新海を「注目すべきアニメーター10人」のうちの1人に挙げている<ref>{{Cite web|url=https://variety.com/gallery/10-animators-to-watch-2016/#!8/makoto-shinkai-10-animators-to-watch|title=Makoto Shinkai – ‘Distant Star’ creator now in view|publisher=Variety|date=2016-05-05|accessdate=2019-06-01|archive-url=https://web.archive.org/web/20160513003731/http://variety.com/gallery/10-animators-to-watch-2016/#!8/makoto-shinkai-10-animators-to-watch|archive-date=2016-05-13|dead-url=no|df=}}</ref>。2019年、第1回[[野間出版文化賞]]受賞。2023年、第73回[[芸術選奨文部科学大臣賞]]受賞。 妻は女優の[[三坂知絵子]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/295968/|title=三坂知絵子のプロフィール|publisher=オリコン|accessdate=2019-09-18}}</ref>、娘は子役の[[新津ちせ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2142744/full/|title=新海誠監督の娘・新津ちせ、初の実写主演映画に「お父さんも泣いちゃった」|publisher=オリコン|date=2019-08-22|accessdate=2019-09-18}}</ref>。 == 来歴 == === 生い立ち === [[長野県]][[南佐久郡]][[小海町]]に出生。実家は1909年創業の[[建設会社]]([[ゼネコン]])を代々営む新津組<ref>{{Cite web|和書|title=新海誠 監督 最新作のご紹介|work=新津組ホームページ|publisher=株式会社新津組|date=2016-08-04|url=http://www.niitsu-gumi.co.jp/news/post-23/|accessdate=2016-09-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160909014609/http://www.niitsu-gumi.co.jp/news/post-23/|archivedate=2016-09-09}}</ref>。1947年に[[株式会社 (日本)|株式会社]]として設立されたのち、3代目にあたる父親が代表取締役社長に就任し、年商70億円ほどの規模に成長させた。父いわく、新海の母も絵を描いており、県の美術展に入選することもあったという<ref name="shincho20161013">{{Cite web|和書|date=2016-10-12 |url=http://www.dailyshincho.jp/article/2016/10120559/?all=1 |title=「君の名は。」父が語る新海誠監督 “家業を継がせるつもりでした” |publisher=[[新潮社]] |accessdate=2016-10-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書| title = 会社情報 |work=新津組ホームページ | publisher= 株式会社新津組 | url = http://www.niitsu-gumi.co.jp/company/ | accessdate =2016-11-20}}</ref>。 読書体験は本を読むのが好きだった母親の書棚からのもので<ref>『新海誠展 - きみはこの世界の半分。 - 』パンフレット([[大岡信ことば館]]、2014年)6ページ ISBN 978-4-879-15844-4</ref>、子供の時から[[サイエンス・フィクション|SF]]や宇宙関係のものが好きで、[[Gakken|学研]]の『[[ひみつシリーズ|宇宙のひみつ]]』や『[[月世界旅行]]』、『[[失われた世界]]』、『[[ホーキング、宇宙を語る]]』、[[アーサー・C・クラーク]]、[[アイザック・アシモフ]]等が愛読書だったほか、当時まだ珍しかった[[パソコン]]を買い与えられ遊んでいた。 部活動では、小学校時代は[[スピードスケート]]部に所属し、早朝から[[松原湖]]で練習に励んでいたという。中学では男子[[バレーボール]]部部長を務めた。高校では[[弓道部]]に所属。大学在学中は童話サークルに所属して[[絵本]]の制作活動をした<ref name="anikore" /><ref name="yomiuri20030822">{{Cite news|和書|title=[夢を描く](4) 25分アニメ、一人で制作 新海誠さん(連載)|newspaper=[[読売新聞]]|author=福田淳|date=2003-08-22|edition=東京版夕刊|page=10}}</ref>。特別何かに秀でた存在ではなかったが、学級委員や生徒会といった役を押し付けられるタイプだったという<ref name="anikore">[https://www.anikore.jp/features/shinkai_3_1/ 「学生時代や仕事、影響を受けた人」]あにこれ</ref><ref>新海誠、[[渡辺水央]]著『雲のむこう、約束の場所 新海誠2002-2004』([[ぴあ]]、2005年)78ページ ISBN 978-4-835-61536-3</ref>。 片道40分かけて[[小海線]]で通った[[長野県野沢北高等学校]]を1991年に卒業したあと上京し、[[埼玉県]]のJR[[武蔵浦和駅]]近くに居住した<ref name="asahi20030110">{{Cite news|和書|title=埼玉 新海誠さん(引っ越ししちゃうぞお:7) /埼玉|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2003-01-10|edition=埼玉版|page=31}}</ref>。 === ゲーム会社時代、『彼女と彼女の猫』 === 大学在学中に、[[アルバイト]]として[[立川市]]のゲーム会社、[[日本ファルコム]]で働き始める。1996年に[[中央大学]][[文学部]]文学科[[国文学]]専攻を卒業<ref>{{Cite web|和書|url=http://sakudaira.info/jin/2012/02/29/|title=アニメーション監督 新海 誠さん|website=月刊ぷらざ|date=2012-02-29|accessdate=2023-10-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161012081336/http://sakudaira.info/jin/2012/02/29/|archivedate=2016-10-12}}</ref><ref>[http://www.chuo-u.ac.jp/visitor_alumni/news/2016/08/46506/ 新海監督の最新作「君の名は。」が8月26日から公開されます] 中央大学(2016年8月25日)</ref>後は、4代目として家業を継ぐための修業として、父親の紹介を受けた都内の[[住宅メーカー]]に勤める予定だったが断り<ref name="shincho20161013" />、アルバイト先の日本ファルコムに正式に入社。 ゲーム開発部門への配属を希望したが叶わず、創業者加藤正幸会長直轄のチームで、[[ロールプレイングゲーム]]の[[パッケージ]]制作を担当し、[[キャッチコピー]]やパッケージビジュアルの作成、画像の選定などを行った<ref>[http://diamond.jp/articles/-/102665?page=2 『君の名は。』大ヒットの理由を新海誠監督が自ら読み解く(下)] ダイヤモンドオンライン(ダイヤモンド社)2016年9月22日</ref>。同社の[[パソコンゲーム]]『[[英雄伝説 ガガーブトリロジー]]』『[[イースII#イースIIエターナル・イースII完全版|イースIIエターナル]]』などのオープニングムービーを制作する。 その傍らで業務のためパソコンで本格的に絵を描くようになったことをきっかけに自主制作アニメーションを制作するようになる<ref name="bunshun32763">{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/32763 |author=近藤正高 |title=『天気の子』新海誠47歳に 26歳までアニメ業界未経験の「異色すぎる履歴書」とは (1) |date=2020-02-09 |accessdate= 2022-11-11 |website=文春オンライン |publisher=[[文藝春秋]]}}</ref>。1998年に『遠い世界』でeAT'98にて特別賞を、2000年に『[[彼女と彼女の猫]]』で[[プロジェクトチームDoGA]]主催の第12回[[CGアニメコンテスト]]でグランプリを獲得した<ref name="b06802">{{Cite web|和書|url=https://www.nippon.com/ja/views/b06802/ |author=氷川竜介 |title=細田守と新海誠—未来を担う2人のアニメ監督 (パート2) 1|date=2016-11-11 |accessdate= 2022-11-11|website=nippon.com|publisher=公益財団法人ニッポンドットコム}}</ref>。 会社員時代は、夜中に帰宅したあと午前3時頃までアニメーション制作を行い、6時に起床し出社するというような生活を送っていた<ref name="shincho20161013" />が、2001年初夏の頃に5年間勤めた日本ファルコムを退社<ref>{{Cite web|和書|url=http://www2.odn.ne.jp/~ccs50140/stars/index.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071204205918/http://www2.odn.ne.jp/~ccs50140/stars/index.html|title=「ほしのこえ」について|website=新海誠旧公式サイト「Other voices-遠い声-」|archivedate=2007-12-04|accessdate=2019-09-18}}</ref>。退社したひとつの理由として、「日本ファルコムで作っていた映像がファンタジー世界であり、自分が暮らしている世界はそれとは全く別。自分の生活に密接したものを表現したかったから。」と述べている<ref>未来シアター https://www.youtube.com/watch?v=Rjb_lVUXK4U</ref>。元々高校生が好きで「高校生女子」を題材にしたアニメーションを創りたいと思っていた。 === クリエイター時代 === 日本ファルコム退社直後に[[アダルトゲーム]]ブランド・[[minori]]から依頼を受け、同ブランドのデビュー作『[[BITTERSWEET FOOLS]]』のオープニングアニメーションを制作。以降、2008年までminori制作のゲーム5作品でオープニングアニメーションを担当した<ref>{{Cite web|和書|url=http://shinkaimakoto.jp/minori|title=Other voices-遠い声- » minori作品オープニング紹介|author=新海誠|accessdate=2019-09-18}}</ref>。一方、2002年9月にサブカルチャー誌『[[新現実]]』創刊号に短編漫画作品「塔のむこう」を掲載した。さらに2003年、NHK『[[みんなのうた]]』でオンエアされた「笑顔」(歌:[[岩崎宏美]])のアニメーションを担当した<ref>{{Cite book |和書 |year = 2007 |month = 2 |title = 秒速5センチメートル劇場版パンフレット |page = 2 |publisher = [[コミックス・ウェーブ]]}}</ref>。 ===『ほしのこえ』=== 2002年、約25分のフル[[デジタルアニメーション]]の短編『[[ほしのこえ]]』を発表、小規模の劇場公開とDVDリリースで商業作品デビューを果たす<ref name="yomiuri20030822" /><ref name="b06802"/>。制作に集中するため会社を辞めて約8ヵ月間部屋にこもりながら、 [[監督]]・[[脚本]]・[[演出]]・作画・[[美術]]・[[3DCG]]・[[撮影]]・[[編集]]・声の出演とほとんどの作業を1人でこなし、自宅のパソコンを使って作り上げた<ref name="bunshun32763"/>。この「1人で作った」という制作手法が大きな話題を呼び、新海の名が世に知られるきっかけになった<ref name="b06802"/><ref name="ign44654">{{Cite web|和書|url=https://jp.ign.com/ima-no-anime-wo-shirutameni/44654/feature/1 |author= |title=タニグチリウイチの「今のアニメを知るために」第1回:自分の足で歩いてきたクリエイター、新海誠監督編 |date=2020-06-21 |accessdate= 2022-11-11|website= IGN Japan |publisher= 産経デジタル }}</ref>。またそのやり方が内省的なテーマの探求に対して最適なアプローチだったことで、多くの人々に作品が届いた<ref name="b06802"/>。 映画としては[[下北沢トリウッド]]でのみ上映される単館上映作品だったが、ネット上の口コミによって話題を呼び、DVDは6万本以上の売り上げを記録した<ref name="yomiuri20030822" />。 同作品は第1回[[新世紀東京国際アニメフェア21]]公募部門で優秀賞を受賞。他にも、第7回[[アニメーション神戸]] 作品賞(パッケージ部門)・第6回[[文化庁メディア芸術祭]] 特別賞<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=ほしのこえ |url=https://j-mediaarts.jp/award/single/hoshi-no-koe-the-voices-of-a-distant-star/ |website=文化庁メディア芸術祭 - JAPAN MEDIA ARTS FESTIVAL |access-date=2023-04-01 |language=ja |publisher=文化庁}}</ref>・第34回[[星雲賞]] メディア部門・第8回AMD Award BestDirector賞など多数の賞を受賞した。 ===『雲のむこう、約束の場所』=== 2004年、初の長編作品となる『[[雲のむこう、約束の場所]]』を発表。この作品では1人ですべてを手がけることはなく、インディーズながらスタッフを集めて通常の商業アニメ作品のように制作した<ref name="ign44654"/>。また男女の恋愛に社会性を持った世界設定や専門的な科学知識を盛り込んだ難解な本格[[サイエンス・フィクション|SF]]を織り込んだストーリーということもあって前作ほどの絶賛は浴びなかった<ref name="ign44654"/>。それでも新鮮さ・挑戦心を評価され、第59回[[毎日映画コンクールアニメーション映画賞]]を、[[宮崎駿]]監督の『[[ハウルの動く城]]』、[[押井守]]監督の『[[イノセンス]]』などを抑えて受賞した<ref name="mainichi20050206">{{Cite news|和書|title=第59回毎日映画コンクール:崔監督の渾身作/奇跡的ハマリ役(その1)|newspaper=毎日新聞|date=2005-02-26|edition=東京朝刊|page=14}}</ref>。このほか、カナダファンタジア映画祭 アニメーション映画部門銀賞、第36回 [[星雲賞]] アート部門、韓国[[ソウル国際マンガ・アニメーション映画祭|SICAF]]2005 長編映画部門優秀賞<ref>[http://www.shinkaiworks.com/profile プロフィール|新海誠作品ポータルサイト]</ref>を受賞した。 ===『秒速5センチメートル』=== 2007年、短編3本の連作からなるオムニバス映画『[[秒速5センチメートル]]』を発表<ref name="ign44654"/>。心機一転、スタッフ数を絞って挑んだこの作品では、SF要素を取り入れた過去2作とは対照的に、「閉じた人間関係」をテーマに日常的な風景の描写に努めた<ref name="ign44654"/><ref name="asahi20070413">{{Cite news|和書|title=少年の感性「取り戻したかった」 新海誠監督のCGアニメ映画が公開中 【西部】|newspaper=朝日新聞|date=2007-04-13|edition=西部本社夕刊|page=4}}</ref>。新海は、登場人物たちを美しい風景の中に置くことで「あなたも美しさの一部です」と肯定することにより誰かが励まされるのではないかと思っていたが<ref name="shinkaimakototen179">『新海誠展「ほしのこえ」から「君の名は。」まで』のインタビュー「観客との対話と共同作業で歩んできた」179ページ、[[朝日新聞社]]、[[2017年]]6月</ref>、「ひたすら悲しかった」「ショックで座席を立てなかった」という感想が多く、その反省から第3話のラストを補完するかたちで初めての小説作品となる『小説・秒速5センチメートル』([[メディアファクトリー]]、2007年11月刊)を書いた<ref name="shinkaimakototen179"/>。 劇場公開後、単館上映でありながら半年に及ぶ[[ロングラン]]を記録。[[アジア太平洋映画賞|アジア太平洋映画祭]]<ref>[[国際映画製作者連盟]]、[[ユネスコ]]、および[[CNNインターナショナル]]の共同運営。</ref>[[アジア太平洋映画賞最優秀アニメーション映画賞|最優秀アニメーション映画賞]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://animeanime.jp/article/2007/11/14/2454.html|title=アジア太平洋映画賞 アニメーション映画賞に「秒速5センチメートル」|website=アニメ!アニメ!|date=2007-11-14|accessdate=2019-09-18}}</ref>、イタリアの[[フューチャーフィルム映画祭]]で最高賞にあたる「ランチア・プラチナグランプリ」を受賞した<ref>{{Cite web|和書|url=https://animeanime.jp/article/2008/01/22/2686.html|title=「秒速5センチメートル」イタリアの映画祭でグランプリ受賞|website=アニメ!アニメ!|date=2008-01-22|accessdate=2019-09-18}}</ref>。 ===『星を追う子ども』=== 2011年、長編映画『[[星を追う子ども]]』を発表。それまでの作品とはかなり異なる作風であり、[[スタジオジブリ]]作品を思わせる造形のキャラクターによる冒険アクションファンタジーということで、メジャー挑戦のための勝負作だと見られたが、新海の「作家性」との齟齬も多く指摘された<ref name="b06802"/><ref name="ign44654"/>。新海自身も、「今回の『星を追う子ども』ではジブリ作品を連想させる部分が確かにあると思うのですが、それはある程度自覚的にやっているという部分もあります」と述べている<ref>[https://www.anikore.jp/features/shinkai_2_6/ 新海誠が語るアニメ作品秘話 星を追う子供への質問]きっとアニメがすきになる。あにこれ</ref>。また、「日本のアニメの伝統的な作り方で完成させてみる」ことを個人的な目標とし、各作業を通常のアニメ同様、専門のスタッフに任せたという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cwfilms.jp/hoshi-o-kodomo/special_comment02.php|title=新海 誠(しんかい まこと)『星を追う子ども』監督 インタビューコメント2|website=『星を追う子ども』公式サイト|publisher=コミックス・ウェーブ・フィルム|accessdate=2019-09-18}}</ref>。しかしこれまでの作風との隔たりから、ファンからは賛否の分かれる形となり、ショックを受けた新海は熱を出して寝込んでしまうほどだった。ただ絵や話を作るだけでなく、プロデュースやマッチングの大切さを痛感したという<ref name="名前なし-1">EYESCREAM増刊「新海誠、その作品と人。」(株式会社スペースシャワーネットワーク、2016年8月)</ref>。これ以降、アニメーション監督としてやっていくことを決意する。 新海作品としては初めて[[製作委員会方式]]をとり、公開劇場も増やしたが、映画興行的には失敗<ref name="sakaiosamu">{{Cite web|和書|url= https://news.yahoo.co.jp/byline/sakaiosamu/20160926-00062558|author= 境治|title= 『#君の名は。』新海誠を信じぬいた男〜コミックス・ウェーブ・フィルム代表 川口典孝氏インタビュー〜|date= 2016-09-26|accessdate= 2022-11-11|website= ITmedia NEWS|publisher= [[Yahoo!]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=スペシャル:レポート『星を追う子ども』公開記念 『秒速5センチメートル』上映&ティーチイン@キネカ大森(5月12日) |url=https://www.cwfilms.jp/hoshi-o-kodomo/report_01.php |website=[[コミックス・ウェーブ・フィルム]] |accessdate=2022-03-28}}</ref>。新海の劇場映画としては唯一の赤字作品となっている<ref name="sakaiosamu"/>。 * 第八回[[中国国際動漫節]]「金猴賞」優秀賞 受賞 * 第34回[[アヌシー国際アニメーション映画祭]] 長編コンペティション部門ラインナップ選出。 ===『言の葉の庭』=== 2013年、『[[言の葉の庭]]』を劇場公開<ref name="b06802"/>。46分の中編で、公開と同時にDVDとブルーレイの販売が上映館で行われる特殊な興行形態という監督の立ち位置としては半歩後退したような作品だった<ref name="ign44654"/>。しかし、作品自体の良さもあり、最終的に1億5000万円の興行収入を得て、次作『君の名は。』の制作へと繋がった<ref name="ign44654"/>。 全国23館で料金は1000円均一ながら、公開3日間で興収3000万円というヒットを記録。CCOOの調査によると公開週のTwitterつぶやき数ランキングでは2位と大差をつけて1位になった。以降、評判が広まり2007年の『秒速5センチメートル』の観客動員数を10日間で突破し、2011年の『星を追う子ども』の動員数も14日間で更新した。劇場上映は当初3週間の期間限定の予定だったが、多くの劇場で上映延長が決定。7月の中旬から全国16館でセカンド興行も行われた。9月30日をもって劇場公開が終了し、累計12万人以上を動員した。最終興収は推定1億5000万円。 * [[カナダ]]・[[モントリオール]] [[ファンタジア国際映画祭]] [[今敏]]賞 / 劇場アニメーション部門 観客賞 受賞 * 第18回[[アニメーション神戸]]賞 [[アニメーション神戸#作品賞・劇場部門|作品賞・劇場部門]] 受賞 * iTunes Store 「iTunes Best of 2013“今年のベストアニメーション”」 選出 * [[ドイツ]] [[シュトゥットガルト国際アニメーション映画祭]]「ITFS」長編映画部門 最優秀賞 受賞 ===『君の名は。』=== 2016年、『[[君の名は。]]』を発表。[[東宝]]系で全国公開されたこの映画は、日本映画で2番目の興行収入(当時)を稼ぎ出し、新海を国民的アニメ監督のポジションに押し上げた<ref name="ign44654"/>。プロデューサーを務めた東宝の[[川村元気]]は本作を「新海監督の『ベスト盤』」と呼び、それまでの新海作品の「美麗な風景に託した思春期の純真な心情」「音楽とリズミカルな映像変化のマッチング」「日本古来の伝統美とファンタジーの融合」などの全ての要素を注入した作品という前提で制作された<ref name="b06802_2">{{Cite web|和書|url=https://www.nippon.com/ja/views/b06802/ |author=氷川竜介 |title=細田守と新海誠—未来を担う2人のアニメ監督 (パート2) 2|date=2016-11-11 |accessdate= 2022-11-11|website=nippon.com|publisher=公益財団法人ニッポンドットコム}}</ref>。スタッフの布陣も、[[キャラクターデザイン]]にTVアニメ『[[とらドラ!]]』『[[あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。]]』で知られる[[田中将賀]]、作画に『[[もののけ姫]]』『[[千と千尋の神隠し]]』の[[作画監督]]を務めた[[安藤雅司]]を配し、主題歌・挿入歌には[[RADWIMPS]]が起用されるなど、エンターテインメント性が強化されている<ref name="b06802_2"/>。 8月26日の公開から28日間で動員774万人、日本のアニメーション監督としては宮崎駿に続いて2人目となる興行収入100億円の大台を突破した<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASJ9R41DJJ9RUCVL00J.html|title=映画「君の名は。」、興行収入100億円超える|newspaper=[[朝日新聞デジタル]]|date=2016-09-23|accessdate=2023-09-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161006145923/http://www.asahi.com/articles/ASJ9R41DJJ9RUCVL00J.html|archivedate=2016-10-06}}</ref>。2016年11月27日までの94日間で興行収入194億円超えを記録<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ28ID8_Y6A121C1000000/|title=「君の名は。」邦画歴代3位に 興行収入194億円 「もののけ姫」を抜く|publisher=日本経済新聞社|date=2016-11-28|accessdate=2016-11-28}}</ref>。最終興行収入は250.3億円にまで上り、[[日本映画]]としては歴代3位、[[日本歴代興行成績上位の映画一覧#日本歴代興行収入ランキング|日本国内で公開された映画]]としては歴代5位の記録を打ち立てた<ref>{{Cite news|url=http://www.kogyotsushin.com/archives/alltime/|title=CINEMAランキング歴代興収ベスト100|accessdate=2019-1-07}}</ref>。中国やタイなどのアジア圏、ヨーロッパ圏においても大人気の映画となった。また、原作本として自身が執筆した『小説 君の名は。』も、文庫の週間売上ランキングで8週間1位をキープしたまま100.9万部を突破し、ミリオンを達成<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2080211/full/?ref_cd=tw 『君の名は。』原作小説がミリオン達成 関連作品もセールス好調] ORICON STYLE(oricon ME)2016年10月20日</ref>、角川文庫の「カドフェス杯2016」総合第1位に選出された<ref name=kadofes2016>{{Cite web|和書|url=https://features.kadobun.jp/kadofes/winter/2016/|title=みんなが選んだカドフェス杯2016|website=カドフェス杯2016 角川文庫|date=2016-11-21|accessdate=2022-01-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201205214452/https://features.kadobun.jp/kadofes/winter/2016/|archivedate=2020-12-05}}</ref>。 * 第49回[[シッチェス・カタロニア国際映画祭]] アニメ作品部門 最優秀長編作品賞 受賞 * 第60回[[ロンドン映画祭|BFIロンドン映画祭]] Official Competition ノミネート * 第18回プチョン国際アニメーション映画祭 長編コンペティション部門 優秀賞・観客賞 受賞 * [[ニュータイプアニメアワード]] 2015 - 2016 作品賞(劇場上映部門)1位 * 第42回[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 アニメ映画賞|ロサンゼルス映画批評家協会 長編アニメーション賞]] 受賞 * 第29回[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞]] 監督賞<ref>{{cite news|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1747942.html|title=新海誠監督が監督賞 宮崎駿監督に感謝/映画大賞|newspaper=日刊スポーツ|date=2016-12-06|accessdate=2016-12-06}}</ref> * [[VFX-JAPANアワード]]2017 劇場公開アニメーション映画部門最優秀賞<ref>{{Cite web|和書|url= https://vfx-japan.jp/award2017result/ |title= 【速報】VFX-JAPANアワード2017最優秀賞発表 |website= 一般社団法人[[VFX-JAPAN]] |access-date=2023-3-11}}</ref> * [[イタリア]]、[[トリノ]]にて行われた『[[カートゥーンズ・オン・ザ・ベイ]] プルチネルラ賞2017』にて監督賞・脚本賞、コミックスウェーブフィルムがスタジオオブザイヤーを受賞<ref>[https://archive.is/20170415002342/https://www.facebook.com/shinkaiworks/posts/1250347781746569 外部リンク][https://archive.is/20170409232918/https://twitter.com/shinkaimakoto/status/850944595139502080 外部リンク] webcache.googleusercontent.comからのアーカイブ、22 Apr 2017 07:39:00 UTC閲覧。</ref>。 ===『天気の子』=== 2019年7月19日に『[[天気の子]]』が公開。前作『君の名は。』から3年ぶりとなる、7作目の劇場用アニメーション映画。公開から3週連続興行収入1位を獲得した。公開から34日目で動員751万人、前作『君の名は。』に続いて興行収入100億円の大台を突破した<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0110741 『天気の子』が100億円突破!] シネマトゥデイ)2019年8月22日</ref>。8月26日には、アニメ作品として1998年度の『[[もののけ姫]]』([[宮崎駿]]監督)以来となる第92回米国[[アカデミー国際長編映画賞|アカデミー賞国際長編映画賞]]部門(旧外国語映画賞)日本代表の出品作品に決定した<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0110802 『天気の子』米アカデミー賞ノミネート目指す日本代表に! アニメとして『もののけ姫』以来] シネマトゥデイ)2019年8月26日</ref>。最終興行収入は142.3億円となった<ref name="最終興収"/>。また、原作本として自身が執筆した『小説 天気の子』も、相次ぐ重版で65万部を突破し<ref>{{Cite web|和書|title=『小説 天気の子』累計65万部突破! 本日よりテレビCMが放送スタート!! {{!}} 天気の子 {{!}} ニュース|url=https://promo.kadokawa.co.jp/information/tenkinoko/entry-7517.html|website=KADOKAWA|accessdate=2019-10-09|language=ja}}</ref>、年間ベストセラー文庫本の1位となった<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20191129-930531/ 「2019年 年間ベストセラー」発表! 総合1位は大女優の言葉を編んだ本] マイナビニュース 2019年11月29日</ref>。 * 第13回[[アジア太平洋映画賞]] [[アジア太平洋映画賞最優秀アニメーション映画賞|最優秀アニメーション賞]] 受賞<ref>{{cite news|url=http://animationbusiness.info/archives/8799|title=「天気の子」がアジア太平洋映画賞で最優秀アニメーション賞に「秒速~」以来2度目|newspaper=「天気の子」がアジア太平洋映画賞で最優秀アニメーション賞に「秒速~」以来2度目|date=2019-11-21|accessdate=2020-01-11}}</ref> * 第44回[[報知映画賞]] アニメ作品賞 受賞<ref>{{cite news|url=https://hochi.news/articles/20191127-OHT1T50256.html|title=【報知映画賞】新海誠監督、連続ヒットも“方程式”ない 「天気の子」でアニメ作品賞|newspaper=スポーツ報知|date=2019-11-28|accessdate=2020-01-01}}</ref> * 第43回[[日本アカデミー賞]] [[日本アカデミー賞アニメーション作品賞|最優秀アニメーション作品賞]] 受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.japan-academy-prize.jp/sp/prizes/43.html|title=第43回 日本アカデミー賞 最優秀賞一覧|publisher=日本アカデミー賞公式サイト|accessdate=2020-03-14}}</ref> === 『すずめの戸締まり』 === 2022年11月11日に『[[すずめの戸締まり]]』が公開<ref name="asahi20220409">朝日新聞 2022年4月9日朝刊32面</ref>。前作『[[天気の子]]』から3年ぶりとなる、8作目の劇場用アニメーション映画。公開から3週連続1位を記録。公開から45日目で動員745万人、『君の名は。』『天気の子』に続いて興行収入100億円を突破。公開87日で観客動員数1000万人突破。自身が執筆した『小説 すずめの戸締まり』は2022年8月24日に発売された。最終興行収入は歴代興収14位の147.9億円となった<ref name="最終興収">{{Cite web|和書|url= https://www.oricon.co.jp/news/2280739/full/ |title= 『すずめの戸締まり』興収147.9億円で終映 『崖の上のポニョ』に次ぐ歴代興収14位 |website= ORICON Drama&Movie(by ORICON NEWS)|access-date=2023-5-29}}</ref>。 * 第73回[[芸術選奨文部科学大臣賞]]<ref name="bunka20230301">{{Cite web|和書|url=https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/93842101_06.pdf |title=令和4年度(第 73 回)芸術選奨文部科学大臣賞及び同新人賞の決定 |access-date=2023-4-2 |publisher=文化庁 |language=ja |format=pdf}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://natalie.mu/comic/news/515079 |title= 文化庁による芸術選奨の大臣賞に新海誠、新人賞に野田サトル |website= [[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]] |publisher=株式会社ナターシャ| access-date=2023-3-2}}</ref> * [[VFX-JAPANアワード]]2023 劇場公開アニメーション映画部門最優秀賞<ref>{{Cite web|和書|url= https://vfx-japan.jp/award2023result/ |title= 【速報】VFX-JAPANアワード2023最優秀賞発表 |website= 一般社団法人[[VFX-JAPAN]] |access-date=2023-3-9}}</ref> == 作風 == [[File:Makoto Shinkhai in Moscow.JPG|thumb|250px|[[モスクワ]]にて(2013年)]] * 圧倒的な映像美と繊細な心理描写で知られる監督<ref>{{Cite web|和書|url = https://wpb.shueisha.co.jp/news/entertainment/2016/09/08/71601/|author = |title =『君の名は。』監督・新海誠が語るアニメ原体験と宮崎駿、細田守の存在 |date =2016-09-08 |accessdate= 2022-11-11|website = 週プレNEWS|publisher = [[集英社]]}}</ref>。キャラクター同士が感情を伝える表現にセリフのやり取りや行動による作劇ではなく、推移していく空と雲などの風景や光、詩的に感情を吐露する[[モノローグ]]、そして劇中流れ続ける音楽を用いて作品をまとめ上げる<ref name="b06802"/>。 * 最新のデジタル技術を駆使して生み出す、突き抜けるような青空や満天の星空、美しい日本の山間部の自然、実在する建物や看板などを含めた大都会など、緻密な風景描写が特徴<ref name="banger14650">{{Cite web|和書|url=https://www.banger.jp/anime/14650/ |author= |title=新海誠が純度100%で放つボーイ・ミーツ・ガール! 大人の階段から全力で飛び降りる『天気の子』が青春を加速する!!|date=2019-07-30 |accessdate= 2022-11-11|website=BANGER!!!|publisher=[[ジュピターエンタテインメント]]}}</ref><ref name="style.nikkei20160901">{{Cite web|和書|url =https://style.nikkei.com/article/DGXKZO06660120Q6A830C1NZDP01/ |author =日本経済新聞文化部 関原のり子 |title =アニメ『君の名は。』監督・新海誠 繊細な映像文学 |date =2016-09-01 |accessdate= 2022-11-11|website = NIKKEI STYLE|publisher = [[日本経済新聞社]], [[日経BP]]}}</ref>。 * もう一つの特徴である光の表現は、子どもの頃にCGを見た時に光源と物体、反射光の関係に驚き、それについて深く考えるようになったことで生まれた<ref name="style.nikkei20160901"/>。その経験から、光源の設定や[[デジタルフィルタ]]による様々なエフェクトや効果の追加、[[被写界深度]]の調整など様々なことができるデジタル撮影の特性を生かして作家性を確立した<ref name="realsound677025">{{Cite web|和書|url=https://realsound.jp/movie/2020/12/post-677025.html |author=杉本穂高 |title=『鬼滅の刃』『君の名は。』大ヒットの要因に ufotableと新海誠から探るアニメーションの"撮影"の重要性 (1) |date=2020-12-20 |accessdate= 2022-11-11|website=[[リアルサウンド (ニュースサイト)|リアルサウンド]]|publisher=株式会社blueprint}}</ref>。 * アニメーションとしては珍しく、新海作品にはキャラクターの靴や服などに、実在するブランドの商品やロゴが登場する<ref name="oricon2024625">{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2024625/ |author= |title=新海監督の新作『言の葉の庭』に実在ブランドが多数登場 |date=2013-05-15 |accessdate= 2022-11-11|website= ORICON NEWS|publisher= [[オリコン]] }}</ref><ref name="moviewalker206272">{{Cite web|和書|url=https://moviewalker.jp/news/article/206272/ |author= |title=世界へ羽ばたく『天気の子』、トロント国際映画祭で新海誠監督に突撃!「僕の意思でないものは入っていません」 |date=2019-09-29 |accessdate= 2022-11-11|website= [[Movie Walker]]|publisher= [[株式会社ムービーウォーカー]]}}</ref>。これは[[プロダクトプレイスメント]]{{Refnest|group="注"|テレビ番組や映画の中に実際の商品を登場させる広告手法のひとつ。}}による作中に登場した企業やその製品の宣伝効果を狙ったものではなく、現代の日本をリアルに切り取る作品世界の表現として、現実の商品をなるべくそのまま使っている<ref name="oricon2024625"/><ref name="moviewalker206272"/>。 * デビュー作以来、「関係性が定まる前に相手を失う」という形で描かれる喪失感という[[モチーフ (物語)|モチーフ]]を繰り返し用いている<ref>{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/58293?page=2 |author=藤津亮太 |title=瀧は本当に主人公だったのか?「非常に稀な経歴の監督」新海誠が起こした『君の名は。』という事件 (2) |website=文春オンライン |publisher=[[文藝春秋]] |date=2022-10-28 |accessdate= 2022-11-11}}</ref>。同じことをやりたくないという監督もいるが、新海は得意なものであればためらうことなく繰り返してみるという<ref name="style.nikkei20160901"/>。 * [[星野之宣]]や[[五十嵐大介]]にも影響を受けた日本の風土や[[民俗学]]と[[グレッグ・イーガン]]や[[アーサー・C・クラーク]]などのSF的要素がミックスされた「SF民俗伝奇物」のような物語と[[ボーイ・ミーツ・ガール]]のドラマを組み合わせた作品が多い<ref>{{Cite web|和書|title=8.26公開『君の名は。』新海誠監督インタビュー最終回/強烈な「ロマンチック・ラブ」に憧れがあるんだと思います... |url=http://filmers.jp/articles/2016/08/22/826/ |website=Filmers |access-date=2023-05-11 |language=ja |last=filmers.jp}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://animageplus.jp/articles/detail/34843/2/1/1 |author= |title=『天気の子』地上波初放送記念!新海誠監督インタビュー (2) |date=2021-01-02 |accessdate= 2022-11-11|website=[[アニメージュ|アニメージュプラス]]|publisher= [[徳間書店]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=SFの巨匠 グレッグ・イーガンが『君の名は。』を視聴「全体的にかなり良い」 - KAI-YOU.net |url=https://kai-you.net/amp/article/78941 |website=kai-you.net |access-date=2023-05-11}}</ref>。 * 『星を追う子ども』は[[古事記]]、『言の葉の庭』は[[万葉集]]、『君の名は。』は[[小野小町]]の和歌と、日本の古典の要素を取り入れることが多い<ref name="style.nikkei20160901"/>。 * 映画の設計図といえる絵コンテは紙に鉛筆で描くのが一般的だが、新海はパソコンで描く。さらに自らセリフを声に出して吹き込んで絵コンテならぬ動画(ビデオ)コンテとして仕上げる。その後、それをもとに、スタッフたちがキャラクターや背景などを分業で描く<ref name="style.nikkei20160901"/>。 * 技術面での新海の作家性は、撮影へのこだわりに表れる。デビューからずっと自身の作品の撮影監督を務め、本人もそのこだわりを認めている<ref name="realsound677025_2">{{Cite web|和書|url=https://realsound.jp/movie/2020/12/post-677025_2.html |author=杉本穂高 |title=『鬼滅の刃』『君の名は。』大ヒットの要因に ufotableと新海誠から探るアニメーションの"撮影"の重要性 (2) |date=2020-12-20 |accessdate= 2022-11-11|website=[[リアルサウンド (ニュースサイト)|リアルサウンド]]|publisher=株式会社blueprint}}</ref>。色と光のコントロールを撮影セクションで行うことで自身の映像の個性を際立たせている<ref name="realsound677025_2"/>。新海映画の代名詞の一つである雨の描写も撮影エフェクトに負う点が大きい<ref name="realsound677025_2"/>。雨に関する表現は作画チームではなく撮影([[デジタル・コンポジット|コンポジット]])チームで行っている<ref name="realsound677025_2"/>。しかし、CGのような物理シミュレーションからの技術ありきのアプローチではなく、セルアニメーションの延長線上で表現しようとした<ref>{{Cite web|和書|url=https://febri.jp/topics/kotonohanoniwa01/ |author= 宮昌太郎|title=言の葉の庭 美術画集発売記念①新海 誠インタビュー |date= 2021-04-05|accessdate= 2022-11-11|website= [[Febri]]|publisher= [[一迅社]]}}</ref>。 * 『君の名は。』までは撮影にクレジットされていたが、プロダクションの規模が拡大して監督の作業量が増えた『天気の子』で初めて撮影のクレジットから外れた<ref name="realsound677025_2"/>{{Refnest|group="注"|しかし、『君の名は。』に参加した津田涼介を撮影監督に起用し、基本的に従来のテイストを引き継いでいる。}}。 * 『天気の子』からは、自身はディレクションに徹してスタッフの個性を活かす志向を強めた<ref name="bunshun32763_3">{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/32763?page=3 |author=近藤正高 |title=『天気の子』新海誠47歳に 26歳までアニメ業界未経験の「異色すぎる履歴書」とは (3) |date=2020-02-09 |accessdate= 2022-11-11 |website=文春オンライン |publisher=[[文藝春秋]]}}</ref>。それまで同様、動画コンテは作られたものの、自らのイメージを押し通すのではなく、コンテを叩き台にして出来るだけ周囲の意見を聴いてアイデアを取り入れていく方針をとった<ref name="bunshun32763_3"/>。 * 「映画監督になりたい」と思ったことはない<ref name="bunshun32763"/>。アニメの制作動機としてはまず"技術"があり、パソコンがなければ映画は作っていなかったという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2024502/ |author= |title=新海誠監督「パソコンがなければ、映画は作っていない」 |date=2013-05-11 |accessdate= 2022-11-11|website= ORICON NEWS|publisher= [[オリコン]] }}</ref>。「自分は絵を描く人間ではないという感覚がずっとある」と言い、自身を「絵というよりも『言葉』『音』の人間」と自己分析する<ref name="style.nikkei20160901"/>。動画コンテも「セリフを読み上げ、そのリズムに絵をはめていく感覚」で作る<ref name="style.nikkei20160901"/>。 * 全作品を通して'''「新海ワールド」'''<ref>[http://news.ameba.jp/20160825-884/ 1冊丸ごと新海ワールド! デビューから全作品を振り返る「新海誠Walker」発売決定] 日刊アメーバニュース(2016年08月25日)</ref><ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/11713797/ 新海誠ワールド全開!細部までこだわりぬいた新ビジュアルは必見] Movie Walker(2016年7月2日)</ref>とも称される風景描写の緻密さ・美しさが特筆される。これについて本人は、「思春期の困難な時期に、風景の美しさに自分自身を救われ、励まされてきたので、そういう感覚を映画に込められたら、という気持ちはずっと一貫して持っている」といった旨の発言をしている<ref>『雲のむこう、約束の場所』DVDに特典映像として収録されている、新海誠へのインタビュー</ref>。 * オリジナル映像作品のほぼすべてに英語のサブタイトルを付しており、少年と少女の[[恋愛]]をテーマにした作品が多い。代表作とされる『ほしのこえ』『雲のむこう、約束の場所』『秒速5センチメートル』の3作は、いずれも主人公の2人の心の距離と、その近づく・遠ざかる速さをテーマとしたものである<ref>『秒速5センチメートル』DVDに特典映像として収録されている、新海誠へのインタビュー</ref>。 * その作風や[[世界観#文芸評論のなかでの世界観|世界観]]に惹かれ、新海作品への出演を熱望する演者も多い。これまで主演を演じた[[入野自由]]、[[花澤香菜]]、[[神木隆之介]]などはいずれも新海作品のファンであることを公言している<ref name="名前なし-1"/>。 * 複数の作品にまたがって起用されるキャストが多い。以下はその例。 **[[井上優 (声優)|井上優]](『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』『君の名は。』) **入野自由(『星を追う子ども』『言の葉の庭』) **神木隆之介(『君の名は。』『天気の子』『すずめの戸締まり』) **[[上白石萌音]](『君の名は。』『天気の子』) **[[谷花音]](『君の名は。』『天気の子』) **[[寺崎裕香]](『秒速5センチメートル』『猫の集会』『星を追う子ども』『言の葉の庭』『君の名は。』) **[[成田凌]](『君の名は。』『天気の子』) **花澤香菜(『言の葉の庭』『君の名は。』『天気の子』『すずめの戸締まり』) **[[花村怜美]](『秒速5センチメートル』『だれかのまなざし』) **[[平野文]](『言の葉の庭』『だれかのまなざし』) **[[前田剛]](『雲のむこう、約束の場所』『猫の集会』『星を追う子ども』『言の葉の庭』) **[[水野理紗]](『雲のむこう、約束の場所』『秒速5センチメートル』『星を追う子ども』『言の葉の庭』) **[[悠木碧]](『君の名は。』『天気の子』) * 音響監督には、[[山田陽]]を起用することが多い。 * 作品の舞台として[[新宿]]を採り上げるのが多いことについて、新海は1992年頃に上京して最初に行った街で当時は[[東京都庁舎|東京都新都庁舎]]が完成し、当地を舞台としたアニメ『[[シティーハンター (アニメ)|シティーハンター]]』が放映されていて勢いがあり、憧れがあったことを理由として挙げている<ref>{{Cite web|和書|url=https://moviewalker.jp/news/article/200872/|title=『天気の子』新海誠監督に、読者の疑問をぶつけてきた!野田洋次郎への愛の告白(!?)から、夏美の就職先まで一挙に解答!|accessdate=2019年8月13日|publisher=Movie Walker(2019年8月12日作成)}}</ref>。 == 人物 == * [[猫]]が好き。『[[雲のむこう、約束の場所]]』の制作中に保護した猫には、当該作品のヒロイン「佐由理」の名前から「サユリ」と名付けた。『[[すずめの戸締り]]』制作中の2021年4月に保護猫2匹を迎え、ヒロイン「鈴芽」とその母「椿芽」の名前から「すずめ」「つばめ」と名付けた<ref>[https://petokoto.com/articles/2107 元保護猫「すずめ」と「つばめ」が僕の心を救ってくれた──映画『すずめの戸締まり』新海誠監督インタビュー],PETOKOTO、2023年9月20日</ref>。 * [[新宿]]近辺の景色が気に入っており<ref>{{Cite book| 和書| title = 秒速5センチメートル 劇場版パンフレット| quote = PRODUCTION NOTE『秒速5センチメートル』― 桜を見下ろす仕事場で動いていた速度 ~ 新宿| publisher = [[コミックス・ウェーブ]]| date = 2007-02-22| page = 11}}</ref>、『雲のむこう、約束の場所』『[[秒速5センチメートル]]』『[[君の名は。]]』『[[天気の子]]』などの作品で何度も描いている。 * 孤独感を描いた作風とは対照的に本人はサービス精神が旺盛な性格で、海外の舞台挨拶などで観客の心を掴むのがうまいという<ref name=syueisya01>{{Cite web|和書|date=2022-10-17|url=https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/doi_hikawa/21454|title=新海誠を知ればアニメーションの本質がわかる?|website=集英社親書プラス|publisher=集英社|accessdate=2022-10-18}}</ref>。[[氷川竜介]]は、新海の学生時代の留学経験もその理由の一つではと分析する<ref name=syueisya01/>。長年新海に連れ添っているプロデューサーの[[川口典孝]]も、新海は「自己満足なことを絶対にやらない(中略)本当にお客さんのことを考えている」タイプだと話す<ref name=syueisya01/>。 * 好きなアニメに『[[とらドラ!]]』を挙げていて、[[釘宮理恵]]を好きな声優の1人に挙げているほか『[[Cut (雑誌)|Cut]]』2013年7月号で[[長井龍雪]](監督)と対談したことがある<ref>{{Cite web|和書|title=新海さんの恋のお話、声優さんのお話 - 新海誠インタビュー【あにこれβ】 |url=https://www.anikore.jp/features/shinkai_3_2/ |website=あれこれ |publisher=株式会社あにこれ |access-date=2023-05-11 |language=ja |last=anikore}}</ref>。また、CM「クロスロード」および映画『君の名は。』『天気の子』では[[田中将賀]](作画監督)とタッグを組んで制作した。 * [[村上春樹]]に強い影響を受けていると公言している。特に『[[世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド]]』を思い入れのある作品として挙げている。[[アイザック・アシモフ]] 、[[ロバート・A・ハインライン]]、[[アーサー・C・クラーク]] 、[[コニー・ウィリス]]などの古典SFのファン<ref>{{Cite web|和書|title=8.26公開『君の名は。』新海誠監督インタビュー最終回/強烈な「ロマンチック・ラブ」に憧れがあるんだと思います... |url=http://filmers.jp/articles/2016/08/22/826/ |website=Filmers |access-date=2023-05-11 |language=ja |last=filmers.jp}}</ref>で、初期作品ではオマージュとして影響が強く現れている。学生時代は[[宮沢賢治]]を研究対象としていたが、あまり興味が持てず惹かれなかったという。 * 自作品の台詞回しを、深夜に書いたポエムのようであると語っており、それでもパッケージとして表現すれば恥ずかしさはないと語る<ref>『コンテンツの思想-マンガ・アニメ・ライトノベル』書籍内での東浩紀との対談</ref>。 * 『[[天空の城ラピュタ]]』に、「世界の見方を変えられた」と公言している{{要出典|date=2023年9月}}。 * 2008年1月中旬から2月中旬にかけて、[[ヨルダン]]([[アンマン]])、[[カタール]]([[ドーハ]])、[[シリア]]([[ダマスカス]])にて、現地のクリエイターを対象としたデジタルアニメーション制作の[[ワークショップ]]を行った<ref>{{Cite web|和書|url=https://animeanime.jp/article/2008/01/24/2696.html|title=新海誠監督 中東3カ国でアニメ制作ワークショップツアー|website=アニメ!アニメ!|date=2008-01-24|accessdate=2019-09-18}}</ref>。ワークショップ終了後は1年ほど[[ロンドン]]に滞在、2009年4月日本に帰国した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www2.odn.ne.jp/~ccs50140/colum2008.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090603172803/http://www2.odn.ne.jp/~ccs50140/colum2008.html|title=Other voices -遠い声- 2008年の近況 (2009/03/28および2009/04/28)|archivedate=2009-06-03|accessdate=2019-09-18}}</ref>。2012年にはこの中東でのワークショップ開催により、「[[世界で活躍し『日本』を発信する日本人]]プロジェクト」で選出され<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/npu/policy09/pdf/20120918/20120918.pdf|title=世界で活躍し『日本』を発信する日本人プロジェクト ~「国境を越えた情熱」をもって頑張る日本人の活動概要~|publisher=国家戦略室|accessdate=2019-09-18}}</ref>、[[内閣府]][[国家戦略室]]の担当大臣[[古川元久]]から感謝状が贈られた<ref>{{Cite web|和書|url=http://shinkaimakoto.jp/archives/435|title=Other voices-遠い声- » 内閣府・国家戦略室「世界で活躍し『日本』を発信する日本人プロジェクト」|author=新海誠|date=2012-09-18|accessdate=2019-09-18}}</ref>。 * 2018年6月25日、[[アカデミー賞]]を主催している[[映画芸術科学アカデミー]]は、新海をアカデミー会員に招待した<ref>{{Cite web|和書|date=2018-06-26|url=https://mainichi.jp/articles/20180626/k00/00e/030/201000c|title=新海監督ら日本人10人、アカデミー新会員に招待|publisher=[[毎日新聞]]|accessdate=2019-06-13}}</ref>。 == 作品 == === アニメ映画 === 英語部分は英題ではなく、日本語版タイトルロゴに付されているサブタイトル。第1作『ほしのこえ』は大部分を新海1人で制作した自主制作。第2作『雲のむこう、約束の場所』以降はコミックス・ウェーブ・フィルム制作となり、次第に他のスタッフへ任せる部分が増えてきているが、制作の最初の脚本・絵コンテ(ビデオコンテ)と最後の編集作業は一貫して新海が1人で行っている。 ; [[ほしのこえ]] The voices of a distant star : 2002年2月2日公開。上映時間25分。自主制作。オリジナル版では新海本人が声の出演をしている。英題 : ''Voices of a Distant Star'' ; [[雲のむこう、約束の場所]] The place promised in our early days : 2004年11月20日公開。上映時間91分。原作・脚本・監督・絵コンテ・演出・美術・美術背景・色彩設計・撮影・編集・音響監督・主題歌作詞等を担当。英題 : ''The place promised in our early day'' ; [[秒速5センチメートル]] a chain of short stories about their distance : 2007年3月3日公開。上映時間63分。第1話「桜花抄」、第2話、「コスモナウト」、第3話「秒速5センチメートル」からなる3話構成。原作・脚本・監督・絵コンテ・演出・美術監督・美術背景・色彩設計・撮影・編集・音響監督等を担当。英題 : ''5 Centimeters Per Second'' ; [[星を追う子ども]] Children who Chase Lost Voices from Deep Below : 2011年5月7日公開。上映時間116分。原作・脚本・監督・絵コンテ・演出・美術背景・色彩設計・撮影監督・撮影・編集等を担当。英題 : ''Children Who Chase Lost Voices'' ; [[言の葉の庭]]<!--ここはサブタイトルを記入する欄であり、英題を記載する欄ではありません。英題である "The Garden of Words" を記載しないでください。--> : 2013年5月31日公開。上映時間46分。原作・脚本・監督・絵コンテ・演出・美術背景・色彩設計・撮影監督・編集を担当。東宝映像事業部<!--東宝ではない-->配給。英題 : ''The Garden of Words'' ; [[君の名は。]] your name. : 2016年8月26日公開。上映時間107分。原作・脚本・監督・絵コンテ・撮影・編集を担当。本作から東宝配給となる。日本国内興行収入250.3億円。英題 : ''Your Name.'' ; [[天気の子]] Weathering With You : 2019年7月19日公開。上映時間114分。原作・脚本・監督・絵コンテ・イメージボード・編集を担当。日本国内興行収入141.9億円。英題 : ''Weathering With You'' ; [[すずめの戸締まり]] : 2022年11月11日公開<ref name="asahi20220409" />。上映時間122分。原作・脚本・監督・絵コンテ・イメージボード・色彩監督・編集を担当。英題 : ''Suzume'' === 短編・テレビアニメ === * 囲まれた世界(1998年・自主制作・30秒)1998年の暮れに1週間ほどでつくったオール3DCGアニメーション。 * 遠い世界 OTHER WORLDS(1999年・自主制作・1分28秒)<ref group="注">{{Wayback|url=http://www2.odn.ne.jp/~ccs50140/world/index.html |title=新海の旧個人サイト |date=20010215023959}}より視聴できる。</ref> - 新海が初めて制作したというアニメ。"Makoto Niitsu" 名義。 * [[彼女と彼女の猫]] Their standing points(2000年・自主制作・4分46秒) * 笑顔(2003年・[[NHK総合テレビジョン|NHK]]「[[みんなのうた]]」歌:[[岩崎宏美]]) * [[猫の集会]](2007年・NHK「[[アニ*クリ15|アニ*クリ15]]」) * [[だれかのまなざし]](2013年・[[野村不動産]]グループ『プラウドボックス感謝祭』ショートフィルム) ==== ゲームオープニングムービー ==== いずれも[[minori]]作品。 * [[BITTERSWEET FOOLS]](2001年) * [[Wind -a breath of heart-]](2002年) ** そよかぜのおくりもの(2002年・制作協力) * [[はるのあしおと]](2004年) * [[ef - a fairy tale of the two.|ef - the first tale.]](2006年) * ef - the latter tale.(2008年) ==== アニメCM ==== * [[信濃毎日新聞]](2007年)<ref name="shinano">{{Cite web|和書|url=http://shinkaimakoto.jp/shinmai|title=Other voices-遠い声- » 信濃毎日新聞テレビCM|accessdate=2019-09-18}}</ref> * [[大成建設]]「[[マルマライ|ボスポラス海峡トンネル]]」篇<ref>[https://m.youtube.com/watch?v=sLRIDJDa1yg 大成建設 | ボスポラス海峡トンネル篇CM] </ref>(2011年12月) * 大成建設「スリランカ高速道路」篇(2013年12月) * [[Z会]]「[[クロスロード (アニメーション作品)|クロスロード]]」 (2014年2月) * 大成建設「ベトナム・ノイバイ空港」篇(2014年8月) *大成建設「シンガポール」篇(2018年10月) *大成建設「ミャンマー」篇(2020年3月) === ミュージック・ビデオ === *[[RADWIMPS]] **「[[人間開花|スパークル]]」(2017年) **「[[天気の子 complete version|グランドエスケープ feat.三浦透子]]」(2019年) === 小説 === ; 小説・秒速5センチメートル : 単行本([[メディアファクトリー]]、2007年11月刊)ISBN 978-4-8401-2072-2 : [[MF文庫ダ・ヴィンチ]](メディアファクトリー、2012年10月刊)ISBN 978-4-8401-4857-3 : [[角川文庫]](タイトルは『小説 秒速5センチメートル』、[[KADOKAWA]]、2016年2月刊)ISBN 978-4-04-102616-8 : 新海誠ライブラリー([[汐文社]]、2018年12月刊)ISBN 978-4-8113-2505-7 ; 小説 言の葉の庭 : 単行本(KADOKAWA、2014年4月刊)ISBN 978-4-04-066399-9 : 角川文庫(KADOKAWA、2016年2月刊)ISBN 978-4-04-102615-1 : 新海誠ライブラリー(汐文社、2018年12月刊)ISBN 978-4-8113-2503-3 ; 小説 君の名は。 : 角川文庫(KADOKAWA、2016年6月刊)ISBN 978-4-04-102622-9 : 角川つばさ文庫(タイトルは『君の名は。』、KADOKAWA、2016年8月刊)ISBN 978-4-04-631641-7 : 新海誠ライブラリー(汐文社、2018年12月刊)ISBN 978-4-8113-2502-6 ; 小説 天気の子 : 角川文庫(KADOKAWA、2019年7月刊)ISBN 978-4-04-102640-3 : 角川つばさ文庫(タイトルは『天気の子』、KADOKAWA、2019年8月刊)ISBN 978-4-04-631927-2 ; 小説 すずめの戸締り : 角川文庫(KADOKAWA、2022年8月刊)ISBN 978-4-04-112679-0 === 絵本 === * すずめといす([[マクドナルド]] [[ハッピーセット|ほんのハッピーセット]]、2022年11月) - 絵:海島千本<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/500093|title=「すずめの戸締まり」の公式スピンオフ絵本「すずめといす」、ハッピーセットに登場|website=[[コミックナタリー]]|date=2022-11-04|accessdate=2022-11-04}}</ref> === 漫画 === * 塔のむこう(2002年9月『[[新現実]]』創刊号に掲載された短編漫画) === 絵コンテ集 === *『新海誠絵コンテ集1 秒速5センチメートル』KADOKAWA、2017年8月刊、ISBN 978-4-04-105883-1 *『新海誠絵コンテ集2 君の名は。』KADOKAWA、2017年9月刊、ISBN 978-4-04-105884-8 *『新海誠絵コンテ集3 雲のむこう、約束の場所』KADOKAWA、2017年12月刊、ISBN 978-4-04-105881-7 *『新海誠絵コンテ集4 星を追う子ども』KADOKAWA、2018年2月刊、ISBN 978-4-04-105880-0 *『新海誠絵コンテ集5 言の葉の庭』KADOKAWA、2018年3月刊、ISBN 978-4-04-105882-4 *『新海誠絵コンテ集6 天気の子』KADOKAWA、2020年5月刊、ISBN 978-4-04-109656-7 === 画集 === *『新海誠美術作品集 空の記憶 〜The sky of the longing for memories〜』([[講談社]]、2008年4月24日発売) ISBN 978-4-06-364714-3 *『新海誠アートワークス 星を追う子ども 美術画集』(メディアファクトリー、2012年6月15日発売) ISBN 978-4-8401-3935-9 *『新海誠監督作品 君の名は。美術画集』([[一迅社]]、2017年8月2日発売) ISBN 978-4-7580-1564-6 *『新海誠監督作品 天気の子 美術画集』(KADOKAWA、2020年5月27日発売) ISBN 978-4-04-604698-7 *『新海誠監督作品 言の葉の庭 美術画集』(一迅社、2021年7月) ISBN 978-4-7580-1709-1 === 作詞 === * きみのこえ(『雲のむこう、約束の場所』主題歌) * クロスロード(『クロスロード』挿入歌) * [[背伸び (森七菜の曲)|背伸び]]([[森七菜]]) === イラスト === ; 小説挿絵 :* ほしのこえ(著:[[大場惑]]) :* きみを守るためにぼくは夢をみる(著:[[白倉由美]]) :* 雲のむこう、約束の場所(著:[[加納新太]]) :* 秒速5センチメートル(著:新海誠) :* 彼女と彼女の猫(著:[[永川成基]]) === 日本ファルコム時代に携わったゲーム作品 === * [[英雄伝説IV 朱紅い雫]] PC-9801版(1996年5月・スペシャルサンクス) * [[ブランディッシュ|ブランディッシュVT]](1996年10月・スペシャルサンクス) * [[ロードモナーク|ロードモナーク オリジナル]](1996年12月・アート&グラフィック) * [[ドラゴンスレイヤー英雄伝説|新英雄伝説]](1997年4月・スペシャルサンクス) * [[ソーサリアン|ソーサリアン・フォーエバー]](1997年6月・ドキュメンテーション) * [[ヴァンテージ・マスター]](1997年12月・ドキュメンテーション) * [[イースエターナル]](1998年4月・ドキュメンテーション) * [[ロードモナーク|モナークモナーク]](1998年10月・アート&グラフィック) * [[ブランディッシュ|ブランディッシュ4]](1998年12月・ドキュメンテーション) * [[英雄伝説III 白き魔女|新英雄伝説III 白き魔女]] Windows版(1999年4月・アート&グラフィック、パブリシティ) * [[西風の狂詩曲]](1999年10月・パブリシティ) * [[英雄伝説V 海の檻歌]](1999年12月・オープニンググラフィック、品質管理、パブリシティ) * [[イースIIエターナル]](2000年7月・アート&グラフィック) * [[ソーサリアン|ソーサリアン・オリジナル]](2000年11月・品質管理) * [[英雄伝説IV 朱紅い雫]] Windows版(2000年12月・ドキュメンテーション&パブリシティ) * [[イースI|イース完全版]](2001年6月・オープニングムービー、ドキュメンテーション&パブリシティ) * [[ツヴァイ!!]](2001年12月・アート&グラフィック) == 展覧会 == ;新海誠展 :2012年9月15日 - 11月25日、[[小海町高原美術館]] ;新海誠展 劇場アニメーション「言の葉の庭」公開記念 :2013年5月22日 - 6月9日、[[タワーレコード]]渋谷店8階 ;新海誠展 きみはこの世界の、はんぶん。 :2014年6月28日 - 10月19日、[[大岡信ことば館]] ;新海誠監督作品 「君の名は。」展 :2016年10月23日 - 12月25日、小海町高原美術館 :2017年1月7日 - 2月19日、[[飛騨市美術館]] :2017年3月8日 - 3月20日、[[松屋 (百貨店)|松屋]]銀座8階 ;新海誠展 「ほしのこえ」から「君の名は。」まで :2017年6月3日 - 8月27日、大岡信ことば館 :2017年9月2日 - 10月29日、小海町高原美術館 :2017年11月11日 - 12月18日、[[国立新美術館]] :2018年1月3日 - 2月25日、[[札幌芸術の森美術館]] :2018年3月14日 - 4月2日、[[阪急百貨店うめだ本店|阪急うめだ本店]] :2018年4月14日 - 5月27日、みやざきアートセンター :2018年6月2日 - 7月8日、[[東北福祉大学|TFU]]ギャラリーMiniMori :2018年7月21日 - 9月24日、[[北九州市漫画ミュージアム]] :2018年10月6日 - 11月2日、[[金沢21世紀美術館]] :2018年11月10日 - 12月9日、[[青森県立美術館]] :2018年12月18日 - 2019年2月3日、[[沖縄県立博物館・美術館]] :2019年2月16日 - 3月3日、[[ジェイアール名古屋タカシマヤ]] ;新海誠監督作品「天気の子」展 :2019年9月25日 - 10月7日、松屋銀座 :2019年12月26日 - 2020年1月6日、[[博多大丸#福岡天神店|大丸福岡天神店]] :2020年1月22日 - 2月3日、[[天満屋|岡山天満屋]] :2020年3月19日 - 4月5日、[[アイシティ21|井上アイシティ21]] :2021年2月27日 - 5月9日、[[ラオックスホールディングス|ラオックス]]道頓堀店(道頓堀ゼロゲート) :このほか、2020年に阪急うめだ本店と[[松坂屋名古屋店]]でも開催予定だったが、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]の影響で中止となった。 ;新海誠監督作品「すずめの戸締まり」展 :2023年4月19日 - 5月8日、東京・松屋銀座 :2023年5月26日 - 6月18日、札幌・[[サッポロファクトリー#3条館|サッポロファクトリー3条館]] :2023年6月22日 - 7月16日、大阪・[[大丸梅田店]] :2023年7月20日 - 8月20日、石川・[[金沢丸越百貨店|金沢エムザ]] :2023年9月8日 - 10月1日、福岡・[[福岡三越]] :2023年10月7日 - 11月5日、米子・[[天満屋#米子しんまち天満屋|米子天満屋]] :2023年11月10 - 11月27日、名古屋・名古屋パルコ :2023年12月13日 - 12月26日、浜松・[[遠鉄百貨店]] :2024年1月2日 - 2月12日、松本・[[松本パルコ]] == 受賞歴 == {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" !賞!!年!!回!!部門!!作品!!結果!!出典 |- ![[イート金沢|eAT金沢]] |1998年||style="text-align:center"|-||特別賞||『遠い世界』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=新海誠監督、すずめの戸締まり「観客の声に導かれ作った」 金沢でインタビュー|文化|石川のニュース|北國新聞 |url=https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/934953 |website=北國新聞 |access-date=2023-03-19 |language=ja |date=2022-12-11}}</ref> |- ![[CGアニメコンテスト]] |2000年||第12回||グランプリ||『[[彼女と彼女の猫]]』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=第12回CGアニメコンテスト 審査結果 |url=http://doga.jp/contest/con12/html/12_11.htm |website=doga.jp |access-date=2023-03-19 |language=ja}}</ref> |- ![[東京国際アニメフェア|新世紀東京国際アニメフェア21]] |2002年||第1回||公募部門優秀賞||『[[ほしのこえ]]』||{{won}}||<ref name=":0" /> |- !東京国際アニメフェア |2003年||第2回||特別部門 表現技術賞||『[[雲のむこう、約束の場所]]』(パイロット版)||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=WEBアニメスタイル TOPICS|url=http://www.style.fm/log/02_topics/top030322.html |website=www.style.fm |access-date=2023-03-21}}</ref> |- ![[アニメーション神戸]]作品賞 |2002年||第7回||パッケージ部門||『ほしのこえ』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.anime-kobe.jp/archive/2002/ |title=第7回アニメーション神戸 |access-date=2022-3-19 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160327134314/http://www.anime-kobe.jp/archive/2002/ |archive-date=2016-3-27 |deadlinkdate=2022-3-19 |language=ja}}</ref> |- !アニメーション神戸賞 |2013年||第18回||作品賞||『[[言の葉の庭]]』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=アニメーション神戸 {{!}} アニメーション神戸賞 |url=http://www.anime-kobe.jp/archive/2013/anime-kobe/ |access-date=2023-03-24 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20160304090535/http://www.anime-kobe.jp/archive/2013/anime-kobe/ |archive-date=2016-3-4 |deadlinkdate=2023-3-24}}</ref> |- ![[日本オタク大賞]] |2002年||第2回||「トップをねらえ!」賞||『ほしのこえ』||{{won}}||<ref name=":0" /> |- ! rowspan="3" |[[文化庁メディア芸術祭]] |2002年||第6回||特別賞||『ほしのこえ』||{{won}}||<ref name=":1" /> |- |2017年||第20回||[[文化庁メディア芸術祭アニメーション部門|アニメーション部門]] 大賞||『[[君の名は。]]』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=君の名は |url=https://j-mediaarts.jp/award/single/your-name/ |website=文化庁メディア芸術祭 - JAPAN MEDIA ARTS FESTIVAL |access-date=2023-04-01 |language=ja |publisher=文化庁}}</ref> |- |2020年||第23回||アニメーション部門 ソーシャル・インパクト賞||『[[天気の子]]』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=天気の子 |url=https://j-mediaarts.jp/award/single/weathering-with-you/ |website=文化庁メディア芸術祭 - JAPAN MEDIA ARTS FESTIVAL |access-date=2023-04-01 |language=ja |publisher=文化庁}}</ref> |- ! rowspan="2" |AMD Award |2003年||第8回||BestDirector賞||『ほしのこえ』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=第1 回~第9 回 AMD Award '14 受賞作品一覧 - AMD 一般社団法人デジタルメディア協会 |url=https://amd.or.jp/award/09_01/index.html#08 |website=amd.or.jp |access-date=2023-03-19 |language=ja |publisher=デジタルメディア協会}}</ref> |- |2017年||第22回||年間コンテンツ賞「優秀賞」||『君の名は。』||{{won}} |<ref>{{Cite web|和書|title=第22回 AMD Award 優秀賞|君の名は。 一般社団法人デジタルメディア協会 |url=https://amd.or.jp/award/22/works/22_award_02.html |website=amd.or.jp |access-date=2023-03-28 |language=ja}}</ref> |- ![[デジタルコンテンツグランプリ]] |2003年||第17回||エンターテイメント部門 映像デザイン賞||『ほしのこえ』||{{won}}||<ref name=":0" /> |- ! rowspan="3" |[[星雲賞]] | rowspan="2" |2003年|| rowspan="2" |第34回||メディア部門||『ほしのこえ』||{{won}}||<ref name=":0" /> |- |アート部門||style="text-align:center"|- ||{{won}}||<ref name=":0" /> |- |2005年||第36回||アート部門||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref name=":0" /> |- ! rowspan="3" |[[ファンタジア国際映画祭]] |2003年||第7回||アニメーション映画部門銀賞||『雲のむこう、約束の場所』||{{won}}||<ref name=":0" /> |- | rowspan="2" |2013年|| rowspan="2" |第17回||今敏賞 | rowspan="2" |『言の葉の庭』||{{won}}|| rowspan="2" |<ref>{{Cite web |url=http://fantasiafestival.com/blog/general-info/fantasia-2013-award-winners |title=FANTASIA 2013 AWARD WINNERS! |access-date=2023-3-23 |language=en |archive-url=https://web.archive.org/web/20150110064405/http://fantasiafestival.com/blog/general-info/fantasia-2013-award-winners |archive-date=2015-1-10 |deadlinkdate=2023-3-203}}</ref> |- |観客賞・最優秀劇場アニメーション||{{won}} |- ! rowspan="5" |[[毎日映画コンクール]] |2005年||第59回||[[毎日映画コンクールアニメーション映画賞|アニメーション映画賞]]||『雲のむこう、約束の場所』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=毎日映画コンクール 第59回(2004年) |url=https://mainichi.jp/mfa/history/059.html |website=毎日新聞 |access-date=2023-03-26 |language=ja |publisher=毎日新聞社}}</ref> |- | rowspan="2" |2017年|| rowspan="2" |[[第71回毎日映画コンクール|第71回]]||アニメーション映画賞|| rowspan="2" |『君の名は。』||{{won}}|| rowspan="2" |<ref>{{Cite web|和書|title=毎日映画コンクール 第71回(2016年) |url=https://mainichi.jp/mfa/history/071.html |website=毎日新聞 |access-date=2023-03-30 |language=ja |publisher=毎日新聞社}}</ref> |- |TSUTAYA×Filmarks映画ファン賞 日本映画部門||{{won}} |- |2020年||[[第74回毎日映画コンクール|第74回]]||アニメーション映画賞・大藤信朗賞||『天気の子』||{{nom}} |<ref>{{Cite web|和書|title=第74回毎日映画コンクール:「火口のふたり」「蜜蜂と遠雷」が最多8部門ノミネート 主演賞に稲垣吾郎、香取慎吾、蒼井優、松岡茉優ら |url=https://mantan-web.jp/article/20191226dog00m200020000c.html |website=MANTANWEB(まんたんウェブ) |access-date=2023-04-01 |language=ja-JP}}</ref> |- |2023年||[[第77回毎日映画コンクール|第77回]]||アニメーション映画賞・大藤信郎賞||『[[すずめの戸締まり]]』||{{nom}}||<ref>{{Cite web|和書|title=「第77回毎日映画コンクール」ノミネート発表 『ある男』が最多9部門 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2261593/full/ |website=ORICON NEWS |access-date=2023-04-02 |language=ja}}</ref> |- ![[ソウル国際マンガ・アニメーション映画祭]] |2005年||第9回||長編映画部門優秀賞||『雲のむこう、約束の場所』||{{won}}||<ref name=":0" /> |- ! rowspan="4" |[[アジア太平洋映画賞]] |2007年||第1回||[[アジア太平洋映画賞最優秀アニメーション映画賞|最優秀アニメーション映画賞]]||『[[秒速5センチメートル]]』||{{won}}||<ref>{{Cite web |title=5 Centimeters Per Second (Byosoku 5 Centimeters) |url=https://www.asiapacificscreenawards.com/apsa-nominees-winners/2007/best-animated-film/5-centimeters-per-second-byosoku-5-centimeters |website=Asia Pacific Screen Awards |access-date=2023-03-26 |language=en-US}}</ref> |- |2011年||第5回||最優秀アニメーション映画賞||『[[星を追う子ども]]』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |title=Children Who Chase Lost Voices From Deep Below (Hoshi o Ou Kodomo) |url=https://www.asiapacificscreenawards.com/apsa-nominees-winners/2011/best-animated-film/children-chase-lost-voices-deep-hoshi-o-ou-kodomo |website=Asia Pacific Screen Awards |access-date=2023-04-02 |language=en-US}}</ref> |- |2017年||第11回||最優秀アニメーション映画賞||『君の名は。』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |title=your name. (kimi no na wa.) |url=https://www.asiapacificscreenawards.com/apsa-nominees-winners/2017/best-animated-film/your-name |website=Asia Pacific Screen Awards |access-date=2023-04-02 |language=en-US}}</ref> |- |2019年||第13回||最優秀アニメーション映画賞||『天気の子』||{{won}}||<ref>{{Cite web |title=Weathering With You (Tenki no Ko) |url=https://www.asiapacificscreenawards.com/apsa-nominees-winners/2019/best-animated-film/weathering-with-you-tenki-no-ko |website=Asia Pacific Screen Awards |access-date=2023-04-02 |language=en-US}}</ref> |- ![[フューチャーフィルム映画祭]] |2008年||第10回||ランチア・プラチナグランプリ||『秒速5センチメートル』||{{won}}||<ref>{{Cite web |title=Lancia Platinum Grand Prize {{!}} Future Film Festival |url=https://archivio.futurefilmfestival.it/2008/lancia-platinum-grand-prize |website=archivio.futurefilmfestival.it |access-date=2023-03-26 |language=it}}</ref> |- ![[アヌシー国際アニメーション映画祭]] |2012年||第34回||長編コンペティション部門||『星を追う子ども』||{{nom|出品}}||<ref>{{Cite web |title=Annecy > About > Archives > 2012 > Official Selection > Film Index |url=https://www.annecyfestival.com/about/archives:en/2012:en/official-selection/film-index:film-20121579 |website=www.annecyfestival.com |access-date=2023-03-26 |language=en |first=© |last=CITIA}}</ref> |- ![[中国国際動漫節]] |2012年||第8回||「金猴賞」優秀賞||『星を追う子ども』||{{won}}||<ref name=":0" /> |- !信毎選賞 |2013年||第18回|| style="text-align:center" |-|| style="text-align:center" |-||{{won}}||<ref name=":0" /> |- !iTunes Best of 2013 |2013年||style="text-align:center"|-||今年のベストアニメーション||『言の葉の庭』||{{won}}||<ref name=":0" /> |- ![[シュトゥットガルト国際アニメーション映画祭]] |2014年||第21回||長編映画部門 最優秀賞||『言の葉の庭』||{{won}}||<ref>{{Cite web |title=21. International Festival of Animated Film Stuttgart 2014 - Awardees ITFS 2014 |url=https://www.itfs.de/archive/itfs-2009-2014/www.itfs.de/en/home/festival/awardees-itfs-2014/index8a0e.html?fb_locale=en_GB |website=www.itfs.de |access-date=2023-03-26 |language=en}}</ref> |- ![[ロンドン映画祭|BFIロンドン映画祭]] |2016年||第60回||公式コンペティション部門||『君の名は。』||{{nom|出品}}||<ref>{{Cite web|和書|title=新海誠監督『君の名は。』が第60回BFI主催ロンドン映画祭のコンペ部門に選出決定! - シネフィル - 映画とカルチャーWebマガジン |url=https://cinefil.tokyo/_ct/16991581 |access-date=2023-03-31 |language=ja |date=2016-9-5}}</ref> |- ![[シッチェス・カタロニア国際映画祭]] |2016年||第49回||アニメーション部門・最優秀長編作品賞||『君の名は。』||{{won}}||<ref name=":0" /> |- ! rowspan="2" |[[富川国際アニメーション映画祭]] | rowspan="2" |2016年|| rowspan="2" |第18回||長編コンペティション部門 優秀賞|| rowspan="2" |『君の名は。』||{{won}}|| rowspan="2" |<ref>{{Cite web |title=biaf2016 |url=https://asianfilmfestivals.com/tag/biaf2016/ |website=Asian Film Festivals |access-date=2023-03-26 |language=en |first=Asian Film |last=Festival}}</ref> |- |長編コンペティション部門 観客賞||{{won}} |- ! rowspan="3" |[[スコットランド・ラブズ・アニメーション]] | rowspan="2" |2016年|| rowspan="2"|第7回||審査員賞|| rowspan="2" |『君の名は。』||{{won}}|| rowspan="2" |<ref name=":0" /> |- |観客賞||{{won}} |- |2019年||第10回||観客賞||『天気の子』||{{won}}||<ref name=":0" /> |- !ASIAGRAPH |2016年||第10回||創賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref name=":0" /> |- ![[東京国際映画祭]] |2016年||[[第29回東京国際映画祭|第29回]]||ARIGATŌ(ありがとう)賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=“ARIGATŌ(ありがとう)賞” 本年度の受賞者が決定しました。 |url=http://2016.tiff-jp.net/news/ja/?p=38277 |website=東京国際映画祭 |access-date=2023-03-26 |language=ja}}</ref> |- !ヒットメーカー・オブ・ザ・イヤー |2016年||style="text-align:center"|-||グランプリ||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref name=":0" /> |- ![[山路ふみ子映画賞]] |2016年||第33回||山路ふみ子文化賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=映画賞 受賞者一覧 |url=http://www.yamaji-fumiko.org/movieaward/prizelist.html |website=映画賞 |publisher=山路ふみ子文化財団 |access-date=2023-03-26 |language=ja}}</ref> |- ! rowspan="3" |[[ゴールデングロス賞]] | rowspan="2" |2016年|| rowspan="2" |第34回||日本映画部門 最優秀・金賞|| rowspan="2" |『君の名は。』||{{won}}|| rowspan="2" |<ref>{{Cite web|和書|title=過去のゴールデングロス賞 {{!}} 第34回ゴールデングロス賞受賞作品 |url=https://www.zenkoren.or.jp/zenkoren/goldengross/34_goldengross/ |website=全興連 |publisher=全国興行生活衛生同業組合連合会 |access-date=2023-03-30 |language=ja}}</ref> |- |全興連ビックリ賞||{{won}} |- |2019年||第37回||日本映画部門 最優秀・金賞||『天気の子』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=過去のゴールデングロス賞 {{!}} 第37回ゴールデングロス賞受賞作品 |url=https://www.zenkoren.or.jp/zenkoren/goldengross/37_goldengross/ |website=全興連 |publisher=全国興行生活衛生同業組合連合会 |access-date=2023-04-01 |language=ja}}</ref> |- ![[ロサンゼルス映画批評家協会賞]] |2016年||[[第42回ロサンゼルス映画批評家協会賞|第42回]]||[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]||『君の名は。』||{{won}}||<ref>{{Cite web |title=Awards for 2016 - LAFCA |url=http://www.lafca.net/Years/2016.php |website=www.lafca.net |access-date=2023-03-27 |first=Adam Jones- |last=www.adam-makes-websites.com |language=en}}</ref> |- !菊島隆三賞 |2016年||第19回||style="text-align:center"|-||『君の名は。』||{{nom}}||<ref>{{Cite web|和書|title=菊島隆三賞|一般社団法人シナリオ作家協会 |url=http://www.scenario.or.jp/kikushimaselection19.htm |website=www.scenario.or.jp |access-date=2023-03-30}}</ref> |- ! rowspan="6" |[[報知映画賞]] | rowspan="3" |2016年|| rowspan="3" |第41回||作品賞・邦画|| rowspan="3" |『君の名は。』||{{nom}}|| rowspan="2" |<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/hochi_eigashou/nominate.html |title=報知映画賞 ノミネート一覧:芸能:スポーツ報知 |access-date=2023-3-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170516132905/http://www.hochi.co.jp/entertainment/hochi_eigashou/nominate.html |archive-date=2017-5-16 |language=ja}}</ref> |- |監督賞||{{nom}} |- |特別賞||{{won}}||<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=過去の受賞一覧 {{!}} 表彰-報知映画賞 |url=https://www.hochi.co.jp/award/hochi_eigashou/history.html |website=報知新聞社 |access-date=2023-03-30 |language=ja}}</ref> |- | rowspan="2" |2019年|| rowspan="2" |第44回||アニメ作品賞|| rowspan="2" |『天気の子』||{{won}}||<ref name=":2" /> |- |監督賞||{{nom}}||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hochi.co.jp/award/hochi_eigashou/nomination.html |title=報知映画賞ノミネート {{!}} 表彰-報知映画賞 {{!}} 報知新聞社 |access-date=2023-4-2 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20191122035411/https://www.hochi.co.jp/award/hochi_eigashou/nomination.html |archive-date=2019-11-22}}</ref> |- |2022年||第47回||アニメ作品賞||『すずめの戸締まり』||{{nom}}||<ref>{{Cite web|和書|title=報知映画賞ノミネート {{!}} 表彰-報知映画賞 |url=https://www.hochi.co.jp/award/hochi_eigashou/nomination.html |website=報知新聞社 |access-date=2023-04-02 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20221202185514/https://www.hochi.co.jp/award/hochi_eigashou/nomination.html |archive-date=2022-12-2}}</ref> |- ! rowspan="3" |[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞]] | rowspan="3" |2016年|| rowspan="3" |第29回||監督賞|| rowspan="3" |『君の名は。』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=歴代受賞者・作品 - 日刊スポーツ映画大賞 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/award/ns-cinema/history/ |website=nikkansports.com |access-date=2023-03-26 |language=ja}}</ref> |- |作品賞||{{nom}}|| rowspan="2" |<ref>{{Cite web|和書|title=ノミネート一覧 - 日刊スポーツ映画大賞 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/award/ns-cinema/nominate.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-03-30 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20170313121102/http://www.nikkansports.com/m/entertainment/award/ns-cinema/nominate_m.html |archive-date=2017-3-13}}</ref> |- |石原裕次郎賞||{{nom}} |- ![[アジア・フィルム・アワード]] |2017年||第11回||脚本賞||『君の名は。』||{{nom}} |<ref>{{Cite web|和書|title=アジア全域版アカデミー賞 第11回アジア・フィルム・アワード受賞結果発表!! |url=http://2016.tiff-jp.net/news/ja/?p=42702 |website=東京国際映画祭 |access-date=2023-03-31 |language=ja}}</ref> |- ! rowspan="5" |[[アニー賞]] | rowspan="2" |2016年|| rowspan="2" |第44回||[[アニー賞 長編インディペンデント作品賞|長編インディペンデント作品賞]]|| rowspan="2" |『君の名は。』||{{nom}}|| rowspan="2" |<ref>{{Cite web |title=44th Annie Awards |url=https://annieawards.org/legacy/44th-annie-awards |website=annieawards.org |access-date=2023-03-30 |language=en}}</ref> |- |長編作品監督賞||{{nom}} |- | rowspan="3" |2019年|| rowspan="3" |第47回||長編インディペンデント作品賞|| rowspan="3" |『天気の子』||{{nom}}|| rowspan="3" |<ref>{{Cite web |title=47th Annie Awards |url=https://annieawards.org/legacy/47th-annie-awards |website=annieawards.org |access-date=2023-04-01 |language=en}}</ref> |- |長編部門監督賞||{{nom}} |- |長編部門脚本賞||{{nom}} |- ! rowspan="5" |[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]] | rowspan="3" |2017年|| rowspan="3" |第59回||作品賞|| rowspan="3" |『君の名は。』||{{nom}}|| rowspan="2" |<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/20170103-OHT1T50198.html |title=ブルーリボン賞ノミネート決定「湯を沸かすほどの熱い愛」が5部門5ノミネート |access-date=2023-3-27 |publisher=報知新聞社 |date=2017-1-4 |website=スポーツ報知 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20170729172939/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20170103-OHT1T50198.html |archive-date=2017-7-29 |deadlinkdate=2023-3-27}}</ref> |- |監督賞||{{nom}} |- |特別賞||{{won}}||<ref name=":0" /> |- | rowspan="2" |2020年|| rowspan="2" |第62回||作品賞|| rowspan="2" |『天気の子』||{{nom}}|| rowspan="2" |<ref>{{Cite web|和書|title=ブルーリボン賞、「蜜蜂と遠雷」「キングダム」「翔んで埼玉」が最多の4部門4ノミネート |url=https://hochi.news/articles/20200103-OHT1T50214.html |website=スポーツ報知 |date=2020-01-04 |access-date=2023-04-01 |language=ja |publisher=報知新聞社}}</ref> |- |監督賞||{{nom}} |- ![[東京スポーツ映画大賞]] |2017年||第26回||監督賞||『君の名は。』||{{nom}}||<ref>{{Cite web|和書|title=【1ページ目】「第26回東京スポーツ映画大賞」ノミネート決定 2・26授賞式 |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/183966 |website=東スポWEB |date=2017-01-05 |access-date=2023-03-30 |language=ja}}</ref> |- ! rowspan="6" |[[日本アカデミー賞]] | rowspan="4" |2017年|| rowspan="4" |[[第40回日本アカデミー賞|第40回]]||[[日本アカデミー賞アニメーション作品賞|優秀アニメーション作品賞]]|| rowspan="4" |『君の名は。』||{{won}}|| rowspan="4" |<ref>{{Cite web|和書|title=日本アカデミー賞公式サイト |url=https://www.japan-academy-prize.jp/prizes/?t=40 |website=www.japan-academy-prize.jp |access-date=2023-03-27 |language=ja}}</ref> |- |優秀監督賞||{{won}} |- |最優秀脚本賞||{{won}} |- |話題賞・作品部門||{{won}} |- |2020年||[[第43回日本アカデミー賞|第43回]]||最優秀アニメーション作品賞||『天気の子』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=日本アカデミー賞公式サイト |url=https://www.japan-academy-prize.jp/prizes/?t=43 |website=www.japan-academy-prize.jp |access-date=2023-04-01 |language=ja}}</ref> |- |2023年||[[第46回日本アカデミー賞|第46回]]||優秀アニメーション作品賞||『すずめの戸締まり』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=日本アカデミー賞公式サイト |url=https://www.japan-academy-prize.jp/prizes/46.html#title02 |website=日本アカデミー賞協会の運営する公式サイト |access-date=2023-04-02}}</ref> |- ![[ブリュッセル・アニメーション映画祭|ブリュッセル国際アニメーション映画祭]] |2017年||第36回||長編アニメーション観客賞||『君の名は。』||{{won}}||<ref name=":0" /> |- ! rowspan="4" |[[ジャパンエキスポアワード]] | rowspan="4" |2017年|| rowspan="4" style="text-align:center"|-||審査員賞・アニメ部門ダルマドール|| rowspan="4" |『君の名は。』||{{won}}|| rowspan="4" |<ref>{{Cite web |title=Historique des lauréats des Japan Expo Awards - Japan Expo Paris |url=https://www.japan-expo-paris.com/fr/menu/daruma_101037/info/historique-des-laureats-des-japan-expo-awards_10970.htm |website=www.japan-expo-paris.com |access-date=2023-03-28 |language=fr}}</ref> |- |最優秀監督ダルマ賞||{{won}} |- |最優秀脚本ダルマ賞||{{won}} |- |観客賞 最優秀映画・OVAダルマ賞||{{won}} |- ![[東京アニメアワード|東京アニメアワードフェスティバル]] |2017年||style="text-align:center"|-||アニメ オブ ザ イヤー部門 監督・演出賞||『君の名は。』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=これまでの受賞作 |url=https://animefestival.jp/ja/award/aoy/archive/ |website=東京アニメアワードフェスティバル2023 |access-date=2023-03-28 |language=ja}}</ref> |- ![[SUGOI JAPAN Award]] |2017年||第3回||エンタメ小説部門||『小説 君の名は。』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web|和書|url=http://sugoi-japan.jp/sugoi/result.html |title=国民投票 結果発表! {{!}} SUGOI JAPAN Award2017 |access-date=2023-3-30 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20170606150435/http://sugoi-japan.jp/sugoi/result.html |archive-date=2017-6-6 |deadlinkdate=2023-3-30}}</ref> |- ! rowspan="2" |[[カートゥーンズ・オン・ザ・ベイ]] | rowspan="2" |2017年||rowspan="2"style="text-align:center"|-||最優秀監督賞|| rowspan="2" |『君の名は。』||{{won}}||rowspan="2"|<ref name=":0" /> |- |最優秀脚本賞||{{won}} |- ![[日本映画批評家大賞]] |2017年||第26回||アニメーション部門・監督賞||『君の名は。』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=日本映画批評家大賞 第26回受賞作品 |url=https://jmcao.org/news/award/192/ |website=jmcao.org |access-date=2023-03-28 |language=ja}}</ref> |- ![[藤本賞]] |2017年||第36回||藤本賞||『君の名は。』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=藤本賞(第31回~第40回) -映画演劇文化協会 |url=http://www.eibunkyo.jp/fujimoto.html |website=www.eibunkyo.jp |access-date=2023-03-30 |language=ja}}</ref> |- ![[Crunchyrollアニメアワード]] |2018年||第2回||最優秀長編アニメ賞||『君の名は。』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.crunchyroll.com/ja/animeawards/pastwinners/index.html |title=過去の受賞結果 {{!}} The Anime Awards - Crunchyroll |access-date=2023-3-31 |language=ja}}</ref> |- ![[トロント国際映画祭]] |2019年||[[第44回トロント国際映画祭|第44回]]||スペシャル・プレゼンテーション部門||『天気の子』||{{nom|出品}}||<ref name=":0" /> |- ![[アニメーション・イズ・フィルム・フェスティバル]] |2019年||第3回||観客賞||『天気の子』||{{won}}||<ref name=":0" /> |- ![[ユートピアル]] |2019年||第20回||国際長編映画コンペティション部門 観客賞||『天気の子』||{{won}}||<ref name=":0" /> |- ![[TAMA映画賞]] |2019年||第11回||特別賞||『天気の子』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=第11回TAMA映画賞 |url=https://www.tamaeiga.org/2019/award/ |website=第29回映画祭TAMA CINEMA FORUM |access-date=2023-04-01 |language=ja}}</ref> |- ![[野間出版文化賞]] |2019年||第1回||style="text-align:center"|-||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=野間出版文化賞 : 講談社 |url=https://www.kodansha.co.jp/award/noma_s.html |website=www.kodansha.co.jp |access-date=2023-04-02 |archive-date=2020-2-27 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200227132953/https://www.kodansha.co.jp/award/noma_s.html}}</ref> |- ![[ベルリン国際映画祭]] |2023年||第73回||コンペティション部門||『すずめの戸締まり』||{{nom|出品}}||<ref>{{Cite web |title=Suzume |url=https://www.berlinale.de/en/2023/programme/202307156.html |website=www.berlinale.de |access-date=2023-04-02 |language=en}}</ref> |- ![[芸術選奨文部科学大臣賞]] |2023年||第73回||メディア芸術部門||『すずめの戸締まり』||{{won}}||<ref name="bunka20230301" /> |- ![[信毎賞]] |2023年||第30回||第30回記念特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|title=第30回信毎賞、2氏1団体・特別賞に1氏|信濃毎日新聞デジタル 信州・長野県のニュースサイト |url=https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2023060101072 |website=信濃毎日新聞デジタル |date=2023-06-02 |access-date=2023-06-03 |language=ja |publisher=信濃毎日新聞社}}</ref> |} == 関連項目 == * [[川口典孝]] - 株式会社[[コミックス・ウェーブ・フィルム]]代表取締役。新海をデビュー当時からマネージメントおよびプロデュースしてきた。 * [[自主制作アニメ]] * [[天門 (作曲家)|天門]] - 『[[星を追う子ども]]』までの多くの新海作品の音楽を担当している。 * [[RADWIMPS]] - 『[[君の名は。]]』以降の新海作品の音楽を担当している。 * [[新海誠 (小惑星)]] - アメリカ合衆国の天文学者[[ロイ・A・タッカー]]が発見して名前を付けた小惑星<ref>{{Twitter status2|1= gpobserver|2=980647624314245123|3=2018年4月1日|5=2019-04-11}}</ref><ref>{{Cite web|title=55222 Makotoshinkai - JPL Solar System Dynamics|url=https://ssd.jpl.nasa.gov/sbdb.cgi?sstr=55222|publisher=[[NASA]]|accessdate=2019-04-11}}</ref>。 * [[セカイ系]] * [[藤田直哉]]『新海誠論』(2022年、[[作品社]] ISBN 978-4-86182-934-5) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{reflist|2}} == 外部リンク == * {{Twitter|shinkaimakoto|新海誠}} * [https://www.shinkaiworks.com/ Makoto Shinkai Works] - 新海誠作品のポータルサイト。 * {{Wayback|url=https://web.archive.org/web/20211217073500/http://shinkaimakoto.jp/|title=Other voices -遠い声-|date=20211217073500}} - 新海誠の個人サイト * {{Wayback|url=https://web.archive.org/web/20180212035829/http://www2.odn.ne.jp:80/~ccs50140/|title=Other voices -遠い声-|date=20180212035829}} - 新海誠の旧・個人サイト {{新海誠監督作品}} {{Navboxes|title=受賞|list= {{日刊スポーツ映画大賞監督賞}} {{日本映画批評家大賞アニメーション部門監督賞}} {{日本アカデミー賞最優秀脚本賞}}}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しんかい まこと}} [[Category:新海誠|*]] [[Category:日本の男性アニメーター]] [[Category:日本の映画監督]] [[Category:日本のアニメーション監督]] [[Category:日本の小説家]] [[Category:日本ファルコムの人物]] [[Category:コミックス・ウェーブ・フィルム|人しんかい まこと]] [[Category:minori|人しんかい まこと]] [[Category:みんなのうたの映像制作者]] [[Category:中央大学出身の人物]] [[Category:長野県野沢北高等学校出身の人物]] [[Category:長野県出身の人物]] [[Category:1973年生]] [[Category:存命人物]]
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出羽国
出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。現在の山形県と秋田県。上国。 大和朝廷は7世紀半ばから9世紀初めにかけて、蝦夷の住む土地に郡を設置して支配版図を拡大する政策をとった。そのために蝦夷の地に城柵を設けた。先ずは木ノ芽峠が西端で弥彦山が北端だった越国を拡大して、柵を建てた。大化3年(647年)に渟足柵(ぬたりのき:新潟市)、大化4年(648年)に磐舟柵(いわふねのき:村上市)、斉明天皇4年(658年)に都岐沙羅柵(つきさらのき/ときさらのき:アイヌ語の地名の別称か、所在地不明)であり、これらのうち渟足柵と磐舟柵は現在の下越地方に当たる。 7世紀後半に越国から磐舟・渟足の2郡が分離されて越後国が設置された。その後は北方に勢力を拡大し、和銅元年9月28日(708年11月14日)に出羽郡を設置し、前後して出羽柵(庄内地方)を築造した。 和銅5年9月23日(712年10月27日)に出羽郡は出羽国に昇格し、同年10月1日に陸奥国から置賜郡と最上郡を譲られて国としての体制が整った。その後、東国・北陸などの諸国から800戸以上の柵戸を移住させた。さらにその後も柵戸や公民を中心とした郡制施行地を拡大していった。 出羽国成立当初のランクは不明であるが、律令制の下で上国とされ、蝦夷と接する重要な位置にあった。隣の陸奥国もまた蝦夷に接していたが、両国を統括する政治的・軍事的中心は主に陸奥側に置かれた。例えば、両国を統括する按察使は陸奥国守が兼任する慣行であった。陸奥国と並び黄金を産した。 以後は、陸奥国と並ぶ辺境の国となり、天平5年(733年)頃には雄勝郡を設置し、また同年12月26日に出羽柵が秋田村高清水岡(秋田市)に移された。その後雄勝郡は一旦放棄されたと見られているが、天平宝字3年(759年)には雄勝城の設置に合わせ、改めて雄勝郡・平鹿郡が置かれた。天平宝字4年(760年)頃、出羽柵は秋田城へと改変された。以後も俘囚の反乱が相次いだため、宝亀11年(780年)に秋田城の放棄が検討されたが、次官国司である出羽介が秋田城介として常置されることとなった。この頃、国府機能が城輪柵(きのわき:山形県酒田市)に移された(#国府)。陸奥国府には鎮守府が置かれ、平安時代後期以降に秋田城介が空位になると、鎮守将軍(後に鎮守府将軍)が両国を軍事的に統括した。 延暦23年(804年)、蝦夷の反乱が激しくなり、秋田城は停廃されて秋田郡となった。ただし機能が完全に停止されることはなく、陸奥側の北部4郡が放棄されたのと異なり、俘囚の主とされる清原氏は在庁官人として力を蓄えたと見られている。8世紀に河辺郡が置かれ、山本郡(後の仙北郡)が平鹿郡から分離するなど、徐々に領域を北へ伸ばした。仁和2年(886年)には最上郡から村山郡が分離し、その後延喜年間までに出羽郡から飽海郡・田川郡が分離したと見られている。最終的に、出羽国が管理したのは11郡58郷であった。なお、平安時代まで出羽は「いでは」と読んでいた。 天長7年(830年)、嘉祥3年(850年)には大地震に見舞われた。830年の天長地震は『日本後紀』に秋田城近くの大きな川の水が無くなったことが、850年の出羽地震は『日本三代実録』に津波が城輪柵の近く6里にまで迫ったことが記されている。 秋田郡以北の建郡の状況はよく分かっていない。平安時代初期までは、蝦夷を出羽側の「蝦狄」と陸奥側の「蝦夷」に分けて記録されており、後に陸奥国となる紫波郡が出羽国管轄の「志波村」とされているなど、陸奥との境界は不明瞭であった。平安時代末期には奥州藤原氏の支配を通じて、出羽国府の直接管轄地よりも北が陸奥国として整理されたと見られている。この時期に陸奥国比内郡(戦国時代以降は秋田郡北部)、鎌倉時代初期には河北郡(当初は陸奥国か出羽国か不明、後に出羽国檜山郡を経て江戸時代以降は山本郡)が置かれ、これらは中世末期までに出羽国の領域に入ったとする見解がある。 清原氏が後三年の役で滅亡した後、これに代わって奥州藤原氏が陸奥・出羽の支配者になったと一般的には言われているが、近年の研究では、この支配は陸奥北半分では一円的な領主的立場であるが、陸奥南部と出羽においては押領使や鎮守府将軍としての軍事指揮権に伴う在地領主の系列化と、荘園の管理権及び鳥羽天皇御願所としての中尊寺を介しての寺領支配の複合的かつ間接的支配に止まったのではないかと指摘されている。 奥州藤原氏が奥州合戦で滅亡し、残党が出羽で起こした大河兼任の乱も鎮圧されると、頼朝は出羽国に橘氏(小鹿島氏:秋田県男鹿市)、平賀氏(平鹿郡)、小野寺氏(雄勝郡)、武藤氏(大宝寺氏:庄内地方)、大江氏(長井氏:置賜郡、寒河江氏:村山郡寒河江荘)、中条氏(村山郡小田島荘)、二階堂氏(最上郡成生荘)、安達氏(最上郡大曾根荘)等の御家人を地頭として配置した。しかしそれ以降も、由利地方以南はしばらく在地領主層(由利氏等)が在庁官人としての権益を保っていたことが『吾妻鏡』に見える。葛西清重ら葛西氏が下総国葛西郡から陸奥国へ移り平泉の統治を任され、奥州惣奉行職に就任して以後は米代川流域も葛西氏の勢力範囲となった。 中世前半を通じて北部では公領制、南部では荘園公領制が貫徹され、基本的には鎌倉幕府の統制の元、国府留守所は維持されていたが、南北朝時代を境に領主間の争いが活発化した。津軽地方から蝦夷地を経て葛西氏に取って代わった檜山安東氏、橘氏に代わり湊安東氏、陸奥から移住した戸沢氏(仙北郡)、小野寺氏(雄勝郡)、大宝寺氏(庄内)、寒河江大江氏(寒河江荘)、陸奥大崎氏の庶流である最上氏(最上郡)、最上氏の更に庶流である天童氏(最上郡・村山郡)、陸奥から進出した伊達氏(置賜郡)などが支配した。 出羽国南部では、伊達稙宗が最上義定との戦いに勝利すると妹を嫁がせ優位に和議を結び、義定が継嗣を残さず死去すると妹を介して影響力を強めた。最上の諸将が反発すると最上領に侵攻し、最上氏の傀儡化に成功するなど村山地方全域にまで影響力を広げた。大宝寺氏は庄内地方で勢力を広げ全盛期を築き、安東氏は秋田県北部、小野寺氏は仙北から最上地方への進出を果たした。しかし、伊達氏において天文の乱が発生すると最上氏が介入して独立を果たし、最上氏で天正最上の乱が起こると逆に伊達氏が介入し激しく争った。両氏の間で和議が成立すると、最上氏は村山地方・最上地方・庄内地方に順次勢力を拡大し、在地勢力を駆逐・懐柔していった。最上氏と大宝寺氏が争うと、大宝寺氏は越後の上杉氏を頼ったが、家臣の謀反により庄内地方は最上氏の支配下に入る。その後、大宝寺義勝を奉じた本庄繁長により奪取されることになる(十五里ヶ原の戦い)。この戦いは惣無事令違反であったが、上杉氏が豊臣政権内で有力な立場であったことから、奥州仕置で上杉氏の領地となった。この奥州仕置によって伊達氏は置賜地方を失い、代わりに蒲生氏が入った。蒲生氏郷が早世した後、上杉家臣の直江兼続が置賜地方を支配し、関ヶ原の戦いを迎えた。 一方、出羽北部では安東氏(戦国末期に秋田氏へ改姓)が下国家と湊家を統合して勢力を強めたが、安東愛季が死去すると後継者争いが発生し(第三次湊騒動)、これが惣無事令違反と見做され大幅に領地を減らされた。小野寺氏、戸沢氏は所領を安堵されたが、仙北・由利地方で仙北一揆が発生し小野寺氏は減封された。 会津征伐のため北上した徳川家康は下野小山で石田三成挙兵の報に接し、反転西上を開始する。山形に集結していた東軍に属する東北地方の領主らも、自領へ引き上げてしまう。孤立を恐れた最上氏は上杉氏との和議を模索するが、上杉領庄内への侵攻計画が露呈し、上杉氏は最上領への侵攻を開始する(慶長出羽合戦)。直江兼続率いる上杉軍は最上氏の拠点を多数落とすが、長谷堂城攻略中に関ヶ原での西軍敗北の報に接し退却を開始、最上義光自らによる追撃戦が展開される。上杉氏を置賜地方へ駆逐した最上氏は、村山地方・最上地方の拠点を取り戻し、翌年3月までに奥州仕置以降上杉領となっていた庄内地方の奪還に成功する。この結果、最上氏は出羽国に57万石ともされる領地を得る一方、最上氏の讒訴を受けた秋田氏は転封、西軍に付いた小野寺氏は改易された。 なお、陸奥国の伊達氏が徳川家康と「百万石のお墨付き」とされる約定を交わし、旧領である長井(置賜地方)他7郡の回復を望んだが、南部領内での扇動(和賀合戦)と合戦の直前に伊達氏と上杉氏が和議を結んだことが家康の疑念を生み、約定は果たされなかった。 出羽北部では鎌倉時代以降土着した小領主を常陸に転封し、代わりに佐竹氏(久保田藩)が入った。1622年に最上氏が改易された後には酒井氏(庄内藩)・鳥居氏(山形藩)・戸沢氏(新庄藩)・能見松平家(上山藩)・六郷氏(本荘藩)などが入ったが、山形藩は頻繁に藩主家が入れ替わった。山形藩の領地は次第に天領に組み込まれ、尾花沢・長瀞・寒河江・柴橋などに代官陣屋が置かれた。 国内には土崎、酒田という当時において東西回り航路の重要な港湾大都市が存在していたが庄内藩や久保田藩の財政はかなり悪かった。 戊辰戦争時、出羽諸藩は奥羽越列藩同盟に加わり明治政府と対抗したが、久保田藩を中心に北出羽諸藩が離反すると、庄内藩・盛岡藩が攻め込み秋田戦争を引き起こした。久保田城付近まで攻め込むが、米沢藩・上山藩・仙台藩が降伏したことで中心勢力である庄内藩・盛岡藩も撤退し、明治政府に降伏した。 明治元年12月7日(1869年1月19日)、戊辰戦争に敗れた奥羽越列藩同盟の諸藩に対する処分が行われた。同日、出羽国は、現在の山形県にほぼ相当する羽前国と、秋田県にほぼ相当する羽後国に2分割された(山形県北西部の飽海郡は羽後国であることと、秋田県北東部の鹿角郡は陸中国であることが県域と異なる)。この時、陸奥国も5分割された。 国府は、『和名抄』(承平年間(931年 - 938年)編纂)では平鹿郡、『拾芥抄』(鎌倉時代から南北朝時代)では「平鹿郡、出羽郡、両方に府」と記載がある。 出羽国が成立当初の国府は出羽柵(庄内地方にあったとされる)に置かれたと考えられているが、所在は不明である。 出羽柵は、天平5年(733年)に秋田高清水岡(現在の秋田城跡)に移った。その際に国府機能も秋田に移転したかどうかについては諸説あるが、発掘調査によれば8世紀後半に秋田へ国府が移されていたと推測される。その後秋田城周辺の蝦夷の反乱等により国府は再移転を余儀なくされ、その移転先についても河辺郡説(『日本後紀』の河辺府を国府と見る説)、平鹿郡説(『和名抄』に「出羽国、国府在平鹿郡」とある等による説)、出羽郡(後に飽海郡)説(考古発掘の結果等による説)等の争いがあるが、最終的に庄内平野の城輪柵跡に移ったことにはほぼ異論はない。さらに『日本三代実録』仁和3年5月20日(887年6月15日)の条にも、国府は「出羽郡井口地」と表記されており、この井口国府とは酒田市東北部にある国の史跡城輪柵である、とする見解が有力である。 蝦夷との境界付近には天平宝字3年(759年)に雄勝城も設置され、以後庄内平野の国府、秋田平野の秋田城、仙北平鹿平野の雄勝城の一府二城体制が続いた。 雄勝城の所在地は諸説ある。秋田城については発掘調査によると10世紀中頃までの遺跡しか確認されていないが、文献上からは秋田城は12世紀頃まで留守所があったことが分かっている。また、国府留守所も14世紀頃までは存在しているようであるが、雄勝城はいつの頃からか停廃したとみられる。 国分尼寺は現存しない。平安時代の国分寺は城輪柵の外郭東辺から1.2キロ真東にある堂の前遺跡を、国分尼寺は堂の前遺跡よりも4キロ南にある高阿弥陀遺跡を比定する説が有力である。 安国寺は足利尊氏が全国に建立した寺院である。利生塔は現存しない。 ●は分国前に廃止。 内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。 出羽は守護不設置の国だったため、南北朝時代以降鎮守府将軍(南朝)・奥州総大将(北朝)・奥州羽州管領・鎌倉公方(篠川御所、稲村御所)などが軍事権を行使した。南北朝時代初期に南朝側が在地領主に多くの権限を与えたため、京都扶持衆などを生む原因となった。
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"tag": "p", "text": "●は分国前に廃止。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "出羽は守護不設置の国だったため、南北朝時代以降鎮守府将軍(南朝)・奥州総大将(北朝)・奥州羽州管領・鎌倉公方(篠川御所、稲村御所)などが軍事権を行使した。南北朝時代初期に南朝側が在地領主に多くの権限を与えたため、京都扶持衆などを生む原因となった。", "title": "人物" } ]
出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。現在の山形県と秋田県。上国。
{{Redirect|出羽'''」、「'''出羽守|かつて運行されていた列車の「出羽」|あけぼの (列車)|俗語の「出羽守」|出羽守 (俗語)}} {{基礎情報 令制国 |国名 = 出羽国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|出羽国}} |別称 = 羽州(うしゅう)<ref group="注釈">[[出雲国]]との重複を避けるため2文字目を用いる。</ref><br/>両羽(りょうう)<ref group="注釈">[[明治維新]]後、[[羽前国]]と[[羽後国]]に分割されたため。 </ref> |所属 = [[東山道]] |領域 = [[山形県]]、[[秋田県]](北東部除く) |国力 = [[上国]] |距離 = [[遠国]] |郡 = 11郡71郷 |国府 = 1.(推定)山形県庄内地方([[出羽柵]])<br/>2.秋田県[[秋田市]]([[秋田城|秋田城跡]])<br/>3.山形県[[酒田市]]([[城輪柵跡]]) |国分寺 = (推定)山形県酒田市([[堂の前遺跡]])<br/>(推定)山形県[[鶴岡市]] |国分尼寺 = (未詳) |一宮 = [[鳥海山大物忌神社]](山形県[[飽海郡]][[遊佐町]]) }} '''出羽国'''(でわのくに)は、かつて存在した[[令制国]]の一つ。[[東山道]]に属する。現在の[[山形県]]と[[秋田県]]。[[上国]]。 == 沿革 == === 成立まで === 大和朝廷は[[7世紀]]半ばから[[9世紀]]初めにかけて、[[蝦夷]]の住む土地に[[郡]]を設置して支配版図を拡大する政策をとった。そのために蝦夷の地に[[城柵]]を設けた。先ずは[[木ノ芽峠]]が西端で[[弥彦山]]が北端だった[[越国]]を拡大して、柵を建てた。[[大化]]3年([[647年]])に[[渟足柵]](ぬたりのき:新潟市)<ref>造渟足柵置柵戸老人等相謂之曰數年鼠向東行此造柵之兆乎『日本書紀』</ref>、大化4年([[648年]])に[[磐舟柵]](いわふねのき:村上市)<ref>治磐舟柵以備蝦夷遂選越與信濃之民始置柵戸『日本書紀』</ref>、[[斉明天皇]]4年([[658年]])に[[都岐沙羅柵]](つきさらのき/ときさらのき:[[アイヌ語]]の地名の別称か、所在地不明)であり、これらのうち渟足柵と磐舟柵は現在の[[下越地方]]に当たる。 7世紀後半に越国から[[岩船郡|磐舟]]・[[沼垂郡|渟足]]の2郡が分離されて[[越後国]]が設置された。その後は北方に勢力を拡大し、[[和銅]]元年[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]<ref>「続日本記」『角川日本地名大辞典(旧地名編)』出羽郡(古代~中世)</ref>([[708年]]11月14日)に[[出羽郡]]を設置し、前後して[[出羽柵]]([[庄内地方]])を築造した。 === 出羽国の成立 === 和銅5年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]<ref>『角川日本地名大辞典(旧地名編)』出羽国府(古代)</ref>([[712年]]10月27日)に出羽郡は'''出羽国'''に昇格し、同年10月1日に[[陸奥国]]から[[置賜郡]]と[[最上郡]]を譲られて国としての体制が整った<ref>『[[続日本紀]]』当該年月条。しかし同書の[[霊亀]]2年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]([[716年]]10月12日)条にも陸奥国[[置賜郡|置賜]][[最上郡|最上]]二郡を出羽国に隷せしむとある。霊亀2年を誤りとするか、決定時と実施時に分ける説(新野直吉『古代東北の開拓』87-88頁、91-92頁。林陸朗『完訳注釈続日本紀』第一分冊注釈40頁)が有力だが、和銅5年のほうを誤りとする説もある(高橋崇『律令国家東北史の研究』18-19頁)。</ref>。その後、[[東国]]・[[北陸]]などの諸国から800戸以上の[[柵戸]]を移住させた。さらにその後も柵戸や公民<ref group="注釈">[[租]][[庸]][[調]]・兵役・[[雑徭]]などを負担する人々のこと。</ref>を中心とした郡制施行地を拡大していった。 出羽国成立当初のランクは不明であるが、[[律令制]]の下で上国<ref>『[[延喜式]]』。上国は、国司の定員は守・介・掾(じょう)・目(さかん)の四等官が各1人、史生(ししょう)3人の計7人である。いずれも中央から派遣された。任務としては、国内の行・財政、司法・検察・軍事・宗教などで、特別な任務としては、蝦夷をもてなし懐柔し、蝦夷集団の支配・服属関係を維持し拡大する饗給、蝦夷集団の動静を常に探る斥候、時に応じて軍事力で蝦夷集団を制圧する征討が付け加わった。</ref>とされ、蝦夷と接する重要な位置にあった。隣の[[陸奥国]]もまた蝦夷に接していたが、両国を統括する政治的・軍事的中心は主に陸奥側に置かれた。例えば、両国を統括する[[按察使]]は陸奥国守が兼任する慣行であった。陸奥国と並び黄金を産した。 === 北方への拡大と俘囚の反乱 === 以後は、[[陸奥国]]と並ぶ辺境の国となり、[[天平]]5年([[733年]])頃には[[雄勝郡]]を設置し、また同年12月26日に出羽柵が[[土崎港|秋田村]]高清水岡([[秋田市]])に移された。その後雄勝郡は一旦放棄されたと見られているが、[[天平宝字]]3年([[759年]])には[[雄勝城]]の設置に合わせ、改めて雄勝郡・[[平鹿郡]]が置かれた。[[天平宝字]]4年([[760年]])頃、出羽柵は[[秋田城]]へと改変された。以後も俘囚の反乱が相次いだため、[[宝亀]]11年([[780年]])に秋田城の放棄が検討されたが、次官国司である出羽介が[[秋田城介]]として常置されることとなった。この頃、国府機能が[[城輪柵]](きのわき:山形県[[酒田市]])に移された([[#国府]])。陸奥国府には[[鎮守府 (古代)|鎮守府]]が置かれ、平安時代後期以降に[[秋田城介]]が空位になると、鎮守将軍(後に[[鎮守府将軍]])が両国を軍事的に統括した。 === 平安時代前期 === [[延暦]]23年([[804年]])、[[蝦夷]]の反乱が激しくなり、秋田城は停廃されて[[秋田郡]]となった。ただし機能が完全に停止されることはなく、陸奥側の北部4郡が放棄されたのと異なり、[[俘囚]]の主とされる[[出羽清原氏|清原氏]]は[[在庁官人]]として力を蓄えたと見られている。[[8世紀]]に[[河辺郡]]が置かれ、[[山本郡 (出羽国)|山本郡]](後の[[仙北郡]])が平鹿郡から分離するなど、徐々に領域を北へ伸ばした。[[仁和]]2年([[886年]])には最上郡から[[村山郡]]が分離し、その後[[延喜]]年間までに出羽郡から[[飽海郡]]・[[田川郡 (羽前国)|田川郡]]が分離したと見られている。最終的に、出羽国が管理したのは11郡58郷であった<ref>高山寺本『[[倭名類聚抄]]』</ref>。なお、[[平安時代]]まで出羽は「'''いでは'''」と読んでいた。 天長7年([[830年]])、嘉祥3年([[850年]])には大[[地震]]に見舞われた。830年の[[天長地震]]は『[[日本後紀]]』に秋田城近くの大きな川の水が無くなったことが、850年の[[出羽地震]]は『[[日本三代実録]]』に[[津波]]が城輪柵の近く6里にまで迫ったことが記されている<ref>「貞観地震からの復興」『日本人は大災害をどう乗り越えてきたのか』p102、文化庁編、2017年6月25日、朝日新聞出版社、{{全国書誌番号|22919396}}</ref>。 === 陸奥国と出羽国の境界 === 秋田郡以北の建郡の状況はよく分かっていない。平安時代初期までは、[[蝦夷]]を出羽側の「蝦狄」と陸奥側の「蝦夷」に分けて記録されており、後に陸奥国となる[[紫波郡]]が出羽国管轄の「志波村」とされているなど、陸奥との境界は不明瞭であった。平安時代末期には[[奥州藤原氏]]の支配を通じて、出羽国府の直接管轄地よりも北が陸奥国として整理されたと見られている。この時期に陸奥国[[比内郡]](戦国時代以降は秋田郡北部)、[[鎌倉時代]]初期には[[河北郡 (出羽国)|河北郡]](当初は陸奥国か出羽国か不明、後に出羽国[[檜山郡 (出羽国)|檜山郡]]を経て江戸時代以降は山本郡)が置かれ、これらは中世末期までに出羽国の領域に入ったとする見解がある。 === 奥州藤原氏 === 清原氏が[[後三年の役]]で滅亡した後、これに代わって奥州藤原氏が陸奥・出羽の支配者になったと一般的には言われているが、近年の研究では、この支配は陸奥北半分では一円的な領主的立場であるが、陸奥南部と出羽においては[[押領使]]や[[鎮守府将軍]]としての軍事指揮権に伴う在地領主の系列化と、荘園の管理権<ref group="注釈">[[久安]]5年([[1149年]])から[[仁平]]3年([[1153年]])にかけて[[奥州藤原氏]]と[[摂家|藤原摂関家]]は年貢増徴をめぐって争っている</ref>及び[[鳥羽天皇]]御願所としての[[中尊寺]]を介しての寺領支配<ref group="注釈">藤原摂関家との年貢増徴をめぐる争いの後、摂関家[[荘園 (日本)|]]([[寒河江荘]])寺としての性格をもつ[[慈恩寺 (寒河江市)|慈恩寺]]の再建の奉行職を[[平忠盛]]が務めていることから寺領支配には疑問が残る。</ref>の複合的かつ間接的支配に止まったのではないかと指摘されている。 === 鎌倉時代 === 奥州藤原氏が[[奥州合戦]]で滅亡し、残党が出羽で起こした[[大河兼任の乱]]も鎮圧されると、頼朝は出羽国に[[橘氏]]([[小鹿島氏]]:秋田県男鹿市)、[[平賀氏]]([[平鹿郡]])、[[小野寺氏]]([[雄勝郡]])、[[武藤氏]]([[大宝寺氏]]:[[庄内地方]])、[[大江氏]]([[長井氏]]:[[置賜郡]]、[[寒河江氏]]:村山郡[[寒河江荘]])、[[中条氏]](村山郡[[小田島荘]])、[[二階堂氏]](最上郡[[成生荘]])、[[安達氏]](最上郡[[大曾根荘]])等の[[御家人]]を地頭として配置した。しかしそれ以降も、由利地方以南はしばらく在地領主層([[由利氏]]等)が在庁官人としての権益を保っていたことが『[[吾妻鏡]]』に見える。[[葛西清重]]ら[[葛西氏]]が[[下総国]][[葛飾郡|葛西郡]]から陸奥国へ移り平泉の統治を任され、[[奥州惣奉行]]職に就任して以後は[[米代川]]流域も葛西氏の勢力範囲となった。 === 南北朝時代・室町時代 === 中世前半を通じて北部では公領制、南部では[[荘園公領制]]が貫徹され、基本的には[[鎌倉幕府]]の統制の元、国府留守所は維持されていたが、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]を境に領主間の争いが活発化した。津軽地方から蝦夷地を経て葛西氏に取って代わった檜山[[安東氏]]、橘氏に代わり湊安東氏、陸奥から移住した[[戸沢氏]](仙北郡)、小野寺氏(雄勝郡)、大宝寺氏(庄内)、寒河江大江氏(寒河江荘)、陸奥[[大崎氏]]の庶流である[[最上氏]](最上郡)、最上氏の更に庶流である[[天童氏]](最上郡・村山郡)、陸奥から進出した[[伊達氏]](置賜郡)などが支配した。 === 戦国時代 === 出羽国南部では、[[伊達稙宗]]が[[最上義定]]との戦いに勝利すると妹を嫁がせ優位に和議を結び、義定が継嗣を残さず死去すると妹を介して影響力を強めた。最上の諸将が反発すると最上領に侵攻し、最上氏の傀儡化に成功するなど村山地方全域にまで影響力を広げた。大宝寺氏は庄内地方で勢力を広げ全盛期を築き、安東氏は秋田県北部、小野寺氏は仙北から最上地方への進出を果たした。しかし、伊達氏において[[天文の乱]]が発生すると最上氏が介入して独立を果たし、最上氏で[[天正最上の乱]]が起こると逆に伊達氏が介入し激しく争った。両氏の間で和議が成立すると、最上氏は村山地方・最上地方・庄内地方に順次勢力を拡大し、在地勢力を駆逐・懐柔していった。最上氏と大宝寺氏が争うと、大宝寺氏は越後の[[上杉氏]]を頼ったが、家臣の謀反により庄内地方は最上氏の支配下に入る。その後、[[大宝寺義勝]]を奉じた[[本庄繁長]]により奪取されることになる([[十五里ヶ原の戦い]])。この戦いは[[惣無事令]]違反であったが、上杉氏が豊臣政権内で有力な立場であったことから、[[奥州仕置]]で上杉氏の領地となった。この奥州仕置によって伊達氏は置賜地方を失い、代わりに[[蒲生氏]]が入った。[[蒲生氏郷]]が早世した後、上杉家臣の[[直江兼続]]が置賜地方を支配し、[[関ヶ原の戦い]]を迎えた。 一方、出羽北部では安東氏(戦国末期に[[秋田氏]]へ改姓)が下国家と湊家を統合して勢力を強めたが、[[安東愛季]]が死去すると後継者争いが発生し([[湊騒動#第三次|第三次湊騒動]])、これが惣無事令違反と見做され大幅に領地を減らされた。小野寺氏、戸沢氏は所領を安堵されたが、仙北・由利地方で[[仙北一揆]]が発生し小野寺氏は減封された。 === 慶長出羽合戦 === [[会津征伐]]のため北上した[[徳川家康]]は下野小山で[[石田三成]]挙兵の報に接し、反転西上を開始する。[[山形城|山形]]に集結していた東軍に属する東北地方の領主らも、自領へ引き上げてしまう。孤立を恐れた最上氏は上杉氏との和議を模索するが、上杉領庄内への侵攻計画が露呈し、上杉氏は最上領への侵攻を開始する([[慶長出羽合戦]])。直江兼続率いる上杉軍は最上氏の拠点を多数落とすが、[[長谷堂城]]攻略中に関ヶ原での西軍敗北の報に接し退却を開始、[[最上義光]]自らによる追撃戦が展開される。上杉氏を置賜地方へ駆逐した最上氏は、村山地方・最上地方の拠点を取り戻し、翌年3月までに奥州仕置以降上杉領となっていた庄内地方の奪還に成功する。この結果、最上氏は出羽国に57万石ともされる領地を得る一方、最上氏の讒訴を受けた秋田氏は転封、西軍に付いた小野寺氏は改易された。 なお、陸奥国の伊達氏が徳川家康と「百万石のお墨付き」とされる約定を交わし、旧領である長井(置賜地方)他7郡の回復を望んだが、南部領内での扇動([[和賀合戦]])と合戦の直前に伊達氏と上杉氏が和議を結んだことが家康の疑念を生み、約定は果たされなかった。 === 江戸時代 === 出羽北部では鎌倉時代以降土着した小領主を常陸に転封し、代わりに[[佐竹氏]]([[久保田藩]])が入った。[[1622年]]に最上氏が改易された後には[[酒井氏]]([[庄内藩]])・[[鳥居氏]]([[山形藩]])・[[戸沢氏]]([[新庄藩]])・[[能見松平家]]([[上山藩]])・[[六郷氏]]([[本荘藩]])などが入ったが、山形藩は頻繁に藩主家が入れ替わった。山形藩の領地は次第に天領に組み込まれ、尾花沢・長瀞・寒河江・柴橋などに代官[[陣屋]]が置かれた。 国内には[[土崎港|土崎]]、[[酒田市|酒田]]という当時において東西回り航路の重要な港湾大都市が存在していたが庄内藩や久保田藩の財政はかなり悪かった。 [[戊辰戦争]]時、出羽諸藩は[[奥羽越列藩同盟]]に加わり明治政府と対抗したが、久保田藩を中心に北出羽諸藩が離反すると、庄内藩・盛岡藩が攻め込み[[秋田戦争]]を引き起こした。[[久保田城]]付近まで攻め込むが、米沢藩・上山藩・仙台藩が降伏したことで中心勢力である庄内藩・盛岡藩も撤退し、明治政府に降伏した。 === 明治維新 === {| class="floatright" || {{File clip | Old Japan Uzen.svg | width = 120 | 0 | 0 | 55 | 75 | w = 425 | h = 432 | 羽前国}} || {{File clip | Old Japan Ugo.svg | width = 120 | 0 | 0 | 55 | 75 | w = 425 | h = 432 | 羽後国}} |} [[明治]]元年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]([[1869年]][[1月19日]])、[[戊辰戦争]]に敗れた[[奥羽越列藩同盟]]の諸藩に対する処分が行われた。同日、出羽国は、現在の山形県にほぼ相当する[[羽前国]]と、秋田県にほぼ相当する[[羽後国]]に2分割された(山形県北西部の飽海郡は羽後国であることと、秋田県北東部の鹿角郡は[[陸中国]]であることが県域と異なる)。この時、[[陸奥国]]も5分割された。 == 国内の施設 == === 国府 === 国府は、『[[和名抄]]』([[承平 (日本)|承平]]年間([[931年]] - [[938年]])編纂)では平鹿郡、『[[拾芥抄]]』([[鎌倉時代]]から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]])では「平鹿郡、出羽郡、両方に府」と記載がある。 出羽国が成立当初の国府は[[出羽柵]]([[庄内地方]]にあったとされる)に置かれたと考えられているが、所在は不明である。 出羽柵は、天平5年([[733年]])に秋田高清水岡(現在の[[秋田城]]跡)に移った。その際に国府機能も秋田に移転したかどうかについては諸説あるが、発掘調査によれば8世紀後半に秋田へ国府が移されていたと推測される。その後秋田城周辺の蝦夷の反乱等により国府は再移転を余儀なくされ、その移転先についても河辺郡説(『[[日本後紀]]』の[[河辺府]]を国府と見る説)、平鹿郡説(『和名抄』に「出羽国、国府在平鹿郡」とある等による説)、出羽郡(後に飽海郡)説(考古発掘の結果等による説)等の争いがあるが、最終的に庄内平野の[[城輪柵]]跡に移ったことにはほぼ異論はない。さらに『日本三代実録』[[仁和]]3年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]<ref>『角川日本地名大辞典(旧地名編)』井出郷(古代)</ref>([[887年]]6月15日)の条にも、国府は「出羽郡井口地」と表記されており、この井口国府とは酒田市東北部にある国の史跡城輪柵である、とする見解が有力である<ref>誉田 2003、 p.40</ref>。 蝦夷との境界付近には天平宝字3年([[759年]])に[[雄勝城]]も設置され、以後庄内平野の国府、秋田平野の秋田城、仙北平鹿平野の雄勝城の一府二城体制が続いた。 雄勝城の所在地は諸説ある。秋田城については発掘調査によると[[10世紀]]中頃までの遺跡しか確認されていないが、文献上からは秋田城は[[12世紀]]頃まで留守所があったことが分かっている。また、国府留守所も[[14世紀]]頃までは存在しているようであるが、雄勝城はいつの頃からか停廃したとみられる。 === 寺院 === ==== 国分寺 ==== * 護国山柏山寺 - 山形市薬師町。天台宗で本尊は薬師如来。 国分尼寺は現存しない。[[平安時代]]の[[国分寺]]は[[城輪柵]]の外郭東辺から1.2キロ真東にある[[堂の前遺跡]]を、[[国分尼寺]]は堂の前遺跡よりも4キロ南にある[[高阿弥陀遺跡]]を比定する説が有力である<ref>誉田 2003、p.42</ref>。 ==== 定額寺 ==== {{See also|定額寺}} * 法隆寺:[[斉衡]]3年3月9日壬子([[856年]]4月9日)。 * 観音寺:[[貞観 (日本)|貞観]]7年5月8日戊子([[865年]]6月5日)。 * 瑜伽寺:貞観8年9月8日庚戌([[866年]]6月23日)。 * 長安寺:貞観9年10月13日戊寅([[867年]]11月12日)。 * 霊山寺:指定年不詳12月29日甲午。出羽国最上郡。 * 安隆寺:貞観12年12月8日乙酉([[870年]]1月13日)。出羽国山本郡。 === 神社 === ; [[延喜式内社]] : 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す大社2座2社・小社7座7社の計9座9社が記載されている。大社2社は、いずれも[[名神大社]]である。[[出羽国の式内社一覧]]を参照。 <!--;後の羽後国1--> * [[飽海郡]] 大物忌神社 (現 [[鳥海山大物忌神社]]、山形県[[飽海郡]][[遊佐町]]) - '''[[名神大社]]'''。 *飽海郡 [[小物忌神社]] (山形県酒田市山楯) *飽海郡 [[月山神社]] (山形県[[東田川郡]][[庄内町]]立谷沢) - '''名神大社'''。[[出羽三山]]の一。 <!--;後の羽前国--> *[[田川郡 (羽前国)|田川郡]] [[遠賀神社]] - 山形県[[鶴岡市]]井岡、同市遠賀原、同市外内島に論社3社。 *田川郡 [[由豆佐売神社]] (山形県鶴岡市湯田川) *田川郡 伊弖波神社 (現 [[出羽神社]]、山形県鶴岡市羽黒町手向) - [[出羽三山]]の一。 <!--;後の羽後国2--> *[[平鹿郡]] [[塩湯彦神社]] (秋田県[[横手市]]山内大満川) *平鹿郡 波宇志別神社 (現 [[保呂羽山波宇志別神社]]、秋田県横手市[[大森町 (秋田県)|大森町]]八沢木) *[[山本郡 (出羽国)|山本郡]] [[副川神社]] - [[副川神社]](秋田県[[南秋田郡]][[八郎潟町]]浦大町)または[[嶽六所神社]](秋田県[[大仙市]][[神宮寺 (大仙市)|神宮寺]])、八幡神社(秋田県大仙市神宮寺。嶽六所神社境外社)、[[添川神明社]](秋田県秋田市[[添川]])に比定。 ; [[総社]]・[[一宮]]以下 * 総社 ** 総社神社 (秋田市[[川尻 (秋田市)|川尻総社町]]) ** [[古四王神社]] (秋田市[[寺内 (秋田市)|寺内児桜]]) ** 六所神社 (山形県[[鶴岡市]]藤島<ref group="注釈" name="住所">上藤島の誤りか。</ref>六所畑(旧[[東田川郡]][[藤島町]]藤島<ref group="注釈" name="住所"/>六所畑)) * 一宮 '''[[鳥海山大物忌神社]]''' - [[鳥海山]]山頂に本殿が、山麓の吹浦と蕨岡の2か所に口宮(里宮)がある。長年2つの口宮が一宮の称を争っていたため、[[江戸時代]]、幕府の裁定により山頂の祠が一宮と定められた。 * 二宮 [[城輪神社]] - [[国史見在社]]。大物忌神社の摂社。 * 三宮 [[小物忌神社]] === 安国寺利生塔 === {{See also|安国寺利生塔}} * 太平山安国寺 - 山形県[[東村山郡]][[山辺町]]大寺。曹洞宗で、本尊は釈迦如来。 安国寺は[[足利尊氏]]が全国に建立した寺院である。利生塔は現存しない。 === 街道 === * [[羽州街道]] - [[奥州街道]]から桑折宿(福島県桑折町)で分岐し出羽国を縦断し、油川宿(青森県青森市)で奥州街道に合流する街道。 * [[羽州浜街道]] - 鼠ヶ関(山形県鶴岡市)から久保田(秋田県秋田市)へ到る街道。 * [[米沢街道]] - 米沢(山形県)と他地域を結ぶ複数の街道、会津若松(福島県)へ至る道、新発田(新潟県)へ至る道([[小国街道]])、または福島(福島県)と上山(山形県)を米沢経由で結ぶ道([[板谷街道]])。 * [[出羽仙台街道]] - 吉岡(宮城県大和町)から舟形(山形県舟形町)へ到る街道。 * [[秋田街道]] - 盛岡(岩手県)から[[田沢湖生保内|生保内]](秋田県仙北市)へ到る街道。 == 地域 == === 郡 === <!--;後の羽前国--> *[[田川郡 (羽前国)|田川郡]] *[[村山郡]] *[[最上郡]] *[[置賜郡]] *[[櫛引郡]] <!--;後の羽後国--> *[[山本郡]] *[[秋田郡]] *[[河辺郡]] *[[由利郡]] *[[仙北郡]] *[[平鹿郡]] *[[雄勝郡]] *[[飽海郡]] *[[出羽郡]] === 江戸時代の藩 === ●は分国前に廃止。 ; 後の羽後国 * [[久保田藩]](秋田藩) * [[久保田藩#岩崎藩|岩崎藩]](久保田藩支藩) * [[亀田藩]] * [[本荘藩]] * [[庄内藩#出羽松山藩|出羽松山藩]](庄内藩支藩、松嶺藩) * [[矢島藩]] * [[久保田藩#久保田新田藩|久保田新田藩]](久保田藩支藩)● * [[仁賀保藩]]● ; 後の羽前国 * [[庄内藩]](鶴岡藩、大泉藩) * [[山形藩]] * [[上山藩]] * [[天童藩]] * [[新庄藩]] * [[長瀞藩]] * [[米沢藩]] * [[米沢藩#米沢新田藩|米沢新田藩]](米沢藩支藩) * [[庄内藩#大山藩|大山藩]](庄内藩支藩)● * [[庄内藩#左沢藩|左沢藩]]● * [[出羽丸岡藩]]● * [[村山藩]]● * [[高畠藩]]● === 人口 === * 享保6年([[1721年]]) - 87万7650人 * 寛延3年([[1750年]]) - 84万6255人 * 宝暦6年([[1756年]]) - 83万8446人 * 天明6年([[1786年]]) - 80万4922人 * 寛政4年([[1792年]]) - 81万6770人 * 寛政10年([[1798年]]) - 85万2959人 * 文化元年([[1804年]]) - 87万0149人 * 文政5年([[1822年]]) - 90万9212人 * 文政11年([[1828年]]) - 94万5919人 * 天保5年([[1834年]]) - 94万0929人 * 天保11年([[1840年]]) - 83万2649人 * 弘化3年([[1846年]]) - 91万2452人 * 明治5年([[1872年]]) - 119万1020人(羽前国と羽後国の合計) 内閣統計局・編、[[速水融]]・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、[[東洋書林]]。 == 人物 == === 国司 === ==== 出羽守 ==== {{節スタブ}} * [[多治比家主]] - [[養老]]7年([[723年]])[[多治比池守]]の子。 * [[田辺難波]](田辺難破) - [[天平]]9年([[737年]]) * [[藤原田麻呂]] - [[天平宝字]]7年([[763年]])陸奥出羽按察使。 * [[文室綿麻呂]] - [[延暦]]20年([[801年]])正月(出羽権守) * [[大伴今人]] - [[弘仁]]2年([[811年]])3月に出羽守として武功。 * [[藤原興世]] - [[元慶]]2年([[878年]])[[元慶の乱]]で逃亡。 * [[藤原保則]] - 元慶2年([[878年]]出羽権守。 * [[藤原義理]] - [[長保]]2年([[1000年]])出羽守として馬を献上 * [[平季信]] - 長保3年([[1001年]])任官。[[出羽弁]]の父。 * [[藤原済家]] [[寛弘]]6年([[1009年]])任官。 * [[源親平]] - 寛弘9年([[1012年]])任官。 * [[大中臣宣茂]] - [[長和]]6年[[1017年]]任官 * [[大江時棟]] - [[寛仁]]4年([[1020年]])任官。 * [[多米国隆]] - [[万寿]]4年([[1027年]])任官 * [[藤原為通]] - [[長元]]5年([[1032年]])任官。 * [[源兼長]] - [[永承]]5年([[1050年]])任官。 * [[源忠国]] * [[源斉頼]] - [[天喜]]5年([[1057年]])任官。 * [[源義家]] - [[康平]]6年([[1063年]])任官。 * [[中原師元]] - 大外記兼[[明経博士]]。 * [[平正衡]] - [[承徳]]3年([[1099年]])任官。[[平清盛]]曽祖父。 * [[源光国]] - [[天仁]]2年([[1109年]])任官?。[[天永]]元年([[1110年]])出羽国[[寒河江荘]]に濫入した(『殿暦』)。 * [[平信兼]] - [[久寿]]3年([[1156年]])任官。 * [[高階泰経]] - [[保元]]3年([[1158年]])任官。[[後白河天皇|後白河院]]側近。 * [[秩父重綱]] - 久安4年(1184年)出羽権守を務めていた。 * [[藤原秀能]] - [[建保]]4年([[1216年]])任官。 * [[中条家長]] - [[貞応]]2年([[1223年]])任官。[[評定衆]]。 * [[二階堂行義]] - [[嘉禎]]3年([[1237年]])任官。評定衆。 * [[二階堂貞藤]] - 政所執事。法名道蘊(どううん)。 * [[寒河江元時]] * [[大宝寺淳氏]] - [[寛正]]3年([[1462年]])任官。 ==== 出羽介 ==== {{節スタブ}} {{Main2|[[秋田城]]を専管した出羽介については[[秋田城介]]を}} * [[藤原元頼]] ==== 出羽掾 ==== * [[清原令望]](権掾) - [[元慶]]2年([[878年]])任官。 * [[鈴木重実 (庄司)|鈴木重実]](大掾) - [[長徳]]2年([[996年]])任官<ref>宝賀寿男『古代氏族系譜集成/中巻』穂積氏系図</ref>。 ==== 武家官位としての出羽守 ==== {{節スタブ}} {{Col-begin}} {{Col-5}} * [[谷衛友]] * [[最上義光]] * [[簗田政綱]] * [[植村家政]] * [[坂崎直盛]] * [[松平直政]] * [[加藤泰興]] * [[堀田正盛]] * [[水野忠職]] * [[大久保忠朝]] * [[米津田盛]] * [[内田正衆]] * [[土岐頼雄]] {{Col-5}} * [[森川重信]] * [[松平綱隆]] * [[荒川定昭]] * [[相馬貞胤]] * [[三宅康雄]] * [[松平綱近]] * [[水谷勝美]] * [[柳沢吉保]] * [[水野忠周]] * [[松平吉透]] * [[真田信弘]] * [[大須賀忠政]] {{Col-5}} * [[松平宣維]] * [[松平清武]] * [[森川俊胤]] * [[石河正章]] * [[水野忠穀]] * [[松平宗衍]] * [[前田房長]] * [[三宅康之]] * [[米津通政]] * [[松平治郷]] * [[水野忠友]] {{Col-5}} * [[谷衛量]] * [[林忠英]] * [[大久保忠真]] * [[青木一貞]] * [[水野忠成]] * [[松平斉恒]] * [[津軽信順]] * [[松平斉斎]] * [[植村家教]] * [[水野忠義]] * [[水野忠武]] {{Col-5}} * [[水野忠良]] * [[森川俊民]] * [[松平定安]] * [[石河光美]] * [[森川俊位]] * [[水野忠寛]] * [[森川俊徳]] * [[水野忠誠]] * [[堀田正養]] * [[最上義連]] * [[水野忠敬]] {{Col-end}} === 守護 === {{節スタブ}} 出羽は[[守護]]不設置の国だったため、南北朝時代以降[[鎮守府将軍]](南朝)・[[奥州総大将]](北朝)・奥州羽州[[管領]]・[[鎌倉公方]]([[篠川御所]]、[[稲村御所]])などが軍事権を行使した。南北朝時代初期に南朝側が在地領主に多くの権限を与えたため、[[京都扶持衆]]などを生む原因となった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{reflist}} == 参考文献 == <!-- 実際に参考にした文献一覧 --> * [[高橋崇]]『律令国家東北史の研究』、吉川弘文館、1991年、ISBN 4-642-02245-7。 * [[新野直吉]]『古代東北の開拓』、塙書房、1969年。 * [[林陸朗]]・校注訓訳『完訳注釈続日本紀』第1分冊(巻第一 - 巻第八)、現代思潮社(古典文庫)、1989年。 * [[誉田慶信]]「出羽国のはじまり」(横山昭男・誉田慶信・伊藤清郎・渡辺信『山形県の歴史』山川出版社、2003年2月) == 関連項目 == <!-- 関連するウィキリンク、ウィキ間リンク --> {{Commonscat|Dewa Province}} * [[出羽郡]] *[[奥羽]] * [[令制国一覧]] * [[僧妙達蘇生注記]] {{令制国一覧}} {{羽前国の郡}} {{羽後国の郡}} {{Japanese-history-stub}} {{DEFAULTSORT:てわのくに}} [[Category:廃止された令制国]] [[Category:秋田県の歴史]] [[Category:山形県の歴史]] [[Category:出羽国|*]]
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ほしのこえ
『ほしのこえ』は、新海誠監督の短編アニメーション映画。2002年2月2日に東京都世田谷区下北沢のミニシアター下北沢トリウッドで公開された。 これまで短編アニメーション作家として活動してきた新海としては初の劇場公開作品にあたる。携帯電話のメールをモチーフに、宇宙に旅立った少女と地球に残った少年の遠距離恋愛を描く。キャッチコピーは、「私たちは、たぶん、宇宙と地上にひきさかれる恋人の、最初の世代だ。」。 25分のフルデジタルアニメーションの監督・脚本・演出・作画・美術・編集のほとんどを、新海誠が一人で行なった。制作はさいたま市の武蔵浦和駅付近にあった新海の自宅で行われた。制作環境はPower Mac G4 400MHz、使用されたソフトはAdobe Photoshop 5.0・Adobe After Effects 4.1・LightWave 6.5など。 単館上映の作品であったが、新海が当時の自身のホームページで制作状況や予告編を公開してネット上の口コミで話題を呼び、公開初日には劇場に行列ができた。DVDの売上は2003年8月時点で6万枚以上を記録した。 2039年、NASAの調査隊が火星のタルシス台地で異星文明の遺跡を発見し、突然現れた地球外知的生命体タルシアンに全滅させられた。この出来事に衝撃を受けた人類は、遺跡から回収したタルシアンのテクノロジーで、タルシアンの脅威に対抗しようとしていた。 2046年、中学3年生の長峰美加子(ミカコ)と寺尾昇(ノボル)は互いにほのかな恋心を抱き、同じ高校への進学を望んでいたが、実はミカコは国際連合宇宙軍のタルシアン調査隊――リシテア艦隊に選抜されていた。翌2047年、4隻の最新鋭戦艦と1000人以上の選抜メンバーからなるリシテア艦隊は地球を離れ、深宇宙に旅立つ。離れ離れになったミカコとノボルは超長距離メールサービスで連絡を取り合うが、艦隊が地球から遠ざかるにつれて、メールの往復にかかる時間も数日、数週間と開いていく。地球に残ったノボルは、次第に大きくなるミカコとのずれにいらだちをつのらせる。 タルシアンの痕跡が見つからないまま半年が経ち、艦隊は冥王星軌道に接近する。ミカコは「このまま何も見つからないで、早く地球に帰れるのがいちばんいい」とノボルへのメールに心情を吐露する。しかしタルシアンが出現し、戦端が開かれる。ミカコも人型機動兵器トレーサーに搭乗して戦闘に加わるが、艦隊は増援のタルシアンから逃れるため、ハイパー・ドライブで1光年先にワープする。ミカコとノボルは瞬時に一年もずれてしまった。さらに、落胆するミカコは艦隊司令部からの通信を聞く。艦隊はこれよりヘリオスフィア・ショートカット・アンカーを経由し、シリウスα・β星系にワープする。飛翔距離は8.6光年。帰りのショートカット・アンカーは見つかっていない。ワープする前、ミカコはノボルに「わたしたちは、宇宙と地上にひきさかれる、恋人みたいだね」というメールをノボルに残した。 シリウス星系に到着した艦隊は、第四惑星アガルタにトレーサー部隊を降下させる。ミカコはアガルタに降り立つと、携帯電話を手にとり、8光年彼方のノボルに届く保証のないメールを打つ。「24歳になったノボルくん、こんにちは! 私は15歳のミカコだよ。ね、わたしはいまでもノボルくんのこと、すごくすごく好きだよ。」 やがてアガルタ各地にタルシアンが出現し、戦闘が始まる。周回軌道上の艦隊にもタルシアンの群体が接近している。ミカコはトレーサーで周回軌道に急行するが、艦隊は次々に轟沈し、旗艦リシテアにも大型のタルシアンが迫る。リシテアを守るため、ミカコは大型のタルシアンと対峙し、捨て身の攻撃でこれを撃破する。 8年半後の2056年、24歳のノボルは、15歳のミカコからのメールを受け取る。メールの本文はノイズにまみれていたが、ノボルにはミカコの伝えたかったことがわかっていた。 本作には二種類の小説版がある。2002年にはメディアファクトリー MF文庫Jから大場惑著による小説版が(以後、この新装版が発売)、2006年にはエンターブレインから加納新太による新小説版「『ほしのこえ』 あいのことば / ほしをこえる」が発売されている。 2005年には講談社アフタヌーンKCから佐原ミズによる漫画版が刊行されている。 劇団ユニットキャットミント隊の第7回公演として2015年4月23日 - 27日、全10公演がCBGKシブゲキ!!にて行われた。同劇団の拝田ちさとによる脚本・演出で、朗読劇でも芝居でもない「朗読×劇」というスタイルで行われた。音楽は劇場版と同じく天門が担当。 ミカコ役は小松未可子、根岸愛(PASSPO☆)、新垣里沙(特別出演)、ノボル役は井上正大、河原田巧也、梅原裕一郎のトリプルキャスト。ほか、舞台版オリジナルのキャラクターとして、反橋宗一郎 (L.A.F.U.)、北山詩織、熊谷知花、北乃颯希、芦原優愛、梶原龍星が出演した。また、本編の前に桂三四郎による落語公演が行われた。 DVDソフト化も行われ、劇団ユニットキャットミント隊のオンラインショップにて販売されている。
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『ほしのこえ』は、新海誠監督の短編アニメーション映画。2002年2月2日に東京都世田谷区下北沢のミニシアター下北沢トリウッドで公開された。 これまで短編アニメーション作家として活動してきた新海としては初の劇場公開作品にあたる。携帯電話のメールをモチーフに、宇宙に旅立った少女と地球に残った少年の遠距離恋愛を描く。キャッチコピーは、「私たちは、たぶん、宇宙と地上にひきさかれる恋人の、最初の世代だ。」。
{{Infobox Film |作品名=ほしのこえ |原題=The Voices of a Distant Star |画像= |画像サイズ= |画像解説= |監督=[[新海誠]] |脚本=新海誠 |原案=新海誠 |原作= |製作=萩原嘉博 |製作総指揮= |ナレーター= |出演者='''オリジナル版'''<br >篠原美香<br />新海誠<br />'''声優版'''<br />[[武藤寿美]]<br />[[鈴木千尋 (声優)|鈴木千尋]] |音楽=[[天門 (作曲家)|天門]] |主題歌= |撮影= |編集=新海誠 |製作会社= |配給=MANGAZOO.COM |公開=[[2002年]][[2月2日]] |上映時間=25分 |製作国={{JPN}} |言語=[[日本語]] |製作費= |興行収入= |前作= |次作= }} 『'''ほしのこえ'''』は、[[新海誠]]監督の短編[[アニメーション映画]]。[[2002年]][[2月2日]]に[[東京都]][[世田谷区]][[下北沢]]のミニシアター[[下北沢トリウッド]]で公開された。 これまで短編アニメーション作家として活動してきた新海としては初の劇場公開作品にあたる。携帯電話のメールをモチーフに、宇宙に旅立った少女と地球に残った少年の遠距離恋愛を描く。[[キャッチコピー]]は、「'''私たちは、たぶん、宇宙と地上にひきさかれる恋人の、最初の世代だ。'''」。 == 制作・公開 == 25分のフル[[デジタルアニメーション]]の[[アニメ監督|監督]]・[[脚本]]・[[演出]]・作画・[[美術]]・[[映像編集|編集]]のほとんどを、[[新海誠]]が一人で行なった。制作は[[さいたま市]]の[[武蔵浦和駅]]付近にあった新海の自宅で行われた<ref name="asahi20030110">{{Cite news|和書|title=埼玉 新海誠さん(引っ越ししちゃうぞお:7)/ 埼玉|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2003-01-10|edition=埼玉版|page=31}}</ref>。制作環境は[[Power Mac|Power Mac G4 400MHz]]、使用されたソフトは[[Adobe Photoshop|Adobe Photoshop 5.0]]・[[Adobe After Effects|Adobe After Effects 4.1]]・[[LightWave|LightWave 6.5]]など。 単館上映の作品であったが、新海が当時の自身のホームページで制作状況や予告編を公開してネット上の口コミで話題を呼び、公開初日には劇場に行列ができた<ref name="yomiuri20030822">{{Cite news|和書|title=[夢を描く](4) 25分アニメ、一人で制作 新海誠さん(連載)|newspaper=[[読売新聞]]|author=福田淳|date=2003-08-22|edition=東京版夕刊|page=10}}</ref>。DVDの売上は2003年8月時点で6万枚以上を記録した<ref name="yomiuri20030822" />。 == あらすじ == [[2039年]]、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の調査隊が[[火星]]の[[タルシス台地]]で異星文明の遺跡を発見し、突然現れた[[宇宙人|地球外知的生命体]]'''タルシアン'''に全滅させられた。この出来事に衝撃を受けた人類は、遺跡から回収したタルシアンのテクノロジーで、タルシアンの脅威に対抗しようとしていた。 [[2046年]]、中学3年生の'''長峰美加子(ミカコ)'''と'''寺尾昇(ノボル)'''は互いにほのかな恋心を抱き、同じ高校への進学を望んでいたが、実はミカコは[[国際連合]]宇宙軍のタルシアン調査隊――'''リシテア艦隊'''に選抜されていた。翌[[2047年]]、4隻の最新鋭戦艦と1000人以上の選抜メンバーからなるリシテア艦隊は地球を離れ、深宇宙に旅立つ。離れ離れになったミカコとノボルは超長距離[[メール|メールサービス]]で連絡を取り合うが、艦隊が地球から遠ざかるにつれて、メールの往復にかかる時間も数日、数週間と開いていく。地球に残ったノボルは、次第に大きくなるミカコとのずれにいらだちをつのらせる。 タルシアンの痕跡が見つからないまま半年が経ち、艦隊は[[冥王星]]軌道に接近する。ミカコは「このまま何も見つからないで、早く地球に帰れるのがいちばんいい」とノボルへのメールに心情を吐露する。しかしタルシアンが出現し、戦端が開かれる。ミカコも人型機動兵器'''トレーサー'''に搭乗して戦闘に加わるが、艦隊は増援のタルシアンから逃れるため、'''ハイパー・ドライブ'''で1[[光年]]先にワープする。ミカコとノボルは瞬時に一年もずれてしまった。さらに、落胆するミカコは艦隊司令部からの通信を聞く。艦隊はこれよりヘリオスフィア・'''ショートカット・アンカー'''を経由し、[[シリウス|シリウスα・β星系]]にワープする。飛翔距離は8.6光年。帰りのショートカット・アンカーは見つかっていない。ワープする前、ミカコはノボルに「わたしたちは、宇宙と地上にひきさかれる、恋人みたいだね」というメールをノボルに残した。 シリウス星系に到着した艦隊は、第四惑星'''アガルタ'''にトレーサー部隊を降下させる。ミカコはアガルタに降り立つと、携帯電話を手にとり、8光年彼方のノボルに届く保証のないメールを打つ。「24歳になったノボルくん、こんにちは! 私は15歳のミカコだよ。ね、わたしはいまでもノボルくんのこと、すごくすごく好きだよ。」 やがてアガルタ各地にタルシアンが出現し、戦闘が始まる。周回軌道上の艦隊にもタルシアンの群体が接近している。ミカコはトレーサーで周回軌道に急行するが、艦隊は次々に轟沈し、旗艦リシテアにも大型のタルシアンが迫る。リシテアを守るため、ミカコは大型のタルシアンと対峙し、捨て身の攻撃でこれを撃破する。 8年半後の[[2056年]]、24歳のノボルは、15歳のミカコからのメールを受け取る。メールの本文はノイズにまみれていたが、ノボルにはミカコの伝えたかったことがわかっていた。 == 登場人物 == ; 長峰 美加子(ながみね みかこ) : 声 - [[篠原美香]](オリジナル版) / [[武藤寿美]](声優版)、演 - [[小松未可子]] / [[根岸愛]] / [[新垣里沙]] : 本作の主人公「ミカコ」。[[埼玉県]]([[南浦和駅]]から[[武蔵浦和駅]]の中間付近が度々登場している)の中学3年生。国連宇宙軍のタルシアン調査隊の選抜メンバーとなる。大型機動マシン「トレーサー」のオペレーターとして、宇宙艦〔リシテア〕配属となり、地球を発つ。 ; 寺尾 昇(てらお のぼる) : 声 - [[新海誠]](オリジナル版) / [[鈴木千尋 (声優)|鈴木千尋]](声優版)、演 - [[井上正大]] / [[河原田巧也]] / [[梅原裕一郎]] : 本作のもう1人の主人公「ノボル」。ミカコとは中学校時代のクラスメイトで、剣道部仲間の友人。ミカコに密かに想いを寄せ、彼女を待ち続けている。 ; リシテア艦オペレーター:声 - [[ドナ・バーク|Donna Burke]] === 小説版のみ === ; 北條 里美(ほうじょう さとみ) : 大場版のオリジナルキャラクター。17歳。ミカコと友人になる。 ; ロコモフ司令官 : 大場版のオリジナルキャラクター。宇宙艦〔リシテア〕艦長。 ; 高鳥 瑤子(たかとり ようこ) : 大場版のオリジナルキャラクター。ノボルの後輩で一時付き合うものの、ノボルの心がミカコにあるのを感じ別れる。 ; ミカコの従妹 : 加納版のオリジナルキャラクター。大病を患っている。 === 漫画版のみ === ; ミワ : ミカコが所属する第八小隊の隊長。 ; ヒサ : 第八小隊に所属。ノボルの進学先で、ミカコが行きたがっていた城北高校の生徒だった。冥王星の戦闘で負傷し地球に帰還した。 ; 真枝 若菜(まえだ わかな) : 城北高校の生徒で弓道部員。ノボルと一時付き合うが、ミカコからのメールで宇宙を目指すことを決意したノボルと別れる。 == 用語 == ; タルシアン : 2039年1月に人類が初めて接触した[[宇宙人|地球外知的生命体]]。火星のタルシス台地で確認されたことからこの名がついたもので、タルシス遺跡を築いたのも彼らだと思われる。「タルシス人」とも呼ばれる。人類に攻撃を行っているが、その意図は不明。 : 体表は銀色の金属のような質感を持っているが、内部には体組織があり、血液のような赤い液体で満たされている。また、飛行や宇宙空間での戦闘機動なども行うことが可能。トレーサーとほぼ同等の大きさの「小タルシアン」が主だが、戦艦クラスの大きさの「大タルシアン」も存在している。攻撃手段は体当たりのほか、赤色のビームを用いることもある。 : 2039年以来その存在は観測されていなかったが、タルシス遺跡に残されていた技術は人類の文明を半世紀分以上発展させた。再び人類の前に姿を現したのは[[2047年]][[8月]]のことで、[[冥王星]]付近でリシテア艦隊が襲撃を受けた。 ; トレーサー : タルシアンに対抗するために、国連宇宙軍が運用している宇宙空間用汎用兵器([[リアルロボット|ロボット兵器]])。[[火星探査]]用の人型[[宇宙探査機|探査機]]を原型としている。動力はタルシス遺跡の技術を応用して[[国防高等研究計画局|DARPA]]が開発した、[[ラムシフト|ラム駆動]]を利用した[[ダークエネルギー|真空エネルギー]]エンジンで、宇宙空間での活動のほか、大気圏内での飛行も可能である。プロトタイプはJ・ナッコーズら[[ローレンス・リバモア国立研究所|ローレンス・リバモア研究所]]の開発チームの手によって[[2044年]]にロールアウトし、現在では国連宇宙軍の主力兵器となっている。 : 武装は、固定武装として背部バックパックに6連装のミサイルランチャー2基、両腕部に[[M61 バルカン|バルカン砲]]2基、左腕部にビーム・ブレードを備えるほか、[[光線銃|ビーム銃]](正式名不明)を携行することも可能。また、防御手段として電磁バリアも搭載している。 : また、2050年代には次世代トレーサーの開発計画も進行している。 ; リシテア : 国連宇宙軍が運用する恒星間[[宇宙戦艦]](コスモナート)。楔形に近い流線形の艦体を持ち、大気圏内での飛行やハイパードライブを用いた[[超光速航法]]を行うことが可能。舷側に格納された多数のビーム砲のほか、トレーサー用のカタパルトを計10基備えている。太陽系外でのタルシアン追跡調査のために編成された「リシテア艦隊」の旗艦であり、リシテア艦隊にはほかに同型艦「エララ」「ヒマリア」「レダ」の三隻(小説版では十隻)が所属している。 : なお、艦名は四隻とも[[ヒマリア群]]に分類される[[木星の衛星と環|木星の衛星]]の名から取られている。 ; ハイパードライブ : タルシス遺跡の技術を元に実用化された超光速([[ワープ]])技術。制御[[ワームホール]]と[[巨視的トンネル効果|巨視的量子トンネル効果]]を用いるもので、[[2042年]]に理論物理学者[[キップ・ソーン]](実在)が解析に成功した。1.5光年以内の任意の空間にワープできる。技術が未熟なのか、リシテア艦隊のハイパードライブ装置は一度の使用で破損してしまった(小説版)。 ; ショートカット・アンカー : 銀河系のあちこちに点在するワープポイントのこと。ハイパードライブに依存しない長距離のワープが可能だが、一方通行である。 ; 超光速通信 : 2050年代時点では未来の技術だが、実用化への道筋はたっているという。 == 制作スタッフ == *監督・脚本・映像・制作:[[新海誠]] *音楽:[[天門 (作曲家)|天門]] *主題歌:「THROUGH THE YEARS AND FAR AWAY (HELLO, LITTLE STAR)」 ::作曲:天門 ::作詞:[[K. JUNO]] ::唄:[[Low]]([[みずさわゆうき]]) *制作・配給:[[コミックス・ウェーブ]] == 受賞 == *[[東京国際アニメフェア|第1回新世紀東京国際アニメフェア21]] 公募部門優秀賞 *第7回[[アニメーション神戸]] パッケージ部門作品賞 *第2回[[日本オタク大賞]] 「トップをねらえ!」賞 *第6回[[文化庁メディア芸術祭アニメーション部門]] 特別賞 *第34回[[星雲賞]] 映画演劇部門・メディア部門 *第34回星雲賞 アート部門 *[[デジタルコンテンツグランプリ]]2002 エンターテイメント部門・映像デザイン賞 *第8回 AMD AWARD BestDirector賞<ref>[http://www.shinkaiworks.com/profile プロフィール|新海誠作品ポータルサイト]</ref> == 小説 == 本作には二種類の小説版がある。[[2002年]]にはメディアファクトリー [[MF文庫J]]から[[大場惑]]著による小説版が(以後、この新装版が発売)<ref name="Novel">{{Cite web|和書|title=ほしのこえ ''The Voices of a Distant Star''|url=http://www.mediafactory.co.jp/cgi-bin/db_detail.cgi?id=28691|publisher=[[メディアファクトリー]]|accessdate=2014年6月22日|archiveurl=https://archive.is/5PsGu|archivedate=2002年7月15日|deadurl=yes|language=日本語}}</ref>、[[2006年]]には[[エンターブレイン]]から[[加納新太]]による新小説版「『ほしのこえ』 あいのことば / ほしをこえる」が発売されている<ref>{{Cite web|和書|title=ほしのこえ あいのことば/ほしをこえる|url=http://www.enterbrain.co.jp/product/mook/mook_bungei/213_other/06393101.html|publisher=[[エンターブレイン]]|accessdate=2014年7月5日|language=日本語}}</ref>。 *ほしのこえ The voices of a distant star **著者は大場惑。 ***MF文庫Jより刊行。イラストは[[柳沼行]]。 ***[[MF文庫ダ・ヴィンチ]]より刊行。イラストは[[竹岡美穂]]。 ***[[角川文庫]]より刊行。 ***[[角川つばさ文庫]]より刊行。イラストは[[ちーこ]]。 *ほしのこえ あいのことば/ほしをこえる **著者は加納新太。 ***エンターブレインより刊行。 == 漫画 == [[2005年]]には[[講談社]]アフタヌーンKCから[[佐原ミズ]]による漫画版が刊行されている<ref>{{Cite web|和書|title=ほしのこえ |url=http://kc.kodansha.co.jp/product/top.php/1234584092|publisher=[[講談社]]|accessdate=2014年6月22日|archiveurl=https://archive.is/Ilogd|archivedate=2013年12月16日|deadurl=no|language=日本語}}</ref>。 == 舞台 == 劇団ユニットキャットミント隊の第7回公演として2015年4月23日 - 27日、全10公演が[[CBGKシブゲキ!!]]にて行われた<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.catmint-tai.com/stage007.html | title=第七回公演「ほしのこえ」 | work=[[CBGKシブゲキ!!]] | accessdate=2015-3-23}}</ref>。同劇団の拝田ちさとによる脚本・演出で、朗読劇でも芝居でもない「朗読×劇」というスタイルで行われた。音楽は劇場版と同じく[[天門 (作曲家)|天門]]が担当<ref name=stage>{{Cite web|和書|url=http://www.theaterguide.co.jp/theater_news/2015/04/15.php|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161103023922/http://www.theaterguide.co.jp/theater_news/2015/04/15.php|title=声優・小松未可子、PASSPO☆根岸愛らが出演 新海誠のアニメ「ほしのこえ」が舞台化|publisher=シアターガイド|date=2015-04-15|archivedate=2016-11-03|accessdate=2019-09-18}}</ref>。 ミカコ役は[[小松未可子]]、[[根岸愛]]([[PASSPO☆]])、[[新垣里沙]](特別出演)、ノボル役は[[井上正大]]、[[河原田巧也]]、[[梅原裕一郎]]のトリプルキャスト。ほか、舞台版オリジナルのキャラクターとして、[[反橋宗一郎]] ([[L.A.F.U.]])、[[北山詩織]]、[[熊谷知花]]、[[北乃颯希]]、[[芦原優愛]]、[[梶原龍星]]が出演した。また、本編の前に[[桂三四郎]]による落語公演が行われた。 DVDソフト化も行われ、劇団ユニットキャットミント隊のオンラインショップにて販売されている。 == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == *[[セカイ系]] *[[ロボットアニメ]] *[[デジタルアニメ]] == 外部リンク == * [http://shinkaimakoto.jp/distantstar 「ほしのこえ」] - 新海の個人サイト内のページ。 ** [http://shinkaimakoto.jp/star_cdrom/index.htm 「ほしのこえ」トリウッド42席限定CD-ROM] - 2002年2月2日に劇場公開された際、座席数の42枚分だけ配布されたというメイキングCD-ROMの内容。製作時の資料を見ることができる。 * {{Wayback|url=http://www2.odn.ne.jp/~ccs50140/stars/ |title=「ほしのこえ」 |date=20020208090335}} - 新海の旧個人サイト内のページ。 * [http://www.cwfilms.jp/koe/ ほしのこえ] - cwfilms(株式会社コミックス・ウェーブ・フィルム) * {{Allcinema title|239072|ほしのこえ -The voices of a distant star-}} * {{Kinejun title|32880|ほしのこえ -The voices of a distant star-}} * [https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000035511 ほしのこえ(アフタヌーン)] - 講談社コミックプラス {{星雲賞メディア部門}} {{新海誠監督作品}} [[Category:新海誠の監督映画]] [[Category:アニメ作品 ほ|しのこえ]] [[Category:2002年のアニメ映画]] [[Category:日本のオリジナルアニメ映画]] [[Category:日本のSFアクション映画]] [[Category:日本の青春映画]] [[Category:携帯電話を題材とした映画作品]] [[Category:携帯電話を題材としたアニメ作品]] [[Category:宇宙戦争を題材とした映画作品]] [[Category:宇宙戦争を題材としたアニメ作品]] [[Category:埼玉県を舞台とした映画作品]] [[Category:埼玉県を舞台としたアニメ作品]] [[Category:漫画作品 ほ|しのこえ]] [[Category:月刊アフタヌーン]] [[Category:MF文庫J]] [[Category:2015年の舞台作品]] [[Category:星雲賞受賞作品]]
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ラーワルピンディー
ラーワルピンディー (ウルドゥー語: راولپنڈی、Rāwalpindī)は、パキスタン北部パンジャーブ州北端にある都市。ポトワール高原にあり、イスラマバードの南約10kmに位置する。地元では短くピンディとも呼ぶ。 北部パキスタンの商工業の中心地で、パキスタン陸軍司令部や情報機関が置かれる軍事都市でもある。陸軍医科大学やファーティマ・ジンナー女子大学などの大学がある。カラーチーからイスラマバードへの遷都が完了するまでの1960年から1966年にかけて、仮の首都が置かれていた。イスラマバードが建設されたこの期間に急成長を遂げ、人口では18万人から300万人を越え、パキスタンで第3位の都市になった。 ラーワルピンディーの北西35kmに世界遺産の仏教遺跡のタキシラがある。この地は5世紀にエフタルの進入を受け、その後は荒廃したままだった。10世紀にガズナ朝のマフムードがこの地に入るが脚光を浴びることは無かった。1765年、シク教徒がこの地を支配すると貿易商人らが住み着くようになる。19世紀初頭、シュジャー・シャーはラーワルピンディーで亡命生活を過ごした。 1849年、イギリスがこの地を占領し、マリー(英語版) (Murree) が夏の首都になると、1851年にその駐屯地が設けられた。1860年にはマリー・ブルワリー(英語版)が建設された。1886年にはノース・ウェスタン鉄道 (North Western Railway, NWR) も開通、イギリス領インド帝国でも最大級の軍事施設になった。ペシャーワルに鉄道が延びるようになると商業の面でも発展した。 現在のラーワルピンディーは、近郊の首都イスラマバードが整備された人工都市であるのに対し、生活感の溢れる都市である。目抜き通りの「ベーナズィール・ブットー通り(英語版)」(かつてのマリー通り、Murree Road)は独立後の政治的な出来事の舞台となってきた。 1951年初めに独立後のパキスタンの初代首相・リヤーカト・アリー・ハーンのカシミール問題への対応が生ぬるいとして、アクバル・カーン陸軍少将を中心としてクーデターが企てられ、計画は中止になったが当局に発覚し、3月9日から合計13名が逮捕された(ラーワルピンディー陰謀事件)。この逮捕者の中に、ウルドゥー文学を代表する詩人ファイズ・アハマド・ファイズが含まれていた。 1951年10月16日、首相のリヤーカト・アリー・ハーンは市内のマリー通りにある公園での政治集会の最中に、胸に2発の銃弾を浴びて暗殺された。この地は彼の名を取って「リヤーカト公園」となっている。1979年、大統領だったズルフィカール・アリー・ブットーが絞首刑に処されたのはラーワルピンディーである。 2003年12月14日、ラーワルピンディー郊外の橋がムシャラフ大統領の車列が通過した直後に爆破される暗殺未遂事件が発生したが、大統領らに被害はなかった。それから間もない12月25日には、またもムシャラフ大統領の車列めがけて爆弾を積載した車両が突入する自爆テロ事件が発生、やはり大統領らは被害を受けなかったが、市民14人が死亡する惨事となった。 また、2007年12月27日、「リヤーカト公園」でのパキスタン人民党支持者の選挙集会に参加しようとした元首相・ベーナズィール・ブットーは、直前に発生した自爆テロで集会が中止となり公園を車で立ち去ろうとした際に銃撃され暗殺された(ベーナズィール・ブットー暗殺事件(英語版))。直接の死因は銃撃によるものか、直後に犯人が自爆した爆発によるものかは今も不明である。 市内には、イギリス植民地様式の駅舎が特徴のラーワルピンディー駅があり、当駅を経由してペシャーワル - カラチ間を連絡する列車が運行されている。 市内にはベナジル・ブット国際空港があったが、2018年5月に民間便はイスラマバード国際空港に移転した。
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ラーワルピンディー は、パキスタン北部パンジャーブ州北端にある都市。ポトワール高原にあり、イスラマバードの南約10kmに位置する。地元では短くピンディとも呼ぶ。 北部パキスタンの商工業の中心地で、パキスタン陸軍司令部や情報機関が置かれる軍事都市でもある。陸軍医科大学やファーティマ・ジンナー女子大学などの大学がある。カラーチーからイスラマバードへの遷都が完了するまでの1960年から1966年にかけて、仮の首都が置かれていた。イスラマバードが建設されたこの期間に急成長を遂げ、人口では18万人から300万人を越え、パキスタンで第3位の都市になった。
{{Redirect|ラワルピンディ|艦船|ラワルピンディ (仮装巡洋艦)}} {{世界の市 |正式名称 =ラーワルピンディー <!--必須--> |公用語名称 ={{lang|ur|راولپنڈی}} <br />Rawalpindi<br/>{{flagicon|Pakistan}}<!--必須--> |image_skyline = Rawalpindi Bazaar.jpg |愛称 = |標語 = |画像 = Rawalpindi montage.PNG |市旗 = |市章 = |位置図 =PakistanRawalpindiMap.png |位置図サイズ指定 = |位置図の見出し = |位置図2 =Location of Rawalpindi.png |位置図サイズ指定2 = |位置図の見出し2 =パキスタン内のラーワルピンディー県の位置 |位置図B = {{location map|Pakistan#Asia Southwest|relief=1|float=center|label=ラーワルピンディー}} |位置図2B = {{Maplink2|zoom=12|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=270|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point}} |緯度度 =33 |緯度分 =36 |緯度秒 =12 |N(北緯)及びS(南緯) =N |経度度 =73 |経度分 =3 |経度秒 =1 |E(東経)及びW(西経) =E |成立区分 = |成立日 = |成立区分1 = |成立日1 = |成立区分2 = |成立日2 = |旧名 = |創設者 = |下位区分名 ={{PAK}} <!--必須--> |下位区分種類1 =[[パキスタンの行政区画|州]] |下位区分名1 =[[ファイル:Flag_of_Punjab.svg|border|25px]] [[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]] |下位区分種類2 =県 |下位区分名2 =[[ラーワルピンディー県]] |下位区分種類3 = |下位区分名3 = |下位区分種類4 = |下位区分名4 = |規模 =市 <!--必須--> |最高行政執行者称号 =City Nazim |最高行政執行者名 =Raja Javed Ikhlas |最高行政執行者所属党派 = |総面積(平方キロ) =108 |総面積(平方マイル) =42 |陸上面積(平方キロ) = |陸上面積(平方マイル) = |水面面積(平方キロ) = |水面面積(平方マイル) = |水面面積比率 = |市街地面積(平方キロ) = |市街地面積(平方マイル) = |都市圏面積(平方キロ) = |都市圏面積(平方マイル) = |標高(メートル) =500 |標高(フィート) =1,640 |人口の時点 =2006年 |人口に関する備考 = |総人口 =3,039,550 |人口密度(平方キロ当たり) = |人口密度(平方マイル当たり) = |市街地人口 = |市街地人口密度(平方キロ) = |市街地人口密度(平方マイル) = |都市圏人口 = |都市圏人口密度(平方キロ) = |都市圏人口密度(平方マイル) = |等時帯 =パキスタン標準時 |協定世界時との時差 =+5 |郵便番号の区分 = |郵便番号 = |市外局番 =051 |ナンバープレート = |ISOコード = |公式ウェブサイト =[https://web.archive.org/web/20080313180203/http://www.rawalpindi.gov.pk/ 公式サイト(アーカイブ)] |備考 = }} '''ラーワルピンディー''' ({{lang-ur|راولپنڈی}}、Rāwalpindī)は、[[パキスタン]]北部[[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]]北端にある都市。[[ポトワール高原]]にあり、[[イスラマバード]]の南約10kmに位置する。地元では短く'''ピンディ'''とも呼ぶ。 北部パキスタンの商工業の中心地で、[[パキスタン軍|パキスタン陸軍]]司令部や[[情報機関]]が置かれる軍事都市でもある。陸軍医科大学やファーティマ・ジンナー女子大学などの大学がある。[[カラチ|カラーチー]]からイスラマバードへの遷都が完了するまでの[[1960年]]から[[1966年]]にかけて、仮の首都が置かれていた。イスラマバードが建設されたこの期間に急成長を遂げ、人口では18万人から300万人を越え、パキスタンで第3位の都市になった。 == 歴史 == ラーワルピンディーの北西35kmに[[世界遺産]]の[[仏教]]遺跡の[[タキシラ]]がある。この地は[[5世紀]]に[[エフタル]]の進入を受け、その後は荒廃したままだった。[[10世紀]]に[[ガズナ朝]]の[[マフムード (ガズナ朝)|マフムード]]がこの地に入るが脚光を浴びることは無かった。[[1765年]]、[[シク教徒]]がこの地を支配すると貿易商人らが住み着くようになる。[[19世紀]]初頭、[[シュジャー・シャー]]はラーワルピンディーで亡命生活を過ごした。 [[1849年]]、[[イギリス]]がこの地を占領し、{{仮リンク|マリー (パキスタン)|en|Murree|label=マリー}} ({{Lang|en|Murree}}) が夏の首都になると、[[1851年]]にその駐屯地が設けられた。[[1860年]]には{{仮リンク|マリー・ブルワリー|en|Murree Brewery}}が建設された。[[1886年]]には[[ノース・ウェスタン鉄道 (イギリス領インド帝国)|ノース・ウェスタン鉄道]] ({{Lang|en|North Western Railway}}, '''{{Lang|en|NWR}}''')<ref>{{仮リンク|パキスタンの鉄道史|en|History of rail transport in Pakistan}}を参照。</ref> も開通、[[イギリス領インド帝国]]でも最大級の軍事施設になった。[[ペシャーワル]]に鉄道が延びるようになると商業の面でも発展した。 === 独立 === 現在のラーワルピンディーは、近郊の首都イスラマバードが整備された人工都市であるのに対し、生活感の溢れる都市である。目抜き通りの「{{仮リンク|ベーナズィール・ブットー通り|en|Benazir Bhutto Road}}」(かつてのマリー通り、{{Lang|en|Murree Road}})は独立後の政治的な出来事の舞台となってきた。 [[1951年]]初めに独立後のパキスタンの初代首相・[[リヤーカト・アリー・ハーン]]のカシミール問題への対応が生ぬるいとして、アクバル・カーン陸軍少将を中心としてクーデターが企てられ、計画は中止になったが当局に発覚し、[[3月9日]]から合計13名が逮捕された(ラーワルピンディー陰謀事件)。この逮捕者の中に、ウルドゥー文学を代表する詩人[[ファイズ・アハマド・ファイズ]]が含まれていた。 1951年[[10月16日]]、首相のリヤーカト・アリー・ハーンは市内のマリー通りにある公園での政治集会の最中に、胸に2発の銃弾を浴びて[[暗殺]]された。この地は彼の名を取って「リヤーカト公園」となっている。[[1979年]]、大統領だった[[ズルフィカール・アリー・ブットー]]が[[絞首刑]]に処されたのはラーワルピンディーである。 [[2003年]][[12月14日]]、ラーワルピンディー郊外の橋が[[パルヴェーズ・ムシャラフ|ムシャラフ]]大統領の車列が通過した直後に爆破される暗殺未遂事件が発生したが、大統領らに被害はなかった。それから間もない[[12月25日]]には、またもムシャラフ大統領の車列めがけて爆弾を積載した車両が突入する[[自爆テロ]]事件が発生、やはり大統領らは被害を受けなかったが、市民14人が死亡する惨事となった。 [[ファイル:Memorail of Benazir Bhutto.JPG|thumb|right|ベーナズィール・ブットー暗殺現場のメモリアル]] また、[[2007年]][[12月27日]]、「リヤーカト公園」での[[パキスタン人民党]]支持者の選挙集会に参加しようとした元首相・[[ベーナズィール・ブットー]]は、直前に発生した自爆テロで集会が中止となり公園を車で立ち去ろうとした際に銃撃され暗殺された({{仮リンク|ベーナズィール・ブットー暗殺事件|en|Assassination of Benazir Bhutto}})。直接の死因は銃撃によるものか、直後に犯人が自爆した爆発によるものかは今も不明である。 == 交通 == === 鉄道 === 市内には、イギリス植民地様式の駅舎が特徴の[[ラーワルピンディー駅]]があり、当駅を経由してペシャーワル - [[カラチ]]間を連絡する列車が運行されている。 === 空港 === 市内には[[ベナジル・ブット国際空港]]があったが、2018年5月に民間便は[[イスラマバード国際空港]]に移転した。 == 関連項目 == * [[パキスタンの都市の一覧]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commons&cat}} * [http://www.worldisround.com/articles/49333/index.html Worldisround.com - Images of Rawalpindi] * [http://www.pindiplus.com Rawalpindi Complete History, Photos, Maps, Videos Website] {{Coord|33|36|12|N|73|3|1|E|region:PK_scale:300000|display=title}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:らわるひんてい}} [[Category:ラーワルピンディー|*]] [[Category:パキスタンの都市]] [[Category:パンジャーブ (パキスタン)]] {{Pakistan-stub}}
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モスク
モスク(英: mosque)は、イスラム教の礼拝堂のことである。 アラビア語ではマスジド(مَسْجِد, masjid, 「ひざまずく場所」(サジダ سجدة を行う場所)の意)もしくはジャーミイ(جامع, jāmiʿ, 「集まり」(ジュムア جمعة も同源)の意)と言い、モスクはマスジドが訛った語である。イスラーム帝国がイベリア半島を占領していた時代、マスジドがスペイン語でメスキータ (mezquita) となり、それが英語ではさらに訛ってモスク (mosque) となった。多くの言語ではマスジドに由来する言葉で呼ぶが、ジャーミイに由来する言葉で呼ぶ言語(トルコ語でcami、ギリシャ語でτζαμί (jami)、アルバニア語xhami、ルーマニア語džámija)もある。中国ではモスクを清真寺(qīngzhēnsì、せいしんじ、清真はハラールの中国語訳)と呼び、ロシアではメチェーチ(Мечеть)と呼んでいる。 モスクは欧米、日本、韓国などにおける呼称である。しばしばイスラーム寺院または回教寺院と訳されるが、モスクの中には一部の例外となるものを除いて崇拝の対象物はなく、あくまで礼拝を行うための場である。 モスクは都市の各街区、各村ごとに設けられる。都市の中心には金曜礼拝を行うための大きなモスクが置かれ、金曜モスク(マスジド・ジャーミー مسجد جامع masjid jāmi` 、略してジャーミー جامع jāmi` )と呼ばれる 。このようなモスクは、専任職員としてイマーム(導師)、ムアッジン(アザーンを行う者)を抱えている。エジプトのカイロにあるアズハルのような特に大きなモスクは複合施設(コンプレックス)を伴っており、マスジド(ジャーミー)だけでなくマドラサ(イスラーム学院)や病院、救貧所のような慈善施設が併設されている場合もある。これらのモスク複合施設の維持・運営はワクフ(寄進財産)によって担われる。 伝統的に、モスクは政府の布告を通達する役所、カーディーの法廷が開かれる裁判所、ムスリム(イスラーム教徒)の子弟に読み書きを教える初等学校(クッターブ)であった。また、小モスクは現在でも「無料人生相談所」とでも言うべき機能を持っており、近隣に住むイスラーム法の知識を持った人物が、人生相談に対してイスラーム法に基づいて助言・回答などを与える場所として活用されている。 一部のモスクは、イスラム過激派の勧誘に利用されていると報道されている。 また、モスクの中には歴史上ならび芸術的な観点での付加価値が高いものがあり、世界各国に点在する。それらの中には、嘗て存在していたが何らかの要因から倒壊してしまったものや損壊が著しいもの、ある理由から存在自体が危ぶまれているものが含まれている。このため、これらを如何なる形で確実に保存あるいはどう復元させるかが問題となっている面がある。 モスクのない地域ではムスリムの旅行者や留学生に配慮し、駅の構内や市役所などの公共施設やホテルに礼拝用の部屋を用意する例もある。またオリンピックなどの大規模なイベントではムスリムの旅行者が急増するため、トラックの荷台に礼拝所を乗せた「モスクカー」で対応することも検討されている。 内部には、イスラーム教の偶像崇拝の徹底排除の教義に従い、神や天使や預言者・聖者の像(偶像)は置かれることも描かれることもない。装飾はもっぱら幾何学模様のようなものだけである。マッカ(メッカ)の方角(この方角をキブラ( قبلة qibla)という)に向けて、壁にミフラーブ( محراب miḥrāb)と呼ばれる窪みがある。これは、『コーラン』の規程に従ってメッカの方向に対して行わる礼拝の方向をモスクに集う人々に指し示すためのもので、礼拝の場であるモスクに必須の設備である。その向かって右隣にはイマームが集団礼拝の際に説教を行う階段状の説教壇がある。付属設備としては、礼拝の前に体を清めるための泉(ウドゥー、泉がない場合はシャワールームで代用)などが見られ、礼拝への呼びかけに用いるミナレット(マナーラ)を有する場合も多い。 建築構造は、回廊に囲まれた四角形の広い中庭と礼拝堂を持つ形が基本形である。アラブ圏ではダマスカスのウマイヤ・モスクのようにキリスト教の教会の構造を取り入れた多柱式のモスクが主流であったが、イランではイーワーン(半ドーム)を多用した形式が起こった。アナトリア半島では中庭をドームで覆う形式が起こり、オスマン帝国に至ってビザンツ帝国のキリスト教の教会建築を取り入れ、大ドームを小ドームや半ドームで支えることで柱のない広大な礼拝堂空間を持つ形式を生み出した。オスマン帝国はコンスタンティノープル(現・イスタンブール)征服後、教会だったアヤソフィアをモスクに転用した(トルコ共和国建国後、博物館とされた)。 図像を廃した内装と外観を持つモスクは、その装飾美・建築美から、非イスラーム教徒にとっても観光施設としての役割も果たしている。イスタンブールのスルタンアフメト・モスク(トルコ語名スルタンアフメット・ジャーミー。通称ブルーモスク)や、イラン、イスファハーンのイマーム・モスク(ペルシア語名マスジデ・エマーム。旧名はマスジデ・シャーで、意味は「王のモスク」)などの著名なモスクは世界遺産に登録されており、世界中から観光客を集めている。 ムスリムの居住者や旅行者が増えると、イスラム圏以外でもモスクが新設される。日本では1935年開設の神戸ムスリムモスク(兵庫県神戸市)が最古である。早稲田大学教授の店田廣文によると、1980年代末に3カ所だった日本国内のモスクは、2018年末時点で36都道府県105カ所へと増えている。1980年代のバブル景気時にイスラム圏のイランやパキスタン、バングラデシュから労働者が、1990年代以降は留学生や研修生、技能実習生としてインドネシアなどから来日するムスリムの増加を背景に、三大都市圏から各地の県庁所在地などへ広がった。日本国内のモスクは礼拝のほか、在日ムスリムの結婚式に使われることもある。 2019年時点で日本国内には約20万人のムスリムが暮らすと推定されており、うち約4万3000人は改宗・入信した日本人である。日本全体では少数であるため、近隣でのモスク設立に不安・反発を表明する日本人も多い。このため町内会に加盟するなど地域活動に参加したり、街並みに調和した外観にしたりするといった配慮をするモスクもある。
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モスクは、イスラム教の礼拝堂のことである。 アラビア語ではマスジドもしくはジャーミイと言い、モスクはマスジドが訛った語である。イスラーム帝国がイベリア半島を占領していた時代、マスジドがスペイン語でメスキータ (mezquita) となり、それが英語ではさらに訛ってモスク (mosque) となった。多くの言語ではマスジドに由来する言葉で呼ぶが、ジャーミイに由来する言葉で呼ぶ言語もある。中国ではモスクを清真寺(qīngzhēnsì、せいしんじ、清真はハラールの中国語訳)と呼び、ロシアではメチェーチ(Мечеть)と呼んでいる。 モスクは欧米、日本、韓国などにおける呼称である。しばしばイスラーム寺院または回教寺院と訳されるが、モスクの中には一部の例外となるものを除いて崇拝の対象物はなく、あくまで礼拝を行うための場である。
{{Islam}} '''モスク'''({{lang-en-short|mosque}})は、[[イスラム教]]の[[礼拝堂]]のことである。 [[アラビア語]]では'''マスジド'''({{rtl-lang|ar|'''مَسْجِد'''}}, masjid, 「ひざまずく場所」([[サジダ]] {{rtl-lang|ar|سجدة}} を行う場所)の意)もしくは'''ジャーミイ'''(جامع, jāmiʿ, 「集まり」([[合同礼拝 (クルアーン)|ジュムア]] {{rtl-lang|ar|جمعة}} も同源)の意)と言い、モスクはマスジドが訛った語である。[[イスラム帝国|イスラーム帝国]]が[[イベリア半島]]を占領していた時代、マスジドが[[スペイン語]]でメスキータ (mezquita) となり、それが[[英語]]ではさらに訛ってモスク (mosque) となった。多くの言語ではマスジドに由来する言葉で呼ぶが、ジャーミイに由来する言葉で呼ぶ言語([[トルコ語]]でcami、[[ギリシャ語]]でτζαμί (jami)、[[アルバニア語]]<nowiki/>xhami、[[ルーマニア語]]<nowiki/>džámija)もある。[[中国]]ではモスクを'''清真寺'''(qīngzhēnsì、せいしんじ、清真は[[ハラール]]の[[中国語]]訳)と呼び、ロシアでは'''メチェーチ'''(Мечеть)と呼んでいる。 モスクは[[欧米]]、[[日本]]、[[大韓民国|韓国]]などにおける呼称である。しばしば'''イスラーム寺院'''または'''回教寺院'''と訳されるが、モスクの中には一部の例外となるもの<ref group="注釈">[[マウソレウム]]としての機能を持つものが現在2ヶ所存在している。[[サウジアラビア]]の[[預言者のモスク]]は[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の[[廟|霊廟]]として存在、[[トルクメニスタン]]の{{仮リンク|テュルクメンバシュ・ルーフ・モスク|en|Türkmenbaşy Ruhy Mosque}}は初代大統領である[[ニヤゾフ]]の[[家族]]を葬っており、そのモスクの隣にはニヤゾフの霊廟が設けられている。</ref>を除いて崇拝の対象物はなく、あくまで礼拝を行うための場である。 == 概要 == [[画像:Egypt.Aswan.Mosque.01.jpg|thumb|left|[[エジプト]]の[[アスワン]]にあるモスク]] モスクは都市の各街区、各村ごとに設けられる。都市の中心には[[金曜礼拝]]を行うための大きなモスクが置かれ、金曜モスク(マスジド・ジャーミー {{rtl-lang|ar|مسجد جامع}} {{lang|ar-Latn|masjid jāmi` }}、略してジャーミー {{rtl-lang|ar|جامع}} {{lang|ar-Latn|jāmi` }})と呼ばれる<ref group="注釈">[[ムスリム]]は金曜日にモスクに集まって皆で一緒に礼拝するため、[[金曜日]]はアラビア語で「集まる」を意味する動詞{{rtl-lang|ar| جَمَعَ}} {{lang|ar-Latn|jama`a}} に由来する {{rtl-lang|ar|جُمْعَة}} {{lang|ar-Latn|jum`a}}と呼ばれる。このため、特にその地区や地域で重要であったり大きなモスクを「ジャーミー」「ジャーミウ」 {{rtl-lang|ar|جامع}} {{lang|ar-Latn|jāmi`}} と呼ぶ。</ref> 。このようなモスクは、専任職員として[[イマーム]](導師)、[[ムアッジン]]([[アザーン]]を行う者)を抱えている。[[エジプト]]の[[カイロ]]にある[[アズハル]]のような特に大きなモスクは複合施設(コンプレックス)を伴っており、マスジド(ジャーミー)だけでなく[[マドラサ]](イスラーム学院)や病院、救貧所のような慈善施設が併設されている場合もある。これらのモスク複合施設の維持・運営は[[ワクフ]](寄進財産)によって担われる。 伝統的に、モスクは政府の布告を通達する役所、[[カーディー]]の法廷が開かれる裁判所、[[ムスリム]](イスラーム教徒)の子弟に読み書きを教える初等学校([[クッターブ]])であった。また、小モスクは現在でも「無料人生相談所」とでも言うべき機能を持っており、近隣に住む[[イスラム法|イスラーム法]]の知識を持った人物が、人生相談に対してイスラーム法に基づいて助言・回答などを与える場所として活用されている。 一部のモスクは、[[イスラム過激派]]の勧誘に利用されていると報道されている<ref>[https://jp.wsj.com/articles/SB11911181872401054173104581387274151221638 「難民を勧誘するイスラム過激派-警戒強めるドイツ」]『[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]』2015年12月1日(2019年11月28日閲覧)</ref>。 また、モスクの中には歴史上ならび芸術的な観点での付加価値が高いものがあり、世界各国に点在する。それらの中には、嘗て存在していたが何らかの要因から倒壊してしまったもの<ref group="注釈">[[トルクメニスタン]]の[[アナウ]]に存在していたセイット・ジュマール・アッディン・モスク(SEYIT JAMAL-AD-DIN MOSQUE)がその一例</ref><ref name="ruvr">{{Cite web|url=http://www.kufic.info/architecture/anau/anau.htm|title=Shrine complex of Jamal al-Din, Anau, Turkmenistan|publisher=Square Kufic|accessdate=2016-8-27}}</ref>や損壊が著しいもの、ある理由から存在自体が危ぶまれているもの<ref group="注釈">[[マリ共和国|マリ]]の[[泥のモスク]]がその一例</ref>が含まれている。このため、これらを如何なる形で確実に保存あるいはどう復元させるかが問題となっている面がある。 モスクのない地域ではムスリムの旅行者や留学生に配慮し、駅の構内や市役所などの公共施設やホテルに礼拝用の部屋を用意する例もある。また[[オリンピック]]などの大規模なイベントではムスリムの旅行者が急増するため、[[貨物自動車|トラック]]の荷台に礼拝所を乗せた「モスクカー」で対応することも検討されている<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180724/k10011546031000.html 50人超が礼拝できる「モスクカー」開発 五輪でのもてなしに]{{リンク切れ|date=2019年11月}} - [[日本放送協会|NHK]] 2018年7月23日</ref>。 == モスクの内部と付属設備 == [[画像:東京ジャーミー_内部.jpg|thumb|200px|left|礼拝堂内部(東京ジャーミー)]] 内部には、イスラーム教の偶像崇拝の徹底排除の教義に従い、[[神]]や[[天使]]や[[預言者]]・[[聖者]]の像([[偶像]])は置かれることも描かれることもない。装飾はもっぱら[[幾何学]]模様のようなものだけである。[[マッカ]](メッカ)の方角(この方角を[[キブラ]]( {{rtl-lang|ar|قبلة}} qibla)という)に向けて、壁に[[ミフラーブ]]( {{rtl-lang|ar|محراب}} {{lang|ar-Latn|miḥrāb}})と呼ばれる窪みがある。これは、『[[コーラン]]』の規程に従ってメッカの方向に対して行わる礼拝の方向をモスクに集う人々に指し示すためのもので、礼拝の場であるモスクに必須の設備である。その向かって右隣には[[イマーム]]が集団礼拝の際に説教を行う階段状の説教壇がある。付属設備としては、礼拝の前に体を清めるための[[泉]](ウドゥー、泉がない場合は[[シャワー]]ルームで代用)などが見られ、礼拝への呼びかけに用いる[[ミナレット]](マナーラ)を有する場合も多い。 {{-}} == モスク建築 == 建築構造は、回廊に囲まれた四角形の広い中庭と礼拝堂を持つ形が基本形である。[[アラブ]]圏では[[ダマスカス]]の[[ウマイヤ・モスク]]のように[[キリスト教]]の[[教会 (キリスト教)|教会]]の構造を取り入れた多柱式のモスクが主流であったが、[[イラン]]では[[イーワーン]](半ドーム)を多用した形式が起こった。[[アナトリア半島]]では中庭をドームで覆う形式が起こり、[[オスマン帝国]]に至って[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]の[[キリスト教]]の[[教会堂|教会建築]]を取り入れ、大ドームを小ドームや半ドームで支えることで柱のない広大な礼拝堂空間を持つ形式を生み出した。オスマン帝国は[[コンスタンティノープル]](現・[[イスタンブール]])征服後、教会だった[[アヤソフィア]]をモスクに転用した([[トルコ共和国]]建国後、博物館とされた)。 図像を廃した内装と外観を持つモスクは、その装飾美・建築美から、非イスラーム教徒にとっても観光施設としての役割も果たしている。イスタンブールの[[スルタンアフメト・モスク]]([[トルコ語]]名スルタンアフメット・ジャーミー。通称[[ブルーモスク]])や、イラン、[[イスファハーン]]のイマーム・モスク([[ペルシア語]]名マスジデ・エマーム。旧名はマスジデ・シャーで、意味は「王のモスク」)などの著名なモスクは[[世界遺産]]に登録されており、世界中から観光客を集めている。 == 日本におけるモスク == {{main|日本のモスクの一覧}} ムスリムの居住者や旅行者が増えると、[[イスラム世界|イスラム圏]]以外でもモスクが新設される。[[日本]]では1935年開設の[[神戸モスク|神戸ムスリムモスク]]([[兵庫県]][[神戸市]])が最古である<ref>「神々の戸を開いた街」『[[日本経済新聞]]』朝刊2019年1月13日(NIKKEI The STYLE)。</ref>。[[早稲田大学]]教授の店田廣文によると、1980年代末に3カ所だった日本国内のモスクは、2018年末時点で36都道府県105カ所へと増えている。1980年代の[[バブル景気]]時にイスラム圏のイランや[[パキスタン]]、[[バングラデシュ]]から労働者が、1990年代以降は留学生や研修生、[[技能実習生]]として[[インドネシア]]などから来日するムスリムの増加を背景に、[[三大都市圏]]から各地の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]などへ広がった<ref name="mainichi20191128">[https://mainichi.jp/articles/20191128/ddm/012/040/084000c 【追跡】増えるモスク 共存課題/36都道府県に105カ所/残る偏見 交流少なく/イスラム圏から留学生、労働者増加]『[[毎日新聞]]』朝刊2019年11月28日(総合面)同日閲覧。</ref>。日本国内のモスクは礼拝のほか、在日ムスリムの結婚式に使われることもある<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/photograph/zoomup/20190218-OYT8T50049/ 【ズームアップ】ご近所のムスリム]『[[読売新聞]]』夕刊2019年2月18日(5面)2019年2月26日閲覧。</ref>。 2019年時点で日本国内には約20万人のムスリムが暮らすと推定されており、うち約4万3000人は[[改宗]]・入信した[[日本人]]である。日本全体では少数であるため、近隣でのモスク設立に不安・反発を表明する日本人も多い。このため[[町内会]]に加盟するなど地域活動に参加したり、街並みに調和した外観にしたりするといった配慮をするモスクもある<ref name="mainichi20191128"/>。 == ギャラリー == <gallery> 画像:Nuruosmaniye Mosque.jpg|伝統様式のヌルオスマニエ・モスク 画像:Umayyad Mosque, Damascus.jpg|世界最古の[[ウマイヤド・モスク]] 画像:Shah Faisal Masjid, Islamabad.JPG|現代建築の[[ファイサル・モスク]] 画像:Sultan Ahmed I Mosque 50.jpg|[[スルタンアフメト・モスク]](イスタンブール) 画像:Edirne 7333 Nevit.JPG|[[セリミエ・モスク]]([[エディルネ]]) 画像:Putrajaya Malaysia Putra-Mosque-04.jpg|[[プトラ・モスク]]([[マレーシア]]) 画像:2016 Kuala Lumpur, Meczet Narodowy Malezji (02).jpg|[[マスジッド・ネガラ]](マレーシア) 画像:Mazar-e sharif - Steve Evans.jpg|[[マザーリシャリーフ]]([[アフガニスタン]]) 画像:Jami-Ul-Alfar.jpg|ジャミ・ウル・アルファー・モスク([[スリランカ]]) 画像:2013-10-03 Lead Mosque, Shkodër 0214.jpg|リードモスク([[アルバニア]]) 画像:La Grande Mosquée, Djenné, Mali.Date du cliché 1972-27-12.jpg|[[泥のモスク]]([[マリ共和国]]) 画像:Nasir-ol-Molk Mosque, Shiraz, Iran (1249315683).jpg|[[ナスィーロル・モルク・モスク]](イラン) 画像:Mosque SPB.jpg|サンクトペテルブルクモスク([[ロシア]]) 画像:Sunshine Mosque.jpg|サンシャインモスク([[オーストラリア]]) 画像:Chinese-style minaret of the Great Mosque.jpg|[[西安大清真寺]](中国) 画像:Niujie Mosques02.jpg|[[牛街清真寺]](中国・[[北京市]]) 画像:Kobe-mosque3.jpg|[[神戸モスク]]([[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]) 画像:東京ジャーミー.jpg|[[東京ジャーミイ|東京ジャーミー]]([[東京都]][[渋谷区]]) 画像:ناغويا هسجد.jpg|[[名古屋モスク]]([[愛知県]][[名古屋市]][[中村区]]) </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat|Mosque|Mosques}} * [[イスラーム建築]] * [[著名なモスクの一覧]] == 外部リンク == * [https://www.ne.jp/asahi/arc/ind/2_meisaku/17_amr/amr.htm オールド・カイロ、アムルのモスク (日本語)] * [https://www.ne.jp/asahi/arc/ind/2_meisaku/32_damascus/damas.htm ダマスクス、ウマイヤのモスク (日本語)] * [https://www.ne.jp/asahi/arc/ind/2_meisaku/53_lotfollah/lotfoll.htm イスファハーン、シャイフ・ロトフォッラー・モスク (日本語)] * [https://www.ne.jp/asahi/arc/ind/6_china/northern/north.htm 中国北部のイスラーム建築」 北京のモスクなど] * [https://www.ne.jp/asahi/arc/ind/8_books/archit/archit.htm 書籍、神谷武夫著『イスラーム建築』] {{宗教}} {{建築}} {{イスラーム建築}} {{Authority control}} {{Portal bar|イスラーム|アジア|建築}} {{デフォルトソート:もすく}} [[Category:モスク|*もすく]] [[Category:イスラム教]] [[Category:イスラーム建築]]
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ミナレット
ミナレット(Minaret)は、モスクやマドラサなどのイスラム教の宗教施設に付随する塔。塔の上からはイスラム教徒に礼拝(サラート)を呼びかけるアザーンが流される。初期イスラーム世界では、ミナレットはイスラームの権威の象徴となっていた。 ミナレットはアラビア語で「火、光を灯す場所」を意味するマナーラ (منارة manāra) が英語に転訛した言葉である。アラビア語では「光(ヌール)」「火(ナーラ)」から派生したマナール (منار manār) あるいはマナーラ (منارة manāra) のほか、「アザーンを行う場所」を意味するマアザナと呼ばれることもある。トルコ語では「ミナレ(Minare)」と呼ばれ、エジプトやシリアでは「マダーナ(Ma'dhana)」「ミダーナ(Mi'dhana)」、北アフリカでは「サウマアー(Șawma'a)」とも呼ばれる。南アジアではミーナール (مينار mīnār) とも呼ばれる。日本語では「光塔」「尖塔」と訳されることもある。 起源については不明であるが、シリア地方のキリスト教の教会に付設されていた鐘楼を転用したとする説があり、 また語源からシリア・エジプトの沿岸部にあった灯台や砂漠に立てられた目印の塔を起源とするとも考えられている。7世紀の時点ではミナレットは建てられておらず、礼拝の呼びかけは屋根の上で行われていた。705年にウマイヤ朝のカリフに即位したワリード1世はマディーナ(メディナ)の預言者のモスクの改築を行い、改装されたモスクの四隅に一辺4m、高さ25m超のミナレットが備えられていたと伝えられている。 8世紀から10世紀にかけて角柱状の塔がイランからイベリア半島にわたる広範な地域で建てられ、スペインの南部にはキリスト教教会の鐘楼に転用されたミナレットもある。9世紀の一時期にはイラク、エジプトでマルウィヤ・ミナレットなどの螺旋状のミナレットが建てられ、それらのミナレットはバベルの塔をモデルにしていると言われている。11世紀に中央アジア、イランに円柱状の塔が現れ、12世紀以後に二基一対の型(ドゥ・ミナール)が流行した。セルジューク朝で考案されたドゥ・ミナールは、イランから離れたインドやアナトリア半島に伝播する。デリーのクトゥブ・ミナールには円柱状の塔、鰭状のフリンジ、アラビア語の銘文、ムカルナス、そしてドゥ・ミナールといったイランの建築様式の影響が見受けられる。 15世紀のオスマン帝国時代に細く先が尖った鉛筆型のミナレットが主流になる。オスマン帝国はイスタンブールの聖ソフィア大聖堂をモスクに転用した後、4本のミナレットを増築している。 イラン、トルコなどの地域で複数のミナレット建てられたことを契機として、ミナレットの役割は従来の礼拝の呼びかけを行う場から建築装飾に変化していった。 ミナレットはモスクのミフラーブを主軸とする線上に建てられることが多いが、中庭の片隅や門の両脇に立てられることもある。大モスクのミナレットは高く凝った装飾が施されているのに対し、住宅地や集落のミナレットは低くずんぐりしたものになっている。 シリア、北アフリカでは角柱、イラク、イラン、トルコでは円柱のミナレットが多く、エジプトに多い折衷型のミナレットは長方形の土台に八角形と円柱の塔を積み上げ、角柱と円柱の間の部分に壁画が描かれている。イラン、中央アジアに建設された角柱状のミナレットは基部が発掘されるだけに留まっており、実際の塔の高さや形状は判明していない。北アフリカでも一時期円柱のミナレットが建設されたが、時代を通して初期の様式である角柱のミナレットが好まれている。9世紀前半に建てられたカイラワーン(ケルアン)のミナレットは同時代の螺旋型のミナレットや前時代のシリアのミナレットと異なり、三層の角柱を積み重ねた形状を取っているが、独特のミナレットの形は古代ローマ時代の灯台をモデルにしていると考えられている。ミナレットの頂上に円錐状の屋根を乗せるオスマン様式のミナレットは、先に円錐状の屋根が取り付けられていた墓塔からの影響があると考えられている。オスマン帝国の領内では、オスマン様式が流行する前に建てられたミナレットの上に新たに鉛筆型のミナレットが増築された例も確認されている。1986年にパキスタンのイスラマバードに建立されたシャー・ファイサル・国家モスクはトルコ人建築家が設計を手がけたため、銀色のオスマン様式の尖塔が4本建てられている。日本の東京ジャーミイはトルコ共和国の所有地に建てられているため、オスマン様式の尖塔が建てられている。 門の両脇に一対のミナレットを建てる様式はドゥ・ミナールと呼ばれ、対象性によってモスクの入り口が視覚的に強調される。ドゥ・ミナール様式は広い地域に普及したが、やがて中央アジアでは建物の隅に対になる塔が建てられるようになり、15世紀にドゥ・ミナール様式が廃れたアナトリア半島では敷地の隅にミナレットが建てられるようになったエジプトではドゥ・ミナール様式が採用されることは少なく、モスクに複数のミナレットが建てられている場合、ドームと並ぶミナレットの高さを強調するためにそれぞれが異なる形をとっている。 遺体が安置された場所の上に建てられる墓塔は内部が空洞になっているのに対し、ミナレットの内部には昇降のための階段が設けられている。時代が経つに連れてミナレットの形が角柱から円柱に変化していった理由について、円柱型のミナレットの内部にもうけられた螺旋階段が塔の強度を高めていることが挙げられている。ミナレットの中の螺旋階段は登る階段と下りる階段が別れた二重構造になっており、15世紀のオスマン帝国では階段板を120度ずつ組み込む三重の螺旋階段が出現した。 11世紀の後半から塔の縦方向の境界となるフリンジを付けたミナレットが現れ、塔に取り付けられたフリンジは光、太陽の象徴だと考えられている。また、11世紀のイランで発展したムカルナスの技法はミナレットの軒飾りにも取り入れられている。スペインのコルドバの大モスク(メスキータ)はレコンキスタの後にキリスト教の教会に転用され、16世紀末にモスクのミナレットが嵐によって破損すると、修復工事の際にミナレットの上部にルネサンス様式の装飾が加えられた。 ミナレットは1日に5度行われる礼拝の呼びかけ(アザーン)の場となるほか、要人の死を知らせるためにも使われていた。サファヴィー朝以降のイランではシーア派が国教に採用されたため、アザーンはイーワーン(門)の上のゴルダステと呼ばれる小屋で行われるようになり、ミナレットは建築物の装飾の一つとなる。近代以前はアザーンを呼びかける人間(ムアッジン)が肉声で礼拝を呼びかけていたが、多くのモスクでは礼拝室に設けられたマイクを通してスピーカーからアザーンを流している。スピーカーの普及が進んだ事情に加えて、本来のモスクにはミナレットは備え付けられていなかった歴史的な経緯、建築費の抑制という点から、ミナレットの建設を不要とする主張も出されている。 北アフリカではミナレットは「隠遁所」を意味する「サウマアー(サウマア)」と呼ばれているが、これはミナレットの中に高僧が宿泊する小部屋が設けられていたことに由来する。イランのケルマーンの東のカヴィール砂漠には崩壊しかかったミナレットが一定の間隔を置いて建っているが、これらのミナレットは狼煙台として使われていたと考えられている。ミナレットの麓にあるモスクでは国家の支配者を明らかにするフトバ(説教)が行われており、高層建築物は一種の権力の象徴になっていた。こうした支配者の意図を逆手に取り、民衆がミナレットを抗議活動の場とすることもあった。
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ミナレット(Minaret)は、モスクやマドラサなどのイスラム教の宗教施設に付随する塔。塔の上からはイスラム教徒に礼拝(サラート)を呼びかけるアザーンが流される。初期イスラーム世界では、ミナレットはイスラームの権威の象徴となっていた。 ミナレットはアラビア語で「火、光を灯す場所」を意味するマナーラ が英語に転訛した言葉である。アラビア語では「光(ヌール)」「火(ナーラ)」から派生したマナール あるいはマナーラ のほか、「アザーンを行う場所」を意味するマアザナと呼ばれることもある。トルコ語では「ミナレ(Minare)」と呼ばれ、エジプトやシリアでは「マダーナ(Ma'dhana)」「ミダーナ(Mi'dhana)」、北アフリカでは「サウマアー(Șawma'a)」とも呼ばれる。南アジアではミーナール とも呼ばれる。日本語では「光塔」「尖塔」と訳されることもある。
{{Otheruses||同名の企業|ミナレット (企業)}} {{Islam}} '''ミナレット'''(Minaret、{{lang-ar|مَنارة}}もしくは{{lang|ar|مِئذَنة}})は、[[モスク]]や[[マドラサ]]などの[[イスラム教]]の宗教施設に付随する[[塔]]。塔の上からは[[イスラム教徒]]に礼拝([[サラート]])を呼びかける[[アザーン]]が流される。初期イスラーム世界では、ミナレットはイスラームの権威の象徴となっていた<ref name="si-jiten">杉村「ミナレット」『新イスラム事典』、471-472頁</ref>。 ミナレットは[[アラビア語]]で「火、光を灯す場所」を意味するマナーラ (&#1605;&#1606;&#1575;&#1585;&#1577; man&#257;ra) が[[英語]]に転訛した言葉である<ref name="si-jiten"/>。アラビア語では「光(ヌール)」「火(ナーラ)」から派生したマナール (&#1605;&#1606;&#1575;&#1585; man&#257;r) あるいはマナーラ (&#1605;&#1606;&#1575;&#1585;&#1577; man&#257;ra) のほか、「アザーンを行う場所」を意味するマアザナと呼ばれることもある。[[トルコ語]]では「ミナレ(Minare)」と呼ばれ、[[エジプト]]や[[シリア]]では「マダーナ(Ma'dhana)」「ミダーナ(Mi'dhana)」、北アフリカでは「サウマアー(Șawma'a)」とも呼ばれる<ref>村田「ミナール」『アジア歴史事典』8巻、405頁</ref>。[[南アジア]]ではミーナール (&#1605;&#1610;&#1606;&#1575;&#1585; m&#299;n&#257;r) とも呼ばれる。日本語では「光塔」「尖塔」と訳されることもある<ref name="omoshiroi">深見『イスラム建築がおもしろい』、42-43頁</ref>。 == 歴史 == 起源については不明であるが、[[歴史的シリア|シリア地方]]の[[キリスト教]]の[[教会 (キリスト教)|教会]]に付設されていた鐘楼を転用したとする説があり、 また語源からシリア・[[エジプト]]の沿岸部にあった[[灯台]]や[[砂漠]]に立てられた目印の塔を起源とするとも考えられている<ref name="si-jiten"/><ref name="omoshiroi"/>。[[7世紀]]の時点ではミナレットは建てられておらず、礼拝の呼びかけは屋根の上で行われていた<ref name="omoshiroi"/>。[[705年]]に[[ウマイヤ朝]]のカリフに即位した[[ワリード1世]]は[[マディーナ]](メディナ)の[[預言者のモスク]]の改築を行い、改装されたモスクの四隅に一辺4m、高さ25m超のミナレットが備えられていたと伝えられている<ref>羽田『モスクが語るイスラム史』、52-54頁</ref>。 [[8世紀]]から[[10世紀]]にかけて角柱状の塔が[[イラン]]から[[イベリア半島]]にわたる広範な地域で建てられ、[[スペイン]]の南部にはキリスト教教会の鐘楼に転用されたミナレットもある<ref name="omoshiroi"/>。[[9世紀]]の一時期には[[イラク]]、エジプトで[[マルウィヤ・ミナレット]]などの螺旋状のミナレットが建てられ、それらのミナレットは[[バベルの塔]]をモデルにしていると言われている<ref name="fukami2003-89">深見『イスラーム建築の見かた』、89頁</ref>。[[11世紀]]に[[中央アジア]]、イランに円柱状の塔が現れ、[[12世紀]]以後に二基一対の型(ドゥ・ミナール)が流行した<ref name="omoshiroi"/>。[[セルジューク朝]]で考案されたドゥ・ミナールは、イランから離れた[[インド亜大陸|インド]]や[[アナトリア半島]]に伝播する<ref>深見『イスラーム建築の世界史』、83-84頁</ref>。[[デリー]]の[[クトゥブ・ミナール]]には円柱状の塔、鰭状の[[フリンジ]]、アラビア語の銘文、[[ムカルナス]]、そしてドゥ・ミナールといったイランの建築様式の影響が見受けられる<ref>深見『イスラーム建築の世界史』、101-102頁</ref>。 [[15世紀]]の[[オスマン帝国]]時代に細く先が尖った鉛筆型のミナレットが主流になる<ref name="omoshiroi"/>。オスマン帝国は[[イスタンブール]]の[[聖ソフィア大聖堂]]をモスクに転用した後、4本のミナレットを増築している。 イラン、トルコなどの地域で複数のミナレット建てられたことを契機として、ミナレットの役割は従来の礼拝の呼びかけを行う場から建築装飾に変化していった<ref>深見『イスラーム建築の見かた』、100頁</ref>。 == 構造 == [[Image:Jam Minaret interior.jpg|thumb|left|160px|ジャームのミナレット内部の階段]] ミナレットはモスクの[[ミフラーブ]]を主軸とする線上に建てられることが多いが、中庭の片隅や門の両脇に立てられることもある<ref name="si-jiten"/><ref name="omoshiroi"/>。大モスクのミナレットは高く凝った装飾が施されているのに対し、住宅地や集落のミナレットは低くずんぐりしたものになっている<ref name="omoshiroi"/>。 シリア、北アフリカでは角柱、イラク、イラン、トルコでは円柱のミナレットが多く、エジプトに多い折衷型のミナレットは長方形の土台に八角形と円柱の塔を積み上げ、角柱と円柱の間の部分に壁画が描かれている<ref name="si-jiten"/>。イラン、中央アジアに建設された角柱状のミナレットは基部が発掘されるだけに留まっており、実際の塔の高さや形状は判明していない<ref>深見『イスラーム建築の見かた』、88-89頁</ref>。北アフリカでも一時期円柱のミナレットが建設されたが、時代を通して初期の様式である角柱のミナレットが好まれている<ref name="fukami2003-90">深見『イスラーム建築の見かた』、90頁</ref>。9世紀前半に建てられた[[ケルアン|カイラワーン]](ケルアン)のミナレットは同時代の螺旋型のミナレットや前時代のシリアのミナレットと異なり、三層の角柱を積み重ねた形状を取っているが、独特のミナレットの形は[[古代ローマ]]時代の灯台をモデルにしていると考えられている<ref>羽田『モスクが語るイスラム史』、91-92頁</ref>。ミナレットの頂上に円錐状の屋根を乗せるオスマン様式のミナレットは、先に円錐状の屋根が取り付けられていた墓塔からの影響があると考えられている<ref name="fukami2003-95">深見『イスラーム建築の見かた』、95頁</ref>。オスマン帝国の領内では、オスマン様式が流行する前に建てられたミナレットの上に新たに鉛筆型のミナレットが増築された例も確認されている<ref>羽田『モスクが語るイスラム史』、194頁</ref>。1986年に[[パキスタン]]の[[イスラマバード]]に建立されたシャー・ファイサル・国家モスクはトルコ人建築家が設計を手がけたため、銀色のオスマン様式の尖塔が4本建てられている<ref>水谷『イスラーム建築の心』、154頁</ref>。[[日本]]の[[東京ジャーミイ]]はトルコ共和国の所有地に建てられているため、オスマン様式の尖塔が建てられている<ref name="fukami2003-95"/>。 門の両脇に一対のミナレットを建てる様式はドゥ・ミナールと呼ばれ、対象性によってモスクの入り口が視覚的に強調される<ref>深見『イスラーム建築の世界史』、83頁</ref>。ドゥ・ミナール様式は広い地域に普及したが、やがて中央アジアでは建物の隅に対になる塔が建てられるようになり、15世紀にドゥ・ミナール様式が廃れたアナトリア半島では敷地の隅にミナレットが建てられるようになったエジプトではドゥ・ミナール様式が採用されることは少なく、モスクに複数のミナレットが建てられている場合、[[ドーム]]と並ぶミナレットの高さを強調するためにそれぞれが異なる形をとっている<ref name="fukami2003-95"/>。 遺体が安置された場所の上に建てられる墓塔は内部が空洞になっているのに対し、ミナレットの内部には昇降のための階段が設けられている<ref>深見『イスラーム建築の見かた』、81頁</ref>。時代が経つに連れてミナレットの形が角柱から円柱に変化していった理由について、円柱型のミナレットの内部にもうけられた螺旋階段が塔の強度を高めていることが挙げられている<ref>深見『イスラーム建築の世界史』、79頁</ref>。ミナレットの中の螺旋階段は登る階段と下りる階段が別れた二重構造になっており、15世紀のオスマン帝国では階段板を120度ずつ組み込む三重の螺旋階段が出現した<ref>深見『イスラーム建築の見かた』、89-90頁</ref>。 11世紀の後半から塔の縦方向の境界となる[[フリンジ]]を付けたミナレットが現れ、塔に取り付けられたフリンジは光、太陽の象徴だと考えられている<ref name="fukami2003-90"/>。また、11世紀のイランで発展した[[ムカルナス]]の技法はミナレットの軒飾りにも取り入れられている。スペインの[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]の大モスク([[メスキータ]])は[[レコンキスタ]]の後にキリスト教の教会に転用され、16世紀末にモスクのミナレットが嵐によって破損すると、修復工事の際にミナレットの上部にルネサンス様式の装飾が加えられた<ref>羽田『モスクが語るイスラム史』、96-97頁</ref>。 == 機能 == ミナレットは1日に5度行われる礼拝の呼びかけ([[アザーン]])の場となるほか、要人の死を知らせるためにも使われていた<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/110007410971 長谷部史彦「ミナレットにおける異議申し立て」]『史学』72巻3号収録(慶應義塾大学, 2003年)、113頁</ref>。[[サファヴィー朝]]以降のイランでは[[シーア派]]が国教に採用されたため、アザーンは[[イーワーン]](門)の上のゴルダステと呼ばれる小屋で行われるようになり、ミナレットは建築物の装飾の一つとなる<ref>深見『イスラーム建築の見かた』、98頁</ref>。近代以前はアザーンを呼びかける人間([[ムアッジン]])が肉声で礼拝を呼びかけていたが、多くのモスクでは礼拝室に設けられたマイクを通してスピーカーからアザーンを流している<ref name="omoshiroi"/>。スピーカーの普及が進んだ事情に加えて、本来のモスクにはミナレットは備え付けられていなかった歴史的な経緯、建築費の抑制という点から、ミナレットの建設を不要とする主張も出されている<ref>水谷『イスラーム建築の心』、43,79頁</ref>。 北アフリカではミナレットは「隠遁所」を意味する「サウマアー(サウマア)」と呼ばれているが、これはミナレットの中に高僧が宿泊する小部屋が設けられていたことに由来する<ref name="fukami2003-96">深見『イスラーム建築の見かた』、96頁</ref>。イランの[[ケルマーン]]の東の[[カヴィール砂漠]]には崩壊しかかったミナレットが一定の間隔を置いて建っているが、これらのミナレットは狼煙台として使われていたと考えられている<ref name="fukami2003-96"/>。ミナレットの麓にあるモスクでは国家の支配者を明らかにする[[フトバ]](説教)が行われており、高層建築物は一種の権力の象徴になっていた<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/110007410971 長谷部史彦「ミナレットにおける異議申し立て」]『史学』72巻3号収録(慶應義塾大学, 2003年)、123-125頁</ref>。こうした支配者の意図を逆手に取り、民衆がミナレットを抗議活動の場とすることもあった<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/110007410971 長谷部史彦「ミナレットにおける異議申し立て」]『史学』72巻3号収録(慶應義塾大学, 2003年)、125頁</ref>。 == ミナレットの一例 == * [[マルウィヤ・ミナレット]]([[イラク]]・[[サーマッラー]]) * [[クトゥブ・ミナール]]([[デリー]]) * [[ジャームのミナレット]]([[アフガニスタン]]・[[ゴール州]]) * [[カラーン・ミナレット]]([[ウズベキスタン]]・[[ブハラ]]) * [[蘇公塔]]([[中華人民共和国|中国]]・[[トルファン]]) <gallery perrow="6"> ファイル:Umayyad Mosque-Minaret al-Gharbiye.jpg|[[シリア]]の[[ウマイヤド・モスク]]のミナレット ファイル:Jam5.jpg|ジャームのミナレット ファイル:Samara spiralovity minaret rijen1973.jpg|マルウィヤ・ミナレット ファイル:Jame mosque portal.jpg|[[エスファハーン]]の[[エスファハーンのジャーメ・モスク|ジャーメ・モスク]]入り口のミナレット ファイル:Minal of Qutub.JPG|クトゥブ・ミナール ファイル:Grand Mosque, Kairouan, Tunisia.JPG|[[チュニジア]]の[[ケルアン]]のミナレット ファイル:Minaret of the Mezquita in Cordoba.JPG|[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]のメスキータのミナレット ファイル:Kairo Ibn Tulun Moschee BW 7.jpg|[[カイロ]]の[[イブン・トゥールーン・モスク]]のミナレット ファイル:Minarets of Hagia Sophia.JPG|ハギア・ソフィア大聖堂のミナレット ファイル:Minaret (5528. számú műemlék) 8.jpg|[[ハンガリー]]の[[エゲル]]のミナレット ファイル:Ulugbek Madrasa 2007.jpg|[[サマルカンド]]の[[ウルグ・ベク・マドラサ]]のミナレット ファイル:Kalon Minaret, Bukhara (4933987001).jpg|カラーン・ミナレット ファイル:Turkish Mosque in Yoyogi Uehara, Tokyo P1020553.jpg|東京ジャーミイのミナレット ファイル:Great Mosque of Xi'an minaret.JPG|中国の[[西安大清真寺]]のミナレット ファイル:Islamic Center of Washington DC.jpg|[[ワシントンD.C.]]のイスラミック・センターのミナレット ファイル:Centro Islamico de Ponce, Bo Cuarto, Ponce, PR (IMG 3392).jpg|[[プエルトリコ]]の[[ポンセ (プエルトリコ)|ポンセ]]のミナレット ファイル:Damascus by night.JPG|[[カシオン山]]からの夜の[[ダマスカス]]。緑の明かりはミナレット </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{Commons category|Minarets}} {{ウィキポータルリンク|イスラーム|[[画像:Allah-green.svg|34px|Portal:イスラーム]]}} * 杉村棟「ミナレット」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月) * 羽田正『モスクが語るイスラム史』(中公新書, 中央公論社, 1994年3月) * 深見奈緒子『イスラーム建築の見かた』(東京堂, 2003年7月) * 深見奈緒子編『イスラム建築がおもしろい』(彰国社, 2010年1月) * 深見奈緒子『イスラーム建築の世界史』(岩波セミナーブックス, 岩波書店, 2013年7月) * 水谷周『イスラーム建築の心』(イスラーム信仰叢書, 国書刊行会, 2010年12月) * 村田治郎「ミナール」『アジア歴史事典』8巻収録(平凡社, 1961年) {{イスラーム建築}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:みなれつと}} [[Category:イスラーム建築]] [[Category:アラブ建築]] [[Category:信仰塔]]
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八正道
八正道(はっしょうどう、巴: ariya-aṭṭhaṅgika-magga, 梵: ārya-aṣṭāṅga-mārga )は、仏教において涅槃に至るための8つの実践徳目である正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のこと。八聖道(八聖道分)、八支正道、もしくは八聖道支ともいう。「道(magga)」とは仏道、すなわち解脱への道のこと。 八正道は釈迦が最初の説法(初転法輪)において説いたとされる。四諦のうちでは道諦にあたり、釈迦の説いた中道の具体的内容ともされる。 katamo ca bhikkhave, ariyo aṭṭhaṅgiko maggo, seyyathīdaṃ: sammādiṭṭhi sammāsaṅkappo sammāvācā sammākammanto sammāājīvo sammāvāyāmo sammāsati sammāsamādhi. 比丘たちよ、聖なる八正道とは何か。 それはすなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。 八正道は三学として、以下の3種類に分類可能である Evameva kho bhikkhave, bhikkhu ariyaṃ aṭṭhaṅgikaṃ maggaṃ bhāvento ariyaṃ aṭṭhaṅgikaṃ maggaṃ bahulīkaronto nibbānaninno hoti, nibbānapoṇo nibbānapabbhāro. まさにそのように、比丘たちよ、八支聖道を修習し、八支聖道を多習する比丘は、涅槃へ向かい、涅槃へ傾き、涅槃へ傾倒する者となる。 正見(しょうけん, 巴: sammā‐diṭṭhi, 梵: samyag-dṛṣṭi)とは、仏道修行によって得られる仏の智慧であり、様々な正見があるが、根本となるのは四諦の真理などを正しく知ることである。 Katamā ca bhikkhave, sammādiṭṭhi? Yaṃ kho bhikkhave, dukkhe ñāṇaṃ dukkhasamudaye ñāṇaṃ dukkhanirodhe ñāṇaṃ dukkhanirodhagāminiyā paṭipadāya ñāṇaṃ, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammādiṭṭhi. 比丘たちよ、正見とは何か。実に比丘たちよ、苦(ドゥッカ)についての智、 苦の集起についての智、苦の滅尽についての智、苦の滅尽に至る道についての智を正見とよぶ。 「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれるように、われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である。このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが、その世俗性の否定によって、結果として、真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである。正見は「四諦の智」といわれる。 この正見は、以下の七種の正道によって実現される。 八正道は全て正見に納まる。 正思惟(しょうしゆい, 巴: sammā-saṅkappa, 梵: samyak-saṃkalpa)とは、正しく考え判断することであり、出離(離欲)を思惟し無瞋を思惟し、無害(アヒンサー)を思惟することである。逆に避けるべき思考は邪思惟(micchāsaṅkappo)である。 Katamo ca bhikkhave, sammāsaṅkappo: yo kho bhikkhave, nekkhammasaṅkappo avyāpādasaṃkappo, avihiṃsāsaṅkappo, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāsaṅkappo. 比丘たちよ、正思惟とは何か。出離、無瞋、無害を正思惟とよぶ。 このうち出離とはパーリの原文ではnekkhamma(ネッカンマ)で、「世俗的なものから離れること」を意味する。財産、名誉、など俗世間で重要視されるものや、感覚器官による快楽を求める「五欲」など、人間の俗世間において渇望するものの否定である。これら3つを思惟することが正思惟である。 Katame ca thapati, akusalasaṅkappā: kāmasaṅkappo byāpādasaṅkappo vihiṃsāsaṅkappo, ime vuccanti thapati akusalasaṅkappā 棟梁(パンチャカンガ)よ、邪思惟とは何か。欲思惟、瞋思惟、害思惟。棟梁よ、これが邪思惟である。 正語(しょうご, 巴: sammā-vācā, 梵: samyag-vāc)とは、妄語(嘘)を離れ、綺語(無駄話)を離れ、離間語(陰口,仲違いさせる言葉)を離れ、粗悪語(誹謗中傷,粗暴な言葉)を離れることである。 Katamā ca bhikkhave, sammāvācā: yā kho bhikkhave, musāvādā veramaṇī pisunāya vācāya veramaṇī pharusāya vācāya veramaṇī samphappalāpā veramaṇī ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāvācā. 比丘たちよ、正語とは何か。妄語、離間語、粗悪語、綺語を避けることが正語と言われる。 正業(しょうごう, 巴: sammā-kammanta, 梵: samyak-karmānta)とは、殺生を離れ、盗みを離れ、非梵行(性行為)を離れることをいう。五戒の不偸盗、不邪婬に対応する。この二つは正思惟されたものの実践である。 Katamo ca bhikkhave, sammākammanto: yā kho bhikkhave, pāṇātipātā veramaṇī adinnādānā veramaṇī abrahmacariyā veramaṇī, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammākammanto. 比丘たちよ、正業とは何か。殺生、盗み、非梵行(性行為)を離れることを正業とよぶ。 正命(しょうみょう, 巴: sammā-ājīva, 梵: samyag-ājīva)とは、殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って生活を営むことである。命(巴: ājīva)は単なる職業というよりも、生計としての生き方をさす。 Katamo ca bhikkhave, sammāājīvo: idha bhikkhave, ariyasāvako micchāājīvaṃ pahāya sammāājīvena jīvikaṃ kappeti, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāājīvo. 比丘たちよ、正命とは何か。聖なる弟子(ariyasāvako)らが、間違った生活を諦め、生計を正当なものにすること。これを正命とよぶ。 初期の聖典では、間違った生計を避け、遠ざかることだとしていた。この徳は「物乞いとして生きるが、すべてを頂戴するのではなく、必要以上のものを保有しない」ことだとティルマン・ヴェッターは述べている。 正精進(しょうしょうじん, 巴: sammā-vāyāma, 梵: samyag-vyāyāma)とは、四正勤(ししょうごん)、すなわち「すでに起こった不善を断ずる」「未来に起こる不善を起こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「いまだ生じていない善を生じさせる」という四つの実践について努力することである。 Katamo ca bhikkhave, sammāvāyāmo: idha bhikkhave, bhikkhu anuppannānaṃ pāpakānaṃ akusalānaṃ dhammānaṃ anuppādāya chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati. Uppannānaṃ pāpakānaṃ akusalānaṃ dhammānaṃ pahānāya chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati. Anuppannānaṃ kusalānaṃ dhammānaṃ uppādāya chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati. Uppannānaṃ kusalānaṃ dhammānaṃ ṭhitiyā asammosāya bhiyyobhāvāya vepullāya bhāvanāya pāripūriyā chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāvāyāmo. 比丘たちよ、正精進とは何か。 未発生の不善(akusalānaṃ)は、これが生じないよう、比丘らは関心を持って努力し精進(ヴィーリャ)することである。 発生した不善は、これを解消するよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。 未発生の善は、これが生じるよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。 発生し成された善は、これが拡大するよう、比丘たちが関心を持って努力し精進することである。 比丘たちよ、これを正精進と呼ぶ。 正念(しょうねん, 巴: sammā-sati, 梵: samyak-smṛti)とは、四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態(マインドフルネス)でいることが「正念」である。 Katamā ca bhikkhave, sammāsati: idha bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ, vedanāsu vedanānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ, citte cittānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ, dhammesu dhammānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ. Ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāsati. 比丘たちよ、正念とは何か。 比丘たちが、身(kāye)について、身を観つづけ、正知をそなえ、気づき(サティ)をそなえ、世における貪欲と憂いを除いて住む。 受(ヴェダナー)について、受を観つづけ、正知をそなえ、気づきをそなえ、世における貪欲と憂いを除いて住む。 心(チッタ)について、心を観つづけ、正知をそなえ、気づきをそなえ、世における貪欲と憂いを除いて住む。 法(ダルマ)について、法を観つづけ、正知をそなえ、気づきをそなえ、世における貪欲と憂いを除いて住む。 比丘たちよ、これを正念と呼ぶ。 正定(しょうじょう, 巴: sammā-samādhi, 梵: samyak-samādhi)とは、正しい集中力(サマーディ)を完成することである。この「正定」と「正念」によってはじめて、「正見」が得られるのである。 Katamo ca bhikkhave, sammāsamādhi: idha bhikkhave, bhikkhu vivicceva kāmehi vivicca akusalehi dhammehi savitakkaṃ savicāraṃ vivekajaṃ pītisukhaṃ paṭhamaṃ jhānaṃ upasampajja viharati. Vitakkavicārānaṃ vūpasamā ajjhattaṃ sampasādanaṃ cetaso ekodibhāvaṃ avitakkaṃ avicāraṃ samādhijaṃ pītisukhaṃ dutiyaṃ jhānaṃ upasampajja viharati. Pītiyā ca virāgā upekhako ca viharati, sato ca sampajāno sukhañca kāyena paṭisaṃvedeti. Yantaṃ ariyā ācikkhanti upekhako satimā sukhavihārīti taṃ tatiyaṃ jhānaṃ upasampajja viharati. Sukhassa ca pahānā dukkhassa ca pahānā pubbeva somanassadomanassānaṃ atthagamā adukkhaṃ asukhaṃ upekhāsatipārisuddhiṃ catutthaṃ jhānaṃ upasampajja viharati. Ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāsamādhīti. 比丘たちよ、正定とは何か。 比丘たちが、諸欲から離れ、不善の諸法から離れ、有尋(vitakka)・有伺(vicāra)にして、遠離より生じた喜悦(piti)と楽ある初禅を達して住む。 尋伺が寂止したために、内なる清浄あり、心の一境性あり、無尋・無伺にして、三昧(サマーディ)より生じた喜と楽ある第二禅を達して住む。 喜悦から離れたために捨(ウペッカー)が起こり、正念正知にして、身に楽を感受し、諸の聖者が『これ捨にして、正念ある楽住なり』と述べた、第三禅を達して住む。 楽を捨離し、苦を捨離し、すでに喜悦と憂いを滅して不苦不楽となり、捨により念(サティ)が清浄となった、第四禅を達して住む。 比丘たちよ、これを正定という。 並川孝儀は、八正道を釈迦の死後に成立した教説であると主張している。
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Yaṃ kho bhikkhave, dukkhe ñāṇaṃ dukkhasamudaye ñāṇaṃ dukkhanirodhe ñāṇaṃ dukkhanirodhagāminiyā paṭipadāya ñāṇaṃ, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammādiṭṭhi.", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "比丘たちよ、正見とは何か。実に比丘たちよ、苦(ドゥッカ)についての智、 苦の集起についての智、苦の滅尽についての智、苦の滅尽に至る道についての智を正見とよぶ。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれるように、われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である。このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが、その世俗性の否定によって、結果として、真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである。正見は「四諦の智」といわれる。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この正見は、以下の七種の正道によって実現される。 八正道は全て正見に納まる。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "正思惟(しょうしゆい, 巴: sammā-saṅkappa, 梵: samyak-saṃkalpa)とは、正しく考え判断することであり、出離(離欲)を思惟し無瞋を思惟し、無害(アヒンサー)を思惟することである。逆に避けるべき思考は邪思惟(micchāsaṅkappo)である。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "Katamo ca bhikkhave, sammāsaṅkappo: yo kho bhikkhave, nekkhammasaṅkappo avyāpādasaṃkappo, avihiṃsāsaṅkappo, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāsaṅkappo.", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "比丘たちよ、正思惟とは何か。出離、無瞋、無害を正思惟とよぶ。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "このうち出離とはパーリの原文ではnekkhamma(ネッカンマ)で、「世俗的なものから離れること」を意味する。財産、名誉、など俗世間で重要視されるものや、感覚器官による快楽を求める「五欲」など、人間の俗世間において渇望するものの否定である。これら3つを思惟することが正思惟である。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "Katame ca thapati, akusalasaṅkappā: kāmasaṅkappo byāpādasaṅkappo vihiṃsāsaṅkappo, ime vuccanti thapati akusalasaṅkappā", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "棟梁(パンチャカンガ)よ、邪思惟とは何か。欲思惟、瞋思惟、害思惟。棟梁よ、これが邪思惟である。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "正語(しょうご, 巴: sammā-vācā, 梵: samyag-vāc)とは、妄語(嘘)を離れ、綺語(無駄話)を離れ、離間語(陰口,仲違いさせる言葉)を離れ、粗悪語(誹謗中傷,粗暴な言葉)を離れることである。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "Katamā ca bhikkhave, sammāvācā: yā kho bhikkhave, musāvādā veramaṇī pisunāya vācāya veramaṇī pharusāya vācāya veramaṇī samphappalāpā veramaṇī ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāvācā.", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "比丘たちよ、正語とは何か。妄語、離間語、粗悪語、綺語を避けることが正語と言われる。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "正業(しょうごう, 巴: sammā-kammanta, 梵: samyak-karmānta)とは、殺生を離れ、盗みを離れ、非梵行(性行為)を離れることをいう。五戒の不偸盗、不邪婬に対応する。この二つは正思惟されたものの実践である。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "Katamo ca bhikkhave, sammākammanto: yā kho bhikkhave, pāṇātipātā veramaṇī adinnādānā veramaṇī abrahmacariyā veramaṇī, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammākammanto.", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "比丘たちよ、正業とは何か。殺生、盗み、非梵行(性行為)を離れることを正業とよぶ。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "正命(しょうみょう, 巴: sammā-ājīva, 梵: samyag-ājīva)とは、殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って生活を営むことである。命(巴: ājīva)は単なる職業というよりも、生計としての生き方をさす。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "Katamo ca bhikkhave, sammāājīvo: idha bhikkhave, ariyasāvako micchāājīvaṃ pahāya sammāājīvena jīvikaṃ kappeti, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāājīvo.", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "比丘たちよ、正命とは何か。聖なる弟子(ariyasāvako)らが、間違った生活を諦め、生計を正当なものにすること。これを正命とよぶ。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "初期の聖典では、間違った生計を避け、遠ざかることだとしていた。この徳は「物乞いとして生きるが、すべてを頂戴するのではなく、必要以上のものを保有しない」ことだとティルマン・ヴェッターは述べている。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "正精進(しょうしょうじん, 巴: sammā-vāyāma, 梵: samyag-vyāyāma)とは、四正勤(ししょうごん)、すなわち「すでに起こった不善を断ずる」「未来に起こる不善を起こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「いまだ生じていない善を生じさせる」という四つの実践について努力することである。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "Katamo ca bhikkhave, sammāvāyāmo: idha bhikkhave, bhikkhu anuppannānaṃ pāpakānaṃ akusalānaṃ dhammānaṃ anuppādāya chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati. Uppannānaṃ pāpakānaṃ akusalānaṃ dhammānaṃ pahānāya chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati. Anuppannānaṃ kusalānaṃ dhammānaṃ uppādāya chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati. Uppannānaṃ kusalānaṃ dhammānaṃ ṭhitiyā asammosāya bhiyyobhāvāya vepullāya bhāvanāya pāripūriyā chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāvāyāmo.", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "比丘たちよ、正精進とは何か。 未発生の不善(akusalānaṃ)は、これが生じないよう、比丘らは関心を持って努力し精進(ヴィーリャ)することである。 発生した不善は、これを解消するよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。 未発生の善は、これが生じるよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。 発生し成された善は、これが拡大するよう、比丘たちが関心を持って努力し精進することである。 比丘たちよ、これを正精進と呼ぶ。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "正念(しょうねん, 巴: sammā-sati, 梵: samyak-smṛti)とは、四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態(マインドフルネス)でいることが「正念」である。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "Katamā ca bhikkhave, sammāsati: idha bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ, vedanāsu vedanānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ, citte cittānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ, dhammesu dhammānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ. Ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāsati.", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "比丘たちよ、正念とは何か。 比丘たちが、身(kāye)について、身を観つづけ、正知をそなえ、気づき(サティ)をそなえ、世における貪欲と憂いを除いて住む。 受(ヴェダナー)について、受を観つづけ、正知をそなえ、気づきをそなえ、世における貪欲と憂いを除いて住む。 心(チッタ)について、心を観つづけ、正知をそなえ、気づきをそなえ、世における貪欲と憂いを除いて住む。 法(ダルマ)について、法を観つづけ、正知をそなえ、気づきをそなえ、世における貪欲と憂いを除いて住む。 比丘たちよ、これを正念と呼ぶ。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "正定(しょうじょう, 巴: sammā-samādhi, 梵: samyak-samādhi)とは、正しい集中力(サマーディ)を完成することである。この「正定」と「正念」によってはじめて、「正見」が得られるのである。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "Katamo ca bhikkhave, sammāsamādhi: idha bhikkhave, bhikkhu vivicceva kāmehi vivicca akusalehi dhammehi savitakkaṃ savicāraṃ vivekajaṃ pītisukhaṃ paṭhamaṃ jhānaṃ upasampajja viharati. Vitakkavicārānaṃ vūpasamā ajjhattaṃ sampasādanaṃ cetaso ekodibhāvaṃ avitakkaṃ avicāraṃ samādhijaṃ pītisukhaṃ dutiyaṃ jhānaṃ upasampajja viharati. Pītiyā ca virāgā upekhako ca viharati, sato ca sampajāno sukhañca kāyena paṭisaṃvedeti. Yantaṃ ariyā ācikkhanti upekhako satimā sukhavihārīti taṃ tatiyaṃ jhānaṃ upasampajja viharati. Sukhassa ca pahānā dukkhassa ca pahānā pubbeva somanassadomanassānaṃ atthagamā adukkhaṃ asukhaṃ upekhāsatipārisuddhiṃ catutthaṃ jhānaṃ upasampajja viharati. Ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāsamādhīti.", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "比丘たちよ、正定とは何か。 比丘たちが、諸欲から離れ、不善の諸法から離れ、有尋(vitakka)・有伺(vicāra)にして、遠離より生じた喜悦(piti)と楽ある初禅を達して住む。 尋伺が寂止したために、内なる清浄あり、心の一境性あり、無尋・無伺にして、三昧(サマーディ)より生じた喜と楽ある第二禅を達して住む。 喜悦から離れたために捨(ウペッカー)が起こり、正念正知にして、身に楽を感受し、諸の聖者が『これ捨にして、正念ある楽住なり』と述べた、第三禅を達して住む。 楽を捨離し、苦を捨離し、すでに喜悦と憂いを滅して不苦不楽となり、捨により念(サティ)が清浄となった、第四禅を達して住む。 比丘たちよ、これを正定という。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "並川孝儀は、八正道を釈迦の死後に成立した教説であると主張している。", "title": "仏教学者の見解" } ]
八正道は、仏教において涅槃に至るための8つの実践徳目である正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のこと。八聖道(八聖道分)、八支正道、もしくは八聖道支ともいう。「道(magga)」とは仏道、すなわち解脱への道のこと。 八正道は釈迦が最初の説法(初転法輪)において説いたとされる。四諦のうちでは道諦にあたり、釈迦の説いた中道の具体的内容ともされる。
{{Infobox Buddhist term |float=right |title= 八正道(はっしょうどう) |sa=आर्याष्टाङगमार्ग ({{IAST|āryāṣṭāṅgamārga}}) |pi={{lang|pi|ariyo aṭṭhaṅgiko maggo}} |bn={{lang|bn|আটাঙ্গিক আয্য মার্গ (Atangiko Ajjo Marg)}} |my={{lang|my|မဂ္ဂင်ရှစ်ပါး}} |my-Latn=mɛʔɡɪ̀ɴ ʃɪʔ pá |jp=Rimbo |zh=八正道 |ja=八正道 , 八聖道 |ja-Latn=Hasshōdō |ko=[[:ko:팔정도|팔정도]] |ko-Latn=Paljeongdo |si=[[:si:ආර්ය අෂ්ඨාංගික මාර්ගය|ආර්ය අෂ්ටා◌ගික මාර්ගය]] |th=[[:th:มรรคมีองค์แปด|อริยมรรคมีองค์แปด]] |th-Latn=Ariya Mugg Paad |mn=''qutuγtan-u naiman gesigün-ü mör'' |en= The Noble Eightfold Path }} [[File:Dharmachakra.jpg|thumb|right|238px|[[法輪]]は八正道のシンボルとされる]] '''八正道'''(はっしょうどう、{{lang-pi-short|ariya-aṭṭhaṅgika-magga}}, {{lang-sa-short|ārya-aṣṭāṅga-mārga}} <ref>[[中村元 (哲学者)|中村元]]等編、『岩波仏教辞典 第二版』p.828</ref>)は、[[仏教]]において[[涅槃]]に至るための8つの実践徳目である正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のこと<ref name=SN /><ref>{{Cite |和書|title=完全図解 仏教早わかり百科 |date=1999-12-01 |author=ひろさちや |isbn=978-4391123951 |pages=28-29}}</ref><ref name="コトバンク八正道">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93-115083|title=八正道(はっしょうどう)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-08-02}}</ref>。'''八聖道'''<ref name="コトバンク八正道" /><ref>仏陀耶舎、竺仏念 訳『[[長阿含経]]』([[大正蔵]]1)・[[求那跋陀羅]] 訳『[[雑阿含経]]』([[大正蔵]]99)</ref>(八聖道分<ref>[[法顕]] 訳『[[大般涅槃経 (上座部)|大般涅槃經]]』([[大正蔵]]7)</ref>)、'''八支正道'''<ref name="コトバンク八正道" /><ref>瞿曇僧伽提婆 訳『[[中阿含経]]』(大正蔵26)</ref>、もしくは'''八聖道支'''<ref>[[玄奘]] 訳『[[大般若波羅蜜多経]]』([[大正蔵]]220)</ref><ref>[[世親]] 造、玄奘 訳『[[阿毘達磨倶舎論]]』(大正蔵1558)</ref>ともいう。「道(magga)」とは仏道、すなわち[[解脱への道]]のこと。 八正道は[[釈迦]]が最初の説法([[初転法輪]])において説いたとされる<ref name="コトバンク八正道" /><ref>{{SLTP| [[犍度|大犍度]] 38.Mahakkhandhakaṃ}}</ref>。[[四諦]]のうちでは道諦にあたり、釈迦の説いた[[中道]]の具体的内容ともされる<ref name="コトバンク八正道" />。 == 分類 == [[File:Dharmachakra, withprint (en).svg|thumb|right|250px|八正道を示した法輪]] {{Quote| {{lang|pi|katamo ca bhikkhave, ariyo aṭṭhaṅgiko maggo, seyyathīdaṃ: sammādiṭṭhi sammāsaṅkappo sammāvācā sammākammanto sammāājīvo sammāvāyāmo sammāsati sammāsamādhi.}}<ref name=SN>{{SLTP|[[相応部]] [[道相応]], 無明品 Avijjāvaggo}}</ref> 比丘たちよ、聖なる八正道とは何か。<br> それはすなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。 }} 八正道は[[三学]]として、以下の3種類に分類可能である{{sfn|Prebish|2000|p=40}} {| class="wikitable" style="margin-left:1em; font-size:95%" |- ! style="background:#eee; text-align:center;" | 分類 ! style="background:#eee; text-align:center;" | 要素 |- | style="background:#cfc;" rowspan="3" | [[戒]] {{Sfn|Harvey|2013|p=83-84}} (梵: {{lang|sa-latn|''śīla''}}, 巴: {{lang|pi|''sīla''}}) || style="background:#cfc;" |3. 正語 |- | style="background:#cfc;" | 4. 正業 |- | style="background:#cfc;" | 5. 正命 |- | style="background:#fc9;" rowspan="3" | [[サマーディ|定]]{{Sfn|Harvey|2013|p=83-84}} (梵/巴: {{lang|sa-latn|''samādhi''}}) || style="background:#fc9;" |6. 正精進 |- | style="background:#fc9;" | 7. [[正念]] |- | style="background:#fc9;" | 8. [[正定 (仏教)|正定]] |- | style="background:#cff;" rowspan="2" | [[般若|慧]] (梵: {{lang|sa-latn|''prajñā''}}, 巴: {{lang|pi|''paññā''}})|| style="background:#cff;" |1. [[正見]] |- | style="background:#cff;" | 2. [[正思惟]] |- |} == 内容 == {{Quote| Evameva kho bhikkhave, bhikkhu ariyaṃ aṭṭhaṅgikaṃ maggaṃ bhāvento ariyaṃ aṭṭhaṅgikaṃ maggaṃ bahulīkaronto nibbānaninno hoti, nibbānapoṇo nibbānapabbhāro. まさにそのように、比丘たちよ、八支聖道を修習し、八支聖道を多習する比丘は、[[涅槃]]へ向かい、涅槃へ傾き、涅槃へ傾倒する者となる。 | {{SLTP| [[相応部]][[道相応]] 133.第一海向経 Paṭhamasamuddaninnasuttaṃ }} }} === 正見 === [[見 (仏教)|正見]](しょうけん, {{lang-pi-short|sammā‑diṭṭhi}}, {{lang-sa-short|samyag-dṛṣṭi}})とは、仏道修行によって得られる仏の智慧であり、様々な正見があるが、根本となるのは[[四諦]]の真理などを正しく知ることである。 {{Quote| {{lang|pi|Katamā ca bhikkhave, sammādiṭṭhi? Yaṃ kho bhikkhave, dukkhe ñāṇaṃ dukkhasamudaye ñāṇaṃ dukkhanirodhe ñāṇaṃ dukkhanirodhagāminiyā paṭipadāya ñāṇaṃ, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammādiṭṭhi.}}<ref name=SN /> 比丘たちよ、正見とは何か。実に比丘たちよ、苦([[ドゥッカ]])についての智、<br> 苦の集起についての智、苦の滅尽についての智、苦の滅尽に至る道についての智を正見とよぶ。 }} 「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれるように、われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である。このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが、その世俗性の否定によって、結果として、真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである。正見は「四諦の智」といわれる。 *業自性正見(ごうじしょう-)<ref>[http://jyouzabukkyo.jp/seppou/1seppou.html 人間の本質について (性善説・性悪説とは)- バッダンタ ニャーヌッタラ長老]</ref>({{lang-pi-short|kammassakatā sammā‑diṭṭhi}})<ref name=sammditthi1>[https://web.archive.org/web/20160305045742/http://mahajana.net/texts/kopia_lokalna/MANUAL07.html Maggaṅga-dīpanī: The Manual of the Constituents of the Noble Path by Mahathera Ledi Sayadaw]</ref> - [[業]]を自己とする正見。 **生きとし生けるもの([[衆生]];{{lang-pi-short|sattā}})は、 ***業(だけ)を自己の所有とする({{lang-pi-short|kammassakā}}) ***業(だけ)を相続する({{lang-pi-short|kammadāyādā}}) ***業(だけ)を(輪廻的生存の)起原、原因とする({{lang-pi-short|kammayonī}}) ***業(だけ)を親族とする({{lang-pi-short|kammabandhū}}) ***業(だけ)を依り所とする({{lang-pi-short|kammapaṭisaraṇā}}) *十事正見({{lang-pi-short|dasavatthuka-sammā-diṭṭhi}})<ref name=sammditthi1/><ref> {{SLTP|中部[[大四十経]]}}</ref> # [[布施]]の果報はある({{lang-pi-short|atthi dinnaṃ}}) # 大規模な献供に果報はある({{lang-pi-short|atthi yiṭṭhaṃ}}) # 小規模な献供に果報はある({{lang-pi-short|atthi hutaṃ}}) # 善悪の行為に果報がある({{lang-pi-short|atthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko}}) # (善悪の業の対象としての)母は存在する(母を敬う行為に良い結果があるなど)({{lang-pi-short|atthi mātā}}) # (善悪の業の対象としての)父は存在する(父を敬う行為に良い結果があるなど)({{lang-pi-short|atthi pitā}}) # [[生 (仏教)|化生]]によって生まれる[[衆生]]は存在する({{lang-pi-short|atthi sattā opapātikā}}) # 現世は存在する({{lang-pi-short|atthi ayaṃ loko}}) # 来世は存在する({{lang-pi-short|atthi paro loko}}) # この世において、正しい道を歩み、正しく行じ、自らの智慧によって今世と他世を悟り、(それを他者に)説く[[沙門]]、バラモンは存在する。({{lang-pi-short|atthi loke samaṇabrāhmaṇā sammaggatā sammāpaṭipannā ye imañca lokaṃ parañca lokaṃ sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedenti}}) *[[四諦]]正見({{lang-pi-short|catusacca-sammā-diṭṭhi}})<ref name=sammditthi1/><ref name=SN /> # 苦諦についての智慧({{lang-pi-short|dukkhe ñāṇaṃ}}) # 苦集諦についての智慧({{lang-pi-short|dukkha-samudaye ñāṇaṃ}}) # 苦滅諦についての智慧({{lang-pi-short|dukkha-nirodhe ñāṇaṃ}}) # 苦滅道諦についての智慧({{lang-pi-short|dukkha-nirodhagāminiyā paṭipadāya ñāṇaṃ}}) この正見は、以下の七種の正道によって実現される。 八正道は全て正見に納まる。 === 正思惟 === 正思惟(しょうしゆい, {{lang-pi-short|sammā-saṅkappa}}, {{lang-sa-short|samyak-saṃkalpa}})とは、正しく考え判断することであり、出離(離欲)を思惟し[[瞋|無瞋]]を思惟し、[[アヒンサー|無害]](アヒンサー)を思惟することである。逆に避けるべき思考は邪思惟({{lang|pi|micchāsaṅkappo}})である<ref name=mizu>{{Cite |和書|title=テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え |author=[[アルボムッレ・スマナサーラ]] |publisher=Evolving |date=2018 |edition=kindle |p=82% |isbn=978-4804613574}}</ref>。 {{Quote| {{lang|pi|Katamo ca bhikkhave, sammāsaṅkappo: yo kho bhikkhave, nekkhammasaṅkappo avyāpādasaṃkappo, avihiṃsāsaṅkappo, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāsaṅkappo.}}<ref name=SN /> 比丘たちよ、正思惟とは何か。出離、無瞋、無害を正思惟とよぶ。 }} *[[出離]]思惟({{lang-pi-short|nekkhamma saṅkappa}}) *[[瞋|無瞋]]思惟({{lang-pi-short|abyāpāda saṅkappa}}) *[[アヒンサー|無害]]思惟({{lang-pi-short|avihiṃsā saṅkappa}}), [[害]](ヴィヒンサー)の対義。 このうち'''出離'''とはパーリの原文では'''{{lang|pi|nekkhamma}}'''([[出離|ネッカンマ]])で、「世俗的なものから離れること」を意味する。財産、名誉、など俗世間で重要視されるものや、感覚器官による快楽を求める「五欲」など、人間の俗世間において[[トリシュナー|渇望]]するものの否定である。これら3つを思惟することが正思惟である。 {{Quote| {{lang|pi|Katame ca thapati, akusalasaṅkappā: kāmasaṅkappo byāpādasaṅkappo vihiṃsāsaṅkappo, ime vuccanti thapati akusalasaṅkappā}} <ref>{{SLTP|中部[[サマナムンディカ経]]}}</ref> 棟梁(パンチャカンガ)よ、邪思惟とは何か。欲思惟、瞋思惟、害思惟。棟梁よ、これが邪思惟である。 }} * [[カーマ (ヒンドゥー教)|欲]]思惟({{lang-pi-short|kāmasaṅkappo}}) - 自然な範囲を超えた欲<ref name=mizu />。 * [[瞋]]思惟({{lang-pi-short|vyāpādasaṅkappo}}) - 憎しみ<ref name=mizu />。[[自己愛憤怒]]。 * [[害]]思惟({{lang-pi-short|vihiṃsāsaṅkappo}}) - 怒り。自分にとって邪魔な相手を排除したいという攻撃心<ref name=mizu />。 === 正語 === 正語(しょうご, {{lang-pi-short|sammā-vācā}}, {{lang-sa-short|samyag-vāc}})とは、妄語(嘘)を離れ、綺語(無駄話)を離れ、離間語{{efn|両舌ともいう。}}(陰口,仲違いさせる言葉)を離れ、粗悪語{{efn|悪口(あっく)ともいう。}}(誹謗中傷,粗暴な言葉)を離れることである<ref name=mizu />。 {{Quote| {{lang|pi|Katamā ca bhikkhave, sammāvācā: yā kho bhikkhave, musāvādā veramaṇī pisunāya vācāya veramaṇī pharusāya vācāya veramaṇī samphappalāpā veramaṇī ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāvācā.}}<ref name=SN /> 比丘たちよ、正語とは何か。妄語、離間語、粗悪語、綺語を避けることが正語と言われる。 }} === 正業 === 正業(しょうごう, {{lang-pi-short|sammā-kammanta}}, {{lang-sa-short|samyak-karmānta}})とは、殺生を離れ、盗みを離れ、非梵行(性行為)を離れることをいう<ref name=mizu />。[[五戒]]の不偸盗、不邪婬に対応する<ref name=mizu />。この二つは正思惟されたものの実践である。 {{Quote| {{lang|pi|Katamo ca bhikkhave, sammākammanto: yā kho bhikkhave, pāṇātipātā veramaṇī adinnādānā veramaṇī abrahmacariyā veramaṇī, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammākammanto.}}<ref name=SN /> 比丘たちよ、正業とは何か。殺生、盗み、非梵行(性行為)を離れることを正業とよぶ。 }} === 正命 === 正命(しょうみょう, {{lang-pi-short|sammā-ājīva}}, {{lang-sa-short|samyag-ājīva}})とは、殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って生活を営むことである。命({{lang-pi-short|ājīva}})は単なる職業というよりも、生計としての生き方をさす<ref name=mizu />。 {{Quote| {{lang|pi|Katamo ca bhikkhave, sammāājīvo: idha bhikkhave, ariyasāvako micchāājīvaṃ pahāya sammāājīvena jīvikaṃ kappeti, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāājīvo.}}<ref name=SN /> 比丘たちよ、正命とは何か。聖なる弟子(ariyasāvako)らが、間違った生活を諦め、生計を正当なものにすること。これを正命とよぶ。 }} 初期の聖典では、間違った生計を避け、遠ざかることだとしていた。この徳は「[[物乞い]]として生きるが、すべてを頂戴するのではなく、必要以上のものを保有しない」ことだとティルマン・ヴェッターは述べている{{Sfn|Vetter|1988|p=12}}。 === 正精進 === 正[[精進]](しょうしょうじん, {{lang-pi-short|sammā-vāyāma}}, {{lang-sa-short|samyag-vyāyāma}})とは、[[四正勤]](ししょうごん)、すなわち「すでに起こった不善を断ずる」「未来に起こる不善を起こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「いまだ生じていない善を生じさせる」という四つの実践について努力することである。 {{Quote| {{lang|pi|Katamo ca bhikkhave, sammāvāyāmo: idha bhikkhave, bhikkhu anuppannānaṃ pāpakānaṃ akusalānaṃ dhammānaṃ anuppādāya chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati. Uppannānaṃ pāpakānaṃ akusalānaṃ dhammānaṃ pahānāya chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati. Anuppannānaṃ kusalānaṃ dhammānaṃ uppādāya chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati. Uppannānaṃ kusalānaṃ dhammānaṃ ṭhitiyā asammosāya bhiyyobhāvāya vepullāya bhāvanāya pāripūriyā chandaṃ janeti vāyamati viriyaṃ ārabhati cittaṃ paggaṇhāti padahati, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāvāyāmo.}}<ref name=SN /> 比丘たちよ、正精進とは何か。<br> 未発生の不善({{lang|pi|akusalānaṃ}})は、これが生じないよう、比丘らは関心を持って努力し[[精進]](ヴィーリャ)することである。<br> 発生した不善は、これを解消するよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。<br> 未発生の善は、これが生じるよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。<br> 発生し成された善は、これが拡大するよう、比丘たちが関心を持って努力し精進することである。<br> 比丘たちよ、これを正精進と呼ぶ。 }} === 正念 === [[正念]](しょうねん, {{lang-pi-short|sammā-sati}}, {{lang-sa-short|samyak-smṛti}})とは、[[四念処]](身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態([[マインドフルネス]])でいることが「正念」である。 {{Quote| {{lang|pi|Katamā ca bhikkhave, sammāsati: idha bhikkhave, <br> bhikkhu kāye kāyānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ,<br> vedanāsu vedanānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ,<br> citte cittānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ, <br> dhammesu dhammānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ. <br> Ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāsati.}}<ref name=SN /> 比丘たちよ、正念とは何か。<br> 比丘たちが、身({{lang|pi|kāye}})について、身を観つづけ、正知をそなえ、[[サティ (仏教)|気づき]](サティ)をそなえ、世における貪欲と憂いを除いて住む。<br> [[受]](ヴェダナー)について、受を観つづけ、正知をそなえ、気づきをそなえ、世における貪欲と憂いを除いて住む。<br> [[心 (仏教)|心]](チッタ)について、心を観つづけ、正知をそなえ、気づきをそなえ、世における貪欲と憂いを除いて住む。<br> [[法 (仏教)|法]](ダルマ)について、法を観つづけ、正知をそなえ、気づきをそなえ、世における貪欲と憂いを除いて住む。<br> 比丘たちよ、これを正念と呼ぶ。 }} === 正定 === {{main|四禅}} [[正定 (仏教)|正定]](しょうじょう, {{lang-pi-short|sammā-samādhi}}, {{lang-sa-short|samyak-samādhi}})とは、正しい集中力([[定|サマーディ]])を完成することである。この「正定」と「正念」によってはじめて、「正見」が得られるのである。 {{Quote| {{lang|pi|Katamo ca bhikkhave, sammāsamādhi: idha bhikkhave,<br> bhikkhu vivicceva kāmehi vivicca akusalehi dhammehi savitakkaṃ savicāraṃ vivekajaṃ pītisukhaṃ paṭhamaṃ jhānaṃ upasampajja viharati.<br> Vitakkavicārānaṃ vūpasamā ajjhattaṃ sampasādanaṃ cetaso ekodibhāvaṃ avitakkaṃ avicāraṃ samādhijaṃ pītisukhaṃ dutiyaṃ jhānaṃ upasampajja viharati. <br> Pītiyā ca virāgā upekhako ca viharati, sato ca sampajāno sukhañca kāyena paṭisaṃvedeti. Yantaṃ ariyā ācikkhanti upekhako satimā sukhavihārīti taṃ tatiyaṃ jhānaṃ upasampajja viharati. <br> Sukhassa ca pahānā dukkhassa ca pahānā pubbeva somanassadomanassānaṃ atthagamā adukkhaṃ asukhaṃ upekhāsatipārisuddhiṃ catutthaṃ jhānaṃ upasampajja viharati. <br> Ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāsamādhīti. <ref name=SN />}} 比丘たちよ、正定とは何か。<br> 比丘たちが、諸欲から離れ、不善の諸法から離れ、[[尋伺|有尋]](vitakka)・[[尋伺|有伺]](vicāra)にして、遠離より生じた喜悦(piti)と[[楽 (仏教)|楽]]ある[[四禅|初禅]]を達して住む。<br> [[尋伺]]が寂止したために、内なる清浄あり、心の一境性あり、無尋・無伺にして、三昧([[サマーディ]])より生じた喜と楽ある第二禅を達して住む。<br> 喜悦から離れたために[[捨 (仏教)|捨]](ウペッカー)が起こり、正念正知にして、身に楽を感受し、諸の聖者が『これ捨にして、正念ある楽住なり』と述べた、第三禅を達して住む。<br> 楽を捨離し、苦を捨離し、すでに喜悦と憂いを滅して不苦不楽となり、捨により[[サティ (仏教)|念]](サティ)が清浄となった、第四禅を達して住む。<br> 比丘たちよ、これを正定という。 }} == 仏教学者の見解 == [[並川孝儀]]は、八正道を釈迦の死後に成立した教説であると主張している<ref>[[並川孝儀]]「初期韻文経典にみる修行に関する説示 : 三十七道品と三界」(小野田俊蔵教授 本庄良文教授古稀記念号)佛教大学仏教学会紀要 28 1-21, 2023-03-25, p.14</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == * {{Citation | last =Prebish | first =Charles | year =2000 | chapter =From Monastic Ethics to Modern Society | editor-last =Keown | editor-first =Damien | title =Contemporary Buddhist Ethics | publisher =Routledge Curzon}} * {{Citation | last =Harvey | first =Peter |authorlink=ピーター・ハーヴェイ | year =2013 |title =An Introduction to Buddhism | publisher =Cambridge University Press}} * {{Citation | last =Vetter | first =Tilmann | year =1988 | title =The Ideas and Meditative Practices of Early Buddhism | publisher =BRILL |isbn= 90-04-08959-4}} == 関連項目 == * [[十二因縁]] * [[三十七道品]] {{Buddhism-stub}} {{三十七道品}} {{Buddhism2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はつしようとう}} [[Category:仏教哲学の概念]] [[Category:仏教の修行]] [[Category:仏教の名数8|しようとう]]
2003-08-13T01:52:48Z
2023-11-13T21:21:32Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93