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13,165 |
チベット大蔵経
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チベット大蔵経(チベットだいぞうきょう)は、8世紀末以後、主にサンスクリット語仏典をチベット語に訳出して編纂されたチベット仏教仏典が、集成されたもの。
インド本国において最終的に紛失・散逸してしまった後期仏教の経典の翻訳を数多く含み、その訳出作業も長年の慎重な校訂作業によって絶えず検証、再翻訳され続けてきたため信頼性が高く、サンスクリット原本がない場合などは、チベット訳から逆に翻訳し戻す作業などによって、原本を推定したりして、世界の仏教学者の研究のよりどころとなっている。
まずチベット語そのものが、7世紀に吐蕃のソンツェン・ガンポ(srong btsan sgam po)の時代、632年にトンミサンボータ(チベット語版、英語版)(thon mi saṃbhoṭa)をインドに留学させて、チベット文字・文法を確立させたものである。そのせいで、サンスクリット語仏典がチベット語に翻訳された。 チベット大蔵経自身は、顕教(けんぎょう)部分が主に9世紀前半に、後期密教(みっきょう)部分が11世紀以後に訳され、14世紀はじめ頃、中央チベット西部のナルタン寺(英語版)で経・律を内容とする〈カンギュル〉(bka'-'gyur、甘殊爾)と論疏(ろんしょ)を扱った〈テンギュル〉(bstan-'gyur、丹殊爾)に分けて編集されてできあがった。やがて増補されて前者はツェルパ本、後者はシャル本となった。
チベットでは、経典は、信仰心を著わすものとしてながらく写本で流布していたが、中国の明朝の永楽帝は中国に使者を派遣するチベット諸侯や教団への土産として、1410年木版による大蔵経を開版、この習慣がチベットにも取り入れられ、以後、何種類かが開版されることになった。
テンギュルの最古版は雍正(ようせい)版(1724年)で、ナルタン版(1742年)も同様にシャール本を補訂したチョンギェー本によっている。デルゲ版(1742年)も同本を参照しているが、シャール本を底本としている。 上記テンギュル3版にそれぞれのカンギュル(1737年、1732年、1731年)を合せたものが最も有名で、最初のものは「北京版」と呼ばれている。他に、チョーネ版(1731年)、ラッサ版(1934年)のカンギュルとチョーネ版のテンギュル(1773年)があり、ジャン版の覆刻リタン版もある。
また中国では、1990年代より、洋装本の形式で刊行される中華大蔵経事業の一部として、過去の諸写本、諸版の多くを校合したテンギュルの編纂が進められている。
チベット大蔵経の大まかな構成は以下の通り。
全98巻(ナルタン版カンギュル)
全224巻3626点(北京版テンギュル)
内容
主なもの
日本とチベットの本格的な接触・交流が始まるのは近代以降である。8世紀の唐の時代に、「西の吐蕃」と「東の日本」として、両国は中国の東西でそれぞれ形作られていき、その後チベットはインドから輸入・移植したチベット仏教を発達させつつ、紆余曲折を経ながら、中国はもちろん、モンゴル・満洲とも深い関係となっていくが、日本は地理的な関係や、モンゴル王朝(元)や満洲族王朝(清)の支配を受けなかったこともあり、近代以前に両国の直接的な接触はほとんどなく、またそれ故に、チベット仏教やチベット大蔵経が日本に持ち込まれることも無かった。
近代以降、仏教国チベットの評判を聞いて入蔵した河口慧海や多田等観といった僧侶達によって、チベット大蔵経が日本に請来・輸入され、本格的な研究が開始された。
河口慧海が第2回チベット旅行(1913年)時にパンチェン・ラマ10世から入手したナルタン版テンギュルは、東京大学総合図書館に所蔵されており、そのカード目録データベースはweb上で公開されている。
多田等観が1923年に帰国する際、ダライ・ラマ13世から与えられた膨大なチベット仏教文献の内、ラサ版カンギュル、デルゲ版テンギュル、ナルタン版テンギュルは、東京大学文学部印度研究室が所蔵し、
などが刊行された。他方で、東北大学には、デルゲ版大蔵経(カンギュル・テンギュル)が収蔵され、目録として
が刊行された。
また、大谷大学には寺本婉雅が入手した北京版大蔵経が収蔵され、目録として
が、更に山口益監修による影印版
が刊行されるなどした。
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チベット大蔵経(チベットだいぞうきょう)は、8世紀末以後、主にサンスクリット語仏典をチベット語に訳出して編纂されたチベット仏教仏典が、集成されたもの。 インド本国において最終的に紛失・散逸してしまった後期仏教の経典の翻訳を数多く含み、その訳出作業も長年の慎重な校訂作業によって絶えず検証、再翻訳され続けてきたため信頼性が高く、サンスクリット原本がない場合などは、チベット訳から逆に翻訳し戻す作業などによって、原本を推定したりして、世界の仏教学者の研究のよりどころとなっている。
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'''チベット大蔵経'''(チベットだいぞうきょう)は、8世紀末以後、主に[[サンスクリット]]語[[仏典]]を[[チベット語]]に訳出して編纂された[[チベット仏教]][[仏典]]が、集成されたもの。
インド本国において最終的に紛失・散逸してしまった後期仏教の経典の翻訳を数多く含み、その訳出作業も長年の慎重な校訂作業によって絶えず検証、再翻訳され続けてきたため信頼性が高く、サンスクリット原本がない場合などは、チベット訳から逆に翻訳し戻す作業などによって、原本を推定したりして、世界の仏教学者の研究のよりどころとなっている。
==歴史==
まず[[チベット語]]そのものが、[[7世紀]]に[[吐蕃]]の[[ソンツェン・ガンポ]](srong btsan sgam po)の時代、632年に{{仮リンク|トンミ・サンボータ|bo|སློབ་དཔོན་ཐུ་མི་སམ་བྷོ་ཊ།|en|Thonmi Sambhota|label=トンミサンボータ}}(thon mi saṃbhoṭa)をインドに留学させて、[[チベット文字]]・文法を確立させたものである。そのせいで、[[サンスクリット語]]仏典がチベット語に翻訳された。<br>
チベット大蔵経自身は、[[顕教]](けんぎょう)部分が主に9世紀前半に、後期[[密教]](みっきょう)部分が11世紀以後に訳され、14世紀はじめ頃、中央チベット西部の{{仮リンク|ナルタン寺|en|Narthang Monastery}}で'''経・律'''を内容とする〈カンギュル〉(bka'-'gyur、甘殊爾)と'''論疏'''(ろんしょ)を扱った〈テンギュル〉(bstan-'gyur、丹殊爾)に分けて編集されてできあがった。やがて増補されて前者はツェルパ本、後者はシャル本となった。<br>
チベットでは、経典は、信仰心を著わすものとしてながらく写本で流布していたが、[[中国]]の[[明|明朝]]の[[永楽帝]]は中国に使者を派遣するチベット諸侯や教団への土産として、[[1410年]]木版による大蔵経を開版、この習慣がチベットにも取り入れられ、以後、何種類かが開版されることになった。
;カンギュルの最古版は永楽版([[1410年]])で、万暦重版([[1606年]])がこれにつぎ、その後ジャン版(雲南麗江、[[1623年]])が、いずれもツェルパ本によって成立した。<br>
テンギュルの最古版は雍正(ようせい)版([[1724年]])で、ナルタン版([[1742年]])も同様にシャール本を補訂したチョンギェー本によっている。[[デルゲ]]版(1742年)も同本を参照しているが、シャール本を底本としている。<br>
上記テンギュル3版にそれぞれのカンギュル([[1737年]]、[[1732年]]、[[1731年]])を合せたものが最も有名で、最初のものは「北京版」と呼ばれている。他に、チョーネ版(1731年)、ラッサ版([[1934年]])のカンギュルとチョーネ版のテンギュル([[1773年]])があり、ジャン版の覆刻リタン版もある。
==版==
*[[北京版]] [[永楽版カンギュル]](1410年)、[[万暦版カンギュル]](1606年)、[[康煕版カンギュル]](1692年)、[[雍正版テンギュル]](1724年)
*[[リタン版]](ジャン版) (1621-24年)
*[[チョネ版]] カンギュル(1731年)、テンギュル(1773年)
*[[ナルタン版]] カンギュル(1732年)、テンギュル(1773年)
*[[デルゲ版]] カンギュル(1733年)、テンギュル(1742年)
*[[ラサ版]] カンギュル(1936年)
また中国では、1990年代より、洋装本の形式で刊行される[[中華大蔵経]]事業の一部として、過去の諸写本、諸版の多くを校合したテンギュルの編纂が進められている。
==構成==
チベット大蔵経の大まかな構成は以下の通り<ref>[http://www.buddhanet.net/e-learning/history/s_tibcanon.htm Tibetan Canon] - BDEA/BuddhaNet</ref>。
===カンギュル(律・経蔵)===
全98巻(ナルタン版カンギュル)
*律蔵([[根本説一切有部律]])13巻
*[[般若経]] 21巻
*[[華厳経]] 6巻
*[[宝積経]] 6巻<br />その他 経典 30巻270点(小乗系25% 大乗系75%)
*タントラ([[無上瑜伽タントラ]]等)22巻300点以上
===テンギュル(論蔵)===
全224巻3626点(北京版テンギュル)
内容
*讃仏偈 1巻64点
*タントラへの註釈 86巻3055点
*律・経への註釈 137巻567点
主なもの
*般若経 註釈 16巻
*[[中観派]] 著作 29巻
*[[瑜伽行派]] 著作 29巻
*[[阿毘達磨]] 8巻
*雑論 4巻
*律 註釈 16巻
*物語 4巻
*技術書 43巻
==日本への輸入と研究・出版==
日本とチベットの本格的な接触・交流が始まるのは近代以降である。[[8世紀]]の[[唐]]の時代に、「西の[[吐蕃]]」と「東の日本」として、両国は中国の東西でそれぞれ形作られていき、その後チベットはインドから輸入・移植した[[チベット仏教]]を発達させつつ、紆余曲折を経ながら、中国はもちろん、[[モンゴル]]・[[満洲]]とも深い関係となっていくが、日本は地理的な関係や、モンゴル王朝([[元 (王朝)|元]])や満洲族王朝([[清]])の支配を受けなかったこともあり、近代以前に両国の直接的な接触はほとんどなく、またそれ故に、チベット仏教やチベット大蔵経が日本に持ち込まれることも無かった。
近代以降、仏教国チベットの評判を聞いて入蔵した[[河口慧海]]や[[多田等観]]といった僧侶達によって、チベット大蔵経が日本に請来・輸入され、本格的な研究が開始された。
河口慧海が第2回チベット旅行([[1913年]])時に[[パンチェン・ラマ]]10世から入手した<ref>その詳しい経緯は『第二回チベット旅行』 [[講談社学術文庫]] pp47-48 に記されている。</ref>ナルタン版テンギュルは、[[東京大学]]総合図書館に所蔵されており<ref name=dij1>[http://tksosa.dijtokyo.org/?page=collection_detail.php&p_id=343&lang=ja チベット大蔵経(ラサ版/デルゲ版/ナルタン版)] - DIJ</ref>、そのカード目録データベースはweb上で公開されている<ref>[http://tibet.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/tibet/ チベット大蔵経(ナルタン版テンギュル)カード目録データベース] - 東京大学附属図書館・情報基盤センター</ref>。
多田等観が[[1923年]]に帰国する際、[[ダライ・ラマ]]13世から与えられた膨大なチベット仏教文献の内、ラサ版カンギュル、デルゲ版テンギュル、ナルタン版テンギュルは、東京大学文学部印度研究室が所蔵し、
*ラサ版カンギュルの目録 『東京大学所蔵ラサ版チベット大蔵経目録』([[1965年]])
*デルゲ版テンギュルの[[影印]]版 『チベット大蔵経:デルゲ版 東京大学文学部所蔵』([[1977年]]–[[1981年]])
などが刊行された<ref name=dij1 />。他方で、[[東北大学]]には、デルゲ版大蔵経(カンギュル・テンギュル)が収蔵され、目録として
*『西蔵大蔵経総目録』([[1934年]])
*『西蔵撰述仏典目録:東北大学蔵版』([[1953年]])
が刊行された<ref>[http://tksosa.dijtokyo.org/?page=collection_detail.php&p_id=478&lang=ja 西蔵大蔵経] - DIJ</ref>。
また、[[大谷大学]]には[[寺本婉雅]]が入手した北京版大蔵経が収蔵され、目録として
*『甘殊爾勘同目録』([[1930年]]-[[1932年]])
*『丹殊爾勘同目録』([[1965年]]-[[1997年]])
が、更に[[山口益]]監修による[[影印]]版
*『北京版西蔵大蔵経』([[1955年]]-[[1961年]])
が刊行されるなどした<ref>[http://web.otani.ac.jp/cri/twrp/project/ 大谷大学チベット研究] - [[大谷大学]]</ref>。
==脚注・出典==
{{Reflist}}
==関連項目==
*[[経典]] - [[大蔵経]]
*[[チベット仏教]]
*[[能海寛]]
*[[河口慧海]]
*[[多田等観]]
*[[東洋文庫]]
*[[東北大学附属図書館]]
*[[大谷大学]]
*[[チベット学研究センター]]
*[[:en:Mahāvyutpatti|Mahāvyutpatti]]・・・テンギュルにも含まれている[[サンスクリット語]]-[[チベット語]]の辞書。
{{仏教典籍}}
{{Buddhism2}}
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[[Category:チベット仏教]]
[[Category:大蔵経]]
[[Category:ユネスコ記憶遺産]]
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浄土教
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浄土教(じょうどきょう)、中国の北魏時代に慧遠が説き、唐代の善導が提唱した。阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く大乗仏教の一派。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。
「浄土(Kṣetra)」は、阿弥陀や西方などの形容がない限り本来は仏地・仏土(仏国土)を意味する。
「阿弥陀信仰」とは、阿弥陀仏を対象とする信仰のことで、「浄土信仰」とも言われる。
日本では浄土教の流行にともない、それぞれの宗旨・宗派の教義を超越、包括した民間信仰的思想も「阿弥陀信仰」に含めることもある。また阿弥陀仏は多くの仏教宗派で信仰され、「阿弥陀信仰」はひとつの経典に制限されない懐の広さを持つ。
阿弥陀仏の浄土は西方に在するとされるが、日の沈む(休む)西方に極楽(出典まま)があるとする信仰の起源はシュメール文明にあり、ほかの古代文明にもみられるとされる。極楽にたどりつくまでに"夜見の国"などを通過しなければならないという一定の共通性もみられるとされる。
仏教経典を集大成した大正新脩大蔵経では、他力本願の語は日本撰述の経解・論書にしか見られないものである。また、他力門・自力門の語は中国撰述の経解・論書で極めてまれに用いられるが、漢訳経典には表れない。
日本の浄土教では、『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(鳩摩羅什訳)を、「浄土三部経」と総称する。
また、その他の経典では、法華経第二十三の『薬王菩薩本事品』に、この経典(薬王菩薩本事品)をよく理解し修行したならば阿弥陀如来のもとに生まれることができるだろう、とも書かれている。
浄土教の成立時期は、インドにおいて大乗仏教が興起した時代である。紀元100年頃に『無量寿経』と『阿弥陀経』が編纂されたのを契機とし、時代の経過とともにインドで広く展開していく。しかし、インドでは宗派としての浄土教が成立されたわけではない。
浄土往生の思想を強調した論書として、龍樹(150年 - 250年頃)の『十住毘婆沙論』「易行品」、天親(4-5世紀)の『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』・『往生論』)がある。天親の浄土論は、曇鸞の註釈を通じて後世に大きな影響を与えた。
なお『観無量寿経』 は、サンスクリット語の原典が発見されておらず、おそらく4-5世紀頃に中央アジアで大綱が成立し、伝訳に際して中国的要素が加味されたと推定される。しかし中国・日本の浄土教には大きな影響を与える。
中国では2世紀後半から浄土教関係の経典が伝えられ、5世紀の初めには廬山の慧遠(334年 - 416年)が『般舟三昧経』にもとづいて白蓮社という念仏結社を結び、初期の中国浄土教の主流となる。以後、諸宗の学者で浄土教を併せて信仰し兼修する者が多かったが、浄土教を専ら弘めたのは唐の道綽・善導と懐感の一派であった。
山西省の玄中寺を中心とした曇鸞(476年頃 - 542年頃)が、天親の『浄土論』(『往生論』)を注釈した『無量寿経優婆提舎願生偈註』(『浄土論註』・『往生論註』)を撰述する。その曇鸞の影響を受けた道綽(562年 - 645年)が、『仏説観無量寿経』を解釈した『安楽集』を撰述する。
道綽の弟子である善導(613年 - 681年)が、『観無量寿経疏』(『観経疏』)を撰述し、『仏説観無量寿経』は「観想念仏」ではなく「称名念仏」を勧めている教典と解釈する。
これらとは別に慧日(慈愍三蔵)(680年 - 748年)も念仏をすすめ、教団を発展させた。慧日の教団の発展は、仏教を知的な教理中心の学問から情操的な宗教へと転回させるきっかけになった。
こうして「称名念仏」を中心とする浄土思想が確立する。しかし中国ではその思想は主流とはならなかった。
その他に法照(? - 777年頃)が、音楽的に念仏を唱える「五会念仏」を提唱し、南岳・五台山・太原・長安などの地域に広める。『浄土五会念仏誦経観経儀』、『浄土五会念仏略法事儀讃』を撰述する。
明代には、慧日、善導の浄土教を基盤に、株宏が禅と念仏の一致を説いた。その影響で中国では浄土教を禅などの諸宗と融合する傾向が強くなり、後の中国における「禅」の大勢となる「念仏禅」の源流となる。
日本で、法然は『選択本願念仏集』において、中国浄土教の法義について、慧遠の「廬山慧遠流」、慧日の「慈愍三蔵流」、曇鸞・道綽・善導の「道綽・善導流」と分類する。広説仏教語大辞典によれば、古来から中国の浄土教には慧遠流(廬山流)・善導流・慈愍流の三流があるといわれており、善導流は日本浄土教の基礎となったという。
7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられ、阿弥陀仏の造像が盛んになる。奈良時代には智光や礼光が浄土教を信奉し、南都系の浄土教の素地が作られた。
比叡山では、天台宗の四種三昧の一つである常行三昧に基づく念仏が広まり、諸寺の常行三昧堂を中心にして念仏衆が集まって浄業を修するようになった。貴族の間にも浄土教の信奉者が現れ、浄土信仰に基づく造寺や造像がなされた。臨終に来迎を待つ風潮もこの時代に広まる。空也や良忍の融通念仏などにより、一般民衆にも浄土教が広まった。
平安時代の著名な浄土教家として、南都系には昌海、永観、実範、重誉、珍海がおり、比叡山系には良源、源信、勝範がいるが、彼らはいずれも本とする宗が浄土教とは別にあり、そのかたわら浄土教を信仰するという立場であった。
こうして平安時代初期には、阿弥陀仏を事観の対象とした「観相念仏」が伝わる。まず下級貴族に受け容れられた。当時の貴族社会は藤原氏が主要な地位を独占していて、他の氏族の者はごくわずかな出世の機会を待つのみで、この待機生活が仏身・仏国土を憧憬の念を持って想い敬う「観相念仏」の情感に適合していたものと考えられる。
平安時代の寺院は国の管理下にあり、浄土思想は主に京都の貴族の信仰であった。また、(官)僧は現代で言う公務員であった。官僧は制約も多く、国家のために仕事に専念するしかなかった。そのような制約により、庶民の救済ができない状況に嫌気が差して官僧を辞し、個人的に教化活動する「私得僧」が現れるようになる。また大寺院に所属しない名僧を「聖」(ひじり)という。
この様に具体的な実例をもって浄土往生を説く方法は、庶民への浄土教普及に非常に有効であった。そして中・下級貴族の間に浄土教が広く普及していくに従い、上級貴族である藤原氏もその影響を受け、現世の栄華を来世にまでという思いから、浄土教を信仰し始めたものと考えられる。
こうして日本の仏教は国家管理の旧仏教から、民衆を救済の対象とする大衆仏教への転換期を迎える。
天台以外でも三論宗の永観(1033年 - 1111年)や真言宗の覚鑁(1095年 - 1143年)らの念仏者を輩出する。
この頃までに、修験道の修行の地であった熊野は浄土と見なされるようになり、院政期には歴代の上皇が頻繁に参詣した。後白河院の参詣は実に34回にも及んだ。熊野三山に残る九十九王子は、12世紀 - 13世紀の間に急速に組織された一群の神社であり、この頃の皇族や貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験たちが参詣の安全を願って祀ったものであった。
平安末期から鎌倉時代に、それまでの貴族を対象とした仏教から、武士階級・一般庶民を対象とした信仰思想の変革がおこる。(詳細は、鎌倉仏教を参照。)
また鎌倉時代になると、それまでの貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化と発展を遂げる。
末法思想・仏教の変革・社会構造の変化などの気運に連動して、浄土教は飛躍的な成長を遂げる。この浄土思想の展開を「日本仏教の精華」と評価する意見もある一方で、末世的な世情から生まれた、新しい宗教にすぎないと否定的にとらえる意見もある。
源空の門流には、弁長の鎮西流、証空の西山流、隆寛の多念義、長西の諸行本願義、幸西の一念義の五流があり、これに親鸞の真宗を加えて六流とする。源空門下の浄土教に十五流を数えることもある。
平安時代後期から鎌倉時代にかけて興った融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に至る。
|
[
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"text": "浄土教(じょうどきょう)、中国の北魏時代に慧遠が説き、唐代の善導が提唱した。阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く大乗仏教の一派。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。",
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"text": "「浄土(Kṣetra)」は、阿弥陀や西方などの形容がない限り本来は仏地・仏土(仏国土)を意味する。",
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"text": "「阿弥陀信仰」とは、阿弥陀仏を対象とする信仰のことで、「浄土信仰」とも言われる。",
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"text": "日本では浄土教の流行にともない、それぞれの宗旨・宗派の教義を超越、包括した民間信仰的思想も「阿弥陀信仰」に含めることもある。また阿弥陀仏は多くの仏教宗派で信仰され、「阿弥陀信仰」はひとつの経典に制限されない懐の広さを持つ。",
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"text": "阿弥陀仏の浄土は西方に在するとされるが、日の沈む(休む)西方に極楽(出典まま)があるとする信仰の起源はシュメール文明にあり、ほかの古代文明にもみられるとされる。極楽にたどりつくまでに\"夜見の国\"などを通過しなければならないという一定の共通性もみられるとされる。",
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"text": "仏教経典を集大成した大正新脩大蔵経では、他力本願の語は日本撰述の経解・論書にしか見られないものである。また、他力門・自力門の語は中国撰述の経解・論書で極めてまれに用いられるが、漢訳経典には表れない。",
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"text": "日本の浄土教では、『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(鳩摩羅什訳)を、「浄土三部経」と総称する。",
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"text": "また、その他の経典では、法華経第二十三の『薬王菩薩本事品』に、この経典(薬王菩薩本事品)をよく理解し修行したならば阿弥陀如来のもとに生まれることができるだろう、とも書かれている。",
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"text": "浄土教の成立時期は、インドにおいて大乗仏教が興起した時代である。紀元100年頃に『無量寿経』と『阿弥陀経』が編纂されたのを契機とし、時代の経過とともにインドで広く展開していく。しかし、インドでは宗派としての浄土教が成立されたわけではない。",
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"text": "浄土往生の思想を強調した論書として、龍樹(150年 - 250年頃)の『十住毘婆沙論』「易行品」、天親(4-5世紀)の『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』・『往生論』)がある。天親の浄土論は、曇鸞の註釈を通じて後世に大きな影響を与えた。",
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"text": "なお『観無量寿経』 は、サンスクリット語の原典が発見されておらず、おそらく4-5世紀頃に中央アジアで大綱が成立し、伝訳に際して中国的要素が加味されたと推定される。しかし中国・日本の浄土教には大きな影響を与える。",
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"text": "中国では2世紀後半から浄土教関係の経典が伝えられ、5世紀の初めには廬山の慧遠(334年 - 416年)が『般舟三昧経』にもとづいて白蓮社という念仏結社を結び、初期の中国浄土教の主流となる。以後、諸宗の学者で浄土教を併せて信仰し兼修する者が多かったが、浄土教を専ら弘めたのは唐の道綽・善導と懐感の一派であった。",
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"text": "山西省の玄中寺を中心とした曇鸞(476年頃 - 542年頃)が、天親の『浄土論』(『往生論』)を注釈した『無量寿経優婆提舎願生偈註』(『浄土論註』・『往生論註』)を撰述する。その曇鸞の影響を受けた道綽(562年 - 645年)が、『仏説観無量寿経』を解釈した『安楽集』を撰述する。",
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"text": "道綽の弟子である善導(613年 - 681年)が、『観無量寿経疏』(『観経疏』)を撰述し、『仏説観無量寿経』は「観想念仏」ではなく「称名念仏」を勧めている教典と解釈する。",
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"text": "これらとは別に慧日(慈愍三蔵)(680年 - 748年)も念仏をすすめ、教団を発展させた。慧日の教団の発展は、仏教を知的な教理中心の学問から情操的な宗教へと転回させるきっかけになった。",
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},
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"text": "こうして「称名念仏」を中心とする浄土思想が確立する。しかし中国ではその思想は主流とはならなかった。",
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"text": "その他に法照(? - 777年頃)が、音楽的に念仏を唱える「五会念仏」を提唱し、南岳・五台山・太原・長安などの地域に広める。『浄土五会念仏誦経観経儀』、『浄土五会念仏略法事儀讃』を撰述する。",
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"text": "明代には、慧日、善導の浄土教を基盤に、株宏が禅と念仏の一致を説いた。その影響で中国では浄土教を禅などの諸宗と融合する傾向が強くなり、後の中国における「禅」の大勢となる「念仏禅」の源流となる。",
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"text": "日本で、法然は『選択本願念仏集』において、中国浄土教の法義について、慧遠の「廬山慧遠流」、慧日の「慈愍三蔵流」、曇鸞・道綽・善導の「道綽・善導流」と分類する。広説仏教語大辞典によれば、古来から中国の浄土教には慧遠流(廬山流)・善導流・慈愍流の三流があるといわれており、善導流は日本浄土教の基礎となったという。",
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"text": "7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられ、阿弥陀仏の造像が盛んになる。奈良時代には智光や礼光が浄土教を信奉し、南都系の浄土教の素地が作られた。",
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"text": "比叡山では、天台宗の四種三昧の一つである常行三昧に基づく念仏が広まり、諸寺の常行三昧堂を中心にして念仏衆が集まって浄業を修するようになった。貴族の間にも浄土教の信奉者が現れ、浄土信仰に基づく造寺や造像がなされた。臨終に来迎を待つ風潮もこの時代に広まる。空也や良忍の融通念仏などにより、一般民衆にも浄土教が広まった。",
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"text": "平安時代の著名な浄土教家として、南都系には昌海、永観、実範、重誉、珍海がおり、比叡山系には良源、源信、勝範がいるが、彼らはいずれも本とする宗が浄土教とは別にあり、そのかたわら浄土教を信仰するという立場であった。",
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"text": "こうして平安時代初期には、阿弥陀仏を事観の対象とした「観相念仏」が伝わる。まず下級貴族に受け容れられた。当時の貴族社会は藤原氏が主要な地位を独占していて、他の氏族の者はごくわずかな出世の機会を待つのみで、この待機生活が仏身・仏国土を憧憬の念を持って想い敬う「観相念仏」の情感に適合していたものと考えられる。",
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"text": "平安時代の寺院は国の管理下にあり、浄土思想は主に京都の貴族の信仰であった。また、(官)僧は現代で言う公務員であった。官僧は制約も多く、国家のために仕事に専念するしかなかった。そのような制約により、庶民の救済ができない状況に嫌気が差して官僧を辞し、個人的に教化活動する「私得僧」が現れるようになる。また大寺院に所属しない名僧を「聖」(ひじり)という。",
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"text": "この様に具体的な実例をもって浄土往生を説く方法は、庶民への浄土教普及に非常に有効であった。そして中・下級貴族の間に浄土教が広く普及していくに従い、上級貴族である藤原氏もその影響を受け、現世の栄華を来世にまでという思いから、浄土教を信仰し始めたものと考えられる。",
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"text": "こうして日本の仏教は国家管理の旧仏教から、民衆を救済の対象とする大衆仏教への転換期を迎える。",
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"text": "天台以外でも三論宗の永観(1033年 - 1111年)や真言宗の覚鑁(1095年 - 1143年)らの念仏者を輩出する。",
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"text": "この頃までに、修験道の修行の地であった熊野は浄土と見なされるようになり、院政期には歴代の上皇が頻繁に参詣した。後白河院の参詣は実に34回にも及んだ。熊野三山に残る九十九王子は、12世紀 - 13世紀の間に急速に組織された一群の神社であり、この頃の皇族や貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験たちが参詣の安全を願って祀ったものであった。",
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"text": "平安末期から鎌倉時代に、それまでの貴族を対象とした仏教から、武士階級・一般庶民を対象とした信仰思想の変革がおこる。(詳細は、鎌倉仏教を参照。)",
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"text": "また鎌倉時代になると、それまでの貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化と発展を遂げる。",
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"text": "末法思想・仏教の変革・社会構造の変化などの気運に連動して、浄土教は飛躍的な成長を遂げる。この浄土思想の展開を「日本仏教の精華」と評価する意見もある一方で、末世的な世情から生まれた、新しい宗教にすぎないと否定的にとらえる意見もある。",
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"text": "源空の門流には、弁長の鎮西流、証空の西山流、隆寛の多念義、長西の諸行本願義、幸西の一念義の五流があり、これに親鸞の真宗を加えて六流とする。源空門下の浄土教に十五流を数えることもある。",
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"text": "平安時代後期から鎌倉時代にかけて興った融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に至る。",
"title": "歴史"
}
] |
浄土教(じょうどきょう)、中国の北魏時代に慧遠が説き、唐代の善導が提唱した。阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く大乗仏教の一派。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。
|
{{混同|浄土宗|浄土真宗}}
{{脚注の不足|date=2017年5月25日 (木) 07:48 (UTC)}}
{{大乗仏教}}
'''浄土教'''(じょうどきょう)、中国の[[北魏]]時代に[[慧遠 (東晋)|慧遠]]が説き、[[唐]]代の[[善導]]が提唱した。[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]の[[極楽]][[浄土]]に[[往生]]し[[成仏]]することを説く[[大乗仏教]]の一派。'''浄土門'''、'''浄土思想'''ともいう<ref name="kb889">{{Cite book |和書 |author=中村元 |authorlink= |coauthors= |date=2001-06 |title=広説仏教語大辞典 |edition= |publisher=東京書籍 |volume=上 |page=889および890 |isbn=}}</ref>。[[阿弥陀仏]]の願に基づいて、[[観仏]]や[[念仏]]によってその浄土に往生しようと願う教え<ref name="sb733">{{Cite book |和書 |author=総合佛教大辞典編集委員会(編) |authorlink= |coauthors= |date=1988-1 |title=総合佛教大辞典 |edition= |publisher=法蔵館 |volume=上 |pages=733-734 |isbn=}}</ref>。
== 概要 ==
===浄土について===
{{Main|浄土}}
「浄土(Kṣetra)」は、阿弥陀や西方などの形容がない限り本来は仏地・仏土([[仏国土]])を意味する<ref>[http://spokensanskrit.org/index.php?mode=3&script=hk&tran_input=buddhakSetra&direct=au बुद्धक्षेत्र(buddhakSetra)] - Spoken Sanskrit Dictionary.</ref>{{要検証|date=2017年8月6日 (日) 23:49 (UTC)|title=出典たるspokensanskrit.deの辞典は、Kṣetraの「本来の意味」を表示しているかどうか定かでない。}}。
{| class="wikitable"
|+ 浄土の主催者と浄土名
!主催者 !! 浄土名 !! 備考(典拠となる経典/宗派など)
|-
!阿弥陀仏
| 西方極楽浄土<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=西方浄土 |url=http://jodoshuzensho.jp/daijiten |website=WEB版新纂浄土宗大辞典 |access-date=2023-02-20 |language=ja}}</ref>
| 阿弥陀経<ref name=":0" />
|-
!弥勒菩薩
| 兜率天<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=兜率天 |url=http://jodoshuzensho.jp/daijiten |website=WEB版新纂浄土宗大辞典 |access-date=2023-02-20 |language=ja}}</ref>
| 弥勒上生経<ref name=":1" />
|-
!大日如来
| 密厳浄土<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=密厳浄土 |url=http://jodoshuzensho.jp/daijiten |website=WEB版新纂浄土宗大辞典 |access-date=2023-02-20 |language=ja}}</ref>
| 大乗密厳経<ref name=":2" /> 興教大師全集<ref name=":2" />
|-
!観音菩薩
| 補陀落浄土
| 大方広仏[[華厳経]] [[入法界品]]
|-
!久遠実成の釈迦牟尼仏
| 霊山浄土<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=霊山浄土 |url=http://jodoshuzensho.jp/daijiten |website=WEB版新纂浄土宗大辞典 |access-date=2023-02-20 |language=ja}}</ref>
| 法華経<ref name=":3" /> 日蓮宗
|-
!薬師如来
| 東方薬師瑠璃光浄土
|'''[[薬師瑠璃光如来本願功徳経]]'''
|}
===阿弥陀信仰===
「'''阿弥陀信仰'''」とは、阿弥陀仏を対象とする信仰のことで、「'''浄土信仰'''」とも言われる。
日本では浄土教の流行にともない、それぞれの宗旨・宗派の教義を超越、包括した民間信仰的思想も「阿弥陀信仰」に含めることもある。また阿弥陀仏は多くの仏教宗派で信仰され、「阿弥陀信仰」はひとつの経典に制限されない懐の広さを持つ。
===西方信仰===
阿弥陀仏の浄土は西方に在するとされるが、日の沈む(休む)西方に[[極楽]](出典まま)があるとする信仰の起源は[[シュメール文明]]にあり、ほかの古代文明にもみられるとされる<ref>『古代伝説と文学』 土居光知 (岩波書店) 272-274頁 1968年第5刷。</ref>{{要検証|date=2017年8月6日 (日) 23:49 (UTC)|title=}}。極楽にたどりつくまでに"夜見の国"などを通過しなければならないという一定の共通性もみられるとされる<ref name="doi2">『古代伝説と文学』 土居光知 (岩波書店) 275-285頁 1968年第5刷。</ref>{{要検証|date=2017年8月6日 (日) 23:49 (UTC)|title=}}。
=== 他力 ===
{{節スタブ}}
[[仏教経典]]を集大成した[[大正新脩大蔵経]]では、[[他力本願]]の語は日本撰述の経解・[[論書]]にしか見られないものである<ref>[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E4%BB%96%E5%8A%9B%E6%9C%AC%E9%A1%98&mode=search 他力本願] (日本撰述の「續經疏部」「續律疏部・續論疏部」「續諸宗部」にしか見られない) - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>{{要高次出典|date=2017年5月24日 (水) 04:34 (UTC)}}。また、他力門・自力門の語は中国撰述の経解・論書で極めてまれに用いられるが、漢訳経典には表れない<ref>[https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E4%BB%96%E5%8A%9B%E9%96%80&mode=search 他力門] (「續經疏部」「續諸宗部」は日本撰述) - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>{{要高次出典|date=2017年8月6日 (日) 23:49 (UTC)}}。{{main|他力}}
===関連経典===
日本の浄土教では、『[[無量寿経#仏説無量寿経|仏説無量寿経]]』([[康僧鎧]]訳)、『[[観無量寿経#訳本|仏説観無量寿経]]』([[畺良耶舎]]訳)、『[[阿弥陀経#仏説阿弥陀経|仏説阿弥陀経]]』([[鳩摩羅什]]訳)を、「浄土三部経」と総称する。
また、その他の経典では、[[法華経]]第二十三の『薬王菩薩本事品』に、この経典(薬王菩薩本事品)をよく理解し修行したならば阿弥陀如来のもとに生まれることができるだろう、とも書かれている。
[[ファイル:Amitabha Sutra book.jpg|250px|thumb|[[鳩摩羅什]]訳による[[阿弥陀経#仏説阿弥陀経|仏説阿弥陀経]]]]
== 歴史 ==
=== インド ===
浄土教の成立時期は、インドにおいて[[大乗仏教]]が興起した時代である。紀元100年頃に『[[無量寿経]]』と『[[阿弥陀経]]』が編纂されたのを契機とし、時代の経過とともにインドで広く展開していく。しかし、インドでは宗派としての浄土教が成立されたわけではない。
浄土往生の思想を強調した論書として、'''[[龍樹]]'''([[150年]] - [[250年]]頃)の[[十住毘婆沙論|『十住毘婆沙論』「易行品」]]<ref>『十住毘婆沙論』「易行品」…『十住毘婆沙論』17巻の内、巻第五の「易行品 第九」</ref>、'''[[世親|天親]]'''(4-5世紀)の[[無量寿経優婆提舎願生偈|『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』・『往生論』)]]がある{{要出典|date=2017年5月25日 (木) 07:48 (UTC)|title=}}。天親の浄土論は、[[曇鸞]]の註釈を通じて後世に大きな影響を与えた<ref name="sb733" />。
なお『[[観無量寿経]]』 は、[[サンスクリット|サンスクリット語]]の原典が発見されておらず、おそらく4-5世紀頃に中央アジアで大綱が成立し、伝訳に際して中国的要素が加味されたと推定される。しかし中国・日本の浄土教には大きな影響を与える。
=== 中国 ===
中国では[[2世紀]]後半から浄土教関係の[[経典]]が伝えられ、[[5世紀]]の初めには'''[[廬山]]の[[慧遠 (東晋)|慧遠]]'''([[334年]] - [[416年]])が『[[般舟三昧経]]』にもとづいて[[白蓮社]]という念仏結社を結び、初期の中国浄土教の主流となる{{要出典|date=2017年5月25日 (木) 07:48 (UTC)|title=}}。以後、諸宗の学者で浄土教を併せて信仰し兼修する者が多かったが、浄土教を専ら弘めたのは[[唐]]の[[道綽]]・[[善導]]と[[懐感]]の一派であった<ref name="sb733" />。
[[山西省]]の[[玄中寺]]を中心とした'''[[曇鸞]]'''([[476年]]頃 - [[542年]]頃)が、天親の『浄土論』(『往生論』)を注釈した[[無量寿経優婆提舎願生偈註|『無量寿経優婆提舎願生偈註』(『浄土論註』・『往生論註』)]]を撰述する。その曇鸞の影響を受けた'''[[道綽]]'''([[562年]] - [[645年]])が、『仏説観無量寿経』を解釈した『安楽集』を撰述する。
道綽の弟子である'''[[善導]]'''([[613年]] - [[681年]])が、[[観無量寿経疏|『観無量寿経疏』(『観経疏』)]]を撰述し、『仏説観無量寿経』は「観想念仏」ではなく「[[称名念仏]]」を勧めている教典と解釈する。
<!--善導は活動拠点を都の[[長安]]に移し、[[龍門洞窟|龍門]]の[[奉先寺]]の[[大仏]]造営に参画している。-->
これらとは別に[[慧日]](慈愍三蔵)([[680年]] - [[748年]])も念仏をすすめ、教団を発展させた<ref name="sb733" />。慧日の教団の発展は、仏教を知的な教理中心の学問から情操的な宗教へと転回させるきっかけになった<ref name="sb733" />。
こうして「称名念仏」を中心とする浄土思想が確立する。しかし中国ではその思想は主流とはならなかった。
その他に[[法照]](? - [[777年]]頃)が、音楽的に念仏を唱える「[[五会念仏]]」を提唱し、南岳・五台山・太原・長安などの地域に広める。『浄土五会念仏誦経観経儀』、『浄土五会念仏略法事儀讃』を撰述する。
[[明]]代には、[[慧日]]、善導の浄土教を基盤に、[[株宏]]が[[禅宗|禅]]と念仏の一致を説いた<ref name="sb733" />。その影響で中国では浄土教を[[禅宗|禅]]などの諸宗と融合する傾向が強くなり、後の中国における「禅」の大勢となる「念仏禅」の源流となる{{要出典|date=2017年5月25日 (木) 07:48 (UTC)|title=}}。
日本で、[[法然]]は『[[選択本願念仏集]]』において、中国浄土教の法義について、慧遠の「廬山慧遠流」、慧日の「慈愍三蔵流」、曇鸞・道綽・善導の「道綽・善導流」と分類する<ref>分類…『選択集』に「謂廬山慧遠法師慈愍三蔵道綽善導等是也」とある。</ref>。広説仏教語大辞典によれば、古来から中国の浄土教には慧遠流(廬山流)・善導流・慈愍流の三流があるといわれており、善導流は日本浄土教の基礎となったという<ref name="sb733" />。
=== 日本 ===
==== 飛鳥時代・奈良時代 ====
{{節スタブ}}
7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられ、阿弥陀仏の造像が盛んになる{{要出典|date=2017年5月25日 (木) 07:48 (UTC)|title=}}。[[奈良時代]]には[[智光]]や[[礼光]]が浄土教を信奉し、南都系の浄土教の素地が作られた<ref name="sb733" />。
==== 平安時代 ====
比叡山では、天台宗の四種三昧の一つである常行三昧に基づく念仏が広まり、諸寺の常行三昧堂を中心にして念仏衆が集まって浄業を修するようになった<ref name="sb733" />。貴族の間にも浄土教の信奉者が現れ、浄土信仰に基づく造寺や造像がなされた<ref name="sb733" />。臨終に来迎を待つ風潮もこの時代に広まる<ref name="sb733" />。[[空也]]や[[良忍]]の[[融通念仏]]などにより、さらに一般民衆へ浄土教が広まり始めた<ref name="sb733" />。
平安時代の著名な浄土教家として、南都系には[[昌海]]、[[永観]]、[[実範]]、[[重誉]]、[[珍海]]がおり、比叡山系には[[良源]]、[[源信 (僧侶)|源信]]、[[勝範]]がいるが、彼らはいずれも本とする宗が浄土教とは別にあり、そのかたわら浄土教を信仰するという立場であった<ref name="sb733" />。
===== 平安時代初期 =====
;[[円仁]]
:[[承和 (日本)|承和]]5年(838年)には、[[遣唐使]]の一員として円仁([[794年]] - [[864年]])が渡海し留学する。中国[[五台山 (中国)|五台山]]で法照流の五会念仏を学ぶ。その他にも[[悉曇]]・[[密教]]などを学び、[[承和 (日本)|承和]]14年(847年)に帰国する。[[比叡山]]において、その五台山の引声念仏を常行三昧<ref group="注釈">常行三昧…『般舟三昧経』に基づき、90日間休みなく阿弥陀仏像のまわりを、口に念仏を唱えながら、心に阿弥陀仏を念ずる行。</ref>に導入・融合し、天台浄土教の発祥となる。常行三昧堂が建立され、貞観7年(865年)には、常行三昧による「観想念仏行」が実践されるようになる。
:
;[[良源]]
:良源([[912年]] - [[985年]])が、『極楽浄土九品往生義』を著す。また比叡山[[延暦寺#横川|横川(よかわ)]]の整備をする。
こうして[[平安時代#平安前期|平安時代初期]]には、阿弥陀仏を事観の対象とした「観相念仏」が伝わる。まず下級貴族に受け容れられた。当時の貴族社会は[[藤原氏]]が主要な地位を独占していて、他の氏族の者はごくわずかな出世の機会を待つのみで、この待機生活が仏身・仏国土を憧憬の念を持って想い敬う「観相念仏」の情感に適合していたものと考えられる。
===== 平安時代中期 =====
平安時代の寺院は国の管理下にあり、浄土思想は主に京都の貴族の信仰であった。また、(官)僧は現代で言う公務員であった。官僧は制約も多く、国家のために仕事に専念するしかなかった。そのような制約により、庶民の救済ができない状況に嫌気が差して官僧を辞し、個人的に教化活動する「[[私度僧|私得僧]]」が現れるようになる。また大寺院に所属しない名僧を「[[聖]]」(ひじり)という。
;[[空也]]
:空也([[903年]]-[[972年]])は、念仏を唱えながら各地で道を作り、橋を架けるなど社会事業に従事しながら諸国を遊行する。同時に庶民に対し精力的に教化を行い、庶民の願いや悩みを聞き入れ、阿弥陀信仰と念仏の普及に尽力する。空也は、「市聖」(いちひじり)・「阿弥陀聖」と呼ばれる。空也は[[踊念仏]]の実質的な創始者でもある。
:
;[[源信 (僧侶)|源信]]
:源信 ([[942年]]-[[1017年]])は、良源の弟子のひとりで、985年に『[[往生要集]]』を著し、日本人の浄土観・地獄観に影響を与えた。
:『往生要集』は、阿弥陀如来を観相する法と極楽浄土への往生の具体的な方法を論じた、念仏思想の基礎とも言える。内容は実践的で非常に解りやすいもので、絵解きによって広く庶民にも広められた。同書は「観想念仏」を重視したものの、一般民衆のための「称名念仏」を認知させたことは、後の「称名念仏」重視とする教えに多大な影響を与え、後の浄土教の発展に重要な意味を持つ書となる。
:986年には比叡山に「二十五三昧合」という結社が作られ、ここで源信は指導的立場に立ち、毎月1回の念仏三昧を行った。結集した人々は互いに契りを交わし、臨終の際には来迎を念じて往生を助けたという。
:源信は、天台宗の僧であったが世俗化しつつあった叡山の中心から離れて修学・修行した。
:
;[[慶滋保胤]]
:平安時代中期の文人で中級貴族でもあった慶滋保胤(931年頃 - 1002年)は、僧俗合同の法会である「勧学会」(かんがくえ)を催す。また、浄土信仰によって極楽往生を遂げたと言われる人々の伝記を集めた『日本往生極楽記』を著す。
::後には、『[[日本往生極楽記]]』の編集方法を踏襲した『続本朝往生伝』([[大江匡房]])・『拾遺往生伝』(三善爲康)・『三外往生伝』(沙弥蓮祥)など著される。
この様に具体的な実例をもって浄土往生を説く方法は、庶民への浄土教普及に非常に有効であった。そして中・下級貴族の間に浄土教が広く普及していくに従い、上級貴族である藤原氏もその影響を受け、現世の栄華を来世にまでという思いから、浄土教を信仰し始めたものと考えられる。
こうして日本の仏教は国家管理の旧仏教から、民衆を救済の対象とする大衆仏教への転換期を迎える。
===== 平安時代末期 =====
[[ファイル:Byodoin Phoenix Hall Uji 2009.jpg|thumb|250px|平等院鳳凰堂]]
;「末法」の到来
:「[[末法]]」とは、[[釈迦|釈尊]]入滅から二千年を経過した次の一万年を「末法」の時代とし、<ref>『日本思想全史』134頁</ref>「教えだけが残り、修行をどのように実践しようとも、悟りを得ることは不可能になる時代」としている。この「末法」に基づく思想は、インドには無く中国南北朝時代に成立し、日本に伝播した。釈尊の入滅は五十数説あるが、法琳の『破邪論』上巻に引く『周書異記』に基づく紀元前943年とする説を元に、末法第一年を平安末期の[[永承]]7年(1052年)とする。
:本来「末法」は、上記のごとく仏教における時代区分であったが、平安時代末期に災害・戦乱が頻発した事にともない[[終末論]]的な思想として捉えられるようになる。よって「末法」は、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその「末法」の到来に怯えた。さらに「末法」では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなる。ただし、異説として、浄土教の広まりをもたらした終末論的な思想は本来は[[儒教]]や[[道教]]などの古代中国思想に端を発する「末代」観と呼ぶべきもので、仏教の衰微についてはともかく当時の社会で問題視された人身機根の変化には触れることのない「末法」思想では思想的背景の説明がつかず、その影響力は限定的であったとする説もある<ref>森新之介「末代観と末法思想」『摂関院政期思想史研究』(思文閣出版、2013年) ISBN 978-4-7842-1665-9(原論文『日本思想史研究』40・41号(2008-9年))</ref>。
:末法が到来する永承7年に、関白である[[藤原頼通]]が京都[[宇治市|宇治]]の[[平等院]]に、平安時代の浄土信仰の象徴のひとつである阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立した。阿弥陀堂は、「[[浄土三部経]]」の『[[観無量寿経|仏説観無量寿経]]』や『[[阿弥陀経|仏説阿弥陀経]]』に説かれている荘厳華麗な極楽浄土を表現し、外観は極楽の阿弥陀如来の宮殿を模している。
:この頃には阿弥陀信仰は貴族社会に深く浸透し、定印を結ぶ阿弥陀如来と阿弥陀堂建築が盛んになる。阿弥陀堂からは阿弥陀来迎図も誕生した。
:平等院鳳凰堂の他にも数多くの現存する堂宇が知られ、主なものに[[中尊寺金色堂]]、[[法界寺]]阿弥陀堂、[[白水阿弥陀堂]]などがある。
:
;[[良忍]]
:良忍は、([[1072年]] - [[1132年]])は、「一人の念仏が万人の念仏と融合する」という[[融通念仏]](大念仏)を説き、'''[[融通念仏宗]]'''の祖となる。
天台以外でも[[三論宗]]の[[永観 (僧)|永観]]([[1033年]] - [[1111年]])や真言宗の[[覚鑁]]([[1095年]] - [[1143年]])らの念仏者を輩出する。
この頃までに、[[修験道]]の修行の地であった[[熊野]]は浄土と見なされるようになり、[[院政]]期には歴代の[[太上天皇|上皇]]が頻繁に参詣した。[[後白河天皇|後白河院]]の参詣は実に34回にも及んだ。[[熊野三山]]に残る[[九十九王子]]は、12世紀 - 13世紀の間に急速に組織された一群の神社であり、この頃の[[皇族]]や[[貴人]]の[[熊野詣]]に際して先達をつとめた[[修験道|熊野修験]]たちが参詣の安全を願って祀ったものであった。
==== 鎌倉時代 ====
[[平安時代#平安後期|平安末期]]から[[鎌倉時代]]に、それまでの貴族を対象とした仏教から、武士階級・一般庶民を対象とした信仰思想の変革がおこる。(詳細は、[[鎌倉仏教]]を参照。)
また鎌倉時代になると、それまでの貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化と発展を遂げる。
末法思想・仏教の変革・社会構造の変化などの気運に連動して、浄土教は飛躍的な成長を遂げる。この浄土思想の展開を「日本仏教の精華」と評価する意見もある一方で、末世的な世情から生まれた、新しい宗教にすぎないと否定的にとらえる意見もある。<ref>[[#参考文献|渡辺照宏『日本の仏教』]]p204「この末世的な新興宗教を「日本仏教の精華」とよぶような偏見が今でも一部で行なわれているが、そういうことをいうのは仏教の本質と実践的意義を知らないからである」</ref>
;[[法然]](源空)
:法然(法然房源空、[[1133年]]-[[1212年]])は、'''[[浄土宗]]'''の開祖とされる。1198年に[[選択本願念仏集|『選択本願念仏集』(『選択集』)]]を撰述し、「専修念仏」を提唱する。
:1145年に比叡山に登る。1175年に [[善導]](中国浄土教)の『観無量寿経疏』により「[[専修念仏]]」に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み吉水教団を形成し、「専修念仏」の教えを広める。(1175年が、宗旨としての浄土宗の立教開宗の年とされる。)
:法然の提唱した「専修念仏」とは、浄土往生のための手段のひとつとして考えられていた「観相念仏」を否定し、「称名念仏」のみを認めたものである。「南無阿弥陀仏」と称えることで、貴賎や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生することができると説き、往生は臨終の際に決定するとした。
:また『選択集』において、正しく往生浄土を明かす教えを『仏説無量寿経』(曹魏康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(劉宋畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(姚秦鳩摩羅什訳)の3経典を「浄土三部経」とし、天親の『浄土論』を加え「三経一論」とする。
源空の門流には、[[弁長]]の[[浄土宗#歴史|鎮西流]]、[[証空]]の[[浄土宗#歴史|西山流]]、[[隆寛]]の[[浄土宗#歴史|多念義]]、[[長西]]の[[浄土宗#歴史|諸行本願義]]、[[幸西]]の[[浄土宗#歴史|一念義]]の五流があり、これに親鸞の真宗を加えて六流とする<ref name="sb733" />。源空門下の浄土教に十五流を数えることもある<ref name="sb733" />。
:
;[[親鸞]]
:親鸞([[1173年]]-[[1262年]])は、法然の弟子のひとり。[[顕浄土真実教行証文類|『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)]]等を著して法然の教えを継承発展させ、後に'''[[浄土真宗]]'''の宗祖とされる。<ref group="注釈">親鸞の著書に「浄土真宗」・「真宗」とあるのは、宗旨としての「浄土真宗」のことではなく、「真の宗教である浄土宗の教え(法然の教え)」のことである。なお浄土真宗の開祖は親鸞とされているが、それは親鸞歿後に制定されたものである。親鸞自身は独立開宗の意思は無く、法然に師事できた事を生涯の喜びとした。</ref>
:1181年に比叡山に登る。
:1201年には修行では民衆を救済できないと修行仏教と決別し、比叡山を下りる。そして法然の吉水教団に入門し、弟子入りする。[[承元の法難|念仏停止]]により流罪に処され、僧籍の剥奪後は、法然の助言に従い、生涯に渡り非僧非俗の立場を貫いた。赦免後は[[東国]](関東)を中心に20年に渡る布教生活を送り、念仏の教えをさらに深化させる。京都に戻ってからは著作活動に専念し、1247年に『[[顕浄土真実教行証文類|教行信証]]』を撰述、数多くの経典・論釈を引用・解釈し、「教」・「行」・「信」・「証」の四法を顕かにする。阿弥陀仏のはたらきによりおこされた「真実信心」 を賜わることを因として、いかなる者でも現生に浄土往生が約束される「正定聚」に住し必ず滅度に至らしめられると説く。
:宗旨としての浄土真宗が成立するのは没後のことである。
:
;[[一遍]]
: 一遍は([[1239年]]-[[1289年]])は、'''[[時宗]]'''の開祖とされる。1251年に[[大宰府]]に赴き、法然の孫弟子である浄土宗の[[聖達]]([[1203年]]-[[1279年]])に師事した。その後は諸国を遍歴し、紀伊の[[熊野本宮大社|熊野本宮証誠殿]]で熊野権現から啓示を得て悟りを開き、時宗を開宗したとされる。その啓示とは、はるか昔の法蔵比丘の誓願によって衆生は救われているのであるから、「南無阿弥陀仏」の各号を書いた札を民衆に配り(賦算)、民衆に既に救われていることを教えて回るというものであった。阿弥陀仏の絶対性は「信」すらも不要で、念仏を唱えることのみで極楽往生できると説いた。晩年には踊念仏を始める。
平安時代後期から鎌倉時代にかけて興った[[融通念仏宗]]・[[浄土宗]]・[[浄土真宗]]・[[時宗]]は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に至る。
==== 室町時代以降 ====
;[[蓮如]]
:本願寺は、親鸞の[[続柄#曾孫|曾孫]]である[[覚如]]([[1270年]]-[[1351年]])が親鸞の廟堂を寺格化し、本願寺教団が成立する。その後衰退し天台宗の青蓮院の末寺になるものの、[[室町時代]]に本願寺第八世 [[蓮如]]([[1415年]]-[[1499年]])によって再興する。
:[[寛正]]6年(1465年)に、延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺は破却される。
:[[文明 (日本)|文明]]3年に北陸の吉崎に赴き、[[吉崎御坊]]を建立する。もともと北陸地方は、[[一向俊聖|一向]]や[[一遍]]の影響を受けた地域であり、急速に教団は拡大していく。
:信徒は「門徒」とも呼ばれるが、他宗から「一向宗」と呼ばれる強大な信徒集団を形成した。「一向」は「ひたすら」とも読み、「ひたすら阿弥陀仏の救済を信じる」という意味を持つ。まさにひたすら「南無阿弥陀仏」と称え続ける姿から、専修念仏の旨とするように全体を捉えがちであるが、実際には[[修験道]]の行者や、[[密教]]などの僧が浄土真宗に宗旨替えし、本願寺教団の僧となった者たちが現れる。一部ではその者たちによって、浄土真宗と他宗の教義が複雑に混合され、浄土真宗の教義には無い「[[呪術]]」や「祈祷」などの民間信仰が行われるようになる。よって必ずしも専修とは言えない状態になっていく。それに対し蓮如は再三にわたり「[[御文]]」などを用いて称名念仏を勧めるものの、文明7年(1475年)吉崎を退去し山科に移る。
:蓮如の吉崎退去後も真宗門徒の団結力は絶大で、旧来の守護大名の勢力は著しく削がれた。中でも、[[加賀一向一揆]]や山城国一揆などの[[一向一揆]]は有名である。このため、多くの守護大名は妥協して共存の道を選択する。
;[[顕如]]・[[教如]]以降
:戦国時代、一向宗勢力は[[織田信長]]や[[上杉謙信]]らと激しい戦闘を繰り広げた(詳細は[[石山合戦]]、[[越中一向一揆]]を参照)。
:その後[[豊臣秀吉]]の介入による宗主継承問題を起因として、[[徳川家康]]により本願寺教団は東西に分立するも、日本最大宗派となって現在に至る(詳細は、[[本願寺の歴史]]を参照)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2017年5月25日 (木) 07:48 (UTC)|section=1}}
*{{Cite book|和書
|author=袴谷憲昭
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|title=日本仏教文化史
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*{{Cite book|和書
|editor=奈良康明|editor-link=奈良康明
|year=2005
|title=日本の仏教を知る事典
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|publisher=[[東京書籍]]
|isbn=4487800374
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*{{Cite book|和書
|editor=伊藤唯真|editor-link=伊藤唯真
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|title=浄土の聖者 空也
|publisher=[[吉川弘文館]]
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}}
== 関連項目 ==
{{Div col|colwidth=15em}}
*[[阿弥陀三尊]]
*[[大無量寿経]]
*[[南無阿弥陀仏]]
*[[仏像]]
*[[念仏]]
*[[称名念仏]]
*[[極楽]]
*[[往生]]
*[[仏国土]]
*[[七高僧]]
*[[平安仏教]]
*[[鎌倉仏教]]
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== 外部リンク ==
* [https://www.youtube.com/watch?v=j8xpFBBCJEI&list=PLmwYOQLkF8Yi0r96xmE3pmOxhTTDwEOKl&index=3 佐々木閑「ブッダの生涯3」(動画)] - 浄土思想の形成・発展と仏伝(過去世を含めたブッダの伝記)の世界観との関係を解説。
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宮部みゆき
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宮部 みゆき(みやべ みゆき、1960年〈昭和35年〉12月23日 - )は、日本の小説家。東京都江東区生まれ。日本推理作家協会会員。日本SF作家クラブ会員。
OL、法律事務所、東京ガス集金課勤務の後、小説家になる。1987年(昭和62年)、「我らが隣人の犯罪」でデビューする。以後、『龍は眠る』(日本推理作家協会賞受賞)『火車』(山本周五郎賞受賞)『理由』(直木賞受賞)『模倣犯』(毎日出版文化賞特別賞受賞)などのミステリー小説や、『本所深川ふしぎ草紙』(吉川英治文学新人賞受賞)『ぼんくら』などの時代小説で人気作家となる。ファンタジーやジュブナイルものの作品も執筆している。雑誌幻影城ファンクラブ「怪の会」元会員。
1960年(昭和35年)12月23日、東京都江東区深川のサラリーマン家庭に生まれる。母方の祖父は木場の川並職人、父親も職人的な仕事に就いていた。深川の下町で代を重ねてきた母方で数えると、宮部の代で4代目に当たる。宮部は、小説家デビューを果たした後もこの町で部屋を借りて仕事場にしている(※少なくとも1998年頃まで。
小学校2年生の時、父が買ってくれた『杜子春』を1日で読み終えてしまった。その後は移動図書館で様々な本を借りて読むようになり、『人形の家』ルーマー・ゴッデンや『ドリトル先生』シリーズは愛読書になった。
また、父から落語や講談の怪談噺を聞かされて育っている。父はテレビ時代劇も大好きで、一家にはNHK大河ドラマを観る習慣があったので、みゆき自身もファンになり、特に中学校1年生の時(1973年/昭和48年)は戦国時代を舞台にした『国盗り物語』に夢中になった。本放送だけでなく週末の再放送まで観たのはもちろんで、この番組を通して複雑な人間関係や時代背景、そして戦国時代の基礎知識を学習した。1979年(昭和54年)のNHK大河ドラマ『草燃える』では、鎌倉時代について学習する機会を得た。また、父に倣って原作の時代小説を読み、永井路子のファンになって、永井の他作品も読んでいる。山本周五郎の『赤ひげ診療譚』と他の小説も同様の経緯で読んだ。一方、母は映画好きで、ハリウッドの黄金期の映画、例えば『恐怖の報酬』『鳥』『サイコ』などの話を、子供の頃のみゆきに語り聞かせてきたという。ビデオテープレコーダが一般家庭に普及する以前の話である。
学校図書館で借りた『世界の名作怪奇館シリーズ』に夢中になったのも、中学生の頃であった。また、中学時代から高校時代にかけて、英米の怪奇小説にはまり、『幻想と怪奇』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)、『怪奇小説傑作集』(創元推理文庫)、アンソロジー『怪奇と幻想』(角川文庫)、荒俣宏・紀田順一郎監修の『怪奇幻想の文学』シリーズ(新人物往来社)などを、公立図書館で借りて読んだ。
小・中学校ではずっと、作文で褒められたことがなかった。小学校4年生の時など、読書感想文を「感想でなく本の宣伝文だ」として手直しするよう先生から指示されてしまっている。しかし、高校3年生の時の担任であった国語教師からは、「宮部は人に読ませようとして書いているから、小説家やライターになれるかも知れない。」と、初めて褒められたという。
1976年(昭和51年)、江東区立深川第四中学校を卒業。1979年(昭和54年)、東京都立墨田川高等学校を卒業。高校卒業後は、OLとして2年間勤めている。このOL時代に裁判所速記官試験(現在は養成中止)に挑むも不合格となり、中根速記学校で速記を学び、速記検定1級を取得している。
1981年(昭和56年)・21歳の時から法律事務所に5年間勤務し、和文タイプライターのタイピストを担当した。事務所は新宿歌舞伎町にあり、顧問になっている店も風俗店が多かった。5回の破産企業の管財人就任の時以外は空き時間が多く、留守番時には速記のアルバイトも許されて、『判例時報』などを読んでいた。
10歳代からの海外ミステリに続き、当時日本のミステリも読むようになる。映画の影響もあり、自分も何かを書いてみたいという気持ちが湧くものの、うまくいかなかなった。参考に買った本は、ヒッチコックとトリュフォーの共著『映画術』であった。初歩習作『最初の依頼人』36枚を書く。
1983年(昭和58年)・23歳の時、発売されたワープロ(ワードプロセッサ)を、仕事に必要になると買った宮部は、勤務後に自宅で文字打ちの練習を始めたが、突然、長文を作り始めて止められなくなった。そのうち、自分が打っているのは「小説」だと気付いた。毎晩、睡眠時間を削って深夜まで打ち続け、腕まで痛くなっても辞めない宮部は、親に叱られても聞かず、生涯初の小説を完成させてしまった。のちに宮部は『朝日新聞』夕刊連載コラムの中で「ミヤベミユキという小説家はワープロ様抜きでは生まれなかった」と振り返っている。なお、この小説は発表されていない。
1984年(昭和59年)、講談社フェーマススクール・エンタテイメント小説作法教室を雑誌広告で知った宮部は、1年半、教室に通った。高額授業料のため、期末まで残り半年は各回の打ち上げにのみ参加していたという。ここで、山村正夫、南原幹雄、多岐川恭の講師と石川喬司、阿刀田高のゲスト講師に学んだ。ただ、この頃はまだ、プロになれるなどとは思っていなかった。
小説教室の仲間に勧められ、試しにオール讀物推理小説新人賞に応募し、3回目の1986年(昭和61年)候補になり、夏樹静子に励ましの評価を貰って、小説家への道が見え、意欲が初めて湧く。翌1987年(昭和62年)にオール讀物推理小説新人賞を受賞し、短編「我らが隣人の犯罪」でデビューする。多岐川恭に「仕事を辞めないこと、次作が載らず、なかなか本が出なくても書き続ける、健康に注意」と助言される。長編依頼をもらい、時間拘束のきつい法律事務所を辞め、自由のきく東京ガスの集金人を2年間務める。2年半かけて1989年(平成元年)2月に東京創元社『鮎川哲也と十三の謎』の第5回配本『パーフェクト・ブルー』が初出版される。同年に専業作家となり、『魔術はささやく』を書き、1989年日本推理サスペンス大賞を受賞する。『龍は眠る』(綾辻行人と日本推理作家協会賞を同時受賞)などの超能力を扱った作品が多かったが、1992年(平成4年)に発表した『火車』は、クレジットカードローンによる多重債務問題を描き出し、山本周五郎賞を受賞した。
ミステリーではその後、『理由』で直木三十五賞、『模倣犯』で毎日出版文化賞特別賞、『名もなき毒』で吉川英治文学賞を受賞した。宮崎勤事件に触発されて書いた『模倣犯』の後で現代の闇を描くことに疲れて、時代小説やファンタジーを重点に書く。
時代小説では、江戸に住む人々の人情を描き、吉川英治文学新人賞を受賞した『本所深川ふしぎ草紙』や、超能力ものの『霊験お初捕物控』、深川を舞台にしたミステリー『ぼんくら』『日暮らし』などがある。
趣味としてコンシューマーゲーム(家庭用ゲーム)を楽しむ宮部は、2001年(平成13年)発売のアクションアドベンチャーゲーム『ICO』では、こちら側から申し出て小説化している。『ドリームバスター』(2001年刊行)やアニメ映画化された『ブレイブ・ストーリー』(2003年刊行)などのファンタジー小説もある。大量殺人を忌避する気持ちから、2010年(平成22年)、初めて恋愛も登場するノンミステリーの青春小説『小暮写真館』を書く。2012年(平成24年)、『ソロモンの偽証』が3部作、原稿用紙4700枚という超大作として話題になった。
大沢在昌の主宰する事務所の大沢オフィスに京極夏彦とともに参加し3人の共同出資の「株式会社大沢オフィス」を設立している(現・株式会社ラクーンエージェンシー)。オフィスの公式サイト名は3人の姓から1字ずつとって「大極宮」と命名した。コードネームは「安寿」。また、2005年(平成17年)夏公開の映画『妖怪大戦争』のプロデュースチーム「怪」の一員にもなった。
1995年(平成7年)に自身が語ったところによると、書き始めたころからの、どこからかストーリーが下りてきてワープロが書いているような感覚が続いていた。知人に、「いつもワープロにしめ縄を張って拝んでいるのでは」と言われた。人物設定でも、『火車』の「休職中の刑事」でも、考えたわけではなくて、そういう人として出てきた。でも、最後に犯人が出てくる小説を書くという基本設定や大阪球場内の住宅展示場を舞台になど自分で考えた。小説の世界が別にあって、そこから人物だけ引っ張ってきているから、背景が自分のものになっていなくて当時はシリーズが書けないと思った。いろいろ私事や体調などでアンテナの感度が悪くなると、何もキャッチできなくなりたちまちスランプになった。初期の1992年(平成4年)から2001年(平成13年)にかけて、多くの連載が中断され、未完のままとなっている。他の作家のように、連載で問題があっても後で加筆修正し、完成させることができないでいる。
全体的に作品の多くは、タイトルとラストの3行、時には2ページくらいは決まっている。そういうラストストックが数本コルクボードに貼ったり、データや頭の中の画像としてある。タイトルが決まらないと書けない。冒頭から書いていき、途中考えたことが何か所か浮かんでいて、その間とラストまでを作り書いていく。これも、重要な部分だけ決定している時と、タイトルを決めた段階で細部まで設定している場合の2パターンある。人物の顔は、空想を限定するので書かない。誰から見ているのか視点を大切にする。説明は極力せず会話で表す。「視点にブレがなく、だれが本当のことを言って、誰が嘘ついているか、調べてみなくちゃわからないというルール。」なら私にはミステリーだと定義している。
2002年(平成14年)の段階では、執筆に対して一定の自己コントロールができるようになった。取材は簡略な方である。警察や日本銀行本店本館の取材にも行ったが、ロッカーの名札の順番や湯呑みを置く順序、日銀も給湯室や掃除道具置き場など日常を表す場所を注意して見る。そういう場所を書いて作品に親しみやすくする。普通の人は書けるが、周りにいないスターなど書けないでいる。国会議員や秘書、中央官僚などは取材しても書けないであろうとのこと。
最初に、人目を引く謎を提出して、それから多視点で光を当てて謎と全体像を浮かび上がらせる手法をよく使用する。他の作家は事前に詳細なプロットを作るが、宮部は一切設計図無しで書いてしまう。
“普通の人”を被害者にする悪質なカルト宗教やマルチ商法に激しく怒りを感じ、20世紀に書いた現代ミステリは、自分が怒りや不安を感じた事件が、譬えれば綾織りのように出たと感じている。「社会派」と言われると大いに戸惑う。常に「自分がこうだったら怖い」「世の中のこういう所がすごく不安だ」ということを書く。女性の主人公にしたりする描き方は、ずっと意識している。一時期までは「女性なのに刑事や検事だ」と特別な位置づけが必要であった。
杉村三郎シリーズの短編集『希望荘』で、2011年(平成23年)に発生した東日本大震災当日の様子を書いたのは放射能の数値が花粉情報のように流され、怯え気にしていた姿を残したかったとのことで、同シリーズの『昨日がなければ明日もない』「絶対零度」で、体育会系の同調圧力を書いたのは、不明な組織に入れられて「お前がいちばん下だから」と命令されるのが怖いと感じたからとのこと。ナチス・ドイツがどんな仕組みで、当時の人たちがどう暮らしたのかにも興味がある。第二次世界大戦の戦前・戦中における日本で異状が日常になったのに普通に過ごした意外性にも怖さを感じている。ファンタジーで、全体主義的なものが個々の人間にどう働きかけるのか書きたい気持ちがある。
時代小説では、年代を固定化したくないので有名人を出さない。特に『三島屋変調百物語シリーズ』は、江戸時代後期の設定であるが、幕末になると不得意なので、長年にわたる話であるが、時代を進めないように努めている。江戸時代の前期・中紀・後期では、それぞれ物価が違うので、物の値段は出さないようにしている。『鬼滅の刃』のテレビアニメを観て、舞台は大正時代であるが、時代劇的要素が強いイメージに「出し方や見せ方で時代小説はまだ広がる」と希望を持った。
アイデアは仕事場で机に向って考え思いつく。他の人と違い、息抜きの場では何も浮かばない。仕事場以外では作業できない。パソコンでは原稿用紙縦型レイアウトを使用して1枚分しか表示せずプリントアウトして赤入れして直す。パソコンはインターネットに接続しておらず、調査に使わず、メールアドレスも持たず、ワープロ専用機として使用している。
最後の勤務2年間の東京ガス集金課の、料金の取り立てで社会の各層を見聞きしたことが、直接に参考になっている。
インタビューで「小説教室で作家になって、"だったら私もなれる" と誤解させる罪作りな作家だ」と言われて少し愕然とする。文芸部にも入ったことがなく、同人誌もしていない。経験も伝(つて)も無く、小説教室に行くしかなかった。年配のプロを目指す人の中で、自分は初めてで最初はダメだったが、感想を言ってもらっただけでうれしかった。大極宮での「作家になる方法」の質問には、まず書くしかないし、「人が書いていないものを書く」、後は運任せの厳しい世界だ、と答えている。
無類のコンシューマーゲーム(家庭用ゲーム)好きとしても知られている。ゲーム好きになったきっかけは、1994年(平成6年)、体調が悪く、仕事も遅れて落ち込んでいる時に、「気が晴れるから」と綾辻行人にファミコン・ゲームを勧められ、夢中になったことになる。その後、パソコンも購入してゲーム範囲が広がったという。宮部にとってのコンシューマーゲームは、読書と同様にひとりで楽しむものであり、他のプレイヤーと交流するオンラインゲームはやる気にならないという。
2002年(平成14年)に発売されたRPG『幻想水滸伝III』では、発売前、公式ウェブサイト内にて先行プレイ日記(公開は終了)を8回にわたって公開していた。2005年(平成17年)発売のRPG『ローグギャラクシー』については、シナリオを酷評している。また、コーエー(現・コーエーテクモゲームス)が運営するMMORPG『大航海時代Online』(2005年〈平成17年〉発売)では、2006年(平成18年)3月に公式イベント「宮部みゆき『ドリームバスター』in『大航海時代 Online』」を行い、宮部はシナリオを監修した。このゲームでは、宮部のSF小説『ドリームバスター』のキャラクターが登場して活躍している。『タクティクスオウガ』の熱烈なファンで、地下100階の広大なマップであるエクストラステージ「死者の宮殿」を15周するぐらいにやりこんでいる。
宮部みゆき(1960年12月23日、東京生まれ)と綾辻行人(1960年12月23日、京都生まれ)は、生年月日とデビューの年月(1987年?月)が同じであり、デビュー作が推理小説であったという点まで共通している。宮部は、先に単行本を出版した綾辻をミステリ作家として尊敬の対象としつつも、交流が増えるに連れて「仲の良い友人でライバルだ」と語るようになった。
宮部には、1993年(平成5年)の事務所開設以来20年あまりの付き合いで、最も「宮部みゆき」を知る2歳下の担当編集者がいた。その人が病気で余命3か月と宣告された折、病室に見舞いに行っても宮部は、ただ泣くばかりだったが、彼女から「私が先にいって、宮部さんの作家として重荷になっている事を全部持って行くから、身軽になってほしい。」と言われた。その女性が2014年(平成26年)に亡くなった後、宮部は喪失感で自分が半分失くなったように感じたが、しばらくして彼女の遺した言葉を思い出して気が楽になり、「亡くなって自分といつも一緒にいて自分のこれからの仕事を見守ってくれている」と感じられるようになって、以来、彼女の思い出が仕事の原動力になっているとのことである。
「」内が宮部みゆきの作品
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"text": "宮部 みゆき(みやべ みゆき、1960年〈昭和35年〉12月23日 - )は、日本の小説家。東京都江東区生まれ。日本推理作家協会会員。日本SF作家クラブ会員。",
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"text": "OL、法律事務所、東京ガス集金課勤務の後、小説家になる。1987年(昭和62年)、「我らが隣人の犯罪」でデビューする。以後、『龍は眠る』(日本推理作家協会賞受賞)『火車』(山本周五郎賞受賞)『理由』(直木賞受賞)『模倣犯』(毎日出版文化賞特別賞受賞)などのミステリー小説や、『本所深川ふしぎ草紙』(吉川英治文学新人賞受賞)『ぼんくら』などの時代小説で人気作家となる。ファンタジーやジュブナイルものの作品も執筆している。雑誌幻影城ファンクラブ「怪の会」元会員。",
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"text": "1960年(昭和35年)12月23日、東京都江東区深川のサラリーマン家庭に生まれる。母方の祖父は木場の川並職人、父親も職人的な仕事に就いていた。深川の下町で代を重ねてきた母方で数えると、宮部の代で4代目に当たる。宮部は、小説家デビューを果たした後もこの町で部屋を借りて仕事場にしている(※少なくとも1998年頃まで。",
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"text": "小学校2年生の時、父が買ってくれた『杜子春』を1日で読み終えてしまった。その後は移動図書館で様々な本を借りて読むようになり、『人形の家』ルーマー・ゴッデンや『ドリトル先生』シリーズは愛読書になった。",
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"text": "また、父から落語や講談の怪談噺を聞かされて育っている。父はテレビ時代劇も大好きで、一家にはNHK大河ドラマを観る習慣があったので、みゆき自身もファンになり、特に中学校1年生の時(1973年/昭和48年)は戦国時代を舞台にした『国盗り物語』に夢中になった。本放送だけでなく週末の再放送まで観たのはもちろんで、この番組を通して複雑な人間関係や時代背景、そして戦国時代の基礎知識を学習した。1979年(昭和54年)のNHK大河ドラマ『草燃える』では、鎌倉時代について学習する機会を得た。また、父に倣って原作の時代小説を読み、永井路子のファンになって、永井の他作品も読んでいる。山本周五郎の『赤ひげ診療譚』と他の小説も同様の経緯で読んだ。一方、母は映画好きで、ハリウッドの黄金期の映画、例えば『恐怖の報酬』『鳥』『サイコ』などの話を、子供の頃のみゆきに語り聞かせてきたという。ビデオテープレコーダが一般家庭に普及する以前の話である。",
"title": "経歴"
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"text": "学校図書館で借りた『世界の名作怪奇館シリーズ』に夢中になったのも、中学生の頃であった。また、中学時代から高校時代にかけて、英米の怪奇小説にはまり、『幻想と怪奇』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)、『怪奇小説傑作集』(創元推理文庫)、アンソロジー『怪奇と幻想』(角川文庫)、荒俣宏・紀田順一郎監修の『怪奇幻想の文学』シリーズ(新人物往来社)などを、公立図書館で借りて読んだ。",
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"text": "小・中学校ではずっと、作文で褒められたことがなかった。小学校4年生の時など、読書感想文を「感想でなく本の宣伝文だ」として手直しするよう先生から指示されてしまっている。しかし、高校3年生の時の担任であった国語教師からは、「宮部は人に読ませようとして書いているから、小説家やライターになれるかも知れない。」と、初めて褒められたという。",
"title": "経歴"
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"text": "1976年(昭和51年)、江東区立深川第四中学校を卒業。1979年(昭和54年)、東京都立墨田川高等学校を卒業。高校卒業後は、OLとして2年間勤めている。このOL時代に裁判所速記官試験(現在は養成中止)に挑むも不合格となり、中根速記学校で速記を学び、速記検定1級を取得している。",
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"text": "1981年(昭和56年)・21歳の時から法律事務所に5年間勤務し、和文タイプライターのタイピストを担当した。事務所は新宿歌舞伎町にあり、顧問になっている店も風俗店が多かった。5回の破産企業の管財人就任の時以外は空き時間が多く、留守番時には速記のアルバイトも許されて、『判例時報』などを読んでいた。",
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"text": "10歳代からの海外ミステリに続き、当時日本のミステリも読むようになる。映画の影響もあり、自分も何かを書いてみたいという気持ちが湧くものの、うまくいかなかなった。参考に買った本は、ヒッチコックとトリュフォーの共著『映画術』であった。初歩習作『最初の依頼人』36枚を書く。",
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}
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宮部 みゆきは、日本の小説家。東京都江東区生まれ。日本推理作家協会会員。日本SF作家クラブ会員。 OL、法律事務所、東京ガス集金課勤務の後、小説家になる。1987年(昭和62年)、「我らが隣人の犯罪」でデビューする。以後、『龍は眠る』(日本推理作家協会賞受賞)『火車』(山本周五郎賞受賞)『理由』(直木賞受賞)『模倣犯』(毎日出版文化賞特別賞受賞)などのミステリー小説や、『本所深川ふしぎ草紙』(吉川英治文学新人賞受賞)『ぼんくら』などの時代小説で人気作家となる。ファンタジーやジュブナイルものの作品も執筆している。雑誌幻影城ファンクラブ「怪の会」元会員。
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{{Infobox 作家
|name= 宮部 みゆき <br />(みやべ みゆき)
|birth_date={{生年月日と年齢|1960|12|23}}
|birth_place={{JPN}}・[[東京都]][[江東区]]
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|occupation=[[推理作家]]、[[小説家]]
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|period=[[1987年]](昭和62年)- 現在
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|notable_works=『龍は眠る』(1991年)<br />『[[火車 (小説)|火車]]』(1992年)<br />『[[理由 (小説)|理由]]』(1998年)<br />『[[模倣犯 (小説)|模倣犯]]』(2001年)<br />『[[名もなき毒]]』(2006年)<br />『[[ソロモンの偽証]]』(2012年)
|awards=[[オール讀物推理小説新人賞]](1987年)<br />[[日本推理サスペンス大賞]](1989年)<br />[[吉川英治文学新人賞]](1992年)<br />[[日本推理作家協会賞]](1992年)<br />[[山本周五郎賞]](1993年)<br />[[日本SF大賞]](1997年)<br />[[直木三十五賞]](1999年)<br />[[日本冒険小説協会大賞]](1998年)<br />[[毎日出版文化賞]](2001年)<br />[[司馬遼太郎賞]](2002年)<br />[[芸術選奨]](2002年)<br />[[吉川英治文学賞]](2007年)<br />[[菊池寛賞]](2022年)
|debut_works=「我らが隣人の犯罪」(1987年)
|production=[[大極宮|ラクーンエージェンシー]]
|website=http://www.osawa-office.co.jp/write/miyabe.html 大極宮サイト「宮部みゆき」ページ
}}
{{読み仮名_ruby不使用|'''宮部 みゆき'''|みやべ みゆき|[[1960年]]〈[[昭和]]35年〉[[12月23日]]<ref name="mysterymember">{{Cite web|和書|title=会員名簿 宮部みゆき|publisher=[[日本推理作家協会]]|url=http://www.mystery.or.jp/member/detail/0398|accessdate=2016-07-08}}</ref> -{{Spaces}}}}は、[[日本]]の[[小説家]]。[[東京都]]<ref name="mysterymember" />[[江東区]]生まれ。[[日本推理作家協会]]会員<ref name="mysterymember" />。[[日本SF作家クラブ]]会員。
[[OL]]、[[法律事務所]]<ref name="mysterymember" />、[[東京ガス]]集金課勤務<ref name="綾辻(1999)">{{Harvnb|綾辻|1999|pp=18-23|loc=「綾辻行人との対談」}}</ref>の後、小説家になる。[[1987年]](昭和62年)、「我らが隣人の犯罪」でデビューする。以後、『龍は眠る』([[日本推理作家協会賞]]受賞)『[[火車 (小説)|火車]]』([[山本周五郎賞]]受賞)『[[理由 (小説)|理由]]』([[直木三十五賞|直木賞]]受賞)『[[模倣犯 (小説)|模倣犯]]』([[毎日出版文化賞]]特別賞受賞)などの[[推理小説|ミステリー]]小説や、『本所深川ふしぎ草紙』([[吉川英治文学新人賞]]受賞)『ぼんくら』などの[[時代小説]]で人気作家となる。[[ファンタジー]]や[[ジュブナイル]]ものの作品も執筆している。雑誌[[幻影城 (雑誌)|幻影城]]ファンクラブ「怪の会」元会員<ref>[[2003年]](平成15年)解散。</ref>。
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
[[1960年]](昭和35年)[[12月23日]]、東京都[[江東区]][[深川 (江東区)|深川]]の[[サラリーマン]]家庭に生まれる。母方の祖父は[[木場]]の[[川並鳶|川並職人]]、父親も職人的な仕事に就いていた<ref name="名前なし-20230316120214">{{Harvnb|高橋|大沢|宮部|井沢|1995|p=}} {{要ページ番号|date=2022年8月23日}}</ref>。深川の[[下町]]で代を重ねてきた母方で数えると、宮部の代で4代目に当たる<ref>{{Harvnb|平成お徒歩日記|2000|p=}} {{要ページ番号|date=2022年8月23日}}</ref>。宮部は、小説家デビューを果たした後もこの町で部屋を借りて仕事場にしている(※少なくとも1998年頃まで<ref>『[[本の雑誌]]』1998年頃、本人コラム。</ref>。
小学校2年生の時、父が買ってくれた『[[杜子春]]』を1日で読み終えてしまった<ref name="名前なし-20230316120214"/>。その後は[[移動図書館]]で様々な本を借りて読むようになり、『[[ルーマー・ゴッデン#日本語訳された作品|人形の家]]』[[ルーマー・ゴッデン]]や『[[ドリトル先生シリーズ|ドリトル先生]]』シリーズは愛読書になった<ref name="朝日_20000504">{{Cite news |和書 |date=2000-05-04 |title=インタビュー「知りたい作家の素顔─宮部みゆき」|publisher=[[朝日新聞社]] |newspaper=[[朝日新聞]] |accessdate=2022-08-24 }}</ref>。
また、父から[[落語]]や[[講談]]の[[怪談]]噺を聞かされて育っている。父はテレビ[[時代劇]]も大好きで、一家には[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]を観る習慣があったので、みゆき自身もファンになり、特に中学校1年生の時([[1973年]]/昭和48年)は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]を舞台にした『[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]』に夢中になった。本放送だけでなく週末の再放送まで観たのはもちろんで、この番組を通して複雑な人間関係や時代背景、そして戦国時代の基礎知識を学習した。[[1979年]](昭和54年)のNHK大河ドラマ『[[草燃える]]』では、[[鎌倉時代]]について学習する機会を得た。また、父に倣って[[原作]]の[[時代小説]]を読み、[[永井路子]]のファンになって、永井の他作品も読んでいる。[[山本周五郎]]の『[[赤ひげ診療譚]]』と他の小説も同様の経緯で読んだ{{Sfnp|歴史街道 2002年5月号}}{{Refnest|group="注"|きっかけのドラマは、1972年(昭和47年)から1973年(昭和48年)まで放送された『[[赤ひげ (1972年のテレビドラマ)|赤ひげ]]』{{Sfnp|オール讀物 2013年8月号}}}}。一方、母は[[映画]]好きで、[[ハリウッド]]の黄金期の映画、例えば『[[恐怖の報酬]]』『[[鳥 (1963年の映画)|鳥]]』『[[サイコ (1960年の映画)|サイコ]]』などの話を、子供の頃のみゆきに[[ストーリーテリング|語り聞かせて]]きた<ref name="名前なし-20230316120214"/>{{Sfnp|オール讀物 2013年8月号}}という。[[ビデオテープレコーダ]]が一般家庭に普及する以前の話である。
学校[[図書館]]で借りた『世界の名作怪奇館シリーズ』<ref name="世界の名作怪奇館">{{Cite journal |和書 |title=世界の名作怪奇館 |publisher=[[講談社]] }}{{Small|{{NCID|BA91903505}}}}。</ref>に夢中になったのも、中学生の頃であった。また、中学時代から高校時代にかけて、英米の[[怪奇小説]]にはまり、『幻想と怪奇』([[ハヤカワ・ポケット・ミステリ]])、『怪奇小説傑作集』([[創元推理文庫]])、アンソロジー『怪奇と幻想』([[角川文庫]])、[[荒俣宏]]・[[紀田順一郎]]監修の『怪奇幻想の文学』シリーズ([[新人物往来社]])などを、公立図書館で借りて読んだ<ref>{{Cite journal |和書 |date= |title=[[東雅夫]]×宮部みゆき「〈幻想と怪奇〉にひたる悦楽」|publisher=[[双葉社]] |journal=[[小説推理]] |volume=2002年1月号 }}</ref>。
小・中学校ではずっと、[[作文]]で褒められたことがなかった。小学校4年生の時など、[[読書感想文]]を「感想でなく本の宣伝文だ」として手直しするよう先生から指示されてしまっている。しかし、高校3年生の時の担任であった国語教師からは、「宮部は人に読ませようとして書いているから、小説家やライターになれるかも知れない。」と、初めて褒められた<ref>{{Harvnb|阿川|1999|p=}} {{要ページ番号|date=2022年8月23日}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |date= |title=[[浅田次郎]]×宮部みゆき「啖呵切る ご先祖様ぞ 道標」|publisher=[[集英社]] |journal=[[小説すばる]] |volume=2003年1月号 }}</ref>{{Sfnp|浅田|宮部|2005|loc=啖呵切るご先祖様ぞ道標(宮部みゆき)}}という。
=== 就職後、小説を書く ===
[[1976年]](昭和51年)、[[江東区立深川第四中学校]]を卒業。[[1979年]](昭和54年)、[[東京都立墨田川高等学校]]を卒業{{Sfn|宮部みゆき|2017|pp=88|loc=[[新保博久]](作成)「作家生活&全作品年表」}}。高校卒業後は、[[OL]]として2年間勤めている。このOL時代に[[裁判所速記官]]試験(現在は養成中止)に挑むも不合格となり、中根速記学校で[[速記]]を学び、速記検定1級を取得している。
[[1981年]](昭和56年)・21歳の時から[[法律事務所]]に5年間勤務し、和文[[タイプライター]]のタイピストを担当した。事務所は[[新宿]][[歌舞伎町]]にあり、[[顧問]]になっている店も[[風俗店]]が多かった。5回の[[破産]]企業の[[管財人]]就任の時以外は空き時間が多く、留守番時には速記の[[アルバイト]]も許されて、『[[判例時報]]』などを読んでいた<ref name="名前なし-20230316120214"/>。
10歳代からの海外[[ミステリ]]に続き、当時日本のミステリも読むようになる。映画の影響もあり、自分も何かを書いてみたいという気持ちが湧くものの、うまくいかなかなった。参考に買った本は、[[アルフレッド・ヒッチコック|ヒッチコック]]と[[フランソワ・トリュフォー|トリュフォー]]の共著『映画術』であった。初歩習作『最初の依頼人』36枚を書く{{Sfn|宮部みゆき|2017|pp=18-20|ps=、「超ロングインタビュー 立ち止まって振り返る30年の道のり」}}。
[[1983年]](昭和58年)・23歳の時、発売されたワープロ([[ワードプロセッサ]])を、仕事に必要になると買った宮部は、勤務後に自宅で文字打ちの練習を始めたが、突然、長文を作り始めて止められなくなった。そのうち、自分が打っているのは「小説」だと気付いた。毎晩、睡眠時間を削って深夜まで打ち続け、腕まで痛くなっても辞めない宮部は、親に叱られても聞かず、生涯初の小説を完成させてしまった。のちに宮部は『[[朝日新聞]]』[[夕刊]]連載コラムの中で「ミヤベミユキという小説家はワープロ様抜きでは生まれなかった」と振り返っている<ref>『朝日新聞』夕刊連載コラム。{{出典無効|date=2022年8月24日|title=基本情報の不備(時期情報を欠く)。おおよそでも示せませんか。「のちに宮部は~」は時期不明バージョンです。時期が示せれるなら「宮部は○○年頃に執筆していた『朝日~」のほうが自然です。}}</ref>。なお、この小説は発表されていない。
{{Anchors|小説教室 1984}}[[1984年]](昭和59年)、[[山村正夫#小説教室|講談社フェーマススクール・エンタテイメント小説作法教室]]を雑誌広告で知った<ref name="名前なし-20230316120214"/>宮部は、1年半、教室に通った{{Refnest|group="注"|同教室の他の受講生には、[[1989年]](平成元年)に受講した[[篠田節子]]がいる。}}。高額授業料のため、期末まで残り半年は各回の[[打ち上げ]]にのみ参加していたという。ここで、[[山村正夫]]、[[南原幹雄]]、[[多岐川恭]]の講師と[[石川喬司]]、[[阿刀田高]]のゲスト講師に学んだ{{Sfnp|山村|1998|loc=所収の寄稿エッセイ}}。ただ、この頃はまだ、プロになれるなどとは思っていなかった<ref>{{Harvnb|まるごと宮部みゆき|2002|p=}} {{要ページ番号|date=2022年8月24日}}<!--※49ページもある記事なのに該当ページが示されていません。以下同様。{{Sfnp}}方式で示せば、同一のものは自動で収束します。--></ref>。
=== 作家へ ===
小説教室の仲間に勧められ、試しに[[オール讀物推理小説新人賞]]に応募し、3回目の[[1986年]](昭和61年)候補になり<ref name="名前なし-20230316120214-2">{{Harvnb|まるごと宮部みゆき|2002|p=}} {{要ページ番号|date=2022年8月24日}}</ref>、[[夏樹静子]]に励ましの評価を貰って、小説家への道が見え、意欲が初めて湧く。翌[[1987年]](昭和62年)にオール讀物推理小説新人賞を受賞し{{Refnest|group="注"|この時までのペンネームは「山野田みゆき」で、受賞時に講談社の担当編集者にわかり易く覚えやすい作者名に変更するよう助言され今の名前にした。母が親しい拝み屋さんに、「本名はよくないから使うな」と言われていて、「宮部みゆき」を見てもらうと「いい名前だ」と認めてもらった{{Sfn|宮部みゆき|2017|pp=21|ps=、「超ロングインタビュー 立ち止まって振り返る30年の道のり」}}。}}、短編「我らが隣人の犯罪」でデビューする。多岐川恭に「仕事を辞めないこと、次作が載らず、なかなか本が出なくても書き続ける、健康に注意」と助言される{{Sfn|小説すばる 2005年12月号}}。長編依頼をもらい、時間拘束のきつい法律事務所を辞め、自由のきく[[東京ガス]]の集金人を2年間務める{{R|"綾辻(1999)"}}。2年半かけて{{R|"綾辻(1999)"}}[[1989年]](平成元年)2月に[[東京創元社]]『[[鮎川哲也と十三の謎]]』の第5回配本『[[パーフェクト・ブルー]]』が初出版される。同年に専業作家となり、『魔術はささやく』を書き、1989年[[日本推理サスペンス大賞]]を受賞する<ref name="名前なし-20230316120214"/>。『龍は眠る』([[綾辻行人]]と[[日本推理作家協会賞]]を同時受賞)などの超能力を扱った作品が多かったが、[[1992年]](平成4年)に発表した『[[火車 (小説)|火車]]』は、クレジット[[カードローン]]による多重債務問題を描き出し、[[山本周五郎賞]]を受賞した。
ミステリーではその後、『[[理由 (小説)|理由]]』で[[直木三十五賞]]、『[[模倣犯 (小説)|模倣犯]]』で[[毎日出版文化賞]]特別賞、『[[名もなき毒]]』で[[吉川英治文学賞]]を受賞した。[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件|宮崎勤事件]]に触発されて書いた<ref name=Yahoo_20190112>{{Cite news |和書 |date=2019-01-12 |title=「自分が怖いと思うことを書いてきた」―作家・宮部みゆきの“予見性”〈【連載・平成時代を視る】Yahoo!ニュース特集 |url=https://news.yahoo.co.jp/feature/1201/ |publisher=[[ヤフー (企業)|ヤフー]] |newspaper=[[Yahoo!ニュース]] |accessdate=2022-08-24 }}</ref>『模倣犯』の後で現代の闇を描くことに疲れて、時代小説やファンタジーを重点に書く<ref name="殺人はもう">{{Cite web|和書|url=http://book.asahi.com/clip/TKY201007200087.html |title= 宮部みゆき「殺人はもう書きたくない」青春小説『小暮写眞館』 |author=高津祐典|date=2010-07-20 |website=asahi.com |publisher= 朝日新聞社 |accessdate=2016-09-07 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20100723142710/http://book.asahi.com/clip/TKY201007200087.html|archivedate= 2010-07-23|deadlinkdate=2022-08-24}}</ref>。
時代小説では、江戸に住む人々の人情を描き、[[吉川英治文学新人賞]]を受賞した『本所深川ふしぎ草紙』や、超能力ものの『霊験お初捕物控』、深川を舞台にしたミステリー『[[ぼんくら]]』『日暮らし』などがある。
趣味として[[コンシューマーゲーム]](家庭用ゲーム)を楽しむ宮部は、[[2001年]](平成13年)発売の[[アクションアドベンチャーゲーム]]『[[ICO (ゲーム)|ICO]]』では、こちら側から申し出て[[小説化]]している<ref name="大極宮_Part4 QA.54">{{Cite web|和書|title=宮部みゆきへの質問と回答 Part4 QA.54 |url=http://www.osawa-office.co.jp/old/qa/qa_miyabe-04.html |publisher=[[大極宮|ラクーンエージェンシー]] |website=[[大極宮]] |accessdate=2013-07-29 }}</ref>。『[[ドリームバスター]]』(2001年刊行)や[[アニメ映画]]化された『[[ブレイブ・ストーリー]]』([[2003年]]刊行)などのファンタジー小説もある。[[大量殺人]]を忌避する気持ちから、[[2010年]](平成22年)、初めて恋愛も登場するノンミステリーの青春小説『小暮写真館』を書く<ref name=e-hon_20100526rec>{{Cite web|和書|date=2010年5月26日収録、「新刊ニュース 2010年8月号」より抜粋 |title=【シリーズ対談】松田哲夫の著者の魅力にズームアップ!デビュー23年目の初めて尽くし |url=https://www1.e-hon.ne.jp/content/sp_0031_i_miyabe_matuda.html |publisher=[[トーハン]] |work=e-hon |accessdate=2018-09-07 }}</ref><ref name="殺人はもう" />。[[2012年]](平成24年)、『[[ソロモンの偽証]]』が3部作、原稿用紙4700枚という超大作として話題になった。
[[大沢在昌]]の主宰する事務所の[[大沢在昌#対外関係|大沢オフィス]]に[[京極夏彦]]とともに参加し3人の共同出資の「株式会社大沢オフィス」を設立している<ref name="大極宮_Part5 QA.117">{{Cite web|和書|title=三人の作家たちへの質問と回答 Part5 QA.117 |url=http://www.osawa-office.co.jp/old/qa/qa_all05.html |publisher=ラクーンエージェンシー |website=大極宮|accessdate=2013-07-29 }}</ref>(現・株式会社ラクーンエージェンシー<ref name="大極宮_仕事依頼">{{Cite web|和書|title=作家への仕事のご依頼について |url=https://osawa-office.co.jp/osawa/osawa-03.html |publisher=ラクーンエージェンシー |website=大極宮 |accessdate=2021-11-09 }}</ref>)。オフィスの公式サイト名は3人の姓から1字ずつとって「[[大極宮]]」と命名した。コードネームは「安寿」。また、[[2005年]](平成17年)夏公開の映画『[[妖怪大戦争 (2005年の映画)|妖怪大戦争]]』のプロデュースチーム「怪」の一員にもなった。
=== 執筆 ===
1995年(平成7年)に自身が語ったところによると、書き始めたころからの、どこからかストーリーが下りてきてワープロが書いているような感覚が続いていた。知人に、「いつもワープロにしめ縄を張って拝んでいるのでは」と言われた。人物設定でも、『火車』の「休職中の刑事」でも、考えたわけではなくて、そういう人として出てきた。でも、最後に犯人が出てくる小説を書くという基本設定や大阪球場内の住宅展示場を舞台になど自分で考えた。小説の世界が別にあって、そこから人物だけ引っ張ってきているから、背景が自分のものになっていなくて当時はシリーズが書けないと思った。いろいろ私事や体調などでアンテナの感度が悪くなると、何もキャッチできなくなりたちまちスランプになった<ref name="名前なし-20230316120214"/>。初期の1992年(平成4年)から2001年(平成13年)にかけて、多くの連載が中断され、未完のままとなっている。他の作家のように、連載で問題があっても後で加筆修正し、完成させることができないでいる。
全体的に作品の多くは、タイトルとラストの3行、時には2ページくらいは決まっている。そういうラストストックが数本コルクボードに貼ったり、データや頭の中の画像としてある。タイトルが決まらないと書けない。冒頭から書いていき、途中考えたことが何か所か浮かんでいて、その間とラストまでを作り書いていく。これも、重要な部分だけ決定している時と、タイトルを決めた段階で細部まで設定している場合の2パターンある{{R|e-hon_20100526rec}}。人物の顔は、空想を限定するので書かない。誰から見ているのか視点を大切にする。説明は極力せず会話で表す。「視点にブレがなく、だれが本当のことを言って、誰が嘘ついているか、調べてみなくちゃわからないというルール。」なら私にはミステリーだと定義している<ref name="名前なし-20230316120214-2"/>。
2002年(平成14年)の段階では、執筆に対して一定の自己コントロールができるようになった。取材は簡略な方である。警察や日本銀行本店本館の取材にも行ったが、ロッカーの名札の順番や湯呑みを置く順序、日銀も給湯室や掃除道具置き場など日常を表す場所を注意して見る。そういう場所を書いて作品に親しみやすくする。普通の人は書けるが、周りにいないスターなど書けないでいる{{Refnest|group="注"|アイドルスターを、その芸能事務所を舞台に書く構想があったが書けなかった<ref name="名前なし-20230316120214-2"/>。}}。国会議員や秘書、中央官僚などは取材しても書けないであろうとのこと<ref name="名前なし-20230316120214-2"/>。
最初に、人目を引く謎を提出して、それから多視点で光を当てて謎と全体像を浮かび上がらせる手法をよく使用する{{Refnest|group="注"|これは高度の小説技術が必要で、各場面と部分にどの筋書きと謎解きの展開をするか緻密に構成を決め、登場人物の視点を合わせていき、最後に一つの大きな物語を提示しなければならない。}}。他の作家は事前に詳細な[[プロット]]を作るが、宮部は一切設計図無しで書いてしまう{{Sfnp|大沢|2019|p=144}}。
“普通の人”を被害者にする悪質な[[カルト]]宗教や[[マルチ商法]]に激しく怒りを感じ、20世紀に書いた現代ミステリは、自分が怒りや不安を感じた事件が、譬えれば[[綾織り]]のように出たと感じている。「社会派」と言われると大いに戸惑う。常に「自分がこうだったら怖い」「世の中のこういう所がすごく不安だ」ということを書く。女性の主人公にしたりする描き方は、ずっと意識している。一時期までは「女性なのに[[刑事]]や[[検事]]だ」と特別な位置づけが必要であった{{R|Yahoo_20190112}}。
[[杉村三郎シリーズ]]の短編集『希望荘』で、[[2011年]](平成23年)に発生した[[東日本大震災]]当日の様子を書いたのは[[放射能]]の数値が[[花粉]]情報のように流され、怯え気にしていた姿を残したかったとのことで、同シリーズの『昨日がなければ明日もない』「絶対零度」で、[[体育会系]]の[[同調圧力]]を書いたのは、不明な組織に入れられて「お前がいちばん下だから」と命令されるのが怖いと感じたからとのこと。[[ナチス・ドイツ]]がどんな仕組みで、当時の人たちがどう暮らしたのかにも興味がある。[[第二次世界大戦]]の戦前・戦中における日本で異状が日常になったのに普通に過ごした意外性にも怖さを感じている。ファンタジーで、全体主義的なものが個々の人間にどう働きかけるのか書きたい気持ちがある{{R|Yahoo_20190112}}。
時代小説では、年代を固定化したくないので有名人を出さない。特に『[[三島屋変調百物語|三島屋変調百物語シリーズ]]』は、[[江戸時代]]後期の[[設定 (物語)|設定]]であるが、[[幕末]]になると不得意なので、長年にわたる話であるが、時代を進めないように努めている{{Sfnp|オール讀物 2013年8月号}}。江戸時代の前期・中紀・後期では、それぞれ物価が違うので、物の値段は出さないようにしている。『[[鬼滅の刃 (アニメ)|鬼滅の刃]]』の[[テレビアニメ]]を観て、舞台は[[大正]]時代であるが、[[時代劇]]的要素が強いイメージに「出し方や見せ方で時代小説はまだ広がる」と希望を持った{{Sfnp|オール讀物 2021年3・4月合併号|pp=99-104}}。
アイデアは仕事場で机に向って考え思いつく。他の人と違い、息抜きの場では何も浮かばない。仕事場以外では作業できない。[[パソコン]]では[[原稿用紙]]縦型[[レイアウト]]を使用して1枚分しか表示せずプリントアウトして[[添削|赤入れ]]して直す。パソコンはインターネットに接続しておらず、調査に使わず、[[メールアドレス]]も持たず、[[ワードプロセッサ|ワープロ]]専用機として使用している<ref name="名前なし-20230316120214-2"/>。
最後の勤務2年間の[[東京ガス]]集金課の、料金の取り立てで社会の各層を見聞きしたことが、直接に参考になっている{{R|"綾辻(1999)"}}。
== 人物 ==
インタビューで「[[#小説教室 1984|小説教室]]で作家になって、"だったら私もなれる" と誤解させる罪作りな作家だ」と言われて少し愕然とする。文芸部にも入ったことがなく、[[同人誌]]もしていない。経験も伝({{Small|つて}})も無く、小説教室に行くしかなかった。年配のプロを目指す人の中で、自分は初めてで最初はダメだったが、感想を言ってもらっただけでうれしかった。[[大極宮]]での「作家になる方法」の質問には、まず書くしかないし、「人が書いていないものを書く」、後は運任せの厳しい世界だ、と答えている<ref name="名前なし-20230316120214-2"/>。
=== ゲーム ===
無類の[[コンシューマーゲーム]](家庭用ゲーム)好きとしても知られている。ゲーム好きになったきっかけは、[[1994年]](平成6年)、体調が悪く、仕事も遅れて落ち込んでいる時に、「気が晴れるから」と[[綾辻行人]]に[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]・ゲームを勧められ、夢中になったことになる。その後、[[パソコン]]も購入してゲーム範囲が広がった{{Sfnp|高橋|大沢|宮部|井沢|1995|p=141}}という。宮部にとってのコンシューマーゲームは、読書と同様にひとりで楽しむものであり、他のプレイヤーと交流する[[オンラインゲーム]]はやる気にならない<ref name="大極宮_Part5 QA.79">{{Cite web|和書|title=宮部みゆきへの質問と回答 Part5 QA.79 |url=https://osawa-office.co.jp/old/qa/qa_miyabe-05.html |publisher=ラクーンエージェンシー |website=大極宮 |accessdate=2013-07-29 }}</ref>という。
[[2002年]](平成14年)に発売された[[ロールプレイングゲーム|RPG]]『[[幻想水滸伝III]]』では、発売前、公式ウェブサイト内にて先行プレイ日記(公開は終了)を8回にわたって公開していた。[[2005年]](平成17年)発売のRPG『[[ローグギャラクシー]]』については、[[シナリオ]]を酷評している<ref name="大極宮_20060127">{{Cite web|和書|author=宮部みゆき |date=2006-01-27 |title=第237号【安寿のがまぐち〜宮部みゆきのコーナー】ゲーム女の生きる道 |url=http://www.osawa-office.co.jp/old/weekly/back/237.html#miyabe |publisher=ラクーンエージェンシー |website=大極宮 |accessdate=2013-03-10 }}</ref>。また、コーエー(現・[[コーエーテクモゲームス]])が運営する[[MMORPG]]『[[大航海時代Online]]』([[2005年]]〈平成17年〉発売)では、[[2006年]](平成18年)3月に公式イベント「宮部みゆき『ドリームバスター』in『大航海時代 Online』」を行い、宮部はシナリオを[[監修]]した<ref name="GAMECITY_大航海時代Online">{{Cite web|和書|title=大航海時代 Online Live イベント 宮部みゆき「ドリームバスター」in「大航海時代 Online」 |url=https://www.gamecity.ne.jp/dol/live_event/060224.htm |publisher=[[コーエーテクモゲームス]] |work=GAMECITY |accessdate=2016-05-16 }}</ref><ref name="ねとらぼ_20060224">{{Cite news |和書 |author=[[ITmedia]] |date=2006-02-24 |title=宮部みゆきの「ドリームバスター」と「大航海時代 Online」がコラボ |url=https://nlab.itmedia.co.jp/games/articles/0602/24/news105.html |publisher=アイティメディア |newspaper=ねとらぼ |accessdate=2016-05-16 }}</ref>。このゲームでは、宮部のSF小説『[[ドリームバスター]]』のキャラクターが登場して活躍している{{R|"GAMECITY_大航海時代Online"|"ねとらぼ_20060224"}}。『[[タクティクスオウガ]]』の熱烈なファンで、地下100階の広大なマップであるエクストラステージ「死者の宮殿」を15周するぐらいにやりこんでいる。
=== 交友 ===
宮部みゆき(1960年12月23日、[[東京]]生まれ)と[[綾辻行人]](1960年12月23日、[[京都]]生まれ)は、生年月日とデビューの年月(1987年?月)が同じであり、デビュー作が[[推理小説]]であった{{Refnest|group="注"|綾辻は[[1989年]](平成元年)9月に長編『[[十角館の殺人]]』を上梓。}}という点まで共通している。宮部は、先に[[単行本]]を出版した綾辻をミステリ作家として尊敬の対象としつつも、交流が増えるに連れて「仲の良い友人でライバルだ」と語るようになった。
宮部には、[[1993年]](平成5年)の事務所開設以来20年あまりの付き合いで、最も「宮部みゆき」を知る2歳下の担当編集者がいた。その人が病気で余命3か月と宣告された折、病室に見舞いに行っても宮部は、ただ泣くばかりだったが、彼女から「私が先にいって、宮部さんの作家として重荷になっている事を全部持って行くから、身軽になってほしい。」と言われた。その女性が2014年(平成26年)に亡くなった後、宮部は喪失感で自分が半分失くなったように感じたが、しばらくして彼女の遺した言葉を思い出して気が楽になり、「亡くなって自分といつも一緒にいて自分のこれからの仕事を見守ってくれている」と感じられるようになって、以来、彼女の思い出が仕事の原動力になっている{{Sfn|宮部みゆき|2017|pp=85-86|loc=「超ロングインタビュー 立ち止まって振り返る30年の道のり」}}<ref>{{Cite web|和書|title=大沢オフィスからのお知らせ |url=https://osawa-office.co.jp/tsuitou/index.html |publisher=ラクーンエージェンシー |website=大極宮 |accessdate=2022-08-24 }}※大沢オフィスの追悼ページ。</ref>とのことである。
== 文学賞受賞歴・候補歴 ==
* 1986年
**「祝・殺人」で第25回[[オール讀物推理小説新人賞]]候補。
**「騒ぐ刀」で第11回[[歴史文学賞]]候補。
**「デッド・ドロップ」で第47回[[小説現代新人賞]]候補。
* 1987年 - 「我らが隣人の犯罪」で第26回オール讀物推理小説新人賞受賞。
* 1988年 - 『かまいたち』で第12回[[歴史文学賞]]佳作入選。
* 1989年 - 『[[魔術はささやく]]』で第2回[[日本推理サスペンス大賞]]受賞。
* 1990年 - 「サボテンの花」で第43回[[日本推理作家協会賞]](短編および連作短編集部門)候補。
* 1991年
** 『本所深川ふしぎ草紙』で第13回[[吉川英治文学新人賞]]受賞。
** 『レベル7』で第44回[[日本推理作家協会賞]](長編部門)候補。
** 『龍は眠る』で第105回[[直木三十五賞]]候補。
* 1992年
** 『返事はいらない』で第106回直木三十五賞候補。
** 『龍は眠る』で第45回日本推理作家協会賞(長編部門)受賞。
** 「六月は名ばかりの月」で第45回日本推理作家協会賞(短編および連作短編集部門)候補。
* 1993年 - 『[[火車 (小説)|火車]]』で第6回[[山本周五郎賞]]受賞、第108回直木三十五賞候補。
* 1996年 - 『人質カノン』で第115回直木三十五賞候補。
* 1997年 - 『[[蒲生邸事件]]』で第18回[[日本SF大賞]]受賞、第116回直木三十五賞候補。
* 1999年 - 『[[理由 (小説)|理由]]』で第120回直木三十五賞受賞、第17回[[日本冒険小説協会大賞]](国内部門大賞)受賞。
* 2001年 - 『[[模倣犯 (小説)|模倣犯]]』で第55回[[毎日出版文化賞]](特別賞)受賞。
* 2002年 - 『模倣犯』で第5回[[司馬遼太郎賞]]受賞、第52回[[芸術選奨文部科学大臣賞]]受賞。
* 2007年 - 『[[名もなき毒]]』で第41回[[吉川英治文学賞]]受賞、第4回[[本屋大賞]]第10位。
* 2008年 - 『BRAVE STORY』(『ブレイブ・ストーリー』英訳版)で{{仮リンク|ミルドレッド・L・バチェルダー賞|en|Mildred L. Batchelder Award}}受賞。
* 2013年 - 『ソロモンの偽証』で第10回本屋大賞第7位。
* 2014年 - 『荒神』で[[週刊朝日]]「2014年 [[週刊朝日#歴史・時代小説ベスト3|歴史・時代小説ベスト10]]」第1位。
* 2022年 - 第70回[[菊池寛賞]]受賞。
== ミステリ・ランキング ==
=== 週刊文春ミステリーベスト10 ===
* 1990年 - 『レベル7』10位
* 1991年 - 『龍は眠る』8位
* 1992年 - 『火車』'''1位'''
* 1996年 - 『蒲生邸事件』3位
* 1998年 - 『理由』'''1位'''、『クロスファイア』14位
* 2000年 - 『ぼんくら』9位、『あやし〜怪〜』30位
* 2001年 - 『模倣犯』'''1位'''、『R.P.G.』8位
* 2006年 - 『名もなき毒』'''1位'''
* 2007年 - 『楽園』2位
* 2010年 - 『小暮写眞館』7位
* 2012年 - 『ソロモンの偽証』2位
* 2016年 - 『希望荘』4位
* 2017年 - 『この世の春』9位
* 2019年 - 『昨日がなければ明日もない』12位
=== このミステリーがすごい! ===
* 1991年 - 『魔術はささやく』9位、『レベル7』14位
* 1992年 - 『龍は眠る』4位、『返事はいらない』20位
* 1993年 - 『火車』2位
* 1997年 - 『蒲生邸事件』4位
* 1999年 - 『理由』3位、『クロスファイア』15位
* 2001年 - 『あやし〜怪〜』14位
* 2002年 - 『模倣犯』'''1位'''、『R.P.G.』19位
* 2007年 - 『名もなき毒』6位
* 2008年 - 『楽園』8位
* 2013年 - 『ソロモンの偽証』2位
* 2015年 - 『ペテロの葬列』7位
* 2017年 - 『希望荘』9位
* 2018年 - 『この世の春』26位
* 2020年 - 『昨日がなければ明日もない』8位
=== 本格ミステリ・ベスト10 ===
* 1999年 - 『理由』13位
* 2002年 - 『模倣犯』9位
* 2013年 - 『ソロモンの偽証』22位
=== ミステリが読みたい! ===
* 2008年 - 『楽園』'''1位'''
* 2009年 - 『[[三島屋変調百物語|おそろし]]』5位
* 2011年 - 『小暮写眞館』17位
* 2014年 - 『ソロモンの偽証』14位
* 2015年 - 『ペテロの葬列』13位
* 2017年 - 『希望荘』15位
* 2020年 - 『昨日がなければ明日もない』9位
== 文学賞選考委員歴 ==
* [[創元推理短編賞]](1994年度第1回から1999年度第6回)
* [[江戸川乱歩賞]](1999年第45回から2002年第48回)
* [[横溝正史ミステリ大賞]](1997年第17回から2001年第21回)
* [[ホラーサスペンス大賞]](2000年第1回から2002年第3回)
* [[小説すばる新人賞]](2001年第14回から)
* [[日本推理作家協会賞]]長編及び連作短編集部門(第56回から第57回)
* 日本推理作家協会賞短編部門・評論その他の部門(第58回から第59回)
* [[吉川英治文学新人賞]](2004年度第26回から2011年度第34回)
* [[直木三十五賞]](140回〈2008年下半期〉から)
* [[日本SF大賞]](2010年第31回から2012年第33回)
* [[河合隼雄物語賞・学芸賞|河合隼雄物語賞]](2013年第1回から2016年第4回)<ref>{{Cite web|和書|date=2017-05-17 |title=【重要なお知らせその2】河合隼雄物語賞選考委員に後藤正治さん、中島京子さんが就任されました < [[河合隼雄物語賞・学芸賞|河合隼雄物語賞]] |url=http://www.kawaihayao.jp/ja/prize/1553.html |publisher=一般財団法人 河合隼雄財団 |accessdate=2020-02-02 }}</ref>
== 作品リスト ==
=== 現代小説(ファンタジー・SF含む) ===
==== 元警察犬「マサ」シリーズ ====
* [[パーフェクト・ブルー]](1989年2月 [[東京創元社]] / 1992年12月 [[創元推理文庫]] / 2008年4月 [[新潮社]] / 2019年11月 創元推理文庫【新装版】)
* 心とろかすような マサの事件簿(1997年11月 東京創元社 / 2001年4月 創元推理文庫 / 2019年11月 創元推理文庫【新装版】)
** 収録作品:心とろかすような / てのひらの森の下で / 白い騎士は歌う / マサ、留守番する / マサの弁明
*** 【再編集・改題】マサの留守番 蓮見探偵事務所事件簿(2008年4月 講談社青い鳥文庫) - 「心とろかすような」は未収録
==== 親友「島崎君」シリーズ ====
* 今夜は眠れない(1992年2月 [[中央公論社]] / 1996年10月 中央公論社[[C★NOVELS]] / 1998年11月 [[中公文庫]] / 2002年5月 [[角川文庫]] / 2006年3月 [[講談社]]青い鳥文庫)
* 夢にも思わない(1995年5月 中央公論社 / 1997年10月 中央公論社C★NOVELS / 1999年5月 中公文庫/ 2002年11月 角川文庫)
==== ドリームバスター・シリーズ ====
* [[ドリームバスター]](2001年11月 [[徳間書店]] / 2009年1月 [[トクマ・ノベルズ#トクマ・ノベルズEdge|トクマ・ノベルズEdge]])
* ドリームバスター2(2003年3月 徳間書店 / 2009年7月 トクマ・ノベルズEdge)
* ドリームバスター3(2006年3月 徳間書店 / 2010年1月 トクマ・ノベルズEdge)
* ドリームバスター4(2007年5月 徳間書店)
** 【分冊】ドリームバスター4 時間鉱山 前篇(2010年7月トクマ・ノベルズEdge)
** 【分冊】ドリームバスター5 時間鉱山 後篇(2010年8月トクマ・ノベルズEdge)
==== 杉村三郎シリーズ ====
{{Main|杉村三郎シリーズ}}
* [[誰か Somebody]](2003年11月 [[実業之日本社]] / 2005年8月 [[光文社]][[カッパ・ノベルス]] / 2007年12月 [[文春文庫]])
* [[名もなき毒]](2006年8月 [[幻冬舎]] / 2009年5月 光文社カッパ・ノベルス / 2011年12月 文春文庫)
* [[ペテロの葬列]](2013年12月 [[集英社]] / 2016年4月 文春文庫【上・下】)
* [[ソロモンの偽証]]「第III部 法廷」の新潮文庫版下巻に収載、書き下ろし中編「負の方程式」- 杉村三郎・登場
* 希望荘(2016年6月 [[小学館]] / 2018年11月 文春文庫)
** 収録作品:聖域 / 希望荘 / 砂男(「彼方の楽園」を改題) / 二重身
* 昨日がなければ明日もない(2018年11月 [[文藝春秋]] / 2021年5月 文春文庫)
** 収録作品:絶対零度 / 華燭 / 昨日がなければ明日もない
==== ここはボツコニアンシリーズ ====
* [[ここはボツコニアン]](2012年2月 集英社 / 2016年3月 集英社文庫)
* ここはボツコニアン2 魔王がいた街(2012年11月 集英社 / 2016年5月 集英社文庫)
* ここはボツコニアン3 二軍三国志(2013年8月 集英社 / 2016年7月 集英社文庫)
* ここはボツコニアン4 ほらホラHorrorの村(2014年9月 集英社 / 2016年9月 集英社文庫)
* ここはボツコニアン5 FINAL ためらいの迷宮(2015年9月 集英社 / 2016年11月 集英社文庫)
==== シリーズ外作品 ====
* [[魔術はささやく]](1989年12月 新潮社 / 1993年1月 [[新潮文庫]] / 2008年1月 新潮社【新装版】)
* 我らが隣人の犯罪(1990年1月 [[文藝春秋]] / 1993年1月 文春文庫 / 2008年1月 新潮社【新装版】)
** 収録作品:我らが隣人の犯罪 / この子誰の子 / [[サボテンの花 (小説)|サボテンの花]] / 祝・殺人 / 気分は自殺志願
*** 【再編集・改題】この子だれの子(2006年10月 [[講談社]][[青い鳥文庫]]) - 「祝・殺人」は未収録
* 東京殺人暮色(1990年4月 光文社)
** 【改題】東京下町殺人暮色(1994年10月 [[光文社文庫]])
*** 【改題】刑事の子(2011年9月 光文社BOOK WITH YOU / 2013年9月 光文社文庫)
* [[レベル7 (宮部みゆき)|レベル7]](1990年9月 新潮社 / 1993年9月 新潮文庫 / 2008年2月 新潮社【新装版】)
* 龍は眠る(1991年2月 [[出版芸術社]] / 1995年1月 新潮文庫 / 2006年6月 [[双葉文庫]])
* 返事はいらない(1991年9月 実業之日本社 / 1994年12月 新潮文庫)
** 収録作品:返事はいらない / ドルシネアにようこそ / 言わずにおいて / 聞こえていますか / 裏切らないで / 私はついてない
* [[スナーク狩り (宮部みゆき)|スナーク狩り]](1992年6月 光文社カッパ・ノベルス / 1997年6月 光文社文庫 / 2011年7月 光文社文庫プレミアム)
* [[火車 (小説)|火車]](1992年7月 [[双葉社]] / 1998年1月 新潮文庫)
* [[長い長い殺人]](1992年9月 光文社 / 1997年5月 光文社カッパ・ノベルス / 1999年6月 光文社文庫 / 2011年 光文社文庫プレミアム)
* とり残されて(1992年9月 文藝春秋 / 1995年12月 文春文庫)
** 収録作品:とり残されて / おたすけぶち / 私の死んだ後に / 居合わせた男 / 囁く / いつも二人で / たった一人
* [[ステップファザー・ステップ]](1993年3月 講談社 / 1996年7月 [[講談社文庫]] / 2008年5月 講談社ペーパーバックスK / 2021年2月 講談社文庫【新装版】)
** 収録作品:ステップファーザー・ステップ / トラブル・トラベラー / ワンナイト・スタンド / ヘルタースケルター / ロンリー・ハート / ハンド・クーラー / ミルキーウエイ
*** 【改題】ステップファザー・ステップ 屋根から落ちてきたお父さん(2005年10月 講談社青い鳥文庫 / 2008年3月 講談社青い鳥文庫 SLシリーズ) - 「ワンナイト・スタンド」は未収録
* [[淋しい狩人]](1993年10月 新潮社 / 1997年1月 新潮文庫 / 2008年3月 新潮社【新装版】) - 連作短編集
** 収録作品:六月は名ばかりの月 / 黙って逝った / 詫びない年月 / うそつき喇叭 / 歪んだ鏡 / 淋しい狩人
* 地下街の雨(1994年4月 [[集英社]] / 1998年10月 [[集英社文庫]])
** 収録作品:地下鉄の雨 / 決して見えない / 不文律 / 混線 / 勝ち逃げ / ムクロバラ / さよなら、キリハラさん
* 鳩笛草(1995年9月 光文社カッパ・ノベルス) - 「燔祭」は「クロスファイア」の前日談
** 【改題】鳩笛草―燔祭/朽ちてゆくまで(2000年4月 光文社文庫 / 2011年7月 光文社文庫プレミアム)
*** 収録作品:鳩笛草 / 燔祭 / 朽ちてゆくまで
* 人質カノン(1996年1月 文藝春秋 / 2001年9月 文春文庫)
** 収録作品:人質カノン / 十年計画 / 過去のない手帳 / 八月の雪 / 過ぎたこと / 生者の特権 / 漏れる心
* [[蒲生邸事件]](1996年9月 [[毎日新聞社]] / 1999年1月 光文社カッパ・ノベルス / 2000年10月 文春文庫 / 2013年7月、8月 講談社青い鳥文庫【上・下】絵:[[黒星紅白]] / 2017年11月 文春文庫 新装版【上・下】)
* [[理由 (小説)|理由]](1998年5月 [[朝日新聞社]] / 2002年8月 [[朝日文庫]] / 2004年6月 新潮文庫)
* [[クロスファイア (小説)|クロスファイア]](1998年10月 光文社カッパノベルス【上・下】 / 2002年9月 光文社文庫【上・下】 / 2011年7月 光文社文庫プレミアム【上・下】)
* [[模倣犯 (小説)|模倣犯]](2001年3月 [[小学館]]【上・下】 / 2005年11月 - 12月 新潮文庫【全5巻】)
* [[R.P.G.]](2001年8月 集英社文庫)
* [[ブレイブ・ストーリー]](2003年3月 角川書店【上・下】 / 2003年3月 角川書店【愛蔵版】 / 2006年5月 角川文庫【上・中・下】 / 2006年5月 [[角川スニーカー文庫]]【全4巻】 / 2009年6月 - 2010年6月 [[角川つばさ文庫]]【全4巻】/ 2021年6月 角川文庫【上・中・下】)
* [[ICO (ゲーム)#小説|ICO -霧の城-]](2004年6月 講談社 / 2008年6月 [[講談社ノベルス]] / 2010年11月 講談社文庫【上・下】) - ノベライズ小説
* [[楽園_(宮部みゆきの小説)|楽園]](2007年8月 文藝春秋【上・下】 / 2010年2月 文春文庫【上・下】) - 「模倣犯」のフリーライター・前畑滋子が再び登場
* [[英雄の書]](2009年2月 毎日新聞社【上・下】 / 2011年5月 光文社カッパ・ノベルス / 2012年6月 新潮文庫【上・下】)
* [[小暮写眞館]](2010年5月 講談社 / 2013年10月 講談社文庫【上・下】 / I、II 世界の縁側 2016年12月、III カモメの名前、IV 鉄路の春 2017年1月 [[新潮文庫nex]])
* チヨ子(2011年7月 光文社文庫)
** 収録作品:雪娘(「雪ン子」を改題) / オモチャ / チヨ子 / いしまくら / 聖痕
* [[ソロモンの偽証]]
** 第I部 事件(2012年8月 新潮社 / 2014年8月 新潮文庫【上・下】)
** 第II部 決意(2012年9月 新潮社 / 2014年9月 新潮文庫【上・下】)
** 第III部 法廷(2012年10月 新潮社 / 2014年10月 新潮文庫【上・下】)
*** 「第III部 法廷」の文庫版下巻には書き下ろし中編「負の方程式」を収載(杉村三郎・登場)
* 悲嘆の門(2015年1月 毎日新聞社【上・下】 / 2017年11月 新潮文庫【上・中・下】)
* 過ぎ去りし王国の城(2015年4月 [[KADOKAWA]] / 2018年6月 角川文庫)
* さよならの儀式(2019年7月 河出書房新社 / 2022年10月 河出文庫)
** 収録作品:母の法律 / 戦闘員 / わたしとワタシ / さよならの儀式 / 星に願いを / 聖痕 / 海神の裔 / 保安官の明日
* ぼんぼん彩句(2023年4月 [[角川文化振興財団]])
=== 時代小説 ===
==== お初シリーズ ====
* 震える岩 霊験お初捕物控(1993年9月 [[新人物往来社]] / 1997年9月 講談社文庫 / 2014年3月 講談社文庫【新装版】)
* 天狗風 霊験お初捕物控2(1997年11月 新人物往来社 / 2001年9月 講談社文庫 / 2014年4月 講談社文庫【新装版】)
==== 「ぼんくら」シリーズ ====
{{Main|ぼんくら}}
* ぼんくら(2000年4月 講談社 / 2004年4月 講談社文庫【上・下】 / 2009年11月 埼玉福祉会 大活字本シリーズ【上・中・下】)
* 日暮らし(2004年12月 講談社【上・下】 / 2008年11月 講談社文庫【上・中・下】 / 2011年9月 講談社文庫 新装版【上・下】)
** 収録作品:おまんま / 嫌いの虫 / 子盗り鬼 / なけなし三昧 / 日暮らし
* おまえさん(2011年9月 講談社【上・下】 / 2011年9月 講談社文庫【上・下】)
==== 「三島屋変調百物語」シリーズ ====
{{Main|三島屋変調百物語}}
* おそろし 三島屋変調百物語事始(2008年7月 角川書店 / 2010年6月 新人物ノベルス / 2012年4月 角川文庫 / 2013年6月 埼玉福祉会 大活字本シリーズ)
** 収録作品:曼珠沙華 / 凶宅 / 邪恋 / 魔鏡 / 家鳴り
* あんじゅう 三島屋変調百物語事続(2010年7月 中央公論新社 / 2012年2月 新人物ノベルス / 2013年6月 角川文庫)
** 収録作品:逃げ水 / 藪から千本 / 暗獣 / 吼える仏
* 泣き童子<small>(わらし)</small> 三島屋変調百物語参之続(2013年6月 文藝春秋 / 2016年6月 角川文庫)
** 収録作品:魂取の池 / くりから御殿 / 泣き童子 / 小雪舞う日の怪談語り / まぐる笛 / 節気顔
* 三鬼<small>(さんき)</small> 三島屋変調百物語四之続(2016年12月 日本経済新聞出版社 / 2019年6月 角川文庫) - 連載時『迷いの旅籠』を改題
** 収録作品:迷いの旅籠 / 食客ひだる神 / 三鬼 / おくらさま
* あやかし草紙<small>(ぞうし)</small> 三島屋変調百物語伍之続 (2018年4月 KADOKAWA / 2020年6月 角川文庫)
** 収録作品:開けずの間 / だんまり姫 / 面の家 / あやかし草紙 / 金目の猫
* 黒武御神火御殿<small>(くろたけ ごじんかごてん)</small> 三島屋変調百物語六之続 (2019年12月 毎日新聞出版 / 2022年6月 角川文庫)
** 収録作品:泣きぼくろ / 姑の墓 / 同行二人 / 黒武御神火御殿
* 魂手形 三島屋変調百物語七之続(2021年3月 KADOKAWA / 2023年6月 角川文庫)
** 収録作品:火焰太鼓 / 一途の念 / 魂手形
* よって件のごとし 三島変調百物語八之続(2022年7月 KADOKAWA)
** 収録作品:賽子と虻 / 土鍋女房 / よって件のごとし
* 青瓜不動 三島変調百物語九之続(2023年7月 KADOKAWA)
** 収録作品:青瓜不動 / だんだん人形 / 自在の筆 / 針雨の里
==== 「きたきた捕物帖」シリーズ ====
* きたきた捕物帖(2020年5月 PHP研究所 / 2022年3月 PHP文芸文庫)
** 収録作品:ふぐと福笑い / 双六神隠し / だんまり用心棒 / 冥土の花嫁
* 子宝船 きたきた捕物帖(二)(2022年5月 PHP研究所)
** 収録作品:子宝船 / おでこの中身 / 人魚の毒
==== シリーズ外作品 ====
* 本所深川ふしぎ草紙(1991年3月 新人物往来社 / 1995年8月 新潮文庫)
* かまいたち(1992年1月 新人物往来社 / 1996年9月 新潮文庫 / 2007年3月 講談社青い鳥文庫)
** 収録作品:かまいたち / 師走の客 / 迷い鳩 / 騒ぐ刀
* 幻色江戸ごよみ(1994年7月 新人物往来社 / 1998年8月 新潮文庫 / 2000年9月 埼玉福祉会 大活字本シリーズ)
** 収録作品:鬼子母火 / 紅の玉 / 春花秋燈 / 器量のぞみ / 庄助の夜着 / まひごのしるべ / だるま猫 / 小袖の手 / 首吊り御本尊 / 神無月 / 侘助の花 / 紙吹雪
* 初ものがたり(1995年7月 [[PHP研究所]] / 1997年3月 PHP文庫 / 1999年8月 新潮文庫 / 2001年5月 PHP研究所【愛蔵版】/ 2003年5月 埼玉福祉会 大活字本シリーズ / <完本>初ものがたり 2013年7月 [[PHP文芸文庫]] 未刊行の2篇を収録) - 連作短編集
** 収録作品:お勢殺し / 白魚の目 / 鰹千両 / 太郎柿次郎柿 / 凍る月 / 遺恨の桜 / 糸吉の恋(愛蔵版、完本のみ収録)/ 寿の毒 / 鬼は外(完本収録、末尾2篇)
* 堪忍箱(1996年10月 新人物往来社 / 2001年10月 新潮文庫)
** 収録作品:堪忍箱 / かどわかし / 敵(かたき)持ち / 十六夜髑髏 / お墓の下まで / 謀りごと / てんびんばかり / 砂村新田
* あやし〜怪〜(2000年7月 角川書店)
** 【改題】あやし(2003年4月 角川文庫 / 2007年5月 埼玉福祉会 大活字本シリーズ【上・下】 / 2007年11月 [[角川ホラー文庫]] / 2012年7月 新人物ノベルス)
*** 収録作品:居眠り心中 / 影牢 / 布団部屋 / 梅の雨降る / 安達家の鬼 / 女の首 / 時雨鬼 / 灰神楽 / 蜆塚
* あかんべえ(2002年3月 PHP研究所 / 2006年12月 新潮文庫【上・下】 / 2016年12月 埼玉福祉会 大活字本シリーズ【上・中・下】)
* 孤宿の人(2005年6月 新人物往来社【上・下】 / 2008年5月 新人物ノベルス【上・下】 / 2009年11月 新潮文庫【上・下】)
* ばんば憑き(2011年3月 角川書店 / 2012年7月 新人物ノベルス)
** 【改題】お文の影(2014年6月 角川文庫 / 2019年11月 埼玉福祉会 大活字本シリーズ【上・下】)
*** 収録作品:坊主の壺 / お文の影 / 博打眼 / 討債鬼 / ばんば憑き / 野槌の墓
* [[桜ほうさら]](2013年2月 PHP研究所 / 2016年1月 PHP文芸文庫【上・下】)
* [[荒神 (宮部みゆきの小説)|荒神]](2014年8月 [[朝日新聞出版]] / 2017年7月 新潮文庫)
* この世の春(2017年8月 新潮社【上・下】/ 2019年11月 新潮文庫【上・中・下】)
=== エッセイ他・紀行文 ===
* 平成お徒歩日記(1998年6月 新潮社 / 2000年12月 新潮文庫 / 2008年5月 新潮社【新装版】)
** 【改題】ほのぼのお徒歩日記(2019年12月 新潮文庫)
* やっぱり宮部みゆきの怪談が大好き!(2011年8月 新人物往来社 / 2013年8月 [[中経出版]] 新人物文庫) - 宮部みゆき編集、北村薫との対談、短編「曼珠沙華」、「だるま猫」と[[岡本綺堂]]「指輪一つ」、[[福澤徹三]]「怪の再生」を収録。
** 【改題・再編】『宮部みゆきの江戸怪談散歩』(2018年3月 角川文庫)
* 宮部みゆき全一冊(2018年10月 新潮社)- 単行本未収録短編・エッセイ、ロングインタビュー、全作品年表などを収録した作家生活30周年記念のコンプリートブック。
* 宮部みゆきが「本よみうり堂」でおすすめした本 2015-2019(2023年11月 [[中公新書#中公新書ラクレ|中公新書ラクレ]])
=== 絵本 ===
* ぱんぷくりん 鶴之巻(2004年6月 PHP研究所)
* ぱんぷくりん 亀之巻(2004年6月 PHP研究所)
* ぱんぷくりん(2010年10月 PHP文芸文庫)
** 上記3点の絵:[[黒鉄ヒロシ]]
* 悪い本(2011年10月 岩崎書店) - 絵:[[吉田尚令]]
* ヨーレのクマー (2016年11月 KADOKAWA) - 絵:[[佐竹美保]] - 『悲嘆の門』に登場する架空の絵本を実作化
=== 共著・その他 ===
* だからミステリーは面白い 気鋭BIG4 対論集(1995年3月 有学書林) - 共著:[[井沢元彦]]、[[大沢在昌]]、[[高橋克彦]]
* 運命の剣のきばしら(1997年6月 PHP研究所 / 1999年2月 PHP文庫)「あかね転生」- [[中村隆資]]、[[火坂雅志]]、[[東郷隆]]、[[安部龍太郎]]、[[鳴海丈]]、[[宮本昌孝]]とのリレー小説
* チチンプイプイ(2000年4月 文藝春秋 / 2002年12月 文春文庫) - [[室井滋]]との対談集
* 大極宮(2002年9月 角川文庫) - 共著:大沢在昌、京極夏彦
* ホラー・ジャパネスクを語る(2003年5月 双葉社) - [[東雅夫]]との対談集
** 【改題】ホラー・ジャパネスク読本(2006年3月 双葉文庫)
* 大極宮2(2003年8月 角川文庫) - 共著:大沢在昌、京極夏彦
* 大極宮3 コゼニ好きの野望篇(2004年11月 角川文庫) - 共著:大沢在昌、[[京極夏彦]]
* 山本博文教授の江戸学講座(2007年3月 PHP文庫) - 共著:[[逢坂剛]]、[[山本博文]]
* 昭和史の10大事件(2015年8月 [[東京書籍]] / 2018年3月 文春文庫) - 共著:[[半藤一利]]
=== アンソロジー(編纂) ===
* 推理短編六佳撰(1995年11月 創元推理文庫) - 共編:北村薫
* 贈る物語 Terror(2002年11月19日 光文社)
** 【改題】贈る物語 Terror みんな怖い話が大好き(2006年12月7日 光文社文庫)
* 松本清張傑作短篇コレクション(2004年11月 文春文庫【上・中・下】)
* スペシャル・ブレンド・ミステリー 謎002(2007年9月 講談社文庫)
* 名短篇、ここにあり(2008年1月 ちくま文庫) - 共編:北村薫
* 名短篇、さらにあり(2008年2月 ちくま文庫) - 共編:北村薫
* 読んで、「半七」!(2009年5月 ちくま文庫) - 共編:北村薫
* もっと、「半七」!(2009年6月 ちくま文庫) - 共編:北村薫
* 松本清張傑作選 戦い続けた男の素顔 宮部みゆきオリジナルセレクション(2009年7月 新潮社 / 2013年4月 新潮文庫)
* とっておき名短篇(2011年1月 ちくま文庫) - 共編:北村薫
* 名短篇ほりだしもの(2011年1月 ちくま文庫) - 共編:北村薫
* 読まずにいられぬ名短篇(2014年5月 ちくま文庫) - 共編:北村薫
* 教えたくなる名短篇(2014年6月 ちくま文庫) - 共編:北村薫
* 撫子が斬る 女性作家捕物帳アンソロジー(2018年12月 角川文庫)
* 半七捕物帳 江戸探偵怪異譚(2019年12月 新潮文庫nex)
=== アンソロジー(収録) ===
「」内が宮部みゆきの作品
==== 日本推理作家協会・編 ====
* 推理小説代表作選集 1988年版(1988年5月 講談社)「我らが隣人の犯罪」
** 【改題】頭脳明晰、特技殺人 ミステリー傑作選24(1993年4月 講談社文庫)
* 推理小説代表作選集 1990年版(1990年5月 講談社)「サボテンの花」
** 【改題・再編集】明日からは、殺人者 ミステリー傑作選26(1994年4月 講談社文庫)
* 推理小説代表作選集 1991年版(1991年5月 講談社)「とり残されて」
** 【改題・再編集】完全犯罪はお静かに ミステリー傑作選28(1995年5月 講談社文庫)
* 推理小説代表作選集 1993年版(1993年6月 講談社)「六月は名ばかりの月」
** 【改題】もうすぐ犯行記念日 ミステリー傑作選30(1996年4月 講談社文庫)
* 「傑作推理(ベスト・オブ・ベスト)」大全集〈上〉(1995年6月 光文社カッパ・ノベルス)「過ぎたこと」
** 【改題】仮面のレクイエム 日本のベストミステリー選集25(1998年6月 光文社文庫)
* 推理小説代表作選集 推理小説年鑑 1996年版(1996年6月 講談社)「人質カノン」
** 【改題】ミステリー傑作選35 どたん場で大逆転(1999年4月 講談社文庫)
* 日本ベストミステリー「珠玉集」〈上〉(1992年6月 カッパ・ノベルス)「勝ち逃げ」
** 【改題】破滅のプレリュード(1997年2月 光文社文庫)
* 殺人前線北上中 ミステリー傑作選 (1997年4月 講談社文庫)「のっぽのドロレス」
* 最新「珠玉推理(ベスト・オブ・ベスト)」大全〈下〉(1998年10月 光文社カッパ・ノベルス)「砂村新田」
**【改題】闇夜の芸術祭(2003年4月 光文社文庫)
* [[ザ・ベストミステリーズ 推理小説年鑑|ザ・ベストミステリーズ]] 2001 推理小説年鑑(2001年6月 講談社)「時雨鬼」
** 【分冊・改題】終日犯罪 ミステリー傑作選(2004年6月 講談社文庫)
* ミステリー傑作選・特別編6 自選ショート・ミステリー2(2001年10月 講談社文庫)「車坂」
* 事件現場に行こう 最新ベスト・ミステリーカレイドスコープ編(2001年11月 光文社カッパ・ノベルス)「いしまくら」
** 【改題】事件現場に行こう 日本ベストミステリー選集33(2006年4月 光文社文庫)
* ザ・ベストミステリーズ 2003 推理小説年鑑(2003年7月 講談社)「なけなし三昧」
** 【分冊・改題】殺人の教室 ミステリー傑作選(2006年4月 講談社文庫)
* 推理作家になりたくて第1巻 マイベストミステリー匠(2003年6月 文藝春秋)「決して見えない」、書き下ろしエッセイ「ピカリと閃いて」
** 【分冊・改題】マイ・ベスト・ミステリー1(2007年8月 文春文庫)
* 名探偵を追いかけろ(2004年10月 光文社カッパ・ノベルス / 2007年5月 光文社文庫)「鬼は外」
* [[東野圭吾]]選 スペシャル・ブレンド・ミステリー 謎001(2006年9月 講談社文庫)「サボテンの花」
* 不思議の足跡(2007年10月 光文社カッパ・ノベルス / 2011年4月 光文社文庫)「チヨ子」
* ミステリーの書き方(2010年11月 幻冬舎 / 2015年10月 幻冬舎文庫)※執筆作法「プロットの作り方」
* [[桜庭一樹]]選 スペシャル・ブレンド・ミステリー 謎007(2012年10月 講談社文庫)「人質カノン」
* 奇想博物館(2013年12月 光文社 / 2017年5月 光文社文庫)
* [[綾辻行人]]選 スペシャル・ブレンド・ミステリー 謎009(2014年9月 講談社文庫)「我らが隣人の犯罪」
* 隣りの不安、目前の恐怖 日本推理作家協会賞受賞作家傑作短編集3(2016年6月 双葉文庫)「さよなら、キリハラさん」
* 推理作家謎友録 日本推理作家協会70周年記念エッセイ(2017年8月 角川文庫)※エッセイアンソロジー<!-- タイトルなし -->
* ザ・ベストミステリーズ 2018 推理小説年鑑(2018年5月 講談社)「虹」
==== 日本文藝家協会・編 ====
* 現代の小説1992(1992年5月 徳間書店)「決して見えない」
* 現代の小説1993(1993年5月 徳間書店)「不文律」
* 短篇ベストコレクション 現代の小説2005(2005年6月 徳間文庫)「チヨ子」
* 短篇ベストコレクション 現代の小説2008(2008年6月 徳間文庫)「“旅人”を待ちながら」
==== 日本ペンクラブ・編 ====
* 教室は危険がいっぱい 学園ミステリー傑作集(1996年4月 光文社文庫)「サボテンの花」
* 闇に香るもの(2004年8月 新潮文庫)「この子誰の子」
* 撫子が斬る 女性作家捕物帳アンソロジー(2005年9月 光文社文庫 / 2018年12月 角川文庫【上・下】)「鰹千両」
* 人恋しい雨の夜に せつない小説アンソロジー(2006年6月 光文社文庫)「いつも二人で」
==== その他 ====
* 棋翁戦てんまつ記(1995年3月 集英社 / 2018年3月 集英社文庫)「御敵、船戸与一様」
* 誘惑 女流ミステリー傑作選(1999年1月 徳間文庫)「我らが隣人の犯罪」
* 白のミステリー 女性ミステリー作家傑作選(1997年12月 光文社)「弓子の後悔」
** 【改題・再編集】秘密の手紙箱 女性ミステリー作家傑作選3(1999年11月 光文社文庫)
* 私は殺される 女流ミステリー傑作選(2001年3月 ハルキ文庫)「不文律」
* 悪魔のような女 女流ミステリー傑作選(2001年7月 ハルキ文庫)「十年計画」
* 緋迷宮 ミステリー・アンソロジー(2001年12月 祥伝社文庫)「おたすけぶち」
* 蒼迷宮 ミステリー・アンソロジー(2002年3月 祥伝社文庫)「祝・殺人」
* 危険な関係 女流ミステリー傑作選(2002年5月 ハルキ文庫)「ドルシネアにようこそ」
* 七つの危険な真実(2004年2月 新潮文庫)「返事はいらない」
* はじめての文学 宮部みゆき(2007年3月 文藝春秋)「心とろかすような」「朽ちてゆくまで」「馬鹿囃子」「砂村新田」 - 自選アンソロジー
* 文豪さんへ。近代文学トリビュートアンソロジー(2009年12月 [[MF文庫ダ・ヴィンチ]])「手袋の花 / 新美南吉『手袋を買いに』を語る」
* [[NOVA 書き下ろし日本SFコレクション|NOVA 2 書き下ろし日本SFコレクション]](2010年7月 河出文庫)「聖痕」
* [[NOVA 書き下ろし日本SFコレクション|NOVA 6 書き下ろし日本SFコレクション]](2011年11月 河出文庫)「保安官の明日」
* 短編工場(2012年10月 集英社文庫)「チヨ子」
* SF JACK(2013年3月 角川書店 / 2016年2月 角川文庫)「さよならの儀式」
* 日本SF短篇50 日本SF作家クラブ創立50周年記念アンソロジーIV 1993 - 2002(2013年8月 ハヤカワ文庫JA)「朽ちてゆくまで」
* 冬ごもり 時代小説アンソロジー(2013年12月 角川文庫)「鬼子母火」
* さよならの儀式 年刊日本SF傑作選(2014年6月 創元SF文庫)「さよならの儀式」
* 私がデビューしたころ ミステリ作家51人の始まり(2014年6月 東京創元社)※エッセイアンソロジー「十五年ひと昔」
* 失われた空 日本人の涙と心の名作8選(2014年9月 新潮文庫)「庄助の夜着」
* [[NOVA 書き下ろし日本SFコレクション|NOVA+ バベル 書き下ろし日本SFコレクション]](2014年10月 河出文庫)「戦闘員」
* 日本文学100年の名作 第8巻 薄情くじら(2015年3月 新潮文庫)「神無月」
* 古書ミステリー倶楽部 傑作推理小説集3(2015年5月 光文社文庫)「のっぽのドロレス」
* 疾走する刻 <span style="font-size:80%;">冒険の森へ 傑作小説大全20</span>(2015年9月 集英社)「スナーク狩り」
* [[NOVA 書き下ろし日本SFコレクション|NOVA+ 屍者たちの帝国 書き下ろし日本SFコレクション]](2015年10月 河出文庫)「海神の裔」
* 法の代行者 <span style="font-size:80%;">冒険の森へ 傑作小説大全12</span>(2015年11月 集英社)「八月の雪」
* 孤絶せし者 <span style="font-size:80%;">冒険の森へ 傑作小説大全19</span>(2015年12月 集英社)「車坂」
* アリス殺人事件 不思議の国のアリスミステリーアンソロジー(2016年6月 河出文庫)「白い騎士は歌う」
* ヴィジョンズ(2016年10月 講談社)「星に願いを」
* 宮辻薬東宮(2017年6月 講談社 / 2019年11月 講談社文庫)「人・で・なし」
* 短編伝説 めぐりあい(2017年8月 集英社文庫)「この子誰の子」
* あやかし〈妖怪〉時代小説傑作選 (2017年11月 PHP文芸文庫)「逃げ水」
* なぞとき〈捕物〉時代小説傑作選 (2018年1月 PHP文芸文庫)「鰹千両」
* なさけ〈人情〉時代小説傑作選 (2018年3月 PHP文芸文庫)「首吊り御本尊」
* ショートショートドロップス(2019年11月 [[キノブックス]] / 2021年2月 角川文庫)「チヨ子」
* あなたに謎と幸福を ハートフル・ミステリー傑作選(2019年7月 PHP文芸文庫)「ドルシネアにようこそ」
* まんぷく〈料理〉時代小説傑作選(2020年1月 PHP文芸文庫)「お勢殺し」
* ねこだまり〈猫〉時代小説傑作選(2020年2月 PHP文芸文庫)「だるま猫」
* もののけ〈怪異〉時代小説傑作選(2020年3月 PHP文芸文庫)「蜆塚」
* 商売繁盛 時代小説アンソロジー(2020年11月 角川文庫)「坊主の壺」
* わらべうた〈童子〉時代小説傑作選(2021年7月 PHP文芸文庫)「かどわかし」
* はじめての(2022年2月 [[水鈴社]])「色違いのトランプ」
* 味比べ 時代小説アンソロジー(2022年3月 角川文庫)「食客ひだる神」
* 絶対名作! 十代のためのベスト・ショート・ミステリー 涙と笑いのミステリー(2022年2月 [[汐文社]])「サボテンの花」
* はなごよみ 〈草花〉時代小説傑作選(2020年1月 PHP文芸文庫)「侘助の花」
* あなたの涙は蜜の味 イヤミス傑作選(2022年9月 PHP文芸文庫)「裏切らないで」
* 絶滅のアンソロジー 真藤順丈リクエスト!(2022年9月 光文社文庫)「僕のルーニー」
* はらぺこ 〈美味〉時代小説傑作選(2022年10月 PHP文芸文庫)「糸吉の恋」
* ぬくもり 〈動物〉時代小説傑作選(2022年11月 PHP文芸文庫)「迷い鳩」
=== 連載 ===
* Ghost Story (新潮社『小説新潮』 2018年8月号 - (不定期))
* 女神の苦笑(光文社『[[ジャーロ (文芸誌)]]』2017年6月 -(不定期))
* 杉村三郎シリーズ (文藝春秋『オール讀物』2017年11月号 - (読み切り形式連載 不定期))
=== 単行本未収録作品 ===
* 殴る女『[[小説NON]]』1990年9月号
* 殺しのあった家 『小説新潮』1994年3月号、2017年6月号再掲載
* 泣き虫のドラゴン『小説新潮』1996年1月号 新潮社創立100年記念、2017年6月号再掲載
* お年玉小説 あなた「朝日新聞」2002年1月1日掲載新潮社全面広告掲載、『小説新潮』2017年6月号再掲載
=== 連載中断・未完 ===
* 「魔法を売る店」連作(光文社『小説宝石』)1992年9月号<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7964763?tocOpened=1 小説宝石.25(9)] - [[国立国会図書館]]デジタルコレクション、2018年8月4日閲覧。</ref> - 1993年4月号(第3話)<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7964770?tocOpened=1 小説宝石. 26(4)] - 国立国会図書館デジタルコレクション、2018年8月4日閲覧。</ref> 第2話「弓子の後悔」(『小説宝石』1992年12月号)のみアンソロジー『白のミステリー』所収<ref name="大極宮_Part4 QA.50">{{Cite web|和書|title=宮部みゆきへの質問と回答 Part4 QA.50 |url=https://osawa-office.co.jp/old/qa/qa_miyabe-04.html |publisher=ラクーンエージェンシー |website=大極宮 |accessdate=2013-07-29 }}『白のミステリー』解説</ref>。
* 『ステップファザー・ステップ』の続編<ref name="大極宮_Part1 QA.1">{{Cite web|和書|title=宮部みゆきへの質問と回答 Part1 QA.1 |url=http://www.osawa-office.co.jp/old/qa/qa_miyabe-01.html |publisher=ラクーンエージェンシー |website=大極宮 |accessdate=2013-07-29 }}</ref>
** バッド・カンパニー (集英社『小説すばる』1997年1月号)
** ダブル・シャドウ (集英社『小説すばる』1998年1月号)
** マザーズ・ソング (集英社『小説すばる』1998年5月号)
** ファザーズ・ランド (集英社『小説すばる』1998年12月号、1999年1月号)
* ウィルソン・シティ (集英社『小説すばる』){{R|"大極宮_Part1 QA.1"}}
* タクシードライバー尾藤浩一のちょっと奇妙な業務日誌、第1部「誘拐」、第2部「心眼」(新潮社『小説新潮』連載、1999年2月号<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/6075276?tocOpened=1 小説新潮. 52(2)(645)] - [[国立国会図書館]]デジタルコレクション。</ref> - 2000年10月号)
* 17 ゼプツェン (文藝春秋『週刊文春』連載、1999年12月9日号<ref>[https://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?viewRestrictedList=0%7C2%7C3&searchWord=17ゼプツェン&featureCode=all&reshowFlg=1&rows=100&sort1=&sort2= 17ゼプツェン] - 国立国会図書館デジタルコレクション。</ref> - 2001年10月18日号)
=== 解説 ===
* [[赤川次郎]]『ベビーベッドはずる休み』(1991年4月 [[集英社文庫]] )
* 「気配りと頑固さと」[[北村薫]]『覆面作家は二人いる』(1997年11月 角川文庫)
* [[有栖川有栖]]『スウェーデン館の謎』(1998年5月 講談社文庫)
* [[山口雅也 (小説家)|山口雅也]]『日本殺人事件』(1998年5月 角川文庫)
* [[ドナルド・E・ウェストレイク]]『悪党たちのジャムセッション』(1999年5月 角川文庫)
* 「平吉の幸せ」[[半村良]]『どぶどろ』(2001年12月 [[扶桑社文庫]])
* [[柄刀一]]『ifの迷宮』(2003年4月 光文社文庫)
* 高野和明 『13階段』 (2004年 講談社文庫)
=== 推薦文 ===
* [[浅見雅男]]「大正天皇 婚約解消事件」[[角川ソフィア文庫]]、2018年6月<ref>https://www.kadokawa.co.jp/product/321712000257/</ref>
== 外国語訳 ==
* ''[[:en:All She Was Worth|All She Was Worth]]''(1996年1月 講談社インターナショナル)
*:『火車』の英訳、[[アルフレッド・バーンバウム]]訳
* ''The Book of Heroes''
*:『英雄の書』の英訳、[[:en:Alexander O. Smith|アレクサンダー・O・スミス]]訳[http://www.book-navi.jp/index.php?action=news&newsid=202&newslang=ja]
* ''[[:en:Brave Story|Brave Story]]''
*:『ブレイブ・ストーリー』の英訳、アレクサンダー・O・スミス訳
* ''[[:en:Crossfire (novel)|Crossfire]]''(2005年9月 講談社)
*:『クロスファイア』の英訳、岩渕デボラ・磯崎アンナ訳
* ''Shadow Family''(2004年9月 講談社インターナショナル)
*:『R.P.G.』の英訳、[[:en:Juliet Winters Carpenter|Juliet Winters Carpenter]]訳
* ''R.P.G. JUEGO DE ROL''(2012年1月 QUATERNI)
*:『R.P.G.』のスペイン語訳
== メディア・ミックス ==
=== テレビドラマ ===
; [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系
:* [[火曜サスペンス劇場]]
:** [[六月の花嫁シリーズ#1988年|六月の花嫁 祝・殺人]](1988年6月21日、主演:[[松本伊代]])
:** [[魔術はささやく#1990年版|魔術はささやく]](1990年4月3日、主演:[[山口智子]])
:<!-- この「:」は削除しないでください。[[Help:箇条書き]]参照 -->
; [[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[関西テレビ放送|関西テレビ]]系
:* [[関西テレビ制作・月曜夜10時枠の連続ドラマ]]
:** [[サボテンの花 (小説)#テレビドラマ|サボテンの花]](1991年9月23日、主演:[[紺野美沙子]])
:** たった一人(1992年8月17日、主演:[[畠田理恵]])
:** 変身 もう一人の私(1993年6月7日、主演:[[伊藤かずえ]]、原作:言わずにおいて『返事はいらない』所収)
:** 一瞬の真実(1994年2月7日、主演:[[相楽晴子]]、原作:枝葉の真実)
:** [[レベル7 (宮部みゆき)#1994年版|レベル7-空白の90日-]](1994年3月28日、主演:[[浅野ゆう子]])
:* [[金曜エンタテイメント]]
:** 龍は眠る(1994年4月22日、主演:[[石黒賢]])
:* [[世にも奇妙な物語 20周年スペシャル・秋 〜人気作家競演編〜]]「[[世にも奇妙な物語 20周年スペシャル・秋 〜人気作家競演編〜#燔祭|燔祭]]」(2010年10月4日、主演:[[広末涼子]])
:* [[金曜プレステージ]]
:** [[魔術はささやく#2011年版|魔術はささやく]](2011年9月9日、主演:[[木村佳乃]])
:** [[淋しい狩人#テレビドラマ|淋しい狩人]](2013年9月20日、主演:[[北大路欣也]])
:
; [[テレビ朝日]]系
:* [[土曜ワイド劇場]]
:** [[スナーク狩り (宮部みゆき)#1992年|運命の銃口 東京〜金沢500キロ・愛と憎しみの旅路 真夜中を突っ走れ]]([[朝日放送テレビ|朝日放送]]制作、1992年11月21日、主演:[[田中邦衛]]、原作:スナーク狩り)
:** [[火車 (小説)#1994年版|火車 カード破産の女!]](1994年2月5日、主演:[[三田村邦彦]])
:* [[幻想ミッドナイト]]
:** 第4話・言わずにおいて(1997年10月25日、主演:[[河合美智子]])
:* [[火車 (小説)#2011年版|宮部みゆき原作 ドラマスペシャル『火車』]](2011年11月5日、主演:[[上川隆也]])
:
; [[日本放送協会|NHK]]系
:* [[蒲生邸事件#テレビドラマ|蒲生邸事件]](1998年11月26日、主演:[[いしだ壱成]])
:* [[木曜時代劇 (NHK)|金曜時代劇]]
:** [[茂七の事件簿 ふしぎ草紙]]シリーズ(主演:[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]])
:*** 茂七の事件簿 ふしぎ草紙(2001年6月29日 - 9月21日、全10話、原作:本所深川ふしぎ草紙 / 初ものがたり / 幻色江戸ごよみ)
:*** 茂七の事件簿 新ふしぎ草紙(2002年6月28日 - 9月20日、全10話、原作:かまいたち / 本所深川ふしぎ草紙 / 幻色江戸ごよみ / 寿の毒 / 堪忍箱)
:*** 茂七の事件簿3 ふしぎ草紙(2003年7月11日 - 8月8日、全5話、原作:本所深川ふしぎ草紙 / 堪忍箱 / かまいたち / 砂村新田)
:* [[R.P.G.#ドラマ|R.P.G.〜作られた家族の秘密〜]](2003年7月26日、主演:[[後藤真希]])
:* [[プレミアムドラマ]]
:** [[小暮写眞館#テレビドラマ|小暮写眞館]](2013年3月31日 - 4月21日、全4話、主演:[[神木隆之介]])
:* [[NHK正月時代劇]]
:** [[桜ほうさら]](2014年1月1日、主演:[[玉木宏]])<ref name=MANTAN_20131231>{{Cite web |和書 |date=2013-12-31 |title=注目ドラマ紹介:「桜ほうさら」 宮部みゆきの時代小説をフル4Kでドラマ化 |url=https://mantan-web.jp/article/20131229dog00m200089000c.html |publisher=[[MANTAN]] |website=MANTANWEB |accessdate=2019-11-27 }}</ref>
:* [[ザ・プレミアム]]
:** [[三島屋変調百物語|おそろし〜三島屋変調百物語]](2014年8月30日 - 9月27日、全5話、主演:[[波瑠]])
:* [[木曜時代劇 (NHK)|木曜時代劇]]
:** [[ぼんくら#テレビドラマ|ぼんくら]](2014年10月16日 - 12月18日、全10話、主演:[[岸谷五朗]])
:** [[ぼんくら#テレビドラマ|ぼんくら2]](2015年10月22日 - 12月3日、全7話、主演:岸谷五朗、原作:日暮らし)
:* スペシャルドラマ
:** [[荒神 (宮部みゆきの小説)#テレビドラマ|荒神]](2018年2月17日、主演:[[内田有紀]])<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/7000/270695.html |title= 宮部みゆき×内田有紀×怪物!『荒神』制作開始 |publisher= NHK |date= 2017-05-16 |accessdate= 2017-06-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211202152205/https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/7000/270695.html |archivedate=2021-12-02 |deadlinkdate=2022-08-24}}</ref><ref name=MANTAN_20180123>{{Cite web |和書 |date=2018-01-23 |title=内田有紀:宮部みゆきの和風ファンタジーに挑戦 「CGと芝居をするのは大変」|url=https://mantan-web.jp/article/20180123dog00m200011000c.html |publisher=MANTAN |website=MANTANWEB |accessdate=2018-01-23 }}</ref>
:
; [[WOWOW]]
:* [[ドラマW]]
:** [[理由 (小説)#ドラマW 2004年版|理由]](2004年4月29日) - のちに劇場公開や日本テレビ系で一部を再構築してドキュメント版として放送される。
:** [[長い長い殺人#映像化作品|長い長い殺人]](2007年11月4日、主演:[[長塚京三]]) - のちに劇場公開やTBS系で再編集して放送される。
:** [[パーフェクト・ブルー#2010年版|パーフェクト・ブルー]](2010年2月7日、主演:[[加藤ローサ]]) - のちに劇場公開もされる。
:* [[連続ドラマW]]
:** [[楽園 (宮部みゆきの小説)#テレビドラマ|楽園]](2017年1月8日 - 2月12日、全6話、主演:[[仲間由紀恵]])<ref name=oricon_20160922>{{Cite news |和書 |author= |date=2016-09-22 |title=仲間由紀恵主演、宮部みゆき『楽園』初映像化 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2078830/full/ |publisher=[[オリコン]] |newspaper=ORICON NEWS |accessdate=2019-11-27 }}</ref>
:
; [[TBSテレビ|TBS]]系
:* [[パナソニック ドラマシアター]]
:** [[ステップファザー・ステップ#テレビドラマ|ステップファザー・ステップ]](2012年1月9日 - 3月19日、全11話、主演:上川隆也)
:** [[パーフェクト・ブルー#2012年版|宮部みゆきミステリー パーフェクト・ブルー]](2012年10月8日 - 12月17日、全11話、主演:[[瀧本美織]])
:* [[月曜ゴールデン]]
:** 宮部みゆき・4週連続“極上”ミステリー<ref>{{Cite web|和書|date=2022-05-07日 |title=TBSスペシャルドラマ企画 宮部みゆき・4週連続 “極上”ミステリー |url=https://www.tbs.co.jp/miyabe-gokujou/ |publisher=[[TBSテレビ]] |accessdate=2022-08-24 |ref={{SfnRef|TBS drama-20220507}} }}</ref>
:*** 第一夜・[[理由 (小説)#テレビドラマ 2012年版|理由]](2012年5月7日、主演:[[寺尾聰]])
:*** 第二夜・[[スナーク狩り (宮部みゆき)#2012年|スナーク狩り]](2012年5月14日、主演:[[伊藤淳史]])
:*** 第三夜・長い長い殺人(2012年5月21日、主演:長塚京三) - 2007年11月4日にWOWOWで放送されたものを再編集
:*** 第四夜・[[レベル7 (宮部みゆき)#2012年版|レベル7]](2012年5月28日、主演:玉木宏、[[杏 (女優)|杏]])
:* [[月曜ミステリーシアター]]
:** [[杉村三郎シリーズ#テレビドラマ|名もなき毒]](2013年7月8日 - 9月16日、全11話、主演:[[小泉孝太郎]])
:** [[ペテロの葬列]](2014年7月7日 - 9月15日、全11話、主演:小泉孝太郎)
:
; [[テレビ東京]]系
:* [[模倣犯 (小説)#テレビドラマ|模倣犯]](2016年9月21・22日、主演:[[中谷美紀]])
:
; 韓国ドラマ
:* [[ソロモンの偽証#テレビドラマ|ソロモンの偽証]](2016年12月16日 - 2017年1月28日、[[JTBC]]、主演:キム・ヒョンス)
=== ラジオドラマ ===
* 今夜は眠れない(1996年12月2日 - 13日、全10回、[[NHK-FM放送]]、出演:[[伊崎充則]]・[[石田太郎]] 他)
* 夢にも思わない(1997年10月6日 - 17日、全10回、NHK-FM放送、出演:伊崎充則・石田太郎 他)
* [[蒲生邸事件#ラジオドラマ|蒲生邸事件]](1999年2月15日 - 2月26日、全10回、NHK-FM放送、出演:[[林泰文]] 他)
* [[ぼんくら・日暮らし]]([[朝日放送ラジオ|朝日放送]])
** ぼんくら(2005年10月 - 12月、全12回)
** 日暮らし(2006年1月 - 3月、全12回)
* 孤宿の人(2008年4月6日 - 5月25日、全8回、NHK-FM放送、出演:[[西田敏行]] 他)
=== 舞台 ===
* [[サボテンの花 (小説)#舞台|ありがとうサボテン先生]](2002年3月6日 - 3月28日、[[日生劇場]]、主演:[[いかりや長介]]、原作:サボテンの花)
* サボテンの花(2007年3月1日 - 3月6日、[[シアターBRAVA!]] 他、[[演劇集団キャラメルボックス]])
=== 映画 ===
* [[クロスファイア (小説)#映画|クロスファイア]](2000年6月10日公開、監督:[[金子修介]]、主演:[[矢田亜希子]])
* [[模倣犯 (小説)#映画|模倣犯]](2002年6月8日公開、監督:[[森田芳光]]、主演:[[中居正広]])
* [[理由 (小説)#ドラマW 2004年版|理由]](2004年12月18日公開、配給:[[アスミック・エースエンタテインメント]]、監督:[[大林宣彦]]) - 2004年4月29日にWOWOWで放送されたもの
* [[ブレイブ・ストーリー#映画|ブレイブ・ストーリー]](2006年7月8日公開、アニメ、配給:[[ワーナー・ブラザース]]、監督:[[千明孝一]]、声:[[松たか子]] 他)
* [[長い長い殺人#映像化作品|長い長い殺人]](2008年5月31日公開、監督:[[麻生学]]、主演:長塚京三) - 2007年11月4日にWOWOWで放送されたもの
* [[パーフェクト・ブルー#2010年版|パーフェクト・ブルー]](2010年9月18日公開、配給:[[シネプレックス (企業)|角川シネプレックス]]、監督:[[下山天]]、主演:加藤ローサ) - 2010年2月7日にWOWOWで放送されたもの
* [[火車 (小説)#映画|火車 HELPLESS]](2012年公開、韓国映画)
*[[ソロモンの偽証#映画|ソロモンの偽証]] 前編・後編(2015年3月7日・4月11日連続公開、配給:[[松竹]]、主演:[[藤野涼子]])
=== 漫画 ===
* [[ブレイブ・ストーリー〜新説〜]](2004年4月 - 2008年5月 新潮社 [[BUNCH COMICS|バンチコミックス]]、作画:[[小野洋一郎]]、全20巻)
* ブレイブストーリー(2006年7月 小学館 [[てんとう虫コミックス]]、作画:[[姫川明]]、全1巻)
* 霊験お初捕物控(2006年11月 - 2008年6月 秋田書店 プリンセス・コミックス・デラックス、作画:[[坂口よしを]]、全4巻)
* ドリームバスター(2007年9月 - 2010年9月 徳間書店 [[RYU COMICS]]、作画:[[中平正彦]]、全7巻)
* スナーク狩り(2008年8月 - 2009年2月 新潮社 パンチコミックス、作画:[[オオイシヒロト]]、全3巻)
* クロスファイア(2008年9月 - 2009年9月 [[メディアファクトリー]] [[MFコミックス]]、作画:[[藤森ゆゆ缶]]、全2巻)
* 天狗風〜霊験お初捕物控〜(2009年4月 - 10月 秋田書店 プリンセス・コミックス・デラックス、作画:坂口よしを、全2巻)
* クロスファイアアナザーストーリー(2009年9月 メディアファクトリー MFコミックス、作画:藤森ゆゆ缶、全1巻)
* ぼんくら(2010年8月 PHP研究所 PHPコミックス、作画:[[菊地昭夫]]、既刊1巻)
* お江戸ふしぎ噺 あやし(2012年2月 角川書店 怪COMIC、作画:[[皇なつき]]、全1巻 / 2021年2月 角川ホラー文庫、全1巻)
* 回向院の茂七〜ふしぎ江戸暦〜(2013年3月 [[リイド社]] SPコミックス、作画:[[的場健]]、全1巻)
* [[ブレイブ・ストーリー〜新説〜#書誌情報|ブレイブ・ストーリー新説〜十戒の旅人〜]](2014年9月 - 2016年12月 新潮社 パンチコミックス、作画:小野洋一郎、全3巻)
* 三島屋変調百物語(2023年6月 - 刊行中 KADOKAWA BRIDGE COMICS、作画:[[宮本福助]]、既刊1巻)
== メディア出演 ==
=== テレビドラマ ===
* [[巷説百物語シリーズ#京極夏彦「怪」|京極夏彦 「怪」]] 第4話「福神ながし」(2000年9月15日、WOWOW) - みゆき亭お初 役
=== 映画 ===
* [[妖怪大戦争 (2005年の映画)|妖怪大戦争]](2005年8月16日公開、監督:[[三池崇史]]) - 宮部先生 役
* [[ブレイブ・ストーリー#映画|ブレイブ・ストーリー]](2006年7月8日公開、アニメ映画、監督:[[千明孝一]]) - パック 役(声の出演)
=== テレビ番組 ===
* [[ボクらの時代]](2010年12月12日、フジテレビ) - トーク相手は[[五木寛之]]、[[北方謙三]]
=== ラジオ番組 ===
* [[すっぴん!]](2015年5月18日、NHKラジオ第一、トークテーマ〈ありそうでないものを描く〉)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author='''宮部みゆき''' |date=2000-12-26 |title=平成お徒歩日記 |publisher=[[新潮社]] |series=[[新潮文庫]] |ref={{SfnRef|平成お徒歩日記|2000}} }}{{Small|{{ISBN2|4-10136921-6}}、{{ISBN2|978-4-10136921-1}}、{{OCLC|675954038}}}}。
* <!--あさだ-->{{Cite book |和書 |author=[[浅田次郎]] |date=2005-04-13 |title=歴史・小説・人生 |publisher=[[河出書房新社]] |ref={{SfnRef|浅田|2005}} }}{{Small|{{ISBN2|4-309-01707-X}}、{{ISBN2|978-4-309-01707-5}}、{{OCLC|676485531}} }}。
** {{Wikicite |ref={{SfnRef|浅田|宮部|2005}} |reference=啖呵切るご先祖様ぞ道標('''宮部みゆき''')}}
* <!--たかはし-->{{Cite book |和書 |author1=[[高橋克彦]] |author2=[[大沢在昌]] |author3='''宮部みゆき''' |author4=[[井沢元彦]] |date=1995-03-25 |title=だからミステリーは面白い 気鋭BIG4 対論集 |publisher=[[有学書林]] |ref={{SfnRef|高橋|大沢|宮部|井沢|1995}} }}{{Small|{{ISBN2|4-946477-19-5}}、{{ISBN2|978-4-946477-19-5}}、{{OCLC|675091752}}}}。
; 書籍、ムック
* <!--あがわ-->{{Cite book |和書 |author=[[阿川佐和子]] |date=1999-07-09 |title=阿川佐和子のアハハのハ この人に会いたい2 |publisher=[[文藝春秋]] |series=[[文春文庫]] あ 23-4 |ref={{SfnRef|阿川|1999}} }}{{Small|{{ISBN2|4-16-743506-3}}、{{ISBN2|978-4-16-743506-6}}、{{OCLC|43372636}}}}。
* <!--あやつじ-->{{Cite book |和書 |author=[[綾辻行人]] |date=1999-11-19 |title=セッション ―綾辻行人対談集― |publisher=[[集英社]] |series=[[集英社文庫]] |ref={{SfnRef|綾辻|1999}} }}{{Small|{{ISBN2|4-08-747123-3}}、{{ISBN2|978-4-08-747123-6}}、{{OCLC|675625581}}}}。
* <!--おおさわ-->{{Cite book |和書 |author=[[大沢在昌]] |date=2019-02-23 |title=小説講座 売れる作家の全技術 デビューだけで満足してはいけない |url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321809000167/ |publisher=[[角川書店]] |ref={{SfnRef|大沢|2019}} }}{{Small|{{ISBN2|4-04-107755-9}}、{{ISBN2|978-4-04-107755-9}}、{{OCLC|1090534524}}}}。
* <!--やまもと-->{{Cite book |和書 |author=[[山村正夫]] |date=1998-11-01 |title=わが懐旧のイタ・セクスアリス―小説作法・小説教室 |publisher=[[ケイエスエス]] |ref={{SfnRef|山村|1998}} }}{{Small|{{ISBN2|4-87709-297-8}}、{{ISBN2|978-4-87709-297-9}}、{{OCLC|674789813}}}}。
<!--※以下は法人など。現在は該当なし。-->
; 雑誌
* <!--PHP-->{{Cite journal |和書 |date=2002-04-06 |title=インタビュー「私が時代小説を書くようになった理由」|url=https://www.php.co.jp/magazine/detail.php?code=84169 |publisher=[[PHP研究所]] |journal=[[歴史街道]] |volume=2002年5月号 |issue= |page=62 |ref={{SfnRef|歴史街道 2002年5月号}} }}
* <!--あさひ...-->{{Cite book |和書 |author=朝日新聞社 |editor=朝日新聞社文芸編集部 |date=2002-07-12 |title=まるごと宮部みゆき |publisher=[[朝日新聞社]] }}{{Small|{{ISBN2|4-02-257765-7}}、{{ISBN2|978-4-02-257765-8}}、{{OCLC|675436543}}}}。
** {{Wikicite |ref={{SfnRef|まるごと宮部みゆき|2002}} |reference=「宮部みゆきロングインタビュー」}}139 - 188頁。
* <!--しゅうえいしゃ-->{{Cite journal |和書 |date=2005-11-17 |title=篠田節子×宮部みゆき 「志高き者よ、新人賞の門をたたけ!」<!--※元の記述が説明文なので暫定タイトルになっています。正式タイトルを記載して下さい。-->|publisher=[[集英社]] |journal=[[小説すばる]] |volume=2005年12月号 |issue= |pages= |ref={{SfnRef|小説すばる 2005年12月号}} }}{{Small|{{ASIN|B017MEIZ26}}}}。
* <!--ぶんげい...-->{{Cite journal |和書 |date=2013-07-22 |title=高橋克彦×宮部みゆき「江戸の怖さについて」<!--※元の記述が説明文なので暫定タイトルになっています。正式タイトルを記載して下さい。-->|url=https://www.fujisan.co.jp/product/1281679612/b/957927/ |publisher=[[文藝春秋]] |journal=[[オール讀物]] |volume=2013年8月号 |issue= |pages= |ref={{SfnRef|オール讀物 2013年8月号}} }}
* {{Cite journal |和書 |date=2021-02-22 |title=受賞記念対談 宮部みゆき×[[西條奈加]]「時代小説の未来を信じて」|url=https://www.bunshun.co.jp/business/ooruyomimono/backnumber.html?itemid=343&dispmid=569 |publisher=文藝春秋 |journal=オール讀物 |volume=第164回直木賞決定発表 2021年3・4月合併号 |issue= |pages=99-104 |ref={{SfnRef|オール讀物 2021年3・4月合併号}} }}{{Small|{{ASIN|B08TYTXCJG}}}}。
** 補足情報:{{Cite news |和書 |author=[[文藝春秋]] |date=2021-02-16 |title=「オール讀物」3・4月合併号は第164回の直木賞発表号。西條奈加さん、加藤シゲアキさんら話題作の選評が掲載。THE ALFEEの高見沢俊彦さんの連載小説もスタート! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000060.000043732.html |publisher= [[PR TIMES]] |newspaper=PR TIMES |accessdate=2022-08-23 |ref={{SfnRef|PR-TIMES 20210216}} }}
== 関連文献 ==
* 書籍、ムック
** <!--こうの-->{{Cite book |和書 |author=[[こうの史代]](絵と文)、'''宮部みゆき'''(原作)|date=2014-08-20 |title=荒神絵巻 |url=https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=16212 |publisher=[[朝日新聞出版]] |ref={{SfnRef|こうの|宮部|2014}} }}{{Small|{{ISBN2|4-02-251205-9}}、{{ISBN2|978-4-02-251205-5}}、{{OCLC|890700742}}}}。※朝日新聞連載時の[[挿絵]]と絵物語風。
*** 補足情報:{{Cite news |和書 |date=2014-08-14 |title=『荒神絵巻』(こうの史代・絵と文)の世界を垣間見る |url=https://dot.asahi.com/photogallery/archives/2015062300128/ |publisher=[[朝日新聞出版]] |newspaper=AERA dot. |ref={{SfnRef|AERA 20140814}} }}
**<!--なかじま-->{{Cite book |和書 |author=[[中島誠]] |date=2002-11 |title=宮部みゆきが読まれる理由 |edition=初版 |publisher=[[現代書館]] |ref={{SfnRef|中島|2002}} }}{{Small|{{ISBN2|4-7684-6840-3}}、{{ISBN2|978-4-7684-6840-1}}、{{OCLC|676292513}}}}。
**<!--のざき-->{{Cite book |和書 |author=[[野崎六助]] |date=1999-06 |origdate=1954-09 |title=宮部みゆきの謎─最強の女流ミステリを徹底分析する |publisher=[[情報センター出版局]] |ref={{SfnRef|野崎|1999}} }}{{Small|{{ISBN2|4-7958-2952-7}}、{{ISBN2|978-4-7958-2952-7}}、{{OCLC|675884822}}}}。
<!--※以下は法人など。-->
**<!--あさひ-->{{Cite book |和書 |author=朝日新聞社 著 |editor=朝日新聞社文芸編集部 |date=2002-08 |title=まるごと宮部みゆき |edition=初版 |publisher=[[朝日新聞社]] |ref={{SfnRef|まるごと宮部みゆき|2002}} }}{{Small|{{ISBN2|4-02-257765-7}}、{{ISBN2|978-4-02-257765-8}}、{{OCLC|675436543}}}}。
**<!--たからじましゃ-->{{Cite book |和書 |editor=宝島社 |date=2003-08-01 |title=僕たちの好きな宮部みゆき Tribute to Miyuki Miyabe |edition=初版 |publisher=[[宝島社]] |series=[[別冊宝島]] 865 |ref={{SfnRef|宝島社|2003}} }}{{Small|{{ISBN2|4-7966-3556-4}}、{{ISBN2|978-4-7966-3556-1}}、{{OCLC|676401115}}}}。
**<!--れきしと...-->{{Cite book |和書 |editor=歴史と文学の会 |date=2003-04 |title=宮部みゆきの魅力 |edition=初版 |publisher=[[勉誠出版]] |series=Museo 13 |ref={{SfnRef|歴史と文学の会|2003}} }}{{Small|{{ISBN2|4-585-09078-9}}、{{ISBN2|978-4-585-09078-6}}、{{OCLC|55957178}}}}。※年譜あり。
* 雑誌
**{{Cite journal |和書 |author='''宮部みゆき''' |date=2017-05-22 |title=永久保存版 作家生活30周年記念大特集号 |url=https://www.fujisan.co.jp/product/1215/b/1497164/ |publisher=[[新潮社]] |journal=[[小説新潮]] |volume=2017年6月号 |issue= |pages= |ref={{SfnRef|宮部みゆき|2017}} }}{{Small|{{ASIN|B071DSX5W4}}}}。
== 外部リンク ==
* {{Official website|osawa-office.co.jp/ |大極宮 - 大沢在昌・京極夏彦・宮部みゆきの3名が所属する公式サイト}}
** {{Citation |title=三人の作家たちへの質問・宮部みゆきへの質問と回答 |url=http://www.osawa-office.co.jp/old/qa/qaindex.html |ref={{SfnRef|大極宮-Q&A}} }}
* 第三者発信
** 朝日の紙面から: 『誰か Somebody』「[https://web.archive.org/web/20041125161832/http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=5065 あえて描く『ふつうの人』]」(本紙掲載2004年01月18日、評者・香山リカ) - [[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]
** 朝日の紙面から: 「[https://web.archive.org/web/20041125024940/http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=3275 宮部みゆき『ブレイブ・ストーリー』]」(本紙掲載2003年04月6日、評者・永江朗) - アーカイブ
** [https://web.archive.org/web/20180831211640/http://www.webmysteries.jp/lounge/50thtaidan1011-1.html 風間賢二氏とのマニアックなホラー対談 2010年11月](ウェブマガジンの記事)
{{直木賞|第120回}}
{{山本周五郎賞|第6回}}
{{吉川英治文学新人賞|第13回}}
{{吉川英治文学賞|第41回}}
{{日本SF大賞|第18回}}
{{ウーマン・オブ・ザ・イヤー}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:みやへ みゆき}}
[[Category:宮部みゆき|*]]
[[Category:20世紀日本の女性著作家]]
[[Category:21世紀日本の女性著作家]]
[[Category:20世紀日本の小説家]]
[[Category:21世紀日本の小説家]]
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[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1960年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:本名非公開の人物]]
|
2003-08-15T00:08:34Z
|
2023-12-06T18:05:10Z
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周期
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周期(しゅうき)は、定期的に同じことが繰り返される事象において、任意のある時点の状態に一度循環して戻るまでの期間(時間)または段数のことである。
周期を数える場合は、事象1回の循環を1周期と表す。「2周期」、「3周期」、「半周期」というような使い方をする。
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'''周期'''(しゅうき)は、定期的に同じことが繰り返される事象において、任意のある時点の状態に一度[[循環]]して戻るまでの期間([[時間]])または段数のことである。
周期を数える場合は、事象1回の循環を1周期と表す。「2周期」、「3周期」、「半周期」というような使い方をする。
== 各分野における周期 ==
*[[物理学]]や[[工学]]などでは、周期は時間であり、[[単位]]は[[秒]] (記号: s) である。量記号は ''T'' で表す。周期の値は、[[振動数]]([[周波数]])の[[逆数]]となる。
*[[天文学]]で「周期」というと、[[衛星]]や[[惑星]]など、物体の[[公転]]や[[自転]]を示す。
**[[公転周期]](軌道周期)
**[[自転周期]]
**[[太陽活動周期]]: 太陽の変化の周期
**[[サロス周期]]: 日食や月食が起こる日を予測するのに用いられる周期
*[[擬似乱数]]列生成器における周期とは(その内部状態が全く同じ状態に戻ることで)全く同じ列が再度生成されるまでの列の長さのこと。
*[[工業]]分野では、作業工程の一巡のこと。再度同じ作業工程を行う場合についても、「周期」を用いる。
*[[細胞生物学]]では、ひとつの細胞が二つの娘細胞を生み出すまでの周期を示して、[[細胞周期]]という。
== 関連項目 ==
* [[周期彗星]]
* [[振動]]
* [[メトン周期]]
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チベット語
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チベット語(チベットご)は、ユーラシア大陸の中央、およそ東経77-105度・北緯27-40度付近で使用されているシナ・チベット語族(漢-蔵系)のチベット・ビルマ語派チベット諸語に属する言語。
形態論において孤立語に分類されるが膠着語的な性質ももつ。方言による差はあるが、2種ないし4種の声調をもつが、声調が存在しない方言もある。なお古典チベット語には声調は存在しなかったとされる。チベット高原における約600万人、国外に移住した約15万人のチベット人が母語として使用している。
ラサ方言を含む中央チベット方言、カム・チベット方言、アムド・チベット方言は通常は同一の言語の方言とみなされ、この3方言を総称してチベット語といわれる。特にラサ方言は標準チベット語と呼ばれる。本記事は標準チベット語を中心に記述するが、他方言についても言及する。
チベット語に含まれない周辺のチベット系言語についてはチベット諸語を参照。
チベット語に用いられるチベット文字は、表音文字であり、起源はブラーフミー文字である。ラテン文字に転写するにはいくつかの方法があり、統一されていない。
チベット文字はUnicodeにも収録されており、Windows XPやMac OS X上で使用可能である。
30の基字がある。各基字の発音として、ラサ方言の発音を併記する。
チベット語の音節は、
の3種類のみである。単語は、1音節または2音節以上の組み合わせで構成される。
子音は地域差・個人差が大きいが、最高で39種に弁別される。無気音・有気音の区別があること、そり舌音が多彩であることなどが特徴である。音節末子音には -ʔ, -k, -p, -r, -m, -ŋ がある。-kと-pは内破音である。
チベット文字の後置字と実際の発音の関係は単純ではない。-d -s は -ʔ と発音されるか、または無音になる。-g は -ʔ と発音するもの、-k と発音するもの、無音になるものがある。-b は -p と発音するものが多いが、一部は -ʔ になる。-l は発音されない。-r も大部分は発音されないが、一部の語で -r と発音する。-n は発音されず、母音が鼻母音化する。
ラサ口語には最低次の8種の短母音と、それぞれの長母音が存在する。また鼻母音もある。
チベット文字はアブギダであるため、正書法上 a に対応する母音記号はなく、記号がついていない場合に母音 a があると見なされる。また ä, ö, üの3母音は専用の文字がなく、末子音-d, -l, -n, -sの前にa, o, uが来た場合に出現する。長母音は歴史的に末子音の消滅と引き換えに出現したものだが、正書法上は末子音をつけた形で表記する。
母音の数は文献によって異なる。金鵬は上記のほかに /ə/ を認める(p と m の前にのみ出現)。ロサン・トンデンは「ダラムサラのチベット図書館で認定されている標準的な音韻体系」として、上記8母音に ė ȯ を加えた10母音(ė は alone の a のように、ȯは object の o のように発音する)を認める。張琨夫妻は a i ė ȯ u ü ʌ e ɛ ɔ o ö の12母音が6つずつ対をなして母音調和を起こすとする。
ラサ口語においては高平調、高降調、低昇調(低平調)、低昇降調の4つが区別される。これらは発音されない子音が消滅した代償に発生したため、文字から予測する事ができる。具体的には核子音字が有声の時に低調(低昇調、低昇降調)となり、無声の時に高調(高平調、高降調)となる。鼻音とyとlの単独時は低調で発音されるが先行子音があると高調となる。降調となるかどうかは発音されない末子音の種類と有無によって決定される。
多音節語になると日本語と同様の高低アクセントとなり、自立していない接尾辞としての2音節目と全ての3音節目以降は軽声となって高低が弁別に寄与しなくなる。具体的には一音節目+二音節目がそれぞれ高平or高降+高平or低昇=高高、高平or高降+高降or低昇降=高低、低昇or低昇降+高平or低昇=低高、低昇or低昇降+高降or低昇降=昇降といった組み合わせのアクセントとなる。
文語体では接辞が文法機能を担う例が多く膠着語に近いが、現代語ではこれらの多くを失い、孤立語化が進んでいる。
またチベット語は能格言語であり、絶対格と能格の区別がある。文語体では名詞にこれを含めて9つの格があり、これらは絶対格(無標)を除き、接尾辞で示される。これらは日本語の助詞と同じく、名詞句のあとにまとめてつける。複数は必要な場合にのみ接尾辞で示される。
動詞には、形態的に最高で4つの基本形式(活用)があり、それぞれ現在形・過去形・未来形(実際にはむしろ必要性や義務を意味する)・命令形と呼ばれる。活用は母音交替や接頭辞・接尾辞によるが、あまり規則的ではない。ただしこのような活用ができる動詞は限られており、代わりに助動詞を用いるのが普通である。動詞の大多数は2種に分けられ、1つは動作主(助辞 kyis などで示される)の関与を表現し、もう1つは動作主の関与しない動作を表現する(それぞれ意志動詞と非意志動詞と呼ばれることが多い)。非意志的動詞のほとんどには命令形がない。動詞を否定する接頭的小辞には、mi と ma の2つがある。mi は現在形と未来形に、ma は過去形(文語体では命令形にも)に用いられる。現代語では禁止にはma+現在形が使われる。有無は存在動詞の「ある」yod と「ない」med で表す。
名詞と動詞に関して日本語と似た敬語組織が発達している。基本的動詞には別の敬語形があり、その他は一般的な敬語形と組み合わせて表現する。
一般に、チベット語はラサ方言を含むウーツァン方言、カム方言、アムド方言の3方言に区分される。(とくに同一の文章語を持つため)。ゾンカ語、シッキム語、シェルパ語、ラダック語はチベット語とは別の言語とされる。
ウーツァン方言では他の方言が破擦音化する場合を除きそれぞれの形で残している先行子音が発音されなくなり声調へ影響を与えるだけに留まっている。声調の数も各方言で異なっており、アムド方言のように全く声調が存在しないものもある。
アムド方言では先行子音が /h/ と /ɣ/ へ収束し、子音 py が残存する。このような保守的な側面の一方、母音では /i/ と /u/ が合一して /ə/ となるなど独自の変化を遂げている。
チベット語の文字は7世紀に表音文字として制定されたが、その後、綴字と発音の乖離が著しく進んだため、チベット語を他言語の文字によって転写する方式としては、発音を写し取る目的と、綴り字を写し取る目的とで、全く別個の体系を用意する必要がある。
発音を写し取る体系
綴り字を写し取る体系
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チベット語(チベットご)は、ユーラシア大陸の中央、およそ東経77-105度・北緯27-40度付近で使用されているシナ・チベット語族(漢-蔵系)のチベット・ビルマ語派チベット諸語に属する言語。 形態論において孤立語に分類されるが膠着語的な性質ももつ。方言による差はあるが、2種ないし4種の声調をもつが、声調が存在しない方言もある。なお古典チベット語には声調は存在しなかったとされる。チベット高原における約600万人、国外に移住した約15万人のチベット人が母語として使用している。 ラサ方言を含む中央チベット方言、カム・チベット方言、アムド・チベット方言は通常は同一の言語の方言とみなされ、この3方言を総称してチベット語といわれる。特にラサ方言は標準チベット語と呼ばれる。本記事は標準チベット語を中心に記述するが、他方言についても言及する。 チベット語に含まれない周辺のチベット系言語についてはチベット諸語を参照。
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{{Infobox Language
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'''チベット語'''(チベットご)は、[[ユーラシア大陸]]の中央、およそ東経77-105度・北緯27-40度付近で使用されている[[シナ・チベット語族]](漢-蔵系)の[[チベット・ビルマ語派]][[チベット諸語]]に属する[[言語]]。
[[形態論]]において[[孤立語]]に分類されるが[[膠着語]]的な性質ももつ。[[方言]]による差はあるが、2種ないし4種の[[声調]]をもつが、声調が存在しない方言もある。なお[[古典チベット語]]には声調は存在しなかったとされる。[[チベット高原]]における約600万人、国外に移住した約15万人の[[チベット人]]が[[母語]]として使用している。
[[ラサ]]方言を含む[[ウー・ツァンチベット語|中央チベット方言]]、[[カム・チベット語|カム・チベット方言]]、[[アムド・チベット語|アムド・チベット方言]]は通常は同一の言語の方言とみなされ、この3方言を総称してチベット語といわれる。特にラサ方言は'''標準チベット語'''と呼ばれる。本記事は標準チベット語を中心に記述するが、他方言についても言及する。
チベット語に含まれない周辺のチベット系言語については'''[[チベット諸語]]'''を参照。
== 文字 ==
{{main|チベット文字}}
チベット語に用いられるチベット文字は、[[表音文字]]であり、起源は[[ブラーフミー文字]]である<ref>"The Routledge Handbook of Scripts and Alphabets" by G. L. Campbell and C. Moseley</ref>。ラテン文字に転写するにはいくつかの方法があり、統一されていない。
チベット文字は[[Unicode]]にも収録されており、Windows XPやMac OS X上で使用可能である。
30の基字がある。各基字の発音として、ラサ方言の発音を併記する。<ref>{{cite book|author=星泉, ケルサン・タウワ|title=ニューエクスプレス チベット語|year=2017|publisher=白水社|page=22}}</ref>
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|}
== 発音 ==
チベット語の音節は、
*子音+短母音(例:la ~へ、~に)
*子音+長母音(lâa えっ?)
*子音+短母音+末子音(lâp 言う)
の3種類のみである。単語は、1音節または2音節以上の組み合わせで構成される。
=== 子音 ===
子音は地域差・個人差が大きいが、最高で39種に弁別される。[[無気音]]・[[有気音]]の区別があること、[[舌端裏後部歯茎音|そり舌音]]が多彩であることなどが特徴である。音節末子音には -ʔ, -k, -p, -r, -m, -ŋ がある。-kと-pは[[内破音]]である。
チベット文字の後置字と実際の発音の関係は単純ではない。-d -s は -ʔ と発音されるか、または無音になる。-g は -ʔ と発音するもの、-k と発音するもの、無音になるものがある。-b は -p と発音するものが多いが、一部は -ʔ になる。-l は発音されない。-r も大部分は発音されないが、一部の語で -r と発音する。-n は発音されず、母音が鼻母音化する。
=== 母音 ===
ラサ口語には最低次の8種の短母音と、それぞれの長母音が存在する。また鼻母音もある。
*a - ア
*e - 舌の位置を高めにして エ
*i - イ
*o - オ
*u - 唇を丸める ウ
*ä - エ {{ipa|ɛ}}
*ö - 口を o の形にして e を発音する。{{ipa|ɵ}}
*ü - 口を u の形にして i を発音する。{{ipa|ʉ}}
チベット文字は[[アブギダ]]であるため、正書法上 a に対応する母音記号はなく、記号がついていない場合に母音 a があると見なされる。また ä, ö, üの3母音は専用の文字がなく、末子音-d, -l, -n, -sの前にa, o, uが来た場合に出現する。長母音は歴史的に末子音の消滅と引き換えに出現したものだが、正書法上は末子音をつけた形で表記する。
母音の数は文献によって異なる。金鵬は上記のほかに {{ipa|ə}} を認める(p と m の前にのみ出現)<ref>{{cite book|author=金鵬|title=蔵語簡志|year=1983|publisher=民族出版社|pages=9-13}}</ref>。ロサン・トンデンは「[[ダラムサラ]]のチベット図書館で認定されている標準的な音韻体系」として、上記8母音に {{unicode|ė ȯ}} を加えた10母音({{unicode|ė}} は alone の a のように、{{unicode|ȯ}}は object の o のように発音する)を認める<ref>{{cite book|和書|author=ロサン・トンデン|title=現代チベット語会話|volume=1|year=1992|translator=石濱裕美子、ケルサン・タウワ|publisher=世界聖書刊行協会|page=12}}</ref>。[[張琨]]夫妻は {{unicode|a i ė ȯ u ü ʌ e ɛ ɔ o ö}} の12母音が6つずつ対をなして[[母音調和]]を起こすとする<ref>{{cite book|author1=Chang, Kun|author2=Shefts, Betty|title=A Manual of Spoken Tibetan (Lhasa Dialect)|year=1964|publisher=University of Washington Press}}</ref>。
=== 声調 ===
ラサ口語においては高平調、高降調、低昇調(低平調)、低昇降調の4つが区別される。これらは発音されない子音が消滅した代償に発生したため、文字から予測する事ができる。具体的には核子音字が有声の時に低調(低昇調、低昇降調)となり、無声の時に高調(高平調、高降調)となる。鼻音とyとlの単独時は低調で発音されるが先行子音があると高調となる。降調となるかどうかは発音されない末子音の種類と有無によって決定される。
多音節語になると日本語と同様の[[高低アクセント]]となり、自立していない接尾辞としての2音節目と全ての3音節目以降は[[軽声]]となって高低が弁別に寄与しなくなる。具体的には一音節目+二音節目がそれぞれ高平or高降+高平or低昇=高高、高平or高降+高降or低昇降=高低、低昇or低昇降+高平or低昇=低高、低昇or低昇降+高降or低昇降=昇降といった組み合わせのアクセントとなる。
== 文法 ==
{{See also|現代ラサ・チベット語の文法}}
文語体では[[接辞]]が[[文法]]機能を担う例が多く[[膠着語]]に近いが、現代語ではこれらの多くを失い、[[孤立語]]化が進んでいる。
またチベット語は[[能格言語]]であり、絶対格と能格の区別がある。文語体では[[名詞]]にこれを含めて9つの[[格]]があり、これらは絶対格(無標)を除き、[[接尾辞]]で示される。これらは日本語の助詞と同じく、名詞[[句]]のあとにまとめてつける。複数は必要な場合にのみ接尾辞で示される。
[[動詞]]には、形態的に最高で4つの基本形式([[活用]])があり、それぞれ現在形・過去形・未来形(実際にはむしろ必要性や義務を意味する)・命令形と呼ばれる。活用は[[母音交替]]や[[接頭辞]]・接尾辞によるが、あまり規則的ではない。ただしこのような活用ができる動詞は限られており、代わりに[[助動詞 (言語学)|助動詞]]を用いるのが普通である。動詞の大多数は2種に分けられ、1つは[[動作主]](助辞 kyis などで示される)の関与を表現し、もう1つは動作主の関与しない動作を表現する(それぞれ意志動詞と非意志動詞と呼ばれることが多い)。非意志的動詞のほとんどには命令形がない。動詞を否定する接頭的小辞には、mi と ma の2つがある。mi は現在形と未来形に、ma は過去形(文語体では命令形にも)に用いられる。現代語では禁止にはma+現在形が使われる。有無は存在動詞の「ある」yod と「ない」med で表す。
名詞と動詞に関して日本語と似た[[敬語]]組織が発達している。基本的動詞には別の敬語形があり、その他は一般的な敬語形と組み合わせて表現する。
== 方言 ==
{{see also|チベット諸語}}
一般に、チベット語は[[ラサ]]方言を含む[[ウー・ツァンチベット語|ウーツァン方言]]、[[カム・チベット語|カム方言]]、[[アムド・チベット語|アムド方言]]の3方言に区分される。(とくに同一の文章語を持つため)。[[ゾンカ語]]、[[シッキム語]]、[[シェルパ語]]、[[ラダック語]]はチベット語とは別の言語とされる。
ウーツァン方言では他の方言が破擦音化する場合を除きそれぞれの形で残している先行子音が発音されなくなり声調へ影響を与えるだけに留まっている。声調の数も各方言で異なっており、アムド方言のように全く声調が存在しないものもある。
アムド方言では先行子音が {{ipa|h}} と {{ipa|ɣ}} へ収束し、子音 py が残存する。このような保守的な側面の一方、母音では {{ipa|i}} と {{ipa|u}} が合一して {{ipa|ə}} となるなど独自の変化を遂げている。
== 転写方式 ==
{{main|チベット語のラテン文字表記法}}
チベット語の文字は7世紀に[[表音文字]]として制定されたが、その後、綴字と発音の乖離が著しく進んだため、チベット語を他言語の文字によって転写する方式としては、発音を写し取る目的と、綴り字を写し取る目的とで、全く別個の体系を用意する必要がある。
'''発音を写し取る体系'''
*[[日本]]においてチベット学の専門家が公表・提示した転写方式
**「[[チベット語のカタカナ表記について]]」([[今枝由郎|今枝]]試案)
**「[[地名・人名データベース (チベット語)]]」([[星泉|星式]]転写方式)
*[[中華人民共和国]]における[[蔵文ピン音]]
'''綴り字を写し取る体系'''
#[[ワイリー拡張方式]]
#[[ダース式|ダス式]]
== 関連項目 ==
{{Wikipedia|bo}}
{{Wiktionary|チベット語}}
* [[:en:Mahāvyutpatti|Mahāvyutpatti]] - [[チベット大蔵経#テンギュル(論蔵)|テンギュル]]にも含まれている[[サンスクリット語]]-チベット語の辞書。
* [[タレル・ワイリー]]
* [[サラット・チャンドラ・ダース|チャンドラ・ダース]]
* [[ハインリッヒ・アウグスト・イェシュケ|H.A.イェシュケ]]
* [[河口慧海]]
* {{仮リンク|アナガリカ・ゴヴィンダ|en|Anagarika Govinda|label=ラマ・ゴヴィンダ}}
* {{仮リンク|アレクサンドラ・デビッド=ニール|en|Alexandra David-Néel}}
* [[:en:Old Tibetan]]([[吐蕃]]、[[7世紀]] - [[11世紀]])
* [[:en:Classical Tibetan]]([[10世紀]] - [[12世紀]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*[http://www.microsoft.com/downloads/details.aspx?familyid=fc02e2e3-14bb-46c1-afee-3732d6249647 GB18030 Support Package - Microsoft Download Center] {{en icon}} - チベット文字を含むWindows XP、2000用フォントのダウンロードページ
*[http://www.daicing.com/manchu/index.php?page=tibetan-dao-daicing-keyboard 太清チベット語翻字 太清チベット語入力] {{en icon}}
*[http://tibet.que.ne.jp/misc/EWylie1.html 拡張ワイリー方式について] {{en icon}} - [[拡張ワイリー方式]]によるチベット語のローマ字転写についての説明
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ちへつとこ}}
[[Category:チベット語|*]]
[[Category:チベットの言語]]
[[Category:中国の言語]]
[[Category:ブータンの言語]]
[[Category:ネパールの言語]]
[[Category:インドの言語]]
[[Category:パキスタンの言語]]
[[Category:チベット・ビルマ語派]]
[[Category:典礼言語]]
[[Category:声調言語]]
[[bn:তিব্বতি ভাষা]]
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西千葉駅
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西千葉駅(にしちばえき)は、千葉県千葉市中央区春日二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の駅である。運行系統としては緩行線を走行する総武緩行線が停車する。駅番号はJB 38。
JR東日本の総武本線(緩行線)を走行する中央・総武緩行線が乗り入れている。また、京成電鉄のみどり台駅・西登戸駅は徒歩圏内に位置している。
駅舎は千葉市中央区春日二丁目に位置しているが、駅北口の「ゆりの木通り」を境に北側が稲毛区、南側が中央区となっている。そのため、北口すぐに位置する千葉大学の西千葉キャンパスは稲毛区となっている。
駅北口方面(稲毛区側)は千葉大学西千葉キャンパスや千葉経済大学をはじめ多くの高等教育機関や学校が集積する千葉市屈指の文教地区として知られる。
駅南口の通称「マロニエ通り」(西千葉マロニエ商店会)として知られる区域は、フランス料理店、喫茶店、手作りハム専門店、紅茶専門店などの飲食店や画廊、雑貨店、美容室などの多く立ち並ぶ商店街として知られる。
北口および南口の駅前ロータリー近傍、千葉大学西千葉キャンパス近傍、南口ロータリーから京成電鉄みどり台駅方面に抜ける商店街には学生向けのアパート、レストラン、居酒屋、商店などが多く、典型的な学生街を形成している。
島式ホーム1面2線を有する高架駅であるが、駅周辺は高架橋の高さが低く、コンコース階は半地下構造となっている。コンコース階には駅施設のほか、駅ビル「ペリエ西千葉」(2007年12月まで「めりーな西千葉」)がある。
JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している千葉駅管理の業務委託駅。Suica対応自動改札機、指定席券売機、短距離自動券売機が設置されている。みどりの窓口は、2013年2月6日限りで閉鎖された。2017年2月25日より、始発から午前6時50分までの間は遠隔対応(インターホン対応は稲毛駅が行う)のため改札係員は不在となり、一部の自動券売機のみ稼働する。
かつては西千葉駅~稲毛駅間に房総ローカル用の気動車の車両基地であった千葉気動車区が存在していた。跡地は現在は西千葉公園となっている。地上時代の当駅中線にはホームがなく気動車区に出入りする車両が使用していた。
(出典:JR東日本:駅構内図)
なお、当駅から見える総武快速線の線路は、隣の千葉駅構内に含まれている。当駅は、総武快速線千葉駅の西端となる。
駅ナカ商業施設として「ペリエ西千葉」があり、本館、ANNEX館からなる約25店舗の専門店を有する。
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は19,406人である。
近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。
南口方面(京成千葉線側)
北口方面(千葉大学側)
北口ロータリーから、路線バスが発着している。以下の路線が乗り入れ、千葉内陸バス、ちばシティバスにより運行されている。
かつては京成バス(当時は京成電鉄直営)が運行されていたが、千葉内陸バスとちばシティバスへ移管されたほか、一部路線は廃止となっている。
2019年10月31日までは、南口ロータリーからあすか交通による幸町中央行きが平日朝のみ運行されていた。
軍事技術の研究を主体とした東京帝国大学第二工学部の開設に合わせて開業。東京大学第二工学部は、第二次世界大戦後に東京大学生産技術研究所となった。
東京大学第二工学部の敷地は、先述の東京大学生産技術研究所千葉実験所及び千葉大学西千葉キャンパスとなったが、2017年(平成29年)に東京大学生産技術研究所千葉実験所は柏市にある柏キャンパスに移転した。
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西千葉駅(にしちばえき)は、千葉県千葉市中央区春日二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の駅である。運行系統としては緩行線を走行する総武緩行線が停車する。駅番号はJB 38。
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{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = 西千葉駅
|画像 = JR Sobu-Main-Line Nishi-Chiba Station North Exit.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 北口(2019年12月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|37|21.3|N|140|6|11.8|E}}}}
|よみがな = にしちば
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|駅番号 = {{駅番号r|JB|38|#ffd400|1}}
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所在地 = [[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]春日二丁目24-2
|座標 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|37|21.3|N|140|6|11.8|E|region:JP-12_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日 = [[1942年]]([[昭和]]17年)[[10月1日]]<ref name="sobu-line-120-2014-2">三好好三『総武線120年の軌跡』[[JTBパブリッシング]]、2014年2月。ISBN 978-4533096310</ref>
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 1面2線
|乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />19,406
|乗降人員 =
|統計年度 = 2022年
|所属路線 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]<br/>(線路名称上は[[総武本線]])
|前の駅 = JB 37 [[稲毛駅|稲毛]]
|駅間A = 1.9
|駅間B = 1.4
|次の駅 = [[千葉駅#駅構造|千葉]] JB 39
|キロ程 = 37.8 km([[東京駅|東京]]起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から1.4
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|備考 = [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]
}}
[[ファイル:JR Sobu-Main-Line Nishi-Chiba Station South Exit.jpg|thumb|240px|南口(2019年12月)]]
'''西千葉駅'''(にしちばえき)は、[[千葉県]][[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]春日二丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[総武本線]]の[[鉄道駅|駅]]である<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。[[運行系統]]としては[[各駅停車|緩行線]]を走行する[[中央・総武緩行線|総武緩行線]]が停車する。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JB 38'''。
== 概要 ==
[[ファイル:西千葉駅.jpg|thumb|none|350px|北口駅前ロータリー(2007年)<br />左側が高架ホーム、緑地は西千葉稲荷大明神、右側の緑地は[[千葉大学]]正門前]]
JR東日本の[[総武本線]]([[急行線|緩行線]])を走行する[[中央・総武緩行線]]が乗り入れている。また、[[京成電鉄]]の[[みどり台駅]]・[[西登戸駅]]は徒歩圏内に位置している<ref group="注釈" name="renraku">連絡定期券は発売していない。</ref>。
駅舎は[[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]春日二丁目に位置しているが、駅北口の「ゆりの木通り」を境に北側が[[稲毛区]]、南側が中央区となっている。そのため、北口すぐに位置する[[千葉大学]]の西千葉キャンパスは稲毛区となっている。
駅北口方面(稲毛区側)は[[千葉大学]]西千葉キャンパスや[[千葉経済大学]]をはじめ多くの高等教育機関や学校が集積する千葉市屈指の[[文教地区]]として知られる<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。
駅南口の通称「マロニエ通り」(西千葉マロニエ商店会)として知られる区域は、[[フランス料理]]店、[[喫茶店]]、手作り[[ハム]]専門店、[[紅茶]]専門店などの飲食店や[[画廊]]、雑貨店、美容室などの多く立ち並ぶ[[商店街]]として知られる<ref>{{Cite web|和書|title=西千葉マロニエ商店会 marronnier nishichiba|url=http://marronnie.info/|accessdate=2019-03-30|language=en|last=西千葉マロニエ商店会}}</ref>。
北口および南口の駅前ロータリー近傍、千葉大学西千葉キャンパス近傍、南口ロータリーから京成電鉄みどり台駅方面に抜ける商店街には学生向けの[[アパート]]、[[レストラン]]、[[居酒屋]]、[[商店]]などが多く、典型的な[[学生街]]を形成している<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。
== 歴史 ==
* [[1942年]]([[昭和]]17年)[[10月1日]]:[[日本国有鉄道|国有鉄道]]の駅として開業<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。旅客のみ取扱い。
** 開業当初は南北に改札口のある相対式ホームを有し、ホームの間に中線がある2面3線式の配置をしていた。その後、線路の高架化に伴い、1面2線の島式ホームとなった。
* [[1986年]](昭和61年)[[3月20日]]:国鉄が[[みどりの窓口]]を開設<ref>{{Cite news |title=総武線4駅に「みどりの窓口」新設 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1986-03-20 |page=1 }}</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref>{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線 |page=19 |date=2010-01-17}}</ref>。
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[7月3日]]:自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。
* [[1999年]](平成11年)1月:エスカレーターを1基新設<ref>{{Cite news |title=エスカレーター普及へ JR千葉支社、5駅に新設 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-09-30 |page=1 }}</ref>
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-24|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2005年]](平成17年)4月1日:西千葉駅長を廃止、千葉駅長管理下となる。
* [[2013年]](平成25年)[[2月6日]]:この日をもって[[みどりの窓口]]が営業を終了。
* [[2014年]](平成26年)[[12月20日]]:業務委託化<ref>{{Cite web|和書|url=https://doro-chiba.org/nikkan/%e9%a7%85%e6%a5%ad%e5%8b%99%e5%a4%96%e6%b3%a8%e5%8c%96%e3%82%92%e8%a8%b1%e3%81%95%e3%81%aa%e3%81%84%ef%bc%81%e4%bb%8a%e5%be%8c10%e5%b9%b4%e3%81%a7400%e5%90%8d%e3%81%8c%e9%80%80%e8%81%b7%ef%bc%8d/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200508213806/https://doro-chiba.org/nikkan/%e9%a7%85%e6%a5%ad%e5%8b%99%e5%a4%96%e6%b3%a8%e5%8c%96%e3%82%92%e8%a8%b1%e3%81%95%e3%81%aa%e3%81%84%ef%bc%81%e4%bb%8a%e5%be%8c10%e5%b9%b4%e3%81%a7400%e5%90%8d%e3%81%8c%e9%80%80%e8%81%b7%ef%bc%8d/|title=駅業務外注化を許さない!今後10年で400名が退職-必要なのは、定年延長だ!|language=日本語|archivedate=2020-05-08|accessdate=2020-05-08|publisher=国鉄千葉動力車労働組合|date=2014-11-16}}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)[[2月25日]]:早朝無人化<ref name="eki-muzinka" />。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[4月6日]]:駅ビル「[[ペリエ (駅ビル)|ペリエ西千葉]]」がリニューアル<ref name="press/20200405">{{Cite press release|和書|url=https://www.perie.co.jp/files/upload/1585913173068693000.pdf|title=2020年4月6日(月)午前 10:00 ペリエ西千葉リニューアルオープン|format=PDF|publisher=千葉ステーションビル|date=2020-04-05|accessdate=2020-06-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200607043621/https://www.perie.co.jp/files/upload/1585913173068693000.pdf|archivedate=2020-06-07}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|当初は2020年4月3日のリニューアルが予定されていた<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.perie.co.jp/files/upload/1583815857021792400.pdf|title=生活を応援する8ショップが装いも新たにお目見え 2020年4月3日(金)午前 10:00 ペリエ西千葉リニューアルオープン|format=PDF|publisher=千葉ステーションビル|date=2020-03-10|accessdate=2020-06-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200607043605/https://www.perie.co.jp/files/upload/1583815857021792400.pdf|archivedate=2020-06-07}}</ref>が、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の感染拡大の影響により、延期された<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.perie.co.jp/files/upload/1585625571052930600.pdf|title=ペリエ西千葉リニューアルオープン延期のお知らせ|format=PDF|publisher=千葉ステーションビル|date=2020-03-31|accessdate=2020-06-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200607043558/https://www.perie.co.jp/files/upload/1585625571052930600.pdf|archivedate=2020-06-07}}</ref><ref name="press/20200405" />。}}。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[高架駅]]であるが、駅周辺は高架橋の高さが低く、コンコース階は半地下構造となっている。コンコース階には駅施設のほか、駅ビル「ペリエ西千葉」(2007年12月まで「めりーな西千葉」)がある。
[[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している[[千葉駅]]管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]。[[Suica]]対応[[自動改札機]]、指定席券売機、短距離[[自動券売機]]が設置されている。[[みどりの窓口]]は、[[2013年]][[2月6日]]限りで閉鎖された。[[2017年]][[2月25日]]より、始発から午前6時50分までの間は遠隔対応(インターホン対応は[[稲毛駅]]が行う)のため改札係員は不在となり、一部の自動券売機のみ稼働する<ref name="eki-muzinka">{{Cite web|和書|url=https://doro-chiba.org/nikkan/jr%E5%8D%83%E8%91%89%E6%94%AF%E7%A4%BE%E2%80%95%EF%BC%93%E6%9C%88%E3%83%80%E3%82%A4%E6%94%B9%E3%81%AE%E5%8A%B4%E5%83%8D%E6%9D%A1%E4%BB%B6%E3%82%92%E6%8F%90%E6%A1%88-%E5%86%85%E6%88%BF%E7%B7%9A/|title=JR千葉支社-3月ダイ改の労働条件を提案 内房線ー君津系統分離による列車削減=地域切り捨てを絶対許すな!|accessdate=2018-06-13|publisher=[[国鉄千葉動力車労働組合]]|archiveurl=https://archive.li/Jmj9X|archivedate=2018-06-13}}</ref>。
かつては西千葉駅~稲毛駅間に[[房総半島|房総]]ローカル用の[[気動車]]の[[車両基地]]であった[[千葉気動車区]]が存在していた。跡地は現在は西千葉公園となっている。地上時代の当駅中線にはホームがなく気動車区に出入りする車両が使用していた。
=== のりば ===
<!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠-->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車)
|style="text-align:center"|西行
|[[西船橋駅|西船橋]]・[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[新宿駅|新宿]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|東行
|[[千葉駅|千葉]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1163.html JR東日本:駅構内図])
なお、当駅から見える[[横須賀・総武快速線|総武快速線]]の線路は、隣の千葉駅構内に含まれている<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。当駅は、総武快速線千葉駅の西端となる<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。
<gallery>
JR Sobu-Main-Line Nishi-Chiba Station Gates.jpg|改札口(2019年12月)
JR Sobu-Main-Line Nishi-Chiba Station Platform.jpg|ホーム(2019年12月)
</gallery>
=== 駅舎内の施設(駅ナカ・駅ビル) ===
[[駅ナカ]]商業施設として「ペリエ西千葉」があり、本館、ANNEX館からなる約25店舗の[[専門店]]を有する<ref>{{Cite web|和書|title=フロアガイド|ペリエ西千葉|url=https://www.perie.co.jp/nishichiba/floorguide/|website=「ペリエ西千葉」公式サイト|accessdate=2019-03-28|language=ja}}</ref>。
* 白洋舍・カットコモ・リラックスサロン ラクー
* [[NewDays]]
* [[キヨスク|NewDays KIOSK]]
* [[指定席券売機]]
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''19,406人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。
近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref><ref group="統計">[https://www.city.chiba.jp/shisei/gyokaku/toke/toke/index.html 千葉市統計書] - 千葉市</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|31,609
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03.html#11 千葉県統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|31,830
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04.html#11 千葉県統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|32,009
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05.html#11 千葉県統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|31,655
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06.html#11 千葉県統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|31,352
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07.html#11 千葉県統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|30,796
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08.html#11 千葉県統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|30,031
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09.html#11 千葉県統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|28,669
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10.html#11 千葉県統計年鑑(平成10年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|27,436
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11.html#11 千葉県統計年鑑(平成11年)]</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|26,412
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>25,628
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>24,670
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>24,769
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>25,137
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>25,119
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>24,736
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18.html#11 千葉県統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>24,523
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19.html#11 千葉県統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>24,393
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20.html#11 千葉県統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>24,498
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>24,148
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>23,838
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>23,207
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_01.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>23,136
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_01.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>23,396
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h26/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_01.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>22,693
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h27/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_01.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>22,941
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h28/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_01.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>22,721
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h29/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_01.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>22,533
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h30/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_01.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>22,385
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/index.html#a11 千葉県統計年鑑(令和元年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_01.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>22,000
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html#unyutuusin 千葉県統計年鑑(令和2年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_01.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>15,441
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>17,991
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>19,406
|
|}
== 駅周辺 ==
'''南口方面(京成千葉線側)'''
[[ファイル:Chiba Kogyo Bank, headquarters.jpg|thumb|[[千葉興業銀行]] 本店]]
{{See also|みどり台駅#駅周辺|西登戸駅#駅周辺}}
* [[みどり台駅]]・[[西登戸駅]](徒歩約6分程度)
* [[千葉市立緑町中学校]]
* [[千葉市立緑町小学校]]
* [[海上保安庁]]千葉[[LORAN|ロラン]]センター
* [[西友]] 西千葉店<ref name="murayma-young-manager-1972">村山元英 『地域環境経営論 青年経営者の指導力理論』 [[白桃書房]]、年。</ref>
* [[カスミ|カスミフードスクエア]] 千葉みなと店
* [[千葉興業銀行]] 本店
'''北口方面(千葉大学側)'''
{{See also|作草部駅#駅周辺}}
[[ファイル:Chiba University, Keyaki Hall.jpg|thumb|[[千葉大学]]西千葉キャンパス(けやき会館)]]
[[ファイル:ChibaKeizaiUniversity.jpg|thumb|[[千葉経済大学]]]]
* [[作草部駅]](徒歩約15分程度)
* [[自衛隊]]千葉地方協力本部
* [[千葉大学]]西千葉キャンパス<ref name="sobu-line-120-2014-2" />
** [[千葉大学教育学部附属中学校]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" />
** [[千葉大学教育学部附属小学校]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" />
** [[千葉大学教育学部附属幼稚園]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" />
* [[敬愛大学]][[経済学部]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" />
* [[千葉経済大学]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" />
* [[千葉経済大学短期大学部]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" />
* [[千葉県立千葉東高等学校]]
* [[千葉県立千葉商業高等学校]]
* [[千葉経済大学附属高等学校]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" />
* [[千葉市立弥生小学校]]
* [[ペリエ (駅ビル)|ペリエ]] 西千葉
* ハヤブサハラールマーケット
* 西千葉稲荷大明神(北口ロータリーすぐ右手)江戸時代の旧[[佐倉藩]]の[[刑場]]跡とされている。
== バス路線 ==
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
北口[[ロータリー交差点|ロータリー]]から、[[路線バス]]が発着している。以下の路線が乗り入れ、[[千葉内陸バス]]、[[ちばシティバス]]により運行されている。
かつては京成バス(当時は[[京成電鉄]]直営)が運行されていたが、千葉内陸バスとちばシティバスへ移管されたほか、一部路線は廃止となっている。
2019年10月31日までは、南口ロータリーから[[あすか交通]]による幸町中央行きが平日朝のみ運行されていた。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!乗り場!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!1
|style="text-align:center;"|千葉内陸バス
|[[千葉内陸バス#みつわ台車庫担当|'''C60'''・'''C61''']]:[[千葉駅]]東口<br />'''C62''':千葉駅北口<br />'''N01''':[[千葉市動物公園]]
|「C62」は土休日1本のみ<br />「N01」は土休日のみ
|-
!2
|style="text-align:center;"|ちばシティバス
|[[ちばシティバス#千草台団地線|'''西千01''']]:千草台団地<br />'''稲西01''':稲毛駅
|
|-
!3
|style="text-align:center;"|千葉内陸バス
|'''西千11''':山王町<br />'''西千13''':みつわ台車庫<br />'''西千14''':ポリテクセンター千葉
|
|-
!4
|style="text-align:center;"|ちばシティバス
|'''西千21''':千葉駅北口<br />[[ちばシティバス#轟町循環線|'''西千51''']]:轟町循環(午前回り)<br />'''西千52''':轟町循環(午後回り)<br />'''西千53''':千葉経済大学
|
|}
== その他 ==
軍事技術の研究を主体とした[[東京帝国大学第二工学部]]の開設に合わせて開業<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。東京大学第二工学部は、第二次世界大戦後に[[東京大学生産技術研究所]]となった<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。
東京大学第二工学部の敷地は、先述の東京大学生産技術研究所千葉実験所及び[[千葉大学]]西千葉キャンパスとなったが<ref name="sobu-line-120-2014-2" />、2017年(平成29年)に東京大学生産技術研究所千葉実験所は[[柏市]]にある[[東京大学柏地区キャンパス|柏キャンパス]]に移転した。
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車)
:: [[稲毛駅]] (JB 37) - '''西千葉駅 (JB 38)''' - [[千葉駅]] (JB 39)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====
{{Reflist}}
===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 =====
{{Reflist|group="広報"}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="統計"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
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; 千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Nishi-Chiba Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1163|name=西千葉}}
{{中央・総武緩行線}}
{{DEFAULTSORT:にしちは}}
[[Category:千葉市中央区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 に|しちは]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:中央・総武緩行線]]
[[Category:1942年開業の鉄道駅]]
[[Category:千葉県の駅ビル]]
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13,179 |
新検見川駅
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新検見川駅(しんけみがわえき)は、千葉県千葉市花見川区南花園二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の駅である。運行系統としては緩行線を走行する総武緩行線が停車する。駅番号はJB 36。
幕張本郷 - 千葉間は京成千葉線とほぼ併走している。併走区間で唯一京成より後に開業した。そのため、検見川という駅名は使えず、前に『新』を付けて、新検見川とした。京成千葉線の検見川駅は徒歩圏内に位置している。
沿線住民からは「シンケミ」の愛称で親しまれており、付近には飲み屋などの飲食店の他、緑地や公園も多数存在する。また、駅全体が花園台地の中に位置しており、1駅隣の幕張駅とは高低差がある。JR東日本の駅において、千葉市花見川区役所の最寄り駅である。
複々線上の緩行線上に設けられた島式ホーム1面2線を有する地上駅で、橋上駅舎を有している。JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している千葉営業統括センター(稲毛駅)管理の業務委託駅。駅舎への出入口は線路を挟んで両側にある。
Suica対応自動改札機、指定席券売機、乗車駅証明書発行機(稼働時間:始発 - 6時30分)設置駅。
2009年3月にエレベーターが完成。それに伴い北口の階段が全面改修された。さらに同年11月16日から2010年3月中旬まで駅舎内の改良工事を行っている。これに伴い2009年11月28日から改札口が移動したが、2010年2月20日に元の位置に戻り、若干拡張された。同日、駅舎内は左側通行に変更され、それに伴いエスカレーターの進行方向も変更している。
2017年2月25日より、始発から午前6時30分までの間は遠隔対応(インターホン対応は稲毛駅が行う)、一部の自動券売機のみ稼働する。
(出典:JR東日本:駅構内図)
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は19,677人である。
開業後の年度別1日平均乗車人員の推移は以下の通り。
※JR京葉線︎ ︎ ︎検見川浜駅は、3km近く離れている。
北口は駅からやや離れた場所に、南口は駅前のロータリーにバス停留所が設置されている。
京成バスが運行する路線バスが発着する。
平和交通が運行する路線バスが発着する。
京成バス・千葉海浜交通・平和交通が運行する路線バスが発着する。
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新検見川駅(しんけみがわえき)は、千葉県千葉市花見川区南花園二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の駅である。運行系統としては緩行線を走行する総武緩行線が停車する。駅番号はJB 36。
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{{Otheruses||近隣の[[京成電鉄]]の駅|検見川駅||}}{{駅情報
|社色 = green
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|駅名 = 新検見川駅
|画像 = Shin-Kemigawa Station west-20130917.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 西口(2013年9月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = しんけみがわ
|ローマ字 = Shin-Kemigawa
|電報略号 = ケミ
|駅番号 = {{駅番号r|JB|36|#ffd400|1}}
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
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|座標 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|39|6.5|N|140|4|23|E|region:JP-12_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日 = [[1951年]]([[昭和]]26年)[[7月15日]]<ref name="sobu-line-120-2014-2">三好好三『総武線120年の軌跡』[[JTBパブリッシング]]、2014年2月。ISBN 978-4533096310</ref>
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
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|所属路線 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]<br />(線路名称上は[[総武本線]])
|前の駅 = JB 35 [[幕張駅|幕張]]
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[[ファイル:JR Sobu-Main-Line Shin-Kemigawa Station North Exit.jpg|thumb|北口(2019年12月)]]
[[ファイル:JR Shin-Kemigawa Station south exit 20131202-2.jpg|thumb|南口(2013年12月)]]
'''新検見川駅'''(しんけみがわえき)は、[[千葉県]][[千葉市]][[花見川区]]南花園二丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[総武本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[運行系統]]としては[[各駅停車|緩行線]]を走行する[[中央・総武緩行線|総武緩行線]]が停車する。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JB 36'''。
== 歴史 ==
* [[1951年]]([[昭和]]26年)[[7月15日]]:[[日本国有鉄道]]の駅として開業<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。旅客のみの扱い。
*:開業当時は1番ホーム(中野、三鷹行き)、2番ホーム(千葉行き)の[[相対式ホーム]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。駅舎は1番ホームと隣接して南側に存在し、2番ホームとは[[跨線橋]]で結ばれていた。
* [[1978年]](昭和53年)6月16日:新駅舎完成<ref>手塚博礼『花園地区のうつりかわり』千葉市花園地区社会教育振興会、1980年(文献にページ番号の記載なし)</ref>。駅舎が[[橋上駅|橋上駅舎]]となり、ホームは[[島式ホーム|島式]]となった。また、北・南・西口が作られた。
* [[1986年]](昭和61年) [[3月20日]]:[[みどりの窓口]]を開設<ref>{{Cite news |title=総武線4駅に「みどりの窓口」新設 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1986-03-20 |page=1 }}</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref>{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線 |page=19 |date=2010-01-17}}</ref>。
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[5月29日]]:自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-24|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2009年]](平成21年)
** [[3月15日]]:改札内[[エレベーター]]使用開始。
** [[3月27日]]:南口・北口エレベーター使用開始。
* [[2017年]](平成29年)
** [[2月25日]]:早朝無人化<ref name="eki-muzinka" />。
** [[2月28日]]:この日をもって[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref name="eki-muzinka" />。
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[7月1日]]:業務委託化<ref name="2019-04-30">{{Cite web|和書|url=http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5cca8e7df1c059191ec0bba0.pdf|title=営業施策について提案される!|format=PDF|publisher=JR東労組千葉地方本部|date=2019-04-30|accessdate=2020-01-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200127150454/http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5cca8e7df1c059191ec0bba0.pdf|archivedate=2020-01-27}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[11月9日]]:駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」のテレワークブース「STATION BOOTH」が開設<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/20211108_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211108050819/https://www.jreast.co.jp/press/2021/20211108_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=STATION WORKは全国300カ所超のネットワークへ 〜エキナカからマチナカへの展開により、多様な働き方を実現します〜|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-11-08|accessdate=2021-11-08|archivedate=2021-11-08}}</ref>。
=== 駅名の由来 ===
[[幕張本郷駅|幕張本郷]] - [[千葉駅|千葉]]間は[[京成千葉線]]とほぼ併走している。併走区間で唯一京成より後に開業した。そのため、検見川という駅名は使えず、前に『'''新'''』を付けて、新検見川とした。京成千葉線の'''[[検見川駅]]'''は徒歩圏内に位置している<ref group="注釈" name="renraku">連絡定期券は発売していない。</ref>。
=== 周辺地域 ===
沿線住民からは「シンケミ」の愛称で親しまれており、付近には飲み屋などの飲食店の他、緑地や公園も多数存在する。また、駅全体が[[花園台地]]の中に位置しており、1駅隣の幕張駅とは高低差がある。[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の駅において、[[千葉市]][[花見川区]]役所の最寄り駅である。{{-}}
== 駅構造 ==
[[複々線]]上の緩行線上に設けられた島式ホーム1面2線を有する[[地上駅]]で、橋上駅舎を有している。[[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している[[千葉駅|千葉]]営業統括センター([[稲毛駅]])管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="2019-04-30"/>。駅舎への出入口は線路を挟んで両側にある。
[[Suica]]対応[[自動改札機]]、指定席券売機、乗車駅証明書発行機(稼働時間:始発 - 6時30分)設置駅。
[[2009年]][[3月]]に[[エレベーター]]が完成。それに伴い北口の[[階段]]が全面改修された。さらに同年[[11月16日]]から[[2010年]]3月中旬まで駅舎内の改良工事を行っている。これに伴い2009年[[11月28日]]から[[改札]]口が移動したが、[[2010年]][[2月20日]]に元の位置に戻り、若干拡張された。同日、駅舎内は左側通行に変更され、それに伴いエスカレーターの進行方向も変更している。
[[2017年]][[2月25日]]より、始発から午前6時30分までの間は遠隔対応(インターホン対応は[[稲毛駅]]が行う)、一部の自動券売機のみ稼働する<ref name="eki-muzinka">{{Cite web|和書|url=https://doro-chiba.org/nikkan/jr%E5%8D%83%E8%91%89%E6%94%AF%E7%A4%BE%E2%80%95%EF%BC%93%E6%9C%88%E3%83%80%E3%82%A4%E6%94%B9%E3%81%AE%E5%8A%B4%E5%83%8D%E6%9D%A1%E4%BB%B6%E3%82%92%E6%8F%90%E6%A1%88-%E5%86%85%E6%88%BF%E7%B7%9A/|title=3月ダイヤ改正を提案|accessdate=2018-06-13|publisher=JR千葉支社|archiveurl=https://archive.li/Jmj9X|archivedate=2018-06-13}}</ref>。
=== のりば ===
<!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠-->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車)
|style="text-align:center"|西行
|[[西船橋駅|西船橋]]・[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[新宿駅|新宿]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|東行
|[[稲毛駅|稲毛]]・[[千葉駅|千葉]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/861.html JR東日本:駅構内図])
<gallery>
JR Shin-Kemigawa Station south exit 20131202-1.jpg|南口駅前ロータリー(2013年12月)
JR Sobu-Main-Line Shin-Kemigawa Station Gates.jpg|改札口(2019年12月)
JR Sobu-Main-Line Shin-Kemigawa Station Platform.jpg|ホーム(2019年12月)
</gallery>
=== 駅舎内の施設 ===
* [[NewDays]]<ref group="注釈">駅舎改良工事に伴いリニューアル</ref>
* [[ポッカクリエイト|CAFÉ de CRIÉ]]
*[[VIEW ALTTE]]
*[[千葉銀行]]・[[千葉興業銀行]]・[[みずほ銀行]]・[[三井住友銀行]][[現金自動預け払い機|ATM]]
* [[指定席券売機]]
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''19,677人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。
開業後の年度別<ref group="注釈" name="nendo">1951年(昭和26年)・1956年(昭和31年)・1957年(昭和32年)は1 - 12月までの暦年で集計。</ref>1日平均'''乗車'''人員の推移は以下の通り。
=== 年度別1日平均乗車人員(1951年 - 2000年) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別<ref group="注釈" name="nendo" />1日平均乗車人員<ref group="統計" name="Statistic">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1951年(昭和26年)
|<ref group="備考">1951年7月15日開業。開業日から同年12月31日までの計170日間を集計したデータ。</ref>1,992
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s27/index.html#13 昭和27年]</ref>
|-
|1952年(昭和27年)
|2,645
|<ref group="千葉県統計">『千葉市勢要覧 昭和28年版』199頁</ref>
|-
|1953年(昭和28年)
|3,059
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s29-2/index.html#13 昭和29年]</ref>
|-
|1954年(昭和29年)
|3,142
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s30/index.html#13 昭和30年]</ref>
|-
|1955年(昭和30年)
|3,414
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s31/index.html#13 昭和31年]</ref>
|-
|1956年(昭和31年)
|3,795
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s32/index.html#13 昭和32年]</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|3,939
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s33/index.html#13 昭和33年]</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|4,209
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s34/index.html#13 昭和34年]</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|4,918
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s35/index.html#13 昭和35年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|5,675
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s36/index.html#13 昭和36年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|6,217
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s37/index.html#13 昭和37年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|7,023
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s38/index.html#13 昭和38年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|8,092
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s39/index.html#13 昭和39年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|8,947
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s40/index.html#13 昭和40年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|9,561
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s41/index.html#13 昭和41年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|10,469
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s42/index.html#13 昭和42年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|11,039
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s43/index.html#13 昭和43年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|11,732
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s44/index.html#13 昭和44年]</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|11,878
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s45/index.html#13 昭和45年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|12,811
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s46/index.html#13 昭和46年]</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|13,371
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s47/index.html#13 昭和47年]</ref>
|-
|1972年(昭和47年)
|14,913
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s48/index.html#13 昭和48年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|19,387
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s49/index.html#13 昭和49年]</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|22,673
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s50/index.html#13 昭和50年]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|26,683
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s51/index.html#13 昭和51年]</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|29,684
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s52/index.html#13 昭和52年]</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|30,354
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s53/index.html#13 昭和53年]</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|32,049
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s54/index.html#13 昭和54年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|34,686
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s55/index.html#13 昭和55年]</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|36,192
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s56/index.html#13 昭和56年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|36,525
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s57/index.html#13 昭和57年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|36,174
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s58/index.html#13 昭和58年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|35,519
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s59/index.html#13 昭和59年]</ref>
|-
|-
|1984年(昭和59年)
|36,688
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s60/index.html#13 昭和60年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|36,574
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s61/index.html#11 昭和61年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|31,086
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s62/index.html#11 昭和62年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|30,065
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s63/index.html#11 昭和63年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|30,711
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h1/index.html#11 平成元年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|30,830
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h02/index.html#11 平成2年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|29,887
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03.html#11 平成3年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|29,545
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04.html#11 平成4年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|29,282
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05.html#11 平成5年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|29,196
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06.html#11 平成6年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|28,527
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07.html#11 平成7年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|28,085
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08.html#11 平成8年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|27,751
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09.html#11 平成9年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|26,829
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10.html#11 平成10年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|26,352
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11.html#11 平成11年]</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|25,971
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 平成12年]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>25,695
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 平成13年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="Statistic" /><ref group="統計">[https://www.city.chiba.jp/shisei/gyokaku/toke/toke/index.html 千葉市統計書] - 千葉市</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>25,560
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 平成14年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>25,201
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 平成15年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>24,987
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 平成16年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>24,594
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 平成17年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>24,143
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18.html#11 平成18年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>24,061
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19.html#11 平成19年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>23,852
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20.html#11 平成20年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>23,800
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 平成21年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>23,337
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 平成22年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>23,101
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/index.html#a11 平成23年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>22,873
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html#a11 平成24年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_01.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>22,894
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/index.html#a11 平成25年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_01.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>23,467
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h26/index.html#a11 平成26年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_01.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>23,084
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h27/index.html#a11 平成27年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_01.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>23,208
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h28/index.html#a11 平成28年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_01.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>23,005
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h29/index.html#a11 平成29年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_01.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>22,940
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h30/index.html#a11 平成30年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_01.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>23,046
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/index.html#a11 令和元年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_01.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>22,703
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html#unyutuusin 令和2年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_01.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>17,876
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>18,578
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>19,677
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
=== 南口 ===
[[ファイル:KemigawaJinja.jpg|thumb|[[検見川神社]]]]
* [[京成電鉄]][[京成千葉線|千葉線]] [[検見川駅]] - 徒歩約5分程度
* [[東関東自動車道]]
* [[国道14号]]
* [[国道357号]]
* [[千葉西警察署]] 新検見川駅前交番
* 千葉検見川郵便局
* [[検見川送信所]]
* 検見川無線グラウンド
* [[西友]] 新検見川店
* [[検見川神社]]
* 千葉市新検見川公園
※JR京葉線︎ ︎ ︎[[検見川浜駅]]は、3km近く離れている。
=== 北口 ===
[[ファイル:TokyoDaigakuKemigawaSougoUndojo20110809.jpg|thumb|[[東京大学検見川総合運動場]]]]
* 千葉花園郵便局
* [[千葉市立花園中学校]]
* [[千葉市立花園小学校]]
* [[東京大学大学院薬学系研究科・薬学部|東京大学大学院薬学系研究科]]附属薬用植物園
* [[東京大学検見川総合運動場]]
* さつきが丘団地
* 西小中台団地
* [[千葉薬品|ヤックスドラッグ]] 新検見川店
* [[千葉銀行]] 新検見川支店
* [[京葉銀行]] 新検見川支店
* [[千葉興業銀行]] 検見川支店
* [[千葉信用金庫]] 花園支店
* 千葉市花園公園
== バス路線 ==
[[ファイル:Chiba Kaihin Kotsu Hino KL-HU2PPEE.JPG|thumb|南口駅前ロータリーに停車中の千葉海浜交通(2007年12月29日)]]
北口は駅からやや離れた場所に、南口は駅前の[[ロータリー交差点|ロータリー]]に[[バス停留所]]が設置されている。
=== 北口 ===
==== 新検見川駅 ====
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
[[京成バス]]が運行する路線バスが発着する。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!乗り場!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!1
|rowspan="5" style="text-align:center;"|京成バス
|[[京成バス長沼営業所#さつきが丘団地線|'''検01'''・'''検31''']]:さつきが丘団地 / 草野車庫<br />'''検01''':いきいきプラザ
|
|-
!2
|[[京成バス長沼営業所#さつきが丘団地線|'''検01'''・'''検11''']]:花見川区役所
|平日朝夕を除き南口からも発着
|-
!3
|'''検21'''・'''検23''':いきいきプラザ / 草野車庫<br />'''検22''':こてはし団地
|1日1本のみ
|-
!4
|[[京成バス習志野出張所#花見川南線|'''八千02'''・'''八千04''']]:[[八千代台駅]]<br />'''八千03''':[[千葉県立柏井高等学校|柏井高校]]
|「八千03」は平日のみ
|-
!5
|'''検11''':新検見川駅南口<br />'''検31''':[[千葉市立海浜病院|海浜病院]]<br />'''八千02'''・'''八千04''':[[海浜幕張駅]]
|「検31」は平日のみ
|}
==== ターミナル前 ====
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
[[平和交通 (千葉県)|平和交通]]が運行する路線バスが発着する。
* [[平和交通 (千葉県)#検見川線|西小中台団地]] ※南口からも発着
* 新検見川駅(西小中台団地循環) ※南口からも発着。平日夕方 - 夜間のみ
* 新検見川駅
=== 南口 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
京成バス・[[千葉海浜交通]]・平和交通が運行する路線バスが発着する。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!乗り場!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!rowspan="2"|1
|style="text-align:center;"|京成バス
|'''検11''':花見川区役所
|北口からも発着
|-
|style="text-align:center;"|千葉海浜交通
|海浜幕張駅<br />海浜病院<br />[[幕張豊砂駅]]([[イオンモール幕張新都心]])<br />[[検見川浜駅]]
|幕張豊砂駅(イオンモール幕張新都心)行は土休日のみ<br />検見川浜駅行は朝のみ
|-
!2
|style="text-align:center;"|平和交通
|新検見川駅(西小中台団地循環)<br />西小中台団地<br />にれの木台中央
|新検見川駅行は北口からも発着。平日夕方 - 夜間のみ<br />西小中台団地行は北口からも発着<br />にれの木台中央行は平日朝3本のみ
|-
!3
|rowspan="3" style="text-align:center;"|千葉海浜交通
|検見川浜駅
|
|-
!4
|[[千葉県立磯辺高等学校|磯辺高校]]<br />稲毛ヨットハーバー<br />海浜病院
|
|-
!5
|検見川浜駅
|朝は1番のりばから発車
|}
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車)
:: [[幕張駅]] (JB 35) - '''新検見川駅 (JB 36)''' - [[稲毛駅]] (JB 37)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====
{{Reflist}}
===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 =====
{{Reflist|group="広報"}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="統計"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
; 千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="千葉県統計"|17em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Shin-Kemigawa Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=861|name=新検見川}}
{{中央・総武緩行線}}
{{DEFAULTSORT:しんけみかわ}}
[[Category:千葉市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 し|んけみかわ]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:中央・総武緩行線]]
[[Category:1951年開業の鉄道駅]]
[[Category:花見川区の建築物|しんけみかわえき]]
|
2003-08-15T00:50:57Z
|
2023-11-22T22:29:29Z
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[
"Template:Cite web",
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"Template:中央・総武緩行線",
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"Template:外部リンク/JR東日本駅"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%A4%9C%E8%A6%8B%E5%B7%9D%E9%A7%85
|
13,181 |
幕張駅
|
幕張駅(まくはりえき)は、千葉県千葉市花見川区幕張町五丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の駅である。運行系統としては緩行線を走行する総武緩行線が停車する。駅番号はJB 35。
複々線上の緩行線に設けられた島式ホーム2面3線を有する地上駅。
駅舎は橋上駅舎で、出入口は線路を挟んで両側にある。以前は北口・南口ともに階段しか設置されていなかったが、現在はエレベーターが設置されている。
津田沼営業統括センター管内の直営駅で、Suica対応自動改札機・指定席券売機設置駅。
中線は、かつて本格パイプライン稼働前の成田空港にジェット燃料を暫定輸送していた貨物列車をスイッチバックさせるために設けられたものである。用途としては、毎日早朝に1本当駅始発の電車が設定されているほか、当駅折り返しの電車が設定されていたこともあり、現在も異常時には折り返し電車が設定されることがある。また、その他に両方面で1日1本ずつ中線を発着する電車が存在する。隣接する幕張車両センターに入庫する車両が中線に入線することもある。
(出典:JR東日本:駅構内図)
1998年11月26日より東洋メディアリンクス制作の発車メロディを使用していた(一時期、2番線のみ五感工房制作の「JR-SH2-3」を使用していた)が、2010年7月30日にスイッチ制作のメロディに変更されている。
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は14,113人であり、中央・総武線(各駅停車)の駅としては最も少ない。
JR東日本および千葉県統計年鑑によると、1日平均乗車人員の推移は以下の通り。
年度全体の乗車人員を365(閏日が入る年度は366)で除して1日平均乗車人員を求めている。
駅周辺は閑静な住宅街となっており、南へ進むと幕張新都心の文教地区の一部が1 km圏内となる。
当駅を中心とする以下、概ね半径1.2キロメートル(km)程度範囲内周辺の一般国道・都道府県道・駅連絡道。
かつては駅前が狭くロータリーがなかったため、バス停留所は駅周辺にある状態であった。しかし、北口から徒歩3分の場所に暫定駅前広場が完成し、2018年5月26日からJR幕張駅バス停が移設された。それまでのJR幕張駅停留所であった東洋バス・千葉シーサイドバス本社脇のスペースは、バス待機場として使用されている。
2023年には北口前に駅前広場が完成し、同年8月1日よりバス停とタクシー乗り場が移設され、暫定駅前広場は封鎖された。
主な最寄り停留所は、JR幕張駅(北口ロータリー)、京成電鉄幕張駅付近にある京成幕張駅となる。以下の路線が乗り入れ、千葉シーサイドバス、京成バスにより運行されている。また、駅から南にやや離れた幕張駅入口停留所には、平和交通の運行する路線が乗り入れている。
駅北口にて、千葉シーサイドバスが運行する路線バスが発着する。
京成バス新都心営業所が運行する路線バスが発着する。
平和交通が運行する路線バスが発着する。
当駅と隣の幕張本郷駅との間、幕張車両センターの東側には、東京駅 - 千葉駅間(および錦糸町駅 - 御茶ノ水駅間や中央本線(御茶ノ水駅 - 三鷹駅)区間を含めた中央・総武緩行線)で唯一の踏切である「花立踏切」がある。通過する列車が大変多く「開かずの踏切」となっているため、踏切の立体交差化が計画されている。
花立踏切から幕張駅寄りに存在した第2木下街道踏切は、2004年7月の通称「幕張昆陽地下道」の開通に伴い廃止された。唯一残った花立踏切でも千葉市による立体交差化事業が進められているが、2006年に東京都内の同様工事で発生した隆起事故の対策のために建設費の見込みが当初計画の1.5倍に増大したことや、先述した幕張昆陽地下道の開通と千葉市道幕張223号線沿いの商店街の衰退により交通量が減少したことにより、2011年に工事が中断され、当初の工事計画が見直された。当初は2016年度からの再開を予定していたが、隆起事故防止のため機械掘削を人力掘削に変更したことや人件費高騰などにより建設費の見込みは当初計画の2倍以上に達した。2017年度末、千葉市は、費用対効果が低く便益を伴わない事業は行わないべきであるとして、事業自体の中断を決定した。これに対して地元自治会からは不満の声が上がったほか、千葉市は鉄道事業者から踏切の安全対策として別に30億円の負担を要求されることとなった。千葉市では現在計画中の「都市計画道路幕張本郷松波線」の整備事業の方が本事業より費用対効果が良く、なおかつ時間が経てば建設技術の進展による本事業の建設費節減も期待できるとして、幕張本郷松波線の建設を先行させる予定だが、当該路線についても通過する途中地点で計画されている「東幕張土地区画整理事業」の花立踏切の周辺を含む美浜長作町線以西における事業開始の目途が立っていないため、予定までに完成するかは不透明となっている。花立踏切については、2022年度以降に改めて再開の検討をすることとなった。事業の長期化が見込まれるため、花立踏切から約250m東方にある「北寺口跨線人道橋」にエレベーターを新設し、事業終了までの代替とする予定である。
幕張駅北口の土地区画整理(「東幕張土地区画整理事業」 事業主体:千葉市都市局都市部東幕張土地区画整理事務所)に伴い、現在用地買収および土木・建築工事を進めている。
施行者の千葉市の都市計画によれば、施行期間は平成8年度 - 平成42年度(令和12年度)、施行面積26.1 ha、駅北口に駅前広場を新設し、駅前に接続する新たな都市計画道路(幕張町武石町線)や、もう一つの都市計画道路(幕張本郷松波線)他の区画道路、公園などを建設する予定である。
施行地区の区域は、千葉市花見川区幕張町4・5・6丁目、武石町1丁目及び同2丁目の各一部である。
|
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"text": "幕張駅(まくはりえき)は、千葉県千葉市花見川区幕張町五丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の駅である。運行系統としては緩行線を走行する総武緩行線が停車する。駅番号はJB 35。",
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"text": "複々線上の緩行線に設けられた島式ホーム2面3線を有する地上駅。",
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"text": "駅舎は橋上駅舎で、出入口は線路を挟んで両側にある。以前は北口・南口ともに階段しか設置されていなかったが、現在はエレベーターが設置されている。",
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"text": "津田沼営業統括センター管内の直営駅で、Suica対応自動改札機・指定席券売機設置駅。",
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"text": "中線は、かつて本格パイプライン稼働前の成田空港にジェット燃料を暫定輸送していた貨物列車をスイッチバックさせるために設けられたものである。用途としては、毎日早朝に1本当駅始発の電車が設定されているほか、当駅折り返しの電車が設定されていたこともあり、現在も異常時には折り返し電車が設定されることがある。また、その他に両方面で1日1本ずつ中線を発着する電車が存在する。隣接する幕張車両センターに入庫する車両が中線に入線することもある。",
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幕張駅(まくはりえき)は、千葉県千葉市花見川区幕張町五丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の駅である。運行系統としては緩行線を走行する総武緩行線が停車する。駅番号はJB 35。
|
{{Otheruses|東日本旅客鉄道(JR東日本)総武線の駅|近接する京成千葉線の駅|京成幕張駅}}
{{混同|海浜幕張駅|x1=[[幕張新都心]]に所在するJR京葉線の}}
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = 幕張駅
|画像 = JR Sobu-Main-Line Makuhari Station South Exit.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 南口(2019年12月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = まくはり
|ローマ字 = Makuhari
|電報略号 = マリ
|駅番号 = {{駅番号r|JB|35|#ffd400|1}}
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所在地 = [[千葉市]][[花見川区]][[幕張|幕張町]]五丁目121
|座標 = {{coord|35|39|34|N|140|3|28.5|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日 = [[1894年]]([[明治]]27年)[[12月9日]]<ref name="sone26">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線 |pages=16-19 |date=2010-01-17}}</ref>
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 2面3線
|乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />14,113
|統計年度 = 2022年
|所属路線 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]<br />(線路名称上は[[総武本線]])
|前の駅 = JB 34 [[幕張本郷駅#JR東日本(幕張本郷駅)|幕張本郷]]
|駅間A = 2.0
|駅間B = 1.6
|次の駅 = [[新検見川駅|新検見川]] JB 36
|キロ程 = 31.6 km([[東京駅|東京]]起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から7.6
|起点駅 =
|備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]
}}
[[ファイル:JR Sobu-Main-Line Makuhari Station North Exit.jpg|thumb|250px|北口(2019年12月)]]
{{maplink2|frame=yes|zoom=16|frame-width=250
|type=point|type2=point
|marker=rail|marker2=rail
|coord={{coord|35|39|34|N|140|3|28.5|E}}|marker-color=ffd400|title=幕張駅
|coord2={{coord|35|39|39.47|N|140|3|20.35|E}}|marker-color2=005aaa|title2=京成幕張駅
|frame-latitude=35.660055|frame-longitude=140.056660|text=当駅(右下)と京成幕張駅(左上)の位置関係}}
'''幕張駅'''(まくはりえき)は、[[千葉県]][[千葉市]][[花見川区]][[幕張|幕張町]]五丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[総武本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[運行系統]]としては[[各駅停車|緩行線]]を走行する[[中央・総武緩行線|総武緩行線]]が停車する。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JB 35'''。
== 歴史 ==
* [[1894年]]([[明治]]27年)[[12月9日]]:[[総武鉄道 (初代)|総武鉄道]]の駅として開業<ref name="sone26"/>。旅客・貨物の取り扱いを開始。
* [[1907年]](明治40年)[[9月1日]]:[[鉄道国有法]]により買収され、[[帝国鉄道庁]]の駅となる<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|year=1998|isbn=978-4-533-02980-6|page=605}}</ref>。
* [[1969年]]([[昭和]]44年)[[10月1日]]:配達の取り扱いを廃止{{R|停車場}}。
* [[1973年]](昭和48年)[[11月1日]]:貨物の取り扱いを廃止{{R|停車場}}。
* [[1978年]](昭和53年)[[7月1日]]:[[チッキ|荷物]]の取り扱いを廃止{{R|停車場}}。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref name="sone26"/>。
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[5月15日]]:自動改札機の使用を開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。
* [[1998年]](平成10年)[[11月26日]]:[[発車メロディ]]を導入。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-24|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2010年]](平成22年)[[7月30日]]:発車メロディを変更。
* [[2013年]](平成25年)[[1月31日]]:この日をもって[[みどりの窓口]]が営業を終了。
* [[2018年]](平成30年)[[4月13日]]:北口に暫定駅前広場が完成し、供用開始する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chiba.jp/hanamigawa/chiikishinko/h30_kutyoumessage/300424jrmakuharieki.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210128093257/https://www.city.chiba.jp/hanamigawa/chiikishinko/h30_kutyoumessage/300424jrmakuharieki.html|title=JR幕張駅北口暫定駅前広場の完成|date=2018-04-25|archivedate=2021-01-28|accessdate=2021-01-28|publisher=千葉市|language=日本語}}</ref><ref>{{Cite news |title=JR幕張駅北口 暫定駅前広場が利用開始 |newspaper=[[千葉日報]] |publisher=千葉日報社 |date=2018-04-14 |page=9 }}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)[[7月31日]]:JR幕張駅北口駅前広場開業記念式典<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=JR幕張駅北口駅前広場開業記念式典 |url=https://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/shigaichi/higashimakuhari/kaigyokinensiketen.html |website=千葉市 |access-date=2023-08-01 |language=ja |last=千葉市}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)[[8月1日]]:北口の暫定駅前広場が封鎖され、駅前広場が供用を開始する<ref name=":1" />。
== 駅構造 ==
[[複々線]]上の緩行線に設けられた[[島式ホーム]]2面3線を有する[[地上駅]]。
駅舎は[[橋上駅|橋上駅舎]]で、出入口は線路を挟んで両側にある。以前は北口・南口ともに[[階段]]しか設置されていなかったが、現在は[[エレベーター]]が設置されている。
[[津田沼駅|津田沼]]営業統括センター管内の[[直営駅]]で、[[Suica]]対応[[自動改札機]]・[[指定席券売機]]設置駅。
中線は、かつて本格パイプライン稼働前の[[成田国際空港|成田空港]]に[[ジェット燃料]]を暫定輸送していた貨物列車を[[スイッチバック]]させるために設けられたものである<ref name=":0">{{Cite journal|和書|year=2021|date=2021-2-20|title=証言 DD51 成田空港ジェット燃料輸送|journal=ジェイ・トレイン|issue=81|pages=37・41・44|ASIN=B08TYSB939}}</ref>。用途としては、毎日早朝に1本当駅始発の電車が設定されているほか、当駅折り返しの電車が設定されていたこともあり、現在も異常時には折り返し電車が設定されることがある。また、その他に両方面で1日1本ずつ中線を発着する電車が存在する。隣接する[[幕張車両センター]]に入庫する車両が中線に入線することもある。
=== のりば ===
<!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠-->
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1・2
| rowspan="2" |[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車)
| style="text-align:center" |西行
|[[西船橋駅|西船橋]]・[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[新宿駅|新宿]]方面
|-
!3・4
| style="text-align:center" |東行
|[[稲毛駅|稲毛]]・[[千葉駅|千葉]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1423.html JR東日本:駅構内図])
* 2・3番線は中線を共用している。暫定輸送当時は、過激派からの襲撃防止のために片方のホームにフェンスが張られていた<ref name=":0" />。
* 快速線上にはホームはないが、[[幕張車両センター]]との入出区を行っており、中線が存在するため信号設備上は[[停車場#信号上の分類|連動駅]]である。
<gallery>
JR Sobu-Main-Line Makuhari Station Gates.jpg|改札口(2019年12月)
JR Sobu-Main-Line Makuhari Station Platform.jpg|ホーム(2019年12月)
</gallery>
=== 発車メロディ ===
1998年11月26日より[[東洋メディアリンクス]]制作の発車メロディを使用していた(一時期、2番線のみ[[東洋メディアリンクス#五感工房|五感工房]]制作の「JR-SH2-3」を使用していた)が、2010年7月30日に[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作のメロディに変更されている<ref>{{Cite web|和書|title=コンテンツを探す|url=https://www.te2do.jp/cntsearch/station/detail/?line_cd=11313&station_cd=1131335&xid=|website=鉄道モバイル|accessdate=2020-04-03|language=ja|publisher=株式会社スイッチ}}</ref>。
{| border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows"
!1
| rowspan="4" |[[ファイル:JR JB line symbol.svg|15x15ピクセル]]
|ハッピーガール
|-
!2
|朝のドヴィッシー
|-
!3
|[[惑星 (組曲)#木星、快楽をもたらす者|ジュピター]]E
|-
!4
|幸福の銀レール
|}
=== 駅舎内の施設 ===
*[[NewDays]]
*[[VIEW ALTTE]]
*[[指定席券売機]]
*[[PUDOステーション]](日本国内設置第1号)
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''14,113人'''<ref group="JR" name="JR2022" />であり、中央・総武線(各駅停車)の駅としては最も少ない。
JR東日本および千葉県統計年鑑によると、1日平均'''乗車'''人員の推移は以下の通り。
=== 年度別1日平均乗車人員(1890年代 - 1930年代) ===
年度<ref group="備考" name="people">1897年・1898年・1900年・1901年・1905年・1906年については1月 - 12月の暦年</ref>全体の'''乗車'''人員を365([[閏日]]が入る年度は366)で除して1日平均'''乗車'''人員を求めている。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="Prefecture"/>
!年度!!1日平均<br />乗車人員!!出典
|-
|1897年(明治30年)
|176
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806514 明治30年]</ref>
|-
|1898年(明治31年)
|116
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806515 明治31年]</ref>
|-
|1900年(明治33年)
|118
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806516 明治33年]</ref>
|-
|1901年(明治34年)
|134
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806517 明治34年]</ref>
|-
|1905年(明治38年)
|185
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806524 明治38年]</ref>
|-
|1906年(明治39年)
|138
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806526 明治39年]</ref>
|-
|1907年(明治40年)
|173
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806528 明治40年]</ref>
|-
|1908年(明治41年)
|291
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806529 明治41年]</ref>
|-
|1909年(明治42年)
|212
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806530 明治42年]</ref>
|-
|1910年(明治43年)
|203
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806531 明治43年]</ref>
|-
|1911年(明治44年)
|215
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972760 明治44年]</ref>
|-
|1912年(大正元年)
|199
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152331 大正元年]</ref>
|-
|1913年(大正{{0}}2年)
|208
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152349 大正2年]</ref>
|-
|1914年(大正{{0}}3年)
|201
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152377 大正3年]</ref>
|-
|1915年(大正{{0}}4年)
|194
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972765 大正4年]</ref>
|-
|1916年(大正{{0}}5年)
|198
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972772 大正5年]</ref>
|-
|1917年(大正{{0}}6年)
|248
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972779 大正6年]</ref>
|-
|1918年(大正{{0}}7年)
|301
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972784 大正7年]</ref>
|-
|1919年(大正{{0}}8年)
|368
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972789 大正8年]</ref>
|-
|1920年(大正{{0}}9年)
|402
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972796 大正9年]</ref>
|-
|1921年(大正10年)
|298
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972803 大正10年]</ref>
|-
|1922年(大正11年)
|242
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|-
|1923年(大正12年)
|335
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972811 大正12年]</ref>
|-
|1924年(大正13年)
|351
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972818 大正13年]</ref>
|-
|1925年(大正14年)
|362
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/988687 大正14年]</ref>
|-
|1926年(昭和元年)
|412
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710242 昭和元年]</ref>
|-
|1927年(昭和{{0}}2年)
|436
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710307 昭和2年]</ref>
|-
|1928年(昭和{{0}}3年)
|497
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710312 昭和3年]</ref>
|-
|1929年(昭和{{0}}4年)
|546
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710317 昭和4年]</ref>
|-
|1930年(昭和{{0}}5年)
|511
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710267 昭和5年]</ref>
|-
|1931年(昭和{{0}}6年)
|478
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710285 昭和6年]</ref>
|-
|1932年(昭和{{0}}7年)
|517
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710297 昭和7年]</ref>
|-
|1933年(昭和{{0}}8年)
|596
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710302 昭和8年]</ref>
|-
|1934年(昭和{{0}}9年)
|637
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1452386 昭和9年]</ref>
|-
|1935年(昭和10年)
|736
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1452376 昭和10年]</ref>
|-
|1936年(昭和11年)
|859
|<ref group="千葉県統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1452396 昭和11年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="Prefecture" />
|-
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1953年(昭和28年)
|4,636
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s29-2/index.html#13 昭和29年]</ref>
|-
|1954年(昭和29年)
|4,839
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s30/index.html#13 昭和30年]</ref>
|-
|1955年(昭和30年)
|5,029
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s31/#13 昭和31年]</ref>
|-
|1956年(昭和31年)
|5,494
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s32/index.html#13 昭和32年]</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|5,940
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s33/index.html#13 昭和33年]</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|6,258
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s34/index.html#13 昭和34年]</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|6,689
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s35/index.html#13 昭和35年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|7,212
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s36/index.html#13 昭和36年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|7,579
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s37/index.html#13 昭和37年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|8,210
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s38/index.html#13 昭和38年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|8,909
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s39/index.html#13 昭和39年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|9,689
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s40/index.html#13 昭和40年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|10,220
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s41/index.html#13 昭和41年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|11,326
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s42/index.html#13 昭和42年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|11,902
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s43/index.html#13 昭和43年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|12,040
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s44/index.html#13 昭和44年]</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|11,066
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s45/index.html#13 昭和45年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|10,366
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s46/index.html#13 昭和46年]</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|10,203
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s47/index.html#13 昭和47年]</ref>
|-
|1972年(昭和47年)
|10,296
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s48/index.html#13 昭和48年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|12,308
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s49/index.html#13 昭和49年]</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|15,499
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s50/index.html#13 昭和50年]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|15,228
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s51/index.html#13 昭和51年]</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|16,436
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s52/index.html#13 昭和52年]</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|16,877
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s53/index.html#13 昭和53年]</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|17,392
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s54/index.html#13 昭和54年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|13,782
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s55/index.html#13 昭和55年]</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|13,328
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s56/index.html#13 昭和56年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|13,652
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s57/index.html#13 昭和57年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|13,151
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s58/index.html#13 昭和58年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|13,106
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s59/index.html#13 昭和59年]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|14,634
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s60/index.html#13 昭和60年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|15,376
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s61/index.html#11 昭和61年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|15,695
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s62/index.html#11 昭和62年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|16,435
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s63/index.html#11 昭和63年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|16,669
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h1/index.html#11 平成元年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|16,334
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h02/index.html#11 平成2年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|16,369
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03.html#11 平成3年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|16,102
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04.html#11 平成4年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|15,978
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05.html#11 平成5年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|15,945
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06.html#11 平成6年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|15,527
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07.html#11 平成7年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|15,365
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08.html#11 平成8年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|15,300
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09.html#11 平成9年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|14,778
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10.html#11 平成10年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|15,112
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11.html#11 平成11年]</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|15,275
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 平成12年]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>15,767
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 平成13年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="Prefecture">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref><ref group="統計">[https://www.city.chiba.jp/shisei/gyokaku/toke/toke/index.html 千葉市統計書] - 千葉市</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>15,804
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 平成14年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>15,632
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 平成15年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>15,459
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 平成16年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>15,105
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 平成17年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>14,990
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18.html#11 平成18年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>15,268
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19.html#11 平成19年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>15,292
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20.html#11 平成20年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>15,202
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 平成21年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>15,204
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 平成22年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>15,340
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/index.html#a11 平成23年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>15,498
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html#a11 平成24年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_02.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>15,797
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/index.html#a11 平成25年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_02.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>16,111
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h26/index.html#a11 平成26年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_02.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>15,813
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h27/index.html#a11 平成27年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_02.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>15,809
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h28/index.html#a11 平成28年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_02.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>15,730
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h29/index.html#a11 平成29年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_02.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>15,860
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h30/index.html#a11 平成30年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_02.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>16,088
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/index.html#a11 令和元年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_02.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>15,944
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html#unyutuusin 令和2年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_02.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>12,191
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_02.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>13,024
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_02.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>14,113
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
[[ファイル:The Open University of Japan.jpg|thumb|[[放送大学]]]]
[[ファイル:ChibaPrefecturalUniversityOfHealthSciences20110917.jpg|thumb|[[千葉県立保健医療大学]]]]
駅周辺は閑静な[[住宅地|住宅街]]となっており、南へ進むと[[幕張新都心]]の[[文教地区]]の一部が1 [[キロメートル|km]]圏内となる。
=== 周辺交通 ===
当駅を中心とする以下、概ね半径1.2キロメートル(km)程度範囲内周辺の[[一般国道]]・[[都道府県道]]・駅連絡道。{{Div col|1}}
*[[幕張駅北口大通り]]
*[[千葉県道262号線]]
*[[国道14号]]
*[[京葉道路]]
*[[東関東自動車道]]{{Div col end}}
=== 北口方面 ===
{{Div col|3}}
*[[千葉西税務署]]
*千葉市都市局都市部市街地整備課 東幕張土地区画整理事務所
*[[千葉市立幕張中学校]]
*[[千葉市立幕張東小学校]]
*幕張北口郵便局
*[[京葉銀行]] 幕張支店
*[[東洋バス]]・[[千葉シーサイドバス]]本社
*[[ウエルシア薬局]] 千葉武石店
*[[三代王神社]]・[[三峯神社]]
*[[愛宕山古墳]]
*[[武石インターチェンジ]]{{Div col end}}
=== 南口方面 ===
{{Div col|3}}
*[[京成幕張駅]] - 同駅改札口まで約300メートル。近接しており、JR東日本公式サイトの駅情報ページに接続交通機関として掲載されているが、連絡運輸は行っておらず、乗り換え案内もなされない。
*[[千葉県企業局]] 幕張庁舎
*[[千葉西警察署]] 幕張駅前交番
*[[千葉市消防局]] 花見川消防署幕張出張所
*千葉市幕張コミュニティセンター
*千葉市幕張公民館
*[[放送大学]]
*[[千葉県立保健医療大学]]
*[[関東鍼灸専門学校]]
*[[千葉県立幕張総合高等学校]]
*[[千葉市立幕張小学校]]
*千葉市立幕張南小学校
*幕張郵便局
*千葉健生病院・まくはり診療所
*[[イトーヨーカドー幕張店]]
*[[千葉日産自動車幕張店]]
*[[ツルハドラッグ]] 幕張店
*[[ヤマダデンキ]] 家電住まいる館YAMADA幕張店
*[[秋葉神社]]・[[昆陽神社]] - 第2木下街道踏切跡地に移築された。
*[[子守神社]]・巖島神社
*青木昆陽甘藷栽培試作地・昆陽先生甘藷試作之碑
*幕張5丁目運動広場
*千葉市幕張舟溜跡公園
{{Div col end}}
== バス路線 ==
かつては駅前が狭く[[ロータリー交差点|ロータリー]]がなかったため、[[バス停留所]]は駅周辺にある状態であった。しかし、北口から徒歩3分の場所に暫定駅前広場が完成し、[[2018年]][[5月26日]]からJR幕張駅バス停が移設された<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.toyo-bus.co.jp/wp_toyobus/wp-content/uploads/2018/05/fe65de013f87486ade90c5b76862a3bc.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210128094113/http://www.toyo-bus.co.jp/wp_toyobus/wp-content/uploads/2018/05/fe65de013f87486ade90c5b76862a3bc.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成30年5月26日より、JR幕張駅駅前暫定広場 ロータリー運用開始!!|publisher=千葉シーサイドバス|date=2018-05-14|accessdate=2021-01-28|archivedate=2021-01-28}}</ref>。それまでのJR幕張駅停留所であった東洋バス・千葉シーサイドバス本社脇のスペースは、バス待機場として使用されている。
[[2023年]]には北口前に駅前広場が完成し、同年[[8月1日]]よりバス停とタクシー乗り場が移設され、暫定駅前広場は封鎖された<ref name=":1" />。
主な最寄り停留所は、'''JR幕張駅'''(北口ロータリー)、京成電鉄幕張駅付近にある'''京成幕張駅'''となる。以下の路線が乗り入れ、[[千葉シーサイドバス]]、[[京成バス]]により運行されている。また、駅から南にやや離れた'''幕張駅入口'''停留所には、[[平和交通 (千葉県)|平和交通]]の運行する路線が乗り入れている。
=== JR幕張駅 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
駅北口にて、[[千葉シーサイドバス]]が運行する路線バスが発着する。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!停留所!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!style="text-align:center;"|1
| rowspan="3" style="text-align:center;" |千葉シーサイドバス
|[[千葉シーサイドバス#花島公園線|'''232''']]・[[千葉シーサイドバス#マリンスタジアム線|'''240''']]・[[千葉シーサイドバス#花見川区役所線|'''291''']]:[[海浜幕張駅]]<br />'''239'''・'''243'''・'''293''':幕張メッセ中央<br />'''234'''・'''241・290''':ZOZOマリンスタジアム
|
|-
!style="text-align:center;"|2
|'''232'''・'''233'''・'''234'''・'''236'''・'''239''':[[花島公園]]<br />'''229''':長作町<br />[[千葉シーサイドバス#八千代台線|'''212''']]:[[八千代台駅]]<br />[[千葉シーサイドバス#日立製作所線|'''221''']]:[[日立製作所]]<br />'''290・291'''・'''292'''・'''293''':[[花見川区|花見川区役所]]
|「212」系統・「221」系統は休日運休
|-
!3
|なし
|降車場
|}
=== 京成幕張駅 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
[[京成バス新都心営業所]]が運行する路線バスが発着する。
* [[京成バス新都心営業所#ポケットバス(新都心回遊線)|'''海51'''・'''海52''']]:[[海浜幕張駅]]
=== 幕張駅入口 ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
[[平和交通 (千葉県)|平和交通]]が運行する路線バスが発着する。
* [[平和交通_(千葉県)#稲毛・海浜幕張線|'''稲毛・海浜幕張線''']]:[[海浜幕張駅]] / [[稲毛駅]]
== その他 ==
{{maplink2|frame=yes|zoom=13|frame-width=250
|type=point|type2=point
|marker=rail|marker2=rail
|coord={{coord|35|39|34|N|140|3|28.5|E}}|marker-color=ffd400|title=幕張駅
|coord2={{coord|35|38|54|N|140|2|30.7|E}}|marker-color2=c9252f|title2=海浜幕張駅
|frame-latitude=35.651914|frame-longitude=140.050230|text=当駅(右上)と海浜幕張駅(左下)の位置関係}}
* 乗客の中には、駅名から[[幕張新都心]]、および[[美浜区]]にある幕張周辺施設の最寄り駅であると勘違いして下車するケースがみられるが、本来の最寄り駅である[[京葉線]][[海浜幕張駅]]方面へは直線距離でも約2 kmほど離れている。[[千葉シーサイドバス]]が当駅北口から[[幕張メッセ]]方面(海浜幕張駅)への[[路線バス]]を運行しているものの、曜日や時間帯によっては本数が少ないため、高頻度で運行されている隣の[[幕張本郷駅]]からの路線バス利用が主流である。このため当駅ホームの階段上り口の案内には「'''幕張メッセ・自動車運転免許センターへは、幕張本郷駅からバスをご利用になれます。'''」と表示されている。
* [[放送大学]]本部、[[幕張総合高等学校]]看護科、[[千葉県立衛生短期大学]]など一部の幕張新都心周辺施設は当駅が最寄り駅となる。
* [[2007年]][[1月5日]]より、[[京成バス]]が幕張新都心周遊バス「ポケットバス」を[[京成幕張駅]]まで延伸したため、こちらでも海浜幕張駅方面へアクセスできるが、土休日の一部を除き日中時間帯の運行はなく、本数は極端に少ない(バス路線の詳細については上記を参照)。
* 地元市議を中心に快速電車の停車が要望されている<ref>{{PDFlink|[http://www.kawamura.tv/mainpdf/katsudodata/pic/141.PDF JR総武線・幕張駅への快速電車停車を要望しました!]}} 自由民主党千葉市議会議員団 川村ひろあき活動レポート</ref>。
=== 第2木下街道踏切・花立踏切 ===
[[File:花立踏切.jpg|thumb|250px|花立踏切(2020年6月4日)]]
当駅と隣の幕張本郷駅との間、幕張車両センターの東側には、[[東京駅]] - [[千葉駅]]間(および[[錦糸町駅]] - [[御茶ノ水駅]]間や[[中央本線]](御茶ノ水駅 - [[三鷹駅]])区間を含めた中央・総武緩行線)で唯一の[[踏切]]である「花立踏切」<ref group="注釈">仮踏切に移行した後は京成線から総武快速線上りまでの花立踏切と総武快速線下りの「花立第2踏切」に分かれたため、先述した区間の踏切は2つということになる。</ref>がある。通過する列車が大変多く「[[開かずの踏切]]」となっているため、踏切の[[立体交差]]化が計画されている。
花立踏切から幕張駅寄りに存在した第2木下街道踏切<ref group="注釈">都市計画道路美浜長作町線が交差していた。</ref>は、[[2004年]][[7月]]の通称「幕張昆陽[[地下道]]」の開通に伴い廃止された。唯一残った花立踏切<ref group="注釈">千葉市道幕張215号線が交差する。</ref>でも千葉市による立体交差化事業が進められているが、[[2006年]]に東京都内の同様工事で発生した隆起事故の対策のために建設費の見込みが当初計画の1.5倍に増大したことや、先述した幕張昆陽地下道の開通と千葉市道幕張223号線沿いの商店街の衰退により交通量が減少したことにより、[[2011年]]に工事が中断され、当初の工事計画が見直された<ref name="interruption2017">{{Cite web|和書|url=https://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/chosei/documents/291121-1-policy-date2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201222145032/https://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/chosei/documents/291121-1-policy-date2.pdf|title=市道幕張215号線(花立踏切)整備事業について|archivedate=2020-12-22|accessdate=2021-01-28|publisher=千葉市|format=PDF|language=日本語}}</ref><ref name="hanatatemap2017">{{Cite web|和書|url=http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/chosei/documents/itizu2-2.pdf|format=PDF||title=幕張215号線周辺位置図|accessdate=2019-12-19|publisher=千葉市}}</ref>。当初は2016年度からの再開を予定していた<ref name="KHreport201309">{{Cite web|和書|url=http://www.kawamura.tv/mainpdf/katsudodata/pic/119.PDF|format=PDF||title=自由民主党千葉市議会議員団 川村ひろあき活動レポート|accessdate=2019-12-19|publisher=千葉市|date=2013-09-01}}</ref>が、隆起事故防止のため機械掘削を人力掘削に変更したこと<ref group="注釈">花立踏切除却工事では[[2008年]]に[[幕張車両センター]]留置線の基礎杭を切断している。</ref>や人件費高騰などにより建設費の見込みは当初計画の2倍以上に達した<ref name="interruption2017" />。2017年度末、千葉市は、費用対効果が低く便益を伴わない事業は行わないべきであるとして、事業自体の中断を決定した<ref name="strategy2017">{{Cite web|和書|url=http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/chosei/documents/291121-1-policy-record.pdf|format=PDF||title=政策会議 議事概要 平成29年11月21日(火)|accessdate=2019-12-19|publisher=千葉市|date=2017-11-21}}</ref><ref name="interruption2017" /><ref name="proceedings2019">{{Cite web|和書|url=http://www.city.chiba.jp/shigikai/documents/zanteiban-010621.pdf|format=PDF||title=令和元年第2回千葉市議会定例会会議録(第6号・暫定版)|accessdate=2019-12-19|publisher=千葉市|date=2019-06-21}}</ref><ref group="注釈">このとき千葉市は、同踏切が[[踏切道改良促進法]]の指定を受けており踏切除却は自治体の使命であることと、地元自治会と鉄道事業者から踏切除却と(自治会から)南北往来機能の回復を強く求められていることを理由として、中止の判断も行わなかった。</ref>。これに対して地元自治会からは不満の声が上がった<ref name="IHreport2018autumn">{{Cite web|和書|url=http://ishikawa-h.com/wp-content/uploads/2019/05/IHreport_2018_10_24.pdf|format=PDF||title=自由民主党 千葉市議会議員(花見川区選出)石川ひろし 議会活動報告書|accessdate=2019-12-19|publisher=石川ひろし政務活動事務所|date=2018-10-24}}</ref>ほか、千葉市は鉄道事業者から踏切の安全対策として別に30億円の負担を要求されることとなった<ref name="interruption2017" />。千葉市では現在計画中の「都市計画道路幕張本郷松波線」の整備事業の方が本事業より費用対効果が良く、なおかつ時間が経てば建設技術の進展による本事業の建設費節減も期待できるとして、幕張本郷松波線の建設<ref group="注釈">2017年度時点では2036年度完成予定。</ref>を先行させる予定だが、当該路線についても通過する途中地点で計画されている「東幕張土地区画整理事業」<ref group="注釈">1996年10月4日に事業認可(国庫補助対象事業)を受け、2002年度に仮換地指定を行い、建物移転及び道路等の工事に着手したが、花立踏切の周辺を含む美浜長作町線以西は2017年度末の時点では未施工。</ref>の花立踏切の周辺を含む美浜長作町線以西における事業開始の目途が立っていない<ref name="interruption2017" />ため、予定までに完成するかは不透明となっている。花立踏切については、2022年度以降に改めて再開の検討をすることとなった<ref name="interruption2017" />。事業の長期化が見込まれるため、花立踏切<ref group="注釈">ここでは踏切除却事業開始前の旧道を基準とする。</ref>から約250m東方にある「北寺口跨線人道橋」にエレベーターを新設し、事業終了までの代替とする予定である<ref name="interruption2017" /><ref name="hanatatemap2017" />。
=== 東幕張土地区画整理事業 ===
幕張駅北口の土地区画整理(「[[東幕張土地区画整理事業]]」 事業主体:[[千葉市]]都市局都市部東幕張土地区画整理事務所)に伴い、現在用地買収および土木・建築工事を進めている<ref name="higashimakuhari">{{Cite web|和書|title=都市局 都市部 市街地整備課 東幕張土地区画整理事務所|url=https://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/shigaichi/higashimakuhari/index.html|website=千葉市|accessdate=2021-12-28|language=ja|last=千葉市}}</ref>。
施行者の[[千葉市]]の[[都市計画]]によれば、施行期間は平成8年度 - 平成42年度(令和12年度)、施行面積26.1 ha、駅北口に駅前広場を新設し、駅前に接続する新たな[[都市計画道路]]([[幕張町武石町線]])や、もう一つの[[都市計画道路]]([[幕張本郷松波線]])他の区画道路、公園などを建設する予定である<ref name="higashimakuhari" />。
施行地区の区域は、[[千葉市]][[花見川区]][[幕張|幕張町]]4・5・6丁目、武石町1丁目及び同2丁目の各一部である<ref name="higashimakuhari" />。
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車)
:: [[幕張本郷駅]] (JB 34) - '''幕張駅 (JB 35)''' - [[新検見川駅]] (JB 36)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Notelist|2}}
==== 出典 ====
{{Reflist|2}}
===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 =====
{{Reflist|group="広報"}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="統計"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
; 千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="千葉県統計"|17em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Makuhari Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[幕張]]
* [[板橋駅]]・[[十条駅 (東京都)|十条駅]] - 当駅同様通過禁止駅に指定されている
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1423|name=幕張}}
* [https://webgis.alandis.jp/chiba12/portal/ 千葉市地図情報システム]
{{中央・総武緩行線}}
{{DEFAULTSORT:まくはり}}
[[Category:千葉市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 ま|くはり]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:総武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1894年開業の鉄道駅]]
[[Category:中央・総武緩行線]]
[[Category:花見川区の建築物|まくはりえき]]
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2003-08-15T01:00:25Z
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幕張本郷駅
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幕張本郷駅(まくはりほんごうえき)は、千葉県千葉市花見川区幕張本郷一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の駅である。
本項では隣接する京成電鉄千葉線の京成幕張本郷駅(けいせいまくはりほんごうえき)についても記す。
JR東日本と京成電鉄が互いに連絡運輸を取り扱う例は他にも多いが、当駅はJR東日本の駅と京成電鉄の駅が同一構内にあり、その例は数少ない。他には日暮里駅・空港第2ビル駅・成田空港駅・東松戸駅がある程度であり、総武本線と本線も含めた京成線が並行している区間では当駅が唯一である。
JR総武本線は、緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみが停車する。
JR中央・総武線各駅停車には「JB 34」、京成幕張本郷駅には「KS52」の駅番号がそれぞれ付与されている。
JR東日本と京成電鉄が橋上駅舎を共用する。駅舎外にエレベーターがあるなど、バリアフリー化がなされている。駅北側にはJR東日本の幕張車両センターがある。
津田沼営業統括センター所属の直営駅で、島式ホーム1面2線を有する地上駅。自動改札機・指定席券売機(稼働時間:6:45 - 23:55)設置駅。2018年2月3日より、始発から午前6時45分までの間は遠隔対応(インターホン対応は船橋駅が行う)のため改札係員は不在となり、一部の自動券売機のみ稼働する。
(出典:JR東日本:駅構内図)
島式ホーム1面2線を有する地上駅。京成電鉄では、視覚障害者に対する誘導サインとしてスピーカーから小鳥の鳴き声を流しているが、当駅ではウグイスを採用している。駅番号はKS 52。
開業当初のホーム上の駅名標には「京成幕張本郷」と、当時の他の自社線案内と異なり「京成」を冠して表記されていたが、案内サイン更新により現在は「幕張本郷」と表記されている。
近年の1日の平均乗降人員の推移は以下の通りである(JRは除く)。
近年の1日の平均乗車人員の推移は以下の通りである。
当駅至近(1キロメートル圏内)に千葉市花見川区と美浜区の区域(幕張西地区の一部)、習志野市の市境(花咲・屋敷地区の一部)が存在する。
京成バスによる免許センター・海浜幕張駅・幕張メッセ・千葉マリンスタジアム(ZOZOマリンスタジアム)・イオンモール幕張新都心方面へのバス便がある。バスの一部は、日本では数少ない連節バスで運行される。この路線は京成線の路線図にも乗換先として記載されていたが、現在では記載されていない。
また、千葉シーサイドバス・平和交通の2社が、千葉銀行幕張本郷支店前近くにそれぞれバス停を設置している。当駅からのバス路線は、両社とも平日のみの運転である。
当駅のバス乗り場は、0, 1, 4, 5, 6, 7と、千葉シーサイドバスと平和交通が使用する番号を持たないバス乗り場の7つある。2, 3番は欠番である。
当駅から発車する路線バスのうち京成バスが運行する一部の路線バスは、時間により乗り場が変わる。新都心幕張線は、平日朝7時30分から9時31分までは幕01の急行を除きすべて0番乗り場から、それ以外の曜日・時間帯はすべて1番乗り場から発車する。また、イオンモール幕張新都心方面へのバスは、朝8時20分まで7番乗り場から、それ以降の時間帯は5番乗り場から発車する。
幕張本郷駅のバス乗り場は、平日朝とそれ以外の時間帯で様相が大きく異なるため、本項では2つを別々に解説する。
平日朝7時30分から9時31分は#平日朝ラッシュ時を参照。
平日朝7時30分から9時31分の間は、新都心幕張線で急行バスが運行される。同時間帯は新都心幕張線の乗り場が変更されるため、以下に特記する。この時間帯は、幕張新都心線の急行バスを中心に利用客が集中する。特に、幕01急行の乗車待ち列は1番乗り場から交番のあたりにかけてつづら折りになって続くことが多く、日によってはJRの改札前まで伸びることもある。この時間帯は1番乗り場手前に臨時改札口が設置され、幕01急行の運賃支払いを乗車前に済ませるほか、多数の案内係を配置するなど、多数の利用客をさばく工夫がなされている。
ZOZOマリンスタジアムで野球の試合やイベントが催される際は同スタジアム行き、幕張メッセでイベントが催される際は幕張メッセ中央行きの直通バスが、京成バス新都心営業所により運行される。運行時には案内係が派遣されることが多い。直通便は基本的に1番乗り場から発車するが、高校野球の千葉県大会などの際に直通便の運行される時間帯が急行運転の時間帯と重なった場合には、0番乗り場の前方から発車することもある。
また、土休日などにはイオンモール幕張新都心への買い物客需要に対応するため、幕張豊砂駅(イオンモール幕張新都心エキマエモール)行きの臨時バスが運行されることがある。定期便とは異なり、幕張西二丁目には停車しない。この臨時便も京成バス新都心営業所が担当するが、案内係は派遣されないことが多い。5番乗り場から発車する。
当駅のロータリーには、JR津田沼駅のような企業送迎用のバス乗り場がないため、企業や施設の送迎バスは路線バスの乗り場やロータリーの空きスペースを利用する。
千葉県企業庁と千葉市では、幕張本郷駅 - 新都心間に新交通システムやLRTを導入する構想があり、2000年に出された運輸政策審議会答申第18号では「今後整備について検討すべき路線」(B) として答申路線の中に盛り込まれていたが、県や市の財政難もあり具体的な計画は進んでいない。2016年の交通政策審議会答申第198号では、該当路線については答申に含まれていない。
また、千葉都市モノレールを穴川駅から稲毛駅や幕張新都心地区などを経由して、当駅まで延伸させる構想も存在したが、千葉駅への乗り入れを優先させることや国鉄が延伸予定区間に並行している貨物線を旅客営業も行うことで方針転換し、京葉線として開業したことから、この構想は中止となった。
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"text": "津田沼営業統括センター所属の直営駅で、島式ホーム1面2線を有する地上駅。自動改札機・指定席券売機(稼働時間:6:45 - 23:55)設置駅。2018年2月3日より、始発から午前6時45分までの間は遠隔対応(インターホン対応は船橋駅が行う)のため改札係員は不在となり、一部の自動券売機のみ稼働する。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "(出典:JR東日本:駅構内図)",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "島式ホーム1面2線を有する地上駅。京成電鉄では、視覚障害者に対する誘導サインとしてスピーカーから小鳥の鳴き声を流しているが、当駅ではウグイスを採用している。駅番号はKS 52。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "開業当初のホーム上の駅名標には「京成幕張本郷」と、当時の他の自社線案内と異なり「京成」を冠して表記されていたが、案内サイン更新により現在は「幕張本郷」と表記されている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "近年の1日の平均乗降人員の推移は以下の通りである(JRは除く)。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "近年の1日の平均乗車人員の推移は以下の通りである。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "当駅至近(1キロメートル圏内)に千葉市花見川区と美浜区の区域(幕張西地区の一部)、習志野市の市境(花咲・屋敷地区の一部)が存在する。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "京成バスによる免許センター・海浜幕張駅・幕張メッセ・千葉マリンスタジアム(ZOZOマリンスタジアム)・イオンモール幕張新都心方面へのバス便がある。バスの一部は、日本では数少ない連節バスで運行される。この路線は京成線の路線図にも乗換先として記載されていたが、現在では記載されていない。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "また、千葉シーサイドバス・平和交通の2社が、千葉銀行幕張本郷支店前近くにそれぞれバス停を設置している。当駅からのバス路線は、両社とも平日のみの運転である。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "当駅のバス乗り場は、0, 1, 4, 5, 6, 7と、千葉シーサイドバスと平和交通が使用する番号を持たないバス乗り場の7つある。2, 3番は欠番である。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "当駅から発車する路線バスのうち京成バスが運行する一部の路線バスは、時間により乗り場が変わる。新都心幕張線は、平日朝7時30分から9時31分までは幕01の急行を除きすべて0番乗り場から、それ以外の曜日・時間帯はすべて1番乗り場から発車する。また、イオンモール幕張新都心方面へのバスは、朝8時20分まで7番乗り場から、それ以降の時間帯は5番乗り場から発車する。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "幕張本郷駅のバス乗り場は、平日朝とそれ以外の時間帯で様相が大きく異なるため、本項では2つを別々に解説する。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "平日朝7時30分から9時31分は#平日朝ラッシュ時を参照。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "平日朝7時30分から9時31分の間は、新都心幕張線で急行バスが運行される。同時間帯は新都心幕張線の乗り場が変更されるため、以下に特記する。この時間帯は、幕張新都心線の急行バスを中心に利用客が集中する。特に、幕01急行の乗車待ち列は1番乗り場から交番のあたりにかけてつづら折りになって続くことが多く、日によってはJRの改札前まで伸びることもある。この時間帯は1番乗り場手前に臨時改札口が設置され、幕01急行の運賃支払いを乗車前に済ませるほか、多数の案内係を配置するなど、多数の利用客をさばく工夫がなされている。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ZOZOマリンスタジアムで野球の試合やイベントが催される際は同スタジアム行き、幕張メッセでイベントが催される際は幕張メッセ中央行きの直通バスが、京成バス新都心営業所により運行される。運行時には案内係が派遣されることが多い。直通便は基本的に1番乗り場から発車するが、高校野球の千葉県大会などの際に直通便の運行される時間帯が急行運転の時間帯と重なった場合には、0番乗り場の前方から発車することもある。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "また、土休日などにはイオンモール幕張新都心への買い物客需要に対応するため、幕張豊砂駅(イオンモール幕張新都心エキマエモール)行きの臨時バスが運行されることがある。定期便とは異なり、幕張西二丁目には停車しない。この臨時便も京成バス新都心営業所が担当するが、案内係は派遣されないことが多い。5番乗り場から発車する。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "当駅のロータリーには、JR津田沼駅のような企業送迎用のバス乗り場がないため、企業や施設の送迎バスは路線バスの乗り場やロータリーの空きスペースを利用する。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "千葉県企業庁と千葉市では、幕張本郷駅 - 新都心間に新交通システムやLRTを導入する構想があり、2000年に出された運輸政策審議会答申第18号では「今後整備について検討すべき路線」(B) として答申路線の中に盛り込まれていたが、県や市の財政難もあり具体的な計画は進んでいない。2016年の交通政策審議会答申第198号では、該当路線については答申に含まれていない。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "また、千葉都市モノレールを穴川駅から稲毛駅や幕張新都心地区などを経由して、当駅まで延伸させる構想も存在したが、千葉駅への乗り入れを優先させることや国鉄が延伸予定区間に並行している貨物線を旅客営業も行うことで方針転換し、京葉線として開業したことから、この構想は中止となった。",
"title": "バス路線"
}
] |
幕張本郷駅(まくはりほんごうえき)は、千葉県千葉市花見川区幕張本郷一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の駅である。 本項では隣接する京成電鉄千葉線の京成幕張本郷駅(けいせいまくはりほんごうえき)についても記す。
|
{{駅情報
|社色 =
|文字色 =
|駅名 = 幕張本郷駅<br />京成幕張本郷駅
|画像 = Makuharihongo-Sta-S-201905.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 南口[[バスターミナル]]・[[ペデストリアンデッキ]](2019年5月)
|地図= {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail|coord={{coord|35|40|22|N|140|2|32|E}}|title=JR東日本 幕張本郷駅|coord2={{coord|35|40|21.5|N|140|2|31.5|E}}|title2=京成電鉄 京成幕張本郷駅|marker-color=008000|marker-color2=1155cc}}
|よみがな = まくはりほんごう<br />Makuharihongō
|ローマ字 = けいせいまくはりほんごう<br />Keisei-Makuharihongō
|電報略号 =
|所属事業者= [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本(幕張本郷駅)|駅詳細]])<br />[[京成電鉄]]([[#京成電鉄(京成幕張本郷駅)|駅詳細]])
|所在地 = [[千葉市]][[花見川区]]幕張本郷一丁目<ref name="sobu-line-120-2014-2">三好好三『総武線120年の軌跡』[[JTBパブリッシング]]、2014年2月。ISBN 978-4533096310</ref>
|乗換 =
}}
'''幕張本郷駅'''(まくはりほんごうえき)は、[[千葉県]][[千葉市]][[花見川区]][[幕張本郷]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[総武本線]]の[[鉄道駅|駅]]である<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。
本項では隣接する[[京成電鉄]][[京成千葉線|千葉線]]の'''京成幕張本郷駅'''(けいせいまくはりほんごうえき)についても記す。
== 乗り入れ路線 ==
JR東日本と京成電鉄が互いに[[連絡運輸]]を取り扱う例は他にも多いが、当駅はJR東日本の駅と京成電鉄の駅が同一構内にあり、その例は数少ない。他には[[日暮里駅]]・[[空港第2ビル駅]]・[[成田空港駅]]・[[東松戸駅]]がある程度であり、総武本線と[[京成本線|本線]]も含めた京成線が並行している区間では当駅が唯一である。
JR総武本線は、[[急行線|緩行線]]を走る[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]]のみが停車する<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。
JR中央・総武線各駅停車には「'''JB 34'''」、京成幕張本郷駅には「'''KS52'''」の[[駅ナンバリング|駅番号]]がそれぞれ付与されている。
== 歴史 ==
* [[1981年]]([[昭和]]56年)[[10月1日]]:[[日本国有鉄道]]総武本線の幕張本郷駅が開業(この日に総武線の[[複々線]]([[総武快速線|快速線]])が[[千葉駅]]まで延長され、[[東船橋駅]]も同時に開業した)<ref name="sobu-line-120-2014-2" /><ref name="RP399_132">{{Cite journal|和書|author=編集部|title=10月のメモ帳|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1982-01-01|volume=32|issue=第1号(通巻第399号)|page=132|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。旅客扱いのみ。なお、仮称駅名は「西幕張」だった{{Efn2|「幕張台」と表記している資料もある<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/kotsu/documents/a07vision-chap04.pdf|title=千葉市総合交通ビジョン 第4章 公共交通を活かした交通ネットワークの形成|accessdate=2020-06-07|publisher=|website=千葉市|date=2007-11|page=37}}</ref>。}}。この時点では京成千葉線には駅はなかった。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref>{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線 |page=19 |date=2010-01-17}}</ref>。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[8月7日]]:京成千葉線の京成幕張本郷駅が開業<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。
* [[1993年]](平成5年)[[5月15日]]:JR東日本で自動改札機の使用を開始する<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-24|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:京成電鉄でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|accessdate=2023-11-27|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)[[2月28日]]:この日をもって[[みどりの窓口]]が営業を終了<ref name="eki-muzinka" />。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[11月27日]]:JR東日本の改札内に駅ナカシェアオフィス「STATION BOOTH」が開業<ref>{{Cite press release|title=両国駅3番線にて「N'EX でテレワーク!」を実施します! ~臨時ホームと鉄道車両を活用したシェアオフィス実証実験~|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2020-11-18|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre2011_nextere.pdf|format=PDF|和書|page=3|accessdate=2023-11-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201118065844/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre2011_nextere.pdf|archivedate=2020-11-18}}</ref>。
== 駅構造 ==
JR東日本と京成電鉄が[[橋上駅|橋上駅舎]]を共用する。駅舎外に[[エレベーター]]があるなど、[[バリアフリー]]化がなされている。駅北側にはJR東日本の[[幕張車両センター]]がある。
=== JR東日本(幕張本郷駅) ===
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = JR 幕張本郷駅
|画像 = JR Sobu-Main-Line Makuharihongo Station Concourse.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = コンコース(2019年12月)
|よみがな = まくはりほんごう
|ローマ字 = Makuharihongō
|電報略号 = マホ
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所在地 = [[千葉市]][[花見川区]][[幕張|幕張本郷]]一丁目1-1
|座標 = {{coord|35|40|22|N|140|2|32|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 幕張本郷駅}}
|開業年月日 = [[1981年]]([[昭和]]56年)[[10月1日]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" />
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])<ref name="sobu-line-120-2014-2" />
|ホーム = 1面2線
|乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />24,874
|統計年度 = 2022年
|所属路線 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]<br/>(線路名称上は[[総武本線]])
|駅番号 = {{駅番号r|JB|34|#ffd400|1}}
|前の駅 = JB 33 [[津田沼駅|津田沼]]
|駅間A = 2.9
|駅間B = 2.0
|次の駅 = [[幕張駅|幕張]] JB 35
|キロ程 = 29.6 km([[東京駅|東京]]起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から9.6
|備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]
}}
[[津田沼駅|津田沼]]営業統括センター所属の直営駅で、[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。[[自動改札機]]・指定席券売機(稼働時間:6:45 - 23:55)設置駅<ref name="eki-muzinka">{{Cite web|和書 |url=https://doro-chiba.org/nikkan/jr%E5%8D%83%E8%91%89%E6%94%AF%E7%A4%BE%E2%80%95%EF%BC%93%E6%9C%88%E3%83%80%E3%82%A4%E6%94%B9%E3%81%AE%E5%8A%B4%E5%83%8D%E6%9D%A1%E4%BB%B6%E3%82%92%E6%8F%90%E6%A1%88-%E5%86%85%E6%88%BF%E7%B7%9A/ |title=JR千葉支社-3月ダイ改の労働条件を提案 内房線ー君津系統分離による列車削減=地域切り捨てを絶対許すな! |accessdate=2023-11-27 |publisher=[[国鉄千葉動力車労働組合]] |archiveurl=https://archive.li/Jmj9X |archivedate=2018-06-13 |date=2016-12-26}}</ref>。[[2018年]][[2月3日]]より、始発から午前6時45分までの間は遠隔対応(インターホン対応は[[船橋駅]]が行う)のため改札係員は不在となり、一部の自動券売機のみ稼働する<ref>{{Cite web|和書 |url=https://doro-chiba.org/nikkan/%ef%bd%8a%ef%bd%92%e5%8d%83%e8%91%89%e6%94%af%e7%a4%be-%ef%bc%97%e9%a7%85%e3%81%ae%e9%81%a0%e9%9a%94%e6%93%8d%e4%bd%9c%e7%84%a1%e4%ba%ba%e5%8c%96%e5%b0%8e%e5%85%a5%e3%81%a8%e9%8c%a6%e7%b3%b8%e7%94%ba/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190525173137/https://doro-chiba.org/nikkan/%ef%bd%8a%ef%bd%92%e5%8d%83%e8%91%89%e6%94%af%e7%a4%be-%ef%bc%97%e9%a7%85%e3%81%ae%e9%81%a0%e9%9a%94%e6%93%8d%e4%bd%9c%e7%84%a1%e4%ba%ba%e5%8c%96%e5%b0%8e%e5%85%a5%e3%81%a8%e9%8c%a6%e7%b3%b8%e7%94%ba/ |title=JR千葉支社-7駅の遠隔操作=無人化導入と錦糸町駅の旅行業務委託を提案 |archivedate=2019-05-25 |date=2018-02-20 |accessdate=2023-11-27 |publisher=国鉄千葉動力車労働組合 |language=日本語}}</ref>。
==== のりば ====
<!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠-->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車)
|style="text-align:center;"|西行
|[[西船橋駅|西船橋]]・[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[新宿駅|新宿]]方面
|-
!2
|style="text-align:center;"|東行
|[[幕張駅|幕張]]・[[稲毛駅|稲毛]]・[[千葉駅|千葉]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1424.html JR東日本:駅構内図])
<gallery>
ファイル:JR Sobu-Main-Line Makuharihongo Station Gates.jpg|改札口(2019年12月)
ファイル:JR Sobu-Main-Line Makuharihongo Station Platform.jpg|ホーム(2019年12月)
</gallery>
{{Clear}}
=== 京成電鉄(京成幕張本郷駅) ===
{{駅情報
|社色 = #1155cc
|文字色 =
|駅名 = 京成幕張本郷駅
|画像 = Keisei Makuharihongo sta 001.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 京成駅改札口(2007年12月)
|よみがな = けいせいまくはりほんごう
|ローマ字 = Keisei-Makuharihongō
|副駅名 =
|前の駅 = KS26 [[京成津田沼駅|京成津田沼]]
|駅間A = 2.1
|駅間B = 1.9
|次の駅 = [[京成幕張駅|京成幕張]] KS53
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|KS|52|#005aaa|4||#005aaa}}
|所属事業者 = [[京成電鉄]]
|所属路線 = {{color|#005aaa|●}}[[京成千葉線|千葉線]]
|キロ程 = 2.1
|起点駅 = [[京成津田沼駅|京成津田沼]]
|所在地 = [[千葉市]][[花見川区]][[幕張|幕張本郷]]一丁目1-3
|座標 = {{coord|35|40|21.5|N|140|2|31.5|E|region:JP_type:railwaystation|name=京成幕張本郷駅}}
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1991年]]([[平成]]3年)[[8月7日]]<ref name="sobu-line-120-2014-2" />
|乗降人員 = <ref group="京成" name="keisei2022" />15,194
|統計年度 = 2022年
|備考 =
}}
島式ホーム1面2線を有する[[地上駅]]。京成電鉄では、[[視覚障害者]]に対する誘導サインとしてスピーカーから小鳥の鳴き声を流しているが、当駅では[[ウグイス]]を採用している。
==== のりば ====
<!-- 2018年3月時点の新サインに準拠 -->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 千葉線
|style="text-align:center;"|上り
|[[京成津田沼駅|京成津田沼]]・[[京成船橋駅|京成船橋]]・[[日暮里駅|日暮里]]・[[京成上野駅|京成上野]]・[[成田空港駅|成田空港]]・[[File:Number prefix Shin-Keisei.svg|15px|SL]] [[新京成電鉄新京成線|新京成線]]方面
|-
!2
|style="text-align:center;"|下り
|[[京成千葉駅|京成千葉]]・[[ちはら台駅|ちはら台]]方面
|}
* 1番線の案内には、直通列車の設定がない「[[成田空港駅|成田空港]]」の表記がある。
<gallery>
Keisei Makuharihongo sta 002.jpg|駅通路(2007年12月)
Keisei-makuhari-hongo-platform.jpg|駅ホーム、2019年9月にはベンチ手前に待合室が設置(2007年2月)
</gallery>
=== 駅舎内の施設 ===
*[[NewDays]]・[[ファミリーマート]]
* PRONTO([[プロントコーポレーション]])
* [[VIEW ALTTE]]
* [[指定席券売機]]
{{clear}}
== 利用状況 ==
* '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''24,874人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。
* '''京成電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''15,194人'''である<ref group="京成" name="keisei2022" />。
*: 京成千葉線の駅では[[京成津田沼駅]]・[[京成千葉駅]]・[[千葉中央駅]]に次いで4番目に多く、京成線全69駅中31位。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
近年の1日の平均'''乗降人員'''の推移は以下の通りである(JRは除く)。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!rowspan="2"|年度
!colspan="2"|京成電鉄
|-
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
|-
|2002年(平成14年)
|11,686
|
|-
|2003年(平成15年)
|11,459
|−1.9%
|-
|2004年(平成16年)
|11,650
|1.7%
|-
|2005年(平成17年)
|11,964
|2.7%
|-
|2006年(平成18年)
|12,243
|2.3%
|-
|2007年(平成19年)
|13,016
|6.3%
|-
|2008年(平成20年)
|13,090
|0.6%
|-
|2009年(平成21年)
|12,960
|−1.0%
|-
|2010年(平成22年)
|12,756
|−1.6%
|-
|2011年(平成23年)
|12,440
|−2.5%
|-
|2012年(平成24年)
|12,708
|2.2%
|-
|2013年(平成25年)
|13,713
|7.9%
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="京成" name="keisei2014">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(平成26年度1日平均) |url=http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/people.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160403052643/http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/people.pdf |archivedate=2016-04-03 |deadlink=2023-07-08 |}}</ref>14,693
|7.1%
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="京成" name="keisei2015">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(平成27年度1日平均) |url=http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/people.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161011002200/http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/people.pdf |archivedate=2016-10-11 |deadlink=2023-07-08 |}}</ref>15,207
|3.5%
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="京成" name="keisei2016">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(平成28年度1日平均) |url=http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/people_top.htm |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180223084532/http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/people_top.htm |archivedate=2018-02-23 |deadlink=2023-07-08 |}}</ref>15,579
|2.4%
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="京成" name="keisei2017">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2017年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2017_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613125811/https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2017_ks_joukou.pdf |archivedate=2020-06-13 |deadlink=2023-07-08 |}}</ref>16,297
|4.6%
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="京成" name="keisei2018">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2018年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2018_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613125808/https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2018_ks_joukou.pdf |archivedate=2020-06-13 |deadlink=2023-07-08 |}}</ref>16,608
|1.9%
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="京成" name="keisei2019">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2019年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2019_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613125810/https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2019_ks_joukou.pdf |archivedate=2020-06-13 |deadlink=2023-07-08 |}}</ref>16,835
|1.4%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="京成" name="keisei2020">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2020年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2020_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230405001129/https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2020_ks_joukou.pdf |archivedate=2023-04-05 |deadlink= |}}</ref>13,068
|−22.4%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="京成" name="keisei2021">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2021_ks_joukou.pdf |title=駅別乗降人員(2021年度) |accessdate=2023-07-08 |format= PDF |website= |work= |publisher= |page= |pages= |quote= |language= JP |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220516062126/https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2021_ks_joukou.pdf |archivedate=2022-05-16 |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>13,995
|7.1%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="京成" name="keisei2022">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2022年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2022_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-08 |quote= |archiveurl= |archivedate= |deadlink= |}}</ref>15,194
|
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1981年 - 2000年) ===
近年の1日の平均'''乗車人員'''の推移は以下の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度!!国鉄 /<br />JR東日本!!京成電鉄!!出典
|-
|1981年(昭和56年)
|<ref group="備考">1981年10月1日開業。開業日から翌年3月31日までの計182日間を集計したデータ。</ref>4,718
|rowspan="10" style="text-align:center;"|未開業
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s57.html#13 昭和57年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|6,120
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s58.html#13 昭和58年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|7,853
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s59.html#13 昭和59年]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|9,196
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s60.html#13 昭和60年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|10,320
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s61.html#11 昭和61年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|12,258
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s62.html#11 昭和62年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|13,389
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s63.html#11 昭和63年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|15,712
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h01.html#11 平成元年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|17,778
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h02.html#11 平成2年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|19,144
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03.html#11 平成3年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|20,476
|<ref group="備考">1991年8月7日開業。開業日から翌年3月31日までの計238日間を集計したデータ。</ref>3,943
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04.html#11 平成4年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|22,466
|4,100
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05.html#11 平成5年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|25,845
|5,302
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06.html#11 平成6年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|27,866
|5,940
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07.html#11 平成7年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|28,185
|6,118
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08.html#11 平成8年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|27,966
|6,131
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09.html#11 平成9年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|27,301
|6,225
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10.html#11 平成10年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|26,809
|6,148
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11.html#11 平成11年]</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|27,122
|5,984
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 平成12年]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>27,117
|6,051
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 平成13年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ">[https://www.city.chiba.jp/shisei/gyokaku/toke/toke/index.html 千葉市統計書] - 千葉市</ref>
!年度!!JR東日本!!京成電鉄!!出典
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>26,891
|6,014
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 平成14年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>26,333
|5,838
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 平成15年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>25,682
|5,723
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 平成16年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>25,657
|5,802
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 平成17年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>25,498
|5,963
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18.html#11 平成18年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>25,815
|6,088
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19.html#11 平成19年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>26,093
|6,476
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20.html#11 平成20年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>26,084
|6,486
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 平成21年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>25,821
|6,421
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 平成22年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>25,985
|6,317
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/index.html#a11 平成23年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>25,933
|6,163
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html#a11 平成24年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_01.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>25,873
|6,291
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/index.html#a11 平成25年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_01.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>26,981
|6,795
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h26/index.html#a11 平成26年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_01.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>27,329
|7,287
|<ref group="千葉県統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h27/index.html#a11 平成27年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_01.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>27,655
|7,535
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h28/index.html#a11 平成28年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_01.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>28,297
|7,714
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h29/index.html#a11 平成29年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_01.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>29,017
|<ref group="京成" name="keisei2017" />8,068
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h30/index.html#a11 平成30年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_01.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>29,796
|<ref group="京成" name="keisei2018" />8,225
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/index.html#a11 令和元年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_01.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>29,556
|<ref group="京成" name="keisei2019" />8,349
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html#unyutuusin 令和2年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_01.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>22,773
|<ref group="京成" name="keisei2020" />6,471
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>23,355
|<ref group="京成" name="keisei2021" />6,922
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>24,874
|<ref group="京成" name="keisei2022" />7,509
|
|}
; 備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
[[ファイル:幕張と海浜幕張 - panoramio.jpg|thumb|幕張本郷4丁目から見た[[幕張新都心]]の超高層ビル群]]
当駅至近(1キロメートル圏内)に千葉市花見川区と[[美浜区]]の区域(幕張西地区の一部)、[[習志野市]]の市境(花咲・屋敷地区の一部)が存在する。
{{Div col}}
* [[京葉道路]] [[幕張インターチェンジ]]
* [[国道14号]]
* [[幕張車両センター]]
* 花見川区幕張本郷市民センター
* [[日本年金機構]]幕張年金事務所
* [[千葉市立幕張本郷中学校]]
* [[千葉市立幕張西中学校]]
* [[千葉市立幕張西小学校]]
* [[千葉市立上の台小学校]]
* 千葉幕張本郷[[郵便局]]
* 千葉幕張西郵便局
* [[千葉銀行]] 幕張本郷支店
* [[京葉銀行]] 幕張本郷支店
* [[メイプルイン]]幕張
* [[ワイズマート]] 幕張本郷店
* [[アコレ]] 幕張本郷7丁目店
* [[京成ストア|リブレ京成]] 幕張本郷店
* [[神戸物産|業務スーパー]] 幕張本郷店
* [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]] 幕張店
* [[生活協同組合コープみらい]]ミニコープ屋敷店
* [[スーパーバリュー]] 幕張西店
* [[坂善商事|サカゼン]] 幕張店
* [[ピーシーデポコーポレーション|ピーシーデポスマートライフ]] 幕張インター店
* [[阿武松部屋]]
* 千葉市幕張台公園
* 千葉市一本松公園
* 習志野市梅林園
* [[伊藤飛行機研究所|伊藤飛行機製作所]]跡・山縣飛行士殉空之地碑
{{Div col end}}
== バス路線 ==
[[ファイル:KeiseiBus4002.jpeg|thumb|連結バス「[[シーガル幕張]]」(京成バス)]]
[[ファイル:MakuharihongoBusstop.jpg|thumb|当駅のバス臨時改札口]]
[[京成バス]]による[[千葉運転免許センター|免許センター]]・[[海浜幕張駅]]・[[幕張メッセ]]・[[千葉マリンスタジアム]](ZOZOマリンスタジアム)・[[イオンモール幕張新都心]]方面への[[バス (交通機関)|バス]]便がある。バスの一部は、日本では数少ない[[連節バス]]で運行される。この路線は京成線の路線図にも乗換先として記載されていたが、現在では記載されていない。
また、[[千葉シーサイドバス]]・[[平和交通 (千葉県)|平和交通]]の2社が、[[千葉銀行]]幕張本郷支店前近くにそれぞれ[[バス停留所|バス停]]を設置している。当駅からのバス路線は、両社とも平日のみの運転である。
=== バス乗り場 ===
当駅のバス乗り場は、0, 1, 4, 5, 6, 7と、千葉シーサイドバスと平和交通が使用する番号を持たないバス乗り場<ref group="注" name="stop8">この乗り場からのバスを運行している平和交通・千葉シーサイドバスは乗り場番号を設定していないが、路面には"⑧バス"と標示がある。また、京成バスが駅舎内に設置している乗り場案内では、両者のバス乗り場を「8番乗り場」として案内している。</ref>の7つある。2, 3番は欠番である。
当駅から発車する路線バスのうち京成バスが運行する一部の路線バスは、時間により乗り場が変わる。新都心幕張線<ref group="注" name="shintoshin">幕01, 03, 04系統。</ref>は、平日朝7時30分から9時31分までは幕01の急行<ref group="注">1番乗り場から発車する。</ref>を除きすべて0番乗り場から、それ以外の曜日・時間帯はすべて1番乗り場から発車する。また、イオンモール幕張新都心方面へのバスは、朝8時20分まで7番乗り場から、それ以降の時間帯は5番乗り場から発車する<ref name="Aeon">[http://makuharishintoshin-aeonmall.com/static/detail/access-bus イオンモール幕張新都心公式ホームページ バスのご案内] - イオンモール幕張新都心 2023年11月27日閲覧。</ref>。
==== 定期路線バス ====
幕張本郷駅のバス乗り場は、平日朝とそれ以外の時間帯で様相が大きく異なるため、本項では2つを別々に解説する。
===== 通常時(平日朝以外) =====
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
平日朝7時30分から9時31分は[[#平日朝ラッシュ時]]を参照。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!乗り場!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!1
|rowspan="4" style="text-align:center;"|[[京成バス]]
|[[京成バス新都心営業所#新都心・幕張線|'''幕01''']]:海浜幕張駅 / 幕張メッセ中央 / ZOZOマリンスタジアム / 医療センター
|
|-
!4
|[[京成バス習志野出張所#屋敷線|'''津61'''・'''津62''']]:津田沼駅<br />'''幕66''':京成大久保駅南口
|
|-
!5
|[[京成バス新都心営業所#イオンモール幕張新都心線|'''イオン36''']]:幕張豊砂駅(イオンモール幕張新都心エキマエモール)
|
|-
!6
|[[京成バス新都心営業所#秋津団地線・香澄団地線|'''幕11''']]:新習志野駅<br />[[京成バス新都心営業所#幕張学園線|'''幕21''']]:幕張学園循環<br />[[京成バス新都心営業所#コロンブスシティ線|'''幕22''']]:海浜幕張駅 / 浜田緑地<br />'''幕23''':神田外語大学<br />'''津62''':幕張西五丁目
|「幕22」の浜田緑地行きは22時発以降のみ
|-
!7
|colspan="3"|発着なし
|-
!-
|style="text-align:center;"|[[平和交通 (千葉県)|平和交通]]<ref group="注" name="stop8"/>
|海浜幕張駅
|平日のみ
|}
===== 平日朝ラッシュ時 =====
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
平日朝7時30分から9時31分の間は、新都心幕張線<ref group="注" name="shintoshin"/>で急行バスが運行される。同時間帯は新都心幕張線の乗り場が変更されるため、以下に特記する。この時間帯は、幕張新都心線の急行バスを中心に利用客が集中する。特に、幕01急行の乗車待ち列は1番乗り場から交番のあたりにかけてつづら折りになって続くことが多く、日によってはJRの改札前まで伸びることもある。この時間帯は1番乗り場手前に臨時改札口が設置され、幕01急行の運賃支払いを乗車前に済ませるほか、多数の案内係を配置するなど、多数の利用客をさばく工夫がなされている。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!乗り場!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!0
|rowspan="5" style="text-align:center;"|京成バス
|'''幕01''':海浜幕張駅 / ZOZOマリンスタジアム / 医療センター<br />'''幕03''':海浜幕張駅<br />'''幕03急行''':テクノガーデン<br />'''幕04''':若葉三丁目
|
|-
!1
|'''幕01急行''':海浜幕張駅
|
|-
!4
|'''津61'''・'''津62''':津田沼駅
|
|-
!5
|'''イオン36''':幕張豊砂駅(イオンモール幕張新都心エキマエモール)
|
|-
!6
|'''幕11''':新習志野駅<br />'''幕21''':幕張学園循環<br />'''幕22''':海浜幕張駅<br />'''幕23''':神田外語大学<br />'''津62''':幕張西五丁目
|
|-
!7
|colspan="3"|発着なし
|-
!-
|style="text-align:center;"|[[千葉シーサイドバス]]<ref group="注" name="stop8"/>
|JR幕張駅
|1本のみ
|}
==== その他のバス ====
===== 多客輸送 =====
[[千葉マリンスタジアム|ZOZOマリンスタジアム]]で野球の試合やイベントが催される際は同スタジアム行き、[[幕張メッセ]]でイベントが催される際は幕張メッセ中央行きの直通バスが、京成バス新都心営業所により運行される。運行時には案内係が派遣されることが多い。直通便は基本的に1番乗り場から発車するが、高校野球の千葉県大会などの際に直通便の運行される時間帯が急行運転の時間帯と重なった場合には、0番乗り場の前方から発車することもある。
また、土休日などには[[イオンモール幕張新都心]]への買い物客需要に対応するため、[[幕張豊砂駅]](イオンモール幕張新都心エキマエモール)行きの臨時バスが運行されることがある。定期便とは異なり、幕張西二丁目には停車しない。この臨時便も京成バス新都心営業所が担当するが、案内係は派遣されないことが多い。5番乗り場から発車する。
===== 送迎バス =====
当駅のロータリーには、[[津田沼駅|JR津田沼駅]]のような企業送迎用のバス乗り場がないため、企業や施設の送迎バスは路線バスの乗り場やロータリーの空きスペースを利用する。
:; 市町村アカデミーへの送迎バス
:: 市町村アカデミーの入寮日など<ref group="注">不定期でその他の平日にも運行される。</ref>には7番のりばから市町村アカデミー行き直通バスが運行される。なお、神田外語大学を経由する京成バスの各系統<ref group="注">幕21系統, イオン38系統と、幕22系統のうち海浜幕張駅発の全便と幕張本郷駅発のうち神田外語大学経由の便。</ref>も市町村アカデミーを経由するため、バスがない時間帯はこれらバスまたはタクシーの利用を勧める告知がバス停に掲出されている。
:; 企業の送迎バス
:: 臨海工業団地に工場をもつ企業の中には、当駅への送迎バスを運行している会社も存在する。先述の通り当駅のロータリーには企業送迎バス専用の乗り場が存在しないため、7番乗り場やその後方、8番乗り場、送迎車乗降場の前方などで乗降を扱う。
=== 幕張本郷駅周辺における交通の将来像 ===
千葉県企業庁と千葉市では、幕張本郷駅 - 新都心間に[[新交通システム]]や[[ライトレール|LRT]]を導入する構想があり、[[2000年]]に出された[[運輸政策審議会答申第18号]]では「今後整備について検討すべき路線」(B) として答申路線の中に盛り込まれていたが<ref>[https://www.mlit.go.jp/kisha/oldmot/kisha00/koho00/tosin/kotumo/kotumo4_.htm 『東京圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について(答申)整備計画』] - 国土交通省 (2000年1月27日).2023年11月27日閲覧。</ref>、県や市の財政難もあり具体的な計画は進んでいない<ref>[http://www.chibanippo.co.jp/cn/feature/makuhari/1837 『「不安定」「東京が遠い」 徐々に改善も尽きぬ不満 交通問題』] - 千葉日報 2009年10月8日</ref>。[[2016年]]の[[交通政策審議会答申第198号]]では、該当路線については答申に含まれていない。
また、[[千葉都市モノレール]]を[[穴川駅 (千葉県)|穴川駅]]から[[稲毛駅]]や幕張新都心地区などを経由して、[[千葉都市モノレール稲毛駅・稲毛海岸駅への延伸構想|当駅まで延伸させる構想]]も存在したが、千葉駅への乗り入れを優先させることや国鉄が延伸予定区間に並行している[[貨物線]]を旅客営業も行うことで方針転換し、[[京葉線]]として開業したことから、この構想は中止となった<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書 |title=千葉の歴史検証シリーズ44 千葉都市モノレール物語 3 |url=https://www.chiba-shinbun.co.jp/0604_02.html |website=稲毛新聞 |accessdate=2023-11-27 |publisher= |date=2006-04-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |title=鉄道トリビア(468) JR京葉線とりんかい線、同じ貨物線計画によって作られた |url=https://news.mynavi.jp/article/trivia-468/ |website=マイナビニュース |date=2018-08-13 |accessdate=2023-11-27 |publisher=}}</ref>。
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車)
:: [[津田沼駅]] (JB 33) - '''幕張本郷駅 (JB 34)''' - [[幕張駅]] (JB 35)
; 京成電鉄
: [[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 千葉線
:: [[京成津田沼駅]] (KS26) - '''京成幕張本郷駅 (KS52)''' - [[京成幕張駅]] (KS53)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注"}}
==== 出典 ====
{{Reflist|2}}
===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 =====
{{Reflist|group="広報"}}
=== 利用状況 ===
; JR・私鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
; 京成電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="京成"|3}}
; JR・私鉄の統計データ
{{Reflist|group="乗降データ"}}
; 千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="千葉県統計"|17em}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[幕張]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1424|name=幕張本郷}}
* [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/keisei-makuharihongo.php 京成幕張本郷駅|電車と駅の情報|京成電鉄]
* {{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/stationmap/pdf/jp/436.pdf 京成幕張本郷駅]}}
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[[Category:千葉市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 ま|くはりほんこう]]
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[[Category:1981年開業の鉄道駅]]
[[Category:花見川区の建築物|まくはりほんこうえき]]
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13,185 |
東船橋駅
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東船橋駅(ひがしふなばしえき)は、千葉県船橋市東船橋二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の駅である。運行系統としては緩行線を走行する総武緩行線が停車する。駅番号はJB 32。
当駅は地元の請願駅として、1981年(昭和56年)10月1日に開業した。
海抜約16メートルの台地に碁盤の目状に区画整理された駅を中心に千葉県立船橋高等学校、船橋市立船橋高等学校、船橋警察署、船橋税務署などの利用者が往来する閑静な住宅街である。
緩行線を走る中央・総武線各駅停車(地下鉄東西線直通電車を含む)が停車する。
島式ホーム1面2線を有する地上駅で、橋上駅舎を有する。駅の建設が1981年と比較的新しいため、駅前に規模の大きなロータリーがある。
平日ラッシュ時に限り、各駅停車ホームから地下鉄東西線直通列車が運転される。
JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している船橋営業統括センター(船橋駅)管理の業務委託駅。Suica対応自動改札機、指定席券売機設置駅。
2018年2月3日からは、始発から午前6時45分までの間は遠隔対応(インターホン対応は船橋駅が行う)を行い一部の自動券売機が稼働している。
新検見川駅や西千葉駅とは異なり、乗車駅証明書発行機は設置されていない。
(出典:JR東日本:駅構内図)
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は18,745人である。
JR東日本および千葉県統計年鑑によると、開業後の1日平均乗車人員の推移は以下の通り。
駅周辺は閑静な住宅街となっている。千葉県道9号船橋松戸線に繋がる市場通り沿いに商業施設が点在する。 繁華街ではないが、ローソンストア100が2店立地している。
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東船橋駅(ひがしふなばしえき)は、千葉県船橋市東船橋二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の駅である。運行系統としては緩行線を走行する総武緩行線が停車する。駅番号はJB 32。
|
{{駅情報
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|駅名 = 東船橋駅
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|画像説明 = 北口(2016年8月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|41|59|N|140|0|15|E}}}}
|よみがな = ひがしふなばし
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|開業年月日 = [[1981年]]([[昭和]]56年)[[10月1日]]<ref name="sobu-line-120-2014-2">三好好三 『総武線120年の軌跡』 [[JTBパブリッシング]]、2014年2月。ISBN 978-4533096310</ref>
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])<ref name="sobu-line-120-2014-2" />
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|所属路線 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]<br />(線路名称上は[[総武本線]])
|前の駅 = JB 31 [[船橋駅#JR東日本|船橋]]
|駅間A = 1.8
|駅間B = 1.7
|次の駅 = [[津田沼駅|津田沼]] JB 33
|駅番号 = {{駅番号r|JB|32|#ffd400|1}}
|キロ程 = 25.0 km([[東京駅|東京]]起点)<ref name="sobu-line-120-2014-2" /><br />[[千葉駅|千葉]]から14.2
|起点駅 =
|備考 = [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]
}}
[[File:Higashi-funabashi-Sta-S.JPG|thumb|南口(2016年8月)]]
'''東船橋駅'''(ひがしふなばしえき)は、[[千葉県]][[船橋市]][[東船橋]]二丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[総武本線]]の[[鉄道駅|駅]]である<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。[[運行系統]]としては[[各駅停車|緩行線]]を走行する[[中央・総武緩行線|総武緩行線]]が停車する。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JB 32'''。
== 概要 ==
当駅は地元の[[請願駅]]として、[[1981年]](昭和56年)[[10月1日]]に開業した。
海抜約16メートルの台地に碁盤の目状に区画整理された駅を中心に[[千葉県立船橋高等学校]]、[[船橋市立船橋高等学校]]、[[船橋警察署]]、[[船橋税務署]]などの利用者が往来する閑静な住宅街である<ref>{{Cite web|和書|title=台地に広がる閑静な住宅街 – MyFunaねっと|url=https://myfuna.net/archives/myfunanews/myfuna20141101190854|website=myfuna.net|accessdate=2019-03-26|publisher=}}</ref>。
[[急行線|緩行線]]を走る[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]]([[東京メトロ東西線|地下鉄東西線]]直通電車を含む)が停車する。
== 歴史 ==
* [[1981年]]([[昭和]]56年)[[10月1日]]:[[日本国有鉄道|国鉄]]総武線の東船橋駅が開業(この日は総武線の[[複々線]]([[総武快速線|快速線]])が[[千葉駅]]まで延長され、[[幕張本郷駅]]も同時に開業した)<ref name="sobu-line-120-2014-2" /><ref name="RP399_132">{{Cite journal|和書|author=編集部|title=10月のメモ帳|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1982-01-01|volume=32|issue=第1号(通巻第399号)|page=132|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。旅客のみ取扱い。総武本線の中では、幕張本郷駅とともに、最も新しい駅の一つである。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref>{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線 |page=19 |date=2010-01-17}}</ref>。
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[4月10日]]:自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-24|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)[[2月20日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了。
* [[2014年]](平成26年)[[11月20日]]:業務委託化<ref>{{Cite web|和書|url=https://doro-chiba.org/nikkan/%e9%a7%85%e6%a5%ad%e5%8b%99%e5%a4%96%e6%b3%a8%e5%8c%96%e3%82%92%e8%a8%b1%e3%81%95%e3%81%aa%e3%81%84%ef%bc%81%e4%bb%8a%e5%be%8c10%e5%b9%b4%e3%81%a7400%e5%90%8d%e3%81%8c%e9%80%80%e8%81%b7%ef%bc%8d/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200508213806/https://doro-chiba.org/nikkan/%e9%a7%85%e6%a5%ad%e5%8b%99%e5%a4%96%e6%b3%a8%e5%8c%96%e3%82%92%e8%a8%b1%e3%81%95%e3%81%aa%e3%81%84%ef%bc%81%e4%bb%8a%e5%be%8c10%e5%b9%b4%e3%81%a7400%e5%90%8d%e3%81%8c%e9%80%80%e8%81%b7%ef%bc%8d/|title=駅業務外注化を許さない!今後10年で400名が退職-必要なのは、定年延長だ!|language=日本語|archivedate=2020-05-08|accessdate=2020-05-08|publisher=国鉄千葉動力車労働組合|date=2014-11-16}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有する<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。駅の建設が1981年と比較的新しいため、駅前に規模の大きな[[ロータリー交差点|ロータリー]]がある<ref name="sobu-line-120-2014-2" />。
平日[[ラッシュ時]]に限り、各駅停車ホームから[[東京メトロ東西線|地下鉄東西線]]直通列車が運転される。
[[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している船橋営業統括センター([[船橋駅]])管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]。[[Suica]]対応[[自動改札機]]、[[指定席券売機]]設置駅。
[[2018年]][[2月3日]]からは、始発から午前6時45分までの間は遠隔対応(インターホン対応は船橋駅が行う)を行い一部の自動券売機が稼働している<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/246932|title=首都圏で「早朝無人」駅、脱鉄道へJR東の焦燥 大量退職が間近、駅業務の合理化を加速|date=2018-11-05|publisher=東洋経済新報社|work=東洋経済オンライン|accessdate=2020-08-02|archivedate=2020-07-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200705152239/https://toyokeizai.net/articles/-/246932}}</ref><ref name="doro20180220"/>。
[[新検見川駅]]や[[西千葉駅]]とは異なり、乗車駅証明書発行機は設置されていない<ref name="doro20180220">{{Cite web|和書|url=https://doro-chiba.org/nikkan/%ef%bd%8a%ef%bd%92%e5%8d%83%e8%91%89%e6%94%af%e7%a4%be-%ef%bc%97%e9%a7%85%e3%81%ae%e9%81%a0%e9%9a%94%e6%93%8d%e4%bd%9c%e7%84%a1%e4%ba%ba%e5%8c%96%e5%b0%8e%e5%85%a5%e3%81%a8%e9%8c%a6%e7%b3%b8%e7%94%ba/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190525173137/https://doro-chiba.org/nikkan/%ef%bd%8a%ef%bd%92%e5%8d%83%e8%91%89%e6%94%af%e7%a4%be-%ef%bc%97%e9%a7%85%e3%81%ae%e9%81%a0%e9%9a%94%e6%93%8d%e4%bd%9c%e7%84%a1%e4%ba%ba%e5%8c%96%e5%b0%8e%e5%85%a5%e3%81%a8%e9%8c%a6%e7%b3%b8%e7%94%ba/|title=JR千葉支社-7駅の遠隔操作=無人化導入と錦糸町駅の旅行業務委託を提案|archivedate=2019-05-25|date=2018-02-20|accessdate=2020-08-02|publisher=国鉄千葉動力車労働組合|language=日本語}}</ref>。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2" |[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車)
|style="text-align:center"|西行
|[[西船橋駅|西船橋]]・[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[新宿駅|新宿]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|東行
|[[幕張駅|幕張]]・[[稲毛駅|稲毛]]・[[千葉駅|千葉]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1305.html JR東日本:駅構内図])
<gallery>
JR Sobu-Main-Line Higashi-Funabashi Station Gates.jpg|改札口(2019年12月)
JR Sobu-Main-Line Higashi-Funabashi Station Platform.jpg|ホーム(2019年12月)
</gallery>
=== 駅舎内の施設 ===
* [[NewDays]]
* [[VIEW ALTTE]]
* [[指定席券売機]]
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''18,745人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。
JR東日本および千葉県統計年鑑によると、開業後の1日平均'''乗車'''人員の推移は以下の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref><ref group="統計">[https://www.city.funabashi.lg.jp/shisei/toukei/002/p012851.html 船橋市統計書] - 船橋市</ref>
|-
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1981年(昭和56年)
|<ref group="備考">1981年10月1日開業。開業日から翌年3月31日までの計182日間を集計したデータ。</ref>5,490
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s57/index.html#13 千葉県統計年鑑(昭和57年)]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|7,657
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s58/index.html#13 千葉県統計年鑑(昭和58年)]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|9,676
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s59/index.html#13 千葉県統計年鑑(昭和59年)]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|11,482
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s60/index.html#13 千葉県統計年鑑(昭和60年)]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|12,614
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s61/index.html#11 千葉県統計年鑑(昭和61年)]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|13,124
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s62/index.html#11 千葉県統計年鑑(昭和62年)]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|15,041
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s63/index.html#11 千葉県統計年鑑(昭和63年)]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|17,499
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h1/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成元年)]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|18,389
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h02/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|18,560
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|18,975
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|19,533
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|20,199
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|20,732
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|20,860
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|18,332
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|17,404
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成10年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|17,224
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成11年)]</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|17,101
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>17,291
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>17,448
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>17,786
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>18,234
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>18,090
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>18,076
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>18,311
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>18,618
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>18,553
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>18,332
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>18,556
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>18,563
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_01.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>18,869
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_01.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>19,134
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h26/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_01.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>18,833
|<ref group="*">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h27/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_01.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>19,251
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h28/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_01.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>19,444
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h29/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_01.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>19,835
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h30/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_01.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>20,232
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/index.html#a11 千葉県統計年鑑(令和元年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_01.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>20,542
|<ref group="*">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html#unyutuusin 千葉県統計年鑑(令和2年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_01.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>16,901
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>17,723
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>18,745
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
駅周辺は閑静な[[住宅地|住宅街]]となっている。[[千葉県道9号船橋松戸線]]に繋がる市場通り沿いに商業施設が点在する。
繁華街ではないが、[[ローソンストア100]]が2店立地している。
=== 北口 ===
[[File:Funabashi Police Station.JPG|thumb|船橋警察署]]
{{columns-list|2|
* [[千葉県道8号船橋我孫子線]]
* [[船橋警察署]]
* 船橋警察署 東船橋駅前交番
* [[船橋市地方卸売市場]]
* 船橋市総合教育センター
* 船橋市場郵便局
* 船橋卸売市場内郵便局
* [[船橋市立船橋高等学校]]
* [[総武病院]]
* [[セイジョー]] 東船橋店
* 宮本台北公園
|}}
=== 南口 ===
[[File:Chiba Prefectural Funabashi Senior High School.jpg|thumb|千葉県立船橋高等学校]]
{{columns-list|2|
* [[国道296号]]
* 千葉県道8号船橋我孫子線
* [[東京国税局]][[船橋税務署]]
* [[千葉県立船橋高等学校]]
* [[船橋市立宮本中学校]]
* [[船橋市立宮本小学校]]
* [[ワイズマート]] 東船橋店
* [[くすりの福太郎]] 東船橋駅前店
* 池の端公園
* 宮本台公園
|}}
== バス路線 ==
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!colspan="4"|北口
|-
!1
|rowspan="3" style="text-align:center;"|[[船橋新京成バス]]
|{{Unbulleted list|[[船橋新京成バス#船橋グリーンハイツ線|'''東50''']]:[[船橋グリーンハイツ]]|[[船橋新京成バス#豊富線|'''船22A'''・'''船23A''']]・[[船橋新京成バス#芝山線|'''船28''']]:[[船橋駅]]北口}}
|
|-
!2
|{{Unbulleted list|'''船22A''':古和釜十字路|'''東01'''・'''東01C'''・'''船28A'''・'''船28C''':[[飯山満駅]]|'''東03''':[[北習志野駅]]}}
|「船22A」は平日夜のみ運行
|-
!3
|[[船橋新京成バス#前原線|'''津14''']]:[[津田沼駅]]
|
|-
!colspan="4"|南口
|-
!-
|style="text-align:center;"|[[京成バスシステム]]
|{{Unbulleted list|[[京成バスシステム#津田沼ららぽーと線|'''東11''']]:津田沼駅|[[京成バスシステム#東船橋線|'''船41''']]:[[京成船橋駅]] / 津田沼駅|'''ら01''':ららぽーと東口 / [[南船橋駅]]}}
|
|}
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 総武線(各駅停車)・[[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px|T]] 東西線直通
:: [[船橋駅]] (JB 31) - '''東船橋駅 (JB 32)''' - [[津田沼駅]] (JB 33)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
<!--==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注"}}
-->
==== 出典 ====
{{Reflist}}
===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 =====
{{Reflist|group="広報"}}
=== 利用状況 ===
{{Reflist|group="統計"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
; 千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Higashi-Funabashi Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1305|name=東船橋}}
* [http://www.shinkeisei.co.jp/bus/route/funabashi/higashifunabashi.html 船橋新京成バス 東船橋駅]
* [http://www.shinkeisei.co.jp/bus/route/narashino/higashifunabashi.html 習志野新京成バス 東船橋駅]
* [http://higafuna-festa.net/ ひがふなフェスタ]
{{中央・総武緩行線}}
{{DEFAULTSORT:ひかしふなはし}}
[[Category:船橋市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 ひ|かしふなはし]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:中央・総武緩行線]]
[[Category:1981年開業の鉄道駅]]
|
2003-08-15T01:15:05Z
|
2023-11-24T21:04:08Z
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[
"Template:外部リンク/JR東日本駅",
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|
13,190 |
小松左京
|
小松 左京(こまつ さきょう、1931年〈昭和6年〉1月28日 - 2011年〈平成23年〉7月26日)は、日本の小説家。本名:小松 実(こまつ みのる)。
『易仙逃里記』(1962年)でデビューして以降、人類と文明の可能性を模索し続けた、SF小説の大家。作品に『日本アパッチ族』(1964年)、『果しなき流れの果に』(1966年)、『日本沈没』(1975年)など。
星新一・筒井康隆と共に「SF御三家」と呼ばれ、日本SF界を代表するSF作家であり、戦後の日本を代表する小説家でもあった。
1970年の日本万国博覧会でテーマ館サブ・プロデューサー、1990年の国際花と緑の博覧会の総合プロデューサーとしても知られる。宇宙開発の振興を目的とした啓発活動にも力を入れ、宇宙作家クラブの提唱者で顧問も務める。
広範囲で深い教養を備えた知識人であり、その活動範囲は幅広く膨大なジャンルにわたる。
デビューの直後から、通常の作家の枠を超えた八面六臂の活動を始めている。ジャーナリストして国内各地を歩き、メディア出演を精力的にこなし、未来学研究会やメタボリストなど、多くの学者やクリエイターと交流をもった。1970年の大阪万博では30代という若さで主要スタッフに名を連ね、関西財界や財界との密接な交流は晩年まで続いた。その姿は、今「SF作家」という言葉で想像されるものをはるかに超えている。
未来を書くSF作家としてデビューし、しかも好奇心旺盛だった小松は、単なるエンタテインメント作家ではない、未来について語る新世代の知識人として、独特の期待を寄せられる運命にあったといえる。実際彼はその期待に応え、小説執筆の傍らさまざまな言論人・建築家と積極的に交流し、様々な研究会、学会の設立に参加して積極的にコミットし、新しい知識人の一角を急速に占めていった。学者や財界人を相手に文明論を語り、日本論を闘わせる精力的な人物だった。
他方で小松は自ら製作会社を立ち上げて若い作家を集め大型SF映画の制作にも乗り出している。小松が原作、脚本、総監督、製作全てにクレジットされ、公開した映画は興行成績こそ振るわなかったものの、ライトノベル作家やアニメーターなど、次世代のクリエーターの育成に大きな役割を果たした。
また、関西出身の知識人として京阪地域の愛着はとりわけ強く、さまざまな場でブレイン役を勤めた。
ほかにもエッセイや対談、メディア出演は数しれず、阪神大震災の際も活動を行っていた。
先祖は阿波(徳島県)の小松から千葉の外房に行った漁師の一族。父親は明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)夜学在学中に東京の老舗の漢方薬屋の娘と婚約しのちに結婚した。父親が薬学を捨て電気機械の商いを志し、大阪で金属加工の町工場を興したため、大阪府大阪市西区で五男一女の次男として生まれた。4歳のとき兵庫県西宮市に転居し、その後は尼崎と西宮で育った。京都大学で冶金工学を専攻し三洋電機の技術者となった兄は、戦争のさなかでも科学書を読み漁り、小松に科学の知識を教えた。またこの兄は、広島に落とされた新型爆弾が原子爆弾であることを教えたという。
少年時代は病弱で、スポーツには興味が湧かず、歌と漫画と映画と読書に熱中した。また、母方の親戚がいる東京で歌舞伎を見たりもした。大阪でも文楽につれていってもらい、古典芸能についての知識も身につけた。小学校5年の1941年の時に、NHK大阪放送局の子供向けニュース番組「子ども放送局」のキャスターに起用された。
1943年、第一神戸中学校入学。小松は、関西でいう「イチビリ」な性格で、笑芸やユーモア歌謡が好きであったため「うかれ」のアダナをつけられ、戦中は教師からにらまれていた。一方で、体が丈夫でなかったのにもかかわらず、柔道部に入った。終戦時は14才だったが、当時は徴兵年齢がどんどん下がっており、「このまま戦争が続いて、自分も死ぬのだろう」と考えていたが、思いもよらず生き残った。そして、沖縄戦で自分と同年齢の中学生の少年たちが、銃を持たされて多数死んでいるのを知り、「生き残ってしまったものの責任」を考え、文学をそして、将来SFを書く契機となったという。
戦後には、兄から教わったバイオリンの腕で、同級生の高島忠夫とバンドを組んでいた。当時読んだ、ダンテの『神曲』の「科学的な知見も組み込んだ壮大なストーリー」に衝撃を受け、後にSFを書く基盤ともなり、また大学ではイタリア文学を専攻することとなる。
1948年に神戸一中を四修し、第三高等学校に入学。あこがれの旧制高校時代は「人生で一番楽しかった年」だったというが、本来「3年間のモラトリアム」のはずが学制変更のため1年で終わる。翌年には京都大学文学部を受験し、イタリア文学科に進学。大学在学中に同人誌『京大作家集団』の活動に参加。高橋和巳や三浦浩と交流を持つ。ほかに福田紀一とも知り合う。当時デビューしたばかりの、安部公房の作品に熱中する。
日本共産党に入党して、山村工作隊など政治活動を行っていたのもこの頃である。だが、原爆を投下したアメリカに対する反感からの「反戦平和」を唱える共産党に共鳴しての入党であり、共産主義思想を真に信奉してのものではなかった。そのため、ソ連の原爆開発にショックを受け、共産党の活動に疑問を抱き、後に共産党を離党する。
また、この時期に「もりみのる」「小松みのる」「モリミノル」名義で『おてんばテコちゃん』、『イワンの馬鹿』、『大地底海』等の漫画作品を雑誌『漫画王』等に発表しており、既にデビューしていた手塚治虫の影響が窺える。当時の小松の漫画を愛読していた、漫画家にして漫画コレクターの松本零士とも後に親交ができ、『銀河鉄道999』の文庫版の解説も小松が記している。
ルイジ・ピランデルロについての卒論を提出して、1954年に大学を卒業。しかし、就職試験をうけたマスコミ各社の試験にすべて不合格。経済誌『アトム』の記者・父親の工場の手伝い・ラジオのニュース漫才の台本執筆等の職を経験する。また、産経新聞に入社していた三浦浩の紹介で、産経新聞にミステリなどのレビューも執筆する。
大学時代から、神戸一中の同級生たちと結成していたアマチュア劇団でも、戯曲執筆・演出・出演を担当していた。この時、オーディションに来た女性に一目ぼれして交際し、1958年に結婚。だが、生活は苦しく、妻の唯一の楽しみであるラジオを修理に出してしまったため、当時大阪に出現していた「アパッチ族」をモデルにした空想小説(カレル・チャペック『山椒魚戦争』にインスパイアされている)を書いて、妻の娯楽にあてた。この作品が、後の長編デビュー作『日本アパッチ族』の原型となった。
三浦浩に知らされて1959年12月に早川書房が創刊した『SFマガジン』創刊号と出会い、ロバート・シェクリイの「危険の報酬」に衝撃を受け、自分もアメリカ流のサイエンス・フィクションを書こうと決意する。1961年、早川書房主催の第1回空想科学小説コンテスト(ハヤカワ・SFコンテストの前身)に、「小松左京」のペンネームで応募した「地には平和を」が努力賞に入選。筆名の「左京」は、姓名判断に凝っていた兄から「五画と八画の文字を使えば大成する」と助言を受け、「左がかっていた京大生だから」ということで「左京」を選んだ。「地には平和を」は『SFマガジン』には掲載されず、入会したSF同人誌『宇宙塵』に掲載された。翌年の第2回SFコンテストで『お茶漬けの味』が第三席となったが、編集長の福島正実からはすでに評価されており、それを待つことなく『SFマガジン』(1962年10月号)に掲載された『易仙逃里記』でデビューし、常連に加わる。
1963年、日本SF作家クラブの創設に参加(1980年-1983年に星新一、矢野徹に続いての三代目会長)。盛んに上京し、SF作家仲間たちと交流した。
1963年『オール讀物』に「紙か髪か」が掲載され、中間小説誌デビュー。吉田健一や扇谷正造に絶賛される。同年、短編集『地には平和を』を刊行し、1963年度下半期の直木賞候補となった。1964年、光文社から処女長編『日本アパッチ族』を刊行。
1964年には加藤秀俊、梅棹忠夫らと共に『「万国博」を考える会』を結成し、大阪万博のテーマや理念を検討。1967年にはモントリオールでひらかれていた世界博を視察。加藤、粟津潔、泉眞也らと、万国博の娯楽施設のプランも作った。
また、このメンバーらで未来学も話題となり、1968年の「日本未来学会」の創設に、梅棹忠夫、加藤秀俊、林雄二郎、川添登と参加する。他に小松、加藤、川添、川喜田二郎の4名で「KKKK団」と名乗り、1966年に雑誌『文藝』に連続対談を5回連載した。1967年には「KKKK団」の4名の共著の著書として『シンポジウム未来計画』(講談社、小松左京編著)を刊行した。
1964年から始まった近畿ローカルのラジオ番組「題名のない番組」(ラジオ大阪)や「ゴールデンリクエスト」(近畿放送(現:京都放送))で桂米朝らと知的で快活なトークを交わしたが、そこにあった常連リスナーからの投稿からアイデアを得て「蜘蛛の糸」「海底油田」「四次元ラッキョウ」などの多くの掌編をなした。彼の掌編はこの時期に集中している。
1965年にはベ平連創立時の「呼びかけ人」になった。1966年には、東京12チャンネルに勤務していたばばこういちが主宰で、「ベトナム戦争についてのティーチ・イン」を行った際、小松は小田実や開高健らとともに参加し、ベトナム戦争反対論を論じた。このイベントは、あまりに反戦論者が多かったため放送されず、ばばは、東京12チャンネルを退社した。
1970年には「国際SFシンポジウム」を主宰。米・英・ソ等のSF作家を日本に招き、アーサー・C・クラーク、ジュディス・メリル、フレデリック・ポール、ブライアン・オールディスらが参加した。また、同年の日本万国博覧会ではサブ・テーマ委員、テーマ館サブ・プロデューサー(チーフ・プロデューサーは岡本太郎)を務めた。「太陽の塔」内の展示を、岡本太郎と考え、DNAの巨大な模型を作り、生物の進化を現すようにした。また、地下スペースに、石毛直道らが収集した世界中の神像や仮面を展示。そのコレクションが、1977年オープンの国立民族学博物館の元となった。
1980年には、日本SF作家クラブ会長として、徳間書店をスポンサーとした「日本SF大賞」の創設に尽力。1981年1月発表の第1回受賞作には、科学を主題にした、本格的なハードSF短編集である堀晃の『太陽風交点』(早川書房、1979年)を強く推して、受賞させた。
1980年前後、東宝からのオリジナルSF映画の企画依頼に応じ、多数のSF作家を招いてブレーンストーミングを重ねたのち、小説を先行させて『さよならジュピター』を発表。映画化に際しては新会社を設立して自ら総監督兼脚本を務め、名目上だけではなく完全な陣頭指揮を取った。必ずしも好評価にはつながらなかったが多くのSF作家を育てた。
1986年、自身を投影した老科学者が宇宙へ飛び出し果てしない旅を続ける『虚無回廊』を執筆。この作品は結局未完となる。
1990年の国際花と緑の博覧会では博覧会の総合プロデューサー(泉眞也、磯崎新と共同)として活躍。また、5回にわたり「大阪咲かそ」シンポジウムのプロデュースを担当するなど執筆以外の活動も多岐にわたっている。これらのプロジェクトの経験は、のちに、著書『巨大プロジェクト動く』にまとめている。
2000年より角川春樹事務所が主宰で小松左京賞が設立され、選考委員を務めている(2009年の第10回をもって休止)。
2001年より同人誌『小松左京マガジン』を主宰。毎号巻頭には編集長インタビューとして小松と著名人との対談が掲載されていた。
1993年に小林隆男によって発見されていた小惑星 (6983) が、2002年に「Komatsusakyo」と命名された。
2006年7月からは『小松左京全集完全版』(城西国際大学出版会刊)の刊行も始まった。この全集はハードカバーとしては日本で初めてオンデマンド印刷で作られることでも注目されている。2000年1月にはすでにオンラインで注文した作品を組み合わせてオンデマンドで印刷する『オンデマンド版・小松左京全集』(BookPark) が開始されている。
2007年に日本で開催されたワールドコン 第65回ワールドコン/第46回日本SF大会Nippon 2007にはデイヴィッド・ブリンと共に作家ゲスト・オブ・オナーとして招待された。
2008年には、『小松左京自伝 実存を求めて』が刊行された。
2011年7月26日午後4時36分、肺炎のため大阪府箕面市の病院で死去。80歳没。 没後、『復活の日』に登場するアメリカのアマチュア局のコールサイン「WA5PS」が誰にも割り当てられておらず空いていることが判明、小松左京事務所に許可を求めた上で「小松左京記念局」として免許された。
2019年10月12日より12月22日まで、世田谷文学館にて、展覧会『小松左京展―D計画―』が開催された。D計画とは『日本沈没』の作中で遂行されるプロジェクト名から来ている。
民族学者の梅棹忠夫は1963年、「情報産業論」を発表。センセーションを巻き起こした。小松は共に『放送朝日』に執筆していたのが縁で梅棹と知り合い、1963年の終わり頃、梅棹を中心にできた私的研究会に、小松も喜んで加わった。メンバーは、林雄二郎、川添登、加藤秀俊それに小松で、林は当時経済企画庁の経済研究所所長、川添は建築評論家、加藤は京都大学教育学部の助教授だった。このメンバーを主体に若手研究会による私的研究会「万国博を考える会」が結成される。小松は当初、知的好奇心によるプライベートな集まりの研究を目的としており、国家プロジェクトとしての万博に関わるつもりはなかった。
1995年1月に発生し、小松自らも被災した阪神・淡路大震災の際にはテレビ局のインタビューに答えて、視聴者のリクエストとヘリコプターなどの現場取材を連携させたライブによる安否情報の発信を提案した。いくつかのテレビ局が実際に試みたが、被害範囲が広すぎたことと、リクエストの信憑性を検証できないという指摘を受け、あまり成果を挙げないまま中止された。
ある高名な学者に、高速道路がなぜ倒れたかを共同で検証したいと申し入れたが、学者は「地震が予測をはるかに超えていただけ。私たちに責任はない」と言われ信じられない思いを受けた。
小松は『小松左京の大震災'95』を1996年6月に刊行し、震災の教訓として防災情報の共有化や、温かみのある復興の大切さを書いた。その後は、もう何もする気力がなくなり、鬱病をわずらったという。2000年ごろようやく回復。その後も小松自身は震災からの復旧活動に積極的に関与していた。
2011年3月11日に発生した東日本大震災では「唯一の被爆国の国民として、SF作家になった人間として、事実の検証と想像力をフルに稼働させて、次の世代に新たなメッセージを与えたい」との言葉を残した。復興を願い、「これから日本がどうなるのんか、もうちょっと長生きして、見てみたいいう気にいまなっとんのや」と記していた。また、『3・11の未来 日本・SF・創造力』の序文を寄せている。
最大のベストセラーになったのは1973年に光文社から刊行された『日本沈没』で、社会現象とまでなった。刊行前は「長すぎて売れない」と出版社側からは言われていたが、3月に発売すると驚くほどの売れ行きを示し、その年末までに上下巻累計で340万部が刊行された。福田赳夫や当時首相だった田中角栄も、この本を読んだという。
最初はタイトルは『日本滅亡』にするつもりだったが編集者が『沈没』を提案した。
1964年に世に現れた電卓であるが、小松はこれをすぐに導入し「使いまくって」、『日本沈没』を書いた、という。2011年7月29日の毎日新聞「余録」には13万円の電卓、とあり、同年11月24日のNHK『クローズアップ現代』では、小松の電卓としてキヤノンのキヤノーラ1200(12万6千円)が紹介された。別モデルと思われる話もあり、安田寿明によれば、37万円ほどの標準品を買い「目の玉が飛び出るほど高かったが、あれを使いまくったおかげで『日本沈没』が書けた」と小松は語ったという。また、1979年に発売された初の国産ワープロである東芝のJW-10(630万円)も、いち早く一号機を小松左京事務所で使用していたが、その後、携帯できないことなどを理由に手書きに戻っている。
『日本沈没』は「第一部完」として発売され、第二部は「世界に流浪した日本人たちの運命」を描く予定であったが、「日本人」としての固有性を守るべきか、「国土を失った民族としてコスモポリタニズムに貢献」すべきか小松に迷いが生じ、執筆されなかった。後に高齢を理由に小松自身による執筆は放棄され、2003年11月から続編を作成するプロジェクト・チームが作られた。執筆は谷甲州が担当し、2006年7月に『日本沈没 第二部』が刊行された。
SFマガジンでのデビュー以来、様々なジャンルにわたる多数の長短編作品やショートショートを世に送り出し、日本のSFを牽引した。その作風は人類の運命を描くハードコアSF(本格SF)から、ポリティカル・フィクション、タイムトラベル物、歴史改変小説やパラレルワールド物、スラップスティック、アクション物、SFミステリ、ホラー、エロティックな作品、寓話的な作品やファンタジーに至るまで幅広い。
あまりの多面さに作風を一面的に断じる事は出来ないが、当時先端の科学や政治経済の知識を駆使し、プロットの練られた『日本沈没』『首都消失』のような作品から、下町を背景に描いた『コップ一杯の戦争』、日本を始めとする各種神話に取材した作品まで、非SFである歴史小説、中間小説(奇妙な女たちを描く短編「女シリーズ」や、古典芸能の知識が結実した「芸道小説」シリーズなどがある)も含めサイバーパンク以前のほぼ全てのジャンルに手を付けたといっても過言ではない。また、非SFでも、あくまで「SF作家としての視点」から作品が構想されていることが、『小松左京自伝』に収録されている「自作解説」から分かる。
小松作品では純粋で正義感の強い青年が主人公を務めることが多い。これは、しばしば並び称される星新一、筒井康隆らには全くといっていいほど見られない特徴で、時おり人情、情緒、官能などをたっぷりと描く傾向も同様である。この辺りが小松作品に独特の熱っぽさと艶を与えている。
ソ連のSF作家イワン・エフレーモフの社会主義的SF論に対抗して書いた「拝啓イワン・エフレーモフ様」(巽孝之編『日本SF論争史』勁草書房に収録)をはじめとした、数々のSF論で「科学技術が、人間社会や人間の存在自体を変えてしまう時代の、『本流文学』としてのSF」を一貫して主張し続けている。ただし、この小松が理想とするSFは、小松ほどの博覧強記な作家でしか、書き得ないともいえる。
その他にも、日本各地や世界各地を旅しての文明論や、日本文化論、科学エッセイなどの、ノンフィクションも多数執筆しているが、これらについても「SF作家としての視点」からの壮大な視点から書かれている。
精力的な執筆で知られたが、健康問題もあり50代後半以降の創作はきわめて少ない。54歳から執筆開始された最後の単独執筆長編『虚無回廊』も未完に終わった。
筒井康隆は「小松左京論」において、一般の作家は個別のアイデアを元に作品を個体発生させていくのに対し、小松はテーマを先に決め膨大な知識でアイデアを系統発生させて作品を仕上げていくテーマ敷衍型の作家であると評している。筒井はそれを、知識のたくさん詰まった長持をがらがっちゃがっちゃとぶちまける、といった風に表現している。。
広範な領域での業績と旺盛な活動力を岡田斗司夫、唐沢俊一らは「荒俣宏と立花隆と宮崎駿を足して3で割らない」と評している。
批評家の東浩紀は「小松は、戦後日本を代表する娯楽作家だっただけではない。また日本SFの創設者だっただけでもない。小松はそれよりもなりよりも、まずは知識人であり教養人であり、その溢れる知性に文学というかたちを与えるとき、SFという表現形式を見出したひとりの思索者だったのだ」と考える。
代表作には、時間と空間をまたにかけた壮大な長編『果しなき流れの果に』(1966年)が挙げられる。この作品は1997年の『SFマガジン』500号記念号で発表された、「日本SFオールタイムベスト」において長編部門1位を獲得した。さらに短編部門では同じく小松作品の「ゴルディアスの結び目」が1位になった。
初期長編では、娯楽色と思索性を高いレベルで両立させたSFミステリ『継ぐのは誰か』の人気も高い。山田正紀がこの作品を青春小説として評価している。
中国のベストセラー小説『三体』の著者・劉慈欣は小松左京作品を愛読しているという。
『日本沈没』、『復活の日』、『エスパイ』、『首都消失』などが映画化されており、特に1984年公開の『さよならジュピター』は単に原作提供にとどまらず、新たに「株式会社イオ」を設立して映画製作に出資。小松自身も総監督として現場の指揮を執り、最新のCGを駆使して特撮場面をとるほどの、力の入れようだった。テレビにも映像化作品は多く、中にはテレビオリジナル作品もある。2006年には、『日本沈没』が、現代にあわせてリメイクされ、映画として公開された。
一方、文壇からの正当な評価、評論は特になく、『小松左京自伝』においては、「開高健や北杜夫ぐらいにしか、自分の文学を評価してもらえなかった。せめて、(非SFである)『芸道小説』ものでは、直木賞をくれないかなと思った。」「現在でも、社会や文壇が、SFを十分に認知しないことへの、いらだちがある」と、無念さを吐露している。また同書には、「一貫して、宇宙における文学の意味、宇宙における人類の意味を考えてきた」という発言があり、他のSF作家とは連帯しきれない、小松なりの孤独な問題意識が書かれている。この小松ならではの文学的な問題意識が共有できたのは、SF作家仲間よりもむしろ開高健、高橋和巳であったとも書かれている(ただし、開高は後年小松作品を「もたれる」と評し、筒井康隆から人格批判にまで至る激烈な反駁を受けている)。また、角川文庫版『牙の時代』解説で、中井英夫は端正に彫琢され面白い物語に徹した最初期短編を至上とし、政治的、文明批評的な饒舌が溢れる作風に転じたことを強く批判(同書収録作もそれらに含まれるため異例の解説である)。親交のあった三島由紀夫が「日本アパッチ族なんて、あんなもの書きやがって」と、同意を示していたことを記している。ただ、小松が広範な人気を獲得していったのは『日本アパッチ族』以降であることも事実である。
尋常でない好奇心を持っていた。ある日舗道を歩いていると「なんなんだ、中身は」と言いながら道路を横切り、小さな洋食屋の「ランチはじめました」の紙に書かれたメニューの中身を確かめに飛んで行ったのである。小松の知識と情報量を支えているのはこの原子力発電所や量子力学、プレートテクトニクスから街の洋食屋のランチにいたるまで完全に同等な好奇心であった。
小松は「SF」というジャンルに誇りを抱いていた。SFならばあらゆる表現が可能になる。むしろ、これからはあらゆる表現がSFになるというのが彼の信条だった。
速筆でマージャンで1人余って抜けてる間に原稿用紙に手書きで1時間ほどで20枚程度書き、また雀卓に戻っていった。
関西の官僚や財界人たちともブレイン役として交際し、「湾岸道路の建設」「関西新空港の整備(現:関西国際空港)」「研究学園都市の創設(現:けいはんな学研都市)」などを提案した。また、彼らとの交流で、祇園などの花街を体験し、「芸道小説」シリーズなどに結実している。ユーモラスな一面もあり、『SF作家オモロ大放談』では、自分の精液をフライパンで焼いて食べたことがあると語っている。1970年頃はよく太っていて、ラジオなどでも自称メガネ豚と言っていた。
生まれ育った関西に愛着を持ち、関西を盛り上げるためのさまざまな活動を行った。1977年から1982年には大阪フィルハーモニー交響楽団のイベント「大フィルまつり」の企画・構成を担当。1978年には、「関西で歌舞伎を育てる会」(現:関西・歌舞伎を愛する会)の代表世話人になり、20年以上つとめた。また、かんべむさし、堀晃などの関西出身の後輩SF作家たちにも、目をかけた。また、『大阪タイムマシン紀行』 『わたしの大阪』 『こちら関西』 『こちら関西・戦後編』など、関西をテーマにした著書も多数ある。
マージャンの腕はかつて業界記者をやってたころ修羅場のようなシビアなマージャンを経験したおかげでとにかく強かった。
ヘビースモーカーであったため、紙巻きタバコを手にした写真が多数残されている。
角川書店の編集局長時代に交流があった角川春樹は、「頭の回転が速く教養も深かったが、後年はその面影がすっかり薄れましたね」「最大の原因は大量の酒です。昼間からウィスキーグラスを手にするほどの酒豪で、酒で作家生命を縮めたことが残念でしたね」と証言している。
※新潮文庫などのオリジナル文庫本には再収録傑作選が多数含まれる。
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"text": "小松 左京(こまつ さきょう、1931年〈昭和6年〉1月28日 - 2011年〈平成23年〉7月26日)は、日本の小説家。本名:小松 実(こまつ みのる)。",
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"text": "『易仙逃里記』(1962年)でデビューして以降、人類と文明の可能性を模索し続けた、SF小説の大家。作品に『日本アパッチ族』(1964年)、『果しなき流れの果に』(1966年)、『日本沈没』(1975年)など。",
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"text": "また、この時期に「もりみのる」「小松みのる」「モリミノル」名義で『おてんばテコちゃん』、『イワンの馬鹿』、『大地底海』等の漫画作品を雑誌『漫画王』等に発表しており、既にデビューしていた手塚治虫の影響が窺える。当時の小松の漫画を愛読していた、漫画家にして漫画コレクターの松本零士とも後に親交ができ、『銀河鉄道999』の文庫版の解説も小松が記している。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "ルイジ・ピランデルロについての卒論を提出して、1954年に大学を卒業。しかし、就職試験をうけたマスコミ各社の試験にすべて不合格。経済誌『アトム』の記者・父親の工場の手伝い・ラジオのニュース漫才の台本執筆等の職を経験する。また、産経新聞に入社していた三浦浩の紹介で、産経新聞にミステリなどのレビューも執筆する。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "大学時代から、神戸一中の同級生たちと結成していたアマチュア劇団でも、戯曲執筆・演出・出演を担当していた。この時、オーディションに来た女性に一目ぼれして交際し、1958年に結婚。だが、生活は苦しく、妻の唯一の楽しみであるラジオを修理に出してしまったため、当時大阪に出現していた「アパッチ族」をモデルにした空想小説(カレル・チャペック『山椒魚戦争』にインスパイアされている)を書いて、妻の娯楽にあてた。この作品が、後の長編デビュー作『日本アパッチ族』の原型となった。",
"title": "経歴"
},
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "三浦浩に知らされて1959年12月に早川書房が創刊した『SFマガジン』創刊号と出会い、ロバート・シェクリイの「危険の報酬」に衝撃を受け、自分もアメリカ流のサイエンス・フィクションを書こうと決意する。1961年、早川書房主催の第1回空想科学小説コンテスト(ハヤカワ・SFコンテストの前身)に、「小松左京」のペンネームで応募した「地には平和を」が努力賞に入選。筆名の「左京」は、姓名判断に凝っていた兄から「五画と八画の文字を使えば大成する」と助言を受け、「左がかっていた京大生だから」ということで「左京」を選んだ。「地には平和を」は『SFマガジン』には掲載されず、入会したSF同人誌『宇宙塵』に掲載された。翌年の第2回SFコンテストで『お茶漬けの味』が第三席となったが、編集長の福島正実からはすでに評価されており、それを待つことなく『SFマガジン』(1962年10月号)に掲載された『易仙逃里記』でデビューし、常連に加わる。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1963年、日本SF作家クラブの創設に参加(1980年-1983年に星新一、矢野徹に続いての三代目会長)。盛んに上京し、SF作家仲間たちと交流した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1963年『オール讀物』に「紙か髪か」が掲載され、中間小説誌デビュー。吉田健一や扇谷正造に絶賛される。同年、短編集『地には平和を』を刊行し、1963年度下半期の直木賞候補となった。1964年、光文社から処女長編『日本アパッチ族』を刊行。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1964年には加藤秀俊、梅棹忠夫らと共に『「万国博」を考える会』を結成し、大阪万博のテーマや理念を検討。1967年にはモントリオールでひらかれていた世界博を視察。加藤、粟津潔、泉眞也らと、万国博の娯楽施設のプランも作った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "また、このメンバーらで未来学も話題となり、1968年の「日本未来学会」の創設に、梅棹忠夫、加藤秀俊、林雄二郎、川添登と参加する。他に小松、加藤、川添、川喜田二郎の4名で「KKKK団」と名乗り、1966年に雑誌『文藝』に連続対談を5回連載した。1967年には「KKKK団」の4名の共著の著書として『シンポジウム未来計画』(講談社、小松左京編著)を刊行した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1964年から始まった近畿ローカルのラジオ番組「題名のない番組」(ラジオ大阪)や「ゴールデンリクエスト」(近畿放送(現:京都放送))で桂米朝らと知的で快活なトークを交わしたが、そこにあった常連リスナーからの投稿からアイデアを得て「蜘蛛の糸」「海底油田」「四次元ラッキョウ」などの多くの掌編をなした。彼の掌編はこの時期に集中している。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1965年にはベ平連創立時の「呼びかけ人」になった。1966年には、東京12チャンネルに勤務していたばばこういちが主宰で、「ベトナム戦争についてのティーチ・イン」を行った際、小松は小田実や開高健らとともに参加し、ベトナム戦争反対論を論じた。このイベントは、あまりに反戦論者が多かったため放送されず、ばばは、東京12チャンネルを退社した。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1970年には「国際SFシンポジウム」を主宰。米・英・ソ等のSF作家を日本に招き、アーサー・C・クラーク、ジュディス・メリル、フレデリック・ポール、ブライアン・オールディスらが参加した。また、同年の日本万国博覧会ではサブ・テーマ委員、テーマ館サブ・プロデューサー(チーフ・プロデューサーは岡本太郎)を務めた。「太陽の塔」内の展示を、岡本太郎と考え、DNAの巨大な模型を作り、生物の進化を現すようにした。また、地下スペースに、石毛直道らが収集した世界中の神像や仮面を展示。そのコレクションが、1977年オープンの国立民族学博物館の元となった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1980年には、日本SF作家クラブ会長として、徳間書店をスポンサーとした「日本SF大賞」の創設に尽力。1981年1月発表の第1回受賞作には、科学を主題にした、本格的なハードSF短編集である堀晃の『太陽風交点』(早川書房、1979年)を強く推して、受賞させた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1980年前後、東宝からのオリジナルSF映画の企画依頼に応じ、多数のSF作家を招いてブレーンストーミングを重ねたのち、小説を先行させて『さよならジュピター』を発表。映画化に際しては新会社を設立して自ら総監督兼脚本を務め、名目上だけではなく完全な陣頭指揮を取った。必ずしも好評価にはつながらなかったが多くのSF作家を育てた。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1986年、自身を投影した老科学者が宇宙へ飛び出し果てしない旅を続ける『虚無回廊』を執筆。この作品は結局未完となる。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1990年の国際花と緑の博覧会では博覧会の総合プロデューサー(泉眞也、磯崎新と共同)として活躍。また、5回にわたり「大阪咲かそ」シンポジウムのプロデュースを担当するなど執筆以外の活動も多岐にわたっている。これらのプロジェクトの経験は、のちに、著書『巨大プロジェクト動く』にまとめている。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2000年より角川春樹事務所が主宰で小松左京賞が設立され、選考委員を務めている(2009年の第10回をもって休止)。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2001年より同人誌『小松左京マガジン』を主宰。毎号巻頭には編集長インタビューとして小松と著名人との対談が掲載されていた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1993年に小林隆男によって発見されていた小惑星 (6983) が、2002年に「Komatsusakyo」と命名された。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2006年7月からは『小松左京全集完全版』(城西国際大学出版会刊)の刊行も始まった。この全集はハードカバーとしては日本で初めてオンデマンド印刷で作られることでも注目されている。2000年1月にはすでにオンラインで注文した作品を組み合わせてオンデマンドで印刷する『オンデマンド版・小松左京全集』(BookPark) が開始されている。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 35,
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"text": "2007年に日本で開催されたワールドコン 第65回ワールドコン/第46回日本SF大会Nippon 2007にはデイヴィッド・ブリンと共に作家ゲスト・オブ・オナーとして招待された。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "2008年には、『小松左京自伝 実存を求めて』が刊行された。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2011年7月26日午後4時36分、肺炎のため大阪府箕面市の病院で死去。80歳没。 没後、『復活の日』に登場するアメリカのアマチュア局のコールサイン「WA5PS」が誰にも割り当てられておらず空いていることが判明、小松左京事務所に許可を求めた上で「小松左京記念局」として免許された。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2019年10月12日より12月22日まで、世田谷文学館にて、展覧会『小松左京展―D計画―』が開催された。D計画とは『日本沈没』の作中で遂行されるプロジェクト名から来ている。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "民族学者の梅棹忠夫は1963年、「情報産業論」を発表。センセーションを巻き起こした。小松は共に『放送朝日』に執筆していたのが縁で梅棹と知り合い、1963年の終わり頃、梅棹を中心にできた私的研究会に、小松も喜んで加わった。メンバーは、林雄二郎、川添登、加藤秀俊それに小松で、林は当時経済企画庁の経済研究所所長、川添は建築評論家、加藤は京都大学教育学部の助教授だった。このメンバーを主体に若手研究会による私的研究会「万国博を考える会」が結成される。小松は当初、知的好奇心によるプライベートな集まりの研究を目的としており、国家プロジェクトとしての万博に関わるつもりはなかった。",
"title": "小松左京と万国博覧会"
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{
"paragraph_id": 40,
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"text": "1995年1月に発生し、小松自らも被災した阪神・淡路大震災の際にはテレビ局のインタビューに答えて、視聴者のリクエストとヘリコプターなどの現場取材を連携させたライブによる安否情報の発信を提案した。いくつかのテレビ局が実際に試みたが、被害範囲が広すぎたことと、リクエストの信憑性を検証できないという指摘を受け、あまり成果を挙げないまま中止された。",
"title": "小松左京と大震災"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ある高名な学者に、高速道路がなぜ倒れたかを共同で検証したいと申し入れたが、学者は「地震が予測をはるかに超えていただけ。私たちに責任はない」と言われ信じられない思いを受けた。",
"title": "小松左京と大震災"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "小松は『小松左京の大震災'95』を1996年6月に刊行し、震災の教訓として防災情報の共有化や、温かみのある復興の大切さを書いた。その後は、もう何もする気力がなくなり、鬱病をわずらったという。2000年ごろようやく回復。その後も小松自身は震災からの復旧活動に積極的に関与していた。",
"title": "小松左京と大震災"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2011年3月11日に発生した東日本大震災では「唯一の被爆国の国民として、SF作家になった人間として、事実の検証と想像力をフルに稼働させて、次の世代に新たなメッセージを与えたい」との言葉を残した。復興を願い、「これから日本がどうなるのんか、もうちょっと長生きして、見てみたいいう気にいまなっとんのや」と記していた。また、『3・11の未来 日本・SF・創造力』の序文を寄せている。",
"title": "小松左京と大震災"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "最大のベストセラーになったのは1973年に光文社から刊行された『日本沈没』で、社会現象とまでなった。刊行前は「長すぎて売れない」と出版社側からは言われていたが、3月に発売すると驚くほどの売れ行きを示し、その年末までに上下巻累計で340万部が刊行された。福田赳夫や当時首相だった田中角栄も、この本を読んだという。",
"title": "「日本沈没」について"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "最初はタイトルは『日本滅亡』にするつもりだったが編集者が『沈没』を提案した。",
"title": "「日本沈没」について"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1964年に世に現れた電卓であるが、小松はこれをすぐに導入し「使いまくって」、『日本沈没』を書いた、という。2011年7月29日の毎日新聞「余録」には13万円の電卓、とあり、同年11月24日のNHK『クローズアップ現代』では、小松の電卓としてキヤノンのキヤノーラ1200(12万6千円)が紹介された。別モデルと思われる話もあり、安田寿明によれば、37万円ほどの標準品を買い「目の玉が飛び出るほど高かったが、あれを使いまくったおかげで『日本沈没』が書けた」と小松は語ったという。また、1979年に発売された初の国産ワープロである東芝のJW-10(630万円)も、いち早く一号機を小松左京事務所で使用していたが、その後、携帯できないことなどを理由に手書きに戻っている。",
"title": "「日本沈没」について"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "『日本沈没』は「第一部完」として発売され、第二部は「世界に流浪した日本人たちの運命」を描く予定であったが、「日本人」としての固有性を守るべきか、「国土を失った民族としてコスモポリタニズムに貢献」すべきか小松に迷いが生じ、執筆されなかった。後に高齢を理由に小松自身による執筆は放棄され、2003年11月から続編を作成するプロジェクト・チームが作られた。執筆は谷甲州が担当し、2006年7月に『日本沈没 第二部』が刊行された。",
"title": "「日本沈没」について"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "SFマガジンでのデビュー以来、様々なジャンルにわたる多数の長短編作品やショートショートを世に送り出し、日本のSFを牽引した。その作風は人類の運命を描くハードコアSF(本格SF)から、ポリティカル・フィクション、タイムトラベル物、歴史改変小説やパラレルワールド物、スラップスティック、アクション物、SFミステリ、ホラー、エロティックな作品、寓話的な作品やファンタジーに至るまで幅広い。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "あまりの多面さに作風を一面的に断じる事は出来ないが、当時先端の科学や政治経済の知識を駆使し、プロットの練られた『日本沈没』『首都消失』のような作品から、下町を背景に描いた『コップ一杯の戦争』、日本を始めとする各種神話に取材した作品まで、非SFである歴史小説、中間小説(奇妙な女たちを描く短編「女シリーズ」や、古典芸能の知識が結実した「芸道小説」シリーズなどがある)も含めサイバーパンク以前のほぼ全てのジャンルに手を付けたといっても過言ではない。また、非SFでも、あくまで「SF作家としての視点」から作品が構想されていることが、『小松左京自伝』に収録されている「自作解説」から分かる。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "小松作品では純粋で正義感の強い青年が主人公を務めることが多い。これは、しばしば並び称される星新一、筒井康隆らには全くといっていいほど見られない特徴で、時おり人情、情緒、官能などをたっぷりと描く傾向も同様である。この辺りが小松作品に独特の熱っぽさと艶を与えている。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ソ連のSF作家イワン・エフレーモフの社会主義的SF論に対抗して書いた「拝啓イワン・エフレーモフ様」(巽孝之編『日本SF論争史』勁草書房に収録)をはじめとした、数々のSF論で「科学技術が、人間社会や人間の存在自体を変えてしまう時代の、『本流文学』としてのSF」を一貫して主張し続けている。ただし、この小松が理想とするSFは、小松ほどの博覧強記な作家でしか、書き得ないともいえる。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "その他にも、日本各地や世界各地を旅しての文明論や、日本文化論、科学エッセイなどの、ノンフィクションも多数執筆しているが、これらについても「SF作家としての視点」からの壮大な視点から書かれている。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "精力的な執筆で知られたが、健康問題もあり50代後半以降の創作はきわめて少ない。54歳から執筆開始された最後の単独執筆長編『虚無回廊』も未完に終わった。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "筒井康隆は「小松左京論」において、一般の作家は個別のアイデアを元に作品を個体発生させていくのに対し、小松はテーマを先に決め膨大な知識でアイデアを系統発生させて作品を仕上げていくテーマ敷衍型の作家であると評している。筒井はそれを、知識のたくさん詰まった長持をがらがっちゃがっちゃとぶちまける、といった風に表現している。。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "広範な領域での業績と旺盛な活動力を岡田斗司夫、唐沢俊一らは「荒俣宏と立花隆と宮崎駿を足して3で割らない」と評している。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "批評家の東浩紀は「小松は、戦後日本を代表する娯楽作家だっただけではない。また日本SFの創設者だっただけでもない。小松はそれよりもなりよりも、まずは知識人であり教養人であり、その溢れる知性に文学というかたちを与えるとき、SFという表現形式を見出したひとりの思索者だったのだ」と考える。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "代表作には、時間と空間をまたにかけた壮大な長編『果しなき流れの果に』(1966年)が挙げられる。この作品は1997年の『SFマガジン』500号記念号で発表された、「日本SFオールタイムベスト」において長編部門1位を獲得した。さらに短編部門では同じく小松作品の「ゴルディアスの結び目」が1位になった。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "初期長編では、娯楽色と思索性を高いレベルで両立させたSFミステリ『継ぐのは誰か』の人気も高い。山田正紀がこの作品を青春小説として評価している。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "中国のベストセラー小説『三体』の著者・劉慈欣は小松左京作品を愛読しているという。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "『日本沈没』、『復活の日』、『エスパイ』、『首都消失』などが映画化されており、特に1984年公開の『さよならジュピター』は単に原作提供にとどまらず、新たに「株式会社イオ」を設立して映画製作に出資。小松自身も総監督として現場の指揮を執り、最新のCGを駆使して特撮場面をとるほどの、力の入れようだった。テレビにも映像化作品は多く、中にはテレビオリジナル作品もある。2006年には、『日本沈没』が、現代にあわせてリメイクされ、映画として公開された。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "一方、文壇からの正当な評価、評論は特になく、『小松左京自伝』においては、「開高健や北杜夫ぐらいにしか、自分の文学を評価してもらえなかった。せめて、(非SFである)『芸道小説』ものでは、直木賞をくれないかなと思った。」「現在でも、社会や文壇が、SFを十分に認知しないことへの、いらだちがある」と、無念さを吐露している。また同書には、「一貫して、宇宙における文学の意味、宇宙における人類の意味を考えてきた」という発言があり、他のSF作家とは連帯しきれない、小松なりの孤独な問題意識が書かれている。この小松ならではの文学的な問題意識が共有できたのは、SF作家仲間よりもむしろ開高健、高橋和巳であったとも書かれている(ただし、開高は後年小松作品を「もたれる」と評し、筒井康隆から人格批判にまで至る激烈な反駁を受けている)。また、角川文庫版『牙の時代』解説で、中井英夫は端正に彫琢され面白い物語に徹した最初期短編を至上とし、政治的、文明批評的な饒舌が溢れる作風に転じたことを強く批判(同書収録作もそれらに含まれるため異例の解説である)。親交のあった三島由紀夫が「日本アパッチ族なんて、あんなもの書きやがって」と、同意を示していたことを記している。ただ、小松が広範な人気を獲得していったのは『日本アパッチ族』以降であることも事実である。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "尋常でない好奇心を持っていた。ある日舗道を歩いていると「なんなんだ、中身は」と言いながら道路を横切り、小さな洋食屋の「ランチはじめました」の紙に書かれたメニューの中身を確かめに飛んで行ったのである。小松の知識と情報量を支えているのはこの原子力発電所や量子力学、プレートテクトニクスから街の洋食屋のランチにいたるまで完全に同等な好奇心であった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "小松は「SF」というジャンルに誇りを抱いていた。SFならばあらゆる表現が可能になる。むしろ、これからはあらゆる表現がSFになるというのが彼の信条だった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "速筆でマージャンで1人余って抜けてる間に原稿用紙に手書きで1時間ほどで20枚程度書き、また雀卓に戻っていった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "関西の官僚や財界人たちともブレイン役として交際し、「湾岸道路の建設」「関西新空港の整備(現:関西国際空港)」「研究学園都市の創設(現:けいはんな学研都市)」などを提案した。また、彼らとの交流で、祇園などの花街を体験し、「芸道小説」シリーズなどに結実している。ユーモラスな一面もあり、『SF作家オモロ大放談』では、自分の精液をフライパンで焼いて食べたことがあると語っている。1970年頃はよく太っていて、ラジオなどでも自称メガネ豚と言っていた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "生まれ育った関西に愛着を持ち、関西を盛り上げるためのさまざまな活動を行った。1977年から1982年には大阪フィルハーモニー交響楽団のイベント「大フィルまつり」の企画・構成を担当。1978年には、「関西で歌舞伎を育てる会」(現:関西・歌舞伎を愛する会)の代表世話人になり、20年以上つとめた。また、かんべむさし、堀晃などの関西出身の後輩SF作家たちにも、目をかけた。また、『大阪タイムマシン紀行』 『わたしの大阪』 『こちら関西』 『こちら関西・戦後編』など、関西をテーマにした著書も多数ある。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "マージャンの腕はかつて業界記者をやってたころ修羅場のようなシビアなマージャンを経験したおかげでとにかく強かった。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "ヘビースモーカーであったため、紙巻きタバコを手にした写真が多数残されている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "角川書店の編集局長時代に交流があった角川春樹は、「頭の回転が速く教養も深かったが、後年はその面影がすっかり薄れましたね」「最大の原因は大量の酒です。昼間からウィスキーグラスを手にするほどの酒豪で、酒で作家生命を縮めたことが残念でしたね」と証言している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "※新潮文庫などのオリジナル文庫本には再収録傑作選が多数含まれる。",
"title": "作品リスト"
}
] |
小松 左京は、日本の小説家。本名:小松 実。 『易仙逃里記』(1962年)でデビューして以降、人類と文明の可能性を模索し続けた、SF小説の大家。作品に『日本アパッチ族』(1964年)、『果しなき流れの果に』(1966年)、『日本沈没』(1975年)など。
|
{{著作権問題調査依頼}}
{{Infobox 作家
|name= 小松 左京<br />(こまつ さきょう)
|image=SF-Magazine-1963-January-6.jpg
|image_size=200px
|caption=<small>『[[S-Fマガジン]]』1963年1月号([[早川書房]])より</small>
|pseudonym={{ruby|小松 左京|こまつ さきょう}}
|birth_name={{ruby|小松 実|こまつ みのる}}
|birth_date={{生年月日と年齢|1931|1|28|no}}
|birth_place={{JPN}}・[[大阪府]][[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]
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|religion=
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|debut_works=「易仙逃里記」(1962年)
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|website=[http://www.iocorp.co.jp/ 株式会社イオ(小松左京事務所)]<!--
|footnotes=-->
}}
{{読み仮名_ruby不使用|'''小松 左京'''|こまつ さきょう|[[1931年]]〈[[昭和]]6年〉[[1月28日]]{{R|全史540}} - [[2011年]]〈[[平成]]23年〉[[7月26日]]}}は、[[日本]]の[[小説家]]。本名:{{読み仮名_ruby不使用|小松 実|こまつ みのる}}。
『易仙逃里記』(1962年)でデビューして以降、人類と文明の可能性を模索し続けた、SF小説の大家。作品に『日本アパッチ族』(1964年)、『果しなき流れの果に』(1966年)、『日本沈没』(1975年)など。
== 概要 ==
[[星新一]]・[[筒井康隆]]と共に「SF御三家」と呼ばれ<ref>[[宮崎哲弥]]『いまこそ「小松左京」を読み直す』 [[NHK出版新書]]、2020、p.7</ref>、日本[[サイエンス・フィクション|SF]]界を代表する[[SF作家]]であり、戦後の日本を代表する小説家でもあった{{Sfn|小松セレクション1|2011|p={{要ページ番号|date=2022年1月}}}}。
1970年の[[日本万国博覧会]]でテーマ館サブ・プロデューサー、1990年の[[国際花と緑の博覧会]]の総合プロデューサーとしても知られる。宇宙開発の振興を目的とした啓発活動にも力を入れ、[[宇宙作家クラブ]]の提唱者で[[顧問]]も務める。
広範囲で深い[[教養]]を備えた[[知識人]]であり、その活動範囲は幅広く膨大なジャンルにわたる{{R|:1}}。
デビューの直後から、通常の作家の枠を超えた八面六臂の活動を始めている。ジャーナリストして国内各地を歩き、メディア出演を精力的にこなし、未来学研究会や[[メタボリズム|メタボリスト]]など、多くの学者やクリエイターと交流をもった。1970年の大阪万博では30代という若さで主要スタッフに名を連ね、関西財界や財界との密接な交流は晩年まで続いた。その姿は、今「SF作家」という言葉で想像されるものをはるかに超えている{{Sfn|小松セレクション1|2011|p={{要ページ番号|date=2022年1月}}}}{{Sfn|小松セレクション2|2012|p={{要ページ番号|date=2022年1月}}}}。
未来を書くSF作家としてデビューし、しかも好奇心旺盛だった小松は、単なるエンタテインメント作家ではない、未来について語る新世代の知識人として、独特の期待を寄せられる運命にあったといえる。実際彼はその期待に応え、小説執筆の傍らさまざまな言論人・建築家と積極的に交流し、様々な研究会、学会の設立に参加して積極的にコミットし、新しい知識人の一角を急速に占めていった。[[学者]]や[[財界|財界人]]を相手に[[文明]]論を語り、[[日本論]]を闘わせる精力的な人物だった{{Sfn|小松セレクション1|2011|p={{要ページ番号|date=2022年1月}}}}。
他方で小松は自ら製作会社を立ち上げて若い作家を集め大型SF映画の制作にも乗り出している。小松が原作、脚本、総監督、製作全てにクレジットされ、公開した映画は興行成績こそ振るわなかったものの、ライトノベル作家やアニメーターなど、次世代のクリエーターの育成に大きな役割を果たした{{Sfn|小松セレクション1|2011|p={{要ページ番号|date=2022年1月}}}}{{Sfn|小松セレクション2|2012|p={{要ページ番号|date=2022年1月}}}}。
また、関西出身の知識人として京阪地域の愛着はとりわけ強く、さまざまな場でブレイン役を勤めた{{Sfn|小松セレクション1|2011|p={{要ページ番号|date=2022年1月}}}}。
ほかにもエッセイや対談、メディア出演は数しれず、[[阪神・淡路大震災|阪神大震災]]の際も活動を行っていた{{Sfn|小松セレクション1|2011|p={{要ページ番号|date=2022年1月}}}}。
==経歴==
===生い立ち===
[[先祖]]は[[阿波国|阿波]]([[徳島県]])の小松から[[千葉県|千葉]]の[[房総半島|外房]]に行った[[漁師]]の一族{{R|週刊サンケイ}}。父親は[[明治薬学専門学校 (旧制)|明治薬学専門学校]](現・[[明治薬科大学]])夜学在学中に東京の老舗の漢方薬屋の娘と婚約しのちに結婚した{{R|週刊サンケイ|komatu9412}}。父親が薬学を捨て電気機械の商いを志し、大阪で金属加工の町工場を興したため、[[大阪府]][[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]で五男一女の次男として生まれた{{R|komatu9412}}。4歳のとき[[兵庫県]][[西宮市]]に転居し、その後は[[尼崎市|尼崎]]と西宮で育った{{R|komatu9412}}{{efn|書籍『東宝特撮映画全史』では、「西宮生まれ」と記述している{{R|全史540}}。}}。[[京都大学]]で冶金工学を専攻し[[三洋電機]]の技術者となった兄は、戦争のさなかでも科学書を読み漁り、小松に科学の知識を教えた<ref>{{Harvnb|小松|2008|p=17}}</ref>。またこの兄は、広島に落とされた新型爆弾が[[原子爆弾]]であることを教えたという<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=22f}}</ref>。
少年時代は病弱で、スポーツには興味が湧かず、歌と漫画と映画と読書に熱中した。また、母方の親戚がいる東京で[[歌舞伎]]を見たりもした。大阪でも[[文楽]]につれていってもらい、古典芸能についての知識も身につけた<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=11-14}}</ref>。小学校5年の1941年の時に、NHK大阪放送局の子供向けニュース番組「子ども放送局」のキャスターに起用された<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=14f}}</ref>。
1943年、[[兵庫県立神戸高等学校|第一神戸中学校]]入学。小松は、関西でいう「[[いちびり|イチビリ]]」な性格で、笑芸やユーモア歌謡が好きであったため「うかれ」のアダナをつけられ、戦中は教師からにらまれていた。一方で、体が丈夫でなかったのにもかかわらず、柔道部に入った{{efn|戦後は柔道が禁止されたので、ラグビー部に転部した。}}<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=19-21}}</ref>。終戦時は14才だったが、当時は徴兵年齢がどんどん下がっており、「このまま戦争が続いて、自分も死ぬのだろう」と考えていたが、思いもよらず生き残った。そして、[[沖縄戦]]で自分と同年齢の中学生の少年たちが、銃を持たされて多数死んでいるのを知り、「生き残ってしまったものの責任」を考え、文学をそして、将来SFを書く契機となったという<ref>{{Harvnb|小松|2008|p=27}}</ref>{{efn|小松に限らず、日本のSF作家第一世代の多くは、「敗戦体験」が創作の基盤となっている。}}。
===終戦後===
戦後には、兄から教わったバイオリンの腕で、同級生の[[高島忠夫]]とバンドを組んでいた<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=28f}}</ref>。当時読んだ、[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]の『[[神曲]]』の「科学的な知見も組み込んだ壮大なストーリー」に衝撃を受け、後にSFを書く基盤ともなり、また大学ではイタリア文学を専攻することとなる<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=31f}}</ref>。
1948年に神戸一中を[[旧制中学校#「四修」による上級学校への進学|四修]]し、[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]に入学。あこがれの[[旧制高等学校|旧制高校]]時代は「人生で一番楽しかった年」だったというが、本来「3年間のモラトリアム」のはずが[[学制改革|学制変更]]のため1年で終わる<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=32-36}}</ref>。翌年には[[京都大学大学院文学研究科・文学部|京都大学文学部]]を受験し、イタリア文学科に進学。大学在学中に同人誌『京大作家集団』の活動に参加。[[高橋和巳]]や[[三浦浩]]{{efn|のち、[[産経新聞]]に入社し、[[司馬遼太郎]]の部下となった人物。}}と交流を持つ。ほかに[[福田紀一]]とも知り合う。当時デビューしたばかりの、[[安部公房]]の作品に熱中する<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=39-46}}</ref>。
[[日本共産党]]に入党して、[[山村工作隊]]など政治活動を行っていたのもこの頃である{{efn|『京大作家集団』への入会も、『入会して会を乗っ取れ』という党からの指示によるものだったという。}}。だが、原爆を投下したアメリカに対する反感からの「反戦平和」を唱える共産党に共鳴しての入党であり{{efn|三高以来の親友が、印鑑を偽造し、小松の知らないままに入党届けを出したという。}}、共産主義思想を真に信奉してのものではなかった{{efn|当時の活動は、事前に待ち合わせ日時を決めて集団でアジテーションを叫びながら街中を練り歩くというものだった。}}。そのため、ソ連の原爆開発にショックを受け、共産党の活動に疑問を抱き、後に共産党を離党する<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=36-43}}</ref>{{efn|小松は後年、[[民社党]][[機関紙]]「革新」に「[https://ci.nii.ac.jp/naid/40000451291 野党は未来政党たれ]」などを寄稿するなど、民社党支持者としての側面を見せている。}}。
また、この時期に「'''もりみのる'''」「'''小松みのる'''」「'''モリミノル'''」名義で『おてんばテコちゃん』、『イワンの馬鹿』、『大地底海』等の[[漫画]]作品を雑誌『[[漫画王]]』等に発表しており、既にデビューしていた[[手塚治虫]]の影響が窺える<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=34f}}</ref>。当時の小松の漫画を愛読していた、漫画家にして漫画コレクターの[[松本零士]]とも後に親交ができ、『[[銀河鉄道999]]』の文庫版の解説も小松が記している。
[[ルイジ・ピランデルロ]]についての卒論を提出して、1954年に大学を卒業。しかし、就職試験をうけたマスコミ各社の試験にすべて不合格。経済誌『アトム』の記者・父親の工場の手伝い・ラジオのニュース漫才の台本執筆等の職を経験する。また、[[産経新聞]]に入社していた三浦浩の紹介で、産経新聞にミステリなどのレビューも執筆する<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=46-52, 56-58}}</ref>。
大学時代から、神戸一中の同級生たちと結成していたアマチュア劇団でも、戯曲執筆・演出・出演を担当していた。この時、オーディションに来た女性に一目ぼれして交際し、1958年に結婚。だが、生活は苦しく、妻の唯一の楽しみであるラジオを修理に出してしまったため、当時大阪に出現していた「[[大阪砲兵工廠#アパッチ族|アパッチ族]]」{{efn|ネイティブ・アメリカンの部族名ではなく、資源ごみとして収集されている物を不法に回収する人々を指す呼称。}}をモデルにした空想小説([[カレル・チャペック]]『[[山椒魚戦争]]』にインスパイアされている)を書いて、妻の娯楽にあてた。この作品が、後の長編デビュー作『[[日本アパッチ族]]』の原型となった<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=53-55}}</ref>。
===作家===
[[File:SF-Magazine-1963-November-1.jpg|thumb|200px|1963年]]
三浦浩に知らされて1959年12月に[[早川書房]]が創刊した『[[SFマガジン]]』創刊号と出会い、[[ロバート・シェクリイ]]の「危険の報酬」に衝撃を受け、自分もアメリカ流のサイエンス・フィクションを書こうと決意する{{R|全史540}}。1961年、早川書房主催の第1回空想科学小説コンテスト([[ハヤカワ・SFコンテスト]]の前身)に、「小松左京」のペンネームで応募した「[[地には平和を]]」が努力賞に入選。筆名の「左京」は、姓名判断に凝っていた兄から「五画と八画の文字を使えば大成する」と助言を受け、「左がかっていた京大生だから」ということで「左京」を選んだ。「地には平和を」は『SFマガジン』には掲載されず、入会したSF同人誌『[[宇宙塵 (同人誌)|宇宙塵]]』に掲載された<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=59-62}}</ref>{{Efn|なお同人誌を含めるのであればSFのデビュー作は『[[宇宙塵 (同人誌)|宇宙塵]]』57号(1962年〈昭和37年〉7日1日発行)に掲載された『さんぷる1号』(『コップ一杯の戦争』集英社文庫などに収録)である<ref>柴野拓美「解説」『コップ一杯の戦争』集英社文庫、1981年、198頁</ref>。}}。翌年の第2回SFコンテストで『お茶漬けの味』が第三席となったが、編集長の[[福島正実]]からはすでに評価されており、それを待つことなく『SFマガジン』(1962年10月号)に掲載された『易仙逃里記』でデビューし、常連に加わる<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=61f}}</ref>。
1963年、[[日本SF作家クラブ]]の創設に参加(1980年-1983年に[[星新一]]、[[矢野徹]]に続いての三代目会長)。盛んに上京し、SF作家仲間たちと交流した。
1963年『[[オール讀物]]』に「紙か髪か」が掲載され、中間小説誌デビュー。[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]や[[扇谷正造]]に絶賛される。同年、短編集『地には平和を』を刊行し、1963年度下半期の[[直木賞]]候補となった{{R|全史540}}。1964年、[[光文社]]から処女長編『日本アパッチ族』を刊行{{efn|小松をだまして共産党に入党させた悪友の兄が光文社に入社していたため。}}<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=62f, 127}}</ref>。
1964年には[[加藤秀俊]]、[[梅棹忠夫]]らと共に『「[[日本万国博覧会|万国博]]」を考える会』を結成し<ref>{{Cite book |title=SF魂 |date=2006-07-20 |publisher=新潮社 |author=小松左京}}</ref>、[[日本万国博覧会|大阪万博]]のテーマや理念を検討。1967年にはモントリオールでひらかれていた世界博を視察。加藤、[[粟津潔]]、[[泉眞也]]らと、万国博の娯楽施設のプランも作った。
また、このメンバーらで[[未来学]]も話題となり、1968年の「日本未来学会」の創設に、[[梅棹忠夫]]、[[加藤秀俊]]、[[林雄二郎]]、[[川添登]]と参加する<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=66-70}}</ref>。他に小松、加藤、川添、[[川喜田二郎]]の4名で「KKKK団」と名乗り、1966年に雑誌『[[文藝]]』に連続対談を5回連載した<REF>[[寺田博]]『文藝編集実記』(河出書房新社、P.118)</REF>。1967年には「KKKK団」の4名の共著の著書として『シンポジウム未来計画』(講談社、小松左京編著)を刊行した。
1964年から始まった近畿ローカルのラジオ番組「題名のない番組」(ラジオ大阪)や「ゴールデンリクエスト」(近畿放送(現:京都放送))で[[桂米朝]]らと知的で快活なトークを交わしたが、そこにあった常連リスナーからの投稿からアイデアを得て「蜘蛛の糸」「海底油田」「四次元ラッキョウ」などの多くの[[掌編小説|掌編]]をなした。彼の掌編はこの時期に集中している。
1965年には[[ベトナムに平和を!市民連合|ベ平連]]創立時の「呼びかけ人」になった<ref>{{Cite web|和書|title=月刊基礎知識 from 現代用語の基礎知識 |url=https://www.jiyu.co.jp/GN/cdv/backnumber/200209/topics04/topic04_05.html |website=www.jiyu.co.jp |accessdate=2019-09-29 |publisher=[[自由国民社]]}}</ref>。1966年には、[[テレビ東京|東京12チャンネル]]に勤務していた[[ばばこういち]]が主宰で、「[[ベトナム戦争]]についてのティーチ・イン」を行った際、小松は[[小田実]]や[[開高健]]らとともに参加し、ベトナム戦争反対論を論じた。このイベントは、あまりに反戦論者が多かったため放送されず、ばばは、東京12チャンネルを退社した<ref>{{Harvnb|田原|矢崎|2004|p=126}}</ref>。
1970年には「[[国際SFシンポジウム]]」を主宰。米・英・ソ等のSF作家を日本に招き、[[アーサー・C・クラーク]]、[[ジュディス・メリル]]、[[フレデリック・ポール]]、[[ブライアン・オールディス]]らが参加した。また、同年の[[日本万国博覧会]]ではサブ・テーマ委員、テーマ館サブ・プロデューサー(チーフ・プロデューサーは[[岡本太郎]])を務めた。「[[太陽の塔]]」内の展示を、岡本太郎と考え、[[デオキシリボ核酸|DNA]]の巨大な模型を作り、生物の進化を現すようにした。また、地下スペースに、[[石毛直道]]らが収集した世界中の神像や仮面を展示。そのコレクションが、1977年オープンの[[国立民族学博物館]]の元となった<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=70-72}}</ref>。
1980年には、[[日本SF作家クラブ]]会長として、[[徳間書店]]をスポンサーとした「[[日本SF大賞]]」の創設に尽力。1981年1月発表の第1回受賞作には、科学を主題にした、本格的な[[ハードSF]]短編集である[[堀晃]]の『[[太陽風交点]]』([[早川書房]]、1979年)を強く推して、受賞させた。
1980年前後、東宝からのオリジナルSF映画の企画依頼に応じ、多数のSF作家を招いてブレーンストーミングを重ねたのち、小説を先行させて『[[さよならジュピター]]』を発表。映画化に際しては新会社を設立して自ら総監督兼脚本を務め、名目上だけではなく完全な陣頭指揮を取った。必ずしも好評価にはつながらなかったが多くのSF作家を育てた。
1986年、自身を投影した老科学者が宇宙へ飛び出し果てしない旅を続ける『[[虚無回廊]]』を執筆。この作品は結局未完となる。
1990年の[[国際花と緑の博覧会]]では[[博覧会]]の総合プロデューサー([[泉眞也]]、[[磯崎新]]と共同)として活躍。また、5回にわたり「大阪咲かそ」シンポジウムのプロデュースを担当するなど執筆以外の活動も多岐にわたっている。これらのプロジェクトの経験は、のちに、著書『巨大プロジェクト動く』にまとめている<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=91-93}}</ref>。
2000年より[[角川春樹事務所]]が主宰で[[小松左京賞]]が設立され、選考委員を務めている(2009年の第10回をもって休止)。
2001年より同人誌『[[小松左京マガジン]]』を主宰。毎号巻頭には編集長インタビューとして小松と著名人との対談が掲載されていた。
1993年に[[小林隆男]]によって発見されていた[[小惑星]] (6983) が、2002年に「Komatsusakyo」と命名された。
2006年7月からは『小松左京全集完全版』([[城西国際大学]]出版会刊)の刊行も始まった。この全集はハードカバーとしては日本で初めて[[オンデマンド印刷]]で作られることでも注目されている。2000年1月にはすでにオンラインで注文した作品を組み合わせてオンデマンドで印刷する『オンデマンド版・小松左京全集』([[BookPark]]) が開始されている。
2007年に日本で開催された[[ワールドコン]] [[第65回世界SF大会|第65回ワールドコン/第46回日本SF大会Nippon 2007]]には[[デイヴィッド・ブリン]]と共に作家[[:en:Worldcon#Guests of Honor|ゲスト・オブ・オナー]]として招待された。
2008年には、『小松左京自伝 実存を求めて』が刊行された。
2011年7月26日午後4時36分、[[肺炎]]のため大阪府[[箕面市]]の病院で死去<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNNS0010003_Y1A720C1000000/ |title=作家の小松左京氏が死去 「日本沈没」 |publisher=日本経済新聞 |date=2011-07-28 |accessdate=2020-02-14}}</ref>。{{没年齢|1931|1|28|2011|7|26}}<ref>{{Cite news |title=SFの大家、小松左京さん死去 「日本沈没」など |author=[[共同通信]] |newspaper=[[47NEWS]] |publisher=[[全国新聞ネット]] |date=2011-07-26 |url=http://www.47news.jp/CN/201107/CN2011072801000573.html |accessdate=2011-07-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130620160035/http://www.47news.jp/CN/201107/CN2011072801000573.html |archivedate=2013-06-20 |deadlinkdate=2017-10}}</ref><ref>{{Cite news |title=「日本沈没」SF作家・小松左京さん死去 80歳 |newspaper=[[MSN産経ニュース]] |publisher=[[産経新聞社]] |date=2011-07-28 |url=http://sankei.jp.msn.com/life/news/110728/bks11072815590000-n1.htm |accessdate=2011-07-28 |archiveurl=https://megalodon.jp/2013-1004-2012-00/sankei.jp.msn.com/life/news/110728/bks11072815590000-n1.htm |archivedate=2013-10-04}}</ref>。
没後、『[[復活の日]]』に登場するアメリカの[[アマチュア局]]の[[コールサイン]]「WA5PS」が誰にも割り当てられておらず空いていることが判明、小松左京事務所に許可を求めた上で「小松左京記念局」として免許された<ref>[http://wireless2.fcc.gov/UlsApp/UlsSearch/license.jsp?licKey=3335605 ULS License - Vanity License - WA5PS - Sakyo Komatsu Memorial Amateur Radio Station]{{en icon}}[[連邦通信委員会]]無線通信局 コールサイン検索サイト</ref>。
2019年10月12日より12月22日まで、[[世田谷文学館]]にて、展覧会『小松左京展―D計画―』が開催された。D計画とは『日本沈没』の作中で遂行されるプロジェクト名から来ている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.setabun.or.jp/exhibition/20191012-1222_komatsuakyo.html |title=企画展 小松左京展―D計画― |accessdate=2022-03-21 |publisher=[[世田谷文学館]] }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.excite.co.jp/news/article/OhtaBooks_014833/|title=小松左京という壮大な宇宙に挑む『小松左京展―D計画―』 世田谷文学館にて |date = 2019-09-23 | accessdate=2019-10-21 |author=[[太田出版]]ケトルニュース | publisher = [[エキサイト]]ニュース}}</ref>。
==小松左京と万国博覧会==
[[民族学|民族学者]]の[[梅棹忠夫]]は1963年、「情報産業論」を発表。センセーションを巻き起こした。小松は共に『放送朝日』に執筆していたのが縁で梅棹と知り合い、1963年の終わり頃、梅棹を中心にできた私的研究会に、小松も喜んで加わった。メンバーは、[[林雄二郎]]、[[川添登]]、[[加藤秀俊]]それに小松で、林は当時[[経済企画庁]]の経済研究所所長、川添は建築評論家、加藤は[[京都大学大学院教育学研究科・教育学部|京都大学教育学部]]の助教授だった。このメンバーを主体に若手研究会による私的研究会「'''万国博を考える会'''」が結成される{{efn|その頃、新聞などではまだ「国際博」という言葉を使っていたが、「国際」という単語には近代主義的、特に「戦後近代主義」的なニュアンスがつきまとってるという梅棹の意見に皆賛成し、あえて「万国博」にした{{Sfn|SF魂|2006|p=81-82}}。また国際というと欧米諸国のことだけしか思い浮かべず[[発展途上国]]のことも視野に入れてのことだった{{Sfn|小松|2018|page=255-256}}。}}。小松は当初、知的好奇心によるプライベートな集まりの研究を目的としており、国家プロジェクトとしての万博に関わるつもりはなかった{{Sfn|SF魂|2006|p=81-85}}。
==小松左京と大震災==
1995年1月に発生し、小松自らも被災した[[阪神・淡路大震災]]の際には[[テレビ局]]のインタビューに答えて、[[視聴者]]のリクエストと[[ヘリコプター]]などの現場取材を連携させた[[生放送|ライブ]]による安否情報の発信を提案した。いくつかのテレビ局が実際に試みたが、被害範囲が広すぎたことと、リクエストの信憑性を検証できないという指摘を受け、あまり成果を挙げないまま中止された。
ある高名な学者に、高速道路がなぜ倒れたかを共同で検証したいと申し入れたが、学者は「地震が予測をはるかに超えていただけ。私たちに責任はない」と言われ信じられない思いを受けた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3125/1.html|title=想像力が未来を拓(ひら)く~小松左京からのメッセージ~ |accessdate=2019-10-21 |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20191021101939if_/http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3125/1.html |archivedate=2019-10-21 |deadlinkdate=2021-8-15 }}</ref>。
小松は『小松左京の大震災'95』を1996年6月に刊行し、震災の教訓として防災情報の共有化や、温かみのある復興の大切さを書いた。その後は、もう何もする気力がなくなり、[[鬱病]]をわずらったという。2000年ごろようやく回復<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=95-97}}</ref>。その後も小松自身は震災からの復旧活動に積極的に関与していた。
2011年3月11日に発生した[[東日本大震災]]では「唯一の[[被爆国]]の国民として、SF作家になった人間として、事実の検証と想像力をフルに稼働させて、次の世代に新たなメッセージを与えたい」との言葉を残した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/tv/2011/11/25114253.html?p=all |title=小松左京、原爆と震災で痛感「科学技術は災害も引き起こす。未来拓くのは想像力」 |accessdate=2019-10-21 |publisher=}}</ref>。復興を願い、「これから日本がどうなるのんか、もうちょっと長生きして、見てみたいいう気にいまなっとんのや」と記していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://books.bunshun.jp/articles/-/3350 |title=“日本人は、大災害に必ず勝つ”と訴え続けた小松左京 文藝春秋BOOKS |accessdate=2019-10-21 |publisher=}}</ref>。また、『3・11の未来 日本・SF・創造力』の序文を寄せている<ref>{{Cite web|和書|url=https://book.asahi.com/article/11642271 |title=好書好拾 戦後日本SFの総点検 |accessdate=2019-10-21 |publisher=}}</ref>。
==「日本沈没」について==
最大のベストセラーになったのは1973年に光文社から刊行された『[[日本沈没]]』で、社会現象とまでなった。刊行前は「長すぎて売れない」と出版社側からは言われていたが、3月に発売すると驚くほどの売れ行きを示し、その年末までに上下巻累計で340万部が刊行された<ref>{{Harvnb|石川|1996|pp=303-305}}</ref>。[[福田赳夫]]や当時首相だった[[田中角栄]]も、この本を読んだという<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=76-79、221-231}}</ref>。
最初はタイトルは『日本滅亡』にするつもりだったが編集者が『沈没』を提案した{{Sfn|SF魂|2006|p=130}}。
1964年に世に現れた[[電卓]]であるが、小松はこれをすぐに導入し「使いまくって」、『日本沈没』を書いた、という。2011年7月29日の毎日新聞「余録」には<!--新聞名、日付、箇所が明記されているので検証可能性の担保としては十分でしょう。リンク切れのためコメントアウト<ref>http://mainichi.jp/select/opinion/yoroku/news/20110729k0000m070144000c.html</ref>。-->13万円の電卓、とあり、同年11月24日のNHK『クローズアップ現代』では、小松の電卓としてキヤノンのキヤノーラ1200(12万6千円)が紹介された。別モデルと思われる話もあり、[[安田寿明]]によれば、37万円ほどの標準品を買い「目の玉が飛び出るほど高かったが、あれを使いまくったおかげで『日本沈没』が書けた」と小松は語ったという<ref>{{Harvnb|安田|1977|p=37}}</ref>。また、1979年に発売された初の国産[[ワープロ]]である東芝の[[JW-10]](630万円)も、いち早く一号機を小松左京事務所で使用していたが、その後、携帯できないことなどを理由に手書きに戻っている<ref>{{Cite book|和書|author=野田昌宏|authorlink=野田昌宏|title=新版 スペース・オペラの書き方|publisher=[[早川書房]]〈[[ハヤカワ文庫#ハヤカワ文庫JA(旧 ハヤカワJA文庫)|ハヤカワ文庫JA]]〉|pages=373,374|isbn=978-4-15-030409-6}}</ref>。
『日本沈没』は「第一部完」として発売され、第二部は「世界に流浪した日本人たちの運命」を描く予定であったが、「日本人」としての固有性を守るべきか、「国土を失った民族として[[コスモポリタニズム]]に貢献」すべきか小松に迷いが生じ、執筆されなかった。後に高齢を理由に小松自身による執筆は放棄され、2003年11月から続編を作成するプロジェクト・チームが作られた。執筆は[[谷甲州]]が担当し、2006年7月に『日本沈没 第二部』が刊行された<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=80、232-239}}</ref>。
==作風==
SFマガジンでのデビュー以来、様々なジャンルにわたる多数の長短編作品や[[ショートショート]]を世に送り出し、日本のSFを牽引した。その作風は人類の運命を描くハードコアSF(本格SF)から、[[ポリティカル・フィクション]]、[[タイムトラベル]]物、[[歴史改変小説]]や[[パラレルワールド]]物、[[スラップスティック・コメディ|スラップスティック]]、アクション物、SFミステリ、[[ホラー小説|ホラー]]、[[性愛文学|エロティック]]な作品、[[寓話]]的な作品や[[ファンタジー]]に至るまで幅広い。
あまりの多面さに作風を一面的に断じる事は出来ないが、当時先端の科学や政治経済の知識を駆使し、プロットの練られた『日本沈没』『首都消失』のような作品から、下町を背景に描いた『[[コップ一杯の戦争]]』、日本を始めとする各種神話に取材した作品まで、非SFである歴史小説、[[中間小説]](奇妙な女たちを描く短編「女シリーズ」や、古典芸能の知識が結実した「芸道小説」シリーズなどがある)も含め[[サイバーパンク]]以前のほぼ全てのジャンルに手を付けたといっても過言ではない{{efn|もっともサイバーパンク分野ですら、『BS6005に何が起こったか』(1971)、『ト・ディオティ』(1968)などで、サイバーパンクの系譜でもある[[シミュレーテッドリアリティ]]を先取りしたと考えることもできる。}}。また、非SFでも、あくまで「SF作家としての視点」から作品が構想されていることが、『小松左京自伝』に収録されている「自作解説」から分かる。
小松作品では純粋で正義感の強い青年が主人公を務めることが多い。これは、しばしば並び称される星新一、筒井康隆らには全くといっていいほど見られない特徴で、時おり人情、情緒、官能などをたっぷりと描く傾向も同様である。この辺りが小松作品に独特の熱っぽさと艶を与えている。
ソ連のSF作家[[イワン・エフレーモフ]]の社会主義的SF論に対抗して書いた「拝啓イワン・エフレーモフ様」([[巽孝之]]編『日本SF論争史』勁草書房に収録)をはじめとした、数々のSF論で「科学技術が、人間社会や人間の存在自体を変えてしまう時代の、『本流文学』としてのSF」を一貫して主張し続けている。ただし、この小松が理想とするSFは、小松ほどの博覧強記な作家でしか、書き得ないともいえる。
その他にも、日本各地や世界各地を旅しての文明論や、日本文化論、科学エッセイなどの、ノンフィクションも多数執筆しているが、これらについても「SF作家としての視点」からの壮大な視点から書かれている。
精力的な執筆で知られたが、健康問題もあり50代後半以降の創作はきわめて少ない。54歳から執筆開始された最後の単独執筆長編『虚無回廊』も未完に終わった。
==評価==
[[筒井康隆]]は「小松左京論」において、一般の作家は個別のアイデアを元に作品を個体発生させていくのに対し、小松はテーマを先に決め膨大な知識でアイデアを系統発生させて作品を仕上げていくテーマ敷衍型の作家であると評している。筒井はそれを、知識のたくさん詰まった長持をがらがっちゃがっちゃとぶちまける、といった風に表現している。<ref>筒井康隆「小松左京論」(小松左京『さらば幽霊 自選短編集』講談社文庫、1974年、211-224頁。および『文藝別冊 [追悼] 小松左京』河出書房新社、2011年、52-60頁に収録されている)。</ref>。
広範な領域での業績と旺盛な活動力を[[岡田斗司夫]]、[[唐沢俊一]]らは「[[荒俣宏]]と[[立花隆]]と[[宮崎駿]]を足して3で割らない」と評している<ref>「平成極楽オタク談義 第六夜 小松左京」([[MONDO TV|MONDO21]]、2004年5月15日放送)</ref>。
[[評論家|批評家]]の[[東浩紀]]は「小松は、戦後日本を代表する娯楽作家だっただけではない。また日本SFの創設者だっただけでもない。小松はそれよりもなりよりも、まずは[[知識人]]であり[[教養|教養人]]であり、その溢れる知性に文学というかたちを与えるとき、SFという表現形式を見出したひとりの[[思索|思索者]]だったのだ」と考える{{Sfn|小松セレクション1|2011|p={{要ページ番号|date=2022年1月}}}}。
代表作には、時間と空間をまたにかけた壮大な長編『[[果しなき流れの果に]]』(1966年)が挙げられる。この作品は1997年の『SFマガジン』500号記念号で発表された、「日本SFオールタイムベスト」において長編部門1位を獲得した。さらに短編部門では同じく小松作品の「[[ゴルディアスの結び目 (小松左京の小説)|ゴルディアスの結び目]]」が1位になった。
初期長編では、娯楽色と思索性を高いレベルで両立させたSFミステリ『継ぐのは誰か』の人気も高い。[[山田正紀]]がこの作品を青春小説として評価している<ref>{{Harvnb|山田|1977|pp=336-340}}</ref>。
中国のベストセラー小説『[[三体]]』の著者・[[劉慈欣]]は小松左京作品を愛読しているという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM7D666VM7DUCLV00C.html |title=中国SF「三体」異例のヒット 小松左京を愛読した著者 |accessdate=2019-10-26 |publisher=}}</ref>。
『[[日本沈没]]』、『[[復活の日]]』、『[[エスパイ]]』、『[[首都消失]]』などが映画化されており、特に1984年公開の『[[さよならジュピター]]』は単に原作提供にとどまらず、新たに「株式会社イオ」を設立して映画製作に出資。小松自身も総監督として現場の指揮を執り、最新の[[コンピュータグラフィックス|CG]]を駆使して特撮場面をとるほどの、力の入れようだった。テレビにも映像化作品は多く、中にはテレビオリジナル作品もある。2006年には、『[[日本沈没]]』が、現代にあわせてリメイクされ、映画として公開された。
一方、文壇からの正当な評価、評論は特になく、『小松左京自伝』においては、「[[開高健]]や[[北杜夫]]ぐらいにしか、自分の文学を評価してもらえなかった。せめて、(非SFである)『芸道小説』ものでは、直木賞をくれないかなと思った。」「現在でも、社会や文壇が、SFを十分に認知しないことへの、いらだちがある」と、無念さを吐露している。また同書には、「一貫して、宇宙における文学の意味、宇宙における人類の意味を考えてきた」という発言があり、他のSF作家とは連帯しきれない、小松なりの孤独な問題意識が書かれている。この小松ならではの文学的な問題意識が共有できたのは、SF作家仲間よりもむしろ[[開高健]]、[[高橋和巳]]であったとも書かれている(ただし、開高は後年小松作品を「もたれる」と評し、筒井康隆から人格批判にまで至る激烈な反駁を受けている)。また、角川文庫版『[[牙の時代]]』解説で、[[中井英夫]]は端正に彫琢され面白い物語に徹した最初期短編を至上とし、政治的、文明批評的な饒舌が溢れる作風に転じたことを強く批判(同書収録作もそれらに含まれるため異例の解説である)。親交のあった三島由紀夫が「日本アパッチ族なんて、あんなもの書きやがって」と、同意を示していたことを記している。ただ、小松が広範な人気を獲得していったのは『日本アパッチ族』以降であることも事実である。
==人物==
尋常でない好奇心を持っていた。ある日舗道を歩いていると「なんなんだ、中身は」と言いながら道路を横切り、小さな洋食屋の「ランチはじめました」の紙に書かれたメニューの中身を確かめに飛んで行ったのである。小松の知識と情報量を支えているのはこの[[原子力発電所]]や[[量子力学]]、[[プレートテクトニクス]]から街の洋食屋のランチにいたるまで完全に同等な好奇心であった<ref>{{Cite book|和書|author=高千穂遙|chapter=まえがき――キーワードは「教養」|pages=4-6|title=教養|publisher=徳間書店|year=2000|isbn=4-19-861266-8}}</ref>。
小松は「[[サイエンス・フィクション|SF]]」というジャンルに誇りを抱いていた。SFならばあらゆる表現が可能になる。むしろ、これからはあらゆる表現がSFになるというのが彼の信条だった{{Sfn|小松セレクション1|2011|p={{要ページ番号|date=2022年1月}}}}。
速筆でマージャンで1人余って抜けてる間に原稿用紙に手書きで1時間ほどで20枚程度書き、また雀卓に戻っていった{{R|:5}}。
関西の官僚や財界人たちともブレイン役として交際し、「湾岸道路の建設」「関西新空港の整備(現:[[関西国際空港]])」「研究学園都市の創設(現:[[関西文化学術研究都市|けいはんな学研都市]])」などを提案した<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=89f}}</ref>。また、彼らとの交流で、[[祇園]]などの花街を体験し、「芸道小説」シリーズなどに結実している<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=258f}}</ref>。ユーモラスな一面もあり、『SF作家オモロ大放談』では、自分の精液をフライパンで焼いて食べたことがあると語っている。1970年頃はよく太っていて、ラジオなどでも自称メガネ豚と言っていた。
生まれ育った関西に愛着を持ち、関西を盛り上げるためのさまざまな活動を行った。1977年から1982年には[[大阪フィルハーモニー交響楽団]]のイベント「大フィルまつり」の企画・構成を担当。1978年には、「関西で[[歌舞伎]]を育てる会」(現:[[関西・歌舞伎を愛する会]])の代表世話人になり、20年以上つとめた<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=86f}}</ref>。また、[[かんべむさし]]、[[堀晃]]などの関西出身の後輩SF作家たちにも、目をかけた。また、『大阪タイムマシン紀行』 『わたしの大阪』 『こちら関西』 『こちら関西・戦後編』など、関西をテーマにした著書も多数ある。
マージャンの腕はかつて業界記者をやってたころ修羅場のようなシビアなマージャンを経験したおかげでとにかく強かった{{R|:5}}。
ヘビースモーカーであったため、紙巻きタバコを手にした写真が多数残されている<ref>{{Cite news|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20110729-812185.html|title=「日本沈没」SF作家小松左京氏死去]|newspaper=日刊スポーツ|date=2011-07-29|accessdate=2022-03-20}}</ref><ref>[https://www.jiji.com/jc/d4?p=kom004-img00000183&d=d4_news 「日本沈没」など壮大なスケールのSF小説で知…:作家・小松左京さん 写真特集:時事ドットコム]</ref>。
[[角川書店]]の編集局長時代に交流があった[[角川春樹]]は、「頭の回転が速く教養も深かったが、後年はその面影がすっかり薄れましたね」「最大の原因は大量の酒です。昼間からウィスキーグラスを手にするほどの酒豪で、酒で作家生命を縮めたことが残念でしたね」と証言している<ref>『最後の角川春樹』、2021年11月発行、伊藤彰彦、毎日新聞出版、P79</ref>。
==受賞歴==
*1971年 - 『[[継ぐのは誰か?]]』により第2回[[星雲賞]](日本長編部門)受賞<ref name="prizeworld">[https://prizesworld.com/naoki/kogun/kogun50KS.htm 小松左京(こまつ さきょう)-直木賞候補作家|直木賞のすべて]. 2022年3月21日閲覧</ref>。
*1973年 - 『[[結晶星団]]』により第4回星雲賞(日本短編部門)受賞<ref name="prizeworld" />。
*1974年 - 『[[日本沈没]]』により第27回[[日本推理作家協会賞]]・第5回星雲賞(日本長編部門)受賞<ref name="prizeworld" />。
*1976年 - 『[[ヴォミーサ]]』により第7回星雲賞(日本短編部門)受賞<ref name="prizeworld" />。
*1978年 - 『[[ゴルディアスの結び目 (小松左京の小説)|ゴルディアスの結び目]]』により第9回星雲賞(日本短編部門)受賞<ref name="prizeworld" />。
*1983年 - 『[[さよならジュピター]]』により第14回星雲賞(日本長編部門)受賞<ref name="prizeworld" />。
*1985年 - 『[[首都消失]]』により第6回[[日本SF大賞]]受賞<ref name="prizeworld" />。
*1990年 - [[大阪文化賞]]受賞<ref name="prizeworld" />。
*2007年 - [[城西国際大学]]より、[[名誉博士号]]授与。
*2011年 - 第42回星雲賞特別賞受賞{{Efn|この回の星雲賞は異例の受賞者事前発表であったが(例年は日本SF大会の会場で発表)これについては特別にSF大会のクロージングでの発表となった。なお、同大会の[[暗黒星雲賞]]「ゲスト部門」でも<!--酒を飲んでるのを見た、と複数の参加者がツイートするなどし-->次点となる票を得ている。}}。
*2011年 - 第32回日本SF大賞特別功労賞受賞。
==作品リスト==
=== 全集・選集 ===
* 小松左京コレクション 全5巻 ジャストシステム、1995年 - 1996年
* 小松左京全集 全50巻 城西国際大学出版会、2006年 - 2018年<ref>[https://www.josai.jp/jupress/backlist/sakyo.html 『小松左京全集 完全版』|既刊|学校法人城西大学 出版会|学校法人 城西大学]. 2022年3月22日閲覧</ref>
===小説===
====SF長編====
* [[日本アパッチ族]] 書き下ろし 光文社(カッパ・ノベルズ)、1964年3月 のち角川文庫、光文社文庫
* [[復活の日]] 書き下ろし 早川書房(日本SFシリーズ)、1964年8月 のち文庫、角川文庫、ハルキ文庫 - 流行病による人類滅亡の恐怖と、南極にいた生き残りの闘いと希望を描く。映画化。
** 復活の日 人類滅亡の危機との闘い ポプラ社、2009年([[新井リュウジ]]によるジュニア向けリライト版)
* [[エスパイ]] 『漫画サンデー』1964年4月8日号 - 10月7日号 早川書房 (日本SFシリーズ)、1965年6月 のち文庫、角川文庫、ハルキ文庫
* [[明日泥棒]] 『週刊現代』1965年1月1日号 - 7月15日号 講談社(ロマン・ブックス)、1965年12月 のち角川文庫、ハルキ文庫
* [[果しなき流れの果に]] 『S-Fマガジン』1965年2月号 - 11月号 早川書房 (日本SFシリーズ)、1966年7月 のち文庫、角川文庫、徳間文庫、ハルキ文庫 ISBN 4150300011
* [[ゴエモンのニッポン日記]] 『アサヒグラフ』1966年4月1日号 - 9月9日号 講談社、1966年12月 のち文庫、ハルキ文庫
* [[見知らぬ明日]] 『週刊文春』1968年4月29日号 - 9月9日号 文藝春秋、1969年3月 のち角川文庫、ハルキ文庫
* [[継ぐのは誰か?]] 『S-Fマガジン』1968年6月号 - 12月号 早川書房『世界SF全集』第29巻、1970年6月 のち単行本、文庫、角川文庫、ハルキ文庫
* [[日本沈没]] 書き下ろし 光文社カッパ・ノベルス、1973年3月 のち文春文庫、徳間文庫、光文社文庫、双葉文庫、小学館文庫、ハルキ文庫
* 題未定 『週刊小説』1976年8月16日号 - 10月4日号 実業之日本社 1977年3月 のち文春文庫、ケイブンシャ文庫、ハルキ文庫
* [[こちらニッポン…]] 『朝日新聞』夕刊 1976年4月19日 - 1977年1月22日 朝日新聞社、1977年4月 のち角川文庫、ハルキ文庫
* 時空道中膝栗毛 『報知新聞』1976年11月16日 - 1977年5月14日 文藝春秋、1977年9月 のち文庫、ケイブンシャ文庫
* 空から墜ちてきた歴史 『別冊小説新潮』1977年7月号 - 1978年4月号 新潮社、1981年11月 のち文庫
* [[さよならジュピター]] 『週刊サンケイ』1980年5月29日号 - 1982年1月14日号 サンケイ出版、1982年4月 のち徳間文庫、ハルキ文庫
* [[首都消失]] 『北海道新聞』ほか新聞4社 1983年12月1日 - 1984年12月31日 徳間書店、1985年3月 のち文庫、ハルキ文庫
* 時也空地球道行 『週刊読売』1987年3月8日号 - 11月29日号 読売新聞社、1988年4月 のち『時空道中膝栗毛 後の巻 時也空地球道行』と改題、勁文社、1991年7月
* [[虚無回廊]] 『SFアドベンチャー』1986年2月号 - 1987年3月号、1991年12月号 - 1992年10月号、I・IIは徳間書店より1987年11月、IIIは角川春樹事務所より2000年7月 のち徳間文庫、ハルキ文庫 - 地球から5.8光年の宇宙空間に突如出現した巨大物体の正体は?広大な宇宙を舞台に、「生命」「知性」「文明」の意味を問うSF。未完。
* [[日本沈没|日本沈没 第二部]]([[谷甲州]]共著) 書き下ろし 小学館、2006年8月 のち文庫
====ジュブナイル・児童書====
* 見えないものの影 『高一コース』1965年5月号 - 11月号 盛光社 1967年3月 のち角川文庫
* [[空中都市008|空中都市008 アオゾラ市のものがたり]] 『日本PTA』1968年1月号 - 6月号 講談社 1969年2月 のち角川文庫、講談社青い鳥文庫(NHK人形劇の原作)
* 宇宙漂流 毎日新聞社 1970年12月 のち角川文庫、ポプラ文庫
* 青い宇宙の冒険 『中一計画学習』1970年4月号 - 12月号 筑摩書房 1972年4月 (ちくま少年文学館) のち角川文庫
* おちていたうちゅうせん 書き下ろし フレーベル館 1972年6月 (こどもSF文庫)
* 宇宙人のしゅくだい 『朝日新聞』1964年11月8日 - 1966年3月20日 講談社 1974年3月 のち講談社文庫
* アリとチョウチョウとカタツムリ 石浜紅子絵 三芽出版、1981年 (新しい絵本)
====ショートショート集====
* ある生き物の記録 ショート・ショート集 早川書房 (ハヤカワ・SF・シリーズ) 1966年6月 のち文庫、集英社文庫
* 鏡の中の世界 早川文庫 1974年 のち角川文庫 - 『ある生き物の記録』を2分冊にしたうちの1冊。
* 一生に一度の月 集英社文庫 1979年5月
* まぼろしの二十一世紀 集英社文庫 1979年11月
* 一宇宙人のみた太平洋戦争 短篇ショート・ショート集 集英社文庫、1981年1月
* コップ一杯の戦争 集英社文庫、1981年
* こちら“アホ課” ケイブンシャ文庫 1986年
* 小松左京ショートショート全集 勁文社 1995年 のち文庫
====短編集====
* [[地には平和を]] 早川書房 (ハヤカワ・SF・シリーズ)、1963年 のち角川文庫
* 影が重なる時 早川書房 (ハヤカワ・SF・シリーズ)、1964年
* [[日本売ります]] 早川書房 (ハヤカワ・SF・シリーズ)、1965年 のちハルキ文庫
* ウインク 話の特集編集室 1967年
* 生きている穴 早川書房 (ハヤカワ・SF・シリーズ) 1967年
* 神への長い道 早川書房 (ハヤカワ・SF・シリーズ) 1967年 のち文庫、角川文庫、徳間文庫
* [[模型の時代]] 徳間書店 1968年 のち角川文庫
* 飢えた宇宙 早川書房 (ハヤカワ・SF・シリーズ) 1968年 (ハヤカワ・SF・シリーズ)
* 星殺し(スター・キラー) 早川書房 (ハヤカワ・SF・シリーズ) 1970年
* 闇の中の子供 新潮社 1970年 のち文庫
** 長生きの秘訣 - 昔話「[[人魚|八百比丘尼]](やおびくに)」「人魚」を思わせる不老不死をテーマにしたSF作品。
** 第二日本国誕生
* 三本腕の男 立風書房 1970年 のち角川文庫
* 青ひげと鬼 徳間書店 1971年 のち角川文庫
* 最後の隠密 立風書房 1971年 のち角川文庫
* 地球になった男 新潮文庫 1971年
* 怨霊の国 角川書店 1972年 のち文庫
* 待つ女 新潮社 1972年
* 明日の明日の夢の果て 角川書店 1972年 のち文庫
* [[牙の時代]] 早川書房(日本SFノヴェルズ) 1972年 のち角川文庫
* ウインク 角川文庫 1972年
* アダムの裔 新潮文庫 1973年
* 時の顔 早川文庫 1973年 のち角川文庫、ハルキ文庫
* [[御先祖様万歳]] ハヤカワ文庫 1973年 のち角川文庫
* 旅する女 河出書房新社 1973年
* 結晶星団 早川書房 1973年 のち文庫、角川文庫、ハルキ文庫
* 春の軍隊 新潮社 1974年 のち文庫
* さらば幽霊 自選短編集 講談社文庫、1974年
* 戦争はなかった 新潮文庫、1974年
* 夜が明けたら 実業之日本社 1974年 のち文春文庫、ケイブンシャ文庫、ハルキ文庫
* 蟻の園 ハヤカワ文庫、1974年 のち角川文庫
* 本邦東西朝縁起覚書 ハヤカワ文庫 1974年 のち徳間文庫 - 表題作は[[後南朝]]の自天王が時空を超え、現代の日本に突如出現する歴史SF。
* 無口な女 新潮社 1975年
* おしゃべりな訪問者 架空インタビュー 筑摩書房 1975年 のち新潮文庫
* [[時間エージェント]] 『HEIBONパンチDELUXE』1965年9月号 - 1966年7月号、『ビッグコミック』1968年1月1日号 - 8日号 新潮文庫 1975年
* 夢からの脱走 新潮文庫 1976年
* 男を探せ 新潮社 1976年
* 空飛ぶ窓 文春文庫 1976年
* 虚空の足音 文藝春秋 1976年 のち文庫
* 飢えなかった男 徳間書店 1977年 のち文庫
* [[ゴルディアスの結び目 (小松左京の小説)#短編集|ゴルディアスの結び目]] 角川書店 1977年 のち文庫、徳間文庫、ハルキ文庫
* 骨 集英社文庫 1977年
* 物体O 新潮文庫、1977年 のちハルキ文庫
* サテライト・オペレーション 集英社文庫 1977年
* 五月の晴れた日に ハヤカワ文庫 1977年 のち集英社文庫
* 偉大なる存在 ハヤカワ文庫 1978年 のち集英社文庫
* [[アメリカの壁]] 文藝春秋 1977年 のち文庫
* 夜の声 集英社文庫、1978年
* 流れる女 文春文庫 1979年
* 華やかな兵器 文藝春秋 1980年 のち文庫
* 猫の首 集英社文庫 1980年
* 短小浦島 角川文庫 1980年
* 氷の下の暗い顔 角川書店 1980年 のち文庫
* 遷都 集英社文庫、1981年
* あやつり心中、徳間書店 1981年 のち文庫
* 湖畔の女 徳間文庫 1983年
* ハイネックの女 徳間文庫 1983年
* 大阪夢の陣 徳間文庫、1983年
* おれの死体を探せ 徳間文庫 1983年
* 機械の花嫁 ケイブンシャ文庫 1983年
* 黄色い泉 徳間文庫 1984年
* ぬすまれた味 ケイブンシャ文庫 1987年
* 黄色い泉 ケイブンシャ文庫 1987年
* 保護鳥 ケイブンシャ文庫 1988年
* 地には平和を 阿部出版 1991年
* アメリカの壁 ケイブンシャ文庫 1992年
* 石 出版芸術社 1993年
* 霧が晴れた時 角川ホラー文庫 1993年
* 旅する女 勁文社 1993年
* 芸道艶舞恋譚 廣済堂出版 1995年
* 芸道綾錦夢譚 廣済堂出版 1995年
* 芸道夢幻綺譚 廣済堂出版 1995年
* 召集令状 角川文庫 1995年
* BS6005に何が起こったか アスキー 1996年
* 結晶星団 ハルキ文庫 1998年
* 時の顔 ハルキ文庫 1998年
* 物体O ハルキ文庫 1999年
* 日本売ります ハルキ文庫 1999年
* 男を探せ ハルキ文庫 1999年
* [[くだんのはは]] ハルキ文庫 1999年
* 高砂幻戯 ハルキ文庫 1999年
* 夜が明けたら ハルキ文庫 1999年
* ホクサイの世界 ハルキ文庫 2002年
* 月よ、さらば ハルキ文庫 2002年
* 役に立つハエ ハルキ文庫 2002年
* ふかなさけ ハルキ文庫 2002年
* 午後のブリッジ ハルキ文庫 2002年
* 旅する女 光文社文庫 2004年
* 明烏 集英社文庫 2009年
* すぺるむ・さぴえんすの冒険 福音館書店 2009年
* 小松左京セレクション1 ポプラ文庫 2010年
* 小松左京セレクション2 ポプラ文庫 2010年
* 小松左京セレクション1 河出文庫 2011年
* 小松左京セレクション2 河出文庫 2011年
* 小松左京21世紀セレクション#1 アメリカの壁/見知らぬ明日【グローバル化・混迷する世界編】徳間文庫(トクマの特選!)2020年10月
* 小松左京21世紀セレクション #2 闇の中の子供/ゴルディアスの結び目【分断と社会規範・心理の変化編】徳間文庫(トクマの特選!)2021年1月
※新潮文庫などのオリジナル文庫本には再収録傑作選が多数含まれる。
===戯曲===
* 狐と宇宙人-戯曲集(徳間書店、1990年) -SF[[狂言]]。[[茂山千之丞]]からの依頼により執筆<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=87f}}</ref>。
===評論・エッセイ===
* 地図の思想 講談社 1965年
* 未来図の世界 講談社 1966年
* 探検の思想 講談社 1966年
* 未来怪獣宇宙 講談社、1967年
* 未来の思想 文明の進化と人類 [[中公新書]] 1967年
* 日本タイムトラベル 変貌する地域社会 読売新聞社 1969年
* ニッポン国解散論 読売新聞社 1970年
* 日本イメージ紀行 白馬出版 1972年
* 妄想ニッポン紀行 講談社文庫 1973年
* 未来からの声 創樹社 1973年
* 歴史と文明の旅 文藝春秋 1973年 のち講談社文庫
* 続・妄想ニッポン紀行 講談社文庫 1974年
* やぶれかぶれ青春記 旺文社文庫 1975年 のちケイブンシャ文庫
* ミスターちんぼつの恋愛博物館 光文社 1975年 のち文春文庫「恋愛博物館」
* 男の人類学 新・世界学入門 大和書房 1976年
* 日本文化の死角 講談社現代新書 1977年
* 地球社会学の構想 文明の明日を考える PHP研究所 1979年
* はみだし生物学 平凡社 1980年 のち新潮文庫
* 読む楽しみ語る楽しみ 集英社 1981年 のち文庫
* 遠い島 遠い大陸 文藝春秋 1981年
* 地球文明人へのメッセージ 佼成出版社 1981年
* 宇宙から愛をこめて すぺいす・あふぉりずむ455 文化出版局 1981年
* 小松左京のSFセミナー 集英社文庫 1982年
* 机上の遭遇 集英社 1982年 のち文庫
* 大阪タイムマシン紀行 その1500年史を考える 関西過去・未来考 PHP研究所 1982年 「タイムトラベル大阪」ケイブンシャ文庫
* 犬も犬なら猫も猫 ケイブンシャ文庫 1984年
* 黄河 中国文明の旅 徳間書店 1986年
* ボルガ大紀行 徳間書店 1987年
* 「自然の魂」の発見 いんなあとりっぷ社 1990年
* 鳥と人 とくにニワトリへの感謝をこめて 文春ネスコ 1992年
* わたしの大阪 中公文庫 1993年
* 巨大プロジェクト動く 私の「万博・花博顛末記」広済堂出版 1994年
* こちら関西 もうひとつの情報発信基地・大阪(正編・戦後編) 文藝春秋 1994-95年
* ユートピアの終焉 イメージは科学を超えられるか ディーエイチシー 1994年
* 未来からのウインク 神ならぬ人類に、いま何が与えられているか 青春出版社プレイブックス 1996年
* 小松左京の大震災'95 この私たちの体験を風化させないために 毎日新聞社 1996年
* 紀元3000年へ挑む科学・技術・人・知性 地球紀日本の先端技術 東京書籍 1999年
* 威風堂々うかれ昭和史 中央公論新社 2001年
* 天変地異の黙示録 人類文明が生きのびるためのメッセージ 日本文芸社・パンドラ新書 2006年
* SF魂 [[新潮新書]] 2006年
* 小松左京自伝 実存をもとめて 日本経済新聞社出版社 2008年 - 自伝「[[私の履歴書]]」+「小松左京マガジン」連載の自作解説収録
* 宇宙にとって人間とは何か 小松左京箴言集 PHP新書 2010年
===編著===
* シンポジウム未来計画 小松編著、[[加藤秀俊]]、[[川喜田二郎]]、[[川添登]]共著、講談社、1967年
* 海外SF傑作選(1) さようなら、ロビンソン・クルーソー 小松左京+[[かんべむさし]]編 集英社文庫 1978
* 海外SF傑作選(2) 気球に乗った異端者 小松左京+[[かんべむさし]]編 集英社文庫 1979
===対談・座談ほか===
* 人類は滅びるか 鼎談 [[今西錦司]]、[[川喜田二郎]] 筑摩書房 1970年
* 地球を考える 対談集 1・2 新潮社 1972年 のち小松左京コレクション5 対談集 ジャストシステム
* 現代の神話 [[山崎正和]]対談 日本経済新聞社 1973年
* 小松左京対談集 日本を沈めた人 地球書館 1974年 のち小松左京全集完全版33 [[城西国際大学]]出版会
* 地球が冷える 異常気象 編著者:小松左京、対談:[[根本順吉]]・[[竹内均]]・[[飯田隼人]]・[[立川昭二]]・[[西丸震哉]]、旭屋出版 1974
* シンポジウム 性文化を考える 共編者:小松左京、[[山下諭一]]、対談:[[会田雄次]]、[[奈良本辰也]]、[[小川光暘]]、[[石毛直道]]、[[米山俊直]]、[[鯖田豊之]]、[[林美一]]、[[中山研一]]、[[藤岡喜愛]] みき書房 1974
* 絵の言葉 対話[[高階秀爾]] エッソ・スタンダード石油広報部 1975年 (エナジー対話)のち講談社学術文庫
* SF作家おもろ大放談 いんなあとりっぷ社 1976 - SF作家の仲間たちとの放談。
** おもろ放談 SFバカばなし 角川文庫、1981年
* 絵の理想型とは? [[萩尾望都]]対談 クエスト創刊号(小学館) 1977年
* 人間博物館 「性と食」の民族学 [[石毛直道]]、[[米山俊直]]討議 光文社 1977年 のち文春文庫
* 小松左京対談集 21世紀学事始 鎌倉書房 1978年
* 学問の世界 碩学に聞く [[加藤秀俊]] 講談社現代新書 1978年 のち同学術文庫
* 日本史の黒幕 [[会田雄次]]・山崎正和座談 平凡社 1978年 のち中公文庫
* [[高橋和巳]]の青春とその時代(編)構想社 1978年
** 新版・高橋和巳の文学とその世界 [[梅原猛]]共編、阿部出版 1991年
* 生命をあずける 分子生物学講義 [[渡辺格 (分子生物学者)|渡辺格]]対談 朝日出版社「Lecture books」 1979年
* 野球戯評 [[梅原猛]]・小松左京・[[多田道太郎]]共著 講談社 1979 のち文庫
* にっぽん料理大全 石毛直道共著 潮出版社 1982年 のち岩波同時代ライブラリー
* 宇宙・生命・知性の最前線 十賢一愚科学問答 対談集 講談社 1992年
* SFへの遺言(対談集) 光文社 1997年
* 教養(聞き手[[高千穂遥]]、[[鹿野司]]) 徳間書店 2001年
===監修===
* 現代コミック 全12巻、監修者:[[尾崎秀樹]], 小松左京, [[野坂昭如]]、[[双葉社]] 1970年
* SFファンタジア1~4 [[石川喬司]]編集 小松左京監修 学習研究社 1978-1979年
* 小松左京の近未来を考える本 小松左京監修 辰巳出版 1982年
* 雑学おもしろ百科 全12巻 小松左京監修 角川文庫 1982 - 1983年
* [[コロニーオデッセイ]] 冒険編・対決編 小松左京監修 [[日本電気ホームエレクトロニクス]] 1983年
* アドベンチャースーパーブックス アンドロイドの要塞 小松左京監修、[[長谷川浩司]]・[[葛生勝]] 廣済堂文庫 1985年
* 復元と構想:歴史から未来へ [[大林組]] 編著 [[加藤秀俊]]、[[川添登]]、小松左京監修 東京書籍 1986年
* [[海野十三]]全集 全13巻+別巻2巻 小松左京、[[紀田順一郎]] 監修、三一書房 1988年
* 世界のSFがやって来た!!:ニッポンコン・ファイル2007:[[第65回世界SF大会|第65回ワールドコン/第46回日本SF大会Nippon 2007]] [[日本SF作家クラブ]]編 小松左京監修 角川春樹事務所 2008年
===漫画===
* 怪人スケレトン博士(さかえ出版社、1948年)小松實名義<ref>{{Cite web|和書| url = https://sakyokomatsu.jp/3223/ | title = 小松左京のデビュー漫画「怪人スケレトン博士」検証資料を公開します(2014年レポート)。 | publisher = 小松左京ライブラリ | date = 2021-09-29 | accessdate = 2022-03-21 }}</ref>
* イワンの馬鹿(不二書房、1949年)モリ・ミノル名義
* 大地底海(不二書房、1949年)モリ・ミノル名義
* ぼくらの地球(不二書房、1949年)モリ・ミノル名義
* 幻の小松左京=モリ・ミノル漫画全集 全4巻(小学館、2002年)。ISBN 4-09-179421-1。※ 未発表作品「第五実験室」、「大宇宙の恐怖アンドロメダ」の原稿を収録。
* ムウ大陸の末裔(光文社、2012年)モリ・ミノル名義<ref>{{Cite book|和書|date=2012-03-26|title=SIGNAL|volume=VOL.1|publisher=光文社|isbn=978-4-334-90186-8|url=http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334901868}} 所収。</ref>
===テレビ===
* [[宇宙人ピピ]] (1965年、[[日本放送協会|NHK]]、実写+アニメ合成作品、[[平井和正]]との合作)
* SF人形アニメ (1965年、[[大阪テレビフィルム]]、5分間帯番組 未製作)<ref>{{Cite news | url = http://this.kiji.is/66133150330488317 | title = 小松左京さんら幻の人形アニメ サンダーバード放送で断念 | publisher = [[共同通信]] | date = 2016-01-30 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20160816045029/http://this.kiji.is/66133150330488317 | archivedate = 2016-08-16 }}</ref>
* [[空中都市008]](1969年‐1970年、NHK、[[竹田人形座]]による人形劇)
* [[SFドラマ 猿の軍団|猿の軍団]] (1974年、[[TBSテレビ|TBS]])
* 日本沈没 (1974-1975年、TBS、東宝映像)
* [[ぼくとマリの時間旅行]] (1980年、NHK [[少年ドラマシリーズ]]、「時間エージェント」が原作)
* [[小松左京アニメ劇場]] (1989年、[[MBSテレビ|毎日放送]])
* [[世にも奇妙な物語]] 秋の特別編「戦争はなかった」「さとるの化物」「影が重なるとき」 (1991年、2000年、2003年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
===映画===
* [[日本沈没]](1973年、2006年、[[東宝]])73年版では自身もカメオ出演{{R|とり}}
* [[エスパイ]](1974年、東宝)
* [[復活の日]](1980年、[[角川書店]]、[[TBSテレビ|TBS]](配給:東宝))
* [[さよならジュピター]](1984年、東宝、株式会社イオ)※製作、総監督、原作、脚本も担当
* [[首都消失]](1987年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]、[[大映]]、[[徳間書店]](配給:東宝))
===ラジオ===
* いとし・こいしの新聞展望([[大阪放送|ラジオ大阪]]、1959年-1962年)※構成作家
* 題名のない番組(ラジオ大阪、1964年-1968年 [[桂米朝 (3代目)|桂米朝]]とのトーク番組)
* NHK-FMの『日本のトップ・アーティスト 冨田勲』(1980年、全5回)※ 対談の司会。
* 桂米朝と小松左京のゴールデンリクエスト([[京都放送|近畿放送]])
* 米朝・左京のユーモア リクエスト(近畿放送)※桂米朝とのトーク番組
* [[サントリー・サタデー・ウェイティング・バー]]([[エフエム東京|TOKYO FM]]、2006年7月15日)「小松左京」の回<ref>{{cite web |url=http://www.avanti-web.com/pastdata/20060715.html |title=SUNTORY SATURDAY WAITING BAR「小松左京」 |accessdate=2015年3月14日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071130151107/http://www.avanti-web.com/pastdata/20060715.html |archivedate=2007年11月30日 }}</ref>
===出演===
* [[ネオン太平記]](1968年、[[日活]]、[[磯見忠彦]]監督、[[小沢昭一]]主演) - アルサロ([[キャバレー (接待飲食店)|キャバレー]])の客<ref name="とり">{{Cite book|和書|pages=162-163|author=とり・みき|authorlink=とり・みき|title=メカ豆腐の復讐|volume=第1巻|year=2016|publisher=[[イースト・プレス]]|isbn=978-4781614793}}</ref>
* [[千夜一夜物語 (1969年の映画)|千夜一夜物語]](1969年、[[日本ヘラルド映画]]) - 女奴隷市場の野次馬(声の出演){{R|とり}}
* [[日本沈没]](1973年、[[東宝]]) - 海底開発興業社員{{R|とり}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.zakzak.co.jp/article/20191211-ZMH3HQOKUZPK5FC76I2WZTNIYA/2/|website=[[ZAKZAK]]|title=【巨匠・森谷司郎が描く 日本の光と影】大映・永田社長が勇み足…映画化権は「トンビに油揚げ」的に東宝へ 「日本沈没」|date=2019-12-11|accessdate=2022-08-19}}</ref>
* [[部長刑事|連続アクチュアルドラマ・部長刑事]] もうひとつの動機(第1100回、1979年11月24日放送) - 鑑識課員{{R|とり}}
* [[スターヴァージン]](1988年) - 主人公の父親{{R|とり}}
* [[ハイ!土曜日です]](関西テレビ)※桂米朝とのトーク番組・コーナーレギュラー出演 ほか
* [[0スタジオ おんなのテレビ]](TBS)※木曜日の司会
===オーディオ・ドラマ===
* 宇宙に逝く(1978年)
** [[レコード|LPレコード]]に収録の書き下ろしのオーディオ・ドラマ (ディスコラマの名称)。出演:[[日下武史]]ほか。
** 1987年に「ビクター・サウンドノベルズ」よりカセットテープにて出版される。
===関連出版===
* 小松左京「小松左京の猫理想郷(ネコトピア)」 竹書房 2016年10月
* 乙部順子「小松左京さんと日本沈没 秘書物語」 産経新聞出版 2016年11月 ※著者は1977年から小松が亡くなるまで秘書を務めた<ref>乙部順子「秘書が見た小松左京」『文藝別冊[追悼]小松左京』、河出書房新社、2011年、80頁</ref>。
* [[宮崎哲弥]]「いまこそ「小松左京」を読み直す」 NHK出版新書 2020年7月 ※元版は「[[100分de名著]]」放送テキスト
* 『[[現代思想 (雑誌)|現代思想]] 総特集=小松左京―生誕九〇年/没後一〇年』 [[青土社]] 2021年10月臨時増刊号
==関連人物==
* [[星新一]] - 小松と同時期に活躍し、交友もあったSF作家。小松は星が死去した際の葬儀委員長をつとめた。
* [[筒井康隆]] - 星、小松とならび日本SFの御三家とされるSF作家。小松は筒井の結婚の[[仲人]]である。小松の許可を得て、パロディ作『[[日本以外全部沈没]]』を著作(原案は星新一)。
* [[高橋和巳]] - 1971年の、39歳での高橋の早逝にショックを受け、以後、小松は高橋について語ることを避けてきた。2004年の『小松左京マガジン』第17巻で「高橋和巳を語る」というインタビューが掲載された。(『小松左京自伝』に収録)
* [[開高健]] - 『日本アパッチ族』と開高の『日本三文オペラ』は題材は同じ「アパッチ族」だが、相互に影響なく、同時並行的に執筆された。そのことがきっかけで、[[富士正晴]]に紹介されて開高とあって意気投合し、親友となった<ref>{{Harvnb|小松|2008|p=129}}</ref>。開高と小松の親友関係は、はたからは分からない面があったようで、のちに[[筒井康隆]]が開高を、「彼はSFがわかっていない。小松に対して失礼だ。」と批判した。だが、『小松左京自伝』の『果しなき流れの果に』の自作解説で、「美の体系が生き残る理由」「宇宙における人間存在の根拠」等という、小松がこだわっている問題を、開高がもっとも理解してくれたと、語っている。
* [[桂米朝 (3代目)|桂米朝]] - 「[[地獄八景亡者戯]]」を聞いて大ファンとなり、のちに一緒に仕事をするようになり、家族ぐるみの交際となった<ref>{{Harvnb|小松|2008|p=65}}</ref>。
* [[桂枝雀 (2代目)|桂枝雀]] - 個人的な交流があり、また芸道小説「天神山縁糸苧環」で、米朝・枝雀師弟を登場人物のモデルとした<ref>{{Harvnb|小松|2008|pp=260f}}</ref>。
* [[高田宏]] - 大学時代からの友人。高田が編集していた[[エッソ石油]]のPR誌『エナジー』に、小松はたびたび執筆した。
* [[梅棹忠夫]] - 長年の友人。『[[文明の生態史観]]』(中公叢書、1967年)に序文を書いている。
* [[加藤秀俊]] - 長年の友人。何冊か共著を出している。
* [[川喜田二郎]] - 長年の友人。共著も出している。
* [[川添登]] - 長年の友人。
* [[山崎正和]] - 長年の友人。
* [[萩尾望都]] - 『小松左京マガジン』の発起人。小松は萩尾の大ファンで「モトさま、モトさま」と子どものように慕っていた。仕事で疲れてソファーに寝転んで漫画を読む際にも、その横にはよく萩尾作品(『[[ポーの一族]]』『[[スター・レッド]]』『[[百億の昼と千億の夜]]』など)が積まれていた<ref>{{Cite news | url = http://sakyokomatsu.jp/library/369 | title = 小松左京「お召し」原案 萩尾望都先生の「AWAY-アウェイ」 | publisher = 小松左京ライブラリ | date = 2014-03-24 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20210928174453/https://sakyokomatsu.jp/library/369/ | archivedate = 2021-09-28 }}</ref>。
* [[石毛直道]] - 長年の友人。『小松左京マガジン』創設同人でもある。
* [[小山修三]] - 友人の一人。
* [[荻昌弘]] - 友人の一人。
* [[手塚治虫]] - 日本SF作家クラブの会員となり、個人的な交際があった。
* [[冨田勲]] - トミタ立体サウンド・ライブ『エレクトロ・オペラ in 武道館』(1979年)を小松がプロデュースするなどで交流があった。
* [[落合正幸]] - [[世にも奇妙な物語]]で原作となっている作品はすべて落合が演出している。
* [[松本零士]] - 漫画コレクターとして『幻の小松左京=モリ・ミノル漫画全集』復刻のため自分のコレクションを提供した。
* [[高島忠夫]] - 中学の同級生。
* [[国弘正雄]] - 中学の同級生。
* [[矢崎泰久]] - 小松は『[[話の特集]]』の反体制的な姿勢に共鳴し、創刊以来の常連寄稿者で、矢崎に筒井康隆を紹介した。また、スポンサー獲得にも協力した<ref>{{Harvnb|小松|2008|p=117}} および、{{Harvnb|矢崎|2005}} {{要ページ番号|date=2013年10月}}</ref>。
* [[大島渚]] - 同時期の京大生で、学生自治会にいて学生運動をやっていた。大島は、1951年の[[京大天皇事件]]、1953年に[[松浦玲]]が放校処分になった「[[荒神橋事件]]」等に関わった。だが大島は非共産党員であったため、共産党員だった小松とは直接の接触はなかったようだ。(『自伝』にも、これらの事件については、特に記載なし。)
* [[谷甲州]]
* [[林信夫]] - イベントプロデューサー。「[[プレイガイドジャーナル]]」の創刊者の一人。小松とは「花博」などで「小松組」として共同作業を行った<ref>{{Harvnb|小松|2008|p=93}}</ref>。
* [[とり・みき]] - 熱心なファン。初期作品『コマケンハレーション』のコマケンとは[[小松左京研究会]]のこと。時折作品中にも、小松左京とおぼしき人物が登場する。
* [[小松照昌]] - 小松の甥。放送作家、演芸ライター、[[三弦]]奏者。[[桂枝雀 (2代目)|桂枝雀]]に弟子入りを志願するもかなわず、「枝雀落語大全」のスタッフをつとめた。
* [[小松伸也]] - 実弟。関西大学化学生命工学部の教授。
* [[戴峰]] - 友人の地震研究者、著書『大地震は予知できる』 (グリーンアロー出版社刊)に推薦の言葉を寄せた。
==小松左京を演じた人物==
* [[フランキー堺]] - TBSの1970年の「[[日曜劇場]]」の一作である「にっぽんのパパ」(脚本:[[岩間芳樹]])において、小松一家をモデルとした家族が、北海道の開拓地に移住する話であった。
* [[竹山隆範]](カンニング竹山) - テレビドラマ「[[TAROの塔]]」で小松左京役を演じた。
* [[六角精児]] - 2016年10月2日放送の[[日本放送協会|NHK]]『[[BS1スペシャル]] メガプロジェクト 開拓者たちの決断「太陽の塔のメッセージ」』において、小松左京を演じた<ref>{{Cite web|和書|date=2018-03-11|url=https://amass.jp/102244/|title=太陽の塔に込められたメッセージとは?NHKドキュメンタリー『開拓者たちの決断「太陽の塔のメッセージ」』再放送決定|website=amass|accessdate=2021-09-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/pr/keiei/shiryou/soukyoku/2016/09/006.pdf|title=BS1スペシャル シリーズ メガプロジェクト 開拓者たちの決断|format=PDF|publisher=NHK|date=2016-09-21|accessdate=2021-09-05}}</ref>。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist|3
|refs=
<ref name="komatu9412">{{Harvnb|小松|2008|pp=9f、253、412}}</ref>
<ref name=":1">{{Cite book |title=教養 |date=2000-11-10 |publisher=徳間書店|page={{要ページ番号|date=2022年1月}}}}</ref>
<ref name=":5">{{Cite book |title=日本SF誕生ーー空想と科学の作家たち(第8章)|date=2019-08-05 |publisher=勉誠出版|page={{要ページ番号|date=2022年1月}}}}</ref>
<ref name="全史540">{{Harvnb|東宝特撮映画全史|1983|p=540|loc=「特撮映画スタッフ名鑑」}}</ref>
<ref name="週刊サンケイ" >『週刊サンケイ』1982年3月18日号 pp.23-25</ref>
}}
==参考文献==
*{{Cite book|和書|author=石川喬司|authorlink=石川喬司|date=1996-11|title=SFの時代 日本SFの胎動と展望|publisher=双葉社|series=双葉文庫 日本推理作家協会賞受賞作全集 36|isbn=4-575-65833-2|ref={{Harvid|石川|1996}}}}
*{{Cite book|和書|author=田原総一朗|authorlink=田原総一朗|others=[[矢崎泰久]] 構成|date=2004-11|title=僕はこうやってきた 初めて語る 自伝的仕事録|publisher=中経出版|isbn=4-8061-2102-9|page=126|ref={{Harvid|田原|矢崎|2004}}}}
*{{Cite book|和書|author=矢崎泰久|authorlink=矢崎泰久|date=2005-01|title=「話の特集」と仲間たち|publisher=新潮社|isbn=4-10-473601-5|ref={{Harvid|矢崎|2005}}}}
*{{Cite book|和書|author=安田寿明|authorlink=安田寿明|date=1977-03|title=マイ・コンピュータ入門 コンピュータはあなたにもつくれる|publisher=講談社|series=[[ブルーバックス]] 313|isbn=4-06-117913-6|ref={{Harvid|安田|1977}}}}
*{{Cite book|和書|author=山田正紀|authorlink=山田正紀|date=1977-05|title=継ぐのは誰か?|chapter=解説|series=角川文庫|publisher=角川書店|isbn=4-04-130813-5|ref={{Harvid|山田|1977}}}}
* {{Cite book|和書|title=東宝特撮映画全史|others=監修 [[田中友幸]]|date=1983-12-10|publisher=[[東宝]]出版事業室|isbn=4-924609-00-5|ref={{SfnRef|東宝特撮映画全史|1983}}}}
* {{Citation|和書|author=小松左京|title=SF魂|date=2006-07-20|publisher=新潮社|series=新潮選書|isbn=4106101769|ref={{SfnRef|SF魂|2006}}}}
* {{Cite book|和書|author=小松左京|date=2008-02|title=小松左京自伝――実存をもとめて|publisher=日本経済新聞出版社|isbn=978-4-532-16653-3|ref={{Harvid|小松|2008}}}}
* {{Citation|和書|author=小松左京|date=2018-10-01|title=やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記|publisher=新潮社|series=新潮文庫|isbn=978-4101097121|ref={{SfnRef|小松|2018}} }}
* {{Citation|和書|author=小松左京|editor=東浩紀|date=2011-11-10|title=小松左京セレクション1 日本|publisher=河出書房新社|series=河出文庫|isbn=978-4309411149|ref={{SfnRef|小松セレクション1|2011}} }}
* {{Citation|和書|author=小松左京|editor=東浩紀|date=2012-03-20|title=小松左京セレクション2 未来|publisher=河出書房新社|series=河出文庫|isbn=978-4309411149|ref={{SfnRef|小松セレクション2|2012}} }}
==関連項目==
<!--項目の50音順-->
*[[太陽風交点事件]]
*[[プレートテクトニクス]]
*[[文明の生態史観]]
==外部リンク==
{{commonscat|Sakyō Komatsu}}
{{ウィキポータルリンク|スペキュレイティブ・フィクション|[[画像:P sci-fi.png|34px|Project:スペキュレイティブ・フィクション]]}}
*{{Wayback|date=20061016044120|url=http://www.nacos.com/komatsu/|title=小松左京ホームページ(小松左京研究会)}}
*[http://www.iocorp.co.jp/ 株式会社イオ・小松左京事務所]
*[http://www.sacj.org/ 宇宙作家クラブ]
*{{Wayback|http://www.webmysteries.jp/sf/azuma1001-1.html |title=東浩紀による小松左京論「小松左京と未来の問題」|date=20131105130350}}(ウェブマガジン掲載の評論)
*{{Wayback|http://aci.soken.ac.jp/databaselist/BC001_01.html|title=小松左京コーパス|date=20170110041301}}
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旅順攻囲戦
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旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん、、リュイシュンこういせん、Siege of Port Arthur, 1904年(明治37年)8月19日 - 1905年(明治38年)1月1日)とは、日露戦争において、ロシア帝国の旅順要塞を、日本軍が攻略し陥落させた戦いである。
ロシアは、1896年の露清密約の後、1898年に遼東半島を租借し、旅順口を太平洋艦隊(後の第一太平洋艦隊)の主力艦隊(旅順艦隊)の根拠地とし、港湾を囲む山々に本格的な永久要塞を建設していた(旅順要塞)。
日本は、予期される日露戦争に勝利するためには、日本本土と朝鮮半島および満洲との間の補給路の安全確保が必要であり、朝鮮半島周辺海域の制海権を押さえるために旅順艦隊の完全無力化が不可欠と見なしていた。また旅順要塞に立て籠もったロシア陸軍勢力(2個師団)は、満洲南部で予想される決戦に挑む日本軍(満洲軍)の背後(および補給にとって重要な大連港)に対する脅威であり、封じ込めもしくは無力化が必要だった。
このため戦前より陸海軍双方で旅順への対応策が検討された。旅順艦隊を完全に無力化する方法として、大別して、旅順要塞の陥落、大口径艦砲による撃沈、旅順港永久封鎖が考えられた。
海軍側は独力で旅順艦隊を無力化する方針を取り、第一段階:港外奇襲、第二段階:港口封鎖(閉塞)、第三段階:港外からの間接射撃によって港内の艦艇を撃沈という作戦計画を立てた。これに基づき1903年の夏には間接射撃のための試験射撃を行った。
陸軍側は参謀本部が満洲攻勢作戦の研究を1902年より始め、その中で、旅順攻城を佐藤鋼次郎少佐が担当した。1903年11月頃の参謀本部内の意見は、兵力の大部分を遼陽方面へ北進させ予想される大決戦に集中させ、旅順は一部の兵力による封鎖監視に留めるべきとの考えが大勢だったが、佐藤少佐が攻略の必要性を主張し研究は続けられた。
1903年12月30日に陸海軍間で開戦に関する協議が行われた。「旅順港外に停泊している旅順艦隊に対する奇襲を優先すべき」との海軍側の主張と「臨時韓国派遣隊の派遣を優先すべき」との陸軍側の主張とが対立したが、陸軍が譲って海軍案に決着した。海軍は独力による旅順艦隊への対処を言明していたが、陸軍はその後も旅順攻城の研究を進め、1904年1月、陸軍参謀本部による計画案が成り、陸軍省に所要資材の照会がなされた。
開戦後、海軍は港外奇襲と港口閉塞作戦を実行したが、不十分な結果で終わり、旅順艦隊の戦力は保全された。2月末頃からウラジオストク巡洋艦隊が活動を始めたが、第三艦隊を対馬防備に置いたまま、海軍主力による港口の閉塞を目的とした作戦は続けられた。
陸軍は3月に入っても、封鎖監視で十分であるとの考えがまだ残っていたが、最終的には、3月14日、2個師団をもって攻城を行う決定を下した。作戦目的は「地上より旅順要塞を攻略し、北上する日本軍主力の後方を安定化する」とした。
海軍は第二回閉塞作戦を3月27日に実行したが不成功だった。しかし4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執しており、4月6日の大山巌参謀総長、児玉源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文に「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文がある。また海軍は12-13日に機雷を敷設した。4月終わり以降は第二艦隊を第三艦隊と入れ替え、旅順方面の海軍戦力は減少した。
ロシアは5月にバルト海に所在する艦船群(未完成艦含む・バルチック艦隊)の極東派遣を決定・発表した。もしもこれが未だ健在の旅順艦隊と合流すれば、日本海軍の倍近い戦力となり、朝鮮半島周辺域の制海権はロシア側に奪われ、満洲での戦争継続は絶望的になると考えられた。5月3日に第三回閉塞作戦が実施されたが、これも不成功に終わった。5月9日より、日本海軍は、旅順港口近くに戦艦を含む艦艇を遊弋させる直接封鎖策に転換したが、主力艦が貼り付かざるを得なくなり増派艦隊への対応が難しくなった。15日には当時日本海軍が保有する戦艦の6隻のうち2隻を触雷により失った。日本軍としては増派艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要に迫られ、海軍はこの頃陸軍の旅順参戦の必要性を認めざるを得なくなった。
このような経緯に加え攻城の準備は複雑なため、第3軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した乃木希典大将が、参謀長には砲術の専門家である伊地知幸介少将が任命された。軍参謀らには、開戦後に海外赴任先から帰国してきた者が加わった。軍司令部は6月1日に本土を発ち、8日に大連に到着した。第3軍の主力としては、すでに金州城攻略戦を終えて主戦場と目される満洲南部へ北進する第2軍から2個師団(第1師団、第11師団)が抽出され当てられた。
6月20日に満洲軍(総司令部)が設置され、第3軍もその下に入った。第3軍の使命は、速やかに要塞を陥落させ、兵力を保全したままその後に第1・2軍に合流することだった。
旅順要塞の構造は、要塞防衛線(第一防衛線、第二防衛線)、および前進陣地から構成される。
旅順は元々は清国の軍港で、ロシアが手中に収めた時点である程度の諸設備を持っていた。しかし防御施設が旧式で地形も不利な点を持つことを認識し強化に着手した。1901年より開始されたこの工事は、当初は下述する203高地や大孤山(標高約180 m)も含めた十分に広い範囲に要塞防御線を設置し守備兵2万5千を常駐させる計画だった。しかし予算不足で防御線の規模は縮小され、常駐の守備兵も1万3千に変更された。この要塞防衛線は港湾部に近すぎ、要塞を包囲した敵軍の重砲は、防衛線内の砲台から狙われない安全な位置より港湾部を射程内に収めることができた。また地形上、敵軍が防衛線外の大孤山や203高地、南山坡山(通称海鼠山、標高約200m、203高地の北)などを占領した場合は、港湾部の一部もしくは全域の弾着観測を許した。そのため開戦後にはそれら防衛線外も前進陣地や前哨陣地を設け防御に努めたが本質的に完全ではなかった。また完成は1909年の予定だったので、1904年の日露開戦により未完成のまま(完工度は約40パーセント)戦争に突入することになった。これら前哨陣地は第7師団長ロマン・コンドラチェンコ少将の精力的な強化工事が施された。
要塞の配置、規模は
となっている。
防衛線外の前進陣地は、西方に203高地近辺諸陣地、北方に水師営近辺諸陣地、東方に大小孤山諸陣地を整備したが、未完成だった。
要塞の主防御線はコンクリート(当時は仏語のベトンと呼ばれていた)で周囲を固めた半永久堡塁8個を中心に堡塁9個、永久砲台6個、角面堡4個とそれを繋ぐ塹壕からなりあらゆる方角からの攻撃に備え、第二防衛線内の最も高台である望台には砲台を造り支援砲撃を行った。さらに突破された場合に備えて堡塁と塹壕と砲台を連ねた小規模な副郭が旅順旧市街を取り囲んでいた。海上方面も220門の火砲を砲台に配備して艦船の接近を妨害するようになっていた。
ロシア軍では、この要塞を含めた地域一帯を防衛するロシア関東軍が新設され軍司令としてアナトーリイ・ステッセリ中将、旅順要塞司令官にコンスタンチン・スミルノフ中将が就任した。
日露戦争の開戦時の旅順要塞には、東シベリア第7狙撃兵師団(師団長:ロマン・コンドラチェンコ少将)・東シベリア第7狙撃兵師団(師団長:アレクサンドル・フォーク少将)・東シベリア第5狙撃兵連隊・要塞砲兵隊・要塞工兵隊など総勢4万4千名の兵力、436門(海岸砲は除く)の火砲があった。
日本海軍は、独力で旅順艦隊を無力化することを断念し、1904年7月12日に伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請した。その頃第三軍は、6月26日までに旅順外延部まで進出した。6月31日、大本営からも陸軍に対して旅順要塞攻略を急ぐよう通達が出ていた。
しかし陸軍は、旅順要塞を攻略する方針を固めることが遅れたため、情報収集が準備不足だった。ロシア軍の強化した要塞設備に関する事前情報はほとんどなく第三軍に渡された地図には要塞防御線の前にある前進陣地(竜眼北方堡塁、水師営南方堡塁、竜王廟山、南山坡山、203高地など)が全く記載されていなかった。防御線でも二竜山、東鶏冠山両堡塁は臨時築城と書くなど誤記が多かった。
こうした中で要塞攻略の主軸をどの方向からにするかが議題となった。戦前の図上研究では平坦な地形の多い西正面からの攻略が有利であると考えられていた。しかし第三軍司令部は大連上陸前の事前研究によりその方面からの攻略には敵陣地を多数攻略していく必要があり、鉄道や道路もないので攻城砲などの部隊展開に時間を要し早期攻略できないと考え東北方面の主攻に方針変更した。しかし新たに参謀本部次長となった長岡外史や、満洲軍参謀井口省吾らが西方主攻を支持し議論となる。ただし、この主攻の選択はあくまで要塞攻略の主軸をどの方面にするかの話であり、後に出る203高地攻略とは別の議論である。結局この議論は第三軍司令部が現地に到着する7月ごろまで持ち越される。その頃第三軍は、6月26日までに旅順外延部まで進出していた。7月3日、コンドラチェンコ師団の一部が逆襲に転じるが塹壕に待ち構える日本軍の反撃に撤退した。
その後第三軍に第9師団や後備歩兵第1旅団が相次いで合流し戦力が増強された。このあと乃木は懸案だった主攻方面を要塞東北方面と決定した。この理由には下記があった。
準備を整えた第三軍は7月26日旅順要塞の諸前進陣地への攻撃を開始し、主目標はそのうちの東方の大孤山とした。3日間続いた戦闘で日本軍2,800名、ロシア軍1,500名の死傷者を出し、30日にロシア軍は大孤山から撤退した。この頃乃木は、来るべき総攻撃の期日を決断し、増援の砲兵隊の準備が整う予定の後の8月19日とした。
8月7日、黒井悌次郎海軍中佐率いる海軍陸戦重砲隊が大孤山に観測所を設置し、旅順港へ12センチ砲で砲撃を開始。9日9時40分に戦艦レトウィザンに命中弾を与え、浸水被害をもたらした。
8月10日、ロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に被害が出始めたことで、艦隊司令ヴィトゲフトは、極東総督アレクセイエフの度重なるウラジオストクへの回航命令に従い、旅順港を出撃した。海軍側が陸軍に要請した「旅順艦隊を砲撃によって旅順港より追い出す」ことは、これによって達成された。
しかし同日の黄海海戦では、日本連合艦隊は2度に亘り旅順艦隊と砲撃戦を行う機会を得つつも駆逐艦の1隻も沈没せしめることなく、薄暮に至り見失った。旅順艦隊は旅順港へ帰還した。
帰還した艦艇のほとんどは上部構造を大きく破壊され、戦闘力をほぼ喪失し、旅順港の設備では修理ができない状況だった。最も損害が軽微だった戦艦セヴァストポリだけは外洋航行可能にまで修理された。帰還後の艦艇は、大孤山から観測されないよう、狭く浅い湾内東部に停泊させた。
総攻撃を前に第三軍は軍司令部を柳樹房から鳳凰山東南高地に進出させた。さらに団山子東北高地に戦闘指揮所を設け戦闘の状況を逐一把握できるようにした。ここは激戦地となった東鶏冠山保塁から3キロという場所でしばしば敵弾に見舞われる場所であった。以降、攻囲戦は主にここで指揮が取られることになった。
8月18日深夜、第三軍(参加兵力5万1千名、火砲380門)各師団は其々目標とされる敵陣地の射程圏ぎりぎりまで接近し総攻撃に備えた。
翌8月19日、各正面において早朝より準備射撃が始まる。当初はロシア側は日本の砲兵陣地の位置を正確に把握できておらず反撃も散漫だったが、やがて本格的になり、この日は両軍合わせて500門の火砲が撃ち合う激しい戦闘となった。乃木も午後1時に双台溝の236高地に登り戦況を視察した。ロシア軍ではこの砲撃で松樹山、二龍山、盤龍山、東鶏冠山、小案子、白銀山、望台の各保塁・砲台に大損害が出ており、東鶏冠山第二保塁では弾薬庫が爆発し守備兵が全滅し、二龍山保塁では主要火砲の6インチ砲がすべて破壊された。こうした光景を目の当たりにして日本軍前線の将兵の士気は大きく高まったという。2日間の砲撃戦ののち、21日に第三軍は総攻撃を開始した。
総攻撃開始に先立つ19日午前6時、友安治延少将率いる後備歩兵第1旅団(第1師団の指揮下として右翼隊を形成)は目標の大頂子山に攻撃を開始した。一部が敵前至近距離に迫ったものの猛烈な反撃を受け撃退された。夜半になり夜襲を仕掛けるも戦況は好転しなかった。20日には歩兵第二旅団(旅団長:中村覚少将)基幹の左翼隊は水師営南方高地までは順調に進んだがここで敵の抵抗にあい、それでも水師営の一部と同西溝の猛攻の末22日に占領。夜半には93高地を夜襲で奪取した。
明けて21日、師団長の松村務本中将は司令部を高崎山に移す。歩兵第1旅団(旅団長:山本信行少将)基幹の中央隊が第一師団の攻略目標である南山坡山及びその北端の鉢巻山を総攻撃。22日までにさしたる抵抗もなく占領するがまもなく激しい逆襲が行われ白兵戦が幾度となく展開された。日本側は増援を送ろうにも鉢巻山へ至るには敵の寺児溝北方陣地の麓を通らねばならず、占領部隊への増援、補給は至難だった。補給線の確保も失敗し兵士たちは匍匐前進で弾薬や糧食を運ばなければならなかった。
第9師団でも歩兵第18旅団(旅団長:平佐良蔵少将)基幹の右翼隊が19、20日と竜眼北方保塁へ攻撃を開始。しかしこの方面は攻撃側が身を隠すような草木もなく、付近の砲台から集中射撃を受けて大損害を被る。
21日、左翼隊の歩兵第6旅団(旅団長:一戸兵衛少将)が盤龍山南北の堡塁に攻撃を開始。配下の歩兵第7連隊では3人の大隊長のうち2人が戦死し、遂には連隊長大内守静大佐自らが先陣をきって突撃するも、28発もの銃弾を浴びて戦死する程の激戦となった。一戸少将は歩兵第35連隊を増援に送るが失敗し、先月30日に戦傷で交代したばかりの連隊長、折下勝造中佐が戦死してしまう。このため一戸は夜陰に乗じて攻撃する方法に切り替える。
22日午前0時、各隊は一斉に夜襲をかけるが、ロシア軍は探照灯や照明弾で周囲を照らし機関銃を乱射してそれを阻んだ。戦闘は明るくなっても続き後備歩兵第8連隊が増援、午前10時頃、盤龍山東堡塁の占領になんとか成功、午後8時には西堡塁も占領した。しかしこの間戦い続けた第7連隊は大損害を被り、確保時の残余兵力は将校以下71名だった。ともかく第9師団は盤龍山東西堡塁の攻略に成功し、ここは半ば要塞の第二防衛線に食い込んだ要地で望台までは約1kmだった。
第11師団長土屋光春中将は司令部を大弧山北嶺に移すが、敵の銃撃を受け、参謀2名が戦死した。
歩兵第10旅団(旅団長:山中信儀少将)は東鶏冠山北堡塁、第二堡塁を攻撃。北堡塁の方は直前に外壕が見つかり、工兵隊の犠牲のもと、巨大な外壕に二条の突入路を築き、部隊が突入するが集中砲火を浴び、突入隊隊長の本郷少佐以下多くの死傷者をだし、外壕に躍り込んだ隊は全員戦死した。第二堡塁の方は占領には成功するも退却するロシア軍が放った火が壕内の弾薬に引火し爆発、それが引き金となる周囲の堡塁砲台から集中射撃を受け突入隊隊長の吉永少佐以下死傷者が続出し、弾薬も無くなり残余兵40名はやむ無く撤退。鉄条網下の地隙に援軍をまった。僅か3時間の占領であった。
乃木は占領した盤龍山堡塁を起点として、23日、望台への攻撃を命じた。しかし盤龍山堡塁を占領する第九師団の戦力は予備兵力を含めても約1000名に激減しており、第1師団から歩兵第15連隊(二個大隊欠)を応援に回し、第11師団も東鶏冠山堡塁への攻撃で疲弊した歩兵第10旅団(旅団長山中少将は疲労で倒れた土屋師団長の代理で師団本部におり、指揮は歩兵第44連隊の石原大佐が執る)を応援に出す。戦力が整った各隊は24日午前2時より攻撃を開始する。
しかしこれらの突入も情報を事前に察知していたステッセル中将の指示で準備を整えていたロシア軍の反撃で各隊は死傷者が続出した。午前7時、最後の予備兵力の歩兵第12連隊第一大隊が投入されるが要塞からの砲撃が激しく突撃は延期された。
24日午後5時、乃木は総攻撃の中止を指示した。第一回総攻撃と呼ばれたこの攻撃で日本軍は戦死5,017名、負傷10,843名という大損害を蒙り、対するロシア軍の被害は戦死1,500名、負傷4,500名だった。第三軍はほぼ一個師団分の損害を出したことになる。
この頃からロシア軍側は、旅順港内に逼塞した太平洋艦隊の海軍将兵で複数の中隊単位の陸戦隊を編成し、艦船の中小口径砲の一部も陸揚げして陸軍部隊の増援を図った。
第三軍は第一回総攻撃を歩兵の突撃による強襲法で行ったが、これは砲弾数不足で十分な支援砲撃ができない中で、大本営からの速やかなる早期攻略の要請に応えようとしたためであった。しかし要塞(望台)には歯が立たず兵力に大損害を被った。乃木は攻撃方法を再考し、正攻法へ切り替える考えを固めた。これは占領した盤龍山東西堡塁から要塞前面ぎりぎりまで塹壕を掘り進み進撃路を確保し、歩兵の進撃の際は十分に支援砲撃を行う方式であり、麾下の参謀に調査(地質や地形、敵情など)や作戦立案を指示した。8月30日、軍司令部に各師団の参謀長と工兵大隊長、攻城砲兵司令部の参謀などを招集し、正攻法への変更を図る会議を行った。しかし前線部隊の意見は砲弾不足などを理由に強襲法継続の主張が強かった。この会議は6時間に及んだが、最終的には乃木の決断で正攻法に変更する事になり、9月1日よりロシア軍に近接するための塹壕建設を開始した。
ロシア側も盤龍山堡塁を奪われたのは痛手だった。8月30日にロシア軍はコンドラチェンコ少将の独断により盤竜山を奪い返そうと攻撃を行ったが、日本軍の反撃を受け攻撃兵力の3割を失い失敗した。
9月15日、第三軍は対壕建設に目途が立ち、兵員・弾薬も補充できた。17日に各部隊に指示し、部分的攻撃を19日に開始するよう命令した。今回は第1師団、第9師団が攻撃を担当し、第11師団は前面の敵の牽制を担った。
19日午前8時45分、攻城砲兵は敵牽制の砲撃を開始、午後1時には攻略目標である龍眼北方、水師営両堡塁に砲撃を集中した。午後5時頃、第1師団左翼隊(歩兵第2旅団)は水師営第1堡塁への突撃を開始した。しかし外壕の突破に手間取り大損害を被る。中央隊(歩兵第1旅団)は順調に進撃し、目標の南山坡山の北角を占領する。右翼隊(後備歩兵第1旅団)はこの攻撃より目標に加えられた203高地攻撃を任される。しかしここも敵の猛射を浴びて大損害を被ってしまう。
20日、苦戦する左翼隊に第9師団が龍眼北方堡塁の占領に成功したという一報が入る。奮起した同隊は第4堡塁へ突撃を敢行しこれを占領、更に攻城砲兵が第1堡塁へ砲撃を開始し敵は沈黙、午前11時には水師営の全堡塁は日本軍の手に落ちた。中央隊も山頂で白兵戦をしつつも午後5時には南山坡山を占領した。
しかし203高地攻略は容易ではなく、なんとか山頂の一角を占領しつつも直後にロシア軍の大逆襲が始まり、午前5時には山頂を奪われたばかりか第2線も奪われ後備歩兵第16連隊長も負傷した。その後第1師団は師団砲兵の総力を挙げて203高地を砲撃し、前線に幾度となく増援を送るも道中で敵陣地からの攻撃を受け前線に辿り着いた者はいなかった。突撃は翌21日も行われたが効果がなく、結局は攻撃を断念する。担当した右翼隊の残存兵力は310名にまで激減していた。
同師団は右翼隊(歩兵第18旅団)の歩兵第19連隊が龍眼北方堡塁正面を、歩兵第36連隊が同堡塁の咽喉部と背後の交通壕への攻撃を行う。しかしここでも要塞側の反撃で大損害を受ける。しかし翌20日、攻城砲兵の支援砲撃を開始すると堡塁は瞬く間に抵抗力を失い、午前5時には攻略に成功する。
第一回総攻撃が失敗に終わった後、東京湾要塞および芸予要塞に配備されていた旧式の対艦攻撃用だった二八センチ榴弾砲(当時は二十八糎砲と呼ばれた)が戦線に投入されることになった。通常はコンクリートで砲架(砲の台座のこと)を固定しているため戦地に設置するのは困難とされていたが、これら懸念は工兵の努力によって克服された。
二八センチ榴弾砲は10月1日、旧市街地と港湾部に対して砲撃を開始。20日に占領した南山坡山を観測点として湾内の艦船にも命中弾を与え損害をもたらした。しかし艦隊自身は黄海海戦ですでに戦力を喪失しており、この砲撃も劇的な戦果をもたらしたわけではなかったが、要塞攻撃にも効果ありと判断し砲を増やしていき最終的に18門が投入された。
この戦いでの損害は日本軍は戦死924名、負傷3,925名。ロシア軍は戦死約600名、負傷約2,200名だった。 24日より各部隊は攻撃目標に向けての対壕建設を再開したが敵に近づくにつれて相手からの阻害攻撃が激しくなり工事は停滞する。それでも各師団の奮闘で突撃陣地の構築を18日には完了する。これを受けて第三軍は再度の総攻撃を決断した。当時は28センチ榴弾砲の追加送付分が準備の出来る10月27日頃を総攻撃の日と考えていたが、各砲の砲弾の不足が深刻化しだしていた。乃木は大本営に1門300発の補給を要請した(ちなみに当時要塞を落とす際に必要な砲弾数は1門につき1000発が基本的な数だった)が、補給を受ける事は出来なかった。また10月16日にはロシア第二太平洋艦隊がリバウ港を出航した事を受け、乃木は砲弾不足を承知で第二次総攻撃を行わざるを得ない状況下におかれた
10月18日、第三軍は二龍山堡塁と、松樹山堡塁の同時攻略計画を打ち立てた。双方の堡塁は密接な関係に有り、攻撃区分では第9師団が担当であったが戦力の余裕がなく、松樹山堡塁攻撃は第1師団が担当する事にした。 23日、第三軍は各参謀長会議を行い、26日の総攻撃を決定した。第1師団が松樹山堡塁、第9師団が二龍山堡塁と盤龍山堡塁東南の独立堡塁、第11師団は東冠山の各堡塁(但し攻撃は第1・9両師団の攻撃が成功した後)を攻撃目標とする。 この時点での主要部隊の戦力は
であった。早朝よりの攻城砲兵による砲撃の後、まず第1師団、第9師団が攻撃を開始した。
第1師団では左翼隊の歩兵第2連隊が敵散兵壕の動揺を捉え突入しこれを制圧。ここから松樹山へ坑道掘進を開始する。ロシア側も坑道を掘り、爆薬を仕掛けて日本側の坑道を破壊するなどで抵抗した。29日になるとロシア軍は逆襲に転じ午前7時に散兵壕を奪取される。第1師団は直ちに逆襲に転じて午後1時30分にはこれを奪い返す。
翌30日、攻城砲兵の事前砲撃の後、第2連隊は松樹山堡塁への突撃を開始した。周囲からの砲火を浴びながら連隊は敵塁の真下まで進出するが外壕の突破に手間取っている間に大損害を被りやむなく撤退する。そのため外壕外岸からの坑道作業に入るが攻撃準備完了まで期日を要することになる。
第9師団は右翼隊の歩兵第19連隊が二龍山堡塁の斜堤散兵壕を占領し坑道掘進を開始する。更に左翼隊も歩兵第7連隊が盤龍山北堡塁に突撃し、その1角を制圧する。二龍山堡塁では松樹山と同様に血みどろの坑道戦が展開される。
30日、まず右翼隊が二龍山堡塁の外壕の破壊に取りかかる。しかし敵塁からの集中射撃と松樹山からの側防射撃に阻まれ占領地を確保するのがやっとであった。 他方、一戸少将が指揮する左翼隊は盤龍山東堡塁東南の独立堡塁(P堡塁)への攻撃を開始。午後1時、工兵隊の爆破した突撃路を使って歩兵第35連隊が突入。僅か2分で堡塁を制圧する。
しかし午後10時30分頃、ロシア軍が逆襲に転じ、占領部隊は将校を多数失い退却した。堡塁下にいた一戸少将は退却の報を受けると予備の1個中隊を自ら率いて奪還に向かい、奪取に成功した。一戸少将の勇猛な活躍ぶりから、後にこの堡塁は「一戸堡塁」と命名される。
第11師団は待機していたが松樹山、二龍山の占領がまだなので攻撃できずにいた。しかし既に攻撃準備が整っており、この際は多少の犠牲も覚悟して突撃すべしという結論になり、30日より攻撃を開始する。
30日午後1時、まず右翼隊の歩兵第22連隊が東鶏冠山北堡塁を攻撃しその1角を制圧。しかし第2堡塁に向かった歩兵第44連隊は集中砲火を浴びて壊滅する。
中央隊の歩兵第12連隊は第1堡塁に向かう。前面の散兵壕を蹴散らしつつ進撃し砲台も占領した。しかし周囲からの射撃を受け被害が続出し、戦線維持が困難になり退却を余儀なくされる。
31日、未だ士気旺盛な右翼隊は外岸側防を制圧。しかし血気にはやる一部部隊が砲兵の支援を待たずに突撃し壊滅。結局第11師団も東鶏冠山を制圧できず、坑道作業に移行していく。
日本軍は戦死1,092名、負傷2,782名の損害を出すが、ロシア軍も戦死616名、負傷4,453名と日本軍以上の損害を受けた。乃木は各師団が坑道作業に入った事で作業完了までには期日が必要と判断。総攻撃を打ち切った。
日本軍は前半戦の作戦目的は203高地以外は達成した。しかし後半の主要防衛線への攻撃は第9師団がP堡塁を占領した以外は失敗。このため日本側は第二次総攻撃も失敗と考えた。
第二回総攻撃の失敗はバルチック艦隊の来航に危機感を募らせる海軍を失望させ、要塞攻略よりも艦隊殲滅を優先し、観測射撃のための拠点を得るため203高地を攻略すべしという意見が出てくるようになる。他方第三軍の上級司令部である満洲軍は当初より要塞攻略を優先する方針を変えず、そのために望台を第一の攻略目標にすることを変えなかった。また望台攻略への寄与が小さい203高地攻略には反対だった。第三軍も二回目の総攻撃は失敗したとはいえ、東鶏冠山堡塁の一部や同山第一堡塁、一戸堡塁を占領することには成功し、東北正面の防衛線をあと一歩で抜くことが出来たので、引き続き要塞正面を主攻にするという立場だった。
11月14日、203高地主攻に固執する参謀本部は御前会議で「203高地主攻」を決定する。しかし満洲軍総司令官大山巌元帥はこれを容れなかった。大本営からの要旨にある「旅順港内を俯瞰し得る地点を占領し、港内の敵艦、造兵廠などに打撃を与うることをのぞむ」で、203高地を直接名指しして命令していないことを逆手に取り、「第三軍司令官をして、是迄の計画に従い鋭意果敢に攻撃を実行せしめ、旅順の死命を制し得るべき『望台』の高地を一挙に占領せしむるの方針をとるべし...」。「203高地を落としても観測点として利用するだけでしかなく、砲を備えて敵艦を沈めるには長大な期日を要し、目的を達成できない」。などと反論し、要塞東北方面攻略の立場を崩さなかった。総参謀長の児玉源太郎大将も、10月までの観測砲撃で旅順艦隊軍艦の機能は失われたと判断して艦船への砲撃禁止を第三軍に命じた。また海軍のバルチック艦隊来航の脅威を必要以上に誇張し、海軍の都合だけ考えて海上輸送を中止しようとする一連の動きに対し抗議した。こういった上層部の意見の食い違いは乃木と第3軍を混乱させ、第三回総攻撃案に大きく影響を与えた。
11月中旬に盤竜山・一戸両保塁から両側の二竜山と東鶏冠山保塁の直下まで塹壕を掘ることに成功しさらに中腹からトンネルを掘り胸壁と外岸側防を爆破することを計画。総攻撃は11月26日と決定された。また参謀本部も内地に残っていた最後の現役兵師団の精鋭、第7師団を投入、部隊を第1、第9師団の間に配置し総予備とした。
11月26日、松寿山堡塁攻撃を担う第1師団左翼隊は午後1時より外壕より突撃した。しかし身を潜めていたロシア軍の奇襲と周囲からの集中砲火と内壕の敵兵の逆襲で突撃した兵は壊滅。午後2時50分には外斜面に退却するしかなかった。
第9師団も午後1時より二龍山堡塁へ突撃を開始した。松寿山堡塁などからの側射を受けて大損害を受けたが突入を続け、なんとか敵前100mの地隙に到達するがそれ以上は進撃できなかった。
第11師団は東鶏冠山北堡塁の胸塔2箇所に爆薬を仕掛け点火。その後歩兵第22連隊が突入した。しかし敵堡塁の破壊は僅かで白兵戦となり多くの犠牲をだす。午後1時40分には土屋師団長が重傷を負い陣地の争奪が激化、占領地の維持は出来なかった。
26日夜半、第三回総攻撃にあたって特に編成された特別予備隊(以下「白襷隊」。3,113名。総指揮官:歩兵第2旅団長・中村覚少将)が攻撃を行った。この部隊は、夜間の敵味方の識別を目的として全員が白襷を着用していた。白襷隊は午後5時に薄暮の中行動を開始、集結点で月が昇るのを待ち、午後8時30分、目標へ動き出した。
午後8時50分、白襷隊は一斉に突入を開始した。しかし目標の松樹山第4砲台西北角には幾重にも張り巡らされた鉄条網があり、その切断作業中に側背より攻撃を受ける。白襷隊はひるまず突入し散兵壕を目指すが前方に埋めてあった地雷により前線部隊はほとんど全滅。後続部隊も奮戦するが死傷者が相次ぎ第1線の散兵壕まで後退する。
午後10時30分頃、指揮を執っていた中村少将が敵弾を受けて負傷、その後同隊は翌27日午前2時頃まで激戦を繰り広げるも突破は不可能と判断され、退却となった。
この攻撃は敵陣突破に失敗し、この時点での第三軍の損害は約7千名に達した。しかし守るロシア側も一時二龍山堡塁の守備兵は数名になり、松寿山第4砲台も予備兵力が10名になるなど、もう少しで突破を許してしまうような状況に追い込まれており、ロシア側にも白襷隊の勇敢さに驚嘆する記述が多く残されている。
11月27日未明、乃木は当初の攻撃計画が頓挫したことで攻撃目標を要塞正面から203高地に変更することを考え、敵味方を兵員消耗戦に持ち込む決心をした。第三軍参謀の白井二郎少佐は第1師団に203高地攻撃を打診したところ快諾を得た。満洲軍司令部より派遣されていた福島安正少将はこの意見に反対を述べ、あくまでも要塞東北方面攻撃を主張したが、乃木の判断で203高地への本格的な攻撃が決定される。
午前10時、軍命令で東北方面攻撃の一時中止と第1師団を中核とした203高地攻撃を行うことが下達、午後5時には大本営と満洲軍総司令部にそのような主旨の報告を行う。指示を受けた攻城砲兵司令部は直ちに砲撃を203高地に変更し、28センチ榴弾砲全砲をもって砲撃を開始した。砲兵第2旅団は203高地攻撃に際して妨害攻撃をするであろう敵の各砲台への砲撃を開始した。対するロシア軍は203高地に500余名、その北東の老虎溝山(標高177m)に千名の兵を配し、万全の体制をとっていた。
27日午後6時、28センチ榴弾砲の事前射撃により203高地の中腹散兵壕を破壊、午後6時20分、第1師団右翼隊(後備歩兵第1旅団)、中央隊(歩兵第1旅団)が突撃を開始した。敵砲台は攻城砲兵及び師団砲兵が制圧し、右翼隊は鉄条網を排除しつつ前進し、一部は203高地西南部、敵の第2線散兵壕の左翼を奪取した。更に前進を続けるも周囲からの敵の大口径砲の援護砲撃で損害を被る。
中央隊は老虎溝山に突撃を開始、山頂散兵壕の一部を奪うが夜になって敵の逆襲により撤退した。
翌28日、第1師団は再び攻撃を開始した。右翼隊は後備歩兵第38連隊の増援を受け8時頃突撃を開始、第2線散兵壕を奪うが死傷者が続出し現在地の確保で精一杯になる。友安旅団長は後備歩兵第16連隊を増援に回し、10時30分に山頂へ突撃し頂上を制圧した。しかし直ぐ様ロシア軍の逆襲にあい山頂を奪還される。それでも左翼隊は粘り強く攻撃を続け、正午頃には西部山頂の1部を奪回し敵の逆襲に備えた。
一方の中央隊は203高地東北部に対する攻撃を意図し攻撃準備をしていたが、その間敵の攻撃を受けて歩兵第1連隊長の寺田錫類大佐が重傷を負い、まもなく戦死する。それでも旅団長馬場命英少将自ら指揮を取り突撃を繰り返すも効果なく、一時は東北部山頂を占領するも、敵に奪還された。
11月29日午前2時、第1師団より現在の師団兵力では203高地攻略は難しい旨の連絡が軍司令部に届く、これを受けて乃木は予備の第7師団の投入を決意、午前3時に麾下の各部隊と満洲軍総司令部、大本営にその旨を連絡した。この直後、満洲軍より児玉総参謀長が旅順に赴く旨の連絡が入る。
午前7時、第7師団長大迫尚敏中将が高崎山の第1師団司令部に到着し、203高地攻撃の指揮権を継承した。大迫は第7師団と第1師団の残存兵力で攻撃部署を決める。
30日午前6時、攻城砲兵は砲撃を開始、まず歩兵第28連隊が山頂東北部に突入。第三攻撃陣地まで前進するが敵の猛射で釘付けにされる。西南山頂は後備歩兵第15.16連隊が向かうがこれも側射を受けて損害を被り攻撃を断念する。
老虎溝山攻撃は午前10時より開始され、午後1時まで幾度となく波状攻撃を繰り返すが悉く撃退される。
午後4時50分、第1師団長より攻撃再開の命が下る。6時40分に東北部山頂に突入し、接戦のすえ一部占領に成功。その後一進一退の攻防で占領地の一角を死守することに成功した。 午後5時には203高地の完全占領の報が届き、大本営や満洲軍に伝わるが誤報で、翌12月1日午前2時には敵に奪還される。
夜半、友安少将は増援の二個中隊を率いて前線に向かう旨、各部隊に伝令を出すが、その任務を帯びていた副官の乃木保典少尉(乃木希典大将の次男)は銃弾を受けて戦死する。
12月1日、死傷者の収容と態勢を整えるため、4日まで攻撃を延期する。 正午、満洲軍司令部から旅順へ向かった児玉満洲軍総参謀長が到着。その途上、203高地陥落の報を受けたが後に奪還されたことを知った児玉は大山満洲軍総司令官に電報を打ち、北方戦線へ移動中の第8師団の歩兵第17連隊を南下させるように要請した。
12月1日から3日間を攻撃準備に充て、第3軍は攻撃部隊の整理や大砲の陣地変換を行った。
12月4日早朝から203高地に攻撃を開始し、5日9時過ぎより、第7師団歩兵27連隊が死守していた西南部の一角を拠点に第7師団残余と第1師団の一部で構成された攻撃隊が西南保塁全域を攻撃し10時過ぎには制圧した。
12月5日13時45分頃より態勢を整え東北堡塁へ攻撃を開始し、22時にはロシア軍は撤退し203高地を完全に占領した。翌6日に乃木は徒歩で203高地に登り将兵を労うが、攻撃隊は900名程に激減していた。
12月5日の203高地陥落後、同地に設けられた観測所を利用し日本側は湾内の旅順艦隊残余に砲撃を開始する。各艦の大多数はそれまでの海戦や観測射撃で破壊され、要塞攻防戦の補充のため乗員、搭載火砲も陸揚げし戦力を失っていたが、日本側はこれらに対しても28センチ榴弾砲砲弾を送り込み、旅順艦隊艦艇は次々と被弾した。砲弾は戦艦の艦底を貫けなかったが、多くの艦艇は自沈処理がなされた。5日に戦艦ポルターヴァが後部弾火薬庫が誘爆着底、翌日には戦艦レトヴィザンも着底し、8日にペレスヴェート、ポベーダの両戦艦も防護巡洋艦パラーダと共に着底した。9日には装甲巡洋艦バヤーンが同様の運命をたどった。大型艦で生き残ったのはセヴァストーポリのみとなり、8日の深夜に港外に脱出した。
この攻撃での損害は日本軍は戦死5,052名、負傷11,884名。ロシア軍も戦死5,380名、負傷者は12,000名近くに達した。両軍がこの攻防に兵力を注ぎ込み大きく消耗した。203高地からはロシア太平洋艦隊のほぼ全滅が確認され、児玉は12月7日に満洲軍司令部へ戻った。
脱出して旅順港外にいた戦艦セヴァストポリと随伴艦艇に対しては、日本海軍は30隻の水雷艇で攻撃し、12月15日の深夜の攻撃で同艦は着底し、航行不能となった。
12月10日、第11師団による東鶏冠山北堡塁への攻撃を開始。15日に勲章授与のため兵舎を訪れていたコンドラチェンコ少将が二八センチ榴弾砲の直撃を受け戦死した。
18日には日本軍工兵が胸壁に取り付けた2トンの爆薬による爆破で胸壁が崩壊、ロシア軍は僅か150名の守備兵しかいなかったが果敢に反撃し第11師団は戦死151名、負傷699名もの損害を受け激戦の末夜半に占領した。ロシア側は150名中92名が戦死するという玉砕に近い抵抗だった。乃木司令部は以降も胸壁や塹壕を完全に破壊してから突撃に移る方針を続けた。
28日には第9師団による二竜山堡塁への攻撃が始まる。胸壁を3トン弱の爆薬で爆破し300名の守備兵の半数は生き埋めとなるが残兵が激しく抵抗、水兵の増援もあり双方射撃戦になる。しかし歩兵第36連隊が後方に回り込み、それを見たロシア軍守備隊の撤退により、29日3時に遂に占領された。第9師団は戦死237名、負傷953名の損害を被り、ロシア軍も300名以上の死者を出した。
31日、第一師団による松樹山堡塁への攻撃が始まりロシア軍守備兵208名のうち坑道爆破で半数が死亡、占拠した二竜山保塁からの援護射撃もあり後方を遮断することに成功、11時に降伏した。第一師団は戦死18名、負傷169名の損害を被りロシア軍も生存者は103名だった。
1月1日未明より日本軍は重要拠点である虎頭山や望台への攻撃を開始し、午後になって望台を占領した。
ロシア軍はそれまで203高地攻防などで予備兵力が枯渇し、コンドラチェンコ少将が戦死した中でも抗戦意志を捨てていなかった。しかし東北面の主要保塁(望台)が落ちたことで旅順要塞司令官ステッセリは遂に抗戦を断念し、1月1日16時半に日本軍へ降伏を申し入れた。
5日に旅順要塞司令官ステッセリと乃木は旅順近郊の水師営で会見し、互いの武勇や防備を称え合い、ステッセリは乃木の2人の息子の戦死を悼んだ。また、乃木は降伏したロシア将兵への帯剣を許した。この様子は後に文部省唱歌「水師営の会見」として広く歌われたほか、 荒井陸男の手により明治神宮絵画館の壁画『水師営の会見』が製作され後世に伝えられた。 こうして旅順攻囲戦は終了した。日本軍の投入兵力は延べ13万名、死傷者は約6万名に達した。
旅順要塞の陥落により旅順艦隊は無力化された。
日本軍は本格的な攻城戦の経験が少なかった。陸軍全体に近代戦での要塞戦を熟知した人間が少なく、第1回総攻撃では空前の大損害が生じてしまった。要塞攻略に必要な坑道戦の教範の欠如に関しては、当時は日本だけでなく欧米列強において火力万能主義の時代であったため、坑道戦術自体が軽視されていた。戦争直前の工兵監であった上原勇作も坑道教育にはあまり重視しておらず、むしろ前任の矢吹秀一工兵監時代に非常に坑道教育に力を入れていた。旅順戦においては、矢吹工兵監時代の記憶を辿って攻城教程を作成した。戦後明治39年に坑道教範が作成され、小倉に駐屯していた工兵隊によって、初めての坑道戦訓練が敵味方に分かれて実施された。
軽量化が図られた上に毎分500連発と実用性の高い機関銃であるマキシム機関銃は、この戦闘で世界で初めて本格的に運用され威力を発揮した。機関銃陣地からの十字砲火に対し、従来の歩兵による突撃は無力であることを実戦で証明した。この状況を打開する攻撃法を日露戦争後も暫くは見いだすことはできなかった。同時代のヨーロッパ各国でも、機関銃をごく少数配備していただけで運用法も確立されていなかった。 当時の日露両軍は世界的に見ても例外的に機関銃を大量配備していたが、早くから防衛兵器としての運用を考え出したロシア軍に対し、日本軍側はあくまでも野戦の補助兵器として考えていたので、初期には効果的な運用は行われていなかった。後に日本側もロシア側の運用法を応用した。 旅順要塞での戦訓は欧州諸国にも積極的に導入された。第一次世界大戦の東部戦線ではドイツ軍が旅順要塞攻略時に日露両軍が用いた対壕戦術を採用。 1915年5月1日から開始されたマッケンゼン攻勢ではロシア軍の要塞陣地を一週間で突破しロシア兵捕虜14万人を捕らえる大戦果をあげた。
1905年1月にボリシェヴィキの機関誌『フペリョード』上でウラジーミル・レーニンは、旅順の失陥を「ロシア専制の歴史的な破局」と位置づけた。事実、旅順の失陥によって政府の威信は低下し、労働争議を禁じられ軍需産業の増産で酷使されていたサンクトペテルブルク市民は不満を噴出させた。1月22日に冬宮殿に集まった請願デモに対して、軍が発砲し多数の死者を出した血の日曜日事件が発生した。東京日日新聞は事件の翌日の紙面で、旅順の失陥が血の日曜日事件の大きな原因となったと論評している。首都で発生した混乱はゼネストや農民蜂起という形でロシア全土に広がり、ロシア第一革命に発展した。
第3軍 - 軍司令官:乃木希典大将
(出典:潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 p.81)
ロシア関東軍 - 軍司令官:アナトーリイ・ステッセリ中将
203高地は要塞主防御線(西方)の2km外側に位置しており、ここの防御施設は前進陣地として築かれた。
本高地から地形上旅順港内の全域を展望できるということはロシア側も開戦前から承知していたが、予算不足で規模が縮小されたこともあり要塞防御線には組み込まれなかった。開戦後は、コンドラチェンコ少将により補強され、総攻撃開始までにかなりの防御を有するまでになってはいた。しかし他のロシア軍陣地からも距離があり戦闘中には兵力投入の移動にも危険を伴うので従来通り前進陣地として運用する予定だった。
しかしながら戦闘を経てロシア軍は方針を変更して203高地を固守するようになり予備兵力を次々とここに注ぎ込んでいった。日本軍にとって、この攻防戦に踏み切ることによりロシア軍予備兵力消耗の目的を果たした。
203高地攻防戦の終局後、ロシア側の抵抗力は著しく減衰しており、12月中旬より行われた東北面の主防御線上の攻防戦では主要三保塁と望台という重要拠点が立て続けに陥落した。要塞司令官ステッセリが降伏を決断した理由は、予備兵力を消耗したことにより戦線を支えられなくなったためである。
203高地の攻防戦については、様々な見解が語られている。特に203高地の観測所としての価値を重視する見解が多い。本防御線の外から旅順港内のロシア艦艇を砲撃する場合の観測所として本高地は最適な場所であり、攻略は早期に行われるべきだったとするものである。だが、第三軍の作戦目的は要塞の攻略であり旅順艦隊の殲滅ではなかった。実際にも総攻撃開始時点で第三軍に配備されていた重砲は最大で15センチ榴弾砲であり、戦艦を砲撃して大打撃を与える能力は持っていなかった。
大本営は203高地への攻撃を要求し続けた。大山総司令と児玉総参謀長はそれぞれ大本営と山県参謀総長に電報を送り203高地主攻に不同意を伝えた。
第1回総攻撃では第3軍は203高地を主目標とはしなかった。海軍からこの時点で203高地攻略の要請があったと小説などで描かれることも多いが実際には、この時点で203高地攻略を論じられたことはなかった。平坦部は移動中に敵に姿を曝け出し被害を増す危険があったので却下された。
陸軍側の重砲は15センチ榴弾砲16門と12センチ榴弾砲28門だが、最大の15センチ榴弾砲もこれは海軍の艦載砲より砲身も短く初速が低く艦船への攻撃力は劣る。
伊地知幸介第3軍参謀長と犬猿の仲であった井口省吾満洲軍参謀が陸軍大学校長を6年半(1906年(明治39年)2月-1912年(大正元年)11月)務めていた時期に入校し優等で卒業(1909年(明治42年)-1912年(大正元年))した谷寿夫が、後に陸大兵学教官となった際に日露戦争の政戦略機密戦史を著した。俗に「谷戦史」と呼ばれる。
太平洋戦争後の昭和40年代に「谷戦史」が『機密日露戦史』と題して原書房から刊行された。
福島県立図書館の佐藤文庫には「手稿本日露戦史(仮称)」の旅順戦関連部分が所蔵されている。戦史研究家の長南政義が、大庭二郎の日記を活用し、また白井参謀、井上参謀の回想録などを駆使した論考(長南 2011b、長南 2012)を発表している。
第3軍では多くの死傷者を出したにもかかわらず、最後まで指揮の乱れや士気の低下が見られなかったという。 当時の従軍記者、スタンレー・ウォシュバン(Stanley Washburn、1878-1950)の指摘では、203高地の重要性を指摘し第7師団を集中的に投入する方向で第三軍の軍議をまとめたのは乃木であったとしている。
無能論の主な根拠には以下のものがある。
など述べられているが、最近では新資料の発見や当事者である第三軍関係者の証言・記録などから、上記の点に対して
他にも、陸軍が手本にした仏独両陸軍からして要塞攻略の基本は奇襲か強襲を基本としている。
日本軍が203高地を攻略したのは児玉源太郎が旅順に到着した4日後であった。これを、児玉の功績によってわずか4日間で攻略されたと機密日露戦史で紹介された。ただし、誤りも多いと別宮暖朗、長南政義、原剛などが書籍で発表している。
児玉は正攻法の途中段階で大本営や海軍に急かされ実施した第二次総攻撃には反対で、準備を完全に整えた上での東北方面攻略を指示していた。そのためには海軍の要請する203高地攻略は弾薬節約の点から反対だった。
第三軍が第三次総攻撃の際、総攻撃途上で作戦を変更して203高地攻略を決意した際には、満洲軍総司令部が反対し、総司令部から派遣されていた参謀副長の福島安正少将を第三軍の白井参謀が説得している。
第三軍の参謀はほとんどが来訪当日は児玉と会っておらず電話連絡で済ませている。児玉が戦闘視察時に第三軍参謀を叱責したとされる話は事実ではない。
児玉は予備兵力としておかれていた12センチ榴弾砲15門と9センチ臼砲12門を、203高地に近い高崎山に移し高地とは別目標に対して攻撃するよう指示した。攻城砲兵司令部の判断は第三軍司令部も把握していた。
近年、第三軍司令部側の史料から、児玉が旅順で実際に第三軍の作戦に指示を与えていたことを指摘する研究が新しく出されている。 203高地攻めにおける児玉の関与は少なかったという見解もあるが、これに反する意見を秦郁彦が『二〇三高地攻め「乃木・児玉対決シーン」の検証』の中で提示している。
「長岡外史回顧録」を纏め、その中で旅順攻略戦についての感想を残している。
203高地については「9月中旬までは山腹に僅かの散兵壕があるのみにて、敵はここになんらの設備をも設けなかった」と述べ、これを根拠として「ゆえに9月22日の第一師団の攻撃において今ひと息奮発すれば完全に占領し得る筈であった」との見解を述べている。この長岡の見解を否定する意見もある。
28サンチ榴弾砲の旅順送付について、自己の関与が大きかったことを述べているが、8月21日の総攻撃失敗ののち、寺内正毅陸軍大臣はかねてより要塞攻撃に同砲を使用すべきと主張していた有坂成章技術審査部長を招いて25〜26日と意見を聞いたのち採用することを決断し、参謀本部の山縣参謀総長と協議し、すでに鎮海湾に移設するための工事を開始していた同砲6門を旅順に送ることを決定したというのが実際の動きである。しかし長岡談話によると、参謀本部側の長岡参謀次長が、総攻撃失敗ののちに同砲を旅順要塞攻撃に用いるべきという有坂少将の意見を聞いて同意し、そののち陸軍大臣の説得に向かい同意を得たと、まったく違った経緯であったように記述している。これらの見解については現在も検証・研究・調査が続いている。
旅順攻囲戦についての考察・研究は、資料の発見・公開・活用により、21世紀に入っても続いている。近年においては、
といった文献が発表されている。また、
といった書籍も刊行されている。
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"text": "旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん、、リュイシュンこういせん、Siege of Port Arthur, 1904年(明治37年)8月19日 - 1905年(明治38年)1月1日)とは、日露戦争において、ロシア帝国の旅順要塞を、日本軍が攻略し陥落させた戦いである。",
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"text": "ロシアは、1896年の露清密約の後、1898年に遼東半島を租借し、旅順口を太平洋艦隊(後の第一太平洋艦隊)の主力艦隊(旅順艦隊)の根拠地とし、港湾を囲む山々に本格的な永久要塞を建設していた(旅順要塞)。",
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"text": "日本は、予期される日露戦争に勝利するためには、日本本土と朝鮮半島および満洲との間の補給路の安全確保が必要であり、朝鮮半島周辺海域の制海権を押さえるために旅順艦隊の完全無力化が不可欠と見なしていた。また旅順要塞に立て籠もったロシア陸軍勢力(2個師団)は、満洲南部で予想される決戦に挑む日本軍(満洲軍)の背後(および補給にとって重要な大連港)に対する脅威であり、封じ込めもしくは無力化が必要だった。",
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"text": "陸軍側は参謀本部が満洲攻勢作戦の研究を1902年より始め、その中で、旅順攻城を佐藤鋼次郎少佐が担当した。1903年11月頃の参謀本部内の意見は、兵力の大部分を遼陽方面へ北進させ予想される大決戦に集中させ、旅順は一部の兵力による封鎖監視に留めるべきとの考えが大勢だったが、佐藤少佐が攻略の必要性を主張し研究は続けられた。",
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"text": "1903年12月30日に陸海軍間で開戦に関する協議が行われた。「旅順港外に停泊している旅順艦隊に対する奇襲を優先すべき」との海軍側の主張と「臨時韓国派遣隊の派遣を優先すべき」との陸軍側の主張とが対立したが、陸軍が譲って海軍案に決着した。海軍は独力による旅順艦隊への対処を言明していたが、陸軍はその後も旅順攻城の研究を進め、1904年1月、陸軍参謀本部による計画案が成り、陸軍省に所要資材の照会がなされた。",
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"text": "開戦後、海軍は港外奇襲と港口閉塞作戦を実行したが、不十分な結果で終わり、旅順艦隊の戦力は保全された。2月末頃からウラジオストク巡洋艦隊が活動を始めたが、第三艦隊を対馬防備に置いたまま、海軍主力による港口の閉塞を目的とした作戦は続けられた。",
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"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "陸軍は3月に入っても、封鎖監視で十分であるとの考えがまだ残っていたが、最終的には、3月14日、2個師団をもって攻城を行う決定を下した。作戦目的は「地上より旅順要塞を攻略し、北上する日本軍主力の後方を安定化する」とした。",
"title": "背景"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "海軍は第二回閉塞作戦を3月27日に実行したが不成功だった。しかし4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執しており、4月6日の大山巌参謀総長、児玉源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文に「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文がある。また海軍は12-13日に機雷を敷設した。4月終わり以降は第二艦隊を第三艦隊と入れ替え、旅順方面の海軍戦力は減少した。",
"title": "背景"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "ロシアは5月にバルト海に所在する艦船群(未完成艦含む・バルチック艦隊)の極東派遣を決定・発表した。もしもこれが未だ健在の旅順艦隊と合流すれば、日本海軍の倍近い戦力となり、朝鮮半島周辺域の制海権はロシア側に奪われ、満洲での戦争継続は絶望的になると考えられた。5月3日に第三回閉塞作戦が実施されたが、これも不成功に終わった。5月9日より、日本海軍は、旅順港口近くに戦艦を含む艦艇を遊弋させる直接封鎖策に転換したが、主力艦が貼り付かざるを得なくなり増派艦隊への対応が難しくなった。15日には当時日本海軍が保有する戦艦の6隻のうち2隻を触雷により失った。日本軍としては増派艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要に迫られ、海軍はこの頃陸軍の旅順参戦の必要性を認めざるを得なくなった。",
"title": "背景"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "このような経緯に加え攻城の準備は複雑なため、第3軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した乃木希典大将が、参謀長には砲術の専門家である伊地知幸介少将が任命された。軍参謀らには、開戦後に海外赴任先から帰国してきた者が加わった。軍司令部は6月1日に本土を発ち、8日に大連に到着した。第3軍の主力としては、すでに金州城攻略戦を終えて主戦場と目される満洲南部へ北進する第2軍から2個師団(第1師団、第11師団)が抽出され当てられた。",
"title": "背景"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "6月20日に満洲軍(総司令部)が設置され、第3軍もその下に入った。第3軍の使命は、速やかに要塞を陥落させ、兵力を保全したままその後に第1・2軍に合流することだった。",
"title": "背景"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "旅順要塞の構造は、要塞防衛線(第一防衛線、第二防衛線)、および前進陣地から構成される。",
"title": "旅順要塞の構造"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "旅順は元々は清国の軍港で、ロシアが手中に収めた時点である程度の諸設備を持っていた。しかし防御施設が旧式で地形も不利な点を持つことを認識し強化に着手した。1901年より開始されたこの工事は、当初は下述する203高地や大孤山(標高約180 m)も含めた十分に広い範囲に要塞防御線を設置し守備兵2万5千を常駐させる計画だった。しかし予算不足で防御線の規模は縮小され、常駐の守備兵も1万3千に変更された。この要塞防衛線は港湾部に近すぎ、要塞を包囲した敵軍の重砲は、防衛線内の砲台から狙われない安全な位置より港湾部を射程内に収めることができた。また地形上、敵軍が防衛線外の大孤山や203高地、南山坡山(通称海鼠山、標高約200m、203高地の北)などを占領した場合は、港湾部の一部もしくは全域の弾着観測を許した。そのため開戦後にはそれら防衛線外も前進陣地や前哨陣地を設け防御に努めたが本質的に完全ではなかった。また完成は1909年の予定だったので、1904年の日露開戦により未完成のまま(完工度は約40パーセント)戦争に突入することになった。これら前哨陣地は第7師団長ロマン・コンドラチェンコ少将の精力的な強化工事が施された。",
"title": "旅順要塞の構造"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "要塞の配置、規模は",
"title": "旅順要塞の構造"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "となっている。",
"title": "旅順要塞の構造"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "防衛線外の前進陣地は、西方に203高地近辺諸陣地、北方に水師営近辺諸陣地、東方に大小孤山諸陣地を整備したが、未完成だった。",
"title": "旅順要塞の構造"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "要塞の主防御線はコンクリート(当時は仏語のベトンと呼ばれていた)で周囲を固めた半永久堡塁8個を中心に堡塁9個、永久砲台6個、角面堡4個とそれを繋ぐ塹壕からなりあらゆる方角からの攻撃に備え、第二防衛線内の最も高台である望台には砲台を造り支援砲撃を行った。さらに突破された場合に備えて堡塁と塹壕と砲台を連ねた小規模な副郭が旅順旧市街を取り囲んでいた。海上方面も220門の火砲を砲台に配備して艦船の接近を妨害するようになっていた。",
"title": "旅順要塞の構造"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "ロシア軍では、この要塞を含めた地域一帯を防衛するロシア関東軍が新設され軍司令としてアナトーリイ・ステッセリ中将、旅順要塞司令官にコンスタンチン・スミルノフ中将が就任した。",
"title": "旅順要塞の構造"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "日露戦争の開戦時の旅順要塞には、東シベリア第7狙撃兵師団(師団長:ロマン・コンドラチェンコ少将)・東シベリア第7狙撃兵師団(師団長:アレクサンドル・フォーク少将)・東シベリア第5狙撃兵連隊・要塞砲兵隊・要塞工兵隊など総勢4万4千名の兵力、436門(海岸砲は除く)の火砲があった。",
"title": "旅順要塞の構造"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "日本海軍は、独力で旅順艦隊を無力化することを断念し、1904年7月12日に伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請した。その頃第三軍は、6月26日までに旅順外延部まで進出した。6月31日、大本営からも陸軍に対して旅順要塞攻略を急ぐよう通達が出ていた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "しかし陸軍は、旅順要塞を攻略する方針を固めることが遅れたため、情報収集が準備不足だった。ロシア軍の強化した要塞設備に関する事前情報はほとんどなく第三軍に渡された地図には要塞防御線の前にある前進陣地(竜眼北方堡塁、水師営南方堡塁、竜王廟山、南山坡山、203高地など)が全く記載されていなかった。防御線でも二竜山、東鶏冠山両堡塁は臨時築城と書くなど誤記が多かった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "こうした中で要塞攻略の主軸をどの方向からにするかが議題となった。戦前の図上研究では平坦な地形の多い西正面からの攻略が有利であると考えられていた。しかし第三軍司令部は大連上陸前の事前研究によりその方面からの攻略には敵陣地を多数攻略していく必要があり、鉄道や道路もないので攻城砲などの部隊展開に時間を要し早期攻略できないと考え東北方面の主攻に方針変更した。しかし新たに参謀本部次長となった長岡外史や、満洲軍参謀井口省吾らが西方主攻を支持し議論となる。ただし、この主攻の選択はあくまで要塞攻略の主軸をどの方面にするかの話であり、後に出る203高地攻略とは別の議論である。結局この議論は第三軍司令部が現地に到着する7月ごろまで持ち越される。その頃第三軍は、6月26日までに旅順外延部まで進出していた。7月3日、コンドラチェンコ師団の一部が逆襲に転じるが塹壕に待ち構える日本軍の反撃に撤退した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "その後第三軍に第9師団や後備歩兵第1旅団が相次いで合流し戦力が増強された。このあと乃木は懸案だった主攻方面を要塞東北方面と決定した。この理由には下記があった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "準備を整えた第三軍は7月26日旅順要塞の諸前進陣地への攻撃を開始し、主目標はそのうちの東方の大孤山とした。3日間続いた戦闘で日本軍2,800名、ロシア軍1,500名の死傷者を出し、30日にロシア軍は大孤山から撤退した。この頃乃木は、来るべき総攻撃の期日を決断し、増援の砲兵隊の準備が整う予定の後の8月19日とした。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "8月7日、黒井悌次郎海軍中佐率いる海軍陸戦重砲隊が大孤山に観測所を設置し、旅順港へ12センチ砲で砲撃を開始。9日9時40分に戦艦レトウィザンに命中弾を与え、浸水被害をもたらした。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "8月10日、ロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に被害が出始めたことで、艦隊司令ヴィトゲフトは、極東総督アレクセイエフの度重なるウラジオストクへの回航命令に従い、旅順港を出撃した。海軍側が陸軍に要請した「旅順艦隊を砲撃によって旅順港より追い出す」ことは、これによって達成された。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "しかし同日の黄海海戦では、日本連合艦隊は2度に亘り旅順艦隊と砲撃戦を行う機会を得つつも駆逐艦の1隻も沈没せしめることなく、薄暮に至り見失った。旅順艦隊は旅順港へ帰還した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "帰還した艦艇のほとんどは上部構造を大きく破壊され、戦闘力をほぼ喪失し、旅順港の設備では修理ができない状況だった。最も損害が軽微だった戦艦セヴァストポリだけは外洋航行可能にまで修理された。帰還後の艦艇は、大孤山から観測されないよう、狭く浅い湾内東部に停泊させた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "総攻撃を前に第三軍は軍司令部を柳樹房から鳳凰山東南高地に進出させた。さらに団山子東北高地に戦闘指揮所を設け戦闘の状況を逐一把握できるようにした。ここは激戦地となった東鶏冠山保塁から3キロという場所でしばしば敵弾に見舞われる場所であった。以降、攻囲戦は主にここで指揮が取られることになった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "8月18日深夜、第三軍(参加兵力5万1千名、火砲380門)各師団は其々目標とされる敵陣地の射程圏ぎりぎりまで接近し総攻撃に備えた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "翌8月19日、各正面において早朝より準備射撃が始まる。当初はロシア側は日本の砲兵陣地の位置を正確に把握できておらず反撃も散漫だったが、やがて本格的になり、この日は両軍合わせて500門の火砲が撃ち合う激しい戦闘となった。乃木も午後1時に双台溝の236高地に登り戦況を視察した。ロシア軍ではこの砲撃で松樹山、二龍山、盤龍山、東鶏冠山、小案子、白銀山、望台の各保塁・砲台に大損害が出ており、東鶏冠山第二保塁では弾薬庫が爆発し守備兵が全滅し、二龍山保塁では主要火砲の6インチ砲がすべて破壊された。こうした光景を目の当たりにして日本軍前線の将兵の士気は大きく高まったという。2日間の砲撃戦ののち、21日に第三軍は総攻撃を開始した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "総攻撃開始に先立つ19日午前6時、友安治延少将率いる後備歩兵第1旅団(第1師団の指揮下として右翼隊を形成)は目標の大頂子山に攻撃を開始した。一部が敵前至近距離に迫ったものの猛烈な反撃を受け撃退された。夜半になり夜襲を仕掛けるも戦況は好転しなかった。20日には歩兵第二旅団(旅団長:中村覚少将)基幹の左翼隊は水師営南方高地までは順調に進んだがここで敵の抵抗にあい、それでも水師営の一部と同西溝の猛攻の末22日に占領。夜半には93高地を夜襲で奪取した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "明けて21日、師団長の松村務本中将は司令部を高崎山に移す。歩兵第1旅団(旅団長:山本信行少将)基幹の中央隊が第一師団の攻略目標である南山坡山及びその北端の鉢巻山を総攻撃。22日までにさしたる抵抗もなく占領するがまもなく激しい逆襲が行われ白兵戦が幾度となく展開された。日本側は増援を送ろうにも鉢巻山へ至るには敵の寺児溝北方陣地の麓を通らねばならず、占領部隊への増援、補給は至難だった。補給線の確保も失敗し兵士たちは匍匐前進で弾薬や糧食を運ばなければならなかった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "第9師団でも歩兵第18旅団(旅団長:平佐良蔵少将)基幹の右翼隊が19、20日と竜眼北方保塁へ攻撃を開始。しかしこの方面は攻撃側が身を隠すような草木もなく、付近の砲台から集中射撃を受けて大損害を被る。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "21日、左翼隊の歩兵第6旅団(旅団長:一戸兵衛少将)が盤龍山南北の堡塁に攻撃を開始。配下の歩兵第7連隊では3人の大隊長のうち2人が戦死し、遂には連隊長大内守静大佐自らが先陣をきって突撃するも、28発もの銃弾を浴びて戦死する程の激戦となった。一戸少将は歩兵第35連隊を増援に送るが失敗し、先月30日に戦傷で交代したばかりの連隊長、折下勝造中佐が戦死してしまう。このため一戸は夜陰に乗じて攻撃する方法に切り替える。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "22日午前0時、各隊は一斉に夜襲をかけるが、ロシア軍は探照灯や照明弾で周囲を照らし機関銃を乱射してそれを阻んだ。戦闘は明るくなっても続き後備歩兵第8連隊が増援、午前10時頃、盤龍山東堡塁の占領になんとか成功、午後8時には西堡塁も占領した。しかしこの間戦い続けた第7連隊は大損害を被り、確保時の残余兵力は将校以下71名だった。ともかく第9師団は盤龍山東西堡塁の攻略に成功し、ここは半ば要塞の第二防衛線に食い込んだ要地で望台までは約1kmだった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "第11師団長土屋光春中将は司令部を大弧山北嶺に移すが、敵の銃撃を受け、参謀2名が戦死した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "歩兵第10旅団(旅団長:山中信儀少将)は東鶏冠山北堡塁、第二堡塁を攻撃。北堡塁の方は直前に外壕が見つかり、工兵隊の犠牲のもと、巨大な外壕に二条の突入路を築き、部隊が突入するが集中砲火を浴び、突入隊隊長の本郷少佐以下多くの死傷者をだし、外壕に躍り込んだ隊は全員戦死した。第二堡塁の方は占領には成功するも退却するロシア軍が放った火が壕内の弾薬に引火し爆発、それが引き金となる周囲の堡塁砲台から集中射撃を受け突入隊隊長の吉永少佐以下死傷者が続出し、弾薬も無くなり残余兵40名はやむ無く撤退。鉄条網下の地隙に援軍をまった。僅か3時間の占領であった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "乃木は占領した盤龍山堡塁を起点として、23日、望台への攻撃を命じた。しかし盤龍山堡塁を占領する第九師団の戦力は予備兵力を含めても約1000名に激減しており、第1師団から歩兵第15連隊(二個大隊欠)を応援に回し、第11師団も東鶏冠山堡塁への攻撃で疲弊した歩兵第10旅団(旅団長山中少将は疲労で倒れた土屋師団長の代理で師団本部におり、指揮は歩兵第44連隊の石原大佐が執る)を応援に出す。戦力が整った各隊は24日午前2時より攻撃を開始する。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "しかしこれらの突入も情報を事前に察知していたステッセル中将の指示で準備を整えていたロシア軍の反撃で各隊は死傷者が続出した。午前7時、最後の予備兵力の歩兵第12連隊第一大隊が投入されるが要塞からの砲撃が激しく突撃は延期された。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "24日午後5時、乃木は総攻撃の中止を指示した。第一回総攻撃と呼ばれたこの攻撃で日本軍は戦死5,017名、負傷10,843名という大損害を蒙り、対するロシア軍の被害は戦死1,500名、負傷4,500名だった。第三軍はほぼ一個師団分の損害を出したことになる。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "この頃からロシア軍側は、旅順港内に逼塞した太平洋艦隊の海軍将兵で複数の中隊単位の陸戦隊を編成し、艦船の中小口径砲の一部も陸揚げして陸軍部隊の増援を図った。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "第三軍は第一回総攻撃を歩兵の突撃による強襲法で行ったが、これは砲弾数不足で十分な支援砲撃ができない中で、大本営からの速やかなる早期攻略の要請に応えようとしたためであった。しかし要塞(望台)には歯が立たず兵力に大損害を被った。乃木は攻撃方法を再考し、正攻法へ切り替える考えを固めた。これは占領した盤龍山東西堡塁から要塞前面ぎりぎりまで塹壕を掘り進み進撃路を確保し、歩兵の進撃の際は十分に支援砲撃を行う方式であり、麾下の参謀に調査(地質や地形、敵情など)や作戦立案を指示した。8月30日、軍司令部に各師団の参謀長と工兵大隊長、攻城砲兵司令部の参謀などを招集し、正攻法への変更を図る会議を行った。しかし前線部隊の意見は砲弾不足などを理由に強襲法継続の主張が強かった。この会議は6時間に及んだが、最終的には乃木の決断で正攻法に変更する事になり、9月1日よりロシア軍に近接するための塹壕建設を開始した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ロシア側も盤龍山堡塁を奪われたのは痛手だった。8月30日にロシア軍はコンドラチェンコ少将の独断により盤竜山を奪い返そうと攻撃を行ったが、日本軍の反撃を受け攻撃兵力の3割を失い失敗した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "9月15日、第三軍は対壕建設に目途が立ち、兵員・弾薬も補充できた。17日に各部隊に指示し、部分的攻撃を19日に開始するよう命令した。今回は第1師団、第9師団が攻撃を担当し、第11師団は前面の敵の牽制を担った。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "19日午前8時45分、攻城砲兵は敵牽制の砲撃を開始、午後1時には攻略目標である龍眼北方、水師営両堡塁に砲撃を集中した。午後5時頃、第1師団左翼隊(歩兵第2旅団)は水師営第1堡塁への突撃を開始した。しかし外壕の突破に手間取り大損害を被る。中央隊(歩兵第1旅団)は順調に進撃し、目標の南山坡山の北角を占領する。右翼隊(後備歩兵第1旅団)はこの攻撃より目標に加えられた203高地攻撃を任される。しかしここも敵の猛射を浴びて大損害を被ってしまう。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "20日、苦戦する左翼隊に第9師団が龍眼北方堡塁の占領に成功したという一報が入る。奮起した同隊は第4堡塁へ突撃を敢行しこれを占領、更に攻城砲兵が第1堡塁へ砲撃を開始し敵は沈黙、午前11時には水師営の全堡塁は日本軍の手に落ちた。中央隊も山頂で白兵戦をしつつも午後5時には南山坡山を占領した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "しかし203高地攻略は容易ではなく、なんとか山頂の一角を占領しつつも直後にロシア軍の大逆襲が始まり、午前5時には山頂を奪われたばかりか第2線も奪われ後備歩兵第16連隊長も負傷した。その後第1師団は師団砲兵の総力を挙げて203高地を砲撃し、前線に幾度となく増援を送るも道中で敵陣地からの攻撃を受け前線に辿り着いた者はいなかった。突撃は翌21日も行われたが効果がなく、結局は攻撃を断念する。担当した右翼隊の残存兵力は310名にまで激減していた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "同師団は右翼隊(歩兵第18旅団)の歩兵第19連隊が龍眼北方堡塁正面を、歩兵第36連隊が同堡塁の咽喉部と背後の交通壕への攻撃を行う。しかしここでも要塞側の反撃で大損害を受ける。しかし翌20日、攻城砲兵の支援砲撃を開始すると堡塁は瞬く間に抵抗力を失い、午前5時には攻略に成功する。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "第一回総攻撃が失敗に終わった後、東京湾要塞および芸予要塞に配備されていた旧式の対艦攻撃用だった二八センチ榴弾砲(当時は二十八糎砲と呼ばれた)が戦線に投入されることになった。通常はコンクリートで砲架(砲の台座のこと)を固定しているため戦地に設置するのは困難とされていたが、これら懸念は工兵の努力によって克服された。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "二八センチ榴弾砲は10月1日、旧市街地と港湾部に対して砲撃を開始。20日に占領した南山坡山を観測点として湾内の艦船にも命中弾を与え損害をもたらした。しかし艦隊自身は黄海海戦ですでに戦力を喪失しており、この砲撃も劇的な戦果をもたらしたわけではなかったが、要塞攻撃にも効果ありと判断し砲を増やしていき最終的に18門が投入された。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "この戦いでの損害は日本軍は戦死924名、負傷3,925名。ロシア軍は戦死約600名、負傷約2,200名だった。 24日より各部隊は攻撃目標に向けての対壕建設を再開したが敵に近づくにつれて相手からの阻害攻撃が激しくなり工事は停滞する。それでも各師団の奮闘で突撃陣地の構築を18日には完了する。これを受けて第三軍は再度の総攻撃を決断した。当時は28センチ榴弾砲の追加送付分が準備の出来る10月27日頃を総攻撃の日と考えていたが、各砲の砲弾の不足が深刻化しだしていた。乃木は大本営に1門300発の補給を要請した(ちなみに当時要塞を落とす際に必要な砲弾数は1門につき1000発が基本的な数だった)が、補給を受ける事は出来なかった。また10月16日にはロシア第二太平洋艦隊がリバウ港を出航した事を受け、乃木は砲弾不足を承知で第二次総攻撃を行わざるを得ない状況下におかれた",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "10月18日、第三軍は二龍山堡塁と、松樹山堡塁の同時攻略計画を打ち立てた。双方の堡塁は密接な関係に有り、攻撃区分では第9師団が担当であったが戦力の余裕がなく、松樹山堡塁攻撃は第1師団が担当する事にした。 23日、第三軍は各参謀長会議を行い、26日の総攻撃を決定した。第1師団が松樹山堡塁、第9師団が二龍山堡塁と盤龍山堡塁東南の独立堡塁、第11師団は東冠山の各堡塁(但し攻撃は第1・9両師団の攻撃が成功した後)を攻撃目標とする。 この時点での主要部隊の戦力は",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "であった。早朝よりの攻城砲兵による砲撃の後、まず第1師団、第9師団が攻撃を開始した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "第1師団では左翼隊の歩兵第2連隊が敵散兵壕の動揺を捉え突入しこれを制圧。ここから松樹山へ坑道掘進を開始する。ロシア側も坑道を掘り、爆薬を仕掛けて日本側の坑道を破壊するなどで抵抗した。29日になるとロシア軍は逆襲に転じ午前7時に散兵壕を奪取される。第1師団は直ちに逆襲に転じて午後1時30分にはこれを奪い返す。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "翌30日、攻城砲兵の事前砲撃の後、第2連隊は松樹山堡塁への突撃を開始した。周囲からの砲火を浴びながら連隊は敵塁の真下まで進出するが外壕の突破に手間取っている間に大損害を被りやむなく撤退する。そのため外壕外岸からの坑道作業に入るが攻撃準備完了まで期日を要することになる。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "第9師団は右翼隊の歩兵第19連隊が二龍山堡塁の斜堤散兵壕を占領し坑道掘進を開始する。更に左翼隊も歩兵第7連隊が盤龍山北堡塁に突撃し、その1角を制圧する。二龍山堡塁では松樹山と同様に血みどろの坑道戦が展開される。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "30日、まず右翼隊が二龍山堡塁の外壕の破壊に取りかかる。しかし敵塁からの集中射撃と松樹山からの側防射撃に阻まれ占領地を確保するのがやっとであった。 他方、一戸少将が指揮する左翼隊は盤龍山東堡塁東南の独立堡塁(P堡塁)への攻撃を開始。午後1時、工兵隊の爆破した突撃路を使って歩兵第35連隊が突入。僅か2分で堡塁を制圧する。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "しかし午後10時30分頃、ロシア軍が逆襲に転じ、占領部隊は将校を多数失い退却した。堡塁下にいた一戸少将は退却の報を受けると予備の1個中隊を自ら率いて奪還に向かい、奪取に成功した。一戸少将の勇猛な活躍ぶりから、後にこの堡塁は「一戸堡塁」と命名される。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "第11師団は待機していたが松樹山、二龍山の占領がまだなので攻撃できずにいた。しかし既に攻撃準備が整っており、この際は多少の犠牲も覚悟して突撃すべしという結論になり、30日より攻撃を開始する。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "30日午後1時、まず右翼隊の歩兵第22連隊が東鶏冠山北堡塁を攻撃しその1角を制圧。しかし第2堡塁に向かった歩兵第44連隊は集中砲火を浴びて壊滅する。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "中央隊の歩兵第12連隊は第1堡塁に向かう。前面の散兵壕を蹴散らしつつ進撃し砲台も占領した。しかし周囲からの射撃を受け被害が続出し、戦線維持が困難になり退却を余儀なくされる。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "31日、未だ士気旺盛な右翼隊は外岸側防を制圧。しかし血気にはやる一部部隊が砲兵の支援を待たずに突撃し壊滅。結局第11師団も東鶏冠山を制圧できず、坑道作業に移行していく。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "日本軍は戦死1,092名、負傷2,782名の損害を出すが、ロシア軍も戦死616名、負傷4,453名と日本軍以上の損害を受けた。乃木は各師団が坑道作業に入った事で作業完了までには期日が必要と判断。総攻撃を打ち切った。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "日本軍は前半戦の作戦目的は203高地以外は達成した。しかし後半の主要防衛線への攻撃は第9師団がP堡塁を占領した以外は失敗。このため日本側は第二次総攻撃も失敗と考えた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "第二回総攻撃の失敗はバルチック艦隊の来航に危機感を募らせる海軍を失望させ、要塞攻略よりも艦隊殲滅を優先し、観測射撃のための拠点を得るため203高地を攻略すべしという意見が出てくるようになる。他方第三軍の上級司令部である満洲軍は当初より要塞攻略を優先する方針を変えず、そのために望台を第一の攻略目標にすることを変えなかった。また望台攻略への寄与が小さい203高地攻略には反対だった。第三軍も二回目の総攻撃は失敗したとはいえ、東鶏冠山堡塁の一部や同山第一堡塁、一戸堡塁を占領することには成功し、東北正面の防衛線をあと一歩で抜くことが出来たので、引き続き要塞正面を主攻にするという立場だった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "11月14日、203高地主攻に固執する参謀本部は御前会議で「203高地主攻」を決定する。しかし満洲軍総司令官大山巌元帥はこれを容れなかった。大本営からの要旨にある「旅順港内を俯瞰し得る地点を占領し、港内の敵艦、造兵廠などに打撃を与うることをのぞむ」で、203高地を直接名指しして命令していないことを逆手に取り、「第三軍司令官をして、是迄の計画に従い鋭意果敢に攻撃を実行せしめ、旅順の死命を制し得るべき『望台』の高地を一挙に占領せしむるの方針をとるべし...」。「203高地を落としても観測点として利用するだけでしかなく、砲を備えて敵艦を沈めるには長大な期日を要し、目的を達成できない」。などと反論し、要塞東北方面攻略の立場を崩さなかった。総参謀長の児玉源太郎大将も、10月までの観測砲撃で旅順艦隊軍艦の機能は失われたと判断して艦船への砲撃禁止を第三軍に命じた。また海軍のバルチック艦隊来航の脅威を必要以上に誇張し、海軍の都合だけ考えて海上輸送を中止しようとする一連の動きに対し抗議した。こういった上層部の意見の食い違いは乃木と第3軍を混乱させ、第三回総攻撃案に大きく影響を与えた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "11月中旬に盤竜山・一戸両保塁から両側の二竜山と東鶏冠山保塁の直下まで塹壕を掘ることに成功しさらに中腹からトンネルを掘り胸壁と外岸側防を爆破することを計画。総攻撃は11月26日と決定された。また参謀本部も内地に残っていた最後の現役兵師団の精鋭、第7師団を投入、部隊を第1、第9師団の間に配置し総予備とした。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "11月26日、松寿山堡塁攻撃を担う第1師団左翼隊は午後1時より外壕より突撃した。しかし身を潜めていたロシア軍の奇襲と周囲からの集中砲火と内壕の敵兵の逆襲で突撃した兵は壊滅。午後2時50分には外斜面に退却するしかなかった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "第9師団も午後1時より二龍山堡塁へ突撃を開始した。松寿山堡塁などからの側射を受けて大損害を受けたが突入を続け、なんとか敵前100mの地隙に到達するがそれ以上は進撃できなかった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "第11師団は東鶏冠山北堡塁の胸塔2箇所に爆薬を仕掛け点火。その後歩兵第22連隊が突入した。しかし敵堡塁の破壊は僅かで白兵戦となり多くの犠牲をだす。午後1時40分には土屋師団長が重傷を負い陣地の争奪が激化、占領地の維持は出来なかった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "26日夜半、第三回総攻撃にあたって特に編成された特別予備隊(以下「白襷隊」。3,113名。総指揮官:歩兵第2旅団長・中村覚少将)が攻撃を行った。この部隊は、夜間の敵味方の識別を目的として全員が白襷を着用していた。白襷隊は午後5時に薄暮の中行動を開始、集結点で月が昇るのを待ち、午後8時30分、目標へ動き出した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "午後8時50分、白襷隊は一斉に突入を開始した。しかし目標の松樹山第4砲台西北角には幾重にも張り巡らされた鉄条網があり、その切断作業中に側背より攻撃を受ける。白襷隊はひるまず突入し散兵壕を目指すが前方に埋めてあった地雷により前線部隊はほとんど全滅。後続部隊も奮戦するが死傷者が相次ぎ第1線の散兵壕まで後退する。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "午後10時30分頃、指揮を執っていた中村少将が敵弾を受けて負傷、その後同隊は翌27日午前2時頃まで激戦を繰り広げるも突破は不可能と判断され、退却となった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "この攻撃は敵陣突破に失敗し、この時点での第三軍の損害は約7千名に達した。しかし守るロシア側も一時二龍山堡塁の守備兵は数名になり、松寿山第4砲台も予備兵力が10名になるなど、もう少しで突破を許してしまうような状況に追い込まれており、ロシア側にも白襷隊の勇敢さに驚嘆する記述が多く残されている。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "11月27日未明、乃木は当初の攻撃計画が頓挫したことで攻撃目標を要塞正面から203高地に変更することを考え、敵味方を兵員消耗戦に持ち込む決心をした。第三軍参謀の白井二郎少佐は第1師団に203高地攻撃を打診したところ快諾を得た。満洲軍司令部より派遣されていた福島安正少将はこの意見に反対を述べ、あくまでも要塞東北方面攻撃を主張したが、乃木の判断で203高地への本格的な攻撃が決定される。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "午前10時、軍命令で東北方面攻撃の一時中止と第1師団を中核とした203高地攻撃を行うことが下達、午後5時には大本営と満洲軍総司令部にそのような主旨の報告を行う。指示を受けた攻城砲兵司令部は直ちに砲撃を203高地に変更し、28センチ榴弾砲全砲をもって砲撃を開始した。砲兵第2旅団は203高地攻撃に際して妨害攻撃をするであろう敵の各砲台への砲撃を開始した。対するロシア軍は203高地に500余名、その北東の老虎溝山(標高177m)に千名の兵を配し、万全の体制をとっていた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "27日午後6時、28センチ榴弾砲の事前射撃により203高地の中腹散兵壕を破壊、午後6時20分、第1師団右翼隊(後備歩兵第1旅団)、中央隊(歩兵第1旅団)が突撃を開始した。敵砲台は攻城砲兵及び師団砲兵が制圧し、右翼隊は鉄条網を排除しつつ前進し、一部は203高地西南部、敵の第2線散兵壕の左翼を奪取した。更に前進を続けるも周囲からの敵の大口径砲の援護砲撃で損害を被る。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "中央隊は老虎溝山に突撃を開始、山頂散兵壕の一部を奪うが夜になって敵の逆襲により撤退した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "翌28日、第1師団は再び攻撃を開始した。右翼隊は後備歩兵第38連隊の増援を受け8時頃突撃を開始、第2線散兵壕を奪うが死傷者が続出し現在地の確保で精一杯になる。友安旅団長は後備歩兵第16連隊を増援に回し、10時30分に山頂へ突撃し頂上を制圧した。しかし直ぐ様ロシア軍の逆襲にあい山頂を奪還される。それでも左翼隊は粘り強く攻撃を続け、正午頃には西部山頂の1部を奪回し敵の逆襲に備えた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "一方の中央隊は203高地東北部に対する攻撃を意図し攻撃準備をしていたが、その間敵の攻撃を受けて歩兵第1連隊長の寺田錫類大佐が重傷を負い、まもなく戦死する。それでも旅団長馬場命英少将自ら指揮を取り突撃を繰り返すも効果なく、一時は東北部山頂を占領するも、敵に奪還された。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "11月29日午前2時、第1師団より現在の師団兵力では203高地攻略は難しい旨の連絡が軍司令部に届く、これを受けて乃木は予備の第7師団の投入を決意、午前3時に麾下の各部隊と満洲軍総司令部、大本営にその旨を連絡した。この直後、満洲軍より児玉総参謀長が旅順に赴く旨の連絡が入る。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "午前7時、第7師団長大迫尚敏中将が高崎山の第1師団司令部に到着し、203高地攻撃の指揮権を継承した。大迫は第7師団と第1師団の残存兵力で攻撃部署を決める。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "30日午前6時、攻城砲兵は砲撃を開始、まず歩兵第28連隊が山頂東北部に突入。第三攻撃陣地まで前進するが敵の猛射で釘付けにされる。西南山頂は後備歩兵第15.16連隊が向かうがこれも側射を受けて損害を被り攻撃を断念する。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "老虎溝山攻撃は午前10時より開始され、午後1時まで幾度となく波状攻撃を繰り返すが悉く撃退される。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "午後4時50分、第1師団長より攻撃再開の命が下る。6時40分に東北部山頂に突入し、接戦のすえ一部占領に成功。その後一進一退の攻防で占領地の一角を死守することに成功した。 午後5時には203高地の完全占領の報が届き、大本営や満洲軍に伝わるが誤報で、翌12月1日午前2時には敵に奪還される。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "夜半、友安少将は増援の二個中隊を率いて前線に向かう旨、各部隊に伝令を出すが、その任務を帯びていた副官の乃木保典少尉(乃木希典大将の次男)は銃弾を受けて戦死する。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "12月1日、死傷者の収容と態勢を整えるため、4日まで攻撃を延期する。 正午、満洲軍司令部から旅順へ向かった児玉満洲軍総参謀長が到着。その途上、203高地陥落の報を受けたが後に奪還されたことを知った児玉は大山満洲軍総司令官に電報を打ち、北方戦線へ移動中の第8師団の歩兵第17連隊を南下させるように要請した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "12月1日から3日間を攻撃準備に充て、第3軍は攻撃部隊の整理や大砲の陣地変換を行った。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "12月4日早朝から203高地に攻撃を開始し、5日9時過ぎより、第7師団歩兵27連隊が死守していた西南部の一角を拠点に第7師団残余と第1師団の一部で構成された攻撃隊が西南保塁全域を攻撃し10時過ぎには制圧した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "12月5日13時45分頃より態勢を整え東北堡塁へ攻撃を開始し、22時にはロシア軍は撤退し203高地を完全に占領した。翌6日に乃木は徒歩で203高地に登り将兵を労うが、攻撃隊は900名程に激減していた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "12月5日の203高地陥落後、同地に設けられた観測所を利用し日本側は湾内の旅順艦隊残余に砲撃を開始する。各艦の大多数はそれまでの海戦や観測射撃で破壊され、要塞攻防戦の補充のため乗員、搭載火砲も陸揚げし戦力を失っていたが、日本側はこれらに対しても28センチ榴弾砲砲弾を送り込み、旅順艦隊艦艇は次々と被弾した。砲弾は戦艦の艦底を貫けなかったが、多くの艦艇は自沈処理がなされた。5日に戦艦ポルターヴァが後部弾火薬庫が誘爆着底、翌日には戦艦レトヴィザンも着底し、8日にペレスヴェート、ポベーダの両戦艦も防護巡洋艦パラーダと共に着底した。9日には装甲巡洋艦バヤーンが同様の運命をたどった。大型艦で生き残ったのはセヴァストーポリのみとなり、8日の深夜に港外に脱出した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "この攻撃での損害は日本軍は戦死5,052名、負傷11,884名。ロシア軍も戦死5,380名、負傷者は12,000名近くに達した。両軍がこの攻防に兵力を注ぎ込み大きく消耗した。203高地からはロシア太平洋艦隊のほぼ全滅が確認され、児玉は12月7日に満洲軍司令部へ戻った。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "脱出して旅順港外にいた戦艦セヴァストポリと随伴艦艇に対しては、日本海軍は30隻の水雷艇で攻撃し、12月15日の深夜の攻撃で同艦は着底し、航行不能となった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "12月10日、第11師団による東鶏冠山北堡塁への攻撃を開始。15日に勲章授与のため兵舎を訪れていたコンドラチェンコ少将が二八センチ榴弾砲の直撃を受け戦死した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "18日には日本軍工兵が胸壁に取り付けた2トンの爆薬による爆破で胸壁が崩壊、ロシア軍は僅か150名の守備兵しかいなかったが果敢に反撃し第11師団は戦死151名、負傷699名もの損害を受け激戦の末夜半に占領した。ロシア側は150名中92名が戦死するという玉砕に近い抵抗だった。乃木司令部は以降も胸壁や塹壕を完全に破壊してから突撃に移る方針を続けた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "28日には第9師団による二竜山堡塁への攻撃が始まる。胸壁を3トン弱の爆薬で爆破し300名の守備兵の半数は生き埋めとなるが残兵が激しく抵抗、水兵の増援もあり双方射撃戦になる。しかし歩兵第36連隊が後方に回り込み、それを見たロシア軍守備隊の撤退により、29日3時に遂に占領された。第9師団は戦死237名、負傷953名の損害を被り、ロシア軍も300名以上の死者を出した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "31日、第一師団による松樹山堡塁への攻撃が始まりロシア軍守備兵208名のうち坑道爆破で半数が死亡、占拠した二竜山保塁からの援護射撃もあり後方を遮断することに成功、11時に降伏した。第一師団は戦死18名、負傷169名の損害を被りロシア軍も生存者は103名だった。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "1月1日未明より日本軍は重要拠点である虎頭山や望台への攻撃を開始し、午後になって望台を占領した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "ロシア軍はそれまで203高地攻防などで予備兵力が枯渇し、コンドラチェンコ少将が戦死した中でも抗戦意志を捨てていなかった。しかし東北面の主要保塁(望台)が落ちたことで旅順要塞司令官ステッセリは遂に抗戦を断念し、1月1日16時半に日本軍へ降伏を申し入れた。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "5日に旅順要塞司令官ステッセリと乃木は旅順近郊の水師営で会見し、互いの武勇や防備を称え合い、ステッセリは乃木の2人の息子の戦死を悼んだ。また、乃木は降伏したロシア将兵への帯剣を許した。この様子は後に文部省唱歌「水師営の会見」として広く歌われたほか、 荒井陸男の手により明治神宮絵画館の壁画『水師営の会見』が製作され後世に伝えられた。 こうして旅順攻囲戦は終了した。日本軍の投入兵力は延べ13万名、死傷者は約6万名に達した。",
"title": "経過"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "旅順要塞の陥落により旅順艦隊は無力化された。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "日本軍は本格的な攻城戦の経験が少なかった。陸軍全体に近代戦での要塞戦を熟知した人間が少なく、第1回総攻撃では空前の大損害が生じてしまった。要塞攻略に必要な坑道戦の教範の欠如に関しては、当時は日本だけでなく欧米列強において火力万能主義の時代であったため、坑道戦術自体が軽視されていた。戦争直前の工兵監であった上原勇作も坑道教育にはあまり重視しておらず、むしろ前任の矢吹秀一工兵監時代に非常に坑道教育に力を入れていた。旅順戦においては、矢吹工兵監時代の記憶を辿って攻城教程を作成した。戦後明治39年に坑道教範が作成され、小倉に駐屯していた工兵隊によって、初めての坑道戦訓練が敵味方に分かれて実施された。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "軽量化が図られた上に毎分500連発と実用性の高い機関銃であるマキシム機関銃は、この戦闘で世界で初めて本格的に運用され威力を発揮した。機関銃陣地からの十字砲火に対し、従来の歩兵による突撃は無力であることを実戦で証明した。この状況を打開する攻撃法を日露戦争後も暫くは見いだすことはできなかった。同時代のヨーロッパ各国でも、機関銃をごく少数配備していただけで運用法も確立されていなかった。 当時の日露両軍は世界的に見ても例外的に機関銃を大量配備していたが、早くから防衛兵器としての運用を考え出したロシア軍に対し、日本軍側はあくまでも野戦の補助兵器として考えていたので、初期には効果的な運用は行われていなかった。後に日本側もロシア側の運用法を応用した。 旅順要塞での戦訓は欧州諸国にも積極的に導入された。第一次世界大戦の東部戦線ではドイツ軍が旅順要塞攻略時に日露両軍が用いた対壕戦術を採用。 1915年5月1日から開始されたマッケンゼン攻勢ではロシア軍の要塞陣地を一週間で突破しロシア兵捕虜14万人を捕らえる大戦果をあげた。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "1905年1月にボリシェヴィキの機関誌『フペリョード』上でウラジーミル・レーニンは、旅順の失陥を「ロシア専制の歴史的な破局」と位置づけた。事実、旅順の失陥によって政府の威信は低下し、労働争議を禁じられ軍需産業の増産で酷使されていたサンクトペテルブルク市民は不満を噴出させた。1月22日に冬宮殿に集まった請願デモに対して、軍が発砲し多数の死者を出した血の日曜日事件が発生した。東京日日新聞は事件の翌日の紙面で、旅順の失陥が血の日曜日事件の大きな原因となったと論評している。首都で発生した混乱はゼネストや農民蜂起という形でロシア全土に広がり、ロシア第一革命に発展した。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "第3軍 - 軍司令官:乃木希典大将",
"title": "参加兵力"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "(出典:潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 p.81)",
"title": "参加兵力"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "ロシア関東軍 - 軍司令官:アナトーリイ・ステッセリ中将",
"title": "参加兵力"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "203高地は要塞主防御線(西方)の2km外側に位置しており、ここの防御施設は前進陣地として築かれた。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "本高地から地形上旅順港内の全域を展望できるということはロシア側も開戦前から承知していたが、予算不足で規模が縮小されたこともあり要塞防御線には組み込まれなかった。開戦後は、コンドラチェンコ少将により補強され、総攻撃開始までにかなりの防御を有するまでになってはいた。しかし他のロシア軍陣地からも距離があり戦闘中には兵力投入の移動にも危険を伴うので従来通り前進陣地として運用する予定だった。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "しかしながら戦闘を経てロシア軍は方針を変更して203高地を固守するようになり予備兵力を次々とここに注ぎ込んでいった。日本軍にとって、この攻防戦に踏み切ることによりロシア軍予備兵力消耗の目的を果たした。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "203高地攻防戦の終局後、ロシア側の抵抗力は著しく減衰しており、12月中旬より行われた東北面の主防御線上の攻防戦では主要三保塁と望台という重要拠点が立て続けに陥落した。要塞司令官ステッセリが降伏を決断した理由は、予備兵力を消耗したことにより戦線を支えられなくなったためである。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "203高地の攻防戦については、様々な見解が語られている。特に203高地の観測所としての価値を重視する見解が多い。本防御線の外から旅順港内のロシア艦艇を砲撃する場合の観測所として本高地は最適な場所であり、攻略は早期に行われるべきだったとするものである。だが、第三軍の作戦目的は要塞の攻略であり旅順艦隊の殲滅ではなかった。実際にも総攻撃開始時点で第三軍に配備されていた重砲は最大で15センチ榴弾砲であり、戦艦を砲撃して大打撃を与える能力は持っていなかった。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "大本営は203高地への攻撃を要求し続けた。大山総司令と児玉総参謀長はそれぞれ大本営と山県参謀総長に電報を送り203高地主攻に不同意を伝えた。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "第1回総攻撃では第3軍は203高地を主目標とはしなかった。海軍からこの時点で203高地攻略の要請があったと小説などで描かれることも多いが実際には、この時点で203高地攻略を論じられたことはなかった。平坦部は移動中に敵に姿を曝け出し被害を増す危険があったので却下された。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "陸軍側の重砲は15センチ榴弾砲16門と12センチ榴弾砲28門だが、最大の15センチ榴弾砲もこれは海軍の艦載砲より砲身も短く初速が低く艦船への攻撃力は劣る。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
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"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "伊地知幸介第3軍参謀長と犬猿の仲であった井口省吾満洲軍参謀が陸軍大学校長を6年半(1906年(明治39年)2月-1912年(大正元年)11月)務めていた時期に入校し優等で卒業(1909年(明治42年)-1912年(大正元年))した谷寿夫が、後に陸大兵学教官となった際に日露戦争の政戦略機密戦史を著した。俗に「谷戦史」と呼ばれる。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
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"text": "太平洋戦争後の昭和40年代に「谷戦史」が『機密日露戦史』と題して原書房から刊行された。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
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"paragraph_id": 120,
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"text": "福島県立図書館の佐藤文庫には「手稿本日露戦史(仮称)」の旅順戦関連部分が所蔵されている。戦史研究家の長南政義が、大庭二郎の日記を活用し、また白井参謀、井上参謀の回想録などを駆使した論考(長南 2011b、長南 2012)を発表している。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
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"text": "第3軍では多くの死傷者を出したにもかかわらず、最後まで指揮の乱れや士気の低下が見られなかったという。 当時の従軍記者、スタンレー・ウォシュバン(Stanley Washburn、1878-1950)の指摘では、203高地の重要性を指摘し第7師団を集中的に投入する方向で第三軍の軍議をまとめたのは乃木であったとしている。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
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"text": "無能論の主な根拠には以下のものがある。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
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"text": "など述べられているが、最近では新資料の発見や当事者である第三軍関係者の証言・記録などから、上記の点に対して",
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"text": "他にも、陸軍が手本にした仏独両陸軍からして要塞攻略の基本は奇襲か強襲を基本としている。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
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"text": "日本軍が203高地を攻略したのは児玉源太郎が旅順に到着した4日後であった。これを、児玉の功績によってわずか4日間で攻略されたと機密日露戦史で紹介された。ただし、誤りも多いと別宮暖朗、長南政義、原剛などが書籍で発表している。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
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"text": "児玉は正攻法の途中段階で大本営や海軍に急かされ実施した第二次総攻撃には反対で、準備を完全に整えた上での東北方面攻略を指示していた。そのためには海軍の要請する203高地攻略は弾薬節約の点から反対だった。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
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"text": "第三軍が第三次総攻撃の際、総攻撃途上で作戦を変更して203高地攻略を決意した際には、満洲軍総司令部が反対し、総司令部から派遣されていた参謀副長の福島安正少将を第三軍の白井参謀が説得している。",
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"text": "第三軍の参謀はほとんどが来訪当日は児玉と会っておらず電話連絡で済ませている。児玉が戦闘視察時に第三軍参謀を叱責したとされる話は事実ではない。",
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"text": "児玉は予備兵力としておかれていた12センチ榴弾砲15門と9センチ臼砲12門を、203高地に近い高崎山に移し高地とは別目標に対して攻撃するよう指示した。攻城砲兵司令部の判断は第三軍司令部も把握していた。",
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"text": "近年、第三軍司令部側の史料から、児玉が旅順で実際に第三軍の作戦に指示を与えていたことを指摘する研究が新しく出されている。 203高地攻めにおける児玉の関与は少なかったという見解もあるが、これに反する意見を秦郁彦が『二〇三高地攻め「乃木・児玉対決シーン」の検証』の中で提示している。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
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"text": "「長岡外史回顧録」を纏め、その中で旅順攻略戦についての感想を残している。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
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"text": "203高地については「9月中旬までは山腹に僅かの散兵壕があるのみにて、敵はここになんらの設備をも設けなかった」と述べ、これを根拠として「ゆえに9月22日の第一師団の攻撃において今ひと息奮発すれば完全に占領し得る筈であった」との見解を述べている。この長岡の見解を否定する意見もある。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
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"text": "28サンチ榴弾砲の旅順送付について、自己の関与が大きかったことを述べているが、8月21日の総攻撃失敗ののち、寺内正毅陸軍大臣はかねてより要塞攻撃に同砲を使用すべきと主張していた有坂成章技術審査部長を招いて25〜26日と意見を聞いたのち採用することを決断し、参謀本部の山縣参謀総長と協議し、すでに鎮海湾に移設するための工事を開始していた同砲6門を旅順に送ることを決定したというのが実際の動きである。しかし長岡談話によると、参謀本部側の長岡参謀次長が、総攻撃失敗ののちに同砲を旅順要塞攻撃に用いるべきという有坂少将の意見を聞いて同意し、そののち陸軍大臣の説得に向かい同意を得たと、まったく違った経緯であったように記述している。これらの見解については現在も検証・研究・調査が続いている。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
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"text": "旅順攻囲戦についての考察・研究は、資料の発見・公開・活用により、21世紀に入っても続いている。近年においては、",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
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"text": "といった文献が発表されている。また、",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
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"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "といった書籍も刊行されている。",
"title": "旅順攻囲戦に関する論点"
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] |
旅順攻囲戦とは、日露戦争において、ロシア帝国の旅順要塞を、日本軍が攻略し陥落させた戦いである。
|
{{Battlebox
|battle_name = 旅順攻囲戦
|campaign = 日露戦争
|image = [[ファイル:203 Meter Hill.jpg|300px]]
|caption = [[203高地]]
|conflict = [[日露戦争]]
|date = [[1904年]][[8月19日]] - [[1905年]][[1月1日]]
|place = [[旅順口区|旅順]]([[満洲]])
|result = 日本軍の勝利、ロシアの降伏およびロシア[[旅順艦隊]]の戦闘機能喪失
|combatant1 = {{JPN1889}}
|combatant2 = {{Flagicon|RUS}} [[ロシア帝国]]
|commander1 = [[ファイル:War flag of the Imperial Japanese Army.svg|23px]] [[乃木希典]]
|commander2 = {{Flagicon|RUS}} [[アナトーリイ・ステッセリ]]<br />{{Flagicon|RUS}} [[ロマン・コンドラチェンコ]] {{KIA}}
|strength1 = 約51,000名
(第一回総攻撃時)
|strength2 = 陸軍約44,000名
海軍約12,000名
その他約7,000名
(籠城戦開始時)
|casualties1 = 戦死約15,400名
戦傷(延数)約44,000名
|casualties2 = 戦死約16,000名
戦傷(延数)約30,000名
}}
[[ファイル:Map of the Advancement of the Japanese 3rd Army.jpg|thumb|right|300px|第3軍の旅順への前進]]
[[ファイル:Map of the Encirclement of Port Arthur.jpg|thumb|right|300px|第3軍による旅順包囲]]
[[ファイル:Japanese Infantry Preparing the Attack during the Siege of Port Arther 2.jpg|thumb|right|240px|攻撃準備中の日本軍]]
[[ファイル:Fire of the Oil Depot Caused by Our Gunfire.jpg|thumb|right|240px|砲撃によって生じた黄金山麓石油庫の火災]]
'''旅順攻囲戦'''(りょじゅんこういせん、、リュイシュンこういせん、Siege of Port Arthur, [[1904年]]([[明治]]37年)[[8月19日]] - [[1905年]](明治38年)[[1月1日]])とは、[[日露戦争]]において、[[ロシア帝国]]の[[旅順要塞]]を、[[日本軍]]が攻略し陥落させた戦いである。<!--が第一[[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|太平洋艦隊]]の主力艦隊(旅順艦隊)の母港としていた[[旅順口区|旅順港]]を守る-->
==背景==
ロシアは、1896年の[[露清密約]]の後、[[1898年]]に[[遼東半島]]を[[租借]]し、[[旅順口]]を[[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|太平洋艦隊]](後の第一太平洋艦隊)の主力艦隊([[旅順艦隊]])の根拠地とし、港湾を囲む山々に本格的な永久[[要塞]]を建設していた([[旅順要塞]])。
日本は、予期される[[日露戦争]]に勝利するためには、日本本土と[[朝鮮半島]]および[[満洲]]との間の補給路の安全確保が必要であり、朝鮮半島周辺海域の[[制海権]]を押さえるために旅順艦隊の完全無力化が不可欠と見なしていた。また旅順要塞に立て籠もったロシア陸軍勢力(2個師団)は、満洲南部で予想される決戦に挑む日本軍([[満洲軍 (日本軍)|満洲軍]])の背後(および補給にとって重要な[[大連]]港)に対する脅威であり、封じ込めもしくは無力化が必要だった。
このため戦前より陸海軍双方で旅順への対応策が検討された。旅順艦隊を完全に無力化する方法として、大別して、旅順要塞の陥落、大口径艦砲{{refnest|group="注"|もしくは徹甲性が優れた大口径要塞砲}}による撃沈、旅順港永久封鎖が考えられた{{refnest|group="注"|戦後判明したが、旅順艦隊は黄海海戦によりほぼ無力化されていた。}}。
海軍側は独力で旅順艦隊を無力化する方針を取り、第一段階:港外奇襲、第二段階:港口封鎖(閉塞)、第三段階:港外からの間接射撃によって港内の艦艇を撃沈という作戦計画を立てた。これに基づき1903年の夏には間接射撃のための試験射撃を行った。
陸軍側は[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]が満洲攻勢作戦の研究を1902年より始め、その中で、旅順攻城を[[佐藤鋼次郎]]少佐が担当した。1903年11月頃の参謀本部内の意見は、兵力の大部分を遼陽方面へ北進させ予想される大決戦に集中させ、旅順は一部の兵力による封鎖監視に留めるべきとの考えが大勢だったが、佐藤少佐が攻略の必要性を主張し研究は続けられた<ref>奥村房夫監修『近代日本戦争史 第一編』(同台経済懇話会1995年) 505p</ref>。
[[1903年]][[12月30日]]に陸海軍間で開戦に関する協議が行われた。「旅順港外に停泊している旅順艦隊に対する奇襲を優先すべき」との[[大日本帝国海軍|海軍]]側の主張{{refnest|group="注"|海軍側は第一段階(奇襲)の機密保持を重視して、30日に初めてこの構想を陸軍に知らせた。}}と「臨時韓国派遣隊の派遣を優先すべき」との[[大日本帝国陸軍|陸軍]]側の主張とが対立したが、陸軍が譲って海軍案に決着した。海軍は独力による旅順艦隊への対処を言明していたが{{refnest|group="注"|事前調整の段階から陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した[[大本営]]海軍幕僚もいたと伝えられる。}}、陸軍はその後も旅順攻城の研究を進め、1904年1月、陸軍参謀本部による計画案が成り、陸軍省に所要資材の照会がなされた。
開戦後、海軍は[[旅順口攻撃|港外奇襲]]と[[旅順港閉塞作戦|港口閉塞作戦]]を実行したが、不十分な結果で終わり、旅順艦隊の戦力は保全された。2月末頃から[[ウラジオストク巡洋艦隊]]が活動を始めたが、第三艦隊を対馬防備に置いたまま、海軍主力による港口の閉塞を目的とした作戦は続けられた。
陸軍は3月に入っても、封鎖監視で十分であるとの考えがまだ残っていたが、最終的には、3月14日、2個師団をもって攻城を行う決定を下した。作戦目的は「地上より旅順要塞を攻略し、北上する日本軍主力の後方を安定化する」とした{{refnest|group="注"|小説や映画、ドラマの影響で第三軍の作戦目的を「旅順艦隊の無力化」と考える人が多いが、それは海軍が単独での旅順艦隊無力化に失敗して陸軍に協力を要請してきた6月以降についた付帯目的であり、第三軍の作戦目的は終始旅順要塞の攻略であった。これは旅順要塞を落とせば、そこに籠もる旅順艦隊も降伏か脱出か自沈かを選ぶしかなく、海軍の要望に応える事ができるが、旅順艦隊壊滅を優先しても、要塞自体は残って抵抗を続ける(第三軍を旅順に釘付けにするだけでクロパトキンのロシア軍の援護になるし、第三軍が北上すればこれを追撃したり、日本軍の後方拠点の大連を攻撃したりできる)ので陸軍自体の目的を達成できないからである。}}。
海軍は第二回閉塞作戦を[[3月27日]]に実行したが不成功だった。しかし4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執しており、[[4月6日]]の[[大山巌]]参謀総長、[[児玉源太郎]]次長と海軍軍令部次長[[伊集院五郎]]との合議議決文に「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文がある{{refnest|group="注"|{{Harv|長南|2011b|p=132}}より。他にも同ページには期日が不明ながら軍令部参謀[[山下源太郎]]の「(陸軍の)上陸直後、海軍は旅順の陸上攻撃を要求せざるべし」との発言があったといい、なるべく陸軍の援助なく独力にて旅順を陥れんとする野心があった。}}。<!--ように、4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執し、-->また海軍は12-13日に[[機雷]]を敷設した。4月終わり以降は第二艦隊を第三艦隊と入れ替え、旅順方面の海軍戦力は減少した。
<!--このような状況に加えて、--><!--以前より予想されていた-->ロシアは5月にバルト海に所在する艦船群(未完成艦含む・[[バルチック艦隊]])の極東派遣を決定・発表した。もしもこれが未だ健在の旅順艦隊と合流すれば、日本海軍の倍近い戦力となり、<!--もしこの合流を許した場合、-->朝鮮半島周辺域の[[制海権]]はロシア側に奪われ、<!--日本本土と朝鮮半島間の補給路は絶たれ、-->[[満洲]]での戦争継続は絶望的になると考えられた。5月3日に第三回閉塞作戦が実施されたが、これも不成功に終わった。[[5月9日]]より、日本海軍は、旅順港口近くに戦艦を含む艦艇を遊弋させる直接封鎖策に転換したが、主力艦が貼り付かざるを得なくなり増派艦隊への対応が難しくなった。15日には当時日本海軍が保有する戦艦の6隻のうち2隻を触雷により失った{{refnest|group="注"|触雷沈没したのは戦艦「[[初瀬 (戦艦)|初瀬]]」「[[八島 (戦艦)|八島]]」。海軍は戦死者のいなかった「八島」の沈没を秘匿し、「初瀬」1隻の沈没として発表した。}}。日本軍としては増派艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要に迫られ、海軍はこの頃<!--これまで拒んできた-->陸軍の旅順参戦の必要性を認めざるを得なくなった。
このような経緯に加え攻城の準備は複雑なため、第3軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した<!--経歴があった-->[[乃木希典]]大将が、参謀長には砲術の専門家である[[伊地知幸介]]少将が任命された。軍参謀らには、開戦後に海外赴任先から帰国してきた者が加わった{{refnest|group="注"|当時の先端知識を学んでいた人材、特にドイツで要塞戦を学んでいた[[井上幾太郎]]が参謀として加わったことは、旅順難戦の打開に大きく貢献した。}}。軍司令部は6月1日に本土を発ち、8日に大連に到着した。第3軍の主力としては、すでに金州城攻略戦を終えて主戦場と目される満洲南部へ北進する第2軍から2個師団([[第1師団 (日本軍)|第1師団]]、[[第11師団 (日本軍)|第11師団]])が抽出され当てられた。
6月20日に[[満洲軍 (日本軍)|満洲軍]](総司令部)が設置され、第3軍もその下に入った。第3軍の使命は、速やかに要塞を陥落させ、兵力を保全したままその後に第1・2軍に合流することだった。
== 旅順要塞の構造 ==
[[File:PA065379清代海防砲台.jpg|thumb|260px|right|旅順に残る清時代の沿岸砲台]]
旅順要塞の構造は、要塞防衛線(第一防衛線、第二防衛線)、および前進陣地から構成される。
旅順は元々は[[清国]]の軍港で、ロシアが手中に収めた時点である程度の諸設備を持っていた。しかし防御施設が旧式で地形も不利な点を持つことを認識し強化に着手した。1901年より開始されたこの工事は、当初は下述する[[203高地]]や[[大孤山]](標高約180 m)も含めた十分に広い範囲に要塞防御線を設置し守備兵2万5千を常駐させる計画だった。しかし予算不足で防御線の規模は縮小され、常駐の守備兵も1万3千に変更された。この要塞防衛線は港湾部に近すぎ、要塞を包囲した敵軍の重砲は、防衛線内の[[砲台]]から狙われない安全な位置より港湾部を射程内に収めることができた。<!--仮に敵軍が要塞を包囲して重砲を投入すると港湾部が射程圏内に入ってしまい、-->また地形上、敵軍が防衛線外の大孤山や203高地、南山坡山(通称海鼠山、標高約200m、203高地の北)などを占領した場合は、港湾部の一部もしくは全域の弾着観測を許した。そのため開戦後にはそれら防衛線外も前進陣地や前哨陣地を設け防御に努めたが本質的に完全ではなかった。また完成は1909年の予定だったので、1904年の日露開戦により未完成のまま(完工度は約40パーセント)戦争に突入することになった{{Sfn|歴史群像A22|2011|p=51-52}}。これら前哨陣地は<!--第三軍の総攻撃前に奪取されたりしたが-->第7師団長[[ロマン・コンドラチェンコ]]少将の精力的な強化工事が施された<!--でかなりの強度を誇るものになっていた-->{{Sfn|歴史群像A22|2011|p=52}}。
要塞の配置、規模は
*東正面
:白銀山、東鶏冠山(北・南)、盤龍山(北、東、西)、松樹山各[[堡塁]]を中核とし、望台(標高185m)、永久砲台、旧囲壁(日清戦争時の要塞の構造物)、臨時築城陣地などで連接
*北正面
:椅子山、大案子山、龍眼北方、水師営南方各堡塁を中核とし、砲台、野戦築城陣地などで連接
*西正面
:西太陽溝などの各堡塁を中核とする。また203高地、化頭溝山、大頂子山などに野戦陣地を新設
*装備火砲
:要塞砲350門、野砲67門、海軍砲186門、捕獲砲43門の合計646門。これを海上正面に124門、陸上正面に514門、予備8門に分配。
*機関砲
:海上側に62門、陸上側に47門、予備10門の合計119門。
となっている<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 78-79p</ref>。
防衛線外の前進陣地は、西方に203高地近辺諸陣地、北方に水師営近辺諸陣地、東方に大小孤山諸陣地を整備したが、未完成だった。
要塞の主防御線は[[コンクリート]](当時は仏語のベトンと呼ばれていた)で周囲を固めた半永久[[堡塁]]8個を中心に堡塁9個、永久[[砲台]]6個、角面堡4個とそれを繋ぐ[[塹壕]]からなりあらゆる方角からの攻撃に備え、第二防衛線内の最も高台である望台には砲台を造り支援砲撃を行った。さらに突破された場合に備えて[[堡塁]]と[[塹壕]]と[[砲台]]を連ねた小規模な副郭が旅順旧市街を取り囲んでいた。海上方面も220門の火砲を砲台に配備して艦船の接近を妨害するようになっていた{{Sfn|歴史群像A22|2011|p=52}}。
ロシア軍では、この要塞を含めた地域一帯を防衛するロシア関東軍が新設され軍司令として[[アナトーリイ・ステッセリ]]中将、旅順要塞司令官に[[コンスタンチン・スミルノフ]]中将が就任した。
日露戦争の開戦時の旅順要塞には、東シベリア第7狙撃兵師団(師団長:[[ロマン・コンドラチェンコ]]少将)・東シベリア第7狙撃兵師団(師団長:[[アレクサンドル・フォーク]]少将)・東シベリア第5狙撃兵連隊・要塞砲兵隊・要塞工兵隊など総勢4万4千名の兵力、436門(海岸砲は除く)の火砲があった{{Sfn|別宮|2005|p=127}}。
==経過==
=== 前哨戦 ===
日本海軍は、独力で旅順艦隊を無力化することを断念し、1904年7月12日に[[伊東祐亨]][[海軍軍令部長]]から[[山縣有朋]][[参謀本部 (日本)|参謀総長]]に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請した。その頃第三軍は、[[6月26日]]までに旅順外延部まで進出した。6月31日、[[大本営]]からも陸軍に対して旅順要塞攻略を急ぐよう通達が出ていた。
しかし陸軍は、旅順要塞を攻略する方針を固めることが遅れたため、情報収集が準備不足だった。ロシア軍の強化した要塞設備に関する事前情報はほとんどなく第三軍に渡された地図には要塞防御線の前にある前進陣地(竜眼北方堡塁、水師営南方堡塁、竜王廟山、南山坡山、203高地など)が全く記載されていなかった。防御線でも二竜山、東鶏冠山両堡塁は臨時築城と書くなど{{Sfn|長南|2011a|p=14}}誤記が多かった。
こうした中で要塞攻略の主軸をどの方向からにするかが議題となった。戦前の図上研究では平坦な地形の多い西正面からの攻略が有利であると考えられていた{{Sfn|長南|2011a|p=13}}。しかし第三軍司令部は大連上陸前の事前研究によりその方面からの攻略には敵陣地を多数攻略していく必要があり、鉄道や道路もないので攻城砲などの部隊展開に時間を要し早期攻略できないと考え東北方面の主攻に方針変更した{{Sfn|GJ編集部|2011|p=8}}。しかし新たに参謀本部次長となった[[長岡外史]]や、満洲軍参謀[[井口省吾]]らが西方主攻を支持し議論となる。ただし、この主攻の選択はあくまで要塞攻略の主軸をどの方面にするかの話であり、後に出る203高地攻略とは別の議論である{{Sfn|GJ編集部|2011|pp=8-11}}。結局この議論は第三軍司令部が現地に到着する7月ごろまで持ち越される。その頃第三軍は、[[6月26日]]までに旅順外延部まで進出していた。[[7月3日]]、コンドラチェンコ師団の一部が逆襲に転じるが[[塹壕]]に待ち構える日本軍の反撃に撤退した。<!--
[[7月12日]]、海軍は独力で旅順艦隊を無力化することに見切りをつけ、艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるように[[伊東祐亨]][[海軍軍令部長]]から[[山縣有朋]][[参謀本部 (日本)|参謀総長]]に正式要請した。その前の[[6月31日]]には[[大本営]]からも陸軍に対して旅順要塞攻略を急ぐよう通達が出ている。-->
その後第三軍に[[第9師団 (日本軍)|第9師団]]や[[後備歩兵第1旅団]]が相次いで合流し戦力が増強された。このあと乃木は懸案だった主攻方面を要塞東北方面と決定した。この理由には下記があった{{Sfn|長南|2011a|p=16}}。
#要塞の死命を制する望台は東北方面にある。望台は第二防衛線内で最も標高が高く、その[[砲台]]はロシア軍支援砲撃の要であり、旅順港及び市街地も全てを見渡せる。
#西方主攻を行うには敵前に曝露した平地を移動して危険な部隊展開せざるを得ない
##鉄道も攻城砲などの砲を移動できる道路もないので砲兵展開が難しい
##203高地や南山坡山などの前進陣地が多くあり、それらを制圧後2km前進した上で要塞防御線攻略着手となるので時間が掛かる
準備を整えた第三軍は[[7月26日]]旅順要塞の諸前進陣地への攻撃を開始し{{Sfn|別宮|2005|p=126}}{{Sfn|歴史群像A22|2011}}、主目標はそのうちの東方の大孤山とした。3日間続いた戦闘で日本軍2,800名、ロシア軍1,500名の死傷者を出し、30日にロシア軍は大孤山から撤退した。この頃乃木は、来るべき総攻撃の期日を決断し、増援の砲兵隊の準備が整う予定の後の[[8月19日]]とした{{Sfn|別宮|2005|p=127}}。
8月7日、[[黒井悌次郎]][[海軍中佐]]率いる[[海軍陸戦隊|海軍陸戦重砲隊]]が大孤山に観測所を設置し{{refnest|group="注"|[[海軍陸戦隊|海軍陸戦重砲隊]]中隊長だった[[永野修身]]は、海軍ではそれほどなじみのなかった観測を用いる間接射撃の実現に貢献した。}}、旅順港へ12センチ砲で砲撃を開始。9日9時40分に戦艦[[レトウィザン (戦艦)|レトウィザン]]に命中弾を与え、浸水被害をもたらした。
8月10日、ロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に被害が出始めたことで、艦隊司令[[ヴィリゲリム・ヴィトゲフト|ヴィトゲフト]]は、極東総督[[エヴゲーニイ・アレクセーエフ|アレクセイエフ]]の度重なる[[ウラジオストク]]への回航命令に従い、旅順港を出撃した。海軍側が陸軍に要請した「旅順艦隊を砲撃によって旅順港より追い出す」ことは、これによって達成された。
しかし同日の[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]では、日本連合艦隊は2度に亘り旅順艦隊と砲撃戦を行う機会を得つつも駆逐艦の1隻も沈没せしめることなく、薄暮に至り見失った。旅順艦隊は旅順港へ帰還した{{refnest|group="注"|一部損傷艦船はドイツの[[租借地]]であった山東半島に逃げ込んだが、同盟国であったドイツはこれら艦船の武装解除を行った}}。
帰還した艦艇のほとんどは上部構造を大きく破壊され、戦闘力をほぼ喪失し、旅順港の設備では修理ができない状況だった{{Sfn|別宮|2005|p=130}}。最も損害が軽微だった戦艦[[セヴァストポリ (戦艦・初代)|セヴァストポリ]]だけは外洋航行可能にまで修理された。帰還後の艦艇は、大孤山から観測されないよう、狭く浅い湾内東部に停泊させた。
=== 第一回総攻撃(明治37年8月19日-24日) ===
総攻撃を前に第三軍は軍司令部を柳樹房から鳳凰山東南高地に進出させた{{Sfn|歴史街道|2011-11|p=52}}。さらに団山子東北高地に戦闘指揮所を設け戦闘の状況を逐一把握できるようにした{{Sfn|歴史街道|2011-11|p=53}}。ここは激戦地となった東鶏冠山保塁から3キロという場所でしばしば敵弾に見舞われる場所であった。以降、攻囲戦は主にここで指揮が取られることになった。
8月18日深夜、第三軍(参加兵力5万1千名、火砲380門)各師団は其々目標とされる敵陣地の射程圏ぎりぎりまで接近し総攻撃に備えた。
翌8月19日、各正面において早朝より準備射撃が始まる。当初はロシア側は日本の砲兵陣地の位置を正確に把握できておらず反撃も散漫だったが、やがて本格的になり、この日は両軍合わせて500門の火砲が撃ち合う激しい戦闘となった<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 97p</ref>。乃木も午後1時に双台溝の236高地に登り戦況を視察した。ロシア軍ではこの砲撃で松樹山、二龍山、盤龍山、東鶏冠山、小案子、白銀山、望台の各保塁・砲台に大損害が出ており、東鶏冠山第二保塁では弾薬庫が爆発し守備兵が全滅し、二龍山保塁では主要火砲の6インチ砲がすべて破壊された。こうした光景を目の当たりにして日本軍前線の将兵の士気は大きく高まったという<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 98p</ref>。2日間の砲撃戦ののち、21日に第三軍は総攻撃を開始した。
==== 第1師団の攻撃 ====
総攻撃開始に先立つ19日午前6時、[[友安治延]]少将率いる後備歩兵第1旅団(第1師団の指揮下として右翼隊を形成)は目標の大頂子山に攻撃を開始した。一部が敵前至近距離に迫ったものの猛烈な反撃を受け撃退された。夜半になり夜襲を仕掛けるも戦況は好転しなかった<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 102p</ref>。20日には歩兵第二旅団(旅団長:[[中村覚]]少将)基幹の左翼隊は水師営南方高地までは順調に進んだがここで敵の抵抗にあい、それでも水師営の一部と同西溝の猛攻の末22日に占領。夜半には93高地を夜襲で奪取した。
明けて21日、師団長の[[松村務本]]中将は司令部を高崎山に移す。歩兵第1旅団(旅団長:山本信行少将)基幹の中央隊が第一師団の攻略目標である南山坡山及びその北端の鉢巻山を総攻撃。22日までにさしたる抵抗もなく占領するがまもなく激しい逆襲が行われ白兵戦が幾度となく展開された<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 103p</ref>。日本側は増援を送ろうにも鉢巻山へ至るには敵の寺児溝北方陣地の麓を通らねばならず、占領部隊への増援、補給は至難だった。補給線の確保も失敗し兵士たちは匍匐前進で弾薬や糧食を運ばなければならなかった<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 104p</ref>。
==== 第9師団の攻撃 ====
第9師団でも歩兵第18旅団(旅団長:[[平佐良蔵]]少将)基幹の右翼隊が19、20日と竜眼北方保塁へ攻撃を開始。しかしこの方面は攻撃側が身を隠すような草木もなく、付近の[[砲台]]から集中射撃を受けて大損害を被る<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 105-106p</ref>。
21日、左翼隊の歩兵第6旅団(旅団長:[[一戸兵衛]]少将)が盤龍山南北の[[堡塁]]に攻撃を開始。配下の[[歩兵第7連隊]]では3人の大隊長のうち2人が戦死し、遂には連隊長[[大内守静]]大佐自らが先陣をきって突撃するも、28発もの銃弾を浴びて戦死する程の激戦となった。一戸少将は[[歩兵第35連隊]]を増援に送るが失敗し、先月30日に戦傷で交代したばかりの連隊長、折下勝造中佐が戦死してしまう。このため一戸は夜陰に乗じて攻撃する方法に切り替える<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 106-108p</ref>。
22日午前0時、各隊は一斉に夜襲をかけるが、ロシア軍は探照灯や照明弾で周囲を照らし機関銃を乱射してそれを阻んだ。戦闘は明るくなっても続き後備歩兵第8連隊が増援、午前10時頃、盤龍山東堡塁の占領になんとか成功、午後8時には西堡塁も占領した。しかしこの間戦い続けた第7連隊は大損害を被り、確保時の残余兵力は将校以下71名だった<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 113-114p</ref>。ともかく第9師団は盤龍山東西堡塁の攻略に成功し、ここは半ば要塞の第二防衛線に食い込んだ要地で望台までは約1kmだった{{Sfn|別宮|2005|p=135}}。
==== 第11師団の攻撃 ====
第11師団長[[土屋光春]]中将は司令部を大弧山北嶺に移すが、敵の銃撃を受け、参謀2名が戦死した。
歩兵第10旅団(旅団長:[[山中信儀]]少将)は東鶏冠山北堡塁、第二堡塁を攻撃。北堡塁の方は直前に外壕が見つかり、工兵隊の犠牲のもと、巨大な外壕に二条の突入路を築き、部隊が突入するが集中砲火を浴び、突入隊隊長の本郷少佐以下多くの死傷者をだし、外壕に躍り込んだ隊は全員戦死した<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 109p</ref>。第二堡塁の方は占領には成功するも退却するロシア軍が放った火が壕内の弾薬に引火し爆発、それが引き金となる周囲の[[堡塁]][[砲台]]から集中射撃を受け突入隊隊長の吉永少佐以下死傷者が続出し、弾薬も無くなり残余兵40名はやむ無く撤退。鉄条網下の地隙に援軍をまった<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 110p</ref>。僅か3時間の占領であった。
==== 望台への攻撃 ====
乃木は占領した盤龍山堡塁を起点として、23日、望台への攻撃を命じた。しかし<!--望台正面の-->盤龍山堡塁を占領する第九師団の戦力は予備兵力を含めても約1000名に激減しており、第1師団から[[歩兵第15連隊]](二個大隊欠)を応援に回し、第11師団も東鶏冠山堡塁への攻撃で疲弊した歩兵第10旅団(旅団長山中少将は疲労で倒れた土屋師団長の代理で師団本部におり、指揮は[[歩兵第44連隊]]の石原大佐が執る)を応援に出す。戦力が整った各隊は24日午前2時より攻撃を開始する<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 114-115p</ref>。
しかしこれらの突入も情報を事前に察知していたステッセル中将の指示で準備を整えていたロシア軍の反撃で各隊は死傷者が続出した。午前7時、最後の予備兵力の歩兵第12連隊第一大隊が投入されるが要塞からの砲撃が激しく突撃は延期された。
24日午後5時、乃木は総攻撃の中止を指示した。第一回総攻撃と呼ばれたこの攻撃で日本軍は戦死5,017名、負傷10,843名という大損害を蒙り、対するロシア軍の被害は戦死1,500名、負傷4,500名だった。第三軍はほぼ一個師団分の損害を出したことになる{{Sfn|別宮|2005|p=136}}。
この頃からロシア軍側は、旅順港内に逼塞した[[ロシア太平洋艦隊|太平洋艦隊]]の海軍将兵で複数の中隊単位の[[ロシア海軍歩兵|陸戦隊]]を編成し、艦船の中小口径砲の一部も陸揚げして陸軍部隊の増援を図った{{refnest|group="注"|8月に、[[戦艦]]・[[巡洋艦]]などの大型艦1艦ごとに1個中隊を編成し、要塞の地区ごとの陸軍部隊の指揮下に派遣した。陸上戦闘での消耗は激しく、その後も増援が繰り返され、人員の面でも艦船の行動能力は次第に損なわれていった。}}。
===第二回総攻撃前半戦(明治37年9月19日-22日)===
====正攻法への変更====
第三軍は第一回総攻撃を歩兵の突撃による強襲法で行ったが、これは砲弾数不足で十分な支援砲撃ができない中で、大本営からの速やかなる早期攻略の要請に応えようとしたためであった。しかし<!--突撃による攻撃では-->要塞(望台)には歯が立たず兵力に大損害を被った。乃木は攻撃方法を再考し、正攻法へ切り替える考えを固めた。これは占領した盤龍山東西堡塁から要塞前面ぎりぎりまで[[塹壕]]を掘り進み進撃路を確保し、歩兵の進撃の際は十分に支援砲撃を行う方式であり<!--る(正攻法併用による攻撃計画の策定)。-->、麾下の参謀に調査(地質や地形、敵情など)や作戦立案を指示した<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 145-146p</ref>。8月30日、軍司令部に各師団の参謀長と工兵大隊長、攻城砲兵司令部の参謀などを招集し、正攻法への変更を図る会議を行った<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 148p</ref>。しかし前線部隊の意見は<!--支援砲撃のための-->砲弾不足などを理由に強襲法継続の主張が強かった<!--意見がまとまらず-->。この会議は6時間に及んだが、最終的には乃木の決断で正攻法に変更する事になり<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 152-153p</ref>、9月1日よりロシア軍に近接するための塹壕建設を開始した<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 156p</ref>。
ロシア側も盤龍山堡塁を奪われたのは痛手だった。8月30日にロシア軍はコンドラチェンコ少将の独断により盤竜山を奪い返そうと攻撃を行ったが、日本軍の反撃を受け攻撃兵力の3割を失い失敗した{{Sfn|別宮|2005|p=143}}。
9月15日、第三軍は対壕建設に目途が立ち、兵員・弾薬も補充できた。17日に各部隊に指示し、部分的攻撃を19日に開始するよう命令した。今回は第1師団、第9師団が攻撃を担当し、第11師団は前面の敵の牽制を担った<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 157p</ref>。
====第1師団の攻撃====
19日午前8時45分、攻城砲兵は敵牽制の砲撃を開始、午後1時には攻略目標である龍眼北方、水師営両堡塁に砲撃を集中した。午後5時頃、第1師団左翼隊(歩兵第2旅団)は水師営第1堡塁への突撃を開始した。しかし外壕の突破に手間取り大損害を被る<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 158p</ref>。中央隊(歩兵第1旅団)は順調に進撃し、目標の南山坡山の北角を占領する<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 159p</ref>。右翼隊(後備歩兵第1旅団)はこの攻撃より目標に加えられた[[203高地]]攻撃を任される。しかしここも敵の猛射を浴びて大損害を被ってしまう<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 145,160p</ref>。
20日、苦戦する左翼隊に第9師団が龍眼北方堡塁の占領に成功したという一報が入る。奮起した同隊は第4堡塁へ突撃を敢行しこれを占領、更に攻城砲兵が第1堡塁へ砲撃を開始し敵は沈黙、午前11時には水師営の全[[堡塁]]は日本軍の手に落ちた。中央隊も山頂で[[白兵戦]]をしつつも午後5時には南山坡山を占領した。
しかし203高地攻略は容易ではなく、なんとか山頂の一角を占領しつつも直後にロシア軍の大逆襲が始まり、午前5時には山頂を奪われたばかりか第2線も奪われ[[後備歩兵第16連隊]]長も負傷した。その後第1師団は師団砲兵の総力を挙げて203高地を砲撃し、前線に幾度となく増援を送るも道中で敵陣地からの攻撃を受け前線に辿り着いた者はいなかった。突撃は翌21日も行われたが効果がなく、結局は攻撃を断念する。担当した右翼隊の残存兵力は310名にまで激減していた。
====第9師団の攻撃====
同師団は右翼隊(歩兵第18旅団)の[[歩兵第19連隊]]が龍眼北方堡塁正面を、[[歩兵第36連隊]]が同堡塁の咽喉部と背後の交通壕への攻撃を行う<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 160p</ref>。しかしここでも要塞側の反撃で大損害を受ける。しかし翌20日、攻城砲兵の支援砲撃を開始すると[[堡塁]]は瞬く間に抵抗力を失い、午前5時には攻略に成功する<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 161p</ref>。
====28センチ榴弾砲の投入====
第一回総攻撃が失敗に終わった後、[[東京湾要塞]]および[[芸予要塞]]に配備されていた旧式の対艦攻撃用だった二八センチ榴弾砲(当時は[[二十八糎砲]]と呼ばれた)が戦線に投入されることになった{{refnest|group="注"|撤去決定は明治37年8月5日。当初は鎮海湾と対馬へ移設することを予定していた {{Harv|原|2002|p=530}}。}}。通常はコンクリートで砲架(砲の台座のこと)を固定しているため戦地に設置するのは困難とされていたが、これら懸念は[[工兵]]の努力によって克服された。
二八センチ榴弾砲は10月1日、旧市街地と港湾部に対して砲撃を開始。20日に占領した南山坡山を観測点として湾内の艦船にも命中弾を与え損害をもたらした<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 166p</ref>。しかし艦隊自身は黄海海戦ですでに戦力を喪失しており、この砲撃も劇的な戦果をもたらしたわけではなかったが{{Sfn|別宮|2005|p=146-147}}、要塞攻撃にも効果ありと判断し砲を増やしていき最終的に18門が投入された<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 167p</ref>。
====対壕建設の再開と砲弾不足====
この戦いでの損害は日本軍は戦死924名、負傷3,925名。ロシア軍は戦死約600名、負傷約2,200名だった{{Sfn|別宮|2005|p=146}}。
24日より各部隊は攻撃目標に向けての対壕建設を再開したが敵に近づくにつれて相手からの阻害攻撃が激しくなり工事は停滞する<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 168p</ref>。それでも各師団の奮闘で突撃陣地の構築を18日には完了する<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 169p</ref>。これを受けて第三軍は再度の総攻撃を決断した。当時は28センチ榴弾砲の追加送付分が準備の出来る10月27日頃を総攻撃の日と考えていたが、各砲の砲弾の不足が深刻化しだしていた。乃木は大本営に1門300発の補給を要請した(ちなみに当時要塞を落とす際に必要な砲弾数は1門につき1000発が基本的な数だった)が、補給を受ける事は出来なかった<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 170p</ref>。また10月16日には[[ロシア第二太平洋艦隊]]がリバウ港を出航した事を受け、乃木は砲弾不足を承知で第二次総攻撃を行わざるを得ない状況下におかれた<ref name="名前なし-1">潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 171p</ref>
===第二回総攻撃後半戦(明治37年10月26日-30日)===
10月18日、第三軍は二龍山堡塁と、松樹山堡塁の同時攻略計画を打ち立てた。双方の[[堡塁]]は密接な関係に有り、攻撃区分では第9師団が担当であったが戦力の余裕がなく、松樹山堡塁攻撃は第1師団が担当する事にした<ref name="名前なし-1"/>。
23日、第三軍は各参謀長会議を行い、26日の総攻撃を決定した。第1師団が松樹山堡塁、第9師団が二龍山堡塁と盤龍山堡塁東南の独立堡塁、第11師団は東冠山の各堡塁(但し攻撃は第1・9両師団の攻撃が成功した後)を攻撃目標とする<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 172p</ref>。
この時点での主要部隊の戦力は
*第1師団 6869名(将校含む・以下同)
*第9師団 7277名
*第11師団 6940名
*後備歩兵第1旅団 3636名
*後備歩兵第4旅団 3368名
であった<ref name="名前なし-2">潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 173p</ref>。早朝よりの攻城砲兵による砲撃の後、まず第1師団、第9師団が攻撃を開始した。
====第1師団の攻撃====
第1師団では左翼隊の[[歩兵第2連隊]]が敵散兵壕の動揺を捉え突入しこれを制圧。ここから松樹山へ坑道掘進を開始する<ref name="名前なし-2"/>。ロシア側も坑道を掘り、爆薬を仕掛けて日本側の坑道を破壊するなどで抵抗した。29日になるとロシア軍は逆襲に転じ午前7時に散兵壕を奪取される。第1師団は直ちに逆襲に転じて午後1時30分にはこれを奪い返す<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 174-175p</ref>。
翌30日、攻城砲兵の事前砲撃の後、第2連隊は松樹山堡塁への突撃を開始した。周囲からの砲火を浴びながら連隊は敵塁の真下まで進出するが外壕の突破に手間取っている間に大損害を被りやむなく撤退する<ref name="名前なし-3">潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 175p</ref>。そのため外壕外岸からの坑道作業に入るが攻撃準備完了まで期日を要することになる<ref name="名前なし-3"/>。
====第9師団の攻撃====
第9師団は右翼隊の[[歩兵第19連隊]]が二龍山堡塁の斜堤散兵壕を占領し坑道掘進を開始する<ref name="名前なし-2"/>。更に左翼隊も[[歩兵第7連隊]]が盤龍山北堡塁に突撃し、その1角を制圧する<ref name="名前なし-3"/>。二龍山堡塁では松樹山と同様に血みどろの坑道戦が展開される。
30日、まず右翼隊が二龍山堡塁の外壕の破壊に取りかかる。しかし敵塁からの集中射撃と松樹山からの側防射撃に阻まれ占領地を確保するのがやっとであった<ref name="名前なし-3"/>。
他方、一戸少将が指揮する左翼隊は盤龍山東堡塁東南の独立堡塁(P堡塁)への攻撃を開始。午後1時、工兵隊の爆破した突撃路を使って[[歩兵第35連隊]]が突入。僅か2分で[[堡塁]]を制圧する<ref name="名前なし-4">潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 176p</ref>。
しかし午後10時30分頃、ロシア軍が逆襲に転じ、占領部隊は将校を多数失い退却した。[[堡塁]]下にいた一戸少将は退却の報を受けると予備の1個中隊を自ら率いて奪還に向かい、奪取に成功した。一戸少将の勇猛な活躍ぶりから、後にこの堡塁は「一戸堡塁」と命名される<ref name="名前なし-4"/>。
====第11師団の攻撃====
第11師団は待機していたが松樹山、二龍山の占領がまだなので攻撃できずにいた。しかし既に攻撃準備が整っており、この際は多少の犠牲も覚悟して突撃すべしという結論になり、30日より攻撃を開始する<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 174p</ref>。
30日午後1時、まず右翼隊の[[歩兵第22連隊]]が東鶏冠山北堡塁を攻撃しその1角を制圧。しかし第2堡塁に向かった[[歩兵第44連隊]]は集中砲火を浴びて壊滅する<ref name="名前なし-4"/>。
中央隊の[[歩兵第12連隊]]は第1堡塁に向かう。前面の散兵壕を蹴散らしつつ進撃し[[砲台]]も占領した。しかし周囲からの射撃を受け被害が続出し、戦線維持が困難になり退却を余儀なくされる<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 177p</ref>。
31日、未だ士気旺盛な右翼隊は外岸側防を制圧。しかし血気にはやる一部部隊が砲兵の支援を待たずに突撃し壊滅。結局第11師団も東鶏冠山を制圧できず、坑道作業に移行していく<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 178p</ref>。
====総攻撃の中止====
日本軍は戦死1,092名、負傷2,782名の損害を出すが、ロシア軍も戦死616名、負傷4,453名と日本軍以上の損害を受けた。乃木は各師団が坑道作業に入った事で作業完了までには期日が必要と判断。総攻撃を打ち切った<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 179p</ref>。
日本軍は前半戦の作戦目的は203高地以外は達成した。しかし後半の主要防衛線への攻撃は第9師団がP堡塁を占領した以外は失敗。このため日本側は第二次総攻撃も失敗と考えた。
=== 第三回総攻撃(明治37年11月26日-12月6日) ===
第二回総攻撃の失敗は[[バルチック艦隊#日露戦争|バルチック艦隊]]の来航に危機感を募らせる海軍を失望させ、要塞攻略よりも艦隊殲滅を優先し、観測射撃のための拠点を得るため[[203高地]]を攻略すべしという意見が出てくるようになる<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 182p</ref>。他方第三軍の上級司令部である[[満洲軍 (日本軍)|満洲軍]]は当初より要塞攻略を優先する方針を変えず、そのために望台を第一の攻略目標にすることを変えなかった。また望台攻略への寄与が小さい203高地攻略には反対だった。第三軍も二回目の総攻撃は失敗したとはいえ、東鶏冠山堡塁の一部や同山第一堡塁、一戸堡塁を占領することには成功し、東北正面の防衛線をあと一歩で抜くことが出来たので、引き続き要塞正面を主攻にするという立場だった<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 183-184p</ref>。
11月14日、203高地主攻に固執する[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]は[[御前会議]]で「203高地主攻」を決定する<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 189p</ref>。しかし満洲軍総司令官[[大山巌]]元帥はこれを容れなかった。大本営からの要旨にある「旅順港内を俯瞰し得る地点を占領し、港内の敵艦、造兵廠などに打撃を与うることをのぞむ」で、203高地を直接名指しして命令していないことを逆手に取り、「第三軍司令官をして、是迄の計画に従い鋭意果敢に攻撃を実行せしめ、旅順の死命を制し得るべき『望台』の高地を一挙に占領せしむるの方針をとるべし…」<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 191p</ref>。「203高地を落としても観測点として利用するだけでしかなく、砲を備えて敵艦を沈めるには長大な期日を要し、目的を達成できない」<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 192p</ref>。などと反論し、要塞東北方面攻略の立場を崩さなかった。総参謀長の[[児玉源太郎]]大将も、10月までの観測砲撃で旅順艦隊軍艦の機能は失われたと判断して艦船への砲撃禁止を第三軍に命じた{{Sfn|別宮|2005|p=153}}。また海軍のバルチック艦隊来航の脅威を必要以上に誇張し、海軍の都合だけ考えて海上輸送を中止しようとする一連の動きに対し抗議した<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 193-194p</ref>。こういった上層部の意見の食い違いは乃木と第3軍を混乱させ、第三回総攻撃案に大きく影響を与えた。
11月中旬に盤竜山・一戸両保塁から両側の二竜山と東鶏冠山保塁の直下まで[[塹壕]]を掘ることに成功しさらに中腹からトンネルを掘り胸壁と外岸側防を爆破することを計画{{Sfn|別宮|2005|p=154}}。総攻撃は11月26日と決定された。また参謀本部も内地に残っていた最後の現役兵師団の精鋭、[[第7師団 (日本軍)|第7師団]]を投入、部隊を第1、第9師団の間に配置し総予備とした{{Sfn|別宮|2005|p=156}}。
==== 各師団の攻撃 ====
11月26日、松寿山堡塁攻撃を担う第1師団左翼隊は午後1時より外壕より突撃した。しかし身を潜めていたロシア軍の奇襲と周囲からの集中砲火と内壕の敵兵の逆襲で突撃した兵は壊滅。午後2時50分には外斜面に退却するしかなかった<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 210-211p</ref>。
第9師団も午後1時より二龍山堡塁へ突撃を開始した。松寿山堡塁などからの側射を受けて大損害を受けたが突入を続け、なんとか敵前100mの地隙に到達するがそれ以上は進撃できなかった<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 211p</ref>。
第11師団は[[東鶏冠山北堡塁]]の胸塔2箇所に爆薬を仕掛け点火。その後[[歩兵第22連隊]]が突入した。しかし敵[[堡塁]]の破壊は僅かで白兵戦となり多くの犠牲をだす。午後1時40分には土屋師団長が重傷を負い陣地の争奪が激化、占領地の維持は出来なかった<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 211-212p</ref>。
==== 白襷隊の突入 ====
{{See also|白襷隊}}
26日夜半、第三回総攻撃にあたって特に編成された'''特別予備隊'''(以下「[[白襷隊]]」。3,113名。総指揮官:歩兵第2旅団長・[[中村覚]]少将)が攻撃を行った。この部隊は、夜間の敵味方の識別を目的として全員が白襷を着用していた{{Sfn|別宮|2005|p=157}}。白襷隊は午後5時に薄暮の中行動を開始、集結点で月が昇るのを待ち、午後8時30分、目標へ動き出した<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 216p</ref>。
午後8時50分、白襷隊は一斉に突入を開始した。しかし目標の松樹山第4砲台西北角には幾重にも張り巡らされた鉄条網があり、その切断作業中に側背より攻撃を受ける。白襷隊はひるまず突入し散兵壕を目指すが前方に埋めてあった地雷により前線部隊はほとんど全滅。後続部隊も奮戦するが死傷者が相次ぎ第1線の散兵壕まで後退する<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 217-218p</ref>。
午後10時30分頃、指揮を執っていた中村少将が敵弾を受けて負傷、その後同隊は翌27日午前2時頃まで激戦を繰り広げるも突破は不可能と判断され、退却となった<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 218-220p</ref>。
この攻撃は敵陣突破に失敗し、この時点での第三軍の損害は約7千名に達した。しかし守るロシア側も一時二龍山堡塁の守備兵は数名になり、松寿山第4砲台も予備兵力が10名になるなど、もう少しで突破を許してしまうような状況に追い込まれており<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 221-222p</ref>、ロシア側にも白襷隊の勇敢さに驚嘆する記述が多く残されている。
==== 203高地への主攻変更 ====
11月27日未明、乃木は当初の攻撃計画が頓挫したことで攻撃目標を要塞正面から203高地に変更することを考え、敵味方を兵員消耗戦に持ち込む決心をした。第三軍参謀の[[白井二郎]]少佐は第1師団に203高地攻撃を打診したところ快諾を得た<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 226-227p</ref>。満洲軍司令部より派遣されていた[[福島安正]]少将はこの意見に反対を述べ、あくまでも要塞東北方面攻撃を主張したが、乃木の判断で203高地への本格的な攻撃が決定される<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 227p</ref>。
午前10時、軍命令で東北方面攻撃の一時中止と第1師団を中核とした203高地攻撃を行うことが下達、午後5時には大本営と満洲軍総司令部にそのような主旨の報告を行う<ref name="名前なし-5">潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 228p</ref>。指示を受けた攻城砲兵司令部は直ちに砲撃を203高地に変更し、28センチ榴弾砲全砲をもって砲撃を開始した<ref name="名前なし-5"/>。[[砲兵第2旅団]]は203高地攻撃に際して妨害攻撃をするであろう敵の各[[砲台]]への砲撃を開始した。対するロシア軍は203高地に500余名、その北東の老虎溝山(標高177m)に千名の兵を配し、万全の体制をとっていた<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 229p</ref>。
==== 203高地攻撃 ====
27日午後6時、28センチ榴弾砲の事前射撃により203高地の中腹散兵壕を破壊、午後6時20分、第1師団右翼隊(後備歩兵第1旅団)、中央隊(歩兵第1旅団)が突撃を開始した。敵[[砲台]]は攻城砲兵及び師団砲兵が制圧し、右翼隊は鉄条網を排除しつつ前進し、一部は203高地西南部、敵の第2線散兵壕の左翼を奪取した。更に前進を続けるも周囲からの敵の大口径砲の援護砲撃で損害を被る<ref name="名前なし-6">潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 230p</ref>。
中央隊は老虎溝山に突撃を開始、山頂散兵壕の一部を奪うが夜になって敵の逆襲により撤退した<ref name="名前なし-6"/>。
翌28日、第1師団は再び攻撃を開始した。右翼隊は[[後備歩兵第38連隊]]の増援を受け8時頃突撃を開始、第2線散兵壕を奪うが死傷者が続出し現在地の確保で精一杯になる<ref name="名前なし-7">潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 232p</ref>。友安旅団長は[[後備歩兵第16連隊]]を増援に回し、10時30分に山頂へ突撃し頂上を制圧した。しかし直ぐ様ロシア軍の逆襲にあい山頂を奪還される<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 231p</ref>。それでも左翼隊は粘り強く攻撃を続け、正午頃には西部山頂の1部を奪回し敵の逆襲に備えた<ref name="名前なし-7"/>。
一方の中央隊は203高地東北部に対する攻撃を意図し攻撃準備をしていたが、その間敵の攻撃を受けて[[歩兵第1連隊]]長の[[寺田錫類]]大佐が重傷を負い、まもなく戦死する<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 234p</ref>。それでも旅団長[[馬場命英]]少将自ら指揮を取り突撃を繰り返すも効果なく、一時は東北部山頂を占領するも、敵に奪還された。
11月29日午前2時、第1師団より現在の師団兵力では203高地攻略は難しい旨の連絡が軍司令部に届く<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 235p</ref>、これを受けて乃木は予備の[[第7師団 (日本軍)|第7師団]]の投入を決意、午前3時に麾下の各部隊と満洲軍総司令部、大本営にその旨を連絡した。この直後、満洲軍より児玉総参謀長が旅順に赴く旨の連絡が入る<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 236p</ref>。
午前7時、第7師団長[[大迫尚敏]]中将が高崎山の第1師団司令部に到着し、203高地攻撃の指揮権を継承した。大迫は第7師団と第1師団の残存兵力で攻撃部署を決める。
*203高地攻撃:友安治延(後備歩兵第1旅団長)少将指揮
**歩兵第1連隊1.3大隊、歩兵第26連隊2大隊、歩兵第28連隊、後備歩兵第15連隊1.3大隊、後備歩兵第16連隊、後備歩兵第38連隊2大隊、工兵1個中隊
*老虎溝山攻撃隊:吉田清一(第7師団歩兵第13旅団長)少将指揮
**歩兵第1連隊2大隊、歩兵第15連隊2大隊、歩兵第25連隊3大隊、歩兵第26連隊、工兵1個大隊半
*砲兵隊:兵頭雅誉(野戦砲兵第1連隊長)大佐指揮
**野戦砲兵第1連隊、野戦砲兵第7連隊、野戦重砲兵第1連隊1大隊<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 238p</ref>
30日午前6時、攻城砲兵は砲撃を開始、まず[[歩兵第28連隊]]が山頂東北部に突入。第三攻撃陣地まで前進するが敵の猛射で釘付けにされる。西南山頂は後備歩兵第15.16連隊が向かうがこれも側射を受けて損害を被り攻撃を断念する<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 239-240p</ref>。
老虎溝山攻撃は午前10時より開始され、午後1時まで幾度となく波状攻撃を繰り返すが悉く撃退される<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 240p</ref>。
午後4時50分、第1師団長より攻撃再開の命が下る。6時40分に東北部山頂に突入し、接戦のすえ一部占領に成功。その後一進一退の攻防で占領地の一角を死守することに成功した。
午後5時には203高地の完全占領の報が届き、大本営や満洲軍に伝わるが誤報で、翌12月1日午前2時には敵に奪還される<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 241p</ref>。
夜半、友安少将は増援の二個中隊を率いて前線に向かう旨、各部隊に伝令を出すが、その任務を帯びていた副官の[[乃木保典]]少尉(乃木希典大将の次男)は銃弾を受けて戦死する<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 243p</ref>。
12月1日、死傷者の収容と態勢を整えるため、4日まで攻撃を延期する<ref>潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 246p</ref>。
正午、満洲軍司令部から旅順へ向かった児玉満洲軍総参謀長が到着。その途上、203高地陥落の報を受けたが後に奪還されたことを知った児玉は大山満洲軍総司令官に電報を打ち、北方戦線へ移動中の[[第8師団 (日本軍)|第8師団]]の歩兵第17連隊を南下させるように要請した{{Sfn|別宮|2005|p=162}}。
12月1日から3日間を攻撃準備に充て、第3軍は攻撃部隊の整理や大砲の陣地変換を行った{{Sfn|別宮|2005|p=162}}。
12月4日早朝から203高地に攻撃を開始し、5日9時過ぎより、第7師団歩兵27連隊が死守していた西南部の一角を拠点に第7師団残余と第1師団の一部で構成された攻撃隊が西南保塁全域を攻撃し10時過ぎには制圧した{{Sfn|別宮|2005|pp=165-166}}。
12月5日13時45分頃より態勢を整え東北堡塁へ攻撃を開始し、22時にはロシア軍は撤退し203高地を完全に占領した。翌6日に乃木は徒歩で203高地に登り将兵を労うが、攻撃隊は900名程に激減していた{{Sfn|別宮|2005|p=167}}。
12月5日の203高地陥落後、同地に設けられた観測所を利用し日本側は湾内の旅順艦隊残余に砲撃を開始する。各艦の大多数はそれまでの海戦や観測射撃で破壊され、要塞攻防戦の補充のため乗員、搭載火砲も陸揚げし戦力を失っていたが、日本側はこれらに対しても28センチ榴弾砲砲弾を送り込み、旅順艦隊艦艇は次々と被弾した。砲弾は戦艦の艦底を貫けなかったが、多くの艦艇は自沈処理がなされた{{refnest|group="注"|陥落後に行われた着底ロシア艦艇への命中弾のの効果を調べる調査を陸軍省軍務局砲兵課石光真臣らが実施。命中した28センチ榴弾砲の砲弾は経年劣化により装填火薬や信管に不良があり不発が多かった。また鋳鉄製砲弾は鋼鉄艦砲撃には強度不足で、艦底まで突き抜けているものは皆無で、調査報告を受けて陸軍省技術審査部長有坂成章は砲弾の全面変更を指示している。また海軍側の調査でも多くの艦はキングストン弁を開いており、自沈処理がなされていたと報告されている}}。5日に戦艦[[丹後 (戦艦)|ポルターヴァ]]が後部弾火薬庫が誘爆着底、翌日には戦艦[[レトヴィザン (戦艦)|レトヴィザン]]も着底し、8日に[[相模 (戦艦)|ペレスヴェート]]、[[周防 (戦艦)|ポベーダ]]の両戦艦も防護巡洋艦[[パルラーダ (防護巡洋艦)|パラーダ]]と共に着底した。9日には装甲巡洋艦[[阿蘇 (装甲巡洋艦)|バヤーン]]が同様の運命をたどった。大型艦で生き残ったのは[[ペトロパブロフスク級戦艦|セヴァストーポリ]]のみとなり{{Sfn|Olender|2009|p=94}}、8日の深夜に港外に脱出した。
この攻撃での損害は日本軍は戦死5,052名、負傷11,884名。ロシア軍も戦死5,380名、負傷者は12,000名近くに達した。両軍がこの攻防に兵力を注ぎ込み大きく消耗した。203高地からはロシア太平洋艦隊のほぼ全滅が確認され、児玉は12月7日に満洲軍司令部へ戻った{{Sfn|別宮|2005|p=167}}。
脱出して旅順港外にいた戦艦[[セヴァストポリ (戦艦・初代)|セヴァストポリ]]と随伴艦艇に対しては、日本海軍は30隻の水雷艇で攻撃し、12月15日の深夜の攻撃で同艦は着底し、航行不能となった{{Sfn|Olender|2009|p=95}}。
===要塞東北面突破とロシア軍の降伏===
[[ファイル:Nogi and Stessel.jpg|200px|thumb|「水師営の会見」乃木将軍は降伏したロシア将兵への帯剣を許した]]
12月10日、第11師団による東鶏冠山北堡塁への攻撃を開始。15日に勲章授与のため兵舎を訪れていたコンドラチェンコ少将が二八センチ榴弾砲の直撃を受け戦死した。
18日には日本軍工兵が胸壁に取り付けた2トンの爆薬による爆破で胸壁が崩壊、ロシア軍は僅か150名の守備兵しかいなかったが果敢に反撃し第11師団は戦死151名、負傷699名もの損害を受け激戦の末夜半に占領した。ロシア側は150名中92名が戦死するという玉砕に近い抵抗だった{{Sfn|別宮|2005|p=170}}。乃木司令部は以降も胸壁や[[塹壕]]を完全に破壊してから突撃に移る方針を続けた。
28日には第9師団による二竜山堡塁への攻撃が始まる{{Sfn|別宮|2005|pp=170-172}}。胸壁を3トン弱の爆薬で爆破し300名の守備兵の半数は生き埋めとなるが残兵が激しく抵抗、水兵の増援もあり双方射撃戦になる。しかし歩兵第36連隊が後方に回り込み、それを見たロシア軍守備隊の撤退により、29日3時に遂に占領された。第9師団は戦死237名、負傷953名の損害を被り、ロシア軍も300名以上の死者を出した{{Sfn|別宮|2005|p=172}}。
31日、第一師団による[[松樹山堡塁]]への攻撃が始まりロシア軍守備兵208名のうち坑道爆破で半数が死亡、占拠した二竜山保塁からの援護射撃もあり後方を遮断することに成功、11時に降伏した。第一師団は戦死18名、負傷169名の損害を被りロシア軍も生存者は103名だった{{Sfn|別宮|2005|pp=172-173}}。
1月1日未明より日本軍は重要拠点である虎頭山や望台への攻撃を開始し、午後になって望台を占領した。
ロシア軍はそれまで203高地攻防などで予備兵力が枯渇し、コンドラチェンコ少将が戦死した中でも抗戦意志を捨てていなかった。しかし東北面の主要保塁(望台)が落ちたことで旅順要塞司令官ステッセリは遂に抗戦を断念し、<!--士気が落ち、首脳部も抗戦派は勢いを失っていた。-->1月1日16時半に日本軍へ降伏を申し入れた{{Sfn|別宮|2005|p=173}}。
5日に旅順要塞司令官ステッセリと乃木は旅順近郊の水師営で会見し、互いの武勇や防備を称え合い、ステッセリは乃木の2人の息子の戦死を悼んだ。また、乃木は降伏したロシア将兵への帯剣を許した。この様子は後に文部省唱歌「水師営の会見」として広く歌われたほか、
[[荒井陸男]]の手により[[明治神宮絵画館]]の壁画『水師営の会見』が製作され後世に伝えられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9405.html |title=『日本美術年鑑』昭和48年版(81頁) |publisher= 東京文化財研究所|date=2014年 |accessdate=2022-08-31}}</ref>。
こうして旅順攻囲戦は終了した。日本軍の投入兵力は延べ13万名、死傷者は約6万名に達した。
==影響==
[[File:Postcard - Japanese enter Ryojun.jpg|thumb|right|240px|旅順に入城する日本軍の絵葉書]]
[[ファイル:Port_Arthur_from_Gold_Hill.jpg|thumb|right|240px|陥落後の旅順港]]
[[ファイル:Damage of Battleship Retvizan.jpg|thumb|right|240px|戦艦[[レトウィザン]]の被害状況]]
旅順要塞の陥落により旅順艦隊は無力化された。
日本軍は本格的な[[攻城戦]]の経験が少なかった。陸軍全体に近代戦での要塞戦を熟知した人間が少なく、第1回総攻撃では空前の大損害が生じてしまった。要塞攻略に必要な[[坑道戦]]の教範の欠如に関しては、当時は日本だけでなく欧米列強において火力万能主義の時代であったため、坑道戦術自体が軽視されていた。戦争直前の工兵監であった[[上原勇作]]も坑道教育にはあまり重視しておらず、むしろ前任の[[矢吹秀一]]工兵監時代に非常に坑道教育に力を入れていた。旅順戦においては、矢吹工兵監時代の記憶を辿って攻城教程を作成した<ref>「日本工兵物語」P31(吉原矩・原書房)</ref>。戦後明治39年に坑道教範が作成され、[[北九州市|小倉]]に駐屯していた[[工兵隊]]によって、初めての坑道戦訓練が敵味方に分かれて実施された。
軽量化が図られた上に毎分500連発と実用性の高い[[機関銃]]である[[マキシム機関銃]]は、この戦闘で世界で初めて本格的に運用され威力を発揮した。機関銃陣地からの[[十字砲火]]に対し、従来の歩兵による突撃は無力であることを実戦で証明した。この状況を打開する攻撃法を日露戦争後も暫くは見いだすことはできなかった。同時代のヨーロッパ各国でも、機関銃をごく少数配備していただけで運用法も確立されていなかった。
当時の日露両軍は世界的に見ても例外的に機関銃を大量配備していたが、早くから防衛兵器としての運用を考え出したロシア軍に対し、日本軍側はあくまでも野戦の補助兵器として考えていたので、初期には効果的な運用は行われていなかった。後に日本側もロシア側の運用法を応用した。
旅順要塞での戦訓は欧州諸国にも積極的に導入された。第一次世界大戦の東部戦線ではドイツ軍が旅順要塞攻略時に日露両軍が用いた対壕戦術を採用。
1915年5月1日から開始されたマッケンゼン攻勢ではロシア軍の要塞陣地を一週間で突破しロシア兵捕虜14万人を捕らえる大戦果をあげた<ref>「第一次世界大戦史」P93(飯倉章・中公新書)</ref>。
1905年1月に[[ボリシェヴィキ]]の機関誌『フペリョード』上で[[ウラジーミル・レーニン]]は、旅順の失陥を「ロシア専制の歴史的な破局」と位置づけた<ref name="Inaba">稲葉千晴『明石工作:謀略の日露戦争』 <丸善ライブラリー> 丸善 1995年 ISBN 462105158X pp.99-107.</ref>。事実、旅順の失陥によって政府の威信は低下し、労働争議を禁じられ軍需産業の増産で酷使されていたサンクトペテルブルク市民は不満を噴出させた。1月22日に[[冬宮殿]]に集まった請願デモに対して、軍が発砲し多数の死者を出した[[血の日曜日事件 (1905年)|血の日曜日事件]]が発生した。[[東京日日新聞]]は事件の翌日の紙面で、旅順の失陥が血の日曜日事件の大きな原因となったと論評している<ref name="Katayama">片山慶隆『日露戦争と新聞:「世界の中の日本」をどう論じたか』 <講談社選書メチエ> 講談社 2009年 ISBN 9784062584531 pp.157-158.</ref>。首都で発生した混乱は[[ゼネラル・ストライキ|ゼネスト]]や農民蜂起という形でロシア全土に広がり、[[ロシア第一革命]]に発展した。
== 参加兵力 ==
=== 日本軍 ===
[[第3軍 (日本軍)|第3軍]] - 軍司令官:[[乃木希典]]大将
*軍司令部
**参謀長:[[伊地知幸介]]少将
**参謀副長:[[大庭二郎]]中佐
**参謀:(作戦)[[白井二郎]]少佐、(情報)[[山岡熊治]]少佐、(兵站)[[井上幾太郎]]少佐、[[津野田是重]]少佐、[[菅野尚一]]少佐、[[安原啓太郎]]大尉
**兵站監:[[小畑蕃]]大佐
**兵站参謀長:[[竹島音次郎]]中佐
**砲兵部長:[[豊島陽蔵]]少将
**工兵部長:[[榊原昇造]]大佐
**経理部長:[[吉田丈治]]一等主計正
**軍医部長:[[落合泰蔵]]軍医監
**高級副官:[[吉岡友愛]]少佐
** 管理部長:[[渡辺満太郎]]少佐
*[[第1師団 (日本軍)|第1師団]]([[東京]]) - 師団長:[[松村務本]]中将
**歩兵第1旅団 - 旅団長:[[山本信之]]少将、[[馬場命英]]少将(後任)
***[[歩兵第1連隊]] - 連隊長:[[寺田錫類]]中佐、[[生田目新]]中佐(後任)
***[[歩兵第15連隊]] - 連隊長:[[中原渉]]大佐、[[大久保直道]]中佐(後任)、[[戸板百十彦]]中佐(後任)
**歩兵第2旅団 - 旅団長:[[中村覚]]少将
***[[歩兵第2連隊]] - 連隊長:[[渡辺騏十郎]]大佐
***[[歩兵第3連隊]] - 連隊長:[[牛島本蕃]]大佐
**騎兵第1連隊 - 連隊長:[[名和長憲]]中佐
**野戦砲兵第1連隊 - 連隊長:[[兵頭雅誉]]大佐
**工兵第1大隊 - 大隊長:[[大木房之助]]大佐、[[近野鳩三]]中佐
*[[第9師団 (日本軍)|第9師団]]([[金沢市|金沢]]) - 師団長:[[大島久直]]中将
**歩兵第6旅団 - 旅団長:[[一戸兵衛]]少将
***[[歩兵第7連隊]] - 連隊長:[[大内守静]]大佐、[[野溝甚四郎]]中佐
***[[歩兵第35連隊]] - 連隊長:[[中村正雄 (陸軍少将)|中村正雄]]大佐、[[折下勝造]]中佐(後任)、[[佐藤兼毅]]中佐(後任)
**歩兵第18旅団 - 旅団長:[[平佐良蔵]]少将
***[[歩兵第19連隊]] - 連隊長:[[佐治為善]]大佐、[[服部直彦]]中佐(後任)、[[山田良水]](後任)中佐
***[[歩兵第36連隊]] - 連隊長:[[三原重雄]]大佐、[[福谷幹雄]]中佐(後任)
**騎兵第9連隊 - 連隊長:[[平佐脊弼]]中佐
**野戦砲兵第9連隊 - 連隊長:[[宇治田虎之助]]中佐
**工兵第9大隊 - 大隊長:[[芦沢正勝]]中佐、[[杉山茂広]]少佐(後任)
*[[第11師団 (日本軍)|第11師団]]([[善通寺市|善通寺]]) - 師団長:[[土屋光春]]中将、[[鮫島重雄]]中将(後任)
**歩兵第10旅団 - 旅団長:[[山中信儀]]少将
***[[歩兵第22連隊]] - 連隊長:[[青木助次郎]]大佐
***[[歩兵第44連隊]] - 連隊長:[[石原盧]]大佐
**歩兵第22旅団 - 旅団長:[[神尾光臣]]少将、[[前田隆礼]]少将(後任)
***[[歩兵第12連隊]] - 連隊長:[[新山良知]]大佐
***[[歩兵第43連隊]] - 連隊長:[[西山保之]]大佐、[[三松小次郎]]中佐(後任)
**騎兵第11連隊 - 連隊長:[[河村秀一]]中佐
**野戦砲兵第11連隊 - 連隊長:[[足立愛蔵]]大佐、[[深堀猪之助]]中佐(後任)
**工兵第11大隊 - 大隊長:[[石川潔太郎]]中佐
*(1904/11 - )[[第7師団 (日本軍)|第7師団]]([[旭川市|旭川]]) - 師団長:[[大迫尚敏]]中将
**歩兵第13旅団 - 旅団長:[[吉田清一]]少将
***[[歩兵第25連隊]] - 連隊長:[[渡辺水哉]]大佐
***[[歩兵第26連隊]] - 連隊長:[[吉田新作]]中佐
**歩兵第14旅団 - 旅団長:[[斎藤太郎]]少将
***[[歩兵第27連隊]] - 連隊長:[[奥田正忠]]中佐、[[竹迫弥彦]]中佐(後任)
***[[歩兵第28連隊]] - 連隊長:[[村上正路]]大佐
**騎兵第7連隊 - 連隊長:[[白石千代太郎]]中佐
**野戦砲兵第7連隊 - 連隊長:[[鶴見数馬]]中佐
**工兵第7大隊 - 大隊長:[[佐藤正武]]少佐
*後備歩兵第1旅団 - 旅団長:[[友安治延]]少将、[[隠岐重節]]少将(後任)
**後備歩兵第1連隊 - 連隊長:[[余語征信]]中佐
**後備歩兵第15連隊 - 連隊長:[[香月三郎]]中佐
**後備歩兵第16連隊 - 連隊長:[[新名幸太]]中佐
*後備歩兵第4旅団 - 旅団長:[[武内正策]]少将
**後備歩兵第8連隊 - 連隊長:[[三上晋太郎]]大佐、[[丹羽剛]]中佐(後任)
**後備歩兵第9連隊 - 連隊長:[[高城義孝]]中佐
**後備歩兵第38連隊 - 連隊長:[[滝本美輝]]大佐
*野戦砲兵第2旅団 - 旅団長:[[大迫尚道]]少将、[[永田亀]]少将(後任)
**野戦砲兵第16連隊 - 連隊長:[[成田正峯]]中佐
**野戦砲兵第17連隊 - 連隊長:[[横田宗太郎]]中佐
**野戦砲兵第18連隊 - 連隊長:[[本荘全之]]中佐
*攻城砲兵司令部 - 司令官:[[豊島陽蔵]]少将
**野戦重砲兵連隊 - 連隊長:[[江藤鋪]]中佐
**徒歩砲兵第1連隊 - 連隊長:[[御影池友邦]]大佐
**徒歩砲兵第2連隊 - 連隊長:[[公平忠吉]]中佐
**徒歩砲兵第3連隊 - 連隊長:[[加藤泰久]]大佐
**徒歩砲兵第1独立大隊
=== ロシア軍 ===
(出典:潮書房光人社「血風二百三高地」船坂弘著 p.81)
[[ロシア関東軍]] - 軍司令官:[[アナトーリイ・ステッセリ]]中将
*関東軍司令部
**参謀長:[[レイス]]{{要曖昧さ回避|date=2020年7月}}大佐
*旅順要塞司令部
**司令:[[コンスタンチン・スミルノフ]]中将
***参謀長:[[フウオストフ]]中佐
***砲兵部長:[[ベールイ]]少将
***工兵部長:[[グリゴエンコ]]大佐
*東シベリア狙撃兵第4師団 - 師団長:[[アレクサンドル・フォーク]]少将
**参謀長:[[ドミトレフスキー]]中佐
**第一旅団(司令部欠)
***東シベリア狙撃兵第13連隊- 連隊長:[[セイフリン]]大佐
***東シベリア狙撃兵第14連隊- 連隊長:[[サビッキー]]大佐
**第二旅団- 旅団長:[[ナデイン]]少将
***東シベリア狙撃兵第15連隊- 連隊長:[[グリヤズノフ]]大佐
***東シベリア狙撃兵第16連隊- 連隊長:[[ドウーニン]]大佐
**東シベリア砲兵第4旅団- 旅団長:[[イルマン]]大佐
*東シベリア狙撃兵第7師団 - 師団長:[[ロマン・コンドラチェンコ]]少将(1904/12〜)ナディン少将
**参謀長:[[ナウメンコ]]中佐
**第一旅団- 旅団長:[[ゴルバトフスキー]]少将
***東シベリア狙撃兵第25連隊- 連隊長:[[ネウヤドムスキー]]大佐
***東シベリア狙撃兵第26連隊- 連隊長:[[セミヨノフ]]大佐
**第二旅団- 旅団長:[[ツェルビッキー]]少将
***東シベリア狙撃兵第27連隊- 連隊長:[[ペトルシア]]大佐
***東シベリア狙撃兵第28連隊- 連隊長:[[ムルマン]]大佐
**砲兵第7大隊- 大隊長:[[メルマンダロフ]]大佐
**東シベリア狙撃兵第5連隊- 連隊長:[[トレチャコフ]]{{要曖昧さ回避|date=2020年7月}}大佐
*東シベリヤ狙撃兵第3補充大隊
*東シベリヤ狙撃兵第4補充大隊
*東シベリヤ狙撃兵第7補充大隊
*後黒龍軍管区護境兵隊
*コザック騎兵第1大隊
*コザック騎兵第2大隊
*コザック騎兵第3大隊
*関東工兵中隊
*旅順要塞地雷中隊
*ウスリー鉄道兵第1大隊第4中隊
*要塞電信隊
== 旅順攻囲戦に関する論点 ==
=== 203高地 ===
[[ファイル:-Port Arthur viewed from the Top of the 203 Meter Hill.jpg|thumb|right|240px|203高地から見た防戦中の旅順港<br />1904年12月14日]]
[[ファイル:PortArthur2006.jpg|thumb|right|240px|同2006年1月]]
[[ファイル:Japanese_11_inch_siege_gun_shells_Port_Stanley_1904.jpg|thumb|right|240px|日本陸軍の[[二十八糎砲]]]]
[[ファイル:15 Inch Heavy Artillery Gun.jpg|thumb|right|240px|日本海軍陸戦重砲隊の15センチ砲<!--(ファイル名の15インチ砲は誤り)-->]]
[[203高地]]は要塞主防御線(西方)の2km外側に位置しており、ここの防御施設は前進陣地として築かれた。
本高地から地形上[[旅順港|旅順港内]]の全域を展望できるということはロシア側も開戦前から承知していたが、予算不足で規模が縮小されたこともあり要塞防御線には組み込まれなかった{{Sfn|歴史群像A22|2011|p=52}}。開戦後は、コンドラチェンコ少将により補強され、総攻撃開始までにかなりの防御を有するまでになってはいた{{Sfn|GJ編集部|2011|p=52}}。しかし他のロシア軍陣地からも距離があり戦闘中には兵力投入の移動にも危険を伴うので従来通り前進陣地として運用する予定だった。
しかしながら戦闘を経てロシア軍は方針を変更して203高地を固守するようになり予備兵力を次々とここに注ぎ込んでいった。日本軍にとって、この攻防戦に踏み切ることによりロシア軍予備兵力消耗の目的を果たした{{Sfn|別宮|2005}}。
203高地攻防戦の終局後、ロシア側の抵抗力は著しく減衰しており、12月中旬より行われた東北面の主防御線上の攻防戦では主要三保塁と望台という重要拠点が立て続けに陥落した。要塞司令官ステッセリが降伏を決断した理由は、予備兵力を消耗したことにより戦線を支えられなくなったためである{{refnest|group="注"|要塞には降伏時、兵員1万6千人、砲弾8万発、銃弾200万発が残っていたとされる。スミノルフ中将、ゴルバトフスキー少将ら首脳陣の多くは徹底抗戦を主張したが、ステッセリはほぼ独断で降服を決定した。そのため、戦後厳しく糾弾され(大江志乃夫「世界史としての日露戦争」ほか)軍法会議で死刑を宣告された。}}。
203高地の攻防戦については、様々な見解が語られている。特に203高地の観測所としての価値を重視する見解が多い。本防御線の外から旅順港内のロシア艦艇を砲撃する場合の観測所として本高地は最適な場所であり、攻略は早期に行われるべきだったとするものである。だが、第三軍の作戦目的は要塞の攻略であり旅順艦隊の殲滅ではなかった{{Sfn|GJ編集部|2011|p=8}}。実際にも総攻撃開始時点で第三軍に配備されていた[[攻城砲|重砲]]は最大で15センチ榴弾砲であり、戦艦を砲撃して大打撃を与える能力は持っていなかった{{Sfn|歴史群像A22|2011|p=65}}。
大本営は203高地への攻撃を要求し続けた{{refnest|group="注"|11月14日、御前会議において203高地奪取の御裁可を得た旨を満洲軍に対し伝達。11月19日乃木宛親書で203高地占領を要請。11月22日勅語を乃木に対し伝達。}}。大山総司令と児玉総参謀長はそれぞれ大本営と山県参謀総長に電報を送り203高地主攻に不同意を伝えた{{Sfn|GJ編集部|2011|p=35}}。
第1回総攻撃では第3軍は203高地を主目標とはしなかった。海軍からこの時点で203高地攻略の要請があったと小説などで描かれることも多い<ref>{{Harvnb|司馬|1999loc=4巻|pp=25-26}}など</ref>が実際には、この時点で203高地攻略を論じられたことはなかった{{Sfn|GJ編集部|2011|p=9}}。平坦部は移動中に敵に姿を曝け出し被害を増す危険があったので却下された{{Sfn|GJ編集部|2011|p=10-11}}。
陸軍側の[[攻城砲|重砲]]は15センチ榴弾砲16門と12センチ榴弾砲28門だが、最大の15センチ榴弾砲もこれは海軍の艦載砲より砲身も短く初速が低く艦船への攻撃力は劣る{{Sfn|歴史群像A22|2011|p=65}}。
=== 乃木希典 ===
[[画像:Maresuke Nogi, 近世名士写真 其1 - Photo only.jpg|200px|thumb|right|第3軍司令官 乃木希典]]
伊地知幸介第3軍参謀長と犬猿の仲であった[[井口省吾]]満洲軍参謀が[[陸軍大学校]]長を6年半(1906年(明治39年)2月-1912年(大正元年)11月)務めていた時期に入校し優等で卒業(1909年(明治42年)-1912年(大正元年))した[[谷寿夫]]が、後に陸大兵学教官となった際に日露戦争の政戦略機密戦史を著した。俗に「谷戦史」{{refnest|group="注"|大正14年陸軍大学校調整、全十二巻二十一章におよぶ大著である。 表題には「日露戦史講義摘要録」と書かれている。}}と呼ばれる。
太平洋戦争後の昭和40年代に「谷戦史」が『機密日露戦史』と題して[[原書房]]から刊行された{{Sfn|谷|2004}}。
福島県立図書館の佐藤文庫には「手稿本日露戦史(仮称{{refnest|group="注"|文芸春秋2010年12月臨時増刊号にて軍事史研究家別所芳幸が紹介した。}})」の旅順戦関連部分が所蔵されている。戦史研究家の長南政義が、大庭二郎の日記を活用し、また白井参謀、井上参謀の回想録などを駆使した論考({{Harvnb|長南|2011b}}、{{Harvnb|長南|2012}})を発表している。
第3軍では多くの死傷者を出したにもかかわらず、最後まで指揮の乱れや士気の低下が見られなかったという{{refnest|group="注"|現場では第1回総攻撃後、自傷兵(自らを傷つけて戦線を退こうとする兵)が多発し、第2回総攻撃前の9月25日付けで自傷兵を後方へ送還することを一事見合わせるよう通達が出ている。(鶴田禎次郎『日露戦役従軍日誌』)}}。
当時の従軍記者、スタンレー・ウォシュバン(Stanley Washburn、1878-1950)の指摘では、203高地の重要性を指摘し第7師団を集中的に投入する方向で第三軍の軍議をまとめたのは乃木であったとしている<ref>S・ウォシュバン『乃木大将と日本人』目黒真澄訳、、[[講談社学術文庫]]、1980年(原書の刊行は1913年)</ref>。
=== 第三軍司令部 ===
無能論の主な根拠には以下のものがある。
#単純な正面攻撃を繰り返したこと。
#兵力の逐次投入、分散という禁忌を繰り返したこと。
#総攻撃の情報がロシア側に漏れていて、常に万全の迎撃を許したこと。
#旅順攻略の目的はロシア旅順艦隊を陸上からの砲撃で壊滅させることであったにも拘わらず、要塞本体の攻略に固執し無駄な損害を出したこと。
#初期の段階では、ロシア軍は203高地の重要性を認識しておらず防備は比較的手薄であった。他の拠点に比べて簡単に占領できたにもかかわらず、兵力を集中させず、ロシア軍が203高地の重要性を認識し要塞化したため、多数の死傷者を出したこと。
#児玉源太郎が現場指揮を取り、目標を203高地に変更し、作戦変更を行い、4日で203高地の奪取に成功したこと。
など述べられているが、最近では新資料の発見や当事者である第三軍関係者の証言・記録などから、上記の点に対して
#第一次総攻撃以降は攻撃法を強襲法から[[塹壕]]を掘り進んで友軍の損害を抑える正攻法に切り替えている{{Sfn|GJ編集部|2011|p=20}}。北東方面も203高地のある北西方面も同等の防御機能を持っている{{Sfn|GJ編集部|2011|p=11}}。
#旅順攻略の目的が「艦隊撃滅が目的だった」というのは誤り{{Sfn|長南|2011b|pp=152-153}}。また第一次総攻撃時点で第三軍には[[攻城砲|重砲]]にそのような能力はない{{Sfn|歴史群像A22|2011|p=65}}。満洲軍の方が上級司令部である以上責任が大である{{Sfn|GJ編集部|2011}}。
#203高地は第二軍の南山攻略戦後から防御強化の工事が始められている{{Sfn|GJ編集部|2011|pp=52-53}}。第一次総攻撃時点で第三軍の12センチ榴弾砲の砲撃に耐えうる強固さを持っていた(攻城砲兵司令部参謀[[佐藤鋼次郎]]中佐談{{Sfn|GJ編集部|2011|p=52}})、守備兵力も9月時点で613名だった203高地は12月の最終攻撃時で516名である{{Sfn|GJ編集部|2011|p=53}}。要塞北西方面は鉄道もなく主要な道路もないので部隊転換が難しい{{Sfn|歴史群像A22|2011|p=58}}。
#同士討覚悟の連続砲撃はすでに攻城砲兵司令部によって行われていた{{Sfn|GJ編集部|2011}}、と反論されている。
他にも、陸軍が手本にした仏独両陸軍からして要塞攻略の基本は奇襲か強襲を基本としている{{Sfn|歴史群像A22|2011|p=54}}。
=== 軍中枢部の問題 ===
;命令系統の問題
:日露開戦後に現地陸軍の総司令部として設置され、それまでの大本営首脳(参謀総長・副長)が指揮に当たった[[満洲軍 (日本軍)|満洲軍]]総司令部の方針と、その後の東京の大本営の方針とに乖離が生じ、大本営が乃木第三軍に直接通達を出したことがあったという軍令上の構造的な問題があり、第三軍の作戦に影響を与え続けた{{refnest|group="注"|大本営は「先ず旅順を攻略し、雨期前には鳳凰城の線に進出する」というようなことを述べており、旅順要塞の防御力を実際より軽視しており、攻城準備を省略して、西方から奇襲して陥落させるという方針であった。一方で乃木は大本営参謀に対し「攻城計画の順序を省略し、奇策を用い又は力攻を勉むる如きは全局の利害に鑑み、責任を以て決行するを得ず」と述べ、攻城準備を行った上で第1回総攻撃を行ったが、おびただしい死傷者を出す結果となった。({{Harvnb|沼田|2004}}、{{Harvnb|谷|2004}})}}。御前会議を経て11月半ばころにようやく、『旅順攻撃を主目標としつつも、陥落させることが不可能な場合は港内を俯瞰できる位置を確保して、艦船、造兵廠に攻撃を加える』という方針で満洲軍総司令部(大山司令官)と大本営間の調整が付いた{{Sfn|谷|2004}}。
:
;補給の問題
:軍政側の砲弾備蓄の見積の甘さが責任として大きい事を指摘されている{{Sfn|長南|2011a|pp=18-19}}。
=== 児玉源太郎 ===
[[ファイル:Gentaro Kodama 2.jpg|200px|thumb|right|満洲軍総参謀長 [[児玉源太郎]]]]
日本軍が203高地を攻略したのは[[児玉源太郎]]が旅順に到着した4日後であった。これを、児玉の功績によってわずか4日間で攻略されたと[[機密日露戦史]]で紹介された。ただし、誤りも多いと別宮暖朗、長南政義、原剛などが書籍で発表している<ref>{{Harvnb|別宮|2005}}、{{Harvnb|長南|2011a}}、ほか</ref>。
児玉は正攻法の途中段階で大本営や海軍に急かされ実施した第二次総攻撃には反対で、準備を完全に整えた上での東北方面攻略を指示していた。そのためには海軍の要請する203高地攻略は弾薬節約の点から反対だった{{Sfn|歴史群像A22|2011|p=59}}。
第三軍が第三次総攻撃の際、総攻撃途上で作戦を変更して203高地攻略を決意した際には、満洲軍総司令部が反対し、総司令部から派遣されていた参謀副長の[[福島安正]]少将を第三軍の白井参謀が説得している{{Sfn|歴史群像A22|2011|p=69}}。
第三軍の参謀はほとんどが来訪当日は児玉と会っておらず電話連絡で済ませている{{refnest|group="注"|奈良武次少佐(当時は攻城砲兵司令部所属)の回想{{Harv|歴史群像|2011|p=70}}。}}。児玉が戦闘視察時に第三軍参謀を叱責したとされる話は事実ではない{{Sfn|歴史群像A22|2011|p=70}}。
児玉は予備兵力としておかれていた12センチ榴弾砲15門と9センチ臼砲12門を、203高地に近い高崎山に移し高地とは別目標に対して攻撃するよう指示した{{Sfn|歴史群像A22|2011|p=70}}。攻城砲兵司令部の判断は第三軍司令部も把握していた{{Sfn|長南|2011b|pp=150-151}}{{Sfn|歴史群像A22|2011|p=70}}。
近年、第三軍司令部側の史料から、児玉が旅順で実際に第三軍の作戦に指示を与えていたことを指摘する研究が新しく出されている{{Sfn|長南|2011b}}{{Sfn|長南|2011a}}。
203高地攻めにおける児玉の関与は少なかったという見解もあるが、これに反する意見を[[秦郁彦]]が『二〇三高地攻め「乃木・児玉対決シーン」の検証』<ref>「文藝春秋「坂の上の雲」日本人の勇気総集編(平成23年12月臨時増刊号)」P208-</ref>の中で提示している。
=== 長岡外史 ===
「長岡外史回顧録」を纏め{{refnest|group="注"|「長岡外史関係文書 回顧録編(長岡外史文書研究会)」によれば、大正12〜15年頃に執筆作業をしたと推定されている}}、その中で旅順攻略戦についての感想を残している。
203高地については「9月中旬までは山腹に僅かの散兵壕があるのみにて、敵はここになんらの設備をも設けなかった」と述べ、これを根拠として「ゆえに9月22日の第一師団の攻撃において今ひと息奮発すれば完全に占領し得る筈であった」との見解を述べている。この長岡の見解を否定する意見もある{{Sfn|長南|2011a|pp=26-27}}。
28サンチ榴弾砲の旅順送付について、自己の関与が大きかったことを述べているが、8月21日の総攻撃失敗ののち、[[寺内正毅]]陸軍大臣はかねてより要塞攻撃に同砲を使用すべきと主張していた[[有坂成章]]技術審査部長を招いて25〜26日と意見を聞いたのち採用することを決断し、参謀本部の山縣参謀総長と協議し、すでに鎮海湾に移設するための工事を開始していた同砲6門を旅順に送ることを決定したというのが実際の動きである{{Sfn|原|2002|p=531}}{{Sfn|原|2002|p=548}}。しかし長岡談話によると、参謀本部側の長岡参謀次長が、総攻撃失敗ののちに同砲を旅順要塞攻撃に用いるべきという有坂少将の意見を聞いて同意し、そののち陸軍大臣の説得に向かい同意を得た{{refnest|group="注"|「長岡外史関係文書 回顧録編(長岡外史文書研究会)」より。『機密日露戦史{{Sfn|谷|2004}}』もこの長岡談話を基に記述されている。}}と、まったく違った経緯であったように記述している。これらの見解については現在も検証・研究・調査が続いている。
=== 21世紀以降の研究 ===
旅順攻囲戦についての考察・研究は、資料の発見・公開・活用により、21世紀に入っても続いている。近年においては、
* {{Cite journal|和書|url= https://ci.nii.ac.jp/naid/40006057314 |author=[[福井雄三]]|title=『坂の上の雲』に描かれなかった戦争の現実|journal=中央公論|volume=119|number=2|pages=61-72|year=2004|month=2}}
* {{Cite journal|和書|author=長南政義|title=第三軍参謀たちの旅順攻囲戦~「大庭二郎中佐日記」を中心とした第三軍関係者の史料による旅順攻囲戦の再検討~|journal=[https://ci.nii.ac.jp/ncid/AN10027554 國學院法研論叢]|number=39|publisher=[[國學院大學]]|year=2012}}
* {{Cite book|和書|editor=ゲームジャーナル編集部|editor-link=ゲームジャーナル|title=坂の上の雲5つの疑問|publisher=並木書房|year=2011|isbn=978-4890632848}}
* {{Cite journal|和書|url= http://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/?unique_issue_id=84283 |title=【総力特集】二〇三高地の真実-「旅順要塞」を陥落させた男たち-|journal=月刊 [[歴史街道]]|year=2011|month=11|publisher=[[PHP研究所]]|asin=B005OASI28}}
といった文献が発表されている。また、
* {{Cite book|和書|title=「坂の上の雲」に隠された歴史の真実-明治と昭和の虚像と実像|date=2004-10-20|publisher=[[主婦の友社]]|url= https://www2.shufunotomo.co.jp/webmado/detail/4-07-244050-7 |isbn=4-07-244050-7}}
* {{Cite book|和書|url= http://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336056382/ |title=日露戦争第三軍関係史料集-大庭二郎日記・井上幾太郎日記でみる旅順・奉天戦-|editor=長南政義|year=2014|month=6|publisher=国書刊行会|isbn=978-4-336-05638-2}}
といった書籍も刊行されている。
== 逸話 ==
*ロシア軍の敗因として、[[ビタミンC]]不足が原因の[[壊血病]]による戦意喪失が一因として挙げられている。旅順要塞内の備蓄食料には[[大豆]]などの[[穀物]]類が多く、[[野菜]]類は少なかった。一方、日本陸軍の戦時兵食は[[日本の脚気史#日清戦争での陸軍脚気流行|日清戦争]]と同じく白米飯(精白米6合)であったこともあり、[[日本の脚気史#日露戦争での陸軍脚気惨害|脚気が大流行していた]]。
*「明治三十七、八年日露戦役給養史」によれば、第三軍では8月頃から脚気対策のため麦飯もしくは重焼麺麭(乾パン)の配給が始まっている。しかし慢性的な補給不足に陥っていた日本軍は結局必要量を満たすことはできなかった。
*[[与謝野晶子]]は、旅順包囲軍の中に在る弟籌三郎を嘆く内容の『君死にたまふことなかれ』を1904年9月に『明星』で発表した。しかし実際には弟は[[第4師団 (日本軍)|第4師団]]所属であり、旅順攻囲戦には参加していない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|23em}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2010年12月|section=1}}
{{commons|Category:Siege of Port Arthur}}
;史料
* {{Cite book|和書|author=参謀本部編纂|title=明治37,8年日露戦史|第5巻}}
* {{Cite book|和書|author=参謀本部編纂|title=明治37,8年日露戦史|第6巻}}
* {{Citation|和書| author=時事画報社| year=1904| url =https://dl.ndl.go.jp/pid/1574760/1/10 | title=佐世保海軍病院負傷者収容室| volume=| volume-title=日露戦争時事画報 (5)| publisher= | page=| quote=| ref =harv}}
;書籍
* {{Cite book|和書|author=入江春行|title=与謝野晶子とその時代|publisher=[[新日本出版社]]|year=2003|ref={{Sfnref|入江|2003}} }}
* {{Cite book|和書|author=児島襄|authorlink=児島襄|title=日露戦争 全8巻|series=文春文庫|year=1994|ref={{Sfnref|児島|1994}} }}
* {{Cite book|和書|author=司馬遼太郎|authorlink=司馬遼太郎|title=[[坂の上の雲]] 全8巻|series=[[文春文庫]]|year=1999|ref={{Sfnref|司馬|1999}} }}
* {{Cite book|和書|author=ジョン・エリス|authorlink=ジョン・エリス|title=機関銃の社会史|publisher=[[平凡社]]|year=1993|ref={{Sfnref|エリス|1993}} }}
* {{Cite book|和書|author=谷寿夫|authorlink=谷寿夫|title=機密日露戦史|publisher=[[原書房]]|year=2004|isbn=4562037709|ref={{Sfnref|谷|2004}} }}
* {{Cite book|和書|author=日本博学倶楽部|title=日露戦争・あの人の「その後」|publisher=[[PHP研究所]]|series=PHP文庫|year=2004|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=沼田多稼蔵|authorlink=沼田多稼蔵|title=日露陸戦新史|publisher=芙蓉書房|year=2004|isbn=4829503467|ref={{Sfnref|沼田|2004}} }}
* {{Cite book|和書|author=原剛|authorlink=原剛 (軍事史家)|title=明治期国土防衛史|series=錦正社史学叢書|publisher=[[錦正社]]|year=2002|isbn=978-4-7646-0314-1|url= http://kinseisha.jp/book/0314-2/ |ref={{Sfnref|原|2002}} }}
<!--
* {{Cite book|和書|author=福井雄三|authorlink=福井雄三|title=「坂の上の雲」に隠された歴史の真実-明治と昭和の虚像と実像|year=2007|month=12|publisher=主婦の友社|edition=文庫版|isbn=978-4-07-258856-7|ref={{Sfnref|福井|2007}} }} - ハードカバーは2004年発刊。
-->
* {{Cite book|和書|author=別宮暖朗|authorlink=別宮暖朗|year=2005|title=「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦|publisher=並木書房|isbn=978-4890631698|ref={{Sfnref|別宮|2005}} }}ISBN 978-4890631698
* {{Cite book|author=Piotr Olender|title=Russo-Japanese Naval War 1905, Vol. 1|series=Maritime Series (Book 3101)|publisher=MMPBooks|year=2009|month=10|isbn=978-8389450487|language=en|ref={{Sfnref|Olender|2009}} }}
;雑誌・ムック
* {{Cite book|和書|editor=ゲームジャーナル編集部|editor-link=ゲームジャーナル|title=坂の上の雲5つの疑問|publisher=並木書房|year=2011|isbn=978-4890632848|ref={{Sfnref|『坂の上の雲5つの疑問』|2011}} }}ISBN 4890632840
**{{Cite book|和書|author=長南政義|chapter=第三軍参謀が語る旅順戦|title=坂の上の雲5つの疑問|ref={{Sfnref|長南|2011a}} }}
**{{Cite book|和書|author=長南政義|chapter=児玉源太郎は天才作戦家ではなかった|title=坂の上の雲5つの疑問|ref={{Sfnref|長南|2011b}} }}
**{{Cite book|和書|author=ゲームジャーナル編集部|chapter=乃木第三軍司令部は無能ではなかった|title=坂の上の雲5つの疑問|ref={{Sfnref|GJ編集部|2011}} }}
* {{Cite book|和書|title=歴史群像アーカイブス22 日露戦争|publisher=[[学研パブリッシング]]|year=2011|isbn=978-4056065138|url= http://rekigun.net/magazine/log/archive6.html#22 |ref={{Sfnref|歴史群像A22|2011}} }}
* {{Cite journal|和書|url= http://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/?unique_issue_id=84283 |title=【総力特集】二〇三高地の真実-「旅順要塞」を陥落させた男たち-|journal=月刊 [[歴史街道]]|year=2011|month=11|publisher=[[PHP研究所]]|asin=B005OASI28|ref={{Sfnref|歴史街道|2011-11}} }}
(論文)
* {{Cite journal|和書|author=長南政義|title=第三軍参謀たちの旅順攻囲戦~「大庭二郎中佐日記」を中心とした第三軍関係者の史料による旅順攻囲戦の再検討~|journal=國學院法研論叢|number=39|publisher=國學院大學|year=2012|ref={{Sfnref|長南|2012}} }}
== 関連項目 ==
* [[水師営]]
== 外部リンク ==
* [{{NDLDC|774427}} 日露戦争旅順口要塞戦紀念帖] - [[国立国会図書館]][[近代デジタルライブラリー]]
* [https://www.jacar.go.jp/nichiro/frame1.htm 日露戦争特別展―公文書にみる日露戦争] - [[国立公文書館]] アジア歴史資料センター
* [https://www.jacar.go.jp/nichiro2/index.html 日露戦争特別展II 開戦から日本海海戦まで 激闘500日の記録] - 国立公文書館 アジア歴史資料センター
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:りよしゆんこういせん}}
[[Category:日露戦争の戦闘]]
[[Category:日本の包囲戦]]
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13,193 |
203高地
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座標: 北緯38度49分43.10秒 東経121度11分36.30秒 / 北緯38.8286389度 東経121.1934167度 / 38.8286389; 121.1934167
203高地(にひゃくさんこうち、にいまるさんこうち、ロシア語: Высо́кая Гора́、ヴィソーカヤ・ガラー)は、中国東北部の遼東半島南端に位置する旅順(現在の大連市旅順口区)にある丘陵である。
1904 - 1905年の日露戦争では、ロシア海軍の基地のあった旅順港を巡る日露による争奪戦の激戦地となった。
旧市街地から北西2kmほどのところにある。海抜203メートルであることからこの名が付けられた。
大連市により、文物保護単位に指定されている。
中国海軍の軍事施設に含まれており、外国人の立ち入りは長く禁じられてきたが、1990年頃から水師営と共に観光客に開放されるようになった。
日露戦争において要所となった旅順において、日本陸軍は第3軍を編成し旅順要塞および旅順艦隊を攻撃した。
旅順要塞の西方に位置する203高地は、
・ロシア側では、元々は旅順要塞防衛線の一翼を担うはずだったが、予算削減により防衛線が縮小された際にそこから外れ、前進陣地として運用された。
・日本側は当初は重要視せず、第三軍に用意された地図には前進陣地すら書いていなかった。陸軍は要塞自体の攻略を作戦目的としており、その形は旅順要塞が陥落するまで変わらなかった。陸軍はロシア軍主力との決戦に備え、後方の、しかも物資揚陸地点の大連の目と鼻の先にロシア軍が立て籠もっていることを懸念したからである。封鎖も検討されたが、封鎖するだけでも相当数の部隊を割かねばならず、降伏するまでの長期間、封鎖部隊は他方面に活用できなくなり、ロシア軍と比べて戦力の乏しい日本にその決断はできなかった。そのため大山巌、児玉源太郎らは要塞攻略を第一に考え、後に海軍から旅順艦隊の無力化を要請されても、要塞攻略を第一とする方針は変えなかった。
203高地は港湾部を一望できる観測点としては有意義な地点であったが、要塞攻略にはあまり重要ではなかった。さらに盤龍山保塁や東鶏冠山保塁などの後方にある「望台」の方が標高で勝り、港湾だけでなく要塞全体も一望できたので、第三軍は総攻撃前に最終的にはこの望台を占領すべく東北方面を主攻撃目標とする決断を下し、大山、児玉ら満州軍総司令部もこれを支持していた。これに対して長岡外史参謀次長など一部は、203高地よりもさらに西方の平坦な地域からの主攻撃を主張したが、補給面や部隊展開の不利などの理由から採用されなかった。海軍はこの時点では第三軍の方針に関して意見を述べた事実はなく、実際はこの時点で203高地に注目していた人物は誰もいなかった。
ロシア軍側も、203高地一帯は要塞主防御線から離れており攻撃側からすると移動に時間が掛かるだけでなく、その際は他の防御保塁からはまる見えで迎撃を被るという攻めるに不利な地点であったため、警戒陣地・前進陣地としての運用しか考えていなかった。陣地自体の規模は南山の戦い後より防御強化の工事がなされており、第三軍の包囲完了時点でかなり強固な陣地となっていたという、攻城砲兵司令部参謀の証言がある。
2度にわたる攻撃失敗、さらにバルチック艦隊の出撃の報を受けた海軍は、旅順艦隊殲滅を優先するよう動き出す。そのための観測点として、前進陣地であり規模も大きくなく、簡単に落とせそう(と海軍が判断した)な203高地を攻略して欲しいと進言(秋山真之が進言したともいわれるが定かではない)し、これに当初から要塞西方主攻勢論だった大本営が同調して203高地攻略を支持する。
これに対し大山や児玉、現地軍である第3軍司令官の乃木希典らはすでに大孤山からの観測砲撃や黄海海戦で旅順艦隊は壊滅しており、観測点など必要としない。艦隊を殲滅しても要塞守備隊は降伏せず、降伏しない限り第3軍は北上することはできない。そのためには、要塞正面への攻撃による消耗戦しかない。東北方面にある「望台」の方が、要塞も艦隊も一望でき、重要性が高いと判断し、海軍や大本営の203高地攻撃要請を却下し続けた。
しかし御前会議を開いてまで決定した「203高地を攻略する」という決定と、大本営からの圧力(本来、第3軍は満州軍の所属で、大本営の直接指揮下にない)に第3軍が屈し1904年11月28日に203高地攻撃を開始する。一度は奪取に成功するもロシア軍が反攻して奪還され、一進一退の激戦となる。
結局12月5日に203高地は陥落する。観測点を設置し港湾への砲撃を開始したが、ほとんどの艦艇は黄海海戦での損傷が直っていなかったことや、要塞防衛戦に搭載火砲や乗員を出していたので戦力としては無力化しており、自沈であったことが戦後の調査で判明している。第三軍も203高地を攻略するとすぐに配置を元に戻して東北方面の攻撃を再開し、ロシア軍も旅順艦隊が自沈しても抵抗を続けた。結果的に要塞の予備兵力が消耗枯渇したロシア軍は、続く要塞正面での攻防で有効な迎撃ができず、それでも1か月ほど頑強に抵抗した。だが正面防御線の東鶏冠山保塁、二龍山保塁などが相次いで陥落、翌1905年1月1日に要塞は降伏した。
本争奪戦は、多くの戦死者を出した。第7師団(旭川)は、15,000人ほどの兵力が5日間で約3,000人にまで減少した。ロシア側の被害も大きく、ありとあらゆる予備兵や臨時に海軍から陸軍へ移された水兵までもが、この高地で命を落とした。第3次総攻撃では乃木希典の次男・保典も戦死し、乃木は自作の漢詩で203高地を二〇三(に・れい・さん)の当て字で爾霊山(にれいさん、汝の霊をまつる山)と詠んだ。
現在「203高地」を含む地帯は旅順国家級森林公園になっていて、麓に2006年桜花園が開園して(50万平方メートル余り)、日本から贈られた桜が18種類、3,700株余り植えられていて、4月下旬に満開になる。
日露戦争後に日本で流行した、前髪を張り出し、頭頂部に束ねた髪を高くまとめるような女性の髪型を「二百三高地髷(にひゃくさんこうちまげ)」という。当時普及し始めていた洋装に合う髪型として生み出された。
乃木希典が203高地での戦いについて書いた「爾霊山」がよく知られている。
1980年、日露戦争の旅順攻囲戦における203高地での日露両軍の攻防戦を描いた『二百三高地(にひゃくさんこうち)』という東映製作の日本映画が公開された。1981年にはテレビドラマ化もされている。
湘南遊歩道路(現・国道134号)開通時(1935年1月1日)、神奈川県鎌倉郡片瀬町(現・藤沢市片瀬海岸一丁目)の現在の江ノ電駐車場の所に建てられた乃木の銅像の傍らに横須賀鎮守府が寄贈したもの。戦後、銅像が取り壊されたときに江の島島内の児玉神社境内に移設された。
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"text": "ロシア軍側も、203高地一帯は要塞主防御線から離れており攻撃側からすると移動に時間が掛かるだけでなく、その際は他の防御保塁からはまる見えで迎撃を被るという攻めるに不利な地点であったため、警戒陣地・前進陣地としての運用しか考えていなかった。陣地自体の規模は南山の戦い後より防御強化の工事がなされており、第三軍の包囲完了時点でかなり強固な陣地となっていたという、攻城砲兵司令部参謀の証言がある。",
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"text": "湘南遊歩道路(現・国道134号)開通時(1935年1月1日)、神奈川県鎌倉郡片瀬町(現・藤沢市片瀬海岸一丁目)の現在の江ノ電駐車場の所に建てられた乃木の銅像の傍らに横須賀鎮守府が寄贈したもの。戦後、銅像が取り壊されたときに江の島島内の児玉神社境内に移設された。",
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203高地は、中国東北部の遼東半島南端に位置する旅順(現在の大連市旅順口区)にある丘陵である。 1904 - 1905年の日露戦争では、ロシア海軍の基地のあった旅順港を巡る日露による争奪戦の激戦地となった。
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{{出典の明記|date=2011年6月}}
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{{Otheruses|地形|映画、テレビドラマ|二百三高地}}
{{Infobox 山
|名称 = 203高地
|画像 = [[ファイル:203 Meter Hill.jpg|250px]]
|画像キャプション = [[海軍軍令部]]『明治三十七八年海戦史』([[1909年]])より
|標高 = 203
|座標 =
|所在地 = {{CHN}} [[遼寧省]][[大連市]]
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|地図 =
}}'''203高地'''(にひゃくさんこうち、にいまるさんこうち、{{lang-ru|Высо́кая Гора́}}、'''ヴィソーカヤ・ガラー''')は、[[中国東北部]]の[[遼東半島]]南端に位置する[[旅順]](現在の[[大連市]][[旅順口区]])にある[[丘陵]]である。
[[1904年|1904]] - [[1905年]]の[[日露戦争]]では、[[ロシア海軍#ロシア帝国海軍|ロシア海軍]]の基地のあった[[旅順攻囲戦|旅順港を巡る日露による争奪戦]]の激戦地となった。
== 地理 ==
[[ファイル:203high.JPG|thumb|203高地の忠魂碑。当時日本軍が使用していた[[三十年式実包]]をかたどっている。[[文化大革命]]で先尖部分が破壊されたが、のちに復元された。]]
[[ファイル:PortArthur2006.jpg|thumb|203高地から見た[[旅順港]]。直線距離で4km]]
[[ファイル:-Port Arthur viewed from the Top of the 203 Meter Hill.jpg|thumb|頂上から見た包囲中の旅順港]]
[[ファイル:203 stele.jpg|thumb|203高地の石碑]]旧市街地から北西2kmほどのところにある。[[海抜]]203[[メートル]]であることからこの名が付けられた。
== 現状 ==
大連市により、[[中華人民共和国全国重点文物保護単位|文物保護単位]]に指定されている。
[[中国人民解放軍|中国海軍]]の[[軍事施設]]に含まれており、[[外国人]]の立ち入りは長く禁じられてきたが、[[1990年]]頃から[[水師営]]と共に[[観光]]客に開放されるようになった。
== 日露戦争 ==
{{main|旅順攻囲戦}}日露戦争において要所となった旅順において、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]は[[第3軍 (日本軍)|第3軍]]を編成し[[旅順要塞]]および[[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|旅順艦隊]]を攻撃した。
旅順要塞の西方に位置する203高地は、
・ロシア側では、元々は旅順要塞防衛線の一翼を担うはずだったが、予算削減により防衛線が縮小された際にそこから外れ、前進陣地として運用された。
・日本側は当初は重要視せず、第三軍に用意された地図には前進陣地すら書いていなかった。陸軍は要塞自体の攻略を作戦目的としており、その形は旅順要塞が陥落するまで変わらなかった。陸軍はロシア軍主力との決戦に備え、後方の、しかも物資揚陸地点の大連の目と鼻の先にロシア軍が立て籠もっていることを懸念したからである。封鎖も検討されたが、封鎖するだけでも相当数の部隊を割かねばならず、降伏するまでの長期間、封鎖部隊は他方面に活用できなくなり、ロシア軍と比べて戦力の乏しい日本にその決断はできなかった。そのため[[大山巌]]、[[児玉源太郎]]らは要塞攻略を第一に考え、後に海軍から旅順艦隊の無力化を要請されても、要塞攻略を第一とする方針は変えなかった。
203高地は港湾部を一望できる観測点としては有意義な地点であったが、要塞攻略にはあまり重要ではなかった。さらに盤龍山保塁や東鶏冠山保塁などの後方にある「望台」の方が標高で勝り、港湾だけでなく要塞全体も一望できたので、第三軍は総攻撃前に最終的にはこの望台を占領すべく東北方面を主攻撃目標とする決断を下し、大山、児玉ら満州軍総司令部もこれを支持していた。これに対して[[長岡外史]]参謀次長など一部は、203高地よりもさらに西方の平坦な地域からの主攻撃を主張したが、補給面や部隊展開の不利などの理由から採用されなかった。海軍はこの時点では第三軍の方針に関して意見を述べた事実はなく、実際はこの時点で203高地に注目していた人物は誰もいなかった。
ロシア軍側も、203高地一帯は要塞主防御線から離れており攻撃側からすると移動に時間が掛かるだけでなく、その際は他の防御保塁からはまる見えで迎撃を被るという攻めるに不利な地点であったため、警戒陣地・前進陣地としての運用しか考えていなかった。陣地自体の規模は[[南山の戦い]]後より防御強化の工事がなされており、第三軍の包囲完了時点でかなり強固な陣地となっていたという、攻城砲兵司令部参謀の証言がある。
2度にわたる攻撃失敗、さらに[[バルチック艦隊]]の出撃の報を受けた海軍は、旅順艦隊殲滅を優先するよう動き出す。そのための観測点として、前進陣地であり規模も大きくなく、簡単に落とせそう(と海軍が判断した)な203高地を攻略して欲しいと進言([[秋山真之]]が進言したともいわれるが定かではない)し、これに当初から要塞西方主攻勢論だった[[大本営]]が同調して203高地攻略を支持する。
これに対し大山や児玉、現地軍である第3軍司令官の[[乃木希典]]らはすでに大孤山からの観測砲撃や[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]で旅順艦隊は壊滅しており、観測点など必要としない。艦隊を殲滅しても要塞守備隊は降伏せず、降伏しない限り第3軍は北上することはできない。そのためには、要塞正面への攻撃による消耗戦しかない<ref>[[戦車]]や[[航空機]]のない当時としては、[[第二次世界大戦]]での電撃戦のような早期突破はできない以上、[[塹壕]]に籠り鉄条網と機関銃で守っている敵要塞を落とすには消耗戦しかなかった</ref>。東北方面にある「望台」の方が、要塞も艦隊も一望でき、重要性が高いと判断し、海軍や大本営の203高地攻撃要請を却下し続けた。
しかし御前会議を開いてまで決定した「203高地を攻略する」という決定と、大本営からの圧力(本来、第3軍は[[満州軍 (日本軍)|満州軍]]の所属で、大本営の直接指揮下にない)に第3軍が屈し[[1904年]][[11月28日]]に203高地攻撃を開始する。一度は奪取に成功するもロシア軍が反攻して奪還され、一進一退の激戦となる。
結局[[12月5日]]に203高地は陥落する<ref> {{Archive.today|url=https://www.mod.go.jp/msdf/navcol/SSG/topics-column/col-027.html |title= 帝国海軍と鎮海 海上自衛隊幹部学校|date= 20120805004730}}</ref>。観測点を設置し港湾への砲撃を開始したが、ほとんどの艦艇は黄海海戦での損傷が直っていなかったことや、要塞防衛戦に搭載火砲や乗員を出していたので戦力としては無力化しており、自沈であったことが戦後の調査で判明している。第三軍も203高地を攻略するとすぐに配置を元に戻して東北方面の攻撃を再開し、ロシア軍も旅順艦隊が自沈しても抵抗を続けた。結果的に要塞の予備兵力が消耗枯渇したロシア軍は、続く要塞正面での攻防で有効な迎撃ができず、それでも1か月ほど頑強に抵抗した。だが正面防御線の[[東鶏冠山北堡塁|東鶏冠山保塁]]、[[二龍山保塁]]などが相次いで陥落、翌[[1905年]][[1月1日]]に要塞は降伏した<ref>小説『[[坂の上の雲]]』([[司馬遼太郎]])では[[児玉源太郎]]が203高地を主目標に変更させたと記されたが、直接の資料は存在せず、実際目標を変更させたのは乃木である。</ref>。
本争奪戦は、多くの[[戦死]]者を出した。[[第7師団 (日本軍)|第7師団]](旭川)は、15,000人ほどの兵力が5日間で約3,000人にまで減少した。ロシア側の被害も大きく、ありとあらゆる予備兵や臨時に[[海軍]]から[[陸軍]]へ移された水兵までもが、この高地で命を落とした。第3次総攻撃では乃木希典の次男・保典も戦死し、乃木は自作の漢詩で203高地を二〇三(に・れい・さん)の[[当て字]]で'''爾霊山'''(にれいさん、汝の霊をまつる山<ref>[https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2001/00398/contents/00015.htm 日本財団図書館(電子図書館) 月刊「吟剣詩舞」2001年6月号]</ref>)と詠んだ。
==桜花園==
現在「203高地」を含む地帯は旅順国家級[[森林公園]]になっていて、麓に2006年桜花園が開園して(50万平方メートル余り)、日本から贈られた桜が18種類、3,700株余り植えられていて、4月下旬に満開になる<ref>[https://4travel.jp/os_shisetsu_tips/13085866 203高地の麓は、今は二〇三桜花園というお花見スポット(4travel.jp)]</ref>。
<gallery>
File:203 Hill, Lushunkou District.jpg|最近の203高地(2022年)
File:203 Hill - Cherry Blossoms 2.jpg|人出でにぎわう203高地桜花園
File:203 Hill - Cherry Blossoms with Stele.jpg|203高地桜花園は「日中児童の友好交流後援会」で始まった<ref>[http://www.chinavi.jp/kkoramu275.html これからの日中友好交流のために;小学生の文通(Chinavi、2015年)]</ref>
File:203 Hill - Cherry Blossoms - Fugenzo.jpg|桜花園には[[フゲンゾウ|普賢象桜]]も
File:203 Hill - Cherry Blossoms 1.jpg|203高地の桜花園で
</gallery>
== 203高地にまつわる文化 ==
=== 二百三高地髷 ===
日露戦争後に日本で流行した、前髪を張り出し、頭頂部に束ねた髪を高くまとめるような女性の髪型を「二百三高地髷(にひゃくさんこうちまげ)」という。当時普及し始めていた洋装に合う髪型として生み出された。
===漢詩「爾霊山」===
[[乃木希典]]が203高地での戦いについて書いた「[[乃木希典#乃木が詠んだ漢詩|爾霊山]]」がよく知られている。
=== 映画『二百三高地』 ===
[[1980年]]、日露戦争の[[旅順攻囲戦]]における203高地での日露両軍の攻防戦を描いた『[[二百三高地]](にひゃくさんこうち)』という[[東映]]製作の日本映画が公開された。[[1981年]]には[[二百三高地#テレビドラマ|テレビドラマ]]化もされている。
=== 爾霊山高地の石塊・棗萩松碑 ===
[[神奈川県道片瀬大磯線|湘南遊歩道路]](現・[[国道134号]])開通時([[1935年]]1月1日)、[[神奈川県]][[鎌倉郡]][[片瀬町]](現・[[藤沢市]][[片瀬海岸]]一丁目)の現在の[[江ノ島電鉄|江ノ電]]駐車場の所に建てられた乃木の銅像の傍らに[[横須賀鎮守府]]が寄贈したもの。戦後、銅像が取り壊されたときに[[江の島]]島内の[[児玉神社 (藤沢市)|児玉神社]]境内に移設された。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[旅順攻囲戦]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|203 Hill}}
* [https://www.jacar.go.jp/nichiro/frame1.htm 日露戦争特別展―公文書に見る日露戦争]([[国立公文書館]]アジア歴史資料センター)
* [https://www.jacar.go.jp/nichiro2/index.html 日露戦争特別展II 開戦から日本海海戦まで 激闘500日の記録](国立公文書館 アジア歴史資料センター)
{{DEFAULTSORT:にひやくさんこうち}}
[[Category:中国の地形]]
[[Category:旅順口区]]
[[Category:大連の歴史]]
[[Category:日露戦争の戦闘]]
[[Category:大連の地形]]
[[Category:乃木希典]]
[[Category:桜に関する場所]]
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2023-05-15T23:42:48Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/203%E9%AB%98%E5%9C%B0
|
13,204 |
ウズベキスタン
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ウズベキスタン共和国(ウズベキスタンきょうわこく、ウズベク語: Oʻzbekiston Respublikasi)、通称ウズベキスタンは、中央アジアに位置する共和制国家。中央アジアの二重内陸国であり、北はカザフスタン、北東はキルギス、南東はタジキスタン、南はアフガニスタン、南西はトルクメニスタンが存在する。首都はタシュケントで、最大の都市でもある。
ウズベキスタンはテュルク語圏の一部であり、テュルク評議会、テュルク文化国際機関、テュルク語圏諸国議会(英語版)のメンバーでもある。国連、WTO、CIS、上海協力機構(SCO)、ユーラシア経済連合、CSTO、OSCE、イスラム協力機構などの国際機関に加盟している。
同国は様々な民族によって構成されている多民族国家で、6つの独立したトルコ系国家の一つに数え上げられる。世俗的な国家であり、大統領制の立憲政治が敷かれている。
国内の主要民族はウズベク人で、総人口の約83%を占める。主な少数民族としては、ロシア人(2%)、タジク人(4~30%)、カザフ人(3%)、タタール人(1.5%)、カラカルパク人(2%)などがいる。ロシア人やその他の少数民族が他国へと移住し、ソビエト連邦時代に他国に居住していたウズベク人がソ連崩壊に伴う独立回復後にウズベキスタンへ帰国していることから、同国内に住むウズベク人以外の民族の割合は減少傾向にあるとされている。
ウズベキスタンは12の地域(ヴィラヤット)、タシュケント市、1つの自治共和国カラカルパクスタンで構成されている。また、NIS諸国の一つにも数えられている。
国内ではウズベク語が主に話されているが、ロシア語も共通語として使われている。宗教はイスラム教が主流であり、ウズベク人の多くはイスラム教スンナ派である。
非政府の人権団体はウズベキスタンを「市民権を制限した権威主義国家」と定義しているが、独裁者イスラム・カリモフの死後、シャフカト・ミルジヨエフ政権下で大きな改革が行われている。この改革により、隣国のキルギス、タジキスタン、アフガニスタンとの関係は劇的に改善された。2020年の国連報告書では、国連の持続可能な開発目標の達成に向けて多くの進展が見られる。
ウズベク経済は市場経済への移行が徐々に進んでおり、対外貿易政策も輸入代替を基本としている。2017年9月、同国通貨は市場レートで完全に兌換可能となった。ウズベキスタンは、綿花の主要な生産国であり、輸出国でもある。ソ連時代からの巨大な発電施設と豊富な天然ガスの供給により、ウズベキスタンは中央アジア最大の電力生産国となっている。2018年から2021年にかけて、共和国はスタンダード・アンド・プアーズ(S&P)およびフィッチからBB-の格付けを受けた。ブルッキングス研究所が示す強みとしては、ウズベキスタンに大きな流動資産、高い経済成長、低い公的債務があることである。
現在のウズベキスタンへの最初の移住者はスキタイ人と呼ばれる東イランの遊牧民で、フワラズム(紀元前8〜6世紀)、バクトリア(紀元前8〜6世紀)、ソグディアナ(紀元前8〜6世紀)、フェルガナ(紀元前3世紀〜紀元前6世紀)、マルギアナ(紀元前3世紀〜紀元前6世紀)に王国を建設したと記録されている。この地域はイランのアケメネス朝帝国に組み込まれ、マケドニアの支配を経て、イランのパルティア帝国、後にサーサーン朝帝国に支配され、7世紀にイスラム教徒がペルシアを征服するまで続いた。初期イスラム教の征服とその後のサマニード帝国の支配により、現地の支配階級を含むほとんどの人々がイスラム教の信奉者に改宗した。この時代、サマルカンド、ヒヴァ、ブハラなどの都市は、シルクロードによって豊かになり始め、ムハンマド・アル・ブハーリー、アル・ティルミーディ、アル・クワリズミー、アル・ビルニ、アヴィセンナ、ウマル・ハイヤームなど、イスラーム黄金時代を代表する人物が出現した。
13世紀、モンゴル帝国の侵攻により、クワラズミー王朝と中央アジア全体が壊滅し、その後、この地域はトルコ系民族の支配を受けるようになった。14世紀、ティムール帝国を樹立したティムール(タメルラン)は、サマルカンドを首都とするトゥラン最高首長となり、ウルグ・ベグの支配下で科学の中心となり、ティムール・ルネサンスを生んだ。
16世紀、ティムール朝の領域はウズベク・シャイバーニー朝に征服され、権力の中心はブハラに移った。この地域は、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国、ブハラ・ハン国の3つの国に分かれた。バーブル帝による東方への征服は、ムガル帝国としてインドの新たな侵略の基礎となった。
19世紀には中央アジア全域が徐々にロシア帝国に組み込まれ、タシュケントがロシア・トルキスタンの政治的中心地となった。1924年、国家分割により、ソビエト連邦内の独立共和国としてウズベク・ソビエト社会主義共和国が誕生した。ソビエト連邦の崩壊後、1991年8月31日に「ウズベキスタン共和国」として独立を宣言した。
一方、1991年にウズベキスタンが独立した際、イスラム原理主義に対する懸念が中央アジア地域に広まった。これは、支配的な宗教であったイスラム教信者(ムスリム)が急激に増加するであろうという予想に基づくものであったが、1994年時点では、ウズベキスタンの人口の半数以上が「自分はムスリムである」と答えている一方で、信仰における知識やその実践方法に関してはこれを持ち合わせている割合が極めて低かった。その後はイスラム教信者の割合の上昇が見られるようになったが、世俗化しており、戒律などは緩い。
正式名称はウズベク語で、Oʻzbekiston Respublikasi / Ўзбекистон Республикаси(ウズベキスタン・レスプブリカシ)。通称は、Oʻzbekiston / Ўзбекистон。
公式のロシア語表記はРеспублика Узбекистан。通称、Узбекистан。また英語表記は、Republic of Uzbekistan。通称、Uzbekistan。国民・形容詞ともUzbekistani。
日本語の表記は、ウズベキスタン共和国。通称、ウズベキスタン。
国名は、ウズベク人の自称民族名 Oʻzbek(ウズベク)と、ペルシア語で「~の国」を意味する -stan (スタン)の合成語である。ウズベクは、テュルク語で「自身が主君」を意味し、ジョチ・ウルスのウズベク・ハン(オズベク・ハン)の名に由来するといわれる。
ウズベキスタンの国土の中央部は、古代よりオアシス都市が栄え、東西交易路シルクロードの中継地ともなってきたトランスオクシアナ地域の大部分を占める。この地域は古代にイラン系のソグド人が活躍したが、8世紀にアラブ人によって征服され、宗教的にはイスラム化した。10世紀にはテュルク系民族(カラカルパク人など)が進出し、言語的にテュルク語化が進む。
13世紀にはモンゴル帝国に征服され、このとき多くの都市が甚大な被害を受けるがすぐに復興を果たした。14世紀にはこの地から興ったティムール朝が中央アジアから西アジアに至る広大な地域を征服して大国家に発展した。
ティムール朝の衰亡後、北からウズベク人が侵入し、ウズベク3ハン国と呼ばれるブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国を立てる。
これらは19世紀に北からのロシア帝国に征服され、ロシア革命後はソビエト連邦下の共和国となり、その後はソビエト共産党政府の統治下に入り、ウズベク・ソビエト社会主義共和国となった。1966年4月、タシュケントを震源として市内では大地震が起こり、市内の建物のおよそ2/3が倒壊するという惨事となった。
1991年のソ連崩壊によってウズベク・ソビエト社会主義共和国はウズベキスタン共和国として独立し、同時に独立国家共同体(CIS)に加盟した。独立後はイスラム・カリモフ大統領が権力を集約し、ほぼ独裁政権となって統治してきた。
2005年5月13日に東部アンディジャンで発生した反政府暴動鎮圧事件で市民に多数の死者が出たとの情報があり、ヨーロッパ諸国や国際連合などから「人権侵害」との非難が挙がっている。また、これまで対テロ戦争で協力関係にあったアメリカ合衆国も態度を変化させ民主化要求を行い始めた。
一方、カリモフ大統領はイスラム過激派による武力蜂起だとして欧米側による報道を批判し、国際調査団を受け入れる考えのないことを表明した。また、2001年のアフガン侵攻以来、アメリカ軍の駐留を受け入れてきたが、2005年にこれを解消し、アメリカ軍は撤収することとなった。なお現在も、「反テロ作戦の一環」としてドイツ軍がテルメズ飛行場に駐留を続けている。現在は上海協力機構と関係を深めている。
2016年9月2日にカリモフ大統領が死去したことで、25年にわたる長期政権は終焉を迎えた。その後、カリモフの後継者であるシャフカト・ミルジヨエフが大統領代行を務め、12月に行われた大統領選挙でも勝利したことで第2代大統領に就任。経済活動やメディアの規制緩和を進め、2021年の再選後の就任演説(11月6日)では「民主的改革」を掲げた。
国家元首である大統領は、ウズベク・ソビエト社会主義共和国大統領であったイスラム・カリモフが独立以来2016年に死去するまでその職にあった。首相と副首相は大統領が任命する。大統領官邸はオクサロイ宮殿(白い館)。
議会はアリー・マジュリス (Oliy Majlis) と呼ばれ、一院制で任期5年、250議席。アリー・マジュリスの初の選挙は1994年の第16回最高会議にて承認された決議のもとで開催された。同年、最高会議はアリー・マジュリスとその名称を変更した。ウズベキスタンはこれまで3回の大統領選挙を行なっているものの、2016年に死去するまでは全てイスラム・カリモフが選出されてきた。
議会は定員150名の下院(日本の衆議院に相当)と定員100名の上院(日本の参議院に相当)に分かれており、それぞれ任期は5年である。第3回の選挙は2009年12月27日に、第2回選挙は2004年12月から2005年にかけて行われたアリー・マジュリスは2004年まで1院制であったが、2002年の国民投票の結果、次期選挙から二院制に移行することとなった。議会に参加する議員数は1994年は69名であったが、2004~05年に120名へと増加、現在は下院の議員数は150名にまで増加している。
現在、旧ウズベキスタン共産党から改組されたウズベキスタン人民民主党を中心とする諸政党がイスラム・カリモフ前大統領の支持勢力として議会を支配してきた。カリモフ前大統領はウズベキスタンの独立後、自己献身・国民民主党に所属していたが、2007年にウズベキスタン自由民主党に党籍を移した。いずれの政党も、カリモフ政権を支えてきた政党である。
行政府は絶大な権力を握っており、立法府は法案成立の際に多少影響力を持つにすぎない。2002年1月に行われた国民投票の結果、大統領の任期は5年から7年に延ばされた。
国民投票の結果を受けて法案が成立し、イスラム・カリモフの任期は2007年12月まで任期が延長された。ほとんどの国際監視員は選挙の過程と結果に関して正当なものであると認めていない。2002年の国民投票には下院 (Oliy Majlis) と上院 (Senate) の2院制への移行計画に関する投票が含まれていた。下院の議員は「専業」の国会議員である。新たな2院制への移行に関する国民投票は12月26日に開催された。
欧州安全保障協力機構(OSCE)は制限された監視行動の中で、ウズベキスタン国内の選挙はOSCEやその他の民主主義選挙に関する国際基準を全く満たしていないという評価を下している。複数の政治政党が政府の承認を経て設立されたものとなっている。同様に、ラジオ・テレビ・新聞など様々なメディアが設立されているものの、これらのメディアは依然として政府のコントロール下にある、もしくはめったに政治的な話題を扱わないメディアとなっている。独立した政治政党の設立や党員募集、党大会や記者会見の開催は禁止されていないものの、登録手続きには制限が課されているため登録を拒否されている。
2016年にカリモフが死去した後も、その後継のシャフカト・ミルジヨエフ大統領がカリモフの支持基盤と手法を受け継いでいるが、日本を含む一部の国々からの観光目的での入国のビザを免除したり、関係の悪かった隣国タジキスタンとの関係改善を図るなど改革も見られる。
全方位的外交を展開し、ロシアなど旧ソ連諸国が参加するCIS諸国、中華人民共和国などアジア諸国、欧米などとも友好関係を持っている。
日本との間も官民両面で友好関係を保っており、両国に大使館を持っている。ただし、第二次世界大戦後、ソ連対日参戦に伴うシベリア抑留を受けた日本人捕虜は首都タシュケントにも回され、中央アジア最大のバレエ・オペラ劇場たるナヴォイ劇場の工事などに従事したという過去もある。なお、この劇場は1966年のタシュケント地震の際にも全くの無傷という見事な仕事ぶりであった。
ウズベキスタンは1991年12月にCISに参加した。しかし、1999年にCIS集団安全保障体制から脱退した。これ以降、ウズベキスタンは自国の安定に影響を及ぼすタジキスタンとアフガニスタン両国の紛争の解決の手助けをするためタジキスタンのCIS平和維持軍や国連により組織された平和維持軍に参加している。
かつてはアメリカ合衆国とウズベキスタンの関係は良好であった。2004年にはアメリカ合衆国はウズベキスタンに軍事費の約4分の1に当たる5億USドルを援助、ウズベキスタン政府はアメリカ合衆国軍によるアフガニスタンへの空軍軍事作戦に際しカルシ・ハナバード空軍基地の使用を許可していた。ウズベキスタンはアメリカ合衆国の掲げる世界規模の対テロ戦争の積極的な支持者であり、アフガニスタンとイラクの両地域において支援作戦を展開していた。
ウズベキスタンとアメリカ合衆国両国の関係はジョージアやウクライナで2000年代半ばに起きた「色の革命」(後にキルギスへも影響が拡大した)の後、悪化が進んだ。アメリカ合衆国がアンディジャンの流血事件に対して独立した国際調査団参加に名乗りを上げると、両国の関係は極めて悪化、大統領のイスラム・カリモフは外交路線を転換し、人権侵害への非難を支持しなかったロシアや中国に接近する姿勢を見せるようになった。
2005年7月後半、ウズベキスタン政府はアメリカ合衆国にアフガニスタン国境に近いカルシ・ハナバード空軍基地から180日以内に撤退するよう通告した。カリモフは9.11後の短期間、アメリカ合衆国に空軍基地使用を申し出ていた。ウズベキスタン人の中には、アンディジャン事件に対する抗議による、アンディジャン地区におけるアメリカ合衆国やイギリスの影響力増加への懸念が撤退命令につながったと考える者もいる。これもまたウズベキスタンと西洋諸国が対立した理由の一つに挙げられている。
ウズベキスタン南端のテルメズは、アムダリヤ川に架けられた「友好の橋」でアフガニスタンと結ばれている。ウズベキスタンはかつてイスラム過激派を支援しているとしてアフガニスタンのタリバーンと対立してきたが、ミルズィヤエフ政権は現実主義路線から対話へ転じ、2021年のタリバーンによる政権奪取後も貿易や電力供給など関係を維持している。
ウズベキスタンは1992年3月2日より国際連合に加盟しているほか、欧州・大西洋パートナーシップ理事会(EAPC)、平和のためのパートナーシップ(PfP)、欧州安全保障協力機構(OSCE)のメンバーでもある。また、イスラム協力機構(OIC)や経済協力機構(ECO、中央アジアの5カ国とアゼルバイジャン、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンで構成)にも所属している。1999年、ウズベキスタンはGUAM (ジョージア、ウクライナ、アゼルバイジャン、モルドバ)のオブザーバーとなり、1997年に加盟してGUUAMとなったが、2005年に脱退している。
ウズベキスタンは中露の主導する上海協力機構(SCO)のメンバーでもあり、タシュケントでSCO地方反テロ構造(RATS)を開催している。ウズベキスタンは2002年に設立されたユーラシア経済共同体(EAEC)に加盟している。EAECはウズベキスタン、タジキスタン、カザフスタン、キルギス、ロシア、ベラルーシから構成されている。CACOはキルギスとカザフスタンにより設立された中央アジア連合が発展改称する形で設立された組織であり、ウズベキスタンはEAECの創立メンバーとして加盟している。
2006年9月、UNESCOはイスラム・カリモフをウズベキスタンの豊かな文化や伝統を保存した功績により表彰した。批判はあるが、ウズベキスタンと西洋諸国の間の関係を発展させた一つの証として捉えられている。
2006年10月にはもう一つウズベキスタンが西洋諸国からの孤立から脱する出来事があった。欧州連合(EU)は人権や自由に関して対話を行うため、長きに渡り対立していたウズベキスタンに対して使節団を送る計画があると発表した。アンディジャン事件に関する政府の公式発表と非公式の数字どちらが正しいのかという点に関しては曖昧であったものの、EUは明らかにウズベキスタンに対する経済制裁を弱める意志を見せた。しかし、ウズベキスタンの人々の間では、ウズベキスタン政府はロシア連邦と密接な関係を維持しようとしており、2004年から2005年にかけてのウズベキスタンでの抗議はアメリカ合衆国やイギリスにより引き起こされたものであると一般的に考えられている。
ウズベキスタン軍は約65,000人の兵士を擁し、中央アジア最大規模の軍隊を持つ。軍事機構はその大部分をソビエト連邦軍トルキスタン軍管区部隊から受け継いでいるが、主に軽歩兵部隊や特殊部隊において改革を実行中である。ウズベキスタン軍の装備は現代的なものであるとはいえず、訓練の練度が統一されているとはいえず、領土の保全ミッションなどの作業に適しているとはいえない。
政府は旧ソ連の軍備管理義務を継承し、非核保有国として核拡散防止条約に加盟、ウズベキスタン西部のヌクスとヴォズロジデニヤ島において、アメリカ国防脅威削減局(DTRA)による行動プログラムをサポートしている。ウズベキスタン政府はGDPの約3.7%を軍事費に当てているが、1998年以降はアメリカ合衆国の対外軍事融資(英語版)(FMF)その他の安全保障支援基金から融資を受けている。
2001年9月11日にニューヨークで起きたアメリカ同時多発テロ事件に続いて、ウズベキスタンはアメリカ中央軍がウズベキスタン南部にあるカルシ・ハナバード空軍基地への駐留を承認した。しかし、2005年のアンディジャン事件後、アメリカ合衆国が事件に対するウズベキスタン政府の対応を非難すると政府は態度を硬化させ、アメリカ合衆国軍にカルシ・ハナバード空軍基地から撤退するよう要求、2005年11月にアメリカ合衆国軍はウズベキスタン国内から撤退した。
2006年6月23日、ウズベキスタンは集団安全保障条約(CSTO)の正式なメンバーとなったが、 2012年6月にはCSTOから脱退している。
ウズベキスタンは中央アジアに位置しており、全国土面積は447,400kmである。この国土面積は世界55位であり、人口は世界第40位である。CIS諸国中では総面積は第5位、人口は第3位となっている。主要都市としては、首都のタシュケントのほか、アンディジャン、ブハラ、サマルカンド、ナマンガン、ヒヴァなどがある。
同国は北緯37度から46度、東経56度から74度の地域に存在しており、国境の全長が6,221kmとなっている。東西の距離は1,425km、南北の距離は930kmである。北および北西地域はカザフスタンとの国境とアラル海に、南西部分はトルクメニスタンとの国境に、南東部分はタジキスタンとの国境に、北東部分はキルギスとの国境に接している。ウズベキスタンは旧ソ連領中央アジア5カ国で有数の面積を持つ国家であり、他の4国全てと国境を接する唯一の国家でもある。このほか、ウズベキスタンは南部150kmにわたりアフガニスタンと国境を接している。
ウズベキスタンは乾燥した内陸国である。同国は世界に2つしか無い二重内陸国(もう一つはリヒテンシュタイン)であり、海へと出るためには国を2つ越える必要がある。加えて、海と繋がる河川がない「内陸流域」という特殊な環境にある。このため国土の10%にも満たない灌漑農業用地や河川流域のオアシスに似た土地で集中的に農業が行われている。残りの国土は広大な砂漠(キジルクム砂漠)と険しい山々で占められる。
ウズベキスタンの最高点はスルハンダリヤ州とタジキスタンとの境界付近、ギッサール山脈にあるハズレット・スルタン山であり、標高は4643mである。タジキスタンの首都ドゥシャンベの北西部に存在するこの山はかつては第22回共産党大会峰と呼ばれていた。
ウズベキスタン共和国内の気候はその大部分が大陸性気候であり、平均降水量は年間100~200mmと非常に少ない。特に西部は雨が少なく、砂漠が広がっている。
このため人口密度は山岳地帯の東部の方が高く、土地の平坦な西部は低い。
夏はかなり暑く、気温はしばしば40度(104°F)を超える。冬の平均気温は約-2度(28°F)だが、-40度(-40°F)まで下がる場合がある。
タシュケントの7月の平均最高気温は35.7度、1月の平均最低気温は-1.5度である。
かつてアラル海は世界で4番目に大きい湖で、周辺地域の湿度を保ち乾燥した土地で農業が行える大きな要素となっていた。1960年代以降の10年間でアラル海の水の過剰利用が行われ、アラル海は元の50%にまで面積が縮小、水量も3分の1にまで低下した。信頼出来る調査結果もしくは概算データは各国公的機関や組織においてまだ十分に発表されておらず、情報の収集も進んでいない。現在も水の大部分は綿花や栽培に大量の水分が必要とされる作物栽培の灌漑用水として使用され続けている。
アラル海の縮小は、ソ連時代の農業政策により、綿花の過剰な生産が行われたことが原因の一つとして挙げられている。農業分野は国内で深刻化している水質汚濁や土壌汚染の加害者であり被害者でもある。
この環境破壊の危機の責任の所在は明らかであり、1960年代に自然改造計画によって国内の河川に大量にダムを建設し、アラル海へ流入する水量の減少と河川の水の濫用を推し進めた旧ソ連の科学者や政治家、そしてソビエト連邦崩壊後、ダムや灌漑システムの維持に十分な対策をせず、環境問題対策に十分な費用をかけてこなかったウズベキスタンの政治家にある。
アラル海の問題のため、特にアラル海に近いウズベキスタン西部にあるカラカルパクスタン地域では土壌に高い塩分濃度が検出されている上、重金属による土壌汚染が広がっている。また、国内の他の地域においても水資源のほとんどは農業に使用されており、その割合は約84%にのぼる。これは土壌の塩分濃度上昇に拍車をかけている。また、収穫量増加のため綿花農場で防虫剤や化学肥料を濫用したため、深刻な土壌汚染が発生している。
ウズベキスタンは12の州(viloyat、ヴィラヤト)、1つの(自治)共和国(respublika、レスプブリカ)、1つの特別市(shahar、シャハル)に分かれる。
国際通貨基金(IMF)の統計によると、2017年の国内総生産(GDP)は665億ドル、一人当たりのGDPでは1,520ドルであり世界平均の20%に満たない水準である。2011年8月にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2.0ドル未満で暮らす貧困層は2010年で1,248万人と推定されており、国民の44.42%を占めている。近年は豊富な天然ガス関連の投資を多く受け入れており、比較的好調な経済成長を遂げている。通貨はスム。
多くのCIS諸国の同じく、ウズベキスタンの経済はソビエト連邦時代の社会主義経済から資本主義経済への移行期であった初期に一旦減少し、政策の影響が出始めた1995年より徐々に回復している。ウズベキスタンの経済は力強い成長を示しており、1998年から2003年までの間は平均4%の経済成長率を記録、以降は毎年7~8%の経済成長率を記録している。ただし2017年は、通貨スムの複数為替レートの一本化などのミルジヨエフ大統領の改革の影響により5.3%である。IMFの概算によると、2018年のウズベキスタンのGDPは1995年時点の約4.8倍であり、購買力平価(PPP)換算で約5.9倍である。
ウズベキスタンにおいて、一人あたりの国民総所得(GNI)は低く、2017年時点で2,000USドル、PPPは7,130USドルとなっている。PPPと比較した一人あたりのGNIの数字は世界187カ国中123位と低く、12のCIS諸国の中でウズベキスタンより下の値であるのはキルギスとタジキスタンだけである。経済的な生産は加工品ではなく生産品に集中している。
ウズベキスタンは独立後の1992年から1994年にかけて、年間1000%もの急激なインフレを体験している。IMFの助けを借りた経済安定化の努力が行われ、インフレ率は1997年に50%に減少、さらに2002年には22%にまで減少した。2003年以降、年間インフレ率は平均15%未満となっている。2004年の緊縮財政政策は結果としてインフレ率の大幅な減少につながり、インフレ率は3.8%に減少した(しかし、代わりにマーケットバスケット方式(英語版)による価格の上昇は約15%と概算されている。)2017年は、同年11月のガソリン価格、同年12月の法定月額最低賃金の引き上げを受け、約18.9%のインフレ率となっている
ウズベキスタンの主要金属資源は、金、ウラン、モリブデン、タングステン、銅、鉛、亜鉛、銀、セレンである。金埋蔵量1,700tで世界第12位、年間生産量102tで第10位、ウランの埋蔵量では世界トップ10に入り生産量2,400トンであり、世界第7位である。更に、ウズベキスタンの国営ガス会社ウズベクネフテガスは世界第15位の天然ガス生産量を誇り、年間450億mを産出している。
ウズベキスタン国内においてエネルギー関連事業に大きな投資をしている企業としては中国石油天然気集団 (CNPC)、ペトロナス、韓国石油公社 (KNOC)、ガスプロム、ルクオイル、ウズベクネフテガスがある。
2018年時点において、ウズベキスタンは世界で第7位の綿花生産国であり、世界第9位の綿花輸出国であり、同時に世界第11位の金採掘国でもある。他に生産量の多い製品としては、天然ガス、石炭、銅、銀、タングステン、石油、ウランなどがある。
農業労働者はでウズベキスタン総労働人口の19.25%(2014年時点)にあたり、農業はGDP全体の約19.8%(2012年時点)を占め、そのなかでも綿花の輸出が産業の中心のひとつとなっている。。ウズベキスタンでは旧ソ連時代は60%の国民が農村部に居住していた。ソ連崩壊直後は農業従事者の割合は、全労働者数の30%前後で維持されていたが、人口増に対して農業従事者数は減少傾向にあり、2013年以降は20%を割っている。これはロシアやカザフスタンなどへの移民として農村の労働人口が流出していることが大きな要因として考えられる。また、公式発表によると就業率は高いとされているものの、特に地方で就業率は低く、少なくとも20%以上が失職中であると推定されている。綿花収穫期には、政府による綿花収穫の強制労働が依然として存在している。18歳未満の強制労働を禁止する法令があるにもかかわらず、一部地域では地方の役人によって子供たちが綿を収穫するために動員された。更には、綿花作業だけでなく建設、農業、及び公園清掃の強制労働を教師、学生、民間企業の従業員などに行わせた。ウズベキスタンの児童労働の使用はテスコやC&A、マークス&スペンサー、Gap、H&Mなどにより報告されており、これらの企業は綿花の収穫作業をボイコットしている。
独立達成後に多くの経済問題に直面したことで、政府は国による管理、輸入量の減少、エネルギー自給率の増加を軸とした進化のための改革戦略を採択した。1994年以降、国のコントロールを受けたメディアはこの「ウズベキスタン経済モデル」の成功を繰り返し喧伝しており、経済ショックや貧困、停滞を避けて市場経済へとスムーズに移行するための唯一の方法であると提案していた。
漸進的な改革戦略は重要なマクロ経済や構造改革を一旦中止していることからも読み取れる。官僚の手の中にある状態は依然として官僚の経済に対する影響が大きいことを示している。汚職が社会に浸透しているだけでなく、さらに多くの汚職が行われるようになっている。2018年度におけるウズベキスタンの腐敗認識指数は180カ国中158位であった。2006年2月における国際危機グループによる報告によると、核となる輸出品、特に綿花、金、トウモロコシ、天然ガスから得られた収入はエリート支配層の少数の間にのみ還元され、人口の大多数には少量もしくは全く還元されない状況にあるとされている。
エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによると、「政府は国の手でコントロールできないような独立した民間企業の発展を敵視している」。従って、中産階級は経済的、そして結果的には政治的に低い地位にある。
経済政策は外国企業による投資に反発する姿勢を見せており、CIS諸国において最も国民一人あたりの外国企業による投資額が低い。長年に渡り、ウズベキスタン市場に投資を行う外国企業に対する最大の障壁は通貨交換の困難さであった。2003年、政府は完全に通貨兌換性を保証するという国際通貨基金(IMF)の第8条の義務を承認した。しかし、国内で使用する通貨に対する厳しい制限や通貨交換の量に制限がかけられていることから、外国企業による投資の効果は減少していると考えられている。
ウズベキスタン政府は高い関税を含む様々な方法で外国製品の輸入を制限している。地方の生産品を保護するため、非常に高い税金が課せられている。公式、非公式の関税が相まって、商品の実際の値段の1~1.5倍に相当する税金がかかることで、輸入品は事実上に値段に見合わない高い商品となっている。輸入代替は公式に宣言されている政策であり、ウズベキスタン政府は輸入品目におけるこのファクターが減少していることに誇りを持って経済報告を行なっている。CIS諸国はウズベキスタンの関税を公式に免除されている。
タシュケント証券取引所(共和国証券取引所、RSE)は1994年に取引を開始した。約1250のウズベキスタンのジョイント・ストック・カンパニーの株式や債券がRSEで取引されている。2013年1月時点において上場している企業の数は110に増加した。証券市場の発行済株式総数は2012年に2兆に達しており、証券取引所を通した取引に興味を持つ企業が増えていることからこの数字は急速に増大している。2013年1月時点における発行済株式総数は9兆を突破した。
ウズベキスタンの対外的地位は2003年以降次第に強くなっている。金や綿花(ウズベキスタンの主要輸出製品である)の世界市場価格の回復、天然ガスやその他生産品の輸出量の増加、労働力移入人数の増加という様々な要因により、現在の収支は大幅な黒字に転じ(2003年~2005年の間ではGDPの9~11%)、金を含む外貨準備高は約30億USドルと2倍以上にまで増加している。
2018年時点の外貨準備高は推計約289億USドルである。
世界規模の銀行HSBCの調査によると、ウズベキスタンは次の10年間で世界でも有数の成長速度の速い国家(トップ26)になると予測されている。
ウズベキスタンは、ソ連時代の計画経済によって綿花栽培の役割を割り当てられた過去があり、そのため近年になって鉱産資源の開発が進むまでは綿花のモノカルチャー経済に近い状態だった。その生産量は最高500万トンに達し、2004年度においても353万トンを誇る。しかしウズベキスタンは元来降水量が少なく綿花の栽培には向いていない土地であったため、近年においては灌漑元であるアラル海およびその流入河川の水量減少や塩害などに悩まされている。
また、綿花栽培に農地の大半を割いているため、各種穀物、果実、野菜類を産する土地を有しながら、その食料自給率は半分以下である。
ウズベキスタンはエネルギー資源として有用な鉱物に恵まれている。ウズベキスタンの主要金属資源は、金、ウラン、モリブテン、タングステン、銅、鉛、亜鉛、銀、セレンであり、金埋蔵量1,700tで世界第12位、年間生産量102tで第10位、ウランの埋蔵量では世界トップ10に入り生産量2,400トンであり、世界第7位である。
ウズベキスタン鉱物埋蔵量国家バランスによると、同国では、97の貴金属鉱床、38の放射性鉱物鉱床、12の非鉄金属鉱床、235の炭化水素鉱床(ガス及び石油鉱床を含む)、814の各種建材鉱床など、1,931の鉱床が発見されている(2017年1月1日時点)。現在、探査は10鉱種以上に関して行われており、数鉱種だった20年前に比べ探査範囲は拡大傾向にある。近年、探査が開始されたものや強化されているものは、鉄、マンガン、石炭、オイルシェール、一部のレアメタル、レアアース、非在来型の金・ウラン鉱床である。
近年の鉱山開発は、国営企業であるNGMK (Navoi Mining and Metallurgical Combinat) (ウラン、金) 及びAGMK(Almalyk Mining and Metallurgical Complex) (銅、亜鉛、鉛、金)による生産設備の近代化や、アジア諸国(日中韓)との経済協力によって推進される傾向にある。また、韓国、中国、ロシアなどから調査・採掘分野への投資の動きが活発化しており、ウランやレアメタルを中心に協力拡大の可能性が注目されている。ウズベキスタンは世界第4位の金埋蔵量を誇る。407万トンの亜炭、250万トンの原油も採掘されている。鉱業セクターは輸出にも貢献しており、特産物の絹織物につぎ、エネルギー輸出が全輸出額の9.0%を占める>。その他の金属鉱物資源では、銀(生産量:約60.0千トン)のほか、小規模な銅採掘(生産量:80.4トン)が続いている。リン鉱石も産出する。
シルクロードの中心地や、ユネスコの世界遺産の宝庫として、青の街サマルカンドや茶色の町ブハラ、ヒヴァ、シャフリサブス、仏教文化のテルメズなどが世界的に有名。ソ連からの独立後には歴史的遺構への訪問を目的とする各国からの観光客が急増し、それに伴い観光が外貨獲得源の1つとなった。これを受けて政府による観光客誘致が盛んに行われていることから、タシケントは海外のホテルチェーンの大規模ホテルが多く運営されている。
ナヴォイ劇場は、1947年11月にアリシェル・ナヴォイ(ナヴォイー)生誕500周年を記念して初公開されている。日本人のシベリア抑留者の強制労働により建設されたことで知られている。
ウズベキスタン航空がタシュケント国際空港とアジアやヨーロッパの主要都市間を結んでおり、日本にも成田国際空港に週2便定期便を運航している。しかし運休も多く、スケジュール通りに動くか当日にならないと判明しないこともあり、またマイレージも独自のフライトのみでしか加算できないため、マニアックな人好みの航空会社となっている。タシケント国際空港にはアジアやヨーロッパから各国の航空会社が乗り入れており、ソ連時代より中央アジアにおけるハブ空港的な存在となっている。ウズベキスタン航空は、日本からウズベキスタンへの旅客輸送ではなく、イスタンブールやテルアビブなどタシュケント以遠の都市への旅客輸送がほとんどである為、国会でも問題視されたが、法律で禁止されていることではない。
国内の移動にはウズベキスタン航空の国内線の他、バスや鉄道も国土の広い範囲をカバーしている。なお鉄道はその多くが旧ソ連時代に建設されたものであり、老朽化が進んだ他、各地方を結ぶ基幹路線のいくつかは近隣国を経由しており、これを解消するために日本政府が円借款を行い、鉄道旅客輸送力の増強および近代化事業を進めている。近年、タシュケント・サマルカンド高速鉄道も運行している。
ウズベキスタンの首都であり国内最大の都市であるタシュケントには1977年にタシュケント地下鉄が整備され、ソ連崩壊による独立後10周年に当たる2001年には地下鉄が3線にまで増加した。ウズベキスタンは中央アジアで最も早く地下鉄が整備された国であり、2013年時点で地下鉄が存在する中央アジアの都市はカザフスタンのアルマトイとタシュケントの2つのみである。駅にはそれぞれ統一されたテーマが設けられており、そのテーマに沿った内装が施されている。例えば、1984年に建設されたウズベキスタン線の「コスモナフトラル駅」は宇宙旅行がテーマとなっており、駅構内はウズベキスタン国内出身のソビエト連邦の宇宙飛行士、ウラジーミル・ジャニベコフの業績を含めた人類の宇宙探査の様子が描かれており、ウラジーミル・ジャニベコフの銅像が駅入口付近に建設されている。
タシュケントには市営のトラムやバスが運行されている他、登録承認済み、非承認にかかわらず多くのタクシーが走行している。ウズベキスタンには現代的な自動車を生産する自動車工場がある。ウズベキスタン政府と韓国の自動車企業、韓国GM(旧称:大宇自動車)により設立されたウズデウオート(現在はGM傘下に入りGMウズベキスタンと改称している)が国内のアサカで大規模な自動車生産を行なっている。政府はトルコのコチュ財閥による投資を受けてサムコチュアフトを設立、小型バスやトラックの生産を開始した。2007年には日本のいすゞ自動車といすゞのバスやトラックを生産を開始した。
鉄道はウズベキスタン国内の多くの街を結ぶと共に、キルギスやカザフスタンなど旧ソ連領域内にあった中央アジアの隣国へも運行されている。更に、独立後2種類の高速鉄道が導入された。2011年9月にはタシュケントとサマルカンドを結ぶタシュケント・サマルカンド高速鉄道の運行が開始された。この高速鉄道の車輌にはスペインの鉄道車両メーカータルゴにより制作されたタルゴ250が使用されており、「アフラシャブ号 (Afrosiyob)」と呼ばれている。初の運行は2011年8月26日に開始された。
ウズベキスタンにはソビエト連邦時代にタシュケント・チカロフ航空生産工場(ロシア語: ТАПОиЧ)と呼ばれたタシュケント航空生産協会(英語版)という大規模航空機生産工場がある。この工場は独ソ戦時に建設され、当時の生産施設はソビエト連邦と敵対していたナチス・ドイツの軍隊による接収を避けるためソビエト連邦南東部に当たる中央アジアへと疎開してきたものであった。1980年代後半まで、工場はソビエト連邦国内において航空機生産をリードする工場の1つであったが、ソビエト連邦崩壊とともに生産設備は老朽化、多くの労働者が解雇された。現在は年間数台の航空機を生産するのみとなっているが、ロシアの企業による関心により生産能力強化計画があるとも報じられている。
ウズベキスタンは中央アジアで最も人口の多い国であり、2020年時点の人口は3350万人であった。2012年時点の人口29,559,100人は中央アジア全体の人口の約半数に相当する。
ウズベキスタンの平均年齢は低く、全人口の約23.19%は14歳以下である(2020年の推定)。人口推定によると、主要民族のウズベク人が全人口の84.3%を占める。その他、4.8%のタジク人のほか、カザフ人(2.4%)、ロシア人(2.1%)など多くの少数民族が住む(2020年)。ソ連時代に、ウズベク語を話すことのできるタジク人はウズベク人と分類されたため、タジク人は実際には相当数いるものとされる。実際には、人口の20~30%を占めているという調査もある。ソ連時代にはロシア人の割合は12.5%(1970年)を占め、タシュケントの人口の半数近くがロシア人・ウクライナ人であったが、現在はウズベク民族主義や経済的な理由により急減している。人名はソ連時代の名残りからロシア語風の姓名が多く見受けられる。
タジク人の割合に関しては解釈の相違が見られる。ウズベキスタン政府による公式の数字は5%であるが、この数字は過小評価された数字であるとされており、西洋の学者にはタジク人の割合を20%~30%であると見積もる者もいる。公式の統計でウズベク人とされている者の中には中央アジアのトルコ・ペルシア人であったサルト人のような他の民族も含まれている。オックスフォード大学による近年の遺伝子系図テストを用いた研究によると、ウズベク人にはモンゴル人とイラン人の遺伝子混合が見られる。
ウズベキスタンの少数民族としては、1937年から1938年にかけて、ヨシフ・スターリンにより極東ソビエトの沿海州から中央アジア地域へと強制移住させられた朝鮮民族が約20万人ほど在住しており、「高麗人」と自称している。また、ドイツ系のヴォルガ・ドイツ人やアルメニア系のウズベキスタン人もタシュケントやサマルカンドなどの都市部に多い。全人口の約88%がムスリム(ほとんどがスンナ派であり、シーア派は5%となっている)であり、東方正教会信者が9%、その他が3%となっている。アメリカ国務省による2004年の報告によると、0.2%が仏教(ほぼすべてが高麗人)を信仰している。ブハラ・ユダヤ人は1000年以上前に中央アジアへと移り住んできたユダヤ人の民族集団であり、主にウズベキスタンに居住している。1989年時点では94,900人のユダヤ人がウズベキスタン国内に住んでいた(全人口の約0.5%に相当)が、ソビエト連邦崩壊後ブハラ・ユダヤ人の多くはアメリカ合衆国、ドイツ、イスラエルといった他の国々へと出国、2007年時点で残っているブハラ・ユダヤ人の数は5,000人にも満たない。
ロシア系ウズベキスタン人は全人口の約2.1%を占める。ソビエト連邦時代にはロシア人とウクライナ人が首都タシュケントの全人口の半数以上を占めていた。1970年の調査結果によると、全人口の12.5%に当たる約150万人のロシア人が国内に住んでいた。ソビエト連邦崩壊後、ロシア系の人々は主に経済的な理由からその多くが他国へと移住していった。
1940年代のクリミア・タタール人追放(クリミア・タタール語: Qırımtatar sürgünligi)で、クリミア・タタール人はドイツ人、チェチェン人、ギリシア人、トルコ人、クルド人、その他の民族とともに中央アジアへと強制移住させられた。約10万人のクリミア・タタール人が現在もウズベキスタン国内に居住している。タシュケントにおけるギリシア系ウズベキスタン人(英語版)の数は1974年の35,000人から2004年には12,000人にまで減少している。メスヘティア・トルコ人の大多数は1989年6月にフェルガナ盆地で起きたポグロムの後他国へと出国した。
少なくともウズベキスタンの労働者の10%が国外へと流出しており、そのほとんどがロシアやカザフスタンで働いている。
ウズベキスタンの15歳以上の識字率は100%(2016年の推定)であり、これにはソビエト連邦時代の教育制度が大きく影響していると考えられている。
公用語はウズベク語のみと制定されている。ウズベク語はラテン文字表記だが、キリル文字での表記も行われている。
ウズベク語母語話者は全体の74.3%を占めるにすぎず、その他ロシア語、タジク語が使われている。ソ連時代まではロシア語も公用語とされていたが独立後に外された。しかし、ロシア語は全人口の14.2%に当たる人々が第一言語として使用しており、その他の人々もその多くがロシア語を第二言語として使用しているなど異民族間の共通語・準公用語的な地位にある。
サマルカンドやブハラ、シャフリサブスなどのウズベキスタン南部地域、フェルガナ盆地地域、シルダリヤ川沿岸地域ではタジク語が広範囲にわたって話されており、タジク語圏地域となっている。ウズベキスタンではタジク語教育は禁止され、家庭内などでの使用に限定されている。そのため、タジク語話者はほとんどがウズベク語との完全なバイリンガルでもあり統計上ではタジク語の割合は4.4%に過ぎないが、全人口の20%~30%前後がタジク人とされるために、タジク語話者も同程度いるものと推測される。このことから、ウズベキスタンはタジキスタンに次ぐタジク語国家ともいえる。
カラカルパクスタン共和国ではカラカルパク語とウズベク語の両方が公用語となっている。
その他、ブハラ語、カラカルパク語、カザフ語、キルギス語、クリミア・タタール語、高麗語なども話されている多言語国家である。
2009年のアメリカ国務省による調査によると、イスラム教はウズベキスタンの主要宗教であり、人口の約90%がムスリムである。また、5%がロシア正教会を信仰しており、その他が5%となっている。しかし、ピュー研究所による2009年の調査結果によると、ウズベキスタンの全人口の約96.3%がムスリムとなっている。また、約93,000人のユダヤ教信者が存在しているとされている。
国内のイスラム教信者の割合は高いものの、イスラム教の実践は一枚岩からは程遠い。信仰については、20世紀を通して改革や世俗化、イスラム教の伝統との衝突を通して中央アジアで様々な方法が実践されているが、このような混乱した状況が世界へと発信され、定着することとなった。ソビエト連邦の崩壊により多くの人が予想したようなイスラム原理主義の台頭を招くことはなく、衣食に関する戒律は緩やかであり、基本的に女性は頭髪や足首を隠さない。しかし、ブハラなどイスラム色の強い都市では女性がパンツ(ズボン)を履くことに対して良く思わない傾向があり、多くの女性はスカートを履いている。
信教の自由の権利を保証しているものの、ウズベキスタンは国によって認可されないあらゆる宗教活動を禁じている。
同国の結婚式は「トゥイ」(to'y)と呼ばれており、多くの慣習が存在する。国民にとって結婚式は慶事の中で重要なものであり、どの慶事よりも華やかに祝う。
ソ連崩壊後から、現代的な結婚式に替わりつつあるが、伝統を守っている人も多い。
ウズベキスタン国内における15歳以上の識字率は約99%と高いものの、教育プログラムを推進する際に深刻な予算不足に陥っている。
上記の通り、同国は高い識字率を誇り、15歳以上の識字率は約99.3%であるが、15歳以下の識字率は76%にまで落ち込み、3~6歳の識字率は20%となっている。この大きな要因として、ウズベキスタンの教育方法が挙げられており、未来には識字率が下がっていくと予測されている。学生は月曜日から土曜日まで年間を通して学校に通い、中学校までが義務教育となっている。中学校卒業後、学生は職業専門学校もしくは通常の高校へと進学することが多い。ウズベキスタンには2つのインターナショナルスクールがあり、2つともタシュケントにある。ブリティッシュ・スクールは小学生の、タシュケント・インターナショナルスクールは12歳以上の学生に対する指導を行なっている。
1992年に制定された教育法に沿って教育カリキュラムの改定作業が実行されたが、教育現場の教材などの不足が発生、カリキュラムの改定作業は遅々として進んでいない。この現象の大きな要因として、教師に対する賃金の低さ、政府による学校や教材などのインフラ整備予算の不足が挙げられている。これにはラテン文字へと文字表記を変更したことにより、キリル文字で記されていた過去の教材や資料が使用できなくなったことも関係している。また、教育システムが崩壊したことで、裕福な家庭が自身の子供を出席や入学試験なしに高いレベルの学校に入れてもらう目的で教師や学校関係者に賄賂を送る事態も横行している。
ウズベキスタンの大学は毎年約60万人の卒業生を出しているが、大学卒業生の一般的な水準や高等教育機関内の全体的な教育レベルはそれほど高くない。ウェストミンスター国際大学タシュケント校は英語による講義が設けられた国内初の大学である。
国内には16の精神病院と2,834の主要な地方医療機関が存在する。
ウズベキスタンでは犯罪統計が公表されていない為、実際の犯罪の発生状況を正確に把握することは困難となっているが、一般的には経済的困窮や貧困を背景に金銭や貴金属ならびにスマートフォンなどの高級家電を狙う窃盗・強盗などが多発していると言われている。
また、汚職に関してはこれを防止するための法律こそ整備されているものの、法律の施行は非常に弱いものとなってしまっているのが現状である。同国における汚職は政府や社会、企業に至るほぼ全ての分野に拡がるレベルで存在している。
ウズベキスタン共和国憲法では「ウズベキスタン共和国の民主主義は個人の生命、自由、名誉、尊厳、その他の固有の権利を至上の価値とする基本的な人道にもとづく」と宣言している。
人権に対する公的な姿勢については「人権の確立と奨励に関するウズベキスタン共和国政府の取り組み」という覚書に要約されており、以下のように記述されている。「政府はウズベキスタン市民の人権を保護、保証するためにあらゆる手段を用いる。ウズベキスタンは人道的な社会の実現のため、継続的に法改正を行っていく。人々の基本的人権を規定するための300以上の法案が議会を通過した。例として、オンブズマン事務所は1996年に設立された。2005年8月2日、大統領のイスラム・カリモフは2008年1月1日よりウズベキスタンにおいて死刑を廃止する法令に署名した。
しかし、国際ヘルシンキ人権連盟(英語版)(IHF)、ヒューマン・ライツ・ウォッチ、アムネスティ・インターナショナルなどの非政府組織の人権団体はアメリカ合衆国国務省や欧州連合理事会とともに、ウズベキスタンを「市民権が制限された権力主義国家」と定義しており、「あらゆる基本的人権に対する広範囲の侵害」が存在することに重大な懸念を表明している。
報告によると、最も広範囲で見られる人権侵害は拷問、恣意的な逮捕、そして、信教の自由、言論の自由、出版の自由など様々な自由の制限があげられる。また、地方ではウズベキスタンの女性に対して強制不妊手術を行うことが政府によって容認されているとの報告がある。また、宗教団体の会員、独立したジャーナリスト、人権活動家や禁止された敵対政党の党員を含む政治活動家などに対する人権侵害が頻繁に行われているとも報告されている。
2005年のアンディジャン事件では結果として数百人の死亡者が出たが、この事件はウズベキスタン国内の人権侵害の歴史の中でも大きな事件となった。
アンディジャン事件に関する深い懸念がアメリカ合衆国、欧州連合、国連、OSCE議長、OSCE民主主義人権研究事務所によって示され、これらの機関はウズベキスタン政府から独立した調査を要求した。ウズベキスタン政府が人命を不法に奪い、市民の集会の自由と表現の自由を否定していることにも非難が出ている。政府はこれらの非難を真っ向から否定した上で、必要最小限の武力を用いて反テロ活動を展開したにすぎないと主張した。さらに、政府の一部官僚は「ウズベキスタンに対して情報戦が仕掛けられている」と述べ、「アンディジャンの人権侵害」はウズベキスタンの内政に干渉するのに都合よい口実として、ウズベキスタンの敵対勢力がでっちあげたものであると主張した。
タジク人が彼らの母語であるタジク語を学校で教えることをウズベキスタンは禁じており、タジク語(もしくはペルシア語)の文学作品が破壊された例が存在する。
ウズベキスタン料理は国内の農業に大きな影響を受けている。ウズベキスタンでは穀物の収穫高が多いことから、パンや麺はウズベキスタン料理において重要な地位を占めており、時に「ヌードル・リッチ(noodle rich、麺が豊富)」と形容されることがある。羊肉はウズベキスタン国内でヒツジの放牧が盛んであることから一般的に販売されている肉であり、様々なウズベキスタン料理に使用されている。
ウズベキスタンの国民食はプロフ(パラフ、パラウ、オシュとも呼ぶ)であり、米、肉、ニンジンやタマネギなどの野菜を使用して作られる料理で、主菜として供される。プロフはトルコから中央アジアに伝わった料理で、フランス料理のピラフに似ており、その元になった料理である。オシ・ナハルは通常午前6時から9時までに提供される朝のプロフであり、結婚式などの慶事の際には集まった客の分まで大量に作られる。他に有名なウズベキスタン料理としては以下のようなものがある。シュルパ(シュルヴァやシャルヴァとも呼ばれる)は脂肪の多い肉(通常は羊肉を用いる)の大きな塊と新鮮な野菜から作るスープである。ナリン(英語版)やラグマンは麺料理であり、スープとしても主菜としても出されることがある。マンティやチュチュヴァラ(英語版)、サムサは小麦粉で作った生地に肉などの具を詰めた後、蒸す、焼く、揚げるなどした餃子に近い料理である。肉と野菜のシチューに近いディムラマや様々なカバブは通常、主菜として供される。
緑茶は一日を通じ飲まれることが多いウズベキスタンの国民的な飲料である。緑茶を提供する喫茶店(チャイハナ)は文化的にも重要な位置づけにある。他にもタシュケント付近では紅茶などの茶が出されることも多いが、緑茶や紅茶に牛乳や砂糖を入れて飲むようなことはしない。茶は必ず食事とともに提供されるが、ホスピタリティの一環として、客を招いた際には必ず緑茶もしくは紅茶を出す習慣がある。冷たいヨーグルト飲料であるアイランは夏季には人気があるものの、茶に代わる地位は獲得していない。
国内に多いムスリムにとって、飲酒は本来禁忌であるが、戒律が緩いため街中では酒が売られており、政府も輸出・観光産業振興のためワインの生産奨励や販売規制緩和を政策としている(ただし、ソ連崩壊後のイスラム教復興の影響を受けた若い世代はあまり飲酒しない)。ブドウを含めて果樹が豊富なウズベキスタンにおけるワイン醸造は、イスラム化以降は下火になったものの、紀元前に遡る歴史があると推測されている。
ウズベキスタン国内には14のワイナリーがあり、国内現存最古かつ最も有名なワイナリーであるサマルカンド・ワイナリー(ホブレンコ・ワイナリー(Khovrenko Winery))はサマルカンドで1868年、ロシア人実業家のドミトリー・フィラートフにより創業された。サマルカンドのワイナリーではグリャカンダス(Gulyakandoz)、シリン、アレアティコ、カベルネ・リカノー(Kabernet likernoe)など、地方のブドウを使用した様々な種類のデザートワインを生産している。他にも、バギザカン、スルタンなどのブランドがあり、ドライタイプのものも近年日本にも輸入されるようになった。ウズベキスタンのワインはロシアをはじめとするNIS諸国に輸出されているほか、国際的な賞も受賞している。
中央アジアの伝統音楽の形式の1つにシャシュマカームがあり、これは当時文化の発信地であったブハラで16世紀後半に生まれたものである。シャシュマカームはアゼルバイジャンのムガームやウイグルのムカーム(英語版)と非常に密接な関係にある。シャシュマカームという名前は「6つのマカーム」を意味し、イランの伝統音楽と同じく、6つの異なる旋法が6つの節に組み込まれた音楽であることからその名がついた。スーフィーが語りだす間奏では音楽が中断され、低音で吟じ始めた後で次第に高音になりクライマックスを過ぎると再び元の低音に戻ることが多い。
バズムや結婚式のような行事に出席する聴衆の間ではフォーク・ポップスタイルの音楽は人気がある。ウズベキスタンの伝統音楽はポップミュージックの形式とは大幅に異なっている。多くの場合、男性同士の間で行われる朝夕の会合において、1人もしくは2人の音楽家の演奏を聞くことが多い。ウズベキスタンの伝統音楽として有名なものにシャシュマカームがある。裕福な家庭によるミュージシャンへの大規模な支援が行われており、パトロンとなる彼らはシャシュマカームの演奏などすべての代金を負担している。詩と音楽は互いを引き立たせ、いくつかの楽曲では、1つの曲に2言語が取り入れられていることもあった。1950年代には、フォーク・ミュージックは次第に人気がなくなり、ラジオで流す曲のジャンルとして禁止令を受けた。これらの曲は完全に排除・衰退したわけではなかったが、「封建音楽」として名称を変えることとなった。禁止令が出されていたものの、フォーク・ミュージックの演奏グループは独自の方法で音楽の演奏を続けており、個人の間で次第に広まっていった。
ウズベキスタンにおける現代美術館を代表するものとして、2004年に設立されたウズベキスタン美術館(英語版)が知られている。
振り替え休日は採用されていない。
上記の他、イスラム教に基く祝祭日がある。ヒジュラ暦に従って制定されるため、グレゴリオ暦では移動祝日となる。
1991年にウズベキスタンが独立する以前、ウズベク・ソビエト社会主義共和国はソ連の一員としてサッカーソビエト連邦代表やラグビーソビエト連邦代表(英語版)、アイスホッケーソビエト連邦代表(英語版)、バスケットボールソビエト連邦代表、ハンドボールソビエト連邦代表など、各スポーツのソ連代表チームに選手を送り出していた。ソビエト連邦の崩壊後、同国はサッカーウズベキスタン代表やラグビーウズベキスタン代表(英語版)、フットサルウズベキスタン代表やバスケットボールウズベキスタン代表などの代表チームを結成し、国際大会に派遣している。
国内には国際クラッシュ協会の本部がある。クラッシュはウズベキスタンの国技であり、現在スポーツとして行われているクラッシュはウズベキスタンの伝統的な格闘技であったクラッシュを国際化・現代化したものである。また、カヌースプリント競技のミカエル・コルガノフ(英語版)はK-1 500mにおいて世界王者になったことがあるほか、オリンピックで銅メダルを獲得している。体操競技のアレクサンデル・シャティロフ(英語版)はゆかで銅メダルを獲得している。
ウズベキスタン国内でサッカーは圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1992年にプロサッカーリーグの「ウズベキスタン・スーパーリーグ」が創設され、全14クラブが所属している。リーグの最多優勝クラブはパフタコール・タシュケントである。ウズベキスタンサッカー連盟はアジアサッカー連盟(AFC)に加盟しており、AFCチャンピオンズリーグなどのAFCが主催する国際大会に出場している。AFCカップの2011年大会において、ナサフ・カルシが同国サッカー界初の国際大会優勝を達成している。
サッカーウズベキスタン代表はFIFAワールドカップの本大会への出場歴はないものの、AFCアジアカップの2011年大会では4位に躍進するなど、アジア地域の大会においては好成績を残すこともある。また、U-23代表はAFC U-23選手権2018で初優勝を飾っており、U-20代表も自国開催となったAFC U-20アジアカップ2023で初優勝を遂げている。さらに近年では、エルドル・ショムロドフがイタリア・セリエAでプレーしている。
テニスもサッカーに次いで人気のスポーツであり、特に1991年にウズベキスタンが独立して以降人気が出た。国内のテニスを統括する団体、ウズベキスタンテニス連盟(英語版)(UTF)は2002年に設立された。首都のタシュケントでは毎年タシュケント・オープンというWTAの国際テニストーナメントが開催されている。タシュケント・オープンは1999年に開始され、屋外のハードコートを使用して行われている。同国で実績のある有名テニス選手としては、デニス・イストミンやアクグル・アマンムラドワがいる。
ウズベキスタンは自転車競技選手、ジャモリディネ・アブドヤパロフの故郷である。ツール・ド・フランスで三回の区間優勝を果たしており、いずれの回もマイヨ・ヴェールを勝ち取っている。アブドヤパロフはツアーもしくは一日制のレースで、先頭集団が一塊になってゴールに向かう際に優勝を勝ち取ることが多く、しばしば最後の数kmで「スプリント」をかけるが、この際に川が蛇行するように左右に揺れながら走行を行うため、集団で走る他の競技者からは接触などの危険が高まり、危ない選手であるとみなされていた。この走行スタイルから、彼には「タシュケントの虎」というニックネームがついている。
アルトゥール・タイマゾフは2000年に開催されたシドニー五輪でウズベキスタンに初のレスリングのメダルをもたらした他、アテネオ五輪、北京五輪、ロンドン五輪と3大会に渡り男子120kg級で金メダルを獲得している。ルスラン・チャガエフは同国を代表するWBAのプロボクサーである。彼は2007年にニコライ・ワルーエフを破ってWBAタイトルを奪取した、チャガエフは2009年にウラジミール・クリチコに敗れるまで2回王座防衛を果たした。
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"text": "ウズベキスタンはテュルク語圏の一部であり、テュルク評議会、テュルク文化国際機関、テュルク語圏諸国議会(英語版)のメンバーでもある。国連、WTO、CIS、上海協力機構(SCO)、ユーラシア経済連合、CSTO、OSCE、イスラム協力機構などの国際機関に加盟している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "同国は様々な民族によって構成されている多民族国家で、6つの独立したトルコ系国家の一つに数え上げられる。世俗的な国家であり、大統領制の立憲政治が敷かれている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "国内の主要民族はウズベク人で、総人口の約83%を占める。主な少数民族としては、ロシア人(2%)、タジク人(4~30%)、カザフ人(3%)、タタール人(1.5%)、カラカルパク人(2%)などがいる。ロシア人やその他の少数民族が他国へと移住し、ソビエト連邦時代に他国に居住していたウズベク人がソ連崩壊に伴う独立回復後にウズベキスタンへ帰国していることから、同国内に住むウズベク人以外の民族の割合は減少傾向にあるとされている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンは12の地域(ヴィラヤット)、タシュケント市、1つの自治共和国カラカルパクスタンで構成されている。また、NIS諸国の一つにも数えられている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "国内ではウズベク語が主に話されているが、ロシア語も共通語として使われている。宗教はイスラム教が主流であり、ウズベク人の多くはイスラム教スンナ派である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "非政府の人権団体はウズベキスタンを「市民権を制限した権威主義国家」と定義しているが、独裁者イスラム・カリモフの死後、シャフカト・ミルジヨエフ政権下で大きな改革が行われている。この改革により、隣国のキルギス、タジキスタン、アフガニスタンとの関係は劇的に改善された。2020年の国連報告書では、国連の持続可能な開発目標の達成に向けて多くの進展が見られる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "ウズベク経済は市場経済への移行が徐々に進んでおり、対外貿易政策も輸入代替を基本としている。2017年9月、同国通貨は市場レートで完全に兌換可能となった。ウズベキスタンは、綿花の主要な生産国であり、輸出国でもある。ソ連時代からの巨大な発電施設と豊富な天然ガスの供給により、ウズベキスタンは中央アジア最大の電力生産国となっている。2018年から2021年にかけて、共和国はスタンダード・アンド・プアーズ(S&P)およびフィッチからBB-の格付けを受けた。ブルッキングス研究所が示す強みとしては、ウズベキスタンに大きな流動資産、高い経済成長、低い公的債務があることである。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "現在のウズベキスタンへの最初の移住者はスキタイ人と呼ばれる東イランの遊牧民で、フワラズム(紀元前8〜6世紀)、バクトリア(紀元前8〜6世紀)、ソグディアナ(紀元前8〜6世紀)、フェルガナ(紀元前3世紀〜紀元前6世紀)、マルギアナ(紀元前3世紀〜紀元前6世紀)に王国を建設したと記録されている。この地域はイランのアケメネス朝帝国に組み込まれ、マケドニアの支配を経て、イランのパルティア帝国、後にサーサーン朝帝国に支配され、7世紀にイスラム教徒がペルシアを征服するまで続いた。初期イスラム教の征服とその後のサマニード帝国の支配により、現地の支配階級を含むほとんどの人々がイスラム教の信奉者に改宗した。この時代、サマルカンド、ヒヴァ、ブハラなどの都市は、シルクロードによって豊かになり始め、ムハンマド・アル・ブハーリー、アル・ティルミーディ、アル・クワリズミー、アル・ビルニ、アヴィセンナ、ウマル・ハイヤームなど、イスラーム黄金時代を代表する人物が出現した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "13世紀、モンゴル帝国の侵攻により、クワラズミー王朝と中央アジア全体が壊滅し、その後、この地域はトルコ系民族の支配を受けるようになった。14世紀、ティムール帝国を樹立したティムール(タメルラン)は、サマルカンドを首都とするトゥラン最高首長となり、ウルグ・ベグの支配下で科学の中心となり、ティムール・ルネサンスを生んだ。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "16世紀、ティムール朝の領域はウズベク・シャイバーニー朝に征服され、権力の中心はブハラに移った。この地域は、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国、ブハラ・ハン国の3つの国に分かれた。バーブル帝による東方への征服は、ムガル帝国としてインドの新たな侵略の基礎となった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "19世紀には中央アジア全域が徐々にロシア帝国に組み込まれ、タシュケントがロシア・トルキスタンの政治的中心地となった。1924年、国家分割により、ソビエト連邦内の独立共和国としてウズベク・ソビエト社会主義共和国が誕生した。ソビエト連邦の崩壊後、1991年8月31日に「ウズベキスタン共和国」として独立を宣言した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "一方、1991年にウズベキスタンが独立した際、イスラム原理主義に対する懸念が中央アジア地域に広まった。これは、支配的な宗教であったイスラム教信者(ムスリム)が急激に増加するであろうという予想に基づくものであったが、1994年時点では、ウズベキスタンの人口の半数以上が「自分はムスリムである」と答えている一方で、信仰における知識やその実践方法に関してはこれを持ち合わせている割合が極めて低かった。その後はイスラム教信者の割合の上昇が見られるようになったが、世俗化しており、戒律などは緩い。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "正式名称はウズベク語で、Oʻzbekiston Respublikasi / Ўзбекистон Республикаси(ウズベキスタン・レスプブリカシ)。通称は、Oʻzbekiston / Ўзбекистон。",
"title": "国名"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "公式のロシア語表記はРеспублика Узбекистан。通称、Узбекистан。また英語表記は、Republic of Uzbekistan。通称、Uzbekistan。国民・形容詞ともUzbekistani。",
"title": "国名"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "日本語の表記は、ウズベキスタン共和国。通称、ウズベキスタン。",
"title": "国名"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "国名は、ウズベク人の自称民族名 Oʻzbek(ウズベク)と、ペルシア語で「~の国」を意味する -stan (スタン)の合成語である。ウズベクは、テュルク語で「自身が主君」を意味し、ジョチ・ウルスのウズベク・ハン(オズベク・ハン)の名に由来するといわれる。",
"title": "国名"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンの国土の中央部は、古代よりオアシス都市が栄え、東西交易路シルクロードの中継地ともなってきたトランスオクシアナ地域の大部分を占める。この地域は古代にイラン系のソグド人が活躍したが、8世紀にアラブ人によって征服され、宗教的にはイスラム化した。10世紀にはテュルク系民族(カラカルパク人など)が進出し、言語的にテュルク語化が進む。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "13世紀にはモンゴル帝国に征服され、このとき多くの都市が甚大な被害を受けるがすぐに復興を果たした。14世紀にはこの地から興ったティムール朝が中央アジアから西アジアに至る広大な地域を征服して大国家に発展した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "ティムール朝の衰亡後、北からウズベク人が侵入し、ウズベク3ハン国と呼ばれるブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国を立てる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "これらは19世紀に北からのロシア帝国に征服され、ロシア革命後はソビエト連邦下の共和国となり、その後はソビエト共産党政府の統治下に入り、ウズベク・ソビエト社会主義共和国となった。1966年4月、タシュケントを震源として市内では大地震が起こり、市内の建物のおよそ2/3が倒壊するという惨事となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1991年のソ連崩壊によってウズベク・ソビエト社会主義共和国はウズベキスタン共和国として独立し、同時に独立国家共同体(CIS)に加盟した。独立後はイスラム・カリモフ大統領が権力を集約し、ほぼ独裁政権となって統治してきた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2005年5月13日に東部アンディジャンで発生した反政府暴動鎮圧事件で市民に多数の死者が出たとの情報があり、ヨーロッパ諸国や国際連合などから「人権侵害」との非難が挙がっている。また、これまで対テロ戦争で協力関係にあったアメリカ合衆国も態度を変化させ民主化要求を行い始めた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "一方、カリモフ大統領はイスラム過激派による武力蜂起だとして欧米側による報道を批判し、国際調査団を受け入れる考えのないことを表明した。また、2001年のアフガン侵攻以来、アメリカ軍の駐留を受け入れてきたが、2005年にこれを解消し、アメリカ軍は撤収することとなった。なお現在も、「反テロ作戦の一環」としてドイツ軍がテルメズ飛行場に駐留を続けている。現在は上海協力機構と関係を深めている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2016年9月2日にカリモフ大統領が死去したことで、25年にわたる長期政権は終焉を迎えた。その後、カリモフの後継者であるシャフカト・ミルジヨエフが大統領代行を務め、12月に行われた大統領選挙でも勝利したことで第2代大統領に就任。経済活動やメディアの規制緩和を進め、2021年の再選後の就任演説(11月6日)では「民主的改革」を掲げた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "国家元首である大統領は、ウズベク・ソビエト社会主義共和国大統領であったイスラム・カリモフが独立以来2016年に死去するまでその職にあった。首相と副首相は大統領が任命する。大統領官邸はオクサロイ宮殿(白い館)。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "議会はアリー・マジュリス (Oliy Majlis) と呼ばれ、一院制で任期5年、250議席。アリー・マジュリスの初の選挙は1994年の第16回最高会議にて承認された決議のもとで開催された。同年、最高会議はアリー・マジュリスとその名称を変更した。ウズベキスタンはこれまで3回の大統領選挙を行なっているものの、2016年に死去するまでは全てイスラム・カリモフが選出されてきた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "議会は定員150名の下院(日本の衆議院に相当)と定員100名の上院(日本の参議院に相当)に分かれており、それぞれ任期は5年である。第3回の選挙は2009年12月27日に、第2回選挙は2004年12月から2005年にかけて行われたアリー・マジュリスは2004年まで1院制であったが、2002年の国民投票の結果、次期選挙から二院制に移行することとなった。議会に参加する議員数は1994年は69名であったが、2004~05年に120名へと増加、現在は下院の議員数は150名にまで増加している。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "現在、旧ウズベキスタン共産党から改組されたウズベキスタン人民民主党を中心とする諸政党がイスラム・カリモフ前大統領の支持勢力として議会を支配してきた。カリモフ前大統領はウズベキスタンの独立後、自己献身・国民民主党に所属していたが、2007年にウズベキスタン自由民主党に党籍を移した。いずれの政党も、カリモフ政権を支えてきた政党である。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "行政府は絶大な権力を握っており、立法府は法案成立の際に多少影響力を持つにすぎない。2002年1月に行われた国民投票の結果、大統領の任期は5年から7年に延ばされた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "国民投票の結果を受けて法案が成立し、イスラム・カリモフの任期は2007年12月まで任期が延長された。ほとんどの国際監視員は選挙の過程と結果に関して正当なものであると認めていない。2002年の国民投票には下院 (Oliy Majlis) と上院 (Senate) の2院制への移行計画に関する投票が含まれていた。下院の議員は「専業」の国会議員である。新たな2院制への移行に関する国民投票は12月26日に開催された。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "欧州安全保障協力機構(OSCE)は制限された監視行動の中で、ウズベキスタン国内の選挙はOSCEやその他の民主主義選挙に関する国際基準を全く満たしていないという評価を下している。複数の政治政党が政府の承認を経て設立されたものとなっている。同様に、ラジオ・テレビ・新聞など様々なメディアが設立されているものの、これらのメディアは依然として政府のコントロール下にある、もしくはめったに政治的な話題を扱わないメディアとなっている。独立した政治政党の設立や党員募集、党大会や記者会見の開催は禁止されていないものの、登録手続きには制限が課されているため登録を拒否されている。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2016年にカリモフが死去した後も、その後継のシャフカト・ミルジヨエフ大統領がカリモフの支持基盤と手法を受け継いでいるが、日本を含む一部の国々からの観光目的での入国のビザを免除したり、関係の悪かった隣国タジキスタンとの関係改善を図るなど改革も見られる。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "全方位的外交を展開し、ロシアなど旧ソ連諸国が参加するCIS諸国、中華人民共和国などアジア諸国、欧米などとも友好関係を持っている。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "日本との間も官民両面で友好関係を保っており、両国に大使館を持っている。ただし、第二次世界大戦後、ソ連対日参戦に伴うシベリア抑留を受けた日本人捕虜は首都タシュケントにも回され、中央アジア最大のバレエ・オペラ劇場たるナヴォイ劇場の工事などに従事したという過去もある。なお、この劇場は1966年のタシュケント地震の際にも全くの無傷という見事な仕事ぶりであった。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンは1991年12月にCISに参加した。しかし、1999年にCIS集団安全保障体制から脱退した。これ以降、ウズベキスタンは自国の安定に影響を及ぼすタジキスタンとアフガニスタン両国の紛争の解決の手助けをするためタジキスタンのCIS平和維持軍や国連により組織された平和維持軍に参加している。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "かつてはアメリカ合衆国とウズベキスタンの関係は良好であった。2004年にはアメリカ合衆国はウズベキスタンに軍事費の約4分の1に当たる5億USドルを援助、ウズベキスタン政府はアメリカ合衆国軍によるアフガニスタンへの空軍軍事作戦に際しカルシ・ハナバード空軍基地の使用を許可していた。ウズベキスタンはアメリカ合衆国の掲げる世界規模の対テロ戦争の積極的な支持者であり、アフガニスタンとイラクの両地域において支援作戦を展開していた。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンとアメリカ合衆国両国の関係はジョージアやウクライナで2000年代半ばに起きた「色の革命」(後にキルギスへも影響が拡大した)の後、悪化が進んだ。アメリカ合衆国がアンディジャンの流血事件に対して独立した国際調査団参加に名乗りを上げると、両国の関係は極めて悪化、大統領のイスラム・カリモフは外交路線を転換し、人権侵害への非難を支持しなかったロシアや中国に接近する姿勢を見せるようになった。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2005年7月後半、ウズベキスタン政府はアメリカ合衆国にアフガニスタン国境に近いカルシ・ハナバード空軍基地から180日以内に撤退するよう通告した。カリモフは9.11後の短期間、アメリカ合衆国に空軍基地使用を申し出ていた。ウズベキスタン人の中には、アンディジャン事件に対する抗議による、アンディジャン地区におけるアメリカ合衆国やイギリスの影響力増加への懸念が撤退命令につながったと考える者もいる。これもまたウズベキスタンと西洋諸国が対立した理由の一つに挙げられている。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタン南端のテルメズは、アムダリヤ川に架けられた「友好の橋」でアフガニスタンと結ばれている。ウズベキスタンはかつてイスラム過激派を支援しているとしてアフガニスタンのタリバーンと対立してきたが、ミルズィヤエフ政権は現実主義路線から対話へ転じ、2021年のタリバーンによる政権奪取後も貿易や電力供給など関係を維持している。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンは1992年3月2日より国際連合に加盟しているほか、欧州・大西洋パートナーシップ理事会(EAPC)、平和のためのパートナーシップ(PfP)、欧州安全保障協力機構(OSCE)のメンバーでもある。また、イスラム協力機構(OIC)や経済協力機構(ECO、中央アジアの5カ国とアゼルバイジャン、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンで構成)にも所属している。1999年、ウズベキスタンはGUAM (ジョージア、ウクライナ、アゼルバイジャン、モルドバ)のオブザーバーとなり、1997年に加盟してGUUAMとなったが、2005年に脱退している。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンは中露の主導する上海協力機構(SCO)のメンバーでもあり、タシュケントでSCO地方反テロ構造(RATS)を開催している。ウズベキスタンは2002年に設立されたユーラシア経済共同体(EAEC)に加盟している。EAECはウズベキスタン、タジキスタン、カザフスタン、キルギス、ロシア、ベラルーシから構成されている。CACOはキルギスとカザフスタンにより設立された中央アジア連合が発展改称する形で設立された組織であり、ウズベキスタンはEAECの創立メンバーとして加盟している。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2006年9月、UNESCOはイスラム・カリモフをウズベキスタンの豊かな文化や伝統を保存した功績により表彰した。批判はあるが、ウズベキスタンと西洋諸国の間の関係を発展させた一つの証として捉えられている。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2006年10月にはもう一つウズベキスタンが西洋諸国からの孤立から脱する出来事があった。欧州連合(EU)は人権や自由に関して対話を行うため、長きに渡り対立していたウズベキスタンに対して使節団を送る計画があると発表した。アンディジャン事件に関する政府の公式発表と非公式の数字どちらが正しいのかという点に関しては曖昧であったものの、EUは明らかにウズベキスタンに対する経済制裁を弱める意志を見せた。しかし、ウズベキスタンの人々の間では、ウズベキスタン政府はロシア連邦と密接な関係を維持しようとしており、2004年から2005年にかけてのウズベキスタンでの抗議はアメリカ合衆国やイギリスにより引き起こされたものであると一般的に考えられている。",
"title": "国際関係・外交"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタン軍は約65,000人の兵士を擁し、中央アジア最大規模の軍隊を持つ。軍事機構はその大部分をソビエト連邦軍トルキスタン軍管区部隊から受け継いでいるが、主に軽歩兵部隊や特殊部隊において改革を実行中である。ウズベキスタン軍の装備は現代的なものであるとはいえず、訓練の練度が統一されているとはいえず、領土の保全ミッションなどの作業に適しているとはいえない。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "政府は旧ソ連の軍備管理義務を継承し、非核保有国として核拡散防止条約に加盟、ウズベキスタン西部のヌクスとヴォズロジデニヤ島において、アメリカ国防脅威削減局(DTRA)による行動プログラムをサポートしている。ウズベキスタン政府はGDPの約3.7%を軍事費に当てているが、1998年以降はアメリカ合衆国の対外軍事融資(英語版)(FMF)その他の安全保障支援基金から融資を受けている。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2001年9月11日にニューヨークで起きたアメリカ同時多発テロ事件に続いて、ウズベキスタンはアメリカ中央軍がウズベキスタン南部にあるカルシ・ハナバード空軍基地への駐留を承認した。しかし、2005年のアンディジャン事件後、アメリカ合衆国が事件に対するウズベキスタン政府の対応を非難すると政府は態度を硬化させ、アメリカ合衆国軍にカルシ・ハナバード空軍基地から撤退するよう要求、2005年11月にアメリカ合衆国軍はウズベキスタン国内から撤退した。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2006年6月23日、ウズベキスタンは集団安全保障条約(CSTO)の正式なメンバーとなったが、 2012年6月にはCSTOから脱退している。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンは中央アジアに位置しており、全国土面積は447,400kmである。この国土面積は世界55位であり、人口は世界第40位である。CIS諸国中では総面積は第5位、人口は第3位となっている。主要都市としては、首都のタシュケントのほか、アンディジャン、ブハラ、サマルカンド、ナマンガン、ヒヴァなどがある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "同国は北緯37度から46度、東経56度から74度の地域に存在しており、国境の全長が6,221kmとなっている。東西の距離は1,425km、南北の距離は930kmである。北および北西地域はカザフスタンとの国境とアラル海に、南西部分はトルクメニスタンとの国境に、南東部分はタジキスタンとの国境に、北東部分はキルギスとの国境に接している。ウズベキスタンは旧ソ連領中央アジア5カ国で有数の面積を持つ国家であり、他の4国全てと国境を接する唯一の国家でもある。このほか、ウズベキスタンは南部150kmにわたりアフガニスタンと国境を接している。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンは乾燥した内陸国である。同国は世界に2つしか無い二重内陸国(もう一つはリヒテンシュタイン)であり、海へと出るためには国を2つ越える必要がある。加えて、海と繋がる河川がない「内陸流域」という特殊な環境にある。このため国土の10%にも満たない灌漑農業用地や河川流域のオアシスに似た土地で集中的に農業が行われている。残りの国土は広大な砂漠(キジルクム砂漠)と険しい山々で占められる。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンの最高点はスルハンダリヤ州とタジキスタンとの境界付近、ギッサール山脈にあるハズレット・スルタン山であり、標高は4643mである。タジキスタンの首都ドゥシャンベの北西部に存在するこの山はかつては第22回共産党大会峰と呼ばれていた。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタン共和国内の気候はその大部分が大陸性気候であり、平均降水量は年間100~200mmと非常に少ない。特に西部は雨が少なく、砂漠が広がっている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "このため人口密度は山岳地帯の東部の方が高く、土地の平坦な西部は低い。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "夏はかなり暑く、気温はしばしば40度(104°F)を超える。冬の平均気温は約-2度(28°F)だが、-40度(-40°F)まで下がる場合がある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "タシュケントの7月の平均最高気温は35.7度、1月の平均最低気温は-1.5度である。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "かつてアラル海は世界で4番目に大きい湖で、周辺地域の湿度を保ち乾燥した土地で農業が行える大きな要素となっていた。1960年代以降の10年間でアラル海の水の過剰利用が行われ、アラル海は元の50%にまで面積が縮小、水量も3分の1にまで低下した。信頼出来る調査結果もしくは概算データは各国公的機関や組織においてまだ十分に発表されておらず、情報の収集も進んでいない。現在も水の大部分は綿花や栽培に大量の水分が必要とされる作物栽培の灌漑用水として使用され続けている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "アラル海の縮小は、ソ連時代の農業政策により、綿花の過剰な生産が行われたことが原因の一つとして挙げられている。農業分野は国内で深刻化している水質汚濁や土壌汚染の加害者であり被害者でもある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "この環境破壊の危機の責任の所在は明らかであり、1960年代に自然改造計画によって国内の河川に大量にダムを建設し、アラル海へ流入する水量の減少と河川の水の濫用を推し進めた旧ソ連の科学者や政治家、そしてソビエト連邦崩壊後、ダムや灌漑システムの維持に十分な対策をせず、環境問題対策に十分な費用をかけてこなかったウズベキスタンの政治家にある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "アラル海の問題のため、特にアラル海に近いウズベキスタン西部にあるカラカルパクスタン地域では土壌に高い塩分濃度が検出されている上、重金属による土壌汚染が広がっている。また、国内の他の地域においても水資源のほとんどは農業に使用されており、その割合は約84%にのぼる。これは土壌の塩分濃度上昇に拍車をかけている。また、収穫量増加のため綿花農場で防虫剤や化学肥料を濫用したため、深刻な土壌汚染が発生している。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンは12の州(viloyat、ヴィラヤト)、1つの(自治)共和国(respublika、レスプブリカ)、1つの特別市(shahar、シャハル)に分かれる。",
"title": "地方行政区分"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "国際通貨基金(IMF)の統計によると、2017年の国内総生産(GDP)は665億ドル、一人当たりのGDPでは1,520ドルであり世界平均の20%に満たない水準である。2011年8月にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2.0ドル未満で暮らす貧困層は2010年で1,248万人と推定されており、国民の44.42%を占めている。近年は豊富な天然ガス関連の投資を多く受け入れており、比較的好調な経済成長を遂げている。通貨はスム。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "多くのCIS諸国の同じく、ウズベキスタンの経済はソビエト連邦時代の社会主義経済から資本主義経済への移行期であった初期に一旦減少し、政策の影響が出始めた1995年より徐々に回復している。ウズベキスタンの経済は力強い成長を示しており、1998年から2003年までの間は平均4%の経済成長率を記録、以降は毎年7~8%の経済成長率を記録している。ただし2017年は、通貨スムの複数為替レートの一本化などのミルジヨエフ大統領の改革の影響により5.3%である。IMFの概算によると、2018年のウズベキスタンのGDPは1995年時点の約4.8倍であり、購買力平価(PPP)換算で約5.9倍である。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンにおいて、一人あたりの国民総所得(GNI)は低く、2017年時点で2,000USドル、PPPは7,130USドルとなっている。PPPと比較した一人あたりのGNIの数字は世界187カ国中123位と低く、12のCIS諸国の中でウズベキスタンより下の値であるのはキルギスとタジキスタンだけである。経済的な生産は加工品ではなく生産品に集中している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンは独立後の1992年から1994年にかけて、年間1000%もの急激なインフレを体験している。IMFの助けを借りた経済安定化の努力が行われ、インフレ率は1997年に50%に減少、さらに2002年には22%にまで減少した。2003年以降、年間インフレ率は平均15%未満となっている。2004年の緊縮財政政策は結果としてインフレ率の大幅な減少につながり、インフレ率は3.8%に減少した(しかし、代わりにマーケットバスケット方式(英語版)による価格の上昇は約15%と概算されている。)2017年は、同年11月のガソリン価格、同年12月の法定月額最低賃金の引き上げを受け、約18.9%のインフレ率となっている",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンの主要金属資源は、金、ウラン、モリブデン、タングステン、銅、鉛、亜鉛、銀、セレンである。金埋蔵量1,700tで世界第12位、年間生産量102tで第10位、ウランの埋蔵量では世界トップ10に入り生産量2,400トンであり、世界第7位である。更に、ウズベキスタンの国営ガス会社ウズベクネフテガスは世界第15位の天然ガス生産量を誇り、年間450億mを産出している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタン国内においてエネルギー関連事業に大きな投資をしている企業としては中国石油天然気集団 (CNPC)、ペトロナス、韓国石油公社 (KNOC)、ガスプロム、ルクオイル、ウズベクネフテガスがある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "2018年時点において、ウズベキスタンは世界で第7位の綿花生産国であり、世界第9位の綿花輸出国であり、同時に世界第11位の金採掘国でもある。他に生産量の多い製品としては、天然ガス、石炭、銅、銀、タングステン、石油、ウランなどがある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "農業労働者はでウズベキスタン総労働人口の19.25%(2014年時点)にあたり、農業はGDP全体の約19.8%(2012年時点)を占め、そのなかでも綿花の輸出が産業の中心のひとつとなっている。。ウズベキスタンでは旧ソ連時代は60%の国民が農村部に居住していた。ソ連崩壊直後は農業従事者の割合は、全労働者数の30%前後で維持されていたが、人口増に対して農業従事者数は減少傾向にあり、2013年以降は20%を割っている。これはロシアやカザフスタンなどへの移民として農村の労働人口が流出していることが大きな要因として考えられる。また、公式発表によると就業率は高いとされているものの、特に地方で就業率は低く、少なくとも20%以上が失職中であると推定されている。綿花収穫期には、政府による綿花収穫の強制労働が依然として存在している。18歳未満の強制労働を禁止する法令があるにもかかわらず、一部地域では地方の役人によって子供たちが綿を収穫するために動員された。更には、綿花作業だけでなく建設、農業、及び公園清掃の強制労働を教師、学生、民間企業の従業員などに行わせた。ウズベキスタンの児童労働の使用はテスコやC&A、マークス&スペンサー、Gap、H&Mなどにより報告されており、これらの企業は綿花の収穫作業をボイコットしている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "独立達成後に多くの経済問題に直面したことで、政府は国による管理、輸入量の減少、エネルギー自給率の増加を軸とした進化のための改革戦略を採択した。1994年以降、国のコントロールを受けたメディアはこの「ウズベキスタン経済モデル」の成功を繰り返し喧伝しており、経済ショックや貧困、停滞を避けて市場経済へとスムーズに移行するための唯一の方法であると提案していた。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "漸進的な改革戦略は重要なマクロ経済や構造改革を一旦中止していることからも読み取れる。官僚の手の中にある状態は依然として官僚の経済に対する影響が大きいことを示している。汚職が社会に浸透しているだけでなく、さらに多くの汚職が行われるようになっている。2018年度におけるウズベキスタンの腐敗認識指数は180カ国中158位であった。2006年2月における国際危機グループによる報告によると、核となる輸出品、特に綿花、金、トウモロコシ、天然ガスから得られた収入はエリート支配層の少数の間にのみ還元され、人口の大多数には少量もしくは全く還元されない状況にあるとされている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによると、「政府は国の手でコントロールできないような独立した民間企業の発展を敵視している」。従って、中産階級は経済的、そして結果的には政治的に低い地位にある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "経済政策は外国企業による投資に反発する姿勢を見せており、CIS諸国において最も国民一人あたりの外国企業による投資額が低い。長年に渡り、ウズベキスタン市場に投資を行う外国企業に対する最大の障壁は通貨交換の困難さであった。2003年、政府は完全に通貨兌換性を保証するという国際通貨基金(IMF)の第8条の義務を承認した。しかし、国内で使用する通貨に対する厳しい制限や通貨交換の量に制限がかけられていることから、外国企業による投資の効果は減少していると考えられている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタン政府は高い関税を含む様々な方法で外国製品の輸入を制限している。地方の生産品を保護するため、非常に高い税金が課せられている。公式、非公式の関税が相まって、商品の実際の値段の1~1.5倍に相当する税金がかかることで、輸入品は事実上に値段に見合わない高い商品となっている。輸入代替は公式に宣言されている政策であり、ウズベキスタン政府は輸入品目におけるこのファクターが減少していることに誇りを持って経済報告を行なっている。CIS諸国はウズベキスタンの関税を公式に免除されている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "タシュケント証券取引所(共和国証券取引所、RSE)は1994年に取引を開始した。約1250のウズベキスタンのジョイント・ストック・カンパニーの株式や債券がRSEで取引されている。2013年1月時点において上場している企業の数は110に増加した。証券市場の発行済株式総数は2012年に2兆に達しており、証券取引所を通した取引に興味を持つ企業が増えていることからこの数字は急速に増大している。2013年1月時点における発行済株式総数は9兆を突破した。",
"title": "経済"
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"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンの対外的地位は2003年以降次第に強くなっている。金や綿花(ウズベキスタンの主要輸出製品である)の世界市場価格の回復、天然ガスやその他生産品の輸出量の増加、労働力移入人数の増加という様々な要因により、現在の収支は大幅な黒字に転じ(2003年~2005年の間ではGDPの9~11%)、金を含む外貨準備高は約30億USドルと2倍以上にまで増加している。",
"title": "経済"
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"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "2018年時点の外貨準備高は推計約289億USドルである。",
"title": "経済"
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"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "世界規模の銀行HSBCの調査によると、ウズベキスタンは次の10年間で世界でも有数の成長速度の速い国家(トップ26)になると予測されている。",
"title": "経済"
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"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンは、ソ連時代の計画経済によって綿花栽培の役割を割り当てられた過去があり、そのため近年になって鉱産資源の開発が進むまでは綿花のモノカルチャー経済に近い状態だった。その生産量は最高500万トンに達し、2004年度においても353万トンを誇る。しかしウズベキスタンは元来降水量が少なく綿花の栽培には向いていない土地であったため、近年においては灌漑元であるアラル海およびその流入河川の水量減少や塩害などに悩まされている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "また、綿花栽培に農地の大半を割いているため、各種穀物、果実、野菜類を産する土地を有しながら、その食料自給率は半分以下である。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンはエネルギー資源として有用な鉱物に恵まれている。ウズベキスタンの主要金属資源は、金、ウラン、モリブテン、タングステン、銅、鉛、亜鉛、銀、セレンであり、金埋蔵量1,700tで世界第12位、年間生産量102tで第10位、ウランの埋蔵量では世界トップ10に入り生産量2,400トンであり、世界第7位である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタン鉱物埋蔵量国家バランスによると、同国では、97の貴金属鉱床、38の放射性鉱物鉱床、12の非鉄金属鉱床、235の炭化水素鉱床(ガス及び石油鉱床を含む)、814の各種建材鉱床など、1,931の鉱床が発見されている(2017年1月1日時点)。現在、探査は10鉱種以上に関して行われており、数鉱種だった20年前に比べ探査範囲は拡大傾向にある。近年、探査が開始されたものや強化されているものは、鉄、マンガン、石炭、オイルシェール、一部のレアメタル、レアアース、非在来型の金・ウラン鉱床である。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "近年の鉱山開発は、国営企業であるNGMK (Navoi Mining and Metallurgical Combinat) (ウラン、金) 及びAGMK(Almalyk Mining and Metallurgical Complex) (銅、亜鉛、鉛、金)による生産設備の近代化や、アジア諸国(日中韓)との経済協力によって推進される傾向にある。また、韓国、中国、ロシアなどから調査・採掘分野への投資の動きが活発化しており、ウランやレアメタルを中心に協力拡大の可能性が注目されている。ウズベキスタンは世界第4位の金埋蔵量を誇る。407万トンの亜炭、250万トンの原油も採掘されている。鉱業セクターは輸出にも貢献しており、特産物の絹織物につぎ、エネルギー輸出が全輸出額の9.0%を占める>。その他の金属鉱物資源では、銀(生産量:約60.0千トン)のほか、小規模な銅採掘(生産量:80.4トン)が続いている。リン鉱石も産出する。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "シルクロードの中心地や、ユネスコの世界遺産の宝庫として、青の街サマルカンドや茶色の町ブハラ、ヒヴァ、シャフリサブス、仏教文化のテルメズなどが世界的に有名。ソ連からの独立後には歴史的遺構への訪問を目的とする各国からの観光客が急増し、それに伴い観光が外貨獲得源の1つとなった。これを受けて政府による観光客誘致が盛んに行われていることから、タシケントは海外のホテルチェーンの大規模ホテルが多く運営されている。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "ナヴォイ劇場は、1947年11月にアリシェル・ナヴォイ(ナヴォイー)生誕500周年を記念して初公開されている。日本人のシベリア抑留者の強制労働により建設されたことで知られている。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタン航空がタシュケント国際空港とアジアやヨーロッパの主要都市間を結んでおり、日本にも成田国際空港に週2便定期便を運航している。しかし運休も多く、スケジュール通りに動くか当日にならないと判明しないこともあり、またマイレージも独自のフライトのみでしか加算できないため、マニアックな人好みの航空会社となっている。タシケント国際空港にはアジアやヨーロッパから各国の航空会社が乗り入れており、ソ連時代より中央アジアにおけるハブ空港的な存在となっている。ウズベキスタン航空は、日本からウズベキスタンへの旅客輸送ではなく、イスタンブールやテルアビブなどタシュケント以遠の都市への旅客輸送がほとんどである為、国会でも問題視されたが、法律で禁止されていることではない。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "国内の移動にはウズベキスタン航空の国内線の他、バスや鉄道も国土の広い範囲をカバーしている。なお鉄道はその多くが旧ソ連時代に建設されたものであり、老朽化が進んだ他、各地方を結ぶ基幹路線のいくつかは近隣国を経由しており、これを解消するために日本政府が円借款を行い、鉄道旅客輸送力の増強および近代化事業を進めている。近年、タシュケント・サマルカンド高速鉄道も運行している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンの首都であり国内最大の都市であるタシュケントには1977年にタシュケント地下鉄が整備され、ソ連崩壊による独立後10周年に当たる2001年には地下鉄が3線にまで増加した。ウズベキスタンは中央アジアで最も早く地下鉄が整備された国であり、2013年時点で地下鉄が存在する中央アジアの都市はカザフスタンのアルマトイとタシュケントの2つのみである。駅にはそれぞれ統一されたテーマが設けられており、そのテーマに沿った内装が施されている。例えば、1984年に建設されたウズベキスタン線の「コスモナフトラル駅」は宇宙旅行がテーマとなっており、駅構内はウズベキスタン国内出身のソビエト連邦の宇宙飛行士、ウラジーミル・ジャニベコフの業績を含めた人類の宇宙探査の様子が描かれており、ウラジーミル・ジャニベコフの銅像が駅入口付近に建設されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "タシュケントには市営のトラムやバスが運行されている他、登録承認済み、非承認にかかわらず多くのタクシーが走行している。ウズベキスタンには現代的な自動車を生産する自動車工場がある。ウズベキスタン政府と韓国の自動車企業、韓国GM(旧称:大宇自動車)により設立されたウズデウオート(現在はGM傘下に入りGMウズベキスタンと改称している)が国内のアサカで大規模な自動車生産を行なっている。政府はトルコのコチュ財閥による投資を受けてサムコチュアフトを設立、小型バスやトラックの生産を開始した。2007年には日本のいすゞ自動車といすゞのバスやトラックを生産を開始した。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "鉄道はウズベキスタン国内の多くの街を結ぶと共に、キルギスやカザフスタンなど旧ソ連領域内にあった中央アジアの隣国へも運行されている。更に、独立後2種類の高速鉄道が導入された。2011年9月にはタシュケントとサマルカンドを結ぶタシュケント・サマルカンド高速鉄道の運行が開始された。この高速鉄道の車輌にはスペインの鉄道車両メーカータルゴにより制作されたタルゴ250が使用されており、「アフラシャブ号 (Afrosiyob)」と呼ばれている。初の運行は2011年8月26日に開始された。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンにはソビエト連邦時代にタシュケント・チカロフ航空生産工場(ロシア語: ТАПОиЧ)と呼ばれたタシュケント航空生産協会(英語版)という大規模航空機生産工場がある。この工場は独ソ戦時に建設され、当時の生産施設はソビエト連邦と敵対していたナチス・ドイツの軍隊による接収を避けるためソビエト連邦南東部に当たる中央アジアへと疎開してきたものであった。1980年代後半まで、工場はソビエト連邦国内において航空機生産をリードする工場の1つであったが、ソビエト連邦崩壊とともに生産設備は老朽化、多くの労働者が解雇された。現在は年間数台の航空機を生産するのみとなっているが、ロシアの企業による関心により生産能力強化計画があるとも報じられている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンは中央アジアで最も人口の多い国であり、2020年時点の人口は3350万人であった。2012年時点の人口29,559,100人は中央アジア全体の人口の約半数に相当する。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンの平均年齢は低く、全人口の約23.19%は14歳以下である(2020年の推定)。人口推定によると、主要民族のウズベク人が全人口の84.3%を占める。その他、4.8%のタジク人のほか、カザフ人(2.4%)、ロシア人(2.1%)など多くの少数民族が住む(2020年)。ソ連時代に、ウズベク語を話すことのできるタジク人はウズベク人と分類されたため、タジク人は実際には相当数いるものとされる。実際には、人口の20~30%を占めているという調査もある。ソ連時代にはロシア人の割合は12.5%(1970年)を占め、タシュケントの人口の半数近くがロシア人・ウクライナ人であったが、現在はウズベク民族主義や経済的な理由により急減している。人名はソ連時代の名残りからロシア語風の姓名が多く見受けられる。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "タジク人の割合に関しては解釈の相違が見られる。ウズベキスタン政府による公式の数字は5%であるが、この数字は過小評価された数字であるとされており、西洋の学者にはタジク人の割合を20%~30%であると見積もる者もいる。公式の統計でウズベク人とされている者の中には中央アジアのトルコ・ペルシア人であったサルト人のような他の民族も含まれている。オックスフォード大学による近年の遺伝子系図テストを用いた研究によると、ウズベク人にはモンゴル人とイラン人の遺伝子混合が見られる。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンの少数民族としては、1937年から1938年にかけて、ヨシフ・スターリンにより極東ソビエトの沿海州から中央アジア地域へと強制移住させられた朝鮮民族が約20万人ほど在住しており、「高麗人」と自称している。また、ドイツ系のヴォルガ・ドイツ人やアルメニア系のウズベキスタン人もタシュケントやサマルカンドなどの都市部に多い。全人口の約88%がムスリム(ほとんどがスンナ派であり、シーア派は5%となっている)であり、東方正教会信者が9%、その他が3%となっている。アメリカ国務省による2004年の報告によると、0.2%が仏教(ほぼすべてが高麗人)を信仰している。ブハラ・ユダヤ人は1000年以上前に中央アジアへと移り住んできたユダヤ人の民族集団であり、主にウズベキスタンに居住している。1989年時点では94,900人のユダヤ人がウズベキスタン国内に住んでいた(全人口の約0.5%に相当)が、ソビエト連邦崩壊後ブハラ・ユダヤ人の多くはアメリカ合衆国、ドイツ、イスラエルといった他の国々へと出国、2007年時点で残っているブハラ・ユダヤ人の数は5,000人にも満たない。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "ロシア系ウズベキスタン人は全人口の約2.1%を占める。ソビエト連邦時代にはロシア人とウクライナ人が首都タシュケントの全人口の半数以上を占めていた。1970年の調査結果によると、全人口の12.5%に当たる約150万人のロシア人が国内に住んでいた。ソビエト連邦崩壊後、ロシア系の人々は主に経済的な理由からその多くが他国へと移住していった。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "1940年代のクリミア・タタール人追放(クリミア・タタール語: Qırımtatar sürgünligi)で、クリミア・タタール人はドイツ人、チェチェン人、ギリシア人、トルコ人、クルド人、その他の民族とともに中央アジアへと強制移住させられた。約10万人のクリミア・タタール人が現在もウズベキスタン国内に居住している。タシュケントにおけるギリシア系ウズベキスタン人(英語版)の数は1974年の35,000人から2004年には12,000人にまで減少している。メスヘティア・トルコ人の大多数は1989年6月にフェルガナ盆地で起きたポグロムの後他国へと出国した。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "少なくともウズベキスタンの労働者の10%が国外へと流出しており、そのほとんどがロシアやカザフスタンで働いている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンの15歳以上の識字率は100%(2016年の推定)であり、これにはソビエト連邦時代の教育制度が大きく影響していると考えられている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "公用語はウズベク語のみと制定されている。ウズベク語はラテン文字表記だが、キリル文字での表記も行われている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "ウズベク語母語話者は全体の74.3%を占めるにすぎず、その他ロシア語、タジク語が使われている。ソ連時代まではロシア語も公用語とされていたが独立後に外された。しかし、ロシア語は全人口の14.2%に当たる人々が第一言語として使用しており、その他の人々もその多くがロシア語を第二言語として使用しているなど異民族間の共通語・準公用語的な地位にある。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "サマルカンドやブハラ、シャフリサブスなどのウズベキスタン南部地域、フェルガナ盆地地域、シルダリヤ川沿岸地域ではタジク語が広範囲にわたって話されており、タジク語圏地域となっている。ウズベキスタンではタジク語教育は禁止され、家庭内などでの使用に限定されている。そのため、タジク語話者はほとんどがウズベク語との完全なバイリンガルでもあり統計上ではタジク語の割合は4.4%に過ぎないが、全人口の20%~30%前後がタジク人とされるために、タジク語話者も同程度いるものと推測される。このことから、ウズベキスタンはタジキスタンに次ぐタジク語国家ともいえる。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "カラカルパクスタン共和国ではカラカルパク語とウズベク語の両方が公用語となっている。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "その他、ブハラ語、カラカルパク語、カザフ語、キルギス語、クリミア・タタール語、高麗語なども話されている多言語国家である。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "2009年のアメリカ国務省による調査によると、イスラム教はウズベキスタンの主要宗教であり、人口の約90%がムスリムである。また、5%がロシア正教会を信仰しており、その他が5%となっている。しかし、ピュー研究所による2009年の調査結果によると、ウズベキスタンの全人口の約96.3%がムスリムとなっている。また、約93,000人のユダヤ教信者が存在しているとされている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "国内のイスラム教信者の割合は高いものの、イスラム教の実践は一枚岩からは程遠い。信仰については、20世紀を通して改革や世俗化、イスラム教の伝統との衝突を通して中央アジアで様々な方法が実践されているが、このような混乱した状況が世界へと発信され、定着することとなった。ソビエト連邦の崩壊により多くの人が予想したようなイスラム原理主義の台頭を招くことはなく、衣食に関する戒律は緩やかであり、基本的に女性は頭髪や足首を隠さない。しかし、ブハラなどイスラム色の強い都市では女性がパンツ(ズボン)を履くことに対して良く思わない傾向があり、多くの女性はスカートを履いている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "信教の自由の権利を保証しているものの、ウズベキスタンは国によって認可されないあらゆる宗教活動を禁じている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "同国の結婚式は「トゥイ」(to'y)と呼ばれており、多くの慣習が存在する。国民にとって結婚式は慶事の中で重要なものであり、どの慶事よりも華やかに祝う。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "ソ連崩壊後から、現代的な結婚式に替わりつつあるが、伝統を守っている人も多い。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタン国内における15歳以上の識字率は約99%と高いものの、教育プログラムを推進する際に深刻な予算不足に陥っている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "上記の通り、同国は高い識字率を誇り、15歳以上の識字率は約99.3%であるが、15歳以下の識字率は76%にまで落ち込み、3~6歳の識字率は20%となっている。この大きな要因として、ウズベキスタンの教育方法が挙げられており、未来には識字率が下がっていくと予測されている。学生は月曜日から土曜日まで年間を通して学校に通い、中学校までが義務教育となっている。中学校卒業後、学生は職業専門学校もしくは通常の高校へと進学することが多い。ウズベキスタンには2つのインターナショナルスクールがあり、2つともタシュケントにある。ブリティッシュ・スクールは小学生の、タシュケント・インターナショナルスクールは12歳以上の学生に対する指導を行なっている。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "1992年に制定された教育法に沿って教育カリキュラムの改定作業が実行されたが、教育現場の教材などの不足が発生、カリキュラムの改定作業は遅々として進んでいない。この現象の大きな要因として、教師に対する賃金の低さ、政府による学校や教材などのインフラ整備予算の不足が挙げられている。これにはラテン文字へと文字表記を変更したことにより、キリル文字で記されていた過去の教材や資料が使用できなくなったことも関係している。また、教育システムが崩壊したことで、裕福な家庭が自身の子供を出席や入学試験なしに高いレベルの学校に入れてもらう目的で教師や学校関係者に賄賂を送る事態も横行している。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンの大学は毎年約60万人の卒業生を出しているが、大学卒業生の一般的な水準や高等教育機関内の全体的な教育レベルはそれほど高くない。ウェストミンスター国際大学タシュケント校は英語による講義が設けられた国内初の大学である。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 113,
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"text": "国内には16の精神病院と2,834の主要な地方医療機関が存在する。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタンでは犯罪統計が公表されていない為、実際の犯罪の発生状況を正確に把握することは困難となっているが、一般的には経済的困窮や貧困を背景に金銭や貴金属ならびにスマートフォンなどの高級家電を狙う窃盗・強盗などが多発していると言われている。",
"title": "治安"
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{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "また、汚職に関してはこれを防止するための法律こそ整備されているものの、法律の施行は非常に弱いものとなってしまっているのが現状である。同国における汚職は政府や社会、企業に至るほぼ全ての分野に拡がるレベルで存在している。",
"title": "治安"
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"text": "ウズベキスタン共和国憲法では「ウズベキスタン共和国の民主主義は個人の生命、自由、名誉、尊厳、その他の固有の権利を至上の価値とする基本的な人道にもとづく」と宣言している。",
"title": "治安"
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{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "人権に対する公的な姿勢については「人権の確立と奨励に関するウズベキスタン共和国政府の取り組み」という覚書に要約されており、以下のように記述されている。「政府はウズベキスタン市民の人権を保護、保証するためにあらゆる手段を用いる。ウズベキスタンは人道的な社会の実現のため、継続的に法改正を行っていく。人々の基本的人権を規定するための300以上の法案が議会を通過した。例として、オンブズマン事務所は1996年に設立された。2005年8月2日、大統領のイスラム・カリモフは2008年1月1日よりウズベキスタンにおいて死刑を廃止する法令に署名した。",
"title": "治安"
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"text": "しかし、国際ヘルシンキ人権連盟(英語版)(IHF)、ヒューマン・ライツ・ウォッチ、アムネスティ・インターナショナルなどの非政府組織の人権団体はアメリカ合衆国国務省や欧州連合理事会とともに、ウズベキスタンを「市民権が制限された権力主義国家」と定義しており、「あらゆる基本的人権に対する広範囲の侵害」が存在することに重大な懸念を表明している。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 119,
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"text": "報告によると、最も広範囲で見られる人権侵害は拷問、恣意的な逮捕、そして、信教の自由、言論の自由、出版の自由など様々な自由の制限があげられる。また、地方ではウズベキスタンの女性に対して強制不妊手術を行うことが政府によって容認されているとの報告がある。また、宗教団体の会員、独立したジャーナリスト、人権活動家や禁止された敵対政党の党員を含む政治活動家などに対する人権侵害が頻繁に行われているとも報告されている。",
"title": "治安"
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"paragraph_id": 120,
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"text": "2005年のアンディジャン事件では結果として数百人の死亡者が出たが、この事件はウズベキスタン国内の人権侵害の歴史の中でも大きな事件となった。",
"title": "治安"
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{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "アンディジャン事件に関する深い懸念がアメリカ合衆国、欧州連合、国連、OSCE議長、OSCE民主主義人権研究事務所によって示され、これらの機関はウズベキスタン政府から独立した調査を要求した。ウズベキスタン政府が人命を不法に奪い、市民の集会の自由と表現の自由を否定していることにも非難が出ている。政府はこれらの非難を真っ向から否定した上で、必要最小限の武力を用いて反テロ活動を展開したにすぎないと主張した。さらに、政府の一部官僚は「ウズベキスタンに対して情報戦が仕掛けられている」と述べ、「アンディジャンの人権侵害」はウズベキスタンの内政に干渉するのに都合よい口実として、ウズベキスタンの敵対勢力がでっちあげたものであると主張した。",
"title": "治安"
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{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "タジク人が彼らの母語であるタジク語を学校で教えることをウズベキスタンは禁じており、タジク語(もしくはペルシア語)の文学作品が破壊された例が存在する。",
"title": "治安"
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{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "ウズベキスタン料理は国内の農業に大きな影響を受けている。ウズベキスタンでは穀物の収穫高が多いことから、パンや麺はウズベキスタン料理において重要な地位を占めており、時に「ヌードル・リッチ(noodle rich、麺が豊富)」と形容されることがある。羊肉はウズベキスタン国内でヒツジの放牧が盛んであることから一般的に販売されている肉であり、様々なウズベキスタン料理に使用されている。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 124,
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"text": "ウズベキスタンの国民食はプロフ(パラフ、パラウ、オシュとも呼ぶ)であり、米、肉、ニンジンやタマネギなどの野菜を使用して作られる料理で、主菜として供される。プロフはトルコから中央アジアに伝わった料理で、フランス料理のピラフに似ており、その元になった料理である。オシ・ナハルは通常午前6時から9時までに提供される朝のプロフであり、結婚式などの慶事の際には集まった客の分まで大量に作られる。他に有名なウズベキスタン料理としては以下のようなものがある。シュルパ(シュルヴァやシャルヴァとも呼ばれる)は脂肪の多い肉(通常は羊肉を用いる)の大きな塊と新鮮な野菜から作るスープである。ナリン(英語版)やラグマンは麺料理であり、スープとしても主菜としても出されることがある。マンティやチュチュヴァラ(英語版)、サムサは小麦粉で作った生地に肉などの具を詰めた後、蒸す、焼く、揚げるなどした餃子に近い料理である。肉と野菜のシチューに近いディムラマや様々なカバブは通常、主菜として供される。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 125,
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"text": "緑茶は一日を通じ飲まれることが多いウズベキスタンの国民的な飲料である。緑茶を提供する喫茶店(チャイハナ)は文化的にも重要な位置づけにある。他にもタシュケント付近では紅茶などの茶が出されることも多いが、緑茶や紅茶に牛乳や砂糖を入れて飲むようなことはしない。茶は必ず食事とともに提供されるが、ホスピタリティの一環として、客を招いた際には必ず緑茶もしくは紅茶を出す習慣がある。冷たいヨーグルト飲料であるアイランは夏季には人気があるものの、茶に代わる地位は獲得していない。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 126,
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"text": "国内に多いムスリムにとって、飲酒は本来禁忌であるが、戒律が緩いため街中では酒が売られており、政府も輸出・観光産業振興のためワインの生産奨励や販売規制緩和を政策としている(ただし、ソ連崩壊後のイスラム教復興の影響を受けた若い世代はあまり飲酒しない)。ブドウを含めて果樹が豊富なウズベキスタンにおけるワイン醸造は、イスラム化以降は下火になったものの、紀元前に遡る歴史があると推測されている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 127,
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"text": "ウズベキスタン国内には14のワイナリーがあり、国内現存最古かつ最も有名なワイナリーであるサマルカンド・ワイナリー(ホブレンコ・ワイナリー(Khovrenko Winery))はサマルカンドで1868年、ロシア人実業家のドミトリー・フィラートフにより創業された。サマルカンドのワイナリーではグリャカンダス(Gulyakandoz)、シリン、アレアティコ、カベルネ・リカノー(Kabernet likernoe)など、地方のブドウを使用した様々な種類のデザートワインを生産している。他にも、バギザカン、スルタンなどのブランドがあり、ドライタイプのものも近年日本にも輸入されるようになった。ウズベキスタンのワインはロシアをはじめとするNIS諸国に輸出されているほか、国際的な賞も受賞している。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 128,
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"text": "中央アジアの伝統音楽の形式の1つにシャシュマカームがあり、これは当時文化の発信地であったブハラで16世紀後半に生まれたものである。シャシュマカームはアゼルバイジャンのムガームやウイグルのムカーム(英語版)と非常に密接な関係にある。シャシュマカームという名前は「6つのマカーム」を意味し、イランの伝統音楽と同じく、6つの異なる旋法が6つの節に組み込まれた音楽であることからその名がついた。スーフィーが語りだす間奏では音楽が中断され、低音で吟じ始めた後で次第に高音になりクライマックスを過ぎると再び元の低音に戻ることが多い。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 129,
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"text": "バズムや結婚式のような行事に出席する聴衆の間ではフォーク・ポップスタイルの音楽は人気がある。ウズベキスタンの伝統音楽はポップミュージックの形式とは大幅に異なっている。多くの場合、男性同士の間で行われる朝夕の会合において、1人もしくは2人の音楽家の演奏を聞くことが多い。ウズベキスタンの伝統音楽として有名なものにシャシュマカームがある。裕福な家庭によるミュージシャンへの大規模な支援が行われており、パトロンとなる彼らはシャシュマカームの演奏などすべての代金を負担している。詩と音楽は互いを引き立たせ、いくつかの楽曲では、1つの曲に2言語が取り入れられていることもあった。1950年代には、フォーク・ミュージックは次第に人気がなくなり、ラジオで流す曲のジャンルとして禁止令を受けた。これらの曲は完全に排除・衰退したわけではなかったが、「封建音楽」として名称を変えることとなった。禁止令が出されていたものの、フォーク・ミュージックの演奏グループは独自の方法で音楽の演奏を続けており、個人の間で次第に広まっていった。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 130,
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"text": "ウズベキスタンにおける現代美術館を代表するものとして、2004年に設立されたウズベキスタン美術館(英語版)が知られている。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 131,
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"text": "振り替え休日は採用されていない。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 132,
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"text": "上記の他、イスラム教に基く祝祭日がある。ヒジュラ暦に従って制定されるため、グレゴリオ暦では移動祝日となる。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 133,
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"text": "1991年にウズベキスタンが独立する以前、ウズベク・ソビエト社会主義共和国はソ連の一員としてサッカーソビエト連邦代表やラグビーソビエト連邦代表(英語版)、アイスホッケーソビエト連邦代表(英語版)、バスケットボールソビエト連邦代表、ハンドボールソビエト連邦代表など、各スポーツのソ連代表チームに選手を送り出していた。ソビエト連邦の崩壊後、同国はサッカーウズベキスタン代表やラグビーウズベキスタン代表(英語版)、フットサルウズベキスタン代表やバスケットボールウズベキスタン代表などの代表チームを結成し、国際大会に派遣している。",
"title": "スポーツ"
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{
"paragraph_id": 134,
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"text": "国内には国際クラッシュ協会の本部がある。クラッシュはウズベキスタンの国技であり、現在スポーツとして行われているクラッシュはウズベキスタンの伝統的な格闘技であったクラッシュを国際化・現代化したものである。また、カヌースプリント競技のミカエル・コルガノフ(英語版)はK-1 500mにおいて世界王者になったことがあるほか、オリンピックで銅メダルを獲得している。体操競技のアレクサンデル・シャティロフ(英語版)はゆかで銅メダルを獲得している。",
"title": "スポーツ"
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{
"paragraph_id": 135,
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"text": "ウズベキスタン国内でサッカーは圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1992年にプロサッカーリーグの「ウズベキスタン・スーパーリーグ」が創設され、全14クラブが所属している。リーグの最多優勝クラブはパフタコール・タシュケントである。ウズベキスタンサッカー連盟はアジアサッカー連盟(AFC)に加盟しており、AFCチャンピオンズリーグなどのAFCが主催する国際大会に出場している。AFCカップの2011年大会において、ナサフ・カルシが同国サッカー界初の国際大会優勝を達成している。",
"title": "スポーツ"
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"paragraph_id": 136,
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"text": "サッカーウズベキスタン代表はFIFAワールドカップの本大会への出場歴はないものの、AFCアジアカップの2011年大会では4位に躍進するなど、アジア地域の大会においては好成績を残すこともある。また、U-23代表はAFC U-23選手権2018で初優勝を飾っており、U-20代表も自国開催となったAFC U-20アジアカップ2023で初優勝を遂げている。さらに近年では、エルドル・ショムロドフがイタリア・セリエAでプレーしている。",
"title": "スポーツ"
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"paragraph_id": 137,
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"text": "テニスもサッカーに次いで人気のスポーツであり、特に1991年にウズベキスタンが独立して以降人気が出た。国内のテニスを統括する団体、ウズベキスタンテニス連盟(英語版)(UTF)は2002年に設立された。首都のタシュケントでは毎年タシュケント・オープンというWTAの国際テニストーナメントが開催されている。タシュケント・オープンは1999年に開始され、屋外のハードコートを使用して行われている。同国で実績のある有名テニス選手としては、デニス・イストミンやアクグル・アマンムラドワがいる。",
"title": "スポーツ"
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"paragraph_id": 138,
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"text": "ウズベキスタンは自転車競技選手、ジャモリディネ・アブドヤパロフの故郷である。ツール・ド・フランスで三回の区間優勝を果たしており、いずれの回もマイヨ・ヴェールを勝ち取っている。アブドヤパロフはツアーもしくは一日制のレースで、先頭集団が一塊になってゴールに向かう際に優勝を勝ち取ることが多く、しばしば最後の数kmで「スプリント」をかけるが、この際に川が蛇行するように左右に揺れながら走行を行うため、集団で走る他の競技者からは接触などの危険が高まり、危ない選手であるとみなされていた。この走行スタイルから、彼には「タシュケントの虎」というニックネームがついている。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 139,
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"text": "アルトゥール・タイマゾフは2000年に開催されたシドニー五輪でウズベキスタンに初のレスリングのメダルをもたらした他、アテネオ五輪、北京五輪、ロンドン五輪と3大会に渡り男子120kg級で金メダルを獲得している。ルスラン・チャガエフは同国を代表するWBAのプロボクサーである。彼は2007年にニコライ・ワルーエフを破ってWBAタイトルを奪取した、チャガエフは2009年にウラジミール・クリチコに敗れるまで2回王座防衛を果たした。",
"title": "スポーツ"
}
] |
ウズベキスタン共和国、通称ウズベキスタンは、中央アジアに位置する共和制国家。中央アジアの二重内陸国であり、北はカザフスタン、北東はキルギス、南東はタジキスタン、南はアフガニスタン、南西はトルクメニスタンが存在する。首都はタシュケントで、最大の都市でもある。
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{{基礎情報 国
|略名 =ウズベキスタン
|日本語国名 =ウズベキスタン共和国
|公式国名 ='''{{Lang|uz|Oʻzbekiston Respublikasi}}'''<br>'''{{Lang|uz|Ўзбекистон Республикаси}}'''
|国旗画像 =Flag of Uzbekistan.svg
|国章画像 =[[画像:Coat of Arms of Uzbekistan.svg|100px|ウズベキスタンの国章]]
|国章リンク =([[ウズベキスタンの国章|国章]])
|標語 ={{lang|uz|Oʻzbekiston kelajagi buyuk davlat}}<br />([[ウズベク語]]:ウズベキスタン、偉大な未来を持つ国)
|位置画像 =Uzbekistan (orthographic projection).svg
|公用語 =[[ウズベク語]]
|首都 =[[タシュケント]]
|最大都市 =タシュケント
|元首等肩書 =[[ウズベキスタンの大統領|大統領]]
|元首等氏名 =[[シャフカト・ミルジヨエフ]]
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|首相等氏名 ={{ill2|アブドゥラ・アリポフ|uz|Abdulla Oripov (siyosatchi)|en|Abdulla Aripov}}
|面積順位 =55
|面積大きさ =1 E11
|面積値 =447,400<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/uzbekistan/data.html#section1 |title=ウズベキスタン共和国基礎データ |publisher=[[日本国外務省]] |accessdate=2018-11-05 }}</ref>
|水面積率 =4.9%
|人口統計年 =2022
|人口順位 =47
|人口大きさ =1 E7
|人口値 =31,104,937<ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/uzbekistan/ |title=Uzbekistan |publisher=[[ザ・ワールド・ファクトブック]] |language=en |accessdate=2022年8月8日}}</ref>
|人口密度値 =69.5
|GDP統計年元 =2020
|GDP値元 =602兆5514億<ref name="economy">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=927,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database, October 2021|publisher = [[国際通貨基金|IMF]]|date=2021-10|accessdate=2021-10-31}}</ref>
|GDP統計年MER =2020
|GDP順位MER =76
|GDP値MER =599億2800万<ref name="economy" />
|GDP MER/人 =1,767.493<ref name="economy" />
|GDP統計年 =2020
|GDP順位 =62
|GDP値 =2647億6800万<ref name="economy" />
|GDP/人 =7,808.919<ref name="economy" />
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|建国年月日 =[[ソビエト連邦]]より<br/>[[1991年]][[9月1日]]
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|通貨コード =UZS
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|国歌 =<br>[[ウズベキスタン共和国国歌|{{lang|uz|O‘zbekiston Respublikasining Madhiyasi}}]]{{uz icon}}<br>''ウズベキスタン共和国国歌''<br><center>[[File:National Anthem of Uzbekistan (Instrumental).ogg]]<center>
|ISO 3166-1 = UZ / UZB
|ccTLD =[[.uz]]
|国際電話番号 =998|注記 =
|}}
'''ウズベキスタン共和国'''(ウズベキスタンきょうわこく、{{Lang-uz|Oʻzbekiston Respublikasi}})、通称'''ウズベキスタン'''は、[[中央アジア]]に位置する[[共和制]][[国家]]。[[中央アジア]]の[[二重内陸国]]であり、北は[[カザフスタン]]、北東は[[キルギス]]、南東は[[タジキスタン]]、南は[[アフガニスタン]]、南西は[[トルクメニスタン]]が存在する。首都は[[タシュケント]]で、最大の都市でもある。
== 概要 ==
ウズベキスタンは[[チュルク語族|テュルク語圏]]の一部であり、[[テュルク評議会]]、[[テュルク文化国際機関]]、{{仮リンク|テュルク語圏諸国議会|en|TURKPA}}のメンバーでもある。[[国連]]、[[WTOL-TV|WTO]]、[[独立国家共同体|CIS]]、[[上海協力機構]](SCO)、[[ユーラシア経済連合]]、[[集団安全保障条約|CSTO]]、[[OSCE]]、[[イスラム協力機構]]などの国際機関に加盟している。
同国は様々な民族によって構成されている[[多民族国家]]で、6つの独立した[[チュルク系民族|トルコ系]]国家の一つに数え上げられる。[[世俗国家|世俗的な国家]]であり、[[大統領制]]の[[立憲主義|立憲政治]]が敷かれている。
国内の主要民族は[[ウズベク人]]で、総人口の約83%を占める。主な少数民族としては、[[ロシア人]](2%)、[[タジク人]](4~30%)<ref name="cornellcaspian.com"/><ref name="Foltz"/><ref name="Karl Cordell 1999. pg 201"/><ref>Lena Jonson, "Tajikistan in the New Central Asia", Published by I.B.Tauris, 2006. p. 108: "According to official Uzbek statistics there are slightly over 1 million Tajiks in Uzbekistan or about 4% of the population. The unofficial figure is over 6 million Tajiks. They are concentrated in the Sukhandarya, Samarqand and Bukhara regions."</ref>、[[カザフ人]](3%)、[[タタール人]](1.5%)、[[カラカルパク人]](2%)などがいる。ロシア人やその他の少数民族が他国へと移住し、ソビエト連邦時代に他国に居住していたウズベク人がソ連崩壊に伴う独立回復後にウズベキスタンへ帰国していることから、同国内に住むウズベク人以外の民族の割合は減少傾向にあるとされている。
ウズベキスタンは12の地域(ヴィラヤット)、[[タシケント|タシュケント]]市、1つの自治共和国[[カラカルパクスタン共和国|カラカルパクスタン]]で構成されている。また、[[NIS諸国]]の一つにも数えられている。
国内では[[ウズベク語]]が主に話されているが、[[ロシア語]]も共通語として使われている。宗教は[[イスラム教]]が主流であり、ウズベク人の多くはイスラム教[[スンナ派]]である。
非政府の人権団体はウズベキスタンを「市民権を制限した権威主義国家」と定義しているが、独裁者[[イスラム・カリモフ]]の死後、[[シャフカト・ミルジヨエフ]]政権下で大きな改革が行われている。この改革により、隣国のキルギス、タジキスタン、アフガニスタンとの関係は劇的に改善された。2020年の国連報告書では、国連の持続可能な開発目標の達成に向けて多くの進展が見られる。
ウズベク経済は[[市場経済]]への移行が徐々に進んでおり、対外貿易政策も輸入代替を基本としている。2017年9月、同国通貨は市場レートで完全に兌換可能となった。ウズベキスタンは、綿花の主要な生産国であり、輸出国でもある。ソ連時代からの巨大な発電施設と豊富な天然ガスの供給により、ウズベキスタンは中央アジア最大の電力生産国となっている。2018年から2021年にかけて、共和国は[[スタンダード・アンド・プアーズ]](S&P)および[[フィッチ・レーティングス|フィッチ]]からBB-の格付けを受けた。[[ブルッキングス研究所]]が示す強みとしては、ウズベキスタンに大きな[[流動資産]]、高い[[経済成長]]、低い[[公債|公的債務]]があることである。
=== 経緯 ===
現在のウズベキスタンへの最初の移住者は[[スキタイ人]]と呼ばれる東イランの遊牧民で、フワラズム(紀元前8〜6世紀)、[[バクトリア]](紀元前8〜6世紀)、[[ソグディアナ]](紀元前8〜6世紀)、[[フェルガナ]](紀元前3世紀〜紀元前6世紀)、マルギアナ(紀元前3世紀〜紀元前6世紀)に王国を建設したと記録されている。この地域はイランの[[アケメネス朝]]帝国に組み込まれ、[[マケドニア]]の支配を経て、イランの[[パルティア帝国]]、後に[[サーサーン朝]]帝国に支配され、7世紀にイスラム教徒が[[ペルシア]]を征服するまで続いた。初期イスラム教の征服とその後のサマニード帝国の支配により、現地の支配階級を含むほとんどの人々がイスラム教の信奉者に改宗した。この時代、[[サマルカンド]]、[[ヒヴァ]]、[[ブハラ]]などの都市は、[[シルクロード]]によって豊かになり始め、[[ムハンマド・アル=ブハーリー|ムハンマド・アル・ブハーリー]]、アル・ティルミーディ、アル・クワリズミー、[[ビールーニー|アル・ビルニ]]、[[イブン・スィーナー|アヴィセンナ]]、[[ウマル・ハイヤーム]]など、[[イスラーム黄金時代]]を代表する人物が出現した。
13世紀、[[モンゴル帝国]]の侵攻により、クワラズミー王朝と中央アジア全体が壊滅し、その後、この地域はトルコ系民族の支配を受けるようになった。14世紀、ティムール帝国を樹立した[[ティムール]](タメルラン)は、サマルカンドを首都とするトゥラン最高首長となり、[[ウルグ・ベク|ウルグ・ベグ]]の支配下で科学の中心となり、ティムール・ルネサンスを生んだ。
16世紀、ティムール朝の領域は[[シャイバーニー朝|ウズベク・シャイバーニー朝]]に征服され、権力の中心はブハラに移った。この地域は、[[ヒヴァ・ハン国]]、[[コーカンド・ハン国]]、[[ブハラ・ハン国]]の3つの国に分かれた。[[バーブル|バーブル帝]]による東方への征服は、[[ムガル帝国]]としてインドの新たな侵略の基礎となった。
19世紀には中央アジア全域が徐々にロシア帝国に組み込まれ、[[タシケント|タシュケント]]が[[トルキスタン総督府|ロシア・トルキスタン]]の政治的中心地となった。1924年、国家分割により、ソビエト連邦内の独立共和国として[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]]が誕生した。[[ソビエト連邦の崩壊]]後、1991年8月31日に「ウズベキスタン共和国」として独立を宣言した。
一方、1991年にウズベキスタンが独立した際、[[イスラム原理主義]]に対する懸念が中央アジア地域に広まった。これは、支配的な宗教であった[[イスラム教]]信者([[ムスリム]])が急激に増加するであろうという予想に基づくものであったが、1994年時点では、ウズベキスタンの人口の半数以上が「自分はムスリムである」と答えている一方で、信仰における知識やその実践方法に関してはこれを持ち合わせている割合が極めて低かった。その後はイスラム教信者の割合の上昇が見られるようになったが、[[世俗主義|世俗化]]しており、戒律などは緩い。
== 国名 ==
正式名称は[[ウズベク語]]で、{{Lang|uz|''Oʻzbekiston Respublikasi / Ўзбекистон Республикаси''}}(ウズベキスタン・レスプブリカシ)。通称は、{{Lang|uz|''Oʻzbekiston / Ўзбекистон''}}。
公式の[[ロシア語]]表記は{{Lang|ru|''Республика Узбекистан''}}。通称、{{Lang|ru|''Узбекистан''}}。また[[英語]]表記は、{{Lang|en|''Republic of Uzbekistan''}}。通称、{{Lang|en|''Uzbekistan''}}。国民・形容詞ともUzbekistani。
[[日本語]]の表記は、'''ウズベキスタン共和国'''。通称、'''ウズベキスタン'''。
国名は、ウズベク人の自称民族名 {{Lang|uz|Oʻzbek}}(ウズベク)と、[[ペルシア語]]で「~の国」を意味する {{Lang|fa|-stan}} ([[スタン]])の合成語である。ウズベクは、[[テュルク諸語|テュルク語]]で「自身が主君」を意味し、[[ジョチ・ウルス]]の[[ウズベク・ハン]](オズベク・ハン)の名に由来するといわれる。
== 歴史 ==
{{main|ウズベキスタンの歴史}}
=== 古代-10世紀 ===
ウズベキスタンの国土の中央部は、古代より[[オアシス]]都市が栄え、東西交易路[[シルクロード]]の中継地ともなってきた[[トランスオクシアナ]]地域の大部分を占める。この地域は古代に[[イラン]]系の[[ソグド人]]が活躍したが、[[8世紀]]に[[アラブ人]]によって征服され、宗教的にはイスラム化した。[[10世紀]]には[[テュルク系民族]]([[カラカルパク人]]など)が進出し、言語的に[[テュルク諸語|テュルク語]]化が進む。
=== モンゴル帝国・ティムール朝 ===
[[ファイル:Timur.jpeg|thumb|160px|[[トクタミシュ]]と戦う[[ティムール]]]]
[[13世紀]]には[[モンゴル帝国]]に征服され、このとき多くの都市が甚大な被害を受けるがすぐに復興を果たした。[[14世紀]]にはこの地から興った[[ティムール朝]]が中央アジアから[[西アジア]]に至る広大な地域を征服して大国家に発展した。
=== ウズベク3ハン国 ===
ティムール朝の衰亡後、北からウズベク人が侵入し、ウズベク3ハン国と呼ばれる[[ブハラ・ハン国]]、[[ヒヴァ・ハン国]]、[[コーカンド・ハン国]]を立てる。
=== ロシア帝国・ソビエト連邦 ===
{{Seealso|{{仮リンク|カラカルパク自治州|ru|Кара-Калпакская автономная область|en|Karakalpak Autonomous Oblast}}|カラカルパク自治ソビエト社会主義共和国}}
これらは[[19世紀]]に北からの[[ロシア帝国]]に征服され、[[ロシア革命]]後はソビエト連邦下の共和国となり、その後は[[ソビエト共産党]]政府の統治下に入り、[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]]となった。1966年4月、タシュケントを[[震源]]として市内では大地震が起こり、市内の建物のおよそ2/3が倒壊するという惨事となった。
=== 独立 ===
[[File:Islam karimov cropped.jpg|thumb|140px|初代ウズベキスタン大統領の[[イスラム・カリモフ]]]]
{{Seealso|カラカルパクスタン共和国}}
[[1991年]]のソ連崩壊によってウズベク・ソビエト社会主義共和国はウズベキスタン共和国として独立し、同時に[[独立国家共同体]](CIS)に加盟した。独立後は[[イスラム・カリモフ]][[大統領]]が権力を集約し、ほぼ独裁政権となって統治してきた。
[[2005年]]5月13日に東部[[アンディジャン]]で発生した[[アンディジャン事件|反政府暴動鎮圧事件]]で市民に多数の死者が出たとの情報があり、[[ヨーロッパ]]諸国や[[国際連合]]などから「人権侵害」との非難が挙がっている。また、これまで[[対テロ戦争]]で協力関係にあった[[アメリカ合衆国]]も態度を変化させ民主化要求を行い始めた。
一方、カリモフ大統領はイスラム過激派による武力蜂起だとして欧米側による報道を批判し、国際調査団を受け入れる考えのないことを表明した。また、[[2001年]]の[[アメリカのアフガニスタン侵攻|アフガン侵攻]]以来、[[アメリカ合衆国軍|アメリカ軍]]の駐留を受け入れてきたが、2005年にこれを解消し、アメリカ軍は撤収することとなった。なお現在も、「反テロ作戦の一環」として[[ドイツ軍]]がテルメズ飛行場に駐留を続けている。現在は[[上海協力機構]]と関係を深めている。
2016年9月2日にカリモフ大統領が死去したことで、25年にわたる長期政権は終焉を迎えた。その後、カリモフの後継者である[[シャフカト・ミルジヨエフ]]が大統領代行を務め、12月に行われた大統領選挙でも勝利したことで第2代大統領に就任。経済活動やメディアの規制緩和を進め、2021年の再選後の就任演説(11月6日)では「民主的改革」を掲げた<ref name="毎日20211128"/>。
== 政治 ==
{{更新|date=2017年6月|section=1}}
[[File:Oliy Majlis (Parliament of Uzbekistan).jpg|thumb|ウズベキスタンの[[国民議会 (ウズベキスタン)|国民議会]]]]
[[ファイル:Shavkat Mirziyoyev (cropped).jpg|thumb|150px|第二代ウズベキスタン大統領の[[シャフカト・ミルジヨエフ]]]]
{{main|ウズベキスタンの政治|ウズベキスタンの政党|ウズベキスタンの大統領}}
[[国家元首]]である大統領は、ウズベク・ソビエト社会主義共和国大統領であった[[イスラム・カリモフ]]が独立以来2016年に死去するまでその職にあった。首相と副首相は大統領が任命する。大統領官邸はオクサロイ宮殿(白い館)。
議会はアリー・マジュリス (''{{lang|uz|Oliy Majlis}}'') と呼ばれ、一院制で任期5年、250議席。アリー・マジュリスの初の選挙は1994年の第16回[[最高会議]]にて承認された決議のもとで開催された。同年、最高会議はアリー・マジュリスとその名称を変更した。ウズベキスタンはこれまで3回の大統領選挙を行なっているものの、2016年に死去するまでは全て[[イスラム・カリモフ]]が選出されてきた。
議会は定員150名の[[下院 (ウズベキスタン)|下院]](日本の[[衆議院]]に相当)と定員100名の[[上院 (ウズベキスタン)|上院]](日本の[[参議院]]に相当)に分かれており、それぞれ任期は5年である。第3回の選挙は2009年12月27日に、第2回選挙は2004年12月から2005年にかけて行われたアリー・マジュリスは2004年まで1院制であったが、2002年の国民投票の結果、次期選挙から二院制に移行することとなった。議会に参加する議員数は1994年は69名であったが、2004~05年に120名へと増加、現在は下院の議員数は150名にまで増加している。
現在、旧[[ウズベキスタン共産党]]から改組された[[ウズベキスタン人民民主党]]を中心とする諸政党がイスラム・カリモフ前大統領の支持勢力として議会を支配してきた。カリモフ前大統領はウズベキスタンの独立後、[[自己献身・国民民主党]]に所属していたが、2007年に[[ウズベキスタン自由民主党]]に党籍を移した。いずれの政党も、カリモフ政権を支えてきた政党である。
[[行政|行政府]]は絶大な権力を握っており、[[立法府]]は法案成立の際に多少影響力を持つにすぎない。2002年1月に行われた国民投票の結果、大統領の任期は5年から7年に延ばされた。
国民投票の結果を受けて法案が成立し、イスラム・カリモフの任期は2007年12月まで任期が延長された。ほとんどの国際監視員は選挙の過程と結果に関して正当なものであると認めていない。2002年の国民投票には下院 (Oliy Majlis) と上院 (Senate) の2院制への移行計画に関する投票が含まれていた。下院の議員は「専業」の国会議員である。新たな2院制への移行に関する国民投票は12月26日に開催された。
[[欧州安全保障協力機構]](OSCE)は制限された監視行動の中で、ウズベキスタン国内の選挙はOSCEやその他の民主主義選挙に関する国際基準を全く満たしていないという評価を下している。複数の政治政党が政府の承認を経て設立されたものとなっている。同様に、ラジオ・テレビ・新聞など様々な[[マスメディア|メディア]]が設立されているものの、これらのメディアは依然として政府のコントロール下にある、もしくはめったに政治的な話題を扱わないメディアとなっている。独立した政治政党の設立や党員募集、党大会や記者会見の開催は禁止されていないものの、登録手続きには制限が課されているため登録を拒否されている。
2016年にカリモフが死去した後も、その後継の[[シャフカト・ミルジヨエフ]]大統領がカリモフの支持基盤と手法を受け継いでいるが、日本を含む一部の国々からの観光目的での入国の[[査証|ビザ]]を免除したり、関係の悪かった隣国[[タジキスタン]]との関係改善を図るなど改革も見られる。
== 国際関係・外交 ==
[[File:Clarence Moore House.JPG|thumb|[[ワシントンD.C.]]にある在アメリカ合衆国ウズベキスタン大使館]]
{{main|ウズベキスタンの国際関係|日本とウズベキスタンの関係}}
全方位的外交を展開し、ロシアなど旧ソ連諸国が参加するCIS諸国、[[中華人民共和国]]など[[アジア]]諸国、欧米などとも友好関係を持っている。
日本との間も官民両面で友好関係を保っており、両国に[[大使館]]を持っている。ただし、[[第二次世界大戦]]後、[[ソ連対日参戦]]に伴う[[シベリア抑留]]を受けた日本人[[捕虜]]は首都タシュケントにも回され、中央アジア最大のバレエ・オペラ劇場たる[[ナヴォイ劇場]]の工事などに従事したという過去もある。なお、この劇場は1966年の[[タシュケント地震]]の際にも全くの無傷という見事な仕事ぶりであった。
ウズベキスタンは1991年12月にCISに参加した。しかし、1999年にCIS集団安全保障体制から脱退した。これ以降、ウズベキスタンは自国の安定に影響を及ぼすタジキスタンとアフガニスタン両国の紛争の解決の手助けをするためタジキスタンのCIS平和維持軍や国連により組織された平和維持軍に参加している。
かつてはアメリカ合衆国とウズベキスタンの関係は良好であった。2004年にはアメリカ合衆国はウズベキスタンに軍事費の約4分の1に当たる5億[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]を援助、ウズベキスタン政府はアメリカ合衆国軍によるアフガニスタンへの空軍軍事作戦に際し[[カルシ・ハナバード空軍基地]]の使用を許可していた<ref>Erich Marquardt and Adam Wolfe [http://www.globalpolicy.org/component/content/article/153/26246.html Rice Attempts to Secure US Influence in Central Asia], Global Policy Forum. October 17, 2005</ref>。ウズベキスタンはアメリカ合衆国の掲げる世界規模の[[対テロ戦争]]の積極的な支持者であり、アフガニスタンと[[イラク]]の両地域において支援作戦を展開していた。
ウズベキスタンとアメリカ合衆国両国の関係は[[ジョージア (国)|ジョージア]]や[[ウクライナ]]で2000年代半ばに起きた「[[色の革命]]」(後に[[キルギス]]へも影響が拡大した)の後、悪化が進んだ。アメリカ合衆国が[[アンディジャン事件|アンディジャン]]の流血事件に対して独立した国際調査団参加に名乗りを上げると、両国の関係は極めて悪化、大統領のイスラム・カリモフは外交路線を転換し、人権侵害への非難を支持しなかったロシアや中国に接近する姿勢を見せるようになった。
2005年7月後半、ウズベキスタン政府はアメリカ合衆国にアフガニスタン国境に近い[[カルシ・ハナバード空軍基地]]から180日以内に撤退するよう通告した。カリモフは[[アメリカ同時多発テロ事件|9.11]]後の短期間、アメリカ合衆国に空軍基地使用を申し出ていた。ウズベキスタン人の中には、アンディジャン事件に対する抗議による、アンディジャン地区におけるアメリカ合衆国やイギリスの影響力増加への懸念が撤退命令につながったと考える者もいる。これもまたウズベキスタンと西洋諸国が対立した理由の一つに挙げられている。
ウズベキスタン南端の[[テルメズ]]は、[[アムダリヤ川]]に架けられた「友好の橋」でアフガニスタンと結ばれている<ref name="毎日20211128">[https://mainichi.jp/articles/20211122/k00/00m/030/093000c 【ソ連崩壊30年】ウズベク 進む自由化改革/恩恵分配の成否が鍵]『[[毎日新聞]]』朝刊2021年11月28日(国際面)2022年1月3日閲覧</ref>。ウズベキスタンはかつてイスラム過激派を支援しているとしてアフガニスタンの[[ターリバーン|タリバーン]]と対立してきたが、ミルズィヤエフ政権は現実主義路線から対話へ転じ、[[2021年ターリバーン攻勢|2021年のタリバーンによる政権奪取]]後も貿易や電力供給など関係を維持している<ref name="毎日20211128"/>。
ウズベキスタンは1992年3月2日より[[国際連合]]に加盟しているほか、[[欧州・大西洋パートナーシップ理事会]](EAPC)、[[平和のためのパートナーシップ]](PfP)、[[欧州安全保障協力機構]](OSCE)のメンバーでもある。また、[[イスラム協力機構]](OIC)や[[経済協力機構]](ECO、中央アジアの5カ国と[[アゼルバイジャン]]、[[トルコ]]、[[イラン]]、[[アフガニスタン]]、[[パキスタン]]で構成)にも所属している。1999年、ウズベキスタンは[[GUAM]] ([[ジョージア (国)|ジョージア]]、ウクライナ、[[アゼルバイジャン]]、[[モルドバ]])のオブザーバーとなり、1997年に加盟してGUUAMとなったが、2005年に脱退している。
ウズベキスタンは中露の主導する[[上海協力機構]](SCO)のメンバーでもあり、タシュケントでSCO地方反テロ構造(RATS)を開催している。ウズベキスタンは2002年に設立された[[ユーラシア経済共同体]](EAEC)に加盟している。EAECはウズベキスタン、[[タジキスタン]]、[[カザフスタン]]、[[キルギス]]、[[ロシア]]、[[ベラルーシ]]から構成されている。CACOはキルギスとカザフスタンにより設立された[[中央アジア連合]]が発展改称する形で設立された組織であり、ウズベキスタンはEAECの創立メンバーとして加盟している。
2006年9月、[[UNESCO]]はイスラム・カリモフをウズベキスタンの豊かな文化や伝統を保存した功績により表彰した。批判はあるが、ウズベキスタンと西洋諸国の間の関係を発展させた一つの証として捉えられている。
2006年10月にはもう一つウズベキスタンが西洋諸国からの孤立から脱する出来事があった。[[欧州連合]](EU)は人権や自由に関して対話を行うため、長きに渡り対立していたウズベキスタンに対して使節団を送る計画があると発表した。[[アンディジャン事件]]に関する政府の公式発表と非公式の数字どちらが正しいのかという点に関しては曖昧であったものの、EUは明らかにウズベキスタンに対する経済制裁を弱める意志を見せた。しかし、ウズベキスタンの人々の間では、ウズベキスタン政府は[[ロシア連邦]]と密接な関係を維持しようとしており、2004年から2005年にかけてのウズベキスタンでの抗議はアメリカ合衆国やイギリスにより引き起こされたものであると一般的に考えられている。
== 軍事 ==
{{Main|ウズベキスタン軍}}
[[File:Ukbekistani troops.jpg|thumb|right|250px|共同作業訓練を行うウズベキスタン軍兵士]]
ウズベキスタン軍は約65,000人の兵士を擁し、中央アジア最大規模の軍隊を持つ。軍事機構はその大部分を[[ソビエト連邦軍]][[トルキスタン軍管区]]部隊から受け継いでいるが、主に軽歩兵部隊や[[特殊部隊]]において改革を実行中である。ウズベキスタン軍の装備は現代的なものであるとはいえず、訓練の練度が統一されているとはいえず、領土の保全ミッションなどの作業に適しているとはいえない。
政府は旧ソ連の[[軍備管理]]義務を継承し、非[[核保有国]]として[[核拡散防止条約]]に加盟、ウズベキスタン西部の[[ヌクス]]と[[ヴォズロジデニヤ島]]において、[[アメリカ国防脅威削減局]](DTRA)による行動プログラムをサポートしている。ウズベキスタン政府はGDPの約3.7%を軍事費に当てているが、1998年以降はアメリカ合衆国の{{仮リンク|対外軍事融資|en|United States Foreign Military Financing}}(FMF)その他の安全保障支援基金から融資を受けている。
[[2001年]][[9月11日]]に[[ニューヨーク]]で起きた[[アメリカ同時多発テロ事件]]に続いて、ウズベキスタンは[[アメリカ中央軍]]がウズベキスタン南部にある[[カルシ・ハナバード空軍基地]]への駐留を承認した。しかし、2005年の[[アンディジャン事件]]後、アメリカ合衆国が事件に対するウズベキスタン政府の対応を非難すると政府は態度を硬化させ、アメリカ合衆国軍にカルシ・ハナバード空軍基地から撤退するよう要求、2005年11月にアメリカ合衆国軍はウズベキスタン国内から撤退した。
2006年6月23日、ウズベキスタンは[[集団安全保障条約]](CSTO)の正式なメンバーとなったが、 2012年6月にはCSTOから脱退している<ref>{{cite web |url=http://rt.com/politics/uzbekistan-quits-pro-russian-bloc-996/ |title=Uzbekistan quits Russia-led CSTO military bloc |date=2012-06-28|accessdate=2013-06-13}}</ref>。
== 地理 ==
{{main|ウズベキスタンの地理}}
[[Image:Uz-map-ja.png|thumb|ウズベキスタンの地図]]
[[File:Uzbekistan satellite photo.jpg|thumb|ウズベキスタンの衛星写真]]
ウズベキスタンは中央アジアに位置しており、全国土面積は447,400[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]である。この国土面積は世界55位であり、人口は世界第40位である<ref>{{cite web|url=http://www.worldatlas.com/aatlas/populations/ctypopls.htm |title=www.worldatlas.com |publisher=www.worldatlas.com |date= |accessdate=2013-06-13}}</ref>。CIS諸国中では総面積は第5位、人口は第3位となっている<ref name=uzstat/>。主要都市としては、首都の[[タシュケント]]のほか、[[アンディジャン]]、[[ブハラ]]、[[サマルカンド]]、[[ナマンガン]]、ヒヴァなどがある。
同国は[[北緯37度線|北緯37度]]から[[北緯46度線|46度]]、[[東経56度線|東経56度]]から[[東経74度線|74度]]の地域に存在しており、国境の全長が6,221kmとなっている。東西の距離は1,425km、南北の距離は930kmである。北および北西地域は[[カザフスタン]]との国境と[[アラル海]]に、南西部分は[[トルクメニスタン]]との国境に、南東部分は[[タジキスタン]]との国境に、北東部分は[[キルギス]]との国境に接している。ウズベキスタンは旧ソ連領中央アジア5カ国で有数の面積を持つ国家であり、他の4国全てと国境を接する唯一の国家でもある。このほか、ウズベキスタンは南部150kmにわたり[[アフガニスタン]]と国境を接している。
ウズベキスタンは乾燥した[[内陸国]]である。同国は世界に2つしか無い[[二重内陸国]](もう一つは[[リヒテンシュタイン]])であり、海へと出るためには国を2つ越える必要がある。加えて、海と繋がる河川がない「[[内陸流域]]」という特殊な環境にある。このため国土の10%にも満たない[[灌漑]]農業用地や河川流域の[[オアシス]]に似た土地で集中的に農業が行われている。残りの国土は広大な[[砂漠]]([[キジルクム砂漠]])と険しい山々で占められる。
ウズベキスタンの最高点は[[スルハンダリヤ州]]と[[タジキスタン]]との境界付近、[[ギッサール山脈]]にある[[ハズレット・スルタン山]]であり、[[標高]]は4643mである。タジキスタンの首都[[ドゥシャンベ]]の北西部に存在するこの山はかつては第22回共産党大会峰と呼ばれていた<ref name=uzstat>[http://enews.fergananews.com/article.php?id=2051 Uzbekistan will publish its own book of records Ferghana.ru]. 18 July 2007. Retrieved July 29, 2009.</ref>。
=== 気候 ===
ウズベキスタン共和国内の気候はその大部分が[[大陸性気候]]であり、平均[[降水量]]は年間100~200mmと非常に少ない。特に西部は雨が少なく、砂漠が広がっている。
このため人口密度は山岳地帯の東部の方が高く、土地の平坦な西部は低い。
夏はかなり暑く、気温はしばしば40[[セルシウス度|度]](104[[華氏|°F]])を超える。冬の平均気温は約-2度(28°F)だが、-40度(-40°F)まで下がる場合がある。
タシュケントの7月の平均最高気温は35.7度、1月の平均最低気温は-1.5度である<ref name="LoC:Climate">[http://lcweb2.loc.gov/cgi-bin/query/r?frd/cstdy:@field(DOCID+uz0029) Climate], Uzbekistan : Country Studies- Federal Research Division, Library of Congress.</ref>。
=== 環境 ===
[[File:Aral Sea 1989-2008.jpg|thumb|1989年と2008年における[[アラル海]]の大きさの比較]]
かつて[[アラル海]]は世界で4番目に大きい湖で、周辺地域の湿度を保ち乾燥した土地で農業が行える大きな要素となっていた<ref>{{cite web|url=http://www.msf.org/msfinternational/invoke.cfm?objectid=6589D208-DC2C-11D4-B2010060084A6370&component=toolkit.article&method=full_html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070930020327/http://www.msf.org/msfinternational/invoke.cfm?objectid=6589D208-DC2C-11D4-B2010060084A6370&component=toolkit.article&method=full_html |archivedate=2007-09-30 |title=Uzbekistan: Environmental disaster on a colossal scale |publisher=Msf.org |date=2000-11-01 |accessdate=2013-06-13}}</ref>。1960年代以降の10年間でアラル海の水の過剰利用が行われ、アラル海は元の50%にまで面積が縮小、水量も3分の1にまで低下した。信頼出来る調査結果もしくは概算データは各国公的機関や組織においてまだ十分に発表されておらず、情報の収集も進んでいない。現在も水の大部分は[[綿花]]や栽培に大量の水分が必要とされる作物栽培の灌漑用水として使用され続けている<ref>[http://www.ejfoundation.org/page146.html Aral Sea Crisis] Environmental Justice Foundation Report</ref>。
アラル海の縮小は、ソ連時代の農業政策により、綿花の過剰な生産が行われたことが原因の一つとして挙げられている。農業分野は国内で深刻化している水質汚濁や[[土壌汚染]]の加害者であり被害者でもある<ref>{{cite web|url=http://countrystudies.us/uzbekistan/17.htm |title=Uzbekistan – Environment |publisher=Countrystudies.us |date= |accessdate=2013-06-13}}</ref>。
この環境破壊の危機の責任の所在は明らかであり{{要出典|date=2013年12月}}、1960年代に[[自然改造計画]]によって国内の河川に大量に[[ダム]]を建設し、アラル海へ流入する水量の減少と河川の水の濫用を推し進めた旧ソ連の科学者や政治家、そしてソビエト連邦崩壊後、ダムや灌漑システムの維持に十分な対策をせず、環境問題対策に十分な費用をかけてこなかったウズベキスタンの政治家にある。
アラル海の問題のため、特にアラル海に近いウズベキスタン西部にある[[カラカルパクスタン共和国|カラカルパクスタン地域]]では土壌に高い[[塩分]]濃度が検出されている上、[[重金属]]による土壌汚染が広がっている。また、国内の他の地域においても水資源のほとんどは農業に使用されており、その割合は約84%にのぼる。これは土壌の塩分濃度上昇に拍車をかけている。また、収穫量増加のため綿花農場で[[防虫剤]]や[[化学肥料]]を濫用したため、深刻な土壌汚染が発生している<ref name="LoC:Climate"/>。
== 地方行政区分 ==
[[File:Uzbekistan provinces.png|thumb|ウズベキスタンの行政区画]]
[[File:Vue de l'Aqua-Park - Tachkent.jpg|thumb|[[タシュケント]]]]
[[File:Samarkand view from the top.jpg|thumb|[[サマルカンド]]]]
[[File:Bukhara - Panorama.jpg|thumb|[[ブハラ]]]]
[[File:Tashkent Downtown.jpg|thumb|タシュケントの中心街]]
{{Main|ウズベキスタンの地方行政区画}}
ウズベキスタンは12の州(viloyat、ヴィラヤト)、1つの(自治)共和国(respublika、レスプブリカ)、1つの特別市(shahar、シャハル)に分かれる。
=== 主要都市 ===
{{main|ウズベキスタンの都市の一覧}}
* [[タシュケント]]:首都
* [[ナマンガン]]
* [[アンディジャン]]
* [[サマルカンド]]
* [[ヌクス]]
== 経済 ==
{{main|ウズベキスタンの経済}}
[[File:Uzbekistan GDPgrowth1992-2008 cropped.jpg|thumb|250px|ウズベキスタンのGDP成長率(1992-2008年)]]
[[ファイル:Uzbekistan Export Treemap.png|thumb|250px|色と面積で示したウズベキスタンの輸出品目]]
[[国際通貨基金]](IMF)の統計によると、[[2017年]]の[[国内総生産]](GDP)は665億ドル、一人当たりのGDPでは1,520ドルであり世界平均の20%に満たない水準である<ref name="economy" />。[[2011年]][[8月]]に[[アジア開発銀行]]が公表した資料によると、1日2.0ドル未満で暮らす[[貧困層]]は[[2010年]]で1,248万人と推定されており、国民の44.42%を占めている<ref>{{Cite journal|author=Wan, Guanghua|author2=Sebastian-Samaniego, Iva|date=2011-08|title=Poverty in Asia and the Pacific: An Update(アジア・大洋州地域の貧困:アップデータ)|journal=Economics Working Papers|volume=WPS113836|page=10ページ|publisher=アジア開発銀行|language=英語|url=https://www.adb.org/publications/poverty-asia-and-pacific-update|issn =1655-5252|format=PDF|accessdate=2019-03-24}}</ref>。近年は豊富な[[天然ガス]]関連の投資を多く受け入れており、比較的好調な経済成長を遂げている。通貨は[[スム]]。
多くのCIS諸国の同じく、ウズベキスタンの経済はソビエト連邦時代の[[社会主義経済]]から[[資本主義|資本主義経済]]への移行期であった初期に一旦減少し、政策の影響が出始めた1995年より徐々に回復している。ウズベキスタンの経済は力強い成長を示しており、1998年から2003年までの間は平均4%の[[経済成長率]]を記録、以降は毎年7~8%の経済成長率を記録している。ただし2017年は、通貨スムの複数為替レートの一本化などのミルジヨエフ大統領の改革の影響により5.3%である。IMFの概算によると<ref name=imf>[{{Cite web|author=国際通貨基金(IMF)|url=https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2018/02/weodata/weorept.aspx?sy=1992&ey=2023&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=927&s=NGDP_RPCH%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CPCPIEPCH&grp=0&a=&pr.x=93&pr.y=12|title = IMF World Economic Outlook Database, October 2018|date=2018-10|accessdate=2019-03-24 }}</ref>、2018年のウズベキスタンのGDPは1995年時点の約4.8倍であり、[[購買力平価]](PPP)換算で約5.9倍である。
ウズベキスタンにおいて、一人あたりの[[国民総所得]](GNI)は低く、2017年時点で2,000USドル、PPPは7,130USドルとなっている<ref>{{Cite report|author=世界銀行|authorlink =世界銀行|date=2019-02-07|title=World Development Indicators database, World Bank, 1 July 2018>Gross national income per capita 2017, Atlas method and PPP(世界開発指標データベース、世界銀行(2018年7月1日)>一人当たりの国民総所得2017、為替レートの換算法およびPPP)|url=https://datacatalog.worldbank.org/dataset/gni-capita-ranking-atlas-method-and-ppp-based|accessdate=2019-03-24}}</ref>。PPPと比較した一人あたりのGNIの数字は世界187カ国中123位と低く、12の[[CIS諸国]]の中でウズベキスタンより下の値であるのはキルギスとタジキスタンだけである。経済的な生産は加工品ではなく生産品に集中している。
ウズベキスタンは独立後の1992年から1994年にかけて、年間1000%もの急激な[[インフレーション|インフレ]]を体験している。IMFの助けを借りた経済安定化の努力が行われ<ref>[http://mfa.uz/eng/inter_cooper/econ_org/Inter_MF/ Uzbekistan's Ministry of Foreign Affairs on IMF's role in economic stabilisation]. Retrieved on June 22, 2009</ref>、インフレ率は1997年に50%に減少、さらに2002年には22%にまで減少した。2003年以降、年間インフレ率は平均15%未満となっている<ref name=imf/>。2004年の緊縮財政政策は結果としてインフレ率の大幅な減少につながり、インフレ率は3.8%に減少した(しかし、代わりに{{仮リンク|マーケットバスケット方式|en|market basket}}による価格の上昇は約15%と概算されている<ref>{{cite web|url=http://www.adb.org/sites/default/files/ADO/2005/ado2005-part2-ca.pdf |title=Asian Development Outlook 2005- Uzbekistan |publisher=ADB.org |date=January 1, 2005-01-01 |accessdate=2013-06-13}}</ref>。)2017年は、同年11月のガソリン価格、同年12月の法定月額最低賃金の引き上げを受け、約18.9%のインフレ率となっている<ref name=imf/><ref>{{Cite report|author=下社 学|date=2018-04-09|title=HP>海外ビジネス情報>地域・分析レポート>新体制下で改革進むウズベキスタン|url=https://www.jetro.go.jp/biz/areareports/2018/a813a0ace11f15fc.html|publisher=[[独立行政法人]][[日本貿易振興機構]]| accessdate=2019-03-24}}</ref>
ウズベキスタンの主要金属資源は、[[金]]、[[ウラン]]、[[モリブデン]]、[[タングステン]]、[[銅]]、[[鉛]]、[[亜鉛]]、[[銀]]、[[セレン]]である。金埋蔵量1,700tで世界第12位、年間生産量102tで第10位、ウランの埋蔵量では世界トップ10に入り生産量2,400トンであり、世界第7位である<ref name="trend2018_uz">{{Cite report|url=http://mric.jogmec.go.jp/wp-content/uploads/2018/12/trend2018_uz.pdf|title=世界の鉱業の趨勢2018 ウズベキスタン|format=PDF|publisher=独立行政法人[[石油天然ガス・金属鉱物資源機構]](JOGMEC)|date=2018-12-26|accessdate=2019-03-24}}</ref><ref>[http://www.world-nuclear.org/info/inf75.html World Nuclear Association]</ref><ref>[http://www.euronuclear.org/info/encyclopedia/u/uranium-reserves.htm European Nuclear Society]</ref><ref>[http://www.bgs.ac.uk/mineralsuk/statistics/worldStatistics.html British Geological Survey]</ref>。更に、ウズベキスタンの国営ガス会社[[ウズベクネフテガス]]は世界第15位の[[天然ガス]]生産量を誇り、年間450億[[立方メートル|m<sup>3</sup>]]を産出している<ref>{{Cite news|url=https://yearbook.enerdata.jp/natural-gas/gas-consumption-data.html|title=グローバルエネルギー統計イヤーブック2018>天然ガス>生産|publisher=Enerdata|date=2017|accessdate=2019-03-24}}</ref>。
ウズベキスタン国内においてエネルギー関連事業に大きな投資をしている企業としては[[中国石油天然気集団]] (CNPC)、[[ペトロナス]]、[[韓国石油公社]] (KNOC)、[[ガスプロム]]、[[ルクオイル]]、ウズベクネフテガスがある。
2018年時点において、ウズベキスタンは世界で第7位の綿花生産国であり、世界第9位の綿花輸出国であり<ref>{{cite web|url=http://www.cotton.org/econ/cropinfo/cropdata/rankings.cfm |title=The National Cotton Council of America: Rankings |format= |year=2018 |accessdate=2019-03-24}}</ref>、同時に世界第11位の金採掘国でもある。他に生産量の多い製品としては、天然ガス、[[石炭]]、銅、[[銀]]、タングステン、[[石油]]、ウランなどがある<ref name="trend2018_uz" /><ref name="kb_chosah26-18">{{Cite web|和書|url=http://www.maff.go.jp/j/kokusai/renkei/fta_kanren/attach/pdf/kb_chosah26-18.pdf|title=ウズベキスタン共和国(Republic of Uzbekistan)|publisher=農林水産省|date=2014|accessdate=2019-03-24}}</ref>。
[[ウズベキスタンの農業|農業]]労働者はでウズベキスタン総労働人口の19.25%(2014年時点)にあたり、農業はGDP全体の約19.8%(2012年時点)を占め、そのなかでも綿花の輸出が産業の中心のひとつとなっている。<ref name=kb_chosah26-18/>。ウズベキスタンでは旧ソ連時代は60%の国民が農村部に居住していた。ソ連崩壊直後は農業従事者の割合は、全労働者数の30%前後で維持されていたが、人口増に対して農業従事者数は減少傾向にあり、2013年以降は20%を割っている。これはロシアやカザフスタンなどへの移民として農村の労働人口が流出していることが大きな要因として考えられる<ref name=kb_chosah26-18/>。また、公式発表によると就業率は高いとされているものの、特に地方で就業率は低く、少なくとも20%以上が失職中であると推定されている<ref name="cia1">{{cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/uz.html|title=CIA – The World Factbook|publisher=Cia.gov|accessdate=2020年1月9日}}</ref>。綿花収穫期には、政府による綿花収穫の強制労働が依然として存在している。18歳未満の強制労働を禁止する法令があるにもかかわらず、一部地域では地方の役人によって子供たちが綿を収穫するために動員された。更には、綿花作業だけでなく建設、農業、及び公園清掃の強制労働を教師、学生、民間企業の従業員などに行わせた<ref name=cia1/><ref>{{Cite press release|和書|title=ウズベキスタン:世界銀行が関係する強制労働 同国の綿産業は組織的な違反行為に支えられている|publisher=[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]](HRW)|date=2017-06-27|url=https://www.hrw.org/ja/news/2017/06/27/306035|accessdate=2019-03-24 }}</ref>。[[ウズベキスタンの児童労働]]の使用は[[テスコ (チェーンストア)|テスコ]]<ref>{{cite web|url=http://www.ejfoundation.org/pdf/Uzbekistan_Cotton%20Tesco_letter_to_%20suppliers.pdf |title=Tesco Ethical Assessment Programme |format=PDF |accessdate=2013-06-13}}</ref>やC&A<ref>{{cite web|author=C&A |url=http://www.c-and-a.com/aboutUs/socialResponsibility/ |title=C&A Code of Conduct for Uzbekistan |publisher=C-and-a.com |accessdate=2013-06-13}}</ref>、[[マークス&スペンサー]]、[[ギャップ (企業)|Gap]]、[[H&M]]などにより報告されており、これらの企業は綿花の収穫作業をボイコットしている<ref>{{cite news
| last = Saidazimova
| first = Gulnoza
| title = Central Asia: Child Labor Alive And Thriving
| publisher = Radio Free Europe/Radio Liberty
| date = 2008-06-12
| url = http://www.rferl.org/content/article/1144612.html
| accessdate = 2013-06-13}}</ref>。
独立達成後に多くの経済問題に直面したことで、政府は国による管理、輸入量の減少、エネルギー自給率の増加を軸とした進化のための改革戦略を採択した。1994年以降、国のコントロールを受けたメディアはこの「ウズベキスタン経済モデル」の成功を繰り返し喧伝しており<ref>Islam Karimov's interview to Rossijskaya Gazeta, 1995-07-07 [https://web.archive.org/web/20080922045122/http://2004.press-service.uz/rus/knigi/9tom/3tom_12.htm Principles of Our Reform](ロシア語)</ref>、経済ショックや貧困、停滞を避けて市場経済へとスムーズに移行するための唯一の方法であると提案していた。
漸進的な改革戦略は重要な[[マクロ経済学|マクロ経済]]や構造改革を一旦中止していることからも読み取れる。[[共産貴族|官僚]]の手の中にある状態は依然として官僚の経済に対する影響が大きいことを示している。汚職が社会に浸透しているだけでなく、さらに多くの汚職が行われるようになっている。2018年度におけるウズベキスタンの[[腐敗認識指数]]は180カ国中158位であった<ref>{{Cite web|author=トランスペアレンシー・インターナショナル|authorlink = トランスペアレンシー・インターナショナル|url=https://www.transparency.org/cpi2018|title=Corruption Perceptions Index 2018(2018年度汚職認識指数)|date=2018|accessdate =2019-03-24 }}</ref>。2006年2月における[[国際危機グループ]]による報告によると、核となる輸出品、特に綿花、金、[[トウモロコシ]]、天然ガスから得られた収入はエリート支配層の少数の間にのみ還元され、人口の大多数には少量もしくは全く還元されない状況にあるとされている<ref>Gary Thomas [https://web.archive.org/web/20090825223014/http://www.voanews.com/english/archive/2006-02/New-Report-Paints-Grim-Picture-of-Uzbekistan.cfm?CFID=281017252&CFTOKEN=40626492&jsessionid=00308b85b39c112dba1e6241221e37211353 New Report Paints Grim Picture of Uzbekistan]. Voice of America. 16 February 2006</ref>。
[[エコノミスト・インテリジェンス・ユニット]]によると、「政府は国の手でコントロールできないような独立した民間企業の発展を敵視している」<ref>{{cite web|url=http://www.eurasiacenter.org/Country%20reports/Central%20Asia/Uzbekistan%20Economic%20Highlights.doc |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110511170759/http://www.eurasiacenter.org/Country%20reports/Central%20Asia/Uzbekistan%20Economic%20Highlights.doc |archivedate=2011-05-11 |title=Uzbekistan: Economic Overview|work=eurasiacenter.org |accessdate=2013-06-13}}</ref>。従って、[[中産階級]]は経済的、そして結果的には政治的に低い地位にある。
経済政策は外国企業による投資に反発する姿勢を見せており、CIS諸国において最も国民一人あたりの外国企業による投資額が低い<ref>[http://www.state.gov/e/eb/rls/othr/ics/2011/157382.htm 2011 Investment Climate Statement – Uzbekistan]. US Department of State, March 2011</ref>。長年に渡り、ウズベキスタン市場に投資を行う外国企業に対する最大の障壁は通貨交換の困難さであった。2003年、政府は完全に通貨兌換性を保証するという[[国際通貨基金]](IMF)の第8条の義務を承認した<ref>{{cite web|url=http://www.imf.org/external/np/sec/pr/2003/pr03188.htm |title=Press Release: The Republic of Uzbekistan Accepts Article VIII Obligations |publisher=Imf.org |accessdate=2013-06-13}}</ref>。しかし、国内で使用する通貨に対する厳しい制限や通貨交換の量に制限がかけられていることから、外国企業による投資の効果は減少していると考えられている。
ウズベキスタン政府は高い[[関税]]を含む様々な方法で外国製品の輸入を制限している。地方の生産品を保護するため、非常に高い税金が課せられている。公式、非公式の関税が相まって、商品の実際の値段の1~1.5倍に相当する税金がかかることで、輸入品は事実上に値段に見合わない高い商品となっている<ref>[https://web.archive.org/web/20080815015618/http://www.ustr.gov/assets/Document_Library/Reports_Publications/2004/2004_National_Trade_Estimate/2004_NTE_Report/asset_upload_file327_4803.pdf Uzbekistan]. NTE 2004 FINAL 3.30.04</ref>。輸入代替は公式に宣言されている政策であり、ウズベキスタン政府は輸入品目におけるこのファクターが減少していることに誇りを持って経済報告を行なっている。CIS諸国はウズベキスタンの関税を公式に免除されている。
[[タシュケント証券取引所]](共和国証券取引所、RSE)は1994年に取引を開始した。約1250のウズベキスタンの[[ジョイント・ストック・カンパニー]]の[[株式]]や[[債券]]がRSEで取引されている。2013年1月時点において上場している企業の数は110に増加した。証券市場の発行済株式総数は2012年に2兆に達しており、証券取引所を通した取引に興味を持つ企業が増えていることからこの数字は急速に増大している。2013年1月時点における発行済株式総数は9兆を突破した。
ウズベキスタンの対外的地位は2003年以降次第に強くなっている。金や綿花(ウズベキスタンの主要輸出製品である)の世界市場価格の回復、天然ガスやその他生産品の輸出量の増加、労働力移入人数の増加という様々な要因により、現在の収支は大幅な黒字に転じ(2003年~2005年の間ではGDPの9~11%)、金を含む[[外貨準備]]高は約30億[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]と2倍以上にまで増加している。
2018年時点の外貨準備高は推計約289億[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/biz/areareports/2018/b1866ca3b26e44f7.html|publisher=独立行政法人日本貿易振興機構|language=日本語|title=HP>海外ビジネス情報>地域・分析レポート>急速に進展するビジネス環境の改善(ウズベキスタン)2018年度所長セミナー要旨 |accessdate=2019-03-24}}</ref>。
世界規模の銀行[[HSBC]]の調査によると、ウズベキスタンは次の10年間で世界でも有数の成長速度の速い国家(トップ26)になると予測されている<ref>{{cite web|url=http://www.exhibitionpilot.com/sites/default/files/pdf/The%20World%20in%202050%20Top%2030%20to%20100.pdf|publisher=HSBC|title=the World in 2050|accessdate=2013-06-13}}</ref>。
=== 農業 ===
[[ファイル:Uzb HouseholdPlot KhorezmObl.jpg|thumb|[[ホラズム州]]の農場({{仮リンク|デフカン|en|Dehkan farm}})]]
{{main|ウズベキスタンの農業}}
{{See also|ウズベキスタンの児童労働}}
ウズベキスタンは、ソ連時代の計画経済によって綿花栽培の役割を割り当てられた過去があり、そのため近年になって鉱産資源の開発が進むまでは綿花の[[モノカルチャー]]経済に近い状態だった。その生産量は最高500万トンに達し、2004年度においても353万トンを誇る。しかしウズベキスタンは元来[[降水量]]が少なく綿花の栽培には向いていない土地であったため、近年においては灌漑元であるアラル海およびその流入河川の水量減少や[[塩害]]などに悩まされている。
また、綿花栽培に農地の大半を割いているため、各種[[穀物]]、[[果実]]、[[野菜]]類を産する土地を有しながら、その[[食料自給率]]は半分以下である。
=== 鉱業 ===
<ref name="trend2018_uz" />
ウズベキスタンはエネルギー資源として有用な鉱物に恵まれている。ウズベキスタンの主要金属資源は、金、ウラン、モリブテン、タングステン、銅、鉛、亜鉛、銀、セレンであり、金埋蔵量1,700tで世界第12位、年間生産量102tで第10位、ウランの埋蔵量では世界トップ10に入り生産量2,400トンであり、世界第7位である。
ウズベキスタン鉱物埋蔵量国家バランスによると、同国では、97の貴金属鉱床、38の放射性鉱物鉱床、12の非鉄金属鉱床、235の[[炭化水素]]鉱床(ガス及び石油鉱床を含む)、814の各種建材鉱床など、1,931の鉱床が発見されている(2017年1月1日時点)。現在、探査は10鉱種以上に関して行われており、数鉱種だった20年前に比べ探査範囲は拡大傾向にある。近年、探査が開始されたものや強化されているものは、鉄、[[マンガン]]、石炭、[[オイルシェール]]、一部の[[レアメタル]]、[[レアアース]]、非在来型の金・ウラン鉱床である。
近年の鉱山開発は、国営企業であるNGMK (Navoi Mining and Metallurgical Combinat) (ウラン、金) 及びAGMK(Almalyk Mining and Metallurgical Complex) (銅、亜鉛、鉛、金)による生産設備の近代化や、アジア諸国(日中韓)との経済協力によって推進される傾向にある。また、韓国、中国、ロシアなどから調査・採掘分野への投資の動きが活発化しており、ウランやレアメタルを中心に協力拡大の可能性が注目されている。ウズベキスタンは世界第4位の金埋蔵量を誇る。407万トンの[[亜炭]]<ref>{{Cite news|url=https://yearbook.enerdata.jp/coal-lignite/coal-world-consumption-data.html|title=グローバルエネルギー統計イヤーブック2018>石炭と亜炭>生産|publisher=Enerdata|date=2017|accessdate=2019-03-24}}</ref>、250万トンの[[原油]]<ref>{{Cite report|author=[[BP (企業)|BP]]|date=2018-06|title=BP Statistical Review of World Energy 2018 Oil| url=https://www.bp.com/content/dam/bp/business-sites/en/global/corporate/pdfs/energy-economics/statistical-review/bp-stats-review-2018-oil.pdf|format=PDF|accessdate=2018-03-24}}</ref>も採掘されている。鉱業セクターは輸出にも貢献しており、特産物の絹織物につぎ、エネルギー輸出が全輸出額の9.0%を占める><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.trademap.org/Product_SelProductCountry.aspx?nvpm=1%7c860%7c%7c%7c%7cTOTAL%7c%7c%7c2%7c1%7c2%7c2%7c1%7c1%7c1%7c1%7c1|title=List of products at 2 digits level exported by Uzbekistan in 2017 (Mirror)(ウズベキスタンの品目別輸出金額)|publisher=International Trade Centre(国際貿易センター)|year=2017|accessdate=2019-03-24}}</ref>。その他の金属鉱物資源では、銀(生産量:約60.0千トン)のほか、小規模な銅採掘(生産量:80.4トン)が続いている。[[リン鉱石]]も産出する。
=== 観光都市 ===
{{main|ウズベキスタンの観光}}
シルクロードの中心地や、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]の宝庫として、青の街[[サマルカンド]]や茶色の町[[ブハラ]]、[[ヒヴァ]]、[[シャフリサブス]]、[[仏教]]文化の[[テルメズ]]などが世界的に有名。[[ソビエト連邦|ソ連]]からの独立後には歴史的遺構への訪問を目的とする各国からの[[観光]]客が急増し、それに伴い観光が外貨獲得源の1つとなった。これを受けて政府による観光客誘致が盛んに行われていることから、タシケントは海外の[[ホテル]]チェーンの大規模ホテルが多く運営されている。
[[ナヴォイ劇場]]は、[[1947年]]11月に[[ミール・アリー・シール・ナヴァーイー|アリシェル・ナヴォイ(ナヴォイー)]]生誕500周年を記念して初公開されている。日本人の[[シベリア抑留]]者の[[強制労働]]により建設されたことで知られている。
{{Wide image|Chiwa_panorama.jpg|1200px|ヒヴァ}}
== 交通 ==
{{main|ウズベキスタンの交通}}
[[File:Tashkent Airport Wallner.jpg|thumb|250px|[[タシュケント国際空港]]]]
[[File:Tashkent Station.JPG|right|thumb|250px|[[タシュケント駅]]]]
[[File:Hi-speed trains Afrosiyab (Uzbekistan).JPG|thumb|right|250px|[[タシュケント・サマルカンド高速鉄道]]]]
=== ウズベキスタン航空 ===
[[ウズベキスタン航空]]が[[タシュケント国際空港]]と[[アジア]]や[[ヨーロッパ]]の主要都市間を結んでおり、[[日本]]にも[[成田国際空港]]に週2便定期便を運航している。しかし運休も多く、スケジュール通りに動くか当日にならないと判明しないこともあり、またマイレージも独自のフライトのみでしか加算できないため、マニアックな人好みの航空会社となっている。タシケント国際空港にはアジアやヨーロッパから各国の[[航空会社]]が乗り入れており、[[ソ連]]時代より中央アジアにおける[[ハブ空港]]的な存在となっている。ウズベキスタン航空は、日本からウズベキスタンへの旅客輸送ではなく、[[イスタンブール]]や[[テルアビブ]]などタシュケント以遠の都市への旅客輸送がほとんどである為、国会でも問題視されたが、法律で禁止されていることではない。
=== 国内 ===
国内の移動にはウズベキスタン航空の国内線の他、[[バス (交通機関)|バス]]や[[鉄道]]も国土の広い範囲をカバーしている。なお鉄道はその多くが旧ソ連時代に建設されたものであり、老朽化が進んだ他、各地方を結ぶ基幹路線のいくつかは近隣国を経由しており、これを解消するために日本政府が[[円借款]]を行い、鉄道旅客輸送力の増強および近代化事業を進めている。近年、[[タシュケント・サマルカンド高速鉄道]]も運行している。
ウズベキスタンの首都であり国内最大の都市である[[タシュケント]]には1977年に[[タシュケント地下鉄]]が整備され、ソ連崩壊による独立後10周年に当たる2001年には地下鉄が3線にまで増加した。ウズベキスタンは中央アジアで最も早く[[地下鉄]]が整備された国であり、2013年時点で地下鉄が存在する中央アジアの都市は[[カザフスタン]]の[[アルマトイ地下鉄|アルマトイ]]とタシュケントの2つのみである<ref>[http://www.tashkent.org/uzland/subway.html Tashkent Subway for Quick Travel to Hotels, Resorts, and Around the City]</ref>。駅にはそれぞれ統一されたテーマが設けられており、そのテーマに沿った内装が施されている。例えば、1984年に建設された[[ウズベキスタン線]]の「コスモナフトラル駅」は[[宇宙旅行]]がテーマとなっており、駅構内はウズベキスタン国内出身のソビエト連邦の[[宇宙飛行士]]、[[ウラジーミル・ジャニベコフ]]の業績を含めた人類の宇宙探査の様子が描かれており、ウラジーミル・ジャニベコフの銅像が駅入口付近に建設されている。
タシュケントには市営の[[路面電車|トラム]]や[[バス (交通機関)|バス]]が運行されている他、登録承認済み、非承認にかかわらず多くの[[タクシー]]が走行している。ウズベキスタンには現代的な[[自動車]]を生産する自動車工場がある。ウズベキスタン政府と[[大韓民国|韓国]]の[[自動車]]企業、[[韓国GM]](旧称:大宇自動車)により設立された[[GMウズベキスタン|ウズデウオート]](現在はGM傘下に入りGMウズベキスタンと改称している)が国内の[[アサカ (ウズベキスタン)|アサカ]]で大規模な自動車生産を行なっている<ref>{{cite web|url=http://www.uzdaily.com/articles-id-220.htm#sthash.jOWCjEoH.dpbs |title=Uzbekistan, General Motors sign strategic deal |publisher=Uzdaily.com |date= |accessdate=2013-06-13}}</ref>。政府はトルコの[[コチ財閥|コチュ財閥]]による投資を受けて[[サムアフト|サムコチュアフト]]を設立、小型バスやトラックの生産を開始した。2007年には[[日本]]の[[いすゞ自動車]]といすゞのバスやトラックを生産を開始した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nna.jp/news/show/1987700|title=いすゞ、ウズベキスタン工場を年産1万台に増強|accessdate=2021年3月2日|publisher=NNA}}</ref><ref>[http://www.uzdaily.com/?c=118&a=1242 SamAuto supplies 100 buses to Samarkand firms], UZDaily.com. [http://www.uzdaily.com/?c=118&a=1336 Japanese firm buys 8% shares in SamAuto], UZDaily.com.</ref>。
鉄道はウズベキスタン国内の多くの街を結ぶと共に、[[キルギス]]や[[カザフスタン]]など旧ソ連領域内にあった中央アジアの隣国へも運行されている。更に、独立後2種類の[[高速鉄道]]が導入された。2011年9月にはタシュケントと[[サマルカンド]]を結ぶ[[タシュケント・サマルカンド高速鉄道]]の運行が開始された。この高速鉄道の車輌には[[スペイン]]の鉄道車両メーカー[[タルゴ]]により制作された[[レンフェ130系|タルゴ250]]が使用されており、「アフラシャブ号 (Afrosiyob)」と呼ばれている。初の運行は2011年8月26日に開始された<ref>[http://www.uzdaily.com/articles-id-15511.htm First high-speed electricity train carries out first trip from Samarkand and Tashkent, 27 August 2011]. Uzdaily (2011-08-27). Retrieved on 2012-02-19.</ref>。
ウズベキスタンにはソビエト連邦時代にタシュケント・チカロフ航空生産工場({{lang-ru|ТАПОиЧ}})と呼ばれた{{仮リンク|タシュケント航空生産協会|en|Tashkent Aviation Production Association}}という大規模[[航空機]]生産工場がある。この工場は[[独ソ戦]]時に建設され、当時の生産施設はソビエト連邦と敵対していた[[ナチス・ドイツ]]の軍隊による接収を避けるためソビエト連邦南東部に当たる中央アジアへと[[疎開]]してきたものであった。1980年代後半まで、工場はソビエト連邦国内において航空機生産をリードする工場の1つであったが、ソビエト連邦崩壊とともに生産設備は老朽化、多くの労働者が解雇された。現在は年間数台の航空機を生産するのみとなっているが、ロシアの企業による関心により生産能力強化計画があるとも報じられている。
== 科学技術 ==
{{Main|{{仮リンク|ウズベキスタンの科学技術|en|Science and technology in Uzbekistan}}}}
{{節スタブ}}
== 国民 ==
{{Main|ウズベキスタンの人口統計}}
[[File:Tajiks of Uzbekistan.PNG|thumb|right|250px]]
[[File:Termez, stallholders.JPG|thumb|250px|ウズベキスタンの女性]]
[[File:Uzbek man from central Uzbekistan.jpg|thumb|250px|ウズベキスタンの老人]]
{{bar box
|title=民族構成
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{{bar percent|[[ウズベク人]]|red|83.8}}
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{{bar percent|その他|green|8.1}}
}}
ウズベキスタンは[[中央アジア]]で最も人口の多い国であり、2020年時点の人口は3350万人であった<ref name=":0" />。2012年時点の人口29,559,100人<ref name="Stat2012">{{Cite web|url=http://www.stat.uz/press/1/3399/ |title=Official population estimation 2012-01-01|publisher=Stat.uz|date=2012-01-23|accessdate=2013-06-13}}</ref>は中央アジア全体の人口の約半数に相当する。
=== 民族 ===
ウズベキスタンの平均年齢は低く、全人口の約23.19%は14歳以下である(2020年の推定)<ref name=":1" />。人口推定によると、主要民族の[[ウズベク人]]が全人口の84.3%を占める。その他、4.8%のタジク人のほか、カザフ人(2.4%)、ロシア人(2.1%)など多くの[[少数民族]]が住む(2020年)<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/uzbekistan/data.html|title=ウズベキスタン基礎データ|accessdate=2021年3月2日|publisher=外務省}}</ref>。ソ連時代に、ウズベク語を話すことのできるタジク人はウズベク人と分類されたため、タジク人は実際には相当数いるものとされる。実際には、人口の20~30%を占めているという調査もある。ソ連時代にはロシア人の割合は12.5%(1970年)を占め、タシュケントの人口の半数近くがロシア人・ウクライナ人であったが、現在はウズベク民族主義や経済的な理由により急減している。人名はソ連時代の名残りからロシア語風の姓名が多く見受けられる。
タジク人の割合に関しては解釈の相違が見られる。ウズベキスタン政府による公式の数字は5%であるが、この数字は過小評価された数字であるとされており、西洋の学者にはタジク人の割合を20%~30%であると見積もる者もいる<ref name="cornellcaspian.com">{{cite journal|doi=10.1080/09662830008407454|url=http://www.cornellcaspian.com/pub/0010uzbekistan.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090505153156/http://www.cornellcaspian.com/pub/0010uzbekistan.htm|archivedate=2009-05-05|title=Uzbekistan: A Regional Player in Eurasian Geopolitics?|year=2000|last1=Cornell|first1=Svante E.|journal=European Security|volume=9|issue=2|page=115}}</ref><ref name=Foltz>{{cite journal|author=Richard Foltz|title=The Tajiks of Uzbekistan|journal=Central Asian Survey|volume= 15|issue=2|pages= 213–216 |year=1996|doi=10.1080/02634939608400946}}</ref><ref name="Karl Cordell 1999. pg 201">Karl Cordell, "Ethnicity and Democratisation in the New Europe", Routledge, 1998. p. 201: "Consequently, the number of citizens who regard themselves as Tajiks is difficult to determine. Tajikis within and outside of the republic, Samarkand State University (SamGU) academic and international commentators suggest that there may be between six and seven million Tajiks in Uzbekistan, constituting 30% of the republic's 22 million population, rather than the official figure of 4.7%(Foltz 1996;213; Carlisle 1995:88).</ref><ref name="Lena Jonson 2006. pg 108">Lena Jonson (1976) "Tajikistan in the New Central Asia", I.B.Tauris, p. 108: "According to official Uzbek statistics there are slightly over 1 million Tajiks in Uzbekistan or about 3% of the population. The unofficial figure is over 6 million Tajiks. They are concentrated in the Sukhandarya, Samarqand and Bukhara regions."</ref>。公式の統計でウズベク人とされている者の中には中央アジアのトルコ・ペルシア人であった[[サルト人]]のような他の民族も含まれている。[[オックスフォード大学]]による近年の[[遺伝子系図]]テストを用いた研究によると、ウズベク人には[[モンゴル人]]と[[イラン人]]の遺伝子混合が見られる<ref>{{cite journal |doi=10.1086/342096 |author=Tatjana Zerjal |title=A Genetic Landscape Reshaped by Recent Events: Y-Chromosomal Insights into Central Asia |journal=The American Journal of Human Genetics |year=2002 |volume=71 |issue=3 |pages=466–482 |pmid=12145751 |pmc=419996 |last2=Wells |first2=R. Spencer |last3=Yuldasheva |first3=Nadira |last4=Ruzibakiev |first4=Ruslan |last5=Tyler-Smith |first5=Chris}}</ref>。
ウズベキスタンの少数民族としては、1937年から1938年にかけて、[[ヨシフ・スターリン]]により[[極東ロシア|極東ソビエト]]の[[沿海州]]から中央アジア地域へと強制移住させられた[[朝鮮民族]]が約20万人ほど在住しており、「[[高麗人]]」と自称している。また、[[ドイツ]]系の[[ヴォルガ・ドイツ人]]や[[アルメニア]]系のウズベキスタン人もタシュケントやサマルカンドなどの都市部に多い。全人口の約88%がムスリム(ほとんどが[[スンナ派]]であり、[[シーア派]]は5%となっている)であり、[[東方正教会]]信者が9%、その他が3%となっている。アメリカ国務省による2004年の報告によると、0.2%が[[仏教]](ほぼすべてが高麗人)を信仰している。[[ブハラ・ユダヤ人]]は1000年以上前に中央アジアへと移り住んできた[[ユダヤ人]]の民族集団であり、主にウズベキスタンに居住している。1989年時点では94,900人のユダヤ人がウズベキスタン国内に住んでいた<ref name=Jews2001>[http://www.ajcarchives.org/AJC_DATA/Files/2001_13_WJP.pdf World Jewish Population 2001], ''American Jewish Yearbook'', vol. 101 (2001), p. 561.</ref>(全人口の約0.5%に相当)が、ソビエト連邦崩壊後ブハラ・ユダヤ人の多くは[[アメリカ合衆国]]、ドイツ、[[イスラエル]]といった他の国々へと出国、2007年時点で残っているブハラ・ユダヤ人の数は5,000人にも満たない<ref name=Jews2007>[http://www.ajcarchives.org/AJC_DATA/Files/AJYB727.CV.pdf World Jewish Population 2007], ''American Jewish Yearbook'', vol. 107 (2007), p. 592.</ref>。
[[ロシア系ウズベキスタン人]]は全人口の約2.1%を占める。ソビエト連邦時代にはロシア人と[[ウクライナ人]]が首都タシュケントの全人口の半数以上を占めていた<ref>Edward Allworth ''[https://books.google.co.jp/books?id=X2XpddVB0l0C&pg=PA102&redir_esc=y&hl=ja Central Asia, 130 years of Russian dominance: a historical overview]'' (1994). Duke University Press. p.102. ISBN 0-8223-1521-1</ref>。1970年の調査結果によると、全人口の12.5%に当たる約150万人のロシア人が国内に住んでいた<ref>"[http://www.wilsoncenter.org/sites/default/files/OP297.pdf The Russian Minority in Central Asia: Migration, Politics, and Language]" (PDF). Woodrow Wilson International Center for Scholars.</ref>。ソビエト連邦崩壊後、ロシア系の人々は主に経済的な理由からその多くが他国へと移住していった<ref>[http://www.turkishweekly.net/news/874/the-russians-are-still-leaving-uzbekistan-for-kazakhstan-now.html The Russians are Still Leaving Uzbekistan For Kazakhstan Now]. Journal of Turkish Weekly. December 16, 2004.</ref>。
1940年代の[[クリミア・タタール人追放]]({{lang-crh|Qırımtatar sürgünligi}})で、[[クリミア・タタール人]]は[[ドイツ人]]、[[チェチェン人]]、[[ギリシア人]]、[[トルコ人]]、[[クルド人]]、その他の民族とともに中央アジアへと強制移住させられた<ref>[http://www.faqs.org/minorities/USSR/Deported-Nationalities.html Deported Nationalities]. World Directory of Minorities.</ref>。約10万人のクリミア・タタール人が現在もウズベキスタン国内に居住している<ref>[http://www.jamestown.org/single/?no_cache=1&tx_ttnews%5Btt_news%5D=35167&tx_ttnews%5BbackPid%5D=7&cHash=0c1663d799 Crimean Tatars Divide Ukraine and Russia]. The Jamestown Foundation. June 24, 2009.</ref>。タシュケントにおける{{仮リンク|ギリシア系ウズベキスタン人|en|Greeks in Uzbekistan}}の数は1974年の35,000人から2004年には12,000人にまで減少している<ref>[http://www.independent.co.uk/news/world/europe/greece-overcomes-its-ancient-history-finally-552207.html Greece overcomes its ancient history, finally]. The Independent. July 6, 2004.</ref>。[[メスヘティア・トルコ人]]の大多数は1989年6月に[[フェルガナ盆地]]で起きた[[ポグロム]]の後他国へと出国した<ref>[http://www.unhcr.org/refworld/topic,463af2212,488edfe22,49749c843c,0.html World Directory of Minorities and Indigenous Peoples – Uzbekistan : Meskhetian Turks]. Minority Rights Group International.</ref>。
少なくともウズベキスタンの労働者の10%が国外へと流出しており、そのほとんどがロシアやカザフスタンで働いている<ref>International Crisis Group, [https://web.archive.org/web/20091111025921/http://www.crisisgroup.org/home/index.cfm?id=5027&l=1 Uzbekistan: Stagnation and Uncertainty], Asia Briefing N°67, August 22, 2007</ref>。
ウズベキスタンの15歳以上の[[識字率]]は100%(2016年の推定)<ref name=":1">{{Cite web|url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/uzbekistan/#people-and-society|title=People and Society|accessdate=2021年3月2日|publisher=[[中央情報局|CIA]]}}</ref>であり、これにはソビエト連邦時代の教育制度が大きく影響していると考えられている。
=== 言語 ===
{{See also|ウズベキスタンの言語}}
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|title=言語話者(ウズベキスタン)
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{{bar percent|[[ウズベク語]]|lightblue|74.3}}
{{bar percent|[[ロシア語]]|Purple|14.2}}
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[[公用語]]は[[ウズベク語]]のみと制定されている<ref name=":1" />。ウズベク語は[[ラテン文字]]表記だが、[[キリル文字]]での表記も行われている。
ウズベク語母語話者は全体の74.3%を占めるにすぎず、その他ロシア語、タジク語が使われている。ソ連時代まではロシア語も公用語とされていたが独立後に外された。しかし、ロシア語は全人口の14.2%に当たる人々が[[第一言語]]として使用しており、その他の人々もその多くがロシア語を[[第二言語]]として使用しているなど異民族間の[[共通語]]・準公用語的な地位にある。
[[サマルカンド]]や[[ブハラ]]、[[シャフリサブス]]などのウズベキスタン南部地域、[[フェルガナ盆地]]地域、[[シルダリヤ川]]沿岸地域では[[タジク語]]が広範囲にわたって話されており<ref name="Foltz"/>、タジク語圏地域となっている。ウズベキスタンではタジク語教育は禁止され、家庭内などでの使用に限定されている。そのため、タジク語話者はほとんどがウズベク語との完全な[[バイリンガル]]でもあり統計上ではタジク語の割合は4.4%に過ぎないが、全人口の20%~30%前後がタジク人とされるために、タジク語話者も同程度いるものと推測される<ref>Richard Foltz, "The Tajiks of Uzbekistan", Central Asian Survey, 213-216 (1996).</ref>。このことから、ウズベキスタンはタジキスタンに次ぐタジク語国家ともいえる。
カラカルパクスタン共和国では[[カラカルパク語]]とウズベク語の両方が公用語となっている<ref name=":1" />。
その他、[[ブハラ語]]、カラカルパク語、[[カザフ語]]、[[キルギス語]]、[[クリミア・タタール語]]、[[コリョマル|高麗語]]なども話されている多言語国家である。
=== 宗教 ===
{{main|ウズベキスタンの宗教}}
[[File:Ulugbek Madrasa 2007.jpg|thumb|250px|[[サマルカンド]]の[[ウルグ・ベク・マドラサ]]]]
2009年の[[アメリカ国務省]]による調査によると、[[イスラム教]]はウズベキスタンの主要宗教であり、人口の約90%が[[ムスリム]]である。また、5%が[[ロシア正教会]]を信仰しており、その他が5%となっている<ref>{{cite web|url=http://www.state.gov/r/pa/ei/bgn/2924.htm |title=Uzbekistan |publisher=State.gov |date=2010-08-19 |accessdate=2013-06-13}}</ref>。しかし、[[ピュー研究所]]による2009年の調査結果によると、ウズベキスタンの全人口の約96.3%がムスリムとなっている<ref>[http://pewforum.org/uploadedfiles/Topics/Demographics/Muslimpopulation.pdf Mapping the Global Muslim Population. A Report on the Size and Distribution of the World’s Muslim Population]. Pew Forum on Religion & Public Life (October 2009)</ref>。また、約93,000人の[[ユダヤ教]]信者が存在しているとされている。
国内のイスラム教信者の割合は高いものの、イスラム教の実践は一枚岩からは程遠い。信仰については、20世紀を通して改革や世俗化、イスラム教の伝統との衝突を通して中央アジアで様々な方法が実践されているが、このような混乱した状況が世界へと発信され、定着することとなった。ソビエト連邦の崩壊により多くの人が予想したような[[イスラム原理主義]]の台頭を招くことはなく、衣食に関する戒律は緩やかであり、基本的に女性は頭髪や足首を隠さない。しかし、[[ブハラ]]などイスラム色の強い都市では女性がパンツ(ズボン)を履くことに対して良く思わない傾向があり、多くの女性は[[スカート]]を履いている。
[[信教の自由]]の権利を保証しているものの、ウズベキスタンは国によって認可されないあらゆる宗教活動を禁じている。
=== 婚姻 ===
同国の結婚式は「トゥイ」(to'y)と呼ばれており、多くの慣習が存在する。国民にとって結婚式は慶事の中で重要なものであり、どの慶事よりも華やかに祝う。
ソ連崩壊後から、現代的な結婚式に替わりつつあるが、伝統を守っている人も多い。
{{節スタブ}}
=== 教育 ===
{{main|ウズベキスタンの教育}}
[[File:University of Westminster 15-39.JPG|thumb|right|250px|ウェストミンスター国際大学タシュケント校の建物]]
ウズベキスタン国内における15歳以上の[[識字率]]は約99%と高いものの、教育プログラムを推進する際に深刻な予算不足に陥っている。
上記の通り、同国は高い識字率を誇り、15歳以上の識字率は約99.3%であるが、15歳以下の識字率は76%にまで落ち込み、3~6歳の識字率は20%となっている。この大きな要因として、ウズベキスタンの教育方法が挙げられており、未来には識字率が下がっていくと予測されている。学生は月曜日から土曜日まで年間を通して学校に通い、[[中学校]]までが義務教育となっている。中学校卒業後、学生は職業専門学校もしくは通常の[[高等学校|高校]]へと進学することが多い。ウズベキスタンには2つのインターナショナルスクールがあり、2つともタシュケントにある。ブリティッシュ・スクールは小学生の、タシュケント・インターナショナルスクールは12歳以上の学生に対する指導を行なっている。
1992年に制定された教育法に沿って教育カリキュラムの改定作業が実行されたが、教育現場の教材などの不足が発生、カリキュラムの改定作業は遅々として進んでいない。この現象の大きな要因として、教師に対する賃金の低さ、政府による学校や教材などのインフラ整備予算の不足が挙げられている。これにはラテン文字へと文字表記を変更したことにより、キリル文字で記されていた過去の教材や資料が使用できなくなったことも関係している。また、教育システムが崩壊したことで、裕福な家庭が自身の子供を出席や入学試験なしに高いレベルの学校に入れてもらう目的で教師や学校関係者に賄賂を送る事態も横行している<ref>[http://chalkboard.tol.org/uzbekistan-lessons-in-graft Uzbekistan: Lessons in Graft | Chalkboard]</ref>。
ウズベキスタンの大学は毎年約60万人の卒業生を出しているが、大学卒業生の一般的な水準や高等教育機関内の全体的な教育レベルはそれほど高くない。ウェストミンスター国際大学タシュケント校は英語による講義が設けられた国内初の大学である。
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=== 保健 ===
{{main|{{仮リンク|ウズベキスタンの保健|en|Health in Uzbekistan}}}}
{{節スタブ}}
==== 医療 ====
{{main|ウズベキスタンの医療}}
国内には16の精神病院と2,834の主要な地方医療機関が存在する。
== 治安 ==
ウズベキスタンでは犯罪統計が公表されていない為、実際の犯罪の発生状況を正確に把握することは困難となっているが、一般的には経済的困窮や[[貧困]]を背景に[[金銭]]や[[貴金属]]ならびに[[スマートフォン]]などの高級[[家電機器|家電]]を狙う[[窃盗]]・[[強盗]]などが多発していると言われている<ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_183.html ウズベキスタン安全対策基礎データ] 海外安全ホームページ</ref>。
また、[[汚職]]に関してはこれを防止するための法律こそ整備されているものの、法律の施行は非常に弱いものとなってしまっているのが現状である。同国における汚職は政府や社会、企業に至るほぼ全ての分野に拡がるレベルで存在している。
{{See|{{仮リンク|ウズベキスタンにおける汚職|en|Corruption in Uzbekistan}}}}
=== 人権 ===
{{main|{{仮リンク|ウズベキスタンにおける人権|en|Human rights in Uzbekistan}}}}
[[ウズベキスタン共和国憲法]]では「ウズベキスタン共和国の民主主義は個人の生命、自由、名誉、尊厳、その他の固有の権利を至上の価値とする基本的な人道にもとづく」と宣言している。
人権に対する公的な姿勢については「人権の確立と奨励に関するウズベキスタン共和国政府の取り組み」という覚書に要約されており<ref>Embassy of Uzbekistan to the US, [http://www.uzbekistan.org/press/archive/283/ Press-Release: "The measures taken by the government of the Republic of Uzbekistan in the field of providing and encouraging human rights"], October 24, 2005</ref>、以下のように記述されている。「政府はウズベキスタン市民の人権を保護、保証するためにあらゆる手段を用いる。ウズベキスタンは人道的な社会の実現のため、継続的に法改正を行っていく。人々の基本的人権を規定するための300以上の法案が議会を通過した。例として、[[オンブズマン]]事務所は1996年に設立された<ref>Uzbekistan Daily Digest, [https://web.archive.org/web/20080904102609/http://www.eurasianet.org/resource/uzbekistan/hypermail/200304/0029.shtml "Uzbekistan's Ombudsman reports on 2002 results"], December 25, 2007</ref>。2005年8月2日、大統領のイスラム・カリモフは2008年1月1日よりウズベキスタンにおいて死刑を廃止する法令に署名した。
しかし、{{仮リンク|国際ヘルシンキ人権連盟|en|International Helsinki Federation for Human Rights}}(IHF)、[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]、[[アムネスティ・インターナショナル]]などの[[非政府組織]]の[[人権団体]]は[[アメリカ合衆国国務省]]や[[欧州連合理事会]]とともに、ウズベキスタンを「[[市民権]]が制限された権力主義国家」と定義しており<ref>US Department of State, [http://www.state.gov/j/drl/rls/hrrpt/2008/sca/119143.htm 2008 Country Report on Human Rights Practices in Uzbekistan], Bureau of Democracy, Human Rights, and Labour, February 25, 2009</ref>、「あらゆる[[基本的人権]]に対する広範囲の侵害」が存在することに重大な懸念を表明している<ref>IHF, [https://web.archive.org/web/20100129175624/http://www.ihf-hr.org/documents/doc_summary.php?sec_id=3&d_id=3860 Human Rights in OSCE Region: Europe, Central Asia and North America– Uzbekistan, Report 2004 (events of 2003)], 2004-06-23</ref>。
報告によると、最も広範囲で見られる人権侵害は[[拷問]]、恣意的な[[逮捕]]、そして、信教の自由、言論の自由、出版の自由など様々な自由の制限があげられる。また、地方ではウズベキスタンの女性に対して強制不妊手術を行うことが政府によって容認されているとの報告がある<ref>[http://www.newyorker.com/online/blogs/newsdesk/2013/01/tweets-from-gulnara-the-dictators-daughter.html reported]</ref><ref>OMCT and Legal Aid Society, [http://www.omct.org/files/2005/07/2984/omctlas_uzb_report_04_05.pdf Denial of justice in Uzbekistan– an assessment of the human rights situation and national system of protection of fundamental rights], April 2005.</ref>。また、宗教団体の会員、独立したジャーナリスト、人権活動家や禁止された敵対政党の党員を含む政治活動家などに対する人権侵害が頻繁に行われているとも報告されている。
[[2005年]]の[[アンディジャン事件]]では結果として数百人の死亡者が出たが、この事件はウズベキスタン国内の人権侵害の歴史の中でも大きな事件となった<ref>Jeffrey Thomas, US Government Info September 26, 2005 [https://web.archive.org/web/20070421032553/http://usinfo.state.gov/eur/Archive/2005/Sep/26-966275.html Freedom of Assembly, Association Needed in Eurasia, U.S. Says],
</ref><ref>{{cite web|last=McMahon |first=Robert |url=http://www.rferl.org/content/article/1059147.html|title=Uzbekistan: Report Cites Evidence Of Government 'Massacre' In Andijon- Radio Free Europe/Radio Liberty |publisher=Rferl.org |date=2005-06-07 |accessdate=2013-06-13}}</ref><ref>{{cite web|url=http://web.amnesty.org/library/Index/ENGEUR620152005?open&of=ENG-UZB |title=Uzbekistan: Independent international investigation needed into Andizhan events & Amnesty International |publisher=Web.amnesty.org |date=2005-06-23 |accessdate=2013-06-13 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20071012171720/http://web.amnesty.org/library/Index/ENGEUR620152005?open&of=ENG-UZB |archivedate = 2007-10-12}}</ref>。
アンディジャン事件に関する深い懸念がアメリカ合衆国、欧州連合、国連、OSCE議長、OSCE民主主義人権研究事務所によって示され、これらの機関はウズベキスタン政府から独立した調査を要求した。ウズベキスタン政府が人命を不法に奪い、市民の[[集会の自由]]と表現の自由を否定していることにも非難が出ている。政府はこれらの非難を真っ向から否定した上で、必要最小限の武力を用いて反テロ活動を展開したにすぎないと主張した<ref>{{cite web|url=http://www.press-service.uz/en/gsection.scm?groupId=5203&contentId=8868 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080308115436/http://www.press-service.uz/en/gsection.scm?groupId=5203&contentId=8868 |archivedate=2008-03-08 |title=Press-service of the President of the Republic of Uzbekistan: |publisher=Press-service.uz |date=2005-05-17 |accessdate=2013-06-13}}</ref>。さらに、政府の一部官僚は「ウズベキスタンに対して情報戦が仕掛けられている」と述べ、「アンディジャンの人権侵害」はウズベキスタンの内政に干渉するのに都合よい口実として、ウズベキスタンの敵対勢力がでっちあげたものであると主張した<ref>{{cite web|author=Акмаль Саидов |url=http://www.kreml.org/interview/100931204 |title=Андижанские события стали поводом для беспрецедентного давления на Узбекистан |publisher=Kreml.Org |date=2005-10-27 |accessdate=2013-06-13}}</ref>。
タジク人が彼らの[[母語]]である[[タジク語]]を学校で教えることをウズベキスタンは禁じており、タジク語(もしくは[[ペルシア語]])の文学作品が破壊された例が存在する<ref>{{cite web|url=http://www.cidcm.umd.edu/mar/assessment.asp?groupId=70402 |title=MAR (Minorities at Risk) report ''(retrieved February 21, 2010)'' |publisher=Cidcm.umd.edu |date=2006-12-31 |accessdate=2013-06-13}}</ref>。
== マスコミ ==
{{main|ウズベキスタンのメディア}}
{{節スタブ}}
{{see also|ウズベキスタンの電気通信}}
== 文化 ==
{{Main|ウズベキスタンの文化}}
[[File:Gorskii 03978u.jpg|thumb|right|250px|[[サマルカンド]]の[[シャーヒ・ズィンダ廟群]]]]
[[File:Taschkent - Art of Uzbekistan.jpg|thumb|250px|ウズベキスタンの伝統工芸品]]
[[File:Theatre Alisher Navoi.JPG|thumb|250px|[[タシュケント]]の[[ナヴォイ劇場]]]]
=== 食文化・料理 ===
{{Main|ウズベキスタン料理}}
[[File:Plov.jpg|thumb|right|250px|ウズベキスタンの国民食である[[ピラフ|プロフ]]]]
ウズベキスタン料理は国内の農業に大きな影響を受けている。ウズベキスタンでは穀物の収穫高が多いことから、[[パン]]や[[麺]]はウズベキスタン料理において重要な地位を占めており、時に「ヌードル・リッチ(noodle rich、麺が豊富)」と形容されることがある。[[羊肉]]はウズベキスタン国内で[[ヒツジ]]の[[放牧]]が盛んであることから一般的に販売されている肉であり、様々なウズベキスタン料理に使用されている。
ウズベキスタンの国民食は[[ピラフ|プロフ]](パラフ、パラウ、オシュとも呼ぶ)であり、[[米]]、[[食肉|肉]]、[[ニンジン]]や[[タマネギ]]などの野菜を使用して作られる料理で、主菜として供される。プロフはトルコから中央アジアに伝わった料理で、フランス料理の[[ピラフ]]に似ており、その元になった料理である。オシ・ナハルは通常午前6時から9時までに提供される朝のプロフであり、結婚式などの慶事の際には集まった客の分まで大量に作られる。他に有名なウズベキスタン料理としては以下のようなものがある。[[シュルパ]](シュルヴァやシャルヴァとも呼ばれる)は脂肪の多い肉(通常は羊肉を用いる)の大きな塊と新鮮な野菜から作る[[スープ]]である。{{仮リンク|ナリン (料理)|label=ナリン|en|Naryn (dish)}}や[[ラグマン]]は麺料理であり、スープとしても主菜としても出されることがある。[[マンティ]]や{{仮リンク|チュチュヴァラ|en|Chuchvara}}、[[サモサ|サムサ]]は[[小麦粉]]で作った生地に肉などの具を詰めた後、蒸す、焼く、揚げるなどした[[餃子]]に近い料理である。肉と野菜の[[シチュー]]に近い[[ディムラマ]]や様々な[[ケバブ|カバブ]]は通常、主菜として供される。
[[緑茶]]は一日を通じ飲まれることが多いウズベキスタンの国民的な[[飲料]]である。緑茶を提供する[[喫茶店]]([[チャイハナ]])は文化的にも重要な位置づけにある。他にも[[タシュケント]]付近では[[紅茶]]などの[[茶]]が出されることも多いが、緑茶や紅茶に[[牛乳]]や[[砂糖]]を入れて飲むようなことはしない。茶は必ず食事とともに提供されるが、[[ホスピタリティ]]の一環として、客を招いた際には必ず緑茶もしくは紅茶を出す習慣がある。冷たい[[ヨーグルト]]飲料である[[アイラン]]は夏季には人気があるものの、茶に代わる地位は獲得していない。
国内に多いムスリムにとって、[[イスラム教における飲酒|飲酒は本来禁忌]]であるが、[[シャリーア|戒律]]が緩いため街中では酒が売られており、政府も輸出・観光産業振興のため[[ワイン]]の生産奨励や販売規制緩和を政策としている(ただし、ソ連崩壊後のイスラム教復興の影響を受けた若い世代はあまり飲酒しない)。[[ブドウ]]を含めて果樹が豊富なウズベキスタンにおけるワイン醸造は、イスラム化以降は下火になったものの、紀元前に遡る歴史があると推測されている<ref name="毎日20200127">[https://mainichi.jp/articles/20200127/ddm/013/030/019000c 【乾杯!世界のどこかで】ウズベキスタン ワイン/革命・独立 歴史くぐり抜け]『[[毎日新聞]]』朝刊2020年1月27日くらしナビ面(2020年1月28日閲覧)</ref>。
ウズベキスタン国内には14の[[ワイナリー]]があり、国内現存最古かつ最も有名なワイナリーであるサマルカンド・ワイナリー(ホブレンコ・ワイナリー(Khovrenko Winery))は[[サマルカンド]]で[[1868年]]、ロシア人実業家のドミトリー・フィラートフにより創業された<ref name="毎日20200127"/>。サマルカンドのワイナリーではグリャカンダス(Gulyakandoz)、[[シリン (ウズベキスタン)|シリン]]、アレアティコ、カベルネ・リカノー(Kabernet likernoe)など、地方のブドウを使用した様々な種類の[[デザートワイン]]を生産している。他にも、バギザカン、スルタンなどのブランドがあり、ドライタイプのものも近年日本にも輸入されるようになった<ref>[https://ameblo.jp/world-lunch/entry-12145398356.html ウズベキスタンワインショップ キャラバン(西荻窪)☆中央アジアトークも楽しい、ウズベクワイン店♪] ランチ de 諸国漫遊/日本にある外国料理レストランの食べある記♪(2016年4月11日)2020年1月28日閲覧</ref>。ウズベキスタンのワインはロシアをはじめとするNIS諸国に輸出されているほか、国際的な賞も受賞している。
=== 文学 ===
{{main|{{仮リンク|ウズベキスタン文学|label=ウズベク文学|uz|Oʻzbek adabiyoti|ru|Узбекская литература}}}}
{{節スタブ}}
=== 音楽 ===
{{main|ウズベキスタンの音楽}}
[[File:Samarkand A group of musicians playing for a bacha dancing boy.jpg|thumb|250px|[[サマルカンド]]の踊り「Bacha」、1905年~1915年]]
[[File:Sevara Nazarkhan Realworld Party 2006.jpg|thumb|250px|[[セヴァラ・ナザルハン]]]]
[[File:Boukhara 4696a.jpg|thumb|250px|[[ブハラ]]のシルク・アンド・スパイス・フェスティバル]]
中央アジアの伝統音楽の形式の1つに[[シャシュマカーム]]があり、これは当時文化の発信地であった[[ブハラ]]で16世紀後半に生まれたものである。シャシュマカームは[[アゼルバイジャン]]の[[マカーム|ムガーム]]や[[ウイグル]]の{{仮リンク|ムカーム|en|Muqam}}と非常に密接な関係にある。シャシュマカームという名前は「6つのマカーム」を意味し、[[イラン]]の伝統音楽と同じく、6つの異なる[[旋法]]が6つの節に組み込まれた音楽であることからその名がついた。[[スーフィー]]が語りだす間奏では音楽が中断され、低音で吟じ始めた後で次第に高音になりクライマックスを過ぎると再び元の低音に戻ることが多い。
バズムや結婚式のような行事に出席する聴衆の間ではフォーク・ポップスタイルの音楽は人気がある。ウズベキスタンの伝統音楽は[[ポップミュージック]]の形式とは大幅に異なっている。多くの場合、男性同士の間で行われる朝夕の会合において、1人もしくは2人の音楽家の演奏を聞くことが多い。ウズベキスタンの伝統音楽として有名なものにシャシュマカームがある。裕福な家庭によるミュージシャンへの大規模な支援が行われており、パトロンとなる彼らはシャシュマカームの演奏などすべての代金を負担している。詩と音楽は互いを引き立たせ、いくつかの楽曲では、1つの曲に2言語が取り入れられていることもあった。1950年代には、[[フォーク・ミュージック]]は次第に人気がなくなり、ラジオで流す曲のジャンルとして禁止令を受けた。これらの曲は完全に排除・衰退したわけではなかったが、「封建音楽」として名称を変えることとなった。禁止令が出されていたものの、フォーク・ミュージックの演奏グループは独自の方法で音楽の演奏を続けており、個人の間で次第に広まっていった。
=== 映画 ===
{{main|[[ウズベキスタンの映画]]}}
{{節スタブ}}
=== 美術 ===
{{main|ウズベキスタン美術}}
ウズベキスタンにおける現代美術館を代表するものとして、2004年に設立された{{仮リンク|ウズベキスタン美術館|en|Art Gallery of Uzbekistan}}が知られている。
{{節スタブ}}
=== 被服 ===
{{main|{{仮リンク|ウズベキスタンの民族衣装|uz|Oʻzbek milliy kiyimlari|ru|Узбекский национальный костюм}}}}
{{節スタブ}}
=== 建築 ===
{{main|{{仮リンク|ウズベキスタンの建築|en|Architecture of Uzbekistan|ru|Архитектура Узбекистана}}}}
{{節スタブ}}
=== 世界遺産 ===
{{main|ウズベキスタンの世界遺産}}
=== 祝祭日 ===
{{main|ウズベキスタンの祝日}}
[[振り替え休日]]は採用されていない。
{| class="wikitable"
|-
!日付||日本語表記||現地語表記||備考
|-
|1月1日||[[元日]]|| {{lang|uz|Yangi yil kuni}}<br>{{lang|uz|Янги йил куни}} ||
|-
|3月8日||国際婦人デー|| {{lang|uz|Xalqaro xotin-qizlar kuni}}<br>{{lang|uz|Халқаро хотин-қизлар куни}} ||
|-
|3月20日または21日||[[ノウルーズ|ナブルーズ]]([[春分の日]])|| {{lang|uz|Navroʻz}}<br>{{lang|uz|Наврўз}} ||
|-
|5月9日||[[ヨーロッパ戦勝記念日|戦勝記念日]]|| {{lang|uz|G'alaba kuni}}<br>{{lang|uz|Ғалаба Куни}} ||
|-
|9月1日||独立記念日|| {{lang|uz|Mustaqillik kuni}}<br>{{lang|uz|Мустақиллик Куни}} ||
|-
|10月1日||[[教師の日]]|| {{lang|uz|O'qituvchilar kuni}}<br>{{lang|uz|муаллимон Куни}} ||
|-
|12月8日||[[憲法記念日]]|| {{lang|uz|Konstitutsiyasi kuni}}<br>{{lang|uz|Конституцияси Куни}} ||
|}
上記の他、[[イスラム教]]に基く祝祭日がある。[[ヒジュラ暦]]に従って制定されるため、[[グレゴリオ暦]]では[[移動祝日]]となる。
* [[ラマダーン]]の終了日
* [[イード・アル=アドハー|犠牲祭]] Курбан-Хаит クルバン・ハイート
*: 暦の関係上、2006年のように年に2回制定されることがある。2006年は1月10日と12月31日。
== スポーツ ==
{{Main|ウズベキスタンのスポーツ}}
{{See also|オリンピックのウズベキスタン選手団}}
[[1991年]]にウズベキスタンが独立する以前、[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]]はソ連の一員として[[サッカーソビエト連邦代表]]や{{仮リンク|ラグビーソビエト連邦代表|en|Soviet Union national rugby union team}}、{{仮リンク|アイスホッケーソビエト連邦代表|en|Soviet Union national ice hockey team}}、[[バスケットボールソビエト連邦代表]]、[[ハンドボール]]ソビエト連邦代表など、各[[スポーツ]]のソ連代表チームに選手を送り出していた。[[ソビエト連邦の崩壊]]後、同国は[[サッカーウズベキスタン代表]]や{{仮リンク|ラグビーウズベキスタン代表|en|Uzbekistan national rugby union team}}、[[フットサルウズベキスタン代表]]や[[バスケットボールウズベキスタン代表]]などの代表チームを結成し、国際大会に派遣している。
国内には[[国際クラッシュ協会]]の本部がある。[[クラッシュ (格闘技)|クラッシュ]]はウズベキスタンの[[国技]]であり、現在スポーツとして行われているクラッシュはウズベキスタンの伝統的な[[格闘技]]であったクラッシュを国際化・現代化したものである。また、[[カヌー]]スプリント競技の{{仮リンク|ミカエル・コルガノフ|en|Michael Kolganov}}はK-1 500mにおいて世界王者になったことがあるほか、[[近代オリンピック|オリンピック]]で銅メダルを獲得している。[[体操競技]]の{{仮リンク|アレクサンデル・シャティロフ|en|Alexander Shatilov}}は[[ゆか]]で銅メダルを獲得している。
=== サッカー ===
{{Main|ウズベキスタンのサッカー}}
ウズベキスタン国内で[[サッカー]]は圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっている。1992年にプロサッカーリーグの「[[ウズベキスタン・スーパーリーグ]]」が創設され、全14クラブが所属している。リーグの最多優勝クラブは[[FCパフタコール・タシュケント|パフタコール・タシュケント]]である。[[ウズベキスタンサッカー連盟]]は[[アジアサッカー連盟]](AFC)に加盟しており、[[AFCチャンピオンズリーグ]]などのAFCが主催する国際大会に出場している。[[AFCカップ]]の[[AFCカップ2011|2011年大会]]において、[[ナサフ・カルシ]]が同国サッカー界初の国際大会優勝を達成している。
[[サッカーウズベキスタン代表]]は[[FIFAワールドカップ]]の本大会への出場歴はないものの、[[AFCアジアカップ]]の[[AFCアジアカップ2011|2011年大会]]では4位に躍進するなど、アジア地域の大会においては好成績を残すこともある。また、[[U-23サッカーウズベキスタン代表|U-23代表]]は[[AFC U-23選手権2018]]で初優勝を飾っており、[[U-20サッカーウズベキスタン代表|U-20代表]]も自国開催となった[[AFC U-20アジアカップ2023]]で初優勝を遂げている。さらに近年では、[[エルドル・ショムロドフ]]が[[イタリア]]・[[セリエA (サッカー)|セリエA]]でプレーしている<ref>{{Cite web|和書|title=ローマのウズベキスタン代表FWショムロドフ、半年レンタルでスペツィアへ |url=https://web.ultra-soccer.jp/news/view?news_no=436186 |website=[[超ワールドサッカー]] |access-date=2023-06-16 |date=2023-01-27 }}</ref>。
=== テニス ===
[[テニス]]もサッカーに次いで人気のスポーツであり、特に1991年にウズベキスタンが独立して以降人気が出た。国内のテニスを統括する団体、{{仮リンク|ウズベキスタンテニス連盟|en|Uzbekistan Tennis Federation}}(UTF)は2002年に設立された。首都のタシュケントでは毎年[[タシュケント・オープン]]というWTAの国際テニストーナメントが開催されている。タシュケント・オープンは1999年に開始され、屋外のハードコートを使用して行われている。同国で実績のある有名テニス選手としては、[[デニス・イストミン]]や[[アクグル・アマンムラドワ]]がいる。
=== ロードレース ===
ウズベキスタンは自転車競技選手、[[ジャモリディネ・アブドヤパロフ]]の故郷である。[[ツール・ド・フランス]]で三回の区間優勝を果たしており、いずれの回も[[マイヨ・ヴェール]]を勝ち取っている<ref>{{cite web |url=http://www.letour.fr/HISTO/us/TDF/coureur/4976.html |title=Le Tours archive |accessdate=2013-06-13}}</ref>。アブドヤパロフはツアーもしくは一日制のレースで、先頭集団が一塊になってゴールに向かう際に優勝を勝ち取ることが多く、しばしば最後の数kmで「スプリント」をかけるが、この際に川が[[蛇行]]するように左右に揺れながら走行を行うため、集団で走る他の競技者からは接触などの危険が高まり、危ない選手であるとみなされていた。この走行スタイルから、彼には「タシュケントの虎」というニックネームがついている。
=== 格闘技 ===
[[アルトゥール・タイマゾフ]]は2000年に開催された[[2000年シドニーオリンピック|シドニー五輪]]でウズベキスタンに初の[[レスリング]]のメダルをもたらした他、[[2004年アテネオリンピック|アテネオ五輪]]、[[2008年北京オリンピック|北京五輪]]、[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドン五輪]]と3大会に渡り男子120kg級で金メダルを獲得している。[[ルスラン・チャガエフ]]は同国を代表する[[世界ボクシング協会|WBA]]の[[プロボクサー]]である。彼は2007年に[[ニコライ・ワルーエフ]]を破ってWBAタイトルを奪取した、チャガエフは2009年に[[ウラジミール・クリチコ]]に敗れるまで2回王座防衛を果たした。
=== 関連画像 ===
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File:Bundesarchiv Bild 183-1987-0515-035, Dshamolidin Abdushaparow.jpg|[[ジャモリディネ・アブドヤパロフ]]は[[ツール・ド・フランス]]で3回の区間優勝を達成している
File:Sergey Lagutin.jpg|[[エネコ・ツアー2008]]の[[セルゲイ・ラグティン]]
File:RuslanChagaev.jpg|[[AIBA世界ボクシング選手権|世界ボクシング選手権]]で金メダルを獲得した[[ルスラン・チャガエフ]]
File:Istomin 2009 US Open 02.jpg|[[2009年全米オープン (テニス)|2009年全米オープン]]の[[デニス・イストミン]]
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== 著名な出身者 ==
{{Main|{{仮リンク|ウズベク人の一覧|en|List of Uzbeks}}}}
{{See also|Category:ウズベキスタンの人物}}
* [[ベフゾド・アブドゥライモフ]] - [[ピアニスト]]
* [[ファルフ・ルジマートフ]] - [[バレエダンサー]]
* [[セルヴェル・ジェパロフ]] - [[サッカー選手]]
* [[マクシム・シャツキフ]] - サッカー選手
* [[ファズィル・ムサエフ]] - サッカー選手
* [[サンジャール・トゥルスノフ]] - サッカー選手
* [[エルドル・ショムロドフ]] - サッカー選手
* [[サルドル・ラシドフ]] - サッカー選手
* [[アクグル・アマンムラドワ]] - [[テニス]]選手
* [[イロダ・ツルヤガノワ]] - テニス選手
* [[アナスタシア・ギマゼトディノワ]] - [[フィギュアスケート]]選手
* [[オルガ・アキモワ]] - フィギュアスケート選手
* [[タチアナ・マリニナ]] - フィギュアスケート選手
* [[ルスラン・チャガエフ]] - [[プロボクサー]]
* [[アルトゥール・タイマゾフ]] - [[レスリング]]選手
* [[ポリーナ・ラヒモワ]] - [[バレーボール]]選手
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
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{{Reflist|30em}}
== 関連項目 ==
* [[ウズベキスタン関係記事の一覧]]
* [[ウズベキスタンの交通]]
* [[ウズベキスタン軍]]
* [[ウズベキスタンの国際関係]]
* [[ウズベキスタンの大統領]]
* [[ウズベキスタン切手]]
* [[ウズベキスタンのスポーツ]]
* [[ウズベキスタンのサッカー]]
== 外部リンク ==
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| wikt = ウズベキスタン
| commons = Uzbekistan
| commonscat = Uzbekistan
}}
; 政府
* [https://www.gov.uz/uz ウズベキスタン共和国政府] {{uz icon}}{{kaa icon}}{{en icon}}{{ru icon}}
* [https://president.uz/en ウズベキスタン大統領府] {{uz icon}}{{en icon}}{{ru icon}}
; 日本政府
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/uzbekistan/ 日本外務省 - ウズベキスタン] {{ja icon}}
* [https://www.uz.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ウズベキスタン日本国大使館] {{ja icon}}{{ru icon}}
; 観光
* [https://uzbektourism.uz/en ウズベキスタン観光公社] {{uz icon}}{{en icon}}{{ru icon}}
; その他
* [https://www.jetro.go.jp/world/russia_cis/uz/ JETRO - ウズベキスタン]
* [https://uzreport.news/?lan=e National Information Agency of Uzbekistan]
* [http://parliament.gov.uz/ Lower House of Uzbekistan parliament]
* [http://www.jp-ca.org/ 日本とウズベキスタンの貿易・投資振興を図る|日ウ投資環境整備ネットワーク] {{ja icon}}
* [http://www.japan-uzbek.org/ NPO法人 日本ウズベキスタン協会]
* [https://www.uzf.or.jp/ 一般財団法人 日本ウズベキスタン・シルクロード財団]
; 一般情報
* {{CIA World Factbook link|uz|Uzbekistan}}
* [http://www.state.gov/p/sca/ci/uz/ Uzbekistan] U.S. Library of Congress includes Background Notes, Country Study and major reports
* [http://www.library.illinois.edu/spx/webct/nationalbib/natbibuzbek.htm Uzbek Publishing and National Bibliography] University of Illinois Slavic and East European Library
* [http://ucblibraries.colorado.edu/govpubs/for/uzbekistan.htm Uzbekistan] UCB Libraries GovPubs
* {{Curlie|Regional/Asia/Uzbekistan}}
* [http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-16218112 Uzbekistan profile] BBC News
* {{wikiatlas|Uzbekistan}}
* [http://www.ifs.du.edu/ifs/frm_CountryProfile.aspx?Country=UZ Key Development Forecasts for Uzbekistan] International Futures
; メディア
* [http://www.mtrk.uz/#uz/uzbekistan/ National Television and Radio Company of Uzbekistan]
* [https://uzbek.jp/ ウズベクフレンズ]
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インディーズ
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インディーズは、独立系を意味する「Independent」から派生した、主にある業種において「メジャー(大手)」に属さない、独立性の高い状態を指す言葉。
一例として、大手(メジャー)に対して中小のものを「マイナー」と称するように、メジャーと資本関係や人的交流などを深く持たず、系列化されていない独立性の高いものなどを称する。
ある業種や芸術などにおいて寡占が進むと、大衆に有名なものを「メジャー」、その他を「マイナー」や「インディーズ」と区分できるようになる。ただし区分の仕方は観点や状況によって大きく変わるため、一様ではない。
様々な産業や党の中に有名・無名が存在する以上、多くのインディーズに付する共通項は「メジャーに所属しない」ということだけであり、その形態や規模は様々である。そのため、インディーズという用語を明確に定義することは難しいが、一般的にその媒体に資本が介在している場合は、メジャーは提携や流通の効率化により規模を追求し、インディーズはメジャーと異なる手段を追求することが多い。そのため結果としてニッチ(少数派)を対象とすることが多い。
大企業のレコード会社やその系列会社はメジャー・レーベル、中小企業のレコード会社はインディーズ・レーベルと呼称される。
欧米の映画業界における「インディーズ」とは、ハリウッドのメジャー映画スタジオ5社(ディズニー、ソニー・ピクチャーズ、パラマウント映画、ユニバーサル映画、ワーナー・ブラザース)の傘下に属していない会社を指す。
また世界の音楽業界における「メジャー・レーベル」とは、一般的に世界の音楽市場の売上高で、全体のシェアの70%(アメリカ市場では85%)を占め、「ビッグ・スリー」と呼ばれるユニバーサルミュージック(34%+旧EMI7%)、ソニー・ミュージックエンタテインメント(28%)、ワーナー・ミュージック・グループ(16%)の3大レーベルを「メジャー・レーベル」と呼び指し、それ以外のレコード会社を「インディーズ・レーベル」と呼ぶことが多い。1990年代ではワーナーミュージックグループ、EMI、ソニー、BMG、ユニバーサル・ミュージック・グループ、ポリグラムの6大レーベルが世界的なシェアを占めていたが、その後合併や買収などを繰り返し、現在の三大レーベルとなった。
音楽産業・映画産業のような新しいもの、新鮮なものを消費者が常に求める業種においては、メジャー・レーベルの音楽・映画のみが売れ続けることは難しい。メジャーの取り揃える楽曲やアーティストが固定化したり、目新しさがなくなったりして消費者を満足させられなくなると、売り上げが下がってしまう。
特にアメリカの映画・音楽産業は販路が多国間に広がることが多いため、アメリカ国内の地域・民族差、世界での地域・民族差を利用して、販売時期・上映時期に差(タイムラグ)を作ってみたり、アーティストのツアーや俳優の販売促進ツアーなどで売り上げを平坦化させたりして、質の変化があっても業績の維持を図ることが出来る。
アメリカにおけるインディーズ・レーベルの歴史で重要な会社に、アトランティック・レコードやチェス・レコード がある。黒人向けのレイス・ミュージック(人種の音楽)としてメジャー・レーベルが避けていたリズム・アンド・ブルースや、ロックンロールなどの音楽を積極的に取り上げ、アメリカ全土でポピュラー音楽としての地位を固めることに成功した。アトランティックには、ルース・ブラウンらが、チェスにはチャック・ベリーやマディ・ウォーターズなどがいた。他にもスタックス・レコード、モータウン・レコードをはじめとするインディーズ・レーベルが、多くのヒット曲をリリースした。
この後も欧米ではエルヴィス・コステロらが在籍したスティッフ・レコードやスペシャルズらが在籍した2トーン・レコードなど有力なインディーズ・レーベルが誕生し、メジャー/マイナーという垣根は低いものとなっている。IFPIの報告によると、インディーズ・レーベルによる音楽関連の売上高は全体の28.4%に達している(2005年8月)。
映画界においては、制作費を出資・調達するプロデューサーや映画会社などの圧力を避けるために自己資金で製作を行うことがある。その最も極端な例が『スター・ウォーズ(SW)』シリーズで知られるジョージ・ルーカスで、キャラクタービジネスで巨万の富を築いた彼は、『SW』新3部作では制作費を自ら出資、製作において絶対的な権限を握ったことから、「世界で最も贅沢なインディーズ映画」と言われている。
日本の音楽業界における「インディーズ・レーベル」とは、日本レコード協会に加盟する「メジャー・レーベル」のレコード会社と対比する形で、同協会に加盟していない独立系レーベルを指す。
なお、日本の音楽業界で「インディーズ」という用語が一般化するのは1980年代以降で、それまでは「自主制作盤」などと呼ばれていた。
日本の音楽流通においては、レコード店などの小売店での販売条件として、メジャー・レーベルは多くの商品で返品を受け付けるが、インディーズ・レーベルは商品の返品を受けない買い切り(売り切り)、あるいは委託販売といった形態を取ることもある。
日本のインディーズ・レーベルのCD流通経路は、CDショップなど小売店への直接交渉、ライブ会場などでの手売りやミュージシャンによる直接通販、同人音楽の場合はコミックマーケットやM3といった同人即売会での出展といった小規模のものから、ダイキサウンドやSPACE SHOWER MUSICといったディストリビューターへの販売委託、あるいはタワーレコードによるT-Palette Recordsのように全国的に流通可能なものまで含まれる。
また、上記メジャー・レーベルがインディーズ・レーベルに業務委託をすることにより、メジャー・レーベルが販促、営業、流通機能を担う場合がある。その場合、レーベルがインディーズ扱いであっても「メジャー流通」と呼ばれる場合がある。
日本の音楽産業は、全て日本語によって歌詞が制作されている、あるいは日本語が歌詞の相当割合を占める楽曲が多いため、その販路の大半が日本国内(または日本人)であり、英語やスペイン語で製作された海外レーベルのコンテンツの様な時差や情報の広範な拡散を巧みに利用した業績維持による営業戦略は困難である。そのため、日本のメジャー・レーベルには、ジャンル単位で売り上げが急激に上昇してゆく時期と、対照的に売り上げが一気に低迷し販売実績が悪化する時期が発生しやすい。また、これに応じてメジャーとインディーズの間で短期間で多くの人材・バンドの流入流出や消長盛衰が起きる。
ジャンル単位で見た業績の急落や市場の急激な縮小は、数年間に渡り急激に伸びたセールス実績がピークを迎えた直後から、数年後までに起きることが多い。例としては、1960年代後半のテンプターズやタイガース、スパイダース、ゴールデン・カップスなどのグループ・サウンズがあげられ、ブームは数年で終焉した。
ある特定の音楽ジャンルで業績が伸びブームや「黄金時代」が到来すると、メジャー・レーベル各社の経営資源や資金・人材が同じジャンルに集中的に投入され、2匹目のドジョウを狙った類似アーティスト・楽曲が次々と登場して乱立状態となる。この中では「質より量」という風潮が見られることも多々あり、短期間で市場は供給過多の様相を示していく。そうなると、メジャー・レーベルが供給する膨大な量の同種の音楽が次第にマンネリ化し消費者が聞き飽きてしまい、売り上げの低下が起き、その後を年単位の長期スパンで見ていくと最終的には俗に「冬の時代」「暗黒時代」などと形容される市場低迷期に至る。この「冬の時代」が到来した時、一時のブームに乗ってメジャー・レーベルと契約した者が次々に契約を打ち切られたり、あるいは契約満了後に契約を継続できないなどの事態に陥ることが多分に起きる。その経緯はいずれにしても、メジャー・レーベルとの販売契約を失ったバンド・ミュージシャンの少なからぬ割合が、音楽活動と新作発表を継続するためにインディーズ・レーベルへの移行を行うことになる。
なお、1990年代のヴィジュアル系のブームは、XのエクスタシーレコードやCOLORのフリーウィルの成功をモデルケースにした数多くのヴィジュアル系専門インディーズ・レーベルの存在が背景になったブームであった。その為、ヴィジュアル系ではブーム到来と共にそのままバンドが立て続けにメジャーデビューを果たすのではなく、バンドの登場と並行してインディーズ・レーベルの乱立が起きた。ただし、これもブームの終焉とともに市場が縮小したことは同様で、多くのレーベルが消滅・整理の道を辿った。
インターネット普及以後に台頭してきたネットレーベルも、知名度や活動規模を考えるとインディーズ・レーベルに属すると言える。2010年代からは無料で音楽を公開するネットレーベルがインディーズシーンに台頭し、インディーズシーンにおいてインターネットを介して無料で作品を流通させる例も増えている。
日本の音楽におけるインディーズは、「有名でないアーティストが属するメジャーへの踏み台」であり、「メジャー・レーベルデビューでプロのアーティストとしてようやく一人前」とみなされる風潮が強く、そのためにアーティストはメジャー・レーベルデビューを夢見て音楽活動をしている例がしばしば見られる。しかしながら、欧米においてはこの価値観は評価されないこともある。
音楽は基本的にはアート(芸術)の一分野であり、難解な音楽、実験的な音楽、ルーツミュージックなどのニッチな音楽を志向するアーティストも数多く存在する。しかし、これらの音楽はその評価とは裏腹に商業的な成功には恵まれないことがほとんどであり、資本の最大化を主眼としているメジャーの音楽会社においては、当然ながらこれらの売れないアーティストがその傘下で音楽を作ることを許されるのは稀有な例となる。
よって、これらのアーティストはアンダーグラウンドにおいてインディーズ・レーベルに所属し、その創作活動を続ける場合が多い。これらの背景から、インディーは「メジャーへの踏み台」としてではなく、「個性的な」音楽を志向するアーティストが存在し得る場」として、一つの唯一的な地位を有している。
日本ではメジャーデビューしたアーティストでも歌詞に問題があるなどで、メジャーで出せなかった場合にはインディーズで出すこともある。また、かつてメジャーデビューしていたアーティストが、音楽活動から遠ざかって数年若しくは数十年を経て音楽活動を再開する時にメジャーではなく、インディーズで再開したり、メジャーのアーティストがレコード会社の方針に不満を抱いたり、自由な活動をしたいといったことから個人事務所などでレーベルを立ち上げてインディーズで活動する者がいる。
更に、1968年には「ザ・フォーク・クルセダーズ」が自主制作で出していたアルバム『ハレンチ』に収録されていた「帰って来たヨッパライ」が、ラジオの深夜放送で頻繁にオンエアされ、EMIミュージックジャパン(当時の東芝音楽工業)が『ハレンチ』収録のオリジナルマスターでシングル盤を発売し、同グループが1年間の期限付きではあったが、メジャーデビューした。インディーズの音源がそのまま、メジャーで発売された例である。
1960年代後半から1970年代前半には、アルバムをインディーズから出すフォーク、ロックのアーティストが増加し始めた。当時のフォークの代表的なインディーズ・レーベルとしては、URCレコードやベルウッド・レコード、エレック・レコードなどがあげられる。
欧米、および日本ではロックミュージックの分野において、インディー・ロックとされるジャンルが存在する。
このジャンルは、額面通りインディーズ・レーベルに属しているミュージシャンのみを対象としているというわけではなく、志向がインディーズ的(利潤追求から独立的で、アートを強く追求する)な意味を持って扱われている。
1998年11月に、フリーウィルと契約をしているDIR EN GREYが、「-I'll-」でインディーズ史上最高記録(当時)を樹立。その後インディーズ初の日本武道館公演を実現した。2001年にMONGOL800が発表した『MESSAGE』が、国内のインディーズ最高の280万枚を記録する。その後、HYやDef Tech、ELLEGARDEN、the GazettE、シドなどといった、インディーズ・アーティストが相次いでヒットを記録しているため、かつてに比べれば「メジャー予備軍」としての意味合いは幾分だが、薄れては来ている。ただし、資本や流通やアーティスト関係などでメジャーと繋がっている(メジャー・レーベルが自社アーティストとして登用する前に、インディーズでどれくらいの人気、売り上げが期待できるのかを目算した上で、初めてメジャーに移行させるというシステムを取っている)ところも少なくないので、インディーズの概念として曖昧な部分も多い。
国内外を問わず、インディーズ・レーベルの一部はメジャーレーベルと共同で、または許諾を得てメジャー系アーティストの旧作を再発している。他のインディーズ・レーベルの旧作の再発も行う場合がある。そうしたインディーズ・レーベルの中には再発専門のレーベルが存在する。
※日本国内の企業の場合、日本レコード協会会員企業、ドラマ・ラジオCDの類を専門的に発売している企業、放送事業者が直接所有するレーベルは除外している。 ※以下の他、ネットレーベル一覧のリストも参照。
「インディーズ」の語源は「独立した」を意味する英語の「independent」である。英語では「independent」が単数形の語を形容する場合の略称は「indie music」や「indie」のように使われ、複数形の語を形容する場合は「indie labels」または「indies」のように使われる。
|
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"text": "インディーズは、独立系を意味する「Independent」から派生した、主にある業種において「メジャー(大手)」に属さない、独立性の高い状態を指す言葉。",
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"text": "一例として、大手(メジャー)に対して中小のものを「マイナー」と称するように、メジャーと資本関係や人的交流などを深く持たず、系列化されていない独立性の高いものなどを称する。",
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"text": "ある業種や芸術などにおいて寡占が進むと、大衆に有名なものを「メジャー」、その他を「マイナー」や「インディーズ」と区分できるようになる。ただし区分の仕方は観点や状況によって大きく変わるため、一様ではない。",
"title": "概要・定義"
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"text": "様々な産業や党の中に有名・無名が存在する以上、多くのインディーズに付する共通項は「メジャーに所属しない」ということだけであり、その形態や規模は様々である。そのため、インディーズという用語を明確に定義することは難しいが、一般的にその媒体に資本が介在している場合は、メジャーは提携や流通の効率化により規模を追求し、インディーズはメジャーと異なる手段を追求することが多い。そのため結果としてニッチ(少数派)を対象とすることが多い。",
"title": "概要・定義"
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"text": "大企業のレコード会社やその系列会社はメジャー・レーベル、中小企業のレコード会社はインディーズ・レーベルと呼称される。",
"title": "映画・音楽産業におけるインディーズ"
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"text": "欧米の映画業界における「インディーズ」とは、ハリウッドのメジャー映画スタジオ5社(ディズニー、ソニー・ピクチャーズ、パラマウント映画、ユニバーサル映画、ワーナー・ブラザース)の傘下に属していない会社を指す。",
"title": "映画・音楽産業におけるインディーズ"
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"text": "また世界の音楽業界における「メジャー・レーベル」とは、一般的に世界の音楽市場の売上高で、全体のシェアの70%(アメリカ市場では85%)を占め、「ビッグ・スリー」と呼ばれるユニバーサルミュージック(34%+旧EMI7%)、ソニー・ミュージックエンタテインメント(28%)、ワーナー・ミュージック・グループ(16%)の3大レーベルを「メジャー・レーベル」と呼び指し、それ以外のレコード会社を「インディーズ・レーベル」と呼ぶことが多い。1990年代ではワーナーミュージックグループ、EMI、ソニー、BMG、ユニバーサル・ミュージック・グループ、ポリグラムの6大レーベルが世界的なシェアを占めていたが、その後合併や買収などを繰り返し、現在の三大レーベルとなった。",
"title": "映画・音楽産業におけるインディーズ"
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"text": "音楽産業・映画産業のような新しいもの、新鮮なものを消費者が常に求める業種においては、メジャー・レーベルの音楽・映画のみが売れ続けることは難しい。メジャーの取り揃える楽曲やアーティストが固定化したり、目新しさがなくなったりして消費者を満足させられなくなると、売り上げが下がってしまう。",
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"text": "特にアメリカの映画・音楽産業は販路が多国間に広がることが多いため、アメリカ国内の地域・民族差、世界での地域・民族差を利用して、販売時期・上映時期に差(タイムラグ)を作ってみたり、アーティストのツアーや俳優の販売促進ツアーなどで売り上げを平坦化させたりして、質の変化があっても業績の維持を図ることが出来る。",
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"text": "アメリカにおけるインディーズ・レーベルの歴史で重要な会社に、アトランティック・レコードやチェス・レコード がある。黒人向けのレイス・ミュージック(人種の音楽)としてメジャー・レーベルが避けていたリズム・アンド・ブルースや、ロックンロールなどの音楽を積極的に取り上げ、アメリカ全土でポピュラー音楽としての地位を固めることに成功した。アトランティックには、ルース・ブラウンらが、チェスにはチャック・ベリーやマディ・ウォーターズなどがいた。他にもスタックス・レコード、モータウン・レコードをはじめとするインディーズ・レーベルが、多くのヒット曲をリリースした。",
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"text": "この後も欧米ではエルヴィス・コステロらが在籍したスティッフ・レコードやスペシャルズらが在籍した2トーン・レコードなど有力なインディーズ・レーベルが誕生し、メジャー/マイナーという垣根は低いものとなっている。IFPIの報告によると、インディーズ・レーベルによる音楽関連の売上高は全体の28.4%に達している(2005年8月)。",
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"text": "映画界においては、制作費を出資・調達するプロデューサーや映画会社などの圧力を避けるために自己資金で製作を行うことがある。その最も極端な例が『スター・ウォーズ(SW)』シリーズで知られるジョージ・ルーカスで、キャラクタービジネスで巨万の富を築いた彼は、『SW』新3部作では制作費を自ら出資、製作において絶対的な権限を握ったことから、「世界で最も贅沢なインディーズ映画」と言われている。",
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"text": "日本の音楽業界における「インディーズ・レーベル」とは、日本レコード協会に加盟する「メジャー・レーベル」のレコード会社と対比する形で、同協会に加盟していない独立系レーベルを指す。",
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"text": "なお、日本の音楽業界で「インディーズ」という用語が一般化するのは1980年代以降で、それまでは「自主制作盤」などと呼ばれていた。",
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"text": "日本の音楽流通においては、レコード店などの小売店での販売条件として、メジャー・レーベルは多くの商品で返品を受け付けるが、インディーズ・レーベルは商品の返品を受けない買い切り(売り切り)、あるいは委託販売といった形態を取ることもある。",
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"text": "日本のインディーズ・レーベルのCD流通経路は、CDショップなど小売店への直接交渉、ライブ会場などでの手売りやミュージシャンによる直接通販、同人音楽の場合はコミックマーケットやM3といった同人即売会での出展といった小規模のものから、ダイキサウンドやSPACE SHOWER MUSICといったディストリビューターへの販売委託、あるいはタワーレコードによるT-Palette Recordsのように全国的に流通可能なものまで含まれる。",
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"text": "また、上記メジャー・レーベルがインディーズ・レーベルに業務委託をすることにより、メジャー・レーベルが販促、営業、流通機能を担う場合がある。その場合、レーベルがインディーズ扱いであっても「メジャー流通」と呼ばれる場合がある。",
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"text": "日本の音楽産業は、全て日本語によって歌詞が制作されている、あるいは日本語が歌詞の相当割合を占める楽曲が多いため、その販路の大半が日本国内(または日本人)であり、英語やスペイン語で製作された海外レーベルのコンテンツの様な時差や情報の広範な拡散を巧みに利用した業績維持による営業戦略は困難である。そのため、日本のメジャー・レーベルには、ジャンル単位で売り上げが急激に上昇してゆく時期と、対照的に売り上げが一気に低迷し販売実績が悪化する時期が発生しやすい。また、これに応じてメジャーとインディーズの間で短期間で多くの人材・バンドの流入流出や消長盛衰が起きる。",
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"text": "ジャンル単位で見た業績の急落や市場の急激な縮小は、数年間に渡り急激に伸びたセールス実績がピークを迎えた直後から、数年後までに起きることが多い。例としては、1960年代後半のテンプターズやタイガース、スパイダース、ゴールデン・カップスなどのグループ・サウンズがあげられ、ブームは数年で終焉した。",
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"text": "ある特定の音楽ジャンルで業績が伸びブームや「黄金時代」が到来すると、メジャー・レーベル各社の経営資源や資金・人材が同じジャンルに集中的に投入され、2匹目のドジョウを狙った類似アーティスト・楽曲が次々と登場して乱立状態となる。この中では「質より量」という風潮が見られることも多々あり、短期間で市場は供給過多の様相を示していく。そうなると、メジャー・レーベルが供給する膨大な量の同種の音楽が次第にマンネリ化し消費者が聞き飽きてしまい、売り上げの低下が起き、その後を年単位の長期スパンで見ていくと最終的には俗に「冬の時代」「暗黒時代」などと形容される市場低迷期に至る。この「冬の時代」が到来した時、一時のブームに乗ってメジャー・レーベルと契約した者が次々に契約を打ち切られたり、あるいは契約満了後に契約を継続できないなどの事態に陥ることが多分に起きる。その経緯はいずれにしても、メジャー・レーベルとの販売契約を失ったバンド・ミュージシャンの少なからぬ割合が、音楽活動と新作発表を継続するためにインディーズ・レーベルへの移行を行うことになる。",
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"text": "なお、1990年代のヴィジュアル系のブームは、XのエクスタシーレコードやCOLORのフリーウィルの成功をモデルケースにした数多くのヴィジュアル系専門インディーズ・レーベルの存在が背景になったブームであった。その為、ヴィジュアル系ではブーム到来と共にそのままバンドが立て続けにメジャーデビューを果たすのではなく、バンドの登場と並行してインディーズ・レーベルの乱立が起きた。ただし、これもブームの終焉とともに市場が縮小したことは同様で、多くのレーベルが消滅・整理の道を辿った。",
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"text": "インターネット普及以後に台頭してきたネットレーベルも、知名度や活動規模を考えるとインディーズ・レーベルに属すると言える。2010年代からは無料で音楽を公開するネットレーベルがインディーズシーンに台頭し、インディーズシーンにおいてインターネットを介して無料で作品を流通させる例も増えている。",
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"text": "日本の音楽におけるインディーズは、「有名でないアーティストが属するメジャーへの踏み台」であり、「メジャー・レーベルデビューでプロのアーティストとしてようやく一人前」とみなされる風潮が強く、そのためにアーティストはメジャー・レーベルデビューを夢見て音楽活動をしている例がしばしば見られる。しかしながら、欧米においてはこの価値観は評価されないこともある。",
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"text": "音楽は基本的にはアート(芸術)の一分野であり、難解な音楽、実験的な音楽、ルーツミュージックなどのニッチな音楽を志向するアーティストも数多く存在する。しかし、これらの音楽はその評価とは裏腹に商業的な成功には恵まれないことがほとんどであり、資本の最大化を主眼としているメジャーの音楽会社においては、当然ながらこれらの売れないアーティストがその傘下で音楽を作ることを許されるのは稀有な例となる。",
"title": "映画・音楽産業におけるインディーズ"
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"text": "よって、これらのアーティストはアンダーグラウンドにおいてインディーズ・レーベルに所属し、その創作活動を続ける場合が多い。これらの背景から、インディーは「メジャーへの踏み台」としてではなく、「個性的な」音楽を志向するアーティストが存在し得る場」として、一つの唯一的な地位を有している。",
"title": "映画・音楽産業におけるインディーズ"
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"text": "日本ではメジャーデビューしたアーティストでも歌詞に問題があるなどで、メジャーで出せなかった場合にはインディーズで出すこともある。また、かつてメジャーデビューしていたアーティストが、音楽活動から遠ざかって数年若しくは数十年を経て音楽活動を再開する時にメジャーではなく、インディーズで再開したり、メジャーのアーティストがレコード会社の方針に不満を抱いたり、自由な活動をしたいといったことから個人事務所などでレーベルを立ち上げてインディーズで活動する者がいる。",
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"text": "更に、1968年には「ザ・フォーク・クルセダーズ」が自主制作で出していたアルバム『ハレンチ』に収録されていた「帰って来たヨッパライ」が、ラジオの深夜放送で頻繁にオンエアされ、EMIミュージックジャパン(当時の東芝音楽工業)が『ハレンチ』収録のオリジナルマスターでシングル盤を発売し、同グループが1年間の期限付きではあったが、メジャーデビューした。インディーズの音源がそのまま、メジャーで発売された例である。",
"title": "映画・音楽産業におけるインディーズ"
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"text": "1960年代後半から1970年代前半には、アルバムをインディーズから出すフォーク、ロックのアーティストが増加し始めた。当時のフォークの代表的なインディーズ・レーベルとしては、URCレコードやベルウッド・レコード、エレック・レコードなどがあげられる。",
"title": "映画・音楽産業におけるインディーズ"
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"text": "欧米、および日本ではロックミュージックの分野において、インディー・ロックとされるジャンルが存在する。",
"title": "映画・音楽産業におけるインディーズ"
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"text": "このジャンルは、額面通りインディーズ・レーベルに属しているミュージシャンのみを対象としているというわけではなく、志向がインディーズ的(利潤追求から独立的で、アートを強く追求する)な意味を持って扱われている。",
"title": "映画・音楽産業におけるインディーズ"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "1998年11月に、フリーウィルと契約をしているDIR EN GREYが、「-I'll-」でインディーズ史上最高記録(当時)を樹立。その後インディーズ初の日本武道館公演を実現した。2001年にMONGOL800が発表した『MESSAGE』が、国内のインディーズ最高の280万枚を記録する。その後、HYやDef Tech、ELLEGARDEN、the GazettE、シドなどといった、インディーズ・アーティストが相次いでヒットを記録しているため、かつてに比べれば「メジャー予備軍」としての意味合いは幾分だが、薄れては来ている。ただし、資本や流通やアーティスト関係などでメジャーと繋がっている(メジャー・レーベルが自社アーティストとして登用する前に、インディーズでどれくらいの人気、売り上げが期待できるのかを目算した上で、初めてメジャーに移行させるというシステムを取っている)ところも少なくないので、インディーズの概念として曖昧な部分も多い。",
"title": "映画・音楽産業におけるインディーズ"
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"tag": "p",
"text": "国内外を問わず、インディーズ・レーベルの一部はメジャーレーベルと共同で、または許諾を得てメジャー系アーティストの旧作を再発している。他のインディーズ・レーベルの旧作の再発も行う場合がある。そうしたインディーズ・レーベルの中には再発専門のレーベルが存在する。",
"title": "映画・音楽産業におけるインディーズ"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "※日本国内の企業の場合、日本レコード協会会員企業、ドラマ・ラジオCDの類を専門的に発売している企業、放送事業者が直接所有するレーベルは除外している。 ※以下の他、ネットレーベル一覧のリストも参照。",
"title": "映画・音楽産業におけるインディーズ"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "「インディーズ」の語源は「独立した」を意味する英語の「independent」である。英語では「independent」が単数形の語を形容する場合の略称は「indie music」や「indie」のように使われ、複数形の語を形容する場合は「indie labels」または「indies」のように使われる。",
"title": "英語"
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] |
インディーズは、独立系を意味する「Independent」から派生した、主にある業種において「メジャー(大手)」に属さない、独立性の高い状態を指す言葉。 一例として、大手(メジャー)に対して中小のものを「マイナー」と称するように、メジャーと資本関係や人的交流などを深く持たず、系列化されていない独立性の高いものなどを称する。
|
{{複数の問題
|出典の明記=2013年5月19日 (日) 01:11 (UTC)
|独自研究=2023年6月
|正確性=2023年6月
}}
'''インディーズ'''は、独立系を意味する「Independent」から派生した、主にある業種において「メジャー(大手)」に属さない、独立性の高い状態を指す言葉。
一例として、大手(メジャー)に対して中小のものを「[[マイナー]]」と称するように、メジャーと資本関係や人的交流などを深く持たず、系列化されていない[[独立性]]の高いものなどを称する。
== 概要・定義 ==
ある[[業種]]や[[芸術]]などにおいて[[寡占]]が進むと、大衆に有名なものを「メジャー」、その他を「マイナー」や「インディーズ」と区分できるようになる。ただし区分の仕方は観点や状況によって大きく変わるため、一様ではない。
様々な[[産業]]や党の中に有名・無名が存在する以上、多くのインディーズに付する共通項は「メジャーに所属しない」ということだけであり、その形態や規模は様々である。そのため、インディーズという用語を明確に定義することは難しいが、一般的にその媒体に[[資本]]が介在している場合は、メジャーは提携や流通の効率化により規模を追求し、インディーズはメジャーと異なる手段を追求することが多い。そのため結果として[[ニッチ]](少数派)を対象とすることが多い。
== 文化・芸術分野のインディーズ ==
*'''[[音楽]]''':音楽の商業活動において、大手制作会社(メジャー)に所属しない会社、及びその[[音楽家|アーティスト]]を指す([[#音楽業界におけるインディーズ|後述]])。ロックの[[スティッフ・レコード]]<ref>[http://www.discogs.com/ja/label/11617-Stiff-Records Stiff Records - CDs and Vinyl at Discogs]</ref>、[[2トーン・レコード]]などが知られている。
*'''[[映画]]''':'''[[自主映画]]'''を参照(欧米に置ける事情は後述)。日本で同名の映画制作会社が存在する。
*'''[[演劇]]''':[[劇団四季]]や[[宝塚歌劇団]]のような商業主義演劇や、[[新劇]]のような伝統演劇に対して、[[寺山修司]]の[[天井桟敷]]や[[黒テント]]などの[[アングラ劇団]]を指す。
*'''[[舞踊]]''':[[クラシックバレエ]]や伝統的な[[日本舞踊]]に対して、[[コンテンポラリー・ダンス]]や[[暗黒舞踏]]などのカンパニーが存在する。
*'''[[アダルトビデオ]]''':自主規制作品。一般的には [[日本ビデオ倫理協会|ビデ倫]]・[[コンピュータソフトウェア倫理機構|ソフ倫]]の審査を受けていない[[アダルトビデオメーカー]]および作品を指す。ただし、アダルトビデオの売上高1位([[CA (アダルトビデオ)|北都]])、2位([[ソフト・オン・デマンド]])のメーカーが「インディーズ」であり、市場のシェアでもビデ倫・ソフ倫を上回っていることから、「マイナー」という意味合いはない。
{{main|アダルトビデオ#倫理審査団体と「インディーズ」}}
*'''[[お笑いタレント|お笑い芸人]]''':大手事務所に属さないインディーズ系のお笑いライブがあるほか、2000年代初頭に、東京芸人たち自身が会場を借りて独自にライブを主催するムーブメントが起き、自主興行のことは「地下ライブ」、出る芸人たちは「[[地下芸人]]」と呼ばれるようになった<ref>{{Cite web|和書|title=「地下ライブ」から生まれた芸人たち アルコ&ピースが見つけた境地|url=https://withnews.jp/article/f0210513004qq000000000000000W0e410501qq000023006A|website=withnews|date=2021-05-13|accessdate=2023-08-06}}</ref>。地下ライブに参加する芸人はチケットノルマ制である<ref>{{Cite news|title=ザコシショウ 地下芸人のお金のシステム明かす 「チケット全部売っても儲からない」ワケ|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/03/18/kiji/20220318s00041000232000c.html|website=スポーツニッポン|date=2022-03-18|accessdate=2023-08-06}}</ref>。[[マヂカルラブリー]]が[[M-1グランプリ]]2020で優勝するなど、近年は地下芸人のメジャーシーンへの進出が注目されている<ref>{{Cite web|和書|title=「野田クリスタルが組みたがったもう一人の天才がいた!」地下時代のマヂカルラブリーを見出した“師匠”を直撃|url=https://bunshun.jp/articles/-/44940|website=文春オンライン|date=2021-04-15|accessdate=2023-08-06}}</ref>。
== その他のインディーズ ==
*'''[[ファッション]]''':独自デザインの[[衣服]]・[[宝飾品]]を既存の会社・流通ではなく自店や[[インターネット]]などで販売するデザイナーのブランドを指す。
*'''[[政治]]''':大政党に所属しない諸派・無所属の独立系選挙候補者(すなわち[[泡沫候補]])を'''インディーズ候補'''と呼ぶこともある。
*'''[[プロレス]]''':中小規模のプロレス団体。日本では[[大仁田厚]]が設立した[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]]の成功以降、全国に次々と旗揚げされる。地域密着などメジャーとは一線を画した独自の機軸を打ち出している団体が多いのが特色。広義ではメジャー団体(日本では[[新日本プロレス|新日本]]・[[全日本プロレス|全日本]]・[[プロレスリング・ノア|NOAH]]、米国では[[WWE]]、メキシコでは[[CMLL]]・[[AAA (プロレス)|AAA]])を除いたのをまとめてインディー、インディーズと呼ぶ。2020現在ではインディー団体である[[DDTプロレスリング|DDT]]が国内第2位的地位にあり、独立団体の意味合いが強い。
*'''プロ野球''':[[日本野球機構|NPB]]、もしくは[[メジャーリーグベースボール|MLB]]に属さない独立リーグ球団。[[独立リーグ|インディペンデントリーグ]]。類似用語の[[マイナーリーグ]]は意味合いが異なる。
*'''IT関連''':[[情報技術|IT]]・[[ソフトウェア]]ハウスなどのIT企業はインディーズというよりも「ベンチャー企業」と呼ぶ。独立したIT企業などを、独立系IT企業または独立系ソフトウェアハウス、[[ISV]]などと呼ぶ。[[富士ソフト]]などがこれにあたる。
*'''[[コンピュータゲーム]]''':個人もしくは同人規模の企業開発のゲーム。[[インディーゲーム]]とも。
== 映画・音楽産業におけるインディーズ ==
大企業の[[レコード会社]]やその系列会社は'''メジャー・レーベル'''、中小企業のレコード会社は'''インディーズ・レーベル'''と呼称される。
=== 欧州・北米 ===
欧米の映画業界における「インディーズ」とは、[[ハリウッド]]の[[メジャー映画スタジオ]]5社([[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]、[[ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント|ソニー・ピクチャーズ]]、[[パラマウント映画]]、[[ユニバーサル・ピクチャーズ|ユニバーサル映画]]、[[ワーナー・ブラザース]])の傘下に属していない会社を指す。
また世界の音楽業界における「メジャー・レーベル」とは、一般的に世界の音楽市場の売上高で、全体のシェアの70%(アメリカ市場では85%)を占め<ref>[http://www.copynot.org/Pages/The%20big%20four%20Record%20Companies.html] Copyright Law, Treaties and Advice</ref>、「ビッグ・スリー」と呼ばれる[[ユニバーサル ミュージック グループ|ユニバーサルミュージック]](34%+旧[[EMI]]7%)、[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]](28%)、[[ワーナー・ミュージック・グループ]](16%)の3大レーベルを「メジャー・レーベル」と呼び指し、それ以外のレコード会社を「インディーズ・レーベル」と呼ぶことが多い。1990年代ではワーナーミュージックグループ、EMI、ソニー、[[BMG]]、ユニバーサル・ミュージック・グループ、[[ポリグラム]]の6大レーベルが世界的なシェアを占めていたが、その後合併や買収などを繰り返し、現在の三大レーベルとなった。
[[音楽産業]]・[[映画産業]]のような新しいもの、新鮮なものを消費者が常に求める業種においては、メジャー・[[レコードレーベル|レーベル]]の音楽・映画のみが売れ続けることは難しい。メジャーの取り揃える楽曲やアーティストが固定化したり、目新しさがなくなったりして消費者を満足させられなくなると、売り上げが下がってしまう。
特にアメリカの映画・音楽産業は販路が多国間に広がることが多いため、アメリカ国内の地域・民族差、世界での地域・民族差を利用して、販売時期・上映時期に差([[タイムラグ]])を作ってみたり、アーティストのツアーや俳優の販売促進ツアーなどで売り上げを平坦化させたりして、質の変化があっても業績の維持を図ることが出来る。
アメリカにおけるインディーズ・レーベルの歴史で重要な会社に、アトランティック・レコードや[[チェス・レコード]]<ref>[http://www.discogs.com/ja/label/107285-Chess-Records Chess Records - CDs and Vinyl at Discogs]</ref> がある。黒人向けのレイス・ミュージック(人種の音楽)としてメジャー・レーベルが避けていた[[リズム・アンド・ブルース]]や、[[ロックンロール]]などの音楽を積極的に取り上げ、アメリカ全土でポピュラー音楽としての地位を固めることに成功した。アトランティックには、ルース・ブラウンらが、チェスには[[チャック・ベリー]]や[[マディ・ウォーターズ]]などがいた。他にもスタックス・レコード、モータウン・レコードをはじめとするインディーズ・レーベルが、多くのヒット曲をリリースした。
この後も欧米では[[エルヴィス・コステロ]]らが在籍した[[スティッフ・レコード]]や[[スペシャルズ]]らが在籍した[[2トーン・レコード]]など有力なインディーズ・レーベルが誕生し、メジャー/マイナーという垣根は低いものとなっている。[[IFPI]]の報告によると、インディーズ・レーベルによる音楽関連の売上高は全体の28.4%に達している(2005年8月)。
映画界においては、制作費を出資・調達するプロデューサーや映画会社などの圧力を避けるために自己資金で製作を行うことがある。その最も極端な例が『[[スター・ウォーズ]](SW)』シリーズで知られる[[ジョージ・ルーカス]]で、キャラクタービジネスで巨万の富を築いた彼は、『SW』新3部作では制作費を自ら出資、製作において絶対的な権限を握ったことから、「世界で最も贅沢なインディーズ映画」と言われている。
=== 日本のインディーズ ===
日本の音楽業界における「インディーズ・レーベル」とは、[[日本レコード協会]]に加盟する「メジャー・レーベル」の[[レコード会社]]と対比する形で、同協会に加盟していない独立系レーベルを指す<ref group="注釈">なお、日本においてはアーティストが同協会によって管理・発行される[[国際標準レコーディングコード|ISCR]]に登録された[[CD-DA|CD]]などの媒体を初めて流通させることを指して「メジャーデビュー」と呼称される。この場合、同協会会員社のレーベルから初めてCDなどの媒体が発売されるという意味の「メジャー・レーベルデビュー」とは異なる。</ref>。
{{See also|レコード会社#日本の主なレコード会社(メジャー・レーベル)}}
なお、日本の音楽業界で「インディーズ」という用語が一般化するのは[[1980年代]]以降で、それまでは「'''自主制作盤'''」などと呼ばれていた。
==== 日本のインディーズ・レーベルの特徴 ====
{{複数の問題
|出典の明記=2013年5月
|独自研究=2023年6月
|正確性=2023年6月
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}}
; 流通形態
日本の音楽流通においては、レコード店などの小売店での販売条件として、メジャー・レーベルは多くの商品で返品を受け付けるが、インディーズ・レーベルは商品の返品を受けない買い切り(売り切り)、あるいは委託販売といった形態を取ることもある。
日本のインディーズ・レーベルのCD流通経路は、CDショップなど小売店への直接交渉、ライブ会場などでの手売りやミュージシャンによる直接通販、[[同人音楽]]の場合は[[コミックマーケット]]や[[M3 (同人)|M3]]といった同人即売会での出展といった小規模のものから、[[ダイキサウンド]]や[[SPACE SHOWER MUSIC]]といったディストリビューターへの販売委託、あるいは[[タワーレコード]]による[[T-Palette Records]]のように全国的に流通可能なものまで含まれる。
また、上記メジャー・レーベルがインディーズ・レーベルに業務委託をすることにより、メジャー・レーベルが販促、営業、流通機能を担う場合がある。その場合、レーベルが'''インディーズ扱い'''であっても「'''メジャー流通'''」と呼ばれる場合がある<ref group="注釈">2023年現在の例として、[[アップフロントワークス]]([[アップフロントグループ]])は流通を[[ソニー・ミュージックソリューションズ]]([[アップフロントワークス#zetima|zetima]])またはポニーキャニオン([[アップフロントワークス#hachama|hachama]]・[[アップフロントワークス#Rice Music|Rice Music]])に、に、[[ジェイ・ストーム]]([[SMILE-UP.|SMILE-UP.〈旧・ジャニーズ事務所〉]]運営)や[[トイズファクトリー]]は流通をソニー・ミュージックソリューションズに、[[ポリスター]](プライエイド)は流通を日本コロムビアに委託している、等。</ref>。<!--{{要出典範囲|date=2023-06|これらは通常は「インディーズ」とはみなされない。}}-->
; ブームの変遷
日本の音楽産業は、全て[[日本語]]によって歌詞が制作されている、あるいは日本語が歌詞の相当割合を占める楽曲が多いため、その販路の大半が日本国内(または日本人)であり、英語やスペイン語で製作された海外レーベルのコンテンツの様な時差や情報の広範な拡散を巧みに利用した業績維持による営業戦略は困難である。そのため、日本のメジャー・レーベルには、ジャンル単位で売り上げが急激に上昇してゆく時期と、対照的に売り上げが一気に低迷し販売実績が悪化する時期が発生しやすい。また、これに応じてメジャーとインディーズの間で短期間で多くの人材・バンドの流入流出や消長盛衰が起きる。
ジャンル単位で見た業績の急落や市場の急激な縮小は、数年間に渡り急激に伸びたセールス実績がピークを迎えた直後から、数年後までに起きることが多い。例としては、1960年代後半のテンプターズやタイガース、スパイダース、ゴールデン・カップスなどの[[グループ・サウンズ]]があげられ、ブームは数年で終焉した。
ある特定の音楽[[ジャンル]]で業績が伸びブームや「[[黄金時代]]」が到来すると、メジャー・レーベル各社の経営資源や資金・人材が同じ[[ジャンル]]に集中的に投入され、2匹目のドジョウを狙った類似アーティスト・楽曲が次々と登場して乱立状態となる。この中では「質より量」という風潮が見られることも多々あり、短期間で市場は供給過多の様相を示していく。そうなると、メジャー・レーベルが供給する膨大な量の同種の音楽が次第にマンネリ化し消費者が聞き飽きてしまい、売り上げの低下が起き、その後を年単位の長期スパンで見ていくと最終的には俗に「冬の時代」「[[暗黒時代]]」などと形容される市場低迷期に至る。この「冬の時代」が到来した時、一時のブームに乗ってメジャー・レーベルと契約した者が次々に契約を打ち切られたり、あるいは契約満了後に契約を継続できないなどの事態に陥ることが多分に起きる。その経緯はいずれにしても、メジャー・レーベルとの販売契約を失ったバンド・ミュージシャンの少なからぬ割合が、音楽活動と新作発表を継続するためにインディーズ・レーベルへの移行を行うことになる。
なお、1990年代の[[ヴィジュアル系]]のブームは、[[X JAPAN|X]]の[[エクスタシーレコード]]や[[COLOR (ロックバンド)|COLOR]]の[[フリーウィル]]の成功をモデルケースにした数多くのヴィジュアル系専門インディーズ・レーベルの存在が背景になったブームであった。その為、ヴィジュアル系ではブーム到来と共にそのままバンドが立て続けにメジャーデビューを果たすのではなく、バンドの登場と並行してインディーズ・レーベルの乱立が起きた。ただし、これもブームの終焉とともに市場が縮小したことは同様で、多くのレーベルが消滅・整理の道を辿った。
インターネット普及以後に台頭してきた[[ネットレーベル]]も、知名度や活動規模を考えるとインディーズ・レーベルに属すると言える。2010年代からは無料で音楽を公開する[[ネットレーベル]]がインディーズシーンに台頭し、インディーズシーンにおいて[[インターネット]]を介して無料で作品を流通させる例も増えている。
=== 欧米と日本のインディーズの違い ===
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日本の音楽におけるインディーズは、「有名でないアーティストが属するメジャーへの踏み台」であり、「メジャー・レーベルデビューで[[芸能人|プロ]]のアーティストとしてようやく一人前」とみなされる風潮が強く、そのためにアーティストはメジャー・レーベルデビューを夢見て音楽活動をしている例がしばしば見られる。しかしながら、欧米においてはこの価値観は評価されないこともある。
音楽は基本的にはアート([[芸術]])の一分野であり、難解な音楽、実験的な音楽、ルーツミュージックなどの[[ニッチ]]な音楽を志向するアーティストも数多く存在する。しかし、これらの音楽はその評価とは裏腹に商業的な成功には恵まれないことがほとんどであり、[[資本]]の最大化を主眼としているメジャーの音楽会社においては、当然ながらこれらの売れないアーティストがその傘下で音楽を作ることを許されるのは稀有な例となる<ref name="Indie Journal Interview">{{cite web |author=Wheeler, Fred|url=http://www.indiejournal.com/indiejournal/interviews/bradleyjoseph.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20041101084648/http://www.indiejournal.com/indiejournal/interviews/bradleyjoseph.htm|archivedate=2004-11-01 |title= Interview with Bradley Joseph|publisher = Indie Journal (archived page of indiejournal.com)|year= 2002|accessdate=2006-12-21}}</ref>。
よって、これらのアーティストはアンダーグラウンドにおいてインディーズ・レーベルに所属し、その創作活動を続ける場合が多い。これらの背景から、インディーは「メジャーへの踏み台」としてではなく、「個性的な」音楽を志向するアーティストが存在し得る場」として、一つの唯一的な地位を有している<ref name="Continuing Journey">{{cite news|last = Polta|first = Anne|title = Continuing Journey: Bradley Joseph sustains music career with songwriting, recording|publisher = West Central Tribune (wctrib.com) ([[Minnesota]], [[アメリカ合衆国|U.S.]])|date = 2007-02-08| url =http://www.wctrib.com/articles/index.cfm?id=16233&pnref=VTHE0E4F49E5|accessdate = 2007-02-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080329090123/http://www.wctrib.com/articles/index.cfm?id=16233&pnref=VTHE0E4F49E5|archivedate=2008-03-29}}</ref>。
日本ではメジャーデビューしたアーティストでも歌詞に問題があるなどで、メジャーで出せなかった場合にはインディーズで出すこともある。また、かつてメジャーデビューしていたアーティストが、音楽活動から遠ざかって数年若しくは数十年を経て音楽活動を再開する時にメジャーではなく、インディーズで再開したり、メジャーのアーティストがレコード会社の方針に不満を抱いたり、自由な活動をしたいといったことから個人事務所などでレーベルを立ち上げてインディーズで活動する者がいる。
更に、1968年には「[[ザ・フォーク・クルセダーズ]]」が自主制作で出していたアルバム『ハレンチ』に収録されていた「[[帰って来たヨッパライ]]」が、ラジオの深夜放送で頻繁にオンエアされ、[[EMIミュージックジャパン]](当時の東芝音楽工業)が『ハレンチ』収録のオリジナルマスターでシングル盤を発売し、同グループが1年間の期限付きではあったが、メジャーデビューした。インディーズの音源がそのまま、メジャーで発売された例である。
1960年代後半から1970年代前半には、アルバムをインディーズから出すフォーク、ロックのアーティストが増加し始めた。当時のフォークの代表的なインディーズ・レーベルとしては、[[URCレコード]]や[[ベルウッド・レコード]]、[[エレックレコード|エレック・レコード]]などがあげられる。
=== インディー・ロック ===
{{Main|インディー・ロック}}
欧米、および日本では[[ロック (音楽)|ロック]]ミュージックの分野において、''インディー・ロック''とされるジャンルが存在する。
このジャンルは、額面通りインディーズ・レーベルに属しているミュージシャンのみを対象としているというわけではなく、志向がインディーズ的(利潤追求から独立的で、アートを強く追求する)な意味を持って扱われている。
1998年11月に、[[フリーウィル]]と契約をしている[[DIR EN GREY]]が、「[[-I'll-]]」でインディーズ史上最高記録(当時)を樹立。その後インディーズ初の[[日本武道館]]公演を実現した。[[2001年]]に[[MONGOL800]]が発表した『[[MESSAGE (MONGOL800のアルバム)|MESSAGE]]』が、国内のインディーズ最高の280万枚を記録する。その後、[[HY (バンド)|HY]]や[[Def Tech]]、[[ELLEGARDEN]]、[[the GazettE]]、[[シド (バンド)|シド]]などといった、インディーズ・アーティストが相次いでヒットを記録しているため、かつてに比べれば「メジャー予備軍」としての意味合いは幾分だが、薄れては来ている。ただし、資本や流通やアーティスト関係などでメジャーと繋がっている(メジャー・レーベルが自社アーティストとして登用する前に、インディーズでどれくらいの人気、売り上げが期待できるのかを目算した上で、初めてメジャーに移行させるというシステムを取っている)ところも少なくないので、インディーズの概念として曖昧な部分も多い。
国内外を問わず、インディーズ・レーベルの一部はメジャーレーベルと共同で、または許諾を得てメジャー系アーティストの旧作を再発している。他のインディーズ・レーベルの旧作の再発も行う場合がある。そうしたインディーズ・レーベルの中には再発専門のレーベルが存在する。
=== 主要なインディーズ音楽レーベル ===
※日本国内の企業の場合、[https://www.riaj.or.jp/about/member.html 日本レコード協会会員企業]、[[ドラマCD|ドラマ]]・[[ラジオCD]]の類を専門的に発売している企業、放送事業者が直接所有するレーベルは除外している。
※以下の他、[[ネットレーベル一覧]]のリストも参照。 <!-- 以下の「デジタルディストリビューター」関連は[[ネットレーベル一覧]]のリストに移設がいいのかもしれない。判断が付かないので移設せず、残置とした。 -->
* [[2トーン・レコード]]
* [[Aaron field]]
* [[ACTOP]]
* [[A-CUE RECORDS]]
* [[Art Stone Records International]]
* [[A stAtion]]
* [[Bad News Records]]
* [[BIG UP!]] - デジタルディストリビューター
* [[Billboard Records]]
* [[bounce records]]
* [[ビーフォレスト|B.P.RECORDS]] - ビーフォレストのレーベル部門
* [[Buzzword Records]]
* [[BYGレコード]]
* [[CAFFEINE BOMB RECORDS]]
* [[CAPTAIN HAUS RECORDINGS]]
* [[CD BABY]] - デジタルディストリビューター
* Cute Melancholy Records(キュート・メランコリー・レコード)
* [[Da.Me.Records]]
* [[ディスクユニオン|DIW]] - ディスクユニオンのレーベル部門
* [[Diverse System]]
* [[ESPディスク・レコード]]
* [[FAN'S MUSIC]] - デジタルディストリビューター
* FORCE MUSIC
* [[Frekul]] - デジタルディストリビューター
* [http://funtimepro.co.jp Funtime Productions]
* [[GARURU RECORDS]]
* [[Girls New Gate]]
* [[GLAY|loversoul music&associates]]
* [[Grace Notes Records]]
* [[Heart-Voice Records]]
* INDIAN SUMMER INC.(インデアンサマー)
* [[クリプトン・フューチャー・メディア|karent T]]
* [[LANDR]] - デジタルディストリビューター
* [[LAUNCH RECORDS]]
* [[METAL JAPAN RECORDS]]
* [[MONSTAR.FM]] - デジタルディストリビューター
* [[My Best! Records]]
* [[ナイトdeライト|Night De Light Music]]
* NOISE OPERA RECORDS
* [[One-Coin records]]
* OTODAMA RECORDS
* [[OTOTOY]] - デジタルディストリビューター。(ストリーミングではなく)ダウンロード配信でのリリースを行っている。
* [[Pヴァイン]]
* {{仮リンク|PSFレコード|en|P.S.F. Records}}
* [[ROUTER.FM]] - デジタルディストリビューター
* [[sparkjoy records]]
* [[SYMPATHY.Record]]
* [[THIRTY THREE RECORD]]
* [[TME RECORDS]]
* [[TNX]]
* [[Topow.J(トップオー・ジェー)]]
* [[T-Palette Records]]
* [[TuneCore Japan]] - デジタルディストリビューター
* [[UKプロジェクト]]
* [[URCレコード]]
* [[VIVID SOUND]](ヴィヴィッド・サウンド)
* [[Wix Music]] - デジタルディストリビューター
* [[YOUNG RECORDS]]
* [[Youthsource records]]
* [[アース・スター エンターテイメント|アース・スター レコード]]
** [[SMIRAL|スマイラル・アニメーション/スマイラル・レコード]]([[トップ・マーシャル]])
* [[アーティスツ・ハウス]]
* [[アップフロントワークス#UP-FRONT INDIES|UP-FRONT INDIES]]
* [[アラディン・レコード]]
* [[インペリアル・レコード (米国)|インペリアル・レコード]]
* [[ウナマスレーベル]]
* [[エース・レコード (アメリカ合衆国)|エイス・レコード]]
* [[エクセロ・レコード]]
* [[エレックレコード]]
* [[オルタナティブ・テンタクルズ・レコード]]
* [[カクバリズム]]
* [[キル・ロック・スターズ・レコード]]
* キング・レコード(USA)
* [[コールド・チリン・レコード]]
* [[ゴールドワックス・レコード]]
* [[コドモメンタルINC.]]
* [[コレクタブルズ・レコード]]
* [[サヴォイ・レコード]]
* [[サウンド・ステージ・7・レコード]]
* [[サブ・ポップ]]
* [[サンセット]]
* [[サンライトレコード]]
* [[サン・レコード]]
* [[残響レコード]]
* [[シュガー・ヒル・レコード]]
* [[シルバーレコード]]
* [[スタジオ・ワン・レコード]]
* [[スタックス・レコード]]
* [[スティッフ・レコード]]
* [[スペシャルティ・レコード]]
* [[術ノ穴]]
* [[ダイアル・レコード]]
* [[ダイキサウンド]]
* [[たま (バンド)|地球レコード]]
* [[チェス・レコード]]
* [[チェリー・レッド・レコード]]
* [[チャーリー・レコード]]
* [[トランペット・レコード]]
* [[つばさグループ|つばさレコード]]
* [[ティラル・コラポレーション]]
* [[デリシャス・ヴァイナル・レコード]]
* [[トロージャン・レコード]]
* [[ナゴムレコード]]
* [[人間大學レコード]]
* [[ねこれこ]]
* [[ノット・ナウ・ミュージック]]
* [[ハイ・レコード]]
* [[ハイラインレコーズ]]
* [[箱レコォズ]]
* [[ハピネット]]音楽制作部
* [[ハマジム|ハマジムレコーズ]]
* [[やなわらばー|パパイヤれこーど]]
* [[ピナコテカレコード]]
* [[フィラデルフィア・インターナショナル]]
* [[ブルー・サム・レコード]]
* [[ブルー・ノート・レコード]]
* [[ベア・ファミリー・レコード]]
* [[ベルウッドレコード]]
* [[ベンテン・レコード]]
* [[マーベラス (企業)|マーベラス]]
* [[モダン・レコード]]
* [[ヤズー・レコード]]
* [[ユークリッド・エージェンシー|ユークリッド・ミュージックエンタテインメント]]
* [[ライド カーニバル]]
* [[ラウンダー・レコード]]
* [[ラフ・トレード・レコード]]
* [[リトルロックレコーズ]]
=== 元インディーズ音楽レーベル ===
* [[アトランティック・レコード]]
* [[アイランド・レコード]]
* [[エレクトラ・レコード]]
* [[モータウン]]
== 英語 ==
「インディーズ」の語源は「独立した」を意味する英語の「independent」である。英語では「{{lang|en|independent}}」が単数形の語を形容する場合の略称は「{{lang|en|indie music}}」や「{{lang|en|indie}}」のように使われ、複数形の語を形容する場合は「{{lang|en|indie labels}}」または「{{lang|en|indies}}」のように使われる<ref>[http://www.billboard.com/biz/articles/news/digital-and-mobile/6128540/analysis-youtube-indie-labels-contract-subscription-service Inside YouTube's Controversial Contract with Indies] Billboard、2014年6月20日</ref><ref>{{Wayback|url=http://www.bbc.co.uk/music/introducing/advice/therightdealforyou/majorlabelsvsindies/|title=Music - Introducing - Advice - The Right Deal For You - Major Labels Vs Indies|date=20120827090057}}、[[英国放送協会|BBC]]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[レコード会社]]
* [[パンク・ロック]]
** [[天国注射の昼]]
* [[グランジ]]
* [[ネットレーベル]]
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[[Category:音楽出版社|*いんていいす]]
[[Category:音楽産業]]
[[Category:映画映像の用語]]
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古代ローマ
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古代ローマ(こだいローマ、羅: Roma antiqua)は、イタリア半島中部に位置した多部族からなる、都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国までになった国家の総称である。
古代ローマの当時の正式な国号は元老院ならびにローマ市民(Senātus Populusque Rōmānus)であり、共和政成立から使用されて以来滅亡まで体制が変わっても維持された。伝統的には476年のロムルス・アウグストゥルスの退位をもって古代ローマの終焉とするのが一般的であるが、ユスティニアヌス1世によってイタリア本土が再構成される554年までを古代ローマに含める場合もある。ローマ市は、帝国の滅亡後も一都市として存続し続け、世界帝国ローマの記憶は以後の思想や制度に様々な形で残り、今日まで影響を与えている。
紀元前753年(建国)から紀元前509年まで、トロイア戦争におけるトロイア側の武将で、トロイア滅亡後にイタリア半島に逃れてきたアイネイアースの子孫であるロームルスに始まる伝説上の七人の王が治めていた期間(伝承による)。古代ローマでは、アイネイアースが、トロイア滅亡後、詩、音楽、医学、貿易、政治システムを持って、イタリア半島に逃れて、古代ローマを建国したという物語は、古代ローマが古代ギリシアの歴史とつながる長い連続と価値づけられ、非常に重要と考えられていた。
初期の4人の王はローマ建設時の中心となったラテン人とサビニ人から選ばれているが、その後の3人の王はエトルリア人出身であるとされる。これは初期のローマにおいてエトルリア人による他民族支配を受けていたことを示すと考えられている。
紀元前509年から紀元前27年まで、ローマがイタリア半島の一都市国家から地中海の全域に属州を持つ帝政になるまでの期間を指す。政治は元老院と執政官ら政務官を中心として、民会などで一般ローマ市民の意思も反映されながら民主的に運営された。
いくつか分け方が存在する。
2. の区分が比較的多い。
セウェルス朝から始まり、軍人皇帝時代を経て、ディオクレティアヌス帝が即位するまで。
ディオクレティアヌスの即位を開始とする。そのまま西ローマ帝国の滅亡までを帝政後期としてくくることも多いが、テオドシウス1世の死後に帝国が東西に分裂した後は、通常は西ローマ帝国、東ローマ帝国としてわける。
後期以降の時代は皇帝による専制や君主崇拝が強められ、専制君主制(ドミナートゥス)と呼ばれる。
コンスタンティヌス1世のミラノ勅令によってキリスト教が公認され、徐々にローマの支配イデオロギーの中の枢要な部分を占めるようになっていった。
その滅亡をもって、ヨーロッパ史では古代と中世との境界とする場合がある。
その滅亡を以って、ヨーロッパ史では中世と近世の境界とする場合がある。
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古代ローマは、イタリア半島中部に位置した多部族からなる、都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国までになった国家の総称である。
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{{脚注の不足|date=2023年3月}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 =
|日本語国名 =元老院ならびにローマ市民
|公式国名 ='''{{Lang|la|Senatus Populusque Romanus}}'''
|建国時期 =[[紀元前753年]]
|亡国時期 =[[476年]]
|先代1 =エトルリア
|先旗1 =Vergiasun.svg
|先代2 =サビニ人
|先旗2 =
|先代3 =
|先代4 =
|先代5 =
|先代6 =
|先代7 =
|先代8 =
|次代1 =オスマン帝国
|次旗1 =Ottoman Flag.svg
|次代2 =イスラム帝国
|次代3 =東ゴート王国
|次代4 =西ゴート王国
|次代5 =ブルグント王国
|次代6 =ヴァンダル王国
|次代7 =スエビ王国
|次代8 =フランク王国
|次代9 =ブルガリア帝国
|次代10 =ヴェネツィア共和国
|次旗10 =Flag of Most Serene Republic of Venice.svg
|国旗画像 =
|国旗リンク =
|国章画像 =
|国章リンク =
|標語 ={{Smallcaps|{{Lang|la|[[SPQR|Senatus Populusque Romanus]]}}}}<br />([[ラテン語]]:ローマの元老院と市民)
|国歌名 =
|国歌追記 =
|位置画像 =Roman Republic Empire map.gif
|位置画像説明 =ローマの領域の変遷
|公用語 =[[ラテン語]]
|首都 =[[ローマ]]([[紀元前753年]]-[[554年]])<br />[[ニコメディア]]([[286年]]-[[330年]])<br />[[メディオラヌム]]([[286年]]-[[402年]])<br />[[コンスタンティノポリス]]([[330年]]-[[1453年]])<br />[[ラヴェンナ]]([[402年]]-[[476年]])
|元首等肩書 =[[皇帝]]
|元首等年代始1 =[[紀元前27年]]
|元首等年代終1 =[[395年]]
|元首等氏名1 =[[ローマ皇帝]]
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|元首等年代終2 =[[480年]]
|元首等氏名2 =[[西ローマ帝国|西ローマ皇帝]]
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|元首等氏名3 =[[東ローマ帝国の皇帝一覧|東ローマ皇帝]]
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|元首等年代終4 =
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|元首等年代始5 =
|元首等年代終5 =
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|首相等肩書 =[[執政官]](共和政期においては元首)
|首相等年代始1 =[[紀元前509年]]
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|首相等氏名1 =[[共和政ローマ執政官一覧|執政官]]
|首相等年代始2 =[[紀元前27年]]
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|首相等氏名2 =[[帝政ローマ初期執政官一覧|執政官]]
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|面積測定時期1 =[[トラヤヌス帝]]の治世
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|ccTLD追記 =
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|国際電話番号追記 =
|注記 =
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{{ローマの政治体制}}
'''古代ローマ'''(こだいローマ、{{lang-la-short|Roma antiqua}})は、[[イタリア半島]]中部に位置した多部族からなる、[[都市国家]]から始まり、[[領土]]を拡大して[[地中海世界]]の全域を支配する[[世界帝国]]までになった国家の総称である。
== 概要 ==
古代ローマの当時の正式な国号は'''[[元老院 (ローマ)|元老院]]ならびにローマ市民'''(Senātus Populusque Rōmānus)であり、[[共和政]]成立から使用されて以来滅亡まで体制が変わっても維持された。伝統的には[[476年]]の[[ロムルス・アウグストゥルス]]の退位をもって古代ローマの終焉とするのが一般的であるが、[[ユスティニアヌス1世]]によって[[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア本土]]が再構成される[[554年]]までを古代ローマに含める場合もある。[[ローマ]]市は、[[帝国]]の滅亡後も一都市として存続し続け、世界帝国ローマの記憶は以後の思想や制度に様々な形で残り、今日まで影響を与えている。
== 時代区分 ==
=== 王政期 ===
{{main|王政ローマ}}
[[紀元前753年]](建国)から[[紀元前509年]]まで、[[トロイア戦争]]における[[イリオス|トロイア]]側の武将で、トロイア滅亡後に[[イタリア半島]]に逃れてきた[[アイネイアース]]の子孫である[[ロームルス]]に始まる伝説上の七人の[[王]]が治めていた期間([[伝承]]による)。古代ローマでは、[[アイネイアース]]が、[[イリオス|トロイア]]滅亡後、[[詩]]、[[音楽]]、[[医学]]、[[貿易]]、[[政治システム]]を持って、[[イタリア半島]]に逃れて、古代ローマを建国したという物語は、古代ローマが[[古代ギリシア|古代ギリシアの歴史]]とつながる長い連続と価値づけられ、非常に重要と考えられていた<ref>{{Cite book |title=Korea: The Search for Sovereignty |first=G. L. |last=Simons |publisher=Palgrave MacMillan |page=70|year=1999}}</ref>。
初期の4人の王はローマ建設時の中心となった[[ラテン人]]と[[サビニ人]]から選ばれているが、その後の3人の王は[[エトルリア人]]出身であるとされる。これは初期の[[ローマ]]においてエトルリア人による他[[民族]]支配を受けていたことを示すと考えられている。
=== 共和政期 ===
{{main|共和政ローマ}}
[[ファイル:Roman Republic-44BC.png|thumb|left|220px|BC44年カエサル統治下の共和政ローマの版図]]
紀元前509年から[[紀元前27年]]まで、ローマがイタリア半島の一都市国家から地中海の全域に[[属州]]を持つ[[帝政]]になるまでの期間を指す。政治は[[元老院 (ローマ)|元老院]]と[[執政官]]ら[[政務官 (ローマ)|政務官]]を中心として、[[民会 (ローマ)|民会]]などで一般ローマ市民の意思も反映されながら民主的に運営された。
*共和政初期
**[[ルキウス・ユニウス・ブルトゥス]]による王政の打倒からイタリア半島の中部・南部を勢力に加えるまでの期間。
**政治的には[[パトリキ]]と[[プレブス]]の身分闘争とその決着が知られている。
*共和政中期
**三次に及ぶ[[カルタゴ]]との[[ポエニ戦争]]の時期。
**[[セレウコス朝]]や[[アンティゴノス朝]]といった[[ヘレニズム]]諸国との戦争での勝利によって属州を獲得しその勢力圏を広げていった時期。
*共和政末期
**[[グラックス兄弟]]の改革と死、その後の[[内乱の一世紀]]を経て、[[アウグストゥス]]による帝政の樹立までの期間。
**ローマで最も史料が豊富な期間の一つである。
=== 帝政期 ===
[[ファイル:Roman Empire Territories.png|thumb|left|220px|ローマ帝国の最大版図]]
{{main|ローマ帝国}}
==== 初期 ====
{{see_also|プリンキパトゥス}}
いくつか分け方が存在する。
# [[アウグストゥス]]からはじまる[[ユリウス=クラウディウス朝]]から[[フラウィウス朝]]までとするもの。
# 1. に[[五賢帝]]の時代を加えるもの。
# 2. [[セウェルス朝]]なども加え[[ディオクレティアヌス]]の即位までを帝政初期として帝政全体を二つに分けるもの。
2. の区分が比較的多い。
==== 中期 ====
[[セウェルス朝]]から始まり、[[軍人皇帝]]時代を経て、ディオクレティアヌス帝が即位するまで。
==== 後期 ====
{{see_also|ドミナートゥス|古代末期}}
[[ディオクレティアヌス]]の即位を開始とする。そのまま西ローマ帝国の滅亡までを帝政後期としてくくることも多いが、[[テオドシウス1世]]の死後に帝国が東西に分裂した後は、通常は[[西ローマ帝国]]、[[東ローマ帝国]]としてわける。
後期以降の時代は皇帝による専制や君主崇拝が強められ、専制君主制([[ドミナートゥス]])と呼ばれる。
[[コンスタンティヌス1世]]の[[ミラノ勅令]]によって[[キリスト教]]が公認され、徐々にローマの支配イデオロギーの中の枢要な部分を占めるようになっていった。
=== 東西分離後 ===
[[ファイル:Imperium Romanum mapa.png|thumb|left|ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青)。青と緑色部分は[[トラヤヌス]]帝時代の[[ローマ帝国]]最大版図。赤線は東西ローマの分割線]]
==== 西ローマ帝国 ====
{{main|西ローマ帝国}}
その滅亡をもって、[[ヨーロッパ史]]では[[古代]]と[[中世]]との境界とする場合がある。
==== 東ローマ帝国 ====
{{main|東ローマ帝国}}
その滅亡を以って、ヨーロッパ史では中世と[[近世]]の境界とする場合がある。
== 古代ローマにおける戦争・戦闘 ==
*[[:Category:古代ローマの戦争]]
**[[:Category:共和政ローマの戦争]]
**[[:Category:ローマ帝国の戦争]]
*[[:Category:古代ローマの戦闘]]
**[[:Category:共和政ローマの戦闘]]
**[[:Category:ローマ帝国の戦闘]]
* [[ローマ軍団]]
== 古代ローマ期の人物・家について ==
*[[:Category:古代ローマ人]]
*[[:Category:古代ローマの人名]]
*[[共和政ローマ執政官一覧]]
*[[帝政ローマ初期執政官一覧]]
*[[ローマ皇帝一覧]]
*{{仮リンク|パーテル・ファミリアス|en|Pater familias|preserve=1}} - イタリアの[[氏族]]において、ある氏族の長であり通常はその最年長の男性のことを意味する。氏族制度は「十二机法」に規定されており、氏族の長は、法により制限されるようになるまでは、奴隷を含む氏族の構成員に対する[[生殺与奪の権利]](ius vitae necisque)を有していた<ref group="注">パーテルは[[父]]を意味するが、16世紀に現れた[[パターナリズム|父権主義]]とは性質が異なる。</ref>。[[家父長制]](パトリアーキ)や、[[明治]]から[[昭和]]前半の日本にあった[[家制度]]でいう[[家督]]に似る。
== 古代ローマ期の文化・書籍 ==
[[ファイル:Virgil 1501 Aldus Manutius.jpg|thumb|left|1501年出版の[[ウェルギリウス]]の叙事詩写本]]
{{see_also|Category:古代ローマの文筆家}}
* [[アッピアノス]] 『ローマ史』
* [[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]] 『[[ガリア戦記]]』『内乱記』
* [[サルスティウス]] 『歴史』 (『カティリナ戦記』 『ユグルタ戦記』)
* [[スエトニウス]] 『ローマ皇帝伝』
* [[タキトゥス]] 『アグリコラ』、『[[ゲルマニア (書物)|ゲルマニア]]』、『歴史』、『年代記』
* [[ディオ・カッシウス]] 『ローマ史』
* [[プルタルコス]] 『[[対比列伝]]』(英雄伝)
* [[ストラボン]] 『[[地理誌]]』
* [[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|プリニウス]] 『[[博物誌]]』
* [[ポリュビオス]] 『歴史』
* [[ティトゥス・リウィウス]] 『ローマ史』
* アエリウス・スパルティアヌス他5名 『[[ローマ皇帝群像]](ヒストリア・アウグスタ)』
* [[マルケリヌス・アンミアヌス]]『歴史』
* [[ローマ建築]]
* [[ローマ美術]]
* [[古代ローマの料理]]
== 近代以降の古代ローマ史に関する著作 ==
ここでは特に広く知られ、[[二次資料]]としての価値が高く、評価の定まった文献のみをあげる。
* [[エドワード・ギボン]] 『[[ローマ帝国衰亡史]]』
* [[テオドール・モムゼン]] 『ローマ史』
*J. B. Bury, ''History of the later Roman Empire: from the death of Theodosius I. to the death of Justinian'', (New York: Dover publications, 1958).
*A.H.M. Jones, ''The later Roman Empire 284-602: a social economic and administrative survey'', (Norman: University of Oklahoma Press, 1964).
*P・ブラウン著、宮島直機訳『古代末期の世界―ローマ帝国はなぜキリスト教化したか?―』[[刀水書房]]、[[2002年]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* ローマの歴史/[[インドロ・モンタネッリ]]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Ancient Rome}}
* [[内乱の1世紀]]
* [[パンとサーカス]]
* [[ヨハネの黙示録]]
* [[リーメス]]
* [[カトリック]]
* [[十二表法]] - 古代ローマで最初に制定された[[成文法]]
* [[ローマ建国紀元]]
* {{仮リンク|古代ローマの宗教|en|Religion in ancient Rome}}
** {{仮リンク|古代ローマの宗教用語集|en|Glossary of ancient Roman religion}}
*** {{仮リンク|ラピス・マナリス|en|Lapis manalis}}
*** {{仮リンク|レムリア (祭事)|en|Lemuria (festival)}}
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|ローマ史}}
* {{Kotobank|ローマ[古代]}}
{{古代ローマ}}
{{ローマ帝国}}
{{normdaten}}
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[[Category:古代ローマ|*]]
[[Category:ヨハネの黙示録]]
[[Category:ローマ]]
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13,210 |
2部グラフ
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数学、特にグラフ理論における2部グラフ(にぶグラフ、英: bipartite graph)とは、頂点集合を2つに分割して各部分の頂点は互いに隣接しないようにできるグラフのことである。一般に互いに隣接しない頂点からなる集合を独立集合といい、頂点集合を n 個の独立集合に分割可能なグラフのことを n 部グラフ (n-partite graph) という。
頂点集合を独立集合 V1, V2 に分割したとき、V1 と V2 の任意の頂点が隣接するグラフを完全2部グラフという。頂点集合が m 頂点とn 頂点に分割される完全2部グラフを Km,n と書く。
辺を共有する頂点を異なる色で塗ることを(頂点)彩色という。よって、n 部グラフは n 彩色可能なグラフに他ならない。同様に、頂点を共有する辺を異なる色で塗ることを辺彩色という。
2部グラフの辺集合はどの2辺も互いに隣接していないときマッチングと呼ばれる。辺の数が最大のマッチングを最大マッチングと呼ぶ。また、すべての頂点がマッチングに含まれる辺の端点であるとき完全マッチングと呼ぶ。
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数学、特にグラフ理論における2部グラフとは、頂点集合を2つに分割して各部分の頂点は互いに隣接しないようにできるグラフのことである。一般に互いに隣接しない頂点からなる集合を独立集合といい、頂点集合を n 個の独立集合に分割可能なグラフのことを n 部グラフ という。 頂点集合を独立集合 V1, V2 に分割したとき、V1 と V2 の任意の頂点が隣接するグラフを完全2部グラフという。頂点集合が m 頂点とn 頂点に分割される完全2部グラフを Km,n と書く。 辺を共有する頂点を異なる色で塗ることを(頂点)彩色という。よって、n 部グラフは n 彩色可能なグラフに他ならない。同様に、頂点を共有する辺を異なる色で塗ることを辺彩色という。 2部グラフの辺集合はどの2辺も互いに隣接していないときマッチングと呼ばれる。辺の数が最大のマッチングを最大マッチングと呼ぶ。また、すべての頂点がマッチングに含まれる辺の端点であるとき完全マッチングと呼ぶ。
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[[画像:Simple-bipartite-graph.svg|thumb|2部グラフの例]]
[[画像:Biclique K 3 3.svg|thumb|[[完全2部グラフ]] {{math|''K''{{sub|3, 3}}}}]]
数学、特に[[グラフ理論]]における'''2部グラフ'''(にぶグラフ、[[英語|英]]: {{lang|en|bipartite graph}})とは、[[グラフ理論#用語|頂点集合]]を2つに[[集合の分割|分割]]して各[[集合の分割#定義|部分]]の頂点は互いに[[グラフ理論#用語|隣接]]しないようにできる[[グラフ理論|グラフ]]のことである。一般に互いに隣接しない頂点からなる集合を[[独立集合]]といい、頂点集合を {{mvar|n}} 個の独立集合に分割可能なグラフのことを''' {{mvar|n}} 部グラフ''' ({{lang|en|{{mvar|n}}-partite graph}}) という。
頂点集合を独立集合 {{math2|''V''{{sub|1}}, ''V''{{sub|2}}}} に分割したとき、{{math|''V''{{sub|1}}}} と {{math|''V''{{sub|2}}}} の任意の頂点が隣接するグラフを'''[[完全2部グラフ]]'''という。頂点集合が {{mvar|m}} 頂点と{{mvar|n}} 頂点に分割される完全2部グラフを {{math|''K''{{sub|''m'',''n''}}}} と書く。
辺を共有する頂点を異なる色で塗ることを'''[[グラフ彩色|(頂点)彩色]]'''という。よって、{{mvar|n}} 部グラフは''' {{mvar|n}} 彩色可能'''なグラフに他ならない。同様に、頂点を共有する辺を異なる色で塗ることを'''辺彩色'''という。
2部グラフの辺集合はどの2辺も互いに隣接していないとき'''[[マッチング (グラフ理論)|マッチング]]'''と呼ばれる。辺の数が最大のマッチングを'''最大マッチング'''と呼ぶ。また、すべての頂点がマッチングに含まれる辺の端点であるとき'''完全マッチング'''と呼ぶ。
== 性質 ==
* 2部グラフの最大マッチングは[[多項式時間]]で求められる。[[最大フロー問題]]を参照。
* [[木 (数学)|木]]は2部グラフである。
* [[閉路グラフ]]は頂点が偶数個のときに限り2部グラフである。
* Königの定理:2部グラフにおいて、最大マッチングの辺数は最小点被覆の点数と等しい。
== 関連項目 ==
* [[ホールの定理]]
* [[DM分解]]
== 外部リンク ==
* {{高校数学の美しい物語|1147|二部グラフの最大マッチングと増加道}}
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13,211 |
MeCab
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MeCabはオープンソースの形態素解析エンジンで、奈良先端科学技術大学院大学出身、現GoogleソフトウェアエンジニアでGoogle 日本語入力開発者の一人である工藤拓によって開発されている。名称は開発者の好物「和布蕪(めかぶ)」から取られた。
開発開始当初はChaSenを基にし、ChaSenTNGという名前で開発されていたが、現在はChaSenとは独立にスクラッチから開発されている。ChaSenに比べて解析精度は同程度で、解析速度は平均3-4倍速い。
品詞情報を利用した解析・推定を行うことができる。MeCabで利用できる辞書はいくつかあるが、ChaSenと同様にIPA品詞体系で構築されたIPADICが一般的に用いられている。
MeCabはGoogleが公開した大規模日本語n-gramデータの作成にも使用された。
Mac OS X v10.5及びv10.6のSpotlightやiPhone OS 2.1以降とOS X Yosemite以降の日本語入力にも利用されている。
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MeCabはオープンソースの形態素解析エンジンで、奈良先端科学技術大学院大学出身、現GoogleソフトウェアエンジニアでGoogle 日本語入力開発者の一人である工藤拓によって開発されている。名称は開発者の好物「和布蕪(めかぶ)」から取られた。 開発開始当初はChaSenを基にし、ChaSenTNGという名前で開発されていたが、現在はChaSenとは独立にスクラッチから開発されている。ChaSenに比べて解析精度は同程度で、解析速度は平均3-4倍速い。 品詞情報を利用した解析・推定を行うことができる。MeCabで利用できる辞書はいくつかあるが、ChaSenと同様にIPA品詞体系で構築されたIPADICが一般的に用いられている。 MeCabはGoogleが公開した大規模日本語n-gramデータの作成にも使用された。 Mac OS X v10.5及びv10.6のSpotlightやiPhone OS 2.1以降とOS X Yosemite以降の日本語入力にも利用されている。
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{{Infobox Software
|名称 = MeCab
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|説明文 =
|開発元 = 工藤拓
|最新版 = 0.996
|最新版発表日 = [[2013年]][[2月18日]]
|プログラミング言語 = [[C++]]、[[C言語]]、[[C Sharp|C#]], [[Java]], [[Perl]]、[[Python]]、[[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]
|対応プラットフォーム = [[クロスプラットフォーム]]
|種別 = [[形態素解析]]エンジン
|ライセンス = [[GNU General Public License|GPL]]、[[GNU Lesser General Public License|LGPL]]、[[BSDライセンス|BSD]]
|公式サイト = https://taku910.github.io/mecab/
}}
'''MeCab'''は[[オープンソース]]の[[形態素解析]]エンジンで、[[奈良先端科学技術大学院大学]]出身、現[[Google]]ソフトウェアエンジニアで[[Google 日本語入力]]開発者の一人である工藤拓<ref>{{Cite web|和書|url=https://jibun.atmarkit.co.jp/lcareer01/rensai/cas003/cas001.html|title=「ググる」の精度を高めるために必要なもの - @IT自分戦略研究所|work=[[ITmedia]]|date=2006-03-15|accessdate=2009-04-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://googlejapan.blogspot.com/2009/12/google_03.html|title=思いどおりの日本語入力 - Google 日本語入力|work=[[Google]]||date=2009-12-03|accessdate=2009-12-03}}</ref>によって開発されている。名称は開発者の好物「[[メカブ|和布蕪]](めかぶ)」から取られた。
開発開始当初は[[ChaSen]]を基にし、ChaSenTNGという名前で開発されていたが、現在はChaSenとは独立にスクラッチから開発されている。ChaSenに比べて解析精度は同程度で、解析速度は平均3-4倍速い。
品詞情報を利用した解析・推定を行うことができる。MeCabで利用できる辞書はいくつかあるが、ChaSenと同様に[[IPA品詞体系]]で構築されたIPADICが一般的に用いられている。
MeCabはGoogleが公開した大規模日本語n-gramデータの作成にも使用された<ref>{{Cite web|和書|url=http://googlejapan.blogspot.com/2007/11/n-gram.html|title=Google Japan Blog: 大規模日本語 n-gram データの公開|work=[[Google]]|date=2007-11-01|accessdate=2009-04-09}}</ref>。
[[Mac OS X v10.5]]及び[[Mac OS X v10.6|v10.6]]の[[Spotlight (Apple)|Spotlight]]や[[iOS|iPhone OS]] 2.1以降と[[OS X Yosemite]]以降の日本語入力にも利用されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://kazama.hatenablog.com/entry/20080115/p1|title=大規模テキスト処理を支える形態素解析技術(工藤拓氏・Google)|date=2009-12-03|accessdate=2009-12-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://yebo-blog.blogspot.com/2008/09/iphonemecab.html|title=iPhoneの仮名漢字変換はMeCabを利用|date=2009-12-03|accessdate=2009-12-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080918005625/yebo-blog.blogspot.com/2008/09/iphonemecab.html|archivedate=2008-09-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://book.mynavi.jp/macfan/detail_summary/id=88495|title=「日本語入力」の基本|accessdate=2020/05/30|publisher=[[MacFan]]}}</ref>。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 外部リンク ==
{{portal|FLOSS}}
* {{Official website|https://taku910.github.io/mecab/}}
[[Category:自然言語処理]]
|
2003-08-15T06:40:43Z
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2023-09-28T06:25:20Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/MeCab
|
13,212 |
長安
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長安(ちょうあん、中国語: 長安、拼音: Cháng'ān)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。
その萌芽として周代に早くも渭水(黄河支流)の中流域に都城が建設されており、その後規模や位置を変えながら現代まで続いている。漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は大運河が通じる東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。
西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。
長安の都市としての歴史は西周の都豊邑(旧字体:豐邑、ほうゆう)(または豊京(ほうけい))に始まる。豊邑は文王の時代まで周公の都であった。武王は殷の紂王を滅ぼしたのち、灃水(ほうすい、さんずいに豐、現在は灃河。似た字である澧水(れいすい)とは別の川)をはさんで豊邑の対岸にあった鎬京(こうけい)に遷都した。この豊・鎬の地は現在の西安市の西南近郊に相当する。
紀元前350年、秦は都を雍(現在の陝西省宝鶏市鳳翔区の南東)から、咸陽(現在の陝西省咸陽市の北東)に移した。渭水の北岸に位置する咸陽は、始皇帝のときに大幅に拡張され、渭水の南岸に興楽宮や甘泉宮が造営されて、渭水を渡す横橋で咸陽宮と連結された。渭南西郊の上林苑に朝宮の建造が計画され、その前殿として阿房宮が営まれた。
秦滅亡後の戦乱の結果漢朝を建てた劉邦は、婁敬と張良の進言により破壊された咸陽の郊外に新たな都城を建設、長安と命名、蕭何が宮殿を造り、恵帝の時代には城壁が建築されている。長安城の南側は南斗、北側は北斗の形をしていたため、当時は長安城の別称として「斗城」が誕生した。長安城には九市、十二門が設けられ、城内には未央宮、長楽宮、北宮、桂宮といった宮殿があった(『三輔黄図』)。漢代の長安はいびつな形をしていた。その後前漢、新、後漢(滅亡前の数年間)、西晋(滅亡前の数年間)、前趙、前秦、後秦、西魏、北周が首都を設置している。
北周を滅ぼした隋朝を立てた楊堅は、生活環境の悪化や政治的思惑からこれまでの長安を廃止し、その郊外である龍首原に新たな都城を造営した。新たな都城造営を担当したのは、宇文愷(555年 - 602年)である。初め大興城(だいこうじょう)と称された都城が、隋唐代の首都・国際都市としての長安の都である。中央の朱雀門街を挟んで、左街に54坊と東市、右街に54坊と西市、総計110の坊市から構成される条坊都市であった。全体はおよそ南北8651メートル、東西が9721メートルあったとされる。東西の方が長いのが特徴である。後述される日本の平安京とは異なり、長安城内では、各坊の四囲にも高い牆壁が取り囲んでおり、それら門は夜間は閉門され坊外との通行は禁止された。また、龍首原は、北から南に向かって、6段に分かれた台地状の丘陵であった。設計者の宇文愷は、それを周易の六爻になぞらえて都市計画がなされたと考えられている。天子の位に相当する九二に宮城を置き、九三の君子の位には皇城を配置した。さらに、周易においては九二よりも上の最上位とされる九五の丘には、庶人を住まわせると災いの元と考え、国寺である大興善寺と道観の玄都観とを置いて、国家の安泰をはかったという。
最盛期で人口100万人とも言われる大都市に発展した長安であったが、同時に食糧問題という致命的な問題を内包していた。関中地域のみで長安の膨大な人口を支えるだけの食糧生産は不可能であり、江南から大運河を通じて大量輸送を行うか、朝廷そのものを食糧搬入が容易な場所に一時的に避難させる(洛陽に副都を置いた理由の一つである)ことによって対応していたが、安史の乱以後は政治的不安定から大運河の管理が次第と困難となり、大運河が通航不可能となるとたちまちのうちに長安での食糧価格の高騰に発展、貧困層の中には餓死するものも相次ぐようになる。唐の滅亡直前に王朝簒奪を狙う朱全忠によって都が洛陽に移された後、長安が再び都になることは無かった。
長安は唐末の戦乱で荒廃したため、首都は東の洛陽に移された。唐を滅ぼして後梁を建てた朱全忠は首都をさらに東の開封に移した。これにより首都機能を失った長安の城壁は縮小され、一地方都市となった。明代に、長安への遷都論が唱えられた事があったものの、既に唐代には食料問題を内包する長安への遷都は実現せず、名称を西安(せいあん)と改称され地方都市として発展していった(現在の西安については西安の項目を参照のこと)。
長安は当時における周辺諸民族の都市計画の模範となる都市であった。碁盤の目状の道路、南北を貫く大通り、北の政庁の位置、河川の配置といった特徴は日本の平城京、平安京にも強い影響を与えている。ただし平安京など日本の都は長安城と異なり、羅城門の左右を除いて城壁が設置されなかった。日本は大陸とは違い、北方騎馬民族の襲来に備える必要が無かったためとも言われている。
またその規模も長安の三分の一程度であり、それでも人家が市域を埋めつくすことはなかった。平安初中期の詩文に、平安京を指して「長安城」と呼んだ例が見られる。
渤海の上京龍泉府も、長安を模して築かれた。上京龍泉府は、中央に宮殿、周りに城壁、周囲16kmと、ほぼ平城京と同じ規模であり、井上和人は、衛星写真を分析し、平城京造営と同じ物差しを使っているという見解を示した。したがって、上京龍泉府は、長らく長安を模倣したと考えられていたが、平城京の造営が710年、上京龍泉府遷都が755年であり、渤海使の初来日が727年であることを鑑みると、平城京を模倣した可能性が指摘されている。
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長安は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 その萌芽として周代に早くも渭水(黄河支流)の中流域に都城が建設されており、その後規模や位置を変えながら現代まで続いている。漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は大運河が通じる東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。
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{{Otheruses|中国の古都|その他の「長安」|長安 (曖昧さ回避)}}
{{中華圏の事物
| 画像 = [[File:Xi'an location.png|250px]]
| 画像の説明= 長安の位置
| 簡体字 = 长安
| 繁体字 = 長安
| ピン音 = {{Audio|zh-Changan.ogg|Cháng'ān}}
| 通用 =
| 注音符号 = ㄔㄤˊㄢ
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}}
{{中国地名変遷
|establish = 殷代
|situation = 陝西省西安市
|Yin = 豊邑
|Zhou = 鎬京
|Spring and Autumn= 鎬京
|Warring States = 鎬京
|Qin = 咸陽
|Western Han = 長安
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|Eastern Jin = 長安
|South and North = 長安
|Sui = 大興
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}}
'''長安'''(ちょうあん、{{Lang-zh|長安}}、{{ピン音|Cháng'ān}})は、[[中国]]の[[古都]]。現在の[[陝西省]]の省都'''[[西安市]]'''に相当する。
その萌芽として[[周代]]に早くも[[渭水]]([[黄河]]支流)の中流域に[[都城]]が建設されており、その後規模や位置を変えながら現代まで続いている。[[漢|漢代]]に'''長安'''と命名され、[[前漢]]、[[北周]]、[[隋]]などの[[首都]]であった。[[唐|唐代]]には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した<ref name="City">{{cite web|url=http://geography.about.com/library/weekly/aa011201a.htm|title=Largest Cities Through History|author=Matt T. Rosenberg|publisher=About.com|accessdate=2009.1.14}}</ref>。[[シルクロード]]の起点とされることもある([[シルクロード (世界遺産)|シルクロード:長安-天山回廊の交易路網]])。また'''[[西都 (曖昧さ回避)|西都]]'''(さいと)、'''大興'''(だいこう)、'''[[西京]]'''(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。[[宋 (王朝)|宋]]代以降は政治・経済の中心は大運河が通じる東の[[開封]]に移り、長安が首都に戻ることはなかった。
[[西域]]に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも[[平城京]]や[[平安京]]は長安に倣ったと考えられており、日本において[[平安時代|平安]]初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。
== 歴史 ==
{{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}
[[File:History_of_Xi'an_ja.png|thumb|left|350px|長安(西安)の変遷]]
===西周===
長安の都市としての歴史は[[西周 (王朝)|西周]]の都'''豊邑'''(旧字体:豐邑、ほうゆう)(または'''豊京'''(ほうけい))に始まる。豊邑は[[文王 (周)|文王]]の時代まで周公の都であった。[[武王 (周)|武王]]は[[殷]]の[[帝辛|紂王]]を滅ぼしたのち、灃水(ほうすい、さんずいに豐、現在は灃河。似た字である[[澧水]](れいすい)とは別の川)をはさんで豊邑の対岸にあった'''鎬京'''(こうけい)に遷都した。この豊・鎬の地は現在の西安市の西南近郊に相当する。
===秦===
[[紀元前350年]]、[[秦]]は都を雍(現在の陝西省[[宝鶏市]][[鳳翔区]]の南東)から、'''咸陽'''(現在の陝西省[[咸陽市]]の北東)に移した。[[渭水]]の北岸に位置する咸陽は、[[始皇帝]]のときに大幅に拡張され、渭水の南岸に興楽宮や甘泉宮が造営されて、渭水を渡す横橋で咸陽宮と連結された。渭南西郊の上林苑に朝宮の建造が計画され、その前殿として[[阿房宮]]が営まれた。
=== 前漢から北周 ===
秦滅亡後の戦乱の結果[[前漢|漢朝]]を建てた[[劉邦]]は、[[婁敬]]と[[張良]]の進言により破壊された咸陽の郊外に新たな都城を建設、'''長安'''と命名、[[蕭何]]が宮殿を造り、[[恵帝 (漢)|恵帝]]の時代には城壁が建築されている。長安城の南側は[[南斗]]、北側は[[北斗]]の形をしていたため、当時は長安城の別称として「斗城」が誕生した。長安城には九市、十二門が設けられ、城内には[[未央宮]]、[[長楽宮]]、北宮、桂宮といった宮殿があった(『[[三輔黄図]]』)。漢代の長安はいびつな形をしていた。その後[[前漢]]、[[新]]、[[後漢]](滅亡前の数年間)、[[西晋]](滅亡前の数年間)、[[前趙]]、[[前秦]]、[[後秦]]、[[西魏]]、[[北周]]が[[首都]]を設置している。
=== 隋・唐 ===
[[File:隋大興城坊平面圖.png|thumb|300px|隋朝の大興城]]
[[北周]]を滅ぼした[[隋|隋朝]]を立てた[[楊堅]]は、生活環境の悪化や政治的思惑からこれまでの長安を廃止し、その郊外である龍首原に新たな都城を造営した。新たな都城造営を担当したのは、[[宇文愷]]([[555年]] - [[602年]])である。初め'''大興城'''(だいこうじょう)と称された都城が、[[隋]][[唐|唐代]]の首都・[[国際都市]]としての長安の都である。中央の朱雀門街を挟んで、左街に54坊と東市、右街に54坊と西市、総計110の坊市から構成される[[条坊制|条坊都市]]であった。全体はおよそ南北8651メートル、東西が9721メートルあったとされる。東西の方が長いのが特徴である<ref>布目潮風・栗原益男『隋唐帝国』講談社学術文庫 1997年 p.207</ref>。後述される日本の平安京とは異なり、長安城内では、各坊の四囲にも高い牆壁が取り囲んでおり、それら門は夜間は閉門され坊外との通行は禁止された。また、龍首原は、北から南に向かって、6段に分かれた台地状の丘陵であった。設計者の宇文愷は、それを[[易経|周易]]の六爻になぞらえて[[都市計画]]がなされたと考えられている。[[皇帝|天子]]の位に相当する九二に宮城を置き、九三の君子の位には皇城を配置した。さらに、周易においては九二よりも上の最上位とされる九五の丘には、庶人を住まわせると災いの元と考え、国寺である[[大興善寺]]と[[道観]]の[[玄都観]]とを置いて、国家の安泰をはかったという。
最盛期で人口100万人とも言われる大都市に発展した長安であったが、同時に食糧問題という致命的な問題を内包していた。[[関中]]地域のみで長安の膨大な人口を支えるだけの食糧生産は不可能であり、[[江南]]から[[大運河]]を通じて大量輸送を行うか、朝廷そのものを食糧搬入が容易な場所に一時的に避難させる([[洛陽]]に[[陪都|副都]]を置いた理由の一つである)ことによって対応していたが、[[安史の乱]]以後は政治的不安定から大運河の管理が次第と困難となり、大運河が通航不可能となるとたちまちのうちに長安での食糧価格の高騰に発展、貧困層の中には餓死するものも相次ぐようになる。唐の滅亡直前に王朝簒奪を狙う[[朱全忠]]によって都が[[洛陽]]に移された後、長安が再び都になることは無かった。
=== 五代以降 ===
長安は唐末の戦乱で荒廃したため、首都は東の[[洛陽]]に移された。唐を滅ぼして[[後梁]]を建てた[[朱全忠]]は首都をさらに東の[[開封]]に移した。これにより首都機能を失った長安の城壁は縮小され、一地方都市となった。[[明|明代]]に、長安への遷都論が唱えられた事があったものの、既に唐代には食料問題を内包する長安への遷都は実現せず、名称を'''西安'''(せいあん)と改称され地方都市として発展していった(現在の西安については'''[[西安]]'''の項目を参照のこと)。
== 他国の都市計画への影響 ==
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===日本===
長安は当時における周辺諸民族の都市計画の模範となる都市であった。碁盤の目状の道路、南北を貫く大通り、北の政庁の位置、河川の配置といった特徴は日本の[[平城京]]、[[平安京]]にも強い影響を与えている。ただし平安京など日本の都は長安城と異なり、[[羅城門]]の左右を除いて城壁が設置されなかった。日本は大陸とは違い、北方騎馬民族の襲来に備える必要が無かったためとも言われている。
またその規模も長安の三分の一程度であり、それでも人家が市域を埋めつくすことはなかった。平安初中期の詩文に、平安京を指して「長安城」と呼んだ例が見られる<ref>[[日本]]で漢風名称が採用された時代に、[[平安京]]の[[右京]]の別名を'''長安'''、同じく[[左京]]を'''洛陽'''と定めたということが定説になっているが、平安期の史料・文献にそのことは見えない。(「[[洛中#平安京の左京・右京と「洛陽」・「長安」]]」の項参照)</ref>。
===渤海===
[[渤海 (国)|渤海]]の[[上京龍泉府]]も、長安を模して築かれた。上京龍泉府は、中央に宮殿、周りに城壁、周囲16kmと、ほぼ[[平城京]]と同じ規模であり、[[井上和人]]は、衛星写真を分析し、平城京造営と同じ[[定規|物差し]]を使っているという見解を示した<ref name=Masashi2>{{Cite news|author=[[酒寄雅志]]|url=http://www.nihonkaigaku.org/library/university/i041001-t8.html|title=早稲田大学オープンカレッジ秋期講座 「渤海と古代の日本」|newspaper=[[日本海学推進機構]]|publisher=|date= 2004-10-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210823095524/http://www.nihonkaigaku.org/library/university/i041001-t8.html|archivedate=2021-08-23}}</ref>。したがって、上京龍泉府は、長らく長安を模倣したと考えられていたが、平城京の造営が[[710年]]、上京龍泉府遷都が[[755年]]であり、[[渤海使]]の初来日が[[727年]]であることを鑑みると、平城京を模倣した可能性が指摘されている<ref name=Masashi2/>。
==ギャラリー==
<gallery>
File:Western Zhou dynasty Carriages pit2 Xi'an.JPG|灃西車馬坑 西周
File:Weiyang_Palace_site.JPG|漢未央宮遺跡
File:Daming Palace Hanyuan Hall Site.jpg|唐大明宮含元殿遺跡
File:Reconstructed_Danfeng_Men.jpg|唐大明宮・丹鳳門(再建)
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*[[石田幹之助]]『長安の春』([[講談社]], [[1979年]])([[講談社学術文庫]];403) ISBN 4061584030
*([[清]])[[徐松]]撰;[[愛宕元]]訳註『唐両京城坊攷:長安と洛陽』([[平凡社]], [[1994年]])([[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]];577) ISBN 4582805779
*[[妹尾達彦]]著『長安の都市計画』(講談社, [[2001年]])([[講談社選書メチエ]];223) ISBN 4062582236
== 関連項目 ==
*[[シルクロード (世界遺産)]]
*[[洛陽市]]
*[[長安号]]
== 外部リンク ==
*[https://www.rockfield.net/kanbun/classicmap/map07.htm 自作中国歴史地図集-唐長安城図]
*[[:zh:%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8F%A4%E9%83%BD#.E8.A5.BF.E5.AE.89|中国首都 - Wikipedia]](中国語)
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ちようあん}}
[[Category:西安の歴史]]
[[Category:中国の歴史的地域]]
[[Category:中国の考古遺跡]]
[[Category:中華人民共和国の計画都市]]
[[Category:中華人民共和国の古都]]
[[Category:漢朝]]
[[Category:隋唐]]
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2003-08-15T06:59:12Z
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2023-08-30T20:38:24Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%89
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13,213 |
完全グラフ
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完全グラフ(かんぜんグラフ、英: complete graph)は、任意の 2 頂点間に枝があるグラフのことを指す。 n {\displaystyle n~} 頂点の完全グラフは、 K n {\displaystyle K_{n}~} で表す。また、完全グラフになる誘導部分グラフのことをクリークという。サイズ n {\displaystyle n} のクリークを含むグラフは「n-クリークである」と言う。辺を持つグラフは必ず 2 頂点の完全グラフを含むので 2-クリークである。また n-クリークであって、直径が n 未満となるグラフを n-クランと言う。
K n {\displaystyle K_{n}~} は(n − 1)次元単体である。
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完全グラフは、任意の 2 頂点間に枝があるグラフのことを指す。 n 頂点の完全グラフは、 K n で表す。また、完全グラフになる誘導部分グラフのことをクリークという。サイズ n のクリークを含むグラフは「n-クリークである」と言う。辺を持つグラフは必ず 2 頂点の完全グラフを含むので 2-クリークである。また n-クリークであって、直径が n 未満となるグラフを n-クランと言う。
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{{infobox graph
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'''完全グラフ'''(かんぜんグラフ、{{lang-en-short|complete graph}})は、任意の 2 頂点間に枝がある[[グラフ (データ構造)|グラフ]]のことを指す。<math>n~</math> 頂点の完全グラフは、<math>K_n ~</math>で表す。また、完全グラフになる[[誘導部分グラフ]]のことを'''[[クリーク (グラフ理論)|クリーク]]'''という<ref>David Gries and Fred B. Schneider, ''A Logical Approach to Discrete Math'', Springer, 1993, p 436.</ref>。サイズ <math>n</math> のクリークを含むグラフは「''n''-クリークである」と言う。辺を持つグラフは必ず 2 頂点の完全グラフを含むので 2-クリークである。また ''n''-クリークであって、直径が ''n'' 未満となるグラフを ''n''-クランと言う。
== 幾何学的、位相幾何学的性質 ==
<math>K_n ~</math>は{{math|(''n'' − 1)}}次元[[単体 (数学)|単体]]である。
== 例 ==
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== 注釈・出典 ==
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== 関連項目 ==
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路
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路(ろ、みち、ルウ)とは、道路や漢姓などを指す。
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路(ろ、みち、ルウ)とは、道路や漢姓などを指す。
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'''路'''(ろ、みち、ルウ)とは、道路や漢姓などを指す。
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== 路(ろ、みち) ==
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* [[路 (姓)]] - [[漢姓]]の一つ。
* [[宋 (王朝)|宋]]、[[金 (王朝)|金]]、[[元 (王朝)|元]]代の監察・行政単位。
* [[グラフ理論]]の用語。
* [[路 (映画)]] - 1982年のトルコ映画。[[ユルマズ・ギュネイ]]監督作品。
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* [[路 (小説)]] - 作家・吉田修一の長編小説。[[波瑠]]主演で2020年にドラマ化された「'''路〜台湾エクスプレス〜'''」の原作。
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モンゴル国
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モンゴル国(モンゴルこく、モンゴル語: Монгол Улс,ᠮᠣᠩᠭᠣᠯᠤᠯᠤᠰ、英語:Mongolian State)は、東アジア北部にある共和制国家。首都はウランバートル。東と南の二方向を中華人民共和国、北をロシアとそれぞれ接する内陸国である。モンゴル高原のうち、外蒙古(がいもうこ、そともうこ)と呼ばれたゴビ砂漠以北の一帯にほぼ該当する領域を国土とし、国連加盟国の中で人口密度が最も低い国である。
正式名称は、モンゴル語(キリル文字)表記で Монгол Улс(モンゴル・オルス)、ラテン文字転写は Mongol Uls。
日本語の表記はモンゴル国。通称モンゴル。英語ではモンゴリアと呼ばれる。
モンゴル語名「モンゴル・オルス(Монгол Улс)」の「モンゴル」は民族名で、「オルス/ウルス(Улс)」は「国」を意味する。
19世紀、外モンゴルから内モンゴルにかけては、清朝の支配下に置かれていた。
20世紀に入ると清朝は北方の自国領の人口密度を高くすることでロシア帝国側の侵略を防ぐ政策を実施し、それまでの辺境への漢人入植制限を廃止した。内モンゴルでは遊牧地が漢人により耕地に変えられ、モンゴル民族のうちに反漢・独立感情が高まり、反漢暴動が頻発した。中には貴族のトクトホ(モンゴル語版、ロシア語版、中国語版)のように「馬賊」となり漢人襲撃を繰り返す者もいた。一方で知識人ハイシャン(中国語版、英語版)らは漢人商人の活動に反発を覚え、いまだ危機感の薄かった外モンゴル地域と連携して独立を達成することを画策。外モンゴル貴族のツェレンチミド(モンゴル語版、中国語版、英語版)らと協力し外モンゴル諸侯に独立のための説得工作を行った。
1911年に辛亥革命が起こると、既にハイシャンらの説得工作が功を奏し、独立のための財政援助をロシアに求めていたハルハ地方(外モンゴルの多くの地域)の王侯たちは清からの独立を宣言した(Mongolian Revolution of 1911)。モンゴルにおけるチベット仏教界で最高権威かつ民族全体のシンボルとして君臨していた化身ラマ(活仏)のジェプツンダンバ・ホトクト8世(ボグド・ハーン)をモンゴル国の君主(ハーン)として推戴し、ボグド・ハーン政権を樹立した。1913年には、チベットとの間で相互承認条約を締結した。統治機構は清朝の整備したものをほぼそのまま利用することで、スムーズな政府の設置ができた。ただ内モンゴルとの連携については、内モンゴル解放軍を派遣し、一時的には内モンゴルの大部分を制圧したが、モンゴルの後ろ盾として経済的・軍事的支援を行っていたロシア帝国が、辛亥革命で成立した中華民国(中国)への配慮から内モンゴルからの撤退を要求、撤収を余儀なくされた。
1915年、キャフタ条約で中国の宗主権下での外モンゴル「自治」のみが、清の後を引き継いだ中華民国とロシアによって承認されるが、内モンゴルについてはこの地への進出をうかがっていた日本に配慮して現状維持とされた。また、内モンゴルでも外モンゴルの独立に呼応する動きが見られたが、内モンゴルの大部分の地域が漢人地域になっており中国が手放そうとしなかったこと、モンゴル人の間で統一行動が取れなかったことなどから内外モンゴルの合併には至らず、以後は別々の道を歩むことになる。
1917年、ロシア革命が勃発すると、中国は外モンゴルでの勢力回復に乗り出し、1919年には外モンゴルを占領し自治を撤廃。1920年10月、赤軍との内戦で不利な状況に追い込まれていたロマン・ウンゲルン率いる白軍が体制の建て直しのためにモンゴルへと侵入して中国軍を駆逐、ボグド・ハーン政権を復興させた。しかし、ウンゲルンの残虐な行動に人心が離反、そんな中でボドー、ダンザン、スフバートル、チョイバルサンら民族主義者、社会主義者はモンゴル人民党(のちのモンゴル人民革命党)を結成、ソビエト連邦の援助を求めた。これに応じた赤軍や極東共和国軍はモンゴルに介入し、7月にジェプツンタンパ8世を君主としてモンゴル人民政府を樹立した(Mongolian Revolution of 1921)。こうして立憲君主制国家として新生モンゴルはスタートするも、1924年にジェプツンタンパ8世の死去を契機に人民共和国へと政体を変更、モンゴル人民共和国(社会主義国)が成立した。
モンゴル人民共和国は、ダンバドルジ政権(1924年 - 1928年)の下、狭量な社会主義政策にとらわれない開明的諸策を打ち出したが、コミンテルンの指導、ソ連からの圧力により、中ソ対立以後も徹底した親ソ・社会主義路線をとることになる(ソ連側は一時期、モンゴルを第16番目の共和国としてソ連に加えようとしていたとの説もある)。1929年 - 1932年には厳しい宗教弾圧と遊牧の強制農耕化、機械化、集団化など急進的な社会主義政策をとるが、各地で国民の約45パーセントが参加した暴動が発生し、多くのチベット仏教僧、富裕遊牧民が暴動の指導者として虐殺された。その後は急進的な政策はやや緩和され、教育や産業の充実が図られたものの、反革命の廉で粛清された国民はかなりの数に上った。
1934年にソ連と相互軍事援助協定が締結されるとともに、ソ連の指導者であったスターリンからラマ教寺院の破壊を繰り返し要求されるがゲンデン首相は拒否した。1936年にモンゴル秘密警察が設立され、ソ連派のチョイバルサンが首長となり、ゲンデンはソ連に送致され処刑された。また、同1936年3月にはソ連との間でソ蒙相互援助議定書が締結された。1937年から800の修道院が破壊され、約1万7,000名の僧侶が処刑された。同年、大規模なソ連軍が進駐すると、政府・軍部高官・財界首脳ら5万7,000人がゲンデン首相に関わるスパイに関与したとして逮捕され、2万人が処刑された。チョイバルサンは当初バラーディン(ロシア語版)らブリヤート知識人が唱えたモンゴル語のラテン文字化ではなく、キリル文字化を決める。これによって革命前は0.7パーセントだった識字率が1960年代には文盲の絶滅を宣言するまでに上昇する。
第二次世界大戦末期(1945年)のソ連対日参戦では、モンゴル人民軍は内モンゴルの東部から西部まで進駐し、その占領下では東モンゴル自治政府や内モンゴル人民共和国など内外モンゴル統一運動も盛り上がるも、中華民国が独立承認の条件とした外モンゴル独立公民投票とモンゴル人民軍の撤退をチョイバルサンは受け入れる。チョイバルサンは1952年に死去するまで独裁政治を行った。後継者であるツェデンバルは、西部の少数民族の出身ながら粛清による極端な人材不足に乗じて一気にトップに上りつめ、ツェデンバルはロシア人の夫人とともに数十年間にわたってモンゴル人民共和国を支配した。だが1984年に健康上の理由(認知症との説が有力)により書記長を事実上解任され、テクノクラート出身の実務派であるバトムンフが書記長に選ばれた。バトムンフは「モンゴルのゴルバチョフ」と呼ばれ、ソ連のペレストロイカに呼応した体制内改革を行った。
近代のモンゴルと外国との戦争は1939年に当時の満蒙国境で日本軍・満州国軍とモンゴル人民軍・ソ連赤軍連合軍が軍事衝突したハルハ河戦争(ノモンハン事件)、ソ連対日参戦、1947年に新疆で当時の中華民国と武力衝突した北塔山事件(モンゴル語版、英語版、中国語版)のときのみで、それ以降はほとんど対外戦争は行っていない。国共内戦で中華民国を台湾に追いやって成立した中華人民共和国とは中ソ対立でモンゴルがソ連を支持したことによる政治的対立があった。中華民国は1946年1月に一旦、モンゴルの独立を認めたが、後ろ盾のソ連が国共内戦で中国共産党を支援したことを理由に承認を取り消した。そのため、台湾に逃れた中華民国は以降も長くモンゴルを自国領と主張することになった(中華民国の政治#対蒙関係参照)。1955年、モンゴルなど東側諸国5か国と、日本など西側諸国13か国の国際連合加盟が国連安保理で一括協議された。しかし、中華民国がモンゴルの加盟に、領有権を主張して拒否権を発動したため、ソ連は報復に日本の国連加盟に拒否権を発動した。モンゴルの国連加盟は、1961年まで持ち越しとなった(日本の国連加盟は1956年)。1966年にソ蒙友好協力相互援助条約が締結された。
1989年末、ソビエト連邦崩壊につながるソ連国内の動揺と東欧革命に触発されてモンゴルでも反官僚主義・民主化運動が起き、年明けの1990年春には、ドゥマーギーン・ソドノム閣僚会議議長(首相)の決断により、一党独裁を放棄した。1992年にはモンゴル人民共和国からモンゴル国へと改称、新憲法を制定し、社会主義を完全に放棄した。
この民主化プロセスにおいては、国際援助機関の関与により急速な市場経済化が進められ、経済成長を重視するあまり富の公平な配分を怠り、社会福祉を削減することで貧富の差を拡大させた。資本主義化後21年を経過した現在では、貧富の差の拡大は国家的問題となっている。また社会主義時代から続いた官僚の汚職体質は民主化以後むしろ悪化しているとされる。
ツェデンバル時代に批判されていたチンギス・ハンについては、政府と国民が総力を挙げて復権に力を入れている。紙幣にまで使用されているほどである。また、カラコルム遺跡を除いて社会主義時代に積極的でなかったモンゴル帝国時代の遺跡の発掘や保存にも力を入れている。
社会主義時代はモンゴル人民革命党の「指導的役割」が憲法で規定される一党独裁体制であり、議会制度もソビエト型の国家大会議を最高機関としていた。1990年の民主化後に自由選挙による複数政党制を導入し、1992年の新憲法公布後はともに直接選挙で選出される一院制の国家大会議と大統領が並立する二元主義的議院内閣制(半大統領制)を採用した。国家大会議はその後4年ごとに総選挙を行ってきたが、その度に政権が交代するという経緯をたどっている。なお大統領は「国民の統合の象徴」とされ、国家大会議の可決した法案の拒否権や首相指名権などの実質的な政治権能を持つが、国家大会議に議席を持つ政党の被指名者しか立候補できず、また選挙のみによってただちに就任するのではなく、国家大会議が選挙で多数を確保した候補者を法律で認定する手続を経て就任する制約もあるため、大統領より長い歴史を持つ国家大会議との関係は良好とは言えない。
モンゴルの外交方針は隣国の中国・ロシアとのバランスを維持しながら、それに過度に依存することなく「第三の隣国」(日本・アメリカ)との関係を発展させることである。2015年に当時のツァヒアギーン・エルベグドルジ大統領によってモンゴルを永世中立国にするという方針が定められたが、2020年5月には事実上頓挫している。
以前はノモンハン事件による反日感情も見られたが、相撲による交流が盛んになった今日では、国民感情としても日本とは友好的関係が維持されている。日本より多額のODAが供与されており、日本車の中古車も人気が高い。
日本との外交関係は、1972年(昭和47年)2月24日に樹立された。2004年(平成16年)11月に在モンゴル国日本国大使館が実施した世論調査では、「日本に親しみを感じる」と答えた回答が7割を超えたほか、「もっとも親しくすべき国」として第1位になるなど、現在のモンゴル国は極めて良好な親日感情を有する国となっている。
兵庫県の但東町(現・豊岡市但東町)との交流が長く、町内には日本でも数少ないモンゴルの博物館「日本・モンゴル民族博物館」があり、交流が盛んである。2010年(平成22年)4月1日より、日本国籍者はモンゴル入国に際し、滞在日数が30日以内の場合は査証が免除されている。
朝青龍、白鵬、日馬富士、鶴竜、照ノ富士の直近の横綱5名に加え、高齢での幕内初優勝を達成した旭天鵬など多くの大相撲力士を輩出し、歴代外国人力士の最多輩出国となっている。相撲以外のスポーツではプロボクサーのラクバ・シンが日本で畑山隆則を降しモンゴル初の世界チャンピオンに輝き、その後日本のジムを拠点としていた時期もあった。一方で、陸上長距離のセルオド・バトオチルが日本の実業団に所属し、防府読売マラソンや大阪マラソンで優勝も果たしている。また、同じ日本の国技でもある柔道もモンゴル国内では相撲に並ぶスポーツとなっている。
自衛隊との交流も進展しており、防衛大学校への留学生派遣や防衛省主催の各種セミナーへの参加を続けているほか、2004年には防衛大学校長の西原正がモンゴルを公式訪問している。
モンゴルでは1990年代以降、母国の産業発展に貢献しようと多くの若者が日本の高等専門学校に留学した。その中には、仙台電波工業高等専門学校を卒業し、文部科学省 (モンゴル)(英語版)大臣になったロブサンニャム・ガントゥムル(中国語版)などもいる。その様なことからモンゴルで日本の高等専門学校教育を導入する機運が高まり、2009年には日本の高等専門学校関係者などが「モンゴルに日本式高専を創る支援の会」を設立、2014年にウランバートルにモンゴル科学技術大学付属高専、私立の新モンゴル高専、モンゴル工業技術大学付属高専が開校した。モンゴルの高等専門学校卒業生は、日本企業に就職したり、日本の高等専門学校専攻科や日本の大学に留学する人もいる。
モンゴル国の正式国軍であるモンゴル国軍は、社会主義時代のモンゴル人民軍から社会主義政権崩壊後に国軍として引き継がれた軍隊である。モンゴル国では徴兵制度が敷かれており、満18歳以上の男子は、1年間の兵役義務を有しているが、兵役代替金と呼ばれる納付金(約800ドル)を納付するか、海外に留学するなどで26歳までやり過ごせば兵役義務は消滅する。子供が幼少の場合も、免除される。
総兵力は9,100人、予備兵力は14万人。軍事予算は181億8,680万トゥグルグ(2003年時点)。モンゴル国軍の装備は、主に人民軍時代ソ連から取得した兵器がほとんどであるが、戦闘機や攻撃ヘリコプターなどは全て退役している。現在保有するのはMi-8Tなど少数のみ。地対空ミサイルも保有していたが、現在可動状態にあるかは疑問である。機器の保守能力が低下しているため、戦闘機などに至っては部品の共食い整備の挙句に全機が退役した。
最近は、組織の生き残りのために海外協力と災害対策を2本柱に掲げ、アメリカ合衆国などによるイラク侵攻に際してはいち早く支持を表明したほか、ソ連製装甲兵員輸送車に乗った国軍部隊を派遣するなどしている。ほかにもモンゴル国軍は、アフガニスタン軍への指導(ソ連製の装備に習熟していたため)やコンゴ民主共和国での国連平和維持活動(PKO)にも参加している。
海軍は存在しない。かつて湖上の石油輸送目的にスフバートル号(モンゴル語: Сүхбаатар)を保有していた。しかし1997年に民営化された。
モンゴル国の国境警備隊であるモンゴル国境警備隊(英語版)(国境保護総局)は国軍とは別組織となっている。
モンゴルが国境警備に力を入れるのは、家畜が越境したときの隣接国とのトラブルに対応するためである。
東アジアの北西部に位置し、西には標高4,300メートルのアルタイ山脈と標高3,500メートルのハンガイ山脈がそびえ、東には1,000 - 1,500メートルの高原が広がり、北東には針葉樹林が広がる。あとの国土は高山砂漠とステップの植生が南の海抜平均1,000メートルのゴビ砂漠まで続いている。国土の5分の4を占める草原ステップは牧草地に使用されている。重要な河川はバイカル湖にそそぐセレンゲ川と、アムール川を経てオホーツク海(太平洋)にそそぐヘルレン川がある。
近年、国土の90%で砂漠化が進行、6万9,000平方キロメートルの牧草地帯が姿を消した。モンゴルで見られた植物種のうち75%が絶滅、森林伐採により川の水位は半減、北方の森林地帯を中心に3,800の河川と3,500の湖があったが、2000年以降、約850の河川と約1,000の湖が地図上から完全に姿を消している。
国土の大部分はケッペンの気候区分の亜寒帯冬季少雨気候(Dw)、ステップ気候(BS)、砂漠気候(BW)に属する。
東アジアにおけるケッペンの気候区分
日本の県にあたるアイマク(аймаг, aimag)が21設置されており、県には郡にあたるソム(сум, sum)が347、さらにその下に村にあたる1681のバグ(баг, bag)が属する。各ソムの人口は3,000人ほどで、バグは50 - 100家族ほどで構成されている(2001年のアジア開発銀行資料より)。世界的に見ても都市への人口集中が高い国である。
IMFの統計によると、2018年のモンゴルのGDPは約130億ドル。一人あたりのGDPは4,041ドルで、世界平均のおよそ40パーセントの水準である。
2011年の調査では、1日2ドル未満で暮らす貧困層は115万人と推計されており、国民の40パーセント以上を占めている。首都ウランバートルでは、地下で暮らすストリートチルドレン(マンホールチルドレン)もいる。
2014年で主な輸出相手国は中華人民共和国で輸出の95.3パーセントを占め、主な輸入相手国は中国が41.5パーセント、ロシアが27.4パーセント、韓国が6.5パーセント、日本が6.1パーセントとなっている。
鉱業と畜産業が主要産業である。
内陸国ではあるが、便宜置籍船の手数料を取るビジネスも盛んであり、約400隻を超える船舶が認められている。
地下資源が豊富であり、世界銀行によると、2004年以降、280億ドル相当の鉱物を算出した。中国やオーストラリア、カナダの企業も進出し、金や銀、銅、石炭などを採掘している。レアアースやウランを含めた鉱床の価値は2兆7500億ドルと推定されている。だが鉱業による収入は年金生活者の債務返済など放漫財政や汚職、政争を生みだしており、「資源の呪い」に陥りつつあるとの指摘もある。
このほかモリブデンは世界屈指の埋蔵量を持っている。エルデネト鉱業は社会主義時代からモンゴル国内最大の企業である。そして近年では、豊富な天然資源、とりわけオユトルゴイ鉱山を目的に外資系が活発になってきている。しかしながら、政治的安定性がいまだに構築されておらず、政権が変わる度に政策方針が二転三転することで、外国の投資家に警戒感を持たせている。
鉱物資源に恵まれるが多くはそのまま輸出され、国内で付加価値を生む産業振興や技術者の育成が長年の課題である。
ヒツジ1,168.6万頭、ヤギ1,223.8万頭、ウシ184.2万頭、ウマ200.5万頭、ラクダ25.7万頭を飼育し(2004年統計)、牧草地の広さは国土の約80パーセントである。畜産は、そのほとんどが遊牧で行われている。農業は、社会主義時代は土を掘ることを忌避する風習が改められ、食糧自給できたものの、市場経済化で穀物生産は落ち込み、現在は中国やロシアからの輸入が多い。
モンゴルで生産される作物には、トウモロコシ、小麦、大麦、ジャガイモなどがある。しかしモンゴル国は厳しい気候のため、ほとんどの青果物栽培には適しておらず、遊牧民の畜産業に重点を置かれた侭となっている。
モンゴルの主な電源は火力発電であり、現在稼働している7つの発電所で電力に変換されている。
2020年の国勢調査によると、モンゴル人の51.7%が仏教徒、40.6%が無所属、3.2%がイスラム教徒(主にカザフ民族)、2.5%がシャーマニズム、1.3%がキリスト教徒、0.7%がその他の宗教の信徒で占められている。
モンゴル国の治安状況は日本と比べた場合、決して良いとは言えない。モンゴル国警察当局によると、2019年中の犯罪認知件数は31,526件で、前年比で13%減少しているものの、殺人や強盗、強姦などの重要犯罪や窃盗の認知件数は依然として高い水準にある。犯罪の発生は都市部に集中しており、全犯罪の約70%が同国の全人口(約330万人)の約半分が居住する首都ウランバートルで発生しているという危険な状態となっている。
モンゴル国は1990年に民主主義へ転向して以来、原則として人権と市民権の概念を認可している。
モンゴルでは馬が文化の主体となっている。馬はモンゴル人の日常生活や国民生活に大きな役割を果たしており、その関連性の深さは「馬のいないモンゴル人は翼のない鳥のようなものだ」と伝統的に語り継がれているほどである 。
その他には以下のものが知られている。
ゲルはモンゴルの建築文化を語る上で無くてはならないものとなっている。
モンゴルの伝統衣装にはチャイナドレスのルーツとなったデールが知られている。
その他にはジスン(英語版)、テルリグ(英語版)、ビジア(英語版)、グタル(英語版)などが知られる。
また、首都のウランバートルでは同国唯一のファッションイベントである「ゴヨル・ファッション・フェスティバル(英語版)」が毎年開催されている。
モンゴル国国内には、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が2件存在する。世界遺産の暫定リストには12件が存在する。
モンゴル国内ではサッカーも人気スポーツの一つであり、1974年にサッカーリーグのモンゴル・ナショナルプレミアリーグが創設された。モンゴル国サッカー連盟(MFF)によって構成されるサッカーモンゴル国代表は、FIFAワールドカップおよびAFCアジアカップへの出場経験はない。また、東アジアサッカー選手権にも未出場となっている。
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"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "正式名称は、モンゴル語(キリル文字)表記で Монгол Улс(モンゴル・オルス)、ラテン文字転写は Mongol Uls。",
"title": "国名"
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{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "日本語の表記はモンゴル国。通称モンゴル。英語ではモンゴリアと呼ばれる。",
"title": "国名"
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{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "モンゴル語名「モンゴル・オルス(Монгол Улс)」の「モンゴル」は民族名で、「オルス/ウルス(Улс)」は「国」を意味する。",
"title": "国名"
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"text": "19世紀、外モンゴルから内モンゴルにかけては、清朝の支配下に置かれていた。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "20世紀に入ると清朝は北方の自国領の人口密度を高くすることでロシア帝国側の侵略を防ぐ政策を実施し、それまでの辺境への漢人入植制限を廃止した。内モンゴルでは遊牧地が漢人により耕地に変えられ、モンゴル民族のうちに反漢・独立感情が高まり、反漢暴動が頻発した。中には貴族のトクトホ(モンゴル語版、ロシア語版、中国語版)のように「馬賊」となり漢人襲撃を繰り返す者もいた。一方で知識人ハイシャン(中国語版、英語版)らは漢人商人の活動に反発を覚え、いまだ危機感の薄かった外モンゴル地域と連携して独立を達成することを画策。外モンゴル貴族のツェレンチミド(モンゴル語版、中国語版、英語版)らと協力し外モンゴル諸侯に独立のための説得工作を行った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 6,
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"text": "1911年に辛亥革命が起こると、既にハイシャンらの説得工作が功を奏し、独立のための財政援助をロシアに求めていたハルハ地方(外モンゴルの多くの地域)の王侯たちは清からの独立を宣言した(Mongolian Revolution of 1911)。モンゴルにおけるチベット仏教界で最高権威かつ民族全体のシンボルとして君臨していた化身ラマ(活仏)のジェプツンダンバ・ホトクト8世(ボグド・ハーン)をモンゴル国の君主(ハーン)として推戴し、ボグド・ハーン政権を樹立した。1913年には、チベットとの間で相互承認条約を締結した。統治機構は清朝の整備したものをほぼそのまま利用することで、スムーズな政府の設置ができた。ただ内モンゴルとの連携については、内モンゴル解放軍を派遣し、一時的には内モンゴルの大部分を制圧したが、モンゴルの後ろ盾として経済的・軍事的支援を行っていたロシア帝国が、辛亥革命で成立した中華民国(中国)への配慮から内モンゴルからの撤退を要求、撤収を余儀なくされた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 7,
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"text": "1915年、キャフタ条約で中国の宗主権下での外モンゴル「自治」のみが、清の後を引き継いだ中華民国とロシアによって承認されるが、内モンゴルについてはこの地への進出をうかがっていた日本に配慮して現状維持とされた。また、内モンゴルでも外モンゴルの独立に呼応する動きが見られたが、内モンゴルの大部分の地域が漢人地域になっており中国が手放そうとしなかったこと、モンゴル人の間で統一行動が取れなかったことなどから内外モンゴルの合併には至らず、以後は別々の道を歩むことになる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1917年、ロシア革命が勃発すると、中国は外モンゴルでの勢力回復に乗り出し、1919年には外モンゴルを占領し自治を撤廃。1920年10月、赤軍との内戦で不利な状況に追い込まれていたロマン・ウンゲルン率いる白軍が体制の建て直しのためにモンゴルへと侵入して中国軍を駆逐、ボグド・ハーン政権を復興させた。しかし、ウンゲルンの残虐な行動に人心が離反、そんな中でボドー、ダンザン、スフバートル、チョイバルサンら民族主義者、社会主義者はモンゴル人民党(のちのモンゴル人民革命党)を結成、ソビエト連邦の援助を求めた。これに応じた赤軍や極東共和国軍はモンゴルに介入し、7月にジェプツンタンパ8世を君主としてモンゴル人民政府を樹立した(Mongolian Revolution of 1921)。こうして立憲君主制国家として新生モンゴルはスタートするも、1924年にジェプツンタンパ8世の死去を契機に人民共和国へと政体を変更、モンゴル人民共和国(社会主義国)が成立した。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "モンゴル人民共和国は、ダンバドルジ政権(1924年 - 1928年)の下、狭量な社会主義政策にとらわれない開明的諸策を打ち出したが、コミンテルンの指導、ソ連からの圧力により、中ソ対立以後も徹底した親ソ・社会主義路線をとることになる(ソ連側は一時期、モンゴルを第16番目の共和国としてソ連に加えようとしていたとの説もある)。1929年 - 1932年には厳しい宗教弾圧と遊牧の強制農耕化、機械化、集団化など急進的な社会主義政策をとるが、各地で国民の約45パーセントが参加した暴動が発生し、多くのチベット仏教僧、富裕遊牧民が暴動の指導者として虐殺された。その後は急進的な政策はやや緩和され、教育や産業の充実が図られたものの、反革命の廉で粛清された国民はかなりの数に上った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 10,
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"text": "1934年にソ連と相互軍事援助協定が締結されるとともに、ソ連の指導者であったスターリンからラマ教寺院の破壊を繰り返し要求されるがゲンデン首相は拒否した。1936年にモンゴル秘密警察が設立され、ソ連派のチョイバルサンが首長となり、ゲンデンはソ連に送致され処刑された。また、同1936年3月にはソ連との間でソ蒙相互援助議定書が締結された。1937年から800の修道院が破壊され、約1万7,000名の僧侶が処刑された。同年、大規模なソ連軍が進駐すると、政府・軍部高官・財界首脳ら5万7,000人がゲンデン首相に関わるスパイに関与したとして逮捕され、2万人が処刑された。チョイバルサンは当初バラーディン(ロシア語版)らブリヤート知識人が唱えたモンゴル語のラテン文字化ではなく、キリル文字化を決める。これによって革命前は0.7パーセントだった識字率が1960年代には文盲の絶滅を宣言するまでに上昇する。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 11,
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"text": "第二次世界大戦末期(1945年)のソ連対日参戦では、モンゴル人民軍は内モンゴルの東部から西部まで進駐し、その占領下では東モンゴル自治政府や内モンゴル人民共和国など内外モンゴル統一運動も盛り上がるも、中華民国が独立承認の条件とした外モンゴル独立公民投票とモンゴル人民軍の撤退をチョイバルサンは受け入れる。チョイバルサンは1952年に死去するまで独裁政治を行った。後継者であるツェデンバルは、西部の少数民族の出身ながら粛清による極端な人材不足に乗じて一気にトップに上りつめ、ツェデンバルはロシア人の夫人とともに数十年間にわたってモンゴル人民共和国を支配した。だが1984年に健康上の理由(認知症との説が有力)により書記長を事実上解任され、テクノクラート出身の実務派であるバトムンフが書記長に選ばれた。バトムンフは「モンゴルのゴルバチョフ」と呼ばれ、ソ連のペレストロイカに呼応した体制内改革を行った。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 12,
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"text": "近代のモンゴルと外国との戦争は1939年に当時の満蒙国境で日本軍・満州国軍とモンゴル人民軍・ソ連赤軍連合軍が軍事衝突したハルハ河戦争(ノモンハン事件)、ソ連対日参戦、1947年に新疆で当時の中華民国と武力衝突した北塔山事件(モンゴル語版、英語版、中国語版)のときのみで、それ以降はほとんど対外戦争は行っていない。国共内戦で中華民国を台湾に追いやって成立した中華人民共和国とは中ソ対立でモンゴルがソ連を支持したことによる政治的対立があった。中華民国は1946年1月に一旦、モンゴルの独立を認めたが、後ろ盾のソ連が国共内戦で中国共産党を支援したことを理由に承認を取り消した。そのため、台湾に逃れた中華民国は以降も長くモンゴルを自国領と主張することになった(中華民国の政治#対蒙関係参照)。1955年、モンゴルなど東側諸国5か国と、日本など西側諸国13か国の国際連合加盟が国連安保理で一括協議された。しかし、中華民国がモンゴルの加盟に、領有権を主張して拒否権を発動したため、ソ連は報復に日本の国連加盟に拒否権を発動した。モンゴルの国連加盟は、1961年まで持ち越しとなった(日本の国連加盟は1956年)。1966年にソ蒙友好協力相互援助条約が締結された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 13,
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"text": "1989年末、ソビエト連邦崩壊につながるソ連国内の動揺と東欧革命に触発されてモンゴルでも反官僚主義・民主化運動が起き、年明けの1990年春には、ドゥマーギーン・ソドノム閣僚会議議長(首相)の決断により、一党独裁を放棄した。1992年にはモンゴル人民共和国からモンゴル国へと改称、新憲法を制定し、社会主義を完全に放棄した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "この民主化プロセスにおいては、国際援助機関の関与により急速な市場経済化が進められ、経済成長を重視するあまり富の公平な配分を怠り、社会福祉を削減することで貧富の差を拡大させた。資本主義化後21年を経過した現在では、貧富の差の拡大は国家的問題となっている。また社会主義時代から続いた官僚の汚職体質は民主化以後むしろ悪化しているとされる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 15,
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"text": "ツェデンバル時代に批判されていたチンギス・ハンについては、政府と国民が総力を挙げて復権に力を入れている。紙幣にまで使用されているほどである。また、カラコルム遺跡を除いて社会主義時代に積極的でなかったモンゴル帝国時代の遺跡の発掘や保存にも力を入れている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "社会主義時代はモンゴル人民革命党の「指導的役割」が憲法で規定される一党独裁体制であり、議会制度もソビエト型の国家大会議を最高機関としていた。1990年の民主化後に自由選挙による複数政党制を導入し、1992年の新憲法公布後はともに直接選挙で選出される一院制の国家大会議と大統領が並立する二元主義的議院内閣制(半大統領制)を採用した。国家大会議はその後4年ごとに総選挙を行ってきたが、その度に政権が交代するという経緯をたどっている。なお大統領は「国民の統合の象徴」とされ、国家大会議の可決した法案の拒否権や首相指名権などの実質的な政治権能を持つが、国家大会議に議席を持つ政党の被指名者しか立候補できず、また選挙のみによってただちに就任するのではなく、国家大会議が選挙で多数を確保した候補者を法律で認定する手続を経て就任する制約もあるため、大統領より長い歴史を持つ国家大会議との関係は良好とは言えない。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "モンゴルの外交方針は隣国の中国・ロシアとのバランスを維持しながら、それに過度に依存することなく「第三の隣国」(日本・アメリカ)との関係を発展させることである。2015年に当時のツァヒアギーン・エルベグドルジ大統領によってモンゴルを永世中立国にするという方針が定められたが、2020年5月には事実上頓挫している。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "以前はノモンハン事件による反日感情も見られたが、相撲による交流が盛んになった今日では、国民感情としても日本とは友好的関係が維持されている。日本より多額のODAが供与されており、日本車の中古車も人気が高い。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "日本との外交関係は、1972年(昭和47年)2月24日に樹立された。2004年(平成16年)11月に在モンゴル国日本国大使館が実施した世論調査では、「日本に親しみを感じる」と答えた回答が7割を超えたほか、「もっとも親しくすべき国」として第1位になるなど、現在のモンゴル国は極めて良好な親日感情を有する国となっている。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "兵庫県の但東町(現・豊岡市但東町)との交流が長く、町内には日本でも数少ないモンゴルの博物館「日本・モンゴル民族博物館」があり、交流が盛んである。2010年(平成22年)4月1日より、日本国籍者はモンゴル入国に際し、滞在日数が30日以内の場合は査証が免除されている。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "朝青龍、白鵬、日馬富士、鶴竜、照ノ富士の直近の横綱5名に加え、高齢での幕内初優勝を達成した旭天鵬など多くの大相撲力士を輩出し、歴代外国人力士の最多輩出国となっている。相撲以外のスポーツではプロボクサーのラクバ・シンが日本で畑山隆則を降しモンゴル初の世界チャンピオンに輝き、その後日本のジムを拠点としていた時期もあった。一方で、陸上長距離のセルオド・バトオチルが日本の実業団に所属し、防府読売マラソンや大阪マラソンで優勝も果たしている。また、同じ日本の国技でもある柔道もモンゴル国内では相撲に並ぶスポーツとなっている。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "自衛隊との交流も進展しており、防衛大学校への留学生派遣や防衛省主催の各種セミナーへの参加を続けているほか、2004年には防衛大学校長の西原正がモンゴルを公式訪問している。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "モンゴルでは1990年代以降、母国の産業発展に貢献しようと多くの若者が日本の高等専門学校に留学した。その中には、仙台電波工業高等専門学校を卒業し、文部科学省 (モンゴル)(英語版)大臣になったロブサンニャム・ガントゥムル(中国語版)などもいる。その様なことからモンゴルで日本の高等専門学校教育を導入する機運が高まり、2009年には日本の高等専門学校関係者などが「モンゴルに日本式高専を創る支援の会」を設立、2014年にウランバートルにモンゴル科学技術大学付属高専、私立の新モンゴル高専、モンゴル工業技術大学付属高専が開校した。モンゴルの高等専門学校卒業生は、日本企業に就職したり、日本の高等専門学校専攻科や日本の大学に留学する人もいる。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "モンゴル国の正式国軍であるモンゴル国軍は、社会主義時代のモンゴル人民軍から社会主義政権崩壊後に国軍として引き継がれた軍隊である。モンゴル国では徴兵制度が敷かれており、満18歳以上の男子は、1年間の兵役義務を有しているが、兵役代替金と呼ばれる納付金(約800ドル)を納付するか、海外に留学するなどで26歳までやり過ごせば兵役義務は消滅する。子供が幼少の場合も、免除される。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "総兵力は9,100人、予備兵力は14万人。軍事予算は181億8,680万トゥグルグ(2003年時点)。モンゴル国軍の装備は、主に人民軍時代ソ連から取得した兵器がほとんどであるが、戦闘機や攻撃ヘリコプターなどは全て退役している。現在保有するのはMi-8Tなど少数のみ。地対空ミサイルも保有していたが、現在可動状態にあるかは疑問である。機器の保守能力が低下しているため、戦闘機などに至っては部品の共食い整備の挙句に全機が退役した。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "最近は、組織の生き残りのために海外協力と災害対策を2本柱に掲げ、アメリカ合衆国などによるイラク侵攻に際してはいち早く支持を表明したほか、ソ連製装甲兵員輸送車に乗った国軍部隊を派遣するなどしている。ほかにもモンゴル国軍は、アフガニスタン軍への指導(ソ連製の装備に習熟していたため)やコンゴ民主共和国での国連平和維持活動(PKO)にも参加している。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "海軍は存在しない。かつて湖上の石油輸送目的にスフバートル号(モンゴル語: Сүхбаатар)を保有していた。しかし1997年に民営化された。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "モンゴル国の国境警備隊であるモンゴル国境警備隊(英語版)(国境保護総局)は国軍とは別組織となっている。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "モンゴルが国境警備に力を入れるのは、家畜が越境したときの隣接国とのトラブルに対応するためである。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "東アジアの北西部に位置し、西には標高4,300メートルのアルタイ山脈と標高3,500メートルのハンガイ山脈がそびえ、東には1,000 - 1,500メートルの高原が広がり、北東には針葉樹林が広がる。あとの国土は高山砂漠とステップの植生が南の海抜平均1,000メートルのゴビ砂漠まで続いている。国土の5分の4を占める草原ステップは牧草地に使用されている。重要な河川はバイカル湖にそそぐセレンゲ川と、アムール川を経てオホーツク海(太平洋)にそそぐヘルレン川がある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "近年、国土の90%で砂漠化が進行、6万9,000平方キロメートルの牧草地帯が姿を消した。モンゴルで見られた植物種のうち75%が絶滅、森林伐採により川の水位は半減、北方の森林地帯を中心に3,800の河川と3,500の湖があったが、2000年以降、約850の河川と約1,000の湖が地図上から完全に姿を消している。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "国土の大部分はケッペンの気候区分の亜寒帯冬季少雨気候(Dw)、ステップ気候(BS)、砂漠気候(BW)に属する。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "東アジアにおけるケッペンの気候区分",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "日本の県にあたるアイマク(аймаг, aimag)が21設置されており、県には郡にあたるソム(сум, sum)が347、さらにその下に村にあたる1681のバグ(баг, bag)が属する。各ソムの人口は3,000人ほどで、バグは50 - 100家族ほどで構成されている(2001年のアジア開発銀行資料より)。世界的に見ても都市への人口集中が高い国である。",
"title": "地方行政区画"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "IMFの統計によると、2018年のモンゴルのGDPは約130億ドル。一人あたりのGDPは4,041ドルで、世界平均のおよそ40パーセントの水準である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2011年の調査では、1日2ドル未満で暮らす貧困層は115万人と推計されており、国民の40パーセント以上を占めている。首都ウランバートルでは、地下で暮らすストリートチルドレン(マンホールチルドレン)もいる。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2014年で主な輸出相手国は中華人民共和国で輸出の95.3パーセントを占め、主な輸入相手国は中国が41.5パーセント、ロシアが27.4パーセント、韓国が6.5パーセント、日本が6.1パーセントとなっている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "鉱業と畜産業が主要産業である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "内陸国ではあるが、便宜置籍船の手数料を取るビジネスも盛んであり、約400隻を超える船舶が認められている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "地下資源が豊富であり、世界銀行によると、2004年以降、280億ドル相当の鉱物を算出した。中国やオーストラリア、カナダの企業も進出し、金や銀、銅、石炭などを採掘している。レアアースやウランを含めた鉱床の価値は2兆7500億ドルと推定されている。だが鉱業による収入は年金生活者の債務返済など放漫財政や汚職、政争を生みだしており、「資源の呪い」に陥りつつあるとの指摘もある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "このほかモリブデンは世界屈指の埋蔵量を持っている。エルデネト鉱業は社会主義時代からモンゴル国内最大の企業である。そして近年では、豊富な天然資源、とりわけオユトルゴイ鉱山を目的に外資系が活発になってきている。しかしながら、政治的安定性がいまだに構築されておらず、政権が変わる度に政策方針が二転三転することで、外国の投資家に警戒感を持たせている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "鉱物資源に恵まれるが多くはそのまま輸出され、国内で付加価値を生む産業振興や技術者の育成が長年の課題である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ヒツジ1,168.6万頭、ヤギ1,223.8万頭、ウシ184.2万頭、ウマ200.5万頭、ラクダ25.7万頭を飼育し(2004年統計)、牧草地の広さは国土の約80パーセントである。畜産は、そのほとんどが遊牧で行われている。農業は、社会主義時代は土を掘ることを忌避する風習が改められ、食糧自給できたものの、市場経済化で穀物生産は落ち込み、現在は中国やロシアからの輸入が多い。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "モンゴルで生産される作物には、トウモロコシ、小麦、大麦、ジャガイモなどがある。しかしモンゴル国は厳しい気候のため、ほとんどの青果物栽培には適しておらず、遊牧民の畜産業に重点を置かれた侭となっている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "モンゴルの主な電源は火力発電であり、現在稼働している7つの発電所で電力に変換されている。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2020年の国勢調査によると、モンゴル人の51.7%が仏教徒、40.6%が無所属、3.2%がイスラム教徒(主にカザフ民族)、2.5%がシャーマニズム、1.3%がキリスト教徒、0.7%がその他の宗教の信徒で占められている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "モンゴル国の治安状況は日本と比べた場合、決して良いとは言えない。モンゴル国警察当局によると、2019年中の犯罪認知件数は31,526件で、前年比で13%減少しているものの、殺人や強盗、強姦などの重要犯罪や窃盗の認知件数は依然として高い水準にある。犯罪の発生は都市部に集中しており、全犯罪の約70%が同国の全人口(約330万人)の約半分が居住する首都ウランバートルで発生しているという危険な状態となっている。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "モンゴル国は1990年に民主主義へ転向して以来、原則として人権と市民権の概念を認可している。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "モンゴルでは馬が文化の主体となっている。馬はモンゴル人の日常生活や国民生活に大きな役割を果たしており、その関連性の深さは「馬のいないモンゴル人は翼のない鳥のようなものだ」と伝統的に語り継がれているほどである 。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "その他には以下のものが知られている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ゲルはモンゴルの建築文化を語る上で無くてはならないものとなっている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "モンゴルの伝統衣装にはチャイナドレスのルーツとなったデールが知られている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "その他にはジスン(英語版)、テルリグ(英語版)、ビジア(英語版)、グタル(英語版)などが知られる。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "また、首都のウランバートルでは同国唯一のファッションイベントである「ゴヨル・ファッション・フェスティバル(英語版)」が毎年開催されている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "モンゴル国国内には、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が2件存在する。世界遺産の暫定リストには12件が存在する。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "モンゴル国内ではサッカーも人気スポーツの一つであり、1974年にサッカーリーグのモンゴル・ナショナルプレミアリーグが創設された。モンゴル国サッカー連盟(MFF)によって構成されるサッカーモンゴル国代表は、FIFAワールドカップおよびAFCアジアカップへの出場経験はない。また、東アジアサッカー選手権にも未出場となっている。",
"title": "スポーツ"
}
] |
モンゴル国は、東アジア北部にある共和制国家。首都はウランバートル。東と南の二方向を中華人民共和国、北をロシアとそれぞれ接する内陸国である。モンゴル高原のうち、外蒙古(がいもうこ、そともうこ)と呼ばれたゴビ砂漠以北の一帯にほぼ該当する領域を国土とし、国連加盟国の中で人口密度が最も低い国である。
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{{Redirect|モンゴル|}}
{{特殊文字|説明=[[モンゴル文字]]・[[キリル文字]]}}
{{基礎情報 国
|略名 =モンゴル
|日本語国名 =モンゴル国
|公式国名 ='''{{lang|mn|Монгол Улс}}'''<br />[[File:Monggol ulus.svg|50px]]
|国旗画像 =Flag of Mongolia.svg
|国章画像 =[[ファイル:State_emblem_of_Mongolia.svg|80px]]
|国章リンク =([[モンゴルの国章|国章]])
|標語 =
|位置画像 =Mongolia (orthographic projection).svg
|公用語 =[[モンゴル語]]
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|元首等肩書 =[[モンゴル国の大統領|大統領]]
|元首等氏名 =[[ウフナーギーン・フレルスフ]]
|首相等肩書 =[[モンゴルの首相|首相]]
|首相等氏名 =[[ロブサンナムスライ・オユーンエルデネ]]
|他元首等肩書1 =[[国家大会議|国家大会議議長]]
|他元首等氏名1 =[[w:Gombojavyn Zandanshatar|ゴンボジャビン・ザンダンシャタール]]
|面積順位 =18
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|人口統計年 =2020
|人口順位 =131
|人口大きさ =1 E6
|人口値 =3,278,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/mn.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-26 }}</ref>
|人口密度値 =2.1<ref name=population/>
|GDP統計年元 =2020
|GDP値元 =36兆9585億5000万<ref name="imf2020">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=948,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2018&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|accessdate=2021-10-26}}</ref>
|GDP統計年MER =2020
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|建国形態 =
|確立形態1 = [[清|清朝]]から独立
|確立年月日1 = [[1911年]][[12月29日]]
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|確立年月日2 = [[1924年]][[11月26日]]
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|確立年月日3 = [[1992年]][[2月13日]]
|通貨 =[[トゥグルグ]]
|通貨コード =MNT
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|夏時間 = なし
|国歌={{unbulleted list |[[モンゴルの国歌|Монгол улсын төрийн дуулал]]<br />{{transl|mn|''Mongol ulsyn töriin duulal''}}<br />({{Lang-ja|"モンゴルの国歌"}})}}<br />{{Center|[[File:Mongolian national anthem, performed by the United States Navy Band.ogg]]}}
|ISO 3166-1 =MN / MNG
|ccTLD =[[.mn]]
|国際電話番号 =976
|注記 =PREFIXは JT JU JV
}}
'''モンゴル国'''(モンゴルこく、{{lang-mn|Монгол Улс}},{{mongol|ᠮᠣᠩᠭᠣᠯ<br>ᠤᠯᠤᠰ}}、[[英語]]:Mongolian State)は、[[東アジア]]北部にある[[共和制]][[国家]]。首都は[[ウランバートル]]。東と南の二方向を[[中華人民共和国]]、北を[[ロシア]]とそれぞれ接する[[内陸国]]である<ref>{{cite web |url=https://www.britannica.com/place/Mongolia |title=Mongolia |website=Britannica |accessdate=2017-12-28 }}</ref>。[[モンゴル高原]]のうち、[[外蒙古]](がいもうこ、そともうこ)と呼ばれた[[ゴビ砂漠]]以北の一帯にほぼ該当する領域を国土とし、国連加盟国の中で人口密度が最も低い国である。
== 国名 ==
正式名称は、[[モンゴル語]]([[キリル文字]])表記で {{lang|mn|'''Монгол Улс'''}}(モンゴル・オルス)、[[ラテン文字]]転写は {{lang|mn-Latn|''Mongol Uls''}}。
日本語の表記は'''モンゴル国'''。通称'''モンゴル'''。英語ではモンゴリアと呼ばれる。
モンゴル語名「モンゴル・オルス({{lang|mn|Монгол Улс}})」の「モンゴル」は民族名で、「オルス/[[ウルス]]({{lang|mn|Улс}})」は「国」を意味する。
== 歴史 ==
{{Main|[[モンゴルの歴史]]}}{{モンゴルの歴史}}19世紀、[[外蒙古|外モンゴル]]から[[内蒙古|内モンゴル]]にかけては、[[清|清朝]]の支配下に置かれていた。
20世紀に入ると清朝は北方の自国領の人口密度を高くすることで[[ロシア帝国]]側の侵略を防ぐ政策を実施し、それまでの辺境への[[漢人]]入植制限を廃止した。内モンゴルでは[[遊牧]]地が漢人により耕地に変えられ、モンゴル民族のうちに反漢・独立感情が高まり、反漢暴動が頻発した。中には貴族の{{仮リンク|トクトホ|mn|Тогтох гүн|ru|Энхбилэгтийн Тогтохо|zh|陶克陶胡}}のように「[[馬賊]]」となり漢人襲撃を繰り返す者もいた。一方で知識人{{仮リンク|バヤンテムル・ハイシャン|zh|伯颜帖木林·海山|en|Bayantömöriin Khaisan|label=ハイシャン}}らは漢人商人の活動に反発を覚え、いまだ危機感の薄かった外モンゴル地域と連携して独立を達成することを画策。外モンゴル貴族の{{仮リンク|ツェレンチミド|mn|Да лам Цэрэнчимэд|zh|车林齐密特|en|Da Lam Tserenchimed}}らと協力し外モンゴル諸侯に独立のための説得工作を行った。
[[File:BogdKhan.jpg|thumb|left|160px|[[ボグド・ハーン]]]]
[[1911年]]に[[辛亥革命]]が起こると、既にハイシャンらの説得工作が功を奏し、独立のための財政援助をロシアに求めていたハルハ地方(外モンゴルの多くの地域)の王侯たちは清からの独立を宣言した([[:en:Mongolian Revolution of 1911|Mongolian Revolution of 1911]])。モンゴルにおける[[チベット仏教]]界で最高権威かつ民族全体のシンボルとして君臨していた[[化身ラマ]](活仏)の[[ジェプツンダンバ・ホトクト]]8世([[ボグド・ハーン]])をモンゴル国の君主([[ハーン (称号)|ハーン]])として推戴し、[[ボグド・ハーン政権]]を樹立した。[[1913年]]には、[[チベット]]との間で[[チベット・モンゴル相互承認条約|相互承認条約]]を締結した。統治機構は清朝の整備したものをほぼそのまま利用することで、スムーズな政府の設置ができた。ただ内モンゴルとの連携については、[[内モンゴル解放軍]]を派遣し、一時的には内モンゴルの大部分を制圧したが、モンゴルの後ろ盾として経済的・軍事的支援を行っていたロシア帝国が、辛亥革命で成立した[[中華民国]](中国)への配慮から内モンゴルからの撤退を要求、撤収を余儀なくされた。
[[1915年]]、[[キャフタ条約 (1915年)|キャフタ条約]]で中国の宗主権下での外モンゴル「自治」のみが、清の後を引き継いだ中華民国とロシアによって承認されるが、内モンゴルについてはこの地への進出をうかがっていた[[日本]]に配慮して現状維持とされた。また、内モンゴルでも外モンゴルの独立に呼応する動きが見られたが、内モンゴルの大部分の地域が漢人地域になっており中国が手放そうとしなかったこと、モンゴル人の間で統一行動が取れなかったことなどから内外モンゴルの合併には至らず、以後は別々の道を歩むことになる。
[[1917年]]、[[ロシア革命]]が勃発すると、中国は外モンゴルでの勢力回復に乗り出し、[[1919年]]には外モンゴルを占領し自治を撤廃。[[1920年]]10月、[[赤軍]]との内戦で不利な状況に追い込まれていた[[ロマン・ウンゲルン]]率いる[[白軍]]が体制の建て直しのためにモンゴルへと侵入して中国軍を駆逐、ボグド・ハーン政権を復興させた。しかし、ウンゲルンの残虐な行動に人心が離反、そんな中で[[ドグソミーン・ボドー|ボドー]]、[[ソリーン・ダンザン|ダンザン]]、[[ダムディン・スフバートル|スフバートル]]、[[ホルローギーン・チョイバルサン|チョイバルサン]]ら[[民族主義|民族主義者]]、[[社会主義|社会主義者]]はモンゴル人民党(のちの[[モンゴル人民党|モンゴル人民革命党]])を結成、[[ソビエト連邦]]の援助を求めた。これに応じた赤軍や[[極東共和国]]軍はモンゴルに介入し、7月にジェプツンタンパ8世を君主としてモンゴル人民政府を樹立した([[:en:Mongolian Revolution of 1921|Mongolian Revolution of 1921]])。こうして[[立憲君主制]]国家として新生モンゴルはスタートするも、[[1924年]]にジェプツンタンパ8世の死去を契機に[[人民民主主義|人民共和国]]へと政体を変更、[[モンゴル人民共和国]]([[社会主義国]])が成立した。
モンゴル人民共和国は、ダンバドルジ政権([[1924年]] - [[1928年]])の下、狭量な[[社会主義]]政策にとらわれない開明的諸策を打ち出したが、[[コミンテルン]]の指導、ソ連からの圧力により、[[中ソ対立]]以後も徹底した親ソ・社会主義路線をとることになる(ソ連側は一時期、モンゴルを第16番目の共和国としてソ連に加えようとしていたとの説もある)。[[1929年]] - [[1932年]]には厳しい宗教弾圧と遊牧の強制農耕化、機械化、集団化など急進的な社会主義政策をとるが、各地で国民の約45パーセントが参加した[[暴動]]が発生し、多くのチベット仏教僧、富裕遊牧民が暴動の指導者として虐殺された。その後は急進的な政策はやや緩和され、教育や産業の充実が図られたものの、反革命の廉で粛清された国民はかなりの数に上った。
[[ファイル:Horloogiyn Choybalsan.jpg|thumb|left|160px|[[ホルローギーン・チョイバルサン|チョイバルサン]]]]
[[File:Oirat_Caravan.jpg|thumb|left|160px|[[オイラト]]の[[キャラバン]](20世紀)]]
[[1934年]]にソ連と相互軍事援助協定が締結されるとともに、ソ連の指導者であった[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]から[[ラマ教]]寺院の破壊を繰り返し要求されるが[[ペルジディーン・ゲンデン|ゲンデン]]首相は拒否した<ref name="kaiko2003">{{Citation|author=中山隆志 陸自58(防2)|authorlink=中山隆志|title=第12回近現代史研究会報告 満ソ(蒙)国境紛争|publisher=[[偕行社]]|series=『偕行』|volume=[[平成]]20年3月号|date=2008-03|pages=22-28|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/11435769/1/12|doi=10.11501/11435769 }}</ref>。[[1936年]]にモンゴル[[秘密警察]]が設立され、ソ連派の[[ホルローギーン・チョイバルサン|チョイバルサン]]が首長となり、ゲンデンはソ連に送致され処刑された<ref name=kaiko2003/>。また、同1936年3月にはソ連との間で[[ソ蒙相互援助議定書]]が締結された。[[1937年]]から800の修道院が破壊され、約1万7,000名の僧侶が処刑された<ref name=kaiko2003/>。同年、大規模な[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]が進駐すると、政府・軍部高官・財界首脳ら5万7,000人がゲンデン首相に関わるスパイに関与したとして逮捕され、2万人が処刑された<ref name=kaiko2003/>。チョイバルサンは当初{{仮リンク|バラーディン|ru|Барадийн, Базар Барадиевич|}}らブリヤート知識人が唱えた[[モンゴル語]]の[[ラテン文字]]化ではなく、[[キリル文字]]化を決める。これによって革命前は0.7パーセントだった[[識字率]]が[[1960年代]]には[[文盲]]の絶滅を宣言するまでに上昇する。
[[第二次世界大戦]]末期([[1945年]])の[[ソ連対日参戦]]では、モンゴル人民軍は内モンゴルの東部から西部まで進駐<ref>二木博史等訳・[[田中克彦]]監修『モンゴル史』2、[[恒文社]]、1988年「日本帝国主義へのモンゴル人民共和国の参加(1945年)」〔地図11〕</ref>し、その占領下では[[東モンゴル自治政府]]や[[内モンゴル人民共和国]]など内外モンゴル統一運動も盛り上がるも、中華民国が[[国家の承認|独立承認]]の条件<ref>台湾外交部檔案『中蒙関係』12-16頁。[[中央研究院]]近代史図書館檔号112.1/1</ref><ref>『[[蒋介石]]日記』1945年10月12日</ref>とした[[外モンゴル独立公民投票]]とモンゴル人民軍の撤退をチョイバルサンは受け入れる。チョイバルサンは[[1952年]]に死去するまで[[独裁]]政治を行った。後継者である[[ユムジャーギィン・ツェデンバル|ツェデンバル]]は、西部の少数民族の出身ながら粛清による極端な人材不足に乗じて一気にトップに上りつめ、ツェデンバルはロシア人の夫人とともに数十年間にわたってモンゴル人民共和国を支配した。だが[[1984年]]に健康上の理由([[認知症]]との説が有力)により[[書記長]]を事実上解任され、[[テクノクラート]]出身の実務派である[[ジャムビィン・バトムンフ|バトムンフ]]が書記長に選ばれた。バトムンフは「モンゴルの[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]」と呼ばれ、ソ連の[[ペレストロイカ]]に呼応した[[体制内改革]]を行った。
近代のモンゴルと外国との戦争は[[1939年]]に当時の満蒙国境で[[関東軍|日本軍]]・[[満州国軍]]とモンゴル人民軍・ソ連赤軍連合軍が軍事衝突したハルハ河戦争([[ノモンハン事件]])、ソ連対日参戦、[[1947年]]に新疆で当時の中華民国と武力衝突した{{仮リンク|北塔山事件|mn|Байтаг Богдын хилийн мөргөлдөөн|en|Battle of Baitag Bogd|zh|北塔山事件}}のときのみで、それ以降はほとんど対外戦争は行っていない。[[国共内戦]]で中華民国を[[台湾]]に追いやって成立した[[中華人民共和国]]とは[[中ソ対立]]でモンゴルがソ連を支持したことによる政治的対立があった。中華民国は1946年1月に一旦、モンゴルの独立を認めたが、後ろ盾のソ連が国共内戦で[[中国共産党]]を支援したことを理由に承認を取り消した。そのため、台湾に逃れた中華民国は以降も長くモンゴルを自国領と主張することになった([[中華民国の政治#対蒙関係]]参照)。[[1955年]]、モンゴルなど[[東側諸国]]5か国と、[[日本]]など[[西側諸国]]13か国の[[国際連合]]加盟が[[国際連合安全保障理事会|国連安保理]]で一括協議された。しかし、中華民国がモンゴルの加盟に、領有権を主張して[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]を発動したため、ソ連は報復に日本の国連加盟に拒否権を発動した。モンゴルの国連加盟は、1961年まで持ち越しとなった(日本の国連加盟は1956年)。[[1966年]]に[[ソ蒙友好協力相互援助条約]]が締結された。
[[1989年]]末、[[ソビエト連邦崩壊]]につながるソ連国内の動揺と[[東欧革命]]に触発されてモンゴルでも反[[官僚主義]]・民主化運動が起き、年明けの[[1990年]]春には、[[ドゥマーギーン・ソドノム]]閣僚会議議長(首相)の決断により、[[一党独裁]]を放棄した。[[1992年]]には[[モンゴル人民共和国]]から'''モンゴル国'''へと改称、新憲法を制定し、社会主義を完全に放棄した。
この[[民主化]]プロセスにおいては、国際援助機関の関与により急速な[[市場経済]]化が進められ、[[経済成長]]を重視するあまり富の公平な配分を怠り、[[福祉#社会福祉|社会福祉]]を削減することで[[経済的不平等|貧富の差]]を拡大させた<ref>モリス・ロッサビ著 小長谷有紀監訳 小林志歩訳『現代モンゴル 迷走するグローバリゼーション』([[明石書店]] 2007年7月31日初版第1刷)p.72</ref>。[[資本主義]]化後21年を経過した現在では、貧富の差の拡大は国家的問題となっている。また社会主義時代から続いた官僚の汚職体質は民主化以後むしろ悪化しているとされる。
ツェデンバル時代に批判されていた[[チンギス・カン|チンギス・ハン]]については、政府と国民が総力を挙げて復権に力を入れている。紙幣にまで使用されているほどである。また、[[カラコルム]]遺跡を除いて社会主義時代に積極的でなかった[[モンゴル帝国]]時代の遺跡の発掘や保存にも力を入れている。
== 政治 ==
{{main|{{仮リンク|モンゴルの政治|en|Politics of Mongolia}}}}
[[File:President Putin meeting deputies of the Great State Hural-1.jpg|thumb|[[国民大会議]]]]
<!-- ''詳細は[[モンゴル国の政治]]を参照'' -->
[[ソ連型社会主義|社会主義]]時代は[[モンゴル人民革命党]]の「指導的役割」が[[憲法]]で規定される[[一党独裁体制]]であり、議会制度も[[ソビエト]]型の[[国民大会議|国家大会議]]を最高機関としていた。[[1990年]]の民主化後に[[自由選挙]]による[[複数政党制]]を導入し、[[1992年]]の新憲法公布後はともに[[直接選挙]]で選出される[[一院制]]の国家大会議と[[大統領]]が並立する[[議院内閣制#概説|二元主義的議院内閣制]]([[半大統領制]])を採用した。国家大会議はその後4年ごとに総選挙を行ってきたが、その度に政権が交代するという経緯をたどっている。なお大統領は「国民の統合の象徴」とされ、国家大会議の可決した法案の拒否権や[[首相]]指名権などの実質的な政治権能を持つが、国家大会議に議席を持つ政党の被指名者しか立候補できず、また選挙のみによってただちに就任するのではなく、国家大会議が選挙で多数を確保した候補者を法律で認定する手続を経て就任する制約もあるため、大統領より長い歴史を持つ国家大会議との関係は良好とは言えない。
=== 政党 ===
{{main|モンゴルの政党}}
== 国際関係 ==
{{main|モンゴルの国際関係}}
モンゴルの外交方針は隣国の中国・ロシアとのバランスを維持しながら、それに過度に依存することなく「第三の隣国」(日本・アメリカ)との関係を発展させることである<ref>{{Cite web|和書|author=日本外務省|authorlink=日本外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/mongolia/data.html#section3|title=モンゴル基礎データ 外交・国防|date=2023-02-02|accessdate=2023-08-11}}</ref>。2015年に当時の[[ツァヒアギーン・エルベグドルジ]]大統領によってモンゴルを[[永世中立国]]にするという方針が定められたが、2020年5月には事実上頓挫している<ref>{{Cite news|url=https://montsame.mn/jp/read/250965|title=永世中立に関する政令が無効化|agency=モンゴルの声|date=2020-07-02|accessdate=2021-01-22}}</ref>。
=== 対日関係 ===
{{see also|日蒙関係}}
以前は[[ノモンハン事件]]による[[反日感情]]も見られたが、[[相撲]]による交流が盛んになった今日では、国民感情としても日本とは友好的関係が維持されている。日本より多額の[[政府開発援助|ODA]]が供与されており、[[日本車]]の中古車も人気が高い。
日本との外交関係は、[[1972年]]([[昭和]]47年)[[2月24日]]に樹立された。[[2004年]]([[平成]]16年)11月に[[在モンゴル日本国大使館|在モンゴル国日本国大使館]]が実施した世論調査では、「日本に親しみを感じる」と答えた回答が7割を超えたほか、「もっとも親しくすべき国」として第1位になるなど、現在のモンゴル国は極めて良好な[[親日]]感情を有する国となっている<ref>{{Cite news|author=[[姫田小夏]]|url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/30549|title=モンゴルでますます高まる嫌中ムード 「やりたい放題」に資源を獲得し、土地の不法占拠も|newspaper=[[JBpress]]|publisher=[[日本ビジネスプレス]]|date=2011-11-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201202194936/https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/30549|archivedate=2020-12-02|deadlinkdate=}}</ref>。
[[兵庫県]]の[[但東町]](現・[[豊岡市]]但東町)との交流が長く、町内には日本でも数少ないモンゴルの博物館「[[日本・モンゴル民族博物館]]」があり、交流が盛んである。[[2010年]](平成22年)[[4月1日]]より、日本国籍者はモンゴル入国に際し、滞在日数が30日以内の場合は[[査証]]が免除されている<ref>[https://tokyo.embassy.mn/page/533 駐日モンゴル大使館] 日本国民のモンゴル国の査証申請</ref>。
[[朝青龍明徳|朝青龍]]、[[白鵬翔|白鵬]]、[[日馬富士公平|日馬富士]]、[[鶴竜力三郎|鶴竜]]、[[照ノ富士春雄|照ノ富士]]の直近の横綱5名に加え、高齢での幕内初優勝を達成した[[旭天鵬勝|旭天鵬]]など多くの[[大相撲]]力士を輩出し、歴代外国人力士の最多輩出国となっている<ref>[https://honkawa2.sakura.ne.jp/3989g.html 社会実情データ図録]大相撲外国出身力士の人数</ref>。相撲以外のスポーツでは[[プロボクサー]]の[[ラクバ・シン]]が日本で[[畑山隆則]]を降しモンゴル初の世界チャンピオンに輝き、その後日本のジムを拠点としていた時期もあった。一方で、陸上長距離の[[セルオド・バトオチル]]が日本の実業団に所属し、[[防府読売マラソン]]や[[大阪マラソン]]で優勝も果たしている。また、同じ日本の国技でもある[[柔道]]もモンゴル国内では相撲に並ぶスポーツとなっている。
[[自衛隊]]との交流も進展しており、[[防衛大学校]]への留学生派遣や[[防衛省]]主催の各種セミナーへの参加を続けているほか、[[2004年]]には[[防衛大学校の人物一覧#学校長|防衛大学校長]]の[[西原正]]がモンゴルを公式訪問している。
モンゴルでは[[1990年代]]以降、母国の産業発展に貢献しようと多くの若者が日本の[[高等専門学校]]に[[留学]]した<ref name="朝日新聞"/>。その中には、[[仙台電波工業高等専門学校]]を卒業し、{{仮リンク|文部科学省 (モンゴル)|en|Ministry of Education and Science (Mongolia)}}[[大臣]]になった{{仮リンク|ロブサンニャム・ガントゥムル|zh|鲁布桑尼亚木·钢铁木尔}}などもいる<ref name="朝日新聞"/>。その様なことからモンゴルで日本の高等専門学校教育を導入する機運が高まり、[[2009年]]には日本の高等専門学校関係者などが「モンゴルに日本式高専を創る支援の会」を設立、[[2014年]]に[[ウランバートル]]に[[モンゴル科学技術大学]]付属高専、[[私立学校|私立]]の新モンゴル高専、モンゴル工業技術大学付属高専が開校した<ref name="朝日新聞"/>。モンゴルの高等専門学校卒業生は、[[日本の企業一覧|日本企業]]に就職したり、日本の高等専門学校専攻科や[[日本の大学一覧|日本の大学]]に留学する人もいる<ref name="朝日新聞">{{Cite news|author=|url=https://www.asahi.com/articles/ASP3Y569NP3MOIPE03B.html|title=モンゴルの高専卒エンジニア、発祥の地・日本で奮闘中|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=|date=2021-04-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210403064845/https://www.asahi.com/articles/ASP3Y569NP3MOIPE03B.html|archivedate=2021-04-03|deadlinkdate=}}</ref>。
=== 対中関係 ===
{{Main|中蒙関係|}}
=== 対韓関係 ===
{{Main|蒙韓関係}}
=== 対露関係 ===
{{Main|露蒙関係}}
== 軍事 ==
[[File:Mongolian BMP-1.jpg|thumb|陸軍の[[BMP-1]]歩兵戦闘車]]
{{main|モンゴルの軍事}}
モンゴル国の正式国軍である[[モンゴルの軍事|モンゴル国軍]]は、社会主義時代の[[モンゴル人民軍]]から社会主義政権崩壊後に国軍として引き継がれた軍隊である。モンゴル国では[[徴兵制度]]が敷かれており、満18歳以上の男子は、1年間の兵役義務を有しているが、兵役代替金と呼ばれる納付金(約800ドル)を納付するか、海外に留学するなどで26歳までやり過ごせば兵役義務は消滅する。子供が幼少の場合も、免除される。
総兵力は9,100人、予備兵力は14万人。軍事予算は181億8,680万[[トゥグルグ]](2003年時点)。モンゴル国軍の装備は、主に人民軍時代ソ連から取得した兵器がほとんどであるが、[[戦闘機]]や[[攻撃ヘリコプター]]などは全て退役している。現在保有するのは[[Mi-8 (航空機)|Mi-8T]]など少数のみ。[[地対空ミサイル]]も保有していたが、現在可動状態にあるかは疑問である。機器の保守能力が低下しているため、戦闘機などに至っては部品の[[共食い整備]]の挙句に全機が退役した。
最近は、組織の生き残りのために海外協力と災害対策を2本柱に掲げ、[[アメリカ合衆国]]などによる[[イラク戦争|イラク侵攻]]に際してはいち早く支持を表明したほか、ソ連製[[装甲兵員輸送車]]に乗った国軍部隊を派遣するなどしている。ほかにもモンゴル国軍は、[[アフガニスタン軍]]への指導(ソ連製の装備に習熟していたため)や[[コンゴ民主共和国]]での[[国連平和維持活動]](PKO)にも参加している。
[[海軍]]は存在しない。かつて湖上の石油輸送目的に[[スフバートル (貨客船)|スフバートル]]号([[モンゴル語]]: Сүхбаатар)を保有していた。しかし[[1997年]]に民営化された。
=== 準軍事組織 ===
モンゴル国の[[国境警備隊]]である{{仮リンク|モンゴル国境警備隊|en|General Authority for Border Protection}}(国境保護総局)は国軍とは別組織となっている。
モンゴルが国境警備に力を入れるのは、家畜が越境したときの隣接国とのトラブルに対応するためである。
== 地理 ==
[[File:モンゴル-地形地図.jpg |thumb|right|300px|モンゴルの地形地図]]
{{main|{{仮リンク|モンゴルの地理|en|Geography of Mongolia}}}}
[[東アジア]]の北西部に位置し、西には[[標高]]4,300メートルの[[アルタイ山脈]]と標高3,500メートルの[[ハンガイ山脈]]がそびえ、東には1,000 - 1,500メートルの[[高原]]が広がり、北東には[[針葉樹林]]が広がる。あとの国土は[[高山砂漠]]と[[ステップ (植生)|ステップ]]の植生が南の海抜平均1,000メートルの[[ゴビ砂漠]]まで続いている。国土の5分の4を占める草原ステップは[[牧草地]]に使用されている。重要な河川は[[バイカル湖]]にそそぐ[[セレンゲ川]]と、[[アムール川]]を経て[[オホーツク海]]([[太平洋]])にそそぐ[[ヘルレン川]]がある。
近年、国土の90%で[[砂漠化]]が進行<ref>[http://www.japan-center.mn/a/22178?locale=ja モンゴル国土の80%が砂漠化傾向] モンゴル・日本人材開発センター(2016年9月22日)2020年2月15日閲覧</ref>、6万9,000[[平方キロメートル]]の牧草地帯が姿を消した。モンゴルで見られた植物種のうち75%が絶滅、森林伐採により川の水位は半減、北方の森林地帯を中心に3,800の河川と3,500の湖があったが、2000年以降、約850の河川と約1,000の湖が地図上から完全に姿を消している。
<gallery style="text-align:center;" mode="packed" heights="130px">
Arkhangai_Aimag6.JPG|[[アルハンガイ県]]
Gorkhi_Terelj_Park.jpg|[[ヘンティー山脈]]
Jurty_na_stepie_pomiędzy_Ułan_Bator_a_Karakorum_03.JPG|モンゴルの草原
Tuul_River_Mongolia.JPG|[[トール川]]
KhongorynElsCamels.jpg|[[フタコブラクダ]]、[[ゴビ砂漠]]
</gallery>
=== 気候 ===
国土の大部分は[[ケッペンの気候区分]]の[[亜寒帯冬季少雨気候]](Dw)、[[ステップ気候]](BS)、[[砂漠気候]](BW)に属する。
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a7/Koppen-Geiger_Map_Eastern_Asia_present.svg/1816px-Koppen-Geiger_Map_Eastern_Asia_present.svg.png 東アジアにおけるケッペンの気候区分]
== 地方行政区画 ==
{{See also|アイマク (モンゴル国)}}
日本の[[都道府県|県]]にあたる[[アイマク (モンゴル国)|アイマク]]({{lang|mn|аймаг}}, aimag)が21設置されており、県には郡にあたる[[ソム]]({{lang|mn|сум}}, sum)が347、さらにその下に村にあたる1681の[[バグ (行政単位)|バグ]]({{lang|mn|баг}}, bag)が属する。各ソムの人口は3,000人ほどで、バグは50 - 100家族ほどで構成されている(2001年の[[アジア開発銀行]]資料より)。世界的に見ても都市への人口集中が高い国である。
[[File:モンゴル-地方行政区分-地図.jpg|thumb|right|620px|モンゴルの地方行政区分地図]]
# [[ウランバートル市]] ({{lang|mn|Улаанбаатар хот}}, Ulaanbaatar hot)
# [[オルホン県]]({{lang|mn|Орхон}}, Orhon)
# [[ダルハン・オール県]]({{lang|mn|Дархан-Уул}}, Darhan-Uul)
# [[ヘンティー県]]({{lang|mn|Хэнтий}}, Hentiy)
# [[フブスグル県]]({{lang|mn|Хөвсгөл}}, Hövsgöl)
# [[ホブド県]]({{lang|mn|Ховд}}, Hovd)
# [[オブス県]]({{lang|mn|Увс}}, Uvs)
# [[トゥブ県]]({{lang|mn|Төв}}, Töv)
# [[セレンゲ県]]({{lang|mn|Сэлэнгэ}}, Selenge)
# [[スフバータル県]]({{lang|mn|Сүхбаатар}}, Sühbaatar)
# [[ウムヌゴビ県]]({{lang|mn|Өмнөговь}}, Ömnögovĭ)
# [[ウブルハンガイ県]]({{lang|mn|Өвөрхангай}}, Övörhangay)
# [[ザブハン県]]({{lang|mn|Завхан}}, Zavhan)
# [[ドンドゴビ県]]({{lang|mn|Дундговь}}, Dundgovĭ)
# [[ドルノド県]]({{lang|mn|Дорнод}}, Dornod)
# [[ドルノゴビ県]]({{lang|mn|Дорноговь}}, Dornogovĭ)
# [[ゴビスンベル県]]({{lang|mn|Говьсүмбэр}}, Govĭsümber)
# [[ゴビ・アルタイ県]]({{lang|mn|Говь-Алтай}}, Govĭ-Altay)
# [[ボルガン県]]({{lang|mn|Булган}}, Bulgan)
# [[バヤンホンゴル県]]({{lang|mn|Баянхонгор}}, Bayanhongor)
# [[バヤン・ウルギー県]]({{lang|mn|Баян-Өлгий}}, Bayan-Ölgiy)
# [[アルハンガイ県]]({{lang|mn|Архангай}}, Arhangay)
=== 主要都市 ===
{{Main|モンゴルの都市の一覧}}
{|class="infobox" style="text-align:center;width:97%;margin-right:10px;font-size:90%"
!align=center style="background:#f5f5f5"|
!align=center style="background:#f5f5f5"|都市
!align=center style="background:#f5f5f5"|[[アイマク|行政区分]]
!align=center style="background:#f5f5f5"|人口
!align=center style="background:#f5f5f5"|
!align=center style="background:#f5f5f5"|都市
!align=center style="background:#f5f5f5"|[[ロシア連邦の地方区分|行政区分]]
!align=center style="background:#f5f5f5"|人口
|-----
|align="center"|'''1'''
|align="center"|'''[[ウランバートル]]'''
|align="center"|[[ウランバートル]]
|align="right"|
1,008,738人
|align="center"|'''2'''
|align="center"|'''[[エルデネト]]'''
|align="center"|[[オルホン県]]
|align="right"|
86,866人
|-----
|align="center"|'''3'''
|align="center"|'''[[ダルハン市]]'''
|align="center"|[[ダルハン・オール県]]
|align="right"|
74,300人
|align="center"|'''4'''
|align="center"|'''[[チョイバルサン市]]'''
|align="center"|[[ドルノド県]]
|align="right"|
38,150人
|-----
|align="center"|'''5'''
|align="center"|'''[[ムルン]]'''
|align="center"|[[フブスグル県]]
|align="right"|
36,082人
|align="center"|'''6'''
|align="center"|'''[[ナライフ]]'''
|align="center"|[[ウランバートル]]
|align="right"|
29,115人
|-----
|align="center"|'''7'''
|align="center"|'''[[ホブド]]'''
|align="center"|[[ホブド県]]
|align="right"|
28,601人
|align="center"|'''8'''
|align="center"|'''[[ウルギー]]'''
|align="center"|[[バヤン・ウルギー県]]
|align="right"|
27,855人
|-----
|align="center"|'''9'''
|align="center"|'''[[バヤンホンゴル]]'''
|align="center"|[[バヤンホンゴル県]]
|align="right"|
26,252人
|align="center"|'''10'''
|align="center"|'''[[バガヌール]]'''
|align="center"|[[ウランバートル]]
|align="right"|
25,877人
|-----
|colspan="10" align=center style="background:#f5f5f5"|2008年推計
|}
{{clear}}
== 経済 ==
[[File:Chinggis_Square.jpg|thumb|首都[[ウランバートル]]]]
[[File:Oyu_Tolgoi_23.JPG|thumb|[[オユトルゴイ鉱山]]]]
{{main|{{仮リンク|モンゴルの経済|en|Economy of Mongolia}}}}
[[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2018年]]のモンゴルの[[国内総生産|GDP]]は約130億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]。一人あたりのGDPは4,041ドルで、世界平均のおよそ40パーセントの水準である<ref name="imf201410" />。
[[2011年]]の調査では、1日2ドル未満で暮らす貧困層は115万人と推計されており、国民の40パーセント以上を占めている<ref>[http://www.adb.org/sites/default/files/pub/2011/Economics-WP267.pdf アジア開発銀行の貧困人口統計] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150318083921/http://adb.org/sites/default/files/pub/2011/Economics-WP267.pdf |date=2015年3月18日 }}</ref>。首都[[ウランバートル]]では、地下で暮らす[[ストリートチルドレン]]([[マンホール]]チルドレン)もいる<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASM4H339QM4HUCVL003.html 「取材20年、モンゴルのマンホール暮らしの少年たち」][[朝日新聞デジタル]](2019年4月26日)2021年11月3日閲覧</ref>。
[[2014年]]で主な輸出相手国は[[中華人民共和国]]で輸出の95.3パーセントを占め<ref name="Mongol1">{{cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2050.html#mg|title=Export Partners of Mongolia|publisher=[[CIA World Factbook]]|year=2014|accessdate=2016-03-01}}</ref>、主な輸入相手国は中国が41.5パーセント、ロシアが27.4パーセント、韓国が6.5パーセント、日本が6.1パーセントとなっている<ref>{{cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2061.html#mg|title=Import Partners of Mongolia|publisher=[[CIA World Factbook]]|year=2014|accessdate=2016-03-01}}</ref>。
[[ファイル:ドルノド県チョイバルサン市.jpg|代替文=ドルノド県庁舎|サムネイル|ドルノド県チョイバルサン市]]
=== 産業 ===
[[鉱業]]と[[畜産業]]が主要産業である。
内陸国ではあるが、[[便宜置籍船]]の手数料を取るビジネスも盛んであり、約400隻を超える船舶が認められている。
==== 鉱業 ====
{{main|{{仮リンク|モンゴルの鉱業|en|Mining in Mongolia}}}}
地下資源が豊富であり、[[世界銀行]]によると、2004年以降、280億ドル相当の鉱物を算出した。中国や[[オーストラリア]]、[[カナダ]]の企業も進出し、[[金]]や[[銀]]、[[銅]]、[[石炭]]などを採掘している。[[レアアース]]や[[ウラン]]を含めた鉱床の価値は2兆7500億ドルと推定されている。だが鉱業による収入は[[年金]]生活者の債務返済など放漫財政や汚職、政争を生みだしており、「[[資源の呪い]]」に陥りつつあるとの指摘もある<ref>[https://www.nikkei.com/local/hokkaido/ 【NIKKEI Asia】莫大な鉱業収入の政治利用が常態化 モンゴルに迫る「資源の呪い」]『[[日本経済新聞]]』朝刊2021年10月24日グローバルアイ面</ref>。
このほか[[モリブデン]]は世界屈指の埋蔵量を持っている。[[エルデネト鉱業]]は社会主義時代からモンゴル国内最大の企業である。そして近年では、豊富な天然資源、とりわけ[[オユトルゴイ鉱山]]を目的に外資系が活発になってきている。しかしながら、政治的安定性がいまだに構築されておらず、政権が変わる度に政策方針が二転三転することで、外国の投資家に警戒感を持たせている。
[[資源#鉱物資源|鉱物資源]]に恵まれるが多くはそのまま[[輸出]]され、国内で[[付加価値]]を生む産業振興や[[技術者]]の育成が長年の課題である<ref name="朝日新聞"/>。
==== 畜産業 ====
[[ヒツジ]]1,168.6万頭、[[ヤギ]]1,223.8万頭、[[ウシ]]184.2万頭、[[ウマ]]200.5万頭、[[ラクダ]]25.7万頭を[[飼育]]し(2004年統計)、[[牧草地]]の広さは国土の約80パーセントである。畜産は、そのほとんどが[[遊牧]]で行われている。[[農業]]は、社会主義時代は土を掘ることを忌避する風習が改められ、食糧自給できたものの、市場経済化で[[穀物]]生産は落ち込み、現在は中国やロシアからの輸入が多い<ref>[http://www.jiid.or.jp/files/04public/02ardec/ardec28/food.htm ARDEC]</ref>。
=== その他の産業 ===
==== 農業 ====
{{main|{{仮リンク|モンゴルの農業|en|Agriculture in Mongolia}}}}
モンゴルで生産される作物には、[[トウモロコシ]]、[[小麦]]、[[大麦]]、[[ジャガイモ]]などがある。しかしモンゴル国は厳しい気候のため、ほとんどの青果物栽培には適しておらず、遊牧民の畜産業に重点を置かれた侭となっている。
{{節スタブ}}
==== エネルギー ====
{{main|{{仮リンク|モンゴルのエネルギー|en|Energy in Mongolia}}}}
モンゴルの主な電源は[[火力発電]]であり、現在稼働している7つの発電所で電力に変換されている。
== 交通 ==
{{Main|モンゴルの交通}}
=== 鉄道 ===
{{Main|モンゴルの鉄道}}
=== 航空 ===
{{Main|モンゴルの空港の一覧}}
== 国民 ==
[[File:Mongolia-demography.png|thumb|300px|モンゴルの人口推移(1961年-2003年)]]
[[File:Amarbayasgalant_monastery_-_panoramio.jpg|thumb|250px|[[アマルバヤスガラント寺]]]]
[[File:Dambadarjaalin_Monastery_grounds_in_Ulan_Bator,_in_front_of_a_shamanic_sacred_mountain.jpg|thumb|250px|[[ウランバートル]]の[[仏塔]]。[[マントラ]]と[[オボー]]]]
{{Main|{{仮リンク|モンゴルの人口統計|en|Demographics of Mongolia}}}}
=== 民族 ===
*[[モンゴル系民族|モンゴル系]]
*:国民の大半を占める多数民族。中でも[[ハルハ]]族が最大で、他のモンゴル系諸民族は[[少数民族]]である。主な宗教は[[チベット仏教]]で、歴史的に[[チベット]]との関わりが深い。また[[シャーマニズム]]信仰も根深い。どちらも社会主義時代は抑圧されていたが、民主化以降復活を遂げている。
**[[モンゴル民族]]
***ハルハ族
***:現体制になってからハルハ族固有の[[姓]]で登録した国民が多く、正確な人口は不明。
<!--**バルガ民族
**バヤド民族 位置付け不明のため非表示にしておきます -->
**[[ブリヤート人|ブリヤート民族]]
<!--**ドゥルベッド民族 -->
**[[オイラト|オイラト族]]
**:起源はテュルク系と見られている。モンゴル国からモンゴル民族の一員とみなされているため正確な人口は不明であるが、約15万人と見られる。西部に居住。
*[[テュルク系民族|テュルク系]]
**[[カザフ人|カザフ民族]]
**:約4パーセント(約10万人)で少数民族になるが、西部の[[バヤン・ウルギー県]]では人口の大半を占める<ref>{{Cite web|和書|title=相馬 拓也 (Takuya Soma) - モンゴル西部バヤン・ウルギー県サグサイ村における移動牧畜の現状と課題 - 論文 - researchmap|url=https://researchmap.jp/takuyasoma/published_papers/14716473|website=researchmap.jp|accessdate=2021-10-17|language=ja|first=Japan Science and Technology|last=Agency}}</ref>。おおむね[[ムスリム|イスラム教徒]]。
**ツァータン([[トゥバ族|トゥバ民族]])
**:300人前後が北部の[[フブスグル県]]に居住している[[トナカイ]]遊牧と狩猟、採集、漁撈を行う民族。円錐形の移動式家屋「オルツ」に住む。「ツァータン」はモンゴル民族が使う他称であり、自らは「[[トゥバ族|トゥバ人]]」「タイガ([[針葉樹林|針葉樹林帯]])の人」などと名乗っている。この周辺の針葉樹林帯を行き来していた人々は、自らの居住地域が20世紀初頭モンゴル国と[[トゥヴァ人民共和国]]に分離された。伝統的にシャーマニズム信仰があり、モンゴル系の影響でチベット仏教徒も多い。
*[[ツングース系民族|ツングース系]]
**[[エヴェンキ|エヴェンキ民族]]
**:約1,000人。北部セレンゲ県に居住する。伝統的にシャーマニズム信仰があるが、[[ロシア正教会|ロシア正教]]の影響もある。
=== 言語 ===
{{Main|{{仮リンク|モンゴルの言語|en|Mongolian language}}}}
*モンゴル諸語
**[[モンゴル語]]
***ハルハ語(別名:ハルハ方言)
***:国民の95パーセントが話す。モンゴル国憲法は、モンゴル語を唯一の[[公用語]]と定めている。公文書は[[モンゴル語]]で作成される。
***:モンゴル国内でのモンゴル語表記には[[キリル文字]]を使用しているが、モンゴル国会は2020年3月18日、2025年までに[[モンゴル文字]]表記の併用を推進し、最終的にモンゴル文字への移行を目指す方針を決めた。<ref>{{cite web |url=https://www.thetimes.co.uk/article/mongolia-abandons-soviet-past-by-restoring-alphabet-rsvcgqmxd|title=Mongolia abandons Soviet past by restoring alphabet | World | The Times|accessdate=2020-01-28 }}</ref>
**[[ブリヤート語]]
**:北部で使用される。
*[[テュルク諸語]]
**[[カザフ語]]
**:[[バヤン・ウルギー県]]の社会[[共通語]]で、[[学校教育]]はモンゴル語とカザフ語で行われる。同県においては少数民族となるモンゴル民族の多くもカザフ語を話し、議会を含むあらゆる場面での共通語となっている。
**[[トゥバ語]]
**:トゥバ民族の言語で話者はフブスグル県にごく少数。現在国内のトゥバ民族は主にモンゴル語を用い、トゥバ語話者は減少している。
=== 人名 ===
{{Main|モンゴル人の名前}}
=== 宗教 ===
{{Main|{{仮リンク|モンゴルの宗教|en|Religion in Mongolia}}}}
2020年の国勢調査によると、モンゴル人の51.7%が仏教徒、40.6%が無所属、3.2%がイスラム教徒(主にカザフ民族)、2.5%がシャーマニズム、1.3%がキリスト教徒、0.7%がその他の宗教の信徒で占められている<ref>{{Cite web|url=https://tuv.nso.mn/uploads/users/87/files/Khun_am_toollogo.pdf|title="2020 Population and Housing Census" (PDF).|publisher=National Statistics Office of Mongolia|accessdate=2022-01-28}}</ref>。
{{See also|{{仮リンク|モンゴル神話|en|Mongol mythology}}}}
{{節スタブ}}
=== 教育 ===
{{Main|モンゴルの教育}}
{{節スタブ}}
=== 保健 ===
{{Main|{{仮リンク|モンゴルの保健|en|Health in Mongolia}}}}
{{節スタブ}}
==== 医療 ====
{{Main|モンゴルの医療}}
{{節スタブ}}
== 治安 ==
モンゴル国の治安状況は日本と比べた場合、決して良いとは言えない。モンゴル国警察当局によると、2019年中の犯罪認知件数は31,526件で、前年比で13%減少しているものの、[[殺人]]や[[強盗]]、[[強姦]]などの重要犯罪や[[窃盗]]の認知件数は依然として高い水準にある。[[犯罪]]の発生は都市部に集中しており、全犯罪の約70%が同国の全人口(約330万人)の約半分が居住する首都ウランバートルで発生しているという危険な状態となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_019.html|title=モンゴル 安全対策基礎データ|accessdate=2022-01-28|publisher=外務省}}</ref>。
{{節スタブ}}
=== 警察 ===
{{Main|モンゴルの警察}}
{{節スタブ}}
=== 人権 ===
{{main|{{仮リンク|モンゴルにおける人権|en|Human rights in Mongolia}}}}
モンゴル国は1990年に民主主義へ転向して以来、原則として人権と市民権の概念を認可している。
{{節スタブ}}
{{See also|モンゴルにおけるLGBTの権利}}
== マスコミ ==
{{main|{{仮リンク|モンゴルのメディア|en|Mass media in Mongolia}}}}
{{節スタブ}}
{{See also|モンゴルの通信|モンゴル国営放送}}
== 文化 ==
{{main|{{仮リンク|モンゴルの文化|en|Culture of Mongolia}}}}
モンゴルでは[[馬]]が文化の主体となっている。馬はモンゴル人の日常生活や国民生活に大きな役割を果たしており、その関連性の深さは「馬のいないモンゴル人は翼のない鳥のようなものだ」と伝統的に語り継がれているほどである
<ref>[https://www.mongolian-ways.com/travel-blog/mongolian-horse-culture#:~:text=In%20Mongolia%2C%20it%20is%20typical,each%20time%20they%20are%20used. Mongolian Horse Culture & Horsemanship — Mongolia Tours & Travel 2023/2024]</ref>。
{{also|{{仮リンク|モンゴルの馬文化|en|Horse culture in Mongolia}}}}
その他には以下のものが知られている。
* [[デール]]
* {{仮リンク|モンゴル刀|en|Turko-Mongol sabers}}
* {{仮リンク|モンゴルの鎧|en|Mongolian armour}}
* [[ナーダム]]
* [[遊牧]]
* [[オルティンドー]]
* [[シャタル]]
=== 食文化 ===
[[File:Dishes of Mongolian cuisine.jpg|thumb|200px|モンゴルにおける代表的な料理の盛り合わせ]]
{{Main|モンゴル料理}}
=== 文学 ===
{{Main|モンゴル文学}}
* [[モンゴル書道]]
* 『[[スーホの白い馬]]』
{{See also|{{仮リンク|モンゴル叙事詩|en|Mongol epic poetry}}}}
=== 音楽 ===
[[File:Mongolian_Musician.jpg|thumb|220px|[[モリンホール]]]]
{{Main|{{仮リンク|モンゴルの音楽|en|Music of Mongolia}}}}
* [[モリンホール]](馬頭琴)日本では民話[[スーホの白い馬]]に登場する楽器として有名。
* トブショル、ヤトグ
* オルテンードー(長調)
* [[ホーミー]](喉歌)
* アンダイダンス、茶碗ダンス
{{See also|{{仮リンク|モンゴルの楽器の一覧|en|List of Mongolian musical instruments}}}}
=== 芸術文化 ===
==== 彫刻 ====
{{Main|{{仮リンク|モンゴルの彫刻|en|Sculpture of Mongolia}}}}
{{節スタブ}}
=== 建築 ===
[[ファイル:Yurt in Ulan Bator.JPG|thumb|伝統的な住居[[ゲル (家屋)|ゲル]]]]
{{Main|{{仮リンク|モンゴルの建築|en|Architecture of Mongolia}}}}
[[ゲル (家屋)|ゲル]]はモンゴルの建築文化を語る上で無くてはならないものとなっている。
{{節スタブ}}
=== 映画 ===
{{Main|{{仮リンク|モンゴルの映画|en|Cinema of Mongolia}}}}
{{節スタブ}}
=== 被服・ファッション ===
モンゴルの[[民族服|伝統衣装]]には[[チャイナドレス]]のルーツとなった[[デール]]が知られている。
その他には{{仮リンク|ジスン|en|Jisün}}、{{仮リンク|テルリグ|en|Terlig}}、{{仮リンク|ビジア|en|Bijia}}、{{仮リンク|グタル|en|Gutals}}などが知られる。
また、首都のウランバートルでは同国唯一のファッションイベントである「{{仮リンク|ゴヨル・ファッション・フェスティバル|en|Goyol Fashion Festival}}」が毎年開催されている。
=== 世界遺産 ===
{{Main|モンゴルの世界遺産}}
モンゴル国国内には、[[国際連合教育科学文化機関]](UNESCO)の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が3件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が2件存在する。世界遺産の暫定リストには12件が存在する。
=== 祝祭日 ===
{{Main|{{仮リンク|モンゴルの祝日|en|Public holidays in Mongolia}}}}
{| class="wikitable" align=
|-
|+ style="font-weight:bold;font-size:120%" |
|- style="background:#efefef"
!日付 !!日本語表記 !!現地語表記 !!備考
|-
||12月31日||忘年||{{lang|mn|Шинэ жил}}||
|-
||1月下旬から2月の内3日間||ツァガーン・サル||{{lang|mn|Цагаан сар}}||旧暦[[元日]]
|-
||[[3月8日]]||女性の日||{{lang|mn|Эмэгтэйчүүдийн баяр}}||[[国際女性デー]]
|-
||[[6月1日]]||子供の日||{{lang|mn|Хүүхдийн баяр}}||[[国際児童デー]]
|-
||7月11日~15日||[[ナーダム|ナーダム祭り]]||{{lang|mn|Наадам}}||
|-
||10月下旬から11月中旬||[[モンゴル誇りの日]]||{{lang|mn|Монгол бахархлын өдөр}}||旧暦[[立冬]]。[[チンギスハーン]]の生誕記念日
|-
||[[12月29日]]||独立記念日||{{lang|mn|Үндэсний эрх чөлөө, тусгаар тогтнолоо сэргээсний баяр}}||1911年の清朝からの独立記念日
|}
== スポーツ ==
{{main|{{仮リンク|モンゴルのスポーツ|en|Sport in Mongolia}}}}
{{also|オリンピックのモンゴル選手団}}
* [[ブフ]]([[相撲|モンゴル相撲]])
* [[サッカー]]([[モンゴル・ナショナルプレミアリーグ]])
* [[柔道]]([[グランプリ・ウランバートル]])
* [[バスケットボール]]
* [[レスリング]]
* [[ボクシング]]
=== サッカー ===
{{Main|{{仮リンク|モンゴルのサッカー|en|Football in Mongolia}}}}
モンゴル国内では[[サッカー]]も人気[[スポーツ]]の一つであり、[[1974年]]にサッカーリーグの[[モンゴル・ナショナルプレミアリーグ]]が創設された。[[モンゴル国サッカー連盟]](MFF)によって構成される[[サッカーモンゴル国代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]および[[AFCアジアカップ]]への出場経験はない。また、[[EAFF E-1サッカー選手権|東アジアサッカー選手権]]にも未出場となっている。
=== 競技場 ===
* [[相撲宮殿]]([[ウランバートル]])
* [[ナショナル・スポーツ・スタジアム (モンゴル)|ナショナル・スポーツ・スタジアム]](ウランバートル)
* [[MFFフットボールセンター]](ウランバートル)
=== 関連画像 ===
<gallery style="text-align:center;" mode="packed" heights="130px">
ファイル:Eagles_and_Hunters.JPG|[[カザフ人|カザフ民族]]の[[猟師]]と[[鷲]]
ファイル:Mongolskie_zapasy_na_lokalnym_festiwalu_Naadam_(24).jpg|[[ブフ]]([[相撲|モンゴル相撲]])の試合
ファイル:Naadamceremony2006.jpg|2006年の[[ナーダム]]祭り
ファイル:Naadam_women_archery.jpg|女の[[弓術]]・ナーダム
ファイル:Naadam.jpg|モンゴルの伝統騎手
</gallery>
== 出身者 ==
{{Main|モンゴル人の一覧|Category:モンゴル国の人物}}
=== 大相撲力士 ===
{{Main|モンゴル出身横綱一覧|モンゴル出身力士一覧}}
{{Col-begin}}
{{Col-2}}
* [[朝青龍明徳]](史上初のモンゴル人[[横綱]])
* [[旭鷲山昇]](史上初のモンゴル人[[関取]])
* [[旭天鵬勝]](史上初のモンゴル出身[[年寄|親方]])
* [[白鵬翔]](2人目のモンゴル人横綱)
* [[日馬富士公平]](3人目のモンゴル人横綱)
* [[鶴竜力三郎]](4人目のモンゴル人横綱)
* [[照ノ富士春雄]](5人目のモンゴル人横綱)
* [[逸ノ城駿]]
* [[鬼嵐力]]
* [[鏡桜南二]]
* [[旭秀鵬滉規]]
* [[光龍忠晴]]
* [[魁猛]]
* [[翔天狼大士]]
* [[城ノ龍允]]
* [[青狼武士]]
{{Col-2}}
* [[千昇秀貴]]
* [[大勇武龍泉]]
* [[貴ノ岩義司]]
* [[玉鷲一朗]]
* [[千代翔馬富士雄]]
* [[時天空慶晃]]
* [[徳瀬川正直]]
* [[白馬毅]]
* [[朝赤龍太郎]]
* [[東龍強]]
* [[荒鷲毅]]
* [[豊昇龍智勝]]
* [[星風芳宏]]
* [[保志光信一]]
* [[猛虎浪栄]]
* [[龍皇昇]]
{{Col-end}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
-->
{{Reflist|2|refs=
<ref name="imf201410">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=948&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=43&pr.y=13|title=World Economic Outlook Database, October 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-10|accessdate=2014-10-12}}</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[モンゴル関係記事の一覧]]
* [[モンゴル帝国]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Монгол улс|Mongolia}}
; 政府
* [https://zasag.mn/ モンゴル国政府] {{mn icon}}{{en icon}}
* [https://tokyo.embassy.mn/jpn/ 駐日モンゴル国大使館] {{mn icon}}{{ja icon}}
* [https://globalnewsview.org/ GNVニュースサイト]
; 法律
* [https://www.lexadin.nl/wlg/legis/nofr/oeur/lxwemon.htm Legislation Mongolia]
** モンゴル法典の英訳(憲法、民法、土地法、会社法、倒産法、消費者保護法、労働法、特許法)
* [https://www.moj.go.jp/content/000010265.pdf 田中嘉寿子「モンゴルの司法制度と司法改革の状況」]
** 日本による[[法整備支援]]の一環としての調査。
* [https://www.law.nagoya-u.ac.jp/ls/review/_userdata/09-10.pdf 舟橋智久「在モンゴル日本法センターにおける日本法講師体験]
** モンゴルでは法典整備は比較的進んでいるものの、起草支援を行った国が異なるため、各法典間の整合性が問題となっている。そのため今後の法整備支援の焦点は、そういた整合性を実現するための裁判や立法を担う人材育成であるとの指摘がされている。
; 日本政府
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/mongolia/ 日本外務省 - モンゴル国] {{ja icon}}
* [https://www.mn.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在モンゴル日本国大使館] {{ja icon}}
; 観光
* [http://www.mongoliatourism.gov.mn/ モンゴル国政府自然環境観光省観光局]{{en icon}}
* [https://www.travelmongolia.org/ モンゴル旅行業協会] {{mn icon}}
* [https://www.enjoymongolia.mn/ モンゴル旅行業協会日本委員会] {{ja icon}}
* [http://www.mtaj.org// モンゴル旅行業協会日本支部] {{ja icon}}
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コンゴ共和国
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コンゴ共和国(コンゴきょうわこく)は、中部アフリカに位置する共和制国家。東にコンゴ民主共和国、北にカメルーンと中央アフリカ共和国、西にガボン、南にアンゴラの飛地カビンダと国境を接している。首都はブラザヴィルである。
同国はバントゥー語で「山」を意味するコンゴと呼ばれる地域の一部から成り立っている。
コンゴに存在する同名の二国地域とアンゴラ北部は15世紀ごろまではコンゴ王国の一体的な領域だったが、16世紀にポルトガルによる征服を経た後に、19世紀のベルリン会議でベルギー領(現在のコンゴ民主共和国)とフランス領(現在のコンゴ共和国)とポルトガル領(現在のアンゴラ)に分けられた。
なお、1970年から1991年までの期間はコンゴ人民共和国という国名だった。
正式名称はフランス語で République du Congo。
公式の英語表記は Republic of the Congo。
日本語の表記はコンゴ共和国。「コンゴ」はバントゥー語で「山」を意味する。
コンゴ共和国の正式名称は2度の変更を経ている。1960年の独立時には現在と同じコンゴ共和国だったのだが、1969年にマリアン・ングアビ政権の元でコンゴ人民共和国に改称され、1991年に再びコンゴ共和国へと名称が戻された。
1960年から1964年の間、現在のコンゴ民主共和国も「コンゴ共和国」を正式国名としており、区別のために首都名を付してコンゴ・ブラザヴィルなどと呼ばれた。一方、コンゴ民主共和国がザイール共和国と改称していた1971年-1997年の期間はコンゴ(人民)共和国を指す二つ名として単にコンゴとも通されていた。国連には「コンゴ(ブラザヴィル)」として加盟し、1970年に「コンゴ人民共和国」へ、1971年11月15日に「コンゴ (Congo)」へそれぞれ改名している。ザイール共和国が1997年にコンゴ民主共和国へ名称を戻した後も、コンゴ共和国は「コンゴ (Congo)」として加盟している。
ポルトガル人が大航海時代の15世紀に到来したとき、海岸地域はコンゴ王国の統治下にあった。コンゴ王国はポルトガルと盛んに交易を行ったものの、奴隷貿易などで徐々に衰退していった。1550年にコンゴ王国の北部がロアンゴ王国(英語版)として独立し、1882年まで続いた。
19世紀後半にはフランスがこの地域に進出し、オゴウェ川流域から進入したピエール・ブラザによって1880年には現在のブラザヴィル周辺のコンゴ川北岸がフランスの勢力圏となり、フランス領コンゴが成立した。1885年のベルリン会議によってこの地域の支配権が対外的にも承認され、フランスはコンゴ川に沿ってさらに勢力を拡大していった。1905年には中央コンゴに改称されるとともに西部をガボン、北部をウバンギ・シャリおよびチャドに分割し、1910年にはガボンおよびウバンギ・シャリとの連合によって中部コンゴはフランス領赤道アフリカの一部となった。中部コンゴと周辺植民地との境界はしばしば変更されたが、最終的に1946年にオートオゴウェ州がコンゴからガボンに帰属変更され、オゴウェ・コンゴ両河川の分水界が境界となることで領域が固定した。
フランスの植民地政策は1920年代までは特許会社を通じた収奪的なもので、同化政策はほぼ行われなかった。一方1920年代後半に入ると、社会運動家のアンドレ・マツワが原住民友愛協会をパリで組織し、黒人差別反対を唱えて盛んに活動を行った。マツワは1929年に逮捕されてブラザヴィルに送還され、さらにチャドへと流されたが、この運動はやがてマツワニズムとしてマツワをあがめる宗教運動へと変質するとともに、コンゴの民族主義運動のはしりと見なされるようになった。1930年代に入ると植民地政府の手で徐々に開発が進められ、1934年には首府のブラザヴィルと外港のポワントノワール間にコンゴ・オセアン鉄道が開通したものの、経済面や教育面などで開発は非常に遅々としたものにとどまっていた。第二次世界大戦においてはコンゴ植民地はほかの赤道アフリカ植民地と歩調を合わせて自由フランス支持を早期に表明した。1946年にはフランス議会に議席を獲得し、また赤道アフリカ大評議会と中央コンゴ領域議会が同時に設置された。1958年には国民投票により、フランス共同体内の自治共和国となった。当時、コンゴ政界はフェリックス・チカヤのコンゴ進歩党(PPC)、ムボチ人を主体とするジャック・オパンゴールのアフリカ人社会主義運動(MSA)、そしてラリ族(英語版、フランス語版)を主体とするフルベール・ユールーのアフリカ人利益擁護民主連合(UDDIA)の三党鼎立の状態にあったが、進歩党は1957年には失速し、MSAとUDDIAの有力二党の選挙戦で1958年にUDDIAが勝利を収め、ユールーが自治共和国の首相となった。
1960年にはコンゴ共和国として正式独立し、大統領には親仏派のフルベール・ユールーが就任した。しかしユールー政権の腐敗および独裁に対する不満が高まり、1963年8月13日には首都ブラザヴィルで人民が蜂起。「8月革命」が起こり、わずか3日間でユールー政権を打倒した。8月16日には穏健左派のアルフォンセ・マサンバ=デバが大統領に就任し、外国系企業の国有化、フランス軍基地の撤去、「経済開発計画」(1964~1969年)に基く工業化、古い国家機構の改革など、民族民主革命を実行する政策を追求する社会主義路線を歩んだ。しかし党や軍の下級層が急進化してマサンバ=デバ政権と対立するようになり、1968年にはマリアン・ングアビ大尉によるクーデターが勃発してマサンバ=デバは失脚し、ングアビが代わって大統領に就任した。ングアビ政権はさらに左派寄りの立場を鮮明にし、1969年12月には国名を「コンゴ人民共和国」と改め、コンゴ労働党(PCT)を設立して一党独裁制を取るとともに、マルクス=レーニン主義に基づく国造りを進めた。
1977年3月にングアビは暗殺され、首謀者とみなされたマサンバ=デバなど数人の要人が軍部に処刑された。政権はジョアキム・ヨンビ=オパンゴが継いだ。
1979年にはヨンビ=オパンゴに代わり、ドニ・サスヌゲソが政権の座に就いた。その後1990年代に入ると近隣諸国と同様にコンゴでも民主化要求が強まり、1991年にはサスヌゲソの役割が儀礼上のものにとどめられるようになるとともに、複数政党制が導入され、共産主義を放棄して国名を「コンゴ人民共和国」から独立時の「コンゴ共和国」に戻し、国旗も変更された。1992年の選挙では、北部に基盤を置きサスヌゲソが率いるコンゴ労働党、南部に基盤を置きパスカル・リスバの率いる社会民主主義パン・アフリカン連合(UPADS)、そして中部および首都ブラザヴィルに基盤を置きベルナール・コレラ(英語版)が率いるコンゴ民主統合発展運動(英語版)(MCDDI)の有力三党が対決し、UPADSが勝利してリスバが大統領に就任した。
しかし、各政党はサスヌゲソ派の「コブラ」、リスバ派の「ズールー」、そしてコレラ派の「ニンジャ」といった私兵を抱えて対立を続け、1993年6月にはリスバが連立相手である民主開発戦線(RDD)のヨンビ=オパンゴ元大統領を首相に任命したのを機に衝突が起きてコンゴ共和国内戦(英語版)が勃発した。1994年1月には停戦が成立し同年8月にはコレラがブラザヴィル市長に就任したものの、各党は私兵を抱えたままであり、不穏な情勢は続いていた。1997年6月には戦闘が再開され、サスヌゲソ派とリスバ派の両私兵集団が戦闘と虐殺を繰り広げ、そして9月にリスバがコレラを首相に任命して同盟を組んだことでコレラ派のニンジャも戦闘に加わった。この内戦は結局、10月にサスヌゲソ派がリスバ・コレラ連合を破って首都を制圧し、1999年12月には停戦合意が行われたことで終結した。
大統領に再度就任したサスヌゲソは権力基盤を固めることに成功し、以後の選挙でも再選を重ねている。一方で私兵集団の武装解除は遅れ、特にニンジャは2003年の和平合意後コレラの統制下を離れてフレデリック・ビツァング(英語版)(通称ントゥミ牧師)率いるレジスタンス国民会議のもとで武装闘争を継続し、首都周辺で襲撃を繰り返した。2016年にもブラザヴィルでニンジャによるとみられる襲撃があり、5人が死亡している。この襲撃は、2017年に両勢力間で和平合意が成立するまで続いた。
コンゴの共和国議会は二院制を取っている。コンゴ共和国は複数政党制民主主義を称しているが、与党コンゴ労働党 (Parti Congolais du Travail、Congolese Labour Party、PCT)の勢力が非常に強い。大統領のドニ・サスヌゲソは1979年から1992年まで一党制時代の大統領を務め、その後1997年の内戦に勝利して以降再び長期にわたって政権の座にあるが、独裁的な傾向や腐敗が度々指摘されている。2015年には憲法改正によって大統領の三選禁止規定が撤廃され、2016年の大統領選挙でもサスヌゲソが再選されたものの、野党勢力は選挙不正に対して抗議を行っている。
このほか野党としては、次のものがある。
このうち、UPADSとMCDDIは1997年まで現与党と激しい内戦を繰り広げており、その後も議会内野党となっているが勢力は大きくない。
旧宗主国であるフランスとの関係が強く、2017年にコンゴが受け取った政府開発援助の半分以上がフランス拠出のものであったが、一方で1970年代にマルクス・レーニン主義を取っていたこともあって伝統的に中華人民共和国との関係も深く、巨額の融資を受け取るなど経済的関係も強くなってきている。
国土の南部にあるシャイユ山地(フランス語版)に低い分水界が走っており、これによって水系は二分されている。分水界の南西部は主にクイルー川の水系となっており、丘陵や山地が多く起伏が激しい地形となっているためクイルー川の航行は不能である。北西端にはナベンバ山があり、その高さは1,020mと同国の山では最高峰となっている。海岸部近くにはマヨンベ山地(フランス語版)が走り、そこから海岸まではわずかな平野が広がっている。一方分水界より北東はコンゴ川流域となっており、流域南部のバテケ高原からガボン国境にかけては山地が広がるものの、東部は広大なコンゴ盆地の一部であり、高低差の少ない平坦な地形となっている。西部のガボンとの国境はおおむねオゴウェ川流域とコンゴ川流域の分水界に沿ったものになっている。北部はコンゴ川の支流であるウバンギ川が、中部はコンゴ川本流がコンゴ民主共和国との国境をなしている。コンゴ川本流部の南端にはマレボ湖が存在し、コンゴ盆地と急流部の境界となっているほか、マレボ湖北端には首都ブラザヴィルが存在する。また、マレボ湖に浮かぶ中州であるンバモウ島はコンゴ共和国領となっている。
気候は全般的に高温多湿で、首都ブラザヴィルの年平均気温は25°C、年降水量は1473mmである。気候は南部がサバナ気候(Aw)に属し、北上するほど降水量が多くなって、北部は熱帯モンスーン気候(Am)や熱帯雨林気候(Af)の地域が多くなっている。海岸部から国土中部のバテケ高原付近までは、熱帯雨林の広がるマヨンベ・シャイユの両山地以外はサバンナが広がり、北部は熱帯雨林となっている。北東部のコンゴ川とサンガ川の間には広大な浸水林地帯が広がっている。国土北端のヌアバレ=ンドキ国立公園(英語版)は隣接するカメルーンおよび中央アフリカの国立公園とともに、2012年にサンガ川流域の3か国保護地域として世界遺産に登録された。
コンゴ共和国は12の県(フランス語:Département)に分かれている。括弧内の地名は県庁所在地である。このうち、ブラザヴィルとポワントノワールは県を兼ねている(特別市)。
最大都市は首都のブラザヴィル(都市圏人口189万人、2015年)である。ブラザヴィルは政治機能が集中しているほか、コンゴ川水運の終着点にあたるブラザヴィル港があり、国内北部の物流の結節点ともなっている。これに次ぐ都市は大西洋に面する港湾都市ポワントノワール(都市圏人口97万人、2015年)である。ポワントノワールはコンゴの対外貿易の大半を担う貿易港であり、また沖合の油田地帯の開発拠点ともなっている。コンゴの大都市としてはこの2都市が突出しており、これ以外に国内に人口10万人を超える都市は存在しない。
天然ガス、カリ鉱石、鉛、亜鉛などの資源も存在するが開発はあまり進んでおらず、GDPの5割以上、輸出額の61.2%(2014年)を原油に頼っている状況である。石油の生産は、ギニア湾に面したクイルー地方に集中しており、他の地域との経済格差も大きい。2018年には石油輸出国機構(OPEC)に加盟した。2009年にはシャイユ山地のマヨコで鉄鉱石の採掘がはじまった。
また1990年代後半は出所不詳のダイヤモンド原石の輸出もみられるようになり、紛争ダイヤモンドの横流し輸出が行われているのではないかとの指摘もなされるようになった。2004年に、紛争ダイヤモンドの流通防止を行うワールド・ダイヤモンド・カウンシルは、現地視察の結果を踏まえ、コンゴ共和国からのダイヤモンドの輸入を控えるよう呼びかけている。
自給自足的で、国民の基礎食糧となるキャッサバの生産が盛んに行われている。商品作物はサトウキビ、ラッカセイ、タバコ、アブラヤシ、コーヒー、カカオなどがあるが、いずれも独立後の経済開発の失敗によって生産は停滞しており、経済に対し大きな意味は持っていない。林業は独立時には主要産業であり、木材は輸出の約6割を占める主力輸出品であったが、その後石油産業の成長によって割合は小さくなり、2014年には輸出の0.9%にまで縮小した。しかし重要な産業であることには変わりなく、かつてはマヨンベ山地が、1960年代以降はコミログ支線沿いのシャイユ山地が主な産地となっている。北部の熱帯雨林の林業開発は進んでいない。
コンゴ最大の港湾は海に面するポワントノワール港であり、周辺諸国を除く輸出入の大半がこの港で行われる。一方、ポワントノワールから内陸に入ると山岳地帯となるため、国内各地との連絡は良好とは言い難い。これを解消するため、1934年にはポワントノワールと首都ブラザビルとを結ぶコンゴ・オセアン鉄道が建設され、1962年には途中のモンベロからガボンとの国境の町ムビンダまでCOMILOG支線が建設された。
ブラザビルはコンゴ川の航行可能部の末端であるマレボ湖に面しており、これより上流の地域とは盛んに水運が行われ、内陸部の交通結節点・集散地となっている。コンゴ川本流のみならず、支流のウバンギ川は中央アフリカの首都バンギまで、サンガ川は国土北端のウェッソを通って中央アフリカのノラまで航行が可能であり、これも重要な輸送ルートとなっている。また、マレボ湖の対岸に位置するコンゴ民主共和国の首都キンシャサとはフェリー便の連絡がある。
空運では、ブラザビルのマヤマヤ空港と、ポワントノワール空港の二つの国際空港が存在する。
コンゴ・オセアン鉄道ならびにポワントノワール港はコンゴ川水運と鉄道でつながっており、中央アフリカやチャドの外港としての役割も存在するものの、両国のポワントノワール貿易量に対する割合はさほど大きなものではない。
ムビンダからガボンのモアンダまでは1959年に世界最長のロープウェイであるCOMILOGロープウェイが開通しており、この支線の建設によってモアンダ鉱山のマンガン輸送ルートが確立し、ポワントノワール港の重要取扱品となったが、1986年にトランスガボン鉄道がモアンダまで開通するとマンガンはガボン国内を輸送されることとなり、ロープウェイは廃止された。COMILOG支線も同時に廃止される予定であったが、沿線の木材輸送需要が大きかったため存続することになり、2009年以降は鉄鉱石輸送も加わることとなった。
コンゴ共和国の人口は急増を続けており、独立直後の1962年に82万人だった人口は1986年には179万人、2017年には526万人にまで増加した。
コンゴ共和国の住民の内、コンゴ人が48%、サンガ人(英語版)が20%、ムボチ人(英語版)が12%、テケ人(英語版)が17%となり、ヨーロッパ人やその他(ピグミーは2%)が3%となる。コンゴは民族対立の激しい国であり、特にコンゴ人を中心とする北部とムボチ人を中心とする南部の対立が激しい。この民族対立は、1993年から1997年までのコンゴ共和国内戦における要因の一つとなった。
公用語はフランス語であり、コンゴ語やリンガラ語、ムヌクツバ語などが話され、その他にも地方諸語が存在する。
国民の宗教動態は、カトリック教会を中心としたキリスト教が50%、アニミズムが48%、イスラム教が2%である。
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は83.8%(男性:89.6%、女性:78.4%)である。2005年にはGDPの1.9%が教育に支出された。
主な高等教育機関としてマリアン・ングアビ大学(1971)の名が挙げられる。
コンゴ共和国における2007年のHIV感染者は推計で79,000人であり、感染率は3.5%である。2010年のコンゴ共和国人の平均寿命は54.54歳(男性:53.27歳、女性:55.84歳)である。
コンゴ共和国の治安は酷く悪いものとなっている。2016年3月20日の大統領選挙にてサスヌゲソが60%以上の票を得て再選されたのを受け、同年4月4日にブラザビル市南部で、この結果に反対していると目されるントゥミ牧師が指導者の武装集団(ニンジャ)と政府側との間で銃撃戦が発生した。以来1年半余りに渡って両者の間で軍事衝突が続いていたが、2017年12月23日にプール県都キンカラで政府とントゥミ牧師派間で「停戦」及び「敵対行為の中止」にかかる合意書への署名が行われ、以降は治安情勢が比較的安定しているものの、プール県南部及び中央アフリカ国境などの一部地域では輸送車両に対する襲撃、身代金目的の誘拐などの犯罪発生を含め、依然として緊張状態が継続している。
これに絡む形で治安が急速に悪化する可能性がある為、情勢の変化には引き続き充分に注意する必要が求められる。
コンゴ共和国におけるメディアは、広範な非識字状態や経済の未発達など、多くの要因によって厳しく制限されている事態に陥っている。
同国の国民は日ごろから情報の収集をラジオ放送に依存してしまっているが、これは主に非識字率が高いことに起因するものである。
ソニー・ラブ=タンシの『一つ半の生命』(1979年)は、ル・マタン(フランス語版、英語版)紙などで注目され、発表以降のアフリカ文学全体に多大な影響を及ぼした。
コンゴ共和国では他のアフリカ諸国同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1961年にサッカーリーグのコンゴ・プレミアリーグ(英語版)が創設された。コンゴ共和国サッカー連盟(英語版)によって構成されるサッカーコンゴ共和国代表は、FIFAワールドカップには未出場である。しかしアフリカネイションズカップには6度出場しており、1972年大会では優勝に輝いている。
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"text": "1977年3月にングアビは暗殺され、首謀者とみなされたマサンバ=デバなど数人の要人が軍部に処刑された。政権はジョアキム・ヨンビ=オパンゴが継いだ。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "1979年にはヨンビ=オパンゴに代わり、ドニ・サスヌゲソが政権の座に就いた。その後1990年代に入ると近隣諸国と同様にコンゴでも民主化要求が強まり、1991年にはサスヌゲソの役割が儀礼上のものにとどめられるようになるとともに、複数政党制が導入され、共産主義を放棄して国名を「コンゴ人民共和国」から独立時の「コンゴ共和国」に戻し、国旗も変更された。1992年の選挙では、北部に基盤を置きサスヌゲソが率いるコンゴ労働党、南部に基盤を置きパスカル・リスバの率いる社会民主主義パン・アフリカン連合(UPADS)、そして中部および首都ブラザヴィルに基盤を置きベルナール・コレラ(英語版)が率いるコンゴ民主統合発展運動(英語版)(MCDDI)の有力三党が対決し、UPADSが勝利してリスバが大統領に就任した。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、各政党はサスヌゲソ派の「コブラ」、リスバ派の「ズールー」、そしてコレラ派の「ニンジャ」といった私兵を抱えて対立を続け、1993年6月にはリスバが連立相手である民主開発戦線(RDD)のヨンビ=オパンゴ元大統領を首相に任命したのを機に衝突が起きてコンゴ共和国内戦(英語版)が勃発した。1994年1月には停戦が成立し同年8月にはコレラがブラザヴィル市長に就任したものの、各党は私兵を抱えたままであり、不穏な情勢は続いていた。1997年6月には戦闘が再開され、サスヌゲソ派とリスバ派の両私兵集団が戦闘と虐殺を繰り広げ、そして9月にリスバがコレラを首相に任命して同盟を組んだことでコレラ派のニンジャも戦闘に加わった。この内戦は結局、10月にサスヌゲソ派がリスバ・コレラ連合を破って首都を制圧し、1999年12月には停戦合意が行われたことで終結した。",
"title": "歴史"
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"text": "大統領に再度就任したサスヌゲソは権力基盤を固めることに成功し、以後の選挙でも再選を重ねている。一方で私兵集団の武装解除は遅れ、特にニンジャは2003年の和平合意後コレラの統制下を離れてフレデリック・ビツァング(英語版)(通称ントゥミ牧師)率いるレジスタンス国民会議のもとで武装闘争を継続し、首都周辺で襲撃を繰り返した。2016年にもブラザヴィルでニンジャによるとみられる襲撃があり、5人が死亡している。この襲撃は、2017年に両勢力間で和平合意が成立するまで続いた。",
"title": "歴史"
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"text": "コンゴの共和国議会は二院制を取っている。コンゴ共和国は複数政党制民主主義を称しているが、与党コンゴ労働党 (Parti Congolais du Travail、Congolese Labour Party、PCT)の勢力が非常に強い。大統領のドニ・サスヌゲソは1979年から1992年まで一党制時代の大統領を務め、その後1997年の内戦に勝利して以降再び長期にわたって政権の座にあるが、独裁的な傾向や腐敗が度々指摘されている。2015年には憲法改正によって大統領の三選禁止規定が撤廃され、2016年の大統領選挙でもサスヌゲソが再選されたものの、野党勢力は選挙不正に対して抗議を行っている。",
"title": "政治"
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"text": "このほか野党としては、次のものがある。",
"title": "政治"
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{
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"text": "このうち、UPADSとMCDDIは1997年まで現与党と激しい内戦を繰り広げており、その後も議会内野党となっているが勢力は大きくない。",
"title": "政治"
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{
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"text": "旧宗主国であるフランスとの関係が強く、2017年にコンゴが受け取った政府開発援助の半分以上がフランス拠出のものであったが、一方で1970年代にマルクス・レーニン主義を取っていたこともあって伝統的に中華人民共和国との関係も深く、巨額の融資を受け取るなど経済的関係も強くなってきている。",
"title": "国際関係"
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{
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"text": "国土の南部にあるシャイユ山地(フランス語版)に低い分水界が走っており、これによって水系は二分されている。分水界の南西部は主にクイルー川の水系となっており、丘陵や山地が多く起伏が激しい地形となっているためクイルー川の航行は不能である。北西端にはナベンバ山があり、その高さは1,020mと同国の山では最高峰となっている。海岸部近くにはマヨンベ山地(フランス語版)が走り、そこから海岸まではわずかな平野が広がっている。一方分水界より北東はコンゴ川流域となっており、流域南部のバテケ高原からガボン国境にかけては山地が広がるものの、東部は広大なコンゴ盆地の一部であり、高低差の少ない平坦な地形となっている。西部のガボンとの国境はおおむねオゴウェ川流域とコンゴ川流域の分水界に沿ったものになっている。北部はコンゴ川の支流であるウバンギ川が、中部はコンゴ川本流がコンゴ民主共和国との国境をなしている。コンゴ川本流部の南端にはマレボ湖が存在し、コンゴ盆地と急流部の境界となっているほか、マレボ湖北端には首都ブラザヴィルが存在する。また、マレボ湖に浮かぶ中州であるンバモウ島はコンゴ共和国領となっている。",
"title": "地理"
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"text": "気候は全般的に高温多湿で、首都ブラザヴィルの年平均気温は25°C、年降水量は1473mmである。気候は南部がサバナ気候(Aw)に属し、北上するほど降水量が多くなって、北部は熱帯モンスーン気候(Am)や熱帯雨林気候(Af)の地域が多くなっている。海岸部から国土中部のバテケ高原付近までは、熱帯雨林の広がるマヨンベ・シャイユの両山地以外はサバンナが広がり、北部は熱帯雨林となっている。北東部のコンゴ川とサンガ川の間には広大な浸水林地帯が広がっている。国土北端のヌアバレ=ンドキ国立公園(英語版)は隣接するカメルーンおよび中央アフリカの国立公園とともに、2012年にサンガ川流域の3か国保護地域として世界遺産に登録された。",
"title": "地理"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "コンゴ共和国は12の県(フランス語:Département)に分かれている。括弧内の地名は県庁所在地である。このうち、ブラザヴィルとポワントノワールは県を兼ねている(特別市)。",
"title": "地方行政区分"
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{
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"text": "最大都市は首都のブラザヴィル(都市圏人口189万人、2015年)である。ブラザヴィルは政治機能が集中しているほか、コンゴ川水運の終着点にあたるブラザヴィル港があり、国内北部の物流の結節点ともなっている。これに次ぐ都市は大西洋に面する港湾都市ポワントノワール(都市圏人口97万人、2015年)である。ポワントノワールはコンゴの対外貿易の大半を担う貿易港であり、また沖合の油田地帯の開発拠点ともなっている。コンゴの大都市としてはこの2都市が突出しており、これ以外に国内に人口10万人を超える都市は存在しない。",
"title": "地方行政区分"
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"text": "天然ガス、カリ鉱石、鉛、亜鉛などの資源も存在するが開発はあまり進んでおらず、GDPの5割以上、輸出額の61.2%(2014年)を原油に頼っている状況である。石油の生産は、ギニア湾に面したクイルー地方に集中しており、他の地域との経済格差も大きい。2018年には石油輸出国機構(OPEC)に加盟した。2009年にはシャイユ山地のマヨコで鉄鉱石の採掘がはじまった。",
"title": "経済"
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"text": "また1990年代後半は出所不詳のダイヤモンド原石の輸出もみられるようになり、紛争ダイヤモンドの横流し輸出が行われているのではないかとの指摘もなされるようになった。2004年に、紛争ダイヤモンドの流通防止を行うワールド・ダイヤモンド・カウンシルは、現地視察の結果を踏まえ、コンゴ共和国からのダイヤモンドの輸入を控えるよう呼びかけている。",
"title": "経済"
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{
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"text": "自給自足的で、国民の基礎食糧となるキャッサバの生産が盛んに行われている。商品作物はサトウキビ、ラッカセイ、タバコ、アブラヤシ、コーヒー、カカオなどがあるが、いずれも独立後の経済開発の失敗によって生産は停滞しており、経済に対し大きな意味は持っていない。林業は独立時には主要産業であり、木材は輸出の約6割を占める主力輸出品であったが、その後石油産業の成長によって割合は小さくなり、2014年には輸出の0.9%にまで縮小した。しかし重要な産業であることには変わりなく、かつてはマヨンベ山地が、1960年代以降はコミログ支線沿いのシャイユ山地が主な産地となっている。北部の熱帯雨林の林業開発は進んでいない。",
"title": "経済"
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{
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"text": "コンゴ最大の港湾は海に面するポワントノワール港であり、周辺諸国を除く輸出入の大半がこの港で行われる。一方、ポワントノワールから内陸に入ると山岳地帯となるため、国内各地との連絡は良好とは言い難い。これを解消するため、1934年にはポワントノワールと首都ブラザビルとを結ぶコンゴ・オセアン鉄道が建設され、1962年には途中のモンベロからガボンとの国境の町ムビンダまでCOMILOG支線が建設された。",
"title": "交通"
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{
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"text": "ブラザビルはコンゴ川の航行可能部の末端であるマレボ湖に面しており、これより上流の地域とは盛んに水運が行われ、内陸部の交通結節点・集散地となっている。コンゴ川本流のみならず、支流のウバンギ川は中央アフリカの首都バンギまで、サンガ川は国土北端のウェッソを通って中央アフリカのノラまで航行が可能であり、これも重要な輸送ルートとなっている。また、マレボ湖の対岸に位置するコンゴ民主共和国の首都キンシャサとはフェリー便の連絡がある。",
"title": "交通"
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{
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"text": "空運では、ブラザビルのマヤマヤ空港と、ポワントノワール空港の二つの国際空港が存在する。",
"title": "交通"
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"text": "コンゴ・オセアン鉄道ならびにポワントノワール港はコンゴ川水運と鉄道でつながっており、中央アフリカやチャドの外港としての役割も存在するものの、両国のポワントノワール貿易量に対する割合はさほど大きなものではない。",
"title": "交通"
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"text": "ムビンダからガボンのモアンダまでは1959年に世界最長のロープウェイであるCOMILOGロープウェイが開通しており、この支線の建設によってモアンダ鉱山のマンガン輸送ルートが確立し、ポワントノワール港の重要取扱品となったが、1986年にトランスガボン鉄道がモアンダまで開通するとマンガンはガボン国内を輸送されることとなり、ロープウェイは廃止された。COMILOG支線も同時に廃止される予定であったが、沿線の木材輸送需要が大きかったため存続することになり、2009年以降は鉄鉱石輸送も加わることとなった。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "コンゴ共和国の人口は急増を続けており、独立直後の1962年に82万人だった人口は1986年には179万人、2017年には526万人にまで増加した。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "コンゴ共和国の住民の内、コンゴ人が48%、サンガ人(英語版)が20%、ムボチ人(英語版)が12%、テケ人(英語版)が17%となり、ヨーロッパ人やその他(ピグミーは2%)が3%となる。コンゴは民族対立の激しい国であり、特にコンゴ人を中心とする北部とムボチ人を中心とする南部の対立が激しい。この民族対立は、1993年から1997年までのコンゴ共和国内戦における要因の一つとなった。",
"title": "国民"
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{
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"text": "公用語はフランス語であり、コンゴ語やリンガラ語、ムヌクツバ語などが話され、その他にも地方諸語が存在する。",
"title": "国民"
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{
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"text": "国民の宗教動態は、カトリック教会を中心としたキリスト教が50%、アニミズムが48%、イスラム教が2%である。",
"title": "国民"
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"text": "2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は83.8%(男性:89.6%、女性:78.4%)である。2005年にはGDPの1.9%が教育に支出された。",
"title": "国民"
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"text": "主な高等教育機関としてマリアン・ングアビ大学(1971)の名が挙げられる。",
"title": "国民"
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{
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"text": "コンゴ共和国における2007年のHIV感染者は推計で79,000人であり、感染率は3.5%である。2010年のコンゴ共和国人の平均寿命は54.54歳(男性:53.27歳、女性:55.84歳)である。",
"title": "国民"
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"text": "コンゴ共和国の治安は酷く悪いものとなっている。2016年3月20日の大統領選挙にてサスヌゲソが60%以上の票を得て再選されたのを受け、同年4月4日にブラザビル市南部で、この結果に反対していると目されるントゥミ牧師が指導者の武装集団(ニンジャ)と政府側との間で銃撃戦が発生した。以来1年半余りに渡って両者の間で軍事衝突が続いていたが、2017年12月23日にプール県都キンカラで政府とントゥミ牧師派間で「停戦」及び「敵対行為の中止」にかかる合意書への署名が行われ、以降は治安情勢が比較的安定しているものの、プール県南部及び中央アフリカ国境などの一部地域では輸送車両に対する襲撃、身代金目的の誘拐などの犯罪発生を含め、依然として緊張状態が継続している。",
"title": "治安"
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{
"paragraph_id": 41,
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"text": "これに絡む形で治安が急速に悪化する可能性がある為、情勢の変化には引き続き充分に注意する必要が求められる。",
"title": "治安"
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"tag": "p",
"text": "コンゴ共和国におけるメディアは、広範な非識字状態や経済の未発達など、多くの要因によって厳しく制限されている事態に陥っている。",
"title": "メディア"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "同国の国民は日ごろから情報の収集をラジオ放送に依存してしまっているが、これは主に非識字率が高いことに起因するものである。",
"title": "メディア"
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{
"paragraph_id": 44,
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"text": "ソニー・ラブ=タンシの『一つ半の生命』(1979年)は、ル・マタン(フランス語版、英語版)紙などで注目され、発表以降のアフリカ文学全体に多大な影響を及ぼした。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 45,
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"text": "コンゴ共和国では他のアフリカ諸国同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1961年にサッカーリーグのコンゴ・プレミアリーグ(英語版)が創設された。コンゴ共和国サッカー連盟(英語版)によって構成されるサッカーコンゴ共和国代表は、FIFAワールドカップには未出場である。しかしアフリカネイションズカップには6度出場しており、1972年大会では優勝に輝いている。",
"title": "スポーツ"
}
] |
コンゴ共和国(コンゴきょうわこく)は、中部アフリカに位置する共和制国家。東にコンゴ民主共和国、北にカメルーンと中央アフリカ共和国、西にガボン、南にアンゴラの飛地カビンダと国境を接している。首都はブラザヴィルである。
|
{{Otheruseslist|ブラザヴィルに首都がある国家|キンシャサに首都がある国家|コンゴ民主共和国|キンシャサに首都がある国家の前身|コンゴ共和国 (レオポルドヴィル)}}
{{基礎情報 国
| 略名 = コンゴ共和国
| 日本語国名 = コンゴ共和国
| 公式国名 = '''{{Lang|fr|République du Congo}}'''
| 国旗画像 = Flag of the Republic of the Congo.svg
| 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of the Republic of the Congo.svg|100px|コンゴ共和国の国章]]
| 国章リンク =([[コンゴ共和国の国章|国章]])
| 標語 = ''{{Lang|fr|Unite, Travail, Progres}}''<br />(フランス語: 統一、労働、進歩)
| 位置画像 = Republic of the Congo (orthographic projection).svg
| 公用語 = [[フランス語]]
| 首都 = [[ブラザヴィル]]
| 最大都市 = ブラザヴィル
| 元首等肩書 = [[コンゴ共和国の大統領|大統領]]
| 元首等氏名 = [[ドニ・サスヌゲソ]]
| 首相等肩書 = [[コンゴ共和国の首相一覧|首相]]
| 首相等氏名 = {{ill2|アナトール・コリネット・マコッソ|en|Anatole Collinet Makosso}}
| 面積順位 = 62
| 面積大きさ = 1 E11
| 面積値 = 342,000
| 水面積率 = 0.1%
| 人口統計年 = 2020
| 人口順位 =116
| 人口大きさ = 1 E6
| 人口値 = 5,518,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/cg.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-10 }}</ref>
| 人口密度値 = 16.2<ref name=population/>
| GDP統計年元 = 2018
| GDP値元 = 7兆5778億1300万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月18日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=634,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2018&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref>
| GDP統計年MER = 2018
| GDP順位MER = 141
| GDP値MER = 136億4900万<ref name="economy" />
| GDP MER/人 = 3062.923<ref name="economy" />
| GDP統計年 = 2018
| GDP順位 = 124
| GDP値 = 211億2100万<ref name="economy" />
| GDP/人 = 4739.733<ref name="economy" />
| 建国形態 = [[独立]]<br /> - 日付
| 建国年月日 = [[フランス]]より<br />[[1960年]][[8月15日]]
| 通貨 = [[CFAフラン]]
| 通貨コード = XAF
| 時間帯 = (+1)
| 夏時間 = なし
| ISO 3166-1 = CG / COG
| ccTLD = [[.cg]]
| 国際電話番号 = 242
| 注記 =
|国歌=[[コンゴの歌|{{lang|fr|La Congolaise}}]]{{fr icon}}<br>''コンゴの歌''<br><center>[[ファイル:National anthem of the Republic of the Congo.oga]]}}
{{コンゴの歴史}}
'''コンゴ共和国'''(コンゴきょうわこく)は、[[中部アフリカ]]に位置する[[共和制]][[国家]]。東に[[コンゴ民主共和国]]、北に[[カメルーン]]と[[中央アフリカ共和国]]、西に[[ガボン]]、南に[[アンゴラ]]の[[飛地]][[カビンダ]]と国境を接している。首都は[[ブラザヴィル]]である。
== 概要 ==
同国は[[バントゥー語]]で「山」を意味する'''[[コンゴ]]'''と呼ばれる地域の一部から成り立っている。
コンゴに存在する同名の二国地域とアンゴラ北部は[[15世紀]]ごろまでは[[コンゴ王国]]の一体的な領域だったが、[[16世紀]]に[[ポルトガル]]による征服を経た後に、[[19世紀]]の[[ベルリン会議 (アフリカ分割)|ベルリン会議]]で[[ベルギー]]領(現在の'''コンゴ民主共和国''')と[[フランス]]領(現在の'''コンゴ共和国''')とポルトガル領(現在の'''アンゴラ''')に分けられた。
なお、1970年から1991年までの期間は'''[[コンゴ人民共和国]]'''という国名だった。
== 国名 ==
正式名称はフランス語で {{fr|République du Congo}}。
公式の英語表記は {{en|Republic of the Congo}}。
日本語の表記はコンゴ共和国。「コンゴ」は[[バントゥー語]]で「山」を意味する<ref>{{cite | title=外国地名由来辞典 | author=[[本保正紀]] | publisher=[[能登印刷出版部]] | year=1995 | chapter=コンゴ共和国 }}</ref>。
コンゴ共和国の正式名称は2度の変更を経ている。[[1960年]]の独立時には現在と同じコンゴ共和国だったのだが、1969年にマリアン・ングアビ政権の元で[[コンゴ人民共和国]]に改称され、[[1991年]]に再びコンゴ共和国へと名称が戻された。
1960年から1964年の間、現在の[[コンゴ民主共和国]]も「[[コンゴ共和国 (レオポルドヴィル)|コンゴ共和国]]」を正式国名としており<ref>{{cite web
|title={{lang|fr|Constitution de la République Démocratique du Congo du 1er août 1964}} (1964年8月1日のコンゴ民主共和国憲法)
|language=フランス語
|work={{lang|en|Global Legal Information Network}}
|url=http://www.glin.gov/view.action?glinID=191255
|year=1964
|accessdate=2012年6月12日
}} </ref><ref>{{cite web
|title={{lang|en|Chapter 4 - Government and Politics: Postindependence Political Development}}
|language=英語
|author={{lang|en|Thomas Turner}}
|work={{lang|en|A Country Study: Zaire (Former)}}
|page=3
|url=http://lcweb2.loc.gov/frd/cs/zrtoc.html
|year=1993
|publisher=[[アメリカ議会図書館]]
|accessdate=2012年6月12日
|quote={{lang|en|Zaire was formally called the Republic of the Congo from independence to August 1, 1964, when it became the Democratic Republic of the Congo.}}
}}</ref><ref>{{cite web
|title={{lang|en|Burundi–Democratic Republic of the Congo ''(Zaire)'' Boundary}}
|language=英語
|work={{lang|en|International Boundary Study}}
|url=http://www.law.fsu.edu/library/collection/LimitsinSeas/IBS048.pdf
|format=PDF
|date=1965年4月30日
|publisher=[[アメリカ合衆国国務省]]情報調査局
|accessdate=2012年6月12日
|quote={{lang|en|The name of the Republic of the Congo was officially changed to the Democratic Republic of the Congo on August 1, 1964.}}
}}</ref>、区別のために首都名を付して'''コンゴ・ブラザヴィル'''などと呼ばれた。一方、コンゴ民主共和国が'''[[ザイール|ザイール共和国]]'''と改称していた1971年-1997年の期間はコンゴ(人民)共和国を指す二つ名として単に'''コンゴ'''とも通されていた。[[国際連合|国連]]には「コンゴ(ブラザヴィル)」として加盟し、1970年に「コンゴ人民共和国」へ、1971年11月15日に「コンゴ (Congo)」へそれぞれ改名している。ザイール共和国が1997年にコンゴ民主共和国へ名称を戻した後も、コンゴ共和国は「コンゴ (Congo)」として加盟している<ref>{{Cite web |url=https://www.un.org/en/about-us/member-states/congo |title=Congo |publisher=国際連合 |accessdate=2021-09-18}}</ref>。
[[ファイル:French Congo.png|thumb|250px|フランス領コンゴ]]
== 歴史 ==
{{Main|{{仮リンク|コンゴ共和国の歴史|en|History of the Republic of the Congo}}}}
[[ポルトガル人]]が[[大航海時代]]の15世紀に到来したとき、海岸地域は[[コンゴ王国]]の[[統治]]下にあった。コンゴ王国はポルトガルと盛んに[[交易]]を行ったものの、[[奴隷貿易]]などで徐々に衰退していった。[[1550年]]にコンゴ王国の北部が{{仮リンク|ロアンゴ王国|en|Kingdom of Loango}}として独立し、[[1882年]]まで続いた。
=== フランス植民地時代 ===
19世紀後半にはフランスがこの地域に進出し、[[オゴウェ川]]流域から進入した[[ピエール・ブラザ]]によって1880年には現在のブラザヴィル周辺の[[コンゴ川]]北岸がフランスの勢力圏となり<ref>「世界現代史15 アフリカ現代史3」p48-49 小田英郎 山川出版社 昭和61年3月30日1版1刷発行</ref>、[[フランス領コンゴ]]が成立した。[[1885年]]のベルリン会議によってこの地域の支配権が対外的にも承認され、フランスはコンゴ川に沿ってさらに勢力を拡大していった<ref name="名前なし-1">田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店 p207 ISBN 4254166621</ref>。[[1905年]]には中央コンゴに改称されるとともに西部をガボン、北部をウバンギ・シャリおよびチャドに分割し、[[1910年]]にはガボンおよびウバンギ・シャリとの連合によって中部コンゴは[[フランス領赤道アフリカ]]の一部となった<ref>「世界現代史15 アフリカ現代史3」p63 小田英郎 山川出版社 昭和61年3月30日1版1刷発行</ref>。中部コンゴと周辺植民地との境界はしばしば変更されたが、最終的に1946年に[[オートオゴウェ州]]がコンゴからガボンに帰属変更され、オゴウェ・コンゴ両河川の分水界が境界となることで領域が固定した<ref name="名前なし-2">「西部・中部アフリカ」(ベラン世界地理体系9)p223 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2017年1月15日初版第1刷</ref>。
フランスの植民地政策は1920年代までは特許会社を通じた収奪的なもので、同化政策はほぼ行われなかった<ref>「世界現代史15 アフリカ現代史3」p64-65 小田英郎 山川出版社 昭和61年3月30日1版1刷発行</ref>。一方1920年代後半に入ると、[[社会運動家]]の[[アンドレ・マツワ]]が原住民友愛協会をパリで組織し、黒人差別反対を唱えて盛んに活動を行った。マツワは1929年に逮捕されてブラザヴィルに送還され、さらにチャドへと流されたが、この運動はやがて'''マツワニズム'''としてマツワをあがめる宗教運動へと変質するとともに、コンゴの民族主義運動のはしりと見なされるようになった<ref>「世界現代史15 アフリカ現代史3」p98-99 小田英郎 山川出版社 昭和61年3月30日1版1刷発行</ref>。1930年代に入ると植民地政府の手で徐々に開発が進められ、1934年には首府のブラザヴィルと外港のポワントノワール間にコンゴ・オセアン鉄道が開通したものの、経済面や教育面などで開発は非常に遅々としたものにとどまっていた<ref>「世界現代史15 アフリカ現代史3」p84-8 小田英郎 山川出版社 昭和61年3月30日1版1刷発行</ref>。第二次世界大戦においてはコンゴ植民地はほかの赤道アフリカ植民地と歩調を合わせて自由フランス支持を早期に表明した<ref>「世界現代史15 アフリカ現代史3」p106-107 小田英郎 山川出版社 昭和61年3月30日1版1刷発行</ref>。[[1946年]]にはフランス議会に議席を獲得し、また赤道アフリカ大評議会と中央コンゴ領域議会が同時に設置された<ref>「世界現代史15 アフリカ現代史3」p114 小田英郎 山川出版社 昭和61年3月30日1版1刷発行</ref>。[[1958年]]には国民投票により、[[フランス共同体]]内の自治共和国となった<ref name="名前なし-1"/>。当時、コンゴ政界はフェリックス・チカヤのコンゴ進歩党(PPC)、ムボチ人を主体とするジャック・オパンゴールのアフリカ人社会主義運動(MSA)、そして{{仮リンク|ラリ族|en|Lari people (Congo)|fr|Lari (peuple)}}を主体とする[[フルベール・ユールー]]のアフリカ人利益擁護民主連合(UDDIA)の三党鼎立の状態にあったが、進歩党は1957年には失速し、MSAとUDDIAの有力二党の選挙戦で1958年にUDDIAが勝利を収め<ref>『アフリカを知る事典』、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷 p.157-158</ref>、ユールーが自治共和国の首相となった<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」[[叢文社]] 2005年、p105 ISBN 4-7947-0523-9</ref>。
=== 独立 ===
{{main|コンゴ共和国の大統領}}
[[ファイル:Flag of the People's Republic of the Congo.svg|thumb|220px|[[コンゴ人民共和国]]時代の[[コンゴ共和国の国旗|国旗]]。]]
[[1960年]]にはコンゴ共和国として正式独立し、大統領には親仏派のフルベール・ユールーが就任した。しかしユールー政権の腐敗および独裁に対する不満が高まり、[[1963年]][[8月13日]]には首都[[ブラザヴィル]]で人民が蜂起。「[[8月革命]]」が起こり、わずか3日間でユールー政権を打倒した。[[8月16日]]には穏健左派の[[アルフォンセ・マサンバ=デバ]]が大統領に就任し、外国系企業の国有化、[[フランス軍]]基地の撤去、「経済開発計画」(1964~1969年)に基く工業化、古い国家機構の改革など、[[民族民主革命]]を実行する政策を追求する[[社会主義]]路線を歩んだ<ref>岡倉登志『アフリカの歴史-侵略と抵抗の軌跡』明石書店 2001年</ref>。しかし党や軍の下級層が急進化してマサンバ=デバ政権と対立するようになり、[[1968年]]には[[マリアン・ングアビ]]大尉によるクーデターが勃発してマサンバ=デバは失脚し、ングアビが代わって大統領に就任した。ングアビ政権はさらに左派寄りの立場を鮮明にし、[[1969年]]12月には国名を「[[コンゴ人民共和国]]」と改め、[[コンゴ労働党]](PCT)を設立して[[一党独裁制]]を取るとともに、[[マルクス=レーニン主義]]に基づく国造りを進めた<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」[[叢文社]] 2005年、111ページ ISBN 4-7947-0523-9</ref>。
[[1977年]]3月にングアビは暗殺され、首謀者とみなされたマサンバ=デバなど数人の要人が軍部に処刑された。政権は[[ジョアキム・ヨンビ=オパンゴ]]が継いだ<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」[[叢文社]] 2005年、206-207ページ ISBN 4-7947-0523-9</ref>。
=== サスヌゲソ政権 ===
[[1979年]]にはヨンビ=オパンゴに代わり、[[ドニ・サスヌゲソ]]が政権の座に就いた。その後1990年代に入ると近隣諸国と同様にコンゴでも民主化要求が強まり、1991年にはサスヌゲソの役割が儀礼上のものにとどめられるようになるとともに、複数政党制が導入され、[[共産主義]]を放棄して国名を「コンゴ人民共和国」から独立時の「コンゴ共和国」に戻し、国旗も変更された。[[1992年]]の選挙では、北部に基盤を置きサスヌゲソが率いるコンゴ労働党、南部に基盤を置き[[パスカル・リスバ]]の率いる[[社会民主主義パン・アフリカン連合]](UPADS)、そして中部および首都ブラザヴィルに基盤を置き{{仮リンク|ベルナール・コレラ|en|Bernard Kolélas}}が率いる{{仮リンク|コンゴ民主統合発展運動|en|Mouvement Congolais pour la Démocratie et la Développement Integral}}(MCDDI)の有力三党が対決し、UPADSが勝利してリスバが大統領に就任した<ref>田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店 p208 ISBN 4254166621</ref>。
しかし、各政党はサスヌゲソ派の「コブラ」、リスバ派の「ズールー」、そしてコレラ派の「[[ニンジャ (コンゴ共和国)|ニンジャ]]」といった[[私兵]]を抱えて対立を続け、[[1993年]]6月にはリスバが連立相手である民主開発戦線(RDD)のヨンビ=オパンゴ元大統領を首相に任命したのを機に衝突が起きて{{仮リンク|コンゴ共和国内戦 (1993年-1994年)|en|Republic of the Congo Civil War (1993–1994)|label=コンゴ共和国内戦}}が勃発した。[[1994年]]1月には停戦が成立し同年8月にはコレラがブラザヴィル市長に就任したものの、各党は私兵を抱えたままであり、不穏な情勢は続いていた<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」[[叢文社]] 2005年、454-455ページ ISBN 4-7947-0523-9</ref>。[[1997年]]6月には戦闘が再開され、サスヌゲソ派とリスバ派の両私兵集団が戦闘と虐殺を繰り広げ、そして9月にリスバがコレラを首相に任命して同盟を組んだことでコレラ派のニンジャも戦闘に加わった。この内戦は結局、10月にサスヌゲソ派がリスバ・コレラ連合を破って首都を制圧し<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」[[叢文社]] 2005年、455-457ページ ISBN 4-7947-0523-9</ref>、[[1999年]]12月には停戦合意が行われたことで終結した<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/congokyo/data.html 「コンゴ共和国基礎データ」日本国外務省 令和元年9月6日 2020年1月3日閲覧</ref>。
大統領に再度就任したサスヌゲソは権力基盤を固めることに成功し、以後の選挙でも再選を重ねている。一方で私兵集団の武装解除は遅れ、特にニンジャは2003年の和平合意後コレラの統制下を離れて{{仮リンク|フレデリック・ビツァング|en|Frédéric Bintsamou}}(通称ントゥミ牧師)率いる[[レジスタンス国民会議 (コンゴ共和国)|レジスタンス国民会議]]のもとで武装闘争を継続し、首都周辺で襲撃を繰り返した。2016年にもブラザヴィルでニンジャによるとみられる襲撃があり、5人が死亡している<ref name="名前なし-3">https://www.afpbb.com/articles/-/3083102?cx_part=search 「コンゴ首都で衝突、民間人ら5人死亡 反政府勢力「ニンジャ」関与か」AFPBB 2016年4月6日 2020年4月15日閲覧</ref>。この襲撃は、2017年に両勢力間で和平合意が成立するまで続いた<ref name="名前なし-4">https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/congokyo/data.html 「コンゴ共和国基礎データ」日本国外務省 令和2年3月26日 2020年4月15日閲覧</ref>。
== 政治 ==
[[ファイル:Denis Sassou-Nguesso.jpg|thumb|140px|大統領[[ドニ・サスヌゲソ]]。]]
{{Main|{{仮リンク|コンゴ共和国の政治|fr|Politique en république du Congo|en|Politics of the Republic of the Congo}}}}
コンゴの[[共和国議会 (コンゴ共和国)|共和国議会]]は[[二院制]]を取っている。コンゴ共和国は[[複数政党制]]民主主義を称しているが、与党[[コンゴ労働党]] (''Parti Congolais du Travail''、''Congolese Labour Party''、PCT)の勢力が非常に強い。大統領のドニ・サスヌゲソは1979年から1992年まで一党制時代の大統領を務め、その後1997年の内戦に勝利して以降再び長期にわたって政権の座にあるが、独裁的な傾向や腐敗が度々指摘されている。2015年には憲法改正によって大統領の三選禁止規定が撤廃され<ref name="名前なし-4"/>、2016年の大統領選挙でもサスヌゲソが再選されたものの、野党勢力は選挙不正に対して抗議を行っている<ref name="名前なし-3"/>。
このほか[[コンゴ共和国の政党|野党]]としては、次のものがある。
* [[社会民主主義パン・アフリカン連合]] (''Union Panafricaine pour la Démocratie Sociale''、''Pan-African Union for Social-Democracy''、UPADS)
* [[コンゴ民主統合発展運動]] (''Mouvement congolais pour la démocratie et le développement intégral''、''Congolese Movement for Democracy and Integral Development''、MCDDI)
* [[民主救済会議]] (''Convention pour la Démocratie et le Salut''、''Convention for Democracy and Salvation'')
* [[統一民主勢力 (コンゴ)|統一民主勢力]] (''Forces Démocratiques Unies''、''United Democratic Forces'')
* [[民主共和連合 (コンゴ)|民主共和連合]] (''Union pour la Démocratie et la République-Mwinda''、''Union for Democracy and Republic'')
* [[民主改革連合 (コンゴ)|民主改革連合]] (''Union pour la Renouveau Démocratique''、''Union for Democratic Renewal'')
* [[民主開発連合]] (民主発展連合、''Rassemblement pour la démocratie et le développement''、''Rally for Democracy and Development'')
このうち、UPADSとMCDDIは1997年まで現与党と激しい内戦を繰り広げており、その後も議会内野党となっているが勢力は大きくない。
== 国際関係 ==
{{Main|{{仮リンク|コンゴ共和国の国際関係|fr|Représentations diplomatiques de la république du Congo|en|Foreign relations of the Republic of the Congo}}}}
旧宗主国である[[フランス]]との関係が強く、2017年にコンゴが受け取った[[政府開発援助]]の半分以上がフランス拠出のものであったが、一方で1970年代にマルクス・レーニン主義を取っていたこともあって伝統的に[[中華人民共和国]]との関係も深く、巨額の融資を受け取るなど経済的関係も強くなってきている<ref name="名前なし-4"/>。
=== 日本との関係 ===
{{Main|日本とコンゴ共和国の関係}}
*在留日本人数 - 12 人(2022年6月)<ref name="名前なし-5">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/congokyo/data.html#section6 外務省 コンゴ共和国基礎データ]</ref>
*在日コンゴ(共)人数 - 25人(2021年6月)<ref name="名前なし-5"/>
== 軍事 ==
{{Main|{{仮リンク|コンゴ共和国軍|en|Armed Forces of the Republic of the Congo}}}}
{{節スタブ}}
== 地理 ==
[[ファイル:Congo Brazzaville Topography.png|thumb|300px|地形図]]
{{Main|{{仮リンク|コンゴ共和国の地理|fr|Géographie de la République du Congo|en|Geography of the Republic of the Congo}}}}
国土の南部にある{{仮リンク|シャイユ山地|fr|Massif du Chaillu}}に低い[[分水界]]が走っており、これによって[[水系]]は二分されている。分水界の南西部は主に[[クイルー川]]の水系となっており、[[丘陵]]や[[山地]]が多く起伏が激しい地形となっているためクイルー川の[[航行]]は不能である。北西端には[[ナベンバ山]]があり、その高さは1,020[[メートル|m]]と同国の山では最高峰となっている。[[海岸]]部近くには{{仮リンク|マヨンベ山地|fr|Mayombe}}が走り、そこから海岸まではわずかな平野が広がっている。一方分水界より北東は[[コンゴ川]]流域となっており、流域南部の[[バテケ高原]]からガボン国境にかけては山地が広がるものの、東部は広大な[[コンゴ盆地]]の一部であり、高低差の少ない平坦な地形となっている。西部のガボンとの国境はおおむね[[オゴウェ川]]流域とコンゴ川流域の分水界に沿ったものになっている<ref name="名前なし-2"/>。北部はコンゴ川の支流である[[ウバンギ川]]が、中部はコンゴ川本流がコンゴ民主共和国との国境をなしている。コンゴ川本流部の南端には[[マレボ湖]]が存在し、コンゴ盆地と急流部の境界となっているほか、マレボ湖北端には首都ブラザヴィルが存在する。また、マレボ湖に浮かぶ中州である[[ンバモウ島]]はコンゴ共和国領となっている。
気候は全般的に高温多湿で、首都[[ブラザヴィル]]の年平均気温は25℃、年降水量は1473mmである<ref name="名前なし-6">『データブック オブ・ザ・ワールド 2018年版 世界各国要覧と最新統計』p.273 二宮書店 2018年1月10日発行</ref>。気候は南部が[[サバナ気候]](Aw)に属し、北上するほど降水量が多くなって、北部は[[熱帯モンスーン気候]](Am)や[[熱帯雨林気候]](Af)の地域が多くなっている。海岸部から国土中部のバテケ高原付近までは、熱帯雨林の広がるマヨンベ・シャイユの両山地以外は[[サバナ (植生)|サバンナ]]が広がり、北部は[[熱帯雨林]]となっている。北東部のコンゴ川と[[サンガ川]]の間には広大な浸水林地帯が広がっている<ref>「西部・中部アフリカ」(ベラン世界地理体系9)p250-251 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2017年1月15日初版第1刷</ref>。国土北端の{{仮リンク|ヌアバレ=ンドキ国立公園|en|Nouabalé-Ndoki National Park}}は隣接するカメルーンおよび中央アフリカの国立公園とともに、2012年に[[サンガ川流域の3か国保護地域]]として[[世界遺産]]に登録された。
== 地方行政区分 ==
[[ファイル:Congo departments named.png|thumb|300px|コンゴ共和国の地域行政区分図]]
{{Main|コンゴ共和国の行政区画}}
コンゴ共和国は12の県(フランス語:{{lang|fr|''Département''}})に分かれている。括弧内の地名は県庁所在地である。このうち、ブラザヴィルとポワントノワールは県を兼ねている(特別市)。
* [[ブエンザ県]] ''Bouenza'' ([[マディング]]、''Madingou'')
* [[ブラザヴィル|ブラザヴィル県]] ''Brazzaville''(特別市)
* [[キュヴェト県]] ''Cuvette'' ([[オワンド]]、''Owando'')
* [[西キュヴェト県]] ''Cuvette-Ouest'' ([[エウォ]]、''Ewo'')
* [[クイル県]] ''Kouilou'' ([[ロアンゴ]]、 ''Loango'')
* [[レクム県]] ''Lékoumou'' ([[シビティ]]、''Sibiti'')
* [[リクアラ県]] ''Likouala'' ([[アンフォンド]]、''Impfondo'')
* [[ニアリ県]] ''Niari'' ([[ルボモ]], ''Loubomo'')
* [[プラトー県 (コンゴ共和国)|プラトー県]] ''Plateaux'' ([[ジャンバラ]]、''Djambala'')
* [[ポワントノワール|ポワントノワール県]] ''Pointe-Noire''(特別市)
* [[プール県]] ''Pool'' ([[キンカラ]]、''Kinkala'')
* [[サンガ県]] ''Sangha'' ([[ウェッソ]]、''Ouésso'')
=== 主要都市 ===
{{Main|コンゴ共和国の都市の一覧}}
最大都市は首都の[[ブラザヴィル]](都市圏人口189万人、2015年)<ref name="名前なし-6"/>である。ブラザヴィルは政治機能が集中しているほか、コンゴ川水運の終着点にあたるブラザヴィル港があり、国内北部の物流の結節点ともなっている。これに次ぐ都市は大西洋に面する港湾都市[[ポワントノワール]](都市圏人口97万人、2015年)である<ref name="名前なし-6"/>。ポワントノワールはコンゴの対外貿易の大半を担う貿易港であり、また沖合の油田地帯の開発拠点ともなっている。コンゴの大都市としてはこの2都市が突出しており、これ以外に国内に人口10万人を超える都市は存在しない。
== 経済 ==
{{Main|コンゴ共和国の経済}}
=== 鉱業 ===
[[天然ガス]]、[[カリ鉱石]]、[[鉛]]、[[亜鉛]]などの資源も存在するが開発はあまり進んでおらず、[[国内総生産|GDP]]の5割以上、輸出額の61.2%(2014年)を[[原油]]に頼っている状況である<ref name="名前なし-7">『データブック オブ・ザ・ワールド 2018年版 世界各国要覧と最新統計』p.274 二宮書店 2018年1月10日発行</ref>。石油の生産は、[[ギニア湾]]に面した[[クイルー地方]]に集中しており、他の地域との経済格差も大きい。[[2018年]]には[[石油輸出国機構]](OPEC)に加盟した<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/energy/opec/opec.html 「石油輸出国機構(OPEC:Organization of the Petroleum Exporting Countries)の概要」日本国外務省 平成31年1月4日 2020年4月14日閲覧</ref>。2009年にはシャイユ山地のマヨコで[[鉄鉱石]]の採掘がはじまった<ref>「世界の鉄道」p345 [[海外鉄道技術協力協会|一般社団法人海外鉄道技術協力協会]]著 ダイヤモンド・ビッグ社 2015年10月2日初版発行</ref>。
また[[1990年代]]後半は出所不詳の[[ダイヤモンド]]原石の輸出もみられるようになり、[[紛争ダイヤモンド]]の横流し輸出が行われているのではないかとの指摘もなされるようになった。[[2004年]]に、紛争ダイヤモンドの流通防止を行う[[ワールド・ダイヤモンド・カウンシル]]は、現地視察の結果を踏まえ、コンゴ共和国からのダイヤモンドの輸入を控えるよう呼びかけている。
=== 農林業 ===
自給自足的で、国民の基礎食糧となる[[キャッサバ]]の生産が盛んに行われている。商品作物は[[サトウキビ]]、[[ラッカセイ]]、[[タバコ]]、[[アブラヤシ]]、[[コーヒー]]、[[カカオ]]などがあるが、いずれも独立後の経済開発の失敗によって生産は停滞しており、経済に対し大きな意味は持っていない<ref name="名前なし-8">「西部・中部アフリカ」(ベラン世界地理体系9)p252 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2017年1月15日初版第1刷</ref>。[[林業]]は独立時には主要産業であり、[[木材]]は輸出の約6割を占める主力輸出品であったが<ref name="名前なし-9">「各国別 世界の現勢Ⅰ」(岩波講座 現代 別巻Ⅰ)p359 1964年9月14日第1刷 岩波書店</ref>、その後[[石油産業]]の成長によって割合は小さくなり、2014年には輸出の0.9%にまで縮小した<ref name="名前なし-7"/>。しかし重要な産業であることには変わりなく、かつてはマヨンベ山地が、1960年代以降はコミログ支線沿いのシャイユ山地が主な産地となっている。北部の熱帯雨林の林業開発は進んでいない<ref name="名前なし-8"/>。
== 交通 ==
{{Main|{{仮リンク|コンゴ共和国の交通|en|Transport in the Republic of the Congo}}}}
コンゴ最大の港湾は海に面する[[ポワントノワール港]]であり、周辺諸国を除く輸出入の大半がこの港で行われる。一方、[[ポワントノワール]]から内陸に入ると山岳地帯となるため、国内各地との連絡は良好とは言い難い。これを解消するため、1934年にはポワントノワールと首都ブラザビルとを結ぶ[[コンゴ・オセアン鉄道]]が建設され<ref name="名前なし-10">「世界の鉄道」p345 一般社団法人海外鉄道技術協力協会著 ダイヤモンド・ビッグ社 2015年10月2日初版発行</ref>、1962年には途中のモンベロからガボンとの国境の町[[ムビンダ]]までCOMILOG支線が建設された<ref>田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998年、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店 ISBN 4254166621 p205</ref>。
ブラザビルはコンゴ川の航行可能部の末端である[[マレボ湖]]に面しており、これより上流の地域とは盛んに水運が行われ、内陸部の交通結節点・集散地となっている。コンゴ川本流のみならず、支流のウバンギ川は中央アフリカの首都[[バンギ]]まで、サンガ川は国土北端の[[ウェッソ]]を通って中央アフリカの[[ノラ (中央アフリカ共和国)|ノラ]]まで航行が可能であり、これも重要な輸送ルートとなっている。また、マレボ湖の対岸に位置するコンゴ民主共和国の首都キンシャサとは[[フェリー]]便の連絡がある<ref>田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998年、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店 ISBN 4254166621 p206</ref>。
空運では、ブラザビルの[[マヤマヤ空港]]と、[[ポワントノワール空港]]の二つの国際空港が存在する。
=== 鉄道 ===
{{Main|コンゴ共和国の鉄道}}
コンゴ・オセアン鉄道ならびにポワントノワール港はコンゴ川水運と鉄道でつながっており、中央アフリカや[[チャド]]の外港としての役割も存在するものの、両国のポワントノワール貿易量に対する割合はさほど大きなものではない<ref>「西部・中部アフリカ」(ベラン世界地理体系9)p253 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2017年1月15日初版第1刷</ref>。
ムビンダからガボンの[[モアンダ]]までは1959年に世界最長の[[ロープウェイ]]である[[COMILOGロープウェイ]]が開通しており、この支線の建設によってモアンダ鉱山の[[マンガン]]輸送ルートが確立し、ポワントノワール港の重要取扱品となったが、1986年に[[トランスガボン鉄道]]がモアンダまで開通するとマンガンはガボン国内を輸送されることとなり、ロープウェイは廃止された。COMILOG支線も同時に廃止される予定であったが<ref>田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998年、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店 ISBN 4254166621 p205-206</ref>、沿線の木材輸送需要が大きかったため存続することになり、2009年以降は鉄鉱石輸送も加わることとなった<ref name="名前なし-10"/>。
== 国民 ==
[[ファイル:Congo-Rep-demography.png|thumb|240px|コンゴ共和国の人口推移([[1961年]]-[[2003年]])]]
{{Main|[[:en:Demographics of the Republic of the Congo]]|コンゴ共和国の人口統計}}
=== 人口 ===
コンゴ共和国の人口は急増を続けており、独立直後の1962年に82万人だった<ref name="名前なし-9"/>人口は1986年には179万人<ref>『アフリカを知る事典』、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷 p.156</ref>、2017年には526万人にまで増加した<ref>「データブック オブ・ザ・ワールド 2018年版 世界各国要覧と最新統計」p273 二宮書店 平成30年1月10日発行</ref>。
=== 民族 ===
コンゴ共和国の住民の内、[[コンゴ人]]が48%、{{仮リンク|サンガ人|en|Sangha people}}が20%、{{仮リンク|ムボチ人|en|Mbochi people}}が12%、{{仮リンク|テケ人|en|Teke people}}が17%となり、[[ヨーロッパ人]]やその他([[ピグミー]]は2%<ref>[http://www.lemonde.fr/afrique/article/2011/08/05/les-pygmees-du-congo-en-danger-d-extinction_1556735_3212.html#ens_id=1259967 Les pygmées du Congo en "danger d'extinction" {{fr icon}}]</ref>)が3%となる<ref name=2010cia/>。コンゴは民族対立の激しい国であり、特にコンゴ人を中心とする北部とムボチ人を中心とする南部の対立が激しい<ref> 「DATA ATLAS」同朋社出版 p368 1995年4月26日発行</ref>。この民族対立は、1993年から1997年までのコンゴ共和国内戦における要因の一つとなった。
=== 言語 ===
{{Main|コンゴ共和国の言語}}
公用語は[[フランス語]]であり、[[コンゴ語]]や[[リンガラ語]]、[[キトゥバ語|ムヌクツバ語]]などが話され、その他にも地方諸語が存在する<ref name=2010cia/>。
=== 宗教 ===
{{Main|{{仮リンク|コンゴ共和国の宗教|en|Religion in the Republic of the Congo}}}}
国民の宗教動態は、[[カトリック教会]]を中心とした[[キリスト教]]が50%、[[アニミズム]]が48%、[[イスラム教]]が2%である<ref name=2010cia/>。
=== 教育 ===
[[ファイル:SAINTE RITA CONG-BR2.jpg|thumb|学校の子供たち]]
{{Main|{{仮リンク|コンゴ共和国の教育|en|Education in the Republic of the Congo}}}}
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は83.8%(男性:89.6%、女性:78.4%)である<ref name=2010cia>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/cf.html CIA World Factbook "Congo, Republic of the" ]2010年11月8日閲覧。</ref>。2005年にはGDPの1.9%が教育に支出された<ref name=2010cia/>。
主な高等教育機関として[[マリアン・ングアビ大学]](1971)の名が挙げられる。
=== 保健 ===
{{Main|{{仮リンク|コンゴ共和国の保健|en|Health in the Republic of the Congo}}}}
コンゴ共和国における2007年の[[HIV]]感染者は推計で79,000人であり<ref name=2010cia/>、感染率は3.5%である<ref name=2010cia/>。2010年のコンゴ共和国人の平均寿命は54.54歳(男性:53.27歳、女性:55.84歳)である<ref name=2010cia/>。
== 治安 ==
コンゴ共和国の治安は酷く悪いものとなっている。2016年3月20日の大統領選挙にてサスヌゲソが60%以上の票を得て再選されたのを受け、同年4月4日にブラザビル市南部で、この結果に反対していると目されるントゥミ牧師が指導者の武装集団(ニンジャ)と政府側との間で銃撃戦が発生した。以来1年半余りに渡って両者の間で軍事衝突が続いていたが、2017年12月23日にプール県都キンカラで政府とントゥミ牧師派間で「停戦」及び「敵対行為の中止」にかかる合意書への署名が行われ、以降は治安情勢が比較的安定しているものの、プール県南部及び中央アフリカ国境などの一部地域では輸送車両に対する襲撃、身代金目的の[[誘拐]]などの犯罪発生を含め、依然として緊張状態が継続している<ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_102.html コンゴ共和国安全対策基礎データ] 海外安全ホームページ</ref>。
これに絡む形で治安が急速に悪化する可能性がある為、情勢の変化には引き続き充分に注意する必要が求められる。
{{節スタブ}}
=== 人権 ===
{{Main|{{仮リンク|コンゴ共和国の人権|en|Human rights in the Republic of the Congo}}}}
{{節スタブ}}
== メディア ==
{{Main|{{仮リンク|コンゴ共和国のメディア|en|Mass media in the Republic of the Congo}}}}
コンゴ共和国におけるメディアは、広範な非識字状態や経済の未発達など、多くの要因によって厳しく制限されている事態に陥っている。
同国の国民は日ごろから情報の収集を[[ラジオ放送]]に依存してしまっている<ref name=britannica>{{cite web |url= https://www.britannica.com/place/Republic-of-the-Congo/Cultural-life |access-date= 24 July 2017 |work= Encyclopædia Britannica |title= Republic of the Congo: Media and Publishing}}</ref>が、これは主に非識字率が高いことに起因するものである<ref>{{cite web|title=Republic of Congo Media Sustainability Index (MSI)|url=http://www.irex.org/resource/republic-congo-media-sustainability-index-msi|publisher=IREX|access-date=August 20, 2011|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20110506020024/http://www.irex.org/resource/republic-congo-media-sustainability-index-msi|archive-date=May 6, 2011}}</ref>。
{{節スタブ}}
== 文化 ==
{{Main|{{仮リンク|コンゴ共和国の文化|fr|Culture de la république du Congo|en|Culture of the Republic of the Congo}}}}
=== 食文化 ===
{{Main|{{仮リンク|コンゴ料理|label=コンゴ共和国の料理|fr|Cuisine congolaise}}}}
=== 文学 ===
[[ソニー・ラブ=タンシ]]の『'''一つ半の生命'''』([[1979年]])は、{{仮リンク|ル・マタン (フランス)|fr|Le Matin (France)|en|Le Matin (France)|label=ル・マタン}}紙などで注目され、発表以降の[[アフリカ文学]]全体に多大な影響を及ぼした<ref>元木淳子「1980年代のコンゴの状況と文学──ソニー・ラブ・タンシを中心に」『フランス語フランス文学研究』67号、日本フランス語フランス文学会 、1995年10月。p.82。</ref>。
=== 音楽 ===
{{Main|コンゴ共和国の音楽}}
=== 世界遺産 ===
{{Main|コンゴ共和国の世界遺産}}
=== 祝祭日 ===
{| class="wikitable"
|+ 祝祭日
|-
!日付 !!日本語表記 !!現地語表記 !!備考
|-
|[[1月1日]] ||[[元日]] ||Jour de l'an ||
|-
|[[イースター]]の日曜日の次の月曜日 ||イースターの月曜日 ||Lundi de Pâques ||
|-
|[[5月1日]] ||[[メーデー]] ||Fête du Travail ||
|-
| イースターから40日後の木曜日||[[キリストの昇天]] ||Ascension ||復活したイエズスの昇天
|-
|イースターの後の第7日曜日 ||[[ペンテコステ]] ||Pentecôte (et Lundi de Pentecôte) ||聖霊が使徒の間に降臨
|-
|[[6月10日]] ||国民最高会議記念日 ||Fête de la commémoration de la conférence nationale souveraine ||
|-
|[[8月15日]] ||国民記念日と[[聖母の被昇天]] ||Fête Nationale & Assomption ||
|-
|[[11月1日]] ||[[諸聖人の日]] ||Toussaint ||
|-
|[[12月25日]] ||[[クリスマス]] ||Noël ||[[イエズス・クリストゥス]]の生誕
|}
== スポーツ ==
{{See also|オリンピックのコンゴ共和国選手団}}
=== サッカー ===
{{Main|{{仮リンク|コンゴ共和国のサッカー|en|Football in the Republic of the Congo}}}}
コンゴ共和国では他の[[アフリカ]]諸国同様に、[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっている。[[1961年]]にサッカーリーグの{{仮リンク|コンゴ・プレミアリーグ|en|Congo Premier League}}が創設された。{{仮リンク|コンゴ共和国サッカー連盟|en|Congolese Football Federation}}によって構成される[[サッカーコンゴ共和国代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には未出場である。しかし[[アフリカネイションズカップ]]には6度出場しており、[[アフリカネイションズカップ1972|1972年大会]]では優勝に輝いている。
== 著名な出身者 ==
{{Main|Category:コンゴ共和国の人物}}
* [[ジャン・セルジュ・エッスー]] - [[音楽家]]
* [[ソニー・ラブ=タンシ]] - [[作家]]
* [[エマニュエル・ドンガラ]] - 作家
* [[クリストファー・サンバ]] - 元[[サッカー選手]]
* [[リュシアン・オーベイ]] - 元サッカー選手
* [[デルヴィン・エンディンガ]] - サッカー選手
* [[プランス・オニアンゲ]] - サッカー選手
* [[フェレボリ・ドレ]] - サッカー選手
* [[シルヴェル・ギャンブラ・エンブシ]] - サッカー選手
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{節スタブ}}
* 元木淳子「[https://ci.nii.ac.jp/naid/110001247434 1980年代のコンゴの状況と文学──ソニー・ラブ・タンシを中心に」『フランス語フランス文学研究』67号、pp.82-93、日本フランス語フランス文学会 、1995年10月]。
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Republic of the Congo|Republic of the Congo}}
{{ウィキポータルリンク|アフリカ|[[ファイル:Africa_satellite_orthographic.jpg|36px|Portal:アフリカ]]}}
* [[コンゴ共和国関係記事の一覧]]
* [[コンゴ共和国におけるLGBTの権利]]
== 外部リンク ==
{{wikivoyage|fr:République du Congo|コンゴ共和国{{fr icon}}}}
* [https://gouvernement.cg/ コンゴ共和国政府]{{fr icon}}
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/congokyo/ 日本外務省 - コンゴ共和国]{{ja icon}}
* {{Osmrelation|192794}}
* {{wikiatlas|the Republic of the Congo}}{{en icon}}
* {{Kotobank}}
{{アフリカ}}
{{OIF}}
{{Normdaten}}
{{coord|-1.44|15.556|type:country|display=title}}
{{デフォルトソート:こんこきようわこく}}
[[Category:コンゴ共和国|*]]
[[Category:アフリカの国]]
[[Category:共和国]]
[[Category:フランコフォニー加盟国]]
[[Category:国際連合加盟国]]
[[Category:アフリカ連合加盟国]]
[[Category:石油輸出国機構加盟国]]
|
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13,232 |
集英社
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株式会社集英社(しゅうえいしゃ)は、日本の総合出版社。『週刊少年ジャンプ』『週刊プレイボーイ』『non-no』『すばる』 『Myojo』などの雑誌を発行している。社名は「英知が集う」の意味。
1926年に小学館の娯楽誌出版部門として相賀武夫が創業。1941年から1946年まで太平洋戦争のため社業中断(休眠)していたが、1947年に山川惣治の紙芝居『少年王者』を単行本として出版するため、合資会社として営業を再開。1952年に独立した社屋に移転し、その後小学館との業務分離を行う。『週刊少年ジャンプ』『Seventeen』『りぼん』『マーガレット』『Myojo』などのヒット雑誌を多数創刊する。
小学館が筆頭株主であり、同じ企業集団「一ツ橋グループ」に属するが、後に小学館も娯楽出版部門に進出した結果、両社は競合する雑誌を多く擁する。
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株式会社集英社(しゅうえいしゃ)は、日本の総合出版社。『週刊少年ジャンプ』『週刊プレイボーイ』『non-no』『すばる』 『Myojo』などの雑誌を発行している。社名は「英知が集う」の意味。
|
{{基礎情報 会社
| 社名 = 株式会社集英社
| 英文社名 = SHUEISHA Inc.
| ロゴ = Shūeisha logo.svg
| 画像 = File:Shueisha.jpg
| 画像サイズ = 180px
| 画像説明 = 集英社神保町ビル
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 機関設計 =
| 市場情報 = 非上場
| 略称 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 101-8050
| 本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[一ツ橋]]二丁目5番10号
| 本社緯度度 = 35
| 本社緯度分 = 41
| 本社緯度秒 = 40.9
| 本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 139
| 本社経度分 = 45
| 本社経度秒 = 28.8
| 本社E(東経)及びW(西経) = E
| 座標右上表示 = Yes
| 本社地図国コード =
| 設立 = [[1949年]][[7月19日]]<br />(1926年創業)
| 業種 = 情報・通信業
| 法人番号 =
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 = [[雑誌]]([[漫画雑誌|マンガ誌]]、[[ファッション雑誌|ファッション誌]]、芸能誌、[[文芸雑誌|文芸誌]]など)、書籍(文芸書、[[文庫]]、[[新書]]、実用書、ビジネス書、[[全集]]など)、コミックス、[[辞典]]、[[児童文学|児童書]]、[[写真集]]などの[[出版]]、[[電子書籍]]・電子コミックの制作・配信など
| 代表者 = 代表取締役会長 [[堀内丸恵]]<br />代表取締役社長 [[廣野眞一]]
| 資本金 = 1億80万円
| 発行済株式総数 =
| 売上高 = 2096億8400万円(2023年5月期)<ref name="決算">{{Cite news|title=新文化 - 出版業界紙 - ニュース特集「決算」|newspaper=新文化|date=2023-09-17|url=https://www.shinbunka.co.jp/archives/5822|publisher=新文化通信社}}</ref>
| 営業利益 =
| 経常利益 =
| 純利益 = 159億1900万円(2023年5月期)<ref name="決算"/>
| 純資産 =
| 総資産 =
| 従業員数 = 764名(男性418名・女性346名)<br />(2021年10月1日現在)<ref>{{Cite web|和書|title=集英社 2022年度定期採用情報 会社概要|work=集英社|date=2020|url=https://www.shueisha.co.jp/saiyo/company/profile/ |accessdate=2020-11-15|publisher=集英社}}</ref>
| 支店舗数 =
| 決算期 = [[5月31日]]
| 会計監査人 =
| 所有者 =
| 主要株主 = [[小学館]] 50%
| 主要部門 =
| 主要子会社 = {{unbulleted list|
* [[白泉社]]
* ホーム社
* [[集英社クリエイティブ]]
* [[集英社インターナショナル]]
* 千代田スタジオ
* 一ツ橋企画
* 集英社ビジネス
* 集英社サービス
* 集英社アーツ&デジタル
* 集英社EP
* 日本アート・センター
* 集英社ゲームズ
* [[ビズメディア|VIZ Media LLC]]
}}
| 関係する人物 = {{unbulleted list|
* [[相賀武夫]](創業者)
* [[相賀徹夫]](合資会社代表・初代会長)
}}
| 外部リンク = {{Official URL}}
| 特記事項 = [[1926年]]8月創業
}}
'''株式会社集英社'''(しゅうえいしゃ)は、[[日本]]の総合[[出版社]]。『[[週刊少年ジャンプ]]』『[[週刊プレイボーイ]]』『[[non-no]]』『[[すばる (雑誌)|すばる]]』 『[[Myojo]]』などの[[雑誌]]を発行している。社名は「英知が集う」の意味。
== 概要 ==
1926年に[[小学館]]の娯楽誌出版部門として[[相賀武夫]]が創業。1941年から1946年まで[[太平洋戦争]]のため社業中断([[休眠会社|休眠]])していたが、1947年に[[山川惣治]]の[[紙芝居]]『少年王者』を[[単行本]]として出版するため、[[合資会社]]として営業を再開。1952年に独立した社屋に移転し、その後小学館との業務分離を行う。『[[週刊少年ジャンプ]]』『[[Seventeen (日本の雑誌)|Seventeen]]』『[[りぼん]]』『[[マーガレット (雑誌)|マーガレット]]』『[[Myojo]]』などのヒット雑誌を多数創刊する。
小学館が筆頭[[株主]]であり、同じ企業集団「[[一ツ橋グループ]]」に属するが、後に小学館も娯楽出版部門に進出した結果、両社は競合する雑誌を多く擁する。
== 略歴 ==
* 1925年 - 小学館の娯楽誌出版部門において、「集英社」(当時の字体では「輯英社」)の[[商号]]の使用を開始。
* 1926年 - 小学館より娯楽誌出版部門として分離、創業(この年をもって集英社の創業年となる)。
* 1933年 - [[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]]跡の旧校舎を改修し、本社を[[神田区]]一ツ橋通町3番地(現・[[千代田区]][[一ツ橋]]2-3-1)に移転。
* 1947年 - [[合資会社]]集英社に改組。
* 1949年 - [[株式会社 (日本)|株式会社]]集英社に改組。
* 1952年 - 本社を千代田区神田一ツ橋2-3(現・千代田区一ツ橋2-5-10「神保町ビル」所在地)に移転。
* 1961年 - 神保町ビルを竣工。
* 1969年
** 4月 - 編集委託業務を行う創美社(現・[[集英社クリエイティブ]])を設立。 撮影業務を行う千代田スタジオを設立。
** 8月 - 「週刊ホーム」の編集委託業務を行うホーム社を設立。
* 1973年 - 編集委託業務を目的として[[白泉社]]を設立。
* 1974年 - 小学館が資本参加していた[[CAC Holdings|CACグループ]]の数理計画に出資し、小学館・集英社グループ化<ref>{{PDFlink|[https://www.cac.co.jp/softechs/pdf/st3401-13.pdf CACグループ起業史]|2016年2月24日、株式会社シーエーシー}}</ref>。
* 1976年 - 創業50周年を記念し、「[[すばる文学賞]]」を設定。
* 1977年 - イベント業務、広告代理店業務を行う一ツ橋企画を設立(1995年にイベント業務、広告代理店業務は他社に移管)。
* 1990年 - 神保町ビル(現在の本社ビル)竣工。
* 1994年 - 編集委託業務を行う[[集英社インターナショナル]]を設立。
* 2002年 - VIZ Communications, Inc.に出資し、小学館との共同出資会社VIZ HOLDINGS,Inc.とする。
* 2003年 - VIZ HOLDINGS,Inc.が子会社VIZ LLC.を設立。
* 2005年
** 2月 - 神保町3丁目ビル(現在の第2本社ビル)竣工。
** 4月 - VIZ LLC.とShoPro Entertainment, Inc.を統合し、小学館、小学館プロダクションとの共同出資会社[[ビズメディア|VIZ Media LLC]]を設立<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animeanime.biz/archives/10321|title=小学館系米国マンガ流通2社合併へ|accessdate=2017-07-23}}</ref>。
* 2008年
** 7月 - 小学館プロダクションに出資し、[[小学館集英社プロダクション]]が発足<ref>{{Cite web|和書|title=株式会社小学館集英社プロダクション発足|url=https://www.shopro.co.jp/news/080617/1.html|website=小学館集英社プロダクション|accessdate=2019-04-14|publisher=}}</ref>。
** アネックスビル竣工。
* 2015年 - デジタル部門を分離し、100%出資子会社Project8を設立。
* 2017年 - イベント事業子会社集英社EPを設立。
* 2019年 - [[ディー・エヌ・エー|株式会社ディー・エヌ・エー]]との共同出資会社・集英社DeNAプロジェクツを設立<ref>{{Cite web|和書|title=集英社とDeNAがエンターテインメント事業の共同出資会社を設立|url=https://dena.com/jp/press/004436|accessdate=2019-04-14|date=2019-01-29|publisher=DeNA}}</ref>。
* 2021年 - 株式会社日本アート・センターをグループ化。
* 2022年
** 2月 - ゲーム事業子会社集英社ゲームズを設立<ref>{{Cite web|和書|title=あの集英社が自らゲームを作る!? 「人気漫画のゲーム化」と思いきや、「作家とゼロから新しいゲームを何本も作る」という泥臭いインディー魂がそこにはあった |url=https://news.denfaminicogamer.jp/interview/220331b |website=電ファミニコゲーマー – ゲームの面白い記事読んでみない? |date=2022-03-31 |access-date=2022-05-08}}</ref>。
** 5月 - [[CloverWorks]]、[[ウィットスタジオ]]、[[アニプレックス]]との共同出資会社・株式会社JOENを設立<ref>{{Cite press release|和書|title=CloverWorks・ウィットスタジオ・アニプレックス・集英社の4社による、制作スタジオが主体の企画・プロデュースを行う株式会社JOEN設立のお知らせ|publisher=株式会社アニプレックス、株式会社CloverWorks|date=2022-05-30|url=https://www.sme.co.jp/pressrelease/news/detail/NEWS001713.html|language=日本語|access-date=2022-05-30}}</ref>。
* 2023年
** 4月 - 株式会社Project8を株式会社集英社アーツ&デジタルに社名変更
** 6月 - シャインパートナーズ株式会社と共同で、マンガ制作会社・株式会社集英社TOON FACTORYを設立
== 決算 ==
* [[新文化通信社]] [https://www.shinbunka.co.jp/kakokessan/kessan-shueisha 決算特集:集英社(〜2021年)]及び[https://www.shinbunka.co.jp/cat/newsflash/kessan ニュースフラッシュ 決算]による。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:smaller"
! 決算期(期間)
! [[売上高]]
!出版売上
! 営業利益
! 経常利益
! 税引前当期純利益
! 当期純利益
|-
|第82期(2022年6月1日 - 2023年5月31日)
|2096億8400万円
|1274億1700万円
|
|
|
|159億1900万円
|-
|第81期(2021年6月1日 - 2022年5月31日)
|1951億9400万円
|
|
|
|
|268億4500万円
|-
|第80期(2020年6月1日 - 2021年5月31日)
|2010億1400万円
|
|
|
|
|457億1800万円
|-
|第79期(2019年6月1日 - 2020年5月31日)
|1529億0400万円
|
|
|
|
|209億4000万円
|-
| 第78期(2018年6月1日 - 2019年5月31日)
| 1333億4100万円
|
|
|
|
| 98億7700万円
|-
| 第77期(2017年6月1日 - 2018年5月31日)
| 1164億9700万円
|
|
|
|
| 25億2600万円
|-
| 第76期(2016年6月1日 - 2017年5月31日)
| 1175億2100万円
|
|
|
|
| 53億5700万円
|-
| 第75期(2015年6月1日 - 2016年5月31日)
| 1229億5700万円
|
|
|
|
| 58億3600万円
|-
| 第74期(2014年6月1日 - 2015年5月31日)
| 1221億5900万円
|
|
|
|
| 41億3000万円
|-
| 第73期(2013年6月1日 - 2014年5月31日)
| 1232億8300万円
|
| 28億9700万円
| 73億4100万円
|
| 37億5600万円
|-
| 第72期(2012年6月1日 - 2013年5月31日)
| 1253億4900万円
|
|
|
|
| 31億8200万円
|-
| 第71期(2011年6月1日 - 2012年5月31日)
| 1260億9400万円
|
| 25億6300万円
| 69億1500万円
|
| 37億5100万円
|-
| 第70期(2010年6月1日 - 2011年5月31日)
| 1318億6500万円
|
|
|
|
| 55億4700万円
|-
| 第69期(2009年6月1日 - 2010年5月31日)
| 1304億7000万円
|
|
|
| ▲6億0400万円
| ▲41億8000万円
|-
| 第68期(2008年6月1日 - 2009年5月31日)
| 1332億9800万円
|
|
|
| 23億5800万円
| 6億5500万円
|-
| 第67期(2007年6月1日 - 2008年5月31日)
| 1376億円
|
|
|
| 11億0400万円
| 2億4900万円
|-
| 第66期(2006年6月1日 - 2007年5月31日)
| 1389億7800万円
|
|
|
| 75億9600万円
| 41億2200万円
|-
| 第65期(2005年6月1日 - 2006年5月31日)
| 1399億8200万円
|
|
|
| 70億6400万円
|
|-
| 第64期(2004年6月1日 - 2005年5月31日)
| 1378億4800万円
|
|
|
| 46億5100万円
| 21億7400万円
|-
| 第63期(2003年6月1日 - 2004年5月31日)
| 1378億4800万円
|
|
|
|
| 45億3000万円
|-
| 第62期(2002年6月1日 - 2003年5月31日)
| 1418億2500万円
|
|
|
| 53億9000万円
| 25億8000万円
|-
| 第61期(2001年6月1日 - 2002年5月31日)
| 1446億1600万円
|
|
|
|
| 51億9300万円
|}
* 第81期より出版売上に事業収入に計上していたデジタル収入を移管
== ギャラリー ==
<gallery widths="200" heights="170">
File:Chunichi1967-01-04-2.jpg|<small>『[[週刊プレイボーイ]]』1967年新春特大号の[[新聞広告]]</small>
File:Chunichi1967-04-22-3.jpg|<small>『[[週刊明星]]』1967年4月30日号の新聞広告</small>
File:Chunichi1967-04-24-1.jpg|<small>『[[Myojo|明星]]』1967年6月号の新聞広告</small>
File:Chunichi1967-07-15-1.jpg|<small>『ヤングミュージック』1967年8月号の新聞広告</small>
</gallery>
== 雑誌 ==
=== 漫画誌 ===
==== 少年マンガ誌 ====
* [[週刊少年ジャンプ]](1968年7月創刊)- 旧名・少年ジャンプ。
*[[ジャンプスクエア]](2007年11月創刊)
* [[最強ジャンプ]](2011年12月創刊)
*[[Vジャンプ]](1993年5月創刊)
==== 青年マンガ誌 ====
* [[ウルトラジャンプ]](1999年10月創刊)
* [[週刊ヤングジャンプ]](1979年5月創刊)
* [[グランドジャンプ]](2011年11月創刊)- ビジネスジャンプとスーパージャンプが合併して誕生。
==== 少女・女性マンガ誌 ====
* [[りぼん]](1955年8月創刊)
* [[マーガレット (雑誌)|マーガレット]](1963年5月創刊)- 旧名・週刊マーガレット。
* [[別冊マーガレット]](1965年9月創刊)
* [[ザ マーガレット]](1982年2月創刊)
* [[Cookie (雑誌)|Cookie]](2000年5月創刊)
* [[Cocohana]](2011年11月創刊)
* [[オフィスユー|office YOU]](1985年3月創刊)- [[集英社クリエイティブ]]発行。
==== 電子専売BLマガジン ====
* 君恋
* .Bloom(ホーム社発行)
* メロキス(ホーム社発行)
=== 女性誌 ===
* [[non-no]](1971年5月創刊、毎月20日発売)
* [[MORE (雑誌)|MORE]](1977年5月創刊、年4回発行)
* [[BAILA]](2001年5月創刊、毎月12日発売)
* [[MAQUIA]](2004年9月創刊、毎月23日発売)
* [[SPUR (雑誌)|SPUR]](1989年9月創刊、毎月23日発売)
* [[LEE (雑誌)|LEE]](1983年5月創刊、毎月7日発売)
* [[eclat|éclat]](2007年9月創刊、毎月1日発売)
* [[MyAge]](2014年3月創刊)※ムック
=== 男性誌 ===
* [[週刊プレイボーイ]](1966年10月創刊、毎週月曜日発売)
* [[MEN'S NON-NO]]([[1986年]]5月創刊、毎月10日発売)
* [[UOMO]]([[2005年]]2月創刊、毎月24日発売)
=== 芸能誌 ===
* [[Myojo]]([[1952年]]10月創刊、毎月22日発売)
* [[Duet]](1986年11月創刊、ホーム社発行、毎月7日発売)
=== 文芸誌 ===
* [[青春と読書]](1966年9月創刊、毎月20日発売)
* [[すばる (雑誌)|すばる]](1970年6月創刊、毎月6日発売)
* [[小説すばる]](1987年11月創刊、毎月17日発売)
* [[Kotoba]](2010年9月創刊、3、6、9、12月の6日発売)
=== かつて発行していた主な雑誌 ===
==== 漫画誌 ====
* [[おもしろブック]](1949年創刊)- 『[[少年ブック]]』に改題。
* [[少女ブック]](1951年創刊)
* [[幼年ブック]](1953年創刊)- 『[[日の丸 (漫画雑誌)|日の丸]]』に改題。
* 日の丸(1957年創刊)
* こばと(1958年創刊)
* 少年ブック(1959年創刊)
* こばと幼稚園(1962年創刊)
* [[Seventeen (日本の雑誌)#月刊セブンティーン|月刊セブンティーン]](1973年創刊)
* [[花とゆめ]](1974年創刊)- [[白泉社]]に移管
* [[ヤングユー]](1986年創刊)
* [[月刊少年ジャンプ]](1969年創刊)- 旧名・別冊少年ジャンプ。
* [[HOBBY's JUMP]](1983年創刊)
* [[ぶ〜け]](1978年創刊)
* [[RIBONオリジナル|りぼんオリジナル→RIBONオリジナル]](1981年創刊)
* [[フレッシュジャンプ]](1982年創刊)
* [[ベアーズクラブ]](1988年創刊)
* [[月刊ティアラ]](1988年創刊)
* [[MANGAオールマン]](1995年創刊)
* [[COMIC Crimson]] (1998年創刊、[[集英社クリエイティブ|創美社]]発行)
* [[デラックスマーガレット]](1967年創刊)
* [[JC.COM]](2008年創刊)
* [[Cocohana|コーラス]](1994年5月創刊)
* [[ビジネスジャンプ]](1985年5月創刊)- スーパージャンプと合併して『グランドジャンプ』として新創刊。
* [[スーパージャンプ]](1988年10月創刊)- 上記のビジネスジャンプと合併して『グランドジャンプ』となる。
* [[スーパーダッシュ&ゴー!]](2011年10月創刊、2013年4月休刊しWEBへ移行)
* BLink(2011年3月創刊、2013年8月休刊しWEBへ移行、ホーム社発行)
* [[ジャンプ改]](2012年4月創刊、2014年10月休刊)
* [[コミック特盛]](2001年4月創刊、2015年12月休刊、[[ホーム社]]発行)
* [[YOU (雑誌)|YOU]](1980年12月創刊、2018年10月休刊)
==== 文芸誌 ====
* 小説ジュニア (1966年4月創刊)
* [[Cobalt (雑誌)|Cobalt]](1982年7月創刊、2016年4月休刊しWEBへ移行)
==== 情報誌 ====
* [[週刊明星]](1958年創刊)
* 女性明星(1962年創刊)
* 週刊ホーム(1969年創刊)
* オーシャンライフ(1971年創刊)
* [[ロードショー (雑誌)|ロードショー]](1972年創刊)
* [[月刊プレイボーイ]](1975年創刊)
* [[COSMOPOLITAN|COSMOPOLITAN 日本版]](1980年創刊)
* サムアップ(1984年創刊)
* [[DUNK (雑誌)|DUNK]](1984年創刊)
* [[BART (雑誌)|BART]](1991年創刊)
* [[メイプル (雑誌)|メイプル]](1998年創刊)
* [[PINKY]](2004年8月創刊)
* non-no MORE Wedding(1997年10月創刊、ムック)
* [[Sportiva]]([[2002年]]3月創刊、WEBへ移行)
==== 女性誌 ====
* [[Seventeen (日本の雑誌)|Seventeen]](1968年5月創刊)
* [[marisol]](2007年3月創刊)
== 漫画単行本 ==
{{Main|集英社の漫画レーベル}}
== 書籍 ==
* [[集英社文庫]]
* [[集英社新書]]
* 集英社 学芸単行本 (電子書籍は集英社e学芸単行本) <ref>{{Cite web|和書
| author = 集英社デジタル出版室
| year =
| title = 集英社e学芸単行本
| work = e!集英社
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}}</ref>
* インターナショナル新書([[集英社インターナショナル]]発行)
* ベルベット文庫(集英社クリエイティブ発行)
* [[集英社ギャラリー世界の文学]] 全20巻
=== 児童書 ===
* モンキー文庫
* 集英社版学習まんが 日本の歴史
* 集英社版学習まんが 世界の伝記NEXT
* 満点ゲットシリーズ
* [[わくわくキッズブック]]
* [[集英社みらい文庫]]
=== ライトノベル ===
* [[ジャンプ ジェイ ブックス]]
* [[ダッシュエックス文庫]]
* [[Dノベルf]]
* [[コバルト文庫]]
=== ライト文芸 ===
* [[集英社オレンジ文庫]]
=== ケータイ小説 ===
* ピンキー文庫
=== ティーンズラブ小説 ===
* 集英社eシフォン文庫 - シフォン文庫の電子書籍移行版
== WEBメディア・スマートフォンアプリ ==
* [https://shueisha.online/ 集英社オンライン]
* [https://seventeen-web.jp/ Seventeen]
* [https://hpplus.jp/ HAPPY PLUS]
** HAPPY PLUS ACADEMIA - オンライン講座サービス
** [https://nonno.hpplus.jp/ non-noWeb]
** [https://more.hpplus.jp/ DAILY MORE]
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** [https://maquia.hpplus.jp/ MAQUIA ONLINE]
** [https://marisol.hpplus.jp/ Marisol ONLINE]
** [https://eclat.hpplus.jp/ Web éclat]
* [https://ourage.jp/ OurAge]
* [https://yoi.shueisha.co.jp/ yoi(ヨイ)]
* [https://www.mensnonno.jp/ MEN'S NON-NO WEB]
* [https://www.webuomo.jp/ UOMO]
* [https://wpb.shueisha.co.jp/ 週プレNEWS]
* [https://sportiva.shueisha.co.jp/ Web Sportiva]
* [https://paraspoplus.com/ パラスポ+!]
* [https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/ 集英社新書プラス]
* [https://yomitai.jp/ よみタイ]
* [[集英社WEB文芸RENZABURO|集英社 文芸ステーション]]
* TanZak(タンザク)
=== ウェブコミック・マンガアプリ ===
* [[少年ジャンプ+]](2014年9月創刊)
* [https://zebrack-comic.shueisha.co.jp/ ゼブラック] - 総合電子書店
* [[少年ジャンプ%2B#ジャンプルーキー!|ジャンプルーキー!]] - マンガ投稿サービス
* [[週刊ヤングジャンプ#ヤンジャン!|ヤンジャン!]]
* [[週刊ヤングジャンプ#となりのヤングジャンプ|となりのヤングジャンプ]]
* [https://ashitano.tonarinoyj.jp/ あしたのヤングジャンプ] - WEBマンガ投稿コミュニティ
* [https://digitalmargaret.jp/ デジタルマーガレット]
* マンガMee
* [https://manga-meets.jp/ マンガMeets] - 少女・女性向け総合マンガ投稿サイト
=== オンラインストア ===
* SHUEISHA MANGA-ART HERITAGE
* ジャンプキャラクターズストア
* HAPPY PLUS STORE(旧FLAG SHOP)
** LEEマルシェ
** Marisol
** eclat premium
** mirabella(ミラベラ) - デザイナーズブランド正規通販
** mirabella homme(ミラベラオム) - メンズファッション通販
** HAPPY plus BEAUTY - コスメ通販
** ZAKKA MARKET - インテリア雑貨
** OUTLET
** ジャンプキャラクターズストア HAPPY PLUS STORE店
== 歴代社長 ==
{{dl2
| 株式会社化以前 |
* [[相賀武夫]](創業者)
* [[相賀徹夫]](合資会社時)
| 株式会社化以降 |
* [[陶山巌]](1949年 - 1974年)
* [[堀内末男]](1974年 - 1988年)
* [[若菜正]](1988年 - 1996年)
* [[小島民雄]](1996年 - 2000年)
* [[谷山尚義]](2000年 - 2005年)
* [[山下秀樹]](2005年 - 2011年)
* [[堀内丸恵]](2011年 - 2020年)
* [[廣野眞一]](2020年 - 現在)
}}
== 社歌 ==
* 「'''集英社・社歌'''」
** 作詞:[[井上靖]]
** 作曲:[[黛敏郎]]
: 1972年(昭和47年)制定<ref>{{Cite web|title=1972年(昭和47年)|url=https://www.shueisha.co.jp/history/detail/1972.html|work=集英社 小史|publisher=集英社|accessdate=2023-12-13}}</ref>。自主制作により[[友竹正則]]が歌唱する[[シングル#シングル・レコード|シングル盤]]([[規格品番]]:SES-1972-8)が作られている。[[石塚2祐子]]『[[犬マユゲでいこう]] A・TiEMPO』のカバー下に歌詞が掲載された。
* 「'''集英社マーチ'''」
** 作詞:若杉嵐
** 作曲:[[川澄健一]]
** 編曲:[[小野崎孝輔]]
: 自主制作により[[ボーカル・ショップ]]が歌唱する[[ソノシート]]が作成された。社歌に続き『犬マユゲでいこう URGENTE』のカバー下に歌詞が掲載されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ニューヨーク・タイムズ・カンパニー]] - 『T: The New York Times Style Magazine』の日本版の『T JAPAN』『T JAPAN web』を集英社が発行。
* [[凸版印刷]] - ウェブマガジン「情報・知識&オピニオン imidas」に集英社が情報提供。
* [[はてな (企業)]] - 集英社と協業でマンガ作品投稿・販売プラットフォーム「マンガノ」を運営、「少年ジャンプ+」「となりのヤングジャンプ」ブラウザ版にシステムを提供
* [[ACCESS (企業)]]
* [[Link-U]]
* [[コミック出版社の会]]
* [[デジタル出版者連盟]]
* [[Advanced Publishing Laboratory]]
* [[ズームイン!!朝!]] - [[日本テレビ]]で放送されていた番組。[[生コマーシャル]]のコーナーがあり雑誌の告知を行っていた。
* [[集英学園乙女研究部]] - [[文化放送]]で放送されていた番組。同社の一社提供。
* [[集英学園大学 マン研]] - 文化放送で放送されていた番組。同社の一社提供。
== 外部リンク ==
{{commonscat|Shueisha}}
* [https://www.shueisha.co.jp/ 集英社]
* {{Twitter|SHUEISHA_PR|集英社}}(2011年6月8日 11:38:21 - )'''※ [[協定世界時|UTC]]表記。'''
** [https://www.shueisha.co.jp/history/ 集英社小史]
** [https://store.hpplus.jp/ HAPPY PLUS STORE] - ファッション通販
** [https://www.s-manga.net/ S-MANGA] - 集英社コミック公式
* {{Twitter|shojomanga_gk|集英社の少女漫画学校【公式】}}
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[[Category:集英社|*]]
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区間
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区間(くかん)
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区間(くかん) 数学において、実数全体のなす集合Rの部分集合の一つである区間 (数学)
地理的な距離、ないしはそれに相当する区間 (地理)
鉄道における地理的な距離、または種別の一つの区間 (鉄道)
|
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'''区間'''(くかん)
*[[数学]]において、[[実数|実数全体]]のなす[[集合]]'''R'''の[[部分集合]]の一つである[[区間 (数学)]]
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武田信玄
|
武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏第19代当主。武田氏の第16代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。正式な姓名は、源 晴信(みなもと の はるのぶ)。表記は、「源朝臣武田信濃守太郎晴信」。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。
甲斐の守護を務めた武田氏の第18代当主・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で、越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いた。西上作戦の途上に三河で病を発し、没した。
大永元年(1521年)11月3日、甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。幼名は太郎。
信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際、既に懐妊していた大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したといわれている。
また、甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏の権威が失墜し、有力国衆が台頭していたが、信玄の曽祖父にあたる武田信昌期には守護代跡部氏を滅ぼすなど、国衆勢力を服従させて国内統一が進んでいた。信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、永正16年(1519年)には甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府。家臣団組織が整備され、戦国大名として武田氏の地位が確立されていた。
傅役は不明だが、『甲陽軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役であった可能性を示している。土屋昌続の父、金丸筑前守も傅役であったと伝わる。
大永3年(1523年)、兄の竹松が7歳で夭折した為、嫡男となる。
大永5年(1525年)、父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎(武田信繁)が生まれる。『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り、太郎を徐々に疎むようになったと言う。
信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。
天文2年(1533年)、扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘・「上杉の方」が晴信の正室として迎えられた。これは政略結婚であるが、晴信との仲は良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で上杉の方も子も死去している。
天文5年(1536年)3月、太郎は元服して、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、名前を晴信と改める。官位は、従五位下・大膳大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継いで武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑問視もされている(柴辻俊六による)。
信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武田家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。
晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平の戦いにも参加しているが、『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する。しかしこの直後に上杉憲政に信濃佐久郡を掠め取られた。
信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち、信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていた。晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行った。
天文11年(1542年)3月、瀬沢の戦いがあった(諸説あり、瀬沢の戦い参照)。
天文11年(1542年)6月、武田晴信は諏訪氏庶流である伊那の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、桑原城の戦いで諏訪氏は和睦を申し入れ、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している。
天文11年(1542年)9月25日、武田軍と高遠頼継軍が信濃国宮川で戦った(宮川の戦い)。武田方はこれを撃破して諏訪を掌握する。
天文12年(1543年)、武田方はさらに信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて、自害に追い込んだ。
天文14年(1545年)4月、上伊那郡の高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼし、続いて6月には福与城主である藤沢頼親を追放した(高遠合戦)。
天文13年(1544年)、父・武田信虎時代は対立していた後北条氏と和睦し、その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁して、両家に貸しを作った。それによって西方に安堵を得た北条氏康は河越城の戦いで勝利し、そうした動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていく。
今川・北条との関係が安定したことで、武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原長時、小県領主村上義清らと敵対する。
天文16年(1547年)、関東管領勢に支援された志賀城の笠原清繁を攻め、同年8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する。また、領国支配においても同年には分国法である『甲州法度之次第(信玄家法)』を定めている。
天文17年(1548年)2月、晴信は北信地方に勢力を誇る葛尾城主・村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。上田原の戦いにおいて武田氏方は村上義清方に敗れ、宿老の板垣信方、甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたという。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原長時軍を撃破した。
天文19年(1550年)7月、晴信は松本盆地に侵攻する。これに対して仁科盛能は武田方に内通し、小笠原長時には既に抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清の下へ逃走した(林城の戦い)。こうして松本盆地は武田の支配下に入った。
天文19年(1550年)9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる敗戦を喫した。
天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落城すると、武田氏軍は次第に優勢となった。
天文21年(1552年)8月、武田晴信軍は3000人の兵で仁科氏庶流小岩盛親が500人で守る小岩嶽城を攻略した。
天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後国主の長尾景虎(後の上杉謙信)の下へ逃れた(葛尾城の戦い)。こうして東信地方も武田家の支配下に入り、晴信は北信地方を除き信濃をほぼ平定した。
天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎は本格的な信濃出兵を開始し、以来、善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。
武田軍は村上義清の葛尾城を落とす。この後、武田軍は5月八幡にて村上義清に敗れ葛尾城を奪還される。9月武田軍は塩田城を落とす。武田軍の先鋒は9月の布施の戦いにて撃破された。上杉謙信は信濃領内に侵攻し、荒砥城、虚空蔵山城を落とし、青柳城と苅屋原城を攻めたが武田晴信は決戦を避けた。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。
同年8月には景虎の支援を受けて大井信広(武石城主)が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。
武田晴信は信濃進出に際して、和睦が成立した後も軍事的な緊張が続いていた駿河の今川氏と相模の北条氏の関係改善を進めており、天文23年(1554年)には嫡男武田義信の正室に今川義元の娘嶺松院(信玄の姪)を迎え、甲駿同盟を強化する。また娘を北条氏康の嫡男北条氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。
これにより、今川氏と北条氏も信玄及び今川家の太原雪斎が仲介して婚姻を結び、甲相駿三国同盟が成立する。甲相駿三国同盟同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との甲相同盟は長尾景虎を共通の敵として相互に出兵し軍事同盟として特に有効に機能した。
天文23年(1554年)、佐久郡や伊那郡・木曽郡に残されていた反武田勢力を完全に鎮圧して信濃南部を安定化させた。これと同時期に、三河・美濃・信濃の国境地帯に勢力を持つ美濃恵那郡の岩村遠山氏・苗木遠山氏の両遠山氏も信玄に臣従してきたために、美濃を支配する斎藤道三・義龍父子とも緊張関係を生じさせることになった。
天文24年(1555年)、武田方の善光寺別当・栗田永寿が旭山城(長野県長野市)に籠る。これに対し、長尾景虎は裾花川を挟んで対岸に葛山城を築城。
天文24年(1555年)、川中島において200日余長尾軍と対陣した。
今川義元の仲介で和睦、両軍は撤兵。和睦条件に武田方の旭山城破砕があり、破砕された。
弘治2年(1556年)、長尾家家臣の大熊朝秀が離反し、会津の蘆名盛氏と共に越後に侵攻するが撃退された。
弘治3年(1557年)2月15日、信玄は葛山城を調略で落とした。
弘治3年(1557年)、晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。この戦いは、上野原の戦いともいう。
弘治3年(1557年)、室町幕府の第13代将軍・足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し、晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている。
一連の戦闘の結果、北信地方の武田氏勢力は拡大した。
永禄2年(1559年)3月、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地の高梨氏館(中野城、長野県中野市)を落とされ、飯山城(長野県飯山市)に後退した。長尾景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになった。
永禄2年(1559年)、永禄の飢饉が発生。甲斐国が大規模な水害に襲われる。
永禄2年(1559年)2月、第三次川中島の戦いの後に出家した。 『甲斐国志』に拠れば、晴信は長禅寺住職の岐秀元伯を導師に出家し、「徳栄軒信玄」と号したという。文書上では翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている。
出家の背景には信濃をほぼ平定した時期であることや、信濃守護に補任されたことが契機であると考えられているほか、永禄2年(1559年)に相模後北条氏で永禄の大飢饉を背景に当主氏康が家督を嫡男氏政に譲り徳政を行っていることから、同じく飢饉が蔓延していた武田領国でも、代替わりに近い演出を行う手段として、晴信の出家が行われた可能性が考えられている。「信玄」の号のうち「玄」の字は「晴」と同義であるとする説や、臨済宗妙心寺派の開山である関山慧玄の一字を授かったとする説、唐代の僧臨済義玄から一字を取ったとする説などがある。
その間も信玄は北信侵攻を続けていた。永禄4年(1561年)4月、上杉政虎(永禄4年(1561年)3月、長尾景虎より改名)が後北条氏の小田原城を包囲する(小田原城の戦い)。この間に信玄は信濃に海津城(長野県長野市松代町)を築城。割ヶ嶽城(現長野県上水内郡信濃町)を攻め落とした。参謀の原虎胤が負傷。代わって、山本勘助が参謀になる。
信玄は甲相同盟の後北条氏の要請に応じて信濃に出兵。これを受けて政虎(永禄4年(1561年)8月より輝虎に改名)は川中島の善光寺に出兵した。
永禄4年(1561年)8月、第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。武田方は信玄の実弟である副将武田信繁をはじめ重臣室住虎光、足軽大将の山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷したという。
第4次川中島合戦で信濃侵攻は一段落し、信玄は西上野侵攻をさらに進めた。
永禄7年(1564年)、上杉謙信が武田軍の飛騨国侵入を防ぐために川中島に出陣したが、信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣するのみで、にらみ合いで終わった。
弘治3年(1557年)より、信玄は川中島の戦いと並行して西上野侵攻を開始したものの、山内上杉家の長野業正が善戦した為、当初は捗々しい結果は得られなかった。
永禄4年(1561年)、業正が死去すると、武田軍は跡を継いだ長野業盛を攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を領国化した。これにより箕輪城は対後北条氏の最前線となる。
元亀2年(1571年)12月、甲相同盟が回復すると後北条氏との争いが止まった。甲相同盟は天正7年(1579年)3月まで続いた。
永禄7年(1564年)、武田氏が江馬時盛を、上杉氏が三木氏・江馬輝盛を支援して介入した。江馬輝盛は家臣団として飛騨先方衆に組み込まれている。
永禄7年(1564年)6月、信玄は家臣の山県昌景・甘利昌忠を飛騨へ派遣し、これにより三木氏・江馬輝盛は劣勢となり、武田氏方と通じる。
永禄7年(1564年)8月、上杉輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した(第五次川中島合戦)。信玄は長野盆地南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。
永禄年間(1558年以降)に入ると、越中国の有力国人である椎名康胤は長尾景虎の従弟・長尾景直を養子に迎えた。同じく有力国人の神保長職は武田氏と同盟を結んで対抗した。信玄は石山本願寺の顕如と縁戚関係にあり、越中一向一揆も神保方を支援した。このため、越中の内乱は武田氏方の神保・一向一揆と上杉氏方の椎名による、いわゆる武田・上杉の代理戦争という形となった。
永禄11年(1568年)7月、椎名康胤が武田氏の調略に応じ、上杉氏から離反した。武田氏は越中国における家臣団・越中先方衆に椎名氏を組み込んでいる。
永禄3年(1560年)5月、駿河の今川義元が桶狭間の戦いにおいて、尾張国の織田信長に敗死。当主が今川氏真に交代したものの、今川領国では三河で松平元康(徳川家康)が独立するなど動揺が見られた。信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接する美濃においても信長が斎藤氏の内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上、武田との関係改善を模索、信玄も木曽・東濃地域における両勢力の対立を避けたかった。こうした経緯から諏訪勝頼(後の武田勝頼)正室に信長養女が迎えられている。川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生じた。
永禄10年(1567年)、今川氏の甲州への塩止め(交易停止)が行われ、甲相駿三国同盟が破綻した。
永禄10年(1567年)10月、武田家において親今川派とされた嫡男の義信が廃嫡される事件が発生している(義信事件)。
永禄11年(1568年)12月には遠江での今川領分割を約束した三河の徳川家康と共同で駿河侵攻を開始し、薩垂山で今川軍を破り( 薩埵峠の戦い)、今川館(後の駿府城)を一時占拠する。江尻城(静岡県静岡市)を築城。
信玄は駿河侵攻に際して相模北条氏康にも協調を持ちかけていたが、氏康は今川氏救援のため出兵して永禄11年(1568年)甲相同盟は解消された(甲相同盟の「武田氏の駿河侵攻と甲相同盟の破綻」参照)。北条氏は越後上杉氏との越相同盟を結び武田領国への圧力を加えた。さらに徳川氏とは遠江領有を巡り対立し、永禄12年5月(1569年)に徳川家康は今川氏と和睦し、徳川家康は駿河侵攻から離脱した。
この間、織田信長は足利義昭を奉じて上洛していた。信玄は信長と室町幕府の第15代将軍に就いた足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み、永禄12年8月(1569年)には上杉氏との和睦が成立した。
さらに信玄は越相同盟に対抗するため、常陸国佐竹氏や下総国簗田氏など北・東関東の反北条勢力との同盟を結んで後北条領国へ圧力を加え、永禄12年10月(1569年)には小田原城を一時包囲。撤退の際に、三増峠の戦いで北条勢を撃退した(これにより永禄12年(1569年)の第三次駿河侵攻にて、後北条氏は戦力を北条綱重の守る駿河の蒲原城に回せず、これを落とすことに成功した)。こうした対応策から後北条氏は上杉・武田との関係回復に方針を転じた。
永禄12年(1569年)末、信玄は再び駿河侵攻を行い、駿府を掌握した。 また、永禄年間に下野宇都宮氏の家臣益子勝宗と親交を深めていた。勝宗が信玄による西上野侵攻に呼応して出兵し、軍功を上げると信玄は勝宗に感状を贈っている。
永禄11年(1568年)9月、将軍・足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄やその他の大名に信長討伐の御内書を発送する。
永禄12年(1569年)6月、大宮城を攻め、降伏させる(第二次駿河侵攻を参照)。
永禄12年(1569年)10月、碓氷峠方面から信玄による小田原城侵攻。撤退の際に、三増峠の戦いが発生。この結果、後北条家は北条氏信(綱重)率いる蒲原城に援軍を回せなくなり、蒲原城が落城した(駿河侵攻の為の二正面作戦と見れる)。
元亀元年(1570年)1月、武田勝頼らが花沢城を攻め落とし、清水袋城を築城。 この結果、海に面した地域を手に入れたので、武田水軍を編成。徳一色城(田中城)を攻め落とす。
元亀元年(1570年)8月、駿河に攻め入り、信玄は黄瀬川に本陣を置き、軍勢を分けて韮山城を攻略、攻め落とせず。
元亀元年(1570年)12月、武田家臣の秋山虎繁は徳川氏を攻めるが、織田・徳川連合軍が小田子合戦(恵那市)にて秋山虎繁を破った。
元亀2年(1571年)2月、信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を行う。信玄は同年5月までに小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたが、信玄が血を吐いたため甲斐に帰還した。
元亀2年(1571年)4月、勝頼が加賀一向一揆の杉浦玄任に書状を送り、加賀・越中の一向一揆が協力して上杉謙信に対抗するよう求めた。
元亀3年(1572年)5月、顕如より総大将に任命された杉浦玄任率いる加賀一向一揆が、上杉方に対して挙兵した。これにより、謙信は元亀4年(1573年)8月まで、度々越中に出兵する必要があった(尻垂坂の戦い参照)。
元亀2年(1571年)10月3日、かねてより病に臥していた北条氏康が小田原で死去。跡を継いだ嫡男の北条氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い(氏政独自の方針との異説あり)、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠、北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日には信玄と甲相同盟を回復するに至った。
この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達している。
尾張の織田信長とは永禄年間から領国を接し、外交関係が始まっており、永禄8年(1565年)には東美濃の国衆である遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田家の世子である武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結んだ。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立している。織田氏の同盟国である徳川氏とは三河・遠江をめぐり対立を続けていたが、武田と織田は友好的関係で推移している。
元亀2年(1571年)の織田信長による比叡山焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。天台座主の覚恕法親王(正親町天皇の弟宮)も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願した。信玄は覚恕を保護し、覚恕の計らいにより権僧正という高位の僧位を元亀3年(1572年)に与えられた。
また、元亀2年には甲相同盟が回復している。
元亀3年(1572年)10月3日、信玄は将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発した。武田勢は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい、山県昌景と秋山虎繁の支隊は徳川氏の三河へ向かい、信玄本隊は馬場信春と青崩峠から遠江に攻め入った。
信長はそれを知らず5日付けで信玄に対して武田上杉間での和睦の仲介に骨を折ったとの書状を送った。
信玄率いる本隊は、信長と交戦中であった浅井長政、朝倉義景らに信長への対抗を要請し、10月13日に徳川氏の諸城を1日で落とし進軍した。
山県昌景の支隊は柿本城、井平城(小屋城、 静岡県浜松市)を落として信玄本隊と合流した(仏坂の戦い)。秋山虎繁の支隊は、11月に信長の叔母のおつやの方が治める東美濃の要衝岩村城が秋山虎繁に包囲されて軍門に下った(岩村城の戦い)。
これに対して、信長は信玄と義絶するが、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に佐久間信盛、平手汎秀らと3000の兵を送る程度に止まった。
10月14日、家康は武田軍と遠江一言坂において戦い敗退している(一言坂の戦い)。 信長は11月20日付けで上杉謙信に「信玄の所行、まことに前代未聞の無道といえり、侍の義理を知らず、ただ今は都鄙を顧みざるの私大、是非なき題目にて候」「永き儀絶(義絶)たるべき事もちろんに候」「未来永劫を経候といえども、再びあい通じまじく候」と書状を送っている。。
元亀3年(1572年)12月19日、武田軍は遠江の要衝である二俣城を陥落させた(二俣城の戦い)。
劣勢に追い込まれた徳川家康は浜松城に籠城の構えを見せたが、浜松城を攻囲せず西上する武田軍の動きを見て出陣した。しかし、遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と決戦し敗退している(三方ヶ原の戦い)。
しかしここで(信玄は)盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。信玄は義景に文書を送りつけ(伊能文書)再度の出兵を求めたものの、朝倉義景はその後も動こうとしなかった。また、信玄も三方ヶ原の戦いの勝利の勢いに乗じて大沢基胤の堀江城を攻めているが、攻め落とせなかった。
信玄は軍勢の動きを止め浜名湖北岸の刑部において越年したが、元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。3月6日、岩村城に秋山虎繁を入れた。
信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈するなど持病が悪化し、武田軍の進撃は停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、近習・一門衆の合議にて4月初旬には遂に甲斐に撤退することとなる。
元亀4年(1573年)4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で、信玄は死去した。享年53。臨終の地点は小山田信茂宛御宿監物書状写によれば三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされているが、浪合や根羽とする説もある。法名は恵林寺殿機山玄公大居士。菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺。
辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。
『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。
信玄の遺言については、遺骸を諏訪湖に沈めることなど事実では無く誤りである。信玄の墓は恵林寺に現存している。
信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿している。駒場の長岳寺や甲府岩窪の魔縁塚を信玄の火葬地とする伝承があり、甲府の円光院では安永8年(1779年)に甲府代官により発掘が行われて、信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録がある。このことから死の直後に火葬して遺骸を保管していたということも考えられている。
天正3年(1575年)3月6日、山県昌景が使者となり、高野山成慶院に日牌が建立される(『武田家御日牌帳』)。
天正3年(1575年)4月12日、『甲陽軍鑑』品51によると、恵林寺において武田勝頼による信玄三周忌の仏事が行われている。この時、恵林寺住職の快川紹喜が大導師を務め、葬儀が行われたという(『天正玄公仏事法語』)。同年5月21日に武田勝頼は長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗れている。
天正4年(1576年)4月16日、勝頼により恵林寺で信玄の葬儀が行われている。
江戸時代には寛文12年(1672年)に恵林寺において百回忌の法要が行われている。宝永2年(1705年)4月10日には恵林寺において甲府藩主・柳沢吉保による百三十三回忌の法要が行われている。柳沢吉保は将軍・徳川綱吉の側用人で、宝永元年(1704年)に甲府藩主となった。柳沢吉保は信玄を崇拝し、柳沢氏系図において武田氏に連なる一族であることを強調し、百三十三回忌法要では伝信玄佩刀の太刀銘来国長を奉納し、自らが信玄の後継者であることを強調している。
大正4年(1915年)11月10日、信玄は従三位を贈られる。
令和3年(2021年)11月3日、甲斐善光寺(甲府市)において「信玄公生誕500年祭大法要」が営まれ、信玄から数えて17代目の当主、武田英信らが参加した。
信玄の発行した文書は、信玄の花押による文書が約600点、印判を使用したものが約750点、写しのため署判不詳が100点、家臣が関与したものが50点の合計約1500点ほどが確認されている。そのうち信玄自筆書状は50点前後確認できるが、20点ほどは神社宛の願文である。私的な文書は皆無で、人物像・教養について伺える資料・研究は少ないものの、昭和初年には渡辺世祐『武田信玄の経綸と修養』 において若干論じられている。
教養面について、信玄は京から公家を招いて詩歌会・連歌会を行っており、信玄自身も数多くの歌や漢詩を残している。信玄の詩歌は『為和集』『心珠詠藻』『甲信紀行の歌』などに収録され、恵林寺住職の快川紹喜や円光院住職の説三恵璨により優れたものとして賞賛されている。また、漢詩は京都大徳寺の宗佐首座により「武田信玄詩藁」として編纂している。
また、信玄は実子義信の廃嫡や婚姻同盟の崩壊による子女の受難などを招いている一方で、娘の安産や病気平癒を祈願した願文を奉納しているなど、親としての一面が垣間見える事実もあることから、国主としての複雑な立場を指摘する意見もある。
『甲陽軍鑑』において信玄は名君・名将として描かれ、中国三国時代における蜀の諸葛孔明の人物像に仮託されており(品九)、甲陽軍鑑においてはいずれも後代の仮託と考えられているが軍学や人生訓に関する数々の名言が記されている。
信玄の統治初期は中央集権的な制度でなく、合議制であった。このため、在地領主(いわゆる国人)の領地に対しては直接指示を下せなかった。「御旗盾無御照覧あれ」という言葉は合議制の議長である武田家当主の決定であるという意味に使われることが多い。
信玄の統治は、領地の拡大や知行制の浸透に伴い、合議制から中央集権な統治に変遷が見られる。
武田家臣団を制度的に分類する事は研究者の間でも難しいとされる。武田家が守護から戦国大名になったと言う経緯から、中世的な部分が残る一方、時代に合わせて改変していった制度もあり、部分部分で鎌倉時代~室町時代前期の影響と、室町後期の時代の影響の両方がやや混然と存在しているためである。
家臣団を大きく分けると以下のように分けられる。
永禄11年(1568年)に間宮武兵衛(船10艘)、間宮信高(船5艘)、小浜景隆(安宅船1艘、小舟15艘)、向井正綱(船5艘)、伊丹康直(船5艘)、土屋貞綱(船12艘、同心50騎)などを登用して、武田水軍を創設している。
信玄は軍陣医をともなっていたことが武田信玄陣立図から確認され、信玄の本陣の前に御伽衆の小笠原慶庵と長坂釣閑斎とともに甫庵(寺島甫庵か)の薬師本道と大輪(山本大林か)の薬師外科の医師団部隊が有事に備えて存在していた。このような部隊は珍しく、他には毛利元就が挙げられる。
江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、信玄時代の武田家の武将達の中で特に評価の高い24名の武将を指して武田二十四将(武田二十四神将)と言われるようになった。信玄の家臣の絵図は「武田二十四将図」と呼ばれ、24人描かれるのが一般的とされるほどである。他に武田四天王も有名である。
職制は行政面と軍政面で分けられる。行政面では「職」と呼ばれる役職を頂点にした機関が存在した。ただし、武田氏は中央集権的な制度ではなかったため、在地領主(いわゆる国人)の領地に対しては直接指示を下せるわけではなかった。特に穴山・小山田両氏の領地は国人領主と言えるほどの独自性を維持している。信玄の初期は国人による集団指導体制の議長的な役割が強く、知行制による家臣団が確立されるのは治世も後半の事である。
構造的には原則として以下のようになっていたとされる。ただし、任命されていた人物の名が記されていない場合もあり、完全なシステムとしてこのように運営されていたわけではないようである。また、領地の拡大や知行制の浸透に伴い、これらの制度も変遷を行った様子が伺える。
行政・軍政とも職(総責任者)の下に位置し、武田氏の下部組織を勤める。竜朱印状奏者はこれらの制度上の地位とは別である。また、占領地の郡代など、限定的ながら独自裁量権を持つ地位も存在する。なお郡代という表現そのものも信濃攻略時には多く見られるが、駿河侵攻時にはあまり見られなくなっており、城主や城代がその役目を行うようになった。武田の行政機構が領地の拡大にあわせて変化していった一例であろう。
軍事制度としては寄親寄子制であった事がはっきりしている。基本的には武田氏に直属する寄親と、寄親に付随する寄子の関係である。ただし、武田関連資料ではこの寄子に関して「同心衆」と言う表現をされる場所があるため、直臣陪臣制と誤解される事も多く、注意が必要である。また、地域武士団は血縁関係によって結びついた甲州内に存続する独自集団であり、指揮系統的には武田氏直属であったと考えられているが、集団が丸ごと親族衆の下に同心の様に配されている場合もあり、必ずしも一定していない。地域武士団の前者の例は先述の武川衆、後者の例は小山田氏に配属されていた九一色衆が上げられる。
寄親とされているのは親族衆と譜代家臣団・外様家臣団の一部。譜代家臣団でありながら同心(寄子)である家もあるため、譜代家臣団が必ず寄親のような大部隊指揮官という訳ではない。また、俗に言う武田二十四将の中にも同心格である家もあり、知名度とも関係はない。それどころか侍大将とされている人物でも寄親の下に配されている場合もあり、かなり大きな権限を持っていたと考えられている。全体としては大きな領地を持っている一族である例が多く、地主的な発言権とは不可分であるようである。また、一方面指揮官(北信濃の春日虎綱や上野の内藤昌豊など)のように、領地とは別に大軍を指揮統率する権限を有している場合もある。
寄子は制度的には最も数が多くなる。譜代家臣団・外様家臣団の大部分である。平時には名主として領地を有し、居住する地域や領地の中に「又被官(武田氏から見た表現。被官の被官と言う意味)」と記される直属の部下を持つ。寄親一人の下に複数の寄子が配属され、一軍団を形成する。武田関係の資料では先述したように「同心衆」と記され、「甘利同心衆」と言うように責任者名+同心の書き方をされる例が多い。ただしこの名前が記されている人物も寄子である場合もあり、言葉そのものが状況によって使い分けられていたようである。
この複雑さを示す例として「信玄の被官」であり、板垣信方の「同心」を命じられた曲淵吉景が挙げられる。信玄の被官と言う事は信玄直属であり、制度面で正確に言えば寄子としては扱われないはずであるが、信方の同心である以上は寄子として扱われている。信玄の被官である以上、知行は信玄から与えられる一方、合戦時の指示は信方から与えられる、と言う事になる。この例の曲淵は他者の同心であるが、信玄直属の同心と言える立場の人物ももちろん存在していた。
もっとも現代のように一字一句にこだわった表現が当時されていたかどうかは判断が難しい。軍役帳などの場合、「被官〜氏」「同心〜氏」であれば信玄直属の被官、「〜氏同心××氏」でれば誰かの又被官と、前後の書かれ方で意味が通じるからである。現代発行される書籍などで単語だけ取り出す事によって混乱が助長されている面は否定できない。
また、『中尾之郷軍役衆名前帳』には同じ郷から出征する人物が複数の寄親に配属されている場合があり、複数の郷に領地を持っている人物が寄子同心が存在するなど、一概に一地方=一人物の指揮下と断定する事もできない。これもまた制度研究を困難にさせている要因の一つである。
なお、裁判面では寄親寄子制が基幹となっており、『甲州法度之次第』では内容にかかわらず寄子はまず寄親に訴え出る事が規定されている。寄親が対処できない場合のみ信玄の下に持ち込まれることになっていた。これは一方で兵農未分離の証左とも言える。
信玄は家臣との間の些細な諍いや義信事件など家中の動揺を招く事件に際しては、忠誠を誓わせる起請文を提出させており、神仏に誓うことで家臣との紐帯が保たれていた。また、信玄が寵愛する衆道相手の春日源介(「春日源介」の人物比定は不詳。)に対して、浮気の弁明を記す手紙や誓詞(天文15年(1546年))武田晴信誓詞、ともに東京大学史料編纂所所蔵)が現存しており、家臣との交友関係などを示す史料となっている。
信玄(晴信)に関して特徴的なことは、家臣に対する偏諱として「昌」の字が用いられた例が多いことである。武田氏の通字である「信」の授与は重臣の嫡男に限られ、それ以外の家臣には父・信虎は「虎」、子・勝頼は「勝」の字を授けているが、晴信の「晴」は将軍からの偏諱であるために「晴」の字を授けた確実な例はなく、代わりに曽祖父・武田信昌に由来する「昌」の字を代わりに授けたとみられている。例えば、真田氏の場合、幸隆の嫡男には「信」の一字を与えて信綱、次男以下には「昌」の字を与えて昌輝・昌幸などと名乗らせている。
信玄期には信虎期から整備されて家一間ごとに賦課される棟別諸役が確立し、在地掌握のための検地も行われ、領国支配の基盤が整えられた。 その一環として、天文16年(1547年)に甲州法度次第という分国法を制定した。
武田氏の本拠地である甲斐は平野部である甲府盆地を有するが、釜無川、笛吹川の二大河川の氾濫のため利用可能な耕地が少なく、年貢収入に期待ができなかった。この為、信玄期には大名権力により治水事業を行い、氾濫原の新田開発を精力的に実施した。代表的事例として、甲府城下町の整備と平行して行われた御勅使川と釜無川の合流地点である竜王(旧・中巨摩郡竜王町、現・甲斐市)では信玄堤と呼ばれる堤防を築き上げ、河川の流れを変えて開墾した。
大小切税法や甲州金、甲州枡の甲州三法を制定。 日本で初めて金貨である甲州金(碁石金)を鋳造した。甲斐には黒川金山や湯之奥金山など豊富な埋蔵量を誇り、信玄期に稼動していた金山が存在していた。南蛮渡来の掘削技術や精錬手法を積極的に取り入れ、莫大な量の金を産出し、治水事業や軍事費に充当した。また中央権門や有力寺社への贈答、織田信長や上杉謙信に敵対する勢力への支援など、外交面でも大いに威力を発揮した。ただし、碁石金は通常の流通には余り用いられず、金山の採掘に関しては武田氏は直接支配を行っていた史料は見られず、金堀衆と呼ばれる技術者集団の諸権益を補償することによって金を得ていたと考えられている。
寺社政策では寺領の安堵や寄進、不入権など諸権益の保証、中央からの住職招請、法号授与の斡旋など保護政策を行う一方で、規式の保持や戦勝祈願の修法や戦没者供養、神社には神益奉仕などを義務づける統制を行っている。信玄は自身も仏教信仰を持っていたが、領国拡大に伴い地域領民にも影響力を持つ寺社の保護は、領国掌握の一環として特定宗派にとらわれずに行っている。特に臨済宗の恵林寺に対する手厚い保護や、武田八幡宮の社殿造営、甲府への信濃善光寺の移転勧請などが知られる。
信玄の肖像画は同時代のものが複数存在し、和歌山県持明院所蔵の『絹本著色武田晴信像』、高野山成慶院所蔵の長谷川等伯筆『絹本著色武田信玄像』(重要文化財)が知られる。
前者は信玄の供養のため奉納されたと伝わる肖像画で、青年期の晴信が侍烏帽子に直垂という武家の正装姿で描かれており、直垂には武田家当主・甲斐守護職であることを示す花菱紋が描かれている。後者は、勝頼が武田氏の菩提所である成慶院に奉納したと伝わる肖像画で、壮年期のふっくらとした姿で頭部には髻があり、笄や目貫に足利将軍家家紋「二引両紋」のある脇差が描かれている。三条家とも関わりのある絵師・長谷川等伯によって描かれ、信玄正室の三条夫人の叔父を描いた『日堯上人像』と同時期に描かれている。また、高野山成慶院には信玄の弟信廉が描き勝頼が奉納したとされる肖像があったとされ、原本は伝存していないが写が現存している。
同時代では、信玄は肖像画以外に不動明王のイメージで自らを描かせているが、イメージは不確定であった。江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、軍配を持ち赤法衣と諏訪法性()の兜に象徴される法師武者姿としてのイメージが確立し、狩野探信や柳沢吉里(柳沢吉保の嫡男)により描かれた信玄個人の肖像画や武田二十四将図、歌舞伎や浄瑠璃の演目『本朝廿四孝』、これを描いた役者絵や武者絵などにおいて定着した。明治期もこの流れを引き継いでいるが、顔貌の描き方は統一されていなかった。しかし、松平定信編纂の『集古十種』(寛政12年(1800年刊))で既に成慶院本が「武田信玄像」として紹介されており、これが明治40年頃に東京帝国大学が発行した教育用掛図の中に採用されて普及し始め、今なお信玄の一般的なイメージとして知られている。甲府駅前や塩山駅前に建てられている銅像なども、そのイメージは成慶院本がモデルとされた。
ところが、歴史学者の藤本正行は、
などの疑問点から、成慶院本の像主は能登畠山家の誰か、特に畠山義続の可能性が高いという説を出している。そのため、最近の教科書では成慶院本の画像は使われず、もっぱら持明院本の画像が採用されることが多い。なお藤本によれば、花菱紋が大量に描かれ、具足の描き方などが時代的によく合っているという論拠から、東京都世田谷区の浄真寺所蔵の『伝吉良頼康像』こそが、本来成慶院にあった逍遙軒の描いた信玄像の忠実な模本であるという。また、江戸期に描かれた他の模本類でも、前述の高野山成慶院にあったという逍遥軒筆の信玄像は、この『伝吉良頼康像』に類似する。更に信玄の法名「徳栄軒」と、畠山義綱の戒名「興禅院華岳徳栄大居士」に注目し、元々成慶院本に付属していた箱書きや讃文に書かれていたであろう「徳栄」の文字が、後世の人々に信玄像と誤認させたのでは、という指摘もある。しかし美術史家からは、肖像は描かれた状況からどう描いたかを考えるべきで、図像から像主を判断するのは順序が逆だとして、こうした見方に反対する意見も根強い。しかし、こうした反論は説得性を欠き、もはや決着はついたとする研究者もいる。
武田菱は、甲州武田家の家紋である。菱形を4つ合わせた形状であり、知名度が高い。元々は「割菱紋」と呼ばれたが、江戸期に大量に描かれた信玄像で信玄を表す家紋として使われたため、「武田菱」の呼び名が定着した。ただし、前述のように信玄のような武田家の総領は、実際には割菱紋ではなく花菱紋を用いており、注意を要する。旧甲斐国の山梨県では、甲府駅から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。なおこの意匠は、山梨県警機動隊の車両などの装備品に用いており、JR東日本の特急「あずさ」「かいじ」に使われたE257系のデザインにも取り入れていた。
また、広島県立祇園北高等学校は、校舎が武田氏の傍流安芸武田氏の居城佐東銀山城のあった武田山の麓に立地していることにちなみ、校章には武田菱があしらわれている。同じ広島県の呉武田学園武田中学校・高等学校は、安芸武田氏の末裔が設立した学校である事から、この学校の校章は武田菱をモデルとした校章を採用している。
長野県の白馬連峰山麓にある白馬五竜スキー場などの名称「五竜」は「御料」もしくは「御菱」が変化したものであり、雪解けの季節に武田菱に似た模様が山肌に現れるため武田家の「御料」と定められ(もしくは武田家の「御菱」ということから)、それが「五竜」と変化した、とする巷談がある。詳しくは「五竜岳」の項目参照。
なお、皇居で行われる新年一般参賀や天皇誕生日の一般参賀において使用される宮殿・長和殿のベランダ(天皇や皇族らが立つ位置)周辺に武田菱と同じ紋様が存在するが、これは古くから宮中の調度、装束に用いられているもので、甲州武田家とは無関係である(宮内庁広報係の回答より)。
風林火山の旗が有名である為、信玄の代名詞とされる事がしばしば見られる。
「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」
諏訪明神の加護を信じて「南無諏方南宮法性上下大明神(なむすわなんぐうほっしょうかみしもだいみょうじん)」が同時に使われている。
徳川幕府が成立してから著しく評価を落とされた豊臣秀吉とは対照的に、信玄は「家康公を苦しめ、人間として成長させた武神」として高く評価された。信玄の手法を家康が参考にした事から、「信玄の神格化=家康の神格化」となるので幕府も信玄人気を容認していたとされる。
江戸時代には信玄の治世や軍略を中心とした『甲陽軍鑑』が成立。甲州流軍学が流布されたほか、『甲陽軍鑑』を基に武田家や川中島合戦を描いた文学がジャンルとして出現した。また、江戸時代中期以降は一円が幕領支配となった甲斐国においては、大小切税法や甲州金、甲州枡の甲州三法に象徴される独自の制度を創始した人物と位置づけられ、崇められるようになった。
明治には信玄のイメージが広く定着するが、江戸期を通じて天領であった山梨県においては信玄は郷土史の象徴的人物と認識されるようになった。第二次世界大戦前は内務省が武田神社の別格官幣社への昇格条件に信玄の勤王事跡の挙証を条件としていたこともあり、郷土史家により信玄を勤王家と位置づける研究も見られた。戦後は、英雄史観や皇国史観を排した実証的研究が中世史や武田氏研究でも行われるようになった。また1987年(昭和62年)に発足した武田氏研究会では、磯貝正義、上野晴朗、笹本正治、柴辻俊六、平山優、秋山敬らの研究者によって、実証的研究や武田氏関係史料の刊行を行っている。
戦後には産業構造の変化から観光が山梨県の主要産業になると、観光事業振興の動きの中で、信玄は山梨県や甲府市などの自治体、民間の企業・団体によって、歴史的観光資源となる郷土の象徴的人物として位置付けられた。信玄の命日にあたる4月12日の土日には時代行列「甲州軍団出陣」を目玉とした都市祭礼である信玄公祭りが開催されており、また山梨の日常食であったほうとうが「信玄の陣中食」として観光食としてアピールされるなど、観光物産に関わる様々な信玄由来説が形成された。信玄餅や信玄鍋のように名を冠した商品もあるほか、「信玄の隠し湯」と自称する温泉地も長野県内などを含めて点在する。
関連施設も複数ある。恵林寺山内の「信玄公宝物館」(甲州市)、「甲府市武田氏館跡歴史館」(愛称「信玄ミュージアム」) などである。
武田氏は清和源氏の中の河内源氏系の新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の棟梁。武田氏は甲斐守護も務め、信玄は第19代当主に当たる。
信玄の正室・側室は上杉朝興の娘、三条公頼の娘・三条の方(または三条夫人)のほか、諏訪頼重の娘など。多数の正室・側室がいたとする説もあるが、系譜・記録資料から確認できるのは上杉の方、三条の方、諏訪御料人、禰津御寮人、油川夫人の5人である。ただ、禰津御寮人の子と言われる武田信清の出生時期が極めて遅いこと、信玄の七女が母親不詳なこと、上記3人以外の側室とされる墓が残されていることから、ほかに側室がいた可能性も考えられている。
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"text": "武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏第19代当主。武田氏の第16代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。正式な姓名は、源 晴信(みなもと の はるのぶ)。表記は、「源朝臣武田信濃守太郎晴信」。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。",
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"text": "甲斐の守護を務めた武田氏の第18代当主・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で、越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いた。西上作戦の途上に三河で病を発し、没した。",
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"text": "大永元年(1521年)11月3日、甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。幼名は太郎。",
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"text": "信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際、既に懐妊していた大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したといわれている。",
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"text": "また、甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏の権威が失墜し、有力国衆が台頭していたが、信玄の曽祖父にあたる武田信昌期には守護代跡部氏を滅ぼすなど、国衆勢力を服従させて国内統一が進んでいた。信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、永正16年(1519年)には甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府。家臣団組織が整備され、戦国大名として武田氏の地位が確立されていた。",
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"text": "傅役は不明だが、『甲陽軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役であった可能性を示している。土屋昌続の父、金丸筑前守も傅役であったと伝わる。",
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"text": "大永3年(1523年)、兄の竹松が7歳で夭折した為、嫡男となる。",
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"text": "大永5年(1525年)、父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎(武田信繁)が生まれる。『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り、太郎を徐々に疎むようになったと言う。",
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"text": "信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。",
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"text": "天文2年(1533年)、扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘・「上杉の方」が晴信の正室として迎えられた。これは政略結婚であるが、晴信との仲は良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で上杉の方も子も死去している。",
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"text": "天文5年(1536年)3月、太郎は元服して、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、名前を晴信と改める。官位は、従五位下・大膳大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継いで武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑問視もされている(柴辻俊六による)。",
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"text": "信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武田家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。",
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"text": "晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平の戦いにも参加しているが、『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する。しかしこの直後に上杉憲政に信濃佐久郡を掠め取られた。",
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"text": "信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち、信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていた。晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行った。",
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"text": "天文11年(1542年)3月、瀬沢の戦いがあった(諸説あり、瀬沢の戦い参照)。",
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"text": "天文11年(1542年)6月、武田晴信は諏訪氏庶流である伊那の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、桑原城の戦いで諏訪氏は和睦を申し入れ、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している。",
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"text": "天文11年(1542年)9月25日、武田軍と高遠頼継軍が信濃国宮川で戦った(宮川の戦い)。武田方はこれを撃破して諏訪を掌握する。",
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"text": "天文12年(1543年)、武田方はさらに信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて、自害に追い込んだ。",
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"text": "天文14年(1545年)4月、上伊那郡の高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼし、続いて6月には福与城主である藤沢頼親を追放した(高遠合戦)。",
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"text": "天文13年(1544年)、父・武田信虎時代は対立していた後北条氏と和睦し、その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁して、両家に貸しを作った。それによって西方に安堵を得た北条氏康は河越城の戦いで勝利し、そうした動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていく。",
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"text": "今川・北条との関係が安定したことで、武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原長時、小県領主村上義清らと敵対する。",
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"text": "天文16年(1547年)、関東管領勢に支援された志賀城の笠原清繁を攻め、同年8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する。また、領国支配においても同年には分国法である『甲州法度之次第(信玄家法)』を定めている。",
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"text": "天文17年(1548年)2月、晴信は北信地方に勢力を誇る葛尾城主・村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。上田原の戦いにおいて武田氏方は村上義清方に敗れ、宿老の板垣信方、甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたという。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原長時軍を撃破した。",
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"text": "天文19年(1550年)7月、晴信は松本盆地に侵攻する。これに対して仁科盛能は武田方に内通し、小笠原長時には既に抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清の下へ逃走した(林城の戦い)。こうして松本盆地は武田の支配下に入った。",
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"text": "天文19年(1550年)9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる敗戦を喫した。",
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"text": "天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落城すると、武田氏軍は次第に優勢となった。",
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"text": "天文21年(1552年)8月、武田晴信軍は3000人の兵で仁科氏庶流小岩盛親が500人で守る小岩嶽城を攻略した。",
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"text": "天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後国主の長尾景虎(後の上杉謙信)の下へ逃れた(葛尾城の戦い)。こうして東信地方も武田家の支配下に入り、晴信は北信地方を除き信濃をほぼ平定した。",
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"text": "天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎は本格的な信濃出兵を開始し、以来、善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。",
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"text": "武田軍は村上義清の葛尾城を落とす。この後、武田軍は5月八幡にて村上義清に敗れ葛尾城を奪還される。9月武田軍は塩田城を落とす。武田軍の先鋒は9月の布施の戦いにて撃破された。上杉謙信は信濃領内に侵攻し、荒砥城、虚空蔵山城を落とし、青柳城と苅屋原城を攻めたが武田晴信は決戦を避けた。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。",
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"text": "同年8月には景虎の支援を受けて大井信広(武石城主)が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。",
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"text": "武田晴信は信濃進出に際して、和睦が成立した後も軍事的な緊張が続いていた駿河の今川氏と相模の北条氏の関係改善を進めており、天文23年(1554年)には嫡男武田義信の正室に今川義元の娘嶺松院(信玄の姪)を迎え、甲駿同盟を強化する。また娘を北条氏康の嫡男北条氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。",
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"text": "これにより、今川氏と北条氏も信玄及び今川家の太原雪斎が仲介して婚姻を結び、甲相駿三国同盟が成立する。甲相駿三国同盟同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との甲相同盟は長尾景虎を共通の敵として相互に出兵し軍事同盟として特に有効に機能した。",
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"text": "天文23年(1554年)、佐久郡や伊那郡・木曽郡に残されていた反武田勢力を完全に鎮圧して信濃南部を安定化させた。これと同時期に、三河・美濃・信濃の国境地帯に勢力を持つ美濃恵那郡の岩村遠山氏・苗木遠山氏の両遠山氏も信玄に臣従してきたために、美濃を支配する斎藤道三・義龍父子とも緊張関係を生じさせることになった。",
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"text": "天文24年(1555年)、武田方の善光寺別当・栗田永寿が旭山城(長野県長野市)に籠る。これに対し、長尾景虎は裾花川を挟んで対岸に葛山城を築城。",
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"text": "天文24年(1555年)、川中島において200日余長尾軍と対陣した。",
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"text": "今川義元の仲介で和睦、両軍は撤兵。和睦条件に武田方の旭山城破砕があり、破砕された。",
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"text": "弘治2年(1556年)、長尾家家臣の大熊朝秀が離反し、会津の蘆名盛氏と共に越後に侵攻するが撃退された。",
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"text": "弘治3年(1557年)2月15日、信玄は葛山城を調略で落とした。",
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"text": "弘治3年(1557年)、晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。この戦いは、上野原の戦いともいう。",
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"text": "弘治3年(1557年)、室町幕府の第13代将軍・足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し、晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている。",
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"text": "一連の戦闘の結果、北信地方の武田氏勢力は拡大した。",
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"text": "永禄2年(1559年)3月、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地の高梨氏館(中野城、長野県中野市)を落とされ、飯山城(長野県飯山市)に後退した。長尾景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになった。",
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"text": "永禄2年(1559年)、永禄の飢饉が発生。甲斐国が大規模な水害に襲われる。",
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"paragraph_id": 44,
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"text": "永禄2年(1559年)2月、第三次川中島の戦いの後に出家した。 『甲斐国志』に拠れば、晴信は長禅寺住職の岐秀元伯を導師に出家し、「徳栄軒信玄」と号したという。文書上では翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "出家の背景には信濃をほぼ平定した時期であることや、信濃守護に補任されたことが契機であると考えられているほか、永禄2年(1559年)に相模後北条氏で永禄の大飢饉を背景に当主氏康が家督を嫡男氏政に譲り徳政を行っていることから、同じく飢饉が蔓延していた武田領国でも、代替わりに近い演出を行う手段として、晴信の出家が行われた可能性が考えられている。「信玄」の号のうち「玄」の字は「晴」と同義であるとする説や、臨済宗妙心寺派の開山である関山慧玄の一字を授かったとする説、唐代の僧臨済義玄から一字を取ったとする説などがある。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "その間も信玄は北信侵攻を続けていた。永禄4年(1561年)4月、上杉政虎(永禄4年(1561年)3月、長尾景虎より改名)が後北条氏の小田原城を包囲する(小田原城の戦い)。この間に信玄は信濃に海津城(長野県長野市松代町)を築城。割ヶ嶽城(現長野県上水内郡信濃町)を攻め落とした。参謀の原虎胤が負傷。代わって、山本勘助が参謀になる。",
"title": "生涯"
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{
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"tag": "p",
"text": "信玄は甲相同盟の後北条氏の要請に応じて信濃に出兵。これを受けて政虎(永禄4年(1561年)8月より輝虎に改名)は川中島の善光寺に出兵した。",
"title": "生涯"
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{
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"tag": "p",
"text": "永禄4年(1561年)8月、第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。武田方は信玄の実弟である副将武田信繁をはじめ重臣室住虎光、足軽大将の山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷したという。",
"title": "生涯"
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{
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"tag": "p",
"text": "第4次川中島合戦で信濃侵攻は一段落し、信玄は西上野侵攻をさらに進めた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "永禄7年(1564年)、上杉謙信が武田軍の飛騨国侵入を防ぐために川中島に出陣したが、信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣するのみで、にらみ合いで終わった。",
"title": "生涯"
},
{
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"tag": "p",
"text": "弘治3年(1557年)より、信玄は川中島の戦いと並行して西上野侵攻を開始したものの、山内上杉家の長野業正が善戦した為、当初は捗々しい結果は得られなかった。",
"title": "生涯"
},
{
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"tag": "p",
"text": "永禄4年(1561年)、業正が死去すると、武田軍は跡を継いだ長野業盛を攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を領国化した。これにより箕輪城は対後北条氏の最前線となる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "元亀2年(1571年)12月、甲相同盟が回復すると後北条氏との争いが止まった。甲相同盟は天正7年(1579年)3月まで続いた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "永禄7年(1564年)、武田氏が江馬時盛を、上杉氏が三木氏・江馬輝盛を支援して介入した。江馬輝盛は家臣団として飛騨先方衆に組み込まれている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "永禄7年(1564年)6月、信玄は家臣の山県昌景・甘利昌忠を飛騨へ派遣し、これにより三木氏・江馬輝盛は劣勢となり、武田氏方と通じる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "永禄7年(1564年)8月、上杉輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した(第五次川中島合戦)。信玄は長野盆地南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "永禄年間(1558年以降)に入ると、越中国の有力国人である椎名康胤は長尾景虎の従弟・長尾景直を養子に迎えた。同じく有力国人の神保長職は武田氏と同盟を結んで対抗した。信玄は石山本願寺の顕如と縁戚関係にあり、越中一向一揆も神保方を支援した。このため、越中の内乱は武田氏方の神保・一向一揆と上杉氏方の椎名による、いわゆる武田・上杉の代理戦争という形となった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "永禄11年(1568年)7月、椎名康胤が武田氏の調略に応じ、上杉氏から離反した。武田氏は越中国における家臣団・越中先方衆に椎名氏を組み込んでいる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "永禄3年(1560年)5月、駿河の今川義元が桶狭間の戦いにおいて、尾張国の織田信長に敗死。当主が今川氏真に交代したものの、今川領国では三河で松平元康(徳川家康)が独立するなど動揺が見られた。信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接する美濃においても信長が斎藤氏の内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上、武田との関係改善を模索、信玄も木曽・東濃地域における両勢力の対立を避けたかった。こうした経緯から諏訪勝頼(後の武田勝頼)正室に信長養女が迎えられている。川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生じた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "永禄10年(1567年)、今川氏の甲州への塩止め(交易停止)が行われ、甲相駿三国同盟が破綻した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "永禄10年(1567年)10月、武田家において親今川派とされた嫡男の義信が廃嫡される事件が発生している(義信事件)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "永禄11年(1568年)12月には遠江での今川領分割を約束した三河の徳川家康と共同で駿河侵攻を開始し、薩垂山で今川軍を破り( 薩埵峠の戦い)、今川館(後の駿府城)を一時占拠する。江尻城(静岡県静岡市)を築城。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "信玄は駿河侵攻に際して相模北条氏康にも協調を持ちかけていたが、氏康は今川氏救援のため出兵して永禄11年(1568年)甲相同盟は解消された(甲相同盟の「武田氏の駿河侵攻と甲相同盟の破綻」参照)。北条氏は越後上杉氏との越相同盟を結び武田領国への圧力を加えた。さらに徳川氏とは遠江領有を巡り対立し、永禄12年5月(1569年)に徳川家康は今川氏と和睦し、徳川家康は駿河侵攻から離脱した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "この間、織田信長は足利義昭を奉じて上洛していた。信玄は信長と室町幕府の第15代将軍に就いた足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み、永禄12年8月(1569年)には上杉氏との和睦が成立した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "さらに信玄は越相同盟に対抗するため、常陸国佐竹氏や下総国簗田氏など北・東関東の反北条勢力との同盟を結んで後北条領国へ圧力を加え、永禄12年10月(1569年)には小田原城を一時包囲。撤退の際に、三増峠の戦いで北条勢を撃退した(これにより永禄12年(1569年)の第三次駿河侵攻にて、後北条氏は戦力を北条綱重の守る駿河の蒲原城に回せず、これを落とすことに成功した)。こうした対応策から後北条氏は上杉・武田との関係回復に方針を転じた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "永禄12年(1569年)末、信玄は再び駿河侵攻を行い、駿府を掌握した。 また、永禄年間に下野宇都宮氏の家臣益子勝宗と親交を深めていた。勝宗が信玄による西上野侵攻に呼応して出兵し、軍功を上げると信玄は勝宗に感状を贈っている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "永禄11年(1568年)9月、将軍・足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄やその他の大名に信長討伐の御内書を発送する。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "永禄12年(1569年)6月、大宮城を攻め、降伏させる(第二次駿河侵攻を参照)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "永禄12年(1569年)10月、碓氷峠方面から信玄による小田原城侵攻。撤退の際に、三増峠の戦いが発生。この結果、後北条家は北条氏信(綱重)率いる蒲原城に援軍を回せなくなり、蒲原城が落城した(駿河侵攻の為の二正面作戦と見れる)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "元亀元年(1570年)1月、武田勝頼らが花沢城を攻め落とし、清水袋城を築城。 この結果、海に面した地域を手に入れたので、武田水軍を編成。徳一色城(田中城)を攻め落とす。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "元亀元年(1570年)8月、駿河に攻め入り、信玄は黄瀬川に本陣を置き、軍勢を分けて韮山城を攻略、攻め落とせず。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "元亀元年(1570年)12月、武田家臣の秋山虎繁は徳川氏を攻めるが、織田・徳川連合軍が小田子合戦(恵那市)にて秋山虎繁を破った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "元亀2年(1571年)2月、信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を行う。信玄は同年5月までに小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたが、信玄が血を吐いたため甲斐に帰還した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "元亀2年(1571年)4月、勝頼が加賀一向一揆の杉浦玄任に書状を送り、加賀・越中の一向一揆が協力して上杉謙信に対抗するよう求めた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "元亀3年(1572年)5月、顕如より総大将に任命された杉浦玄任率いる加賀一向一揆が、上杉方に対して挙兵した。これにより、謙信は元亀4年(1573年)8月まで、度々越中に出兵する必要があった(尻垂坂の戦い参照)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "元亀2年(1571年)10月3日、かねてより病に臥していた北条氏康が小田原で死去。跡を継いだ嫡男の北条氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い(氏政独自の方針との異説あり)、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠、北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日には信玄と甲相同盟を回復するに至った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "尾張の織田信長とは永禄年間から領国を接し、外交関係が始まっており、永禄8年(1565年)には東美濃の国衆である遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田家の世子である武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結んだ。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立している。織田氏の同盟国である徳川氏とは三河・遠江をめぐり対立を続けていたが、武田と織田は友好的関係で推移している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "元亀2年(1571年)の織田信長による比叡山焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。天台座主の覚恕法親王(正親町天皇の弟宮)も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願した。信玄は覚恕を保護し、覚恕の計らいにより権僧正という高位の僧位を元亀3年(1572年)に与えられた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "また、元亀2年には甲相同盟が回復している。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "元亀3年(1572年)10月3日、信玄は将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発した。武田勢は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい、山県昌景と秋山虎繁の支隊は徳川氏の三河へ向かい、信玄本隊は馬場信春と青崩峠から遠江に攻め入った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "信長はそれを知らず5日付けで信玄に対して武田上杉間での和睦の仲介に骨を折ったとの書状を送った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "信玄率いる本隊は、信長と交戦中であった浅井長政、朝倉義景らに信長への対抗を要請し、10月13日に徳川氏の諸城を1日で落とし進軍した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "山県昌景の支隊は柿本城、井平城(小屋城、 静岡県浜松市)を落として信玄本隊と合流した(仏坂の戦い)。秋山虎繁の支隊は、11月に信長の叔母のおつやの方が治める東美濃の要衝岩村城が秋山虎繁に包囲されて軍門に下った(岩村城の戦い)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "これに対して、信長は信玄と義絶するが、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に佐久間信盛、平手汎秀らと3000の兵を送る程度に止まった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "10月14日、家康は武田軍と遠江一言坂において戦い敗退している(一言坂の戦い)。 信長は11月20日付けで上杉謙信に「信玄の所行、まことに前代未聞の無道といえり、侍の義理を知らず、ただ今は都鄙を顧みざるの私大、是非なき題目にて候」「永き儀絶(義絶)たるべき事もちろんに候」「未来永劫を経候といえども、再びあい通じまじく候」と書状を送っている。。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "元亀3年(1572年)12月19日、武田軍は遠江の要衝である二俣城を陥落させた(二俣城の戦い)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "劣勢に追い込まれた徳川家康は浜松城に籠城の構えを見せたが、浜松城を攻囲せず西上する武田軍の動きを見て出陣した。しかし、遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と決戦し敗退している(三方ヶ原の戦い)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "しかしここで(信玄は)盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。信玄は義景に文書を送りつけ(伊能文書)再度の出兵を求めたものの、朝倉義景はその後も動こうとしなかった。また、信玄も三方ヶ原の戦いの勝利の勢いに乗じて大沢基胤の堀江城を攻めているが、攻め落とせなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "信玄は軍勢の動きを止め浜名湖北岸の刑部において越年したが、元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。3月6日、岩村城に秋山虎繁を入れた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈するなど持病が悪化し、武田軍の進撃は停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、近習・一門衆の合議にて4月初旬には遂に甲斐に撤退することとなる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "元亀4年(1573年)4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で、信玄は死去した。享年53。臨終の地点は小山田信茂宛御宿監物書状写によれば三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされているが、浪合や根羽とする説もある。法名は恵林寺殿機山玄公大居士。菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 94,
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"text": "『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。",
"title": "遺言"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "信玄の遺言については、遺骸を諏訪湖に沈めることなど事実では無く誤りである。信玄の墓は恵林寺に現存している。",
"title": "遺言"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿している。駒場の長岳寺や甲府岩窪の魔縁塚を信玄の火葬地とする伝承があり、甲府の円光院では安永8年(1779年)に甲府代官により発掘が行われて、信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録がある。このことから死の直後に火葬して遺骸を保管していたということも考えられている。",
"title": "遺言"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "天正3年(1575年)3月6日、山県昌景が使者となり、高野山成慶院に日牌が建立される(『武田家御日牌帳』)。",
"title": "死後・法要など"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "天正3年(1575年)4月12日、『甲陽軍鑑』品51によると、恵林寺において武田勝頼による信玄三周忌の仏事が行われている。この時、恵林寺住職の快川紹喜が大導師を務め、葬儀が行われたという(『天正玄公仏事法語』)。同年5月21日に武田勝頼は長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗れている。",
"title": "死後・法要など"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "天正4年(1576年)4月16日、勝頼により恵林寺で信玄の葬儀が行われている。",
"title": "死後・法要など"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "江戸時代には寛文12年(1672年)に恵林寺において百回忌の法要が行われている。宝永2年(1705年)4月10日には恵林寺において甲府藩主・柳沢吉保による百三十三回忌の法要が行われている。柳沢吉保は将軍・徳川綱吉の側用人で、宝永元年(1704年)に甲府藩主となった。柳沢吉保は信玄を崇拝し、柳沢氏系図において武田氏に連なる一族であることを強調し、百三十三回忌法要では伝信玄佩刀の太刀銘来国長を奉納し、自らが信玄の後継者であることを強調している。",
"title": "死後・法要など"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "大正4年(1915年)11月10日、信玄は従三位を贈られる。",
"title": "死後・法要など"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "令和3年(2021年)11月3日、甲斐善光寺(甲府市)において「信玄公生誕500年祭大法要」が営まれ、信玄から数えて17代目の当主、武田英信らが参加した。",
"title": "死後・法要など"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "信玄の発行した文書は、信玄の花押による文書が約600点、印判を使用したものが約750点、写しのため署判不詳が100点、家臣が関与したものが50点の合計約1500点ほどが確認されている。そのうち信玄自筆書状は50点前後確認できるが、20点ほどは神社宛の願文である。私的な文書は皆無で、人物像・教養について伺える資料・研究は少ないものの、昭和初年には渡辺世祐『武田信玄の経綸と修養』 において若干論じられている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "教養面について、信玄は京から公家を招いて詩歌会・連歌会を行っており、信玄自身も数多くの歌や漢詩を残している。信玄の詩歌は『為和集』『心珠詠藻』『甲信紀行の歌』などに収録され、恵林寺住職の快川紹喜や円光院住職の説三恵璨により優れたものとして賞賛されている。また、漢詩は京都大徳寺の宗佐首座により「武田信玄詩藁」として編纂している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "また、信玄は実子義信の廃嫡や婚姻同盟の崩壊による子女の受難などを招いている一方で、娘の安産や病気平癒を祈願した願文を奉納しているなど、親としての一面が垣間見える事実もあることから、国主としての複雑な立場を指摘する意見もある。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "『甲陽軍鑑』において信玄は名君・名将として描かれ、中国三国時代における蜀の諸葛孔明の人物像に仮託されており(品九)、甲陽軍鑑においてはいずれも後代の仮託と考えられているが軍学や人生訓に関する数々の名言が記されている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "信玄の統治初期は中央集権的な制度でなく、合議制であった。このため、在地領主(いわゆる国人)の領地に対しては直接指示を下せなかった。「御旗盾無御照覧あれ」という言葉は合議制の議長である武田家当主の決定であるという意味に使われることが多い。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "信玄の統治は、領地の拡大や知行制の浸透に伴い、合議制から中央集権な統治に変遷が見られる。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "武田家臣団を制度的に分類する事は研究者の間でも難しいとされる。武田家が守護から戦国大名になったと言う経緯から、中世的な部分が残る一方、時代に合わせて改変していった制度もあり、部分部分で鎌倉時代~室町時代前期の影響と、室町後期の時代の影響の両方がやや混然と存在しているためである。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "家臣団を大きく分けると以下のように分けられる。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "永禄11年(1568年)に間宮武兵衛(船10艘)、間宮信高(船5艘)、小浜景隆(安宅船1艘、小舟15艘)、向井正綱(船5艘)、伊丹康直(船5艘)、土屋貞綱(船12艘、同心50騎)などを登用して、武田水軍を創設している。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "信玄は軍陣医をともなっていたことが武田信玄陣立図から確認され、信玄の本陣の前に御伽衆の小笠原慶庵と長坂釣閑斎とともに甫庵(寺島甫庵か)の薬師本道と大輪(山本大林か)の薬師外科の医師団部隊が有事に備えて存在していた。このような部隊は珍しく、他には毛利元就が挙げられる。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、信玄時代の武田家の武将達の中で特に評価の高い24名の武将を指して武田二十四将(武田二十四神将)と言われるようになった。信玄の家臣の絵図は「武田二十四将図」と呼ばれ、24人描かれるのが一般的とされるほどである。他に武田四天王も有名である。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "職制は行政面と軍政面で分けられる。行政面では「職」と呼ばれる役職を頂点にした機関が存在した。ただし、武田氏は中央集権的な制度ではなかったため、在地領主(いわゆる国人)の領地に対しては直接指示を下せるわけではなかった。特に穴山・小山田両氏の領地は国人領主と言えるほどの独自性を維持している。信玄の初期は国人による集団指導体制の議長的な役割が強く、知行制による家臣団が確立されるのは治世も後半の事である。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "構造的には原則として以下のようになっていたとされる。ただし、任命されていた人物の名が記されていない場合もあり、完全なシステムとしてこのように運営されていたわけではないようである。また、領地の拡大や知行制の浸透に伴い、これらの制度も変遷を行った様子が伺える。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "行政・軍政とも職(総責任者)の下に位置し、武田氏の下部組織を勤める。竜朱印状奏者はこれらの制度上の地位とは別である。また、占領地の郡代など、限定的ながら独自裁量権を持つ地位も存在する。なお郡代という表現そのものも信濃攻略時には多く見られるが、駿河侵攻時にはあまり見られなくなっており、城主や城代がその役目を行うようになった。武田の行政機構が領地の拡大にあわせて変化していった一例であろう。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "軍事制度としては寄親寄子制であった事がはっきりしている。基本的には武田氏に直属する寄親と、寄親に付随する寄子の関係である。ただし、武田関連資料ではこの寄子に関して「同心衆」と言う表現をされる場所があるため、直臣陪臣制と誤解される事も多く、注意が必要である。また、地域武士団は血縁関係によって結びついた甲州内に存続する独自集団であり、指揮系統的には武田氏直属であったと考えられているが、集団が丸ごと親族衆の下に同心の様に配されている場合もあり、必ずしも一定していない。地域武士団の前者の例は先述の武川衆、後者の例は小山田氏に配属されていた九一色衆が上げられる。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "寄親とされているのは親族衆と譜代家臣団・外様家臣団の一部。譜代家臣団でありながら同心(寄子)である家もあるため、譜代家臣団が必ず寄親のような大部隊指揮官という訳ではない。また、俗に言う武田二十四将の中にも同心格である家もあり、知名度とも関係はない。それどころか侍大将とされている人物でも寄親の下に配されている場合もあり、かなり大きな権限を持っていたと考えられている。全体としては大きな領地を持っている一族である例が多く、地主的な発言権とは不可分であるようである。また、一方面指揮官(北信濃の春日虎綱や上野の内藤昌豊など)のように、領地とは別に大軍を指揮統率する権限を有している場合もある。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "寄子は制度的には最も数が多くなる。譜代家臣団・外様家臣団の大部分である。平時には名主として領地を有し、居住する地域や領地の中に「又被官(武田氏から見た表現。被官の被官と言う意味)」と記される直属の部下を持つ。寄親一人の下に複数の寄子が配属され、一軍団を形成する。武田関係の資料では先述したように「同心衆」と記され、「甘利同心衆」と言うように責任者名+同心の書き方をされる例が多い。ただしこの名前が記されている人物も寄子である場合もあり、言葉そのものが状況によって使い分けられていたようである。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "この複雑さを示す例として「信玄の被官」であり、板垣信方の「同心」を命じられた曲淵吉景が挙げられる。信玄の被官と言う事は信玄直属であり、制度面で正確に言えば寄子としては扱われないはずであるが、信方の同心である以上は寄子として扱われている。信玄の被官である以上、知行は信玄から与えられる一方、合戦時の指示は信方から与えられる、と言う事になる。この例の曲淵は他者の同心であるが、信玄直属の同心と言える立場の人物ももちろん存在していた。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "もっとも現代のように一字一句にこだわった表現が当時されていたかどうかは判断が難しい。軍役帳などの場合、「被官〜氏」「同心〜氏」であれば信玄直属の被官、「〜氏同心××氏」でれば誰かの又被官と、前後の書かれ方で意味が通じるからである。現代発行される書籍などで単語だけ取り出す事によって混乱が助長されている面は否定できない。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "また、『中尾之郷軍役衆名前帳』には同じ郷から出征する人物が複数の寄親に配属されている場合があり、複数の郷に領地を持っている人物が寄子同心が存在するなど、一概に一地方=一人物の指揮下と断定する事もできない。これもまた制度研究を困難にさせている要因の一つである。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "なお、裁判面では寄親寄子制が基幹となっており、『甲州法度之次第』では内容にかかわらず寄子はまず寄親に訴え出る事が規定されている。寄親が対処できない場合のみ信玄の下に持ち込まれることになっていた。これは一方で兵農未分離の証左とも言える。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "信玄は家臣との間の些細な諍いや義信事件など家中の動揺を招く事件に際しては、忠誠を誓わせる起請文を提出させており、神仏に誓うことで家臣との紐帯が保たれていた。また、信玄が寵愛する衆道相手の春日源介(「春日源介」の人物比定は不詳。)に対して、浮気の弁明を記す手紙や誓詞(天文15年(1546年))武田晴信誓詞、ともに東京大学史料編纂所所蔵)が現存しており、家臣との交友関係などを示す史料となっている。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "信玄(晴信)に関して特徴的なことは、家臣に対する偏諱として「昌」の字が用いられた例が多いことである。武田氏の通字である「信」の授与は重臣の嫡男に限られ、それ以外の家臣には父・信虎は「虎」、子・勝頼は「勝」の字を授けているが、晴信の「晴」は将軍からの偏諱であるために「晴」の字を授けた確実な例はなく、代わりに曽祖父・武田信昌に由来する「昌」の字を代わりに授けたとみられている。例えば、真田氏の場合、幸隆の嫡男には「信」の一字を与えて信綱、次男以下には「昌」の字を与えて昌輝・昌幸などと名乗らせている。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "信玄期には信虎期から整備されて家一間ごとに賦課される棟別諸役が確立し、在地掌握のための検地も行われ、領国支配の基盤が整えられた。 その一環として、天文16年(1547年)に甲州法度次第という分国法を制定した。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 127,
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"text": "武田氏の本拠地である甲斐は平野部である甲府盆地を有するが、釜無川、笛吹川の二大河川の氾濫のため利用可能な耕地が少なく、年貢収入に期待ができなかった。この為、信玄期には大名権力により治水事業を行い、氾濫原の新田開発を精力的に実施した。代表的事例として、甲府城下町の整備と平行して行われた御勅使川と釜無川の合流地点である竜王(旧・中巨摩郡竜王町、現・甲斐市)では信玄堤と呼ばれる堤防を築き上げ、河川の流れを変えて開墾した。",
"title": "政策"
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"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "大小切税法や甲州金、甲州枡の甲州三法を制定。 日本で初めて金貨である甲州金(碁石金)を鋳造した。甲斐には黒川金山や湯之奥金山など豊富な埋蔵量を誇り、信玄期に稼動していた金山が存在していた。南蛮渡来の掘削技術や精錬手法を積極的に取り入れ、莫大な量の金を産出し、治水事業や軍事費に充当した。また中央権門や有力寺社への贈答、織田信長や上杉謙信に敵対する勢力への支援など、外交面でも大いに威力を発揮した。ただし、碁石金は通常の流通には余り用いられず、金山の採掘に関しては武田氏は直接支配を行っていた史料は見られず、金堀衆と呼ばれる技術者集団の諸権益を補償することによって金を得ていたと考えられている。",
"title": "政策"
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{
"paragraph_id": 129,
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"text": "寺社政策では寺領の安堵や寄進、不入権など諸権益の保証、中央からの住職招請、法号授与の斡旋など保護政策を行う一方で、規式の保持や戦勝祈願の修法や戦没者供養、神社には神益奉仕などを義務づける統制を行っている。信玄は自身も仏教信仰を持っていたが、領国拡大に伴い地域領民にも影響力を持つ寺社の保護は、領国掌握の一環として特定宗派にとらわれずに行っている。特に臨済宗の恵林寺に対する手厚い保護や、武田八幡宮の社殿造営、甲府への信濃善光寺の移転勧請などが知られる。",
"title": "政策"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "信玄の肖像画は同時代のものが複数存在し、和歌山県持明院所蔵の『絹本著色武田晴信像』、高野山成慶院所蔵の長谷川等伯筆『絹本著色武田信玄像』(重要文化財)が知られる。",
"title": "研究"
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{
"paragraph_id": 131,
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"text": "前者は信玄の供養のため奉納されたと伝わる肖像画で、青年期の晴信が侍烏帽子に直垂という武家の正装姿で描かれており、直垂には武田家当主・甲斐守護職であることを示す花菱紋が描かれている。後者は、勝頼が武田氏の菩提所である成慶院に奉納したと伝わる肖像画で、壮年期のふっくらとした姿で頭部には髻があり、笄や目貫に足利将軍家家紋「二引両紋」のある脇差が描かれている。三条家とも関わりのある絵師・長谷川等伯によって描かれ、信玄正室の三条夫人の叔父を描いた『日堯上人像』と同時期に描かれている。また、高野山成慶院には信玄の弟信廉が描き勝頼が奉納したとされる肖像があったとされ、原本は伝存していないが写が現存している。",
"title": "研究"
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"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "同時代では、信玄は肖像画以外に不動明王のイメージで自らを描かせているが、イメージは不確定であった。江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、軍配を持ち赤法衣と諏訪法性()の兜に象徴される法師武者姿としてのイメージが確立し、狩野探信や柳沢吉里(柳沢吉保の嫡男)により描かれた信玄個人の肖像画や武田二十四将図、歌舞伎や浄瑠璃の演目『本朝廿四孝』、これを描いた役者絵や武者絵などにおいて定着した。明治期もこの流れを引き継いでいるが、顔貌の描き方は統一されていなかった。しかし、松平定信編纂の『集古十種』(寛政12年(1800年刊))で既に成慶院本が「武田信玄像」として紹介されており、これが明治40年頃に東京帝国大学が発行した教育用掛図の中に採用されて普及し始め、今なお信玄の一般的なイメージとして知られている。甲府駅前や塩山駅前に建てられている銅像なども、そのイメージは成慶院本がモデルとされた。",
"title": "研究"
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"paragraph_id": 133,
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"text": "ところが、歴史学者の藤本正行は、",
"title": "研究"
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{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "などの疑問点から、成慶院本の像主は能登畠山家の誰か、特に畠山義続の可能性が高いという説を出している。そのため、最近の教科書では成慶院本の画像は使われず、もっぱら持明院本の画像が採用されることが多い。なお藤本によれば、花菱紋が大量に描かれ、具足の描き方などが時代的によく合っているという論拠から、東京都世田谷区の浄真寺所蔵の『伝吉良頼康像』こそが、本来成慶院にあった逍遙軒の描いた信玄像の忠実な模本であるという。また、江戸期に描かれた他の模本類でも、前述の高野山成慶院にあったという逍遥軒筆の信玄像は、この『伝吉良頼康像』に類似する。更に信玄の法名「徳栄軒」と、畠山義綱の戒名「興禅院華岳徳栄大居士」に注目し、元々成慶院本に付属していた箱書きや讃文に書かれていたであろう「徳栄」の文字が、後世の人々に信玄像と誤認させたのでは、という指摘もある。しかし美術史家からは、肖像は描かれた状況からどう描いたかを考えるべきで、図像から像主を判断するのは順序が逆だとして、こうした見方に反対する意見も根強い。しかし、こうした反論は説得性を欠き、もはや決着はついたとする研究者もいる。",
"title": "研究"
},
{
"paragraph_id": 135,
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"text": "武田菱は、甲州武田家の家紋である。菱形を4つ合わせた形状であり、知名度が高い。元々は「割菱紋」と呼ばれたが、江戸期に大量に描かれた信玄像で信玄を表す家紋として使われたため、「武田菱」の呼び名が定着した。ただし、前述のように信玄のような武田家の総領は、実際には割菱紋ではなく花菱紋を用いており、注意を要する。旧甲斐国の山梨県では、甲府駅から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。なおこの意匠は、山梨県警機動隊の車両などの装備品に用いており、JR東日本の特急「あずさ」「かいじ」に使われたE257系のデザインにも取り入れていた。",
"title": "研究"
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{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "また、広島県立祇園北高等学校は、校舎が武田氏の傍流安芸武田氏の居城佐東銀山城のあった武田山の麓に立地していることにちなみ、校章には武田菱があしらわれている。同じ広島県の呉武田学園武田中学校・高等学校は、安芸武田氏の末裔が設立した学校である事から、この学校の校章は武田菱をモデルとした校章を採用している。",
"title": "研究"
},
{
"paragraph_id": 137,
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"text": "長野県の白馬連峰山麓にある白馬五竜スキー場などの名称「五竜」は「御料」もしくは「御菱」が変化したものであり、雪解けの季節に武田菱に似た模様が山肌に現れるため武田家の「御料」と定められ(もしくは武田家の「御菱」ということから)、それが「五竜」と変化した、とする巷談がある。詳しくは「五竜岳」の項目参照。",
"title": "研究"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "なお、皇居で行われる新年一般参賀や天皇誕生日の一般参賀において使用される宮殿・長和殿のベランダ(天皇や皇族らが立つ位置)周辺に武田菱と同じ紋様が存在するが、これは古くから宮中の調度、装束に用いられているもので、甲州武田家とは無関係である(宮内庁広報係の回答より)。",
"title": "研究"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "風林火山の旗が有名である為、信玄の代名詞とされる事がしばしば見られる。",
"title": "研究"
},
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"paragraph_id": 140,
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"text": "「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」",
"title": "研究"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "諏訪明神の加護を信じて「南無諏方南宮法性上下大明神(なむすわなんぐうほっしょうかみしもだいみょうじん)」が同時に使われている。",
"title": "研究"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "徳川幕府が成立してから著しく評価を落とされた豊臣秀吉とは対照的に、信玄は「家康公を苦しめ、人間として成長させた武神」として高く評価された。信玄の手法を家康が参考にした事から、「信玄の神格化=家康の神格化」となるので幕府も信玄人気を容認していたとされる。",
"title": "後世の評価"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "江戸時代には信玄の治世や軍略を中心とした『甲陽軍鑑』が成立。甲州流軍学が流布されたほか、『甲陽軍鑑』を基に武田家や川中島合戦を描いた文学がジャンルとして出現した。また、江戸時代中期以降は一円が幕領支配となった甲斐国においては、大小切税法や甲州金、甲州枡の甲州三法に象徴される独自の制度を創始した人物と位置づけられ、崇められるようになった。",
"title": "後世の評価"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "明治には信玄のイメージが広く定着するが、江戸期を通じて天領であった山梨県においては信玄は郷土史の象徴的人物と認識されるようになった。第二次世界大戦前は内務省が武田神社の別格官幣社への昇格条件に信玄の勤王事跡の挙証を条件としていたこともあり、郷土史家により信玄を勤王家と位置づける研究も見られた。戦後は、英雄史観や皇国史観を排した実証的研究が中世史や武田氏研究でも行われるようになった。また1987年(昭和62年)に発足した武田氏研究会では、磯貝正義、上野晴朗、笹本正治、柴辻俊六、平山優、秋山敬らの研究者によって、実証的研究や武田氏関係史料の刊行を行っている。",
"title": "後世の評価"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "戦後には産業構造の変化から観光が山梨県の主要産業になると、観光事業振興の動きの中で、信玄は山梨県や甲府市などの自治体、民間の企業・団体によって、歴史的観光資源となる郷土の象徴的人物として位置付けられた。信玄の命日にあたる4月12日の土日には時代行列「甲州軍団出陣」を目玉とした都市祭礼である信玄公祭りが開催されており、また山梨の日常食であったほうとうが「信玄の陣中食」として観光食としてアピールされるなど、観光物産に関わる様々な信玄由来説が形成された。信玄餅や信玄鍋のように名を冠した商品もあるほか、「信玄の隠し湯」と自称する温泉地も長野県内などを含めて点在する。",
"title": "後世の評価"
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"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "関連施設も複数ある。恵林寺山内の「信玄公宝物館」(甲州市)、「甲府市武田氏館跡歴史館」(愛称「信玄ミュージアム」) などである。",
"title": "後世の評価"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "武田氏は清和源氏の中の河内源氏系の新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の棟梁。武田氏は甲斐守護も務め、信玄は第19代当主に当たる。",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "信玄の正室・側室は上杉朝興の娘、三条公頼の娘・三条の方(または三条夫人)のほか、諏訪頼重の娘など。多数の正室・側室がいたとする説もあるが、系譜・記録資料から確認できるのは上杉の方、三条の方、諏訪御料人、禰津御寮人、油川夫人の5人である。ただ、禰津御寮人の子と言われる武田信清の出生時期が極めて遅いこと、信玄の七女が母親不詳なこと、上記3人以外の側室とされる墓が残されていることから、ほかに側室がいた可能性も考えられている。",
"title": "系譜"
}
] |
武田 信玄 / 武田 晴信は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏第19代当主。武田氏の第16代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。正式な姓名は、源 晴信。表記は、「源朝臣武田信濃守太郎晴信」。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。 甲斐の守護を務めた武田氏の第18代当主・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で、越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いた。西上作戦の途上に三河で病を発し、没した。
|
{{Otheruses}}
{{Redirect|武田晴信|若狭武田氏の当主|武田義統}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 武田 信玄 / 武田 晴信
| 画像 = Takeda Harunobu.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 武田晴信像([[金剛峯寺|高野山]]持明院蔵)
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]([[室町時代]]後期)
| 生誕 = [[大永]]元年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]{{Sfn|奥野|1959|p=21}}([[1521年]][[12月1日]])
| 死没 = [[元亀]]4年[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]{{Sfn|奥野|1959|p=264}}{{Sfn|磯貝|1977|p=343}}([[1573年]][[5月13日]])(53歳没{{Sfn|奥野|1959|p=264}}{{Sfn|磯貝|1977|p=343}})
| 改名 = 太郎(幼名・通称)→晴信→機山(道号)→徳栄軒信玄(法号・法名)
| 別名 = 勝千代{{efn|『甲陽軍鑑』では幼名「太郎」に加え「勝千代」とも呼ばれたとされる。}}
| 戒名 = 法性院機山徳栄軒信玄
| 墓所 = [[武田神社]]、[[信玄墓]]、[[大泉寺 (甲府市)|大泉寺]]、[[恵林寺]]、[[諏訪湖]]、[[長岳寺]]、[[龍雲寺 (佐久市)|竜雲寺]]、[[高野山]]、福田寺、[[妙心寺]]
|産湯=[[積翠寺]]
| 官位 = [[従四位|従四位下]]{{Sfn|磯貝|1977|p=343}}、[[大膳職|大膳大夫]]{{Sfn|磯貝|1977|p=343}}、[[信濃国|信濃]][[国司|守]]{{Sfn|磯貝|1977|p=343}}<br>贈[[従三位]]
| 幕府 = [[室町幕府]]:[[甲斐国|甲斐]]守護職・[[信濃国|信濃]]守護職
| 氏族 =[[清和源氏]][[源義光|義光]]流[[河内源氏]]系[[甲斐源氏]]嫡流[[武田氏]]
| 父母 = 父:[[武田信虎]]<br>母:[[大井の方]]
| 兄弟 = [[武田竹松|竹松]]、'''信玄'''、[[武田犬千代|犬千代]]、[[武田信繁|信繁]]、[[武田信友|信基]]、[[武田信廉|信廉]]、[[武田信顕|信顕]]、[[一条信龍]]、[[武田宗智|宗智]]、[[松尾信是]]、[[河窪信実]]、[[武田信友|信友]]、[[定恵院]]、[[南松院殿]]([[穴山信友]]正室)、[[禰々]]、[[花光院]]([[浦野友久]]室)、[[亀御料人]]([[大井信為]]正室)、女([[下条信氏]]正室)、女([[禰津常安]]室)、女([[葛山氏]]室)、[[菊御料人]]([[今出川晴季|菊亭晴季]]室)
| 妻 = [[正室]]:'''上杉の方'''([[上杉朝興]]の娘)<ref name="aa">『[[勝山記]]』『山資』6所載による。</ref><br />[[継室]]:'''[[三条の方]]'''<br />[[側室]]:[[諏訪御料人]]、[[禰津御寮人]]、[[油川夫人]][[#系譜|ほか]]
| 子 = [[武田義信|義信]]、[[海野信親]]、[[武田信之 (武田信玄三男)|信之]]、[[黄梅院 (北条氏政正室)|黄梅院]]、[[見性院 (穴山梅雪正室)|見性院]]([[穴山信君|穴山梅雪]]室)、'''[[武田勝頼|勝頼]]'''、[[真竜院|真理姫(木曽義昌正室)]]([[木曾義昌]]室)、[[仁科盛信]]、[[葛山信貞]]、[[武田信清|信清]]、[[信松尼|松姫]]、[[菊姫 (上杉景勝正室)|菊姫]]([[上杉景勝]]室)、波瑠(岩間六兵衛正室)
| 特記事項 =
}}
'''武田 信玄'''(たけだ しんげん) / '''武田 晴信'''(たけだ はるのぶ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]、[[甲斐国|甲斐]]の[[守護大名]]・[[戦国大名]]。[[甲斐源氏]]第19代当主。[[武田氏]]の第16代当主。[[諱]]は'''晴信'''、[[仮名 (通称)|通称]]は'''太郎'''(たろう)。正式な姓名は、'''源 晴信'''(みなもと の はるのぶ)。表記は、「'''源朝臣武田信濃守太郎晴信'''」。「信玄」とは([[出家]]後の)[[戒名|法名]]で、正式には'''徳栄軒信玄'''。
甲斐の[[守護]]を務めた武田氏の第18代当主・[[武田信虎]]の嫡男。先代・信虎期に武田氏は[[守護大名]]から[[戦国大名]]化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・[[信濃国|信濃]]に侵攻する。その過程で、[[越後国]]の[[上杉謙信|上杉謙信(長尾景虎)]]と五次にわたると言われる[[川中島の戦い]]で抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・[[駿河国|駿河]]・西[[上野国|上野]]および[[遠江国|遠江]]・[[三河国|三河]]・[[美濃国|美濃]]・[[飛騨国|飛騨]]などの一部を領した。次代の[[武田勝頼|勝頼]]期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いた。[[西上作戦]]の途上に三河で病を発し、没した。
== 生涯 ==
=== 出生から甲斐守護継承まで ===
[[ファイル:Shingenko ubuyu no ido.JPG|thumb|積翠寺にある、信玄公産湯の井戸]]
大永元年([[1521年]])11月3日{{Sfn|奥野|1959|p=21}}、[[甲斐国]]守護・[[武田信虎]]の嫡長子として生まれる。母は西郡の有力国人[[大井氏]]の娘・[[大井の方|大井夫人]]。幼名は太郎{{efn|信玄の幼名は確実な史料では「太郎」であるが、『[[甲陽軍鑑]]』によればこの時の勝利に因み「'''勝千代'''(かつちよ)」とも名付けられたという。信玄は後世に英雄視されていることから出生伝説もつくられた。『甲陽軍鑑』や『武田三代記』などによれば、信玄誕生の折、産屋の上に一条の雲がたなびき白旗の風に翻るように見えたが、それが消えた時、一双の白鷹が3日間も産屋にとまったとされる。このため、[[諏訪大社|諏訪明神]]の神使が若君(信玄)を守護してくれるのだと末頼もしく思ったとされている。別の話では、信虎が陣中で休息している時、[[曾我時致]]が自分の子になる夢を見て、その時に信玄が生まれたとされている。}}。
信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる[[要害山城]]である(または[[積翠寺]])。信虎は[[駿河国]][[今川氏]]を後ろ盾とした[[甲府盆地]]西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣[[福島正成]]率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際、既に懐妊していた大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したといわれている{{efn|福島勢の侵攻・信玄出生に関しては『[[高白斎記]]』『[[王代記]]』ともに『[[山梨県史]]』資料編資料編6中世3上(県内記録)など。}}。
また、甲斐国では[[上杉禅秀の乱]]を契機に守護武田氏の権威が失墜し、有力[[国人|国衆]]が台頭していたが、信玄の曽祖父にあたる[[武田信昌]]期には[[守護代]][[跡部氏]]を滅ぼすなど{{Sfn|磯貝|1977|p=53}}、国衆勢力を服従させて国内統一が進んでいた。信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、[[永正]]16年([[1519年]])には[[甲府]]の[[躑躅ヶ崎館]]を本拠とした[[城下町]](武田城下町)を開府。家臣団組織が整備され、戦国大名として武田氏の地位が確立されていた。
[[傅役]]は不明だが、『[[甲陽軍鑑]]』では譜代家臣[[板垣信方]]が傅役であった可能性を示している。[[土屋昌続]]の父、[[金丸筑前守]]も[[傅役]]であったと伝わる。
=== 甲斐武田家の嫡男 ===
[[大永]]3年([[1523年]])、兄の[[武田竹松|竹松]]が7歳で夭折した為、嫡男となる<ref>{{Citation|和書|editor=柴辻俊六|editor-link=柴辻俊六|title=武田信虎のすべて|publisher=[[新人物往来社]]|year=2007|isbn=978-4-404-03423-6|page=34}}</ref>。
[[大永]]5年([[1525年]])、父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎([[武田信繁]])が生まれる。『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り、太郎を徐々に疎むようになったと言う。
信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において[[相模国]]の新興大名である[[後北条氏]]と敵対していた[[扇谷上杉氏]]と結び、領国が接する甲斐[[都留郡]]において北条方との抗争を続けていた。
[[天文 (元号)|天文]]2年([[1533年]])、扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主である[[上杉朝興]]の娘・「上杉の方」が晴信の正室として迎えられた。これは[[政略結婚]]であるが、晴信との仲は良かったと伝えられている。しかし、天文3年([[1534年]])に出産の折、難産で上杉の方も子も死去している<ref name="aa" />。
=== 元服と初陣 ===
天文5年([[1536年]])3月、太郎は[[元服]]して、[[室町幕府]]の第12代将軍・[[足利義晴]]から「晴」の[[偏諱]]を賜り、名前を'''晴信'''と改める<ref>『高白斎記』に拠る。「信」は武田氏の[[通字]]。</ref>。官位は、[[従五位下]]・[[大膳職|大膳大夫]]に叙位・任官される。元服後に[[継室]]として[[左大臣]]・[[三条公頼]]の娘である[[三条の方|三条夫人]]を迎えている。この年には駿河で[[今川氏輝]]が死去し、[[花倉の乱]]を経て[[今川義元]]が[[家督]]を継いで武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の[[公家]]と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、[[勅使]]は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑問視もされている(柴辻俊六による)。
信虎は[[諏訪氏]]や[[村上氏]]ら信濃豪族と同盟し、信濃国[[佐久郡]]侵攻を進めているが、武田家の[[初陣]]は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡[[海ノ口城]]主[[平賀源心]]攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。
=== 武田信虎の駿河追放と家督相続 ===
晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年([[1541年]])の[[海野平の戦い]]にも参加しているが、『[[高白斎記]]』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の[[板垣信方]]や[[甘利虎泰]]、[[飯富虎昌]]らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は[[武田家]]の第19代目の家督を[[相続]]する{{efn|信虎追放に関しては『勝山記』や『[[向嶽寺|塩山向岳禅庵小年代記]]』など甲斐国内史料に記される信虎の対外侵攻の軍役や[[凶作]]に際しての[[重税]]など「悪行」を原因としていることから、『[[甲斐国志]]』による合意による隠居であったとする説、今川義元との共謀説などの諸説ある。『甲陽軍鑑』では追放の原因を不和とし、晴信は嫡男として遇されていたが、信虎との関係は険悪化しており、[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])[[正月]]の[[元旦]]祝いの時、信虎は晴信には盃をささず、弟の信繁にだけ盃をさしたという逸話を記している。平山優は隣国の経済制裁(路次封鎖)や凶作による食料の高騰が、大飢饉のあった天文10年に深刻化したのを原因として国内の「代替わり徳政」を求める声に晴信が対応したとする。一方で信虎期の甲斐国衆は信昌・信縄期の内紛をきっかけとして今川氏や諏訪氏などの隣国の大名の傘下に入っており、甲斐一国を平定しようとすると国衆の救援を名目とする隣国との対外戦争や経済制裁は避けられなかった側面があるとして、それらを単純な信虎の「悪行」とみなすことは出来ないとしている<ref>平山優『武田信虎 <small>覆される「悪逆無道」説</small>』戎光祥出版<中世武士選書・42>、2019年 ISBN 978-4-86403-335-0 p.249-263・354-356.</ref>。}}。しかしこの直後に[[上杉憲政]]に信濃佐久郡を掠め取られた。
=== 信濃攻め ===
[[File:戦国甲信越.png|thumb|250px|戦国時代の甲信とその周辺[//upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/7/73/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E7%94%B2%E4%BF%A1%E8%B6%8A.png 拡大]]]
信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国[[山内上杉氏]]・[[扇谷上杉氏]]、信濃[[諏訪氏]]と同盟関係を持ち、信虎末期には信濃佐久郡・[[小県郡]]への出兵を行っていた。晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行った{{efn|信虎期からの外交方針の転換については、晴信が官途名を「[[京職|左京大夫]]」から「[[大膳職|大膳大夫]]」に改称していることにも象徴されていると指摘される<ref>秋山敬「武田氏の国人被官化過程と政権意識」『甲斐武田氏と国人』(高志書院、2003年)</ref>。}}。
[[天文 (元号)|天文]]11年([[1542年]])3月、[[瀬沢の戦い]]があった(諸説あり、[[瀬沢の戦い]]参照)。
[[天文 (元号)|天文]]11年([[1542年]])6月、[[武田晴信]]は[[諏訪氏]]庶流である[[伊那]]の[[高遠頼継]]とともに諏訪領への侵攻を開始し、[[桑原城の戦い]]で諏訪氏は和睦を申し入れ、[[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している{{efn|晴信は天文10年6月に信虎を追放し家督を相続しているが、同年5月の[[海野平の戦い]]で小県を追われた[[海野棟綱]]は、信濃の隣国である上野に拠する[[関東管領]]・[[上杉憲政]]を頼った。同年7月に憲政は信濃佐久郡へ侵攻し、当時の諏訪領主であった諏訪頼重は、同盟相手である武田・小県郡村上氏へ断りをせず、独断で上杉方と和睦して、所領の分割を行っている(『神使御頭之日記』)。晴信の諏訪侵攻はこの翌年に行われていることから、諏訪侵攻の背景には信濃・上野地域における外交情勢が関係していると考えられている<ref>{{Citation|和書|last=平山|first=優|title=川中島の戦い|year=2002|chapter= |publisher=学習研究社|isbn= }} (上巻) ISBN 4059011266 (下巻) ISBN 4059011347</ref>。}}。
{{Anchors|諏訪平定}}[[天文 (元号)|天文]]11年([[1542年]])9月25日、武田軍と[[高遠頼継]]軍が[[信濃国]]宮川で戦った([[宮川の戦い]])。武田方はこれを撃破して諏訪を掌握する。
[[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]])、武田方はさらに信濃国[[長窪城]]主である[[大井貞隆]]を攻めて、自害に追い込んだ。
[[天文 (元号)|天文]]14年([[1545年]])4月、[[上伊那郡]]の[[高遠城]]に侵攻して[[高遠頼継]]を滅ぼし、続いて6月には[[福与城]]主である[[藤沢頼親]]を追放した([[高遠合戦]])。
[[天文 (元号)|天文]]13年([[1544年]])、父・[[武田信虎]]時代は対立していた[[後北条氏]]と和睦し、その後も[[天文 (元号)|天文]]14年の今川氏と[[後北条氏]]の対立([[河東の乱|第2次河東一乱]])を仲裁して、両家に貸しを作った。それによって西方に安堵を得た[[北条氏康]]は[[河越城の戦い]]で勝利し、そうした動きが後年の[[甲相駿三国同盟]]へと繋がっていく。
{{main|上田原の戦い|塩尻峠の戦い}}
今川・北条との関係が安定したことで、武田方は[[信濃侵攻]]を本格化させ、信濃守護[[小笠原長時]]、小県領主[[村上義清]]らと敵対する。
[[天文 (元号)|天文]]16年([[1547年]])、関東管領勢に支援された[[志賀城]]の[[笠原清繁]]を攻め、同年[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]の[[小田井原の戦い]]で武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する{{efn|『[[勝山記]]』によれば晴信は小田井原で討ち取った約3,000人の首級を夜のうちに[[志賀城]]の周りに打ち立てる。[[志賀城]]の城兵はこれを見て戦意を阻喪し、8月10日正午に外[[曲輪]]、深夜には二の曲輪に火を掛け城兵を追い詰め、翌11日正午頃に[[志賀城]]は陥落。[[笠原清繁]]を甲斐衆の[[萩原弥右衛門]]が、[[高田憲頼]]を諏訪衆の[[小井弖越前守]]が討ち取り、城兵三百余が戦死した。[[笠原清繁]]の妻は[[小山田信有 (出羽守)|小山田信有]]が貰い受けた。さらに残った女子供と奉公の男は人質として2[[貫|貫文]]から10貫文という法外な値を要求し、大半は[[黒川金山]]の坑夫や[[娼婦]]、[[奴婢]]として人身売買されたという。}}。また、領国支配においても同年には[[分国法]]である『[[甲州法度之次第]](信玄家法)』を定めている。
[[天文 (元号)|天文]]17年([[1548年]])2月、晴信は[[北信地方]]に勢力を誇る[[葛尾城]]主・[[村上義清]]と上田原で激突する([[上田原の戦い]])。[[上田原の戦い]]において[[武田氏]]方は[[村上義清]]方に敗れ、宿老の[[板垣信方]]、[[甘利虎泰]]らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の[[信玄の湯 湯村温泉|湯村温泉]]で30日間の[[湯治]]をしたという。この機に乗じて同年4月、[[小笠原長時]]が[[諏訪地域|諏訪]]に侵攻して来るが、晴信は7月の[[塩尻峠の戦い]]([[勝弦峠の戦い]])で[[小笠原長時]]軍を撃破した。
[[天文 (元号)|天文]]19年([[1550年]])7月、晴信は[[松本盆地]]に侵攻する。これに対して[[仁科盛能]]は武田方に内通し、[[小笠原長時]]には既に抵抗する力は無く、[[林城]]を放棄して[[村上義清]]の下へ逃走した([[林城の戦い]])。こうして松本盆地は武田の支配下に入った。
[[天文 (元号)|天文]]19年([[1550年]])9月、[[村上義清]]の支城である[[戸石城|砥石城]]を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に[[砥石崩れ]]と伝えられる敗戦を喫した。
[[天文 (元号)|天文]]20年([[1551年]])4月、[[真田幸隆]](幸綱)の[[調略]]で[[砥石城]]が落城すると、[[武田氏]]軍は次第に優勢となった。
[[天文 (元号)|天文]]21年([[1552年]])8月、[[武田晴信]]軍は3000人の兵で[[仁科氏]]庶流[[小岩盛親]]が500人で守る[[小岩嶽城]]を攻略した。
{{Anchors|信濃国を平定}}[[天文 (元号)|天文]]22年([[1553年]])4月、[[村上義清]]は[[葛尾城]]を放棄して[[越後]]国主の長尾景虎(後の[[上杉謙信]])の下へ逃れた([[葛尾城の戦い]])。こうして[[東信地方]]も武田家の支配下に入り、晴信は[[北信地方]]を除き信濃をほぼ平定した。
=== 第1次川中島の戦い ===
{{Main|川中島の戦い}}
[[File:Sengoku period battle.jpg|thumb|180px|第四次川中島の戦い]]
[[画像:川中島の戦い.png|thumb|300px|川中島の戦い[//upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/1/17/%E5%B7%9D%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84.png 拡大]]]
[[天文 (元号)|天文]]22年([[1553年]])4月、[[村上義清]]や北信豪族の要請を受けた長尾景虎は本格的な信濃出兵を開始し、以来、[[長野盆地|善光寺平]]の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次[[川中島の戦い]])。
武田軍は[[村上義清]]の[[葛尾城]]を落とす。この後、武田軍は5月八幡にて[[村上義清]]に敗れ[[葛尾城]]を奪還される。9月武田軍は[[塩田城]]を落とす。武田軍の先鋒は9月の布施の戦いにて撃破された。[[上杉謙信]]は信濃領内に侵攻し、[[荒砥城]]、虚空蔵山城を落とし、[[青柳城]]と苅屋原城を攻めたが[[武田晴信]]は決戦を避けた。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。
同年8月には景虎の支援を受けて[[大井信広]](武石城主)が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。
=== 甲相駿三国同盟の締結 ===
{{main|[[甲相駿三国同盟]]}}
{{main|[[甲相同盟]]}}
[[武田晴信]]は信濃進出に際して、和睦が成立した後も軍事的な緊張が続いていた駿河の[[今川氏]]と相模の[[後北条氏|北条氏]]の関係改善を進めており、[[天文 (元号)|天文]]23年([[1554年]])には嫡男[[武田義信]]の正室に[[今川義元]]の娘[[嶺松院]](信玄の姪)を迎え、[[甲駿同盟]]を強化する。また[[黄梅院 (北条氏政正室)|娘]]を[[北条氏康]]の嫡男[[北条氏政]]に嫁がせ[[甲相同盟]]を結ぶ。
これにより、今川氏と北条氏も信玄及び今川家の[[太原雪斎]]が仲介して婚姻を結び、[[甲相駿三国同盟]]が成立する。[[甲相駿三国同盟]]同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との[[甲相同盟]]は[[上杉謙信|長尾景虎]]を共通の敵として相互に出兵し軍事同盟として特に有効に機能した。
=== 木曽・下伊那・美濃恵那の平定 ===
[[天文 (元号)|天文]]23年([[1554年]])、[[佐久郡]]や[[伊那郡]]・[[木曽郡]]に残されていた反武田勢力を完全に鎮圧して信濃南部を安定化させた。これと同時期に、三河・美濃・信濃の国境地帯に勢力を持つ美濃[[恵那郡]]の[[岩村遠山氏]]・[[苗木遠山氏]]の両[[遠山氏]]も信玄に臣従してきたために、[[美濃国|美濃]]を支配する[[斎藤道三]]・[[斎藤義龍|義龍]]父子とも緊張関係を生じさせることになった<ref>[[小川雄]]「一五五〇年代の東美濃・奥三河情勢-武田氏・今川氏・織田氏・斎藤氏の関係を中心として」(初出:『武田氏研究』47号(2013年)/『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P287-292.</ref>。
=== 第2次川中島の戦い ===
[[天文 (元号)|天文]]24年([[1555年]])、武田方の[[善光寺]]別当・[[栗田永寿 (初代)|栗田永寿]]が[[旭山城]]([[長野県]][[長野市]])に籠る。これに対し、長尾景虎は[[裾花川]]を挟んで対岸に[[葛山城 (信濃国)|葛山城]]を築城。
[[天文 (元号)|天文]]24年([[1555年]])、川中島において200日余長尾軍と対陣した{{efn|なお、『勝山記』天文24年条に拠ればこの時、[[鉄砲]]300挺、弓800張が動員されたとしており、武田氏の合戦においてはじめて鉄砲の使用が確認される記事として注目されている。}}。
[[今川義元]]の仲介で和睦、両軍は撤兵。和睦条件に武田方の[[旭山城]]破砕があり、破砕された。
[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])、長尾家家臣の[[大熊朝秀]]が離反し、[[会津]]の[[蘆名盛氏]]と共に[[越後]]に侵攻するが撃退された。
=== 第3次川中島の戦い ===
[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])2月15日、信玄は葛山城を調略で落とした。
[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])、晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。この戦いは、上野原の戦いともいう。
[[弘治 (日本)|弘治]]3年(1557年)、[[室町幕府]]の第13代将軍・[[足利義輝]]による甲越和睦の[[御内書]]が下される。これを受諾した景虎に対し、晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている{{efn|[[鴨川達夫]]は「神田孝平氏所蔵文書」に含まれた足利義輝宛の手紙を根拠に、信濃守護補任が数年遡る可能性を指摘している<ref>鴨川達夫『<small>日本史リブレット人043</small> 武田信玄と毛利元就 <small>思いがけない巨大な勢力圏</small>』[[山川出版社]]、2011年、57-60頁、ISBN 978-4-634-54843-5)</ref>。}}。
一連の戦闘の結果、[[北信地方]]の[[武田氏]]勢力は拡大した。
[[永禄]]2年([[1559年]])3月、長尾氏の有力な盟友であった[[高梨氏]]は本拠地の[[高梨氏館]]([[中野城]]、[[長野県]][[中野市]])を落とされ、[[飯山城]]([[長野県]][[飯山市]])に後退した。長尾景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになった。
[[永禄]]2年([[1559年]])、永禄の飢饉が発生。[[甲斐国]]が大規模な水害に襲われる。
=== 出家 ===
[[永禄]]2年(1559年)2月、第三次川中島の戦いの後に出家した。
『[[甲斐国志]]』に拠れば、晴信は[[長禅寺 (甲府市)|長禅寺]]住職の[[岐秀元伯]]を導師に出家し、「徳栄軒信玄」と号したという。文書上では翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている{{efn|『戦武』 - 664号。なお『甲陽軍鑑』では出家時期を天文20年2月とするが、文書上からは否定されるほか、出家時期を[[策彦周良]]宛の手紙(『山梨県史』資料編5、二六一七)を根拠に、永禄元年12月とする説も提示されている<ref>鴨志田智啓「武田信玄呼称の初見文書について」 『戦国史研究』60号、2010年</ref><ref>鴨川達夫『<small>日本史リブレット人043</small> 武田信玄と毛利元就 <small>思いがけない巨大な勢力圏</small>』山川出版社、2011年、60頁</ref>。}}。
出家の背景には信濃をほぼ平定した時期であることや、信濃守護に補任されたことが契機であると考えられているほか<ref name="h154">{{harvnb|平山|2002|p=154}}{{出典無効|date=2017-02-14 |title=上下巻ありどちらか不明}}</ref>、永禄2年(1559年)に相模後北条氏で永禄の大[[飢饉]]を背景に当主氏康が家督を嫡男氏政に譲り徳政を行っていることから、同じく飢饉が蔓延していた武田領国でも、代替わりに近い演出を行う手段として、晴信の出家が行われた可能性が考えられている<ref>{{harvnb|平山|2002|p=155}}{{出典無効|date=2017-02-14 |title=上下巻ありどちらか不明}}</ref>。「信玄」の号のうち「玄」の字は「晴」と同義であるとする説や<ref name="h154" />、[[臨済宗]][[妙心寺]]派の[[開山 (仏教)|開山]]である[[関山慧玄]]の一字を授かったとする説<ref name="h154" />、唐代の僧[[臨済義玄]]から一字を取ったとする説などがある<ref name="h154" />。
=== 第4次川中島の戦い ===
[[File:Kawanakajima Takeda Shingen vs Uesugi Kenshin statue.jpg|thumb|280px|武田信玄(左)・上杉謙信(右)一騎討像(長野市[[八幡原史跡公園]])]]
その間も信玄は北信侵攻を続けていた。[[永禄]]4年([[1561年]])4月、上杉政虎(永禄4年(1561年)3月、長尾景虎より改名)が[[後北条氏]]の[[小田原城]]を包囲する([[小田原城の戦い (1560年)|小田原城の戦い]])。この間に信玄は信濃に[[海津城]]([[長野県]][[長野市]][[松代町]])を築城。[[割ヶ嶽城]](現[[長野県]][[上水内郡]][[信濃町 (代表的なトピック)|信濃町]])を攻め落とした。参謀の[[原虎胤]]が負傷。代わって、[[山本勘助]]が参謀になる。
信玄は[[甲相同盟]]の[[後北条氏]]の要請に応じて信濃に出兵。これを受けて政虎(永禄4年(1561年)8月より輝虎に改名)は川中島の[[善光寺]]に出兵した。
[[永禄]]4年([[1561年]])8月、第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。武田方は信玄の実弟である副将[[武田信繁]]をはじめ重臣[[室住虎光]]、足軽大将の[[山本勘助]]、[[三枝守直]]ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷したという。
第4次川中島合戦で信濃侵攻は一段落し、信玄は[[西上野侵攻]]をさらに進めた。
=== 第5次川中島の戦いと西上野侵攻 ===
{{main|西上野侵攻}}
[[永禄]]7年([[1564年]])、上杉謙信が武田軍の[[飛騨国]]侵入を防ぐために川中島に出陣したが、信玄は決戦を避けて[[塩崎城]]に布陣するのみで、にらみ合いで終わった。
[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])より、信玄は川中島の戦いと並行して[[西上野侵攻]]を開始したものの、[[山内上杉家]]の[[長野業正]]が善戦した為、当初は捗々しい結果は得られなかった。
[[永禄]]4年([[1561年]])、業正が死去すると、武田軍は跡を継いだ[[長野業盛]]を攻め、永禄9年([[1566年]])9月には[[箕輪城]]を落とし、上野西部を領国化した{{efn|ただし、天文年間後期(小田井原の戦い以降)には[[甘楽郡]]の上野市河氏や国峯小幡氏は既に武田氏に帰属している<ref>{{Citation|和書|author=[[黒田基樹]]|chapter=天文期の山内上杉氏と武田氏|editor=柴辻俊六|title=戦国大名武田氏の役と家臣|publisher=岩田書院|year=2012|isbn=978-4-87294-713-7}}/所収:{{Cite book|和書|author=黒田基樹|title=戦国期 山内上杉氏の研究|publisher=岩田書院|year=2013|isbn=978-4-87294-786-1}}</ref>。}}<ref>西上野侵攻については、柴辻俊六「武田信玄の関東計略と西上野支配」『戦国大名武田氏領の支配構造』。</ref>。これにより[[箕輪城]]は対[[後北条氏]]の最前線となる。
[[元亀]]2年([[1571年]])12月、[[甲相同盟]]が回復すると[[後北条氏]]との争いが止まった。[[甲相同盟]]は[[天正]]7年(1579年)3月まで続いた。
=== 飛騨国内紛への介入 ===
[[永禄]]7年([[1564年]])、武田氏が[[江馬時盛]]を、上杉氏が[[三木氏]]・[[江馬輝盛]]を支援して介入した。江馬輝盛は家臣団として飛騨先方衆に組み込まれている。
[[永禄]]7年([[1564年]])6月、信玄は家臣の[[山県昌景]]・[[甘利昌忠]]を[[飛騨]]へ派遣し、これにより[[三木氏]]・[[江馬輝盛]]は劣勢となり、[[武田氏]]方と通じる。
[[永禄]]7年([[1564年]])8月、上杉輝虎は信玄の[[飛騨国]]侵入を防ぐため、川中島に出陣した(第五次[[川中島の戦い|川中島合戦]])。信玄は長野盆地南端の[[塩崎城]]まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。
=== 越中国への介入 ===
{{main|越中の戦国時代}}
[[永禄]]年間([[1558年]]以降)に入ると、[[越中国]]の有力国人である[[椎名康胤]]は長尾景虎の従弟・[[長尾景直]]を養子に迎えた。同じく有力国人の[[神保長職]]は武田氏と同盟を結んで対抗した。信玄は[[石山本願寺]]の[[顕如]]と縁戚関係にあり、[[越中一向一揆]]も神保方を支援した。このため、越中の内乱は武田氏方の神保・一向一揆と上杉氏方の椎名による、いわゆる武田・上杉の[[代理戦争]]という形となった。
[[永禄]]11年([[1568年]])7月、椎名康胤が[[武田氏]]の調略に応じ、上杉氏から離反した。武田氏は越中国における家臣団・越中先方衆に椎名氏を組み込んでいる。
=== 外交方針の転換と甲駿同盟の破綻 ===
[[永禄]]3年([[1560年]])5月、駿河の今川義元が[[桶狭間の戦い]]において、[[尾張国]]の[[織田信長]]に敗死。当主が[[今川氏真]]に交代したものの、今川領国では[[三河国|三河]]で松平元康([[徳川家康]])が独立するなど動揺が見られた。信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接する[[美濃国|美濃]]においても信長が[[斎藤氏#美濃斎藤氏|斎藤氏]]の内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上、武田との関係改善を模索、信玄も木曽・東濃地域における両勢力の対立を避けたかった{{efn|武田氏の外交を錯綜させた原因の一つとして、当時武田氏に従属しながら織田氏とも結んで斎藤氏に反抗し、更に今川氏の勢力圏である三河の加茂郡・設楽郡への進出を止めようとしなかった美濃遠山氏の独自行動に振り回される形になっていたのも一因と考えられる。また、下条氏など一部の信濃国衆も以前より美濃に進出して信玄もその所領を安堵していたことから、信玄としては斎藤氏の封じ込めに参加せざるを得なくなっていた<ref>小川雄「一五五〇年代の東美濃・奥三河情勢-武田氏・今川氏・織田氏・斎藤氏の関係を中心として」(初出:『武田氏研究』47号(2013年)/所収:[[大石泰史]] 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P284-304.</ref>。}}。こうした経緯から諏訪勝頼(後の武田勝頼)正室に信長養女が迎えられている<ref>{{Citation|和書|last=丸島|first=和洋|author-link=丸島和洋|editor=柴辻俊六|title=新編武田信玄のすべて|year=2008|chapter=信玄の拡大戦略 戦争・外交・同盟|publisher=新人物往来社|pages= |isbn=9784404035141}}</ref>。川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生じた。
[[永禄]]10年([[1567年]])、今川氏の[[甲州]]への[[敵に塩を送る|塩止め]](交易停止)が行われ、[[甲相駿三国同盟]]が破綻した。
[[永禄]]10年([[1567年]])10月、武田家において親今川派とされた嫡男の義信が廃嫡される事件が発生している([[義信事件]]){{efn|義信事件の経緯は不明であるが、永禄8年10月15日には義信傅役の飯富虎昌が処刑<ref>{{Cite journal|和書|author=丸島和洋|title=高野山成慶院『甲斐国供養帳』-『過去帳(甲州月牌帳)』|journal=武田氏研究|issue=34|year=2006}}</ref>、永禄10月19日には甲府[[東光寺 (甲府市)|東光寺]]に幽閉されていた義信が自害しており、事件後には領国の動揺を沈静化させるためであると考えられている文書が発給されている。嫡男の義信は正室が今川氏真の妹で武田家においても親今川派の人物であったと考えられており、義信事件の背景には今川氏との外交関係を巡る武田家内部の事情が関係していると考えられている<ref>義信事件については平山優「武田勝頼の再評価」『新府城と武田勝頼』(山梨県韮崎市教育委員会、2001年)、{{harvtxt|丸島|2008}}</ref>。}}。
=== 駿河侵攻の開始 ===
[[永禄]]11年([[1568年]])12月には[[遠江]]での今川領分割を約束した三河の徳川家康と共同で[[駿河侵攻]]{{efn|駿河侵攻の経緯については第一次[[駿河侵攻]]を参照。}}を開始し、[[薩埵峠|薩垂山]]で今川軍を破り([[薩埵峠の戦い (戦国時代)| 薩埵峠の戦い]])、[[今川館]](後の[[駿府城]])を一時占拠する。[[江尻城]]([[静岡県]][[静岡市]])を築城。
信玄は[[駿河侵攻]]に際して相模[[北条氏康]]にも協調を持ちかけていたが、氏康は[[今川氏]]救援のため出兵して[[永禄]]11年([[1568年]])[[甲相同盟]]は解消された([[甲相同盟]]の「武田氏の駿河侵攻と甲相同盟の破綻」参照)。北条氏は越後上杉氏との[[越相同盟]]を結び武田領国への圧力を加えた。さらに[[徳川氏]]とは遠江領有を巡り対立し、[[永禄]]12年5月([[1569年]])に[[徳川家康]]は[[今川氏]]と和睦し、[[徳川家康]]は駿河侵攻から離脱した。
=== 甲越和与 ===
この間、[[織田信長]]は[[足利義昭]]を奉じて上洛していた。信玄は信長と室町幕府の第15代将軍に就いた足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦([[甲越和与]])を試み、[[永禄]]12年8月([[1569年]])には上杉氏との和睦が成立した<ref>「甲越和与」の経緯については丸島和洋「甲越和与の発掘と越相同盟」『戦国遺文武田氏編 月報』6</ref>。
さらに信玄は越相同盟に対抗するため、[[常陸国]][[佐竹氏]]や[[下総国]][[簗田氏]]など北・東関東の反北条勢力との同盟を結んで後北条領国へ圧力を加え、[[永禄]]12年10月([[1569年]])には[[小田原城]]を一時包囲。撤退の際に、[[三増峠の戦い]]で北条勢を撃退した(これにより[[永禄]]12年([[1569年]])の第三次[[駿河侵攻]]にて、[[後北条氏]]は戦力を[[北条綱重]]の守る駿河の[[蒲原城]]に回せず、これを落とすことに成功した)<ref>柴辻俊六「越相同盟と武田氏の武蔵侵攻」『戦国期武田氏領の展開』</ref>。こうした対応策から後北条氏は上杉・武田との関係回復に方針を転じた。
[[永禄]]12年([[1569年]])末、信玄は再び[[駿河侵攻]]を行い、[[駿府]]を掌握した。
また、永禄年間に[[下野国|下野]][[宇都宮氏]]の家臣[[益子勝宗]]と親交を深めていた。勝宗が信玄による西上野侵攻に呼応して出兵し、軍功を上げると信玄は勝宗に[[感状]]を贈っている。
=== 遠江・三河侵攻と甲相同盟の回復 ===
{{main|駿河侵攻}}
{{main|三増峠の戦い}}
{{main|二連木城の戦い}}
[[永禄]]11年([[1568年]])9月、将軍・[[足利義昭]]を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄やその他の大名に信長討伐の御内書を発送する。
[[永禄]]12年([[1569年]])6月、[[大宮城 (駿河国)|大宮城]]を攻め、降伏させる(第二次[[駿河侵攻]]を参照)。
[[永禄]]12年([[1569年]])10月、[[碓氷峠]]方面から信玄による[[小田原城]]侵攻。撤退の際に、[[三増峠の戦い]]が発生。この結果、[[後北条家]]は[[北条氏信|北条氏信(綱重)]]率いる[[蒲原城]]に援軍を回せなくなり、[[蒲原城]]が落城した(駿河侵攻の為の[[二正面作戦]]と見れる)。
[[元亀]]元年([[1570年]])1月、[[武田勝頼]]らが[[花沢城]]を攻め落とし、清水袋城を築城。
この結果、海に面した地域を手に入れたので、[[武田水軍]]を編成。[[徳一色城]]([[田中城]])を攻め落とす。
[[元亀]]元年([[1570年]])8月、[[駿河]]に攻め入り、信玄は[[黄瀬川]]に本陣を置き、軍勢を分けて[[韮山城]]を攻略、攻め落とせず。
[[元亀]]元年([[1570年]])12月、武田家臣の[[秋山虎繁]]は[[徳川氏]]を攻めるが、織田・徳川連合軍が[[上村合戦|小田子合戦]]([[恵那市]])にて[[秋山虎繁]]を破った。
[[元亀]]2年([[1571年]])2月、信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を行う。信玄は同年5月までに[[小山城 (遠江国)|小山城]]、[[真弓山城|足助城]]、[[田峯城]]、[[野田城 (三河国)|野田城]]、[[二連木城]]を落としたが、信玄が血を吐いたため甲斐に帰還した。
=== 越中一向一揆との連携、甲相同盟を回復 ===
{{main|尻垂坂の戦い}}
[[元亀]]2年([[1571年]])4月、勝頼が[[加賀一向一揆]]の[[杉浦玄任]]に書状を送り、[[加賀]]・[[越中]]の一向一揆が協力して上杉謙信に対抗するよう求めた。
[[元亀]]3年([[1572年]])5月、[[顕如]]より総大将に任命された杉浦玄任率いる加賀一向一揆が、上杉方に対して挙兵した。これにより、謙信は[[元亀]]4年(1573年)8月まで、度々[[越中]]に出兵する必要があった([[尻垂坂の戦い]]参照)。
{{main|甲相同盟}}
[[元亀]]2年([[1571年]])[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]、かねてより病に臥していた[[北条氏康]]が小田原で死去。跡を継いだ嫡男の[[北条氏政]]は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い(氏政独自の方針との異説あり)、謙信との同盟を破棄して弟の[[北条氏忠]]、[[北条氏規]]を人質として甲斐に差し出し、[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]には信玄と[[甲相同盟]]を回復するに至った。
この時点で武田家の領土は、[[甲斐国|甲斐]]一国のほか、[[信濃国|信濃]]、[[駿河国|駿河]]、[[上野国|上野]]西部、[[遠江国|遠江]]・[[三河国|三河]]・[[飛騨国|飛騨]]・[[越中国|越中]]の一部にまで及び、[[石高]]はおよそ120万石に達している。
=== 西上作戦 ===
{{main|西上作戦}}
尾張の織田信長とは永禄年間から領国を接し、外交関係が始まっており{{efn|武田氏の領国拡大過程において、天文23年の[[南信地方]]の[[伊那郡]]制圧において、東美濃国衆[[遠山氏]]が武田方に帰属しており、この頃から尾張隣国である美濃斎藤氏との緊張関係が発生している。弘治2年4月には斎藤氏と信長の抗争が勃発し、武田氏は遠山氏を介して美濃情勢に介入しており、このころから織田氏との外交関係がもたれていたと考えられている。}}、永禄8年([[1565年]])には東美濃の国衆である[[遠山直廉]]の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田家の世子である武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結んだ。その養女は男児(後の[[武田信勝]])を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である[[織田信忠]]と信玄の娘である[[信松尼|松姫]]の婚約が成立している。織田氏の同盟国である徳川氏とは三河・遠江をめぐり対立を続けていたが、武田と織田は友好的関係で推移している。
[[元亀]]2年([[1571年]])の織田信長による[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]の際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、[[比叡山]][[延暦寺]]を甲斐に移して再興させようと図った。[[天台座主]]の[[覚恕|覚恕法親王]]([[正親町天皇]]の弟[[宮]])も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願した。信玄は覚恕を保護し、覚恕の計らいにより[[権僧正]]という高位の僧位を元亀3年([[1572年]])に与えられた。
また、元亀2年には甲相同盟が回復している{{efn|元亀2年、信玄は甲相同盟を背景に大規模な遠江・三河への侵攻を開始したとされているが、近年では元亀2年の三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている<ref>{{Cite book|和書|author=鴨川達夫|title=武田信玄と勝頼|series=岩波新書|year=2009}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=[[柴裕之]]|title=戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考|journal=武田氏研究|issue=37|year=2007}}</ref>。}}。
[[元亀]]3年([[1572年]])[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]、信玄は将軍・[[足利義昭]]の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発した{{efn|信長は甲越和与の調停中で武田との友好的関係は保たれており、[[元亀]]3年の軍事行動は手切の通告がなされない突然のものであったと考えられている。また、義昭が信長の討伐を決意したのは信玄の甲府進発後とする説もある。}}。武田勢は[[諏訪地域|諏訪]]から[[伊那郡]]を経て遠江に向かい、[[山県昌景]]と[[秋山虎繁]]の支隊は[[徳川氏]]の[[三河国|三河]]へ向かい、信玄本隊は[[馬場信春]]と[[青崩峠]]から遠江に攻め入った{{efn|元亀3年の軍事行動の経緯については[[西上作戦]]を参照。}}。
信長はそれを知らず5日付けで信玄に対して武田上杉間での和睦の仲介に骨を折ったとの書状を送った<ref>谷口克広『信長と将軍義昭―提携から追放、包囲網へ―』(中央公論新社、 2014年)p116</ref>。
信玄率いる本隊は、信長と交戦中であった[[浅井長政]]、[[朝倉義景]]らに信長への対抗を要請し、[[10月13日 (旧暦)|10月13日]]に[[徳川氏]]の諸城を1日で落とし進軍した。
[[山県昌景]]の支隊は柿本城、井平城(小屋城、 [[静岡県]][[浜松市]])を落として信玄本隊と合流した([[仏坂の戦い]])。[[秋山虎繁]]の支隊は、11月に信長の叔母の[[おつやの方]]が治める東美濃の要衝[[岩村城]]が[[秋山虎繁]]に包囲されて軍門に下った([[岩村城の戦い]])。
{{main|一言坂の戦い}}
これに対して、信長は信玄と義絶するが、[[浅井長政]]、[[朝倉義景]]、[[石山本願寺]]の[[一向宗]]徒などと対峙していたため、家康に[[佐久間信盛]]、[[平手汎秀]]らと3000の兵を送る程度に止まった。
[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]、家康は武田軍と遠江一言坂において戦い敗退している([[一言坂の戦い]])。
信長は11月20日付けで上杉謙信に「信玄の所行、まことに前代未聞の無道といえり、侍の義理を知らず、ただ今は都鄙を顧みざるの私大、是非なき題目にて候」「永き儀絶(義絶)たるべき事もちろんに候」「未来永劫を経候といえども、再びあい通じまじく候」と書状を送っている。<ref>谷口克広『信長と将軍義昭―提携から追放、包囲網へ―』(中央公論新社、 2014年)p117</ref>。
{{main|二俣城の戦い}}
[[元亀]]3年([[1572年]])[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]、武田軍は遠江の要衝である[[二俣城]]を陥落させた([[二俣城の戦い]])。
=== 三方ヶ原の戦い ===
{{main|三方ヶ原の戦い}}
[[ファイル:Battle_of_Mikatagahara.jpg|230px|thumb|三方ヶ原の戦い]]
劣勢に追い込まれた[[徳川家康]]は[[浜松城]]に籠城の構えを見せたが、[[浜松城]]を攻囲せず西上する武田軍の動きを見て出陣した。しかし、遠江[[三方ヶ原]]において、[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]に信玄と決戦し敗退している([[三方ヶ原の戦い]])。
しかしここで(信玄は)盟友・[[浅井長政]]の援軍として北近江に参陣していた[[朝倉義景]]の撤退を知る。信玄は義景に文書を送りつけ([[伊能文書]])再度の出兵を求めたものの、[[朝倉義景]]はその後も動こうとしなかった。また、信玄も三方ヶ原の戦いの勝利の勢いに乗じて[[大沢基胤]]の[[堀江城]]を攻めているが、攻め落とせなかった。
=== 最期 ===
{{main|野田城の戦い}}
信玄は軍勢の動きを止め[[浜名湖]]北岸の刑部において越年したが、[[元亀]]4年([[1573年]])1月には三河に侵攻し、[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]には[[野田城 (三河国)|野田城]]を落とした([[野田城の戦い]])。3月6日、[[岩村城]]に[[秋山虎繁]]を入れた。
[[ファイル:Takeda Daizentayū Harunobu Nyūdō Shingen.jpg|サムネイル|信玄の最期を描いた月岡芳年の作。詞書では虫の音を聴かんとす、とある。]]
信玄は野田城を落とした直後から度々[[喀血]]を呈するなど持病が悪化し、武田軍の進撃は停止する。このため、信玄は[[長篠城]]において療養していたが、近習・[[一門衆]]の合議にて4月初旬には遂に甲斐に撤退することとなる。
[[元亀]]4年([[1573年]])4月12日{{Sfn|磯貝|1977|p=343}}、軍を甲斐に引き返す三河街道上で、信玄は死去した{{efn|信玄の[[死因]]に関しては、侍医御宿監物書状(『戦武』 - 2638号)にみられる持病の[[労咳]]([[肺結核]])、[[肺炎]]、『甲陽軍鑑』による[[胃癌]]若しくは[[食道癌]]による病死説が指摘される。[[江戸時代]]には[[新井白石]]『[[藩翰譜]]』において三河野田城攻城における狙撃が元で死去したとする説を記しているほか、近代には[[地方病 (日本住血吸虫症)|地方病]]として蔓延した[[日本住血吸虫]]病に死因を求める見解も生まれている。}}。[[享年]]53{{Sfn|奥野|1959|p=264}}。臨終の地点は[[小山田信茂]]宛[[御宿友綱|御宿監物]]書状写によれば三州街道上の信濃国駒場([[長野県]][[下伊那郡]][[阿智村]])であるとされているが、[[浪合村|浪合]]や[[根羽村|根羽]]とする説もある。[[法名]]は恵林寺殿機山玄公大居士{{Sfn|奥野|1959|p=264}}。菩提寺は[[山梨県]][[甲州市]]の[[恵林寺]]。
[[辞世]]の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。
== 遺言 ==
{{Double image aside|right|Grave of Takeda Shingen in Kofu city.JPG|200|Grave of Takeda Shingen in Erinji.JPG|200|甲府市岩窪町の武田信玄公墓所(2010年9月撮影)|甲州市恵林寺の武田信玄公墓所(2010年11月撮影)}}
『甲陽軍鑑』によれば、信玄は[[遺言]]で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を[[諏訪湖]]に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の[[上杉謙信]]を頼る事」を言い残し、重臣の[[山県昌景]]や[[馬場信春]]、[[内藤昌豊|内藤昌秀]]らに後事を託し、山県に対しては「源四郎{{efn|山県昌景のこと。}}、明日は[[瀬田の唐橋|瀬田]]に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。
信玄の遺言については、遺骸を[[諏訪湖]]に沈めることなど事実では無く誤りである{{Sfn|奥野|1959|p=266}}。信玄の墓は恵林寺に現存している{{Sfn|奥野|1959|p=266}}。
信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿している。駒場の[[長岳寺]]や甲府岩窪の魔縁塚を信玄の火葬地とする伝承があり、甲府の[[円光院 (甲府市)|円光院]]では[[安永]]8年([[1779年]])に甲府[[代官]]により発掘が行われて、信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録がある。このことから死の直後に火葬して遺骸を保管していたということも考えられている。
== 死後・法要など ==
[[天正]]3年([[1575年]])3月6日、[[山県昌景]]が使者となり、[[金剛峯寺|高野山]]成慶院に日牌が建立される(『武田家御日牌帳』)。
[[天正]]3年([[1575年]])4月12日、『甲陽軍鑑』品51によると、[[恵林寺]]において[[武田勝頼]]による信玄三周忌の仏事が行われている。この時、[[恵林寺]]住職の[[快川紹喜]]が大導師を務め、葬儀が行われたという(『天正玄公仏事法語』)。同年5月21日に[[武田勝頼]]は[[長篠の戦い]]において織田・徳川連合軍に敗れている。
[[天正]]4年([[1576年]])4月16日、勝頼により[[恵林寺]]で信玄の[[葬儀]]が行われている。
[[江戸時代]]には[[寛文]]12年([[1672年]])に[[恵林寺]]において百回忌の[[法要]]が行われている。[[宝永]]2年([[1705年]])4月10日には[[恵林寺]]において[[甲府藩]]主・[[柳沢吉保]]による百三十三回忌の法要が行われている。[[柳沢吉保]]は将軍・[[徳川綱吉]]の[[側用人]]で、[[宝永]]元年([[1704年]])に[[甲府藩主]]となった。[[柳沢吉保]]は信玄を崇拝し、[[柳沢氏]]系図において[[武田氏]]に連なる一族であることを強調し、百三十三回忌法要では伝信玄佩刀の太刀銘来国長を奉納し、自らが信玄の後継者であることを強調している。
[[大正]]4年([[1915年]])[[11月10日]]、信玄は[[従三位]]を贈られる<ref>『[[官報]]』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。</ref>。
[[令和3年]]([[2021年]])[[11月3日]]、[[甲斐善光寺]]([[甲府市]])において「信玄公生誕500年祭大法要」が営まれ、信玄から数えて17代目の当主、[[武田英信]]らが参加した<ref>{{Cite web|和書|title=武田信玄生誕500年 ファンらが思いをはせる集い 山梨|url=https://mainichi.jp/articles/20211104/k00/00m/040/063000c|website=毎日新聞|accessdate=2021-11-07|language=ja}}</ref>。
== 人物 ==
=== 人物像 ===
[[File:Takeda Shingen.jpg|thumb|200px|right|『川中島百勇将戦之内』「明将 武田晴信入道信玄」]]
信玄の発行した文書は、信玄の[[花押]]による文書が約600点、[[印判]]を使用したものが約750点、写しのため署判不詳が100点、家臣が関与したものが50点の合計約1500点ほどが確認されている<ref>柴辻俊六「戦国大名自筆文書の考察-武田信玄を事例として-」『山梨県史研究』第5号、1997年。</ref>。そのうち信玄自筆書状は50点前後確認できるが、20点ほどは神社宛の願文である。私的な文書は皆無で、人物像・[[教養]]について伺える資料・研究は少ないものの、[[昭和]]初年には[[渡辺世祐]]『武田信玄の経綸と修養』 において若干論じられている。
教養面について、信玄は京から[[公家]]を招いて[[詩歌]]会・[[連歌]]会を行っており、信玄自身も数多くの歌や[[漢詩]]を残している。信玄の詩歌は『為和集』『心珠詠藻』『甲信紀行の歌』などに収録され、恵林寺住職の快川紹喜や[[円光院 (甲府市)|円光院]]住職の説三恵璨により優れたものとして賞賛されている。また、漢詩は京都大徳寺の宗佐首座により「武田信玄詩藁」として編纂している<ref>黒田基樹「武田信玄と詩歌会・連歌会」『山梨県史』通史編2中世</ref>。
また、信玄は実子義信の廃嫡や婚姻同盟の崩壊による子女の受難などを招いている一方で、娘の安産や病気平癒を祈願した願文を奉納しているなど、親としての一面が垣間見える事実もあることから、国主としての複雑な立場を指摘する意見もある<ref>平山優「武田信玄の人間像」 『戦国遺文月報』武田氏編第3巻、2003</ref>。
『甲陽軍鑑』において信玄は名君・名将として描かれ、中国[[三国時代 (中国)|三国時代]]における[[蜀漢|蜀]]の[[諸葛亮|諸葛孔明]]の人物像に仮託されており(品九)、甲陽軍鑑においてはいずれも後代の仮託と考えられているが[[軍学]]や人生訓に関する数々の[[名言]]が記されている。
=== 逸話 ===
{{複数の問題|ソートキー=人1573年没
|section = 1
| 出典の明記 = 2012年4月
| 独自研究 = 2012年4月
}}
[[ファイル:Takeda Daizen no tayū Harunobu Nyūdō Shingen.jpg|サムネイル|武田大膳大夫晴信入道信玄([[月岡芳年]]画)]]
* ある時、駿河の今川義元の正室として嫁いだ姉から大量の貝殻が贈られてきた。山国甲斐で育った信玄はこれを喜び、近習に貝殻の数を調べさせた。貝殻は2畳分あった。そこで家臣らを呼んで「お前たち、この貝殻が何枚あるか当ててみよ」と命じた。ある者は1万5000枚、ある者は2万枚と思い思いに述べた。すると信玄は「皆的違いだ。3700枚ほどだ」と教えた。そして「わしは今まで、合戦には兵力が必要だと思っていた。だが兵力は少なくともよい。必要なのは5000の兵を1万に見せることができるように、兵を思うように動かすことこそ大事である。お前たちもこのことをしかと心得よ」と述べた。それを聞いた家臣らは「末恐ろしい若君よ」と驚嘆した(甲陽軍鑑。品第6)。
* 武田軍の強さは、息子の勝頼が長篠の戦いで大敗した後も、信長の支配地域において「武田軍と上杉軍の強さは天下一である」と噂されるほどのものであった(『[[大和国]][[興福寺]]蓮成院記録』天正十年三月の項)。
* 躑躅ヶ崎館に、自分専用の[[水洗トイレ]]を設置していた。これは躑躅ヶ崎館の裏から流れる水を利用した仕組みで、信玄がひもを引いて鈴を鳴らすと伝言ゲームのように配置された数人の家臣に知らされていき、上流の者が水を流す仕組みである。信玄はここを山と言う名称で呼んでいた。家臣が「何故、[[厠]]を山と言うのでしょう?」と尋ねた所、信玄は「山には常に、草木(臭き)が絶えぬから」と機知に富んだ回答をしている。敵襲に備えた信玄の考えから、トイレの広さは六畳もあり(狭いトイレだと非常時に身動きがとれなくなるため)、室内には机や硯も設置されており、ここで用を足しながら書状を書いたり作戦を考えていた。
* 『甲陽軍鑑』によると、信長から小袖が贈られた際、梱包に漆箱が使われていた。ふと思い立った信玄が箱を割るなどして調べると、それは漆が何度も重ね塗りされた最高級ともいうべきものであった。信玄は信長の、梱包にすら高価な漆箱を用いるその丁寧さから「これは織田家の誠意の表れであり、武田家に対する気持ちが本物だ」と周囲に語ったという。信長の真意はともかく、細かい所にも気をつける性格だったようである。
* 信玄にとって甲斐から京都へ上洛する距離は、当時としてはかなりの遠隔地だった。実際、織田信長の美濃・尾張に較べると甲斐は後進地域であるうえ、山国でもあるために行軍も難しかった。信長が信玄に先んじて上洛した際、当時の[[俳諧]]書である『[[新撰犬筑波集|犬筑波集]]』では、次のような句が記されている。<blockquote><div>「都より甲斐への国へは程遠し。おいそぎあれや日は武田殿」(大意:甲斐は都から遠い。お急ぎせねば日が暮れますぞ。)</div></blockquote>
* 信玄は上杉謙信を上杉姓で呼ばなかったが、これは甲斐守護の武田家と越後守護代の長尾家の格式の差による。長尾家が関東管領として上杉姓となると、格式が逆転したため、面白くなかった信玄は、最期まで長尾姓のままで呼び続けたという。
* [[ルイス・フロイス]]の『[[フロイス日本史|日本史]]』によれば、武田氏は「彼(織田信長)がもっとも煩わされ、常に恐れていた敵の1人」だったという。
* フロイスはその他、書簡(『日本耶蘇会年報』に所収)にいくつか信玄のことについて記している。「戦争においては[[ユグルタ]]に似たる人」「彼は剃髪して坊主となり、常に坊主の服と数珠を身に付けたり。1日3回偶像を祭り、之が為 戦場に坊主600人を同伴せり。この信心の目的は、隣接諸国を奪うに在り」「彼は武力により畏怖され、部下より大に尊敬を受く。けだし小なる欠点といえども宥(ゆる)すことなく、直ちに之を殺害せしむるを以てなり」
* フロイスの[[1573年]]4月20日([[元亀]]4年)付けの同じ書簡には、信玄が[[西上作戦]]前に織田信長に一書を送ったとある。そこには「その名を誇示せしめんとの慢心より、その書状の上に次の如く認めたり。テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン」と署名してあり、「信長は之に対してドイロク・テンノマウオ・ノブナガ、と応酬せり」というやりとりがあったという。フロイスはこの署名を「其意は[[天台宗]]の教の最高の家および教師信玄といふことなり」と解釈しているが、実際は[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]により甲斐国に[[亡命]]してきた「[[天台座主]]の[[覚恕法親王]]の[[沙門]](保護者)武田信玄」であり、信長は「[[第六天魔王]](仏道修行を妨げる魔)信長」と返した様子で、宗教人らしいフロイスの拡大解釈であろう。
== 政策 ==
=== 合議制と御旗盾無 ===
信玄の統治初期は[[中央集権]]的な制度でなく、[[合議制]]であった。このため、在地領主(いわゆる国人)の領地に対しては直接指示を下せなかった。「御旗[[盾無]]御照覧あれ」という言葉は合議制の議長である[[武田家]]当主の決定であるという意味に使われることが多い。
信玄の統治は、領地の拡大や[[知行制]]の浸透に伴い、[[合議制]]から[[中央集権]]な統治に変遷が見られる。
=== 家臣団と制度 ===
[[File:Takeda24syou.jpg|thumb|180px|武田二十四将]]
{{main|武田信玄の家臣団}}
武田家臣団を制度的に分類する事は研究者の間でも難しいとされる。武田家が守護から戦国大名になったと言う経緯から、中世的な部分が残る一方、時代に合わせて改変していった制度もあり、部分部分で[[鎌倉時代]]~[[室町時代]]前期の影響と、室町後期の時代の影響の両方がやや混然と存在しているためである。
家臣団を大きく分けると以下のように分けられる。
==== 御一門衆 ====
: 信玄の兄弟・親族らが中心。「甲州武田法性院信玄公御代惣人数事」『甲陽軍鑑』巻八では十二名を記載している。呼称は「御一門衆」であることが指摘され、『甲斐国志』では「親族衆」とし、「国主の兄弟から出て一家を立てた」者とされる。このため今井家・一条家など、別姓もありえる。また、[[木曾氏]]のような婚姻関係の結果親族衆に含まれる場合も含まれる。
==== 譜代家老衆 ====
: 基本的には甲斐一国当時から武田家に仕えていた家を中心とした家臣団。合議の場に列する資格を意味する[[家格]]であったと考えられており<ref name="x1">柴辻(2006)、p.135{{出典無効|date=2017-02-14 |title=同年に複数の書籍があり、出典とされた書誌不明}}</ref>、軍事面・領国支配において重視された<ref name="h64">{{harvnb|平山|2006|p=64}}</ref>。文書においては「家老」「宿老」の用語が見られるが、多くは用いられていない<ref name="x1" />。
:「惣人数」には親族衆の次に配置され、馬場信春、内藤昌秀、山県昌景、高坂昌信([[春日虎綱]])、小山田信茂([[郡内地方|郡内]]小山田)、[[甘利信忠]]、[[栗原詮冬]]、[[今福友清]]、[[土屋昌続]]、秋山虎繁、[[原昌胤]](加賀守・隼人祐系)、[[小山田虎満]](石田小山田)、[[跡部勝資]](大炊助系)、[[浅利信種]]、[[駒井昌直]]、[[小宮山昌友]]、[[跡部勝忠]](美作守系)の17名を挙げている<ref name="h64" />。ただしこれらの譜代家老は同時に存在したわけではなかったと見られている<ref>柴辻(2006)、p.134{{出典無効|date=2017-02-14 |title=同年に複数の書籍があり、出典とされた書誌不明}}</ref>。
:特徴として、まず一族普代の氏族と一族普代でない氏族に区分される<ref name="x1" />。一族普代では馬場、内藤、山県、甘利、栗原、今福、土屋、秋山、浅利、駒井、一族譜代でない氏族は郡内小山田、石田小山田、跡部(大炊助・美作守系)、春日、原、小宮山がいる<ref name="x1" />。また、多くは譜代家老の出自であるが、嫡男ではなく次男以下の出自を持つ点も特徴とされる<ref name="h64" />。ただし、[[今福浄閑斎]]、三枝昌貞、小山田信茂など一部の例外は見られる<ref name="h64" />。
:武田家の譜代家老衆は時代によって[[謀反]]や[[粛清]]、[[戦死]]などにより入れ替わりが存在し<ref name="h65-66" />、御一門衆と同様に信虎までに登用されたグループと、信玄が新たに登用したグループに区分される<ref name="h66">{{harvnb|平山|2006|p=66}}</ref>。信昌から[[武田信縄|信縄]]・信虎の時代に側近・奉行として当主を支えた楠浦、河村、工藤、秋山、小田切、曽根、駒井、板垣などの氏族がいるが、帆、河村、工藤、秋山の四氏は当主の取次を務めていた<ref name="h65">{{harvnb|平山|2006|p=65}}</ref>。信玄の代になるとまず楠浦、河村が消え、続いて工藤、秋山、小田切も姿を消し、後に譜代家老の地位を離れて奉行衆として登場する<ref name="h65" />。対して曽根、板垣、駒井は信虎から信玄初期にかけて重用されている<ref name="h65" />。
:信玄は信虎の代の譜代家老のうち甘利、郡内小山田、栗原、駒井、原(加賀守・隼人祐系)、小宮山氏を重用しているが、信玄の代には数次にわたる譜代家老の粛清も行われている<ref name="h65-66">{{harvnb|平山|2006|pp=65-66}}</ref>。信玄は新たに山田、内藤、春日、馬場、土屋、石田小山田、跡部(大炊助・美作守系)、秋山、今福などを登用し、山県昌景・内藤昌秀らが活動をはじめる弘治・永禄年間には「惣人代」に記載される人名に至る<ref name="h66" />。信玄が登用した譜代家老の多くは甲斐衆で身分が低く、[[百姓]]出身の春日虎綱(高坂昌信)など、多様な出自の人物を含む<ref name="h66" />。跡部氏は信濃に出自を持つ氏族であるが甲斐衆として扱われていたと考えられており、他国から来た家臣は譜代家老から排斥されていた<ref name="h66" />。逆に甲州に領地を持っていながら譜代と扱われていない例もある。4. その他の項を参照。
:『甲陽軍鑑』に拠れば、武田家の譜代家老は[[小姓]]・[[奥近習]]から[[御使番]]を経て[[侍大将]]・[[城代]]となり、最終的に譜代家老に取り立てられたという<ref name="h66" />。武田氏が信玄の代に領国を拡大すると、譜代家老は各地の拠点[[城郭]]に配置され、城代(武田氏では「[[郡司]]」と呼称される)として領域支配を担った<ref name="h66" />。武田家の城代としては[[信濃国]][[海津城]]の春日虎綱、信濃国[[牧之島城]]の馬場信春、信濃国[[内山城]]の小山田虎満、[[上野国]][[箕輪城]]の内藤昌秀、上野国[[松井田城]]の[[小宮山虎高]]、[[美濃国]][[岩村城]]の秋山虎繁、[[駿河国]][[江尻城]]の山県昌景、駿河国[[深沢城]]の駒井昌直、駿河国[[久能城]]の今福浄閑斎、らがいる<ref name="h67">{{harvnb|平山|2006|p=67}}</ref>。武田家の城代は御一門衆と異なり領域支配を担っていた点が特徴であると指摘される<ref name="h67" />。城代は[[寄親・寄子制]]により他国衆を相備衆として編成した<ref>『山梨県史 通史編2 中世』、p.339</ref>。
:譜代家老衆の中で小山田信茂は郡内領を有する国衆であり、特異な立場にいたことが指摘される<ref name="x1" />。
:後代に称された[[武田二十四将]]には譜代家老の家臣が多く含まれる<ref>柴辻(2006)、p.136{{出典無効|date=2017-02-14 |title=同年に複数の書籍があり、出典とされた書誌不明}}</ref>。
==== 外様家臣団 ====
: 同時代には外様と言う表現は使われていないが、現代では便宜的にこのように言われる。1及び2に含まれない家臣団。当時は[[諏訪衆]]・[[上野衆]]と言った地域名、あるいは[[真田衆]]と言った領主名で呼ばれていた。武田の水軍([[武田水軍]])である[[海賊衆]]もここに含まれる。
==== その他の域武士団 ====
: [[武川衆]]のように甲斐国内に存在した集団でありながら、親族とも譜代とも判別し難いのみならず、武田氏に服属していたのか同盟関係に近かったのかの判断が困難なグループがある([[小山田氏]]等)。多くは中世の本家分家的な関係を基礎としており、一定地域での独自色の強い集団であった。これらの集団と武田氏との関係の研究は現在も続けられている([[武川衆]]、[[津金衆]]、[[栗原衆]]、[[九一色衆]]、[[伊那衆]]など)。
==== 武田水軍 ====
{{main|武田水軍}}
[[永禄]]11年([[1568年]])に[[間宮武兵衛]](船10艘)、[[間宮信高]](船5艘)、[[小浜景隆]](安宅船1艘、小舟15艘)、[[向井正綱]](船5艘)、[[伊丹康直]](船5艘)、[[土屋貞綱]](船12艘、同心50騎)などを登用して、武田水軍を創設している。
==== 軍陣医 ====
信玄は軍陣医をともなっていたことが[[武田信玄陣立図]]から確認され、信玄の本陣の前に御伽衆の[[小笠原慶庵]]と[[長坂光堅|長坂釣閑斎]]とともに甫庵([[寺島甫庵]]か)の薬師本道と大輪([[山本大林]]か)の薬師外科の医師団部隊が有事に備えて存在していた。このような部隊は珍しく、他には[[毛利元就]]が挙げられる<ref>{{Cite journal |和書 |author=宮本義己 |authorlink=宮本義己 |year=2017 |title=知られざる戦国武将の「健康術と医療」 |journal=歴史人 |volume=8巻 |issue=9号}}</ref>。
==== 武田二十四将 ====
{{main|武田二十四将}}
[[江戸時代]]には『[[甲陽軍鑑]]』が流行し、信玄時代の[[武田家]]の武将達の中で特に評価の高い24名の[[武将]]を指して[[武田二十四将]]([[武田二十四神将]])と言われるようになった。信玄の家臣の絵図は「武田二十四将図」と呼ばれ、24人描かれるのが一般的とされるほどである<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/culture/20211104-OYT1T50198/ 【独自】信玄のまわりに家臣88人ずらり…24人が一般的だが「類例のない構図」]</ref>。他に[[武田四天王]]も有名である。
=== 家臣団の制度 ===
職制は行政面と軍政面で分けられる。行政面では「職」と呼ばれる役職を頂点にした機関が存在した。ただし、武田氏は中央集権的な制度ではなかったため、在地領主(いわゆる国人)の領地に対しては直接指示を下せるわけではなかった。特に穴山・小山田両氏の領地は国人領主と言えるほどの独自性を維持している。信玄の初期は国人による集団指導体制の議長的な役割が強く、知行制による家臣団が確立されるのは治世も後半の事である。
構造的には原則として以下のようになっていたとされる。ただし、任命されていた人物の名が記されていない場合もあり、完全なシステムとしてこのように運営されていたわけではないようである。また、領地の拡大や知行制の浸透に伴い、これらの制度も変遷を行った様子が伺える。
* 行政
** 職。
*** 公事奉行…[[公事]]と訴訟を担当する。ただし、この公事奉行が全ての裁判を審議したわけではなく、下部で収まらなかった訴訟を審議した。後述。
*** 勘定奉行…財政担当官。
*** 蔵前衆…地方代官。同時に御料所と呼ばれる武田氏直轄地の管理を行った。
*** 侍隊将…出陣・警護の任務に当たる。
*** [[足軽]]隊将…検使として侍隊将の補佐を勤める旗本隊将と、領地境界の番手警備を行う加勢隊将に別れる。
*** 浪人頭…諸国からの[[浪人]]を統率する。
* 軍政
** 職。
*** 旗本武者奉行…弓矢指南とされる。最上位に記される事から出陣の儀や[[鬨|勝鬨]]の儀などの責任者か。
*** 旗奉行…諏訪法性の旗などを差配する。
*** 鑓奉行…騎馬足軽が付随したとある。旗本親衛隊の統率者か。(横目衆。後の[[甲州九口之道筋奉行]])
*** 使番衆…[[ムカデ|百足]]の旗を背負う[[伝令]]役。使番と奥使番に分けられる。
*** 奥近衆…奥近衆[[小姓]]とも記される。基本的には領主クラスの子弟から選ばれる。
*** 諸国使番衆…諸国への使者を務める。
*** 海賊衆…海軍([[武田水軍]])。
*** 御伽衆…御話衆とも。側近。
*** 新衆…[[工兵]]集団。架橋や陣小屋作成など。
行政・軍政とも職(総責任者)の下に位置し、武田氏の下部組織を勤める。竜朱印状奏者はこれらの制度上の地位とは別である。また、占領地の郡代など、限定的ながら独自裁量権を持つ地位も存在する。なお郡代という表現そのものも信濃攻略時には多く見られるが、駿河侵攻時にはあまり見られなくなっており、城主や城代がその役目を行うようになった。武田の行政機構が領地の拡大にあわせて変化していった一例であろう。
==== 寄親寄子制 ====
軍事制度としては[[寄親寄子制]]であった事がはっきりしている。基本的には武田氏に直属する寄親と、寄親に付随する寄子の関係である。ただし、武田関連資料ではこの寄子に関して「同心衆」と言う表現をされる場所があるため、直臣[[陪臣]]制と誤解される事も多く、注意が必要である。また、地域武士団は血縁関係によって結びついた甲州内に存続する独自集団であり、指揮系統的には武田氏直属であったと考えられているが、集団が丸ごと親族衆の下に同心の様に配されている場合もあり、必ずしも一定していない。地域武士団の前者の例は先述の[[武川衆]]、後者の例は小山田氏に配属されていた[[九一色衆]]が上げられる。
寄親とされているのは親族衆と譜代家臣団・外様家臣団の一部。譜代家臣団でありながら同心(寄子)である家もあるため、譜代家臣団が必ず寄親のような大部隊指揮官という訳ではない。また、俗に言う武田二十四将の中にも同心格である家もあり、知名度とも関係はない。それどころか侍大将とされている人物でも寄親の下に配されている場合もあり、かなり大きな権限を持っていたと考えられている。全体としては大きな領地を持っている一族である例が多く、地主的な発言権とは不可分であるようである。また、一方面指揮官(北信濃の春日虎綱や上野の内藤昌豊など)のように、領地とは別に大軍を指揮統率する権限を有している場合もある。
寄子は制度的には最も数が多くなる。譜代家臣団・外様家臣団の大部分である。平時には名主として領地を有し、居住する地域や領地の中に「又被官(武田氏から見た表現。被官の被官と言う意味)」と記される直属の部下を持つ。寄親一人の下に複数の寄子が配属され、一軍団を形成する。武田関係の資料では先述したように「同心衆」と記され、「甘利同心衆」と言うように責任者名+同心の書き方をされる例が多い。ただしこの名前が記されている人物も寄子である場合もあり、言葉そのものが状況によって使い分けられていたようである。
この複雑さを示す例として「信玄の被官」であり、板垣信方の「同心」を命じられた[[曲淵吉景]]が挙げられる。信玄の[[被官]]と言う事は信玄直属であり、制度面で正確に言えば寄子としては扱われないはずであるが、信方の同心である以上は寄子として扱われている。信玄の被官である以上、知行は信玄から与えられる一方、合戦時の指示は信方から与えられる、と言う事になる。この例の曲淵は他者の同心であるが、信玄直属の同心と言える立場の人物ももちろん存在していた。
もっとも現代のように一字一句にこだわった表現が当時されていたかどうかは判断が難しい。軍役帳などの場合、「被官〜氏」「同心〜氏」であれば信玄直属の被官、「〜氏同心××氏」でれば誰かの又被官と、前後の書かれ方で意味が通じるからである。現代発行される書籍などで単語だけ取り出す事によって混乱が助長されている面は否定できない。
また、『中尾之郷軍役衆名前帳』には同じ郷から出征する人物が複数の寄親に配属されている場合があり、複数の郷に領地を持っている人物が寄子同心が存在するなど、一概に一地方=一人物の指揮下と断定する事もできない。これもまた制度研究を困難にさせている要因の一つである。
なお、裁判面では寄親寄子制が基幹となっており、『甲州法度之次第』では内容にかかわらず寄子はまず寄親に訴え出る事が規定されている。寄親が対処できない場合のみ信玄の下に持ち込まれることになっていた。これは一方で[[兵農分離|兵農未分離]]の証左とも言える。
信玄は家臣との間の些細な諍いや義信事件など家中の動揺を招く事件に際しては、忠誠を誓わせる[[起請文]]を提出させており、神仏に誓うことで家臣との紐帯が保たれていた。また、信玄が寵愛する[[衆道]]相手の春日源介(「春日源介」の人物比定は不詳。)に対して、[[wikt:浮気|浮気]]の弁明を記す手紙や[[誓詞]](天文15年(1546年))武田晴信誓詞、ともに[[東京大学史料編纂所]]所蔵)が現存しており<ref>{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2003 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 3 |publisher=講談社 }}</ref>、家臣との交友関係などを示す史料となっている。
[[File:Shingen embankment aerial photo.jpg|thumb|180px|信玄堤(竜王堤)付近の空中写真。画像右側に帯状に見える緑地が堤防である。(1975年撮影)<br/>{{国土航空写真}}]]
==== 信玄の偏諱 ====
信玄(晴信)に関して特徴的なことは、家臣に対する偏諱として「昌」の字が用いられた例が多いことである。武田氏の通字である「信」の授与は重臣の嫡男に限られ、それ以外の家臣には父・信虎は「虎」、子・勝頼は「勝」の字を授けているが、晴信の「晴」は将軍からの偏諱であるために「晴」の字を授けた確実な例はなく、代わりに曽祖父・[[武田信昌]]に由来する「昌」の字を代わりに授けたとみられている。例えば、真田氏の場合、幸隆の嫡男には「信」の一字を与えて[[真田信綱|信綱]]、次男以下には「昌」の字を与えて[[真田昌輝|昌輝]]・[[真田昌幸|昌幸]]などと名乗らせている<ref>{{Cite book |和書 |author=黒田基樹 |year=1997 |title=戦国大名と外様国衆 |publisher=文献出版 |page=134 |isbn=4-8305-1192-3 }}</ref>。
=== 領国統治 ===
==== 分国法 ====
信玄期には信虎期から整備されて家一間ごとに賦課される[[棟別諸役]]が確立し、在地掌握のための[[検地]]も行われ、領国支配の基盤が整えられた。
その一環として、[[天文 (元号)|天文]]16年([[1547年]])に[[甲州法度次第]]という分国法を制定した。
==== 治水事業 ====
{{seealso|信玄堤}}
武田氏の本拠地である甲斐は平野部である[[甲府盆地]]を有するが、[[釜無川]]、[[笛吹川]]の二大河川の氾濫のため利用可能な耕地が少なく、[[年貢]]収入に期待ができなかった。この為、信玄期には大名権力により[[治水]]事業を行い、[[氾濫原]]の[[新田開発]]を精力的に実施した。代表的事例として、甲府城下町の整備と平行して行われた[[御勅使川]]と釜無川の合流地点である竜王(旧・[[中巨摩郡]][[竜王町 (山梨県)|竜王町]]、現・[[甲斐市]])では[[信玄堤]]と呼ばれる堤防を築き上げ、河川の流れを変えて[[開墾]]した。
[[ファイル:Kai-Zenkoji-temple main gate.JPG|thumb|150px|[[甲斐善光寺]]の山門(重要文化財)]]
==== 甲州三法 ====
[[大小切騒動|大小切税法]]や[[甲州金]]、[[甲州枡]]の[[甲州三法]]を制定。
日本で初めて[[金貨]]である[[甲州金]](碁石金)を鋳造した。甲斐には[[黒川金山]]や[[湯之奥金山]]など豊富な埋蔵量を誇り、信玄期に稼動していた金山が存在していた。[[南蛮]]渡来の掘削技術や[[精錬]]手法を積極的に取り入れ、莫大な量の金を産出し、治水事業や軍事費に充当した。また中央権門や有力寺社への贈答、織田信長や上杉謙信に敵対する勢力への支援など、外交面でも大いに威力を発揮した。ただし、碁石金は通常の流通には余り用いられず、金山の採掘に関しては武田氏は直接支配を行っていた史料は見られず、金堀衆と呼ばれる技術者集団の諸権益を補償することによって金を得ていたと考えられている。
==== 寺社に対する方針 ====
寺社政策では寺領の安堵や寄進、[[守護不入|不入権]]など諸権益の保証、中央からの住職招請、法号授与の斡旋など保護政策を行う一方で、規式の保持や戦勝祈願の修法や戦没者供養、[[神社]]には神益奉仕などを義務づける統制を行っている。信玄は自身も[[仏教]]信仰を持っていたが、領国拡大に伴い地域領民にも影響力を持つ寺社の保護は、領国掌握の一環として特定宗派にとらわれずに行っている。特に[[臨済宗]]の[[恵林寺]]に対する手厚い保護や、[[武田八幡宮]]の社殿造営、甲府への[[善光寺|信濃善光寺]]の移転勧請などが知られる。
== 研究 ==
=== 肖像画 ===
[[File:Kira Yoriyasu.jpg|thumb|150px|伝[[吉良頼康]]像<br/>([[九品仏浄真寺]]蔵)]]
[[image:Shingen-Taleda(Hatakeyama).jpg|thumb|230px|従来信玄像とされた能登畠山氏像<br/>(模写、原典は成慶院所蔵)]]
信玄の肖像画は同時代のものが複数存在し、[[和歌山県]]持明院所蔵の『絹本著色武田晴信像』、高野山成慶院所蔵の[[長谷川等伯]]筆『絹本著色武田信玄像』([[重要文化財]])が知られる。
前者は信玄の供養のため奉納されたと伝わる肖像画で、青年期の晴信が[[侍]][[烏帽子]]に[[直垂]]という武家の正装姿で描かれており、直垂には武田家当主・甲斐守護職であることを示す[[花菱]]紋が描かれている。後者は、勝頼が武田氏の[[菩提寺|菩提所]]である成慶院に奉納したと伝わる肖像画で、壮年期のふっくらとした姿で頭部には[[一髻|髻]]があり、[[笄]]や目貫に[[足利将軍家]]家紋「[[引両紋#二つ引|二引両紋]]」のある[[脇差]]が描かれている。[[三条家]]とも関わりのある絵師・長谷川等伯によって描かれ、信玄正室の三条夫人の叔父を描いた『日堯上人像』と同時期に描かれている。また、高野山成慶院には信玄の弟信廉が描き勝頼が奉納したとされる肖像があったとされ、原本は伝存していないが写が現存している。
同時代では、信玄は肖像画以外に[[不動明王]]のイメージで自らを描かせているが、イメージは不確定であった。江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、軍配を持ち赤法衣と{{読み仮名|諏訪法性|すわほっしょう}}の兜に象徴される法師武者姿としてのイメージが確立し、[[狩野探信 (守道)|狩野探信]]や[[柳沢吉里]](柳沢吉保の嫡男)により描かれた信玄個人の肖像画{{refnest|狩野探信([[狩野探幽]]の長男)筆『武田信玄画像』 山梨・[[大泉寺 (甲府市)|大泉寺]]蔵、絹本著色、[[正徳 (日本)|正徳]]5年([[1715年]])。柳沢吉里筆 『武田信玄画像』 山梨・[[恵林寺]]蔵(武田信玄公宝物館保管展示)、絹本著色、[[甲州市]]指定文化財、[[享保]]8年([[1723年]])<ref group="注釈">信玄没後百五十回忌に吉里が奉納した。</ref>}}や武田二十四将図、[[歌舞伎]]や[[浄瑠璃]]の演目『本朝廿四孝』、これを描いた[[役者絵]]や[[武者絵]]などにおいて定着した。明治期もこの流れを引き継いでいるが、顔貌の描き方は統一されていなかった。しかし、[[松平定信]]編纂の『[[集古十種]]』([[寛政]]12年([[1800年]]刊))で既に成慶院本が「武田信玄像」として紹介されており、これが[[明治]]40年頃に[[東京帝国大学]]が発行した教育用掛図の中に採用されて普及し始め<ref>石川博 「信玄伝説 由緒と図像」(『よみがえる武田信玄の世界 山梨県立博物館開館記念特別展』図録、[[山梨県立博物館]]、2006年)</ref>、今なお信玄の一般的なイメージとして知られている。[[甲府駅]]前や[[塩山駅]]前に建てられている銅像なども、そのイメージは成慶院本がモデルとされた。
ところが、[[歴史学者]]の[[藤本正行]]は、
* 勝頼の書状には像の図様が書かれておらず、成慶院本がそれに当たるか判別できない。
* 成慶院本は、『集古十種』以前に信玄像として扱われたことはなく、また『集古十種』にはしばしば誤りがある。
* 信玄の末子[[武田信清|信清]]の家系である[[米沢武田家]]の史料に、成慶院の肖像は[[武田信廉|逍遙軒]]筆とあり、等伯が描いた現在の成慶院本と矛盾する。
* 39歳で出家し剃髪したにもかかわらず、後鬢が残されている。
* 服や刀の家紋が武田花菱紋でなく、二引両紋([[足利氏]]や[[畠山氏]])である。旧説支持者は足利将軍家からの下賜品と解釈するが、もしそうならばより権威が高く贈答品に用いられ肖像画の作例も多い[[桐紋]]が相応しく、また自家の家紋が全く描かれていないのは不可解である。
* (持病の)労咳や癌で死んだと言われる割には、身体がふっくらしている。
* 右側に止まっている[[鳥類|鳥]]は、当時の甲斐ではあまり見られない鳥種であった。
* 絵師は[[能登国|能登]]出身の長谷川等伯であることは間違いないが、この時期に能登から出た形跡が無く、信玄との接点は薄い。旧説支持者からは多くの仮説が出されているが、どれも成慶院本を信玄像とすることを前提としており、史料的な裏付けもない。
などの疑問点から、成慶院本の像主は[[畠山氏#能登畠山家(匠作家)|能登畠山家]]の誰か、特に[[畠山義続]]の可能性が高いという説を出している。そのため、最近の教科書では成慶院本の画像は使われず、もっぱら持明院本の画像が採用されることが多い。なお藤本によれば、花菱紋が大量に描かれ、具足の描き方などが時代的によく合っているという論拠から、東京都[[世田谷区]]の[[九品仏浄真寺|浄真寺]]所蔵の『伝[[吉良頼康]]像』こそが、本来成慶院にあった逍遙軒の描いた信玄像の忠実な模本であるという。また、江戸期に描かれた他の模本類でも、前述の高野山成慶院にあったという逍遥軒筆の信玄像は、この『伝吉良頼康像』に類似する<ref>例えば、東京大学史料編纂所所蔵の模本([https://web.archive.org/web/20120521203833/http://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_102ro_/361/00000621.jpg 画像])など。</ref><ref>{{Cite book|和書|author=藤本正行|title=武田信玄像の謎|publisher=[[吉川弘文館]]|series=[[歴史文化ライブラリー]] 206|year=2006}}</ref>。更に信玄の法名「徳栄軒」と、[[畠山義綱]]の戒名「興禅院華岳'''徳栄'''大居士」に注目し、元々成慶院本に付属していた箱書きや[[画賛|讃文]]に書かれていたであろう「徳栄」の文字が、後世の人々に信玄像と誤認させたのでは、という指摘もある<ref> 落合謙暁「土佐家伝来の伝足利義政像について」(『日本歴史』772号、2012年9月号)31頁</ref><ref group="注釈">なお同論文では、像主が畠山徳栄であると共に、切り取られたという賛の筆者が徳栄だった可能性を指摘している。</ref>。しかし美術史家からは、肖像は描かれた状況からどう描いたかを考えるべきで、図像から像主を判断するのは順序が逆だとして、こうした見方に反対する意見も根強い<ref>{{Cite journal|和書|author=[[松嶋雅人]]|title=長谷川等伯─信春時代における諸問題|journal=東京国立博物館紀要|issue=43号|year=2007}}</ref>。しかし、こうした反論は説得性を欠き、もはや決着はついたとする研究者もいる{{refnest|{{Cite journal|和書|author=柴辻俊六|title=最近の武田氏研究と信濃|journal=信濃|volume=66|issue=11|year=2014|page=815}}<ref group="注釈">なお同論文は、近年の武田氏研究を総括し、今後の課題を述べている。</ref>。}}。
=== 武田菱 ===
[[ファイル:山梨県甲府市市章.svg|thumb|150px|甲府市章の菱形は武田菱を由来とする。]]
{{出典の明記|date=2023年1月|section=1}}
武田菱は、甲州武田家の家紋である。菱形を4つ合わせた形状であり、知名度が高い。元々は「割菱紋」と呼ばれたが、江戸期に大量に描かれた信玄像で信玄を表す家紋として使われたため、「武田菱」の呼び名が定着した。ただし、前述のように信玄のような武田家の総領は、実際には割菱紋ではなく花菱紋を用いており、注意を要する。旧甲斐国の山梨県では、[[甲府駅]]から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。なおこの意匠は、[[山梨県警]][[機動隊]]の車両などの装備品に用いており、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の[[特別急行列車|特急]]「[[あずさ (列車)|あずさ]]」「[[かいじ (列車)|かいじ]]」に使われた[[JR東日本E257系電車|E257系]]のデザインにも取り入れていた。
また、[[広島県立祇園北高等学校]]は、校舎が武田氏の傍流[[安芸]]武田氏の居城[[佐東銀山城]]のあった[[武田山]]の麓に立地していることにちなみ、校章には武田菱があしらわれている。同じ広島県の呉武田学園[[武田中学校・高等学校]]は、安芸武田氏の末裔が設立した学校である事から、この学校の校章は武田菱をモデルとした校章を採用している。
長野県の[[白馬連峰]]山麓にある[[白馬五竜スキー場]]などの名称「五竜」は「御料」もしくは「御菱」が変化したものであり、雪解けの季節に武田菱に似た模様が山肌に現れるため武田家の「御料」と定められ(もしくは武田家の「御菱」ということから)、それが「五竜」と変化した、とする巷談がある。詳しくは「[[五竜岳]]」の項目参照。
なお、[[皇居]]で行われる新年一般参賀や[[天皇誕生日]]の一般参賀において使用される宮殿・長和殿のベランダ([[天皇]]や[[皇族]]らが立つ位置)周辺に武田菱と同じ紋様が存在するが、これは古くから宮中の調度、装束に用いられているもので、甲州武田家とは無関係である([[宮内庁]]広報係の回答より)。
=== 風林火山 ===
{{main|風林火山}}
[[風林火山]]の旗が有名である為、信玄の代名詞とされる事がしばしば見られる。
「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」
[[諏訪明神]]の加護を信じて「南無諏方南宮法性上下大明神(なむすわなんぐうほっしょうかみしもだいみょうじん)」が同時に使われている。
== 後世の評価 ==
[[ファイル:Statue of Takeda Shingen in front of Kofu Station.jpg|thumb|[[甲府駅]]南口前の武田信玄公之像]]
[[江戸幕府|徳川幕府]]が成立してから著しく評価を落とされた[[豊臣秀吉]]とは対照的に、信玄は「家康公を苦しめ、人間として成長させた武神」として高く評価された。信玄の手法を家康が参考にした事から、「信玄の神格化=家康の神格化」となるので幕府も信玄人気を容認していたとされる。
[[江戸時代]]には信玄の治世や軍略を中心とした『[[甲陽軍鑑]]』が成立。[[甲州流軍学]]が流布されたほか、『甲陽軍鑑』を基に武田家や川中島合戦を描いた文学がジャンルとして出現した。また、江戸時代中期以降は一円が[[幕領]]支配となった甲斐国においては、[[大小切騒動|大小切税法]]や[[甲州金]]、[[甲州枡]]の甲州三法に象徴される独自の制度を創始した人物と位置づけられ、崇められるようになった。
明治には信玄のイメージが広く定着するが、江戸期を通じて天領であった山梨県においては信玄は郷土史の象徴的人物と認識されるようになった。[[第二次世界大戦]]前は[[内務省 (日本)|内務省]]が[[武田神社]]の[[別格官幣社]]への昇格条件に信玄の勤王事跡の挙証を条件としていたこともあり、郷土史家により信玄を勤王家と位置づける研究も見られた。戦後は、[[英雄史観]]や[[皇国史観]]を排した実証的研究が中世史や武田氏研究でも行われるようになった。また1987年([[昭和]]62年)に発足した武田氏研究会では、[[磯貝正義]]、[[上野晴朗]]、[[笹本正治]]、[[柴辻俊六]]、[[平山優 (歴史学者)|平山優]]、[[秋山敬]]らの研究者によって、実証的研究や武田氏関係史料の刊行を行っている。
戦後には産業構造の変化から[[観光]]が山梨県の主要産業になると、観光事業振興の動きの中で、信玄は山梨県や甲府市などの自治体、民間の企業・団体によって、歴史的観光資源となる郷土の象徴的人物として位置付けられた。信玄の命日にあたる4月12日の土日には[[時代行列]]「甲州軍団出陣」を目玉とした都市祭礼である[[信玄公祭り]]が開催されており、また山梨の日常食であった[[ほうとう]]が「信玄の陣中食」として観光食としてアピールされるなど、観光物産に関わる様々な信玄由来説が形成された。[[信玄餅]]や[[信玄鍋]]のように名を冠した商品もあるほか、「[[隠し湯#信玄の隠し湯|信玄の隠し湯]]」と自称する[[温泉地]]も[[長野県]]内などを含めて点在する。
関連施設も複数ある。恵林寺山内の「信玄公宝物館」(甲州市)<ref>[http://shingen.iooo.jp/ 信玄公宝物館](2019年4月13日閲覧)。</ref>、「甲府市武田氏館跡歴史館」(愛称「信玄ミュージアム」)<ref>[https://www.city.kofu.yamanashi.jp/rekishi_bunkazai/kofu-takedashirekishikan.html 甲府市武田氏館跡(やかたあと)歴史館(平成31年4月5日オープン)] 甲府市ホームページ(2019年4月13日閲覧)。</ref> などである。
== 系譜 ==
武田氏は[[清和源氏]]の中の[[河内源氏]]系の[[源義光|新羅三郎義光]]を祖とする[[甲斐源氏]]の棟梁。武田氏は甲斐守護も務め、信玄は第19代当主に当たる。
; 父母
* 父:[[武田信虎]]
* 母:[[大井の方]]
; 兄弟
{{columns-list|3|
* [[武田信繁]]
* [[武田信友|武田信基]]
* [[武田信廉]]
* [[松尾信是]]
* [[武田宗智]]
* [[河窪信実]]
* [[一条信龍]]
* [[武田信友]]
* [[定恵院]]([[今川義元]]室)
* [[南松院殿]]([[穴山信友]]室)
* [[禰々]]([[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]室)
* [[花光院]]([[浦野友久]]室)
* [[菊御料人]]([[今出川晴季|菊亭晴季]]室)
* [[亀御料人]]([[大井信為]]室)
*([[下条信氏]]室)
*([[禰津常安|禰津政直]]室)
}}
; 妻妾
* 正室:上杉の方([[上杉朝興]]の娘)
* 継室:[[三条の方]]([[三条公頼]]の娘)
* 側室
**[[諏訪御料人]]([[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]の娘)
** [[禰津御寮人]]([[禰津元直]]の娘)
** [[油川夫人]]([[油川信友|油川源左衛門]]の娘)
; 子女
{{columns-list|3|
* [[武田義信]]
* [[海野信親]]
* [[武田信之 (武田信玄三男)|武田信之]]
* [[黄梅院 (北条氏政正室)|黄梅院]]([[北条氏政]]室)
* [[見性院 (穴山梅雪正室)|見性院]]([[穴山信君]]室)
* [[武田勝頼]](諏訪勝頼)
* [[真竜院]]([[木曾義昌]]室)
* [[仁科盛信]]
* [[葛山信貞]]
* [[武田信清]]
* [[菊姫 (上杉景勝正室)|菊姫]]([[上杉景勝]]正室)
* [[信松尼|松姫]]([[織田信忠]]と婚約)
}}
信玄の正室・側室は[[上杉朝興]]の娘、[[三条公頼]]の娘・[[三条の方]](または三条夫人)のほか、[[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]の娘など。多数の正室・側室がいたとする説もあるが、系譜・記録資料から確認できるのは上杉の方、三条の方、[[諏訪御料人]]、[[禰津御寮人]]、[[油川夫人]]の5人である。ただ、禰津御寮人の子と言われる武田信清の出生時期が極めて遅いこと、信玄の七女が母親不詳なこと、上記3人以外の側室とされる墓が残されていることから、ほかに側室がいた可能性も考えられている。
== 関連作品 ==
[[File:TakedaKabuto.jpg|thumb|200px|[[唐津くんち]]のモチーフになった「武田信玄の兜」]]
<!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。-->
; 小説
* [[武田信玄 (小説)|武田信玄]] - 文藝春秋、[[新田次郎]]
* 武田信玄 - 講談社、[[津本陽]]
* 武田信玄 - 成美堂出版、[[土橋治重]]
* 武田三代記 - 新人物往来社、[[高野楽山]]
* [[風林火山 (小説)|風林火山]] - 新潮社、[[井上靖]]
* [[天と地と]] - 朝日新聞社、[[海音寺潮五郎]]
; 映画
* [[笛吹川 (映画)|笛吹川]](1969年、[[松竹]]、原作:[[深沢七郎]]、武田信玄役:[[中村勘三郎 (17代目)|中村勘三郎]])
* [[風林火山 (映画)|風林火山]](1969年、[[東宝]]・[[三船プロ]]、原作:[[井上靖]]、武田信玄役:[[萬屋錦之介|初代中村錦之助]])
* [[戦国自衛隊 (映画)|戦国自衛隊]](1979年、[[東宝]]・[[角川春樹事務所]]、原作:[[半村良]]、武田信玄役:[[田中浩]])
* [[影武者 (映画)|影武者]](1980年、東宝・[[黒澤プロ]]、武田信玄と影武者の二役:[[仲代達矢]])
* [[天と地と#映画|天と地と]](1990年、[[東映]]・[[角川春樹事務所]]、原作:[[海音寺潮五郎]]、武田信玄役:[[津川雅彦]])
; テレビドラマ
* [[武田信玄 (1966年のテレビドラマ)|武田信玄]](1966年、[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]、武田信玄役:[[倉丘伸太朗]])
* [[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]](1969年、NHK大河ドラマ、武田信玄役:[[高橋幸治]])
* [[風林火山 (1969年のテレビドラマ)|風林火山]](同年、[[テレビ朝日|NETテレビ]]、武田信玄役:[[緒形拳]])
* [[おんな風林火山]](1986年、TBS、武田信玄役:[[石立鉄男]])
* [[武田信玄 (NHK大河ドラマ)|武田信玄]](1988年、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、武田信玄役:[[中井貴一]](家督争い直前までは[[真木蔵人]]))
* [[武田信玄 (1991年のテレビドラマ)|武田信玄]](1991年、[[TBSテレビ|TBS]]、武田信玄役:[[役所広司]])
* [[風林火山 (1992年のテレビドラマ)|風林火山]](1992年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]「年末大型時代劇スペシャル」第8弾、武田信玄役:[[舘ひろし]])
* [[風林火山 (2006年のテレビドラマ)|風林火山]](2006年、[[テレビ朝日]]、武田信玄役:[[松岡昌宏]])
* [[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]](2007年、NHK大河ドラマ、武田信玄役:[[市川猿之助 (4代目)|二代目市川亀治郎]]、元服直前期(幼名:勝千代)は[[池松壮亮]])
* [[おんな城主 直虎]](2017年、NHK大河ドラマ、武田信玄役:[[松平健]])
* [[麒麟がくる]](2020年、NHK大河ドラマ、武田信玄役:[[石橋凌]])
* [[どうする家康]] (2023年、NHK大河ドラマ、武田信玄役︰[[阿部寛]])
; 漫画
* 武田信玄 - [[横山光輝]]、原作:[[新田次郎]]
* 武田信玄 - [[さいとうたかを]]、原作:新田次郎
* 炎の虎信玄 - [[永井豪]]
* ここから風林火山 - [[柳原満月]]
* 戦国風林火山 武田信玄 - 横山まさみち
; コンピュータゲーム
* [[戦国関東三国志]]([[インテック]])
* 武田信玄([[エイコム]])
* [[武田信玄 (ファミリーコンピュータ)|武田信玄]]([[ホット・ビィ]])
* 武田信玄2 (ホット・ビィ)
* [[信長の野望 (初代)]] 2P側が武田信玄
* イケメン戦国〜時をかける恋〜
*[[Fate/Grand Order]]([[TYPE-MOON]])
; アーケードゲーム
* [[武田信玄 (アーケードゲーム)|武田信玄]]([[ジャレコ]])
* [[戦国大戦]]([[セガ・インタラクティブ]])SR武田信玄等
; ボードゲーム
* 信玄上洛 〜風の巻〜 - ツクダホビー ※作戦級(HG-121)
* 関東制圧 - ツクダホビー ※ 天と地と(第四次川中島合戦)、謙信越山(上杉謙信の小田原包囲戦)、関東制圧(武州松山城包囲戦)、甲相激突三増峠(三増峠の合戦)
* 甲裴の虎 - ツクダホビー(HG-130) ※[[上田原の戦い]]、[[川中島の戦い]]、[[三増峠の戦い]]の3シナリオ。
* 武田盛衰記 - ツクダホビー ※「三方ヶ原の合戦」,「信長、三方ヶ原へ」(ifシナリオ),「長篠の合戦」,「雨の長篠」(ifシナリオ)
* 武田騎馬軍団 - [[エポック社]]
* 謙信VS信玄 川中島の戦い - [[アークライト (企業)|アークライト]]
* 竜虎激突 信玄謙信 - [[ゲームジャーナル]]第8号、[[シミュレーションジャーナル]]
* 信玄最後の戦い - [[コマンドマガジン日本版]]第36号、[[国際通信社 (出版社)|国際通信社]] ※『信玄上洛 〜風の巻〜 』のリメイク版。
* 信州制圧 〜武田信玄の信州制圧〜 - コマンドマガジン日本版第56号、国際通信社
* Kawanakajima 1561 – Hexasim(フランスのゲームメーカー)。※第四次川中島の戦いをテーマにしたボード
* 武田信玄ゲーム - [[TAKARA]] 大河ドラマ武田信玄放送時に定価2,000円で発売された川中島での上杉謙信との戦いをテーマにしたボードゲーム。8歳〜大人向け。
; 模型
* [[武者ガンダム#SD戦国伝|SD戦国伝 天と地と]]([[1990年]](平成2年)、[[バンダイ]])
* [[SD戦国伝 武神降臨編]]([[2009年]](平成21年)、バンダイ)
* [[プラアクト戦(SEN)04:武田]]([[2014年]](平成26年)、株式会社ピーエムオフィスエー)武田信玄をモチーフとしたロボット
; 歌謡曲
* 悪行〜武田信玄(1973年、作詞:[[佐伯孝夫]]、作曲:[[渡辺岳夫]]、歌:[[三浦洸一]]。コンピレーション・アルバム『戦国の武将』(規格品番:SJX-155)収録)
* 日本の名将 武田信玄(1980年、作詞:[[三波春夫]]、作曲:[[遠藤実]]、歌:三波春夫)
* 長編歌謡浪曲 戦国塩物語 (1980年、作詞・作曲・歌:三波春夫)
<!--[[Wikipedia:関連作品]]「掲載すべきでない作品」により「記事の対象が、大きな役割(主役・準主役・メインキャラクター・レギュラー・キーパーソン)を担っているわけではない作品」を除去。-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{notelist|2}}
===出典===
{{Reflist|25em}}
== 参考文献 ==
* 武田氏研究会 『武田氏研究』(1988年〜継続刊行中、年3回刊)
* [[磯貝正義]] 『定本武田信玄』([[新人物往来社]]、1977年) ISBN 978-4-4040-0787-2
* [[奥野高広]] 『武田信玄』([[吉川弘文館]]、1959年)
* 奥野高広 『武田信玄 新装版』(吉川弘文館、1985年) ISBN 978-4-642-05021-0
* [[笹本正治]] 『武田信玄』([[中央公論社]]、1997年) ISBN 978-4-121-01380-4
* 笹本正治 『武田信玄』([[ミネルヴァ書房]]、2005年) ISBN 9784623045006
* [[藤本正行]] 『武田信玄像の謎』([[吉川弘文館]]、2005年) ISBN 978-4-642-05606-9
* [[柴辻俊六]] 『武田信玄合戦録』([[角川書店]]、2006年) ISBN 978-4-047-03403-7
* 柴辻俊六 『信玄の戦略』([[中央公論新社]]、2006年) ISBN 978-4-121-01872-4
*{{Citation|和書|last=平山|first=優|author-link=平山優 (歴史学者)|editor=|title=武田信玄|year=2006|series=歴史文化ライブラリー221|publisher=吉川弘文館|pages= |isbn=4642056211}}
* 『よみがえる武田信玄の世界 山梨県立博物館開館記念特別展』図録([[山梨県立博物館]]、2006年)
* 鴨川達夫 『武田信玄と勝頼』([[岩波書店]]、2007年) ISBN 978-4-004-31065-5
* 柴辻俊六 『信玄と謙信』(高志書院、2009年) ISBN 978-4-86215-065-3
* [[三浦一郎]] 『武田信玄・勝頼の甲冑と刀剣』([[宮帯出版社]]、2011年) ISBN 978-4-863-66091-5
* [[丸島和洋]]編『武田信玄の子供たち』(宮帯出版社、2022年) {{ISBN2| 978-4-8016-0257-1}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Takeda_Shingen}}
{{Wikiquote|武田信玄}}
{{Wikisource|カテゴリ:甲陽軍鑑|甲陽軍鑑}}
* [[武田流合気之術]]
* [[武田流中村派合気道]]
* [[楯無]] - 武田家の家宝
* [[武田家旧温会]] - 武田家家臣末裔者の会
* [[富士山本宮浅間大社]] - 信玄が駿河侵攻の際に成就を祈願して奉納された太刀である備前長船景光を所蔵。また、信玄が寄進したと言われる桜がある [http://www.fuji-hongu.or.jp/sengen/history/index.html#0601]<!--富士山本宮浅間大社御祭神・御由緒-->。
* [[田村怡与造]] - 明治期の[[大日本帝国陸軍|陸軍]]軍人。優れた戦略家であると評され、山梨出身であることから「今信玄」と呼ばれた。
* [[金丸信]] - 武田氏の一族である[[金丸氏]]の子孫。中央政界や県政において影響力を持ち、全盛期には信玄にたとえられた。
* [[平塚八幡宮]] - 信玄が北条氏康を攻めた際、当社は陣所とされて戦火に遭う。
* [[長野業正]] - 信玄の進攻を何度も防いだといわれる武将。
* [[ACジャパン]] - [[2017年]]度の日本心臓財団の支援キャンペーン「謙信と信玄、検診の進言」に[[上杉謙信]]と共に登場している。
* [[諏訪湖博物館]] - 法性兜の現物と複製品を所蔵
* [[御諏訪太鼓]] - 信玄は戦に際し、指揮・命令又は戦意高揚の為に御諏訪太鼓衆の陣太鼓を用いていた。
* [[敵に塩を送る]]
== 外部リンク ==
* [https://www.city.kofu.yamanashi.jp/welcome/rekishi/shingen.html 武田信玄] - [[甲府市]]
* [https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/jinmei/singen.htm 武田信玄] - [[都留市立図書館]]
* {{Kotobank}}
{{甲斐武田氏当主|第19代|1541年 - 1573年}}
{{Portal bar|アジア|日本|山梨県|軍事|歴史|人物伝}}
{{Normdaten}}
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[[Category:武田信玄|*]]
[[Category:戦国大名]]
[[Category:16世紀の仏教徒]]
[[Category:武田信虎の子女|しんけん]]
[[Category:室町・安土桃山時代の僧]]
[[Category:中部地方の歴史]]
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[[Category:日本の神 (人物神 戦国大名)]]
[[Category:結核で死亡した日本の人物]]
[[Category:1521年生]]
[[Category:1573年没]]
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小学館
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株式会社小学館(しょうがくかん)は、東京都千代田区にある日本の総合出版社。系列会社グループの通称「一ツ橋グループ」の中核的存在である。
社名は創設時に小学生向けの教育図書出版を主たる業務としていたことに由来する。特に学年別学習雑誌は長らく小学館の顔的存在として刊行され続けてきたが、「出版不況」や児童の減少と嗜好の多様化のあおりを受け、2000年代から2010年代にかけて相次いで休刊され、2017年以降、月1回発売されているのは『小学一年生』のみとなっている。1926年に娯楽誌出版部門を集英社として独立させたが、太平洋戦争後は娯楽図書出版に再進出し、総合出版社へ発展した。
3代目本社屋は「小学館ビル」と呼ばれ、1967年1月に完成。地上9階、地下3階建ての鉄筋コンクリート構造で、設計は日建設計、建設は竹中工務店が担当した。当初は屋上に駐車場を有し地上からエレベータで運ばれる構造でもあった。1965年に『オバケのQ太郎』(藤子不二雄)のアニメ化される際には放送するTBSをはじめグッズの売り上げを疑問視されたため、小学館では業者を介さずに行ったが、アニメのヒットにより巨額の商品化収入はマージンを取られること無く小学館へ入った。「小学館ビル」はこの利益を元に建設したことから「オバQビル」とも呼ばれた。東日本大震災を機に耐震強度の見直しで建て替えが決定。2013年9月から取り壊しが行われたが、直前の8月9日に取り壊しを惜しんで漫画家25人が白山通りに面した1階応接ロビーの壁面や窓ガラスに落書きを行った。その後、落書きの一般公開が決定し、8月22日に漫画家84人が地下1階の通路も加える形で更なる落書きをした上で、8月24日・25日に落書きされた場所が一般に開放され、約8000人が来場した。来場できなかった人にも配慮し、公式サイトでも公開されている。
4代目本社屋も「小学館ビル」の名称で、2014年3月1日着工、2016年9月30日竣工。地上10階、地下2階建て、鉄骨鉄筋コンクリート造(地上)、鉄筋コンクリート造(地下)。地上1階と地下1階の中間階に免震装置を設置した中間免震構造を採用している。2016年11月7日にオープンした。
小学館ビル完成までの間、200メートルほど南に位置する住友商事竹橋ビル(パレスサイドビルディング向かい)を仮本社としていた(住所上は同じ一ツ橋)。
小学館が版元である漫画の台詞には、全ての男性向け雑誌に掲載された娯楽漫画も含めて句読点(「。」「、」)が用いられている。これは、『小学一年生』をはじめとする学年別学習誌は当初、教育漫画だけだったが、後から始めた少年少女向け娯楽漫画にまで句読点を用いられていた名残である。ただし、殆どの少女・女性向け雑誌に掲載された娯楽漫画は句読点を用いられていない。ただし 、児童向け少年漫画雑誌である『月刊コロコロコミック』の増刊に該たる『コロコロアニキ』を除いた青年・女性向け雑誌にはルビは用いられていない。なお、小学館以外のすべての出版社では、一部の出版社における教育漫画のみで句読点を使用しており、娯楽漫画は句読点を用いられていない。
また、小学館のみが漫画で使用される標準フォントが他社のものと異なる。これは、2008年以降に他社が使用している標準フォントから変更したものである。
日本書籍出版協会、日本雑誌協会、日本出版インフラセンター、辞典協会、出版文化国際交流会、全国出版協会、日本出版クラブ、読書推進運動協議会、国際児童図書評議会、コミック出版社の会、日本電子出版協会、デジタル出版者連盟、日本オーディオブック協議会、日本映像ソフト協会、日本アドバタイザーズ協会、日本雑誌広告協会、日本ABC協会、日本インタラクティブ広告協会など
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"text": "株式会社小学館(しょうがくかん)は、東京都千代田区にある日本の総合出版社。系列会社グループの通称「一ツ橋グループ」の中核的存在である。",
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"text": "社名は創設時に小学生向けの教育図書出版を主たる業務としていたことに由来する。特に学年別学習雑誌は長らく小学館の顔的存在として刊行され続けてきたが、「出版不況」や児童の減少と嗜好の多様化のあおりを受け、2000年代から2010年代にかけて相次いで休刊され、2017年以降、月1回発売されているのは『小学一年生』のみとなっている。1926年に娯楽誌出版部門を集英社として独立させたが、太平洋戦争後は娯楽図書出版に再進出し、総合出版社へ発展した。",
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"text": "3代目本社屋は「小学館ビル」と呼ばれ、1967年1月に完成。地上9階、地下3階建ての鉄筋コンクリート構造で、設計は日建設計、建設は竹中工務店が担当した。当初は屋上に駐車場を有し地上からエレベータで運ばれる構造でもあった。1965年に『オバケのQ太郎』(藤子不二雄)のアニメ化される際には放送するTBSをはじめグッズの売り上げを疑問視されたため、小学館では業者を介さずに行ったが、アニメのヒットにより巨額の商品化収入はマージンを取られること無く小学館へ入った。「小学館ビル」はこの利益を元に建設したことから「オバQビル」とも呼ばれた。東日本大震災を機に耐震強度の見直しで建て替えが決定。2013年9月から取り壊しが行われたが、直前の8月9日に取り壊しを惜しんで漫画家25人が白山通りに面した1階応接ロビーの壁面や窓ガラスに落書きを行った。その後、落書きの一般公開が決定し、8月22日に漫画家84人が地下1階の通路も加える形で更なる落書きをした上で、8月24日・25日に落書きされた場所が一般に開放され、約8000人が来場した。来場できなかった人にも配慮し、公式サイトでも公開されている。",
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"text": "4代目本社屋も「小学館ビル」の名称で、2014年3月1日着工、2016年9月30日竣工。地上10階、地下2階建て、鉄骨鉄筋コンクリート造(地上)、鉄筋コンクリート造(地下)。地上1階と地下1階の中間階に免震装置を設置した中間免震構造を採用している。2016年11月7日にオープンした。",
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"text": "小学館ビル完成までの間、200メートルほど南に位置する住友商事竹橋ビル(パレスサイドビルディング向かい)を仮本社としていた(住所上は同じ一ツ橋)。",
"title": "沿革"
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"text": "小学館が版元である漫画の台詞には、全ての男性向け雑誌に掲載された娯楽漫画も含めて句読点(「。」「、」)が用いられている。これは、『小学一年生』をはじめとする学年別学習誌は当初、教育漫画だけだったが、後から始めた少年少女向け娯楽漫画にまで句読点を用いられていた名残である。ただし、殆どの少女・女性向け雑誌に掲載された娯楽漫画は句読点を用いられていない。ただし 、児童向け少年漫画雑誌である『月刊コロコロコミック』の増刊に該たる『コロコロアニキ』を除いた青年・女性向け雑誌にはルビは用いられていない。なお、小学館以外のすべての出版社では、一部の出版社における教育漫画のみで句読点を使用しており、娯楽漫画は句読点を用いられていない。",
"title": "漫画表現の特色"
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"text": "また、小学館のみが漫画で使用される標準フォントが他社のものと異なる。これは、2008年以降に他社が使用している標準フォントから変更したものである。",
"title": "漫画表現の特色"
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"text": "日本書籍出版協会、日本雑誌協会、日本出版インフラセンター、辞典協会、出版文化国際交流会、全国出版協会、日本出版クラブ、読書推進運動協議会、国際児童図書評議会、コミック出版社の会、日本電子出版協会、デジタル出版者連盟、日本オーディオブック協議会、日本映像ソフト協会、日本アドバタイザーズ協会、日本雑誌広告協会、日本ABC協会、日本インタラクティブ広告協会など",
"title": "加盟団体"
}
] |
株式会社小学館(しょうがくかん)は、東京都千代田区にある日本の総合出版社。系列会社グループの通称「一ツ橋グループ」の中核的存在である。
|
{{基礎情報 会社
| 社名 = 株式会社小学館
| 英文社名 = SHOGAKUKAN Inc.
| ロゴ = [[File:Shogakukan logo.svg|200px]]
| 画像 = [[File:Shogakukan Building 20161225.jpg|300px]]
| 画像説明 = 小学館[[本社]]<br/>(4代目小学館ビル、2016年12月[[撮影]])
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 機関設計 =
| 市場情報 = 非上場
| 略称 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 101-8001
| 本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[一ツ橋]]二丁目3番1号
| 本社緯度度 = 35
| 本社緯度分 = 41
| 本社緯度秒 = 39.3
| 本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 139
| 本社経度分 = 45
| 本社経度秒 = 29.4
| 本社E(東経)及びW(西経) = E
| 座標右上表示 = Yes
| 本社地図国コード =
| 設立 = [[1945年]]6月23日<ref>{{Cite journal |和書|url=http://www.j-papercraft.com/wp/wp-content/uploads/2013/12/shikihou003.pdf |title=トップインタビュー / 株式会社 小学館 相賀信宏 社長 |journal=紙季報 |issue=第3号(2013年春号) |publisher=一般社団法人 日本ペーパークラフト協会 |date=2013 |page=1}}</ref><br/>(創業は[[1922年]]8月8日)
| 業種 = 情報・通信業
| 法人番号 =
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 = [[雑誌]]・書籍・コミックの[[出版]]および関連するデジタル、映像、キャラクター事業など
| 代表者 = [[相賀信宏]]([[代表取締役]][[社長]])
| 資本金 = 1億4700万円
| 発行済株式総数 =
| 売上高 = 1084億7100万円(2023年2月期)<ref name="決算">{{Cite news|title=小学館、増収増益決算に|newspaper=新文化|date=2023-09-17|url=https://www.shinbunka.co.jp/archives/5011|publisher=新文化通信社}}</ref>
| 営業利益 =
| 経常利益 = 73億0100万円(2023年2月期)<ref name="決算"/>
| 純利益 = 61億6200万円(2023年2月期)<ref name="決算"/>
| 純資産 =
| 総資産 =
| 従業員数 = 692名<br/>([[男性]]428名・[[女性]]264名)<br/>([[2021年]]10月1日[[現在]])<ref>{{Cite web|和書|title=小学館 2023年度定期採用サイト 会社概要|work=小学館|date=2022|url=https://jinji.shogakukan.co.jp/company/ |accessdate=2022-10-03|publisher=小学館}}</ref>
| 支店舗数 =
| 決算期 = [[2月]]末日
| 会計監査人 =
| 所有者 =
| 主要株主 =
| 主要部門 =
| 主要子会社 = [[小学館集英社プロダクション]]<br />[[小学館パブリッシング・サービス]]<br />[[照林社]]<br />[[小学館ミュージック&デジタル エンタテイメント]]<br />[[小学館クリエイティブ]]<br />[[ネットアドバンス]]<br />[[集英社]](50%)<br />[[ビズメディア|VIZ Media LLC]]
| 関係する人物 = [[相賀武夫]]([[起業家|創業者]]・初代[[社長]])<br />[[相賀徹夫]](第2代社長)<br />[[相賀昌宏]](第3代社長)
| 外部リンク = https://www.shogakukan.co.jp/
| 特記事項 =
}}
'''株式会社小学館'''(しょうがくかん)は、[[東京都]][[千代田区]]にある[[日本]]の総合[[出版社]]。系列会社グループの通称「[[一ツ橋グループ]]」の中核的存在である<ref>{{Cite web|和書|title=大手出版社「集英社」と「小学館」はもともと同じ会社だった |url=http://news-act.com/archives/45685005.html |website=NewsACT |access-date=2022-08-31}}</ref>。
__TOC__
== 概要 ==
[[社名]]は創設時に[[小学生]]向けの教育図書出版を主たる業務としていたことに由来する。特に[[小学館の学年別学習雑誌|学年別学習雑誌]]は長らく小学館の顔的存在として刊行され続けてきたが、「[[出版不況]]」や児童の減少と嗜好の多様化のあおりを受け、[[2000年代]]から[[2010年代]]にかけて相次いで休刊され、[[2017年]]以降、月1回発売されているのは『[[小学一年生]]』のみとなっている。[[1926年]]に娯楽誌出版部門を[[集英社]]として独立させたが、[[太平洋戦争]]後は娯楽図書出版に再進出し、総合出版社へ発展した。
== 沿革 ==
* [[1922年]]([[大正]]11年)
** 8月8日 - 共同出版社社長・吉田岩次郎および[[岡山市]]吉田書店主・吉田徳太郎の支援を受け、共同出版社東京支社長の[[相賀武夫]]により創設。
** 10月 - 『小学五年生』『小学六年生』10月号を創刊。
* [[1925年]](大正14年)9月 - 集英社名で「尋常小学一年女生」10月号を創刊。
* [[1926年]](大正15年)8月 - 娯楽誌出版部門を分離し、[[集英社]][[会社#会社の定義|設立]]。
* [[1927年]]([[昭和]]2年) - [[社章|社員章]]「ひよこのマーク」を制定。
* [[1928年]](昭和3年) - 学習雑誌・児童書用の[[商標]]「勉強マーク」を制定。
* [[1933年]](昭和8年) - [[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]]跡の旧・[[校舎]]を改修し、本社を[[神田区]]一ツ橋通町3番地(現・[[千代田区]][[一ツ橋]]2丁目3番1号)の[[住所|現在地]]に[[引越し|移転]]。
* [[1938年]](昭和13年) - 創設者の急死により息子の[[相賀徹夫]]、第2代社長に就任する。
* [[1945年]](昭和20年) - 株式会社小学館設立。
* [[1959年]](昭和34年) - 一ツ橋グループの物流会社として昭和図書株式会社設立。
* [[1963年]](昭和38年) - 創立40周年記念事業として[[社歌]]「0のマーチ」を制定。
* [[1966年]](昭和41年) - 三友社(現・[[小学館クリエイティブ]])設立。
* [[1967年]](昭和42年)
** 1月 - 3代目本社屋である小学館ビルが完成<ref>{{Cite news|title=小学館ビル:人気マンガ家の豪華な“落書き”出現|newspaper=MANTANWEB|date=2013-08-13|url=https://mantan-web.jp/article/20130813dog00m200018000c.html|accessdate=2013-08-13|publisher=MANTAN}}</ref>。
** 6月 - 小学館プロダクション設立。
* [[1975年]](昭和50年) - 一ツ橋メディア・レップ(現・株式会社小学館メディアプロモーション)設立。
* [[1986年]](昭和61年) - VIZ Communications, Inc.を設立<ref>{{PDFlink|[https://www.jetro.go.jp/ext_images/industry/service/interview/pdf/vizmediallc_us.pdf サービス産業の国際展開調査]|2010年3月24日、独立行政法人日本貿易振興機構}}</ref>。
* [[1992年]]([[平成]]4年) - [[相賀昌宏]]、第3代社長に就任。
* [[2000年]](平成12年) - [[富士通]]、[[シーエーシー]]との共同出資で[[ネットアドバンス]]を設立。
* [[2002年]](平成14年) - 創業80周年。
* [[2005年]](平成17年) - VIZ LLC.とShoPro Entertainment, Inc.を統合し、集英社、小学館プロダクションとの共同出資会社[[ビズメディア|VIZ Media LLC]]を設立。
* [[2007年]](平成19年) - 演劇出版社の株式を取得し、関連会社化<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animeanime.biz/archives/10321|title=「演劇界」が一時休刊へ…小学館の株保有を機に衣替え |accessdate=2017-07-25}}</ref>。映画館「[[神保町シアタービル|神保町シアター]]」オープン
* [[2008年]](平成20年) - 小学館プロダクションに集英社が資本参加し、商号を[[小学館集英社プロダクション]]に[[改称|変更]]。
* [[2009年]](平成21年) - KAZEグループとVIZ Mediaの子会社VIZ Media Europeを統合し、VIZ Media Europeを小学館、集英社、小学館プロダクションの共同出資会社に改組。
* [[2010年]](平成22年) - 小学館集英社プロダクションと共同出資で台灣小學館股份有限公司を設立。
* [[2012年]](平成24年) - 創業90周年。
* [[2013年]](平成25年) - 小学館アジア設立。
* [[2016年]](平成28年) - 4代目本社屋である小学館ビルが完成<ref name="rakugaki">{{Cite news|title=小学館ビル:漫画家25人が落書き…建て替え、別れ惜しみ|newspaper=毎日jp|date=2013-08-13|url=http://mainichi.jp/graph/2013/08/13/20130813k0000e040180000c/001.html|accessdate=2013-09-12|publisher=毎日新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130912061228/http://mainichi.jp/graph/2013/08/13/20130813k0000e040180000c/001.html|archivedate=2013-09-12}}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)
** 3月23日 - [[イーブックイニシアティブジャパン]]からフォーリー株式会社の株式を取得し、[[子会社]]化<ref>{{Cite press release|和書|url=http://contents.xj-storage.jp/xcontents/36580/a0b52322/56b2/4c66/ba61/87ca7dc44ad1/140120170323425678.pdf |title=子会社の異動(株式の譲渡)に関するお知らせ |date=2017-03-23 |publisher=イーブックイニシアティブジャパン}}</ref>。
** 8月8日 - [[ディー・エヌ・エー|株式会社ディー・エヌ・エー]]との共同出資で株式会社MERYを設立<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/storage/files/article/2021/20170803.pdf |title=小学館とDeNA デジタルメディア事業の共同出資会社を設立 |date=2017-08-03 |publisher=株式会社小学館・株式会社ディー・エヌ・エー}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)1月 - [[CARTA HOLDINGS|株式会社VOYAGE GROUP]]との[[合弁事業|共同出資]]で株式会社C-POTを設立<ref>{{Cite press release|和書|url=https://voyagegroup.com/news/press/01_20180213_01/ |title=小学館とVOYAGE GROUP、出版コンテンツのデータベース化を支援する共同出資会社を設立 |date=2018-02-13 |publisher=株式会社VOYAGE GROUP}}</ref>。
* [[2021年]]([[令和]]3年)- 図鑑NEO監修「[https://zukan-museum.com/ ZUKAN MUSEUM GINZA]」開館<ref>{{Cite web|和書|title=沿革・歴史 |url=https://www.shogakukan.co.jp/company/history |website=小学館 |accessdate=2022-03-26}}</ref>
* [[2022年]](令和4年)- [[相賀信宏]]が第4代社長に就任。相賀昌宏は取締役会長に就任<ref>{{Cite news |url=https://www.shinbunka.co.jp/news2022/05/220526-03.htm |title=小学館、新社長に相賀信宏氏 |newspaper=新文化 |date=2022-05-26 |publisher=新文化通信社}}</ref>。創業100周年<ref>{{Cite web|和書|title=0から考えよう。|小学館100周年特設サイト |url=https://www.shogakukan.co.jp/zero/ |website=0から考えよう。|小学館100周年特設サイト |access-date=2022-10-01}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)
** 7月 - 株式会社Candeeを完全子会社化<ref>{{Cite web|和書|title=小学館、映像制作会社「Candee」を子会社化 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2291642/full/ |website=ORICON NEWS |date=2023-08-21 |access-date=2023-09-17}}</ref>
** 11月 - 株式会社[[トーキョーオタクモード|Tokyo Otaku Mode]]を完全子会社化<ref>{{Cite web |title=小学館がTokyo Otaku Modeを完全子会社化、取締役会長に相賀信宏 |url=http://animationbusiness.info/archives/15217 |website=animationbusiness.info |access-date=2023-11-21}}</ref>
=== 小学館ビル ===
[[File:Shogakukan-Building-01.jpg|thumb|250px|3代目本社屋([[2012年]]11月撮影)]]
3代目本社屋は「小学館ビル」と呼ばれ、[[1967年]]1月に完成。地上9階、地下3階建ての[[鉄筋コンクリート構造]]で、設計は[[日建設計]]、建設は[[竹中工務店]]が担当<ref>『竹中工務店七十年史』1969年 452p</ref>した。当初は屋上に[[駐車場]]を有し地上からエレベータで運ばれる構造でもあった。[[1965年]]に『[[オバケのQ太郎]]』([[藤子不二雄]])のアニメ化される際には{{要出典|範囲=放送するTBSをはじめグッズの売り上げを疑問視されたため、小学館では業者を介さずに行ったが、アニメのヒットにより巨額の商品化収入はマージンを取られること無く小学館へ入った。|date=2022年10月}}「小学館ビル」はこの利益を元に建設したことから「オバQビル」とも呼ばれた<ref>{{Cite web|和書|url=http://lu3.gagaga-lululu.jp/edit/2013/08/post_312.html |title=らくがきイベント! |website=Lu<sup>3</sup>-BLOG・ルルル文庫ブログ |publisher=小学館 |date=2013-08-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140812191835/http://lu3.gagaga-lululu.jp/edit/2013/08/post_312.html |archivedate=2014-08-12 |accessdate=2022-10-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/movie?p=j000002 |title=解体の小学館ビルに描かれた豪華な落書き=内部を24、25日に一般公開 |publisher=[[時事通信社|時事ドットコム]] |date=2013-08-19 |accessdate=2022-10-03}}</ref>。[[東日本大震災]]を機に[[耐震]]強度の見直しで建て替えが決定。[[2013年]]9月から取り壊しが行われたが、直前の8月9日に取り壊しを惜しんで[[漫画家]]25人が[[白山通り]]に面した1階応接ロビーの壁面や窓ガラスに落書きを行った<ref name="rakugaki"/>。その後、落書きの一般公開が決定し、8月22日に漫画家84人が地下1階の通路も加える形で更なる落書きをした上で、8月24日・25日に落書きされた場所が一般に開放され、約8000人が来場した<ref>{{Cite news|title=小学館ビルの「ラクガキ」が一般公開、約8000人が来場|newspaper=ナタリー|date=2013-08-25|url=https://natalie.mu/comic/news/97968|accessdate=2013-08-25|publisher=ナターシャ}}</ref>。来場できなかった人にも配慮し、[[ウェブサイト|公式サイト]]でも[[情報公開|公開]]されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/rakugaki/|title=ありがとう! 小学館ビル ラクガキ大会|date=2013|publisher=小学館|accessdate=2014-03-30}}</ref>。
4代目本社屋も「小学館ビル」の名称で、[[2014年]]3月1日着工、[[2016年]]9月30日竣工。地上10階、地下2階建て、[[鉄骨鉄筋コンクリート構造|鉄骨鉄筋コンクリート造]](地上)、鉄筋コンクリート造(地下)。地上1階と地下1階の中間階に[[免震]]装置を設置した中間免震構造を採用している<ref>[https://www.n-elekyo.or.jp/about/elevatorjournal/pdf/Journal12_02.pdf 「小学館ビル」『ELEVATOR JOURNAL No.12』2016年10月号]、[[一般社団法人]][[日本エレベーター協会]]、6 - 7頁</ref>。[[2016年]]11月7日にオープンした。
小学館ビル完成までの間、200メートルほど南に位置する[[住友商事]][[竹橋駅|竹橋]]ビル([[パレスサイドビルディング]]向かい)を仮本社としていた([[住所]]上は同じ一ツ橋)。
=== 社歌 ===
* 「'''0のマーチ'''」<ref>{{Cite web|date=2023-01|title=小学館100周年、次の100年を見据えた『0周年』で未来へ種まき|url=https://mag.sendenkaigi.com/kouhou/202301/longlife-anniversary/025330.php|work=広報会議|publisher=[[宣伝会議]]|accessdate=2023-12-13}}</ref>
:* 作詞:[[谷川俊太郎]]
:* 作曲:[[いずみたく]]
: 1963年(昭和38年)に創立40周年記念事業として社内で歌詞を公募したが、入選作が無かったため谷川俊太郎に作詞、いずみたくに作曲を依頼して[[ボニージャックス]]が歌唱する[[ソノシート]]が作られた。[[A面/B面|B面]]には[[サトウハチロー]]作詞、[[團伊玖磨]]作曲、いずみたく編曲の「小学館 学習雑誌の歌」が収録されている。
: 2010年(平成22年)[[元日]]の新聞一面広告では「0から、未来へ。」のキャッチコピーで「0のマーチ」の歌詞と楽譜が紹介された。
== 決算 ==
* [[新文化通信社]] [https://www.shinbunka.co.jp/kakokessan/kessan-shogakukan 決算特集:小学館(〜2021年)]及び[https://www.shinbunka.co.jp/cat/newsflash/kessan ニュースフラッシュ 決算]による。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:smaller"
|+|小学館<ref group="注">[[決算公告]]非公開。</ref>
! 決算期(期間)
! [[売上高]]
! 営業利益
! 経常利益
! 税引前当期利益
! 当期純利益
|-
|第85期(2022年3月1日 - 2023年2月28日)
|1084億7100万円
|
|73億0100万円
|
|61億6200万円
|-
| 第84期(2021年3月1日 - 2022年2月28日)
| 1057億2100万円
|
| 89億4500万円
|
| 59億9500万円
|-
| 第83期(2020年3月1日 - 2021年2月28日)
| 943億1600万円
|
| 72億4600万円
|
| 56億7300万円
|-
| 第82期(2019年3月1日 - 2020年2月29日)
| 977億4700万円
|
| 55億7700万円
|
| 39億2600万円
|-
| 第81期(2018年3月1日 - 2019年2月28日)
| 970億5200万円
|
| 43億9800万円
|
| 35億1800万円
|-
| 第80期(2017年3月1日 - 2018年2月28日)
| 945億6200万円
|
| 3億1300万円
|
| ▲5億7200万円
|-
| 第79期(2016年3月1日 - 2017年2月28日)
| 973億0900万円
|
| ▲9億3400万円
|
| ▲8億1300万円
|-
| 第78期(2015年3月1日 - 2016年2月29日)
| 956億0200万円
|
| ▲8億9400万円
|
| ▲30億5200万円
|-
| 第77期(2014年3月1日 - 2015年2月28日)
| 1024億9100万円
|
| 6億3700万円
|
| 1億8700万円
|-
| 第76期(2013年3月1日 - 2014年2月28日)
| 1025億5000万円
|
| 7億3600万円
|
| 4億6300万円
|-
| 第75期(2012年3月1日 - 2013年2月28日)
| 1064億6600万円
|
| 16億4900万円
|
| 12億8200万円
|-
| 第74期(2011年3月1日 - 2012年2月29日)
| 1079億9100万円
|
| 17億4400万円
|
| ▲1億4400万円
|-
| 第73期(2010年3月1日 - 2011年2月28日)
| 1111億1300万円
|
| ▲6億7900万円
|
| ▲25億6200万円
|-
| 第72期(2009年3月1日 - 2010年2月28日)
| 1177億2100万円
| ▲37億9100万円
| ▲18億0200万円
|
| ▲44億9300万円
|-
| 第71期(2008年3月1日 - 2009年2月28日)
| 1275億4100万円
| ▲75億7700万円
| ▲63億7000万円
|
| ▲63億7000万円
|-
| 第70期(2007年3月1日 - 2008年2月29日)
| 1413億4400万円
| ▲11億9900万円
| 9億6300万円
| 15億2900万円
| 2億9300万円
|-
| 第69期(2006年3月1日 - 2007年2月28日)
| 1469億5100万円
| 46億6900万円
|
|
| 21億2300万円
|-
| 第68期(2005年3月1日 - 2006年2月28日)
| 1481億5700万円
|
| 41億2700万円
| 42億3900万円
| 19億8500万円
|-
| 第67期(2004年3月1日 - 2005年2月28日)
| 1545億4400万円
|
| 54億8500万円
| 54億2200万円
| 23億0300万円
|-
| 第66期(2003年3月1日 - 2004年2月29日)
| 1502億5600万円
|
| 39億5800万円
|
| 17億8700万円
|-
| 第65期(2002年3月1日 - 2003年2月28日)
| 1519億円
|
| 16億1400万円
|
| ▲4億4000万円
|-
| 第64期(2001年3月1日 - 2002年2月28日)
| 1582億円
|
|
|
| ▲9億0800万円
|}
== ギャラリー ==
<gallery widths="200" heights="170">
File:Chunichi1964-01-07-2.jpg|<small>『[[女性セブン]]』1964年1月22日号の[[新聞広告]]</small>
File:Chunichi1964-01-07-1.jpg|<small>『マドモアゼル』1964年2月号の新聞広告</small>
File:Chunichi1967-03-01-1.jpg|<small>『[[小学一年生]]』1967年4月号の新聞広告</small>
File:週刊ポスト1969.jpg|<small>『[[週刊ポスト]]』1969年8月22日号</small>
</gallery>
== 雑誌 ==
=== 男性コミック誌 ===
* [[週刊少年サンデー]](毎週水曜日発売)
** [[週刊少年サンデーS]](毎月25日発売)
* [[ゲッサン]](毎月12日発売)
* [[月刊サンデージェネックス|月刊サンデーGX]](毎月19日発売)
* [[ビッグコミック]](毎月10日・25日発売)
* [[ビッグコミックオリジナル]](毎月5日・20日発売)
* [[ビッグコミックスペリオール]](毎月第2・第4金曜日発売)
* [[週刊ビッグコミックスピリッツ|ビッグコミックスピリッツ]](毎週月曜日発売)
** [[月刊!スピリッツ]](毎月27日発売)
=== 女性コミック誌 ===
* [[少女コミック|Sho-Comi]](毎月5日・20日発売)
** Sho-ComiX(奇数月15日発売)
* [[ベツコミ]](毎月13日発売)
** デラックスベツコミ(偶数月24日発売)
* [[Cheese!]](毎月24日発売)
** プレミアCheese!(偶数月5日発売)
* [[ちゃお]](毎月3日発売)
** [[ちゃおデラックス]](奇数月20日発売)
* [[プチコミック]](毎月8日発売)
** 姉系プチコミック(偶数月5日発売)
* [[月刊フラワーズ]](毎月28日発売)
=== 児童・学習誌 ===
* [[月刊コロコロコミック]](毎月15日発売)
** [[別冊コロコロコミック]](偶数月30日発売)
** [[コロコロイチバン!]](毎月21日発売)
* [[ベビーブック]](毎月1日発売)
* [[めばえ (雑誌)|めばえ]](毎月1日発売)
* [[幼稚園 (雑誌)|幼稚園]](毎月1日発売)
* 学習幼稚園(年4回刊)
* [[小学一年生]](毎月1日発売) - [[学年誌]]
* [[てれびくん]](毎月1日発売)
* [[ぷっちぐみ]](毎月15日発売)
* [[ポケモンファン]] - [[小学館スペシャル]]増刊として発行
* 小学8年生
=== 教育誌 ===
* 新幼児と保育(奇数月2日発売、2021年12月28日発売の2/3月号から年4回刊に刊行形態を変更<ref name="press release211021">[https://www.shogakukan.co.jp/sites/default/files/manual/211021.pdf 『教育技術小一小二』『教育技術小三小四』『教育技術小五小六』 『総合教育技術』『新 幼児と保育』刊行形態変更のお知らせ]、小学館、2021年10月21日</ref>)
** 0・1・2歳児の保育
* [[教育技術 (雑誌)|教育技術]]
** 教育技術小一小二(2022年1月15日発売の2/3月号から紙の雑誌からWebサイトへ刊行形態を変更<ref name="press release211021"/>)
** 教育技術小三小四(同上)
** 教育技術小五小六(同上)
** 総合教育技術(2022年1月15日発売の2/3月号から年4回刊に刊行形態を変更<ref name="press release211021"/>)
=== 文芸誌 ===
* [[きらら (文芸誌)|きらら]]
* [[STORY BOX]]
* 本の窓
=== 情報誌 ===
* [[週刊ポスト]]
** マネーポスト
* [[女性セブン]]
* [[SAPIO]]
* [[DIME (雑誌)|DIME]]
** [[サウナー|Saunner]]
* [[サライ (雑誌)|サライ]]
* [[BE-PAL]]
===ファッション・美容誌 ===
* [[CanCam]]
* [[Oggi]]
* [[Domani_(雑誌)|Domani]]
* [[Precious_(雑誌)|Precious]]
* [[美的]]
* [[美的GRAND]]
* [[和樂]]
* MEN'SPrecious
=== 演劇誌 ===
* [[演劇界]](発行:演劇出版社)
=== かつて発行していた雑誌 ===
==== コミック誌 ====
* [[ボーイズライフ]]
* [[ぴょんぴょん]]
* [[ビッグゴールド]]
* [[コロネット]]
* [[コミックGOTTA]]
* [[少年ビッグコミック|マンガくん → 少年ビッグコミック]] → [[週刊ヤングサンデー|ヤングサンデー → 週刊ヤングサンデー]]
* [[Judy]]
* [[ChuChu]]
* [[ポシェット (雑誌)|ポシェット]]
* [[月刊IKKI]]
* [[ヒバナ (雑誌)|ヒバナ]]
* [[コロコロアニキ]]
==== 学習誌 ====
* [[良い子の友と少國民の友]]
* [[小学館BOOK]]
* [[よいこ (雑誌)|よいこ]]
* [[テレビといっしょ]]
* [[いたずら・ぶっく]]
* [[マミイ]]
* [[小学館の学年別学習雑誌|学年別学習雑誌]]
** [[小学二年生]]
** 小学三年生
** 小学四年生
** 小学五年生
** 小学六年生
* [[GAKUMANplus]]
* [[おひさま (雑誌)|おひさま]]
==== 教育誌 ====
* Latta
==== 文芸誌 ====
* [[パレット文庫#雑誌『Palette』|Palette(小説誌)]]
* [[文芸ポスト]]
* [[せりふの時代]]
==== 情報誌 ====
* [[女学生の友]]
* [[マドモアゼル (日本の雑誌)|マドモアゼル]]
* [[プチセブン]]
* [[GORO]]
* [[写楽 (雑誌)|写楽]](しゃがく)
* [[TOUCH (週刊誌)|TOUCH]]
* [[ワンダーライフ]]
** オカルト情報誌。同誌から派生した[[ムック (出版)|ムック]]レーベル『ワンダーライフスペシャル』は、本誌休刊後も実用・ゲーム[[攻略本]]のレーベルとして存続<ref>[https://www.shogakukan.co.jp/books/series/B70004 ワンダーライフスペシャル]</ref>。
* [[FMレコパル]]
* [[サウンドレコパル]]
* [[ポプコム]]
* [[The Music (日本の雑誌)|The Music]]
* [[月刊PCエンジン]]
* [[ゲーム・オン!]]
* [[DENiM]]
* [[Telepal f]](首都圏版・関西版)
* [[キャラデパ]]
* [[ラクダ|駱駝]]
* [[サブラ|sabra]]
* [[わしズム]]
* [[DiaDaisy]] - 小学館スペシャル増刊として発行
* マフィン
* [[Pretty Style]]
* ラピタ
* [[AneCan]]
==== 分冊百科 ====
* [[週刊 古寺をゆく]]
* [[週刊 日本の美をめぐる]]
* [[週刊 日本の天然記念物]]
* [[週刊 四季花めぐり]]
* [[週刊 やきものを楽しむ]]
* [[週刊 名城をゆく]]
* [[週刊 中国悠遊紀行]]
* [[クラシック・イン]]
* [[ぼく、ドラえもん]]
* [[もっと!ドラえもん]]
== 漫画単行本 ==
{{Main|小学館の漫画レーベル}}
== WEBメディア ==
* [[NEWSポストセブン]]
* [https://www.moneypost.jp/ マネーポストWEB]
* [https://www.men-joy.jp/ Menjoy!]
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* [[モバMAN]]
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== 電子書籍ストア ==
* 小学館eコミックストア(旧・コミック小学館ブックス)<!-- 項目が出来るまでリンクを張らないこと -->
== 書籍 ==
=== 文庫 ===
* [[小学館文庫]]
* [[ガガガ文庫]]
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* [[キャンバス文庫]]
* [[パレット文庫]]
* エンジェル文庫
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=== 新書 ===
* [[小学館新書]]
* 小学館よしもと新書([[吉本興業|よしもとクリエイティブ・エージェンシー]]と共同で立ち上げ)<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/owarai/news/187416|title=ピース又吉の新書「夜を乗り越える」来月発売、自身と文学の関係綴る|newspaper=お笑いナタリー|date=2016-05-17|accessdate=2015-05-17}}</ref>
* [[ガガガブックス]]
* 小学館YouthBooks
=== 児童書 ===
* コロタン文庫
* ビッグ・コロタン
* 小学館のテレビ絵本
* テレビ超ひゃっか
* 小学館のカラーワイド
* てれびくんデラックス
* まるごとシールブック
* 小学館ジュニア文庫
* ちゃおノベルズ
* ぷっちぐみベスト!!
* 小学館版[[学習まんが]]少年少女日本の歴史
* 小学館版[[学習まんが]]人物館
* 小学館版[[学習まんが]]世界の歴史
* 入門百科+
* 小学生のミカタ
==== かつて発行していた児童書 ====
* 入門百科シリーズ
* おひさまのほん
== ベストセラー ==
* [[飯島愛]]『[[プラトニック・セックス]]』(2000年)
* [[宮部みゆき]]『[[模倣犯 (小説)|模倣犯]]』(2001年)
* [[片山恭一]]『[[世界の中心で、愛をさけぶ]]』(2001年)
* [[市川拓司]]『[[いま、会いにゆきます]]』(2003年)
* [[加島祥造]]『求めない』(2007年)
* [[東川篤哉]]『[[謎解きはディナーのあとで]]』(2010年 - )
* [[池井戸潤]]『[[下町ロケット]]』(2010年)
* [[池井戸潤]]『[[下町ロケット2 ガウディ計画]]』(2015年)
* [[佐藤愛子 (作家)|佐藤愛子]]『[[九十歳。何がめでたい]]』(2017年)
== 辞典・事典 ==
* 日本百科大事典(1962年)
* 世界原色百科事典(1965年)
* [[大日本百科事典|大日本百科事典ジャポニカ]](1967年)
* [[日本大百科全書]](1984年)
* [[日本国語大辞典]]
* [[日本歴史大事典]]
* 小学館日本語新辞典
* [[大辞泉]]
* [[プログレッシブ (辞典)|プログレッシブ]]辞典シリーズ
== 図鑑 ==
* 小学館の図鑑Z
* [[小学館の図鑑NEO]]
* ポケットガイドシリーズ
* フィールド・ガイドシリーズ
== 電子知育玩具用ソフト ==
* とっとこハム太郎 おえかきいっぱい! ハムちゃんず!([[キッズコンピュータ・ピコ]])
== 漫画表現の特色 ==
{{独自研究|section=1|date=2023年11月}}
小学館が[[版元]]である[[漫画]]の[[台詞]]には、全ての[[男性]]向け雑誌に掲載された娯楽漫画{{efn2|[[少年]]・[[青年]]向け[[雑誌]]に掲載されたものが該当する。}}も含めて[[句読点]](「。」「、」)が用いられている。これは、『[[小学一年生]]』をはじめとする[[小学館の学年別学習雑誌|学年別学習誌]]は当初、教育漫画だけだったが、後から始めた少年少女向け娯楽漫画にまで句読点を用いられていた名残である。ただし、殆どの[[少女]]・[[女性]]向け雑誌に掲載された娯楽漫画{{efn2|[[単行本]][[ブランド]]が「[[ビッグコミックス]]フォアレディ」の『[[ビッグコミックフォアレディ]]』は含むが、極初期の『[[少女コミック]]』(学年誌に掲載された[[少女漫画]]が再録されていることもあるため)や、学習雑誌部門から発行された『[[ぴょんぴょん]]』・『[[ぷっちぐみ]]』は除く。}}は句読点を用いられていない。ただし 、[[児童]]向け[[少年漫画]]雑誌である『[[月刊コロコロコミック]]』の増刊に該たる『[[コロコロアニキ]]』を除いた青年・女性向け雑誌には[[ルビ]]は用いられていない。なお、小学館以外のすべての[[出版社]]では、一部の出版社における教育漫画のみで句読点を使用しており、娯楽漫画は句読点を用いられていない。
また、小学館のみが漫画で使用される標準[[フォント]]が他社のものと異なる。これは、[[2008年]]以降に他社が使用している標準フォントから変更したものである。
== 関連会社・団体 ==
=== 日本国内 ===
* 一ツ橋マネジメント(企業経営の調査、研究、有価証券の取得・管理)
* 昭和ブライト(雑誌・書籍の製版・組版・DTPおよび配信用漫画データの制作)
* 昭和図書(一ツ橋グループの物流会社)
* 小学館不動産(小学館ビル等の不動産管理)
* [[小学館パブリッシング・サービス]]
* [[小学館クリエイティブ]](書籍の出版、書籍・雑誌の編集受託・校正受託、地図の発行)
* 数理計画(出版情報システムの開発・運用、ビジネスソリューション、環境コンサルティング)
* [[小学館集英社プロダクション]]
* 小学館スクウェア(自費出版、写真関連業務)
* [[祥伝社]]
* 小学館メディアプロモーション(雑誌媒体・Web媒体の広告代理店)
* [[照林社]]
* [[小学館ミュージック&デジタル エンタテイメント]]
* 九段パルス([[特例子会社]])
* [[ネットアドバンス]]
* 小学館ナニング(漫画単行本の編集受託)
* キッズカラー
* COMPASS
* エイトリンクス
* 小学館CODEX(雑誌・書籍・WEBメディアの編集受託)
* 株式会社MERY([[ディー・エヌ・エー]]との共同出資会社)
* こどもりびんぐ
* kotoba
* [[集英社]](50%)
* 日本児童教育振興財団(2012年4月に[[日本性教育協会]]と合併)
=== 日本国外 ===
* [[ビズメディア|VIZ Media LLC]]([[アメリカ合衆国]]) - 2005年設立。小学館・集英社・小学館集英社プロダクションとの共同出資。
* [http://www.vizchina.com/ 上海碧日咨询事业有限公司]([[中華人民共和国]][[上海市]]) - [[1995年]]設立。上海美術出版社との共同出資。
* 台湾小学館(台灣小學館股份有限公司、[[中華民国]][[高雄市]]) - [[2010年]]5月設立。小学館集英社プロダクションとの共同出資<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shopro.co.jp/news/100519/|title=アジアから世界へ 台湾に教育事業の新会社設立|accessdate=2010-05-19|date=2010-05-19|work=小学館集英社プロダクション|publisher=小学館}}</ref>。
* 小学館アジア([[シンガポール]]) - [[2013年]]9月設立。100%[[子会社]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/st/files/Asia.pdf|title=「小学館アジア」設立|accessdate=2013-09-27|author=小学館|date=2013-09-27|format=PDF|publisher=小学館}}</ref>。
== 加盟団体 ==
[[日本書籍出版協会]]、[[日本雑誌協会]]、日本出版インフラセンター、辞典協会、出版文化国際交流会、[[全国出版協会]]、日本出版クラブ、読書推進運動協議会、[[国際児童図書評議会]]、[[コミック出版社の会]]、[[日本電子出版協会]]、[[デジタル出版者連盟]]、日本オーディオブック協議会、[[日本映像ソフト協会]]、[[日本アドバタイザーズ協会]]、日本雑誌広告協会、[[日本ABC協会]]、日本インタラクティブ広告協会など
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wikinews|『金色のガッシュ!!』作者の雷句誠さんが東京地裁に提訴、原画原稿紛失で小学館に損害賠償請求|小学館、学年別雑誌「小学五年生」「小学六年生」を休刊}}
* 音羽グループ([[講談社]]・[[光文社]])
* [[小学館漫画賞]]
* [[12歳の文学賞]]
* [[全国こども電話相談室]]([[TBSラジオ]]で[[1964年]]から[[2008年]]まで長期に渡って続いた提供[[スポンサー]]番組。長らく小学館一社スポンサーであったが、[[2000年]]より[[朝日新聞]]との複数スポンサーとなる。)
* [[太陽神戸銀行]](現・[[三井住友銀行]]。旧・[[神戸銀行]]時代から、「小学一年生」の裏表紙に広告が掲載されていた)
* [[テレビ朝日]]([[2000年代]]初めまで、[[朝日新聞社]]、[[東映]]に次ぐ第三位の大株主だった)
* [[日本テレビ放送網|日本テレビ]](初のテレビ[[コマーシャルメッセージ|CM]]放送開始)
* [[おはスタ]]([[テレビ東京]]系列の[[子供番組]])
* [[任天堂]](同社から発売されるゲームの[[攻略本|公式ガイドブック]]を発行)
* [[ポニーキャニオン]](当社が発売している映像ソフトの一部の販売委託を担当)
* [[メディアファクトリー]](同上)
* [[バップ]](同上)
* [[東宝]](当社が発売している映像ソフトの一部のレンタル版の販売委託を担当)
* [[Cygames]]([[2015年]]10月より「週刊少年サンデー」・「ビッグコミックスピリッツ」の裏表紙に広告を独占掲載している)
* [[Advanced Publishing Laboratory]]
* [[シンクロニシティーン]] - [[相対性理論 (バンド)|相対性理論]]のアルバム。「小学館」という収録曲があり、本企業発行の『[[MONSTER (漫画)|MONSTER]]』、『スピリッツ』が登場する。
* [[秋田貞夫]] - 小学館、朝日新聞社などを経て[[秋田書店]]を創設。岡山県出身。
* [[古岡秀人]] - 小学館、[[主婦之友社]]の経て[[学習研究社]]を創設。
* [[少年画報社]] - 小学館の営業部長だった今井堅が創設。
* [[飛鳥新社]] - 元・小学館の編集者の土井尚道が創設。
* [[イーブックイニシアティブジャパン]] - 小学館出身の鈴木雄介が創業。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Shogakukan}}
* [https://www.shogakukan.co.jp/ 小学館 公式サイト]{{ja icon}}
* [https://shogakukan-comic.jp/ 小学館コミック – 小学館のコミック情報が全てここに。]{{ja icon}}
* [https://adpocket.shogakukan.co.jp/ 小学館AD POCKET]{{ja icon}} - 雑誌別の詳細な対象読者・[[年齢]]は、この外部リンクを[[参照 (書誌学)|参照]]。
* [https://sps.shogakukan.jp/sps/main.php 小学館フォトサービス]{{ja icon}}
* [https://www.shogakukan.co.jp/affiliate/sns SNS一覧 | 小学館]{{ja icon}} - 小学館の公式Twitterアカウント一覧
* [https://www.youtube.com/user/SHOGAKUKANch SHOGAKUKANch - YouTube]{{ja icon}} - 小学館 公式チャンネル
* {{Mediaarts-db}}
{{小学館}}
{{日本映像ソフト協会}}
{{一ツ橋グループ}}
{{normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しようかくかん}}
[[Category:小学館|*]]
[[Category:一ツ橋グループ]]
[[Category:日本の出版社]]
[[Category:漫画出版社]]
[[Category:日本の映像ソフト会社]]
[[Category:日本のアニメメーカー]]
[[Category:千代田区の企業]]
[[Category:1945年設立の企業]]
[[Category:神田]]
[[Category:20世紀の日本の設立]]
|
2003-08-15T09:19:46Z
|
2023-12-13T19:45:02Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E9%A4%A8
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13,238 |
アザーン
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アザーン(アラビア語: أذان adhān)は、イスラム教における礼拝(サラート)への呼び掛けのこと。ユダヤ教のラッパ、キリスト教の鐘と同じような役割をしているが、肉声で行われることに特徴がある。「神は偉大なり」という意の句「アッラーフ・アクバル」の4度の繰り返しから始まる。
イスラム教国旅行記ではしばしばアザーンを指して「一日5回モスクから流れるコーランの朗誦」といった記述が見られるが、アザーンは礼拝への呼び掛けであって、コーランの朗誦ではない。
イスラム教ではアザーンと一緒に音楽を流すことは禁じられている。そもそも、イスラム教正統派は、教義上、音楽を官能的快楽をもたらすハラームとして容認してはいないからである。聖典の読誦であるキラーアやアザーン等の詩歌は、音楽的な要素を加えられても音楽では無い物として扱われる。
アザーンの習慣と唱えられる内容は、マディーナ(メディナ)時代のムハンマドと教友たちによって定められたとされ、慣行(スンナ)としてイスラム教徒に守られている。 ハディースによれば、教友の一人アブドゥラー・イブン・ザイドが夢に現れた天使にアザーンを教わり、ムハンマドに伝えたという。アザーンにはアラビア語だけで現在に至るまでに6種類の別称があり、アザーンの草創期にはタッジーンともニダーウとも呼ばれていた。
アザーンの唱句は宗派や地域によって変化を遂げつつ、7世紀の半ばに定型化した。
ムアッジンという呼びかけ役によって、一日5回の礼拝時間前に、周辺に住むムスリムにモスクに集まるよう、アザーンによって呼びかけられる。現在は拡声器を使って流されることが多い。時計代わりとして、信徒の一日の生活上の節目となっているとも言われる。
アザーンの呼びかけで集まった人々に、礼拝の開始を告げるイカーマ(立つ、実行するという意味)を唱えるのもムアッジンの役目である。イカーマはアザーンの唱句のほぼ繰り返しだが、アザーンに比べて早い調子で短めに唱えられ、声量もその場にいる人に伝わる程度である。イカーマは第2のアザーンと呼ばれたり、アザーンとイカーマを合わせて2つのアザーンと呼ぶこともある。
正則アラビア語での朗誦を、日本語の音韻体系で近似したものをあげる。 アザーンはゆっくりと音を伸ばして唱える、これだけの言葉を唱えるのに3~4分の時間をかける。 句の間には数秒の間が入り、礼拝の開始を待っているムスリムはアザーンに合わせて復唱することになっている。
早朝時にのみ入るタスウィーブは、最初のムアッジンとされるビラールが付け加えたとされるが、一説にはカリフのウマルが付け加えさせた、とも言われる。
上のアザーンはスンナ派のもので、シーア派のアザーンでは「いざや成功(救済)のために来たれ」の後、「アッラーは偉大なり」の前に「いざや至善の行為のため来たれ(ハイヤー・アラー・ハイリルアマル)」というもう一つの別のハイアラが2回入る。アザーンにこの句が入っているかどうかにより、そのアザーンが朗唱されたモスクがある地域の住民がスンナ派かシーア派かどうかを判別することが可能である。
また、さらに地域差もあり、イランやアフガニスタンのシーア派では、アザーン中のシャハーダ句の2つ目「ムハンマドは神の使徒なりと私は証言する」の後に、シーア派独自の別のシャハーダ「アリーがアッラーに続く方である事を私は誓います」(1回)、「アリーがアッラーの証明であることを私は誓います」(1回)を付け加えている。更に異なって「アリー」の名前の前に称号を加え、そこの部分を「我らが主、信者たちの長アリーがアッラーに続く方である事を私は誓います」(1回)、「我らが主、信者たちの長アリーがアッラーの証明であることを私は誓います」(1回)と唱えるところもある。
必ずしもアラビア語で行わなければならないわけではないとされるが、アラブ諸国以外のイスラム国であってもアザーンはアラビア語によって行われている。トルコではアタテュルクの改革の一環としてアザーンをトルコ語で行うことが定められたが定着せず、ふたたびアラビア語に戻されたほどである。
アザーンで用いられるアラビア語には、現地の訛りが存在しており、各地のアーンミーヤやペルシア語、トルコ語の影響で、語句の発音等に変化が見られる。
現代では電子式プレーヤー付のアザーン時計がムスリム社会で広く販売されている。 様々な機能があり、目覚まし時計の電子音がアザーンの録音を再生するだけの単純な物から、緯度と経度から正確な日の出や日没の時間を計算したりキブラの方角を示す機能のある高度な物もある。一般的にモスクを意匠としたデザインをしていることが多く、中にはアザーンの意味を理解せずにイスラム風デザインの時計をアザーン時計と称して販売している場合もある(アザーンをしなければアザーン時計ではない)。
|
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] |
アザーンは、イスラム教における礼拝(サラート)への呼び掛けのこと。ユダヤ教のラッパ、キリスト教の鐘と同じような役割をしているが、肉声で行われることに特徴がある。「神は偉大なり」という意の句「アッラーフ・アクバル」の4度の繰り返しから始まる。 イスラム教国旅行記ではしばしばアザーンを指して「一日5回モスクから流れるコーランの朗誦」といった記述が見られるが、アザーンは礼拝への呼び掛けであって、コーランの朗誦ではない。 イスラム教ではアザーンと一緒に音楽を流すことは禁じられている。そもそも、イスラム教正統派は、教義上、音楽を官能的快楽をもたらすハラームとして容認してはいないからである。聖典の読誦であるキラーアやアザーン等の詩歌は、音楽的な要素を加えられても音楽では無い物として扱われる。
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{{Otheruses||ギリシア神話の人物|アザーン (ギリシア神話)}}
'''アザーン'''({{lang-ar|أذان}} adhān)は、[[イスラム教]]における[[礼拝]](サラート)への呼び掛けのこと。[[ユダヤ教]]のラッパ、[[キリスト教]]の鐘と同じような役割をしているが、肉声で行われることに特徴がある。「[[アッラーフ|神]]は偉大なり」という意の句「[[アッラーフ・アクバル]]」の4度の繰り返しから始まる。
[[イスラム教国]]旅行記ではしばしばアザーンを指して「一日5回モスクから流れる[[クルアーン|コーラン]]の朗誦」といった記述が見られるが、アザーンは礼拝への呼び掛けであって、コーランの朗誦ではない。
イスラム教ではアザーンと一緒に音楽を流すことは禁じられている。そもそも、イスラム教正統派は、教義上、音楽を官能的快楽をもたらす[[ハラーム]]として容認してはいないからである<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E9%9F%B3%E6%A5%BD-1145889 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説]([[コトバンク]])</ref><ref>[https://www.jtb.co.jp/chiikikoryu/koryubunkasho/04/bunka_06.asp JTB交流文化賞:イスラム教の礼拝告知、アザーンに包まれる街 シリア・ダマスカス ーウマイアモスクのアザーン朗唱ー](著:宮森 庸輔)</ref><ref>{{cite news|title=A Fabled Instrument, Suppressed in Iraq, Thrives in Exile|date=May 1, 2008|work=New York Times|author=[[Erica Goode]]|url=http://www.nytimes.com/2008/05/01/world/middleeast/01oud.html?_r=1&hp=&oref=slogin&pagewanted=all}}</ref>。聖典の読誦である[[キラーア]]やアザーン等の詩歌は、音楽的な要素を加えられても音楽では無い物として扱われる<ref>[http://dsr.nii.ac.jp/music/07westasia.html イスラーム初期のアラブ音楽](著:東京藝術大学名誉教授 柘植元一)</ref>。
==歴史==
アザーンの習慣と唱えられる内容は、[[マディーナ]](メディナ)時代の[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]と教友たちによって定められたとされ、慣行([[スンナ]])としてイスラム教徒に守られている。
[[ハディース]]によれば、教友の一人アブドゥラー・イブン・ザイドが夢に現れた[[天使]]にアザーンを教わり、ムハンマドに伝えたという{{sfn|堀内 |1990|pp=16-28}}。アザーンにはアラビア語だけで現在に至るまでに6種類の別称があり、アザーンの草創期にはタッジーンともニダーウとも呼ばれていた。
アザーンの唱句は宗派や地域によって変化を遂げつつ、7世紀の半ばに定型化した。
==ムアッジン==
[[ムアッジン]]という呼びかけ役によって、一日5回の礼拝時間前に、周辺に住む[[ムスリム]]に[[モスク]]に集まるよう、アザーンによって呼びかけられる。現在は拡声器を使って流されることが多い。時計代わりとして、信徒の一日の生活上の節目となっているとも言われる。
アザーンの呼びかけで集まった人々に、礼拝の開始を告げるイカーマ(立つ、実行するという意味)を唱えるのもムアッジンの役目である{{sfn|堀内 |1990|pp=45-47}}。イカーマはアザーンの唱句のほぼ繰り返しだが、アザーンに比べて早い調子で短めに唱えられ、声量もその場にいる人に伝わる程度である。イカーマは第2のアザーンと呼ばれたり、アザーンとイカーマを合わせて2つのアザーンと呼ぶこともある。
== アザーンの唱句 ==
正則アラビア語での朗誦を、日本語の音韻体系で近似したものをあげる。
アザーンはゆっくりと音を伸ばして唱える、これだけの言葉を唱えるのに3~4分の時間をかける。
句の間には数秒の間が入り、礼拝の開始を待っているムスリムはアザーンに合わせて復唱することになっている。
{|class="wikitable"
|-
! 繰り返し回数
! アラビア語
! 発音
! 翻訳と解説
|-
| align="center";|4
|lang="ar" dir="rtl"| الله أكبر
| ''[[アッラーフ・アクバル]]''
|「アッラーは偉大なり」(4回)<br />
(この句は[[タクビール]]と呼ばれる。宗派によっては4回でなく2回)
|-
| align="center";| 2
|lang="ar" dir="rtl"| أشهد أن لا اله إلا الله
|[[シャハーダ|アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イッラッラー]]
|「アッラーの他に神は無しと私は証言する」(2回)
(この句は[[シャハーダ]]と呼ばれる)
|-
| align="center";| 2
|lang="ar" dir="rtl"| أشهد أن محمدا رسول الله
| アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー
|「ムハンマドは神の使徒なりと私は証言する」(2回)
(この句もシャハーダと呼ばれる。上の句と合わせてシャハーダターニと呼ばれる)
|-
| align="center";| 2
|lang="ar" dir="rtl"| حي على الصلاة
|ハイヤー・アラッサラー
|「いざや[[サラート]](礼拝)へ来たれ」(2回)
(この句はハイアラと呼ばれる)
|-
| align="center";| 2
|lang="ar" dir="rtl"| حي على الفلاح
|ハイヤー・アラルファラー
|「いざや成功(救済)のため来たれ」(2回)
(この句もハイアラと呼ばれる。上の句と合わせてハイアラターニと呼ばれる)
|-
| align="center";| (早朝のみ)2
|lang="ar" dir="rtl"| الصلاة خيرٌ من النوم
| アッサラート・ハイルン・ミナン・ナウム
| 「礼拝は睡眠にまさる」(2回)
(早朝の礼拝時のみ、タスウィーブと呼ばれる句が2回入る)
|-
| align="center";| 2
|lang="ar" dir="rtl"| الله أكبر
| アッラーフ・アクバル
| 「アッラーは偉大なり」(2回)
(タクビール)
|-
| align="center";| 1
|lang="ar" dir="rtl"| لا إله إلا الله
|ラー・イラーハ・イッラッラー
| 「アッラーの他に神は無し」
(この句はタフリールと呼ばれる)
|}
{{Wikisource|اذان|アラビア語で書かれたアザーン}}
早朝時にのみ入るタスウィーブは、最初のムアッジンとされる[[ビラール・ビン=ラバーフ|ビラール]]が付け加えたとされるが、一説には[[カリフ]]の[[ウマル・イブン=ハッターブ|ウマル]]が付け加えさせた、とも言われる。
=== シーア派 ===
上のアザーンはスンナ派のもので、[[シーア派]]のアザーンでは「いざや成功(救済)のために来たれ」の後、「アッラーは偉大なり」の前に「いざや至善の行為のため来たれ(ハイヤー・アラー・ハイリルアマル)」というもう一つの別のハイアラが2回入る。アザーンにこの句が入っているかどうかにより、そのアザーンが朗唱されたモスクがある地域の住民がスンナ派かシーア派かどうかを判別することが可能である。
=== 地域差 ===
また、さらに地域差もあり、[[イラン]]や[[アフガニスタン]]のシーア派では、アザーン中のシャハーダ句の2つ目「ムハンマドは神の使徒なりと私は証言する」の後に、シーア派独自の別のシャハーダ「アリーがアッラーに続く方である事を私は誓います」(1回)、「アリーがアッラーの証明であることを私は誓います」(1回)を付け加えている。更に異なって「アリー」の名前の前に称号を加え、そこの部分を「我らが主、信者たちの長アリーがアッラーに続く方である事を私は誓います」(1回)、「我らが主、信者たちの長アリーがアッラーの証明であることを私は誓います」(1回)と唱えるところもある。
必ずしも[[アラビア語]]で行わなければならないわけではないとされるが、[[アラブ諸国]]以外のイスラム国であってもアザーンはアラビア語によって行われている。[[トルコ]]では[[ケマル・アタテュルク|アタテュルク]]の改革の一環としてアザーンを[[トルコ語]]で行うことが定められたが定着せず、ふたたびアラビア語に戻されたほどである。
アザーンで用いられるアラビア語には、現地の訛りが存在しており、各地のアーンミーヤやペルシア語、トルコ語の影響で、語句の発音等に変化が見られる。
==アザーン時計==
現代では電子式プレーヤー付のアザーン時計がムスリム社会で広く販売されている。
様々な機能があり、目覚まし時計の電子音がアザーンの録音を再生するだけの単純な物から、緯度と経度から正確な日の出や日没の時間を計算したり[[キブラ]]の方角を示す機能のある高度な物もある。一般的にモスクを意匠としたデザインをしていることが多く、中にはアザーンの意味を理解せずにイスラム風デザインの時計をアザーン時計と称して販売している場合もある(アザーンをしなければアザーン時計ではない)。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
{{ウィキポータルリンク|イスラーム|[[画像:Allah-green.svg|34px|Portal:イスラーム]]}}
* {{Cite journal |和書 |author = [[堀内勝]] |title = イスラームの儀礼・アザーンについて |journal = 儀礼と音楽 I |date = 1990 |publisher = 東京書籍 |series = 民族音楽叢書 |id= {{ISBN2|4-487-75254-X}}、ISBN-13:978-4-487-75254-6 |ref = harv }}
==関連項目==
* [[鐘#文化]] - キリスト教の鐘のようなものが使われない理由として、ハディースなどで天使は鐘のある家に入らない、鐘と犬を連れた旅行者と天使は同行しないという記述がある。
== 外部リンク ==
{{commons category|Adhan}}
* [http://www.islamweb.cz/audio/adhan/ アザーンの音声] (islamweb)
{{Normdaten}}
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[[Category:イスラーム文化]]
[[Category:モスク]]
[[Category:アラビア語の語句]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%B3
|
13,240 |
坂村健
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坂村 健(さかむら けん、1951年7月25日 - )は、日本のコンピュータ科学者、コンピュータ・アーキテクト。工学博士(慶應義塾大学、1979年)、東京大学名誉教授、INIAD(東洋大学情報連携学部)学部長。専攻での研究内容はダイナミックアーキテクチャだが、自ら提唱したTRONプロジェクトにてリーダー、またアーキテクトとして多種多様な仕様を策定した。東京都出身。
相磯研究室ではコンピュータ・アーキテクチャ、特にダイナミック・アーキテクチャ(LISPマシンに代表される高水準言語マシンなど、ハードウェアに限らない広い視野を持ったコンピュータ・アーキテクチャといえる。また当時、超LSI (VLSI)・超々LSI (ULSI) と呼ばれた集積度の向上および Mead & Conway revolution (en:Mead & Conway revolution) も意識していた節がある)を専攻、その後コンピュータ科学的にはそういった方面の延長とも言える第五世代コンピュータプロジェクトの立ち上がり期(1980年代初頭)に関与しかけたが、それとは袂を分かつ恰好で、一般消費者の世界でブームとなっていたマイクロコンピュータに注目、特に(現代で言うところの)マイクロコントローラによる組込みシステムにより身の回りのあらゆるものがインテリジェントになり、またネットワーク化されるであろうというヴィジョンを持つようになり、1982年、依頼を得た「未来のオフィス」という30分のスライドショーにまとめ日本電子工業振興協会に提出した。
1984年6月に、前述のヴィジョンのためのコンピュータ・アーキテクチャなどを実現する目的を持ち、TRONプロジェクトを開始。TRONの名は「The Realtime Operating system Nucleus」の頭字語から。「Todaini itatokini tukutta Realtime Operating system Nucleus」とも、また、映画『TRON』を見た後の命名ではある、とも書いている。
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坂村 健は、日本のコンピュータ科学者、コンピュータ・アーキテクト。工学博士(慶應義塾大学、1979年)、東京大学名誉教授、INIAD(東洋大学情報連携学部)学部長。専攻での研究内容はダイナミックアーキテクチャだが、自ら提唱したTRONプロジェクトにてリーダー、またアーキテクトとして多種多様な仕様を策定した。東京都出身。
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'''坂村 健'''(さかむら けん、[[1951年]]<ref name="CiCbT"></ref>[[7月25日]] - )は、日本の[[コンピュータ科学]]者、[[コンピュータ・アーキテクチャ|コンピュータ・アーキテクト]]。[[博士(工学)|工学博士]]([[慶應義塾大学]]、1979年)、[[東京大学]]名誉教授、[https://iniad.org/ INIAD]([[東洋大学]]情報連携学部)学部長<ref>[http://iniad-bucket-wp.storage.googleapis.com/logo.jpg 概要 | 東洋大学情報連携学部|INIAD]2018年1月14日閲覧</ref>。専攻での研究内容はダイナミックアーキテクチャ<ref>ダイナミックアーキテクチャに関する参考文献としては『ダイナミック・アーキテクチャ』(共著、ISBN 4-320-021347 )</ref>だが、自ら提唱した[[TRONプロジェクト]]にてリーダー、またアーキテクトとして多種多様な仕様を策定した。[[東京都]]出身<ref name="CiCbT"></ref>。
== 略歴 ==
{{年譜のみの経歴|date=2021年1月26日 (火) 09:50 (UTC)}}
=== 学歴 ===
* [[1967年]] [[慶應義塾中等部]]卒業<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=坂村君の講演会|url=https://www.komazawa-u.ac.jp/~kazov/grad1974/2004/programSakaI.html|website=www.komazawa-u.ac.jp|accessdate=2021-11-26}}</ref>
*[[1971年|1970年]] [[慶應義塾高等学校]]卒業<ref name=":0" />
* [[1974年]] [[慶應義塾大学大学院理工学研究科・理工学部|慶應義塾大学工学部]]電気工学科卒業
* [[1979年]] [[慶應義塾大学大学院理工学研究科・理工学部|慶應義塾大学大学院工学研究科]]電気工学専攻博士課程修了<ref name="CiCbT"></ref>([[相磯秀夫|相磯]]研究室)[[工学博士]]。論文名は「問題適応型可変構造計算機の研究 」
=== 職歴 ===
* 1979年 - [[東京大学大学院理学系研究科・理学部|東京大学理学部]]情報科学科[[助手 (教育)|助手]]
* 1986年 - 東京大学理学部情報科学科[[講師 (教育)|講師]]
* 1987年 - 東京大学理学部情報科学科[[助教授]]
* 1996年 - [[東京大学総合研究博物館]]教授(研究部・博物情報メディア研究系、大学院理学系研究科情報科学専攻教授併任)
* 2000年 - [[東京大学大学院情報学環・学際情報学府]]教授
* 2017年3月 - 東京大学を退職(同時に名誉教授)
* 2017年4月から - 東洋大学情報連携学部 学部長および同学科・研究科教授
==== その他 ====
* TRONプロジェクト リーダー<ref name="CiCbT"></ref>(1984年より)
== 人物・来歴 ==
<!--東京大学助手時代には、学会発表などのために、米国などにも出張に出かけ、[[バロース]]社(現:[[ユニシス]])において、スタック方式を開発したアーキテクト(ロバート・バートン。当時、副社長)などとも親交を結ぶ。詳細は、『電脳建築学』に詳しい。--><!--↑テニュアを狙ってるドクター等なら当然であって特記事項ではない-->相磯研究室では[[コンピュータ・アーキテクチャ]]、特にダイナミック・アーキテクチャ([[LISPマシン]]に代表される[[高級言語計算機|高水準言語マシン]]など、ハードウェアに限らない広い視野を持ったコンピュータ・アーキテクチャといえる。また当時、超LSI (VLSI)・超々LSI (ULSI) と呼ばれた集積度の向上および Mead & Conway revolution ([[:en:Mead & Conway revolution]]) も意識していた節がある{{要出典|date=2021年1月26日 (火) 09:53 (UTC)}})を専攻、その後[[コンピュータ科学]]的にはそういった方面の延長とも言える[[第五世代コンピュータ]]プロジェクトの立ち上がり期(1980年代初頭)に関与しかけたが、それとは袂を分かつ恰好で、一般消費者の世界でブームとなっていた[[マイクロコンピュータ]]に注目、特に(現代で言うところの)[[マイクロコントローラ]]による[[組込みシステム]]により身の回りのあらゆるものがインテリジェントになり、またネットワーク化されるであろうというヴィジョン<ref>その脅威的な量産効果により、マイクロプロセッサは従来の「コンピュータ」の観念からは想像が不可能な程に普及するだろう、といったような予言自体は坂村にユニークなものではなく、[[安田寿明]]著のベストセラー『マイ・コンピュータ入門』の中などにも見られる。</ref>を持つようになり、1982年、依頼を得た「未来のオフィス」という30分のスライドショーにまとめ[[電子情報技術産業協会|日本電子工業振興協会]]に提出した。{{要出典|date=2021年1月26日 (火) 09:53 (UTC)}}
=== TRONプロジェクト ===
1984年6月に、前述のヴィジョンのための[[コンピュータ・アーキテクチャ]]などを実現する目的を持ち、[[TRONプロジェクト]]を開始。TRONの名は「The Realtime Operating system Nucleus」の[[頭字語]]から<ref name="CiCbT"></ref>。「Todaini itatokini tukutta Realtime Operating system Nucleus」とも、また、映画『[[トロン (映画)|TRON]]』を見た後の命名ではある、とも書いている<ref>『電脳都市』冬樹社版 p.100, p.234</ref>。{{main|TRONプロジェクト}}
=== YRPユビキタス・ネットワーキング研究所 ===
2002年に設立された[[ユビキタス・コンピューティング]]に関する研究所、所長。
* ユビキタス・コンピューティングの全体のアーキテクチャを統括するアグリゲートコンピューティンググループ
* TRONアーキテクチャの研究開発を推し進めるエッジノード研究グループ
* 応用研究を推し進める応用研究グループ
== 受賞 ==
* 1987年 - [[日刊工業新聞技術科学図書文化賞]](優秀賞、第3回)『TRONからの発想』
* 2001年 - [[武田賞]] - [[リーナス・トーバルズ]]、[[リチャード・ストールマン]]との共同受賞
* 2003年 - [[褒章#紫綬褒章|紫綬褒章]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400004732.pdf|title=春の紫綬褒章受章、記者会見行われる - 学内広報|format=PDF|date=2003-05-14|page=4|publisher=東京大学広報委員会|accessdate=2023-02-27}}</ref>
* 2004年 - [[大川賞]]
* 2005年 - [[産学官連携功労者表彰]][[内閣総理大臣賞]]
* 2006年 - [[日本学士院賞]]
* 2015年 - [[国際電気通信連合]] (ITU) [[国際電気通信連合#150周年|150周年賞]]<ref>[http://www.itu.int/net/pressoffice/press_releases/2015/13.aspx#.VoxKLFLtirI ITU marks 150th anniversary with global celebrations], Newsroom, ITU, 2015-05-18.</ref>
* 2023年 - [[IEEE井深大コンシューマー・エレクトロニクス賞]]
== 著書 ==
=== 単著 ===
*『コンピュータとどう付き合うか 文科系にもわかる最新技術情報』([[光文社]]カッパビジネス 1982年。ISBN 4334011381)
*『快適生活の技術 食事・トイレからコンピュータまで』(光文社カッパビジネス 1983年。ISBN 4334011632)
*『コンピュータ・アーキテクチャ――電脳建築学』([[共立出版]] 1984年。ISBN 4320022335)
*『電脳都市――SFと未来コンピュータ』([[冬樹社]] 1985年。{{全国書誌番号|85052083}}、{{NCID|BN0063510X}}。)のち岩波書店
*『TRONからの発想』([[岩波書店]] 1987年2月。ISBN 4000057316)
*『TRONで変わるコンピュータ』([[日本実業出版社]] 1987年4月。ISBN 4534012411)
*『TRONを創る』(共立出版 1987年6月。ISBN 4320023668)
*『電脳社会論――TRONの予言』([[飛鳥新社]] 1988年。ISBN 4870310473)
*『電脳未来論――トロンの世紀』([[角川書店]] 1989年。ISBN 4045306064)
*『電脳激動――Final frontier』([[日刊工業新聞社]] 1993年。ISBN 4526033510)
*『コンピュータ いま何がなぜ?』([[読売新聞社]] 1996年。ISBN 4643960973)
*『コンピュータはどこへ』(岩波書店・高校生セミナー 1998年。ISBN 4000262130)
*『痛快!コンピュータ学 グローバル・スタンダード』([[集英社]]インターナショナル 1999年/集英社文庫 2002年, ISBN 978-4-08-747428-2)
*『情報文明の日本モデル――TRONが拓く次世代IT戦略』(PHP新書 2001年。ISBN 4569618499)
*『21世紀日本の情報戦略』(岩波書店 2002年。ISBN 4000242121)
*『ユビキタス・コンピュータ革命――次世代社会の世界標準』(角川書店[角川oneテーマ21] 2002年。ISBN 4047040886)
*『TRON DESIGN 1980-1999』(パーソナルメディア 2003年。ISBN 4893622064)
*『ユビキタス、TRONに出会う――「どこでもコンピュータ」の時代へ』([[NTT出版]] 2004年。ISBN 4757101368)
*『グローバルスタンダードと国家戦略』(NTT出版 2005年。ISBN 4757141009)
*『変われる国・日本へ イノベート・ニッポン』(アスキー新書 2007年3月。ISBN 978-4756148919)
*『ユビキタスとは何か―情報・技術・人間』(岩波新書 2007年7月。ISBN 978-4004310808)
*『不完全な時代 科学と感情の間で』(角川oneテーマ21 2011年。ISBN 978-4047102958)
*『[[毛沢東]]の赤ワイン 電脳建築家、世界を食べる』(角川書店 2012年。ISBN 978-4048850797)
* 『IoTとは何か 技術革新から社会革新へ』([[角川新書]] 2016年。ISBN 978-4040820583)
* 『イノベーションはいかに起こすか――AI・IoT時代の社会革新』(NHK出版 2020年。 ISBN 9784140886342)
=== 共著 ===
*([[清水謙多郎]]・[[越塚登]])『大人のための「情報」教科書』([[数研出版]] 2003年。ISBN 4410138456)
*([[竹村健一]])『ユビキタス社会、始まる――すべてのモノにコンピュータを』([[太陽企画出版]] 2004年。ISBN 4884664035)
* (越塚登・[[暦本純一]]・中尾彰宏)『角川インターネット講座 (14) コンピューターがネットと出会ったら モノとモノがつながりあう世界へ』([[KADOKAWA]] 2015年。ISBN 978-4046538949)
=== 編著 ===
*『ITRON入門――concepts and implementations』(岩波書店 1988年。ISBN 4000050036)
=== 共編著 ===
*([[鈴木博之]])『バーチャルアーキテクチャー -建築における「可能と不可能の差」』(東京大学総合研究博物館 1997年。{{全国書誌番号|99031385}}、{{NCID|BA31566531}}。)
*([[蓮實重彦]])『デジタル小津安二郎 - キャメラマン厚田雄春の視』(東京大学総合研究博物館 1998年。{{全国書誌番号|99038883}}、{{NCID|BA41198569}}。)
=== 訳書 ===
* E・I・オーガニック, J・A・ヒンズ『インタプリティング計算機 - B1700/1800/1900シリーズ』(共立出版 1983年。ISBN 4320021908)
== 論文 ==
* 坂村健、「[https://ci.nii.ac.jp/naid/10014867849/ TRONトータルアーキテクチャ]」『アーキテクチャ ワークショップ イン シャパン'84』 1984, {{naid|10014867849}}, 情報処理学会
* 坂村健、「[https://doi.org/10.7210/jrsj.3.459 リアルタイム・オペレーティングシステムITRON]」『日本ロボット学会誌』 1985年 3巻 5号 p.459-466, {{doi|10.7210/jrsj.3.459}}, 日本ロボット学会
* 坂村健、「[https://doi.org/10.2493/jjspe.53.1546 TRONプロジェクトの意義と現状]」『精密工学会誌』 1987年 53巻 10号 p.1546-1549, {{doi|10.2493/jjspe.53.1546}}, 精密工学会
* 坂村健、「[http://id.nii.ac.jp/1001/00003208/ デジタルミュージアム -コンピュータを駆使した新しい博物館の構築-]」『情報処理』 1998年 39巻 5巻, 情報処理学会
* 坂村健、「[https://doi.org/10.5363/tits.12.10_86 ユビキタスでつくる情報社会基盤]」『学術の動向』 2007年 12巻 10号 p.86-89, {{doi|10.5363/tits.12.10_86}}, 日本学術協力財団
* 別所正博 ほか、「ユビキタスコンピューティングと屋内環境の位置認識」『電子情報通信学会誌』 92(4), 249-255, 2009, {{naid|110007161920}}, 電子情報通信学会
== 参考文献・脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
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* [[TRONプロジェクト]]
* [[どこでもコンピュータ]]
* [[ユビキタス]]
* [[ICタグ]]
* [[電脳住宅]]
* [[トヨタ夢の住宅PAPI]]
* [[東洋大学大学院情報連携学研究科・情報連携学部]]
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== 外部リンク ==
{{Scholia}}
*{{Wayback |url=http://www.sakamura-lab.org/ |title=Sakamura-Koshizuka Laboratory(坂村・越塚研究室)|date=20210729021218}}
*[https://www.sankei.com/author/g0077/ 坂村健] - 産経ニュース
*[http://www.ubin.jp YRPユビキタス・ネットワーキング研究所]
*[https://www.tron.org/ja/ トロンフォーラム]
*[https://www.toyo.ac.jp/staff/17011.html 坂村 健]|東洋大学公式サイト
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吾輩は猫である
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『吾輩は猫である』(わがはいはねこである)は、夏目漱石の長編小説であり、処女小説である。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』にて発表されたのだが、好評を博したため、翌1906年(明治39年)8月まで継続した。上、1906年10月刊、中、1906年11月刊、下、1907年5月刊。
中学の英語教師苦沙弥先生の日常と、書斎に集まる美学者迷亭、理学者寒月、哲学者東風らといった明治の知識人たちの生活態度や思考を飼い猫の目を通して、ユーモアに満ちたエピソードとして描いた作品。
表面的にすぎない日本の近代化に対する、漱石の痛烈な文明批評・社会批判が表れている風刺小説。なお実際、本作品執筆前に、夏目家に猫が迷い込み、飼われることになった。その猫も、ずっと名前がなかったという。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。」という書き出しで始まり、中学校の英語教師である珍野苦沙弥の家に飼われている猫である「吾輩」の視点から、珍野一家や、そこに集う彼の友人や門下の書生たち、「太平の逸民」(第二話、第三話)の人間模様が風刺的・戯作的に描かれている。
着想は、E.T.A.ホフマンの長編小説『牡猫ムルの人生観』だと考えられている。 また『吾輩は猫である』の構成は、『トリストラム・シャンディ』の影響とも考えられている。
漱石が所属していた俳句雑誌『ホトトギス』では、小説も盛んになり、高浜虚子や伊藤左千夫らが作品を書いていた。こうした中で虚子に勧められて漱石も小説を書くことになった。それが1905年1月に発表した『吾輩は猫である』で、当初は最初に発表した第1回のみの、読み切り作品であった。しかもこの回は、漱石の許可を得た上で虚子の手が加えられており、他の回とは多少文章の雰囲気が異なる。だがこれが好評になり、虚子の勧めで翌年8月まで、全11回連載し、掲載誌『ホトトギス』は売り上げを大きく伸ばした(元々俳句雑誌であったが、有力な文芸雑誌の一つとなった)。
タバコではじまり、ビールで終わる。皮肉にも大きな池で始まり、水甕(みずがめ)で終わる構成になっている。
主人公「吾輩」のモデルは、漱石37歳の年に夏目家に迷い込んで住み着いた、野良の黒猫である。1908年9月13日に猫が死亡した際、漱石は親しい人達に猫の死亡通知を出した。また、猫の墓を立て、書斎裏の桜の樹の下に埋めた。小さな墓標の裏に「この下に稲妻起る宵あらん」と安らかに眠ることを願った一句を添えた後、猫が亡くなる直前の様子を「猫の墓」(『永日小品』所収)という随筆に書き記している。毎年9月13日は「猫の命日」である。
『猫』が執筆された当時の漱石邸は東京市本郷区駒込千駄木町(現・文京区向丘2丁目)にあった。この家は愛知県の野外博物館・明治村に移築されていて公開されている。東京都新宿区早稲田南町の漱石山房記念館(漱石山房跡地)には「猫塚」があるが、戦災で焼損し戦後その残欠から復元したものだという。
最終回で、迷亭が苦沙弥らに「詐欺師の小説」を披露するが、これはロバート・バーの『放心家組合』のことである。この事実は、大蔵省の機関誌『ファイナンス』1966年4月号において、林修三によって初めて指摘された。同様の指摘は、1971年2月号の文藝春秋誌上で山田風太郎によっても行われている。
古典落語のパロディが幾つか見られる。例をあげると、窃盗犯に入れられた次の朝、苦沙弥夫婦が警官に盗まれた物を聞かれる件(第五話)は『花色木綿(出来心)』の、寒月がバイオリンを買いに行く道筋を言いたてるのは『黄金餅』の、パロディである。迷亭が洋食屋を困らせる話にはちゃんと「落ち」までつけ一席の落語としている。漱石は三代目柳家小さんなどの落語を愛好したが、『猫』は落語の影響が最も強く見られる作品である。
第三話にて寒月が講演の練習をする「首縊りの力学」は、漱石の弟子で物理学者・随筆家の寺田寅彦が提供した実在の論文、Samuel Haughton "On Hanging ; Considered from a Mechanical and Physiological Point of View" が基になっている。
1905年1月にのちの第1章に相当する部分が発表され、その後1905年2月(第2章)、4月(第3章)、5月(第4章)、6月(第5章)、10月(第6章)、1906年1月(第7章および第8章)、3月(第9章)、4月(第10章)、8月(第11章)と掲載された。
第1巻(第1章 - 第3章)は1905年10月6日に、第2巻(第4章 - 第7章)は1906年11月4日に、第3巻(第8章 - 第11章)は1907年5月19日に大倉書店と服部書店から刊行された。全1冊としては1911年に刊行された。1918年に漱石全集の第1巻に収録された。
本作を原作として1936年と1975年に映画化されている。(吾輩は猫である (映画)を参照のこと)
多くのパロディ小説も生まれた。『吾輩ハ鼠デアル』(1907年(明治40年)9月刊)、『我輩ハ小僧デアル』(1908年3月刊)などである。三島由紀夫も少年時代(中等科1年)に『我はいは蟻である』(1937年)という童話的な小品を書いており、「我はいは暗い暗い部屋の中で生れ出た。」という幼虫からの書き出しで始まり、変身前の自分を「うじ」と呼んで嫌う人間どもを「人間とは可笑しな動物」と言い、蛹から蟻になった「我はい」が重いビスケットを背負ってそれを舐めて美味しかったエピソードなどが描かれている。
2006年代には宮藤官九郎の脚本で昼帯テレビドラマ『吾輩は主婦である』がTBSで放送された。(これは"夏目漱石が乗り移った主婦"が繰り広げるホームコメディ、だったとのこと)
2019年には演出家ノゾエ征爾による『吾輩は猫である』が東京芸術祭2019で上演された(これは夏目漱石の作品を下敷きにしつつ、大胆に換骨奪胎し、総勢80名弱のキャストで新基軸の劇世界を作ったものとのこと)
2度映画化された。1936年版と1975年版がある。
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"text": "漱石が所属していた俳句雑誌『ホトトギス』では、小説も盛んになり、高浜虚子や伊藤左千夫らが作品を書いていた。こうした中で虚子に勧められて漱石も小説を書くことになった。それが1905年1月に発表した『吾輩は猫である』で、当初は最初に発表した第1回のみの、読み切り作品であった。しかもこの回は、漱石の許可を得た上で虚子の手が加えられており、他の回とは多少文章の雰囲気が異なる。だがこれが好評になり、虚子の勧めで翌年8月まで、全11回連載し、掲載誌『ホトトギス』は売り上げを大きく伸ばした(元々俳句雑誌であったが、有力な文芸雑誌の一つとなった)。",
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"text": "主人公「吾輩」のモデルは、漱石37歳の年に夏目家に迷い込んで住み着いた、野良の黒猫である。1908年9月13日に猫が死亡した際、漱石は親しい人達に猫の死亡通知を出した。また、猫の墓を立て、書斎裏の桜の樹の下に埋めた。小さな墓標の裏に「この下に稲妻起る宵あらん」と安らかに眠ることを願った一句を添えた後、猫が亡くなる直前の様子を「猫の墓」(『永日小品』所収)という随筆に書き記している。毎年9月13日は「猫の命日」である。",
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"text": "2019年には演出家ノゾエ征爾による『吾輩は猫である』が東京芸術祭2019で上演された(これは夏目漱石の作品を下敷きにしつつ、大胆に換骨奪胎し、総勢80名弱のキャストで新基軸の劇世界を作ったものとのこと)",
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『吾輩は猫である』(わがはいはねこである)は、夏目漱石の長編小説であり、処女小説である。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』にて発表されたのだが、好評を博したため、翌1906年(明治39年)8月まで継続した。上、1906年10月刊、中、1906年11月刊、下、1907年5月刊。 中学の英語教師苦沙弥先生の日常と、書斎に集まる美学者迷亭、理学者寒月、哲学者東風らといった明治の知識人たちの生活態度や思考を飼い猫の目を通して、ユーモアに満ちたエピソードとして描いた作品。 表面的にすぎない日本の近代化に対する、漱石の痛烈な文明批評・社会批判が表れている風刺小説。なお実際、本作品執筆前に、夏目家に猫が迷い込み、飼われることになった。その猫も、ずっと名前がなかったという。
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{{基礎情報 書籍
|title = 吾輩は猫である
|orig_title = 吾輩ハ猫デアル(初版表記)
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|image_caption = 『吾輩ハ猫デアル 上編』ジャケット下絵<br/>装丁[[橋口五葉]]([[1905年]])
|author = [[夏目漱石|夏目金之助]](漱石)
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『'''吾輩は猫である'''』(わがはいはねこである)は、[[夏目漱石]]の[[長編小説]]であり、[[処女]][[小説]]である。[[1905年]](明治38年)1月、『[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]』にて発表されたのだが、好評を博したため、翌[[1906年]](明治39年)8月まで継続した。上、1906年10月刊、中、1906年11月刊、下、1907年5月刊。
中学の英語教師苦沙弥先生の日常と、書斎に集まる美学者迷亭、理学者寒月、哲学者東風らといった明治の知識人たちの生活態度や思考を飼い猫の目を通して、ユーモアに満ちたエピソードとして描いた作品。
表面的にすぎない日本の近代化に対する、漱石の痛烈な文明批評・社会批判が表れている風刺小説。なお実際、本作品執筆前に、夏目家に猫が迷い込み、飼われることになった。その猫も、ずっと名前がなかったという。
== 概要 ==
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。」という書き出しで始まり、中学校の英語[[教員|教師]]である珍野苦沙弥の家に飼われている[[猫]]である「吾輩」の視点から、珍野一家や、そこに集う彼の友人や門下の[[書生]]たち、「太平の逸民」(第二話、第三話)の人間模様が[[風刺]]的・[[戯作]]的に描かれている。
着想は、[[E.T.A.ホフマン]]の長編小説『[[牡猫ムルの人生観]]』だと考えられている<ref>{{Cite web|和書|url= http://nekotetu.com/cgi-bin/nekotetu.cgi?cont=1&cono=52 |title= 50 【我が輩は盗作である】『我が輩は猫である』をはじめて読んだ |work= 猫哲学 |accessdate= 2016-06-03 }}</ref><ref group="注" name="itou">『吾輩は猫である』の内容が『牡猫ムルの人生観』に影響を受けているかについては、影響を受けているとする[[藤代素人]]、[[秋山六郎兵衛]]、[[板垣直子]]らの論と、着想を得たのみで内容にまでは影響を受けていないとする[[吉田六郎]]、[[石丸静雄]]らの論とが混在する。漱石自身は影響を受けていないと述べている。</ref><ref group="注">[[丸谷才一]]が[[仙台文学館]]の初代館長になった[[井上ひさし]]に電話をかけ、19世紀初頭によく読まれた『ポピー・ザ・リトル』という俗小説が、子犬が上流から下流階級まですべてを見て回りその見聞を猛烈な社会批判にしているという内容で、漱石がこれを知って『吾輩』を書いたと考えられると言った。すると[[東北大学]]の漱石文庫にはないが、これを評価したTHE ENGLISH NOVEL[[:en:Walter Raleigh (professor)|(Walter Raleigh)]]があるので、何らかの印がないか学芸員に見てきてもらえないかとひさしは依頼した。翌日、学芸員が確認すると、『ポピー・ザ・リトル』の項に、はっきりと線が引かれていた([[笹沢信]]『ひさし伝』[[新潮社]] [[2012年]] pp.390f.)。</ref>。
また『吾輩は猫である』の構成は、『[[トリストラム・シャンディ]]』の影響とも考えられている<ref>伊藤整は新潮文庫版『吾輩は猫である』の解説において、「しかしこういう筋の発展のない小説を十一回にもわたって漱石が確信をもって書いたということは、彼が『トリストラム・シャンディーの生涯と意見』のような小説があることを知っていたことから来ていることは明らかである。」と記した(p.609、2004)。</ref><ref>丸谷才一『思考のレッスン』文春文庫、p.203、2012。</ref>。
[[File:Manuscripts of "I Am a Cat".jpg|thumb|250px|『吾輩は猫である』原稿の一部]]
漱石が所属していた[[俳句]][[雑誌]]『[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]』では、小説も盛んになり、[[高浜虚子]]や[[伊藤左千夫]]らが作品を書いていた。こうした中で虚子に勧められて漱石も小説を書くことになった。それが1905年1月に発表した『吾輩は猫である』で、当初は最初に発表した第1回のみの、読み切り作品であった<ref name=nichiroku1905>『週刊YEARBOOK 日録20世紀』第85号 講談社、1998年、27-29頁</ref>。しかもこの回は、漱石の許可を得た上で虚子の手が加えられており<ref name=nichiroku1905 />、他の回とは多少文章の雰囲気が異なる。だがこれが好評になり、虚子の勧めで翌年8月まで、全11回連載し、掲載誌『ホトトギス』は売り上げを大きく伸ばした(元々俳句雑誌であったが、有力な文芸雑誌の一つとなった)<ref name=nichiroku1905 /><ref group="注">第1回、第2回の連載号は完売し、夏目の「[[坊つちやん]]」と同時掲載となった第10回掲載号は5,500部を発行するに至る。これは総合雑誌「[[中央公論]]」と同程度であった。</ref>。
== 登場する人物と動物 ==
[[ファイル:I Am a Cat Monument at Ochanomizu elementary school.jpg|thumb|漱石の母校・錦華小学校(現・[[千代田区立お茶の水小学校]])の前にある「吾輩は猫である」の記念碑<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.fa-right.co.jp/map/map03.html|title=神田お散歩MAP 夏目漱石の碑|publisher=株式会社ライト|accessdate=2017-04-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170423143159/http://www.fa-right.co.jp/map/map03.html|archivedate=2017-04-23}}</ref>]]
;吾輩(主人公の猫)
:珍野家で飼われている雄猫。本編の[[語り手]]。「吾輩」は一人称であり、彼自身に名前はない。人間の生態を鋭く観察したり、猫ながら古今東西の文芸に通じており哲学的な思索にふけったりする。人間の内心を読むこともできる。三毛子に恋心を抱いている。最後は飲み残しの[[ビール]]に酔い、水[[甕]]に落ちて出られぬまま溺れ死ぬ(第十一話)。毛色は淡灰色の斑入(第六話)。生年は、苦沙弥先生が猫を描いた[[年賀状]]を見ながら「今年は[[征露]]の第二年目」と呟いていること(第二話)から1905年(明治38年)とわかるので、その前年の1904年(明治37年)生まれ。年齢は、第七話では「去年生れたばかりで、当年とつて一歳だ」、第十一話では「猫と生れて人の世に住む事もはや二年越し」。
;三毛子
:隣宅に住む[[二絃琴]]の御師匠さんの家の雌猫。「吾輩」を「先生」と呼ぶ。猫のガールフレンドだったが風邪をこじらせて死んでしまった(第二話)。「吾輩」が自分を好いていることに気付いていない。
;車屋の黒
:大柄な雄の黒猫。べらんめえ調で教養がなく、大変な乱暴者なので「吾輩」は恐れている。しかし、魚屋に天秤棒で殴られて足が不自由になる(第一話)。
;珍野 苦沙弥(ちんの くしゃみ)
:猫「吾輩」の飼い主で、文明中学校の[[英語]]教師(リーダー専門)。父は場末の名主で(第九話)、その一家は[[浄土真宗|真宗]](第四話)。年齢は、学校を卒業して9年目か(第五話)、また「三十面(づら)下げて」と言われる(第四話)。妻と3人の娘がいる。偏屈な性格で、胃が弱く、[[ノイローゼ]]気味である([[夏目漱石|漱石]]自身がモデルとされる)。[[あばた]]面で、くちひげをたくわえる。その顔は[[今戸焼]]のタヌキとも評される(第三、八、十話)。頭髪は長さ二寸くらい、左で分け、右端をちょっとはね返らせる。吸う[[たばこ|タバコ]]は[[朝日 (たばこ)|朝日]]。酒は、元来飲めず(第十一話)、平生なら猪口で2杯(第七話)。わからぬもの、役人や警察をありがたがる癖がある(第九話)。なお[[胃弱]]で健康に気を遣うあまり、毎食後には[[タカジアスターゼ]]を飲み、また時には[[鍼灸術]]を受け悲鳴を上げたり[[マッサージ|按腹もみ療治]]を受け悶絶したりとかなりの苦労人でもある。
;迷亭(めいてい)
:苦沙弥の友人の[[美学]]者。ホラ話で人をかついで楽しむのが趣味の粋人。近眼で、金縁眼鏡を装用し、金唐皮の烟草入を使用する。
:美学者[[大塚保治 (美学者)|大塚保治]]がモデルともいわれるが漱石は否定したという。また、漱石の妻[[夏目鏡子|鏡子]]の著書『漱石の思ひ出』には、漱石自身が自らの洒落好きな性格を一人歩きさせたのではないかとする内容の記述がある。
;水島 寒月(みずしま かんげつ)
:苦沙弥の元教え子の理学士で、苦沙弥を「先生」とよぶ。なかなかの好男子。戸惑いしたヘチマのような顔(第四話)。富子に演奏会で一目惚れする。高校生時代から[[バイオリン]]をたしなむ。吸うタバコは朝日と[[敷島 (たばこ)|敷島]]。門下生の[[寺田寅彦]]がモデルといわれる。
;越智 東風(おち とうふう)
:[[新体詩]]人で、寒月の友人。<!---韻を含んでいるので--->「おち こち」と自称している。故郷は[[鰹節]]の名産地<!--どこかは不明-->。絶対の域に至る道は愛の道と芸術の道であり、夫婦の愛がすべての愛の代表であるから未婚でいることは天の意志にそむくことになるという(第十一話)。
;八木 独仙(やぎ どくせん)
:[[哲学]]者。長い顔に[[ヤギ]]のような髭を生やし、深遠な警句を語る。40歳前後。
;甘木先生
:苦沙弥の主治医、温厚な性格。「甘木先生」は[[縦書き]]だと「某先生」と読める([[尼子四郎]]がモデルとされる)。<!---乞われて催眠術をかけるが、かからなかった。--->
;金田(かねだ)
:近所の実業家。苦沙弥に嫌われている。苦沙弥をなんとかして凹ませてやろうと嫌がらせをする。
;金田 鼻子(はなこ)
:金田の細君。寒月と自分の娘との縁談について珍野邸に相談に来るが、横柄な態度で苦沙弥に嫌われる。巨大な鍵鼻の持ち主で「鼻子」と「吾輩」に称される(鼻が大きくて「鼻の圓遊」と呼ばれた明治の落語家初代[[三遊亭圓遊]]にヒントを得て創作されたという説がある)。年齢は40の上を少し超したくらい(第三話)。
;金田 富子(とみこ)
:金田の娘。母親似でわがままだが、巨大な鼻までは母親に似ていない。寒月に同じく演奏会で一目惚れする。[[阿倍川餅]]が大の好物。
;鈴木 籐十郎(すずき とうじゅうろう)
:苦沙弥、迷亭の学生時代の同級生。[[学士(工学)|工学士]]。九州の炭鉱にいたが東京詰めになる(月給250円+盆暮の手当)。金田家に出入りし、金田の意を受けて苦沙弥の様子をさぐる。
;多々良 三平(たたら さんぺい)
:苦沙弥の教え子。[[肥前国]][[唐津市|唐津]]の出身。[[学士(法学)|法学士]]。六つ井物産会社役員(月給30円)。貯蓄は50円。猫鍋をしきりと恩師である苦沙弥にすすめる。
;牧山(まきやま)
:[[静岡県|静岡]]在住の迷亭の伯父。[[漢学]]者。[[赤十字]]総会出席のため上京し、苦沙弥宅を訪問する。[[丁髷]]を結い、武士の暗器・鍛錬具である[[鉄扇]]を手放さない、まさしく旧幕時代の権化のような人物である。[[内藤鳴雪]]がモデルとされる。
;'''珍野夫人'''
:珍野苦沙弥の細君。英語や小難しい話はほとんど通じない。頭にハゲがあり、身長は低い(第四話)。[[いびき]]をかく(第五話)。漱石の妻[[夏目鏡子|鏡子]]がモデルとも。
;珍野 とん子
:珍野家の長女。「お茶の水」を「お茶の味噌」と、「元禄」を「双六」と、「火の粉」を「茸(きのこ)」と、「大黒(だいこく)」を「台所(だいどこ)」と、「裏店(うらだな)」を「藁店(わらだな)」と言うような、言葉間違いが多い。顔の輪郭は、南蛮鉄の刀の鍔のようである(第十話)。
;珍野 すん子
:珍野の次女。いつも姉のとん子と一緒にいる。顔は、琉球塗りの朱盆のようである(第十話)。
;珍野 めん子
:珍野家の三女。「当年とつて三歳」(第十話)。通称「坊ば」。「ばぶ」が口癖。顔は、横に長い面長(おもなが)(第十話)。
;御三(おさん)
:珍野家の[[女中|下女]]。名は清という。主人公の猫「吾輩」を好いていない。[[埼玉県|埼玉]]の出身。睡眠中に歯ぎしりをする(第五話)。
;雪江
:苦沙弥の姪、女学生。17、8歳。時々珍野邸に来て苦沙弥とケンカする。寒月に淡い恋心を抱いている。モデルは[[久保より江]]とされる<ref>坂本宮尾「この道をかくゆく ―近代女性俳人伝 (2)」俳壇36巻2号135頁</ref>。
;二絃琴の御師匠さん
:三毛子の飼い主。「[[天璋院]]様の御[[祐筆]]の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘」である。
;古井 武右衛門(ふるい ぶえもん)
:珍野の監督下の中学生。2年乙組。頭部が大きく毬栗頭。
;吉田 虎蔵(よしだ とらぞう)
:[[警視庁 (内務省)|警視庁]]浅草警察署日本堤分署の刑事巡査。
;泥棒陰士
:水島寒月と酷似する容貌の窃盗犯。長身で、26、7歳。喫煙者。
;八(や)っちゃん
:車屋の子供。苦沙弥先生が怒る度泣くという嫌がらせを金田から依頼された。
== 構成 ==
タバコではじまり、ビールで終わる。皮肉にも大きな池で始まり、水甕(みずがめ)で終わる構成になっている。
;第1話:「吾輩」の最初の記憶は、「薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた」ことである。出生の場所は当人の記憶にはない(とんと見当がつかぬ)。その後まもなく書生に拾われ、書生が顔の真ん中から煙を吹いていたものがタバコであることをのちに知る。書生の掌の上で運ばれ(移動には何を利用したかは不明)、笹原に我輩だけ遺棄される。その後大きな池の前~何となく人間臭い所~竹垣の崩くずれた穴から、とある邸内に入り込み、下女につまみ出されそうになったところを教師(苦沙弥先生)に拾われ、住み込む。人間については飼い主の言動によりわがままであること、また車屋の黒によると、不人情で泥棒も働く不徳者であると判断する。
;第2話:家に、寒月、迷亭、東風などが訪問し、好き放題のでたらめを言う。三毛子が死去し、吾輩は恋に破れる。
;第3話:金田の妻が寒月のことを訊きに来て、寒月が博士にならなければ娘の富子と結婚させないという。
;第4話:鈴木が金田の意向を聞いて、寒月の様子を探りに来る。
;第5話:苦沙弥宅に泥棒が入る。吾輩はネズミ取りに失敗する。
;第6話:寒月、迷亭、東風による恋愛談義、女性論。
;第7話:吾輩は運動し、公衆浴場をのぞき見る。
;第8話:落雲館中学校生徒が苦沙弥宅の庭に野球ボールを打ち込み、苦沙弥は激高する。
;第9話:迷亭の伯父である牧山が苦沙弥宅を訪れる。
;第10話:古井が金田の娘に恋文を送り、退校処分にならないかと心配して苦沙弥宅に来る。
;第11話:寒月は珠磨をやめ、故郷で結婚した。独仙、苦沙弥、寒月、東風らによる夫婦論、女性論。来客が帰ったあと、吾輩は飲み残しのビールに酩酊し、「[[おっちょこちょい節|猫じゃ猫じゃ]]」を踊りたくなるほど陽気になり、水甕のなかに転落して[[水死]]する。
== 素材 ==
主人公「吾輩」のモデルは、漱石37歳の年に夏目家に迷い込んで住み着いた、野良の黒猫である<ref name=nichiroku1905 />。[[1908年]]9月13日に猫が死亡した際、漱石は親しい人達に猫の死亡通知を出した<ref name=nichiroku1905 />。また、猫の墓を立て、書斎裏の桜の樹の下に埋めた。小さな墓標の裏に「この下に稲妻起る宵あらん」と安らかに眠ることを願った一句を添えた後、猫が亡くなる直前の様子を「猫の墓」(『永日小品』所収)という随筆に書き記している。毎年9月13日は「猫の命日」である<ref>“名前はないが日本一有名な「吾輩(わがはい)」のモデルだった“”(「春秋」[[日本経済新聞]]2014年9月13日)。</ref>。
[[File:Nekozuka 2017-10-08.jpg|thumb|150px|猫塚]]
『猫』が執筆された当時の漱石邸は東京市[[本郷区]]駒込千駄木町(現・[[文京区]]向丘2丁目)にあった。この家は愛知県の野外博物館・[[博物館明治村|明治村]]に移築されていて公開されている。[[東京都]][[新宿区]][[早稲田南町]]の[[新宿区立漱石山房記念館|漱石山房記念館]](漱石山房跡地)には「猫塚」があるが、戦災で焼損し戦後その残欠から復元したものだという。
最終回で、迷亭が苦沙弥らに「詐欺師の小説」を披露するが、これは[[ロバート・バー]]の『[[放心家組合]]』のことである。この事実は、[[大蔵省]]の機関誌『ファイナンス』1966年4月号において、[[林修三]]によって初めて指摘された<ref>{{Cite web|和書|url=http://tul.library.tohoku.ac.jp/modules/coll/files/sdoc.pdf |title=漱石文庫関係文献目録 |format=PDF |publisher=[[東北大学附属図書館]] |accessdate=2012-11-25 }}</ref>。同様の指摘は、1971年2月号の[[文藝春秋]]誌上で[[山田風太郎]]によっても行われている。
[[古典落語]]のパロディが幾つか見られる。例をあげると、窃盗犯に入れられた次の朝、苦沙弥夫婦が警官に盗まれた物を聞かれる件(第五話)は『[[花色木綿]](出来心)』の、寒月がバイオリンを買いに行く道筋を言いたてるのは『[[黄金餅]]』の、パロディである。迷亭が洋食屋を困らせる話にはちゃんと「落ち」までつけ一席の落語としている。漱石は三代目[[柳家小さん]]などの落語を愛好したが、『猫』は落語の影響が最も強く見られる作品である{{要出典|date=2009年5月}}。
第三話にて寒月が講演の練習をする「首縊りの力学」は、漱石の弟子で[[物理学者]]・[[随筆家]]の[[寺田寅彦]]が提供した実在の論文、Samuel Haughton "On Hanging ; Considered from a Mechanical and Physiological Point of View" が基になっている<ref group="注">Samuel Haughton "[https://archive.org/details/b22282889 On Hanging Considered from a Mechanical and Physiological Point of View]" ([[The Internet Archive]]) 寺田寅彦 『[http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2472_9315.html 夏目先生の追憶]』に紹介の経緯が書かれている。寺田は「レヴェレンド(Reverend、日本語の「師」にあたる聖職者の尊称)・ハウトン」としているが、正確には、サミュエル・ホートン[[:en:Samuel Haughton]]である。 論文の概要については、寅彦の弟子である[[中谷宇吉郎]]の 『[http://www.aozora.gr.jp/cards/001569/card57451.html 寒月の「首縊りの力学」その他]』を参照。</ref>。
<gallery>
File:House of Ogai Mori and Soseki Natsume at Meiji-mura.jpg|千駄木にあった旧漱石邸(愛知県・[[博物館明治村|明治村]]に移築保存)
File:House of Ogai Mori and Soseki Natsume - Cat - Meiji-mura.jpg|同左
</gallery>
== 書誌情報 ==
[[File:Illustration of "I Am a Cat" by Nakamura Fusetsu 01.jpg|thumb|150px|初版上巻の挿絵([[中村不折]]筆)]]
1905年1月にのちの第1章に相当する部分が発表され、その後1905年2月(第2章)、4月(第3章)、5月(第4章)、6月(第5章)、10月(第6章)、1906年1月(第7章および第8章)、3月(第9章)、4月(第10章)、8月(第11章)と掲載された。
第1巻(第1章 - 第3章)は[[1905年]][[10月6日]]に、第2巻(第4章 - 第7章)は[[1906年]][[11月4日]]に、第3巻(第8章 - 第11章)は[[1907年]][[5月19日]]に[[大倉書店]]と[[服部書店]]から刊行された。全1冊としては1911年に刊行された。1918年に漱石全集の第1巻に収録された。
*{{Cite book|和書|author=夏目金之助|authorlink=夏目漱石|date=1905-10-06|title=吾輩ハ猫デアル|volume=上|publisher=大倉書店|page=290|id={{近代デジタルライブラリー|888725}}|ref=夏目1905}}
*{{Cite book|和書|author=夏目金之助|authorlink=夏目漱石|date=1906-11-04|title=吾輩ハ猫デアル|volume=中|publisher=大倉書店|page=238|id={{近代デジタルライブラリー|888726}}|ref=夏目1906}}
*{{Cite book|和書|author=夏目金之助|authorlink=夏目漱石|date=1907-05-19|title=吾輩ハ猫デアル|volume=下|publisher=大倉書店|page=218|id={{近代デジタルライブラリー|888727}}|ref=夏目1907}}
*{{Cite book|和書|author=夏目漱石|authorlink=夏目漱石|date=1918-01-01|title=吾輩は猫である|series=漱石全集 第1巻|publisher=漱石全集刊行会|page=606|id={{近代デジタルライブラリー|957303}}|ref=夏目1918}}
*{{Cite book|和書|author=夏目漱石|editor=東洋文芸研究会 編著|origdate=1925-11-30|date=1934-06-28|title=漱石名作選集|edition=20版|publisher=坂東三弘社|id={{近代デジタルライブラリー|1106011/5}}|ref=夏目1925}}
*{{Cite book|和書|author=夏目漱石|year=1968|title=吾輩ハ猫デアル|series=近代文学館 名著複刻全集 35|volume=全3冊|publisher=日本近代文学館(出版) 図書月販(発売)|ref=夏目1968}} - [[#夏目1905|大倉書店・服部書店刊(1905-1907)]]の複製。
**{{Cite book|和書|author=夏目漱石|editor=名著複刻全集編集委員会|year=1976|month=6|title=吾輩ハ猫デアル|series=漱石文学館 名著複刻|volume=全3冊|publisher=日本近代文学館(出版) ほるぷ(発売)|ref=夏目1976}} - [[#夏目1905|大倉書店・服部書店刊(1905-1907)]]の複製。
*{{Cite book|和書|author=夏目漱石|year=1999|month=6|title=ザ・漱石|edition=増補新版|publisher=第三書館|isbn=4-8074-9910-6|ref=夏目1999}}
**{{Cite book|和書|author=夏目漱石|year=2006|month=4|title=ザ・漱石 全小説全二冊 グラスレス眼鏡無用|edition=大活字版|volume=下巻|publisher=第三書館|isbn=4-8074-0601-9|ref=夏目2006}}
=== オーディオブック(朗読)版 ===
* 夏目漱石 著 「吾輩は猫である」、[[ことのは出版]]、[https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AFCD-%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3-%E8%91%97-%E3%80%8C%E5%90%BE%E8%BC%A9%E3%81%AF%E7%8C%AB%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%8D-CD20%E6%9E%9A/dp/B0019X3NFQ/ref=sr_1_12?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3+CD&qid=1560420015&s=books&sr=1-12 ASIN B0019X3NFQ]
== 派生作品、影響を受けた作品 ==
本作を原作として1936年と1975年に映画化されている。([[吾輩は猫である (映画)]]を参照のこと)
多くの[[パロディ]]小説も生まれた。『吾輩ハ鼠デアル』(1907年(明治40年)9月刊)、『我輩ハ小僧デアル』(1908年3月刊)などである。[[三島由紀夫]]も少年時代(中等科1年)に『我はいは蟻である』([[1937年]])という童話的な小品を書いており、「我はいは暗い暗い部屋の中で生れ出た。」という幼虫からの書き出しで始まり、変身前の自分を「うじ」と呼んで嫌う人間どもを「人間とは可笑しな動物」と言い、蛹から蟻になった「我はい」が重いビスケットを背負ってそれを舐めて美味しかったエピソードなどが描かれている<ref>{{Cite book|title=決定版 三島由紀夫全集〈補巻〉補遺・索引|Author=[[三島由紀夫]]|publisher=[[新潮社]]|date=2005年12月isbn=978-4106425837}}pp.19-20</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mishimayukio.jp/newdata2.html|title=三島由紀夫文学館**新資料紹介|publisher=三島由紀夫文学館|accessdate=2009年2月26日}}</ref>。
2006年代には[[宮藤官九郎]]の脚本で昼帯[[テレビドラマ]]『[[吾輩は主婦である]]』がTBSで放送された。(これは"夏目漱石が乗り移った主婦"が繰り広げるホームコメディ、だったとのこと<ref>[https://www.tbs.co.jp/tbs-ch/item/d1589/ TBS公式サイト、吾輩は主婦である]</ref>)
2019年には演出家ノゾエ征爾による『吾輩は猫である』が[[東京芸術祭]]2019で上演された(これは夏目漱石の作品を下敷きにしつつ、大胆に換骨奪胎し、総勢80名弱のキャストで新基軸の劇世界を作ったものとのこと<ref>[https://tokyo-festival.jp/2019/wagahaihanekodearu/ 東京芸術祭2019「吾輩は猫であるについて」]</ref>)
==映像化作品==
===映画===
2度映画化された。1936年版と1975年版がある。
{{Main|吾輩は猫である (映画)}}
===テレビドラマ===
;[[山一名作劇場]]『吾輩は猫である』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
:放送日時:1958年5月27日 - 6月24日(30分×5回)
*演出:安藤勇二
*脚本:田村幸二
*出演:[[斎藤達雄 (俳優)|斎藤達雄]]、[[三宅邦子]]、[[稲葉義男]]、[[舟橋元]]、[[山田美奈子]]、[[藤村有弘]]
*ナレーション:[[徳川夢声]]
;『吾輩は猫である』([[日本放送協会|NHK]])
:放送日時:1963年1月1日(60分×1回)
:関東地区における[[視聴率]]は40.2%を記録した([[ビデオリサーチ]]調べ<ref>引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、220頁。ISBN 4062122227</ref>)。
*脚本:キノトール
*出演
**苦沙弥:[[森繁久彌]]
**細君:[[淡路恵子]]
**迷亭:[[三木のり平]]
**寒月:[[有島一郎]]
**鼻子:[[沢村貞子]]
**富子:[[横山通乃|横山道代]]
**泥棒:[[八波むと志]]
**籐十郎:[[多々良純]]
**女中:[[久里千春]]
**猫の声:[[渥美清]]
;[[こども名作座]]『吾輩は猫である』(NHK)
:放送日時:1963年3月24日
;『ふたりは夫婦』第19回「わたくしは細君」~「吾輩は猫である」より~([[フジテレビジョン|フジテレビ]])
:放送日時:1975年2月17日(55分1回)
*脚本:田中澄江
*出演:[[八千草薫]]、[[長門裕之]]、[[篠田三郎]]、[[三谷昇]]
===テレビアニメ===
;[[日生ファミリースペシャル]]『吾輩は猫である』([[1982年]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系)<ref>{{Cite web|和書|title=吾輩は猫である - メディア芸術データベース |url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C7982 |website=mediaarts-db.bunka.go.jp |access-date=2022-12-17}}</ref>
*制作:フジテレビ、[[東映動画]]
*製作:[[今田智憲]]
*企画:[[栗山富郎]](東映動画)、[[久保田栄一]] (フジテレビ)
*企画コーディネーター:[[大橋益之助]] (大坂電通)
*脚本:[[大原清秀]]
*演出:[[りん・たろう]]
*撮影:[[岡芹利明]]
*キャラクターデザイン:[[はるき悦巳]](猫)、[[小松原一男]](その他)
*作画監督:小松原一男
*美術監督:[[椋尾篁]]
*出演者
**吾輩:[[山口良一]]
**クロ:[[なべおさみ]]
**マツ:[[向井真理子]]
**チヨ:[[佐藤恵利]]
**ベル:[[雨森雅司]]
**ドン:[[柴田秀勝]]
**珍野苦沙弥:[[坂上二郎]]
**細君:[[増山江威子]]
**水島寒月:[[野沢那智]]
**とん子:[[小林綾子]]
**すん太:[[工藤彰吾]]
**春子:[[藤田淑子]]
**金田:[[財津一郎]]
**金田夫人:[[朝井良江]]
**三平:[[麦人|寺田誠]]
**小山:[[矢田耕司]]
**森:[[郷ひろみ]](特別出演)
**青年:[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]]
**書生:[[塩屋浩三]]・[[塩屋翼]]
**婦人:[[恵比寿まさ子]]・[[山口奈々]]・[[宮崎恵子]]
*主題歌・エンディング「ベストフレンド」 作詞 - 長田弘 / 作曲 - 森田公一 / 編曲 - 青木望 / 歌 - 上野博樹
=== フィルムコミック ===
*日生ファミリースペシャル『吾輩は猫である』サンケイ出版名作コミックス(上・下)1982年8月5日
=== まんが ===
*{{Cite book|和書|others=夏目漱石 作・[[尾崎秀樹]] 監修・[[緒方都幸]] 漫画|year=1985|title=吾輩は猫である|series=旺文社名作まんがシリーズ A1|publisher=[[旺文社]]|isbn=4-01-023401-6|ref={{Harvid|夏目|尾崎|緒方|1985}}}}
*{{Cite book|和書|others=夏目漱石 作・[[バラエティ・アートワークス]] 企画・漫画|year=2010|title=吾輩は猫である|series=[[まんがで読破]]|publisher=[[イースト・プレス]]|isbn=978-4-7816-0347-6|ref={{Harvid|夏目|バラエティ・アートワークス|2010}}}}
== その他 ==
* オペラ『吾輩は猫である』- 曲・台本:[[林光]](1998年2月21日初演/[[新国立劇場]]小劇場/[[こんにゃく座]])
* [[宜志政信]]によるうちなー口翻訳 『吾んねー猫どぅやる』新報出版,『吾んねー猫どぅやる 完結編』新星出版
== 関連作品 ==
=== 小説 ===
* 『それからの漱石の猫』([[三四郎(作家)|三四郎]]、1920年)<ref>{{Cite book |title=それからの漱石の猫 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000577174-00 |publisher=日本書院 |date=1920 |location=東京 |last=三四郎}}</ref> - 『吾輩は猫である』の続編。1997年に『續吾輩は猫である』のタイトルで復刊<ref>{{Cite book |title=續吾輩は猫である |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002628465-00 |publisher=勉誠社 |date=1997 |location=東京 |last=三四郎}}</ref><ref>{{Cite book |title=続吾輩は猫である 復刻 |url=https://honto.jp/netstore/pd-book_01461537.html |language=ja}}</ref>
* 『贋作吾輩は猫である』([[内田百閒]]、[[1949年]]) - 『吾輩は猫である』の続編。
=== アニメ ===
* [https://www.youtube.com/watch?v=Vwv9pn0eS98 アニメ『君の棲む街 ~文京編/早稲田編~』] - ショートアニメ(2分30秒)。監督・脚本:[[高松明子]]、キャスト:[[石川界人]]、[[早見沙織]]、制作:[[ジェー・シー・スタッフ|J.C.STAFF]]。擬人化された2人の猫の物語。両者がモノローグで『吾輩は猫である』と『[[舞姫 (森鷗外)|舞姫]]』の一節を語る。2015年11月21日に開催された、[[森鷗外|森鴎外]]・夏目漱石ら文豪が暮らした街の魅力を発信する「[https://bunkyo.keizai.biz/headline/218/ 文京・早稲田 文豪ウィーク]」のオープニングイベントで公開された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連文献 ==
{{Wikisource|吾輩は猫である}}
*{{Cite book|和書|author=内田百閒|authorlink=内田百閒|year=1950|title=贋作吾輩は猫である|publisher=[[新潮社]]|id={{近代デジタルライブラリー|1706550}}|ref={{Harvid|内田|1950}}}} - 『吾輩は猫である』の続篇。
**{{Cite book|和書|author=内田百閒|date=2003-05-07|title=贋作吾輩は猫である|series=ちくま文庫 内田百閒集成 8|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=4-480-03768-3|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480037688/|ref={{Harvid|内田|2003}}}}
*{{Cite book|和書|author=奥泉光|authorlink=奥泉光|date=1996-01|title=『吾輩は猫である』殺人事件 純文学書下ろし特別作品|publisher=新潮社|isbn=4-10-600657-X|ref={{Harvid|奥泉|1996}}}}
**{{Cite book|和書|author=奥泉光|date=1999-03|title=『吾輩は猫である』殺人事件|series=新潮文庫|publisher=新潮社|isbn=4-10-128421-0|ref={{Harvid|奥泉|1999}}}}
**{{Cite book|和書|author=奥泉光|date=2009-01-23|title=『吾輩は猫である』殺人事件|edition=電子書籍|publisher=新潮社|asin=B00CL6N1M0|url=http://www.shinchosha.co.jp/ebook/E640821/|ref={{Harvid|奥泉|2009}}}}
*{{Cite book|和書|author=長山靖生|authorlink=長山靖生|date=1998-10-20|title=「吾輩は猫である」の謎|series=文春新書 009|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4-16-660009-0|url=https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166600090|ref={{Harvid|長山|1998}}}}
*{{Cite book|和書|author=南條竹則|authorlink=南條竹則|date=2000-09-10|title=あくび猫|publisher=文藝春秋|isbn=978-4-16-319540-7|url=https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163195407|ref={{Harvid|南條|2000}}}}
*{{Cite book|和書|author=間宮周吉|authorlink=間宮周吉|date=2010-02-28|title=吾輩の哲学 再読『猫』のことば|publisher=文藝春秋|isbn=978-4-16-008090-4|url=https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784160080904|ref={{Harvid|間宮|2010}}}}
*[[関川夏央]]原作・[[谷口ジロー]]作画 『「坊っちゃん」の時代』(1987年-1996年)[[漫画アクション]]([[双葉社]])夏目漱石の飼い猫が登場し、吾が輩は猫であるについても取り上げられている。
==外部リンク==
{{commonscat}}
*{{青空文庫|000148|47148|新字新仮名|『吾輩は猫である』上篇自序}}
*{{青空文庫|000148|2671|新字新仮名|『吾輩は猫である』中篇自序}}
*{{青空文庫|000148|2672|新字新仮名|『吾輩は猫である』下篇自序}}
*{{青空文庫|000148|789|新字新仮名|吾輩は猫である}}
*{{青空文庫|000148|790|旧字旧仮名|吾輩ハ猫デアル}}
*{{近代デジタルライブラリー書誌情報|41011117|吾輩ハ猫デアル}}
*[http://nada.c.ooco.jp/page042.html 『吾輩は猫である』 パロディ一覧] - [[ナダ出版センター]]
* [http://www.sosekiproject.org/ Soseki Project] (英語圏向けの漱石教材)
{{前後番組
|放送局=[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]
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[[Category:夏目漱石の小説]]
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ネクロノミコン
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ネクロノミコン (Necronomicon、邦訳題:死霊秘法) は、怪奇作家ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの一連の作品に登場する架空の書物である。ラヴクラフトが創造したクトゥルフ神話の中で重要なアイテムとして登場し、クトゥルフ神話を書き継いだ他の作家たちも自作の中に登場させ、この書物の遍歴を追加している。
アラビア人「アブドル・アルハズラット」(アブドゥル・アルハザードや、アブド・アル=アズラットと記される場合もある)が著わしたとされる架空の魔道書。『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』では黒魔術師ジョセフ・カーウィンが(『イスラムの琴』に擬装して)所有した。また、『ダニッチの怪』では、不完全な英語版が異世界からの怪物を召喚させるために用いられ、逆にそれを撃滅するためにも用いられた。
ラヴクラフトがこの魔道書の表題をギリシャ語としつつも起源をアラビアとしたのは、『アルマゲスト』の表題の逸話から着想を得たものであり、ヨーロッパではローマ帝国崩壊後に原書が失われてしまったプトレマイオスによる同書がアラビアに伝わって保存され、発展し、ルネサンス期にアラビア科学として逆輸入された歴史的事実を踏まえたものであると、知人に宛てた手紙の中で説明している。かくして本書は、失われた古代の知識という雰囲気を作り出すための道具立てとなった。
ラヴクラフトが創出した文献としては「ナコト写本」に続く2冊目の本である。作品としては、1922年作品『魔犬』にて初登場し、続いて1923年作品『魔宴』にも用いられた後、多用されるようになる。内容面では、初期は題名が表すように「死者の掟の表象あるいは絵」のような記述が暗示されていたが、次第にラヴクラフトの異次元の邪神にまつわる書物という面が強くなっている。
ロバート・W・チェンバースの創造した架空の呪われた書物「黄衣の王」からアイデアを得たラヴクラフトがネクロノミコンを作った、という俗説があるが、ラヴクラフトの作品にネクロノミコンが初登場したのが1922年、ラヴクラフトがチェンバーズの『黄衣の王』を読んだのが1926年のことなので、ありえない。逆にラヴクラフトは『ネクロノミコンの歴史』にて、ネクロノミコンを読んだチェンバーズが黄衣の王を創造した架空の可能性を示唆している。
ネクロノミコンは架空の書物であり、本来はクトゥルフシリーズの中でのみ語られてきた存在であったが、現代においては魔道書物の代名詞的存在として様々なメディアでその名前を目にすることができる。
ラヴクラフトが作中に記した架空の来歴によれば、狂える詩人アブドル・アルハズラットにより、730年ごろにダマスカスにおいて書かれた「アル・アジフ(Al Azif)」(もしくはキタブ・アル=アジフ:キタブは本/書の意)が原典であるとされる。「ネクロノミコン」の表題はギリシャ語への翻訳の際に与えられたものとされる。
ミスカトニック大学付属図書館などに収蔵されている(詳細は後述)。禁書指定されており、大変な稀覯書となっている。
原本アル・アジフから写本や翻訳を重ねるうちに劣化欠損が進んでいる。ラヴクラフトの『ダンウィッチの怪』では、手持ちのネクロノミコンに書かれていない分を補うために他のネクロノミコンを閲覧するというストーリーが描写された。
実際のアラビア語ではعزيف(ʿazīf, アズィーフ)という名詞があり、「風が吹いた時に鳴る砂の音」「雷鳴・轟き」「弓がぶんとうなる音」を意味する。中世のアラブ人は砂が鳴る・鳴く音や遠雷の不気味な音が(特に夜間に)聞かれるとジン(精霊的存在、人外。西欧における魔物的存在に対応。)が立てた音だと考えたことから、「ジンの声」「ジンの音」という意味も持つ。これに定冠詞をつけたものがالعزيف(al-ʿazīf, アル=アズィーフ。これの日本語に多い外国語名カタカナ表記がアル=アジフ、アル・アジフ、アルアジフ。)で、「本」を意味する名詞كتاب(kitāb, キターブ)を属格支配して複合語を作りكتاب العزيف(kitāb al-ʿazīf, キターブ・アル=アズィーフ。これの日本語に多い外国語名カタカナ表記がキタブ・アル=アジフなど。)となり架空の書ではあるがアラビア語として意味をなす名称となっている。
ギリシャ語のΝεκρός(Nekros 死体) - νόμος(nomos 掟) - εικών(eikon 表象) の合成語であり、「死者の掟の表象あるいは絵」の意とされる。
以下はラヴクラフトが記した資料「ネクロノミコンの歴史」の中で言及されている来歴であり、多くの作品中で事実として踏襲されている架空の歴史である。同資料では年表形式で書かれているが、ここでは版単位に整理して述べる。
収蔵状況が判明しているのは5冊で、15世紀ラテン語版1冊と、17世紀ラテン語版4冊。だが他にも秘密裏に何冊もが存在している。範囲をラヴクラフト作品以外に広げるとさらに増える。
ラヴクラフト作品を列挙する。括弧の中は執筆年/発表年。
フランク・ベルナップ・ロングの『喰らうものども』(1928)は、非ラヴクラフトによるクトゥルフ神話1号作品であり、冒頭にネクロノミコンディー博士版からの引用文を掲げた。またクラーク・アシュトン・スミスは『妖術師の帰還』(1931)にてネクロノミコンアラビア語版を登場させた。ロバート・E・ハワードは『夜の末裔』(1931)にてネクロノミコンギリシャ語版を読んだ人物を登場させ、また『屋根の上に』(1932)では無名祭祀書初版本をネクロノミコンギリシャ語版並の稀覯書であると言及している。
スミスは魔道書「エイボンの書」を創造し、アルハザードがエイボンの書を読んでいた可能性を示唆した。またハワードは魔道書「無名祭祀書」を創造し、著者フォン・ユンツトがネクロノミコンギリシャ語版を読んでいたことを示唆した。
ネクロノミコンは初期辞典『クトゥルー神話小辞典』『クトゥルー神話の魔道書』でも解説されており、全魔道書中最大の解説量が割り当てられている。
「ネクロノミコン」を再現しようとする試みはラヴクラフトの存命中からあり、ジェイムズ・ブリッシュがラヴクラフトに提案したこともある。ネクロノミコンは最低でも770ページくらいあり、それほどまでに大部な書物を著すのは自分の手に余るとラヴクラフトは1936年6月3日付の手紙でブリッシュに回答したが、ネクロノミコンと称する本が熱心なラヴクラフトのファン達によって実際に刊行されたことは何度かある。
1946年、ニューヨークで古書店を営んでいたフィリップ・ダシュネスがラテン語版「ネクロノミコン」を販売目録に追加して375ドルの値をつけた。そのことをウィンフィールド・タウンリー・スコットが『プロヴィデンス・ジャーナル』の記事で取り上げたため、ダシュネスは冗談を謝罪している。
1973年には、アウルズウィック・プレスが贋作と明言した上で『アル・アジフ』を出版。これは全ページをアラビア風文字の無意味な羅列で埋め尽くしただけのもので、コレクターズアイテム以上のものではなかった。
1978年、ジョージ・ヘイとコリン・ウィルソンが、16世紀ジョン・ディー版からの翻訳というふれこみで『魔道書ネクロノミコン』を出版。この本には、実在しているジョン・ディーの暗号文書をコンピュータ解析によって解読した「というもの」が載せられている。その内容は「驚くべき事に」、ジョン・ディーの時代より数百年後に描かれたラヴクラフトのクトゥルフ神話の内容と合致している。この解読結果が作者や関係者のネクロノミコンに対する所見や解読に至るまでの経緯などと共に、『ネクロノミコン断章』と銘打たれて収められている。
リン・カーターはジョン・ディー博士に仮託してネクロノミコン英語版からの「抜粋」を大量に執筆しており、それらはカーター没後の1996年にケイオシアムから刊行されたアンソロジーにまとめられており、邦訳もされている。
それまでに出版されたネクロノミコンに不満を感じていたドナルド・タイスンは、2004年に『ネクロノミコン アルハザードの放浪』を出版。ラヴクラフトが作中においてネクロノミコンからの引用として記述した文章を全て盛り込み、より設定に忠実な再現を試みている。
他に『ネクロノミコン』のタイトルを持つ有名な書籍として、スイスのシュールレアリズム画家H・R・ギーガーが1977年に出版した作品集があり、収録作の一つ「ネクロノームIV」に描かれた異形の怪物が後の『エイリアン』のベースとなった。
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"text": "1978年、ジョージ・ヘイとコリン・ウィルソンが、16世紀ジョン・ディー版からの翻訳というふれこみで『魔道書ネクロノミコン』を出版。この本には、実在しているジョン・ディーの暗号文書をコンピュータ解析によって解読した「というもの」が載せられている。その内容は「驚くべき事に」、ジョン・ディーの時代より数百年後に描かれたラヴクラフトのクトゥルフ神話の内容と合致している。この解読結果が作者や関係者のネクロノミコンに対する所見や解読に至るまでの経緯などと共に、『ネクロノミコン断章』と銘打たれて収められている。",
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ネクロノミコン (Necronomicon、邦訳題:死霊秘法) は、怪奇作家ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの一連の作品に登場する架空の書物である。ラヴクラフトが創造したクトゥルフ神話の中で重要なアイテムとして登場し、クトゥルフ神話を書き継いだ他の作家たちも自作の中に登場させ、この書物の遍歴を追加している。
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{{otheruseslist|架空の書物|フェアリーテールから1994年に発売されたアダルトゲーム|フェアリーテール (ブランド)|カゼから1996年に発売されたピンボールゲーム|デジタルピンボール}}
[[Image:Necronomicon_prop.jpg|thumb|right|225px|ラヴクラフトのファンによる再現]]
'''ネクロノミコン''' ({{lang|en|''Necronomicon''}}、邦訳題:死霊秘法) は、怪奇作家[[ハワード・フィリップス・ラヴクラフト]]の一連の作品に登場する架空の書物である。ラヴクラフトが創造した[[クトゥルフ神話]]の中で重要なアイテムとして登場し、クトゥルフ神話を書き継いだ他の作家たちも自作の中に登場させ、この書物の遍歴を追加している。
== 概要 ==
アラビア人「[[アブドル・アルハズラット]]」(アブドゥル・アルハザードや、アブド・アル=アズラットと記される場合もある)が著わしたとされる架空の[[魔道書]]。『[[チャールズ・ウォードの奇怪な事件]]』では黒魔術師ジョセフ・カーウィンが(『[[:en:Qanoon-e-Islam|イスラムの琴]]』に擬装して)所有した。また、『ダニッチの怪』では、不完全な英語版が異世界からの怪物を召喚させるために用いられ、逆にそれを撃滅するためにも用いられた。
ラヴクラフトがこの魔道書の表題をギリシャ語としつつも起源をアラビアとしたのは、『[[アルマゲスト]]』の表題の逸話から着想を得たものであり、ヨーロッパでは[[ローマ帝国]]崩壊後に原書が失われてしまった[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]による同書がアラビアに伝わって保存され、発展し、[[ルネサンス]]期に[[アラビア科学]]として逆輸入された歴史的事実を踏まえたものであると、知人に宛てた手紙の中で説明している<ref name="全集5_pp348">全集5、348-349ページ。</ref>。かくして本書は、失われた古代の知識という雰囲気を作り出すための道具立てとなった。
ラヴクラフトが創出した文献としては「[[ナコト写本]]」に続く2冊目の本である。作品としては、1922年作品『[[魔犬]]』にて初登場し、続いて1923年作品『[[魔宴]]』にも用いられた後、多用されるようになる。内容面では、初期は題名が表すように「死者の掟の表象あるいは絵」<ref name="全集5_pp348" />のような記述が暗示されていたが、次第にラヴクラフトの異次元の邪神にまつわる書物という面が強くなっている。
[[ロバート・W・チェンバース]]の創造した架空の呪われた書物「[[黄衣の王]]」からアイデアを得たラヴクラフトがネクロノミコンを作った、という俗説がある<ref>例えば、創元推理文庫『夜の夢見の川』(2017年刊行)収録「夜の夢見の川」317ページの解説でも、いまだに述べられている。</ref>が、ラヴクラフトの作品にネクロノミコンが初登場したのが1922年、ラヴクラフトがチェンバーズの『黄衣の王』を読んだのが1926年のことなので、ありえない。逆にラヴクラフトは『ネクロノミコンの歴史』にて、ネクロノミコンを読んだチェンバーズが黄衣の王を創造した架空の可能性を示唆している。
ネクロノミコンは架空の書物であり、本来はクトゥルフシリーズの中でのみ語られてきた存在であったが、現代においては魔道書物の代名詞的存在として様々なメディアでその名前を目にすることができる。
== 来歴 ==
ラヴクラフトが作中に記した架空の来歴によれば、狂える詩人アブドル・アルハズラットにより、[[730年]]ごろに[[ダマスカス]]において書かれた「'''アル・アジフ'''({{lang|en|Al Azif}})」(もしくは'''キタブ・アル=アジフ''':キタブは本/書の意)が原典であるとされる<ref name="全集5_pp311">全集5、311-322ページ。</ref><ref name="wikisource_HistoryOfTheNecronomicon">{{Cite wikisource|title=History of the Necronomicon|author=Howard Phillips Lovecraft|wslanguage=en}}</ref>。「ネクロノミコン」の表題は[[ギリシャ語]]への翻訳の際に与えられたものとされる<ref name="全集5_pp348" />。
[[ミスカトニック大学]]付属図書館などに収蔵されている(詳細は後述)。禁書指定されており、大変な稀覯書となっている。
原本アル・アジフから写本や翻訳を重ねるうちに劣化欠損が進んでいる。ラヴクラフトの『[[ダンウィッチの怪]]』では、手持ちのネクロノミコンに書かれていない分を補うために他のネクロノミコンを閲覧するというストーリーが描写された。
=== 名前 ===
実際のアラビア語では<span lang="ar" dir="rtl">عزيف</span>(ʿazīf, アズィーフ)という名詞があり、「風が吹いた時に鳴る砂の音」「雷鳴・轟き」「弓がぶんとうなる音」を意味する。中世のアラブ人は砂が鳴る・鳴く音や遠雷の不気味な音が(特に夜間に)聞かれるとジン(精霊的存在、人外。西欧における魔物的存在に対応。)が立てた音だと考えたことから、「ジンの声」「ジンの音」という意味も持つ<ref>{{Cite web |title=تعريف و شرح و معنى عزيف بالعربي في معاجم اللغة العربية معجم المعاني الجامع، المعجم الوسيط ،اللغة العربية المعاصر ،الرائد ،لسان العرب ،القاموس المحيط - معجم عربي عربي صفحة 1 |url=https://www.almaany.com/ar/dict/ar-ar/%D8%B9%D8%B2%D9%8A%D9%81/ |website=www.almaany.com |access-date=2022-11-04 |language=en |first=Almaany |last=Team}}</ref>。これに定冠詞をつけたものがالعزيف(al-ʿazīf, アル=アズィーフ。これの日本語に多い外国語名カタカナ表記がアル=アジフ、アル・アジフ、アルアジフ。)で、「本」を意味する名詞<span lang="ar" dir="rtl">كتاب</span>(kitāb, キターブ)を属格支配して複合語を作りكتاب العزيف(kitāb al-ʿazīf, キターブ・アル=アズィーフ。これの日本語に多い外国語名カタカナ表記がキタブ・アル=アジフなど。)となり架空の書ではあるがアラビア語として意味をなす名称となっている。
ギリシャ語の{{Lang|el|Νεκρός}}(Nekros 死体) - {{Lang|el|νόμος}}(nomos 掟) - {{Lang|el|εικών}}(eikon 表象) の合成語であり、「死者の掟の表象あるいは絵」の意とされる<ref name="全集5_pp348" />。
=== ネクロノミコンの歴史 ===
{{Wikisource|ネクロノミコンの歴史|3=日本語訳}}
{{Wikisourcelang|en|History of the Necronomicon|ネクロノミコンの歴史}}
以下はラヴクラフトが記した資料「ネクロノミコンの歴史」の中で言及されている来歴であり<ref name="全集5_pp311" /><ref name="wikisource_HistoryOfTheNecronomicon" />、多くの作品中で事実として踏襲されている架空の歴史である。同資料では年表形式で書かれているが、ここでは版単位に整理して述べる。
*アル・アジフ - [[アラビア語]]の原書。730年ごろ、[[アブドル・アルハズラット]]が[[ダマスカス]]で執筆。現存しないとされる。
*フィレタスの10世紀[[ギリシャ語]]版ネクロノミコン - 950年に[[コンスタンティノープル]]のテオドラス・フィレタス{{#tag:ref|架空の人物<ref>{{Cite book|author=Harms, Daniel and Gonce, John Wisdom III.|title=Necronomicon Files: The Truth Behind Lovecraft's Legend|date=2003-07-01|publisher=Weiser Books|page=331}}</ref>。|group="注"}}が、アル・アジフを「ネクロノミコン」の表題でギリシャ語に翻訳したもの。1050年に[[ミハイル1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|総主教ミカエル]]により焚書とされ、さらに1232年にはラテン語版と併せて禁書指定されている。
*ウォルミウスの13世紀[[ラテン語]]版 - 1228年に[[オラウス・ウォルミウス]]{{#tag:ref|'''16-17世紀の'''実在の医師。クトゥルフ神話設定で彼が『ネクロノミコン』を翻訳したとされる時代とは4世紀もの隔たりがある<ref>{{Cite book|author=Harms, Daniel and Gonce, John Wisdom III.|title=Necronomicon Files: The Truth Behind Lovecraft's Legend|date=2003-07-01|publisher=Weiser Books|page=332}}</ref>。|group="注"}}が、ギリシャ語版をラテン語に翻訳したもの。刊行の4年後、1232年に[[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|教皇グレゴリウス9世]]により、ギリシャ語版と併せて禁書指定されている。
*15世紀ラテン語版 - 14XX年にドイツで刊行された[[ゴチック]]体の版。1冊を[[大英博物館]]が収蔵。またアメリカの大富豪が所有するという噂あり。
*16世紀ギリシャ語版 - 1500-1550年ごろ、イタリアで刊行された版。1冊をアメリカの[[リチャード・アプトン・ピックマン|ピックマン家]]が所有していたが消失。
*ディー博士の16世紀英語版写本 - 1560-1608年ごろ、[[ジョン・ディー]]博士が、ラテン語版をもとに[[英語]]に翻訳したが、製本されなかった。後に不完全な写本が散逸し、1冊をダニッチの[[ダンウィッチの怪|ウェイトリー家]]が所有<ref name="全集5_pp256">全集5『[[ダニッチの怪]]』5章、256-257ページ。</ref><ref>{{Cite wikisource|title=The Dunwich Horror/Chapter V|author=Howard Phillips Lovecraft|wslanguage=en}}</ref>。
*17世紀ラテン語版 - 1600年ごろ、おそらくスペインで出版された版<ref group="注">全集5では「ラテン語版から[[スペイン語]]に翻訳」ともあるが、直前の記述や他の説明と矛盾するため誤りである。</ref><ref name="全集5_pp256" />。[[パリ国立図書館]]、[[ハーバード大学]][[ワイドナー図書館]]、'''[[ミスカトニック大学]]付属図書館'''、ブエノスアイレス大学図書館にある<ref>真ク2、解説(朝松健)276ページ。</ref><ref>クト2「クトゥルー神話の魔道書」(リン・カーター)、321-327ページ。</ref><ref name="全集5_pp311" /><ref name="全集5_pp256" /><ref group="注">新訳2収録『ネクロノミコンの歴史』の[[森瀬繚]]の訳注によると、パリ国立図書館は[[フランス国立図書館]]群5施設のうちのリシュリュー館と推定され(訳注No15)、またブエノスアイレス大学は架空の大学であり実在しない(訳注No17)とのこと。</ref>。
収蔵状況が判明しているのは5冊で、15世紀ラテン語版1冊<ref group="注">大英博物館収蔵という設定から、[[ラムジー・キャンベル]]や[[ブライアン・ラムレイ]]などイギリスの作家の作品で使用されている。</ref>と、17世紀ラテン語版4冊。だが他にも秘密裏に何冊もが存在している。範囲をラヴクラフト作品以外に広げるとさらに増える。
==重要な初期作品==
ラヴクラフト作品を列挙する。括弧の中は執筆年/発表年。
*[[魔犬]](1922/1924)、[[魔宴]](1923/1925)、[[クトゥルフの呼び声 (小説)|クトゥルフの呼び声]](1926/1928)、[[チャールズ・ウォードの奇怪な事件]](1927/没後1941)、末裔(1927/没後1938)、ネクロノミコンの歴史(1927/没後1938)、[[ダニッチの怪]](1928/1929)、[[銀の鍵の門を越えて]](1933/1934)、本(1933/没後1938)
[[フランク・ベルナップ・ロング]]の『[[喰らうものども]]』(1928)は、非ラヴクラフトによるクトゥルフ神話1号作品であり、冒頭にネクロノミコンディー博士版からの引用文を掲げた<ref>クト9『[[喰らうものども]]』フランク・ベルナップ・ロング</ref>。また[[クラーク・アシュトン・スミス]]は『[[妖術師の帰還]]』(1931)にてネクロノミコンアラビア語版を登場させた<ref>クト3など『[[妖術師の帰還]]』クラーク・アシュトン・スミス</ref>。[[ロバート・E・ハワード]]は『[[夜の末裔]]』(1931)にてネクロノミコンギリシャ語版を読んだ人物を登場させ、また『[[屋根の上に]]』(1932)では無名祭祀書初版本をネクロノミコンギリシャ語版並の稀覯書であると言及している。
スミスは魔道書「[[エイボンの書]]」を創造し、アルハザードがエイボンの書を読んでいた可能性を示唆した<ref>クト4など『[[ウボ=サスラ]]』クラーク・アシュトン・スミス</ref>。またハワードは魔道書「[[無名祭祀書]]」を創造し、著者フォン・ユンツトがネクロノミコンギリシャ語版を読んでいたことを示唆した<ref>青心社「ウィアード3」収録『[[夜の末裔]]』ロバート・E・ハワード</ref>。
ネクロノミコンは初期辞典『[[クトゥルー神話小辞典]]』『[[クトゥルー神話の魔道書]]』でも解説されており、全魔道書中最大の解説量が割り当てられている。
== ネクロノミコンの再現 ==
「ネクロノミコン」を再現しようとする試みはラヴクラフトの存命中からあり、[[ジェイムズ・ブリッシュ]]がラヴクラフトに提案したこともある。ネクロノミコンは最低でも770ページくらいあり<ref group="注">「ネクロノミコン」の751ページに記された詠唱への言及が[[ダンウィッチの怪]]にあることを指している。</ref>、それほどまでに大部な書物を著すのは自分の手に余るとラヴクラフトは1936年6月3日付の手紙でブリッシュに回答したが<ref>{{Cite book
|editor = Robert M. Price
|year = 1993
|title = The Hastur Cycle: 13 Tales that Created and Define Dread Hastur, the King in Yellow, Nighted Yuggoth, and Dire Carcosa
|publisher = Chaosium
|page = 94
}}</ref>、ネクロノミコンと称する本が熱心なラヴクラフトのファン達によって実際に刊行されたことは何度かある。
[[1946年]]、ニューヨークで古書店を営んでいたフィリップ・ダシュネスがラテン語版「ネクロノミコン」を販売目録に追加して375ドルの値をつけた。そのことをウィンフィールド・タウンリー・スコットが『プロヴィデンス・ジャーナル』の記事で取り上げたため、ダシュネスは冗談を謝罪している<ref>{{Cite book|author=Harms, Daniel and Gonce, John Wisdom III.|title=Necronomicon Files: The Truth Behind Lovecraft's Legend|date=2003-07-01|publisher=Weiser Books|pages=32-33}}</ref>。
[[1973年]]には、アウルズウィック・プレスが<ref name="ヘイ1994_p109">{{Harvnb|ヘイ|大瀧|1994|Ref=CITE_ヘイ1994|p=109}}</ref>贋作と明言した上で『アル・アジフ』を出版。これは全ページをアラビア風文字{{#tag:ref|学研の『魔道書ネクロノミコン』におけるロバート・ターナーによる寄稿の中では「古代ドゥリア語の不可解な文字」として言及されている<ref name="ヘイ1994_p109" />。|group="注"}}の無意味な羅列で埋め尽くしただけのもので、コレクターズアイテム以上のものではなかった。
1978年、ジョージ・ヘイと[[コリン・ウィルソン]]が、16世紀ジョン・ディー版からの翻訳というふれこみで『魔道書ネクロノミコン』を出版<ref>第2版が1993年に刊行されている。日本語版は第2版を底本としており、学研から、1994年に新書版(学研ホラーノベルズ)が、2000年に文庫版(学研M文庫)が、2007年に完全版(B6判ハード)が刊行された。</ref>。この本には、実在しているジョン・ディーの暗号文書をコンピュータ解析によって解読した「というもの」が載せられている。その内容は「驚くべき事に」、ジョン・ディーの時代より数百年後に描かれたラヴクラフトのクトゥルフ神話の内容と合致している。この解読結果が作者や関係者のネクロノミコンに対する所見や解読に至るまでの経緯などと共に、『[[ネクロノミコン断章]]』と銘打たれて収められている。
{{Main|ネクロノミコン断章|グリモワール#フィクション上の書物の派生物}}
[[リン・カーター]]はジョン・ディー博士に仮託してネクロノミコン英語版からの「抜粋」を大量に執筆しており、それらはカーター没後の1996年に[[ケイオシアム]]から刊行されたアンソロジーにまとめられており<ref>{{Cite book
|editor = Robert M. Price
|year = 2002
|title = The Necronomicon: Selected Stories and Essays Concerning the Blasphemous Tome of the Mad Arab: Second Edition, Expanded and Corrected
|publisher = Chaosium
|pages = 197-298
}}</ref>、邦訳もされている<ref>学研『魔道書ネクロノミコン外伝』(2011)に収録。</ref>。
{{Main|カーター版ネクロノミコン}}
それまでに出版されたネクロノミコンに不満を感じていたドナルド・タイスンは、2004年に『ネクロノミコン アルハザードの放浪』を出版。ラヴクラフトが作中においてネクロノミコンからの引用として記述した文章を全て盛り込み、より設定に忠実な再現を試みている。
他に『ネクロノミコン』のタイトルを持つ有名な書籍として、スイスの[[シュールレアリズム]]画家[[H・R・ギーガー]]が[[1977年]]に出版した作品集があり、収録作の一つ「ネクロノームIV」に描かれた異形の怪物が後の『[[エイリアン (架空の生物)|エイリアン]]』<ref group="注">『エイリアン』の原作者はラヴクラフトを信奉していた[[ダン・オバノン]]。</ref>のベースとなった。
== 関連項目 ==
*[[クトゥルフ神話の文献]]
== 脚注 ==
【凡例】
*全集:[[創元推理文庫]]『ラヴクラフト全集』、全7巻+別巻上下
*クト:[[青心社]]文庫『暗黒神話大系クトゥルー』、全13巻
*真ク:[[国書刊行会]]『真ク・リトル・リトル神話大系』、全10巻
*新ク:国書刊行会『新編真ク・リトル・リトル神話大系』、全7巻
*定本:国書刊行会『定本ラヴクラフト全集』、全10巻
*新潮:[[新潮文庫]]『クトゥルー神話傑作選』、2022年既刊3巻
*新訳:星海社FICTIONS『新訳クトゥルー神話コレクション』、2020年既刊5巻
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 文献資料 ==
*「魔道書ネクロノミコン 捏造の起源」 コリン・ウィルソン、森瀬繚訳
**『ナイトランド 第1号』 2012年3月、トライデントハウス ISBN 978-4-902075-43-4
{{クトゥルフ神話/作中事項}}
{{Normdaten}}
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[[Category:クトゥルフ神話の文献]]
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[[Category:架空の道具]]
[[hu:Howard Phillips Lovecraft#Necronomicon]]
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シイラ
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シイラ(鱪、鱰、学名 Coryphaena hippurus)は、スズキ目シイラ科に分類される魚の一種。全世界の暖かい海に分布する表層性の大型肉食魚で、食用に漁獲される。ルアー釣りで人気の魚である。ハワイと日本ではマヒマヒ (mahi-mahi) の名称で高級魚として知られ、日本でもこの名称で流通するようになっている。
分類上は同属のエビスシイラ Coryphaena equiselis と共に、1属2種のみでシイラ科 Coryphaenidae に分類されている。
成魚は、最大で体長2メートル・体重40キログラム近くに達する。体は強く側扁して体高が高く、体表は小さな円鱗に覆われる。また、オスの額は成長に従って隆起する。背鰭は一つで、55 - 65軟条からなり、頭部から尾の直前まで背面のほとんどにおよぶ。臀鰭は25 - 31軟条。
体色は「背面が青・体側が緑-金色で小黒点が点在する」ものが知られるが、これは釣りなどで水揚げされた直後のもので、死後は色彩が失せて黒ずんだ体色に変化する。また、遊泳中は全体的に青みがかった銀色である。
全世界の熱帯・温帯海域に広く分布し、温帯域では季節に応じて回遊を行う。水温が高くなると沿岸に近づく。日本近海でも暖流の影響が強い海域で見られ、夏から秋にかけては暖流に乗って北海道まで北上するものもいる。
主に外洋の表層(水深 5 - 10メートル)に生息し、群れを作って俊敏に泳ぐ。流木などの漂流物の陰に好んで集まる性質があり、幼魚も流れ藻によく集まる。音を恐れず、むしろ音源に集まる。
食性は肉食性で、主にイワシやトビウオなどの小魚を追って捕食するほか、甲殻類やイカなども食べる。水面近くの餌を追って海上にジャンプすることもある。
生後4 - 5か月(全長35 - 55センチメートル)で性成熟する。寿命は4年程度。
暖海の表層を泳ぐシイラは、体表に毒(腸炎ビブリオ菌や表皮粘液毒)を持つと言われる。後述のように生食する際には、可能であれば下ごしらえ用まな板と仕上げ用まな板を別にするなど、注意が必要である。シイラを生食することは、人によっては多量に食べたときに吐き気や下痢などの症状を催す場合もあり、注意が必要である。
シラ(秋田・富山)、マンビキ・マビキ(宮城・九州西部)、シビトクライ(千葉)、トウヤク(高知西部・神奈川・静岡)、トウヒャク(十百、和歌山・高知)、マンサク(万作、中国地方中西部)、クマビキ(高知)、ネコヅラ(猫面、九州)、マンビカー・フーヌイユ(沖縄)など、日本各地に地方名がある。
「シイラ」の名が初めて文献に現れるのは室町時代の辞書『温故知新書』(文明十六年 - 1484年成立)においてであり、その後も節用集や日葡辞書などに収録されている。また、おそらくシイラの塩乾物として都で献上品とされたものが「クマビキ」(くま引、熊引、九万疋と表記された)と呼称されているのも室町時代の文献に見える。
「マンサク」は、実らず籾殻だけの稲穂のことを俗に「粃(しいな)」(地方によっては「しいら」)と呼ぶことから、縁起の良い「(豊年)万作」に言い換えたといわれる。「シビトクライ」「シビトバタ」などは、浮遊物に集まる習性から水死体にも集まると言われることに由来する。これらの地方ではシイラを「土佐衛門を食う」として忌み嫌うが、動物の遺骸が海中に浮遊していた場合、それを突っつきに来ない魚の方がむしろまれであることは留意する必要がある。
中国語の標準名では、「鯕鰍」(チーチォウ、qíqiū)と表記する。台湾では、その外観から「鬼頭刀」(台湾語:クイタウトー)と呼ばる。
英名 "Dolphinfish" はイルカのように泳ぐことから、"Dorado"(スペイン語で「黄金」の意)は釣り上げた時に金色に光ることに由来する。ハワイではマヒマヒ(mahi-mahi, 強い強いの意)と呼ばれる。
漂流物の陰に集まる性質に着目し、シイラを漁獲することに特化した「シイラ漬漁業」(単に「シイラ漬け」とも)と呼ばれる巻網漁の一種が行われる。また、俊敏かつ大型のうえに筋肉質で大変引きが強いことから、外洋での釣りや引き縄(トローリング)の対象として人気が高い。ゴミや流木、鳥山(海鳥が小魚を捕りに集まった状態)などは、シイラがいるポイントである。そのほか、延縄や定置網などでも漁獲される。
赤身魚であるが、色は薄い。旬は夏(7 - 9月頃)とされているが、秋は脂がのって旨味が増す。筋肉質で脂質が少ないことから、鮮度の保持が難しく傷みが早いため日本では全国的な流通はしておらず、特に北日本では馴染みがないが、関西や九州では一般的な食用魚として親しまれている。
産地以外では味の評価が低く、魚肉練り製品の原料に使われることが多いが、塩焼き、フライ、ムニエル、バター焼き、干物、くさやなどでも食べられる。シイラ漬け漁による水揚げが多い高知県などでは、新鮮なものを刺身、たたき、寿司などの生食も行われる。また、卵巣も煮物などで食される。四万十市では、尾に近い部分の薄い身を熱風乾燥させたジャーキーも作られている。神奈川県平塚市では燻製が作られている。沖縄県の国頭村では干物も作られている。
ハワイでは高級魚として扱われ、マヒマヒのフライやソテーは名物料理の一つである。サンドイッチなどにも用いられることがある。
台湾で「鬼頭刀」は、つみれ、スープ、鉄板焼き、蒸し物などにして食べられる。東海岸を中心によく捕獲され、特に蘭嶼のタオ族の漁民にはアラヨと呼ばれ、神の魚と考えられており、重要な食用魚とされている。
フィリピンでは干物も作られている。
前述の通り、トローリングの獲物としても人気があり、様々な料理の食材として供される。英語圏でのDolphinfishを料理して食べた旨の文章が、「イルカを食べた」と誤訳されてしまうことがある。
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"text": "漂流物の陰に集まる性質に着目し、シイラを漁獲することに特化した「シイラ漬漁業」(単に「シイラ漬け」とも)と呼ばれる巻網漁の一種が行われる。また、俊敏かつ大型のうえに筋肉質で大変引きが強いことから、外洋での釣りや引き縄(トローリング)の対象として人気が高い。ゴミや流木、鳥山(海鳥が小魚を捕りに集まった状態)などは、シイラがいるポイントである。そのほか、延縄や定置網などでも漁獲される。",
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"text": "赤身魚であるが、色は薄い。旬は夏(7 - 9月頃)とされているが、秋は脂がのって旨味が増す。筋肉質で脂質が少ないことから、鮮度の保持が難しく傷みが早いため日本では全国的な流通はしておらず、特に北日本では馴染みがないが、関西や九州では一般的な食用魚として親しまれている。",
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"text": "産地以外では味の評価が低く、魚肉練り製品の原料に使われることが多いが、塩焼き、フライ、ムニエル、バター焼き、干物、くさやなどでも食べられる。シイラ漬け漁による水揚げが多い高知県などでは、新鮮なものを刺身、たたき、寿司などの生食も行われる。また、卵巣も煮物などで食される。四万十市では、尾に近い部分の薄い身を熱風乾燥させたジャーキーも作られている。神奈川県平塚市では燻製が作られている。沖縄県の国頭村では干物も作られている。",
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"text": "ハワイでは高級魚として扱われ、マヒマヒのフライやソテーは名物料理の一つである。サンドイッチなどにも用いられることがある。",
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"text": "台湾で「鬼頭刀」は、つみれ、スープ、鉄板焼き、蒸し物などにして食べられる。東海岸を中心によく捕獲され、特に蘭嶼のタオ族の漁民にはアラヨと呼ばれ、神の魚と考えられており、重要な食用魚とされている。",
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"text": "前述の通り、トローリングの獲物としても人気があり、様々な料理の食材として供される。英語圏でのDolphinfishを料理して食べた旨の文章が、「イルカを食べた」と誤訳されてしまうことがある。",
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] |
シイラは、スズキ目シイラ科に分類される魚の一種。全世界の暖かい海に分布する表層性の大型肉食魚で、食用に漁獲される。ルアー釣りで人気の魚である。ハワイと日本ではマヒマヒ (mahi-mahi) の名称で高級魚として知られ、日本でもこの名称で流通するようになっている。 分類上は同属のエビスシイラ Coryphaena equiselis と共に、1属2種のみでシイラ科 Coryphaenidae に分類されている。
|
{{Otheruseslist|魚|[[ウェブブラウザ]]|シイラ (ウェブブラウザ)|[[ベーシスト]]|SEELA}}
{{脚注の不足|date=2021-10-07}}
{{生物分類表
|名称=シイラ
|画像=[[画像:Coryphaenahippurus.JPG|250px]]
|省略=条鰭綱
|目=[[スズキ目]] {{Sname||Perciformes}}
|亜目=[[スズキ亜目]] {{Sname||Percoidei}}
|科=[[シイラ科]] {{Sname||Coryphaenidae}}
|属=[[シイラ属]] {{Snamei||Coryphaena}}
|種='''シイラ''' ''{{Sname||Coryphaena hippurus|C. hippurus}}''
|学名={{Snamei||Coryphaena hippurus}}<br />[[カール・フォン・リンネ|Linnaeus]], [[1758年|1758]]
|英名=[[w:Mahi-mahi|Mahi-mahi]], <br />Dorado,<br />Common dolphinfish
|和名='''シイラ'''(鱪、鱰)
}}
[[File:Female Dolphin Fish.jpg|thumb|right|230px|釣り上げられたシイラ]]
'''シイラ'''(鱪、鱰、学名 ''{{Sname||Coryphaena hippurus}}'')は、[[スズキ目]][[シイラ科]]に分類される魚の一種。全世界の暖かい海に分布する表層性の大型肉食魚で、食用に漁獲される。[[ルアー]]釣りで人気の魚である。ハワイと日本では'''マヒマヒ''' (mahi-mahi) の名称で高級魚として知られ、日本でもこの名称で流通するようになっている<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.pride-fish.jp/JPF/pref/detail.php?pk=1474335629 |title=マヒマヒ(シイラ) |publisher=全国漁業協同組合連合会 |accessdate=2018-10-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://one-katsuura.com/suisan/ |title=ONE勝浦水産プロジェクト 地域資源の有効活用 |publisher=ONE勝浦企業組合 |accessdate=2018-10-28}}</ref>。
分類上は同属の'''[[エビスシイラ]]''' ''{{Sname||Coryphaena equiselis}}'' と共に、1属2種のみで'''[[シイラ科]]''' {{Sname||Coryphaenidae}} に分類されている。
== 特徴 ==
成魚は、最大で体長2メートル・体重40キログラム近くに達する。体は強く側扁して体高が高く、体表は小さな円鱗に覆われる。また、オスの額は成長に従って隆起する。背鰭は一つで、55 - 65軟条からなり、頭部から尾の直前まで背面のほとんどにおよぶ。[[臀鰭]]は25 - 31軟条<ref name=fb>{{FishBase species|genus=Coryphaena|species=hippurus}}</ref>。
[[体色]]は「背面が青・体側が緑-金色で小黒点が点在する」ものが知られるが、これは釣りなどで水揚げされた直後のもので、死後は色彩が失せて黒ずんだ体色に変化する。また、遊泳中は全体的に青みがかった銀色である。
== 生態 ==
全世界の熱帯・温帯海域に広く分布し、温帯域では季節に応じて[[回遊]]を行う。水温が高くなると沿岸に近づく。日本近海でも暖流の影響が強い海域で見られ、夏から秋にかけては暖流に乗って北海道まで北上するものもいる。
主に外洋の表層(水深 5 - 10メートル)に生息し、群れを作って俊敏に泳ぐ<ref name=fb/>。[[流木]]などの漂流物の陰に好んで集まる性質があり、幼魚も[[流れ藻]]によく集まる。音を恐れず、むしろ音源に集まる。
食性は肉食性で、主に[[イワシ]]や[[トビウオ]]などの小魚を追って捕食するほか、[[甲殻類]]や[[イカ]]なども食べる。水面近くの餌を追って海上にジャンプすることもある。
生後4 - 5か月(全長35 - 55センチメートル)で[[性成熟]]する。寿命は4年程度<ref name=fb/>。
== 毒 ==
暖海の表層を泳ぐシイラは、体表に毒([[腸炎ビブリオ]]菌や表皮粘液毒)を持つと言われる。後述のように生食する際には、可能であれば下ごしらえ用まな板と仕上げ用まな板を別にするなど、注意が必要である。シイラを生食することは、人によっては多量に食べたときに吐き気や下痢などの症状を催す場合もあり、注意が必要である。
== 名称 ==
シラ([[秋田県|秋田]]・[[富山県|富山]])、マンビキ・マビキ([[宮城県|宮城]]・[[九州]]西部)、シビトクライ([[千葉県|千葉]])、トウヤク([[高知県|高知]]西部・[[神奈川県|神奈川]]・[[静岡県|静岡]])、トウヒャク(十百、[[和歌山県|和歌山]]・[[高知県|高知]])、マンサク(万作、[[中国地方]]中西部)、クマビキ(高知)、ネコヅラ(猫面、九州)、マンビカー(沖縄)<ref name="琉球20151120">{{Cite news|language=ja|url=http://ryukyushimpo.jp/photo/entry-174861.html|title=秋の幸 準備着々 国頭・フーヌイユ天日干し |newspaper =[[琉球新報]]|date=2015-11-20|accessdate=2015-11-21}}</ref>、フーヌイユ([[国頭村]]宜名真){{R|琉球20151120}}など、日本各地に地方名がある。
「シイラ」の名が初めて文献に現れるのは[[室町時代]]の辞書『[[温故知新書]]』([[文明 (日本)|文明]]十六年 - [[1484年]]成立)においてであり、その後も[[節用集]]や[[日葡辞書]]などに収録されている<ref name="hagiwara">{{cite journal|和書|author=萩原義雄|title=魚名「しいら【鱪】」攷|journal=駒澤日本文化|pages=15-87|year=2011-2012|volume=5|url=http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/32685/rns005-02-hagiharayoshio.pdf}}</ref>。また、おそらくシイラの塩乾物として都で献上品とされたものが「クマビキ」(くま引、熊引、九万疋と表記された)と呼称されているのも室町時代の文献に見える<ref name="hagiwara" />。
「マンサク」は、実らず[[籾]]殻だけの[[イネ|稲]]穂のことを俗に「粃(しいな)」(地方によっては「しいら」)と呼ぶことから、縁起の良い「(豊年)万作」に言い換えたといわれる。「シビトクライ」「シビトバタ」などは、浮遊物に集まる習性から水死体にも集まると言われることに由来する。これらの地方ではシイラを「土佐衛門を食う」として忌み嫌うが、動物の遺骸が海中に浮遊していた場合、それを突っつきに来ない魚の方がむしろまれであることは留意する必要がある。
中国語の標準名では、「鯕鰍」(チーチォウ、{{lang|zh|qíqiū}})と表記する。台湾では、その外観から「鬼頭刀」([[台湾語]]:クイタウトー)と呼ばる。
英名 "Dolphinfish" は[[イルカ]]のように泳ぐことから、"Dorado"(スペイン語で「黄金」の意)は釣り上げた時に金色に光ることに由来する。[[ハワイ]]ではマヒマヒ(mahi-mahi, 強い強いの意)と呼ばれる。
== 漁法 ==
漂流物の陰に集まる性質に着目し、シイラを漁獲することに特化した「[[シイラ漬漁業]]」(単に「シイラ漬け」とも)と呼ばれる巻網漁の一種が行われる。また、俊敏かつ大型のうえに筋肉質で大変引きが強いことから、外洋での[[釣り]]や引き縄([[トローリング]])の対象として人気が高い。ゴミや流木、鳥山(海鳥が小魚を捕りに集まった状態)などは、シイラがいるポイントである。そのほか、[[延縄]]や[[定置網]]などでも漁獲される。
=== 日本の陸揚げ漁港 ===
* 2002年度
** 第1位 - [[気仙沼漁港]]([[宮城県]])
** 第2位 - [[浦分漁港]]([[高知県]])
** 第3位 - [[川南漁港]]([[宮崎県]])
** 第4位 - [[館浦漁港]]([[長崎県]])
** 第5位 - [[牛深漁港]]([[熊本県]])
== 利用 ==
[[File:Coryphaena hippurus meat.JPG|thumb|right|200px|シイラの肉]]
赤身魚であるが、色は薄い。[[旬]]は夏(7 - 9月頃)とされているが、秋は脂がのって旨味が増す。筋肉質で[[脂質]]が少ないことから、鮮度の保持が難しく傷みが早いため日本では全国的な流通はしておらず、特に北日本では馴染みがないが、関西や九州では一般的な食用魚として親しまれている。
産地以外では味の評価が低く、[[魚肉練り製品]]の原料に使われることが多いが、[[焼き魚|塩焼き]]、[[カツレツ|フライ]]、[[ムニエル]]、バター焼き、[[干物]]、[[くさや]]などでも食べられる。シイラ漬け漁による水揚げが多い[[高知県]]などでは、新鮮なものを[[刺身]]、[[たたき]]、[[寿司]]などの生食も行われる。また、[[卵巣]]も煮物などで食される。[[四万十市]]では、尾に近い部分の薄い身を熱風乾燥させたジャーキーも作られている。[[神奈川県]][[平塚市]]では燻製が作られている。[[沖縄県]]の[[国頭村]]では干物も作られている。
[[File:GrilledMahiMahi.jpg|thumb|200px|left|ハワイの料理店のマヒマヒのグリル]]
[[ハワイ]]では高級魚として扱われ、マヒマヒのフライやソテーは名物料理の一つである。[[サンドイッチ]]などにも用いられることがある。
[[台湾]]で「鬼頭刀」は、[[つみれ]]、[[スープ]]、鉄板焼き、蒸し物などにして食べられる。東海岸を中心によく捕獲され、特に[[蘭嶼]]の[[タオ族]]の漁民にはアラヨと呼ばれ、神の魚と考えられており、重要な食用魚とされている。
[[フィリピン]]では干物も作られている。
前述の通り、トローリングの獲物としても人気があり、様々な料理の食材として供される。英語圏でのDolphinfishを料理して食べた旨の文章が、「イルカを食べた」と誤訳されてしまうことがある。
== 同属種 ==
[[File:Coryphaena equiselis.jpg|thumb|エビスシイラ]]
; エビスシイラ {{Snamei||Coryphaena equiselis}} Linnaeus, 1758
: 全長は1メートルほど。シイラよりはやや小型で体高が高く、オスの額はシイラほど突出しない。背鰭の軟条数は48 - 59本でシイラより少ない。さらに、後部の軟条16 - 18本は先端が平たく「逆三角形」になることでシイラと区別できる。シイラと同じく全世界の暖海域に分布するが、エビスシイラはシイラよりも沖合いに生息し、漁獲も少ない。
{{clear}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[中村庸夫]]『魚の名前』東京書籍 {{ISBN2|4-487-80116-8}}
* [[檜山義夫]]監修『野外観察図鑑4 魚』旺文社 {{ISBN2|4-01-072424-2}}
* 永岡書店『釣った魚が必ずわかるカラー図鑑』 {{ISBN2|4-522-21372-7}}
* 井田齋他『新装版 詳細図鑑 さかなの見分け方』講談社 {{ISBN2|4-06-211280-9}}
* 岡村収・尼岡邦夫監修『山渓カラー名鑑 日本の海水魚』(シイラ解説:乃一哲久) {{ISBN2|4-635-09027-2}}
* 蒲原稔治著・岡村収補『魚』保育社 エコロン自然シリーズ 1966年初版・1996年改訂 {{ISBN2|4-586-32109-1}}
* [http://www.fishbase.org/Summary/FamilySummary.cfm?ID=315 Coryphaenidae] - Froese, R. and D. Pauly. Editors. 2008. [[FishBase]]. World Wide Web electronic publication. www.fishbase.org, version(09/2008).
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Coryphaena hippurus}}
* [[シイラ漬漁業|シイラ漬け]]
* [[かじき座]] - 本来はシイラをモデルとした星座。
== 外部リンク ==
* {{Cite journal|和書|author=[[橋村修]] |title=亜熱帯性回游魚シイラの利用をめぐる地域性と時代性 : 対確暖流域を中心に |journal=国立民族学博物館調査報告 |publisher=国立民族学博物館 |year=2003 |month=12 |volume=46 |pages=199-223 |doi=10.15021/00001800 |naid=120001730289 |url=https://doi.org/10.15021/00001800}}
* [http://www.hk-fish.net/tc_chi/marine_fauna_database/fish_search_result_new_window.php?id=496 シイラ] - [http://www.hk-fish.net/tc_chi/marine_fauna_database/database.html 香港海水魚資料庫] {{zh-hk}}
{{食肉}}
{{DEFAULTSORT:しいら}}
[[Category:スズキ目]]
[[Category:赤身魚]]
[[Category:高知県の食文化]]
[[Category:ハワイの食文化]]
[[Category:台湾の食文化]]
[[Category:釣りの対象魚]]
[[Category:プライドフィッシュ]]
[[Category:1758年に記載された魚類]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A4%E3%83%A9
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13,244 |
やなせたかし
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やなせ たかし(本名:柳瀬 嵩〈読みは同じ〉、1919年〈大正8年〉2月6日 - 2013年〈平成25年〉10月13日)は、日本の漫画家・絵本作家・詩人。有限会社やなせスタジオ社長。高知県出身(詳細は後述)。作曲家としてのペンネームは「ミッシェル・カマ」。
『アンパンマン』の生みの親として知られる。社団法人日本漫画家協会代表理事理事長(2000年5月 - 2012年6月)、社団法人日本漫画家協会代表理事会長(2012年6月 - 2013年10月)を歴任。
絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは頼まれた仕事はなんでもこなしたといい、編集者・舞台美術家・演出家・司会者・コピーライター・作詞家・シナリオライターなど様々な活動を行っていた。
1919年2月6日、東京府北豊島郡滝野川町(現:東京都北区)生まれ。父方の実家は高知県香美郡在所村(現:高知県香美市香北町)にあり、伊勢平氏の末裔で300年続く旧家。父親は上海の東亜同文書院を卒業後、上海の日本郵政に勤めた後、講談社に移り「雄辯」で編集者を務めた。
父親はやなせの生まれた翌年に東京朝日新聞に引き抜かれ、1923年(大正12年)に特派員として単身上海に渡る。その後、後を追い家族で上海に移住。この地で弟・千尋が生まれるものの、父親がアモイに転勤となったのをきっかけに、再び家族は離散。やなせらは東京に戻る。
1924年(大正13年)に父親がアモイで客死。遺された家族は父親の縁故を頼りに高知市に移住する。弟は後免町(現・南国市)で開業医を営んでいた伯父(父の兄)に引き取られ、まもなく母が再婚したため、やなせも弟と同じく伯父に引き取られて育てられる。この伯父は趣味人でもあり、かなり影響を受けたという。
後免野田組合小学校(現・南国市立後免野田小学校)、高知県立高知城東中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)に進む。少年時代は『少年倶楽部』を愛読し、中学生の頃から絵に関心を抱いて、官立旧制東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部総合工学科デザインコース)に進学した。同期生に風間完がいる。
官立旧制東京高等工芸学校図案科(現:千葉大学工学部デザイン学科)1939年卒業後、東京田辺製薬(現:田辺三菱製薬)宣伝部に就職。しかし、1941年(昭和16年)に徴兵のため大日本帝国陸軍の野戦重砲兵第6連隊補充隊(通称号は西部軍管区隷下部隊を意味する西部第73部隊。野重6連隊自体は既に中国へ動員・出征中であり、やなせが入営したのは在小倉の補充隊)へ入営。学歴を生かし幹部候補生を志願し、その内の乙幹に合格し暗号を担当する下士官となる。
補充隊での教育後は日中戦争(中国戦線)に出征。部隊では主に暗号の作成・解読を担当するとともに、宣撫工作にも携わり、紙芝居を作って地元民向けに演じたこともあったという。従軍中は戦闘のない地域に居り、職種も戦闘を担当するものではなかったため、一度も敵に向かって銃を撃つことはなかったという。最終階級は陸軍軍曹。なお、大東亜戦争では弟が戦死している。
終戦後しばらくは戦友らとともにクズ拾いの会社で働いたが、絵への興味が再発して1946年に高知新聞に入社。『月刊高知』編集部で編集の傍ら文章、漫画、表紙絵などを手掛けていたが、同僚の小松暢(こまつ のぶ)が転職し上京するのを知り、自らも退職し上京した。
1947年(昭和22年)に上京し小松と結婚。この時期、やなせは漫画家を志すようになるが、東京での生活がまだ確立されていなかったために、兼業漫画家という道を選ぶ。やなせ曰く「とにかく貧乏は嫌だった」。同年、三越に入社し、宣伝部でグラフィックデザイナーとして活動する傍ら、精力的に漫画を描き始める。三越の社内報はもとより、新聞や雑誌でも作品を発表。当初は漫画家のグループ「独立漫画派」に入ったが、まもなく「漫画集団」に移った。1953年(昭和28年)3月に三越を退職し、専業漫画家となる。漫画で得る収入が三越の給料を三倍ほど上回ったことで独立を決意したという。
なお、やなせの三越時代の代表的な仕事に、包装紙「華ひらく」(図案は猪熊弦一郎)の「mitsukoshi」のレタリングがある。
1953年に独立した後も精力的に漫画を発表していたものの、手塚治虫らが推し進めたストーリー漫画が人気になり、やなせが所属していた「漫画集団」が主戦場としていた「大人漫画」「ナンセンス漫画」のジャンル自体が過去の物と看做されるようになり、作品発表の場自体が徐々に減っていく。1964年にNHKの『まんが学校』に講師として3年間レギュラー出演したり、その翌年にまんがの入門書を執筆するなど、大人漫画・ナンセンス漫画の復興に取り組み、1967年には4コマ漫画「ボオ氏」で週刊朝日漫画賞を受賞したものの、1960年代後半は本当にきつかったという。
漫画家としての仕事が激減したやなせだったが、舞台美術制作や放送作家などその他の仕事のオファーが次々と舞い込むようになり、生活的に困窮することはなかった。業界内では「困ったときのやなせさん」とも言われていたという。やなせ曰く「そのころの僕を知っている人は、僕を漫画家だと全然思っていない人が結構いる」。この時期にはコネクションが繋がり繋がって作品が生まれ、ヒットに至るという現象が2度起きている。
1960年代半ば、漫画集団の展覧会に、まだ弱小企業だった頃の山梨シルクセンター(現:サンリオ)の社長辻信太郎が来場。やなせにグラフィックデザイナーとしてのオファーを入れたことから、サンリオとの交流を深める。やなせは当初は菓子のパッケージを手掛けていたが、1966年9月にやなせが処女詩集『愛する歌』を出版社から出そうとした際に、「それならうちで出してくれ」とサンリオは出版事業に乗り出した。『愛する歌』はサンリオの業績を押し上げるほどのヒットを記録した。出版事業に乗り出したサンリオの元で、絵本の執筆も始める。1969年には短編メルヘン集の十二の真珠で『アンパンマン』が初登場。ただしこのアンパンマンは後のものとは異なる作品であり、ヒーロー物へのアンチテーゼとして作られた大人向けの作品である。
1973年(昭和48年)には雑誌『詩とメルヘン』を立ち上げ編集長を務める一方で、馬場のぼるらと「漫画家の絵本の会」を立ち上げるなど、詩人・絵本作家としての活動を本格化させる。同年に1969年発表したアンパンマンを子供向けに改作し、フレーベル館の月刊絵本「キンダーおはなしえほん」の一冊「あんぱんまん」として発表。同作は当初評論家、保護者、教育関係者からバッシングを受けた。元は大人向けに書いた作品だったが、次第に、幼児層に絶大な人気を得るようになっていった。
1988年(昭和63年)には、テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』の放映が日本テレビで開始される。テレビ業界的にかなり不安視されており、スポンサーが少なかった、数局のみの放送、昭和天皇の病状悪化による自粛ムードの最中での放送開始などと逆境を余儀なくされるが、まもなく大人気番組となり、日本テレビ系列で拡大放映された。またキャラクターグッズなども爆発的に売れ、やなせは一躍売れっ子になった。
アニメ『それいけ!アンパンマン』の大ヒットを受けて、1990年代以降は様々な賞を受賞。1996年(平成8年)7月には出身地の高知県香美市に香美市立やなせたかし記念館「アンパンマンミュージアム」が開館し、1998年(平成10年)8月には同記念館内に雑誌「詩とメルヘン」の表紙イラストやカットなどを収蔵した「詩とメルヘン絵本館」が開館するなど名声が高まっていった。官庁や地方自治体、公益事業や業界団体などのマスコットのキャラクターデザインを懇請され、無償で引き受けることも多くなった(なお、前述の「詩とメルヘン」編集長時代も初期はほぼノーギャラで引き受けていた)。
やなせは名声に甘んじることなく漫画の復興にも取り組んだ。1992年から地元高知で行われていた一コマ漫画の大会「まんが甲子園」には立ち上げ時から深くかかわり、晩年まで審査委員長を務めた。2005年(平成17年)には財政難を理由にまんが甲子園入賞校へ贈る賞金の半減を打ち出した高知県に対し総額200万円の資金提供を申し出ている。
2000年(平成12年)には日本漫画家協会理事長に就任。結果を残すことが出来なかったが、懸案事項は「ストーリー漫画以前の漫画家と以降の漫画家の収入格差をいかに解消するか」だった。なお、やなせは自社ビルに日本漫画家協会を家賃タダで入居させていた。
この時期から「漫画家ならば行動や言動も漫画的に面白くなければならない」という信念を持つようになり、テンガロンハットにサングラス、カウボーイブーツという独特なファッションで公の場に現れ、日本漫画家協会の会合やその他のイベントなどで歌や踊りを取り入れたユニークなスピーチをするようになった。
2001年には自作のミュージカルを初演、2003年(平成15年)には同ミュージカルの延長線上で、作曲家「ミッシェル・カマ」、歌手やなせたかしとしてCDデビュー。
詩人としては、2003年に『詩とメルヘン』が休刊するものの、2007年にかまくら春秋社から季刊誌『詩とファンタジー』を立ち上げ、「責任編集」を務めた。
ユニークで元気なキャラクターを演じ続けそのイメージが強いが、アンパンマンのヒットの時期から既に体調は必ずしも良好ではなく、60歳代末期には腎臓結石、70歳代には白内障、心臓病、80歳代には膵臓炎、ヘルニア、緑内障、腸閉塞、腎臓癌、膀胱癌、90歳代には腸閉塞(再発)、肺炎、心臓病(再発)と病歴を重ねていた。なお、膀胱癌は10度以上再発している。
晩年はチャイドルをもじって「オイドル」(老いドル、老人のアイドル)を自称していた。
2011年(平成23年)春に視界がぼやけることを理由に漫画家引退を考え、最後の大舞台として生前葬を企画。友人らに告別式の文章を書いてもらい「清浄院殿画誉道嵩大居士」という戒名入りの位牌も準備したが、その発表直前に東日本大震災が発生し、不謹慎だからという理由で計画は白紙になった。震災直後「アンパンマンのマーチ」が復興のテーマソング的扱いをされたり、「笑顔を失っていた子供たちがアンパンマンを見て笑顔を取り戻した」といった良い話がやなせの元に届いたことから、引退を撤回したという。その後、被災地向けにアンパンマンのポスターを制作したり、奇跡の一本松をテーマにしたCDを自主制作するなどした。
2012年(平成24年)6月の日本漫画家協会賞の贈賞式を最後に、高齢と体調不良を理由に日本漫画家協会の理事長を辞任して会長に就任。後任の理事長はちばてつや。
その後もユニークなキャラクターは変えず、テレビのインタビューやアニメの舞台挨拶の席では、陽気に歌いだす、元気な感じで「もうすぐ俺は死ぬ」と言って笑いをとるなどしていた。2013年7月6日に行われた劇場版アニメ「それいけ!アンパンマン とばせ! 希望のハンカチ」の初日舞台挨拶では、
と笑いながら語っていた。
2013年8月に体調を崩して入院し、2ヶ月後の10月13日午前3時8分、心不全のため東京都文京区本郷の順天堂大学医学部附属順天堂医院で逝去。94歳没。死去の知らせは一般には翌々日の15日に公表され、出身地の地元紙である高知新聞は、号外をWeb上で公開した。
テレビのニュースでは、2013年6月に「アンパンマン」のアニメ製作のスタッフらに
と悲痛な本音を吐露する当時94歳のやなせの姿が繰り返し放送された。同日、NHKも夜のニュースでアンパンマンのアニメを暫らく流すなどして逝去を惜しんだ。ちなみにやなせが死去した3日前には、やなせ原作のアニメ『ニャニがニャンだー ニャンダーかめん』に出演した声優の檀臣幸も50歳の若さで死去している。
その後、葬儀は故人の遺志により、近親者のみで済ませた。後日「偲ぶ会」を開く予定とされ、翌2014年2月6日、生きていれば95歳となる誕生日に東京都新宿区で「ありがとう!やなせたかし先生 95歳おめでとう!」というタイトルで開催された。なお、やなせの密葬には、ちばてつやをはじめとする日本漫画家協会所属の漫画家60人が参列したという。
やなせの訃報を受けて、『手のひらを太陽に』を歌唱した宮城まり子、アニメの「それいけ!アンパンマン」でアンパンマンの声を演じる戸田恵子をはじめ、主要キャラクターの声を担当する声優達、また古川登志夫など、故人と縁が深かった人や敬愛する人々がそれぞれ追悼コメントを発している。前後して、詩人としても死を意識した作品が増加している。やなせ自身が責任編集を行い、かまくら春秋社から発行されている季刊誌『詩とファンタジー』No.24号(2013年10月19日発売)に、「天命」と題して自らの死を予告するような自作の詩とイラストを掲載した。フレーベル館から『アンパンマンとリンゴぼうや』が2013年11月に発売され、これがやなせの最後の作品となった。
同年11月にはフレーベル館から、やなせの多方面に及んだ活動を網羅した作品集『やなせたかし大全』が出版。奇しくも逝去直後の出版になるが制作そのものは数年前から続けられていたものである(出版は「やなせたかし作家活動60年」、絵本『あんぱんまん』40年、アニメ『それいけ!アンパンマン』放映25年を記念したものとされている)。
晩年には家族や親戚がいなかったこともあり、やなせは生前自身の遺産について、アンパンマンミュージアム(高知県)とやなせスタジオ(東京)に回すよう周囲に伝えていたという。自身の墓は高知県香美市香北町にある実家の跡地である「やなせたかし朴ノ木公園」に建設し、墓碑の横にはアンパンマンとばいきんまんの石像も建てられた。
なお、2016年6月には、やなせが子ども時代を過ごした柳瀬医院の跡地(高知県南国市)に「やなせたかし・ごめん駅前公園」が完成し、やなせの母校の後免野田小学校の児童と後免野田保育園の園児が参加して6月1日に開園セレモニーが挙行された。
2019年2月6日から、生誕100年を記念し、故郷の高知県香美市にある香美市立やなせたかし記念館で特別展が開催された。開催期間は2019年7月8日まで。
※太字はアニメ化された作品を指す。
それいけ!アンパンマン関連の楽曲は、そのほとんどをやなせが作詞を手がけている。
他
やなせ以外の作家が、やなせを題材にして創った作品や雑誌の特集記事など。
『やなせたかし〜アンパンマンの勇気』は2021年の光村図書の教科書の題材になっている。
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"text": "1919年2月6日、東京府北豊島郡滝野川町(現:東京都北区)生まれ。父方の実家は高知県香美郡在所村(現:高知県香美市香北町)にあり、伊勢平氏の末裔で300年続く旧家。父親は上海の東亜同文書院を卒業後、上海の日本郵政に勤めた後、講談社に移り「雄辯」で編集者を務めた。",
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"text": "父親はやなせの生まれた翌年に東京朝日新聞に引き抜かれ、1923年(大正12年)に特派員として単身上海に渡る。その後、後を追い家族で上海に移住。この地で弟・千尋が生まれるものの、父親がアモイに転勤となったのをきっかけに、再び家族は離散。やなせらは東京に戻る。",
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"text": "1924年(大正13年)に父親がアモイで客死。遺された家族は父親の縁故を頼りに高知市に移住する。弟は後免町(現・南国市)で開業医を営んでいた伯父(父の兄)に引き取られ、まもなく母が再婚したため、やなせも弟と同じく伯父に引き取られて育てられる。この伯父は趣味人でもあり、かなり影響を受けたという。",
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"text": "後免野田組合小学校(現・南国市立後免野田小学校)、高知県立高知城東中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)に進む。少年時代は『少年倶楽部』を愛読し、中学生の頃から絵に関心を抱いて、官立旧制東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部総合工学科デザインコース)に進学した。同期生に風間完がいる。",
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"text": "官立旧制東京高等工芸学校図案科(現:千葉大学工学部デザイン学科)1939年卒業後、東京田辺製薬(現:田辺三菱製薬)宣伝部に就職。しかし、1941年(昭和16年)に徴兵のため大日本帝国陸軍の野戦重砲兵第6連隊補充隊(通称号は西部軍管区隷下部隊を意味する西部第73部隊。野重6連隊自体は既に中国へ動員・出征中であり、やなせが入営したのは在小倉の補充隊)へ入営。学歴を生かし幹部候補生を志願し、その内の乙幹に合格し暗号を担当する下士官となる。",
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"text": "補充隊での教育後は日中戦争(中国戦線)に出征。部隊では主に暗号の作成・解読を担当するとともに、宣撫工作にも携わり、紙芝居を作って地元民向けに演じたこともあったという。従軍中は戦闘のない地域に居り、職種も戦闘を担当するものではなかったため、一度も敵に向かって銃を撃つことはなかったという。最終階級は陸軍軍曹。なお、大東亜戦争では弟が戦死している。",
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"text": "終戦後しばらくは戦友らとともにクズ拾いの会社で働いたが、絵への興味が再発して1946年に高知新聞に入社。『月刊高知』編集部で編集の傍ら文章、漫画、表紙絵などを手掛けていたが、同僚の小松暢(こまつ のぶ)が転職し上京するのを知り、自らも退職し上京した。",
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"text": "1947年(昭和22年)に上京し小松と結婚。この時期、やなせは漫画家を志すようになるが、東京での生活がまだ確立されていなかったために、兼業漫画家という道を選ぶ。やなせ曰く「とにかく貧乏は嫌だった」。同年、三越に入社し、宣伝部でグラフィックデザイナーとして活動する傍ら、精力的に漫画を描き始める。三越の社内報はもとより、新聞や雑誌でも作品を発表。当初は漫画家のグループ「独立漫画派」に入ったが、まもなく「漫画集団」に移った。1953年(昭和28年)3月に三越を退職し、専業漫画家となる。漫画で得る収入が三越の給料を三倍ほど上回ったことで独立を決意したという。",
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"text": "なお、やなせの三越時代の代表的な仕事に、包装紙「華ひらく」(図案は猪熊弦一郎)の「mitsukoshi」のレタリングがある。",
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"text": "1953年に独立した後も精力的に漫画を発表していたものの、手塚治虫らが推し進めたストーリー漫画が人気になり、やなせが所属していた「漫画集団」が主戦場としていた「大人漫画」「ナンセンス漫画」のジャンル自体が過去の物と看做されるようになり、作品発表の場自体が徐々に減っていく。1964年にNHKの『まんが学校』に講師として3年間レギュラー出演したり、その翌年にまんがの入門書を執筆するなど、大人漫画・ナンセンス漫画の復興に取り組み、1967年には4コマ漫画「ボオ氏」で週刊朝日漫画賞を受賞したものの、1960年代後半は本当にきつかったという。",
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"text": "漫画家としての仕事が激減したやなせだったが、舞台美術制作や放送作家などその他の仕事のオファーが次々と舞い込むようになり、生活的に困窮することはなかった。業界内では「困ったときのやなせさん」とも言われていたという。やなせ曰く「そのころの僕を知っている人は、僕を漫画家だと全然思っていない人が結構いる」。この時期にはコネクションが繋がり繋がって作品が生まれ、ヒットに至るという現象が2度起きている。",
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"text": "1960年代半ば、漫画集団の展覧会に、まだ弱小企業だった頃の山梨シルクセンター(現:サンリオ)の社長辻信太郎が来場。やなせにグラフィックデザイナーとしてのオファーを入れたことから、サンリオとの交流を深める。やなせは当初は菓子のパッケージを手掛けていたが、1966年9月にやなせが処女詩集『愛する歌』を出版社から出そうとした際に、「それならうちで出してくれ」とサンリオは出版事業に乗り出した。『愛する歌』はサンリオの業績を押し上げるほどのヒットを記録した。出版事業に乗り出したサンリオの元で、絵本の執筆も始める。1969年には短編メルヘン集の十二の真珠で『アンパンマン』が初登場。ただしこのアンパンマンは後のものとは異なる作品であり、ヒーロー物へのアンチテーゼとして作られた大人向けの作品である。",
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やなせ たかしは、日本の漫画家・絵本作家・詩人。有限会社やなせスタジオ社長。高知県出身(詳細は後述)。作曲家としてのペンネームは「ミッシェル・カマ」。 『アンパンマン』の生みの親として知られる。社団法人日本漫画家協会代表理事理事長、社団法人日本漫画家協会代表理事会長を歴任。 絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは頼まれた仕事はなんでもこなしたといい、編集者・舞台美術家・演出家・司会者・コピーライター・作詞家・シナリオライターなど様々な活動を行っていた。
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{{Infobox 漫画家
| 名前 = やなせ たかし
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| 画像サイズ = 160px
| 脚注 = 1953年
| 本名 = 柳瀬 嵩(やなせ たかし)<ref name="Yomiuri2005">『読売年鑑2005年版 別冊 分野別人名録』[[読売新聞東京本社]],2005年3月13日発行p.396より</ref>
| 性別 = [[男性]]
| 生地 = {{JPN}}・[[東京府]][[北豊島郡]][[滝野川区|滝野川町]]<br/>(現:[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]])<ref name="HoboYanaseProf">{{Cite news |title=やなせたかしさんのプロフィール |newspaper=[[ほぼ日刊イトイ新聞]] |date= |author= |url=https://www.1101.com/yanase_takashi/prof.html |accessdate=2017-12-18 |publisher=株式会社ほぼ日 |archiveurl= |archivedate = }}</ref><br/>(育ちは高知県[[香美市]][[香北町]] <ref name="Yomiuri2005"/>)
| 国籍 = {{JPN}}
| 生年 = {{生年月日と年齢|1919|2|6|没}}
| 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1919|2|6|2013|10|13}}
| 没地 = {{JPN}}・[[東京都]][[文京区]][[本郷 (文京区)|本郷]]三丁目1番3号<br/>([[順天堂大学医学部附属順天堂医院]])
| 職業 = [[漫画家]]・[[絵本作家]]・[[詩人]] など
| 活動期間 = [[1947年]]{{efn|漫画家としての活動をこのころから開始した。}} - [[2013年]]
| ジャンル = [[ギャグ漫画|おとな漫画]]<br/>[[絵本]]
| 代表作 = 『[[アンパンマン]]』<br />『[[手のひらを太陽に]]』
| 受賞 = [[1967年]]週刊朝日漫画賞(「ボオ氏」)<br/>[[1969年]]大藤信郎賞<br/>[[1989年]]第19回日本童謡賞特別賞<br/>[[1990年]][[日本漫画家協会賞]]大賞<br/>[[1991年]]勲四等[[瑞宝章]]受章<br/>[[1994年]]高知県香美郡香北町名誉町民<br/>[[1995年]]日本漫画家協会文部大臣賞<br/>[[2000年]]日本童謡協会功労賞<br/>[[2000年]]日本児童文芸家協会児童文化功労賞<br/>[[2001年]]第31回日本童謡賞<br/>[[2002年]]高知県特別県勢功労者<br/>[[2003年]]第50回交通文化賞国土交通大臣表彰<br/>[[2004年]]新宿区名誉区民<br/>[[2008年]][[東京国際アニメフェア]]2008第4回功労賞<br/>[[2011年]]高知県名誉県民
| サイン =
| 公式サイト =
}}
'''やなせ たかし'''(本名:'''柳瀬 嵩'''〈読みは同じ〉<ref name="Yomiuri2005"/>、[[1919年]]〈[[大正]]8年〉[[2月6日]]<ref name="Yomiuri2005"/> - [[2013年]]〈[[平成]]25年〉[[10月13日]])は、[[日本]]の[[漫画家]]・[[絵本作家]]・[[詩人]]<ref name="HoboYanaseProf"/>。有限会社やなせスタジオ社長。[[高知県]]出身(詳細は後述)。[[作曲家]]としてのペンネームは「ミッシェル・カマ」<ref name="nostal">{{Cite web|和書|url=http://www.anpanmanshop.co.jp/event04_htm/nostal_1.htm |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2013年11月29日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141130171100/http://www.anpanmanshop.co.jp/event04_htm/nostal_1.htm |archivedate=2014年11月30日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>。
『[[アンパンマン]]』の生みの親として知られる。[[社団法人]][[日本漫画家協会]]代表理事理事長([[2000年]]5月 - [[2012年]]6月)、社団法人日本漫画家協会代表理事会長(2012年6月 - 2013年10月)を歴任。
絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは頼まれた仕事はなんでもこなしたといい、[[編集者]]・[[舞台美術家]]・[[演出家]]・[[司会|司会者]]・[[コピーライター]]・[[作詞家]]・[[脚本家|シナリオライター]]など様々な活動を行っていた。
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
1919年2月6日、[[東京府]][[北豊島郡]][[滝野川区|滝野川町]]<!--字[[西ヶ原]]-->(現:[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]])生まれ<ref name="HoboYanaseProf"/>{{refnest|group="注釈"|文献によっては高知県香美郡出身とされているものもある<ref name="YanaWldZh68">[[#YanaseZouho|『やなせ・たかしの世界』]]68-74頁。</ref>。}}。父方の実家は[[高知県]][[香美郡]][[在所村]](現:高知県[[香美市]][[香北町]])にあり、[[伊勢平氏]]の末裔で300年続く旧家<ref>『[[#JinsenYume|人生なんて夢だけど]]』P22。</ref>。父親は[[上海市|上海]]の[[東亜同文書院大学 (旧制)|東亜同文書院]]を卒業後、上海の日本郵政に勤めた後、[[講談社]]に移り「'''雄辯'''」で編集者を務めた。
[[ファイル:Takashi Yanase 1920 1.jpg|thumb|left|150px|1歳の頃]]
父親はやなせの生まれた翌年に[[東京朝日新聞]]に引き抜かれ、[[1923年]](大正12年)に特派員として単身上海に渡る。その後、後を追い家族で上海に移住。この地で弟・千尋が生まれるものの、父親が[[廈門市|アモイ]]に転勤となったのをきっかけに、再び家族は離散。やなせらは東京に戻る。
[[1924年]](大正13年)に父親がアモイで客死。遺された家族は父親の縁故を頼りに[[高知市]]に移住する。弟は後免町(現・[[南国市]])で開業医を営んでいた伯父(父の兄)に引き取られ、まもなく母が再婚したため、やなせも弟と同じく伯父に引き取られて育てられる。この伯父は趣味人でもあり、かなり影響を受けたという。
後免野田組合小学校(現・南国市立後免野田小学校)、高知県立高知城東中学校(現・[[高知県立高知追手前高等学校]])に進む<ref name="YanaWldZh68" />。少年時代は『[[少年倶楽部]]』を愛読し<ref name="YanaWldZh68" />、中学生の頃から絵に関心を抱いて、官立旧制[[東京高等工芸学校]]図案科(現・[[千葉大学]]工学部総合工学科デザインコース)に進学した<ref name="YanaWldZh68" />。同期生に[[風間完]]がいる。
=== 戦争体験 ===
[[ファイル:Takashi Yanase 1940 1.jpg|thumb|160px|[[日出生台演習場]]にて<ref name="YanaWldZh68" />。]]
官立旧制[[東京高等工芸学校]]図案科(現:[[千葉大学工学部]]デザイン学科)1939年卒業後、東京田辺製薬(現:[[田辺三菱製薬]])宣伝部に就職<ref name="YanaWldZh68" />。しかし、[[1941年]](昭和16年)に徴兵のため[[大日本帝国陸軍]]の[[野戦重砲兵第6連隊]]補充隊([[通称号]]は[[西部軍管区 (日本軍)|西部軍管区]]隷下部隊を意味する西部第73部隊。野重6連隊自体は既に中国へ動員・出征中であり、やなせが入営したのは在小倉の補充隊)へ入営。学歴を生かし[[幹部候補生 (日本軍)|幹部候補生]]を志願し、その内の[[幹部候補生 (日本軍)#幹部候補生制度(甲乙種制)甲種集合教育|乙幹]]に合格し[[暗号]]を担当する[[下士官]]となる。
補充隊での教育後は[[日中戦争]](中国戦線)に出征。部隊では主に暗号の作成・解読を担当するとともに、[[宣撫官|宣撫工作]]にも携わり、[[紙芝居]]を作って地元民向けに演じたこともあったという。従軍中は戦闘のない地域に居り、職種も戦闘を担当するものではなかったため、一度も敵に向かって銃を撃つことはなかったという<ref name="HoboYanaseProf" />。最終階級は[[軍曹|陸軍軍曹]]。なお、[[大東亜戦争]]では弟が戦死している{{efn|[[京都大学|京都帝国大学]]法科生から[[海軍予備学生]]を経て、[[予備役|予備]][[少尉|海軍少尉]]。やなせは断片的な情報から戦後弟が特攻兵器[[回天]]の特別攻撃隊要員だったと思い込んでいたが実際には駆逐艦の乗組員であり、[[1945年]](昭和20年)台湾とフィリピンの間の[[バシー海峡]]にて勤務していた駆逐艦「[[呉竹 (駆逐艦)|呉竹]]」が撃沈され、戦死。死後[[中尉]]に特進<ref>門田隆将『慟哭の海峡』(ISBN 9784041021538)より。{{要ページ番号|date=2019年10月18日}}</ref>。}}。
=== 漫画家への道 ===
終戦後しばらくは戦友らとともにクズ拾いの会社で働いたが、絵への興味が再発して1946年に[[高知新聞]]に入社。『月刊高知』編集部<ref name="YanaWldZh68" />で編集の傍ら文章、漫画、表紙絵などを手掛けていたが、同僚の[[小松暢]](こまつ のぶ)が転職し上京するのを知り、自らも退職し上京した。
[[1947年]](昭和22年)に上京し小松と結婚。この時期、やなせは漫画家を志すようになるが、東京での生活がまだ確立されていなかったために、兼業漫画家という道を選ぶ。やなせ曰く「とにかく貧乏は嫌だった」。同年、[[三越]]に入社し、宣伝部でグラフィックデザイナーとして活動する傍ら、精力的に漫画を描き始める<ref name="YanaWldZh68" />。三越の社内報はもとより、新聞や雑誌でも作品を発表。当初は漫画家のグループ「独立漫画派」に入ったが、まもなく「[[漫画集団]]」に移った。[[1953年]](昭和28年)3月に三越を退職し、専業漫画家となる<ref name="デビュー">『[[#JinsenYume|人生なんて夢だけど]]』P122</ref>。漫画で得る収入が三越の給料を三倍ほど上回ったことで独立を決意したという。
なお、やなせの三越時代の代表的な仕事に、包装紙「華ひらく」(図案は[[猪熊弦一郎]])の「mitsukoshi」のレタリングがある。
=== 困ったときのやなせさん ===
1953年に独立した後も精力的に漫画を発表していたものの、[[手塚治虫]]らが推し進めた[[ストーリー漫画]]が人気になり、やなせが所属していた「漫画集団」が主戦場としていた「大人漫画」「ナンセンス漫画」のジャンル自体が過去の物と看做されるようになり、作品発表の場自体が徐々に減っていく。1964年に[[日本放送協会|NHK]]の『[[まんが学校]]』に講師として3年間レギュラー出演したり<ref name="YanaWldZh68" />、その翌年にまんがの入門書を執筆するなど、大人漫画・ナンセンス漫画の復興に取り組み、1967年には4コマ漫画「ボオ氏」で[[週刊朝日]]漫画賞を受賞したものの<ref name="YanaWldZh68" />、1960年代後半は本当にきつかったという。
漫画家としての仕事が激減したやなせだったが、舞台美術制作や[[放送作家]]などその他の仕事のオファーが次々と舞い込むようになり、生活的に困窮することはなかった。業界内では「困ったときのやなせさん」とも言われていたという。やなせ曰く「そのころの僕を知っている人は、僕を漫画家だと全然思っていない人が結構いる<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.ebookjapan.jp/ebj/special/manganavi/manganavi_12-2g.asp |title=荒俣宏の電子まんがナビゲーター 第12回 やなせたかし編 |publisher=イーブックイニシアティブジャパン |accessdate=2017-12-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141006174240/http://www.ebookjapan.jp/ebj/special/manganavi/manganavi_12-2g.asp |archivedate=2014-10-06 }}</ref>」。この時期にはコネクションが繋がり繋がって作品が生まれ、ヒットに至るという現象が2度起きている。
* 1960年、[[永六輔]]作演出の[[ミュージカル]]「見上げてごらん夜の星を」の舞台美術を手掛けた際に、作曲家の[[いずみたく]]と知り合い、翌1961年に『[[手のひらを太陽に]]』を作詞。同曲は教科書に載るほどのスタンダードな曲となっている。
* 1969年、[[虫プロダクション]]の劇場アニメ『[[千夜一夜物語 (1969年の映画)|千夜一夜物語]]』制作の際に、エロチック路線を求めていた手塚治虫は、やなせの漫画を気に入り美術監督として招き入れた。同作がヒットしたお礼として、手塚はポケットマネーで、やなせが1967年に手掛けたラジオドラマ「[[やさしいライオン]]」をアニメ映画化し、[[毎日映画コンクール]]の[[大藤信郎賞]]を受賞<ref name="YanaWldZh68" />。同作はやなせの代表作のひとつとなっている。
=== 詩人・絵本作家への道 ===
1960年代半ば、漫画集団の展覧会に、まだ弱小企業だった頃の山梨シルクセンター(現:[[サンリオ]])の社長[[辻信太郎]]が来場。やなせにグラフィックデザイナーとしてのオファーを入れたことから、サンリオとの交流を深める。やなせは当初は菓子のパッケージを手掛けていたが、1966年9月にやなせが処女詩集『愛する歌』<ref name="YanaWldZh68" />を出版社から出そうとした際に、「それならうちで出してくれ」とサンリオは出版事業に乗り出した。『愛する歌』はサンリオの業績を押し上げるほどのヒットを記録した。出版事業に乗り出したサンリオの元で、絵本の執筆も始める。1969年には短編メルヘン集の[[十二の真珠]]で『[[アンパンマン]]』が初登場<ref name="YanaWldZh36" /><ref name="oricon140815">{{Cite web|和書|date=2014-08-15 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2041004/full/ |title=初代「アンパンマン」は大人向けの童話だった |publisher=オリコン |accessdate=2017-12-23 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>。ただしこのアンパンマンは後のものとは異なる作品であり、ヒーロー物への[[アンチテーゼ]]として作られた大人向けの作品である。
[[1973年]](昭和48年)には雑誌『[[詩とメルヘン]]』を立ち上げ編集長を務める一方で、[[馬場のぼる]]らと「漫画家の絵本の会」を立ち上げるなど<ref name="YanaWldZh68" /><ref name="YanaWldZh4848">[[#YanaseZouho|『やなせ・たかしの世界』]]48頁。</ref>、詩人・絵本作家としての活動を本格化させる。同年に1969年発表したアンパンマンを子供向けに改作し、[[フレーベル館]]の月刊絵本「[[キンダーブック|キンダーおはなしえほん]]」の一冊「あんぱんまん」として発表<ref name="YanaWldZh36">[[#YanaseZouho|『やなせ・たかしの世界』]]36-37頁。</ref><ref name="oricon140815" />。同作は当初評論家、保護者、教育関係者からバッシングを受けた。元は大人向けに書いた作品だったが、次第に、幼児層に絶大な人気を得るようになっていった。
[[1988年]](昭和63年)には、[[テレビアニメ]]『[[それいけ!アンパンマン]]』の放映が[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で開始される。テレビ業界的にかなり不安視されており、スポンサーが少なかった、数局のみの放送、[[昭和天皇]]の病状悪化による自粛ムードの最中での放送開始などと逆境を余儀なくされるが、まもなく大人気番組となり、[[日本テレビ系列]]で拡大放映された。またキャラクターグッズなども爆発的に売れ、やなせは一躍売れっ子になった<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=アンパンマン放送30周年! 「まあ1年続けば……」と言われたアニメが人気爆発したワケ |url=https://bunshun.jp/articles/-/9175 |website=週刊文春 |access-date=2023-04-23 |author=近藤正高 |date=2018-10-03}}</ref>。
=== 名声と漫画の復興 ===
[[ファイル:Kami Kochi Yanase Takashi Memorial Hall 1.JPG|thumb|300px|香美市立やなせたかし記念館]]
アニメ『[[それいけ!アンパンマン]]』の大ヒットを受けて、1990年代以降は様々な賞を受賞。[[1996年]](平成8年)7月には出身地の[[高知県]][[香美市]]に[[香美市立やなせたかし記念館]]「アンパンマンミュージアム」が開館し、[[1998年]](平成10年)8月には同記念館内に雑誌「詩とメルヘン」の表紙イラストやカットなどを収蔵した「詩とメルヘン絵本館」が開館するなど名声が高まっていった。官庁や地方自治体、公益事業や業界団体などのマスコットのキャラクターデザインを懇請され、無償で引き受けることも多くなった(なお、前述の「詩とメルヘン」編集長時代も初期はほぼノーギャラで引き受けていた){{efn|やなせの死後に漫画家の[[吉田戦車]]が「あの人の『タダ働き』に甘えてきた多くの自治体とか組織は恥じろ、と思いますね」とtwitterで指摘し、賛否両論の議論となった<ref>[https://www.j-cast.com/2013/10/18186643.html?p=all やなせたかしの晩年は「タダ働きばかり」 「甘えてきた多くの自治体は恥じろ」と吉田戦車が激怒](J-CASTニュース、2013年10月18日)</ref>。}}。
やなせは名声に甘んじることなく漫画の復興にも取り組んだ。1992年から地元高知で行われていた一コマ漫画の大会「[[まんが甲子園]]」には立ち上げ時から深くかかわり、晩年まで審査委員長を務めた。[[2005年]](平成17年)には財政難を理由にまんが甲子園入賞校へ贈る賞金の半減を打ち出した高知県に対し総額200万円の資金提供を申し出ている<ref>[https://www.kochinews.co.jp/manga/makise050625.htm 賞金半減「いけない」 やなせさんが資金提供] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20151004024046/http://www.kochinews.co.jp/manga/makise050625.htm |date=2015年10月4日 }}高知新聞2005年6月25日朝刊・同WEB記事(2015年10月1日閲覧)</ref>。
[[2000年]](平成12年)には[[日本漫画家協会]]理事長に就任。結果を残すことが出来なかったが、懸案事項は「ストーリー漫画以前の漫画家と以降の漫画家の収入格差をいかに解消するか」だった。なお、やなせは自社ビルに日本漫画家協会を家賃タダで入居させていた。
この時期から「漫画家ならば行動や言動も漫画的に面白くなければならない」という信念を持つようになり、テンガロンハットにサングラス、カウボーイブーツという独特なファッションで公の場に現れ、日本漫画家協会の会合やその他のイベントなどで歌や踊りを取り入れたユニークなスピーチをするようになった。
2001年には自作の[[ミュージカル]]を初演、[[2003年]](平成15年)には同ミュージカルの延長線上で、作曲家「ミッシェル・カマ」、歌手やなせたかしとしてCDデビュー<ref name="nostal" />。
詩人としては、2003年に『詩とメルヘン』が休刊するものの、2007年に[[かまくら春秋社]]から季刊誌『[[詩とファンタジー]]』を立ち上げ、「責任編集」を務めた。
=== 晩年 ===
[[ファイル:Kami Kochi The Grave Of Takashi Yanase 1.jpg|thumb|300px|やなせたかし朴の木公園に設立されているやなせたかしおよび妻・暢の墓。両脇の石像は[[香美市立やなせたかし記念館]]の方向に向けられている<ref name="otsuka6719"/>。]]
ユニークで元気なキャラクターを演じ続けそのイメージが強いが、アンパンマンのヒットの時期から既に体調は必ずしも良好ではなく、60歳代末期には[[腎臓]][[結石]]、70歳代には[[白内障]]、[[心臓病]]、80歳代には[[膵炎|膵臓炎]]、[[ヘルニア]]、[[緑内障]]、[[イレウス|腸閉塞]]、[[腎癌|腎臓癌]]、[[膀胱癌]]、90歳代には腸閉塞(再発)、[[肺炎]]、心臓病(再発)と病歴を重ねていた。なお、膀胱癌は10度以上再発している。
晩年は[[ジュニアアイドル|チャイドル]]をもじって「オイドル」(老いドル、老人のアイドル)を自称していた<ref>やなせたかし『オイドル絵っせい 人生、90歳からおもしろい!』[[新潮社]]([[新潮文庫]])、2012年、15頁。ISBN 978-4-10-138141-1</ref>。
[[2011年]](平成23年)春に視界がぼやけることを理由に漫画家引退を考え、最後の大舞台として[[生前葬]]を企画。友人らに告別式の文章を書いてもらい「清浄院殿画誉道嵩大居士」という戒名入りの位牌も準備したが、その発表直前に[[東日本大震災]]が発生し、不謹慎だからという理由で計画は白紙になった<ref>[https://www.1101.com/yanase_takashi/2013-08-12.html 箱入りじいさんの94年(糸井重里との対談)]</ref>。震災直後「アンパンマンのマーチ」が復興のテーマソング的扱いをされたり、「笑顔を失っていた子供たちがアンパンマンを見て笑顔を取り戻した」といった良い話がやなせの元に届いたことから<ref>[https://www.moviecollection.jp/news/11941/ アンパンマンの生みの親やなせたかしが仙台を訪問、元気を届ける!] 2012年5月15日 ''[[ムービーコレクション]]''</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://xtrend.nikkei.com/atcl/trn/column/20110527/1035910/?ST=life&P=2|title=心に響く世界最弱のヒーロー アンパンマンの正義 〜やなせたかしさんに聞く|author=[[丁野奈都子]]|page=2|date=2011年6月17日|publisher=[[日経トレンディ]]|accessdate=2011年11月5日}}</ref>、引退を撤回したという。その後、被災地向けにアンパンマンのポスターを制作したり、[[奇跡の一本松]]をテーマにしたCDを自主制作するなどした。
[[2012年]](平成24年)6月の日本漫画家協会賞の贈賞式を最後に、高齢と体調不良を理由に日本漫画家協会の理事長を辞任して会長に就任。後任の理事長は[[ちばてつや]]。
その後もユニークなキャラクターは変えず、テレビのインタビューやアニメの舞台挨拶の席では、陽気に歌いだす、元気な感じで「もうすぐ俺は死ぬ」と言って笑いをとるなどしていた。[[2013年]]7月6日に行われた劇場版アニメ「[[それいけ!アンパンマン とばせ! 希望のハンカチ]]」の初日舞台挨拶では、{{Quotation|なんとか今のところは死なないでいるんだけど、まもなくだね。病院からはあと2〜3週間しか生きられないって言われてる。死ぬ時は死ぬんだよ。笑いながら死ぬんだよ。そうすれば映画の宣伝になる。死ぬまで一生懸命やるんだよ}}と笑いながら語っていた<ref>[https://archive.is/20131017102050/mainichi.jp/mantan/news/20130706dyo00m200036000c.html やなせたかし:「死んだら映画の宣伝になる」とブラックジョーク]2013年7月6日『毎日新聞デジタル』(2013年10月17日閲覧)</ref>。
2013年8月に体調を崩して入院し、2ヶ月後の10月13日午前3時8分、[[心不全]]のため東京都文京区本郷の[[順天堂大学医学部附属順天堂医院]]で逝去。94歳没<ref>[https://www.froebel-kan.co.jp/top_info/info4650.html やなせ たかし逝去に関するお知らせ(訃報)] フレーベル館ホームページ(2013年10月16日閲覧)</ref><ref name="oricon">[https://www.oricon.co.jp/news/2029743/full/ やなせたかしさん、がん患っていた 最期は「アンパンマン」に囲まれて] オリコンスタイル 2013年10月15日閲覧</ref>。死去の知らせは一般には翌々日の15日に公表され<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1502Z_V11C13A0000000/ やなせたかしさん死去 「アンパンマン」で子供魅了] 日本経済新聞 (2013年10月15日 15:13)。</ref>、出身地の地元紙である[[高知新聞]]は、号外をWeb上で公開した<ref>{{PDFLink|[https://www.kochinews.co.jp/img/gogai131015.pdf やなせたかしさん死去] 高知新聞(2013年10月15日)}}</ref>。
テレビのニュースでは、2013年6月に「アンパンマン」のアニメ製作のスタッフらに
{{Quotation|来年までに俺は死ぬんだよね。朝起きるたびに、少しずつ体が衰弱していくのが分かるんだよね。まだ死にたくねぇよ。(ようやく人生が)面白いところへ来たのに、俺はなんで死ななくちゃいけないんだよ}}
と悲痛な本音を吐露する当時94歳のやなせの姿が繰り返し放送された。同日、[[日本放送協会|NHK]]も夜のニュースでアンパンマンのアニメを暫らく流すなどして逝去を惜しんだ。ちなみにやなせが死去した3日前には、やなせ原作のアニメ『[[ニャニがニャンだー ニャンダーかめん]]』に出演した声優の[[檀臣幸]]も50歳の若さで死去している。
その後、葬儀は故人の遺志により、近親者のみで済ませた。後日「偲ぶ会」を開く予定とされ<ref>{{cite news|date=2013-10-15|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/10/15/kiji/K20131015006814940.html|title=「アンパンマン」のやなせたかし氏死去 94歳|publisher=スポーツニッポン|accessdate=2013-10-15}}</ref><ref>[https://natalie.mu/comic/news/101394 やなせたかしが94歳で逝去。「アンパンマン」シリーズなど] コミックナタリー 2013年10月15日</ref>、翌2014年2月6日、生きていれば95歳となる誕生日に東京都新宿区で「ありがとう!やなせたかし先生 95歳おめでとう!」というタイトルで開催された<ref>{{cite news|date=2014-02-06|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/02/06/kiji/K20140206007530320.html|title=やなせたかしさん 95歳誕生日にしのぶ会 戸田恵子ら感謝の言葉|publisher=スポーツニッポン|accessdate=2014-03-03}}</ref>。なお、やなせの密葬には、ちばてつやをはじめとする[[日本漫画家協会]]所属の漫画家60人が参列したという。
やなせの訃報を受けて、『[[手のひらを太陽に]]』を歌唱した[[宮城まり子]]<ref>[https://www.asahi.com/culture/update/1015/TKY201310150323.html 宮城まり子さん「僕のちしお、感動」 やなせさん死去] 朝日新聞 2013年10月15日閲覧</ref>、アニメの「[[それいけ!アンパンマン]]」で[[アンパンマン (キャラクター)|アンパンマン]]の声を演じる[[戸田恵子]]<ref>[https://web.archive.org/web/20131016045605/https://www.news24.jp/entertainment/news/1630559.html 【追悼】「やなせ先生こそがアンパンマン」] 日テレNEWS24 2013年10月15日閲覧</ref>をはじめ、主要キャラクターの声を担当する声優達<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2029744/ “ジャムおじさん”“ばいきんまん”らも沈痛「自分自身を失うよう」] ORICON STYLE 2013年10月16日閲覧</ref>、また[[古川登志夫]]など、故人と縁が深かった人や敬愛する人々がそれぞれ追悼コメントを発している<ref>[https://www.crank-in.net/news/27305 やなせたかし氏死去、緒方恵美・古川登志夫・新田恵海らが追悼コメント] クランクイン 2013年10月15日閲覧</ref>。前後して、詩人としても死を意識した作品が増加している。やなせ自身が責任編集を行い、[[かまくら春秋社]]から発行されている季刊誌『[[詩とファンタジー]]』No.24号(2013年10月19日発売)に、「天命」と題して自らの死を予告するような自作の詩とイラストを掲載した<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/10/16/kiji/K20131016006819500.html やなせさんの“遺言”掲載 責任編集の季刊誌19日発売] スポーツニッポン 2013年10月16日閲覧</ref>。フレーベル館から『アンパンマンとリンゴぼうや』が2013年11月に発売され、これがやなせの最後の作品となった<ref name="oricon"/>。
同年11月にはフレーベル館から、やなせの多方面に及んだ活動を網羅した作品集『やなせたかし大全』が出版。奇しくも逝去直後の出版になるが制作そのものは数年前から続けられていたものである(出版は「やなせたかし作家活動60年」、絵本『あんぱんまん』40年、アニメ『それいけ!アンパンマン』放映25年を記念したものとされている)。
晩年には家族や親戚がいなかったこともあり、やなせは生前自身の遺産について、アンパンマンミュージアム(高知県)とやなせスタジオ(東京)に回すよう周囲に伝えていたという。自身の墓は高知県香美市香北町にある実家の跡地である「やなせたかし朴ノ木公園」に建設し、墓碑の横にはアンパンマンと[[ばいきんまん]]の石像も建てられた<ref>{{Cite web|和書|date=2013-10-21 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/10/21/kiji/K20131021006848800.html |title=やなせたかしさん墓 出身地、高知県実家の跡地公園に |publisher=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2014-07-17}}</ref><ref name="otsuka6719">[http://www.otsukastone.co.jp/blog/6719 やなせたかし先生のお墓「朴ノ木公園(ほうのきこうえん)」に行ってきました] - 霊園墓地の大塚</ref><ref>[http://monobegawa.blog48.fc2.com/blog-entry-719.html やなせたかし先生のお墓への行き方と場所] - 香美市観光協会スタッフブログ</ref>。
なお、2016年6月には、やなせが子ども時代を過ごした柳瀬医院の跡地(高知県南国市)に「やなせたかし・ごめん駅前公園」が完成し、やなせの母校の後免野田小学校の児童と後免野田保育園の園児が参加して6月1日に開園セレモニーが挙行された<ref>{{Cite news|url=https://www.kochinews.co.jp/article/25730|title=高知県南国市に「やなせたかし・ごめん駅前公園」が完成|newspaper=[[高知新聞]]|date=2016-06-02|accessdate=2016-06-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160604170123/http://www.kochinews.co.jp/article/25730/|archivedate=2016年6月4日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.yomiuri.co.jp/local/kochi/news/20160601-OYTNT50076/ |title=「やなせ公園」で遊ぼっ |newspaper=[[読売新聞]]|date=2016-06-02 |accessdate=2016-06-05 }}{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。
2019年2月6日から、[[生誕]]100年を記念し、故郷の高知県香美市にある[[香美市立やなせたかし記念館]]で特別展が開催された。開催期間は2019年7月8日まで<ref>{{Cite web|和書|title=生誕100年記念し特別展 やなせたかしさん故郷で|url=https://www.sankei.com/life/news/190206/lif1902060026-n1.html|website=産経ニュース|date=2019-02-06|accessdate=2019-02-06|publisher=産経新聞社}}</ref>。
== 受賞・受章など ==
* [[1967年]] 週刊朝日漫画賞受賞<ref name="HoboYanaseProf" />(「ボオ氏」)
* [[1969年]] [[毎日映画コンクール]][[大藤信郎賞]](「[[やさしいライオン]]」)
* [[1970年]] 毎日映画賞、厚生大臣賞、最優秀動画章受賞<ref name="HoboYanaseProf" />(「やさしいライオン」)
* [[1989年]] 第19回日本童謡賞特別賞受賞<ref name="YanaWldZh68" />
* [[1990年]] 第19回[[日本漫画家協会賞]]大賞受賞<ref name="YanaWldZh68" />(「アンパンマン」)
* 1990年 サンリオ美術賞受賞<ref name="YanaWldZh68" />
* [[1991年]] 勲四等瑞宝章受章<ref name="YanaWldZh68" />
* [[1994年]] 高知県香美郡香北町名誉町民<ref name="YanaWldZh68" />
* [[1995年]] 日本漫画家協会文部大臣賞受賞<ref name="YanaWldZh68" />
* [[2000年]] 日本童謡協会功労賞受賞<ref name="HoboYanaseProf" />
* 2000年 日本児童文芸家協会児童文化功労賞受賞<ref name="HoboYanaseProf" />
* [[2001年]] 第31回日本童謡賞受賞<ref name="HoboYanaseProf" />(詩集「希望の歌」)
* [[2002年]] 高知県特別県勢功労者<ref name="HoboYanaseProf" />
* [[2003年]] 第50回交通文化賞国土交通大臣表彰
* [[2004年]] 新宿区名誉区民<ref name="HoboYanaseProf" />
* [[2008年]] [[東京国際アニメフェア]]2008 第4回功労賞
* [[2011年]] 高知県名誉県民<ref>{{Cite web|和書|title=高知県名誉県民顕彰|website=高知県|url=https://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/110901/meiyokenmin.html|accessdate=2022-07-25}}</ref>
== エピソード ==
* やなせの没後、重版未定や絶版だった過去作が復刊され流通しているが、生前のやなせは執筆時の制作環境や画力の問題から過去作の復刊には否定的であった<ref>『増補改訂版 やなせ・たかしの世界』p95より、また[[糸井重里]]との対談でアンパンマンの第1作である『あんぱんまん』の絶版を版元の[[フレーベル館]]に申し立てたもののベストセラー本の為拒否されたエピソードを明かしている([https://www.1101.com/yanase_takashi/2013-08-08.html 「箱入りじいさん」の94年。 やなせたかし×糸井重里]、ほぼ日刊イトイ新聞、2013年8月8日)。</ref>。また、やなせスタジオを構えた後は年々遅筆となっていった<ref>『アンパンマンミュージアム ガイドブック』p70より、やなせによると納得のいく仕上がりに達するまでに習作を繰り返すようになるなど作品のクオリティに対する拘りが強くなったのが原因だとしている。</ref>が、省力化の為にアンパンマンの顔をコンパスで描いていた時代もあった<ref>『アンパンマンのおはなしでてこい』シリーズ</ref>。
* 依頼されて描き下ろしたキャラクターは既存の物に手足をつけた様な手抜きともいえるキャラクターが多く、同郷の[[西原理恵子]]に漫画内でネタにされる事も少なくなかった<ref>『西原理恵子の人生画力対決』シリーズより</ref>。やなせによるとどのキャラクターも完成には2時間を要しているという<ref>『西原理恵子の人生画力対決』1巻より</ref>が、アンパンマンのキャラクターを2000以上もギネス申請したにもかかわらず、完成度を酷評され却下されたキャラクターが300以上に登った経験をして以降は、独自性の強いキャラクターを手がける様になった<ref>『西原理恵子の人生画力対決』より</ref>。
* 自作のアニメ化作品には積極的に関わり続けた。やなせの関与についてアニメスタッフからは好意的な意見が散見されていたが、毎週通っていた[[東京現像所]]の技師から『大抵の漫画家は3週で来なくなるんですよね』と陰口を叩かれ煙たがられていたという<ref>『人生なんて夢だけど』</ref>。
* やなせの出身地の[[高知放送]]では、スポンサーが付かないことを理由に全国ネット後もなお『それいけ!アンパンマン』が放映されていなかった。このため、やなせ自らがスポンサーになって、高知放送での同番組の放映を開始させた<ref name=":0" />。
* 死去の翌日、東京新聞2013年10月16日付の追悼記事で「ダンディーで信仰あついクリスチャンだった」と報じられていたが<ref>東京新聞2013年10月16日付、追悼記事『人生楽しむ達人』。</ref>、後の東京新聞2013年11月20日付で「やなせたかしさんをクリスチャンとしたのは誤りでした」との訂正記事が出ている。やなせ本人は58歳時に1976年3月刊行の『月刊[[面白半分]]57号 特集宗教なんかいらない!』にて「ぼくには宗教心というのは全くないのです。おそらくこれからも宗教に頼ることはないでしょう。」「宗教を認めながら、神を崇拝しながら、宗教心がないのです。」と語っている。
* 私生活においては[[1993年]](平成5年)11月22日、妻の暢が75歳で死去している。暢夫人との間に子供はいなく、アンパンマンを2人の子供であるとしている<ref>『アンパンマンの遺書』</ref>。
* 絵柄は[[エルジェ]]の影響を受けている<ref>[http://www.kyotomm.com/interview/yanase/topic04.html マンガ家インタビュー | 京都国際マンガミュージアム] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081006172617/http://www.kyotomm.com/interview/yanase/topic04.html |date=2008年10月6日 }}</ref>。
* 漫画家の[[レイモン・ペイネ]]を心の師匠とエッセイで語っており、ペイネ美術館の開館時にはイラストとコメントを寄せている<ref>『[[ぶらぶら美術・博物館]]』2013年6月25日</ref>。
* 日本漫画家協会が2000年ごろから入居している新宿区の「YANASE兎ビル」は、やなせが所有していたビルだが生前は協会から賃貸料を受け取っていなかった<ref>[http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/145280 日刊ゲンダイ|やなせたかし氏が「アンパンマン」で残した“遺産400億円”の行方]</ref>。2015年時点ではビル付近の土地と建物は協会に寄贈されている<ref>[https://nihonmangakakyokai.or.jp/wp-content/uploads/2021/08/eaf02e9e1aa379a2a2b990513de90132.pdf 財産目録(平成28年3月31日現在)] 日本漫画家協会</ref>。
== 主な作品 ==
=== 漫画 ===
{{節スタブ}}
* ビールの王さま
** ニッポンビール(現:[[サッポロホールディングス]])の広告漫画。
* リトル・ボオ
** [[髙島屋]]の通販カタログに連載されていた1ページ漫画。リトル・ボオという帽子を目深に被ったキャラクターが、悪者からドタくんとバタコさんを救うストーリー。また、ここに登場するバタコさんは、『アンパンマン』に登場するバタコさんと瓜二つだが、名前の由来が異なっている。『アンパンマン』に登場する「バタコさん」が[[バター]]が由来であるのに対し、こちらは「ドタバタ」が由来となっている。
* ボオ氏
** 以上2作品は「[[ワガハイ|Mr.ボォ]]」とは関係ない。
* キャラ子さん
** 『[[婦人生活]]』(婦人生活社)に1952年から連載。
* 内野ムス子さん
** 『[[中学コース]]』(学習研究社)に1955年から連載。
* ナマ子さん
** 『中学コース』(学習研究社)に1956年から連載。
* アン子ちゃん
** 『[[3年の学習]]』(学習研究社)に1956年から連載。
* スピード仙人
** 『モーターファン』(三栄書房)に1956年から連載。
* おれは孫悟空
** 『面白倶楽部』(光文社)に連載。
* 珍犬ミミ
** 『[[サングラフ]]』(サン出版社)に1958年から連載。
=== 童話・絵本 ===
※'''太字'''はアニメ化された作品を指す。
* [[十二の真珠]]
* '''[[アンパンマン]]'''シリーズ([[1969年]]、[[PHP研究所]])
* '''おむすびまん'''
* '''[[ニャニがニャンだー ニャンダーかめん]]'''(ピョンピョンおたすけかめん)([[1996年]]、[[講談社]])
* '''アリスのさくらんぼ'''(1973年)
* '''[[やさしいライオン]]'''([[1975年]]、[[フレーベル館]])
** 元は[[ボニージャックス]]によるラジオミュージカルとして制作したものを絵本化(最初の絵本は[[1969年]]に刊行された)。その後、上記の通り[[虫プロダクション]]で[[1970年]]にアニメ映画化もされた。
* '''ルルン=ナンダーのほし'''([[1976年]]、講談社)
* '''[[チリンの鈴|チリンのすず]]'''([[1978年]]、フレーベル館)
** 1978年3月にサンリオによりアニメ化されて日本ヘラルド映画配給で劇場公開された。
** 絵本自体は『十二の真珠』に収録された短編童話『チリンの鈴』を底本としているが、一部内容が異なる。
* ちいさなジャンボ
* バラの花とジョー
* ガンバリルおじさんとホオちゃん
* ライオンららら(挿絵担当、[[立原えりか]] [[小学館]])
* '''[[やなせたかしシアター#ハルのふえ|ハルのふえ]]'''([[2009年]]、小学館)
** トムス・エンタテインメントにより2012年12月アニメ化、オムニバスアニメ映画『[[やなせたかしシアター]]』の中の1作品として公開。(同時公開・[[やなせたかしシアター#アンパンマンが生まれた日|アンパンマンが生まれた日]]、2008年に製作された[[OVA|オリジナルビデオアニメ]]作品『[[やなせたかしメルヘン劇場#ロボくんとことり|やなせたかしメルヘン劇場 ロボくんとことり]]』)
* は、は、は、歯のおはなし 歯科詩集([[2013年]]、かまくら春秋社)
=== キャラクターデザイン ===
* 『[[千夜一夜物語 (1969年の映画)|千夜一夜物語]]』(日本ヘラルド映画、虫プロダクション製作、1969年6月)のキャラクターデザイン。
* [[高知県]]を走る[[土佐くろしお鉄道]][[土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線|ごめん・なはり線]]各駅のキャラクター、および同鉄道[[土佐くろしお鉄道中村線|中村線]]・[[土佐くろしお鉄道宿毛線|宿毛線]]のイメージキャラクター。
* てれすけくん([[とちぎテレビ]]イメージキャラクター)
* ニックとアン([[中華まん]]をモチーフとした[[中村屋]]のイメージキャラクター。中村屋のファンだったため引き受けたという)
* オウくん(母校である[[高知県立高知追手前高等学校]]のキャラクター)
* [[ザ・セサミブラザーズ]]([[岐阜県]][[不破郡]][[関ケ原町]]にある企業「[[真誠]]」と、それに関連するゴマの博物館「[[胡麻の郷]]」のマスコットキャラクター)
* TBS「[[明石家さんちゃんねる]]」オープニングアニメとキャラクターデザイン
* 人KENまもる君・人KENあゆみちゃん([[法務省]][[人権擁護局]]の人権イメージキャラクター。イメージソングの作詞・作曲も手がけている)
* [[日本酪農乳業協会]]「3-A-Day」キャンペーンキャラクター
* 新宿シンちゃん([[新宿区]]の防犯マスコットキャラクター)
* ミレーちゃん([[ミレービスケット]]のマスコットキャラクター)
* パトロウ([[四国新聞]]が制定した[[香川県]]の防犯マスコットキャラクター)
* ピカピカ・アオちゃん・モリくん([[青森県|青森]]米イメージキャラクター)
* きずなちゃん([[日本さい帯血バンクネットワーク]]シンボルキャラクター)
* [[浦和うなこちゃん]]([[さいたま市]]観光大使。[[浦和うなぎまつり]]マスコットキャラクター)
* 佐世保バーガーボーイ([[長崎県]][[佐世保市]]の名物[[佐世保バーガー]]のイメージキャラクター)
* [[うながっぱ]]([[多治見市]]が2007年8月16日に観測史上日本最高気温を観測した記念に作られた多治見市マスコットキャラクター)
* ちよちゃん、さくちゃん、けんちゃん、うっかりちゃん([[文化庁]]・[[著作権情報センター|公益社団法人著作権情報センター]]の著作権制度100周年記念キャラクター)
* ずんだ&もちこ([[仙台市]]の名物[[ずんだ餅]]のキャラクター)
* タチバナ・タッキー([[学校法人高知学園]]キャラクター。高知学園の名誉理事でもあるやなせが学園のためにデザインした)
* なべラーマンと、かわうそのカウちゃん(高知県[[須崎市]]の新名物「[[鍋焼きラーメン]]」イメージキャラクター)
* コメパンマン([[新潟県]]の米粉・米粉製品PRキャラクター)
* シャチオくん・シャチコちゃん・ほこちゃん(生活協同組合コープあいちのマスコットキャラクター)
* パレオ、パーラ、エビーノ、トマトーナ、マスケラーナ、アンティコ姫。(静岡県浜松市の浜名湖パルパルのマスコットキャラクター)
* 地ぱんマン([[福島市]]本社の「銀嶺食品」マスコットキャラクター)
* ちりめんドンちゃん(安芸「[[ちりめん丼|釜あげちりめん丼]]」楽会キャラクター)
* [[麒麟 (お笑いコンビ)|麒麟]]「ジラフ」(同DVDジャケットのキャラクターデザイン。麒麟の2人がDVDを作る際、ジャケットに自分たちのデザインを描いて貰いたいと考え、様々な漫画家やプロダクションに直接電話を掛けてオファーをした所、やなせのみ前向きに快諾してくれた事がきっかけで実現した)<ref>{{cite news|url=https://www.j-cast.com/tv/2013/10/16186365.html|title=やなせたかしさん死去!麒麟・川島「先週ブログに思い出を書いたばかり…」|publisher=J-CASTテレビウォッチ|date=2013-10-16|accessdate=2018-11-23}}</ref>
=== 作詞 ===
* [[手のひらを太陽に]](作曲:[[いずみたく]]、[[日本の歌百選]])
* 星の炎に(作曲:いずみたく) - テレビアニメ『[[宇宙エース]]』主題歌
* クラブ君の冒険(作曲:橋場清) - [[ピー・プロダクション]]制作の同名パイロットフィルムの主題歌
* [[勇気のうた]](作曲:[[藤家虹二]])
* [[おかあさんの顔]](作曲:藤家虹二)
* [[ラッパと少年]](作曲:[[寺島尚彦]])
* しっぽはぐぐんと(作曲:[[山下毅雄]]/歌:[[大山のぶ代]]/台詞:[[雨森雅司]]) - テレビアニメ『[[のらくろ]]』オープニングテーマ
* アイアイ・ミコちゃん(作曲:山下毅雄/歌:[[天地総子]]/台詞:大山のぶ代、[[松尾佳子]]) - テレビアニメ『[[のらくろ]]』エンディングテーマ
* 美しの丘(作曲・編曲:横山菁児/歌:[[しまざき由理|島崎由理]]) - テレビアニメ『[[昆虫物語 みなしごハッチ#昆虫物語 新みなしごハッチ|昆虫物語 新みなしごハッチ]]』エンディングテーマ
* ムシのついた女(作曲:飯吉馨/歌:[[ボーカル・ショップ]])
* しあわせよカタツムリにのって(作曲:[[信長貴富]])
* 天使のパンツ(作曲者:天井正、編曲者:[[小森昭宏]])
* 夕やけに拍手(第42回[[NHK全国学校音楽コンクール]]小学校の部課題曲)
* 花と草と風と(作曲:[[蒔田尚昊]])(第52回NHK全国学校音楽コンクール小学校の部課題曲)
* 海と涙と私と(作曲:[[木下牧子]]、[[泉周二]])
* ひばり(作曲:木下牧子)
* ユレル(作曲:木下牧子、泉周二)
* きんいろの太陽がもえる朝に(作曲:木下牧子、泉周二)
* ロマンチストの豚(作曲:木下牧子、泉周二)
* さびしいカシの木(作曲:木下牧子、泉周二)
* [[新宿区立新宿養護学校]] 校歌「ひまわりの歌」(作曲:[[山崎唯]])
* 誰かがちいさなベルをおす
* しろいうま(作曲・編曲:[[タテタカコ]])
* うなぎ小唄(作曲:ミッシェル・カマ)<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.anpanmanshop.co.jp/event04_htm/unagikouta.htm |title=CDうなぎ小唄 |publisher=やなせスタジオ(アンパンマンショップ) |page= |accessdate=2015-11-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090427183044/http://www.anpanmanshop.co.jp/event04_htm/unagikouta.htm |archivedate=2009年4月27日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref>
* 星の木の下で(作曲:ミッシェル・カマ、編曲:タテタカコ)
* ナマコの行進曲(マーチ)(作曲:いずみたく)
* 東京都世田谷区立松丘幼稚園 園歌「ぼくらのうた」(作曲:いずみたく)
* ばら色のクジラ(混声3部合唱曲)(作曲:平吉 毅州)
* ぼくらは仲間(作曲:[[鈴木憲夫]])(第78回NHK全国学校音楽コンクール小学校の部課題曲)
* 美良布保育園の歌(作曲:ミッシェル・カマ/歌:岡崎裕美、[[竹田えり]]、[[山野さと子]] - ビューティー3名義)(香美市保育園保護者会連合会)- やなせの地域に対する認識の齟齬のため[[お蔵入り]]の様になっていたが、歌を知る保護者たちからの声を受け、歌詞の地名を変えたうえで2015年11月15日に初披露されることとなった<ref>{{Cite web|和書|date=2015年4月14日 |url=https://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=336384&nwIW=1&nwVt=knd |title=やなせたかしさんの歌再び 高知県香美市の保育園が秋に披露 |publisher=高知新聞 |accessdate=2015-11-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2015-11-14 |url=http://mainichi.jp/area/kochi/news/20151114ddlk39040595000c.html |title=故やなせたかしさん:香美の保育園児に作った歌「復活」 あす、市のイベントで披露/高知 |publisher=毎日新聞社 |page= |accessdate=2015-11-15 |archiveurl=https://archive.is/znOvr |archivedate=2015-11-15 }}</ref>。
* 光る海の城(作曲:いずみたく)
* ザザザーン・ポートピア(作曲:いずみたく)
==== それいけ!アンパンマン ====
それいけ!アンパンマン関連の楽曲は、そのほとんどをやなせが作詞を手がけている。
* [[アンパンマンのマーチ]]
* 勇気りんりん
* 勇気の花がひらくとき
* 生きてるパンをつくろう
* 勇気のルンダ
* いくぞ!ばいきんまん
* アンパンマンたいそう
* すすめ!アンパンマン号
* サンサンたいそう
* ドレミファアンパンマン
他
=== CD(本人歌唱) ===
* いいなぁアキ(安芸)(2003年11月21日発売。[[土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線|ごめん・なはり線]]記念ソング。歌:やなせたかし、[[大和田りつこ]]、[[岡崎裕美]])[https://web.archive.org/web/20131029200820/http://www.anpanmanshop.co.jp/event02.htm/aki_2.htm]
* ノスタル爺さん(2003年12月26日発売)
=== 自伝・エッセイなど ===
* アンパンマンの遺書([[1995年]]、[[岩波書店]])
* 人間なんておかしいね 人生の言葉(こころ)([[1996年]]、[[勁文社]] / [[2002年]]、[[たちばな出版]]より再版)
* 痛快!第二の青春 アンパンマンとぼく([[2003年]]、[[講談社]])
* 人生なんて夢だけど([[2005年]]、[[フレーベル館]])ISBN 457703008X
* 人生いつしかたそがれてわずかに残るうすあかり([[2007年]]9月、[[白泉社]])
* 絶望の隣は希望です!([[2011年]]9月、[[小学館]])
* オイドル絵っせい 人生、90歳からおもしろい!([[2012年]]、[[新潮社]])※[[高知新聞]]の[[夕刊]]でも連載
* わたしが正義について語るなら(2013年11月6日、[[ポプラ社]])
* ぼくは戦争は大きらい([[2013年]][[12月16日]]、[[小学館]])
=== その他(初期作品など) ===
* [[中学生の友]](小学館)挿画(1951年〜)
* [[女学生の友]](小学館)挿画
* [[受驗と學生]]([[研究社]])挿画(1952年〜1953年)
* [[読切倶楽部]](三世社)連載「その日暮しの手帳」(1953年〜)
* [[小学館の学年別学習雑誌|小学五年生]](小学館)挿画
* [[中学コース]](学習研究社)挿画(1953年〜)
* [[週刊東京]](東京新聞社)連載「時局漫評」「素顔拝見」
* [[小説倶楽部]](桃園書房)連載「東京変人シリーズ」
* [[映画芸術]](映画芸術社)連載「ぼくのシネ・スケッチブック」(1950年代末〜1960年代)
* [[モダン夫婦読本]](全日本出版社)漫画(1953年)
== 関連書籍 ==
やなせ以外の作家が、やなせを題材にして創った作品や雑誌の特集記事など。
* 『やなせたかし メルヘンの魔術師 90年の軌跡』 中村圭子編 「らんぷの本」[[河出書房新社]]、2009年3月、ISBN 978-4309727677
* 『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 詩と批評]] 総特集・やなせたかし アンパンマンの心』 2013年8月臨時増刊号、[[青土社]]、ISBN 978-4791702589
* [[小手鞠るい]] 『優しいライオン やなせたかし先生からの贈り物』講談社、2015年、ISBN 978-4062197519
* [[梯久美子]] 『勇気の花がひらくとき やなせたかしとアンパンマンの物語』 フレーベル館、2015年、ISBN 978-4-577-04305-9
: 『勇気の花がひらくとき』は2019年2月に、やなせたかし生誕100周年記念事業の一環でアニメ化、[[BS日本|BS日テレ]]および[[高知放送|RKC高知放送]]で放送された<ref>[https://www.froebel-kan.co.jp/yanase100th/ やなせたかし 生誕100周年記念ページ(フレーベル館)]</ref>。
* 梯久美子『やなせたかし〜アンパンマンの勇気』[[光村図書出版|光村図書]]、2021年
『やなせたかし〜アンパンマンの勇気』は2021年の光村図書の教科書の題材になっている。
* 『やなせたかし 「アンパンマン」誕生までの物語』 ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉[[筑摩書房]]、2015年11月
== 出演 ==
* [[まんが学校]](1964年 - 1966年、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]) - 先生役。知名度は上がったが、漫画は売れないというジレンマに悩んだという。
* [[趣味講座|趣味講座 イラスト入門]](1984年12月 - 1985年3月、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]])
* [[ぼくの絵わたしの絵|ぼくの絵わたしの絵 第54回全国教育美術展から]](1995年3月22日 - 24日、NHK教育)
* さわやかインタビュー(1997年4月13日、1998年3月22日、NHK教育)
* [[平成日本のよふけ]]([[1999年]]、[[フジネットワーク|フジテレビ系]])
* [[メトロポリス (2001年の映画)|メトロポリス]]([[2001年]]、[[TOHOスタジオ|東宝映画]])※声優として特別出演
* [[それいけ!アンパンマン]]([[1988年]] - 、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系) - やなせうさぎ<ref group="注釈">やなせ本人をモチーフとしたウサギのキャラクター。</ref>役。声優として特別出演。
** [[それいけ!アンパンマン|クリスマススペシャル うたおう!おどろう!みんなのクリスマス]]([[2006年]])
** 第1000話「ぼく、アンパンマンです!」([[2009年]])
** [[それいけ!アンパンマン すくえ! ココリンと奇跡の星|映画 すくえ! ココリンと奇跡の星]]([[2011年]]、[[東京テアトル]])
** [[それいけ!アンパンマン よみがえれ バナナ島|映画 よみがえれ バナナ島]]([[2012年]]、[[東京テアトル]])
* [[スタジオパークからこんにちは]]([[2004年]][[1月28日]]・[[2009年]][[10月21日]]、NHK総合)
* [[メッセージ.jp]]([[2007年]]、[[BSフジ]])
* [[知るを楽しむ|知るを楽しむ 人生の歩き方 - やなせたかし 正義の味方はカッコ悪い!]](2008年10月8日 - 29日、NHK教育)
* [[爆笑問題のニッポンの教養]](2011年9月1日、NHK総合)
* [[きょうの料理]](2012年4月25日、[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]])
* [[100年インタビュー]](2012年7月16日、[[NHK BSプレミアム]])
* [[プレミアムドラマ|プレミアムドラマ「忘れないで夢を〜漫画家やなせたかしと妻・暢(のぶ)〜」]](2013年1月12日、NHK BSプレミアム)<ref>[https://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20130112-10-21997 NHKネットクラブ 番組詳細]</ref>
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author= |date=1996-07-25 |year=1996 |title=やなせ・たかしの世界 増補版 |publisher=[[サンリオ]] |page= |isbn=4-387-96008-6 |ref=YanaseZouho }}
* {{Cite book |和書 |author=やなせたかし |date=2005 |year=2005 |title=人生なんて夢だけど |publisher=[[フレーベル館]] |page= |isbn=457703008X |ref=JinsenYume }}
== 関連項目 ==
* [[香美市立やなせたかし記念館]]
* [[佐世保バーガー]]
* [[やなせ (小惑星)]]
* [[アンパンマン (小惑星)]]
* [[まど・みちお]]
* [[赤い鳥]]
* [[行列のできる法律相談所#有名人100枚の絵でつなぐ カンボジア学校建設プロジェクト|有名人100枚の絵でつなぐ カンボジア学校建設プロジェクト]]
* [[昭和南海地震]]
* [[あんぱん (2025年のテレビドラマ)|あんぱん]] - 2025年(令和7年)前期放送予定の[[連続テレビ小説|NHK連続テレビ小説]]。やなせとその妻をモデルとした作品。
== 外部リンク ==
{{Anchors|Wikinews 20131005|}}{{Wikinews|訃報 やなせたかし氏 - 「アンパンマン」の原作者}}
{{ウィキポータルリンク|漫画|[[画像:Logo serie manga.png|50px|ウィキポータル 漫画]]}}
* [https://web.archive.org/web/20150518082445/http://www.anpanmanshop.co.jp/index.html 有限会社やなせスタジオ]
* [https://www.anpanman.jp/ アンパンマンポータルサイト]
* [https://anpanman-museum.net/index.html やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム]
* [https://derorinman.hatenadiary.org/entry/20070131/1170259999 アンパンマンができるまで その1 - 愚仮面]
* {{kotobank|1=やなせたかし|2=知恵蔵|3=}}
* {{NHK人物録|D0009072453_00000}}
* [https://friday.kodansha.co.jp/article/154876 57歳で正社員「止めた時計」を動かしたやなせたかし最後の編集者(Friday Digital記事,2020年12月29日配信)]
=== インタビュー ===
* [https://web.archive.org/web/20160811173444/http://www.chiyuu.com/chiyuu/vol_10b.html 知遊 特集記事10]
* [http://mi-te.jp/contents/cafe/portal_archivecontents.php?c=1&b=1&e=342 絵本作家 やなせたかしさん(前編) | ミーテ 絵本読み聞かせ情報]
* [https://web.archive.org/web/20120414100103/http://www.study.jp/news/interview/talent/yanase.html やなせたかしさんにインタビュー]
* [https://web.archive.org/web/20120622200126/http://www.manga-g.co.jp/int01-01.htm お正月スペシャルインタビュー]
* [https://web.archive.org/web/20120225200603/http://comichan.com/modules/tinyd8/ 沖縄コミックチャンプルー - 第1回 やなせたかし先生]
* [https://www.news-postseven.com/archives/20110503_18844.html?DETAIL NEWSポストセブン|やなせたかし氏 日本人の正義とは困った人にパン差し出すこと]
* [https://www.1101.com/yanase_takashi/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 やなせたかしさん対談 箱入りじいさんの94年(2013年8月6日~14日、全7回)]
{{アンパンマン}}
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あんパン
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あんパン(餡パン、英語:Anpan)は、中に小豆餡を詰めた日本の菓子パンの一種。発祥である木村屋總本店をはじめとして、「あんぱん」とひらがな表記して販売する店も多い。
あんパンは1874年(明治7年)に、木村屋(現・木村屋總本店)創業者であり茨城県出身の元士族・木村安兵衛とその次男の木村英三郎によって考案された。
胡麻、芥子などと並んで表面のアクセントに用いられることの多い桜の花の塩漬けが初めて用いられたのは翌1875年(明治8年)4月4日のこと。花見のため向島の水戸藩下屋敷へ行幸した明治天皇に山岡鉄舟が献上し、宮内省御用達となって以来である。それ以降、4月4日は「あんぱんの日」となっている。御用達となったことにより、あんパンと共に木村屋の全国的な知名度も向上し、1897年(明治30年)前後には全国的にあんパンが流行。木村屋では1日10万個以上売れ、長蛇の列で30分以上待たさせることもあったという。
欧米でパン生地づくりに酵母として使うイースト菌が当時の日本で希少だったこともあり、木村屋では酒種で生地を発酵させた。上記の流行は、日清戦争で日本各地から集散した兵士に、あんパンが支給されたことがきっかけとなった。
この「パンの中に餡子を入れる」という日本独自のアイデアは、それ以降1900年には「ジャムパン」、1904年には「クリームパン」などを生み出すこととなり、あんパンは日本における菓子パンの元祖となった。
木村屋のあんパンは、パン酵母(ホップを用いたもの)の代わりに、酒饅頭の製法に倣い日本酒酵母を含む酒種(酒母、麹に酵母を繁殖させたもの)を使った。パンでありながらも、和菓子に近い製法を取り入れ、パンに馴染みのなかった当時の日本人にも親しみやすいように工夫して作られていた。
現代では中の餡はつぶあん、こしあんの小豆餡が一般的である。中には、インゲンマメを使った白あんパンや、イモあんパン、栗あんパンなどの豆以外の餡を使ったもの、桜あんやうぐいすあんを使った季節のあんパンもある。
典型的な形状は平たい円盤。ケシの実(ケシの種)、塩漬けの桜の花(ヤエザクラ)、ゴマの実が飾りに乗せられる。
あんパンを揚げたものは揚げあんパンやあんドーナツとも呼ばれる。さらには、トーストに餡を挟んで揚げたものもある。
北海道札幌市豊平区月寒では明治時代後期に、木村屋のあんパンの話を元に「月寒あんぱん」を作り出した。製法や実物などの情報が乏しかったため、パンというよりも月餅に近いサイズと食感を持ったものとなった。当時の陸軍歩兵第25連隊の兵士にとって、重労働の後のエネルギー源としてもてはやされ、それによって出来た道路に「アンパン道路」と名付けるほどだった。現在では、ほんまが製造し、道外でも販売されている。
青森県北津軽郡板柳町には、「川口あんぱん」と呼ばれる、小麦粉を原料としたカステラ風の生地で白あんを包んだ饅頭状の和菓子が存在する。これは明治初期(1880年)に考案されたといわれるが、月寒あんぱん同様名称以外に詳細な情報が存在しなかったため、既存の製菓技術を用いてオーブンで仕上げた焼き菓子になったと見られる。
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あんパンは、中に小豆餡を詰めた日本の菓子パンの一種。発祥である木村屋總本店をはじめとして、「あんぱん」とひらがな表記して販売する店も多い。
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'''あんパン'''(餡パン)は、中に[[小豆餡]]を詰めた[[日本]]の[[菓子パン]]の一種。発祥である[[木村屋總本店]]をはじめとして、「あんぱん」とひらがな表記して販売する店も多い。
== 歴史 ==
あんパンは[[1874年]]([[明治]]7年)に、木村屋(現・[[木村屋總本店]])創業者であり[[茨城県]]出身の元[[士族]]・[[木村安兵衛]]とその次男の[[木村英三郎]]によって考案された<ref name="jiten15">[[#辞典|辞典 和菓子の世界]] P.15</ref>。
[[ゴマ|胡麻]]、[[ケシ|芥子]]などと並んで表面のアクセントに用いられることの多い桜の花の塩漬けが初めて用いられたのは翌[[1875年]](明治8年)[[4月4日]]のこと。[[花見]]のため[[向島 (墨田区)|向島]]の[[水戸藩]][[江戸藩邸|下屋敷]]へ行幸した[[明治天皇]]に[[山岡鉄舟]]が献上し<ref>[https://www.kimuraya-sohonten.co.jp/ayumi 木村屋のあゆみ] 木村屋總本店 公式サイト</ref>、[[御用達#皇室の御用達制度|宮内省御用達]]となって以来である<ref name="hatanaka">[[#ファッションフード|ファッションフード、あります。: はやりの食べ物クロニクル1970-2010]] </ref><ref name="jiten15" />。それ以降、'''4月4日は「あんぱんの日」'''となっている。御用達となったことにより、あんパンと共に木村屋の全国的な知名度も向上し、[[1897年]](明治30年)前後には全国的にあんパンが流行。木村屋では1日10万個以上売れ、長蛇の列で30分以上待たさせることもあったという<ref name="hatanaka"/>。
[[欧米]]で[[パン]][[生地]]づくりに[[酵母]]として使う[[イースト菌]]が当時の[[日本]]で希少だったこともあり、木村屋では[[日本酒|酒]]種で生地を[[発酵]]させた。上記の流行は、[[日清戦争]]で日本各地から集散した[[兵士]]に、あんパンが支給されたことがきっかけとなった<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASKDL7KLFKDLUTIL07N.html あんぱん貫く「この味」]『朝日新聞』朝刊2018年1月1日(第2東京面)</ref>。
この「パンの中に[[餡子]]を入れる」という日本独自のアイデアは、それ以降1900年には「[[ジャムパン]]」、1904年には「[[クリームパン]]」などを生み出すこととなり、あんパンは日本における菓子パンの元祖となった。
== 製法 ==
[[ファイル:Anpan 002.jpg|250px|サムネイル|右|あんパンの断面図]]
木村屋のあんパンは、パン[[酵母]](ホップを用いたもの)の代わりに、[[饅頭|酒饅頭]]の製法に倣い日本酒酵母を含む酒種(酒母、[[麹]]に酵母を繁殖させたもの)を使った<ref name="jiten15" />。パンでありながらも、[[和菓子]]に近い製法を取り入れ、{{要出典範囲|パンに馴染みのなかった当時の[[日本人]]にも親しみやすいように工夫して作られていた|date=2023年4月}}。
現代では中の餡はつぶあん、こしあんの小豆餡が一般的である。中には、[[インゲンマメ]]を使った[[白あん]]パンや、[[芋|イモ]]あんパン、[[クリ|栗]]あんパンなどの豆以外の餡を使ったもの、桜あんや[[うぐいすあん]]を使った季節のあんパンもある。
典型的な形状は平たい円盤。ケシの実([[ケシ]]の種)、塩漬けの桜の花([[八重桜|ヤエザクラ]])、[[ゴマ]]の実が飾りに乗せられる。
あんパンを揚げたものは揚げあんパンや[[あんドーナツ]]とも呼ばれる。さらには、[[トースト]]に餡を挟んで揚げたものもある。
== 各地のあんパン==
[[ファイル:HK CWB Tung Lo Wan 聖馬利亞堂 Saint Mary's Church Bday party Donation box n breads May 2013.JPG|thumb|250px|紅豆包([[香港]])]]
=== 月寒あんぱん ===
[[北海道]][[札幌市]][[豊平区]][[月寒]]では明治時代後期に、木村屋のあんパンの話を元に「[[月寒あんぱん]]」を作り出した。製法や実物などの情報が乏しかったため、パンというよりも[[月餅]]に近いサイズと食感を持ったものとなった。当時の[[陸軍]][[歩兵第25連隊]]の兵士にとって、重労働の後の[[エネルギー]]源としてもてはやされ、それによって出来た[[道路]]に「[[アンパン道路]]」と名付けるほどだった<ref>{{Cite web|和書|date=2008 |url=http://www.e-honma.co.jp/history.html |title=ほんまの歴史と月寒あんぱん物語 |publisher=ほんま |accessdate=2020-07-20}}</ref>。現在では、[[ほんま (製菓メーカー)|ほんま]]が製造し、道外でも販売されている。
=== 川口あんぱん ===
[[青森県]][[北津軽郡]][[板柳町]]には、「川口あんぱん」と呼ばれる、小麦粉を原料とした[[カステラ]]風の生地で白あんを包んだ[[饅頭]]状の和菓子が存在する。これは明治初期([[1880年]])に考案されたといわれるが、月寒あんぱん同様名称以外に詳細な情報が存在しなかったため、既存の製菓技術を用いて[[オーブン]]で仕上げた焼き菓子になったと見られる。
== 参考画像 ==
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Bean-jam-bun,anpan,katori-city,japan.JPG|ヘソを持った形状のあんパン
Yamazaki Shiro-anpan.jpg|白あんぱん
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author = 中山圭子
|date = 2006-2-24
|title = 事典 和菓子の世界
|publisher = [[岩波書店]]
|isbn = 978-4000803076
|ref = 辞典 }}
* {{Cite book|和書
|author = 畑中三応子
|date = 2013-3-1
|title = ファッションフード、あります。: はやりの食べ物クロニクル1970-2010
|publisher = [[紀伊國屋書店]]
|isbn = 978-4314010979
|ref = ファッションフード }}
== 関連項目 ==
* [[あんドーナツ]]
* [[アンパンマン]] - [[やなせたかし]]の[[絵本]]・[[アニメーション映画|映画]]・[[テレビアニメ]]。また、それらに登場する[[主人公]]の名前(→[[アンパンマン (キャラクター)]])。
* [[こげぱん]] - こげたあんパンがキャラクターの絵本。
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[[Category:あんパン|*]]
[[Category:菓子パン]]
[[Category:アズキ料理]]
[[Category:日本のパン]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%82%93%E3%83%91%E3%83%B3
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高田広章
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高田 広章(たかだ ひろあき、1963年 - )は、日本の情報工学者、名古屋大学大学院情報科学研究科情報システム学専攻教授。
組み込みシステム、特に組み込みオペレーティングシステムの第一人者であり、情報処理学会組込みシステム研究会主査、TOPPERSプロジェクト会長などを務める。
洛星高等学校、東京大学理学部卒業。東京大学大学院情報学研究科博士課程中退。1996年 東京大学理学博士 論文名は「Studies on Scalable Real-Time Kernels for Function-Distributed Multiprocessors(機能分散マルチプロセッサのためのスケ-ラブルなリアルタイムカ-ネルに関する研究)」。
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高田 広章は、日本の情報工学者、名古屋大学大学院情報科学研究科情報システム学専攻教授。 組み込みシステム、特に組み込みオペレーティングシステムの第一人者であり、情報処理学会組込みシステム研究会主査、TOPPERSプロジェクト会長などを務める。 洛星高等学校、東京大学理学部卒業。東京大学大学院情報学研究科博士課程中退。1996年 東京大学理学博士 論文名は「Studies on Scalable Real-Time Kernels for Function-Distributed Multiprocessors(機能分散マルチプロセッサのためのスケ-ラブルなリアルタイムカ-ネルに関する研究)」。 2014年、「オープンソースの組込みリアルタイムOSの開発・普及」で産学官連携功労者表彰科学技術政策担当大臣賞を受賞。
2018年、情報化促進貢献個人等表彰経済産業大臣賞を受賞。
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'''高田 広章'''(たかだ ひろあき、[[1963年]] - )は、日本の[[情報工学]]者、[[名古屋大学大学院情報学研究科・情報学部|名古屋大学大学院情報科学研究科]]情報システム学専攻[[教授]]。
[[組み込みシステム]]、特に[[組み込みオペレーティングシステム]]の第一人者であり、[[情報処理学会]]組込みシステム研究会主査、[[TOPPERS]]プロジェクト会長などを務める。
[[洛星中学校・高等学校|洛星高等学校]]、[[東京大学大学院理学系研究科・理学部|東京大学理学部]]卒業。東京大学大学院情報学研究科博士課程中退。[[1996年]] 東京大学[[博士(理学)|理学博士]] 論文名は「Studies on Scalable Real-Time Kernels for Function-Distributed Multiprocessors(機能分散マルチプロセッサのためのスケ-ラブルなリアルタイムカ-ネルに関する研究)」<ref>博士論文書誌データベース</ref>。
* [[2014年]]、「オープンソースの組込みリアルタイムOSの開発・普及」で[[産学官連携功労者表彰]]科学技術政策担当大臣賞を受賞<ref>https://www8.cao.go.jp/cstp/sangakukan/sangakukan2014/award2014.html</ref>。
* [[2018年]]、[[情報化促進貢献個人等表彰]]経済産業大臣賞を受賞<ref>https://www.meti.go.jp/press/2018/09/20180920004/20180920004.html?fbclid=IwAR1lEk8Qe0MHUqXg9L7XpkMq8ZtrAg9P_rZZQDxGmdvVTYhySUxMLrar-I8</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.ertl.jp/~hiro/ 高田広章教授のホームページ]
* {{Facebook|hiroaki.takada|高田 広章}}
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たかた ひろあき}}
[[Category:日本の計算機科学者]]
[[Category:名古屋大学の教員]]
[[Category:日本学術会議会員]]
[[Category:東京大学出身の人物]]
[[Category:洛星中学校・高等学校出身の人物]]
[[Category:1963年生]]
[[Category:存命人物]]
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2022-12-30T20:25:36Z
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[
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%BA%83%E7%AB%A0
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セグメント方式
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セグメント方式(セグメントほうしき、英: memory segmentation)は、メモリ管理の方式の一つ。プログラムやデータをセグメントまたはセクションという「可変な」大きさのまとまりで管理する。セグメントは、メモリ空間上で、情報の属性などによって分類されたグループである。セグメント方式でメモリ位置を参照するには、セグメントを識別する値とセグメント内のオフセットを指定する。セグメントまたはセクションはプログラムをコンパイルした際に生成されるオブジェクトファイルでも使われており、それらがリンクされて実行ファイルが生成され、そのイメージがメモリにロードされる。
セグメントは仮想記憶やメモリ保護機能を実現する方式の一つである。プログラムのモジュール毎やメモリ使用法の異なるクラス毎に「コードセグメント」や「データセグメント」といった各種セグメントが生成される。1つのセグメントを複数のプログラムが共有することもある。
オペレーティングシステムは、必要なプログラムやデータを主記憶上に読み込み(ロールイン)、セグメントとして管理する。読み込む際に、空き領域が足りないときは、不要なセグメントを補助記憶装置に退避(ロールアウト)して必要な空き領域をつくる。
各セグメントは、セグメントテーブルで管理され、セグメント番号とセグメントの開始物理アドレスが保管されている。各セグメントに属するプログラムやデータの実アドレスは、セグメントテーブル内の開始アドレスとそこからの相対アドレスから算出する。
セグメントは、実記憶上に連続した領域として割り当てられる。セグメントの大きさが可変長なため、場合によっては、実記憶上には空き領域の合計が十分あるのに連続領域が空いていないことがある(フラグメンテーション)。
セグメント方式とページング方式を組み合わせた方式。この方式では、プログラムコード用、データ用などの各セグメントが複数のページで構成される。これによって、1つのセグメントが連続した実メモリに存在する必要が無く、外部断片化を防ぎ、効率的にメモリを使用することができる。さらに、プログラムコード用のセグメントの書き換えを禁止するといったアクセス制限や、リードオンリーのセグメントをプログラム間で共有することによりメモリ消費を抑えるといったことができる。
ページ化セグメンテーションはMULTICSやACOS-4のメモリ管理に採用されている。
ページングに対応したシステムにおいても、一つの(仮想)アドレス空間を区切ることでセグメントを実現する場合もある。たとえば、プロセスが使用するコード、データやスタックをそれぞれ、0x1000から0x2000までのコードセグメント、0x2000から0x4000までのデータセグメント、0xe000から0xffffffまでのスタックセグメント、に配置して使うことである。ハードウェアがこうした方式のセグメンテーションに対応していれば、それぞれの領域に対してデータ実行防止のような保護をセグメントごとに行うことができる。
この場合、CPUアーキテクチャの互換性が高くなるが、プロセス間でセグメントを共有するときに、ページテーブルを共有してメモリ使用量を削減するというメリットはなくなる。
Linuxはこの方式を採用している。
セグメントはメモリ保護を実装する方式の1つである。ページ単位のメモリ保護もあり、両者を組み合わせることもできる。セグメントの大きさは可変であり、最小の場合1バイトとすることもできる。セグメントは通常、ルーチン群やデータテーブル群といったプログラム上の自然な領域に対応しており、プログラマから見えるようになっていることが多い。
セグメントには長さとパーミッションがある。プロセスがあるセグメントを参照しようとしたとき、その参照の種類がパーミッションで許可されていて、その際のオフセットがセグメントの長さの範囲内であるときのみ参照できる。さもなくば、セグメンテーション違反などの例外処理が呼び出される。
セグメントには、それがメモリ上のどこに配置されているかを示す情報も付属している。それは、セグメントの先頭アドレスという場合もあるし、ページ化セグメンテーションならページテーブルのアドレスの場合もある。前者の場合、あるセグメントの範囲内の位置への参照は、セグメント内オフセットをセグメントの先頭位置のアドレスに加算して参照すべきメモリアドレスを算出する、後者の場合はセグメント内オフセットとページテーブルの内容から参照すべきメモリアドレスを算出する。
セグメントには、そのセグメントが主記憶上にあるか否かを示すフラグも付属している。主記憶にないセグメントへの参照が発生すると、オペレーティングシステムが二次記憶装置からそのセグメントの内容を読み込む。
セグメントが対応するページテーブルをもたない場合、セグメントの先頭アドレスは一般に主記憶内のアドレスである。その場合ページングは全く関与しない。80386およびそれ以降においては、ページングを使わずにそのようなアドレッシングを行う場合と、ページングを使ってページ化アドレス空間内のアドレッシングを行う場合がある。
メモリ管理ユニット (MMU) は、セグメントとセグメント内オフセットからメモリアドレスを求める処理を行い、そのアクセスが許可されているものかどうかをチェックする役目を担っている。
一般に言うセグメント方式を実装した初期のコンピュータとしてバロース B5000 があり、セグメント方式で仮想記憶を提供した最初期の商用コンピュータの1つとされている"。B5000は、Program Reference Table (PRT)と呼ばれるセグメント情報テーブルを持ち、該当セグメントに関して、主記憶上にあるか否かを示す情報、サイズ、ベースアドレス(英語版)の保持などに利用された。このアーキテクチャの改良版は、Unisys ClearPath Libra サーバで2012年現在も使われている。
GE-635を改造したGE-645はセグメントとページングを追加サポートしており、1964年のMulticsのために設計された。
Intel iAPX 432は1975年に開発が始まったが、マイクロプロセッサ上で真のセグメント・アーキテクチャによるメモリ保護を実装することを意図していた。
プライム(英語版)、ストラタス、アポロといったコンピュータはいずれもセグメント方式を採用している。
リアルモードx86(8086、および80286以後のプロセッサのリアルモード)におけるプログラミングモデルでは、「セグメントレジスタ」と呼ばれるレジスタが存在するが、その振舞は上記で説明したアドレッシング手法とは全く異なる。また、メモリ保護や仮想アドレスは無い。
これらのプロセッサ、あるいはリアルモードにおけるプログラミングモデルでは、アドレス空間は20ビット(1MiB)だが、アドレスレジスタ幅や通常の命令フォーマットにおけるアドレス指定フィールドは16ビットであり、これらの値は「オフセット」と呼ばれる。また、セグメントレジスタの幅も16ビットである。そして「セグメントレジスタの値×16 + オフセット」が実アドレスとなり、1MiBの全アドレス空間へアクセスする機構が8086における「セグメント」と称されたものである。
8086にはCS/DS/SS/ESの4つの16ビットの「セグメントレジスタ」があり、メモリアクセスの種類に応じて暗黙のうちにセグメントレジスタが選択される。命令フェッチならCS、データの読み書きならDS、スタックへのアクセスならSSが選ばれる。以上のようなアクセス種別による暗黙の選択の他、セグメント・オーバーライド・プレフィックスという命令の前置修飾機能があり、どれかのセグメントレジスタを明示的に選択することもできる。
8086のC言語における「メモリーモデル」は、以上のような命令セット・アーキテクチャ的な仕様に対応するための規約のようなもので、「複数のオブジェクトファイル間でセグメントを共有する際の規約」とか「セグメントの使用法や結合法が規定されている」といったような一般的な概念で説明されるようなものではない。前の節で説明でわかるように、8086ではセグメントを跨がずにアクセスできるメモリの範囲は64KiB(65,536バイト)であるので、コード量あるいはデータ量がその範囲に収まるならば収めてしまい、暗黙のセグメント指定のみでアドレッシングするようなコードにすると、ビルドされたプログラムが効率的になる。そこで、明示的にfarなどと指定されないアドレスについて、コードとデータのそれぞれのどちらも64KiB以内の「スモール」、片方だけが64KiBより大きい「コンパクト」と「ミディアム」、両方とも64KiBより大きい「ラージ」、さらに、1個の配列などが64KiBより大きくなることも考慮する「ヒュージ」のような各EXEファイルと、COMファイルのようにコードもデータも同一の64KiBに入る「タイニー」、といったようなモデルに分けられており、アプリケーションの規模等によって使い分けていた、というのが、8086のC言語における「メモリーモデル」である。
x86ファミリが、「一般的なセグメントの仕組み」を持つようになったのは、80286(のプロテクトモード)からである。
80286で、セグメント方式によるメモリ保護機能を持つプロテクトモードが追加された。プロテクトモードにおけるセグメントレジスタは、グローバルディスクリプタテーブル (GDT)・ローカルディスクリプタテーブル (LDT) 等により示されるセグメントを選択するセグメントセレクタとされた。全体のアドレス空間は24ビット (16MiB) に拡大されたが、オフセットは16ビットのままだった。
80386 (IA-32) のプロテクトモードは、ページング方式も取り入れられ(ページ化セグメンテーション)、物理・論理とも32ビットの仮想記憶機能を持つようになった。オフセットは32ビットに拡張された。FSとGSというセグメントレジスタが追加された。
(以上とは異なり、インテルの先導により策定されたアーキテクチャではないが)x64では、Microsoft Windowsのx64版は、GSセグメントレジスタがスレッド局所記憶へのポインタを指すようになっている。LinuxカーネルではGSがCPU単位のデータを指している。
セグメントまたはセクションはオブジェクトファイルでも定義されている。異なるオブジェクトファイルにあるセグメント群は、セグメント定義時に指定されたルールに従ってリンケージエディタによって結合される。
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セグメント方式は、メモリ管理の方式の一つ。プログラムやデータをセグメントまたはセクションという「可変な」大きさのまとまりで管理する。セグメントは、メモリ空間上で、情報の属性などによって分類されたグループである。セグメント方式でメモリ位置を参照するには、セグメントを識別する値とセグメント内のオフセットを指定する。セグメントまたはセクションはプログラムをコンパイルした際に生成されるオブジェクトファイルでも使われており、それらがリンクされて実行ファイルが生成され、そのイメージがメモリにロードされる。 セグメントは仮想記憶やメモリ保護機能を実現する方式の一つである。プログラムのモジュール毎やメモリ使用法の異なるクラス毎に「コードセグメント」や「データセグメント」といった各種セグメントが生成される。1つのセグメントを複数のプログラムが共有することもある。
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{{出典の明記|date=2021年9月}}
'''セグメント方式'''(セグメントほうしき、'''{{lang-en-short|memory segmentation}}''')は、[[メモリ管理]]の方式の一つ。[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]や[[データ]]を'''セグメント'''または'''セクション'''という「可変な」大きさのまとまりで管理する。セグメントは、[[記憶装置|メモリ]]空間上で、情報の属性などによって分類されたグループである。セグメント方式でメモリ位置を参照するには、セグメントを識別する値とセグメント内の[[オフセット (コンピュータ)|オフセット]]を指定する。セグメントまたはセクションはプログラムをコンパイルした際に生成される[[オブジェクトファイル]]でも使われており、それらが[[リンケージエディタ|リンク]]されて[[実行ファイル]]が生成され、そのイメージがメモリに[[ローダ|ロード]]される。
セグメントは[[仮想記憶]]や[[メモリ保護機能]]を実現する方式の一つである。プログラムの[[モジュール]]毎やメモリ使用法の異なるクラス毎に「コードセグメント」や「データセグメント」といった各種セグメントが生成される。1つのセグメントを複数のプログラムが共有することもある<ref name="englander" />。
== 仮想記憶におけるセグメント方式 ==
[[オペレーティングシステム]]は、必要なプログラムやデータを[[主記憶装置|主記憶]]上に読み込み('''ロールイン''')、セグメントとして管理する。読み込む際に、空き領域が足りないときは、不要なセグメントを[[補助記憶装置]]に退避('''ロールアウト''')して必要な空き領域をつくる。
各セグメントは、'''セグメントテーブル'''で管理され、セグメント番号とセグメントの開始物理アドレスが保管されている。各セグメントに属するプログラムやデータの[[実アドレス]]は、セグメントテーブル内の開始アドレスとそこからの相対アドレスから算出する。
セグメントは、実記憶上に連続した領域として割り当てられる。セグメントの大きさが可変長なため、場合によっては、実記憶上には空き領域の合計が十分あるのに連続領域が空いていないことがある([[フラグメンテーション]])。
===ページ化セグメンテーション(多重仮想記憶)===
[[画像:Virtual Memory Ja 3.JPG|thumb|right|350px|多重仮想記憶の概念図]]
セグメント方式と[[ページング方式]]を組み合わせた方式。この方式では、プログラムコード用、データ用などの各セグメントが複数のページで構成される。これによって、1つのセグメントが連続した実メモリに存在する必要が無く、外部断片化を防ぎ、効率的にメモリを使用することができる。さらに、プログラムコード用のセグメントの書き換えを禁止するといったアクセス制限や、リードオンリーのセグメントをプログラム間で共有することによりメモリ消費を抑えるといったことができる。
ページ化セグメンテーションは[[MULTICS]]<ref>{{cite web |url= http://www.multicians.org/multics-vm.html |accessdate=2012-02-12 |title=The Multics Virtual Memory}} 5.2 Paging 参照</ref>や[[ACOS-4]]のメモリ管理に採用されている。
{{節スタブ}}
===フラットメモリモデルにおけるセグメンテーション===
ページングに対応したシステムにおいても、一つの(仮想)アドレス空間を区切ることでセグメントを実現する場合もある。たとえば、[[プロセス]]が使用する[[プログラム (コンピュータ)|コード]]、[[データ]]や[[スタック]]をそれぞれ、0x1000から0x2000までのコードセグメント、0x2000から0x4000までのデータセグメント、0xe000から0xffffffまでのスタックセグメント、に配置して使うことである。ハードウェアがこうした方式のセグメンテーションに対応していれば、それぞれの領域に対して[[データ実行防止]]のような保護をセグメントごとに行うことができる。
この場合、CPUアーキテクチャの互換性が高くなるが、プロセス間でセグメントを共有するときに、ページテーブルを共有してメモリ使用量を削減するというメリットはなくなる。
Linuxはこの方式を採用している。<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.coins.tsukuba.ac.jp/~yas/coins/os2-2010/2011-01-25/|accessdate=2012-02-12|title=情報科学類 オペレーティングシステム II 授業内容メモ 「メモリ管理、アドレス空間、ページテーブル」 (筑波大学情報工学研究科)|author=新城 靖|}}</ref>
{{節スタブ}}
== ハードウェア実装 ==
セグメントは[[メモリ保護]]を実装する方式の1つである。ページ単位のメモリ保護もあり、両者を組み合わせることもできる。セグメントの大きさは可変であり、最小の場合1[[バイト (情報)|バイト]]とすることもできる<ref>{{Cite book |last=Intel Corporation |title=Intel® 64 and IA-32 Architectures Software Developer’s Manual Volume 3 (3A, 3B & 3C): System Programming Guide |year=2012 |pages=3–13 |url= http://download.intel.com/products/processor/manual/325384.pdf}}</ref>。セグメントは通常、ルーチン群やデータテーブル群といったプログラム上の自然な領域に対応しており、プログラマから見えるようになっていることが多い<ref name="englander"/>。
セグメントには長さとパーミッションがある。[[プロセス]]があるセグメントを参照しようとしたとき、その参照の種類がパーミッションで許可されていて、その際のオフセットがセグメントの長さの範囲内であるときのみ参照できる。さもなくば、[[セグメンテーション違反]]などの[[例外処理]]が呼び出される。
セグメントには、それがメモリ上のどこに配置されているかを示す情報も付属している。それは、セグメントの先頭アドレスという場合もあるし、ページ化セグメンテーションなら[[ページテーブル]]のアドレスの場合もある。前者の場合、あるセグメントの範囲内の位置への参照は、セグメント内オフセットをセグメントの先頭位置のアドレスに加算して参照すべきメモリアドレスを算出する、後者の場合はセグメント内オフセットとページテーブルの内容から参照すべきメモリアドレスを算出する。
セグメントには、そのセグメントが主記憶上にあるか否かを示すフラグも付属している。主記憶にないセグメントへの参照が発生すると、[[オペレーティングシステム]]が二次記憶装置からそのセグメントの内容を読み込む。
セグメントが対応するページテーブルをもたない場合、セグメントの先頭アドレスは一般に主記憶内のアドレスである。その場合ページングは全く関与しない。[[Intel 80386|80386]]およびそれ以降においては、ページングを使わずにそのようなアドレッシングを行う場合と、ページングを使ってページ化アドレス空間内のアドレッシングを行う場合がある。
[[メモリ管理ユニット]] (MMU) は、セグメントとセグメント内オフセットからメモリアドレスを求める処理を行い、そのアクセスが許可されているものかどうかをチェックする役目を担っている。
== 歴史 ==
一般に言うセグメント方式を実装した初期のコンピュータとして[[バロース]] [[バロース B5000|B5000]] があり、セグメント方式で[[仮想記憶]]を提供した最初期の商用コンピュータの1つとされている"<ref>{{Cite web |last=Mayer |first=Alastair J.W. |title=The Architecture of the Burroughs B5000 - 20 Years Later and Still Ahead of the Times? |url= http://www.smecc.org/The%20Architecture%20%20of%20the%20Burroughs%20B-5000.htm |accessdate=2012-03-15}}</ref>。B5000は、Program Reference Table (PRT)と呼ばれるセグメント情報テーブルを持ち、該当セグメントに関して、主記憶上にあるか否かを示す情報、サイズ、{{仮リンク|ベースアドレス|en|base address}}の保持などに利用された{{Sfn |CompArchOrg |1978,1979 |p=371}}。このアーキテクチャの改良版は、Unisys ClearPath Libra サーバで2012年現在も使われている。
GE-635を改造した[[GE-600シリーズ|GE-645]]はセグメントとページングを追加サポートしており、1964年の[[Multics]]のために設計された。
[[Intel iAPX 432]]<ref>{{Cite book |last=Intel Corporation|title=Introduction to the IAPX 432 Architecture |year=1981 |pages=78 |url= http://www.bitsavers.org/pdf/intel/iAPX_432/171821-001_Introduction_to_the_iAPX_432_Architecture_Aug81.pdf}}</ref>は1975年に開発が始まったが、マイクロプロセッサ上で真のセグメント・アーキテクチャによるメモリ保護を実装することを意図していた。
{{仮リンク|プライムコンピュータ|en|Prime Computer|label=プライム}}、[[ストラタステクノロジー|ストラタス]]、[[アポロコンピュータ|アポロ]]といったコンピュータはいずれもセグメント方式を採用している<ref>{{Cite web |last=Van Vleck |first=Thomas |title=Multics General Info and FAQ |url= http://www.multicians.org/general.html |accessdate=2012-03-18}}</ref>。
== x86 ==
=== リアルモード ===
リアルモードx86([[Intel 8086|8086]]、および[[Intel 80286|80286]]以後のプロセッサの[[リアルモード]])におけるプログラミングモデルでは、「セグメントレジスタ」と呼ばれるレジスタが存在するが、その振舞は上記で説明したアドレッシング手法とは全く異なる。また、メモリ保護や仮想アドレスは無い。
これらのプロセッサ、あるいはリアルモードにおけるプログラミングモデルでは、アドレス空間は20ビット(1[[メビバイト|MiB]])だが、アドレスレジスタ幅や通常の命令フォーマットにおけるアドレス指定フィールドは[[16ビット]]であり、これらの値は「オフセット」と呼ばれる。また、セグメントレジスタの幅も16ビットである。そして「セグメントレジスタの値×16 + オフセット」が実アドレスとなり、1[[メビバイト|MiB]]の全アドレス空間へアクセスする機構が8086における「セグメント」と称されたものである。
8086にはCS/DS/SS/ESの4つの16ビットの「セグメントレジスタ」があり、メモリアクセスの種類に応じて暗黙のうちにセグメントレジスタが選択される。命令フェッチならCS、データの読み書きならDS、スタックへのアクセスならSSが選ばれる。以上のようなアクセス種別による暗黙の選択の他、セグメント・オーバーライド・プレフィックスという命令の前置修飾機能があり、どれかのセグメントレジスタを明示的に選択することもできる。
=== メモリーモデル ===
{{see|[[Intel 8086#プログラミングモデル]]}}
8086のC言語における「メモリーモデル」は、以上のような命令セット・アーキテクチャ的な仕様に対応するための規約のようなもの<ref name="pc asm" />で、「複数のオブジェクトファイル間でセグメントを共有する際の規約」とか「セグメントの使用法や結合法が規定されている」といったような一般的な概念で説明されるようなものではない。前の節で説明でわかるように、8086ではセグメントを跨がずにアクセスできるメモリの範囲は64KiB(65,536バイト)であるので、コード量あるいはデータ量がその範囲に収まるならば収めてしまい、暗黙のセグメント指定のみでアドレッシングするようなコードにすると、ビルドされたプログラムが効率的になる。そこで、明示的にfarなどと指定されないアドレスについて、コードとデータのそれぞれのどちらも64KiB以内の「スモール」、片方だけが64KiBより大きい「コンパクト」と「ミディアム」、両方とも64KiBより大きい「ラージ」、さらに、1個の配列などが64KiBより大きくなることも考慮する「ヒュージ」のような各EXEファイルと、COMファイルのようにコードもデータも同一の64KiBに入る「タイニー」、といったようなモデルに分けられており、アプリケーションの規模等によって使い分けていた、というのが、8086のC言語における「メモリーモデル」である。
=== プロテクトモード ===
x86ファミリが、「一般的なセグメントの仕組み」を持つようになったのは、80286(のプロテクトモード)からである。
80286で、セグメント方式による[[メモリ保護]]機能を持つ[[プロテクトモード]]が追加された。プロテクトモードにおけるセグメントレジスタは、グローバルディスクリプタテーブル (GDT)・ローカルディスクリプタテーブル (LDT) 等により示されるセグメントを選択するセグメントセレクタとされた。全体のアドレス空間は[[24ビット]] (16MiB) に拡大されたが、オフセットは16ビットのままだった。
80386 ([[IA-32]]) のプロテクトモードは、[[ページング方式]]も取り入れられ(ページ化セグメンテーション)、物理・論理とも[[32ビット]]の[[仮想記憶]]機能を持つようになった。オフセットは32ビットに拡張された。FSとGSというセグメントレジスタが追加された。
(以上とは異なり、インテルの先導により策定されたアーキテクチャではないが)[[x64]]では、[[Microsoft Windows]]のx64版は、GSセグメントレジスタが[[スレッド局所記憶]]へのポインタを指すようになっている。[[Linuxカーネル]]ではGSがCPU単位のデータを指している。
== オブジェクトファイル ==
セグメントまたはセクションは[[オブジェクトファイル]]でも定義されている。異なるオブジェクトファイルにあるセグメント群は、セグメント定義時に指定されたルールに従って[[リンケージエディタ]]によって結合される。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|refs=
<ref name="pc asm">{{Citation|last=Irvine |first=Kip R. |year=1993|title=Assembly language for the IBM-PC |edition=2nd|publisher=Macmillan |place=New York |isbn=0-02-359651-1}}</ref>
<ref name="englander">{{Citation|last=Englander |first=Irv |year=2003|title=The architecture of computer hardware and systems software |edition=3rd|publisher=Wiley |isbn=0-471-07325-3}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* ''Operating Systems: Internals and Design Principles'' by William Stallings. Publisher: Prentice Hall. ISBN 0-13-147954-7. ISBN 978-0-13-147954-8.
* {{cite book
|title=Computer Architecture and Organization
|last1=P.HAYES
|first1=JOHN
|isbn=0-07-027363-4
|year=1978,1979
|date=
|publisher=
|ref={{Sfnref |CompArchOrg |1978,1979}} }}
== 関連項目 ==
* [[メモリ管理]]
* [[仮想記憶]]
* [[ページング方式]]
* [[セグメンテーション違反]]
* [[.bss]]
== 外部リンク ==
* [http://www.intel.com/content/www/us/en/processors/architectures-software-developer-manuals.html Intel 64 and IA-32 Architectures Software Developer Manuals]
{{DEFAULTSORT:せくめんとほうしき}}
[[category:メモリ管理]]
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散文
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散文(さんぶん)とは、小説や評論のように、5・7・5などの韻律や句法にとらわれずに書かれた文章のことである。狭義には、そのようにして書かれた文学。韻文の反意語。散文で書かれた詩のことは散文詩と言う。また、散文的という言葉は「味気なく、情趣が薄い」という意味で使われることもある。
中国文学史上、六朝時代以降、韻文・駢文と区別する言葉として生まれ、韻律の制約を受けず、押韻や排偶を用いないことを特徴とする経書・史書なども含めた文章形式のことであった。これは中国では近代の新文化運動に至るまで文学と文章とを分ける考え方がなかったためである。ここでの「散」とは「束縛を受けない」という意味である。後代には文学上において詩歌以外の文学ジャンルを指す言葉になった。
一方、英語のプローズ(prose)は、ラテン語のプロルスス(prorsus、「まっすぐ」「平ら」の意)を語源とし、抑揚に富み、感情や感性を表現する詩に対して、事物の描写や羅列により平坦で陳腐な文章を指していた。
『古事記』や『日本書紀』などの記紀、『源氏物語』などの恋愛小説、『枕草子』などの随筆は各々のジャンルの日本文学の散文の始祖である。
近代以降、日本語で散文を書くための教科書、散文についての随筆として「文章読本」と呼ばれるものが多く書かれた。多くは作家・文芸評論家などの文学者によるもので、「優れた文学者が基本的な文章作法から小説の技法までを教える」というスタイルの啓蒙書とも言える。レポートの書き方など文章執筆のノウハウ本は、その後も数多く出版され続けている。
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散文(さんぶん)とは、小説や評論のように、5・7・5などの韻律や句法にとらわれずに書かれた文章のことである。狭義には、そのようにして書かれた文学。韻文の反意語。散文で書かれた詩のことは散文詩と言う。また、散文的という言葉は「味気なく、情趣が薄い」という意味で使われることもある。
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{{出典の明記|date=2019年1月}}
'''散文'''(さんぶん)とは、[[小説]]や[[評論]]のように、5・7・5などの[[韻律 (韻文)|韻律]]や句法にとらわれずに書かれた[[文章]]のことである。狭義には、そのようにして書かれた[[文学]]。[[韻文]]の[[対義語|反意語]]。散文で書かれた[[詩]]のことは[[散文詩]]と言う。また、散文的という[[言葉]]は「味気なく、情趣が薄い」という[[意味]]で使われることもある。
==歴史的背景==
[[中国文学]]史上、[[六朝時代]]以降、[[韻文]]・[[駢文]]と区別する言葉として生まれ、[[韻律 (韻文)|韻律]]の制約を受けず、[[押韻]]や[[排偶]]を用いないことを特徴とする[[経書]]・[[史書]]なども含めた文章形式のことであった。これは中国では近代の[[新文化運動]]に至るまで文学と文章とを分ける考え方がなかったためである。ここでの「散」とは「束縛を受けない」という意味である。後代には文学上において詩歌以外の文学ジャンルを指す言葉になった。
一方、[[英語]]のプローズ(prose)は、[[ラテン語]]のプロルスス(prorsus、「まっすぐ」「平ら」の意)を[[語源]]とし、[[イントネーション|抑揚]]に富み、[[感情]]や[[感性]]を[[表現]]する詩に対して、事物の描写や羅列により平坦で陳腐な文章を指していた。
==文学作品としての散文==
『[[古事記]]』や『[[日本書紀]]』などの[[記紀]]、『[[源氏物語]]』などの[[恋愛小説]]、『[[枕草子]]』などの[[随筆]]は各々のジャンルの[[日本文学]]の散文の始祖である。
==文章読本==
[[近代]]以降、[[日本語]]で散文を書くための[[教科書]]、散文についての[[随筆]]として「[[文章読本]]」と呼ばれるものが多く書かれた。多くは[[作家]]・[[文芸評論家]]などの[[文学者]]によるもので、「優れた文学者が基本的な文章作法から小説の技法までを教える」という[[スタイル]]の啓蒙書とも言える。レポートの書き方など文章執筆のノウハウ本は、その後も数多く出版され続けている。
*[[谷崎潤一郎]]『文章読本』
*[[菊池寛]]『文章読本』
*[[三島由紀夫]] 『文章読本』
*[[丸谷才一]] 『文章読本』
*[[川端康成]] 『文章読本』
*[[吉行淳之介]] 『文章読本』
*[[向井敏]]『文章読本』
*[[中条省平]]『文章読本』
*[[井上ひさし]] 『自家製 文章読本』
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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[[Category:文]]
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Nou-darake
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Nou-darake(ノウダラケ、ノウダラケ遺伝子、ndk遺伝子)はプラナリア頭部で発現する遺伝子の一つである。その機能を抑制すると頭部以外でも神経の発達を促進することから、「脳だらけ」と名づけられた(駄洒落ではなくれっきとした専門用語である)。これらの成果は国立遺伝学研究所と理化学研究所の共同研究によって同定された。
その研究によれば、ndk遺伝子について今のところ提唱されているストーリーは、以下の通りである。
NDK蛋白質はFGF受容体様の細胞外構造を持つが、別種の蛋白質であるFGF受容体にFGF受容体結合因子が結合することがその細胞を神経細胞へと運命を決定する重要な過程と考えられている。通常NDK蛋白質は頭部領域に特異的に存在し、FGF受容体結合因子と結合する。この結果FGF受容体結合因子の存在を頭部領域に限定することとなり、したがってこれが他の領域に拡散することを防いでいる。よって頭部に存在する細胞だけがFGF受容体結合因子をFGF受容体に結合させることが可能となり、頭部に限定的な神経系の発達を確立していると考えられている。 ndk遺伝子の発現が妨げられるとFGF受容体結合因子が頭部以外にも拡散することとなり、頭部以外の細胞でもFGF受容体結合因子がFGF受容体に結合し、その結果「脳だらけ」となる。
2009年には、逆に頭部が作られず尾だけの「脳なし」となるnou-nashi遺伝子が発見されている。
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ndk遺伝子の発現が妨げられるとFGF受容体結合因子が頭部以外にも拡散することとなり、頭部以外の細胞でもFGF受容体結合因子がFGF受容体に結合し、その結果「脳だらけ」となる。 2009年には、逆に頭部が作られず尾だけの「脳なし」となるnou-nashi遺伝子が発見されている。
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{{脚注の不足|date=2019年4月7日 (日) 05:48 (UTC)}}
'''Nou-darake'''(ノウダラケ、'''ノウダラケ遺伝子'''、'''ndk遺伝子''')は[[プラナリア]]頭部で発現する[[遺伝子]]の一つである。その機能を抑制すると頭部以外でも[[神経]]の発達を促進することから、「[[脳]]だらけ」と名づけられた(駄洒落ではなくれっきとした専門用語である)。これらの成果は[[国立遺伝学研究所]]と[[理化学研究所]]の共同研究によって同定された{{Sfn|阿形清和|2003|p=2}}。
その研究によれば、ndk遺伝子について''今のところ''提唱されているストーリーは、以下の通りである{{Sfn|阿形清和|2003|p=3}}。
NDK[[蛋白質]]は[[FGF]][[受容体]]様の[[細胞外構造]]を持つが、別種の蛋白質であるFGF受容体にFGF受容体結合因子が結合することがその[[細胞]]を[[神経細胞]]へと運命を決定する重要な過程と考えられている。通常NDK蛋白質は頭部領域に特異的に存在し、FGF受容体結合因子と結合する。この結果FGF受容体結合因子の存在を頭部領域に限定することとなり、したがってこれが他の領域に拡散することを防いでいる。よって頭部に存在する細胞だけがFGF受容体結合因子をFGF受容体に結合させることが可能となり、頭部に限定的な神経系の発達を確立していると考えられている。
ndk遺伝子の発現が妨げられるとFGF受容体結合因子が頭部以外にも拡散することとなり、頭部以外の細胞でもFGF受容体結合因子がFGF受容体に結合し、その結果「脳だらけ」となる{{Sfn|阿形清和|2003|p=3}}。
2009年には、逆に頭部が作られず尾だけの「脳なし」となる'''nou-nashi遺伝子'''が発見されている{{sfn|島田祥輔|2013|p=55}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/press/2002/021010_1/ 理化学研究所 - 頭にだけ脳ができるように制御している遺伝子を世界で初めて発見]
* [http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/news6/2009/091208_2.htm 京都大学 - 100年来の謎に迫る-体の極性を決める仕組みを解明しました。]
* {{Cite journal|和書|author1=阿形清和 |title=プラナリアから学び、再生医療に活かす |journal=理研ニュース |ISSN=0916-619X |publisher=理化学研究所 |url=https://www.riken.jp/medialibrary/riken/pr/publications/news/2003/rn200312.pdf#page=2 |year=2003 |issue=270 |month=12 |pages=2-4 |ref=harv}}
* {{Cite book |author1=島田祥輔 |year=2013 |title=おもしろ遺伝子の氏名と使命 |page=55 |publisher=[[オーム社]] |url=https://books.google.co.jp/books?id=xdE6AgAAQBAJ&pg=PT51#v=onepage&q&f=false |isbn=9784274213656 | ref = harv }}
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13,253 |
クレジットカード
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クレジットカード(英: Credit card)とは、商品を購入する際の後払い決済(支払)をする手段のひとつ。または、契約者の(会員)番号、姓名、有効期限、その他が記載・記録されたカードである。顧客のクレジット(信用)により後払いが可能な手段である。
分割払い機能を持つものをクレジットカード、1回払いのものを欧米ではチャージカードと呼ぶこともある。それに対して、銀行口座に紐付けられ、口座預金を即時に決済に使用するカードは、デビットカードと呼ばれる。
クレジットカードはその前身も含めて、アメリカ合衆国では約150年の歴史がある。
クレジットカードは、利用代金を後で支払う後払い(ポストペイ)の決済手段である。高額商品の購入に際しても多額の現金を持ち歩く必要がなく、カードを提示するだけで(設定された限度まで)支払いが可能となる。支払いは締め日に明細が送付され翌月に支払うことが多い。支払い手段も分割払いやリボルビング払いなどさまざまなプランが用意されている。
後払いであることから顧客には一定の信用が必要なため、前払いのプリペイドカードや即時払いのデビットカードと異なり入会に際して審査が行われる。
店舗側も決済システムを導入すれば高額商品や海外からの旅行者の買い物であっても偽札の不安や両替の手間がなくなる。また支払い請求などの事務作業もカード会社側が行うため代金回収に失敗することも少ない。
クレジットカードには、磁気ストライプによるものとICによるもの、国際規格のNFC(EMV Contactless)サービスによるものがあり、ICで決済が行われた場合は、署名に代えて暗証番号の入力を行うことで決済ができる。NFCによる場合はタッチ決済となり署名も暗証番号の入力も不要。
カード番号・有効期限・カード保有者氏名はインプリンタでの使用を前提としてエンボス(浮き彫り)加工がされているものが多いが、信用照会のオンライン化に伴いインプリンタの使用機会が減少したため、エンボス加工のないエンボスレスカードも登場している。2020年ごろからはエンボスレスであることに加え、表面にカード番号や保有者氏名を表記せずすべて裏面に表記するといった券面のカードが次々と増えている。
カード保有者氏名は[名] [姓]順のアルファベット表記、有効期限は[月2桁] / [西暦下2桁]表記である。
オンライン照会の普及後は、カード情報を電子的に読み取るための磁気ストライプが付属するようになったが、スキミング被害が多発したため、1990年代以降、ICカードへの切り替えが進んだ。日本でも2018年6月に「改正割賦販売法」が成立し、2020年3月末までに加盟店の決済端末のICカード対応が義務づけられた。ICカードはISO/IEC 7816で標準化されている。
非接触型ICは非接触型決済に用いられるICで、2002年の「Mastercardコンタクトレス」ではじめて搭載された。2020年現在、「Visaのタッチ決済」や「JCB Contactless」など多くのカード会社で採用されている。非接触型ICカードはISO/IEC 14443で標準化されている。
決済の際、必要となる署名は、ICカード・非接触型ICカードでは4桁の暗証番号入力に置き換えられている。いずれも少額決済の場合は不要のケースがある(加盟店とカード会社の個別の契約による)。
国際ブランドは1980年代以降、国内の発行会社(イシュアー)が発行したカードでも多く見られるようになっている。国際ブランドは加盟店のアクワイアラーとカード所有者のイシュアーが異なっていても、国際ブランドのネットワークを使って決済が行える仕組みを実現している。
クレジットカードは、利用できる加盟店で、商品の購入に際しクレジットカードを提示すると、いったんクレジットカード会社が加盟店への支払いを肩代わりし、後でカード利用者へ代金を請求する仕組みである。流れは以下のとおり。(ここではノン・オン・アス取引で説明する。また、信用照会は省略した)。
カードの利用にあたってはクレジットカード発行会社へ信用照会が行われる。ここで承認が降りない場合(期限が切れている、限度額を超えている、支払いが遅れているなど)、クレジットカードを使用することはできない。
米国や日本などでは、基本的にカード払い(ただし一回払い)でも現金払いでもカード利用者への請求額は同額であるが、イギリス、デンマーク、スウェーデン、オランダ、オーストラリアなどではカード取扱手数料の加算請求が認められている。
米国では、カード発行会社は銀行でなければならないため、窓口や通常の預金・貸付業務などを行わないクレジットカード専門の銀行が多数存在する。
米国や日本のようにカード払いでも現金払いでもカード利用者への請求額は同額の場合、利用者から見ると加盟店にとってカード払いも現金払いも同じに見えるが、加盟店に実際に支払われる金額は現金取引の場合の金額から手数料を差し引いた金額で、この手数料は結果的に加盟店管理会社、処理センター、カード発行会社で分配される。手数料は通常3%前後であるが、加盟店と加盟店管理会社の力関係(取引額)などにより異なる。その他にも、加盟店は加盟店管理会社から以下のようなさまざまな名目の料金を徴収される。
カードの不正使用(たとえば、他人のカードを使ってカード名義人になりすまして加盟店で買い物をするなど)がありカード名義人からカード発行会社に通報があると、加盟店はカードの裏の正規名義人の署名と同じ署名のあるカード使用スリップや、名義人がカード発行会社に登録した住所への購入物品の送り状などを加盟店管理会社に示して瑕疵のなかったことを証明しなければならず、それができなければ不正使用の損失はその商品・サービスを販売した加盟店が被ることになる。
クレジットカードを入手するためには、申込を行い審査を受ける必要がある。審査の基準はクレジットカードの種類やイシュアによって異なるが、特に米国においては、信用情報(クレジットヒストリー)が非常に重要となる。そのため、現金を多く持っていてもクレジットヒストリーがない、あるいは返済状況が悪ければ、クレジットカードの取得は困難となる。そのため、まずは与信を行わないデビットカード(チェックカードと呼ばれることもある)である程度クレジットヒストリーを築いたあと、クレジットカードを取得することになる。
国際ブランドは、世界中でクレジットカード決済が可能なシステムを提供する会社のことである。クレジットカードの国際ブランドと同じ国際ブランドの加盟店でカードを利用することができる。また、国際ブランドは、店舗だけでなく国や地域によって対応する種類が異なる。
2018年時点での取引額ベース(デビットカード、プリペイドを含む)の世界シェアは、次の通り。
世界ではトップシェアでMasterCardと並ぶ2大ブランド。日本においてはJCBに次ぎシェアは2位である。当初は住友クレジットサービス(現在の三井住友カード)をはじめとするVISAジャパン協会(現在のVJA)のみがカード発行および加盟店の開拓を行っていたが、1987年のスペシャルライセンシー制導入後はVISAジャパン協会以外の銀行系や信販系・流通系など、多くの企業と提携を行っている。
世界的には、VISAと並ぶ2大ブランド。EMV仕様の先駆けの「Euro Pay」と提携から始まり、2002年7月にドイツ・フランクフルトで統合(USA商品開発本社とEU本社に分かれる)しているため、ヨーロッパ圏などで強いと言われていた。現在では、両陣営に同時加盟しているカード会社が加盟店開拓を行うことが多く、VISAが使える店舗ではMasterCardも使えるため、どちらも利便性に大きな差はない。
日本においては、VISAが原則として直接加盟を認めていない非銀行系のカード会社へのブランド供与、CM攻勢などを積極的に推進することによって、勢力拡大を図っている。
「Amex(アメックス)」の通称でも知られる。アメリカホテル組合会社が発行権を買収して現在に至る。カードのグレードに合わせ、用意された豊富なサービスが特徴。「ゴールドカード」「プラチナカード」「ブラックカード(正式名称は「アメリカン・エキスプレス・センチュリオン・カード」)」の元祖である。また、自社発行のカードに、グレードに応じた利用限度額を一律に設定していない。実質の限度額を増やす条件には、アメックスの支払い実績を作るか、資産の裏付けに応じることなどが挙げられる。
上記2社とは違い、自社でカード発行を行う「イシュア業務」と「アクワイアラー業務」とともに、日本ではMUFGカード、クレディセゾンに、香港ではイオンクレジットサービスの現地法人に対してもライセンス供与を行っている。ローマ兵士のカードフェイスで知られる。日本国内では自社加盟店のほか、提携先のJCBの加盟店でも使用できるため、日本国内における利用可能店舗数は上記の2社にほぼ並ぶ。
日本で最初に発行された日本企業による本格的なクレジットカード。民間企業で初めて銀行口座からの自動振替を実現するなど、長らく日本のクレジットカード業務を開拓、牽引してきた。初のアジア発国際ブランドである。
アジアを中心に加盟店を増やし、世界各国に加盟店を広げるが、とりわけシンガポール、マレーシア、タイ、香港、台湾、韓国、アメリカ合衆国ハワイ州などではVISAやMasterCard並みの加盟店がある。歴史的に日本からの観光客が多いハワイ州やグアムでは会員優待が充実している。また、後述のDISCOVERとの相互開放提携を行っており、加盟店の少ないカナダやオセアニア諸国をカバーする。日本の加盟店数は約800万店(2013年)である。
アメリカ合衆国などでは、加盟店開拓業務でAmerican Expressとの提携を行っているが、完全な相互開放ではない(加盟店側がオプションとして選択する形式)。
日本ではJCBしか使えない店も散在されるが、現在では加盟店手数料の高さなどからVISAやMasterCardには対応しているがJCBには対応していない店も増えている。日本では自社およびJCBグループ(フランチャイズ)以外のカード会社にもライセンス供与(加盟店開放・ブランド発行会社)を行い、提携先を通じたカード発行も行われている。これらのカードも含め、2007年時点では日本でトップのシェアがある。
アメリカではさまざまな業種によって、クレジットカードが多数発行されてきたが、飲食店を中心に、汎用型のクレジットカードとしてはアメリカで最初のものといわれる。ほとんどの自社発行カードの利用限度額には一律に制限を設定していない。また、ゴールドカード以下のグレードに値するカードは発行しておらず、入会時には高い属性が要求される。このためステータスが高いブランドのひとつといわれていた。長きにわたり独立系で加盟店は少なかったが、2000年にシティグループに属したことで、米国・カナダにおいてMasterCardとの提携が実現、また日本においてはJCBと加盟店開放契約(Amexと同様、完全開放ではなくオプション扱い)を締結、北米地域・日本における利用可能店は拡大している。2008年4月、シティグループは経営不振により傘下のダイナースクラブ・インターナショナルをディスカバー・フィナンシャル・サービシスに売却。ディスカバーの傘下となった。
アメリカ発、カード会員5,000万人、加盟店400万店以上。大半の加盟店はアメリカであるが、一部カナダ、メキシコ、コスタリカ、ミクロネシア、マーシャル諸島やカリブ海の諸国で加盟店開拓をしている。またJCBおよび中国銀聯と加盟店を相互開放しており、日本、中華人民共和国、シンガポール、タイ、韓国などアジア地域での利用可能店を急速に拡大している。
現在、日本国内の会社からカード発行されていない、唯一の国際ブランドである。
通常、使用者の属性に応じてカードごとに利用限度額が定められており、日本では一般カードで3万〜50万円、利用実績などによっては50万円超〜100万円程度、富裕層を対象としたゴールドカードでは50万〜300万円程度となっており、属性や利用実績などによって開きがある。諸外国のカード会社では、限度額を月給のX倍相当額迄などと設定しているケースもある。
利用限度額と未払い債務(未請求の債務を含む)額の差が、その時点でのクレジットカードによる立替払いが可能となる金額となる。クレジットカードによって異なるが、小額なら利用限度額を超える利用ができる場合もある。
なお、事前の利用限度額を設けないとしているカードもあるが、カード会社側では実際は規定の限度額(与信枠)を管理しており、多額の利用をしようとすると承認が求められる。
なおコールセンターなどに利用限度額を上げるように申請すると、改めて審査が行われて利用限度額が増えることもある。このことを与信枠を増やすことから、「増枠」と呼ぶことがある。
同一のカード会社から複数枚のカードを発行されている場合、「全カードが利用可能枠を共有する」、あるいは「カードごとの限度額と別に全体の利用限度額を設定している」などの事情により、カードごとの限度額の単純合計より利用枠は制限される。
また、海外旅行に行く場合や、国内であっても大きな買い物をする場合(一例としてはリフォーム費用、自動車修理費用、冠婚葬祭費用など)、一時的に利用限度額を上げてもらうこともできる(申し込みの際は用途や期間を聞かれることが多い)。これは「臨時増枠」「一時増枠」などと呼ばれる。
なお、一部のカードでは目的別(店舗別)に複数の限度額が設定されている場合がある。過去には国際ブランドと提携したばかりのハウスカード(ハウスカードについては後述)で、自社店舗利用分と国際ブランドでの利用が分かれていたものも多かった。現在では決済システムの統合のためにほとんどなくなっている。
クレジットカードにはさまざまな支払い方法が用意されている。
使用代金の支払サイト(締め日から引き落とし日までの期間)は、カードの種類や発行会社によって異なるが、月末締め翌月27日引き落としや、15日締め翌月10日引き落としなどの形がある。会社によっては(あるいはカードによっては)複数の支払日から選択可能な会社もある。
日本以外の国では、アドオン払いまたはリボルビング払いがあるものをクレジットカードとし、毎月の利用額を月ごとに全額払う(一括払い)カードをチャージカードと呼び、クレジットカードと区別することがある。アメリカにおけるアメリカン・エキスプレスやダイナースクラブの主要カードは、チャージカードである。チャージカードにおいては、利息ではなく、加盟店からの手数料、カード利用者からの会費や手数料(外国為替手数料など)、付帯サービス(旅行代理店業など)の売上などから利益を得ている。
法人カードとは、法人代表者や個人事業主を対象に発行されるクレジットカードのこと。
個人用クレジットカードとの違いは、利用限度額が高いこと以外で性能面に大きな差はない。性能以外だと、引落口座に法人口座を指定できたり、審査の際に登記簿謄本や事業計画書が必要だったりする。
類似する言葉に「ビジネスカード」や「コーポレートカード」という呼び名がある。これらの違いは発行会社毎に異なるため明確な定義はないものの、主に「ビジネスカード」は個人事業主や中小企業向け、「コーポレートカード」は大企業向けとして区分されている。
「クレジットカード」の語自体は、1888年にアメリカ合衆国の著作家エドワード・ベラミーが、2000年(100余年後)を舞台にしたユートピア小説、『顧みれば(英語版)』で用いたのが最初とされている。この小説では "credit card" という語が11回用いられている。この小説でベラミーは、100年後の社会で紙幣に代わる、国家から配布される、労働の対価、支払い手段としてのクレジットカードを構想している。
クレジットカードの出現は、19世紀後半のアメリカ合衆国にその起源を求められ、20世紀に入ってガソリン、流通など特定の業種を中心に発達した。アメリカでのプラスチックカードの本格的な普及は1950年代からであり、ほかのカード先進国では1960年代に入って普及した。米国では膨大な小切手処理、高額紙幣の信用が低く使いにくいこと(100ドル札が偽造されることが多い。偽札参照)、社会生活に必要不可欠な信用情報(クレジットヒストリーおよびクレジットスコア)を構築する手段や、使用者自身の信用を証明する手段としてクレジットカードがもっとも一般的であること、日常的な消費にあたりごく少額の支払いであってもクレジットカードによる支払ができるなどの理由により、クレジットカードの保持および使用が多い。
VisaやMasterCardのメンバー銀行(アクワイアラー)がデータ処理を委託(アウトソーシング)していたアリゾナ州のデータ処理会社「カードシステムズ」から約4,000万件のカード情報が外部に流出した問題が2005年6月18日に発覚、両社と提携している日本のカードでも流出データが発生し、流出情報をもとにしたカードの不正使用も発生し、被害が出ている。影響はVisaやMasterCardに限らず、Amex、Diners、日本のJCBも情報流出、不正使用があった可能性があると発表され、これらのカード被害が世界中に広まっていることが分かった。
この問題の原因は、本来ならデータ処理会社が保存してはいけないデータを保存していたことにあるとされ、そのデータをクラッキングされて流出したことが分かっている。
利用者側からの方策としては毎月の利用明細書をきちんと照合し、万一不正利用があった場合にはカード会社に申し出ることが必要となる(不正利用と認められれば代金は請求されない)。紛失の場合と同様に新たな番号のカードへ切り替え再発行の依頼も検討する。
2007年のサブプライム住宅ローン危機は、クレジットカード業界にも影響を与えた。サブプライム問題以降、カードの未支払いは増加し、貸し倒れは増加している。
貸し倒れ増加の背景には、個人の返済能力の低下およびカード利用額の増大が指摘されている。
貸し手の企業には、貸し倒れの拡大を防ぐディフェンシブな対応と、防衛的な対応が増えたためにカードが作れなくなった人へ高利でお金を貸し付けるというアグレッシブな対応が出てきている。
クレジットカードは、使用の際には信用照会が行われる。また、クレジットカードが保持者に届いた場合、すぐに裏面の署名欄に署名しなければ、紛失・盗難時の不正利用でクレジットカードが発見された場合、カード発行会社から保証はまったくされず、カード保持者が全額支払うことになる。このため、クレジットカードの署名欄は、カード犯罪防止に対して重要な意味を持つ。
また、クレジットカード加盟店において詐欺、もしくは不正なカードではないか考えるに足るクレジットカードが行使されたとき、もしくはそう考えるに足るカード持参者が現れたときに、持参者になるべく気づかれないようにカード会社に通報できるようカード会社が定めた符牒が存在する。
この符牒で通報を受けたカード会社は、加盟店の保護を最優先に処理を行い、専門のオペレーターが対応を行う。その際、なるべく持参者に気づかれないよう状況の把握(「はい/いいえ」形式の質問)を行い、また必要な場合は、オペレーター経由で警察への通報などを行う。また、カード会社が直接カード持参者またはカード所有者に電話で質問する場合もある。
なお、加盟店から警察に通報することはまれであり、不審者を店舗が拘束することはない。そのカードを使う以外の決済手段を求めるのが通常である。ただし、その時点で情報は全国・全世界の加盟店に通知される。
犯罪の実例として、2006年7月、JCBの子会社であるJCS(日本カウンターサポート社)の派遣社員がクレジット機能付き郵貯カードの受付の際、顧客から暗証番号を聞き出し、現金を引き出し逮捕された。
クレジットカード不正使用対策のため、政府は2020年までにICカードとICカードに対応した決済端末を普及させる予定。
最近ではセゾンカードインターナショナルや三井住友カード(NL)をはじめとして、カードの券面にカード番号やセキュリティコードが書かれていないナンバーレスのカードが普及してきている。
会員(カードホルダー)になると、決済(先延ばし払い)以外にも特典がつくことが多い。たとえば、利用実績に応じたポイントサービス、国内・海外旅行傷害保険、チケットの優待販売などである。また、海外渡航の際は身分証明書のひとつとして支払能力の保証や信用保証が得られる場合もある(現金払いの場合は支払能力の証明にデポジット - 保証金の前納を要求するホテルが一部にある)。カード会社によっては、累積ポイントの無期限化や交換景品、付帯サービスを拡充することによって会員サービスの向上を図っている。決済サービスそのものだけでは他社との差別化ができないゆえの施策だが、その原資は会員から徴収する年会費や加盟店からの決済手数料によって賄われているに過ぎない。
短期に高利回りの運用が可能な場合には、クレジットカードで支払った代金の決済日までその資金を運用し、運用益を稼ぐこともできるため、日本でもバブル崩壊期までは財テクのひとつだった。日本の業者では少ないが、欧米ではFXやCFDなどにおいても、クレジットカードによる入金が可能な業者がある。
盗難や紛失の場合は、発行のクレジットカード会社へ連絡すれば利用が停止され、被害の発生を最小限に抑えることができる。また、カード会社によってはカード盗難保険などをあらかじめ付帯しているカードも多い。これは被害者の利益を考えてのサービスではあるが、過去にクレジットカードやローンカードの第三者による不正使用が、特定の条件下ではカード所持者の責任ではないとの判決が出たことや、預金者保護法が2006年に施行されたことなどの周辺環境要因により、カード会社側が未然に損失の限定を狙ってのことである。
日本では1990年代、インターネットサービスプロバイダへのアカウント使用料の支払のために欠かせないものだった。これは当時、口座振替や払込書払いなどの決済手段が充実していなかったためである。2010年代においても、いわゆる「格安スマホ」やオンラインDVDレンタルサービスなどの利用料金支払いにはクレジットカードが必要な場合がほとんどで(デビットカードは不可)、口座振替やその他の支払方法には対応していないことが多い。また、レンタカー会社では特定車種(高級車・スポーツカーなど)のレンタルをクレジットカード決済限定にしていることもある。
国によっては、使用できるクレジットカードが制限されていたり、使用できない国がある。キューバの場合、使用できるクレジットカードは、アメリカ系金融機関以外の金融機関(日本、カナダ、ヨーロッパ、中南米などの金融機関)で決済され、かつアメリカ系企業以外と提携しているVisaとMasterCardのみで、それ以外のクレジットカード(アメリカ系金融機関で決済されるVisaとMasterCardやアメリカ系企業と提携しているVisaとMasterCardも含む)は使用できない。そのため、キューバを訪問した観光客が現金をわずかしか所持せず、クレジットカードに依存したがゆえに、現地で困窮するケースもある。イランでは一切クレジットカードは使用できない。
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"text": "クレジットカード(英: Credit card)とは、商品を購入する際の後払い決済(支払)をする手段のひとつ。または、契約者の(会員)番号、姓名、有効期限、その他が記載・記録されたカードである。顧客のクレジット(信用)により後払いが可能な手段である。",
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"text": "分割払い機能を持つものをクレジットカード、1回払いのものを欧米ではチャージカードと呼ぶこともある。それに対して、銀行口座に紐付けられ、口座預金を即時に決済に使用するカードは、デビットカードと呼ばれる。",
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"text": "クレジットカードはその前身も含めて、アメリカ合衆国では約150年の歴史がある。",
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"text": "クレジットカードは、利用代金を後で支払う後払い(ポストペイ)の決済手段である。高額商品の購入に際しても多額の現金を持ち歩く必要がなく、カードを提示するだけで(設定された限度まで)支払いが可能となる。支払いは締め日に明細が送付され翌月に支払うことが多い。支払い手段も分割払いやリボルビング払いなどさまざまなプランが用意されている。",
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"text": "後払いであることから顧客には一定の信用が必要なため、前払いのプリペイドカードや即時払いのデビットカードと異なり入会に際して審査が行われる。",
"title": "概要"
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"text": "店舗側も決済システムを導入すれば高額商品や海外からの旅行者の買い物であっても偽札の不安や両替の手間がなくなる。また支払い請求などの事務作業もカード会社側が行うため代金回収に失敗することも少ない。",
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"text": "クレジットカードには、磁気ストライプによるものとICによるもの、国際規格のNFC(EMV Contactless)サービスによるものがあり、ICで決済が行われた場合は、署名に代えて暗証番号の入力を行うことで決済ができる。NFCによる場合はタッチ決済となり署名も暗証番号の入力も不要。",
"title": "概要"
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"text": "カード番号・有効期限・カード保有者氏名はインプリンタでの使用を前提としてエンボス(浮き彫り)加工がされているものが多いが、信用照会のオンライン化に伴いインプリンタの使用機会が減少したため、エンボス加工のないエンボスレスカードも登場している。2020年ごろからはエンボスレスであることに加え、表面にカード番号や保有者氏名を表記せずすべて裏面に表記するといった券面のカードが次々と増えている。",
"title": "券面"
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"text": "カード保有者氏名は[名] [姓]順のアルファベット表記、有効期限は[月2桁] / [西暦下2桁]表記である。",
"title": "券面"
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"text": "オンライン照会の普及後は、カード情報を電子的に読み取るための磁気ストライプが付属するようになったが、スキミング被害が多発したため、1990年代以降、ICカードへの切り替えが進んだ。日本でも2018年6月に「改正割賦販売法」が成立し、2020年3月末までに加盟店の決済端末のICカード対応が義務づけられた。ICカードはISO/IEC 7816で標準化されている。",
"title": "券面"
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"text": "非接触型ICは非接触型決済に用いられるICで、2002年の「Mastercardコンタクトレス」ではじめて搭載された。2020年現在、「Visaのタッチ決済」や「JCB Contactless」など多くのカード会社で採用されている。非接触型ICカードはISO/IEC 14443で標準化されている。",
"title": "券面"
},
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"text": "決済の際、必要となる署名は、ICカード・非接触型ICカードでは4桁の暗証番号入力に置き換えられている。いずれも少額決済の場合は不要のケースがある(加盟店とカード会社の個別の契約による)。",
"title": "券面"
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"text": "国際ブランドは1980年代以降、国内の発行会社(イシュアー)が発行したカードでも多く見られるようになっている。国際ブランドは加盟店のアクワイアラーとカード所有者のイシュアーが異なっていても、国際ブランドのネットワークを使って決済が行える仕組みを実現している。",
"title": "券面"
},
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"text": "クレジットカードは、利用できる加盟店で、商品の購入に際しクレジットカードを提示すると、いったんクレジットカード会社が加盟店への支払いを肩代わりし、後でカード利用者へ代金を請求する仕組みである。流れは以下のとおり。(ここではノン・オン・アス取引で説明する。また、信用照会は省略した)。",
"title": "買い物における仕組み"
},
{
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"text": "カードの利用にあたってはクレジットカード発行会社へ信用照会が行われる。ここで承認が降りない場合(期限が切れている、限度額を超えている、支払いが遅れているなど)、クレジットカードを使用することはできない。",
"title": "買い物における仕組み"
},
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"tag": "p",
"text": "米国や日本などでは、基本的にカード払い(ただし一回払い)でも現金払いでもカード利用者への請求額は同額であるが、イギリス、デンマーク、スウェーデン、オランダ、オーストラリアなどではカード取扱手数料の加算請求が認められている。",
"title": "買い物における仕組み"
},
{
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"tag": "p",
"text": "米国では、カード発行会社は銀行でなければならないため、窓口や通常の預金・貸付業務などを行わないクレジットカード専門の銀行が多数存在する。",
"title": "買い物における仕組み"
},
{
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"tag": "p",
"text": "米国や日本のようにカード払いでも現金払いでもカード利用者への請求額は同額の場合、利用者から見ると加盟店にとってカード払いも現金払いも同じに見えるが、加盟店に実際に支払われる金額は現金取引の場合の金額から手数料を差し引いた金額で、この手数料は結果的に加盟店管理会社、処理センター、カード発行会社で分配される。手数料は通常3%前後であるが、加盟店と加盟店管理会社の力関係(取引額)などにより異なる。その他にも、加盟店は加盟店管理会社から以下のようなさまざまな名目の料金を徴収される。",
"title": "買い物における仕組み"
},
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"text": "カードの不正使用(たとえば、他人のカードを使ってカード名義人になりすまして加盟店で買い物をするなど)がありカード名義人からカード発行会社に通報があると、加盟店はカードの裏の正規名義人の署名と同じ署名のあるカード使用スリップや、名義人がカード発行会社に登録した住所への購入物品の送り状などを加盟店管理会社に示して瑕疵のなかったことを証明しなければならず、それができなければ不正使用の損失はその商品・サービスを販売した加盟店が被ることになる。",
"title": "買い物における仕組み"
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"text": "クレジットカードを入手するためには、申込を行い審査を受ける必要がある。審査の基準はクレジットカードの種類やイシュアによって異なるが、特に米国においては、信用情報(クレジットヒストリー)が非常に重要となる。そのため、現金を多く持っていてもクレジットヒストリーがない、あるいは返済状況が悪ければ、クレジットカードの取得は困難となる。そのため、まずは与信を行わないデビットカード(チェックカードと呼ばれることもある)である程度クレジットヒストリーを築いたあと、クレジットカードを取得することになる。",
"title": "入会について"
},
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"text": "国際ブランドは、世界中でクレジットカード決済が可能なシステムを提供する会社のことである。クレジットカードの国際ブランドと同じ国際ブランドの加盟店でカードを利用することができる。また、国際ブランドは、店舗だけでなく国や地域によって対応する種類が異なる。",
"title": "国際ブランド"
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"text": "2018年時点での取引額ベース(デビットカード、プリペイドを含む)の世界シェアは、次の通り。",
"title": "国際ブランド"
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"text": "世界ではトップシェアでMasterCardと並ぶ2大ブランド。日本においてはJCBに次ぎシェアは2位である。当初は住友クレジットサービス(現在の三井住友カード)をはじめとするVISAジャパン協会(現在のVJA)のみがカード発行および加盟店の開拓を行っていたが、1987年のスペシャルライセンシー制導入後はVISAジャパン協会以外の銀行系や信販系・流通系など、多くの企業と提携を行っている。",
"title": "国際ブランド"
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"text": "世界的には、VISAと並ぶ2大ブランド。EMV仕様の先駆けの「Euro Pay」と提携から始まり、2002年7月にドイツ・フランクフルトで統合(USA商品開発本社とEU本社に分かれる)しているため、ヨーロッパ圏などで強いと言われていた。現在では、両陣営に同時加盟しているカード会社が加盟店開拓を行うことが多く、VISAが使える店舗ではMasterCardも使えるため、どちらも利便性に大きな差はない。",
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"text": "日本においては、VISAが原則として直接加盟を認めていない非銀行系のカード会社へのブランド供与、CM攻勢などを積極的に推進することによって、勢力拡大を図っている。",
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"text": "「Amex(アメックス)」の通称でも知られる。アメリカホテル組合会社が発行権を買収して現在に至る。カードのグレードに合わせ、用意された豊富なサービスが特徴。「ゴールドカード」「プラチナカード」「ブラックカード(正式名称は「アメリカン・エキスプレス・センチュリオン・カード」)」の元祖である。また、自社発行のカードに、グレードに応じた利用限度額を一律に設定していない。実質の限度額を増やす条件には、アメックスの支払い実績を作るか、資産の裏付けに応じることなどが挙げられる。",
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"text": "上記2社とは違い、自社でカード発行を行う「イシュア業務」と「アクワイアラー業務」とともに、日本ではMUFGカード、クレディセゾンに、香港ではイオンクレジットサービスの現地法人に対してもライセンス供与を行っている。ローマ兵士のカードフェイスで知られる。日本国内では自社加盟店のほか、提携先のJCBの加盟店でも使用できるため、日本国内における利用可能店舗数は上記の2社にほぼ並ぶ。",
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"text": "アジアを中心に加盟店を増やし、世界各国に加盟店を広げるが、とりわけシンガポール、マレーシア、タイ、香港、台湾、韓国、アメリカ合衆国ハワイ州などではVISAやMasterCard並みの加盟店がある。歴史的に日本からの観光客が多いハワイ州やグアムでは会員優待が充実している。また、後述のDISCOVERとの相互開放提携を行っており、加盟店の少ないカナダやオセアニア諸国をカバーする。日本の加盟店数は約800万店(2013年)である。",
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"text": "アメリカ合衆国などでは、加盟店開拓業務でAmerican Expressとの提携を行っているが、完全な相互開放ではない(加盟店側がオプションとして選択する形式)。",
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"text": "アメリカではさまざまな業種によって、クレジットカードが多数発行されてきたが、飲食店を中心に、汎用型のクレジットカードとしてはアメリカで最初のものといわれる。ほとんどの自社発行カードの利用限度額には一律に制限を設定していない。また、ゴールドカード以下のグレードに値するカードは発行しておらず、入会時には高い属性が要求される。このためステータスが高いブランドのひとつといわれていた。長きにわたり独立系で加盟店は少なかったが、2000年にシティグループに属したことで、米国・カナダにおいてMasterCardとの提携が実現、また日本においてはJCBと加盟店開放契約(Amexと同様、完全開放ではなくオプション扱い)を締結、北米地域・日本における利用可能店は拡大している。2008年4月、シティグループは経営不振により傘下のダイナースクラブ・インターナショナルをディスカバー・フィナンシャル・サービシスに売却。ディスカバーの傘下となった。",
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"text": "アメリカ発、カード会員5,000万人、加盟店400万店以上。大半の加盟店はアメリカであるが、一部カナダ、メキシコ、コスタリカ、ミクロネシア、マーシャル諸島やカリブ海の諸国で加盟店開拓をしている。またJCBおよび中国銀聯と加盟店を相互開放しており、日本、中華人民共和国、シンガポール、タイ、韓国などアジア地域での利用可能店を急速に拡大している。",
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"text": "同一のカード会社から複数枚のカードを発行されている場合、「全カードが利用可能枠を共有する」、あるいは「カードごとの限度額と別に全体の利用限度額を設定している」などの事情により、カードごとの限度額の単純合計より利用枠は制限される。",
"title": "限度額"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "また、海外旅行に行く場合や、国内であっても大きな買い物をする場合(一例としてはリフォーム費用、自動車修理費用、冠婚葬祭費用など)、一時的に利用限度額を上げてもらうこともできる(申し込みの際は用途や期間を聞かれることが多い)。これは「臨時増枠」「一時増枠」などと呼ばれる。",
"title": "限度額"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "なお、一部のカードでは目的別(店舗別)に複数の限度額が設定されている場合がある。過去には国際ブランドと提携したばかりのハウスカード(ハウスカードについては後述)で、自社店舗利用分と国際ブランドでの利用が分かれていたものも多かった。現在では決済システムの統合のためにほとんどなくなっている。",
"title": "限度額"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "クレジットカードにはさまざまな支払い方法が用意されている。",
"title": "支払方法"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "使用代金の支払サイト(締め日から引き落とし日までの期間)は、カードの種類や発行会社によって異なるが、月末締め翌月27日引き落としや、15日締め翌月10日引き落としなどの形がある。会社によっては(あるいはカードによっては)複数の支払日から選択可能な会社もある。",
"title": "支払方法"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "日本以外の国では、アドオン払いまたはリボルビング払いがあるものをクレジットカードとし、毎月の利用額を月ごとに全額払う(一括払い)カードをチャージカードと呼び、クレジットカードと区別することがある。アメリカにおけるアメリカン・エキスプレスやダイナースクラブの主要カードは、チャージカードである。チャージカードにおいては、利息ではなく、加盟店からの手数料、カード利用者からの会費や手数料(外国為替手数料など)、付帯サービス(旅行代理店業など)の売上などから利益を得ている。",
"title": "支払方法"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "法人カードとは、法人代表者や個人事業主を対象に発行されるクレジットカードのこと。",
"title": "法人カード"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "個人用クレジットカードとの違いは、利用限度額が高いこと以外で性能面に大きな差はない。性能以外だと、引落口座に法人口座を指定できたり、審査の際に登記簿謄本や事業計画書が必要だったりする。",
"title": "法人カード"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "類似する言葉に「ビジネスカード」や「コーポレートカード」という呼び名がある。これらの違いは発行会社毎に異なるため明確な定義はないものの、主に「ビジネスカード」は個人事業主や中小企業向け、「コーポレートカード」は大企業向けとして区分されている。",
"title": "法人カード"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "「クレジットカード」の語自体は、1888年にアメリカ合衆国の著作家エドワード・ベラミーが、2000年(100余年後)を舞台にしたユートピア小説、『顧みれば(英語版)』で用いたのが最初とされている。この小説では \"credit card\" という語が11回用いられている。この小説でベラミーは、100年後の社会で紙幣に代わる、国家から配布される、労働の対価、支払い手段としてのクレジットカードを構想している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "クレジットカードの出現は、19世紀後半のアメリカ合衆国にその起源を求められ、20世紀に入ってガソリン、流通など特定の業種を中心に発達した。アメリカでのプラスチックカードの本格的な普及は1950年代からであり、ほかのカード先進国では1960年代に入って普及した。米国では膨大な小切手処理、高額紙幣の信用が低く使いにくいこと(100ドル札が偽造されることが多い。偽札参照)、社会生活に必要不可欠な信用情報(クレジットヒストリーおよびクレジットスコア)を構築する手段や、使用者自身の信用を証明する手段としてクレジットカードがもっとも一般的であること、日常的な消費にあたりごく少額の支払いであってもクレジットカードによる支払ができるなどの理由により、クレジットカードの保持および使用が多い。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "VisaやMasterCardのメンバー銀行(アクワイアラー)がデータ処理を委託(アウトソーシング)していたアリゾナ州のデータ処理会社「カードシステムズ」から約4,000万件のカード情報が外部に流出した問題が2005年6月18日に発覚、両社と提携している日本のカードでも流出データが発生し、流出情報をもとにしたカードの不正使用も発生し、被害が出ている。影響はVisaやMasterCardに限らず、Amex、Diners、日本のJCBも情報流出、不正使用があった可能性があると発表され、これらのカード被害が世界中に広まっていることが分かった。",
"title": "アメリカにおける事例"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "この問題の原因は、本来ならデータ処理会社が保存してはいけないデータを保存していたことにあるとされ、そのデータをクラッキングされて流出したことが分かっている。",
"title": "アメリカにおける事例"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "利用者側からの方策としては毎月の利用明細書をきちんと照合し、万一不正利用があった場合にはカード会社に申し出ることが必要となる(不正利用と認められれば代金は請求されない)。紛失の場合と同様に新たな番号のカードへ切り替え再発行の依頼も検討する。",
"title": "アメリカにおける事例"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2007年のサブプライム住宅ローン危機は、クレジットカード業界にも影響を与えた。サブプライム問題以降、カードの未支払いは増加し、貸し倒れは増加している。",
"title": "アメリカにおける事例"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "貸し倒れ増加の背景には、個人の返済能力の低下およびカード利用額の増大が指摘されている。",
"title": "アメリカにおける事例"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "貸し手の企業には、貸し倒れの拡大を防ぐディフェンシブな対応と、防衛的な対応が増えたためにカードが作れなくなった人へ高利でお金を貸し付けるというアグレッシブな対応が出てきている。",
"title": "アメリカにおける事例"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "クレジットカードは、使用の際には信用照会が行われる。また、クレジットカードが保持者に届いた場合、すぐに裏面の署名欄に署名しなければ、紛失・盗難時の不正利用でクレジットカードが発見された場合、カード発行会社から保証はまったくされず、カード保持者が全額支払うことになる。このため、クレジットカードの署名欄は、カード犯罪防止に対して重要な意味を持つ。",
"title": "カード犯罪防止"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "また、クレジットカード加盟店において詐欺、もしくは不正なカードではないか考えるに足るクレジットカードが行使されたとき、もしくはそう考えるに足るカード持参者が現れたときに、持参者になるべく気づかれないようにカード会社に通報できるようカード会社が定めた符牒が存在する。",
"title": "カード犯罪防止"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "この符牒で通報を受けたカード会社は、加盟店の保護を最優先に処理を行い、専門のオペレーターが対応を行う。その際、なるべく持参者に気づかれないよう状況の把握(「はい/いいえ」形式の質問)を行い、また必要な場合は、オペレーター経由で警察への通報などを行う。また、カード会社が直接カード持参者またはカード所有者に電話で質問する場合もある。",
"title": "カード犯罪防止"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "なお、加盟店から警察に通報することはまれであり、不審者を店舗が拘束することはない。そのカードを使う以外の決済手段を求めるのが通常である。ただし、その時点で情報は全国・全世界の加盟店に通知される。",
"title": "カード犯罪防止"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "犯罪の実例として、2006年7月、JCBの子会社であるJCS(日本カウンターサポート社)の派遣社員がクレジット機能付き郵貯カードの受付の際、顧客から暗証番号を聞き出し、現金を引き出し逮捕された。",
"title": "カード犯罪防止"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "クレジットカード不正使用対策のため、政府は2020年までにICカードとICカードに対応した決済端末を普及させる予定。",
"title": "カード犯罪防止"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "最近ではセゾンカードインターナショナルや三井住友カード(NL)をはじめとして、カードの券面にカード番号やセキュリティコードが書かれていないナンバーレスのカードが普及してきている。",
"title": "カード犯罪防止"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "会員(カードホルダー)になると、決済(先延ばし払い)以外にも特典がつくことが多い。たとえば、利用実績に応じたポイントサービス、国内・海外旅行傷害保険、チケットの優待販売などである。また、海外渡航の際は身分証明書のひとつとして支払能力の保証や信用保証が得られる場合もある(現金払いの場合は支払能力の証明にデポジット - 保証金の前納を要求するホテルが一部にある)。カード会社によっては、累積ポイントの無期限化や交換景品、付帯サービスを拡充することによって会員サービスの向上を図っている。決済サービスそのものだけでは他社との差別化ができないゆえの施策だが、その原資は会員から徴収する年会費や加盟店からの決済手数料によって賄われているに過ぎない。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "短期に高利回りの運用が可能な場合には、クレジットカードで支払った代金の決済日までその資金を運用し、運用益を稼ぐこともできるため、日本でもバブル崩壊期までは財テクのひとつだった。日本の業者では少ないが、欧米ではFXやCFDなどにおいても、クレジットカードによる入金が可能な業者がある。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "盗難や紛失の場合は、発行のクレジットカード会社へ連絡すれば利用が停止され、被害の発生を最小限に抑えることができる。また、カード会社によってはカード盗難保険などをあらかじめ付帯しているカードも多い。これは被害者の利益を考えてのサービスではあるが、過去にクレジットカードやローンカードの第三者による不正使用が、特定の条件下ではカード所持者の責任ではないとの判決が出たことや、預金者保護法が2006年に施行されたことなどの周辺環境要因により、カード会社側が未然に損失の限定を狙ってのことである。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "日本では1990年代、インターネットサービスプロバイダへのアカウント使用料の支払のために欠かせないものだった。これは当時、口座振替や払込書払いなどの決済手段が充実していなかったためである。2010年代においても、いわゆる「格安スマホ」やオンラインDVDレンタルサービスなどの利用料金支払いにはクレジットカードが必要な場合がほとんどで(デビットカードは不可)、口座振替やその他の支払方法には対応していないことが多い。また、レンタカー会社では特定車種(高級車・スポーツカーなど)のレンタルをクレジットカード決済限定にしていることもある。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "国によっては、使用できるクレジットカードが制限されていたり、使用できない国がある。キューバの場合、使用できるクレジットカードは、アメリカ系金融機関以外の金融機関(日本、カナダ、ヨーロッパ、中南米などの金融機関)で決済され、かつアメリカ系企業以外と提携しているVisaとMasterCardのみで、それ以外のクレジットカード(アメリカ系金融機関で決済されるVisaとMasterCardやアメリカ系企業と提携しているVisaとMasterCardも含む)は使用できない。そのため、キューバを訪問した観光客が現金をわずかしか所持せず、クレジットカードに依存したがゆえに、現地で困窮するケースもある。イランでは一切クレジットカードは使用できない。",
"title": "その他"
}
] |
クレジットカードとは、商品を購入する際の後払い決済(支払)をする手段のひとつ。または、契約者の(会員)番号、姓名、有効期限、その他が記載・記録されたカードである。顧客のクレジット(信用)により後払いが可能な手段である。 分割払い機能を持つものをクレジットカード、1回払いのものを欧米ではチャージカードと呼ぶこともある。それに対して、銀行口座に紐付けられ、口座預金を即時に決済に使用するカードは、デビットカードと呼ばれる。 クレジットカードはその前身も含めて、アメリカ合衆国では約150年の歴史がある。
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{{Otheruses||日本におけるクレジットカード|クレジットカード (日本)}}
{{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}}
[[Image:Credit-cards.jpg|thumb|クレジットカード]]
{{銀行業}}
{{個人ファイナンス}}
'''クレジットカード'''({{lang-en-short|''Credit card''}}<ref>{{cite web | url=https://qa.smbc-card.com/mem/info/detail?site=4H4A00IO&category=5&id=366| title=一時的にカード利用を停止することはできますか? | work=[[三井住友カード]]| accessdate=2021-10-21}}</ref>)とは、[[商品]]を購入する際の後払い決済(支払)をする手段のひとつ。または、契約者の(会員)番号、姓名、有効期限、その他が記載・記録された[[カード]]である。顧客の[[販売信用|クレジット]](信用)により[[後払い]]が可能な手段である。
分割払い機能を持つものをクレジットカード、1回払いのものを欧米ではチャージカードと呼ぶこともある。それに対して、銀行口座に紐付けられ、口座預金を即時に決済に使用するカードは、[[デビットカード]]と呼ばれる。
クレジットカードはその前身も含めて、[[アメリカ合衆国]]では約150年の歴史がある。
== 概要 ==
クレジットカードは、利用代金を後で支払う後払い([[ポストペイ]])の決済手段である。高額商品の購入に際しても多額の現金を持ち歩く必要がなく、カードを提示するだけで(設定された限度まで)支払いが可能となる。支払いは締め日に明細が送付され翌月に支払うことが多い。支払い手段も[[分割払い]]や[[リボルビング払い]]などさまざまなプランが用意されている。
後払いであることから[[消費者信用|顧客には一定の信用]]が必要なため、前払いの[[プリペイドカード]]や即時払いの[[デビットカード]]と異なり入会に際して審査が行われる。
{{See|#入会について}}
店舗側も決済システムを導入すれば高額商品や海外からの旅行者の買い物であっても[[偽札]]の不安や両替の手間がなくなる。また支払い請求などの事務作業もカード会社側が行うため代金回収に失敗することも少ない。
クレジットカードには、[[磁気]]ストライプによるものと[[集積回路|IC]]によるもの、国際規格のNFC(EMV Contactless)サービスによるものがあり、ICで決済が行われた場合は、[[署名]]に代えて[[暗証番号]]の入力を行うことで決済ができる。NFCによる場合はタッチ決済となり署名も暗証番号の入力も不要。
== 券面 ==
{{multiple image
| width = 275
| header = 典型的な券面の例
| image1 = Creditcardwcontactless.png
| caption1 = 表面{{Image key|list type=ordered|発行会社ロゴ|[[ICカード#ICクレジットカード|ICチップ]]電極|[[ホログラム]]|[[クレジットカードの番号|カード番号]]|国際ブランド|有効期限|カード保有者氏名|[[非接触型決済|非接触型IC]]}}
| image2 = CCardBack.svg
| caption2 = 裏面{{Image key|list type=ordered|thumb size=narrow|[[磁気ストライプ]]|サインパネルと[[署名]]|[[セキュリティコード]]}}
| footer = 発行会社によってはカード番号が裏面に印刷されているものや、セキュリティコードが表面に印字されているものもある。
}}
カード番号・有効期限・カード保有者氏名は[[インプリンタ]]での使用を前提として[[エンボス]](浮き彫り)加工がされているものが多いが、[[信用照会]]のオンライン化に伴いインプリンタの使用機会が減少したため、エンボス加工のないエンボスレスカードも登場している<ref name=":0">{{Cite news | title = 三井住友カード「番号を裏面に」の衝撃 「エンボスなし」は業界標準になるか | newspaper = [[ジェイ・キャスト|J-CASTニュース]] | date = 2020-1-19 | accessdate = 2021-10-21 | url = https://www.j-cast.com/2020/01/19377444.html}}</ref>。2020年ごろからはエンボスレスであることに加え、表面にカード番号や保有者氏名を表記せずすべて裏面に表記するといった券面のカードが次々と増えている。
カード保有者氏名は[名] [姓]順の[[アルファベット]]表記、有効期限は[月2桁] / [西暦下2桁]表記である。
オンライン照会の普及後は、カード情報を電子的に読み取るための磁気ストライプが付属するようになったが、[[スキミング]]被害が多発したため、[[1990年代]]以降、ICカードへの切り替えが進んだ。日本でも[[2018年]]6月に「改正[[割賦販売法]]」が成立し、[[2020年]]3月末までに加盟店の[[信用照会端末|決済端末]]のICカード対応が義務づけられた。ICカードは[[ISO/IEC 7816]]で標準化されている。
非接触型ICは[[非接触型決済]]に用いられるICで、2002年の「[[Mastercardコンタクトレス]]」ではじめて搭載された。[[2020年]]現在、「[[Visa#Visaのタッチ決済|Visaのタッチ決済]]」や「[[JCB Contactless]]」など多くのカード会社で採用されている。非接触型ICカードは[[ISO/IEC 14443]]で標準化されている。
決済の際、必要となる署名は、ICカード・非接触型ICカードでは4桁の暗証番号入力に置き換えられている。いずれも少額決済の場合は不要のケースがある(加盟店とカード会社の個別の契約による)。
国際ブランドは[[1980年代]]以降、国内の発行会社(イシュアー)が発行したカードでも多く見られるようになっている。国際ブランドは加盟店のアクワイアラーとカード所有者のイシュアーが異なっていても、国際ブランドのネットワークを使って決済が行える仕組みを実現している。
== 買い物における仕組み ==
[[Image:Card non on us.jpg|thumb|カード取引の流れ]]
クレジットカードは、利用できる加盟店で、商品の購入に際しクレジットカードを提示すると、いったんクレジットカード会社が加盟店への支払いを肩代わりし、後でカード利用者へ代金を請求する仕組みである。流れは以下のとおり。(ここではノン・オン・アス取引で説明する。また、[[信用照会]]は省略した)<ref name="crecajiten">『クレジットカード用語辞典』株式会社民事法研究会 2008年5月30日発行</ref>。
# カード利用者は、カード加盟店でクレジットカードを提示する。
# カード加盟店は、商品・サービスを、カード利用者へ提供する。
# カード加盟店は、商品・サービス代金の伝票を加盟店管理会社へ回す。
# 加盟店管理会社は、商品・サービス代金から加盟店手数料を差し引いた金額を数日以内にカード加盟店へ一括で支払う。
# 加盟店管理会社は、取引情報を処理センターへ送る。
# 処理センターは、取引情報をカード発行会社へ送る。
# カード発行会社は、手数料を上乗せして商品・サービス代金をカード利用者へ請求する。
# カード利用者は、商品・サービス代金をカード発行会社へ支払う(通常は月極め締めの一定期間(例えば25日)後)。
# カード発行会社は、商品・サービス代金からカード利用者紹介手数料を差し引いた金額を加盟店管理会社へ支払う。
カードの利用にあたってはクレジットカード発行会社へ信用照会が行われる。ここで承認が降りない場合(期限が切れている、限度額を超えている、支払いが遅れているなど)、クレジットカードを使用することはできない。
[[アメリカ合衆国|米国]]や日本などでは、基本的にカード払い(ただし一回払い)でも現金払いでもカード利用者への請求額は同額であるが、[[イギリス]]、[[デンマーク]]、[[スウェーデン]]、[[オランダ]]、[[オーストラリア]]などではカード取扱手数料の加算請求が認められている<ref>[http://www.orico.co.jp/use/basic/sh_01.html 海外で買い物お支払方法] オリコ</ref>。
米国では、カード発行会社は[[銀行]]でなければならないため、窓口や通常の預金・貸付業務などを行わないクレジットカード専門の銀行が多数存在する。
米国や日本のようにカード払いでも現金払いでもカード利用者への請求額は同額の場合、利用者から見ると加盟店にとってカード払いも現金払いも同じに見えるが、加盟店に実際に支払われる金額は現金取引の場合の金額から手数料を差し引いた金額で、この手数料は結果的に加盟店管理会社、処理センター、カード発行会社で分配される。手数料は通常3%前後であるが、加盟店と加盟店管理会社の力関係(取引額)などにより異なる。その他にも、加盟店は加盟店管理会社から以下のようなさまざまな名目の料金を徴収される。
* 毎月の口座維持費
* 毎月の端末使用料
* トランザクション(販売・返品など)ごとの固定料金
カードの不正使用(たとえば、他人のカードを使ってカード名義人になりすまして加盟店で買い物をするなど)がありカード名義人からカード発行会社に通報があると、加盟店はカードの裏の正規名義人の[[署名]]と同じ署名のあるカード使用スリップや、名義人がカード発行会社に登録した住所への購入物品の[[送り状]]などを加盟店管理会社に示して瑕疵のなかったことを証明しなければならず、それができなければ不正使用の損失はその商品・サービスを販売した加盟店が被ることになる。
== 入会について ==
{{Main2|日本における入会|クレジットカード (日本)#入会について}}
クレジットカードを入手するためには、申込を行い審査を受ける必要がある。審査の基準はクレジットカードの種類やイシュアによって異なるが、特に米国においては、[[信用情報]](クレジットヒストリー)が非常に重要となる。そのため、現金を多く持っていてもクレジットヒストリーがない、あるいは返済状況が悪ければ、クレジットカードの取得は困難となる<ref name="sinyoryokukakusa">[[岩田昭男]]『「信用力」格差社会』東洋経済新報社、2008年11月 ISBN 9784492222935</ref>。そのため、まずは{{要検証範囲|与信を行わないデビットカード(チェックカードと呼ばれることもある)である程度クレジットヒストリーを築いたあと|date=2023年5月}}、クレジットカードを取得することになる<ref name="sinyoryokukakusa"/>。
== 国際ブランド ==
国際ブランドは、世界中でクレジットカード決済が可能なシステムを提供する会社のことである<ref>{{Cite web|url=https://www.cardservice.co.jp/support/beginner/begin_32.html|title=国際ブランドとは?クレジットカードブランドの違い|accessdate=2020-10-10|publisher=ゼウス}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.smbc-card.com/nyukai/magazine/knowledge/6brand.jsp|title=クレジットカードの国際ブランドとは?世界5大ブランドの特徴を紹介|accessdate=2020-10-10|publisher=三井住友カード|date=2020-10-07}}</ref>。クレジットカードの国際ブランドと同じ国際ブランドの加盟店でカードを利用することができる。また、国際ブランドは、店舗だけでなく国や地域によって対応する種類が異なる<ref>{{Cite web|url=https://hikakujoho.com/creditcard/brand/|title=国際ブランドとは?VISA、MasterCard、JCBを始めとした7大国際ブランドについて解説!|accessdate=2019-04-22|publisher=マネ会 クレジットカード}}</ref>。
[[2018年]]時点での取引額ベース(デビットカード、プリペイドを含む)の世界シェアは、次の通り<ref>{{Cite web|url=https://nilsonreport.com/research_featured_article.php|title=Global Cards|accessdate=2020-10-10|publisher=Nilson Report}}</ref>。
{{Right|{{Hidden|取引額ベースの世界シェア(2018年)|expanded=1|
{{Graph:Chart
| type = pie
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| height = {{#expr:220 * 0.5}}
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| x = Visa,銀聯(Union Pay),マスターカード,アメリカン・エキスプレス,JCB,ダイナースクラブ
| y = 44.84,26.66,24.46,2.26,1.04,0.74
}}
}}}}
# [[Visa]] 44.84%
# [[中国銀聯|銀聯(Union Pay)]] 26.66%
# [[マスターカード]] 24.46%
# [[アメリカン・エキスプレス]] 2.26%
# [[ジェーシービー|JCB]] 1.04%
# [[ダイナースクラブ]] 0.74%
=== Visa ===
{{Main|Visa}}
世界ではトップシェアで[[マスターカード|MasterCard]]と並ぶ2大ブランド<ref>{{Cite web|url=https://www.smbc-card.com/nyukai/magazine/recommend/mastercard.jsp|title=Visaと並ぶ2大ブランドのひとつ「Mastercard」とは?|accessdate=2020-10-10|publisher=三井住友カード|date=2020-10-07}}</ref>。日本においては[[ジェーシービー|JCB]]に次ぎシェアは2位である。当初は住友クレジットサービス(現在の[[三井住友カード]])をはじめとするVISAジャパン協会(現在の[[VJA]])のみがカード発行および加盟店の開拓を行っていたが、1987年のスペシャルライセンシー制導入後はVISAジャパン協会以外の銀行系や信販系・流通系など、多くの企業と提携を行っている。
=== MasterCard ===
{{Main|マスターカード}}
世界的には、VISAと並ぶ2大ブランド。EMV仕様の先駆けの「[[ユーロペイ・インターナショナル|Euro Pay]]」と提携から始まり、2002年7月にドイツ・フランクフルトで統合(USA商品開発本社とEU本社に分かれる)しているため、[[ヨーロッパ]]圏などで強いと言われていた。現在では、両陣営に同時加盟しているカード会社が加盟店開拓を行うことが多く、VISAが使える店舗ではMasterCardも使えるため、どちらも利便性に大きな差はない<ref>{{Cite web|url=https://qa.smbc-card.com/mem/detail?site=4H4A00IO&category=120&id=335|title=「Mastercard」は「Visa」加盟店で使えないのですか?|accessdate=2020-10-10|publisher=三井住友カード}}</ref>。
日本においては、VISAが原則として直接加盟を認めていない非銀行系のカード会社へのブランド供与、[[コマーシャルメッセージ|CM]]攻勢などを積極的に推進することによって、勢力拡大を図っている。
=== American Express ===
{{Main|アメリカン・エキスプレス}}
「Amex(アメックス)」の通称でも知られる。アメリカホテル組合会社が発行権を買収して現在に至る。カードのグレードに合わせ、用意された豊富なサービスが特徴。「[[ゴールドカード]]」「[[プラチナカード]]」「[[ブラックカード]](正式名称は「[[アメリカン・エキスプレス・センチュリオン・カード]]」)」の元祖である。また、自社発行のカードに、グレードに応じた利用限度額を一律に設定していない<ref group="注釈">実際には顧客ごとの設定はされている。問い合わせにより、限度額の確認は可能。</ref>。実質の限度額を増やす条件には、アメックスの支払い実績を作るか、資産の裏付けに応じることなどが挙げられる。
上記2社とは違い、自社でカード発行を行う「イシュア業務」と「アクワイアラー業務」とともに、日本では[[MUFGカード]]、[[クレディセゾン]]に、香港では[[イオンクレジットサービス]]の現地法人に対してもライセンス供与を行っている。[[ケントゥリオ|ローマ兵士]]のカードフェイスで知られる。日本国内では自社加盟店のほか、提携先のJCBの加盟店でも使用できるため、日本国内における利用可能店舗数は上記の2社にほぼ並ぶ。
=== JCB ===
{{Main|ジェーシービー}}
[[日本]]で最初に発行された日本企業による本格的なクレジットカード。民間企業で初めて銀行口座からの自動振替を実現するなど、長らく日本のクレジットカード業務を開拓、牽引してきた。初の[[アジア]]発国際ブランドである。
アジアを中心に加盟店を増やし、世界各国に加盟店を広げるが、とりわけ[[シンガポール]]、[[マレーシア]]、[[タイ王国|タイ]]、[[香港]]、[[台湾]]、[[大韓民国|韓国]]、アメリカ合衆国[[ハワイ州]]などではVISAやMasterCard並みの加盟店がある。歴史的に日本からの観光客が多いハワイ州や[[グアム]]では会員優待が充実している。また、後述のDISCOVERとの相互開放提携を行っており、加盟店の少ない[[カナダ]]や[[オセアニア]]諸国をカバーする。日本の加盟店数は約800万店(2013年)である。
アメリカ合衆国などでは、加盟店開拓業務でAmerican Expressとの提携を行っているが、完全な相互開放ではない(加盟店側がオプションとして選択する形式)。
日本ではJCBしか使えない店も散在されるが、現在では加盟店手数料の高さなどからVISAやMasterCardには対応しているがJCBには対応していない店も増えている<ref>{{Cite web|url=https://vandle.jp/hello/accept-jcb/|title=JCBカードが使えない店が増えている?意外な理由や解決策について解説します|accessdate=2020-10-10|publisher=VANDLE CARD}}</ref>。日本では自社および[[JCBグループ]]([[フランチャイズ]])以外のカード会社にもライセンス供与(加盟店開放・ブランド発行会社)を行い、提携先を通じたカード発行も行われている。これらのカードも含め、2007年時点では日本でトップのシェアがある。
=== Diners Club ===
{{Main|ダイナースクラブ}}
アメリカではさまざまな業種によって、クレジットカードが多数発行されてきたが、飲食店を中心に、汎用型のクレジットカードとしてはアメリカで最初のものといわれる。ほとんどの自社発行カードの利用限度額には一律に制限を設定していない<ref group="注釈">制限は一律ではないという意味。</ref>。また、[[#ゴールドカード|ゴールドカード]]以下のグレードに値するカードは発行しておらず、入会時には高い[[属性]]が要求される。このため[[ステータス]]が高いブランドのひとつといわれていた。長きにわたり独立系で加盟店は少なかったが、2000年に[[シティグループ]]に属したことで、米国・[[カナダ]]においてMasterCardとの提携が実現、また日本においてはJCBと加盟店開放契約(Amexと同様、完全開放ではなくオプション扱い)を締結、北米地域・日本における利用可能店は拡大している。2008年4月、シティグループは経営不振により傘下のダイナースクラブ・インターナショナルをディスカバー・フィナンシャル・サービシスに売却。ディスカバーの傘下となった<ref group="注釈">日本国内においてはディスカバーからのライセンス供与により、引き続きシティカードジャパンがカード発行および加盟店開拓を行っている。</ref>。
=== DISCOVER ===
{{Main|ディスカバーカード}}
アメリカ発、カード会員5,000万人、加盟店400万店以上。大半の加盟店はアメリカであるが、一部カナダ、[[メキシコ]]、[[コスタリカ]]、[[ミクロネシア]]、[[マーシャル諸島]]や[[カリブ海]]の諸国で加盟店開拓をしている。またJCBおよび[[中国銀聯]]と加盟店を相互開放しており、日本、中華人民共和国、シンガポール、タイ、韓国などアジア地域での利用可能店を急速に拡大している。
現在、日本国内の会社からカード発行されていない、唯一の国際ブランドである。
== カード番号 ==
{{Main|クレジットカードの番号}}
* クレジットカードの番号は、VISA、MASTER、JCBなどでは16桁、AMEXは15桁、ダイナースは14桁となっている。
* カード番号の番号体系は[[国際標準化機構|ISO]]で決められている。
* 国内専用カードの場合はISOではなく、その国の機関によって決められている<ref group="注釈">[[ISO/IEC 7812|ISO 7812]]</ref>。
== 限度額 ==
通常、使用者の属性に応じてカードごとに利用限度額が定められており、日本では一般カードで3万〜50万円、利用実績などによっては50万円超〜100万円程度、富裕層を対象としたゴールドカードでは50万〜300万円程度となっており、属性や利用実績などによって開きがある。諸外国のカード会社では、限度額を月給のX倍相当額迄などと設定しているケースもある。
利用限度額と未払い債務(未請求の債務を含む)額の差が、その時点でのクレジットカードによる立替払いが可能となる金額となる。クレジットカードによって異なるが、小額なら利用限度額を超える利用ができる場合もある。
なお、事前の利用限度額を設けないとしているカードもあるが、カード会社側では実際は規定の限度額([[与信]]枠)を管理しており、多額の利用をしようとすると承認が求められる。
なお[[コールセンター]]などに利用限度額を上げるように申請すると、改めて審査が行われて利用限度額が増えることもある。このことを与信枠を増やすことから、「増枠」と呼ぶことがある。
同一のカード会社から複数枚のカードを発行されている場合、「全カードが利用可能枠を共有する<ref>[https://www.cr.mufg.jp/faq/detail/1892/index.html カードを複数枚持っていますが、利用可能枠はカードごとに設定されているのでしょうか?] [[三菱UFJニコス]]([[MUFGカード]]<!-- カードブランドごとにシステムが違うので明示 -->)、2021年2月24日閲覧。</ref>」、あるいは「カードごとの限度額と別に全体の利用限度額を設定している<ref>[http://qa.smbc-card.com/mem/detail?site=4H4A00IO&category=1&id=1290 利用枠(限度額)が80万円のカードを2枚持っていますが、160万円まで使えますか?] [[三井住友カード]]、2020年10月2日(2021年2月24日閲覧)。</ref>」などの事情により、カードごとの限度額の単純合計より利用枠は制限される。
また、海外旅行に行く場合や、国内であっても大きな買い物をする場合(一例としてはリフォーム費用、自動車修理費用、[[冠婚葬祭]]費用など)、一時的に利用限度額を上げてもらうこともできる(申し込みの際は用途や期間を聞かれることが多い)。これは「臨時増枠」「一時増枠」などと呼ばれる。
なお、一部のカードでは目的別(店舗別)に複数の限度額が設定されている場合がある<!--([[JALカード]]、[[VIEWカード]]を参照)この2社では廃止された-->。過去には国際ブランドと提携したばかりのハウスカード(ハウスカードについては後述)で、自社店舗利用分と国際ブランドでの利用が分かれていたものも多かった。現在では決済システムの統合のためにほとんどなくなっている。
== 支払方法 ==
クレジットカードにはさまざまな支払い方法が用意されている。
; 一括払い
: その名の通り、1回で支払ってしまう方法である。もっとも一般的な支払方法。一括払い専用のカードは、別名「チャージカード」と呼ばれる<ref name="crecajiten"/>。初期に生まれたクレジットカードはすべて一括払いであった<ref name="wagakure">『わが国クレジットの半世紀』[[社団法人]] [[日本クレジット産業協会]]</ref>。手数料は無料。
; 分割払い
: 手数料が無料の2回分割払いと、手数料が有料の3〜36回程度の[[分割払い]](アドオン払い:利用額に利率を掛け、その総額を分割払いする方法)。高額商品を購入するときに有用な支払い方法である。カードが対応していても、店舗によっては分割払いを取り扱えない場合もある。
; [[リボルビング払い]](リボ払い)
: 手数料が有料で、毎月決められた一定金額を支払う方法である。買い増ししても毎月の支払い金額が変わらないのが特徴。その代わり支払い回数が増えていく。加盟店が消極的なことがあるため普及していないが、逆にカード発行会社では増収を期待して、利用者向けにキャンペーンなどで奨励する傾向がある。また、店舗で一括払いと指定しても、支払いはすべてリボ払いとなる「リボ専用カード」や、後日、公式[[ウェブサイト|サイト]]や電話連絡によってリボ払いへ変更できるものもある。
; ボーナス払い
: [[賞与|ボーナス]]を当てにして支払う方法。ボーナス一括払いであれば最長6か月、ボーナス2回払いであれば最長1年間の支払い猶予期間がある。なお、ボーナス払いを指定できる期間は決まっているため注意が必要(ボーナス時期の直近はボーナス払いができないなど)。手数料は無料。
; フレックス払い
: フレックス払いはリボ払いの一種であるが、クレジットカード会社が定める最低の金額以上であれば返済額を自由に定めることができる。リボ払いに柔軟さが加わったと考えると分かりやすい。
; 前払い方式
: プリペイドカード方式のクレジットカードで、性質的には前払い式電子マネーに近い。一般的には使い捨てのギフト用プリペイドカードとして販売されている。日本ではギフト用としては発行されておらず、海外旅行用やネット決済用として発行されている<ref>[http://www.visa-asia.com/ap/jp/cardholders/cardsservices/visa_prepaid.shtml Visaプリペイドカード] Visa Worldwide Tokyo</ref>。
使用代金の[[支払サイト]](締め日から引き落とし日までの期間)は、カードの種類や発行会社によって異なるが、月末締め翌月27日引き落としや、15日締め翌月10日引き落としなどの形がある。会社によっては(あるいはカードによっては)複数の支払日から選択可能な会社もある。
日本以外の国では、アドオン払いまたはリボルビング払いがあるものをクレジットカードとし、毎月の利用額を月ごとに全額払う(一括払い)カードを[[:en:Charge card|チャージカード]]と呼び、クレジットカードと区別することがある。アメリカにおける[[アメリカン・エキスプレス]]や[[ダイナースクラブ]]の主要カードは、チャージカードである。チャージカードにおいては、利息ではなく、加盟店からの手数料、カード利用者からの会費や手数料(外国為替手数料など)、付帯サービス(旅行代理店業など)の売上などから利益を得ている。
== 法人カード ==
法人カードとは、法人代表者や個人事業主を対象に発行されるクレジットカードのこと。
個人用クレジットカードとの違いは、利用限度額が高いこと以外で性能面に大きな差はない。性能以外だと、引落口座に法人口座を指定できたり、審査の際に登記簿謄本や事業計画書が必要だったりする。
類似する言葉に「ビジネスカード」や「コーポレートカード」という呼び名がある。これらの違いは発行会社毎に異なるため明確な定義はないものの、主に「ビジネスカード」は個人事業主や中小企業向け、「コーポレートカード」は大企業向けとして区分されている。<ref>{{Cite web |url=https://www.smbc-card.com/hojin/magazine/knowledge/feature.jsp |title=法人カード(ビジネスカード・コーポレートカード)とは?(三井住友カード) |accessdate=2020-07-15 |website=三井住友カード}}</ref>
; コーポレートカード
: 法人(おもに[[大企業]])を対象に発行される経費決済カード。利用限度額は法人または部署単位で設定されており、契約形態によるが法人側が任意にカードの発行枚数(利用者)を指定できるようになっている。また、キャッシング機能を付帯させることも可能。
: 法人によっては社員にこのカードと後述の福利厚生カードの2種類持たせ、着服させないようにしているところもある。
: おもに[[接待費]]や[[出張費]]<ref group="注釈">日本国内においては、クレジットカード各社が[[東海旅客鉄道|JR東海]]と提携し、[[エクスプレス予約]]の利用が可能なコーポレートカードが多数発行されている。</ref>、[[消耗品]]購入など法人の[[経費]]を決済する際に用いられ、それらの費用はカード会社が立て替えるため、法人側は支払日まで現金を用意する必要がなく、カード利用分は経理担当などが明細によって利用者ごとにどの加盟店でいくら使ったか確認できる。特にコーポレートカードは運送会社にとってメリットがあり、車両ごとにコーポレートカードの子カードを発行できるため、どの車両でいくら[[ガソリン]]・[[軽油]]や[[高速道路]]を使ったのか把握するのが容易になる。また、ゴールドカードに準ずるサービスのため、[[出張]]時の[[空港ラウンジ]]や旅行傷害保険が無料付帯されるなどの利点がある。
:
; パーチェシングカード
: パーチェシングカードは、コーポレートカードの一種で、カードの利用先を限定した経費決済カードのこと。利用先を限定することで、従業員の使いこみを防止できることや貸し倒れリスクを抑えられるため、一般的なコーポレートカードよりも高額な限度額を設定できる利点がある<ref>{{Cite web |title=VISAパーチェシングカードで業務改善を実現 |url=https://www.resonacard.co.jp/houjin/case/segment.html |website=りそなカード |accessdate=2019-07-24 |publisher=}}</ref>。
:
; ビジネスカード
:; 個人事業者向けカード
:: 日本の一部のカード会社による独自のカードで、先のコーポレートカードをアレンジして[[個人事業者]]向けに発行するもの。個人カードと同じく一般とゴールドのグレードが選べるようになっており、年会費が無料の場合もある。ビジネスカードにはカード会社ごとに[[与信]]が設けられており、一般的に「業歴3年以上・黒字決算2期以上」とされているが、実際は申込み者の[[信用情報]]に問題がなければ、審査に通るものとされている<ref>{{Cite web |title=個人事業主におすすめ!法人用クレジットカードを持つメリットとは? |url=https://www.smbc-card.com/hojin/magazine/bizi-dora/accounting/sole_proprietorship_credit_card.jsp |website=三井住友カード |accessdate=2020-05-08 |publisher=}}</ref>。
:; 福利厚生カード
:: [[福利厚生]]のために法人に所属する者や職域[[生活協同組合|生協]]の組合員に対し発行されるカード。ゴールドカードに準ずるサービスが付帯しているが、個人で契約するゴールドカードより限度額が低く一人当たり50万円〜80万円程度である。また、法人の契約形態によってカード利用分は翌月の[[給与]]から直接[[天引]]きされるパターンもある。
:: 有名なものでは、JCBおよび[[三菱UFJニコス]]が[[国家公務員共済組合連合会]](KKR)と提携し、組合員(退職者を含む)に発行する「KKRメンバーズカード」がある。
:: [[住信カード]]は、[[朝日新聞社]]と提携し、同社の[[アスパラクラブ]]の会員にビジネスカードを“切り売り”し、年会費2,500円で発行している。
== 歴史 ==
「クレジットカード」の語自体は、[[1888年]]にアメリカ合衆国の著作家[[エドワード・ベラミー]]が、[[2000年]](100余年後)を舞台にした[[ユートピア]]小説、『{{仮リンク|顧みれば|en|Looking Backward}}』で用いたのが最初とされている。この小説では "credit card" という語が11回用いられている。この小説でベラミーは、100年後の社会で[[紙幣]]に代わる、国家から配布される、労働の対価、支払い手段としてのクレジットカードを構想している。
クレジットカードの出現は、19世紀後半のアメリカ合衆国にその起源を求められ、20世紀に入ってガソリン、流通など特定の業種を中心に発達した。アメリカでのプラスチックカードの本格的な普及は[[1950年代]]からであり、ほかのカード先進国では[[1960年代]]に入って普及した。米国では膨大な[[小切手]]処理、高額紙幣の信用が低く使いにくいこと(100[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]札が偽造されることが多い。[[偽札]]参照)、社会生活に必要不可欠な[[信用情報]](クレジットヒストリーおよびクレジットスコア)を構築する手段や、使用者自身の信用を証明する手段としてクレジットカードがもっとも一般的であること、日常的な消費にあたりごく少額の支払いであってもクレジットカードによる支払ができるなどの理由により、クレジットカードの保持および使用が多い。
=== 米国 ===
* 19世紀後半 - フランク(Frank)という紙製の通信、荷物の料金支払いなどのためのペイメントカードが発行され普及した。
* 1910年代初め - 石油会社、タクシー会社などにより、紙製のクレジットカードが発行された。Credit Cardという名称も使用された。ただし機能的にはクレジットカードであっても、クレジットカードとは呼ばれていないものも多かった。
* 20世紀前半から、金属製のクレジットカード(チャーガ・プレート)が流通業界を中心に多数発行された。並行して紙製、セルロイド製などもあった。
* 1950年 - 最初のクレジットカード専業会社[[ダイナースクラブ]]が米国で設立。当初は手帳のようなチケット型であった。設立動機は、創業者が「夕食のときに財布を忘れても、惨めな思いをしなくていい支払い方式があればいいのに…」という経験から誕生したとされる<ref name="wagakure"/>が、これは当時の企業の宣伝であり、日本では「これが最初のクレジットカード」という事実に基づかない「[[都市伝説]]」として広まっている。クレジットカードは、前述の通りダイナースカードの半世紀近く前から、さまざまな形態のものが多数発行されていた。
* 1951年 - フランクリン・ナショナル銀行がクレジットカードを発行。
* 1958年 - [[アメリカン・エキスプレス]](Amex)がクレジットカード業務を開始、バンク・オブ・アメリカカード(VISAの前身)発行開始。
* 1966年 - インターバンク・カード・アソシエーション(ICA)設立。ICA加盟銀行が発行するカードがマスターチャージカード(マスターカードの前身)。
* 1985年 - [[ディスカバーカード]]設立。
=== 日本 ===
[[ファイル:Takashimaya_CC1960.jpg|thumb|1960年に髙島屋が導入したクレジットカード(見本)]]
* 1960年
**[[富士銀行]](現・[[みずほ銀行]])と日本交通公社(現・[[JTB|ジェイティービー]])が日本ダイナースクラブ(シティコープダイナースクラブジャパンを経てシティカードジャパンに[[分割]])を設立(発行は翌年の1961年春、JCBとほぼ同時期に開始)。
** [[丸井]]が[[割賦販売]]用のツールとして「クレジット・カード」を発行。ただし、その名称と形態をアメリカのクレジットカードに模しているものの、割賦販売の支払いが終了したあとで、次回の買い物のために1回限り使用できる紙の「完済証明書」のようなものであり、クレジットカードとは機能が違うものだった。これは次回の買い物の時点で回収された。その後、丸井は買い物の機能があるプラスチック製の「クレジットプレート」を発行したが、きわめて限定的な発行になり普及しなかった。
** その後、[[1970年代]]に入って、丸井はクレジットカード業務を本格的に開始し、そのカードには「'''赤いカード'''」の愛称がつく。2006年春から「'''[[エポスカード]]'''」に変更。
**[[三和銀行]](現・[[三菱UFJ銀行]])と[[髙島屋]]が国内初の百貨店と都市銀行によるクレジット業務提携を始める。
* 1961年 - 三和銀行と日本信販(現・[[三菱UFJニコス]]、以下同)が日本クレジットビューロー(現・[[ジェーシービー]](JCB))を設立してJCBカードの発行を開始。
* 1961年 - 日本[[ダイナースクラブ]]が、ほぼJCBと同時期にカードを発行。JCBとダイナースクラブが日本での本格的なクレジットカードの発行の始まり。その後は、JCB(および姉妹会社のOCB)のシェアが圧倒的で、JCBグループによる全国展開が進んだ。これらが事実上、日本での最初の汎用型クレジットカードの標準となり、日本のクレジットカードの標準的な機能はJCBによって整備された。
* 1966年 - 日本信販(現・三菱UFJニコス)がクレジットカードを発行。
* 1967年 - [[三菱銀行]](現・三菱UFJ銀行)が中心にダイヤモンドクレジット(現・三菱UFJニコス)、[[住友銀行]](現・[[三井住友銀行]])が中心に住友クレジットサービス(現・[[三井住友カード]])を設立。JCBがアメックスと提携し国際カード発行。
* 1968年 - [[東海銀行]](現・三菱UFJ銀行)が中心にミリオンカード・サービス(現・三菱UFJニコス)設立。住友クレジットサービス(現・三井住友カード)がVISAの国際カード発行。
* 1969年 - [[第一銀行]]、富士銀行(以上2行、現・[[みずほ銀行]])、[[三井銀行]]、[[太陽銀行]]、[[神戸銀行]](以上3行、現・三井住友銀行)、[[大和銀行]](現・[[りそな銀行]])、[[埼玉銀行]](現・[[埼玉りそな銀行]])などが、[[ユーシーカード|ユニオンクレジット]](現・[[クレディセゾン]]および[[ユーシーカード]])設立。[[オリエントコーポレーション]]、[[セントラルファイナンス]](現・[[SMBCファイナンスサービス]])、国内信販(現・Jトラストカード)がクレジットカードを発行。
* 1970年 - [[ジャックス (信販)|ジャックス]]がクレジットカードを発行。その後、銀行系・信販系クレジットカードの発行が続く。
* 1980年 - アメリカンエキスプレス(Amex)が日本で初めてのゴールドカードを発行。
* 1981年 - JCBが独自の世界展開を開始。
* 1987年 - 日本信販(現・三菱UFJニコス)がVISAカードを発行しMasterCardとのデュアル発行を果たす。この後、ほかの信販系・流通系カードが同様にVISA、MasterCardのデュアル発行をする。
* 1989年 - オムニカード協会設立。ビザ・ジャパン協会(現・[[VJA]])がMasterCardとのデュアル発行を果たす。
=== 英国 ===
* 1961年 - イギリスのダイナースクラブ設立。
* 1966年 - [[バークレイズ銀行]]がクレジットカードを発行。
== アメリカにおける事例 ==
=== 2005年のカード情報流出騒ぎ ===
VisaやMasterCardのメンバー銀行(アクワイアラー)がデータ処理を委託([[アウトソーシング]])していた[[アリゾナ州]]のデータ処理会社「カードシステムズ」から約4,000万件のカード情報が外部に流出した問題が2005年6月18日に発覚、両社と提携している日本のカードでも流出データが発生し、流出情報をもとにしたカードの不正使用も発生し、被害が出ている。影響はVisaやMasterCardに限らず、Amex、Diners、日本のJCBも情報流出、不正使用があった可能性があると発表され、これらのカード被害が世界中に広まっていることが分かった。
この問題の原因は、本来ならデータ処理会社が保存してはいけないデータを保存していたことにあるとされ、そのデータを[[クラッキング (コンピュータ)|クラッキング]]されて流出したことが分かっている。
利用者側からの方策としては毎月の利用明細書をきちんと照合し、万一不正利用があった場合にはカード会社に申し出ることが必要となる(不正利用と認められれば代金は請求されない)。紛失の場合と同様に新たな番号のカードへ切り替え再発行の依頼も検討する。
=== 2007年のサブプライム問題の影響 ===
2007年の[[サブプライム住宅ローン危機]]は、クレジットカード業界にも影響を与えた。[[サブプライム]]問題以降、カードの未支払いは増加し、貸し倒れは増加している<ref name="20080218nikkeibo">「不気味に迫るクレジットカード危機 個人消費を支えてきたカード業界にサブプライムが波及」『日経ビジネスオンライン』2008年2月18日付配信</ref>。
貸し倒れ増加の背景には、個人の返済能力の低下およびカード利用額の増大が指摘されている<ref name="20080218nikkeibo"/>。
; 個人の返済能力の低下
: サブプライム問題によって住宅の資産価値が失われたことは、
:* 住宅ローンなどの個人の抱える債務の増加
:* 住宅を担保にお金を借りて、カードの支払いに充てる方法がとれなくなった
: といった事態を招き、個人の返済能力は低下した<ref name="20080218nikkeibo"/>。
; カード利用額の増大
: [[2000年代]]の[[住宅バブル]]により、個人が消費活動に対して寛容になった結果、カードの限度額いっぱいまで借金をすることさえも普通に行われるようになった。2000年代前半における中流家庭の収入に対する債務の割合は、平均141%にまで上昇した。加えて、サブプライム問題以降は、日用品の買い物などの当座の資金繰りのために、クレジットカードを使用する人が増えているという<ref name="20080218nikkeibo"/>。
貸し手の企業には、貸し倒れの拡大を防ぐディフェンシブな対応と、防衛的な対応が増えたためにカードが作れなくなった人へ高利でお金を貸し付けるというアグレッシブな対応が出てきている<ref name="20080218nikkeibo"/>。
; 貸し倒れの拡大阻止
: 銀行などの既存のカード業者は、貸し付け金利の引き上げ、貸付限度額の引き下げ、新規申込者の審査の厳格化の3つによって貸出額を制限し、これ以上の貸し倒れの拡大を防ごうとした。
; カードを作れなくなった人への積極的な貸し付け
: カードを作れなくなり、日々の生活における資金繰りが悪化した人のために、高利で貸し付ける企業が増えている。給与を担保に高金利(例:500%)で貸し付ける[[ペイデイローン]]業者は、急速に業績を伸ばしている。銀行も20%前後の金利で預金の範囲内に限り貸し付けを行うケースもある。また、[[質屋]]も繁盛しているという。
== カード犯罪防止 ==
クレジットカードは、使用の際には[[信用照会]]が行われる。また、クレジットカードが保持者に届いた場合、すぐに裏面の署名欄に[[署名]]しなければ、紛失・盗難時の不正利用でクレジットカードが発見された場合、カード発行会社から保証はまったくされず、カード保持者が全額支払うことになる。このため、クレジットカードの署名欄は、カード犯罪防止に対して重要な意味を持つ。
また、クレジットカード加盟店において詐欺、もしくは不正なカードではないか考えるに足るクレジットカードが行使されたとき、もしくはそう考えるに足るカード持参者が現れたときに、持参者になるべく気づかれないようにカード会社に通報できるようカード会社が定めた[[符牒]]が存在する。
この符牒で通報を受けたカード会社は、加盟店の保護を最優先に処理を行い、専門のオペレーターが対応を行う。その際、なるべく持参者に気づかれないよう状況の把握(「はい/いいえ」形式の質問)を行い、また必要な場合は、オペレーター経由で警察への通報などを行う。また、カード会社が直接カード持参者またはカード所有者に電話で質問する場合もある。
なお、加盟店から警察に通報することはまれであり、不審者を店舗が拘束することはない。そのカードを使う以外の決済手段を求めるのが通常である。ただし、その時点で情報は全国・全世界の加盟店に通知される。
犯罪の実例として、2006年7月、JCBの子会社であるJCS(日本カウンターサポート社)の派遣社員がクレジット機能付き郵貯カードの受付の際、顧客から暗証番号を聞き出し、現金を引き出し逮捕された<ref>{{cite web|url=http://www.jcbcorporate.com/news/seq_1868.html|title=業務委託先スタッフによる不正行為について|publisher=JCB|date=2006-07-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160315023711/http://www.jcbcorporate.com/news/seq_1868.html|archivedate=2016-03-15|accessdate=2017-09-26}}</ref>。
クレジットカード不正使用対策のため、政府は2020年までにICカードとICカードに対応した決済端末を普及させる予定。
最近ではセゾンカードインターナショナルや三井住友カード(NL)をはじめとして、カードの券面にカード番号やセキュリティコードが書かれていないナンバーレスのカードが普及してきている<ref name=":0" />。
== その他 ==
会員(カードホルダー)になると、決済(先延ばし払い)以外にも特典がつくことが多い。たとえば、利用実績に応じたポイントサービス、国内・海外旅行傷害[[保険]]、[[切符|チケット]]の優待販売などである。また、海外渡航の際は[[身分証明書]]のひとつとして支払能力の保証や信用保証が得られる場合もある(現金払いの場合は支払能力の証明に[[デポジット]] - 保証金の前納を要求する[[ホテル]]が一部にある)。カード会社によっては、累積ポイントの無期限化や交換景品、付帯サービスを拡充することによって会員サービスの向上を図っている。決済サービスそのものだけでは他社との差別化ができないゆえの施策だが、その原資は会員から徴収する年会費や加盟店からの決済手数料によって賄われているに過ぎない。
短期に高利回りの[[投資|運用]]が可能な場合には、クレジットカードで支払った代金の決済日までその資金を運用し、運用益を稼ぐこともできるため、日本でも[[バブル崩壊]]期までは[[財テク]]のひとつだった。日本の業者では少ないが、欧米では[[外国為替証拠金取引|FX]]や[[差金決済取引|CFD]]などにおいても、クレジットカードによる入金が可能な業者がある。
盗難や紛失の場合は、発行のクレジットカード会社へ連絡すれば利用が停止され、被害の発生を最小限に抑えることができる。また、カード会社によってはカード盗難保険などをあらかじめ付帯しているカードも多い。これは被害者の利益を考えてのサービスではあるが、過去にクレジットカードやローンカードの第三者による不正使用が、特定の条件下ではカード所持者の責任ではないとの判決が出た<ref>[http://www5d.biglobe.ne.jp/~Jusl/myHanrei/Kasikin/SKhanrei5.html 消費者金融等に関する判例集(カードの不正利用と責任)]</ref>ことや、[[偽造カード等及び盗難カード等を用いて行われる不正な機械式預貯金払戻し等からの預貯金者の保護等に関する法律|預金者保護法]]が2006年に施行されたことなどの周辺環境要因により、カード会社側が未然に損失の限定を狙ってのことである。
日本では1990年代、[[インターネットサービスプロバイダ]]へのアカウント使用料の支払のために欠かせないものだった。これは当時、口座振替や払込書払いなどの決済手段が充実していなかったためである。[[2010年代]]においても、[[MVNO|いわゆる「格安スマホ」]]やオンライン[[DVD]]レンタルサービスなどの利用料金支払いにはクレジットカードが必要な場合がほとんどで([[デビットカード]]は不可)、口座振替やその他の支払方法には対応していないことが多い。また、[[レンタカー]]会社では特定車種(高級車・スポーツカーなど)のレンタルをクレジットカード決済限定にしていることもある。
国によっては、使用できるクレジットカードが制限されていたり、使用できない国がある。[[キューバ]]の場合、使用できるクレジットカードは、アメリカ系金融機関以外の金融機関(日本、カナダ、ヨーロッパ、中南米などの金融機関)で決済され、かつアメリカ系企業以外と提携しているVisaとMasterCardのみで、それ以外のクレジットカード(アメリカ系金融機関で決済されるVisaとMasterCardやアメリカ系企業と提携しているVisaとMasterCardも含む)は使用できない。そのため、キューバを訪問した観光客が現金をわずかしか所持せず、クレジットカードに依存したがゆえに、現地で困窮するケースもある<ref>[https://www.cu.emb-japan.go.jp/jp/ryoojikanren.html キューバ滞在における要注意事項] [[在キューバ日本国大使館]]</ref><ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_245.html#3 安全対策基礎データ キューバ]外務省 2017年12月22日</ref>。[[イラン]]では一切クレジットカードは使用できない<ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_046.html#3 安全対策基礎データ イラン]外務省 2017年7月24日</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
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* [[提携カード]]
* [[電子マネー]]
* [[電子決済]]
* [[消費者信用]]
** [[販売信用]]
** [[信用情報]]
* [[インプリンタ]] - [[信用照会端末]]
* [[クレジットカードの番号]]
** [[クレジットマスター]]
* [[スキミング]]
* [[フィッシング (詐欺)|フィッシング]]
* [[クレジットカード現金化]]
* [[掛取引]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:くれしつとかと}}
[[Category:クレジットカード|*]]
[[Category:決済手段]]
[[Category:アメリカ合衆国の発明]]
[[Category:ICカード]]
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13,255 |
2050年
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2050年(2050 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。この項目では、国際的な視点に基づいた2050年について記載する。
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2050年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。この項目では、国際的な視点に基づいた2050年について記載する。
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{{年代ナビ|2050}}
{{year-definition|2050}}この項目では、国際的な視点に基づいた2050年について記載する。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[庚午]](かのえ うま)
* [[日本]](月日は一致)
** [[令和]]32年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2710年
* [[大韓民国]](月日は一致)
** [[檀君紀元|檀紀]]4383年
* [[中華民国]](月日は一致)
** [[民国紀元|中華民国]]139年
* [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致)
** [[主体暦|主体]]139年
* [[仏滅紀元]]:2592年10月9日 - 2593年閏9月3日
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1472年4月7日 - 1473年4月16日
* [[ユダヤ暦]]:5810年4月7日 - 5811年4月16日
* {{仮リンク|アッシリア暦|en|Assyrian calendar}}:6800年
* {{仮リンク|ベルベル暦|en|Berber calendar}}:'''3000年'''
* [[UNIX時間|Unix Time]]:2524608000 - 2556143999
* [[修正ユリウス日]](MJD):69807 - 70171
* [[リリウス日]](LD):170648 - 171012
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=2050}}
== できごと ==
== 予定 ==
* [[第35回主要国首脳会議|ラクイラ・サミット]]で「先進国は2050年までに[[温室効果ガス]]80%減」と合意している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20211203-UC4OBOPJKVIVNIKEMXYT6MMAJA/|title=脱炭素へ「本気で産業構造転換を」 末吉WWFジャパン会長|publisher=産経ニュース|date=2021-12-03|accessdate=2021-12-03}}</ref>。
* [[欧州連合]] (EU) はこの年までに[[温室効果ガス]]排出量の実質ゼロ([[脱炭素社会]])を目指している。また、日本も同目標を掲げることを[[菅義偉]]前首相が[[2020年]]10月の[[所信表明演説]]で宣言した<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASNBP7R70NBPULFA038.html 温室効果ガス、2050年に実質ゼロ 首相が表明へ調整](朝日新聞デジタル 2020年10月21日)</ref><ref>[https://mainichi.jp/articles/20201026/k00/00m/040/255000c 温室効果ガス排出ゼロ宣言 菅首相が達成時期を初めて明示した舞台裏](毎日新聞 2020年10月26日)</ref>。
* [[首都高速道路]]で9月23日に料金徴収終了予定。
* [[ベトナム]][[ホーチミン市|ホーチミン]]にて[[ロンタイン国際空港]]の最終期を予定<ref>http://www.jica.go.jp/environment/advice/pdf/giji/vie03_SCO_shiryo.pdf</ref>。
* ロシアによる[[バイコヌール]]の租借が終了する。
== 予測 ==
* [[国際連合大学]]「[[環境]]と[[人間]]の安全保障研究所」によると、世界的に[[洪水]]の被害が深刻化し、2050年には[[2004年]]の2倍に当たる約20億人が[[大洪水時代|大洪水]]の危険にさらされる。
* [[国立環境研究所]]等のチームは、[[南極]]上空で[[オゾン層]]の回復が進み、このころには[[オゾンホール]]ができなくなると[[予測]]している。
* [[少子高齢化]]により[[東南アジア諸国連合|ASEAN]]諸国にも[[社会の高齢化|高齢社会]]が到来する。
* [[国際連合|国連]]の[[世界人口]]推計2019年版(中位推計)では、[[地球]]の総[[人口]]が97億人に達する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.unic.or.jp/news_press/features_backgrounders/33798/ |title=世界人口推計2019年版:要旨 10の主要な調査結果(日本語訳) |date=2019/07/02 |accessdate=2020/03/03 |website=[[国際連合]]広報センター}}</ref>。その中でも世界最多を維持する[[インド]]の人口は16億6800万人となる<ref>{{Cite web|和書|title=インドの人口 来年世界最多に 中国を上回る推計を国連が発表 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220712/k10013712811000.html |website=NHKニュース |date=2022-07-12 |access-date=2022-07-12 |last=日本放送協会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220713173556/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220712/k10013712811000.html |archivedate=2022-07-13}}</ref>。
* [[公式]][[ロボカップ]]開催([[ロボット]]だけの[[サッカー]])。
* 対策を講じなかった場合、[[漂流・漂着ごみ|海洋のプラスチックごみ]]が魚の総量を超えるという試算がある<ref>{{Cite web|和書|title=海のゴミ1.5億トン 増加止まらず |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO29256100R10C18A4TCP000/ |website=日本経済新聞 |date=2018-04-12 |access-date=2022-07-12 |language=ja}}</ref>。
== イベント ==
* 第29回[[FIFAワールドカップ]]が開催予定。[[日本サッカー協会]]はこの大会を日本で開催し、さらに日本代表が優勝する事を目標としている(JFA2005年宣言)。一方、ロボカップの目標として、この年に発達した[[人工知能]]を持つ人型ロボットチームがワールドカップ優勝チームに勝つ事が提示されている。
== 周年 ==
* [[1月2日]] - [[俳優]]の[[エミール・ヤニングス]]死去から100周年。
* [[2月11日]] - [[数学者]]・[[哲学者]]の[[ルネ・デカルト]]死去から400周年。
* [[4月19日]] - [[アメリカ独立宣言|アメリカ合衆国独立]]から10万日。
* [[6月25日]] - [[朝鮮戦争]]開戦から100周年。
* [[12月3日]] - [[高野長英]]死去から200周年。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年2050|date=2011年7月}}
* [[6月20日]] - 太陽系近傍の[[中性子星]]「竜の卵」を探査していた宇宙船「ドラゴン・スレイヤー号」が、竜の卵に棲息する[[宇宙人|知的生命体]]「チーラ」と10秒間に渡って接触する(小説『{{仮リンク|竜の卵|en|Dragon's Egg}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ロバート・L・フォワード|authorlink=ロバート・L・フォワード |title = 竜の卵 |publisher = [[早川書房]] |year = 1982 |pages = 261-369,395-397 |isbn = 978-4-15-010468-9}}</ref>。
* [[8月25日]] - マシュラ誕生(アニメ『[[マシュランボー]]』)
* 11月 - [[シドニー]]在住のプログラマー、マリア・デルカが、保険外交員ポール・ダラムから、単純化された疑似物理法則に従うコンピュータ・モデル「オートヴァース」内で理論上存在可能な、数多くの複雑な生物種に確実に進化する単純な有機体と、進化を為しうる原始環境のモデルの設計を依頼される。(小説『{{仮リンク|順列都市|en|Permutation City}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= グレッグ・イーガン|authorlink=グレッグ・イーガン |title = 順列都市〔上〕 |publisher = 早川書房 |year = 1999 |pages = 37,38,47,48,66,196-209,281 |isbn = 978-4-15-011289-9}}</ref>
* 日付不明 - [[イングソック]]体制下のオセアニア国において、この年までに[[ニュースピーク]]以外の言語によって表現されたあらゆる[[文献]]が完全に廃止される予定とされている(小説『[[1984年 (小説)|1984年]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ジョージ・オーウェル|authorlink=ジョージ・オーウェル |title = 一九八四年[新訳版] |publisher = 早川書房 |year = 2009 |pages = 464-481 |isbn = 978-4-15-010468-9}}</ref>。
* 日付不明 - ターゴ博士、未来人に「1個の100円[[硬貨]]のみを利用して、100個以上の[[数字]]を10秒で写し取れ」という問題を出題する(ゲーム『[[頭の体操]]第6集』第50問)。
* アニメ『[[宇宙大帝ゴッドシグマ]]』の舞台となる年。
* 日付不明 - 異星生命体「インビット」が[[地球]]への攻撃を開始し、地球を占領。人類は[[火星]]コロニーに退避し、地球奪還のための軍備を固め始める(アニメ『[[機甲創世記モスピーダ]]』)<ref>[http://sun-tv.co.jp/anime_list/mospeada 機甲創世記モスピーダ] - [[サンテレビ]]公式サイト、2016年2月11日閲覧。</ref>。
<!--* 日付不明 - 地球の人口が90億人を突破。宇宙への移民が開始される(アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』)。正しくは2045年。-->
* 日付不明 - 太陽中心核の核融合反応に異常が発生。これによる[[太陽フレア]]の影響によって世界各地で火山噴火や竜巻、両極の氷の融解による冠水などの異常気象が起こり、夏に「ガンマ級異常爆発」が生じるまでの間に人類の50パーセントが死滅する(映画『[[クライシス2050]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author1=ジョー・ギャノン|authorlink1=ジョー・ギャノン|author2=テッド・サラフィアン|authorlink2=テッド・サラフィアン |title = クライシス2050 |publisher = [[集英社]] |year = 1990 |pages = 5-8 |isbn = 978-4-08-760186-2}}</ref>。
*日付不明 - 人類の天敵たる生物「アラガミ」が大量発生。アラガミの「捕食」により世界中の大都市と人口の大半が失われる(ゲーム・アニメ『[[ゴッドイーター]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author=電撃攻略本編集部|authorlink=アスキー・メディアワークス |title = ゴッドイーター 5th ANNIVERSARY 公式設定資料集 |publisher = [[KADOKAWA]] |year = 2015 |pages = 3,362 |isbn = 978-4-04-865093-9}}</ref><ref>[http://anime.godeater.jp/keyword/ KEYWORD] - アニメ版『ゴッドイーター』公式サイト。2018年3月9日閲覧。</ref>。
* 日付不明 - 北アメリカ大合衆国の[[恒星船]]「メイフラワー二世」が月軌道上で竣工。[[2040年]]に自動探査船「ク<small>ワ</small>ン・イン」が発見した[[ケンタウルス座アルファ星|アルファ・ケンタウリ]]系の居住可能惑星「ケイロン」へと発進する。(小説『[[断絶への航海]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ジェイムズ・P・ホーガン|authorlink=ジェイムズ・P・ホーガン |title = 断絶への航海 |publisher = 早川書房 |year = 2005 |pages = 37-41,142 |isbn = 978-4-15-011504-3}}</ref>。
* 日付不明 - ホビー用小型ロボット「LBX」が、究極のホビーとして空前のブームとなる(ゲーム・アニメ『[[ダンボール戦機]]』)。
* 日付不明 - [[木星型惑星|巨大ガス惑星]]を故郷とするインベーダーが、彼らに類似した知性を持つ木星生物に関する事柄のために太陽系に来訪し、人類の宇宙船「ウ・タント号」などと接触。その後、インベーダーは彼らが知的生物と認める[[クジラ目|クジラ類とイルカ類]]のためとして、地球上のあらゆる人工物を破壊し、その影響で[[2052年]]までに100億人が死亡する(小説『[[ジョン・ヴァーリイ#経歴|八世界シリーズ]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ジョン・ヴァーリイ|authorlink=ジョン・ヴァーリイ |title = へびつかい座ホットライン |publisher = 早川書房 |year = 1986 |pages = 84-87,345 |isbn = 978-4-15-010647-8}}</ref>。
* 日付不明 - 月面で突如起こった大地震によって生じた裂け目から[[月]]に空気と重力が生まれ、やがて月に人々が移民し、町が形成されていく(アニメ『[[魔動王グランゾート]]』)。
* 日付不明 - 昔さながらの江戸が構築されてその中で事件が起きる(小説『[[金春屋ゴメス]]』)<ref>[[西條奈加]]のデビュー作</ref>。
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
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13,256 |
1731年
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1731年(1731 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
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1731年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[辛亥]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[享保]]16年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2391年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[雍正]]9年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]7年
** [[檀君紀元|檀紀]]4064年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[永慶]]3年
* [[仏滅紀元]] : 2273年 - 2274年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1143年 - 1144年
* [[ユダヤ暦]] : 5491年 - 5492年
* [[ユリウス暦]] : 1730年12月21日 - 1731年12月20日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1731}}
== できごと ==
* [[かに星雲]]が[[ジョン・ベヴィス]]によって発見される{{要出典|date=2021-02}}。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1731年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月22日]] - [[マーサ・ワシントン]]、[[アメリカ合衆国のファーストレディ]]。初代[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョージ・ワシントン]]の妻(+ [[1802年]])
* [[10月10日]] - [[ヘンリー・キャヴェンディッシュ]]、[[化学者]]・[[物理学者]](+ [[1810年]])
* [[11月27日]] - [[ガエターノ・プニャーニ]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](+ [[1798年]])
* [[12月12日]] - [[エラズマス・ダーウィン]]、[[医師]]・[[詩人]]・自然哲学者(+ [[1802年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1731年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月22日]] - [[フレデリクス・ルイシ]]、[[植物学者]]・[[解剖学者]](* [[1638年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1731}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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13,257 |
1765年
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1765年(1765 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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1765年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[乙酉]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[明和]]2年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2425年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[乾隆]]30年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]41年
** [[檀君紀元|檀紀]]4098年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]26年
* [[仏滅紀元]] : 2307年 - 2308年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1178年 - 1179年
* [[ユダヤ暦]] : 5525年 - 5526年
* [[ユリウス暦]] : 1764年12月21日 - 1765年12月20日
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1765}}
== できごと ==
* [[7月13日]] - ロッキンガム侯[[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|チャールズ・ワトソン=ウェントワース]]が[[イギリスの首相|イギリス首相]]に就任。
* [[11月23日]](明和2年[[10月11日 (旧暦)|10月11日]]) - [[蝦夷国]][[松前藩]]、第8代藩主[[松前道広]]が襲封
* [[イギリス]]にてアメリカ植民地に適用する[[1765年印紙法]]を制定。
* イギリス、[[ムガル帝国]]皇帝より徴税行政権獲得。
* [[フランス]]王[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]、[[イエズス会]]圧迫。
* [[神聖ローマ皇帝]][[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]即位(-[[1790年]])。
* [[清緬戦争]]( - [[1769年]])。
* [[ベルリン銀行]]設立。
* [[日本]]にて[[錦絵]]が誕生。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1765年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月7日]] - [[ニセフォール・ニエプス]]、[[発明家]]、[[写真]]技術の先駆者(+ [[1833年]])
* [[11月14日]] - [[ロバート・フルトン]]、[[技術者]]・発明家(+ [[1815年]])
* [[十返舎一九]]、江戸時代の戯作者(* [[1831年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1765年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月8日]](明和2年[[3月19日 (旧暦)|3月19日]]) - [[松前資広]]、[[蝦夷国]][[松前藩]]第7代藩主(*[[1726年]])
* [[10月21日]] - [[ジョバンニ・パオロ・パンニーニ]]、[[画家]]・[[建築家]](* [[1691年]])
* [[10月31日]] - [[カンバーランド公]][[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|ウィリアム・オーガスタス]]、[[グレートブリテン王国|イギリス]]の軍人(* [[1721年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1765}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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13,258 |
1764年
|
1764年(1764 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。
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1764年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。
|
{{年代ナビ|1764}}
{{year-definition|1764}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[甲申]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[宝暦]]14年、[[明和]]元年6月2日 -
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2424年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[乾隆]]29年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]40年
** [[檀君紀元|檀紀]]4097年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]25年
* [[仏滅紀元]] : 2306年 - 2307年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1177年 - 1178年
* [[ユダヤ暦]] : 5524年 - 5525年
* [[ユリウス暦]] : 1763年12月21日 - 1764年12月20日
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1764}}
== できごと ==
* [[6月30日]](宝暦14年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - 日本、[[改元]]して[[明和]]元年。
* [[イギリス]]議会で[[砂糖法]]が可決成立。
* [[ジェームズ・ハーグリーブス|ハーグリーヴズ]]、[[ジェニー紡績機]]発明。
* [[ドイツ]]人美術史家[[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン|ヴィンケルマン]]、『古代美術史』刊行。
* [[シク教徒]]独立。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1764年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
=== 人物 ===
* [[3月13日]] - [[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)]]、[[イギリスの首相]](+ [[1845年]])
* [[4月8日]] - [[ニコライ・レザノフ]]、[[ロシア帝国]]([[ロマノフ王朝]])時代の[[ロシア人]][[外交官]](+ [[1807年]])
* [[7月9日]] - [[アン・ラドクリフ]]、[[小説家]](+ [[1823年]])
* [[12月22日]]([[明和]]元年[[11月30日 (旧暦)|11月30日]]) - [[高橋至時]]、[[天文学者]](+ [[1804年]])
* [[藤井高尚]]、[[国学者]]・[[歌人]]・[[神官]](+ [[1840年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[4月1日]] - [[エクリプス (競走馬)|エクリプス]]、[[イギリス]]の大[[競走馬]]、[[サラブレッド]][[三大始祖]]の一頭(+ [[1789年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1764年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月15日]] - [[ポンパドゥール夫人]]、[[ルイ15世]]の公妾(* [[1721年]])
* [[9月12日]] - [[ジャン=フィリップ・ラモー]]、作曲家(* [[1683年]])
* [[10月22日]] - [[ジャン=マリー・ルクレール]]、[[作曲家]]・[[ヴァイオリニスト]](* [[1697年]])
* [[10月26日]] - [[ウィリアム・ホガース]]、[[画家]](* [[1697年]])
* [[11月1日]]([[明和]]元年[[10月8日 (旧暦)|10月8日]]) - [[徳川宗春]]<ref>『御系譜』『系譜』(共に名古屋叢書三編)第一巻所収</ref>、[[大名]]、[[尾張藩]]第7代藩主(* [[1696年]])
* [[11月20日]] - [[クリスティアン・ゴールドバッハ]]、数学者(* [[1690年]])
== フィクションのできごと ==
* [[4月15日]] - 10代目ドクターがポンパドゥール夫人からの遺書を受け取る。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』){{要出典|date=2021-03}}
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1764}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}}
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1764%E5%B9%B4
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1755年
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1755年(1755 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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1755年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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{{年代ナビ|1755}}
{{year-definition|1755}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[乙亥]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[宝暦]]5年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2415年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[乾隆]]20年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]31年
** [[檀君紀元|檀紀]]4088年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]16年
* [[仏滅紀元]] : 2297年 - 2298年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1168年 - 1169年
* [[ユダヤ暦]] : 5515年 - 5516年
* [[ユリウス暦]] : 1754年12月21日 - 1755年12月20日
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1755}}
== できごと ==
* [[2月11日]]([[宝暦]]5年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[貞享暦]]から[[宝暦暦]]に改暦。[[寛政]]9年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]([[1798年]][[2月16日]])まで43年間使用。
* [[11月1日]] - [[リスボン地震 (1755年)|リスボン大地震]]
* [[奥羽]]地方で飢饉([[宝暦の飢饉]])。
* [[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]、『[[人間不平等起源論]]』を著す。
* [[フレンチ・インディアン戦争]]勃発(-[[1763年]])
* [[モスクワ大学]]創立。
* [[清]]が[[ジュンガル|ジュンガル・ホンタイジ国]]を滅ぼす。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1755年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月7日]] - [[スティーヴン・グルームブリッジ]]、[[天文学者]](+ [[1832年]])
* [[1月11日]] - [[アレクサンダー・ハミルトン]]、[[弁護士]]・[[ジャーナリスト]]・[[政治家]](+ [[1804年]])
* [[4月1日]] - [[ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァラン]]、政治家・法律家・「[[美味礼讃]]」著者(+ [[1826年]])
* [[4月16日]] - [[エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン]]、[[画家]](+ [[1842年]])
* [[5月12日]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ]]、[[作曲家]](+ [[1824年]])
* [[6月5日]]([[宝暦]]5年[[4月26日 (旧暦)|4月26日]])- [[細川斉茲]]、第8代[[熊本藩|熊本藩主]](+ [[1835年]])
* [[6月25日]] - [[ナターリア・アレクセーエヴナ]]、[[ロシア帝国|ロシア皇太子]][[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル]]の妃(+ [[1776年]])
* [[6月30日]] - [[ポール・バラス]]、[[フランス革命]]期の政治家(+ [[1829年]])
* [[7月5日]] - [[サラ・シドンズ]]、[[俳優|女優]](+ [[1831年]])
* [[8月27日]](宝暦5年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]) - [[堀田正敦]]、[[江戸幕府]][[若年寄]](+ [[1832年]])
* [[8月29日]] - [[ヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ]]、[[ポーランド]]の軍人(+ [[1818年]])
* [[9月4日]] - [[ハンス・アクセル・フォン・フェルセン]]、[[スウェーデン]][[貴族]](+ [[1810年]])
* [[9月14日]] - [[ウィリアム・ブラッドフォード (1755-1795)|ウィリアム・ブラッドフォード]]、第2代[[アメリカ合衆国司法長官]](+ [[1795年]])
* [[9月24日]] - [[ジョン・マーシャル (政治家)|ジョン・マーシャル]]、第4代[[アメリカ合衆国国務長官]](+ [[1835年]])
* [[10月25日]] - [[フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル]]、[[ナポレオン戦争]]期の[[フランス軍]][[元帥]](+ [[1820年]])
* [[11月2日]] - [[マリー・アントワネット]]、[[フランス王国|フランス王]][[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の妃(+ [[1793年]])
* [[11月12日]] - [[ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]の[[参謀本部|参謀総長]](+ [[1813年]])
* [[11月17日]] - [[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]、フランス王(+ [[1824年]])
* [[12月27日]] - [[アントン (ザクセン王)|アントン]]、[[ザクセン王国|ザクセン王]](+ [[1836年]])
* 月日不詳 - [[宇田川玄随]]、[[蘭学|蘭学者]](+ [[1798年]])
* 月日不詳 - [[片岡仁左衛門 (7代目)]]、[[歌舞伎]]役者(+ [[1837年]])
* 月日不詳 - [[鶴屋南北]]、歌舞伎[[狂言]]作者(+ [[1829年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1755年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月7日]]([[宝暦]]4年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]])- [[鍋島宗茂]]、第5代[[佐賀藩|佐賀藩主]](* [[1687年]])
* [[1月11日]] - [[ジョゼフ=ニコラ=パンクラス・ロワイエ]]、[[作曲家]](* [[1705年]]頃)
* [[2月10日]] - [[シャルル・ド・モンテスキュー]]<ref>{{Kotobank|モンテスキュー}}</ref>、[[哲学|哲学者]]・[[政治哲学|政治思想家]](* [[1689年]])
* [[2月16日]](宝暦5年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]])- [[雨森芳洲]]、[[儒学者]](* [[1668年]])
* [[7月4日]](宝暦5年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]])- [[平田靱負]]、[[薩摩藩]][[家老]](* [[1704年]])
* [[7月13日]] - [[エドワード・ブラドック]]、[[イギリス軍]]の将軍(* [[1695年]]?)
* [[7月24日]](宝暦5年[[6月16日 (旧暦)|6月16日]])- [[島津重年]]、第7代薩摩藩主(* [[1729年]])
* [[8月13日]] - [[フランチェスコ・ドゥランテ]]、作曲家(* [[1684年]])
* [[10月28日]] - [[ジョゼフ・ボダン・ド・ボワモルティエ]]、作曲家(* [[1689年]])
* [[11月25日]] - [[ヨハン・ゲオルク・ピゼンデル]]、作曲家(* [[1687年]])
* [[12月1日]] - [[モーリス・グリーン (作曲家)|モーリス・グリーン]]、作曲家(* [[1696年]])
* [[12月27日]](宝暦5年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[新興蒙所]]、[[書道|書家]]・[[篆刻|篆刻家]](* [[1687年]])
* 月日不詳 - [[張廷玉]]、[[清]]の[[軍機大臣]](* [[1672年]])
== フィクションの出来事 ==
=== 誕生 ===
* [[12月25日]] - [[オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ]] - [[池田理代子]]の漫画『[[ベルサイユのばら]]』の3人の主人公の一人。フランス、ジャルジェ家の末子・六女として誕生。
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1755}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}}
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[[Category:1755年|*]]
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1753年
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1753年(1753 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
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1753年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
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{{年代ナビ|1753}}
{{year-definition|1753}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[癸酉]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[宝暦]]3年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2413年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[乾隆]]18年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]29年
** [[檀君紀元|檀紀]]4086年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]14年
* [[仏滅紀元]] : 2295年 - 2296年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1166年 - 1167年
* [[ユダヤ暦]] : 5513年 - 5514年
* [[ユリウス暦]] : 1752年12月21日 - 1753年12月20日
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1753}}
== できごと ==
* [[3月1日]] - [[スウェーデン]]で[[グレゴリオ暦]]が導入{{要出典|date=2021-03}}
* [[9月13日]] - [[宇都宮藩]]で[[籾摺騒動]]が起こる
=== 日付不詳 ===
* [[大英博物館]]創立
* [[ホース・ガーズ]](近衛騎兵連隊司令部)完成
* [[ベンジャミン・フランクリン]]が[[避雷針]]を発明([[1752年]]とする説もある)
== 誕生 ==
{{節スタブ}}
{{see also|Category:1753年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月12日]] - [[フランソワ=ポール・ブリュイ]]、軍人(+ [[1798年]])
* [[3月8日]] - [[ウィリアム・ロスコー]]、作家(+ [[1831年]])
* [[3月9日]] - [[ジャン=バティスト・クレベール]]、軍人(+ [[1800年]])
* [[3月13日]] - [[ルイーズ・マリー・ド・ブルボン=パンティエーヴル]]、オルレアン公妃(+ [[1821年]])
* [[3月26日]] - [[ベンジャミン・トンプソン]]、科学者(+ [[1814年]])
* [[3月27日]] - [[アンドリュー・ベル]]、[[宣教師]]・[[教育学者]](+ [[1832年]])
* [[5月8日]] - [[ミゲル・イダルゴ]]、[[メキシコ独立革命|メキシコ独立運動]]の指導者・[[神父]](+ [[1811年]])
* [[5月13日]] - [[ラザール・カルノー]]、[[フランス]]の[[政治家]]・[[数学]]者(+ [[1823年]])
* [[12月3日]] - [[サミュエル・クロンプトン]]、[[イギリス]]の[[発明家]]・[[ミュール紡績機]]を発明(+ [[1827年]])
== 死去 ==
{{節スタブ}}
{{see also|Category:1753年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1753}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}}
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[[Category:1753年|*]]
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1746年
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1746年(1746 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
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1746年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
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{{年代ナビ|1746}}
[[ファイル:1746 Homann Heirs Map of South ^ North America - Geographicus - Americae-hmhr-1746.jpg|サムネイル|『南北アメリカ地図』{{仮リンク|ヨハン・ホーマン|en|Johann Homann|label=ホーマン継承社}}制作。]]
{{year-definition|1746}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丙寅]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[延享]]3年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2406年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[乾隆]]11年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]22年
** [[檀君紀元|檀紀]]4079年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]7年
* [[仏滅紀元]] : 2288年 - 2289年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1158年 - 1159年
* [[ユダヤ暦]] : 5506年 - 5507年
* [[ユリウス暦]] : 1745年12月21日 - 1746年12月20日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1746}}
== できごと ==
[[ファイル:Surrender of The City of Madras 1746.jpg|サムネイル|『マドラス開城』{{仮リンク|ジャック・フランソワ・ジョセフ・スウェバック=デフォンテーヌ|en|Jacques François Joseph Swebach-Desfontaines|label=ジャック=フランソワ・スヴェバック}}画]]
* [[イギリス]]植民地軍、[[カナダ]]遠征。
* [[フランス軍]]、[[チェンナイ|マドラス]]占領(-[[1749年]])
* [[ジャガイモ]](馬鈴薯)から[[片栗粉]]と[[アルコール]]を精製する方法を発見した[[スウェーデン]]の[[作物栽培学|作物栽培]]学者、{{仮リンク|エヴァ・エクブラッド|en|Eva Ekeblad|label=エクブラッド伯爵夫人}}が、自身の研究結果を[[スウェーデン王立科学アカデミー]]に報告する。
* {{仮リンク|ヴィールコヴェ|ru|Вилково|label=ヴィールコヴェ}}([[オデッサ州]]、現[[ウクライナ]])が建設される。
* [[13植民地]]の一つ、[[ノースカロライナ植民地]]の総督であった{{仮リンク|ガブリエル・ジョンストン|en|Gabriel Johnston|label=ガブリエル・ジョンストン}}が、当時植民地で一番大きい街であった[[ニューバーン (ノースカロライナ州)|ニューバーン]]へと移り住む。[[1792年]]に[[ローリー (ノースカロライナ州)|ローリー]]が新しい[[州都]]として建設されるまで、ニューバーンは{{仮リンク|イーデントン (ノースカロライナ州)|en|Edenton, North Carolina|label=イーデントン}}に代わる[[ノースカロライナ州]]の州都であった。
* [[フランス]]の[[哲学者]]で[[美学|美学者]]の{{仮リンク|シャルル・バトー|en|Charles Batteux|=シャルル・バトー}}が『芸術基本原則制約論』("''Les beaux-arts réduits à un même principe''")を[[パリ]]で出版。史上初めて"les beaux arts"、「[[ファインアート|純粋芸術]]」の概念を提唱した。
* フランスの哲学者、[[ドゥニ・ディドロ]]が『{{仮リンク|哲学断想|en|Philosophical Thoughts}}』を完成。
<!--[[フランス]]の[[哲学者]]、[[ドゥニ・ディドロ]]が『哲学断想』を完成。-->
=== 1月-3月 ===
* [[1月8日]] - 若僭王[[チャールズ・エドワード・ステュアート]]が[[スターリング (スコットランド)|スターリング]]を占領。
* [[1月17日]] - フォルカーク・ミューアの戦い。イギリス政府軍が[[ジャコバイト]]に敗北。
* [[2月1日]] - 現在の[[ラージャスターン州]]に位置する[[メーワール王国]]の君主、[[ジャガト・シング2世]]が人造湖[[ピチョーラー湖]]に浮かぶジャグニワス島に建てたタージレイクパレスの落成式を行う<ref>Cheryl Bentley, ''A Guide to the Palace Hotels of India'' (Hunter Publishing, 2011)</ref>。
* [[2月19日]]
** 当時[[南ネーデルラント|オーストリア領ネーデルラント]]の一部であった[[ブリュッセル]]が、[[モーリス・ド・サックス]]将軍率いる[[フランス王国|フランス]]軍に降伏する<ref>George Edmundson, ''A History of Holland'' (Ozymandias Press, 2018)</ref>。
** [[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタス]]が[[ジャコバイト蜂起|1745年ジャコバイト蜂起]]の参加者に恩赦を与える公布を行い、地元の[[長老派教会]]に武器を差し出せば処罰を免除されるように指示を出した<ref>Geoffrey Plank, ''Rebellion and Savagery: The Jacobite Rising of 1745 and the British Empire'' (University of Pennsylvania Press, 2015) pp61-62</ref> 。
* [[3月10日]] - [[ムガル帝国]]の[[ラホール]]総督、ザカリヤ・カーン・バハドゥールが市中の[[シク教徒]]の虐殺を命ずる<ref>Harish Jain, ''The Making of Punjab'' (Unistar Books, 2003) p193 </ref>。
=== 4月-6月 ===
* [[4月16日]] - [[カロデンの戦い]]。[[グレートブリテン島|イギリス本土]]で起きた[[1745年ジャコバイト蜂起]]の最後の[[会戦]]となった<ref>{{Historic Environment Scotland|num=BTL6|desc=Battle of Culloden|access-date=June 18, 2020}}</ref>。
[[ファイル:The Battle of Culloden.jpg|サムネイル|「カロデンの戦い」。火器どころか、武装した兵員が2割にも満たなかったジャコバイト軍に対し、イギリス政府軍は火器、物資、さらにはジャコバイトに反発したハイランド兵も取り込み、準備万端で戦いに望んだ。1745年から[[1785年]]頃<ref>{{Cite web|url=https://www.rct.uk/collection/401243/an-incident-in-the-rebellion-of-1745|title=DAVID MORIER (1705?-70) - An Incident in the Rebellion of 1745|accessdate=2021-02-14|publisher=[[ロイヤル・コレクション|Royal Collection Trust]]|language=en}}</ref>。伝{{仮リンク|デイヴィッド・モーリアー|en|David Morier|label=}}筆。]]
*[[4月20日]]([[延享]]3年[[2月30日 (旧暦)|2月30日]]) - [[江戸]]で坪内火事([[火災|大火]])<ref name="Yamamoto120">[[1746年#山本 2007|山本 2007]], p120</ref>。[[宵]]、[[戌の刻]]に[[築地]]から出火し、[[中村座]]・[[市村座]]を焼く。翌日[[浅草]]へ飛び火、[[小塚原刑場|小塚原]]で鎮火。
* [[5月27日]] - [[1745年ジャコバイト蜂起]]を主導した[[サイモン・フレイザー (第11代ラヴァト卿)|ラヴァト卿]]、{{仮リンク|ウィリアム・ボイド (第4代キルマーノック伯爵)|en|William Boyd, 4th Earl of Kilmarnock|label=キルマーノック伯爵}}、{{仮リンク|アーサー・エルフィンストーン (第6代バルメリノ卿)|en|Arthur Elphinstone, 6th Lord Balmerino|label=バルメリノ卿}}の3人が、イギリス政府によって[[ロンドン塔]]に収監される。キルマーノック伯爵とバルメリノ卿はその年のうちに、ラヴァト卿は翌年[[1747年]]に斬首刑に処された<ref>Richard Davey, ''The Tower of London'' (E. P. Dutton, 1910) pp333-334</ref>。
* [[6月16日]] - [[ピアチェンツァの戦い]]([[オーストリア継承戦争]])。[[リヒテンシュタイン公]][[ヨーゼフ・ヴェンツェル]]率いる[[ハプスブルク帝国|オーストリア]]軍が、フランス=スペイン連合軍を破る。
* [[6月18日]] - [[サミュエル・ジョンソン]]が『[[英語辞典]]』の執筆を請け負う。
* [[6月29日]] - {{仮リンク|リッチのカタリナ|en|Catherine of Ricci}}([[1522年]]生まれ)が[[ベネディクトゥス14世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス14世]]によって列聖。
* [[延享]]3年[[3月 (旧暦)|3月]]ごろ - [[江戸幕府]]、[[長崎市|長崎]]でのオランダ人の不法行為を勧告([[鎖国]])<ref name="Yamamoto120"></ref>。これに伴い[[長崎貿易]]を[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]船2隻、[[清|清国]]船10隻に制限。
=== 7月-9月 ===
* [[7月3日]] - [[清政府|清]]が出した[[禁教令]]に背き、30年に渡って[[福州]]で布教活動をしていた[[ドミニコ修道会]]のスペイン人宣教師、ホアキン・ロヨ神父が捕らえられる<ref>
Anthony E. Clark, ''China's Saints: Catholic Martyrdom During the Qing (1644–1911)'' (Lexington Books, 2011) p73</ref>。彼と3人の神父は、2年後の[[1748年]][[10月28日]]に獄中で[[絞首刑]]に処され[[殉教]]。
* [[ファイル:Ferdinand VI of Spain.jpg|サムネイル|スペイン国王フェルナンド6世。]][[7月9日]] - [[スペイン国王]][[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]が、在位45年を経て崩御。長男フェルナンドが[[フェルナンド6世|フェルナンド6世(スペイン王)]]として即位。
* [[8月1日]] - {{仮リンク|ハイランド・ドレス着用禁止法|en|Dress Act of 1746}}によって、イギリス政府が[[スコットランド]]内での[[キルト (衣装)|キルト]]の着用を禁止。(なお、実際の発効日は[[1747年]]同日であった。)
* [[8月18日]](延享3年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]])
** [[加賀藩]]で[[加賀騒動]]起こる。[[大槻伝蔵]][[蟄居]]<ref name="Yamamoto120"></ref>。
** 前述の{{仮リンク|ウィリアム・ボイド (第4代キルマーノック伯爵)|en|William Boyd, 4th Earl of Kilmarnock|label=キルマーノック伯爵}}、{{仮リンク|アーサー・エルフィンストーン (第6代バルメリノ卿)|en|Arthur Elphinstone, 6th Lord Balmerino|label=バルメリノ卿}}両名の処刑が行われる。
** [[プロイセン王国]]国王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]が、[[ソドミー法]]の罰則としての死刑を停止。これに代わる罰として、「Festungarbeit」(城塞禁錮労働)と、「犯した悪徳行為の重大さと醜悪さを彼らに理解させる」ために説教師の訪問を受けることを推奨した<ref>{{cite book|title=Die Behördenorganisation und die allgemeine Staatsverwaltung Preussens im 18. Jahrhundert|publisher=Verlag von Paul Parey|pages=134–135|url=https://archive.org/details/bub_gb_b3Y5AQAAIAAJ/page/n147/mode/2up|language=de}}</ref>。 (フリードリヒ2世自身、[[同性愛者]]かつ[[不可知論者]]であった。)
* [[8月19日]] - [[ジョージ王戦争]]:[[マサチューセッツ砦包囲戦]]。フランス・インディアン連合軍700人がマサチューセッツ砦を攻撃し、これを焼き払う。11名殺害、19名捕縛{{Sfn|中村|2010|p=285}}。
* [[8月26日]] - [[オランダ東インド会社]]、[[オランダ領東インド]]総督の{{仮リンク|グスタフ・ウィレム・ファン・インホフ|en|Gustaaf Willem van Imhoff}}が、[[バタヴィア]](現在の[[ジャカルタ]])でインドネシア初の郵便会社である{{仮リンク|ポス・インドネシア|en|Pos Indonesia}}を開設。[[1961年]]、独立後のインドネシア政府によって国有化され、[[1995年]]に現在の形となった<ref>{{Cite web |title=Pos Indonesia |url=https://www.posindonesia.co.id/en/content/sejarah-pos |website=www.posindonesia.co.id |access-date=2022-10-10 |publisher={{仮リンク|ポス・インドネシア|en|Pos Indonesia}} |archive-url=https://web.archive.org/web/20221010035610/https://www.posindonesia.co.id/en/content/sejarah-pos |archive-date=2022-10-10}}</ref>。
* [[9月20日]] - [[ジャコバイト蜂起|1745年ジャコバイト蜂起]]に失敗した[[チャールズ・エドワード・ステュアート]]が、[[ハイランド]]西岸に位置するロッホアーバーのアリセグ(Arisaig)村から[[スカイ島]]へと逃亡。後年、アリセグ村の東、ナン・ウアム湖(実際には海岸である)のほとりに、この事件を記念して「王子の[[ケアン]]」が建立された。
=== 10月-12月 ===
* [[10月5日]](延享3年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]) - 三大名作のひとつ、[[竹田出雲#初代|初代竹田出雲]]らによる[[浄瑠璃]]『[[菅原伝授手習鑑]]』が[[大坂]][[竹本座]]で初演<ref name="Yamamoto120"></ref>。[[ファイル:Picture of a Crowded Theater Hosting Performance of Sugawara Denju Tenarai Kagami LACMA M.2006.136.291a-c.jpg|サムネイル|456x456ピクセル|『大芝居繁栄之図』。「菅原伝授手習鑑」、「車引き」の場を描いた[[錦絵]]。[[1859年]]([[安政]]6年)刊。[[歌川豊国]]画。]]
*[[10月11日]] - [[オーストリア継承戦争]] - [[ロクールの戦い]]。[[モーリス・ド・サックス]]率いる[[フランス王国]]軍が、[[リエージュ]]近くの{{仮リンク|ロクール|en|Rocourt, Liège}}で[[ハプスブルク帝国|オーストリア]]、[[グレートブリテン王国|イギリス]]、[[ハノーファー選帝侯領|ハノーファー]]、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]の連合軍に勝利。
* [[10月22日]] - [[エリザベス (ニュージャージー州)|エリザベス]]([[ニュージャージー植民地]])に[[プリンストン大学]]の前身であるニュージャージー大学が開校される。[[1896年]]に現在の名前に改称された{{Sfn|中村|2010|p=285}}。
* [[10月28日]] - [[ペルー]]、[[リマ]]・[[カヤオ]]沖で[[マグニチュード|M]]8.3の[[超巨大地震|地震]]<ref name="EAO178">{{PDFlink|[http://www.earth.northwestern.edu/people/emile/PDF/EAO178.pdf Okal(2006)]}} Okal, E.A.; Borrero J.C. and Synolakis C.E. (2006): Evaluation of Tsunami Risk from Regional Earthquakes at Pisco, Peru. ''Bulletin of the Seismological Society of America'' '''96''' (5): 1634–1648.</ref><ref name="Review">{{PDFlink|[http://www.civildefence.govt.nz/memwebsite.nsf/Files/Tsunami_Hazard_report/$file/Final_Hazard_and_Risk_Report_part_5(1).pdf DEFINING TSUNAMI SOURCES]}} Review of Tsunami Hazard and Risk in New Zealand. ''Institute of Geological & Nuclear Sciences Limited''</ref>。
* [[11月4日]] - [[カーナティック戦争]] - [[アディヤールの戦い]]。[[マドラス]]からフランス軍を排除しようとした[[アルコット太守|カルナータカ太守]]の[[アンワールッディーン・ハーン]]率いる1万の軍勢が、パラディ大佐以下[[フランス東インド会社]]のフランス兵とセポイを合わせた700人の軍勢によって逆に撃退される<ref>
Sir William W. Hunter, ''The History of Nations: India'' (John D. Morris, 1906) p179</ref>。
* [[12月5日]] - [[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]の青年、[[ジョバン・バティスタ・ペラッソ]]の投石をきっかけに、ジェノヴァ市民が[[ハプスブルク帝国|オーストリア]]占領軍と軍政長官であった{{仮リンク|アントニオット・ボッタ・アドルノ|en|Antoniotto Botta Adorno|label=ボッタ・アドルノ}}侯爵に対する反乱が勃発。彼らは[[12月11日]]にはジェノヴァからオーストリア軍を追い出したが、数カ月後にふたたび包囲されることとなる<ref>"Eighteenth Century", in ''Warfare and Armed Conflicts: A Statistical Encyclopedia of Casualty and Other Figures, 1492-2015'', ed. by Micheal Clodfelter (McFarland, 2017) p77</ref>。{{seealso|ジェノヴァ包囲戦 (1747年)}}
* [[12月27日]](延享3年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]])- [[大岡忠光]]、将軍[[徳川家重]]の御側御用取次となる<ref name="Yamamoto120"></ref>。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1746年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月12日]] - [[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ]]、教育実践家(+ [[1827年]])
*[[1月13日]] - [[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]、スウェーデン王(+ [[1792年]])
* [[3月30日]] - [[フランシスコ・デ・ゴヤ]]、[[画家]](+ [[1828年]])
* [[7月7日]] - [[ジュゼッペ・ピアッツィ]]、[[イタリア]]の[[天文学者]](+ [[1826年]])
* [[5月9日]] - [[ガスパール・モンジュ]]<ref>{{cite web|url=http://www.archinoe.net/console/ir_ead_visu.php?eadid=FRAD021_000000912V2&ir=23251|title=Registres paroissiaux et/ou d'état civil : 16 janvier 1745 - 1746|trans-title=Parish and/or civil registers: January 16, 1745 - 1746|publisher=Archives of the Department of Côte-d'Or|id=FRAD021EC 57/044|page=174/281|language=fr|access-date=2021-03-03|df=dmy-all}}</ref>、[[科学者]]・[[工学者]](+ [[1818年]])
* [[5月19日]]([[延享]]3年[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]) - [[岡部長修]]、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]の第7代藩主(+ [[1796年]])
* [[6月23日]](延享3年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[塙保己一]]、[[国学者]](+ [[1821年]])
*[[7月23日]] - [[ベルナルド・デ・ガルベス]]、[[スペイン帝国|スペイン]]の[[軍人]]・[[政治家]](+ [[1786年]])
* [[9月28日]] - [[ウィリアム・ジョーンズ (言語学者)|ウィリアム・ジョーンズ]]、[[言語学者]]・[[裁判官]](+ [[1794年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1746年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[7月9日]] - [[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]、スペイン王(* [[1683年]])
* [[10月12日]](延享3年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]) - [[富永仲基]]、町人[[学者]](* [[1715年]])
* [[11月14日]] - [[ゲオルク・シュテラー]]、[[博物学者]]・[[探検家]]・[[医師]](* [[1709年]])
== フィクションのできごと ==
* [[ジャコバイト]]の反乱が起き、2代目ドクターが巻き込まれる。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』第4シリーズ、「{{仮リンク|ザ・ハイランダーズ (ドクター・フー)|en|The Highlanders (Doctor Who)|label=ザ・ハイランダーズ}}」)
* 延享3年9月10日(10月24日)、市九郎(了海)が洞門を開通させる。([[菊池寛]]の小説『[[恩讐の彼方に]]』)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|title=江戸時代年鑑 雄山閣アーカイブス資料篇|publisher=[[雄山閣]]|date=2017-4-25|author=[[遠藤元男]]|isbn=978-4-639-02482-8}}
* {{Cite web|和書 |url=https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/collection/features/digital_showcase/001/06/ |title=6. 大芝居繁栄之図|東京都立図書館 |accessdate=2021-02-14 |publisher=[[東京都立図書館]]}}
* {{Cite book|和書|title=アメリカ史「読む」年表事典1|date=2010-10-22|year=2010|publisher=原書房|isbn=978-4562046423|author=中村甚五郎|ref={{SfnRef|中村|2010}}}}
* {{Cite book|title=見る、読む、調べる 江戸時代年表|publisher=[[小学館]]|date=2007-10-10|editor=[[山本博文]]|isbn=978-4-09-626606-9}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1746}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}}
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[[Category:1746年|*]]
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1743年
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1743年(1743 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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1743年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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[[ファイル:Cafe de Procope 1743.jpg|サムネイル|1743年の[[カフェ・プロコップ]]の様子。作者不詳。]]
{{year-definition|1743}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[癸亥]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
**[[寛保]]3年
**[[神武天皇即位紀元|皇紀]]2403年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
**[[清]] : [[乾隆]]8年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
**[[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]19年
**[[檀君紀元|檀紀]]4076年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
**[[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]4年
* [[仏滅紀元]] : 2285年 - 2286年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1155年 - 1166年
* [[ユダヤ暦]] : 5503年 - 5504年
* [[ユリウス暦]] : 1742年12月21日 - 1743年12月20日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1743}}
== できごと ==
* [[クリンケンベルグ彗星]](「1744年の大彗星」とも)がこの年の末から翌年に渡り観測される。
* イタリア -
**[[メッシーナ]]で[[ペスト]]の大流行、4万8000人の死者を出す<ref>[http://www.pubmedcentral.nih.gov/articlerender.fcgi?artid=2630035 "Epidemiology of the Black Death and Successive Waves of Plague"] by Samuel K Cohn JR. ''Medical History''.</ref>。
** [[ナポリ]]で{{仮リンク|カポディモンテ窯|en|Capodimonte porcelain}}が開かれる。
* [[アフシャール朝|イラン]] - [[ナーディル・シャー]]がイギリスの冒険家、[[ジョン・エルトン]]をイラン北部の海軍造船所長に任命。エルトンは[[カスピ海]]沿岸の街、{{仮リンク|ラヒジャン|en|Lahijan}}と{{仮リンク|ランガルード|en|Langarud}}で出荷施設の監督に当たった<ref>{{harvnb|Axworthy|2018|page=172}}</ref>。
* [[オスマン帝国]] - [[アヤソフィア]]北東部の一角に{{仮リンク|オスマン・バロック様式|en|Ottoman Baroque architecture|label=オスマン・バロック建築}}([[オスマン建築]])の{{仮リンク|イマレット|en|Imaret}}(公共厨房)が建設される。
* [[清]] - [[陳廷敬]]、[[徐乾学]]、[[銭大昕]]らが[[地理書]]の『{{仮リンク|大清一統志|zh|大清一统志}}』の第一版を完成させる([[1744年|乾隆9年]]とも)。
[[ファイル:大清一統志 臺灣屬於日本.JPG|160px|thumb|right|alt=『大清一統志』部分|『大清一統志』部分。『[[台湾府|臺灣府]]建置沿革』、台湾が[[化外の地]]、「東番」とみなされていたことや、[[明代]]中期には[[オランダ東インド会社|オランダ人]]や日本人の勢力圏にあったと述べている。]]
* 日本 -
**[[江戸幕府]]が[[サツマイモ|甘藷]]の栽培を奨励{{要出典|date=2020年11月|}}。
** [[大坂]]の金銭売買立会所が[[高麗橋]]筋から[[北浜]]1丁目に移転。金相場会所と改称する{{Sfn|山本|2007|p=118}}。
** [[白鶴酒造]]が材木屋治兵衛によって創業<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hakutsuru.co.jp/corporate/enkaku.shtml|title=沿革|accessdate=2020-11-12|publisher=[[白鶴酒造]]}}</ref>。
*北アメリカ -
**[[フィラデルフィア]]に[[アメリカ哲学協会]]が設立{{Sfn|中村|2010|p=282}}。初代会長には{{仮リンク|トマス・ホプキンソン|en|Thomas Hopkinson}}が、書記には[[ベンジャミン・フランクリン]]が就任{{Sfn|中村|2010|p=283}}。
**[[クエーカー]]の牧師、{{仮リンク|ジョン・ウールマン|en|John Woolman}}が奴隷制に避難する説法を始める。[[1758年]]、クエーカー派は自派の信徒に対して奴隷の売買を禁止した{{Sfn|中村|2010|p=283}}。
=== 1月-3月 ===
* [[1月1日]] - {{仮リンク|ヴェランドリエ兄弟のロッキー山脈探検|en|Verendrye brothers' journey to the Rocky Mountains}}:{{仮リンク|1=ジャン=バティスト・ド・ラ・ヴェランドリエ|2=en|3=Jean Baptiste de La Vérendrye}}と{{仮リンク|フランソワ・ド・ラ・ヴェランドリエ|en|François de La Vérendrye}}(通称「ヴェランドリエ兄弟」)が[[白人|ヨーロッパ人]]<!--おそらく新大陸出身かどうかを問わず-->として初めて東側から[[ロッキー山脈]]を観測する<ref>Frederick Samuel Dellenbaugh, ''Breaking the Wilderness: The Story of the Conquest of the Far West'' (G.P. Putnam and Sons, 1908) p139</ref>(西側からは[[コンキスタドール]]が既に観測していた)。
{{Seealso|サウスダコタ州の歴史}}
* [[1月8日]] - [[ザクセン選帝侯]]兼[[ポーランド国王]][[アウグスト3世 (ポーランド王)|アウグスト3世]]が、[[オーストリア帝国]]との間で、[[ザクセン選帝侯領]]が[[シレジア]]の一部を獲得する見返りに[[オーストリア継承戦争]]に同盟国として参戦することを約束する協定に調印<ref>Maureen Cassidy-Geiger, ''Fragile Diplomacy'' (Yale University Press, 2007) p38</ref>。
* [[1月12日]]
: [[ファイル:La Vérendrye.jpg|サムネイル|『[[ウッズ湖]]のヴェランドリエ兄弟』]]- ヴェランドリエ兄弟のロッキー山脈探検:ヴェランドリエ兄弟と[[マンダン|マンダン族]]の随行者2人が、現在の[[モンタナ州]][[ヘレナ (モンタナ州)|ヘレナ]]近くの山麓に到達する<ref>Olin Dunbar Wheeler, ''The Trail of Lewis and Clark, 1804-1904: A Story of the Great Exploration Across the Continent in 1804-6'' (G.P. Putnam and Sons, 1904) p213</ref>。
: - フィリピンで地震<ref>D. R. M. Irving, ''Colonial Counterpoint: Music in Early Modern Manila'' (Oxford University Press, 2010)</ref>。
* [[1月16日]] - 枢機卿[[アンドレ=エルキュール・ド・フルーリー]]が、その死の13日前に[[フランス王国]]宰相の地位を辞する<ref>Olivier Bernier, ''Louis XV'' (New Word City, 2018)</ref>。以後、[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]が親政を行う。
* [[1月23日]] - フランスの仲介によって、[[オーボ]](現在の[[フィンランド]]領トゥルク)で[[スウェーデン]]と[[ロシア帝国|ロシア]]が[[ロシア・スウェーデン戦争 (1741年-1743年)]]を終結させるための交渉を開始。同年[[8月17日]]、スウェーデンはロシアにフィンランドの南部を割譲した<ref>''The Cambridge Modern History, Volume 6: The Eighteenth Century'', ed. by A. W. Ward, et al. (Macmillan, 1909) p314</ref>。
* [[2月12日]] - パリで、[[ジョゼフ・ボダン・ド・ボワモルティエ]]の{{仮リンク|コミック・バレエ|en|Comic Ballet}}『{{仮リンク|公爵夫人邸のドン・キホーテ|en|Don Quichotte chez la Duchesse}}』初演。
* [[2月18日]] - ロンドン、[[ロイヤル・オペラ・ハウス]]で、[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]]の[[オラトリオ]]、『[[サムソン (ヘンデル)|サムソン]]』初演。
* [[3月2日]] - [[ジェンキンスの耳の戦争]] - [[チャールズ・ノウルズ|サー・チャールズ・ノウルズ]]率いる英国遠征艦隊が[[ラ・グアイラの海戦 (1743年)|ラ・グアイラの海戦]]においてスペイン軍に敗北する。
* [[3月11日]] - 世界最古の民間オーケストラであり、[[ライプツィヒ]]の[[ブルジョワジー|市民階級]]による自主経営オーケストラ、[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]が発足。楽団の名前は、発足から数十年後の[[1781年]]、同楽団の拠点をライプツィヒの大学通りにある[[ゲヴァントハウス]]へと移したことに拠る。
=== 4月-6月 ===
<!--* [[4月1日]] - 教皇[[ベネディクトゥス14世]]が離婚に関して、配偶者同士での合意なく結婚の解消請願を行うことを認めない教皇勅書を発行(ポーランドの秘密結婚について?)<ref>Louis de Bonald, ''On Divorce'' (Transaction Publishers, 2011) p155</ref>。-->
* [[4月2日]] - ヴェランドリエ兄弟のロッキー山脈探検:ヴェランドリエ兄弟が、[[グレートプレーンズ]]がフランス国王ルイ15世の領地であると主張する文を彫り込んこんだ鉛板を埋める。この板は、170年後の[[1913年]][[2月16日]]、[[サウスダコタ州]][[ピア (サウスダコタ州)|ピア]]出身のハリエット・フォスターという女学生によって発見されたことでようやく日の目を見た<ref>George M. Wrong, ''The conquest of New France'' (Yale University Press, 1918) p129</ref><ref>{{Cite journal|journal=South Dakota Magazine|year=1989|title=Discovering The Verendrye Plate|last=Hunhoff|first=Bernie|url=https://www.southdakotamagazine.com/verendrye-plate|issue=27|accessdate=2020-11-13}}</ref>。
[[ファイル:Plaque de La Verendrye à Pierre (recto).jpg|210px|thumb|right|alt=ラ・ヴェランドリエ兄弟の鉛板(表板)|サウスダコタ州で発見されたラ・ヴェランドリエ兄弟の鉛板(表板)。1913年に発見。]]
* [[4月3日]] - [[プリトビ・ナラヤン・シャハ]]が[[ゴルカ王国]]国王として即位 <ref>Nanda R. Shrestha, ''In the Name of Development: A Reflection on Nepal'' (University Press of America, 1997) p6</ref>。[[ネパールの統一]]の一環として、[[ヒマラヤ山脈]]に割拠していた[[マッラ朝|三都マッラ朝]]、[[二二諸国]]、[[二四諸国]]を含む54の諸王国の統一に向けて動きだす。
* [[4月9日]] - ヴェランドリエ兄弟のロッキー山脈探検:ヴェレンドライエ兄弟が[[1722年]]以来初めてヨーロッパ人として[[スー族]]と接触を果たし、彼らのことを"Les Gens de la Fleche Collee"(「鞘付き矢の民」)と記録で言及する<ref>Royal B. Hassrick, ''The Sioux: Life and Customs of a Warrior Society'' (University of Oklahoma Press, 2012)</ref>。
<!--* [[4月13日]] - [[東インド会社]]保有の[[4等艦|4等戦列艦]]「{{仮リンク|プリンセス・ルイーザ (戦列艦・初代)|en|HMS Swallow (1732)|label=プリンセス・ルイーザ}}」が、[[カーボベルデ]]に属する[[マイオ島]]の湾内で座礁する。船員179人中49人が犠牲になった{{要出典|2020年11月}}。-->
* [[4月18日]] - [[ジョージア植民地]]の信託委員会が、法人領内に公立学校を設置するための投票を行う<ref>James Ross McCain, ''Georgia as a Proprietary Province: The Execution of a Trust'' (R.G. Badger, 1917) p298</ref>。
* [[5月10日]] - [[ヌーベルフランス]]で、{{仮リンク|ジャン=バティスト・ル・モワン・ド・ビアンヴィル|en|Jean-Baptiste Le Moyne de Bienville}}が、断続的に43年に渡り勤め上げた[[フランス領ルイジアナ]]総督の地位の、最後の任期を終える([[ニューオーリンズ]]の建設を行うなど植民地の開拓に多いに寄与した)。[[ピエール・フランソワ・ド・リゴー]]が後任として就き、10年間勤めることになる。
* [[5月12日]] - [[マリア・テレジア]]が[[ボヘミア王国|ボヘミア王]]の地位を[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]][[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール・アルブレヒト]]から奪還し、ふたたび同地の女王として戴冠する。
* [[5月30日]] - [[スウェーデン|スウェーデン王国]]の[[ダーラナ地方]]で、「[[自由の時代]]」の語に象徴される貴族政に反発する農民反乱、{{仮リンク|ダーラナ反乱 (1743年)|en|Dalecarlian rebellion (1743)}}が勃発する。
* [[6月27日]] - [[オーストリア継承戦争]] - [[バイエルン選帝侯領|バイエルン]]で[[デッティンゲンの戦い]]。[[グレートブリテン|イギリス]]と[[ハプスブルク君主国|オーストリア帝国]]、[[ハノーファー選帝侯領|ハノーファー]]の連合軍が、[[アドリアン・モーリス・ド・ノアイユ]]率いる[[フランス王国|フランス]]軍を破る。イギリス国王([[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]])が戦闘に参加した史上最後の戦い。
[[ファイル:GeorgeIIWootton1743.jpg|thumb|right|alt=白馬に乗るジョージ2世|1743年の[[デッティンゲンの戦い]]におけるジョージ2世、[[ジョン・ウートン]]作。]]
=== 7月-9月 ===
* [[7月3日]] - スウェーデン王国の[[身分制議会#各国の議会|四部会]]は、戦争中であったロシアへの譲歩として、[[カール11世 (スウェーデン王)|カール11世]]の曾孫である[[ホルシュタイン=ゴットルプ家]]の[[アドルフ・フレドリク (スウェーデン王)|アドルフ・フレドリク]]をスウェーデンの王位継承者として選出することを承認する。[[1751年]][[4月5日]]の[[フレドリク1世 (スウェーデン王)|フレドリク1世]]の死後、アドルフスが国王となり、[[ヘッセン王朝]]が終わり、1751年から[[1818年]]までスウェーデンを治めた[[ホルシュタイン=ゴットルプ王朝]]が始まることとなる<ref>"Adolphus Frederick of Holstein-Entin'', in ''The American Cyclopedia: A Popular Dictionary of General Knowledge", ed. by George Ripley and Charles A. Dana (D. Appleton and Company, 1873) p129</ref>。
* [[7月13日]] - [[オランダ東インド会社]]の[[帆船]]「{{仮リンク|ホランディア号(帆船)|en|Hollandia (1742 ship)|label=ホランディア号}}」が、[[コーンウォール]]近くに位置する[[シリー諸島]]、{{仮リンク|アネット島(シリー諸島)|en|Annet, Isles of Scilly|label=アネット島}}沖の岩に激突し、乗船していた276人全員が溺死する。[[1971年]]に発掘調査が行われた。
* [[7月20日]] - {{仮リンク|世界周航航海記|en|George Anson's voyage around the world|label=ジョージ・アンソンの世界周航}}:[[ジョージ・アンソン (初代アンソン男爵)|初代アンソン男爵 ジョージ・アンソン]]指揮下の[[センチュリオン (戦列艦・2代)|センチュリオン号]]が、[[アカプルコ]]からの積荷を載せた[[マニラ・ガレオン]]「ヌエストラ・セニョーラ・デ・コバドンガ(西:Nuestra Señora de Covadonga)」を拿捕。アントン卿は1313万3843[[メキシコドル|スペインドル]]に加え、250万ドル相当の財宝を手に入れた後、メキシコに向かって遡行し、[[1744年]]にイギリス本土に帰還した<ref>Francisco Antonio Mourelle, ''Voyage of the Sonora in the Second Bucareli Expedition'', translated by Daines Barrington (T.C. Russell, 1920) p108</ref>。
[[ファイル:Samuel_Scott_1.jpg|thumb|right|alt=サミュエル・スコット|マニラ・ガレオン(右)を拿捕するセンチュリオン号、[[サミュエル・スコット]]作。]]
* [[7月23日]] - [[ジェームス・オグルソープ]]が[[ジョージア植民地総督]]の地位を辞し、ジョージア植民地からイングランドへ向けて出発。同年9月にイングランドに帰還した<ref>"James Oglethorpe", by Dr. Walter H. Charlton, in ''The American Monthly Magazine'' (June 1911) p294</ref>。
* [[7月28日]] - フランスと[[英墺同盟|イギリス同盟国諸国]]が、負傷した敵軍の兵士を相互に看護することで合意する<ref>Bernard D. Rostker, ''Providing for the Casualties of War: The American Experience Through World War II'' (Rand Corporation, 2013) p46</ref>。
* [[7月31日]] - [[ペンシルバニア植民地]][[ランカスター (ペンシルベニア州)|ランカスター]]で、[[ヴァージニア植民地|ヴァージニア]]、[[メリーランド植民地|メリーランド]]、ペンシルバニアの3植民地と[[イロコイ連邦|シックス・ネイションズ]]との間に、 [[アパラチア山脈]]の西側と[[オハイオ川]]の北側の土地は加盟部族の帰属とする条約が結ばれる<ref>Charles C. Royce, ''Indian Land Cessions of the United States'', (U.S. Government Printing Office, 1899) p569</ref>。
* [[8月7日]] - ロシア・スウェーデン戦争:ロシアとスウェーデンが[[ロシア・スウェーデン戦争 (1741年-1743年)#オーボ条約|オーボ条約]]を結ぶ。
* [[8月23日]] - イギリスで[[ヘンリー・ペラム]]内閣(第1次内閣)が成立。
* [[9月11日]] - [[サンクトペテルブルク]]、{{仮リンク|12棟の学院館|en|Twelve Collegia}}の前で、ロシア帝国の女官、{{仮リンク|ナタリア・ロプーヒナ|en|Natalia Lopukhina}}の鞭打ちが行われる。フランスと[[ホルシュタイン公国]]が企てた「ロプーヒナ陰謀事件」はこれで幕引きとなった。
* [[9月13日]] - {{仮リンク|ヴォルムス条約(1743年)|en|Treaty of Worms (1743)}}がイギリス、オーストリア、[[サルデーニャ王国|サルデーニャ]]の間で結ばれる。
=== 10月-12月 ===
* [[10月3日]](寛保3年[[8月16日 (旧暦)|8月16日]]) - [[蝦夷国]][[松前藩]]、第7代藩主[[松前資広]]が襲封。
* [[10月19日]] - 現在の[[ニューメキシコ州]]にあたる土地を植民地化試みた9人の[[フランス系カナダ人]]のうちの1人、ルイ・マリア・コロンが[[ヌエバ・エスパーニャ|スペインの現地政府]]によって処刑される。罪状は[[プエブロ族]]に対してスペイン政府への反乱を教唆したことであった<ref>Ralph Emerson Twitchell, ''The Leading Facts of New Mexican History'', Vol. I (Torch Press, 1911, reprinted by Sunstone Press, 2007) p438</ref>。
* [[10月21日]] - [[ベンジャミン・フランクリン]]が[[フィラデルフィア]]で行っていた[[月食]]の観測が、雨で中断される。数日後、フランクリンは[[ボストン]]の住民が月食の数時間後に同じ嵐を観測していたことを知った。これは、天候が西から東へと移動していることを示していた<ref>Bruce Parker, ''The Power of the Sea: Tsunamis, Storm Surges, Rogue Waves, and Our Quest to Predict Disasters'' (St. Martin's Press, 2012)</ref>。
* [[10月23日]] - およそ6週間に渡る攻防ののち、[[ナーディル・シャー]]が[[オスマン帝国]]領土であった[[モースル]]の包囲を解く。この後、[[アフシャール朝]]はオスマン帝国に[[ナジャフ]]を割譲させ和睦。
* [[11月5日]] - [[水星の太陽面通過]]の科学的な観測が、ロシアに滞在していたフランス人天文学者[[ジョゼフ=ニコラ・ドリル]]らによって行われる。
* [[11月29日]] - [[ミデルブルフ]]でヤン・デ・ミュンクが[[クリンケンベルグ彗星]]を観測<ref>De Munck, J., Sterrekundige Waarneemingen op de Comeet of Staart-Sterre; Sedert den 29 November des Jaars 1743. tot op den 1 Maart van den Jaare 1744, Amsterdam/Middelburg: Isaak Tirion/Hendrik van Hoekke, 1744.</ref>。後述のクリンケンベルク、シェゾーとともに、それぞれ独立した観測による発見であった。
* [[ファイル:Pedro Vicente Maldonado Riobamba 8767.jpg|サムネイル|ペドロ・ヴィンセンテ・マルドナド]][[12月3日]] - 現在の[[エクアドル]]の地理学者{{仮リンク|ペドロ・ヴィセンテ・マルドナド|en|Pedro Vicente Maldonado}}が、[[フランス科学アカデミーによる測地遠征]]に用いる最新式の器具を購入するためにブラジルを出発<ref>Neil Safier, ''Measuring the New World: Enlightenment Science and South America'' (University of Chicago Press, 2008) p104</ref>。
* [[12月9日]] - [[ハールレム]]で{{仮リンク|ディルク・クリンケンベルク|en|Dirk Klinkenberg}}がクリンケンベルク彗星を観測<ref>David A.J. Seargent, ''The Greatest Comets in History: Broom Stars and Celestial Scimitars'' (Springer, 2008) p116</ref>。
* [[12月10日]] - フランス国王ルイ15世がスペイン国王フェリペ5世に[[ステュアート朝|スチュアート家]]をイギリスの王位に復帰させようとする意図を伝える。[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート]]が、彼の父である[[ジェームズ2世]]が[[1688年]]に退位するまでイングランド及びスコットランドの皇太子であったが、翌年1744年1月1日に計画されていたイギリスへの攻撃が成功すれば、王位請求者として両国の王ジェームズ3世として即位する<ref>Andrew Lang, ''A History of Scotland from the Roman Occupation'' (W. Blackwood and Sons, 1907) p443</ref>。
* [[12月11日]] - イギリス国王[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]の娘、[[ルイーズ・オブ・グレート・ブリテン]]が[[デンマーク=ノルウェー]]の皇太子[[フレデリク5世 (デンマーク王)|フレデリク5世]]と結婚する<ref>Michael A. Beatty, ''The English Royal Family of America, from Jamestown to the American Revolution'' (McFarland, 2003) p164</ref>。
* [[12月13日]] - [[ローザンヌ]]で[[ジャン=フィリップ・ロワ・ド・シェゾー]]がクリンケンベルク彗星を観測。彼は翌年3月にこの彗星の[[北半球]]での最後の観測も行った。
* [[12月]] [[広島藩]]、養殖[[牡蠣]]増産に伴い、新規に牡蠣[[株仲間]]14株を編成させる{{Sfn|山本|2007|pp=118-119}}。
{{Clear}}
== 誕生 ==
{{see also|Category:1743年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月2日]] - [[ジョゼフ・バンクス]]、[[博物学者]](+ [[1820年]])
* [[ファイル:Goya-La famiglia dell Infante Don Luis-1783-dettaglio.jpg|サムネイル|164x164ピクセル|ルイジ・ボッケリーニ [[フランシスコ・デ・ゴヤ]]画]][[2月19日]] - [[ルイジ・ボッケリーニ]]<ref>{{Cite book|洋書|title=Luigi Boccherini. Sa vie, son œuvre|year=1962|publisher={{仮リンク|プロン (出版社)|label=プロン|fr|Plon}}|pages=190|author={{仮リンク|ジェルメーヌ・ド・ロチルド|fr|Germaine de Rothschild}}}}</ref>、[[イタリア]]の[[作曲家]]、[[チェリスト]](+ [[1805年]])
* [[2月28日]] - [[ルネ=ジュスト・アユイ]]、[[フランス]]の[[鉱物学者]](+ [[1822年]])
* 2月28日 - [[カロリーネ・フォン・オラニエン=ナッサウ=ディーツ]]、ナッサウ=ヴァイルブルク侯[[カール・クリスティアン (ナッサウ=ヴァイルブルク侯)|カール・クリスティアン]]の妃(+ [[1822年]])
* [[4月13日]] - [[トーマス・ジェファーソン]]、第3代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1826年]])
* [[4月24日]] - [[エドモンド・カートライト]]、[[イギリス]]の[[牧師]]、[[実業家]]、[[発明家]](+ [[1823年]])
* [[6月2日]] - [[カリオストロ]]、カリオストロ伯爵を自称した人物、[[錬金術|錬金術師]](+ [[1795年]])
* [[6月3日]] - [[ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)|ヴィルヘルム1世]]、初代[[ヘッセン選帝侯]](+ [[1821年]])
* [[7月3日]] - [[ソフィア・マグダレーナ・アヴ・ダンマルク]]、[[スウェーデン]]王[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]の王妃(+ [[1813年]])
* [[8月19日]] - [[デュ・バリー夫人]]<ref>[https://www.britannica.com/biography//Jeanne-Becu-comtesse-du-Barry Jeanne Bécu, countess du Barry mistress of Louis XV of France] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の[[公妾]](+ [[1793年]])
* [[ファイル:Antoine laurent lavoisier.jpg|サムネイル|195x195ピクセル|アントワーヌ・ラヴォアジエ [[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]画]][[8月26日]] - [[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]、フランスの[[化学者]](+ [[1794年]])
* [[9月17日]] - [[コンドルセ]]、フランスの[[数学者]]、[[哲学者]]、[[政治家]] (+ [[1794年]])
* [[10月3日]] - [[ヴィットーリオ・アメデーオ2世・ディ・サヴォイア=カリニャーノ]]、第5代[[サヴォイア=カリニャーノ家|カリニャーノ公]](+ [[1780年]])
* [[10月5日]] - [[ジュゼッペ・ガッザニーガ]]、[[イタリア]]の[[作曲家]](+ [[1818年]])
* [[11月25日]] - [[ウィリアム・ヘンリー (グロスター=エディンバラ公)|ウィリアム・ヘンリー]]、イギリスの[[王族]]、[[グロスター公|グロスター]]=[[エディンバラ公]](+ [[1805年]])
* [[12月1日]] - [[マルティン・ハインリヒ・クラプロート]]、[[ドイツ]]の[[化学者]](+ [[1817年]])
*[[勝川春好]]、[[役者絵]]、[[大首絵]]を手掛けた[[浮世絵師]] (+ [[1812年]])
* [[トマス・ストーン]]、[[アメリカ合衆国]]の[[政治家]]、[[アメリカ独立宣言]]の署名者の1人(+ [[1787年]])
{{Clear}}
== 死去 ==
{{see also|Category:1743年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月7日]] - [[アンナ・ソフィー・レーヴェントロー]]、[[デンマーク]]・[[ノルウェー]]王[[フレデリク4世 (デンマーク王)|フレデリク4世]]の2度目の王妃(* [[1693年]])
* [[1月29日]] - [[アンドレ=エルキュール・ド・フルーリー]]、[[フランス王国]]の[[聖職者]]、[[政治家]](* [[1653年]])
[[ファイル:Cardinal_de_Fleury_by_Rigaud.jpg|thumb|right|alt=アンドレ=エルキュール・ド・フルーリー|140px|アンドレ=エルキュール・ド・フルーリー]]
* [[1月30日]]([[寛保]]3年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]])- [[生島新五郎]]、[[歌舞伎役者]]、[[江島生島事件]]の中心人物 (* [[1671年]])
* [[2月10日]] - [[ルイーズ・アデライード・ドルレアン]]、フランス王国の[[王族]]、[[修道院|修道院長]](* [[1698年]])
* [[2月18日]] - [[アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ]]、最後の[[メディチ家]]直系。[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[ヨハン・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)|ヨハン・ヴィルヘルム]]の妃(* [[1667年]])
* [[5月10日]] - [[エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク]]、[[イギリス]]王[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]の愛妾(* [[1667年]])
* [[5月31日]](寛保3年[[4月8日 (旧暦)|閏4月8日]]) - [[松前邦広]]、[[蝦夷国]][[松前藩]]第6代藩主(*[[1705年]])
* [[6月16日]] - [[ルイーズ・フランソワーズ・ド・ブルボン]]、[[コンデ公]][[ルイ3世 (コンデ公)|ルイ3世]]の妻(* [[1673年]])
* [[7月2日]] - [[スペンサー・コンプトン (初代ウィルミントン伯爵)]]、[[グレートブリテン王国|イギリス]]の[[政治家]] (*[[1674年]])
* [[7月22日]](寛保3年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]])- [[尾形乾山]]、[[江戸幕府|日本]]の[[陶芸家]]、[[日本画家]] (*[[1663年]])
* [[8月15日]] - [[ジャック・ド・ピュイセギュール]]、フランス王国の[[軍人]]、[[軍事学者]](* [[1655年]])
* [[9月21日]] - [[ジャイ・シング2世]]、[[アンベール王国]]の君主、[[ムガル帝国]]の政治家、武将 (*[[1688年]])
* [[12月27日]] - [[イアサント・リゴー]]、[[フランス]]の[[画家]](* [[1659年]])
== フィクションのできごと ==
* 5月4日 (寛保3年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]) - 飯島平太郎、刀屋で黒川孝藏に絡まれ、これを斬殺。(落語『[[牡丹灯籠]]』)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!-- === 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}} -->
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=アメリカ史「読む」年表事典1|date=2010-10-22|year=2010|publisher=原書房|isbn=978-4562046423|author=中村甚五郎|ref={{SfnRef|中村|2010}}}}
* {{cite book|last=Axworthy|first=Michael|year=2018|title=Crisis, Collapse, Militarism and Civil War: The History and Historiography of 18th Century Iran|publisher=Oxford University Press|isbn=9780190250324}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1743}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]<!--
== 外部リンク == -->
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13,263 |
1739年
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1739年(1739 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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1739年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[己未]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[元文]]4年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2399年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[乾隆]]4年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]15年
** [[檀君紀元|檀紀]]4072年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[永佑]]5年
* [[仏滅紀元]] : 2281年 - 2282年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1151年 - 1152年
* [[ユダヤ暦]] : 5499年 - 5500年
* [[ユリウス暦]] : 1738年12月21日 - 1739年12月20日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1739}}
== できごと ==
* [[イギリス]]と[[スペイン]]との間で[[ジェンキンスの耳の戦争]]が勃発(-[[1748年]])。
* [[1月1日]] - [[ブーベ島]]が[[フランス人]]の探検家[[ジャン=バティスト・シャルル・ブーヴェ・ド・ロジエ]]によって発見される。
* [[3月20日]] - [[ナーディル・シャー]]が[[ムガル朝]]の大軍を破って[[インド]]の[[デリー]]を占領
* [[6月]] - [[ロシア帝国]][[海軍]][[ヴィトゥス・ベーリング]]が派遣した探検船が日本の[[仙台湾]]・[[房総半島]]などに来航([[元文の黒船]])。
* [[9月18日]] - [[1735年]]から続いた[[オーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年–1739年)|ロシア・トルコ戦争]]が[[ベオグラード条約]]によって終結する。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1739年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[7月26日]] - [[ジョージ・クリントン]]、[[アメリカ合衆国]]の[[軍人]]および[[政治家]](+ [[1812年]])
* [[11月2日]] - [[カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ]]、[[作曲家]](+ [[1799年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1739年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月3日]] - [[マリー・アンヌ・ド・ブルボン]]、[[フランス王国|フランス]]の王女(* [[1666年]])
* [[5月27日]] - [[ヨハン・ゴットフリート・ベルンハルト・バッハ]]、[[作曲家]](* [[1715年]])
* [[7月16日]] - [[シャルル・フランソワ・デュフェイ]]、[[化学者]](* [[1698年]])
* [[7月24日]] - [[ベネデット・マルチェッロ]]、[[イタリア]]・[[バロック音楽]]の作曲家・音楽評論家(* [[1686年]])
* [[8月27日]]([[元文]]4年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]])- [[池田吉泰]]、第3代[[鳥取藩|鳥取藩主]](* [[1687年]])
* [[9月12日]] - [[エルンスト・ルートヴィヒ (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|エルンスト・ルートヴィヒ]]、[[ヘッセン=ダルムシュタット方伯領|ヘッセン=ダルムシュタット方伯]](* [[1667年]])
* 9月12日 - [[ラインハルト・カイザー]]、作曲家(* [[1674年]])
* [[10月18日]](元文4年[[9月16日 (旧暦)|9月16日]])- [[松平頼桓]]、第4代[[高松藩|高松藩主]](* [[1720年]])
* [[11月4日]](元文4年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]])- [[霊空]]、[[天台宗]]の[[僧]](* [[1652年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|173}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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13,264 |
1738年
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1738年(1738 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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1738年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[戊午]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[元文]]3年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2398年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[乾隆]]3年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]14年
** [[檀君紀元|檀紀]]4071年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[永佑]]4年
* [[仏滅紀元]] : 2280年 - 2281年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1150年 - 1151年
* [[ユダヤ暦]] : 5498年 - 5499年
* [[ユリウス暦]] : 1737年12月21日 - 1738年12月20日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1738}}
== できごと ==
* [[11月18日]] - [[ウィーン予備条約]]の調印により、[[ポーランド継承戦争]]が終結した。
* [[賀茂真淵]]が師の[[荷田春満]]の他界に伴い、京都から江戸に移住し、[[国学]]を講じた。
* [[ダニエル・ベルヌーイ]]が、学術雑誌『ペテルブルク帝国アカデミー論集』の論文「リスクの測定に関する新しい理論」で[[サンクトペテルブルクのパラドックス]]を発表した。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1738年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月10日]] - [[ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ]]、トゥパク・アマル2世とも、[[政治家]]・反乱指導者(+ [[1781年]])
*[[3月15日]] - [[チェーザレ・ベッカリーア]]、[[法学者]]・[[経済学者]](+ [[1794年]])
* [[5月28日]] - [[ジョゼフ・ギヨタン]]、[[内科医]]・政治家(+ [[1814年]])
* [[6月4日]] - [[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]、ハノーヴァー家第3代イギリス[[国王]](+ [[1820年]])
* [[8月6日]](元文3年[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]) - [[林子平]]、[[経世論]]家(+ [[1793年]])
* [[10月10日]] - [[ベンジャミン・ウエスト]]、[[画家]](+ [[1820年]])
* [[11月15日]] - [[ウィリアム・ハーシェル]]、[[天文学者]]・[[音楽家]](+ [[1822年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1738年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月29日]](元文2年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]) - [[安積澹泊]]、[[儒学者]]、水戸[[彰考館]]総裁(* [[1656年]])
* [[9月15日]](元文3年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]) - [[上島鬼貫]]、[[俳諧師]](* [[1661年]])
* [[9月23日]] - [[ヘルマン・ブールハーフェ]]、[[医者]]・[[植物学者]](* [[1668年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1738}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}}
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13,265 |
1721年
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1721年(1721 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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1721年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[辛丑]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[享保]]6年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2381年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[康熙]]60年
*** [[朱一貴]]{{Sup|*}} : [[永和 (朱一貴)|永和]]元年5月 - 6月
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[景宗 (朝鮮王)|景宗]]元年
** [[檀君紀元|檀紀]]4054年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[保泰]]2年
* [[仏滅紀元]] : 2263年 - 2264年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1133年 - 1134年
* [[ユダヤ暦]] : 5481年 - 5482年
* [[ユリウス暦]] : 1720年12月21日 - 1721年12月20日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1721}}
== できごと ==
* [[4月3日]] - イギリスで[[ロバート・ウォルポール|ウォルポール]]内閣が成立{{要出典|date=2021-04}}。
* [[6月22日]] - [[浅間山]]が[[噴火]](VEI1)。[[噴石]]のため登山者15名死亡、重傷1名<ref>{{Cite web|和書 |title=浅間山 有史以降の火山活動 |url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/306_Asamayama/306_history.html |website=www.data.jma.go.jp |access-date=2022-09-04 |publisher=[[気象庁]] |language=ja}}</ref>。
* [[8月3日]](享保6年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]) - [[蝦夷国]][[松前藩]]、第6代藩主[[松前邦広]]が襲封
* [[9月10日]] - [[ニスタット条約]]、[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]が[[スウェーデン]]から[[カレリア]]東部、[[イングリア]]、[[エストニア]]、[[リヴォニア]]を獲得。[[大北方戦争]]終結。
* [[11月2日]] - ロシアの[[元老院 (ロシア)|元老院]]と[[聖務会院|宗務院]]が[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]に[[ロシア皇帝|皇帝]]([[インペラトル|インペラートル]])の称号を贈る。[[ロシア帝国]]成立。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1721年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月23日]](享保5年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]])- [[細川重賢]]、[[熊本藩]]第6代藩主(+ [[1785年]])
* [[4月15日]] - [[カンバーランド公]][[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|ウィリアム・オーガスタス]]、[[グレートブリテン王国|イギリス]]の軍人(+ [[1765年]])
* [[9月7日]](享保6年閏[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]) - [[徳川宗尹]]、御三卿[[一橋徳川家|一橋家]]初代当主(+ 1765年)
* [[12月29日]] - [[ポンパドゥール夫人]]、[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ15世 (フランス王)|フランス王ルイ15世]]の[[公妾]](+ [[1764年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1721年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月18日]](享保5年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]) - [[松前矩広]]、[[蝦夷国]][[松前藩]]第5代藩主(*[[1660年]])
* [[3月19日]] - [[クレメンス11世 (ローマ教皇)|クレメンス11世]]、第243代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1649年]])
* [[8月3日]] - [[グリンリング・ギボンズ]]、[[彫刻家]](* [[1648年]])
* [[10月11日]] - [[エドワード・コルストン]]、貿易商人・政治家(* [[1636年]])
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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1715年
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1715年(1715 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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== 他の紀年法 ==
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* [[干支]] : [[乙未]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[正徳 (日本)|正徳]]5年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2375年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[康熙]]54年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]41年
** [[檀君紀元|檀紀]]4048年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[永盛 (黎朝)|永盛]]11年
* [[仏滅紀元]] : 2257年 - 2258年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1126年 - 1128年
* [[ユダヤ暦]] : 5475年 - 5476年
* [[ユリウス暦]] : 1714年12月21日 - 1715年12月20日
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[1月22日]]-[[3月9日]]、イギリスで[[1715年イギリス総選挙|総選挙]]。[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の大勝。ホイッグ党政権が強化される。
* [[2月14日]](正徳5年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]])- [[江戸幕府]]が[[海舶互市新例]]を制定し長崎貿易を制限。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1715年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[富永仲基]]、町人学者(+ [[1746年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1715年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月25日]](康熙54年[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]) - [[蒲松齢]]、小説家(* [[1640年]])
* [[8月4日]](正徳5年[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]) - [[稲生若水]]、[[医学者]]・[[本草学]]者(* [[1655年]])
* [[9月1日]] - [[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]、[[フランス君主一覧|フランス国王]]、(* [[1638年]])
* [[11月1日]](正徳5年[[10月6日 (旧暦)|10月6日]]) - [[渋川春海]]、[[天文学者|天文暦学者]]・[[囲碁棋士]](* [[1639年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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1711年
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1711年(1711 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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1711年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[辛卯]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[宝永]]8年、[[正徳 (日本)|正徳]]元年4月25日 -
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2371年
<!--**[[琉球王国]] : [[尚益王]]2年-->
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[康熙]]50年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]37年
** [[檀君紀元|檀紀]]4044年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[永盛 (黎朝)|永盛]]7年
* [[仏滅紀元]] : 2253 – 2254年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1122年 - 1123年
* [[ユダヤ暦]] : 5471年 – 5472年
* [[ユリウス暦]] : 1710年12月21日 - 1711年12月20日
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[イギリス]]で[[南海会社]]が設立{{要出典|date=2021-03}}。
* [[6月21日]] - [[アン女王戦争]]: [[ブラッディクリークの戦い (1711年)|ブラッディクリークの戦い]]で[[アベナキ族]]が勝利。
* [[7月21日]] - [[オスマン帝国]]と[[ロシア]]が[[プルト条約]]締結。
=== 日本 ===
* [[3月31日]](宝永8年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]) - [[井伊直興|井伊直該]]が[[大老]]に再任。
* [[6月11日]](宝永8年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]) - [[改元]]して[[正徳 (日本)|正徳]]元年
* 江戸で最古の[[節句人形]]店が(六代目以降に吉野屋徳兵衛と名乗り、[[吉徳]])江戸浅草茅町(現所在地と同)に創業。
* [[江戸]]で[[徳川家宣]]に命じられた[[花火#日本での歴史|鍵屋]]が、[[隅田川]]にて初の打上[[花火]]「流星」を打ち上げる<ref>[http://www.souke-kagiya.co.jp/1_history/history.html 鍵屋の歴史] - 宗家花火鍵屋公式サイト</ref>。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1711年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月7日]] - [[デイヴィッド・ヒューム]]、[[哲学者]](+ [[1776年]])
* [[9月25日]]([[康熙]]50年8月13日) - [[乾隆帝]]、[[清]]の第6代[[皇帝]](+ [[1799年]])
* [[11月19日]] - [[ミハイル・ロモノーソフ]]、[[科学者]]・[[作家]](+ [[1765年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1711年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月13日]] - [[ニコラ・ボアロー=デプレオー]]、[[詩人]]・[[批評家]](* [[1636年]])
* [[4月17日]] - [[ヨーゼフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ1世]]、[[神聖ローマ皇帝]](* [[1678年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1711}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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加賀国
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加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。
越国が689年-692年(持統天皇3-6年)越前国、越中国、越後国の三国に分立し、718年養老律令制定により能登国が越前国から分離し、その後823年、さらに越前国から江沼郡と加賀郡を割いて加賀国が設置された。
同823年6月4日に、江沼郡の北部から能美郡、加賀郡の南部から石川郡が分けられた。加賀郡は後に河北郡と呼ばれ、大海川は現在も加賀と能登の両地方の大まかな境界となっている。
大化の改新の頃までは加賀郡は賀我、加宜、香我、賀加とも言われたとされる 。
加賀国は、令制国の中で最後に建てられた国である。その建国への提案は越前守の紀末成による。末成は、加賀郡が国府から遠く往還に不便で、郡司や郷長が不法を働いても民が訴えることができずに逃散し、国司の巡検も難しいといったことを理由にあげた。太政官はこれを受けて弘仁14年 (823年) 2月に、越前の二郡を割いて加賀国を建て、中国にすることを奏した。3月1日に太政官は符を下して加賀国を作り、中国と定めた。同年6月4日に、江沼郡の北部を能美郡とし、加賀郡の南部を石川郡とすることを、加賀守を兼任した紀末成が言上し、これによって四郡になった。天長2年(825年)1月10日に、課丁と田の数が多いという理由で、加賀国は上国に変更になった。
中世には熊坂荘などの荘園が置かれていたが、戦国時代初頭に一向一揆が守護富樫氏を滅ぼして以後100年近くにわたって一揆による支配が続く(加賀一向一揆)。
江戸時代には、加賀藩(金沢藩)、大聖寺藩(加賀藩支藩)、大聖寺新田藩(大聖寺藩支藩) が置かれた。
明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。
国府は能美郡にあった。現在の石川県小松市古府町にあったと考えられている。
易林本の『節用集』では、「加賀郡に府」と記載がある。
国分僧寺は、承和8年(841年)、既にあった「勝興寺」(現 小松市)を国分寺に転用して設けられた。
尼寺は伝わっていない。
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] |
加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。
|
{{基礎情報 令制国
|国名 = 加賀国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|加賀国}}
|別称 = 加州(かしゅう)
|所属 = [[北陸道]]
|領域 = [[石川県]]南部
|国力 = [[上国]]
|距離 = [[中国 (令制国)|中国]]
|郡 = 4郡30郷
|国府 = 石川県[[小松市]]
|国分寺 = (推定)石川県小松市
|国分尼寺 = (未詳)
|一宮 = [[白山比咩神社]](石川県[[白山市]])
}}
'''加賀国'''(かがのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[北陸道]]に属する。
== 沿革 ==
[[越国]]が[[689年]]-[[692年]]([[持統天皇]]3-6年)[[越前国]]、[[越中国]]、[[越後国]]の三国に分立し、[[718年]][[養老律令]]制定により[[能登国]]が越前国から分離し、その後[[823年]]、さらに越前国から[[江沼郡]]と[[加賀郡 (加賀国)|加賀郡]]を割いて'''加賀国'''が設置された。
同[[823年]]6月4日に、江沼郡の北部から[[能美郡]]、加賀郡の南部から[[石川郡_(石川県)|石川郡]]が分けられた。加賀郡は後に[[河北郡]]と呼ばれ、[[大海川]]は現在も加賀と能登の両地方の大まかな境界となっている。
[[大化の改新]]の頃までは加賀郡は'''賀我'''、'''加宜'''、'''香我'''、'''賀加'''とも言われたとされる
<ref>「加賀国」国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第3巻 (か)』吉川弘文館、1983年2月。ISBN 4-642-00503-X。</ref>。
加賀国は、[[令制国]]の中で最後に建てられた国である。その建国への提案は越前守の[[紀末成]]による。末成は、加賀郡が[[国府]]から遠く往還に不便で、[[郡司]]や[[郷長]]が不法を働いても民が訴えることができずに[[逃散]]し、[[国司]]の巡検も難しいといったことを理由にあげた。[[太政官]]はこれを受けて[[弘仁]]14年 ([[823年]]) 2月に、越前の二郡を割いて加賀国を建て、[[中国 (令制国)|中国]]にすることを奏した。3月1日に太政官は符を下して加賀国を作り、中国と定めた。同年6月4日に、江沼郡の北部を[[能美郡]]とし、加賀郡の南部を石川郡とすることを、加賀守を兼任した紀末成が言上し、これによって四郡になった。天長2年([[825年]])1月10日に、課丁と田の数が多いという理由で、加賀国は[[上国]]に変更になった<ref>林陸朗「加賀立国の史的背景」、國學院大學文学部史学科編『坂本太郎博士頌寿記念日本史学論集』上巻、吉川弘文館、1983年、ISBN 4-642-01-019-X。</ref>。
中世には[[熊坂荘]]などの[[荘園 (日本)|荘園]]が置かれていたが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初頭に[[一向一揆]]が[[守護]][[富樫氏]]を滅ぼして以後100年近くにわたって一揆による支配が続く([[加賀一向一揆]])。
江戸時代には、[[加賀藩]](金沢藩)、[[大聖寺藩]](加賀藩支藩)、[[大聖寺新田藩]](大聖寺藩支藩) が置かれた。
=== 近代以降の沿革 ===
* 「[https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り<ref group="注釈">「[[旧高旧領取調帳]]」は加賀国分が欠けているため、[[木村礎]]の手により「天保郷帳」をもとに作成され、「日本史料選書13 旧高旧領取調帳 中部編」(近藤出版社、[[1977年]]。{{全国書誌番号|77023669}})に掲載されたデータが[[国立歴史民俗博物館]]によりデータベース化されている。</ref>(784村・483,743石5斗)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。
** [[河北郡]](177村・90,699石余) - 加賀藩
** [[石川郡 (石川県)|石川郡]](235村・183,508石余) - '''[[加賀藩]]'''
** [[能美郡]](229村・131,378石余) - [[天領|幕府領]](白山麓18ヶ村)、加賀藩、大聖寺藩
** [[江沼郡]](143村・78,156石余) - '''[[大聖寺藩]]'''
* 明治2年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]([[1869年]][[7月25日]]) - [[版籍奉還]]により加賀藩(通称)の正式名称が'''金沢藩'''となる。
* 明治3年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]([[1871年]][[2月11日]]) - 幕府領が'''[[本保県]]'''の管轄となる。
* 明治4年
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]](1871年[[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[金沢県]]'''、'''[[大聖寺県]]'''の管轄となる。
** [[11月20日 (旧暦)|11月20日]](1871年[[12月31日]]) - 第1次府県統合により、大聖寺県の管轄区域が金沢県、本保県の管轄区域が'''[[福井県]]'''の管轄となる。
** [[12月20日 (旧暦)|12月20日]]([[1872年]][[1月29日]]) - 福井県が改称して'''[[足羽県]]'''となる。
* 明治5年
** [[2月2日 (旧暦)|2月2日]](1872年[[3月10日]]) - 金沢県が改称して'''[[石川県]]'''となる。
** [[11月17日 (旧暦)|11月17日]](1872年[[12月17日]]) - 足羽県の白山麓18ヶ村を編入し、全域が石川県の管轄となる{{refnest|group=注釈|日付は布達が出された日である。実際は、[[太政官]]が石川・足羽両県に伝達することを忘却していたため、翌年2月に実施されている<ref>[{{NDLDC|1186851}} 石川県史. 第4編]p16-17 [[近代デジタルライブラリー]] </ref>。なお、足羽県は布達が届いた時には既に[[敦賀県]]に編入され、消滅していた。}}。
== 領域 ==
[[明治維新]]の直前の領域は現在以下のようになっている。'''太字'''の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。
* [[石川県]]
** '''[[金沢市]]'''
** '''[[小松市]]'''
** '''[[加賀市]]'''
** [[かほく市]](中沼・夏栗・瀬戸町・元女以北および学園台の一部を除く)
** '''[[白山市]]'''
** '''[[能美市]]'''
** '''[[野々市市]]'''
** '''[[能美郡]]'''
** [[河北郡]]([[津幡町]]のうち上大田・下河合以北を除く)
== 国内の施設 ==
=== 国府 ===
[[国府]]は能美郡にあった。現在の石川県[[小松市]]古府町にあったと考えられている。
易林本の『節用集』では、「加賀郡に府」と記載がある。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
[[国分寺|国分僧寺]]は、[[承和 (日本)|承和]]8年([[841年]])、既にあった「勝興寺」(現 小松市)を国分寺に転用して設けられた。
尼寺は伝わっていない。
=== 神社 ===
; [[延喜式内社]]
: 『[[延喜式神名帳]]』には、小社42社42座が記載されている。大社はない。[[加賀国の式内社一覧]]を参照。
:
; [[総社]]・[[一宮]]以下
:* 総社 [[石部神社 (小松市)|石部神社]] (小松市古府) - 南北朝期に一宮を主張し、白山比咩神社と論争になった。
:* 一宮 '''[[白山比咩神社]]''' ([[白山市]]) - [[式内社]]。
:* 二宮 [[菅生石部神社]] (加賀市) - 式内社。
== 地域 ==
=== 郡 ===
* [[江沼郡]]
* [[能美郡]]
* [[河北郡]]…かつての[[加賀郡 (加賀国)|加賀郡]]
* [[石川郡 (石川県)|石川郡]]
== 人物 ==
=== 国司 ===
==== 加賀守 ====
* [[紀末成]] - 823年(弘仁14年)12月 見
* [[藤原良房]] - 830年(天長7年)閏12月 任
* [[藤原長良]] - 834年(承和元年)正月 任
* [[源明]] - 838年(承和5年)正月 任
* [[源寛]] - 839年(承和6年)正月 任
* 源寛 - 842年(承和9年)9月 再任
* [[源生]] - 843年(承和10年)正月 任
* [[藤原助]] - 845年(承和12年)正月 任
* [[藤原並藤]] - 847年(承和14年)正月 任
* [[正行王]] - 850年(嘉祥3年)3月 見
* [[藤原衛]] - 851年(仁寿元年)10月 任
* 藤原衛 - 855年(斉衡2年)正月 再任 - 857年(天安元年)11月 卒
* [[藤原仲統]] - 857年(天安元年)12月 任 - 858年(天安2年)11月 罷
* [[源啓]] - 859年(貞観元年)正月 任
* [[清原長田]] - 860年(貞観2年)正月 任
* [[藤原本雄]] - 862年(貞観4年)2月 任
* [[源能有]] - 866年(貞観8年)正月 任 - 869年(貞観11年)2月 罷
* [[藤原有実]] - 869年(貞観11年)3月 任
* [[朝野真吉]] - 870年(貞観12年)正月 任
* [[茂世王]] - 874年(貞観16年)正月 見
* [[多治藤善]] - 880年(元慶4年)12月 見
* [[大春日安永]] - 886年(仁和2年)正月 任
* [[平篤行]] - 908年(延喜8年)正月 任 - 908年(延喜8年)2月 転
* [[源頼房]]
* [[藤原師高]] - 1175年(安元元年)任官。
==== 加賀介 ====
* [[源義国]]
* [[藤原景通|藤原景道]] - 加賀の藤原[[加藤氏]]の祖。
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
* ?~1191年 - [[比企朝宗]]
* 1223年~1245年 - [[北条朝時|名越朝時]]
* ?~1333年 - 北条氏一門
==== 室町幕府 ====
* 1336年~1337年 - [[富樫高家]]?
* 1355年~1357年 - [[富樫氏春]]
* 1364年~1387年 - [[富樫昌家]]
* 1387年~1390年 - [[斯波義種]]
* 1391年~? - [[斯波義重]]
* 1393年~1408年 - 斯波義種
* 1408年~1414年 - [[斯波満種]]
* 1414年~1418年 - [[富樫満成]]
* 1414年~1427年 - [[富樫満春]]
* 1430年~1433年 - [[富樫持春]]
* 1433年~1441年 - [[富樫教家]]
* 1441年~1464年 - [[富樫泰高]]
* 1447年~1458年 - [[富樫成春]]
* 1458年~1466年 - [[赤松政則]]
* 1464年~1488年 - [[富樫政親]]
* 1489年~1531年 - [[富樫稙泰]]
=== 武家官位としての加賀守 ===
* [[前田綱紀]] - 加賀[[加賀藩]]第5代藩主。
* [[前田宗辰]] - 加賀加賀藩第7代藩主。
* [[前田重煕]] - 加賀加賀藩第8代藩主。
* [[前田重靖]] - 加賀加賀藩第9代藩主。
* [[前田重教]] - 加賀加賀藩第10代藩主。
* [[前田治脩]] - 加賀加賀藩第11代藩主。
* [[前田斉広]] - 加賀加賀藩第12代藩主。
* [[前田斉泰]] - 加賀加賀藩第13代藩主。
* [[前田慶寧]] - 加賀加賀藩第14代藩主。
* [[大久保忠朝]] - [[相模国|相模]][[小田原藩]]初代(復帰後)藩主。[[老中]]。
* [[大久保忠増]] - 相模小田原藩第2代(復帰後)藩主。老中。
* [[大久保忠方]] - 相模小田原藩第3代(復帰後)藩主。
* [[大久保忠由]] - 相模小田原藩第5代(復帰後)藩主。
* [[大久保忠顕]] - 相模小田原藩第6代(復帰後)藩主。
* [[大久保忠真]] - 相模小田原藩第7代(復帰後)藩主。老中。
* [[大久保忠愨]] - 相模小田原藩第8代(復帰後)藩主。
* [[大久保忠礼]] - 相模小田原藩第9代(復帰後)藩主。
* [[大久保忠良]] - 相模小田原藩第10代(復帰後)藩主。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* 「角川日本地名大辞典」編纂委員会(編纂)『[[角川日本地名大辞典]] 17 (石川県)』角川書店、1981年7月。{{全国書誌番号|81033009}}、{{NCID|BN00734098}}。
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
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* [[令制国一覧]]
* [[越国]]
* [[越前国]]
* [[越中国]]
* [[加賀 (空母)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[航空母艦]]。艦名は加賀国に因む。
* [[かが (護衛艦)]]‐[[海上自衛隊]]の[[護衛艦]]。[[いずも型護衛艦]]の2番艦。
== 外部リンク ==
* [http://www.ishikawa-maibun.or.jp/boujisatu_page/description/index.html 8から9世紀の石川県関連年表]、石川県埋蔵文化財センター
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太宰治
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太宰 治(だざい おさむ、1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。本名:津島 修治(つしま しゅうじ)。左翼活動での挫折後、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『人間失格』がある。没落した華族の女を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。戦後は、その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳、檀一雄らとともに新戯作派、無頼派と称されたが、典型的な自己破滅型の私小説作家であった。
青森県北津軽郡金木村(のちの金木町、現在の五所川原市)に、県下有数の大地主である父津島源右衛門と母たね(夕子)の六男として生まれた。両親にいる11人の子女のうちの10番目。父・源右衛門は木造村の豪農松木家からの婿養子で県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員などを務めた地元の名士で、津島家は「金木の殿様」とも呼ばれていた。父は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったため、生まれてすぐ乳母に育てられた。その乳母が1年足らずで辞めた後は叔母のキエ(たねの妹)が、3歳から小学校入学までは14歳の女中・近村たけが子守りを務めた。1916年(大正5年)、金木第一尋常小学校に入学。津島家の子弟は実際の成績に関係なく、学業は全て「甲」をつけられていたが、太宰は実際の成績も良く、開校以来の秀才と言われていたという。小学校卒業後、明治高等小学校に1年間通った。これは次兄の英治と三兄の圭治が成績不振で弘前中学校を2年で中退していたため、落ちこぼれぬよう学力補充のための通学だったとされている。
1923年(大正12年)、3月4日、父源右衛門が肺癌で死去。4月、青森県立青森中学校に入学、実家を離れて下宿生活を送る。成績優秀で1年の2学期から卒業まで級長を務め、4年修了(四修)時の成績は148名中4番目であった。芥川龍之介、志賀直哉、室生犀星、菊池寛などを愛読、井伏鱒二の『幽閉(山椒魚)』には読んで座っていられないほど興奮した。在学中の17歳頃に『校友会誌』に習作「最後の太閤」を書き、また友人と同人誌『蜃気楼』を12号まで発行。小説家を志望するようになる。しかしこの時期から怠け癖が見え始め、太宰の長兄である津島文治が、太宰の中学時代の教科書を見たところ、教師や兄弟の似顔絵がぎっしり描かれていたという。
1927年(昭和2年)旧制弘前高等学校文科甲類に優秀な成績で入学。当時の弘高は全寮制で1年次は自宅通学以外は寮に入らなければならなかったが、太宰は母の考えもあって、病弱と偽り津島家の親戚筋にあたる藤田家(現・太宰治まなびの家)で下宿生活をしていた。夏休みで金木に帰省中の7月24日、芥川龍之介の自殺を知り衝撃を受け、弘前の下宿に戻るとしばらく閉じこもっていたという。
1928年(昭和3年)、同人誌『細胞文芸』を発行すると辻島衆二名義で当時流行のプロレタリア文学の影響を受けた『無限奈落』を発表するが、連載は1回で終了。津島家の反対を受けたと推測されている。この同人誌の製作にのめり込む反面、授業には殆ど出席せず、成績の悪化により、担当教師からは「正直さに欠ける」「外面上は正直に見える」という評価を受けた。またこの頃、芸者の小山初代(1912-1944年)と知り合う。1929年(昭和4年)、弘高で起きた同盟休校事件をモデルに『学生群』を執筆、改造社の懸賞小説に応募するが落選。12月10日深夜にカルモチン自殺を図り、母たねの付き添いで大鰐温泉で1月7日まで静養した。太宰は自殺未遂の理由を『苦悩の年鑑』の中で「私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役のほうであった」と自分の身分と思想の違いとして書いているが、1月16日から特高によって弘高の左翼学生が相次いで逮捕される事件が起きており、津島家から事前に情報を得た太宰が逮捕を逃れるために自殺未遂をしたのではという見方もある。
1930年(昭和5年)、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学、上京。当時、東大英文科や国文科などには入試があったが、仏文科は不人気で無試験であった。太宰はそれを当て込んで仏文科に出願したが、たまたま1930年には仏文科でもフランス語の入試があった。目算が外れた太宰は他の志願者とともに試験場で手を挙げ、試験官の辰野隆に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた。しかし友人の大高勝次郎などには、仏文科への志望を「肩書のカッコ良さ」や「高名な研究者の辰野隆がいるから」など、もっともらしい理由をつけて虚勢を張っていたという。
講義についていけず、美学科、美術史科への転科を検討している。小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。10月、小山初代が太宰の手引きで置屋を出て上京。津島家は芸者との結婚に強く反対。11月に長兄の文治が上京して説得するが、太宰は初代と結婚すると主張。文治は津島家との分家除籍を条件に結婚を認める。大学を卒業するまで毎月120円の仕送りも約束するが、財産分与を期待していた太宰は落胆する。除籍になった10日後の11月28日、銀座のバー「ホリウッド」の女給で18歳の田部シメ子と鎌倉・腰越の海にてカルモチンで自殺を図る。だがシメ子だけ死亡し、太宰は生き残る。この事件について太宰は『東京八景』『人間失格』などで入水自殺と書いているが、当時の新聞記事では催眠剤を飲み海岸で倒れているところを発見されたと報道されている。自殺幇助罪に問われるが、文治らの働きかけで起訴猶予処分となる。南津軽郡の碇ヶ関温泉郷の柴田旅館で、初代と仮祝言をあげるが、入籍はしなかった。年明け、太宰は文治と覚書を交わし、問題行動を起こさず、大学卒業を約束する代わりに毎月120円の仕送りを受けることになった。2月、初代が上京し、新婚生活が始まる。
1932年(昭和7年)、小説家になる決意で『思ひ出』『魚服記』を執筆。文治の助力で左翼活動から離脱(「#左翼活動」参照)。仕送りは120円から90円に減額された。
1933年(昭和8年)、『サンデー東奥』(2月19日発行)に『列車』を太宰治の筆名で発表。同人誌『海豹』に参加、創刊号に『魚服記』を掲載。檀一雄と知り合う。同人誌『青い花』を創刊、『ロマネスク』を発表するが、中原中也らと争い1号で休刊となった。
1935年(昭和10年)、『逆行』を『文藝』2月号に発表。大学5年目になっていた太宰は、卒業できず仕送りを打ち切られることを考え、都新聞社(現・東京新聞)の入社試験を受けるが不合格。3月18日、鎌倉で首吊り自殺を図る。4月、腹膜炎の手術を受ける。入院中に鎮痛剤パビナールの注射を受け、以後依存症となる。学費未納のため9月30日付で大学を除籍となった。
同人雑誌『日本浪曼派』に発表した『道化の華』が佐藤春夫の目に留まり、「及第点をつけ申し候」とのハガキをもらう。 第1回芥川賞が開催され、『逆行』が候補となるが落選(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』)。芥川賞選考委員であった佐藤は選評で「『逆行』は太宰君の今までの諸作のうちではむしろ失敗作」と厳しく、同じく選考委員である川端康成からは「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評される。太宰は川端に「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌『文藝通信』10月号で反撃した。太宰は精神的に落ち込み、知人の作家である今官一へ向けて、不安を掻き立てる内容の手紙を送り、慌てて返信した今の反応を楽しむような内容の手紙を送り返すという奇行に走っている。
1936年(昭和11年)、第2回芥川賞選考を前に、太宰は師事する佐藤宛てに「佐藤さん一人がたのみでございます」と受賞を乞う手紙を出すが、井伏鱒二と山岸外史から太宰のパビナール依存を聞いていた佐藤は、太宰を呼び出し入院治療を厳命。済生会芝病院に10日間入院した。第2回芥川賞の結果は「受賞該当者なし」で太宰は候補作になかった。この頃の太宰は、後述の鎮痛剤の中毒に悩まされ、友人知人問わずに死を仄めかすなど、精神的に不安定だったが、度重なる言動に激怒した雑誌記者から「死ねないくせに、脅迫、強請りだ」と罵られることもあったという。
第3回に向け、太宰は『文學界』に『虚構の春』を発表。6月21日、処女短編集『晩年』を砂子屋書房より刊行。7月11日、上野精養軒で佐藤や井伏を招いて出版記念会を行う。さらに第1回の選考をめぐり「悪党」呼ばわりした川端康成に対し献本と選考懇願の手紙を送っているが、第3回では過去に候補作となった小説家は選考対象から外すという規定が設けられ、候補にすらならなかった。
パビナール依存がひどくなり、多い時には1日50本を注射。初代の着物を質に入れ、知人に借金をして歩いた。初代が井伏鱒二に泣きつき、文治に頼まれた津島家出入りの商人の中畑慶吉と北芳四郎が、10月13日に東京武蔵野病院に強制入院させる。11月12日に退院するが、翌1937年(昭和12年)、津島家の親類の画学生小館善四郎が初代との不貞行為を告白。3月下旬、水上温泉で初代とカルモチン自殺未遂。6月には初代と離別した。
1938年(昭和13年)、井伏鱒二の紹介で山梨県甲府市出身の地質学者・石原初太郎の四女の石原美知子と見合い。このとき、太宰は媒酌人を渋る井伏に対して「結婚誓約書」という文書を提出した。その中でこれまでの乱れた生活を反省、家庭を守る決意をして「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」と書いている。翌年1月8日、井伏の自宅で結婚式を挙げる。同日、甲府市街の北に位置する甲府市御崎町(現・甲府市朝日五丁目)に移り住む。9月1日、東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居。精神的にも安定し、『女生徒』『富嶽百景』『駆込み訴え』『走れメロス』などの優れた短編を発表した。『女生徒』は川端康成が「『女生徒』のような作品に出会えることは、時評家の偶然の幸運」と激賞、原稿の依頼が急増した。
1941年(昭和16年)、文士徴用令に呼ばれるが、身体検査で肺浸潤とされて徴用免除される。太田静子に会い、日記を書くことを勧める。太平洋戦争中も『津軽』『お伽草紙』や長編小説『新ハムレット』『右大臣実朝』など旺盛な創作活動を継続。戦前から戦中にかけては甲府の湯村温泉(現・信玄の湯 湯村温泉)に度々逗留し、同温泉の「旅館明治」を定宿としていたほか、銭湯の「喜久乃湯温泉」にも通っていた。
1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲に遭い、甲府にある美知子の実家に疎開。7月6日から7日にかけての甲府空襲で石原家は全焼。津軽の津島家へ疎開。終戦を迎えた。
1945年10月から翌1946年1月まで『河北新報』に『パンドラの匣』を連載。これは『雲雀の声』として書き下ろしたものの印刷所が空襲に遭い、燃えてしまった原稿のゲラを手直ししたものである。1946年(昭和21年)11月14日、東京に戻る。チェーホフの『桜の園』のような没落貴族の小説を構想、1947年(昭和22年)2月、神奈川県下曾我で太田静子と再会、日記を借りる。3月27日、美容師の山崎富栄と知り合う。
没落華族を描いた長編小説『斜陽』を『新潮』に連載。12月15日、単行本として出版されるとベストセラーになり、「斜陽族」が流行語となるなど流行作家となる。『斜陽』の完成と前後して、登場人物のモデルとなった歌人太田静子との間に娘の太田治子が生まれ、太宰は認知した。
10月頃、新潮社の野原一夫は太宰が愛人の山崎富栄の部屋で大量に喀血しているのを目撃しているが、富栄は慣れた様子で手当てをしていたという。1948年(昭和23年)、『人間失格』『桜桃』などを書きあげる。富栄は手際が良く、「スタコラさっちゃん」と呼ばれ、太宰の愛人兼秘書のような存在になっていた。美容師を辞め、20万円ほどあった貯金も太宰の遊興費に使い果たした。部屋に青酸カリを隠していると脅し、6月7日以降、太宰は富栄の部屋に軟禁状態になった。心配した筑摩書房社長の古田晁が井伏鱒二に相談し、御坂峠の天下茶屋で静養させる計画を立てる。6月12日、太宰は古田が週末の下宿先にしていた埼玉県大宮市の宇治病院を訪ねるが、古田は静養の準備のため信州(長野県)に出張中だった。
1948年(昭和23年)6月13日、玉川上水で山崎富栄と入水した。満38歳没。2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の39回目の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一により「桜桃忌」と名付けられた。
この事件は当時から様々な憶測を生み、富栄による無理心中説、狂言心中失敗説などが唱えられていた。津島家に出入りしていた呉服商の中畑慶吉は三鷹警察署の刑事に入水の現場を案内され、下駄を思い切り突っ張った跡があったこと、手をついて滑り落ちるのを止めようとした跡も歴然と残っていたと述べ、「一週間もたち、雨も降っているというのに歴然とした痕跡が残っているのですから、よほど強く"イヤイヤ"をしたのではないでしょうか」「太宰は『死にましょう』といわれて、簡単に『よかろう』と承諾したけれども、死の直前において突然、生への執着が胸を横切ったのではないでしょうか」と推測している。
中畑は三鷹警察署の署長から意見を求められ「私には純然たる自殺とは思えぬ」と確信をもって答えた。すると署長も「自殺、つまり心中ということを発表してしまった現在、いまさらとやかく言っても仕方がないが、実は警察としても(自殺とするには)腑に落ちぬ点もあるのです」と発言した。
『朝日新聞』と『朝日評論』に掲載したユーモア小説「グッド・バイ」が未完の遺作となった。奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、キリスト教のジンクス(13 (忌み数))を暗示した太宰の最後の洒落だったとする説(檀一雄)もある。自身の体調不良や、一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺の一つの理由だったとする説もあった。
しかし、50回忌を目前に控えた1998年(平成10年)5月23日に遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明。遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判った。
既成文壇に対する宣戦布告とも言うべき連載評論「如是我聞」の最終回は死後に掲載された。東京・杉並区梅里の堀ノ内斎場にて荼毘に付される。戒名は文綵院大猷治通居士。
1929年(昭和4年)、弘前高校で校長の公金流用が発覚し、学生たちは上田重彦(石上玄一郎)社会科学研究会リーダーのもと5日間の同盟休校(ストライキ)を行い、校長の辞職、生徒の処分なしという成果を勝ち取る。太宰はストライキにほとんど参加しなかったが、当時流行のプロレタリア文学を真似て、事件を『学生群』という小説にまとめ、上田に朗読して聞かせている。津島家は太宰の左翼活動を警戒した。翌年1月16日、特高は田中清玄の武装共産党の末端活動家として動いていた上田ら弘高社研の学生9名を逮捕。3月3日、逮捕された上田ら4人は放校処分、3人が諭旨退学、2人が無期停学となっている。
大学生になった太宰は活動家の工藤永蔵と知り合い、共産党に毎月10円の資金カンパをする。初代との結婚で津島家を分家除籍にされたのは、政治家でもある文治に非合法活動の累が及ぶのを防ぐためでもあった。結婚してからはシンパを匿うよう命令され、引っ越しを繰り返した。やがて警察にマークされるようになり、2度も留置所に入れられた。1932年(昭和7年)7月、文治は連絡のつかなかった太宰を探し当て、青森警察署に出頭させる。12月、青森検事局で誓約書に署名捺印して左翼活動から完全離脱した。
太宰は、絵画も描いた。東京美術学校(現在の東京芸術大学)に進んだ兄・圭治の影響もあって子供時代から美術に関心が持ち、長じては文壇内だけでなく画家とも交流を持ち、杉並時代は久富邦夫、三鷹時代は桜井浜江と近所に住んでいた画家と往来があった。三鷹市美術ギャラリーが2018年から太宰が描いた絵画9点を所蔵し、太宰の担当編集者であった石井立(たつ)の遺族がこれを見て石井立が所蔵していた太宰作と思われる肖像画を新たに寄贈し、鑑定により太宰作と判断された。
※がついている人物は太宰に先立って死去している。
太宰治、またはそれに相当する人物を演じた俳優・声優の一覧。
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"text": "太宰 治(だざい おさむ、1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。本名:津島 修治(つしま しゅうじ)。左翼活動での挫折後、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『人間失格』がある。没落した華族の女を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。戦後は、その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳、檀一雄らとともに新戯作派、無頼派と称されたが、典型的な自己破滅型の私小説作家であった。",
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"text": "講義についていけず、美学科、美術史科への転科を検討している。小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。10月、小山初代が太宰の手引きで置屋を出て上京。津島家は芸者との結婚に強く反対。11月に長兄の文治が上京して説得するが、太宰は初代と結婚すると主張。文治は津島家との分家除籍を条件に結婚を認める。大学を卒業するまで毎月120円の仕送りも約束するが、財産分与を期待していた太宰は落胆する。除籍になった10日後の11月28日、銀座のバー「ホリウッド」の女給で18歳の田部シメ子と鎌倉・腰越の海にてカルモチンで自殺を図る。だがシメ子だけ死亡し、太宰は生き残る。この事件について太宰は『東京八景』『人間失格』などで入水自殺と書いているが、当時の新聞記事では催眠剤を飲み海岸で倒れているところを発見されたと報道されている。自殺幇助罪に問われるが、文治らの働きかけで起訴猶予処分となる。南津軽郡の碇ヶ関温泉郷の柴田旅館で、初代と仮祝言をあげるが、入籍はしなかった。年明け、太宰は文治と覚書を交わし、問題行動を起こさず、大学卒業を約束する代わりに毎月120円の仕送りを受けることになった。2月、初代が上京し、新婚生活が始まる。",
"title": "生涯"
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"text": "1932年(昭和7年)、小説家になる決意で『思ひ出』『魚服記』を執筆。文治の助力で左翼活動から離脱(「#左翼活動」参照)。仕送りは120円から90円に減額された。",
"title": "生涯"
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"text": "1933年(昭和8年)、『サンデー東奥』(2月19日発行)に『列車』を太宰治の筆名で発表。同人誌『海豹』に参加、創刊号に『魚服記』を掲載。檀一雄と知り合う。同人誌『青い花』を創刊、『ロマネスク』を発表するが、中原中也らと争い1号で休刊となった。",
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"text": "1935年(昭和10年)、『逆行』を『文藝』2月号に発表。大学5年目になっていた太宰は、卒業できず仕送りを打ち切られることを考え、都新聞社(現・東京新聞)の入社試験を受けるが不合格。3月18日、鎌倉で首吊り自殺を図る。4月、腹膜炎の手術を受ける。入院中に鎮痛剤パビナールの注射を受け、以後依存症となる。学費未納のため9月30日付で大学を除籍となった。",
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"text": "同人雑誌『日本浪曼派』に発表した『道化の華』が佐藤春夫の目に留まり、「及第点をつけ申し候」とのハガキをもらう。 第1回芥川賞が開催され、『逆行』が候補となるが落選(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』)。芥川賞選考委員であった佐藤は選評で「『逆行』は太宰君の今までの諸作のうちではむしろ失敗作」と厳しく、同じく選考委員である川端康成からは「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評される。太宰は川端に「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌『文藝通信』10月号で反撃した。太宰は精神的に落ち込み、知人の作家である今官一へ向けて、不安を掻き立てる内容の手紙を送り、慌てて返信した今の反応を楽しむような内容の手紙を送り返すという奇行に走っている。",
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"text": "1936年(昭和11年)、第2回芥川賞選考を前に、太宰は師事する佐藤宛てに「佐藤さん一人がたのみでございます」と受賞を乞う手紙を出すが、井伏鱒二と山岸外史から太宰のパビナール依存を聞いていた佐藤は、太宰を呼び出し入院治療を厳命。済生会芝病院に10日間入院した。第2回芥川賞の結果は「受賞該当者なし」で太宰は候補作になかった。この頃の太宰は、後述の鎮痛剤の中毒に悩まされ、友人知人問わずに死を仄めかすなど、精神的に不安定だったが、度重なる言動に激怒した雑誌記者から「死ねないくせに、脅迫、強請りだ」と罵られることもあったという。",
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"text": "第3回に向け、太宰は『文學界』に『虚構の春』を発表。6月21日、処女短編集『晩年』を砂子屋書房より刊行。7月11日、上野精養軒で佐藤や井伏を招いて出版記念会を行う。さらに第1回の選考をめぐり「悪党」呼ばわりした川端康成に対し献本と選考懇願の手紙を送っているが、第3回では過去に候補作となった小説家は選考対象から外すという規定が設けられ、候補にすらならなかった。",
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"text": "パビナール依存がひどくなり、多い時には1日50本を注射。初代の着物を質に入れ、知人に借金をして歩いた。初代が井伏鱒二に泣きつき、文治に頼まれた津島家出入りの商人の中畑慶吉と北芳四郎が、10月13日に東京武蔵野病院に強制入院させる。11月12日に退院するが、翌1937年(昭和12年)、津島家の親類の画学生小館善四郎が初代との不貞行為を告白。3月下旬、水上温泉で初代とカルモチン自殺未遂。6月には初代と離別した。",
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"text": "1938年(昭和13年)、井伏鱒二の紹介で山梨県甲府市出身の地質学者・石原初太郎の四女の石原美知子と見合い。このとき、太宰は媒酌人を渋る井伏に対して「結婚誓約書」という文書を提出した。その中でこれまでの乱れた生活を反省、家庭を守る決意をして「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」と書いている。翌年1月8日、井伏の自宅で結婚式を挙げる。同日、甲府市街の北に位置する甲府市御崎町(現・甲府市朝日五丁目)に移り住む。9月1日、東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居。精神的にも安定し、『女生徒』『富嶽百景』『駆込み訴え』『走れメロス』などの優れた短編を発表した。『女生徒』は川端康成が「『女生徒』のような作品に出会えることは、時評家の偶然の幸運」と激賞、原稿の依頼が急増した。",
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"text": "1941年(昭和16年)、文士徴用令に呼ばれるが、身体検査で肺浸潤とされて徴用免除される。太田静子に会い、日記を書くことを勧める。太平洋戦争中も『津軽』『お伽草紙』や長編小説『新ハムレット』『右大臣実朝』など旺盛な創作活動を継続。戦前から戦中にかけては甲府の湯村温泉(現・信玄の湯 湯村温泉)に度々逗留し、同温泉の「旅館明治」を定宿としていたほか、銭湯の「喜久乃湯温泉」にも通っていた。",
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"text": "1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲に遭い、甲府にある美知子の実家に疎開。7月6日から7日にかけての甲府空襲で石原家は全焼。津軽の津島家へ疎開。終戦を迎えた。",
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"text": "1945年10月から翌1946年1月まで『河北新報』に『パンドラの匣』を連載。これは『雲雀の声』として書き下ろしたものの印刷所が空襲に遭い、燃えてしまった原稿のゲラを手直ししたものである。1946年(昭和21年)11月14日、東京に戻る。チェーホフの『桜の園』のような没落貴族の小説を構想、1947年(昭和22年)2月、神奈川県下曾我で太田静子と再会、日記を借りる。3月27日、美容師の山崎富栄と知り合う。",
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"text": "没落華族を描いた長編小説『斜陽』を『新潮』に連載。12月15日、単行本として出版されるとベストセラーになり、「斜陽族」が流行語となるなど流行作家となる。『斜陽』の完成と前後して、登場人物のモデルとなった歌人太田静子との間に娘の太田治子が生まれ、太宰は認知した。",
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"text": "10月頃、新潮社の野原一夫は太宰が愛人の山崎富栄の部屋で大量に喀血しているのを目撃しているが、富栄は慣れた様子で手当てをしていたという。1948年(昭和23年)、『人間失格』『桜桃』などを書きあげる。富栄は手際が良く、「スタコラさっちゃん」と呼ばれ、太宰の愛人兼秘書のような存在になっていた。美容師を辞め、20万円ほどあった貯金も太宰の遊興費に使い果たした。部屋に青酸カリを隠していると脅し、6月7日以降、太宰は富栄の部屋に軟禁状態になった。心配した筑摩書房社長の古田晁が井伏鱒二に相談し、御坂峠の天下茶屋で静養させる計画を立てる。6月12日、太宰は古田が週末の下宿先にしていた埼玉県大宮市の宇治病院を訪ねるが、古田は静養の準備のため信州(長野県)に出張中だった。",
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"text": "1948年(昭和23年)6月13日、玉川上水で山崎富栄と入水した。満38歳没。2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の39回目の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一により「桜桃忌」と名付けられた。",
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"text": "この事件は当時から様々な憶測を生み、富栄による無理心中説、狂言心中失敗説などが唱えられていた。津島家に出入りしていた呉服商の中畑慶吉は三鷹警察署の刑事に入水の現場を案内され、下駄を思い切り突っ張った跡があったこと、手をついて滑り落ちるのを止めようとした跡も歴然と残っていたと述べ、「一週間もたち、雨も降っているというのに歴然とした痕跡が残っているのですから、よほど強く\"イヤイヤ\"をしたのではないでしょうか」「太宰は『死にましょう』といわれて、簡単に『よかろう』と承諾したけれども、死の直前において突然、生への執着が胸を横切ったのではないでしょうか」と推測している。",
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"text": "中畑は三鷹警察署の署長から意見を求められ「私には純然たる自殺とは思えぬ」と確信をもって答えた。すると署長も「自殺、つまり心中ということを発表してしまった現在、いまさらとやかく言っても仕方がないが、実は警察としても(自殺とするには)腑に落ちぬ点もあるのです」と発言した。",
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"text": "『朝日新聞』と『朝日評論』に掲載したユーモア小説「グッド・バイ」が未完の遺作となった。奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、キリスト教のジンクス(13 (忌み数))を暗示した太宰の最後の洒落だったとする説(檀一雄)もある。自身の体調不良や、一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺の一つの理由だったとする説もあった。",
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"text": "しかし、50回忌を目前に控えた1998年(平成10年)5月23日に遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明。遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判った。",
"title": "生涯"
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"text": "既成文壇に対する宣戦布告とも言うべき連載評論「如是我聞」の最終回は死後に掲載された。東京・杉並区梅里の堀ノ内斎場にて荼毘に付される。戒名は文綵院大猷治通居士。",
"title": "生涯"
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"text": "1929年(昭和4年)、弘前高校で校長の公金流用が発覚し、学生たちは上田重彦(石上玄一郎)社会科学研究会リーダーのもと5日間の同盟休校(ストライキ)を行い、校長の辞職、生徒の処分なしという成果を勝ち取る。太宰はストライキにほとんど参加しなかったが、当時流行のプロレタリア文学を真似て、事件を『学生群』という小説にまとめ、上田に朗読して聞かせている。津島家は太宰の左翼活動を警戒した。翌年1月16日、特高は田中清玄の武装共産党の末端活動家として動いていた上田ら弘高社研の学生9名を逮捕。3月3日、逮捕された上田ら4人は放校処分、3人が諭旨退学、2人が無期停学となっている。",
"title": "エピソード"
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"text": "大学生になった太宰は活動家の工藤永蔵と知り合い、共産党に毎月10円の資金カンパをする。初代との結婚で津島家を分家除籍にされたのは、政治家でもある文治に非合法活動の累が及ぶのを防ぐためでもあった。結婚してからはシンパを匿うよう命令され、引っ越しを繰り返した。やがて警察にマークされるようになり、2度も留置所に入れられた。1932年(昭和7年)7月、文治は連絡のつかなかった太宰を探し当て、青森警察署に出頭させる。12月、青森検事局で誓約書に署名捺印して左翼活動から完全離脱した。",
"title": "エピソード"
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{
"paragraph_id": 28,
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"text": "太宰は、絵画も描いた。東京美術学校(現在の東京芸術大学)に進んだ兄・圭治の影響もあって子供時代から美術に関心が持ち、長じては文壇内だけでなく画家とも交流を持ち、杉並時代は久富邦夫、三鷹時代は桜井浜江と近所に住んでいた画家と往来があった。三鷹市美術ギャラリーが2018年から太宰が描いた絵画9点を所蔵し、太宰の担当編集者であった石井立(たつ)の遺族がこれを見て石井立が所蔵していた太宰作と思われる肖像画を新たに寄贈し、鑑定により太宰作と判断された。",
"title": "作品一覧"
},
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "※がついている人物は太宰に先立って死去している。",
"title": "家族・親族"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "太宰治、またはそれに相当する人物を演じた俳優・声優の一覧。",
"title": "演じた俳優・声優"
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] |
太宰 治は、日本の小説家。本名:津島 修治。左翼活動での挫折後、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『人間失格』がある。没落した華族の女を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。戦後は、その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳、檀一雄らとともに新戯作派、無頼派と称されたが、典型的な自己破滅型の私小説作家であった。
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{{Infobox 作家
| name = 太宰 治<br />(だざい おさむ )
| image = Dazai Osamu.jpg
| caption = [[1948年]]2月頃<ref name="asahi">『[[朝日新聞]]』東京西部版 2009年11月24日「カメラがとらえた作家太宰治 肖像写真86点展示 三鷹で来月23日まで/東京都」</ref>([[田村茂]]撮影<ref name="asahi"/>)
| pseudonym =
| birth_name = 津島 修治(つしま しゅうじ)
| birth_date = [[1909年]][[6月19日]]
| birth_place = {{JPN1870}}、[[青森県]][[北津軽郡]][[金木町|金木村]]<br />(現・[[五所川原市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210210/k10012859651000.html|title=太宰治 “理系科目も優秀だった” 旧制中学校時代の成績表公開|publisher=[[日本放送協会|NHK]]ニュース|date=2021-02-10|accessdate=2021-02-18}}</ref>)
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1909|6|19|1948|6|13|三鷹警察署[[鑑識]]による}}
| death_place = {{JPN1870}}、[[東京都]][[北多摩郡]]三鷹町<br />(現・[[三鷹市]])
| resting_place = [[東京都]][[三鷹市]][[禅林寺 (三鷹市)|禅林寺]]
| occupation = [[小説家]]
| language = [[日本語]]
| nationality = {{JPN1870}}
| education =
| alma_mater = [[東京帝国大学]][[仏文科]]中退
| period = [[1933年]] - [[1948年]]
| genre =
| subject = 人間の心理<br />古典や説話の[[オマージュ]]<br />人間の宿痾
| movement = [[無頼派]]<ref>[[宇野俊一]]ほか編『日本全史(ジャパン・エミルカ‘クロニック)』[[講談社]]、1991年、1095頁。ISBN 4-06-203994-X。</ref>([[新戯作派]])
| notable_works = 『[[ダス・ゲマイネ]]』(1935年)<br />『[[富嶽百景]]』(1939年)<br />『[[女生徒 (短編集)|女生徒]]』(1939年)<br />『[[走れメロス]]』(1940年)<br />『[[津軽 (小説)|津軽]]』(1944年)<br />『[[お伽草紙 (太宰治)|お伽草紙]]』(1945年)<br />『[[ヴィヨンの妻]]』(1947年)<br />『[[斜陽]]』(1947年)<br />『[[人間失格]]』(1948年)
| debut_works = 「列車」(1933年)
| spouse = [[津島美知子]](1938年 - 1948年)
| partner =
| children = 津島園子([[津島雄二]]妻)<br/>[[津島佑子]]<br/>[[太田治子]]
| relations = [[津島文治]](兄)<br/>[[津島雄二]](娘婿)<br/>[[津島淳]](孫)<br>[[石原燃]](孫)
| influences = [[芥川龍之介]]<br/>[[泉鏡花]]<br/>[[プロレタリア文学]]<br/>[[井伏鱒二]]<br/>[[佐藤春夫]]<br/>[[共産主義]]<br/>[[塚本虎二]](雑誌『聖書知識』)
| influenced = [[田中英光]]<br/>[[新潮社]] [[野平健一]]<br/>[[今村夏子]]、[[檀一雄]]<br/>[[三島由紀夫]]、[[又吉直樹]]
| signature =
| website =
}}
'''太宰 治'''(だざい おさむ、[[1909年]]〈[[明治]]42年〉[[6月19日]] - [[1948年]]〈[[昭和]]23年〉[[6月13日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。本名:津島 修治(つしま しゅうじ)。[[左翼]]活動での挫折後、[[自殺]]未遂や[[薬物中毒]]を繰り返しながらも、[[第二次世界大戦]]前から[[戦後]]にかけて作品を次々に発表。主な作品に『[[走れメロス]]』『[[津軽 (小説)|津軽]]』『[[人間失格]]』がある。没落した[[華族]]の女を主人公にした『[[斜陽]]』はベストセラーとなる。戦後は、その作風から[[坂口安吾]]、[[織田作之助]]、[[石川淳]]、[[檀一雄]]らとともに[[新戯作派]]、[[無頼派]]と称されたが、典型的な自己破滅型の[[私小説]]作家であった<ref name="kotobank">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/太宰治-93203|title=コトバンク - 太宰治|accessdate=2019-10-12}}</ref>。
== 生涯 ==
=== 幼年時代 ===
[[File:Osamu Dazai in High School.jpg|thumb|175px|高校の卒業アルバムより]]
[[File:Osamu Dazai1928.jpg|thumb|175px|[[1928年]]頃撮影]]
[[青森県]][[北津軽郡]]金木村(のちの[[金木町]]、現在の[[五所川原市]])に、県下有数の[[寄生地主制|大地主]]である父[[津島源右衛門]]と母たね(夕子)の六男として生まれた。両親にいる11人の子女のうちの10番目。父・源右衛門は木造村の[[豪農]]松木家からの[[婿養子]]で県会議員、[[衆議院議員]]、多額[[納税]]による[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]などを務めた地元の名士で、津島家は「金木の[[殿様]]」とも呼ばれていた。父は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったため、生まれてすぐ[[乳母]]に育てられた。その乳母が1年足らずで辞めた後は叔母のキエ(たねの妹)が、3歳から小学校入学までは14歳の[[女中]]・近村たけが子守りを務めた。[[1916年]]([[大正]]5年)、金木第一[[尋常小学校]]に入学。津島家の子弟は実際の成績に関係なく、学業は全て「甲」をつけられていたが、太宰は実際の成績も良く、開校以来の秀才と言われていたという{{sfn|野原|1998|p=34}}。小学校卒業後、明治[[高等小学校]]に1年間通った。これは次兄の英治と三兄の圭治が成績不振で[[青森県立弘前高等学校|弘前中学校]]を2年で中退していたため、落ちこぼれぬよう学力補充のための通学だったとされている{{sfn|野原|1998|p=35}}。
=== 学生時代 ===
[[File:Shimeko Tanabe, before 1930.jpg|thumb|150px|田部シメ子]]
[[1923年]](大正12年)、3月4日、父源右衛門が[[肺癌]]で死去。4月、[[青森県立青森高等学校|青森県立青森中学校]]に入学、実家を離れて[[下宿]]生活を送る。成績優秀で1年の2学期から卒業まで級長を務め、4年修了(四修)時の成績は148名中4番目であった。[[芥川龍之介]]、[[志賀直哉]]、[[室生犀星]]、[[菊池寛]]などを愛読、[[井伏鱒二]]の『幽閉([[山椒魚 (小説)|山椒魚]])』には読んで座っていられないほど興奮した{{sfn|野原|1998|p=40}}。在学中の17歳頃に『校友会誌』に習作「最後の[[太閤]]」を書き、また友人と同人誌『[[蜃気楼]]』を12号まで発行。小説家を志望するようになる。しかしこの時期から怠け癖が見え始め、太宰の長兄である[[津島文治]]が、太宰の中学時代の教科書を見たところ、教師や兄弟の似顔絵がぎっしり描かれていたという<ref>『文豪たちの嘘つき本』、2023年4月20日発行、彩図社文芸部、彩図社、P17</ref>。
[[1927年]](昭和2年)[[弘前高等学校 (旧制)|旧制弘前高等学校]]文科甲類に優秀な成績で入学。当時の弘高は全寮制で1年次は自宅通学以外は寮に入らなければならなかったが、太宰は母の考えもあって、病弱と偽り津島家の親戚筋にあたる藤田家(現・[[太宰治まなびの家]])で下宿生活をしていた{{sfn|野原|1998|p=44}}。夏休みで金木に帰省中の7月24日、[[芥川龍之介]]の自殺を知り衝撃を受け、弘前の下宿に戻るとしばらく閉じこもっていたという{{sfn|野原|1998|p=47}}{{sfn|猪瀬|2000|p=31}}。
[[1928年]]([[昭和]]3年)、同人誌『細胞文芸』を発行すると'''辻島衆二'''名義で当時流行の[[プロレタリア文学]]の影響を受けた『無限奈落』を発表するが、連載は1回で終了。津島家の反対を受けたと推測されている{{sfn|野原|1998|p=51}}{{sfn|猪瀬|2000|p=50}}。この同人誌の製作にのめり込む反面、授業には殆ど出席せず、成績の悪化により、担当教師からは「正直さに欠ける」「外面上は正直に見える」という評価を受けた<ref>『文豪たちの嘘つき本』、2023年4月20日発行、彩図社文芸部、彩図社、P17</ref>。またこの頃、[[芸者]]の[[小山初代]](1912-1944年)と知り合う。[[1929年]](昭和4年)、弘高で起きた同盟休校事件をモデルに『学生群』を執筆、[[改造社]]の懸賞小説に応募するが落選{{sfn|猪瀬|2000|p=60}}。12月10日深夜に[[ブロムワレリル尿素|カルモチン]][[自殺]]を図り、母たねの付き添いで[[大鰐温泉]]で1月7日まで静養{{Efn|太宰が逗留した老舗旅館「ヤマニ仙遊館」は休業を経て2018年8月、[[土蔵]]をレストランとして再開した。太宰が使ったとされる文机などが残っている<ref>『[[読売新聞]]』夕刊2018年8月7日掲載[https://web.archive.org/web/20180809090841/https://www.yomiuri.co.jp/culture/20180805-OYT1T50039.html 「太宰が自殺未遂後療養、老舗旅館がレストランに」]{{リンク切れ|date=2021年2月}}(2018年8月9日閲覧)</ref>。2019年4月27日には旅館業も再開した<ref>『読売新聞』朝刊2019年5月3日「太宰の宿 4年ぶり再開/宿泊再開 5時代続く」</ref>。}}した。太宰は自殺未遂の理由を『苦悩の年鑑』の中で「私は[[賤民]]ではなかった。[[ギロチン]]にかかる役のほうであった」と自分の身分と思想の違いとして書いているが{{sfn|野原|1998|p=62}}、1月16日から[[特別高等警察|特高]]によって弘高の左翼学生が相次いで逮捕される事件が起きており、津島家から事前に情報を得た太宰が逮捕を逃れるために自殺未遂をしたのではという見方もある{{sfn|猪瀬|2000|pp=70-71}}。
[[1930年]](昭和5年)、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。[[フランス語]]を知らぬまま[[フランス文学]]に憧れて[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京帝国大学文学部]]仏文学科に入学、上京。当時、東大英文科や国文科などには入試があったが、仏文科は不人気で無試験であった<ref name="平岡敏男">『太宰治に出会った日』所収、平岡敏男「若き日の太宰治」39-40頁</ref>。太宰はそれを当て込んで仏文科に出願したが、たまたま1930年には仏文科でもフランス語の入試があった<ref name="平岡敏男" />。目算が外れた太宰は他の志願者とともに試験場で手を挙げ、試験官の[[辰野隆]]に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた<ref name="平岡敏男" />。しかし友人の[[大高勝次郎]]などには、仏文科への志望を「肩書のカッコ良さ」や「高名な研究者の辰野隆がいるから」など、もっともらしい理由をつけて虚勢を張っていたという<ref>『文豪たちの嘘つき本』、2023年4月20日発行、彩図社文芸部、彩図社、P22~23</ref>。
講義についていけず、[[美学]]科、美術史科への転科を検討している{{sfn|猪瀬|2000|p=110}}。小説家になるために[[井伏鱒二]]に弟子入りする。10月、小山初代が太宰の手引きで[[置屋]]を出て上京。津島家は[[芸者]]との結婚に強く反対。11月に長兄の文治が上京して説得するが、太宰は初代と結婚すると主張。文治は津島家との分家除籍を条件に結婚を認める。大学を卒業するまで毎月120円の仕送りも約束するが、財産分与を期待していた太宰は落胆する{{sfn|猪瀬|2000|p=109}}。除籍になった10日後の11月28日、[[銀座]]の[[バー (酒場)|バー]]「ホリウッド」の[[ウェイトレス|女給]]で18歳の[[田部シメ子]]と[[鎌倉]]・[[腰越]]の海にて[[ブロムワレリル尿素#商品|カルモチン]]で[[自殺]]を図る。だがシメ子だけ死亡し、太宰は生き残る。この事件について太宰は『東京八景』『人間失格』などで[[入水]]自殺と書いているが、当時の新聞記事では[[睡眠薬|催眠剤]]を飲み海岸で倒れているところを発見されたと報道されている{{sfn|猪瀬|2000|p=125}}。[[自殺関与・同意殺人罪#自殺幇助罪|自殺幇助罪]]に問われるが、文治らの働きかけで[[起訴猶予処分]]となる{{sfn|猪瀬|2000|p=132}}{{Efn|なお、この処分については、担当の宇野検事がたまたま太宰の父の実家である松木家の親類であることや、担当の刑事がたまたま金木出身であることが太宰にとって有利に作用したとする説もある<ref>中畑慶吉の談話{{Full citation needed|date=2021年2月}}</ref>。}}。南津軽郡の[[碇ヶ関温泉郷]]の柴田旅館で、初代と仮[[祝言]]をあげる{{sfn|野原|1998|p=89}}が、入籍はしなかった{{sfn|猪瀬|2000|p=135}}。年明け、太宰は文治と覚書を交わし、問題行動を起こさず、大学卒業を約束する代わりに毎月120円の仕送りを受けることになった。2月、初代が上京し、新婚生活が始まる{{sfn|猪瀬|2000|p=136}}。
[[1932年]](昭和7年)、小説家になる決意で『思ひ出』『魚服記』を執筆。文治の助力で左翼活動から離脱(「[[#左翼活動]]」参照)。仕送りは120円から90円に減額された{{sfn|猪瀬|2000|p=199}}。
=== 創作、乱れた私生活 ===
[[File:OsamuDazai.jpg|thumb|200px|[[インバネスコート]]姿の太宰治]]
[[1933年]](昭和8年)、『サンデー東奥』(2月19日発行)に『列車』を'''太宰治'''の筆名で発表。[[同人誌]]『海豹』に参加、創刊号に『魚服記』を掲載。[[檀一雄]]と知り合う。同人誌『青い花』を創刊、『ロマネスク』を発表するが、[[中原中也]]らと争い1号で休刊となった{{sfn|野原|1998|p=117}}。
[[1935年]](昭和10年)、『逆行』を『[[文藝]]』2月号に発表。大学5年目になっていた太宰は、卒業できず仕送りを打ち切られることを考え、[[都新聞|都新聞社]](現・[[東京新聞]])の入社試験を受けるが不合格。3月18日、鎌倉で首吊り自殺を図る{{sfn|猪瀬|2000|p=257}}。4月、[[腹膜炎]]の手術を受ける。入院中に鎮痛剤[[オキシコドン|パビナール]]の注射を受け、以後依存症となる{{sfn|猪瀬|2000|pp=258-259}}。学費未納のため9月30日付で大学を除籍となった<ref group="注釈">東京大学卒業に際して口頭試問を受けた時、教官の一人から「教員の名前が言えたら卒業させてやる」と言われたが、講義に出席していなかった太宰は教員の名前を一人も言えなかったと伝えられる。</ref>。
同人雑誌『[[日本浪曼派]]』に発表した『道化の華』が[[佐藤春夫]]の目に留まり、「及第点をつけ申し候」とのハガキをもらう{{sfn|猪瀬|2000|p=263}}。
第1回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]が開催され、『逆行』が候補となるが落選(このとき受賞したのは[[石川達三]]『[[蒼氓]]』)。芥川賞選考委員であった佐藤は選評で「『逆行』は太宰君の今までの諸作のうちではむしろ失敗作」と厳しく、同じく選考委員である[[川端康成]]からは「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評される。太宰は川端に「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌『文藝通信』10月号で反撃した{{sfn|猪瀬|2000|p=266-269}}。太宰は精神的に落ち込み、知人の作家である[[今官一]]へ向けて、不安を掻き立てる内容の手紙を送り、慌てて返信した今の反応を楽しむような内容の手紙を送り返すという奇行に走っている<ref>『文豪たちの嘘つき本』、2023年4月20日発行、彩図社文芸部、彩図社、P19</ref>。
[[1936年]](昭和11年)、第2回芥川賞選考を前に、太宰は師事する佐藤宛てに「佐藤さん一人がたのみでございます」と受賞を乞う手紙を出すが、井伏鱒二と山岸外史から太宰の[[オキシコドン|パビナール依存]]を聞いていた佐藤は、太宰を呼び出し入院治療を厳命。[[東京都済生会中央病院|済生会芝病院]]に10日間入院した{{sfn|猪瀬|2000|pp=275-276}}。第2回芥川賞の結果は「受賞該当者なし」で太宰は候補作になかった。この頃の太宰は、後述の鎮痛剤の中毒に悩まされ、友人知人問わずに死を仄めかすなど、精神的に不安定だったが、度重なる言動に激怒した雑誌記者から「死ねないくせに、脅迫、強請りだ」と罵られることもあったという<ref>『文豪たちの嘘つき本』、2023年4月20日発行、彩図社文芸部、彩図社、P26~27</ref>。
第3回に向け、太宰は『[[文學界]]』に『虚構の春』を発表。6月21日、処女短編集『[[晩年 (太宰治)|晩年]]』を砂子屋書房より刊行。7月11日、[[上野精養軒]]で佐藤や井伏を招いて出版記念会を行う{{sfn|猪瀬|2000|pp=284-290}}。さらに第1回の選考をめぐり「悪党」呼ばわりした川端康成に対し献本と選考懇願の手紙を送っているが<ref>「芥川賞を私にください」太宰の書簡、川端康成邸で発見『朝日新聞』1978年(昭和53年)5月14日朝刊13版23面</ref>、第3回では過去に候補作となった小説家は選考対象から外すという規定が設けられ、候補にすらならなかった。{{main|芥川龍之介賞#太宰治の落選について|佐藤春夫#人物}}
パビナール依存がひどくなり、多い時には1日50本を注射。初代の着物を質に入れ、知人に借金をして歩いた。初代が井伏鱒二に泣きつき、文治に頼まれた津島家出入りの商人の中畑慶吉と北芳四郎が、10月13日に[[東京武蔵野病院]]に強制入院させる{{sfn|猪瀬|2000|pp=296-299}}。11月12日に退院するが、翌[[1937年]](昭和12年)、津島家の親類の画学生[[小館善四郎]]が初代との[[不貞]]行為を告白。3月下旬、[[水上温泉]]で初代とカルモチン自殺未遂。6月には初代と離別した。
=== 結婚、作家活動===
[[1938年]](昭和13年)、井伏鱒二の紹介で[[山梨県]][[甲府市]]出身の[[地質学者]]・[[石原初太郎]]の四女の[[津島美知子|石原美知子]]と見合い。このとき、太宰は媒酌人を渋る井伏に対して「結婚誓約書」という文書を提出した。その中でこれまでの乱れた生活を反省、家庭を守る決意をして「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」と書いている{{sfn|野原|1998|pp=213-214}}。翌年1月8日、井伏の自宅で結婚式を挙げる。同日、甲府市街の北に位置する甲府市御崎町(現・甲府市朝日五丁目)に移り住む。9月1日、[[東京府]]北多摩郡三鷹村[[下連雀]]に転居。精神的にも安定し、『[[女生徒]]』『[[富嶽百景]]』『[[駆込み訴え]]』『[[走れメロス]]』などの優れた短編を発表した。『女生徒』は川端康成が「『女生徒』のような作品に出会えることは、時評家の偶然の幸運」と激賞、原稿の依頼が急増した{{sfn|猪瀬|2000|p=351}}。
[[1941年]](昭和16年)、文士徴用令に呼ばれるが、身体検査で[[肺浸潤]]とされて徴用免除される。[[太田静子]]に会い、日記を書くことを勧める。[[太平洋戦争]]中も『[[津軽 (小説)|津軽]]』『[[お伽草紙 (太宰治)|お伽草紙]]』や長編小説『[[新ハムレット]]』『[[右大臣実朝]]』など旺盛な創作活動を継続。戦前から戦中にかけては甲府の湯村温泉(現・[[信玄の湯 湯村温泉]])に度々逗留し、同温泉の「旅館明治」を定宿としていたほか<ref>[https://www.ryokanmeiji.com/blank 太宰治とのふれあい] - 旅館明治</ref>、銭湯の「喜久乃湯温泉」にも通っていた<ref>[https://mainichi.jp/articles/20220111/ddl/k19/040/109000c 甲信・静岡紀行 甲府・喜久乃湯温泉 太宰治 波乱の文豪、再生の地/山梨] - 毎日新聞・2022年1月11日</ref>。
[[1945年]](昭和20年)3月10日、[[東京大空襲]]に遭い、甲府にある美知子の実家に[[疎開]]。7月6日から7日にかけての[[甲府空襲]]で石原家は全焼。[[津軽]]の津島家へ疎開。終戦を迎えた。
=== 『斜陽』、もつれた女性関係===
[[File:SizukoOota.jpg|thumb|175px|太田静子]]
[[File:Osamu Dazai1946.jpg|thumb|200px|1946年、銀座のバー「ルパン」にて([[林忠彦]]撮影)<ref>[http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/gyosei/koho/kengai/kirara/backnum/04_summer/yeiyo_kokoro.html きらら山口]</ref>]]
[[1945年]]10月から翌1946年1月まで『[[河北新報]]』に『[[パンドラの匣 (小説)|パンドラの匣]]』を連載。これは『雲雀の声』として書き下ろしたものの印刷所が[[日本本土空襲|空襲]]に遭い、燃えてしまった原稿のゲラを手直ししたものである{{sfn|猪瀬|2000|pp=395-396}}{{sfn|野原|1998|pp=366-367}}。[[1946年]](昭和21年)11月14日、東京に戻る。[[アントン・チェーホフ|チェーホフ]]の『[[桜の園]]』のような没落貴族の小説を構想、[[1947年]](昭和22年)2月、神奈川県下曾我で太田静子と再会、日記を借りる{{sfn|猪瀬|2000|pp=402-406}}。3月27日、美容師の[[山崎富栄]]と知り合う。
没落[[華族]]を描いた長編小説『[[斜陽]]』を『[[新潮]]』に連載。12月15日、単行本として出版されるとベストセラーになり、「[[斜陽族]]」が[[流行語]]となるなど流行作家となる。『斜陽』の完成と前後して、登場人物のモデルとなった[[歌人]][[太田静子]]との間に娘の[[太田治子]]が生まれ、太宰は認知した。{{main|太田治子#経歴}}
10月頃、新潮社の[[野原一夫]]は太宰が愛人の[[山崎富栄]]の部屋で大量に[[喀血]]しているのを目撃しているが、富栄は慣れた様子で手当てをしていたという{{sfn|野原|1998|p=420}}。[[1948年]](昭和23年)、『[[人間失格]]』『[[桜桃]]』などを書きあげる。富栄は手際が良く、「スタコラさっちゃん」と呼ばれ、太宰の愛人兼秘書のような存在になっていた。美容師を辞め、20万円ほどあった貯金も太宰の遊興費に使い果たした{{sfn|猪瀬|2000|p=451}}。部屋に[[青酸カリ]]を隠していると脅し{{sfn|猪瀬|2000|pp=439-440}}、6月7日以降、太宰は富栄の部屋に軟禁状態になった。心配した[[筑摩書房]]社長の[[古田晁]]が井伏鱒二に相談し、[[御坂峠]]の[[天下茶屋 (飲食店)|天下茶屋]]で静養させる計画を立てる。6月12日、太宰は古田が週末の下宿先にしていた[[埼玉県]][[大宮市]]の宇治病院を訪ねるが、古田は静養の準備のため[[信濃国|信州]]([[長野県]])に出張中だった{{sfn|猪瀬|2000|pp=455-456}}。
=== 太宰治の死 ===
<!--Wikipediaの免責事項の関係で、不可視化テンプレートの使用や注意等は望ましくない-->
{{main|太宰治と自殺}}
[[File:Osamu_dazai_19480619.jpg|thumb|right|引き揚げられた太宰と富栄の遺体]]
[[File:TomieYamazaki.jpg|thumb|right|175px|'''[[山崎富栄]]''']]
[[1948年]](昭和23年)[[6月13日]]、[[玉川上水]]で山崎富栄と入水した。満38歳没。2人の遺体は6日後の[[6月19日]]、奇しくも太宰の39回目の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった[[今官一]]により「桜桃忌」と名付けられた。
この事件は当時から様々な憶測を生み、富栄による無理[[心中]]説、[[狂言#比喩としての狂言|狂言]]心中失敗説などが唱えられていた。津島家に出入りしていた呉服商の中畑慶吉は[[三鷹警察署]]の刑事に入水の現場を案内され、[[下駄]]を思い切り突っ張った跡があったこと、手をついて滑り落ちるのを止めようとした跡も歴然と残っていたと述べ、「一週間もたち、雨も降っているというのに歴然とした痕跡が残っているのですから、よほど強く"イヤイヤ"をしたのではないでしょうか」「太宰は『死にましょう』といわれて、簡単に『よかろう』と承諾したけれども、死の直前において突然、生への執着が胸を横切ったのではないでしょうか」と推測している<ref name="中畑">『太宰治に出会った日』82-83頁</ref>。
中畑は三鷹警察署の署長から意見を求められ「私には純然たる自殺とは思えぬ」と確信をもって答えた<ref name="中畑" />。すると署長も「自殺、つまり心中ということを発表してしまった現在、いまさらとやかく言っても仕方がないが、実は警察としても(自殺とするには)腑に落ちぬ点もあるのです」と発言した<ref name="中畑" />。
『[[朝日新聞]]』と『朝日評論』に掲載したユーモア小説「[[グッド・バイ (小説)|グッド・バイ]]」が未完の[[遺作]]となった。奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、[[キリスト教]]の[[ジンクス]]([[13 (忌み数)]])を暗示した太宰の最後の洒落だったとする説([[檀一雄]])もある。自身の体調不良や、一人息子が[[ダウン症候群|ダウン症]]で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺の一つの理由だったとする説もあった。
しかし、50回忌を目前に控えた[[1998年]]([[平成]]10年)[[5月23日]]に遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明。遺書は[[わら半紙|ワラ半紙]]に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判った<ref>『新潮』1998年7月号に原文資料掲載、『朝日新聞』1998年5月24日記事。</ref>。{{see also|人間失格#背景}}
既成文壇に対する宣戦布告とも言うべき連載評論「如是我聞」の最終回は死後に掲載された。東京・[[杉並区]][[梅里]]の[[堀ノ内斎場]]にて[[火葬|荼毘]]に付される。[[戒名]]は文綵院大猷治通居士。
== 略年譜 ==
[[ファイル:Shayokan.jpeg|thumb|175px|[[太宰治記念館 「斜陽館」]]]]
* [[1909年]][[6月19日]] - [[青森県]][[北津軽郡]][[金木町|金木村]][[大字]]金木[[小字|字]]朝日山(現・[[五所川原市]])に生まれる。
* [[1916年]][[4月]] - 金木第一尋常小学校に入学。
* [[1922年]]4月 - 金木第一尋常小学校を卒業し学力補充のため、四ヵ村組合立明治高等小学校に一年間通学。
* [[1923年]]
** [[3月4日]] - 父・[[津島源右衛門|源右衛門]]が[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員(多額納税)在任中に[[東京]]で死去。
** [[4月]] - 青森県立青森中学校(新制[[青森県立青森高等学校|県立青森高校]]の前身)に入学。[[青森市]]内の遠縁の家より通学。
* [[1925年]] - この頃より作家を志望、級友との同人雑誌などに小説・[[戯曲]]や[[エッセイ]]を発表。
* [[1927年]]
** 4月 - [[弘前高等学校 (旧制)|弘前高等学校]](新制[[弘前大学]]の前身の一つ)文科甲類に入学。
** [[7月]] - [[芥川龍之介]]の自殺に大きな衝撃を受ける。
** [[9月]] - 青森の[[芸妓]]・[[小山初代]]と知り合う。
* [[1928年]]
** [[5月]] - 同人雑誌『細胞文芸』を創刊し、「辻島衆二」名義で『無間奈落』を発表。
** 9月 - 四号で廃刊するまでに[[井伏鱒二]]、[[舟橋聖一]]らの寄稿を得る。
* [[1929年]][[12月]] - カルモチンで自殺を図る。
* [[1930年]]
** 3月 - [[弘前高等学校 (旧制)|弘前高等学校]]を卒業。
** 4月 - [[東京大学|東京帝国大学]]仏学科入学。
** 5月 - [[井伏鱒二]]のもとに出入りするようになる。
** 11月 - カフェの[[ウェイトレス|女給]]・[[田部シメ子]]と鎌倉の小動岬で心中未遂を起こす。相手・シメ子のみ死亡したため、[[自殺関与・同意殺人罪|自殺幇助]]の容疑で[[検事]]から取り調べを受けたが、兄・文治たちの奔走が実って[[起訴猶予]]となった。
* [[1931年]][[2月]] - [[小山初代]]同棲。
* [[1933年]]2月 - 『サンデー東奥』に短編「列車」を太宰治の筆名で発表。ペンネームを使った理由を「従来の津島では、本人が伝ふときには『チシマ』ときこえるが、太宰といふ発音は[[津軽弁]]でも『ダザイ』である。よく考へたものだと私は感心した」と井伏鱒二の回想「太宰君」にて記されている。
* [[1934年]]12月 - [[檀一雄]]、[[山岸外史]]、[[木山捷平]]、[[中原中也]]、[[津村信夫]]等と文芸誌『青い花』を創刊するも、創刊号のみで廃刊。
* [[1935年]]
** 3月 - 都新聞社の入社試験に落ち、鎌倉で縊死を企てたが失敗。
** 8月10日 - 第1回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]は[[石川達三]]の『蒼氓』に決まる。太宰の「逆行」は次席となった。選考委員の[[佐藤春夫]]の自宅をその後訪問し、以後師事する。
** 9月30日 - 東大を除籍。
* [[1936年]]
** 6月25日 - 最初の単行本『晩年』(砂子屋書房)刊行。
** 10月13日 - パビナール中毒治療のため武蔵野病院に入院。
* [[1937年]]
** 3月 - 小山初代が津島家の親類の画学生[[小館善四郎]]と密通していたことを知る。初代と心中未遂、離別。
** 6月21日 - 井伏鱒二の斡旋で杉並区天沼1丁目へ転居。
* [[1938年]]
** 9月18日 - [[津島美知子|石原美知子]]と見合いをする。
** 11月6日 - 美知子と婚約。
* [[1939年]]
** [[1月8日]] - 杉並区の井伏鱒二宅にて結婚式を挙げる。同日、[[山梨県]][[甲府市]]御崎町の新居に移る。
** [[9月1日]] - [[東京府]]北多摩郡三鷹村[[下連雀]]に転居。
* [[1940年]]
**5月-『走れメロス』出版。
* [[1941年]]6月7日 - 長女・園子誕生。
* [[1944年]]8月10日 - 長男・正樹誕生。
* [[1945年]]
** 3月 - 妻子を甲府の石原家に疎開させる。
** 4月2日 - 三鷹も空襲を受ける。甲府の石原家に疎開。
** 7月 - 爆撃のため甲府の石原家も全焼。妻子を連れ、かろうじて津軽の生家へたどりつく。
[[ファイル:140914 House of Dazai Osamu evacuation Goshogawara Aomori pref Japan01n.jpg|thumb|津島家新座敷(五所川原市)]]
* [[1946年]]
** 4月10日 - 戦後最初の[[第22回衆議院議員総選挙|衆議院議員総選挙]]が行われ、長兄文治が当選。
** 11月14日 - 妻子とともに三鷹の自宅に帰る。
* [[1947年]]
** 2月21日 - 神奈川県下曾我に愛人の[[太田静子]]を訪ね、一週間滞在した後、[[田中英光]]が疎開していた[[伊豆]]の[[三津浜]]に行き、3月上旬までかかって『[[斜陽]]』の一、二章を書く(完成は6月末<ref>『太宰治全集 第9巻』[[筑摩書房]]、1990年10月25日、474頁。解題([[山内祥史]])より。</ref>)。
** [[3月30日]] - 次女・里子([[津島佑子]])誕生。
** 4月12日 - 長兄文治が[[青森県知事一覧|青森県知事]]に就任。
** [[11月12日]] - 太田静子との間に女児([[太田治子]])誕生。
* [[1948年]]
**[[3月7日]] - 『[[人間失格]]』執筆のため[[熱海市|熱海]]の「[[起雲閣]]」に向かう。同作品は5月10日、[[埼玉県]][[大宮市]]で完成。
** [[6月13日]] - [[愛人]]の山崎富栄と[[玉川上水]](東京都北多摩郡三鷹町、現・三鷹市)の急流にて[[心中|入水心中]]、38歳で死去。
** [[6月19日]] - 遺体が玉川上水の下流で見つかる。
* [[1998年]][[12月31日]] - 没年50年にのっとり、[[著作権法]]による[[著作権の保護期間]]が終了{{Efn|太宰治の作品に対しての[[著作権の保護期間]]は、第1次-第4次暫定延長措置及び[[1971年]]の改正[[著作権法]]が適用される。}}。
== エピソード ==
=== 左翼活動 ===
[[1929年]](昭和4年)、弘前高校で校長の公金流用が発覚し、学生たちは上田重彦([[石上玄一郎]])社会科学研究会リーダーのもと5日間の同盟休校(ストライキ)を行い、校長の辞職、生徒の処分なしという成果を勝ち取る{{sfn|猪瀬|2000|pp=54-55}}。太宰はストライキにほとんど参加しなかったが、当時流行の[[プロレタリア文学]]を真似て、事件を『学生群』という小説にまとめ、上田に朗読して聞かせている{{sfn|猪瀬|2000|pp=55-60}}。津島家は太宰の左翼活動を警戒した。翌年1月16日、[[特別高等警察|特高]]は[[田中清玄]]の[[武装共産党]]の末端活動家として動いていた上田ら弘高社研の学生9名を逮捕。3月3日、逮捕された上田ら4人は放校処分、3人が諭旨退学、2人が無期停学となっている{{sfn|猪瀬|2000|pp=67-71}}。
大学生になった太宰は活動家の工藤永蔵と知り合い{{sfn|猪瀬|2000|p=92}}、[[日本共産党|共産党]]に毎月10円の資金[[カンパ]]をする。初代との結婚で津島家を分家除籍にされたのは、政治家でもある文治に非合法活動の累が及ぶのを防ぐためでもあった{{sfn|野原|1998|p=78-79}}。結婚してからはシンパを匿うよう命令され、引っ越しを繰り返した。やがて警察にマークされるようになり、2度も留置所に入れられた{{sfn|猪瀬|2000|pp=185-190}}。[[1932年]](昭和7年)7月、文治は連絡のつかなかった太宰を探し当て、青森警察署に出頭させる。12月、青森検事局で誓約書に署名捺印して左翼活動から完全離脱した{{sfn|猪瀬|2000|p=198}}{{sfn|野原|1998|p=106-108}}。
=== その他 ===
* 太宰の墓がある東京都三鷹市の[[禅林寺 (三鷹市)|禅林寺]]では、太宰と富栄の遺体が引き揚げられた6月19日には毎年多くの愛好家が訪れている。これは一般に「桜桃忌」と称されている。太宰の出身地・金木でも桜桃忌の行事を行っていたが「生誕地には生誕を祝う祭の方がふさわしい」という遺族の要望もあり、生誕90周年となる[[1999年]]([[平成]]11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。
* [[身長]]は175cm<ref name=bunjin/>{{efn|随筆『服装に就いて』<ref>[https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/256_20047.html 服装に就いて] [[青空文庫]](2021年1月1日閲覧)</ref>によれば5[[尺]]6[[寸]]5[[分 (数)#分(長さの単位)|分]](約171.7cm)。}}と当時の男性としては大柄で、大食漢だった<ref name=bunjin>{{Cite book |和書|author=嵐山光三郎|year=1997 |title=文人悪食 |publisher=[[マガジンハウス]] |page=356}}</ref>。新婚当時、酒の肴に[[湯豆腐]]を好み、豆腐屋から何丁も豆腐を買っていたため近所の噂になるほどだった。太宰曰く「豆腐は酒の毒を消す。[[味噌汁]]は[[煙草]]の毒を消す」とのことだったが、歯が悪いのと(後述)、何丁食べてもたかが知れているのが理由だった{{sfn|津島|1997|p=20}}。京都「大市」の[[スッポン]]料理や、三鷹の[[屋台]]「若松屋」の[[ウナギ]]料理が好きだった。[[味の素]]が好きで、[[鮭]][[缶詰|缶]]を丼に開け、味の素を大量にふりかけて食べた<ref>{{Cite book |和書|author=嵐山光三郎|year=1997 |title=文人悪食 |publisher=マガジンハウス |page=364}}</ref>。味噌汁も好きだった。生家が一時[[養鶏]]業をやっていたこともあり、鶏の解剖が隠れた趣味だった。戦時中、妻の美知子が三鷹の農家から生きた鶏1羽を買ってくると、自分でさばいて[[水炊き]]や鍋にして食べた<ref name="大本">大本泉『作家のごちそう帖』([[平凡社新書]] [[2014年]])pp.150-158</ref>{{Sfn|津島|1997|pp=80-81}}。短編『禁酒の心』にあるように酒もよく飲んだ。体に悪いと言われると「酒を飲まなければ、クスリをのむことになるが、いいか」と弁解した{{Sfn|津島|1997|p=30}}。
* 足のサイズも11[[文 (通貨単位)#長さの単位|文]](約26.4cm)と大きく、甲高でもあったので足に合う[[靴]]や[[足袋]]がなく苦労していた。戦後の戦災者への配給で兵隊靴(軍用ブーツ)を購入すると、これを気に入り愛用した。[[林忠彦]]が撮影した銀座の「ルパン」の写真で履いているのがこの兵隊靴である{{Sfn|津島|1997|pp=164-167}}。
* 28歳の頃、駆け出しの自分を評価した佐藤春夫に誠意を見せるため、[[1月1日]]付の[[西北新報]]に短いコラムを執筆している<ref>『文豪たちの嘘つき本』、2023年4月20日発行、彩図社文芸部、彩図社、P28~29</ref>。
* 30歳前後の頃、三鷹の家で弟子の[[堤重久]]と飲んでいた所、知人の編集者が合流して文学談議となったが、気を良くした太宰が堤に「今晩はなんでも聞け、明確に答えてみせるぞ」と断言したが、太宰も知人の編集者も全く知らない17世紀の僧侶・[[契沖]]について尋ねられ、答えに窮して暫し両手を揉み合わせて考え込んだ後、唐突に大笑いをしてから「大物過ぎて一晩で語り尽せない。近い内に席を改めて――」とはぐらかしたという<ref>『文豪たちの嘘つき本』、2023年4月20日発行、彩図社文芸部、彩図社、P24~25</ref>。
* [[う蝕|虫歯]]だらけの「みそっ歯」だったが、美知子夫人の勧めで歯医者に通い、32歳でほとんど[[入れ歯]]にした{{Sfn|津島|1997|pp=150-151}}。
* [[三鷹駅]]西側にある三鷹電車庫(現・[[三鷹車両センター]])と[[中央本線]]をまたぐ[[三鷹跨線人道橋]]にはよく通ったという<ref>『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] 2011年3月号(通巻599号)pp.68-69</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mitakanavi.com/spot/street/mitaka_kosenkyou.html|title=陸橋(三鷹電車庫跨線橋)|publisher=みたかナビ|accessdate=2017年10月9日}}</ref><ref>{{Cite web| url = https://www.jreast.co.jp/press/2023/hachioji/20230921_hc01.pdf | title = 三鷹こ線人道橋の撤去に着手します| website = | publisher = 東日本旅客鉄道株式会社八王子支社| accessdate = 2023-11-24}}</ref><ref>{{Cite web| url = https://www.asahi.com/articles/ASR9Q6SFBR9QUTIL00G.html | title = 太宰の愛した跨線橋、12月撤去へ 階段の一部を東京・三鷹市が保存| website = | publisher = 朝日新聞| accessdate = 2023-11-24}}</ref><ref>{{Cite web| url = https://www.sankei.com/article/20230921-45L2XNPS6NIOTO3JJI7YZRTXW4/ | title = 太宰治ゆかりの陸橋、12月に撤去開始 東京・三鷹、一部現地保存| website = | publisher = 産経新聞| accessdate = 2023-11-24}}</ref>。階段下に太宰が友人を案内したことがある旨を伝える説明板が設置されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/and/m/interest/SDI2015100538041.html|title=三鷹駅 「電車庫通り」を歩いて太宰治の散歩道だった跨線橋へ|publisher=朝日新聞デジタル|date=2015年10月6日|accessdate=2017年10月9日}}{{リンク切れ|date=2020年12月}}</ref>。[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)が維持管理してきた。年平均3500万円の点検修繕などの費用のために2018年JR東日本は三鷹市に譲渡を提案したが、必要な[[耐震]]改修工事をすれば、外観など文化的価値がそこなわれ、工事も深夜帯にかぎられるため費用がかさむとみられるなどのために市は譲受けを断念し、2021年9月7日、跨線橋の撤去が発表された<ref>2021年3月19日『朝日新聞』東京版「太宰が愛した跨線橋撤去か」</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.mitaka.lg.jp/c_service/093/093254.html|title=三鷹こ線人道橋の今後の取り扱いについて|accessdate=2021年9月14日}}</ref>。なお2022年2月10日、跨線橋の一部を移設保存する覚書がJR東日本と三鷹市で交わされたことがわかった<ref>{{Cite web|和書|title=太宰治ゆかり「三鷹跨線橋」の一部を移設保存へ JR東と市が覚書 撤去時期は未定:東京新聞 TOKYO Web |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/159581 |website=東京新聞 TOKYO Web |access-date=2023-10-11 |language=ja}}</ref>。跨線橋の撤去開始は2023年12月を予定している。<ref>{{Cite web|和書|title=太宰も愛した三鷹の名物 鉄道ファンに人気の跨線橋撤去へ JR東、12月にも着手:東京新聞 TOKYO Web |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/279078 |website=東京新聞 TOKYO Web |access-date=2023-10-11 |language=ja}}</ref>
* [[1949年]][[4月11日]]、東京財務局が発表した[[高額納税者公示制度|所得番付]]では、100万円台の収入が記録されており、作家陣の中では上位となっている<ref>「吉川英治氏が250万円で筆頭 芸能人の所得番付」『[[日本経済新聞]]』昭和24年4月12日2面</ref>。
== 作品一覧 ==
[[ファイル:A place of Kofu-city where Osamu Dazai lived in.JPG|thumb|250px|甲府市朝日(旧御崎町)の太宰治旧居跡]]
=== 作品 ===
{| class="wikitable"
! 作品名 !! 初出 !! 単行本
|-
| ロマネスク || 『青い花』1934年12月号 ||『晩年』(砂子屋書房、1936年6月)
|-
|[[道化の華]] || 『日本浪曼派 第一巻第三号』<br>1935年5月号 ||『晩年』(砂子屋書房、1936年6月)
|-
| [[ダス・ゲマイネ]] ||『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』1935年10月号 ||
|-
| 燈籠 || 『若草』1937年10月号 ||『[[女性 (短編集)|女性]]』([[博文館]]、1942年6月)
|-
| [[富嶽百景]] || 『文体』1939年2月号、3月号 ||『[[女生徒 (短編集)|女生徒]]』(砂子屋書房、1939年7月)
|-
| [[黄金風景]] || 『[[國民新聞]]』1939年3月2日、3月3日 ||『女生徒』(砂子屋書房)
|-
| [[女生徒]] || 『文學界』1939年4月号 ||『女生徒』(砂子屋書房)
|-
| 新樹の言葉 || [[書き下ろし]] ||『愛と美について』(竹村書房、1939年5月)
|-
| [[葉桜と魔笛]]<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010478 番組エピソード 文豪の世界への誘い〜大作家の作品のドラマ化〜] NHKアーカイブス(2021年1月1日閲覧)</ref> || 『新潮』1939年6月号 ||『[[皮膚と心 (短編集)|皮膚と心]]』(竹村書房、1940年4月)
|-
| [[八十八夜 (小説)|八十八夜]] || 『新潮』1939年8月号 ||『皮膚と心』(竹村書房)
|-
| [[畜犬談]] || 『文学者』1939年10月号 ||『皮膚と心』(竹村書房)
|-
| [[皮膚と心]] || 『文學界』1939年11月号 ||『皮膚と心』(竹村書房)
|-
| [[俗天使]] || 『新潮』1940年1月号 ||『皮膚と心』(竹村書房)
|-
| [[鴎 (小説)|{{JIS2004フォント|鷗}}]] ||『知性』1940年1月号 ||『皮膚と心』(竹村書房)
|-
| 春の盗賊 || 『文芸日本』1940年1月号 || 『[[女の決闘 (短編集)|女の決闘]]』([[河出書房]]、1940年6月)
|-
| [[女の決闘]] || 『月刊文章』1940年1月号〜6月号 || 『女の決闘』(河出書房)
|-
| [[駈込み訴え|駈込み訴へ]] || 『中央公論』1940年2月号 || 『女の決闘』(河出書房)
|-
| [[走れメロス]] || 『新潮』1940年5月号 || 『女の決闘』(河出書房)
|-
| [[古典風]] || 『知性』1940年6月号 || 『女の決闘』(河出書房)
|-
| [[乞食学生 (小説)|乞食学生]] || 『若草』1940年7月号〜12月号 || 『東京八景』([[実業之日本社]]、1941年5月)
|-
| きりぎりす || 『新潮』1940年11月号 || 『東京八景』(実業之日本社)
|-
| 東京八景 || 『文學界』1941年1月号 || 『東京八景』(実業之日本社)
|-
| [[清貧譚]] || 『新潮』1941年1月号 || 『[[千代女 (短編集)|千代女]]』([[筑摩書房]]、1941年8月)
|-
| [[みみずく通信]] || 『知性』1941年1月号 || 『千代女』(筑摩書房)
|-
| [[佐渡 (小説)|佐渡]] || 『公論』1941年1月号 || 『千代女』(筑摩書房)
|-
| [[千代女 (小説)|千代女]] || 『[[改造 (雑誌)|改造]]』1941年6月号 || 『千代女』(筑摩書房)
|-
| [[新ハムレット]] || 書き下ろし || 『新ハムレット』(文藝春秋、1941年7月)
|-
| [[風の便り]] || 『文學界』1941年11月号<br />『文藝』1941年11月号<br />『新潮』1941年12月号 || 『[[風の便り (短編集)|風の便り]]』(利根書房、1942年4月)
|-
| [[誰 (小説)|誰]] || 『知性』1941年12月号 || 『風の便り』(利根書房)
|-
| [[恥 (小説)|恥]] || 『[[婦人画報]]』1942年1月号 || 『女性』(博文館)
|-
| [[十二月八日 (小説)|十二月八日]] || 『[[婦人公論]]』1942年2月号 || 『女性』(博文館)
|-
| [[律子と貞子]] || 『若草』1942年2月号 || 『風の便り』(利根書房)
|-
| [[水仙 (小説)|水仙]] || 『改造』1942年5月号 || 『日本小説代表作全集 9』(小山書店、1943年1月)
|-
| [[正義と微笑]] || 書き下ろし || 『正義と微笑』(錦城出版社、1942年6月)
|-
| [[黄村先生言行録]] || 『文學界』1943年1月号 || 『[[佳日 (短編集)|佳日]]』(肇書房、1944年8月)
|-
| [[右大臣実朝]] || 書き下ろし || 『右大臣実朝』(錦城出版社、1943年9月)
|-
| [[不審庵 (小説)|不審庵]] || 『文藝世紀』1943年10月号 || 『佳日』(肇書房)
|-
| [[花吹雪 (小説)|花吹雪]] || 書き下ろし || 『佳日』(肇書房)
|-
| [[佳日]] || 『改造』1944年1月号 || 『佳日』(肇書房)
|-
| [[散華 (小説)|散華]] || 『新若人』1944年3月号 || 『佳日』(肇書房)
|-
| [[津軽 (小説)|津軽]] || 書き下ろし || 『津軽』(小山書店、1944年11月)
|-
| [[新釈諸国噺]] || 『新潮』1944年1月号、10月号<br />『文藝』1944年5月号<br />『文藝世紀』1944年9月号<br />『月刊東北』1944年11月号<br />ほかは書き下ろし || 『新釈諸国噺』(生活社、1945年1月)
|-
| [[竹青]] || 『文藝』1945年4月号 || 『薄明』(新紀元社、1946年11月)
|-
| [[惜別]] || 書き下ろし || 『惜別』(朝日新聞社、1945年9月)
|-
| [[お伽草紙 (太宰治)|お伽草紙]] || 書き下ろし || 『お伽草紙』(筑摩書房、1945年10月)
|-
| [[パンドラの匣 (小説)|パンドラの匣]] || 『河北新報』<br />1945年10月22日〜1946年1月7日 || 『パンドラの匣』(河北新報社、1946年6月)
|-
| 十五年間 || 『文化展望』1946年4月号(創刊号) ||
|-
| [[冬の花火]] || 『展望』1946年6月号 || 『冬の花火』(中央公論社、1947年7月)
|-
| [[春の枯葉]] || 『人間』1946年9月号 || 『冬の花火』(中央公論社)
|-
| [[雀 (小説)|雀]] || 『思潮』1946年9月号 || 『冬の花火』(中央公論社)
|-
| 親友交歓 || 『新潮』1946年12月号 || 『ヴィヨンの妻』(筑摩書房、1947年8月)
|-
| [[男女同権 (小説)|男女同権]] || 『改造』1946年12月号 || 『ヴィヨンの妻』(筑摩書房)
|-
| [[トカトントン]] || 『群像』1947年1月号 || 『ヴィヨンの妻』(筑摩書房)
|-
| [[メリイクリスマス (小説)|メリイクリスマス]] || 『中央公論』1947年1月号 || 『ヴィヨンの妻』(筑摩書房)
|-
| [[ヴィヨンの妻]] || 『[[展望 (雑誌)|展望]]』1947年3月号 || 『ヴィヨンの妻』(筑摩書房)
|-
| [[女神 (太宰治)|女神]] || 『日本小説』1947年5月号 || 『女神』(白文社、1947年10月)
|-
| [[フォスフォレッスセンス]] || 『日本小説』1947年7月号 || 『太宰治随想集』(若草書房、1948年3月)
|-
| [[眉山 (太宰治)|眉山]] || 『[[小説新潮]]』1948年3月号 || 『桜桃』(実業之日本社、1948年7月)
|-
| [[斜陽]] || 『新潮』1947年7月号〜10月号 || 『斜陽』(新潮社、1947年12月)
|-
| 如是我聞 || 『新潮』1948年3月号、5月号〜7月号 || 『如是我聞』(新潮社、1948年11月)
|-
| [[人間失格]] || 『展望』1948年6月号〜8月号 || 『人間失格』(筑摩書房、1948年7月)
|-
| [[グッド・バイ (小説)|グッド・バイ]] || 『朝日新聞』1948年6月21日<br />『朝日評論』1948年7月1日 || 『人間失格』(筑摩書房)
|}
=== 単行本 ===
{| class="wikitable sortable"
|+
!書名!!出版社!!出版年月日!!備考
|-
| [[晩年 (太宰治)|晩年]] || 砂子屋書房 || 1936年6月25日 || 作品集
|-
| 虚構の彷徨 || 新潮社 || 1937年6月1日 || 作品集
|-
| 二十世紀旗手 || 版画荘 || 1937年7月20日 || 作品集
|-
| 愛と美について || 竹村書房 || 1939年5月20日 || 書き下ろし作品集
|-
| '''[[女生徒 (短編集)|女生徒]]''' || 砂子屋書房 || 1939年7月20日 || 作品集
|-
| '''[[皮膚と心 (短編集)|皮膚と心]]''' || 竹村書房 || 1940年4月20日 || 作品集
|-
| 思ひ出 || 人文書院 || 1940年6月1日 || 作品集
|-
| '''[[女の決闘 (短編集)|女の決闘]]''' || 河出書房 || 1940年6月15日 || 作品集
|-
| 東京八景 || 実業之日本社 || 1941年5月3日 || 作品集
|-
| '''[[新ハムレット]]''' || 文藝春秋 || 1941年7月2日 || 書き下ろし長編小説
|-
| '''[[千代女 (短編集)|千代女]]''' || 筑摩書房 || 1941年8月25日 || 作品集
|-
| '''[[風の便り (短編集)|風の便り]]''' || 利根書房 || 1942年4月16日 || 作品集
|-
| 老ハイデルベルヒ || 竹村書房 || 1942年5月20日 || 作品集
|-
| '''[[正義と微笑]]''' || 錦城出版社 || 1942年6月10日 || 書き下ろし長編小説
|-
| '''[[女性 (短編集)|女性]]''' || 博文館 || 1942年6月30日 || 作品集
|-
| 信天翁 || 昭南書房 || 1942年11月15日 || 作品集
|-
| 富嶽百景 || 新潮社 || 1943年1月10日 || 作品集
|-
| '''[[右大臣実朝]]''' || 錦城出版社 || 1943年9月25日 || 書き下ろし長編小説
|-
| '''[[佳日 (短編集)|佳日]]''' || 肇書房 || 1944年8月20日 || 作品集
|-
| '''[[津軽 (小説)|津軽]]''' || 小山書店 || 1944年11月15日 || 書き下ろし長編小説
|-
| '''[[新釈諸国噺]]''' || 生活社 || 1945年1月27日 || 作品集
|-
| '''[[惜別]]''' || 朝日新聞社 || 1945年9月5日 || 書き下ろし長編小説
|-
| '''[[お伽草紙 (太宰治)|お伽草紙]]''' || 筑摩書房 || 1945年10月25日 || 書き下ろし作品集
|-
| '''[[パンドラの匣 (小説)|パンドラの匣]]''' || 河北新報社 || 1946年6月5日 || 長編小説
|-
| 玩具 || あづみ書房 || 1946年8月10日 || 作品集
|-
| 薄明 || 新紀元社 || 1946年11月20日 || 作品集
|-
| 猿面冠者 || 鎌倉文庫 || 1947年1月20日 || 作品集
|-
| 道化の華 || 実業之日本社 || 1947年2月20日 || 作品集
|-
| 黄村先生言行録 || 日本出版 || 1947年3月15日 || 作品集
|-
| 姥捨 || ポリゴン書房 || 1947年6月10日 || 作品集
|-
| 冬の花火 || 中央公論社 || 1947年7月5日 || 作品集
|-
| ろまん燈籠 || 用力社 || 1947年7月10日 || 作品集
|-
| ヴィヨンの妻 || 筑摩書房 || 1947年8月5日 || 作品集
|-
| 狂言の神 || 三島書房 || 1947年8月30日 || 作品集
|-
| 女神 || 白文社 || 1947年10月5日 || 作品集
|-
| '''[[斜陽]]''' || 新潮社 || 1947年12月15日 || 長編小説
|-
| 太宰治随想集 || 若草書房 || 1948年3月21日 || 作品集
|-
| 桜桃 || 実業之日本社 || 1948年7月25日 || 作品集
|-
| '''[[人間失格]]''' || 筑摩書房 || 1948年7月25日 || 長編小説<br />(「[[グッド・バイ (小説)|グッド・バイ]]」も収録)
|-
| 如是我聞 || 新潮社 || 1948年11月10日 || 随筆集
|-
| 地図 || [[新潮文庫]]|| 2009年4月25日 || 初期作品集
|-
|}
=== 絵画 ===
太宰は、[[絵画]]も描いた。[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]](現在の[[東京芸術大学]])に進んだ兄・圭治の影響もあって子供時代から美術に関心が持ち、長じては文壇内だけでなく[[画家]]とも交流を持ち、杉並時代は久富邦夫、三鷹時代は[[桜井浜江]]と近所に住んでいた画家と往来があった<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL6J5GQ9L6JUTIL010.html 「画家」太宰治の作品展 絵筆とったら「野獣派」][[朝日新聞デジタル]](2018年7月8日)2022年6月7日閲覧</ref>。三鷹市美術ギャラリーが2018年から太宰が描いた絵画9点を所蔵し、太宰の担当編集者であった石井立(たつ)の遺族がこれを見て石井立が所蔵していた太宰作と思われる肖像画を新たに寄贈し、鑑定により太宰作と判断された<ref>謎の肖像画は太宰作 決め手は出どころが「人間失格」の編集者 三鷹市美術ギャラリーで初公開『朝日新聞』朝刊2022年6月5日(東京版)</ref>。
== 作品研究 ==
* 「[[無頼派]]」または「新戯作派」の一人に数えられる太宰は、4回の自殺未遂や自身の生活態度ととも相まって、退廃的な作風にのみ焦点があてられがちだが、『[[お伽草紙 (太宰治)|お伽草紙]]』『[[新釈諸国噺]]』「[[畜犬談]]」「親友交歓」「[[黄村先生言行録]]」などユーモアの溢れる作品を多数残している。永らく太宰文学を好きになれなかったという[[杉森久英]]は、戦後だいぶ経ってから『お伽草紙』や『新釈諸国噺』を読んで感嘆し、それまで太宰を一面的にしか捉えていなかった自分の不明を深く恥じたという<ref>杉森久英『苦悩の旗手 太宰治』[[文藝春秋]]、1967年。</ref>。
* 長編・短編ともに優れていたが、特に「満願」等のようにわずか原稿用紙数枚で見事に書き上げる小説家としても高く評価されている。
* 女性[[一人称]]の作品を多く執筆した。「[[女生徒]]」「[[千代女 (小説)|千代女]]」「[[葉桜と魔笛]]」「[[皮膚と心]]」「[[恥 (小説)|恥]]」「[[十二月八日 (小説)|十二月八日]]」「きりぎりす」「燈籠」「雪の夜の話」「待つ」「誰も知らぬ」「おさん」などがある。太宰の代表作とみなされる『斜陽』「[[ヴィヨンの妻]]」もそうである。なお「女生徒」は、未知の女性の読者から送られてきた日記に基づいて執筆したものである<ref>太宰治著『女生徒』([[角川文庫]])、[[小山清]]の作品解説より。</ref>。
* [[聖書]]や[[イエス・キリスト]]に太宰は強い関心を抱き続けた。その思いは作品にも色濃く現れている。「[[駈込み訴え]]」(『中央公論』1940年2月号)では一般的に裏切り者・背反者として認知される[[イスカリオテのユダ]]の心の葛藤が描かれている。小説「[[パンドラの匣 (小説)|パンドラの匣]]」は、詩人の大月花宵(越後獅子)にキリストの精神に基づいた自由思想を語らせ、次作の回想記「十五年間」の最後に太宰は「パンドラの匣」を引用し、大月(越後獅子)が「西洋の思想は、すべてキリストの精神を基底にして、或いはそれを敷衍し、或いはそれを卑近にし、或いはそれを懐疑し、人さまざまの諸説があっても結局、聖書一巻にむすびついていると思う」などと語る一場面で了となる<ref>{{Cite journal|和書|author=長濵拓磨 |date=2012 |url=https://kufs.repo.nii.ac.jp/records/112 |title=津軽疎開時代の太宰文学の一側面 : 戦後文学と聖書 |journal=研究論叢 |ISSN=0389-9152 |publisher=京都外国語大学国際言語平和研究所 |issue=80 |pages=163-176 |naid=120005538294 |CRID=1050564287768937344}}</ref>。他に聖書やキリストに言及した作品に『[[正義と微笑]]』「[[律子と貞子]]」「[[誰 (小説)|誰]]」「[[恥 (小説)|恥]]」「[[鴎 (小説)|{{JIS2004フォント|鷗}}]]」「[[散華 (小説)|散華]]」「父」「桜桃」などがあり、随筆でもよく触れている。
* [[1948年]]4月、太宰の死の直前から『太宰治全集』が八雲書店から刊行開始されるが、同社の[[倒産]]によって中断した。その後、創藝社から新しく『太宰治全集』が刊行される。しかし書簡や習作なども完備した本格的な全集は[[1955年]]に[[筑摩書房]]から刊行されたものが初めてである。
* [[2009年]](平成21年)、[[プランゲ文庫]]に所蔵された資料から、[[連合国軍占領下の日本|連合国軍占領下]]に出版された際の「人魚の海」「鉄面皮」「校長三代」「貨幣」「[[黄村先生言行録]]」「[[不審庵 (小説)|不審庵]]」「[[佳日]]」などは[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の[[検閲]]によって削除が指示されていたことが明らかになった<ref>{{cite news |title=太宰作品にGHQ検閲=「神国」など削除指示-4短編集7作品、米で新資料 |newspaper=[[時事通信]] |date=2009-07-31 |url=https://web.archive.org/web/20140721030548/https://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2009073101151}}</ref>。現在刊行されている太宰作品はそれぞれの初版を基にしているが、太宰は終戦までは[[内務省 (日本)|内務省]]の、占領期はGHQの検閲に書き換えなどで対応し、初版や最終版と異なる作品もあることが、『太宰治単行本でたどる検閲の影』([[秀明大学]]出版会、2020年)などで明らかになっている<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S14701098.html 【be report】太宰治と二つの検閲 揺さぶられた本心、資料に探る][[be (朝日新聞)|『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」]]2020年11月21日(4面)2021年1月1日閲覧</ref>。
* [[2014年]](平成26年)12月、韓国語版の「太宰治全集」全10巻が完結した。小説は発表順に収められ、同全集にはエッセイを含む全作品が収録されている<ref>{{Cite news|url=https://jp.yna.co.kr/relation/2014/12/22/0400000000AJP20141222002600882.HTML|title=韓国語版の太宰治全集 全10巻が完結|newspaper=[[聯合ニュース]]|date=2014-12-22|accessdate=2015-04-28}}</ref>。
== 家族・親族 ==
=== 津島家 ===
; (青森県北津軽郡金木村〈のちの[[北津軽郡]][[金木町]]、現・[[青森県]][[五所川原市]]〉)
: 津島家の[[家系]]については様々な説があり、明確ではない。初代惣助は豆腐を売り歩く[[行商|行商人]]だったという。[[1946年]](昭和21年)に発表した『苦悩の年鑑』のなかで「私の生れた家には、誇るべき[[系図]]も何も無い。どこからか流れて来て、この[[津軽地方|津軽]]の北端に土着した[[百姓]]が、私たちの祖先なのに違ひない。私は、無智の、食ふや食はずの[[農家#農民の階層区分|貧農]]の子孫である。私の家が多少でも青森県下に、名を知られ始めたのは、[[曾祖父]]惣助の時代からであつた」と書いている。惣助は[[油]]売りの行商をしながら金貸しで身代を築いていったという。また、津島家は、旧[[対馬国]]から[[日本海]]を渡って津軽に定住した一族であるとする[[伝承]]もあり、[[菩提寺]]南台寺の墓碑でも祖先は“対馬姓”となっている。この“対馬姓”と刻まれた[[墓]]について、太宰の甥[[津島康一]]([[俳優]])は、「どっからかもってきたんじゃないかな」となにやら意味ありげな“対馬姓”の刻名を信用していない口ぶりで「うちの系図はやばいんですよ」と恥ずかしそうに述べている<ref>[[鎌田慧]]著『津軽・斜陽の家 〜太宰治を生んだ「地主貴族」の光芒』81頁)</ref>。
: 津島家を県下有数の[[寄生地主制|大地主]]に押し上げた三代目惣助は嘉瀬村の山中家出身で、元の名を勇之助といった。[[1835年]]([[天保]]6年)に大百姓・山中久五郎の次男として生まれ、[[1859年]]([[安政]]6年)津島家の[[婿養子]]となった。山中家の先祖は、「[[能登国]]山中庄山中城主の一族」だったと伝えられている。[[1867年]]([[慶応]]3年)に二代目惣助が他界し、[[家督]]を相続して三代目「惣助」を襲名した。油売りのほか、[[木綿]]などの繊維製品も扱い、金貸しで財を蓄えて新興の大地主となった。[[1894年]]([[明治]]27年)に北津軽郡会議員の大地主互選議員に当選、[[1895年]](明治28年)に北津軽郡所得税調査委員選挙に当選。[[1897年]](明治30年)、合資会社「[[金木銀行]]」を設立。再び郡会の大地主議員となり、県内多額納税者番付の12位に入って貴族院議員の互選資格を手に入れた。無名の金貸し惣助からちょっとした地方名士として名を成したのであった。
: 跡取りがいなかったため婿養子・惣五郎を迎える。惣五郎にも跡取りがいなかったため源右衛門が婿養子となった<ref name=inose>{{Cite book|author=猪瀬直樹|title=ピカレスク 太宰治伝|year=2000|publisher=小学館|pages=35-36}}</ref>。[[家紋]]は「鶴の丸」である。金木の生家は源右衛門が建造したもので、[[太宰治記念館 「斜陽館」]]として公開され、国の[[重要文化財]]に指定されている。
==== 両親 ====
; 父・源右衛門
: [[1871年]](明治3年)生 - [[1923年]](大正12年)没
: 松木家から婿養子として津島家に入った。病弱な惣五郎に代わって惣助から[[家督]]を譲られる<ref name=inose/>。[[1901年]](明治34年)、県会議員に当選。[[1922年]](大正11年)に貴族院議員となるが、翌年肺臓癌で死去。
; 母・たね(夕子)
: [[1873年]](明治6年)生 - [[1942年]](昭和17年)没
: 惣五郎の長女。太宰含め七男四女を生む。69歳で死去。
==== 兄弟姉妹 ====
※がついている人物は太宰に先立って死去している。
; 三男(長兄)・[[津島文治|文治]]
: 長男・総一郎、次男・勤三郎が早世したため、津島家の跡継ぎとなる。金木町長、青森県知事、衆議院議員、参議院議員を歴任。長男の[[津島康一|康一]]は俳優。
; 四男(次兄)・英治
: 金木町長。孫の[[津島恭一|恭一]]は元衆議院議員。
; 五男(三兄)・圭治※
: [[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]彫塑科に進学。太宰の同人誌「細胞文芸」に「夢川利一」のペンネームでエッセイを寄稿している<ref>{{Cite book|author=猪瀬直樹|title=ピカレスク 太宰治伝|year=2000|publisher=小学館|pages=88-90}}</ref>。結核により28歳で死去。
; 七男(弟)・礼治※
: [[敗血症]]で18歳で病死。
; 長女(長姉)・たま※
: 1889年 - 1912年。
: 平山良太郎を婿養子に迎えるが、結婚後に22歳で死去。このとき太宰3歳。
; 次女(次姉)・トシ
: 1894年 - 1951年。
: 津島市太郎夫人
; 三女(三姉)・アイ※
: 1904年 - 1937年。
: 津島正雄夫人
; 四女(四姉)・京<ref>『文豪たちの嘘つき本』、2023年4月20日発行、彩図社文芸部、彩図社、P20</ref>(キョウ)※
: 1906年 - 1945年。
: 小館貞一夫人。小館保、小館善四郎は義弟。終戦からちょうど3か月後に死去。太宰が高校在学時に実家から数件隣りの材木商・小館家に嫁ぐ。太宰は3歳年上の京と仲が良く、京の結婚後も頻繁に小館家に通っては紙に字を書き「20年経てば大変な価値が出るから大事にしまっておけ」と話していたという<ref>『文豪たちの嘘つき本』、2023年4月20日発行、彩図社文芸部、彩図社、P20~21</ref>。
=== 妻子 ===
; 妻・[[津島美知子|美知子]]
: [[お茶の水女子大学|東京女子師範学校]]卒業後、[[山梨県立都留高等学校|都留高等女学校]]で歴史・地理の教師をしていた。26歳で太宰と見合い、翌年結婚。
; 長女・園子
: 夫は元[[衆議院議員]]の[[津島雄二]] (旧姓・上野)。長男の[[津島淳|淳]]も衆議院議員。[[2020年]][[4月20日]]、呼吸不全により78歳で死去<ref>{{cite news |url=https://www.sankei.com/article/20200420-GM2Y5BHTA5JVDF3IVWODOB5JPM/ |title=津島園子さん死去 太宰治の長女 |newspaper=[[産経新聞]] |publisher=[[産業経済新聞社]] |date=2020-04-20 |accessdate=2020-04-20 }}</ref>。「花の画家」として知られ、2022年に忌日の4月20日は「水仙忌」と名付けられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toonippo.co.jp/articles/-/1013418|title=太宰の長女・園子さん命日「水仙忌」に偲ぶ会|publisher=東奥日報|date=2022-04-20|accessdate=2022-05-06}}</ref>。
; 長男・正樹
: ダウン症であった。肺炎により15歳で死去。
; 次女・里子
: 小説家の[[津島佑子]]。
; [[太田治子]]
: 小説家。愛人・太田静子との間の娘。
=== 松木家 ===
: 父・源右衛門の生家である木造村の松木家は、金木の津島家や、三代目惣助が出た嘉瀬の山中家よりもはるかに格式の高い[[旧家]]である。[[江戸時代|藩政時代]]には[[苗字帯刀]]を許された[[郷士]]だった。
: 『松木家由緒書』などによると、先祖は[[若狭国]][[小浜市|小浜]](現・[[福井県]])の商人で、[[万治]]年間(1658–60年)に[[弘前市|弘前]]にやってきて、羽二重の商いをしていた。[[寛文]]年間(1661–72年)[[津軽藩]]の新田開発が始まると木造に移り住み、開墾の功を認められ大[[庄屋]]、郷士になった。明治に入って、八代目七右衛門の時代に、薬種[[問屋]]([[屋号]]松樹堂)に転業するまで、代々[[造り酒屋]]を営んでいた。
=== 親族 ===
* 津島慶三 - 従姉りえの三男。生化学者。[[横浜市立大学]]医学部[[名誉教授]]。
* [[津島恭一]] - 姪孫。元[[衆議院議員]] 、[[野田内閣]](野田第1次改造内閣・野田第2次改造内閣)[[国土交通大臣政務官]]。
* 石原明 - 義弟(妻・美知子の弟)。[[ニューヨーク州立大学]]名誉教授。
* [[田沢吉郎]] - 姪婿(文治の娘・陽の夫)。元衆議院議員、元[[防衛庁]]長官。
* [[石原燃]] - 津島佑子の長女(本名・津島香以)。劇作家。
=== 家系図 ===
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{{familytree| | | | | | | A-1 | | | | A-2 |y| A-3 |A-1=[[石原初太郎]]|A-2=[[津島源右衛門]]|A-3=たね}}
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== 関連人物 ==
<!--50音字順に列挙しています。-->
* [[石井桃子]] - 児童文学作家、翻訳者。井伏鱒二宅で偶然大宰と同席したことをきっかけに親交を深めた。太宰の死後、井伏との会話の中で「あたしだつたら、太宰さんを死なせなかつたでせうよ」と語っている。[[石井桃子#太宰治との出会い]]も参照のこと。
* [[石川淳]] - 戦後、太宰・[[坂口安吾]]・[[織田作之助]]とともにいわゆる[[無頼派]]の旗手とされた文学者。太宰とは昭和14年頃以来、4度ほど酒席をともにした。太宰の死に際し「太宰治昇天」と題した文章を発表(『[[新潮]]』第45巻第7号、1948年7月)。
* [[井伏鱒二]] - 太宰の師。太宰自身の言によれば、太宰がまだ青森の中学生だった頃、井伏の『幽閉』(『山椒魚』の原形)を読んでその才能に興奮した。大学上京後から師事し、結婚の仲人も井伏に務めてもらった。戦後になって、太宰は井伏に複雑な感情を抱いていたようであり、遺書に「井伏さんは悪人です」と書き残していたことは話題になった。両者の確執には様々な説があるが、詳しくはわかっていない。
* [[伊馬春部]] - 別名・伊馬鵜平。太宰の親友で、ユーモア作家として「[[畜犬談]]」を捧げられた。[[折口信夫]]に太宰作品を勧めたのも伊馬である。入水前に[[伊藤左千夫]]の「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」という[[短歌]]を録した色紙を伊馬宛てに残した。太宰嫌いで有名な[[三島由紀夫]]は目黒時代、伊馬家の隣家に住んでおり、強盗に押し入られて逃げ出したとき伊馬家に保護を求めたことがある。『桜桃の記』執筆。
* [[大西巨人]] - 作家。『文化展望』編集者として原稿依頼し、「[https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1570_34478.html 十五年間]」を創刊号に掲載。1948年に「太宰治の死」と題する追悼文を発表している。
* [[亀井勝一郎]] - 文芸評論家。昭和十年代から没時まで交流があり作品集の解説などを行った。作家論に『無頼派の祈り 太宰治』審美社、新版に河出文庫で『太宰治 愛と苦悩の手紙』がある。
* [[治憲王|賀陽治憲]] - [[賀陽宮恒憲王]]の第二王子。[[皇籍離脱]]後に外交官。1947年10月14日付の『[[時事新報]]』で「太宰治の“斜陽”はちょっと身につまされておもしろいですね」と発言。太宰は「[https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1084_15078.html 如是我聞]」で「或る新聞の座談会で、宮さまが、「斜陽を愛読している、身につまされるから」とおっしゃっていた」と言及している。
* [[川端康成]] - 太宰が[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補になって落選したときの選考委員の一人。川端が「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった」と批評したため、太宰は「[https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1607_13766.html 川端康成へ]」と題する短文を書いて抗議。川端は「太宰治氏へ芥川賞について」という短文を発表し、「根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい(…)「生活に厭な雲云々」も不遜の暴言であるならば、私は潔く取消」すと、冷静に釈明した。後に『社会』1948年4月号の[[志賀直哉]]、[[廣津和郎]]との「文藝鼎談」での川端の発言に対して『新潮』1948年6月号掲載の「[https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1084_15078.html 如是我聞](三)」で太宰は、「なお、その老人に[[茶坊主]]の如く阿諛追従して、まったく左様でゴゼエマス、大衆小説みたいですね、と言っている卑しく痩やせた俗物作家、これは論外」と罵倒した。太宰の死後に代表作『斜陽』が翻訳出版された際、「太宰君がKeeneさんのやうな譯者に恵まれたことはまことに幸ひです」などの文面で書簡を送っている。[[アメリカ合衆国]]の出版社ニューディレクションズの担当者宛てだったが、[[ドナルド・キーン]]の翻訳に関する記述もあったためキーンのもとに届けられたという<ref>『朝日新聞』2016年10月25日37面</ref>。
* [[小山清]] - 太宰の門下生の作家。作品集や作家論の編さんをしている。新版は『太宰治の手紙』河出文庫
* [[今官一]] - 太宰の同郷の友人。津軽出身の文士の中では唯一の理解者として、太宰から信頼されていた。短篇『[https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2278_20022.html 善蔵を思う]』には「甲野嘉一君」として登場する。
* [[佐藤春夫]] - 太宰の師。太宰作品が芥川賞候補になったとき、薬物中毒時代の太宰から、賞を「何卒私に与えて下さい」と懇願する手紙を何通も送られた。結局、太宰が落選すると、太宰は短篇『創世記』を書いて佐藤を批判。これに対して佐藤は小説『芥川賞』を書き、太宰の非常識な行動を暴露して報復した。太宰の死後、佐藤は「稀有の文才」で「その才能は最初から大に認めてゐたつもりである。芥川賞などは貰はないでも立派に一家を成す才能と信じ、それを彼に自覚させたかつた(中略)それ以来自分のところへ近づかなくなつた彼に対しては多少遺憾に思ひながら遠くからその動静を見守つてゐた」と述べ、『津軽』について「あの作品には彼の欠点は全く目立たなくてその長所ばかりが現はれてゐるやうに思はれる。(中略)この一作さへあれば彼は不朽の作家の一人だと云へるであらう」と絶賛している。外ヶ浜町の観瀾山にある太宰治文学碑の碑銘を揮毫。
* [[志賀直哉]] - 小説『津軽』で太宰から名前を伏せて批判されている。その後、志賀は[[中村眞一郎]]と[[佐々木基一]]との雑誌の座談会で、『斜陽』の主人公である華族の娘が山出しの女中のようにおかしな言葉遣いをすることや、「犯人」のオチが見え透いていることなどを指摘し、とぼけたようなポーズが気になる、もう少し真面目にやったらよかろう云々と批判。逆上した太宰は、最晩年の連載評論『[https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1084_15078.html 如是我聞]』で志賀に反撃した。太宰の死後、[[1948年]][[8月15日]]、志賀は「太宰治の死」と題する一文を草し、「私は太宰君が私に反感を持つてゐる事を知つてゐたから、自然、多少は悪意を持つた言葉になつた」ことを認め、「太宰君が心身共に、それ程衰へてゐる人だといふ事を知つてゐれば、もう少し云ひようがあつたと、今は残念に思つてゐる」と、自分の対応が大人げなかったことを詫びている。また『人間失格』も読んだが「これは少しも厭だとは思わなかった」という。太宰にも「大正では、直哉だの善蔵だの龍之介だの菊池寛だの、短編小説の技法を知つてゐる人も少くなかつたが、昭和のはじめでは、井伏さんが抜群のやうに思はれたくらゐのもので、最近に到つてまるでもう駄目になつた」(「十五年間」)という評価が見られ、全面的に否定していたわけではない。
* [[杉森久英]] - 作家、若年時は編集者で太宰と交際。杉森は太宰の3歳下だったが、はるか年下と勘違いした太宰が画集を出して[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]の偉大さを教えようとしたため、太宰に教えられなくても知っていると反感を持ったという。戦後には、たまたま「如是我聞」事件の発端となった座談会をセッティングしたため、太宰と志賀の反目をハラハラしながら見守っていた。『苦悩の旗手 太宰治』を著した。
* [[田中英光]] - 小説家。太宰の弟子。[[オリンピックボート競技|オリンピック]]選手。青春文学「オリンポスの果実」で文壇に登場後、無頼派に転向。薬物中毒の果てに傷害事件を起こし、太宰の死の翌年、太宰の墓前で[[割腹自殺]]した<ref>田中英光 自殺から30年 眠っていた短編『朝日新聞』1979年(昭和54年)7月5日夕刊、3版 15面</ref>。
* [[檀一雄]] - 小説家。太宰の親友。「[[走れメロス]]」は檀との熱海でのエピソードがモデルになっているという説もある。
* [[堤重久]] - 太宰が最も信頼していた弟子。のち[[京都産業大学]]教授。『太宰治との七年間』の著書あり。
* [[豊島与志雄]] - 太宰の先輩作家で、フランス文学者。太宰の葬儀委員長を務めた。
* [[中井英夫]] - 東大在学中、第十四次『[[新思潮]]』の編集者として、当時中井が最も心酔し反発もしていた太宰と交際(『続・黒鳥館戦後日記』に詳しい)。『禿鷹―あとがきに代えて―』などによれば、1948年5月16日に太宰宅を訪問したとき、太宰が八雲書店から届いた自らの全集を撫で回して嬉しそうにしているのを見て、作家の全集を生前に刊行するのを滑稽と考えていた中井は「先生はよくもうすぐ死ぬ、と仰いますが、いつ本当に死ぬんですか」と問い詰めたことがある。太宰は「人間、そう簡単に死ねるもんじゃない」と答えたが、その約一か月後に自殺した。のちに問い詰めたことを後悔したという。中井が『[[新思潮]]』に書いてもらったのは『[https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1562_14860.html 朝]』で、原稿料を一枚五十円支払ったという。のちに生活が苦しかった折、この直筆原稿を古書店に一万円で売り、翌日には店頭に五万円で売り出されていたと回想している。
* [[中野嘉一]] - 太宰がパビナール中毒で[[東京武蔵野病院]]に入院していたときの主治医で詩人。太宰を[[精神病質|サイコパス]]と診断した。『善蔵を思う』の甲野嘉一は名前をもじったもの。
* [[中野好夫]] - 英文学者・評論家。短篇『父』を「まことに面白く読めたが、翌る朝になったら何も残らぬ」と酷評し、太宰から連載評論『[https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1084_15078.html 如是我聞]』のなかで「貪婪、淫乱、剛の者、これもまた大馬鹿先生の一人」と反撃された。太宰の没時は東京大学英文科教授で、『[[文藝]]』1948年8月号の文芸時評『志賀直哉と太宰治』のなかで、「場所もあろうに、夫人の家の鼻の先から他の女と抱き合って浮び上るなどもはや醜態の極である」「太宰の生き方の如きはおよそよき社会を自から破壊する底の反社会[[エゴイズム]]にほかならない」と太宰の人生を指弾した。
* [[中原中也]] - 『青い花』の同人仲間。酒席での凄絶な搦みで有名な中原は「お前は何の花が好きなんだい」と訊ね、太宰が泣き出しそうな声で「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と答えると、「チエッ、だからおめえは」とこき下ろした。太宰の側では中原を尊敬しつつも、人間性を嫌っており、親友[[山岸外史]]に対して「[[ナメクジ]]みたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃない」とこき下ろした。のちに中原の没後、檀一雄に対して「死んで見ると、やっぱり中原だ、ねえ。段違いだ。[[立原道造|立原]]は死んで天才ということになっているが、君どう思う?皆目つまらねえ」と言ったという。
* [[野口冨士男]] - 『文芸時代』の同人。[[日本文藝家協会]]書記局嘱託として葬儀で弔辞を読む。
* [[野原一夫]] - [[新潮社]]の担当編集者。『回想太宰治』などを書く。
* [[野平健一]] - 新潮社の担当編集者。『週刊新潮』二代目編集長。『矢来町半世紀 太宰さん三島さんのこと、その他』などを書く。
* [[別所直樹]] - 太宰の弟子。
* [[三島由紀夫]] - 12歳の頃、『虚構の彷徨 [[ダス・ゲマイネ]]』を、同じ痛みを感得して読む<ref>安藤武編「年譜」(三島由紀夫『[[中世 (小説)|中世]]・[[剣 (小説)|剣]]』)([[講談社文芸文庫]]、1998年)</ref><ref group="注釈">しかし『[[私の遍歴時代]]』{{要ページ番号|date=2021年2月}}では、それらを読んだことを「太宰氏のものを読みはじめるには、私にとつて最悪の選択であつたかもしれない」と三島は述べている。</ref>。その後、『斜陽』は雑誌連載時から読み、[[川端康成]]宛書簡には「『斜陽』第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります」<ref>三島由紀夫「川端康成への書簡 昭和22年10月8日付」(『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』)(新潮社、1997年。新潮文庫、2000年)</ref>と記している。しかしのちのエッセイでは、この作品に登場する[[貴族]]の言葉遣いが現実の貴族とかけ離れていることを指摘している<ref name="henreki">三島由紀夫「[[私の遍歴時代]]」(『[[東京新聞]]』夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号に掲載)。『私の遍歴時代』([[講談社]]、1964年)</ref><ref group="注釈">貴族の娘が台所のことを「お勝手」と言ったり、「お母さまの食事のいただき方」(正しくは「召上り方」)、「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」(自分に敬語を付けている)というような敬語の使い方の間違いを指摘している。</ref>。1946年12月14日、[[矢代静一]]に誘われて太宰と[[亀井勝一郎]]を囲む会合に出席した。矢代によれば「太宰が会ってくれることになった」と告げたとき、三島は目を輝かして「僕も連れてってよ」と邪気なくせがんだという<ref>[[矢代静一]]「太宰治と三島由紀夫」([[新潮]] 1998年7月号に掲載)</ref>。三島はこの会合で、「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と「ニヤニヤしながら」発言し、これに対して太宰は虚をつかれたような表情をして誰へ言うともなく「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えたと三島は述懐している<ref name="henreki"/>。しかし、その場に居合わせた[[野原一夫]]によれば、三島は「[[能面]]のように無表情」で発言し、太宰は三島の発言に対して「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけたという<ref>[[野原一夫]]『回想 太宰治』(新潮社、1980年){{要ページ番号|date=2021年2月}}</ref>。三島はその後、しばしば太宰への嫌悪を表明し続けた<ref group="注釈">[[戸板康二]]『泣きどころ人物誌』、[[瀬戸内寂聴]]『奇縁まんだら』、[[出口裕弘]]『三島由紀夫・昭和の迷宮』などにその種の発言が記されている。{{要ページ番号|date=2021年2月}}</ref>。『[[小説家の休暇]]』では、「第一私はこの人の顔がきらひだ。第二にこの人の田舎者の[[ハイカラ]]趣味がきらひだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ」「太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だつた」「治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない」と記し<ref>三島由紀夫『[[小説家の休暇]]』(講談社 ミリオン・ブックス、1955年)</ref>、その他の座談会や書簡等にもその種の記述が見られる<ref group="注釈">『[[不道徳教育講座]]』や「[[奥野健男]]著『太宰治論』評」など。</ref>。晩年には、1968年に行われた[[一橋大学]]でのティーチ・インにて「私は太宰とますます対照的な方向に向かっているようなわけですけど、おそらくどこか自分の根底に太宰と触れるところがあるからだろうと思う。だからこそ反撥するし、だからこそ逆の方に行くのでしょうね」<ref>三島由紀夫「学生とのティーチ・イン――国家革新の原理」(『[[文化防衛論]]』)(新潮社、1969年)</ref>と述べた。また[[自殺|自決]]の2か月ほど前には、[[村松剛]]や編集者に対して「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と告白し、村松が「家庭の幸福は文学の敵。それじゃあ、太宰治と同じじゃないか」と言うと、三島は「そうだよ、おれは太宰治と同じだ。同じなんだよ」と言ったとされる<ref>[[村松剛]]『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)</ref><ref>『座談会 昭和文学史 第三巻』([[井上ひさし]]・[[小森陽一 (国文学者)|小森陽一]]編著、[[集英社]]、2003年)</ref>。
* [[森鷗外]] - 太宰は「たち依(よ)らば大樹の陰、たとえば鴎外、森林太郎」という文を書いた。また本人の墓石は、希望したとおり三鷹市[[禅林寺 (三鷹市)|禅林寺]]にある森鴎外の墓石と向き合うところ(正確には斜め向かい)に立てられている。ちなみに、刻まれた「太宰治」の文字は井伏鱒二の筆による。
* [[山岸外史]] - 評論家。太宰の親友。1934年(昭和9年)に太宰と知り合い、『青い花』や[[日本浪曼派]]の同人として交友を深めた。自身も『人間キリスト記』などの著作により太宰の文学に影響を与えたが、戦後絶交状を送るなどして次第に疎遠となった。しかし太宰入水に際して遺体捜索には加わり、美知子夫人から「ヤマギシさんが東京にいたら、太宰は死ななかったものを」と泣かれたことなど、その複雑な交友の実態を回想録『人間太宰治』(1962年〈昭和37年〉)、『太宰治おぼえがき』(1963年〈昭和38年〉)の中で明らかにしている。
* [[吉本隆明]] - 評論家。学生時代に『春の枯葉』の上演許可を得るため太宰の元を訪れる。
== 演じた俳優・声優 ==
太宰治、またはそれに相当する人物を演じた俳優・声優の一覧。
* [[長門裕之]] - 映画『[[秋津温泉]]』(1962年 監督:[[吉田喜重]])
* [[石坂浩二]] - ドラマ『[[冬の花火 わたしの太宰治]]』(1979年)
* [[萩原健一]] - 映画『[[もどり川]]』(1983年 監督:[[神代辰巳]])
* [[峰岸徹]] - 映画『武蔵野心中』(1983年)
* [[田村亮 (俳優)|田村亮]] - ドラマ『[[ニュードキュメンタリードラマ昭和 松本清張事件にせまる]]』第4回「人間失格 太宰治」(1984年)
* [[岡田裕介]] - 映画『[[火宅の人]] 旅の終わりに』(1986年 監督:[[深作欣二]])
* [[風間杜夫]] - 舞台『人間合格』(1989年)
* [[渡辺いっけい]] - 舞台『人間合格』(1989年)
* [[役所広司]] - ドラマ『グッド・バイ 私が殺した太宰治』(1992年)
* [[唐沢寿明]] - 舞台『温水夫妻』(1999年)
* [[河村隆一]] - 映画『[[ピカレスク 人間失格]]』(2002年)
* [[細川智三]] - テレビ番組『太宰治 連続心中の謎!! その真相に[[猪瀬直樹]]がせまる』(2002年)
* [[大高洋夫]] - 舞台『人間合格』(2003年)
* [[豊川悦司]] - ドラマ『太宰治物語』(2005年)
* [[西島秀俊]] - 連続テレビ小説『[[純情きらり]]』(2006年)
* [[塚本高史]] - 映画『富嶽百景〜遥かなる場所〜』(2006年)
* [[ウエンツ瑛士]] - テレビ番組『あらすじで楽しむ世界名作劇場』(2007年)
* [[岡本健一]] - 舞台『人間合格』(2008年)
* [[南原健朗]] - 映画『夢のまにまに』(2008年)
* [[浅野忠信]] - 映画『[[ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜]]』(2009年)
* [[堺雅人]] - 文学アニメ『[[青い文学シリーズ]]』(2009年)
* [[櫻井翔]] - 朗読劇 太宰治生誕百周年記念企画『ART OF WORDS〜櫻井翔の『人間失格』』(2009年)
* [[渡部豪太]] - テレビ番組『小悪魔ドクショ 文学で恋をつかまえる方法』(2010年)
* [[向井理]] - テレビ番組『[[BUNGO -日本文学シネマ-]] — 黃金風景』(2010年)
*[[山崎まさよし]] - テレビ番組『[[BUNGO -日本文学シネマ-]] — グッド・バイ』(2010年)
* [[生田斗真]] - 映画『[[人間失格#映画|人間失格]]』(2010年)
* 村上健志([[フルーツポンチ (お笑いコンビ)|フルーツポンチ]]) - 映画『ゴーストライターホテル』(2011年)
* [[仲村トオル]] - 舞台『グッドバイ』(2015年)
* [[宮野真守]] - テレビアニメ『[[文豪ストレイドッグス]]』(2016年 - )
* [[大野拓朗]] - テレビ番組『グッド・バイ』(2018年)
* [[小栗旬]] - 映画『[[人間失格 太宰治と3人の女たち]]』(2019年)
* [[内博貴]] - 舞台『走れメロス〜文豪たちの青春〜』(2020年)
* [[河相我聞]] - ドラマ『[[歴史迷宮からの脱出〜リアル脱出ゲーム×テレビ東京〜]]』第5話(2020年)
* [[中村悠一]]-テレビアニメ 『[[文豪とアルケミスト]]』(2020年)
== 記念施設 ==
* [[太宰治記念館 「斜陽館」]]
*: 青森県五所川原市にある記念館。
* [[太宰治まなびの家]]
*: 旧制弘前高校時代に下宿した民家。
* 太宰治文学サロン
*: 当初は「太宰治文学館」として東京都[[井の頭恩賜公園]]内に建設が計画されていた。三鷹市は井の頭恩賜公園開園100周年・太宰没後70年記念事業として2017年4月に井の頭公園内に太宰治文学館を建設する計画を公表したが<ref>{{Cite news|url=https://www.toonippo.co.jp/articles/-/18812|title=井の頭公園に太宰治文学館/三鷹市が計画|newspaper =『[[東奥日報]]』|date=2017-01-24|accessdate=2017-01-25}}</ref>、[[パブリックコメント]]に市民から井の頭公園への建設に多くの反対意見が寄せられたことや[[ふるさと納税]]による税収減少などを理由に、2018年3月末に井の頭公園以外への設置場所の変更と、再検討も含めた計画スケジュールの見直しを発表した<ref>[https://www.city.mitaka.lg.jp/c_service/072/072451.html 文学施設の整備に向けた『基本的な考え方』をとりまとめました] - 三鷹市ウェブサイト(2018年3月30日)</ref>。その後、[[下連雀]]3丁目にあった太宰ゆかりの酒販店の跡地に、2020年3月に「太宰治文学サロン」の名称でオープンした<ref>[https://www.city.mitaka.lg.jp/c_service/001/001677.html 太宰治文学サロン] - 三鷹市(2020年10月4日閲覧)</ref>。
* ゆふいん文学の森 「[[碧雲荘 (杉並区)|碧雲荘]]」
*: 東京都杉並区天沼から[[大分県]][[由布市]]湯布院町に移築され、文学交流施設として2017年4月に公開された。
== 関連書籍 ==
=== 太宰の伝記 ===
* [[杉森久英]] 『苦悩の旗手 太宰治』[[文藝春秋]] 1967年、[[河出文庫]] 1983年
<!-- * 杉森久英 『苦悩の旗手 太宰治』[[角川文庫]] 1972年 -->
* [[檀一雄]] 『小説太宰治』審美社 1970年、新版1992年 ISBN 4-7883-3065-2
* 檀一雄 『小説太宰治』[[岩波現代文庫]] 2000年 ISBN 4-00-602012-0
* 檀一雄 『小説太宰治』[[小学館]] 2019年 ISBN 4-09-352366-5
* 檀一雄 『太宰と安吾』[[角川ソフィア文庫]] 2016年 ISBN 4-04-400086-7
* [[野原一夫]] 『回想太宰治』[[新潮社]] 1980年、改版1992年 ISBN 4-10-335301-5
<!-- * 野原一夫 『回想太宰治』[[新潮文庫]] 1983年 -->
* 野原一夫 『回想太宰治 新装版』新潮社 1998年 ISBN 4-10-335308-2
* 野原一夫 『太宰治 生涯と文学』[[ちくま文庫]] 1998年 ISBN 4-480-03397-1
* [[石上玄一郎]] 『太宰治と私 激浪の青春』集英社 1986年、集英社文庫 1990年
* [[奥野健男]]『太宰治』文藝春秋 1973年、文春文庫 1998年
* [[矢代静一]] 『含羞の人 私の太宰治』[[河出書房新社]] 1986年、河出文庫 1998年 ISBN 4-309-40522-3
* [[相馬正一]] 『評伝太宰治』[[筑摩書房]] 全3冊 1982-85年。増補版・津軽書房 上下 1995年
* [[山岸外史]] 『人間太宰治』ちくま文庫 1989年 ISBN 4-480-02337-2
* [[猪瀬直樹]] 『ピカレスク〜太宰治伝』小学館 2000年、「著作集4」小学館 2002年、文春文庫 2007年(監督:[[伊藤秀裕]] 太宰役は[[河村隆一]]で映画化)
* [[長部日出雄]] 『辻音楽師の唄 もう一つの太宰治伝』[[文藝春秋]] 1997年、[[文春文庫]] 2003年、小学館 2019年
* 長部日出雄 『桜桃とキリスト もう一つの太宰治伝』文藝春秋 2002年、文春文庫 2005年、小学館 上・下 2019年
=== その他 ===
* [[津島美知子]]『回想の太宰治』[[人文書院]] 1978年、増訂版1997年、[[講談社文芸文庫]] 2008年 ISBN 4-06-290007-6
* [[井伏鱒二]]『太宰治』筑摩書房 1989年、[[中公文庫]] 2018年 ISBN 4-12-206607-7
* [[太田治子]]『明るい方へ 父・太宰治と母・[[太田静子]]』[[朝日新聞出版]] 2009年、[[朝日文庫]] 2012年
*『太宰よ! 45人の追悼文集 さよならの言葉にかえて』河出文庫 2018年 ISBN 4-309-41614-4
* [[松本健一]]『太宰治 含羞のひと伝説』増補新版・辺境社 2009年。旧版・第三文明社 1982年
* [[小野正文]]『太宰治をどう読むか』[[未知谷]] 2006年
* 鎌田紳爾『ふたりの修ちゃ 太宰治と[[寺山修司]]』未知谷 2014年
* [[山崎富栄]]『太宰治との愛と死のノート 雨の玉川心中とその真実』 長篠康一郎編、[[学陽書房]](女性文庫)1995年
* [[松本侑子]]『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』光文社 2009年/光文社文庫 2012年 ISBN 4334-76406-1
* [[鎌田慧]]『津軽・斜陽の家 〜太宰治を生んだ「地主貴族」の光芒』[[祥伝社]] 2000年、[[講談社文庫]] 2003年 ISBN 4-06-273767-1
* [[林聖子]]『風紋五十年』[[パブリック・ブレイン]] 2012年 ISBN 978-4-434-16699-0
*『永遠の太宰治 総特集 [[KAWADE夢ムック|KAWADEムック]]』河出書房新社 2019年。旧版2009年
;以下は図版・入門書
*『太宰治 新潮日本文学アルバム』新潮社 1983年 ISBN 978-4-10-620619-1
*『図説 太宰治』[[日本近代文学館]]編、[[ちくま学芸文庫]] 2000年
*『文豪ナビ 太宰治』新潮文庫 2004年 ISBN 978-4-10-100600-0
*『太宰治 生誕一〇〇年記念』 [[平凡社]]「別冊太陽・日本のこころ」2009年 ISBN 978-4-582-92159-5
*『太宰治と旅する津軽』小松健一写真、新潮社〈[[とんぼの本]]〉2009年 ISBN 978-4-10-602192-3
* 太宰治倶楽部編『もっと太宰治 太宰治がわかる本』〈ムック〉の本・[[ロングセラーズ]] 1989年、新版2015年
* [[吉田和明]]解説『太宰治 [[フォー・ビギナーズ・シリーズ]] 45』[[現代書館]] 1987年
* [[細谷博]]『太宰治』[[岩波新書]] 1998年
* [[巌谷大四]]編『さよならを言うまえに 人生のことば292章』 河出文庫 1988年、新版2009年
* [[小野才八郎]]編著『太宰治語録』津軽書房 1998年 ISBN 4-8066-0169-1
* [[山口智司]]編著『生まれてすみません 太宰治 一五〇の言葉 [[PHP研究所]] 2009年
;以下は電子出版ほか
* 朗読[[コンパクトディスク|CD]] 太宰治作品集〜CD15枚組〜 (日本音声保存)2006年 ISBN 4-901708-93-7
*『[[DS文学全集|DS 文学全集]]』[[ニンテンドーDS]]ソフト 2007年10月 NTR-P-YBNJ (JPN)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|last=野原|first=一夫|author-link=野原一夫|year=1998 |title=太宰治 生涯と文学 |publisher=筑摩書房 |series=ちくま文庫 |NCID=BA36020182 |ISBN=4-480-03397-1 |id={{全国書誌番号|99011179}}}}
* {{Citation|和書|last=猪瀬|first=直樹|author-link=猪瀬直樹|year=2000|title=ピカレスク 太宰治伝|publisher=小学館|series=|isbn=4-09-394166-1}}
* {{Citation|和書|title=増補改訂版 回想の太宰治|last=津島|first=美知子|year=1997|author-link=津島美知子|publisher=人文書院|isbn=4-409-16079-6}}
== 関連項目 ==
* [[文学]]/[[日本文学]]/[[日本の近現代文学史]]
* [[私小説]]
* [[無頼派]]
* [[青森県出身の人物一覧]]
* [[火の山―山猿記]]
* [[池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる]]
* [[太宰治と自殺]]
* [[自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧]]
== 外部リンク ==
{{Wikiquote|太宰治}}
{{commonscat|Osamu Dazai}}
* {{青空文庫著作者|35|太宰 治}}
* {{青空文庫著作者|974|黒木 舜平}}
* [https://www.city.goshogawara.lg.jp/kyouiku/bunka/syayokan.html 五所川原市・斜陽館]
* [https://mitaka-sportsandculture.or.jp/dazai/ 三鷹市・太宰治 文学サロン]
* [https://dazai.or.jp/ 太宰治ポータルサイト]
* [http://www.kanagi-gc.net/ 太宰治記念館「斜陽館」]
* [http://www.ul.hirosaki-u.ac.jp/collection/dazai.html 太宰治研究文庫](弘前大学附属図書館)
* [https://web.archive.org/web/20210510025005/http://rcas.jp/ ゆふいん文学の森]
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[[Category:太宰治|*]]
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アッピアノス
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アッピアノス(Ἀππιανός、95年頃 - 165年頃)は、2世紀の古代ローマの歴史家。エジプトのアレクサンドリアに生まれたギリシャ人である。
若年のとき、116年に同市で起きたユダヤ人反乱を実見した。エジプトで高位につき、ローマ公民権と騎士の身分を与えられた後にローマで皇帝の知遇を得て国庫補佐官、元首属吏 (procurator) に指名された。アントニヌス・ピウス帝の頃と推測される。ギリシャ語で全24巻からなる主著『ローマ史』(Ῥωμαϊκά)を著した。この著作は、ローマ初期の時代からウェスパシアヌス帝まで、ローマと諸民族の戦いを各地域ごとに記し、次にローマの内乱をその指導者ごとに記す。『内乱記』(Guerre Civili)など多くが残るが、一部は部分的な引用でしか知られておらず12巻しか現存していない。
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'''アッピアノス'''({{lang|grc|Ἀππιανός}}、[[95年]]頃 - [[165年]]頃)は、2世紀の[[古代ローマ]]の[[歴史家]]。[[エジプト]]の[[アレクサンドリア]]に生まれた[[ギリシャ人]]である。
若年のとき、[[116年]]に同市で起きた[[ユダヤ人]]反乱を実見した。エジプトで高位につき、ローマ[[公民権]]と[[騎士]]の身分を与えられた後にローマで皇帝の知遇を得て国庫補佐官、[[元首属吏]] (procurator) に指名された。[[アントニヌス・ピウス]]帝の頃と推測される。ギリシャ語で全24巻からなる主著『[[ローマ史 (アッピアノス)|ローマ史]]』({{lang|grc|Ῥωμαϊκά}})を著した。この著作は、ローマ初期の時代から[[ウェスパシアヌス]]帝まで、ローマと諸民族の戦いを各地域ごとに記し、次にローマの内乱をその指導者ごとに記す。『[[内乱記 (アッピアノス)|内乱記]]』({{lang|la|Guerre Civili}})など多くが残るが、一部は部分的な引用でしか知られておらず12巻しか現存していない。
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |author= 高津春繁 |authorlink= 高津春繁 |coauthors= [[手塚富雄]]、[[西脇順三郎]]、[[久松潜一]] |editor= [[相賀徹夫]] |others= |title= 万有百科大事典 1 文学 |origdate= 1973-8-10 |url= |format= |accessdate= |edition= 初版 |date= |year= |publisher= [[小学館]] |location= |series= [[日本大百科全書]] |language= 日本語 }}
* {{Cite web|和書|last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |date= |url= http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%82%B9/ |title= アッピアノス |format= |doi= |work= |publisher= [[Yahoo!百科事典]]、[[日本大百科全書]] |page= |pages= |language= |archiveurl= |archivedate= |accessdate= 2012-10-14 |quote=}}{{リンク切れ|date=2013年12月}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あつひあのす}}
[[Category:2世紀の学者]]
[[Category:2世紀の著作家]]
[[Category:2世紀の古代ローマ人]]
[[Category:古代ローマの歴史家]]
[[Category:古代ローマの文筆家]]
[[Category:アレクサンドリア出身の人物]]
[[Category:2世紀没]]
[[Category:生没年不詳]]
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過給機
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過給機(かきゅうき、Supercharger)とは、内燃機関(Internal Combustion Engine, ICE)が吸入する空気の圧力を吸気口の圧力以上に高める補機の総称である。なお、「スーパーチャージャー」を特に機械式過給機のみを指すものとし、排気タービンを駆動源としたもの(いわゆるターボチャージャー)とは別と扱う場合も多い。圧縮機(コンプレッサー、英: compressor、独: Kompressor)の一種、ないし、吸気を圧縮して供給することに特化した圧縮機といえる。
過給機は内燃機関が吸い込む空気の圧力、すなわち密度を高くすることで酸素を多く取り込み、より高い燃焼エネルギーを得るための補助装置である。大気圧以上の圧力で空気を燃焼室に送る発想は古くから存在し、航空機が発達する以前より開発されていた。航空機が発達すると飛行高度が徐々に高くなり、それに伴って気圧(空気密度)が低くなるため、高高度での性能向上を図って過給器の開発が進み、第二次世界大戦時の軍用機には必須の装備となった。第二次世界大戦後、航空機にはジェットエンジンやターボプロップエンジンといったガスタービンエンジンが普及し、これらのエンジンにも取り込んだ空気を圧縮する機構がエンジンの一部として備わるが、この場合は過給機とは呼ばない。過給機は船舶、鉄道車両、自動車といった輸送機械のエンジンだけでなく、農業機械、建設機械、発電機などの産業用エンジンにも広く採用されている。
燃焼室に混合気を吸入し圧縮する火花点火機関では、過給により混合気が高温高圧となってデトネーションが発生しやすくなるため圧縮比、空燃比、最大過給圧、点火時期を緻密に制御しなければならないのに対し、空気のみを圧縮するディーゼルエンジンはその心配がない。また、ディーゼルエンジンは正常燃焼する空燃比の幅が広く、過給機によって送られた空気の流れを妨げるスロットルバルブを持たないこともあり、過給機との相性が良い。いずれの場合もエンジン強度に応じて最大過給圧が定められていて、ウェイストゲートバルブなどで圧力が制御される。
モータースポーツでは、自然吸気エンジンに対して排気量を制限することがあるが、過給を許している場合は自然吸気より少ない排気量に設定されたり、その最大過給圧に制限が加えられることも多い。JAFの国内競技規則によると、スピード競技の場合は過給機付きの車両は排気量を1.7倍して排気量別クラスに分類される。
過給機は大きく分けると、排気の流れを受けるタービンでコンプレッサを駆動する排気タービン式過給機(エキゾーストタービンスーパーチャージャー、英: Exhaust turbine super charger)と、主機であるエンジンの回転や電動機によって駆動する機械式過給機(メカニカルスーパーチャージャー、英: Mechanical super charger)、過給圧を排気の圧力波から直接得るプレッシャーウェーブ・スーパーチャージャーに分類することができる。
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過給機(かきゅうき、Supercharger)とは、内燃機関が吸入する空気の圧力を吸気口の圧力以上に高める補機の総称である。なお、「スーパーチャージャー」を特に機械式過給機のみを指すものとし、排気タービンを駆動源としたもの(いわゆるターボチャージャー)とは別と扱う場合も多い。圧縮機の一種、ないし、吸気を圧縮して供給することに特化した圧縮機といえる。
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'''過給機'''(かきゅうき、'''Supercharger''')とは、[[内燃機関]](Internal Combustion Engine, ICE)が吸入する[[空気]]の圧力を吸気口の圧力<ref>だいたい[[大気圧]]だが、前方に向けた適切な形状のスクープであれば[[ラム圧]]効果が期待できるので、必ずしも大気圧そのものとは限らない。</ref>以上に高める補機の総称である。なお、「[[スーパーチャージャー]]」を特に機械式過給機のみを指すものとし、排気[[タービン]]を駆動源としたもの(いわゆる[[ターボチャージャー]])とは別と扱う場合も多い。[[圧縮機]]('''コンプレッサー'''、{{lang-en-short|compressor}}、{{lang-de-short|Kompressor}})の一種、ないし、[[吸気]]を圧縮して供給することに特化した圧縮機といえる。
== 概要 ==
過給機は[[内燃機関]]が吸い込む空気の圧力、すなわち[[密度]]を高くすることで[[酸素]]を多く取り込み、より高い[[燃焼エネルギー]]を得るための補助装置である。大気圧以上の圧力で空気を[[燃焼室]]に送る発想は古くから存在し<ref>鈴木孝著『エンジンのロマン』</ref>、[[航空機]]が発達する以前より開発されていた。航空機が発達すると飛行[[高度]]が徐々に高くなり、それに伴って[[気圧]](空気密度)が低くなるため、高高度での性能向上を図って過給器の開発が進み、[[第二次世界大戦]]時の[[軍用機]]には必須の装備となった。第二次世界大戦後、航空機には[[ジェットエンジン]]や[[ターボプロップエンジン]]といった[[ガスタービンエンジン]]が普及し、これらのエンジンにも取り込んだ空気を圧縮する機構がエンジンの一部として備わるが、この場合は過給機とは呼ばない。過給機は[[船|船舶]]、[[鉄道車両]]、[[自動車]]といった[[乗り物|輸送機械]]のエンジンだけでなく、[[農業機械]]、[[建設機械]]、[[発電機]]などの産業用エンジンにも広く採用されている。
燃焼室に[[混合気]]を吸入し圧縮する[[火花点火機関]]では、過給により混合気が高温高圧となって[[デトネーション]]が発生しやすくなるため[[圧縮比]]、[[空燃比]]、最大過給圧、[[点火時期]]を緻密に制御しなければならないのに対し、空気のみを圧縮する[[ディーゼルエンジン]]はその心配がない。また、ディーゼルエンジンは正常燃焼する空燃比の幅が広く、過給機によって送られた空気の流れを妨げる[[スロットル]]バルブを持たないこともあり<ref>[[噴射ポンプ]]の制御にスロットルボディで発生する負圧を利用する場合や、アイドリングでの振動・騒音を抑制するため、あえてスロットルバルブを追加しているものもある。</ref>、過給機との相性が良い。いずれの場合もエンジン[[強度]]に応じて最大過給圧が定められていて、[[ウェイストゲートバルブ]]などで圧力が制御される。
[[モータースポーツ]]では、[[自然吸気]]エンジンに対して[[排気量]]を制限することがあるが、過給を許している場合は自然吸気より少ない排気量に設定されたり、その最大過給圧に制限が加えられることも多い。<!--[[1988年のF1世界選手権]]では、自然吸気エンジンが上限排気量3,500ccだったのに対して、ターボエンジンは排気量1,500cc+最大過給圧2.5barに制限されていた。--><!-- ←過渡期のためこの頃の規制値は毎年変更されており、典型例として見るには無理があるのではないか? -->[[日本自動車連盟|JAF]]の国内競技規則によると、スピード競技の場合は過給機付きの車両は排気量を1.7倍して排気量別クラスに分類される<ref>国内競技規則 第3編</ref>。
== 代表的な種類 ==
過給機は大きく分けると、[[排気]]の流れを受けるタービンでコンプレッサを駆動する'''排気タービン式過給機'''(エキゾーストタービンスーパーチャージャー、{{lang-en-short|Exhaust turbine super charger}})と、主機であるエンジンの回転や電動機によって駆動する'''機械式過給機'''(メカニカルスーパーチャージャー、{{lang-en-short|Mechanical super charger}})、過給圧を排気の圧力波から直接得る[[プレッシャーウェーブ・スーパーチャージャー]]に分類することができる。
* 機械式過給機
** [[遠心式圧縮機|遠心式コンプレッサー]]
** [[圧縮機#ロータリーピストン型|ルーツ・ブロアー]]
** [[リショルム・コンプレッサ]]
** [[圧縮機#スクロール圧縮機|スパイラル・コンプレッサ]]
** ベーンポンプ
** レシプロポンプ
* 排気タービン式過給機
** 遠心式コンプレッサー
* プレッシャーウェーブ・スーパーチャージャー
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
* [[圧縮機]]
* [[過給圧]]
* [[ダウンサイジングコンセプト]]
** [[ブーストアップ]]
* 自動車用エンジンの過給方式
** [[ビッグシングルターボ]]
** [[ツインターボ]]
** [[ツインチャージャー]]
* 過給器に付随する部品群
** [[ウェイストゲートバルブ]]
** [[ブローオフバルブ]]
** [[インタークーラー]]
** [[ミスファイアリングシステム]]
** [[ブーストコントローラー]]
** [[ブースト計]]
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タジキスタン
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タジキスタン共和国(タジキスタンきょうわこく、タジク語: Ҷумҳурии Тоҷикистон)、通称タジキスタンは、中央アジアに位置する共和制国家。首都はドゥシャンベである。内陸国で、南にアフガニスタン、東に中華人民共和国、北にキルギス、西にウズベキスタンと国境を接する。
ソビエト連邦の崩壊に伴い独立し、ロシア連邦など旧ソ連諸国による独立国家共同体(CIS)などに参加している。
正式国名は、Ҷумҳурии Тоҷикистон(読みは、ジュムフーリーイ・トージーキストーン、あるいはジュムフーリーイ・タージーキスターン)。通称は、Тоҷикистон。
公式の英語表記はRepublic of Tajikistanで、通称Tajikistan。タジキスタン国民や「タジキスタンの」を意味する形容詞は Tajikistaniである。
日本語の表記はタジキスタン共和国で、通称タジキスタン。
タジク人たちは遊牧をしていたアーリア系スキタイ遊牧民である。タジク人たちはテュルク人たちと住み、多くの遊牧民に遊牧の文化を伝えた。国名はタジク人の自称民族名 Тоҷик(タージーク、トージーク)と、タジク語で「~の国」を意味する -истон の合成語である。タジク(ペルシア語ではタージーク、tājīk)の語源は明らかではないが、中国の唐朝がイスラム帝国を指した「大食」(タージー)と同じで、元はペルシア語で「アラブ人」を意味した語であると言われ、のちにアラブ人からイスラム教を受け入れたペルシア・イラン系の人々のことを指すようになったと言われる。タジク語、ペルシア語、ダリー語で "تاج Tāj" は「王冠」を意味し、単純には「冠の人たちの国」となる。現在でもタジキスタン国内で国名の由来を説明するときに用いられる通説である。
紀元前2000年から紀元前1000年にかけて、アーリア系のスキタイという遊牧民部族がユーラシア・ステップの草原から中央アジアに移住し、オアシス地方で独自の文化を作り上げていた。
現在のタジキスタンの領土に相当する地域は、古代より最盛期のアケメネス朝ペルシア帝国の東部辺境としてギリシア世界に知られ、様々な民族の往来・侵入・支配を受けつつも果敢に反撃。パミール高原を境とする中国、インド、アフガニスタン、イラン、中東の結節点としての「文明の十字路」たる地位を確立してきた。反撃の過程ではスピタメネス(タジク語では「スピタメン」)を輩出した。同時に山岳地域は被征服民族の「落武者の隠れ里」として、各地のタジク語諸方言だけでなく、ヤグノビ語、シュグニー語、ルシャン語(英語版)、ワヒ語などのパミール諸語を話す民族を今日まで存続させてきた。
7世紀のイスラーム教徒のペルシア征服の後、8世紀に西方からアラブ人が到来し、イラン系の言語を話していたこの地域の住民たちの多くはイスラム教を信奉するようになり、9世紀には現在のタジキスタンからウズベキスタンにかけての地域で、土着のイラン系領主がブハラを首都にサーマーン王朝を立てた。しかし、サーマーン朝は同地域でのタジク系最後の独立王朝となる。やがてテュルク民族が到来すると、タジキスタンとウズベキスタン、アフガニスタン、イランなどにかけて広く居住するイラン系の言語を話すムスリム(イスラム教徒)定住民たちは都市部においては侵入してきたテュルク語系諸民族と混住し、テュルク系言語とイラン系言語のバイリンガルが一般的となった。双方の民族とも民族としてのアイデンティティは低く、たとえば「タジク」という呼称よりも、出身地により自らを「サマルカンド人」や「ブハラ人」などと呼ぶなど、出身都市や集落に自己のアイデンティティを求めることが多かったようである。
16世紀にはタジクたちの中心地域であるマー・ワラー・アンナフル(ウズベキスタン中央部からタジキスタン北西部)に、ヴォルガ川流域で強大になったウズベク人(シャイバニ・ウズベク族)が侵入し、ウズベク族の建てたブハラ・ハン国の支配下に入る。
アングロ・ペルシア戦争(英語版)(1856年 - 1857年)後にパリ条約が締結されると、ガージャール朝がヘラートから手を引いた。19世紀にロシア帝国では軽工業を基幹とする産業革命が進行していたが、1860年代前半にアメリカ合衆国で勃発した南北戦争の影響から、それまでアメリカ合衆国南部で奴隷制プランテーション農業によって生産されていた綿花の値段が上昇したため綿花原料の確保が困難となり、ロシア帝国では「安い綿原料の確保」ばかりでなく、「大英帝国による中央アジアの植民地化阻止」および「平原を国境とすることの危険性」といった観点から、中央アジアへの南進および領土編入・保護国化が進められ(グレート・ゲーム)、1868年にブハラ・ハン国はロシアの保護国となった。
20世紀初頭のオスマン帝国は1904年から1905年にかけての日露戦争での日本の活躍をほとんど注目しておらず、むしろロシアと敵対関係にあったブハラ・ハン国の政府に支援されたブハラからの留学生が留学先のドイツ帝国の首都ベルリンでロシアが日本に敗れたことを知り、ブハラ・ハン国とその同盟国たるオスマン帝国に知らせている。その留学生らは、日本の近代化の原動力を明治維新だと知ると、同じような自由主義革命の気運がガージャール朝ペルシア(1906年から始まったイラン立憲革命)やオスマン帝国(1908年から始まった青年トルコ人革命)に拡大した。しかし、ロシアの力があまりに強大だったウラル山脈地域や中央アジアでは、社会主義革命に民族自決のための希望を見出した。
ロシア革命の影響を受けたブハラ青年らは保守的なブハラ・ハン国を倒壊し、1920年にブハラ人民ソビエト共和国を打ち立てた。しかし、1924年、ソビエト政府は中央アジアの各自治共和国を民族別の共和国に分割統治再編する「民族境界区分」の画定に踏み切り、それまでテュルクの定住民とまとめて「サルト」と呼ばれてきたイラン系のタジクたちが、タジク民族として公認されるとともに、ブハラの東部とトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の南部が切り分けられて現在のタジキスタンの領域にタジク自治ソビエト社会主義共和国が設置された。
このように、中央アジア地域ではナポレオンやフィヒテの唱えた西欧型「民族自決」の言葉と引き換えに、本来の民族共生というアジア的な優れた生き方を少なくとも政府のイデオロギーレベルでは失うことになり、本来は中央アジア諸国が一団となれば巨大な経済圏となるはずであったのが、結果的に諸国の分立と少数民族と多数派民族とのあらゆる格差を生み出すことになった。以上のような考え方はタジクへももたらされたものの、第一次世界大戦後のトルコ革命後にパミール地方へ逃れたエンヴェル・パシャ将軍らが唱えた「汎テュルク主義」はロシアとの対立を望まないケマル・アタチュルク率いる新生トルコ共和国により却下され、反ロシア・反ソヴィエトのバスマチ抵抗運動は旧地主・支配階層による抵抗運動の枠を超えられず、中央アジア諸民族の結束力の弱さを体現している。この旧地主・支配階層は、その後アフガニスタンに逃れ、一部はペルシャ湾岸諸国やイラン、あるいは西欧に亡命して現在に至っている。一方で1929年、タジクはウズベク・ソビエト社会主義共和国から分離し、ソビエト連邦構成国の一つであるタジク・ソビエト社会主義共和国に昇格した。
ソ連時代のタジク・ソビエト社会主義共和国は、スターリン批判後の中ソ対立の文脈で1969年に発生した珍宝島/ダマンスキー島をめぐる中ソ国境紛争の調停の結果、タジキスタンの東部パミール地域にあるゴルノ・バダフシャン自治州にあるムルガーブ県(英語版)の一部領土が中華人民共和国に割譲されるなど、中央政権にとってのタジキスタンのパミール地域は「削られても痛くない辺境地域」として見られているかと見間違うほどであった。
こうして形成されたタジク国家は1990年に主権宣言を行い、1991年に国名をタジキスタン共和国に改めるとともに、ソ連解体に伴って独立を果たした。1991年11月、タジキスタンの大統領選挙でラフモン・ナビエフが当選し、共産党政権が復活。1991年12月21日、独立国家共同体(CIS)に参加する。ロシアとは集団安全保障条約(CSTO)を通じて軍事同盟関係にあり、国内にロシア連邦軍が駐留している(「国外駐留ロシア連邦軍部隊の一覧#タジキスタン」参照)。
1992年、タジキスタン共産党系の政府とイスラム系野党反政府勢力との間でタジキスタン内戦が起こった。11月に最高会議(共産党系)はエモマリ・ラフモノフ(1952年 - )を議長に選び新政権を樹立し、1993年春までにほぼ全土を制圧した。1994年4月、最初の和平交渉が行われた。11月の大統領選挙が行われ、1997年6月の暫定停戦合意で反対派は政府ポストの3割を占めた。5万人以上の死者を出した内戦が終わった。エモマリ・ラフモノフ(現在はラフモンと改名)大統領の就任以来、国際連合タジキスタン監視団(UNMOT)の下で和平形成が進められてきたが、1998年には監視団に派遣されていた日本の秋野豊筑波大学助教授が、ドゥシャンベ東方の山岳地帯で武装強盗団に銃撃され殉職する事件が起こった。
1997年に内戦は終結した。UNMOTは2000年に和平プロセスを完了させ、以後は国際連合タジキスタン和平構築事務所(UNTOP)が復興を支援した。2001年の対テロ戦争以来、フランス空軍も小規模ながら駐留している(2008年時点)。
ラフモン大統領の長期政権によって、上海協力機構に加盟してロシアや中国と関係を強化し、アメリカ合衆国とも友好を築き、日本を含む各国の手厚い支援や国連活動によって、21世紀に入ってからは年10パーセントの高成長率を維持しているようである。和平後のマクロ経済成長は順調で負債も順調に返済していたが、2006年に中国が道路建設支援を目玉に大規模な借款を行ったために、タジキスタンのマクロ経済指標の状況はアフリカ諸国並みであり、将来にわたる世界不況に対する不安が残っている。特に、もともと資源・産業の多様性は乏しいうえ、所得の再分配がうまく機能せず、国民の大多数は年収350ドル未満の生活を送っている。旧ソ連各国の中でも最も貧しい国の一つであるが、近年のロシア経済の好転により、出稼ぎ労働者からの送金額が上昇したことから、公式経済データと実体経済との乖離、および出稼ぎ労働者のいない寡婦世帯における貧困の深化が問題となっている。特に、ロシア語の話せない村落部出身の男性は、ロシアでの出稼ぎ先では低賃金肉体労働しか選択肢がなく、過酷な労働による死亡、AIDS若しくは性感染症の持ち込み、あるいはロシア国内での重婚による本国家族への送金の停止など、都市部・村落部を問わず社会的問題は単純な貧困を超えた現象となりつつある。
2011年1月12日、タジキスタン下院は、中国との国境画定条約を批准し、パミール高原の約1,000平方キロメートルが中国に割譲されることになった。アフガニスタンへの支援に適している地政学的重要性からインドが海外初の軍事基地を設置しているほか、中国人民解放軍の駐留基地も存在していることを、米国の『ワシントン・ポスト』は衛星写真や現地取材などをもとに報じている。
ラフモン政権下の同国は自国民の愛国心を高めるためとして、2007年、大統領自らペルシア風の名前に改名すると、ほぼ全ての公務員が倣ってペルシア風の名前に改名した。また、ソ連時代から用いられ続けていた(公用語としての)ロシア語を2009年に廃止。2016年には出生届に関する新法を施行し、産まれてくる子供に外国名を名付けること(特にロシア語での命名)を禁止している。最近では、テレビ番組に外国風の衣装を身に着けたキャラクターを登場させることを禁止するほか、仕事で海外から渡ってきた人間の母語を含む多言語の使用にも制限が設けられる事態が起こっている。
このほかには、ソ連の名残を払拭する目的から祝祭を規制する法律を厳格化したことが挙げられる。新年を祝うことを禁じ、ヒンドゥー教のホーリー祭を祝う行事に参加した若者を「ハラームに該当する行為」だとして強制的に解散させるといった取り締まりが執行されたほか、学校の卒業パーティーを禁止する方針が固められたり、個人の誕生日を「自宅だけで祝う」ようにさせるなどの措置がとられたりしている。
2018年7月29日、首都ドゥシャンベからアフガニスタン国境に向かう道路を南に約150キロメートル下った付近の地域で、観光目的で現地を訪れていた外国人グループが襲撃され4名が死亡する事件が発生した。
キルギスとの国境線は半分近くが確定しておらず、水資源の奪い合いなどの住民同士のトラブルが国境紛争に発展する危険性をはらんでいる。2021年、2022年には死傷者が生じる軍事衝突が発生した。2022年の衝突は両国首脳が参加して行われた上海協力機構首脳会議の期間中に発生しており、互いに部隊を撤収させることで合意を見たが現地では戦闘は続いた。
2022年10月14日にカザフスタン首都アスタナで開かれた、ロシアと中央アジア5カ国の首脳会議では、ラフモン大統領がロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンに、中央アジア諸国を、ソ連時代のように軽視し、属国のように扱うべきではないと要求する一幕があった。
タジキスタンの政体は共和制をとる立憲国家である。現行憲法は1994年11月に採択されたもの。
タジキスタンの大統領は国家元首として強大な権限を憲法により保障されており、国民の直接選挙で選出される。大統領は首相を任命する。副大統領(英語版)職は1992年に廃止されている。大統領の任期は7年だが、2016年の国民投票で、現職のラフモン大統領に限り任期制限が撤廃される憲法改正案が承認された。
内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは、最高会議の承認のもとに大統領が任命する。
立法府は二院制の最高会議(マジリシ・オリ)で、国民議会(上院、マジリシ・ミリー)と人民代表議会(下院、マジリシ・ナモヤンダゴン)で構成される。国民議会は33議席で、うち25議席は地方議会による選出枠、残りは大統領が任命する。人民代表議会は63議席で、そのうち41議席は小選挙区制、22議席は比例代表制で選出される。両院とも任期は5年。
2015年3月1日には下院選挙が行われた。
主要政党には大統領エモマリ・ラフモン(2007年4月14日、ラフモノフから改名)率いるタジキスタン人民民主党、旧ソ連時代の政権党であったタジキスタン共産党、そしてイスラム主義の宗教政党タジキスタン・イスラム復興党の3つがある。この3党は、比例代表制での5%障壁を超えることができた。タジキスタン人民民主党以外は野党つまり反政府派であり、当初の和平協定では反政府派に政府閣僚級ポストの5%が所定枠として当てられ、「民主的国家」を目指すことになっていたが、2006年11月の大統領選挙で現大統領が再選すると野党反政府派は主要ポストからほぼ退かされた状況にある。
最高司法機関は最高裁判所で、その裁判官は大統領が任命する。
タジキスタンは欧州安全保障協力機構の加盟国の一つとなっている。
2020年4月30日に下院は、今後出生届にロシア風の姓やミドルネームを禁止する改正案を可決した。
国土のほとんどは山岳地帯で、国土の半数が標高3,000メートル以上であり、中国との国境に至る東部は7,000メートル級に達するパミール高原の一部である。砂漠地帯も存在するが、先に述べたように山岳地帯が多くの割合を占めている点から他の中央アジア各国とは異なり、砂漠地帯特有の自然災害などは発生していない。
首都のドゥシャンベの標高は700 - 800メートルほどとそれほど高くなく、北西部のフェルガナ盆地は標高300 - 500メートル前後と最も低くなっており、ウズベキスタン、キルギスと入り組んで国境を接している。
一方、パミール地方のゴルノ・バダフシャン自治州の州都ホログは標高2,000メートルを超す。最高峰はイスモイル・ソモニ峰(7,495メートル)、次いでレーニン峰(7,130メートル)、コルジェネフスカヤ峰(英語版)(7,105メートル)と3つの7,000メートル級の山がある。主要河川は、アムダリヤ川、ヴァフシュ川、パンジ川、バルタン川(英語版)、ザラフシャン川(旧ソグド川)。
タジキスタンの気候は大陸性、亜熱帯性、半乾燥性といった3種類の異なる気候が一つに纏まった状態となっている。また、標高によって気候が大きく変化する特徴を持ち合わせている。
フェルガナ盆地やその他の低地は、山岳によって北極からの気団の影響を受けずにいるが、その反面でこの地域の気温は年間100日以上が氷点下となる。平均気温が最も高い南西部の低地は、亜熱帯性の気候である為に乾燥しているが、一部の地域が現在、農業のために灌漑されている。
国土の約2%が湖や池沼で占められている。最もよく知られているのはカラクル湖やイスカンデルクル湖(英語版)、クリカロン湖(英語版)、サレス湖(英語版)、シャダウ湖(英語版)、ゾルクル湖(英語版)の6つの湖と、カイラックム貯水池(英語版、ロシア語版)、ヌレック貯水池の2つの貯水池である。また氷河も存在していて、その数は10000を超えるほどに多い。代表的な氷河にはフェドチェンコ氷河が挙げられる。
タジキスタンには5ヶ所の陸生生態地域が存在する。アライ・西天山草原(英語版)、ギサロ・アライの開放森林地(英語版)、パミール高山砂漠・ツンドラ地域(英語版)、バドギズ・カラビル半砂漠(英語版)、パロパミサス乾燥森林地(英語版)がこれに該当する。
タジキスタンの環境問題のほとんどは、ソ連時代に課せられた農業政策に関連している。鉱物肥料と農薬の大量使用は、同国の土壌汚染の主な原因として1991年までに問題視されていた。
地方は3つの州と1つの自治州に分けられる。すなわち、共和国直轄地(首都ドゥシャンベを含む)、南部のハトロン州(州都ボクタール)、北部フェルガナ盆地方面のソグド州(州都ホジェンド)の2州と、東部パミール高原のゴルノ・バダフシャン自治州(州都ホログ)である。
州より下の行政単位は、行政郡(nohiya)- 地区(jamoat)- 村(deha)あるいは集落地が一般的であり、行政郡の中心部に市(shahrak)を置くこともある。ただし、地方の大きな都市は独立した行政単位であり、特に首都のドゥシャンベは非常に権限の強い行政単位である。ドゥシャンベの内部は区(nohiya)が置かれ、住民自治の一端を担っている。
その他の主要都市はパンジケント、ガルム、クリャーブなどがある。
タジキスタンは中央アジアの中で最も貧しいが、タジキスタン内戦終結後の経済発展は著しく、2000年から2004年のGDP成長率は9.6%に達した。主要歳入源はアルミニウム生産、綿花栽培、国外出稼ぎ労働者からの送金である。人口の1割にあたる87万人がロシアで働いて送金し、その額は2016年時点、国内総生産(GDP)の3分の1にあたる。国営Talco社が世界的規模のアルミ精錬を行っている。おもにロシアなど国外での安い労働力提供で得られる仕送りはGDPの36%を超え、貧困層を多く抱えるタジキスタンにとって重要な収入である。
一方、2006年には麻薬押収量世界3位だった。ただし、アフガニスタンからロシアなどへの移送取締りを国連などの協力で実施したため、その効果は上がっているという。アフガニスタン国境の橋が米国により建設されるなどインフラストラクチュア整備が少しずつ進んでいる。
なお、タジキスタンは2013年から世界貿易機関(WTO)に加盟している。傍ら、中央アジア地域経済協力機構(英語版)(CAREC)の加盟国ともなっており、中央アジア内の4つの共和国と同様に経済協力機構や上海協力機構など幾つかの国際機関へ加入している。
通貨はソモニである。
穀物では小麦や米が栽培されている。農産物の中で重きを置かれているのは、ソ連時代から栽培されている綿花であり、ソ連全体でも綿花栽培の重要地域の一つだった。ソ連崩壊後から状況が一転し、近年では農業改革によって作付けの農作物を自由に選べるようになっていることも加わり、栽培の割合が減少傾向にある。作付面積はソ連時代と比べると60%強ほどである。
アンチモン鉱を2002年時点で3,000トン採鉱した。これは世界第4位であり、世界シェア2.1%に相当する。この他、金、銀、水銀(20トン、世界シェア1.1%)、鉛を産する。有機鉱物資源は亜炭、原油、天然ガスとも産出するが量は多くない。ウラン鉱も存在する。天然ガスはサリカミシュ・ガス田(英語版)から産出されている。
タジキスタンのエネルギー供給は、世界一高いヌレークダムや中央アジア - 南アジア電力供給計画(英語版)の一環として設計され近年完成間近であるサングトゥーダ・ダムなどで行っている水力発電に完全に依存している。水が足りなくなる冬季には、首都では都市セントラルヒーティング用のボイラーを使った小さな火力発電所しかない。その他には、ザラフシャン川などに大規模ダムなどを作らず、夏季に安定した水供給を約束する見返りとして、冬季にウズベキスタンやトルクメニスタンから電力を輸入している。7,000メートルを超える高山、深い谷と急流、比較的雨量の多い地中海性気候という条件下、年間発電量144億kW/h(2001年)のうち、97.7%を水力発電で賄っている。
安価で大量の電力生産は精錬に膨大な電力を必要とするアルミニウム工業を発達させるためであり、生産量は世界シェアの1.2%に当たる31万トンに達するが、原料となるボーキサイトはウクライナなどの外国からの輸入に頼っている。輸出金額に占めるアルミニウムの割合は53.7%にも達するが、その利権の全てがタジク国内にあるわけではない。
タジキスタンでは科学技術が急速に発展しつつある。科学開発は、2030年までの国家開発戦略において優先事項とされており、実施期間を5年間かつ3段階に分けて進められている。
その主な目標は、エネルギーの確保、電気通信と輸送における開発計画、食料安全保障政策の保証ならび生産的な雇用を拡大することである。
主な民族はタジク人、ウズベク人、ロシア人など。タジク人の話すタジク語はペルシア語に近く、方言の一種とされる。民族的にはイラン人に近いと考えられるが、タジク人を含めたタジキスタンのムスリム(イスラム教徒)の間ではスンナ派が多数を占め、イラン・イスラーム共和国の国教と同じシーア派の十二イマーム派の信徒はほとんどいない。むしろ、東部のパミール高原ではシーア派のイスマーイール派の信徒が大部分を占め、パキスタン北部と同様に寛容と自由に溢れるイスラム文化を築いている。
人名はソ連時代の名残りでロシア語風の姓が多く見受けられるが、2009年からロシア語が公用語での使用を廃止されるに至り、現在はロシア式の接尾辞を取り去った形のタジク語風の姓名あるいはタジク語そのものの姓名を用いる世帯が増加しつつある。
タジキスタンの人口比率は2010年センサスの時点で、タジク人(84.3%)が多数を占める。ウズベク人(13.8%)、キルギス人(0.8%)、ロシア人(0.5%)が次ぐ。
同国は中央アジア諸国で人口が最も急速に増加しているものの、人間開発指数では同エリア内の共和国の中で最下位となっている。なお、ロシア人人口は1959年に全人口の13.3%、ソ連からの独立前の1989年時点では7.6%を占めていたが、1990年代の内戦により大部分が流出し2010年には0.5%にまで低下した。
チュルク系の言語が使われている中央アジアの中では唯一、住民の大多数の母語がペルシア語方言のタジク語であり、公用語となっている。帝政ロシアからソ連時代にかけて共通語であったロシア語は第二言語として教育・ビジネスなどで多く使用されている。ただし、2009年10月から国語法が成立し、公文書や看板、新聞はタジク語を用いることを義務づけられた。それにともない、違反者には罰金が科される。
ソビエト連邦の崩壊後に起きたタジキスタン内戦によるロシア人の大量流出によりロシア語の通用度が急激に低くなったが、現在では出稼ぎ先の大半はロシアであることと、高等教育にはロシア語習得が不可欠であることから、ロシア語教育も重要視されつつあり、国民の間ではロシア語学習熱が強い。また、独立後にトルコ語系のウズベク語やトルクメン語がキリル文字からラテン文字へ変わったが、ペルシャ語系のタジク語はキリル文字のままである。なお、ペルシャ文字風のキリル文字表記もみられ、ペルシャ文字への表記への移行も議論されている。
また、他にウズベク語、キルギス語、コワール語、シュグニー語、パミール諸語、ヤグノブ語なども使われている。
タジキスタン国民の多くはムスリムであり、スンナ派が大半を占める。また、歴史的にペルシャとの結びつきが強く、哲学者イブン・スィーナーなどのペルシャ人は尊敬されている。その他、ダルヴァーズ郡、ヴァンジ郡ならびにムルガーブ郡を除くゴルノ・バダフシャン自治州では、服装・戒律ともきわめて緩やかで、開放的なシーア派のイスマーイール派が大多数を占める。イスマーイール派のリーダーは「アーガー・ハーン」の称号を用い、宗教的指導者よりも精神的・思想的指導者としての面が強く、国境をまたいだアフガニスタンとタジキスタンのイスマーイール派の居住する地域と周辺部では、ビジネスおよび人道的支援の両面にわたる社会的事業を展開している。
2003年の推計では国民の85%がスンナ派ムスリム、5%がシーア派ムスリム、10%がその他であった。
タジキスタンは旧ソ連時代から続く無料教育制度により、国家の貧困状態にも拘わらず識字率の高さを保持している。2011年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は99.7%(男性:99.8%、女性:99.6%)である。2011年の教育支出はGDPの3.9%だった。
教育制度は11-4制で、初等・中等教育(6歳~17歳)が義務教育である。後期中等教育にはリツェイ(8~11年生)が該当する。大学は4年制。全ての教育機関は教育科学省の管轄下にある(農業大学や芸術大学など例外あり)。外国語教育として、義務教育1年生からロシア語が必修であり、4年生以降は第二外国語(英語、ドイツ語、フランス語など)を学習する。
タジキスタンの治安は最近良くなりつつある傾向を見せているものの、政治や経済が安定しておらず、貧困層による富裕層を狙った窃盗や強盗など金銭的な犯罪が多発している。
同国の統計資料によると、2020年の犯罪認知件数は23,460件(前年比106.7%)と2019年と比べ増加している。中でも、金品などの窃取を目的とした犯罪(窃盗:前年比15.9%増、侵入盗:同25.1%)は大きく増加しており、その背景には他国への出稼ぎ労働が深く関わっている。2020年からの新型コロナウイルス感染症の世界的感染拡大により、労働移民による送金額が大幅に減少するとともに、経済格差や物価が上昇したこと(2020年:前年比7%増)が挙げられている。
なお、外国人は旅行者を含めて多額の現金を所持していると捉えられており、犯罪者に狙われ易い傾向にあることから、多くの人が集まるバザール、観光地、空港、駅周辺などでは外国人を狙ったスリやひったくり被害が発生している。
一方、1998年7月に秋野元国連タジキスタン監視団(UNMOT)政務官他が殉職して以来、テロによる日本人・日本権益を直接標的としたテロ事件の被害は確認されていないものの近年、単独犯によるテロや一般市民が多く集まる公共交通機関など(ソフトターゲット)を標的としたテロが世界各地で頻発する他、爆弾テロなどの発生も後を絶たない為、テロの発生を予測し未然に防ぐことがますます困難となっている。
タジキスタンの文化は、ウズベキスタンの文化と同根であるが、ソビエト時代の共産政権下においては地域の文化組織は崩壊し、ウズベキスタンの文化とは分断された。しかし、このことはすべて悪い結果をもたらしたわけではなく、ソビエト時代には、タジキスタンは劇場と有名な小説家を輩出することにより知られていた。これらタジク知識人士は、タジク語とアラビア語・ペルシャ語との関連性を調節し、タジク語をより洗練されたものにした。
タジキスタン国内には、UNESCOの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件、自然遺産が1件存在する。
タジキスタン国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1992年にサッカーリーグのタジク・リーグが創設された。FCイスティクロル・ドゥシャンベが圧倒的な強さを誇っており、8連覇を含むリーグ最多10度の優勝を達成している。
タジキスタンサッカー連盟(TFF)によって構成されるサッカータジキスタン代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかし、AFCアジアカップには2023年大会に初出場を果たしている。また、AFCチャレンジカップでは2006年大会で初優勝し、続く2008年大会では準優勝の成績を収めている。
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"text": "タジキスタン共和国(タジキスタンきょうわこく、タジク語: Ҷумҳурии Тоҷикистон)、通称タジキスタンは、中央アジアに位置する共和制国家。首都はドゥシャンベである。内陸国で、南にアフガニスタン、東に中華人民共和国、北にキルギス、西にウズベキスタンと国境を接する。",
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"text": "正式国名は、Ҷумҳурии Тоҷикистон(読みは、ジュムフーリーイ・トージーキストーン、あるいはジュムフーリーイ・タージーキスターン)。通称は、Тоҷикистон。",
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"text": "公式の英語表記はRepublic of Tajikistanで、通称Tajikistan。タジキスタン国民や「タジキスタンの」を意味する形容詞は Tajikistaniである。",
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"text": "タジク人たちは遊牧をしていたアーリア系スキタイ遊牧民である。タジク人たちはテュルク人たちと住み、多くの遊牧民に遊牧の文化を伝えた。国名はタジク人の自称民族名 Тоҷик(タージーク、トージーク)と、タジク語で「~の国」を意味する -истон の合成語である。タジク(ペルシア語ではタージーク、tājīk)の語源は明らかではないが、中国の唐朝がイスラム帝国を指した「大食」(タージー)と同じで、元はペルシア語で「アラブ人」を意味した語であると言われ、のちにアラブ人からイスラム教を受け入れたペルシア・イラン系の人々のことを指すようになったと言われる。タジク語、ペルシア語、ダリー語で \"تاج Tāj\" は「王冠」を意味し、単純には「冠の人たちの国」となる。現在でもタジキスタン国内で国名の由来を説明するときに用いられる通説である。",
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"text": "紀元前2000年から紀元前1000年にかけて、アーリア系のスキタイという遊牧民部族がユーラシア・ステップの草原から中央アジアに移住し、オアシス地方で独自の文化を作り上げていた。",
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"text": "現在のタジキスタンの領土に相当する地域は、古代より最盛期のアケメネス朝ペルシア帝国の東部辺境としてギリシア世界に知られ、様々な民族の往来・侵入・支配を受けつつも果敢に反撃。パミール高原を境とする中国、インド、アフガニスタン、イラン、中東の結節点としての「文明の十字路」たる地位を確立してきた。反撃の過程ではスピタメネス(タジク語では「スピタメン」)を輩出した。同時に山岳地域は被征服民族の「落武者の隠れ里」として、各地のタジク語諸方言だけでなく、ヤグノビ語、シュグニー語、ルシャン語(英語版)、ワヒ語などのパミール諸語を話す民族を今日まで存続させてきた。",
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"text": "7世紀のイスラーム教徒のペルシア征服の後、8世紀に西方からアラブ人が到来し、イラン系の言語を話していたこの地域の住民たちの多くはイスラム教を信奉するようになり、9世紀には現在のタジキスタンからウズベキスタンにかけての地域で、土着のイラン系領主がブハラを首都にサーマーン王朝を立てた。しかし、サーマーン朝は同地域でのタジク系最後の独立王朝となる。やがてテュルク民族が到来すると、タジキスタンとウズベキスタン、アフガニスタン、イランなどにかけて広く居住するイラン系の言語を話すムスリム(イスラム教徒)定住民たちは都市部においては侵入してきたテュルク語系諸民族と混住し、テュルク系言語とイラン系言語のバイリンガルが一般的となった。双方の民族とも民族としてのアイデンティティは低く、たとえば「タジク」という呼称よりも、出身地により自らを「サマルカンド人」や「ブハラ人」などと呼ぶなど、出身都市や集落に自己のアイデンティティを求めることが多かったようである。",
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"text": "16世紀にはタジクたちの中心地域であるマー・ワラー・アンナフル(ウズベキスタン中央部からタジキスタン北西部)に、ヴォルガ川流域で強大になったウズベク人(シャイバニ・ウズベク族)が侵入し、ウズベク族の建てたブハラ・ハン国の支配下に入る。",
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"text": "アングロ・ペルシア戦争(英語版)(1856年 - 1857年)後にパリ条約が締結されると、ガージャール朝がヘラートから手を引いた。19世紀にロシア帝国では軽工業を基幹とする産業革命が進行していたが、1860年代前半にアメリカ合衆国で勃発した南北戦争の影響から、それまでアメリカ合衆国南部で奴隷制プランテーション農業によって生産されていた綿花の値段が上昇したため綿花原料の確保が困難となり、ロシア帝国では「安い綿原料の確保」ばかりでなく、「大英帝国による中央アジアの植民地化阻止」および「平原を国境とすることの危険性」といった観点から、中央アジアへの南進および領土編入・保護国化が進められ(グレート・ゲーム)、1868年にブハラ・ハン国はロシアの保護国となった。",
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"text": "20世紀初頭のオスマン帝国は1904年から1905年にかけての日露戦争での日本の活躍をほとんど注目しておらず、むしろロシアと敵対関係にあったブハラ・ハン国の政府に支援されたブハラからの留学生が留学先のドイツ帝国の首都ベルリンでロシアが日本に敗れたことを知り、ブハラ・ハン国とその同盟国たるオスマン帝国に知らせている。その留学生らは、日本の近代化の原動力を明治維新だと知ると、同じような自由主義革命の気運がガージャール朝ペルシア(1906年から始まったイラン立憲革命)やオスマン帝国(1908年から始まった青年トルコ人革命)に拡大した。しかし、ロシアの力があまりに強大だったウラル山脈地域や中央アジアでは、社会主義革命に民族自決のための希望を見出した。",
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"text": "ロシア革命の影響を受けたブハラ青年らは保守的なブハラ・ハン国を倒壊し、1920年にブハラ人民ソビエト共和国を打ち立てた。しかし、1924年、ソビエト政府は中央アジアの各自治共和国を民族別の共和国に分割統治再編する「民族境界区分」の画定に踏み切り、それまでテュルクの定住民とまとめて「サルト」と呼ばれてきたイラン系のタジクたちが、タジク民族として公認されるとともに、ブハラの東部とトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の南部が切り分けられて現在のタジキスタンの領域にタジク自治ソビエト社会主義共和国が設置された。",
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"text": "このように、中央アジア地域ではナポレオンやフィヒテの唱えた西欧型「民族自決」の言葉と引き換えに、本来の民族共生というアジア的な優れた生き方を少なくとも政府のイデオロギーレベルでは失うことになり、本来は中央アジア諸国が一団となれば巨大な経済圏となるはずであったのが、結果的に諸国の分立と少数民族と多数派民族とのあらゆる格差を生み出すことになった。以上のような考え方はタジクへももたらされたものの、第一次世界大戦後のトルコ革命後にパミール地方へ逃れたエンヴェル・パシャ将軍らが唱えた「汎テュルク主義」はロシアとの対立を望まないケマル・アタチュルク率いる新生トルコ共和国により却下され、反ロシア・反ソヴィエトのバスマチ抵抗運動は旧地主・支配階層による抵抗運動の枠を超えられず、中央アジア諸民族の結束力の弱さを体現している。この旧地主・支配階層は、その後アフガニスタンに逃れ、一部はペルシャ湾岸諸国やイラン、あるいは西欧に亡命して現在に至っている。一方で1929年、タジクはウズベク・ソビエト社会主義共和国から分離し、ソビエト連邦構成国の一つであるタジク・ソビエト社会主義共和国に昇格した。",
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"text": "ソ連時代のタジク・ソビエト社会主義共和国は、スターリン批判後の中ソ対立の文脈で1969年に発生した珍宝島/ダマンスキー島をめぐる中ソ国境紛争の調停の結果、タジキスタンの東部パミール地域にあるゴルノ・バダフシャン自治州にあるムルガーブ県(英語版)の一部領土が中華人民共和国に割譲されるなど、中央政権にとってのタジキスタンのパミール地域は「削られても痛くない辺境地域」として見られているかと見間違うほどであった。",
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"text": "こうして形成されたタジク国家は1990年に主権宣言を行い、1991年に国名をタジキスタン共和国に改めるとともに、ソ連解体に伴って独立を果たした。1991年11月、タジキスタンの大統領選挙でラフモン・ナビエフが当選し、共産党政権が復活。1991年12月21日、独立国家共同体(CIS)に参加する。ロシアとは集団安全保障条約(CSTO)を通じて軍事同盟関係にあり、国内にロシア連邦軍が駐留している(「国外駐留ロシア連邦軍部隊の一覧#タジキスタン」参照)。",
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"text": "1992年、タジキスタン共産党系の政府とイスラム系野党反政府勢力との間でタジキスタン内戦が起こった。11月に最高会議(共産党系)はエモマリ・ラフモノフ(1952年 - )を議長に選び新政権を樹立し、1993年春までにほぼ全土を制圧した。1994年4月、最初の和平交渉が行われた。11月の大統領選挙が行われ、1997年6月の暫定停戦合意で反対派は政府ポストの3割を占めた。5万人以上の死者を出した内戦が終わった。エモマリ・ラフモノフ(現在はラフモンと改名)大統領の就任以来、国際連合タジキスタン監視団(UNMOT)の下で和平形成が進められてきたが、1998年には監視団に派遣されていた日本の秋野豊筑波大学助教授が、ドゥシャンベ東方の山岳地帯で武装強盗団に銃撃され殉職する事件が起こった。",
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"text": "1997年に内戦は終結した。UNMOTは2000年に和平プロセスを完了させ、以後は国際連合タジキスタン和平構築事務所(UNTOP)が復興を支援した。2001年の対テロ戦争以来、フランス空軍も小規模ながら駐留している(2008年時点)。",
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"text": "ラフモン大統領の長期政権によって、上海協力機構に加盟してロシアや中国と関係を強化し、アメリカ合衆国とも友好を築き、日本を含む各国の手厚い支援や国連活動によって、21世紀に入ってからは年10パーセントの高成長率を維持しているようである。和平後のマクロ経済成長は順調で負債も順調に返済していたが、2006年に中国が道路建設支援を目玉に大規模な借款を行ったために、タジキスタンのマクロ経済指標の状況はアフリカ諸国並みであり、将来にわたる世界不況に対する不安が残っている。特に、もともと資源・産業の多様性は乏しいうえ、所得の再分配がうまく機能せず、国民の大多数は年収350ドル未満の生活を送っている。旧ソ連各国の中でも最も貧しい国の一つであるが、近年のロシア経済の好転により、出稼ぎ労働者からの送金額が上昇したことから、公式経済データと実体経済との乖離、および出稼ぎ労働者のいない寡婦世帯における貧困の深化が問題となっている。特に、ロシア語の話せない村落部出身の男性は、ロシアでの出稼ぎ先では低賃金肉体労働しか選択肢がなく、過酷な労働による死亡、AIDS若しくは性感染症の持ち込み、あるいはロシア国内での重婚による本国家族への送金の停止など、都市部・村落部を問わず社会的問題は単純な貧困を超えた現象となりつつある。",
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"text": "2011年1月12日、タジキスタン下院は、中国との国境画定条約を批准し、パミール高原の約1,000平方キロメートルが中国に割譲されることになった。アフガニスタンへの支援に適している地政学的重要性からインドが海外初の軍事基地を設置しているほか、中国人民解放軍の駐留基地も存在していることを、米国の『ワシントン・ポスト』は衛星写真や現地取材などをもとに報じている。",
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"text": "ラフモン政権下の同国は自国民の愛国心を高めるためとして、2007年、大統領自らペルシア風の名前に改名すると、ほぼ全ての公務員が倣ってペルシア風の名前に改名した。また、ソ連時代から用いられ続けていた(公用語としての)ロシア語を2009年に廃止。2016年には出生届に関する新法を施行し、産まれてくる子供に外国名を名付けること(特にロシア語での命名)を禁止している。最近では、テレビ番組に外国風の衣装を身に着けたキャラクターを登場させることを禁止するほか、仕事で海外から渡ってきた人間の母語を含む多言語の使用にも制限が設けられる事態が起こっている。",
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"text": "このほかには、ソ連の名残を払拭する目的から祝祭を規制する法律を厳格化したことが挙げられる。新年を祝うことを禁じ、ヒンドゥー教のホーリー祭を祝う行事に参加した若者を「ハラームに該当する行為」だとして強制的に解散させるといった取り締まりが執行されたほか、学校の卒業パーティーを禁止する方針が固められたり、個人の誕生日を「自宅だけで祝う」ようにさせるなどの措置がとられたりしている。",
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"text": "2018年7月29日、首都ドゥシャンベからアフガニスタン国境に向かう道路を南に約150キロメートル下った付近の地域で、観光目的で現地を訪れていた外国人グループが襲撃され4名が死亡する事件が発生した。",
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"text": "キルギスとの国境線は半分近くが確定しておらず、水資源の奪い合いなどの住民同士のトラブルが国境紛争に発展する危険性をはらんでいる。2021年、2022年には死傷者が生じる軍事衝突が発生した。2022年の衝突は両国首脳が参加して行われた上海協力機構首脳会議の期間中に発生しており、互いに部隊を撤収させることで合意を見たが現地では戦闘は続いた。",
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"text": "2022年10月14日にカザフスタン首都アスタナで開かれた、ロシアと中央アジア5カ国の首脳会議では、ラフモン大統領がロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンに、中央アジア諸国を、ソ連時代のように軽視し、属国のように扱うべきではないと要求する一幕があった。",
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"text": "タジキスタンの政体は共和制をとる立憲国家である。現行憲法は1994年11月に採択されたもの。",
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"text": "タジキスタンの大統領は国家元首として強大な権限を憲法により保障されており、国民の直接選挙で選出される。大統領は首相を任命する。副大統領(英語版)職は1992年に廃止されている。大統領の任期は7年だが、2016年の国民投票で、現職のラフモン大統領に限り任期制限が撤廃される憲法改正案が承認された。",
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"text": "内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは、最高会議の承認のもとに大統領が任命する。",
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"text": "立法府は二院制の最高会議(マジリシ・オリ)で、国民議会(上院、マジリシ・ミリー)と人民代表議会(下院、マジリシ・ナモヤンダゴン)で構成される。国民議会は33議席で、うち25議席は地方議会による選出枠、残りは大統領が任命する。人民代表議会は63議席で、そのうち41議席は小選挙区制、22議席は比例代表制で選出される。両院とも任期は5年。",
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"text": "主要政党には大統領エモマリ・ラフモン(2007年4月14日、ラフモノフから改名)率いるタジキスタン人民民主党、旧ソ連時代の政権党であったタジキスタン共産党、そしてイスラム主義の宗教政党タジキスタン・イスラム復興党の3つがある。この3党は、比例代表制での5%障壁を超えることができた。タジキスタン人民民主党以外は野党つまり反政府派であり、当初の和平協定では反政府派に政府閣僚級ポストの5%が所定枠として当てられ、「民主的国家」を目指すことになっていたが、2006年11月の大統領選挙で現大統領が再選すると野党反政府派は主要ポストからほぼ退かされた状況にある。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 31,
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"text": "最高司法機関は最高裁判所で、その裁判官は大統領が任命する。",
"title": "政治"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "タジキスタンは欧州安全保障協力機構の加盟国の一つとなっている。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2020年4月30日に下院は、今後出生届にロシア風の姓やミドルネームを禁止する改正案を可決した。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "国土のほとんどは山岳地帯で、国土の半数が標高3,000メートル以上であり、中国との国境に至る東部は7,000メートル級に達するパミール高原の一部である。砂漠地帯も存在するが、先に述べたように山岳地帯が多くの割合を占めている点から他の中央アジア各国とは異なり、砂漠地帯特有の自然災害などは発生していない。",
"title": "地理"
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"text": "首都のドゥシャンベの標高は700 - 800メートルほどとそれほど高くなく、北西部のフェルガナ盆地は標高300 - 500メートル前後と最も低くなっており、ウズベキスタン、キルギスと入り組んで国境を接している。",
"title": "地理"
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{
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"text": "一方、パミール地方のゴルノ・バダフシャン自治州の州都ホログは標高2,000メートルを超す。最高峰はイスモイル・ソモニ峰(7,495メートル)、次いでレーニン峰(7,130メートル)、コルジェネフスカヤ峰(英語版)(7,105メートル)と3つの7,000メートル級の山がある。主要河川は、アムダリヤ川、ヴァフシュ川、パンジ川、バルタン川(英語版)、ザラフシャン川(旧ソグド川)。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "タジキスタンの気候は大陸性、亜熱帯性、半乾燥性といった3種類の異なる気候が一つに纏まった状態となっている。また、標高によって気候が大きく変化する特徴を持ち合わせている。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "フェルガナ盆地やその他の低地は、山岳によって北極からの気団の影響を受けずにいるが、その反面でこの地域の気温は年間100日以上が氷点下となる。平均気温が最も高い南西部の低地は、亜熱帯性の気候である為に乾燥しているが、一部の地域が現在、農業のために灌漑されている。",
"title": "地理"
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{
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"tag": "p",
"text": "国土の約2%が湖や池沼で占められている。最もよく知られているのはカラクル湖やイスカンデルクル湖(英語版)、クリカロン湖(英語版)、サレス湖(英語版)、シャダウ湖(英語版)、ゾルクル湖(英語版)の6つの湖と、カイラックム貯水池(英語版、ロシア語版)、ヌレック貯水池の2つの貯水池である。また氷河も存在していて、その数は10000を超えるほどに多い。代表的な氷河にはフェドチェンコ氷河が挙げられる。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "タジキスタンには5ヶ所の陸生生態地域が存在する。アライ・西天山草原(英語版)、ギサロ・アライの開放森林地(英語版)、パミール高山砂漠・ツンドラ地域(英語版)、バドギズ・カラビル半砂漠(英語版)、パロパミサス乾燥森林地(英語版)がこれに該当する。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "タジキスタンの環境問題のほとんどは、ソ連時代に課せられた農業政策に関連している。鉱物肥料と農薬の大量使用は、同国の土壌汚染の主な原因として1991年までに問題視されていた。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "地方は3つの州と1つの自治州に分けられる。すなわち、共和国直轄地(首都ドゥシャンベを含む)、南部のハトロン州(州都ボクタール)、北部フェルガナ盆地方面のソグド州(州都ホジェンド)の2州と、東部パミール高原のゴルノ・バダフシャン自治州(州都ホログ)である。",
"title": "地方行政区分"
},
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"text": "州より下の行政単位は、行政郡(nohiya)- 地区(jamoat)- 村(deha)あるいは集落地が一般的であり、行政郡の中心部に市(shahrak)を置くこともある。ただし、地方の大きな都市は独立した行政単位であり、特に首都のドゥシャンベは非常に権限の強い行政単位である。ドゥシャンベの内部は区(nohiya)が置かれ、住民自治の一端を担っている。",
"title": "地方行政区分"
},
{
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"text": "その他の主要都市はパンジケント、ガルム、クリャーブなどがある。",
"title": "地方行政区分"
},
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "タジキスタンは中央アジアの中で最も貧しいが、タジキスタン内戦終結後の経済発展は著しく、2000年から2004年のGDP成長率は9.6%に達した。主要歳入源はアルミニウム生産、綿花栽培、国外出稼ぎ労働者からの送金である。人口の1割にあたる87万人がロシアで働いて送金し、その額は2016年時点、国内総生産(GDP)の3分の1にあたる。国営Talco社が世界的規模のアルミ精錬を行っている。おもにロシアなど国外での安い労働力提供で得られる仕送りはGDPの36%を超え、貧困層を多く抱えるタジキスタンにとって重要な収入である。",
"title": "経済"
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"paragraph_id": 46,
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"text": "一方、2006年には麻薬押収量世界3位だった。ただし、アフガニスタンからロシアなどへの移送取締りを国連などの協力で実施したため、その効果は上がっているという。アフガニスタン国境の橋が米国により建設されるなどインフラストラクチュア整備が少しずつ進んでいる。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "なお、タジキスタンは2013年から世界貿易機関(WTO)に加盟している。傍ら、中央アジア地域経済協力機構(英語版)(CAREC)の加盟国ともなっており、中央アジア内の4つの共和国と同様に経済協力機構や上海協力機構など幾つかの国際機関へ加入している。",
"title": "経済"
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"text": "通貨はソモニである。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "穀物では小麦や米が栽培されている。農産物の中で重きを置かれているのは、ソ連時代から栽培されている綿花であり、ソ連全体でも綿花栽培の重要地域の一つだった。ソ連崩壊後から状況が一転し、近年では農業改革によって作付けの農作物を自由に選べるようになっていることも加わり、栽培の割合が減少傾向にある。作付面積はソ連時代と比べると60%強ほどである。",
"title": "経済"
},
{
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"tag": "p",
"text": "アンチモン鉱を2002年時点で3,000トン採鉱した。これは世界第4位であり、世界シェア2.1%に相当する。この他、金、銀、水銀(20トン、世界シェア1.1%)、鉛を産する。有機鉱物資源は亜炭、原油、天然ガスとも産出するが量は多くない。ウラン鉱も存在する。天然ガスはサリカミシュ・ガス田(英語版)から産出されている。",
"title": "経済"
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"tag": "p",
"text": "タジキスタンのエネルギー供給は、世界一高いヌレークダムや中央アジア - 南アジア電力供給計画(英語版)の一環として設計され近年完成間近であるサングトゥーダ・ダムなどで行っている水力発電に完全に依存している。水が足りなくなる冬季には、首都では都市セントラルヒーティング用のボイラーを使った小さな火力発電所しかない。その他には、ザラフシャン川などに大規模ダムなどを作らず、夏季に安定した水供給を約束する見返りとして、冬季にウズベキスタンやトルクメニスタンから電力を輸入している。7,000メートルを超える高山、深い谷と急流、比較的雨量の多い地中海性気候という条件下、年間発電量144億kW/h(2001年)のうち、97.7%を水力発電で賄っている。",
"title": "経済"
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"text": "安価で大量の電力生産は精錬に膨大な電力を必要とするアルミニウム工業を発達させるためであり、生産量は世界シェアの1.2%に当たる31万トンに達するが、原料となるボーキサイトはウクライナなどの外国からの輸入に頼っている。輸出金額に占めるアルミニウムの割合は53.7%にも達するが、その利権の全てがタジク国内にあるわけではない。",
"title": "経済"
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"text": "タジキスタンでは科学技術が急速に発展しつつある。科学開発は、2030年までの国家開発戦略において優先事項とされており、実施期間を5年間かつ3段階に分けて進められている。",
"title": "科学技術"
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{
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"text": "その主な目標は、エネルギーの確保、電気通信と輸送における開発計画、食料安全保障政策の保証ならび生産的な雇用を拡大することである。",
"title": "科学技術"
},
{
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"tag": "p",
"text": "主な民族はタジク人、ウズベク人、ロシア人など。タジク人の話すタジク語はペルシア語に近く、方言の一種とされる。民族的にはイラン人に近いと考えられるが、タジク人を含めたタジキスタンのムスリム(イスラム教徒)の間ではスンナ派が多数を占め、イラン・イスラーム共和国の国教と同じシーア派の十二イマーム派の信徒はほとんどいない。むしろ、東部のパミール高原ではシーア派のイスマーイール派の信徒が大部分を占め、パキスタン北部と同様に寛容と自由に溢れるイスラム文化を築いている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "人名はソ連時代の名残りでロシア語風の姓が多く見受けられるが、2009年からロシア語が公用語での使用を廃止されるに至り、現在はロシア式の接尾辞を取り去った形のタジク語風の姓名あるいはタジク語そのものの姓名を用いる世帯が増加しつつある。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "タジキスタンの人口比率は2010年センサスの時点で、タジク人(84.3%)が多数を占める。ウズベク人(13.8%)、キルギス人(0.8%)、ロシア人(0.5%)が次ぐ。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "同国は中央アジア諸国で人口が最も急速に増加しているものの、人間開発指数では同エリア内の共和国の中で最下位となっている。なお、ロシア人人口は1959年に全人口の13.3%、ソ連からの独立前の1989年時点では7.6%を占めていたが、1990年代の内戦により大部分が流出し2010年には0.5%にまで低下した。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "チュルク系の言語が使われている中央アジアの中では唯一、住民の大多数の母語がペルシア語方言のタジク語であり、公用語となっている。帝政ロシアからソ連時代にかけて共通語であったロシア語は第二言語として教育・ビジネスなどで多く使用されている。ただし、2009年10月から国語法が成立し、公文書や看板、新聞はタジク語を用いることを義務づけられた。それにともない、違反者には罰金が科される。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ソビエト連邦の崩壊後に起きたタジキスタン内戦によるロシア人の大量流出によりロシア語の通用度が急激に低くなったが、現在では出稼ぎ先の大半はロシアであることと、高等教育にはロシア語習得が不可欠であることから、ロシア語教育も重要視されつつあり、国民の間ではロシア語学習熱が強い。また、独立後にトルコ語系のウズベク語やトルクメン語がキリル文字からラテン文字へ変わったが、ペルシャ語系のタジク語はキリル文字のままである。なお、ペルシャ文字風のキリル文字表記もみられ、ペルシャ文字への表記への移行も議論されている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "また、他にウズベク語、キルギス語、コワール語、シュグニー語、パミール諸語、ヤグノブ語なども使われている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "タジキスタン国民の多くはムスリムであり、スンナ派が大半を占める。また、歴史的にペルシャとの結びつきが強く、哲学者イブン・スィーナーなどのペルシャ人は尊敬されている。その他、ダルヴァーズ郡、ヴァンジ郡ならびにムルガーブ郡を除くゴルノ・バダフシャン自治州では、服装・戒律ともきわめて緩やかで、開放的なシーア派のイスマーイール派が大多数を占める。イスマーイール派のリーダーは「アーガー・ハーン」の称号を用い、宗教的指導者よりも精神的・思想的指導者としての面が強く、国境をまたいだアフガニスタンとタジキスタンのイスマーイール派の居住する地域と周辺部では、ビジネスおよび人道的支援の両面にわたる社会的事業を展開している。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2003年の推計では国民の85%がスンナ派ムスリム、5%がシーア派ムスリム、10%がその他であった。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "タジキスタンは旧ソ連時代から続く無料教育制度により、国家の貧困状態にも拘わらず識字率の高さを保持している。2011年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は99.7%(男性:99.8%、女性:99.6%)である。2011年の教育支出はGDPの3.9%だった。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "教育制度は11-4制で、初等・中等教育(6歳~17歳)が義務教育である。後期中等教育にはリツェイ(8~11年生)が該当する。大学は4年制。全ての教育機関は教育科学省の管轄下にある(農業大学や芸術大学など例外あり)。外国語教育として、義務教育1年生からロシア語が必修であり、4年生以降は第二外国語(英語、ドイツ語、フランス語など)を学習する。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "タジキスタンの治安は最近良くなりつつある傾向を見せているものの、政治や経済が安定しておらず、貧困層による富裕層を狙った窃盗や強盗など金銭的な犯罪が多発している。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "同国の統計資料によると、2020年の犯罪認知件数は23,460件(前年比106.7%)と2019年と比べ増加している。中でも、金品などの窃取を目的とした犯罪(窃盗:前年比15.9%増、侵入盗:同25.1%)は大きく増加しており、その背景には他国への出稼ぎ労働が深く関わっている。2020年からの新型コロナウイルス感染症の世界的感染拡大により、労働移民による送金額が大幅に減少するとともに、経済格差や物価が上昇したこと(2020年:前年比7%増)が挙げられている。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "なお、外国人は旅行者を含めて多額の現金を所持していると捉えられており、犯罪者に狙われ易い傾向にあることから、多くの人が集まるバザール、観光地、空港、駅周辺などでは外国人を狙ったスリやひったくり被害が発生している。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "一方、1998年7月に秋野元国連タジキスタン監視団(UNMOT)政務官他が殉職して以来、テロによる日本人・日本権益を直接標的としたテロ事件の被害は確認されていないものの近年、単独犯によるテロや一般市民が多く集まる公共交通機関など(ソフトターゲット)を標的としたテロが世界各地で頻発する他、爆弾テロなどの発生も後を絶たない為、テロの発生を予測し未然に防ぐことがますます困難となっている。",
"title": "治安"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "タジキスタンの文化は、ウズベキスタンの文化と同根であるが、ソビエト時代の共産政権下においては地域の文化組織は崩壊し、ウズベキスタンの文化とは分断された。しかし、このことはすべて悪い結果をもたらしたわけではなく、ソビエト時代には、タジキスタンは劇場と有名な小説家を輩出することにより知られていた。これらタジク知識人士は、タジク語とアラビア語・ペルシャ語との関連性を調節し、タジク語をより洗練されたものにした。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "タジキスタン国内には、UNESCOの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件、自然遺産が1件存在する。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "タジキスタン国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1992年にサッカーリーグのタジク・リーグが創設された。FCイスティクロル・ドゥシャンベが圧倒的な強さを誇っており、8連覇を含むリーグ最多10度の優勝を達成している。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "タジキスタンサッカー連盟(TFF)によって構成されるサッカータジキスタン代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかし、AFCアジアカップには2023年大会に初出場を果たしている。また、AFCチャレンジカップでは2006年大会で初優勝し、続く2008年大会では準優勝の成績を収めている。",
"title": "スポーツ"
}
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タジキスタン共和国、通称タジキスタンは、中央アジアに位置する共和制国家。首都はドゥシャンベである。内陸国で、南にアフガニスタン、東に中華人民共和国、北にキルギス、西にウズベキスタンと国境を接する。 ソビエト連邦の崩壊に伴い独立し、ロシア連邦など旧ソ連諸国による独立国家共同体(CIS)などに参加している。
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{{基礎情報 国
| 略名 = タジキスタン
| 日本語国名 = タジキスタン共和国
| 公式国名 = {{lang|tg|'''Ҷумҳурии Тоҷикистон'''}}<br />{{lang|ru|'''Республика Таджикистан'''}}
| 国旗画像 = Flag of Tajikistan.svg
| 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Tajikistan.svg|100px|タジキスタンの国章]]
| 国章リンク = ([[タジキスタンの国章|国章]])
| 標語 = なし
| 位置画像 = Tajikistan (orthographic projection).svg
| 公用語 = [[タジク語]]<ref group="注">''{{仮リンク|タジキスタン共和国憲法|tg|Конститутсияи Ҷумҳурии Тоҷикистон|en|Constitution of Tajikistan}}'', November 6, 1994, Article 2.</ref><ref>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ti.html CIA World Factbook/Tajikistan]</ref><br>([[共通語]]:[[ロシア語]]<ref name="lenta.ru/news/2011/06/09">[http://lenta.ru/news/2011/06/09/russian/ В Таджикистане русскому языку вернули прежний статус]</ref>)
| 首都 = [[ドゥシャンベ]]
| 最大都市 = ドゥシャンベ
| 元首等肩書 = [[タジキスタンの大統領|大統領]]
| 元首等氏名 = [[エモマリ・ラフモン]]
| 首相等肩書 = [[タジキスタンの首相|首相]]
| 首相等氏名 = {{仮リンク|コヒル・ラスルゾダ|en|Kokhir Rasulzoda}}
| 面積順位 = 94
| 面積大きさ = 1 E11
| 面積値 = 143,100
| 水面積率 = 0.3%
| 人口統計年 = 2022
| 人口順位 = 97
| 人口大きさ = 1 E6
| 人口値 = 9,119,347<ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/tajikistan/ |title=Tajikistan |publisher=[[ザ・ワールド・ファクトブック]] |accessdate=2022年8月9日}}</ref>
| 人口密度値 = 63.7
| GDP統計年元 = 2019
| GDP値元 = 773億5500万<ref name="economy">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=923,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2018&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database, October 2021|publisher = [[国際通貨基金|IMF]]|date=2021-10|accessdate=2021-10-31}}</ref>
| GDP統計年MER = 2019
| GDP順位MER = 144
| GDP値MER = 81億1700万{{R|economy}}
| GDP MER/人 = 873.499(推計){{R|economy}}
| GDP統計年 = 2019
| GDP順位 = 134
| GDP値 = 329億2600万{{R|economy}}
| GDP/人 = 3,543.461(推計){{R|economy}}
| 建国形態 = [[独立]]<br> - 日付
| 建国年月日 = [[ソビエト連邦]]より<br>[[1991年]][[9月9日]]
| 通貨 = [[ソモニ]]
| 通貨コード = TJS
| 時間帯 = (+5)
| 夏時間 = なし
| 国歌 = [[タジキスタンの国歌|{{lang|tg|Суруди Миллии Тоҷикистон}}]]{{tg icon}}<br>『タジキスタンの国歌』<br>
[[file:National anthem of Tajikistan, performed by the U.S. Navy Band.flac]]
| ISO 3166-1 = TJ / TJK
| ccTLD = [[.tj]]
| 国際電話番号 = 992
| 注記 = <references group="注" />
}}
'''タジキスタン共和国'''(タジキスタンきょうわこく、{{lang-tg|Ҷумҳурии Тоҷикистон}})、通称'''タジキスタン'''は、[[中央アジア]]に位置する[[共和制]][[国家]]。首都は[[ドゥシャンベ]]である。[[内陸国]]で、南に[[アフガニスタン]]、東に[[中華人民共和国]]、北に[[キルギス]]、西に[[ウズベキスタン]]と国境を接する。
[[ソビエト連邦の崩壊]]に伴い[[国家の独立|独立]]し、[[ロシア連邦]]など旧[[ソビエト連邦構成共和国|ソ連諸国]]による[[独立国家共同体]](CIS)などに参加している。
== 国名 ==
正式国名は、{{Lang|tg|Ҷумҳурии Тоҷикистон}}(読みは、ジュムフーリーイ・トージーキストーン、あるいはジュムフーリーイ・タージーキスターン)。通称は、{{Lang|tg|Тоҷикистон}}。
公式の英語表記は''Republic of Tajikistan''で、通称''Tajikistan''。タジキスタン国民や「タジキスタンの」を意味する形容詞は Tajikistaniである。
日本語の表記は'''タジキスタン共和国'''で、通称'''タジキスタン'''。
[[タジク人]]たちは遊牧をしていた[[アーリア人|アーリア系]][[スキタイ]]遊牧民である。タジク人たちは[[チュルク系民族|テュルク人]]たちと住み、多くの遊牧民に遊牧の文化を伝えた。国名はタジク人の自称民族名 {{Lang|tg|Тоҷик}}(タージーク、トージーク)と、[[タジク語]]で「~の国」を意味する {{Lang|tg|-истон}} の合成語である。タジク([[ペルシア語]]ではタージーク、tājīk)の語源は明らかではないが、[[中国]]の[[唐|唐朝]]が[[イスラム帝国]]を指した「[[大食]]」(タージー)と同じで、元はペルシア語で「[[アラブ人]]」を意味した語であると言われ、のちにアラブ人から[[イスラム教]]を受け入れたペルシア・イラン系の人々のことを指すようになったと言われる<ref>{{Cite journal |和書| author = 島田志津夫(訳・解題) | title = V. V. バルトリド「タジク人:歴史的概説」 | journal = 東京外国語大学論集 | publisher = 東京外国語大学 | date = 2016-07 | pages = 305-330 | crid = 1010000781824613505 | url=http://repository.tufs.ac.jp/handle/10108/86842 | ref = harv}}</ref>。タジク語、ペルシア語、[[ダリー語]]で "تاج Tāj" は「王冠」を意味し、単純には「冠の人たちの国」となる。現在でもタジキスタン国内で国名の由来を説明するときに用いられる通説である。
== 歴史 ==
[[File:Tajikistan satellite photo.jpg|thumb|250px|right|タジキスタンの衛星写真]]
{{main|{{仮リンク|タジキスタンの歴史|en|History of Tajikistan}}}}
=== 紀元前から近世 ===
[[紀元前2000年]]から[[紀元前1000年]]にかけて、アーリア系のスキタイという遊牧民部族が[[ユーラシア・ステップ]]の[[草原]]から中央アジアに移住し、[[オアシス]]地方で独自の文化を作り上げていた。
現在のタジキスタンの領土に相当する地域は、[[古代]]より最盛期の[[アケメネス朝]][[ペルシア帝国]]の東部辺境として[[古代ギリシア|ギリシア世界]]に知られ、様々な民族の往来・侵入・支配を受けつつも果敢に反撃。[[パミール高原]]を境とする[[中国]]、[[インド]]、[[アフガニスタン]]、[[イラン]]、[[中東]]の結節点としての「文明の十字路」たる地位を確立してきた。反撃の過程では[[スピタメネス]](タジク語では「スピタメン」)を輩出した。同時に山岳地域は被征服民族の「落武者の隠れ里」として、各地のタジク語諸方言だけでなく、[[ヤグノビ語]]、[[シュグニー語]]<!--シュグナーン語-->、{{仮リンク|ルシャン語|en|Rushani dialect}}、[[ワヒ語]]などの[[パミール諸語]]<!--ワハーン諸語-->を話す民族を今日まで存続させてきた。
[[画像:Samanid Mausoleum.jpg|thumb|left|160px|[[サーマーン朝]]の[[イスマーイール・サーマーニー廟]]]]
[[7世紀]]の[[イスラーム教徒のペルシア征服]]の後、[[8世紀]]に西方から[[アラブ人]]が到来し、イラン系の言語を話していたこの地域の住民たちの多くは[[イスラム教]]を信奉するようになり、[[9世紀]]には現在のタジキスタンからウズベキスタンにかけての地域で、土着のイラン系領主が[[ブハラ]]を首都に[[サーマーン朝|サーマーン王朝]]を立てた。しかし、サーマーン朝は同地域でのタジク系最後の独立王朝となる。やがて[[テュルク|テュルク民族]]が到来すると、タジキスタンとウズベキスタン、アフガニスタン、イランなどにかけて広く居住するイラン系の言語を話す[[ムスリム]](イスラム教徒)定住民たちは都市部においては侵入してきた[[テュルク系民族|テュルク語系諸民族]]と混住し、テュルク系言語とイラン系言語のバイリンガルが一般的となった。双方の民族とも民族としてのアイデンティティは低く、たとえば「[[タジク人|タジク]]」という呼称よりも、出身地により自らを「[[サマルカンド]]人」や「[[ブハラ]]人」などと呼ぶなど、出身都市や集落に自己の[[アイデンティティ]]を求めることが多かったようである。
[[16世紀]]にはタジクたちの中心地域である[[マー・ワラー・アンナフル]](ウズベキスタン中央部からタジキスタン北西部)に、[[ヴォルガ川]]流域で強大になった[[ウズベク人]](シャイバニ・ウズベク族)が侵入し、ウズベク族の建てた[[ブハラ・ハン国]]の支配下に入る。
{{仮リンク|アングロ・ペルシア戦争|en|Anglo-Persian War}}([[1856年]] - [[1857年]])後に[[パリ条約 (1857年)|パリ条約]]が締結されると、[[ガージャール朝]]が[[ヘラート]]から手を引いた。[[19世紀]]に[[ロシア帝国]]では[[軽工業]]を基幹とする[[産業革命]]が進行していたが、[[1860年代]]前半に[[アメリカ合衆国]]で勃発した[[南北戦争]]の影響から、それまで[[アメリカ合衆国南部]]で[[奴隷制]][[プランテーション]]農業によって生産されていた[[綿花]]の値段が上昇したため綿花原料の確保が困難となり、ロシア帝国では「安い綿原料の確保」ばかりでなく、「[[イギリス帝国|大英帝国]]による中央アジアの植民地化阻止」および「平原を国境とすることの危険性」といった観点から、中央アジアへの南進および領土編入・保護国化が進められ([[グレート・ゲーム]])、[[1868年]]にブハラ・ハン国はロシアの[[保護国]]となった。
{{Clearleft}}
=== 20世紀以降 ===
[[File:Flag of the Bukharan People's Soviet Republic.svg|thumb|180px|[[ブハラ人民ソビエト共和国]]の国旗]]
[[20世紀]]初頭の[[オスマン帝国]]は[[1904年]]から[[1905年]]にかけての[[日露戦争]]での[[日本]]の活躍をほとんど注目しておらず、むしろロシアと敵対関係にあった[[ブハラ・ハン国]]の政府に支援されたブハラからの留学生が留学先の[[ドイツ帝国]]の首都[[ベルリン]]でロシアが日本に敗れたことを知り、ブハラ・ハン国とその同盟国たるオスマン帝国に知らせている{{要出典|date=2008年12月}}。その留学生らは、日本の近代化の原動力を[[明治維新]]だと知ると、同じような[[自由主義革命]]の気運が[[ガージャール朝]][[ペルシア]]([[1906年]]から始まった[[イラン立憲革命]])やオスマン帝国([[1908年]]から始まった[[青年トルコ人革命]])に拡大した。しかし、ロシアの力があまりに強大だった[[ウラル山脈]]地域や中央アジアでは、[[社会主義革命]]に[[民族自決]]のための希望を見出した。
[[ロシア革命]]の影響を受けたブハラ青年らは[[保守]]的なブハラ・ハン国を倒壊し、[[1920年]]に[[ブハラ人民ソビエト共和国]]を打ち立てた。しかし、[[1924年]]、[[ソビエト連邦|ソビエト政府]]は中央アジアの各自治共和国を民族別の共和国に分割統治再編する「民族境界区分」の画定に踏み切り、それまでテュルクの定住民とまとめて「[[サルト人|サルト]]」と呼ばれてきたイラン系のタジクたちが、タジク民族として公認されるとともに、ブハラの東部と[[トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国]]の南部が切り分けられて現在のタジキスタンの領域に[[タジク自治ソビエト社会主義共和国]]が設置された。
このように、中央アジア地域では[[ナポレオン]]や[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ|フィヒテ]]の唱えた西欧型「[[民族自決]]」の言葉と引き換えに、本来の民族共生というアジア的な優れた生き方を少なくとも政府の[[イデオロギー]]レベルでは失うことになり、本来は中央アジア諸国が一団となれば巨大な経済圏となるはずであったのが、結果的に諸国の分立と[[少数民族]]と多数派民族とのあらゆる格差を生み出すことになった。以上のような考え方はタジクへももたらされたものの、[[第一次世界大戦]]後の[[トルコ革命]]後にパミール地方へ逃れた[[エンヴェル・パシャ]]将軍らが唱えた「[[汎テュルク主義]]」はロシアとの対立を望まない[[ケマル・アタチュルク]]率いる新生[[トルコ|トルコ共和国]]により却下され、反ロシア・反ソヴィエトの[[バスマチ蜂起|バスマチ抵抗運動]]は旧地主・支配階層による抵抗運動の枠を超えられず、中央アジア諸民族の結束力の弱さを体現している。この旧地主・支配階層は、その後アフガニスタンに逃れ、一部は[[ペルシャ湾]]岸諸国やイラン、あるいは西欧に亡命して現在に至っている。一方で[[1929年]]、タジクは[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]]から分離し、ソビエト連邦構成国の一つである[[タジク・ソビエト社会主義共和国]]に昇格した。
ソ連時代のタジク・ソビエト社会主義共和国は、[[スターリン批判]]後の[[中ソ対立]]の文脈で[[1969年]]に発生した[[珍宝島]]/[[ダマンスキー島]]をめぐる[[中ソ国境紛争]]の調停の結果、タジキスタンの東部パミール地域にある[[ゴルノ・バダフシャン自治州]]にある{{仮リンク|ムルガーブ地区|en|Murghob District|label=ムルガーブ県}}の一部領土が[[中華人民共和国]]に割譲されるなど、中央政権にとってのタジキスタンのパミール地域は「削られても痛くない辺境地域」として見られているかと見間違うほどであった。
こうして形成されたタジク国家は[[1990年]]に[[主権]]宣言を行い、[[1991年]]に国名をタジキスタン共和国に改めるとともに、[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連解体]]に伴って独立を果たした。1991年11月、[[タジキスタンの大統領]]選挙で[[ラフモン・ナビエフ]]が当選し、[[共産党]]政権が復活。1991年12月21日、[[独立国家共同体]](CIS)に参加する。ロシアとは[[集団安全保障条約]](CSTO)を通じて[[軍事同盟]]関係にあり、国内に[[ロシア連邦軍]]が駐留している<ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0504L_V01C12A0FF1000/ ロシア、タジキスタン駐留を延長 42年までで合意]」[[日本経済新聞]](2012年10月5日)2023年1月8日閲覧</ref>(「[[国外駐留ロシア連邦軍部隊の一覧#タジキスタン]]」参照)。
[[File:Spetsnaz troopers during the 1992 Tajik war.jpg|thumb|[[タジキスタン内戦]]([[1992年]])]]
[[1992年]]、[[タジキスタン共産党]]系の政府とイスラム系野党反政府勢力との間で[[タジキスタン内戦]]が起こった。11月に最高会議(共産党系)は[[エモマリ・ラフモン|エモマリ・ラフモノフ]](1952年 - )を議長に選び新政権を樹立し、1993年春までにほぼ全土を制圧した。[[1994年]]4月、最初の和平交渉が行われた。11月の大統領選挙が行われ、1997年6月の暫定停戦合意で反対派は政府ポストの3割を占めた。5万人以上の死者を出した内戦が終わった。エモマリ・ラフモノフ(現在はラフモンと改名)大統領の就任以来、[[国際連合タジキスタン監視団]](UNMOT)の下で和平形成が進められてきたが、[[1998年]]には監視団に派遣されていた日本の[[秋野豊]][[筑波大学]]助教授が、ドゥシャンベ東方の山岳地帯で武装強盗団に銃撃され殉職する事件が起こった。
[[1997年]]に内戦は終結した。UNMOTは[[2000年]]に和平プロセスを完了させ、以後は[[国際連合タジキスタン和平構築事務所]](UNTOP)が復興を支援した。[[2001年]]の[[対テロ戦争]]以来、[[フランス空軍]]も小規模ながら駐留している(2008年時点)。
ラフモン大統領の長期政権によって、[[上海協力機構]]に加盟してロシアや[[中国]]と関係を強化し、[[アメリカ合衆国]]とも友好を築き、日本を含む各国の手厚い支援や国連活動によって、[[21世紀]]に入ってからは年10パーセントの高成長率を維持しているようである。和平後のマクロ経済成長は順調で負債も順調に返済していたが、[[2006年]]に中国が[[道路]]建設支援を目玉に大規模な借款を行ったために、タジキスタンのマクロ経済指標の状況は[[アフリカ]]諸国並みであり、将来にわたる世界不況に対する不安が残っている。特に、もともと資源・産業の多様性は乏しいうえ、[[富の再分配|所得の再分配]]がうまく機能せず、国民の大多数は年収350ドル未満の生活を送っている。旧ソ連各国の中でも最も貧しい国の一つであるが、近年の[[ロシアの経済|ロシア経済]]の好転により、[[出稼ぎ]]労働者からの送金額が上昇したことから、公式経済データと実体経済との乖離、および出稼ぎ労働者のいない[[寡婦世帯]]における貧困の深化が問題となっている。特に、[[ロシア語]]の話せない村落部出身の男性は、ロシアでの出稼ぎ先では低賃金肉体労働しか選択肢がなく、過酷な労働による死亡、[[後天性免疫不全症候群|AIDS]]若しくは[[性感染症]]の持ち込み、あるいはロシア国内での[[重婚]]による本国家族への送金の停止など、都市部・村落部を問わず社会的問題は単純な貧困を超えた現象となりつつある。
[[2011年]][[1月12日]]、タジキスタン下院は、中国との国境画定条約を批准し、[[パミール高原]]の約1,000平方キロメートルが中国に割譲されることになった。アフガニスタンへの支援に適している[[地政学]]的重要性から[[インド]]が海外初の軍事基地を設置しているほか<ref>"India to base planes in Tajikistan". The Tribune, India. 2003-11-15.</ref><ref>"India's foray into Central Asia". Asia Times. 2006-08-12.</ref>、[[中国人民解放軍]]の駐留基地も存在していることを、米国の『[[ワシントン・ポスト]]』は衛星写真や現地取材などをもとに報じている<ref>{{Cite web |date= 2018-08-28|url= https://www.washingtonpost.com/world/asia_pacific/in-central-asias-forbidding-highlands-a-quiet-newcomer-chinese-troops/2019/02/18/78d4a8d0-1e62-11e9-a759-2b8541bbbe20_story.html?utm_term=.15a5efde3637|title= In Central Asia’s forbidding highlands, a quiet newcomer: Chinese troops |publisher= ワシントン・ポスト|accessdate=2018-08-30}}</ref>。
=== 21世紀 ===
ラフモン政権下の同国は自国民の[[愛国心]]を高めるためとして、[[2007年]]、大統領自ら[[ペルシア]]風の名前に改名すると、ほぼ全ての[[公務員]]が倣ってペルシア風の名前に改名した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-04-30 |url=https://this.kiji.is/628375717728896097 |title=タジク、ロシア風の姓を禁止へ |publisher=[[共同通信]] |accessdate=2020-04-29}}</ref>。また、ソ連時代から用いられ続けていた([[公用語]]としての)ロシア語を[[2009年]]に廃止。[[2016年]]には[[出生届]]に関する新法を施行し、産まれてくる子供に外国名を名付けること(特にロシア語での命名)を禁止している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jiji.com/jc/article?k=2016043000098&g=int|title=ロシア風の名字禁止=愛国政策、新生児に適用-タジク|publisher=[[時事通信|時事ドットコム」]]|date=2016-04-30|accessdate=2016-08-24}}</ref>。最近では、[[テレビ番組]]に外国風の[[衣装]]を身に着けた[[キャラクター]]を登場させることを禁止するほか、仕事で海外から渡ってきた人間の[[母語]]を含む[[多言語]]の使用にも制限が設けられる事態が起こっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3096045|title=「理解不能」な言葉使った記者に罰金、タジキスタン|publisher= [[フランス通信社|AFPBB News]]|date=2016-08-02|accessdate=2016-08-24}}</ref>。
このほかには、ソ連の名残を払拭する目的から[[祝祭]]を規制する法律を厳格化したことが挙げられる。[[新年]]を祝うことを禁じ、[[ヒンドゥー教]]の[[ホーリー祭]]を祝う行事に参加した若者を「[[ハラーム]]に該当する行為」だとして強制的に解散させるといった取り締まりが執行されたほか、学校の卒業パーティーを禁止する方針が固められたり、個人の誕生日を「自宅だけで祝う」ようにさせるなどの措置がとられたりしている<ref>[https://jp.globalvoices.org/2018/04/17/47569/ タジキスタンの残念な御法度13選!] Global Voices(2018年4月17日)</ref>。
[[2018年]][[7月29日]]、首都ドゥシャンベからアフガニスタン国境に向かう道路を南に約150キロメートル下った付近の地域で、観光目的で現地を訪れていた外国人グループが襲撃され4名が死亡する事件が発生した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASL7Z66ZCL7ZUHBI023.html|title=タジキスタンで米国人ら4人死亡 車で襲撃、テロか|publisher= [[朝日新聞デジタル]]|date=2018-07-30|accessdate=2018-08-04}}</ref>。
キルギスとの国境線は半分近くが確定しておらず、[[水資源]]の奪い合いなどの住民同士のトラブルが国境紛争に発展する危険性をはらんでいる。2021年、2022年には死傷者が生じる軍事衝突が発生した<ref>{{Cite web|和書|url=https://equity.jiji.com/commentaries/2021043000972g |title=キルギスとタジク、軍衝突=国境地帯の水争い、死者31人 |publisher=時事通信 |date=2021-04-30 |accessdate=2022-09-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3424534?cx_part=top_category&cx_position=1 |title=タジク・キルギス国境で衝突、94人死亡 |publisher=AFP |date=2022-09-19 |accessdate=2022-09-19}}</ref>。2022年の衝突は両国首脳が参加して行われた[[上海協力機構]]首脳会議の期間中に発生しており、互いに部隊を撤収させることで合意を見たが現地では戦闘は続いた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASQ9K62KSQ9KUHBI01W.html |title=ロシアの仲介力低下か 首脳会議中にキルギス、タジキスタン軍事衝突 |publisher=朝日新聞DIGITAL |date=2022-09-17 |accessdate=2022-09-19}}</ref>。
2022年10月14日にカザフスタン首都[[アスタナ]]で開かれた、ロシアと中央アジア5カ国の首脳会議では、ラフモン大統領が[[ロシア連邦大統領]][[ウラジーミル・プーチン]]に、中央アジア諸国を、ソ連時代のように軽視し、[[属国]]のように扱うべきではないと要求する一幕があった<ref>[https://www.sankei.com/article/20221015-WDNHMJBTAVMK3KHRTY45ZORMDI/ タジク「属国扱いやめよ」旧ソ連構成国 露大統領と一線]『[[産経新聞]]』朝刊2022年10月16日(国際面)2023年1月8日閲覧</ref>。
== 政治 ==
[[File:Dushanbe Presidential Palace 01.jpg|thumb|首都ドゥシャンベにある大統領官邸<br>「タジキスタンの[[ホワイトハウス]]」「タジキスタンの[[パレ・デ・ナシオン]]」の異名を持つ]]
[[画像:Emomali Rahmonov 2001Nov03.jpg|thumb|140px|[[エモマリ・ラフモン]]大統領]]
{{main|{{仮リンク|タジキスタンの政治|tg|Низоми сиёсии Тоҷикистон|en|Politics of Tajikistan}}}}
=== 政治体制 ===
タジキスタンの[[政体]]は[[共和制]]をとる立憲国家である。現行[[憲法]]は[[1994年]][[11月]]に採択されたもの。
=== 行政府 ===
[[タジキスタンの大統領]]は[[元首|国家元首]]として強大な権限を憲法により保障されており、国民の直接選挙で選出される。大統領は[[タジキスタンの首相|首相]]を任命する。{{仮リンク|タジキスタンの副大統領|en|Vice President of Tajikistan|label=副大統領}}職は[[1992年]]に廃止されている。大統領の任期は7年だが、2016年の国民投票で、現職のラフモン大統領に限り任期制限が撤廃される憲法改正案が承認された<ref>「[https://www.afpbb.com/articles/-/3088075 タジキスタン、大統領の任期制限を撤廃 国民投票で改憲承認]」[[AFP通信]](2016年5月24日)2016年10月11日閲覧</ref>。
[[内閣]]に相当する'''閣僚評議会'''のメンバーは、'''最高会議'''の承認のもとに大統領が任命する。
{{See also|{{仮リンク|タジキスタン共和国内務省|tg|Вазорати корҳои дохилии Ҷумҳурии Тоҷикистон}}}}
=== 立法府 ===
{{main|最高議会 (タジキスタン)}}
[[立法府]]は[[両院制|二院制]]の'''[[最高議会 (タジキスタン)|最高会議]]'''(マジリシ・オリ)で、'''国民議会'''([[上院]]、マジリシ・ミリー)と'''人民代表議会'''([[下院]]、マジリシ・ナモヤンダゴン)で構成される。国民議会は33議席で、うち25議席は地方議会による選出枠、残りは大統領が任命する。人民代表議会は63議席で、そのうち41議席は[[小選挙区制]]、22議席は[[比例代表制]]で選出される。両院とも任期は5年。
[[2015年]][[3月1日]]には下院選挙が行われた<ref name="rfe">{{cite news|url=http://www.rferl.org/content/osce-to-monitor-tajik-parliamentary-elections/26839759.html|title=OSCE To Monitor Tajik Parliamentary Elections|date=10 February 2015|publisher=[[Radio Free Europe/Radio Liberty]]|accessdate=28 February 2015}}</ref>。
=== 政党 ===
主要[[政党]]には大統領[[エモマリ・ラフモン]]([[2007年]][[4月14日]]、ラフモノフから改名)率いる[[タジキスタン人民民主党]]、旧ソ連時代の政権党であった[[タジキスタン共産党]]、そして[[イスラム主義]]の[[宗教]]政党[[タジキスタン・イスラム復興党]]の3つがある。この3党は、比例代表制での5%障壁を超えることができた。タジキスタン人民民主党以外は野党つまり反政府派であり、当初の和平協定では反政府派に政府閣僚級ポストの5%が所定枠として当てられ、「民主的国家」を目指すことになっていたが、2006年11月の大統領選挙で現大統領が再選すると野党反政府派は主要ポストからほぼ退かされた状況にある。
=== 司法 ===
最高[[司法]]機関は[[最高裁判所]]で、その裁判官は大統領が任命する。
{{See also|{{仮リンク|タジキスタン共和国刑法|ru|Уголовный кодекс Республики Таджикистан}}}}
== 国際関係 ==
{{main|タジキスタンの国際関係|タジキスタンの在外公館の一覧}}
タジキスタンは[[欧州安全保障協力機構]]の加盟国の一つとなっている。
[[2020年]][[4月30日]]に下院は、今後[[出生届]]にロシア風の姓や[[ミドルネーム]]を禁止する改正案を可決した<ref>京都新聞2020年5月8日朝刊p5</ref>。
{{節スタブ}}
=== 日本との関係 ===
{{節スタブ}}
{{main|日本とタジキスタンの関係}}
{{See also|在日タジキスタン人}}
* [[駐日タジキスタン大使館]]
**住所:[[東京都]][[品川区]][[上大崎]]一丁目5-42 上大崎コンパウンド2階・3階
**アクセス:[[山手線|JR山手線]][[目黒駅]]東口、[[都営浅草線]][[高輪台駅]]A2出口
*駐タジキスタン日本大使館
<gallery>
File:タジキスタン全景.jpg|タジキスタン大使館全景
File:タジキスタン大使館プレート.jpg|タジキスタン大使館表札プレート
</gallery>
== 軍事 ==
{{main|タジキスタン軍}}
{{節スタブ}}
== 地理 ==
[[File:Tajikistan Map TI-map.gif|thumb|250px|タジキスタンの地図]]
[[File:Tajik mountains edit.jpg|thumb|タジキスタンの山々]]
{{main|{{仮リンク|タジキスタンの地理|en|Geography of Tajikistan}}}}
国土のほとんどは山岳地帯で、国土の半数が[[標高]]3,000メートル以上であり、[[中国=タジキスタン国境|中国との国境]]に至る東部は7,000メートル級に達する[[パミール高原]]の一部である。[[砂漠]]地帯も存在するが、先に述べたように山岳地帯が多くの割合を占めている点から他の中央アジア各国とは異なり、砂漠地帯特有の自然災害などは発生していない。
首都のドゥシャンベの標高は700 - 800メートルほどとそれほど高くなく、北西部の[[フェルガナ盆地]]は標高300 - 500メートル前後と最も低くなっており、ウズベキスタン、キルギスと入り組んで国境を接している。
一方、パミール地方の[[ゴルノ・バダフシャン自治州]]の州都[[ホログ]]は標高2,000メートルを超す。最高峰は[[イスモイル・ソモニ峰]](7,495メートル)、次いで[[レーニン峰]](7,130メートル)、{{仮リンク|コルジェネフスカヤ峰|en|Peak Korzhenevskaya}}(7,105メートル)と3つの7,000メートル級の山がある。主要河川は、[[アムダリヤ川]]、[[ヴァフシュ川]]、[[パンジ川]]、{{仮リンク|バルタン川|en|Bartang River}}、[[ザラフシャン川]](旧ソグド川)。
{{節スタブ}}
=== 気候 ===
[[File:Koppen-Geiger_Map_TJK_present.svg|thumb|150px|ケッペンの気候区分で見たタジキスタンの地図1]]
[[File:Tajikistan map of Köppen climate classification.svg|thumb|150px|ケッペンの気候区分で見たタジキスタンの地図2]]
タジキスタンの気候は大陸性、亜熱帯性、半乾燥性といった3種類の異なる気候が一つに纏まった状態となっている。また、標高によって気候が大きく変化する特徴を持ち合わせている。
フェルガナ盆地やその他の低地は、山岳によって[[北極]]からの[[気団]]の影響を受けずにいるが、その反面でこの地域の気温は年間100日以上が[[氷点下]]となる。平均気温が最も高い南西部の低地は、亜熱帯性の気候である為に乾燥しているが、一部の地域が現在、農業のために[[灌漑]]されている。
{{節スタブ}}
=== 水系 ===
国土の約2%が[[湖]]や[[池沼]]で占められている。最もよく知られているのは[[カラクル湖 (タジキスタン)|カラクル湖]]や{{仮リンク|イスカンデルクル湖|en|Iskanderkul}}、{{仮リンク|クリカロン湖|en|Kulikalon Lakes}}、{{仮リンク|サレス湖|en|Sarez Lake}}、{{仮リンク|シャダウ湖|en|Shadau Lake}}、{{仮リンク|ゾルクル湖|en|Zorkul}}の6つの湖と、{{仮リンク|タジク海|label=カイラックム貯水池|en|Kayrakkum Reservoir|ru|Таджикское Море}}、ヌレック貯水池の2つの[[貯水池]]である。また[[氷河]]も存在していて、その数は10000を超えるほどに多い。代表的な氷河には[[フェドチェンコ氷河]]が挙げられる<ref>{{Cite news|url=https://ca-climate.org/eng/news/pulsating-glaciers-of-tajikistan/|title=Pulsating glaciers of Tajikistan|newspaper=Information portal on climate adaptation and mitigation in Central Asia|date=2020-01-3|accessdate=2022-01-29}}</ref>。
=== 生態系 ===
タジキスタンには5ヶ所の陸生生態地域が存在する。{{仮リンク|アライ・西天山草原|en|Alai-Western Tian Shan steppe}}、{{仮リンク|ギサロ・アライの開放森林地|en|Gissaro-Alai open woodlands}}、{{仮リンク|パミール高山砂漠・ツンドラ地域|en|Pamir alpine desert and tundra}}、{{仮リンク|バドギズ・カラビル半砂漠|en|Badghyz and Karabil semi-desert}}、{{仮リンク|パロパミサス乾燥森林地|en|Paropamisus xeric woodlands}}がこれに該当する。
=== 環境問題 ===
タジキスタンの環境問題のほとんどは、ソ連時代に課せられた農業政策に関連している。鉱物[[肥料]]と[[農薬]]の大量使用は、同国の[[土壌汚染]]の主な原因として1991年までに問題視されていた。
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|タジキスタンの環境問題|en|Environmental issues in Tajikistan}}}}
=== タジキスタンの地震 ===
{{main|{{仮リンク|タジキスタンの地震の一覧|en|List of earthquakes in Tajikistan}}}}
== 地方行政区分 ==
[[File:Tajikistan provinces.png|thumb|タジキスタンの行政区画]]
{{main|タジキスタンの行政区画}}
地方は3つの州と1つの自治州に分けられる。すなわち、[[共和国直轄地]](首都[[ドゥシャンベ]]を含む)、南部の[[ハトロン州]](州都[[ボクタール]])、北部[[フェルガナ]]盆地方面の[[ソグド州]](州都[[ホジェンド]])の2州と、東部パミール高原の[[ゴルノ・バダフシャン自治州]](州都[[ホログ]])である。
州より下の行政単位は、行政郡(nohiya)- 地区(jamoat)- 村(deha)あるいは集落地が一般的であり、行政郡の中心部に市(shahrak)を置くこともある。ただし、地方の大きな都市は独立した行政単位であり、特に首都のドゥシャンベは非常に権限の強い行政単位である。ドゥシャンベの内部は区(nohiya)が置かれ、住民自治の一端を担っている。
=== 主要都市 ===
{{main|タジキスタンの都市の一覧}}
その他の主要都市は[[パンジケント]]、[[ガルム (タジキスタン)|ガルム]]、[[クリャーブ]]などがある。
== 経済 ==
[[File:Tajikistan Export Treemap.png|thumb|left|色と面積で示したタジキスタンの輸出品目]]
[[画像:Dushanbe1.JPG|thumb|right|首都[[ドゥシャンベ]]]]
[[画像:Tajikistan OVER.jpg|thumb|250px|right|首都ドゥシャンベは西の平野部に位置する]]
{{main|{{仮リンク|タジキスタンの経済|en|Economy of Tajikistan|ru|Экономика Таджикистана}}}}
タジキスタンは中央アジアの中で最も貧しいが、[[タジキスタン内戦]]終結後の経済発展は著しく、2000年から2004年のGDP成長率は9.6%に達した。主要歳入源は[[アルミニウム]]生産、[[綿花]]栽培、国外[[出稼ぎ]]労働者からの送金である。人口の1割にあたる87万人がロシアで働いて送金し、その額は2016年時点、[[国内総生産]](GDP)の3分の1にあたる。国営Talco社が世界的規模のアルミ精錬を行っている。おもにロシアなど国外での安い労働力提供で得られる仕送りはGDPの36%を超え、貧困層を多く抱えるタジキスタンにとって重要な収入である。
一方、2006年には[[麻薬]]押収量世界3位だった。ただし、アフガニスタンからロシアなどへの移送取締りを国連などの協力で実施したため、その効果は上がっているという。アフガニスタン国境の橋が米国により建設されるなど[[インフラストラクチャー|インフラストラクチュア]]整備が少しずつ進んでいる。
なお、タジキスタンは2013年から[[世界貿易機関]](WTO)に加盟している。傍ら、{{仮リンク|中央アジア地域経済協力機構|en|Central Asia Regional Economic Cooperation Program}}(CAREC)の加盟国ともなっており、中央アジア内の4つの共和国と同様に[[経済協力機構]]や[[上海協力機構]]など幾つかの国際機関へ加入している。
通貨は[[ソモニ]]である。
=== 農業 ===
{{main|{{仮リンク|タジキスタンの農業|en|Agriculture in Tajikistan}}}}
[[穀物]]では[[小麦]]や[[コメ|米]]が栽培されている。農産物の中で重きを置かれているのは、ソ連時代から栽培されている綿花であり、ソ連全体でも綿花栽培の重要地域の一つだった。ソ連崩壊後から状況が一転し、近年では農業改革によって作付けの農作物を自由に選べるようになっていることも加わり、栽培の割合が減少傾向にある。作付面積はソ連時代と比べると60%強ほどである<ref>{{Cite web|和書
| url = http://www.swissinfo.ch/jpn/{{urlencode:単作農業からの脱却}}_{{urlencode:タジキスタンの将来を握る}}-{{urlencode:白い金}}-/41680222
| title = タジキスタンの将来を握る「白い金」
| publisher = SWI swissinfo.ch
| date = 2015-09-25
| accessdate = 2016-08-24
}}</ref>。
=== 鉱業 ===
{{Main|{{仮リンク|タジキスタンの鉱業|en|Mining in Tajikistan}}}}
[[アンチモン]]鉱を2002年時点で3,000トン採鉱した。これは世界第4位であり、世界シェア2.1%に相当する。この他、[[金]]、[[銀]]、[[水銀]](20トン、世界シェア1.1%)、[[鉛]]を産する。有機鉱物資源は[[亜炭]]、[[原油]]、[[天然ガス]]とも産出するが量は多くない。[[ウラン]]鉱も存在する。天然ガスは{{仮リンク|サリカミシュ・ガス田|en|Sarikamysh gas field}}から産出されている。
=== エネルギー ===
タジキスタンの[[エネルギー]]供給は、世界一高い[[ヌレークダム]]や{{仮リンク|中央アジア - 南アジア電力供給計画|en|CASA-1000}}の一環として設計され近年完成間近である[[サングトゥーダ・ダム]]などで行っている[[水力発電]]に完全に依存している。水が足りなくなる冬季には、首都では都市[[セントラルヒーティング]]用のボイラーを使った小さな[[火力発電所]]しかない。その他には、[[ザラフシャン川]]などに大規模ダムなどを作らず、夏季に安定した水供給を約束する見返りとして、冬季にウズベキスタンやトルクメニスタンから電力を輸入している。7,000メートルを超える高山、深い谷と急流、比較的雨量の多い地中海性気候という条件下、年間発電量144億kW/h(2001年)のうち、97.7%を水力発電で賄っている。
安価で大量の電力生産は[[精錬]]に膨大な電力を必要とする[[アルミニウム]]工業を発達させるためであり、生産量は世界シェアの1.2%に当たる31万トンに達するが、原料となる[[ボーキサイト]]は[[ウクライナ]]などの外国からの輸入に頼っている。輸出金額に占めるアルミニウムの割合は53.7%にも達するが、その利権の全てがタジク国内にあるわけではない。
== 交通 ==
{{main|タジキスタンの交通}}
=== 鉄道 ===
{{main|タジキスタンの鉄道}}
== 科学技術 ==
{{main|{{仮リンク|タジキスタンの科学技術|en|Science and technology in Tajikistan}}}}
タジキスタンでは[[科学技術]]が急速に発展しつつある。科学開発は、2030年までの国家開発戦略において優先事項とされており、実施期間を5年間かつ3段階に分けて進められている。
その主な目標は、エネルギーの確保、電気通信と輸送における開発計画、食料安全保障政策の保証ならび生産的な雇用を拡大することである<ref> Y. Suleimenov (2021) Central Asia. In UNESCO Science Report: the Race Against Time for Smarter Development. Schneegans, S.; Straza, T. and J. Lewis (eds). UNESCO Publishing: Paris</ref><ref>Price, R. A. (2018) Economic Development in Tajikistan. K4D helpdesk report. Institute of Development Studies: Brighton, UK.</ref>。
{{See also|{{仮リンク|タジキスタン科学アカデミー|en|Tajik Academy of Sciences}}}}
{{節スタブ}}
== 国民 ==
[[File:Tajikistan, Trends in the Human Development Index 1970-2010.png|thumb|タジキスタンにおける人間開発指数ならび指標の傾向(1970年~2010年)]]
{{main|タジキスタンの人口統計}}
=== 民族 ===
{{bar box
|title=民族構成(タジキスタン)
|titlebar=#ddd
|float=right
|bars=
{{bar percent|[[タジク人]]|orange|84.3}}
{{bar percent|[[ウズベク人]]|green|13.8}}
{{bar percent|[[キルギス人]]|yellow|0.8}}
{{bar percent|[[ロシア人]]|blue|0.5}}
{{bar percent|その他|red|1}}
}}
[[File:Children_in_Tajikistan_25042007.jpg|150px|thumb|タジク人の子供たち]]
主な[[民族]]はタジク人、ウズベク人、ロシア人など。タジク人の話す[[タジク語]]は[[ペルシア語]]に近く、方言の一種とされる。民族的には[[イラン人]]に近いと考えられるが、タジク人を含めたタジキスタンの[[ムスリム]](イスラム教徒)の間では[[スンナ派]]が多数を占め、[[イラン|イラン・イスラーム共和国]]の[[国教]]と同じ[[シーア派]]の[[十二イマーム派]]の信徒はほとんどいない。むしろ、東部のパミール高原ではシーア派の[[イスマーイール派]]の信徒が大部分を占め、[[パキスタン]]北部と同様に寛容と自由に溢れるイスラム文化を築いている。
人名はソ連時代の名残りでロシア語風の姓が多く見受けられるが、2009年からロシア語が公用語での使用を廃止されるに至り、現在はロシア式の接尾辞を取り去った形のタジク語風の姓名あるいはタジク語そのものの姓名を用いる[[世帯]]が増加しつつある<ref group="注釈">ラフモン大統領の姓はタジク語風に変更したものであり、2007年以前まではロシア語風の「ラフモノフ」と名乗っていた。</ref>。
タジキスタンの人口比率は2010年センサスの時点で、[[タジク人]](84.3%)が多数を占める。[[ウズベク人]](13.8%)、キルギス人(0.8%)、ロシア人(0.5%)が次ぐ。
同国は中央アジア諸国で人口が最も急速に増加<ref group="注釈">2014年時点では 2.42%</ref>しているものの、[[人間開発指数]]では同エリア内の共和国の中で最下位<ref group="注釈">2013年時点では 133位</ref>となっている<ref>{{Cite book|title=Central Asia. In: UNESCO Science Report: towards 2030|last=Mukhitdinova|first=Nasiba|publisher=UNESCO|year=2015|isbn=978-92-3-100129-1|location=Paris|pages=365–387}}</ref>。なお、ロシア人人口は1959年に全人口の13.3%、ソ連からの独立前の1989年時点では7.6%を占めていたが、1990年代の内戦により大部分が流出し2010年には0.5%にまで低下した。
=== 言語 ===
[[チュルク系]]の言語が使われている中央アジアの中では唯一、住民の大多数の母語が[[ペルシア語]]方言の[[タジク語]]であり、[[公用語]]となっている。帝政ロシアからソ連時代にかけて共通語であった[[ロシア語]]は[[第二言語]]として教育・ビジネスなどで多く使用されている。ただし、[[2009年]]10月から国語法が成立し、公文書や看板、新聞はタジク語を用いることを義務づけられた<ref name="asahi">{{Cite web|和書
| url = http://www.asahi.com/international/weekly-asia/TKY201110170089.html
| title = 旧ソ連圏、ロシア語回帰 タジキスタン ことばを訪ねて(4)
| publisher = [[朝日新聞]]
| date = 2011-10-17
| accessdate = 2012-6-25
| archivedate = 2012-5-25
| deadlinkdate = 2018-1-22
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20120525052232/http://www.asahi.com/international/weekly-asia/TKY201110170089.html
}}</ref>。それにともない、違反者には罰金が科される。
[[ソビエト連邦の崩壊]]後に起きた[[タジキスタン内戦]]によるロシア人の大量流出によりロシア語の通用度が急激に低くなったが、現在では出稼ぎ先の大半はロシアであることと、高等教育にはロシア語習得が不可欠であることから、ロシア語教育も重要視されつつあり{{R|asahi}}、国民の間ではロシア語学習熱が強い。また、独立後に[[トルコ語]]系の[[ウズベク語]]や[[トルクメン語]]が[[キリル文字]]から[[ラテン文字]]へ変わったが、[[ペルシャ語]]系のタジク語はキリル文字のままである。なお、[[ペルシア文字|ペルシャ文字]]風のキリル文字表記もみられ、ペルシャ文字への表記への移行も議論されている。
また、他にウズベク語、キルギス語、[[コワール語]]、[[シュグニー語]]、[[パミール諸語]]、[[ヤグノブ語]]なども使われている。
=== 宗教 ===
{{main|{{仮リンク|タジキスタンの宗教|en|Religion in Tajikistan|ru|Религия в Таджикистане}}}}
タジキスタン国民の多くは[[ムスリム]]であり、[[スンナ派]]が大半を占める。また、歴史的に[[ペルシャ]]との結びつきが強く、[[哲学者]][[イブン・スィーナー]]などの[[ペルシャ人]]は尊敬されている。その他、ダルヴァーズ郡、ヴァンジ郡ならびにムルガーブ郡を除く[[ゴルノ・バダフシャン自治州]]では、服装・戒律ともきわめて緩やかで、開放的な[[シーア派]]の[[イスマーイール派]]が大多数を占める。イスマーイール派のリーダーは「アーガー・ハーン」の称号を用い、宗教的指導者よりも精神的・思想的指導者としての面が強く、国境をまたいだアフガニスタンとタジキスタンのイスマーイール派の居住する地域と周辺部では、ビジネスおよび人道的支援の両面にわたる社会的事業を展開している。
2003年の推計では国民の85%が[[スンナ派]]ムスリム、5%が[[シーア派]]ムスリム、10%がその他であった<ref name=2013cia>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ti.html CIA World Factbook "Tajikistan"] 2013年9月8日閲覧。</ref>。
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|タジキスタンにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Tajikistan}}}}
=== 婚姻 ===
{{節スタブ}}
=== 教育 ===
{{main|{{仮リンク|タジキスタンの教育|en|Education in Tajikistan|ru|Образование в Таджикистане}}}}
タジキスタンは旧ソ連時代から続く無料教育制度により、国家の貧困状態にも拘わらず[[識字率]]の高さを保持している。2011年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は99.7%(男性:99.8%、女性:99.6%)である{{R|2013cia}}。2011年の[[教育]]支出はGDPの3.9%だった{{R|2013cia}}。
教育制度は11-4制で、初等・中等教育(6歳~17歳)が[[義務教育]]である<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=国際交流基金 - タジキスタン(2020年度)|url=https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2020/tajikistan.html#RYAKUSHI|website=www.jpf.go.jp|accessdate=2021-11-26}}</ref>。後期中等教育にはリツェイ(8~11年生)が該当する<ref name=":0" />。大学は4年制<ref name=":0" />。全ての教育機関は教育科学省の管轄下にある(農業大学や芸術大学など例外あり)<ref name=":0" />。外国語教育として、義務教育1年生からロシア語が必修であり、4年生以降は第二外国語(英語、ドイツ語、フランス語など)を学習する<ref name=":0" />。
{{See also|{{仮リンク|タジキスタンの大学の一覧|en|List of universities in Tajikistan}}}}
=== 保健 ===
{{main|{{仮リンク|タジキスタンの保健|en|Health in Tajikistan}}}}
{{節スタブ}}
== 治安 ==
タジキスタンの治安は最近良くなりつつある傾向を見せているものの、政治や経済が安定しておらず、貧困層による富裕層を狙った[[窃盗]]や[[強盗]]など金銭的な犯罪が多発している。
同国の統計資料によると、2020年の犯罪認知件数は23,460件(前年比106.7%)と2019年と比べ増加している。中でも、金品などの窃取を目的とした犯罪(窃盗:前年比15.9%増、侵入盗:同25.1%)は大きく増加しており、その背景には他国への出稼ぎ労働が深く関わっている<ref group="注釈">タジキスタンは主にロシアで働く労働移民からの国外送金に依存する国家の一つであり、2019年の国外からの送金額はタジキスタンのGDPの約3分の1であった。</ref>。2020年からの新型コロナウイルス感染症の世界的感染拡大により、労働移民による送金額が大幅に減少するとともに、経済格差や物価が上昇したこと(2020年:前年比7%増)が挙げられている<ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_201.html タジキスタン安全対策基礎データ] 海外安全ホームページ</ref>。
なお、外国人は旅行者を含めて多額の現金を所持していると捉えられており、犯罪者に狙われ易い傾向にあることから、多くの人が集まる[[バザール]]、[[観光地]]、[[空港]]、[[鉄道駅|駅]]周辺などでは外国人を狙った[[スリ]]や[[ひったくり]]被害が発生している。
一方、1998年7月に秋野元国連タジキスタン監視団(UNMOT)政務官他が殉職して以来、テロによる日本人・日本権益を直接標的としたテロ事件の被害は確認されていないものの近年、単独犯によるテロや一般市民が多く集まる公共交通機関など(ソフトターゲット)を標的としたテロが世界各地で頻発する他、爆弾テロなどの発生も後を絶たない為、テロの発生を予測し未然に防ぐことがますます困難となっている。
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|タジキスタンの組織犯罪|ru|Организованная преступность в Таджикистане}}}}
=== 人権 ===
{{main|{{仮リンク|タジキスタンにおける人権|en|Human rights in Tajikistan}}}}
{{節スタブ}}
== マスコミ ==
{{main|{{仮リンク|タジキスタンのメディア|en|Mass media in Tajikistan}}}}
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|タジキスタンの通信|en|Telecommunications in Tajikistan}}|{{仮リンク|タジキスタンにおけるインターネット|en|Internet in Tajikistan}}|{{仮リンク|タジキスタンの新聞の一覧|en|List of newspapers in Tajikistan}}}}
== 文化 ==
{{main|タジキスタンの文化}}
[[File:Celebrating Eid in Tajikistan 10-13-2007.jpg|thumb|160px|[[イド・アル=フィトル]]を祝うタジク人家族]]
タジキスタンの文化は、[[ウズベキスタンの文化]]と同根であるが、ソビエト時代の共産政権下においては地域の文化組織は崩壊し、ウズベキスタンの文化とは分断された。しかし、このことはすべて悪い結果をもたらしたわけではなく、ソビエト時代には、タジキスタンは[[劇場]]と有名な[[小説家]]を輩出することにより知られていた。これらタジク[[知識人]]士は、タジク語と[[アラビア語]]・[[ペルシャ語]]との関連性を調節し、タジク語をより洗練されたものにした。
=== 食文化 ===
{{main|タジキスタン料理}}
{{節スタブ}}
=== 文学 ===
{{main|{{仮リンク|タジキスタン文学|label=タジク文学|en|Tajik literature}}}}
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|タジキスタン文学の歴史|label=タジク文学の歴史|tg|Таърихи адабиёти тоҷик}}}}
=== 音楽 ===
{{main|タジキスタンの音楽}}
{{節スタブ}}
=== 映画 ===
{{main|{{仮リンク|タジキスタンの映画|label=タジク映画|en|Cinema of Tajikistan}}}}
{{節スタブ}}
{{See also|{{仮リンク|タジクフィルム|tg|Тоҷикфилм}}}}
=== 被服 ===
[[File:Одежда жителей Гиссара (Таджикистан).JPG|thumb|200px|伝統的な民族衣装を身に纏ったタジク人]]
{{main|{{仮リンク|タジキスタンの民族衣装|tg|Либоси миллии тоҷикон}}}}
{{節スタブ}}
=== 建築 ===
{{See also|{{仮リンク|タジキスタンの芸術と建築|ru|Искусство и архитектура Таджикистана}}}}
{{節スタブ}}
=== 世界遺産 ===
{{Main|タジキスタンの世界遺産}}
タジキスタン国内には、[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が1件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が1件存在する。
{{節スタブ}}
=== 祝祭日 ===
{{main|{{仮リンク|タジキスタンの祝日|en|Public holidays in Tajikistan}}}}
{| class = "wikitable"
|+ style="font-weight:bold;font-size:120%" |
|- style="background:#efefef"
! 日付 !! 日本語表記!! 現地語表記!! 備考
|-
| style="text-align:center" | [[1月1日]] || 新年
| <span lang="tg" xml:lang="tg" style="font-family:'Palatino', 'Linotype', sans-sarif;">Соли нави мелодӣ</span>
| style="text-align:center" | -
|-
| style="text-align:center" | [[3月8日]] || [[国際女性デー]]
| <span lang="tg" xml:lang="tg" style="font-family:'Palatino', 'Linotype', sans-sarif;">Иди занон ва бонувони Тоҷикистон</span>
| style="text-align:center" | -
|-
| style="text-align:center" | [[3月20日]] - [[3月22日]]
| [[ノウルーズ]]
| <span lang="tg" xml:lang="tg" style="font-family:'Palatino', 'Linotype', sans-sarif;">Ҷашни Наврӯз</span>
| style="text-align:center" | [[イラン暦]]新年
|-
| style="text-align:center" | [[5月9日]] || [[ヨーロッパ戦勝記念日#ソ連|戦勝記念日]]
| <span lang="tg" xml:lang="tg" style="font-family:'Palatino', 'Linotype', sans-sarif;">Иди ғалаба</span>
| style="text-align:center" | -
|-
| style="text-align:center" | [[9月9日]] || [[独立記念日]]
| <span lang="tg" xml:lang="tg" style="font-family:'Palatino', 'Linotype', sans-sarif;">Ҷашни Истиқлолияти Ҷумҳурии Тоҷикистон</span>
| style="text-align:center" | -
|-
| style="text-align:center" | [[11月6日]] || [[憲法記念日]]
| <span lang="tg" xml:lang="tg" style="font-family:'Palatino', 'Linotype', sans-sarif;">Рӯзи Конститутсияи Ҷумҳурии Тоҷикистон</span>
| style="text-align:center" | -
|-
| style="text-align:center" | -
| [[イード・アル=フィトル|断食月明祭]]
| <span lang="tg" xml:lang="tg" style="font-family:'Palatino', 'Linotype', sans-sarif;">Иди Рамазон</span>
| [[ヒジュラ暦]]による
|-
| style="text-align:center" | -
| [[イード・アル=アドハー|犠牲祭]]
| <span lang="tg" xml:lang="tg" style="font-family:'Palatino', 'Linotype', sans-sarif;">Иди Қурбон</span>
| ヒジュラ暦による
|}
== スポーツ ==
{{Main|{{仮リンク|タジキスタンのスポーツ|ru|Спорт в Таджикистане}}}}
{{See also|オリンピックのタジキスタン選手団}}
=== サッカー ===
{{Main|{{仮リンク|タジキスタンのサッカー|en|Football in Tajikistan}}}}
タジキスタン国内では[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっており、[[1992年]]にサッカーリーグの[[タジク・リーグ]]が創設された。[[FCイスティクロル・ドゥシャンベ]]が圧倒的な強さを誇っており、8連覇を含むリーグ最多10度の優勝を達成している。
[[タジキスタンサッカー連盟]](TFF)によって構成される[[サッカータジキスタン代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には未出場である。しかし、[[AFCアジアカップ]]には[[AFCアジアカップ2023|2023年大会]]に初出場を果たしている。また、[[AFCチャレンジカップ]]では[[AFCチャレンジカップ2006|2006年大会]]で初優勝し、続く[[AFCチャレンジカップ2008|2008年大会]]では準優勝の成績を収めている。
== 著名な出身者 ==
{{Main|タジキスタン人の一覧}}
* [[ラフモン・ナビエフ]] - [[政治家]]
* [[ムヒッディーン・カビリ]] - 政治家
* [[ヌモンジョン・ハキモフ]] - 元[[プロサッカー選手|サッカー選手]]
* [[マヌチェフル・ジャリロフ]] - サッカー選手
* [[ユスプ・アブドサロモフ]] - [[アマチュアレスリング|レスリング選手]]
* [[ラスル・ボキエフ]] - [[柔道|柔道家]]
* [[タハミネー・ノルマトワ]] - [[俳優|女優]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[タジキスタン関係記事の一覧]]
* [[タジキスタン (小惑星)]]
* [[ソグディアナイト]]
== 外部リンク ==
{{Sisterlinks
| q = no
| v = no
}}
'''政府'''
* [http://www.president.tj/ タジキスタン大統領府] {{tg icon}}{{ru icon}}{{en icon}}{{ar icon}}
* [https://www.mfa.tj/ja/tokyo 駐日タジキスタン共和国大使館] {{tg icon}}{{En icon}}{{ja icon}}
'''日本政府'''
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/tajikistan/ 日本外務省 - タジキスタン] {{ja icon}}
* [https://www.tj.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在タジキスタン日本国大使館] {{ja icon}}{{tg icon}}{{ru icon}}
'''その他'''
* {{Kotobank}}
{{アジア}}
{{独立国家共同体}}
{{OIC}}
{{上海協力機構}}
{{タジキスタン関連の項目}}
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{{DEFAULTSORT:たしきすたん}}
[[Category:タジキスタン|*]]
[[Category:アジアの国]]
[[Category:トルキスタン]]
[[Category:独立国家共同体]]
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2003-08-15T22:01:46Z
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2023-11-05T09:20:14Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3
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13,274 |
エリック・サティ
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エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(Éric Alfred Leslie Satie、フランス語: [eʁik sati]、1866年5月17日 - 1925年7月1日)は、フランスの作曲家。オンフルール生まれ、オンフルールおよびパリ育ち。
「音楽界の異端児」「音楽界の変わり者」の異名で知られる。ドビュッシーやラヴェルに影響を与えた。
1866年5月17日、海運業を営むアルフレッド・サティ (Alfred Satie)、とその妻のジェーン(Jane Satie、英語発音音写ではジェイン)との子(長男)としてフランス第二帝政時のオンフルールに生まれる。
1870年、父は海運業を辞め、一家はパリに移住する。幼少期からエリックの家族はオンフルールとパリとの間を往き来していた。1872年、母が亡くなり、エリックはオンフルールにある生家で暮らす父方の祖父母に預けられた。それまでイギリス国教会の信者として育てられてきたエリックは、この時カトリックに改宗している。
パリ音楽院在学中、指導教授から才能が無いと否定され、1885年に2年半あまりで除籍になった。その間、1884年に処女作のピアノ小品『アレグロ(フランス語版)』を作曲した。そのほか、『オジーヴ(英語版)』、『ジムノペディ』、『グノシエンヌ』などを発表。
1887年からモンマルトルに居住し、1890年からコルト通り (Rue Cortot) 6番地に居住。モンマルトルのカフェ・コンセール『黒猫』に集う芸術家の1人となり、プーランク、ドビュッシー、さらにコクトーやピカソらと交流(のちにカフェ・コンセール『オーベルジュ・デュ・クル』に移る)。バレエ・リュスのために『パラード』を作曲。またカフェ・コンセールのためのいくつかの声楽曲を書く。よく知られる『ジュ・トゥ・ヴー』はこの時の作品。薔薇十字団と関係し、いくつかの小品を書く。同一音形を繰り返す手法を用いた『ヴェクサシオン』『家具の音楽』なども書いた。
なお『家具の音楽』というのは彼が自分の作品全体の傾向を称してもそう呼んだとされ、主として酒場で演奏活動をしていた彼にとって、客の邪魔にならない演奏・家具のように存在している音楽というのは重要な要素だった。そのことから彼は現在のイージーリスニングのルーツのような存在であるともいえる。また『官僚的なソナチネ』『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』『冷たい小品(英語版)』『梨の形をした3つの小品』『胎児の干物』『裸の子供たち』のように、作品に奇妙な題名をつけたことでも知られる。
1893年以降、画家シュザンヌ・ヴァラドンと近しくなる。
1898年からパリの3キロメートルほど南部近郊アルクイユに居住。フランス社会党及びフランス共産党にも党籍を置いていた(当初は社会党に入党していたが、共産党結党と同時に移籍)。
1919年になるとダダイズムのトリスタン・ツァラ等と知り合い、フランシス・ピカビア、アンドレ・ドラン、マルセル・デュシャン、マン・レイなどを紹介された。最初の出会い時にツァラからレディ・メイドを贈られた。ツァラとアンドレ・ブルトンとの紛争にもツァラ側に立って仲を取り持った。
アルコール乱用のために肝硬変を患っていたサティは、1925年7月1日、パリ14区の聖ジョゼフ病院(フランス語版)で亡くなった。
それまでの調性音楽のあり方が膨張していた時代に、彼は様々な西洋音楽の伝統に問題意識を持って作曲し続け、革新的な技法を盛り込んでいった。たとえば、若い頃に教会に入り浸っていた影響もあり、教会旋法を自作品に採り込んだのは、彼の業績の一つである。そこでは調性は放棄され、和声進行の伝統も無視され、並行音程・並行和音などの対位法における違反進行もが書かれた。
後にドビュッシーやラヴェルも、旋法を扱うことによって、既存の音楽にはなかった新しい雰囲気を醸し出すことに成功しているが、この大きな潮流は、サティに発するものである。
生涯サティへの敬意について公言し続けたラヴェルは、ドビュッシーこそが並行和音を多く用いた作曲家だと世間が見なしたことに不満を呈しており、その処女作『グロテスクなセレナード』において既にドビュッシーよりも自分が先に並行和音を駆使したと述べ、それがサティから影響を受けた技法であることにも触れている。
また、彼の音楽は厳密な調性からはずれた自由な作風のため、調号の表記も後に捨てられた。したがって、臨時記号は1音符ごとに有効なものとして振られることになった。拍子についても自由に書き、拍子記号・小節線・縦線・終止線も後に廃止された。調号を書かずとも、もしそこの音の中に調性があればそれが現実であり、拍子記号や小節線などを書かずとも、もしそこの音の中に拍子感があればそれが現実であるとみなしていたため、実際には、それらが書かれていないからといって、調性や拍子が必ずしも完全に存在しないわけではなかった。散文的に、拍節が気紛れに変動するような作品も多く存在し、調性とはほど遠い楽句や作品も多く生み出されている。これらは、どんな場合にも完全に放棄されたわけでなく、最晩年の『ノクターン』や『家具の音楽』のように、読譜上の便宜面からの配慮によって、拍子記号・調性記号・小節線を採用した作品がまれにある。
拍子のあり方についての新しい形は、特にストラヴィンスキーがそれを受け継ぎ、大きく発展させ、後のメシアンへと続くことになった革新の発端と見なされている。また、記譜法についての問題提起は、後の現代音楽における多くの試みの発端とされ、図形楽譜などにまでつながる潮流の源流になっている。
調性崩壊のひとつの現象として、トリスタン和音が西洋音楽史上の記念碑と見なされているが、それが依然として3度集積による和声だったのに対し、サティは3度集積でない自由で複雑な和音を彼の耳によって組み込んだ。これは、解決されないアッチャカトゥーラや3度集積によらない和音を書いたドメニコ・スカルラッティ以降はじめての和声的な革新とされている。この影響によって、印象主義からの音楽においては、自由な和声法による広い表現が探求されることになった。
また、音楽美学的見地においても彼は多くのあり方を導入したとされ、鑑賞するだけの芸術作品ではない音楽のあり方をも示した。『家具の音楽』に縮約されているように、ただそこにあるだけの音楽という新しいあり方は、ブライアン・イーノやジョン・ケージたちによる環境音楽に影響を与えた。また、『ヴェクサシオン』における840回の繰り返し・『古い金貨と古い鎧』第3曲結尾部における267回の繰り返し・『スポーツと気晴らし』第16曲「タンゴ」や映画『幕間』のための音楽における永遠の繰り返しは、スティーヴ・ライヒたちによるミニマル・ミュージックの先駆けとされている。
サティが始めた多くの革新は、過去の音楽や、他の民族音楽などの中に全くないものではなかったものの、ほとんどが彼独自のアイデアにもとづいたものであるため、現代音楽の祖として評価は高く、多くの作曲家がサティによる開眼を公言している。
最後の作品となったバレエ『本日休演』では、幕間に上映された映画『幕間』のための音楽も担当した。またその映画の中でフランシス・ピカビアと共にカメオ出演もしており、最晩年の姿を見ることができる。
作曲年代順に記載する。
翻訳書を含む。現状は翻訳書のみ。
ここでは、サティの創作活動に何らかの意味で強い影響を受けている作品について記載する。1つ目は、オリジナルからいくらか改変されてはいても、制作するに当たっての作家性の発露に留まっているもので、これを「カバー曲」および「リメイク作品」とした。2つ目は、オリジナルが持つ特徴をモチーフとして利用しているもので、これは「モチーフにした作品」とした。パロディ作品もここに分類する。3つ目は、オリジナルにインスパイアされた作品、つまり、サティの創作活動から受け取ったインスピレーションを全く異なる創作に活かした作品であり、「インスパイア作品」とした。
なお、現状では日本に偏向した内容になっている。
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"text": "エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(Éric Alfred Leslie Satie、フランス語: [eʁik sati]、1866年5月17日 - 1925年7月1日)は、フランスの作曲家。オンフルール生まれ、オンフルールおよびパリ育ち。",
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"text": "1866年5月17日、海運業を営むアルフレッド・サティ (Alfred Satie)、とその妻のジェーン(Jane Satie、英語発音音写ではジェイン)との子(長男)としてフランス第二帝政時のオンフルールに生まれる。",
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"text": "1870年、父は海運業を辞め、一家はパリに移住する。幼少期からエリックの家族はオンフルールとパリとの間を往き来していた。1872年、母が亡くなり、エリックはオンフルールにある生家で暮らす父方の祖父母に預けられた。それまでイギリス国教会の信者として育てられてきたエリックは、この時カトリックに改宗している。",
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"text": "パリ音楽院在学中、指導教授から才能が無いと否定され、1885年に2年半あまりで除籍になった。その間、1884年に処女作のピアノ小品『アレグロ(フランス語版)』を作曲した。そのほか、『オジーヴ(英語版)』、『ジムノペディ』、『グノシエンヌ』などを発表。",
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"text": "1887年からモンマルトルに居住し、1890年からコルト通り (Rue Cortot) 6番地に居住。モンマルトルのカフェ・コンセール『黒猫』に集う芸術家の1人となり、プーランク、ドビュッシー、さらにコクトーやピカソらと交流(のちにカフェ・コンセール『オーベルジュ・デュ・クル』に移る)。バレエ・リュスのために『パラード』を作曲。またカフェ・コンセールのためのいくつかの声楽曲を書く。よく知られる『ジュ・トゥ・ヴー』はこの時の作品。薔薇十字団と関係し、いくつかの小品を書く。同一音形を繰り返す手法を用いた『ヴェクサシオン』『家具の音楽』なども書いた。",
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"text": "なお『家具の音楽』というのは彼が自分の作品全体の傾向を称してもそう呼んだとされ、主として酒場で演奏活動をしていた彼にとって、客の邪魔にならない演奏・家具のように存在している音楽というのは重要な要素だった。そのことから彼は現在のイージーリスニングのルーツのような存在であるともいえる。また『官僚的なソナチネ』『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』『冷たい小品(英語版)』『梨の形をした3つの小品』『胎児の干物』『裸の子供たち』のように、作品に奇妙な題名をつけたことでも知られる。",
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"text": "1898年からパリの3キロメートルほど南部近郊アルクイユに居住。フランス社会党及びフランス共産党にも党籍を置いていた(当初は社会党に入党していたが、共産党結党と同時に移籍)。",
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"text": "それまでの調性音楽のあり方が膨張していた時代に、彼は様々な西洋音楽の伝統に問題意識を持って作曲し続け、革新的な技法を盛り込んでいった。たとえば、若い頃に教会に入り浸っていた影響もあり、教会旋法を自作品に採り込んだのは、彼の業績の一つである。そこでは調性は放棄され、和声進行の伝統も無視され、並行音程・並行和音などの対位法における違反進行もが書かれた。",
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"text": "生涯サティへの敬意について公言し続けたラヴェルは、ドビュッシーこそが並行和音を多く用いた作曲家だと世間が見なしたことに不満を呈しており、その処女作『グロテスクなセレナード』において既にドビュッシーよりも自分が先に並行和音を駆使したと述べ、それがサティから影響を受けた技法であることにも触れている。",
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"text": "拍子のあり方についての新しい形は、特にストラヴィンスキーがそれを受け継ぎ、大きく発展させ、後のメシアンへと続くことになった革新の発端と見なされている。また、記譜法についての問題提起は、後の現代音楽における多くの試みの発端とされ、図形楽譜などにまでつながる潮流の源流になっている。",
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"text": "調性崩壊のひとつの現象として、トリスタン和音が西洋音楽史上の記念碑と見なされているが、それが依然として3度集積による和声だったのに対し、サティは3度集積でない自由で複雑な和音を彼の耳によって組み込んだ。これは、解決されないアッチャカトゥーラや3度集積によらない和音を書いたドメニコ・スカルラッティ以降はじめての和声的な革新とされている。この影響によって、印象主義からの音楽においては、自由な和声法による広い表現が探求されることになった。",
"title": "作風"
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"text": "また、音楽美学的見地においても彼は多くのあり方を導入したとされ、鑑賞するだけの芸術作品ではない音楽のあり方をも示した。『家具の音楽』に縮約されているように、ただそこにあるだけの音楽という新しいあり方は、ブライアン・イーノやジョン・ケージたちによる環境音楽に影響を与えた。また、『ヴェクサシオン』における840回の繰り返し・『古い金貨と古い鎧』第3曲結尾部における267回の繰り返し・『スポーツと気晴らし』第16曲「タンゴ」や映画『幕間』のための音楽における永遠の繰り返しは、スティーヴ・ライヒたちによるミニマル・ミュージックの先駆けとされている。",
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"text": "サティが始めた多くの革新は、過去の音楽や、他の民族音楽などの中に全くないものではなかったものの、ほとんどが彼独自のアイデアにもとづいたものであるため、現代音楽の祖として評価は高く、多くの作曲家がサティによる開眼を公言している。",
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"text": "最後の作品となったバレエ『本日休演』では、幕間に上映された映画『幕間』のための音楽も担当した。またその映画の中でフランシス・ピカビアと共にカメオ出演もしており、最晩年の姿を見ることができる。",
"title": "作風"
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"text": "作曲年代順に記載する。",
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"text": "翻訳書を含む。現状は翻訳書のみ。",
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"text": "ここでは、サティの創作活動に何らかの意味で強い影響を受けている作品について記載する。1つ目は、オリジナルからいくらか改変されてはいても、制作するに当たっての作家性の発露に留まっているもので、これを「カバー曲」および「リメイク作品」とした。2つ目は、オリジナルが持つ特徴をモチーフとして利用しているもので、これは「モチーフにした作品」とした。パロディ作品もここに分類する。3つ目は、オリジナルにインスパイアされた作品、つまり、サティの創作活動から受け取ったインスピレーションを全く異なる創作に活かした作品であり、「インスパイア作品」とした。",
"title": "派生作品"
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"text": "なお、現状では日本に偏向した内容になっている。",
"title": "派生作品"
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エリック・アルフレッド・レスリ・サティは、フランスの作曲家。オンフルール生まれ、オンフルールおよびパリ育ち。 「音楽界の異端児」「音楽界の変わり者」の異名で知られる。ドビュッシーやラヴェルに影響を与えた。
|
{{出典の明記|date=2022年9月27日}}
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
| Name = エリック・サティ<br />{{lang|fr|Erik Satie}}
| Img = Ericsatie.jpg|250px
| Img_capt = 1920年({{年数|1866|05|17|1920|01|01}}-{{年数|1866|05|17|1920|12|31}}歳時)のポートレート
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| Background = classic
| Birth_name = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 -->
| Alias =
| Blood = <!-- 個人のみ -->
| School_background = [[パリ音楽院]]中退<br />[[スコラ・カントルム]]卒業
| Born = [[1866年]][[5月17日]]<br />{{FRA1852}} [[オンフルール]]
| Origin = {{FRA1870}} オンフルールと[[パリ]]
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1866|5|17|1925|7|1}}<br />{{FRA1870}} パリ、[[アルクイユ]]の[[共同墓地]]<ref name=Find-a-Grave>{{Cite web |title=Erik Satie |url=https://www.findagrave.com/memorial/4404/erik-satie |publisher=Jim Tipton |website=[[Find a Grave]] |language=en |accessdate=2022-09-27 }}</ref>
| Instrument = <!-- 個人のみ -->
| Genre = [[クラシック音楽]]<br />[[新古典主義音楽]]<br />[[ロマン派音楽]]
| Occupation = [[作曲家]]
| Years_active =
| Label =
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| Associated_acts =
| URL =
| Notable_instruments =
}}
{{Portal クラシック音楽}}
'''エリック・アルフレッド・レスリ・サティ'''({{Lang|fr|'''Éric Alfred Leslie Satie'''}}、{{IPA-fr|eʁik sati|lang}}、[[1866年]][[5月17日]] - [[1925年]][[7月1日]])は、[[フランス]]の[[作曲家]]。[[オンフルール]]生まれ、オンフルールおよび[[パリ]]育ち。
「音楽界の異端児」「音楽界の変わり者」の異名で知られる。[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]や[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]に影響を与えた。<!--ドビュッシーとの交友関係もよく知られる。-->
== 生涯 ==
[[ファイル:MaisonSatie.jpg|サムネイル|サティの生家。([[オンフルール]])]]
[[1866年]][[5月17日]]、海運業を営むアルフレッド・サティ ({{Lang|fr|Alfred Satie}})、とその妻の[[ジェーン]]({{Lang|fr|Jane Satie}}、英語発音[[Wikt:音写|音写]]ではジェイン)との子(長男)として[[フランス第二帝政]]時の[[オンフルール]]に生まれる。
[[1870年]]、父は海運業を辞め、一家は[[パリ]]に移住する。幼少期からエリックの家族はオンフルールとパリとの間を往き来していた。[[1872年]]、母が亡くなり、エリックはオンフルールにある生家で暮らす父方の祖父母に預けられた。それまで[[イギリス国教会]]の信者として育てられてきたエリックは、この時[[カトリック教会|カトリック]]に[[改宗]]している。
[[パリ音楽院]]在学中、指導教授から才能が無いと否定され、1885年に2年半あまりで除籍になった。その間、1884年に[[処女作]]のピアノ小品『{{仮リンク|アレグロ (サティの楽曲)|label=アレグロ|fr|Allegro (Satie)}}』を作曲した。そのほか、『{{仮リンク|オジーヴ (サティの楽曲)|label=オジーヴ|en|Ogives}}』、『[[ジムノペディ]]』、『[[グノシエンヌ]]』などを発表。
1887年から[[モンマルトル]]に居住し、1890年からコルト通り ([[:fr:Rue Cortot|Rue Cortot]]) 6番地に居住。モンマルトルの[[カフェ・コンセール]]『黒猫』に集う芸術家の1人となり、[[フランシス・プーランク|プーランク]]、[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]、さらに[[ジャン・コクトー|コクトー]]や[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]らと交流(のちにカフェ・コンセール『オーベルジュ・デュ・クル』に移る)。[[バレエ・リュス]]のために『[[パラード (バレエ)|パラード]]』を作曲。またカフェ・コンセールのためのいくつかの声楽曲を書く。よく知られる『[[ジュ・トゥ・ヴー]]』はこの時の作品。[[薔薇十字団]]と関係し、いくつかの小品を書く。同一音形を繰り返す手法を用いた『[[ヴェクサシオン]]』『[[家具の音楽]]』なども書いた。
なお『[[家具の音楽]]』というのは彼が自分の作品全体の傾向を称してもそう呼んだとされ、主として酒場で演奏活動をしていた彼にとって、客の邪魔にならない演奏・家具のように存在している音楽というのは重要な要素だった。そのことから彼は現在の[[イージーリスニング]]のルーツのような存在であるともいえる。また『[[官僚的なソナチネ]]』『[[犬のためのぶよぶよとした前奏曲]]』『{{仮リンク|冷たい小品|en|Pièces froides}}』『[[梨の形をした3つの小品]]』『[[胎児の干物]]』『[[ジムノペディ|裸の子供たち]]』のように、作品に奇妙な題名をつけたことでも知られる。
1893年以降、画家[[シュザンヌ・ヴァラドン]]と近しくなる。
1898年からパリの3キロメートルほど南部近郊[[アルクイユ]]に居住。[[フランス社会党]]及び[[フランス共産党]]にも党籍を置いていた(当初は社会党に入党していたが、共産党結党と同時に移籍)。
1919年になると[[ダダイズム]]の[[トリスタン・ツァラ]]等と知り合い、[[フランシス・ピカビア]]、[[アンドレ・ドラン]]、[[マルセル・デュシャン]]、[[マン・レイ]]などを紹介された。最初の出会い時にツァラから[[レディ・メイド#美術用語として|レディ・メイド]]を贈られた。ツァラと[[アンドレ・ブルトン]]との紛争にもツァラ側に立って仲を取り持った。
[[アルコール乱用]]のために[[肝硬変]]を患っていたサティは、[[1925年]][[7月1日]]、[[14区 (パリ)|パリ14区]]の{{仮リンク|聖ジョゼフ病院|fr|Hôpital Saint-Joseph (Paris)}}で亡くなった。
== 年表 ==
<!--※体言止めは濫用は辞めて下さい。妄りな略語も控えて下さい。-->
=== 生涯 ===
[[ファイル:MaisonSatie.jpg|thumb|160px|今では{{仮リンク|サティの家|fr|Maisons Satie}}<ref group="注">メゾン・サティ、フランス語:{{Lang|fr|Maisons Satie}}、英語:{{Lang|en|Satie House and Museum}}。</ref>と呼ばれている生家/[[オンフルール]]に所在し、一部が[[博物館]]になっている。]]
[[ファイル:Satie-lesprit.png|thumb|160px|1924年3月({{年数|1866|05|17|1924|03|01}}歳)に発表された[[自画像]]]]
* [[1866年]][[5月17日]] - [[フランス第二帝政]]時代に[[ノルマンディー]]は[[カルヴァドス県|カルヴァドス地方]]の[[港湾都市|港町]][[オンフルール]]で生まれる。[[聖公会]]で[[洗礼]]を受ける。
* [[1870年]] - 父アルフレッド・サティ ({{Lang|fr|Alfred Satie}}) が[[海運|海運業]]を辞め、一家は[[パリ]]に移住する。
* [[1872年]] - [[スコットランド人|スコットランド出身]]の母[[ジェーン]]({{Lang|fr|Jane Satie}}、英語発音[[Wikt:音写|音写]]ではジェイン)が死去。[[オンフルール]]に住む父方の祖父母に預けられ、[[カトリック教会|カトリック]]として再度洗礼を受ける。教会の[[パイプオルガン]]に魅せられて入り浸る。
* [[1874年]] - 祖父ジュール・サティがエリックにヴィーノのもとで音楽を学ばせる。
* [[1878年]] - 祖母ユラーリがオンフルールの浜辺で[[水死|溺死体]]で発見される。サティは父のいるパリへ再度移住する。
* [[1879年]] - [[パリ音楽院]]に入学。父アルフレッドがピアノ教師であったユージェニ・バルネシュと再婚する。
* [[1886年]] - 音楽院が退屈すぎるとして[[退学]]する。
* [[1887年]] - [[シャンソン]]酒場のピアノ弾きになる。当時{{年数|1866|05|17|1887|01|01}}-{{年数|1866|05|17|1887|12|31}}歳。
* [[1889年]] - [[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]で日本の[[歌謡]]に触れる。
* [[1890年]] - [[薔薇十字団]]の創始者である[[ジョセファン・ペラダン]]と出会う。
* [[1891年]] - 聖杯の薔薇十字団聖歌隊長に任命される。
* [[1893年]] - 画家[[シュザンヌ・ヴァラドン]]と交際を始め、彼女に300通を超える手紙を書く。しかし、6か月後に絶交している。
* [[1904年]] - [[スコラ・カントルム]]に入学。
* [[1905年]] - シュヴィヤール演奏会の会場で[[雨傘]]で[[決闘]]し、[[警察]]に[[留置]]される。当時{{年数|1866|05|17|1905|01|01}}-{{年数|1866|05|17|1905|12|31}}歳。
* [[1908年]] - スコラ・カントルムを卒業。パリ郊外[[アルクイユ]]の急進社会主義委員会に入党する。
* [[1914年]] - [[詩人]][[ジャン・コクトー]]と知り合う。
* [[1919年]] - パリで活動する[[ダダイスム]]の芸術家たちと交流し、自身もメンバーとなる。当時{{年数|1866|05|17|1919|01|01}}-{{年数|1866|05|17|1919|12|31}}歳。
* [[1925年]][[7月1日]] - [[アルコール乱用]]のために[[肝硬変]]を患っていたが、{{仮リンク|聖ジョゼフ病院|fr|Hôpital Saint-Joseph (Paris)}}にて{{年数|1866|05|17|1925|07|01}}歳で死去した。その後間もなくして[[アルクイユ]]の[[共同墓地]]{{Enlink|Cemetery}}{{R|Find-a-Grave}}に埋葬された。
=== 没後 ===
{{節スタブ|date=2022年9月28日|title=没後に起こった重要な関連事象。}}
* [[1992年]][[10月26日]] - {{仮リンク|サティの家|label=生家|fr|Maisons Satie}}の一部である[[13世紀]]建造の[[ファサード]]と屋根が[[歴史的記念物 (フランス)|歴史的記念物]]に登録される。
== 作風 ==
それまでの[[調性音楽]]のあり方が膨張していた時代に、彼は様々な[[西洋音楽]]の伝統に問題意識を持って作曲し続け、革新的な技法を盛り込んでいった。たとえば、若い頃に[[教会 (キリスト教)|教会]]に入り浸っていた影響もあり、[[教会旋法]]を自作品に採り込んだのは、彼の業績の一つである。そこでは[[調性]]は放棄され、和声進行の伝統も無視され、並行音程・並行和音などの[[対位法]]における違反進行もが書かれた。
後に[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]や[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]も、[[旋法]]を扱うことによって、既存の音楽にはなかった新しい雰囲気を醸し出すことに成功しているが、この大きな潮流は、サティに発するものである。
生涯サティへの敬意について公言し続けたラヴェルは、ドビュッシーこそが並行和音を多く用いた作曲家だと世間が見なしたことに不満を呈しており、その処女作『[[グロテスクなセレナード]]』において既にドビュッシーよりも自分が先に並行和音を駆使したと述べ、それがサティから影響を受けた技法であることにも触れている。
また、彼の音楽は厳密な[[調性]]からはずれた自由な作風のため、[[調号]]の表記も後に捨てられた。したがって、臨時記号は1音符ごとに有効なものとして振られることになった。[[拍子]]についても自由に書き、[[拍子記号]]・[[小節線]]・[[縦線]]・[[終止線]]も後に廃止された。[[調号]]を書かずとも、もしそこの音の中に調性があればそれが現実であり、[[拍子記号]]や小節線などを書かずとも、もしそこの音の中に拍子感があればそれが現実であるとみなしていたため、実際には、それらが書かれていないからといって、調性や拍子が必ずしも完全に存在しないわけではなかった。散文的に、拍節が気紛れに変動するような作品も多く存在し、調性とはほど遠い楽句や作品も多く生み出されている。これらは、どんな場合にも完全に放棄されたわけでなく、最晩年の『ノクターン』や『[[家具の音楽]]』のように、読譜上の便宜面からの配慮によって、拍子記号・調性記号・小節線を採用した作品がまれにある。
[[拍子]]のあり方についての新しい形は、特に[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]がそれを受け継ぎ、大きく発展させ、後の[[オリヴィエ・メシアン|メシアン]]へと続くことになった革新の発端と見なされている。また、[[記譜法]]についての問題提起は、後の[[現代音楽]]における多くの試みの発端とされ、[[図形楽譜]]などにまでつながる潮流の源流になっている。
[[調性]]崩壊のひとつの現象として、[[トリスタン和音]]が西洋音楽史上の記念碑と見なされているが、それが依然として3度集積による和声だったのに対し、サティは3度集積でない自由で複雑な和音を彼の耳によって組み込んだ。これは、解決されない[[アッチャカトゥーラ]]や3度集積によらない和音を書いた[[ドメニコ・スカルラッティ]]以降はじめての和声的な革新とされている。この影響によって、印象主義からの音楽においては、自由な和声法による広い表現が探求されることになった。
また、[[音楽美学]]的見地においても彼は多くのあり方を導入したとされ、鑑賞するだけの芸術作品ではない音楽のあり方をも示した。『[[家具の音楽]]』に縮約されているように、ただそこにあるだけの音楽という新しいあり方は、[[ブライアン・イーノ]]や[[ジョン・ケージ]]たちによる[[環境音楽]]に影響を与えた{{Sfnp|サティ|秋山|岩佐|2014|pp=302,304|loc=訳者あとがき}}<!--※欠けていた刊行年が違う場合は改訂を。以下同様。-->。また、『[[ヴェクサシオン]]』における840回の繰り返し・『[[古い金貨と古い鎧]]』第3曲結尾部における267回の繰り返し・『[[スポーツと気晴らし]]』第16曲「タンゴ」や映画『幕間』のための音楽における永遠の繰り返しは、[[スティーヴ・ライヒ]]たちによる[[ミニマル・ミュージック]]の先駆けとされている{{Sfnp|サティ|秋山|岩佐|2014|pp=303-304|loc=訳者あとがき}}。
サティが始めた多くの革新は、過去の音楽や、他の民族音楽などの中に全くないものではなかったものの、ほとんどが彼独自のアイデアにもとづいたものであるため、現代音楽の祖として評価は高く、多くの作曲家がサティによる開眼を公言している。
最後の作品となったバレエ『[[本日休演]]』では、幕間に上映された映画『幕間』のための音楽も担当した。またその映画の中で[[フランシス・ピカビア]]と共に[[カメオ出演]]もしており、最晩年の姿を見ることができる。
== 作品 ==
{{main|サティの楽曲一覧}}
=== 舞台作品 ===
*あやつり人形劇『ブラバンのジュヴィエーヴ』- 1899年
*喜歌劇『思春期』(別名「愛の芽生え」「いとしい奴」とも)
*劇付随音楽『[[星たちの息子]]』(フルート・ハープによる原曲は消失)- 1891年
*バレエ音楽『ユスピュ』- 1892年
*喜歌劇『メドゥーサの罠』- 1913年(脚本・作曲)
*バレエ音楽『[[パラード (バレエ)|パラード]]』- 1917年
*交響劇『ソクラテス』- 1920年
*グノーの歌劇『にわか医師』のためのレチタティーヴォ - 1923年
*パントマイム『びっくり箱』- 1929年(編曲)
*バレエ音楽『メルキュール』- 1924年
*バレエ音楽『[[本日休演]](ルラーシュ)』- 1924年
**バレエ幕間に上映された「映画『幕間』のための音楽」を含む
*「救いの旗」のための頌歌
*ナザレ人
*天国の英雄的な門への前奏曲
*夢見る魚
*サーカス劇『5つのしかめっ面』- 1914年
=== ピアノ曲 ===
作曲年代順に記載する。
*{{仮リンク|アレグロ (サティの楽曲)|label=アレグロ|fr|Allegro (Satie)}}
*ワルツ=バレエ - 1885年
*幻想ワルツ - 1885年
*4つのオジーヴ(尖弓形)- 1886年
*3つのサラバンド - 1887年
*3つの[[ジムノペディ]] - 1888年
*[[グノシエンヌ]](6曲)- 1890年
*[[薔薇十字団|薔薇十字教団]]の最初の思想 - 1891年
*「星たちの息子」への3つの前奏曲 - 1891年
*「パンセ」のライトモティーフ - 1891年
*バラ十字教団のファンファーレ - 1892年
*ナザレ人の前奏曲I、II - 1892年
*エジナールの前奏曲 - 1892年?
*祈り - 1893年から1895年(断片)
*[[ヴェクサシオン|ヴェクサシオン(嫌がらせ)]] - 1893年から1895年
*ゴシック舞曲(副題「我が魂の大いなる静けさと堅固な平安のための9日間の祈祷崇拝と聖歌隊的協賛」)- 1893年
*天国への英雄的な門への前奏曲 - 1894年
*{{仮リンク|冷たい小品|en|Pièces froides}} - 1897年
*ビックリ箱 - 1899年
*舞踏への小序曲 - 1900年
*[[貧しき者の夢想]](Robert Cabyによる校訂)- 1900年
*世俗的で豪華な唱句 - 1900年
*愛撫 - 1897年
*[[ジュ・トゥ・ヴー]] - 1900年
*夢見る魚 - 1901年
*{{仮リンク|金の粉 (サティの楽曲)|label=金の粉|en|Poudre d'or}} - 1902年
*梨の形をした3つの小品(4手連弾)- 1903年
*エンパイア劇場のプリマドンナ - 1904年
*壁紙的な前奏曲 - 1906年
*パッサカリア - 1906年
*12の小コラール - 1906年
*フーガ・ワルツ - 1906年
*新・冷たい小品 - 1906年?
*不愉快な概要(4手連弾)- 1908年から1912年
*2つの夜の夢 - 1911年
*馬の装具で(4手連弾)- 1911年
*[[犬のためのぶよぶよとした前奏曲|〈犬のための〉ぶよぶよした前奏曲]] - 1912年
*[[犬のためのぶよぶよとした本当の前奏曲|〈犬のための〉ぶよぶよした本当の前奏曲]] - 1912年
*[[自動記述法 (エリック・サティ)|自動記述法]] - 1913年
*[[胎児の干物|干からびた胎児]] - 1913年
*[[あらゆる意味にでっちあげられた数章]] - 1913年
*[[でぶっちょ木製人形へのスケッチとからかい]] - 1913年
*[[古い金貨と古い鎧]] - 1913年
*子供の音楽集 - 1913年
*新・子供の音楽集 - 1913年
*世紀的な時間と瞬間的な時間 - 1914年
*嫌らしい気取り屋の3つの高雅なワルツ - 1914年
*[[スポーツと気晴らし]](全21曲)- 1914年
*5つのしかめっ面 - 1915年。サティによるオーケストラ版は現存するが、サティのピアノ・スケッチは紛失。[[ダリウス・ミヨー|ミヨー]]、[[高橋アキ]]によるピアノ独奏用の編曲版がある。
*最後から2番目の思想 - 1915年
*[[官僚的なソナチネ]](全3楽章)- 1917年
*5つの夜想曲(3つの夜想曲 + 第4と第5の夜想曲)- 1919年
*パンダグリュエルの幼年時代の夢 - 1919年
*最初のメヌエット - 1920年
*[[風変わりな女]](管弦楽曲、または4手連弾)- 1920年
*シネマ - 1924年
*[[ピカデリー (サティの楽曲)|ピカデリー]]
#童話音楽の献立表
#絵に描いたような子供らしさ
#はた迷惑な微罪
*メドゥーサの罠
*踊る操り人形
*ラグ・タイム・パラード
*パラード
*組み立てられた3つの小品(4手連弾と小管弦楽団)
*ハンガリーの歌 - [[1889年]]の[[パリ万国博覧会_(1889年)|パリ万博]]で聞いたハンガリー音楽を採譜したもの。サティの作品ではない。
*「ヒザンティン帝国の王子」前奏曲(消失)
*クリスマス(消失)
*詩篇(消失)
*バレエのための物語(消失)
*アリーヌ・ポルカ
*2つの物
*バスクのメヌエット
*不思議なコント作家
*ピエロの夕食
*シャツ
*野蛮な歌
*皿の上の夢
*薔薇の指への夜明け
*若い令嬢のためにノルマンディの騎士によって催された祝宴
=== その他の器楽曲 ===
*[[右や左に見えるもの〜眼鏡無しで]](全3曲、ヴァイオリンとピアノ)- 1914年から1915年
*[[家具の音楽]] - 1920年
*いつも片目を開けて眠るよく肥った猿の王様を目覚めさせる為のファンファーレ(2トランペット)- 1921年
*2つの弦楽四重奏曲 - 作曲年不詳
*再発見された像の娯楽(オルガンとトランペット)
*シテール島への船出(ヴァイオリンとピアノ)
=== 宗教曲 ===
*貧者のミサ
*信仰のミサ(オルガン曲)(消失)
=== 歌曲 ===
*3つの歌曲
*花
*シャンソン
*やさしく
*こんにちは、ビキ
*エリゼ宮の晩餐会
*男寡
*魔女
*ピカドールは死んだ
*子供の殉教
*空気の幽霊
*オックスフォード帝国(歌詞散逸)
*歌詞のない3つの歌曲
*いいともショショット
*中世の歌
*3つの恋愛詩
*4つのささやかなメロディ
*潜水人形
*十代の合唱
*神の赤い信条
*ベストを着た肖像
*おーい! おーい!
*医者の家で
*戦いの前日
*ポールとヴィルジニー
*大きな島の王様
*ロクサーヌ(消失)
*乗り合いバス
*カリフォルニアの伝説
*[[ジュ・トゥ・ヴー]]
== 語録 ==
*「肝心なのは[[レジオン・ドヌール勲章]]を拒絶することではないんだよ。なんとしても[[勲章]]など受けるような仕事をしないでいることが必要なんだ」(ジャン・コクトーに対して)
*「皆自分たちのしたいことをちょっとやりすぎると、君は思わないかい」
== 著書 ==
翻訳書を含む。現状は翻訳書のみ。
* {{Cite book |和書 |author=エリック・サティ |editor=[[藤富保男]] 編訳 |date=1989-12-01 |title=エリック・サティ詩集 |publisher=[[思潮社]] |series= |ref={{SfnRef|サティ|藤富|1989}} }}{{Small|{{ISBN2|4-7837-2411-3}}、{{ISBN2|978-4-7837-2411-7}}、{{OCLC|672790706}} }}。
* {{Cite book |和書 |author=エリック・サティ |editor=[[秋山邦晴]]、[[岩佐鉄男]]編訳 |date=1992 |title=卵のように軽やかに─サティによるサティ |publisher=[[筑摩書房]] |series=筑摩叢書 |ref={{SfnRef|サティ|秋山|岩佐|1992}} }}
** {{Cite book |和書 |author=エリック・サティ |editor=秋山邦晴、岩佐鉄男編訳 |date=2014-11-10 |title=卵のように軽やかに─サティによるサティ |publisher=筑摩書房 |series=[[ちくま学芸文庫]] |ref={{SfnRef|サティ|秋山|岩佐|2014}} }}{{Small|{{ISBN2|4-480-09634-5}}、{{ISBN2|978-4-480-09634-0}}、{{OCLC|897088391}} }}。
* {{Cite book |和書 |author=エリック・サティ |editor={{仮リンク|オルネラ・ヴォルタ|en|Ornella Volta}} |translator=[[岩崎力]] |date=1997-02-01 |title=エリック・サティ文集 |publisher=[[白水社]] |ref={{SfnRef|サティ|ヴォルタ|岩崎|1997}} }}{{Small|{{ISBN2|4-560-03727-2}}、{{ISBN2|978-4-560-03727-0}}、{{OCLC|675397997}} }}。
== ギャラリー ==
<gallery caption="" perrow="5">
ファイル:Erik Satie 1900.jpeg|{{年数|1866|05|17|1884|01|01}}-{{年数|1866|05|17|1885|12|31}}歳のサティ/1884年か1885年に撮影<ref group="注">現物のファイル名の日付は間違っており、このフレームは1884年から1885年までの間に撮影されたものである。</ref>。
ファイル:Satie.jpg|[[サンティアゴ・ルシニョール]]による[[肖像画]]/1891年(サティ{{年数|1866|05|17|1891|01|01}}-{{年数|1866|05|17|1891|12|31}}歳)作の[[素描]]。
ファイル:Satie Logis, Santiago Rusinol, 1891.jpg|サンティアゴ・ルシニョールによる肖像画/1891年発表。
ファイル:El bohemi by Ramon Casas.jpg|[[ラモン・カザス]]による肖像画/1891年発表。
ファイル:Santiago_Rusinol_Portrait_of_Eric_Satie_at_the_harmonium.jpg|サンティアゴ・ルシニョールによる肖像画/1890年代の作と考えられる。
ファイル:Suzanne Valadon - Portrait d'Erik Satie.jpg|シュザンヌ・ヴァラドンによる肖像画/1893年(サティ{{年数|1866|05|17|1893|01|01}}-{{年数|1866|05|17|1893|12|31}}歳)発表。
ファイル:Satie_1898.jpg|{{年数|1866|05|17|1898|01|01}}-{{年数|1866|05|17|1898|12|31}}歳のサティ/1898年撮影。
ファイル:Erik_Satie_en_1909.PNG|{{年数|1866|05|17|1909|01|01}}-{{年数|1866|05|17|1909|12|31}}歳のサティ/1909年撮影。
ファイル:Bustoerik.jpg|1913年({{年数|1866|05|17|1913|01|01}}-{{年数|1866|05|17|1913|12|31}}歳時)発表の[[自画像]]
ファイル:Satie_Erik_Buste1913_par_Khanon.jpg|同じく1913年発表の自画像
ファイル:Satie_Cropped.jpg|{{年数|1866|05|17|1919|01|01}}-{{年数|1866|05|17|1919|12|31}}歳前後のサティ/1919年撮影。
ファイル:Clair & Satie, Relache1924.jpg|若き[[映画監督]][[ルネ・クレール]]({{年数|1898|11|11|1924|11|01}}-{{年数|1898|11|11|1924|11|30}}歳)と『幕間』の撮影に取り組む。サティ{{年数|1866|05|17|1924|11|01}}歳、1924年11月の[[スナップ写真|キャンディッド写真]]。
ファイル:Tombe satie.jpg|サティの墓
</gallery>
== 派生作品 ==
ここでは、サティの創作活動に何らかの意味で強い影響を受けている作品について記載する。1つ目は、オリジナルからいくらか改変されてはいても、[[制作]]するに当たっての[[作家]]性の発露に留まっているもので、これを「[[カバー]]曲」および「リメイク<!--※項目「リメイク」は最狭義(映画限定)しか解説されていないのでリンクを張れません。-->作品」とした。2つ目は、オリジナルが持つ特徴を[[話題|モチーフ]]として利用しているもので、これは「モチーフにした作品」とした。[[パロディ]]作品もここに分類する。3つ目は、オリジナルに[[インスパイア]]された作品、つまり、サティの創作活動から受け取ったインスピレーションを全く異なる[[創作]]に活かした作品であり、「インスパイア作品」とした。
なお、現状では日本に偏向した内容になっている。
* [[小説]]:[[新井満]]『ヴェクサシオン』 - 1987年の作。モチーフにした作品。
* [[楽曲]]:[[Cocco]]「SATIE」 - [[アルバム]]『[[クムイウタ]]』(1998年リリース)所収の曲。モチーフにした作品。
* 楽曲:[[ALI PROJECT]]「JE TE VEUX (Erik Satie)」 - アルバム『[[神々の黄昏 (ALI PROJECTのアルバム)|神々の黄昏]]』(2005年リリース)に所収の曲。カバー曲。
* 楽曲:[[藍坊主]]「ジムノペディック」 - アルバム『[[ハナミドリ]]』(2006年リリース)に所収の楽曲。サティの『[[ジムノペディ]]』にインスパイアされて作られた。
** [[ミュージック・ビデオ]]:{{Cite video |people=藍坊主 |date=2019-10-09 |title=藍坊主「ジムノペディック」MV |url=https://www.youtube.com/watch?v=mbz2hLLVcps |medium=[[動画共有サービス]] |publisher=[[YouTube]] |time= |accessdate=2022-09-27 }}視聴時間 05分20秒。
* 小説([[ライトノベル]]):[[みかづき紅月]]『ぶよぶよカルテット』 - 2008年刊行。モチーフにした作品。
* 小説:[[森絵都]]『アーモンド入りチョコレートのワルツ』 - 短編集。2013年刊行。サティの楽曲『アーモンド入りチョコレートのワルツ』をモチーフにした作品。
* 楽曲:「サーフサイド・サティ」 - [[ゲーム]]『[[太鼓の達人]]』の課題曲。カバー曲。初めて収録されたのは『[[太鼓の達人#AC旧筐体|太鼓の達人 AC9]]』(2006年12月20日稼働)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|section=1|date=2022-09-27}}
{{ページ番号|section=1|date=2022-09-27}}<!--※推奨されている出典の表示の例:{{Sfn|||p=ページ番号}}-->
* <!--Volta-->{{Cite book |和書 |author={{仮リンク|オルネラ・ヴォルタ|en|Ornella Volta}}編著 |translator=[[大谷千正]] |date=1994-12-25 |title=サティとコクトー ─理解の誤解 |publisher=[[新評論]] |ref={{SfnRef|ヴォルタ|大谷|1994}} }}{{Small|{{ISBN2|4-7948-0236-6}}、{{ISBN2|978-4-7948-0236-1}}、{{OCLC|674703949}} }}。
* <!--あきやま-->{{Cite book |和書 |author=[[秋山邦晴]] |date=1990-09 |title=エリック・サティ覚え書 |url=http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=221 |edition=初版 |publisher=[[青土社]] |ref={{SfnRef|秋山|1990}} }}{{Small|{{ISBN2|4-7917-5069-1}}、{{ISBN2|978-4-7917-5069-6}}、{{OCLC|673602640}} }}。
** {{Cite book |和書 |author=秋山邦晴 |date=2016-05-20 |title=エリック・サティ覚え書 |edition=新装版 |publisher=青土社 |ref={{SfnRef|秋山|2016}} }}{{Small|{{ISBN2|4-7917-6925-2}}、{{ISBN2|978-4-7917-6925-4}}、{{OCLC|1006960652}} }}。
== 関連文献 ==
* <!--Barbier-->{{Cite book |和書 |author=[[ジャン=ジョエル・バルビエ]] |translator=相良憲昭 |date=1993-04-01 |title=サティとピアノで |publisher=[[リブロポート]] |ref={{SfnRef||1993}} }}{{Small|{{ISBN2|4845707993}}、{{ISBN2|978-4845707997}}、{{OCLC|674338448}} }}。
* <!--Cocteau-->{{Cite book |和書 |author=[[ジャン・コクトー]] |translator=[[坂口安吾]]、[[佐藤朔]] |date=1976 |origdate=1931-05-01 |title=エリック・サティ |url=https://ango-museum.jp/work-detail/?w_cd=0432 |publisher=深夜叢書社 |series=[[深夜叢書]] |ref={{SfnRef|コクトー|坂口|佐藤|1976}} }}
** {{Cite book |和書 |author=ジャン・コクトー |translator=坂口安吾、佐藤朔 |date=1991-01-01 |title=エリック・サティ |edition=新装版 |publisher=深夜叢書社 |series[深夜叢書 |ref={{SfnRef|コクトー|坂口|佐藤|1991}} }}{{Small|{{ASIN|B007MKV41U}} }}。
* <!--Jankélévitch-->{{Cite book |和書 |author=[[ウラジミール・ジャンケレヴィッチ|ヴラディミール・ジャンケレヴィッチ]] |translator=千葉文夫、松浪未知世、川竹英克 |date=1986-03 |title=夜の音楽 ショパン・フォーレ・サティ ロマン派から現代へ |publisher=シンフォニア |ref={{SfnRef|ジャンケレヴィッチ|千葉ほか|1986}} }}{{Small|{{NDLBibID|000010031622}}、{{全国書誌番号|21556333}} }}。
* <!--Rey-->{{Cite book |和書 |author={{仮リンク|アンヌ・レエ|en|Anne Rey}} |translator=[[村松潔]] |date=1985 |title=エリック・サティ |publisher=[[白水社]] |series=[[白水Uブックス]] |ref={{SfnRef|レエ|村松|1985}} }}
** {{Cite book |和書 |author=アンヌ・レエ |translator=村松潔 |date=2004-06-01 |title=エリック・サティ |publisher=白水社 |series=白水Uブックス |ref={{SfnRef|レエ|村松|2004}} }}{{Small|{{ISBN2|4-560-07371-6}}、{{ISBN2|978-4-560-07371-1}}、{{OCLC|673724804}} }}。
* <!--Volta-->{{Cite book |和書 |author1={{仮リンク|オルネラ・ヴォルタ|en|Ornella Volta}} |author2=[[山口昌男]] |translator=[[椋田直子]] |date=1987 |title=サティ─イメージ博物館 |publisher=[[音楽之友社]] |ref={{SfnRef|ヴォルタ|椋田|1987}} }}
** {{Cite book |和書 |author1=オルネラ・ヴォルタ |author2=山口昌男 |translator=椋田直子 |date=1998-12-10 |title=サティ─イメージ博物館 |edition=新装版 |publisher=音楽之友社 |ref={{SfnRef|ヴォルタ|山口|椋田|1998}} }}{{Small|{{ISBN2|4-276-00530-2}}、{{ISBN2|978-4-276-00530-3}}、{{OCLC|672787982}} }}。
* {{Cite book |和書 |author=オルネラ ヴォルタ編著 |translator=田村安佐子、[[有田英也]] |date=1993-02-01 |title=書簡から見るサティ |publisher=中央公論社(現・[[中央公論新社]])|ref={{SfnRef|ヴォルタ|田村|有田|1993}} }}{{Small|{{ISBN2|4120021866}}、{{ISBN2|978-4120021862}}、{{OCLC|675541786}} }}。
* {{Cite book |和書 |author=オルネラ・ヴォルタ |translator=昼間賢 |date=2004-05 |title=エリック・サティの郊外 |publisher=[[早美出版社]] |ref={{SfnRef|ヴォルタ|昼間|2004}} }}{{Small|{{ISBN2|4-86042-018-7}}、{{ISBN2|978-4-86042-018-5}}、{{OCLC|674138808}} }}。
* <!--しまだ-->{{Cite book |和書 |author=島田璃里 |date=1991-11 |title=サティ弾きの安息日 |publisher=[[沖積舎]] |ref={{SfnRef|島田|1992}} }}{{Small|{{ISBN2|4-8060-4027-4}}、{{ISBN2|978-4-8060-4027-9}} }}。
** {{Cite book |和書 |author=島田璃里 |date=2003-05-01 |title=サティ弾きの休日 |publisher=時事通信社 |series= |ref={{SfnRef|島田|2003}} }}{{Small|{{ISBN2|4-7887-0271-1}}、{{ISBN2|978-4-7887-0271-4}}、{{OCLC|675571947}} }}。
* <!--なかじま-->{{Cite book |和書 |author=中島晴子 |date=1977-12-01 |title=睡れる梨へのフーガ―エリック・サティ論 |publisher=深夜叢書社 |series=今日の音楽 1 |ref={{SfnRef|中島|1977}} }}{{Small|{{ASIN|B000J8LH7S}} }}。
<!--※以下は法人など。-->
* <!--せいどしゃ-->{{Cite book |和書 |date=1981-03 |title=サティ―音楽の手帖 |publisher=[[青土社]] |ref={{SfnRef|サティ―音楽の手帖|1981}} }}{{Small|{{ASIN|B000J7TBP4}}、{{全国書誌番号|82007884}} }}。
* {{Cite book |和書 |author1=[[小沼純一]] |author2=[[坂本龍一]] |author3=[[高橋アキ]] |author4=[[谷川俊太郎]] |author5=[[ヤマザキマリ]] |others=[[小沼純一]] 責任編集 |date=2016-01 |title=[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 2016年1月臨時増刊号 総特集◎エリック・サティの世界 |url=http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=2185 |publisher=[[青土社]] |ref={{SfnRef|ユリイカ 2016年1月臨時増刊号}} }}
== 関連項目 ==
* {{仮リンク|サティの家|fr|Maisons Satie}} - サティの生家。
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Erik Satie}}
* {{IMSLP|id=Satie%2C_Erik_Alfred_Leslie|cname=エリック・サティ}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:さてい えりつく}}
[[Category:フランスの作曲家]]
[[Category:ロマン派の作曲家]]
[[Category:近現代の作曲家]]
[[Category:新古典主義の作曲家]]
[[Category:スコットランド系フランス人]]
[[Category:フランス共産党の人物]]
[[Category:薔薇十字団]]
[[Category:オンフルール出身の人物]]
[[Category:1866年生]]
[[Category:1925年没]]
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寺院
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寺院(じいん、梵、巴: विहार vihāra)は、仏像が祀られ、仏教の出家者が起居し、修行を行う施設である。寺(てら)、仏閣(ぶっかく)ともいう。
キリスト教や神道などを除く諸宗教の教会・神殿を指す語としても広く用いられている(ごく稀に神社にも用いられることがある)。
「寺」という漢字は、本来、中国漢代においては、外国の使節を接待するための役所であったが、後漢の明帝の時にインドから訪れた2人の僧侶を鴻臚寺に泊まらせ、その後、この僧侶達のために白馬寺を建てさせ、住まわせたことが、中国仏教寺院の始まりである。
寺院の建造物は、礼拝(らいはい)の対象を祀る「堂塔」と、僧衆が居住する「僧坊」とに区分される。
「堂塔」は、釈迦もしくは仏陀の墓を指すものであって、祖形は土饅頭型であったが、暑さを避けるために傘を差し掛けたものが定着して、中国などで堂塔となった。日本にも中国様式が入ってきて、三重塔・五重塔・七重塔などが立てられ、土饅頭の痕跡を残した多宝塔などが出現する。日本庭園に十一重や十三重の石塔などの多層塔を建てているが、これも同意のものである。
「僧坊」は、インドではヴィハーラと名づけられて、僧侶が宿泊する場所であり、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ、jetavana-vihāra)のように釈迦在世の時代から寄進された土地を指したが、次第に僧坊が建設されたり、石窟に住んだりした。中国に入ると僧坊が建設されることが多くなり、堂塔が併設されたので、寺院というと、堂塔と僧坊が同所にあることが普通となる。
最初期の出家者の一時的定住地はāvāsa(住処)またはārāma(園、おん)と呼ばれた。都市郊外の土地が僧伽に寄進されたものを僧伽藍摩(そうぎゃらんま、saṃghārāma)・僧伽藍、略して伽藍(がらん)といわれた。出家者の定住化に伴って僧院が形成された。精舎(しょうじゃ、vihāra)・平覆屋・殿楼・楼房・窟院の5種がある。精舎や窟院では広間と房室を中心として諸施設が整備された。
信仰の対象としての「仏塔」は、はじめ在家信者によって護持されたが、起塔供養の流行に伴って僧院中に建設され、塔を礼拝の対象とする支提堂(しだいどう、祠堂のこと)と支提窟が造られた。やがて塔の崇拝は仏像の崇拝に代わり、中国・日本の金堂(こんどう)の原型となった。
「寺(じ)」は、「役所・官舎」の意(前述書)。西域僧が中国に仏教を伝えた時、はじめ鴻臚寺(こうろじ)に滞在し、のちに白馬寺(はくばじ)を建てて住まわせた。以後、宿泊所に因んで僧の住処を「寺」と呼ぶようになった。「院」は、寺中の別舎を指している。
日本語の「寺」の訓読みである「てら」というのは、パーリ語のthera(長老)の音写であるともいわれるが明らかではない。
中国や日本の寺院では、寺院の名称に山号を加えることがある(「比叡山延暦寺」など)。詳しくは記事「山号」を参照のこと。
各地の寺院は、寺院近在を中心とした檀家と呼ばれる信者を抱え、墓地を保有・管理しているものが多い(檀那寺)。これら小規模な寺院は、神社と異なり檀家以外には門を閉ざしている場合が一般的である。これは他国には見られない日本独特の形態であり、神道が「死」を忌むという観念(穢れ)の違いから一種の棲み分けが進んだ結果である。葬式仏教、日本の仏教も参照。
一方、近畿地方の大阪府や奈良県、京都府などにある著名な寺院は、信仰や観光の対象として広範囲に参拝客を集める。
長い神仏習合の影響により神宮寺や、仏教の仏も祀る(正確には同一視、本地仏)とされる権現(熊野権現・山王権現など)の存在もあって祈願対象としての社寺の境は極めて曖昧である。神社仏閣などということもある。
寺を持たずに辻説法や托鉢だけで活動する僧侶もいる。
寺院も神社建築と同様、その多くは日本古来の木造建築である。しかし現代では、建築基準法や消防法の規定上、法定の規模を超える建物は耐火建築とすることが義務化されており、昔のように大きな建物を木造とすることができない。そのため、大規模な寺院建造物には鉄筋コンクリート造が増えてきている。また、ビル形式の寺院や近代的モダン寺院も出現するなど概観のデザインも多様化しており、一目では仏教寺院と認識できないものも少なくない。また、寺院の伽藍配置や建物の用途、名称は、神社のように統一されておらず、宗派や各時代によって異なっている。
その他、寺院の規模により
タイ、ラオス、カンボジアの寺院については、ワット (宗教施設)を参照。
チベット仏教の寺院についてはダツァンを参照。
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"text": "各地の寺院は、寺院近在を中心とした檀家と呼ばれる信者を抱え、墓地を保有・管理しているものが多い(檀那寺)。これら小規模な寺院は、神社と異なり檀家以外には門を閉ざしている場合が一般的である。これは他国には見られない日本独特の形態であり、神道が「死」を忌むという観念(穢れ)の違いから一種の棲み分けが進んだ結果である。葬式仏教、日本の仏教も参照。",
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"text": "長い神仏習合の影響により神宮寺や、仏教の仏も祀る(正確には同一視、本地仏)とされる権現(熊野権現・山王権現など)の存在もあって祈願対象としての社寺の境は極めて曖昧である。神社仏閣などということもある。",
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"text": "寺院も神社建築と同様、その多くは日本古来の木造建築である。しかし現代では、建築基準法や消防法の規定上、法定の規模を超える建物は耐火建築とすることが義務化されており、昔のように大きな建物を木造とすることができない。そのため、大規模な寺院建造物には鉄筋コンクリート造が増えてきている。また、ビル形式の寺院や近代的モダン寺院も出現するなど概観のデザインも多様化しており、一目では仏教寺院と認識できないものも少なくない。また、寺院の伽藍配置や建物の用途、名称は、神社のように統一されておらず、宗派や各時代によって異なっている。",
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"text": "チベット仏教の寺院についてはダツァンを参照。",
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寺院は、仏像が祀られ、仏教の出家者が起居し、修行を行う施設である。寺(てら)、仏閣(ぶっかく)ともいう。 キリスト教や神道などを除く諸宗教の教会・神殿を指す語としても広く用いられている(ごく稀に神社にも用いられることがある)。
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{{インド系文字}}
[[file:Swastika solarsymbol.svg|thumb|[[日本]]の寺院の[[地図記号]]の[[卍]]]]
'''寺院'''(じいん、[[サンスクリット|梵]]、{{Lang-pi-short|विहार }}{{Unicode|vihāra}})は、[[仏像]]が祀られ、[[仏教]]の[[出家]]者が起居し、[[修行]]を行う[[施設]]である{{refnest|name="百科事典マイペディア"|[https://kotobank.jp/word/%E5%AF%BA%E9%99%A2-71786 「寺院」 - 百科事典マイペディア]}}。'''寺'''(てら)、'''仏閣'''(ぶっかく)ともいう<ref group="注"> 古刹、名刹のように「[[wikt:刹|刹]]」(さつ)が使われることもある。</ref>。
[[キリスト教]]や[[神道]]などを除く諸[[宗教]]の[[教会]]・[[神殿]]を指す語としても広く用いられている(ごく稀に[[神社]]にも用いられることがある)。
== 概要 ==
「寺」という[[漢字]]は、本来、中国[[漢]]代においては、外国の使節を接待するための役所であったが<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=仏教早わかり事典|year=1997年|publisher=日本文芸社|page=92|author=藤井正雄}}</ref>、[[後漢]]の[[明帝 (漢)|明帝]]の時にインドから訪れた2人の僧侶を[[鴻臚寺]]に泊まらせ、その後、この僧侶達のために[[白馬寺 (洛陽)|白馬寺]]を建てさせ、住まわせたことが、中国仏教寺院の始まりである<ref name=":0" />。
寺院の建造物は、礼拝(らいはい)の対象を祀る「[[堂塔]]」と、僧衆が居住する「[[僧坊]]」とに区分される。
「堂塔」は、[[釈迦]]もしくは[[仏陀]]の墓を指すものであって、祖形は土饅頭型であったが、暑さを避けるために傘を差し掛けたものが定着して、中国などで堂塔となった。日本にも中国様式が入ってきて、三重塔・五重塔・七重塔などが立てられ、土饅頭の痕跡を残した[[多宝塔]]などが出現する。[[日本庭園]]に十一重や十三重の石塔などの多層塔を建てているが、これも同意のものである。
「僧坊」は、[[インド]]ではヴィハーラと名づけられて、[[僧侶]]が宿泊する場所であり、[[祇園精舎]](ぎおんしょうじゃ、{{Unicode|jetavana-vihāra}})のように釈迦在世の時代から寄進された土地を指したが、次第に[[僧坊]]が建設されたり、[[石窟]]に住んだりした。中国に入ると僧坊が建設されることが多くなり、堂塔が併設されたので、寺院というと、堂塔と僧坊が同所にあることが普通となる。
最初期の[[出家者]]の一時的定住地は{{Unicode|āvāsa}}(住処)または{{Unicode|ārāma}}(園、おん)と呼ばれた。都市郊外の土地が僧伽に寄進されたものを僧伽藍摩(そうぎゃらんま、{{Unicode|saṃghārāma}})・僧伽藍、略して[[伽藍]](がらん)といわれた。出家者の定住化に伴って[[僧院]]が形成された。[[精舎]](しょうじゃ、{{Unicode|vihāra}})・平覆屋・殿楼・楼房・窟院の5種がある。精舎や窟院では広間と房室を中心として諸施設が整備された。
信仰の対象としての「仏塔」は、はじめ[[在家|在家信者]]によって護持されたが、起塔供養の流行に伴って僧院中に建設され、塔を礼拝の対象とする支提堂(しだいどう、祠堂のこと)と支提窟が造られた。やがて塔の崇拝は仏像の崇拝に代わり、中国・日本の金堂(こんどう)の原型となった。
「'''寺'''(じ)」は、「役所・官舎」の意(前述書)。西域僧が中国に仏教を伝えた時、はじめ鴻臚寺(こうろじ)に滞在し、のちに白馬寺(はくばじ)を建てて住まわせた。以後、宿泊所に因んで[[僧]]の住処を「寺」と呼ぶようになった。「'''院'''」は、寺中の別舎を指している。
[[日本語]]の「寺」の[[訓読み]]である「'''てら'''」というのは、[[パーリ語]]の{{Unicode|thera}}(長老)の音写であるともいわれるが明らかではない<ref>{{Cite book|和書
|author= [[多屋頼俊]]
|authorlink=
|editor= [[横超慧日]]、[[舟橋一哉]]
|title= 仏教学辞典
|edition= 新版
|year= 1995
|publisher= [[法藏館]]
|isbn= 4-8318-7009-9
|pages= 181
}}</ref>。
<!-- パーリ語のtheraが直接に日本語に影響したと考えられないとする説もあるが、[[奈良時代]]には多くのインド僧が日本に入っていることや、インドの言語が日本語に多分に影響を残していることを考えると、この説がもっとも妥当であると考えられる{{要出典|date= ~~~~~}}。 -->
中国や日本の寺院では、寺院の名称に山号を加えることがある(「[[比叡山]][[延暦寺]]」など)。詳しくは記事「[[山号]]」を参照のこと。
== 日本の寺院 ==
=== 概要 ===
各地の寺院は、寺院近在を中心とした[[檀家]]と呼ばれる信者を抱え、[[墓地]]を保有・管理しているものが多い([[菩提寺|檀那寺]])。これら小規模な寺院は、[[神社]]と異なり檀家以外には門を閉ざしている場合が一般的である。これは他国には見られない日本独特の形態であり、[[神道]]が「死」を忌むという観念([[穢れ]])の違いから一種の棲み分けが進んだ結果である。[[葬式仏教]]、[[日本の仏教]]も参照。
一方、[[近畿地方]]の[[大阪府]]や[[奈良県]]、[[京都府]]などにある著名な寺院は、信仰や観光の対象として広範囲に参拝客を集める。
長い'''[[神仏習合]]'''の影響により[[神宮寺]]や、仏教の仏も祀る(正確には同一視、[[本地仏]])とされる[[権現]]([[熊野権現]]・[[山王権現]]など)の存在もあって[[願掛け|祈願]]対象としての[[寺社|社寺]]の境は極めて曖昧である。神社仏閣などということもある。
寺を持たずに[[辻説法]]や[[托鉢]]だけで活動する僧侶もいる<ref>{{Cite web|和書|title=佛國寺の歴史・概要 |url=https://www.ayasi-daibutsu.jp/about/ |website=www.ayasi-daibutsu.jp |access-date=2022-12-21}}</ref>。
=== 寺院建築 ===
[[File:Karakuichiranzu(hokoji).jpg|thumb|240px|かつて京都に存在し、木造建築として最大規模を誇っていた[[方広寺]]大仏殿([[京の大仏]])。 [[寛政]]10年 (1798年) に落雷による火災のため焼失した。(「花洛一覧図」[[京都府立京都学・歴彩館]]デジタルアーカイブ 一部改変)]]
<!-- {{main|寺院建築}} -->
寺院も[[神社建築]]と同様、その多くは日本古来の木造建築である。しかし現代では、[[建築基準法]]や[[消防法]]の規定上、法定の規模を超える建物は耐火建築とすることが義務化されており、昔のように大きな建物を木造とすることができない。そのため、大規模な寺院建造物には[[鉄筋コンクリート造]]が増えてきている。また、ビル形式の寺院や近代的モダン寺院も出現するなど概観のデザインも多様化しており、一目では仏教寺院と認識できないものも少なくない。また、寺院の伽藍配置や建物の用途、名称は、[[神社]]のように統一されておらず、[[宗派]]や各時代によって異なっている。
=== 代表的な建築様式 ===
* [[和様建築|和様]](わよう) - 代表例は[[東大寺]]法華堂・[[唐招提寺]]金堂、[[平等院]]鳳凰堂など
* [[禅宗様]](ぜんしゅうよう) - 代表例は[[南禅寺]]三門、[[功山寺]]仏殿など
* [[大仏様]](だいぶつよう) - 代表例は[[東大寺]]南大門、[[浄土寺 (小野市)|浄土寺]]浄土堂など
* 新和様(しんわよう) - 代表例は[[長弓寺]]本堂など
* 折衷様(せっちゅうよう) - 代表例は[[観心寺]]金堂、[[鶴林寺 (加古川市)|鶴林寺]]本堂、[[明王院 (福山市)|明王院]]本堂など
* [[寝殿造]](しんでんづくり) - 代表例は[[毛越寺]]の庭園など
* [[書院造]](しょいんづくり) - 代表例は[[園城寺]]の勧学院や光浄院など
; 寺院の各施設
[[画像:Plan of Zuiryuji.jpg|thumb|伽藍配置([[瑞龍寺 (高岡市)|瑞龍寺]])<br>A:総門 B:山門 C:回廊 D:[[仏殿]] E:法堂 F:[[禅堂]] G:鐘楼 H:大庫裏]]
: 禅宗寺院では下の七施設を基本要素とし、いわゆる七堂[[伽藍]]と称する。
:* [[山門]](さんもん)
:* [[本堂]]・[[仏殿]](ほんどう・ぶつでん)- 本尊を祀る。
:* [[法堂]]・[[講堂]](はっとう・こうどう)- 信者や雲水に説法・法話を行う施設
:* [[僧堂]]・禅堂 - 雲水が起居し、[[坐禅]]修行を行う。
:* [[庫裏|庫裏・庫裡]]・庫院(くり・くいん)- 寺の厨房である。事務所や住職の住居を兼ねる場合もある。
:* [[東司]](とうす)- [[便所|御手洗い]]のこと。
:* 浴室
その他、寺院の規模により
* [[方丈]](ほうじょう)- [[住職]]の居所。
* [[参道]](さんどう)
* [[南大門]](なんだいもん)
* [[中門]](ちゅうもん)
* [[観音堂]](かんのんどう)
* [[阿弥陀堂]](あみだどう)
* [[開山堂]](かいざんどう)
* 灌頂堂(かんじょうどう)
* [[常行堂]](じょうぎょうどう)
* [[経蔵 (建築)|経蔵]](きょうぞう)- [[経典]]などの書庫。
* [[鐘楼]](しょうろう)
* [[回廊]](かいろう)
* 食堂(じきどう)
* [[僧房]]・[[宿坊]](そうぼう・しゅくぼう)
* [[塔頭]](たっちゅう)
* [[塔#多重塔|多重塔]](たじゅうとう)
* [[多宝塔]](たほうとう)
; その他の付属施設
:* [[境内]] -([[枯山水]]などの[[庭園]]・[[公園]]など)
:* [[自然崇拝物]] -([[古樹]]・[[古木]]などの植物、湧水、山など)
:* [[石碑]]・[[石造]] -([[記念碑]]・[[顕彰碑]]など)
:* [[門前町]]
:* [[墓地]](ぼち)
:* [[霊場]](れいえん)
== アジアの寺院 ==
[[タイ王国|タイ]]、[[ラオス]]、[[カンボジア]]の寺院については、'''[[ワット (宗教施設)]]を参照。'''
[[チベット仏教]]の寺院については'''[[ダツァン]]を参照。'''
== 仏教以外の宗教の寺院 ==
* [[神道]]の寺院 - '''[[神社]]'''を参照。
* [[道教]]の寺院 - '''[[道観]]'''を参照。
* [[ヒンドゥー教]]の寺院 - マンディル(mandir)と呼ばれる。
* [[ユダヤ教]]の寺院 - '''[[シナゴーグ]]'''を参照。
** [[エルサレム神殿]]
* [[キリスト教]]の寺院 - '''[[聖堂の一覧 (キリスト教)|聖堂]]'''を参照。
** [[修道院]]
** [[教会]]
*** [[サン・ピエトロ大聖堂|サン・ピエトロ寺院]]や[[聖ワシリイ大聖堂]](聖ワシーリー寺院)は、日本では「…寺院」と称されることもある。
* [[イスラム教]]の寺院 - '''[[モスク]]'''を参照。
** [[マドラサ]]
** [[カアバ神殿]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Temples in Japan|日本の寺院}}
{{Wiktionary}}
* [[日本の寺院一覧]] - [[:Category:日本の寺の画像|日本の寺の画像一覧]]
* [[日本の仏教]]
* [[寺格]] - [[勅願寺]]、[[官寺]]・[[私寺]]
* [[僧院]]
* [[古寺]]
* [[空き寺]] - [[住職]]不在の寺
* [[草庵]]
* [[月刊住職]]
* [[神社]]
== 外部リンク ==
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宣伝目的のサイトや、私的な考えを書いたに過ぎないようなサイトは削除されます。また、ウィキペディアはリンク集ではありません。
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このメッセージは、2012年9月に貼り付けられました。{{外部リンクの方針参照}}を使って貼り付けることができます。
-->
* [https://www.otera.co.jp/ これが日本のお寺・神社だ!] {{ja icon}}
* [https://www.otera-jinja-ichiran.com/otera/ 全国のお寺一覧] {{ja icon}}
{{Buddhism2}}
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[[Category:寺|*]]
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2003-08-15T22:56:53Z
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2023-12-14T23:15:38Z
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ターボチャージャー
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ターボチャージャー(英: turbocharger)は、排気の流れを利用してコンプレッサ(圧縮機)を駆動して内燃機関が吸入する空気の密度を高くする過給機である。
ターボチャージャーは主に、排気の流れを受けて回転するタービン(英: turbine)と、タービンの回転力を伝達するシャフト(英: shaft)、伝達されたタービンの回転力で空気を取り込んで圧縮するコンプレッサー(英: compressor)、そして、タービンとコンプレッサーの周辺の流れを制御するハウジング(英: housing)で構成される。コンプレッサーには遠心式圧縮機が利用され、タービンとコンプレッサーは1本のシャフトの両端に固定されていて、タービンとコンプレッサーは同じ回転速度で回転する。
エンジンが吸入する空気の密度を高めて、より多くの酸素を燃焼室に送り、より高い燃焼エネルギーを得るのが過給機であるが、コンプレッサーの動力をエンジンの出力軸から得る機械式過給機に比べ、通常は廃棄される排気の運動エネルギーを回収して駆動されるため効率が高い。
タービンの回転速度は自動車用など小型のものの場合、20万 rpmを超えるものもあり、高温の排気(800 - 900°C)を直接受ける。軸受はエンジンオイルで潤滑される場合が多く、エンジンには高温環境に耐える性能が求められる。また、エンジンを停止するとオイルポンプによる循環が止まるため、高負荷運転によって高温になった状態でエンジンを停止すると軸受の焼きつきや、滞留したオイルがスラッジを発生する原因となる。これを防ぐために自動車の取扱説明書などではエンジンを停止する前に、アイドリングを続けて熱を冷ますことが推奨されている。
スイスの蒸気タービン技術者であるアルフレート・ビュッヒによって発明され、1905年に特許が取得された。1912年にドイツのルドルフ・ディーゼルがディーゼル機関車の低回転域のトルクを向上させるために、ビュッヒの在籍していたスルザー社と提携し、ターボチャージャーを導入しようと試みた。ビュッヒのターボディーゼルエンジンは1925年には完成し、船舶を中心に広く普及した。
アメリカでは第一次大戦末期という早い時期に飛行機用発動機用のものが開発されて高高度飛行が行われるなど、他国に先駆けた研究が行われ、1930年代中頃には次世代型軍用機用のパワーアップ用機材として本格的な量産化が進められ、1930年代後半には量産が可能な体制が整えられて、第二次世界大戦における連合国側の航空戦略の優勢に寄与した。
一方、大日本帝国ではアメリカに習って航空機用の研究も進められていたが、船舶用エンジン用のものも怠り無く研究が進められ、1942年に日本で初めて2ストロークディーゼルエンジンにターボチャージャーが導入された。MAN社製ユニフロー掃気式ディーゼルエンジンをベースに三菱重工業が軍用船舶向けに開発したもので、ルーツブロワにターボチャージャーを直列接続された。開発当初はルーツブロワを中心に過給を行っていたが、次第にターボチャージャーに過給の比率を移行させていき、最終的にはターボチャージャーのみでの駆動に成功し、1944年に特許を取得した。しかし、大日本帝國海軍の軍用船舶への導入は終戦までには間に合わず、船舶への初採用は戦後の旅客船「舞子丸」であった。
一方、航空用では試作レベルのものが雷電、五式戦闘機に搭載された例があるが、耐熱合金などを含む技術的難題を克服しきれず、実装に問題がありすぎて実用化はできなかった。
市販のガソリン自動車用としては、1962年にアメリカのゼネラルモーターズ(GM)が「オールズモビル・F85」と「シボレー・コルヴェア」にオプションで設定したのが最初であった。欧州車では1973年のBMW・2002ターボで初採用された。1978年にはB&Wが舶用2ストロークディーゼルエンジンに静圧過給方式のターボチャージャーを導入して熱効率が向上した。日本車では1979年の日産・セドリック / グロリアに初採用された。
日本において、1980年代の後半は普通乗用車(3ナンバー)と小型乗用車(5ナンバー)の自動車税の差が大きく(5ナンバー39,500円、3ナンバー3000cc未満81,500円)、小型乗用車の排気量上限である2,000ccのエンジンにターボチャージャーを搭載する車種が高級車やスポーツカーを中心に増えた。また、当時日本同様に大排気量車に対して高額の課税を行っていた国としてイタリアが挙げられ、フェラーリもイタリア向けのみフェラーリ・308の排気量を縮小した208GTSが設定され、それにはターボ搭載車が設定された。また当時のターボ搭載エンジンにおいては、ノッキング対策のため意図的に混合気に含まれるガソリンの割合を高めており、それも燃費悪化の要因となった。またディーゼルエンジンはノッキング対策が不要なことなどでターボとの相性が良いため、ディーゼル車ではターボ搭載は積極的に続けられている。2005年以降、フォルクスワーゲンはエンジンを小排気量化してターボチャージャーによりトルクや馬力を補うダウンサイジングコンセプトを採用する車種を増やし、他の欧州メーカーも追随している。旧来のターボチャージャ付エンジンではノッキングを低減するために空燃比を濃くしていたため燃費の向上が難しかったが、ダウンサイジングコンセプトを採用する近年の車種では燃料供給装置の直噴化によって空燃比を濃くすることなくノッキング対策を行っている。2013年以降は、日本のメーカーも欧州の状況に追随して、燃料噴射の直噴化との併用によるターボ搭載がなされるようになった。また欧州では乗用車へのディーゼルエンジンの採用にも積極的であり、その多くにターボが装備されている。日本市場におけるディーゼルエンジン(+ターボ)搭載の乗用車の販売も、徐々になされるようになってきた。
エンジンの出力軸から機械的機構を介して動力を得るスーパーチャージャーは機械損失(メカニカルロス)が生じるが、ターボチャージャーは排気ガスの熱や運動エネルギーとして廃棄されるエネルギー(排気損失)の一部を利用して駆動するため、エンジン出力軸の機械損失がなく、わずかな排気抵抗が生じるのみである。一般的にシリンダー内の燃焼で得られるエネルギーのうち排気損失となるのは40%とされており、ターボチャージャーは7 - 10%を回収できるとされている。
一方で、吸気の配管と排気の配管の両方がターボチャージャーを経由するため、エンジンルームのレイアウトが複雑化する。また、自動車などのようにエンジンの回転速度が運転中に大きく変動する用途では低速回転から高速回転への過渡運転時に、タービンが充分な過給圧を得られる回転速度に到達するまでに遅れが生じるターボラグと呼ばれる現象が発生しやすい。すなわちスロットル操作に対するエンジンの出力上昇に遅れが生じやすい。ターボチャージャーの軸受は高温となるため耐熱性の高いボールベアリングが用いられる場合や、オイルを循環して冷却・潤滑を行っている場合が多い。自動車などの用途ではエンジンオイルで冷却・潤滑しているためエンジンオイルの劣化が進みやすい。
ターボラグの影響を小さくする方策として、タービンの軽量化やターボチャージャーを小型化するなどの方策が各メーカーで行われている。F1では2014年より、後述するようにターボを用いてモーター(MGU-H)を回し発電する「熱回生」が認められたため、逆にMGU-Hに電力を流して強制的にタービンを回すことでターボラグを解消する手法が導入された。
過給機は吸入空気を機関に圧送するため、単位排気量あたりの出力が向上する。しかし一方で、出力増加に伴って、燃焼温度が高く、シリンダー内圧が高くなるためヘッドガスケットやシリンダーヘッド、シリンダーブロックの強度やピストンの耐熱性を高くする必要がある。コンプレッサーによる圧縮やタービンからの熱伝導により吸気温度が高くなる。インタークーラーで圧縮後の吸気を冷却し、空気充填率の向上を図っている例も多い。
ガソリンエンジンの場合は、過給によりエンジンの圧縮行程で混合気がより高温になるため、デトネーションが発生しやすくなる。この対策として同型式の自然吸気エンジンよりも圧縮比を低く設定したり、空燃比を濃く設定する場合がある。圧縮比を低くした場合は過給効果が得られない回転域で熱効率が低下し、自然吸気エンジンよりも出力が低下する。また空燃比を濃くすることで走行燃費が悪化する。
このようにコストや燃費という観点から、従来ガソリン車ではハイパフォーマンスモデルを除いて自然吸気エンジンが基本であったが、近年ではガソリンをシリンダー内に直接噴射する技術(ガソリン直噴エンジン)により圧縮行程では空気のみを圧縮するようになったためデトネーションの問題が解消され、2010年以降の乗用車では排気量を小さくする代わり、過給機によって出力を補い、総合的に燃費を改善するダウンサイジングコンセプトが流行しており、普通乗用車でもターボエンジンを採用するのはごく一般的になっている。
ターボチャージャーは船舶や発電機、建設機械、鉄道車両、自動車などで広く利用されている。特に船舶や発電機など、エンジンの回転速度が大きく変化しない用途ではターボチャージャーの設計をその運転条件に最適化しやすく、ターボチャージャー特有の欠点であるターボラグが発生することがないため適している。また、ディーゼルエンジンは空気のみをシリンダーに吸入して圧縮を行うため、ガソリンエンジンで生じるデトネーションが起こらず、部分負荷域においても吸気経路を絞らないため過給機との相性が特に良い。
自動車などではディーゼルエンジンを搭載したトラック、バスのほか、モータースポーツ用車両やスポーツカーなどでも一般的に用いられる。ターボチャージャーを搭載した初の市販車は1973年デビューのBMW・2002ターボである。日本国内では1979年デビューの日産・430型セドリックが初めてターボを搭載したグレードを登場させ、以後ブルーバードやスカイライン等の主力車種にもターボ搭載モデルが誕生、日産自動車は国産ターボ車の先駆けとなった。路線バス用の車種は2005年後半からダウンサイジングによって燃費や排出ガスを低減するためにターボチャージャーを搭載する例(所謂ダウンサイジングターボ)が増えてきている。
2010年代以降、欧州メーカーの乗用車では小排気量のガソリン直噴エンジンを採用してエンジンを小型軽量化しながらターボチャージャーにより出力を補うダウンサイジングコンセプトを採用する車種が増え、ターボチャージャーの搭載車種が増えつつある。ロープレッシャーターボやツインスクロールターボを採用し、低回転から中・高回転までフラットな特性で大きなトルクを発生させている。日本の乗用車では昔から軽自動車でターボチャージャーが採用されている。また、かつては自動車税の税額が3ナンバーと5ナンバーで大きく異なっていたため、5ナンバーボディには排気量2,000cc以下のエンジンにターボチャージャーが利用されるケースが多かった。同様の税金体系を採っていたイタリアでも排気量2,000cc以下のエンジンにターボチャージャーが利用されるケースが多かった。
元々はターボラグや信頼性の問題からターボは敬遠されていたが、1970年代後半にルノーがル・マン24時間レース、次いでF1を席巻するようになってから、様々なカテゴリで用いられるようになった。ターボは予選の一発がほしい時に過給圧を高め、速さと燃費の両立が重要な決勝では過給圧を下げられるため、特にグループC時代の耐久レースで重宝された。
しかしF1でホンダがウィリアムズに供給していたエンジン(RA166E)でも1,500cc V型6気筒ツインターボの構成によりレース中で776kW(1055馬力)を発生したと言われ、安全性を理由に1987年からレギュレーションにより過給圧制限が加えられ(1987年は最大4bar、1988年は最大2.5bar)、F1では1988年シーズンを最後に過給機の使用が禁止された。
また他のカテゴリでも、自然吸気エンジンのほうが低価格帯の市販車のラインナップに多いため参戦しやすいというマーケティングの都合や、コストを削減しやすいという観点から、90~00年代のラリーの下位クラスやツーリングカーレース、ラリーレイドなどでガソリンターボは禁止される傾向にあった。
2010年代に入るとダウンサイジングターボの流行で市販車にターボ車が増えたことで、一転して多くのカテゴリで小気筒数(4〜6気筒程度)であることを前提にほとんどのカテゴリでターボエンジンが導入されるようになった。F1では2014年からは1,600cc V型6気筒エンジンにシングルターボを組み合わせて使用することが可能となった。またエンジンだけではなくハイブリッドシステムとの組み合わせにより、ターボのタービンシャフトにモーターを接続し、排気ガスのエネルギーを利用してモーターを回し発電させる「熱回生」が無制限に認められたことから、いかにターボと回生用モーター(MGU-H)で効率よくエネルギーを回収するかが重要となっている(運動エネルギー回生システム#熱回生とレギュレーションも参照)。
航空用エンジンでは1950年代までは多くがレシプロエンジンだったことから、気圧の低い(酸素の少ない)高空での出力維持のために過給器の研究が行われた。当初は機械式のスーパーチャージャーのみが採用されたが、次第にターボチャージャーを用いる機種も現れるようになった(代表例:B-29、P-38、P-47)。
フルスロットルで所定の出力を出せる高度である臨界高度(海面高度と同じ出力を発揮できる限界の高さ)までエンジン出力を維持するため、タービンに送る排気を高度に応じて自動的にバイパス流路を開閉する近路弁と呼ばれるバルブを搭載しており、気圧の低い高高度ではバイパス流路を閉じてタービンに送る排気を増やして吸気圧力を上昇させ、気圧の高い低高度ではバイパス流路を開いてタービンに送る排気を減らして吸気圧力を低下させてエンジン出力を一定にさせる。地上から臨界高度までは一定のエンジン出力を保つことができるが、臨界高度以上となるとエンジン出力が低下していく。
現代ではジェットエンジンやターボプロップエンジンの高性能化により、レシプロエンジンを採用するのは小型機に限られているが、高空性能よりもエンジンサイズを抑えながらの出力を増強するために搭載している。なおレシプロエンジンにターボチャージャーを搭載しても、免許は自然吸気と変わらず『ピストン』であるため、設計はそのままでエンジンのみターボチャージャー付きに換装した機体を上位モデルとしているメーカーもある。
|
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"text": "ターボチャージャー(英: turbocharger)は、排気の流れを利用してコンプレッサ(圧縮機)を駆動して内燃機関が吸入する空気の密度を高くする過給機である。",
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"text": "ターボチャージャーは主に、排気の流れを受けて回転するタービン(英: turbine)と、タービンの回転力を伝達するシャフト(英: shaft)、伝達されたタービンの回転力で空気を取り込んで圧縮するコンプレッサー(英: compressor)、そして、タービンとコンプレッサーの周辺の流れを制御するハウジング(英: housing)で構成される。コンプレッサーには遠心式圧縮機が利用され、タービンとコンプレッサーは1本のシャフトの両端に固定されていて、タービンとコンプレッサーは同じ回転速度で回転する。",
"title": "概要"
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"text": "エンジンが吸入する空気の密度を高めて、より多くの酸素を燃焼室に送り、より高い燃焼エネルギーを得るのが過給機であるが、コンプレッサーの動力をエンジンの出力軸から得る機械式過給機に比べ、通常は廃棄される排気の運動エネルギーを回収して駆動されるため効率が高い。",
"title": "概要"
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"text": "タービンの回転速度は自動車用など小型のものの場合、20万 rpmを超えるものもあり、高温の排気(800 - 900°C)を直接受ける。軸受はエンジンオイルで潤滑される場合が多く、エンジンには高温環境に耐える性能が求められる。また、エンジンを停止するとオイルポンプによる循環が止まるため、高負荷運転によって高温になった状態でエンジンを停止すると軸受の焼きつきや、滞留したオイルがスラッジを発生する原因となる。これを防ぐために自動車の取扱説明書などではエンジンを停止する前に、アイドリングを続けて熱を冷ますことが推奨されている。",
"title": "概要"
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"text": "スイスの蒸気タービン技術者であるアルフレート・ビュッヒによって発明され、1905年に特許が取得された。1912年にドイツのルドルフ・ディーゼルがディーゼル機関車の低回転域のトルクを向上させるために、ビュッヒの在籍していたスルザー社と提携し、ターボチャージャーを導入しようと試みた。ビュッヒのターボディーゼルエンジンは1925年には完成し、船舶を中心に広く普及した。",
"title": "歴史"
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"text": "アメリカでは第一次大戦末期という早い時期に飛行機用発動機用のものが開発されて高高度飛行が行われるなど、他国に先駆けた研究が行われ、1930年代中頃には次世代型軍用機用のパワーアップ用機材として本格的な量産化が進められ、1930年代後半には量産が可能な体制が整えられて、第二次世界大戦における連合国側の航空戦略の優勢に寄与した。",
"title": "歴史"
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"text": "一方、大日本帝国ではアメリカに習って航空機用の研究も進められていたが、船舶用エンジン用のものも怠り無く研究が進められ、1942年に日本で初めて2ストロークディーゼルエンジンにターボチャージャーが導入された。MAN社製ユニフロー掃気式ディーゼルエンジンをベースに三菱重工業が軍用船舶向けに開発したもので、ルーツブロワにターボチャージャーを直列接続された。開発当初はルーツブロワを中心に過給を行っていたが、次第にターボチャージャーに過給の比率を移行させていき、最終的にはターボチャージャーのみでの駆動に成功し、1944年に特許を取得した。しかし、大日本帝國海軍の軍用船舶への導入は終戦までには間に合わず、船舶への初採用は戦後の旅客船「舞子丸」であった。",
"title": "歴史"
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"title": "歴史"
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"text": "日本において、1980年代の後半は普通乗用車(3ナンバー)と小型乗用車(5ナンバー)の自動車税の差が大きく(5ナンバー39,500円、3ナンバー3000cc未満81,500円)、小型乗用車の排気量上限である2,000ccのエンジンにターボチャージャーを搭載する車種が高級車やスポーツカーを中心に増えた。また、当時日本同様に大排気量車に対して高額の課税を行っていた国としてイタリアが挙げられ、フェラーリもイタリア向けのみフェラーリ・308の排気量を縮小した208GTSが設定され、それにはターボ搭載車が設定された。また当時のターボ搭載エンジンにおいては、ノッキング対策のため意図的に混合気に含まれるガソリンの割合を高めており、それも燃費悪化の要因となった。またディーゼルエンジンはノッキング対策が不要なことなどでターボとの相性が良いため、ディーゼル車ではターボ搭載は積極的に続けられている。2005年以降、フォルクスワーゲンはエンジンを小排気量化してターボチャージャーによりトルクや馬力を補うダウンサイジングコンセプトを採用する車種を増やし、他の欧州メーカーも追随している。旧来のターボチャージャ付エンジンではノッキングを低減するために空燃比を濃くしていたため燃費の向上が難しかったが、ダウンサイジングコンセプトを採用する近年の車種では燃料供給装置の直噴化によって空燃比を濃くすることなくノッキング対策を行っている。2013年以降は、日本のメーカーも欧州の状況に追随して、燃料噴射の直噴化との併用によるターボ搭載がなされるようになった。また欧州では乗用車へのディーゼルエンジンの採用にも積極的であり、その多くにターボが装備されている。日本市場におけるディーゼルエンジン(+ターボ)搭載の乗用車の販売も、徐々になされるようになってきた。",
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"text": "エンジンの出力軸から機械的機構を介して動力を得るスーパーチャージャーは機械損失(メカニカルロス)が生じるが、ターボチャージャーは排気ガスの熱や運動エネルギーとして廃棄されるエネルギー(排気損失)の一部を利用して駆動するため、エンジン出力軸の機械損失がなく、わずかな排気抵抗が生じるのみである。一般的にシリンダー内の燃焼で得られるエネルギーのうち排気損失となるのは40%とされており、ターボチャージャーは7 - 10%を回収できるとされている。",
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"text": "一方で、吸気の配管と排気の配管の両方がターボチャージャーを経由するため、エンジンルームのレイアウトが複雑化する。また、自動車などのようにエンジンの回転速度が運転中に大きく変動する用途では低速回転から高速回転への過渡運転時に、タービンが充分な過給圧を得られる回転速度に到達するまでに遅れが生じるターボラグと呼ばれる現象が発生しやすい。すなわちスロットル操作に対するエンジンの出力上昇に遅れが生じやすい。ターボチャージャーの軸受は高温となるため耐熱性の高いボールベアリングが用いられる場合や、オイルを循環して冷却・潤滑を行っている場合が多い。自動車などの用途ではエンジンオイルで冷却・潤滑しているためエンジンオイルの劣化が進みやすい。",
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"text": "ターボラグの影響を小さくする方策として、タービンの軽量化やターボチャージャーを小型化するなどの方策が各メーカーで行われている。F1では2014年より、後述するようにターボを用いてモーター(MGU-H)を回し発電する「熱回生」が認められたため、逆にMGU-Hに電力を流して強制的にタービンを回すことでターボラグを解消する手法が導入された。",
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"text": "過給機は吸入空気を機関に圧送するため、単位排気量あたりの出力が向上する。しかし一方で、出力増加に伴って、燃焼温度が高く、シリンダー内圧が高くなるためヘッドガスケットやシリンダーヘッド、シリンダーブロックの強度やピストンの耐熱性を高くする必要がある。コンプレッサーによる圧縮やタービンからの熱伝導により吸気温度が高くなる。インタークーラーで圧縮後の吸気を冷却し、空気充填率の向上を図っている例も多い。",
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"title": "用途"
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ターボチャージャーは、排気の流れを利用してコンプレッサ(圧縮機)を駆動して内燃機関が吸入する空気の密度を高くする過給機である。
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{{Redirect|ターボ}}
{{otheruses|排気タービン式過給器|過給機全般|過給機}}
{{出典の明記|date=2009年4月}}
[[File:Turbo charger 1.jpg|thumb|240px|right|[[ギャレット]]製自動車用ターボチャージャーのコンプレッサー側]]
'''ターボチャージャー'''({{lang-en-short|turbocharger}})は、排気の流れを利用してコンプレッサ([[圧縮機]])を駆動して[[内燃機関]]が吸入する空気の密度を高くする[[過給機]]である。
== 概要 ==
[[File:Turbocharger.jpg|thumb|240 px|right|ターボチャージャーのカットモデル。赤い部分に排気が導入され、青い部分で吸気が圧縮される。]]
ターボチャージャーは主に、[[排出ガス|排気]]の流れを受けて回転する'''[[タービン]]'''({{lang-en-short|turbine}})と、[[タービン]]の回転力を伝達する[[軸 (機械要素)|シャフト]]({{lang-en-short|shaft}})、伝達されたタービンの回転力で[[空気]]を取り込んで圧縮する'''[[圧縮機|コンプレッサー]]'''({{lang-en-short|compressor}})、そして、タービンとコンプレッサーの周辺の流れを制御する'''ハウジング'''({{lang-en-short|housing}})で構成される。コンプレッサーには[[遠心式圧縮機]]が利用され、タービンとコンプレッサーは1本のシャフトの両端に固定されていて、タービンとコンプレッサーは同じ回転速度で回転する。
エンジンが[[吸気|吸入する空気]]の[[密度]]を高めて、より多くの[[酸素]]を[[燃焼室]]に送り、より高い燃焼エネルギーを得るのが過給機であるが、コンプレッサーの動力をエンジンの出力軸から得る機械式過給機に比べ、通常は廃棄される排気の[[運動エネルギー]]を回収して駆動されるため効率が高い。
タービンの回転速度は自動車用など小型のものの場合、20万 [[rpm (単位)|rpm]]を超えるものもあり<ref name="中野">中野 弘二、和田 裕介、城野 実考、成廣 繁「新型直列4気筒ガソリン直噴過給ダウンサイジングエンジン」『Honda R&D Technical Review』 Vol.28 No.1、2016年、133-139頁。</ref>、高温の排気(800 - 900[[セルシウス度|℃]])<ref name="中野">中野 弘二、和田 裕介、城野 実考、成廣 繁「新型直列4気筒ガソリン直噴過給ダウンサイジングエンジン」『Honda R&D Technical Review』 Vol.28 No.1、2016年、133-139頁。</ref>を直接受ける。[[軸受]]は[[エンジンオイル]]で潤滑される場合が多く、エンジンには高温環境に耐える性能が求められる。また、エンジンを停止すると[[オイルポンプ]]による循環が止まるため、高負荷運転によって高温になった状態でエンジンを停止すると軸受の[[焼きつき]]や、滞留したオイルが[[スラッジ]]を発生する原因となる。これを防ぐために自動車の取扱説明書などではエンジンを停止する前に、[[アイドリング]]を続けて熱を冷ますことが推奨されている。
== 歴史 ==
[[スイス]]の蒸気タービン技術者である[[アルフレート・ビュッヒ]]によって発明され{{Efn2|これは今日で言う[[ターボコンパウンド]]エンジンでもあった。}}、[[1905年]]に特許が取得された。[[1912年]]に[[ドイツ]]の[[ルドルフ・ディーゼル]]が[[ディーゼル機関車]]の低回転域の[[トルク]]を向上させるために、ビュッヒの在籍していた[[スルザー]]社と提携し、ターボチャージャーを導入しようと試みた{{Sfn|鈴木孝|2001}}。ビュッヒのターボディーゼルエンジンは[[1925年]]には完成し、船舶を中心に広く普及した<ref name="今給黎">今給黎孝一郎「[http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/067.pdf 排気ガスタービン過給機の技術系統化調査]」『技術の系統化調査報告』第16集、国立科学博物館、2011年。</ref>。
アメリカでは第一次大戦末期という早い時期に飛行機用発動機用のものが開発されて高高度飛行が行われるなど、他国に先駆けた研究が行われ、1930年代中頃には次世代型軍用機用のパワーアップ用機材として本格的な量産化が進められ、1930年代後半には量産が可能な体制が整えられて、第二次世界大戦における連合国側の航空戦略の優勢に寄与した。
一方、大日本帝国ではアメリカに習って航空機用の研究も進められていたが、船舶用エンジン用のものも怠り無く研究が進められ、[[1942年]]に[[大日本帝國|日本]]で初めて2ストロークディーゼルエンジンにターボチャージャーが導入された<ref name="今給黎" />。MAN社製[[ユニフロー掃気式ディーゼルエンジン]]をベースに[[三菱重工業]]が軍用船舶向けに開発したもので、[[スーパーチャージャー|ルーツブロワ]]にターボチャージャーを直列接続された。開発当初はルーツブロワを中心に過給を行っていたが、次第にターボチャージャーに過給の比率を移行させていき、最終的にはターボチャージャーのみでの駆動に成功し、[[1944年]]に特許を取得した<ref name="今給黎" />。しかし、[[大日本帝國海軍]]の軍用船舶への導入は終戦までには間に合わず、船舶への初採用は戦後の旅客船「舞子丸」であった<ref name="今給黎" />。
一方、航空用では試作レベルのものが[[雷電_(航空機)|雷電]]、[[五式戦闘機]]に搭載された例があるが、耐熱合金などを含む技術的難題を克服しきれず、実装に問題がありすぎて実用化はできなかった<ref>前間孝則著『マン・マシンの昭和伝説』</ref>。
市販のガソリン自動車用としては、[[1962年]]にアメリカの[[ゼネラルモーターズ]](GM)が「[[オールズモビル (自動車)|オールズモビル]]・F85」と「[[シボレー・コルヴェア]]」に[[オプション]]で設定したのが最初であった。[[欧州車]]では[[1973年]]の[[BMW・02シリーズ|BMW・2002ターボ]]で初採用された。[[1978年]]には[[B&W]]が舶用2ストロークディーゼルエンジンに静圧過給方式のターボチャージャーを導入して熱効率が向上した{{Sfn|鈴木孝|2001}}。[[日本車]]では[[1979年]]の[[日産・セドリック]] / [[日産・グロリア|グロリア]]に初採用された。
日本において、[[1980年]]代の後半は[[普通乗用車]](3ナンバー)と[[小型乗用車]](5ナンバー)の[[自動車税]]の差が大きく(5ナンバー39,500円、3ナンバー3000cc未満81,500円)、小型乗用車の排気量上限である2,000[[立方センチメートル|cc]]のエンジンにターボチャージャーを搭載する車種が高級車やスポーツカーを中心に増えた。また、当時日本同様に大排気量車に対して高額の課税を行っていた国としてイタリアが挙げられ、[[フェラーリ]]もイタリア向けのみ[[フェラーリ・308]]の排気量を縮小した'''208GTS'''が設定され、それにはターボ搭載車が設定された。また当時のターボ搭載エンジンにおいては、[[ノッキング]]対策のため意図的に混合気に含まれるガソリンの割合を高めており、それも燃費悪化の要因となった。またディーゼルエンジンはノッキング対策が不要なことなどでターボとの相性が良いため、ディーゼル車ではターボ搭載は積極的に続けられている。[[2005年]]以降、[[フォルクスワーゲン]]はエンジンを小排気量化してターボチャージャーによりトルクや馬力を補う[[ダウンサイジングコンセプト]]を採用する車種を増やし、他の欧州メーカーも追随している。旧来のターボチャージャ付エンジンではノッキングを低減するために空燃比を濃くしていたため燃費の向上が難しかったが、ダウンサイジングコンセプトを採用する近年の車種では燃料供給装置の直噴化によって空燃比を濃くすることなくノッキング対策を行っている。[[2013年]]以降は、日本のメーカーも欧州の状況に追随して、燃料噴射の直噴化との併用によるターボ搭載がなされるようになった。また欧州では乗用車へのディーゼルエンジンの採用にも積極的であり、その多くにターボが装備されている。日本市場におけるディーゼルエンジン(+ターボ)搭載の乗用車の販売も、徐々になされるようになってきた。
== 機械式過給機との比較 ==
エンジンの出力軸から機械的機構を介して動力を得る[[スーパーチャージャー]]は機械損失(メカニカルロス)が生じるが、ターボチャージャーは排気ガスの熱や運動エネルギーとして廃棄されるエネルギー(排気損失)の一部を利用して駆動するため、エンジン出力軸の機械損失がなく、わずかな排気抵抗が生じるのみである。一般的にシリンダー内の燃焼で得られるエネルギーのうち排気損失となるのは40%とされており、ターボチャージャーは7 - 10%を回収できるとされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00200/contents/037.htm|title=日本財団図書館(電子図書館) 3S級舶用機関整備士指導書|publisher=公益財団法人 日本財団|accessdate=2015-12-09}}</ref>。
一方で、吸気の配管と排気の配管の両方がターボチャージャーを経由するため、エンジンルームのレイアウトが複雑化する。また、自動車などのようにエンジンの回転速度が運転中に大きく変動する用途では低速回転から高速回転への過渡運転時に、タービンが充分な過給圧を得られる回転速度に到達するまでに遅れが生じる[[ターボラグ]]と呼ばれる現象が発生しやすい。すなわち[[スロットル]]操作に対するエンジンの出力上昇に遅れが生じやすい。ターボチャージャーの軸受は高温となるため耐熱性の高いボールベアリングが用いられる場合や、オイルを循環して冷却・潤滑を行っている場合が多い。自動車などの用途ではエンジンオイルで冷却・潤滑しているためエンジンオイルの劣化が進みやすい。
ターボラグの影響を小さくする方策として、タービンの軽量化やターボチャージャーを小型化するなどの方策が各メーカーで行われている。F1では2014年より、後述するようにターボを用いてモーター(MGU-H)を回し発電する「熱回生」が認められたため、逆にMGU-Hに電力を流して強制的にタービンを回すことでターボラグを解消する手法が導入された。
== 自然吸気との比較 ==
[[file:2008 Volkswagen Golf (1K MY08) GT Sport 1.4 TSI 5-door hatchback (2010-07-05).jpg|200px|thumb|5代目[[フォルクスワーゲン・ゴルフ]]がダウンサイジングターボの先駆けとされている。]]
過給機は吸入空気を機関に圧送するため、単位排気量あたりの出力が向上する。しかし一方で、出力増加に伴って、燃焼温度が高く、シリンダー内圧が高くなるため[[ヘッドガスケット]]や[[シリンダーヘッド]]、[[シリンダーブロック]]の強度や[[ピストン]]の耐熱性を高くする必要がある。コンプレッサーによる圧縮やタービンからの熱伝導により吸気温度が高くなる。[[インタークーラー]]で圧縮後の吸気を冷却し、空気充填率の向上を図っている例も多い。
ガソリンエンジンの場合は、過給によりエンジンの圧縮行程で混合気がより高温になるため、[[デトネーション]]が発生しやすくなる。この対策として同型式の自然吸気エンジンよりも[[圧縮比]]を低く設定したり、空燃比<ref>濃い方が火炎伝播速度が遅いためデトネーションが抑えられる</ref>を濃く設定する場合がある。圧縮比を低くした場合は過給効果が得られない回転域で熱効率が低下し、自然吸気エンジンよりも出力が低下する。また空燃比を濃くすることで走行燃費が悪化する。
このようにコストや燃費という観点から、従来ガソリン車ではハイパフォーマンスモデルを除いて自然吸気エンジンが基本であったが、近年ではガソリンをシリンダー内に直接噴射する技術([[ガソリン直噴エンジン]])により圧縮行程では空気のみを圧縮するようになったためデトネーションの問題が解消され、2010年以降の乗用車では排気量を小さくする代わり、過給機によって出力を補い、総合的に燃費を改善する[[ダウンサイジングコンセプト]]が流行しており、普通乗用車でもターボエンジンを採用するのはごく一般的になっている。
== 用途 ==
[[File:Turbocharger of DMF13HZ.jpg|thumb|right|240px|[[国鉄キハ183系気動車|キハ183系気動車]]の[[DMF13系エンジン (2代)|DMF13HZ形]]エンジンに装着されているターボチャージャー]]
ターボチャージャーは船舶や発電機、[[建設機械]]、[[鉄道車両]]、自動車などで広く利用されている。特に船舶や発電機など、エンジンの回転速度が大きく変化しない用途ではターボチャージャーの設計をその運転条件に最適化しやすく、ターボチャージャー特有の欠点であるターボラグが発生することがないため適している。また、[[ディーゼルエンジン]]は空気のみを[[シリンダー]]に吸入して圧縮を行うため、ガソリンエンジンで生じるデトネーションが起こらず、部分負荷域においても吸気経路を絞らないため過給機との相性が特に良い。
=== 自動車など ===
自動車などではディーゼルエンジンを搭載したトラック、バスのほか、[[モータースポーツ]]用車両や[[スポーツカー]]などでも一般的に用いられる。ターボチャージャーを搭載した初の市販車は[[1973年]]デビューの[[BMW・02シリーズ|BMW・2002ターボ]]である。日本国内では[[1979年]]デビューの[[日産・セドリック|日産・430型セドリック]]が初めてターボを搭載したグレードを登場させ、以後[[日産・ブルーバード|ブルーバード]]や[[日産・スカイライン|スカイライン]]等の主力車種にもターボ搭載モデルが誕生、[[日産自動車]]は国産ターボ車の先駆けとなった。路線バス用の車種は2005年後半から[[ダウンサイジング]]によって燃費や排出ガスを低減するためにターボチャージャーを搭載する例(所謂[[ダウンサイジングターボ]])が増えてきている。
2010年代以降、欧州メーカーの乗用車では小排気量の[[ガソリン直噴エンジン]]を採用してエンジンを小型軽量化しながらターボチャージャーにより出力を補う[[ダウンサイジングコンセプト]]を採用する車種が増え、ターボチャージャーの搭載車種が増えつつある。ロープレッシャーターボやツインスクロールターボを採用し、低回転から中・高回転までフラットな特性で大きなトルクを発生させている。日本の乗用車では昔から[[軽自動車]]でターボチャージャーが採用されている。また、かつては[[自動車税]]の税額が3ナンバーと5ナンバーで大きく異なっていたため、[[小型自動車|5ナンバーボディ]]には排気量2,000cc以下のエンジンにターボチャージャーが利用されるケースが多かった。同様の税金体系を採っていたイタリアでも排気量2,000cc以下のエンジンにターボチャージャーが利用されるケースが多かった。
=== モータースポーツ ===
[[file:CitéAuto - Renault Alpine V6.jpg|thumb|200px|ルノー・アルピーヌ A442B(1978年)]]
[[File:Rosberg - 2016 Monaco GP.jpg|thumb|200px|[[メルセデス・F1 W07 Hybrid]](2016年)]]
元々はターボラグや信頼性の問題からターボは敬遠されていたが、1970年代後半に[[ルノー]]が[[ル・マン24時間レース]]、次いで[[フォーミュラ1|F1]]を席巻するようになってから、様々なカテゴリで用いられるようになった。ターボは予選の一発がほしい時に過給圧を高め、速さと燃費の両立が重要な決勝では過給圧を下げられるため、特に[[グループC]]時代の[[耐久レース]]で重宝された。
しかしF1で[[ホンダ・レーシング・F1チーム|ホンダ]]が[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]に供給していたエンジン([[ホンダ・RA165E|RA166E]])でも1,500cc [[V型6気筒]][[ツインターボ]]の構成によりレース中で776kW(1055馬力)を発生したと言われ<ref>第19回ガスタービン定期講演会講演論文集(’91-5)</ref>、安全性を理由に[[1987年]]からレギュレーションにより過給圧制限が加えられ(1987年は最大4[[バール (単位)|bar]]、[[1988年]]は最大2.5bar)、F1では1988年シーズンを最後に過給機の使用が禁止された。
また他のカテゴリでも、自然吸気エンジンのほうが低価格帯の市販車のラインナップに多いため参戦しやすいというマーケティングの都合や、コストを削減しやすいという観点から、90~00年代のラリーの下位クラスや[[ツーリングカーレース]]、[[ラリーレイド]]などでガソリンターボは禁止される傾向にあった。
2010年代に入るとダウンサイジングターボの流行で市販車にターボ車が増えたことで、一転して多くのカテゴリで小気筒数(4〜6気筒程度)であることを前提にほとんどのカテゴリでターボエンジンが導入されるようになった。F1では2014年からは1,600cc [[V型6気筒]]エンジンにシングルターボを組み合わせて使用することが可能となった。またエンジンだけではなく[[ハイブリッドシステム]]との組み合わせにより、ターボのタービンシャフトにモーターを接続し、排気ガスのエネルギーを利用してモーターを回し発電させる「熱回生」が無制限に認められたことから、いかにターボと回生用モーター(MGU-H)で効率よくエネルギーを回収するかが重要となっている([[運動エネルギー回生システム#熱回生とレギュレーション]]も参照)。
=== 航空機 ===
[[航空用エンジン]]では[[1950年代]]までは多くがレシプロエンジンだったことから、気圧の低い(酸素の少ない)高空での出力維持のために過給器の研究が行われた。当初は機械式のスーパーチャージャーのみが採用されたが、次第にターボチャージャーを用いる機種も現れるようになった(代表例:[[B-29 (航空機)|B-29]]、[[P-38 (航空機)|P-38]]、[[P-47 (航空機)|P-47]])。
フルスロットルで所定の出力を出せる高度である臨界高度([[海面更正|海面高度]]と同じ出力を発揮できる限界の高さ)までエンジン出力を維持するため、タービンに送る排気を高度に応じて自動的にバイパス流路を開閉する近路弁と呼ばれるバルブを搭載しており、気圧の低い高高度ではバイパス流路を閉じてタービンに送る排気を増やして吸気圧力を上昇させ、気圧の高い低高度ではバイパス流路を開いてタービンに送る排気を減らして吸気圧力を低下させてエンジン出力を一定にさせる。地上から臨界高度までは一定のエンジン出力を保つことができるが、臨界高度以上となるとエンジン出力が低下していく<ref>{{Cite book ja-jp|title=航空機用ピストン・エンジン |publisher=日本航空技術協会 |author=石田満三郎 |year=1989 |page=138 |series=航空工学講座 10 |isbn=4930858100 }}</ref>。
現代では[[ジェットエンジン]]や[[ターボプロップエンジン]]の高性能化により、レシプロエンジンを採用するのは小型機に限られているが、高空性能よりもエンジンサイズを抑えながらの出力を増強するために搭載している。なおレシプロエンジンにターボチャージャーを搭載しても、免許は自然吸気と変わらず『ピストン』であるため、設計はそのままでエンジンのみターボチャージャー付きに換装した機体を上位モデルとしているメーカーもある。
== 主要メーカー ==
* [[ギャレット|ギャレット・システムズ]]([[ハネウェル]])
* [[三菱重工業]]
* [[日立製作所]](ボルグワーナーとの合弁を経て事業から撤退)
* [[ボルグワーナー]](旧 独KKK社([[:de:Kühnle, Kopp & Kausch|Kühnle Kopp und Kausch]])+ 米Schwitzer社)
* [https://www.turboneticsinc.com ターボネティクス](Turbonetics)
* [[IHI]](旧「石川島播磨重工業」)
* [[Bosch Mahle Turbo Systems]]
* [[コンチネンタル (自動車部品製造業)|コンチネンタル]]
* [[Cummins Turbo Technology]](HOLSET)
*[[KBB turbochargers Kompressorenbau Bannewitz GmbH]]
*[[ABB]]
*[[Napier Turbochargers]]
*[[MAN B&W]]
*[[小松製作所]]
== 種類 (主に自動車用語) ==
* [[ロープレッシャーターボ]](ライトプレッシャーターボ/低圧ターボ)
* [[ツインスクロールターボ]]
* [[可変ノズルターボ|可変ノズル(VG)ターボ]]
* [[電動アシストターボ]]<ref> {{Cite journal|和書|url=http://www.ihi.co.jp/var/ezwebin_site/storage/original/application/8f83654952daebd6c5f2b3c6d75f8619.pdf |format=PDF |journal=IHI 技報 |volume=51 |number=1 |year=2011 |title=電動アシストターボ!! }}</ref><ref> {{Cite news|url=http://www.njd.jp/topNews/dt/1079/ |title=燃費が1割改善~IHIの電動アシストターボ |newspaper=日刊自動車新聞 | date=
2010-10-14 }}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |url=http://www.mhi.co.jp/technology/review/pdf/433/433036.pdf |format=PDF |journal=三菱重工技報 |volume=43 |number=3 |year=2006 |title=電動アシストターボチャージャ
"ハイブリッドターボ"の開発 |author=茨木誠一
|author2=山下幸生 |author3=住田邦夫
|author4=荻田浩司 |autheor5=陣内靖明 }}
</ref>
**2011年5月に、IHIから電動アシストターボの製品化が発表された。タービンの過給効果が発現する回転数など詳細な性能は公表されていない。(吸気タービンが回転すれば過給圧が発生するものの、エンジン単体でのターボ過給開始回転数よりも低速から回転させなければターボラグなどのトルク変動の原因となる)
* [[スリーホイールターボ]](TWT:Three Wheel Turbochager)
**吸・排気に加えて低速で回転をアシストする部位(ホイール)を追加しスリーホイールとしたもの。広義には前述の電動アシストなども含まれるが、用語としては油圧を介してオイルタービンを回しアシストを行うものに使われる事が多い。油圧式は主に商用ディーゼル車向けに研究開発が行われていたが極めて高い油圧が要求されるなどの課題があり普及には至っていない。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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==参考文献==
{{Refbegin|2}}
*{{Cite book ja-jp|author=鈴木孝 |year=2001 |title=20世紀のエンジン史 : スリーブバルブと航空ディーゼルの興亡 |publisher=三樹書房 |isbn=4895222837 |ref=harv }}
*{{Cite book ja-jp|author=前間孝則 |year=1993 |title=マン・マシンの昭和伝説 : 航空機から自動車へ |volume=上 |publisher=講談社 |ncid=BN09468958 |isbn=4062059983 |ref=harv }}
*{{Cite book ja-jp|author=前間孝則 |year=1993a |title=マン・マシンの昭和伝説 : 航空機から自動車へ |volume=下 |publisher=講談社 |ncid=BN09468958 |isbn=4062065819 |ref=harv }}
{{Refend}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Turbochargers}}
* [[フランシス水車]]
* [[過給機]]
* [[スーパーチャージャー]]
* [[インタークーラー]]
* [[ウェイストゲートバルブ]]
* [[ブローオフバルブ]]
* [[ツインチャージャー]]
* [[ターボチューン]]
* [[ツインターボ]]
* [[ターボチャージャーを純正採用したモーターサイクル]]
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[[Category:ターボチャージャー| ]]
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ラサ市
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ラサ市(ラサし、中国語: 拉萨市)は、中華人民共和国チベット自治区の中央部に位置し、同自治区を構成する「地級市」のひとつ。中国政府がチベットの古都ラサとその周辺地域をあわせて1960年に設置した。
市域はチベットの古都ラサとその郊外からなる「城関区」とトゥールン・デチェン区の2つの市轄区、その周辺の6つのゾン(県)で構成されている。「地級市」は、中国の行政区画制度において、二級行政区画に分類される行政体の一種である。自治区人民政府は城関区内に設置されている。本市の東方に位置するロカ市とともに、中央チベット東部の「ウー地方」を構成する。
総面積3万平方キロ。 人口87万人、非農業人口14万人。チベット族が87%を占める。
本市の中心部に設置された城関区は、古くからチベットの政治的、文化的中枢であった古都・ラサであり、吐蕃王朝やダライ・ラマ政権の時代には首都がおかれた。この古都ラサはチベット、モンゴル、満州などの諸民族から構成されるチベット仏教文化圏の中枢都市であった。
中華人民共和国が1956年に設置した西蔵自治区籌備委員会(チベット自治区準備委員会)はこの市に本拠を置き、1965年に発足させた西蔵自治区の首府にもなっている。
チベット語でラ (ལྷ་ lha) は神もしくは仏、サ (ས sa) は土地を意味し、「聖地」を意味する。標準チベット語での正式名はラサ・ドンキェル(ལྷ་ས་གྲོང་ཁྱེར་ lha sa grong khyer)。ラサ方言では [l̥ɛːsa] ヘーサと呼ばれている。
チベット中央部、ヤルンツァンポ河流域に位置する。海抜 3,700 メートルにある。
ラサ市は、古都ラサとその郊外からなる城関区と、その西のトゥールン・デチェン区、周辺の6つの県(ゾン)で構成される。本市の東方に位置する山南地区とともに、中央チベット東部のウー地方を構成する。チベット民族が87パーセントを占める。
ケッペンの気候区分では、温帯夏雨気候(Cwb)とステップ気候(BSk)との境にあたる。
7世紀前半、吐蕃のソンツェン・ガンポの時代にチベットの都と定められた。9世紀に吐蕃が崩壊して以後、チベットの政治的中心は、時期ごとの覇者たちの本拠に転々と移動したが、トゥルナン寺を有するラサの宗教的中心地としての地位は不動であった。17世紀に発足したガンデンポタン政権の時代(1642―1959)に再びチベットの政治的中枢の所在地となった。ガンデンカンサル宮、ポタラ宮、ノルブリンカ宮などの施設は、この政権の時代の行政機構の拠点として建設されたものである。
中華人民共和国は1951年に人民解放軍をラサに進駐させたが、ガンデンポタンとの間に締結した17ヶ条協定に基づき、引き続きガンデンポタンによる統治が継続した。1959年にチベット動乱がラサにまで波及、ダライラマとガンデンポタンはチベットを脱出、中国政府は「原西蔵地方政府(=ガンデンポタン)の廃止」を布告、ガンデンポタンの管轄下にあったチベットの西蔵部分に対する統治に乗り出し、ガンデンポタン時代の行政区画を改廃し、翌1960年、古都ラサとその近隣地方をあわせて「地級市」ラサ市を設置した。
1986年以来対外開放され、テレビ塔も建つなど西部大開発が進められ、次第に観光都市として発展している。
1950年代初頭、ラサの環状巡礼路リンコル路の内部(古都ラサ)はミプンが、古都ラサ近郊の18のゾン(県級の地方行政単位)・シカはショル=レーグンが、ウー地方の北部はウー=チキャプ(ウー総督府)が管轄していた。
1960年の中国人民政府によるラサ市の設置にあたり、以上の地域に加え、チャン・チキャプ(北方総督府)の管轄下にあった一部のゾン・シカが「ラサ市」に組み込まれ、「城関区」とラサ市所属の7県に再編された。
1964年、行政区画が再編され、ニャンティ地区から4県が移管された。
その後も隣接の地区とで管轄県の移動があり、2005年に7県となる。
3市轄区・5県を管轄する。
この節の出典
ラサ市人民政府は2005年の経済目標として市の総生産額87億人民元(前年比16%増)、市区住民一人当たり収入10,000元(同8%増)、農民収入2,985元(同14%増)を掲げている。この数字をみると、市区部は観光業を中心に収入増が進んでいるが、農村部にはなかなか及んでいないように見える。2006年7月に青蔵鉄道が開通し、観光業の飛躍的な発展が予測されている。
中心部より車で30分程度の場所にラサ・クンガ空港がある。所在自治体は山南市。
ラサは国務院により国家歴史文化名城に指定され、ポタラ宮は1994年にユネスコの世界遺産に「ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群」として登録、トゥルナン寺も2000年に拡大登録、ノルブリンカも2001年拡大登録された。現在、年間40万人から50万人の観光客がある。
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"text": "ラサ市は、古都ラサとその郊外からなる城関区と、その西のトゥールン・デチェン区、周辺の6つの県(ゾン)で構成される。本市の東方に位置する山南地区とともに、中央チベット東部のウー地方を構成する。チベット民族が87パーセントを占める。",
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"text": "ケッペンの気候区分では、温帯夏雨気候(Cwb)とステップ気候(BSk)との境にあたる。",
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"text": "1960年の中国人民政府によるラサ市の設置にあたり、以上の地域に加え、チャン・チキャプ(北方総督府)の管轄下にあった一部のゾン・シカが「ラサ市」に組み込まれ、「城関区」とラサ市所属の7県に再編された。",
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"text": "ラサ市人民政府は2005年の経済目標として市の総生産額87億人民元(前年比16%増)、市区住民一人当たり収入10,000元(同8%増)、農民収入2,985元(同14%増)を掲げている。この数字をみると、市区部は観光業を中心に収入増が進んでいるが、農村部にはなかなか及んでいないように見える。2006年7月に青蔵鉄道が開通し、観光業の飛躍的な発展が予測されている。",
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"text": "ラサは国務院により国家歴史文化名城に指定され、ポタラ宮は1994年にユネスコの世界遺産に「ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群」として登録、トゥルナン寺も2000年に拡大登録、ノルブリンカも2001年拡大登録された。現在、年間40万人から50万人の観光客がある。",
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ラサ市は、中華人民共和国チベット自治区の中央部に位置し、同自治区を構成する「地級市」のひとつ。中国政府がチベットの古都ラサとその周辺地域をあわせて1960年に設置した。 市域はチベットの古都ラサとその郊外からなる「城関区」とトゥールン・デチェン区の2つの市轄区、その周辺の6つのゾン(県)で構成されている。「地級市」は、中国の行政区画制度において、二級行政区画に分類される行政体の一種である。自治区人民政府は城関区内に設置されている。本市の東方に位置するロカ市とともに、中央チベット東部の「ウー地方」を構成する。 総面積3万平方キロ。 人口87万人、非農業人口14万人。チベット族が87%を占める。
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{{Otheruses|中国の都市|チベットの古都|ラサ}}
{{wikify|date=2015-12}}<!-- 誤リンクや無意味な曖昧さ回避要修正 -->
{{基礎情報 中国の都市
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|image_caption = 時計回りに上から: [[トゥルナン寺]]、[[ポタラ宮]]、トゥルナン寺の[[法輪]]、ラサ市の衛星写真、トゥルナン寺の[[マニ車]]、[[ノルブリンカ]]
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| data6 = [[城関区 (ラサ市)|ラサ市城関区]]は[[ブラマプトラ川|ヤルンツァンポ川]]流域に位置する。
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'''ラサ市'''(ラサし、{{lang-zh|拉萨市}})は、[[中華人民共和国]][[チベット自治区]]の中央部に位置し、同自治区を構成する「[[地級市]]」のひとつ。中国政府が[[ガンデンポタン|チベット]]の古都[[ラサ]]とその周辺地域をあわせて[[1960年]]に設置した。
市域は'''[[ラサ|チベットの古都ラサ]]'''とその郊外からなる「[[城関区 (ラサ市)|城関区]]」と[[トゥールン・デチェン区]]の2つの[[市轄区]]、その周辺の6つのゾン([[県 (中華人民共和国)|県]])で構成されている。「地級市」は、中国の行政区画制度において、二級行政区画に分類される行政体の一種である。自治区人民政府は城関区内に設置されている。本市の東方に位置する[[山南市|ロカ市]]とともに、中央チベット東部の「[[ウー (チベット)|ウー地方]]」を構成する。
総面積3万平方キロ。 人口87万人、非農業人口14万人。[[チベット族]]が87%を占める。
== 概要 ==
本市の中心部に設置された[[城関区]]は、古くから[[チベット]]の政治的、文化的中枢であった[[ラサ|古都・ラサ]]であり、[[吐蕃]]王朝や[[ダライ・ラマ]]政権の時代には[[首都]]がおかれた。この'''古都ラサ'''はチベット、[[モンゴル]]、[[満州民族|満州]]などの諸民族から構成される[[チベット仏教文化圏]]の中枢都市であった。
[[中華人民共和国]]が[[1956年]]に設置した[[西蔵自治区籌備委員会]](チベット自治区準備委員会)はこの市に本拠を置き、[[1965年]]に発足させた[[チベット自治区|西蔵自治区]]の[[省都|首府]]にもなっている。
== 名称 ==
[[チベット語]]でラ (ལྷ་ lha) は神もしくは仏、サ (ས sa) は土地を意味し、「聖地」を意味する。標準チベット語での正式名はラサ・ドンキェル(ལྷ་ས་གྲོང་ཁྱེར་ lha sa grong khyer)。ラサ方言では {{IPA|l̥ɛːsa}} ヘーサ<ref>ལྷའུ་ ས lha'i sa、注:[[無声音]]のため、ヘーサと聞こえる</ref>と呼ばれている。
== 地理 ==
チベット中央部、[[ブラマプトラ川|ヤルンツァンポ河]]流域に位置する。[[海抜]] 3,700 メートルにある。
ラサ市は、古都ラサとその郊外からなる[[城関区 (ラサ市)|城関区]]と、その西の[[トゥールン・デチェン区]]、周辺の6つの[[県 (中華人民共和国)|県]]([[ゾン]])で構成される。本市の東方に位置する[[山南地区]]とともに、中央チベット東部の[[ウー (チベット)|ウー]]地方を構成する。[[チベット民族]]が87パーセントを占める。
=== 気候 ===
[[ケッペンの気候区分]]では、[[温帯夏雨気候]](Cwb)と[[ステップ気候]](BSk)との境にあたる。
{{Infobox Weather
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|source =[http://cdc.cma.gov.cn/dataSetLogger.do?changeFlag=pageid=3 中国气象局 国家气象信息中心]
|accessdate = 2017-01-01
}}
== 歴史 ==
[[7世紀]]前半、[[吐蕃 (王朝)|吐蕃]]の[[ソンツェン・ガンポ]]の時代にチベットの都と定められた。[[9世紀]]に吐蕃が崩壊して以後、チベットの政治的中心は、時期ごとの覇者たちの本拠に転々と移動したが、[[トゥルナン寺]]を有するラサの宗教的中心地としての地位は不動であった。17世紀に発足した[[ガンデンポタン]]政権の時代(1642―1959)に再びチベットの政治的中枢の所在地となった。[[ガンデンカンサル宮]]、[[ポタラ宮]]、[[ノルブリンカ宮]]などの施設は、この政権の時代の行政機構の拠点として建設されたものである。
中華人民共和国は[[1951年]]に[[人民解放軍]]をラサに進駐させたが、[[ガンデンポタン]]との間に締結した[[17ヶ条協定]]に基づき、引き続きガンデンポタンによる統治が継続した。[[1959年]]に[[チベット動乱]]がラサにまで波及、[[ダライラマ]]と[[ガンデンポタン]]はチベットを脱出、中国政府は「原西蔵地方政府(=ガンデンポタン)の廃止」を布告、ガンデンポタンの管轄下にあったチベットの[[西蔵]]部分に対する統治に乗り出し、ガンデンポタン時代の行政区画を改廃し、翌[[1960年]]、古都ラサとその近隣地方をあわせて「地級市」ラサ市を設置した。
[[1986年]]以来対外開放され、テレビ塔も建つなど[[西部大開発]]が進められ、次第に[[観光都市]]として発展している。
== 行政区画の変遷 ==
1950年代初頭、ラサの環状巡礼路[[ラサ#古都ラサの構造と行政|リンコル路]]の内部(古都ラサ)は[[ミプン]]が、古都ラサ近郊の18の[[ゾン]](県級の地方行政単位)・[[シカ]]は[[ショル=レーグン]]が、[[ウー]]地方の北部は[[チキャプ|ウー=チキャプ]](ウー総督府)が管轄していた。
1960年の中国人民政府による'''ラサ市'''の設置にあたり、以上の地域に加え、[[チキャプ|チャン・チキャプ]](北方総督府)の管轄下にあった一部のゾン・シカが「ラサ市」に組み込まれ、「城関区」とラサ市所属の7県に再編された。
[[1964年]]、行政区画が再編され、[[ニャンティ地区]]から4県が移管された。
その後も隣接の地区とで管轄県の移動があり、[[2005年]]に7県となる。
== 行政区画 ==
3市轄区・5県を管轄する。
* 市轄区:
**[[城関区 (ラサ市)|城関区]]({{lang|bo|ཁྲིན་ཀོན་ཆུས།་}} : khrin kon chus)
**[[トゥールン・デチェン区|トゥールン・デチェン(堆龍徳慶)区]]({{lang|bo|སྟོད་ལུང་བདེ་ཆེན་ཆུས།}} : stod lung bde chen chus)
**[[タクツェ区|タクツェ(達孜)区]]({{lang|bo|སྟག་རྩེ་་ཆུས།}} : stag rtse chus)
* 県:
**[[ルンドゥプ県|ルンドゥプ(林周)県]]({{lang|bo|ལྷུན་གྲུབ་རྫོང་།}} : lhun grub rdzong)
**[[ニェモ県|ニェモ(尼木)県]]({{lang|bo|སྙེ་མོ་རྫོང་།}} : snye mo rdzong)
**[[ダムシュン県|ダムシュン(当雄)県]]({{lang|bo|འདམ་གཞུང་རྫོང་།}} : 'dam gzhung rdzong)
**[[チュシュル県|チュシュル(曲水)県]]({{lang|bo|ཆུ་ཤུར་རྫོང་།}} : chu shur rdzong)
**[[メルド・グンカル県|メルド・グンカル(墨竹工卡)県]]({{lang|bo|མལ་གྲོ་གུང་དཀར་རྫོང་།}} : mal gro gung dkar rdzong)
{|class="wikitable"
!ラサの地図
|-
| <div style="position: relative" class="center">
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{{Image label|x=1150|y=1260|scale=655/2340|text={{vtext|[[城関区 (ラサ市)|<span style="color: black;">'''城関区'''</span>]]}}}}
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|}
=== 年表 ===
この節の出典<ref>[http://xzqh.mca.gov.cn/description?dcpid=1 县级以上行政区划变更情况] - [[中華人民共和国民政部]]</ref><ref>[https://www.xzqh.org/html/list/28.html 西藏自治区 - 区划地名网]</ref>
====ラサ直轄区====
* 1951年5月23日 - [[中華人民共和国]][[チベット地方]]'''ラサ直轄区'''が成立。'''[[デチェン]][[ゾン]]'''・'''[[ドンガル]]ゾン'''・'''[[ボムドイ]][[シカ (チベット)|シカ]]'''・'''[[ナムギツェ]]シカ'''・'''[[ニェタン]]シカ'''・'''[[リウ]]シカ'''・'''[[ツェブリン]]シカ'''・'''[[ロマイ]]シカ'''・'''[[ニャンル]]シカ'''・'''[[ツェル]]シカ'''・'''[[チュルン]]シカ'''・'''[[ザシ]]シカ'''・'''[[ザ]]シカ'''・'''[[ルンバ]]シカ'''・'''[[チェンゴ]]シカ'''・'''[[ナムジェゴン]]シカ'''・'''[[ギャン]]シカ'''・'''[[クプンタン]]シカ'''が発足。(2ゾン16シカ)
* 1952年 - デチェンゾン・ドンガルゾン・ボムドイシカ・ナムギツェシカ・ニェタンシカ・リウシカ・ツェブリンシカ・ロマイシカ・ニャンルシカ・ツェルシカ・チュルンシカ・ザシシカ・ザシカ・ルンバシカ・チェンゴシカ・ナムジェゴンシカ・ギャンシカ・クプンタンシカが'''[[ウー (チベット)|ウー]]・[[チキャプ]]'''に編入。
====ウー・チキャプ====
* 1952年 - ラサ直轄区'''デチェンゾン'''・'''ドンガルゾン'''・'''ボムドイシカ'''・'''ナムギツェシカ'''・'''ニェタンシカ'''・'''リウシカ'''・'''ツェブリンシカ'''・'''ロマイシカ'''・'''ニャンルシカ'''・'''ツェルシカ'''・'''チュルンシカ'''・'''ザシシカ'''・'''ザシカ'''・'''ルンバシカ'''・'''チェンゴシカ'''・'''ナムジェゴンシカ'''・'''ギャンシカ'''・'''クプンタンシカ'''を編入。'''ウー・チキャプ'''が成立。(7ゾン21シカ)
** デチェン・ゾンの一部が分立し、'''[[ルンドゥプ県|ルンドゥプ]]ゾン'''・'''[[タクツェ県|タクツェ]]ゾン'''・'''[[メルド・グンカル県|メルドグンカル]]ゾン'''・'''[[トゥールン・デチェン県|トゥールンデチェン]]ゾン'''・'''[[サラン]]{{要曖昧さ回避|date=2023年6月}}シカ'''・'''[[ランダン]]シカ'''・'''[[ガツェ]]シカ'''・'''[[ヤンバジェン]]シカ'''が発足。
** ナムギツェ・シカが分割され、'''[[チュシュル県|チュシュル]]ゾン'''・'''ナムシカ'''・'''[[シェロン]]シカ'''が発足。
** ギャン・シカが分割され、'''[[モンガルギャン]]シカ'''・'''[[マルギャン]]シカ'''が発足。
** クプンタン・シカがツェル・シカに編入。
* 1955年3月9日 - ウー・チキャプが'''ラサ弁事処'''に改称。
====ラサ弁事処====
* 1955年3月9日 - ウー・チキャプが'''ラサ弁事処'''に改称。(7ゾン25シカ)
** チャン・[[チキャプ]]'''[[ポンド県|ポンド]]シカ'''・'''[[ダムシュン県|ダムシュン]]シカ'''・'''[[ベツァン]]シカ'''・'''[[タクポツォセ]]シカ'''・'''[[ダモチュコル]]シカ'''を編入。
** ザシカ・ルンバシカ・チェンゴシカ・ナムジェゴンシカが'''[[山南地区|山南弁事処]]'''に編入。
** ダムシュン・シカの一部が分立し、'''[[ニンジュン]]シカ'''・'''[[ナムツォ]]シカ'''が発足。
** ナム・シカの一部が分立し、'''[[セル]]・シカ'''が発足。
* 1956年 - デチェン・ゾンが弁事処に移行し、'''[[デチェン・ゾン弁事処]]'''となる。(6ゾン25シカ1弁事処)
* 1957年 - メルド・グンカル・ゾンの一部が分立し、'''[[ジグン]]・ゾン'''が発足。(7ゾン25シカ1弁事処)
* 1959年7月23日 - ツェブリンシカ・ロマイシカ・ニャンルシカ・ツェルシカ・チュルンシカ・ザシシカ・ベツァンシカ・タクポツォセシカ・ダモチュコルシカが合併し、地級市の'''ラサ市'''となる。(7ゾン16シカ1弁事処)
* 1959年8月 - チュシュルゾン・セルシカ・ナムシカ・シェロンシカ・ニェタンシカが合併し、'''[[チュシュル県]]'''が発足。(1県6ゾン12シカ1弁事処)
* 1959年8月14日 - ルンドゥプゾン・ポンドシカが合併し、'''[[ルンドゥプ県]]'''が発足。(2県5ゾン11シカ1弁事処)
* 1959年9月 (7県)
** メルドグンカルゾン・ジグンゾンが合併し、'''[[メルド・グンカル県]]'''が発足。
** モンガルギャンシカ・マルギャンシカが合併し、'''[[ニェモ県]]'''が発足。
** タクツェゾン・デチェンゾン弁事処・ボムドイシカが合併し、'''[[タクツェ県]]'''が発足。
** ダムシュンシカ・ヤンバジェンシカ・ニンジュンシカ・ナムツォシカが合併し、'''[[ダムシュン県]]'''が発足。
** サランシカ・ランダンシカ・ガツェシカが合併し、'''[[ポンド県|ポンド(旁多)県]]'''が発足。
** トゥールンデチェンゾン・ドンガルゾン・リウシカが'''ラサ市'''に編入。
* 1960年1月7日 - タクツェ県・メルドグンカル県・ダムシュン県・ルンドゥプ県・ニェモ県・チュシュル県・ポンド県が'''ラサ市'''に編入。
====チベット地方ラサ市====
* 1959年7月23日 - ラサ弁事処ツェブリンシカ・ロマイシカ・ニャンルシカ・ツェルシカ・チュルンシカ・タシシカ・ベツァンシカ・タクポツォセシカ・ダモチュコルシカが合併し、'''ラサ市'''が発足。(1市)
* 1959年9月 - ラサ弁事処'''トゥールンデチェンゾン'''・'''ドンガルゾン'''・'''リウシカ'''を編入。(1市1区1県)
** トゥールンデチェンゾンの一部が分立し、'''[[西郊区]]'''が発足。
** ドンガルゾン・リウシカおよびトゥールンデチェンゾンの残部が合併し、'''[[トゥールン・デチェン県]]'''となる。
* 1960年1月7日 - ラサ弁事処'''[[タクツェ県]]'''・'''[[メルド・グンカル県|メルドグンカル県]]'''・'''[[ダムシュン県]]'''・'''[[ルンドゥプ県]]'''・'''[[ニェモ県]]'''・'''[[チュシュル県]]'''・'''[[ポンド県]]'''を編入。(1市1区8県)
* 1960年2月 - トゥールンデチェン県・西郊区が合併し、'''[[トゥールン・デチェン県]]'''が発足。(1市8県)
* 1962年10月20日 - ポンド県がルンドゥプ県に編入。(1市7県)
* 1964年7月27日 - ニンティ専区'''[[ニンティ県]]'''・'''[[メンリン県]]'''・'''[[コンボギャムダ県]]'''・'''[[メトク県]]'''・'''[[ショバ県|ショバ(雪巴)県]]'''を編入。(1市12県)
* 1964年10月31日 - ショバ県がニンティ県・コンボギャムダ県、ナクチュ専区[[ラリ県]]に分割編入。(1市11県)
* 1965年8月23日 - [[チベット自治区]]の成立により、チベット自治区'''ラサ市'''となる。
====チベット自治区ラサ市====
* 1980年 - '''[[城関区 (ラサ市)|城関区]]'''を設置。(1区11県)
* 1983年10月8日 - メトク県・メンリン県・ニンティ県・コンボギャムダ県が'''[[ニンティ地区]]'''に編入。(1区7県)
* 1988年7月 - タクツェ県の一部がルンドゥプ県に編入。(1区7県)
* 2015年10月13日 - トゥールン・デチェン県が区制施行し、'''[[トゥールン・デチェン区]]'''となる。(2区6県)
* 2017年7月18日 - タクツェ県が区制施行し、'''[[タクツェ区]]'''となる。(3区5県)
== 経済 ==
ラサ市人民政府は2005年の経済目標として市の総生産額87億人民元(前年比16%増)、市区住民一人当たり収入10,000元(同8%増)、農民収入2,985元(同14%増)を掲げている。この数字をみると、市区部は観光業を中心に収入増が進んでいるが、農村部にはなかなか及んでいないように見える。[[2006年]][[7月]]に[[青蔵鉄道]]が開通し、観光業の飛躍的な発展が予測されている。
== 交通 ==
[[File:Tibet D04 - Lhasa.jpg|thumb|280px|青蔵鉄道ラサ駅]]
=== 鉄道 ===
*[[ファイル:China Railways.svg|15px]][[中国鉄路総公司]]
**[[青蔵鉄道]]
**[[ラサ・シガツェ鉄道]]
=== 道路 ===
*高速道路
**[[ファイル:Tibet Expwy S1 sign no name.svg|20px]][[拉貢高速道路]]
*国道
**[[拉林高等級公路]]
**[[G109国道]]([[青蔵公路]])
**[[G318国道]]
=== 航空 ===
中心部より車で30分程度の場所に[[ラサ・クンガ空港]]がある。所在自治体は[[山南市]]。
== 教育 ==
*[[西蔵大学]]ラサ・キャンパス
== 文化 ==
* [[ポタラ宮]]
* [[デプン寺]]
* [[セラ寺]]
* [[トゥルナン寺]]
* [[ネチュン寺]]
* [[レティン寺]]
* [[ガンデン寺]]
== 観光 ==
ラサは[[中華人民共和国国務院|国務院]]により[[国家歴史文化名城]]に指定され、[[ポタラ宮]]は[[1994年]]に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に「[[ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群]]」として登録、[[トゥルナン寺]]も[[2000年]]に拡大登録、[[ノルブリンカ]]も[[2001年]]拡大登録された。現在、年間40万人から50万人の観光客がある。
==国際関係==
===姉妹都市===
*{{Flagicon|NEP}}[[カトマンズ]]([[ネパール連邦民主共和国]] [[第三州]])
*{{Flagicon|USA}}[[ボルダー (コロラド州)|ボルダー]]([[アメリカ合衆国]] [[コロラド州]])
*{{Flagicon|RUS}}[[エリスタ]]([[ロシア連邦]] [[カルムイク共和国]])
*{{Flagicon|ISR}}[[ベト・シェメシュ|ベトシェメシュ]]([[イスラエル国]] [[エルサレム地区]])
*{{Flagicon|BOL}}[[ポトシ]]([[ボリビア多民族国]] [[ポトシ県]])
== 出身著名人 ==
*[[ツェリン・オーセル]] (作家・ジャーナリスト)
== 関連項目 ==
*[[ラサ]]
*[[八角街]]
== 出典 ==
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== 外部リンク ==
{{Commons&cat|ལྷ་ས་|Lhasa}}
*[http://www.lasa.gov.cn/ 拉薩市人民政府]
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スーパーチャージャー
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スーパーチャージャー (英: supercharger) は本来、過給機全般を指すが、機械式過給機を指して「スーパーチャージャー」と呼び、排気タービン式過給機(ターボチャージャー)とは区別されるのが通例となっている。機械式過給器を特に区別する場合はメカニカル・スーパーチャージャーと言われる。
スーパーチャージャーは、エンジンの出力軸(クランクシャフト)からベルトなどを介して取り出した動力や電動モーターによって圧縮機(コンプレッサー)を駆動し、空気を圧縮してエンジンに供給する補機であり、圧縮機の種類により遠心式、ルーツ式、リショルム式などがある。ターボチャージャーと同様にオイルで潤滑されているが、スーパーチャージャーの場合、エンジンオイルではなく専用のスーパーチャージャーオイルで潤滑されており、エンジンオイルのメンテナンスが寿命に影響することはない。
排気の流れを動力源として利用するターボチャージャーと比較すると、排ガス浄化性能が高く、スロットル(アクセル)操作に対する反応や中低速での出力特性が優れている。一方、機械式スーパーチャージャーのうちエンジンの出力軸から動力を得ている場合、消費される出力はスーパーチャージャーの回転速度の2乗に比例するため高回転域の出力がターボチャージャーに比べ劣る。機械式スーパーチャージャーの欠点を補うため、動力源を電動モーターとしたスーパーチャージャーが小排気量の自動車向けとして開発され、量産化され始めている。しかしながら、定常運転の時間が長い航空機用や産業用のエンジンではターボチャージャーのほうが主流となっていて、スーパーチャージャーは一部の自動車用ガソリンエンジンに採用されているのみである。
航空機の技術が発展して大気密度の低い高高度を飛行するようになると、大気密度の低下によるレシプロエンジンの出力低下を補うために過給機が開発され、機械式のスーパーチャージャーが採用されていた時代があった。その後、第二次世界大戦直前にアメリカでターボチャージャーが実用化されてスーパーチャージャーの採用例は徐々に少なくなった。さらに戦後まもなくジェットエンジンが実用化されてレシプロエンジンを搭載する航空機は小型機に限られるようになり、過給機が搭載される場合もターボチャージャーが搭載される。航空機に用いられたスーパーチャージャーの例は第二次世界大戦までの軍用機に見られ、遠心式が多く採用された。
航空機の場合は、単なる出力向上だけでなく高空での出力維持にも過給機が必要となるため、航空機用のエンジンは、同じエンジンであっても主用する高度により過給機の調整がなされる場合もある(低高度で活動する地上攻撃機向けは、翼車を小径に、高空用は翼車を大径にするなど)。航空機に過給機を用いて地上1気圧下と同等の出力が得られる高度は臨界高度と呼ばれるが、臨界高度を高くするためには過給機の回転速度を速くするなどの方法で過給圧を高くする必要がある。しかし一方で、過給圧を高くすると機械損失(メカニカルロス)が大きくなり、低高度での出力に制限がかかる。このため航空機に採用されていたスーパーチャージャーは、高度によって回転速度を切り替えることができる機械式変速機や、流体継手を用いた無段階変速機を備えるようになった。
軍用機の場合、二速過給機とした場合でも、十分な出力が発揮できるのは通常6,000m程度とされ、例えばFw190やホーカータイフーン等の一段過給のエンジンの航空機は、これ以上の高度では急激に出力が低下するのが泣き所とされていた。高空での出力を維持するためには、複数のスーパーチャージャーを組み込み、一段目で圧縮された空気をさらに二段目で圧縮する二段過給と呼ばれる方式が必要になる。ターボチャージャー(排気タービン)を搭載した航空機でもこれは同様で、1段目過給をターボチャージャー、二段目過給をエンジンに装備されている機械式スーパーチャージャーで行う二段過給を行う例が多い。
闇雲に加給圧を上げても、圧縮によって高温になった空気により異常燃焼を起こすため、吸入気を冷やすために、水メタノール噴射装置を追加したり、一段目と二段目の間に中間冷却器(インタークーラー)を組み込むこと(英国ロールス・ロイス マーリンなど)も行われた。
スーパーチャージャーは小排気量の4気筒エンジン特有の細い低速トルクを補う目的で一時期各メーカーが採用車種をラインナップしていた。コストを抑えやすいためルーツ式が主流である。イートン・コーポレーションでは四葉のものも開発・製造しており量産車への採用例もある。また、ルーツ式スーパーチャージャーとターボチャージャーを組み合せ、低回転域ではスーパーチャージャーが働き、高回転域ではターボチャージャーが働くツインチャージャーを採用する例もあった。レース用エンジンには二段過給式も採用された例がある。しかし、ルーツ式は過給圧を高めるほど効率は低くなり、騒音を生じやすいほか、装置が大きく重い欠点があることから、後付けで搭載されるアフターマーケット製品のスーパーチャージャーを中心に遠心式を採用する例もある。また、スーパーチャージャーが組み合わせられるエンジンは基本的にガソリンであり、ディーゼルエンジンの場合元々低速トルクが太いため採用するメリットが乏しく、さらにディーゼル車特有の高圧縮比との両立に問題があり、2ストロークのユニフロー掃気ディーゼルエンジンを除き、日本車においてディーゼルエンジン車のスーパーチャージャー搭載例はない(プレッシャーウェーブ・スーパーチャージャーの搭載車は存在する)。
1921年(大正10年)に、世界で初めてスーパーチャージャー付きエンジンを搭載した量販車「メルセデス6/25/40ps」と「メルセデス10/40/65ps」が、ベルリンモーターショーで公開されている。
過去において日本の自動車税の税額は車体寸法とエンジンの排気量により決定され、過給機の追加は課税に影響しなかったことから、小型乗用車の枠内に納めたシャシに排気量2,000 ccのエンジンと過給機を搭載して最高出力を争うように訴求力を高めていた。その場合においても、小排気量で高回転域の出力を重視する場合はターボチャージャーと比較するとメカニカルロス及び騒音が大きく。またコストパフォーマンスが悪いことから採用例が少なかった。一方、ターボチャージャーの欠点は技術が進歩すると共に解消され、スーパーチャージャーの採用例が増えることはなかった。最高出力を向上する目的で過給機の採用例が増えた日本の自動車業界であったが、自動車による環境負荷を低減することが注目されるようになると最高出力競争が下火になり、過給器を搭載する乗用車は一時的に少なくなった。2010年代から、小排気量のエンジンに過給機を搭載するダウンサイジングコンセプトが世界的に認知され始めたが、ターボチャージャーが主流であり、機械式スーパーチャージャーの採用は一部に留まっている。2019年(平成31年/令和元年)現在国内外で市販されている日本メーカーの乗用車でスーパーチャージャーを搭載しているのは、日産ノートとMAZDA3のみとなっている。 (ただし、マツダは高応答エアサプライと呼んでおり、スーパーチャージャーの扱いではないとしている)
北米向け車種でスーパーチャージャーの採用例は多く、ジャガー、ランドローバー、メルセデス・ベンツなどの欧州各メーカーが、主に北米向けとしてスーパーチャージャー装備車をラインナップしている。また、アフターマーケット用にルーツブロアーやリショルムコンプレッサーが市販されており、ライトトラックの動力性能向上のためにも利用されている。北米日産が生産するピックアップトラックのフロンティアと、それをベースとした廉価SUVである、エクステラのハイパフォーマンスバージョンとして、V6、3.3Lガソリンエンジンにスーパーチャージャーを追加した、VG33ER型がある。
ヨーロッパではメルセデスベンツがルーツブロアーおよびリショルムコンプレッサーを使用している。直列4気筒にはルーツブロアーが組み合わされ、AMGモデルのV6、V8にはリショルムコンプレッサーが組み合わされる。リショルムコンプレッサーについては大排気量のV8エンジン63エンジンに置き換えられつつある。
オートバイ用エンジンでもプジョー・モトシクルから、スーパーチャージャー搭載のスクーターであるプジョー・ジェットフォース・コンプレッサーが、2005年から数年間販売されていた。
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"text": "ヨーロッパではメルセデスベンツがルーツブロアーおよびリショルムコンプレッサーを使用している。直列4気筒にはルーツブロアーが組み合わされ、AMGモデルのV6、V8にはリショルムコンプレッサーが組み合わされる。リショルムコンプレッサーについては大排気量のV8エンジン63エンジンに置き換えられつつある。",
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"text": "オートバイ用エンジンでもプジョー・モトシクルから、スーパーチャージャー搭載のスクーターであるプジョー・ジェットフォース・コンプレッサーが、2005年から数年間販売されていた。",
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スーパーチャージャー は本来、過給機全般を指すが、機械式過給機を指して「スーパーチャージャー」と呼び、排気タービン式過給機(ターボチャージャー)とは区別されるのが通例となっている。機械式過給器を特に区別する場合はメカニカル・スーパーチャージャーと言われる。
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{{otheruseslist|機械式過給機|排気タービン式過給器|ターボチャージャー|本来の意味のスーパーチャージャー|過給機|テスラが提供している充電設備|テスラ (会社)#スーパーチャージャー}}
{{出典の明記|date=2009年4月}}
[[ファイル:Roots blower - 2 lobes.gif|サムネイル|ルーツ式スーパーチャージャーの動作|217x217ピクセル]]
'''スーパーチャージャー''' ({{lang-en-short|supercharger}}) は本来、[[過給機]]全般を指すが、<!--日本では--><!--F1にルノーがターボを持ち込んだ時の例などもありますように、日本に限ったものでもない(少なくとも英語圏もそう)でしょう-->機械式過給機を指して「スーパーチャージャー」と呼び、排気タービン式過給機([[ターボチャージャー]])とは区別されるのが通例となっている<ref>{{Cite book |和書 |year=2003 |title=ボッシュ自動車ハンドブック |publisher=シュタールジャパン |page=436 |isbn=4990476808}}</ref>。機械式過給器を特に区別する場合は'''メカニカル・スーパーチャージャー'''と言われる。
== 概要 ==
スーパーチャージャーは、[[機関 (機械)|エンジン]]の出力軸(クランクシャフト)から[[ベルト (機械)|ベルト]]などを介して取り出した動力や電動モーターによって[[圧縮機]](コンプレッサー)を駆動し、空気を[[圧縮]]してエンジンに供給する補機であり、圧縮機の種類により'''遠心式'''、'''ルーツ式'''、'''リショルム式'''などがある。[[ターボチャージャー]]と同様にオイルで潤滑されているが、スーパーチャージャーの場合、エンジンオイルではなく専用のスーパーチャージャーオイルで潤滑されており、エンジンオイルのメンテナンスが寿命に影響することはない。
; 遠心式
: {{main|遠心式圧縮機}}
: 回転する羽根車(インペラ)によって吸入した空気を圧縮する方式である。空気に速度エネルギーを与えるインペラと外方の断面積を大きくして空気に速度エネルギーを圧力エネルギーにかえるデフューザ、デフューザから出た空気を溜めて圧力を均一化する集合管で構成されている<ref name="koukukougakukouza"/>。
: 主に[[航空機]]用の[[レシプロエンジン]]に使用された方式で、[[自動車]]用としても使用されることがある。
; ルーツ({{lang-en-short|Roots}})式
: 繭型や三つ葉型など、凹凸のある断面形状を持つ一対の[[ローター]]が互いに接触しないようにかみ合った状態で回転してハウジングとローターの凹部に取り込んだ空気を送り出す方式である<ref name=daisyarin>{{Cite book |和書 |year=2003 |title=大車林 自動車情報事典|publisher=三栄書房|isbn= 978-4-87904-678-9}}</ref>。ローターの断面形状には'''サイクロイド型'''、'''エンベロープ型'''ならびに'''インボリュート型'''があり、羽の数は2枚(2葉)から4枚(4葉)、のものが使われている<ref name=daisyarin/>。
: '''ルーツブロア'''({{lang-en-short|Roots-type blower}})とも呼ばれ<ref name=daisyarin/>、[[1866年]]にルーツ兄弟が[[溶鉱炉]]の送風機として[[特許]]を取得した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jsim.or.jp/burowa/03.html|title=ロータリ・ブロワ(ルーツ式)の手引き 3.ロータリ・ブロワ(ルーツ)の歴史|一般社団法人 日本産業機械工業会|accessdate=2015-11-30}}</ref>。{{要出典範囲|date=2015年11月|その後、[[1900年]]に[[ゴットリープ・ダイムラー]]が特許を取った[[機関 (機械)|エンジン]]の過給機として使われた}}。
: 内部圧縮はなく{{要出典範囲|date=2015年11月|高圧過給には向いていない}}。ねじれのない2葉式が古くから利用されているが、加工技術の発展に伴って、ねじれた3葉式や4葉式のも用いられるようになった。これはルーツ式は構造として吐出が間欠的に行われる事となるため脈動が大きく、それによる騒音や振動が生じる為である。基本となる捻れのない2葉式は吐出の間隔が長く、吐出も一気に行われる為これが顕著となる。そこで多葉化する事により吐出の間隔を短縮、さらに捻りを設けることで吐出を緩やかにし脈動を低減している。
; リショルム({{lang-en-short|Lysholm}})式
: {{Main|リショルム・コンプレッサ}}
: らせん状の溝を持つ2つのローターを組合せ、一端からローターの間に空気を取り込み、軸方向に送りながら圧縮して他端へ送り出す方式である<ref name=daisyarin/>。内部圧縮があり高圧過給でも効率が落ちない<ref name="Kanesaka">兼坂弘著『究極のエンジンを求めて』より。</ref>。レシプロ式と比較して振動が少なく、効率が高いことから[[潜水艦]]など、一部の静粛性を求められる艦船で使用される。
; スクロール({{lang-en-short|scroll}})式
: 渦巻形の羽(スクロール)を2つ組合せ、一方を固定してもう一方を回転させずに円運動させることで、渦巻の外縁から空気を取り込み、圧縮させながら中心へと送って吐出する方式である。[[ドイツ]]の自動車メーカー・[[フォルクスワーゲン]]が「Gラーダ」の[[商標]]で、[[フォルクスワーゲン・ポロ|ポロ]] G40、[[:en:Volkswagen Corrado|コラード]] G60、[[フォルクスワーゲン・パサート#3代目 B3 & B4(1988 - 1997年)|パサート]] G60に採用していた。
; スライディングベーン({{lang-en-short|sliding vane}})式
: 放射状にスリットが設けられた円柱状のローターを楕円形のハウジングの中央に配置したり、あるいは円形のハウジングに偏心させて配置し、スリットには複数のベーン(羽根)が法線方向にスライド可能に組み込まれた構造で、ベーンとベーンの間の空間が大きい位相で空気を取り込み、ベーンの回転に伴って空間が小さくなって空気を圧縮して吐出する方式である。[[1930年代]]に[[MG (自動車)|MGカーズ]]が[[:en:Powerplus supercharger|パワープラス・スーパーチャージャー]]の名称で採用し。航空機では[[ユンカース ユモ 205]]エンジンに代表される[[2ストローク機関#対向ピストン式|対向ピストン式]][[:en:Opposed-piston engine|(en)]]2ストロークディーゼルエンジンの掃気デバイスとしてこの方式が採用された。オートバイでは1930年代末に[[DKW]]が[[ロードレース世界選手権]]参戦用の[[スプリット・シングル_(内燃機関)|スプリット・シングル]]2ストロークエンジンを搭載したロードレーサーの掃気デバイスとして、レシプロ式とベーン式を組み合わせて採用した<ref name="DKW">[http://www.kawasakitriplesworldwide.com/triples/gallery/dkw/dkw%20engine.htm]</ref>{{出典無効|date=2015年11月}}。
; レシプロ式
: シリンダー内を往復するピストンで圧縮を行う方式である。1910年代に考案され、ユニフロー掃気式の2ストロークガソリンエンジンの掃気用として採用例がある。
<gallery>
File:Rotary piston pump.svg|二葉ルーツ式の構造
File:Eaton MP45 002.JPG|三葉ルーツ式の吐出部
File:Lysholm screw rotors.jpg|リショルムスクリューローター
File:Two moving spirals scroll pump.gif|スクロール式
File:Powerplus vane-type supercharger diagram.png|ベーン式
File:Two-stroke_vee-twin_engine_with_pumping_cylinders_(section).jpg|レシプロ式
</gallery>
[[排気]]の流れを動力源として利用するターボチャージャーと比較すると、排ガス浄化性能が高く、[[スロットル]](アクセル)操作に対する反応や中低速での出力特性が優れている<ref name=hks>{{Cite web|和書|url=http://www.hks-power.co.jp/product/supercharger/|title=スーパーチャージャー/SUPERCHARGER | 製品情報 | HKS|publisher=株式会社エッチ・ケー・エス|accessdate=2015-12-01}}</ref>。一方、機械式スーパーチャージャーのうちエンジンの出力軸から動力を得ている場合、消費される出力はスーパーチャージャーの回転速度の2乗に比例するため<ref name="koukukougakukouza">航空工学講座10 「航空用ピストン・エンジン」日本航空技術協会 1989年第1版 第4刷 ISBN 4-930858-10-0</ref>高回転域の出力がターボチャージャーに比べ劣る。機械式スーパーチャージャーの欠点を補うため、動力源を電動モーターとしたスーパーチャージャーが小排気量の自動車向けとして開発され、量産化され始めている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.valeo.co.jp/medias/upload/2015/05/79747/2015.pdf|format=pdf|title=自動車技術展:人とくるまのテクノロジー展 2015 ヴァレオ プレスキット|accessdate=2015-12-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://response.jp/article/2015/05/24/251829.html|title=【人とくるまのテクノロジー展15】ヴァレオ、電動ターボを量産化 | レスポンス|publisher=株式会社イード|accessdate=2015-12-01}}</ref>。しかしながら、定常運転の時間が長い航空機用や産業用のエンジンではターボチャージャーのほうが主流となっていて、スーパーチャージャーは一部の自動車用ガソリンエンジンに採用されているのみである。
== 航空機での利用 ==
航空機の技術が発展して大気密度の低い高高度を飛行するようになると、大気密度の低下によるレシプロエンジンの出力低下を補うために過給機が開発され、機械式のスーパーチャージャーが採用されていた時代があった。その後、第二次世界大戦直前にアメリカでターボチャージャーが実用化されてスーパーチャージャーの採用例は徐々に少なくなった。さらに戦後まもなく[[ジェットエンジン]]が実用化されてレシプロエンジンを搭載する航空機は小型機に限られるようになり、過給機が搭載される場合もターボチャージャーが搭載される。航空機に用いられたスーパーチャージャーの例は第二次世界大戦までの軍用機に見られ、遠心式が多く採用された。
航空機の場合は、単なる出力向上だけでなく高空での出力維持にも過給機が必要となるため、航空機用のエンジンは、同じエンジンであっても主用する高度により過給機の調整がなされる場合もある(低高度で活動する地上攻撃機向けは、翼車を小径に、高空用は翼車を大径にするなど)。航空機に過給機を用いて地上1気圧下と同等の出力が得られる高度は'''臨界高度'''と呼ばれるが、臨界高度を高くするためには過給機の回転速度を速くするなどの方法で過給圧を高くする必要がある。しかし一方で、過給圧を高くすると機械損失(メカニカルロス)が大きくなり、低高度での出力に制限がかかる。このため航空機に採用されていたスーパーチャージャーは、高度によって回転速度を切り替えることができる機械式変速機や、[[流体継手]]を用いた無段階変速機を備えるようになった。
軍用機の場合、二速過給機とした場合でも、十分な出力が発揮できるのは通常6,000m程度とされ、例えばFw190やホーカータイフーン等の一段過給のエンジンの航空機は、これ以上の高度では急激に出力が低下するのが泣き所とされていた。高空での出力を維持するためには、複数のスーパーチャージャーを組み込み、一段目で圧縮された空気をさらに二段目で圧縮する'''二段過給'''と呼ばれる方式が必要になる。ターボチャージャー(排気タービン)を搭載した航空機でもこれは同様で、1段目過給をターボチャージャー、二段目過給をエンジンに装備されている機械式スーパーチャージャーで行う二段過給を行う例が多い。
闇雲に加給圧を上げても、圧縮によって高温になった空気により異常燃焼を起こすため、吸入気を冷やすために、[[水メタノール噴射装置]]を追加したり、一段目と二段目の間に'''中間冷却器'''([[インタークーラー]])を組み込むこと([[イギリス|英国]][[ロールス・ロイス マーリン]]など)も行われた。
== 自動車での利用 ==
スーパーチャージャーは小排気量の4気筒エンジン特有の細い低速トルクを補う目的で一時期各メーカーが採用車種をラインナップしていた。コストを抑えやすいためルーツ式が主流である。[[イートン・コーポレーション]]では四葉のものも開発・製造しており量産車への採用例もある。また、ルーツ式スーパーチャージャーとターボチャージャーを組み合せ、低回転域ではスーパーチャージャーが働き、高回転域ではターボチャージャーが働く[[ツインチャージャー]]を採用する例もあった<ref>[[ランチア・デルタS4]]や[[日産・マーチR]]、[[フォルクスワーゲン・ゴルフ]]GT [[TSI]]、[[フォルクスワーゲン・ジェッタ]]TSIコンフォートライン</ref>。[[モータースポーツ|レース]]用エンジンには二段過給式も採用された例がある<ref>カール・ルドヴィクセン著、田口英治、檜垣和夫訳『勝利のエンジン50選』より。</ref>。しかし、ルーツ式は過給圧を高めるほど効率は低くなり<ref name="Kanesaka"/>、騒音を生じやすい<ref>「MotorFan illustrated」Vol.64 p.075</ref>ほか、装置が大きく重い欠点があることから、後付けで搭載される[[アフターマーケット]]製品のスーパーチャージャーを中心に遠心式を採用する例もある<ref name=hks/>。また、スーパーチャージャーが組み合わせられるエンジンは基本的にガソリンであり、ディーゼルエンジンの場合元々低速トルクが太いため採用するメリットが乏しく、さらにディーゼル車特有の高圧縮比との両立に問題があり、[[2ストローク機関#ユニフロー・スカベンジング・ディーゼルエンジン_(UD)|2ストローク]]の[[ユニフロー掃気ディーゼルエンジン]]を除き、日本車においてディーゼルエンジン車のスーパーチャージャー搭載例はない([[プレッシャーウェーブ・スーパーチャージャー]]の搭載車は存在する)。
[[1921年]](大正10年)に、世界で初めてスーパーチャージャー付きエンジンを搭載した量販車「メルセデス6/25/40ps」と「メルセデス10/40/65ps」が、[[フランクフルトモーターショー|ベルリンモーターショー]]で公開されている。
=== 日本車 ===
過去において日本の[[自動車税]]の税額は車体寸法とエンジンの[[排気量]]により決定され、過給機の追加は課税に影響しなかったことから、[[小型乗用車]]の枠内に納めたシャシに排気量2,000 ccのエンジンと過給機を搭載して最高出力を争うように訴求力を高めていた。その場合においても、小排気量で高回転域の出力を重視する場合はターボチャージャーと比較するとメカニカルロス及び騒音が大きく<ref group="注釈">何らかの理由によりスーパーチャージャーへの空気の供給が断たれた場合、非常に大きな騒音が発生する。ターボ車ではこのような音は構造上発生しない</ref>。またコストパフォーマンスが悪いことから採用例が少なかった。一方、ターボチャージャーの欠点は技術が進歩すると共に解消され、スーパーチャージャーの採用例が増えることはなかった。最高出力を向上する目的で過給機の採用例が増えた日本の自動車業界であったが、自動車による環境負荷を低減することが注目されるようになると最高出力競争が下火になり、過給器を搭載する乗用車は一時的に少なくなった。[[2010年代]]から、小排気量のエンジンに過給機を搭載する[[ダウンサイジングコンセプト]]が世界的に認知され始めたが、ターボチャージャーが主流であり、機械式スーパーチャージャーの採用は一部<ref group="注釈">日産・ノートなど</ref>に留まっている。[[2019年]]([[平成]]31年/[[令和]]元年)現在国内外で市販されている日本メーカーの乗用車でスーパーチャージャーを搭載しているのは、[[日産・ノート|日産ノート]]と[[マツダ・MAZDA3|MAZDA3]]のみとなっている。
(ただし、マツダは高応答エアサプライと呼んでおり、スーパーチャージャーの扱いではないとしている)
; 民生デイゼル工業(現:[[UDトラックス]])
: [[アメリカ合衆国|米国]][[ゼネラルモーターズ]] (GM) が[[1938年]]に実用化した[[ユニフロー掃気ディーゼルエンジン|ユニフロー スカベンジング ディーゼルエンジン]]の[[ライセンス生産|ライセンス]]を、[[戦後]]に[[民生産業|民生デイゼル工業]](現:[[UDトラックス]])が取得し、[[1955年]]([[昭和]]30年)から「UDエンジン」の名前で生産をはじめた。そのエンジンの掃気に二葉式ルーツブロアーを利用し、日本初の[[大量生産|量産]]スーパーチャージドエンジンであった。エンジンは[[モジュール|モジュラー]]設計で、[[直列型エンジン|直列]]3、4、5気筒と[[V型エンジン|V型]]8、12気筒をラインナップしていたが、2サイクルエンジンの廃止に伴って掃気用のスーパーチャージャーは採用されなくなった。
; [[トヨタ自動車]]
: AW11型後期の[[トヨタ・MR2|MR2]]、AE92と101型のMT車のみ[[トヨタ・カローラレビン|カローラレビン]]、[[トヨタ・スプリンタートレノ|スプリンタートレノ]]の[[トヨタ・4A-GE|4A-GE型]]、GS121と131型[[トヨタ・クラウン|クラウン]]、GX81型前期のみ[[トヨタ・マークII|マークII]]、[[トヨタ・チェイサー|チェイサー]]、[[トヨタ・クレスタ|クレスタ]]の[[トヨタ・G型エンジン_(2代目)|1G-GE型]]、TCR20型[[トヨタ・エスティマ|エスティマ]]の[[トヨタ・TZエンジン|2TZ型]]の各エンジンにスーパーチャージャー付きの設定があった。それぞれ、自然吸気の仕様から[[圧縮比]]を下げ、エンジンルーム内の部品配置を変更し、ルーツ式が組み合わされた。スーパーチャージャーへの動力伝達は[[クラッチ#電磁摩擦クラッチ|電磁クラッチ]]を介して行われ、車速やスロットル開度、エンジン回転数を検知して、スーパーチャージャーが[[抗力|抵抗]]になるような条件下ではクラッチを切り、出力損失を抑える制御とされていた。[[アイドリング]]時にはスーパーチャージャーが駆動されず、スロットル開と車速信号を検出するとクラッチが接続されて駆動する。2017年(平成29年)に限定生産された[[トヨタ・ヴィッツ|ヴィッツGRMN]]にもスーパーチャージャーが搭載された。
; [[日産自動車]]
: 日産では、スーパーチャージャーとターボチャージャーを組み合わせた、[[ツインチャージャー]]エンジンの[[日産・MA09ERT|MA09ERT型]]が[[日産・マーチ#R|マーチR]]と[[日産・マーチ#スーパーターボ|マーチスーパーターボ]]に搭載された。
: 2012年(平成24年)9月、[[ダウンサイジングコンセプト]]による小型車向けの燃費向上策として、直列3気筒の1.2リットル[[日産・HRエンジン|HR12DDR型]]では[[ガソリン直噴エンジン|直噴]][[ミラーサイクル]]化とスーパーチャージャーとを組み合わせ、同社のE12型[[日産・ノート#2代目 E12型(2012年 - 2020年)|ノート]]に搭載された。ミラーサイクルにより高効率化を図るとともに、その欠点であるトルクの低下に対して1.5リットル相当の動力性能も得るために、必要により機械式スーパーチャージャーを作動させて過給している<ref>「モーターファン別冊ニューモデル速報No.471 新型ノートのすべて」P.14 - 17による。</ref>。
; [[富士重工業]](現:[[SUBARU]])
: [[1988年]](昭和63年)式[[スバル・レックス|レックス]]で、それまでのターボに代わってスーパーチャージャーが採用された。<ref group="注釈">軽自動車の4気筒エンジンという特性上、低速トルクを補うにはターボラグのないスーパーチャージャーが最適という当時の富士重工の車両開発担当者の判断によるものである</ref>[[インテークマニホールド|吸気管]]内圧力を利用して開閉する過給気バイパスバルブにより走行負荷状態に応じて過給をオン・オフする方式とを採用した。その後、[[スバル・ヴィヴィオ|ヴィヴィオ]]、[[スバル・プレオ|プレオ]]、[[スバル・R1|R1]]、[[スバル・R2|R2]]、[[スバル・ステラ|ステラ]]でもスーパーチャージャーを採用し、プレオでは[[燃費]]対策として、日本車として初めて低圧過給(マイルドチャージ)を採用した。軽[[商用車]]では[[スバル・サンバー|サンバー]]にスーパーチャージャーが搭載されたが、エンジンルームのスペースの都合上インタークーラーは装備されなかった。
; [[ダイハツ工業]]
: [[1987年]](昭和62年)に[[ダイハツ・ハイゼットトラック|ハイゼットトラック]]のEB型550 ccエンジンで採用されたものの、補機スペースの関係で[[カーエアコン|エアコン]]との同時装着ができないなど制約が多く、660 cc化された際に廃止された。
; [[スズキ]]
: 1987年(昭和62年)に[[スズキ・キャリイ|キャリイ]]で採用され、[[1989年]](平成元年)に実施された大規模なマイナーチェンジの際に廃止された。
; [[三菱自動車工業]]
: [[1986年]](昭和61年)発売のS10系2代目[[三菱・デボネア|デボネアV]]の2,000 cc [[V型6気筒|V6]](6G71型エンジン)モデルで初めて採用された。続いて1987年(昭和62年)に[[軽トラック]]の[[三菱・ミニキャブ]]、軽[[ワンボックスカー|ワンボックス]]の[[三菱・ブラボー]]でU14/U15T(548 cc、直列3気筒[[三菱・3G8型エンジン|3G81型エンジン]])に採用され、[[1990年]](平成2年)に660 ccモデルが追加された後も併売された。
; [[マツダ]]
: [[1993年]](平成5年)10月に発売された[[マツダ・ミレーニア|ユーノス・800]]で、量産車初の[[ミラーサイクル]]エンジンであるKJ-ZEM型 V6 [[DOHC]] 2,300 ccエンジンに[[IHI]]製リショルム・コンプレッサーが採用された。また、[[2019年]]([[令和]]元年)から[[マツダ・MAZDA3|MAZDA3]]に搭載された[[マツダ・SKYACTIV-X|SKYACTIV-X]]には、イートン製のスーパーチャージャーが採用されているが、これはマツダが「高応答エアサプライ」と呼ぶ「送風機」で、過給器の扱いではない<ref>{{Cite web|和書|url=https://motor-fan.jp/article/10012830|title=SKYACTIV-X搭載のMAZDA3、400km走ってわかった○と×。数値(燃費)に表れない魅力はあるか? |work=[[モーターファン|Motor Fan]] TECH|publisher=[[三栄書房]]|date=2019-12-16|accessdate=2019-12-24}}</ref>。
; [[本田技研工業]]
: [[2013年]](平成25年)に[[CR-Z]]がマイナーチェンジした際に[[M-TEC|無限]]・RZ(コンプリートカー扱い)として300台限定で販売された。ホンダの市販車において唯一のスーパーチャージャーの搭載例となっている。
; [[川崎重工業]](二輪車製造事業部、現:[[カワサキモータース]])
: [[カワサキ・ニンジャ|Ninja H2]]シリーズ(H2、H2R、H2SX)及びZ H2に、スーパーコンピュータ「[[京 (スーパーコンピュータ)|京]]」でインペラの気流解析を行い開発した遠心式スーパーチャージャーを搭載。日本国内でスーパーチャージャーを装備した車種はこの4車種のみであり、H2・H2Rはパワー型、H2SX・Z H2はバランス型スーパーチャージャーとされている。
=== 日本国外 ===
[[File:Eaton MP62 001.JPG|200px|thumb|right|アフターマーケットの例<br />[[:en:Eaton Corporation|イートン]]製スーパーチャージャーを組み込んだ、[[:en:Stillen|スティレン]]のキット]]
[[北アメリカ|北米]]向け車種でスーパーチャージャーの採用例は多く、[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]、[[ランドローバー]]、[[メルセデス・ベンツ]]などの欧州各メーカーが、主に北米向けとしてスーパーチャージャー装備車をラインナップしている。また、[[アフターマーケット]]用にルーツブロアーやリショルムコンプレッサーが市販されており、[[ライトトラック]]の動力性能向上のためにも利用されている。[[北米]]日産が生産する[[ピックアップトラック]]の[[日産・フロンティア|フロンティア]]と、それをベースとした廉価[[スポーツ・ユーティリティ・ビークル|SUV]]である、[[日産・エクステラ|エクステラ]]のハイパフォーマンスバージョンとして、V6、3.3Lガソリンエンジンにスーパーチャージャーを追加した、[[日産・VGエンジン#VG33ER|VG33ER型]]がある。
[[ヨーロッパ]]ではメルセデスベンツがルーツブロアーおよびリショルムコンプレッサーを使用している。直列4気筒にはルーツブロアーが組み合わされ、[[メルセデスAMG|AMG]]モデルのV6、[[V型8気筒|V8]]にはリショルムコンプレッサーが組み合わされる。リショルムコンプレッサーについては大排気量のV8エンジン63エンジンに置き換えられつつある。
[[オートバイ用エンジン]]でも[[プジョー・モトシクル]]から、スーパーチャージャー搭載の[[スクーター]]である[[:de:Peugeot_JetForce_Compressor|プジョー・ジェットフォース・コンプレッサー]]が、2005年から数年間販売されていた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[過給機]]
* [[リショルム・コンプレッサ]]
* [[プレッシャーウェーブ・スーパーチャージャー]]
* [[ツインチャージャー]]
* [[ターボチャージャー]]
* [[チャンバー]]
{{自動車}}
{{自動車部品}}
{{オートバイ部品と関連技術}}
{{デフォルトソート:すうはあちやあしやあ}}
[[Category:スーパーチャージャー| ]]
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盲学校
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盲学校(もうがっこう)は、視覚障害者に対する教育を行う学校。
自分の安全を図るための手段とその工夫を学びつつ、点字などを中心に幼稚園、小学校、中学校、高等学校に準じた教育が行われている。
世界最初の盲学校は、1784年にヴァランタン・アユイ(フランス語版)らによって、フランスのパリに作られたものとされている。
もともと視覚障害者に対する教育は個人別に行われていたが、ヴァランタン・アユイは集団教育へと発展させるため、1784年に博愛協会に基金を提供してもらい12人の児童を集めてパリ訓盲院を創設した。このパリ訓盲院が世界初の盲学校とされている。のちにブライユ式点字を発明するルイ・ブライユもこの学校の出身者であり、同校の教員でもあった。この盲学校はフランス革命直後の1791年に王立パリ盲学校となり、王政廃止後は国立パリ盲学校となった。
フランスでは2005年2月11日「障害者の権利と機会の平等、参加と市民権のための法」が成立し、まず居住地に最も近い通常学校を学籍校として登録する制度になった。学籍登録後に作成される「個別の就学計画」で保健省管轄の教育施設や国立遠隔教育センターでの通信・訪問教育を受けることもあるが、その場合でも学籍校の学籍は保持される。
イタリアでも盲学校が設置されていたが1992年2月5日基本法第104号によって、障害の有無に関わらず、全ての子どもが地域の学校に就学することが保障されるシステムに移行した。
日本では、2007年施行の学校教育法改正により、聾学校、養護学校とともに、学校種が「特別支援学校」となり、場合によっては「視覚特別支援学校」の名称の特別支援学校もある。2007年4月1日より前は、視覚障害者に対する教育を行う学校は、制度として「盲学校」の名称が使われていたので、2000年代においては、しばしば見かけられる校名である。
日本では、1878年5月24日に京都で創立された京都盲唖院が最初の近代的な視覚障害教育及び聴覚障害教育の機関とされている。その前史として上京区第一九組長を務めた熊谷伝兵衛による聾唖教育の示唆、これに賛した第一九番校(後の待賢小学校)教師の古河太四郎と佐久間丑雄による瘖唖教場があった。京都に次いで東京では、1880年(明治13年)1月5日に京橋区築地の楽善会訓盲唖院(1876年創立)が正式開校、同年2月より学生の受け入れと授業が開始された。楽善会訓盲唖院は、後に官立東京盲学校・東京教育大学教育学部附属盲学校を経て、現在は筑波大学附属視覚特別支援学校になっている。京都盲唖院は、明治期に京都府立から京都市立(盲唖院、のち盲学校と聾学校に分離)に移管し、1931年に京都府立盲学校となり現在に至る。
小学部から高等部においては、普通校の小学校から高等学校と同じ内容の国語、数学(算数)、理科、社会、英語、技術・家庭、体育、音楽、美術といった教科も教えられるが、それぞれに視覚障害を克服したり、伸ばすことの出来る能力を発展させるよう、教える工夫がなされる。理科では、授業の中で化学実験をはじめとする実験観察がおこなわれ、理系大学への進学者もいる。体育でも障害の特性に応じた工夫がなされている。例えば、健常者がおこなうバレーは、視覚障害者ではフロアバレーボールと呼ばれ、健常者のようにボールを打ち上げるのではなくネットの下をくぐらせる方法でプレイする。ゲームでは弱視者の後衛3人と全盲生(またはアイマスクをつけた人)の前衛3人によって行い、後衛が前衛に声で指示しながらプレイするなど、内容的にかなりの創意工夫がなされている。盲学校などの特殊学校では、自立活動という教科が障害の特性に応じて設置されている。盲学校では自立活動の時間に生徒の障害の特性や程度に応じて、点字の指導、白杖歩行の訓練、弱視者への拡大読書器などの障害補償機器の指導、卒業後の生活自立へ向けての生活訓練などをおこなっている。
日本では数百年の永きにわたって、盲人の職業として、鍼と按摩が受け継がれてきた。鍼・按摩は、学問といよりも職人的な技芸であるため、戦前は徒弟制度によって術者が養成されていた。戦後、「あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師・柔道整復師等に関する法律」(あはき法)が施行され、はり師、マッサージ師として就業するためには2年の専門教育と国家試験が課せられるようになったため、これに対応する形で職業課程の「理療科」が設置された。理療科は、高卒後3年で、鍼灸師・マッサージ師の国家試験受験資格を得る専攻科理療科と、あん摩マッサージ指圧師だけの受験資格を得る保健理療科がある。理療科という名前は、薬物や外科手術でない、物理的な刺激療法という意味であるが、盲学校だけのことばで、また、理学療法士と紛らわしいため、言い換えを求める意見が多い。
一部の盲学校には、盲人の伝統的な職業である箏曲の演奏家等を養成する音楽科、理学療法士を養成する理学療法科が設置されてところがある。
日本において、盲学校が一般的な学校と一番違うところは、大半の盲学校に寄宿舎が併設されていることである。盲学校は1都道府県に1, 2カ所と少ない場合がほとんどで自宅からの通学が困難な児童生徒が多く、また視覚障害者が十分に訓練を受けないと、電車やバスを乗り継いで通学するのが困難なことによる。盲学校の新入児童生徒には、衣服の着脱、歯磨きや入浴など、日常の所作が十分にできない者も多く、そうしたことを教えるのは寄宿舎の寄宿舎指導員の仕事になっている。
日本で2007年4月に改正学校教育法が施行されて以後に校名を変更した盲学校。
(2011年4月1日現在)
虹の輪 (遠浜 々著、文芸社)
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"text": "日本では、1878年5月24日に京都で創立された京都盲唖院が最初の近代的な視覚障害教育及び聴覚障害教育の機関とされている。その前史として上京区第一九組長を務めた熊谷伝兵衛による聾唖教育の示唆、これに賛した第一九番校(後の待賢小学校)教師の古河太四郎と佐久間丑雄による瘖唖教場があった。京都に次いで東京では、1880年(明治13年)1月5日に京橋区築地の楽善会訓盲唖院(1876年創立)が正式開校、同年2月より学生の受け入れと授業が開始された。楽善会訓盲唖院は、後に官立東京盲学校・東京教育大学教育学部附属盲学校を経て、現在は筑波大学附属視覚特別支援学校になっている。京都盲唖院は、明治期に京都府立から京都市立(盲唖院、のち盲学校と聾学校に分離)に移管し、1931年に京都府立盲学校となり現在に至る。",
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盲学校(もうがっこう)は、視覚障害者に対する教育を行う学校。 自分の安全を図るための手段とその工夫を学びつつ、点字などを中心に幼稚園、小学校、中学校、高等学校に準じた教育が行われている。
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'''盲学校'''(もうがっこう)は、[[視覚障害者]]に対する[[教育]]を行う[[学校]]。
自分の安全を図るための手段とその工夫を学びつつ、[[点字]]などを中心に[[幼稚園]]、[[小学校]]、[[中学校]]、[[高等学校]]に準じた教育が行われている。
== 欧州 ==
=== フランス ===
世界最初の盲学校は、[[1784年]]に{{仮リンク|ヴァランタン・アユイ|fr|Valentin Haüy|label=ヴァランタン・アユイ}}らによって、フランスのパリに作られたものとされている。
もともと視覚障害者に対する教育は個人別に行われていたが、ヴァランタン・アユイは集団教育へと発展させるため、[[1784年]]に博愛協会に基金を提供してもらい12人の児童を集めてパリ訓盲院を創設した<ref name="school">『学校の歴史 第2巻』第一法規出版、1979年、371頁</ref>。このパリ訓盲院が世界初の盲学校とされている<ref name="school" />。のちにブライユ式[[点字]]を発明する[[ルイ・ブライユ]]もこの学校の出身者であり、同校の教員でもあった<ref name="school" />。この盲学校は[[フランス革命]]直後の[[1791年]]に王立パリ盲学校となり、王政廃止後は国立パリ盲学校となった。
フランスでは2005年2月11日「障害者の権利と機会の平等、参加と市民権のための法」が成立し、まず居住地に最も近い通常学校を学籍校として登録する制度になった<ref name="nise2012">「[https://www.nise.go.jp/cms/resources/content/6231/20120611-154652.pdf 諸外国における障害のある子どもの教育]」国立特別支援教育総合研究所ジャーナル 創刊号(2012年3月) 2021年2月28日閲覧</ref>。学籍登録後に作成される「個別の就学計画」で保健省管轄の教育施設や国立遠隔教育センターでの通信・訪問教育を受けることもあるが、その場合でも学籍校の学籍は保持される<ref name="nise2012" />。
=== イタリア ===
イタリアでも盲学校が設置されていたが1992年2月5日基本法第104号によって、障害の有無に関わらず、全ての子どもが地域の学校に就学することが保障されるシステムに移行した<ref name="nise2012" />。
== 日本 ==
日本では、2007年施行の[[学校教育法]]改正により、聾学校、養護学校とともに、学校種が「[[特別支援学校]]」となり、場合によっては「'''視覚特別支援学校'''」の名称の特別支援学校もある。[[2007年]][[4月1日]]より前は、視覚障害者に対する教育を行う学校は、制度として「盲学校」の名称が使われていたので、2000年代においては、しばしば見かけられる校名である。
=== 盲学校の歴史 ===
日本では、[[1878年]]5月24日に[[京都]]で創立された[[京都盲唖院]]が最初の近代的な視覚障害教育及び聴覚障害教育の機関とされている。その前史として上京区第一九組長を務めた熊谷伝兵衛による聾唖教育の示唆、これに賛した第一九番校(後の待賢小学校)教師の[[古河太四郎]]と佐久間丑雄による瘖唖教場があった。京都に次いで[[東京]]では、[[1880年]](明治13年)1月5日に[[京橋区]]築地の楽善会訓盲唖院(1876年創立)が正式開校、同年2月より学生の受け入れと授業が開始された。楽善会訓盲唖院は、後に官立東京盲学校・東京教育大学教育学部附属盲学校を経て、現在は[[筑波大学附属視覚特別支援学校]]になっている。京都盲唖院は、明治期に京都府立から京都市立(盲唖院、のち盲学校と聾学校に分離)に移管し、1931年に[[京都府立盲学校]]となり現在に至る。
=== 盲学校の普通科教育 ===
小学部から高等部においては、普通校の小学校から高等学校と同じ内容の[[国語]]、[[数学]]([[算数]])、[[理科]]、[[社会]]、[[英語]]、[[技術・家庭]]、[[体育]]、[[音楽]]、[[美術]]といった[[教科]]も教えられるが、それぞれに視覚障害を克服したり、伸ばすことの出来る能力を発展させるよう、教える工夫がなされる。[[理科]]では、授業の中で化学実験をはじめとする実験観察がおこなわれ、理系大学への進学者もいる。体育でも障害の特性に応じた工夫がなされている。例えば、[[健常者]]がおこなう[[バレーボール|バレー]]は、視覚障害者ではフロアバレーボールと呼ばれ、健常者のようにボールを打ち上げるのではなくネットの下をくぐらせる方法でプレイする。ゲームでは弱視者の後衛3人と全盲生(またはアイマスクをつけた人)の前衛3人によって行い、後衛が前衛に声で指示しながらプレイするなど、内容的にかなりの創意工夫がなされている。盲学校などの特殊学校<ref group="注">2007年4月よりは[[特別支援学校]]。</ref>では、自立活動という教科が障害の特性に応じて設置されている。盲学校では自立活動の時間に生徒の障害の特性や程度に応じて、点字の指導、白杖歩行の訓練、弱視者への拡大読書器などの障害補償機器の指導、卒業後の生活自立へ向けての生活訓練などをおこなっている。
=== 盲学校の職業教育 ===
日本では数百年の永きにわたって、盲人の職業として、[[鍼]]と[[按摩]]が受け継がれてきた。鍼・按摩は、学問といよりも職人的な技芸であるため、戦前は徒弟制度によって術者が養成されていた。戦後、「[[あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師・柔道整復師等に関する法律]]」(あはき法)が施行され、はり師、マッサージ師として就業するためには2年<ref group="注">現在は3年。</ref>の専門教育と国家試験が課せられるようになったため、これに対応する形で職業課程の「'''理療科'''」が設置された。理療科は、高卒後3年で、[[鍼灸師]]・マッサージ師の国家試験受験資格を得る専攻科理療科と、あん摩マッサージ指圧師だけの受験資格を得る保健理療科がある。理療科という名前は、薬物や外科手術でない、物理的な刺激療法という意味であるが、盲学校だけのことばで、また、理学療法士<ref group="注">いわゆるリハビリテーションの技術者。</ref>と紛らわしいため、言い換えを求める意見が多い。
一部の盲学校には、盲人の伝統的な職業である[[箏曲]]の演奏家等を養成する音楽科、理学療法士を養成する理学療法科が設置されてところがある。
=== 盲学校と寄宿舎 ===
日本において、盲学校が一般的な学校と一番違うところは、大半の盲学校<ref group="注">横浜市立盲学校、神戸市立盲学校を除く。</ref>に[[寄宿舎]]が併設されていることである。盲学校は1都道府県に1, 2カ所と少ない場合がほとんどで自宅からの通学が困難な児童生徒が多く、また視覚障害者が十分に訓練を受けないと、[[電車]]や[[バス_(交通機関)|バス]]を乗り継いで通学するのが困難なことによる。盲学校の新入児童生徒には、[[衣服]]の着脱、[[歯磨き]]や[[入浴]]など、日常の所作が十分にできない者も多く、そうしたことを教えるのは寄宿舎の寄宿舎指導員の仕事になっている。
=== 校名の変更 ===
日本で2007年4月に改正学校教育法が施行されて以後に校名を変更した盲学校。
{|class="wikitable"
| style="color:#007" | '''旧名'''
| style="color:#007" | '''改名後''' ||
|style="color:#007"|'''旧名'''
|style="color:#007"| '''改名後'''
|-
|岩手県立盲学校||岩手県立盛岡視覚支援学校|| ||大阪府立盲学校||大阪府立視覚支援学校
|-
|宮城県立盲学校||宮城県立視覚支援学校|| ||大阪市立盲学校||大阪市立視覚特別支援学校
|-
|埼玉県立盲学校||埼玉県立特別支援学校塙保己一学園|| ||兵庫県立盲学校 ||兵庫県立視覚特別支援学校
|-
|学校法人埼玉県熊谷盲学校 ||学校法人埼玉県熊谷理療技術品等盲学校|| ||広島県立広島盲学校||広島県立広島中央特別支援学校
|-
|筑波大学附属盲学校||筑波大学附属視覚特別支援学校|| ||山口県立盲学校 ||山口県立下関南総合支援学校
|-
|東京都立久我山盲学校||東京都立久我山青光学園|| ||福岡県立福岡盲学校||福岡県立福岡視覚特別支援学校
|-
|横浜市立盲学校||横浜市立盲特別支援学校|| || 福岡県立北九州盲学校||福岡県立北九州視覚特別支援学校
|-
|富山県立盲学校||富山県立富山視覚総合支援学校||||福岡県立柳川盲学校||福岡県立柳川特別支援学校
|-
|静岡県立静岡盲学校||静岡県立静岡視覚特別支援学校|| ||福岡県立福岡高等盲学校||福岡県立福岡高等視覚特別支援学校
|-
|静岡県立沼津盲学校||静岡県立沼津視覚特別支援学校|| ||宮崎県立盲学校||宮崎県立明星視覚支援学校
|-
|静岡県立浜松盲学校||静岡県立浜松視覚特別支援学校||
|}
''(2011年4月1日現在''<ref>{{harv|今後の盲学校・視覚障害教育の在り方に関する調査研究|2012}} 118頁</ref>)
== 盲学校のことが書かれている文芸作品 ==
虹の輪 (遠浜 々著、文芸社)
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author=久松寅幸、平田勝政|date=2012-03-20|title=今後の盲学校・視覚障害教育の在り方に関する調査研究 : 全国都道府県教育委員会の特別支援教育に関する整備計画の分析を通して|journal=教育実践総合センター紀要|volume=11|pages=111-128|publisher=長崎大学|naid=110009323497|url=https://hdl.handle.net/10069/29623|accessdate=2015-11-17|ref=harv}}
== 脚注・出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[視覚障害者]]
* [[視覚障害者のスポーツ]]
* [[日本の特別支援学校一覧]]
* [[:en:Category:Schools for the blind in the United States]]
* [[先天盲]]
* [[先天盲からの回復]]
== 外部リンク ==
{{Commons category|Schools for the blind}}
* [http://www.tenji.ne.jp/cgi-bin/mou_list.cgi 全国盲学校住所録]{{リンク切れ|date=2020年6月}} 閲覧.2015年11月17日
* [http://www.avh.asso.fr/index.php Valentin Haüy] (世界で最初の盲学校.HP) 閲覧.2015年11月17日
* [http://www.worldfolksong.com/closeup/battlehymn/episode/helenkeller.htm パーキンス盲学校 初代校長 サミュエル・G・ハウ](世界の民謡・童謡) 閲覧.2015年11月17日
* 菅達也, 「[http://id.nii.ac.jp/1177/00000023/ 明治・大正期における盲唖学校の支援組織に関する歴史的研究]」 長崎純心大学 博士論文, 37302甲第33号, 2017年
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2003-08-16T02:16:57Z
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13,288 |
博多南線
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博多南線(はかたみなみせん)は、福岡県福岡市の博多駅から福岡県春日市の博多南駅までを結ぶ西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。全線が福岡近郊区間に含まれる。
山陽新幹線の博多駅から南に9.2 kmの所にある車両基地(博多総合車両所)までの回送線を旅客線化した路線である。
新幹線用の設備を使用し、新幹線車両を使用するが、最高速度は120 km/hで「全国新幹線鉄道整備法」の定義から外れるためJR西日本では「新幹線鉄道」ではなく「普通鉄道」として当時の運輸省(現在の国土交通省)に認可を申請した経緯から「在来線」としている。一方、施設そのものは新幹線の構造物であるため新幹線特例法の対象となっているほか、当路線の列車を運転するのに必要な動力車操縦者運転免許の種類は「新幹線電気車」であり、在来線電車の「甲種電気車」免許では運転できない。
博多南線と同様に、新幹線用設備を使用するものの旅客営業上は在来線として運行する路線には、東日本旅客鉄道(JR東日本)の上越新幹線から分岐し、上越線の支線として扱われる越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間がある。
博多駅 - 博多南駅・博多総合車両所間のキロポストは、博多総合車両所への回送線用の東京基点のものと、博多南線用の博多基点のものとの、2種類が設置されている。
なお、博多南駅ホームは、博多総合車両所内の構内車両基地の西端の線路に単式1線で設置されており、車両所下り方への入換も可能になっている。
保安装置はアナログATC-1から、2017年2月19日に山陽新幹線と同時にATC-NSへ更新された。なお、九州新幹線部分(博総分岐以南)は、開業当初からKS-ATCである。
JR本州3社の在来線で唯一、全線が本州に存在しない路線である。また、JR西日本の在来線で唯一の全線が交流電化の路線である。
車両基地が建設された那珂川市(建設当時は那珂川町)は次第に市街化してゆき、発展した。しかし1975年の開業当時、この地域は福岡市中心部への交通アクセスが悪く、西鉄バスでは1時間近く要するため、地元住民から「回送線に乗せて欲しい」との要望が山陽新幹線を運営していた日本国有鉄道(国鉄)に寄せられるようになった。
しかし、国鉄改革時に「九州内の在来線はJR九州が経営する」という取り決めがあったため、その整合性が問題となり、JR側と地元住民との間での調整は難航した。最終的に「線路の保有と列車の運行・管理はJR西日本、博多南駅の営業業務はJR九州に委託する」ということで決着し、1990年(平成2年)に開業するに至った。博多駅から博多総合車両所までの区間は回送線であるため、JR西日本は新たに第一種鉄道事業免許を取得した。
博多南線の開業により、福岡市中心部への所要時間は、車では1時間ほどかかっていたものが10分程度へと大幅に短縮されて利便性が向上した。その後、博多総合車両所周辺は急速に宅地化が進んでいる。
なお、2010年(平成22年)4月1日から博多南駅の営業業務はJR西日本の直営となり、みどりの窓口が設置された。
2011年(平成23年)3月12日に全線開業した九州旅客鉄道(JR九州)の九州新幹線鹿児島ルートは、博多南線 8.5 km のうちほとんどの区間(約8.2 km)を九州新幹線の本線として使用するため、開業前には「博多南線の運行本数が大幅に減らされるのではないか」などと懸念する声が出て、福岡都市圏広域行政推進協議会から麻生渡福岡県知事へ「博多南線の存続並びに利便性の維持向上に向けて」積極的に働きかけるよう提言書が出された。これに対しJR西日本は2010年9月時点で「住民のライフラインとして定着している路線。利便性維持に可能な限り努力していきたい」と述べ、九州新幹線全線開業時のダイヤ改正では休日朝の上りが2本削減されたのを除き、運行本数は据え置かれた。
なお、九州新幹線の列車も、博多南線との共用区間では120 km/hの速度制限がかかる。
九州新幹線との線路共用部分は、博多駅から博多総合車両所(および博多南駅)の北方分岐までに限られる。また、九州新幹線上には博多南駅は存在しない。よって、九州新幹線を含む他の新幹線との乗換駅は博多駅となる。
朝の上りは1時間あたり2 - 4本、夕方以降の下り列車は1時間あたり2 - 3本、それ以外の時間・方向は1時間あたり1本の頻度となっており、通勤・通学に合わせたダイヤとなっている。回送線という性格上、朝の上りと夜の下りに本数が集中する一方、逆方向にあたる朝の下り初列車は7時台と遅く、夜の上り終列車は22時台と早い。他の新幹線と同じく0時から朝6時までは運行されない。
博多南線は在来線の扱いであるが、新幹線用の運行設備・車両での運行のため、全列車特急列車扱いである。しかしJRグループの特急列車では唯一、列車名の設定がない。博多駅の電光掲示板(発車標)では「741号」のように号数のみが表示され、列車の行き先表示には「博多」もしくは「博多南」のみ表示される。また、全列車特急列車であるため種別の案内もない。
博多南駅行きの列車に対しては、博多駅ホームの自動放送では「小倉・広島・新鳥栖・熊本方面には行きませんのでご注意下さい」と注意喚起がなされている。
乗換案内サイトにおける博多南駅の時刻表は、全ての上り列車が「特急 博多行」であると記載されているが、実際に博多駅で折り返す列車は数本程度であり、ほとんどの列車が山陽新幹線との直通運転を行っている。そのため、博多南駅構内の時刻表では山陽新幹線内の行先が表記されているほか、博多南駅のホームに入線した時点で山陽新幹線内の種別・行先表示がなされている場合がある。一方、山陽新幹線から博多南線に直通する列車は、山陽新幹線区間では原則として「こだま 博多行」として運転され、博多駅にて「博多南行き」に行先変更がなされるが、小倉駅の一部の発車標では「こだま 博多南行」という案内がなされる。
直通列車はすべて山陽新幹線内で「こだま」として運行されるが、2006年3月18日のダイヤ改正から2023年3月18日のダイヤ改正までは、山陽新幹線内で「ひかりレールスター」として運行する列車、2012年3月17日のダイヤ改正から2023年3月18日のダイヤ改正まで九州新幹線内完結列車からの折り返しとなる列車も存在した。直通列車は厳密には山陽新幹線内と博多南線内で別列車扱いとなるものの、博多南線・山陽新幹線ともに共通の列車番号となっている。但し山陽新幹線内で「ひかりレールスター」として運行する列車、および九州新幹線からの折り返しとなる列車は、博多南線内においては別の列車番号が付与されていた。
開業以来、基本的には一貫して山陽新幹線専用の短編成の車両・編成が使用されている。ただし、2011年3月12日に九州新幹線が全通して以降、ごく一部の列車には山陽・九州新幹線直通用のN700系(JR九州所属車を含む)も使用されている。車両の配置区所はJR西日本博多総合車両所であるが、N700系のうちJR九州所属の車両の配置区所はJR九州熊本総合車両所である。
博多南線内では開業当初から全車両禁煙(喫煙ルームを含む)となっている。
過去には4両編成や6両編成があったが0系や100系の4両編成および6両編成の引退により、現在は使用される全車両が8両編成に統一されている。博多南駅のホーム有効長が8両分しかないため16両編成は使用されない。このため東海旅客鉄道(JR東海)所属車両が使用されることはない。また九州新幹線専用である800系も過去を含め使用されたことはない。
大半の列車は500系・700系が使用されており、ごく一部にN700系を使用する列車がある。
博多南線は前述の通り、全列車が新幹線用車両により運行される在来線であるため、運賃・料金制度上、他路線とは異なる特殊な取り扱いを行っている。
博多南線で運行される列車は全て特急列車扱いであるが、同線は那珂川市と福岡市の通勤・通学客の利用を想定して新幹線回送線を旅客化した経緯がある。特定特急料金は130円(2023年3月末までは100円)と安価に設定され、運賃(200円)込みで全区間片道330円となっている。その一方、石勝線や奥羽本線の一部区間のような「特急料金不要の特例区間」の適用はなく、また青春18きっぷなど、普通列車しか利用できないフリー乗車券での乗車もできない。
博多駅で他のJR線と乗り継ぐ場合、運賃は通算されるが、特急料金については、山陽新幹線から直通運行する列車を利用したり、改札を出ずに山陽・九州新幹線と乗り継いだりする場合でも、通算されず別途必要となる。N700系のグリーン車を除き、山陽新幹線内で指定席となる車両も含め全車両・全席が自由席扱いとなる。
博多南駅ではICカード乗車券(ICOCA等)およびEX-ICに非対応であり、これらの乗車券により博多南線の区間を乗車することはできない(EX-ICで新幹線に乗車し博多南駅で下車した場合、東海道・山陽・九州新幹線の各駅で精算証明を持参し出場処理を行うまで、EX-ICカード等は利用できない)。
また、博多南線 - 他のJR在来線間の乗換時に、他の在来線でICカード乗車券を利用する場合は、いったん改札外に出て各々の通常改札を利用する必要がある。SUGOCA等のエリア内 - エリア外相互間の利用と同様になるため、博多南駅と目的地駅間の磁気乗車券・定期券を使用しないと、博多駅の新在乗換改札は通過できない(有人改札はあくまでも誤認による使用の特例精算扱いであり、常用は認められない)。
半室グリーン車が連結されているN700系で運行する列車においてグリーン車を利用する場合、運賃・特定特急料金に加え、特急・急行列車用グリーン料金が必要となる。当該列車のグリーン券は当該列車車内と博多駅・博多南駅のみどりの窓口で発売し、指定席の座席指定運用はされていない。また本路線のグリーン券はマルス発券ができないため、博多駅・博多南駅で発売する場合でも手書きの料金補充券による発券となる。
2011年3月12日のダイヤ改正で博多南線でのN700系運用が開始された当初は当該列車の車内でのみグリーン券を発売していたが、2011年11月30日から新たに2往復が設定されたときに博多駅・博多南駅のみどりの窓口でもグリーン券を発売するようになっている。
全線で山陽新幹線統括本部が列車運行・線路設備管理を、中国統括本部が駅運転・営業業務を管轄している。
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"text": "車両基地が建設された那珂川市(建設当時は那珂川町)は次第に市街化してゆき、発展した。しかし1975年の開業当時、この地域は福岡市中心部への交通アクセスが悪く、西鉄バスでは1時間近く要するため、地元住民から「回送線に乗せて欲しい」との要望が山陽新幹線を運営していた日本国有鉄道(国鉄)に寄せられるようになった。",
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"text": "しかし、国鉄改革時に「九州内の在来線はJR九州が経営する」という取り決めがあったため、その整合性が問題となり、JR側と地元住民との間での調整は難航した。最終的に「線路の保有と列車の運行・管理はJR西日本、博多南駅の営業業務はJR九州に委託する」ということで決着し、1990年(平成2年)に開業するに至った。博多駅から博多総合車両所までの区間は回送線であるため、JR西日本は新たに第一種鉄道事業免許を取得した。",
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"text": "博多南線の開業により、福岡市中心部への所要時間は、車では1時間ほどかかっていたものが10分程度へと大幅に短縮されて利便性が向上した。その後、博多総合車両所周辺は急速に宅地化が進んでいる。",
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"text": "なお、2010年(平成22年)4月1日から博多南駅の営業業務はJR西日本の直営となり、みどりの窓口が設置された。",
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"text": "2011年(平成23年)3月12日に全線開業した九州旅客鉄道(JR九州)の九州新幹線鹿児島ルートは、博多南線 8.5 km のうちほとんどの区間(約8.2 km)を九州新幹線の本線として使用するため、開業前には「博多南線の運行本数が大幅に減らされるのではないか」などと懸念する声が出て、福岡都市圏広域行政推進協議会から麻生渡福岡県知事へ「博多南線の存続並びに利便性の維持向上に向けて」積極的に働きかけるよう提言書が出された。これに対しJR西日本は2010年9月時点で「住民のライフラインとして定着している路線。利便性維持に可能な限り努力していきたい」と述べ、九州新幹線全線開業時のダイヤ改正では休日朝の上りが2本削減されたのを除き、運行本数は据え置かれた。",
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"text": "なお、九州新幹線の列車も、博多南線との共用区間では120 km/hの速度制限がかかる。",
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"text": "九州新幹線との線路共用部分は、博多駅から博多総合車両所(および博多南駅)の北方分岐までに限られる。また、九州新幹線上には博多南駅は存在しない。よって、九州新幹線を含む他の新幹線との乗換駅は博多駅となる。",
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"text": "朝の上りは1時間あたり2 - 4本、夕方以降の下り列車は1時間あたり2 - 3本、それ以外の時間・方向は1時間あたり1本の頻度となっており、通勤・通学に合わせたダイヤとなっている。回送線という性格上、朝の上りと夜の下りに本数が集中する一方、逆方向にあたる朝の下り初列車は7時台と遅く、夜の上り終列車は22時台と早い。他の新幹線と同じく0時から朝6時までは運行されない。",
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"text": "博多南線は在来線の扱いであるが、新幹線用の運行設備・車両での運行のため、全列車特急列車扱いである。しかしJRグループの特急列車では唯一、列車名の設定がない。博多駅の電光掲示板(発車標)では「741号」のように号数のみが表示され、列車の行き先表示には「博多」もしくは「博多南」のみ表示される。また、全列車特急列車であるため種別の案内もない。",
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"text": "博多南駅行きの列車に対しては、博多駅ホームの自動放送では「小倉・広島・新鳥栖・熊本方面には行きませんのでご注意下さい」と注意喚起がなされている。",
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"text": "乗換案内サイトにおける博多南駅の時刻表は、全ての上り列車が「特急 博多行」であると記載されているが、実際に博多駅で折り返す列車は数本程度であり、ほとんどの列車が山陽新幹線との直通運転を行っている。そのため、博多南駅構内の時刻表では山陽新幹線内の行先が表記されているほか、博多南駅のホームに入線した時点で山陽新幹線内の種別・行先表示がなされている場合がある。一方、山陽新幹線から博多南線に直通する列車は、山陽新幹線区間では原則として「こだま 博多行」として運転され、博多駅にて「博多南行き」に行先変更がなされるが、小倉駅の一部の発車標では「こだま 博多南行」という案内がなされる。",
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"text": "直通列車はすべて山陽新幹線内で「こだま」として運行されるが、2006年3月18日のダイヤ改正から2023年3月18日のダイヤ改正までは、山陽新幹線内で「ひかりレールスター」として運行する列車、2012年3月17日のダイヤ改正から2023年3月18日のダイヤ改正まで九州新幹線内完結列車からの折り返しとなる列車も存在した。直通列車は厳密には山陽新幹線内と博多南線内で別列車扱いとなるものの、博多南線・山陽新幹線ともに共通の列車番号となっている。但し山陽新幹線内で「ひかりレールスター」として運行する列車、および九州新幹線からの折り返しとなる列車は、博多南線内においては別の列車番号が付与されていた。",
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"text": "開業以来、基本的には一貫して山陽新幹線専用の短編成の車両・編成が使用されている。ただし、2011年3月12日に九州新幹線が全通して以降、ごく一部の列車には山陽・九州新幹線直通用のN700系(JR九州所属車を含む)も使用されている。車両の配置区所はJR西日本博多総合車両所であるが、N700系のうちJR九州所属の車両の配置区所はJR九州熊本総合車両所である。",
"title": "使用車両"
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"text": "博多南線内では開業当初から全車両禁煙(喫煙ルームを含む)となっている。",
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"text": "過去には4両編成や6両編成があったが0系や100系の4両編成および6両編成の引退により、現在は使用される全車両が8両編成に統一されている。博多南駅のホーム有効長が8両分しかないため16両編成は使用されない。このため東海旅客鉄道(JR東海)所属車両が使用されることはない。また九州新幹線専用である800系も過去を含め使用されたことはない。",
"title": "使用車両"
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"text": "大半の列車は500系・700系が使用されており、ごく一部にN700系を使用する列車がある。",
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"text": "博多南線は前述の通り、全列車が新幹線用車両により運行される在来線であるため、運賃・料金制度上、他路線とは異なる特殊な取り扱いを行っている。",
"title": "運賃・料金制度"
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"text": "博多南線で運行される列車は全て特急列車扱いであるが、同線は那珂川市と福岡市の通勤・通学客の利用を想定して新幹線回送線を旅客化した経緯がある。特定特急料金は130円(2023年3月末までは100円)と安価に設定され、運賃(200円)込みで全区間片道330円となっている。その一方、石勝線や奥羽本線の一部区間のような「特急料金不要の特例区間」の適用はなく、また青春18きっぷなど、普通列車しか利用できないフリー乗車券での乗車もできない。",
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"text": "博多駅で他のJR線と乗り継ぐ場合、運賃は通算されるが、特急料金については、山陽新幹線から直通運行する列車を利用したり、改札を出ずに山陽・九州新幹線と乗り継いだりする場合でも、通算されず別途必要となる。N700系のグリーン車を除き、山陽新幹線内で指定席となる車両も含め全車両・全席が自由席扱いとなる。",
"title": "運賃・料金制度"
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"text": "博多南駅ではICカード乗車券(ICOCA等)およびEX-ICに非対応であり、これらの乗車券により博多南線の区間を乗車することはできない(EX-ICで新幹線に乗車し博多南駅で下車した場合、東海道・山陽・九州新幹線の各駅で精算証明を持参し出場処理を行うまで、EX-ICカード等は利用できない)。",
"title": "運賃・料金制度"
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"text": "また、博多南線 - 他のJR在来線間の乗換時に、他の在来線でICカード乗車券を利用する場合は、いったん改札外に出て各々の通常改札を利用する必要がある。SUGOCA等のエリア内 - エリア外相互間の利用と同様になるため、博多南駅と目的地駅間の磁気乗車券・定期券を使用しないと、博多駅の新在乗換改札は通過できない(有人改札はあくまでも誤認による使用の特例精算扱いであり、常用は認められない)。",
"title": "運賃・料金制度"
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"text": "半室グリーン車が連結されているN700系で運行する列車においてグリーン車を利用する場合、運賃・特定特急料金に加え、特急・急行列車用グリーン料金が必要となる。当該列車のグリーン券は当該列車車内と博多駅・博多南駅のみどりの窓口で発売し、指定席の座席指定運用はされていない。また本路線のグリーン券はマルス発券ができないため、博多駅・博多南駅で発売する場合でも手書きの料金補充券による発券となる。",
"title": "運賃・料金制度"
},
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"text": "2011年3月12日のダイヤ改正で博多南線でのN700系運用が開始された当初は当該列車の車内でのみグリーン券を発売していたが、2011年11月30日から新たに2往復が設定されたときに博多駅・博多南駅のみどりの窓口でもグリーン券を発売するようになっている。",
"title": "運賃・料金制度"
},
{
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"tag": "p",
"text": "全線で山陽新幹線統括本部が列車運行・線路設備管理を、中国統括本部が駅運転・営業業務を管轄している。",
"title": "データ"
}
] |
博多南線(はかたみなみせん)は、福岡県福岡市の博多駅から福岡県春日市の博多南駅までを結ぶ西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。全線が福岡近郊区間に含まれる。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:JR logo (west).svg|35px|link=西日本旅客鉄道]] 博多南線
|路線色 = #0072ba
|画像 = Train of Hakata-Minami Line at Hakata-Minami Station 3.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 博多南駅に到着した[[新幹線500系電車|500系]]
|国 = {{JPN}}
|所在地=[[福岡県]]
|種類 = [[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点 = [[博多駅]]
|終点 = [[博多南駅]]
|駅数 = 2駅
|開業 = [[1975年]][[3月10日]](回送線として)
|項目1 = 旅客営業開始
|日付1 = [[1990年]][[4月1日]]<ref name="trafic-yearbook-1991">『交通年鑑 平成3年版』 [[交通協力会]]、1991年3月15日。</ref>
|廃止 =
|所有者 = [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)
|運営者 = 西日本旅客鉄道(JR西日本)
|路線距離 = 8.5 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]]([[標準軌]])
|線路数 = 全線[[複線]]
|電化方式 = [[交流電化|交流]]25,000V・60[[ヘルツ (単位)|Hz]] [[架空電車線方式]]
|閉塞方式 = 車内信号閉塞式
|保安装置 = [[自動列車制御装置#ATC-NS|ATC-NS]]
|最高速度 = 120 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name=120kmh/>
|路線図 = Hakata-Minami Line map.png
}}
'''博多南線'''(はかたみなみせん)は、[[福岡県]][[福岡市]]の[[博多駅]]から福岡県[[春日市]]の[[博多南駅]]までを結ぶ[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。全線が[[大都市近郊区間 (JR)|福岡近郊区間]]に含まれる。
== 概要 ==
{{博多南線路線図}}
[[山陽新幹線]]の博多駅から南に9.2 [[キロメートル|km]]{{Sfn|高速鉄道研究会|2003|p=161}}の所にある[[車両基地]]([[博多総合車両所]])までの回送線を旅客線化した路線である{{Sfn|原口隆行|2005|p=337}}。
[[新幹線]]用の設備を使用し、[[新幹線車両]]を使用するが、最高速度は120 km/hで「[[全国新幹線鉄道整備法]]」の定義から外れるためJR西日本では「新幹線鉄道」ではなく「普通鉄道」として当時の運輸省(現在の[[国土交通省]])に認可を申請した経緯から「[[在来線]]」としている{{Sfn|南谷昌二郎|2005|pp=150-151}}。一方、施設そのものは新幹線の構造物であるため[[新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法|新幹線特例法]]の対象となっているほか、当路線の列車を運転するのに必要な[[動力車操縦者|動力車操縦者運転免許]]の種類は「新幹線電気車」であり、在来線電車の「甲種電気車」免許では運転できない。
博多南線と同様に、新幹線用設備を使用するものの旅客営業上は在来線として運行する路線には、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[上越新幹線]]から分岐し、[[上越線]]の支線として扱われる[[越後湯沢駅]] - [[ガーラ湯沢駅]]間がある。
博多駅 - 博多南駅・博多総合車両所間の[[距離標|キロポスト]]は、博多総合車両所への回送線用の[[東京駅|東京]]基点のものと{{efn|博多駅 - 回送線分岐点間で共用する[[九州新幹線]]用のキロポストも、東京基点のものである。}}、博多南線用の博多基点のものとの、2種類が設置されている。
なお、博多南駅ホームは、博多総合車両所内の構内車両基地の西端の線路に単式1線で設置されており、車両所下り方への入換も可能になっている。
保安装置はアナログ[[自動列車制御装置#ATC-1型(東海道・山陽型)(消滅)|ATC-1]]から、2017年2月19日に山陽新幹線と同時にATC-NSへ更新された<ref name="JW20170215">{{Cite press release|和書|title=山陽新幹線における新ATCの使用開始について|publisher=西日本旅客鉄道株式会社|date=2017-02-15|url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2017/02/page_9944.html|accessdate=2017-02-15}}</ref>。なお、九州新幹線部分(博総分岐以南)は、開業当初から[[自動列車制御装置#KS-ATC|KS-ATC]]である。
JR本州3社の在来線で唯一、全線が[[本州]]に存在しない路線である。また、JR西日本の在来線で唯一の全線が交流電化の路線である{{efn|JR西日本管内では他に、[[北陸本線]]の敦賀駅以北(厳密には北陸トンネル敦賀側坑口付近)と[[七尾線]][[津幡駅]]付近が交流電化されている}}。
== 歴史 ==
車両基地が建設された[[那珂川市]](建設当時は那珂川町)は次第に[[市街化区域|市街化]]してゆき、発展した。しかし1975年の開業当時、この地域は福岡市中心部への交通アクセスが悪く、[[西鉄バス]]では1時間近く要するため、地元住民から「回送線に乗せて欲しい」との要望が山陽新幹線を運営していた[[日本国有鉄道]](国鉄)に寄せられるようになった{{Sfn|原口隆行|2005|p=337}}。
しかし、[[国鉄分割民営化|国鉄改革]]時に「九州内の在来線はJR九州が経営する」という取り決め{{efn|[[日本国有鉄道改革法]]第6条第2項。同法は現在も有効な法律である。}}があったため、その整合性が問題となり、JR側と地元住民との間での調整は難航した。最終的に「線路の保有と列車の運行・管理はJR西日本、博多南駅の営業業務はJR九州に委託する」ということで決着し、[[1990年]]([[平成]]2年)に開業するに至った。博多駅から博多総合車両所までの区間は回送線であるため、JR西日本は新たに第一種鉄道事業免許を取得した。
博多南線の開業により、福岡市中心部への所要時間は、車では1時間ほどかかっていたものが10分程度へと大幅に短縮されて利便性が向上した<ref>{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2003 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 4 |publisher=講談社 }}</ref>。その後、博多総合車両所周辺は急速に宅地化が進んでいる{{efn|なお、博多南線は路線全区間が福岡市と春日市、博多南駅とホームは春日市、駅前ビルとバスターミナルは那珂川市に所在しており、駅出口は総合車両所の那珂川市寄りにしかない。博多総合車両所は敷地の北半分が春日市、南半分が那珂川市にまたがっているが、事務所が那珂川市側にあるため、所在地は那珂川市中原東2丁目となっている。}}。
なお、[[2010年]](平成22年)4月1日から博多南駅の営業業務はJR西日本の直営となり、[[みどりの窓口]]が設置された。
=== 九州新幹線との設備共用問題 ===
[[2011年]](平成23年)3月12日に全線開業した[[九州旅客鉄道]](JR九州)の[[九州新幹線|九州新幹線鹿児島ルート]]は、博多南線 8.5 km のうちほとんどの区間(約8.2 km{{Sfn|高速鉄道研究会|2003|p=223}})を九州新幹線の本線として使用するため、開業前には「博多南線の運行本数が大幅に減らされるのではないか」などと懸念する声が出て<ref name="msn20100917">[http://sankei.jp.msn.com/economy/business/100917/biz1009171018006-n1.htm 290円の新幹線「博多南線」廃止? 地元通勤客ら懸念] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100920204531/http://sankei.jp.msn.com/economy/business/100917/biz1009171018006-n1.htm |date=2010年9月20日 }} - MSN産経ニュース 2010年9月17日</ref>、福岡都市圏広域行政推進協議会から[[麻生渡]]福岡県知事へ「博多南線の存続並びに利便性の維持向上に向けて」積極的に働きかけるよう提言書が出された<ref>{{PDFlink|[http://www.fukuoka-tosiken.jp/fukuoka_metropolitan/pdf/prefecture20.pdf 平成20年度提言書]}} - 福岡都市圏広域行政推進協議会 [[2007年]]11月</ref>。これに対しJR西日本は2010年9月時点で「住民のライフラインとして定着している路線。利便性維持に可能な限り努力していきたい」と述べ<ref name="msn20100917"/>、九州新幹線全線開業時のダイヤ改正では休日朝の上りが2本削減されたのを除き、運行本数は据え置かれた<ref name="20101217_fukuoka">{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/12/17/20101217_fukuoka.pdf 平成23年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道株式会社新幹線管理本部・福岡支社プレスリリース 2010年12月17日</ref>。
なお、九州新幹線の列車も、博多南線との共用区間では120 km/hの速度制限がかかる<ref name="120kmh">【図説】日本の鉄道特別編成 山陽・九州新幹線ライン(講談社)ISBN 9784062700733 p.61</ref>。
=== 年表 ===
* [[1975年]]([[昭和]]50年)[[3月10日]]:日本国有鉄道(国鉄)山陽新幹線の博多駅が開業し、車両基地のある博多総合車両所への回送線として開設。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、山陽新幹線が西日本旅客鉄道(JR西日本)の管轄となる<ref name="trafic-yearbook-1988">『交通年鑑 昭和63年版』 交通協力会、1988年3月。</ref>。
* [[1989年]]([[平成]]元年)
** 11月:博多 - 博多南間の第一種鉄道事業免許申請{{Sfn|北野嘉幸|1990|p=19545}}。
** 12月:博多 - 博多南間の第一種鉄道事業免許取得{{Sfn|北野嘉幸|1990|p=19545}}。
* [[1990年]](平成2年)
** 1月:工事施工認可{{Sfn|北野嘉幸|1990|p=19545}}。
** 4月1日:博多南線として旅客営業開始<ref name="trafic-yearbook-1991" />。博多南駅が開業<ref name="trafic-yearbook-1991" />。
** [[12月3日]]:博多南線の利用客が100万人に達する<ref>『JR気動車客車編成表』91年版 ジェー・アール・アール 1991年 ISBN 4-88283-112-0</ref>。
* [[2011年]](平成23年)[[3月12日]]:九州新幹線博多 - 新八代間が開業し、博多駅と博多総合車両所分岐点の間が、九州新幹線との共用区間となる。
* [[2012年]](平成24年)[[3月17日]]:ダイヤ改正で、[[新幹線100系電車|100系]]の営業運転終了に伴い全列車を8両編成とする<ref>{{PDFlink|[https://www.westjr.co.jp/press/article/items/20111216_fukuoka.pdf 平成24年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道新幹線管理本部・福岡支社、2011年12月16日</ref>。
* [[2023年]](令和5年)4月1日:特急料金を130円に改定<ref name="130yen">[https://www.westjr.co.jp/press/article/items/220902_03_press_minaoshi.pdf 在来線特急料金の一部見直しについて] - 西日本旅客鉄道、2022年9月2日</ref>。
== 運行形態 ==
{{Double image stack|right|Destination sign Hakata-minami.jpg|Destination sign Hakata (Hakata-minami Line).jpg|200|博多南線の行先表示は、一部の上り列車を除き「こだま」「ひかり」などの列車名の表示がない}}
九州新幹線との線路共用部分は、博多駅から博多総合車両所(および博多南駅)の北方分岐までに限られる。また、九州新幹線上には博多南駅は存在しない。よって、九州新幹線を含む他の新幹線との乗換駅は博多駅となる。
朝の上りは1時間あたり2 - 4本、夕方以降の下り列車は1時間あたり2 - 3本、それ以外の時間・方向は1時間あたり1本の頻度となっており、通勤・通学に合わせたダイヤとなっている。回送線という性格上、朝の上りと夜の下りに本数が集中する一方、逆方向にあたる朝の下り初列車は7時台と遅く、夜の上り終列車は22時台と早い。他の新幹線と同じく0時から朝6時までは運行されない。
博多南線は在来線の扱いであるが、新幹線用の運行設備・車両での運行のため、全列車[[特別急行列車|特急列車]]扱いである。しかし[[JR|JRグループ]]の特急列車では唯一、[[列車愛称|列車名]]の設定がない。博多駅の電光掲示板([[発車標]])では「741号」のように号数のみが表示され、列車の行き先表示には「博多」もしくは「博多南」のみ表示される。また、全列車特急列車であるため種別の案内もない。
博多南駅行きの列車に対しては、博多駅ホームの自動放送では「[[小倉駅 (福岡県)|小倉]]・[[広島駅|広島]]・[[新鳥栖駅|新鳥栖]]・[[熊本駅|熊本]]方面には行きませんのでご注意下さい」と注意喚起がなされている。
=== 山陽・九州新幹線との直通運転 ===
乗換案内サイトにおける博多南駅の[[時刻表]]は、全ての上り列車が「特急 博多行」であると記載されているが、実際に博多駅で折り返す列車は数本程度であり、ほとんどの列車が山陽新幹線との[[直通運転]]を行っている。そのため、博多南駅構内の時刻表では山陽新幹線内の行先が表記されているほか、博多南駅のホームに入線した時点で山陽新幹線内の種別・行先表示がなされている場合がある<ref>{{Cite web|和書|title=新幹線だけど在来線、「博多南線」どんな路線? {{!}} 経営|url=https://toyokeizai.net/articles/-/323480|website=東洋経済オンライン|date=2020-01-11|accessdate=2020-04-18|language=ja}}</ref>。一方、山陽新幹線から博多南線に直通する列車は、山陽新幹線区間では原則として「こだま 博多行」として運転され、博多駅にて「博多南行き」に行先変更がなされるが、小倉駅の一部の発車標では「こだま 博多南行」という案内がなされる。
直通列車はすべて山陽新幹線内で「[[こだま (列車)|こだま]]」として運行されるが、2006年3月18日のダイヤ改正から2023年3月18日のダイヤ改正までは、山陽新幹線内で「[[ひかりレールスター]]」として運行する列車、2012年3月17日のダイヤ改正から2023年3月18日のダイヤ改正まで[[九州新幹線]]内完結列車からの折り返しとなる列車も存在した。直通列車は厳密には山陽新幹線内と博多南線内で別列車扱いとなるものの、博多南線・山陽新幹線ともに共通の[[列車番号]]となっている。但し山陽新幹線内で「ひかりレールスター」として運行する列車、および九州新幹線からの折り返しとなる列車は、博多南線内においては別の列車番号が付与されていた。
== 使用車両 ==
開業以来、基本的には一貫して山陽新幹線専用の短編成の車両・編成が使用されている。ただし、2011年3月12日に九州新幹線が全通して以降、ごく一部の列車には山陽・九州新幹線直通用の[[新幹線N700系電車|N700系]](JR九州所属車を含む)も使用されている。車両の配置区所はJR西日本[[博多総合車両所]]であるが、N700系のうちJR九州所属の車両の配置区所はJR九州[[熊本総合車両所]]である。
博多南線内では開業当初から全車両禁煙(喫煙ルームを含む)となっている。
過去には4両編成や6両編成があったが0系や100系の4両編成および6両編成の引退により、現在は使用される全車両が8両編成に統一されている。博多南駅のホーム[[有効長]]が8両分しかないため16両編成は使用されない。このため[[東海旅客鉄道]](JR東海)所属車両が使用されることはない。また九州新幹線専用である[[新幹線800系電車|800系]]も過去を含め使用されたことはない。
=== 現在の使用車両 ===
* [[新幹線500系電車|500系]]8両編成(V編成) - かつて東京-博多間の「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」に充当されていたが、N700系N編成に代替されたため「こだま」用として8両編成(全車普通車)に組み替えられた車両が[[2008年]]12月1日より使用されている。
* [[新幹線700系電車|700系]]8両編成(E編成) - 「[[ひかりレールスター]]」用編成が使用される。博多南線では「ひかりレールスター」として直通する列車も含め全列車とも個室は利用できなかったが、2020年8月17日から<!--[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス流行]]に伴い-->平日の一部列車で扉開放を前提として個室利用が可能になった<ref>{{Cite press release|和書|title=博多南線の一部列車のコンパートメントを自由席としてご利用頂けるようにします|publisher=西日本旅客鉄道|date=2020-08-07|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/200807_00_hakataminamisen.pdf|format=PDF|accessdate=2021-03-16}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=博多南線の一部列車でのコンパートメントのご利用を継続します|publisher=西日本旅客鉄道|date=2020-10-20|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/201020_00_hakataminamisen.pdf|format=PDF|accessdate=2021-03-16}}</ref>。
* [[新幹線N700系電車|N700系]]8両編成(S編成・R編成) - 山陽・九州新幹線用編成。[[2011年]]3月12日の鹿児島ルート全通に伴い上り1本が、同年8月31日より下り1本がN700系による運行となった。その後、ダイヤ改正により運用本数が変動している。半室[[グリーン車]]がありグリーン料金を支払うことでグリーン車も利用可能。
大半の列車は500系・700系が使用されており、ごく一部にN700系を使用する列車がある。
=== 過去の使用車両 ===
* [[新幹線0系電車|0系]] - 本路線の開業当初から2008年まで使用されていた車両。当初は6両編成のR編成のみであったが、1997年3月からは4両編成のQ編成も導入された。Q編成は[[2001年]]9月30日、R編成は[[2008年]]11月30日限りで定期運用から離脱した。
* [[新幹線100系電車|100系]] - 0系の代替として旧「[[グランドひかり]]」用の100系V編成を短編成化したもの。4両編成のP編成は2000年10月から、6両編成のK編成は2002年2月から使用開始。P編成は2011年3月11日限りで、K編成は[[2012年]]3月14日限りで定期運用離脱。P編成が運用離脱したことで4両編成が消滅したのち<ref name="20101217_fukuoka" />K編成の運用離脱により6両編成が消滅し、全列車が8両編成に統一された。
[[ファイル:JRW series100 Hakata-Minami.jpg|none|thumb|博多南駅に到着する100系<br>(2006年3月26日)]]
== 運賃・料金制度 ==
[[File:Tickets for Hakata-Minami Station sold at Hakata Station.jpg|250px|thumb|100円の博多 - 博多南間片道特定特急券]]
博多南線は前述の通り、全列車が新幹線用車両により運行される在来線であるため、運賃・料金制度上、他路線とは異なる特殊な取り扱いを行っている。
博多南線で運行される列車は全て特急列車扱いであるが、同線は那珂川市と福岡市の通勤・通学客の利用を想定して新幹線[[車両基地|回送線]]を旅客化した経緯がある。[[特別急行券#特定特急券|特定特急料金]]は130円<ref name="130yen"/>(2023年3月末までは100円)と安価に設定され、運賃(200円)込みで全区間片道330円となっている。その一方、[[石勝線]]や[[奥羽本線]]の一部区間のような「[[特別急行券#特急料金不要の特例区間|特急料金不要の特例区間]]」の適用はなく、また[[青春18きっぷ]]など、普通列車しか利用できないフリー乗車券での乗車もできない{{efn|特急券を別途購入しても利用不可。そもそも[[青春18きっぷ]]は、「[[青春18きっぷ#利用できる路線・列車|特急列車に乗車できる特例]]」を除いては、特急券と組み合わせての特急列車の乗車は不可。}}{{efn|以前発売されていた、[[周遊きっぷ]]の九州ゾーンなど博多近辺をフリー区間とするものも、本路線はフリー区間には含まれていなかった。ワイド・ミニ周遊券では「九州」「九州北」のワイド周遊券と「福岡・唐津」のミニ周遊券では山陽新幹線小倉駅 - 博多駅間が自由周遊区間に含まれていたため、本路線も自由周遊区間に含まれていた。また、在来線の特急列車という扱いであるため、これらのワイド周遊券<!-- ミニ周遊券は自由周遊区間でも急行は急行券不要だったが特急は自由席でも特急券が必要だった。-->では特急券なしで乗車できた。}}。
博多駅で他のJR線と乗り継ぐ場合、運賃は通算されるが、特急料金については、山陽新幹線から直通運行する列車を利用したり、改札を出ずに山陽・九州新幹線と乗り継いだりする場合でも、通算されず別途必要となる。N700系のグリーン車を除き、山陽新幹線内で指定席となる車両も含め全車両・全席が[[自由席]]扱いとなる。
博多南駅では[[乗車カード|ICカード乗車券]]([[ICOCA]]等)および[[エクスプレス予約|EX-IC]]に非対応であり{{efn|九州新幹線は、2022年6月25日から対応した一方、博多南線および同年9月開業の[[西九州新幹線]]には対応していない。}}、これらの乗車券により博多南線の区間を乗車することはできない(EX-ICで新幹線に乗車し博多南駅で下車した場合、<!-- 九州新幹線の各駅([[新鳥栖駅]]以南)で下車した場合と同様に各駅での精算証明扱いとなり、※2022年6月25日以降、九州新幹線(鹿児島ルート)にも対応済み。 -->東海道・山陽・九州新幹線の各駅で精算証明を持参し出場処理を行うまで、EX-ICカード等は利用できない<!-- <ref>[https://expy.jp/faq/category/detail/?id=108 【九州新幹線】「みずほ」・「さくら」号を利用して入場時はタッチをしたが、九州新幹線の駅で、EX-ICカードをタッチせずに下車してしまった場合は?] - エクスプレス予約</ref> この質問はリンク切れ。-->){{efn|なお、博多南駅の窓口は常時営業ではない}}。
また、博多南線 - 他のJR在来線間の乗換時に、他の在来線でICカード乗車券を利用する場合は、いったん改札外に出て各々の通常改札を利用する必要がある。[[SUGOCA]]等のエリア内 - エリア外相互間の利用と同様になるため、博多南駅と目的地駅間の磁気乗車券・定期券を使用しないと、博多駅の新在乗換改札は通過できない(有人改札はあくまでも誤認による使用の特例精算扱いであり、常用は認められない)。
=== グリーン車の運用と利用時扱い ===
半室[[グリーン車]]が連結されているN700系で運行する列車においてグリーン車を利用する場合、運賃・特定特急料金に加え、[[グリーン券#JR各社のグリーン料金表|特急・急行列車用グリーン料金]]が必要となる。当該列車のグリーン券は当該列車車内と博多駅・博多南駅のみどりの窓口で発売し、指定席の座席指定運用はされていない。また本路線のグリーン券は[[マルス (システム)|マルス]]発券ができないため、博多駅・博多南駅で発売する場合でも手書きの料金補充券による発券となる。
2011年3月12日のダイヤ改正で博多南線でのN700系運用が開始された当初は当該列車の車内でのみグリーン券を発売していたが、2011年11月30日から新たに2往復が設定されたときに博多駅・博多南駅のみどりの窓口でもグリーン券を発売するようになっている<ref>「JR時刻表」2011年12月号p.50</ref>。
== データ ==
=== 路線データ ===
* 管轄(事業種別):西日本旅客鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業者]])
* 路線距離([[営業キロ]]):8.5 [[キロメートル|km]]
* [[軌間]]:1,435 [[ミリメートル|mm]]([[標準軌]])
* 駅数:2(起点駅含む)
** 博多南線所属駅は博多南駅のみ。博多駅は在来線としては鹿児島本線所属で、JR西日本の駅としても山陽新幹線の駅として計上される<ref>[http://www.westjr.co.jp/railroad/digest/ 鉄道事業ダイジェスト] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140314194736/http://www.westjr.co.jp/railroad/digest/ |date=2014年3月14日 }} - 西日本旅客鉄道</ref>。
* [[複線]]区間:全線(ただし博多南駅ホームに面する線路は1線のみ)
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線([[交流電化|交流]]25,000 [[ボルト (単位)|V]]・60 [[ヘルツ (単位)|Hz]]、[[架空電車線方式]])
* 最高速度:120 [[キロメートル毎時|km/h]]
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:車内信号閉塞式
* 保安装置:[[自動列車制御装置#ATC-NS|ATC-NS]]、車内信号式
* [[運転指令所]]:[[新幹線総合指令所|東京新幹線総合指令所]]
全線で[[西日本旅客鉄道山陽新幹線統括本部|山陽新幹線統括本部]]が列車運行・線路設備管理を、[[西日本旅客鉄道中国統括本部|中国統括本部]]が駅運転・営業業務を管轄している。
=== 利用状況 ===
{| class="wikitable" style="text-align:right"
!年度!!平均通過人員<br>(人/日)!!出典
|-
!2013年度
|13,322
|<ref group="利用状況">{{Cite web|和書|url=http://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2014_08.pdf|format=PDF|title=データで見るJR西日本2014 > 区間別平均通過人員および旅客運輸収入(平成25年度)|publisher=西日本旅客鉄道|page=58|accessdate=2020-10-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141008133201/http://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2014_08.pdf|archivedate=2014-10-08}}</ref>
|-
!2014年度
|13,645
|<ref group="利用状況">{{Cite web|和書|url=http://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2015_08.pdf|format=PDF|title=データで見るJR西日本2015 > 区間別平均通過人員および旅客運輸収入(平成26年度)|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2020-10-19|page=58|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150928075929/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2015_08.pdf|archivedate=2015-09-28}}</ref>
|-
!2015年度
|14,063
|<ref group="利用状況">{{Cite web|和書|url=http://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2016_08.pdf|format=PDF|title=データで見るJR西日本2016 > 区間別平均通過人員および旅客運輸収入(平成27年度)|page=58|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2019-10-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161005151819/http://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2016_08.pdf|archivedate=2016-10-05}}</ref>
|-
!2016年度
|14,680
|<ref group="利用状況">{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2017_08.pdf|format=PDF|title=データで見るJR西日本2017 > 区間別平均通過人員および旅客運輸収入(2016年度)|page=58|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2019-10-04|archiveurl= https://web.archive.org/web/20190602131827/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2017_08.pdf|archivedate=2019-06-02}}</ref>
|-
!2017年度
|15,289
|<ref group="利用状況">{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2018_08.pdf|format=PDF|title=データで見るJR西日本2018 > 区間別平均通過人員および旅客運輸収入(2017年度)|page=58|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2019-10-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190602131834/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2018_08.pdf|archivedate=2019-06-02}}</ref>
|-
!2018年度
|15,738
|<ref group="利用状況">{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2019_08.pdf|format=PDF|title=データで見るJR西日本2019 > 区間別平均通過人員および旅客運輸収入(2018年度)|page=58|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2019-10-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191004005328/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2019_08.pdf|archivedate=2019-10-04}}</ref>
|-
!2019年度
|16,197
|<ref group="利用状況">{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2020_08.pdf|format=PDF|title=データで見るJR西日本2020 > 区間別平均通過人員および旅客運輸収入(2019年度)|page=58|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2020-10-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201007094423/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2020_08.pdf|archivedate=2020-10-07}}</ref>
|-
!2020年度
|12,891
|<ref group="利用状況">{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2021_08.pdf|format=PDF|title=データで見るJR西日本2021 > 区間別平均通過人員および旅客運輸収入(2020年度)|page=58|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2021-10-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211020130656/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2021_08.pdf|archivedate=2021-10-20}}</ref>
|}
== 駅一覧 ==
* [[ファイル:JR area FUKU.png|14px|福]]:[[特定都区市内]]「福岡市内」の駅
* 両駅とも[[福岡県]]内に所在。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|駅名
!style="width:2.5em;border-bottom:solid 3px #0072ba;"|営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|接続路線
!style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|所在地
|-
|[[博多駅]] [[ファイル:JR area FUKU.png|14px|福]]
| style="text-align:right;"|0.0
|[[西日本旅客鉄道]]:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px]] [[山陽新幹線]]<br>[[九州旅客鉄道]]:[[ファイル:Shinkansen jrk.svg|17px|■]] [[九州新幹線]]・{{JR九駅番号|JA}} {{JR九駅番号|JB}} [[鹿児島本線]]・{{JR九駅番号|JC}} [[篠栗線]]([[福北ゆたか線]]){{efn|篠栗線の正式な終点駅は[[吉塚駅]]だが、福北ゆたか線(運転系統上の愛称)の終点駅は博多駅である。}}(00)<br>[[福岡市交通局]]:[[File:Subway FukuokaKuko.svg|20px]] [[福岡市地下鉄空港線|空港線]](K11)・[[ファイル:Subway FukuokaNanakuma.svg|20px]] [[福岡市地下鉄七隈線|七隈線]](N18)
|style="white-space:nowrap"|[[福岡市]]<br>[[博多区]]
|-
|[[博多南駅]]
|style="text-align:right;"|8.5
|
|[[春日市]]
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==== 利用状況 ====
{{Reflist|group="利用状況"}}
== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
* {{Cite book |和書|author=南谷昌二郎|authorlink=南谷昌二郎 |title=山陽新幹線 |year=2005 |publisher=[[JTBパブリッシング]] |series=JTBキャンブックス |ref=harv }}
* {{Cite book |和書|author=原口隆行|authorlink=原口隆行 |title=読む・知る・愉しむ 新幹線がわかる事典 |date=2005-06 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4534039158 |ref=harv }}
* {{Cite book |和書|author=高速鉄道研究会 |title=新幹線 高速鉄道技術のすべて |date=2003-10 |publisher=[[山海堂 (出版社)|山海堂]] |isbn=4381015487 |ref=harv }}
=== 雑誌記事 ===
* {{Cite journal |和書|author=北野嘉幸 |title=博多南線の開業 |date=1990-10 |journal=JREA |volume=33 |issue=10 |pages=19545-19548 |publisher=[[日本鉄道技術協会]] |issn=04472322 |ref=harv }}
== 関連項目 ==
* [[新幹線]]
* [[博多総合車両所]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Hakata-Minami Line}}
* [https://www.city.nakagawa.lg.jp/site/ekibiru/access-shinkansen.html 博多南線] - 那珂川市
{{新幹線}}<!--新幹線のテンプレートに博多南線が記載されているため掲載-->
{{西日本旅客鉄道新幹線鉄道事業本部}}
{{DEFAULTSORT:はかたみなみ}}
[[Category:九州地方の鉄道路線]]
[[Category:西日本旅客鉄道の鉄道路線]]
[[Category:山陽新幹線|*]]
[[Category:福岡県の交通]]
|
2003-08-16T04:20:43Z
|
2023-11-15T12:30:07Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9A%E5%A4%9A%E5%8D%97%E7%B7%9A
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13,289 |
越前国
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越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。
北陸道がヤマト王権の支配下となった4世紀以降、角鹿国造、高志国造、三国国造、江沼国造、加我国造、羽咋国造、能等国造が設置された。
7世紀末の689年-692年(持統3-6年)頃高志国(こしのくに)が高志道前・高志道中・高志道後の3国に分割されたと想像されている。その後、高志前・高志中・高志後の表記を経て、大宝律令制定後の国印製作時に越前・越中・越後の表記に定まったと推定されている。 3国に分割された時の「越前国」の領域は、現在の石川県と、福井県の北部を含み、後の敦賀郡(旧角鹿国)、丹生郡(旧高志国)、足羽郡、大野郡、坂井郡(旧三国国)、江沼郡(旧江沼国)、加賀郡(旧加我国)、羽咋郡(旧羽咋国)、能登郡(旧能等国)、鳳至郡、珠洲郡の十一郡にわたる広大な面積であった。
養老2年(718年)5月2日に、現在の石川県北部にあたる羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を能登国として分立させた。
弘仁14年(823年)3月1日に、現在の石川県南部にあたる加賀郡と江沼郡を割いて加賀国を建てた。これ以後は郡単位の移管はなく、主に現在の福井県のうち南部 (若狭国)を除く部分が領域となった。7世紀末の越国からは五分割、8世紀初頭の越前国からは三分割されたことになるが、それでも残った越前国は延喜式による等級で北陸道唯一の大国に区分された。
なお、白山の西麓にあたる現在の石川県の一部(白山市の旧白峰村地域、同市旧尾口村地域の一部および同県小松市旧新丸村地域)は白山麓十八ヶ村とも呼ばれ、信仰登山をめぐる利権を巡って加賀側と越前側で中世以来帰属争いが絶えない地域であり、加越両国の間を揺れ動いた。最終的に越前国でありながら明治初期に石川県に加えられた地域となる。美濃国との境にあった現岐阜県郡上市の旧石徹白村地域も、越前国の領域で一時は福井県だったが、昭和の大合併で岐阜県側に越境合併した。
京都や奈良をうかがうのに近すぎず遠すぎずの大国でもあり、古来、この地に拠って天下を争い、滅んだ武将が少なくない。新田義貞、朝倉義景、柴田勝家が挙げられ(特に義貞の籠城は、のちに即位無効とされたものの新天皇を推戴してのものである)、主将としてではないが大谷吉継、この地を再起の拠点として逃れる途上で殺された藤原仲麻呂などもこれに準じる。明智光秀も、一時期同国の住人であった。 継体天皇は、越前国から大和へ迎えられたとされ、万葉歌人としてよく知られる志貴皇子(天智天皇皇子)の母「越道君伊羅都売」もこの国の出自と考えられている。他に、直接天下取りに動いたわけではないが、徳川家康の次男であり英邁をうたわれながら弟の徳川秀忠に後継を譲らざるを得なかった結城秀康も、この地の領主として後半生を送った。米の産地として播磨国と「一播二越」(いちばんにえち)と称された。
明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。
国府は現在の越前市にあったとされる。遺構は見つかっておらず、未だ確定には至っていない。越前市役所(越前市府中)付近では平安時代初期の柱穴や「国寺」等の墨書銘土器が見つかっており、同地が国府跡となる可能性が指摘されている。
尼寺跡も未詳。
なお、二宮を劔神社(丹生郡越前町織田、北緯35度57分28.19秒 東経136度3分19.44秒 / 北緯35.9578306度 東経136.0554000度 / 35.9578306; 136.0554000 (劔神社(一説に越前国二宮)))とする説があるが、中世史料はなく不詳。三宮以下は未詳。
・丹羽長秀
越前出身の商人は、商才に長ける人物が多かったため、越前商人として名が知られていた。
|
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"text": "国府は現在の越前市にあったとされる。遺構は見つかっておらず、未だ確定には至っていない。越前市役所(越前市府中)付近では平安時代初期の柱穴や「国寺」等の墨書銘土器が見つかっており、同地が国府跡となる可能性が指摘されている。",
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"text": "尼寺跡も未詳。",
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"text": "なお、二宮を劔神社(丹生郡越前町織田、北緯35度57分28.19秒 東経136度3分19.44秒 / 北緯35.9578306度 東経136.0554000度 / 35.9578306; 136.0554000 (劔神社(一説に越前国二宮)))とする説があるが、中世史料はなく不詳。三宮以下は未詳。",
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越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。
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{{基礎情報 令制国
|国名 = 越前国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|越前国}}
|別称 = 越州(えっしゅう)<ref group="注釈">別称「越州」は、越中国・越後国とあわせて、または単独での呼称。</ref>
|所属 = [[北陸道]]
|領域 = [[福井県]][[嶺北]]地方([[岐阜県]]北西部含む)・[[敦賀市]]<ref group="注釈">創設時には[[石川県]]全域をも含んだ。</ref>
|国力 = [[大国 (令制国)|大国]]
|距離 = [[中国 (令制国)|中国]]
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|国府 = 福井県[[越前市]]
|国分寺 = (未詳)
|国分尼寺 = (未詳)
|一宮 = [[氣比神宮]](福井県[[敦賀市]])
}}
'''越前国'''(えちぜんのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[北陸道]]に属する。
== 沿革 ==
北陸道が[[ヤマト王権]]の支配下となった[[4世紀]]以降、[[角鹿国造]]、[[高志国造]]、[[三国国造]]、[[江沼国造]]、[[加我国造]]、[[羽咋国造]]、[[能等国造]]が設置された。
[[7世紀]]末の[[689年]]-[[692年]](持統3-6年)頃[[越国|高志国]]('''こし'''のくに)が高志道前・高志道中・高志道後の3国に分割されたと想像されている。その後、高志前・高志中・高志後の表記を経て、大宝律令制定後の国印製作時に[[越前]]・[[越中]]・[[越後]]の表記に定まったと推定されている。
3国に分割された時の「越前国」の領域は、現在の石川県と、福井県の北部を含み、後の[[敦賀郡]](旧角鹿国)、[[丹生郡]](旧高志国)、[[足羽郡]]、[[大野郡 (福井県)|大野郡]]、[[坂井郡]](旧三国国)、[[江沼郡]](旧江沼国)、[[河北郡|加賀郡]](旧加我国)、[[羽咋郡]](旧羽咋国)、[[能登郡]](旧能等国)、[[鳳至郡]]、[[珠洲郡]]の十一郡にわたる広大な面積であった。
[[養老]]2年([[718年]])[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]に、現在の石川県北部にあたる羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を[[能登国]]として分立させた。
[[弘仁]]14年([[823年]])[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]に、現在の石川県南部にあたる加賀郡と江沼郡を割いて[[加賀国]]を建てた。これ以後は郡単位の移管はなく、主に現在の福井県のうち南部 ([[若狭国]])を除く部分が領域となった。7世紀末の越国からは五分割、8世紀初頭の越前国からは三分割されたことになるが、それでも残った越前国は[[延喜式]]による等級で北陸道唯一の[[大国]]に区分された。
なお、[[白山]]の西麓にあたる現在の[[石川県]]の一部([[白山市]]の旧[[白峰村]]地域、同市旧[[尾口村]]地域の一部および同県[[小松市]]旧[[新丸村]]地域)は白山麓十八ヶ村とも呼ばれ、信仰登山をめぐる利権を巡って加賀側と越前側で中世以来帰属争いが絶えない地域であり、加越両国の間を揺れ動いた。最終的に越前国でありながら明治初期に石川県に加えられた地域となる<ref name=ndl071113>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000039391 |title=江戸時代に越前国、若狭国だった地域で、現在は福井県ではないところはどこか。 |website=[[レファレンス協同データベース]]|publisher=[[国立国会図書館]] |date=2007-11-13 |accessdate=2022-11-01}}</ref><ref>{{Cite journal |和書|author=橘礼吉 |title=白山麓の越境出作り一文書に見る白峰村白峰の事例- |journal=石川県白山自然保護センター研究報告 |volume=24 |publisher=石川県白山自然保護センター |year=1997 |pages=44 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/hakusan/publish/report/documents/report24-5.pdf}}</ref>。美濃国との境にあった現[[岐阜県]][[郡上市]]の旧[[石徹白村]]地域も、越前国の領域で一時は福井県だったが、昭和の大合併で岐阜県側に越境合併した<ref name=ndl071113/>。
[[京都]]や[[奈良]]をうかがうのに近すぎず遠すぎずの大国<ref><距離的にはまずまず近いが、冬場は峻厳な木の芽峠が雪で閉ざされる。しかし、敦賀平野のみはこの域外、近畿側にあるという複雑な国情となっている。</ref>でもあり、古来、この地に拠って天下を争い、滅んだ武将が少なくない。[[新田義貞]]、[[朝倉義景]]、[[柴田勝家]]が挙げられ(特に義貞の籠城は、のちに即位無効とされたものの新天皇を推戴してのものである)、主将としてではないが[[大谷吉継]]、この地を再起の拠点として逃れる途上で殺された[[藤原仲麻呂]]などもこれに準じる。[[明智光秀]]も、一時期同国の住人であった。
[[継体天皇]]は、越前国から大和へ迎えられたとされ、万葉歌人としてよく知られる[[志貴皇子]](天智天皇皇子)の母「越道君伊羅都売」もこの国の出自と考えられている。他に、直接天下取りに動いたわけではないが、[[徳川家康]]の次男であり英邁をうたわれながら弟の[[徳川秀忠]]に後継を譲らざるを得なかった[[結城秀康]]も、この地の領主として後半生を送った。米の産地として[[播磨国]]と「一播二越」(いちばんにえち)と称された<ref>[http://www.city.echizen.lg.jp/office/010/010/konomachigaiine.html いにしえの歴史と文化が息づく・・・ 自然に恵まれたまち、越前市 ]</ref>。
=== 近世以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(1,495村・680,914石余)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。
** [[南条郡]](89村・35,502石余) - [[天領|幕府領]](福井藩[[預地]])、[[地方知行|旗本領]]、福井藩、丸岡藩、鯖江藩、[[若狭国|若狭]][[小浜藩]]、[[三河国|三河]][[西尾藩]]、[[美濃国|美濃]][[郡上藩]]
** [[今立郡]](191村・85,575石余) - 幕府領(福井藩預地)、旗本領、福井藩、'''[[鯖江藩]]'''、若狭小浜藩
** [[丹生郡]](231村・86,692石余) - 幕府領(本保代官所・福井藩預地)、旗本領、福井藩、鯖江藩、大野藩、三河西尾藩、美濃郡上藩
** [[大野郡 (福井県)|大野郡]](258村・96,259石余) - 幕府領(本保代官所・福井藩預地)、福井藩、'''[[大野藩]]'''、'''[[越前勝山藩|勝山藩]]'''、鯖江藩、美濃郡上藩
** [[足羽郡]](158村・88,467石余) - '''[[福井藩]]'''
** [[吉田郡]](136村・80,191石余) - 福井藩
** [[坂井郡]](351村・185,419石余) - 幕府領(本保代官所・福井藩預地)、福井藩、'''[[丸岡藩]]'''、三河西尾藩
** [[敦賀郡]](81村・22,806石余) - 旗本領、'''[[鞠山藩]]'''、若狭小浜藩、[[安房国|安房]][[安房勝山藩|勝山藩]]、[[幸若舞|幸若氏]]知行
* 明治2年
** [[6月23日 (旧暦)|6月23日]]([[1869年]][[7月31日]]) - 安房勝山藩が、越前勝山藩、[[美作勝山藩]]との区別のため、任[[知藩事]]後に'''[[加知山藩]]'''に改称。
** [[6月24日 (旧暦)|6月24日]](1869年[[8月1日]]) - [[版籍奉還]]により鞠山藩(通称)の正式名称が'''[[敦賀藩]]'''となる。
* 明治3年
** [[3月23日 (旧暦)|3月23日]]([[1870年]][[4月23日]]) - 敦賀藩が改称して'''鞠山藩'''となる。
** [[9月17日 (旧暦)|9月17日]](1870年[[10月11日]]) - 鞠山藩が小浜藩に編入。
** [[12月22日 (旧暦)|12月22日]]([[1871年]][[2月11日]]) - 幕府領・旗本領が'''[[本保県]]'''の管轄となる。
* 明治4年
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]](1871年[[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[福井藩|福井県]]'''(第1次)、'''[[勝山県]]'''、'''[[鯖江県]]'''、'''[[大野県]]'''、'''[[丸岡県]]'''および[[加知山県]]、[[小浜県]]、[[西尾県]]、[[郡上県]]の飛地となる。
** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 第1次府県統合により、加知山県の管轄区域が'''[[木更津県]]'''の管轄となる。
** [[11月20日 (旧暦)|11月20日]](1871年[[12月31日]]) - 第1次府県統合により、敦賀郡・今立郡・南条郡が'''[[敦賀県]]'''、残部が'''[[足羽県]]'''の管轄となる。
* 明治6年([[1873年]])[[1月14日]] - 全域が'''敦賀県'''の管轄となる。
* 明治8年([[1875年]])[[8月21日]] - 敦賀郡が'''[[滋賀県]]'''、残部が'''[[石川県]]'''の管轄となる。
* 明治14年([[1881年]])[[2月7日]] - 全域が'''[[福井県]]'''の管轄となる。
* [[昭和]]33年([[1958年]])[[10月15日]] - 大野郡[[石徹白村]]が[[岐阜県]][[郡上郡]][[白鳥町 (岐阜県)|白鳥町]](現・[[郡上市]])に編入。
== 領域 ==
[[明治維新]]の直前の領域は現在以下のようになっている。'''太字'''の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。
* [[福井県]]
** '''[[福井市]]'''
** '''[[敦賀市]]'''
** '''[[大野市]]'''
** '''[[勝山市]]'''
** '''[[鯖江市]]'''
** '''[[あわら市]]'''
** '''[[越前市]]'''
** '''[[坂井市]]'''
** '''[[吉田郡]]'''
** '''[[今立郡]]'''
** '''[[南条郡]]'''
** '''[[丹生郡]]'''
* [[岐阜県]]
** [[郡上市]]
*** 白鳥町石徹白
== 国内の施設 ==
{{座標一覧}}
=== 国府 ===
[[国府]]は現在の[[越前市]]にあったとされる。遺構は見つかっておらず、未だ確定には至っていない。越前市役所(越前市府中)付近では平安時代初期の柱穴や「国寺」等の墨書銘土器が見つかっており、同地が国府跡となる可能性が指摘されている<ref>[http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20160301/CK2016030102000036.html "越前国の中心「国府」解明か 越前市第2庁舎跡に平安の柱穴"](中日新聞、2016年3月1日記事)。</ref>。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
* 越前国分寺跡
*: 創建時の遺構は所在未詳。護国山国分寺(越前市京町、{{Coord|35|54|13.97|N|136|9|52.34|E|region:JP-18_type:landmark|name=越前国分寺(後継寺院)}})が法燈を伝承する。
尼寺跡も未詳。
=== 神社 ===
; [[延喜式内社]]
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社8座2社・小社118座111社の計126座113社が記載されている(「[[越前国の式内社一覧]]」参照)。大社2社は以下に示すもので、いずれも名神大社である。
* [[敦賀郡]] 気比神社七座
** 比定社:[[氣比神宮]] ([[敦賀市]]曙町)
* [[丹生郡]] 大虫神社
** 比定社:[[大虫神社 (越前市)|大虫神社]] ([[越前市]]大虫町、{{Coord|35|54|3.21|N|136|7|35.73|E|region:JP-18_type:landmark|name=名神大社:大虫神社}})
; [[総社]]・[[一宮]]以下
: 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref>『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 332-334。</ref>。
* 総社:総社大神宮 (越前市京町、{{Coord|35|54|11.94|N|136|9|54.39|E|region:JP-18_type:landmark|name=越前国総社:総社大神宮}})
* 一宮:[[氣比神宮]] (敦賀市曙町、{{Coord|35|39|17.85|N|136|4|28.92|E|region:JP-18_type:landmark|name=越前国一宮、名神大社:気比神社(氣比神宮)}})
なお、二宮を[[劔神社]]([[丹生郡]][[越前町]]織田、{{Coord|35|57|28.19|N|136|3|19.44|E|region:JP-18_type:landmark|name=劔神社(一説に越前国二宮)}})とする説があるが、中世史料はなく不詳<ref>『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)p. 334。</ref>。三宮以下は未詳。
== 地域 ==
=== 郡 ===
*[[敦賀郡]]
*[[丹生郡]]
*[[今立郡]]
*[[足羽郡]]
*[[大野郡 (福井県)|大野郡]]
*[[坂井郡]]
*[[吉田郡]]
*[[南条郡]](明治期に丹生郡より分離、ただし地域慣習としては中世より別郡とされていた)
== 人物 ==
=== 国司 ===
==== 越前守 ====
*[[藤原内麻呂]] [[786年]](延暦5年)
*[[良岑木蓮]] [[844年]]([[承和 (日本)|承和]]11年) – [[849年]]([[嘉祥]]2年)
*[[源直]] [[892年]][[2月25日]]([[寛平]]4年正月23日) – [[895年]](寛平7年)
*[[源悦]] [[901年]](延喜元年)
*[[橘良殖]] [[906年]](延喜6年)
*[[源信明#系譜|源国盛]] [[996年]](長徳2年)
*[[藤原為時]] [[996年]](長徳2年) [[紫式部]]の父。紫式部も越前国府に帯同したという。
*[[藤原定成]] [[1058年]](康平元年)
*[[藤原宗能]] [[1100年]](康和2年)
*[[平資盛]] [[1171年]](嘉応3年)
*[[藤原隆信]] [[1200年]]頃
・[[丹羽長秀]]
==== 越前介 ====
*[[阿倍広人]] 759年(天平宝字3年)
*[[藤原内麻呂]] 785年(延暦4年)
*[[三統理平]] 901年(延喜元年)
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
*?~1191年 - [[比企朝宗]]
*1213年~? - [[大内惟義]]
*?~1221年 - [[大内惟信]]
*1221年~1227年 - [[島津忠久]]
*1227年~1228年 - [[島津忠時]]
*1228年~? - [[後藤基綱]]
*1275年頃~? - [[吉良満氏|足利満氏]]?
*1301年~? - [[後藤基頼]]
*1321年~? - [[後藤基雄]]
==== 室町幕府 ====
*1336年~1341年 - [[斯波高経]]
*1346年~1350年 - [[細川頼春]]
*1352年~1366年 - 斯波高経・[[斯波氏経]]・[[斯波義種]]
*1366年~1379年 - [[畠山義深]]
*1379年 - [[畠山基国]]
*1380年~1396年 - [[斯波義将]]
*1398年~1418年 - [[斯波義重]]
*1418年~1433年 - [[斯波義淳]]
*1433年~1436年 - [[斯波義郷]]
*1436年~1452年 - [[斯波義健]]
*1452年~1460年 - [[斯波義敏]]
*1460年~1461年 - [[斯波義寛|斯波松王丸]]
*1461年~1466年 - [[斯波義廉]]
*1466年 - 斯波義敏
*1466年~1471年 - 斯波義廉
*1471年~1481年 - [[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]
*1481年~1486年 - [[朝倉氏景 (8代当主)|朝倉氏景]]
*1486年~1512年 - [[朝倉貞景 (9代当主)|朝倉貞景]]
*1512年~1548年 - [[朝倉孝景 (10代当主)|朝倉孝景]]
*1548年~1573年 - [[朝倉義景]]
=== 大名 ===
=== 戦国大名 ===
* [[朝倉氏]]
=== 織豊政権の大名 ===
; 織田政権
* [[柴田勝家]]([[福井城|北ノ庄城]]49万石)
* 府中三人衆
** [[前田利家]]
** [[佐々成政]]
** [[不破光治]]
; 豊臣政権
*[[丹羽長秀]] - [[丹羽長重]](北ノ庄城123万石)
*[[堀秀政]] - [[堀秀治]](北ノ庄城18万石)
* [[青木一矩]]([[大野城 (越前国)|大野城]]8万石→[[越前府中城]]→北ノ庄城20万石)
* [[青木俊矩]]([[金剛院城]]2万石)
* [[青山宗勝]]([[丸岡城]]4万6千石)
* [[赤座直保]]([[今庄町|今庄]]2万石)
*[[大谷吉継]]([[敦賀城]]5万石)
=== 武家官位としての越前守 ===
*[[長尾房長]](上田長尾家。米沢藩初代・[[上杉景勝]]の祖父)
*[[長尾政景]](同、景勝の実父)
*[[中条藤資]]
*[[秋山虎康]](武田家臣)
*[[本庄繁長]]
*[[伊達政宗]] 1597年(慶長2年) - 1608年(慶長13年)
*[[松平忠直]](越前[[福井藩|北ノ庄(福井)藩]]第2代藩主 75万石)1615年(元和元年)閏6月19日 - 1623年(元和9年)
*[[仙石政俊]] 1634年(寛永11年) - 1628年(寛永5年)
*[[本多利長]] 1646年(正保3年)
*[[松平光通]](越前福井藩第4代藩主 45万石)1648年(慶安元年)12月21日 - 1674年(延宝2年)3月24日
*[[仙石政明]] 1672年(寛文12年)
*[[松平綱昌]](越前福井藩第6代藩主 45万石)1675年(延宝3年)11月23日 - 1686年(貞享3年)閏3月6日
*[[間部詮房]] 1704年(宝永元年)
*[[大岡忠相]]([[江戸町奉行]]、[[寺社奉行]]を経て三河[[西大平藩]]初代藩主 1万石) 1717年(享保2年)
*[[大岡忠宜]] 1752年(宝暦3年)
*[[松平重昌]](越前福井藩第11代藩主 30万石)1755年(宝暦5年)6月13日 - 1758年(宝暦8年)3月21日
*[[松平重富]](越前福井藩第12代藩主 30万石)1760年(宝暦10年) - 1799年(寛政11年)9月18日
*[[大岡忠恒]] 1766年
*[[大岡忠與]] 1784年
*[[上杉治憲]](米沢藩第9代藩主)1785年(天明5年) -
*[[大岡忠移]]
*[[松平治好]](越前福井藩第13代藩主 30→32万石)1802年(享和2年)2月29日 - 1825年(文政8年)12月1日
*[[松平斉承]](越前福井藩第14代藩主 32万石)1826年(文政9年)12月19日 - 1835年(天保6年)閏7月2日
*[[大岡忠愛]]
*[[松平斉善]](越前福井藩第15代藩主 32万石)1835年(天保6年)10月28日 - 1838年(天保9年)
*[[松平春嶽|松平慶永]](越前福井藩第16代藩主 32万石)1838年(天保9年)12月11日 - 1864年(元治元年)2月16日
*[[大岡忠敬]]
*[[松平茂昭]](越前福井藩第17代藩主 32万石)1858年(安政5年)10月21日 -1869年(明治2年)6月
==その他==
越前出身の[[商人]]は、商才に長ける人物が多かったため、越前商人として名が知られていた<ref>{{Cite web|和書|date=2017.8.6 |url= https://web.archive.org/web/20170812161635/https://www.sankeibiz.jp/econome/news/170806/ecc1708061302002-n4.htm|title=金持ち県第1位は商才に長ける「福井県」 |publisher= SANKEI BIZ|accessdate=2019-01-11}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 18 福井県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Echizen Province}}
* [[越前一向一揆]]
* [[越前町]]
* [[越前市]]
* [[えちぜん鉄道]]
* [[令制国一覧]]
== 外部リンク ==
* {{wayback|url=http://www.japrint.co.jp/koshimahoroba/ |title=越まほろば物語 |date=20040901102735}} - 越まほろば物語編纂委員会
* [http://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/nenpyo/rekishi/chrn01.html 福井県史 年表 507-700年] - [[福井県文書館]]
{{令制国一覧}}
{{越前国の郡}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:えちせんのくに}}
[[Category:日本の旧国名]]
[[Category:北陸道|国えちせん]]
[[Category:福井県の歴史]]
[[Category:越前国|*]]
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2003-08-16T04:40:10Z
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2023-12-02T22:06:09Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%89%8D%E5%9B%BD
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13,290 |
長崎本線
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長崎本線(ながさきほんせん)は、佐賀県鳥栖市の鳥栖駅から長崎県長崎市の長崎駅までを結ぶ九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(幹線)である。ほかに喜々津駅 - 長与駅 - 浦上駅間の別線を持つ。
鹿児島本線の鳥栖駅から分岐し、佐賀市の佐賀駅を経て長崎市の長崎駅まで延びる路線である。途中佐世保線を経由して武雄温泉駅・佐世保駅・ハウステンボス駅方面に向かう「リレーかもめ」「みどり」「ハウステンボス」など、福岡市の博多駅から佐賀県内各地や佐世保線から佐世保・早岐方面を結ぶ特急列車が多数運転されている特急街道であり、西九州新幹線開業前の全国のJR在来線特急利用者数ランキングでは、上位4位に入っていた。
鳥栖駅 - 江北駅間は複線区間である。途中佐賀駅 - 久保田駅間では唐津線の普通列車も走行する(唐津線は久保田駅で分岐するが、全列車が佐賀駅を発着する)。また、江北駅では佐世保線が分岐する。佐賀駅付近は高架となっている。当区間は佐賀平野を通過する。この区間は線形が良く、特急列車は最高速度130 km/h、普通列車817系でも120 km/hで走行する。
江北駅 - 諫早駅間は単線である。全駅で列車交換が可能であり、駅間の長い多良駅 - 肥前大浦駅 - 小長井駅間には里信号場、土井崎信号場がある。肥前鹿島駅 - 諫早駅間では列車の本数が極端に少なくなっている。この区間は、有明海の入り組んだ沿岸部に沿って線路が通っているため、曲線区間が多く、特急列車の速度向上のために振り子式車体傾斜装置を搭載した885系電車が投入されていた。
所要時間短縮のため、駅構内の配線は原則として一線スルー配線に改良されているほか、曲線の度合いの強い区間のマクラギは通常のPCマクラギよりさらに太い強化型のものが使用されていることが多い。
諫早駅 - 喜々津駅間と浦上駅 - 長崎駅間は複線である。喜々津駅 - 浦上駅間は単線の2つのルートに分かれており、このうち大村湾沿いに走り、長与駅を経由する明治時代開業のルートを「旧線(長与経由)」と呼び、長崎本線内で唯一電化された事のない区間である。途中、列車交換は大草駅・長与駅のみ可能である。長与駅 - 浦上駅間では市街地を走り、区間運転の列車が設定されている。一方で、1972年に開通した、長崎トンネルを通る電化されていたルートを「新線(市布経由)」と呼ぶ。旧線に比べ6.7km短縮され、高速運転に適した線形により、諫早駅 - 長崎駅間の所要時間を大幅に短縮した。途中肥前古賀駅以外は列車交換ができるほか、長崎トンネル内に肥前三川信号場がある。新線の大半はトンネルであり浦上駅側では市街地の地下を通り地上に抜ける。地上区間に入ると浦上駅までは高架となり、旧線としばらく並走(単線2並列)する。快速「シーサイドライナー」は全て新線を通っており、かつて運行していた特急列車も新線経由だった。浦上駅 - 長崎駅間では連続立体交差事業が進められ、2020年3月28日に高架化が完了した。
鳥栖駅 - 佐賀駅間および諫早駅 - 長崎駅間(旧線・新線とも)はIC乗車カード「SUGOCA」の利用エリアに含まれている。なお、「福岡・佐賀・大分・熊本エリア」に含まれる鳥栖駅 - 佐賀駅間と「長崎エリア」に含まれる諫早駅 - 長崎駅間を跨っての利用はできない。
一般向けリアルタイム列車位置情報システム「どれどれ」対応路線であり、「長崎本線」(鳥栖駅 - 市布駅 - 長崎駅間)と「長崎本線(長与経由)」(諫早駅 - 長与駅 - 長崎駅間)としてスマートフォン向けに配信されている。
九州新幹線西九州ルート(長崎ルート)が佐世保線の武雄温泉駅から長崎本線の長崎駅まで新幹線フル規格で建設され、「西九州新幹線」として2022年9月23日に開業した。これにより、長崎本線の江北 - 諫早間が並行在来線とされた。整備新幹線において並行在来線は新幹線開業時にJRから経営分離してもよいことになっており、当初はJR九州も経営分離する方針で佐賀・長崎両県による第三セクター方式の経営が計画されていた。しかし、経営分離区間の沿線自治体(鹿島市・江北町)の同意が得られなかったため着工の目処がたたず、他の整備新幹線に遅れをとっていた。そのためJR九州と佐賀・長崎両県は経営分離をせずに、両県が線路などの施設を保有し、新幹線開業後20年間はJR九州が運行を行う上下分離方式を採用することで合意し、着工が認可された。これにより2008年に武雄温泉駅 - 諫早駅間が、2012年には諫早駅 - 長崎駅間が着工された。
博多駅 - 新鳥栖駅では九州新幹線鹿児島ルートを使用し、新鳥栖駅 - 武雄温泉駅間について在来線を活用、武雄温泉駅 - 長崎駅間では新幹線規格の新線建設といった整備計画で、線路幅(軌間)の異なる新幹線と在来線を直通できる開発中の車両FGT(フリーゲージトレイン)を導入する予定であった。しかし、2014年にFGTの試作車両の鹿児島ルート及び鹿児島本線での走行試験中に重大な問題が発覚し、開発が長期に渡りストップした。これにより、仮にFGTが実用化されても、2022年度の開業までに運行に必要な数の車両の生産が間に合わないことが判明した。新幹線建設は計画通り進んでおり、完成した設備を年単位で放置できないこと、新幹線沿線自治体では2022年度の開業に合わせて大規模再開発が行われており開業の遅れは許されない状況であり、開業の前倒しを計画していただけに大きな問題となった。結果、2015年12月に2022年度開業のあり方として国やJR九州、長崎・佐賀両県の間で次の合意がなされた。
その後2016年12月に2年ぶりにFGT走行試験を再開するも、再度問題が発覚し、暫定開業時の先行導入車両の製造は間に合わない見通しとなった。運行主体のJR九州は2017年7月、一般の新幹線の2倍以上のコストがかかるFGTでの西九州ルート運営は困難としてFGT導入断念を決定した。これにより与党検討委員会は在来線活用予定であった武雄温泉駅 - 新鳥栖駅間の西九州ルートの整備をミニ新幹線方式または全線フル規格新幹線方式での整備を軸に調査を開始した。2018年度中に西九州ルートの整備方針が決定する予定とされていたが、長崎駅 - 武雄温泉駅間が開業した2022年9月23日時点でも関係各所の意見統一がなされていない状況となっている。
鳥栖駅 - 肥前大浦駅間がJR九州本社鉄道事業本部、土井崎信号場 - 長崎駅間と長与駅経由の旧線が同社長崎支社の管轄となっており、佐賀県と長崎県の県境付近(肥前大浦駅 - 土井崎信号場間)に本社と支社の境界がある。
西九州新幹線が開業した2022年9月23日以降は、優等列車における長崎駅方面と佐世保駅方面の分岐駅が江北駅から武雄温泉駅に移行したため、当路線の優等列車は江北駅から佐世保線に直通する列車が主体となっている。なお、定期運転の優等列車は全て鳥栖駅から鹿児島本線に直通して博多駅まで乗り入れている(一部列車はさらに博多駅以北に直通)。
佐世保線に直通する優等列車は、門司港駅・博多駅 - 武雄温泉駅間の特急「リレーかもめ」が下り18本・上り16本、博多駅 - 佐世保駅間の特急「みどり」が16往復(一部は大村線ハウステンボス駅発着の特急「ハウステンボス」を併結)運転されている。「リレーかもめ」全列車と「みどり」下り4本・上り6本は武雄温泉駅で長崎駅方面への新幹線「かもめ」と接続し、該当する「みどり」は「みどり(リレーかもめ)」の列車名で運転されている。
佐世保線に直通しない優等列車は、門司港駅・小倉駅・吉塚駅・博多駅 - 佐賀駅・肥前鹿島駅間の特急「かささぎ」が下り8本・上り9本(土曜・休日10本)運転されている。現在の「かもめ・リレーかもめ」が運行を開始した際に、従来の特急「かもめ」の停車駅だった肥前鹿島駅が「かもめ・リレーかもめ」のルートから外れることから、肥前鹿島駅発着の特急を7往復設定することが事前に発表されていたが、これに従来の「かもめ」の佐賀駅発着列車を統合した形で新設された。
このほかD&S列車として、全席グリーン車の特急「36ぷらす3」が、月曜日に博多駅 - 江北駅 - 佐世保駅間で運行される。このうち往路(佐世保駅行き)は経路の途中で江北駅 - 肥前浜駅間を往復する。また武雄温泉駅 - 長崎駅間を運行する特急「ふたつ星4047」は、午前便が江北駅 - 長崎駅間の下り線を、午後便が長崎駅 - 諫早駅間の上り線を、ともに旧線(長与駅)経由で運行する。
関門トンネルが開通した1942年11月15日、東京駅 - 下関駅間を結んでいた特急「富士」の運行区間が東京駅 - 長崎駅間に延長され、長崎本線に初めて特急列車が乗り入れた(1943年10月1日に東京駅 - 博多駅間の運転に短縮)。上海航路運航日は、上り列車が1駅先の長崎港駅を始発とする形で運転された。ただし、この列車以前にも上海航路への接続列車として長崎駅から長崎港駅まで1駅延長運転されたものもあった。
1948年8月、東京駅 - 長崎駅間を大村線経由で運行する準急列車が運行開始。1949年に急行列車に格上げ、1950年には「雲仙」の列車愛称が与えられた。この愛称は、同時期に運行を開始した急行「西海」とともに、1980年まで用いられた。この間、様々な愛称の急行列車が運行を開始し、運行区間の変更や統廃合が行われた。
1957年10月1日、同年より東京駅 - 博多駅間で運行を開始した寝台特急「さちかぜ」の運行区間を長崎駅まで延長し、長崎本線の特急列車が復活。この列車は、1958年に「平和」、1959年に「さくら」へと改称した。また、1965年10月1日には、寝台特急「あかつき」が、新大阪駅 - 西鹿児島駅・長崎駅間で運行開始した。
1961年10月1日、京都駅 - 博多駅間を運行していた特急「かもめ」が長崎駅に乗り入れを開始、気動車による運行となる。1975年3月10日、山陽新幹線博多延伸に伴い、「かもめ」を廃止、線内を走る昼行特急列車がなくなった。
1976年7月1日、長崎本線・佐世保線電化により、電車によるエル特急として「かもめ」が、小倉駅・博多駅 - 長崎駅間で、「みどり」が小倉駅・博多駅 - 佐世保駅間で運転を開始した。その後、急行「出島」の特急格上げなどで増発が繰り返された。1992年3月25日には、特急「ハウステンボス」が博多駅 - ハウステンボス駅間で運転を開始した。
2000年代にかけて、夜行列車が次々と廃止されるようになり、東京駅 - 長崎駅間の寝台特急「さくら」は2005年3月1日のダイヤ改正で、京都駅 - 長崎駅間の寝台特急「あかつき」は2008年3月15日のダイヤ改正で廃止され、夜行列車や本州直通優等列車の運転はなくなった。
2022年9月23日の西九州新幹線開業に伴い、在来線特急の「かもめ」は、門司港駅・博多駅 - 武雄温泉駅間を走る「リレーかもめ」、門司港駅・小倉駅・博多駅 - 佐賀駅・肥前鹿島駅間を走る「かささぎ」に再編された。これにより、肥前鹿島駅 - 長崎駅間を毎日運行する特急列車はなくなった。
また、2020年10月から博多駅 - 長崎駅間で運行されていた特急「36ぷらす3」は、肥前浜駅 - 長崎駅間の電化廃止により、2022年10月から運行区間を博多駅 - 佐世保駅間とし、博多駅発便のみ肥前浜駅に立ち寄る運行に改められた。
概ね江北駅・肥前浜駅・諫早駅で運行系統が分かれている。
全線でワンマン運転を実施している。佐賀駅 - 諫早駅間のワンマン列車では、有人駅の佐賀駅・諫早駅および一部時間帯のみ有人の江北駅・肥前鹿島駅のみすべてのドアから乗降可能で、それ以外の無人駅では先頭車両での後乗り前降り方式となる。一部時間帯のみ有人の肥前鹿島駅は、みどりの窓口営業時間帯は有人駅扱い、営業時間外は無人駅扱いとなる一方、同一営業形態の江北駅は駅員の在席に関係なくすべてのドアから乗降できる。無人駅での乗車時には整理券を取り、下車時に乗車券・整理券と運賃を運転士に渡すか運賃箱に投入する。3両以上の電車による運行の場合は車掌が乗務するが、YC1系での運行の場合は3両以上でも2021年10月より全てワンマン運転となっている。
2006年3月18日から鳥栖駅 - 肥前山口駅(当時)間、および諫早駅 - 長崎駅間(新線・旧線)に「都市型ワンマン」が導入された。この区間では、ワンマン運転であっても、すべてのドアから乗り降りできる(YC1系の場合はドアは自動で開かないためドア横のボタンを押して開ける。いわゆる半自動式)。2022年9月23日より、佐賀駅 - 江北駅間は、上述の料金車内収受方式に変更となった。
普通列車は1時間に2本程度運転される。西側は朝の3往復が佐賀駅発着、半数強の列車が江北駅発着で、その他の列車は江北駅以西の長崎本線または佐世保線に直通している。東側は基本的に鳥栖駅発着だが、早朝に下り1本のみ佐賀発肥前浜行き(江北から神埼折り返しの回送列車で送り込み)も設定されているほか、朝夕の一部列車は鹿児島本線博多駅方面に直通し、上りのみ鳥栖駅で鹿児島本線久留米方面からの列車と併結する列車がある。なお鹿児島本線に直通する上り列車の一部は「区間快速」の種別だが、長崎本線内では快速運転は行わない。佐賀駅 - 久保田駅間は唐津線の列車も利用可能で、本数はさらに多くなる。気動車列車は唐津線直通列車のみで、それ以外は電車で運行されている。後節のとおり2022年9月23日以降はこの区間から肥前浜駅を越えて諫早駅・長崎駅方面へ向かう列車は運行されていない。
この区間は2022年9月23日のダイヤ改正により肥前浜駅 - 長崎駅間が非電化となったため運行形態が大幅に再編された。
江北駅 - 肥前浜駅間は電化設備が存置され改正前と同様に電車での運転が主体となり、佐賀方面との直通も継続される一方、電化設備が廃止された肥前浜駅 - 諫早駅間では全列車が気動車による運行となり、肥前浜駅で乗り換えが生じるようになった。江北駅 - 肥前浜駅間では日中は佐賀方面への直通列車が多いが、朝夕は大半の列車が江北駅で系統分割されており、非電化区間の肥前浜以南に直通する気動車列車も運行されている。2022年9月改正で江北駅 - 諫早駅間を通しで運行される列車(気動車)は下り4本・上り3本に、長崎方面との直通は下り5本・上り4本に削減されており、このうち1往復が江北駅 - 長崎駅間を直通する。
佐賀・長崎の県境を含むこの区間は、県境に近付くにつれて本数が少なくなり、肥前浜駅 - 諫早駅間の全区間を運行する普通列車は1日7.5往復のみである。そのためこの区間を移動する場合は、時間帯によっては佐世保線・大村線経由の方が早く着く場合がある。なお、祐徳自動車が佐賀県側の鹿島バスセンター(肥前鹿島駅前) - 大浦駅前 - 竹崎港間に、長崎県交通局が長崎県側の諫早駅 - 小長井駅前 - 県界間にそれぞれ国道207号経由で長崎本線に並行する路線バスを運行しており、区間によっては長崎本線の普通列車よりも本数が多い。
車両が電車からキハ47形気動車に代わったことで加減速性能が悪くなり最高速度も95km/hに引き下げられたが、対向列車との交換や特急の通過待ちによる停車が減ったため、この区間の所要時間は数分短縮されている列車が多い。
都市間輸送となっており、朝夕のラッシュ時は数分おきの発車で、単線の区間では線路容量一杯である。ラッシュ時間帯以外では新線(市布駅経由)、旧線(長与駅経由)ともに1時間に1本の運転は確保されているが、旧線の喜々津駅 - 長与駅間および新線の快速通過駅では2時間程度間隔が空く時間帯がある。新線には途中駅折り返し列車は設定されていないが、旧線には長与駅や喜々津駅で折り返す列車がある。諫早駅から大村線に直通する普通列車は、長崎本線は基本的に旧線経由となる。
このほか、諫早駅 - 長崎駅間では新線経由で大村線直通の快速・区間快速「シーサイドライナー」が1時間に1本運転される。この区間内において、通勤時間帯に運転される「快速」は全駅に停車する一方で、日中時間帯の「区間快速」は諫早駅・喜々津駅・浦上駅・長崎駅のみに停車する。なお、2022年9月23日のダイヤ改正以前は、西諫早駅・市布駅・肥前古賀駅・現川駅を通過する「快速」もあった。「区間快速」は長崎本線内は最高速度110km/hで運転する。
以前は、新線および肥前鹿島方面が電化されていたため旧線・大村線直通列車以外は深夜の一部上り列車を除き電車で運行されていたが、2022年9月23日より全て気動車での運行となっている。
長崎本線内で快速運転を行う定期列車は「シーサイドライナー」のみであるが、臨時列車ではゴールデンウィーク期間に運転される快速「有田陶器市号」が快速運転を行う。「有田陶器市号」のうち、博多・南福岡・鳥栖発着の線内の停車駅は通常この区間を運行する特急列車の停車駅に加え、神埼駅に停車する。また佐賀インターナショナルバルーンフェスタ開催時は、普通列車に加えて臨時快速「バルーンフェスタ号」が鳥栖方面 - 江北駅間に運転されることがある。「バルーンフェスタ号」は肥前麓駅・伊賀屋駅・鍋島駅を除く各駅に停車する。
かつて運行されていた長崎発着の「有田陶器市号」は快速「シーサイドライナー」に準じ諫早駅 - 長崎駅間は喜々津駅・浦上駅に停車していた。また、江北経由ではなく非電化の大村線経由で運転されていたため、2022年以前も気動車で運転されていた(喜々津駅 - 浦上駅間は新線経由)。2023年以降は西九州新幹線に接続するシャトル列車に変更となったため、運行を終了している。
「或る列車」が、「長崎コース」として大村線経由で長崎駅 - 佐世保駅間に運行される。長崎発、長崎着ともに旧線を経由する。また、「ハウステンボスコース」として、博多駅 - ハウステンボス駅間、「佐賀〜長崎〜佐世保コース」として、佐賀駅→長崎駅→佐世保駅間で運転している。
また、クルーズトレイン「ななつ星 in 九州」が1泊2日コースで長崎駅に発着している。2015年3月からは長崎へ向かう往路の江北駅 - 諫早駅間で佐世保線・大村線、諫早駅 - 長崎駅間で旧線、長崎を出発する復路の長崎駅 - 諫早駅間で新線を経由している。
日本貨物鉄道(JR貨物)の第二種鉄道事業区間である鳥栖駅 - 鍋島駅間で貨物列車が運行されている。2022年3月改正時点では、コンテナ車で編成された高速貨物列車が2往復(鹿児島本線福岡貨物ターミナル駅発鍋島駅行きが2本、鍋島駅発東海道本線東京貨物ターミナル駅行きが1本、鍋島駅発関西本線百済貨物ターミナル駅行きが1本)設定されている。牽引機関車は、ED76形およびEF81形電気機関車。さらに農産物流通のピークである4 - 6月は、EF81形牽引の臨時高速貨物列車(通称タマネギ貨物)が1往復増発される。
線内の貨物列車の発着駅は鍋島駅のみだが、このほか長崎駅には近接して「長崎オフレールステーション」があり、コンテナを積載したトラックが鍋島駅との間を結んでいる。
車種はキハおよびキロシ、YC1とあるのは気動車、他は特記なければ電車。
鳥栖 - 江北間では、南福岡車両区所属の817系3000番台と821系(2022年9月改正で全車が熊本車両センターに転出後は不明)も813系の代走として運用されることがある。
長崎本線は、九州鉄道の手により現在の佐世保線・大村線のルートで建設された。鳥栖 - 早岐間と長与 - 長崎間が開業した1897年より全通するまでの約1年間は、大村湾に連絡船を開設して暫定的な連絡機関としていた。
1907年の国有化を経て、現在のルート(有明線)が長崎本線となったのは1934年のことである。旧長崎本線(佐世保線・大村線ルート)は佐世保市・大村市といった長崎県内の各都市を結ぶ役割を果たす一方で、大回りとなるため福岡・佐賀方面と長崎市街との往来には長い時間が必要であった。このため、佐世保線・大村線ルートの短絡線として肥前山口(現在の江北) - 肥前鹿島 - 諫早(有明線)が建設され、長崎本線に編入された。旧長崎本線区間は佐世保線・大村線へと分離された。有明線は改正鉄道敷設法別表114号に「佐賀県肥前山口附近ヨリ鹿島ヲ経テ長崎県諌早ニ至ル鉄道」として規定されていた。
1972年、喜々津 - 市布 - 浦上間にも短絡線が建設されたが、旧線・新線共に長崎本線として運行されている。市布経由の新線は改正鉄道敷設法別表114号の2に「長崎県喜々津ヨリ矢上ヲ経テ浦上ニ至ル鉄道」として規定され、日本鉄道建設公団が主要幹線(C線)の浦上線(うらかみせん)として計画・建設した。
また、長崎港出島埠頭に発着する上海航路との連絡のため、1930年に長崎駅から長崎港駅までの1.1kmが延伸された。太平洋戦争の激化(1943年頃)により上海航路が廃止された影響で、1946年以降は貨物線として使われていた。正式に廃止されたのは1982年11月14日 である。跡地は遊歩道や公園として整備されている。
*が付いている駅は、のちに路線分離により長崎本線の駅ではなくなった駅。
上記以外の駅はJR九州サービスサポートの業務委託駅もしくは無人駅である。
長崎駅 - 長崎港駅(1.1 km。1982年11月14日廃止)
「路線別利用状況」(区間別の平均通過人員〈輸送密度〉)、旅客運輸収入は以下の通り。
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"text": "鹿児島本線の鳥栖駅から分岐し、佐賀市の佐賀駅を経て長崎市の長崎駅まで延びる路線である。途中佐世保線を経由して武雄温泉駅・佐世保駅・ハウステンボス駅方面に向かう「リレーかもめ」「みどり」「ハウステンボス」など、福岡市の博多駅から佐賀県内各地や佐世保線から佐世保・早岐方面を結ぶ特急列車が多数運転されている特急街道であり、西九州新幹線開業前の全国のJR在来線特急利用者数ランキングでは、上位4位に入っていた。",
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"text": "鳥栖駅 - 江北駅間は複線区間である。途中佐賀駅 - 久保田駅間では唐津線の普通列車も走行する(唐津線は久保田駅で分岐するが、全列車が佐賀駅を発着する)。また、江北駅では佐世保線が分岐する。佐賀駅付近は高架となっている。当区間は佐賀平野を通過する。この区間は線形が良く、特急列車は最高速度130 km/h、普通列車817系でも120 km/hで走行する。",
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"text": "江北駅 - 諫早駅間は単線である。全駅で列車交換が可能であり、駅間の長い多良駅 - 肥前大浦駅 - 小長井駅間には里信号場、土井崎信号場がある。肥前鹿島駅 - 諫早駅間では列車の本数が極端に少なくなっている。この区間は、有明海の入り組んだ沿岸部に沿って線路が通っているため、曲線区間が多く、特急列車の速度向上のために振り子式車体傾斜装置を搭載した885系電車が投入されていた。",
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"text": "鳥栖駅 - 佐賀駅間および諫早駅 - 長崎駅間(旧線・新線とも)はIC乗車カード「SUGOCA」の利用エリアに含まれている。なお、「福岡・佐賀・大分・熊本エリア」に含まれる鳥栖駅 - 佐賀駅間と「長崎エリア」に含まれる諫早駅 - 長崎駅間を跨っての利用はできない。",
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"text": "一般向けリアルタイム列車位置情報システム「どれどれ」対応路線であり、「長崎本線」(鳥栖駅 - 市布駅 - 長崎駅間)と「長崎本線(長与経由)」(諫早駅 - 長与駅 - 長崎駅間)としてスマートフォン向けに配信されている。",
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"text": "九州新幹線西九州ルート(長崎ルート)が佐世保線の武雄温泉駅から長崎本線の長崎駅まで新幹線フル規格で建設され、「西九州新幹線」として2022年9月23日に開業した。これにより、長崎本線の江北 - 諫早間が並行在来線とされた。整備新幹線において並行在来線は新幹線開業時にJRから経営分離してもよいことになっており、当初はJR九州も経営分離する方針で佐賀・長崎両県による第三セクター方式の経営が計画されていた。しかし、経営分離区間の沿線自治体(鹿島市・江北町)の同意が得られなかったため着工の目処がたたず、他の整備新幹線に遅れをとっていた。そのためJR九州と佐賀・長崎両県は経営分離をせずに、両県が線路などの施設を保有し、新幹線開業後20年間はJR九州が運行を行う上下分離方式を採用することで合意し、着工が認可された。これにより2008年に武雄温泉駅 - 諫早駅間が、2012年には諫早駅 - 長崎駅間が着工された。",
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"text": "佐世保線に直通する優等列車は、門司港駅・博多駅 - 武雄温泉駅間の特急「リレーかもめ」が下り18本・上り16本、博多駅 - 佐世保駅間の特急「みどり」が16往復(一部は大村線ハウステンボス駅発着の特急「ハウステンボス」を併結)運転されている。「リレーかもめ」全列車と「みどり」下り4本・上り6本は武雄温泉駅で長崎駅方面への新幹線「かもめ」と接続し、該当する「みどり」は「みどり(リレーかもめ)」の列車名で運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "佐世保線に直通しない優等列車は、門司港駅・小倉駅・吉塚駅・博多駅 - 佐賀駅・肥前鹿島駅間の特急「かささぎ」が下り8本・上り9本(土曜・休日10本)運転されている。現在の「かもめ・リレーかもめ」が運行を開始した際に、従来の特急「かもめ」の停車駅だった肥前鹿島駅が「かもめ・リレーかもめ」のルートから外れることから、肥前鹿島駅発着の特急を7往復設定することが事前に発表されていたが、これに従来の「かもめ」の佐賀駅発着列車を統合した形で新設された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "このほかD&S列車として、全席グリーン車の特急「36ぷらす3」が、月曜日に博多駅 - 江北駅 - 佐世保駅間で運行される。このうち往路(佐世保駅行き)は経路の途中で江北駅 - 肥前浜駅間を往復する。また武雄温泉駅 - 長崎駅間を運行する特急「ふたつ星4047」は、午前便が江北駅 - 長崎駅間の下り線を、午後便が長崎駅 - 諫早駅間の上り線を、ともに旧線(長与駅)経由で運行する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "関門トンネルが開通した1942年11月15日、東京駅 - 下関駅間を結んでいた特急「富士」の運行区間が東京駅 - 長崎駅間に延長され、長崎本線に初めて特急列車が乗り入れた(1943年10月1日に東京駅 - 博多駅間の運転に短縮)。上海航路運航日は、上り列車が1駅先の長崎港駅を始発とする形で運転された。ただし、この列車以前にも上海航路への接続列車として長崎駅から長崎港駅まで1駅延長運転されたものもあった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1948年8月、東京駅 - 長崎駅間を大村線経由で運行する準急列車が運行開始。1949年に急行列車に格上げ、1950年には「雲仙」の列車愛称が与えられた。この愛称は、同時期に運行を開始した急行「西海」とともに、1980年まで用いられた。この間、様々な愛称の急行列車が運行を開始し、運行区間の変更や統廃合が行われた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "1957年10月1日、同年より東京駅 - 博多駅間で運行を開始した寝台特急「さちかぜ」の運行区間を長崎駅まで延長し、長崎本線の特急列車が復活。この列車は、1958年に「平和」、1959年に「さくら」へと改称した。また、1965年10月1日には、寝台特急「あかつき」が、新大阪駅 - 西鹿児島駅・長崎駅間で運行開始した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1961年10月1日、京都駅 - 博多駅間を運行していた特急「かもめ」が長崎駅に乗り入れを開始、気動車による運行となる。1975年3月10日、山陽新幹線博多延伸に伴い、「かもめ」を廃止、線内を走る昼行特急列車がなくなった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1976年7月1日、長崎本線・佐世保線電化により、電車によるエル特急として「かもめ」が、小倉駅・博多駅 - 長崎駅間で、「みどり」が小倉駅・博多駅 - 佐世保駅間で運転を開始した。その後、急行「出島」の特急格上げなどで増発が繰り返された。1992年3月25日には、特急「ハウステンボス」が博多駅 - ハウステンボス駅間で運転を開始した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2000年代にかけて、夜行列車が次々と廃止されるようになり、東京駅 - 長崎駅間の寝台特急「さくら」は2005年3月1日のダイヤ改正で、京都駅 - 長崎駅間の寝台特急「あかつき」は2008年3月15日のダイヤ改正で廃止され、夜行列車や本州直通優等列車の運転はなくなった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2022年9月23日の西九州新幹線開業に伴い、在来線特急の「かもめ」は、門司港駅・博多駅 - 武雄温泉駅間を走る「リレーかもめ」、門司港駅・小倉駅・博多駅 - 佐賀駅・肥前鹿島駅間を走る「かささぎ」に再編された。これにより、肥前鹿島駅 - 長崎駅間を毎日運行する特急列車はなくなった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "また、2020年10月から博多駅 - 長崎駅間で運行されていた特急「36ぷらす3」は、肥前浜駅 - 長崎駅間の電化廃止により、2022年10月から運行区間を博多駅 - 佐世保駅間とし、博多駅発便のみ肥前浜駅に立ち寄る運行に改められた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "概ね江北駅・肥前浜駅・諫早駅で運行系統が分かれている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "全線でワンマン運転を実施している。佐賀駅 - 諫早駅間のワンマン列車では、有人駅の佐賀駅・諫早駅および一部時間帯のみ有人の江北駅・肥前鹿島駅のみすべてのドアから乗降可能で、それ以外の無人駅では先頭車両での後乗り前降り方式となる。一部時間帯のみ有人の肥前鹿島駅は、みどりの窓口営業時間帯は有人駅扱い、営業時間外は無人駅扱いとなる一方、同一営業形態の江北駅は駅員の在席に関係なくすべてのドアから乗降できる。無人駅での乗車時には整理券を取り、下車時に乗車券・整理券と運賃を運転士に渡すか運賃箱に投入する。3両以上の電車による運行の場合は車掌が乗務するが、YC1系での運行の場合は3両以上でも2021年10月より全てワンマン運転となっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2006年3月18日から鳥栖駅 - 肥前山口駅(当時)間、および諫早駅 - 長崎駅間(新線・旧線)に「都市型ワンマン」が導入された。この区間では、ワンマン運転であっても、すべてのドアから乗り降りできる(YC1系の場合はドアは自動で開かないためドア横のボタンを押して開ける。いわゆる半自動式)。2022年9月23日より、佐賀駅 - 江北駅間は、上述の料金車内収受方式に変更となった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "普通列車は1時間に2本程度運転される。西側は朝の3往復が佐賀駅発着、半数強の列車が江北駅発着で、その他の列車は江北駅以西の長崎本線または佐世保線に直通している。東側は基本的に鳥栖駅発着だが、早朝に下り1本のみ佐賀発肥前浜行き(江北から神埼折り返しの回送列車で送り込み)も設定されているほか、朝夕の一部列車は鹿児島本線博多駅方面に直通し、上りのみ鳥栖駅で鹿児島本線久留米方面からの列車と併結する列車がある。なお鹿児島本線に直通する上り列車の一部は「区間快速」の種別だが、長崎本線内では快速運転は行わない。佐賀駅 - 久保田駅間は唐津線の列車も利用可能で、本数はさらに多くなる。気動車列車は唐津線直通列車のみで、それ以外は電車で運行されている。後節のとおり2022年9月23日以降はこの区間から肥前浜駅を越えて諫早駅・長崎駅方面へ向かう列車は運行されていない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "この区間は2022年9月23日のダイヤ改正により肥前浜駅 - 長崎駅間が非電化となったため運行形態が大幅に再編された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "江北駅 - 肥前浜駅間は電化設備が存置され改正前と同様に電車での運転が主体となり、佐賀方面との直通も継続される一方、電化設備が廃止された肥前浜駅 - 諫早駅間では全列車が気動車による運行となり、肥前浜駅で乗り換えが生じるようになった。江北駅 - 肥前浜駅間では日中は佐賀方面への直通列車が多いが、朝夕は大半の列車が江北駅で系統分割されており、非電化区間の肥前浜以南に直通する気動車列車も運行されている。2022年9月改正で江北駅 - 諫早駅間を通しで運行される列車(気動車)は下り4本・上り3本に、長崎方面との直通は下り5本・上り4本に削減されており、このうち1往復が江北駅 - 長崎駅間を直通する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "佐賀・長崎の県境を含むこの区間は、県境に近付くにつれて本数が少なくなり、肥前浜駅 - 諫早駅間の全区間を運行する普通列車は1日7.5往復のみである。そのためこの区間を移動する場合は、時間帯によっては佐世保線・大村線経由の方が早く着く場合がある。なお、祐徳自動車が佐賀県側の鹿島バスセンター(肥前鹿島駅前) - 大浦駅前 - 竹崎港間に、長崎県交通局が長崎県側の諫早駅 - 小長井駅前 - 県界間にそれぞれ国道207号経由で長崎本線に並行する路線バスを運行しており、区間によっては長崎本線の普通列車よりも本数が多い。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "車両が電車からキハ47形気動車に代わったことで加減速性能が悪くなり最高速度も95km/hに引き下げられたが、対向列車との交換や特急の通過待ちによる停車が減ったため、この区間の所要時間は数分短縮されている列車が多い。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "都市間輸送となっており、朝夕のラッシュ時は数分おきの発車で、単線の区間では線路容量一杯である。ラッシュ時間帯以外では新線(市布駅経由)、旧線(長与駅経由)ともに1時間に1本の運転は確保されているが、旧線の喜々津駅 - 長与駅間および新線の快速通過駅では2時間程度間隔が空く時間帯がある。新線には途中駅折り返し列車は設定されていないが、旧線には長与駅や喜々津駅で折り返す列車がある。諫早駅から大村線に直通する普通列車は、長崎本線は基本的に旧線経由となる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "このほか、諫早駅 - 長崎駅間では新線経由で大村線直通の快速・区間快速「シーサイドライナー」が1時間に1本運転される。この区間内において、通勤時間帯に運転される「快速」は全駅に停車する一方で、日中時間帯の「区間快速」は諫早駅・喜々津駅・浦上駅・長崎駅のみに停車する。なお、2022年9月23日のダイヤ改正以前は、西諫早駅・市布駅・肥前古賀駅・現川駅を通過する「快速」もあった。「区間快速」は長崎本線内は最高速度110km/hで運転する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "以前は、新線および肥前鹿島方面が電化されていたため旧線・大村線直通列車以外は深夜の一部上り列車を除き電車で運行されていたが、2022年9月23日より全て気動車での運行となっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "長崎本線内で快速運転を行う定期列車は「シーサイドライナー」のみであるが、臨時列車ではゴールデンウィーク期間に運転される快速「有田陶器市号」が快速運転を行う。「有田陶器市号」のうち、博多・南福岡・鳥栖発着の線内の停車駅は通常この区間を運行する特急列車の停車駅に加え、神埼駅に停車する。また佐賀インターナショナルバルーンフェスタ開催時は、普通列車に加えて臨時快速「バルーンフェスタ号」が鳥栖方面 - 江北駅間に運転されることがある。「バルーンフェスタ号」は肥前麓駅・伊賀屋駅・鍋島駅を除く各駅に停車する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "かつて運行されていた長崎発着の「有田陶器市号」は快速「シーサイドライナー」に準じ諫早駅 - 長崎駅間は喜々津駅・浦上駅に停車していた。また、江北経由ではなく非電化の大村線経由で運転されていたため、2022年以前も気動車で運転されていた(喜々津駅 - 浦上駅間は新線経由)。2023年以降は西九州新幹線に接続するシャトル列車に変更となったため、運行を終了している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "「或る列車」が、「長崎コース」として大村線経由で長崎駅 - 佐世保駅間に運行される。長崎発、長崎着ともに旧線を経由する。また、「ハウステンボスコース」として、博多駅 - ハウステンボス駅間、「佐賀〜長崎〜佐世保コース」として、佐賀駅→長崎駅→佐世保駅間で運転している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "また、クルーズトレイン「ななつ星 in 九州」が1泊2日コースで長崎駅に発着している。2015年3月からは長崎へ向かう往路の江北駅 - 諫早駅間で佐世保線・大村線、諫早駅 - 長崎駅間で旧線、長崎を出発する復路の長崎駅 - 諫早駅間で新線を経由している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "日本貨物鉄道(JR貨物)の第二種鉄道事業区間である鳥栖駅 - 鍋島駅間で貨物列車が運行されている。2022年3月改正時点では、コンテナ車で編成された高速貨物列車が2往復(鹿児島本線福岡貨物ターミナル駅発鍋島駅行きが2本、鍋島駅発東海道本線東京貨物ターミナル駅行きが1本、鍋島駅発関西本線百済貨物ターミナル駅行きが1本)設定されている。牽引機関車は、ED76形およびEF81形電気機関車。さらに農産物流通のピークである4 - 6月は、EF81形牽引の臨時高速貨物列車(通称タマネギ貨物)が1往復増発される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "線内の貨物列車の発着駅は鍋島駅のみだが、このほか長崎駅には近接して「長崎オフレールステーション」があり、コンテナを積載したトラックが鍋島駅との間を結んでいる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "車種はキハおよびキロシ、YC1とあるのは気動車、他は特記なければ電車。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "鳥栖 - 江北間では、南福岡車両区所属の817系3000番台と821系(2022年9月改正で全車が熊本車両センターに転出後は不明)も813系の代走として運用されることがある。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "長崎本線は、九州鉄道の手により現在の佐世保線・大村線のルートで建設された。鳥栖 - 早岐間と長与 - 長崎間が開業した1897年より全通するまでの約1年間は、大村湾に連絡船を開設して暫定的な連絡機関としていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1907年の国有化を経て、現在のルート(有明線)が長崎本線となったのは1934年のことである。旧長崎本線(佐世保線・大村線ルート)は佐世保市・大村市といった長崎県内の各都市を結ぶ役割を果たす一方で、大回りとなるため福岡・佐賀方面と長崎市街との往来には長い時間が必要であった。このため、佐世保線・大村線ルートの短絡線として肥前山口(現在の江北) - 肥前鹿島 - 諫早(有明線)が建設され、長崎本線に編入された。旧長崎本線区間は佐世保線・大村線へと分離された。有明線は改正鉄道敷設法別表114号に「佐賀県肥前山口附近ヨリ鹿島ヲ経テ長崎県諌早ニ至ル鉄道」として規定されていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1972年、喜々津 - 市布 - 浦上間にも短絡線が建設されたが、旧線・新線共に長崎本線として運行されている。市布経由の新線は改正鉄道敷設法別表114号の2に「長崎県喜々津ヨリ矢上ヲ経テ浦上ニ至ル鉄道」として規定され、日本鉄道建設公団が主要幹線(C線)の浦上線(うらかみせん)として計画・建設した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "また、長崎港出島埠頭に発着する上海航路との連絡のため、1930年に長崎駅から長崎港駅までの1.1kmが延伸された。太平洋戦争の激化(1943年頃)により上海航路が廃止された影響で、1946年以降は貨物線として使われていた。正式に廃止されたのは1982年11月14日 である。跡地は遊歩道や公園として整備されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "*が付いている駅は、のちに路線分離により長崎本線の駅ではなくなった駅。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "上記以外の駅はJR九州サービスサポートの業務委託駅もしくは無人駅である。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "長崎駅 - 長崎港駅(1.1 km。1982年11月14日廃止)",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "「路線別利用状況」(区間別の平均通過人員〈輸送密度〉)、旅客運輸収入は以下の通り。",
"title": "輸送実績"
}
] |
長崎本線(ながさきほんせん)は、佐賀県鳥栖市の鳥栖駅から長崎県長崎市の長崎駅までを結ぶ九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(幹線)である。ほかに喜々津駅 - 長与駅 - 浦上駅間の別線を持つ。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (kyushu).svg|35px|link=九州旅客鉄道]] 長崎本線
|路線色=#faaf18
|ロゴ=JRK number JH.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像=Nagasaki-Main-Line Kiha47-3510.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=長崎本線を走行する[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ47形]]<br>(2023年1月 [[東諫早駅]] - [[諫早駅]]間)
|国={{JPN}}
|所在地=[[佐賀県]]、[[長崎県]]
|種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点=[[鳥栖駅]]
|終点=[[長崎駅]]
|駅数=42駅
|電報略号=サキホセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p24">{{Cite book|和書|author=日本国有鉄道電気局|date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号|url=|format=|publisher=|volume=|page=24}}</ref>
|輸送実績=
|1日利用者数=
|路線記号={{JR九駅番号|JH}}(鳥栖 - 佐賀間)
|開業=[[1891年]][[8月20日]]
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|所有者=[[九州旅客鉄道]](JR九州)<br />(江北 - 諫早間以外 第一種鉄道事業者)<br />[[佐賀・長崎鉄道管理センター]]<br />(江北 - 諫早間 第三種鉄道事業者)
|運営者=九州旅客鉄道(JR九州)<br />(江北 - 諫早間以外 第一種鉄道事業者、<br />江北 - 諫早間 第二種鉄道事業者)<br />[[日本貨物鉄道]](JR貨物)<br />(鳥栖 - 鍋島間 第二種鉄道事業者)
|車両基地=
|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]を参照
|路線距離=125.3 [[キロメートル|km]](鳥栖 - 市布 - 長崎間)<br />23.5 km(喜々津 - 長与 - 浦上間)
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])
|線路数=[[複線]](鳥栖 - 江北間、諫早 - 喜々津間、浦上 - 長崎間)<br />[[単線]](上記以外)
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|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式=自動閉塞式
|保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SK]]、[[自動列車停止装置#ATS-Dx (DN・DK・DF) 形|ATS-DK]](全線)
|最高速度=130 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="speed">[https://www.jrkyushu.co.jp/company/ir/library/fact_sheet/pdf/factsheets2017.pdf FACt SHEETS 2017] - JR九州</ref>
|路線図=[[File:Nagasaki Main Line linemap.svg|300px]]
|路線図名=
|路線図表示=
}}
'''長崎本線'''(ながさきほんせん)は、[[佐賀県]][[鳥栖市]]の[[鳥栖駅]]から[[長崎県]][[長崎市]]の[[長崎駅]]までを結ぶ[[九州旅客鉄道]](JR九州)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。ほかに[[喜々津駅]] - [[長与駅]] - [[浦上駅]]間の別線を持つ。
== 概要 ==
[[鹿児島本線]]の[[鳥栖駅]]から分岐し、[[佐賀市]]の[[佐賀駅]]を経て[[長崎市]]の[[長崎駅]]まで延びる路線である。途中[[佐世保線]]を経由して[[武雄温泉駅]]・[[佐世保駅]]・[[ハウステンボス駅]]方面に向かう「[[かもめ (列車)|リレーかもめ]]」「[[みどり (列車)|みどり]]」「[[ハウステンボス (列車)|ハウステンボス]]」など、[[福岡市]]の[[博多駅]]から佐賀県内各地や佐世保線から佐世保・早岐方面を結ぶ[[特別急行列車|特急列車]]が多数運転されている特急街道であり、[[西九州新幹線]]開業前の全国の[[JR]]在来線特急利用者数ランキングでは、上位4位に入っていた。
鳥栖駅 - [[江北駅 (佐賀県)|江北駅]]間は[[複線]]区間である。途中佐賀駅 - [[久保田駅 (佐賀県)|久保田駅]]間では[[唐津線]]の普通列車も走行する(唐津線は久保田駅で分岐するが、全列車が佐賀駅を発着する)。また、江北駅では佐世保線が分岐する。佐賀駅付近は高架となっている。当区間は[[佐賀平野]]を通過する。この区間は線形が良く、特急列車は最高速度130 km/h、普通列車[[JR九州817系電車|817系]]でも120 km/hで走行する。
江北駅 - [[諫早駅]]間は[[単線]]である。全駅で[[列車交換]]が可能であり、駅間の長い[[多良駅]] - [[肥前大浦駅]] - [[小長井駅]]間には[[里信号場]]、[[土井崎信号場]]がある。[[肥前鹿島駅]] - 諫早駅間では列車の本数が極端に少なくなっている。この区間は、[[有明海]]の入り組んだ沿岸部に沿って線路が通っているため、曲線区間が多く、特急列車の速度向上のために[[車体傾斜式車両|振り子式車体傾斜装置]]を搭載した[[JR九州885系電車|885系]]電車が投入されていた。
所要時間短縮のため、駅構内の配線は原則として[[一線スルー]]配線に改良されているほか、曲線の度合いの強い区間の[[枕木|マクラギ]]は通常のPCマクラギよりさらに太い強化型のものが使用されていることが多い。
諫早駅 - 喜々津駅間と浦上駅 - 長崎駅間は複線である。喜々津駅 - 浦上駅間は単線の2つのルートに分かれており、このうち[[大村湾]]沿いに走り、[[長与駅]]を経由する明治時代開業のルートを「'''旧線'''(長与経由)」と呼び、長崎本線内で唯一電化された事のない区間である。途中、列車交換は[[大草駅]]・長与駅のみ可能である<ref group="注釈">列車交換設備は道ノ尾駅、本川内駅、東園駅にもあったが、道ノ尾駅と東園駅の交換設備は国鉄時代に廃止されている。本川内駅は[[スイッチバック]]の廃止により交換設備もなくなった。</ref>。長与駅 - [[浦上駅]]間では市街地を走り、区間運転の列車が設定されている。一方で、[[1972年]]に開通した、[[長崎トンネル]]を通る電化されていたルートを「'''新線'''([[市布駅|市布]]経由)」と呼ぶ。旧線に比べ6.7km短縮され、高速運転に適した[[線形 (路線)|線形]]により、諫早駅 - 長崎駅間の所要時間を大幅に短縮した。途中[[肥前古賀駅]]以外は列車交換ができるほか、長崎トンネル内に[[肥前三川信号場]]がある。新線の大半はトンネルであり浦上駅側では市街地の地下を通り地上に抜ける。地上区間に入ると浦上駅までは高架となり、旧線としばらく並走(単線2並列)する。[[快速列車|快速]]「[[シーサイドライナー (列車)|シーサイドライナー]]」は全て新線を通っており、かつて運行していた特急列車も新線経由だった。浦上駅 - 長崎駅間では[[連続立体交差事業]]が進められ、[[2020年]][[3月28日]]に高架化が完了した<ref name="JR九州ダイヤ改正2020">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2019/12/13/201912132020harusingatasyaryoudounyuusimasu.pdf|title=新型車両を投入し、通勤・通学をより快適にします ダイヤをよりわかりやすく利用しやすくします|date=2019-12-13|accessdate=2019-12-29|publisher=九州旅客鉄道|format=PDF|page=4|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191224235633/http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2019/12/13/201912132020harusingatasyaryoudounyuusimasu.pdf|archivedate=2019-12-24}}</ref><ref name="長崎県連立">{{Cite press release |和書 |title=JR長崎本線(長崎駅から浦上駅間)の高架化について |url=https://www.pref.nagasaki.jp/press-contents/418010/ |publisher=長崎県都市政策課 |date=2019-12-13 |accessdate=2019-12-13}}</ref>。
鳥栖駅 - 佐賀駅間および諫早駅 - 長崎駅間(旧線・新線とも)は[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[SUGOCA]]」の利用エリアに含まれている。なお、「福岡・佐賀・大分・熊本エリア」に含まれる鳥栖駅 - 佐賀駅間と「長崎エリア」に含まれる諫早駅 - 長崎駅間を跨っての利用はできない<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/sugoca/area/index.html |title=JR九州 <nowiki>[SUGOCA]</nowiki>|利用可能・発売エリア |publisher=九州旅客鉄道 |accessdate=2015-06-02}}</ref>。
一般向けリアルタイム列車位置情報システム「どれどれ」対応路線であり、「長崎本線」(鳥栖駅 - 市布駅 - 長崎駅間)と「長崎本線(長与経由)」(諫早駅 - 長与駅 - 長崎駅間)として[[スマートフォン]]向けに配信されている<ref name="jrkyushu20161220">{{PDFlink|[http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2016/12/20/001doredore.pdf 〜 運行情報のご案内を充実 〜 「JR九州アプリ」で列車位置情報を表示します!]}} - 九州旅客鉄道、2016年12月20日</ref>。
=== 西九州新幹線との関係について ===
{{See also|九州新幹線 (整備新幹線)#西九州ルートの沿革|西九州新幹線#並行在来線の扱い}}
[[九州新幹線 (整備新幹線)|九州新幹線西九州ルート]](長崎ルート)が[[佐世保線]]の[[武雄温泉駅]]から長崎本線の[[長崎駅]]まで[[新幹線#主要技術|新幹線フル規格]]で建設され、「[[西九州新幹線]]」として[[2022年]][[9月23日]]に開業した。これにより、長崎本線の[[江北駅 (佐賀県)|江北]] - 諫早間が[[在来線|並行在来線]]とされた。[[整備新幹線]]において並行在来線は新幹線開業時にJRから経営分離してもよいことになっており、当初はJR九州も経営分離する方針で佐賀・長崎両県による[[第三セクター]]方式の経営が計画されていた。しかし、経営分離区間の沿線自治体([[鹿島市]]・[[江北町]])の同意が得られなかったため着工の目処がたたず、他の整備新幹線に遅れをとっていた。そのためJR九州と佐賀・長崎両県は経営分離をせずに、両県が線路などの施設を保有し、新幹線開業後20年間はJR九州が運行を行う[[上下分離方式]]を採用することで合意し、着工が認可された。これにより[[2008年]]に武雄温泉駅 - [[諫早駅]]間が、[[2012年]]には諫早駅 - 長崎駅間が着工された。
[[博多駅]] - [[新鳥栖駅]]では[[九州新幹線|九州新幹線鹿児島ルート]]を使用し、新鳥栖駅 - 武雄温泉駅間について在来線を活用、武雄温泉駅 - 長崎駅間では新幹線規格の新線建設といった整備計画で、線路幅([[軌間]])の異なる新幹線と在来線を直通できる開発中の車両[[軌間可変電車|FGT(フリーゲージトレイン)]]を導入する予定であった。しかし、[[2014年]]にFGTの試作車両の鹿児島ルート及び[[鹿児島本線]]での走行試験中に重大な問題が発覚し、開発が長期に渡りストップした。これにより、仮にFGTが実用化されても、2022年度の開業までに運行に必要な数の車両の生産が間に合わないことが判明した。新幹線建設は計画通り進んでおり、完成した設備を年単位で放置できないこと、新幹線沿線自治体では2022年度の開業に合わせて大規模再開発が行われており開業の遅れは許されない状況であり、開業の前倒しを計画していただけに大きな問題となった。結果、[[2015年]]12月に2022年度開業のあり方として国やJR九州、長崎・佐賀両県の間で次の合意がなされた。
*開業時期は現計画通り2022年度
*フル規格で整備中の長崎駅 - 武雄温泉駅間については新幹線車両での運行、武雄温泉駅 - 博多駅間は在来線特急車両での運行とし、FGT営業用車両の生産完了([[2025年]]度予定)まではリレー方式([[2004年]]の九州新幹線鹿児島ルート暫定開業と同じ方式)とする。一部の列車においてFGT先行導入車両での運転を行う。
*リレー方式での開業に伴い武雄温泉駅を新幹線と在来線が[[対面乗り換え]]できる構造に改造。
*リレー方式への変更に伴う武雄温泉駅改造にかかる佐賀・長崎両県の負担を、肥前山口駅(現在の江北駅) - 諫早駅間の有償譲渡から無償譲渡に変更することで相殺。
*肥前山口駅(現在の江北駅) - 諫早駅間は開業後23年間は引き続きJR九州による運行、運行本数は現状水準を維持、開業後3年間は肥前鹿島駅 - 博多駅間で特急列車を上下計14本維持する。
*新鳥栖駅及び武雄温泉駅の新幹線在来線連絡アプローチについてはFGTの実用化判断が行われてからの着工とする。
その後[[2016年]]12月に2年ぶりにFGT走行試験を再開するも、再度問題が発覚し、暫定開業時の先行導入車両の製造は間に合わない見通しとなった。運行主体のJR九州は[[2017年]]7月、一般の新幹線の2倍以上のコストがかかるFGTでの西九州ルート運営は困難としてFGT導入断念を決定した。これにより与党検討委員会は在来線活用予定であった武雄温泉駅 - 新鳥栖駅間の西九州ルートの整備を[[ミニ新幹線]]方式または全線フル規格新幹線方式での整備を軸に調査を開始した。2018年度中に西九州ルートの整備方針が決定する予定とされていたが、長崎駅 - 武雄温泉駅間が開業した2022年9月23日時点でも関係各所の意見統一がなされていない状況となっている。
=== 路線データ ===
*管轄・路線距離([[営業キロ]]):
**九州旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]):
***鳥栖駅 - 江北駅間 39.6 km
***諫早駅 - 喜々津駅 - 市布駅 - 浦上駅 - 長崎駅間 24.9 km
***喜々津駅 - 長与駅 - 浦上駅間 23.5 km
**九州旅客鉄道([[鉄道事業者|第二種鉄道事業者]])、[[佐賀・長崎鉄道管理センター]]([[鉄道事業者|第三種鉄道事業者]]):
***江北駅 - 諫早駅間 60.8 km
**[[日本貨物鉄道]](第二種鉄道事業者):
***鳥栖駅 - 鍋島駅間 28.0 km
*[[軌間]]:1067 mm
*駅数:42(起終点駅・臨時駅含む)
**長崎本線所属駅に限定した場合、鹿児島本線所属の鳥栖駅<ref name="teisya">『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]]、1998年。ISBN 978-4-533-02980-6。</ref> が除外され、41駅となる。なお、JR九州の[[有価証券報告書]]には、2018年3月31日時点で40駅と記載されており<ref>[https://www.jrkyushu.co.jp/company/ir/library/securities_report/__icsFiles/afieldfile/2018/06/22/2017.yuhou.pdf 2018年(平成30年) 3月期 有価証券報告書] - 九州旅客鉄道、p.36</ref>、臨時駅であるバルーンさが駅も計上していない。
*信号場数:3
*複線区間:
**鳥栖駅 - 江北駅間
**諫早駅 - 喜々津駅間
**浦上駅 - 長崎駅間
*電化区間:鳥栖駅 - 肥前浜駅間([[交流電化|交流]]20,000 V・60 Hz)
*[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
*保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SK]]、[[自動列車停止装置#ATS-Dx (DN・DK・DF) 形|ATS-DK]](全線)
*[[運転指令所]]:博多総合指令センター
*最高速度:130 km/h<ref name="speed" />
鳥栖駅 - [[肥前大浦駅]]間がJR九州[[九州旅客鉄道鉄道事業本部|本社鉄道事業本部]]、[[土井崎信号場]] - 長崎駅間と長与駅経由の旧線が同社[[九州旅客鉄道長崎支社|長崎支社]]の管轄となっており、佐賀県と長崎県の県境付近(肥前大浦駅 - 土井崎信号場間)に本社と支社の[[JR支社境|境界]]がある。
== 運行形態 ==
{| {{Railway line header|collapse=yes}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#faaf18}}
{{BS-table}}
{{BS3|BHFq|ABZq+r||0.0|JH01 [[鳥栖駅]]|[[鹿児島本線]]|}}
{{BS|TBHFu|2.9|JH02 [[新鳥栖駅]]|[[九州新幹線]]}}
{{BS|BHF|4.2|JH03 [[肥前麓駅]]|}}
{{BS|BHF|8.5|JH04 [[中原駅]]|}}
{{BS|BHF|13.1|JH05 [[吉野ケ里公園駅]]|}}
{{BS|BHF|15.7|JH06 [[神埼駅]]|}}
{{BS|BHF|20.2|JH07 [[伊賀屋駅]]|}}
{{BS|eABZg+l|||''[[佐賀線]]''}}
{{BS|BHF|25.0|JH08 [[佐賀駅]]|}}
{{BS|BHF|28.0|[[鍋島駅]]|}}
{{BS|BHF|29.8|([[臨時駅|臨]])[[バルーンさが駅]]|}}
{{BS|hKRZWae|||[[嘉瀬川]]}}
{{BS|BHF|31.4|[[久保田駅 (佐賀県)|久保田駅]]|}}
{{BS|ABZgr|||[[唐津線]]}}
{{BS|BHF|34.2|[[牛津駅]]|}}
{{BS|hKRZWae|||[[牛津川]]}}
{{BS|BHF|39.6|[[江北駅 (佐賀県)|江北駅]]|}}
{{BS|ABZgr|||[[佐世保線]]}}
{{BS|hKRZWae|||[[六角川]]}}
{{BS|BHF|44.7|[[肥前白石駅]]|}}
{{BS|BHF|49.4|[[肥前竜王駅]]|}}
{{BS|hKRZWae|||塩田川}}
{{BS|BHF|54.6|[[肥前鹿島駅]]|}}
{{BS|BHF|57.6|[[肥前浜駅]]|}}
{{BS3||STR|ELCe|||{{BSsplit|↑[[交流電化|交流20000V・60Hz]]|↓[[非電化]] 2022/09/23-}}|}}
{{BS|TUNNEL1||七浦トンネル|180m|}}
{{BS|BHF|61.5|[[肥前七浦駅]]|}}
{{BS|TUNNEL1||黒木トンネル|90m|}}
{{BS|BHF|63.6|[[肥前飯田駅]]|}}
{{BS|BHF|67.7|[[多良駅]]|}}
{{BS|TUNNEL2|||}}
{{BS|DST|72.3|[[里信号場]]|}}
{{BS|BHF|75.6|[[肥前大浦駅]]|}}
{{BS|TUNNEL1||今里トンネル|254m|}}
{{BS|STR+GRZq|||[[佐賀県]]/[[長崎県]]}}
{{BS|DST|78.9|[[土井崎信号場]]|}}
{{BS|BHF|82.3|[[小長井駅]]|}}
{{BS|TUNNEL2|||}}
{{BS|BHF|84.7|[[長里駅]]|}}
{{BS|BHF|87.6|[[湯江駅]]|}}
{{BS|BHF|90.9|[[小江駅]]|}}
{{BS|TUNNEL1||小江トンネル||}}
{{BS|BHF|95.6|[[肥前長田駅]]|}}
{{BS|BHF|97.8|[[東諫早駅]]|}}
{{BS|TUNNEL1|||}}
{{BS|hKRZWae|||[[本明川]]}}
{{BS|ABZg+r|||[[大村線]]}}
{{BS3|STR+r|STR||||[[西九州新幹線]] }}
{{BS3|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|KBHFa|O3=HUBeq|100.4|[[諫早駅]]|}}
{{BS3|STR|ABZgl|ABZql|||[[島原鉄道|島鉄]]:[[島原鉄道線]]}}
{{BS3|TUNNEL1|TUNNEL1||||}}
{{BS3|STRl|KRZu|STRq|||西九州新幹線}}
{{BS|BHF|103.2|[[西諫早駅]]|}}
{{BS|BHF|{{BSkm|106.9|0.0}}|[[喜々津駅]]|}}
{{BS3|STRc2|ABZ23|STRc3|||}}
{{BS3|STR+1|STRc14|STR+4||||}}
{{BS3|STR|O1=POINTERg@fq||LSTR||長与支線|}}
{{BS3|STR|exELCe|||{{BSsplit|↑[[交流電化|交流20000V・60Hz]] -2022/09/22|↓[[非電化]]}}|}}
{{BS3|TUNNEL2|||||}}
{{BS3|BHF|||{{BSkm|-|3.5}}|[[東園駅]]|}}
{{BS3|BHF|||{{BSkm|-|7.2}}|[[大草駅]]|}}
{{BS3|TUNNEL1||||松ノ峠トンネル|1094m|}}
{{BS3|BHF|||{{BSkm|-|12.3}}|[[本川内駅]]|}}
{{BS3|BHF|||{{BSkm|-|15.4}}|[[長与駅]]|}}
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{{BS3|BHF|||{{BSkm|-|18.9}}|[[道ノ尾駅]]|}}
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{{BS3|STR|exELCa||||{{BSsplit|↑非電化|↓交流20000V・60Hz -2022/9/22}}|}}
{{BS3|LSTR||LSTR|||}}
{{BS3|||TUNNEL1|||}}
{{BS3|||BHF|109.4|[[市布駅]]|}}
{{BS3|||TUNNEL2|||}}
{{BS3|||BHF|112.3|[[肥前古賀駅]]|}}
{{BS3|||TUNNEL1||榎木トンネル|1515m|}}
{{BS3|||BHF|114.8|[[現川駅]]|}}
{{BS3|||tSTRa||[[長崎トンネル#長崎トンネル (JR長崎本線)|長崎トンネル]]|6173m|}}
{{BS3|||tDST|118.5|[[肥前三川信号場]]|}}
{{BS3|LSTR||tSTRe|||}}
{{BS3|STR2|STRc23|STR3|||}}
{{BS3|STRc1|ABZ+14|STRc4|||}}
{{BS|BHF|{{BSkm|123.7|23.5}}|[[浦上駅]]|[[ファイル:BSicon TRAM.svg|14px|link=長崎電気軌道|長崎電気軌道]]}}
{{BS3|KDSTa|O1=STRc2|ABZ3x2|exSTRc3||[[長崎鉄道事業部]]<ref group="*">長崎鉄道事業部長崎運輸センター</ref>|}}
{{BS3|ABZg+1|STR+l|O2=STRc4x1|eKRZq+4o|||西九州新幹線}}
{{BS3|KBHFe|O1=HUBaq|KBHFe|O2=HUBeq|exBHF|125.3|[[長崎駅]]|[[ファイル:BSicon TRAM.svg|14px|link=長崎電気軌道|長崎電気軌道]]}}
{{BS3|||exKBHFe|126.4|''[[長崎港駅]]''|-1982}}
{{BS-colspan}}
----
{{Reflist|group="*"}}
|}
|}
=== 優等列車 ===
[[西九州新幹線]]が開業した2022年9月23日以降は、優等列車における[[長崎駅]]方面と[[佐世保駅]]方面の分岐駅が江北駅から[[武雄温泉駅]]に移行したため、当路線の優等列車は江北駅から[[佐世保線]]に直通する列車が主体となっている。なお、定期運転の優等列車は全て鳥栖駅から[[鹿児島本線]]に直通して[[博多駅]]まで乗り入れている(一部列車はさらに博多駅以北に直通)。
佐世保線に直通する優等列車は、[[門司港駅]]・博多駅 - 武雄温泉駅間の特急「[[かもめ (列車)|リレーかもめ]]」が下り18本・上り16本、博多駅 - 佐世保駅間の特急「[[みどり (列車)|みどり]]」が16往復(一部は[[大村線]][[ハウステンボス駅]]発着の特急「[[ハウステンボス (列車)|ハウステンボス]]」を併結)運転されている。「リレーかもめ」全列車と「みどり」下り4本・上り6本は武雄温泉駅で長崎駅方面への新幹線「かもめ」と接続し、該当する「みどり」は「みどり(リレーかもめ)」の列車名で運転されている。
佐世保線に直通しない優等列車は、門司港駅・[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]・[[吉塚駅]]・博多駅 - 佐賀駅・肥前鹿島駅間の特急「[[かささぎ (列車)|かささぎ]]」が下り8本・上り9本(土曜・休日10本)運転されている。現在の「かもめ・リレーかもめ」が運行を開始した際に、従来の特急「かもめ」の停車駅だった肥前鹿島駅が「かもめ・リレーかもめ」のルートから外れることから、肥前鹿島駅発着の特急を7往復設定することが事前に発表されていたが、これに従来の「かもめ」の佐賀駅発着列車を統合した形で新設された。
このほか[[九州旅客鉄道#D&S列車(観光列車)|D&S列車]]として、全席[[グリーン車]]の特急「[[36ぷらす3]]」が、月曜日に博多駅 - 江北駅 - 佐世保駅間で運行される。このうち往路(佐世保駅行き)は経路の途中で江北駅 - [[肥前浜駅]]間を往復する。また武雄温泉駅 - 長崎駅間を運行する特急「[[ふたつ星4047]]」は、午前便が江北駅 - 長崎駅間の下り線を、午後便が長崎駅 - [[諫早駅]]間の上り線を、ともに旧線([[長与駅]])経由で運行する。
==== 過去の優等列車 ====
{{See also|[[かもめ (列車)#長崎本線優等列車沿革|長崎本線優等列車沿革]]|[[さくら (列車)#東京対長崎県連絡列車沿革|東京対長崎県内連絡列車沿革]]}}
[[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]が開通した[[1942年11月15日国鉄ダイヤ改正|1942年11月15日]]、[[東京駅]] - [[下関駅]]間を結んでいた特急「[[富士 (列車)#戦前・日本初 特別急行1・2列車「富士」|富士]]」の運行区間が東京駅 - 長崎駅間に延長され、長崎本線に初めて特急列車が乗り入れた([[1943年]][[10月1日]]に東京駅 - [[博多駅]]間の運転に短縮)。[[日華連絡船|上海航路]]運航日は、上り列車が1駅先の[[長崎港駅]]を始発とする形で運転された。ただし、この列車以前にも上海航路への接続列車として長崎駅から長崎港駅まで1駅延長運転されたものもあった。
[[1948年]]8月、東京駅 - 長崎駅間を[[大村線]]経由で運行する[[準急列車]]が運行開始。[[1949年]]に[[急行列車]]に格上げ、[[1950年]]には「雲仙」の[[列車愛称]]が与えられた。この愛称は、同時期に運行を開始した急行「西海」とともに、[[1980年]]まで用いられた。この間、様々な愛称の急行列車が運行を開始し、運行区間の変更や統廃合が行われた。
[[1957年]]10月1日、同年より東京駅 - 博多駅間で運行を開始した[[寝台列車|寝台]]特急「さちかぜ」の運行区間を長崎駅まで延長し、長崎本線の特急列車が復活。この列車は、[[1958年]]に「平和」、[[1959年]]に「[[さくら (列車)|さくら]]」へと改称した。また、[[1965年10月1日・11月1日国鉄ダイヤ改正|1965年10月1日]]には、寝台特急「[[あかつき (列車)|あかつき]]」が、[[新大阪駅]] - [[鹿児島中央駅|西鹿児島駅]]・長崎駅間で運行開始した。
[[サンロクトオ|1961年10月1日]]、[[京都駅]] - 博多駅間を運行していた特急「[[かもめ (列車)|かもめ]]」が長崎駅に乗り入れを開始、[[気動車]]による運行となる。[[1975年3月10日国鉄ダイヤ改正|1975年3月10日]]、[[山陽新幹線]]博多延伸に伴い、「かもめ」を廃止、線内を走る昼行特急列車がなくなった。
[[1976年]][[7月1日]]、長崎本線・佐世保線電化により、[[電車]]による[[エル特急]]として「かもめ」が、[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]・博多駅 - 長崎駅間で、「[[みどり (列車)|みどり]]」が小倉駅・博多駅 - 佐世保駅間で運転を開始した。その後、急行「出島」の特急格上げなどで増発が繰り返された。[[1992年]][[3月25日]]には、特急「[[ハウステンボス (列車)|ハウステンボス]]」が博多駅 - [[ハウステンボス駅]]間で運転を開始した。
2000年代にかけて、[[夜行列車]]が次々と廃止されるようになり、東京駅 - 長崎駅間の寝台特急「さくら」は[[2005年]][[3月1日]]のダイヤ改正で、京都駅 - 長崎駅間の寝台特急「あかつき」は[[2008年]][[3月15日]]のダイヤ改正で廃止され、夜行列車や本州直通優等列車の運転はなくなった。
[[2022年]][[9月23日]]の[[西九州新幹線]]開業に伴い、在来線特急の「かもめ」は、[[門司港駅]]・博多駅 - [[武雄温泉駅]]間を走る「リレーかもめ」、門司港駅・小倉駅・博多駅 - 佐賀駅・肥前鹿島駅間を走る「かささぎ」に再編された<ref>{{Cite web|和書|title=西九州新幹線と接続する特急「リレーかもめ」885系・787系で運転へ |url=https://news.mynavi.jp/article/20220610-2364745/ |website=マイナビニュース |date=2022-06-10 |access-date=2022-06-15 |language=ja}}</ref><ref name=":0" />。これにより、肥前鹿島駅 - 長崎駅間を毎日運行する特急列車はなくなった。
また、2020年10月から博多駅 - 長崎駅間で運行されていた特急「[[36ぷらす3]]」は、肥前浜駅 - 長崎駅間の電化廃止により、2022年10月から運行区間を博多駅 - 佐世保駅間とし、博多駅発便のみ肥前浜駅に立ち寄る運行に改められた。
=== 地域輸送 ===
概ね江北駅・肥前浜駅・諫早駅で運行系統が分かれている。
全線で[[ワンマン運転]]を実施している。佐賀駅 - 諫早駅間のワンマン列車では、有人駅の佐賀駅・諫早駅および一部時間帯のみ有人の江北駅・肥前鹿島駅のみすべてのドアから乗降可能で、それ以外の[[無人駅]]では先頭車両での後乗り前降り方式となる。一部時間帯のみ有人の肥前鹿島駅は、[[みどりの窓口]]営業時間帯は有人駅扱い、営業時間外は無人駅扱いとなる一方、同一営業形態の江北駅は駅員の在席に関係なくすべてのドアから乗降できる。無人駅での乗車時には整理券を取り、下車時に乗車券・整理券と運賃を運転士に渡すか運賃箱に投入する。3両以上の電車による運行の場合は車掌が乗務するが、[[JR九州YC1系気動車|YC1系]]での運行の場合は3両以上でも2021年10月より全てワンマン運転となっている。
[[2006年]][[3月18日]]から鳥栖駅 - 肥前山口駅(当時)間、および諫早駅 - 長崎駅間(新線・旧線)に「都市型ワンマン」が導入された。この区間では、ワンマン運転であっても、すべてのドアから乗り降りできる(YC1系の場合はドアは自動で開かないためドア横のボタンを押して開ける。いわゆる半自動式)。[[2022年]][[9月23日]]より、佐賀駅 - 江北駅間は、上述の料金車内収受方式に変更となった<ref>「JR九州ユニオン業務速報27号」 - JR九州ユニオン中央本部(2022年12月21日)、2022年12月24日閲覧<!--リンクは正しく表記されなかったためこちらに付記:https://union-honbu.jimdofree.com/app/download/14607516233/%E6%A5%AD%E5%8B%99%E9%80%9F%E5%A0%B127%E5%8F%B74P.pdf?t=1671608339 開始日については記載なし。「自車」は車内収受式ワンマンを行う意。--></ref>。
==== 鳥栖駅 - 江北駅間 ====
普通列車は1時間に2本程度運転される。西側は朝の3往復が佐賀駅発着、半数強の列車が江北駅発着で、その他の列車は江北駅以西の長崎本線または佐世保線に直通している。東側は基本的に鳥栖駅発着だが、早朝に下り1本のみ佐賀発肥前浜行き(江北から神埼折り返しの[[回送列車]]で送り込み)も設定されているほか、朝夕の一部列車は鹿児島本線博多駅方面に直通し、上りのみ鳥栖駅で鹿児島本線久留米方面からの列車と併結する列車がある。なお鹿児島本線に直通する上り列車の一部は「区間快速」の種別だが、長崎本線内では快速運転は行わない。佐賀駅 - 久保田駅間は[[唐津線]]の列車も利用可能で、本数はさらに多くなる。気動車列車は唐津線直通列車のみで、それ以外は電車で運行されている。後節のとおり2022年9月23日以降はこの区間から肥前浜駅を越えて諫早駅・長崎駅方面へ向かう列車は運行されていない。
==== 江北駅 - 諫早駅間 ====
この区間は2022年9月23日のダイヤ改正により肥前浜駅 - 長崎駅間が[[非電化]]となったため運行形態が大幅に再編された。
江北駅 - 肥前浜駅間は電化設備が存置され改正前と同様に電車での運転が主体となり、佐賀方面との直通も継続される一方、電化設備が廃止された肥前浜駅 - 諫早駅間では全列車が気動車による運行となり、肥前浜駅で乗り換えが生じるようになった。江北駅 - 肥前浜駅間では日中は佐賀方面への[[直通運転|直通列車]]が多いが、朝夕は大半の列車が江北駅で系統分割されており、非電化区間の肥前浜以南に直通する気動車列車も運行されている。2022年9月改正で江北駅 - 諫早駅間を通しで運行される列車(気動車)は下り4本・上り3本に、長崎方面との直通は下り5本・上り4本に削減されており、このうち1往復が江北駅 - 長崎駅間を直通する。
佐賀・長崎の県境を含むこの区間は、県境に近付くにつれて本数が少なくなり、肥前浜駅 - 諫早駅間の全区間を運行する普通列車は1日7.5往復のみである。そのためこの区間を移動する場合は、時間帯によっては[[佐世保線]]・[[大村線]]経由の方が早く着く場合がある<ref group="注釈">当該区間には長崎本線経由の乗車券で佐世保線・大村線経由でも乗車できる[[経路特定区間]]が設定されていたが、1994年に廃止されており、乗車券は実乗経路通りに発券・使用しなければならなくなった。運賃計算についても同様である。</ref>。なお、[[祐徳自動車]]が佐賀県側の[[鹿島バスセンター]](肥前鹿島駅前) - 大浦駅前 - 竹崎港間に、[[長崎県交通局]]が長崎県側の諫早駅 - 小長井駅前 - 県界間にそれぞれ[[国道207号]]経由で長崎本線に並行する路線バスを運行しており、区間によっては長崎本線の普通列車よりも本数が多い<ref>[https://news.railway-pressnet.com/archives/38851 長崎本線「並行しない並行在来線」を巡る 西九州新幹線の開業後どう変わる] - 鉄道プレスネット(2022年4月19日)、2022年6月29日閲覧</ref>。
車両が電車からキハ47形気動車に代わったことで加減速性能が悪くなり[[鉄道の最高速度|最高速度]]も95km/hに引き下げられたが、対向列車との[[列車交換|交換]]や特急の通過待ちによる停車が減ったため、この区間の所要時間は数分短縮されている列車が多い<ref group="注釈">元々交換待ちが少なかった早朝深夜においては一部列車の所要時間が大幅に増大している。その影響が最も大きい長崎発江北(肥前山口)行き最終列車は2022年9月23日ダイヤ改正前後で終点江北(肥前山口)の到着時刻は0:01のまま変更なしだが、長崎の発車時刻が22:20から21:47へと33分も繰り上げられた。</ref>。
==== 諫早駅 - 長崎駅間 ====
都市間輸送となっており、朝夕のラッシュ時は数分おきの発車で、単線の区間では線路容量一杯である。ラッシュ時間帯以外では新線([[市布駅]]経由)、旧線([[長与駅]]経由)ともに1時間に1本の運転は確保されているが、旧線の喜々津駅 - 長与駅間および新線の快速通過駅では2時間程度間隔が空く時間帯がある。新線には途中駅折り返し列車は設定されていないが、旧線には長与駅や喜々津駅で折り返す列車がある。諫早駅から大村線に直通する普通列車は、長崎本線は基本的に旧線経由となる。
このほか、諫早駅 - 長崎駅間では新線経由で大村線直通の快速・区間快速「[[シーサイドライナー (列車)|シーサイドライナー]]」が1時間に1本運転される。この区間内において、通勤時間帯に運転される「快速」は全駅に停車する一方で、日中時間帯の「区間快速」は諫早駅・喜々津駅・浦上駅・長崎駅のみに停車する。なお、2022年9月23日のダイヤ改正以前は、西諫早駅・市布駅・肥前古賀駅・現川駅を通過する「快速」もあった。「区間快速」は長崎本線内は最高速度110km/hで運転する。
以前は、新線および肥前鹿島方面が電化されていたため旧線・大村線直通列車以外は深夜の一部上り列車を除き電車で運行されていたが、2022年9月23日より全て気動車での運行となっている。
==== 臨時列車 ====
長崎本線内で快速運転を行う定期列車は「シーサイドライナー」のみであるが、臨時列車では[[ゴールデンウィーク]]期間に運転される快速「有田陶器市号」が快速運転を行う。「有田陶器市号」のうち、博多・南福岡・鳥栖発着の線内の停車駅は通常この区間を運行する特急列車の停車駅に加え、神埼駅に停車する。また[[佐賀インターナショナルバルーンフェスタ]]開催時は、普通列車に加えて臨時快速「バルーンフェスタ号」が鳥栖方面 - 江北駅間に運転されることがある。「バルーンフェスタ号」は肥前麓駅・伊賀屋駅・鍋島駅を除く各駅に停車する。
かつて運行されていた長崎発着の「有田陶器市号」は快速「シーサイドライナー」に準じ諫早駅 - 長崎駅間は喜々津駅・浦上駅に停車していた。また、江北経由ではなく非電化の大村線経由で運転されていたため、2022年以前も気動車で運転されていた(喜々津駅 - 浦上駅間は新線経由)。2023年以降は西九州新幹線に接続するシャトル列車に変更となったため、運行を終了している。
=== 団体専用列車 ===
「[[或る列車]]」が、「長崎コース」として大村線経由で長崎駅 - 佐世保駅間に運行される。長崎発、長崎着ともに旧線を経由する。また、「ハウステンボスコース」として、博多駅 - ハウステンボス駅間、「佐賀〜長崎〜佐世保コース」として、佐賀駅→長崎駅→佐世保駅間で運転している。
また、クルーズトレイン「[[ななつ星 in 九州]]」が1泊2日コースで長崎駅に発着している。2015年3月からは長崎へ向かう往路の江北駅 - 諫早駅間で佐世保線・大村線、諫早駅 - 長崎駅間で旧線、長崎を出発する復路の長崎駅 - 諫早駅間で新線を経由している。
=== 貨物列車 ===
[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の第二種鉄道事業区間である[[鳥栖駅]] - [[鍋島駅]]間で[[貨物列車]]が運行されている。2022年3月改正時点では、[[コンテナ車]]で編成された[[高速貨物列車]]が2往復(鹿児島本線[[福岡貨物ターミナル駅]]発鍋島駅行きが2本、鍋島駅発東海道本線[[東京貨物ターミナル駅]]行きが1本、鍋島駅発関西本線[[百済貨物ターミナル駅]]行きが1本)設定されている<ref>[https://www.jrfreight.co.jp/library/service/book/index.html#target/page_no=127 コンテナ時刻表] - JR貨物</ref>。牽引機関車は、[[国鉄ED76形電気機関車|ED76形]]および[[国鉄EF81形電気機関車|EF81形]]電気機関車。さらに農産物流通のピークである4 - 6月は、EF81形牽引の臨時高速貨物列車(通称タマネギ貨物)が1往復増発される。
線内の貨物列車の発着駅は鍋島駅のみだが、このほか長崎駅には近接して「長崎[[オフレールステーション]]」があり、[[日本のコンテナ輸送#鉄道コンテナ|コンテナ]]を積載した[[貨物自動車|トラック]]が鍋島駅との間を結んでいる。
== 使用車両 ==
[[ファイル:JRK trains at Nagasaki Station (48767880958).jpg|280px|thumb|長崎本線で使用されている・いた車両<br>(左2本が415系1500番台、その右がキハ66、885系)]]
車種はキハおよびキロシ、YC1とあるのは[[気動車]]、他は特記なければ[[電車]]。
=== 特急列車 ===
*[[JR九州783系電車|783系]]([[南福岡車両区]]) - 「[[みどり (列車)|みどり]]」・「[[ハウステンボス (列車)|ハウステンボス]]」・「[[かささぎ (列車)|かささぎ]]」に使用。
**[[1989年]][[3月11日]]から「[[かもめ (列車)|かもめ]]」に投入されて以降、長崎本線内の特急で使用されている。[[2011年]][[3月12日]]の[[九州新幹線]]鹿児島ルート全線開通により、運行廃止された「[[つばめ (JR九州)#リレーつばめ(2004年-2011年)|リレーつばめ]]」から転用した787系に代替され、長崎駅発着の「かもめ」からは撤退した。
*[[JR九州787系電車|787系]](南福岡車両区) - 「リレーかもめ」・「かささぎ」に使用される通常編成のほか、「[[36ぷらす3]]」の専用車がある。「リレーかもめ」は8両編成、「かささぎ」は6両または8両編成で運行される<ref name=":0" />。
**[[1994年]][[3月1日]]ダイヤ改正で「かもめ」に投入されるが、[[1996年]][[3月16日]]改正で撤退。その後は、臨時列車での運用のほか、[[2001年]]3月1日から[[10月5日]]まで、[[江北駅 (佐賀県)|肥前山口駅]]発着の「かもめ」で使用された。2011年3月12日改正で長崎駅発着の「かもめ」と「みどり」に投入され、[[西九州新幹線]]開業まで使用された。
*[[JR九州885系電車|885系]](南福岡車両区) - 「リレーかもめ」・「みどり」・「かささぎ」に使用。
**[[2000年]]3月11日のダイヤ改正により「かもめ」に投入。「みどり」には、[[2002年]][[10月21日]]から[[2003年]][[3月14日]]まで運用されていたことがある。2022年9月23日の西九州新幹線開業により、「みどり」に再投入、「かささぎ」での使用を開始した<ref name=":0" />。
*[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40系・キハ140系]]([[長崎鉄道事業部#佐世保車両センター|佐世保車両センター]]) - 専用車を「[[ふたつ星4047]]」で使用。
=== 普通・快速列車 ===
*[[国鉄415系電車|415系]](大分車両センター)- 鳥栖 - 佐賀間で朝の1往復のみ2編成つないだ8両で使用。2022年9月改正までは大分車両センター所属車両が肥前山口まで、南福岡車両区所属車両(同改正で全車が大分車両センターに転出)が長崎まで乗り入れていた。
*[[JR九州811系電車|811系]](南福岡車両区) - 鳥栖 - 肥前浜間でラッシュ時に使用。2編成つないだ8両で運転される列車もある。2010年代前半までは肥前大浦まで乗り入れており、一度肥前山口以南の運用が廃止されたあと2022年9月改正で再び運用範囲が拡大された。
*[[JR九州813系電車|813系]](南福岡車両区) - 鳥栖 - 江北間で夜の下り・朝の上りの1往復のみ2編成つないだ6両で使用。2009年3月改正までは長崎まで、2022年9月改正までは肥前大浦まで乗り入れていた。
*[[JR九州817系電車|817系]](佐世保車両センター) - ワンマン運転対応の0番台が鳥栖 - 肥前浜間で使用。ラッシュ時は2編成つないだ4両で運転される列車もある。2011年3月改正までは当形式2編成に813系1編成をつないだ7両、2018年3月改正までは3編成繋いだ6両で運転される列車があり、2022年9月改正までは長崎まで乗り入れていたほか、近年[[ロングシート]]化改造された500番台(同改正で全車[[鹿児島車両センター]]に転属)も使用されていた。
*[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ47形]](佐世保車両センター、[[佐賀鉄道事業部#唐津車両センター|唐津車両センター]]) - 佐世保所属車は江北 - 長崎間、唐津所属車は佐賀 - 久保田間で[[唐津線]]直通列車に限り使用。
*[[JR九州キハ125形気動車|キハ125形]](唐津車両センター) - 佐賀 - 久保田間で唐津線直通列車に限り使用。
*[[JR九州YC1系気動車|YC1系]](佐世保車両センター) - 小長井 - 長崎間で使用。2-4両で運用される。この形式に限り両数にかかわらずワンマン運転となる。
鳥栖 - 江北間では、南福岡車両区所属の817系3000番台と[[JR九州821系電車|821系]](2022年9月改正で全車が熊本車両センターに転出後は不明)も813系の代走として運用されることがある。
=== 団体臨時列車 ===
*[[国鉄キハ40系気動車 (2代)#キロシ47形「或る列車」用改造車|キロシ47形]](佐世保車両センター) - 「[[或る列車]]」で使用。
*[[JR貨物DF200形ディーゼル機関車#7000番台|DF200形ディーゼル機関車]]([[大分鉄道事業部#大分車両センター|大分車両センター]]) - 7000番台が「[[ななつ星 in 九州]]」牽引用に使用。
*[[ななつ星 in 九州#客車|77系客車]](大分車両センター) - 「ななつ星 in 九州」用の客車として使用。
=== 過去の主な使用車両 ===
*電車
**[[国鉄415系電車|421系・423系]] - 普通列車で使用。
**[[国鉄713系電車|713系]] - 普通列車で使用。1996年3月ダイヤ改正により[[鹿児島車両センター|鹿児島運転所]]に転属し撤退。
**[[国鉄715系電車|715系]] - 普通列車で使用。1998年に全廃。
**[[国鉄485系電車|485系]] - 特急「かもめ」「みどり」「ハウステンボス」で使用。2000年3月ダイヤ改正により長崎本線内での定期運行を終了。
*気動車
**[[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]] - 急行・普通列車で使用。
**[[JR九州キハ200系気動車|キハ200系]] - 主に快速「シーサイドライナー」や旧線経由の普通列車で使用。2021年3月に全車が他地区に転出。
**[[国鉄キハ66系気動車|キハ66・67形]] - 2001年に[[筑豊本線]]・[[篠栗線]]電化に伴い[[筑豊篠栗鉄道事業部]]から転入し、主に快速「シーサイドライナー」や旧線経由の普通列車で使用された。2021年6月30日限りで全車運用離脱。
== 歴史 ==
[[File:Nagasaki Station 20200407 06.jpg|thumb|right|230px|長崎駅の線路終端]]
長崎本線は、[[九州鉄道]]の手により現在の[[佐世保線]]・[[大村線]]のルートで建設された。鳥栖 - 早岐間と長与 - 長崎間が開業した[[1897年]]より全通するまでの約1年間は、[[大村湾]]に[[大村湾連絡船|連絡船]]を開設して暫定的な連絡機関としていた。
1907年の国有化を経て、現在のルート(有明線)が長崎本線となったのは1934年のことである。旧長崎本線(佐世保線・大村線ルート)は[[佐世保市]]・[[大村市]]といった長崎県内の各都市を結ぶ役割を果たす一方で、大回りとなるため福岡・佐賀方面と長崎市街との往来には長い時間が必要であった。このため、佐世保線・大村線ルートの短絡線として肥前山口(現在の江北) - 肥前鹿島 - 諫早(有明線)が建設され、長崎本線に編入された。旧長崎本線区間は佐世保線・大村線へと分離された。有明線は[[鉄道敷設法|改正鉄道敷設法]]別表114号に「佐賀県肥前山口附近ヨリ鹿島ヲ経テ長崎県諌早ニ至ル鉄道」として規定されていた。
1972年、喜々津 - 市布 - 浦上間にも短絡線が建設されたが、旧線・新線共に長崎本線として運行されている。市布経由の新線は[[鉄道敷設法|改正鉄道敷設法]]別表114号の2に「長崎県喜々津ヨリ矢上ヲ経テ浦上ニ至ル鉄道」として規定され、[[日本鉄道建設公団]]が主要幹線(C線)の'''浦上線'''(うらかみせん)として計画・建設した。
また、[[長崎港]]出島埠頭に発着する[[上海市|上海]]航路との連絡のため、1930年に長崎駅から[[長崎港駅]]までの1.1kmが延伸された。[[太平洋戦争]]の激化(1943年頃)により上海航路が廃止された影響で、1946年以降は貨物線として使われていた。正式に廃止されたのは1982年11月14日<ref name="shin-shishi">『新長崎市史 第四巻現代編』 長崎市史編さん委員会、長崎市、2014年3月、p.422</ref><ref name="tetsurin">『鉄輪の轟き 九州の鉄道100年記念誌』川崎孝夫、九州旅客鉄道、1989年10月、p.226</ref> である<ref group="注釈">石野哲(編) 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ』(初版)JTB、1998年10月1日、716-717頁によれば、「1982年11月14日休止、1987年3月31日廃止」</ref>。跡地は遊歩道や公園として整備されている。
=== 年表 ===
==== 九州鉄道 - 有明線編入前 ====
[[ファイル:First train of Nagasaki main line.jpg|230px|サムネイル|右|長与 - 長崎間開業時の一番列車<br>(1897年7月22日)]]
* [[1891年]]([[明治]]24年)[[8月20日]] 【開業】'''九州鉄道佐賀線''' 鳥栖 - 佐賀 【駅新設】中原、神崎、佐賀
* [[1895年]](明治28年)[[5月5日]] 【延伸開業】佐賀 - 山口 - *武雄 【駅新設】牛津、山口、*北方、*武雄
* [[1896年]](明治29年)[[10月10日]] 【駅新設】久保田
* [[1897年]](明治30年)
** [[7月10日]] 【延伸開業】*武雄 - *早岐 【駅新設】*三間坂、*有田、*三河内、*早岐
** [[7月22日]] 【開業】長与 - 長崎(現在の浦上) 【駅新設】長与、道ノ尾、長崎(初代)
* [[1898年]](明治31年)
** [[1月20日]] 【延伸開業】*早岐 - *大村 【駅新設】*南風崎、*川棚、*彼杵、*松原、*大村
** [[10月1日]] 【駅新設】*(貨)中樽
** [[11月27日]] 【延伸開業】*大村 - 諫早 - 長与(鳥栖 - 早岐 - 長崎間が開通) 【駅新設】諫早、喜々津、大草
* [[1905年]](明治38年)[[4月5日]] 【延伸開業】浦上 - 長崎(2代) 【駅新設】長崎(2代) 【駅名改称】長崎(初代)→浦上
* [[1907年]](明治40年)
** [[7月1日]] 【買収・国有化】九州鉄道→官設鉄道
** [[11月1日]] 【駅名改称】神崎→神埼
* [[1909年]](明治42年)
** [[5月1日]] 【貨物駅→一般駅・駅名改称】*中樽→上有田
** [[10月12日]] 【[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定】'''長崎本線''' 鳥栖 - 早岐 - 長崎
* [[1913年]]([[大正]]2年)[[3月1日]] 【駅名改称】山口→肥前山口(同年2月20日に[[山口県]]国鉄[[山口駅 (山口県)|山口駅]]開業のため)
* [[1919年]](大正8年)[[12月1日]] 【信号所新設】*大町
* [[1922年]](大正11年)
** [[4月1日]] 【信号所→信号場】*大町
** [[5月25日]] 【駅新設】*竹松
* [[1923年]](大正12年)[[8月21日]] 【駅新設】*高橋
* [[1926年]](大正15年)[[10月1日]] 【信号場新設】鍋島
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[3月26日]] 【仮乗降場新設】目達原
* [[1928年]](昭和3年)
** [[9月1日]] 【信号場→駅】*大町
** 12月1日 【駅新設】伊賀屋
* [[1930年]](昭和5年)
** [[3月19日]] 【延伸開業】長崎 - 長崎港
** [[7月7日]] 【信号場→駅】鍋島
<nowiki>*</nowiki>が付いている駅は、のちに路線分離により長崎本線の駅ではなくなった駅。
==== 有明線 ====
* [[1930年]](昭和5年)
** [[3月9日]]【開業】'''有明線''' 肥前山口 - 肥前竜王 【駅新設】福治、肥前竜王<ref>[{{NDLDC|2957418/6}} 「鉄道省告示第32号・第33号」『官報』1930年3月4日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** [[11月30日]] 【延伸開業】有明線 肥前竜王 - 肥前浜 【駅新設】肥前鹿島、肥前浜<ref>[{{NDLDC|2957641/3}} 「鉄道省告示第323号・第324号」『官報』1930年11月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1934年]](昭和9年)
** [[3月24日]] 【開業】'''有明西線''' 諫早 - 湯江 【駅新設】東諌早、肥前長田、小江、湯江 【線名改称】有明線→'''有明東線'''<ref>[{{NDLDC|2958637/4}} 「鉄道省告示第94号・第95号」『官報』1934年3月20日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** [[4月16日]] 【延伸開業】有明東線 肥前浜 - 多良 【駅新設】肥前七浦、肥前飯田、多良<ref>[{{NDLDC|2958658/3}} 「鉄道省告示第169号・第170号」『官報』1934年4月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** [[12月1日]] 【延伸開業】<ref>[{{NDLDC|2958828/5}} 「鉄道省告示第533号・第534号」『官報』1934年11月1日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>記念スタンプ[{{NDLDC|2958850/1}} 「逓信省告示第3018号」『官報』1934年11月29日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 多良 - 湯江(長崎本線に編入) 【駅新設】小長井、肥前大浦
==== 有明線編入後 ====
[[ファイル:Nagasaki-Honsen Restoration from atomic bomb.jpg|thumb|260px|原爆の被害を受けた長崎市内を走る長崎本線の列車。写真中央に見える軌道と架線柱は[[長崎電気軌道]]のもの<br>(1946年撮影)]]
* [[1934年]](昭和9年)12月1日 【路線分離】佐世保線 肥前山口 - 早岐、大村線 早岐 - 諫早 【路線編入】肥前山口 - 諫早<ref>[{{NDLDC|2958828/4}} 「鉄道省告示第533号」『官報』1934年11月1日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1940年]](昭和15年)4月1日 【駅名改称】福治→肥前白石
* [[1942年]](昭和17年)[[9月30日]] 【信号場新設】肥前麓、三田川
* [[1943年]](昭和18年)
** 10月1日 【信号場新設】本川内
** 12月1日 【信号場→駅】三田川 【仮乗降場廃止】目達原
* [[1945年]](昭和20年)[[5月1日]] 【駅名改称】神埼→肥前神埼
* [[1947年]](昭和22年)[[3月1日]] 【信号場→駅】肥前麓
* [[1952年]](昭和27年)[[6月1日]] 【信号場→駅】本川内
** [[7月5日]] 【仮停車場新設】横島
* [[1956年]](昭和31年)[[4月10日]] 【駅名改称】肥前神埼→神埼
* [[1961年]](昭和36年)10月1日 【信号場新設】東園
* [[1965年]](昭和40年)[[9月26日]] 【複線化】佐賀 - 鍋島
* [[1966年]](昭和41年)
** [[3月26日]] 【複線化】肥前麓 - 中原
** [[9月24日]] 【複線化】鍋島 - 久保田<ref name="公報1966-0926">{{Cite news |和書|title=通報 ●長崎本線肥前麓・三田川間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1966-09-26 |page=4 }}</ref>
** [[9月28日]] 【複線化】中原 - 三田川{{R|公報1966-0926}}
** 10月1日 【信号場→駅】東園
** 10月31日 浦上新線 起工式<ref>[http://www.nagasaki-cci.or.jp/nagasaki/130anniv/step/step2/step2_14.html 14.国鉄浦上新線の開通 (昭和47年10月)] - 長崎商工会議所</ref>。
* [[1968年]](昭和43年)
** [[8月6日]] 【複線化】久保田 - 牛津
** [[9月3日]] 【複線化】伊賀屋 - 佐賀
** [[9月22日]] 【複線化】三田川 - 神埼<ref name="交通新聞1968-0922">{{Cite news |和書|title=10月ダイヤ改正まであと9日 工事も最後のヤマ場 前日まで続く切替作業 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1968-09-22 |page=3 }}</ref>
** [[9月26日]] 【複線化】鳥栖 - 肥前麓{{R|交通新聞1968-0922}}
** [[9月28日]] 【複線化】神埼 - 伊賀屋{{R|交通新聞1968-0922}}
* [[1969年]](昭和44年)
** [[4月25日]] 【信号場新設】里
** 7月1日 【仮停車場廃止】横島
** [[9月25日]] 【複線化】牛津 - 肥前山口
** [[9月27日]] 【複線化】諫早 - 喜々津
* [[1972年]](昭和47年)[[10月2日]] 【開業】喜々津 - 市布 - 浦上(特急・急行列車などを新線経由に変更) 【駅新設】市布、肥前古賀、現川 【信号場新設】肥前三川
* [[1973年]](昭和48年)[[10月29日]] 電化工事着手<ref>『485系物語』梅原淳著 JTBパブリッシング 2013年</ref>。
* [[1976年]](昭和51年)
** 6月1日 【信号場新設】土井崎
** [[6月6日]] 【電化】鳥栖 - 市布 - 長崎<ref name="RP324_87">{{Cite journal|和書|author=編集部|title=6月のメモ帳|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1976-09-01|volume=26|issue=第9号(通巻第324号)|page=87|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>
* [[1982年]](昭和57年)
** [[11月14日]] 【路線廃止】長崎 - 長崎港<ref name="shin-shishi" /><ref name="tetsurin" />
* [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]] 【駅新設】西諌早<ref>{{Cite news |title=長崎本線に「西諌早駅」来月14日開業<!-- 正確な駅名は「諫」ですが、出典元は「諌」を使っているので直さないでください --> |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1985-02-15 |page=1 }}</ref>
* [[1987年]](昭和62年)
** [[3月9日]] 【臨時乗降場新設】西浦上
==== 民営化以後 ====
* [[1987年]](昭和62年)
** [[4月1日]] 【承継】九州旅客鉄道(JR九州・第一種)、日本貨物鉄道(JR貨物・第二種) 【臨時乗降場→駅】西浦上
** 時期不明【貨物線廃止】肥前麓駅構内 陸上自衛隊鳥栖分屯地引込線<ref>{{Cite tweet|number=1473539922007326720|user=JGSDF_METABARU|title=陸上自衛隊目達原駐屯地|access-date=2023-04-30}}</ref>。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[11月18日]] 【臨時駅新設】バルーンさが
* [[1990年]](平成2年)[[3月10日]] 【複線化】浦上 - 長崎【駅新設】長里<ref>{{Cite book|和書 |date=1990-08-01 |title=JR気動車客車編成表 90年版 |chapter=JR年表 |page=176 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-111-2}}</ref>
* [[1993年]](平成5年)10月1日 【駅名改称】三田川→吉野ケ里公園
* [[1994年]](平成6年)3月1日 【駅新設】高田
* [[1999年]](平成11年)7月1日 【貨物列車廃止】鍋島 - 長崎
* [[2002年]](平成14年)[[3月23日]] 【ワンマン運転開始】全線
* [[2011年]](平成23年)[[3月12日]] 【駅新設】新鳥栖
* [[2012年]](平成24年)[[12月1日]] 諫早 - 長崎、喜々津 - 浦上でICカード「[[SUGOCA]]」を導入。
* [[2016年]](平成28年)12月22日 【列車位置情報システム提供開始】全線<ref name="jrkyushu20161220" />。
* [[2018年]](平成30年)[[9月28日]] 【ラインカラー・路線記号・[[駅ナンバリング]]制定】鳥栖 - 佐賀<ref name=":02">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2018/09/28/Newsrelease-ekinumbering.pdf|title=訪日外国人のお客さまに、安心してご利用いただけるご案内を目指します! 北部九州エリア157駅に「駅ナンバリング」を導入します|accessdate=2018-9-28|format=PDF|publisher=九州旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180928060817/http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2018/09/28/Newsrelease-ekinumbering.pdf|archivedate=2018-9-28}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月28日]] 【高架化】浦上 - 長崎<ref name="JR九州ダイヤ改正2020" /><ref name="長崎県連立" /><ref name="nagasaki20200328">{{Cite news|url=https://this.kiji.is/616649540609000545?c=174761113988793844|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200329024212/https://this.kiji.is/616649540609000545?c=174761113988793844|title=JR 新「長崎駅」開業 高架化、踏切4カ所廃止 長崎-浦上両駅 新型コロナで式典で中止|newspaper=長崎新聞|publisher=長崎新聞社|date=2020-03-29|accessdate=2021-04-21|archivedate=2020-03-29}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[4月1日]] 肥前山口(江北) - 諫早間の鉄道施設を管理する「[[一般社団法人]][[佐賀・長崎鉄道管理センター]]」設立<ref name="saga20210401">{{Cite news|url=https://www.saga-s.co.jp/articles/-/654317|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210421065202/https://www.saga-s.co.jp/articles/-/654317|title=佐賀・長崎で新法人「鉄道管理センター」鹿島市に設立|newspaper=佐賀新聞|publisher=佐賀新聞社|date=2021-04-01|accessdate=2021-04-21|archivedate=2021-04-21}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)
** [[1月31日]] 一般社団法人佐賀・長崎鉄道管理センターに第三種鉄道事業許可<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.saga-nagasaki-railway.or.jp/jigyoukyoka20220131.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220131060308/http://www.saga-nagasaki-railway.or.jp/jigyoukyoka20220131.pdf|format=PDF|language=日本語|title=長崎本線(肥前山口・諫早間)の第三種鉄道事業許可について|publisher=一般社団法人佐賀・長崎鉄道管理センター|date=2022-01-31|accessdate=2022-06-12|archivedate=2022-01-31}}</ref>。
** [[9月23日]] [[西九州新幹線]](武雄温泉 - 長崎間)開業に伴い、以下の通り変更。
*** 江北 - 諫早間を[[上下分離方式]]に移行。JR九州が第二種鉄道事業者、一般社団法人佐賀・長崎鉄道管理センターが第三種鉄道事業者となり、同区間におけるJR九州の第一種鉄道事業を廃止<ref name="mlit20210903">{{Cite press release|和書|url=https://wwwtb.mlit.go.jp/kyushu/content/000244051.pdf|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12312236/wwwtb.mlit.go.jp/kyushu/content/000244051.pdf|format=PDF|language=日本語|title=九州旅客鉄道株式会社の鉄道事業の一部を廃止する届出及び本届出に係る公衆の利便の確保に関する意見の聴取について|publisher=国土交通省九州運輸局|date=2021-09-03|accessdate=2021-09-06|archivedate=2021-09-09}}</ref>。
*** JR貨物による鍋島 - 長崎間の第二種鉄道事業を廃止。
*** 【駅名改称】肥前山口→江北<ref name="press20210421">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2021/04/21/210421_hizsenyamaguchi_ekimei.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210421063324/https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2021/04/21/210421_hizsenyamaguchi_ekimei.pdf|format=PDF|language=日本語|title=長崎本線 肥前山口駅の駅名改称について|publisher=佐賀県江北町/九州旅客鉄道|date=2021-04-21|accessdate=2021-04-21|archivedate=2021-04-21}}</ref><ref name=":0">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2022/06/10/220610_september_23rd.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220610082713/https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2022/06/10/220610_september_23rd.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2022年9月23日ダイヤ改正 西九州新幹線が開業します 在来線各線区でダイヤを見直します|publisher=九州旅客鉄道|date=2022-06-10|accessdate=2022-06-12|archivedate=2022-06-10}}</ref>。
*** 【電化廃止】肥前浜 - 長崎<ref name="saga20210617">{{Cite news|url=https://www.saga-s.co.jp/articles/-/692577|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210617105347/https://www.saga-s.co.jp/articles/-/692577|title=<新幹線長崎ルート> 並行在来線の電化区間を1駅分延伸 「肥前鹿島まで」から「肥前浜まで」へ JR長崎線|newspaper=佐賀新聞|date=2021-06-17|accessdate=2021-06-17|archivedate=2021-06-17}}</ref><ref name="nishinippon20210616">{{Cite news|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/755568/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210616093751/https://www.nishinippon.co.jp/item/n/755568/|title=JR長崎線の並行在来線、肥前浜まで電化区間延伸 管理費はJR九州負担|newspaper=西日本新聞|date=2021-06-15|accessdate=2021-06-16|archivedate=2021-06-16}}</ref><ref name=":0" />。
* [[2024年]](令和6年)春 鍋島 - 江北でICカード「SUGOCA」を導入(予定)<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2022/08/22/220822_sugoca_area.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220822121407/https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2022/08/22/220822_sugoca_area.pdf|format=PDF|language=日本語|title=西九州エリアにICカード乗車券SUGOCAを導入します!|publisher=九州旅客鉄道/佐賀県/長崎県|date=2022-08-22|accessdate=2022-08-22|archivedate=2022-08-22}}</ref>。
== 駅一覧 ==
* (臨):臨時駅、◆・■:貨物取扱駅(■はオフレールステーション)
* 線路 … <nowiki>||</nowiki>:複線区間、◇・|:単線区間(◇は[[列車交換]]可能)、∨:ここより下は単線、∧:ここより下は複線
=== 新線経由(市布経由) ===
* 停車駅
** 普通・快速…すべての旅客駅に停車(表中省略)
** 区間快速…●印の駅は全列車停車、▲印の駅は上りのみ運転で全列車停車、△印の駅は営業日のみ停車、|印の駅は通過
*** 鳥栖駅 - 江北駅間の区間快速は、鳥栖駅から鹿児島本線へ直通
*** 諫早駅 - 長崎間の区間快速は、諫早駅から大村線へ直通する「[[シーサイドライナー (列車)|シーサイドライナー]]」
** 特急([[かもめ (列車)|かもめ]]・[[みどり (列車)|みどり]]・[[ハウステンボス (列車)|ハウステンボス]])…各列車記事参照
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:1em; border-bottom:3px solid #faaf18;"|{{縦書き|電化状況|height=5em}}
!style="width:3.5em; border-bottom:3px solid #faaf18;"|駅番号
!style="width:11em; border-bottom:3px solid #faaf18;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #faaf18;"|駅間<br />営業<br />キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #faaf18;"|累計<br />営業<br />キロ
!style="width:1em; border-bottom:3px solid #faaf18;"|{{縦書き|区間快速|height=5em}}
!style="border-bottom:3px solid #faaf18;"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom:3px solid #faaf18;"|{{縦書き|線路|height=3em}}
!colspan="3" style="border-bottom:3px solid #faaf18;"|所在地
|-
!rowspan="17" style="width:1em; letter-spacing:1em;text-align:center; background:#ffbbcc;"|{{縦書き|交流電化|height=8em}}
!JH01
|[[鳥栖駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|▲
|[[九州旅客鉄道]]:{{JR九駅番号|JB}} [[鹿児島本線]](JB15)〈直通あり〉
|<nowiki>||</nowiki>
|rowspan="22" style="text-align:center; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[佐賀県]]|height=6em}}
|rowspan="3" colspan="2"|[[鳥栖市]]
|-
!JH02
|[[新鳥栖駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|2.9
|▲
|九州旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrk.svg|17px]] [[九州新幹線]]
|<nowiki>||</nowiki>
|-
!JH03
|[[肥前麓駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|4.2
|▲
|
|<nowiki>||</nowiki>
|-
!JH04
|[[中原駅]]
|style="text-align:right;"|4.3
|style="text-align:right;"|8.5
|▲
|
|<nowiki>||</nowiki>
|colspan="2"|[[三養基郡]]<br>[[みやき町]]
|-
!JH05
|[[吉野ケ里公園駅]]
|style="text-align:right;"|4.6
|style="text-align:right;"|13.1
|▲
|
|<nowiki>||</nowiki>
|colspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[神埼郡]]<br>[[吉野ヶ里町]]
|-
!JH06
|[[神埼駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|15.7
|▲
|
|<nowiki>||</nowiki>
|colspan="2"|[[神埼市]]
|-
!JH07
|[[伊賀屋駅]]
|style="text-align:right;"|4.5
|style="text-align:right;"|20.2
|▲
|
|<nowiki>||</nowiki>
|rowspan="5" colspan="2"|[[佐賀市]]
|-
!JH08
|[[佐賀駅]]
|style="text-align:right;"|4.8
|style="text-align:right;"|25.0
|▲
|
|<nowiki>||</nowiki>
|-
! rowspan="30" |
|[[鍋島駅]]◆
|style="text-align:right;"|3.0
|style="text-align:right;"|28.0
|▲
|
|<nowiki>||</nowiki>
|-
|(臨)[[バルーンさが駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|29.8
|△
|
|<nowiki>||</nowiki>
|-
|[[久保田駅 (佐賀県)|久保田駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|31.4
|▲
|九州旅客鉄道:{{Color|#0095d9|■}}[[唐津線]]<ref group="*">唐津線の列車は佐賀駅まで乗り入れる</ref>
|<nowiki>||</nowiki>
|-
|[[牛津駅]]
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|34.2
|▲
|
|<nowiki>||</nowiki>
|colspan="2"|[[小城市]]
|-
|[[江北駅 (佐賀県)|江北駅]]
|style="text-align:right;"|5.4
|style="text-align:right;"|39.6
|▲
|九州旅客鉄道:{{Color|#36b558|■}}[[佐世保線]](鳥栖方面から直通あり)
|∨
|style="text-align:center; width:1em;" rowspan="3"|{{縦書き|[[杵島郡]]|height=4em}}
|style="white-space:nowrap;"|[[江北町]]
|-
|[[肥前白石駅]]
|style="text-align:right;"|5.1
|style="text-align:right;"|44.7
|
|
|◇
|rowspan="2"|[[白石町]]
|-
|[[肥前竜王駅]]
|style="text-align:right;"|4.7
|style="text-align:right;"|49.4
|
|
|◇
|-
|[[肥前鹿島駅]]
|style="text-align:right;"|5.2
|style="text-align:right;"|54.6
|
|
|◇
|rowspan="4" colspan="2"|[[鹿島市]]
|-
|[[肥前浜駅]]
|style="text-align:right;"|3.0
|style="text-align:right;"|57.6
|
|
|◇
|-
!rowspan="21" style="width:1em; letter-spacing:1em;text-align:center; background:#fff;"|{{縦書き|非電化|height=6em}}
|[[肥前七浦駅]]
|style="text-align:right;"|3.9
|style="text-align:right;"|61.5
|
|
|◇
|-
|[[肥前飯田駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|63.6
|
|
|◇
|-
|[[多良駅]]
|style="text-align:right;"|4.1
|style="text-align:right;"|67.7
|
|
|◇
|rowspan="3" colspan="2"|[[藤津郡]]<br>[[太良町]]
|-
|[[里信号場]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|72.3
|
|
|◇
|-
|[[肥前大浦駅]]
|style="text-align:right;"|7.9
|style="text-align:right;"|75.6
|
|
|◇
|-
|[[土井崎信号場]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|78.9
|
|
|◇
|rowspan="16" style="width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[長崎県]]|height=6em}}
|rowspan="11" colspan="2"|[[諫早市]]
|-
|[[小長井駅]]
|style="text-align:right;"|6.7
|style="text-align:right;"|82.3
|
|
|◇
|-
|[[長里駅]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|84.7
|
|
|◇
|-
|[[湯江駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|87.6
|
|
|◇
|-
|[[小江駅]]
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|90.9
|
|
|◇
|-
|[[肥前長田駅]]
|style="text-align:right;"|4.7
|style="text-align:right;"|95.6
|
|
|◇
|-
|[[東諫早駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|97.8
|
|
|◇
|-
|[[諫早駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|100.4
|●
|九州旅客鉄道:{{Color|#ff0000|■}}[[西九州新幹線]]・{{Color|#0095d9|■}}[[大村線]](長崎方面から直通運転)<br>[[島原鉄道]]:[[島原鉄道線]]
|∧
|-
|[[西諫早駅]]
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|103.2
||
|
|<nowiki>||</nowiki>
|-
|[[喜々津駅]]
|style="text-align:right;"|3.7
|style="text-align:right;"|106.9
|●
|九州旅客鉄道:{{Color|#faaf18|■}}長崎本線旧線(諫早方面から直通運転)
|∨
|-
|[[市布駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|109.4
||
|
|◇
|-
|[[肥前古賀駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|112.3
||
|
||
|rowspan="5" colspan="2"|[[長崎市]]
|-
|[[現川駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|114.8
||
|
|◇
|-
|[[肥前三川信号場]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|118.5
||
|
|◇
|-
|[[浦上駅]]
|style="text-align:right;"|8.9
|style="text-align:right;"|123.7
|●
|九州旅客鉄道:{{Color|#faaf18|■}}長崎本線旧線(長崎駅から直通運転)<br>[[長崎電気軌道]]:本線([[浦上駅|浦上駅前停留場]]:22)
||∧
|-
|[[長崎駅]]■
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|125.3
|●
|九州旅客鉄道:{{Color|#ff0000|■}}西九州新幹線<br>長崎電気軌道:本線・桜町支線([[長崎駅|長崎駅前停留場]]:27)
|<nowiki>||</nowiki>
|}
{{Reflist|group="*"}}
* 中原駅 - 吉野ケ里公園駅間で[[三養基郡]][[上峰町]]を通過するが、駅はない。
* JR九州の直営駅:鳥栖駅、佐賀駅、諫早駅、長崎駅
* [[簡易委託駅]]:肥前浜駅
上記以外の駅は[[JR九州サービスサポート]]の[[業務委託駅]]もしくは[[無人駅]]である。
=== 旧線(長与経由) ===
* 全区間非電化
* 全列車普通列車(すべての駅に停車)
* 全駅[[長崎県]]内に所在。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:5em; border-bottom:3px solid #faaf18;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #faaf18;"|駅間<br />営業<br />キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #faaf18;"|累計<br />営業<br />キロ
!style="border-bottom:3px solid #faaf18;"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom:3px solid #faaf18;"|{{縦書き|線路|height=3em}}
!style="border-bottom:3px solid #faaf18;"|所在地
|-
|[[喜々津駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|九州旅客鉄道:{{Color|#faaf18|■}}長崎本線新線(諫早方面へ直通運転)
|◇
|rowspan="3"|[[諫早市]]
|-
|[[東園駅]]
|style="text-align:right;"|3.5
|style="text-align:right;"|3.5
|
||
|-
|[[大草駅]]
|style="text-align:right;"|3.7
|style="text-align:right;"|7.2
|
|◇
|-
|[[本川内駅]]
|style="text-align:right;"|5.1
|style="text-align:right;"|12.3
|
||
|rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[西彼杵郡]]<br />[[長与町]]
|-
|[[長与駅]]
|style="text-align:right;"|3.1
|style="text-align:right;"|15.4
|
|◇
|-
|[[高田駅 (長崎県)|高田駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|16.4
|
||
|-
|[[道ノ尾駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|18.9
|
||
|-
|[[西浦上駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|20.6
|長崎電気軌道:本線・赤迫支線([[住吉停留場 (長崎県)|住吉停留場]]:12)
||
|rowspan="2"|[[長崎市]]
|-
|[[浦上駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|23.5
|九州旅客鉄道:{{Color|#faaf18|■}}長崎本線新線(長崎駅へ直通運転)<br />長崎電気軌道:本線(浦上駅前停留場:22)
|◇
|}
* JR九州サービスサポートの業務委託駅:喜々津駅、長与駅、浦上駅。それ以外の駅は無人駅である。旧線区間には直営駅、簡易委託駅は存在しない。
=== 廃止区間 ===
長崎駅 - [[長崎港駅]](1.1 km。1982年11月14日廃止)
=== 過去の接続路線 ===
* 佐賀駅:
** [[佐賀電気軌道]](神野停留所:直接連絡ではなく、バスを介した接続であった) - 1937年8月20日廃止
** [[佐賀線]] - 1987年3月28日廃止
== 輸送実績 ==
「路線別利用状況」(区間別の平均通過人員〈[[輸送密度]]〉)、旅客運輸収入は以下の通り<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLZO19473870R30C17A7LX0000/ JR九州、区間別の利用状況を初公表 路線維持へ地元議論促す] - 日本経済新聞(2017年7月31日 23:30配信)</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/rosenbetsu.html|title=交通・営業データ(平成28年度)|accessdate=2017-8-18|publisher=九州旅客鉄道}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/senkubetsu.html|title=線区別ご利用状況|publisher=九州旅客鉄道|accessdate=2022-5-22}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:90%;"
!rowspan="2" |年度
!colspan="6" |平均通過人員(人/日)
!rowspan="2" |旅客運輸収入<br>(百万円/年)
|-
!全区間
!鳥栖 - 佐賀
!佐賀 - 江北
!江北 - 諫早
!諫早 - 長崎
!喜々津 - 浦上
|-
|style="text-align:left;" |1987年度
|12,646
|24,187
|19,732
|9,108
|14,988
|2,640
|-
|-
|style="text-align:left;" |2016年度
|14,861
|31,420
|21,430
|8,647
|19,032
|4,823
|12,330
|-
|style="text-align:left;" |2017年度
|14,805
|31,546
|21,434
|8,613
|18,702
|4,765
|12,430
|-
|style="text-align:left;" |2018年度
|14,469
|31,057
|21,001
|8,334
|18,220
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== 沿線 ==
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ファイル:Kasegawa Bridge of Nagasaki Main Line from south.jpg|[[嘉瀬川]]橋梁を走行する885系「かもめ」と[[佐賀インターナショナルバルーンフェスタ]]の観客で賑わう嘉瀬川河川敷<br />2016年11月3日
ファイル:Flight over train 11-05pm 22nd FAI World Hot Air Balloon Championship.jpg|佐賀インターナショナルバルーンフェスタ開催期間中のバルーンさが駅 - 久保田駅間をゆく唐津線の列車<br />2016年11月5日
ファイル:Paddy fields and Nagasaki Main Line near Yoshinogari Historical Park.jpg|吉野ヶ里公園駅 - 神埼駅間、[[吉野ヶ里遺跡|吉野ヶ里歴史公園]]東側を走行する783系「みどり」「ハウステンボス」。この地点から右側(西側)約200mは[[国道385号]]と立体交差するため高架線となっている。<br />2017年10月9日
ファイル:Saga Cityscape and Nagasaki Main Line from route 208 bridge 01.JPG|佐賀駅 - 鍋島駅間の[[国道208号]](環状西通り)跨線橋より望む長崎本線と佐賀市街地。手前が長崎方面、奥が鳥栖方面。<br />2016年2月28日
ファイル:鉄道写真を撮っている人が多い場所 - panoramio.jpg|喜々津駅 - 東園駅間。旧線区間の喜々津駅 - 大草駅間は大村湾沿いを通っており景色の良い場所が多い。<br />2009年5月23日
ファイル:Train - panoramio (19).jpg|浦上駅 - 長崎駅間の[[国道202号]](稲佐橋通り)アンダーパス<br />2013年5月3日
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* [[川島令三]]編著『四国・九州ライン - 全線・全駅・全配線』5 長崎・佐賀エリア、[[講談社]]、2013年。{{ISBN2|978-4-06-295164-7}}。
== 関連項目 ==
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* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[ボート・トレイン]]
* [[長崎自動車道]] - 長崎本線と同じく鳥栖市から長崎市へ至る。
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13,291 |
真珠
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真珠(しんじゅ)あるいはパール(Pearl)とは、貝から採れる宝石の一種である。
真珠は貝の体内で生成される宝石である。生体鉱物(バイオミネラル)と呼ばれる。貝殻成分を分泌する外套膜が、貝の体内に偶然に入りこむことで、(例えば、小石や寄生虫などの異物が貝の体内に侵入した時に外套膜が一緒に入り込み)天然真珠が生成される。つまり成分は貝殻と等しい。貝殻を作る軟体動物であれば、真珠を生成できる。
外套膜は細胞分裂して袋状になり、真珠を生成する真珠袋をつくる。その中でカルシウムの結晶(アラレ石)と有機質(主にタンパク質コンキオリン)が交互に積層した真珠層が形成されて、真珠ができる。この有機質とアラレ石の薄層構造が干渉色を生み出し、真珠特有の虹色(オリエント効果)が生じる。真珠層の構造や色素の含有量などの複雑な条件によって真珠の色・照りの程度そして宝石としての価値が決まる。
日本の養殖真珠の発明とは「球体に削った核を、アコヤガイの体内に外套膜と一緒に挿入し、真珠層を形成させる」というものである。
巻貝から生成されるコンク真珠やメロ真珠は真珠層が形成されない。従って、上記のアコヤガイなどの真珠と区別されることがある。
真珠の重量の計量単位には、養殖真珠の産業化に成功したのが日本であったことから、日本の尺貫法の単位である匁(3.75グラム)や貫(3.75キログラム)が使われる一方で、グラム、カラット(200ミリグラム)やグレーン(通常は正確に64.798 91ミリグラムだが、真珠の計量については50ミリグラム)も用いられる。真珠の大きさの単位はミリメートルであるが、真珠のネックレスの長さについては業者間の取引では主にインチが使われている。
冠婚葬祭のいずれの場面でも使える便利な装飾品で、「日本人が最も多く持つジュエリー」との推測もある。炭酸カルシウムが主成分であるため、汗が付いたまま放置もしくは保管すると塩分との化学反応が緩やかに発生し、真珠特有の光沢が失われる。このため、着用もしくは使用後早めに柔らかい布で拭くなどの手入れが大切である。
柑橘系のものや汗で溶けるので着用した後は拭く必要がある。
天然では産出が稀であるが加工が容易で「月のしずく」「人魚の涙」とも呼ばれているほどの美しい光沢に富むため、世界各地で古くから宝石として珍重されてきた。またその希少性から薬としての効能を期待し、服用される例がしばしば見られる。日本でも解熱剤として使用されていた事が(2006年時点で)確認されている。
強心薬の中に、成分として含まれている物も販売されている。
エジプトでは紀元前32世紀頃から既に知られていたと言われるが、宝飾品としてあるいは薬として珍重されるようになったのは後の時代である。クレオパトラが酢に溶かして飲んでいたと伝えられる 。世界の他の地域でも中国大陸では紀元前23世紀頃、ペルシャで紀元前7世紀頃、ローマでは紀元前3世紀頃から真珠が用いられていたという記録がある。
日本は古くから真珠の産地として有名であった。北海道や岩手県にある縄文時代の遺跡からは、糸を通したとみられる穴が空いた淡水真珠が出土している。『魏志倭人伝』にも邪馬台国の台与が曹魏に白珠(真珠)5000を送ったことが記されている。『日本書紀』や『古事記』、『万葉集』にも真珠の記述が見られ、『万葉集』には真珠を詠み込んだ歌が56首含まれる。当時は「たま」「まだま」「しらたま(白玉)」などと呼ばれた。とくに肥前国の大村湾は肥前国風土記にも記されているように、天然真珠などの一大産地であった。景行天皇は湾の北岸地域に住んでいた速来津姫・健津三間・箆簗らから、白玉・石上神木蓮子玉(いそのかみいたびだま)・美しき玉の3色の玉を奪い取った。天皇は「この国は豊富に玉が備わった国であるから具足玉国(そないだまのくに)と呼ぶように」と命じ、それが訛って彼杵(そのぎ)という地名になったともいわれる。それら3色の玉は石上神宮の神宝となった。
平安時代の『延喜式』「雑式」には、貴族達が家来を派遣して盛んに対馬の真珠を買いあさったため、人々が混乱していると記述されている。
志摩国(現三重県東部)の英虞湾や、伊予国(現愛媛県)の宇和海でアコヤガイから採取されていたが、日本以外で採れる真珠(外国産)に比べ小粒だった。
真珠は装飾品としてだけでなく、呪術的な意味も持っていた。仏教の七宝に数えられることもあり、寺院跡地からは建立時の地鎮祭に使われた鎮檀具の一つとして真珠が出土することもある。独特の輝きから眼病薬や解毒剤としての効能があるとも信じられていた。
日本の真珠の美しさはヨーロッパまで伝えられ、コロンブスも憧れたという。
真珠養殖の歴史は古く、中国大陸で1167年の文昌雑録に真珠養殖の記事があり、13世紀には仏像真珠という例がある。ただしこれらは貝殻の内側を利用する貝付き真珠である。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、フランスのルイ・ブータン、イギリス人ザビル・ケントなど各国で養殖真珠の研究が行われていた。
日本では、1893年(明治26年)に東大三崎臨海実験所箕作佳吉の指導をうけた御木本幸吉が英虞湾神明浦で養殖アコヤガイの半円真珠の生産に成功した。 また、1905年(明治38年)に御木本幸吉は英虞湾の多徳島で半円の核を持つ球状真珠を採取したことが知られている。この採取によって御木本幸吉は真円真珠の養殖成功を確信する。この1905年(明治38年)が真円真珠の生産に成功した年と書かれることが多いが、これは誤りである。
真円真珠の発明者は、日本では西川藤吉・見瀬辰平の2人があげられる。1907年(明治40年)見瀬辰平が、はじめて真円真珠に関し「介類の外套膜内に真珠被着用核を挿入する針」として特許権を獲得した。続けて西川藤吉が真円真珠生産に関し真珠形成法の特許を出願する。この一部が前述の見瀬辰平の特許権に抵触するとして紛争が起こる。調停の結果、西川籐吉の名義で登録し特許は共有とすることとなった。この真珠養殖の特許技術は日本国外では「Mise-Nishikawa Method」として知られている。 また1916年(大正5年)および1917年(大正6年)に西川藤吉の特許が4件登録された。西川藤吉は既に物故していたため、息子の西川真吉が権利を受け継いだ。現在の真珠養殖の技術は西川藤吉のこれらの技術に負うところが多い(西川藤吉は御木本幸吉の次女の夫である)。
その後、様々な技術の改良を経て真珠養殖は広まり、英虞湾、宇和海、長崎県対馬などで生産が行われた。
1921年にイギリスで天然真珠を扱う真珠商や宝石商を中心に養殖真珠が偽物だという排斥運動が起こる。パリで真珠裁判が行われたが、1924年5月24日、天然真珠と養殖真珠には全く違いが無いということで全面勝訴した。その後もフランスでは訴訟が繰り返されたが、逆に養殖真珠の評判は上がっていった。
1930年代にクウェートやバーレーンなど真珠を重要な産業としていた国は、養殖真珠の出現と、それに伴う真珠価格の暴落によって真珠産業が成り立たなくなり、世界恐慌の時期と重なったこともあり経済に大打撃を受けた。特に食料自給率が低く輸入に依存する割合が高いクウェートでは多数の餓死者を出すほどの惨事となった。その後、油田の開発によりクウェート経済は発展し、真珠産業は実質的に文化保存事業の規模にまで縮小してしまったが、現在でも真珠広場など真珠に由来する場所や真珠を採取するイベントが行われるなど、真珠に関する文化が残っている。 また、天然真珠価格の暴落によってヨーロッパ資本の宝石商は大きな損失をうけ、ティファニーやカルティエも天然真珠の取り扱い量を減らしてしまった。
1953年の台風で三重県内の養殖いかだが「全滅」の被害を受けたこともあったが、1950年代を通じて養殖真珠生産体制を確立した日本は、世界の9割のシェアを誇るようになる。御木本の「真珠のネックレスで世界中の女性の首をしめる」という言葉を現実のものとした。養殖真珠を排斥していたフランスの真珠商ローゼンタールも養殖真珠を扱うようになった。 1960年(昭和35年)、日本の真珠輸出高は100億円を超える。 1967年(昭和42年)を境に、ミニスカートが流行するなど、従来のファッションの流行が変わり世界の真珠の需要が激減したこと、過剰生産と粗製乱造が重なったこと、さらにニクソンドルショックによる円高のため、海外のバイヤーが真珠を敬遠するようになった。一方で経済成長に伴う所得増加のため日本国内の需要は増加し、日本の真珠養殖業者は国内市場を主戦場とするようになった。
真珠養殖が始まってからほぼ100年が経過したが、1996年(平成8年)頃から始まったアコヤガイ赤変病によるアコヤガイの大量斃死現象や真珠摘出後の廃棄貝、および生産地周辺の排水による湾の富栄養化などの要因から日本のアコヤ真珠の生産量は低下した。現在真珠取引の中心となる市場は香港に移りつつある。
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真珠(しんじゅ)あるいはパール(Pearl)とは、貝から採れる宝石の一種である。 真珠は貝の体内で生成される宝石である。生体鉱物(バイオミネラル)と呼ばれる。貝殻成分を分泌する外套膜が、貝の体内に偶然に入りこむことで、(例えば、小石や寄生虫などの異物が貝の体内に侵入した時に外套膜が一緒に入り込み)天然真珠が生成される。つまり成分は貝殻と等しい。貝殻を作る軟体動物であれば、真珠を生成できる。 外套膜は細胞分裂して袋状になり、真珠を生成する真珠袋をつくる。その中でカルシウムの結晶(アラレ石)と有機質(主にタンパク質コンキオリン)が交互に積層した真珠層が形成されて、真珠ができる。この有機質とアラレ石の薄層構造が干渉色を生み出し、真珠特有の虹色(オリエント効果)が生じる。真珠層の構造や色素の含有量などの複雑な条件によって真珠の色・照りの程度そして宝石としての価値が決まる。 日本の養殖真珠の発明とは「球体に削った核を、アコヤガイの体内に外套膜と一緒に挿入し、真珠層を形成させる」というものである。 巻貝から生成されるコンク真珠やメロ真珠は真珠層が形成されない。従って、上記のアコヤガイなどの真珠と区別されることがある。 真珠の重量の計量単位には、養殖真珠の産業化に成功したのが日本であったことから、日本の尺貫法の単位である匁(3.75グラム)や貫(3.75キログラム)が使われる一方で、グラム、カラット(200ミリグラム)やグレーンも用いられる。真珠の大きさの単位はミリメートルであるが、真珠のネックレスの長さについては業者間の取引では主にインチが使われている。 冠婚葬祭のいずれの場面でも使える便利な装飾品で、「日本人が最も多く持つジュエリー」との推測もある。炭酸カルシウムが主成分であるため、汗が付いたまま放置もしくは保管すると塩分との化学反応が緩やかに発生し、真珠特有の光沢が失われる。このため、着用もしくは使用後早めに柔らかい布で拭くなどの手入れが大切である。 柑橘系のものや汗で溶けるので着用した後は拭く必要がある。
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| length fast/slow =
| absorption =
| fluorescence = *ホワイトパール:ライトブルー〜ライトイエロー;
*イエロー・ゴールドパール:黄緑色、緑がかった茶色から濃い茶色。;
*黒真珠:一般的にピンクからオレンジレッド<ref name="bluechart">{{cite book |last=Lazzarelli |first=Herve Nicolas |date=2010 |title=Blue Chart Gem Identification |url=http://www.gembluechart.com |page=8 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20171006012209/http://www.gembluechart.com/ |archive-date=October 6, 2017 }}</ref>
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}}
[[ファイル:Akoya pearl.jpg|thumb|right|350px|アコヤ真珠]]
'''真珠'''(しんじゅ)あるいは'''パール'''(Pearl)とは、[[貝]]から採れる[[宝石]]の一種である。
真珠は貝の体内で生成される宝石である。[[生体鉱物]](バイオミネラル)と呼ばれる。貝殻成分を分泌する[[外套膜]]が、貝の体内に偶然に入りこむことで、(例えば、小石や[[寄生虫]]などの異物が貝の体内に侵入した時に外套膜が一緒に入り込み)天然真珠が生成される。つまり成分は貝殻と等しい。貝殻を作る[[軟体動物]]であれば、真珠を生成できる<ref>[https://www.j-cast.com/tv/2015/01/20225626.html コンビニのつまみ「貝ひも」に真珠!また混入?珍しいホタテパール100万円]</ref>。
外套膜は[[細胞分裂]]して袋状になり、真珠を生成する真珠袋をつくる。その中で[[カルシウム]]の結晶([[アラレ石]])と有機質(主に[[タンパク質]][[コンキオリン]])が交互に積層した[[真珠層]]が形成されて、真珠ができる。この有機質とアラレ石の薄層構造が[[干渉 (物理学)|干渉]]色を生み出し、真珠特有の虹色([[オリエント効果]])が生じる。真珠層の構造や[[色素]]の含有量などの複雑な条件によって真珠の色・照りの程度そして宝石としての価値が決まる。
[[日本]]の養殖真珠の発明とは「球体に削った核を、[[アコヤガイ]]の体内に外套膜と一緒に挿入し、真珠層を形成させる」というものである。
[[巻貝]]から生成されるコンク真珠やメロ真珠は真珠層が形成されない。従って、上記のアコヤガイなどの真珠と区別されることがある。
真珠の重量の計量単位には、養殖真珠の産業化に成功したのが日本であったことから、日本の[[尺貫法]]の単位である[[匁]](3.75[[グラム]])や[[貫]](3.75[[キログラム]])が使われる一方で、グラム、[[カラット]](200[[ミリグラム]])や[[グレーン]](通常は正確に64.798 91[[ミリグラム]]だが、真珠の計量については50[[ミリグラム]])も用いられる。真珠の大きさの単位は[[ミリメートル]]であるが、真珠のネックレスの長さについては業者間の取引では主に[[インチ]]が使われている。
[[冠婚葬祭]]のいずれの場面でも使える便利な装飾品で、「日本人が最も多く持つジュエリー」との推測もある<ref>真珠が宿す力/和珠の光沢 未来につなぐ『日本経済新聞』朝刊2017年10月22日(NIKKEI The STYLE)</ref>。[[炭酸カルシウム]]が主成分であるため、汗が付いたまま放置もしくは保管すると塩分との化学反応が緩やかに発生し、真珠特有の光沢が失われる。このため、着用もしくは使用後早めに柔らかい布で拭くなどの手入れが大切である。
柑橘系のものや汗で溶けるので着用した後は拭く必要がある。
== 歴史 ==
[[ファイル:Pearls.jpg|thumb|right|200px|真珠養殖]]
[[ファイル:Lüshunkou Pearl Aquaculture旅顺口真珠養殖065399.jpg|thumb|200px|[[旅順口区]]の真珠貝養殖]]
天然では産出が稀であるが加工が容易で「[[月]]のしずく」「[[人魚]]の[[涙]]」とも呼ばれているほどの美しい光沢に富むため、世界各地で古くから宝石として珍重されてきた。またその希少性から薬としての効能を期待し、服用される例がしばしば見られる。日本でも解熱剤として使用されていた事が(2006年時点で)確認されている。
強心薬の中に、成分として含まれている物も販売されている。<ref>[https://www.d1yk.co.jp/products_lineup/products1/cat6/000022.html 永春丸|指定第2類・第2類医薬品|医薬品・健康食品ラインナップ|とやまの製薬会社|第一薬品工業株式会社]</ref>
[[エジプト]]では[[紀元前32世紀]]頃から既に知られていたと言われるが、宝飾品としてあるいは薬として珍重されるようになったのは後の時代である。[[クレオパトラ7世|クレオパトラ]]が[[酢]]に溶かして飲んでいたと伝えられる {{efn|但しシェフの村上信夫はこれに「真珠が酢に溶けるものなのか。誰か試してくれませんか」と否定的<ref>『おそうざいフランス料理』</ref>。}}。世界の他の地域でも[[中国大陸]]では[[紀元前23世紀]]頃、[[ペルシャ]]で[[紀元前7世紀]]頃、[[ローマ]]では[[紀元前3世紀]]頃から真珠が用いられていたという記録がある。
[[日本]]は古くから真珠の産地として有名であった。[[北海道]]や[[岩手県]]にある[[縄文時代]]の遺跡からは、糸を通したとみられる穴が空いた淡水真珠が出土している。『[[魏志倭人伝]]』にも[[邪馬台国]]の[[台与]]が[[魏 (三国)|曹魏]]に白珠(真珠)5000を送ったことが記されている。『[[日本書紀]]』や『[[古事記]]』、『[[万葉集]]』にも真珠の記述が見られ、『万葉集』には真珠を詠み込んだ歌が56首含まれる。当時は「たま」「まだま」「しらたま(白玉)」などと呼ばれた。とくに[[肥前国]]の[[大村湾]]は[[肥前国風土記]]にも記されているように、天然真珠などの一大産地であった。[[景行天皇]]は湾の北岸地域に住んでいた'''速来津姫'''・'''健津三間'''・'''箆簗'''らから、'''白玉'''・'''石上神木蓮子玉'''(いそのかみいたびだま)・'''美しき玉'''の3色の玉を奪い取った。天皇は「この国は豊富に玉が備わった国であるから'''具足玉国'''(そないだまのくに)と呼ぶように」と命じ、それが訛って[[彼杵郡|彼杵]](そのぎ)という地名になったともいわれる。それら3色の玉は[[石上神宮]]の[[神宝]]となった。
[[平安時代]]の『[[延喜式]]』「雑式」には、貴族達が家来を派遣して盛んに[[対馬]]の真珠を買いあさったため、人々が混乱していると記述されている。
[[志摩国]](現[[三重県]]東部)の[[英虞湾]]や、[[伊予国]](現[[愛媛県]])の[[宇和海]]で[[アコヤガイ]]から採取されていたが、日本以外で採れる真珠(外国産)に比べ小粒だった。
真珠は装飾品としてだけでなく、呪術的な意味も持っていた。仏教の[[七宝]]に数えられることもあり、寺院跡地からは建立時の地鎮祭に使われた鎮檀具の一つとして真珠が出土することもある。独特の輝きから眼病薬や解毒剤としての効能があるとも信じられていた<ref>真珠が宿す力/神秘の「しらたま」地鎮に薬に『日本経済新聞』朝刊2017年10月22日(NIKKEI The STYLE)</ref>。
日本の真珠の美しさは[[ヨーロッパ]]まで伝えられ、[[クリストファー・コロンブス|コロンブス]]も憧れたという。
== 養殖 ==
{{see also|[[:en:Oyster farming]]}}
真珠養殖の歴史は古く、中国大陸で[[1167年]]の[[文昌雑録]]に真珠養殖の記事があり、[[13世紀]]には[[仏像真珠]]という例がある。ただしこれらは貝殻の内側を利用する貝付き真珠である。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、フランスのルイ・ブータン、イギリス人ザビル・ケントなど各国で養殖真珠の研究が行われていた。
日本では、[[1893年]](明治26年)に東大三崎臨海実験所[[箕作佳吉]]の指導をうけた[[御木本幸吉]]が[[英虞湾]][[阿児町神明|神明浦]]で養殖アコヤガイの半円真珠の生産に成功した。
また、[[1905年]](明治38年)に[[御木本幸吉]]は英虞湾の[[多徳島]]で半円の核を持つ球状真珠を採取したことが知られている。この採取によって[[御木本幸吉]]は真円真珠の養殖成功を確信する。この1905年(明治38年)が真円真珠の生産に成功した年と書かれることが多いが、これは誤りである。
[[ファイル:Pearl Inventors' Memorial, Kashikojima.jpg|thumb|真円真珠発明者頌徳碑([[賢島]]・[[円山公園 (志摩市)|円山公園]])]]
真円真珠の発明者は、日本では[[西川藤吉]]・[[見瀬辰平]]の2人があげられる。[[1907年]](明治40年)見瀬辰平が、はじめて真円真珠に関し「介類の外套膜内に真珠被着用核を挿入する針」として特許権を獲得した。続けて西川藤吉が真円真珠生産に関し真珠形成法の特許を出願する。この一部が前述の見瀬辰平の特許権に抵触するとして紛争が起こる。調停の結果、西川籐吉の名義で登録し特許は共有とすることとなった。この真珠養殖の特許技術は日本国外では「'''Mise-Nishikawa Method'''」として知られている。
また[[1916年]](大正5年)および[[1917年]](大正6年)に西川藤吉の特許が4件登録された。西川藤吉は既に物故していたため、息子の西川真吉が権利を受け継いだ。現在の真珠養殖の技術は西川藤吉のこれらの技術に負うところが多い(西川藤吉は御木本幸吉の次女の夫である)。
その後、様々な技術の改良を経て真珠養殖は広まり、英虞湾、[[宇和海]]、長崎県[[対馬]]などで生産が行われた。
[[1921年]]に[[イギリス]]で天然真珠を扱う真珠商や宝石商を中心に養殖真珠が偽物だという排斥運動が起こる。[[パリ]]で真珠裁判が行われたが、[[1924年]][[5月24日]]、天然真珠と養殖真珠には全く違いが無いということで全面勝訴した。その後もフランスでは訴訟が繰り返されたが、逆に養殖真珠の評判は上がっていった。
1930年代に[[クウェート]]や[[バーレーン]]など真珠を重要な産業としていた国は、養殖真珠の出現と、それに伴う真珠価格の暴落によって真珠産業が成り立たなくなり、[[世界恐慌]]の時期と重なったこともあり経済に大打撃を受けた。特に食料自給率が低く輸入に依存する割合が高いクウェートでは多数の餓死者を出すほどの惨事となった。その後、[[油田]]の開発によりクウェート経済は発展し、真珠産業は実質的に文化保存事業の規模にまで縮小してしまったが、現在でも[[真珠広場]]など真珠に由来する場所や真珠を採取するイベントが行われるなど、真珠に関する文化が残っている。
また、天然真珠価格の暴落によってヨーロッパ資本の宝石商は大きな損失をうけ、[[ティファニー]]や[[カルティエ]]も天然真珠の取り扱い量を減らしてしまった。
[[昭和28年台風第13号|1953年の台風]]で三重県内の養殖いかだが「全滅」の被害を受けたこともあったが<ref>「三重の真珠全滅」『朝日新聞』昭和28年9月27日夕刊3面</ref>、1950年代を通じて養殖真珠生産体制を確立した日本は、世界の9割のシェアを誇るようになる。御木本の「真珠のネックレスで世界中の女性の首をしめる」という言葉を現実のものとした。養殖真珠を排斥していたフランスの真珠商ローゼンタールも養殖真珠を扱うようになった。
1960年(昭和35年)、日本の真珠輸出高は100億円を超える。
1967年(昭和42年)を境に、[[ミニスカート]]が流行するなど、従来のファッションの流行が変わり世界の真珠の需要が激減したこと、過剰生産と粗製乱造が重なったこと、さらに[[ニクソンドルショック]]による円高のため、海外のバイヤーが真珠を敬遠するようになった。一方で経済成長に伴う所得増加のため日本国内の需要は増加し、日本の真珠養殖業者は国内市場を主戦場とするようになった<ref name="nhk20140107">{{cite news|title=視点・論点 「知られざる真珠王国 日本」|newspaper=[[日本放送協会|NHK]]|date=2014-1-7|url=http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/177417.html|accessdate=2014-1-11}}</ref>。
真珠養殖が始まってからほぼ100年が経過したが、[[1996年]](平成8年)頃から始まった[[アコヤガイ赤変病]]によるアコヤガイの大量[[斃死]]現象や真珠摘出後の廃棄貝、および生産地周辺の排水による湾の[[富栄養化]]などの要因から日本のアコヤ真珠の生産量は低下した。現在真珠取引の中心となる市場は香港に移りつつある。
== 種類 ==
[[ファイル:Various pearls.jpg|thumb|right|upright|さまざまな真珠]]
[[ファイル:Strombus-gigas-003.jpg|thumb|right|upright|ピンク貝 ''Strombus gigas'']]
[[ファイル:Bi quyet lua chon ngoc trai 5.jpg|thumb|right|]]
[[ファイル:Bi quyet lua chon ngoc trai 6.jpg|thumb|right|]]
;本真珠
:本来は鮑玉(あわびだま、[[アワビ]]の内部に形成される天然真珠)のことを指すが、現在はアコヤガイ(''Pinctada fucata martensii'')の真珠や淡水真珠まで含めている。その際には貝パールなどのイミテーションではないという意味。
;天然真珠
:天然の真珠貝によって自然に生成されたもので、その貝の中から偶然見つかる真珠のこと。1920年代に養殖真珠ができるまでは、1万個の貝から数粒しかみつからない程度の確率だと言われ、養殖真珠よりかなりの希少価値があったがその価値は1930年代の[[世界恐慌]]などの影響により暴落した。
;養殖真珠
:真珠貝に核を挿入するなどして、人の手を加えてつくりだした真珠。真珠層の成分と構造は天然真珠と同じである。現在、真珠貝を人工的に採苗して[[母貝]]にすることが主流であるが、天然の真珠貝を使う場合もある。
;[[南洋真珠]](白蝶真珠)
:[[シロチョウガイ]](白蝶貝、''Pinctada maxima'')から産する真珠。主に[[オーストラリア]]、[[インドネシア]]、[[フィリピン]]、[[ミャンマー]]で養殖および輸出されている。オーストラリア産の南洋真珠は青みがかった色を呈することが多い。一方、フィリピン産は黄色・金色の珠が多い。日本では[[琉球真珠]]により[[沖縄県]][[八重山列島]]で養殖されている。また、近年ではあまり見られなくなったが、真円真珠の養殖が終わった老貝で半円真珠を生産することもある。
;黒蝶真珠(黒真珠){{Anchors|黒真珠}}
:[[クロチョウガイ]](黒蝶貝、''Pinctada margaritifera'')から産する真珠。主に[[タヒチ]](仏領ポリネシア)で養殖される。日本では琉球真珠により沖縄県八重山列島で養殖されている。タヒチで生産されるものは南洋真珠(南洋黒蝶真珠)と呼ばれることもある。また他の真珠を染色処理し、黒真珠と呼んでいるものもある。
;マベ真珠
:[[マベガイ]](マベ貝、''[[:en:Pteria penguin|Pteria penguin]]'')から産する真珠。主に[[香港]]、[[台湾]]、インドネシア、[[奄美大島]]で養殖されている。主に半球形であるが近年では養殖技術の向上で、球形も少量であるが産出される。真円の核を挿核して真円の真珠を作ることが難しいため、半円の核を貝殻の内側に貼り付けて半円形の真珠を作る。
;淡水パール{{Anchors|淡水パール}}
:[[イケチョウガイ]]やカラス貝といった、淡水生の貝の中に出来る真珠は淡水パール(淡水真珠)と呼ばれる。現在流通している淡水パールのほとんどは養殖によって生産されている。養殖の際に母貝内に外套膜片のみを挿入し、核を挿入しないことから真珠が真円には育たずライス型やドロップ型といったさまざまな形状の真珠が得られる。その色も、オレンジや紫など多岐にわたる。淡水パールのうち、粒が小さく安価なものは[[ビーズ]]として使用される。近年では核を挿入して10mmを超える大玉も産出されるようになった。アコヤガイや他の真珠と同様の核を使う場合と小玉の淡水真珠を使う場合とがある。
;コンクパール{{Anchors|コンクパール}}
:[[西インド諸島]]の[[カリブ海]]に生息する[[巻貝]]であるピンク貝(''[[:en:Lobatus gigas|Strombus gigas]]'')から産する真珠。[[珊瑚]]のようなピンク色(他に白、黄、茶などもある)をしており、火焔模様が見られるのが特徴である。ピンク貝は巻貝であり人工的に核を挿入することが不可能であるため、コンクパールのほとんどが天然の真珠である(2009年11月、GIAのG&G eBriefにより養殖コンクパールの成功が報告された)。またピンク貝そのものが現地では貴重なタンパク源として食用とされており、積極的にパールが採られているわけではないことから希少とされている。なおコンクパールは真珠層真珠ではなく、交差板構造から成る真珠である。
;[[メロパール]]
:[[南シナ海]]沿岸に生息する[[ハルカゼヤシガイ]]([[:en:Melo melo|Melo melo]] shell)から稀に産出する真珠。オレンジ系の色調が特徴。
;その他の貝の真珠
:基本的に[[真珠層]]を持つ貝であれば、真珠を産することが可能である。非常に稀であるが、例えば[[ハマグリ]]や[[アサリ]]<ref name="trivia">{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2004 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 5 |publisher=講談社 }}</ref>、[[シジミ]]や[[ホタテ]]などでも真珠を産する。輝きはなく砕けやすく宝石としての価値はない<ref name="trivia" />。
=== 模造真珠 ===
{{main|en:Imitation pearl}}
:;コットンパール
::日本において19世紀頃開発された。軽く、柔らかい<ref name="The Cotton Pearl History">{{cite news |title=About |url=https://miyabigrace.com/about/ |accessdate=2017-12-27}}</ref>。
:;プラスチックパール
::真珠を模したプラスチック球。軽く、表面は真の真珠層ではないために汗などに強い。
:;貝パール
::養殖真珠の核に人工的に真珠色の塗装を施したもの。
=== 大きさや形状、品質 ===
* [[花珠]] - 高品質のもの。
* {{ill2|バロックパール|en|Baroque pearl}} - 形状に歪みがあるもの。
* {{ill2|ケシパール|en|Keshi pearls}} - 小粒のもの。
== 文化 ==
; 真珠に関する語
* [[:wikt:豚に真珠|豚に真珠]]([[ウィクショナリー]])
* [[ドゥッラーニー朝]] - [[アフガニスタン]]の歴史上の王朝。「ドゥッラーニー」はパシュトゥーン語で「真珠の時代」を意味する。
===宗教===
; キリスト教
* {{ill2|真珠のたとえ|en|Parable of the Pearl}} - [[マタイによる福音書]]13章45-46に、天国は商人がすべて売り払ってでも手に入れたい良い真珠のようなものであるという話がある。
* [[天国への門]] - ヨハネの黙示録21:21(文語訳聖書)「十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。」
; イスラム教
* [[クルアーン]](22:23、35:33、52:24)において、貴重品で天国では常に身に着けられるという話をしている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* バイオミネラリゼーション 生物が鉱物を作ることの不思議 渡部哲光 著 東海大学出版会(1997年) ISBN 4-486-01391-3
* 真珠の事典 松井佳一著 北隆館(1965年) ASIN: B000JADINC
* 真珠の世界史 山田篤美著 中公新書 ISBN 978-4-12-102229-5
== 関連項目 ==
* [[宝石]]
** [[宝石の一覧]]
* [[誕生石]]
* {{ill2|真珠粉|en|Pearl powder}} ‐ 薬や化粧品として利用された。
* [[日本真珠会館]]
* [[ミキモト真珠島]]
* [[バーレーンの真珠採取業]] - UNESCO世界遺産
* [[マーガレット]] - 真珠をさす[[ギリシア語]]マルガリテス(Margarites)に由来する女性名
* [[真珠の振興に関する法律]]
* {{ill2|パールハンティング|en|Pearl hunting}} ‐ 養殖技術確立まで、ダイビングによって採取が行われていた。
; 真珠を語源とする鉱物
* [[ケイブパール]]
* [[パーライト (岩石)]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Pearl|Pearls}}
* [http://www.jp-pearl.com 日本真珠振興会]
* [http://www.tahitipearl.jp/ タヒチパールプロモーション](旧 日本黒蝶真珠輸入協議会え
* {{Wayback|url=http://www5.ocn.ne.jp/~jpea/index.html |title=日本真珠輸出組合 |date=20010307073636}}
* {{Archive.today|url=http://homepage2.nifty.com/zenshinren/index.html |title=全国真珠養殖漁業協同組合連合会|date=20110101000000}}
* [http://www.japan-pearl.jp 日本真珠輸出加工協同組合]
* {{Kotobank}}
{{Authority control}}
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[[Category:真珠|*]]
[[Category:生薬]]
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若狭国
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若狭国(わかさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。
「若狭」の名称は、海の向こうからこの地に来た若い男女が、その後に年をとらなかったという「若さ」にちなんだと言われる伝承がある。
設置当初の7世紀後半には、若侠国と若佐国の2通りの表記があったことが藤原宮跡から出土した複数の木簡からわかっている。若狭国と書かれるようになったのは、8世紀に入ってからでおそらく国印が鋳造された大宝4年(704年)からである。
律令制で律令国家が成立する前の若狭地方は、若狭国造の領土だったと言われており、日本書紀には若狭国造や都怒我阿羅斯等の記述がある。
ヤマト王権の支配下に入った4世紀以降上記の国造が設置され、7世紀には律令国としての若狭国が設置された。当初は遠敷郡と三方郡から成ったが、 天長2年(825年)7月10日に遠敷郡の西部が大飯郡として分立して、以後は3郡となった。
奈良時代、ヤマト王権の日本海側入口として、海産物を朝廷に多く献上した為に、「御食国 (みけつくに)」に該当すると推定されている。調・庸で塩を納めるよう定められ、8世紀には製塩が非常に盛んであった。(塩を京に運んだことを示す木簡で1990年代までに見つかった129点のうち、若狭国は第1位で49点、38%を占める。)
奈良の東大寺で実施されるお水取りは、東大寺が小浜に持っていた荘園に由来する祭である。平安時代から江戸時代まで、若狭地方は京都の外港として発展した。
鎌倉時代には執権である北条氏自身が守護職を務めていたが、元弘3/正慶2年(1333年)の鎌倉幕府と北条氏の滅亡後は、北条氏を倒し武家の棟梁となった足利氏の最有力支族である斯波氏など、その時代時代の室町幕府の実力者か、それに連なる人物が京に近い若狭の守護職を得た。
室町時代初期の貞治5年/正平21年(1366年)の一色範光の補任以降は一色氏が若狭守護を世襲するようになるも、永享12年(1440年)に丹後・若狭守護一色義貫を6代将軍足利義教の命により誅殺した安芸国分郡守護の安芸武田氏の武田信栄が、若狭守護職を獲得して若狭国を本拠とし若狭武田氏となった。若狭武田氏は武田氏惣領として幕府近くに仕え、応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱では東軍となり、丹後を拠点とした西軍の一色氏と丹後守護職を廻り激しく対立した。応仁の乱以降は、若狭武田氏は将軍家や管領細川氏の信任を得て勢力を保ち遠敷郡の後瀬山城などを拠点に日本海交易を展開し積極的な文化活動を行ったが、永正4年(1507年)の永正の錯乱以降の畿内の戦乱に巻き込まれ、大永7年(1527年)に12代将軍足利義晴を奉じて上洛したが、桂川原の戦いで三好氏と波多野氏に敗北した。その後、若狭武田氏は徐々に衰退し、永禄11年(1568年)には家督を継いだ直後の武田元明が一族間の内乱から越前朝倉氏に庇護されてその傀儡とされ、その朝倉氏も尾張守護代より台頭し畿内を席捲する勢力となった織田氏に滅ぼされた。
織田政権においては、若狭国は織田信長配下の丹羽長秀が後瀬山城に入って支配し、旧武田氏の被官を吸収した。僅かな所領しか赦されなかった武田元明は、本能寺の変で明智光秀に加担して近江に侵攻し、天正10年(1582年)若狭武田氏は滅亡した。その後、豊臣秀吉が政権を握ると(豊臣政権)、木村隼人佐・堀尾可晴が、同13年(1585年)には丹羽長重・山内一豊が、同15年(1587年)には浅野長吉(長政)が、文禄2年(1593年)には木下勝俊・惟俊兄弟が領した。
江戸時代になると、京極高次が若狭を領することとなり、後に越前敦賀郡を含む若狭地方一帯は小浜藩領となった。又、江戸時代には北前船が若狭地方を本拠地とした為に、敦賀、小浜は海運の一大拠点として盛えた。又、小浜と京都を結ぶ今の国道367号が「鯖街道」と呼ばれていたように、江戸時代には特に鯖の水揚げが多かった。のちに藩主家は京極家から酒井家へと替わる。
幕末になると、水戸を本拠地とする天狗党が京都を目指して蜂起したが、敦賀に逃れた天狗党員は皆殺しにされた。
明治維新を迎えると、1871年8月29日の廃藩置県後、同年12月31日には、旧若狭国に敦賀郡・今立郡・南条郡を加えて敦賀県を形成した。1873年(明治6年)1月には、今立・南条を除く嶺北で構成された足羽県を編入し、敦賀県は、現在の福井県と同じ県域となった。
1876年(明治9年)8月21日には敦賀県が分割され、敦賀郡と若狭地方(嶺南)は滋賀県に編入された。4年半後の1881年(明治14年)2月7日には、嶺南4郡と嶺北で福井県が形成された。突然このことを知らされた人々の中から遠敷郡の有志と、福井置県と同時に堺県の大阪府併合が布告される中、嶺南分割を滋賀県の京都併合への危機感と重ね合わせていた滋賀県令が、何度も嶺南4郡の滋賀県への復帰を政府に願い出たが、却下されてしまった。帰郷後、福井県設置後、初めての臨時県会への抵抗から、運動の中心人物1名、遠敷郡2名、敦賀郡1名が当選していた県会議員を辞職するなど、滋賀県への復帰を求める運動は、開始から約1年半の間、様々な形で続いた。1881年(明治14年)に、福井県令は、電信施設の設置を突如、政府が計画した他の地域の電信敷設計画を遅らせ、優先して嶺南に建設することを決定し、小浜小学師範・中学校開設費を原案通り可決し、年内にその設置を布達するなどの配慮を行った。嶺北と嶺南の地域対立の構図は、1881年からの約10年間、福井県政において、克服すべき大きな課題として存続し続けた。
明治前期に舞鶴鎮守府が設置されると、小浜線の敷設が進められた。
第二次大戦後には、若狭湾岸に原子力発電所が次々と建設され、これ以後は「原発銀座」と呼ばれている。また、現在の若狭地方は沿岸観光地域になっている。
明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡の全域が国土にあたる。
国府は、三卷本;黒川本の『色葉字類抄』、および十巻本の『伊呂波字類抄』によると遠敷郡にあったとされる。現在の小浜市にあったと考えられているが、正確な位置は不明である。
以下、「図説 福井県史」を参照した
関ヶ原の戦いの功により京極高次が若狭一国9万石を与えられた。
寛永11年(1634年)、酒井忠勝が入封し、以後幕末まで酒井氏が続いた(小浜藩)。
大浦半島の付け根に位置する志楽谷(現在の舞鶴市志楽)は、遅くとも分国前の和銅2年(709年)には丹波国に属していたが、北東部の田結(同・田井)など半島の大部分は奈良時代(710年 - 794年)前期まで若狭国に属していたことが分かっている。
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"text": "若狭国(わかさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。",
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"text": "「若狭」の名称は、海の向こうからこの地に来た若い男女が、その後に年をとらなかったという「若さ」にちなんだと言われる伝承がある。",
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"text": "設置当初の7世紀後半には、若侠国と若佐国の2通りの表記があったことが藤原宮跡から出土した複数の木簡からわかっている。若狭国と書かれるようになったのは、8世紀に入ってからでおそらく国印が鋳造された大宝4年(704年)からである。",
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"text": "ヤマト王権の支配下に入った4世紀以降上記の国造が設置され、7世紀には律令国としての若狭国が設置された。当初は遠敷郡と三方郡から成ったが、 天長2年(825年)7月10日に遠敷郡の西部が大飯郡として分立して、以後は3郡となった。",
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"text": "奈良時代、ヤマト王権の日本海側入口として、海産物を朝廷に多く献上した為に、「御食国 (みけつくに)」に該当すると推定されている。調・庸で塩を納めるよう定められ、8世紀には製塩が非常に盛んであった。(塩を京に運んだことを示す木簡で1990年代までに見つかった129点のうち、若狭国は第1位で49点、38%を占める。)",
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"text": "奈良の東大寺で実施されるお水取りは、東大寺が小浜に持っていた荘園に由来する祭である。平安時代から江戸時代まで、若狭地方は京都の外港として発展した。",
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"text": "鎌倉時代には執権である北条氏自身が守護職を務めていたが、元弘3/正慶2年(1333年)の鎌倉幕府と北条氏の滅亡後は、北条氏を倒し武家の棟梁となった足利氏の最有力支族である斯波氏など、その時代時代の室町幕府の実力者か、それに連なる人物が京に近い若狭の守護職を得た。",
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"text": "室町時代初期の貞治5年/正平21年(1366年)の一色範光の補任以降は一色氏が若狭守護を世襲するようになるも、永享12年(1440年)に丹後・若狭守護一色義貫を6代将軍足利義教の命により誅殺した安芸国分郡守護の安芸武田氏の武田信栄が、若狭守護職を獲得して若狭国を本拠とし若狭武田氏となった。若狭武田氏は武田氏惣領として幕府近くに仕え、応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱では東軍となり、丹後を拠点とした西軍の一色氏と丹後守護職を廻り激しく対立した。応仁の乱以降は、若狭武田氏は将軍家や管領細川氏の信任を得て勢力を保ち遠敷郡の後瀬山城などを拠点に日本海交易を展開し積極的な文化活動を行ったが、永正4年(1507年)の永正の錯乱以降の畿内の戦乱に巻き込まれ、大永7年(1527年)に12代将軍足利義晴を奉じて上洛したが、桂川原の戦いで三好氏と波多野氏に敗北した。その後、若狭武田氏は徐々に衰退し、永禄11年(1568年)には家督を継いだ直後の武田元明が一族間の内乱から越前朝倉氏に庇護されてその傀儡とされ、その朝倉氏も尾張守護代より台頭し畿内を席捲する勢力となった織田氏に滅ぼされた。",
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"text": "織田政権においては、若狭国は織田信長配下の丹羽長秀が後瀬山城に入って支配し、旧武田氏の被官を吸収した。僅かな所領しか赦されなかった武田元明は、本能寺の変で明智光秀に加担して近江に侵攻し、天正10年(1582年)若狭武田氏は滅亡した。その後、豊臣秀吉が政権を握ると(豊臣政権)、木村隼人佐・堀尾可晴が、同13年(1585年)には丹羽長重・山内一豊が、同15年(1587年)には浅野長吉(長政)が、文禄2年(1593年)には木下勝俊・惟俊兄弟が領した。",
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"text": "江戸時代になると、京極高次が若狭を領することとなり、後に越前敦賀郡を含む若狭地方一帯は小浜藩領となった。又、江戸時代には北前船が若狭地方を本拠地とした為に、敦賀、小浜は海運の一大拠点として盛えた。又、小浜と京都を結ぶ今の国道367号が「鯖街道」と呼ばれていたように、江戸時代には特に鯖の水揚げが多かった。のちに藩主家は京極家から酒井家へと替わる。",
"title": "沿革"
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"text": "幕末になると、水戸を本拠地とする天狗党が京都を目指して蜂起したが、敦賀に逃れた天狗党員は皆殺しにされた。",
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"text": "明治維新を迎えると、1871年8月29日の廃藩置県後、同年12月31日には、旧若狭国に敦賀郡・今立郡・南条郡を加えて敦賀県を形成した。1873年(明治6年)1月には、今立・南条を除く嶺北で構成された足羽県を編入し、敦賀県は、現在の福井県と同じ県域となった。",
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"text": "1876年(明治9年)8月21日には敦賀県が分割され、敦賀郡と若狭地方(嶺南)は滋賀県に編入された。4年半後の1881年(明治14年)2月7日には、嶺南4郡と嶺北で福井県が形成された。突然このことを知らされた人々の中から遠敷郡の有志と、福井置県と同時に堺県の大阪府併合が布告される中、嶺南分割を滋賀県の京都併合への危機感と重ね合わせていた滋賀県令が、何度も嶺南4郡の滋賀県への復帰を政府に願い出たが、却下されてしまった。帰郷後、福井県設置後、初めての臨時県会への抵抗から、運動の中心人物1名、遠敷郡2名、敦賀郡1名が当選していた県会議員を辞職するなど、滋賀県への復帰を求める運動は、開始から約1年半の間、様々な形で続いた。1881年(明治14年)に、福井県令は、電信施設の設置を突如、政府が計画した他の地域の電信敷設計画を遅らせ、優先して嶺南に建設することを決定し、小浜小学師範・中学校開設費を原案通り可決し、年内にその設置を布達するなどの配慮を行った。嶺北と嶺南の地域対立の構図は、1881年からの約10年間、福井県政において、克服すべき大きな課題として存続し続けた。",
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"text": "明治前期に舞鶴鎮守府が設置されると、小浜線の敷設が進められた。",
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"text": "第二次大戦後には、若狭湾岸に原子力発電所が次々と建設され、これ以後は「原発銀座」と呼ばれている。また、現在の若狭地方は沿岸観光地域になっている。",
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"text": "明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡の全域が国土にあたる。",
"title": "地域"
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"text": "国府は、三卷本;黒川本の『色葉字類抄』、および十巻本の『伊呂波字類抄』によると遠敷郡にあったとされる。現在の小浜市にあったと考えられているが、正確な位置は不明である。",
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"text": "以下、「図説 福井県史」を参照した",
"title": "人物"
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"text": "関ヶ原の戦いの功により京極高次が若狭一国9万石を与えられた。",
"title": "人物"
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"text": "寛永11年(1634年)、酒井忠勝が入封し、以後幕末まで酒井氏が続いた(小浜藩)。",
"title": "人物"
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"text": "大浦半島の付け根に位置する志楽谷(現在の舞鶴市志楽)は、遅くとも分国前の和銅2年(709年)には丹波国に属していたが、北東部の田結(同・田井)など半島の大部分は奈良時代(710年 - 794年)前期まで若狭国に属していたことが分かっている。",
"title": "その他"
}
] |
若狭国(わかさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。
|
{{基礎情報 令制国
|国名 = 若狭国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|若狭国}}
|別称 = 若州(じゃくしゅう)
|所属 = [[北陸道]]
|領域 = [[福井県]]南部([[嶺南]]地域)から[[敦賀市]]を除いた部分
|国力 = [[中国 (令制国)|中国]]
|距離 = [[近国]]
|郡 = 3郡20郷
|国府 = 福井県[[小浜市]]
|国分寺 = 福井県小浜市([[若狭国分寺|若狭国分寺跡]])
|国分尼寺 = (未詳)
|一宮 = [[若狭彦神社]](福井県小浜市)
}}
'''若狭国'''(わかさのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[北陸道]]に属する。
== 「若狭」の名称 ==
「若狭」の名称は、海の向こうからこの地に来た若い男女が、その後に年をとらなかったという「若さ」にちなんだと言われる伝承がある<ref>『一個人 47都道府県 地名の謎と歴史』(2021年3月16日、KKベストセラーズ発行)9ページ。</ref>。
設置当初の7世紀後半には、'''若侠'''国と'''若佐'''国の2通りの表記があったことが[[藤原京|藤原宮]]跡から出土した複数の[[木簡]]からわかっている<ref>舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、21頁。</ref>。若狭国と書かれるようになったのは、8世紀に入ってからでおそらく[[国印]]が鋳造された[[大宝 (日本)|大宝]]4年([[704年]])からである<ref>鎌田元一「律令制国名表記の成立」、『律令公民制の研究』、塙書房、2001年。</ref>。
== 沿革 ==
=== 古代 ===
[[律令制]]で律令国家が成立する前の若狭地方は、[[若狭国造]]の領土だったと言われており、[[日本書紀]]には若狭国造や[[都怒我阿羅斯等]]の記述がある。
[[ヤマト王権]]の支配下に入った4世紀以降上記の[[国造]]が設置され、7世紀には律令国としての若狭国が設置された。当初は[[遠敷郡]]と[[三方郡]]から成ったが、 [[天長]]2年([[825年]])[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]に遠敷郡の西部が[[大飯郡]]として分立して、以後は3郡となった。
[[奈良時代]]、ヤマト王権の[[日本海]]側入口として、海産物を朝廷に多く献上したために、「[[御食国]]」に該当すると推定されている。[[調]]・[[庸]]で[[塩]]を納めるよう定められ、8世紀には製塩が非常に盛んであった。(塩を京に運んだことを示す[[木簡]]で1990年代までに見つかった129点のうち、若狭国は第1位で49点、38%を占める<ref>岸本雅敏「古代の塩の意義」112-116頁。</ref>。)
[[奈良]]の[[東大寺]]で実施される[[お水取り]]は、東大寺が[[小浜市|小浜]]に持っていた[[荘園 (日本)|荘園]]に由来する[[祭]]である。[[平安時代]]から[[江戸時代]]まで、若狭地方は京都の外港として発展した。
[[平安時代]]、[[平治の乱]]以降、[[伊勢平氏]]が権力を握ると、若狭国[[国守]]は平氏一門により独占された{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=254}}。
=== 中世 ===
[[鎌倉時代]]には執権である[[北条氏]]自身が守護職を務めていたが、[[元弘]]3/[[正慶]]2年([[1333年]])の[[鎌倉幕府]]と北条氏の滅亡後は、北条氏を倒し武家の棟梁となった足利氏の最有力支族である[[斯波氏]]など、その時代時代の[[室町幕府]]の実力者か、それに連なる人物が京に近い若狭の守護職を得た。
[[室町時代]]初期の[[貞治]]5年/[[正平 (日本)|正平]]21年([[1366年]])の[[一色範光]]の補任以降は[[一色氏]]が若狭守護を世襲するようになるも、[[永享]]12年([[1440年]])に丹後・若狭守護[[一色義貫]]を6代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義教]]の命により誅殺した安芸国分郡守護の[[武田氏#安芸武田氏|安芸武田氏]]の[[武田信栄]]が、若狭守護職を獲得して若狭国を本拠とし[[武田氏#若狭武田氏|若狭武田氏]]となった。若狭武田氏は武田氏惣領として幕府近くに仕え<ref>[[福井県立若狭歴史博物館]]「若狭武田氏の誇り」、2017年、8-10頁</ref>、[[応仁]]元年([[1467年]])に始まった[[応仁の乱]]では東軍となり、[[丹後国]]を拠点とした西軍の一色氏と丹後守護職を廻り激しく対立した。応仁の乱以降は、若狭武田氏は将軍家や[[管領]][[細川氏]]の信任を得て勢力を保ち遠敷郡の[[後瀬山城]]などを拠点に日本海交易を展開し積極的な文化活動を行ったが、[[永正]]4年([[1507年]])の[[永正の錯乱]]以降の畿内の戦乱に巻き込まれ、[[大永]]7年([[1527年]])に12代将軍[[足利義晴]]を奉じて上洛したが、[[桂川原の戦い]]で[[三好氏]]と[[波多野氏]]に敗北した。その後、若狭武田氏は徐々に衰退し、永禄11年([[1568年]])には家督を継いだ直後の[[武田元明]]が一族間の内乱から[[越前国]][[朝倉氏]]に庇護されてその傀儡とされ、その朝倉氏も[[尾張国]]守護代より台頭し畿内を席捲する勢力となった[[織田氏]]に滅ぼされた。
=== 近世 ===
織田政権においては、若狭国は[[織田信長]]配下の[[丹羽長秀]]が後瀬山城に入って支配し、旧武田氏の被官を吸収した。僅かな所領しか赦されなかった武田元明は、[[本能寺の変]]で[[明智光秀]]に加担して近江に侵攻し、[[天正]]10年([[1582年]])若狭武田氏は滅亡した。その後、[[豊臣秀吉]]が政権を握ると([[豊臣政権]])、[[木村定重|木村隼人佐]]・[[堀尾可晴]]が、同13年([[1585年]])には[[丹羽長重]]・[[山内一豊]]が、同15年([[1587年]])には[[浅野長吉]](長政)が、[[文禄]]2年([[1593年]])には[[木下勝俊]]・[[木下利房|惟俊]]兄弟が領した<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/C01/C011.htm |title=図説 福井県史|近世|1 近世の幕開け |access-date=2022-12-03 |publisher=[[福井県文書館]]}}</ref>。
[[江戸時代]]になると、[[京極高次]]が若狭を領することとなり、後に越前敦賀郡を含む若狭地方一帯は[[小浜藩]]領となった。又、江戸時代には[[北前船]]が若狭地方を本拠地とした為に、[[敦賀市|敦賀]]、[[小浜市|小浜]]は海運の一大拠点として盛えた。又、小浜と京都を結ぶ今の[[国道367号]]が「[[鯖街道]]」と呼ばれていたように、江戸時代には特に[[サバ|鯖]]の水揚げが多かった。のちに藩主家は京極家から酒井家へと替わる。
[[幕末]]になると、[[水戸市|水戸]]を本拠地とする[[天狗党の乱|天狗党]]が京都を目指して蜂起したが、敦賀に逃れた天狗党員は皆殺しにされた。
=== 近現代 ===
[[明治維新]]を迎えると、[[1871年]][[8月29日]]の[[廃藩置県]]後、同年[[12月31日]]には、旧若狭国に[[敦賀郡]]・[[今立郡]]・[[南条郡]]を加えて[[敦賀県]]を形成した。[[1873年]](明治6年)1月には、今立・南条を除く嶺北で構成された[[足羽県]]を編入し、敦賀県は、現在の福井県と同じ県域となった。
[[1876年]](明治9年)[[8月21日]]には敦賀県が分割され、[[敦賀郡]]と若狭地方(嶺南)は[[滋賀県]]に編入された。4年半後の[[1881年]](明治14年)[[2月7日]]には、[[嶺南]]4郡と[[嶺北]]で[[福井県]]が形成された。突然このことを知らされた人々の中から[[遠敷郡]]の有志と、福井置県と同時に[[堺県]]の大阪府併合が布告される中、[[嶺南]]分割を滋賀県の京都併合への危機感と重ね合わせていた滋賀県令が、何度も嶺南4郡の滋賀県への復帰を政府に願い出たが、却下されてしまった。帰郷後、福井県設置後、初めての臨時県会への抵抗から、運動の中心人物1名、遠敷郡2名、敦賀郡1名が当選していた県会議員を辞職するなど、滋賀県への復帰を求める運動は、開始から約1年半の間、様々な形で続いた。[[1881年]](明治14年)に、福井県令は、電信施設の設置を突如、政府が計画した他の地域の電信敷設計画を遅らせ、優先して嶺南に建設することを決定し、小浜小学師範・中学校開設費を原案通り可決し、年内にその設置を布達するなどの配慮を行った。嶺北と嶺南の地域対立の構図は、1881年からの約10年間、福井県政において、克服すべき大きな課題として存続し続けた<ref>福井県文書館 「[http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0・1-02-04-02-06.htm 福井県史 嶺南4郡の滋賀県復帰運動]」1994年{{リンク切れ|date=2023年12月}}</ref>。
[[明治]]前期に[[舞鶴鎮守府]]が設置されると、[[小浜線]]の敷設が進められた。
第二次大戦後には、[[若狭湾]]岸に[[原子力発電所]]が次々と建設され、これ以後は「原発銀座」と呼ばれている。また、現在の若狭地方は沿岸観光地域になっている。
=== 近世以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点では国内の全域が'''[[小浜藩]]'''領であった。(253村・92,163石余)
** [[遠敷郡]](122村・44,510石余)、[[大飯郡]](73村・20,800石余)、[[三方郡]](58村・26,851石余)
* 明治4年
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により'''[[小浜県]]'''の管轄となる。
** [[11月20日 (旧暦)|11月20日]](1871年[[12月31日]]) - 第1次府県統合により'''[[敦賀県]]'''の管轄となる。
* 明治8年([[1876年]])[[8月21日]] - 第2次府県統合により'''[[滋賀県]]'''の管轄となる。
* 明治14年([[1881年]])[[2月7日]] - '''[[福井県]]'''の管轄となる。
== 地域 ==
=== 郡 ===
*[[三方郡]](若東)
*[[遠敷郡]](上中・下中)
*[[大飯郡]](若西)
=== 現在の領域 ===
[[明治維新]]の直前の領域は現在以下のようになっている。'''太字'''の自治体及び郡の全域が国土にあたる。
* [[福井県]]
** '''[[小浜市]]'''(旧遠敷郡の大半)
** '''[[三方郡]]'''
** '''[[大飯郡]]'''
** '''[[三方上中郡]]'''
== 国内の施設 ==
=== 国府 ===
[[国府]]は、三卷本;黒川本の『色葉字類抄』、および十巻本の『伊呂波字類抄』によると遠敷郡にあったとされる。現在の[[小浜市]]にあったと考えられているが、正確な位置は不明である。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
* [[若狭国分寺]]
=== 神社 ===
; [[延喜式内社]]
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社3座2社・小社39座39社の計42座41社が記載されている。大社2社は以下に示すもので、いずれも[[名神大社]]である。[[若狭国の式内社一覧]]を参照。
* [[遠敷郡]] 若狭比古神社二座 - 現在の[[若狭彦神社]]と若狭姫神社。
* [[三方郡]] [[宇波西神社]] (うわせじんじゃ)
; [[総社]]・[[一宮]]以下
* 総社 総神社 (福井県小浜市府中)
* 一宮 '''[[若狭彦神社]]'''
* 二宮 若狭姫神社
== 人物 ==
=== 国司 ===
==== 若狭守 ====
*[[768年]]([[神護景雲]]2年)2月[[葛井立足]]
*768年(神護景雲2年)6月[[安曇石成]]
*[[843年]]([[承和 (日本)|承和]]10年)1月 [[愛宕王]]
*[[884年]]([[元慶]]8年)3月 [[源保]]
*平正盛:[[康和]]3年([[1101年]])任官
* [[藤原重家]]{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=254}}
* [[平経盛]]:[[応保]]元年([[1161年]])10月19日〜{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=254}}
* 平経光:[[嘉応]]元年([[1169年]])1月〜{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=254}}
* [[平敦盛]]:[[承安 (日本)|承安]]4年([[1174年]])1月〜{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=254}}
* [[平師盛]]:[[治承]]2年([[1178年]])1月〜{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=254}}
* [[平経俊]]:治承3年([[1179年]])〜{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=254}}
* 源政家:? 〜[[寿永]]2年([[1183年]])11月{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=276}}
* [[山本義経]]:寿永2年(1183年)12月10日〜{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=276}}
* 藤原範綱:? 〜[[建久]]3年([[1192年]])7月{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=283}}
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
* 藤原保家:建久3年(1192年)7月〜{{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|p=283}}
* [[津々見忠季|津々見(若狭)忠季]]:建久7年(1196年)9月 〜 [[建仁]]3年([[1203年]]){{Sfn|小浜市史編纂委員会|1992|pp=287-288}}
*1203年 - 1220年 - [[北条義時]]
*1220年 - 1221年 - 津々見忠季
*1221年 - 1228年 - [[島津忠時]]
*1228年 - 1230年 - [[北条時氏]]
*1230年 - 1231年 - [[北条経時]]
*1231年 - 1259年 - [[北条重時]]
*1260年 - 1271年 - [[北条時茂]]
*1271年 - 1284年 - [[北条時宗]]
*1285年 - 1299年 - [[北条貞時]]
*1299年 - 1305年 - [[北条宗方]]
*1305年 - 1309年 - [[北条宣時]]
*1309年 - 1311年 - 北条貞時
*1311年 - 1333年 - [[北条高時]]
* [[伊賀兼光]]
==== 室町幕府 ====
*1336年 - [[斯波家兼]]
*1336年 - [[佐々木道誉|京極高氏]]
*1337年 - 1338年 - 斯波家兼
*1338年 - [[桃井直常]]
*1338年 - ? - [[大高重成]]
*1339年 - 1341年 - [[斯波高経]]・[[斯波氏頼]]
*1342年 - 1348年 - 大高重成
*1348年 - 1351年 - [[山名時氏]]
*1351年 - ? - 大高重成
*1352年 - 斯波家兼
*1354年 - 1361年 - [[細川清氏]]{{Sfn|谷口|2022|p=140}}
*1361年 - 1363年 - [[石橋和義]]{{Sfn|谷口|2022|p=140}}
*1363年 - 1366年 - 斯波高経{{Sfn|谷口|2022|p=141}}・[[斯波義種]]
*1366年 - 1388年 - [[一色範光]]
*1388年 - 1406年 - [[一色詮範]]
*1406年 - 1409年 - [[一色満範]]
*1412年 - 1440年 - [[一色義貫]]
*1440年 - [[武田信栄]]
*1440年 - 1471年 - [[武田信賢]]
*1471年 - 1490年 - [[武田国信]]
*1490年 - 1519年 - [[武田元信]]
*1519年 - 1539年 - [[武田元光]]
*1539年 - 1558年 - [[武田信豊 (若狭武田氏)|武田信豊]]
*1558年 - 1567年 - [[武田義統]]
*1567年 - 1582年 - [[武田元明]]
=== 戦国大名 ===
* [[武田氏#若狭武田氏|若狭武田氏]]
=== 織豊時代 ===
* [[丹羽長秀]] - 後瀬山城
以下、「図説 福井県史」を参照した<ref name=":0" />
* [[木村定重|木村隼人佐]]:天正11年(1583年) - 同13年(1585年)。三方郡。
* [[堀尾可晴]]:天正11年(1583年) - 同13年(1585年)。大飯郡。
* [[丹羽長重]]:天正13年(1585年) - 同15年(1587年)。遠敷郡、三方郡。のち、若狭一国。
* [[山内一豊]]:同13年(1585年)。大飯郡。
* [[浅野長吉]](長政):天正15年(1587年)入封。若狭一国8万5000石。文禄2年(1593年)[[甲斐国]][[甲府市|府中]]21万5千石に転封。
* [[木下勝俊]]:文禄2年(1593年) - 慶長5年(1600年)。遠敷郡、三方郡6万2000石。
* [[木下利房|木下惟俊]]:文禄2年(1593年) - 慶長5年(1600年)。大飯郡2万石。
=== 江戸幕府 ===
関ヶ原の戦いの功により[[京極高次]]が若狭一国9万石を与えられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/C03/C031.htm |title=図説 福井県史|近世|3 越前・若狭の諸藩(1) |access-date=2022-12-03 |publisher=福井県文書館}}</ref>。
[[寛永]]11年([[1634年]])、[[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]]が[[入封]]し、以後[[幕末]]まで[[酒井氏#小浜酒井家|酒井氏]]が続いた([[小浜藩]])<ref>{{Cite Kotobank|word=若狭国|encyclopedia=[[日本大百科全書|日本大百科全書(ニッポニカ)]]|accessdate=2022-12-03}}</ref>。
=== 武家官位としての若狭守 ===
==== 江戸時代以前 ====
*[[花村親吉]]:村上義清の家臣
==== 江戸時代 ====
*[[京極高次]]:若狭[[小浜藩]]初代藩主
*[[織田信右]]:[[上野国|上野]][[小幡藩]]第5代藩主
*[[織田信美]]:[[出羽国|出羽]][[高畠藩]]第2代藩主、出羽[[天童藩]]初代藩主
*[[金森頼錦]] : [[美濃国]][[郡上藩]]第2代藩主
*[[酒井忠氏]]:若狭小浜藩第13代藩主
== その他 ==
[[大浦半島]]の付け根に位置する志楽谷(現在の[[舞鶴市]]志楽)は、遅くとも分国前の和銅2年([[709年]])には[[丹波国]]に属していたが、北東部の田結(同・田井)など半島の大部分は[[奈良時代]](710年 - 794年)前期まで'''若狭国'''に属していたことが分かっている{{要出典|date=2023年12月}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|date=1992-03-20|title=小浜市史|volume-title=通史編 上巻|editor=小浜市史編纂委員会|publisher=[[小浜市|小浜市役所]]|id={{NDLJP|9540874}}|ref={{SfnRef|小浜市史編纂委員会|1992}}}}{{要登録}}
* 岸本雅敏「古代の塩の意義」、大塚初重・白石太一郎・西谷正・町田章・編『考古学による日本歴史』2(産業I 狩猟・漁業・農業)、雄山閣、1996年。
* [[角川日本地名大辞典]] 18 福井県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
* {{Citation|和書|date=2022-11-01|author=谷口雄太|title=足利将軍と御三家 吉良・石橋・渋川氏|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4-642-05959-6|series=歴史文化ライブラリー559|ref={{SfnRef|谷口|2022}}}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Wakasa Province}}
* [[嶺南]](現在の若狭地方はこの項目)
* [[令制国一覧]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
* [http://www.jnc.go.jp/04/turuga/jturuga/jkankou/echiwa.html 福井県(越前・若狭)の場所、境界]{{リンク切れ|date=2022年12月}}
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ファイル編成法
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ファイル編成法(— へんせいほう)とはコンピュータがディスク装置やテープ装置などの2次記憶装置上に、レコードをどのように配置しアクセスするかについての方式である。
汎用コンピュータ(メインフレーム)や一部のオフィスコンピュータの専用オペレーティングシステム(OS)では、各ファイル(データセット)内の、レコードの属性(固定長/可変長/非定型、固定長の場合のレコード長、格納・検索方法など)を定義する。
なお、いわゆるオープンシステムではバイトストリームが基本であり、ファイル編成法は存在しない(詳細は後述)。
また、汎用コンピュータでUNIX系などのOSを使用する場合は、直接稼動の場合はファイル編成法は無関係だが、UNIX互換環境など間接稼動の場合は(専用OSの側では)格納方式(器)として使用されている場合がある。
代表的なメインフレーム専用OSであるMVS系の場合、大きく分けて次の5種類がある。(富士通、日立製作所のIBM互換OSもほぼ同様である。)
初期のメインフレームは、プログラムや業務データをレコード単位でパンチカード等で入力し、レコード単位でプリンター等に出力する形が基本だった経緯もあり、オペレーティングシステム標準で多様なレコード管理機能を持っている。
プログラマーやアプリケーションプログラムと、システムの管理運用が分離されているといえる(管理者やオペレーターはデータセットの定義を参照してJCLを修正するだけで、格納先をディスク装置からテープ装置に変えたり、ブロックサイズ変更による最適化などができる)。
これに対してMS-DOS、Windows、UNIX系などのOSでは、OSによる管理はファイルシステムまでであり、各ファイル内部のフォーマット(ファイル構造)は、各アプリケーションに任されている。(OS自身の使用するファイルも含めて、テキストファイル・CSV・XMLなど各アプリケーション間の標準化は各種あるが、OSが直接に管理をしているものではない。)
このためOSから見たファイルは1形式(バイトストリーム)に標準化され、各アプリケーションはファイルを自由なフォーマットで扱える反面、各アプリケーションごとのファイル形式は標準化されておらず、各アプリケーションに精通していないとレコード編集は困難である(リスクを伴う)。
言い換えると、レガシーシステムは定型業務中心・OS中心・管理運用重視、オープンシステムはプログラマ中心(自由自在、自由放任)、という経緯・文化の相違の1つとも言える。
オープンシステムのファイルをレガシーシステムで扱う場合は、可読ファイルは順編成ファイル(可変レコード長)に変換し、バイナリーは非定型フォーマットとする場合が多い。改行コードの有無と文字コードには別途注意が必要。
レガシーシステムのファイル(データセット)をオープンシステムで扱う場合は、可読ファイルはフラットテキストファイルに変換し、バイナリーはそのままバイナリーファイルとする場合が多い。VSAM KSDSなどは必要に応じてRDBMS上のテーブル化を、テープ装置上の順編成ファイルは直接読めないのでディスク装置への移動やツールの活用を検討する必要がある。改行コードの有無と文字コードには別途注意が必要。
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ファイル編成法とはコンピュータがディスク装置やテープ装置などの2次記憶装置上に、レコードをどのように配置しアクセスするかについての方式である。
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{{出典の明記| date = 2020年2月}}
'''ファイル編成法'''(— へんせいほう)とは[[コンピュータ]]がディスク装置やテープ装置などの[[補助記憶装置|2次記憶]]装置上に、[[レコード]]をどのように配置しアクセスするかについての方式である。
==概要==
[[汎用コンピュータ]]([[メインフレーム]])や一部の[[オフィスコンピュータ]]の専用[[オペレーティングシステム]](OS)では、各ファイル([[データセット (IBMメインフレーム)|データセット]])内の、レコードの属性(固定長/可変長/非定型、固定長の場合のレコード長、格納・検索方法など)を定義する。
なお、いわゆる[[オープンシステム (コンピュータ)|オープンシステム]]では[[バイトストリーム]]が基本であり、ファイル編成法は存在しない(詳細は後述)。
また、汎用コンピュータでUNIX系などのOSを使用する場合は、直接稼動の場合はファイル編成法は無関係だが、UNIX互換環境など間接稼動の場合は(専用OSの側では)格納方式(器)として使用されている場合がある。
==種類==
代表的な[[メインフレーム]]専用OSである[[MVS]]系の場合、大きく分けて次の5種類がある。([[富士通]]、[[日立製作所]]のIBM互換OSもほぼ同様である。)
;<span id="順編成ファイル">順編成ファイル(PS)</span>
:シーケンシャルファイル(''Sequential file'')とも言う。
:特徴:
:* [[レコード]]を[[一次元]]的に配置する方式。順次アクセスしかできない。もっとも基本的で単純な方式。
:* オープンシステムの用語で言えば、フラットファイルに近く、1つのデータセットが1つのファイルに相当する。複数レコードが収められている場合は、上から順に読んでいく必要があり、一部レコードのみの更新はできない。
:* ファイル内に格納するレコードは固定長/可変長が選択できる。固定長レコードの場合は[[改行コード]]は存在しない。非定型はバイナリーなどに使用する。
:* ディスク装置上にもテープ装置にも全く同じ形式で作成できるため、[[バッチ処理]]で多用されている。(汎用コンピュータではバッチとテープを多用し、オープンシステムではRDBMSを多用する理由のひとつ。)
:
;<span id="区分編成ファイル">区分編成ファイル(PDS)</span>
:メンバーという単位に分割し、メンバごとにアクセスできるようにしている。
:特徴:
:* メンバー域と登録簿(インデックス)から構成され、ディスク装置のみに作成できる。
:* メンバー内は順次アクセスだけ行われる(メンバー単位に、順編成ファイルと同様に扱える)
:* オープンシステムの用語で強いて言えば、1段階のフォルダ(ディレクトリ)であり、ファイル(データセット)の中に、多数の子ファイル(メンバー)を格納できる。メンバーは簡単な世代管理もできる
:* 主に[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]][[ライブラリ]]や設定ファイルに使われる
:
;<span id="直接編成ファイル">直接編成ファイル</span>
:レコードキー値によって、格納するアドレスを計算して、レコードを直接にこのアドレスに格納する。現在ではあまり使われない。
:特徴:
:* 直接記憶媒体に適応する。
:* 直接アクセス法に向く。
:* 媒体の記憶効率が低い。
:* 順次アクセス法に向かない。
:
;<span id="索引順編成ファイル">索引順編成ファイル</span>
:[[Indexed Sequential Access Method|ISAM]]編成ファイル。現在ではあまり使われない。
:
;<span id="仮想記憶編成ファイル">仮想記憶編成ファイル</span>
:[[Virtual Storage Access Method|VSAM]]編成ファイル。
:特徴:
:* OS付属のユーティリティ(IDCAMS)を使用しディスク装置上に作成できる。KSDS、ESDS、RRDSなどがある。
:* KSDSはキーと索引(インデックス)を使用して、レコード単位の追加・変更・削除ができる。
:* オープンシステムの用語で言えば、OS標準の簡易データベースといえる(メインフレームではDBMSを必要最低限しか使わず、オープンシステムではDBMSを多用する理由のひとつ)。
:* メインフレーム用の[[DB2]] などのデータ物理格納場所(器)としても使われている。
==レガシーシステムとオープンシステムの比較==
初期の[[メインフレーム]]は、プログラムや業務データをレコード単位でパンチカード等で入力し、レコード単位でプリンター等に出力する形が基本だった経緯もあり、オペレーティングシステム標準で多様なレコード管理機能を持っている。
プログラマーやアプリケーションプログラムと、システムの管理運用が分離されているといえる(管理者やオペレーターはデータセットの定義を参照して[[JCL]]を修正するだけで、格納先をディスク装置からテープ装置に変えたり、ブロックサイズ変更による最適化などができる)。
これに対して[[MS-DOS]]、[[Microsoft Windows|Windows]]、[[UNIX]]系などのOSでは、OSによる管理は[[ファイルシステム]]までであり、各ファイル内部のフォーマット(ファイル構造)は、各アプリケーションに任されている。(OS自身の使用するファイルも含めて、[[テキストファイル]]・[[Comma-Separated Values|CSV]]・[[Extensible Markup Language|XML]]など各アプリケーション間の標準化は各種あるが、OSが直接に管理をしているものではない。)
このためOSから見たファイルは1形式(バイトストリーム)に標準化され、各アプリケーションはファイルを自由なフォーマットで扱える反面、各アプリケーションごとのファイル形式は標準化されておらず、各アプリケーションに精通していないとレコード編集は困難である(リスクを伴う)。
言い換えると、レガシーシステムは定型業務中心・OS中心・管理運用重視、オープンシステムはプログラマ中心(自由自在、自由放任)、という経緯・文化の相違の1つとも言える。
==レガシーシステムとオープンシステムの相互運用==
オープンシステムのファイルをレガシーシステムで扱う場合は、可読ファイルは順編成ファイル(可変レコード長)に変換し、バイナリーは非定型フォーマットとする場合が多い。改行コードの有無と文字コードには別途注意が必要。
レガシーシステムのファイル(データセット)をオープンシステムで扱う場合は、可読ファイルはフラットテキストファイルに変換し、バイナリーはそのままバイナリーファイルとする場合が多い。VSAM KSDSなどは必要に応じてRDBMS上のテーブル化を、テープ装置上の順編成ファイルは直接読めないのでディスク装置への移動やツールの活用を検討する必要がある。改行コードの有無と文字コードには別途注意が必要。
==関連項目==
*[[オペレーティングシステム]]
*[[ファイルシステム]]
*[[データセット (IBMメインフレーム)]]
*[[OS/360]]
*[[Multiple Virtual Storage]]
*[[フラットファイルデータベース]]
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佐渡国
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佐渡国(さどのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。
平城宮木簡には「佐度国」と表記されている。
佐渡市#歴史の項を参照
国が建てられた時期は不明。
もと雑太郡一郡のみの国であったが、養老5年(721年)に雑太郡、加茂郡、羽茂郡の三郡に分けられた。 後、明治29年(1896年)に佐渡郡一郡にまとめられた。
国府は雑太郡にあった。国仲平野の南辺にあったと推測される。下国府遺跡が官人の住居と推定されているが、政庁はまだ見つかっていない。
奈良時代に作られた佐渡国分寺はいったん放棄された。 江戸時代の延宝7年(1679年)に賢教によって真言宗の寺として再建され、平安時代に造られた薬師如来像を今に伝える。 元の国分寺の遺跡は今の寺の至近にある。どちらも所在地は佐渡市国分寺である。
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"text": "もと雑太郡一郡のみの国であったが、養老5年(721年)に雑太郡、加茂郡、羽茂郡の三郡に分けられた。 後、明治29年(1896年)に佐渡郡一郡にまとめられた。",
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"text": "国府は雑太郡にあった。国仲平野の南辺にあったと推測される。下国府遺跡が官人の住居と推定されているが、政庁はまだ見つかっていない。",
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"text": "奈良時代に作られた佐渡国分寺はいったん放棄された。 江戸時代の延宝7年(1679年)に賢教によって真言宗の寺として再建され、平安時代に造られた薬師如来像を今に伝える。 元の国分寺の遺跡は今の寺の至近にある。どちらも所在地は佐渡市国分寺である。",
"title": "国内の施設"
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佐渡国(さどのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。
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{{基礎情報 令制国
|国名 = 佐渡国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|佐渡国}}
|別称 = 佐州(さしゅう)<br/>渡州(としゅう)
|所属 = [[北陸道]]
|領域 = [[新潟県]][[佐渡市]]([[佐渡島]])
|国力 = [[中国 (令制国)|中国]]
|距離 = [[遠国]]
|郡 = 3郡22郷
|国府 = (推定)[[新潟県]][[佐渡市]]
|国分寺 = 新潟県佐渡市([[佐渡国分寺]]跡)
|国分尼寺 = (未詳)
|一宮 = [[度津神社]](新潟県佐渡市)
}}
'''佐渡国'''(さどのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[北陸道]]に属する。
==概要==
[[File:Sado Province, The Goldmines LACMA M.2007.152.32.jpg|thumb|200px|[[六十余州名所図会]]<br>「[[佐渡金山]]」]]
===「佐渡」の名称===
平城宮木簡には「佐度国」と表記されている。
==歴史==
[[佐渡市#歴史]]の項を参照
===沿革===
国が建てられた時期は不明。
*初見は[[文武天皇]]4年([[700年]])に遡る。
*[[天平]]15年([[743年]])[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]に[[越後国]]に合同した(『続日本紀』)。
*[[天平勝宝]]4年 ([[752年]]) [[11月3日 (旧暦)|11月3日]]に元に復した。
もと[[雑太郡]]一郡のみの国であったが、[[養老]]5年([[721年]])に雑太郡、[[加茂郡 (新潟県)|加茂郡]]、[[羽茂郡]]の三郡に分けられた。
後、[[明治]]29年([[1896年]])に[[佐渡郡]]一郡にまとめられた。
====近代以降====
* 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点では全域が[[佐渡奉行]]が管轄する[[天領|幕府領]]。なお、羽茂郡のごく一部に[[寺社領]]が所在。(262村・132,687石余)
** [[加茂郡 (新潟県)|加茂郡]](100村・47,503石余)、[[羽茂郡]](62村・21,943石余)、[[雑太郡]](100村・63,239石余)
* [[慶応]]4年
** [[4月15日 (旧暦)|4月15日]]([[1868年]][[5月7日]]) - 新政府が佐渡奉行が置かれた佐渡国雑太郡相川広間町(現在の新潟県佐渡市相川広間町1-1)にあった佐渡奉行所に'''[[佐渡裁判所]]'''を設置。
** [[9月2日 (旧暦)|9月2日]](1868年[[10月17日]]) - 佐渡裁判所を廃止し、'''[[佐渡県]]'''(第1次)を設置。
* 明治元年
** [[11月5日 (旧暦)|11月5日]](1868年[[12月18日]]) - 佐渡国が[[新潟府]]の管轄となり、佐渡県が業務を停止。
* 明治2年
** [[2月22日 (旧暦)|2月22日]]([[1869年]][[4月3日]]) - 佐渡国の管轄が新潟府から[[越後府]]に変更。
** [[7月20日 (旧暦)|7月20日]](1869年[[8月27日]]) - 越後府による管轄が解除され、'''佐渡県'''(第2次)を再置。
* 明治4年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]([[1871年]][[12月31日]]) - 第1次府県統合により'''[[相川県]]'''に改称。
* [[1876年]](明治9年)[[4月18日]] - 第2次府県統合により'''[[新潟県]]'''に合併。同日相川県廃止。
== 国内の施設 ==
=== 国府 ===
[[国府]]は雑太郡にあった。国仲平野の南辺にあったと推測される。[[下国府遺跡]]が官人の住居と推定されているが、政庁はまだ見つかっていない。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
奈良時代に作られた[[佐渡国分寺]]はいったん放棄された。
江戸時代の延宝7年(1679年)に[[賢教]]によって真言宗の寺として再建され、平安時代に造られた薬師如来像を今に伝える。
元の国分寺の遺跡は今の寺の至近にある。どちらも所在地は佐渡市国分寺である。
=== 神社 ===
[[File:Watatsu jinja Sanmon.JPG|thumb|200px|[[度津神社]]]]
; [[延喜式内社]]
: 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す小社9座9社が記載されている。大社はない。[[佐渡国の式内社一覧]]を参照。
* [[羽茂郡]] [[度津神社]] (佐渡市飯岡)
* 羽茂郡 [[大目神社]] (佐渡市吉岡)
* [[雑太郡]] [[引田部神社]] (佐渡市金丸)
* 雑太郡 [[物部神社 (佐渡市)|物部神社]] (佐渡市小倉)
* 雑太郡 [[御食神社]] (佐渡市宮川)
* 雑太郡 [[飯持神社]] (佐渡市飯持)
* 雑太郡 [[越敷神社]] (佐渡市猿八)
* [[加茂郡 (新潟県)|賀茂郡]] [[大幡神社]] (佐渡市大倉)
* 賀茂郡 阿都久志比古神社 (現 [[熱串彦神社]]、佐渡市長江)
;[[総社]]・[[一宮]]以下
* 総社 総社神社 (佐渡市吉岡) - 元は国府の近くにあったものを徳治2年(1307年)に現在地に遷座したと伝えられる。
* 一宮 '''[[度津神社]]'''
* 二宮 [[大目神社]]
* 三宮 [[引田部神社]]
=== 城 ===
*[[羽茂城]]
*[[雑太城]]
*[[河原田城]]
== 地域 ==
=== 郡 ===
*[[羽茂郡]]
*[[雑太郡]]
*[[加茂郡 (新潟県)|加茂郡]]
== 人物 ==
=== 国司 ===
{{節スタブ}}
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
*?~1191年 - [[比企朝宗]]?
*1195年~1199年 - [[佐々木盛綱]]
*1223年~1245年? - [[北条朝時|名越朝時]]
*1271年~1285年 - [[北条宣時]]
*1323年~1333年 - [[北条貞直]]
==== 室町幕府 ====
*1343年~? - [[小椋成長]]
*1381年~? - [[畠山国熙]]
*?~1387年~? - [[一色詮範]]<ref>田中聡「南北朝・室町期における佐渡守護と本間氏」(『新潟史学』66号、2011年)</ref>
*1395年~? - 上野氏
*1418年~? - 高氏
=== 武家官位としての佐渡守 ===
* [[佐々木道誉]]
* [[茨木重親]]
* [[林秀貞]]
* [[松井康之]]
* [[須田頼隆]]
* [[奥山盛昭]]
* [[久松俊勝]]
* [[本間高統]]
* [[本多正信]]〈天正14年(1586年)~ 〉従五位下
* [[藤堂高虎]]正五位下
* [[牧野親成]]従五位下
* [[青山吉次]]従五位下
* [[松平康尚]]従五位下
* [[大岡忠種 (大目付)|大岡忠種]]従五位下
* [[六郷政信]]従五位下
* [[藤堂高通]]従五位下 伊勢[[久居藩]]の初代藩主。
* [[藤堂高陳]]従五位下 伊勢久居藩の第3代藩主。
* [[藤堂高雅]]従五位下 伊勢久居藩の第6代藩主。
* [[森俊春]]従五位下
* [[六郷政速]]従五位下
* [[藤堂高衡]]従五位下 伊勢久居藩の第10代藩主。
* [[藤堂高矗]]従五位下 伊勢久居藩の第11代藩主。
* [[前田斉敬]]正四位下
* [[木下俊良]]従五位下
* [[上杉勝義]]従五位下
* [[藤堂高邁]]従五位下 伊勢久居藩の第13代藩主。
* [[藤堂高秭]]従五位下 伊勢久居藩の第14代藩主。
* [[藤堂高聴]]従五位下 伊勢久居藩の第15代藩主。
* [[藤堂高邦]]従五位下 伊勢久居藩の第16代藩主。
* [[小笠原長泰]]従五位下
* [[小笠原長和]]従五位下
* [[小笠原長国]]従五位下
* [[森長国]]従五位下
* [[六郷政殷]]
=== 名誉称号としての佐渡目(朝廷から芸術家・職人への受領) ===
* 佐渡雅好(のちの佐渡嶋正吉)<ref>『浄瑠璃太夫口宣案』、『烏丸家記五諸人上卿之留』</ref> [[浄瑠璃]]の太夫・家元。
== 脚注 ==
<references/>
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 15 新潟県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Sado Province}}
*[[佐渡島]]
* [[令制国]]
* [[令制国一覧]]
{{令制国一覧}}
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[[Category:新潟県の歴史]]
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近藤るるる
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近藤 るるる(こんどう るるる)は、日本の漫画家。高知県生まれ、徳島県・宮崎県育ち。男性。主に『週刊ファミ通』等のゲーム雑誌にて、ゲームネタを絡めた漫画を描いている。
第1回ファミ通マンガ大賞入選作「愛の砂嵐」にてデビュー、『ファミコン通信』1990年第26号に掲載される。1995年から2011年まで『週刊ファミ通』で、作品は変わりながらも長年連載を続けていた。
ペンネームは大学時代の先輩に勝手に命名された。『コミックビーム』の前身である『月刊アスキーコミック』で『ハイパーあんな』を連載していた時期、同じく連載をしていた島本和彦が、近藤のペンネームをもじって「島本ららら和彦」というペンネームを使用していたこともあった。
可愛らしい筆名、作風、一言コメントのためか、昔は「近藤るるるは女である」という説が流布していた。また本人も女を装って、『コミックビーム』1996年3月号の付録「バレンタイン特典・女性作家のキスマークシール」に、自身のキスマークを公開した事がある。一方で、桜玉吉の漫画『しあわせのかたち』では、男性であることが明言されていたが、元々ネタ要素の強い作品のため、却って男性であることを信じなくなった者も少なくなかった。
うえやまとちのアシスタントをしていた。自身は和六里ハル等をアシスタントとして抱えていた。カラー原稿を描くのが大の苦手だという。
『ファミ通』に連載されている一連の作品群は、意図的に何かしらの共通した世界観を持つように描かれている。例えば、『あんな』の主人公たちが通う学校へ『タカマル』の主人公一行が足を運んだり、『タカマル』のキャラクターである蓮沼が『テラオ』の主要人物として登場する。
前述の通り女性に間違えられるほどのかわいらしい絵柄に反して、作中では登場人物が過激な暴力を受ける場面が度々描かれている。
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近藤 るるるは、日本の漫画家。高知県生まれ、徳島県・宮崎県育ち。男性。主に『週刊ファミ通』等のゲーム雑誌にて、ゲームネタを絡めた漫画を描いている。
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'''近藤 るるる'''(こんどう るるる)は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[高知県]]生まれ、[[徳島県]]・[[宮崎県]]育ち<ref name="profile">{{Cite web|和書|url=http://k-rururu.com/profile.shtml |title=近藤るるる プロフィール |website=近藤るるる オフィシャルウェブサイト |accessdate=2021-06-03}}</ref>。男性。主に『[[ファミ通|週刊ファミ通]]』等の[[ゲーム雑誌]]にて、ゲームネタを絡めた[[漫画]]を描いている。
== 略歴 ==
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第1回ファミ通マンガ大賞入選作「愛の砂嵐」にてデビュー、『ファミコン通信』1990年第26号に掲載される。1995年から2011年まで『週刊ファミ通』で、作品は変わりながらも長年連載を続けていた。
ペンネームは大学時代の先輩に勝手に命名された<ref name="profile" />。『コミックビーム』の前身である『[[月刊アスキーコミック]]』で『[[ハイパーあんな]]』を連載していた時期、同じく連載をしていた[[島本和彦]]が、近藤のペンネームをもじって「島本ららら和彦」というペンネームを使用していたこともあった。
可愛らしい筆名、作風、一言コメントのためか、昔は「近藤るるるは女である」という説が流布していた。また本人も女を装って、『[[コミックビーム]]』1996年3月号の付録「バレンタイン特典・女性作家のキスマークシール」に、自身のキスマークを公開した事がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://torte.pel.oiu.ac.jp/rururu/gallery/rare/index.html |title=ちょっと(アレ)レアなものたち |website=近藤るるるセンセをたたえるファンのページ |accessdate=2010-12-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101206070734/http://torte.pel.oiu.ac.jp/rururu/gallery/rare/index.html |archivedate=2010-12-06}}</ref>。一方で、[[桜玉吉]]の漫画『[[しあわせのかたち]]』では、男性であることが明言されていたが、元々ネタ要素の強い作品のため、却って男性であることを信じなくなった者も少なくなかった。
[[うえやまとち]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]をしていた。自身は[[和六里ハル]]等をアシスタントとして抱えていた。カラー原稿を描くのが大の苦手だという。
== 漫画の特徴 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-12}}
『ファミ通』に連載されている一連の作品群は、意図的に何かしらの共通した世界観を持つように描かれている。例えば、『あんな』の主人公たちが通う学校へ『タカマル』の主人公一行が足を運んだり、『タカマル』のキャラクターである蓮沼が『テラオ』の主要人物として登場する。
前述の通り女性に間違えられるほどのかわいらしい絵柄に反して、作中では登場人物が過激な暴力を受ける場面が度々描かれている。
== 作品リスト ==
* [[ハイパーあんな]](1994年 - 1995年、全3巻)
** 新ハイパーあんな(1998年、全4巻)
** ハイパーあんな 新装版(2014年、全4巻)※「ハイパーあんな」と「新ハイパーあんな」を全話収録し、描き下ろしを加えたもの。
* だんぜんコースケ!(1995年 -1996年、全4巻)
* [[天からトルテ!]](1996年 - 2001年、全14巻)
** 天からトルテ!×3(2001年、全1巻)
** 天からトルテ! 新装版(2006年 - 2007年、全6巻)
* [[黒蘭]](2000年 - 2002年、全4巻)
** 黒蘭 〜反逆の黒髪〜(2003年 - 2004年、全2巻)
* [[たかまれ!タカマル]](2002年 - 2009年、全17巻)
* [[しはるじぇねしす]](2006年 - 2010年、全6巻)
* [[テラオ]](2009年 - 2011年、全6巻)
* [[アリョーシャ!]](2010年 - 2013年、全5巻)
* ガーゴイル(『[[ヤングキングアワーズ]]』([[少年画報社]])2014年 - 2015年、原作:[[冲方丁]]、全4巻)
* [[神撃のバハムート#神撃のバハムート ミスタルシアサーガ|神撃のバハムート ミスタルシアサーガ]](2013年 - 2019年、原作:[[Cygames]]、全6巻)
* 影姫〜KAGE-HIME〜(『ヤングキングアワーズ』(少年画報社)2021年12月号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/451438|title=宇河弘樹の近未来デリバリーアクションが開幕、近藤るるるのアート×バトルな新連載も|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-10-29|accessdate=2022-07-29}}</ref> - 、既刊3巻)
== ファンブック ==
* 『天からるるる! <small>近藤るるるFANBOOK</small>』([[エンターブレイン]]、2000年) {{ISBN2|978-4757700598}}
== 画集 ==
* 『近藤るるる画集 L』(エンターブレイン、2010年10月25日) {{ISBN2|978-4-04-726691-9}}
* 『近藤るるる画集 R』(エンターブレイン、2010年10月25日) {{ISBN2|978-4-04-726692-6}}
== その他 ==
* アニメ [[まりあ†ほりっく]] 第3話 エンドカードイラスト
* アニメ [[それでも町は廻っている]] 第8話 提供バックイラスト
* アニメ [[刹界エイトレイド]] キャラクター原案
== アシスタント ==
* [[和六里ハル]]
* [[アキヨシカズタカ]]
* [[伯林 (漫画家)|伯林]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ハイパーあんな 宇宙で一番強いヤツ]]
* [[ハイパーあんな2 杏菜の無人島物語C++]]
* [[安西信行]]
== 外部リンク ==
* [http://k-rururu.com/ 近藤るるる オフィシャルウェブサイト]
* {{Twitter|kondourururu}} - 2021年4月から開始。
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天広直人
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天広 直人(てんひろ なおと、男性、12月8日生)は、日本のイラストレーター・漫画家。神奈川県出身。
1996年、月刊アフタヌーン四季賞春のコンテストで準入選する。その後、しばらくは目立った活動が見られなかったが、1999年から2003年まで『電撃G's magazine』(メディアワークス)のメディアミックス作品「シスター・プリンセス」でキャラクターデザイン及び挿絵を手掛けたことにより、イラストレーターとして名を馳せるようになる。彼の作風は、この作品を手掛けた4年半の間にほぼ形成されたと言っても良い。
一方、2005年から2006年まで『まんたんブロード』(毎日新聞社)で連載した「ふんじゃかじゃん」により漫画家としての活動も再開した。現在は『月刊コミックラッシュ』(ジャイブ)で同作品の続編「ふんじゃかじゃんmiracle」を連載中である。また、挿絵を担当している小説「初恋マジカルブリッツ」の漫画化作品を『ウルトラジャンプ』(集英社)2008年1・2月号で掲載(前後編)の後、2009年2月号より連載中である。
商業作品を手掛ける一方で、コミックマーケットやサンシャインクリエイション等の同人誌即売会にも参加、即売会会場にて自費制作物の頒布を行っている。
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天広 直人は、日本のイラストレーター・漫画家。神奈川県出身。
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|その他 =
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'''天広 直人'''(てんひろ なおと、男性、[[12月8日]]生)は、[[日本]]の[[イラストレーター]]・[[漫画家]]。[[神奈川県]]出身。
== 来歴 ==
1996年、[[月刊アフタヌーン]][[アフタヌーン四季賞|四季賞]]春のコンテストで準入選する。その後、しばらくは目立った活動が見られなかったが、[[1999年]]から[[2003年]]まで『[[電撃G's magazine]]』([[メディアワークス]])のメディアミックス作品「[[シスター・プリンセス]]」でキャラクターデザイン及び挿絵を手掛けたことにより、イラストレーターとして名を馳せるようになる。彼の作風は、この作品を手掛けた4年半の間にほぼ形成されたと言っても良い。
一方、[[2005年]]から[[2006年]]まで『[[MANTANWEB|まんたんブロード]]』([[毎日新聞社]])で連載した「[[ふんじゃかじゃん]]」により漫画家としての活動も再開した。現在は『[[月刊コミックラッシュ]]』([[ジャイブ]])で同作品の続編「ふんじゃかじゃんmiracle」を連載中である。また、挿絵を担当している小説「[[初恋マジカルブリッツ]]」の漫画化作品を『[[ウルトラジャンプ]]』([[集英社]])[[2008年]]1・2月号で掲載(前後編)の後、[[2009年]]2月号より連載中である。
商業作品を手掛ける一方で、[[コミックマーケット]]や[[クリエイション|サンシャインクリエイション]]等の[[同人誌即売会]]にも参加、即売会会場にて自費制作物の頒布を行っている。
== 主な作品 ==
* [[シスター・プリンセス]](文:[[公野櫻子]])
* [[World's end]](シナリオ:[[玉井☆豪]])
* [[レンテンローズ]](原作:[[太田忠司]])
* [[ふんじゃかじゃん]] / ふんじゃかじゃんmiracle
* [[夜は子猫で忙しい]](原作:[[吉川良太郎]])
* [[初恋マジカルブリッツ]](原作:[[あすか正太]])
* [[プリンセスメーカー4]]([[サイバーフロント|ジェネックス]])
* [[羊くんならキスしてあげる☆]](文:[[野村美月]])
== 外部リンク ==
* [http://tenhiro.jp.net/ Cielo](公式ブログ)
* {{Twitter|nao_to}}
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[[Category:日本のイラストレーター]]
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二宮ひかる
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二宮 ひかる(にのみや ひかる、女性、1967年1月26日 - )は、日本の漫画家。福岡県太宰府市出身。宮崎大学農学部卒業、専攻は洋ラン研究。農業改良普及員の資格を持つ。二宮ひかるという名前はペンネーム。
高校時代に同人活動をしており、大学在学中は熱気球部に所属した。漫画を本格的に描き出したのは26歳からで、福岡のコンピューターソフト会社勤務を経て、1994年に『ヤングアニマル』(白泉社)掲載の『あそぼゼ』でデビューした(ちなみに、親には漫画家ということを隠し続けているという)。
主に『ヤングアニマル』誌で活躍し、その後、『ヤングキングアワーズ』(少年画報社)、『月刊アフタヌーン』(講談社)、『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)、『アワーズプラス』(少年画報社)、『楽園 Le Paradis』(白泉社)、『週刊漫画TIMES』(芳文社)と掲載誌を移す。
ヤングアニマル誌連載時代にはアニメ監督の庵野秀明との対談も行っている。
作品はほとんどが恋愛に関するものである。女性から見た恋愛観と男性から見た恋愛観の相違を上手くストーリーに組み込む筆致は独特の味がある。情事の描写も多いが、日常の中の一コマとして描かれることが多い。また自身が福岡出身であることから、登場人物が福岡(九州)出身、及び在住という設定が多々見受けられる。
代表作は『ナイーヴ』と『ハネムーンサラダ』。両作品とも『ヤングアニマル』にて連載されていた。社会人同士の恋愛と、男女の微妙な心境変化をテーマとしている。また、『ハネムーンサラダ』の主人公の中学時代を描いた作品とみられる『ベイビーリーフ』が『ヤングキングアワーズ』に掲載された。短編も多数執筆し、いくつか短編集が発売されている。
これまでに、台湾・韓国での発売が確認されている。
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二宮 ひかるは、日本の漫画家。福岡県太宰府市出身。宮崎大学農学部卒業、専攻は洋ラン研究。農業改良普及員の資格を持つ。二宮ひかるという名前はペンネーム。
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'''二宮 ひかる'''(にのみや ひかる、女性、[[1967年]][[1月26日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[福岡県]][[太宰府市]]出身<ref>[https://twitter.com/hika_ninomiya/status/662252496409116672]</ref>。[[宮崎大学]][[農学部]]卒業、専攻は洋ラン研究。農業改良普及員の資格を持つ。二宮ひかるという名前はペンネーム<ref>ハネムーンサラダ第1巻あとがきにて記載</ref>。
== 経歴 ==
高校時代に同人活動をしており、大学在学中は熱気球部に所属した。漫画を本格的に描き出したのは26歳からで、福岡のコンピューターソフト会社勤務を経て、[[1994年]]に『[[ヤングアニマル]]』([[白泉社]])掲載の『あそぼゼ』でデビューした(ちなみに、親には漫画家ということを隠し続けているという)。
主に『ヤングアニマル』誌で活躍し、その後、『[[ヤングキングアワーズ]]』([[少年画報社]])、『[[月刊アフタヌーン]]』([[講談社]])、『[[ビッグコミックスピリッツ]]』([[小学館]])、『[[ヤングキングアワーズ#アワーズプラス|アワーズプラス]]』(少年画報社)、『[[楽園 Le Paradis]]』(白泉社)、『[[週刊漫画TIMES]]』([[芳文社]])と掲載誌を移す。
ヤングアニマル誌連載時代には[[アニメ監督]]の[[庵野秀明]]との対談も行っている<ref>ヤングアニマル1997年8/22号、9/12号「庵野秀明×二宮ひかるの対談」</ref>。
作品はほとんどが恋愛に関するものである。女性から見た恋愛観と男性から見た恋愛観の相違を上手くストーリーに組み込む筆致は独特の味がある。情事の描写も多いが、日常の中の一コマとして描かれることが多い。また自身が福岡出身であることから、登場人物が福岡(九州)出身、及び在住という設定が多々見受けられる。
代表作は『ナイーヴ』と『ハネムーンサラダ』。両作品とも『ヤングアニマル』にて連載されていた。社会人同士の恋愛と、男女の微妙な心境変化をテーマとしている。また、『ハネムーンサラダ』の主人公の中学時代を描いた作品とみられる『ベイビーリーフ』が『ヤングキングアワーズ』に掲載された。短編も多数執筆し、いくつか短編集が発売されている。
== 作品リスト ==
=== 連載作品 ===
*'''ナイーヴ'''([[1998年]] - [[1999年]]、ヤングアニマル、[[白泉社]]、全3巻)
**'''ナイーヴ 完全版''' 全2巻
**:カラーイラスト、描き下し番外編「口にするのは」、未収録だった番外編「口には出せない」(ヤングアニマル増刊嵐2001年Vol.1掲載)を追加収録。
*'''[[ハネムーンサラダ]]'''([[2000年]] - [[2002年]]、ヤングアニマル、白泉社、全5巻)
*'''ベイビーリーフ'''([[2002年]]、ヤングキングアワーズ、[[少年画報社]]、全1巻)
*:中学生の夏川実は、保健室でサボっていた斎藤遥子と出会う。『ハネムーンサラダ』の登場人物と同じ名前で、作中で語られていたエピソードと同じであるが、前日譚であるとは明言されていない。
*'''犬姫様'''([[2003年]] - [[2004年]]、月刊アフタヌーン、[[講談社]]、全1巻)
*:ケンイチのベッドに女の子が現れる。彼女はケンイチの飼い犬ライが人間に変身した姿だと言う。
*'''シュガーはお年頃'''([[2007年]] - [[2009年]]、ヤングキングアワーズ、少年画報社、全3巻)
*:「[[娼婦]]になりたい」と考える周囲から浮いてる女子高生・畑中恵子と悪い噂が流れ周囲から疎外されている浅見椿との交流。
*'''ダブルマリッジ'''([[2011年]] - [[2012年]]、週刊漫画TIMES、芳文社、全1巻)
*:[[少子化対策]]のために[[民法 (日本)|民法]]を改正し[[重婚]]を合法化するための法改正が衆院で可決。参院で国会審議が行われている中、新婚の男が、たまたま行った病院で同級生だった看護師と再会し、不倫関係になる。
*'''摩擦ルミネッセンス'''([[2017年]] - [[2018年]]、週刊漫画TIMES、芳文社、全2巻)
*:2016年7月8日号(6月24日発売)に読み切りが掲載され<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/192148|title=二宮ひかるの読み切り「摩擦ルミネッセンス」が週漫に、シリーズ化を予定|date=2016-06-24|publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミック ナタリー]]|accessdate=2017-03-22}}</ref>、2017年2月より不定期連載となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/219443|title=二宮ひかるが高校教師×保護者の女を描く「摩擦ルミネッセンス」週漫新連載|date=2017-02-03|publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミック ナタリー]]|accessdate=2017-03-22}}</ref>。
*:高校教師・久本は進路調査票を空白で提出した男子生徒・八代日尭の家庭訪問を行い、八代の保護者である姉・幸子と関係を持つ。
*:タイトルは摩擦による[[ルミネセンス]](発光現象)の意味であることが作中で述べられている。
=== 短編集 ===
*'''誘惑'''([[1996年]]2月29日、白泉社、ISBN 4592136241)
*:記載はヤングアニマル掲載号
*#Lesson 1995年12号
*#誘惑 1995年17号
*#抱きしめたい 1995年18-19号
*#爪 1995年8号
*#リプレイ 1995年21号
*#まばたき 1995年22-23号
*#通い猫 1996年1号
*#かはんしんのこい 描き下ろし
*
*'''恋人の条件'''(1996年8月31日、白泉社、ISBN 4592136233)
*:記載はヤングアニマル掲載号
*#フェイク 1996年3号
*#恋人の条件(1)[好きで好きで] 1996年5号
*#恋人の条件(2)[くらっ…と] 1996年6号
*#恋人の条件(3)[天使じゃない] 1996年7号
*#オトナの関係 1996年13号
*#もう逢えない 1996年9-10号
*#会いたくて 描き下ろし
*
*'''最低!!'''([[1997年]]2月28日、白泉社、ISBN 4592136608)
*:記載はヤングアニマル掲載号
*#最低!!(1) [軽薄は災いのモト] 1996年15号
*#最低!!(2) [痛い目に遭イタイ] 1996年16号
*#最低!!(3) [恥ずかしくない] 1996年17号
*#最低!!(4) [何度でも聞きたい] 1996年18号
*#最低!!(5) [効いた!!] 1996年19号
*#最低!!(6) [一兎も得ず!?] 1996年20号
*#いつわりの恋 [前編] 1996年23号
*#いつわりの恋 [後編] 1996年24号
*
*'''ふたりで朝まで'''(1997年、白泉社、ISBN 4592130154)
*:記載はヤングアニマル掲載号
*#ふたりで朝まで(1) 1997年3号 「いつわりの恋」の続編
*#ふたりで朝まで(2) 1997年4号
*#ふたりで朝まで(3) 1997年5号
*#ふたりで朝まで(4) 1997年6号
*#ソノ時、彼女は(1) [かわいいあの子] 1997年10号
*#ソノ時、彼女は(2) [鏡の中の…] 1997年11号
*#ソノ時、彼女は(3) [笑顔が一番] 1997年12号
*
*'''初恋'''([[1998年]]、白泉社、ISBN 4592133005)
*:特に記述が無い場合、記載はヤングアニマル掲載号
*#ひまわり 1997年16号
*#初恋 [前編] 1997年17号
*#初恋 [後編] 1997年18号
*#性夢十夜(ゆめじゅうや) ヤングアニマル楽園増刊1997年Vol.1
*#エンゲージ(1) [由香里] 1997年20号
*#エンゲージ(2) [卓也] 1997年21号
*#エンゲージ(3) [義高] 1997年226号
*#エンゲージ(4) [幸] 1997年23号
*#エンゲージ(5) [再び、由香里] 1997年24号
*
*'''復讐のように'''([[2002年]]、白泉社、ISBN 4592132904)
*:特に記述が無い場合、記載はヤングアニマル掲載号
*#二番目の男 [[FEEL YOUNG]]1997年8月号
*#乱れる 1999年10号
*#ラブレター 1999年13号
*#寄生MIND 1999年14号
*#のら 1999年15号
*#Beige 〜べーじゅ〜 未発表
*#あしたの女王 ヤングアニマル楽園増刊1998年Vol.2 + 描き下ろし
*#復讐のように [[ヤングキングアワーズ]]2002年4月号
*#みじかいお別れ FEEL YOUNG2002年6月号
*
*'''おもいで'''([[2007年]]、少年画報社、ISBN 4785928050)
*'''アイであそぶ。二宮ひかる作品集'''([[2010年]]、白泉社、ISBN 9784592710264)
*'''あまい囁き'''([[2013年]]11月29日、白泉社、ISBN 9784592710615)
*'''さ迷える心臓 二宮ひかる作品集2'''([[2014年]]11月28日、白泉社、ISBN 9784592710745)
*'''神崎くんは独身'''(2014年12月16日、芳文社、ISBN 978-4-8322-3433-8)
*:記載は週刊漫画TIMES掲載号
*:コミックス後書きにて連載作品『ダブルマリッジ』との関係性について述べられている。「海辺の町にて」作中で神崎が書いていた小説が『ダブルマリッジ』であり、ユウコなどを(小説の)モデルとしている。
*:[[COMIC ZIN]]調べによる2014年12月15日から同年12月21日の週間単行本売り上げランキングでは4位<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/134530|title=【12月15日~12月21日】単行本売上ランキング|date=2014-12-23|accessdate=2015-08-14}}</ref>。
*#神崎くんのいとこ(全4話) 2014年5/9-16合併号 - 6/6号
*#:真面目な独身生活を送っていた神崎トモヤの部屋に[[いとこ|従姉妹]]で[[幼馴染]]、幼い頃に結婚の申し込みまでしたユウコが地方から「泊めて」とおしかけてくる。実はユウコは地方で不倫していた相手を追ってきたのだった。しかし、結婚も考えると言われた不倫相手からはストーカー呼ばわりされてしまう。ユウコを鬱陶しく感じていたトモヤだったが、その話を聞くと自身の経験もあって不倫相手に憤る。
*#千年婚 2013年8/2号
*#青 2013年8/9号
*#海辺の町にて(全3話) 2014年11/14号 - 11/28号 「神崎くんのいとこ」の続編
*#:「神崎くんのいとこ」から数年後。会社も辞め、トモヤは独りで海沿いの町の解体寸前のボロアパートに住んでいた。ユウコと結婚したものの数年でユウコは病に倒れた。生前、歳をとったら海が見えるところに住みたいと言ったユウコの想いを抱えて、毎日のように海を眺めていた。そこへ二十歳を自称する謎の少女・詩織が「トモくんからの手紙」と古いボトルレターを持って現れる。
*'''セカンドバージン'''(2016年4月16日、芳文社、ISBN 978-4-8322-3498-7)
*#セカンドバージン(全4話)
*#:それぞれが独立した物語になっている『ダブルマリッジ』『神崎くんは独身』に続く「神崎くん」シリーズ完結編。
*#君の名は 2014年12/19号
*#くじら 2015年8/14号<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/155670|title=クジラについて考える女性4名を描く二宮ひかる読み切り、週漫に掲載|date=2015-07-31|accessdate=2015-08-14}}</ref>
*#7年ごとの彼女 2015年11/6号
*#寝室の猫 2015年11/13号
*#ハヤブサ 同人誌発表(2015年8月)
=== 白泉社 My Best Remix ===
*ナイーヴ My Best Remix([[2005年]]、ISBN 4592840364)
*誘惑 My Best Remix([[2005年]]、ISBN 4592840518)
*ハネムーンサラダ ソルト&ペッパー編([[2005年]]、ISBN 4592840518)
*ハネムーンサラダ サウザンアイランド編([[2005年]]、ISBN 4592840674)
*乱れる My Best Remix([[2006年]]、ISBN 4592840801)
=== その他 ===
*二宮ひかるオールコレクション“楽園”(2002年、白泉社、ISBN 459273193X)
=== 未収録作品 ===
;ヤングアニマル掲載
:*あそぼゼ 1994年15号
:*犬姫様 1995年1号 上記連載作品の1話と内容は類似しているが別作品
:*Sugar 1995年5号
:*鏡 1995年10号
:*だんながなんだ!? 1995年11号
:*:企業戦士だった旦那はある日、突然、会社の命令でロボットになって帰ってきた。夜の機能も健在だと言うのだが……
:*降水確率
:
;ヤングキングアワーズ掲載
:*ねむれぬよるに 2007年8月号、巻中カラー
:
;楽園掲載
:*魔法使いの冷酷 4号
:
;週刊漫画TIMES
<!--
:*7年ごとの彼女 2015年(10月23日発売号)予定
-->
=== 日本国外版 ===
これまでに、台湾・韓国での発売が確認されている{{要出典|date=2015年10月10日 (土) 04:28 (UTC)}}。
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:宮崎大学出身の人物]]
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[[Category:1967年生]]
[[Category:存命人物]]
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新潟
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== 行政区分・地名 ==
* [[新潟県]] - [[中部地方]]の[[都道府県|県]]。
* [[新潟市]] - 新潟県の[[市]]で、[[新潟県庁|県庁所在地]]。
* [[新潟都市圏]] - 新潟市を中心とした都市圏。
* [[新潟村]] - 新潟県[[南蒲原郡]]にあった[[村]]。1954年に見附町へ編入。現在の[[見附市]]新潟地区。
== 交通 ==
* [[新潟駅]] - 新潟県新潟市にある[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の鉄道駅。
** 新潟駅のバスターミナル - 新潟駅の万代口および南口にあるバスターミナル、バス乗り場。路線によって「新潟」「新潟駅前」などと表示する。 → [[新潟駅#路線バス・高速バス]]
* [[新潟空港]]の目的地表記。
* [[新潟港]] - 新潟県の新潟市から[[北蒲原郡]][[聖籠町]]にまたがってある[[港湾]]。地区によって「新潟西港」「新潟東港」の通称がある。
** 新潟フェリーターミナル - 新潟港のフェリー乗り場。 → [[新潟港#新潟西港(西港区)]]
* [[新潟パーキングエリア]] - [[磐越自動車道]]の[[パーキングエリア]]。
== スポーツ ==
* [[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)に加盟するサッカークラブ、[[アルビレックス新潟]]の略称。
* [[日本女子サッカーリーグ]](なでしこリーグ)に加盟するサッカークラブ、[[アルビレックス新潟レディース]]の略称。
* [[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ]](Bリーグ)に加盟するプロバスケットボールチーム、[[新潟アルビレックスBB]]の略称。
* [[バスケットボール女子日本リーグ機構]](Wリーグ)に加盟するプロバスケットボールチーム、[[新潟アルビレックスBBラビッツ]]の略称。
* [[ベースボール・チャレンジ・リーグ]](BCリーグ)に加盟する[[プロ野球]]チーム、[[新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ]]の略称。
* 日本の[[陸上競技]]クラブチーム、[[新潟アルビレックスランニングクラブ]]の略称。
== その他 ==
*[[新潟スタジアム]] - 新潟県新潟市にある[[球技場]]・[[陸上競技場]]。
*[[新潟競馬場]] - 新潟県新潟市にある[[競馬場]]。
*[[新潟 (小惑星)]] - [[小惑星帯]]の小惑星、''19509 Niigata''。新潟県に由来して命名された。
*新潟 - [[自動車]]の[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]に表記される[[国土交通省]]運輸局記号。[[新潟県]][[新潟市]]に所在する「[[北陸信越運輸局]][[新潟運輸支局]]」を示す。
*新潟 - 日本の[[姓]]の一つ。[[広島県]]に多い。かなり珍しく、全国で数百人ほどしかいない。
== 関連項目 ==
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13,302 |
ウォフ・マナフ
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ウォフ・マナフ (Vohu Manah) は、ゾロアスター教において崇拝される善神アムシャ・スプンタの一柱。その名はアヴェスター語で「善い思考」を意味する。
パフラヴィー語ではワフマン (Vahman)、 現代ペルシア語ではバフマン (Bahman) と呼ばれる。
伝説によれば、最初にザラスシュトラの前に現れ、アフラ・マズダーのもとへ連れて行った神でもある。
「善い思考」の神格化であり、特に善悪の分別を司る。人間の善行と悪行を記録し、裁きを下す神ともされ、死後 人間を天国で最初に出迎えるのもウォフ・マナフであるとされる。また、悪神アカ・マナフの敵対者である。
中世以降の神学では、動物、特に家畜の守護神とされた。
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ウォフ・マナフ は、ゾロアスター教において崇拝される善神アムシャ・スプンタの一柱。その名はアヴェスター語で「善い思考」を意味する。 パフラヴィー語ではワフマン (Vahman)、
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伝説によれば、最初に[[ザラスシュトラ]]の前に現れ、[[アフラ・マズダー]]のもとへ連れて行った神でもある。
「善い思考」の神格化であり、特に善悪の分別を司る。人間の善行と悪行を記録し、裁きを下す神ともされ、死後 人間を天国で最初に出迎えるのもウォフ・マナフであるとされる。また、悪神[[アカ・マナフ]]の敵対者である。
中世以降の神学では、動物、特に家畜の守護神とされた。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
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13,303 |
紀州藩
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紀州藩(きしゅうはん)は、江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩(きいはん)とも呼ばれる。
版籍奉還後に定められた正式名称は和歌山藩(わかやまはん)。藩庁は和歌山城(和歌山県和歌山市)。藩主は紀州徳川家。紀州家は徳川御三家の一つで、石高は55万5千石。紀伊一国37万石のほか、伊勢国内の17万9千石を統括するために松坂城に城代を置いた。その他、大和国に約1千石の所領があった(石高には御附家老の水野家新宮領と安藤家田辺領を含む)。
紀伊国は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、甲斐国主であった浅野幸長に与えられ、外様の浅野家の治める紀州藩が成立した。元和5年(1619年)の福島正則改易に伴い浅野家が安芸国・広島藩に移されると、それまで駿府藩主だった徳川家康の十男・徳川頼宣が浅野の旧領に南伊勢を加えた55万5千石で入部、紀伊徳川家の治める親藩の紀州藩が成立した。
頼宣は浪人を多く召抱え、慶安4年(1651年)の慶安の変ではその首謀者・由井正雪との関係を幕府に疑われたこともあった。これは将軍家に対する対抗心からともいわれるが詳細は不明。頼宣の孫である第3代藩主の綱教は第5代将軍・徳川綱吉の長女・鶴姫を娶ると、子のない綱吉の後継者に擬せられるようになったが早世した。その後紆余曲折を経て、享保元年(1716年)に綱教の弟で第5代藩主の吉宗が将軍家を相続して第8代将軍となると、200名を超える紀州藩士が吉宗に供奉して江戸に上り幕臣に組み込まれた。
吉宗を出した後に支藩から宗家を相続した第6代藩主の宗直は、石高の57%を損失した享保飢饉による財政難を2万両の公金拝借で切り抜けたが、以後はこの財政赤字を公金で繕うやりくりが踏襲された。和歌山藩は将軍家に近いことから財政的に幕府への依存を深め、これが一方で幕府財政を圧迫する要因となった。
第11代藩主の斉順は天明年間の拝借金が棄損となり、幕府の大坂蔵詰米より新たに2万俵を借用した。拝借金残金は4万5千両に達していた。
第13代藩主の慶福は第11代将軍・徳川家斉の孫で、安政5年(1858年)に子のない第13代将軍・家定の後将軍家を相続して第14代将軍家茂となった。第8代将軍吉宗以後の歴代の将軍はいずれも紀州藩およびその連枝である一橋徳川家に連なる者で占められることになった。
明治期には廃藩置県により和歌山県になるが、紀伊国の東部と伊勢国の紀州藩領は三重県に編入された。
外様 - 37万6千石→安芸広島藩42万石
親藩 - 55万5千石
明治維新後に、大和国吉野郡1村(五條代官所管轄の旧幕府領)、北見国紋別郡が加わったほか、一志郡1村(津藩領との相給)、飯野郡1村(津藩領との相給)、度会郡1村(幕府領との相給)の全域を本藩領とした。
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"text": "第13代藩主の慶福は第11代将軍・徳川家斉の孫で、安政5年(1858年)に子のない第13代将軍・家定の後将軍家を相続して第14代将軍家茂となった。第8代将軍吉宗以後の歴代の将軍はいずれも紀州藩およびその連枝である一橋徳川家に連なる者で占められることになった。",
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"text": "明治期には廃藩置県により和歌山県になるが、紀伊国の東部と伊勢国の紀州藩領は三重県に編入された。",
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"text": "明治維新後に、大和国吉野郡1村(五條代官所管轄の旧幕府領)、北見国紋別郡が加わったほか、一志郡1村(津藩領との相給)、飯野郡1村(津藩領との相給)、度会郡1村(幕府領との相給)の全域を本藩領とした。",
"title": "幕末の領地"
}
] |
紀州藩(きしゅうはん)は、江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩(きいはん)とも呼ばれる。 版籍奉還後に定められた正式名称は和歌山藩(わかやまはん)。藩庁は和歌山城(和歌山県和歌山市)。藩主は紀州徳川家。紀州家は徳川御三家の一つで、石高は55万5千石。紀伊一国37万石のほか、伊勢国内の17万9千石を統括するために松坂城に城代を置いた。その他、大和国に約1千石の所領があった(石高には御附家老の水野家新宮領と安藤家田辺領を含む)。
|
[[画像:Kioi-Kii-Hyoushiki.JPG|thumb|200px|right|紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑]]
[[画像:Wakayama Castle 2011 Kuruwa.jpg|thumb|和歌山城]]
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'''紀州藩'''(きしゅうはん)は、[[江戸時代]]に[[紀伊国]]一国と[[伊勢国]]の南部(現在の[[和歌山県]]と[[三重県]]南部)を治めた[[藩]]。'''紀伊藩'''(きいはん)とも呼ばれる。
[[版籍奉還]]後に定められた正式名称は'''和歌山藩'''(わかやまはん)。藩庁は[[和歌山城]](和歌山県[[和歌山市]])。藩主は[[紀州徳川家]]。紀州家は[[徳川御三家]]の一つで、[[石高]]は55万5千石。紀伊一国37万石のほか、伊勢国内の17万9千石を統括するために[[松坂城]]に城代を置いた。その他、[[大和国]]に約1千石の所領があった(石高には[[附家老|御附家老]]の水野家[[紀伊新宮藩|新宮領]]と安藤家[[紀伊田辺藩|田辺領]]を含む)。
== 藩史 ==
紀伊国は慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]の後、[[甲斐国]]主であった[[浅野幸長]]に与えられ、[[外様大名|外様]]の[[浅野氏|浅野家]]の治める紀州藩が成立した。[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])の[[福島正則]]改易に伴い浅野家が[[安芸国]]・[[広島藩]]に移されると、それまで[[駿府藩]]主だった[[徳川家康]]の十男・[[徳川頼宣]]が浅野の旧領に南伊勢を加えた55万5千石で入部、紀伊徳川家の治める[[親藩]]の紀州藩が成立した。
頼宣は[[浪人]]を多く召抱え、慶安4年([[1651年]])の[[慶安の変]]ではその首謀者・[[由井正雪]]との関係を[[江戸幕府|幕府]]に疑われたこともあった。これは将軍家に対する対抗心からともいわれるが詳細は不明。頼宣の孫である第3代藩主の[[徳川綱教|綱教]]は第5代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川綱吉]]の長女・[[鶴姫 (徳川綱吉長女)|鶴姫]]を娶ると、子のない綱吉の後継者に擬せられるようになったが早世した。その後紆余曲折を経て、[[享保]]元年([[1716年]])に綱教の弟で第5代藩主の[[徳川吉宗|吉宗]]が[[徳川将軍家|将軍家]]を相続して第8代将軍となると、200名を超える紀州藩士が吉宗に供奉して江戸に上り幕臣に組み込まれた。
吉宗を出した後に支藩から宗家を相続した第6代藩主の[[徳川宗直|宗直]]は、石高の57%を損失した享保飢饉による財政難を2万両の公金拝借で切り抜けたが、以後はこの財政赤字を公金で繕うやりくりが踏襲された。和歌山藩は将軍家に近いことから財政的に幕府への依存を深め、これが一方で幕府財政を圧迫する要因となった。
第11代藩主の[[徳川斉順|斉順]]は[[天明]]年間の拝借金が棄損となり、幕府の大坂蔵詰米より新たに2万俵を借用した。拝借金残金は4万5千両に達していた。
第13代藩主の慶福は第11代将軍・[[徳川家斉]]の孫で、[[安政]]5年([[1858年]])に子のない第13代将軍・[[徳川家定|家定]]の後将軍家を相続して第14代将軍[[徳川家茂|家茂]]となった。第8代将軍吉宗以後の歴代の将軍はいずれも紀州藩およびその連枝である[[一橋徳川家]]に連なる者で占められることになった。
明治期には[[廃藩置県]]により和歌山県になるが、紀伊国の東部と[[伊勢国]]の紀州藩領は[[三重県]]に編入された。
== 歴代藩主 ==
=== 浅野家 ===
外様 - 37万6千石→[[安芸国|安芸]][[広島藩]]42万石
{| class="wikitable" style="text-align:left" border="1" frame="box" rules="all" cellspacing="0" cellpadding="3"
|- style="background:#eee"
! 代
! 藩主
! 院号
! 官位
! 在任
! 享年
! 出自
|-
! style="background:#eee"|1
|{{smaller|あさの よしなが}}<br /><span style="font-size:115%">[[浅野幸長|幸長]]</span>
|清光院
|[[従四位|従四位下]]<br />[[紀伊国|紀伊守]]
|[[慶長]]5年 - 慶長18年<br />1600年 - 1613年
|38
|[[浅野氏|浅野家]]
|-
! style="background:#eee"|2
|{{smaller|あさの ながあきら}}<br /><span style="font-size:115%">[[浅野長晟|長晟]]</span>
|自得院
|従四位下<br />[[但馬国|但馬守]]
|慶長18年 - [[元和 (日本)|元和]]5年<br />1613年 - 1619年
|48
|浅野家
|}
=== 徳川家(紀伊徳川家) ===
[[親藩]] - 55万5千石
{| class="wikitable" style="text-align:left" border="1" frame="box" rules="all" cellspacing="0" cellpadding="3"
|- style="background:#eee"
! 代
! 藩主
! 院号
! 官位
! 在任
! 享年
! 出自
|-
! style="background:#eee"|1
|{{smaller|とくがわ よりのぶ}}<br /><span style="font-size:115%">[[徳川頼宣|頼宣]]</span>
|南龍大神<br />南龍院
|[[従二位]]行[[大納言|権大納言]]
|[[元和 (日本)|元和]]5年 - [[寛文]]7年<br />1619年 - 1667年
|70
|[[徳川氏|徳川家]]
|-
! style="background:#eee"|2
|{{smaller|とくがわ みつさだ}}<br /><span style="font-size:115%">[[徳川光貞|光貞]]</span>
|清渓院
|従二位行権大納言
|寛文7年 - [[元禄]]11年<br />1667年 - 1698年
|80
|[[紀州徳川家|紀伊徳川家]]
|-
! style="background:#eee"|3
|{{smaller|とくがわ つなのり}}<br /><span style="font-size:115%">[[徳川綱教|綱教]]</span>
|高林院
|[[中納言|権中納言]][[従三位]]
|元禄11年 - [[宝永]]2年<br />1698年 - 1705年
|41
|紀伊徳川家
|-
! style="background:#eee"|4
|{{smaller|とくがわ よりもと}}<br /><span style="font-size:115%">[[徳川頼職|頼職]]</span>
|深覚院
|[[従四位|従四位下]]行[[左近衛権少将]]
|宝永2年(6月 - 9月)<br />1705年
|26
|紀伊徳川家
|-
! style="background:#eee"|5
|{{smaller|とくがわ よしむね}}<br /><span style="font-size:115%">[[徳川吉宗|吉宗]]</span>
|有徳院
|権中納言従三位
|宝永2年 - [[正徳 (日本)|正徳]]6年<br />1705年 - 1716年
|68
|紀伊徳川家
|-
! style="background:#eee"|6
|{{smaller|とくがわ むねなお}}<br /><span style="font-size:115%">[[徳川宗直|宗直]]</span>
|大慧院
|従二位行権大納言
|正徳6年 - [[宝暦]]7年<br />1716年 - 1757年
|76
|[[西条藩|西条松平家]]
|-
! style="background:#eee"|7
|{{smaller|とくがわ むねのぶ}}<br /><span style="font-size:115%">[[徳川宗将|宗将]]</span>
|菩提心院
|権中納言従三位
|宝暦7年 - [[明和]]2年<br />1757年 - 1765年
|46
|宗直流
|-
! style="background:#eee"|8
|{{smaller|とくがわ しげのり}}<br /><span style="font-size:115%">[[徳川重倫|重倫]]</span>
|観自在院
|権中納言従三位
|明和2年 - [[安永]]4年<br />1765年 - 1775年
|84
|宗直流
|-
! style="background:#eee"|9
|{{smaller|とくがわ はるさだ}}<br /><span style="font-size:115%">[[徳川治貞|治貞]]</span>
|香嚴院
|権中納言従三位
|安永4年 - [[天明]]9年<br />1775年 - 1789年
|62
|西条松平家
|-
! style="background:#eee"|10
|{{smaller|とくがわ はるとみ}}<br /><span style="font-size:115%">[[徳川治宝|治宝]]</span>
|舜恭院
|[[従一位]]行[[大納言]]
|天明9年 - [[文政]]7年<br />1789年 - 1824年
|83
|宗直流
|-
! style="background:#eee"|11
|{{smaller|とくがわ なりゆき}}<br /><span style="font-size:115%">[[徳川斉順|斉順]]</span>
|顕龍院
|[[正二位]]行権大納言
|文政7年 - [[弘化]]3年<br />1824年 - 1846年
|46
|[[清水徳川家]]
|-
! style="background:#eee"|12
|{{smaller|とくがわ なりかつ}}<br /><span style="font-size:115%">[[徳川斉彊|斉彊]]</span>
|憲章院
|従二位行大納言
|弘化3年 - [[嘉永]]2年<br />1846年 - 1849年
|30
|清水徳川家
|-
! style="background:#eee"|13
|{{smaller|とくがわ よしとみ}}<br /><span style="font-size:115%">[[徳川家茂|慶福]]</span>
|昭徳院
|正二位行権大納言
|嘉永2年 - [[安政]]5年<br />1849年 - 1858年
|21
|斉順流
|-
! style="background:#eee"|14
|{{smaller|とくがわ もちつぐ}}<br /><span style="font-size:115%">[[徳川茂承|茂承]]</span>
|慈承院
|[[正三位]]行権中納言
|安政5年 - [[明治]]2年<br />1858年 - 1869年
|63
|西条松平家
|}
== 支藩 ==
* [[伊予国|伊予]][[西条藩]]3万石([[愛媛県]][[西条市]])
== 家老 ==
; [[御附家老|附家老]]
* [[三河安藤氏|安藤家]] - (紀伊[[田辺城 (紀伊国)|田辺城主]]3万8千石)幕末に[[紀伊田辺藩]]として独立、維新後[[男爵]]
* [[水野氏|水野家]] - (紀伊[[新宮城|新宮城主]]3万5千石)幕末に[[紀伊新宮藩]]として独立、維新後男爵
* [[安房正木氏|三浦家]] - (紀伊貴志領1万5千石)維新後男爵
:[[三浦為春]]-[[三浦為時|為時]]-[[三浦為隆|為隆]]=[[三浦為恭|為恭]]=[[三浦為脩|為脩]]-[[三浦為積|為積]]-[[三浦為章|為章]]-[[三浦権五郎|為質]]=三七-英太郎-修-孝昭
* [[久野氏|久野家]] - (伊勢[[田丸城|田丸城代]]1万石)
:[[久野宗成]]-[[久野宗晴|宗晴]]-[[久野宗俊|宗俊]]-[[久野俊正|俊正]]-[[久野俊純|俊純]]-[[久野輝純|輝純]]-[[久野昌純|昌純]]-[[久野純固|純固]]
; 家老連綿
* [[水野氏|水野太郎作家]] - (7千石、正知の代に1万石格)安藤、水野、三浦、久野に水野太郎作家を加えて五家と称する。
:水野正重-義重=重増=忠知=知義-正実=正珍-正純=正清=正知=正義
* 渡辺主水家 - (3千石 恭綱は[[松平頼純]]の庶長子)
:[[渡辺恭綱]]-[[渡辺豊綱|豊綱]]=[[渡辺則綱 (紀州藩士)|則綱]]=[[渡辺親綱|親綱]]-[[渡辺載綱|載綱]]=[[渡辺登綱 (紀州藩士)|登綱]]-[[渡辺沿綱|沿綱]]-[[渡辺為綱|為綱]]
* 村上与兵衛家 - (3千5百石)[[村上通清]]が初代。
* 伊達源左衛門家 - (3千石)今川家家臣伊達景信の孫正勝が初代。
* 戸田金左衛門家 - (3千2百石)三河大津城主戸田清光の嫡男清堅が初代。
* 加納平次右衛門家 - (4千石)[[加納直恒]]が初代。
* 水野多門家 - (3千石)[[水野重孟]]が初代。
* 朝比奈惣左衛門家 - (3千石)[[朝比奈泰能]]の三男泰倫が初代。
* 岡野平太夫家 - (4千石)[[板部岡江雪斎]]の孫岡野英明は徳川頼宣に仕えたが、将軍家の旗本に召出され、代わりに四男房明が頼宣に仕えた。
== 支城 ==
* [[松坂城]] - 松坂城代預かり([[三重県]][[松阪市]])
* [[田丸城]] - 城代久野家預かり([[三重県]][[度会郡]][[玉城町]])
== 別邸など ==
* 江戸藩邸は上屋敷が紀尾井町に(現・[[清水谷公園]]など)、中屋敷が赤坂に(現・[[赤坂御用地]])にあった。中屋敷は[[東京奠都]]後に一時的に[[明治天皇]]の御所として使用された。
* 巖出御殿の臨春閣は、[[慶安]]2年(1649年)の建築だが、現在は[[神奈川県]][[横浜市]]の[[三渓園]]にある。
* [[養翠園|西浜御殿]]は、[[文政]]4年(1821年)に建てられたもので国の[[名勝]]に指定されている。
* [[日光田母沢御用邸記念公園|田母沢御用邸]]([[栃木県]][[日光市]])は、紀州藩江戸上屋敷の一部を移築し、それを核に[[明治]]、[[大正|大正時代]]に建て増した建物である。
* 和歌山城二の丸御殿は残された表向の白書院・黒書院・遠侍が[[明治]]18年(1885年)7月[[大阪城]]本丸に移築され、陸軍[[第4師団 (日本軍)|第4師団]]司令部となり[[天臨閣|紀州御殿]]と称された。[[昭和]]6年(1931年)以降は大阪市の[[迎賓館]]となったが、[[連合国軍最高司令官総司令部|進駐軍]]接収中の昭和22年(1947年)9月12日失火により焼失した。
* 和歌山城本丸御殿は明治6年(1873年)以降に取り壊されたが、御台所のみが和歌山市の[[光恩寺 (和歌山市)|光恩寺]]に[[庫裏|庫裡]]として移築された。
== 幕末の領地 ==
* [[紀伊国]]
** [[海部郡 (和歌山県)|海部郡]] - 59村
** [[名草郡]]のうち - 147村
** [[那賀郡 (和歌山県)|那賀郡]]のうち - 170村
** [[伊都郡]]のうち - 87村
** [[有田郡]]のうち - 134村
** [[日高郡 (和歌山県)|日高郡]]のうち - 115村
** [[牟婁郡]]のうち - 272村(うち60村を[[度会県]]に編入)
* [[伊勢国]]
** [[飯高郡]] - 115村
** [[三重郡]]のうち - 1村
** [[河曲郡]]のうち - 35村
** [[一志郡]]のうち - 58村
** [[多気郡]]のうち - 97村
** [[度会郡]]のうち - 147村
* [[近江国]]
** [[坂田郡]]のうち - 2村([[大津県]]に編入)
[[明治維新]]後に、[[大和国]][[吉野郡]]1村([[五條代官所]]管轄の旧[[天領|幕府領]])、[[北見国]][[紋別郡]]が加わったほか、一志郡1村(津藩領との[[相給]])、飯野郡1村([[津藩]]領との相給)、度会郡1村(幕府領との相給)の全域を本藩領とした。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Wakayama Domain}}
* [[松坂城]]
* [[田丸藩]]
* [[表千家]]
* [[木村友重]](木村助九郎)
* [[田宮流]]
* [[関口新心流]](関口流)
* [[岩倉流泳法]](川上流)
* [[柳剛流]]
* [[南紀重国]]
* [[番所庭園]]
== 外部リンク ==
* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/kobudokenbn/kisyub.html/ |title=旧紀州藩の武道の流派 |date=20190330043000}}
* [http://www.wsk.or.jp/book/66/09.pdf 紀州藩江戸屋敷] - 和歌山社会経済研究所『21世紀わかやま』66号
*[http://codh.rois.ac.jp/bukan/book/200018823/003/ 紀州(紀伊中納言治貞) | 大名家情報 - 武鑑全集]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E8%97%A9
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13,304 |
積分法
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積分法(せきぶんほう、英: integral calculus)は、微分法とともに微分積分学で対をなす主要な分野である。
説明での数式の書き方は広く普及しているライプニッツの記法に準ずる。
実数直線上の区間 [a, b] 上で定義される実変数 x の関数 f の定積分(独: bestimmtes Integral、英: definite integral、仏: intégrale définie)
は、略式的に言えば f のグラフと x 軸、および x = a と x = b で囲まれる xy 平面の領域の符号付面積として定義される。
「積分」(integral)という術語は、原始関数すなわち、微分して与えられた関数 f となるような別の関数 F の概念を指すこともあり、その場合不定積分と呼び、
のように書く。
積分法の原理は17世紀後半にニュートンとライプニッツが独立に定式化した。微分積分学の基本定理の発見により、それまで全く別々に発展していた積分法と微分法は深く関連付けられることになる。定理の主張は、f が閉区間 [a, b] 上の実数値連続関数ならば、f の原始関数 F が既知であるとき、その区間上における f の定積分は
で与えられるというものである。こうして積分と微分が微分積分学の基本的な道具となり、科学や工学において様々な応用が成された。微分積分学の創始者たちは、積分を無限小の幅を持つ矩形の無限和と考えたが、数学的に厳密な積分の定義を与えたのはリーマンである。その定義は、曲線で囲まれた領域を薄い短冊に分解して領域の面積を近似する限定的な手順に基づくものであった。19世紀に入ってから、より洗練された積分の概念が現れ始め、積分が行える領域や関数の種類が一般化されていく。線積分は二変数や三変数の関数に対して定義され、積分区間 [a, b] を平面や空間の二点を繋ぐある種の曲線で置き換えるものになっている。同様に面積分は曲線ではなく三次元空間内の曲面を考えることで得られる。また、微分形式の積分は現代的な微分幾何学において基本的な役割を演じる。これらの積分の一般化はもとは物理学の要請から生じたものであり、多くの物理法則(特に古典電磁気学の諸法則)の定式化に重要な役割を果たした。
これらを含め、現代的な積分の概念は様々に存在する。最も流布している積分論は、ルベーグの創始した、ルベーグ積分と呼ばれる数学的な抽象論であろう。
図形の面積や体積の求積法は、特殊なものに限れば古代からいくつも知られており、その起源は定かではないが、積分法の起源としては古代ギリシアの数学書ユークリッド原論にもある取り尽くし法(積尽法、窄出法、英: method of exhaustion、仏: méthode d’exhaustion、独: Exhaustionsmethode、拉: methodus exhaustionibus)などのいくつかの技法に求めることができるだろう。取り尽くし法はある領域の面積を無数の三角形で覆い尽くすことによって求めようとするものである。古代ギリシャでは、三角形を最も基本的な図形と捉えていたため、このような三角形による求積法が盛んであった。しかしたとえば、放物線(古くは抛物線とも)がある弦によって切り取られる面積を計算するような場合でさえ、いくらやっても三角形で覆い尽くすことはできないため、実際にはほとんどの領域で無限和の計算をすることになる。この困難に対してアルキメデスは、今で言うε-δ論法によりこの問題を回避したようである。
1635年にカヴァリエリの原理が発表され、後にエヴァンジェリスタ・トリチェリ、ピエール・ド・フェルマーが同原理の考えを用い、回転体や多項式で表される図形の求積を行った。
17世紀後半になってライプニッツとニュートンらにより微分法が発見されると、極めて技巧的な手段に頼っていた求積法は、原始関数と微分積分法の基本公式による一般的な方法で解かれることになる。18世紀にはベルヌーイらやオイラーなどによる無限小解析の発展・整備によって計算技巧は大いに発達したが、19世紀に入るとフーリエ級数の厳密な研究などを通して、初めて積分自体の意味を問わなければならない状況が生じるようになった。実際、積分の厳密な定義は、リーマンによって論文「任意関数の三角級数による表現の可能性について」(1854年)の中で最初に与えられた。
20世紀に入ってすぐ、やはりフーリエ級数についてなど様々な解析学上の問題に刺激されて、ルベーグは、面積や体積とは何かということに就いて深く考察することにより測度論を展開し、現在ルベーグ積分論と呼ばれているものをつくった。リーマン積分可能な関数(ただし広義積分は含めない)はルベーグ積分可能であるという意味では、ルベーグ積分はリーマンのそれの一般化になっている。ルベーグが測度論を用いて展開したルベーグ積分は、彼の測度論がもつ極限との親和性と抽象性から、確率論、ヒルベルト空間論、調和解析など極めて広範な応用をもち、これらは物理学や工学などで基本的な道具として用いられることとなる。
ルベーグ積分以後もさらなる一般化がされた積分法がいくつか存在する。
積分は実用上の様々な状況に現れる。水泳プールが矩形状で、底面が平坦かつその長さ幅および深さが分かっているなら、プールに張ることのできる水の体積やプールの表面積やプールの縁の長さを容易に求めることができる。しかし、プールが卵形(楕円形)の丸い底面を持つ場合には、そういった量はどれも積分を用いる必要を生じる。実用上はこういった自明な例では近似法を用いれば十分であるかもしれないが、例えば(任意の領域の)精密工学ではそれらの要素の厳密値そのものが要求されることになる。
手始めに、x = 0 から x = 1 までの間で f (x) = √x によって与えられる曲線 y = f (x) を考え、
という問いを立てて、この(未知の)面積を f の積分と呼んで
で書き表す。最初の近似として、各辺が x = 0 から x = 1 までと y = f (0) = 0 および y = f (1) = 1 で張られるような単位正方形を考えると、その面積はちょうど 1 である。実際には積分の真の値はこれよりも小さい。近似矩形の幅を減らせばよりよい結果が得られるはずであるから、近似のための分点を 1/5 、2/5 ... と 1 までに亘ってとり、区間を横断的に5つの短冊に分け、各短冊の右上の端点を各曲線の小片の高さ √1/5 、√2/5 ... に合わせていくと、それらの矩形の面積の和をとることで、所期の積分の先ほどよりもよい近似値が
のように得られることになる。一方、各短冊の左上の端点を各曲線の小片の高さ 0 、√1/5 ... に合わせた場合の、それらの矩形の面積の和は同様の計算で近似値が 0.5497 となる。
関数 f の値に隣り合う分点の差を掛けたものを無限個足し合わせることになる点に注意すれば、分点の数をどんどん多くしていくのは容易である。そうして分点がどんどん近くなるような刻み幅にしていくとしてもそれは真の値になることはない。
5つの小区間を12に増やせば面積の近似値は前者の右上の端点を用いる計算の場合 0.7036 、後者の左上の端点を用いる計算の場合 0.6203 となりその差分はより小さいものが得られる。鍵となる考え方は、分点の差に関数値を掛けて「無限個」足し合わせるということを、無限に細かい(あるいは無限小の)刻み幅に関数値を掛けた足し合わせに読み替えることである。
「実際の積分計算」に対しては、ニュートンとライプニッツによる微分積分学の基本定理(微分と積分の基本的なつながりを示す定理)が利用される。これを先ほどの平方根関数 f (x) = x の例に適用すれば、その原始関数 f (x) = 2/3 x に対し、単に両端の値を代入した原始関数の差 F (1) − F (0) を計算すればよい( 0 、1 は区間 [0, 1] の境界である)。従って、定積分(この曲線の下側の面積の「真の値」)は、機械的に
と計算することができる。
前述したとおり、短冊に分割した計算の結果は分割数を増やすほどこの値に近づく。
積分の記法
は関数値 f (x) に微分(微小変分)と呼ばれる無限小の刻み幅 dx を掛けたものたちの重み付き和を S を引き伸ばした ∫ {\displaystyle \int } によって表したものと見ることができる(掛け算の記号は省略されるのが一般的である)。
歴史的には、初期の無限小を厳密に解釈する試みが失敗したあと、リーマンが重み付き和の極限として積分を厳密に定義したものであって、それゆえに dx は差(つまり区間の幅)の極限を示唆したものということになる。リーマンの積分法には区間の制限や連続性の要求などからくる欠点があったことを契機として、新たな積分の定義が考え出された。特にルベーグ積分は非常に柔軟な方法で「測度」の概念を拡張する方法に基づくものである。ルベーグ積分の記法
は、各値に割り当てられた重みが μ となるような関数値の分割から得られる重み付き和を示唆するものである。ここに A は積分領域を表す。
微分幾何学で考察される「多様体上の微積分」には、微積分でよく使われている記法に別な解釈を与えることができる。この立場では、f (x) と dx は微分形式 ω = f (x) dx として理解され、新たに外微分と呼ばれる微分作用素 d が導入されて、微積分学の基本定理はより一般のストークスの定理:
として述べることができる。ストークスの定理からグリーンの定理、ガウスの発散定理および微積分学の基本定理が導出できる。
もう少し新しいところでは、超準解析のような新しい現代的な手法を通じて、無限小が厳密な意味を持って再登場している。これらの方法は黎明期の直観を正当化するのみならず、新たな数学を切り開くものとなった。
これらの積分の概念の間には差異はあるけれども、多くの部分では重なっている。例えば、楕円形の水泳プールの表面積は、プールを幾何学的に楕円として扱って、無限小の和あるいはリーマン積分やルベーグ積分として計算しても、微分形式を備えた多様体として計算しても、結果として得られる値は皆同一である。
積分のきちんとした定義は様々な仕方があり、それらの全てが同値なわけではない。異なる定義が用いられるのは、その殆どが別な定義では積分が定義できない特別な場合に別な扱いを与えるためであるが、それだけでなく時に教育上の理由が介在することもある。最も広く用いられる積分法はリーマン積分とルベーグ積分である。
実数 a 、b が a < b であるとき、区間 E = [a, b] の分割とは、
となる点の組 (x0, ..., xn) のこと、あるいは
となる小区間からなる集合 Δ = {Ei} のことである。各 xi を区間 E の分点、各 Ei を区間 E の小区間または切片 (segment) という。また、分割 Δ の各切片について ξi ∈ Ei をあわせて考えるとき、Δ* = {(Ei, ξi)} を点付き分割 (tagged partition) という。
区間 E の点付き分割 Δ* = {(Ei, ξi) : Ei = [xi−1, xi], ξi ∈ Ei} があたえられたとき、
の形の和を、f の点付き分割 Δ* に関するリーマン和という。
分点の個数 n + 1 を十分大きく、切片の長さ |Δ| ≔ max{δxi} を十分小さくするような任意の分割に関して、リーマン和の極限が有限に確定するならば、その極限を関数 f のリーマン積分と称する。またこのとき、f は(区間 [a, b] で)積分可能あるいは可積分(より厳密にはリーマン積分可能あるいはリーマン可積分)であるという。
リーマン和、リーマン積分に関連してダルブー(過剰・不足)和、ダルブー(上・下)積分を考察することは有効である。
区間 E = [a, b] の分割 Δ = {Ei} に対して、
とおくとき、
をそれぞれ、分割 Δ に関する f の下ダルブー和(不足和)、上ダルブー和(過剰和)という。このとき、m ≔ min{mi}, M ≔ max{Mi} とすれば
が満たされることは明らかである。とくに、f が有界ならば(分割 Δ のとり方に依らず)各辺の値はいずれも有限値となる。
ダルブーの定理は下ダルブー和 sΔ の Δ に関する上限 s, 上ダルブー和 SΔ の下限 S の存在をいうもので、リーマン和の極限に対して
なる評価が得られる。ここに現れた s をダルブー下積分といい、S をダルブー上積分という。しばしば、s = ⨜ba f(x)dx, S = ⨛ba f(x)dx のようにも書かれる。すなわち記号的に、
これから明らかなように、それらが相等しく s = S となることは、リーマン積分が存在することの必要十分条件であり、上積分・下積分の何れかが存在しないか存在しても一致しないときは "リーマン積分不能" である。
リーマン積分は広い範囲の関数や応用上重要な状況(および理論的に興味深い状況)では定義されないことも多い。例えば、鉄骨の密度を積分してその質量を得ることはリーマン積分で容易に求められるが、その上に静止している鉄球にまでは適応することができない。これが動機となって、より広い範囲の関数を積分することのできる新しい定義が生み出された(Rudin 1987)。特にルベーグ積分は、重み付き和の重み付けの方に注目することによってきわめて柔軟な性質を持つに至った。
ルベーグ積分の定義は測度 μ を考えることから始まる。最も単純な場合は、区間 A = [a, b] のルベーグ測度 μ(A) を区間の幅 μ(A) ≔ b − a で定義するもので、従ってルベーグ積分は、(狭義)リーマン積分と(両者が存在する限りは)一致する。より複雑な場合には、連続性も持たず、区間とは全く類似点の無いような、高度に断片化した様々な集合も測度を測ることができる。
このような柔軟性を十分に引き出すために、ルベーグ積分は重み付き和に対してリーマン積分とは「逆」なアプローチをとる。Folland (1984, p. 56)に言わせると、「 f のリーマン積分を計算するには領域 [a, b] を小区間に分割する」が、一方ルベーグ積分は「実質的に f の値域を分割する」ものである。
よくある仕方では、まず可測集合 A の指示関数の積分の定義を
で与え、これを線型に拡張して、n 個の異なる非負の値をとる可測単関数 s に対して
と定める(ただし、可測集合 Ai たちは disjoint で、Ai の単関数 s による像が定数 ai であるものとした)。また E を可測集合とすれば、その上での積分を、
とおき、任意の非負値可測関数 f については、下から f を近似する単関数 s の上限:
として f の積分を定義する。さらに一般の可測関数 f に対しては、それを正部分 f と負部分 f
に分割して、|f| := f + f に対し
なるとき、f はルベーグ可積分であるといい、f の積分を
によって定める。
可測関数が定義される測度空間が局所コンパクトな位相空間(よくあるのは実数全体の成す集合 R)でもあるとき、測度はその位相と適当な意味で両立するもの(ラドン測度: たとえばルベーグ測度などはそう)を考える。そのような測度に関する積分は、コンパクト台付き連続関数の積分からはじめるような別な定義の仕方ができる。もっと具体的に述べれば、コンパクト台付き連続関数の全体はベクトル空間を成し、自然な位相を入れることができて、その空間上の任意の線型汎関数を連続にするような(ラドン)測度を入れることができる。従って、コンパクト台付き函関数における測度の値はその関数の積分によっても定義できる。そこからさらに測度(=積分)をもっと一般の関数へ連続性によって拡張して、指示関数の積分として集合の測度を定めるのである。これは Bourbaki (2004) の取ったやり方であり、また他にも一定数の文献がこのやり方をしている。詳細はラドン測度の項へ譲る。
有界閉区間 [a, b] 上のリーマン可積分関数全体の成す集合は、点ごとの加法 ((f + g)(x) := f(x) + g(x)) とスカラー乗法 ((αf)(x) := αf(x)) のもとでベクトル空間になり、そのような関数に対して積分をとる操作
はこのベクトル空間上の線型汎関数になる。これはつまり、ひとつは可積分関数の全体が線型結合をとる操作に関して閉じていること、そしてもうひとつ
のように、線型結合の積分が積分の線型結合として表されることを言っているものである。
同様に、測度 μ を持つ測度空間 E 上の実数値ルベーグ可積分関数全体の成す集合は、線型結合について閉じていて線型空間を成し、ルベーグ積分をとる操作
はその線型空間上の線型汎関数、すなわち
を満たす。
より一般に、測度空間 (E, μ) 上で定義され局所コンパクト位相体 K 上の局所コンパクト完備位相線型空間 V に値を持つ可測関数 f: E → V 全体の成すベクトル空間を考えるとき、各関数 f に対して V の元若しくは記号 ∞ を割り当てる写像
で線型結合と両立する(つまり I(αf + βg) = αI(f) + βI(g) を満たす)ものとして、抽象積分を定義することができる。この状況下で、積分が有限(すなわち割り当てられる値が V の元)であるような関数全体の成す部分空間を考えても、線型性は保たれる。このような形で最も重要な特別な場合が生じるのは、K が実数体 R, 複素数体 C 若しくは p-進数体 Qp の有限次拡大(代数体)かつ V が有限次元ベクトル空間であるときであり、また K = C かつ V が複素ヒルベルト空間であるときである。
線型性に、何らかの自然な連続性と、ある種の「単純な」関数のクラスに対する正規性とを併せて考えることにより、積分の別な定義法を与えることができる。このようなやり方をするものに(集合 X 上の実数値関数の場合の)ダニエル積分があり、またブルバキにより局所コンパクト位相線型空間に値をとる関数にまで一般化されたものがある。積分の公理的な特徴づけについては (Hildebrandt 1953) を参照されたい。
a < b ならば、a を下端、b を上端とするリーマン積分は区間 [a, b] の分割からさだまるリーマン和の極限として定義されるが、a > b のときは区間 [a, b] 自体が存在しないのでそのままではリーマン和も考えることができない。しかし規約として a > b のときは
あるいはもっと記号的に
であるものとすることがしばしば行われる。この規約の元では区間に対する加法性
は分点 γ が γ < a, a ≤ γ < b, b ≤ γ のいずれであるかに関わらず成立する。もっと一般に、向き付けられた d-次元多様体 M が与えられたとき、その向きを逆にして得られる多様体を M とし、ω を微分 d-形式とすれば
が成り立つ。これに対し、ルベーグ積分の文脈では R の有限区間 E = [a, b] 上の積分
とは、E の指示関数 χE における汎関数 dx の値であり、b < a ならば E は空集合で χE が恒等的に 0 となるから積分値は 0 である。
微分積分学の基本定理は微分法と積分法が互いに逆の演算であることを述べるもので、連続関数を積分したものを微分すると、もとの関数に戻ることを示している。これにより、第二基本定理とも呼ばれる重要な帰結として、原始関数が既に知られている関数の定積分の計算はその原始関数を用いて計算できるようになる。
特に、これらの定理は f が [a, b] 上で連続である限り成立する。不連続関数や多変数関数への一般化は必ずしも正しくないが、一定の条件下では様々存在し、例えばストークスの定理などはそのようなものとして理解することができる。
無限区間における積分(無限積分)、無限大に発散する点を含む区間における積分(異常積分、improper integral)など。極限により定まる。
これらの極限値が有限値に定まるとき、広義リーマン積分可能であるという。一方、広義リーマン積分可能でなくとも極限のとりかたを限定するとき極限値が有限確定に存在することがある。たとえば
はいわゆる −∞ + ∞ の形の不定形であり、ε1, ε2 の 0 への近づきかたにより値が異なるため、広義リーマン積分可能でない。しかしながら ε1 = −ε2 という特殊な場合には
となる。このように上下から同等の速さで特異点に近づける極限で現れる値をコーシーの主値という。
区間以外の積分領域を考えることもできる。一般に写像 f の集合 E 上でとった積分を
で表す。このとき、x として必ずしも実数でないほかの適当な量、例えば R のベクトルなどである場合を考えることができる。フビニの定理によれば、そのような積分が逐次積分(累次積分)として書けることが示される。すなわち、重積分は座標ごとに順番に積分して計算することができる。
一変数の正値関数の積分が関数のグラフと x-軸との間の領域の面積を表すのと同様に、二変数の正値関数 f(x, y) の二重積分は関数の定義する曲面 z = f(x, y) と関数の定義域を含む平面との間の領域の体積を表す(同じ体積はこの領域を表す三次元の定数関数 F(x, y, z = f(x, y)) = 1 の三重積分としても求められる)。同じことはさらに変数の数を増やしても成立し、積分は高次元の超体積を表すことになるが、三次元より高次元の場合は視覚化は困難である。
例えば、辺長が 4 × 6 × 5 の直方体の体積は以下の二通りの方法で求めることができる。
積分の概念はもっと一般の積分領域にも拡張することができる。例えば曲線や曲面を積分領域とする積分は、それぞれ線積分や面積分と呼ばれる。これらはベクトル場を扱うような物理学に応用を持つ。
線積分は曲線に沿って評価された関数の積分である。線積分にも様々なものがあり、特に閉曲線に関する線積分を周回積分などとも呼ぶ。
積分の対象となる関数はスカラー場であるかもしれないし、ベクトル場であるかもしれない。線積分の値というのは、曲線上の各点における場の値に曲線上の適当なスカラー関数(普通は弧長、あるいはベクトル場に対しては曲線における接ベクトルとの内積)を重みとして掛けたものの和である。この重み付けこそが、線積分と通常の区間上で定義される積分とを区別するものである。物理学における簡単な公式の多くは、線積分を用いることで自然に連続的な類似対応物に書き換えることができる。例えば、力学における仕事が力 F と移動距離 s との積(ベクトル量としての点乗積)
に等しいという事実から、電場や重力場のようなベクトル場 F 内の曲線に沿って動く物体に対して、その物体が場によって及ぼされる仕事の総計が、s から s + ds まで移動する間に受ける仕事を足し合わせると考えることにより、線積分
で求められる。
面積分は空間内の曲面の上で定義される定積分で、線積分の二次元的な類似物である。積分される関数はやはりスカラー場かもしれないしベクトル場かもしれない。面積分の値というのは、曲面上の各点における場の値の総和であり、曲面を面素に分割することによって得られるリーマン和の極限として構成される。
面積分の応用例としては、曲面 S 上のベクトル場 v(つまり、S の各点 x に対して v(x) がベクトル)が与えられているとき、S を通過する流体で x における流体の速度が v(x) で与えられる状況を考えればよい。流束は単位時間当たりに S を通過する流体の量として定義される。流束を求めるためには、各点で v と単位法ベクトルとの点乗積をとる必要があり、その結果得られたスカラー場を曲面上で積分した
が流束の値を与える(S は S の適当な向きの単位法ベクトル場)。この例における流体の流束は、水や空気の流束あるいは電束や磁束といった物理的なものを想定することができる。このように面積分は物理学、特に電磁気学の古典論に応用を持つ。
微分形式は多変数解析や微分幾何学およびテンソル論などの分野で用いられる数学的概念である。現代的な意味での微分形式は、その全体が外微分と楔積に関して(エリ・カルタンの導入した意味での)外積代数を成すものとして理解される。
R の開集合 Ω 上で定義される 0-形式(0-次微分形式)とは単に(ここでは)Ω 上の滑らかな関数 f のことである。R の m-次元の部分空間 S 上での f の積分を
のように書く(上付きの数字は単に添字であって、冪指数の意味ではない)。微分形式の文脈では、dx から dx までを、リーマン和のように積分についている符牒ではなく、それ自体を形式的な対象として扱う。すなわち、これらはそれぞれ余ベクトル(1-形式、双対ベクトル)として捉えられ、「密度」を測るものと考えることができる(したがって一般の意味で積分することができる)。dx, ...,dx は基本 1-形式と呼ばれる。
微分形式に対する楔積 "∧" は双線型な「乗法」で、基本 1-形式に対する交代性
を満足するものである。線型性と結合性を用いれば、この交代性から dx ∧ dx = −dx ∧ dx が出ることに注意せよ。これはまた、楔積を取った結果が向きを持つことを保証するものでもある。
二つの基本 1-形式の楔積として得られる微分形式を基本 2-形式と呼び、同様に dx ∧ dx ∧ dx なる形で書ける微分形式を基本 3-形式と定める。以下同様に基本形式を定めるが、一般に k-形式(k-次微分形式)とは基本 k-形式に滑らかな関数 f による重み付けを行った重み付き和をいう。すなわち、k-形式の全体は、基本 k-形式を基底ベクトルとするベクトル空間を成し、その係数体として 0-形式の全体がとれる。k-形式同士の楔積は、基本 k-形式の楔積を線型に拡張したものとして自然に定義できる。R 上で、互いに線型独立な余ベクトルは高々 n-個しか取れないから、従って k > n のとき k-形式は常に 0 に等しいことが交代性から従う。
微分形式の演算には、楔積に加えて、外微分作用素 d もある。これは k-形式を (k+1)-形式へ写す作用素で、R 上の k-形式 ω = f dx への d の作用は、
で与えられる(α は k-次の多重指数)。一般の k-形式へはこれを線型に拡張する。
これをもう少し一般にしたやり方で、自然に座標を用いない多様体上の積分ができるようになり、また微分積分学の基本定理の自然な一般化として(広義の)ストークスの定理と呼ばれる定理が得られる。ストークスの定理は、一般の k-形式 ω に対して
が成り立つことを主張するものである。ただし ∂Ω は ω の積分領域 Ω の境界である。ω が 0-形式で Ω が実数直線内の閉区間である場合が微分積分学の基本定理にあたる。また、ω が 1-形式で Ω が平面上の二次元の領域であるときがグリーンの定理であり、同様に 2-形式あるいは 3-形式とホッジ双対を考えて(狭義の)ストークスの定理あるいは発散定理を得ることができる。このように微分形式は、積分を統一的に扱ための強力な方法を与えるものであることが分かる。
しばしば積分の離散版として総和(和分)を捉える事が行われる。たとえば無限個の数の相加平均を積分として「解釈」して定式化することができるし、ルベーグ積分の文脈では数え上げ測度に関する積分として実際に総和が現れる。
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"text": "で与えられるというものである。こうして積分と微分が微分積分学の基本的な道具となり、科学や工学において様々な応用が成された。微分積分学の創始者たちは、積分を無限小の幅を持つ矩形の無限和と考えたが、数学的に厳密な積分の定義を与えたのはリーマンである。その定義は、曲線で囲まれた領域を薄い短冊に分解して領域の面積を近似する限定的な手順に基づくものであった。19世紀に入ってから、より洗練された積分の概念が現れ始め、積分が行える領域や関数の種類が一般化されていく。線積分は二変数や三変数の関数に対して定義され、積分区間 [a, b] を平面や空間の二点を繋ぐある種の曲線で置き換えるものになっている。同様に面積分は曲線ではなく三次元空間内の曲面を考えることで得られる。また、微分形式の積分は現代的な微分幾何学において基本的な役割を演じる。これらの積分の一般化はもとは物理学の要請から生じたものであり、多くの物理法則(特に古典電磁気学の諸法則)の定式化に重要な役割を果たした。",
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"text": "17世紀後半になってライプニッツとニュートンらにより微分法が発見されると、極めて技巧的な手段に頼っていた求積法は、原始関数と微分積分法の基本公式による一般的な方法で解かれることになる。18世紀にはベルヌーイらやオイラーなどによる無限小解析の発展・整備によって計算技巧は大いに発達したが、19世紀に入るとフーリエ級数の厳密な研究などを通して、初めて積分自体の意味を問わなければならない状況が生じるようになった。実際、積分の厳密な定義は、リーマンによって論文「任意関数の三角級数による表現の可能性について」(1854年)の中で最初に与えられた。",
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"text": "5つの小区間を12に増やせば面積の近似値は前者の右上の端点を用いる計算の場合 0.7036 、後者の左上の端点を用いる計算の場合 0.6203 となりその差分はより小さいものが得られる。鍵となる考え方は、分点の差に関数値を掛けて「無限個」足し合わせるということを、無限に細かい(あるいは無限小の)刻み幅に関数値を掛けた足し合わせに読み替えることである。",
"title": "導入"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "「実際の積分計算」に対しては、ニュートンとライプニッツによる微分積分学の基本定理(微分と積分の基本的なつながりを示す定理)が利用される。これを先ほどの平方根関数 f (x) = x の例に適用すれば、その原始関数 f (x) = 2/3 x に対し、単に両端の値を代入した原始関数の差 F (1) − F (0) を計算すればよい( 0 、1 は区間 [0, 1] の境界である)。従って、定積分(この曲線の下側の面積の「真の値」)は、機械的に",
"title": "導入"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "と計算することができる。",
"title": "導入"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "前述したとおり、短冊に分割した計算の結果は分割数を増やすほどこの値に近づく。",
"title": "導入"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "積分の記法",
"title": "導入"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "は関数値 f (x) に微分(微小変分)と呼ばれる無限小の刻み幅 dx を掛けたものたちの重み付き和を S を引き伸ばした ∫ {\\displaystyle \\int } によって表したものと見ることができる(掛け算の記号は省略されるのが一般的である)。",
"title": "導入"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "歴史的には、初期の無限小を厳密に解釈する試みが失敗したあと、リーマンが重み付き和の極限として積分を厳密に定義したものであって、それゆえに dx は差(つまり区間の幅)の極限を示唆したものということになる。リーマンの積分法には区間の制限や連続性の要求などからくる欠点があったことを契機として、新たな積分の定義が考え出された。特にルベーグ積分は非常に柔軟な方法で「測度」の概念を拡張する方法に基づくものである。ルベーグ積分の記法",
"title": "導入"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "は、各値に割り当てられた重みが μ となるような関数値の分割から得られる重み付き和を示唆するものである。ここに A は積分領域を表す。",
"title": "導入"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "微分幾何学で考察される「多様体上の微積分」には、微積分でよく使われている記法に別な解釈を与えることができる。この立場では、f (x) と dx は微分形式 ω = f (x) dx として理解され、新たに外微分と呼ばれる微分作用素 d が導入されて、微積分学の基本定理はより一般のストークスの定理:",
"title": "導入"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "として述べることができる。ストークスの定理からグリーンの定理、ガウスの発散定理および微積分学の基本定理が導出できる。",
"title": "導入"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "もう少し新しいところでは、超準解析のような新しい現代的な手法を通じて、無限小が厳密な意味を持って再登場している。これらの方法は黎明期の直観を正当化するのみならず、新たな数学を切り開くものとなった。",
"title": "導入"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "これらの積分の概念の間には差異はあるけれども、多くの部分では重なっている。例えば、楕円形の水泳プールの表面積は、プールを幾何学的に楕円として扱って、無限小の和あるいはリーマン積分やルベーグ積分として計算しても、微分形式を備えた多様体として計算しても、結果として得られる値は皆同一である。",
"title": "導入"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "積分のきちんとした定義は様々な仕方があり、それらの全てが同値なわけではない。異なる定義が用いられるのは、その殆どが別な定義では積分が定義できない特別な場合に別な扱いを与えるためであるが、それだけでなく時に教育上の理由が介在することもある。最も広く用いられる積分法はリーマン積分とルベーグ積分である。",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "実数 a 、b が a < b であるとき、区間 E = [a, b] の分割とは、",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "となる点の組 (x0, ..., xn) のこと、あるいは",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "となる小区間からなる集合 Δ = {Ei} のことである。各 xi を区間 E の分点、各 Ei を区間 E の小区間または切片 (segment) という。また、分割 Δ の各切片について ξi ∈ Ei をあわせて考えるとき、Δ* = {(Ei, ξi)} を点付き分割 (tagged partition) という。",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "区間 E の点付き分割 Δ* = {(Ei, ξi) : Ei = [xi−1, xi], ξi ∈ Ei} があたえられたとき、",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "の形の和を、f の点付き分割 Δ* に関するリーマン和という。",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "分点の個数 n + 1 を十分大きく、切片の長さ |Δ| ≔ max{δxi} を十分小さくするような任意の分割に関して、リーマン和の極限が有限に確定するならば、その極限を関数 f のリーマン積分と称する。またこのとき、f は(区間 [a, b] で)積分可能あるいは可積分(より厳密にはリーマン積分可能あるいはリーマン可積分)であるという。",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "リーマン和、リーマン積分に関連してダルブー(過剰・不足)和、ダルブー(上・下)積分を考察することは有効である。",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "区間 E = [a, b] の分割 Δ = {Ei} に対して、",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "とおくとき、",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "をそれぞれ、分割 Δ に関する f の下ダルブー和(不足和)、上ダルブー和(過剰和)という。このとき、m ≔ min{mi}, M ≔ max{Mi} とすれば",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "が満たされることは明らかである。とくに、f が有界ならば(分割 Δ のとり方に依らず)各辺の値はいずれも有限値となる。",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ダルブーの定理は下ダルブー和 sΔ の Δ に関する上限 s, 上ダルブー和 SΔ の下限 S の存在をいうもので、リーマン和の極限に対して",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "なる評価が得られる。ここに現れた s をダルブー下積分といい、S をダルブー上積分という。しばしば、s = ⨜ba f(x)dx, S = ⨛ba f(x)dx のようにも書かれる。すなわち記号的に、",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "これから明らかなように、それらが相等しく s = S となることは、リーマン積分が存在することの必要十分条件であり、上積分・下積分の何れかが存在しないか存在しても一致しないときは \"リーマン積分不能\" である。",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "リーマン積分は広い範囲の関数や応用上重要な状況(および理論的に興味深い状況)では定義されないことも多い。例えば、鉄骨の密度を積分してその質量を得ることはリーマン積分で容易に求められるが、その上に静止している鉄球にまでは適応することができない。これが動機となって、より広い範囲の関数を積分することのできる新しい定義が生み出された(Rudin 1987)。特にルベーグ積分は、重み付き和の重み付けの方に注目することによってきわめて柔軟な性質を持つに至った。",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ルベーグ積分の定義は測度 μ を考えることから始まる。最も単純な場合は、区間 A = [a, b] のルベーグ測度 μ(A) を区間の幅 μ(A) ≔ b − a で定義するもので、従ってルベーグ積分は、(狭義)リーマン積分と(両者が存在する限りは)一致する。より複雑な場合には、連続性も持たず、区間とは全く類似点の無いような、高度に断片化した様々な集合も測度を測ることができる。",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "このような柔軟性を十分に引き出すために、ルベーグ積分は重み付き和に対してリーマン積分とは「逆」なアプローチをとる。Folland (1984, p. 56)に言わせると、「 f のリーマン積分を計算するには領域 [a, b] を小区間に分割する」が、一方ルベーグ積分は「実質的に f の値域を分割する」ものである。",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "よくある仕方では、まず可測集合 A の指示関数の積分の定義を",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "で与え、これを線型に拡張して、n 個の異なる非負の値をとる可測単関数 s に対して",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "と定める(ただし、可測集合 Ai たちは disjoint で、Ai の単関数 s による像が定数 ai であるものとした)。また E を可測集合とすれば、その上での積分を、",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "とおき、任意の非負値可測関数 f については、下から f を近似する単関数 s の上限:",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "として f の積分を定義する。さらに一般の可測関数 f に対しては、それを正部分 f と負部分 f",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "に分割して、|f| := f + f に対し",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "なるとき、f はルベーグ可積分であるといい、f の積分を",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "によって定める。",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "可測関数が定義される測度空間が局所コンパクトな位相空間(よくあるのは実数全体の成す集合 R)でもあるとき、測度はその位相と適当な意味で両立するもの(ラドン測度: たとえばルベーグ測度などはそう)を考える。そのような測度に関する積分は、コンパクト台付き連続関数の積分からはじめるような別な定義の仕方ができる。もっと具体的に述べれば、コンパクト台付き連続関数の全体はベクトル空間を成し、自然な位相を入れることができて、その空間上の任意の線型汎関数を連続にするような(ラドン)測度を入れることができる。従って、コンパクト台付き函関数における測度の値はその関数の積分によっても定義できる。そこからさらに測度(=積分)をもっと一般の関数へ連続性によって拡張して、指示関数の積分として集合の測度を定めるのである。これは Bourbaki (2004) の取ったやり方であり、また他にも一定数の文献がこのやり方をしている。詳細はラドン測度の項へ譲る。",
"title": "厳密な定義"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "有界閉区間 [a, b] 上のリーマン可積分関数全体の成す集合は、点ごとの加法 ((f + g)(x) := f(x) + g(x)) とスカラー乗法 ((αf)(x) := αf(x)) のもとでベクトル空間になり、そのような関数に対して積分をとる操作",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "はこのベクトル空間上の線型汎関数になる。これはつまり、ひとつは可積分関数の全体が線型結合をとる操作に関して閉じていること、そしてもうひとつ",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "のように、線型結合の積分が積分の線型結合として表されることを言っているものである。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "同様に、測度 μ を持つ測度空間 E 上の実数値ルベーグ可積分関数全体の成す集合は、線型結合について閉じていて線型空間を成し、ルベーグ積分をとる操作",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "はその線型空間上の線型汎関数、すなわち",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "を満たす。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "より一般に、測度空間 (E, μ) 上で定義され局所コンパクト位相体 K 上の局所コンパクト完備位相線型空間 V に値を持つ可測関数 f: E → V 全体の成すベクトル空間を考えるとき、各関数 f に対して V の元若しくは記号 ∞ を割り当てる写像",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "で線型結合と両立する(つまり I(αf + βg) = αI(f) + βI(g) を満たす)ものとして、抽象積分を定義することができる。この状況下で、積分が有限(すなわち割り当てられる値が V の元)であるような関数全体の成す部分空間を考えても、線型性は保たれる。このような形で最も重要な特別な場合が生じるのは、K が実数体 R, 複素数体 C 若しくは p-進数体 Qp の有限次拡大(代数体)かつ V が有限次元ベクトル空間であるときであり、また K = C かつ V が複素ヒルベルト空間であるときである。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "線型性に、何らかの自然な連続性と、ある種の「単純な」関数のクラスに対する正規性とを併せて考えることにより、積分の別な定義法を与えることができる。このようなやり方をするものに(集合 X 上の実数値関数の場合の)ダニエル積分があり、またブルバキにより局所コンパクト位相線型空間に値をとる関数にまで一般化されたものがある。積分の公理的な特徴づけについては (Hildebrandt 1953) を参照されたい。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "a < b ならば、a を下端、b を上端とするリーマン積分は区間 [a, b] の分割からさだまるリーマン和の極限として定義されるが、a > b のときは区間 [a, b] 自体が存在しないのでそのままではリーマン和も考えることができない。しかし規約として a > b のときは",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "あるいはもっと記号的に",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "であるものとすることがしばしば行われる。この規約の元では区間に対する加法性",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "は分点 γ が γ < a, a ≤ γ < b, b ≤ γ のいずれであるかに関わらず成立する。もっと一般に、向き付けられた d-次元多様体 M が与えられたとき、その向きを逆にして得られる多様体を M とし、ω を微分 d-形式とすれば",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "が成り立つ。これに対し、ルベーグ積分の文脈では R の有限区間 E = [a, b] 上の積分",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "とは、E の指示関数 χE における汎関数 dx の値であり、b < a ならば E は空集合で χE が恒等的に 0 となるから積分値は 0 である。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "微分積分学の基本定理は微分法と積分法が互いに逆の演算であることを述べるもので、連続関数を積分したものを微分すると、もとの関数に戻ることを示している。これにより、第二基本定理とも呼ばれる重要な帰結として、原始関数が既に知られている関数の定積分の計算はその原始関数を用いて計算できるようになる。",
"title": "微分積分学の基本定理"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "特に、これらの定理は f が [a, b] 上で連続である限り成立する。不連続関数や多変数関数への一般化は必ずしも正しくないが、一定の条件下では様々存在し、例えばストークスの定理などはそのようなものとして理解することができる。",
"title": "微分積分学の基本定理"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "無限区間における積分(無限積分)、無限大に発散する点を含む区間における積分(異常積分、improper integral)など。極限により定まる。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "これらの極限値が有限値に定まるとき、広義リーマン積分可能であるという。一方、広義リーマン積分可能でなくとも極限のとりかたを限定するとき極限値が有限確定に存在することがある。たとえば",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "はいわゆる −∞ + ∞ の形の不定形であり、ε1, ε2 の 0 への近づきかたにより値が異なるため、広義リーマン積分可能でない。しかしながら ε1 = −ε2 という特殊な場合には",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "となる。このように上下から同等の速さで特異点に近づける極限で現れる値をコーシーの主値という。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "区間以外の積分領域を考えることもできる。一般に写像 f の集合 E 上でとった積分を",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "で表す。このとき、x として必ずしも実数でないほかの適当な量、例えば R のベクトルなどである場合を考えることができる。フビニの定理によれば、そのような積分が逐次積分(累次積分)として書けることが示される。すなわち、重積分は座標ごとに順番に積分して計算することができる。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "一変数の正値関数の積分が関数のグラフと x-軸との間の領域の面積を表すのと同様に、二変数の正値関数 f(x, y) の二重積分は関数の定義する曲面 z = f(x, y) と関数の定義域を含む平面との間の領域の体積を表す(同じ体積はこの領域を表す三次元の定数関数 F(x, y, z = f(x, y)) = 1 の三重積分としても求められる)。同じことはさらに変数の数を増やしても成立し、積分は高次元の超体積を表すことになるが、三次元より高次元の場合は視覚化は困難である。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "例えば、辺長が 4 × 6 × 5 の直方体の体積は以下の二通りの方法で求めることができる。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "積分の概念はもっと一般の積分領域にも拡張することができる。例えば曲線や曲面を積分領域とする積分は、それぞれ線積分や面積分と呼ばれる。これらはベクトル場を扱うような物理学に応用を持つ。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "線積分は曲線に沿って評価された関数の積分である。線積分にも様々なものがあり、特に閉曲線に関する線積分を周回積分などとも呼ぶ。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "積分の対象となる関数はスカラー場であるかもしれないし、ベクトル場であるかもしれない。線積分の値というのは、曲線上の各点における場の値に曲線上の適当なスカラー関数(普通は弧長、あるいはベクトル場に対しては曲線における接ベクトルとの内積)を重みとして掛けたものの和である。この重み付けこそが、線積分と通常の区間上で定義される積分とを区別するものである。物理学における簡単な公式の多くは、線積分を用いることで自然に連続的な類似対応物に書き換えることができる。例えば、力学における仕事が力 F と移動距離 s との積(ベクトル量としての点乗積)",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "に等しいという事実から、電場や重力場のようなベクトル場 F 内の曲線に沿って動く物体に対して、その物体が場によって及ぼされる仕事の総計が、s から s + ds まで移動する間に受ける仕事を足し合わせると考えることにより、線積分",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "で求められる。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "面積分は空間内の曲面の上で定義される定積分で、線積分の二次元的な類似物である。積分される関数はやはりスカラー場かもしれないしベクトル場かもしれない。面積分の値というのは、曲面上の各点における場の値の総和であり、曲面を面素に分割することによって得られるリーマン和の極限として構成される。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "面積分の応用例としては、曲面 S 上のベクトル場 v(つまり、S の各点 x に対して v(x) がベクトル)が与えられているとき、S を通過する流体で x における流体の速度が v(x) で与えられる状況を考えればよい。流束は単位時間当たりに S を通過する流体の量として定義される。流束を求めるためには、各点で v と単位法ベクトルとの点乗積をとる必要があり、その結果得られたスカラー場を曲面上で積分した",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "が流束の値を与える(S は S の適当な向きの単位法ベクトル場)。この例における流体の流束は、水や空気の流束あるいは電束や磁束といった物理的なものを想定することができる。このように面積分は物理学、特に電磁気学の古典論に応用を持つ。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "微分形式は多変数解析や微分幾何学およびテンソル論などの分野で用いられる数学的概念である。現代的な意味での微分形式は、その全体が外微分と楔積に関して(エリ・カルタンの導入した意味での)外積代数を成すものとして理解される。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "R の開集合 Ω 上で定義される 0-形式(0-次微分形式)とは単に(ここでは)Ω 上の滑らかな関数 f のことである。R の m-次元の部分空間 S 上での f の積分を",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "のように書く(上付きの数字は単に添字であって、冪指数の意味ではない)。微分形式の文脈では、dx から dx までを、リーマン和のように積分についている符牒ではなく、それ自体を形式的な対象として扱う。すなわち、これらはそれぞれ余ベクトル(1-形式、双対ベクトル)として捉えられ、「密度」を測るものと考えることができる(したがって一般の意味で積分することができる)。dx, ...,dx は基本 1-形式と呼ばれる。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "微分形式に対する楔積 \"∧\" は双線型な「乗法」で、基本 1-形式に対する交代性",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "を満足するものである。線型性と結合性を用いれば、この交代性から dx ∧ dx = −dx ∧ dx が出ることに注意せよ。これはまた、楔積を取った結果が向きを持つことを保証するものでもある。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "二つの基本 1-形式の楔積として得られる微分形式を基本 2-形式と呼び、同様に dx ∧ dx ∧ dx なる形で書ける微分形式を基本 3-形式と定める。以下同様に基本形式を定めるが、一般に k-形式(k-次微分形式)とは基本 k-形式に滑らかな関数 f による重み付けを行った重み付き和をいう。すなわち、k-形式の全体は、基本 k-形式を基底ベクトルとするベクトル空間を成し、その係数体として 0-形式の全体がとれる。k-形式同士の楔積は、基本 k-形式の楔積を線型に拡張したものとして自然に定義できる。R 上で、互いに線型独立な余ベクトルは高々 n-個しか取れないから、従って k > n のとき k-形式は常に 0 に等しいことが交代性から従う。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "微分形式の演算には、楔積に加えて、外微分作用素 d もある。これは k-形式を (k+1)-形式へ写す作用素で、R 上の k-形式 ω = f dx への d の作用は、",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "で与えられる(α は k-次の多重指数)。一般の k-形式へはこれを線型に拡張する。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "これをもう少し一般にしたやり方で、自然に座標を用いない多様体上の積分ができるようになり、また微分積分学の基本定理の自然な一般化として(広義の)ストークスの定理と呼ばれる定理が得られる。ストークスの定理は、一般の k-形式 ω に対して",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "が成り立つことを主張するものである。ただし ∂Ω は ω の積分領域 Ω の境界である。ω が 0-形式で Ω が実数直線内の閉区間である場合が微分積分学の基本定理にあたる。また、ω が 1-形式で Ω が平面上の二次元の領域であるときがグリーンの定理であり、同様に 2-形式あるいは 3-形式とホッジ双対を考えて(狭義の)ストークスの定理あるいは発散定理を得ることができる。このように微分形式は、積分を統一的に扱ための強力な方法を与えるものであることが分かる。",
"title": "一般化"
},
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"text": "しばしば積分の離散版として総和(和分)を捉える事が行われる。たとえば無限個の数の相加平均を積分として「解釈」して定式化することができるし、ルベーグ積分の文脈では数え上げ測度に関する積分として実際に総和が現れる。",
"title": "一般化"
}
] |
積分法は、微分法とともに微分積分学で対をなす主要な分野である。 説明での数式の書き方は広く普及しているライプニッツの記法に準ずる。 実数直線上の区間 [a, b] 上で定義される実変数 x の関数 f の定積分 は、略式的に言えば f のグラフと x 軸、および x = a と x = b で囲まれる xy 平面の領域の符号付面積として定義される。 「積分」(integral)という術語は、原始関数すなわち、微分して与えられた関数 f となるような別の関数 F の概念を指すこともあり、その場合不定積分と呼び、 のように書く。 積分法の原理は17世紀後半にニュートンとライプニッツが独立に定式化した。微分積分学の基本定理の発見により、それまで全く別々に発展していた積分法と微分法は深く関連付けられることになる。定理の主張は、f が閉区間 [a, b] 上の実数値連続関数ならば、f の原始関数 F が既知であるとき、その区間上における f の定積分は で与えられるというものである。こうして積分と微分が微分積分学の基本的な道具となり、科学や工学において様々な応用が成された。微分積分学の創始者たちは、積分を無限小の幅を持つ矩形の無限和と考えたが、数学的に厳密な積分の定義を与えたのはリーマンである。その定義は、曲線で囲まれた領域を薄い短冊に分解して領域の面積を近似する限定的な手順に基づくものであった。19世紀に入ってから、より洗練された積分の概念が現れ始め、積分が行える領域や関数の種類が一般化されていく。線積分は二変数や三変数の関数に対して定義され、積分区間 [a, b] を平面や空間の二点を繋ぐある種の曲線で置き換えるものになっている。同様に面積分は曲線ではなく三次元空間内の曲面を考えることで得られる。また、微分形式の積分は現代的な微分幾何学において基本的な役割を演じる。これらの積分の一般化はもとは物理学の要請から生じたものであり、多くの物理法則(特に古典電磁気学の諸法則)の定式化に重要な役割を果たした。 これらを含め、現代的な積分の概念は様々に存在する。最も流布している積分論は、ルベーグの創始した、ルベーグ積分と呼ばれる数学的な抽象論であろう。
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{{Redirect|積分|古典力学における保存量|運動の積分}}
{{Calculus}}
[[File:Integral example.svg|thumb|関数の定積分は、そのグラフによって囲まれる領域の符号付面積として表すことができる。]]
[[File:Что такое интеграл Анимация.gif|thumb|積分とは何か?(アニメーション)]]
'''積分法'''(せきぶんほう、{{lang-en-short|integral calculus}})は、[[微分法]]とともに[[微分積分学]]で対をなす主要な分野である。
説明での数式の書き方は広く普及している[[ライプニッツの記法]]に準ずる。
[[実数直線]]上の[[区間 (数学)|区間]] {{math|[''a'', ''b'']}} 上で定義される実変数 {{math|''x''}} の関数 {{math|''f''}} の'''定積分'''(独: bestimmtes Integral、英: definite integral、仏: intégrale définie)
: <math>\int_a^b f(x)\,\mathrm{d}x</math>
は、略式的に言えば {{math|''f''}} のグラフと {{math|''x''}} 軸、および {{math|''x'' {{=}} ''a''}} と {{math|''x'' {{=}} ''b''}} で囲まれる {{math|''xy''}} 平面の領域の符号付[[面積]]として定義される。
「'''積分'''」(integral)という術語は、[[原始関数]]すなわち、微分して与えられた関数 {{math|''f''}} となるような別の関数 {{math|''F''}} の概念を指すこともあり、その場合[[不定積分]]と呼び、
:<math>F = \int f(x)\,\mathrm{d}x</math>
のように書く。
積分法の原理は[[17世紀]]後半に[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]と[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]が独立に定式化した。[[微分積分学の基本定理]]の発見により、それまで全く別々に発展していた積分法と[[微分法]]は深く関連付けられることになる。定理の主張は、{{math|''f''}} が[[閉区間]] {{math|[''a'', ''b'']}} 上の実数値連続関数ならば、{{math|''f''}} の原始関数 {{math|''F''}} が既知であるとき、その区間上における {{math|''f''}} の定積分は
:<math>\int_a^b f(x)\,\mathrm{d}x = F(b) - F(a)</math>
で与えられるというものである。こうして積分と微分が微分積分学の基本的な道具となり、[[科学]]や[[工学]]において様々な応用が成された。微分積分学の創始者たちは、積分を[[無限小]]の幅を持つ矩形の無限和と考えたが、数学的に厳密な積分の定義を与えたのは[[ベルンハルト・リーマン|リーマン]]である。その定義は、曲線で囲まれた領域を薄い短冊に分解して領域の面積を近似する限定的な手順に基づくものであった。19世紀に入ってから、より洗練された積分の概念が現れ始め、積分が行える領域や関数の種類が一般化されていく。[[線積分]]は二変数や三変数の関数に対して定義され、積分区間 {{math|[''a'', ''b'']}} を平面や空間の二点を繋ぐある種の[[曲線]]で置き換えるものになっている。同様に[[面積分]]は曲線ではなく三次元空間内の[[曲面]]を考えることで得られる。また、[[微分形式]]の積分は現代的な[[微分幾何学]]において基本的な役割を演じる。これらの積分の一般化はもとは[[物理学]]の要請から生じたものであり、多くの物理法則(特に[[古典電磁気学]]の諸法則)の定式化に重要な役割を果たした。
これらを含め、現代的な積分の概念は様々に存在する。最も流布している積分論は、[[アンリ・ルベーグ|ルベーグ]]の創始した、[[ルベーグ積分]]と呼ばれる数学的な抽象論であろう。
== 歴史 ==
図形の面積や体積の求積法は、特殊なものに限れば古代からいくつも知られており、その起源は定かではないが、積分法の起源としては[[古代ギリシア]]の数学書[[ユークリッド原論]]にもある'''[[取り尽くし法]]'''(積尽法、窄出法、英: method of exhaustion、仏: méthode d’exhaustion、独: Exhaustionsmethode、拉: methodus exhaustionibus)などのいくつかの技法に求めることができるだろう。取り尽くし法はある領域の面積を無数の[[三角形]]で覆い尽くすことによって求めようとするものである。古代ギリシャでは、三角形を最も基本的な図形と捉えていたため、このような三角形による求積法が盛んであった。しかしたとえば、放物線(古くは抛物線とも)がある弦によって切り取られる面積を計算するような場合でさえ、いくらやっても三角形で覆い尽くすことはできないため、実際にはほとんどの領域で[[総和|無限和]]の計算をすることになる。この困難に対して[[アルキメデス]]は、今で言う[[イプシロン-デルタ論法|ε-δ論法]]によりこの問題を回避したようである。
[[1635年]]に[[カヴァリエリの原理]]が発表され、後に[[エヴァンジェリスタ・トリチェリ]]、[[ピエール・ド・フェルマー]]が同原理の考えを用い、回転体や多項式で表される図形の求積を行った<ref>{{Cite |和書 | author = 黒木哲徳 | title = なっとくする数学記号 | date = 2021 | pages = 78,79 | publisher = 講談社 | isbn = 9784065225509 | series = ブルーバックス | ref = harv }}</ref>。
17世紀後半になって[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]と[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]らにより微分法が発見されると、極めて技巧的な手段に頼っていた求積法は、[[原始関数]]と微分積分法の基本公式による一般的な方法で解かれることになる。18世紀にはベルヌーイらや[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]などによる無限小解析の発展・整備によって計算技巧は大いに発達したが、19世紀に入るとフーリエ級数の厳密な研究などを通して、初めて積分自体の意味を問わなければならない状況が生じるようになった。実際、積分の厳密な定義は、[[ベルンハルト・リーマン|リーマン]]によって論文「任意関数の三角級数による表現の可能性について」([[1854年]])の中で最初に与えられた。
20世紀に入ってすぐ、やはりフーリエ級数についてなど様々な解析学上の問題に刺激されて、[[アンリ・ルベーグ|ルベーグ]]は、面積や体積とは何かということに就いて深く考察することにより[[測度論]]を展開し、現在ルベーグ積分論と呼ばれているものをつくった。リーマン積分可能な関数(ただし広義積分は含めない)はルベーグ積分可能であるという意味では、ルベーグ積分はリーマンのそれの一般化になっている。ルベーグが測度論を用いて展開した[[ルベーグ積分]]は、彼の測度論がもつ極限との親和性と抽象性から、[[確率論]]、[[ヒルベルト空間論]]、[[調和解析]]など極めて広範な応用をもち、これらは物理学や工学などで基本的な道具として用いられることとなる。
ルベーグ積分以後もさらなる一般化がされた積分法がいくつか存在する。
== 導入 ==
積分は実用上の様々な状況に現れる。水泳プールが矩形状で、底面が平坦かつその長さ幅および深さが分かっているなら、プールに張ることのできる水の体積やプールの表面積やプールの縁の長さを容易に求めることができる。しかし、プールが卵形(楕円形)の丸い底面を持つ場合には、そういった量はどれも積分を用いる必要を生じる。実用上はこういった自明な例では近似法を用いれば十分であるかもしれないが、例えば(任意の領域の)[[精密工学]]ではそれらの要素の厳密値そのものが要求されることになる。
[[File:Integral approximations J.svg|300px|thumb|right|{{math|{{sqrt|''x''}}}} の {{math|0}} から {{math|1}} までの積分の近似:5個の<span style="color:#fec200">■</span>は右上の点を標本点として上からの評価を与え、10個の<span style="color:#009246">■</span>は左上の点を標本点として下からの評価を与える。]]
手始めに、{{math|''x'' {{=}} 0}} から {{math|''x'' {{=}} 1}} までの間で {{math|''f'' (''x'') {{=}} {{sqrt|''x''}}}} によって与えられる曲線 {{math|''y'' {{=}} ''f'' (''x'')}} を考え、
:{{math|''x'' {{=}} 0}} から {{math|''x'' {{=}} 1}} までの区間において {{math|''f''}} の下にある領域の面積はいくらか
という問いを立てて、この(未知の)面積を {{math|''f''}} の'''積分'''と呼んで
:<math> \int_0^1 \sqrt{x}\,{\rm d}x</math>
で書き表す。最初の近似として、各辺が {{math|''x'' {{=}} 0}} から {{math|''x'' {{=}} 1}} までと {{math|''y'' {{=}} ''f'' (0) {{=}} 0}} および {{math|''y'' {{=}} ''f'' (1) {{=}} 1}} で張られるような単位正方形を考えると、その面積はちょうど {{math|1}} である。実際には積分の真の値はこれよりも小さい。近似矩形の幅を減らせばよりよい結果が得られるはずであるから、近似のための分点を {{math|1/5}} 、{{math|2/5}} … と {{math|1}} までに亘ってとり、区間を横断的に5つの短冊に分け、各短冊の右上の端点を各曲線の小片の高さ {{math|{{sqrt|1/5}}}} 、{{math|{{sqrt|2/5}}}} … に合わせていくと、それらの矩形の面積の和をとることで、所期の積分の先ほどよりもよい近似値が
:<math> \sqrt {\frac {1} {5}} \left ( \frac {1} {5} - 0 \right ) + \sqrt {\frac {2} {5}} \left ( \frac {2} {5} - \frac {1} {5} \right ) + \cdots + \sqrt {\frac {5} {5}} \left ( \frac {5} {5} - \frac {4} {5} \right ) \fallingdotseq 0.7497</math>
のように得られることになる。一方、各短冊の左上の端点を各曲線の小片の高さ {{math|0}} 、{{math|{{sqrt|1/5}}}} … に合わせた場合の、それらの矩形の面積の和は同様の計算で近似値が {{math|0.5497}} となる。
関数 {{math|''f''}} の値に隣り合う分点の差を掛けたものを無限個足し合わせることになる点に注意すれば、分点の数をどんどん多くしていくのは容易である。そうして分点がどんどん近くなるような刻み幅にしていくとしてもそれは真の値になることはない。
5つの小区間を12に増やせば面積の近似値は前者の右上の端点を用いる計算の場合 {{math|0.7036}} 、後者の左上の端点を用いる計算の場合 {{math|0.6203}} となりその差分はより小さいものが得られる。鍵となる考え方は、分点の差に関数値を掛けて「無限個」足し合わせるということを、無限に細かい(あるいは無限小の)刻み幅に関数値を掛けた足し合わせに読み替えることである。
「実際の積分計算」に対しては、ニュートンとライプニッツによる[[微分積分学の基本定理]](微分と積分の基本的なつながりを示す定理)が利用される。これを先ほどの平方根関数 {{math|''f'' (''x'') {{=}} ''x''{{sup|1/2}}}} の例に適用すれば、その[[原始関数]] {{math|''f'' (''x'') {{=}} {{sfrac|2|3}} ''x''{{sup|3/2}}}} に対し、単に両端の値を代入した原始関数の差 {{math|''F'' (1) − ''F'' (0)}} を計算すればよい( {{math|0}} 、{{math|1}} は区間 {{math|[0, 1]}} の境界である)。従って、定積分(この曲線の下側の面積の「真の値」)は、機械的に
:<math> \int_0^1 \sqrt x \,{\rm }dx = \int_0^1 x^{\frac{1}{2}} \,{\rm d}x = F(1) -F(0) =\frac{2}{3}</math>
と計算することができる。
前述したとおり、短冊に分割した計算の結果は分割数を増やすほどこの値に近づく。
積分の記法
:<math> \int f(x)\,{\rm d}x</math>
は関数値 {{math|''f'' (''x'')}} に'''微分'''(微小変分)と呼ばれる無限小の刻み幅 {{math|d''x''}} を掛けたものたちの重み付き和を {{math|''S''}} を引き伸ばした <math>\int</math> によって表したものと見ることができる(掛け算の記号は省略されるのが一般的である)。
歴史的には、初期の無限小を厳密に解釈する試みが失敗したあと、リーマンが重み付き和の極限として積分を厳密に定義したものであって、それゆえに {{math|d''x''}} は差(つまり区間の幅)の極限を示唆したものということになる。リーマンの積分法には区間の制限や連続性の要求などからくる欠点があったことを契機として、新たな積分の定義が考え出された。特に[[ルベーグ積分]]は非常に柔軟な方法で「測度」の概念を拡張する方法に基づくものである。ルベーグ積分の記法
:<math>\int_A f(x)\,{\rm d}\mu</math>
は、各値に割り当てられた重みが {{math|''μ''}} となるような関数値の分割から得られる重み付き和を示唆するものである。ここに {{math|''A''}} は積分領域を表す。
[[微分幾何学]]で考察される「[[多様体]]上の微積分」には、微積分でよく使われている記法に別な解釈を与えることができる。この立場では、{{math|''f'' (''x'')}} と {{math|d''x''}} は[[微分形式]] {{math|''ω'' {{=}} ''f'' (''x'') d''x''}} として理解され、新たに[[外微分]]と呼ばれる[[微分作用素]] {{math|d}} が導入されて、微積分学の基本定理はより一般の[[ストークスの定理]]:
:<math> \int_A {\rm d}\omega =\int_{\partial A}\omega</math>
として述べることができる。ストークスの定理から[[グリーンの定理]]、ガウスの[[発散定理]]および微積分学の基本定理が導出できる。
もう少し新しいところでは、[[超準解析]]のような新しい現代的な手法を通じて、無限小が厳密な意味を持って再登場している。これらの方法は黎明期の直観を正当化するのみならず、新たな数学を切り開くものとなった。
これらの積分の概念の間には差異はあるけれども、多くの部分では重なっている。例えば、楕円形の水泳プールの表面積は、プールを幾何学的に楕円として扱って、無限小の和あるいはリーマン積分やルベーグ積分として計算しても、微分形式を備えた多様体として計算しても、結果として得られる値は皆同一である。
== 厳密な定義 ==
積分のきちんとした定義は様々な仕方があり、それらの全てが同値なわけではない。異なる定義が用いられるのは、その殆どが別な定義では積分が定義できない特別な場合に別な扱いを与えるためであるが、それだけでなく時に教育上の理由が介在することもある。最も広く用いられる積分法はリーマン積分とルベーグ積分である。
=== リーマン積分 ===
{{main|リーマン積分}}
[[file:Integral_Riemann_sum.png|thumb|right|リーマン和]]
実数 {{math|''a''}} 、{{math|''b''}} が {{math|''a'' < ''b''}} であるとき、[[区間 (数学)|区間]] {{math|''E'' {{=}} [''a'', ''b'']}} の[[区間の分割|分割]]とは、
: <math>a = x_0 < x_1 < \cdots < x_n = b</math>
となる点の組 {{math|(''x''{{sub|0}}, …, ''x{{sub|n}}'')}} のこと、あるいは
: <math>E = E_1 \cup \cdots \cup E_n \quad(E_i := [x_{i-1}, x_i])</math>
となる小区間からなる集合 {{math|1=Δ = {{mset|''E{{sub|i}}''}}}} のことである。各 {{mvar|x{{sub|i}}}} を区間 {{mvar|E}} の分点、各 {{mvar|E{{sub|i}}}} を区間 {{mvar|E}} の小区間または'''切片''' {{lang|en|(segment)}} という。また、分割 {{math|Δ}} の各切片について {{math|''ξ{{sub|i}}'' ∈ ''E{{sub|i}}''}} をあわせて考えるとき、{{math|1=Δ* = {{mset|(''E{{sub|i}}'', ''ξ{{sub|i}}'')}}}} を点付き分割 {{en|(tagged partition)}} という。
[[file:Riemann_sum_convergence.png|thumb|right|リーマン和が収斂する様子の模式図]]
区間 {{mvar|E}} の点付き分割 {{math|1=Δ* = {{mset|1=(''E{{sub|i}}'', ''ξ{{sub|i}}'') : ''E{{sub|i}}'' = [''x''{{sub|''i''−1}}, ''x{{sub|i}}''], ''ξ{{sub|i}}'' ∈ ''E{{sub|i}}''}}}} があたえられたとき、
:<math>\sum_{i=1}^n f(\xi_i)\delta x_i \quad(\delta x_i := x_i - x_{i-1})</math>
の形の和を、{{mvar|f}} の点付き分割 {{math|Δ*}} に関する'''[[リーマン和]]'''という。
分点の個数 {{math|''n'' + 1}} を十分大きく、切片の長さ {{math|{{abs|Δ}} {{coloneqq}} max{{mset|''δx{{sub|i}}''}}}} を十分小さくするような任意の分割に関して、リーマン和の極限が有限に確定するならば、その極限を関数 {{mvar|f}} のリーマン積分と称する。またこのとき、{{mvar|f}} は(区間 {{math|[''a'', ''b'']}} で)積分可能あるいは可積分(より厳密にはリーマン積分可能あるいはリーマン可積分)であるという。
{{seealso|ダルブー積分}}
リーマン和、リーマン積分に関連してダルブー(過剰・不足)和、ダルブー(上・下)積分を考察することは有効である。
区間 {{math|1=''E'' = [''a'', ''b'']}} の分割 {{math|1=Δ = {{mset|''E{{sub|i}}''}}}} に対して、
: <math>m_i := \inf\{f(x)\mid x\in E_i\},\quad M_i := \sup\{f(x)\mid x\in E_i\}</math>
とおくとき、
[[File:Darboux.svg|thumb|right|ある分割に対する下ダルブー和および上ダルブー和]]
: <math>s_{\Delta} = \sum^{n-1}_{i=0} m_i\delta x_i,\quad
S_{\Delta} = \sum^{n-1}_{i=0} M_i\delta x_i</math>
をそれぞれ、分割 {{math|Δ}} に関する {{mvar|f}} の'''下ダルブー和'''(不足和)、'''上ダルブー和'''(過剰和)という<ref>{{citation|title=A Course in Real Analysis|author= Hugo D. Junghenn|url={{google books|id=nE63BgAAQBAJ|page=107|text=Darboux+sums|plainurl=1}}|page=107}}</ref>。このとき、{{math|''m'' {{coloneqq}} min{{mset|''m{{sub|i}}''}}}}, {{math|''M'' {{coloneqq}} max{{mset|''M{{sub|i}}''}}}} とすれば
: <math> m(b-a) \le s_{\Delta} \le \sum_{\Delta} f(\xi_i)\delta x_i \le S_{\Delta} \le M(b-a)</math>
が満たされることは明らかである。とくに、{{mvar|f}} が有界ならば(分割 {{math|Δ}} のとり方に依らず)各辺の値はいずれも有限値となる。
ダルブーの定理は下ダルブー和 {{math|''s''{{sub|Δ}}}} の {{math|Δ}} に関する上限 {{mvar|s}}, 上ダルブー和 {{math|''S''{{sub|Δ}}}} の下限 {{mvar|S}} の存在をいうもので、リーマン和の極限に対して
: <math>s \le \lim_{|\Delta|\to 0}\sum_{\Delta} f(\xi_i)\delta x_i \le S</math>
なる評価が得られる。ここに現れた {{mvar|s}} を'''ダルブー下積分'''といい、{{mvar|S}} を'''ダルブー上積分'''という。しばしば、{{math|1=''s'' = ⨜{{su|b=''a''|p=''b''}} ''f''(''x'')''dx''}}, {{math|1=''S'' = ⨛{{su|b=''a''|p=''b''}} ''f''(''x'')''dx''}} のようにも書かれる<ref>{{cite book|和書|author=E.ハイラー、G.ヴァンナー|title=解析教程|translator=蟹江幸博|publisher=シュプリンガー・ジャパン|volume=下巻|edition=新装版|year=2006}}({{google books|id=zML3A8iCmeUC|page=63|title=解析教程 下}})</ref>。すなわち記号的に、
: <math>\underline{\int_{a}\!\!\!\!}^{\ \;b}f(x)\,dx\le \int_a^b f(x)\,dx\le \,\bar{\!\int_a\;}^{\!_{\scriptstyle b}} f(x)\,dx.</math>
これから明らかなように、それらが相等しく {{math|1=''s'' = ''S''}} となることは、リーマン積分が存在することの必要十分条件であり、上積分・下積分の何れかが存在しないか存在しても一致しないときは "リーマン積分不能" である。
=== ルベーグ積分 ===
{{main|ルベーグ積分}}
[[Image:RandLintegrals.png|thumb|250px|リーマン=ダルブー積分(青)とルベーグ積分(赤)]]
リーマン積分は広い範囲の関数や応用上重要な状況(および理論的に興味深い状況)では定義されないことも多い。例えば、鉄骨の密度を積分してその質量を得ることはリーマン積分で容易に求められるが、その上に静止している鉄球にまでは適応することができない。これが動機となって、より広い範囲の関数を積分することのできる新しい定義が生み出された{{Harv|Rudin|1987}}。特にルベーグ積分は、重み付き和の重み付けの方に注目することによってきわめて柔軟な性質を持つに至った。
ルベーグ積分の定義は[[測度]] {{math|''μ''}} を考えることから始まる。最も単純な場合は、区間 {{math|''A'' {{=}} [''a'', ''b'']}} の[[ルベーグ測度]] {{math|''μ''(''A'')}} を区間の幅 {{math|''μ''(''A'') {{Coloneqq}} ''b'' − ''a''}} で定義するもので、従ってルベーグ積分は、(狭義)リーマン積分と(両者が存在する限りは)一致する。より複雑な場合には、連続性も持たず、区間とは全く類似点の無いような、高度に断片化した様々な集合も測度を測ることができる。
このような柔軟性を十分に引き出すために、ルベーグ積分は重み付き和に対してリーマン積分とは「逆」なアプローチをとる。{{Harvtxt|Folland|1984|loc=p. 56}}に言わせると、「 {{math|''f''}} のリーマン積分を計算するには領域 {{math|[''a'', ''b'']}} を小区間に分割する」が、一方ルベーグ積分は「実質的に {{math|''f''}} の値域を分割する」ものである。
よくある仕方では、まず[[可測集合]] {{math|''A''}} の[[指示関数]]の積分の定義を
:<math>\int 1_{\!A}\,{\rm d}\mu = \mu(A)</math>
で与え、これを線型に拡張して、{{math|''n''}} 個の異なる非負の値をとる可測[[単関数]] {{math|''s''}} に対して
:<math>\begin{align}
\int s \, {\rm d}\mu &= \int\!\Biggl(\sum_{i\,=\,1}^n a_i 1_{\!A_i}\Biggr) {\rm d}\mu \\
&= \sum_{i=1}^n a_i\int 1_{\!A_i} \, {\rm d}\mu = \sum_{i=1}^n a_i \, \mu(A_i)
\end{align}</math>
と定める(ただし、可測集合 {{math|''A''{{sub|''i''}}}} たちは disjoint で、{{math|''A''{{sub|''i''}}}} の単関数 {{math|''s''}} による像が定数 {{math|''a''{{sub|''i''}}}} であるものとした)。また {{math|''E''}} を可測集合とすれば、その上での積分を、
:<math> \int_E s \, {\rm d}\mu = \sum_{i=1}^{n} a_i \, \mu(A_i \cap E)</math>
とおき、任意の非負値[[可測関数]] {{math|''f''}} については、下から {{math|''f''}} を近似する単関数 {{math|''s''}} の[[上限 (数学)|上限]]:
:<math>\int_E f \, d\mu = \sup\int_E s \, d\mu</math>
として {{math|''f''}} の積分を定義する。さらに一般の可測関数 {{math|''f''}} に対しては、それを正部分 {{math|''f''{{sup| +}}}} と負部分 {{math|''f''{{sup| −}}}}
:<math>\begin{align}
f^+(x) &{}= \begin{cases}
f(x), & \text{if } f(x) > 0 \\
0, & \text{otherwise}
\end{cases} \\[5pt]
f^-(x) &{}= \begin{cases}
-f(x), & \text{if } f(x) < 0 \\
0, & \text{otherwise}
\end{cases}
\end{align}</math>
に分割して、|''f''| := ''f''<sup>+</sup> + ''f''<sup>−</sup> に対し
:<math>\int_E |f| \, d\mu < \infty</math>
なるとき、''f'' はルベーグ可積分であるといい、''f'' の積分を
:<math>\int_E f \, d\mu = \int_E f^+ \, d\mu - \int_E f^- \, d\mu</math>
によって定める。
可測関数が定義される測度空間が[[局所コンパクト空間|局所コンパクト]]な[[位相空間]](よくあるのは実数全体の成す集合 '''R''')でもあるとき、測度はその位相と適当な意味で両立するもの([[ラドン測度]]: たとえばルベーグ測度などはそう)を考える。そのような測度に関する積分は、[[関数の台|コンパクト台]]付き[[連続関数]]の積分からはじめるような別な定義の仕方ができる。もっと具体的に述べれば、コンパクト台付き連続関数の全体は[[ベクトル空間]]を成し、自然な位相を入れることができて、その空間上の'''任意の'''[[線型汎関数]]を連続にするような(ラドン)測度を入れることができる。従って、コンパクト台付き函関数における測度の値はその関数の積分によっても定義できる。そこからさらに測度(=積分)をもっと一般の関数へ連続性によって拡張して、指示関数の積分として集合の測度を定めるのである。これは {{Harvtxt|Bourbaki|2004}} の取ったやり方であり、また他にも一定数の文献がこのやり方をしている。詳細は[[ラドン測度]]の項へ譲る。
=== その他の積分 ===
; リーマン=スティルチェス積分
: [[リーマン=スティルチェス積分]]は有界変動の関数 φ を使ったリーマン積分の拡張。
:: <math>\int_{a}^{b} f(x) d\varphi(x) = \lim \sum f(\xi)\delta\varphi</math>
: φ(''x'') = ''x'' のときは通常のリーマン積分であり、φ が可微分で φ' が連続なら、密度を持つリーマン積分
:: <math>\int_{a}^{b} f(x)d\varphi(x) = \int_{a}^{b} f(x)\varphi'(x)dx</math>
: の形になる。
; ルベーグ=スティルチェス積分
: [[ルベーグ=スティルチェス積分]]は[[ルベーグ積分]]やリーマン=スティルチェス積分の拡張。加法的集合関数の変動が定める測度に関するルベーグ式の積分
:: <math>\int_X f(x)\,d\Phi(x)</math>
: であり、[[ヨハン・ラドン]]が詳しく調べた。
; ダニエル積分
: [[ダニエル積分]]は積分を[[線型汎関数]]として定義する。これは測度の概念を必ずしも必要としないにもかかわらず、ルベーグ積分やルベーグ=スティルチェス積分を含む広範な積分概念を与える。
; リーマン型積分
: 通常のリーマン積分は、積分区間の分割の幅を一様に 0 に近づけたときの対応するリーマン和の極限として定義されるが、リーマン和の取り方や分割の幅の縮めかたを変えることによってさまざまな積分を定義でき、このように定義される積分をリーマン型積分という。たとえば、[[マクシェイン積分]]、[[ヘンストック・クルツヴァイル積分]]などの[[ゲージ積分]]がリーマン型積分である。
; ヤング積分
: [[ヤング積分]]はリーマン=スティルチェス積分の一般化で、[[有界変動函数|有界変動]]関数を用いる代わりに非有界な変動の関数を用いたもの。
; 確率積分
: [[伊藤積分]]や[[ストラトノヴィッチ積分]]などの[[ウィーナー過程|ブラウン運動]]を伴う確率過程に対する積分
; 不変積分
: [[数論]]や[[表現論]]の周辺分野でよく用いられる、[[局所コンパクト群]]上で定義される不変測度([[ハール測度]])に関するルベーグ式の積分。ルベーグ積分は、実数全体が加法に関して成す局所コンパクトアーベル群 '''R''' 上の不変測度としてルベーグ測度をとった不変積分である(この場合の不変は平行移動不変性を指して言う)。
== 性質 ==
=== 被積分関数に関する線型性 ===
有界閉区間 [''a'', ''b''] 上のリーマン可積分関数全体の成す集合は、[[点ごとの加法]] ((''f'' + ''g'')(''x'') := ''f''(''x'') + ''g''(''x'')) とスカラー乗法 ((α''f'')(''x'') := α''f''(''x'')) のもとでベクトル空間になり、そのような関数に対して積分をとる操作
:<math> f \mapsto \int_a^b f \,dx</math>
はこのベクトル空間上の[[線型汎関数]]になる。これはつまり、ひとつは可積分関数の全体が[[線型結合]]をとる操作に関して閉じていること、そしてもうひとつ
:<math> \int_a^b (\alpha f + \beta g)(x)\,dx = \alpha\int_a^b f(x)\,dx + \beta\int_a^b g(x)\,dx</math>
のように、線型結合の積分が積分の線型結合として表されることを言っているものである。
同様に、測度 μ を持つ[[測度空間]] ''E'' 上の実数値ルベーグ可積分関数全体の成す集合は、線型結合について閉じていて線型空間を成し、ルベーグ積分をとる操作
: <math> f\mapsto \int_E f d\mu </math>
はその線型空間上の線型汎関数、すなわち
:<math> \int_E (\alpha f + \beta g)\,d\mu = \alpha\int_E f\,d\mu + \beta\int_E g\,d\mu</math>
を満たす。
より一般に、測度空間 (''E'', μ) 上で定義され[[局所コンパクト空間|局所コンパクト]][[位相体]] ''K'' 上の局所コンパクト[[完備距離空間|完備]][[位相線型空間]] ''V'' に値を持つ[[可測関数]] ''f'': ''E'' → ''V'' 全体の成すベクトル空間を考えるとき、各関数 ''f'' に対して ''V'' の元若しくは記号 ∞ を割り当てる写像
:<math>I\colon f\mapsto I(f):=\int_E f d\mu</math>
で線型結合と両立する(つまり ''I''(α''f'' + β''g'') = α''I''(''f'') + β''I''(''g'') を満たす)ものとして、抽象積分を定義することができる。この状況下で、積分が有限(すなわち割り当てられる値が ''V'' の元)であるような関数全体の成す部分空間を考えても、線型性は保たれる。このような形で最も重要な特別な場合が生じるのは、''K'' が[[実数]]体 '''R''', 複素数体 '''C''' 若しくは[[p進数| ''p''-進数]]体 '''Q'''<sub>''p''</sub> の有限次拡大([[代数体]])かつ ''V'' が[[ハメル次元|有限次元]]ベクトル空間であるときであり、また ''K'' = '''C''' かつ ''V'' が複素[[ヒルベルト空間]]であるときである。
線型性に、何らかの自然な連続性と、ある種の「単純な」関数のクラスに対する正規性とを併せて考えることにより、積分の別な定義法を与えることができる。このようなやり方をするものに(集合 ''X'' 上の実数値関数の場合の)[[ダニエル積分]]があり、また[[ニコラブルバキ|ブルバキ]]により局所コンパクト位相線型空間に値をとる関数にまで一般化されたものがある。積分の公理的な特徴づけについては {{Harv|Hildebrandt|1953}} を参照されたい。
=== 積分不等式 ===
; 平均値の定理
: <math>\inf_{a\le x\le b}\{f(x)\} \le \frac{1}{b-a}\int_{a}^{b}f(x)\,dx \le \sup_{a\le x\le b}\{f(x)\}</math>
; 被積分関数に対する積分の単調性
: <math>f(x) \le g(x) \mbox{ for }\forall x\in [a,b] \Rightarrow \int_a^b f(x)dx \le \int_a^b g(x)dx </math>
; 積分区間に対する積分の単調性
: <math>f(x) \ge 0 \mbox{ for }\forall x\in [a,b],\quad [c,d]\subseteq [a,b] \Rightarrow \int_c^d f(x)dx \le \int_a^b f(x)dx</math>
=== その他の性質 ===
; 積分区間に対する加法性
: <math>\int_{a}^{\xi}f(x)\,dx + \int_{\xi}^{b}f(x)\,dx = \int_{a}^{b}f(x)\,dx</math>
; 置換積分法
:(''a'' = ''x''(α), ''b'' = ''x''(β) なる条件の下)
: <math>\int_{a}^{b} f(x)dx = \int_{\alpha}^{\beta} f(x(t)) {dx \over dt} dt.</math>
; 部分積分法
: <math>\int_{a}^{b} f'(x)g(x) dx = [f(x)g(x)]_{a}^{b} - \int_{a}^{b} f(x)g'(x) dx.</math>
=== いくつかの注意 ===
''a'' < ''b'' ならば、''a'' を下端、''b'' を上端とするリーマン積分は区間 [''a'', ''b''] の分割からさだまるリーマン和の極限として定義されるが、''a'' > ''b'' のときは区間 [''a'', ''b''] 自体が存在しないのでそのままではリーマン和も考えることができない。しかし規約として ''a'' > ''b'' のときは
: <math>\int_a^b f(x)dx := -\int_b^a f(x)dx</math>
あるいはもっと記号的に
: <math>\int_a^b := -\int_b^a</math>
であるものとすることがしばしば行われる。この規約の元では区間に対する加法性
: <math>\int_a^b = \int_a^\gamma + \int_\gamma^b</math>
は分点 γ が γ < ''a'', ''a'' ≤ γ < ''b'', ''b'' ≤ γ のいずれであるかに関わらず成立する。もっと一般に、向き付けられた ''d''-次元多様体 ''M'' が与えられたとき、その向きを逆にして得られる多様体を ''M''<sup>op</sup> とし、ω を微分 ''d''-形式とすれば
: <math>\int_M \omega = -\int_{M^\text{op}}\omega</math>
が成り立つ。これに対し、ルベーグ積分の文脈では '''R''' の有限区間 ''E'' = [''a'', ''b''] 上の積分
: <math>\int_E f(x)dx = \int_{[a,b]} f(x)dx := \int_{\mathbb{R}}\chi_E(x)f(x)dx</math>
とは、''E'' の指示関数 χ<sub>''E''</sub> における汎関数 ''dx'' の値であり、''b'' < ''a'' ならば ''E'' は空集合で χ<sub>''E''</sub> が恒等的に 0 となるから積分値は 0 である。
== 微分積分学の基本定理 ==
{{main|微分積分学の基本定理}}
'''微分積分学の基本定理'''は[[微分法]]と積分法が互いに逆の演算であることを述べるもので、連続関数を積分したものを微分すると、もとの関数に戻ることを示している。これにより、第二基本定理とも呼ばれる重要な帰結として、[[原始関数]]が既に知られている関数の定積分の計算はその原始関数を用いて計算できるようになる。
特に、これらの定理は ''f'' が [''a'', ''b''] 上で連続である限り成立する。不連続関数や多変数関数への一般化は必ずしも正しくないが、一定の条件下では様々存在し、例えば[[ストークスの定理]]などはそのようなものとして理解することができる。
=== 基本定理の主張 ===
; 第一基本定理: ''f'' を[[閉区間]] [''a'', ''b''] 上で定義された[[実数]]値可積分関数、''F'' を [''a'', ''b''] 上の各点 ''x'' に対して<div style="margin: 1ex 2em;"><math>
F(x) = \int_a^x f(t)\,dt
</math></div>で定義される関数とすると、''F'' は [''a'', ''b''] 上[[連続関数|連続]]である。さらに ''f'' が [''a'', ''b''] 上の点 ''x'' で連続ならば ''F'' は ''x'' において[[可微分]]で、''F''′ = ''f''(''x'') が成立する。
; 第二基本定理: ''f'' を閉区間 [''a'', ''b''] 上で定義される実数値可積分関数で、''F'' が [''a'', ''b''] の各点 ''x'' で ''F''′(''x'') = ''f''(''x'') となる関数(つまり、''f'' の[[原始関数]])とすると、<div style="margin: 1ex 2em;"><math>
\int_a^b f(t)\,dt = F(b) - F(a)
</math></div>が成立する。
== 一般化 ==
=== 広義リーマン積分 ===
{{main|広義積分}}
無限区間における積分('''無限積分''')、無限大に発散する点を含む区間における積分('''異常積分'''、''improper integral'')など。極限により定まる。
: <math>\begin{align}
\int_{a}^{\infty} f(x) dx & := \lim_{r \to \infty} \int_{a}^{r} f(x)dx,\\
\int_{-\infty}^{\infty} f(x) dx & := \lim_{s \to -\infty\atop r \to \infty} \int_{s}^{r} f(x)dx,\\
\int_{0}^{1} {dx \over x^2} & :=
\lim_{\varepsilon \to +0} \int_{\varepsilon}^{1} {dx \over x^2}.
\end{align}</math>
これらの極限値が有限値に定まるとき、'''広義リーマン積分可能'''であるという。一方、広義リーマン積分可能でなくとも極限のとりかたを限定するとき極限値が有限確定に存在することがある。たとえば
: <math>\int_{-1}^{1} {1 \over x} =
\lim_{\varepsilon_1 \to -0} \int_{-1}^{\varepsilon_1} {dx \over x} +
\lim_{\varepsilon_2 \to +0} \int_{\varepsilon_2}^{1} {dx \over x}
</math>
はいわゆる −∞ + ∞ の形の不定形であり、ε<sub>1</sub>, ε<sub>2</sub> の 0 への近づきかたにより値が異なるため、広義リーマン積分可能でない。しかしながら ε<sub>1</sub> = −ε<sub>2</sub> という特殊な場合には
: <math>\mbox{p.v.}\int_{-1}^{1} {1 \over x} =
\lim_{\varepsilon \to +0}
\left(
\int_{-1}^{-\varepsilon} {dx \over x} + \int_{\varepsilon}^{1} {dx \over x}
\right)
= 0</math>
となる。このように上下から同等の速さで特異点に近づける極限で現れる値を[[コーシーの主値]]という。
=== 重積分 ===
{{main|重積分}}
[[File:Volume under surface.png|right|thumb|曲面の下にある体積としての二重積分]]
区間以外の積分領域を考えることもできる。一般に写像 ''f'' の集合 ''E'' 上でとった積分を
:<math>\int_E f(x) \, dx</math>
で表す。このとき、''x'' として必ずしも実数でないほかの適当な量、例えば '''R'''<sup>3</sup> の[[幾何ベクトル|ベクトル]]などである場合を考えることができる。[[フビニの定理]]によれば、そのような積分が'''[[逐次積分]]'''(累次積分)として書けることが示される。すなわち、重積分は座標ごとに順番に積分して計算することができる。
一変数の正値関数の積分が関数のグラフと ''x''-軸との間の領域の[[面積]]を表すのと同様に、二変数の正値関数 ''f''(''x'', ''y'') の'''二重積分'''は関数の定義する曲面 ''z'' = ''f''(''x'', ''y'') と関数の定義域を含む平面との間の領域の[[体積]]を表す(同じ体積はこの領域を表す三次元の定数関数 ''F''(''x'', ''y'', ''z'' = ''f''(''x'', ''y'')) = 1 の'''三重積分'''としても求められる)。同じことはさらに変数の数を増やしても成立し、積分は高次元の[[超体積]]を表すことになるが、三次元より高次元の場合は視覚化は困難である。
例えば、辺長が 4 × 6 × 5 の[[直方体]]の体積は以下の二通りの方法で求めることができる。
* 直方体の底面である ''xy''-平面上の領域 ''D'' 上で定数関数 ''f''(''x'', ''y'') = 5 の二重積分<div style="margin: 1ex 2em;"><math>
\iint_D 5\,dx\,dy
</math></div>は所期の直方体の体積を与える。例えば、直方体の底面矩形が ''x'', ''y'' の不等式 2 ≤ ''x'' ≤ 6, 3 ≤ ''y'' ≤ 9 で与えられているならば、上の二重積分は<div style="margin: 1ex 2em;"><math>
\int\limits_3^9\!\!\int\limits_2^6 5\,dx\,dy
</math></div>のことと読み替えることができる。このあと、積分を ''x'' と ''y'' のいずれから先に計算すべきなのかであるが、この例では内側の積分、つまり ''x'' に対応する区間で ''x'' に関する積分を先に行う。内側の積分を ''F''(''b'') − ''F''(''a'') を計算する方法などで求めた後は、得られた結果を残りの変数に関して再び積分すれば、底面と上面に挟まれた領域(つまり所期の直方体)の体積が求められる。
* 直方体自身の上で取った定数関数 1 の三重積分<div style="margin: 1ex 2em;"><math>
\iiint\limits_\text{cuboid} 1 \, dx\, dy\, dz
</math></div>としても所期の体積が計算できる。
=== 線積分 ===
{{main|線積分}}
[[File:Line-Integral.gif|right|thumb|線積分は曲線に沿って元を足し合わせる]]
積分の概念はもっと一般の積分領域にも拡張することができる。例えば曲線や曲面を積分領域とする積分は、それぞれ線積分や面積分と呼ばれる。これらは[[ベクトル場]]を扱うような物理学に応用を持つ。
'''線積分'''は[[曲線]]に沿って評価された関数の積分である。線積分にも様々なものがあり、特に閉曲線に関する線積分を'''周回積分'''などとも呼ぶ。
積分の対象となる関数は[[スカラー場]]であるかもしれないし、[[ベクトル場]]であるかもしれない。線積分の値というのは、曲線上の各点における場の値に曲線上の適当なスカラー関数(普通は[[弧長]]、あるいはベクトル場に対しては曲線における接ベクトルとの内積)を重みとして掛けたものの和である。この重み付けこそが、線積分と通常の[[区間 (数学)|区間]]上で定義される積分とを区別するものである。物理学における簡単な公式の多くは、線積分を用いることで自然に連続的な類似対応物に書き換えることができる。例えば、力学における[[仕事 (物理学)|仕事]]が[[力 (物理学)|力]] '''F''' と移動距離 '''s''' との積(ベクトル量としての点乗積)
:<math>W=\mathbf{F\cdot s}</math>
に等しいという事実から、[[電場]]や[[重力場]]のような[[ベクトル場]] '''F''' 内の曲線に沿って動く物体に対して、その物体が場によって及ぼされる仕事の総計が、'''s''' から '''s''' + ''d'''''s''' まで移動する間に受ける仕事を足し合わせると考えることにより、線積分
:<math>W=\int_C \mathbf{F}\cdot d\mathbf{s}</math>
で求められる。
=== 面積分 ===
{{main|面積分}}
[[File:Surface integral illustration.svg|right|thumb|面積分は曲面を微小な面素に分割して足し合わせることの極限として定義される。]]
'''面積分'''は空間内の[[曲面]]の上で定義される定積分で、[[線積分]]の二次元的な類似物である。積分される関数はやはり[[スカラー場]]かもしれないし[[ベクトル場]]かもしれない。面積分の値というのは、曲面上の各点における場の値の総和であり、曲面を面素に分割することによって得られるリーマン和の極限として構成される。
面積分の応用例としては、曲面 ''S'' 上のベクトル場 '''v'''(つまり、''S'' の各点 ''x'' に対して '''v'''(''x'') がベクトル)が与えられているとき、''S'' を通過する流体で ''x'' における流体の速度が '''v'''('''x''') で与えられる状況を考えればよい。[[流束]]は単位時間当たりに ''S'' を通過する流体の量として定義される。流束を求めるためには、各点で '''v''' と単位[[法ベクトル]]との[[点乗積]]をとる必要があり、その結果得られたスカラー場を曲面上で積分した
:<math>\int_S {\mathbf v}\cdot \,d{\mathbf {S}}</math>
が流束の値を与える('''S''' は ''S'' の適当な向きの単位法ベクトル場)。この例における流体の流束は、水や空気の流束あるいは電束や磁束といった物理的なものを想定することができる。このように面積分は[[物理学]]、特に[[電磁気学]]の[[古典論]]に応用を持つ。
=== 微分形式の積分 ===
{{main|微分形式の積分}}
[[微分形式]]は[[多変数解析]]や[[微分幾何学]]および[[テンソル論]]などの分野で用いられる数学的概念である。現代的な意味での微分形式は、その全体が[[外微分]]と[[楔積]]に関して([[エリ・カルタン]]の導入した意味での)[[外積代数]]を成すものとして理解される。
'''R'''<sup>''n''</sup> の[[開集合]] Ω 上で定義される 0-形式(0-次微分形式)とは単に(ここでは)Ω 上の[[滑らかな関数]] ''f'' のことである。'''R'''<sup>''n''</sup> の ''m''-[[ハメル次元|次元]]の部分空間 ''S'' 上での ''f'' の積分を
:<math>\int_S f\,dx^1 \cdots dx^m</math>
のように書く(上付きの数字は単に添字であって、冪指数の意味ではない)。微分形式の文脈では、''dx''<sup>1</sup> から ''dx''<sup>''n''</sup> までを、[[リーマン和]]のように積分についている符牒ではなく、それ自体を形式的な対象として扱う。すなわち、これらはそれぞれ[[余ベクトル]](1-形式、双対ベクトル)として捉えられ、「密度」を[[測度|測るもの]]と考えることができる(したがって一般の意味で積分することができる)。''dx''<sup>1</sup>, …,''dx''<sup>''n''</sup> は'''基本'''[[線型形式| 1-'''形式''']]と呼ばれる。
微分形式に対する[[外積代数|楔積]] "∧" は[[双線型写像|双線型]]な「乗法」で、基本 1-形式に対する'''交代性'''
: <math>dx^a \wedge dx^a = 0</math>
を満足するものである。線型性と結合性を用いれば、この交代性から ''dx''<sup>''b''</sup> ∧ ''dx''<sup>''a''</sup> = −''dx''<sup>''a''</sup> ∧ ''dx''<sup>''b''</sup> が出ることに注意せよ。これはまた、楔積を取った結果が[[向き]]を持つことを保証するものでもある。
二つの基本 1-形式の楔積として得られる微分形式を'''基本''' 2-'''形式'''と呼び、同様に ''dx''<sup>''a''</sup> ∧ ''dx''<sup>''b''</sup> ∧ ''dx''<sup>''c''</sup> なる形で書ける微分形式を'''基本''' 3-'''形式'''と定める。以下同様に基本形式を定めるが、一般に ''k''-形式(''k''-次'''微分形式''')とは基本 ''k''-形式に滑らかな関数 ''f'' による重み付けを行った重み付き和をいう。すなわち、''k''-形式の全体は、基本 ''k''-形式を基底ベクトルとする[[ベクトル空間]]を成し、その係数体として 0-形式の全体がとれる。''k''-形式同士の楔積は、基本 ''k''-形式の楔積を線型に拡張したものとして自然に定義できる。'''R'''<sup>''n''</sup> 上で、互いに線型独立な余ベクトルは高々 ''n''-個しか取れないから、従って ''k'' > ''n'' のとき ''k''-形式は常に 0 に等しいことが交代性から従う。
微分形式の演算には、楔積に加えて、[[外微分]]作用素 ''d'' もある。これは ''k''-形式を (''k''+1)-形式へ写す作用素で、'''R'''<sup>''n''</sup> 上の ''k''-形式 ω = ''f'' ''dx''<sup>α</sup> への ''d'' の作用は、
:<math>d\omega = \sum_{i=1}^n \frac{\partial f}{\partial x_i} dx^i \wedge dx^{\alpha}</math>
で与えられる(α は ''k''-次の[[多重指数]])。一般の ''k''-形式へはこれを線型に拡張する。
これをもう少し一般にしたやり方で、自然に座標を用いない[[多様体]]上の積分ができるようになり、また[[微分積分学の基本定理]]の自然な一般化として(広義の)[[ストークスの定理]]と呼ばれる定理が得られる。ストークスの定理は、一般の ''k''-形式 ω に対して
:<math>\int_{\Omega} d\omega = \int_{\partial\Omega} \omega</math>
が成り立つことを主張するものである。ただし ∂Ω は ω の積分領域 Ω の[[境界 (位相空間論)|境界]]である。ω が 0-形式で Ω が実数直線内の閉区間である場合が[[微分積分学の基本定理]]にあたる。また、ω が 1-形式で Ω が平面上の二次元の領域であるときが[[グリーンの定理]]であり、同様に 2-形式あるいは 3-形式と[[ホッジ双対]]を考えて(狭義の)[[ストークスの定理 (ベクトル解析)|ストークスの定理]]あるいは[[発散定理]]を得ることができる。このように微分形式は、積分を統一的に扱ための強力な方法を与えるものであることが分かる。
=== 総和法 ===
しばしば積分の離散版として総和(和分)を捉える事が行われる。たとえば無限個の数の[[相加平均]]を積分として「解釈」して定式化することができるし、ルベーグ積分の文脈では[[数え上げ測度]]に関する積分として実際に総和が現れる。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2015年12月}}
* [[ベルンハルト・リーマン]]、[[足立恒雄]]・[[杉浦光夫]]・[[長岡亮介 (数学者)|長岡亮介]]訳『リーマン論文集』[[朝倉書店]]、2004年 ISBN 978-4-254-114607
* [[猪狩惺]]『実解析入門』[[岩波書店]]
* [[新井仁之]]『ルベーグ積分講義』[[日本評論社]]
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| 和書
| last1 = 杉浦
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| title = 解析入門I
| series = 基礎数学2
| publisher = 東京大学出版会
| isbn = 978-4-13-062005-5
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* {{Cite book
| 和書
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| first1 = 清三
| year = 2008
| title = ルベーグ積分入門
| series = 数学選書4
| edition = 第46版
| publisher = 裳華房
| isbn = 978-4-7853-1304-3
| ref = harv
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* {{Citation | last=Apostol | first=Tom M. | author-link=Tom M. Apostol | title=Calculus, Vol. 1: One-Variable Calculus with an Introduction to Linear Algebra | year=1967 | edition=2nd | publisher=[[John Wiley & Sons|Wiley]] | isbn=978-0-471-00005-1}}
* {{Citation | last=Bourbaki| first=Nicolas | author-link=Nicolas Bourbaki | title=Integration I | year=2004 | publisher=[[Springer Science+Business Media|Springer Verlag]] | isbn=3-540-41129-1}}. In particular chapters III and IV.
* {{Citation | last=Burton | first=David M. | title=The History of Mathematics: An Introduction | edition=6th | year=2005<!--November 8--> | publisher=[[McGraw-Hill]] | isbn=978-0-07-305189-5 | page=359}}
* {{Citation | last=Cajori | first=Florian | author-link=Florian Cajori | title=A History Of Mathematical Notations Volume II | year=1929 | publisher=[[Open Court Publishing Company|Open Court Publishing]] | url=https://archive.org/details/historyofmathema027671mbp | isbn=978-0-486-67766-8 | pages=247–252}}
* {{Citation | last1=Charron | first1=Gilles | last2= Parent | first2=Pierre | author-link=Gilles Charron | title = Calcul intégral manuel | publisher=[[Beauchemin]] | year=2004 }}
* {{Citation | last1=Dahlquist | first1=Germund | author1-link=Germund Dahlquist | last2=Björck | first2=Åke | title=Numerical Methods in Scientific Computing, Volume I | publisher=[[Society for Industrial and Applied Mathematics|SIAM]] | location=Philadelphia | year=2008 | url=http://www.mai.liu.se/~akbjo/NMbook.html | chapter=Chapter 5: Numerical Integration}}
* {{Citation | last = Folland | first = Gerald B.| title=Real Analysis: Modern Techniques and Their Applications | edition=1st | publisher=[[John Wiley & Sons]] | year = 1984 | isbn=978-0-471-80958-6 }}
* {{Citation | last=Fourier | first=Jean Baptiste Joseph | author-link=Joseph Fourier | title=Théorie analytique de la chaleur | year=1822 | publisher=Chez Firmin Didot, père et fils | url=https://books.google.co.jp/books?id=TDQJAAAAIAAJ&redir_esc=y&hl=ja | page=§231}}<br />Available in translation as {{citation | last=Fourier | first=Joseph | title=The analytical theory of heat | year=1878<!--original 1822--> | publisher=[[Cambridge University Press]] | url=https://archive.org/details/analyticaltheory00fourrich | others=Freeman, Alexander (trans.) | pages=200–201}}
* {{Citation | editor-last=Heath | editor-first=T. L. | editor-link=T. L. Heath | title = The Works of Archimedes | year = 2002 | publisher = [[Dover Publications|Dover]] | isbn = 978-0-486-42084-4 | url = https://archive.org/details/worksofarchimede029517mbp }}<br />(Originally published by [[Cambridge University Press]], 1897, based on J. L. Heiberg's Greek version.)
* {{Citation | last=Hildebrandt | first=T. H. | author-link= | title=Integration in abstract spaces | journal=[[Bulletin of the American Mathematical Society]] | volume=59 | number=2 | year=1953 | pages=111–139 | url=http://projecteuclid.org/euclid.bams/1183517761 | issn=0273-0979}}
* {{Citation | last1=Kahaner | first1=David | last2=Moler | first2=Cleve | author2-link=Cleve Moler | last3=Nash | first3=Stephen | title=Numerical Methods and Software | year=1989 | publisher=[[Prentice Hall]] | chapter=Chapter 5: Numerical Quadrature | isbn=978-0-13-627258-8 }}
* {{Citation | last=Leibniz | first=Gottfried Wilhelm | author-link=Gottfried Wilhelm Leibniz | title=Der Briefwechsel von Gottfried Wilhelm Leibniz mit Mathematikern. Erster Band | editor-last=Gerhardt | editor-first=Karl Immanuel | place=Berlin | publisher=Mayer & Müller | year=1899 | url=http://name.umdl.umich.edu/AAX2762.0001.001}}
* {{Citation | last=Miller | first=Jeff | title=Earliest Uses of Symbols of Calculus | url=http://jeff560.tripod.com/calculus.html | accessdate=2009-11-22}}
* {{Citation | last1=O’Connor | first1=J. J. | last2=Robertson | first2=E. F. | title=A history of the calculus | year=1996 | url=http://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/HistTopics/The_rise_of_calculus.html | accessdate=2007-07-09 }}
* {{Citation | last=Rudin | first=Walter | author-link=Walter Rudin | title=Real and Complex Analysis | year=1987 | edition=International | publisher=[[McGraw-Hill]] | chapter=Chapter 1: Abstract Integration | isbn=978-0-07-100276-9}}
* {{Citation | last=Saks | first=Stanisław | author-link=Stanisław Saks | title=Theory of the integral | url=http://matwbn.icm.edu.pl/kstresc.php?tom=7&wyd=10&jez= | edition= English translation by L. C. Young. With two additional notes by Stefan Banach. Second revised | publisher= Dover | place=New York | year=1964 }}
* {{Citation | last=Salas | first=S.L. | author-link=S.L. Salas | title = Calculus: Einführung in die Differential- und Integralrechnung | publisher=[[Spektrum Akademischer Verlag]] | year=1994 | isbn=978-3-86025-1300}}
* {{Citation | last1=Stoer | first1=Josef | last2=Bulirsch | first2=Roland | year=2002 | title=Introduction to Numerical Analysis | edition=3rd | publisher=[[Springer Science+Business Media|Springer]] | chapter=Chapter 3: Topics in Integration | isbn=978-0-387-95452-3 }}.
* {{Citation | author=W3C | year=2006<!--January--> | title=Arabic mathematical notation<!--W3C Interest Group Note 31--> | url=http://www.w3.org/TR/arabic-math/}}
* ビラン・ドゥ・アーン:「定積分表」、現代工学社(1977年4月15日)。
* Daniel Zwillinger:"Handbook of Integration",AK Peters,ISBN 0-86720-293-9 (1992).
* Daniel Zwillinger (Ed.): "Standard Mathematical Tables and Formulae",CRC Press,ISBN 1-43983548-9 (2011).
* I. S. Gradshteyn and M. Ryzhik, edited by Daniel Zwillinger and Victor Moll: "Table of Integrals, Series, and Products" (8th ed.),Academic Press、ISBN 978-0123849335 (2014年10月2日).
== 関連項目 ==
* [[微分法]]
* [[不定積分]]
* [[積分方程式]]
* [[ガウス求積]]
* [[積分器]]
* [[置換積分]]
* [[部分積分]]
* [[対数積分]]
* [[微分積分学]]
* [[解析学]]
* [[原始関数の一覧]]
* [[三角関数の原始関数の一覧]]
* [[逆三角関数の原始関数の一覧]]
* [[対数関数の原始関数の一覧]]
* [[積の微分法則]]
* [[商の微分法則]]
== 外部リンク ==
{{ウィキプロジェクトリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics blue-p.svg|34px|Project:数学]]}}
{{ウィキポータルリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics-p.svg|34px|Portal:数学]]}}
* {{MathWorld|urlname=Integral|title=Integral}}
* {{PlanetMath|urlname=DefiniteIntegral|title=definite integral}}
* [http://www.khanacademy.org/video/introduction-to-definite-integrals?playlist=Calculus] by [[Khan Academy]]
=== オンライン本 ===
* Keisler, H. Jerome, [http://www.math.wisc.edu/~keisler/calc.html Elementary Calculus: An Approach Using Infinitesimals], University of Wisconsin
* Stroyan, K.D., [http://www.math.uiowa.edu/~stroyan/InfsmlCalculus/InfsmlCalc.htm A Brief Introduction to Infinitesimal Calculus], University of Iowa
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* Crowell, Benjamin, [http://www.lightandmatter.com/calc/ ''Calculus''], Fullerton College, an online textbook
* Garrett, Paul, [http://www.math.umn.edu/~garrett/calculus/ Notes on First-Year Calculus]
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爆弾
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爆弾(ばくだん、独: Bombe)とは、爆発による熱や衝撃などによって対象とする生物や物体を殺傷、破壊するための兵器である。一般に、爆薬とそれを装填する容器、信管などの発火装置で構成される。なお、兵器以外でも、発破などの民間利用に用いられる同様の装置を指して爆弾と呼ぶことがある。トンネル工事などに用いられる事もある。
軍事利用の面では、特に航空機から投下される航空機搭載爆弾を指して爆弾の語が使われる。他にも爆薬を使った兵器として、小型で人力により投射される手榴弾、水中に投下される機雷や爆雷、大砲から投射するものを榴弾、推進装置を持つ物をロケット弾、さらに誘導装置まで持つものをミサイルと呼ぶ。ただし、推進装置は持たないが誘導装置を持つ物は一般的に誘導爆弾に分類される。
爆弾は、爆発させたときに爆風と破片によって周囲の目標物を破壊または人員を殺傷するように設計されている。そのほかに、中性子爆弾のように大量の中性子線を放射、生物への攻撃を主目的とし、物的・経済的損失をできる限り抑える(戦後の鹵獲(ろかく)・接収を目的とする)爆弾もある。
通常は固体の爆薬が用いられているが、気体相の爆発現象を利用する燃料気化爆弾という例外もある。
爆弾の起爆タイミングの制御には、時計、遠隔装置、各種センサー、レーダーなどが使われている。内部に充填された爆薬への点火は、信管によって行われ、これが動作すると急速に反応を起こして爆発するものが一般に良く知られている。
爆弾は戦争でよく使われるほか、テロリズムでも使われる。
爆弾は人の作った物である以上動作不良を起こす事があり、予期しない時に爆発する場合もあれば、使用したのに爆発しない場合もある。特に後者は不発弾とも呼ばれ、安全装置が外れている事から、非常に危険な状態として扱われる。この危険性は経年変化によって減少するわけではなく(特に内部の爆薬は数十年経った後でも劣化しないことがある)、一般人がみだりに触れるのは禁物である。日本では太平洋戦争中に使用された爆弾の不発弾が現在でも発見されることがあり、その場合は自衛隊によって処理される。
爆弾には様々な種類があり、破壊する対象や用法によって工夫されている。単純に破壊する範囲を拡大させるために威力の増強を目指した物もあれば、破壊する対象の種類や方向を限定させた物などがある。
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爆弾とは、爆発による熱や衝撃などによって対象とする生物や物体を殺傷、破壊するための兵器である。一般に、爆薬とそれを装填する容器、信管などの発火装置で構成される。なお、兵器以外でも、発破などの民間利用に用いられる同様の装置を指して爆弾と呼ぶことがある。トンネル工事などに用いられる事もある。 軍事利用の面では、特に航空機から投下される航空機搭載爆弾を指して爆弾の語が使われる。他にも爆薬を使った兵器として、小型で人力により投射される手榴弾、水中に投下される機雷や爆雷、大砲から投射するものを榴弾、推進装置を持つ物をロケット弾、さらに誘導装置まで持つものをミサイルと呼ぶ。ただし、推進装置は持たないが誘導装置を持つ物は一般的に誘導爆弾に分類される。
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{{Otheruses|兵器|その他|爆弾 (曖昧さ回避)}}
{{出典の明記|date=2013年6月}}
[[画像:500LB.jpg|thumb|250px|空対地普通爆弾(500LB爆弾)の訓練弾]]
'''爆弾'''(ばくだん、{{lang-de-short|Bombe}})とは、[[爆発]]による[[熱]]や[[衝撃]]などによって[[対象]]とする[[生物]]や[[物体]]を[[殺傷]]、[[破壊]]するための[[兵器]]である。一般に、[[爆薬]]とそれを装填する[[容器]]、[[信管]]などの[[発火]][[装置]]で構成される。なお、兵器以外でも、[[発破]]などの民間利用に用いられる同様の装置を指して爆弾と呼ぶことがある。トンネル工事などに用いられる事もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.thr.mlit.go.jp/iwaki/jigyo/juumonji/pdf/juumonji_kairyou_1709.pdf |title=発破(爆破)掘削を行っています! |format=PDF |publisher=国土交通省 東北地方整備局 磐城国道事務所 |date=2016-09 |accessdate=2022-12-05}}</ref>。
軍事利用の面では、特に航空機から投下される[[航空機搭載爆弾]]を指して爆弾の語が使われる。他にも爆薬を使った兵器として、小型で人力により投射される[[手榴弾]]、[[水中]]に投下される[[機雷]]や[[爆雷]]、[[大砲]]から投射するものを[[榴弾]]、[[推進装置]]を持つ物を[[ロケット弾]]、さらに誘導装置まで持つものを[[ミサイル]]と呼ぶ。ただし、推進装置は持たないが誘導装置を持つ物は一般的に[[誘導爆弾]]に分類される。
== 概要 ==
爆弾は、爆発させたときに[[爆風]]と破片によって周囲の目標物を[[破壊]]または人員を殺傷するように設計されている。そのほかに、[[中性子爆弾]]のように大量の中性子線を放射、生物への攻撃を主目的とし、物的・経済的損失をできる限り抑える(戦後の[[鹵獲]](ろかく)・接収を目的とする)爆弾もある。
通常は固体の[[爆薬]]が用いられているが、気体相の爆発現象を利用する[[燃料気化爆弾]]という例外もある。
爆弾の起爆タイミングの制御には、[[時計]]、[[リモコン|遠隔装置]]、各種[[センサー]]、[[レーダー]]などが使われている。内部に充填された[[爆薬]]への点火は、[[信管]]によって行われ、これが動作すると急速に反応を起こして爆発するものが一般に良く知られている。
爆弾は[[戦争]]でよく使われるほか、[[テロリズム]]でも使われる。<!--現在最も威力の大きな爆弾は、[[水素爆弾]]である。また現在、[[核爆弾]]以外で最も威力のある爆弾は、[[Massive Ordnance Air Blast bomb]] (MOAB) である。-->
爆弾は人の作った物である以上動作不良を起こす事があり、予期しない時に爆発する場合もあれば、使用したのに爆発しない場合もある。特に後者は'''[[不発弾]]'''とも呼ばれ、[[安全装置]]が外れている事から、非常に危険な状態として扱われる。'''この危険性は経年変化によって減少するわけではなく(特に内部の爆薬は数十年経った後でも劣化しないことがある)、一般人がみだりに触れるのは禁物である。'''日本では太平洋戦争中に使用された爆弾の不発弾が現在でも発見されることがあり、その場合は[[自衛隊]]によって処理される。
== 爆弾の種類 ==
爆弾には様々な種類があり、破壊する対象や用法によって工夫されている。単純に破壊する範囲を拡大させるために威力の増強を目指した物もあれば、破壊する対象の種類や方向を限定させた物などがある。
=== 軍事目的の爆弾 ===
* [[核爆弾]]
** [[原子爆弾]]([[核分裂反応|核分裂]]爆弾)
** [[水素爆弾]]([[核融合反応|核融合]]爆弾)
*** [[中性子爆弾]]
* [[焼夷弾]]
** [[ナパーム弾]]
* [[燃料気化爆弾]]
* [[クラスター爆弾]]
* [[デイジーカッター]]
* [[地中貫通爆弾]]
* [[無誘導爆弾]]
* [[誘導爆弾]]
* [[ロケット弾]]
* [[手榴弾]]
* [[地雷]]
* [[時限爆弾]]
* [[石炭爆弾]]
=== 特殊な爆弾 ===
* [[風船爆弾]]
* [[電磁波爆弾]]
* [[停電爆弾]]
=== テロリズム関連 ===
* [[時限爆弾]]
* [[即席爆発装置]](IED)
* [[車爆弾]]
* [[パイプ爆弾]]
* [[郵便爆弾]]
* [[汚い爆弾]]
*: [[放射性物質]]を飛散させる事を目的としており、直接的な威力よりも核汚染が問題となる。テロによる使用も懸念されており、核物質の管理を強める一因ともなっている。また、飛散した放射性物質を除去するには長い時間がかかる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|Bombs}}
* [[爆発]]
* [[爆破]]
* [[爆傷]]
== 外部リンク ==
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水戸藩
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水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。水府藩とも呼ばれる。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。御三家の一つである。
常陸は佐竹氏が豊臣秀吉によって54万5,800石の支配をそのまま認められていたが、関ヶ原の戦いの際に佐竹義宣は徳川方に加担しなかったため、慶長7年(1602年)に出羽久保田21万石に減転封された。
佐竹氏の後、水戸城には下総佐倉藩より徳川家康の五男武田信吉が15万石で入ったが、翌1603年に信吉は21歳で病死した。信吉の死により翌月、家康の十男で当時2歳の長福丸(徳川頼宣)が新たに20万石で水戸に入封する。1604年、5万石の加増を受け25万石となる。
1606年、頼宣は元服した際に常陸介に叙任されているが、1609年に駿河・遠江・東三河(駿府藩)50万石を与えられて転封し、1619年には和歌山藩55万石に転封した。頼宣は紀伊徳川家の祖となった。
頼宣は2歳から8歳まで水戸藩主であったが、この間一度も水戸に入っておらず、駿府にて家康の膝元で過ごしたといわれている。実務は財政面を蘆沢信重が、行政面を関東郡代伊奈忠次が執った。1609年(1602年、1617年、1621年とも)の秋に、小生瀬村(現:大子町小生瀬)で、年貢を巡る農民と藩役人の行き違いにより、藩が小生瀬村の住人を皆殺しにする事件が起こった(生瀬騒動)。藩の役人が年貢を取りに来て農民は納めたが、また別の役人が年貢を取りに来たこと(年貢の二重取り)に対して怒った農民たちが、後から来た役人を偽物と判断してその一人を殺害した。これに対し10月10日、蘆沢信重が藩兵を出兵させて生瀬村の農民を皆殺しにしたという。この事件に関しては、藩の公式記録には一切触れられず、伝承と関連した地名が残るのみである。
頼宣のあとに、頼宣の同母弟である家康の十一男で当時6歳の鶴千代(徳川頼房)が下総下妻藩より25万石で入った。頼房以降の藩主家を水戸徳川家と呼ぶ。頼房も頼宣と同様に、幼少年時は水戸に赴かず駿府・江戸にあり、1619年に初めて水戸に入る。1622年、3万石を加増され28万石となる。のち3代藩主綱條時代の1701年、新田開発の分を含めるとして表高を35万石に改めたが、この高直しはかなり無理があったようである。
水戸藩は徳川御三家の中でも唯一参勤交代を行わない江戸定府の藩であり、万が一の変事に備えて将軍目代の役目を受け持っていたともいわれている。そのため、水戸藩主は領地に不在のまま統治を行わねばならず、物価の高い江戸生活、江戸と領地の家臣の二重化などを強いられた上、格式を優先して実態の伴わない石直し(表高改訂)を行ったため、内高が表高を恒常的に下回っていた。幕府に対する軍役は表高を基礎に計算され、何事も35万石の格式を持って行う必要性があったため、財政難に喘ぐこととなった。
頼房は事情により三男光圀を継嗣とし、庶長子松平頼重は讃岐高松藩12万石を与えられた。光圀は学問を好み、『大日本史』の編纂を開始し、水戸藩に尊王の気風を植え付けた。水戸藩で生まれた水戸学は幕末の尊皇攘夷運動に強い影響を与えた。
3代藩主綱條は、宝永2年に浪人の松波勘十郎を登用して財政改革を実施したが、宝永6年(1709年)の百姓一揆で3000人もの百姓が江戸へ出て様々な集団的示威行動を取ったため、やむなく年貢増徴の撤回や松波の罷免を行い、改革は挫折した。宝永の改革に失敗し、4代藩主宗堯が短い期間の統治で没し、5代藩主宗翰が幼少で水戸藩を継承したおりには、8代将軍徳川吉宗により付家老中山信昌ほかの水戸家の重臣が呼び出され、幼君の輔育と一和忠勤を直接命じられた。さらに、吉宗以降に御三家の幕府による統制が強化される中、寛延2年には、御連枝(支藩の藩主)の松平頼寛(陸奥守山藩)と松平頼済(常陸府中藩)が老中堀田正亮の役邸に呼び出され、財政改革の実施を命じられた。このため宗翰は宝暦の改革と呼ばれる藩政改革を実施し、太田資胤に命じて財政再建を進めたが、宝暦6年に資胤が致仕すると頓挫した。安永7年には、幕府が再び水戸藩の家老に直接細かい指示を与えて財政再建を命じた。6代藩主治保は幕命に従って倹約に努め、藩主就任以来24年ぶりにお国入りを果たして寛政の改革に乗り出したが、天明の大飢饉によって財政はさらに悪化した。
尾張藩、紀州藩が藩主の血統断絶、幕府からの財政援助、独立志向の附家老による幕府統制への迎合などにより、御三卿や将軍家から藩主を迎えたのに対し、水戸藩では高松松平家からの養子により藩祖の血統を守った。継嗣なく死去した8代藩主斉脩の後継問題では、清水家から恒之丞(徳川斉彊)を養子に迎えようとする派閥と、藤田幽谷の門人らを中心とした藩祖血統の維持派が対立し、斉脩の三弟である斉昭が家督を継いだ。
9代藩主斉昭は藩政の改革と幕政への参加を志し、藤田派を中心に人材登用を行うとともに、藩内の保守派の中心となり幕府との連携を果たそうとする付家老の勢力を削ぐため、一般家臣と同じ知行制に組み込んだ。財政を圧迫した藩主と付家老の江戸定府制度についても、1年ごとの交代制に改めた。教育改革についても弘道館を建設して整備を行い、水戸学が藩論に強い影響を与えることになった。しかし、強い尊王攘夷傾向のため幕府に疎まれ、長男の慶篤に家督を譲って隠居を余儀なくされた。また斉昭は、財政難の中で新規召し抱えを行ったため、藩財政は窮乏を極めた。斉昭の隠居後には改革派の藤田東湖らも免職・蟄居となった。
10代藩主となった慶篤は、3連枝(高松藩主松平頼胤、守山藩主松平頼誠、府中藩主松平頼縄)の後見のもとで藩政を行った。なお、15代将軍徳川慶喜は慶篤の実弟であるが、御三卿の一つ一橋家を継いでから将軍になった。斉昭には他にも多くの男子があり、親藩・外様を問わず多くの藩に養子に出されている。
水戸藩は幕末には斉昭が存在感を示したものの、藩内では保守派(諸生党)と改革派(天狗党)の抗争から統制を失い、藩士による桜田門外の変、天狗党の乱、弘道館戦争を招くとともに、藩論統一と財政難を克服することができず、幕末政局で主導権を握ることができなかった。
水戸藩領は廃藩置県により、水戸県を経て、茨城県に編入された。
親藩 - 15万石
親藩 - 20万石→25万石
親藩 - 25万石→28万石→35万石 ※1636年(寛永13年)7月以前は松平姓
水戸藩には頼房の子を藩祖とし、いざという時に本家を継承する支藩(当主が御連枝と呼ばれる)が4家(四連枝)あった。
明治維新後に、茨城郡21村(幕府領6村、旗本領17村)、新治郡1村(旗本領)、相模国三浦郡1村(寺社領)、鎌倉郡11村(寺社領6村、幕府領5村、旗本領2村)、天塩国苫前郡、天塩郡、中川郡、上川郡、北見国利尻郡が加わった。なお相給も存在するため、村数の合計は一致しない。
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"text": "1606年、頼宣は元服した際に常陸介に叙任されているが、1609年に駿河・遠江・東三河(駿府藩)50万石を与えられて転封し、1619年には和歌山藩55万石に転封した。頼宣は紀伊徳川家の祖となった。",
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"text": "頼宣は2歳から8歳まで水戸藩主であったが、この間一度も水戸に入っておらず、駿府にて家康の膝元で過ごしたといわれている。実務は財政面を蘆沢信重が、行政面を関東郡代伊奈忠次が執った。1609年(1602年、1617年、1621年とも)の秋に、小生瀬村(現:大子町小生瀬)で、年貢を巡る農民と藩役人の行き違いにより、藩が小生瀬村の住人を皆殺しにする事件が起こった(生瀬騒動)。藩の役人が年貢を取りに来て農民は納めたが、また別の役人が年貢を取りに来たこと(年貢の二重取り)に対して怒った農民たちが、後から来た役人を偽物と判断してその一人を殺害した。これに対し10月10日、蘆沢信重が藩兵を出兵させて生瀬村の農民を皆殺しにしたという。この事件に関しては、藩の公式記録には一切触れられず、伝承と関連した地名が残るのみである。",
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"text": "頼宣のあとに、頼宣の同母弟である家康の十一男で当時6歳の鶴千代(徳川頼房)が下総下妻藩より25万石で入った。頼房以降の藩主家を水戸徳川家と呼ぶ。頼房も頼宣と同様に、幼少年時は水戸に赴かず駿府・江戸にあり、1619年に初めて水戸に入る。1622年、3万石を加増され28万石となる。のち3代藩主綱條時代の1701年、新田開発の分を含めるとして表高を35万石に改めたが、この高直しはかなり無理があったようである。",
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"text": "水戸藩は徳川御三家の中でも唯一参勤交代を行わない江戸定府の藩であり、万が一の変事に備えて将軍目代の役目を受け持っていたともいわれている。そのため、水戸藩主は領地に不在のまま統治を行わねばならず、物価の高い江戸生活、江戸と領地の家臣の二重化などを強いられた上、格式を優先して実態の伴わない石直し(表高改訂)を行ったため、内高が表高を恒常的に下回っていた。幕府に対する軍役は表高を基礎に計算され、何事も35万石の格式を持って行う必要性があったため、財政難に喘ぐこととなった。",
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"text": "頼房は事情により三男光圀を継嗣とし、庶長子松平頼重は讃岐高松藩12万石を与えられた。光圀は学問を好み、『大日本史』の編纂を開始し、水戸藩に尊王の気風を植え付けた。水戸藩で生まれた水戸学は幕末の尊皇攘夷運動に強い影響を与えた。",
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"text": "3代藩主綱條は、宝永2年に浪人の松波勘十郎を登用して財政改革を実施したが、宝永6年(1709年)の百姓一揆で3000人もの百姓が江戸へ出て様々な集団的示威行動を取ったため、やむなく年貢増徴の撤回や松波の罷免を行い、改革は挫折した。宝永の改革に失敗し、4代藩主宗堯が短い期間の統治で没し、5代藩主宗翰が幼少で水戸藩を継承したおりには、8代将軍徳川吉宗により付家老中山信昌ほかの水戸家の重臣が呼び出され、幼君の輔育と一和忠勤を直接命じられた。さらに、吉宗以降に御三家の幕府による統制が強化される中、寛延2年には、御連枝(支藩の藩主)の松平頼寛(陸奥守山藩)と松平頼済(常陸府中藩)が老中堀田正亮の役邸に呼び出され、財政改革の実施を命じられた。このため宗翰は宝暦の改革と呼ばれる藩政改革を実施し、太田資胤に命じて財政再建を進めたが、宝暦6年に資胤が致仕すると頓挫した。安永7年には、幕府が再び水戸藩の家老に直接細かい指示を与えて財政再建を命じた。6代藩主治保は幕命に従って倹約に努め、藩主就任以来24年ぶりにお国入りを果たして寛政の改革に乗り出したが、天明の大飢饉によって財政はさらに悪化した。",
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"text": "尾張藩、紀州藩が藩主の血統断絶、幕府からの財政援助、独立志向の附家老による幕府統制への迎合などにより、御三卿や将軍家から藩主を迎えたのに対し、水戸藩では高松松平家からの養子により藩祖の血統を守った。継嗣なく死去した8代藩主斉脩の後継問題では、清水家から恒之丞(徳川斉彊)を養子に迎えようとする派閥と、藤田幽谷の門人らを中心とした藩祖血統の維持派が対立し、斉脩の三弟である斉昭が家督を継いだ。",
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"text": "9代藩主斉昭は藩政の改革と幕政への参加を志し、藤田派を中心に人材登用を行うとともに、藩内の保守派の中心となり幕府との連携を果たそうとする付家老の勢力を削ぐため、一般家臣と同じ知行制に組み込んだ。財政を圧迫した藩主と付家老の江戸定府制度についても、1年ごとの交代制に改めた。教育改革についても弘道館を建設して整備を行い、水戸学が藩論に強い影響を与えることになった。しかし、強い尊王攘夷傾向のため幕府に疎まれ、長男の慶篤に家督を譲って隠居を余儀なくされた。また斉昭は、財政難の中で新規召し抱えを行ったため、藩財政は窮乏を極めた。斉昭の隠居後には改革派の藤田東湖らも免職・蟄居となった。",
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"text": "10代藩主となった慶篤は、3連枝(高松藩主松平頼胤、守山藩主松平頼誠、府中藩主松平頼縄)の後見のもとで藩政を行った。なお、15代将軍徳川慶喜は慶篤の実弟であるが、御三卿の一つ一橋家を継いでから将軍になった。斉昭には他にも多くの男子があり、親藩・外様を問わず多くの藩に養子に出されている。",
"title": "藩史"
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"text": "水戸藩は幕末には斉昭が存在感を示したものの、藩内では保守派(諸生党)と改革派(天狗党)の抗争から統制を失い、藩士による桜田門外の変、天狗党の乱、弘道館戦争を招くとともに、藩論統一と財政難を克服することができず、幕末政局で主導権を握ることができなかった。",
"title": "藩史"
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"text": "水戸藩領は廃藩置県により、水戸県を経て、茨城県に編入された。",
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"text": "親藩 - 15万石",
"title": "歴代藩主"
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"text": "親藩 - 20万石→25万石",
"title": "歴代藩主"
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"text": "親藩 - 25万石→28万石→35万石 ※1636年(寛永13年)7月以前は松平姓",
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"text": "水戸藩には頼房の子を藩祖とし、いざという時に本家を継承する支藩(当主が御連枝と呼ばれる)が4家(四連枝)あった。",
"title": "支藩"
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"text": "明治維新後に、茨城郡21村(幕府領6村、旗本領17村)、新治郡1村(旗本領)、相模国三浦郡1村(寺社領)、鎌倉郡11村(寺社領6村、幕府領5村、旗本領2村)、天塩国苫前郡、天塩郡、中川郡、上川郡、北見国利尻郡が加わった。なお相給も存在するため、村数の合計は一致しない。",
"title": "幕末の領地"
}
] |
水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。水府藩とも呼ばれる。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。御三家の一つである。
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[[ファイル:水戸藩邸跡石碑.jpg|thumb|200px|水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側)]]
{{Location map |Japan
|label=水戸藩<br>親藩<br>35万石
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'''水戸藩'''(みとはん)は、[[常陸国|常陸]]にあって現在の[[茨城県]]中部・北部を治めた[[藩]]。水府藩とも呼ばれる。藩庁は[[水戸城]]([[水戸市]])に置かれた。[[徳川御三家|御三家]]の一つである。
== 藩史 ==
=== 水戸徳川家以前 ===
常陸は[[佐竹氏]]が[[豊臣秀吉]]によって54万5,800石の支配をそのまま認められていたが、[[関ヶ原の戦い]]の際に[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]は徳川方に加担しなかったため、[[慶長]]7年([[1602年]])に[[出羽国|出羽]][[久保田藩|久保田]]21万石に減転封された。
佐竹氏の後、水戸城には[[下総国|下総]][[佐倉藩]]より[[徳川家康]]の五男[[武田信吉]]が15万石で入ったが、翌[[1603年]]に信吉は21歳で病死した。信吉の死により翌月、家康の十男で当時2歳の長福丸([[徳川頼宣]])が新たに20万石で水戸に入封する。1604年、5万石の加増を受け25万石となる。
1606年、頼宣は[[元服]]した際に常陸介に叙任されているが、1609年に[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]・東[[三河国|三河]]([[駿府藩]])50万石を与えられて転封し、1619年には[[紀州藩|和歌山藩]]55万石に転封した。頼宣は[[紀州徳川家|紀伊徳川家]]の祖となった。
頼宣は2歳から8歳まで水戸藩主であったが、この間一度も水戸に入っておらず、駿府にて家康の膝元で過ごしたといわれている。実務は財政面を[[蘆沢信重]]が、行政面を[[関東郡代]][[伊奈忠次]]が執った。[[1609年]]([[1602年]]、[[1617年]]、[[1621年]]とも)の秋に、小生瀬村(現:[[大子町]]小生瀬)で、年貢を巡る農民と藩役人の行き違いにより、藩が小生瀬村の住人を皆殺しにする事件が起こった([[生瀬騒動]])。藩の役人が年貢を取りに来て農民は納めたが、また別の役人が年貢を取りに来たこと(年貢の二重取り)に対して怒った農民たちが、後から来た役人を偽物と判断してその一人を殺害した。これに対し10月10日、蘆沢信重が藩兵を出兵させて生瀬村の農民を皆殺しにしたという。この事件に関しては、藩の公式記録には一切触れられず、伝承と関連した地名が残るのみである。
=== 水戸徳川家時代 ===
{{See also|水戸徳川家}}
頼宣のあとに、頼宣の同母弟である家康の十一男で当時6歳の鶴千代([[徳川頼房]])が下総[[下妻藩]]より25万石で入った。頼房以降の藩主家を[[水戸徳川家]]と呼ぶ。頼房も頼宣と同様に、幼少年時は水戸に赴かず駿府・江戸にあり、[[1619年]]に初めて水戸に入る。[[1622年]]、3万石を加増され28万石となる。のち3代藩主[[徳川綱條|綱條]]時代の[[1701年]]、新田開発の分を含めるとして[[表高]]を35万石に改めたが、この高直しはかなり無理があったようである。
水戸藩は[[徳川御三家]]の中でも唯一[[参勤交代]]を行わない江戸[[定府]]の藩であり、万が一の変事に備えて[[征夷大将軍|将軍]]目代の役目を受け持っていたともいわれている。そのため、水戸藩主は領地に不在のまま統治を行わねばならず、物価の高い江戸生活、江戸と領地の家臣の二重化などを強いられた上、格式を優先して実態の伴わない石直し(表高改訂)を行ったため、[[内高]]が[[表高]]を恒常的に下回っていた。幕府に対する軍役は表高を基礎に計算され、何事も35万石の格式を持って行う必要性があったため、財政難に喘ぐこととなった。
頼房は事情により三男[[徳川光圀|光圀]]を継嗣とし、庶長子[[松平頼重]]は[[讃岐国|讃岐]][[高松藩]]12万石を与えられた。光圀は学問を好み、『[[大日本史]]』の編纂を開始し、水戸藩に[[尊王論|尊王]]の気風を植え付けた。水戸藩で生まれた[[水戸学]]は[[幕末]]の[[尊皇攘夷|尊皇攘夷運動]]に強い影響を与えた。
3代藩主[[徳川綱條|綱條]]は、宝永2年に浪人の[[松波良利|松波勘十郎]]を登用して財政改革を実施したが、宝永6年(1709年)の[[百姓一揆]]で3000人もの百姓が江戸へ出て様々な集団的示威行動を取ったため、やむなく年貢増徴の撤回や松波の罷免を行い、改革は挫折した<ref>深井雅海『綱吉と吉宗』2012年、吉川弘文館</ref>。宝永の改革に失敗し、4代藩主[[徳川宗堯|宗堯]]が短い期間の統治で没し、5代藩主[[徳川宗翰|宗翰]]が幼少で水戸藩を継承したおりには、8代将軍[[徳川吉宗]]により[[御附家老|付家老]][[中山信昌]]ほかの水戸家の重臣が呼び出され、幼君の輔育と一和忠勤を直接命じられた。さらに、吉宗以降に御三家の幕府による統制が強化される中、[[寛延]]2年には、[[御連枝]](支藩の藩主)の[[松平頼寛]]([[陸奥国|陸奥]][[守山藩]])と[[松平頼済]](常陸[[常陸府中藩|府中藩]])が[[老中]][[堀田正亮]]の役邸に呼び出され、財政改革の実施を命じられた。このため宗翰は宝暦の改革と呼ばれる藩政改革を実施し、[[太田資胤]]に命じて財政再建を進めたが、宝暦6年に資胤が致仕すると頓挫した。安永7年には、幕府が再び水戸藩の家老に直接細かい指示を与えて財政再建を命じた。6代藩主[[徳川治保|治保]]は幕命に従って倹約に努め、藩主就任以来24年ぶりにお国入りを果たして寛政の改革に乗り出したが、[[天明の大飢饉]]によって財政はさらに悪化した。
尾張藩、紀州藩が藩主の血統断絶、幕府からの財政援助、独立志向の附家老による幕府統制への迎合などにより、[[御三卿]]や将軍家から藩主を迎えたのに対し、水戸藩では[[高松松平家]]からの養子により藩祖の血統を守った。継嗣なく死去した8代藩主[[徳川斉脩|斉脩]]の後継問題では、[[清水徳川家|清水家]]から恒之丞([[徳川斉彊]])を養子に迎えようとする派閥と、[[藤田幽谷]]の門人らを中心とした藩祖血統の維持派が対立し、斉脩の三弟である[[徳川斉昭|斉昭]]が家督を継いだ。
9代藩主[[徳川斉昭|斉昭]]は藩政の改革と幕政への参加を志し、藤田派を中心に人材登用を行うとともに、藩内の保守派の中心となり幕府との連携を果たそうとする付家老の勢力を削ぐため、一般家臣と同じ知行制に組み込んだ。財政を圧迫した藩主と付家老の江戸定府制度についても、1年ごとの交代制に改めた。教育改革についても[[弘道館]]を建設して整備を行い、[[水戸学]]が藩論に強い影響を与えることになった。しかし、強い尊王攘夷傾向のため幕府に疎まれ、長男の[[徳川慶篤|慶篤]]に家督を譲って隠居を余儀なくされた。また斉昭は、財政難の中で新規召し抱えを行ったため、藩財政は窮乏を極めた。斉昭の隠居後には改革派の[[藤田東湖]]らも免職・蟄居となった。
10代藩主となった[[徳川慶篤|慶篤]]は、3連枝(高松藩主[[松平頼胤]]、守山藩主[[松平頼誠]]、府中藩主[[松平頼縄]])の後見のもとで藩政を行った。なお、15代将軍[[徳川慶喜]]は慶篤の実弟であるが、[[御三卿]]の一つ[[一橋徳川家|一橋家]]を継いでから将軍になった。斉昭には他にも多くの男子があり、親藩・外様を問わず多くの藩に養子に出されている。
水戸藩は幕末には斉昭が存在感を示したものの、藩内では保守派([[諸生党]])と改革派([[天狗党]])の抗争から統制を失い、藩士による[[桜田門外の変]]、[[天狗党の乱]]、[[弘道館戦争]]を招くとともに、藩論統一と財政難を克服することができず、幕末政局で主導権を握ることができなかった。
水戸藩領は[[廃藩置県]]により、水戸県を経て、茨城県に編入された。
== 歴代藩主 ==
;武田家
[[親藩]] - 15万石
#[[武田信吉]]
;紀伊徳川家
親藩 - 20万石→25万石
#[[徳川頼宣]]
;水戸徳川家
親藩 - 25万石→28万石→35万石 ※[[1636年]](寛永13年)7月以前は松平姓
#[[徳川頼房]]
#[[徳川光圀]]
#[[徳川綱條]]
#[[徳川宗堯]]
#[[徳川宗翰]]
#[[徳川治保]]
#[[徳川治紀]]
#[[徳川斉脩]]
#[[徳川斉昭]]
#[[徳川慶篤]]
#[[徳川昭武]]
== 支藩 ==
水戸藩には頼房の子を藩祖とし、いざという時に本家を継承する支藩(当主が[[御連枝]]と呼ばれる)が4家(四連枝)あった。
* [[讃岐国|讃岐]][[高松藩]] - [[松平頼重|松平讃岐守頼重]](徳川光圀の兄)を祖とする。[[高松城 (讃岐国)|高松城]]に居城を置く。[[伺候席#溜間|溜間詰]]。
* [[陸奥国|陸奥]][[守山藩]] - [[松平頼元|松平刑部大輔頼元]]を祖とする。[[1661年]](寛文元年)に2万石を与えられ、常陸[[額田藩|額田]]に[[陣屋]]を置いたのに始まる。[[1700年]](元禄13年)に2代[[松平頼貞|大学頭頼貞]]が陸奥守山転封となり、以降明治維新まで続く。代々の当主は、連枝大名として[[伺候席#大広間|大広間]]に詰めた。また、江戸定府として参勤交代は行わなかった。極官は従四位下侍従であり、代々の当主は嫡子のうちに従四位下に任官し、家督相続後に侍従に昇進している。
* 常陸[[常陸府中藩|府中藩]] - [[松平頼隆|松平播磨守頼隆]]を祖とする。1661年(寛文元年)に2万石を与えられ、常陸保内に陣屋を置いたのに始まる。1700年(元禄13年)に同国府中に陣屋を移す。守山藩と同様、大広間詰め連枝大名、江戸定府であった。官位の格も守山家と同じである。
* 常陸[[常陸宍戸藩|宍戸藩]] - [[松平頼雄 (宍戸藩主)|松平大炊頭頼雄]]を祖とする。[[1682年]]([[天和 (日本)|天和]]2年)に1万石を与えられ、常陸宍戸に陣屋を置いたのに始まる。連枝大名であるが、[[1711年]]([[正徳 (日本)|正徳]]元年)に2代[[松平頼道|筑後守頼道]]が[[譜代大名|譜代]]に列せられ[[帝鑑の間|帝鑑間]]詰となってより、幕府からは譜代大名として遇せられる。官位は従五位下。
== 家老 ==
* [[中山氏|中山家]] - [[松岡城 (常陸国)|松岡城]]2万5千石([[茨城県]][[高萩市]]); [[御附家老|附家老]]、維新後[[男爵]]
* 山野辺家(1万石) ※戦国大名・[[最上氏]]の子孫・義観より[[助川海防城|助川海防城主]]
*:[[山野辺義忠]]([[最上義光]]の四男)- [[山野辺義堅|義堅]]=[[山野辺義清|義清]]-[[山野辺義逵|義逵]]-[[山野辺義胤|義胤]]=[[山野辺義風|義風]]=[[山野辺義質|義質]]-[[山野辺義観|義観]]-[[山野辺義正|義正]]=[[山野辺義芸|義芸]]
* 鈴木(石見守)家(5000石→4500石) ※三河豪族・[[井伊谷三人衆]]・[[鈴木重時]]の子孫
*:[[鈴木重好]]-([[鈴木重辰|重辰]])(安中藩家臣)-[[鈴木重政(石見守)|重政]]-重賢-重道-好賢-重安-重郷-重矩-[[鈴木重棟|重棟]]
* 松平家(3000石・藩主一門) ※家老格、頼譲より[[長倉陣屋]]に移住、維新後[[士族]]
*:[[松平頼泰 (水戸藩)|松平頼泰]]([[徳川頼房|頼房]]の八男)-[[松平頼福|頼福]]-頼匡-頼忠-頼脩=[[松平保福|保福]]([[徳川宗翰|宗翰]]の八男)-[[松平頼紹|頼紹]]-[[松平頼善|頼善]]=[[松平頼位|頼位]]=頼譲=頼寧=頼功=頼遵
* [[太田氏|太田家]](2000石) ※[[里見氏]]旧臣。初代頼房の准母[[英勝院]]の一門
*:[[太田正重]]-資正-資真-一学=資富=資胤-資厚=資敬=資原-資春-資信
* [[雑賀党鈴木氏|鈴木(雑賀)家]](3000石→600石) 称:雑賀姓
*:[[鈴木重朝]]-[[鈴木重次|鈴木(雑賀)重次]]=[[雑賀重義]]([[徳川頼房|頼房]]の十一男)=重春-重護-重教-重堅-重明-重孚
* [[宇都宮氏|宇都宮家]](1000石)[[下野宇都宮氏]]の子孫。墓所は先祖と同じ下野国益子にある。
*:[[宇都宮隆綱]] - [[宇都宮宏綱|宏綱]] - [[宇都宮壽綱|壽綱]] -
<!--- *:[[肥田大助]] 土岐肥田伊豆守―肥田二郎(豆州肥田氏祖)―肥田政勝の子孫 ([[肥田氏]])
--->
== 藩校 ==
* [[弘道館]]
== 藩邸 ==
[[File:水戸藩小石川邸と後楽園(文久3年)、『御上京道記』、Koishikawa residence of Mito Domain in 1863.jpg|thumb|[[1863年]]([[文久]]3年)の水戸藩小石川邸([[国立国会図書館]]蔵『御上京道記』より)]]
* 上屋敷:[[文京区]][[後楽]]、[[春日 (文京区)|春日]](現在の[[小石川後楽園]]、[[東京ドーム]]、[[後楽園遊園地]]、[[中央大学|中央大学後楽園キャンパス]]、[[中央大学高等学校]]、[[礫川公園]])(明治以降放置されていた山上門は払い下げを受けて那珂湊へ移築、1957年(昭和32年)那珂湊市へ寄贈された<ref>山上門の立て札の解説</ref>)
* 中屋敷:[[文京区]][[本郷 (文京区)|本郷]]、[[弥生 (文京区)|弥生]](現在の[[東京大学本郷地区キャンパス|東京大学本郷キャンパス本郷地区・弥生地区・浅野地区]]<ref>[https://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros/v16n1/v16n1_nishiaki.html 東京大学本郷キャンパス浅野地区の史跡], [[東京大学総合研究博物館]], 2018年4月8日閲覧</ref>)
* 下屋敷:[[墨田区]][[向島 (墨田区)|向島]](現在の[[隅田公園]]<ref>[http://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/siryou/kyoudobunka/tenzi/h10/syougun.html 特別展・将軍が撮った明治のすみだ 小梅水戸邸物語], [[墨田区]], 2018年4月8日閲覧</ref>)
* 京屋敷:[[京都市]][[上京区]]下長者町通烏丸西入北側<ref>[https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ka010.html KA010 水戸藩邸跡]{{リンク切れ|date=2019年9月}}, 京都市歴史資料館情報提供システム「フィールド・ミュージアム京都」, 2018年4月8日閲覧</ref>
* 蔵屋敷:[[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]][[中之島 (大阪府)|中之島]](現在の[[日本銀行大阪支店]]<ref>{{Cite web|和書|url= http://www3.boj.or.jp/osaka/_userdata/ayumi0222.pdf |title= 日本銀行大阪支店のあゆみ |publisher= 日本銀行大阪支店 |accessdate= 2019-09-11 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20180408141438/http://www3.boj.or.jp/osaka/_userdata/ayumi0222.pdf |archivedate= 2018-04-08 }}</ref>)
== 藩主隠居所 ==
*[[西山荘]]
== 幕末の領地 ==
* [[常陸国]]
** [[那珂郡]] - 127村
** [[久慈郡]] - 141村
** [[茨城郡]]のうち - 115村
** [[多賀郡]]のうち - 34村
** [[鹿島郡 (茨城県)|鹿島郡]]のうち - 6村
** [[行方郡 (茨城県)|行方郡]]のうち - 25村
** [[新治郡]]のうち - 14村
* [[下野国]]
** [[那須郡]]のうち - 16村
[[明治維新]]後に、茨城郡21村([[天領|幕府領]]6村、[[地方知行|旗本領]]17村)、新治郡1村(旗本領)、[[相模国]][[三浦郡]]1村([[寺社領]])、[[鎌倉郡]]11村(寺社領6村、幕府領5村、旗本領2村)、[[天塩国]][[苫前郡]]、[[天塩郡]]、[[中川郡 (天塩国)|中川郡]]、[[上川郡 (天塩国)|上川郡]]、[[北見国]][[利尻郡]]が加わった。なお[[相給]]も存在するため、村数の合計は一致しない。
== 備考 ==
*[[関ヶ原の戦い]]の結果、[[佐竹氏|佐竹家]]は[[久保田藩|秋田]]へ[[転封]]されるにあたって水戸の美女を根こそぎ連れていったという俗説がある。
*[[戸田忠太夫]]と[[藤田東湖]]は水戸藩の双璧をなし、[[徳川斉昭]]の[[懐刀|腹心]]として'''水戸の両田'''と称された。また、水戸の両田に[[武田耕雲斎]]を加え、'''水戸の三田'''とも称された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 参考文献 ==
* [[山川菊栄]]『<small>覚書</small> 幕末の水戸藩』([[岩波文庫]]、1991年) ISBN 4-00-331624-X(初刊・[[岩波書店]]、1974年)
* 瀬谷義彦・鈴木暎一『流星の如く <small>幕末維新・水戸藩の栄光と苦境</small>』([[日本放送出版協会]]、1998年) ISBN 4-14-080347-9
* 高橋裕文『幕末水戸藩と民衆運動 <small>尊王攘夷運動と世直し</small>』(青史出版、2006年) ISBN 4-921145-30-X
* 乾宏巳『水戸藩天保改革と豪農』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0618-8
* [[長山靖生]]『天下の副将軍 <small>水戸藩から見た江戸三百年</small>』(新潮選書、2008年) ISBN 978-4-10-603606-4
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Mito_Domain}}
{|
|valign="top"|
* [[水戸黄門]] (創作)
* [[彰考館]]
* [[水府系纂]]
* [[那珂湊反射炉]]
|valign="top"|
* [[常磐共有墓地]]
* [[酒門共有墓地]]
* [[回天神社]]
* [[水戸の三ぽい]]
|}
'''水戸藩に関連する武術流派'''
* [[北辰一刀流]][[玄武館]]
* [[新田宮流]]
* [[神道無念流]]
* [[真之真石川流]]
== 外部リンク ==
*[http://codh.rois.ac.jp/bukan/book/200018823/006/ 水戸(水戸宰相治保卿) | 大名家情報 - 武鑑全集]
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核小体低分子RNA
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核小体低分子RNA(かくしょうたいていぶんしRNA)は核小体に存在するRNAで、ノンコーディングRNAの1つである。リボソームRNA及びその他のRNA遺伝子のメチル化やシュードウリジン化の化学修飾を導く小さなRNA分子の一群である。英語のsmall nucleolar RNAを略してsnoRNAと呼ばれることも多い。
それらの化学修飾は成熟したRNAの機能を微妙に増強すると考えられている。それらはしばしばリボゾーム蛋白質のイントロンの中にコードされていて、RNAポリメラーゼIIによって合成されるが、独立した(多シストロン性の)転写単位として転写されることもある。snoRNAは、snoRNAと蛋白質を含む核小体低分子リボ核酸蛋白質(snoRNP)により構成される。snoRNAは、標的部位と相補的に結合するsnoRNAの塩基配列によってsnoRNP複合体を標的RNA分子の修飾部位へ導く。snoRNAはその配列によって主にboxC/DとboxH/ACAの二種に分けられている。snoRNAと蛋白質で形成される複合体(snoRNP)はRNA分子の修飾を触媒する。
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2'-Oをメチル化されたリボースが3'末端の構造を増加させる。
シュードウリジン(psi/Ψ)は水素結合のための別のオプションを加える。
高度にメチル化されたRNAは加水分解から保護される。rRNAはそれ自体の加水分解及びスプライシングを触媒することによってリボザイムとして作用する。
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'''核小体低分子RNA'''(かくしょうたいていぶんしRNA)は[[核小体]]に存在する[[リボ核酸|RNA]]で、[[ノンコーディングRNA]]の1つである。[[リボソームRNA]]及びその他のRNA遺伝子の[[メチル化]]や[[シュードウリジン]]化の化学修飾を導く小さなRNA分子の一群である。英語のsmall nucleolar RNAを略してsnoRNAと呼ばれることも多い。
それらの化学修飾は成熟したRNAの機能を微妙に増強すると考えられている。それらはしばしばリボゾーム蛋白質の[[イントロン]]の中にコードされていて、[[RNAポリメラーゼII]]によって合成されるが、独立した(多シストロン性の)転写単位として[[転写 (生物学)|転写]]されることもある。snoRNAは、snoRNAと蛋白質を含む核小体低分子リボ核酸蛋白質(snoRNP)により構成される。snoRNAは、標的部位と相補的に結合するsnoRNAの[[塩基配列]]によってsnoRNP複合体を標的RNA分子の修飾部位へ導く。snoRNAはその配列によって主にboxC/DとboxH/ACAの二種に分けられている。snoRNAと蛋白質で形成される複合体(snoRNP)はRNA分子の修飾を触媒する。
# snoRNAは相補的塩基配列により、RNA修飾酵素を正しい位置に並べる。
# 2'-Oをメチル化されたリボースが3'末端の構造を増加させる。
# シュードウリジン(psi/Ψ)は水素結合のための別のオプションを加える。
# 高度にメチル化されたRNAは加水分解から保護される。rRNAはそれ自体の加水分解及び[[スプライシング]]を触媒することによってリボザイムとして作用する。
== 関連項目 ==
*[[ノンコーディングRNA]]
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防衛機制
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防衛機制(ぼうえいきせい、英: defence mechanism)は、受け入れがたい状況、または潜在的な危険な状況に晒された時に、それによる不安を軽減しようとする無意識的な心理的メカニズムである。欲求不満などによって社会に適応が出来ない状態に陥った時に行われる自我の再適応メカニズムを指す。広義においては、自我と超自我が本能的衝動をコントロールする全ての操作を指す。
元々はジークムント・フロイトのヒステリー研究から考えられたものであり、後に彼の娘のアンナ・フロイトが、父の研究を元に、キンダー・トランスポート(英語版)でイギリスに連れてこられたユダヤ人の子どもたちのケアをしながら行った児童精神分析の研究の中で整理した概念である。その経過は、アンナ・フロイト著作集の第7・8巻の「ハムステッドにおける研究 : 1956-1965」に詳しい。この研究の舞台になったハムステッドのクリニックは、今のアンナ・フロイトセンターである。
防衛機制には、発動された状況と頻度に応じて、健康なものと不健康なものがある。精神分析の理論では、防衛機制は無意識(スーパーエゴ)において行われ、不安や受け入れがたい衝動から守り、自分の自己スキーマを維持するためになされる、現実の否認または認知の歪みといった心理的戦略であるとされる。
防衛には自我が超自我に命令されて行うものと、自我それ自身が行うものとで分かれる。人間にはエス(イド)という心の深層があり、そのエス(イド)から来る欲動から自我が身を守ったり、それを上手く現実適応的に活用したりする方法が、防衛という形で現れる。防衛自体は自我の安定を保つ為に行われるので、健全な機能と言えるが、時にはそれは不快な感情や気分を人間に与えることもある。
ジークムント・フロイトにおける厳密な定義によれば、あらゆる欲動を自我が処理する方法が防衛である。よって人間は常に欲動を防衛している事になる。人間の文化的活動や創造的活動は全て欲動を防衛した結果であり、その変形に過ぎないとされている。しかし一般的には防衛は、自我(あるいは自己)が認識している、否認したい欲求や不快な欲求から身を守る手段として用いられると理解されている。
最初にフロイトが記述した防衛機制は「抑圧」である。アンナ・フロイトは主要な防衛機制として、退行、抑圧、反動形成、分裂、打ち消し、投影、取り入れ、自己への向き換え(自虐)、逆転、昇華の10種類を挙げている。またフロイトの弟子であるメラニー・クラインは、分裂、投影同一視、取り入れなどの原始的防衛機制の概念を発展させた。
原始的防衛機制とは、自我の分離 - 固体化が見られる以前から見られる、生後5か月くらいまでの乳幼児でも用いることが出来る基礎的な防衛機制の総称である。自我心理学が発展したアメリカに対し、イギリスでは対象関係論が発展し、フロイトの弟子であったメラニー・クラインが児童分析や重い病理を持つ者の精神分析をしていく中で、この原始的防衛機制を発見し概念化した。対象関係論の「対象関係」とは、主である自分と対象(人間を含む)との関係のことである。フロイトは人間の超自我は4 - 5歳頃に形成されると考えていたが、クラインは、超自我の形成は母子関係が重要な意味を持つ生後1年以内であるとし、母親との対象関係を通じて超自我が発達すると説いた。
クラインの記述した原始的防衛機制は、分裂、否認、投影同一視、原始的理想化、躁的防衛などがあった。
研究によると、道徳の合理化は人間の普遍的な心理的傾向の一部であることが示唆されている。この傾向は、文化や社会的な背景に関係なく存在する可能性がある。道徳の合理化は、一般的には識別度の低い状況でより頻繁に発生する。人々は、自分の行動や信念を正当化し、説明するために、より曖昧な状況を好む傾向がある。人間の心理は、しばしば自己の行動を合理化しようとする。道徳の合理化は、この心理的なメカニズムの一つである。人々は、自分たちの行動が道徳的であると信じることで、自尊心を保ちながら行動することができる。自己イメージを保護するための防御的なメカニズムとしても機能する。人々は、道徳的な価値観に反する行動を取った場合でも、自分自身を正当化するために、その行動を合理化しようとする。道徳の合理化は、個人の意思決定や行動の根底にある理由を説明する際に、よく見られるパターンである。人々は、自分たちの行動をより良く見せるために、合理的な理由や道徳的な原則を引用することがある。道徳の合理化は、個人や社会のエゴイズムを支える要素とも関連している。自己利益を最大化するために行動する人々は、その行動を道徳的に正当化することで、自分たちを正当化しようとする。
防衛機制は、階層的に分類することができる。以下にヴァイラントの4分類に従って示す。
自己愛的精神病的防衛とも。
転移(transference)とは、幼児期に存在した重要な人物への感情を、現今の目の前にいる治療者人物(医師やカウンセラーなど)に向ける(転じて移す)事 。この概念は精神分析における臨床現象として特に区別される。この現象には同一視と投影、置き換えと退行などが同時に複数発生する。
転移は次の二種類に分別される。
たとえば患者-治療者関係において、以下のようなやりとりがある。
逆転移(counter transference)とは、治療者が患者に対して抱く無意識の心の動きのこと。例えば、クライアントが診察に訪れる機会を楽しみに感じてしまう。この時点では、既に意識化されている。治療者は逆転移を足がかりにして、自身の中に想起する感情を自己点検し、コントロールする必要がある。
たとえば患者-治療者関係において、以下のようなやりとりがある。
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"title": "防衛機制の仕組みと定義"
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"text": "防衛機制は、階層的に分類することができる。以下にヴァイラントの4分類に従って示す。",
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"text": "自己愛的精神病的防衛とも。",
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"text": "転移(transference)とは、幼児期に存在した重要な人物への感情を、現今の目の前にいる治療者人物(医師やカウンセラーなど)に向ける(転じて移す)事 。この概念は精神分析における臨床現象として特に区別される。この現象には同一視と投影、置き換えと退行などが同時に複数発生する。",
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"text": "転移は次の二種類に分別される。",
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"text": "たとえば患者-治療者関係において、以下のようなやりとりがある。",
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"text": "逆転移(counter transference)とは、治療者が患者に対して抱く無意識の心の動きのこと。例えば、クライアントが診察に訪れる機会を楽しみに感じてしまう。この時点では、既に意識化されている。治療者は逆転移を足がかりにして、自身の中に想起する感情を自己点検し、コントロールする必要がある。",
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"text": "たとえば患者-治療者関係において、以下のようなやりとりがある。",
"title": "臨床における防衛"
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防衛機制は、受け入れがたい状況、または潜在的な危険な状況に晒された時に、それによる不安を軽減しようとする無意識的な心理的メカニズムである。欲求不満などによって社会に適応が出来ない状態に陥った時に行われる自我の再適応メカニズムを指す。広義においては、自我と超自我が本能的衝動をコントロールする全ての操作を指す。 元々はジークムント・フロイトのヒステリー研究から考えられたものであり、後に彼の娘のアンナ・フロイトが、父の研究を元に、キンダー・トランスポートでイギリスに連れてこられたユダヤ人の子どもたちのケアをしながら行った児童精神分析の研究の中で整理した概念である。その経過は、アンナ・フロイト著作集の第7・8巻の「ハムステッドにおける研究 : 1956-1965」に詳しい。この研究の舞台になったハムステッドのクリニックは、今のアンナ・フロイトセンターである。 防衛機制には、発動された状況と頻度に応じて、健康なものと不健康なものがある。精神分析の理論では、防衛機制は無意識(スーパーエゴ)において行われ、不安や受け入れがたい衝動から守り、自分の自己スキーマを維持するためになされる、現実の否認または認知の歪みといった心理的戦略であるとされる。
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{{精神分析学}}
[[Image:Goya-El sueño de la razón.jpg|thumb|right|フランシスコ・デ・ゴヤの版画連作『ロス・カプリチョス』から、『理性の眠りは妖怪を生む』(El sueño de la razón produce monstruos)]]
'''防衛機制'''(ぼうえいきせい、{{lang-en-short|defence mechanism}})は、受け入れがたい状況、または潜在的な危険な状況に晒された時に、それによる[[不安]]を軽減しようとする無意識的な心理的メカニズムである<ref>{{cite book |last=Schacter |first=Daniel L. |title=Psychology Second Edition |year=2011 |publisher=Worth Publishers |location=41 Madison Avenue, New York, NY 10010 |isbn=978-1-4292-3719-2 |pages=482–483}}</ref>。欲求不満などによって社会に適応が出来ない状態に陥った時に行われる[[自我]]の再適応メカニズムを指す。広義においては、自我と超自我が本能的衝動をコントロールする全ての操作を指す。
元々は[[ジークムント・フロイト]]の[[ヒステリー]]研究から考えられたものであり<ref>[http://www.freudfile.org/theory.html "Freud Theories and Concepts (Topics)] AROPA. 2013. Retrieved on 05 October 2013</ref>、後に彼の娘の[[アンナ・フロイト]]が、父の研究を元に、{{仮リンク|キンダー・トランスポート|en|Kindertransport}}でイギリスに連れてこられたユダヤ人の子どもたちのケアをしながら行った児童精神分析の研究の中で整理した概念である。その経過は、アンナ・フロイト著作集の第7・8巻の「ハムステッドにおける研究 : 1956-1965」に詳しい。この研究の舞台になったハムステッドのクリニックは、今のアンナ・フロイトセンターである。
防衛機制には、発動された状況と頻度に応じて、健康なものと不健康なものがある<ref name=utah>[http://www.utahpsych.org/defensemechanisms.htm Utah Psych. "Defense Mechanisms"] 2010. Retrieved on 05 October 2013.</ref>。[[精神分析]]の理論では、防衛機制は[[無意識]](スーパーエゴ)において行われ、不安や受け入れがたい衝動から守り、自分の[[自己スキーマ]]を維持するためになされる、現実の否認または[[認知の歪み]]といった心理的戦略であるとされる<ref>{{cite web|url=http://info.med.yale.edu/psych/3s/self_schema.html |title=archive of: www.3-S.us What is a self-schema? |publisher=Info.med.yale.edu |date= |accessdate=2013-05-05 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130204225215/http://info.med.yale.edu/psych/3s/self_schema.html |archivedate=February 4, 2013 }}</ref>。
== 防衛機制の仕組みと定義 ==
[[File:Structural-Iceberg-ja.svg|thumb|200px|left|他の部分との関係性を含めた心の仕組みを説明する際には、[[氷山]]の比喩がよく用いられる]]
防衛には[[自我]]が[[超自我]]に命令されて行うものと、自我それ自身が行うものとで分かれる。人間には[[自我#精神分析学における自我|エス]](イド)という心の深層があり、そのエス(イド)から来る[[欲動]]から自我が身を守ったり、それを上手く現実適応的に活用したりする方法が、防衛という形で現れる。防衛自体は自我の安定を保つ為に行われるので、健全な機能と言えるが、時にはそれは不快な感情や気分を人間に与えることもある。
[[ジークムント・フロイト]]における厳密な定義によれば、あらゆる欲動を[[自我]]が処理する方法が防衛である。よって人間は常に欲動を防衛している事になる。人間の文化的活動や創造的活動は全て欲動を防衛した結果であり、その変形に過ぎないとされている。しかし一般的には防衛は、[[自我]](あるいは[[自己]])が認識している、否認したい[[欲求]]や不快な[[欲求]]から身を守る手段として用いられると理解されている。
最初に[[ジークムント・フロイト|フロイト]]が記述した防衛機制は「抑圧」である。アンナ・フロイトは主要な防衛機制として、[[退行]]、[[抑圧 (心理学)|抑圧]]、反動形成、[[分裂 (心理学)|分裂]]、打ち消し、[[投影]]、[[取り入れ]]、自己への向き換え(自虐)<ref group="注">自己への向き換え(turning against the self)とは、相手に向けている感情を、自分自身に向き換えること。攻撃とは逆で、本当は相手が悪いと思っている人が、それを意識できずに自分自身を責め、抑うつ的になる場合などは典型例である。</ref>、逆転<ref group="注">逆転(inversion)とは、感情や欲望を反対のものに変化させること。愛情を憎しみに変える、[[サディズム]]傾向を[[マゾヒズム]]傾向に変えるなど。受けたダメージを加工し、受け入れやすくする。</ref>、[[昇華 (心理学)|昇華]]の10種類を挙げている。またフロイトの弟子である[[メラニー・クライン]]は、[[分裂 (心理学)|分裂]]、[[投影同一視]]、[[取り入れ]]などの'''原始的防衛機制'''の概念を発展させた。
=== 原始的防衛機制 ===
原始的防衛機制とは、[[性的発達段階|自我の分離 - 固体化]]が見られる以前から見られる、生後5か月くらいまでの乳幼児でも用いることが出来る基礎的な防衛機制の総称である。[[自我心理学]]が発展したアメリカに対し、イギリスでは[[対象関係論]]が発展し、フロイトの弟子であった[[メラニー・クライン]]が児童分析や重い病理を持つ者の精神分析をしていく中で、この原始的防衛機制を発見し概念化した。対象関係論の「対象関係」とは、主である自分と対象(人間を含む)との関係のことである。フロイトは人間の超自我は4 - 5歳頃に形成されると考えていたが、クラインは、超自我の形成は母子関係が重要な意味を持つ生後1年以内であるとし、母親との対象関係を通じて超自我が発達すると説いた。
クラインの記述した原始的防衛機制は、分裂、否認、投影同一視、原始的理想化、躁的防衛などがあった。
=== 道徳的合理化 ===
研究によると、道徳の合理化は人間の普遍的な心理的傾向の一部であることが示唆されている。この傾向は、文化や社会的な背景に関係なく存在する可能性がある。道徳の合理化は、一般的には識別度の低い状況でより頻繁に発生する。人々は、自分の行動や信念を正当化し、説明するために、より曖昧な状況を好む傾向がある。人間の心理は、しばしば自己の行動を合理化しようとする。道徳の合理化は、この心理的なメカニズムの一つである。人々は、自分たちの行動が道徳的であると信じることで、自尊心を保ちながら行動することができる。自己イメージを保護するための防御的なメカニズムとしても機能する。人々は、道徳的な価値観に反する行動を取った場合でも、自分自身を正当化するために、その行動を合理化しようとする。道徳の合理化は、個人の意思決定や行動の根底にある理由を説明する際に、よく見られるパターンである。人々は、自分たちの行動をより良く見せるために、合理的な理由や道徳的な原則を引用することがある。道徳の合理化は、個人や社会のエゴイズムを支える要素とも関連している。自己利益を最大化するために行動する人々は、その行動を道徳的に正当化することで、自分たちを正当化しようとする<ref>{{Cite journal|last=Mulder|first=Laetitia B.|last2=Van Dijk|first2=Eric|date=2020-01-08|title=Moral Rationalization Contributes More Strongly to Escalation of Unethical Behavior Among Low Moral Identifiers Than Among High Moral Identifiers|url=https://www.frontiersin.org/article/10.3389/fpsyg.2019.02912/full|journal=Frontiers in Psychology|volume=10|pages=2912|doi=10.3389/fpsyg.2019.02912|issn=1664-1078}}</ref>。{{clearleft}}
== Vaillantによる防衛機制の分類 ==
防衛機制は、階層的に分類することができる<ref name="Kaplan">{{Cite |和書| |author=B.J.Kaplan |author2=V.A.Sadock |title=カプラン臨床精神医学テキスト DSM-5診断基準の臨床への展開 |edition=3 |publisher=メディカルサイエンスインターナショナル |date=2016-05-31 |isbn=978-4895928526 |at=Chapt.4}}</ref>。以下にヴァイラントの4分類に従って示す<ref name=Kaplan />。
=== レベル1、精神病的防衛===
[[自己愛的防衛|自己愛的精神病的防衛]]とも<ref name=Kaplan />。
* {{Anchors|転換}}'''転換'''(Conversion) - 抑圧された衝動や葛藤が、麻痺や感覚喪失となって表現される。手足が痺れたり、失立失歩(脱力し立ったり歩けなくなる)、声が出なくなる[[失声症]]や[[視野]]が狭くなる、嚥下困難、不食や嘔吐などの症状が出る。
* '''[[否認]]'''(Denial)- 不安や苦痛を生み出すようなある出来事から目をそらし、認めないこと<ref name=Kaplan />。「抑圧」はその出来事を無意識的に追い払うものだが、「否認」は出来事自体が存在しないかのような言動をとる。特に「原始的否認」は分裂を強化するような性質の否認を指す。理想化や脱価値化は、原始的否認を背景とし、また否認を強化する。
* '''代替'''
* '''[[認知の歪み|歪曲]]'''(Distortion)- 内面ニーズを満たすよう外部の現実を再構成する<ref name=Kaplan />。
* '''[[投影]]'''(Projection)- 自分の内面にある受け入れがたい感情や欲動を、自分のものとして認めず、外部に写し出すこと<ref name=Kaplan />。これは明らかな[[妄想]](迫害されるという被害妄想)の形を取る([[精神病]]性妄想)<ref name=Kaplan />。'''妄想的投影'''(Delusional projection)。たとえば「私は彼を憎む」が「彼が私を憎む」になる<ref name=care />。
* '''[[分裂 (心理学)|分裂]]'''(Splitting, '''スプリッティング''', '''スプリット''') - 対象や自己に対しての良いイメージ・悪いイメージを別のものとして隔離すること。「良い」部分が「悪い」部分によって汚染、破壊されるという被害的な不安があり、両者を分裂させ、分けることで良い部分を守ろうとする。抑圧が「臭いものにフタをする」のに対し、分裂は「それぞれ別の箱に入れて」しまう。分裂させた自己の悪い部分は、しばしば相手の中に「投影」される。
* {{Anchors|躁的防衛}}'''[[躁的償い|躁的防衛]]'''(Manic defence) - 自分の大切な対象を失ったり、傷つけたりしてしまったと感じた時に生じる不安や抑うつなどの不快な感情を意識しなくするために行う。「優越感(征服感)」「支配感」「軽蔑感」の三つの感情に特徴づけられ、自分は万能であり相手を支配できると思い込んだり、逆に相手の価値をおとしめたりする。うつ気分を逆転させた躁の気分で抑うつの痛みを振り払おうとする。
=== レベル2、未熟な防衛 ===
* {{Anchors|行動化}}'''[[行動化]]'''(Acting out)- 抑圧された衝動や葛藤が[[問題行動]]として表出すること<ref name=Kaplan />。具体的には[[性依存症|性的逸脱行動]]、[[自傷行為]]、自殺企図、[[暴言]]、[[暴力]]、[[過食]]、[[拒食]]、[[買い物依存症|浪費]]、[[万引き]]、[[薬物依存]]、[[アルコール依存]]などが挙げられる。
* '''[[途絶]]'''(Blocking)<ref name=Kaplan />
* '''[[病気不安症]]'''(Illness Anxiety Disorder)<ref name=Kaplan /> - 深刻な病気への過度の心配や思い込みの状態
* '''[[取り入れ]]'''(摂取, Introjection)<ref name=Kaplan /> - 投影と逆で、他者の中にある感情や観念、価値観などを自分のもののように感じたり、受け入れたりすること。特に他者の好ましい部分を取り入れることが多い。発達過程においては道徳心や良心の形成に役立つ。しかし度が過ぎると主体性のなさに繋がったり、他人の業績を自分のことと思い込んで満足する(自我拡大)、[[個人の境界線|自他の区別]]がつきにくい人間となる。「相手にあやかる」<ref name=care/>。
* '''[[シゾイド幻想]]'''(Schizoid Fantasy)<ref name=Kaplan /> - 内部や外部への葛藤を解消するため、妄想へと退化する
* '''[[理想化と脱価値化|理想化]]''' - 自己と対象が「分裂」している状態で、分裂させた一方を過度に誇大視して「理想化」すること。分裂されたもう一方は「[[理想化と脱価値化|脱価値化]]」を伴う。高次の「理想化」は、対象の悪い部分を見ないようにすることで自分の攻撃性を否認し、それに伴う罪悪感を取り去るのに対し、{{Anchors|原始的理想化}}「原始的理想化」は、対象の悪い部分に破壊されないようにその部分を認識しないようにする。
* '''[[受動的攻撃行動]]'''<ref name=Kaplan /> - [[サボタージュ]]{{要曖昧さ回避|date=2020年11月}}など。
* {{Anchors|投影同一視|投影性同一視}}'''[[投影性同一視]]'''(Projective identification, '''投影同一視'''、'''投影同一化''') - スプリッティングが働いている中で、自分自身の悪い部分を相手の中に写し(投影)、相手を支配している、または傷つけていると感じること。その時に投影されている側の人間に、投影された「悪い部分」(憎しみや怒り、軽蔑など)の感情が生まれるという現象が起こる。
* '''[[投影]]'''(Projection)<ref name=Kaplan /> - 自分自身の中にある受け入れがたい不快な感情を、自分以外の他者が持っていると知覚すること。例えば、自分が憎んでいる相手を「憎んでいる」とは意識できず、相手が自分を憎んでおり攻撃してくるのではないかと思い恐れる、自分が性的な欲望を感じている異性に対し、相手が自分に情欲を感じていると思い、「誘惑されている」と感じたりする。
* {{Anchors|退行}}'''[[退行]]'''(Regression)<ref name=Kaplan />- 耐え難い事態に直面したとき、現在の自分より幼い時期の[[発達段階]]に戻ること。以前の未熟な段階の低次な行動をしたり、未分化な思考や表現様式となる。不安な時に他人の話を鵜呑みにしやすくなったりするのも退行の一種だが、これは「取り入れ」をよく用いる発達段階に戻ったことでおこる現象である。退行には「病的退行」以外にも「治療的退行」、「創造的退行(健康的退行)」などがある。病的退行は持続的な機能の低下を起こさせるが、治療的退行は治療を施したことにより表出する、一時的、可逆的な現象である。
* {{Anchors|身体化}}'''[[身体化]]'''(Somatization) - <ref name=Kaplan />抑圧された衝動や葛藤が、様々な身体症状となって表れること。心気化。
* '''[[希望的観測]]'''
=== レベル3、神経症的防衛===
{{Seealso|神経症}}
* '''[[コントロールフリーク|統制]]'''(Controlling)<ref name=Kaplan /> - 周囲環境における出来事や対象を、過度に管理・統制しようとする。
* '''置き換え'''(Displacement)<ref name=Kaplan /> - 欲求を本来のものとは別の対象に置き換えることで充足すること。
* '''[[解離 (心理学)|解離]]'''(Dissociation)<ref name=Kaplan /> - 苦悩を避けるために、自分のパーソナリティの一部を一時的だが徹底的に一部変更すること。遁走など。
* '''外在化'''(Externalization)<ref name=Kaplan />
* '''静止'''(Inhibition)<ref name=Kaplan />
* {{Anchors|知性化}}'''知性化'''(Intellectualization)<ref name=Kaplan /> - 孤立の形をとる。感情や痛みを難解な専門用語を延々と語るなどして観念化し、情緒から切り離す機制。
* '''隔離'''(Isolation)<ref name=Kaplan /> - 思考と感情、または感情と行動が切り離されていること<ref name=care />。「本音と建前」<ref name=care />。観念とそれに伴う感情とを分離するが、観念は意識において保持し、感情は抑圧することなどである。おかしな行為だと自分では気づいているがその行為が止められない、ある種の強迫行為と関わっていると考えられている。
* {{Anchors|合理化}}'''[[合理化 (心理学)|合理化]]'''(Rationalization)<ref name=Kaplan /> - 満たされなかった欲求に対して、理論化して考えることにより自分を納得させること。[[イソップ寓話]]『[[すっぱい葡萄]]』が例として有名。[[キツネ|狐]]は木になる[[葡萄]]を取ろうとするが、上の葡萄が届かないため、「届かない位置にあるのはすっぱい葡萄」だと口実をつける。
* {{Anchors|反動形成}}'''反動形成'''(Reaction formation)<ref name=Kaplan /> - 受け入れがたい衝動、観念が抑圧され、無意識的なものとなり、意識や行動レベルでは正反対のものに置き換わること。本心と裏腹なことを言ったり、その思いと正反対の行動をとる。憎んでいるのに愛していると思い込んだり、愛他主義の背後に実は利己心があったりと、性格として固定されることも多い。
* '''[[抑圧 (心理学)|抑圧]]'''(Repression)<ref name=Kaplan /> - 実現困難な[[欲求]]や苦痛な体験などを[[無意識]]の中に封じ込め忘れようとすることである。その内容には観念、感情、思考、空想、記憶が含まれる。ジークムント・フロイトはこの「抑圧」が最も基本的な防衛機制と考えた。特に[[心的外傷]]体験([[トラウマ]]体験)や、性的な欲求などの倫理的に禁止された欲求が抑圧されると考えられている。 [[否認]]との違いは、否認は実現困難な欲求や苦痛な体験を一時的に忘れるだけで、他人に指摘されるとその事に気付く。しかし抑圧は意識より深い心の深部([[前意識]]や[[無意識]])にまで押し込められてしまう。そのため基本的には思い出せなくなってしまう。思い出すには努力が必要であり、それほど悪い観念でなければ簡単に思い出せるが([[前意識]]からの思い出し)、強い抑圧は無意識にまで押しやられているので思い出すのは困難である。その代表例としては赤ちゃんの頃の記憶などがある。
* '''性的特徴化'''(Sexalization)<ref name=Kaplan />
* {{Anchors|打ち消し}}'''打ち消し'''(Undoing) - 罪悪感や恥の感情を呼び起こす行為をした後で、それを打ち消すような類似の、またはそれとは逆の行動を取ること。分離と共に用いられることが多い。
* '''社会的な上向き・下向きの比較'''
* '''逃避'''(Withdrawal)
=== レベル4、成熟した防衛===
* '''[[アクセプタンス]]'''(受容)
* '''[[奉仕|愛他主義]]'''(Altruism)- たとえ自分が不利益を被っても、他人に代わって建設的な助けをする<ref name=Kaplan />。
* '''先取り'''(Anticipation)- 将来の苦痛を予想する<ref name=Kaplan />。
* '''[[禁欲主義]]'''(Asceticism)<ref name=Kaplan />
* '''勇気'''(Courage)
* '''感情の[[セルフコントロール|自己コントロール]]'''
* '''感情的[[レジリエンス (心理学)|レジリエンス]]'''
* '''許し'''(Forgiveness)
* '''感謝'''(Gratitude)
* '''謙虚'''(Humility)
* '''[[ユーモア]]'''<ref name=Kaplan />
* {{Anchors|同一視|同一化}}'''同一視'''(Identification) - 自分にない名声や権威に自分を近づけることによって自分を高めようとすること。他者の状況などを自分のことのように思い、感じ考え行動すること<ref name=care />。この同一視は他人から他人へ伝染する。
* '''慈悲'''
* '''[[マインドフルネス]]'''
* '''節制'''(Moderation)
* '''忍耐'''(Patience)
* '''尊敬'''(Respect)
* {{Anchors|昇華}}'''[[昇華 (心理学)|昇華]]'''(Sublimation)<ref name=Kaplan /> - 反社会的な欲求や感情を、社会に文化的に還元出来得るような価値ある行動へと置き換えること<ref name=Kaplan /><ref name=care/>。例えば、性的欲求を詩や小説に表現することなどである。
* '''抑制'''(Suppression)<ref name=Kaplan /> - 意識的な衝動を、意識的もしくはほぼ意識的に延期する<ref name=Kaplan />。
* '''寛容'''(Tolerance)
== 臨床における防衛 ==
{{Seealso|精神分析学#治療過程の諸現象}}
=== 転移 ===
転移(transference)とは、幼児期に存在した重要な人物への感情を、現今の目の前にいる治療者人物(医師やカウンセラーなど)に向ける(転じて移す)事 <ref name=care/>。この概念は精神分析における臨床現象として特に区別される。この現象には同一視と投影、置き換えと[[退行]]などが同時に複数発生する。
転移は次の二種類に分別される<ref name=care>{{Cite |和書|title=精神看護学I |edition=6 |author=吉松和哉 |author2=小泉典章|author3=川野雅資 |date=2010 |publisher=ヌーヴェルヒロカワ |isbn=978-4-86174-064-0 |at=Chapt.1.3}}</ref>。
* 陽性転移 - 好意、親しみ、甘え、依存、信頼、愛情、性的感情、尊敬、理想化など <ref name=care/>
* 陰性転移 - 敵意、嫌悪、馴染みにくさ、腹立ち、不振、軽蔑、恐怖など <ref name=care/>
たとえば患者-治療者関係において、以下のようなやりとりがある<ref name=care/>。
* 「眠れないんです、薬くださいよう」(陽性転移) - 患者は治療者に「やさしい母親」を期待している([[理想化]])
* 「眠れないぞ、薬くれ!」(陰性転移) - 患者は治療者を格下げしている([[脱価値化]])
=== 逆転移 ===
逆転移(counter transference)とは、治療者が患者に対して抱く無意識の心の動きのこと。例えば、クライアントが診察に訪れる機会を楽しみに感じてしまう。この時点では、既に意識化されている。治療者は逆転移を足がかりにして、自身の中に想起する感情を自己点検し、コントロールする必要がある。
たとえば患者-治療者関係において、以下のようなやりとりがある<ref name=care/>。
* 患者「眠れないんです、睡眠薬ください!」
** 「仕方ないわね、今回だけだからね」(陽性逆転移)- 治療者は患者を子供としてあやし、自立を阻害している。
** 「ダメです!薬ばかりに頼っては!」(陰性逆転移)- 治療者は患者を子供のように叱り、関係を壊している。
== 脚注 ==
{{reflist|group="注"}}
== 出典 ==
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite |和書 |author=アンナ・フロイト(著)、外林大作(訳) |date=1936 |title=自我と防衛 |publisher=誠心書房 |isbn=9784414404043 }}
*{{Cite |和書 |author=H・スィーガル(著)、岩崎徹也(訳) |date=1977-10 |title=メラニー・クライン入門 |publisher=[[岩崎学術出版社]] |isbn=9784753377060 }}
*{{Cite |和書 |author=下山晴彦 |date=2009-08 |title=[http://www.minervashobo.co.jp/book/b49970.html よくわかる臨床心理学(やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)] |publisher=ミネルヴァ書房 |isbn=9784623054350 }}
*{{Cite |和書 |author=上島国利、平島奈津子、上別府圭子 |date=2007 06 |title=知っておきたい精神医学の基礎知識 ― サイコロジストとコ・メディカルのために |publisher=誠信書房 |isbn=9784414428605 |ref= }}
*{{Cite |和書 |author=アイヴァン・ワード 著、小林司 訳 |date=2003-04 |title=超図説 目からウロコの精神分析学入門 ― 進化した解釈から最新の精神療法まで |publisher=講談社 |isbn=9784062692007 |ref= }}
*{{Cite |和書 |author=鈴木晶 |date=2004-01 |title=[[図解雑学シリーズ|図解雑学]] フロイトの精神分析 |publisher=[[ナツメ社]] |isbn=9784816336461 |ref= }}
== 関連項目 ==
*[[ジークムント・フロイト]]
*[[アンナ・フロイト]]
*[[精神分析学]]
*[[対象関係論]]
*[[償い (心理学)|償い]]
*[[躁的償い]]
*[[阿Q正伝]]
*[[二重思考]]
*[[wikt:逆転]]
==外部リンク==
* {{脳科学辞典|記事名=防衛機制}}
{{防衛機制}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ほうえいきせい}}
[[Category:防衛機制|*]]
[[Category:フロイト派心理学]]
[[Category:精神分析用語]]
[[Category:欲求]]
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2003-08-16T09:31:40Z
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2023-08-03T01:12:15Z
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幕末
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幕末()は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1868年)までの時代を主に扱う。
幕末の期間に関する厳密な定義はないが、1853年7月8日(嘉永6年旧暦6月3日)の黒船、即ちマシュー・ペリーが率いるアメリカ海軍艦隊の来航をその始期とする見方が一般的であり、王政復古の大号令(1868年)においても「抑癸丑(1853年)以来未曾有の国難」が体制変革の画期として指摘されている。
終期については、1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)に徳川慶喜が大政奉還を行った時点、翌1868年5月3日(旧暦4月11日)の江戸開城の時点など、様々な見方があり得る。また、旧幕府軍による抵抗が終わった箱館戦争の終結(1869年)、幕藩体制が完全に終結した廃藩置県を断行した1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)、西欧式の太陽暦であるグレゴリオ暦を元号に採用する前日の1872年12月31日(明治5年旧暦12月2日)なども終期となりうる。
幕末は、「西洋の衝撃」を受けた国防意識の高まりとナショナリズムの勃興を背景に、水戸学のような日本型華夷思想を基盤として国体意識が高まり、徳川将軍が事実上の国家主権者として君臨する幕藩体制が解体され、国内の政治権力の再編が進む過程である。その中心を担ったのは薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩などの、いわゆる西南雄藩であった。この時期には「鎖国」を放棄して開港した日本が、外国との自由貿易の開始によって世界的な資本主義市場経済と植民地主義に組み込まれた。また一部での排外主義(尊王攘夷運動)の高まりにもかかわらず、列強の圧倒的な存在感により社会自体が西洋文明の影響を受けて劇的に変化していった時期でもある。この幕末の過程は、たとえば島崎藤村の長編小説『夜明け前』など多くの文学作品にも描かれている。
政治的側面においては、幕末を、単なる過渡期とするか、あるいはそれ以前以後とは異なった独自の政治体制とするかの2つの見方に分かれる。一方で、国際関係史的には「近代」として扱われ、一連の条約の締結により日本が西洋近代システムへの参入を果たした幕末から、第二次世界大戦で敗れて天皇を主権者とする帝国主義国家が崩壊するまで、即ち開国(1854年)から第二次世界大戦敗北(1945年)までを「近代」とする見方も存在する。幕末とそれに続く明治時代は「幕末・明治」として一括されて呼ばれることも多い。
黒船来航以前については幕末の砲艦外交を参照。
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、アメリカ合衆国が派遣したペリー提督率いる4隻の黒船が浦賀沖に来航し、江戸幕府に開国を迫る大統領国書をもたらした。老中首座の阿部正弘(備後福山藩主)は、海防参与徳川斉昭(前水戸藩主)らや、松平慶永(春嶽、越前藩主)・島津斉彬(薩摩藩主)ら親藩・外様大名をはじめ、庶民にいたるまで対応意見を求めた。こうした激動の中、将軍徳川家慶が死去し、世子の家定が13代将軍に就任する。
翌1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に再来したペリーは、重ねて開国を要求する。全権の林復斎(大学頭)らとの交渉により、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)日米和親条約が締結され、いわゆる「鎖国」体制は終焉した。また、英国のスターリングと水野忠徳の交渉で1854年10月14日(嘉永7年8月23日)に日英和親条約、ロシア帝国のプチャーチンと川路聖謨らの交渉により1855年2月7日(改元して安政元年12月21日)に日露和親条約、やや遅れて1856年1月30日(12月23日)には 日蘭和親条約調印が締結された。国交を樹立した幕府での体制再編のため阿部は幕府や外部からの人材登用、研究教育施設の創設、軍事体制の再編を行っている。永井尚志・岩瀬忠震・大久保一翁の海防掛目付登用や長崎海軍伝習所や蕃書調所の設置などもそのひとつである。開国以前より継続していたこれらの改革は安政の改革と呼ばれ、勝海舟もこの動きの中から注目される。
日米和親条約では、薪水の給与のための下田・箱館開港と並んで、両国の必要に応じて総領事が置かれることとなり、1856年(安政3年)米国はハリスを下田に派遣する。ハリスは自由貿易と開港を目的とした通商条約の締結を幕府に迫る。阿部死後、老中首座となった堀田正睦は徳川斉昭を罷免し、ハリスを下田より上府させ、1857年12月7日(安政4年10月21日)には将軍徳川家定に拝謁させた。ハリスは江戸で第二次アヘン戦争における清の敗北などの世界情勢を堀田に伝え、英仏が日本に不利益な条約を強制する危険があると主張した。この事態を避けたければアメリカとの条約を先に締結するべきとするハリスの発言について、堀田は虚偽を含む主張と承知しながらも通商条約締結は不可避と判断し、交渉を進めた。合意した内容は、領事裁判権を認め、関税自主権を有さず、かつ片務的最恵国待遇を課した不平等条約であった。
条約内容に合意した後、堀田は孝明天皇の勅許を求めるべく、上洛して関白九条尚忠を通じて工作をおこなわせた。しかし、孝明天皇は異国人撫恤のための薪水給与は認めていたが、開市(外国人の国内の居住)や開港には反対しており、また岩倉具視ら多くの公家が関白の幕府寄りの姿勢を批判したため(廷臣八十八卿列参事件)、勅許は得られなかった。一方、病弱であった将軍家定に子がなかったため、将軍の継嗣を誰にするかについても国内世論が二分した。紀州藩主徳川慶福を推す南紀派と、一橋徳川家当主徳川慶喜を推す一橋派が激しく対立し、条約問題とともに江戸・京都での政治工作が熾烈化した(将軍継嗣問題)。一橋派では橋本左内(越前藩士)・西郷隆盛(薩摩藩士)、南紀派では長野義言(彦根藩士)ら下級武士がこれら工作に活躍した。のちに島津斉彬はこれらの問題の解決を図るため、率兵上京を試みるが、決行の直前に病を得て急死した。
1858年6月4日(安政5年4月23日)に大老に就任した井伊直弼(彦根藩主)は、将軍継嗣問題と条約問題とを強権的な手法で一気に解決をはかった。すなわち、将軍職については、大老就任直後の1858年6月11日(安政5年5月1日)紀州慶福を後継に決定する。慶福は家茂と改名し、江戸城へ入った(将軍就任は安政5年10月25日)。直弼自身は勅許は必要と考えていたが、勅許不要とする老中の松平忠固に押され、7月29日(安政5年6月19日)、勅許の降りないまま井上清直と岩瀬忠震を全権として日米修好通商条約を調印した。調印直後に井伊は堀田と松平忠固の二老中を罷免し、代わって老中在職経験のある太田資始(道醇、前掛川藩主)・間部詮勝(鯖江藩主)・松平乗全(西尾藩主)を老中に任命した。その後、日米修好通商条約と同様の条約がイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結ばれた(安政の五ヶ国条約)。開市開港は段階的に行うとされたが、これについては井伊の後継である安藤信正が派遣した文久遣欧使節によりロンドン覚書が調印され時期をずらすことになる。
こうした直弼の強権的手法には反撥が相次ぎ、徳川斉昭・徳川慶勝(尾張藩主)・松平慶永らは抗議のため登城するが、無断で登城したことを理由に逆に直弼によって謹慎処分を受けることとなった。孝明天皇を無視する形で条約調印が続くと幕府寄りだった関白・九条尚忠は天皇の信頼を失い孤立していくが、それでも「内覧」権を有する関白は依然として最重要人物であった。それが1858年9月14日(安政5年8月8日)に内覧を経ずに幕府と水戸藩へ戊午の密勅が出され、その後に九条関白が幕府のために情報を壟断していた事実が明らかとなり辞職を求める内勅が出されて内覧は停止された。
失地回復を図るべく老中の間部詮勝、京都所司代の酒井忠義が上洛し、この密勅に関わったとして近藤茂左衛門、梅田雲浜を逮捕したことを皮切りに、尊攘志士の頼三樹三郎や、前関白の鷹司政通の家臣の小林良典など、公家の家臣も含めた井伊が主導する幕府に反発する人物が次々と捕らえられた。この威嚇を背景に、間部は九条関白の復職と慶福改め家茂の将軍宣下を実現権威させ、事実上の条約勅許まで獲得した。間部のさらなる朝廷への威圧により、攘夷派の左大臣近衛忠煕・右大臣鷹司輔煕が辞官し、前関白の鷹司政通・前内大臣三条実万とともに落飾・出家するに至った。
江戸においても、井伊によって弾圧が行われた。特に水戸藩への弾圧は苛烈を極め、家老の安島帯刀は切腹、奥右筆の茅根伊予之介は斬罪、密勅を江戸に運ぶのに関わった鵜飼吉左衛門・幸吉父子はそれぞれ斬罪・獄門となった。大名や旗本では徳川斉昭が永蟄居、一橋慶喜・伊達宗城(宇和島藩主)・山内容堂(土佐藩主)らが隠居謹慎に処されたほか、一橋派と目された幕臣の岩瀬忠震や永井尚志が免職のうえ永蟄居を命ぜられ、さらには老中の太田資始・間部詮勝も罷免された。また、逮捕された三条家家臣の飯泉喜内の手紙から、検挙者が増え、橋本左内なども捕縛された。京都で捕らえられた人物は江戸に送られ、江戸の逮捕者とともに取調べが行われた。取調べの結果、橋本左内・頼三樹三郎・飯泉喜内・松下村塾の主催者吉田松陰は斬罪となった。梅田雲浜や小林良典、密勅に関わった薩摩藩士日下部伊三治らは獄死した。これら世論や朝廷へ働きかける運動家、オピニオンリーダー、その保護者やシンパである封建諸侯、幕府内部の実務官僚らが標的となった政治的弾圧を「安政の大獄」と呼ぶ。水戸藩内では戊午の密勅返還問題を巡りセクト主義に陥り、激派と鎮派(暫進的改革派)に分裂、彼等と対抗する門閥派の諸生党と混迷を極める結果になる。
安政の大獄は、旧一橋派や攘夷派・尊皇派の反撥を招く。度重なる弾圧に憤慨した水戸藩の激派や薩摩藩の浪士は、密かに暗殺計画を練り、1860年3月24日(安政7年3月3日)、江戸城登城の途中の直弼を桜田門外にて襲撃して暗殺を決行した(桜田門外の変)。政権の最高実力者に対する暗殺という結果は、幕府の権威を大きく失墜させることとなった。
井伊直弼の死から、幕閣は久世広周(関宿藩主)と安藤信正(磐城平藩主)が実質上の首班となって運営された。幕府は朝廷の権威により幕威を回復せんと公武合体を推進。万延元年4月12日(1860年6月1日)、皇女和宮親子内親王の徳川家茂への降嫁を朝廷へ奏請したが、孝明天皇は帥宮熾仁親王との婚約を命じており拒絶をした。幕府は請願を繰り返しつづけ、孝明帝の侍従であった岩倉具視は公武合体を通じて穏やかに王政回復の機会を得るべきと進言した。幕府が「七八カ年乃至十カ年」という期限をつけて条約破棄か武力撃攘を約束したことで孝明天皇は降嫁を認め、和宮は文久元年11月15日(1861年12月16日)に江戸城に入った。孝明天皇は幕府の外交措置を信頼しようとするが廃帝を画策しているとの噂が立っており、勅使として岩倉と千草有文が関東へ下向。徳川家茂より自筆で忠誠を誓う誓書を書かせた。文久2年4月7日(1862年5月5日)、孝明天皇は幕府と決めた期限に必ず攘夷を為す意思を明らかとした。結果として幕府は自らの約束に縛られる結果となった。
安政6年6月2日(1859年7月1日)に横浜港が開港した。居留地が置かれ外国人が住居往来したがキリスト教の日本への布教は認められていなかった。貿易は生糸、茶が輸出され、綿糸、織物が輸入された。国内と国外の金貨銀貨はそれぞれ同一質量で交換されたが、日本の金銀比価の問題より短期間に大量の金、一説に10万両と云われる大量の金の海外流出を招いた。万延元年4月10日(1860年5月30日)、幕府は万延小判を発行して混乱に対応した。しかし従来の天保小判に比して金の量を約1/3とした万延小判は既存の小判を含有金量に応じて増歩通用としたため混乱を招いた。横浜商人など利益を得た者がいたが、地廻り経済圏の在郷商人は生産地より江戸の問屋に物資を廻送せず品不足と物価高騰が発生した結果、都市の打ち壊しや地方の一揆が激増した。経済の混乱のため五品江戸廻送令が出されるがイギリスは生糸の輸出制限に不満を募らせた。今日から見ると珍しく輸出にも関税をかけていたが関税収入を幕府が独占したため西南雄藩は不満を持った。こうした問題は薩英戦争後に英国と薩摩藩が接近していく素地となり、横浜鎖港と兵庫開港にみられる貿易統制をめぐる幕府と雄藩との軋轢を生む要因となった。
他方、外交では、横浜での貿易が盛んに行われるなかで、1861年2月にロシア軍艦ポサドニック号が占領を企てて対馬に滞泊するロシア軍艦対馬占領事件が発生する。ロシア側が芋崎に兵舎を建設して付近の永久租借権を要求する事態に発展し、対馬藩や島民が抵抗して、幕府も外国奉行の小栗忠順を派遣し撤退を求めた。しかし、ロシア艦は動かず、結局イギリス公使オールコックの協力の申し出によりイギリス艦2隻が派遣され、8月にようやく退去した。
幕府の公武合体が停滞する中で大名は中央政界に国論を引っ提げて乗り出した。長州藩は長井雅楽を京都へおくり「航海遠略策」の建白書を朝廷へ上らせ、長井は文久元年6月2日(1861年7月9日)に御嘉納されたことを伝えられ御製の和歌を賜った。また同年8月3日(1861年9月7日)に安藤信正と面会し持論を述べる機会を得た。長州藩の公武周旋の動きは薩摩藩を刺激した。文久2年、京都所司代の酒井忠義を無視するかのように続々と志士が入京した。彼らは和宮降嫁を主導した酒井や関白・内覧九条尚忠といった公武合体派を敵視していた。真木和泉、久坂玄瑞を中核とする草の根のネットワークが形成されオルグ活動では清河八郎の九州遊説が貢献した。関東の雄藩である水戸藩では井伊暗殺の実行者を追討する一方、激派の要人を参政に登用する形で安定を図った。しかし攘夷の意思が固い激派は長州藩の桂小五郎、松島剛蔵と提携し実力行使による幕政改革を志向していたが、長州藩は航海遠略策が藩論となり動きがとれなくなった。激派は宇都宮藩の大橋訥庵と提携し文久2年1月15日(1862年2月13日)、安藤信正を江戸城坂下門外で襲撃した。安藤は負傷し命は助かったものの後に失脚した(→坂下門外の変)。幕府から睨まれた宇都宮藩は蒲生君平が踏破調査(山陵志)をしていた天皇陵を修補するという奇策を用いて公武の間に運動をしていくが、当然に治定としては矛盾が続いている。また、過激尊攘志士による「異人斬り」が横行した。安政6年にロシア使節の護衛艦隊の乗組員が襲撃されて2名が死亡し、同7年にはオランダ船長と商人が殺害されたほか、万延元年にはアメリカ公使ハリスの通訳ヒュースケンが薩摩藩士に襲撃され、命を落とした。また、文久元年には水戸藩士がイギリス公使館を襲う東禅寺事件が勃発した。
文久2年4月16日(1862年5月14日)、薩摩藩の最高実力者である島津久光は公武合体を実現すべく藩兵を率いて上京した。事前に大久保一蔵を使者にたて上京の勅許奏請を工作したが婉曲に断られ、天朝の危機に、勅命を奉じて幕政改革を実行させる意欲のもと独断で京都へのぼった。志士の動向に怯えていた朝廷は久光へ浪士鎮撫の勅命を与えた。一方久光は前左大臣の近衛忠煕に開国・軍備増強を建白した。ただ、気がかりは薩摩藩内の尊王攘夷派の暴発であり、有馬新七は薩摩藩を尊攘派に引きずりこむためにテロを計画し酒井所司代と九条関白を対象とした。久光は彼らに監視をつけて説得にあたらせたが、尊王攘夷派が上京して船宿に入ったため、やむなく粛清を行った(→寺田屋騒動)。
久光の朝廷工作により、幕府改革への勅使として大原重徳が遣わされるという事態となる。幕府側にはそれを拒否する力は無く、安政の大獄で失脚した徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職とするなどの人事を含む改革を余儀なくされた。そして、幕政に返り咲いた慶喜・春嶽や、春嶽のブレインである横井小楠らにより、松平容保(会津藩主)の京都守護職任命や、参勤交代制の改革などが行われた(→文久の改革)。いっぽう久光率いる薩摩藩兵は帰国途中の1862年9月14日(文久2年8月21日)生麦村で行列を横断しようとした英国人に斬りつける事件を起こす(→生麦事件)。イギリス側は犯人の処刑を要求するが、国父の久光が開国論でありながら内部では未だ開国論に統一されていない薩摩藩では、この要求に従うことができず、後に禍根を残すこととなる。その後、京都へ凱旋した久光だが京都は尊王攘夷派に政局が占拠されており、長州藩では桂や久坂、真木和泉のため長井は失脚させられ藩論は尊王攘夷へ転換されていた。憤りが収まらない久光は鹿児島へ引き上げた。
尊王攘夷派に占拠された京都では、長州藩、土佐藩の尊王攘夷派が朝廷の圧力を利用して将軍上洛運動を強要した。土佐藩に関しては、藩主の山内豊範が土佐勤王党の武市瑞山らを率いて上京しており、長州藩と密接な連絡をとって朝廷に働きかけていた。こうした運動が実を結び、三条実美・姉小路公知が江戸に下り、幕府に攘夷決行と将軍上洛を督促した。幕府内では、御側御用取次の大久保一翁が開国論を説いて朝廷に拒否されたならば大政奉還をせよと主張したため左遷され、幕閣は将軍上洛を受け入れることを決めた。そして、1863年4月21日(文久3年3月4日)、家茂は将軍としては200年ぶり(3代家光以来)に京都に入ったが、朝廷のペースに巻き込まれ、1863年6月25日(文久3年5月10日)をもっての攘夷決行を約束させられてしまう。但し、幕府は攘夷を武力行使ではなく条約の撤回と解釈し、老中の小笠原長行(唐津藩世子)が、独断というかたちで生麦事件の賠償金を支払う一方、横浜からの一時退去を諸外国に申し入れたが、これを拒否されている。
他方、攘夷決行の日である6月25日、長州藩は久坂玄瑞らの指揮の下、関門海峡を通過する外国商船に砲撃を加える。しかし20日後にアメリカ合衆国、さらにその4日後にはフランスからの報復攻撃を受け砲台を占拠されるなど、攘夷の困難さを身をもって知ることとなる(→下関戦争)。また藩兵の軟弱さを嘆いた長州藩士高杉晋作は、新たに武士以外の身分を含む奇兵隊を結成、それに続いて諸隊が次々と結成され、後の長州藩の武力となっていく。また、生麦事件の賠償問題がこじれたことから1863年8月15日(文久3年7月2日)、薩摩藩と英国の間にも戦争が勃発(→薩英戦争)。薩英戦争では、イギリス艦隊による鹿児島城下砲撃と、それに反撃する薩摩藩砲兵との間で戦闘が発生した。イギリス側の人的被害が大きかった一方、鹿児島市街の一部が焼失し、薩摩藩もまた攘夷の不可能性を悟り、藩論を開国に統一することとなった。この交渉によりイギリスは薩摩藩が実は開国論に立っていることを知り、以後薩摩藩と急速に接近していくこととなる。
このころ、京都へ尊王攘夷派の志士が集い、「天誅」と称して反対派を暗殺するなど、治安が極端に悪化していた。安政の大獄に関わった九条家家臣の島田左近の暗殺に端を発したこれらのテロ行為は、幕臣や公家を恐怖に陥れた。逆に、尊攘派の代表と見られた姉小路公知が暗殺される事件(朔平門外の変)や尊攘志士の本間精一郎が暗殺される事件も起きた。岩倉具視ら公武合体派の公家は排除され、三条実美ら尊王攘夷派の公家が朝議を動かすようになり、公武合体派の勢力は低下した。長州藩は8000名と言われる駐在兵を京都に置き、シンパを含めれば三万を動員できるとされた。
こうした尊攘派により討幕が行われることを憂う孝明天皇の思惑とは裏腹に、尊王攘夷派の真木和泉らは討幕・王政復古を実現させるべく運動し、1863年9月25日(文久3年8月13日)、天皇が神武天皇陵・春日大社に行幸して攘夷を祈願して親征の軍議を行うという詔が出る。これを受け、かねてより中川宮朝彦親王を介して天皇の真意を知っていた薩摩藩の高崎左太郎は、会津藩の秋月悌次郎を通じて松平容保を説いた。容保は帰藩途中の会津藩兵を呼び戻し、中川宮とともに綿密な計画を練り、天皇の同意のうえで薩摩藩と30日(文久3年8月18日)に宮廷の御門を制圧し、長州藩兵および三条ら7人の公卿を長州へ撤退させるクーデタを決行し(八月十八日の政変、七卿落ち)、真木や久坂玄瑞ら長州藩系の尊攘勢力の一掃に成功した。
いっぽう1864年2月7日(文久3年12月30日)以降、徳川慶喜・松平春嶽・松平容保・伊達宗城(宇和島藩主)・島津久光による初の諸侯会議となる参預会議が開催され、神奈川鎖港談判、長州藩の処置、大坂港の防備強化などの議題が話し合われた。春嶽・久光ら諸侯は持論の開国論を唱えるが、幕府を代表する慶喜が横浜鎖港を主張して対立し、結局幕府の思惑どおり何の実績もあげられぬまま、翌年3月に解散となった。春嶽らは帰国し参預会議体制はわずか数ヶ月しか持たなかった。薩摩藩はこれを機に幕府や慶喜との確執を深めていくこととなる。この後、朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられた慶喜は、京都守護職松平容保(会津藩主)・京都所司代松平定敬(桑名藩主)兄弟らとともに、江戸の幕閣から半ば独立した動きをみせることとなる(一会桑体制)。
このころ、各地で尊攘過激派による実力行使の動きが見られたが、いずれも失敗に終わっている。1863年9月29日(文久3年8月17日)、大和では公卿中山忠光、吉村寅太郎・池内蔵太(土佐藩士)、松本奎堂(三河刈谷藩士)、藤本鉄石(岡山藩士)、さらには河内の大地主水郡善之祐らも加わった天誅組の変が勃発し、続いて但馬では澤宣嘉(前年京都から追放された七卿の一人)・平野国臣(福岡藩士)らによる生野の変が連鎖的に発生した。また土佐藩では一藩勤皇を唱えた武市瑞山が率いる土佐勤王党(前年に藩執政吉田東洋を暗殺)が公武合体に戻った元藩主の山内豊信により弾圧され尊攘勢力は後退した。
さらに水戸藩では1864年5月2日(元治元年3月27日)、藤田小四郎・武田耕雲斎ら天狗党が筑波山で挙兵。水戸藩の要請を受けた幕府軍の追撃により壊滅させられる事件も発生した(→天狗党の乱)。
このような状況下、前年の八月十八日の政変以降影響力を減退していた尊王攘夷派の中心・長州藩では、京都への進発論が沸騰。折から京都治安維持に当たっていた会津藩預かりの新撰組が、池田屋事件で長州藩など尊攘派の志士数人を殺害したため、火に油を注ぐこととなり、ついに長州藩兵は上京。1864年8月20日(元治元年7月19日)、京都守備に当たっていた幕府や会津・薩摩軍と激突し、御所周辺を巻き込んだ合戦が行われた(→禁門の変)。この戦で、一敗地にまみれた長州藩は逆賊となり京から追放され、幕府から征伐軍が派遣されることとなる。さらに9月5日(元治元年8月5日)には、前年の下関における外国船砲撃の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ4国の極東艦隊が連合して下関を攻撃。装備に劣る長州はここでも敗れ、長州藩は窮地に陥った(四国艦隊下関砲撃事件)。
逆賊となった長州藩に長州への征伐が発令され、総大将に徳川慶勝(尾張藩主)、副将に松平茂昭(福井藩主)、参謀に西郷隆盛(薩摩藩士)が任命された。元治元年9月大坂での勝海舟との会談を経て長州藩への実力行使の不利を悟った西郷は開戦を回避し、長州藩からの謝罪を引き出す方針をとる。四国艦隊下関砲撃事件での敗戦以降、松下村塾系の下級藩士を中心とした攘夷派勢力が後退し、椋梨藤太ら譜代家臣を中心とする俗論派が擡頭していた。幕府への恭順路線を貫き、責任者の処刑など西郷が提示した降伏条件の受け入れを承認したため、第1次長州征伐は回避されることとなった。
しかし長州藩内で旧攘夷派の粛清が続くなか、同年末に野村望東尼に激励された高杉晋作が奇兵隊などの諸隊を糾合し長府功山寺にて挙兵(功山寺挙兵)。翌年初頭、藩中枢部の籠もる萩城を攻撃し、俗論派を壊滅させて再び藩論を反幕派へ奪回した。藩論の再転換により、既定の降伏条件を履行しない長州藩へのいらだちは高まり、小笠原長行・勘定奉行小栗忠順ら強硬派による長州再征論が浮上し、将軍家茂は再度上洛する。
一方、安政条約に明記されながらいまだに朝廷の許可が無いため開港されていなかった兵庫(神戸港)問題を巡って、英国公使パークスが主導する英仏蘭連合艦隊が1865年11月4日(慶応元年9月16日)、兵庫沖に迫った(兵庫開港要求事件)。攘夷派への配慮からわざと幕府が外交を停滞させているとみたパークスらは薩長が攘夷策を放棄した時点で障害はのぞかれたはずであるとして、兵庫開港か条約勅許を求めて威圧を行ったものである。譲歩案として英国は下関戦争賠償金の引き下げに応じる姿勢も見せた。幕府主導の外交を狙う老中阿部正外・松前崇広らはこの動きに対して幕府単独の開港方針を決めるが、朝廷との連携を重視する徳川慶喜は難色を示す。独断で兵庫開港を決めた阿部・松前に対して朝廷から老中罷免の令が出されるという異常事態となった朝廷による現実の幕政介入という事態に、慶喜に対する疑念が幕臣たちの間で深まり、家茂が将軍辞職を漏らすなどの混乱がおきた。慶喜は家茂を説得する一方で条約勅許、兵庫開港をめぐって在京の諸藩士を集めた上で、11月22日(慶応元年10月5日)朝廷に条約勅許を認めさせた(兵庫開港は延期)。また関税改正の合意を得るというイギリスの目的も達成されたことで四国艦隊は兵庫沖から去った。翌1866年6月25日(慶応2年5月13日)に改税約書が調印され、輸入関税が大幅に引き下げられたことにより、日本の輸入は急増した。大量生産による安価な綿製品に太刀打ち出来ず、日本の手工業的綿織物は大打撃を受けた。
こうしたなか、薩摩藩は徐々に幕府に非協力的な態度を見せ始め、駐日公使ハリー・パークス、アーネスト・サトウの助言のもと、長州藩との提携を模索する。薩摩藩の庇護下にあった土佐浪士坂本龍馬や、同じく土佐浪士で下関に逼塞していた三条実美らに従っていた中岡慎太郎らが周旋する形で、薩摩長州両藩の接近が図られる。逆賊に指名され表向き武器の購入が不可能となっていた長州藩に変わって薩摩が武器を購入するなどの経済的な連携を経た後、1866年3月7日(慶応2年1月21日)、京都薩摩藩邸内で木戸孝允・西郷らが立ち会い、薩長同盟の密約が締結された。
偶然ではあるが、幕府は薩長同盟が締結された翌日に第二次長州征伐を発令した。7月18日(慶応2年6月7日)に開戦するが、薩摩との連携後軍備を整え、大村益次郎により西洋兵学の訓練を施された長州の諸隊が幕府軍を圧倒。各地で幕府軍の敗報が相次ぐなか、1866年8月29日(慶応2年7月20日)家茂が大坂城で病死。徳川宗家を相続した慶喜は親征の意志を自ら見せるものの、一転して和睦を模索し、広島で幕府の使者勝海舟と長州の使者広沢真臣・井上馨らの間で停戦協定が結ばれ、第二次長州征伐は終焉を迎えた。
家茂の死後、将軍後見職の徳川慶喜は徳川宗家を相続したが、征夷大将軍職への就任は拒んでいた。だが、5か月後の1867年1月10日(慶応2年12月5日)ついに将軍宣下を受け将軍就任し、家茂の弔い合戦として長州を制圧することを公言する。孝明天皇は慶喜を非常に信頼しており、長州征討に反対した大原重徳ら22卿を処罰するほどだった。しかし、1月30日(慶応2年12月25日)に天然痘のため天皇は崩御する。2月13日(慶応3年1月9日)に睦仁親王が践祚する運びとなった(明治天皇)。
薩摩藩の西郷・大久保利通らは政局の主導権を握るため雄藩連合を模索し、島津久光・松平春嶽・伊達宗徳・山内容堂(前土佐藩主)の上京を促し、6月6日(慶応3年5月4日)から 四侯会議を開催して兵庫開港および長州処分問題について徳川慶喜と協議させたが、慶喜の政治力が上回り、団結を欠いた四侯会議は無力化した。6月26日(慶応3年5月24日)には摂政二条斉敬以下多くの公卿を集めた徹夜の朝議により長年の懸案であった兵庫開港の勅許も得るなど、慶喜による主導権が確立されつつあった。さらに慶喜はフランス公使ロッシュの助言を容れ、フランス式の軍事訓練が行われたほか、榎本武揚らのもとで幕府海軍が整えられた。小栗忠順や栗本鋤雲らが中心となってフランスとの大借款の相談も行われた。また、老中制度も改められ、老中首座の板倉勝静(備中松山藩主)を首相格として各老中が陸軍・海軍・国内事務・会計・外国事務の各総裁を兼務する内閣に似たかたちがとられ、さらに次官にあたる諸奉行にも有能な人材が抜擢されるようになった(→慶応の改革)。
こうして幕府が息を吹き返そうとする状況の中、薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟り、土佐藩・芸州藩の取り込みを図る。土佐藩では後藤象二郎が坂本龍馬の影響もあり、武力倒幕路線を回避するために大政奉還を提議し、薩摩藩もこれに同意したため、7月23日(慶応3年6月22日)には薩土盟約が締結される。これは徳川慶喜に自発的に政権返上することを建白し、拒否された場合には武力による圧迫に切り替える策であった。しかし兵力の発動を渋る山内容堂に反対され、また薩摩藩も慶喜の拒否を大義名分として結局武力発動しかないと判断していたため、両藩の思惑のずれから10月4日(慶応3年9月7日)盟約は解消。結局土佐藩は10月29日(慶応3年10月3日)単独で山内容堂が老中の板倉に大政奉還の建白書を提出した。いっぽう、薩摩藩の大久保・西郷らは、長州藩・芸州藩との間に武力を背景にした政変計画を策定。さらに洛北に隠棲中だった岩倉具視と工作し、中山忠能(明治天皇の祖父)・中御門経之・正親町三条実愛らによって、1867年11月9日(慶応3年10月14日)に討幕の密勅が下された。ところが、徳川慶喜は山内容堂の進言を採用し、同日に大政奉還を明治天皇に奏請しており、討幕派は大義名分を失った。大政奉還により江戸幕府による政権は形式上終了した。
慶喜は1867年11月19日(慶応3年10月24日)に将軍職辞職を申し出たが、幕府の職制も当面残されることとなり、実質上は幕府支配は変わらなかった。岩倉や大久保らはこの状況を覆すべくクーデターを計画する。1868年1月3日(慶応3年12月9日)に、王政復古の大号令が発せられ、慶喜の将軍職辞職を勅許、幕府・摂政・関白などが廃止され、天皇親政を基本とし、総裁・議定・参与などからなる新政府樹立が発表された。同日夜薩摩藩兵などの警護の中行われた小御所会議において、徳川慶喜への辞官および領地返上が議題となる。会議に参加した山内容堂や松平春嶽は猛反対するが、岩倉や大久保らが押し切り、辞官納地が決定された。決定を受けて慶喜は大坂城へ退去したが、山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝の仲介により辞官納地は次第に骨抜きとなってしまう。そのため、西郷らは相楽総三ら浪士を集めて江戸に騒擾を起こし、旧幕府側を挑発した。江戸市中の治安を担当した庄内藩や勘定奉行小栗忠順らは激昂し、薩摩藩邸を焼き討ちした。
なおこのころ、政情不安や物価の高騰による生活苦などから「世直し一揆」や打ちこわしが頻発し、また社会現象として「ええじゃないか」なる奇妙な流行が広範囲で見られた。
江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂城へ伝わると、城内の旧幕兵も興奮し、「討薩表」を掲げ、京への進軍を開始した。1868年1月27日(慶応4年1月3日)鳥羽街道・伏見街道において薩摩軍との戦闘が開始された(鳥羽・伏見の戦い)。官軍を意味する錦の御旗が薩長軍に翻り、幕府軍が賊軍となるにおよび、淀藩や安濃津藩などの寝返りなどが相次ぎ、2日後には幕府軍の敗北が決定的となる。徳川慶喜は軍艦開陽丸にて江戸へ逃亡し、旧幕府軍は瓦解した。以後、翌年まで行われた一連の内戦を、慶応4年の干支(戊辰)に因んで「戊辰戦争」という。なお戊辰戦争中の1868年10月23日(旧暦9月8日)には慶応から明治に改元された。
東征大総督として有栖川宮熾仁親王が任命され、東海道・中山道・北陸道にそれぞれ東征軍(官軍とも呼ばれた)が派遣された。一方、新政府では、今後の施政の指標を定める必要から、福岡孝弟(土佐藩士)、由利公正(越前藩士)らが起草した原案を長州藩の木戸孝允が修正し、「五箇条の御誓文」として発布した。
江戸では小栗らによる徹底抗戦路線が退けられ、慶喜は恭順謹慎を表明。慶喜の意を受けて勝海舟が終戦処理にあたり、山岡鉄舟による周旋、天璋院や和宮の懇願、西郷・勝会談により決戦は回避されて、江戸城は無血開城され、徳川家は江戸から駿府70万石へ移封となった。
しかしこれを不満とする幕臣たちは脱走し、北関東、北越、南東北など各地で抵抗を続けた。一部は彰義隊を結成し上野寛永寺に立て籠もったが、7月4日(慶応4年5月15日)長州藩の大村益次郎率いる諸藩連合軍により、わずか1日で鎮圧される(→上野戦争)。
そして、旧幕府において京都と江戸の警備に当たっていた会津藩及び庄内藩は朝敵と見なされ、会津は天皇へは恭順を表明するものの新政府への武装敵対の意志を示し、新政府は周辺諸藩に会津への出兵を迫る事態に至った。新政府に劣位の立場で参加することを嫌った仙台藩・戦国時代の旧領回復を望んだ米沢藩などの主導により、陸奥、出羽及び越後の諸藩が奥羽越列藩同盟を結成し、盟主として上野戦争以降東北にいた輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が擁立された。長岡(→北越戦争)・会津(→会津戦争)・秋田(→秋田戦争)などで激しい戦闘がおこなわれたが、いずれも新政府軍の勝利に終わった。
旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は幕府が保有していた軍艦を率い、各地で敗残した幕府側の勢力を集め、箱館の五稜郭を占拠。旧幕府側の武士を中心として明治政府から独立した政権を模索するが(いわゆる「蝦夷共和国」)、箱館戦争の結果、翌1869年6月27日(明治2年5月18日)新政府軍に降伏し、戊辰戦争が終結した。
その間、薩長土肥の建白により版籍奉還が企図され、同年9月諸藩の藩主(大名)は領地(版図)および人民(戸籍)を政府へ返還、大名は知藩事となり、家臣とも分離された。1871年8月29日(明治4年7月14日)には、廃藩置県が断行され、名実共に幕藩体制は終焉した(→明治維新)。
1846年7月19日(弘化3年閏5月26日)国務長官ジョン・カルフーンの命を受けたジェームズ・ビドルが、通商を求めて浦賀に来航した。ビドルの来航は感触を確認する程度のものであり、幕府がこれを拒否すると直ちに退去した。しかし米墨戦争の結果カリフォルニアがアメリカ領土となると、太平洋航路を用いての中国との交易はアメリカにとって重要な課題となった。この場合、途中の補給拠点として日本の港を利用することが望まれた。したがって、ペリーの来航目的は補給港としての日本の開港が第一であり、通商交渉は二義的なものとなった。結果として、1854年 3月31日(嘉永7年3月3日)に調印された日米和親条約には通商条項は含まれなかった。
日米和親条約に基づき、1856年8月21日(安政3年 7月21日)に初代米国領事タウンゼント・ハリスが来日した。ハリスはまず日米和親条約の追加条項の交渉を行い、それが下田協約として締結されると、1858年1月25日(安政4年 12月11日)から日米修好通商条約の交渉を開始し、同年7月29日(安政5年6月19日)に調印にいたった(この時点でハリスは公使に昇進し、公使館を江戸善福寺に開いた)。この交渉において、岩瀬忠震は批准書の交換を米国で行うことを提案し、受け入れられた(万延元年遣米使節)。使節は1860年5月17日(万延元年閏3月25日)にワシントンでブキャナン大統領に謁見・批准書を渡した。また途中多くの近代的施設を見学し、西洋文明の一端に触れた。
このように開国初期における日本の対外関係は米国が中心であった。ハリスは欧州特に英国とは異なる外交路線を採用しており、英国公使ラザフォード・オールコックからは「幕府寄り過ぎる」とみなされることもあった。日米修好通商条約の交渉中、ハリスは「調印が遅れれば英国が軍事力を背景により厳しい条件での条約を押し付けてくるので、米国と日本にとって有利な条件で条約を結ぶべき」と幕閣に述べており、実際幕府が一般品の関税として12.5%を提示したのに対し、ハリスはより高い20%を提案・合意した。これは同年に清が押し付けられた天津条約の7.5%に比べるとずっと有利であった(安政五カ国条約はいわゆる「不平等条約」であるが、調印時点で幕府にとって特に不利な条約だった訳ではない。関税は妥当であり、領事裁判権を認めることを、幕府はむしろ歓迎した。また、天津条約と異なり外国人の国内旅行が制限されるなど外国人にとって不平等な条項も含まれていた)。攘夷運動が盛んになり、各国の公使館が江戸から横浜に引き上げた後も、ハリスは江戸に留まった。幕府の内情にも通じており、新潟・兵庫・江戸・大坂の開港・開市の延期を幕府が求めた際も、これに同意している。
しかし、1861年4月に南北戦争が始まった後は、米国の日本に対する影響力は小さくなった。例えば、幕府は1861年8月14日(文久元年7月9日)にハリスに対して軍艦2隻(フリゲートおよびコルベット)の発注を依頼したが、米国政府はこれを受けることができなかった。健康上の理由で辞任したハリスに代わり、1862年5月17日(文久2年4月19日)に新公使 ロバート・プルインが着任した。プルインも当初はハリスの独自外交を踏襲した。しかし、米国商船が長州藩から砲撃を受けた後は(下関事件)、英仏との協調路線に変更した。プルインは富士山丸発注に関して問題を起こし、幕府の信頼を失ってしまったため、1865年4月28日(慶応元年3月23日)アントン・ポートマンを代理公使として、任期半ばで帰国した。1866年1月18日(慶応元年12月2日)に3代公使としてロバート・ヴァン・ヴォールクンバーグが着任したが、英仏との協調は変わらず戊辰戦争では局外中立を維持した。なお、幕府は装甲艦甲鉄を購入していたが、アメリカが中立を宣言したために受け取ることができず、また中立解除後に明治政府に引き渡されたため、箱館戦争の推移に少なからぬ影響を与えた。
1849年に広東領事(1854年から香港総督)となったジョン・バウリングは、海軍力を背景とする交渉により、和親条約ではなく一挙に日本との通商条約の締結を目指していた。しかし、クリミア戦争の発生によって、英国はアジア地域に十分な軍事力を振り分けることができなくなってしまった。1854年9月、東インド艦隊司令官スターリングは、敵国となったロシアのプチャーチンを追って長崎に入港したが、1854年10月14日(嘉永7年8月23日)、長崎奉行水野忠徳は半ば強引に日英和親条約を結んだ。結果として英国は米国と同じ権利しか獲得することが出来ず、通商条約締結という思惑は実現しなかった。この条約に対してバウリングは反対したが、ロシアと戦争状態にある現状では箱館を英国船が利用出来るメリットがあるとされ、結局批准されている。その後もアロー戦争があり、英国は日本との外交にリソースを割くことができず、通商条約に関しても、米国に遅れをとることとなった。初代英国公使(着任時は総領事)ラザフォード・オールコックは、1859年7月11日(安政6年6月12日)に江戸城に登城、批准書の交換が行われた。公使館は高輪東禅寺とされた。
1860年(万延元年)、攘夷派との妥協策として、幕府は安政五カ国条約で約束されていた兵庫・新潟・江戸・大坂の開港・開市延期を条約締結国に申し入れた。米国公使ハリスはこれを受け入れたが、オールコックは「条約は遵守すべき」として反対であり、「そのような重大な変更は、条約締結国に使節を派遣して議論すべき」とした。1861年7月5日(文久元年5月28日)には、英国公使館が襲撃され、オールコックは難を逃れたが、公使館員2人が負傷した(第一次東禅寺事件)。事件後の8月14日と8月15日の2日間にわたり(文久元年7月9日と7月10日)オールコックは、老中安藤信正、若年寄酒井忠毗との秘密会談を持ち、幕府権力の低下を素直に打ち明けられた。また、この会談でオールコックはロシア軍艦対馬占領事件に解決のために英国海軍が支援することを提案し、実行されている)。この結果、オールコックは開港・開市延期に反対することは得策でないと考えを変え、ヨーロッパに派遣される文久遣欧使節(開市開港延期交渉使節)を積極的に支援することとした。オールコックは自身の賜暇帰国を利用して、使節と共に英国本国政府との交渉に当たり、1862年6月6日(文久2年5月21日)ロンドン覚書に調印、開港・開市の5年間の延期が認められた。またオールコックは使節一行がロンドン万国博覧会の開会式に出席できるように取り計らい、またフランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールらと協力して、使節一行が欧州の進んだ文明・工業を学べるように手配した。
オールコックが賜暇帰国中、英国代理公使はジョン・ニールが務めたが、この間に日英関係は最大の危機を迎えた。1862年6月26日(文久2年5月29日)、英国公使館は再び襲撃された(第二次東禅寺事件)。さらに、同年9月14日(文久2年8月21日)に生麦事件が発生した。幕府に攘夷派取り締まりを促すために、英国東インド艦隊司令ジェームズ・ホープは、必要があれば日本の海上封鎖および一部砲台に対する限定的な攻撃を考慮することを提案した。この提案は1863年1月9日にヴィクトリア女王臨席で開かれた枢密院会議で勅令を得ている。英国は、第二次東禅寺事件の賠償金として1万ポンド、生麦事件の賠償金として10万ポンドを幕府に要求した。交渉は難航したが、賠償金支払日を1863年6月18日(文久3年5月3日)にすることで決着した。ところが、そのころ京都では徳川家茂が孝明天皇に1863年6月25日(文久3年5月10日)をもって攘夷を実行することを約束しており、この影響を受けて幕府は支払いの延期を通告した。ニールは激怒し、幕府に対する軍事行動を新任の東インド艦隊司令キューパーに委ねた。まさに戦争直前の状態となったが、老中小笠原長行 の独断によって、攘夷実行前日の1863年6月24日(5月9日)に賠償金11万ポンドが一括して支払われ、幕府と英国間の戦争は避けられた。幕府との交渉が成立した後、ニールは自ら鹿児島に赴いて薩摩藩との交渉を行うこととした。が、交渉は決裂して、1863年8月15日(文久3年7月2日)、戦闘が発生した(薩英戦争)。同年11月15日(10月5日)には薩英戦争の講和成立が成立したが、この交渉は、薩摩と英国が接近するきっかけとなった。
攘夷実行命令に基づき、長州藩は下関海峡を通過する外国船に対して砲撃を開始し、関門海峡は通行不能となっていた。1864年3月(文久4年2月)、賜暇が終わり日本に戻ったオールコックは、長州藩への武力攻撃を行い、「攘夷が不可なることを知らしめる」こととした。オールコックは仏・蘭・米の公使の合意を得、1864年9月5日(文久4年8月5日)、 四カ国連合艦隊は、下関の砲台を砲撃、さらに陸戦隊を上陸させ占領した(下関戦争)。しかし、この行動は、本国政府からは「やり過ぎ」と見なされ、オールコックは本国に召喚されてしまった。なお、この事件を通じて、英国は長州藩との間にも関係を構築した。
下関戦争の賠償金は300万ドルという巨額なものとなったが、支払いは幕府が行うこととなった。新任の公使ハリー・パークスは、賠償金を減額してでも、兵庫を早期開港させたほうが英国にとってメリットが大きいと考えた。当時、将軍徳川家茂以下の主要幕閣は京都に滞在していた。このため、パークスは条約勅許(この考えは通訳のアーネスト・サトウが伊藤博文から聞いていた)と兵庫の早期開港を求めるため、仏・蘭・米を誘い、軍艦8隻を引き連れて、1865年11月4日(慶応元年 9月16日)に兵庫沖に来航し、強圧的な交渉を行った(兵庫開港要求事件)。結果、兵庫の早期開港は認められなかったものの、11月22日(慶応元年10月5日) に安政五カ国条約に対する勅許がおりた。加えて、関税の見直しに関する合意も得、翌1866年6月25日(慶応2年 5月13日)に改税約書が調印され、輸入関税が大幅に引き下げられた。結果として、日本の輸入は急増し、一部の産業は大打撃を受けることとなった。
パークスは、本国の方針に従い、あくまで内政不干渉の立場を維持した。しかし、影響力を持った何人かの大名の領地を自分自身で訪問した他、部下のサトウやミットフォード、さらには民間人のトーマス・グラバーらを使って、「維新の志士」たちとも積極的に接触した。但し、徳川慶喜に関しては非常に高く評価しており、幕府の瓦解を予想していたわけではない。が、同時にそのような事態に備えて、天皇宛のビクトリア女王の信任状を予め本国政府に要求していた。このため、新政府成立後の1868年5月22日(慶応4年閏4月1日)、いち早く新政府を承認することができた。
戊辰戦争に関しては、英国は局外中立を宣言し、他国もこれに追従した。また、パークスは新政府軍の江戸城総攻撃に関しては「無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃することは万国公法に反する」として反対し、江戸無血開城の一因となったとも言われている。
フランスは琉球王国との間に琉仏修好条約(1855年)を結んでいたが、米英露蘭とは異なり日本と和親条約は結んでおらず、1858年10月9日(安政5年9月3日)の日仏修好通商条約が両国間の最初の条約となった。翌1859年9月6日(安政6年8月10日)、初代領事(後に公使)ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールが着任した。デュシェーヌ・ド・ベルクールは基本的には英国と共同歩調をとっており、生麦事件後に英国が軍事行動を起こすことがあれば、横浜の防衛はフランスが引き受けることとなっていた。しかし、生麦事件の交渉の後、デュシェーヌ・ド・ベルクールは次第に親幕府的な立場をとるようになった。1863年(文久3年)秋に幕府は横浜の鎖港を言い始めたが、各国の公使がこれを拒否する中、デュシェーヌ・ド・ベルクールだけは理解を示し、横浜鎖港談判使節団の派遣を支援した。1864年4月27日(文久4年3月22日)、デュシェーヌ・ド・ベルクールはその任務を後任のレオン・ロッシュに譲ったが、老中はフランス政府にデュシェーヌ・ド・ベルクールの留任を嘆願するほどであった。このため、ロッシュも幕府と親密な関係を築くことができ、フランスは幕府の政策により積極的に関与していくことになる。
1864年9月(元治元年8月)、幕府は翔鶴丸の修理を横浜停泊中のフランス軍艦乗員に依頼した。この際のフランス側の作業の誠実さから、幕府はフランスを強く信頼するようになり、横須賀製鉄所の建設をフランスに依頼し、翌1865年10月13日(慶応元年8月24日)に着工された。建設資金は240万ドルと見積もられた。当初はこの支払のため、幕府が直接生糸を輸出することが計画されたが、英国の反対にあい実現しなかった。
さらにロッシュは小栗忠順に要望され、600万ドルの借款を支援し、1866年9月28日(慶応2年8月20日)に契約は一旦成立した。小栗はこの600万ドルで幕府の軍備増強を行い、薩摩・長州を打倒し幕府を中心とした中央集権国家を作り、日本の近代化を達成する計画だった。1866年12月11日(慶応2年11月15日 )、ロッシュは徳川慶喜の依頼により幕政改革を提言し、そのいくつかは慶応の改革として実現した。1867年1月12日(慶応2年12月9日)からフランス軍事顧問団による幕府陸軍の訓練も開始された。慶喜の弟である徳川昭武は、慶喜の名代としてパリ万国博覧会に派遣され、その後パリにて留学生活を送っていた。
しかし、本国の外務大臣が交代し、対英協調策をとるようになったことから、借款は中止され、ロッシュは本国から見放される形となった。鳥羽・伏見の戦いに敗北後、徳川慶喜は江戸に戻ったが、ロッシュは3度にわたり登城し、慶喜に再起を促した。しかし慶喜はこれを拒否した。その後英国公使パークスが局外中立を提案すると、ロッシュはこれに従うしかなかった。まもなくロッシュは公使を罷免され、後任のマキシミリアン・ウートレーは英国との共同路線をとった。
オランダは鎖国中も出島での交易を許されており、またオランダ風説書にて海外事情を幕府に報告していた。さらにアヘン戦争が始まると、以降は別段風説書を作成してイギリスの武力による中国進出を詳しく報告した。1844年8月14日(弘化元年7月2日)に長崎に入港した軍艦パレンバン号は、オランダ国王ウィレム2世の親書を携えており、武力によって強制される前に平和的に開国することを薦めてきた。老中に再任していた水野忠邦は開国を主張したが他の幕閣の同意を得られず、また将軍徳川家慶の反対もあって、幕府はこれを拒否した。1852年7月(嘉永5年6月)、ヤン・ドンケル・クルティウスが到着、出島のオランダ商館長となったが、これは開国を見越した人事であり、クルティウスは外交官として活動できる資格を有していた。クルティウスは別段風説書でペリーの来航を予告するとともに、東インド総督・バン・トゥイストの通商条約素案を提出したが、交渉には至らなかった。
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)にペリーが来航、翌年の再訪を告げて立ち去ったが、幕府は開国に備えクルティウスを通じ、軍艦の発注と乗員の訓練の申し出を行った。この申し出は、翌年3月(嘉永7年2月)に来航したスムービング号のファヴィウス艦長と長崎奉行水野忠徳の間でより具体化し、1854年11月11日(嘉永7年9月21日)、オランダにコルベット2隻(咸臨丸及び朝陽丸)が発注された。さらに、1855年12月3日(安政2年10月24日10月24日)には長崎海軍伝習所が設立され、オランダは練習船としてスムービング号を寄贈した(後の観光丸)。ヘルハルト・ペルス・ライケン(第一次)、ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ(第二次)を団長とする教官団が派遣された。この功績が認められ、1856年1月30日(安政2年12月23日)には日蘭和親条約が調印され、クルティウスは駐日オランダ理事官となった。1857年10月16日(安政4年8月29日)には日蘭追加条約が調印され、自由貿易ではないものの、貿易の大幅な拡大が認められた。
1858年(安政5年)春、クルティウスと補佐官のディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックは江戸に出て、通商条約の交渉を開始し、日米修好通商条約には1ヶ月程遅れたが、1858年8月18日(安政5年7月10日)日蘭修好通商条約調印にこぎつけた。ポルスブルックは1863年7月(文久3年6月)に公使(外交事務官)となったが、下関戦争や兵庫開港要求事件の際は、英仏米と共同歩調をとった。また、ポルスブルックは、スイス・ベルギー・デンマークなどのヨーロッパ諸国と幕府の条約締結に 積極的に関与した。
長崎海軍伝習所は、1859年(安政6年)に資金不足を理由に閉鎖されてしまったが、1862年(文久2年)には幕府海軍最大の軍艦となる開陽丸をオランダが受注。軍艦引受をかねて、榎本武揚ら15人の留学生がオランダに派遣された。1867年5月20日(慶応3年4月17日)、開陽丸は幕府へと引き渡された。
海軍伝習所から派生した長崎英語伝習所や長崎養生所は、名前を変えて現在も存続している。そこでは、フルベッキ、ポンペ、ボードウィン、ハラタマらが教育に尽力し、幕末・明治初期の人材育成に貢献した。
地理的に日本に近いこともあり、日本に関するロシアの関心は高かった。すでに1705年(宝永2年)にはサンクトペテルブルクに日本語学校が設立されている。1771年(明和8年)、ハンガリー人モーリツ・ベニョヴスキーがカムチャッカから脱走して阿波に来航し、オランダ商館長を通じて「ロシアが蝦夷地への攻撃を計画している」との偽情報を伝えた。このためロシアへの警戒感が高まり、1781年(天明元年)ごろ工藤平助が赤蝦夷風説考を著述、これを読んだ老中田沼意次は蝦夷地の探検・開発を進めさせた。またロシアとの交易も考えたが、1786年(天明6年)に失脚し、実現には至らなかった。
日本との交易を求めた最初のロシア人は、ヤクーツクの商人パベル・レベデフ=ラストチキンである。数度の失敗の後、1778年(安永7年)にラストチキンの部下のドミトリー・シャバリンと「シベリア貴族」で日本語学校の生徒であったイワン・アンチーピンが蝦夷厚岸に来航し、松前藩との接触に成功した。一行は翌年にも来航したが、松前藩は翌年に独自の判断で交易を拒否し、幕府へは報告されなかった。寛政4年(1792年)にはアダム・ラクスマンが正式に通商を求めてきた。老中松平定信はロシアとの限定的通商を考慮し、長崎への入港許可証である信牌を交付した。しかしラクスマンは、長崎へは向かわず帰国した。1804年(文化元年)、この信牌を持ったニコライ・レザノフが長崎に来航した。しかしすでに定信は失脚しており、交渉は不成立に終わった。怒ったレザノフは、部下は1807年(文化4年)に蝦夷地を攻撃させ(文化露寇)、日露関係が緊張した。このため、蝦夷地は一時幕府の直轄領となった。その後ロシアの関心が黒海方面に向いたこともあって緊張は緩和され、1821年(文政4年)に蝦夷地は松前藩に戻された。
1853年8月22日(嘉永6年7月18日)、ペリーより約1ヶ月遅れてエフィム・プチャーチンが長崎に来航し、日露和親条約の交渉が始まったが、調印は1855年2月7日(安政元年12月21日)と、後から交渉が始まった日英和親条約より遅れた。これは日露和親条約で日露国境の問題が話し合われたためであるが、樺太の国境に関しては決着せず両国の混在地とされた。その後、1859年8月(安政6年7月)のムラヴィヨフ来航、1862年8月(文久2年7月)の文久遣欧使節ロシア訪問時にも話し合いが持たれたが決着せず、ようやく1867年3月30日(慶応3年2月25日)に日露間樺太島仮規則が仮調印されたが、幕府はこれを批准しなかった。国境問題は、1875年(明治8年)5月7日の樺太・千島交換条約によって一応の決着を見た。
なお、ムラヴィヨフが来航した際に、ロシア海軍の軍人2人が攘夷派武士に殺害されている。これが幕末の最初の外国人殺害事件であるが、ムラヴィヨフは賠償金を請求しなかった。
ロシアは他国と異なり、総領事館を箱館においていたため、日本の内政問題に関わることは殆ど無かった。しかし1861年3月14日(文久元年2月3日)から約半年間、ロシア軍艦ポサードニクが艦艇の修理を名目として対馬芋先を占拠する事件(ロシア軍艦対馬占領事件)がおきている。幕府は単独では対処できず、英国の介入によりロシア軍艦を退去させることとなった。
ドイツの統一は1871年であるため、外交主体となったのは当初はプロイセン、続いて北ドイツ連邦であった。
シーボルトやケンペルなど、オランダ東インド会社の社員として日本を訪問したドイツ人(ドイツ語を母国語とする人)はいたが、公式な関係は1861年1月24日(万延元年12月14日)にオイレンブルクが幕府と日普修好通商条約を結んだことに始まる。この交渉は難航した。2年前の安政五カ国条約とは異なり、日本国内には攘夷機運が盛り上がっており、さらにプロイセンとだけではなく条約にドイツ関税同盟諸国など三十数カ国を含めることを求めたからである。結局条約はプロイセンとのみ結ばれたが、条約の交渉にあたった堀利煕が謎の自殺をとげている。
初代の駐日領事には、オイレンブルクと共に来日したマックス・フォン・ブラントが任命された。当時プロイセンは海外に植民地を求めていたが、ブラントは蝦夷地は無主地であるとして、「十数隻の艦隊と5千人の上陸兵で占領できる」と主張していた。実際に、戊辰戦争に際して会津藩・庄内藩が領有する蝦夷地の根室や留萌の譲渡と引き換えにプロイセンとの提携を提案していたが、当時の宰相ビスマルクはこれを認めなかった。ブラントは戊辰戦争は長期戦となり、場合によっては日本が南北に分裂するものと考えていた。英仏蘭米伊と同様局外中立を宣言したが、奥羽越列藩同盟だけでなく箱館政権にも同情的な姿勢を見せた。また、プロイセン領事館の書記官であったヘンリー・スネルは、領事館を退職して奥羽越列藩同盟の軍事顧問勤め、弟のエドワルドはスネル商会を設立して同盟軍に武器を供給した。しかし、戦局を左右する事態にはならず、戦争終結後も日本とプロイセンとの外交関係は維持された。但し、プロイセン商人ガルトネルが箱館郊外で経営していた農園は、ここを基点に植民地化の恐れがあるとして、明治政府は賠償金を払ってこれを回収している(ガルトネル開墾条約事件)。
来日した外国人により、多数の見聞録が書かれ、写真が遺されている。見聞録の日本語訳は、『新異国叢書』(雄松堂書店)、岩波文庫、講談社学術文庫などから相当数が刊行されている。また、渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー、2005年)には、主要な見聞録の内容が詳細に紹介されている。
写真も多くあり、小沢健志編『幕末写真の時代』(ちくま学芸文庫、1996年)、横浜開港資料館編『F. ベアト写真集 1. 幕末日本の風景と人びと』、『同 2. 外国人カメラマンが撮った幕末日本』(明石書店、2006年)が読み易い。近年はデジタル技術の発達で彩色再現が可能となっており、それを用いた出版書籍(例:『過ぎし江戸の面影』双葉社スーパームック、2011年)もある。
佐幕からの派生、主に東北地方(奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国)で強くあった。
幕府や各藩は海防や治安維持のため、そして後には倒幕運動やその対策のために、競って西洋の最新兵器を揃えようとした。しかし長い鎖国の間に西洋の軍事技術との差は開いており、弾薬まで含めた自製は困難であったため、ほとんどは外国商人から購入して賄った。
日本刀に関しては、尊王攘夷派の志士の間で勤皇刀や勤王拵と呼ばれる3尺前後で反りが少ない長寸の打刀が流行し、佐幕派も対抗として長大な刀を使うようになった。
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"text": "幕末()は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1868年)までの時代を主に扱う。",
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"text": "幕末の期間に関する厳密な定義はないが、1853年7月8日(嘉永6年旧暦6月3日)の黒船、即ちマシュー・ペリーが率いるアメリカ海軍艦隊の来航をその始期とする見方が一般的であり、王政復古の大号令(1868年)においても「抑癸丑(1853年)以来未曾有の国難」が体制変革の画期として指摘されている。",
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"text": "終期については、1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)に徳川慶喜が大政奉還を行った時点、翌1868年5月3日(旧暦4月11日)の江戸開城の時点など、様々な見方があり得る。また、旧幕府軍による抵抗が終わった箱館戦争の終結(1869年)、幕藩体制が完全に終結した廃藩置県を断行した1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)、西欧式の太陽暦であるグレゴリオ暦を元号に採用する前日の1872年12月31日(明治5年旧暦12月2日)なども終期となりうる。",
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"text": "幕末は、「西洋の衝撃」を受けた国防意識の高まりとナショナリズムの勃興を背景に、水戸学のような日本型華夷思想を基盤として国体意識が高まり、徳川将軍が事実上の国家主権者として君臨する幕藩体制が解体され、国内の政治権力の再編が進む過程である。その中心を担ったのは薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩などの、いわゆる西南雄藩であった。この時期には「鎖国」を放棄して開港した日本が、外国との自由貿易の開始によって世界的な資本主義市場経済と植民地主義に組み込まれた。また一部での排外主義(尊王攘夷運動)の高まりにもかかわらず、列強の圧倒的な存在感により社会自体が西洋文明の影響を受けて劇的に変化していった時期でもある。この幕末の過程は、たとえば島崎藤村の長編小説『夜明け前』など多くの文学作品にも描かれている。",
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"text": "政治的側面においては、幕末を、単なる過渡期とするか、あるいはそれ以前以後とは異なった独自の政治体制とするかの2つの見方に分かれる。一方で、国際関係史的には「近代」として扱われ、一連の条約の締結により日本が西洋近代システムへの参入を果たした幕末から、第二次世界大戦で敗れて天皇を主権者とする帝国主義国家が崩壊するまで、即ち開国(1854年)から第二次世界大戦敗北(1945年)までを「近代」とする見方も存在する。幕末とそれに続く明治時代は「幕末・明治」として一括されて呼ばれることも多い。",
"title": "概説"
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"text": "黒船来航以前については幕末の砲艦外交を参照。",
"title": "政治史"
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"text": "1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、アメリカ合衆国が派遣したペリー提督率いる4隻の黒船が浦賀沖に来航し、江戸幕府に開国を迫る大統領国書をもたらした。老中首座の阿部正弘(備後福山藩主)は、海防参与徳川斉昭(前水戸藩主)らや、松平慶永(春嶽、越前藩主)・島津斉彬(薩摩藩主)ら親藩・外様大名をはじめ、庶民にいたるまで対応意見を求めた。こうした激動の中、将軍徳川家慶が死去し、世子の家定が13代将軍に就任する。",
"title": "政治史"
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"text": "翌1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に再来したペリーは、重ねて開国を要求する。全権の林復斎(大学頭)らとの交渉により、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)日米和親条約が締結され、いわゆる「鎖国」体制は終焉した。また、英国のスターリングと水野忠徳の交渉で1854年10月14日(嘉永7年8月23日)に日英和親条約、ロシア帝国のプチャーチンと川路聖謨らの交渉により1855年2月7日(改元して安政元年12月21日)に日露和親条約、やや遅れて1856年1月30日(12月23日)には 日蘭和親条約調印が締結された。国交を樹立した幕府での体制再編のため阿部は幕府や外部からの人材登用、研究教育施設の創設、軍事体制の再編を行っている。永井尚志・岩瀬忠震・大久保一翁の海防掛目付登用や長崎海軍伝習所や蕃書調所の設置などもそのひとつである。開国以前より継続していたこれらの改革は安政の改革と呼ばれ、勝海舟もこの動きの中から注目される。",
"title": "政治史"
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"text": "日米和親条約では、薪水の給与のための下田・箱館開港と並んで、両国の必要に応じて総領事が置かれることとなり、1856年(安政3年)米国はハリスを下田に派遣する。ハリスは自由貿易と開港を目的とした通商条約の締結を幕府に迫る。阿部死後、老中首座となった堀田正睦は徳川斉昭を罷免し、ハリスを下田より上府させ、1857年12月7日(安政4年10月21日)には将軍徳川家定に拝謁させた。ハリスは江戸で第二次アヘン戦争における清の敗北などの世界情勢を堀田に伝え、英仏が日本に不利益な条約を強制する危険があると主張した。この事態を避けたければアメリカとの条約を先に締結するべきとするハリスの発言について、堀田は虚偽を含む主張と承知しながらも通商条約締結は不可避と判断し、交渉を進めた。合意した内容は、領事裁判権を認め、関税自主権を有さず、かつ片務的最恵国待遇を課した不平等条約であった。",
"title": "政治史"
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"text": "条約内容に合意した後、堀田は孝明天皇の勅許を求めるべく、上洛して関白九条尚忠を通じて工作をおこなわせた。しかし、孝明天皇は異国人撫恤のための薪水給与は認めていたが、開市(外国人の国内の居住)や開港には反対しており、また岩倉具視ら多くの公家が関白の幕府寄りの姿勢を批判したため(廷臣八十八卿列参事件)、勅許は得られなかった。一方、病弱であった将軍家定に子がなかったため、将軍の継嗣を誰にするかについても国内世論が二分した。紀州藩主徳川慶福を推す南紀派と、一橋徳川家当主徳川慶喜を推す一橋派が激しく対立し、条約問題とともに江戸・京都での政治工作が熾烈化した(将軍継嗣問題)。一橋派では橋本左内(越前藩士)・西郷隆盛(薩摩藩士)、南紀派では長野義言(彦根藩士)ら下級武士がこれら工作に活躍した。のちに島津斉彬はこれらの問題の解決を図るため、率兵上京を試みるが、決行の直前に病を得て急死した。",
"title": "政治史"
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"text": "1858年6月4日(安政5年4月23日)に大老に就任した井伊直弼(彦根藩主)は、将軍継嗣問題と条約問題とを強権的な手法で一気に解決をはかった。すなわち、将軍職については、大老就任直後の1858年6月11日(安政5年5月1日)紀州慶福を後継に決定する。慶福は家茂と改名し、江戸城へ入った(将軍就任は安政5年10月25日)。直弼自身は勅許は必要と考えていたが、勅許不要とする老中の松平忠固に押され、7月29日(安政5年6月19日)、勅許の降りないまま井上清直と岩瀬忠震を全権として日米修好通商条約を調印した。調印直後に井伊は堀田と松平忠固の二老中を罷免し、代わって老中在職経験のある太田資始(道醇、前掛川藩主)・間部詮勝(鯖江藩主)・松平乗全(西尾藩主)を老中に任命した。その後、日米修好通商条約と同様の条約がイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結ばれた(安政の五ヶ国条約)。開市開港は段階的に行うとされたが、これについては井伊の後継である安藤信正が派遣した文久遣欧使節によりロンドン覚書が調印され時期をずらすことになる。",
"title": "政治史"
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"text": "こうした直弼の強権的手法には反撥が相次ぎ、徳川斉昭・徳川慶勝(尾張藩主)・松平慶永らは抗議のため登城するが、無断で登城したことを理由に逆に直弼によって謹慎処分を受けることとなった。孝明天皇を無視する形で条約調印が続くと幕府寄りだった関白・九条尚忠は天皇の信頼を失い孤立していくが、それでも「内覧」権を有する関白は依然として最重要人物であった。それが1858年9月14日(安政5年8月8日)に内覧を経ずに幕府と水戸藩へ戊午の密勅が出され、その後に九条関白が幕府のために情報を壟断していた事実が明らかとなり辞職を求める内勅が出されて内覧は停止された。",
"title": "政治史"
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"text": "失地回復を図るべく老中の間部詮勝、京都所司代の酒井忠義が上洛し、この密勅に関わったとして近藤茂左衛門、梅田雲浜を逮捕したことを皮切りに、尊攘志士の頼三樹三郎や、前関白の鷹司政通の家臣の小林良典など、公家の家臣も含めた井伊が主導する幕府に反発する人物が次々と捕らえられた。この威嚇を背景に、間部は九条関白の復職と慶福改め家茂の将軍宣下を実現権威させ、事実上の条約勅許まで獲得した。間部のさらなる朝廷への威圧により、攘夷派の左大臣近衛忠煕・右大臣鷹司輔煕が辞官し、前関白の鷹司政通・前内大臣三条実万とともに落飾・出家するに至った。",
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"text": "江戸においても、井伊によって弾圧が行われた。特に水戸藩への弾圧は苛烈を極め、家老の安島帯刀は切腹、奥右筆の茅根伊予之介は斬罪、密勅を江戸に運ぶのに関わった鵜飼吉左衛門・幸吉父子はそれぞれ斬罪・獄門となった。大名や旗本では徳川斉昭が永蟄居、一橋慶喜・伊達宗城(宇和島藩主)・山内容堂(土佐藩主)らが隠居謹慎に処されたほか、一橋派と目された幕臣の岩瀬忠震や永井尚志が免職のうえ永蟄居を命ぜられ、さらには老中の太田資始・間部詮勝も罷免された。また、逮捕された三条家家臣の飯泉喜内の手紙から、検挙者が増え、橋本左内なども捕縛された。京都で捕らえられた人物は江戸に送られ、江戸の逮捕者とともに取調べが行われた。取調べの結果、橋本左内・頼三樹三郎・飯泉喜内・松下村塾の主催者吉田松陰は斬罪となった。梅田雲浜や小林良典、密勅に関わった薩摩藩士日下部伊三治らは獄死した。これら世論や朝廷へ働きかける運動家、オピニオンリーダー、その保護者やシンパである封建諸侯、幕府内部の実務官僚らが標的となった政治的弾圧を「安政の大獄」と呼ぶ。水戸藩内では戊午の密勅返還問題を巡りセクト主義に陥り、激派と鎮派(暫進的改革派)に分裂、彼等と対抗する門閥派の諸生党と混迷を極める結果になる。",
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"text": "安政の大獄は、旧一橋派や攘夷派・尊皇派の反撥を招く。度重なる弾圧に憤慨した水戸藩の激派や薩摩藩の浪士は、密かに暗殺計画を練り、1860年3月24日(安政7年3月3日)、江戸城登城の途中の直弼を桜田門外にて襲撃して暗殺を決行した(桜田門外の変)。政権の最高実力者に対する暗殺という結果は、幕府の権威を大きく失墜させることとなった。",
"title": "政治史"
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"text": "井伊直弼の死から、幕閣は久世広周(関宿藩主)と安藤信正(磐城平藩主)が実質上の首班となって運営された。幕府は朝廷の権威により幕威を回復せんと公武合体を推進。万延元年4月12日(1860年6月1日)、皇女和宮親子内親王の徳川家茂への降嫁を朝廷へ奏請したが、孝明天皇は帥宮熾仁親王との婚約を命じており拒絶をした。幕府は請願を繰り返しつづけ、孝明帝の侍従であった岩倉具視は公武合体を通じて穏やかに王政回復の機会を得るべきと進言した。幕府が「七八カ年乃至十カ年」という期限をつけて条約破棄か武力撃攘を約束したことで孝明天皇は降嫁を認め、和宮は文久元年11月15日(1861年12月16日)に江戸城に入った。孝明天皇は幕府の外交措置を信頼しようとするが廃帝を画策しているとの噂が立っており、勅使として岩倉と千草有文が関東へ下向。徳川家茂より自筆で忠誠を誓う誓書を書かせた。文久2年4月7日(1862年5月5日)、孝明天皇は幕府と決めた期限に必ず攘夷を為す意思を明らかとした。結果として幕府は自らの約束に縛られる結果となった。",
"title": "政治史"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "安政6年6月2日(1859年7月1日)に横浜港が開港した。居留地が置かれ外国人が住居往来したがキリスト教の日本への布教は認められていなかった。貿易は生糸、茶が輸出され、綿糸、織物が輸入された。国内と国外の金貨銀貨はそれぞれ同一質量で交換されたが、日本の金銀比価の問題より短期間に大量の金、一説に10万両と云われる大量の金の海外流出を招いた。万延元年4月10日(1860年5月30日)、幕府は万延小判を発行して混乱に対応した。しかし従来の天保小判に比して金の量を約1/3とした万延小判は既存の小判を含有金量に応じて増歩通用としたため混乱を招いた。横浜商人など利益を得た者がいたが、地廻り経済圏の在郷商人は生産地より江戸の問屋に物資を廻送せず品不足と物価高騰が発生した結果、都市の打ち壊しや地方の一揆が激増した。経済の混乱のため五品江戸廻送令が出されるがイギリスは生糸の輸出制限に不満を募らせた。今日から見ると珍しく輸出にも関税をかけていたが関税収入を幕府が独占したため西南雄藩は不満を持った。こうした問題は薩英戦争後に英国と薩摩藩が接近していく素地となり、横浜鎖港と兵庫開港にみられる貿易統制をめぐる幕府と雄藩との軋轢を生む要因となった。",
"title": "政治史"
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"text": "他方、外交では、横浜での貿易が盛んに行われるなかで、1861年2月にロシア軍艦ポサドニック号が占領を企てて対馬に滞泊するロシア軍艦対馬占領事件が発生する。ロシア側が芋崎に兵舎を建設して付近の永久租借権を要求する事態に発展し、対馬藩や島民が抵抗して、幕府も外国奉行の小栗忠順を派遣し撤退を求めた。しかし、ロシア艦は動かず、結局イギリス公使オールコックの協力の申し出によりイギリス艦2隻が派遣され、8月にようやく退去した。",
"title": "政治史"
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"text": "幕府の公武合体が停滞する中で大名は中央政界に国論を引っ提げて乗り出した。長州藩は長井雅楽を京都へおくり「航海遠略策」の建白書を朝廷へ上らせ、長井は文久元年6月2日(1861年7月9日)に御嘉納されたことを伝えられ御製の和歌を賜った。また同年8月3日(1861年9月7日)に安藤信正と面会し持論を述べる機会を得た。長州藩の公武周旋の動きは薩摩藩を刺激した。文久2年、京都所司代の酒井忠義を無視するかのように続々と志士が入京した。彼らは和宮降嫁を主導した酒井や関白・内覧九条尚忠といった公武合体派を敵視していた。真木和泉、久坂玄瑞を中核とする草の根のネットワークが形成されオルグ活動では清河八郎の九州遊説が貢献した。関東の雄藩である水戸藩では井伊暗殺の実行者を追討する一方、激派の要人を参政に登用する形で安定を図った。しかし攘夷の意思が固い激派は長州藩の桂小五郎、松島剛蔵と提携し実力行使による幕政改革を志向していたが、長州藩は航海遠略策が藩論となり動きがとれなくなった。激派は宇都宮藩の大橋訥庵と提携し文久2年1月15日(1862年2月13日)、安藤信正を江戸城坂下門外で襲撃した。安藤は負傷し命は助かったものの後に失脚した(→坂下門外の変)。幕府から睨まれた宇都宮藩は蒲生君平が踏破調査(山陵志)をしていた天皇陵を修補するという奇策を用いて公武の間に運動をしていくが、当然に治定としては矛盾が続いている。また、過激尊攘志士による「異人斬り」が横行した。安政6年にロシア使節の護衛艦隊の乗組員が襲撃されて2名が死亡し、同7年にはオランダ船長と商人が殺害されたほか、万延元年にはアメリカ公使ハリスの通訳ヒュースケンが薩摩藩士に襲撃され、命を落とした。また、文久元年には水戸藩士がイギリス公使館を襲う東禅寺事件が勃発した。",
"title": "政治史"
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{
"paragraph_id": 19,
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"text": "文久2年4月16日(1862年5月14日)、薩摩藩の最高実力者である島津久光は公武合体を実現すべく藩兵を率いて上京した。事前に大久保一蔵を使者にたて上京の勅許奏請を工作したが婉曲に断られ、天朝の危機に、勅命を奉じて幕政改革を実行させる意欲のもと独断で京都へのぼった。志士の動向に怯えていた朝廷は久光へ浪士鎮撫の勅命を与えた。一方久光は前左大臣の近衛忠煕に開国・軍備増強を建白した。ただ、気がかりは薩摩藩内の尊王攘夷派の暴発であり、有馬新七は薩摩藩を尊攘派に引きずりこむためにテロを計画し酒井所司代と九条関白を対象とした。久光は彼らに監視をつけて説得にあたらせたが、尊王攘夷派が上京して船宿に入ったため、やむなく粛清を行った(→寺田屋騒動)。",
"title": "政治史"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "久光の朝廷工作により、幕府改革への勅使として大原重徳が遣わされるという事態となる。幕府側にはそれを拒否する力は無く、安政の大獄で失脚した徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職とするなどの人事を含む改革を余儀なくされた。そして、幕政に返り咲いた慶喜・春嶽や、春嶽のブレインである横井小楠らにより、松平容保(会津藩主)の京都守護職任命や、参勤交代制の改革などが行われた(→文久の改革)。いっぽう久光率いる薩摩藩兵は帰国途中の1862年9月14日(文久2年8月21日)生麦村で行列を横断しようとした英国人に斬りつける事件を起こす(→生麦事件)。イギリス側は犯人の処刑を要求するが、国父の久光が開国論でありながら内部では未だ開国論に統一されていない薩摩藩では、この要求に従うことができず、後に禍根を残すこととなる。その後、京都へ凱旋した久光だが京都は尊王攘夷派に政局が占拠されており、長州藩では桂や久坂、真木和泉のため長井は失脚させられ藩論は尊王攘夷へ転換されていた。憤りが収まらない久光は鹿児島へ引き上げた。",
"title": "政治史"
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "尊王攘夷派に占拠された京都では、長州藩、土佐藩の尊王攘夷派が朝廷の圧力を利用して将軍上洛運動を強要した。土佐藩に関しては、藩主の山内豊範が土佐勤王党の武市瑞山らを率いて上京しており、長州藩と密接な連絡をとって朝廷に働きかけていた。こうした運動が実を結び、三条実美・姉小路公知が江戸に下り、幕府に攘夷決行と将軍上洛を督促した。幕府内では、御側御用取次の大久保一翁が開国論を説いて朝廷に拒否されたならば大政奉還をせよと主張したため左遷され、幕閣は将軍上洛を受け入れることを決めた。そして、1863年4月21日(文久3年3月4日)、家茂は将軍としては200年ぶり(3代家光以来)に京都に入ったが、朝廷のペースに巻き込まれ、1863年6月25日(文久3年5月10日)をもっての攘夷決行を約束させられてしまう。但し、幕府は攘夷を武力行使ではなく条約の撤回と解釈し、老中の小笠原長行(唐津藩世子)が、独断というかたちで生麦事件の賠償金を支払う一方、横浜からの一時退去を諸外国に申し入れたが、これを拒否されている。",
"title": "政治史"
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{
"paragraph_id": 22,
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"text": "他方、攘夷決行の日である6月25日、長州藩は久坂玄瑞らの指揮の下、関門海峡を通過する外国商船に砲撃を加える。しかし20日後にアメリカ合衆国、さらにその4日後にはフランスからの報復攻撃を受け砲台を占拠されるなど、攘夷の困難さを身をもって知ることとなる(→下関戦争)。また藩兵の軟弱さを嘆いた長州藩士高杉晋作は、新たに武士以外の身分を含む奇兵隊を結成、それに続いて諸隊が次々と結成され、後の長州藩の武力となっていく。また、生麦事件の賠償問題がこじれたことから1863年8月15日(文久3年7月2日)、薩摩藩と英国の間にも戦争が勃発(→薩英戦争)。薩英戦争では、イギリス艦隊による鹿児島城下砲撃と、それに反撃する薩摩藩砲兵との間で戦闘が発生した。イギリス側の人的被害が大きかった一方、鹿児島市街の一部が焼失し、薩摩藩もまた攘夷の不可能性を悟り、藩論を開国に統一することとなった。この交渉によりイギリスは薩摩藩が実は開国論に立っていることを知り、以後薩摩藩と急速に接近していくこととなる。",
"title": "政治史"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "このころ、京都へ尊王攘夷派の志士が集い、「天誅」と称して反対派を暗殺するなど、治安が極端に悪化していた。安政の大獄に関わった九条家家臣の島田左近の暗殺に端を発したこれらのテロ行為は、幕臣や公家を恐怖に陥れた。逆に、尊攘派の代表と見られた姉小路公知が暗殺される事件(朔平門外の変)や尊攘志士の本間精一郎が暗殺される事件も起きた。岩倉具視ら公武合体派の公家は排除され、三条実美ら尊王攘夷派の公家が朝議を動かすようになり、公武合体派の勢力は低下した。長州藩は8000名と言われる駐在兵を京都に置き、シンパを含めれば三万を動員できるとされた。",
"title": "政治史"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "こうした尊攘派により討幕が行われることを憂う孝明天皇の思惑とは裏腹に、尊王攘夷派の真木和泉らは討幕・王政復古を実現させるべく運動し、1863年9月25日(文久3年8月13日)、天皇が神武天皇陵・春日大社に行幸して攘夷を祈願して親征の軍議を行うという詔が出る。これを受け、かねてより中川宮朝彦親王を介して天皇の真意を知っていた薩摩藩の高崎左太郎は、会津藩の秋月悌次郎を通じて松平容保を説いた。容保は帰藩途中の会津藩兵を呼び戻し、中川宮とともに綿密な計画を練り、天皇の同意のうえで薩摩藩と30日(文久3年8月18日)に宮廷の御門を制圧し、長州藩兵および三条ら7人の公卿を長州へ撤退させるクーデタを決行し(八月十八日の政変、七卿落ち)、真木や久坂玄瑞ら長州藩系の尊攘勢力の一掃に成功した。",
"title": "政治史"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "いっぽう1864年2月7日(文久3年12月30日)以降、徳川慶喜・松平春嶽・松平容保・伊達宗城(宇和島藩主)・島津久光による初の諸侯会議となる参預会議が開催され、神奈川鎖港談判、長州藩の処置、大坂港の防備強化などの議題が話し合われた。春嶽・久光ら諸侯は持論の開国論を唱えるが、幕府を代表する慶喜が横浜鎖港を主張して対立し、結局幕府の思惑どおり何の実績もあげられぬまま、翌年3月に解散となった。春嶽らは帰国し参預会議体制はわずか数ヶ月しか持たなかった。薩摩藩はこれを機に幕府や慶喜との確執を深めていくこととなる。この後、朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられた慶喜は、京都守護職松平容保(会津藩主)・京都所司代松平定敬(桑名藩主)兄弟らとともに、江戸の幕閣から半ば独立した動きをみせることとなる(一会桑体制)。",
"title": "政治史"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "このころ、各地で尊攘過激派による実力行使の動きが見られたが、いずれも失敗に終わっている。1863年9月29日(文久3年8月17日)、大和では公卿中山忠光、吉村寅太郎・池内蔵太(土佐藩士)、松本奎堂(三河刈谷藩士)、藤本鉄石(岡山藩士)、さらには河内の大地主水郡善之祐らも加わった天誅組の変が勃発し、続いて但馬では澤宣嘉(前年京都から追放された七卿の一人)・平野国臣(福岡藩士)らによる生野の変が連鎖的に発生した。また土佐藩では一藩勤皇を唱えた武市瑞山が率いる土佐勤王党(前年に藩執政吉田東洋を暗殺)が公武合体に戻った元藩主の山内豊信により弾圧され尊攘勢力は後退した。",
"title": "政治史"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "さらに水戸藩では1864年5月2日(元治元年3月27日)、藤田小四郎・武田耕雲斎ら天狗党が筑波山で挙兵。水戸藩の要請を受けた幕府軍の追撃により壊滅させられる事件も発生した(→天狗党の乱)。",
"title": "政治史"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "このような状況下、前年の八月十八日の政変以降影響力を減退していた尊王攘夷派の中心・長州藩では、京都への進発論が沸騰。折から京都治安維持に当たっていた会津藩預かりの新撰組が、池田屋事件で長州藩など尊攘派の志士数人を殺害したため、火に油を注ぐこととなり、ついに長州藩兵は上京。1864年8月20日(元治元年7月19日)、京都守備に当たっていた幕府や会津・薩摩軍と激突し、御所周辺を巻き込んだ合戦が行われた(→禁門の変)。この戦で、一敗地にまみれた長州藩は逆賊となり京から追放され、幕府から征伐軍が派遣されることとなる。さらに9月5日(元治元年8月5日)には、前年の下関における外国船砲撃の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ4国の極東艦隊が連合して下関を攻撃。装備に劣る長州はここでも敗れ、長州藩は窮地に陥った(四国艦隊下関砲撃事件)。",
"title": "政治史"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "逆賊となった長州藩に長州への征伐が発令され、総大将に徳川慶勝(尾張藩主)、副将に松平茂昭(福井藩主)、参謀に西郷隆盛(薩摩藩士)が任命された。元治元年9月大坂での勝海舟との会談を経て長州藩への実力行使の不利を悟った西郷は開戦を回避し、長州藩からの謝罪を引き出す方針をとる。四国艦隊下関砲撃事件での敗戦以降、松下村塾系の下級藩士を中心とした攘夷派勢力が後退し、椋梨藤太ら譜代家臣を中心とする俗論派が擡頭していた。幕府への恭順路線を貫き、責任者の処刑など西郷が提示した降伏条件の受け入れを承認したため、第1次長州征伐は回避されることとなった。",
"title": "政治史"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "しかし長州藩内で旧攘夷派の粛清が続くなか、同年末に野村望東尼に激励された高杉晋作が奇兵隊などの諸隊を糾合し長府功山寺にて挙兵(功山寺挙兵)。翌年初頭、藩中枢部の籠もる萩城を攻撃し、俗論派を壊滅させて再び藩論を反幕派へ奪回した。藩論の再転換により、既定の降伏条件を履行しない長州藩へのいらだちは高まり、小笠原長行・勘定奉行小栗忠順ら強硬派による長州再征論が浮上し、将軍家茂は再度上洛する。",
"title": "政治史"
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "一方、安政条約に明記されながらいまだに朝廷の許可が無いため開港されていなかった兵庫(神戸港)問題を巡って、英国公使パークスが主導する英仏蘭連合艦隊が1865年11月4日(慶応元年9月16日)、兵庫沖に迫った(兵庫開港要求事件)。攘夷派への配慮からわざと幕府が外交を停滞させているとみたパークスらは薩長が攘夷策を放棄した時点で障害はのぞかれたはずであるとして、兵庫開港か条約勅許を求めて威圧を行ったものである。譲歩案として英国は下関戦争賠償金の引き下げに応じる姿勢も見せた。幕府主導の外交を狙う老中阿部正外・松前崇広らはこの動きに対して幕府単独の開港方針を決めるが、朝廷との連携を重視する徳川慶喜は難色を示す。独断で兵庫開港を決めた阿部・松前に対して朝廷から老中罷免の令が出されるという異常事態となった朝廷による現実の幕政介入という事態に、慶喜に対する疑念が幕臣たちの間で深まり、家茂が将軍辞職を漏らすなどの混乱がおきた。慶喜は家茂を説得する一方で条約勅許、兵庫開港をめぐって在京の諸藩士を集めた上で、11月22日(慶応元年10月5日)朝廷に条約勅許を認めさせた(兵庫開港は延期)。また関税改正の合意を得るというイギリスの目的も達成されたことで四国艦隊は兵庫沖から去った。翌1866年6月25日(慶応2年5月13日)に改税約書が調印され、輸入関税が大幅に引き下げられたことにより、日本の輸入は急増した。大量生産による安価な綿製品に太刀打ち出来ず、日本の手工業的綿織物は大打撃を受けた。",
"title": "政治史"
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"text": "こうしたなか、薩摩藩は徐々に幕府に非協力的な態度を見せ始め、駐日公使ハリー・パークス、アーネスト・サトウの助言のもと、長州藩との提携を模索する。薩摩藩の庇護下にあった土佐浪士坂本龍馬や、同じく土佐浪士で下関に逼塞していた三条実美らに従っていた中岡慎太郎らが周旋する形で、薩摩長州両藩の接近が図られる。逆賊に指名され表向き武器の購入が不可能となっていた長州藩に変わって薩摩が武器を購入するなどの経済的な連携を経た後、1866年3月7日(慶応2年1月21日)、京都薩摩藩邸内で木戸孝允・西郷らが立ち会い、薩長同盟の密約が締結された。",
"title": "政治史"
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"text": "偶然ではあるが、幕府は薩長同盟が締結された翌日に第二次長州征伐を発令した。7月18日(慶応2年6月7日)に開戦するが、薩摩との連携後軍備を整え、大村益次郎により西洋兵学の訓練を施された長州の諸隊が幕府軍を圧倒。各地で幕府軍の敗報が相次ぐなか、1866年8月29日(慶応2年7月20日)家茂が大坂城で病死。徳川宗家を相続した慶喜は親征の意志を自ら見せるものの、一転して和睦を模索し、広島で幕府の使者勝海舟と長州の使者広沢真臣・井上馨らの間で停戦協定が結ばれ、第二次長州征伐は終焉を迎えた。",
"title": "政治史"
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"text": "家茂の死後、将軍後見職の徳川慶喜は徳川宗家を相続したが、征夷大将軍職への就任は拒んでいた。だが、5か月後の1867年1月10日(慶応2年12月5日)ついに将軍宣下を受け将軍就任し、家茂の弔い合戦として長州を制圧することを公言する。孝明天皇は慶喜を非常に信頼しており、長州征討に反対した大原重徳ら22卿を処罰するほどだった。しかし、1月30日(慶応2年12月25日)に天然痘のため天皇は崩御する。2月13日(慶応3年1月9日)に睦仁親王が践祚する運びとなった(明治天皇)。",
"title": "政治史"
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"text": "薩摩藩の西郷・大久保利通らは政局の主導権を握るため雄藩連合を模索し、島津久光・松平春嶽・伊達宗徳・山内容堂(前土佐藩主)の上京を促し、6月6日(慶応3年5月4日)から 四侯会議を開催して兵庫開港および長州処分問題について徳川慶喜と協議させたが、慶喜の政治力が上回り、団結を欠いた四侯会議は無力化した。6月26日(慶応3年5月24日)には摂政二条斉敬以下多くの公卿を集めた徹夜の朝議により長年の懸案であった兵庫開港の勅許も得るなど、慶喜による主導権が確立されつつあった。さらに慶喜はフランス公使ロッシュの助言を容れ、フランス式の軍事訓練が行われたほか、榎本武揚らのもとで幕府海軍が整えられた。小栗忠順や栗本鋤雲らが中心となってフランスとの大借款の相談も行われた。また、老中制度も改められ、老中首座の板倉勝静(備中松山藩主)を首相格として各老中が陸軍・海軍・国内事務・会計・外国事務の各総裁を兼務する内閣に似たかたちがとられ、さらに次官にあたる諸奉行にも有能な人材が抜擢されるようになった(→慶応の改革)。",
"title": "政治史"
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"text": "こうして幕府が息を吹き返そうとする状況の中、薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟り、土佐藩・芸州藩の取り込みを図る。土佐藩では後藤象二郎が坂本龍馬の影響もあり、武力倒幕路線を回避するために大政奉還を提議し、薩摩藩もこれに同意したため、7月23日(慶応3年6月22日)には薩土盟約が締結される。これは徳川慶喜に自発的に政権返上することを建白し、拒否された場合には武力による圧迫に切り替える策であった。しかし兵力の発動を渋る山内容堂に反対され、また薩摩藩も慶喜の拒否を大義名分として結局武力発動しかないと判断していたため、両藩の思惑のずれから10月4日(慶応3年9月7日)盟約は解消。結局土佐藩は10月29日(慶応3年10月3日)単独で山内容堂が老中の板倉に大政奉還の建白書を提出した。いっぽう、薩摩藩の大久保・西郷らは、長州藩・芸州藩との間に武力を背景にした政変計画を策定。さらに洛北に隠棲中だった岩倉具視と工作し、中山忠能(明治天皇の祖父)・中御門経之・正親町三条実愛らによって、1867年11月9日(慶応3年10月14日)に討幕の密勅が下された。ところが、徳川慶喜は山内容堂の進言を採用し、同日に大政奉還を明治天皇に奏請しており、討幕派は大義名分を失った。大政奉還により江戸幕府による政権は形式上終了した。",
"title": "政治史"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "慶喜は1867年11月19日(慶応3年10月24日)に将軍職辞職を申し出たが、幕府の職制も当面残されることとなり、実質上は幕府支配は変わらなかった。岩倉や大久保らはこの状況を覆すべくクーデターを計画する。1868年1月3日(慶応3年12月9日)に、王政復古の大号令が発せられ、慶喜の将軍職辞職を勅許、幕府・摂政・関白などが廃止され、天皇親政を基本とし、総裁・議定・参与などからなる新政府樹立が発表された。同日夜薩摩藩兵などの警護の中行われた小御所会議において、徳川慶喜への辞官および領地返上が議題となる。会議に参加した山内容堂や松平春嶽は猛反対するが、岩倉や大久保らが押し切り、辞官納地が決定された。決定を受けて慶喜は大坂城へ退去したが、山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝の仲介により辞官納地は次第に骨抜きとなってしまう。そのため、西郷らは相楽総三ら浪士を集めて江戸に騒擾を起こし、旧幕府側を挑発した。江戸市中の治安を担当した庄内藩や勘定奉行小栗忠順らは激昂し、薩摩藩邸を焼き討ちした。",
"title": "政治史"
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"text": "なおこのころ、政情不安や物価の高騰による生活苦などから「世直し一揆」や打ちこわしが頻発し、また社会現象として「ええじゃないか」なる奇妙な流行が広範囲で見られた。",
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"text": "江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂城へ伝わると、城内の旧幕兵も興奮し、「討薩表」を掲げ、京への進軍を開始した。1868年1月27日(慶応4年1月3日)鳥羽街道・伏見街道において薩摩軍との戦闘が開始された(鳥羽・伏見の戦い)。官軍を意味する錦の御旗が薩長軍に翻り、幕府軍が賊軍となるにおよび、淀藩や安濃津藩などの寝返りなどが相次ぎ、2日後には幕府軍の敗北が決定的となる。徳川慶喜は軍艦開陽丸にて江戸へ逃亡し、旧幕府軍は瓦解した。以後、翌年まで行われた一連の内戦を、慶応4年の干支(戊辰)に因んで「戊辰戦争」という。なお戊辰戦争中の1868年10月23日(旧暦9月8日)には慶応から明治に改元された。",
"title": "政治史"
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"text": "東征大総督として有栖川宮熾仁親王が任命され、東海道・中山道・北陸道にそれぞれ東征軍(官軍とも呼ばれた)が派遣された。一方、新政府では、今後の施政の指標を定める必要から、福岡孝弟(土佐藩士)、由利公正(越前藩士)らが起草した原案を長州藩の木戸孝允が修正し、「五箇条の御誓文」として発布した。",
"title": "政治史"
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"text": "江戸では小栗らによる徹底抗戦路線が退けられ、慶喜は恭順謹慎を表明。慶喜の意を受けて勝海舟が終戦処理にあたり、山岡鉄舟による周旋、天璋院や和宮の懇願、西郷・勝会談により決戦は回避されて、江戸城は無血開城され、徳川家は江戸から駿府70万石へ移封となった。",
"title": "政治史"
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"text": "しかしこれを不満とする幕臣たちは脱走し、北関東、北越、南東北など各地で抵抗を続けた。一部は彰義隊を結成し上野寛永寺に立て籠もったが、7月4日(慶応4年5月15日)長州藩の大村益次郎率いる諸藩連合軍により、わずか1日で鎮圧される(→上野戦争)。",
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"text": "そして、旧幕府において京都と江戸の警備に当たっていた会津藩及び庄内藩は朝敵と見なされ、会津は天皇へは恭順を表明するものの新政府への武装敵対の意志を示し、新政府は周辺諸藩に会津への出兵を迫る事態に至った。新政府に劣位の立場で参加することを嫌った仙台藩・戦国時代の旧領回復を望んだ米沢藩などの主導により、陸奥、出羽及び越後の諸藩が奥羽越列藩同盟を結成し、盟主として上野戦争以降東北にいた輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が擁立された。長岡(→北越戦争)・会津(→会津戦争)・秋田(→秋田戦争)などで激しい戦闘がおこなわれたが、いずれも新政府軍の勝利に終わった。",
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"text": "旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は幕府が保有していた軍艦を率い、各地で敗残した幕府側の勢力を集め、箱館の五稜郭を占拠。旧幕府側の武士を中心として明治政府から独立した政権を模索するが(いわゆる「蝦夷共和国」)、箱館戦争の結果、翌1869年6月27日(明治2年5月18日)新政府軍に降伏し、戊辰戦争が終結した。",
"title": "政治史"
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"text": "その間、薩長土肥の建白により版籍奉還が企図され、同年9月諸藩の藩主(大名)は領地(版図)および人民(戸籍)を政府へ返還、大名は知藩事となり、家臣とも分離された。1871年8月29日(明治4年7月14日)には、廃藩置県が断行され、名実共に幕藩体制は終焉した(→明治維新)。",
"title": "政治史"
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"text": "1846年7月19日(弘化3年閏5月26日)国務長官ジョン・カルフーンの命を受けたジェームズ・ビドルが、通商を求めて浦賀に来航した。ビドルの来航は感触を確認する程度のものであり、幕府がこれを拒否すると直ちに退去した。しかし米墨戦争の結果カリフォルニアがアメリカ領土となると、太平洋航路を用いての中国との交易はアメリカにとって重要な課題となった。この場合、途中の補給拠点として日本の港を利用することが望まれた。したがって、ペリーの来航目的は補給港としての日本の開港が第一であり、通商交渉は二義的なものとなった。結果として、1854年 3月31日(嘉永7年3月3日)に調印された日米和親条約には通商条項は含まれなかった。",
"title": "国際関係"
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"text": "日米和親条約に基づき、1856年8月21日(安政3年 7月21日)に初代米国領事タウンゼント・ハリスが来日した。ハリスはまず日米和親条約の追加条項の交渉を行い、それが下田協約として締結されると、1858年1月25日(安政4年 12月11日)から日米修好通商条約の交渉を開始し、同年7月29日(安政5年6月19日)に調印にいたった(この時点でハリスは公使に昇進し、公使館を江戸善福寺に開いた)。この交渉において、岩瀬忠震は批准書の交換を米国で行うことを提案し、受け入れられた(万延元年遣米使節)。使節は1860年5月17日(万延元年閏3月25日)にワシントンでブキャナン大統領に謁見・批准書を渡した。また途中多くの近代的施設を見学し、西洋文明の一端に触れた。",
"title": "国際関係"
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"text": "このように開国初期における日本の対外関係は米国が中心であった。ハリスは欧州特に英国とは異なる外交路線を採用しており、英国公使ラザフォード・オールコックからは「幕府寄り過ぎる」とみなされることもあった。日米修好通商条約の交渉中、ハリスは「調印が遅れれば英国が軍事力を背景により厳しい条件での条約を押し付けてくるので、米国と日本にとって有利な条件で条約を結ぶべき」と幕閣に述べており、実際幕府が一般品の関税として12.5%を提示したのに対し、ハリスはより高い20%を提案・合意した。これは同年に清が押し付けられた天津条約の7.5%に比べるとずっと有利であった(安政五カ国条約はいわゆる「不平等条約」であるが、調印時点で幕府にとって特に不利な条約だった訳ではない。関税は妥当であり、領事裁判権を認めることを、幕府はむしろ歓迎した。また、天津条約と異なり外国人の国内旅行が制限されるなど外国人にとって不平等な条項も含まれていた)。攘夷運動が盛んになり、各国の公使館が江戸から横浜に引き上げた後も、ハリスは江戸に留まった。幕府の内情にも通じており、新潟・兵庫・江戸・大坂の開港・開市の延期を幕府が求めた際も、これに同意している。",
"title": "国際関係"
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"text": "しかし、1861年4月に南北戦争が始まった後は、米国の日本に対する影響力は小さくなった。例えば、幕府は1861年8月14日(文久元年7月9日)にハリスに対して軍艦2隻(フリゲートおよびコルベット)の発注を依頼したが、米国政府はこれを受けることができなかった。健康上の理由で辞任したハリスに代わり、1862年5月17日(文久2年4月19日)に新公使 ロバート・プルインが着任した。プルインも当初はハリスの独自外交を踏襲した。しかし、米国商船が長州藩から砲撃を受けた後は(下関事件)、英仏との協調路線に変更した。プルインは富士山丸発注に関して問題を起こし、幕府の信頼を失ってしまったため、1865年4月28日(慶応元年3月23日)アントン・ポートマンを代理公使として、任期半ばで帰国した。1866年1月18日(慶応元年12月2日)に3代公使としてロバート・ヴァン・ヴォールクンバーグが着任したが、英仏との協調は変わらず戊辰戦争では局外中立を維持した。なお、幕府は装甲艦甲鉄を購入していたが、アメリカが中立を宣言したために受け取ることができず、また中立解除後に明治政府に引き渡されたため、箱館戦争の推移に少なからぬ影響を与えた。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 50,
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"text": "1849年に広東領事(1854年から香港総督)となったジョン・バウリングは、海軍力を背景とする交渉により、和親条約ではなく一挙に日本との通商条約の締結を目指していた。しかし、クリミア戦争の発生によって、英国はアジア地域に十分な軍事力を振り分けることができなくなってしまった。1854年9月、東インド艦隊司令官スターリングは、敵国となったロシアのプチャーチンを追って長崎に入港したが、1854年10月14日(嘉永7年8月23日)、長崎奉行水野忠徳は半ば強引に日英和親条約を結んだ。結果として英国は米国と同じ権利しか獲得することが出来ず、通商条約締結という思惑は実現しなかった。この条約に対してバウリングは反対したが、ロシアと戦争状態にある現状では箱館を英国船が利用出来るメリットがあるとされ、結局批准されている。その後もアロー戦争があり、英国は日本との外交にリソースを割くことができず、通商条約に関しても、米国に遅れをとることとなった。初代英国公使(着任時は総領事)ラザフォード・オールコックは、1859年7月11日(安政6年6月12日)に江戸城に登城、批准書の交換が行われた。公使館は高輪東禅寺とされた。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1860年(万延元年)、攘夷派との妥協策として、幕府は安政五カ国条約で約束されていた兵庫・新潟・江戸・大坂の開港・開市延期を条約締結国に申し入れた。米国公使ハリスはこれを受け入れたが、オールコックは「条約は遵守すべき」として反対であり、「そのような重大な変更は、条約締結国に使節を派遣して議論すべき」とした。1861年7月5日(文久元年5月28日)には、英国公使館が襲撃され、オールコックは難を逃れたが、公使館員2人が負傷した(第一次東禅寺事件)。事件後の8月14日と8月15日の2日間にわたり(文久元年7月9日と7月10日)オールコックは、老中安藤信正、若年寄酒井忠毗との秘密会談を持ち、幕府権力の低下を素直に打ち明けられた。また、この会談でオールコックはロシア軍艦対馬占領事件に解決のために英国海軍が支援することを提案し、実行されている)。この結果、オールコックは開港・開市延期に反対することは得策でないと考えを変え、ヨーロッパに派遣される文久遣欧使節(開市開港延期交渉使節)を積極的に支援することとした。オールコックは自身の賜暇帰国を利用して、使節と共に英国本国政府との交渉に当たり、1862年6月6日(文久2年5月21日)ロンドン覚書に調印、開港・開市の5年間の延期が認められた。またオールコックは使節一行がロンドン万国博覧会の開会式に出席できるように取り計らい、またフランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールらと協力して、使節一行が欧州の進んだ文明・工業を学べるように手配した。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "オールコックが賜暇帰国中、英国代理公使はジョン・ニールが務めたが、この間に日英関係は最大の危機を迎えた。1862年6月26日(文久2年5月29日)、英国公使館は再び襲撃された(第二次東禅寺事件)。さらに、同年9月14日(文久2年8月21日)に生麦事件が発生した。幕府に攘夷派取り締まりを促すために、英国東インド艦隊司令ジェームズ・ホープは、必要があれば日本の海上封鎖および一部砲台に対する限定的な攻撃を考慮することを提案した。この提案は1863年1月9日にヴィクトリア女王臨席で開かれた枢密院会議で勅令を得ている。英国は、第二次東禅寺事件の賠償金として1万ポンド、生麦事件の賠償金として10万ポンドを幕府に要求した。交渉は難航したが、賠償金支払日を1863年6月18日(文久3年5月3日)にすることで決着した。ところが、そのころ京都では徳川家茂が孝明天皇に1863年6月25日(文久3年5月10日)をもって攘夷を実行することを約束しており、この影響を受けて幕府は支払いの延期を通告した。ニールは激怒し、幕府に対する軍事行動を新任の東インド艦隊司令キューパーに委ねた。まさに戦争直前の状態となったが、老中小笠原長行 の独断によって、攘夷実行前日の1863年6月24日(5月9日)に賠償金11万ポンドが一括して支払われ、幕府と英国間の戦争は避けられた。幕府との交渉が成立した後、ニールは自ら鹿児島に赴いて薩摩藩との交渉を行うこととした。が、交渉は決裂して、1863年8月15日(文久3年7月2日)、戦闘が発生した(薩英戦争)。同年11月15日(10月5日)には薩英戦争の講和成立が成立したが、この交渉は、薩摩と英国が接近するきっかけとなった。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 53,
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"text": "攘夷実行命令に基づき、長州藩は下関海峡を通過する外国船に対して砲撃を開始し、関門海峡は通行不能となっていた。1864年3月(文久4年2月)、賜暇が終わり日本に戻ったオールコックは、長州藩への武力攻撃を行い、「攘夷が不可なることを知らしめる」こととした。オールコックは仏・蘭・米の公使の合意を得、1864年9月5日(文久4年8月5日)、 四カ国連合艦隊は、下関の砲台を砲撃、さらに陸戦隊を上陸させ占領した(下関戦争)。しかし、この行動は、本国政府からは「やり過ぎ」と見なされ、オールコックは本国に召喚されてしまった。なお、この事件を通じて、英国は長州藩との間にも関係を構築した。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "下関戦争の賠償金は300万ドルという巨額なものとなったが、支払いは幕府が行うこととなった。新任の公使ハリー・パークスは、賠償金を減額してでも、兵庫を早期開港させたほうが英国にとってメリットが大きいと考えた。当時、将軍徳川家茂以下の主要幕閣は京都に滞在していた。このため、パークスは条約勅許(この考えは通訳のアーネスト・サトウが伊藤博文から聞いていた)と兵庫の早期開港を求めるため、仏・蘭・米を誘い、軍艦8隻を引き連れて、1865年11月4日(慶応元年 9月16日)に兵庫沖に来航し、強圧的な交渉を行った(兵庫開港要求事件)。結果、兵庫の早期開港は認められなかったものの、11月22日(慶応元年10月5日) に安政五カ国条約に対する勅許がおりた。加えて、関税の見直しに関する合意も得、翌1866年6月25日(慶応2年 5月13日)に改税約書が調印され、輸入関税が大幅に引き下げられた。結果として、日本の輸入は急増し、一部の産業は大打撃を受けることとなった。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "パークスは、本国の方針に従い、あくまで内政不干渉の立場を維持した。しかし、影響力を持った何人かの大名の領地を自分自身で訪問した他、部下のサトウやミットフォード、さらには民間人のトーマス・グラバーらを使って、「維新の志士」たちとも積極的に接触した。但し、徳川慶喜に関しては非常に高く評価しており、幕府の瓦解を予想していたわけではない。が、同時にそのような事態に備えて、天皇宛のビクトリア女王の信任状を予め本国政府に要求していた。このため、新政府成立後の1868年5月22日(慶応4年閏4月1日)、いち早く新政府を承認することができた。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 56,
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"text": "戊辰戦争に関しては、英国は局外中立を宣言し、他国もこれに追従した。また、パークスは新政府軍の江戸城総攻撃に関しては「無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃することは万国公法に反する」として反対し、江戸無血開城の一因となったとも言われている。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 57,
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"text": "フランスは琉球王国との間に琉仏修好条約(1855年)を結んでいたが、米英露蘭とは異なり日本と和親条約は結んでおらず、1858年10月9日(安政5年9月3日)の日仏修好通商条約が両国間の最初の条約となった。翌1859年9月6日(安政6年8月10日)、初代領事(後に公使)ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールが着任した。デュシェーヌ・ド・ベルクールは基本的には英国と共同歩調をとっており、生麦事件後に英国が軍事行動を起こすことがあれば、横浜の防衛はフランスが引き受けることとなっていた。しかし、生麦事件の交渉の後、デュシェーヌ・ド・ベルクールは次第に親幕府的な立場をとるようになった。1863年(文久3年)秋に幕府は横浜の鎖港を言い始めたが、各国の公使がこれを拒否する中、デュシェーヌ・ド・ベルクールだけは理解を示し、横浜鎖港談判使節団の派遣を支援した。1864年4月27日(文久4年3月22日)、デュシェーヌ・ド・ベルクールはその任務を後任のレオン・ロッシュに譲ったが、老中はフランス政府にデュシェーヌ・ド・ベルクールの留任を嘆願するほどであった。このため、ロッシュも幕府と親密な関係を築くことができ、フランスは幕府の政策により積極的に関与していくことになる。",
"title": "国際関係"
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"text": "1864年9月(元治元年8月)、幕府は翔鶴丸の修理を横浜停泊中のフランス軍艦乗員に依頼した。この際のフランス側の作業の誠実さから、幕府はフランスを強く信頼するようになり、横須賀製鉄所の建設をフランスに依頼し、翌1865年10月13日(慶応元年8月24日)に着工された。建設資金は240万ドルと見積もられた。当初はこの支払のため、幕府が直接生糸を輸出することが計画されたが、英国の反対にあい実現しなかった。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "さらにロッシュは小栗忠順に要望され、600万ドルの借款を支援し、1866年9月28日(慶応2年8月20日)に契約は一旦成立した。小栗はこの600万ドルで幕府の軍備増強を行い、薩摩・長州を打倒し幕府を中心とした中央集権国家を作り、日本の近代化を達成する計画だった。1866年12月11日(慶応2年11月15日 )、ロッシュは徳川慶喜の依頼により幕政改革を提言し、そのいくつかは慶応の改革として実現した。1867年1月12日(慶応2年12月9日)からフランス軍事顧問団による幕府陸軍の訓練も開始された。慶喜の弟である徳川昭武は、慶喜の名代としてパリ万国博覧会に派遣され、その後パリにて留学生活を送っていた。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "しかし、本国の外務大臣が交代し、対英協調策をとるようになったことから、借款は中止され、ロッシュは本国から見放される形となった。鳥羽・伏見の戦いに敗北後、徳川慶喜は江戸に戻ったが、ロッシュは3度にわたり登城し、慶喜に再起を促した。しかし慶喜はこれを拒否した。その後英国公使パークスが局外中立を提案すると、ロッシュはこれに従うしかなかった。まもなくロッシュは公使を罷免され、後任のマキシミリアン・ウートレーは英国との共同路線をとった。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "オランダは鎖国中も出島での交易を許されており、またオランダ風説書にて海外事情を幕府に報告していた。さらにアヘン戦争が始まると、以降は別段風説書を作成してイギリスの武力による中国進出を詳しく報告した。1844年8月14日(弘化元年7月2日)に長崎に入港した軍艦パレンバン号は、オランダ国王ウィレム2世の親書を携えており、武力によって強制される前に平和的に開国することを薦めてきた。老中に再任していた水野忠邦は開国を主張したが他の幕閣の同意を得られず、また将軍徳川家慶の反対もあって、幕府はこれを拒否した。1852年7月(嘉永5年6月)、ヤン・ドンケル・クルティウスが到着、出島のオランダ商館長となったが、これは開国を見越した人事であり、クルティウスは外交官として活動できる資格を有していた。クルティウスは別段風説書でペリーの来航を予告するとともに、東インド総督・バン・トゥイストの通商条約素案を提出したが、交渉には至らなかった。",
"title": "国際関係"
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"text": "1853年7月8日(嘉永6年6月3日)にペリーが来航、翌年の再訪を告げて立ち去ったが、幕府は開国に備えクルティウスを通じ、軍艦の発注と乗員の訓練の申し出を行った。この申し出は、翌年3月(嘉永7年2月)に来航したスムービング号のファヴィウス艦長と長崎奉行水野忠徳の間でより具体化し、1854年11月11日(嘉永7年9月21日)、オランダにコルベット2隻(咸臨丸及び朝陽丸)が発注された。さらに、1855年12月3日(安政2年10月24日10月24日)には長崎海軍伝習所が設立され、オランダは練習船としてスムービング号を寄贈した(後の観光丸)。ヘルハルト・ペルス・ライケン(第一次)、ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ(第二次)を団長とする教官団が派遣された。この功績が認められ、1856年1月30日(安政2年12月23日)には日蘭和親条約が調印され、クルティウスは駐日オランダ理事官となった。1857年10月16日(安政4年8月29日)には日蘭追加条約が調印され、自由貿易ではないものの、貿易の大幅な拡大が認められた。",
"title": "国際関係"
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"text": "1858年(安政5年)春、クルティウスと補佐官のディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックは江戸に出て、通商条約の交渉を開始し、日米修好通商条約には1ヶ月程遅れたが、1858年8月18日(安政5年7月10日)日蘭修好通商条約調印にこぎつけた。ポルスブルックは1863年7月(文久3年6月)に公使(外交事務官)となったが、下関戦争や兵庫開港要求事件の際は、英仏米と共同歩調をとった。また、ポルスブルックは、スイス・ベルギー・デンマークなどのヨーロッパ諸国と幕府の条約締結に 積極的に関与した。",
"title": "国際関係"
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"text": "長崎海軍伝習所は、1859年(安政6年)に資金不足を理由に閉鎖されてしまったが、1862年(文久2年)には幕府海軍最大の軍艦となる開陽丸をオランダが受注。軍艦引受をかねて、榎本武揚ら15人の留学生がオランダに派遣された。1867年5月20日(慶応3年4月17日)、開陽丸は幕府へと引き渡された。",
"title": "国際関係"
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"text": "海軍伝習所から派生した長崎英語伝習所や長崎養生所は、名前を変えて現在も存続している。そこでは、フルベッキ、ポンペ、ボードウィン、ハラタマらが教育に尽力し、幕末・明治初期の人材育成に貢献した。",
"title": "国際関係"
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"text": "地理的に日本に近いこともあり、日本に関するロシアの関心は高かった。すでに1705年(宝永2年)にはサンクトペテルブルクに日本語学校が設立されている。1771年(明和8年)、ハンガリー人モーリツ・ベニョヴスキーがカムチャッカから脱走して阿波に来航し、オランダ商館長を通じて「ロシアが蝦夷地への攻撃を計画している」との偽情報を伝えた。このためロシアへの警戒感が高まり、1781年(天明元年)ごろ工藤平助が赤蝦夷風説考を著述、これを読んだ老中田沼意次は蝦夷地の探検・開発を進めさせた。またロシアとの交易も考えたが、1786年(天明6年)に失脚し、実現には至らなかった。",
"title": "国際関係"
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"text": "日本との交易を求めた最初のロシア人は、ヤクーツクの商人パベル・レベデフ=ラストチキンである。数度の失敗の後、1778年(安永7年)にラストチキンの部下のドミトリー・シャバリンと「シベリア貴族」で日本語学校の生徒であったイワン・アンチーピンが蝦夷厚岸に来航し、松前藩との接触に成功した。一行は翌年にも来航したが、松前藩は翌年に独自の判断で交易を拒否し、幕府へは報告されなかった。寛政4年(1792年)にはアダム・ラクスマンが正式に通商を求めてきた。老中松平定信はロシアとの限定的通商を考慮し、長崎への入港許可証である信牌を交付した。しかしラクスマンは、長崎へは向かわず帰国した。1804年(文化元年)、この信牌を持ったニコライ・レザノフが長崎に来航した。しかしすでに定信は失脚しており、交渉は不成立に終わった。怒ったレザノフは、部下は1807年(文化4年)に蝦夷地を攻撃させ(文化露寇)、日露関係が緊張した。このため、蝦夷地は一時幕府の直轄領となった。その後ロシアの関心が黒海方面に向いたこともあって緊張は緩和され、1821年(文政4年)に蝦夷地は松前藩に戻された。",
"title": "国際関係"
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"text": "1853年8月22日(嘉永6年7月18日)、ペリーより約1ヶ月遅れてエフィム・プチャーチンが長崎に来航し、日露和親条約の交渉が始まったが、調印は1855年2月7日(安政元年12月21日)と、後から交渉が始まった日英和親条約より遅れた。これは日露和親条約で日露国境の問題が話し合われたためであるが、樺太の国境に関しては決着せず両国の混在地とされた。その後、1859年8月(安政6年7月)のムラヴィヨフ来航、1862年8月(文久2年7月)の文久遣欧使節ロシア訪問時にも話し合いが持たれたが決着せず、ようやく1867年3月30日(慶応3年2月25日)に日露間樺太島仮規則が仮調印されたが、幕府はこれを批准しなかった。国境問題は、1875年(明治8年)5月7日の樺太・千島交換条約によって一応の決着を見た。",
"title": "国際関係"
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"text": "なお、ムラヴィヨフが来航した際に、ロシア海軍の軍人2人が攘夷派武士に殺害されている。これが幕末の最初の外国人殺害事件であるが、ムラヴィヨフは賠償金を請求しなかった。",
"title": "国際関係"
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"text": "ロシアは他国と異なり、総領事館を箱館においていたため、日本の内政問題に関わることは殆ど無かった。しかし1861年3月14日(文久元年2月3日)から約半年間、ロシア軍艦ポサードニクが艦艇の修理を名目として対馬芋先を占拠する事件(ロシア軍艦対馬占領事件)がおきている。幕府は単独では対処できず、英国の介入によりロシア軍艦を退去させることとなった。",
"title": "国際関係"
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"text": "ドイツの統一は1871年であるため、外交主体となったのは当初はプロイセン、続いて北ドイツ連邦であった。",
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"text": "シーボルトやケンペルなど、オランダ東インド会社の社員として日本を訪問したドイツ人(ドイツ語を母国語とする人)はいたが、公式な関係は1861年1月24日(万延元年12月14日)にオイレンブルクが幕府と日普修好通商条約を結んだことに始まる。この交渉は難航した。2年前の安政五カ国条約とは異なり、日本国内には攘夷機運が盛り上がっており、さらにプロイセンとだけではなく条約にドイツ関税同盟諸国など三十数カ国を含めることを求めたからである。結局条約はプロイセンとのみ結ばれたが、条約の交渉にあたった堀利煕が謎の自殺をとげている。",
"title": "国際関係"
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"text": "初代の駐日領事には、オイレンブルクと共に来日したマックス・フォン・ブラントが任命された。当時プロイセンは海外に植民地を求めていたが、ブラントは蝦夷地は無主地であるとして、「十数隻の艦隊と5千人の上陸兵で占領できる」と主張していた。実際に、戊辰戦争に際して会津藩・庄内藩が領有する蝦夷地の根室や留萌の譲渡と引き換えにプロイセンとの提携を提案していたが、当時の宰相ビスマルクはこれを認めなかった。ブラントは戊辰戦争は長期戦となり、場合によっては日本が南北に分裂するものと考えていた。英仏蘭米伊と同様局外中立を宣言したが、奥羽越列藩同盟だけでなく箱館政権にも同情的な姿勢を見せた。また、プロイセン領事館の書記官であったヘンリー・スネルは、領事館を退職して奥羽越列藩同盟の軍事顧問勤め、弟のエドワルドはスネル商会を設立して同盟軍に武器を供給した。しかし、戦局を左右する事態にはならず、戦争終結後も日本とプロイセンとの外交関係は維持された。但し、プロイセン商人ガルトネルが箱館郊外で経営していた農園は、ここを基点に植民地化の恐れがあるとして、明治政府は賠償金を払ってこれを回収している(ガルトネル開墾条約事件)。",
"title": "国際関係"
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"text": "来日した外国人により、多数の見聞録が書かれ、写真が遺されている。見聞録の日本語訳は、『新異国叢書』(雄松堂書店)、岩波文庫、講談社学術文庫などから相当数が刊行されている。また、渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー、2005年)には、主要な見聞録の内容が詳細に紹介されている。",
"title": "国際関係"
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"text": "写真も多くあり、小沢健志編『幕末写真の時代』(ちくま学芸文庫、1996年)、横浜開港資料館編『F. ベアト写真集 1. 幕末日本の風景と人びと』、『同 2. 外国人カメラマンが撮った幕末日本』(明石書店、2006年)が読み易い。近年はデジタル技術の発達で彩色再現が可能となっており、それを用いた出版書籍(例:『過ぎし江戸の面影』双葉社スーパームック、2011年)もある。",
"title": "国際関係"
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"text": "佐幕からの派生、主に東北地方(奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国)で強くあった。",
"title": "幕末の思想"
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"text": "幕府や各藩は海防や治安維持のため、そして後には倒幕運動やその対策のために、競って西洋の最新兵器を揃えようとした。しかし長い鎖国の間に西洋の軍事技術との差は開いており、弾薬まで含めた自製は困難であったため、ほとんどは外国商人から購入して賄った。",
"title": "幕末の兵器"
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{
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"text": "日本刀に関しては、尊王攘夷派の志士の間で勤皇刀や勤王拵と呼ばれる3尺前後で反りが少ない長寸の打刀が流行し、佐幕派も対抗として長大な刀を使うようになった。",
"title": "幕末の兵器"
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幕末は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1868年)までの時代を主に扱う。
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{{Otheruses}}
{{脚注の不足|date=2021年9月}}
{{日本の歴史|Commodore-Perry-Visit-Kanagawa-1854.jpg|300px|画像説明=[[黒船来航]]}}
{{読み仮名|'''幕末'''|ばくまつ}}は、[[日本の歴史]]のうち、[[江戸幕府]]が[[政権]]を握っていた時代([[江戸時代]])の末期を指す。本記事においては、[[黒船来航]]([[1853年]])から[[戊辰戦争]]([[1868年]])までの時代を主に扱う。<!--[[鎌倉幕府]]や[[室町幕府]]の末期を「幕末」と呼ぶことはない。-->
== 概説 ==
幕末の期間に関する厳密な定義はないが、[[1853年]][[7月8日]]([[嘉永]]6年[[6月3日 (旧暦)|旧暦6月3日]])の[[黒船]]、即ち[[マシュー・ペリー]]が率いる[[アメリカ海軍]]艦隊の来航をその始期とする見方が一般的であり、[[王政復古の大号令]]([[1868年]])においても「抑癸丑(1853年)以来未曾有の国難」が体制変革の画期として指摘されている。
終期については、[[1867年]][[11月9日]]([[慶応]]3年[[10月14日 (旧暦)|旧暦10月14日]])に[[徳川慶喜]]が[[大政奉還]]を行った時点、翌[[1868年]][[5月3日]]([[4月11日 (旧暦)|旧暦4月11日]])の[[江戸開城]]の時点など、様々な見方があり得る。また、旧幕府軍による抵抗が終わった[[箱館戦争]]の終結([[1869年]])、[[幕藩体制]]が完全に終結した[[廃藩置県]]を断行した[[1871年]][[8月29日]]([[明治]]4年[[7月14日 (旧暦)|旧暦7月14日]])、[[西欧]]式の[[太陽暦]]である[[グレゴリオ暦]]を[[元号]]に採用する前日の[[1872年]][[12月31日]]([[明治]]5年[[12月2日 (旧暦)|旧暦12月2日]])なども終期となりうる。
幕末は、「西洋の衝撃」を受けた国防意識の高まりと[[ナショナリズム]]の勃興を背景に、[[水戸学]]のような日本型華夷思想を基盤として国体意識が高まり、徳川将軍が事実上の国家主権者として君臨する幕藩体制が解体され、国内の政治権力の再編が進む過程である。その中心を担ったのは<!-- 長大な海岸線を有し、海防及び貿易への関心を早くから有していた-->[[薩摩藩]]、[[長州藩]]、[[土佐藩]]、[[肥前藩]]などの、いわゆる西南[[雄藩]]であった。この時期には「[[鎖国]]」<!--すなわち[[海禁政策]]-->を放棄して開港した日本が、外国との[[自由貿易]]の開始によって世界的な[[資本主義]][[市場経済]]と[[植民地主義]]に組み込まれた。また一部での排外主義([[尊王攘夷運動]])の高まりにもかかわらず、[[列強]]の圧倒的な存在感により社会自体が西洋文明の影響を受けて劇的に変化していった時期でもある。この幕末の過程は、たとえば[[島崎藤村]]の長編小説『[[夜明け前]]』など多くの文学作品にも描かれている。
政治的側面においては、幕末を、単なる過渡期とするか、あるいはそれ以前以後とは異なった独自の政治体制とするかの2つの見方に分かれる。一方で、国際関係史的には「[[近代]]」として扱われ、一連の条約の締結により日本が西洋近代システムへの参入を果たした幕末から、[[第二次世界大戦]]で敗れて天皇を主権者とする[[帝国主義]]国家が崩壊するまで、即ち[[開国]]([[1854年]])から[[日本の降伏|第二次世界大戦敗北]]([[1945年]])までを「近代」とする見方も存在する<!--歴史教科書の例:東京書籍『新しい社会 歴史』2006年版-->。幕末とそれに続く[[明治時代]]は「'''幕末・明治'''」として一括されて呼ばれることも多い。
== 政治史 ==
''[[黒船来航]]以前については[[幕末の砲艦外交]]を参照。''
=== 条約締結と将軍継嗣問題(1853年 - 1858年) ===
[[ファイル:Shinagawa Baidai cannon.jpg|thumb|left|外国勢を迎え撃つために、[[品川区|品川]][[お台場|台場]]に設置されていた80ポンド青銅製カノン砲(口径250mm、砲身長3830mm)]]
1853年[[7月8日]](嘉永6年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]])、[[アメリカ合衆国]]が派遣した[[マシュー・ペリー|ペリー]]提督率いる4隻の[[黒船]]が[[浦賀]]沖に来航し<ref>同日、[[久里浜]]で[[浦賀奉行]]以下60人が大筒[[ボンベン・モルチール砲]]の砲撃訓練をしていた。訓練は三日目に入っていた。夕方、異国船4隻が沖合を通り過ぎ、浦賀沖に投錨した。そのうち2隻が蒸気軍艦であった。(井上勝生『幕末・維新』シリーズ日本近現代史① 岩波書店 〈岩波新書1042〉 2006年 2ページ)</ref>、[[江戸幕府]]に開国を迫る[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]国書をもたらした。[[老中]]首座の[[阿部正弘]]([[備後福山藩]]主)は、[[海防参与]][[徳川斉昭]](前[[水戸藩]]主)らや、[[松平春嶽|松平慶永]](春嶽、[[越前藩]]主)・[[島津斉彬]]([[薩摩藩]]主)ら[[親藩]]・[[外様大名]]をはじめ、庶民にいたるまで対応意見を求めた。こうした激動の中、[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家慶]]が死去し、世子の[[徳川家定|家定]]が13代将軍に就任する。
翌1854年[[2月13日]](嘉永7年[[1月16日 (旧暦)|1月16日]])に再来したペリーは、重ねて開国を要求する。全権の[[林復斎]](大学頭)らとの交渉により、1854年[[3月31日]](嘉永7年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]])'''[[日米和親条約]]'''が締結され、いわゆる「鎖国」体制は終焉した<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=25-27|author=石井寛治}}</ref>。また、英国の[[ジェームズ・スターリング (西オーストラリア州総督)|スターリング]]と[[水野忠徳]]の交渉で1854年[[10月14日]](嘉永7年[[8月23日 (旧暦)|8月23日]])に[[日英和親条約]]、[[ロシア帝国]]の[[エフィム・プチャーチン|プチャーチン]]と[[川路聖謨]]らの交渉により1855年[[2月7日]](改元して[[安政]]元年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]])に[[日露和親条約]]<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=28-31|author=石井寛治}}</ref>、やや遅れて1856年[[1月30日]]([[12月23日 (旧暦)|12月23日]])には [[日蘭和親条約]]調印が締結された。国交を樹立した幕府での体制再編のため阿部は幕府や外部からの人材登用、研究教育施設の創設、軍事体制の再編を行っている。[[永井尚志]]・[[岩瀬忠震]]・[[大久保一翁]]の[[海岸防禦御用掛|海防掛]]目付登用や[[長崎海軍伝習所]]や[[蕃書調所]]の設置などもそのひとつである<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|author=石井寛治|pages=37-40}}</ref>。開国以前より継続していたこれらの改革は[[安政の改革]]と呼ばれ、[[勝海舟]]もこの動きの中から注目される<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=36-37|author=石井寛治}}</ref>。
日米和親条約では、薪水の給与のための[[下田]]・[[函館市|箱館]]開港と並んで、両国の必要に応じて[[総領事]]が置かれることとなり、[[1856年]](安政3年)米国は[[タウンゼント・ハリス|ハリス]]を下田に派遣する。ハリスは自由貿易と開港を目的とした通商条約の締結を幕府に迫る。阿部死後、老中首座となった[[堀田正睦]]は徳川斉昭を罷免し、ハリスを下田より上府させ、[[1857年]][[12月7日]](安政4年[[10月21日 (旧暦)|10月21日]])には将軍[[徳川家定]]に拝謁させた。ハリスは江戸で[[アロー戦争|第二次アヘン戦争]]における[[清]]の敗北などの世界情勢を堀田に伝え、英仏が日本に不利益な条約を強制する危険があると主張した。この事態を避けたければアメリカとの条約を先に締結するべきとするハリスの発言について、堀田は虚偽を含む主張と承知しながらも通商条約締結は不可避と判断し、交渉を進めた。合意した内容は、[[領事裁判権]]を認め、[[関税自主権]]を有さず、かつ片務的[[最恵国待遇]]を課した[[不平等条約]]であった<ref group="注釈">但し、領事裁判権はむしろ幕府が求めたものであり、関税に関してもこの時点では妥当なものであった。むしろ問題は金銀等価交換を認めたことであった→[[幕末の通貨問題]]</ref><ref>{{Cite book|和書|title=日本を開国させた男、松平忠固 近代日本の礎を築いた老中|year=2020|publisher=作品社|author=関良基|chapter=”不平等”ではなかった日米修好通商条約}}</ref>。
[[ファイル:The Emperor Komei.jpg|サムネイル|幕末の期間、帝位に在位していた[[孝明天皇]]]]
条約内容に合意した後、堀田は[[孝明天皇]]の[[勅許]]を求めるべく、上洛して[[関白]][[九条尚忠]]を通じて工作をおこなわせた<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=50-52|author=石井寛治}}</ref>。しかし、孝明天皇は異国人撫恤のための薪水給与は認めていたが、開市(外国人の国内の居住)や開港には反対しており、また[[岩倉具視]]ら多くの公家が関白の幕府寄りの姿勢を批判したため([[廷臣八十八卿列参事件]])、勅許は得られなかった。一方、病弱であった将軍家定に子がなかったため、将軍の継嗣を誰にするかについても国内世論が二分した。[[紀州藩]]主[[徳川家茂|徳川慶福]]を推す'''[[南紀派]]'''と、[[一橋徳川家]]当主[[徳川慶喜]]を推す'''[[一橋派]]'''が激しく対立し、条約問題とともに[[江戸]]・京都での政治工作が熾烈化した([[将軍継嗣問題]])<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=51-52|author=石井寛治}}</ref>。一橋派では[[橋本左内]](越前藩士)・[[西郷隆盛]](薩摩藩士)、南紀派では[[長野主膳|長野義言]]([[彦根藩]]士)ら下級武士がこれら工作に活躍した<ref name=":1" />。のちに島津斉彬はこれらの問題の解決を図るため、率兵上京を試みるが、決行の直前に病を得て急死した。
=== 安政の大獄と桜田門外の変(1858年 - 1860年) ===
1858年[[6月4日]](安政5年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]])に[[大老]]に就任した[[井伊直弼]]([[彦根藩]]主)は、将軍継嗣問題と条約問題とを強権的な手法で一気に解決をはかった。すなわち、将軍職については、大老就任直後の1858年[[6月11日]](安政5年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]])[[紀州藩|紀州]][[徳川家茂|慶福]]を後継に決定する。慶福は家茂と改名し、[[江戸城]]へ入った(将軍就任は安政5年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]])。直弼自身は勅許は必要と考えていたが、勅許不要とする老中の[[松平忠固]]に押され、[[7月29日]](安政5年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]])、勅許の降りないまま[[井上清直]]と[[岩瀬忠震]]を全権として'''[[日米修好通商条約]]'''を調印した<ref name=":2">{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|page=58|author=石井寛治}}</ref>。調印直後に井伊は堀田と松平忠固の二老中を罷免し<ref name=":3">{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|page=59|author=石井寛治}}</ref>、代わって老中在職経験のある[[太田資始]](道醇、前[[掛川藩]]主)・[[間部詮勝]]([[鯖江藩]]主)・[[松平乗全]]([[西尾藩]]主)を老中に任命した。その後、日米修好通商条約と同様の条約が[[イギリス]]・[[フランス]]・[[オランダ]]・ロシアとも結ばれた([[安政五ヶ国条約|安政の五ヶ国条約]])<ref name=":2" />。開市開港は段階的に行うとされたが、これについては井伊の後継である[[安藤信正]]が派遣した[[文久遣欧使節]]により[[ロンドン覚書]]が調印され時期をずらすことになる。
こうした直弼の強権的手法には反撥が相次ぎ、徳川斉昭・[[徳川慶勝]]([[尾張藩]]主)・松平慶永らは抗議のため登城するが、無断で登城したことを理由に逆に直弼によって謹慎処分を受けることとなった<ref name=":3" />。孝明天皇を無視する形で条約調印が続くと幕府寄りだった関白・[[九条尚忠]]は天皇の信頼を失い孤立していくが、それでも「[[内覧]]」権を有する関白は依然として最重要人物であった。それが1858年9月14日(安政5年8月8日)に内覧を経ずに幕府と[[水戸藩]]へ[[戊午の密勅]]が出され、その後に九条関白が幕府のために情報を壟断していた事実が明らかとなり辞職を求める内勅が出されて内覧は停止された<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=59-60|author=石井寛治}}</ref>。
失地回復を図るべく老中の間部詮勝、[[京都所司代]]の[[酒井忠義 (小浜藩主)|酒井忠義]]が上洛し、この密勅に関わったとして[[近藤茂左衛門]]、[[梅田雲浜]]を逮捕したことを皮切りに、尊攘志士の[[頼三樹三郎]]や、前関白の[[鷹司政通]]の家臣の[[小林良典]]など、[[公家]]の家臣も含めた井伊が主導する幕府に反発する人物が次々と捕らえられた<ref name=":4">{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|page=60|author=石井寛治}}</ref>。この威嚇を背景に、間部は九条関白の復職と慶福改め家茂の[[将軍宣下]]を実現権威させ、事実上の条約勅許まで獲得した。間部のさらなる朝廷への威圧により、[[攘夷派]]の[[左大臣]][[近衛忠煕]]・[[右大臣]][[鷹司輔煕]]が辞官し、前関白の鷹司政通・前[[内大臣]][[三条実万]]とともに落飾・出家するに至った<ref name=":4" />。
江戸においても、井伊によって弾圧が行われた。特に水戸藩への弾圧は苛烈を極め、[[家老]]の[[安島帯刀]]は[[切腹]]、奥右筆の[[茅根伊予之介]]は[[斬罪]]、密勅を江戸に運ぶのに関わった[[鵜飼吉左衛門]]・[[鵜飼幸吉|幸吉]]父子はそれぞれ斬罪・[[獄門]]となった<ref name=":5">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%8D%84-29231|title=安政の大獄とは - コトバンク|accessdate=2021年9月17日}}</ref>。大名や旗本では徳川斉昭が永蟄居、一橋慶喜・[[伊達宗城]]([[宇和島藩]]主)・[[山内容堂]]([[土佐藩]]主)らが隠居謹慎に処されたほか、一橋派と目された幕臣の岩瀬忠震や[[永井尚志]]が免職のうえ永蟄居を命ぜられ<ref name=":4" /><ref name=":5" />、さらには老中の太田資始・間部詮勝も罷免された。また、逮捕された三条家家臣の[[飯泉喜内]]の手紙から、検挙者が増え<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E9%A3%AF%E6%B3%89%E5%96%9C%E5%86%85-1051931|title=飯泉喜内とは - コトバンク|accessdate=2021年9月17日}}</ref>、橋本左内なども捕縛された。京都で捕らえられた人物は江戸に送られ、江戸の逮捕者とともに取調べが行われた。取調べの結果、橋本左内・頼三樹三郎・飯泉喜内・[[松下村塾]]の主催者[[吉田松陰]]は斬罪となった<ref name=":5" />。梅田雲浜や小林良典<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E8%89%AF%E5%85%B8-16268|title=小林良典とは - コトバンク|accessdate=2021年9月17日}}</ref>、密勅に関わった薩摩藩士[[日下部伊三治]]らは獄死した<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E4%B8%8B%E9%83%A8%E4%BC%8A%E4%B8%89%E6%AC%A1-1071423|title=日下部伊三次とは - コトバンク|accessdate=2021年9月17日}}</ref>。これら世論や朝廷へ働きかける運動家、オピニオンリーダー、その保護者やシンパである封建諸侯、幕府内部の実務官僚らが標的となった政治的弾圧を「'''[[安政の大獄]]'''」と呼ぶ。水戸藩内では戊午の密勅返還問題を巡りセクト主義に陥り、激派と鎮派(暫進的改革派)に分裂、彼等と対抗する門閥派の諸生党と混迷を極める結果になる<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|page=62|last=石井寛治}}</ref>。
安政の大獄は、旧一橋派や[[攘夷派]]・[[尊王論|尊皇派]]の反撥を招く。度重なる弾圧に憤慨した水戸藩の激派や薩摩藩の[[浪士]]は、密かに暗殺計画を練り、[[1860年]][[3月24日]]([[安政]]7年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]])、江戸城登城の途中の直弼を[[桜田門]]外にて襲撃して暗殺を決行した('''[[桜田門外の変]]''')。政権の最高実力者に対する暗殺という結果は、幕府の権威を大きく失墜させることとなった。
=== 公武合体策と尊王攘夷派の擡頭(1860年 - 1863年) ===
[[ファイル:NagasakiNavalTrainingCenter.jpg|thumb|300px|「長崎海軍伝習所絵図」鍋島報效会蔵。オランダの軍人を教師に、[[幕府海軍]]の海軍士官を養成した。]]
井伊直弼の死から、幕閣は[[久世広周]]([[関宿藩]]主)と[[安藤信正]]([[磐城平藩]]主)が実質上の首班となって運営された。幕府は朝廷の権威により幕威を回復せんと公武合体を推進。[[万延]]元年4月12日(1860年6月1日)、皇女[[和宮親子内親王]]の徳川家茂への降嫁を朝廷へ奏請したが、孝明天皇は[[有栖川宮熾仁親王|帥宮熾仁親王]]との婚約を命じており拒絶をした<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|page=91|author=石井寛治}}</ref>。幕府は請願を繰り返しつづけ、孝明帝の侍従であった[[岩倉具視]]は公武合体を通じて穏やかに王政回復の機会を得るべきと進言した。幕府が「七八カ年乃至十カ年」という期限をつけて条約破棄か武力撃攘を約束したことで孝明天皇は降嫁を認め、和宮は[[文久]]元年11月15日(1861年12月16日)に江戸城に入った<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|page=92|author=石井寛治}}</ref>。孝明天皇は幕府の外交措置を信頼しようとするが廃帝を画策しているとの噂が立っており、勅使として岩倉と[[千草有文]]が関東へ下向。徳川家茂より自筆で忠誠を誓う誓書を書かせた。<!--先年来、度々容易ならざる讒説、叡言に達し、今後御譲位など重き内勅の趣、老中より具に承り驚愕せしめ候、家茂をはじめ諸臣に至迄、決して右様の心底無之条、叡慮を安めらるべく候、委細は老中より千種・岩倉え可申入候、誠惶謹言 十二月十三日 家茂 謹上-->文久2年4月7日(1862年5月5日)、孝明天皇は幕府と決めた期限に必ず攘夷を為す意思を明らかとした。結果として幕府は自らの約束に縛られる結果となった。
[[File:Full Map of Yokohama Port by Hashimoto Sadahide 1859-1860.jpg|thumb|300px|御開港横浜之全図(1859-1860年)]]
安政6年6月2日(1859年7月1日)に[[横浜港]]が開港した。[[居留地]]が置かれ外国人が住居往来したが[[キリスト教]]の日本への布教は認められていなかった。貿易は[[生糸]]、茶が輸出され、[[綿糸]]、[[織物]]が輸入された。国内と国外の金貨銀貨はそれぞれ同一質量で交換されたが、日本の[[金銀比価]]の問題より短期間に大量の金、一説に10万両と云われる大量の金の海外流出を招いた<ref>『もういちど読む山川日本近代史』鳥海靖</ref>。万延元年4月10日(1860年5月30日)、幕府は[[万延小判]]を発行して混乱に対応した。しかし従来の[[天保小判]]に比して金の量を約1/3とした万延小判は既存の小判を含有金量に応じて増歩通用としたため混乱を招いた。横浜商人など利益を得た者がいたが、地廻り経済圏の[[在郷商人]]は生産地より江戸の[[問屋]]に物資を廻送せず品不足と物価高騰が発生した結果、都市の[[打ちこわし|打ち壊し]]や地方の[[一揆]]が激増した。経済の混乱のため[[五品江戸廻送令]]が出されるがイギリスは生糸の輸出制限に不満を募らせた。今日から見ると珍しく輸出にも関税をかけていたが関税収入を幕府が独占したため西南雄藩は不満を持った。こうした問題は[[薩英戦争]]後に英国と[[薩摩藩]]が接近していく素地となり、横浜鎖港と兵庫開港にみられる貿易統制をめぐる幕府と雄藩との軋轢を生む要因となった。
他方、外交では、横浜での貿易が盛んに行われるなかで、1861年2月にロシア軍艦ポサドニック号が占領を企てて[[対馬]]に滞泊する[[ロシア軍艦対馬占領事件]]が発生する。ロシア側が芋崎に兵舎を建設して付近の永久租借権を要求する事態に発展し、[[対馬府中藩|対馬藩]]や島民が抵抗して、幕府も[[外国奉行]]の[[小栗忠順]]を派遣し撤退を求めた。しかし、ロシア艦は動かず、結局イギリス公使[[ラザフォード・オールコック|オールコック]]の協力の申し出によりイギリス艦2隻が派遣され、8月にようやく退去した<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%BB%8D%E8%89%A6%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E5%8D%A0%E9%A0%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6-879337|title=ロシア軍艦対馬占領事件とは - コトバンク|accessdate=2021年9月17日}}</ref>。
幕府の公武合体が停滞する中で大名は中央政界に国論を引っ提げて乗り出した。[[長州藩]]は[[長井雅楽]]を京都へおくり「[[航海遠略策]]」の建白書を朝廷へ上らせ<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=93-94|author=石井寛治}}</ref>、長井は[[文久]]元年6月2日(1861年7月9日)に御嘉納されたことを伝えられ御製の和歌を賜った。また同年8月3日(1861年9月7日)に安藤信正と面会し持論を述べる機会を得た。長州藩の公武周旋の動きは薩摩藩を刺激した。文久2年、京都所司代の[[酒井忠義 (小浜藩主)|酒井忠義]]を無視するかのように続々と志士が入京した。彼らは和宮降嫁を主導した酒井や関白・内覧[[九条尚忠]]といった[[公武合体派]]を敵視していた。[[真木保臣|真木和泉]]、[[久坂玄瑞]]を中核とする草の根のネットワークが形成されオルグ活動では[[清河八郎]]の九州遊説が貢献した。関東の雄藩である[[水戸藩]]では井伊暗殺の実行者を追討する一方、激派の要人を参政に登用する形で安定を図った。しかし攘夷の意思が固い激派は長州藩の[[木戸孝允|桂小五郎]]、[[松島剛蔵]]と提携し実力行使による幕政改革を志向していたが、長州藩は航海遠略策が藩論となり動きがとれなくなった。激派は[[宇都宮藩]]の[[大橋訥庵]]と提携し文久2年1月15日(1862年2月13日)、[[安藤信正]]を江戸城坂下門外で襲撃した。安藤は負傷し命は助かったものの後に失脚した(→[[坂下門外の変]])<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=86-87|author=石井寛治}}</ref>。幕府から睨まれた宇都宮藩は[[蒲生君平]]が踏破調査([[山陵志]])をしていた天皇陵を修補するという奇策を用いて公武の間に運動をしていくが、当然に治定としては矛盾が続いている。また、過激尊攘志士による「異人斬り」が横行した。安政6年にロシア使節の護衛艦隊の乗組員が襲撃されて2名が死亡し、同7年にはオランダ船長と商人が殺害されたほか、万延元年にはアメリカ公使[[タウンゼント・ハリス|ハリス]]の通訳[[ヘンリー・ヒュースケン|ヒュースケン]]が薩摩藩士に襲撃され、命を落とした<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=82-83|author=石井寛治}}</ref>。また、文久元年には水戸藩士がイギリス公使館を襲う[[東禅寺事件]]が勃発した<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=83-84|author=石井寛治}}</ref>。
文久2年4月16日(1862年5月14日)、薩摩藩の最高実力者である[[島津久光]]は公武合体を実現すべく藩兵を率いて上京した。事前に[[大久保利通|大久保一蔵]]を使者にたて上京の勅許奏請を工作したが婉曲に断られ、天朝の危機に、勅命を奉じて幕政改革を実行させる意欲のもと独断で京都へのぼった。志士の動向に怯えていた朝廷は久光へ浪士鎮撫の勅命を与えた。一方久光は前左大臣の[[近衛忠煕]]に開国・軍備増強を建白した<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=104-105|author=石井寛治}}</ref>。ただ、気がかりは薩摩藩内の尊王攘夷派の暴発であり、[[有馬新七]]は薩摩藩を尊攘派に引きずりこむためにテロを計画し酒井所司代と九条関白を対象とした。久光は彼らに監視をつけて説得にあたらせたが、尊王攘夷派が上京して船宿に入ったため、やむなく粛清を行った(→[[寺田屋事件|寺田屋騒動]])<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=94-95|author=石井寛治}}</ref>。
久光の朝廷工作により、幕府改革への勅使として[[大原重徳]]が遣わされるという事態となる。幕府側にはそれを拒否する力は無く、安政の大獄で失脚した[[徳川慶喜]]を[[将軍後見職]]、[[松平春嶽]]を[[政事総裁職]]とするなどの人事を含む改革を余儀なくされた。そして、幕政に返り咲いた慶喜・春嶽や、春嶽のブレインである[[横井小楠]]らにより、[[松平容保]]([[会津藩]]主)の[[京都守護職]]任命や、[[参勤交代|参勤交代制]]の改革などが行われた(→[[文久の改革]])<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=95-97|author=石井寛治}}</ref>。いっぽう久光率いる薩摩藩兵は帰国途中の1862年9月14日(文久2年8月21日)[[生麦|生麦村]]で行列を横断しようとした英国人に斬りつける事件を起こす(→[[生麦事件]])<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=105-106|author=石井寛治}}</ref>。イギリス側は犯人の処刑を要求するが、国父の久光が開国論でありながら内部では未だ開国論に統一されていない薩摩藩では、この要求に従うことができず、後に禍根を残すこととなる<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|page=106|author=石井寛治}}</ref>。その後、京都へ凱旋した久光だが京都は尊王攘夷派に政局が占拠されており、長州藩では桂や久坂、真木和泉のため長井は失脚させられ藩論は尊王攘夷へ転換されていた。憤りが収まらない久光は鹿児島へ引き上げた。
尊王攘夷派に占拠された京都では、長州藩、[[土佐藩]]の尊王攘夷派が朝廷の圧力を利用して将軍上洛運動を強要した。土佐藩に関しては、藩主の[[山内豊範]]が[[土佐勤王党]]の[[武市瑞山]]らを率いて上京しており、長州藩と密接な連絡をとって朝廷に働きかけていた。こうした運動が実を結び、[[三条実美]]・[[姉小路公知]]が江戸に下り、幕府に攘夷決行と将軍上洛を督促した<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=98|author=石井寛治}}</ref>。幕府内では、[[御側御用取次]]の[[大久保一翁]]が開国論を説いて朝廷に拒否されたならば[[大政奉還]]をせよと主張したため左遷され<ref name=":6">{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|page=100|author=石井寛治}}</ref>、幕閣は将軍上洛を受け入れることを決めた。そして、1863年4月21日(文久3年3月4日)、家茂は将軍としては200年ぶり(3代[[徳川家光|家光]]以来)に京都に入ったが、朝廷のペースに巻き込まれ、1863年6月25日(文久3年5月10日)をもっての攘夷決行を約束させられてしまう<ref name=":6" />。但し、幕府は攘夷を武力行使ではなく条約の撤回と解釈し、老中の[[小笠原長行]]([[唐津藩]]世子)が、独断というかたちで生麦事件の賠償金を支払う一方、横浜からの一時退去を諸外国に申し入れたが、これを拒否されている<ref group="注釈">なお、小笠原としては本気で交渉して鎖港するつもりはなく、横浜の商人に対しては、交易は従来通り許すから安心するよう布告している。</ref><ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|page=108|author=石井寛治}}</ref>。
他方、攘夷決行の日である6月25日、長州藩は[[久坂玄瑞]]らの指揮の下、[[関門海峡]]を通過する外国商船に砲撃を加える。しかし20日後に[[アメリカ合衆国]]、さらにその4日後には[[フランス]]からの報復攻撃を受け砲台を占拠されるなど、攘夷の困難さを身をもって知ることとなる(→[[下関戦争]])。また藩兵の軟弱さを嘆いた長州藩士[[高杉晋作]]は、新たに武士以外の身分を含む[[奇兵隊]]を結成、それに続いて[[長州藩諸隊|諸隊]]が次々と結成され、後の長州藩の武力となっていく。また、生麦事件の賠償問題がこじれたことから1863年8月15日(文久3年7月2日)、薩摩藩と英国の間にも戦争が勃発(→[[薩英戦争]])。薩英戦争では、イギリス艦隊による[[鹿児島城]]下砲撃と、それに反撃する薩摩藩砲兵との間で戦闘が発生した。イギリス側の人的被害が大きかった一方、鹿児島市街の一部が焼失し、薩摩藩もまた攘夷の不可能性を悟り、藩論を開国に統一することとなった。この交渉によりイギリスは薩摩藩が実は開国論に立っていることを知り、以後薩摩藩と急速に接近していくこととなる<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|page=107|author=石井寛治}}</ref>。
=== 尊攘派の蹉跌(1863年 - 1864年) ===
[[ファイル:Hamaguri rebellion.jpg|サムネイル|left|[[禁門の変]]を嚆矢として、日本国内の争いは内戦へと発展していく。]]
[[ファイル:BattleOfShimonoseki.jpg|thumb|300px|攘夷と称して外国船に砲撃を繰り返した長州藩は、[[イギリス]]・[[フランス]]・[[オランダ]]・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[列強]]四国によって砲撃を受けた。]]
このころ、京都へ尊王攘夷派の[[志士]]が集い、「[[天誅]]」と称して反対派を暗殺するなど、治安が極端に悪化していた。安政の大獄に関わった[[九条家]]家臣の[[島田左近]]の暗殺に端を発したこれらのテロ行為は、幕臣や公家を恐怖に陥れた<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=97-98|author=石井寛治}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=暗殺の幕末維新史|year=2020|publisher=中央公論新社|pages=58-61|author=一坂太郎}}</ref>。逆に、尊攘派の代表と見られた姉小路公知が暗殺される事件([[朔平門外の変]])や尊攘志士の[[本間精一郎]]が暗殺される事件も起きた<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|page=99|author=石井寛治}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=暗殺の幕末維新史|year=2020|publisher=中央公論新社|pages=66-68|author=一坂太郎}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=暗殺の幕末維新史|year=2020|publisher=中央公論新社|pages=106-108|author=一坂太郎}}</ref>。岩倉具視ら公武合体派の公家は排除され、三条実美ら尊王攘夷派の公家が朝議を動かすようになり、公武合体派の勢力は低下した。{{要出典|範囲=長州藩は8000名と言われる駐在兵を京都に置き、シンパを含めれば三万を動員できるとされた|date=2021年9月}}。
こうした尊攘派により討幕が行われることを憂う孝明天皇の思惑とは裏腹に、尊王攘夷派の真木和泉らは討幕・王政復古を実現させるべく運動し、[[1863年]]9月25日(文久3年[[8月13日 (旧暦)|8月13日]])、天皇が[[神武天皇#陵・霊廟|神武天皇陵]]・[[春日大社]]に行幸して攘夷を祈願して親征の軍議を行うという詔が出る<ref name=":7">{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|page=102|author=石井寛治}}</ref>。これを受け、かねてより[[久邇宮朝彦親王|中川宮朝彦親王]]を介して天皇の真意を知っていた薩摩藩の[[高崎正風|高崎左太郎]]は、会津藩の[[秋月悌次郎]]を通じて松平容保を説いた<ref name=":7" />。容保は帰藩途中の会津藩兵を呼び戻し、中川宮とともに綿密な計画を練り、天皇の同意のうえで薩摩藩と[[9月30日|30日]](文久3年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]])に宮廷の御門を制圧し、長州藩兵および三条ら7人の公卿を長州へ撤退させるクーデタを決行し('''[[八月十八日の政変]]'''、[[七卿落ち]])、真木や久坂玄瑞ら長州藩系の尊攘勢力の一掃に成功した<ref name=":7" />。
いっぽう1864年[[2月7日]](文久3年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]])以降、徳川慶喜・松平春嶽・松平容保・[[伊達宗城]]([[宇和島藩]]主)・島津久光による初の諸侯会議となる[[参預会議]]が開催され、神奈川鎖港談判、長州藩の処置、大坂港の防備強化などの議題が話し合われた<ref name=":8">{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=119-120|author=石井寛治}}</ref>。春嶽・久光ら諸侯は持論の開国論を唱えるが、幕府を代表する慶喜が横浜鎖港を主張して対立し、結局幕府の思惑どおり何の実績もあげられぬまま、翌年3月に解散となった<ref name=":8" />。春嶽らは帰国し参預会議体制はわずか数ヶ月しか持たなかった。薩摩藩はこれを機に幕府や慶喜との確執を深めていくこととなる。この後、朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられた慶喜は、京都守護職松平容保(会津藩主)・[[京都所司代]][[松平定敬]]([[桑名藩]]主)兄弟らとともに、江戸の幕閣から半ば独立した動きをみせることとなる([[一会桑政権|一会桑体制]])。
このころ、各地で尊攘過激派による実力行使の動きが見られたが、いずれも失敗に終わっている。1863年[[9月29日]](文久3年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]])、[[大和国|大和]]では[[公卿]][[中山忠光]]、[[吉村虎太郎|吉村寅太郎]]・[[池内蔵太]]([[土佐藩]]士)、[[松本奎堂]](三河[[刈谷藩]]士)、[[藤本鉄石]]([[岡山藩]]士)、さらには[[河内国|河内]]の[[大地主]][[水郡善之祐]]らも加わった[[天誅組の変]]が勃発し、続いて[[但馬国|但馬]]では[[澤宣嘉]](前年京都から追放された七卿の一人)・[[平野国臣]](福岡藩士)らによる[[生野の変]]が連鎖的に発生した<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=112-113|author=石井寛治}}</ref>。また[[土佐藩]]では一藩勤皇を唱えた[[武市瑞山]]が率いる[[土佐勤王党]](前年に藩執政[[吉田東洋]]を暗殺)が公武合体に戻った元藩主の山内豊信により弾圧され尊攘勢力は後退した。
さらに水戸藩では1864年[[5月2日]]([[元治]]元年[[3月27日 (旧暦)|3月27日]])、[[藤田小四郎]]・[[武田耕雲斎]]ら[[天狗党]]が[[筑波山]]で挙兵。水戸藩の要請を受けた幕府軍の追撃により壊滅させられる事件も発生した(→[[天狗党の乱]])<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=114-115|author=石井寛治}}</ref>。
このような状況下、前年の八月十八日の政変以降影響力を減退していた尊王攘夷派の中心・長州藩では、京都への進発論が沸騰。折から京都治安維持に当たっていた会津藩預かりの[[新撰組]]が、[[池田屋事件]]で長州藩など尊攘派の志士数人を殺害したため、火に油を注ぐこととなり、ついに長州藩兵は上京。1864年[[8月20日]](元治元年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]])、京都守備に当たっていた幕府や会津・薩摩軍と激突し、御所周辺を巻き込んだ合戦が行われた(→'''[[禁門の変]]''')。この戦で、一敗地にまみれた長州藩は逆賊となり京から追放され、幕府から征伐軍が派遣されることとなる<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=116-119|author=石井寛治}}</ref>。さらに[[9月5日]](元治元年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]])には、前年の下関における外国船砲撃の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ4国の極東艦隊が連合して下関を攻撃。装備に劣る長州はここでも敗れ、長州藩は窮地に陥った([[四国艦隊下関砲撃事件]])<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=121-122|author=石井寛治}}</ref>。
=== 薩長同盟と幕長戦争(1864年 - 1866年) ===
逆賊となった長州藩に[[長州征討|長州への征伐]]が発令され、総大将に[[徳川慶勝]]([[尾張藩]]主)、副将に[[松平茂昭]](福井藩主)、参謀に西郷隆盛(薩摩藩士)が任命された。元治元年9月大坂での[[勝海舟]]との会談を経て長州藩への実力行使の不利を悟った西郷は開戦を回避し、長州藩からの謝罪を引き出す方針をとる。四国艦隊下関砲撃事件での敗戦以降、松下村塾系の下級藩士を中心とした攘夷派勢力が後退し、[[椋梨藤太]]ら譜代家臣を中心とする俗論派が擡頭していた。幕府への恭順路線を貫き、責任者の処刑など西郷が提示した降伏条件の受け入れを承認したため、[[長州征討#第一次長州征討|第1次長州征伐]]は回避されることとなった<ref group="注釈">なお、このとき幕権強化を唱えるタカ派の幕閣は、[[毛利敬親]]・[[毛利元徳|毛利広封]]父子や五卿を江戸へ送らせようとしたが、慶勝はその指令が届く前に撤兵を命じた。</ref><ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=122-123|author=石井寛治}}</ref>。
しかし長州藩内で旧攘夷派の粛清が続くなか、同年末に[[野村望東尼]]に激励された高杉晋作が奇兵隊などの諸隊を糾合し[[長府]][[功山寺]]にて挙兵([[功山寺挙兵]])。翌年初頭、藩中枢部の籠もる[[萩城]]を攻撃し、俗論派を壊滅させて再び藩論を反幕派へ奪回した<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|date=1989|publisher=小学館|page=125-128|author=石井寛治}}</ref>。藩論の再転換により、既定の降伏条件を履行しない長州藩へのいらだちは高まり、小笠原長行・[[勘定奉行]][[小栗忠順]]ら強硬派による長州再征論が浮上し、将軍家茂は再度上洛する。
一方、安政条約に明記されながらいまだに朝廷の許可が無いため開港されていなかった[[兵庫津|兵庫]]([[神戸港]])問題を巡って、英国[[公使]][[ハリー・パークス|パークス]]が主導する英仏蘭連合艦隊が[[1865年]][[11月4日]]([[慶応]]元年[[9月16日 (旧暦)|9月16日]])、兵庫沖に迫った([[兵庫開港要求事件]])<ref name=":9">{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=129-130|author=石井寛治}}</ref>。攘夷派への配慮からわざと幕府が外交を停滞させているとみたパークスらは薩長が攘夷策を放棄した時点で障害はのぞかれたはずであるとして、兵庫開港か条約勅許を求めて威圧を行ったものである。譲歩案として英国は下関戦争賠償金の引き下げに応じる姿勢も見せた。幕府主導の外交を狙う老中[[阿部正外]]・[[松前崇広]]らはこの動きに対して幕府単独の開港方針を決めるが、朝廷との連携を重視する徳川慶喜は難色を示す。独断で兵庫開港を決めた阿部・松前に対して朝廷から老中罷免の令が出されるという異常事態となった朝廷による現実の幕政介入という事態に、慶喜に対する疑念が幕臣たちの間で深まり、家茂が将軍辞職を漏らすなどの混乱がおきた。慶喜は家茂を説得する一方で条約勅許、兵庫開港をめぐって在京の諸藩士を集めた上で、[[11月22日]](慶応元年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]])朝廷に条約勅許を認めさせた(兵庫開港は延期)<ref name=":9" />。また関税改正の合意を得るというイギリスの目的も達成されたことで四国艦隊は兵庫沖から去った。翌[[1866年]][[6月25日]]([[慶応]]2年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]])に[[改税約書]]が調印され、輸入関税が大幅に引き下げられたことにより、日本の輸入は急増した。大量生産による安価な綿製品に太刀打ち出来ず、日本の手工業的綿織物は大打撃を受けた<ref name=":9" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%94%B9%E7%A8%8E%E7%B4%84%E6%9B%B8-42577|title=改税約書とは - コトバンク|accessdate=2021年9月17日}}</ref>。
こうしたなか、薩摩藩は徐々に幕府に非協力的な態度を見せ始め、駐日公使[[ハリー・パークス]]、[[アーネスト・サトウ]]の助言のもと、長州藩との提携を模索する。薩摩藩の庇護下にあった土佐浪士[[坂本龍馬]]や、同じく土佐浪士で[[下関市|下関]]に逼塞していた三条実美らに従っていた[[中岡慎太郎]]らが周旋する形で、薩摩長州両藩の接近が図られる<ref name=":10">{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=131-133|author=石井寛治}}</ref>。逆賊に指名され表向き武器の購入が不可能となっていた長州藩に変わって薩摩が武器を購入するなどの経済的な連携を経た後、[[1866年]][[3月7日]](慶応2年[[1月21日 (旧暦)|1月21日]])、京都薩摩藩邸内で木戸孝允・西郷らが立ち会い、'''[[薩長同盟]]'''の密約が締結された<ref name=":10" />。
偶然ではあるが、幕府は薩長同盟が締結された翌日に第二次長州征伐を発令した。[[7月18日]](慶応2年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]])に開戦するが、薩摩との連携後軍備を整え、[[大村益次郎]]により西洋兵学の訓練を施された長州の諸隊が幕府軍を圧倒<ref name=":11">{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=137-139|author=石井寛治}}</ref>。各地で幕府軍の敗報が相次ぐなか、1866年[[8月29日]](慶応2年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]])家茂が[[大坂城]]で病死<ref name=":11" />。[[徳川宗家]]を相続した慶喜は[[親征]]の意志を自ら見せるものの、一転して和睦を模索し、[[広島市|広島]]で幕府の使者勝海舟と長州の使者[[広沢真臣]]・[[井上馨]]らの間で[[停戦協定]]が結ばれ、第二次長州征伐は終焉を迎えた。
=== 大政奉還と王政復古(1866年 - 1867年) ===
[[ファイル:Taisehokan.jpg|thumb|「大政奉還図」 [[邨田丹陵]] 筆]]
家茂の死後、将軍後見職の徳川慶喜は徳川宗家を相続したが、[[征夷大将軍]]職への就任は拒んでいた。だが、5か月後の[[1867年]][[1月10日]](慶応2年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]])ついに将軍宣下を受け将軍就任し、家茂の弔い合戦として長州を制圧することを公言する。孝明天皇は慶喜を非常に信頼しており、長州征討に反対した大原重徳ら[[廷臣二十二卿列参事件#二十二卿|22卿]]を処罰するほどだった<ref name=":12">{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=143-144|author=石井寛治}}</ref>。しかし、[[1月30日]](慶応2年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]])に[[天然痘]]のため天皇は[[崩御]]する<ref name=":12" />。[[2月13日]](慶応3年[[1月9日 (旧暦)|1月9日]])に睦仁親王が践祚する運びとなった([[明治天皇]])。
薩摩藩の西郷・[[大久保利通]]らは政局の主導権を握るため雄藩連合を模索し、島津久光・松平春嶽・伊達宗徳・[[山内容堂]](前土佐藩主)の上京を促し、[[6月6日]](慶応3年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]])から [[四侯会議]]を開催して兵庫開港および長州処分問題について徳川慶喜と協議させたが、慶喜の政治力が上回り、団結を欠いた四侯会議は無力化した<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|page=151|author=石井寛治}}</ref>。[[6月26日]](慶応3年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]])には[[摂政]][[二条斉敬]]以下多くの[[公卿]]を集めた徹夜の朝議により長年の懸案であった兵庫開港の勅許も得るなど、慶喜による主導権が確立されつつあった。さらに慶喜はフランス公使[[レオン・ロッシュ|ロッシュ]]の助言を容れ、フランス式の軍事訓練が行われたほか、[[榎本武揚]]らのもとで[[幕府海軍]]が整えられた<ref name=":13">{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=146-147|author=石井寛治}}</ref>。小栗忠順や[[栗本鋤雲]]らが中心となってフランスとの大借款の相談も行われた。また、老中制度も改められ、老中首座の[[板倉勝静]]([[備中松山藩]]主)を首相格として各老中が[[陸軍総裁|陸軍]]・[[海軍総裁|海軍]]・[[国内事務総裁|国内事務]]・[[会計総裁|会計]]・[[外国事務総裁(江戸幕府)|外国事務]]の各総裁を兼務する内閣に似たかたちがとられ、さらに次官にあたる諸奉行にも有能な人材が抜擢されるようになった(→[[慶応の改革]])<ref name=":13" />。
こうして幕府が息を吹き返そうとする状況の中、薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟り、土佐藩・[[広島藩|芸州藩]]の取り込みを図る。土佐藩では[[後藤象二郎]]が坂本龍馬の影響もあり、武力倒幕路線を回避するために大政奉還を提議し、薩摩藩もこれに同意したため、[[7月23日]](慶応3年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]])には[[薩土盟約]]が締結される<ref name=":14">{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=152-153|author=石井寛治}}</ref>。これは徳川慶喜に自発的に政権返上することを建白し、拒否された場合には武力による圧迫に切り替える策であった。しかし兵力の発動を渋る[[山内容堂]]に反対され、また薩摩藩も慶喜の拒否を大義名分として結局武力発動しかないと判断していたため、両藩の思惑のずれから[[10月4日]](慶応3年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]])盟約は解消。結局土佐藩は10月29日(慶応3年[[10月3日 (旧暦)|10月3日]])単独で山内容堂が老中の板倉に大政奉還の建白書を提出した<ref name=":14" />。いっぽう、薩摩藩の大久保・西郷らは、長州藩・芸州藩との間に武力を背景にした政変計画を策定。さらに洛北に隠棲中だった岩倉具視と工作し、[[中山忠能]](明治天皇の祖父)・[[中御門経之]]・[[正親町三条実愛]]らによって、[[1867年]][[11月9日]](慶応3年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]])に[[討幕の密勅]]が下された<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=151-152|author=石井寛治}}</ref>。ところが、徳川慶喜は山内容堂の進言を採用し、同日に'''[[大政奉還]]'''を明治天皇に奏請しており<ref group="注釈">在京各藩士には前日に二条城にて諮問していた。</ref>、討幕派は大義名分を失った。大政奉還により江戸幕府による政権は形式上終了した。
慶喜は1867年[[11月19日]](慶応3年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]])に将軍職辞職を申し出たが、幕府の職制も当面残されることとなり、実質上は幕府支配は変わらなかった。岩倉や大久保らはこの状況を覆すべく[[クーデター]]を計画する。[[1868年]][[1月3日]](慶応3年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]])に、'''[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]'''が発せられ、慶喜の将軍職辞職を勅許、幕府・摂政・関白などが廃止され、天皇親政を基本とし、総裁・議定・参与などからなる新政府樹立が発表された<ref name=":15">{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|page=161|author=石井寛治}}</ref>。同日夜薩摩藩兵などの警護の中行われた'''[[小御所会議]]'''において、徳川慶喜への辞官および領地返上が議題となる。会議に参加した山内容堂や松平春嶽は猛反対するが、岩倉や大久保らが押し切り、辞官納地が決定された<ref name=":15" />。決定を受けて慶喜は大坂城へ退去したが、山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝の仲介により辞官納地は次第に骨抜きとなってしまう。そのため、西郷らは[[相楽総三]]ら浪士を集めて江戸に騒擾を起こし、旧幕府側を挑発した。江戸市中の治安を担当した[[庄内藩]]や勘定奉行小栗忠順らは激昂し、[[江戸薩摩藩邸の焼討事件|薩摩藩邸を焼き討ち]]した<ref name=":16">{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|page=162|author=石井寛治}}</ref>。
なおこのころ、政情不安や物価の高騰による生活苦などから「[[世直し一揆]]」や[[打ちこわし]]が頻発し、また社会現象として「[[ええじゃないか]]」なる奇妙な流行が広範囲で見られた<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=154-155|author=石井寛治}}</ref>。
=== 戊辰戦争(1868年 - 1869年) ===
[[ファイル:Battle of Ueno at Ueno temple.JPG|thumb|赤熊の被り物をして戦う[[土佐藩]]の迅衝隊([[上野戦争|上野合戦]])]]
江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂城へ伝わると、城内の旧幕兵も興奮し、「討薩表」を掲げ、京への進軍を開始した。1868年[[1月27日]](慶応4年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]])[[鳥羽街道]]・[[伏見街道]]において薩摩軍との戦闘が開始された([[鳥羽・伏見の戦い]])<ref name=":16" />。官軍を意味する[[錦の御旗]]が薩長軍に翻り、幕府軍が賊軍となるにおよび、[[淀藩]]や[[安濃津藩]]などの寝返りなどが相次ぎ、2日後には幕府軍の敗北が決定的となる<ref>{{Cite book|和書|title=大系日本の歴史12 開国と維新|year=1989|publisher=小学館|pages=162-163|author=石井寛治}}</ref>。徳川慶喜は軍艦[[開陽丸]]にて江戸へ逃亡し、旧幕府軍は瓦解した。以後、翌年まで行われた一連の内戦を、慶応4年の[[干支]]([[戊辰]])に因んで「'''[[戊辰戦争]]'''」という。なお戊辰戦争中の'''1868年[[10月23日]]'''([[9月8日 (旧暦)|旧暦9月8日]])には慶応から'''[[明治]]'''に改元された。
[[東征大総督]]として[[有栖川宮熾仁親王]]が任命され、[[東海道]]・[[中山道]]・[[北陸道]]にそれぞれ東征軍([[官軍]]とも呼ばれた)が派遣された。一方、新政府では、今後の施政の指標を定める必要から、[[福岡孝弟]](土佐藩士)、[[由利公正]](越前藩士)らが起草した原案を長州藩の木戸孝允が修正し、「'''[[五箇条の御誓文]]'''」として発布した。
江戸では小栗らによる徹底抗戦路線が退けられ、慶喜は恭順謹慎を表明。慶喜の意を受けて勝海舟が終戦処理にあたり、[[山岡鉄舟]]による周旋、[[天璋院]]や和宮の懇願、西郷・勝会談により決戦は回避されて、[[江戸開城|江戸城は無血開城]]され、徳川家は江戸から[[駿府藩|駿府]]70万石へ移封となった。
しかしこれを不満とする幕臣たちは脱走し、[[北関東]]、[[信越地方|北越]]、[[南東北]]など各地で抵抗を続けた。一部は[[彰義隊]]を結成し[[上野]][[寛永寺]]に立て籠もったが、[[7月4日]](慶応4年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]])長州藩の大村益次郎率いる諸藩連合軍により、わずか1日で鎮圧される(→[[上野戦争]])。
そして、旧幕府において京都と江戸の警備に当たっていた会津藩及び庄内藩は朝敵と見なされ、会津は天皇へは恭順を表明するものの新政府への武装敵対の意志を示し、新政府は周辺諸藩に会津への出兵を迫る事態に至った。新政府に劣位の立場で参加することを嫌った仙台藩・戦国時代の旧領回復を望んだ米沢藩などの主導により、陸奥、出羽及び越後の諸藩が[[奥羽越列藩同盟]]を結成し、盟主として上野戦争以降東北にいた[[輪王寺宮公現法親王]](のちの[[北白川宮能久親王]])が擁立された。[[越後長岡藩|長岡]](→[[北越戦争]])・会津(→[[会津戦争]])・秋田(→[[秋田戦争]])などで激しい戦闘がおこなわれたが、いずれも新政府軍の勝利に終わった。
旧[[幕府海軍]]副総裁の[[榎本武揚]]は幕府が保有していた軍艦を率い、各地で敗残した幕府側の勢力を集め、[[箱館]]の[[五稜郭]]を占拠。旧幕府側の武士を中心として[[明治政府]]から独立した政権を模索するが(いわゆる「[[蝦夷共和国]]」)、[[箱館戦争]]の結果、翌1869年[[6月27日]](明治2年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]])新政府軍に降伏し、[[戊辰戦争]]が終結した。
その間、[[薩長土肥]]の建白により'''[[版籍奉還]]'''が企図され、同年9月諸藩の藩主(大名)は領地(版図)および人民(戸籍)を政府へ返還、[[大名]]は[[知藩事]]となり、家臣とも分離された。'''[[1871年]][[8月29日]]'''(明治4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]])には、'''[[廃藩置県]]'''が断行され、名実共に[[幕藩体制]]は終焉した(→'''[[明治維新]]''')。
== 国際関係 ==
{{出典の明記| date = 2021年9月}}
=== 日米関係 ===
[[ファイル:Commodore Matthew Calbraith Perry.jpg|サムネイル|定義にもよるが、[[アメリカ海軍]]の軍人[[マシュー・ペリー]]の来航が幕末の始まりとされることが一般的である。]]
[[1846年]][[7月19日]]([[弘化]]3年閏[[5月26日 (旧暦)|5月26日]])[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]][[ジョン・カルフーン]]の命を受けた[[ジェームズ・ビドル]]が、通商を求めて浦賀に来航した。ビドルの来航は感触を確認する程度のものであり、幕府がこれを拒否すると直ちに退去した。しかし[[米墨戦争]]の結果カリフォルニアがアメリカ領土となると、太平洋航路を用いての中国との交易はアメリカにとって重要な課題となった。この場合、途中の補給拠点として日本の港を利用することが望まれた。したがって、ペリーの来航目的は補給港としての日本の開港が第一であり、通商交渉は二義的なものとなった。結果として、[[1854年]] [[3月31日]]([[嘉永]]7年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]])に調印された[[日米和親条約]]には通商条項は含まれなかった。
日米和親条約に基づき、[[1856年]][[8月21日]]([[安政]]3年 [[7月21日 (旧暦)|7月21日]])に初代[[駐日アメリカ合衆国大使|米国領事]][[タウンゼント・ハリス]]が来日した。ハリスはまず日米和親条約の追加条項の交渉を行い、それが下田協約として締結されると、[[1858年]][[1月25日]]([[安政]]4年 [[12月11日 (旧暦)|12月11日]])から[[日米修好通商条約]]の交渉を開始し、同年[[7月29日]](安政5年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]])に調印にいたった(この時点でハリスは[[公使]]に昇進し、公使館を江戸[[善福寺 (東京都港区)|善福寺]]に開いた)。この交渉において、[[岩瀬忠震]]は批准書の交換を米国で行うことを提案し、受け入れられた([[万延元年遣米使節]])。使節は[[1860年]][[5月17日]]([[万延]]元年閏[[3月25日 (旧暦)|3月25日]])に[[ワシントンD.C.|ワシントン]]で[[ジェームズ・ブキャナン|ブキャナン]][[アメリカ合衆国|大統領]]に謁見・批准書を渡した。また途中多くの近代的施設を見学し、西洋文明の一端に触れた。
このように開国初期における日本の対外関係は米国が中心であった。ハリスは欧州特に英国とは異なる外交路線を採用しており、英国公使[[ラザフォード・オールコック]]からは「幕府寄り過ぎる」とみなされることもあった。日米修好通商条約の交渉中、ハリスは「調印が遅れれば英国が軍事力を背景により厳しい条件での条約を押し付けてくるので、米国と日本にとって有利な条件で条約を結ぶべき」と幕閣に述べており、実際幕府が一般品の関税として12.5%を提示したのに対し、ハリスはより高い20%を提案・合意した。これは同年に[[清]]が押し付けられた[[天津条約 (1858年)|天津条約]]の7.5%に比べるとずっと有利であった([[安政五カ国条約]]はいわゆる「[[不平等条約]]」であるが、調印時点で幕府にとって特に不利な条約だった訳ではない。関税は妥当であり、[[領事裁判権]]を認めることを、幕府はむしろ歓迎した。また、天津条約と異なり外国人の国内旅行が制限されるなど外国人にとって不平等な条項も含まれていた)。[[攘夷]]運動が盛んになり、各国の公使館が江戸から横浜に引き上げた後も、ハリスは江戸に留まった。幕府の内情にも通じており、[[両都両港開市開港延期問題|新潟・兵庫・江戸・大坂の開港・開市の延期]]を幕府が求めた際も、これに同意している。
しかし、[[1861年]]4月に[[南北戦争]]が始まった後は、米国の日本に対する影響力は小さくなった。例えば、幕府は1861年[[8月14日]](文久元年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]])にハリスに対して軍艦2隻(フリゲートおよびコルベット)の発注を依頼したが、米国政府はこれを受けることができなかった。健康上の理由で辞任したハリスに代わり、[[1862年]][[5月17日]]([[文久]]2年[[4月19日 (旧暦)|4月19日]])に新公使 [[ロバート・プルイン]]が着任した。プルインも当初はハリスの独自外交を踏襲した。しかし、米国商船が長州藩から砲撃を受けた後は([[下関戦争#長州藩の攘夷決行|下関事件]])、英仏との協調路線に変更した。プルインは[[富士山 (スループ)|富士山丸]]発注に関して問題を起こし、幕府の信頼を失ってしまったため、[[1865年]][[4月28日]]([[慶応]]元年[[3月23日 (旧暦)|3月23日]])[[アントン・ポートマン]]を代理公使として、任期半ばで帰国した。[[1866年]][[1月18日]](慶応元年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]])に3代公使として[[ロバート・ヴァン・ヴォールクンバーグ]]が着任したが、英仏との協調は変わらず[[戊辰戦争]]では局外[[中立]]を維持した。なお、幕府は装甲艦[[東艦|甲鉄]]を購入していたが、アメリカが中立を宣言したために受け取ることができず、また中立解除後に明治政府に引き渡されたため、[[箱館戦争]]の推移に少なからぬ影響を与えた。
=== 日英関係 ===
[[ファイル:HSParkes.jpg|thumb|[[イギリス]]の駐日大使[[ハリー・パークス]]は、18年間の長きに渡って[[日本]]に駐在し、日本とイギリスの外交をリードした。]]
[[1849年]]に[[広東]]領事(1854年から[[香港総督]])となった[[ジョン・バウリング]]は、海軍力を背景とする交渉により、和親条約ではなく一挙に日本との通商条約の締結を目指していた。しかし、クリミア戦争の発生によって、英国はアジア地域に十分な軍事力を振り分けることができなくなってしまった。[[1854年]]9月、東インド艦隊司令官[[ジェームズ・スターリング (西オーストラリア州総督)|スターリング]]は、敵国となったロシアのプチャーチンを追って長崎に入港したが、1854年[[10月14日]]([[嘉永]]7年[[8月23日 (旧暦)|8月23日]])、[[長崎奉行]][[水野忠徳]]は半ば強引に[[日英和親条約]]を結んだ。結果として英国は米国と同じ権利しか獲得することが出来ず、通商条約締結という思惑は実現しなかった。この条約に対してバウリングは反対したが、ロシアと戦争状態にある現状では箱館を英国船が利用出来るメリットがあるとされ、結局批准されている。その後も[[アロー戦争]]があり、英国は日本との外交にリソースを割くことができず、[[日英修好通商条約|通商条約]]に関しても、米国に遅れをとることとなった。初代[[駐日英国大使|英国公使]](着任時は総領事)[[ラザフォード・オールコック]]は、[[1859年]][[7月11日]]([[安政]]6年[[6月12日 (旧暦)|6月12日]])に[[江戸城]]に登城、批准書の交換が行われた。公使館は[[高輪]][[東禅寺 (東京都港区)|東禅寺]]とされた。
[[1860年]]([[万延]]元年)、攘夷派との妥協策として、幕府は安政五カ国条約で約束されていた[[両都両港開市開港延期問題|兵庫・新潟・江戸・大坂の開港・開市延期]]を条約締結国に申し入れた。米国公使ハリスはこれを受け入れたが、オールコックは「条約は遵守すべき」として反対であり、「そのような重大な変更は、条約締結国に使節を派遣して議論すべき」とした。[[1861年]][[7月5日]]([[文久]]元年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]])には、英国公使館が襲撃され、オールコックは難を逃れたが、公使館員2人が負傷した([[東禅寺事件#第一次東禅寺事件|第一次東禅寺事件]])。事件後の[[8月14日]]と[[8月15日]]の2日間にわたり(文久元年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]と[[7月10日 (旧暦)|7月10日]])オールコックは、[[老中]][[安藤信正]]、[[若年寄]][[酒井忠毗]]との秘密会談を持ち、幕府権力の低下を素直に打ち明けられた。また、この会談でオールコックは[[ロシア軍艦対馬占領事件]]に解決のために英国海軍が支援することを提案し、実行されている)。この結果、オールコックは開港・開市延期に反対することは得策でないと考えを変え、ヨーロッパに派遣される[[文久遣欧使節]](開市開港延期交渉使節)を積極的に支援することとした。オールコックは自身の賜暇帰国を利用して、使節と共に英国本国政府との交渉に当たり、[[1862年]][[6月6日]](文久2年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]])[[ロンドン覚書]]に調印、開港・開市の5年間の延期が認められた。またオールコックは使節一行が[[ロンドン万国博覧会 (1862年)|ロンドン万国博覧会]]の開会式に出席できるように取り計らい、またフランス公使[[ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール|デュシェーヌ・ド・ベルクール]]らと協力して、使節一行が欧州の進んだ文明・工業を学べるように手配した。
オールコックが賜暇帰国中、英国代理公使は[[ジョン・ニール]]が務めたが、この間に日英関係は最大の危機を迎えた。[[1862年]][[6月26日]](文久2年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]])、英国公使館は再び襲撃された([[東禅寺事件#第二次東禅寺事件|第二次東禅寺事件]])。さらに、同年[[9月14日]](文久2年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]])に[[生麦事件]]が発生した。幕府に攘夷派取り締まりを促すために、英国東インド艦隊司令[[ジェームズ・ホープ]]は、必要があれば日本の海上封鎖および一部砲台に対する限定的な攻撃を考慮することを提案した。この提案は[[1863年]][[1月9日]]にヴィクトリア女王臨席で開かれた枢密院会議で勅令を得ている。英国は、第二次東禅寺事件の賠償金として1万ポンド、生麦事件の賠償金として10万ポンドを幕府に要求した。交渉は難航したが、賠償金支払日を1863年[[6月18日]](文久3年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]])にすることで決着した。ところが、そのころ京都では[[徳川家茂]]が[[孝明天皇]]に1863年[[6月25日]](文久3年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]])をもって攘夷を実行することを約束しており、この影響を受けて幕府は支払いの延期を通告した。ニールは激怒し、幕府に対する軍事行動を新任の東インド艦隊司令[[オーガスタス・レオポルド・キューパー|キューパー]]に委ねた。まさに戦争直前の状態となったが、[[老中]][[小笠原長行]] の独断によって、攘夷実行前日の1863年[[6月24日]]([[5月9日 (旧暦)|5月9日]])に賠償金11万ポンドが一括して支払われ、幕府と英国間の戦争は避けられた。幕府との交渉が成立した後、ニールは自ら鹿児島に赴いて薩摩藩との交渉を行うこととした。が、交渉は決裂して、1863年8月15日(文久3年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]])、戦闘が発生した([[薩英戦争]])。同年[[11月15日]]([[10月5日 (旧暦)|10月5日]])には薩英戦争の講和成立が成立したが、この交渉は、薩摩と英国が接近するきっかけとなった。
攘夷実行命令に基づき、長州藩は下関海峡を通過する外国船に対して砲撃を開始し、関門海峡は通行不能となっていた。1864年3月(文久4年2月)、賜暇が終わり日本に戻ったオールコックは、長州藩への武力攻撃を行い、「攘夷が不可なることを知らしめる」こととした。オールコックは仏・蘭・米の公使の合意を得、1864年[[9月5日]](文久4年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]])、 四カ国連合艦隊は、下関の砲台を砲撃、さらに陸戦隊を上陸させ占領した([[下関戦争]])。しかし、この行動は、本国政府からは「やり過ぎ」と見なされ、オールコックは本国に召喚されてしまった。なお、この事件を通じて、英国は長州藩との間にも関係を構築した。
下関戦争の賠償金は300万ドルという巨額なものとなったが、支払いは幕府が行うこととなった。新任の公使[[ハリー・パークス]]は、賠償金を減額してでも、兵庫を早期開港させたほうが英国にとってメリットが大きいと考えた。当時、将軍徳川家茂以下の主要幕閣は京都に滞在していた。このため、パークスは条約勅許(この考えは通訳の[[アーネスト・サトウ]]が[[伊藤博文]]から聞いていた)と兵庫の早期開港を求めるため、仏・蘭・米を誘い、軍艦8隻を引き連れて、[[1865年]][[11月4日]]([[慶応]]元年 [[9月16日 (旧暦)|9月16日]])に兵庫沖に来航し、強圧的な交渉を行った([[兵庫開港要求事件]])。結果、兵庫の早期開港は認められなかったものの、[[11月22日]](慶応元年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]) に[[安政五カ国条約]]に対する勅許がおりた。加えて、関税の見直しに関する合意も得、翌[[1866年]][[6月25日]](慶応2年 [[5月13日 (旧暦)|5月13日]])に[[改税約書]]が調印され、輸入関税が大幅に引き下げられた。結果として、日本の輸入は急増し、一部の産業は大打撃を受けることとなった。
パークスは、本国の方針に従い、あくまで内政不干渉の立場を維持した。しかし、影響力を持った何人かの大名の領地を自分自身で訪問した他、部下のサトウや[[アルジャーノン・ミットフォード|ミットフォード]]、さらには民間人の[[トーマス・ブレーク・グラバー|トーマス・グラバー]]らを使って、「[[志士|維新の志士]]」たちとも積極的に接触した。但し、[[徳川慶喜]]に関しては非常に高く評価しており、幕府の瓦解を予想していたわけではない。が、同時にそのような事態に備えて、天皇宛のビクトリア女王の信任状を予め本国政府に要求していた。このため、新政府成立後の[[1868年]][[5月22日]](慶応4年閏[[4月1日 (旧暦)|4月1日]])、いち早く新政府を承認することができた。
戊辰戦争に関しては、英国は局外[[中立]]を宣言し、他国もこれに追従した。また、パークスは新政府軍の江戸城総攻撃に関しては「無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃することは[[万国公法]]に反する」として反対し、[[江戸無血開城]]の一因となったとも言われている。
=== 日仏関係 ===
[[ファイル:Bakufu French style cavalry.jpg|300px|thumb|[[幕府陸軍]]の[[フランス]]式[[騎兵]]。[[江戸幕府]]は、近代軍の設立のため、[[フランス軍]]を参考とした。]]
{{main|日仏関係}}
フランスは[[琉球王国]]との間に[[琉仏修好条約]](1855年)を結んでいたが、米英露蘭とは異なり日本と和親条約は結んでおらず、[[1858年]][[10月9日]]([[安政]]5年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]])の[[日仏修好通商条約]]が両国間の最初の条約となった。翌[[1859年]][[9月6日]](安政6年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]])、初代領事(後に公使)[[ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール]]が着任した。デュシェーヌ・ド・ベルクールは基本的には英国と共同歩調をとっており、[[生麦事件]]後に英国が軍事行動を起こすことがあれば、横浜の防衛はフランスが引き受けることとなっていた。しかし、生麦事件の交渉の後、デュシェーヌ・ド・ベルクールは次第に親幕府的な立場をとるようになった。[[1863年]]([[文久]]3年)秋に幕府は横浜の鎖港を言い始めたが、各国の公使がこれを拒否する中、デュシェーヌ・ド・ベルクールだけは理解を示し、[[横浜鎖港談判使節団]]の派遣を支援した。[[1864年]][[4月27日]](文久4年[[3月22日 (旧暦)|3月22日]])、デュシェーヌ・ド・ベルクールはその任務を後任の[[レオン・ロッシュ]]に譲ったが、老中はフランス政府にデュシェーヌ・ド・ベルクールの留任を嘆願するほどであった。このため、ロッシュも幕府と親密な関係を築くことができ、フランスは幕府の政策により積極的に関与していくことになる。
1864年9月([[元治]]元年8月)、幕府は[[翔鶴丸]]の修理を横浜停泊中の[[フランス]]軍艦乗員に依頼した。この際のフランス側の作業の誠実さから、幕府はフランスを強く信頼するようになり、[[横須賀製鉄所]]の建設をフランスに依頼し、翌[[1865年]][[10月13日]]([[慶応]]元年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]])に着工された。建設資金は240万ドルと見積もられた。当初はこの支払のため、幕府が直接生糸を輸出することが計画されたが、英国の反対にあい実現しなかった。
さらにロッシュは[[小栗忠順]]に要望され、600万ドルの借款を支援し、[[1866年]][[9月28日]](慶応2年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]])に契約は一旦成立した。小栗はこの600万ドルで幕府の軍備増強を行い、薩摩・長州を打倒し幕府を中心とした中央集権国家を作り、日本の近代化を達成する計画だった。1866年[[12月11日]](慶応2年[[11月5日 (旧暦)|11月15日]] )、ロッシュは[[徳川慶喜]]の依頼により幕政改革を提言し、そのいくつかは[[慶応の改革]]として実現した。[[1867年]][[1月12日]](慶応2年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]])から[[フランス軍事顧問団 (1867-1868)|フランス軍事顧問団]]による[[幕府陸軍]]の訓練も開始された。慶喜の弟である[[徳川昭武]]は、慶喜の名代として[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]に派遣され、その後[[パリ]]にて留学生活を送っていた。
しかし、本国の外務大臣が交代し、対英協調策をとるようになったことから、借款は中止され、ロッシュは本国から見放される形となった。[[鳥羽・伏見の戦い]]に敗北後、徳川慶喜は江戸に戻ったが、ロッシュは3度にわたり登城し、慶喜に再起を促した。しかし慶喜はこれを拒否した。その後英国公使パークスが局外中立を提案すると、ロッシュはこれに従うしかなかった。まもなくロッシュは公使を罷免され、後任の[[マキシミリアン・ウートレー]]は英国との共同路線をとった。
=== 日蘭関係 ===
[[ファイル:Kankō Maru in yokohama japan side.jpg|250px|left|thumb|オランダから寄贈された[[観光丸]](1987年進水の復元船)]]
オランダは鎖国中も[[出島]]での交易を許されており、また[[オランダ風説書]]にて海外事情を幕府に報告していた。さらに[[アヘン戦争]]が始まると、以降は[[オランダ風説書#別段風説書|別段風説書]]を作成してイギリスの武力による中国進出を詳しく報告した。[[1844年]][[8月14日]]([[弘化]]元年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]])に長崎に入港した軍艦パレンバン号は、オランダ国王[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]の親書を携えており、武力によって強制される前に平和的に開国することを薦めてきた。老中に再任していた[[水野忠邦]]は開国を主張したが他の幕閣の同意を得られず、また将軍[[徳川家慶]]の反対もあって、幕府はこれを拒否した。[[1852年]]7月([[嘉永]]5年6月)、[[ヤン・ドンケル・クルティウス]]が到着、[[出島]]の[[カピタン|オランダ商館長]]となったが、これは開国を見越した人事であり、クルティウスは外交官として活動できる資格を有していた。クルティウスは別段風説書でペリーの来航を予告するとともに、東インド総督・バン・トゥイストの通商条約素案を提出したが、交渉には至らなかった。
[[1853年]][[7月8日]](嘉永6年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]])にペリーが来航、翌年の再訪を告げて立ち去ったが、幕府は開国に備えクルティウスを通じ、軍艦の発注と乗員の訓練の申し出を行った。この申し出は、翌年3月(嘉永7年2月)に来航したスムービング号のファヴィウス艦長と[[長崎奉行]][[水野忠徳]]の間でより具体化し、1854年[[11月11日]](嘉永7年[[9月21日 (旧暦)|9月21日]])、オランダにコルベット2隻([[咸臨丸]]及び[[朝陽丸]])が発注された。さらに、[[1855年]][[12月3日]](安政2年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]10月24日)には[[長崎海軍伝習所]]が設立され、オランダは練習船としてスムービング号を寄贈した(後の[[観光丸]])。[[ヘルハルト・ペルス・ライケン]](第一次)、[[ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ]](第二次)を団長とする教官団が派遣された。この功績が認められ、[[1856年]][[1月30日]](安政2年[[12月23日 (旧暦)|12月23日]])には[[日蘭和親条約]]が調印され、クルティウスは駐日オランダ理事官となった。[[1857年]][[10月16日]](安政4年[[8月29日 (旧暦)|8月29日]])には日蘭追加条約が調印され、自由貿易ではないものの、貿易の大幅な拡大が認められた。
[[1858年]](安政5年)春、クルティウスと補佐官の[[ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック]]は江戸に出て、通商条約の交渉を開始し、日米修好通商条約には1ヶ月程遅れたが、1858年[[8月18日]](安政5年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]])[[日蘭修好通商条約]]調印にこぎつけた。ポルスブルックは[[1863年]]7月(文久3年6月)に公使(外交事務官)となったが、[[下関戦争]]や[[兵庫開港要求事件]]の際は、英仏米と共同歩調をとった。また、ポルスブルックは、スイス・ベルギー・デンマークなどのヨーロッパ諸国と幕府の条約締結に 積極的に関与した。
長崎海軍伝習所は、[[1859年]](安政6年)に資金不足を理由に閉鎖されてしまったが、[[1862年]](文久2年)には幕府海軍最大の軍艦となる[[開陽丸]]をオランダが受注。軍艦引受をかねて、[[榎本武揚]]ら15人の留学生がオランダに派遣された。[[1867年]][[5月20日]](慶応3年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]])、開陽丸は幕府へと引き渡された。
海軍伝習所から派生した[[長崎英語伝習所]]や[[長崎養生所]]は、名前を変えて現在も存続している。そこでは、[[グイド・フルベッキ|フルベッキ]]、[[ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト|ポンペ]]、[[アントニウス・ボードウィン|ボードウィン]]、[[クーンラート・ハラタマ|ハラタマ]]らが教育に尽力し、幕末・明治初期の人材育成に貢献した。
=== 日露関係 ===
[[ファイル:Russians meeting Japanese in Akkeshi 1779.jpg|thumb|[[1779年]]、[[厚岸町|厚岸]]に[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]の新書を携えた、シャバリン、アンチーピンを始めとする[[ロシア人]]訪問団が来訪した。]]
地理的に日本に近いこともあり、日本に関するロシアの関心は高かった。すでに[[1705年]]([[宝永]]2年)には[[サンクトペテルブルク]]に日本語学校が設立されている。[[1771年]]([[明和]]8年)、[[ハンガリー]]人[[モーリツ・ベニョヴスキー]]が[[カムチャッカ]]から脱走して[[阿波国|阿波]]に来航し、[[カピタン|オランダ商館長]]を通じて「ロシアが[[蝦夷地]]への攻撃を計画している」との偽情報を伝えた。このためロシアへの警戒感が高まり、[[1781年]]([[天明]]元年)ごろ工藤平助が[[赤蝦夷風説考]]を著述、これを読んだ老中[[田沼意次]]は蝦夷地の探検・開発を進めさせた。またロシアとの交易も考えたが、[[1786年]](天明6年)に失脚し、実現には至らなかった。
日本との交易を求めた最初のロシア人は、[[ヤクーツク]]の商人[[パベル・レベデフ=ラストチキン]]である。数度の失敗の後、[[1778年]]([[安永]]7年)にラストチキンの部下のドミトリー・シャバリンと「シベリア貴族」で日本語学校の生徒であったイワン・アンチーピンが蝦夷[[厚岸町|厚岸]]に来航し、[[松前藩]]との接触に成功した。一行は翌年にも来航したが、松前藩は翌年に独自の判断で交易を拒否し、幕府へは報告されなかった。[[寛政]]4年([[1792年]])には[[アダム・ラクスマン]]が正式に通商を求めてきた。老中[[松平定信]]はロシアとの限定的通商を考慮し、長崎への入港許可証である[[信牌]]を交付した。しかしラクスマンは、長崎へは向かわず帰国した。[[1804年]]([[文化 (元号)|文化]]元年)、この信牌を持った[[ニコライ・レザノフ]]が長崎に来航した。しかしすでに定信は失脚しており、交渉は不成立に終わった。怒ったレザノフは、部下は[[1807年]](文化4年)に蝦夷地を攻撃させ([[文化露寇]])、日露関係が緊張した。このため、蝦夷地は一時幕府の直轄領となった。その後ロシアの関心が黒海方面に向いたこともあって緊張は緩和され、[[1821年]]([[文政]]4年)に蝦夷地は松前藩に戻された。
[[1853年]][[8月22日]]([[嘉永]]6年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]])、ペリーより約1ヶ月遅れて[[エフィム・プチャーチン]]が長崎に来航し、[[日露和親条約]]の交渉が始まったが、調印は[[1855年]][[2月7日]]([[安政]]元年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]])と、後から交渉が始まった[[日英和親条約]]より遅れた。これは日露和親条約で日露国境の問題が話し合われたためであるが、[[樺太]]の国境に関しては決着せず両国の混在地とされた。その後、[[1859年]]8月(安政6年7月)の[[ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー|ムラヴィヨフ]]来航、[[1862年]]8月([[文久]]2年7月)の[[文久遣欧使節]]ロシア訪問時にも話し合いが持たれたが決着せず、ようやく[[1867年]][[3月30日]]([[慶応]]3年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]])に[[日露間樺太島仮規則]]が仮調印されたが、幕府はこれを批准しなかった。国境問題は、[[1875年]]([[明治]]8年)[[5月7日]]の[[樺太・千島交換条約]]によって一応の決着を見た。
なお、ムラヴィヨフが来航した際に、ロシア海軍の軍人2人が攘夷派武士に殺害されている。これが幕末の最初の外国人殺害事件であるが、ムラヴィヨフは賠償金を請求しなかった。
ロシアは他国と異なり、総領事館を[[箱館]]においていたため、日本の内政問題に関わることは殆ど無かった。しかし[[1861年]][[3月14日]]([[文久]]元年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]])から約半年間、ロシア軍艦[[ポサードニク (コルベット)|ポサードニク]]が艦艇の修理を名目として対馬芋先を占拠する事件([[ロシア軍艦対馬占領事件]])がおきている。幕府は単独では対処できず、英国の介入によりロシア軍艦を退去させることとなった。
=== 日独関係 ===
ドイツの統一は[[1871年]]であるため、外交主体となったのは当初は[[プロイセン]]、続いて[[北ドイツ連邦]]であった。
[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]や[[エンゲルベルト・ケンペル|ケンペル]]など、[[オランダ東インド会社]]の社員として日本を訪問したドイツ人(ドイツ語を母国語とする人)はいたが、公式な関係は[[1861年]][[1月24日]](万延[[元年]][[12月14日 (旧暦)|12月14日]])に[[フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク|オイレンブルク]]が幕府と日普修好通商条約を結んだことに始まる。この交渉は難航した。2年前の[[安政五カ国条約]]とは異なり、日本国内には攘夷機運が盛り上がっており、さらに[[プロイセン]]とだけではなく条約に[[ドイツ関税同盟]]諸国など三十数カ国を含めることを求めたからである。結局条約はプロイセンとのみ結ばれたが、条約の交渉にあたった[[堀利煕]]が謎の自殺をとげている。
初代の駐日領事には、オイレンブルクと共に来日した[[マックス・フォン・ブラント]]が任命された。当時プロイセンは海外に植民地を求めていたが、ブラントは蝦夷地は[[無主地]]であるとして、「十数隻の艦隊と5千人の上陸兵で占領できる」と主張していた<ref>A .H.バウマン「19世紀における北海道植民地化計画-3人のドイツ人の試案に関する比較研究-」日本独学史学会論集『日独文化交流史研究』(2004)</ref>。実際に、[[戊辰戦争]]に際して[[会津藩]]・[[庄内藩]]が領有する蝦夷地の[[根室]]や[[留萌]]の譲渡と引き換えにプロイセンとの提携を提案していたが、当時の宰相[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]はこれを認めなかった<ref>{{Cite web|和書
| url = http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201102070075.html
| title = 維新期の会津・庄内藩、外交に活路 ドイツの文書館で確認
| work = [[朝日新聞]]
| publisher = www.asahi.com
| date = 2011-02-07
| accessdate = 2011-02-09
}}</ref>。ブラントは戊辰戦争は長期戦となり、場合によっては日本が南北に分裂するものと考えていた。英仏蘭米伊と同様局外[[中立]]を宣言したが、[[奥羽越列藩同盟]]だけでなく[[箱館政権]]にも同情的な姿勢を見せた。また、プロイセン領事館の書記官であった[[スネル兄弟|ヘンリー・スネル]]は、領事館を退職して奥羽越列藩同盟の軍事顧問勤め、弟のエドワルドはスネル商会を設立して同盟軍に武器を供給した。しかし、戦局を左右する事態にはならず、戦争終結後も日本とプロイセンとの外交関係は維持された。但し、プロイセン商人ガルトネルが箱館郊外で経営していた農園は、ここを基点に植民地化の恐れがあるとして、明治政府は賠償金を払ってこれを回収している([[ガルトネル開墾条約事件]])。
=== 幕末の日本見聞記 ===
来日した外国人により、多数の見聞録が書かれ、写真が遺されている。見聞録の日本語訳は、『[[異国叢書|新異国叢書]]』([[雄松堂書店]])、[[岩波文庫]]、[[講談社学術文庫]]などから相当数が刊行されている。また、[[渡辺京二]]『逝きし世の面影』([[平凡社ライブラリー]]、2005年)には、主要な見聞録の内容が詳細に紹介されている。
写真も多くあり、[[小沢健志]]編『幕末写真の時代』([[ちくま学芸文庫]]、1996年)、[[横浜開港資料館]]編『[[フェリーチェ・ベアト|F. ベアト]]写真集 1. 幕末日本の風景と人びと』、『同 2. 外国人カメラマンが撮った幕末日本』([[明石書店]]、2006年)が{{独自研究範囲|読み易い|date=2021年10月}}。近年はデジタル技術の発達で彩色再現が可能となっており、それを用いた出版書籍(例:『過ぎし江戸の面影』双葉社スーパームック、2011年)もある。
== 出来事 ==
{{main2|年代順の詳細な経過については「[[幕末の年表]]」を}}
{{main2|外国人襲撃事件については「[[幕末の外国人襲撃・殺害事件]]」を}}
=== 一覧 ===
*[[マシュー・ペリー]]艦隊来航
*[[エフィム・プチャーチン|プチャーチン]]艦隊来航
*[[日米和親条約]]締結
*[[安政の改革]]
*[[日米修好通商条約]]締結
*[[安政の大獄]]
*[[桜田門外の変]]
*[[坂下門外の変]]
*[[天誅組の変]]
*[[寺田屋事件|寺田屋騒動]]
*[[文久の改革]]
*[[生麦事件]]
*[[薩英戦争]]
*[[八月十八日の政変]]
*[[池田屋事件]]
*[[禁門の変]]
*[[第一次長州征伐]]
*[[第二次長州征伐]]
*[[薩長同盟]]
*[[慶応の改革]]
*[[大政奉還]]
*[[近江屋事件]]
*[[王政復古 (日本)|王政復古]]
*[[戊辰戦争]]
**[[鳥羽・伏見の戦い]]
**[[上野戦争]]
**[[北越戦争]]
**[[会津戦争]]
**[[箱館戦争]]
== 施設 ==
=== 幕府 ===
* [[昌平坂学問所]]
* [[蛮書和解御用]]
**[[蕃書調所]]
**[[開成所]]
* [[横浜仏語伝習所]]
* [[長崎英語伝習所]]
* [[長崎養生所]]
* [[講武所]]
* [[長崎海軍伝習所]]
* [[軍艦操練所|築地軍艦操練所]]
* [[神戸海軍操練所]]
* [[横須賀製鉄所]]
* [[関口製造所]]
=== 諸藩 ===
* [[三重津海軍所]]
* [[集成館事業|集成館]]
=== 私塾 ===
* [[適塾]]
* [[松下村塾]]
== 幕末の思想 ==
=== 主権 ===
* [[佐幕]]
* [[公武合体]]
* [[尊皇論]]
**[[尊王思想]]
**[[勤王]]
* [[倒幕運動]]
=== 対外関係 ===
* [[攘夷論]]
* [[開国論]]
=== その他 ===
* [[幕藩体制]](幕藩体制論絶対主義、世直し状況論など)
佐幕からの派生、主に東北地方([[奥羽越列藩同盟]]・[[蝦夷共和国]])で強くあった。
== 組織 ==
* [[江戸幕府]]、[[蝦夷共和国]]、[[幕府陸軍]](のちの[[大日本帝国陸軍]])、[[幕府海軍]](のちの[[大日本帝国海軍]])、[[彰義隊]]、[[伝習隊]]
* [[浪士組]]、[[新選組]]([[壬生浪士|壬生浪士組]]、[[甲陽鎮撫隊]]、[[靖兵隊]]、[[御陵衛士]])、[[新徴組]]、[[見廻組]]
* [[奥羽列藩同盟]]、[[白虎隊]]、[[朱雀隊]]、[[青龍隊]]、[[玄武隊]](会津藩)、[[二本松少年隊]](二本松藩)
* [[額兵隊]]、衝撃隊・鴉組(仙台藩)、[[雷神隊]]、致人隊、神風隊(桑名藩)、[[凌霜隊]](郡上藩)
* [[土佐勤皇党]]、[[海援隊]]、[[陸援隊]]、[[奇兵隊]]、[[赤報隊]]、[[義祭同盟]]、[[天誅組]]、[[天狗党]]
== 幕末の兵器 ==
幕府や各藩は海防や治安維持のため、そして後には倒幕運動やその対策のために、競って西洋の最新兵器を揃えようとした。しかし長い鎖国の間に西洋の軍事技術との差は開いており、弾薬まで含めた自製は困難であったため、ほとんどは外国商人から購入して賄った。
[[日本刀]]に関しては、尊王攘夷派の[[志士]]の間で'''勤皇刀'''や'''勤王拵'''と呼ばれる3尺前後で反りが少ない長寸の[[打刀]]が流行し、佐幕派も対抗として長大な刀を使うようになった。
=== 小銃 ===
<!--
; [[前装式]]
: [[弾]]と[[火薬]]を[[銃口]]から込める方式。
; [[後装式]]
: 弾と火薬がセットになった[[実包|弾薬筒]]を[[銃尾]]から込める方式。隊列を変えたり展開したりと、歩きながら装填が出来るようになり、その可動性が勝敗を分けたとも言われている。また、伏せた状態や[[銃剣]]を装着した状態での弾込めも可能となった。
--><!--幕末とどう絡んだかがなければ書く必要がない-->
; [[火縄銃]]
: [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]以来の銃。幕府の統制下での泰平の世を迎え、兵器を進化改良するためのインセンティブが発生しにくくなった。また戦技から競技としての[[砲術]]が盛んになるにつれ、道具の大幅な改変は避けられるようになった。
; [[ゲベール銃]]
: 前装滑腔銃の中で、火縄以外の点火方法を用い、[[頬]]に当てる和式[[銃床]]ではなく[[肩]]に当てて反動を受け止める洋式銃床を持つもの。[[火打石]]を用いる[[フリントロック式]]火縄や火種が不要であるため雨の多い日本では運用が楽になる一方、撃鉄バネの衝撃が大きく操作から発射までのタイムラグが長いため命中精度は火縄銃に劣る。のちの[[雷管|パーカッション式]]は命中精度・射程共に火縄銃と同等であるが、雨中でも問題なく使用できた。このため国内でも模造品・改良品が生産された。
; [[ヤーゲル銃]]
: 前装[[ライフル銃]]。[[ライフリング]]を付けたことにより命中精度は格段に高くなったが、ライフリングに弾丸を食い込ませる必要があるため、前装式では弾込めが難しくなった。
; [[ミニエー銃]]
: [[フランス]]製の前装ライフル銃。「ミニエー弾」と呼ばれる独特な弾丸の発明により、弾込めが簡単になる。また命中精度も高かったため、両軍の主力銃として用いられた。
; [[エンフィールド銃]]
: [[イギリス]]製の前装ライフル銃。エンフィールド銘柄のミニエー銃を幕末の日本ではエンピール銃と呼んだ。[[南北戦争]]における[[南軍]]の主力小銃であったが、当時の[[欧米]][[列強]]の間では旧式化していたこともあり、戦争終了後には余剰品が大量に日本へ輸入された。
; [[ドライゼ銃]]
: [[プロイセン王国|プロイセン]]製の針打式後装ライフル銃。[[ボルトアクション方式]]を採用した実用後装[[ライフル銃]]としては世界初のものだが、その[[紙製薬莢]]からは発射ガスの漏れが酷く、威力は弱かった。針打式。ツンナール銃とも。
; [[シャスポー銃]]
: [[フランス]]製の後装[[ライフル銃]]。フランス皇帝[[ナポレオン3世]]より[[江戸幕府|幕府]]に送られたもので、幕府軍の精鋭部隊に与えられた。ドライゼ銃を改良した形式で、当時としては世界最新鋭の銃であった。しかし日本国内では専用弾薬の調達が困難であり、戦局の大勢に影響を与えることはなかった。
; [[スナイドル銃]]
: [[イギリス]]製。[[ミニエー銃]]・[[エンフィールド銃]]を後装式に改造した[[銃]]。紙と真鍮で作られたボクサー・パトロンという現代[[薬莢]]の原型を使用する。明治初期の[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の主力小銃となる。
; [[スペンサー銃]]
: [[アメリカ合衆国|アメリカ]]製の後装[[ライフル銃]]。7連発が可能なレバーアクションライフルであったが、高価で貴重だったほか伏せ撃ちが出来ないデメリットがあった。
=== 大砲 ===
; [[アームストロング砲]]
: 鋼鉄製の[[後装式]][[ライフル砲]]。装薬が充填され信管が取り付けられている尖頭砲弾を使用した。後装式であるため、従来に比べて装填時間を大幅に短縮できた。肥前[[佐賀藩]]が使用した。
; [[四斤山砲]]
: [[前装式]][[ライフル砲]]。本来は[[山砲]]だが、両軍の主力[[野砲]]として使用された。もとはフランスで開発されたが、国産化され幕府の[[関口製造所]]や薩摩藩の[[集成館事業|集成館]]でも製造された。
; [[四斤野砲]]
: {{節スタブ}}
; [[ガトリング砲]]
: アメリカの[[南北戦争]]期に開発された、最初期の実用的な[[機関銃]]。[[佐賀藩]]や[[河井継之助]]が率いた[[越後長岡藩]]が使用。新政府軍に渡った[[装甲艦]]・[[甲鉄]]にも搭載されており、[[宮古湾海戦]]で戦果を上げている。
=== 艦船 ===
{{Main|[[:Category:幕末の艦船]]}}
* 国産艦船
** [[鳳凰丸]] - 幕府建造。
** [[昇平丸]] - 薩摩藩建造。
** [[君沢形]] - 幕府がロシア人の指導下で建造したヘダ号を量産化。
** [[丙辰丸]] - 長州藩建造。
** [[開成丸]] - 仙台藩建造。
** [[千代田形]] - 幕府建造。唯一の国産蒸気軍艦。
* 外国製艦船
** [[観光丸]] - オランダより幕府に寄贈された元オランダ軍艦。外輪。
** [[咸臨丸]] - 幕府がオランダに発注し新造。
** [[朝陽丸]] - 幕府がオランダに発注し新造。
** [[電流丸]] - 佐賀藩がオランダに発注し新造。
** [[回天丸]] - 幕府が輸入した元ドイツ軍艦。外輪。
** [[第二回天|高雄丸]](第二回天) - 秋田藩が輸入した元アメリカ船。
** [[富士山 (スループ)|富士山丸]] - 幕府がアメリカに発注し新造。
** [[開陽丸]] - 幕府がオランダに発注し新造。幕末前後には日本最大の軍艦だった。
** [[東艦]] - 幕府が輸入契約した元アメリカ[[アメリカ連合国|南軍]]軍艦(フランス製)。明治政府が取得。幕末前後には日本唯一の[[装甲艦]](甲鉄艦)だった。
=== 要塞 ===
* [[品川台場]] - 「[[台場]]」の名前の通り、異国船の打ち払いを目的として各地の海岸や河岸に建設された。
* [[五稜郭]] - 西洋式の築城術を取り入れた[[星型要塞]]。当初は[[函館港|箱館開港]]に際し海防力強化と政庁設置のために幕府が建設したものだが、のちに旧幕府軍が最後の本拠地とし、新政府軍と[[箱館戦争]]を繰り広げることになる。
* [[四稜郭]] - 五稜郭の支城として造られた、四芒星型の要塞。「新五稜郭」とも称されるが、実際には[[野戦築城]]に近いものに留まっている。
* [[龍岡城]] - [[箱館|函館市]]の五稜郭と同じ形式。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[石井寛治]]著『日本の歴史12 開国と維新』[[小学館]]、1989年
* [[野田勝一]]、[[富田政信]]編『維新資料』
* [[福地源一郎|福地桜痴]]著『幕末政治家』1900年([[岩波文庫]]、2003年 ISBN 4-00-331861-7)
* [[日本歴史学会]]編『明治維新人名辞典』[[吉川弘文館]]、1981年 ISBN 4-642-03114-6
* [[宮崎十三八]]他編『幕末維新人名辞典』[[新人物往来社]]、1994年 ISBN 4-404-02063-5
* [[篠田鉱造]]『増補 幕末百話』岩波文庫、1996年 ISBN 4-00-334691-2
* 『【決定版】図説・幕末志士199』[[学研ホールディングス|学習研究社]]〈[[歴史群像]]シリーズ〉、2003年 ISBN 4-05-603016-2
* 『幕末大全 上巻』学習研究社〈歴史群像シリーズ73〉、2004年 ISBN 4-05-603402-8
* 『幕末大全 下巻』学習研究社〈歴史群像シリーズ74〉、2004年 ISBN 4-05-603403-6
* [[小西四郎]]著『開国と攘夷』[[中公文庫]]〈日本の歴史19〉、改版[[2006年]] ISBN 4-12-204645-9
* [[井上勝生]]著『幕末・維新』[[岩波新書]]〈シリーズ日本近現代史1〉、2006年 ISBN 4-00-431042-3
* [[アーネスト・サトウ]]著『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫) ISBN 4-00-334251-8
* [[萩原延壽]]著『遠い崖―サトウ日記抄』全14巻 [[朝日新聞社]]/新版 [[朝日文庫]]、2008年
* [[佐野真由子]]著『オールコックの江戸』 [[中公新書]]、2004年 ISBN 4-12-101710-2
* 西堀昭著、「[https://hdl.handle.net/10131/657 <資料>初代フランス特命全権公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールについて(1)] 『横浜経営研究』 1993年 13巻 4号 P.357-365, 横浜国立大学経営学会
* 西堀昭、「[https://hdl.handle.net/10131/690 <資料>初代フランス特命全権公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールについて(2,完)]」『横浜経営研究』 1994年 14巻 4号 p.389-397, 横浜国立大学経営学会
* 鵜飼政志、『幕末におけるイギリス海軍の対日政策ー日本における軍艦常駐体制成立の経緯ー』明治維新史学会編『明治維新と西洋国際社会』(吉川弘文館、1999年)、P92 - 115
* 鵜飼政志、『一八六三年前後におけるイギリス海軍の対日政策』学習院史学(学習院大学史学会)第37号、P40 - 58、1999年
* 鵜飼政志、『イギリスの対露情報収集活動 - 一八六五〜六年のサハリン島視察』学習院大学文学部研究年報第49輯、P1 - P30、2003年
* [http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/ed-end01frame.htm 甲斐素直 歴史随筆 維新の風雲財政録 幕末編]
* 永橋弘价、「[http://id.nii.ac.jp/1410/00006283/ 開国に至る外交経緯について-阿部正弘の対外姿勢を中心に ]』『国士舘大学政治研究1』 2016年, {{ISSN|1884-6963}}, 国士舘大学政経学部附属政治研究所
* [[中村喜和]]著『おろしや盆踊唄考』一橋論叢第60巻第1号、p37-p46、1968年
== 関連項目 ==
* [[幕末の年表]]
* [[幕末の人物一覧]]
* [[下剋上]]
* [[維新の十傑]]
* [[改革]]
* [[英仏横浜駐屯軍]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|The end of Edo shogunate}}
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/bakumatsu_01.html 外交史料 Q&A 幕末期] - [[外務省]]
* [https://library.harvard.edu/collections/epj/index.html Early Photography of Japan(幕末・明治の写真集)] - [[ハーバード大学]]図書館
{{日本の歴史一覧|1853年-1868年}}
{{江戸時代}}
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三島由紀夫
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三島 由紀夫(みしま ゆきお、1925年〈大正14年〉1月14日 - 1970年〈昭和45年〉11月25日)は、日本の小説家、劇作家、随筆家、評論家、政治活動家。本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ)。
戦後の日本の文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、日本国外においても広く認められた作家である。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある。
代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴である。
晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日(水曜日)、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。バルコニーで自衛隊員にクーデターを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた。この一件は社会に大きな衝撃を与え、新右翼が生まれるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた(詳細は「三島事件」を参照)。
満年齢と昭和の年数が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い。
※ なお、以下では三島自身の言葉や著作からの引用部を〈 〉で括ることとする(家族・知人ら他者の述懐、評者の論評、成句、年譜などからの引用部との区別のため)。
#家族・親族も参照。
1925年(大正14年)1月14日(水曜日)、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷四丁目22番)において、父・平岡梓(当時30歳)と母・倭文重(当時19歳)の間の長男として誕生。体重は650匁(約2,438グラム)だった。「公威」の名は祖父・定太郎による命名で、定太郎の恩人で同郷の土木工学者・古市公威男爵にあやかって名付けられた。
家は借家であったが同番地内で一番大きく、かなり広い和洋折衷の二階家で、家族(両親と父方の祖父母)の他に女中6人と書生や下男が居た(彼らは定太郎の故郷から来た親族だった)。祖父は借財を抱えていたため、一階には目ぼしい家財はもう残っていなかった。兄弟は、3年後に妹・美津子、5年後に弟・千之が生まれた。
父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格したが、面接官に悪印象を持たれて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止に伴い、農林省に異動)に勤務していた。岸信介、我妻栄、三輪寿壮とは一高、帝大の同窓であった。
母・倭文重は、加賀藩藩主・前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。父(三島の外祖父)は東京開成中学校の5代目校長で、漢学者・橋健三。
祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村大字上富木(現・兵庫県加古川市志方町上富木)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業後、内務省に入省し内務官僚となる。1893年(明治26年)、武家の娘である永井夏子と結婚し、福島県知事、樺太庁長官などを務めたが、疑獄事件で失脚した(のちに無罪判決)。
祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・永井岩之丞(大審院判事)と、母・高(常陸宍戸藩藩主・松平頼位が側室との間にもうけた娘)の間に長女として生まれた。夏子の母方の祖父・松平頼位の血筋を辿っていくと徳川家康に繋がっている。夏子は12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えた。夏子の祖父は江戸幕府若年寄の永井尚志。なお、永井岩之丞の同僚・柳田直平の養子が柳田國男で、平岡定太郎と同じ兵庫県出身という縁もあった柳田国男は、夏子の家庭とは早くから交流があった。
作家・永井荷風の永井家と夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)で、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる。公威は、荷風の風貌と似ている梓のことを陰で「永井荷風先生」と呼んでいた。なお、夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた。
祖父、父、そして息子の三島由紀夫と、三代にわたって同じ大学の学部を卒業した官僚の家柄であった。江戸幕府の重臣を務めた永井尚志の行政・統治に関わる政治は、平岡家の血脈や意識に深く浸透したのではないかと推測される。
公威と祖母・夏子とは、学習院中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実のもと、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母親の倭文重が授乳する際も懐中時計で時間を計った。夏子は坐骨神経痛の痛みで臥せっていることが多く、家族の中でヒステリックな振る舞いに及ぶこともたびたびで、行儀作法に厳しかった。
公威は物差しやはたきを振り回すのが好きであったが没収され、車や鉄砲などの音の出る玩具も御法度となり、外での男の子らしい遊びも禁じられた。夏子は孫の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、公威に女言葉を使わせた。1930年(昭和5年)1月、5歳の公威は自家中毒にかかり、死の一歩手前までいく。病弱な公威のため、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育をした。その一方、歌舞伎、谷崎潤一郎、泉鏡花などの夏子の好みは、後年の公威の小説家および劇作家としての素養を培った。
1931年(昭和6年)4月、公威は学習院初等科に入学した。公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある夏子の意向が強く働いていた。平岡家は定太郎が元樺太庁長官だったが平民階級だったため、華族中心の学校であった学習院に入学するには紹介者が必要となり、夏子の伯父・松平頼安(上野東照宮社司。三島の小説『神官』『好色』『怪物』『領主』のモデル)が保証人となった。
しかし華族中心とはいえ、かつて乃木希典が院長をしていた学習院の気風は質実剛健が基本にあり、時代の波が満州事変勃発など戦争へと移行していく中、校内も硬派が優勢を占めていた。級友だった三谷信は学習院入学当時の公威の印象を以下のように述懐している。
公威は初等科1、2年から詩や俳句などを初等科機関誌『小ざくら』に発表し始めた。読書に親しみ、世界童話集、印度童話集、『千夜一夜物語』、小川未明、鈴木三重吉、ストリンドベルヒの童話、北原白秋、フランス近代詩、丸山薫や草野心平の詩、講談社『少年倶楽部』(山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸ら)、『スピード太郎』などを愛読した。自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は肺門リンパ腺炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られていた。
初等科3年の時は、作文「ふくろふ」の〈フウロフ、貴女は森の女王です〉という内容に対し、国語担当の鈴木弘一から「題材を現在にとれ」と注意されるなど、国語(綴方)の成績は中程度であった。主治医の方針で日光に当たることを禁じられていた公威は、〈日に当ること不可然(しかるべからず)〉と言って日影を選んで過ごしていたため、虚弱体質で色が青白く、当時の綽名は「蝋燭」「アオジロ」であった。
初等科6年の時には校内の悪童から「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれているのを三谷が目撃している。
この6年生の時の1936年(昭和11年)には、2月26日に二・二六事件があった。急遽、授業は1時限目で取り止めとなり、いかなることに遭っても「学習院学生たる矜り」を忘れてはならないと先生から訓示を受けて帰宅した。6月には〈非常な威厳と尊さがひらめいて居る〉と日の丸を表現した作文「わが国旗」を書いた。
1937年(昭和12年)、学習院中等科に進んだ4月、両親の転居に伴い祖父母のもとを離れ、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤二丁目4番8号)の借家で両親と妹・弟と暮らすようになった。夏子は、1週間に1度公威が泊まりに来ることを約束させ、日夜公威の写真を抱きしめて泣いた。虚弱な公威は中等科でも同級生にからかわれ、屋上から鞄を落とされたり(万年筆3本折れる)、学食で皿に醤油をドバドバかけられ野菜サラダを食べられなくさせられたりという、イジメをずいぶん受けた。
公威は文芸部に入り、同年7月、学習院校内誌『輔仁会雑誌』159号に作文「春草抄――初等科時代の思ひ出」を発表。自作の散文が初めて活字となった。中等科から国語担当になった岩田九郎(俳句会「木犀会」主宰の俳人)に作文や短歌の才能を認められ成績も上がった。以後、『輔仁会雑誌』には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や散文作品、戯曲を発表することとなる。11、12歳頃、ワイルドに魅せられ、やがて谷崎潤一郎、ラディゲなども読み始めた。
7月に盧溝橋事件が発生し、日中戦争となった。この年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民と出会い、文学交遊を結んだ。初対面の時の公威の印象を坊城は「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った」とし、その時の光景を以下のように語っている。
1938年(昭和13年)1月頃、初めての短編小説「酸模――秋彦の幼き思ひ出」を書き、同時期の「座禅物語」などとともに3月の『輔仁会雑誌』に発表された。この頃、学校の剣道の早朝寒稽古に率先して起床していた公威は、稽古のあとに出される味噌汁がうまくてたまらないと母に自慢するなど、中等科に上がり徐々に身体も丈夫になっていった。同年10月、祖母・夏子に連れられて初めて歌舞伎(『仮名手本忠臣蔵』)を観劇し、初めての能(天岩戸の神遊びを題材にした『三輪』)も母方の祖母・橋トミにも連れられて観た。この体験以降、公威は歌舞伎や能の観劇に夢中になり、その後17歳から観劇記録「平岡公威劇評集」(「芝居日記」)を付け始める。
1939年(昭和14年)1月18日、祖母・夏子が潰瘍出血のため、小石川区駕籠町(現・文京区本駒込)の山川内科医院で死去(没年齢62歳)。同年4月、前年から学習院に転任していた清水文雄が国語の担当となり、国文法、作文の教師に加わった。和泉式部研究家でもある清水は三島の生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた。同年9月、ヨーロッパではドイツ国のポーランド侵攻を受けて、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。
1940年(昭和15年)1月に、後年の作風を彷彿とさせる破滅的心情の詩「凶ごと」を書く。同年、母・倭文重に連れられ、下落合に住む詩人・川路柳虹を訪問し、以後何度か師事を受けた。倭文重の父・橋健三と川路柳虹は友人でもあった。同年2月に山路閑古主宰の月刊俳句雑誌『山梔』に俳句や詩歌を発表。前年から、綽名のアオジロ、青びょうたん、白ッ子をもじって自ら「青城」の俳号を名乗り、1年半ほどさかんに俳句や詩歌を『山梔』に投稿する。
同年6月に文芸部委員に選出され(委員長は坊城俊民)、11月に、堀辰雄の文体の影響を受けた短編「彩絵硝子」を校内誌『輔仁会雑誌』に発表。これを読んだ同校先輩の東文彦から初めて手紙をもらったのを機に文通が始まり、同じく先輩の徳川義恭とも交友を持ち始める。東は結核を患い、大森区(現・大田区)田園調布3-20の自宅で療養しながら室生犀星や堀辰雄の指導を受けて創作活動をしていた。一方、坊城俊民との交友は徐々に疎遠となっていき、この時の複雑な心情は、のちに『詩を書く少年』に描かれる。
この少年時代は、ラディゲ、ワイルド、谷崎潤一郎のほか、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マン、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、エドガー・アラン・ポー、リラダン、モオラン、ボードレール、メリメ、ジョイス、プルースト、カロッサ、ニーチェ、泉鏡花、芥川龍之介、志賀直哉、中原中也、田中冬二、立原道造、宮沢賢治、稲垣足穂、室生犀星、佐藤春夫、堀辰雄、伊東静雄、保田與重郎、梶井基次郎、川端康成、郡虎彦、森鷗外の戯曲、浄瑠璃、『万葉集』『古事記』『枕草子』『源氏物語』『和泉式部日記』なども愛読するようになった。
1941年(昭和16年)1月21日に父・梓が農林省水産局長に就任し、約3年間単身赴任していた大阪から帰京。相変わらず文学に夢中の息子を叱りつけ、原稿用紙を片っ端からビリビリ破いた。公威は黙って下を向き、目に涙をためていた。
同年4月、中等科5年に進級した公威は、7月に「花ざかりの森」を書き上げ、国語教師の清水文雄に原稿を郵送して批評を請うた。清水は、「私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされ」るような感銘を受け、自身が所属する日本浪曼派系国文学雑誌『文藝文化』の同人たち(蓮田善明、池田勉、栗山理一)にも読ませるため、静岡県の伊豆修善寺温泉の新井旅館での一泊旅行を兼ねた編集会議に、その原稿を持参した。「花ざかりの森」を読んだ彼らは、「天才」が現われたことを祝福し合い、同誌掲載を即決した。
その際、同誌の読者圏が全国に広がっていたため、息子の文学活動を反対する平岡梓の反応など、まだ16歳の公威の将来を案じ、本名「平岡公威」でなく、筆名を使わせることとなった。清水は、「今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい ――というのが、期せずして一致した同人の意向であった」と、合宿会議を回想している。筆名を考えている時、清水たちの脳裏に「三島」を通ってきたことと、富士の白雪を見て「ゆきお」が思い浮かんできた。
帰京後、清水が筆名使用を提案すると、公威は当初本名を主張したが受け入れ、「伊藤左千夫(いとうさちお)」のような万葉風の名を希望した。結局「由紀雄」とし、「雄」の字が重すぎるという清水の助言で、「三島由紀夫」となった。「由紀」は、大嘗祭の神事に用いる新穀を奉るため選ばれた2つの国郡のうちの第1のものを指す「由紀」(斎忌、悠紀、由基)の字にちなんで付けられた。
リルケと保田與重郎の影響を受けた「花ざかりの森」は、『文藝文化』昭和16年9月号から12月号に連載された。第1回目の編集後記で蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した。この賞讃の言葉は、公威の意識に大きな影響を与えた。この9月、公威は随想「惟神之道(かんながらのみち)」をノートに記し、〈地上と高天原との懸橋〉となる惟神之道の根本理念の〈まことごゝろ〉を〈人間本然のものでありながら日本人に於て最も顕著〉であり、〈豊葦原之邦の創造の精神である〉と、神道への深い傾倒を寄せた。
日中戦争の拡大や日独伊三国同盟の締結によりイギリスやアメリカ合衆国と対立を深めていた日本は、この年になり行われた南部仏印進駐以降、次第に全面戦争突入が濃厚となるが、公威は〈もう時期は遅いでせう〉とも考えていた。12月8日に行われたマレー作戦と真珠湾攻撃によって日本はついにイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国と開戦し、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まった。開戦当日、教室にやって来た馬術部の先輩から、「戦争がはじまった。しっかりやろう」と感激した口ぶりで話かけられ、公威も〈なんともいへない興奮〉にかられた。
1942年(昭和17年)1月31日、公威は前年11月から書き始めていた評論「王朝心理文学小史」を学習院図書館懸賞論文として提出(この論文は、翌年1月に入選)。3月24日、席次2番で中等科を卒業し、4月に学習院高等科文科乙類(独語)に進んだ。公威は、体操と物理の「中上」を除けば、きわめて優秀な学生であった。運動は苦手であったが、高等科での教練の成績は常に「上」(甲)で、教官から根性があると精神力を褒められたことを、公威は誇りとしていた。
ドイツ語はロベルト・シンチンゲル(ドイツ語版)に師事し、ほかの教師も桜井和市、新関良三、野村行一(1957年の東宮大夫在職中に死去)らがいた。後年ドナルド・キーンがドイツで講演をした際、一聴衆として会場にいたシンチンゲルが立ち上がり、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。彼が一番だった」と言ったエピソードがあるほど、ドイツ語は得意であった。
各地で日本軍が勝利を重ねていた同年4月、大東亜戦争開戦の静かな感動を厳かに綴った詩「大詔」を『文藝文化』に発表。同年5月23日、文芸部委員長に選出された公威は、7月1日に東文彦や徳川義恭(東京帝国大学文学部に進学)と共に同人誌『赤繪』を創刊し、「苧菟と瑪耶」を掲載した。誌名の由来は志賀直哉の『万暦赤繪』にあやかって付けられた。公威は彼らとの友情を深め、病床の東とはさらに文通を重ねた。同年8月26日、祖父・定太郎が死亡(没年齢79歳)。公威は詩「挽歌一篇」を作った。
同年11月、学習院の講演依頼のため、清水文雄に連れられて保田與重郎と面会し、以後何度か訪問する。公威は保田與重郎、蓮田善明、伊東静雄ら日本浪曼派の影響下で、詩や小説、随筆を同人誌『文藝文化』に発表し、特に蓮田の説く「皇国思想」「やまとごころ」「みやび」の心に感銘した。公威が「みのもの月」、随筆「伊勢物語のこと」を掲載した昭和17年11月号には、蓮田が「神風連のこころ」と題した一文を掲載。これは蓮田にとって熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠が著した『神風連のこころ』(國民評論社、1942年)の書評であるが、この一文や森本の著書を読んでいた公威は、後年の1966年(昭和41年)8月に、神風連の地・熊本を訪れ、森本忠(熊本商科大学教授)と面会することになる。
ちなみに、三島の死後に村松剛が倭文重から聞いた話として、三島が中等科卒業前に一高の入試を受験し不合格となっていたという説もあるが、三島が中等科5年時の9月25日付の東文彦宛の書簡には、高等科は文科乙類(独語)にすると伝える記述があり、三島本人はそのまま文芸部の基盤が形成されていた学習院の高等科へ進む意思であったことが示されている。なお、三島が一高を受験したかどうかは、母・倭文重の証言だけで事実関係が不明であるため、全集の年譜にも補足として、「学習院在学中には他校の受験はできなかったという説もある」と付記されている。
1943年(昭和18年)2月24日、公威は学習院輔仁会の総務部総務幹事となった。同年6月6日の輔仁会春季文化大会では、自作・演出の劇『やがてみ楯と』(2幕4場)が上演された(当初は翻訳劇を企画したが、時局に合わないということで山梨勝之進学習院長から許可が出ず、やむなく公威が創作劇を書いた)。3月から『文藝文化』に「世々に残さん」を発表。同年5月、公威の「花ざかりの森」などの作品集を出版化することを伊東静雄と相談していた蓮田善明は、京都に住む富士正晴を紹介され、新人「三島」に興味を持っていた富士も出版に乗り気になった。
同年6月、月1回東京へ出張していた富士正晴は公威と会い、西巣鴨に住む医師で詩人の林富士馬宅へも連れていった。それ以降数年間、公威は林と文学的文通など親しく交際するようになった。8月、富士が公威の本の初出版について、「ひとがしないのならわたしが骨折つてでもしたい」と述べ、蓮田も、「国文学の中から語りいでられた霊のやうなひとである」と公威を讃えた。蓮田は公威に葉書を送り、「詩友富士正晴氏が、あなたの小説の本を然るべき書店より出版することに熱心に考へられ目当てある由、もしよろしければ同氏の好意をうけられたく」と、作品原稿を富士に送付するよう勧めた。
英米との戦争が激化していく中、公威は〈アメリカのやうな劣弱下等な文化の国、あんなものにまけてたまるかと思ひます〉、〈米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでせう。俗な精神が世界を蔽うた時、それは世界の滅亡です〉と神聖な日本古代精神の勝利を願った。なお、公威は同盟国のイタリアの最高指導者ベニート・ムッソリーニに好感を抱いていながらも、ナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラーには嫌悪感を持っていた。
同年10月8日、そんな便りをやり取りしていた東文彦が23歳の若さで急逝し、公威は弔辞を奉げた。東の死により、同人誌『赤繪』は2号で廃刊となった。文彦の父・東季彦によると、三島は死ぬまで文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという。なお、この年に公威は杉並区成宗の堀辰雄宅を訪ね、堀から〈シンプルになれ〉という助言を受けていた。
当時の世情は国民に〈儀礼の強要〉をし、戦没兵士の追悼式など事あるごとにオーケストラが騒がしく「海往かば」を演奏し、ラウド・スピーカーで〈御託宣をならべる〉気風であったが、公威はそういった大仰さを、〈まるで浅草あたりの場末の芝居小屋の時局便乗劇そのまゝにて、冒瀆も甚だしく、憤懣にたへません〉と批判し、ただ心静かに〈戦歿勇士に祈念〉とだけ言えばいいのだと友人の徳川義恭へ伝えている。
この年の10月には在学徴集延期臨時特例が公布され、文科系の学生は徴兵猶予が停止された。公威は早生まれのため該当しなかったが、来年20歳になる同級生のほとんど(大正13年4月以降の同年生まれ)は12月までに入隊が義務づけられた(学徒出陣)。それに先んじて、10月21日に雨の中、明治神宮外苑競技場にて盛大な「出陣学徒壮行会」が行なわれ、公威もそのニュースを重大な関心を持って聴いていた。
同年10月25日、蓮田善明は召集令状を受けて熊本へ行く前、「日本のあとのことをおまえに託した」と公威に言い遺し、翌日、陸軍中尉の軍装と純白の手袋をして宮城前広場で皇居を拝んだ。公威は日本の行く末と美的天皇主義(尊皇)を蓮田から託された形となった。富士正晴も戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という一首を公威に送った。同年12月、徴兵適齢臨時特例が公布され、徴兵適齢が19歳に引き下げられることになった。公威は来年に迫った自身の入隊を覚悟した。
1944年(昭和19年)4月27日、公威も本籍地の兵庫県印南郡志方村村長発信の徴兵検査通達書を受け取り、5月16日、兵庫県加古郡加古川町(現・加古川市)の加古川町公会堂で徴兵検査を受けた。公会堂の現在も残る松の下で、十貫(約40キログラム)の砂を入れた米俵を持ち上げるなどの検査もあった。
本籍地にほど近い加古川で徴兵検査を受けたのは、〈田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵〉であったが、結果は第二乙種で合格となり、その隊に入隊することとなった(召集令状は翌年2月)。徴兵合格を知った母・倭文重は悲泣し、当てが外れた父・梓も気落ちした。級友の三谷信など同級生の大半が特別幹部候補生として志願していたが、公威は一兵卒として応召されるつもりであった。それは、どうせ死ぬのならば1日でも長く1行でも多く書いていられる方を平岡が選んだのだと三谷は思った。
徴兵検査合格の帰途の5月17日、大阪の住吉中学校で教師をしている伊東静雄を訪ね、支那出征前に一時帰郷していた富士正晴宅を一緒に訪ねた。5月22日は、遺著となるであろう処女出版本『花ざかりの森』の序文を依頼するために伊東静雄の家に行くが、彼から悪感情を持たれて「学校に三時頃平岡来る。夕食を出す。俗人、神堀来る。リンゴを呉れる。九時頃までゐる。駅に送る」などと日記に書かれた。しかし、伊東はのちに『花ざかりの森』献呈の返礼で、会う機会が少なすぎた感じがすることなどを公威に伝え、戦後には『岬にての物語』を読んで公威への評価を見直すことになる。
1944年(昭和19年)9月9日、学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となった。卒業式には昭和天皇が臨席し、宮内省より天皇からの恩賜の銀時計を拝受され、駐日ドイツ大使からはドイツ文学の原書3冊(ナチスのハーケンクロイツ入り)をもらった。御礼言上に、学習院長・山梨勝之進海軍大将と共に宮内へ参内し、謝恩会で華族会館から図書数冊も贈られた。
大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・梓の説得により、同年10月1日には東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。そこで学んだ団藤重光教授による刑事訴訟法講義の〈徹底した論理の進行〉に魅惑され、修得した法学の論理性が小説や戯曲の創作においてきわめて有用となり、のちに三島は父・梓に感謝する。父は公威が文学に熱中することに反対して度々執筆活動を妨害していたが、息子を法学部に進学させたことにより、三島の文学に日本文学史上稀有な論理性をもたらしたことは梓の貢献であった。
出版統制の厳しく紙不足の中、〈この世の形見〉として『花ざかりの森』刊行に公威は奔走した。同年10月に処女短編集『花ざかりの森』(装幀は友人・徳川義恭)が七丈書院で出版された。公威は17日に届いた見本本1冊をまず、入隊直前の三谷信に上野駅で献呈した。息子の文学活動に反対していた父・梓であったが、いずれ召集されてしまう公威のため、11月11日に上野(下谷区)池之端(現・台東区池之端)の中華料理店・雨月荘で出版記念会を開いてやり、母・倭文重、清水文雄ら『文藝文化』同人、徳川義恭、林富士馬などが出席した。
書店に並んだ『花ざかりの森』は、学生当時の吉本隆明や芥川比呂志らも買って読み、各高の文芸部や文学青年の間に学習院に「三島」という早熟な天才少年がいるという噂が流れた。しかし、公威が同人となっていた日本浪曼派の『文藝文化』も物資不足や企業整備の流れの中、雑誌統合要請のために8月をもって通巻70号で終刊となっていた。
1945年(昭和20年)、いよいよ戦況は逼迫して大学の授業は中断され、公威は1月10日から「東京帝国大学勤労報国隊」として、群馬県新田郡太田町の中島飛行機小泉製作所に勤労動員され、総務部調査課配属となった。事務作業に従事しつつ、公威は小説「中世」を書き続ける。以前、保田與重郎に謡曲の文体について質問した際に期待した浪漫主義的答えを得られなかった思いを「中世」に書き綴ることで、人工的な豪華な言語による絶望感に裏打ちされた終末観の美学の作品化に挑戦し、中河与一の厚意によって第1回と第2回の途中までを雑誌『文藝世紀』に発表した。
誕生日の1月14日、思いがけず帰京でき、母・倭文重が焼いてくれたホットケーキを美味しく食べた(この思い出は後年、遺作『天人五衰』に描かれることになる)。2月4日に入営通知の電報が自宅へ届いた。公威は〈天皇陛下萬歳〉と終りに記した遺書を書き、遺髪と遺爪を用意した。中島飛行機小泉製作所を離れることになったが、軍用機工場は前年から本格化していたアメリカ軍による日本本土空襲の優先目標であった。公威が入隊検査を受けた10日、小泉製作所はアメリカ軍の爆撃機による大空襲を受け、結果的に応召は三島の罹災をまぬがれさせる結果となった。
同年2月6日、髪を振り乱して泣く母・倭文重に見送られ、公威は父・梓と一緒に兵庫県富合村高岡廠舎へ出立した。風邪で寝込んでいた母から移った気管支炎による眩暈や高熱の症状を出していた公威は、滞在先の志方村の知人の家(好田光伊宅)で手厚い看護を受けた。解熱剤を服用し一旦小康状態になったものの、10日の入隊検査の折の丸裸の寒さでまた高熱となった公威は、新米の軍医からラッセルが聞こえると言われ、血沈も高い数値を示したため肺浸潤(結核の三期の症状)と診断され即日帰郷となった(その後の東京の病院の精密検査で誤診だと分かる)。その部隊の兵士たちはフィリピンに派遣され、多数が死傷してほぼ全滅した。
戦死を覚悟していたつもりが、医師の問診に同調し誇張した病状報告で答えた自身のこの時のアンビバレンスな感情が以後、三島の中で自問自答を繰り返す。この身体の虚弱から来る気弱さや、行動から〈拒まれてゐる〉という意識が三島にとって生涯コンプレックスとなり、以降の彼に複雑な思い(常に死の観念を意識する死生観や、戦後は〈余生〉という感覚)を抱かせることになる。
梓が公威と共に自宅に戻ると一家は喜び有頂天となったが、公威は高熱と旅の疲れで1人ぼんやりとした様子で、「特攻隊に入りたかった」と真面目につぶやいたという。公威はその後4月、三谷信宛てに〈君と共に将来は、日本の文化を背負つて立つ意気込みですが、君が御奉公をすましてかへつてこられるまでに、僕が地固めをしておく心算です〉と伝え、神風特攻隊についての熱い思いを記した。兵役は即日帰郷となったものの、一時の猶予を得たにすぎず、再び召集される可能性があった。
公威は、栗山理一を通じて野田宇太郎(『文藝』編集長)と知り合い、戦時下でただ一つ残った文芸誌『文藝』に「サーカス」と「エスガイの狩」を持ち込み、「エスガイの狩」が採用された。処女短編集『花ざかりの森』は野田を通じ、3月に川端康成に献呈された。川端は『文藝文化』の公威の作品群や「中世」を読んでいた。群馬県の前橋陸軍士官学校にいる三谷信を、三谷の家族と共に慰問中の3月10日の夜、東京は大空襲に見舞われた(東京大空襲)。焦土と化した東京へ急いで戻り、公威は家族の無事を確認した。
1945年(昭和20年)5月5日から、東京よりも危険な神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠に勤労動員された。終末観の中、公威は『和泉式部日記』『上田秋成全集』『古事記』『日本歌謡集成』『室町時代小説集』『葉隠』などの古典、泉鏡花、イェーツなどを濫読した。6月12日から数日間、軽井沢に疎開している恋人・三谷邦子(親友・三谷信の妹)に会いに行き、初めての接吻をした。帰京後の7月、戦禍が悪化して空襲が激しくなる中、公威は遺作となることを意識した「岬にての物語」を書き始めた。
1945年(昭和20年)8月6日、9日と相次ぎ、広島と長崎に原子爆弾が投下された。公威は〈世界の終りだ〉と虚無的な気分になり、わざと上空から目立つ白いシャツを着て歩いた。8日にはソビエト連邦が日本に宣戦布告し、翌9日に満州や樺太に侵攻。10日、公威は高熱と頭痛のため高座工廠から、一家が疎開していた豪徳寺の親戚の家に帰宅し、梅肉エキスを舐めながら床に伏せった。
8月15日に終戦を迎えてラジオの玉音放送を聞いた際、「これからは芸術家の世の中だから、やっぱり小説家になったらいい」と父・梓が言った。
終戦直後、公威は学習院恩師の清水文雄に、〈玉音の放送に感涙を催ほし、わが文学史の伝統護持の使命こそ我らに与へられた使命なることを確信しました〉と送り、学習院の後輩にも、〈絶望せず、至純至高志美なるもののために生き生きて下さい。(中略)我々はみことを受け、我々の文学とそれを支へる詩心は個人のものではありません。今こそ清く高く、爽やかに生きて下さい。及ばず乍ら私も生き抜き、戦ひます〉と綴った
三谷信には、〈自分一個のうちにだけでも、最大の美しい秩序を築き上げたいと思ひます。戦後の文学、芸術の復興と、その秩序づけにも及ばず乍ら全力をつくして貢献したい〉と戦後への決意を綴り、9月の自身のノートには「戦後語録」として、〈日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう〉と記した。
「エスガイの狩」を採用した『文藝』の野田宇太郎へも、〈文学とは北極星の如く、秩序と道義をその本質とし前提とする神のみ業であります故に、この神に、わき目もふらずに仕へることにより、我々の戦ひは必ずや勝利を得ることを確信いたします〉と熱い思いを伝えた公威だったが、戦時中に遺作となる覚悟で書いた「岬にての物語」を、野田から「芥川賞向き、文壇向きの作風」と見当違いの誤解をされ、「器用」な作だと退けられてしまった。そのため、公威は一人前の作家としての将来設計に苦慮することになった。
公威が私淑していた蓮田善明はマレー半島で陸軍中尉として終戦を迎えるが、同年8月19日には駐屯地のマレー半島のジョホールバルで天皇を愚弄した連隊長・中条豊馬大佐を軍用拳銃で射殺し、自らもこめかみに拳銃を当て自決した(没年齢41歳)。公威は、この訃報を翌年の夏に知ることになる。
1945年(昭和20年)10月23日、妹・美津子が腸チフス(菌を含んだ生水を飲んだのが原因)によって17歳で急逝し、公威は号泣した。また、6月の軽井沢訪問後に邦子との結婚を三谷家から打診されて逡巡していた公威は、邦子が銀行員・永井邦夫(父は永井松三)と婚約してしまったことを、同年11月末か12月頃に知った。
翌年1946年(昭和21年)5月5日に邦子と永井は結婚し、公威はこの日自宅で泥酔する。恋人を横取りされる形になった公威にとって、〈妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力〉になっていった。邦子の結婚後の同年9月16日、公威は邦子と道で遭遇し、この日のことを日記やノートに記した。
この邦子とのことは、のちの自伝的小説『仮面の告白』の中で詳しく描かれることになる。
1946年(昭和21年)1月1日、昭和天皇が「人間宣言」の詔書を発した。また、それに先立つ1945年9月には、連合国軍占領下の日本における最高司令機関GHQの総司令官ダグラス・マッカーサーと昭和天皇が会見し、その写真が新聞に掲載された。公威はこれについて、親友の三谷信に「なぜ衣冠束帯の御写真にしないのか」と憤懣()を漏らしたという。また、三谷と焼跡だらけのハチ公前を歩いている時には、天皇制を攻撃し始めたジャーナリズムへの怒りを露わにし、「ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い」と強く断言したという。三谷は、そういう時の公威の言葉には「理屈抜きの烈しさがあった」と述懐している。
なお、この時期ちょうど、斎藤吉郎という元一高の文芸部委員で公威が17歳の時から親交のあった人物が、同時代の詩人たちの詩集を叢書の形で出版する計画に関与し、公威の詩も叢書の一巻にしたいという話を持ちかけていた。公威はそれに喜んで応じ、その詩集名を『豊饒の海』とする案を以下のように返信したが、この詩集は用紙の入手難などの事情で実現しなかった。
GHQ占領下の日本では、戦犯の烙印を押された軍人が処刑されただけでなく(極東国際軍事裁判)、要職にいた各界の人間が公職追放になった。マスコミや出版業界も「プレスコード」と呼ばれる検閲が行われ、日本を賛美することは許されなかった。戦時中に三島が属していた日本浪曼派の保田與重郎や佐藤春夫、その周辺の中河与一や林房雄らは、戦後に左翼文学者や日和見作家などから戦争協力の「戦犯文学者」として糾弾された。日本浪曼派の中で〈天才気取りであった少年〉の三島は、〈二十歳で、早くも時代おくれになつてしまつた自分〉を発見して途方に暮れ、戦後は〈誰からも一人前に扱つてもらへない非力な一学生〉にすぎなくなってしまったことを自覚し、焦燥感を覚える。
戦争の混乱で『文藝世紀』の発刊は戦後も中絶したまま、「中世」は途中までしか発表されていなかった。三島は終戦前、川端康成から「中世」や『文藝文化』で発表された作品を読んでいるという手紙を受け取っていたが、川端がその作品の賞讃を誰かに洩らしていたという噂も耳にしていた。
それを頼みの綱にし、〈何か私を勇気づける事情〉も持っていた三島は、「中世」と新作短編「煙草」の原稿を携え、帝大の冬休み中の1946年(昭和21年)1月27日、鎌倉二階堂に住む川端のもとを初めて訪れた。慎重深く礼儀を重んじる三島は、その際に野田宇太郎の紹介状も持参した。
三島は川端について、〈戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。「私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた〉と語り、川端の『抒情歌』などに顕著な、単に抒情的・感覚的なだけではない〈霊と肉との一致〉、〈真昼の神秘の世界〉にも深い共感性を抱いていた。そういった心霊的なものへの感性は、三島の「花ざかりの森」や「中世」にも見られ、川端の作品世界と相通ずるものであった。
同年2月、三島は七丈書院を合併した筑摩書房の雑誌『展望』編集長の臼井吉見を訪ね、8作の原稿(花ざかりの森、中世、サーカス、岬にての物語、彩絵硝子、煙草、など)を持ち込んだ。臼井は、あまり好みの作風でなく肌に合わないが「とにかく一種の天才だ」と「中世」を採用しようとするが、顧問の中村光夫は「とんでもない、マイナス150点(120点とも)だ」と却下し、没となった。落胆した三島は、〈これは自分も、地道に勉強して役人になる他ない〉と思わざるをえなかった。
一方、「煙草」を読んだ川端は2月15日、自身が幹部を務める鎌倉文庫発行の雑誌『人間』の編集長・木村徳三に原稿を見せ、掲載決定がなされた。「煙草」は6月号に発表され、これが三島の戦後文壇への足がかりとなり、それ以後の川端と生涯にわたる師弟関係のような強い繋がりの基礎が形づくられた。
しかしながら、その関係は小説作法(構成など)の指導や批判を仰いで師事するような門下生的なものではなかったため、三島は川端を「先生」とは呼ばず、「自分を世の中に出して下さった唯一の大恩人」「一生忘れられない方」という彼への強い思いから、一人の尊敬する近しい人として、あえて「川端さん」と呼び、献本する際も必ず「様」と書いた。川端は、三島が取りかかっていた初めての長編(盗賊)の各章や「中世」も親身になって推敲指導し、大学生でもある彼を助けた。
臼井や中村が、ほとんど無名の学生作家・三島の作品を拒絶した中、新しい才能の発掘に長け、異質な新人に寛容だった川端が三島を後援したことにより、「新人発見の名人」という川端の称号は、その後さらに強められることになる。職業柄、多くの新人作家と接してきた木村徳三も、会った最初の数分で、「圧倒されるほどの資質を感知」したのは、加藤周一と三島の2人しかいないとし、三島は助言すればするほど、驚嘆する「才能の輝きを誇示」して伸びていったという。
しかし当時、借家であった三島の家(平岡家)は追い立てを受け、経済状況が困窮していた。父・梓が戦前の1942年(昭和17年)から天下っていた日本瓦斯用木炭株式会社(10月から日本薪炭株式会社)は終戦で機能停止となっていた。三島は将来作家として身を立てていく思いの傍らで、貧しさが文学に影響しないよう(商業的な執筆に陥らぬため)、生活維持のために大学での法学の勉強にも勤しんでいた。梓も終戦の日に一時、息子が作家になることに理解を示していたが、やはり安定した大蔵省の役人になることを望んでいた。
ある日、木村徳三は三島と帝大図書館前で待ち合わせ、芝生で1時間ほど雑談した際、講義に戻る三島を好奇心から跡をつけて教室を覗いた。その様子を、木村は「三島君が入った二十六番教室をのぞいてみると、真面目な優等生がするようにあらかじめ席をとっておいたらしい。教壇の正面二列目あたりに着席する後姿が目に入った。怠け学生だった私などの考えも及ばぬことであった」と述懐している。
同年夏、蓮田善明が終戦時に自決していたことを初めて知らされた三島は、11月17日に清水文雄、中河与一、栗山理一、池田勉、桜井忠温、阿部六郎、今田哲夫と共に成城大学素心寮で「蓮田善明を偲ぶ会」を開き、〈古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす〉という詩を、亡き蓮田に献じた。
戦後に彼らと距離を置いた伊東静雄は欠席し、林富士馬も、蓮田の死を「腹立たしい」と批判し、佐藤春夫は蓮田を庇った。三島は偲ぶ会の翌日、清水宛てに、〈黄菊のかをる集りで、蓮田さんの霊も共に席をならべていらつしやるやうに感じられ、昔文藝文化同人の集ひを神集ひにたとへた頃のことを懐かしく思ひ返しました。かういふ集りを幾度かかさねながら、文藝文化再興の機を待ちたいと存じますが如何?〉と送った。
敗戦前後に渡って書き綴られた「岬にての物語」は、川端のアドバイスによって講談社の『群像』へ持ち込み、11月号に無事発表された。この売り込みの時、三島は和服姿で袴を穿いていたという。『人間』の12月号には、川端から『将軍義尚公薨逝記』を借りて推敲した「中世」が全編掲載された。
当時の三島は両親と同居はしていたものの、生活費の援助は受けずに自身の原稿料で生活を賄い、弟・千之にも小遣いを与えていたことが、2005年(平成17年)に発見された「会計日記」(昭和21年5月から昭和22年11月まで記載)で明らかになった。この金銭の支出記録は、作家として自立できるかを模索するためのものだったと見られている。
川端と出会ったことで三島のプロ作家としての第一歩が築かれたが、まだ三島がこの世に生まれる前から2人には運命的な不思議な縁があった。三島の父・梓が東京帝大法学部の学生の時、正門前で同級生の三輪寿壮が、見知らぬ「貧弱な一高生」と歩いているところに出くわしたが、それが川端だった。その数日後、梓は三輪から、川端康成という男は「ぼくらの持っていないすばらしい感覚とか神経の持主」だから、君も付き合ってみないかと誘われたが、文学に疎かった梓は、「畑ちがいの人間とはつきあう資格はないよ」と笑って紹介を断わったという。
「煙草」や「中世」が掲載されたもののそれらに対する評価は無く、法学の勉強も続けていたところで作品が雑誌掲載されたことから何人かの新たな文学的交友も得られた三島は、その中の矢代静一(早稲田高等学院在学中)らに誘われ、当時の青年から熱狂的支持を得ていた太宰治と彼の理解者の亀井勝一郎を囲む集いに参加することにした。三島は太宰の〈稀有の才能〉は認めていたが、その〈自己劇画化〉の文学が嫌いで、〈愛憎の法則〉によってか〈生理的反発〉も感じていた。
1946年(昭和21年)12月14日、三島は紺絣の着物に袴を身につけ、中野駅前で矢代らと午後4時に待ち合わせし、〈懐ろに匕首を呑んで出かけるテロリスト的心境〉で、酒宴が開かれる練馬区豊玉中2-19の清水家の別宅にバスで赴いた。
三島以外の出席者は皆、矢代と同じ府立第五中学校出身で、中村稔(一高在学)、原田柳喜(慶応在学)、相沢諒(駒沢予科在学)、井坂隆一(早稲田高在学)、新潮社勤務の野原一夫、その家に下宿している出英利(早稲田高在学、出隆の次男)と高原紀一(一橋商学部)、家主の清水一男(五中在学の15歳)といった面々であった。
三島は太宰の正面の席に導かれ、彼が時々思い出したように上機嫌で語るアフォリズムめいた文学談に真剣に耳を傾けていた。そして三島は森鷗外についての意見を求めるが、太宰は、「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ。第一、全集に載っけている写真を見てみろよ。軍服姿の写真を堂々と撮させていらあ、何だい、ありゃ......」と太宰流の韜晦を込めて言った。
下戸の三島は「どこが悪いのか」と改まった表情で真面目に反論して鴎外論を展開するが、酔っぱらっていた太宰はまともに取り合わず、両者の会話は噛み合わなかった。その酒宴に漂う〈絶望讃美〉の〈甘ったれた〉空気、太宰を司祭として〈自分たちが時代病を代表してゐるといふ自負に充ちた〉馴れ合いの雰囲気を感じていた三島は、この席で明言しようと決めていた〈僕は太宰さんの文学はきらいなんです〉という言葉をその時に発した。
これに対して太宰は虚を衝かれたような表情をし、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と顔をそむけた後、誰に言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と言った。気まずくなった三島はその場を離れ、それが太宰との一度きりの対決となった。その後、太宰は「斜陽」を『新潮』に連載するが、これを読んだ三島は川端に以下のような感想を綴っている。
1947年(昭和22年)4月、記紀の衣通姫伝説を題材にした「軽王子と衣通姫」が『群像』に発表された。三島は、前年1946年(昭和21年)9月16日に偶然に再会した人妻の永井邦子(旧姓・三谷)から、その2か月後の11月6日に来電をもらって以来何度か彼女と会うようになり、友人らともダンスホールに通っていたが、心の中には〈生活の荒涼たる空白感〉や〈時代の痛み〉を抱えていた。
同年6月27日、三島は新橋の焼けたビルにあった新聞社の新夕刊で林房雄を初めて見かけた。同年7月、就職活動をしていた三島は住友(銀行か)と日本勧業銀行の入行試験を受験するが、住友は不採用となり、勧銀の方は論文や英語などの筆記試験には合格したものの、面接で不採用となった。やはり、役人になることを考えた三島は、同月から高等文官試験を受け始めた。
8月、『人間』に発表した「夜の仕度」は、軽井沢を舞台にして戦時中の邦子との体験を元に堀辰雄の『聖家族』流にフランス心理小説に仮託した手法をとったものであった。林は、これを中村真一郎の「妖婆」と共に『新夕刊』の日評で取り上げ、「夜の仕度」を「今の日本文壇が喪失してゐる貴重なもの」と高評し、これを無視しようとする「文壇の俗常識を憎む」とまで書いた。
これに感激した三島は、林にお礼を言いに9月13日の新夕刊の「13日会」に行った。林は酔って帰りに3階の窓から放尿するなど豪放であったが、まだ学生の三島を一人前の作家として認めて話し相手になったため、好感を抱いた彼は親交を持つようになった。当時の三島は、堀の弟子であった中村真一郎の所属するマチネ・ポエティックの作家たち(加藤周一、福永武彦、窪田啓作)と座談会をするなど親近感を持っていたが、次第に彼らの思想的な〈あからさまなフランス臭〉や、日本古来の〈危険な美〉である心中を認めない説教的ヒューマニズムに、〈フランスはフランス、日本は日本じゃないか〉と反感を覚え、同人にはならなかった。
「夜の仕度」は当時の文壇から酷評され、「うまい」が「彼が書いている小説は、彼自身の生きることと何の関係もない」という高見順や中島健蔵の無理解な合評が『群像』の11月号でなされた。これに憤慨し、わかりやすいリアリズム風な小説ばかり尊ぶ彼らに前から嫌気がさしていた三島は、執筆中であった「盗賊」の創作ノートに〈この低俗な日本の文壇が、いさゝかの抵抗も感ぜずに、みとめ且つとりあげる作品の価値など知れてゐるのだ〉と書き撲った。
大学卒業間近の11月20日、三島の念願であった短編集『岬にての物語』が桜井書店から刊行された。「岬にての物語」「中世」「軽王子と衣通姫」を収めたこの本を伊東静雄にも献呈した三島は、伊東からの激励の返礼葉書に感激し、〈このお葉書が私の幸運のしるしのやうに思へ、心あたゝかな毎日を送ることができます〉と喜びを伝え、以下のような文壇への不満を書き送っている。
「私が第一行を起すのは絶体絶命のあきらめの果てである。つまり、よいものが書きたいとの思ひを、あきらめて棄ててかかるのである」 川端康成氏にかつてこのやうな烈しい告白を云はせたものが何であるかだんだんわかつてまゐりました。(中略)
1947年(昭和22年)11月28日、三島は東京大学法学部法律学科を卒業した(同年9月に東京帝国大学から名称変更)。卒業前から受けていた様々な種類の試験をクリアし、12月13日に高等文官試験に合格した三島は(成績は合格者167人中138位)、12月24日から大蔵省に初登庁し、大蔵事務官に任官されて銀行局国民貯蓄課に勤務することになった。
当時の大蔵省は霞が関の庁舎がGHQに接収されていたため、焼け残った四谷第三小学校を仮庁舎としていた。銀行局長は愛知揆一、主計局長は福田赳夫で、基本給(月給)は1,350円であった。大蔵省同期入省者(22年後期組)は、三島のほかに長岡實、田中啓二郎、秋吉良雄、亘理彰、後藤達太、岩瀬義郎など全26名だった。三島は、「こんなのっぺりした野郎でござんすが何分よろしく」と挨拶したという。
東大法学部を卒業した直後の12月、三島は吉田満に直接会ってGHQに検閲削除されていた門外不出の「戦艦大和ノ最期」の初稿(手書きの草稿)を読ませてもらい、その内容に驚愕・感動したことから、大蔵省時代も吉田と親しくしていた。この頃吉田が三島に、今後どんな作品を書くつもりか訊ねると、「美というもの。日本の美。日本的な美」を書きたいと語っていたという。
同じ12月には、「自殺企図者」(長編『盗賊』第2章)、短編「春子」や「ラウドスピーカー」が各誌に掲載された。大蔵省に入省してすぐの頃、文章力を期待された三島は、国民貯蓄振興大会での大蔵大臣(栗栖赳夫)の演説原稿を書く仕事を任された。三島はその冒頭文に、〈...淡谷のり子さんや笠置シズ子さんのたのしいアトラクションの前に、私如きハゲ頭のオヤジがまかり出まして、御挨拶を申上げるのは野暮の骨頂でありますが...〉と書き、課長に怒られて赤鉛筆でバッサリと削られた。将来に有名作家となる三島の原稿を削除したという一件は、後々まで大蔵省内で語り継がれるエピソードとなる。
翌1948年(昭和23年)も、三島は『進路』1月号の「サーカス」を皮切りに多くの短編を発表し、〈役所と仕事と両方で綱渡りみたいな〉生活をしていたが、この頃の〈やけのやんぱちのニヒリスティックな耽美主義〉の根拠を自ら分析する必要を感じていた。
役人になったものの相変わらず文筆業を続ける息子の将来に不安を抱いた父・梓は、鎌倉文庫の木村徳三を訪ね、「あなた方は、公威が若くて、ちょっと文章がうまいものだから、雛妓、半玉を可愛がるような調子でごらんになっているのじゃありませんか。あれで椎名麟三さんのようになれるものですかね」と、息子が朝日新聞に小説を連載するような一人前の作家になれるのかを聞きに来た。木村は、「花形作家」になれるかは運、不運によるが「一本立ちの作家」になれる力量はあると答えたが、梓は終始浮かない様子だったという。
同年6月、雑誌『近代文学』の第2次同人拡大の呼びかけに応じ、三島も同人となった。その際、三島は天皇制を認めるなら加入してもよいという条件で参加した。この第2次参加の顔ぶれには、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、安部公房らがいた。6月19日には、玉川上水で13日に入水自殺した太宰治の遺体が発見された。太宰の遺作『人間失格』は大きな反響を呼んだ。
同年7月か8月、三島は役所勤めと執筆活動の二重生活による過労と睡眠不足で、雨の朝の出勤途中、長靴が滑って渋谷駅ホームから線路に転落した。電車が来ないうちに這い上がれたが、危なかった。この事故をきっかけに息子が職業作家になることを許した梓は、「役所をやめてよい。さあ作家一本槍で行け、その代り日本一の作家になるのが絶対条件だぞ」と言い渡した。
同年8月下旬、河出書房の編集者・坂本一亀(坂本龍一の父)と志邨孝夫が、書き下ろし長編小説の執筆依頼のために大蔵省に勤務中の三島を訪ねた。三島は快諾し、「この長篇に作家的生命を賭ける」と宣言した。そして同年9月2日、三島は創作に専念するため大蔵省に辞表を提出し、9月22日に「依願免本官」という辞令を受けて退職した。
同年10月6日、芦田内閣総辞職の号外の鈴が鳴り響く晩、神田の喫茶兼酒場「ランボオ」の2階で、埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、中村真一郎、梅崎春生、椎名麟三の出席する座談会(12月の同人誌『序曲』創刊号)に三島も加わった。その座談会の時、三島と初対面だった埴谷は、真正面に座った三島の「魅力的」な第一印象を、「数語交わしている裡に、その思考の廻転速度が速いと解るような極めて生彩ある話ぶり」だったと述懐している。
河出書房から依頼された長編のタイトルを〈仮面の告白〉と定めた三島は、〈生まれてはじめての私小説〉(ただし、文壇的私小説でない)に挑み、〈今まで仮想の人物に対して鋭いだ心理分析の刃を自分に向けて、自分で自分の生体解剖をしよう〉という試みで11月25日に起筆した。同月20日には、書き上げまで2年以上を費やした初の長編『盗賊』が真光社から刊行され、12月1日には短編集『夜の仕度』が鎌倉文庫から刊行された
1949年(昭和24年)2月24日、作家となってから初上演作の戯曲『火宅』が俳優座により初演され、従来のリアリズム演劇とは違う新しい劇として、神西清や岸田国士などの評論家から高い評価を受けた。4月24日には、「仮面の告白」の後半原稿を喫茶店「ランボオ」で坂本一亀に渡した。紫色の古風な袱紗から原稿を取り出して坂本に手渡す三島を店の片隅で目撃していた武田泰淳は、その時の三島の顔を「精神集中の連続のあとの放心と満足」に輝いていたと述懐している。
三島にとっての〈裏返しの自殺〉、〈生の回復術〉であり、〈ボオドレエルの「死刑囚にして死刑執行人」といふ二重の決心で自己解剖〉した渾身の書き下ろし長編『仮面の告白』は同年7月5日に出版され、発売当初は反響が薄かったものの、10月に神西清が高評した後、花田清輝に激賞されるなど文壇で大きな話題となった。年末にも読売新聞の昭和24年度ベストスリーに選ばれ、作家としての三島の地位は不動のものとなった。
この成功以降も、恋愛心理小説「純白の夜」を翌1950年(昭和25年)1月から『婦人公論』で連載し、同年6月30日には、〈希臘神話の女性〉に似たヒロインの〈狂躁〉を描いた力作『愛の渇き』を新潮社から書き下ろしで出版した。同年7月からは、光クラブ事件の山崎晃嗣をモデルとした話題作「青の時代」を『新潮』で連載するなど、〈一息つく暇もなく〉、各地への精力的な取材旅行に励み、長編小説の力倆を身につけていった。
8月1日、立ち退きのため、両親・弟と共に目黒区緑ケ丘2323番地(現・緑が丘一丁目17番24号)へ転居。同月に岸田国士の「雲の会」発足に小林秀雄、福田恆存らと参加し、年上の文学者らとの交流が広まっていった後、中村光夫の発案の「鉢の木会」にも顔を見せるようになった。10月には、能楽を基調にした「邯鄲」を『人間』に掲載し、劇作家としての挑戦の幅も広げていった。この作品は、のちに『近代能楽集』としてまとめられる1作目となり、矢代静一を通じて前年に知り合った芥川比呂志による演出で12月に上演された。
1951年(昭和26年)1月から三島は、〈廿代の総決算〉として〈自分の中の矛盾や対立物〉の〈対話〉を描く意気込みで、ギリシャ彫刻のような美青年と老作家の登場する「禁色」(第一部)を『群像』に連載開始した。同性愛のアンダーグラウンドを題材としたこの作品は、文壇で賛否両論の大きな話題を呼び、11月10日に『禁色 第一部』として新潮社から刊行された。その間も三島は、数々の短編や中間小説「夏子の冒険」などを各誌に発表し、初の評論集『狩と獲物』も刊行するなど旺盛な活動を見せた。
しかし以前から、〈一生に一度でよいから、パルテノンを見たうございます〉と川端康成に告げ、自分の中の余分な〈感受性〉を嫌悪していた三島は、〈肉体的存在感を持つた知性〉を欲し、広い世界を求めていた。ちょうどこの頃、父・梓の一高時代の旧友である朝日新聞社出版局長の嘉治隆一から外国行きを提案され、三島は願ってもみない話に快諾した。
厳しい審査(当時はGHQ占領下で一般人の海外旅行は禁止されていたため)をクリアした三島は、同年12月25日から、朝日新聞特別通信員として約半年間の初の世界一周旅行に向け横浜港からプレジデント・ウィルソン号で出帆した。最初の目的地・ハワイに向かう船上で〈太陽と握手した〉三島は、日光浴をしながら、〈自分の改造といふこと〉を考え始めた。
ハワイから北米(サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、フロリダ、マイアミ、サン・フアン)、南米(リオ・デ・ジャネイロ、サン・パウロ)、欧州(ジュネーブ、パリ、ロンドン、アテネ、ローマ)を巡る旅の中でも、特に三島を魅了したのは眷恋の地・ギリシャ・アテネと、ローマのバチカン美術館で観たアンティノウス像であった(詳細はアポロの杯#見聞録のあらましを参照)。
古代ギリシャの〈肉体と知性の均衡〉への人間意志、明るい古典主義に孤独を癒やされた三島は、〈美しい作品を作ることと、自分が美しいものになることの、同一の倫理基準〉を発見し、翌1952年(昭和27年)5月10日に羽田に帰着した。この世界旅行記は『アポロの杯』としてまとめられ、10月7日に朝日新聞社から刊行された。
旅行前から予定していた「秘楽」(『禁色』第二部)の連載を、帰国後の8月から『文學界』で開始していた三島は、旅行後すぐの〈お土産小説〉を書くことを回避し、伊豆の今井浜で実際に起きた溺死事件を題材とした「真夏の死」を『新潮』10月号に発表した。
また、旅行前に書き上げていた「卒塔婆小町」は、三島が渡航中の2月に文学座により初演された。この作品は「邯鄲」「綾の鼓」に続く『近代能楽集』の3作目となり、三島の戯曲の中でも特に優れた成功作となった。これにより三島は劇作家としても本物の力量が認められ始めた。
三島は、ギリシャでの感動の続きで、古代ギリシャの恋愛物語『ダフニスとクロエ』を下敷きにした日本の漁村の物語を構想した。モデルとなる島探しを、昔農林省(農林水産省)にいた父・梓に依頼した三島は、候補の島の中から〈万葉集の歌枕や古典文学の名どころ〉に近い三重県の神島(かみしま)を選んだ。
1953年(昭和28年)3月に、鳥羽港から神島に赴いた三島は、八代神社、神島灯台、一軒のパチンコ店も飲み屋もない島民の暮しや自然、例祭神事、漁港、歴史や風習、漁船員の仕事を取材し、8月末から9月にも再度訪れ、台風や海女などについて取材した。神島の島民たちは当初、見慣れない〈顔面蒼白〉の痩せた三島の姿を見て、病気療養のために島に来ている人と勘違いしていたという。
この島を舞台にした新作を創作中も、練り直された「秘楽」の連載を並行していた三島は、9月30日に『秘楽 禁色第二部』を刊行し、男色の世界を描いた『禁色』が完結された。12月には、少年時代から親しんだ歌舞伎の台本に初挑戦し、芥川龍之介の原作小説を改作した歌舞伎『地獄変』を中村歌右衛門の主演で上演した。
伊勢湾に浮かぶ小さな島に住む健康的で素朴な若者と少女の純愛を描いた書き下ろし長編『潮騒』は、翌1954年(昭和29年)6月10日に新潮社から出版されるとベストセラーとなり、すぐに東宝で映画化されて三船敏郎の特別出演(船長役)もキャスティングされた。三島はこの作品で第1回新潮社文学賞を受賞するが、これが三島にとっての初めての文学賞であった。
これを受け、2年後にはアメリカ合衆国でも『潮騒』の英訳(The Sound of the Waves)が出版されベストセラーとなり、三島の存在を海外でも知られるきっかけの作品となった。11月には三島オリジナルの創作歌舞伎『鰯売恋曳網』が初演され、余裕を感じさせるファルスとして高評価された。この演目は以後長く上演され続ける人気歌舞伎となった。
この時期の他の作品には、『潮騒』の明るい世界とは対照的な終戦直後の青年の頽廃や孤独を描いた『鍵のかかる部屋』『急停車』や、三島の学習院時代の自伝的小説『詩を書く少年』、少年時代の憧れだったラディゲを題材にした『ラディゲの死』、〈菊田次郎といふ作者の分身〉を主人公にしたシリーズ(『火山の休暇』『死の島』)の終焉作『旅の墓碑銘』も発表された。
1955年(昭和30年)1月、奥只見ダムと須田貝ダムを背景にした「沈める滝」を『中央公論』に連載開始。同月には、少年時代の神風待望の心理とその〈奇蹟の到来〉の挫折感を重ね合わせた「海と夕焼」も『群像』に発表したが、三島の〈一生を貫く主題〉、〈切実な問題を秘めた〉この作品への反応や論評はなかった。三島は、もし当時この主題が理解されていれば、それ以降の自分の生き方は変っていたかもしれないと、のちに語っている。
同年9月、三島は、週刊読売のグラビアで取り上げられていた玉利齊(早稲田大学バーベルクラブ主将)の写真と、「誰でもこんな身体になれる」というコメントに惹かれ、早速、編集部に電話をかけて玉利を紹介してもらった。玉利が胸の筋肉をピクピク動かすのに驚いた三島は、さっそく自宅に玉利を招いて週3回のボディビル練習を始めた。この頃、映画『ゴジラの逆襲』が公開されて観ていたが、三島は自身を〈ゴジラの卵〉と喩えた。
同年11月、京都へ取材に行き、青年僧による金閣寺放火事件(1950年)を題材にした次回作の執筆に取りかかった三島は、『仮面の告白』から取り入れていた森鷗外的な硬質な文体をさらに鍛え上げ、「肉体改造」のみならず文体も練磨し〈自己改造〉を行なった。その双方を磨き上げ昇華した文体を駆使した「金閣寺」は、1956年(昭和31年)1月から『新潮』に連載開始された。
同月には、後楽園ジムのボディビル・コーチ鈴木智雄(元海兵の体操教官)に出会い、弟子入りし、3月頃に鈴木が自由が丘に開いたボディビルジムに通うことになった。三島は自由が丘で知り合った町内会の人に誘われ、8月には熊野神社の夏祭りで、生まれて初めて神輿をかつぎ陶酔感を味わった。
元々痩身で虚弱体質の三島であったが、弛まぬ鍛錬でのちに知られるほどの偉容を備えた体格となり、胃弱も治っていった。最初は10キロしか挙げられなかったベンチプレスも、約2年後に有楽町の産経ボディビルクラブに練習場所を変えた頃には60キロを挙上するまでに至り、その後は胸囲も1メートルを超え、生涯ボディビルは継続されていくことになる。
1月からの連載が終り、10月に『金閣寺』が新潮社から刊行された。傑作の呼び声高い作品として多数の評論家から高評価を受けた『金閣寺』は三島文学を象徴する代表作となり、第8回読売文学賞も受賞した。それまで三島に懐疑的だった評者からも認められ、三島は文壇の寵児となった。また、この年には、「日本空飛ぶ円盤研究会」に入会し、7月末の熱海ホテル滞在中に円盤観測に挑戦した。
9月には、鈴木智雄の紹介で、日大拳闘部の好意により、小島智雄の監督の下、ボクシングの練習も始めた。翌1957年(昭和32年)5月、小島智雄をスパーリング相手に練習を行っている三島を、前年の対談で知り合った石原慎太郎が訪ね、8ミリに撮影した。
これを観た三島は、〈石原慎太郎の八ミリシネにとつてもらひましたが、それをみていかに主観と客観には相違があるものかと非常に驚き、目下自信喪失の状態にあります〉と記し、以後ボクシングはもっぱら観戦の方に回り、スポーツ新聞に多くの観戦記を寄稿することになった。
この時期の三島は、『金閣寺』のほかにも、『永すぎた春』や『美徳のよろめき』などのベストセラー作品を発表し、そのタイトルが流行語になった。川端康成を論じた『永遠の旅人』も好評を博し、戯曲でも『白蟻の巣』が第2回岸田演劇賞を受賞、人気戯曲『鹿鳴館』も発表されるなど、旺盛な活動を見せ、戯曲集『近代能楽集』(「邯鄲」「綾の鼓」「卒塔婆小町」「葵上」「班女」を所収)も刊行された。
私生活でも、夏には軽井沢に出かけ、ホテルに泊まって原稿を書くほどの身分になり、乗馬クラブに通って避暑にやってくる人々に颯爽たる乗馬姿を披露して見せた。三島の乗馬姿は大いに注目され、その年の新聞・雑誌は彼の英姿で飾られることになった。また軽井沢では上流階級の子息・令嬢や夫人によるパーティーが開かれており、三島はそれらに顔を出して、吉田健一、岸田今日子、兼高かおる、鹿島三枝子(鹿島守之助の三女)、以前からの知り合いで『鏡子の家』のモデルとなる湯浅あつ子などと交遊した。さらに1954年(昭和29年)夏には、中村歌右衛門の楽屋で豊田貞子(赤坂の料亭の娘。『沈める滝』『橋づくし』のモデル)と知り合い、深い交際に発展した。それは三島の生涯において最も豊かな成功に輝いていた時期であったが、結局貞子とは破局し、1957年(昭和32年)5月、新派公演『金閣寺』を観た日を最後に別離した。
花嫁候補を探していた三島が、歌舞伎座で隣り合わせになる形で会い、銀座六丁目の小料理屋「井上」の2階で、独身時代の正田美智子とお見合いをしたとされるのも、1957年(昭和32年)頃である。なお同年3月15日、正田美智子が首席で卒業した聖心女子大学卒業式を三島は母と共に参観していたという。
前年8月の『潮騒』 (The Sound of Waves) の初英訳刊行に続き、戯曲集『近代能楽集』 (Five Modern Noh Plays) も1957年(昭和32年)7月にクノップ社から英訳出版されたことで、三島は同社に招かれて渡米した。その際に現地の演劇プロデューサーから上演申し込みがあり、実現に向けて約半年間ニューヨークに辛抱強く滞在したが、企画が難航して延期となってしまった。その間の12月21日、三島は疎遠となっていた吉田満(ニューヨーク駐在中)と久しぶりに再会しワシントン・アーヴィングの旧邸など各所を一緒に散策した。三島は吉田との雑談の中で、アメリカ人に対する辛辣な批判をし、また自身の来年に向けての結婚宣言をしていたという。
無為で孤独なホテルでのニューヨークの年越しに耐えられず、正月をマドリード、ローマを経由し過ごして帰国した三島は、これから先の人生を一人きりでは生きられないことを痛感し、結婚の意志を固くした。折しも、ニューヨーク滞在中に父・梓が病気入院し、帰国後の2月にも母・倭文重が癌と疑われた甲状腺の病気で手術したことも、それに拍車をかけた。
1958年(昭和33年)3月に、幼馴染の湯浅あつ子から見せられた女子大生・杉山瑤子(日本画家・杉山寧の長女)の写真を一目で気に入った三島は、4月にお見合いをし、6月1日に川端康成夫妻を媒酌人として明治記念館で瑤子との結婚式を挙げ、麻布の国際文化会館で披露宴が行われた。同年8月には雑誌に連載開始された小高根二郎の「蓮田善明とその死」を読み始め、11月末からはボディビルに加えて中央公論社の嶋中鵬二と笹原金次郎の紹介により、第一生命の道場で本格的に剣道も始めた。
同年3月には、ニューヨーク滞在中から構想していた書き下ろし長編『鏡子の家』の執筆も開始されていた。この作品は4人の青年と1人の〈巫女的な女性〉を主人公とし、〈「戦後は終つた」と信じた時代の、感情と心理の典型的な例〉を描こうとした野心作であった。時代背景は高度経済成長前の2年間で(昭和29年4月から昭和31年4月まで)、三島自身の青春と「戦後」と言われた時代への総決算でもあった。
翌1959年(昭和34年)9月20日の『鏡子の家』刊行までの約1年半の間、戯曲『薔薇と海賊』の発表、結婚、国内新婚旅行、エッセイ『不道徳教育講座』、評論『文章読本』の発表、新居建設(設計・施工は清水建設の鉾之原捷夫)など多忙であった。大田区馬込東一丁目1333番地(現・南馬込四丁目32番8号)に建設したビクトリア風コロニアル様式の新居へは5月10日に転居し、6月2日に長女・紀子が誕生した。ちょうどこの当時、新安保条約の採決を巡る大規模なデモ隊が国会周辺で吹き荒れ、三島はそれを記者クラブのバルコニーから眺めた。
三島の渾身作『鏡子の家』は1か月で15万部売れ、同世代の評論家の少数からは共感を得たものの、文壇の評価は総じて辛く、三島の初めての「失敗作」という烙印を押された。三島の落胆は大きく、この評価は作家として彼が味わった最初の大きな挫折(転機)だった。
同年11月、三島は大映と映画俳優の専属契約を結び、翌1960年(昭和35年)3月に公開された『からっ風野郎』(増村保造監督)でチンピラ的なヤクザ役を演じたが、その撮影中には頭部をエスカレーターに強打して入院する一幕もあった。同年1月には、都知事選挙を題材とした「宴のあと」も『中央公論』で連載開始するが、モデルとした有田八郎から9月に告訴され、プライバシー裁判の被告となってしまった(詳細は「宴のあと」裁判を参照)。
1961年(昭和36年)1月は、二・二六事件に題材をとり、のちに自身で監督・主演で映画化する「憂国」を『小説中央公論』に発表。2月には、その雑誌に同時掲載された深沢七郎の「風流夢譚」を巡る嶋中事件に巻き込まれ、推薦者と誤解されて右翼から脅迫状を送付されるなど、2か月間警察による護衛下での生活を余儀なくされた。
同年9月から、写真家・細江英公の写真集『薔薇刑』のモデル(被写体)となり、三島邸で撮影が行われた。写真発表は翌1962年(昭和37年)1月に銀座松屋の「NON」展でなされ、その鍛え上げられた肉体をオブジェとして積極的に世間に披露した。こうした執筆活動以外における三島の一連の話題がマスメディアに取り上げられると共に、文学に関心のない層にも大きく三島の名前が知られるようになった。
そのため、週刊誌などで普段の自身の日常生活や健康法を披露する機会も増えた。遅く起きる三島の朝食は、午後2時にトーストと目玉焼き、グレープフルーツ、ホワイト・コーヒーを摂り、午後7時頃の昼食には週3回はビフテキと付け合わせのジャガイモ、トウモロコシ、サラダをたっぷりとウマの如く食べ、夜中の夕食は軽く茶漬けで済ますのが習慣だった。
また、三島はカニの形状が苦手で、「蟹」という漢字を見るのも怖くてダメだったが、むき身の蟹肉や缶詰の蟹は食べることができ、蟹の絵のパッケージは即座に剥がして取っていたという。酒は家ではほとんど飲まないが、煙草はピースを1日3箱くらい吸っていた。
1963年(昭和38年)には、三島が所属していた文学座内部での一連の分裂騒動があり、杉村春子と対立する福田恆存が創立した「劇団雲」への座員29人の移動後にも、文学座の立て直しを試みた三島の『喜びの琴』を巡って杉村らが出演拒否するという文学座公演中止事件(喜びの琴事件)が起こり、再びトラブルが相次いだ。
この時期には、安保闘争や東西冷戦による水爆戦争への危機感が強かった社会情勢があり、そうした政治背景を反映して、『鏡子の家』から繋がる〈世界崩壊〉〈世界の終末〉の主題を持つ『美しい星』や『帽子の花』、評論『終末観と文学』などが書かれ、イデオロギーを超えた純粋な心情をテーマにした『剣』や評論『林房雄論』も発表された。
1964年(昭和39年)初めには『浜松中納言物語』を読み、『豊饒の海』の構想もなされ始め、同年10月の東京オリンピックでは、新聞各紙の特派員記者として各種競技を連日取材した。開会式では、〈小泉八雲が日本人を「東洋のギリシャ人」と呼んだときから、オリンピックはいつか日本人に迎へられる運命にあつたといつてよい〉と述べ、〈陛下〉の〈堂々たる〉開会宣言の立派な姿に、19年前の敗戦直後にマッカーサーと並んだ〈悲しいお写真〉を思い比べて感無量となり、聖火台に点火する最終聖火ランナーの〈白煙に巻かれた胸の日の丸〉への静かな感動と憧れを、〈そこは人間世界で一番高い場所で、ヒマラヤよりもつと高いのだ〉と三島はレポートした。
この時期には他にも、『獣の戯れ』、『十日の菊』(第13回読売文学賞戯曲部門賞受賞)、『黒蜥蜴』、『午後の曳航』(フォルメントール国際文学賞候補作)、『雨のなかの噴水』、『絹と明察』(第6回毎日芸術賞文学部門賞)など高評の作品も多く発表し、待望だった『近代能楽集』の「葵上」「班女」も別の主催者によってグリニッジ・ヴィレッジで上演された。
また、『仮面の告白』や『金閣寺』も英訳出版されるなど、海外での三島の知名度も上がった時期で、「世界の文豪」の1人として1963年(昭和38年)12月17日のスウェーデンの有力紙『DAGENUS NYHETER』に取り挙げられ、翌1964年(昭和39年)5月には『宴のあと』がフォルメントール国際文学賞で2位となり、『金閣寺』も第4回国際文学賞で第2位となった。国連事務総長だったダグ・ハマーショルドも1961年(昭和36年)に赴任先で事故死する直前に『金閣寺』を読了し、ノーベル財団委員宛ての手紙で大絶賛した。
なお、1963年度から1965年度のノーベル文学賞の有力候補の中に川端康成、谷崎潤一郎、西脇順三郎と共に三島が入っていたことが2014年(平成26年)から2016年(平成28年)にかけて開示され、1963年度で三島は「技巧的な才能」が注目されて受賞に非常に近い位置にいたことが明らかとなり、選考委員会のコメントで、日本人作家4人の中では三島が将来ノーベル文学賞を取る可能性が一番高いとされていた。しかし谷崎死後の1966年度の候補者では川端が最も注目されていて、三島の名はなかった。そして1967年度と1968年度には、再び川端と同様に三島も有力候補に挙がり将来性を期待されたが、「現時点では川端の方がノーベル賞にはふさわしい」とされていた。アカデミー選考委員会は日本文学の専門家としてドナルド・キーンとエドワード・G・サイデンステッカーに意見を求めながら選考を進めていたことが明らかになっている。川端が受賞した翌年の1969年度には「今、また新たに日本人へ賞を授与することはない」として、日本から推薦された井上靖の調査もされなかった。
三島が初めて候補者に名を連ねた1963年度の選考において委員会から日本の作家の評価を求められていたドナルド・キーンは、実績と年齢順(年功序列)を意識して日本社会に配慮しながら、谷崎、川端、三島の順で推薦したが、本心では三島が現役の作家で最も優れていると思っていたことを情報開示後に明かしている。1961年(昭和36年)5月には川端が三島にノーベル賞推薦文を依頼し、彼が川端の推薦文を書いていたこともある。その3年前の1958年(昭和33年)度には、谷崎の推薦文も三島が書いていた。
1965年(昭和40年)初頭、三島は4年前に発表した短編小説『憂国』を自ら脚色・監督・主演する映画化を企画し、4月から撮影して完成させた。同年2月26日には、次回作となる〈夢と転生〉を題材とした〈世界解釈〉の本格長編小説の取材のため、奈良の帯解から円照寺を初めて訪ね、その最初の巻となる「春の雪」の連載を同年9月から『新潮』で開始した(1967年1月まで)。
9月からは夫人同伴でアメリカ、ヨーロッパ、東南アジアを旅行し、長編の取材のために10月はバンコクを訪れ、カンボジアにも遠征して戯曲『癩王のテラス』の着想を得た。ちょうどこの頃、AP通信がストックホルム発で、1965年度のノーベル文学賞候補に三島の名が挙がっていると報じた。三島は以降の年も引き続き、受賞候補として話題に上ることになる。
11月からは、自身の〈文学と行動、精神と肉体の関係〉を分析する「太陽と鉄」を『批評』に連載開始し、戯曲『サド侯爵夫人』も発表され、傑作として高評価を受けた。この戯曲は三島の死後、フランスでも人気戯曲になった。ドナルド・キーンは、三島以前の日本文学の海外翻訳を読むのは日本文学研究者だけに限られていたのに対し、三島の作品は一般人にまで浸透したとして、古典劇に近い『サド侯爵夫人』がフランスの地方劇場でも上演されるのは、「特別な依頼ではなく、見たい人が多いから」としている。
高度経済成長期の1966年(昭和41年)の正月、三島は日の丸を飾る家がまばらになった風景を眺めながら、〈一体自分はいかなる日、いかなる時代のために生れたのか〉と自問し、〈私の運命は、私が生きのび、やがて老い、波瀾のない日々のうちにたゆみなく仕事をつづけること〉を命じたが、胸の裡に、〈なほ癒されぬ浪漫的な魂、白く羽搏くものが時折感じられる〉と綴った。
自身の〈危険〉を自覚していた三島は、それを凌駕する〈本物の楽天主義〉〈どんな希望的観測とも縁もない楽天主義〉がやって来ることを期待し、〈私は私が、森の鍛冶屋のやうに、楽天的でありつづけることを心から望む〉心境でもあった。
同年1月、モノクロ短編映画『憂国』が「愛と死の儀式」 (Yūkoku ou Rites d'amour et de mort) のタイトルでツール国際短編映画祭に出品され、劇映画部門第2位となった。日本では4月からアートシアター系で一般公開されて大きな話題を呼び、同系映画としては記録的なヒット作となった。映画を観た安部公房は、「作品に、自己を転位させよう」という不可能性に挑戦する三島の「不敵な野望」に「羨望に近い共感」を覚えたと高評価した。
この当時、毎週日曜日に碑文谷警察署で剣道の稽古をしていた三島は同年5月に剣道四段に合格し、前年11月から習っていた居合も、剣道の師の吉川正実を通じて舩坂良雄を師範とする大森流居合に正式入門した。三島は、良雄の兄で剣道家の舩坂弘ともこの道場で知り合い、交流するようになった。
6月には、二・二六事件と特攻隊の兵士の霊たちの呪詛を描いた『英霊の聲』を発表し、『憂国』『十日の菊』と共に「二・二六事件三部作」として出版された。11歳当時の二・二六事件と20歳当時の敗戦で〈神の死〉を体感した三島は、昭和の戦前戦後の歴史を連続して生きてきた自身の、その〈連続性の根拠と、論理的一貫性の根拠〉をどうしても探り出さなければならない気持ちだった。
〈挫折〉した青年将校ら〈真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようといふ思ひ〉の糸を手繰る先に、どうしても引っかかるのが昭和天皇の「人間宣言」であり、自身の〈美学〉を掘り下げていくと、その底に〈天皇制の岩盤がわだかまつてゐることを〉を認識する三島にとって、それを回避するわけにはいかなかった。
『英霊の聲』は天皇批判を含んでいたため、文壇の評価は賛否両論となって総じて低く、その〈冷たいあしらひ〉で三島は文壇人の〈右顧左眄ぶり〉がよく解ったが、この作品を書いたことで自身の無力感から救われ、〈一つの小さな自己革命〉を達成した。
瀬戸内晴美は『英霊の聲』を読み、「三島さんが命を賭けた」と思って手紙を出すと、三島から、〈小さな作品ですが、これを書いたので、戦後二十年生きのびた申訳が少しは立つたやうな気がします〉と返事が来た。この時期の作品は他に、三島としては珍しい私小説的な『荒野より』、エッセイ『をはりの美学』『お茶漬ナショナリズム』、林房雄との対談『対話・日本人論』などが発表された。三島はこの対談の中で、いつか藤原定家を主人公にした小説を書く意気込みを見せた。
『英霊の聲』を発表した1966年(昭和41年)6月、三島は奈良県の率川神社の三枝祭(百合祭)を見学し、長編大作の第二巻となる連載「奔馬」の取材を始めた。8月下旬からは大神神社に赴き、三輪山三光の滝に打たれて座禅した後、色紙に「清明」と揮毫した。その後は広島県を訪れ、恩師の清水文雄らに会って江田島の海上自衛隊第一術科学校を見学し、特攻隊員の遺書を読んだ。
清水らに見送られて熊本県に到着した三島は、荒木精之らに迎えられて蓮田善明未亡人と森本忠(蓮田の先輩)と面会し、神風連のゆかりの地(新開大神宮、桜山神社など)を取材して10万円の日本刀を購入した。この旅の前、三島は清水宛てに〈天皇の神聖は、伊藤博文の憲法にはじまるといふ亀井勝一郎説を、山本健吉氏まで信じてゐるのは情けないことです。それで一そう神風連に興味を持ちました。神風連には、一番本質的な何かがある、と予感してゐます〉と綴った。
10月には自衛隊体験入隊を希望し、防衛庁関係者や元陸将・藤原岩市などと接触して体験入隊許可のための仲介や口利きを求め、12月には舩坂弘の著作の序文を書いた返礼として日本刀・関ノ孫六を贈られた。同月19日、小沢開策から民族派雑誌の創刊準備をしている若者らの話を聞いた林房雄の紹介で、万代潔(平泉澄の門人で明治学院大学)が三島宅を訪ねて来た。
翌1967年(昭和42年)1月に、その雑誌『論争ジャーナル』が創刊され、副編集長の万代潔が編集長の中辻和彦と共に三島宅を再訪し、雑誌寄稿を正式依頼して以降、三島は同グループとの親交を深めていった。同月には日本学生同盟の持丸博も三島を訪ね、翌月創刊の『日本学生新聞』への寄稿を依頼した。三島は日本を守ろうとする青年たちの純粋な志に感動し、〈覚悟のない私に覚悟を固めさせ、勇気のない私に勇気を与へるものがあれば、それは多分、私に対する青年の側からの教育の力であらう〉と綴った。
三島は42歳となるこの年の元日の新聞で、執筆中の〈大長編の完成〉が予定されている47歳の後には、〈もはや花々しい英雄的末路は永久に断念しなければならぬ〉と語り、〈英雄たることをあきらめるか、それともライフワークの完成をあきらめるか〉の二者択一の難しい決断が今年は来る予感がするとして、西郷隆盛や加屋霽堅が行動を起こした年齢を挙げながら、〈私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ〉と〈年頭の迷ひ〉を告白した。
4月12日から約1か月半、単身で自衛隊に体験入隊した三島は、イギリスやノルウェー、スイスなどの民兵組織の例に習い、国土防衛の一端を担う「祖国防衛隊」構想を固めた後、学生らを引き連れて自衛隊への体験入隊を定期的に行なった。以降、三島は航空自衛隊のF-104戦闘機への搭乗体験や、陸上自衛隊調査学校情報教育課長・山本舜勝とも親交し、共に民兵組織(のち「楯の会」の名称となる)会員への指導を行うことになる(詳細は三島由紀夫と自衛隊を参照)。
これらの活動と平行し、1967年(昭和42年)2月から「奔馬」が『新潮』で連載開始された(1968年8月まで)。この小説は、血盟団の時代を背景に昭和維新に賭けた青年の自刃を描き、美意識と政治的行動が深く交錯した作品となった。同年2月28日には、川端康成、石川淳、安部公房と連名で、中共の文化大革命に抗議する声明の記者会見を行なった。5月には英訳版の『真夏の死 その他』が1967年フォルメントール国際文学賞第2位受賞した(『午後の曳航』も候補作品)。この賞を推薦したドナルド・キーンが三島の本が2位に終わったことを残念がっていると、 たまたまスウェーデンから参加していた有力出版社ボニエールの重役が「三島はずっと重要な賞(ノーベル文学賞)をまもなく受けるだろう」とキーンを慰めた。
6月には日本空手協会道場に入門し、中山正敏(日本空手協会首席師範)のもと、7月から空手の稽古を始めた。三島は中山に、「私は文士として野垂れ死にはしたくない。少なくとも日本人として、行動を通して〈空〉とか〈無〉というものを把握していきたい」と語ったという。
6月19日には早稲田大学国防部の代表らと会合し森田必勝と出会った。森田は三島を師と仰ぎ、彼に体験入隊の礼状として「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」と贈った。三島は、「どんな美辞麗句をならべた礼状よりも、あのひとことにはまいった」と森田に返答した。
担当編集者の菅原国隆は三島が作中人物になりきってしまう傾向を危惧していたため、彼を鎌倉の小林秀雄宅に連れて行き、小林を通じてそれとなく自衛隊への体験入隊を止めるよう説得を試みるが、逆に変な小細工をしたことで三島から不興を買った。当時の三島は、「奔馬」に登場するような青年たちに出会ったことを、「恐いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説に先行することもある」と担当編集者の小島喜久江に語ったという。
9月下旬からはインド政府の招きで、インド、タイ、ラオスへ夫人同伴で旅行した。第三巻「暁の寺」の取材のため、単身でベナレスやカルカッタに赴いた三島は、ノーベル文学賞受賞を期待して加熱するマスコミ攻勢から逃れるためにバンコクに滞留し、そこで自分を捕まえた特派員の徳岡孝夫と知り合い、2人は意気投合した。
10月には『英霊の聲』とは違う形でありながらも、同根の〈忠義〉を描いた戯曲『朱雀家の滅亡』を発表した。同時期には『葉隠入門』『文化防衛論』などの評論も多く発表され、『文化防衛論』においては〈近松も西鶴も芭蕉もいない〉昭和元禄を冷笑し、自分は〈現下日本の呪い手〉であると宣言するなど、戦後民主主義への批判を明確に示した。
1968年(昭和43年)2月25日、三島は論争ジャーナル事務所で、中辻和彦、万代潔、持丸博ら10名と「誓 昭和四十三年二月二十五日 我等ハ 大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ」という皆の血で巻紙に書いた血盟状を作成し、本名〈平岡公威〉で署名した。4月上旬には、堤清二の手配によるドゴールの制服デザイナー・五十嵐九十九デザインの制服を着て、隊員らと東京都青梅市の愛宕神社に参拝した。
インド訪問で中共に対処する防衛の必要性を実感した三島は、企業との連携で「祖国防衛隊」の組織拡大を目指し、民族資本から資金を得て法制化してゆく「祖国防衛隊構想」を立ち上げ、経団連会長らと何度か面談していたが、5月か6月頃の面談を最後に資金援助を断られてしまった。この年、新撰組の近藤勇死後百年祭に参加した。近藤勇は、三島の高祖父・永井尚志の親友であったという。
三島は組織規模を縮小せざるをえなくなり、10月5日に隊の名称を「祖国防衛隊」から『万葉集』防人歌の「今日よりは 顧みなくて大君の醜()の御楯と出で立つ吾は」万葉集 第二十巻 歌番号4373にちなんだ「楯の会」と変えた。同年8月には剣道五段に合格し、9月からはインドでのベナレス体験が反映された第三巻の「暁の寺」を『新潮』で連載開始した(1970年4月まで)。
同年10月21日の国際反戦デーにおける新左翼の新宿騒乱の激しさから、彼らの暴動を鎮圧するための自衛隊治安出動の機会を予想した三島は、それに乗じて「楯の会」が斬り込み隊として加勢する自衛隊国軍化・憲法9条改正へのクーデターを計画した。この日の市街戦を交番の屋根の上から見ていた三島の身体が興奮で小刻みに震えているのを、隣にいた山本舜勝は気づいた。
この日帰宅した息子の興奮ぶりを母・倭文重は、「手がつけられない程で、身振り手振りで宜しく事細かに話す彼の話を、私は面白いと思いつつもうす気味悪く聞いた。彼の心の底深く沈潜していたものが一挙に噴出した勢いだった」と述懐している。三島はクーデターに恰好の機会を待ちながらゲリラ演習訓練を続け、各大学で学生とのティーチ・インや防衛大学校での講演活動を行なった。三島と楯の会は、世間からの「玩具の兵隊さん」との嘲笑を隠れ蓑に精鋭化していった。
三島はその活動と並行し、同時期に『命売ります』や戯曲『わが友ヒットラー』、評論『反革命宣言』などを発表した。また、同年10月17日には川端康成のノーベル文学賞受賞が報道され、三島もすぐに祝いに駆けつけた。川端は受賞のインタビューで「運がよかった」「翻訳者のおかげ」のほか、「三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです」と答えた。なおドナルド・キーンが後年1970年5月にコペンハーゲンの友人宅の夕食会で再会したある人物から直接聞いた話によると、この賞の選考の際ノーベル賞委員会は1957年東京で開催された国際ペンクラブ大会に参加したことのあるその人物に意見を求め、彼が三島の日本での政治的活動から「三島は比較的若いため(左翼の)過激派に違いないと判断した」ため川端の方を強く推して委員会を承服させたという。
1969年(昭和44年)1月には『豊饒の海』第一巻の『春の雪』、2月には第二巻『奔馬』が新潮社から刊行され、澁澤龍彦や川端康成など多くの評論家や作家から高評価された。2月11日の建国記念の日には、国会議事堂前で焼身自殺した江藤小三郎の壮絶な諌死に衝撃を受け、その青年の行動の〈本気〉に、〈夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評〉を三島は感得した。
同年5月13日には、東大教養学部教室での全共闘主催の討論会に出席した。東大の学生らは荒れ果てた大学のイメージを払拭するため、解放区だからこそできる独自の授業をやろうと当時の知識人をリストアップし、その中の1人が三島だった{{refnest|group="注釈"|芥正彦の公式Youtubeチャンネルにて公開されている2009年ごろのインタビュー全6本で語られている。三島は芥正彦や小阪修平らと激論を交わし、〈つまり天皇を天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないから、いつまでたっても殺す殺すと言っているだけのことさ。それだけさ〉と発言した。そして最後に〈諸君の熱情は信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じる〉と告げ、壇を後にした。また三島は討論終了後、芥ら学生を〈砂漠の住人〉と評した文章を残している。なお、その後三島は芥の書いた三島評などを読んでいたという話がある。後年、芥は当時について振り返り、三島との友愛やその後の時代についてなどをインタビューで回想している。
6月からは、勝新太郎、石原裕次郎、仲代達矢らと共演する映画『人斬り』(五社英雄監督)の撮影に入り、薩摩藩士の田中新兵衛役を熱演した。大阪行きの飛行機内で、仲代が三島に「作家なのにどうしてボディビルをしているんですか?」と尋ねると、「僕は死ぬときに切腹するんだ」「切腹してさ、脂身が出ると嫌だろう」と返答されたため、仲代は冗談の一つだと思って聞いていたという。
この頃、三島はすでに何人かの楯の会会員らに居合を習わせ、先鋭の9名(持丸博、森田必勝、倉持清、小川正洋、小賀正義など)に日本刀を渡し、「決死隊」を準備していた。これと並行し、自衛隊の寄宿舎での一日を綴った私小説『蘭陵王』、戯曲『癩王のテラス』などが発表され、日本のオデッセイは源為朝だという意気込みで、歌舞伎『椿説弓張月』も書き上げた。
しかし、7月下旬頃から古参メンバーの中辻や万代と、雑誌『論争ジャーナル』の資金源(中辻らが田中清玄に資金援助を求めていたこと)を巡って齟齬が生じ、8月下旬に彼らを含む数名が楯の会を正式退会した。その後、持丸も会の事務を手伝っていた松浦芳子との婚約を機に、退会の意向を示した。三島は「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」と説得したが、駄目だった。持丸を失った三島の落胆は大きく、山本に「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったという。持丸の退会により、10月12日から森田必勝が学生長となった。
この年の10月21日の国際反戦デーの左翼デモは前年とは違い、前もって配備されていた警察の機動隊によって簡単に鎮圧された。三島は自衛隊治安出動が不発に終わった絶望感から、未完で終わるはずだった「暁の寺」を〈いひしれぬ不快〉で書き上げた。これで、クーデターによる憲法改正と自衛隊国軍化を実現する〈作品外の現実〉に賭けていた夢はなくなった。
この頃、自分が死ぬかもしれないことを想定していた三島はもしもの場合を考え、川端康成宛てに〈死後、子供たちが笑はれるのは耐へられません。それを護つて下さるのは川端さんだけ〉だと、8月から頼んでいた。
同年10月25日、蓮田善明の25回忌に三島は『蓮田善明全集』刊行の協力要請を小高根二郎に願い出て、連載終了した小高根の「蓮田善明とその死」に〈今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません〉と返礼し、〈蓮田氏と同年にいたり、なほべんべんと生きてゐるのが恥ずかしくなりました〉と綴った
11月3日、森田を学生長とした楯の会結成1周年記念パレードが国立劇場屋上で行なわれ、藤原岩市陸将らが祝辞を述べ、女優の村松英子や倍賞美津子から花束を贈呈された。三島はこのパレードの祝辞を前々から川端に依頼し、10月にも直に出向いてお願いしたが、彼から「いやです、ええ、いやです」とにべも無く断られ、村松剛に涙声でその悲憤と落胆を訴えたという。
1970年(昭和45年)1月1日、三島邸で開かれた新年会で、丸山明宏が三島に霊が憑いていると言った。三島が何人かの名前を矢継ぎ早に挙げて訊くと、磯部浅一のところで「それだ!」と丸山は答え、三島は青ざめたという。その昔、1959年(昭和34年)7月に三島邸で奥野健男と澁澤龍彦らが来て、コックリさんをしている最中にも、「二・二六の磯部の霊が邪魔している」と三島が大真面目に呟いていたとされる。
1月17日、三島は学習院時代の先輩・坊城俊民夫妻との会食の席で、50歳になったら藤原定家を書きたいという今後の抱負を語った。2月には、未知の男子高校生の訪問があり、「先生はいつ死ぬんですか」と質問され、このエピソードを元に「独楽」を書いた。3月頃、万が一の交通事故死のためという話で、知人の弁護士・斎藤直一に遺言状の正式な作成方法を訊ねていた三島は、同時期には、常にクーデター計画に二の足を踏んでいた山本舜勝と疎遠になり、4月頃から森田必勝ら先鋭メンバーと具体的な最終決起計画を練り始めた(詳細は三島事件#三島由紀夫と自衛隊を参照)。
3月頃、三島は村松剛に、「蓮田善明は、おれに日本のあとをたのむといって出征したんだよ」と呟き、「『豊饒の海』第四巻の構想をすっかり変えなくてはならなくなってね」とも洩らしたという。刊行された小高根二郎の『蓮田善明とその死』を携えて山本舜勝宅を訪問した三島は、「私の今日は、この本によって決まりました」と献呈した。
第四巻の取材のため、三島は5月に清水港、駿河湾、6月に三保の松原に赴いてタイトルを決定し、7月から「天人五衰」を連載開始した。6月下旬には、自分の死後の財産分与や、『愛の渇き』と『仮面の告白』の著作権を母・倭文重に譲渡する内容の遺言状を作成し、7月5日に森田ら4名との決起を11月の楯の会定例会の日に定めた。
なおこの時期、5月にドナルド・キーンがコペンハーゲンで1968年ノーベル文学賞の選考秘話(前段の節参照)を知り、こともあろうか三島が「左翼の過激派」に間違えられたせいで賞を逸したなんてあまりにも馬鹿げていると驚いたため、その後「そのことを三島に話さずにはいられなかった」が、キーンからその話を聞いている時の三島は「笑わなかった」という。
7月7日の新聞では、「果たし得てゐない約束」と題して自身の戦後25年間を振り返り、〈その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど「生きた」とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ〉と告白し、〈私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする〉と戦後社会への決別を宣言した。
同じ7月、三島は保利茂官房長官と中曽根康弘防衛庁長官に『武士道と軍国主義』『正規軍と不正規軍』という防衛に関する文書を政府への「建白書」として託したが、中曽根に阻止されて閣僚会議で佐藤栄作首相に提出されず葬られた。川端宛てには、〈時間の一滴々々が葡萄酒のやうに尊く感じられ、空間的事物には、ほとんど何の興味もなくなりました〉と綴った。
同年8月、家族と共に伊豆の下田市に旅行し、帰京後は執筆取材のために新富町の帝国興信所を訪れた。8月下旬頃にはすでに「天人五衰」の最終回部分(26-30章)をほぼ書き上げ、原稿コピーは新潮社出版部長・新田敞に預けた。9月には評論『革命哲学としての陽明学』を発表し、同時期に対談集『尚武のこころ』と『源泉の感情』も出版した。
9月3日にヘンリー・スコット・ストークス宅の夕食会に招かれた三島は食事後、ヘンリーに暗い面持ちで「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている」という不思議な喩え話をした。
この時期には、ドナルド・リチーや『潮騒』の翻訳者・メレディス・ウェザビーとも頻繁に会い、リチーが楯の会のことをボーイスカウトだと揶揄すると、「数少ない彼らボーイスカウトと僕は、秩序を保つ核となるんだ」と言い、官僚主義に屈した新政府と戦い、敗けると判っていながらも若き兵士たちと行動を共にした西郷隆盛を「最後の真の侍だ」と敬愛していたという。
10月には、「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と村松剛に告白し、それに対し村松が「家庭の幸福は文学の敵。それじゃあ、太宰治と同じじゃないか」と指摘すると、三島は「そうだよ、おれは太宰治と同じだ。同じなんだよ」と言い、小市民的幸福を嫌っていたとされるが、自分の死後も子供たちに毎年クリスマスプレゼントが届くよう百貨店に手配し、子供雑誌の長期購読料も出版社に先払いして毎月届けるように頼んでいた。伊藤勝彦によると、三島はある種の芸術家にみられるような、家庭を顧みないような人間ではなかったという。
10月に再演された『薔薇と海賊』の第2幕目の終わりで、三島は舞台稽古と初日とも泣いていた。その場面の主人公・帝一の台詞は、〈船の帆は、でも破けちやつた。帆柱はもう折れちやつたんだ〉、〈僕は一つだけ嘘をついてたんだよ。王国なんてなかったんだよ〉だった。
11月17日、三島は清水文雄宛てに、〈「豊饒の海」は終りつつありますが、「これが終つたら......」といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。カンボジアのバイヨン大寺院のことを、かつて「癩王のテラス」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした〉と記している。
11月21日頃、いくら遅くても連絡してほしいという三島からの伝言を受けていた藤井浩明は深夜、三島に電話した。イタリアで上映されて好評の『憂国』などの話をし、最後に藤井がまた連休明けに連絡する旨を伝えて切ろうとすると、いつもは快活に電話を切る三島が「さようなら」とぽつりと言ったことが、何となく気にかかったという。
11月22日の深夜午前0時前に横尾忠則が三島に電話し、横尾が装幀を担当した『新輯 薔薇刑』のイラストについて話題が及ぶと、その絵を三島は「俺の涅槃像だろう」と言って譲らなかったうえ、療養中の横尾を気遣って「足の病気は俺が治して歩けるようにしてやる」と言ったという。
11月24日、決起への全準備を整えた三島と森田、小賀正義、古賀浩靖、小川正洋は、午後6時頃から新橋の料亭「末げん」で鳥鍋料理を注文し、最後の会食をした。当時「末げん」の若女将になったばかりの丸武子によれば、丸が挨拶をするためにふすまを開けた時、三島は目をつぶって考え事をしていたという。会食を終えた帰り際では、玄関で「またお越しくださいませ」と丸が声をかけると、三島は「また来いと言われてもなぁ」と返した後、「こんな綺麗な女将さんがいるなら、あの世からでも来るか」と続けたという。午後8時頃に店を出て、小賀の運転する車で帰宅した三島は、午後10時頃に離れに住む両親に就寝の挨拶に来て、何気ない日常の会話をして別れたが、肩を落として歩く後姿が疲れた様子だったという。
1970年(昭和45年)11月25日、三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会会員4名と共に訪れ、面談中に突如、益田兼利総監を人質にして籠城すると、バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起を促す演説をした直後に割腹自決した。45歳没。現場はあまりにも凄惨であったため、当局の発表も、報道にも自然に抑制がかかり、現場の様子がリアルに表に出るのは、14年後写真雑誌『フライデー』が、警視庁公安部の右翼担当部員が保管していた現場写真(三島の生首の顔)をスクープというかたちで掲載した時であった。警視庁公安部員は、切腹から斬首に至るまでの一部始終を、止めに入ったり逮捕したりすることなく、廊下側の天窓ごしに全部ウォッチしながら、証拠写真を相当数撮り続けていた(立花隆によると、公安部員は右翼担当・左翼担当関わらず、どんな重大な事件に遭遇しても、それに直接介入はしないという)。
決起当日の朝10時30分、担当編集者の小島喜久江は平岡家のお手伝いさんから間接的に第四巻「天人五衰」の原稿を渡された。小島が編集部に戻って原稿を読むと、予定と違って最終回となっており、巻末日付が11月25日で署名がなされていた。
この11月25日という決行日については、大正天皇の重患に伴い昭和天皇が摂政に就いた日であることと、天皇が「人間宣言」をしたのが45歳だったことから、同じ年齢で人間となった天皇の身代りになって死ぬことで、「神」を復活させようという意味があったと考察する研究や、三島が尊敬していた吉田松陰の刑死の日を新暦に置き換えた日に相当するという見解もある。
また、11月25日は三島が戦後を生きるために〈飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る〉という〈生の回復術〉〈裏返しの自殺〉 として発表した『仮面の告白』の起筆日であることから、三島が戦後の創作活動のすべてを解体して〈死の領域〉に戻る意味があったとする考察もある。
この日、細川護立の葬儀で東京に居た川端康成は、三島自決の一報を受けて現場にすぐ駆けつけたが、遺体とは対面できなかった。呆然と憔悴しきった面持ちの川端は報道陣に囲まれ、「もったいない死に方をしたものです」と答えた。三島の家族らは動転し、瑤子夫人はショックで寝込んでしまった。
三島の辞世の句は、
の二首。
三島の遺体は翌日の26日に慶応義塾大学病院法医学解剖室にて、斎藤銀次郎教授により解剖執刀され、死因は「頸部割創による離断」と認定された。また、三島の血液型はA型で、身長は163cmであった。
自宅書斎からは家族や知人宛ての遺書のほか、机上に「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」(サンケイ新聞 昭和45年7月7日号)と「世なおし70年代の百人三島由紀夫」(朝日新聞 昭和45年9月22日号)の切り抜きがあり、〈限りある命ならば永遠に生きたい. 三島由紀夫〉という遺書風のメモも見つかった。
介錯に使われた自慢の名刀「関孫六」は刃こぼれをしていた。刀は当初白鞘入りだったが、三島が特注の軍刀拵えを作らせ、それに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれていたうえ、容易に抜けないよう両側が潰されていた。刀を贈った友人の舩坂弘は、死の8日前の「三島由紀夫展」(11月12日から17日まで東武百貨店で開催)で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという。
武田泰淳は、三島と自身とは文体も政治思想も違うが、その「純粋性」を常に確信していたとし、以下のような追悼文を贈った。
翌日の11月26日、三島が伊沢甲子麿に託した遺言により、遺体には楯の会の制服が着せられ、手には胸のあたりで軍刀が握りしめられた。どんなに変わり果てた無惨な姿かと父・梓は心配だったが、胴と首も縫合され、警察官たちの厚意によって顔も綺麗に化粧が施されていた。密葬は自宅で行われ、家族は柩に原稿用紙や愛用の万年筆も添え、品川区の桐ヶ谷斎場で三島は荼毘に付された。なお、三島は律儀に国民年金に加入していて死ぬまで保険料をきちんと払っていたという。
翌1971年(昭和46年)1月14日、三島の誕生日であるこの日、府中市多摩霊園の平岡家墓地に遺骨が埋葬された。自決日の49日後が誕生日であることから、三島が転生のための中有の期間を定めていたのではないかという説もある。
同年1月24日に、築地本願寺で告別式(葬儀委員長・川端康成、弔辞・舟橋聖一ほか)が行われた。8200人以上の一般会葬者が参列に訪れ、文学者の葬儀としては過去最大のものとなった。戒名は「彰武院文鑑公威居士」。遺言状には「必ず武の字を入れてもらいたい。文の字は不要。」とあったが、梓は文人として生きてきた息子の業績を考えて「文」の字も入れた。
告別式には、右翼の仲間と思われることへの懸念から参列を回避した知人らも多く、ドナルド・キーンも友人らに助言されて参列を見合わせたが、キーンはそのことを後悔しているという。
人質となった益田総監は、裁判の公判で「被告たちに憎いという気持ちは当時からなかった」と語ったうえ、「国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい。憎いという気持ちがないのは、純粋な気持ちを持っておられたからと思う」と陳述した。
なお、川端政子(川端康成の養女)の夫・川端香男里によると、三島が康成に宛てた手紙の最後のものは、11月4日から6日の間に自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地から出された鉛筆書きのもので、康成によって焼却されたとされる。香男里によると、「文章に乱れがあり、これをとっておくと本人の名誉にならないからすぐに焼却してしまった」とされる。しかし、これは康成の名誉にならないから焼却されたのではないかという見方もある。
三島と森田の忌日には、「三島由紀夫研究会」による追悼慰霊祭「憂国忌」が毎年行われている。三島事件に関わって4年の実刑判決を受けた楯の会3人(小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)が仮出所した翌年の1975年(昭和50年)以降には、元楯の会会員による慰霊祭も神道形式で毎年行われている。
1999年(平成11年)7月3日には、三島の著作や資料を保管する「三島由紀夫文学館」が開館された。2008年(平成20年)3月1日には、富山県富山市向新庄町二丁目4番65号に「隠し文学館 花ざかりの森」が開館された。
三重県鳥羽市の神島港に『潮騒』の文学碑があり、「三島文学 潮騒の地」と刻まれている。
1971年(昭和46年)1月30日、松江日本大学高等学校(現・立正大学淞南高等学校)の玄関前に「三島由紀夫・森田必勝烈士顕彰碑」が建立され、除幕式が行なわれた。碑には「誠」「維新」「憂国」「改憲」の文字が刻まれている。
同年2月11日、三島の本籍地の兵庫県印南郡志方町(現・加古川市志方町)の八幡神社境内で、地元の生長の家の会員による「三島由紀夫を偲ぶ追悼慰霊祭」が行われた。
同年11月25日、埼玉県大宮市(現・さいたま市)の宮崎清隆(元陸軍憲兵曹長)宅の庭に「三島由紀夫文学碑」が建立された。揮毫は三島瑤子(平岡瑤子)。
陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地の第2中隊隊舎前に追悼碑が建立されている。碑には、「深き夜に 暁告ぐる くたかけの 若きを率てぞ 越ゆる峯々 公威書」という三島の句が刻まれている。
1973年(昭和48年)6月10日、静岡県賀茂郡賀茂村(現・西伊豆町)の黄金崎に『獣の戯れ』の一節が刻まれた文学碑が建立され、除幕式が行われた。揮毫は平岡梓。
1983年(昭和58年)1月9日、静岡県富士宮市郊外に「三島由紀夫神社」が建立された。
1986年(昭和61年)、兵庫県印南郡志方町(現・加古川市志方町)の玉乃緒地蔵尊のある地に「三島由紀夫先生慰霊の碑」が建立された。揮毫は県知事・坂井時忠。
1991年(平成3年)11月、新潟県北魚沼郡湯之谷村(現・魚沼市)の枝折峠に『沈める滝』の文学碑が村の有志により、建立された。高さ1メートル、幅2メートルあまりの安山岩に、駒ケ岳の風景描写の一節が刻まれている。
三島由紀夫の主要作品は、レトリックを多様に使用しているところに特徴があり、構成なども緊密に組み立てられ、古代ギリシアの『ダフニスとクロエ』から着想した『潮騒』、エウリピデスのギリシャ悲劇や、能楽・歌舞伎、ラシーヌのフランス古典劇などを下敷きにした戯曲や小説、『浜松中納言物語』を典拠とした『豊饒の海』など、古典からその〈源泉〉を汲み上げ、新しく蘇らせようとする作風傾向がある。
上記のような傾向から、その形式的な構成の表現方法は、近代日本文学の主な担い手だった私小説作家たちより、西洋文化圏の作家に近い面がある。また、社会的な事件や問題を題材にするなど、日本の第一次戦後派作家や第二次戦後派作家と共通する点はあったものの、その作風は彼らと違って大東亜戦争時代への嫌悪はなく、社会進歩への期待や渇望、マルクス主義への共感を伴った未来幻想がなかったため、そういった面では明日など信じていない太宰治、坂口安吾、石川淳、檀一雄などの無頼派に近い傾向がある。
上述でも判るように、三島は古代から中世、近世の日本文学に造詣が深く、耽美的な傾向の点では江戸末期の文学の流れをくむ谷崎潤一郎、夭折美学や感覚的な鋭さの面では川端康成とも大きな共通性があるが、文体的には堀辰雄や森鷗外の影響を受けており、その文学の志向や苦闘は、日本的風土と西洋理念との狭間で格闘した横光利一の精神に近いことが指摘されている。
『午後の曳航』などを翻訳したことのあるジョン・ネイスンは、三島は「(日本が開国により)国をこじあけられて以来ずっと病んできた文化的両価性の範型」と見なせるとし、日本が「生来的・先天的・伝統基底的な」自国文化と、「外来で扱いにくい」異種の西欧文化を和解させて「真正の〈自己〉を見出そうとする国民的争闘」、東洋と西洋の「綜合の模索」の同一パターンの反復であるとしている。
そしてネイスンは、「たしかに、三島の何とも優美で華麗な表現力をそなえた日本語は、多少熟れすぎではあったが、骨の髄まで日本的であった。三島が毎夜、真夜中から明け方までかけて紡ぎ出した日本語こそが彼にとって真の重大事であり、その一生を規定した」とし、「(三島の死は)一つの国民的苦悩の明快で適切無比な表現であったことも理解されなければならない。これぞ文化的廃嫡の苦悩であった」と評している。
三島の作品は、『純白の夜』『愛の渇き』『真夏の死』『夜の向日葵』『美徳のよろめき』『春の雪』『薔薇と海賊』『裸体と衣裳』『絹と明察』など、反対の概念を組み合わせた題名が多く、『仮面の告白』では「仮面を被る」ことと、本来は反対の概念である「告白」が、アイロニカルに接合していることが指摘されている。
文学のテーマも、三島自身が〈『太陽と鉄』は私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなもの〉と言っているように、生と死、文と武、精神と肉体、言葉と行動、見る者と見られる者(認識者と行為者)、芸術と人生、作者と彼、といった二元論がみられるが、その〈対〉の問題は単純な並列や対立関係ではないところに特徴がある。
『トニオ・クレエゲル』の〈トニオ〉対〈ハンスやインゲ〉に象徴される〈芸術家〉対〈美しい無智者(欠乏の自覚〈エロス〉を持たぬ下方の者でありながらも美しいという存在)〉の二項の図式から生じてくる芸術家・トニオの〈分裂の意識(統一的意識を持つこと自体が二律背反であること)〉を解読した三島には、〈統一的意識の獲得〉を夢見て、〈欠乏の自覚を持つことをやめて、統一的意識そのもの〉〈人工的な無智者〉に成り変わり、〈自己撞着の芸術観〉、つまりは〈エロスを必要とせぬ芸術〉〈無智者の作りうる芸術〉を打ち建てようという思考がみられる。
『潮騒』あたりから三島が志向し始めた「〈統一的意識そのもの〉に成り変る者」とは、〈芸術家〉(作者)、〈彼〉(無智者かつ美的存在で欠乏の自覚を持たぬ者)のいずれに属するのか、一体「誰」になるのかを青海健は考察し、三島文学の特異性について以下のように論じている。
すでに行動の世界にいた三島が自決(三島事件)の3年前、〈今は、言葉だけしか信じられない境界へ来たやうな心地がしてゐる〉とし、大東亜戦争時にあらん限りの〈至上の行動〉を尽くし、特攻隊が〈人間の至純の魂〉を示したにもかかわらず、〈神風が吹かなかつた〉のならば〈行動と言葉とは、つひに同じことだつたのではないか〉、「力を入れずして天地(あめつち)を動かし」(古今集での紀貫之の序)という宣言(〈言葉の有効性には何ら関はらない別次元の志〉)の方がむしろ〈その源泉をなしてゐるのではないか〉と思い至り、〈このときから私の心の中で、特攻隊は一篇の詩と化し〉、〈行動ではなくて言葉になつた〉と語っているが、この〈言葉〉とは、「言葉からはみ出してしまうものを表現するものである言葉」(『太陽と鉄』での〈「肉体」の言葉〉)を意味している。
その三島の〈肉体〉は〈すでに言葉に蝕まれてゐた〉ゆえ、両者は永遠の往還となり、〈言葉〉によって〈肉体〉に到達しようとし、その〈肉体〉への到達がまた〈言葉〉へ還流するという「アイロニカルな円環」(到達不可能)であり、最終的には〈言葉〉と〈肉体〉のどちらでもなく、そのどちらでもあるという境界(「絶対の空無」、〈死〉)でしか超えられず、この〈生〉と〈死〉の関係性を「輪廻転生」(生と死が対立概念ではない)として表現した作品が『豊饒の海』となり、認識者の自意識(言葉)との格闘が物語られる3巻と4巻(『暁の寺』と『天人五衰』)で、最後に「作者」(三島)を待ち受けるのが、「絶対の空無」であると青海は論考している。
言葉の領域でもあった〈生〉と、〈死〉との連続性を垣間見た三島が、〈言葉の有効性〉をそぎ落とし、目指した〈詩的秩序をあらゆる有効性から切り離す〉こととは、「言葉の表層」、「エロス的悲劇性の表層」へと回帰することであり、「言葉が現実に対して無効となる時はじめてその本来の力を開示する」ということだったと、青海は三島の作品遍歴から論考している。〈行動と言葉とは、つひに同じことだつた〉と三島が悟ったのは、言葉から逃走した地点が、〈行動〉の有効性をも消滅する地平でもあり、その〈行動〉に向かうことで、アイロニカルにも、「言葉の無効性を生かすこと」が可能となり、「言葉の否定による言葉の奪還」というパラドックス(円環)になる。
三島の『花ざかりの森』が初掲載された『文藝文化』には、蓮田善明の『鴨長明』が同時掲載され、そこで蓮田は、肉も骨もなくなり、魂だけになった「言葉」が鴨長明の和歌だと論じている。島内景二は、それは三島の行きついた「魂の形」を予言していたとし、三島は尊敬する蓮田の論を意識し、「血と見えるものも血ではなく、死と思われるものも死ではない」境地の、「肉も骨もない、魂だけの言葉」に辿り着くため、蓮田の論を実践し証明しようとしたと考察している。
『憂国』や『春の雪』に顕著であるジョルジュ・バタイユ的な生と死の合一といったエロティシズム観念(禁止―侵犯―聖性の顕現)は、三島の耽美的憧憬とも重なるものであるが、それは三島の「日本回帰」や「時代の禁忌」でもあり、神聖天皇(絶対の空無=超越者)を夢見るという不可能性の侵犯を秘めたロマン主義的イロニーでもあった。当時の左翼的知識人たちに対する「反動イデオローグ」として、三島は「危険な思想家」(山田宗睦が名付けた)と問題視され、また、野口武彦からは、その〈抽象的情熱〉を、ドイツ・ロマン派や、三島が少年時代に培った日本浪曼派に通ずるロマンチック・イロニーと呼ばれていた。
近代では禁忌である天皇の中にこそ、「近代」をのり超える〈絶対〉を垣間見ていた三島は、バタイユについて以下のように語り、死の1週間前に行なわれた対談の中では、〈バタイユは、この世でもっとも超絶的なものを見つけだそうとして、じつに一所懸命だったんですよ。バタイユは、そういう行為を通して生命の全体性を回復する以外に、いまの人間は救われないんだと考えていたんです〉と述べている。
こういった三島の思考は、反キリストのニヒリストであるフリードリヒ・ニーチェが『ツァラトゥストラはこう語った』で「超人」を招来したイロニーと等価であり、ニーチェの『悲劇の誕生』は三島文学に大きな影響を与えている。ニーチェの待望した「英雄」「ディオニュソス」的なものは、三島にとって『蘭陵王』の〈獰猛な仮面〉と〈やさしい顔〉を持ち、蓮田善明の〈薩摩訛りの、やさしい目をした、しかし激越な慷慨家〉、特攻隊の〈人間の至純の魂〉、澄んだ『独楽』の〈透明な兇器〉、『奔馬』の飯沼勲の〈荒ぶる神〉、『椿説弓張月』の源為朝など、純一無垢のイメージを秘め、悲劇性を帯びた美的存在としてある。
遺作の『豊饒の海』4巻(『天人五衰』)のエンディングと、三島が16歳の時に夭折を想定して書いた『花ざかりの森』の静寂的な末尾が酷似していることは、多くの論者から指摘されているが、10歳の時に書いていたという絵コント入りの「紙上映画」とも言える小品『世界の驚異』の結末も、それまでの華やかな物語を全否定してしまうような「火の消えた蝋燭」のエンディングとなっており、寂寞のうちに閉じるという『豊饒の海』の印象的な結末と通底するものが看取される。
『世界の驚異』は、『マッチ売りの少女』や、ポール・ヴェルレーヌの『秋の歌(落葉)』の影響が見られ、〈すゝきのゆれるも物悲しき、むせびなくヴァイオリンの音のやうにかなでゆく秋の調べ〉という文章と共に秋の淋しさが表現され、前段の頁では、海や船、極楽鳥や花が描かれている。火の消えた蝋燭の頁では、〈やはり、美しい夢はつかめなかつた。あゝ果てゆく幻想。それは春の野にたつ、かげろうにのやうにはかないものだ。らうそくの火はきえて了つた。そして目も前は何もかもまつくらだ〉と記され(校正なしの原文ママ)、最後にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーのトレードマークのライオンを模した絵が描かれ、先行作の着想を元に独自の世界観を作り上げている。
井上隆史は、三島が子供の頃から豊かな才能と想像力に恵まれていたと同時に、その自分が作った世界を自らの手で壊してしまおうというニヒリズム的な傾向があると考察しているが、三島自身も、〈知的(アポロン的)なもの〉と〈感性的〈ディオニソス的〉なもの〉の〈どちらを欠いても理想的な芸術ではない〉として二者の総合を目指し、芸術を〈積木細工〉に喩えつつ、〈積木が完全なバランスを保つところで積木をやめるやうな作家は、私には芸術家ぢやないと思はれる〉として、以下のように語っている。
三島文学の人工性もしばしば指摘される点だが、その人工性には、作品を書くことで自らの危機と向き合い、乗り越えようとする営為が看取される。川端康成は三島の人工性の中にある「生々しさ」について、『盗賊』の序文でいち早く言及していた。
弟子にして女優の村松英子によると、三島は現実の生々しさをそのまま感情的やグロテスクに表現することを嫌っていたとされ、「基本としてドメスティック(日常的)な演技も必要だけど、それだけじゃ、“演劇”にならない。大根やイワシの値段や井戸端会議を越えた所に、日常の奥底に、人間の本質のドラマがあるのだからね」、「怒りも嘆きも、いかなる叫びも、ナマでなく濾した上で、舞台では美しく表現されなければならない。汚い音、汚い演技は観客に不快感を与えるから」と表現の指導をしていたという。
荻昌弘との対談の中でも三島は、アーサー・シモンズが「芸術でいちばんやさしいことは、涙を流させることと、わいせつ感を起させることだ」と言った言葉を、〈千古の名言だ〉として、お涙頂戴的な映画を批判し、〈日本人の平均的感受性に訴えて、その上で高いテーマを盛ろうというのは、芸術ではなくて政治だよ。(中略)国民の平均的感受性に訴えるという、そういうものは信じない。進歩派が『二十四の瞳』を買うのはただ政治ですよ〉という芸術論を展開している。
三島は劇作家でもあるが、その演劇作品もまた、二項の対立・緊張による「劇」的展開を得意とした。三島は、戯曲は小説よりも〈本能的なところ〉、〈より小児の遊びに近いところ〉にあるとし、〈告白の順番〉は、〈詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから〉と述べるなど、日常的な現実空間をリアルに書く従来の私小説作家の常識とは異なる考えを持っていたことが看取され、22歳の時に林房雄に宛てた手紙の中でも、〈あらゆる種類の仮面のなかで、「素顔」といふ仮面を僕はいちばん信用いたしません〉と、当時の日本文壇の〈レアリズム的〉な懺悔告白のようなものや啓蒙的な小説を批判している。
しかしながら、三島は自分自身を〈小説家〉と規定し、〈肉づきの仮面〉だけが告白できると言っていたことなどから、青海健は「三島由紀夫とは、小説の〈仮面〉を被った劇作家としての小説家」だとして三島にとり、「戯曲が〈本能的な〉素面であるなら、小説はその素面にまで喰い入ってしまった肉づきの仮面」だと解説している。
三島にとっては小説よりも戯曲の方が〈はるかに大胆素直に告白でき〉、それが〈詩作の代用〉をなすと自ら語るように、「枠のしっかりきめられた」形式の方が、「ポエジー(詩)」=「告白」できるという傾向がみられ、三島の小説が、金閣寺放火事件など実際の事件を題材にしているものが多いのも、その「ノンフィクション」を「仮面」とすることにより、大胆な「告白」を可能せしめるという方法論をとっているからである。
三島は、〈戯曲の法則を強引に小説の法則へ導入〉して、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールの言う「自然で自明な形式感」を再確認することが〈小説家〉として重要だという持論の元に、『春の雪』や『奔馬』のようなドラマ性の高い小説を書いているが、その「物語」を見る本多邦繁へと主題が移行している『暁の寺』と『天人五衰』においては、すでに「劇」は不在となり、「自己言及的主題」が生の形で描かれる「小説的」な「小説(ノヴェル)」となっている。
この三島的な劇の形式感を放棄している小説は、ほかに『禁色』や『鏡子の家』などがあるが、戯曲においてこの「“作品の書き手”の告白」の問題が露わに示されているのが、『船の挨拶』『薔薇と海賊』『源氏供養』『サド侯爵夫人』『癩王のテラス』である。青海は、三島にとって戯曲とは「認識者である〈作者〉が〈作品〉と化する告白の夢」であるとし、それが顕著なのが童話作家の阿里子(アリスとも読める)と、空想の世界に生きている帝一が結婚する『薔薇と海賊』だとしている。
すなわち、『薔薇と海賊』では「書き手とその作品世界との幸福な合体の夢」が暗喩的に描かれており、自決の直前に上演されたこの舞台を見て三島が泣いていたというエピソードからも、その「合体の夢」に託された「告白の意味の重み」が了解される。この「作品」対「作者」といった構図の「合体の夢」は、『禁色』『鏡子の家』『豊饒の海』などの小説では、分裂の悲劇へと向かう様相を呈し、三島が自ら廃曲にした戯曲『源氏供養』でも、作者と作品世界の「分裂の不幸」という小説テーマが扱われ、〈小説家〉である三島はこの「分裂の不幸」を「小説という〈仮面〉」によって語り続けたと、青海は考察している。
三島はまず、戦後GHQ占領下で定められた現憲法を〈国際政治の力関係によつて、きはめて政治的に押しつけられた〉憲法であるとし、この憲法自体が「政体」と「国体」について確たる弁別を定立していない問題に触れつつ、「国体」は〈日本民族日本文化のアイデンティティー〉であり〈政権交替に左右されない恒久性〉がその本質であって、「政体」はこの国体維持という〈国家目的民族目的〉に最適の手段として国民によって選ばれるが、政体自体は〈国家目的追求の手段〉であって「民主主義」とは〈継受された外国の政治制度であり、あくまで政体以上のものを意味しない〉としている。
その意味で旧憲法の明治憲法は〈民族的伝統〉と〈西欧の法伝統〉とを調和させ、〈国体と法体系の間の相互の投影を完璧にした〉憲法であったと三島は説明し、かたや何ら日本人の内発性の発生でなく制定された戦後の現憲法ではそれがなく、〈相反する二種の国体概念〉が、〈国論分裂による日本弱体化といふ政治的企図〉を含んで〈並記〉され、〈国民の忠誠対象〉を〈二種の国体へ分裂させるやうに仕組まれてゐる〉ことを問題視している。
そして、その〈相反する二種の国体概念〉のうち、一つは、本来の日本国民の忠誠対象である国体(〈歴史・伝統・文化の時間的連続性に準拠し、国民の永い生活経験と文化経験の集積の上に成立するもの〉)であり、もう一つはそれと相反する〈革命政権における国体〉ともいうべき概念であると三島は説明し、その新たに並記された〈未来理想社会に対する一致した願望努力、国家超越の契機を内に秘めた世界革命の理想主義〉を本質とする概念(日本伝来の自然法を裁くもの)が、日本弱体化の〈政治的企図〉を含んだ〈似而非国際主義〉への新たな忠誠対象として対立矛盾して組み入れられたことを批判し、〈これが憲法第一章と第二章との、戦後の思想的対立の根本要因をなす異常なコントラストである〉と述べている。
その第二章の日本国憲法第9条を三島は、〈国際連合憲章の理想主義と、左派の戦術的非戦論とが癒着した〉条項であるとして、〈一方では国際連合主義の仮面をかぶつた米国のアジア軍事戦略体制への組み入れを正当化し、一方では非武装平和主義の仮面の下に浸透した左翼革命勢力の抵抗の基盤をなした〉ものとして唾棄し、この条文が〈敗戦国日本の戦勝国への詫証文〉であり、〈国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くもの〉であると断じている。
そして、いかなる戦力(自衛権・交戦権)保有も許されていない憲法第9条第2項を字句通り遵守すれば、日本は侵略されても〈丸腰〉でなければならず〈国家として死ぬ〉以外にはないため、日本政府は緊急避難の解釈理論として学者を動員したうえで〈牽強付会の説〉を立てざるを得なくなり、こういったヤミ食糧売買のような行為を続けることは、〈実際に執行力を持たぬ法の無権威を暴露するのみか、法と道徳との裂け目を拡大〉するとしている。
このように三島は、平和憲法と呼ばれる憲法第9条により、〈国家理念を剥奪された日本〉が〈生きんがためには法を破らざるをえぬことを、国家が大目に見るばかりか、恥も外聞もなく、国家自身が自分の行為としても大目に見ること〉になったことを、〈完全に遵奉することの不可能な成文法の存在は、道義的退廃を惹き起こす〉とし、〈戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない〉と批判している。
また、現状では自衛隊は法的に〈違憲〉だとし、その自衛隊の創設が、皮肉にも〈憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の変化による要請に基づくもの〉であり、朝鮮戦争やベトナム戦争の参加という難関を、吉田内閣がこの憲法を逆手にとり、〈抵抗のカセ〉として利用することで突破してきたが、その時代を過ぎた以降も国内外の批判を怖れ、ただ護憲を標榜するだけになった日本政府については、〈消極的弥縫策(一時逃れに取り繕って間に合わせる方策)にすぎず〉、〈しかもアメリカの絶えざる要請にしぶしぶ押されて、自衛隊をただ“量的に”拡大〉し、〈平和憲法下の安全保障の路線を、無目的無理想に進んでゆく〉と警鐘を鳴らしている。
これを是正する案として、憲法第9条第2項だけを削除すればよい、という改憲案に対しては〈やや賛成〉としつつも、そのためには、国連に対し不戦条約を誓っている第9条第1項の規定を〈世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべき〉とし、〈日本国憲法のみが、国際社会への誓約を、国家自身の基本法に包含するといふのは、不公平不調和〉であると三島は断じ、この第1項を放置したままでは自国の歴史・文化・伝統の自主性が〈二次的副次的〉なものになり、〈敗戦憲法の特質を永久に免かれぬこと〉になるため、〈第九条全部を削除〉すべしと主張している。
さらに、改憲にあたっては憲法第9条のみならず、第1章「天皇」の問題(「国民の総意に基く」という条文既定のおかしさと危険性の是正)と、第20条「信教の自由」に関する〈神道の問題〉(日本の国家神道の諸神混淆の性質に対するキリスト教圏西欧人の無理解性の是正)と関連させて考えなければ、せっかく憲法改正を推進しても、〈却つてアメリカの思ふ壺〉に陥り、日本が独立国としての〈本然の姿を開顕〉できず、憲法9条だけ改正して日米安保を双務条約に書き変えるだけでは、韓国やアジア反共国家と並ぶだけの結果に終わると警告している。
三島は、外国の軍隊は決して日本の〈時間的国家の態様を守るものではないこと〉を自覚するべきだとし、日本を全的に守る正しい〈建軍の本義〉を規定するためには、憲法9条全部を削除して、その代わりに〈日本国軍〉を創立し、憲法に〈日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に建軍される〉という文言を明記するべきであると主張している。
また、1970年(昭和45年)2月19日に行われたジョン・ベスターとの対談(テープが「放送禁止」としてTBS局内で2013年まで放擲され、2017年に公開されたもの)でも、きちんと法改正せず〈憲法違反〉を続けることで人間のモラルが蝕まれるとし、平和憲法は〈偽善のもと〉、〈憲法は、日本人に死ねと言っているんですよ〉と語っている。
上記のように三島は、国の基本的事項である防衛を最重要問題と捉え、〈日本国軍〉の創立を唱えながら、〈一定の領土内に一定の国民を包括する現実の態様〉である国家という〈一定空間の物理的保障〉を守るには軍事力しかなく、もしもその際に外国の軍事力(核兵器その他)を借りるとしても、〈決して外国の軍事力は、他国の時間的国家の態様を守るものではない〉とし、日米安保に安住することのない日本の自主防衛を訴えている。
三島は1969年(昭和44年)の国際反戦デーの左翼デモの際に自衛隊治安出動が行われなかったことに関連し、〈政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう〉と説いており、その時々の「政体」を守る警察と、永久不変の日本の「国体」を守る国軍の違いについて言及している。
また、〈改憲サボタージュ〉が自民党政権の体質となっている以上、〈改憲の可能性は右からのクーデターか、左からの暴力革命によるほかはないが、いずれもその可能性は薄い〉と指摘し、本来は〈祭政一致的な国家〉であった日本が、現代では国際強調主義と世界連邦の線上に繋がる〈遠心力的〉な〈統治的国家(行政権の主体)〉と、日本の歴史・文化という時間的連続性が継承される〈求心力〉的な〈祭祀的国家(国民精神の主体)〉の二極に分離し、〈後者が前者の背後に影のごとく揺曳してゐる〉状態にあるとしている。
そして様々な制約の中、アメリカの軍備に守られているという形で〈やうやく日本の自主防衛ですらも可能になるといふやうな〉情況では、もし日本が代理戦争のようなものに巻き込まれ自衛隊が出動し、あるいは〈国連警察軍の名目の下〉にアメリカが出動する事態が起った場合、自衛隊の最高指揮権が日本の内閣総理大臣でなく、最終的には〈アメリカ大統領ではないかといふ疑惑〉を禁じ得ないとしている。国防の本義としてもそれが〈日本のため〉であるか〈自由主義諸国の連帯感のため〉であるかという〈混迷〉が生ずる現態勢下では、〈我々は一体日本のために戦つてゐるのかどうか〉疑わしくなるとしている。
そうした疑念や矛盾を少しでも解決し、現憲法の制約下で統治的国家の〈遠心力〉と祭祀的国家の〈求心力〉による二元性の理想的な調和と緊張を実現するためには、日本国民がそのどちらかに忠誠を誓うかを明瞭にし、その選択に基づいて自衛隊を二分するべきだという以下のような「自衛隊二分論」を三島は説いている。
2.の〈国土防衛軍〉には多数の民兵が含まれるとし、「楯の会」はそのパイオニアであるとしている。自衛隊法第三条において、間接侵略の対処や通常兵器による局地的な侵略に対する自衛隊の自主防衛や治安出動が認められているとする三島は、日本への直接侵略を最終目的とするソビエトや中共による間接侵略の醸成を阻止しなけらばならないとし、将来ソビエトが新潟方面に陽動作戦を伴いつつ北海道に直接侵攻してくる危険性に触れている。なお、三島は徴兵制には反対している。
三島は、自衛隊が単なる〈技術者集団〉や〈官僚化〉に陥らないためには、〈武士と武器〉、〈武士と魂〉を結びつける〈日本刀の原理〉を復活し、〈武士道精神〉を保持しなければならないとし、軍人に〈セルフ・サクリファイス〉(自己犠牲)が欠けた時、官僚機構の軍国主義に堕落すると説いている。
そして、戦後禁忌になってしまった、天皇陛下が自衛隊の儀仗を受けることと、連隊旗を直接下賜すること、文人のみの文化勲章だけでなく、自衛隊員への勲章も天皇から授与されることを現下の法律においても実行されるべきと提言し、隊員の忠誠の対象を明確にし、〈天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくこと〉こそ、日本および日本文化の危機を救う防止策になると説いている。
日米安保については、〈安保賛成か反対かといふことは、本質的に私は日本の問題ではないやうな気がする〉と三島は述べており、そうした問いは結局のところ、アメリカを選ぶか、中共・ソビエトを選ぶかという、本質的には日本というものの自主性が選べない状況の中での問題であり、当時の激しい安保反対運動(安保闘争)がひとまず落ちついた後の未来に、日本にとっての真の問いかけが大きな問題として出てくるとしている。そして、そこで初めて〈われわれは最終的にその問ひかけに直面するんぢやないか〉と語っている。
別の場の発言でも、安保賛成はアメリカ派で一種の〈西欧派〉であり、安保反対も中共・ソビエトという共産党系の〈外国派〉であるとし、〈日本人に向かって、「おまえアメリカをとるか、ソビエトをとるか中共をとるか」といったら、ほんとうの日本人だったら態度を保留すると思う〉と述べている。そして、〈国粋派というのは、そのどっちの選択にも最終的には加担していない〉として、〈まだ日本人は日本を選ぶんだという本質的な選択をやれないような状況〉にあり、安保反対派(中共・ソビエト派)の運動が激化していた当時の状況においては、西欧派の自民党の歴史的な役割として、〈西欧派の理念に徹して、そこでもって安保反対勢力と刺しちがえてほしい〉という考えを福田赳夫に伝えたことを1969年時点で語っている。
また、日米安保に関連する沖縄の米軍基地問題についても三島は、日本人の心情として日本の国内に外国(アメリカ)の軍隊がいるということに対する反対意識は、イデオロギーを抜きにすれば一般国民のナショナリズムや愛国心に訴えるものがあるため、それを外来勢力の共産党系左翼(天皇制・国体破壊を目論む者)に利用されやすいという、日本独特の難しい状況も語っている。
三島は、ナチスのユダヤ人虐殺と並ぶ史上最大の〈虐殺行為〉の被害を広島がアメリカから受けたにもかかわらず、日本人が「過ちは二度とくりかへしません」と原爆碑で掲げていることに疑問を呈し、〈原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文字は、終戦の詔勅の「五内為ニ裂ク」といふ一節以外に、私は知らない〉と述べている。そして、そうした〈民族的憤激〉や〈最大の屈辱〉を〈最大の誇り〉に転換するべく〈東京オリンピックに象徴される工業力誇示〉を進めてきた日本人だが、はたして〈そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか〉として、唯一の被爆国である日本こそが核武装する権利があるという見解を1967年(昭和42年)の時点で以下のように示している。
また、日本の自主防衛に関連し、1969年(昭和44年)に受けたカナダのTVインタビューでも、〈私は、多くの日本人が、日本での核の保有を認めるとは思いません〉と悲観的な予想を示しながら、自衛隊を二分し予備軍が国連軍に加わることで〈核兵器による武装が可能になる〉と答えている。そして自決前の『檄』の後半では、日本にとって不平等な核拡散防止条約 (NPT) のことも語っている。
この警告について西尾幹二は、三島が「明らかに核の脅威を及ぼしてくる外敵」を意識し、このままでよいのかと問いかけているとし、三島自決の6年前に中国が核実験に成功し、核保有の5大国としてNPTで特権的位置を占め、三島自決の1970年(昭和45年)に中国が国連に加盟して常任理事国となったことに触れながら、〈国家百年の大計にかかはる〉と三島が言った日本のNPTの署名(核武装の放棄)を政府が決断したのが、同年2月3日だった当時の時代背景を説明している。
そして、三島が〈あと二年の内〉と言った意味は、この2年の期間に日本政府とアメリカの間で沖縄返還を巡り、日本の恒久的な核武装放棄を要望するアメリカと中国の思惑などの準備と工作があり、日本の核武装放棄と代替に1972年(昭和47年)に佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞し、表向き沖縄返還がなされたことで、自衛隊が〈永遠にアメリカの傭兵として終る〉ことが暗示されていたと西尾は解説している。
このように、現実の世界情勢下における日本の防衛策としての核武装については、〈単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない〉というふうに、必要悪としての肯定的な考えを三島が持っていたことが散見できるが、それと同時に、核爆弾という大量殺戮兵器自体のモラルの無さについても言及しており、自分自身も必ず傷を負う一対一の決闘や、自死を覚悟の日本的な暗殺の決死の政治行為と引きくらべながら、自分がまったく安全な場所からボタン一つで人を殺戮するような行為を卑怯な暴力行為とみなし、石川淳との対談においても、〈技術が罪ないし肉にしっかり縛りつけられていることが人間的であるということ〉であり、〈技術が罪ないし肉を忘れたら、その瞬間、技術自体が堕落するかも〉しれず、そうなっていくと、集団的な技術になり、〈幾らでも非人間的な技術をつくれる〉と語っている。そして、〈自分に危険がないような暴力行為には全く意味がない。それにはモラルがないですからね。ですから、アウシュヴィッツや原子爆弾にはいまでも反対ですね〉とも述べている。
基本的な考えとして三島は、日本を日本以外の国から、何が日本かということを弁別する最終的なメルクマール(指標)は、〈天皇しかない〉としている。
また、工業化が進展しテレビやマスメディアなどの〈バカなコミュニケーション〉が発達し伝達機能が容易になればなるほど各人のバラバラがひどくなる「自己疎外」が起こって国民が分裂し孤立してきて、〈伝達することによって、何らそれを統合することはできない〉状態となった空間的社会において、それを統合するには〈空白のもの〉、空間的伝達からの〈断絶〉しかないと三島は考え、〈時代全体が空間的伝達によって動いている中で、時間的伝達をする人は一人しかいない、それが天皇だ〉としている。
三島は、〈天皇の政治上の無答責は憲法上に明記されねばならない〉とし、軍事の最終的指揮権を〈天皇に帰属せしむべきでない〉としている。これは天皇が日本の歴史の〈時間的連続性の象徴、祖先崇拝の象徴〉であり、〈神道の祭祀〉を国事行為として行ない、「神聖」と最終的に繋がっている存在ゆえに、〈天皇は、自らの神聖を恢復すべき義務を、国民に対して負ふ〉というのが三島の考えだからである。
この〈時間的連続性〉のことを三島は〈縦の軸〉(時間軸)とも呼び、敗戦の結果、戦後の日本社会が、国際的・経済的な空間軸(横の軸)ばかりになり、自国の伝統・文化・歴史の持続性・連続性である〈縦の軸〉が軽んじられているとしている。そして、冷戦時代に入り共産圏の国々においてすら、〈歴史の連続性〉の観念がなければ国家の平和や存立が危ぶまれるということに気づいているにもかかわらず、戦後から日本は時間(歴史)の連続性という〈縦の軸〉の重要性がないがしろにされ、国家の根本が危うくなっていると危惧している。
日本の〈歴史と文化の伝統の中心〉、〈祭祀国家の長〉である天皇は、〈国と民族の非分離の象徴で、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸である〉と説く三島は、〈文化概念としての天皇〉という理念を説き、伊勢神宮の造営や、歌道における本歌取りの法則などに見られるように、〈オリジナルとコピーの弁別を持たぬ〉日本の文化では、〈各代の天皇が、正に天皇その方であつて、天照大神とオリジナルとコピーの関係にはない〉ため、天皇は神聖で〈インパーソナルな〉存在であると主張している。
日本的な行動様式をもすべて包括する「文化」(菊)と、それを守る「剣」の原理(刀)の栄誉が、〈最終的に帰一する根源が天皇〉であり、天皇は日本が非常事態になった場合には、天皇文化が内包している「みやび」により、桜田門外の変や二・二六事件のような蹶起に手を差し伸べる形態になることもあると三島は説き、天皇は〈現状肯定のシンボルでもあり得るが、いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性〉を持つものとしている。
そうした〈ザインの国家像を否とし、ゾルレンの国家像を是とする者〉の革新のシンボルともなり得る天皇制における〈純粋性のダイナミクス〉、〈永久革命的性格〉を担うものこそが〈天皇信仰〉である三島は述べ、〈希望による維新であり、期待による蹶起〉の性質を持っていた二・二六事件は、〈「大御心に待つ」ことに重きを置いた革命〉であり、〈当為の革命、すなはち道義的革命〉の性格を担っていたとしている。
三島は、〈日本の改革の原動力は、必ず、極端な保守の形でしか現われず、時にはそれによってしか、西欧文明摂取の結果現われた積弊を除去できず、それによってしか、いわゆる「近代化」も可能ではない〉として、明治維新をみても結果的には〈開国論者がどうしてもやりたくてやれなかったことを、攘夷論者がやった〉という〈歴史の皮肉〉、〈アイロニカルな歴史意志〉があるとしている。
そして〈西欧化の腐敗と堕落に対する最大の批評的拠点〉、〈革新の原理〉であり、最終的に〈維新を「承引き」給う〉存在である祭祀王の天皇は、〈西欧化への最後のトリデとしての悲劇意志であり、純粋日本の敗北の宿命への洞察力と、そこから何ものかを汲みとろうとする意志の象徴〉であると三島は自身の天皇観を語りつつ、昭和の天皇制はすでにキリスト教が入り込んで西欧理念に蝕まれていたため、二・二六事件の「みやび」を理解する力を失っていたと批判している。
さらに戦後の政策により、「国民に親しまれる天皇制」という大衆社会化に追随したイメージ作りのため、まるで芸能人かのように皇室が週刊誌のネタにされるような〈週刊誌的天皇制〉に堕ちたことを三島は嘆き、天皇を民主化しようとしてやり過ぎた小泉信三のことを、皇室からディグニティ(威厳)を奪った〈大逆臣〉と呼び、痛罵している。
三島は、昭和天皇個人に対しては、〈反感を持っている〉とし、〈ぼくは戦後における天皇人間化という行為を、ぜんぶ否定しているんです〉と死の1週間前に行なわれた対談で発言しているが、この天皇の「人間宣言」に対する思いは、『英霊の聲』で端的に描かれ、「人間宣言」を指南した幣原喜重郎も批判している。
三島は、井上光晴が「三島さんは、おれよりも天皇に苛酷なんだね」と言ったことに触れ、天皇に過酷な要求をすることこそが天皇に対する一番の忠義であると語っている。また、〈幻の南朝〉に忠義を尽くしているとし、理想の天皇制は〈没我の精神〉であり、国家的エゴイズムや国民のエゴイズムを掣肘するファクターで、新嘗祭などの祭祀の重要性を説いている。
また、旧制学習院高等科を首席で卒業した際、昭和天皇(実際には朝融王との説が有力)に謁見し恩賜の銀時計を拝受したとも語っている(銀時計拝受は卒業式後に宮内省で行なわれた)。
終戦直後の20歳の時のノートにも、昭和天皇が「国民生活を明るくせよ。灯火管制は止めて街を明るくせよ。娯楽機関も復活させよ。親書の検閲の如きも即刻撤廃せよ」と命令した「大御心」への感銘を綴っている。
磯田光一は、三島の自決1か月前に、本当は腹を切る前に宮中で天皇を殺したいが宮中に入れないので自衛隊にしたと三島から聞かされた、という主旨を語っているが、これに対して持丸博は、用心深かった三島が事前に決起や自決を漏らすようなことを部外者に言うはずがない、という主旨の疑問を唱えている。
長く昭和天皇に側近として仕えた入江相政の日記『入江相政日記』の記述から、昭和天皇が三島や三島事件に少なからず関心を持っていたことが示されている。
なお、鈴木邦男は三島が女系天皇を容認しているメモを楯の会の「憲法研究会」のために残しているとして、昭和天皇が側室制度を廃止して十一家あった旧宮家を臣籍降下させたことなどにより、将来に必ず皇位継承問題が起こることを三島が批判的に予見していたという見解を示しているが、鈴木が見解の元としている松藤竹二郎の著書3冊にもそういったメモや伝言の具体的な提示はなく、松藤の著書には、三島の死後に「憲法研究会」によって作成された原案の概ねの内容を紹介しているだけで、鈴木はそれを「三島メモ」と勝手に言い換えてミスリードしている。元楯の会会員らや三島研究者の間でも三島が女系天皇を容認していたことを示すメモや文献の存在は確認されていない。また、三島が生前に「女帝」や「女系」天皇に言及したことはなく、「憲法研究会」に3度顔を見せた際も、男系・女系天皇について何の話もしていない。三島の文学や評論を仔細に見ている松本徹も、「三島文学やそこに書かれた三島の男性観・女性観からみて三島の女系天皇容認説はありえない」と述べている。
鈴木邦男が感心した「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」という案は、三島の死後に行われた「憲法研究会」における討議案のうち、あくまで1人の会員の意見として記載されているだけで、それに異議を唱える会員の意見もあり、「憲法研究会」の総意として掲げているわけではない。仔細に読めば、その後段の話し合いでも、「“継承は男系子孫に限ることはない”という文言は憲法に入れる必要ない」という結論となっている。
三島の天皇観は、国家や個人のエゴイズムを掣肘するファクター、反エゴイズムの代表として措定され、〈近代化、あらゆる工業化によるフラストレイションの最後の救世主〉として存在せしめようという考えであったが、三島の神風特攻隊への思いも、彼らの〈没我〉の純粋さへの賛美であり、美的天皇観と同じ心情に基づいている。
三島の考える〈純粋〉は、小説『奔馬』で多く語られているが、その中には〈あくまで歴史は全体と考へ、純粋性は超歴史的なものと考へたがよいと思ひます〉とあり、評論『葉隠入門』においても、政治的思想や理論からの正否と合理性を超えた純粋行為への考察がなされ、特攻隊の死についてもその側面からの言及がなされている。
三島は日本刀を〈魂である〉としていたが、特攻隊についても西欧・近代への反措定として捉えており、「大東亜戦争」についても、〈あの戦争が日本刀だけで戦つたのなら威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦つたのである。ただ一つ、真の日本的武器は、航空機を日本刀のやうに使つて斬死した特攻隊だけである〉としている。この捉え方は、戦時中、三島が学生であった頃の文面にも見られる。
敗戦時に新聞などが、〈幼拙なヒューマニズム〉で〈戦術〉と称して神風特攻隊員らを〈将棋の駒を動かすやうに〉功利・効能的に見て、そうしたジャーナリズムにより特攻隊の精神が冒涜され〈神の座と称号〉が奪われてしまったことへの憤懣の手記も、ノートに綴っていた。
また、三島は戦後に『きけ わだつみのこえ』が特攻隊員の遺書を〈作為的〉に編纂し、編者が高学歴の学生のインテリの文章だけ珍重して政治的プロパガンダに利用している点に異議を唱え、〈テメエはインテリだから偉い、大学生がむりやり殺されたんだからかわいそうだ、それじゃ小学校しか出ていないで兵隊にいって死んだやつはどうなる〉と唾棄している。
『きけ わだつみのこえ』を題材とした映画についても〈いはん方ない反感〉を感じたとし、フランス文学研究をしていた学生らが戦死した傍らにシャルル・ボードレールかポール・ヴェルレーヌの詩集の頁が風にちぎれているシーンが、ボードレールも墓の下で泣くであろうほど〈甚だしくバカバカしい印象〉だと酷評し、〈日本人がボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、祖国のために死んだはうが論理的〉であるとしている。
「愛国心」という言葉に対し、「愛妻家」という言葉と似た〈好かない〉感触を持つ三島は、その言葉は官製のイメージが強いとして〈自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向こう側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである〉とし、キリスト教的な「愛」(全人類的な愛)という言葉はそぐわず、日本語の「恋」や「大和魂」で十分であり、〈日本人の情緒的表現の最高のもの〉は「愛」ではなくて「恋」であると主張している。
「愛国心」の「愛」の意味が、もしもキリスト教的な愛ならば〈無限定無条件〉であるはずだから、「人類愛」と呼ぶなら筋が通るが、〈国境を以て閉ざされた愛〉である「愛国心」に使うのは筋が通らないとしている。
アメリカ合衆国とは違い、日本人にとって日本は〈内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的〉にあるものだと三島は主張し、〈われわれはとにかく日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である〉としている。
こうした日本人の中にある内在的・即自的なものを大事にする姿勢と相通じる考え方は、三島が18歳の時に東文彦に出した書簡の中にも見られ、〈我々のなかに『日本』がすんでゐないはずがない〉として以下のように述べている。
三島は、ある種の社会改革を目ざした二・二六事件の将校の行動や陽明学を肯定していたが、日本の精神文化とは相容れない唯物史観やマルキシズム、あるいは未来幻想を暗示する進歩主義に基づく革命には断固として反対の姿勢を示している。そして、戦後の左翼の多くが反戦・平和・民主主義という耳障りがいいスローガンを掲げながらもマルキシズムの革命戦術を駆使し、疎外者や不幸な人たちを革命のための一つの齣として利用し権力闘争の場面へ連れていく〈欺瞞〉的なやり方を〈道義性〉が失われていると批判している。
三島は、〈共産社会に階級がないというのは全くの迷信であって、これは巨大なビューロクラシーの社会であります。そしてこの階級制の蟻のごとき社会にならないために我々の社会が戦わなければならんというふうに私は考えるものです〉と述べ、共産主義支持の人が日本の階級制の存在を云々することに反問しながら、君主制のないアメリカの方が様々なメンバーシップや上流階級クラブなどのステイタス・シンボルが非常にたくさんあり、それらの甚だしい階級差や階級意識はアングロ・サクソンの文化の伝統でアメリカの成金が古いヨーロッパの階級を真似して作ったものであるとしている。そして、かたや共産主義も、日本の社会党や共産党の幹部が、一般庶民が持てないようなプール付きの別荘を軽井沢に保有している例や〈新しい階級〉について言及している。
1968年(昭和43年)に行なわれた学生とのティーチ・インにおいて、天皇制廃止論者の学生Fが、三島の『文化防衛論』に異議を唱え、天皇が支配した時代は多くの人間が奴隷であり一部の特権階級だけが属してきた文化は無意味だから、そんなものが伝統ならば壊した方がいいという主旨の発言で質問した際も、三島は以下のように反論している。
また三島は、戦後の革命勢力が教育現場や絵本・漫画を介して、支配者の天皇が奴隷の〈人民〉を虐待し支配していたという構図で日本に奴隷制があったかのように子供に教える動きがあることを非難し、学生Fにも、〈手塚治虫の漫画なんか見ると、あたかも人民闘争があって、奴隷制があって、神武天皇という奴隷の酋長がいて、奴隷を抑圧して(日本を)つくったように書いてあるが、あなたは手塚治虫の漫画を読み過ぎたんだ〉と言い返している。ラジオ番組「全国こども電話相談室」で日本神話について質問した子供に対して回答者の無着成恭が、唯物史観で神話を説明したり天岩戸を墓だと教えたりしていたことにも呆れていたが、三島は戦後まもない1948年(昭和23年)当時から、進歩主義的な文化破壊思想に嫌悪を持ち、フランス革命になぞって以下のようにも綴っている。
三島は、〈民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだ〉と前置きし、〈共産主義の粛清のほうが数が多いだけ、始末が悪い〉、〈暗殺の中にも悪い暗殺といい暗殺がある〉として、全体主義におけるアウシュビッツなどの大量殺人や粛正は、権力側が安全で何の危険もない立ち位置から秘密裏に行なう卑怯な行為であって、一対一の決闘的な意味合いを持った全身全霊を賭けた暗殺とは違うとしている。
そして、本来あるべき暗殺とは、〈暗殺者が必ずあとですぐ自殺するという日本の伝統〉に則した武士の作法でなければならないとして、旅客機に爆弾を仕掛けて関係のない人々を巻き込んだり、〈女子供〉を殺したりすることは絶対にやってはいけない卑劣な行為だと説明しながら、無関係な家政婦を殺した「嶋中事件」の小森を非難し、「浅沼稲次郎暗殺事件」の山口二矢については、〈非常にりっぱだ。あとでちゃんと自決しているからね。あれは日本の伝統にちゃんと従っている〉と認めている。
そうした捨て身の暗殺が日本からなくなってきたことと、政治の世界が茶番劇化してきたこととの関連性を三島は考察しながら、〈大体卵が先か鶏が先かよくわからぬが、政治家がみんな腰抜けになつたので暗殺がなくなつたのと同時に、暗殺がなくなつたから、政治家はますます腰抜けになつた〉、〈たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配がなかったら、いくらでも嘘がつける〉、〈口だけでいくらいっていても、別に血が出るわけでもない。痛くもないから、お互いに遠吠えする。民主主義の中には偽善というものがいつもひたひたと地下水のように身をひそめている〉とし、戦後アメリカによって与えられた憲法の下、〈美しき偽善〉で暮らしている一見平和な日本における国会と、その商売化した国会議員の仕事が、国民という〈お客〉に対する媚びを忘れず〈手先だけでコチョコチョと綺麗事を作成する仕事〉に堕したと語っている。
昔は、命を狙われた板垣退助のように「板垣死すとも自由は死なず」といった名文句まであったことを三島は例に挙げ、そんな身の危険のほとんどない戦後民主主義社会の政治状況と、〈言論と日本刀〉、〈一人の日本刀の言論〉という「千万人といへども我行かん」(孟子の言を元にした吉田松陰の言葉)の精神を以下のように対比的に語っている。
昭和の戦時下に少年・青年時代を送り徴兵の対象年齢にあった三島は、常に「死」というものを念頭に生きていた世代であり、そうした終末感的な状況下での創作活動の中で、自身を〈薄命の天才とも。日本の美的伝統の最後の若者とも。デカダン中のデカダン、頽唐期の最後の皇帝とも。それから、美の特攻隊とも〉夢想していた。しかし、その状況が一変し戦時中の価値が転倒した戦後社会においても、三島にとって「死」の観念は様々なコンプレックスや美意識との間で大きな命題でありつづけ、それが小説の中にも多彩に揺曳しており、「死」は「行動」という言葉とともに三島文学において最も多く用いられている語彙の一つとなっている。
そうした「死」の観念から生涯離れられなかった三島は、「死」を純粋と絶対の行為として、最終的には戦後社会との訣別を意味するような回帰的な「死」への行動に至っているが、『金閣寺』直前の30歳の時に書かれた随筆『小説家の休暇』では、〈行動家の世界は、いつも最後の一点を附加することで完成される環を、しじゆう眼前に描いてゐる〉と、芸術家の世界と対比し〈私は想像するのに、ただ一点を添加することによつて瞬時にその世界を完成する死のはうが、ずつと完成感は強烈ではあるまいか?〉と語っているなど、すでに晩年の行動家に至る死生観が、小説家としての絶頂期から内包されていることが指摘されている。
その『小説家の休暇』の中でも触れている『葉隠』(山本常朝著)を戦時中から愛読していた三島は、そこから様々な生きるヒントや活力源、哲学的なものを得られたとして、〈毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いはば同じだといふこと〉、〈われわれはけふ死ぬと思つて仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない〉という死生観を『葉隠入門』の中で述べている。
そういった、今日明日死ぬかもしれないという思いで生きる人生観・死生観は、他の評論でも散見され、人間とは何か理想や夢のために生きていくものではあるものの、〈より良き未来世界〉などというものを目途にして自分をその進歩や進化のプロセス(過程)とするような〈未来に夢を賭ける〉考えを三島は否定し、〈未来などといふことを考へるからいけない。だから未来といふ言葉を辞書から抹殺しなさいといふのが私の考へなのです〉と主張しながら、まずは〈明日がないのだと思ふ〉気構えが肝心だとしている。
また、人間は「未来」に向って成熟していくものではなくて、〈“日々に生き、日々に死ぬ”以外に成熟の方法を知らない〉のだとし、〈死といふ事を毎日毎日起り得る状況として捉へる〉ところから、〈自分の行動と日々のクリエーション〉の根拠やモラルが発見され、それが〈人間の行動の強さの源泉〉にもなると三島は主張している。
そして三島は、人間はいつ死ぬかも知れない〈果無い生命〉ではあるが、〈明日死ぬと思へば今日何かできる〉、〈明日がないのだと思ふからこそ、今日何かができるといふ〉のが、〈人間の全力的表現〉であり、そうした考え方や行動は「禅」の精神に通じると三島は語っている。
三島の作品や評論には、戦時下の同年代の若い兵士の死を、他人事のようには考えられなかった複雑な思いが随所に現われ、死の一週間前に行なわれた古林尚との対談においても、そうしたことが言及されているが、そこで三島は、戦後は〈余生〉という意識が〈いまだにあります〉と述べながら、戦時中に入営通知(召集令状)が来た際に毛筆で書いた遺書の気持から〈逃れられない〉と語っている。また、〈天皇陛下バンザイというその遺書の主旨は、いまでもぼくの内部に生きている〉とし、自身の本質が10代の時の日本浪曼派的な心性〈ロマンティーク〉だと悟るにつけ、そこに〈ハイムケール〉(帰郷)していき、その〈ハイムケールする自己に忠実〉である以外にないとしている。
死の4年前の41歳の時のNHKのインタビューでは、20歳で迎えた終戦の風景について、〈世界が崩壊するはずであるのに〉、まわりの木々の緑が夏の日を浴びて輝いているのが〈不思議でならなかった〉と振り返り、終戦の詔勅を聴いたときは〈空白感しか〉なかったと答え、その8月15日の〈激しい日光〉は〈私の心の中にずっと続いていくだろう〉と述べている。そして、三島は自身の死生観を以下のように語り、戦時中の、死が〈遠くない将来に来るんだというふうに考えていた〉当時のその心理状態は〈今の心理状態に比べて幸福だったんです〉とも発言している。
三島は、戦後の政府によって1946年(昭和21年)に改定された現代かなづかいを使わず、自身の原稿は終生、旧仮名遣ひを貫いた。三島は、言葉にちょっとでも実用的な原理や合理的な原理を導入したらもうだめだと主張し、中国人は漢字を全部簡略化したために古典が読めなくなったとしている。
また、敗戦後に日本語を廃止してフランス語を公用語にすべきと発言した志賀直哉について触れ、〈私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである〉と批判した。
国語教育についても、現代の教育で絶対に間違っていることの一つが〈古典主義教育の完全放棄〉だとし、〈古典の暗誦は、決して捨ててならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。ヨーロッパでもアメリカでも、古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし〉と主張している。
そして、中学生には原文でどんどん古典を読ませなければならないとし、古典の安易な現代語訳に反対を唱え、日本語の伝統や歴史的背景を無視した利便・実用第一主義を唾棄し、〈美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、アンチョコ製造よりもつと罪が深い。みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐる〉と文部省の役人や教育学者を批判し、自身の提案として〈ただカナばかりの原本を、漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、ルビを入れるとか、おもしろいたのしい脚注を入れるとか、それで美しい本を作るとか〉を先生たちにやってもらいたいと述べている。
三島は、日本人の古典教育が衰えていったのはすでに明治の官僚時代から始まっていたとし、文化が分からない人間(官僚)が日本語教育をいじり出して〈日本人が古典文学を本当に味わえないような教育をずっとやってきた〉と述べ、意味が分からなくても「読書百遍意おのずから通ず」で、小学生から『源氏物語』を暗唱させるべきだとしている。また、『論語』の暗唱、漢文を素読する本当の教え方が大事だとし、支那古典の教養がなくなってから日本人の文章がだらしなくなり、〈日本の文体〉も非常に弱くなったとしている。
生前、自身でも『のらくろ』時代から漫画・劇画好きなことをエッセイなどで公言していた三島の所蔵書には、水木しげる、つげ義春、好美のぼるらの漫画本があることが明らかになっている。
毎号、小学生の2人の子供と奪い合って赤塚不二夫の『もーれつア太郎』を読み、〈猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシ〉ファンを自認していた三島は、この漫画の徹底的な「ナンセンス」に、かつて三島が時代物劇画に求めていた〈破壊主義と共通する点〉を看取し、〈それはヒーローが一番ひどい目に会ふといふ主題の扱ひでも共通してゐる〉と賞讃している。平田弘史の時代物劇画の〈あくまで真摯でシリアスなタッチに、古い紙芝居のノスタルジヤと“絵金”的幕末趣味〉を発見して好んでいた三島は、白土三平はあまり好きでないとしている。
〈おそろしく下品で、おそろしく知的、といふやうな漫画〉を愛する三島は、〈他人の家がダイナマイトで爆発するのをゲラゲラ笑つて見てゐる人が、自分の家の床下でまさに別のダイナマイトが爆発しかかつてゐるのを、少しも知らないでゐるといふ状況〉こそが漫画であるとして、〈漫画は現代社会のもつともデスペレイトな部分、もつとも暗黒な部分につながつて、そこからダイナマイトを仕入れて来なければならない〉と語っている。
三島は、漫画家が〈啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点でもうおしまひである〉として、若者が教養を求めた時に与えられるものが、〈又しても古ぼけた大正教養主義のヒューマニズムやコスモポリタニズムであつてはたまらないのに、さうなりがちなこと〉を以下のように批判しながら、劇画や漫画に飽きた後も若者がその精神を忘れず、〈自ら突拍子もない教養〉、〈決して大衆社会へ巻き込まれることのない、貸本屋的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養〉を開拓してほしいとしている。
ボクシング好きで、自身も1年間ほどジムに通った経験のあった三島は、講談社の漫画誌『週刊少年マガジン』連載の『あしたのジョー』を毎週愛読していたが、発売日にちょうど映画『黒蜥蜴』の撮影で遅くなり、深夜に『マガジン』編集部に突然現れて、今日発売されたばかりの『マガジン』を売ってもらいたいと頼みに来たというエピソードがある。編集部ではお金のやりとりができないから1冊どうぞと差し出すと、三島は嬉しそうに持ち帰ったという。また、「よくみるTV番組は?」という『文藝春秋』のアンケートの問いに、『ウルトラマン』と答えている。
1954年(昭和29年)の映画『ゴジラ』は、公開直後は日本のジャーナリズムの評価が低く「ゲテモノ映画」「キワモノ映画」と酷評する向きが多勢であり、特撮面では絶賛されたものの各新聞の論評でも「人間ドラマの部分が余計」と酷評され、本多猪四郎監督の意図したものを汲んだ批評は見られなかったが、田中友幸によれば三島のみが「原爆の恐怖がよく出ており、着想も素晴らしく面白い映画だ」として、ドラマ部分を含めたすべてを絶賛してくれたという。
次第に三島の審美眼はプロの映画評論家にも一目置かれるようになり、荻昌弘や小森和子らとも対談もした。淀川長治は、「ワタシみたいなモンにでも気軽に話しかけてくださる。自由に冗談を言いあえる。数少ないホンモノの人間ですネ。(中略)あの人の持っている赤ちゃん精神。これが多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由でしょうネ」と三島について語っている。
SFにも関心を寄せていた三島は、1956年(昭和31年)に日本空飛ぶ円盤研究会に入会する(会員番号12)。1957年(昭和32年)6月8日には日活国際会館屋上での空飛ぶ円盤観測会に初参加した。なお、この観測会は、科学的な研究を主目的とする「日本空飛ぶ円盤研究会」(略称JFSA)のものではなく、UFO実在論を唱える別団体「宇宙友好協会」(略称CBA、1957年に設立)のものだとされている。1962年(昭和37年)にはSF性の強い小説『美しい星』を発表したが、その1年半前には夏には毎晩のように双眼鏡片手に屋上に昇っていたため、家人から「屋上の狂人」と呼ばれ、ついにある日瑤子夫人と自宅屋上でUFOを目撃している。
1963年(昭和38年)9月にはSF同人誌『宇宙塵』に寄稿し、〈私は心中、近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか、とさへ思つてゐるのである〉と記した。また、アーサー・C・クラークの『幼年期の終り』を絶賛し、〈随一の傑作と呼んで憚らない〉と評している。
東映任侠映画が〈大好き〉で、特に鶴田浩二の大ファンだった。1968年(昭和43年)公開の『博奕打ち 総長賭博』を『映画芸術』で絶賛し、それまでヤクザ映画は新聞などには一切無視されていたが、三島の称賛がヤクザ映画に市民権をもたらした最初の一歩になったといわれる。東映が任侠映画の試写をやっていた頃、三島は東映の試写によく来て、東映の岡田茂プロデューサーに「役者としてオレ(ヤクザ映画に)出ようか」と言ったら、「やめといた方がいいよ」と止められたという。東映が試写をやらなくなっても、東映の封切館に足を運び、普通にお金を払って一般客と交じって任侠映画をよく観ていた。
三島はサーカスなども好きで、8歳の時に観たハーゲンベック・サーカス東京公演やそれ以前に観た松旭斎天勝の手品にも心を奪われ、〈僕はキラキラした安つぽい挑発的な儚い華奢なものをすべて愛した〉と言っている。
大人になってからも、35歳の時に夫人同伴でロサンゼルスに行った折に初めて訪れたディズニーランドをとても気に入った様子で、そこで買ったドナルドダックの絵葉書で自宅にいる幼い娘・紀子宛てに、〈とても面白く、のり子ちやんの喜びさうなものが一杯ありました〉と書いて絵本や帽子も送っているが、それ以来、子供が小学生になったら一家でディズニーランドに行きたい、というのが三島の口癖となり、大人でもすごく楽しいからと母・倭文重にもぜひ見せたいと言っていたという。
三島が死の覚悟をすでに固めていた1970年(昭和45年)の正月にも、2人の子供を連れて家族でディズニーランドに行こうと度々提案していたが、瑤子夫人は『豊饒の海』が完結した後にしたいと断ったため、三島の一家揃ってのディズニーランド再訪の夢は叶うことがないまま終った。
出自も参照のこと。
永井氏系譜(武家家伝)
三島は〈私は血すぢでは百姓とサムラヒの末裔〉として、〈サムラヒ〉の血脈を永井家・松平家に見ている。
映画『人斬り』(1969年)で、薩摩藩士・田中新兵衛の役を演じた時には、〈新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正の曽々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう〉と林房雄宛てに綴っているが、この高祖父〈永井主水正〉が、三島の祖母・夏子の祖父にあたる永井尚志である。
永井尚志は、長崎海軍伝習所の総監理(所長)として長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍し、徳川幕府海軍創設に甚大な貢献をなして、1855年(安政2年)、従五位下・玄蕃頭に叙任した人物である。
尚志はその後、外国奉行、軍艦奉行、京都町奉行となり、京摂の間、坂本龍馬等志士とも交渉を持った。1867年(慶応3年)に若年寄となり、戊辰戦争では、箱館奉行として榎本武揚と共に五稜郭に立て籠り、官軍に敗れて牢に入った。明治維新後は解放され、元老院権大書記官となった。
大屋敦(夏子の弟)は祖父・永井尚志について、「波乱に富んだ一生を送った祖父は、政治家というより、文人ともいうべき人であった。徳川慶喜公が大政奉還する際、その奏上文を草案した人として名を知られている。勝海舟なども詩友として祖父に兄事していたため、私の昔の家に、海舟のたくさんの遺墨のあったことを記憶している」と語っている。
永井亨(夏子の弟で、経済学博士・人口問題研究所所長)によると、尚志は京都では守護職の松平容保(会津藩主)の下ではたらき、近藤勇、土方歳三以下の新撰組の面々にも人気があったとされる。晩年の尚志は、向島の岩瀬肥後守という早世した親友の別荘に入り、岩瀬のことを死ぬまで祭祀していたという。
夏子の父・永井岩之丞は、1846年(弘化2年)9月に永井家一族の幕臣・三好山城守幽雙の二男として生まれ、永井尚志の養子となった。戊辰戦争では品川を脱出し、尚志と共に函館の五稜郭に立て籠って戦った。維新後は、司法省十等出仕を命ぜられ、判事、控訴院判事を経て、1894年(明治27年)4月に大審院判事となった人物である。
岩之丞は、水戸の支藩・宍戸藩の藩主・松平頼位の三女・松平鷹(のちに高)と結婚し、六男六女を儲けた。松平高の母・糸(佐藤氏の娘)は松平頼位の側室で、新門辰五郎の姪であった。松平頼位の長男・松平頼徳は天狗党の乱の際に幕府から切腹を命じられて33歳で死んだ人物である。夏子の祖父にあたる松平頼位の先祖を辿っていくと徳川家康になるため、三島は夏子の家系の松平家を通じ徳川家康の子孫となる。
岩之丞の六男・大屋敦は父親について、「厳格そのもののような人」で、「子供の教育については、なにひとつ干渉しなかったが日常の起居は古武士のようであぐらなどかいた姿を、ただの一度も見たことはなかった」と語っている。
三島は曽祖母・高の写真の印象を、〈美しくて豪毅な女性〉とし、〈写真で見る晩年の面影からも、眉のあたりの勝気のさはやかな感じと、秀でた鼻と、小さなつつましい形のよい口とが、微妙で雅趣のある調和を示してゐる。そこには封建時代の女性に特有なストイックな清冽さに充ちた稍々非情な美が見られるのである〉と表現している。
永井家・松平家の血脈が〈サムラヒ〉「武」とすれば、橋家は三島にとって「文」の血脈となる。
三島の母・倭文重の祖父・橋健三、曽祖父・橋健堂、高祖父・橋一巴(雅号・鵠山)は、加賀藩藩主・前田家に代々仕えた漢学者・書家であった。名字帯刀を許され、学塾において藩主・前田家の人々に講義をしていた。
高祖父・一巴以前の橋家は、近江八幡(滋賀県にある琵琶湖畔、日野川の近く)の広大な山林の持主の賀茂(橋)一族である。1970年(昭和45年)の滋賀県の調査により、この土地が賀茂(橋)一族の橋一巴、健堂、健三の流れを汲む直系の子孫に所有権があることが判明した。賀茂(橋)家は、約一千年の歴史をもつ古い家柄の京都の橋家が元で、島根県の出雲の出身である。
曽祖父・橋健堂は、平民・女子教育の充実など教育者として先駆的であったが、健堂が出仕した「壮猶館」や、「集学所」(夜間学校のはしり)は、藩の重要プロジェクトと連動し、単に儒学を修める藩校だけでなく、英語や洋式兵学も教え、ペリー率いる黒船の来航に刺激された加賀藩が、命運を賭して創設した軍事機関でもあった。教授であった健堂はその軍事拠点の中枢にあり、海防論を戦わせ、佐野鼎から洋式兵学を吸収する立場の人物であった。
健堂が学び、親交を持った佐野鼎は、共立学校(現・開成中学校・高等学校)の創設者であり、婿養子の健三は5代目の開成中学校校長を務めた。健三の長男・健行も開成中学校に通った(開成との縁については、三島の祖父・定太郎も開成の前身・共立学校出身で、永井家の高祖父・永井尚志が1848年に学問吟味に合格した昌平坂学問所もまた開成との歴史的つながりがあり、尚志の孫で三島の大叔父にあたる大屋敦や、三島の父・平岡梓、息子・威一郎も開成中学校出身者である)。
★印は学習院時代の作品。◎印は映画化された作品。◇印はテレビ・ラジオドラマ化(朗読含む)された作品。△印は漫画化された作品。■印は三島自身の肉声資料があるもの。
☆印は潤色・修辞作品
□印は三島以外の原作・脚本。
記事立項されていない作品の映画化のみ記載。立項されている作品は、作品リストの◎印(映画化)、◇印(テレビ・ラジオドラマ化)の当該記事内を参照のこと。
初版刊行本を記載(後発の刊行情報は各記事を参照)。▲印は限定本。ダッシュ以下は収録作品、説明など。
著作権は、酒井著作権事務所が一括管理している。2010年11月時点で三島の著作は累計発行部数2400万部以上。
刊行年月は原則初版のみ記載。
記事立項されている「サーカス」朗読に附随したインタビュー、東大全共闘との討論会、檄文演説などは各記事を参照。
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"text": "三島 由紀夫(みしま ゆきお、1925年〈大正14年〉1月14日 - 1970年〈昭和45年〉11月25日)は、日本の小説家、劇作家、随筆家、評論家、政治活動家。本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ)。",
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"text": "戦後の日本の文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、日本国外においても広く認められた作家である。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある。",
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"text": "代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴である。",
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"text": "晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日(水曜日)、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。バルコニーで自衛隊員にクーデターを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた。この一件は社会に大きな衝撃を与え、新右翼が生まれるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた(詳細は「三島事件」を参照)。",
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"text": "満年齢と昭和の年数が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い。",
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"text": "※ なお、以下では三島自身の言葉や著作からの引用部を〈 〉で括ることとする(家族・知人ら他者の述懐、評者の論評、成句、年譜などからの引用部との区別のため)。",
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"text": "#家族・親族も参照。",
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"text": "1925年(大正14年)1月14日(水曜日)、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷四丁目22番)において、父・平岡梓(当時30歳)と母・倭文重(当時19歳)の間の長男として誕生。体重は650匁(約2,438グラム)だった。「公威」の名は祖父・定太郎による命名で、定太郎の恩人で同郷の土木工学者・古市公威男爵にあやかって名付けられた。",
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"text": "家は借家であったが同番地内で一番大きく、かなり広い和洋折衷の二階家で、家族(両親と父方の祖父母)の他に女中6人と書生や下男が居た(彼らは定太郎の故郷から来た親族だった)。祖父は借財を抱えていたため、一階には目ぼしい家財はもう残っていなかった。兄弟は、3年後に妹・美津子、5年後に弟・千之が生まれた。",
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"text": "父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格したが、面接官に悪印象を持たれて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止に伴い、農林省に異動)に勤務していた。岸信介、我妻栄、三輪寿壮とは一高、帝大の同窓であった。",
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"text": "母・倭文重は、加賀藩藩主・前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。父(三島の外祖父)は東京開成中学校の5代目校長で、漢学者・橋健三。",
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"text": "祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村大字上富木(現・兵庫県加古川市志方町上富木)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業後、内務省に入省し内務官僚となる。1893年(明治26年)、武家の娘である永井夏子と結婚し、福島県知事、樺太庁長官などを務めたが、疑獄事件で失脚した(のちに無罪判決)。",
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"text": "祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・永井岩之丞(大審院判事)と、母・高(常陸宍戸藩藩主・松平頼位が側室との間にもうけた娘)の間に長女として生まれた。夏子の母方の祖父・松平頼位の血筋を辿っていくと徳川家康に繋がっている。夏子は12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えた。夏子の祖父は江戸幕府若年寄の永井尚志。なお、永井岩之丞の同僚・柳田直平の養子が柳田國男で、平岡定太郎と同じ兵庫県出身という縁もあった柳田国男は、夏子の家庭とは早くから交流があった。",
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"text": "作家・永井荷風の永井家と夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)で、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる。公威は、荷風の風貌と似ている梓のことを陰で「永井荷風先生」と呼んでいた。なお、夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた。",
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"text": "祖父、父、そして息子の三島由紀夫と、三代にわたって同じ大学の学部を卒業した官僚の家柄であった。江戸幕府の重臣を務めた永井尚志の行政・統治に関わる政治は、平岡家の血脈や意識に深く浸透したのではないかと推測される。",
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"text": "公威と祖母・夏子とは、学習院中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実のもと、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母親の倭文重が授乳する際も懐中時計で時間を計った。夏子は坐骨神経痛の痛みで臥せっていることが多く、家族の中でヒステリックな振る舞いに及ぶこともたびたびで、行儀作法に厳しかった。",
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"text": "公威は物差しやはたきを振り回すのが好きであったが没収され、車や鉄砲などの音の出る玩具も御法度となり、外での男の子らしい遊びも禁じられた。夏子は孫の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、公威に女言葉を使わせた。1930年(昭和5年)1月、5歳の公威は自家中毒にかかり、死の一歩手前までいく。病弱な公威のため、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育をした。その一方、歌舞伎、谷崎潤一郎、泉鏡花などの夏子の好みは、後年の公威の小説家および劇作家としての素養を培った。",
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"text": "1931年(昭和6年)4月、公威は学習院初等科に入学した。公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある夏子の意向が強く働いていた。平岡家は定太郎が元樺太庁長官だったが平民階級だったため、華族中心の学校であった学習院に入学するには紹介者が必要となり、夏子の伯父・松平頼安(上野東照宮社司。三島の小説『神官』『好色』『怪物』『領主』のモデル)が保証人となった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "しかし華族中心とはいえ、かつて乃木希典が院長をしていた学習院の気風は質実剛健が基本にあり、時代の波が満州事変勃発など戦争へと移行していく中、校内も硬派が優勢を占めていた。級友だった三谷信は学習院入学当時の公威の印象を以下のように述懐している。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "公威は初等科1、2年から詩や俳句などを初等科機関誌『小ざくら』に発表し始めた。読書に親しみ、世界童話集、印度童話集、『千夜一夜物語』、小川未明、鈴木三重吉、ストリンドベルヒの童話、北原白秋、フランス近代詩、丸山薫や草野心平の詩、講談社『少年倶楽部』(山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸ら)、『スピード太郎』などを愛読した。自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は肺門リンパ腺炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "初等科3年の時は、作文「ふくろふ」の〈フウロフ、貴女は森の女王です〉という内容に対し、国語担当の鈴木弘一から「題材を現在にとれ」と注意されるなど、国語(綴方)の成績は中程度であった。主治医の方針で日光に当たることを禁じられていた公威は、〈日に当ること不可然(しかるべからず)〉と言って日影を選んで過ごしていたため、虚弱体質で色が青白く、当時の綽名は「蝋燭」「アオジロ」であった。",
"title": "生涯"
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"text": "初等科6年の時には校内の悪童から「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれているのを三谷が目撃している。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "この6年生の時の1936年(昭和11年)には、2月26日に二・二六事件があった。急遽、授業は1時限目で取り止めとなり、いかなることに遭っても「学習院学生たる矜り」を忘れてはならないと先生から訓示を受けて帰宅した。6月には〈非常な威厳と尊さがひらめいて居る〉と日の丸を表現した作文「わが国旗」を書いた。",
"title": "生涯"
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"text": "1937年(昭和12年)、学習院中等科に進んだ4月、両親の転居に伴い祖父母のもとを離れ、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤二丁目4番8号)の借家で両親と妹・弟と暮らすようになった。夏子は、1週間に1度公威が泊まりに来ることを約束させ、日夜公威の写真を抱きしめて泣いた。虚弱な公威は中等科でも同級生にからかわれ、屋上から鞄を落とされたり(万年筆3本折れる)、学食で皿に醤油をドバドバかけられ野菜サラダを食べられなくさせられたりという、イジメをずいぶん受けた。",
"title": "生涯"
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"text": "公威は文芸部に入り、同年7月、学習院校内誌『輔仁会雑誌』159号に作文「春草抄――初等科時代の思ひ出」を発表。自作の散文が初めて活字となった。中等科から国語担当になった岩田九郎(俳句会「木犀会」主宰の俳人)に作文や短歌の才能を認められ成績も上がった。以後、『輔仁会雑誌』には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や散文作品、戯曲を発表することとなる。11、12歳頃、ワイルドに魅せられ、やがて谷崎潤一郎、ラディゲなども読み始めた。",
"title": "生涯"
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"text": "7月に盧溝橋事件が発生し、日中戦争となった。この年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民と出会い、文学交遊を結んだ。初対面の時の公威の印象を坊城は「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った」とし、その時の光景を以下のように語っている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1938年(昭和13年)1月頃、初めての短編小説「酸模――秋彦の幼き思ひ出」を書き、同時期の「座禅物語」などとともに3月の『輔仁会雑誌』に発表された。この頃、学校の剣道の早朝寒稽古に率先して起床していた公威は、稽古のあとに出される味噌汁がうまくてたまらないと母に自慢するなど、中等科に上がり徐々に身体も丈夫になっていった。同年10月、祖母・夏子に連れられて初めて歌舞伎(『仮名手本忠臣蔵』)を観劇し、初めての能(天岩戸の神遊びを題材にした『三輪』)も母方の祖母・橋トミにも連れられて観た。この体験以降、公威は歌舞伎や能の観劇に夢中になり、その後17歳から観劇記録「平岡公威劇評集」(「芝居日記」)を付け始める。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "1939年(昭和14年)1月18日、祖母・夏子が潰瘍出血のため、小石川区駕籠町(現・文京区本駒込)の山川内科医院で死去(没年齢62歳)。同年4月、前年から学習院に転任していた清水文雄が国語の担当となり、国文法、作文の教師に加わった。和泉式部研究家でもある清水は三島の生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた。同年9月、ヨーロッパではドイツ国のポーランド侵攻を受けて、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1940年(昭和15年)1月に、後年の作風を彷彿とさせる破滅的心情の詩「凶ごと」を書く。同年、母・倭文重に連れられ、下落合に住む詩人・川路柳虹を訪問し、以後何度か師事を受けた。倭文重の父・橋健三と川路柳虹は友人でもあった。同年2月に山路閑古主宰の月刊俳句雑誌『山梔』に俳句や詩歌を発表。前年から、綽名のアオジロ、青びょうたん、白ッ子をもじって自ら「青城」の俳号を名乗り、1年半ほどさかんに俳句や詩歌を『山梔』に投稿する。",
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"paragraph_id": 29,
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"text": "同年6月に文芸部委員に選出され(委員長は坊城俊民)、11月に、堀辰雄の文体の影響を受けた短編「彩絵硝子」を校内誌『輔仁会雑誌』に発表。これを読んだ同校先輩の東文彦から初めて手紙をもらったのを機に文通が始まり、同じく先輩の徳川義恭とも交友を持ち始める。東は結核を患い、大森区(現・大田区)田園調布3-20の自宅で療養しながら室生犀星や堀辰雄の指導を受けて創作活動をしていた。一方、坊城俊民との交友は徐々に疎遠となっていき、この時の複雑な心情は、のちに『詩を書く少年』に描かれる。",
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"text": "この少年時代は、ラディゲ、ワイルド、谷崎潤一郎のほか、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マン、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、エドガー・アラン・ポー、リラダン、モオラン、ボードレール、メリメ、ジョイス、プルースト、カロッサ、ニーチェ、泉鏡花、芥川龍之介、志賀直哉、中原中也、田中冬二、立原道造、宮沢賢治、稲垣足穂、室生犀星、佐藤春夫、堀辰雄、伊東静雄、保田與重郎、梶井基次郎、川端康成、郡虎彦、森鷗外の戯曲、浄瑠璃、『万葉集』『古事記』『枕草子』『源氏物語』『和泉式部日記』なども愛読するようになった。",
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"paragraph_id": 31,
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"text": "1941年(昭和16年)1月21日に父・梓が農林省水産局長に就任し、約3年間単身赴任していた大阪から帰京。相変わらず文学に夢中の息子を叱りつけ、原稿用紙を片っ端からビリビリ破いた。公威は黙って下を向き、目に涙をためていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "同年4月、中等科5年に進級した公威は、7月に「花ざかりの森」を書き上げ、国語教師の清水文雄に原稿を郵送して批評を請うた。清水は、「私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされ」るような感銘を受け、自身が所属する日本浪曼派系国文学雑誌『文藝文化』の同人たち(蓮田善明、池田勉、栗山理一)にも読ませるため、静岡県の伊豆修善寺温泉の新井旅館での一泊旅行を兼ねた編集会議に、その原稿を持参した。「花ざかりの森」を読んだ彼らは、「天才」が現われたことを祝福し合い、同誌掲載を即決した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "その際、同誌の読者圏が全国に広がっていたため、息子の文学活動を反対する平岡梓の反応など、まだ16歳の公威の将来を案じ、本名「平岡公威」でなく、筆名を使わせることとなった。清水は、「今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい ――というのが、期せずして一致した同人の意向であった」と、合宿会議を回想している。筆名を考えている時、清水たちの脳裏に「三島」を通ってきたことと、富士の白雪を見て「ゆきお」が思い浮かんできた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "帰京後、清水が筆名使用を提案すると、公威は当初本名を主張したが受け入れ、「伊藤左千夫(いとうさちお)」のような万葉風の名を希望した。結局「由紀雄」とし、「雄」の字が重すぎるという清水の助言で、「三島由紀夫」となった。「由紀」は、大嘗祭の神事に用いる新穀を奉るため選ばれた2つの国郡のうちの第1のものを指す「由紀」(斎忌、悠紀、由基)の字にちなんで付けられた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "リルケと保田與重郎の影響を受けた「花ざかりの森」は、『文藝文化』昭和16年9月号から12月号に連載された。第1回目の編集後記で蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した。この賞讃の言葉は、公威の意識に大きな影響を与えた。この9月、公威は随想「惟神之道(かんながらのみち)」をノートに記し、〈地上と高天原との懸橋〉となる惟神之道の根本理念の〈まことごゝろ〉を〈人間本然のものでありながら日本人に於て最も顕著〉であり、〈豊葦原之邦の創造の精神である〉と、神道への深い傾倒を寄せた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "日中戦争の拡大や日独伊三国同盟の締結によりイギリスやアメリカ合衆国と対立を深めていた日本は、この年になり行われた南部仏印進駐以降、次第に全面戦争突入が濃厚となるが、公威は〈もう時期は遅いでせう〉とも考えていた。12月8日に行われたマレー作戦と真珠湾攻撃によって日本はついにイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国と開戦し、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まった。開戦当日、教室にやって来た馬術部の先輩から、「戦争がはじまった。しっかりやろう」と感激した口ぶりで話かけられ、公威も〈なんともいへない興奮〉にかられた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1942年(昭和17年)1月31日、公威は前年11月から書き始めていた評論「王朝心理文学小史」を学習院図書館懸賞論文として提出(この論文は、翌年1月に入選)。3月24日、席次2番で中等科を卒業し、4月に学習院高等科文科乙類(独語)に進んだ。公威は、体操と物理の「中上」を除けば、きわめて優秀な学生であった。運動は苦手であったが、高等科での教練の成績は常に「上」(甲)で、教官から根性があると精神力を褒められたことを、公威は誇りとしていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ドイツ語はロベルト・シンチンゲル(ドイツ語版)に師事し、ほかの教師も桜井和市、新関良三、野村行一(1957年の東宮大夫在職中に死去)らがいた。後年ドナルド・キーンがドイツで講演をした際、一聴衆として会場にいたシンチンゲルが立ち上がり、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。彼が一番だった」と言ったエピソードがあるほど、ドイツ語は得意であった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "各地で日本軍が勝利を重ねていた同年4月、大東亜戦争開戦の静かな感動を厳かに綴った詩「大詔」を『文藝文化』に発表。同年5月23日、文芸部委員長に選出された公威は、7月1日に東文彦や徳川義恭(東京帝国大学文学部に進学)と共に同人誌『赤繪』を創刊し、「苧菟と瑪耶」を掲載した。誌名の由来は志賀直哉の『万暦赤繪』にあやかって付けられた。公威は彼らとの友情を深め、病床の東とはさらに文通を重ねた。同年8月26日、祖父・定太郎が死亡(没年齢79歳)。公威は詩「挽歌一篇」を作った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "同年11月、学習院の講演依頼のため、清水文雄に連れられて保田與重郎と面会し、以後何度か訪問する。公威は保田與重郎、蓮田善明、伊東静雄ら日本浪曼派の影響下で、詩や小説、随筆を同人誌『文藝文化』に発表し、特に蓮田の説く「皇国思想」「やまとごころ」「みやび」の心に感銘した。公威が「みのもの月」、随筆「伊勢物語のこと」を掲載した昭和17年11月号には、蓮田が「神風連のこころ」と題した一文を掲載。これは蓮田にとって熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠が著した『神風連のこころ』(國民評論社、1942年)の書評であるが、この一文や森本の著書を読んでいた公威は、後年の1966年(昭和41年)8月に、神風連の地・熊本を訪れ、森本忠(熊本商科大学教授)と面会することになる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 41,
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"text": "ちなみに、三島の死後に村松剛が倭文重から聞いた話として、三島が中等科卒業前に一高の入試を受験し不合格となっていたという説もあるが、三島が中等科5年時の9月25日付の東文彦宛の書簡には、高等科は文科乙類(独語)にすると伝える記述があり、三島本人はそのまま文芸部の基盤が形成されていた学習院の高等科へ進む意思であったことが示されている。なお、三島が一高を受験したかどうかは、母・倭文重の証言だけで事実関係が不明であるため、全集の年譜にも補足として、「学習院在学中には他校の受験はできなかったという説もある」と付記されている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1943年(昭和18年)2月24日、公威は学習院輔仁会の総務部総務幹事となった。同年6月6日の輔仁会春季文化大会では、自作・演出の劇『やがてみ楯と』(2幕4場)が上演された(当初は翻訳劇を企画したが、時局に合わないということで山梨勝之進学習院長から許可が出ず、やむなく公威が創作劇を書いた)。3月から『文藝文化』に「世々に残さん」を発表。同年5月、公威の「花ざかりの森」などの作品集を出版化することを伊東静雄と相談していた蓮田善明は、京都に住む富士正晴を紹介され、新人「三島」に興味を持っていた富士も出版に乗り気になった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "同年6月、月1回東京へ出張していた富士正晴は公威と会い、西巣鴨に住む医師で詩人の林富士馬宅へも連れていった。それ以降数年間、公威は林と文学的文通など親しく交際するようになった。8月、富士が公威の本の初出版について、「ひとがしないのならわたしが骨折つてでもしたい」と述べ、蓮田も、「国文学の中から語りいでられた霊のやうなひとである」と公威を讃えた。蓮田は公威に葉書を送り、「詩友富士正晴氏が、あなたの小説の本を然るべき書店より出版することに熱心に考へられ目当てある由、もしよろしければ同氏の好意をうけられたく」と、作品原稿を富士に送付するよう勧めた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "英米との戦争が激化していく中、公威は〈アメリカのやうな劣弱下等な文化の国、あんなものにまけてたまるかと思ひます〉、〈米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでせう。俗な精神が世界を蔽うた時、それは世界の滅亡です〉と神聖な日本古代精神の勝利を願った。なお、公威は同盟国のイタリアの最高指導者ベニート・ムッソリーニに好感を抱いていながらも、ナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラーには嫌悪感を持っていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "同年10月8日、そんな便りをやり取りしていた東文彦が23歳の若さで急逝し、公威は弔辞を奉げた。東の死により、同人誌『赤繪』は2号で廃刊となった。文彦の父・東季彦によると、三島は死ぬまで文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという。なお、この年に公威は杉並区成宗の堀辰雄宅を訪ね、堀から〈シンプルになれ〉という助言を受けていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "当時の世情は国民に〈儀礼の強要〉をし、戦没兵士の追悼式など事あるごとにオーケストラが騒がしく「海往かば」を演奏し、ラウド・スピーカーで〈御託宣をならべる〉気風であったが、公威はそういった大仰さを、〈まるで浅草あたりの場末の芝居小屋の時局便乗劇そのまゝにて、冒瀆も甚だしく、憤懣にたへません〉と批判し、ただ心静かに〈戦歿勇士に祈念〉とだけ言えばいいのだと友人の徳川義恭へ伝えている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "この年の10月には在学徴集延期臨時特例が公布され、文科系の学生は徴兵猶予が停止された。公威は早生まれのため該当しなかったが、来年20歳になる同級生のほとんど(大正13年4月以降の同年生まれ)は12月までに入隊が義務づけられた(学徒出陣)。それに先んじて、10月21日に雨の中、明治神宮外苑競技場にて盛大な「出陣学徒壮行会」が行なわれ、公威もそのニュースを重大な関心を持って聴いていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "同年10月25日、蓮田善明は召集令状を受けて熊本へ行く前、「日本のあとのことをおまえに託した」と公威に言い遺し、翌日、陸軍中尉の軍装と純白の手袋をして宮城前広場で皇居を拝んだ。公威は日本の行く末と美的天皇主義(尊皇)を蓮田から託された形となった。富士正晴も戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という一首を公威に送った。同年12月、徴兵適齢臨時特例が公布され、徴兵適齢が19歳に引き下げられることになった。公威は来年に迫った自身の入隊を覚悟した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1944年(昭和19年)4月27日、公威も本籍地の兵庫県印南郡志方村村長発信の徴兵検査通達書を受け取り、5月16日、兵庫県加古郡加古川町(現・加古川市)の加古川町公会堂で徴兵検査を受けた。公会堂の現在も残る松の下で、十貫(約40キログラム)の砂を入れた米俵を持ち上げるなどの検査もあった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "本籍地にほど近い加古川で徴兵検査を受けたのは、〈田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵〉であったが、結果は第二乙種で合格となり、その隊に入隊することとなった(召集令状は翌年2月)。徴兵合格を知った母・倭文重は悲泣し、当てが外れた父・梓も気落ちした。級友の三谷信など同級生の大半が特別幹部候補生として志願していたが、公威は一兵卒として応召されるつもりであった。それは、どうせ死ぬのならば1日でも長く1行でも多く書いていられる方を平岡が選んだのだと三谷は思った。",
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"text": "徴兵検査合格の帰途の5月17日、大阪の住吉中学校で教師をしている伊東静雄を訪ね、支那出征前に一時帰郷していた富士正晴宅を一緒に訪ねた。5月22日は、遺著となるであろう処女出版本『花ざかりの森』の序文を依頼するために伊東静雄の家に行くが、彼から悪感情を持たれて「学校に三時頃平岡来る。夕食を出す。俗人、神堀来る。リンゴを呉れる。九時頃までゐる。駅に送る」などと日記に書かれた。しかし、伊東はのちに『花ざかりの森』献呈の返礼で、会う機会が少なすぎた感じがすることなどを公威に伝え、戦後には『岬にての物語』を読んで公威への評価を見直すことになる。",
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"text": "1944年(昭和19年)9月9日、学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となった。卒業式には昭和天皇が臨席し、宮内省より天皇からの恩賜の銀時計を拝受され、駐日ドイツ大使からはドイツ文学の原書3冊(ナチスのハーケンクロイツ入り)をもらった。御礼言上に、学習院長・山梨勝之進海軍大将と共に宮内へ参内し、謝恩会で華族会館から図書数冊も贈られた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 53,
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"text": "大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・梓の説得により、同年10月1日には東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。そこで学んだ団藤重光教授による刑事訴訟法講義の〈徹底した論理の進行〉に魅惑され、修得した法学の論理性が小説や戯曲の創作においてきわめて有用となり、のちに三島は父・梓に感謝する。父は公威が文学に熱中することに反対して度々執筆活動を妨害していたが、息子を法学部に進学させたことにより、三島の文学に日本文学史上稀有な論理性をもたらしたことは梓の貢献であった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 54,
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"text": "出版統制の厳しく紙不足の中、〈この世の形見〉として『花ざかりの森』刊行に公威は奔走した。同年10月に処女短編集『花ざかりの森』(装幀は友人・徳川義恭)が七丈書院で出版された。公威は17日に届いた見本本1冊をまず、入隊直前の三谷信に上野駅で献呈した。息子の文学活動に反対していた父・梓であったが、いずれ召集されてしまう公威のため、11月11日に上野(下谷区)池之端(現・台東区池之端)の中華料理店・雨月荘で出版記念会を開いてやり、母・倭文重、清水文雄ら『文藝文化』同人、徳川義恭、林富士馬などが出席した。",
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"paragraph_id": 55,
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"text": "書店に並んだ『花ざかりの森』は、学生当時の吉本隆明や芥川比呂志らも買って読み、各高の文芸部や文学青年の間に学習院に「三島」という早熟な天才少年がいるという噂が流れた。しかし、公威が同人となっていた日本浪曼派の『文藝文化』も物資不足や企業整備の流れの中、雑誌統合要請のために8月をもって通巻70号で終刊となっていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 56,
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"text": "1945年(昭和20年)、いよいよ戦況は逼迫して大学の授業は中断され、公威は1月10日から「東京帝国大学勤労報国隊」として、群馬県新田郡太田町の中島飛行機小泉製作所に勤労動員され、総務部調査課配属となった。事務作業に従事しつつ、公威は小説「中世」を書き続ける。以前、保田與重郎に謡曲の文体について質問した際に期待した浪漫主義的答えを得られなかった思いを「中世」に書き綴ることで、人工的な豪華な言語による絶望感に裏打ちされた終末観の美学の作品化に挑戦し、中河与一の厚意によって第1回と第2回の途中までを雑誌『文藝世紀』に発表した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "誕生日の1月14日、思いがけず帰京でき、母・倭文重が焼いてくれたホットケーキを美味しく食べた(この思い出は後年、遺作『天人五衰』に描かれることになる)。2月4日に入営通知の電報が自宅へ届いた。公威は〈天皇陛下萬歳〉と終りに記した遺書を書き、遺髪と遺爪を用意した。中島飛行機小泉製作所を離れることになったが、軍用機工場は前年から本格化していたアメリカ軍による日本本土空襲の優先目標であった。公威が入隊検査を受けた10日、小泉製作所はアメリカ軍の爆撃機による大空襲を受け、結果的に応召は三島の罹災をまぬがれさせる結果となった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "同年2月6日、髪を振り乱して泣く母・倭文重に見送られ、公威は父・梓と一緒に兵庫県富合村高岡廠舎へ出立した。風邪で寝込んでいた母から移った気管支炎による眩暈や高熱の症状を出していた公威は、滞在先の志方村の知人の家(好田光伊宅)で手厚い看護を受けた。解熱剤を服用し一旦小康状態になったものの、10日の入隊検査の折の丸裸の寒さでまた高熱となった公威は、新米の軍医からラッセルが聞こえると言われ、血沈も高い数値を示したため肺浸潤(結核の三期の症状)と診断され即日帰郷となった(その後の東京の病院の精密検査で誤診だと分かる)。その部隊の兵士たちはフィリピンに派遣され、多数が死傷してほぼ全滅した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "戦死を覚悟していたつもりが、医師の問診に同調し誇張した病状報告で答えた自身のこの時のアンビバレンスな感情が以後、三島の中で自問自答を繰り返す。この身体の虚弱から来る気弱さや、行動から〈拒まれてゐる〉という意識が三島にとって生涯コンプレックスとなり、以降の彼に複雑な思い(常に死の観念を意識する死生観や、戦後は〈余生〉という感覚)を抱かせることになる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 60,
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"text": "梓が公威と共に自宅に戻ると一家は喜び有頂天となったが、公威は高熱と旅の疲れで1人ぼんやりとした様子で、「特攻隊に入りたかった」と真面目につぶやいたという。公威はその後4月、三谷信宛てに〈君と共に将来は、日本の文化を背負つて立つ意気込みですが、君が御奉公をすましてかへつてこられるまでに、僕が地固めをしておく心算です〉と伝え、神風特攻隊についての熱い思いを記した。兵役は即日帰郷となったものの、一時の猶予を得たにすぎず、再び召集される可能性があった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 61,
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"text": "公威は、栗山理一を通じて野田宇太郎(『文藝』編集長)と知り合い、戦時下でただ一つ残った文芸誌『文藝』に「サーカス」と「エスガイの狩」を持ち込み、「エスガイの狩」が採用された。処女短編集『花ざかりの森』は野田を通じ、3月に川端康成に献呈された。川端は『文藝文化』の公威の作品群や「中世」を読んでいた。群馬県の前橋陸軍士官学校にいる三谷信を、三谷の家族と共に慰問中の3月10日の夜、東京は大空襲に見舞われた(東京大空襲)。焦土と化した東京へ急いで戻り、公威は家族の無事を確認した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 62,
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"text": "1945年(昭和20年)5月5日から、東京よりも危険な神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠に勤労動員された。終末観の中、公威は『和泉式部日記』『上田秋成全集』『古事記』『日本歌謡集成』『室町時代小説集』『葉隠』などの古典、泉鏡花、イェーツなどを濫読した。6月12日から数日間、軽井沢に疎開している恋人・三谷邦子(親友・三谷信の妹)に会いに行き、初めての接吻をした。帰京後の7月、戦禍が悪化して空襲が激しくなる中、公威は遺作となることを意識した「岬にての物語」を書き始めた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 63,
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"text": "1945年(昭和20年)8月6日、9日と相次ぎ、広島と長崎に原子爆弾が投下された。公威は〈世界の終りだ〉と虚無的な気分になり、わざと上空から目立つ白いシャツを着て歩いた。8日にはソビエト連邦が日本に宣戦布告し、翌9日に満州や樺太に侵攻。10日、公威は高熱と頭痛のため高座工廠から、一家が疎開していた豪徳寺の親戚の家に帰宅し、梅肉エキスを舐めながら床に伏せった。",
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"tag": "p",
"text": "8月15日に終戦を迎えてラジオの玉音放送を聞いた際、「これからは芸術家の世の中だから、やっぱり小説家になったらいい」と父・梓が言った。",
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"text": "終戦直後、公威は学習院恩師の清水文雄に、〈玉音の放送に感涙を催ほし、わが文学史の伝統護持の使命こそ我らに与へられた使命なることを確信しました〉と送り、学習院の後輩にも、〈絶望せず、至純至高志美なるもののために生き生きて下さい。(中略)我々はみことを受け、我々の文学とそれを支へる詩心は個人のものではありません。今こそ清く高く、爽やかに生きて下さい。及ばず乍ら私も生き抜き、戦ひます〉と綴った",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "三谷信には、〈自分一個のうちにだけでも、最大の美しい秩序を築き上げたいと思ひます。戦後の文学、芸術の復興と、その秩序づけにも及ばず乍ら全力をつくして貢献したい〉と戦後への決意を綴り、9月の自身のノートには「戦後語録」として、〈日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう〉と記した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "「エスガイの狩」を採用した『文藝』の野田宇太郎へも、〈文学とは北極星の如く、秩序と道義をその本質とし前提とする神のみ業であります故に、この神に、わき目もふらずに仕へることにより、我々の戦ひは必ずや勝利を得ることを確信いたします〉と熱い思いを伝えた公威だったが、戦時中に遺作となる覚悟で書いた「岬にての物語」を、野田から「芥川賞向き、文壇向きの作風」と見当違いの誤解をされ、「器用」な作だと退けられてしまった。そのため、公威は一人前の作家としての将来設計に苦慮することになった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "公威が私淑していた蓮田善明はマレー半島で陸軍中尉として終戦を迎えるが、同年8月19日には駐屯地のマレー半島のジョホールバルで天皇を愚弄した連隊長・中条豊馬大佐を軍用拳銃で射殺し、自らもこめかみに拳銃を当て自決した(没年齢41歳)。公威は、この訃報を翌年の夏に知ることになる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 69,
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"text": "1945年(昭和20年)10月23日、妹・美津子が腸チフス(菌を含んだ生水を飲んだのが原因)によって17歳で急逝し、公威は号泣した。また、6月の軽井沢訪問後に邦子との結婚を三谷家から打診されて逡巡していた公威は、邦子が銀行員・永井邦夫(父は永井松三)と婚約してしまったことを、同年11月末か12月頃に知った。",
"title": "生涯"
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"text": "翌年1946年(昭和21年)5月5日に邦子と永井は結婚し、公威はこの日自宅で泥酔する。恋人を横取りされる形になった公威にとって、〈妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力〉になっていった。邦子の結婚後の同年9月16日、公威は邦子と道で遭遇し、この日のことを日記やノートに記した。",
"title": "生涯"
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"text": "この邦子とのことは、のちの自伝的小説『仮面の告白』の中で詳しく描かれることになる。",
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"text": "1946年(昭和21年)1月1日、昭和天皇が「人間宣言」の詔書を発した。また、それに先立つ1945年9月には、連合国軍占領下の日本における最高司令機関GHQの総司令官ダグラス・マッカーサーと昭和天皇が会見し、その写真が新聞に掲載された。公威はこれについて、親友の三谷信に「なぜ衣冠束帯の御写真にしないのか」と憤懣()を漏らしたという。また、三谷と焼跡だらけのハチ公前を歩いている時には、天皇制を攻撃し始めたジャーナリズムへの怒りを露わにし、「ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い」と強く断言したという。三谷は、そういう時の公威の言葉には「理屈抜きの烈しさがあった」と述懐している。",
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"text": "なお、この時期ちょうど、斎藤吉郎という元一高の文芸部委員で公威が17歳の時から親交のあった人物が、同時代の詩人たちの詩集を叢書の形で出版する計画に関与し、公威の詩も叢書の一巻にしたいという話を持ちかけていた。公威はそれに喜んで応じ、その詩集名を『豊饒の海』とする案を以下のように返信したが、この詩集は用紙の入手難などの事情で実現しなかった。",
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"paragraph_id": 74,
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"text": "GHQ占領下の日本では、戦犯の烙印を押された軍人が処刑されただけでなく(極東国際軍事裁判)、要職にいた各界の人間が公職追放になった。マスコミや出版業界も「プレスコード」と呼ばれる検閲が行われ、日本を賛美することは許されなかった。戦時中に三島が属していた日本浪曼派の保田與重郎や佐藤春夫、その周辺の中河与一や林房雄らは、戦後に左翼文学者や日和見作家などから戦争協力の「戦犯文学者」として糾弾された。日本浪曼派の中で〈天才気取りであった少年〉の三島は、〈二十歳で、早くも時代おくれになつてしまつた自分〉を発見して途方に暮れ、戦後は〈誰からも一人前に扱つてもらへない非力な一学生〉にすぎなくなってしまったことを自覚し、焦燥感を覚える。",
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"text": "戦争の混乱で『文藝世紀』の発刊は戦後も中絶したまま、「中世」は途中までしか発表されていなかった。三島は終戦前、川端康成から「中世」や『文藝文化』で発表された作品を読んでいるという手紙を受け取っていたが、川端がその作品の賞讃を誰かに洩らしていたという噂も耳にしていた。",
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"text": "それを頼みの綱にし、〈何か私を勇気づける事情〉も持っていた三島は、「中世」と新作短編「煙草」の原稿を携え、帝大の冬休み中の1946年(昭和21年)1月27日、鎌倉二階堂に住む川端のもとを初めて訪れた。慎重深く礼儀を重んじる三島は、その際に野田宇太郎の紹介状も持参した。",
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"paragraph_id": 77,
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"text": "三島は川端について、〈戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。「私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた〉と語り、川端の『抒情歌』などに顕著な、単に抒情的・感覚的なだけではない〈霊と肉との一致〉、〈真昼の神秘の世界〉にも深い共感性を抱いていた。そういった心霊的なものへの感性は、三島の「花ざかりの森」や「中世」にも見られ、川端の作品世界と相通ずるものであった。",
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},
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"paragraph_id": 78,
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"text": "同年2月、三島は七丈書院を合併した筑摩書房の雑誌『展望』編集長の臼井吉見を訪ね、8作の原稿(花ざかりの森、中世、サーカス、岬にての物語、彩絵硝子、煙草、など)を持ち込んだ。臼井は、あまり好みの作風でなく肌に合わないが「とにかく一種の天才だ」と「中世」を採用しようとするが、顧問の中村光夫は「とんでもない、マイナス150点(120点とも)だ」と却下し、没となった。落胆した三島は、〈これは自分も、地道に勉強して役人になる他ない〉と思わざるをえなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "一方、「煙草」を読んだ川端は2月15日、自身が幹部を務める鎌倉文庫発行の雑誌『人間』の編集長・木村徳三に原稿を見せ、掲載決定がなされた。「煙草」は6月号に発表され、これが三島の戦後文壇への足がかりとなり、それ以後の川端と生涯にわたる師弟関係のような強い繋がりの基礎が形づくられた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "しかしながら、その関係は小説作法(構成など)の指導や批判を仰いで師事するような門下生的なものではなかったため、三島は川端を「先生」とは呼ばず、「自分を世の中に出して下さった唯一の大恩人」「一生忘れられない方」という彼への強い思いから、一人の尊敬する近しい人として、あえて「川端さん」と呼び、献本する際も必ず「様」と書いた。川端は、三島が取りかかっていた初めての長編(盗賊)の各章や「中世」も親身になって推敲指導し、大学生でもある彼を助けた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "臼井や中村が、ほとんど無名の学生作家・三島の作品を拒絶した中、新しい才能の発掘に長け、異質な新人に寛容だった川端が三島を後援したことにより、「新人発見の名人」という川端の称号は、その後さらに強められることになる。職業柄、多くの新人作家と接してきた木村徳三も、会った最初の数分で、「圧倒されるほどの資質を感知」したのは、加藤周一と三島の2人しかいないとし、三島は助言すればするほど、驚嘆する「才能の輝きを誇示」して伸びていったという。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "しかし当時、借家であった三島の家(平岡家)は追い立てを受け、経済状況が困窮していた。父・梓が戦前の1942年(昭和17年)から天下っていた日本瓦斯用木炭株式会社(10月から日本薪炭株式会社)は終戦で機能停止となっていた。三島は将来作家として身を立てていく思いの傍らで、貧しさが文学に影響しないよう(商業的な執筆に陥らぬため)、生活維持のために大学での法学の勉強にも勤しんでいた。梓も終戦の日に一時、息子が作家になることに理解を示していたが、やはり安定した大蔵省の役人になることを望んでいた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "ある日、木村徳三は三島と帝大図書館前で待ち合わせ、芝生で1時間ほど雑談した際、講義に戻る三島を好奇心から跡をつけて教室を覗いた。その様子を、木村は「三島君が入った二十六番教室をのぞいてみると、真面目な優等生がするようにあらかじめ席をとっておいたらしい。教壇の正面二列目あたりに着席する後姿が目に入った。怠け学生だった私などの考えも及ばぬことであった」と述懐している。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "同年夏、蓮田善明が終戦時に自決していたことを初めて知らされた三島は、11月17日に清水文雄、中河与一、栗山理一、池田勉、桜井忠温、阿部六郎、今田哲夫と共に成城大学素心寮で「蓮田善明を偲ぶ会」を開き、〈古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす〉という詩を、亡き蓮田に献じた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "戦後に彼らと距離を置いた伊東静雄は欠席し、林富士馬も、蓮田の死を「腹立たしい」と批判し、佐藤春夫は蓮田を庇った。三島は偲ぶ会の翌日、清水宛てに、〈黄菊のかをる集りで、蓮田さんの霊も共に席をならべていらつしやるやうに感じられ、昔文藝文化同人の集ひを神集ひにたとへた頃のことを懐かしく思ひ返しました。かういふ集りを幾度かかさねながら、文藝文化再興の機を待ちたいと存じますが如何?〉と送った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "敗戦前後に渡って書き綴られた「岬にての物語」は、川端のアドバイスによって講談社の『群像』へ持ち込み、11月号に無事発表された。この売り込みの時、三島は和服姿で袴を穿いていたという。『人間』の12月号には、川端から『将軍義尚公薨逝記』を借りて推敲した「中世」が全編掲載された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "当時の三島は両親と同居はしていたものの、生活費の援助は受けずに自身の原稿料で生活を賄い、弟・千之にも小遣いを与えていたことが、2005年(平成17年)に発見された「会計日記」(昭和21年5月から昭和22年11月まで記載)で明らかになった。この金銭の支出記録は、作家として自立できるかを模索するためのものだったと見られている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "川端と出会ったことで三島のプロ作家としての第一歩が築かれたが、まだ三島がこの世に生まれる前から2人には運命的な不思議な縁があった。三島の父・梓が東京帝大法学部の学生の時、正門前で同級生の三輪寿壮が、見知らぬ「貧弱な一高生」と歩いているところに出くわしたが、それが川端だった。その数日後、梓は三輪から、川端康成という男は「ぼくらの持っていないすばらしい感覚とか神経の持主」だから、君も付き合ってみないかと誘われたが、文学に疎かった梓は、「畑ちがいの人間とはつきあう資格はないよ」と笑って紹介を断わったという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "「煙草」や「中世」が掲載されたもののそれらに対する評価は無く、法学の勉強も続けていたところで作品が雑誌掲載されたことから何人かの新たな文学的交友も得られた三島は、その中の矢代静一(早稲田高等学院在学中)らに誘われ、当時の青年から熱狂的支持を得ていた太宰治と彼の理解者の亀井勝一郎を囲む集いに参加することにした。三島は太宰の〈稀有の才能〉は認めていたが、その〈自己劇画化〉の文学が嫌いで、〈愛憎の法則〉によってか〈生理的反発〉も感じていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "1946年(昭和21年)12月14日、三島は紺絣の着物に袴を身につけ、中野駅前で矢代らと午後4時に待ち合わせし、〈懐ろに匕首を呑んで出かけるテロリスト的心境〉で、酒宴が開かれる練馬区豊玉中2-19の清水家の別宅にバスで赴いた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "三島以外の出席者は皆、矢代と同じ府立第五中学校出身で、中村稔(一高在学)、原田柳喜(慶応在学)、相沢諒(駒沢予科在学)、井坂隆一(早稲田高在学)、新潮社勤務の野原一夫、その家に下宿している出英利(早稲田高在学、出隆の次男)と高原紀一(一橋商学部)、家主の清水一男(五中在学の15歳)といった面々であった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "三島は太宰の正面の席に導かれ、彼が時々思い出したように上機嫌で語るアフォリズムめいた文学談に真剣に耳を傾けていた。そして三島は森鷗外についての意見を求めるが、太宰は、「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ。第一、全集に載っけている写真を見てみろよ。軍服姿の写真を堂々と撮させていらあ、何だい、ありゃ......」と太宰流の韜晦を込めて言った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "下戸の三島は「どこが悪いのか」と改まった表情で真面目に反論して鴎外論を展開するが、酔っぱらっていた太宰はまともに取り合わず、両者の会話は噛み合わなかった。その酒宴に漂う〈絶望讃美〉の〈甘ったれた〉空気、太宰を司祭として〈自分たちが時代病を代表してゐるといふ自負に充ちた〉馴れ合いの雰囲気を感じていた三島は、この席で明言しようと決めていた〈僕は太宰さんの文学はきらいなんです〉という言葉をその時に発した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "これに対して太宰は虚を衝かれたような表情をし、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と顔をそむけた後、誰に言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と言った。気まずくなった三島はその場を離れ、それが太宰との一度きりの対決となった。その後、太宰は「斜陽」を『新潮』に連載するが、これを読んだ三島は川端に以下のような感想を綴っている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "1947年(昭和22年)4月、記紀の衣通姫伝説を題材にした「軽王子と衣通姫」が『群像』に発表された。三島は、前年1946年(昭和21年)9月16日に偶然に再会した人妻の永井邦子(旧姓・三谷)から、その2か月後の11月6日に来電をもらって以来何度か彼女と会うようになり、友人らともダンスホールに通っていたが、心の中には〈生活の荒涼たる空白感〉や〈時代の痛み〉を抱えていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "同年6月27日、三島は新橋の焼けたビルにあった新聞社の新夕刊で林房雄を初めて見かけた。同年7月、就職活動をしていた三島は住友(銀行か)と日本勧業銀行の入行試験を受験するが、住友は不採用となり、勧銀の方は論文や英語などの筆記試験には合格したものの、面接で不採用となった。やはり、役人になることを考えた三島は、同月から高等文官試験を受け始めた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "8月、『人間』に発表した「夜の仕度」は、軽井沢を舞台にして戦時中の邦子との体験を元に堀辰雄の『聖家族』流にフランス心理小説に仮託した手法をとったものであった。林は、これを中村真一郎の「妖婆」と共に『新夕刊』の日評で取り上げ、「夜の仕度」を「今の日本文壇が喪失してゐる貴重なもの」と高評し、これを無視しようとする「文壇の俗常識を憎む」とまで書いた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "これに感激した三島は、林にお礼を言いに9月13日の新夕刊の「13日会」に行った。林は酔って帰りに3階の窓から放尿するなど豪放であったが、まだ学生の三島を一人前の作家として認めて話し相手になったため、好感を抱いた彼は親交を持つようになった。当時の三島は、堀の弟子であった中村真一郎の所属するマチネ・ポエティックの作家たち(加藤周一、福永武彦、窪田啓作)と座談会をするなど親近感を持っていたが、次第に彼らの思想的な〈あからさまなフランス臭〉や、日本古来の〈危険な美〉である心中を認めない説教的ヒューマニズムに、〈フランスはフランス、日本は日本じゃないか〉と反感を覚え、同人にはならなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "「夜の仕度」は当時の文壇から酷評され、「うまい」が「彼が書いている小説は、彼自身の生きることと何の関係もない」という高見順や中島健蔵の無理解な合評が『群像』の11月号でなされた。これに憤慨し、わかりやすいリアリズム風な小説ばかり尊ぶ彼らに前から嫌気がさしていた三島は、執筆中であった「盗賊」の創作ノートに〈この低俗な日本の文壇が、いさゝかの抵抗も感ぜずに、みとめ且つとりあげる作品の価値など知れてゐるのだ〉と書き撲った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "大学卒業間近の11月20日、三島の念願であった短編集『岬にての物語』が桜井書店から刊行された。「岬にての物語」「中世」「軽王子と衣通姫」を収めたこの本を伊東静雄にも献呈した三島は、伊東からの激励の返礼葉書に感激し、〈このお葉書が私の幸運のしるしのやうに思へ、心あたゝかな毎日を送ることができます〉と喜びを伝え、以下のような文壇への不満を書き送っている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "「私が第一行を起すのは絶体絶命のあきらめの果てである。つまり、よいものが書きたいとの思ひを、あきらめて棄ててかかるのである」 川端康成氏にかつてこのやうな烈しい告白を云はせたものが何であるかだんだんわかつてまゐりました。(中略)",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "1947年(昭和22年)11月28日、三島は東京大学法学部法律学科を卒業した(同年9月に東京帝国大学から名称変更)。卒業前から受けていた様々な種類の試験をクリアし、12月13日に高等文官試験に合格した三島は(成績は合格者167人中138位)、12月24日から大蔵省に初登庁し、大蔵事務官に任官されて銀行局国民貯蓄課に勤務することになった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "当時の大蔵省は霞が関の庁舎がGHQに接収されていたため、焼け残った四谷第三小学校を仮庁舎としていた。銀行局長は愛知揆一、主計局長は福田赳夫で、基本給(月給)は1,350円であった。大蔵省同期入省者(22年後期組)は、三島のほかに長岡實、田中啓二郎、秋吉良雄、亘理彰、後藤達太、岩瀬義郎など全26名だった。三島は、「こんなのっぺりした野郎でござんすが何分よろしく」と挨拶したという。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "東大法学部を卒業した直後の12月、三島は吉田満に直接会ってGHQに検閲削除されていた門外不出の「戦艦大和ノ最期」の初稿(手書きの草稿)を読ませてもらい、その内容に驚愕・感動したことから、大蔵省時代も吉田と親しくしていた。この頃吉田が三島に、今後どんな作品を書くつもりか訊ねると、「美というもの。日本の美。日本的な美」を書きたいと語っていたという。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "同じ12月には、「自殺企図者」(長編『盗賊』第2章)、短編「春子」や「ラウドスピーカー」が各誌に掲載された。大蔵省に入省してすぐの頃、文章力を期待された三島は、国民貯蓄振興大会での大蔵大臣(栗栖赳夫)の演説原稿を書く仕事を任された。三島はその冒頭文に、〈...淡谷のり子さんや笠置シズ子さんのたのしいアトラクションの前に、私如きハゲ頭のオヤジがまかり出まして、御挨拶を申上げるのは野暮の骨頂でありますが...〉と書き、課長に怒られて赤鉛筆でバッサリと削られた。将来に有名作家となる三島の原稿を削除したという一件は、後々まで大蔵省内で語り継がれるエピソードとなる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "翌1948年(昭和23年)も、三島は『進路』1月号の「サーカス」を皮切りに多くの短編を発表し、〈役所と仕事と両方で綱渡りみたいな〉生活をしていたが、この頃の〈やけのやんぱちのニヒリスティックな耽美主義〉の根拠を自ら分析する必要を感じていた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "役人になったものの相変わらず文筆業を続ける息子の将来に不安を抱いた父・梓は、鎌倉文庫の木村徳三を訪ね、「あなた方は、公威が若くて、ちょっと文章がうまいものだから、雛妓、半玉を可愛がるような調子でごらんになっているのじゃありませんか。あれで椎名麟三さんのようになれるものですかね」と、息子が朝日新聞に小説を連載するような一人前の作家になれるのかを聞きに来た。木村は、「花形作家」になれるかは運、不運によるが「一本立ちの作家」になれる力量はあると答えたが、梓は終始浮かない様子だったという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "同年6月、雑誌『近代文学』の第2次同人拡大の呼びかけに応じ、三島も同人となった。その際、三島は天皇制を認めるなら加入してもよいという条件で参加した。この第2次参加の顔ぶれには、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、安部公房らがいた。6月19日には、玉川上水で13日に入水自殺した太宰治の遺体が発見された。太宰の遺作『人間失格』は大きな反響を呼んだ。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "同年7月か8月、三島は役所勤めと執筆活動の二重生活による過労と睡眠不足で、雨の朝の出勤途中、長靴が滑って渋谷駅ホームから線路に転落した。電車が来ないうちに這い上がれたが、危なかった。この事故をきっかけに息子が職業作家になることを許した梓は、「役所をやめてよい。さあ作家一本槍で行け、その代り日本一の作家になるのが絶対条件だぞ」と言い渡した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "同年8月下旬、河出書房の編集者・坂本一亀(坂本龍一の父)と志邨孝夫が、書き下ろし長編小説の執筆依頼のために大蔵省に勤務中の三島を訪ねた。三島は快諾し、「この長篇に作家的生命を賭ける」と宣言した。そして同年9月2日、三島は創作に専念するため大蔵省に辞表を提出し、9月22日に「依願免本官」という辞令を受けて退職した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "同年10月6日、芦田内閣総辞職の号外の鈴が鳴り響く晩、神田の喫茶兼酒場「ランボオ」の2階で、埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、中村真一郎、梅崎春生、椎名麟三の出席する座談会(12月の同人誌『序曲』創刊号)に三島も加わった。その座談会の時、三島と初対面だった埴谷は、真正面に座った三島の「魅力的」な第一印象を、「数語交わしている裡に、その思考の廻転速度が速いと解るような極めて生彩ある話ぶり」だったと述懐している。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "河出書房から依頼された長編のタイトルを〈仮面の告白〉と定めた三島は、〈生まれてはじめての私小説〉(ただし、文壇的私小説でない)に挑み、〈今まで仮想の人物に対して鋭いだ心理分析の刃を自分に向けて、自分で自分の生体解剖をしよう〉という試みで11月25日に起筆した。同月20日には、書き上げまで2年以上を費やした初の長編『盗賊』が真光社から刊行され、12月1日には短編集『夜の仕度』が鎌倉文庫から刊行された",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 113,
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"text": "1949年(昭和24年)2月24日、作家となってから初上演作の戯曲『火宅』が俳優座により初演され、従来のリアリズム演劇とは違う新しい劇として、神西清や岸田国士などの評論家から高い評価を受けた。4月24日には、「仮面の告白」の後半原稿を喫茶店「ランボオ」で坂本一亀に渡した。紫色の古風な袱紗から原稿を取り出して坂本に手渡す三島を店の片隅で目撃していた武田泰淳は、その時の三島の顔を「精神集中の連続のあとの放心と満足」に輝いていたと述懐している。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "三島にとっての〈裏返しの自殺〉、〈生の回復術〉であり、〈ボオドレエルの「死刑囚にして死刑執行人」といふ二重の決心で自己解剖〉した渾身の書き下ろし長編『仮面の告白』は同年7月5日に出版され、発売当初は反響が薄かったものの、10月に神西清が高評した後、花田清輝に激賞されるなど文壇で大きな話題となった。年末にも読売新聞の昭和24年度ベストスリーに選ばれ、作家としての三島の地位は不動のものとなった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "この成功以降も、恋愛心理小説「純白の夜」を翌1950年(昭和25年)1月から『婦人公論』で連載し、同年6月30日には、〈希臘神話の女性〉に似たヒロインの〈狂躁〉を描いた力作『愛の渇き』を新潮社から書き下ろしで出版した。同年7月からは、光クラブ事件の山崎晃嗣をモデルとした話題作「青の時代」を『新潮』で連載するなど、〈一息つく暇もなく〉、各地への精力的な取材旅行に励み、長編小説の力倆を身につけていった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "8月1日、立ち退きのため、両親・弟と共に目黒区緑ケ丘2323番地(現・緑が丘一丁目17番24号)へ転居。同月に岸田国士の「雲の会」発足に小林秀雄、福田恆存らと参加し、年上の文学者らとの交流が広まっていった後、中村光夫の発案の「鉢の木会」にも顔を見せるようになった。10月には、能楽を基調にした「邯鄲」を『人間』に掲載し、劇作家としての挑戦の幅も広げていった。この作品は、のちに『近代能楽集』としてまとめられる1作目となり、矢代静一を通じて前年に知り合った芥川比呂志による演出で12月に上演された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "1951年(昭和26年)1月から三島は、〈廿代の総決算〉として〈自分の中の矛盾や対立物〉の〈対話〉を描く意気込みで、ギリシャ彫刻のような美青年と老作家の登場する「禁色」(第一部)を『群像』に連載開始した。同性愛のアンダーグラウンドを題材としたこの作品は、文壇で賛否両論の大きな話題を呼び、11月10日に『禁色 第一部』として新潮社から刊行された。その間も三島は、数々の短編や中間小説「夏子の冒険」などを各誌に発表し、初の評論集『狩と獲物』も刊行するなど旺盛な活動を見せた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "しかし以前から、〈一生に一度でよいから、パルテノンを見たうございます〉と川端康成に告げ、自分の中の余分な〈感受性〉を嫌悪していた三島は、〈肉体的存在感を持つた知性〉を欲し、広い世界を求めていた。ちょうどこの頃、父・梓の一高時代の旧友である朝日新聞社出版局長の嘉治隆一から外国行きを提案され、三島は願ってもみない話に快諾した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 119,
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"text": "厳しい審査(当時はGHQ占領下で一般人の海外旅行は禁止されていたため)をクリアした三島は、同年12月25日から、朝日新聞特別通信員として約半年間の初の世界一周旅行に向け横浜港からプレジデント・ウィルソン号で出帆した。最初の目的地・ハワイに向かう船上で〈太陽と握手した〉三島は、日光浴をしながら、〈自分の改造といふこと〉を考え始めた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 120,
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"text": "ハワイから北米(サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、フロリダ、マイアミ、サン・フアン)、南米(リオ・デ・ジャネイロ、サン・パウロ)、欧州(ジュネーブ、パリ、ロンドン、アテネ、ローマ)を巡る旅の中でも、特に三島を魅了したのは眷恋の地・ギリシャ・アテネと、ローマのバチカン美術館で観たアンティノウス像であった(詳細はアポロの杯#見聞録のあらましを参照)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 121,
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"text": "古代ギリシャの〈肉体と知性の均衡〉への人間意志、明るい古典主義に孤独を癒やされた三島は、〈美しい作品を作ることと、自分が美しいものになることの、同一の倫理基準〉を発見し、翌1952年(昭和27年)5月10日に羽田に帰着した。この世界旅行記は『アポロの杯』としてまとめられ、10月7日に朝日新聞社から刊行された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "旅行前から予定していた「秘楽」(『禁色』第二部)の連載を、帰国後の8月から『文學界』で開始していた三島は、旅行後すぐの〈お土産小説〉を書くことを回避し、伊豆の今井浜で実際に起きた溺死事件を題材とした「真夏の死」を『新潮』10月号に発表した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "また、旅行前に書き上げていた「卒塔婆小町」は、三島が渡航中の2月に文学座により初演された。この作品は「邯鄲」「綾の鼓」に続く『近代能楽集』の3作目となり、三島の戯曲の中でも特に優れた成功作となった。これにより三島は劇作家としても本物の力量が認められ始めた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "三島は、ギリシャでの感動の続きで、古代ギリシャの恋愛物語『ダフニスとクロエ』を下敷きにした日本の漁村の物語を構想した。モデルとなる島探しを、昔農林省(農林水産省)にいた父・梓に依頼した三島は、候補の島の中から〈万葉集の歌枕や古典文学の名どころ〉に近い三重県の神島(かみしま)を選んだ。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "1953年(昭和28年)3月に、鳥羽港から神島に赴いた三島は、八代神社、神島灯台、一軒のパチンコ店も飲み屋もない島民の暮しや自然、例祭神事、漁港、歴史や風習、漁船員の仕事を取材し、8月末から9月にも再度訪れ、台風や海女などについて取材した。神島の島民たちは当初、見慣れない〈顔面蒼白〉の痩せた三島の姿を見て、病気療養のために島に来ている人と勘違いしていたという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "この島を舞台にした新作を創作中も、練り直された「秘楽」の連載を並行していた三島は、9月30日に『秘楽 禁色第二部』を刊行し、男色の世界を描いた『禁色』が完結された。12月には、少年時代から親しんだ歌舞伎の台本に初挑戦し、芥川龍之介の原作小説を改作した歌舞伎『地獄変』を中村歌右衛門の主演で上演した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "伊勢湾に浮かぶ小さな島に住む健康的で素朴な若者と少女の純愛を描いた書き下ろし長編『潮騒』は、翌1954年(昭和29年)6月10日に新潮社から出版されるとベストセラーとなり、すぐに東宝で映画化されて三船敏郎の特別出演(船長役)もキャスティングされた。三島はこの作品で第1回新潮社文学賞を受賞するが、これが三島にとっての初めての文学賞であった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "これを受け、2年後にはアメリカ合衆国でも『潮騒』の英訳(The Sound of the Waves)が出版されベストセラーとなり、三島の存在を海外でも知られるきっかけの作品となった。11月には三島オリジナルの創作歌舞伎『鰯売恋曳網』が初演され、余裕を感じさせるファルスとして高評価された。この演目は以後長く上演され続ける人気歌舞伎となった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "この時期の他の作品には、『潮騒』の明るい世界とは対照的な終戦直後の青年の頽廃や孤独を描いた『鍵のかかる部屋』『急停車』や、三島の学習院時代の自伝的小説『詩を書く少年』、少年時代の憧れだったラディゲを題材にした『ラディゲの死』、〈菊田次郎といふ作者の分身〉を主人公にしたシリーズ(『火山の休暇』『死の島』)の終焉作『旅の墓碑銘』も発表された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "1955年(昭和30年)1月、奥只見ダムと須田貝ダムを背景にした「沈める滝」を『中央公論』に連載開始。同月には、少年時代の神風待望の心理とその〈奇蹟の到来〉の挫折感を重ね合わせた「海と夕焼」も『群像』に発表したが、三島の〈一生を貫く主題〉、〈切実な問題を秘めた〉この作品への反応や論評はなかった。三島は、もし当時この主題が理解されていれば、それ以降の自分の生き方は変っていたかもしれないと、のちに語っている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "同年9月、三島は、週刊読売のグラビアで取り上げられていた玉利齊(早稲田大学バーベルクラブ主将)の写真と、「誰でもこんな身体になれる」というコメントに惹かれ、早速、編集部に電話をかけて玉利を紹介してもらった。玉利が胸の筋肉をピクピク動かすのに驚いた三島は、さっそく自宅に玉利を招いて週3回のボディビル練習を始めた。この頃、映画『ゴジラの逆襲』が公開されて観ていたが、三島は自身を〈ゴジラの卵〉と喩えた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "同年11月、京都へ取材に行き、青年僧による金閣寺放火事件(1950年)を題材にした次回作の執筆に取りかかった三島は、『仮面の告白』から取り入れていた森鷗外的な硬質な文体をさらに鍛え上げ、「肉体改造」のみならず文体も練磨し〈自己改造〉を行なった。その双方を磨き上げ昇華した文体を駆使した「金閣寺」は、1956年(昭和31年)1月から『新潮』に連載開始された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "同月には、後楽園ジムのボディビル・コーチ鈴木智雄(元海兵の体操教官)に出会い、弟子入りし、3月頃に鈴木が自由が丘に開いたボディビルジムに通うことになった。三島は自由が丘で知り合った町内会の人に誘われ、8月には熊野神社の夏祭りで、生まれて初めて神輿をかつぎ陶酔感を味わった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 134,
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"text": "元々痩身で虚弱体質の三島であったが、弛まぬ鍛錬でのちに知られるほどの偉容を備えた体格となり、胃弱も治っていった。最初は10キロしか挙げられなかったベンチプレスも、約2年後に有楽町の産経ボディビルクラブに練習場所を変えた頃には60キロを挙上するまでに至り、その後は胸囲も1メートルを超え、生涯ボディビルは継続されていくことになる。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 135,
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"text": "1月からの連載が終り、10月に『金閣寺』が新潮社から刊行された。傑作の呼び声高い作品として多数の評論家から高評価を受けた『金閣寺』は三島文学を象徴する代表作となり、第8回読売文学賞も受賞した。それまで三島に懐疑的だった評者からも認められ、三島は文壇の寵児となった。また、この年には、「日本空飛ぶ円盤研究会」に入会し、7月末の熱海ホテル滞在中に円盤観測に挑戦した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "9月には、鈴木智雄の紹介で、日大拳闘部の好意により、小島智雄の監督の下、ボクシングの練習も始めた。翌1957年(昭和32年)5月、小島智雄をスパーリング相手に練習を行っている三島を、前年の対談で知り合った石原慎太郎が訪ね、8ミリに撮影した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "これを観た三島は、〈石原慎太郎の八ミリシネにとつてもらひましたが、それをみていかに主観と客観には相違があるものかと非常に驚き、目下自信喪失の状態にあります〉と記し、以後ボクシングはもっぱら観戦の方に回り、スポーツ新聞に多くの観戦記を寄稿することになった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "この時期の三島は、『金閣寺』のほかにも、『永すぎた春』や『美徳のよろめき』などのベストセラー作品を発表し、そのタイトルが流行語になった。川端康成を論じた『永遠の旅人』も好評を博し、戯曲でも『白蟻の巣』が第2回岸田演劇賞を受賞、人気戯曲『鹿鳴館』も発表されるなど、旺盛な活動を見せ、戯曲集『近代能楽集』(「邯鄲」「綾の鼓」「卒塔婆小町」「葵上」「班女」を所収)も刊行された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "私生活でも、夏には軽井沢に出かけ、ホテルに泊まって原稿を書くほどの身分になり、乗馬クラブに通って避暑にやってくる人々に颯爽たる乗馬姿を披露して見せた。三島の乗馬姿は大いに注目され、その年の新聞・雑誌は彼の英姿で飾られることになった。また軽井沢では上流階級の子息・令嬢や夫人によるパーティーが開かれており、三島はそれらに顔を出して、吉田健一、岸田今日子、兼高かおる、鹿島三枝子(鹿島守之助の三女)、以前からの知り合いで『鏡子の家』のモデルとなる湯浅あつ子などと交遊した。さらに1954年(昭和29年)夏には、中村歌右衛門の楽屋で豊田貞子(赤坂の料亭の娘。『沈める滝』『橋づくし』のモデル)と知り合い、深い交際に発展した。それは三島の生涯において最も豊かな成功に輝いていた時期であったが、結局貞子とは破局し、1957年(昭和32年)5月、新派公演『金閣寺』を観た日を最後に別離した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "花嫁候補を探していた三島が、歌舞伎座で隣り合わせになる形で会い、銀座六丁目の小料理屋「井上」の2階で、独身時代の正田美智子とお見合いをしたとされるのも、1957年(昭和32年)頃である。なお同年3月15日、正田美智子が首席で卒業した聖心女子大学卒業式を三島は母と共に参観していたという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "前年8月の『潮騒』 (The Sound of Waves) の初英訳刊行に続き、戯曲集『近代能楽集』 (Five Modern Noh Plays) も1957年(昭和32年)7月にクノップ社から英訳出版されたことで、三島は同社に招かれて渡米した。その際に現地の演劇プロデューサーから上演申し込みがあり、実現に向けて約半年間ニューヨークに辛抱強く滞在したが、企画が難航して延期となってしまった。その間の12月21日、三島は疎遠となっていた吉田満(ニューヨーク駐在中)と久しぶりに再会しワシントン・アーヴィングの旧邸など各所を一緒に散策した。三島は吉田との雑談の中で、アメリカ人に対する辛辣な批判をし、また自身の来年に向けての結婚宣言をしていたという。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "無為で孤独なホテルでのニューヨークの年越しに耐えられず、正月をマドリード、ローマを経由し過ごして帰国した三島は、これから先の人生を一人きりでは生きられないことを痛感し、結婚の意志を固くした。折しも、ニューヨーク滞在中に父・梓が病気入院し、帰国後の2月にも母・倭文重が癌と疑われた甲状腺の病気で手術したことも、それに拍車をかけた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "1958年(昭和33年)3月に、幼馴染の湯浅あつ子から見せられた女子大生・杉山瑤子(日本画家・杉山寧の長女)の写真を一目で気に入った三島は、4月にお見合いをし、6月1日に川端康成夫妻を媒酌人として明治記念館で瑤子との結婚式を挙げ、麻布の国際文化会館で披露宴が行われた。同年8月には雑誌に連載開始された小高根二郎の「蓮田善明とその死」を読み始め、11月末からはボディビルに加えて中央公論社の嶋中鵬二と笹原金次郎の紹介により、第一生命の道場で本格的に剣道も始めた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "同年3月には、ニューヨーク滞在中から構想していた書き下ろし長編『鏡子の家』の執筆も開始されていた。この作品は4人の青年と1人の〈巫女的な女性〉を主人公とし、〈「戦後は終つた」と信じた時代の、感情と心理の典型的な例〉を描こうとした野心作であった。時代背景は高度経済成長前の2年間で(昭和29年4月から昭和31年4月まで)、三島自身の青春と「戦後」と言われた時代への総決算でもあった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "翌1959年(昭和34年)9月20日の『鏡子の家』刊行までの約1年半の間、戯曲『薔薇と海賊』の発表、結婚、国内新婚旅行、エッセイ『不道徳教育講座』、評論『文章読本』の発表、新居建設(設計・施工は清水建設の鉾之原捷夫)など多忙であった。大田区馬込東一丁目1333番地(現・南馬込四丁目32番8号)に建設したビクトリア風コロニアル様式の新居へは5月10日に転居し、6月2日に長女・紀子が誕生した。ちょうどこの当時、新安保条約の採決を巡る大規模なデモ隊が国会周辺で吹き荒れ、三島はそれを記者クラブのバルコニーから眺めた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "三島の渾身作『鏡子の家』は1か月で15万部売れ、同世代の評論家の少数からは共感を得たものの、文壇の評価は総じて辛く、三島の初めての「失敗作」という烙印を押された。三島の落胆は大きく、この評価は作家として彼が味わった最初の大きな挫折(転機)だった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "同年11月、三島は大映と映画俳優の専属契約を結び、翌1960年(昭和35年)3月に公開された『からっ風野郎』(増村保造監督)でチンピラ的なヤクザ役を演じたが、その撮影中には頭部をエスカレーターに強打して入院する一幕もあった。同年1月には、都知事選挙を題材とした「宴のあと」も『中央公論』で連載開始するが、モデルとした有田八郎から9月に告訴され、プライバシー裁判の被告となってしまった(詳細は「宴のあと」裁判を参照)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "1961年(昭和36年)1月は、二・二六事件に題材をとり、のちに自身で監督・主演で映画化する「憂国」を『小説中央公論』に発表。2月には、その雑誌に同時掲載された深沢七郎の「風流夢譚」を巡る嶋中事件に巻き込まれ、推薦者と誤解されて右翼から脅迫状を送付されるなど、2か月間警察による護衛下での生活を余儀なくされた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "同年9月から、写真家・細江英公の写真集『薔薇刑』のモデル(被写体)となり、三島邸で撮影が行われた。写真発表は翌1962年(昭和37年)1月に銀座松屋の「NON」展でなされ、その鍛え上げられた肉体をオブジェとして積極的に世間に披露した。こうした執筆活動以外における三島の一連の話題がマスメディアに取り上げられると共に、文学に関心のない層にも大きく三島の名前が知られるようになった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "そのため、週刊誌などで普段の自身の日常生活や健康法を披露する機会も増えた。遅く起きる三島の朝食は、午後2時にトーストと目玉焼き、グレープフルーツ、ホワイト・コーヒーを摂り、午後7時頃の昼食には週3回はビフテキと付け合わせのジャガイモ、トウモロコシ、サラダをたっぷりとウマの如く食べ、夜中の夕食は軽く茶漬けで済ますのが習慣だった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 151,
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"text": "また、三島はカニの形状が苦手で、「蟹」という漢字を見るのも怖くてダメだったが、むき身の蟹肉や缶詰の蟹は食べることができ、蟹の絵のパッケージは即座に剥がして取っていたという。酒は家ではほとんど飲まないが、煙草はピースを1日3箱くらい吸っていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 152,
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"text": "1963年(昭和38年)には、三島が所属していた文学座内部での一連の分裂騒動があり、杉村春子と対立する福田恆存が創立した「劇団雲」への座員29人の移動後にも、文学座の立て直しを試みた三島の『喜びの琴』を巡って杉村らが出演拒否するという文学座公演中止事件(喜びの琴事件)が起こり、再びトラブルが相次いだ。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "この時期には、安保闘争や東西冷戦による水爆戦争への危機感が強かった社会情勢があり、そうした政治背景を反映して、『鏡子の家』から繋がる〈世界崩壊〉〈世界の終末〉の主題を持つ『美しい星』や『帽子の花』、評論『終末観と文学』などが書かれ、イデオロギーを超えた純粋な心情をテーマにした『剣』や評論『林房雄論』も発表された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "1964年(昭和39年)初めには『浜松中納言物語』を読み、『豊饒の海』の構想もなされ始め、同年10月の東京オリンピックでは、新聞各紙の特派員記者として各種競技を連日取材した。開会式では、〈小泉八雲が日本人を「東洋のギリシャ人」と呼んだときから、オリンピックはいつか日本人に迎へられる運命にあつたといつてよい〉と述べ、〈陛下〉の〈堂々たる〉開会宣言の立派な姿に、19年前の敗戦直後にマッカーサーと並んだ〈悲しいお写真〉を思い比べて感無量となり、聖火台に点火する最終聖火ランナーの〈白煙に巻かれた胸の日の丸〉への静かな感動と憧れを、〈そこは人間世界で一番高い場所で、ヒマラヤよりもつと高いのだ〉と三島はレポートした。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "この時期には他にも、『獣の戯れ』、『十日の菊』(第13回読売文学賞戯曲部門賞受賞)、『黒蜥蜴』、『午後の曳航』(フォルメントール国際文学賞候補作)、『雨のなかの噴水』、『絹と明察』(第6回毎日芸術賞文学部門賞)など高評の作品も多く発表し、待望だった『近代能楽集』の「葵上」「班女」も別の主催者によってグリニッジ・ヴィレッジで上演された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "また、『仮面の告白』や『金閣寺』も英訳出版されるなど、海外での三島の知名度も上がった時期で、「世界の文豪」の1人として1963年(昭和38年)12月17日のスウェーデンの有力紙『DAGENUS NYHETER』に取り挙げられ、翌1964年(昭和39年)5月には『宴のあと』がフォルメントール国際文学賞で2位となり、『金閣寺』も第4回国際文学賞で第2位となった。国連事務総長だったダグ・ハマーショルドも1961年(昭和36年)に赴任先で事故死する直前に『金閣寺』を読了し、ノーベル財団委員宛ての手紙で大絶賛した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "なお、1963年度から1965年度のノーベル文学賞の有力候補の中に川端康成、谷崎潤一郎、西脇順三郎と共に三島が入っていたことが2014年(平成26年)から2016年(平成28年)にかけて開示され、1963年度で三島は「技巧的な才能」が注目されて受賞に非常に近い位置にいたことが明らかとなり、選考委員会のコメントで、日本人作家4人の中では三島が将来ノーベル文学賞を取る可能性が一番高いとされていた。しかし谷崎死後の1966年度の候補者では川端が最も注目されていて、三島の名はなかった。そして1967年度と1968年度には、再び川端と同様に三島も有力候補に挙がり将来性を期待されたが、「現時点では川端の方がノーベル賞にはふさわしい」とされていた。アカデミー選考委員会は日本文学の専門家としてドナルド・キーンとエドワード・G・サイデンステッカーに意見を求めながら選考を進めていたことが明らかになっている。川端が受賞した翌年の1969年度には「今、また新たに日本人へ賞を授与することはない」として、日本から推薦された井上靖の調査もされなかった。",
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"text": "三島が初めて候補者に名を連ねた1963年度の選考において委員会から日本の作家の評価を求められていたドナルド・キーンは、実績と年齢順(年功序列)を意識して日本社会に配慮しながら、谷崎、川端、三島の順で推薦したが、本心では三島が現役の作家で最も優れていると思っていたことを情報開示後に明かしている。1961年(昭和36年)5月には川端が三島にノーベル賞推薦文を依頼し、彼が川端の推薦文を書いていたこともある。その3年前の1958年(昭和33年)度には、谷崎の推薦文も三島が書いていた。",
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"text": "1965年(昭和40年)初頭、三島は4年前に発表した短編小説『憂国』を自ら脚色・監督・主演する映画化を企画し、4月から撮影して完成させた。同年2月26日には、次回作となる〈夢と転生〉を題材とした〈世界解釈〉の本格長編小説の取材のため、奈良の帯解から円照寺を初めて訪ね、その最初の巻となる「春の雪」の連載を同年9月から『新潮』で開始した(1967年1月まで)。",
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"text": "9月からは夫人同伴でアメリカ、ヨーロッパ、東南アジアを旅行し、長編の取材のために10月はバンコクを訪れ、カンボジアにも遠征して戯曲『癩王のテラス』の着想を得た。ちょうどこの頃、AP通信がストックホルム発で、1965年度のノーベル文学賞候補に三島の名が挙がっていると報じた。三島は以降の年も引き続き、受賞候補として話題に上ることになる。",
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"text": "11月からは、自身の〈文学と行動、精神と肉体の関係〉を分析する「太陽と鉄」を『批評』に連載開始し、戯曲『サド侯爵夫人』も発表され、傑作として高評価を受けた。この戯曲は三島の死後、フランスでも人気戯曲になった。ドナルド・キーンは、三島以前の日本文学の海外翻訳を読むのは日本文学研究者だけに限られていたのに対し、三島の作品は一般人にまで浸透したとして、古典劇に近い『サド侯爵夫人』がフランスの地方劇場でも上演されるのは、「特別な依頼ではなく、見たい人が多いから」としている。",
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"text": "高度経済成長期の1966年(昭和41年)の正月、三島は日の丸を飾る家がまばらになった風景を眺めながら、〈一体自分はいかなる日、いかなる時代のために生れたのか〉と自問し、〈私の運命は、私が生きのび、やがて老い、波瀾のない日々のうちにたゆみなく仕事をつづけること〉を命じたが、胸の裡に、〈なほ癒されぬ浪漫的な魂、白く羽搏くものが時折感じられる〉と綴った。",
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"paragraph_id": 163,
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"text": "自身の〈危険〉を自覚していた三島は、それを凌駕する〈本物の楽天主義〉〈どんな希望的観測とも縁もない楽天主義〉がやって来ることを期待し、〈私は私が、森の鍛冶屋のやうに、楽天的でありつづけることを心から望む〉心境でもあった。",
"title": "生涯"
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"text": "同年1月、モノクロ短編映画『憂国』が「愛と死の儀式」 (Yūkoku ou Rites d'amour et de mort) のタイトルでツール国際短編映画祭に出品され、劇映画部門第2位となった。日本では4月からアートシアター系で一般公開されて大きな話題を呼び、同系映画としては記録的なヒット作となった。映画を観た安部公房は、「作品に、自己を転位させよう」という不可能性に挑戦する三島の「不敵な野望」に「羨望に近い共感」を覚えたと高評価した。",
"title": "生涯"
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"text": "この当時、毎週日曜日に碑文谷警察署で剣道の稽古をしていた三島は同年5月に剣道四段に合格し、前年11月から習っていた居合も、剣道の師の吉川正実を通じて舩坂良雄を師範とする大森流居合に正式入門した。三島は、良雄の兄で剣道家の舩坂弘ともこの道場で知り合い、交流するようになった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 166,
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"text": "6月には、二・二六事件と特攻隊の兵士の霊たちの呪詛を描いた『英霊の聲』を発表し、『憂国』『十日の菊』と共に「二・二六事件三部作」として出版された。11歳当時の二・二六事件と20歳当時の敗戦で〈神の死〉を体感した三島は、昭和の戦前戦後の歴史を連続して生きてきた自身の、その〈連続性の根拠と、論理的一貫性の根拠〉をどうしても探り出さなければならない気持ちだった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 167,
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"text": "〈挫折〉した青年将校ら〈真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようといふ思ひ〉の糸を手繰る先に、どうしても引っかかるのが昭和天皇の「人間宣言」であり、自身の〈美学〉を掘り下げていくと、その底に〈天皇制の岩盤がわだかまつてゐることを〉を認識する三島にとって、それを回避するわけにはいかなかった。",
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"text": "『英霊の聲』は天皇批判を含んでいたため、文壇の評価は賛否両論となって総じて低く、その〈冷たいあしらひ〉で三島は文壇人の〈右顧左眄ぶり〉がよく解ったが、この作品を書いたことで自身の無力感から救われ、〈一つの小さな自己革命〉を達成した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 169,
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"text": "瀬戸内晴美は『英霊の聲』を読み、「三島さんが命を賭けた」と思って手紙を出すと、三島から、〈小さな作品ですが、これを書いたので、戦後二十年生きのびた申訳が少しは立つたやうな気がします〉と返事が来た。この時期の作品は他に、三島としては珍しい私小説的な『荒野より』、エッセイ『をはりの美学』『お茶漬ナショナリズム』、林房雄との対談『対話・日本人論』などが発表された。三島はこの対談の中で、いつか藤原定家を主人公にした小説を書く意気込みを見せた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 170,
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"text": "『英霊の聲』を発表した1966年(昭和41年)6月、三島は奈良県の率川神社の三枝祭(百合祭)を見学し、長編大作の第二巻となる連載「奔馬」の取材を始めた。8月下旬からは大神神社に赴き、三輪山三光の滝に打たれて座禅した後、色紙に「清明」と揮毫した。その後は広島県を訪れ、恩師の清水文雄らに会って江田島の海上自衛隊第一術科学校を見学し、特攻隊員の遺書を読んだ。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 171,
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"text": "清水らに見送られて熊本県に到着した三島は、荒木精之らに迎えられて蓮田善明未亡人と森本忠(蓮田の先輩)と面会し、神風連のゆかりの地(新開大神宮、桜山神社など)を取材して10万円の日本刀を購入した。この旅の前、三島は清水宛てに〈天皇の神聖は、伊藤博文の憲法にはじまるといふ亀井勝一郎説を、山本健吉氏まで信じてゐるのは情けないことです。それで一そう神風連に興味を持ちました。神風連には、一番本質的な何かがある、と予感してゐます〉と綴った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 172,
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"text": "10月には自衛隊体験入隊を希望し、防衛庁関係者や元陸将・藤原岩市などと接触して体験入隊許可のための仲介や口利きを求め、12月には舩坂弘の著作の序文を書いた返礼として日本刀・関ノ孫六を贈られた。同月19日、小沢開策から民族派雑誌の創刊準備をしている若者らの話を聞いた林房雄の紹介で、万代潔(平泉澄の門人で明治学院大学)が三島宅を訪ねて来た。",
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"paragraph_id": 173,
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"text": "翌1967年(昭和42年)1月に、その雑誌『論争ジャーナル』が創刊され、副編集長の万代潔が編集長の中辻和彦と共に三島宅を再訪し、雑誌寄稿を正式依頼して以降、三島は同グループとの親交を深めていった。同月には日本学生同盟の持丸博も三島を訪ね、翌月創刊の『日本学生新聞』への寄稿を依頼した。三島は日本を守ろうとする青年たちの純粋な志に感動し、〈覚悟のない私に覚悟を固めさせ、勇気のない私に勇気を与へるものがあれば、それは多分、私に対する青年の側からの教育の力であらう〉と綴った。",
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"paragraph_id": 174,
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"text": "三島は42歳となるこの年の元日の新聞で、執筆中の〈大長編の完成〉が予定されている47歳の後には、〈もはや花々しい英雄的末路は永久に断念しなければならぬ〉と語り、〈英雄たることをあきらめるか、それともライフワークの完成をあきらめるか〉の二者択一の難しい決断が今年は来る予感がするとして、西郷隆盛や加屋霽堅が行動を起こした年齢を挙げながら、〈私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ〉と〈年頭の迷ひ〉を告白した。",
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"paragraph_id": 175,
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"text": "4月12日から約1か月半、単身で自衛隊に体験入隊した三島は、イギリスやノルウェー、スイスなどの民兵組織の例に習い、国土防衛の一端を担う「祖国防衛隊」構想を固めた後、学生らを引き連れて自衛隊への体験入隊を定期的に行なった。以降、三島は航空自衛隊のF-104戦闘機への搭乗体験や、陸上自衛隊調査学校情報教育課長・山本舜勝とも親交し、共に民兵組織(のち「楯の会」の名称となる)会員への指導を行うことになる(詳細は三島由紀夫と自衛隊を参照)。",
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{
"paragraph_id": 176,
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"text": "これらの活動と平行し、1967年(昭和42年)2月から「奔馬」が『新潮』で連載開始された(1968年8月まで)。この小説は、血盟団の時代を背景に昭和維新に賭けた青年の自刃を描き、美意識と政治的行動が深く交錯した作品となった。同年2月28日には、川端康成、石川淳、安部公房と連名で、中共の文化大革命に抗議する声明の記者会見を行なった。5月には英訳版の『真夏の死 その他』が1967年フォルメントール国際文学賞第2位受賞した(『午後の曳航』も候補作品)。この賞を推薦したドナルド・キーンが三島の本が2位に終わったことを残念がっていると、 たまたまスウェーデンから参加していた有力出版社ボニエールの重役が「三島はずっと重要な賞(ノーベル文学賞)をまもなく受けるだろう」とキーンを慰めた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 177,
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"text": "6月には日本空手協会道場に入門し、中山正敏(日本空手協会首席師範)のもと、7月から空手の稽古を始めた。三島は中山に、「私は文士として野垂れ死にはしたくない。少なくとも日本人として、行動を通して〈空〉とか〈無〉というものを把握していきたい」と語ったという。",
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"paragraph_id": 178,
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"text": "6月19日には早稲田大学国防部の代表らと会合し森田必勝と出会った。森田は三島を師と仰ぎ、彼に体験入隊の礼状として「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」と贈った。三島は、「どんな美辞麗句をならべた礼状よりも、あのひとことにはまいった」と森田に返答した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 179,
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"text": "担当編集者の菅原国隆は三島が作中人物になりきってしまう傾向を危惧していたため、彼を鎌倉の小林秀雄宅に連れて行き、小林を通じてそれとなく自衛隊への体験入隊を止めるよう説得を試みるが、逆に変な小細工をしたことで三島から不興を買った。当時の三島は、「奔馬」に登場するような青年たちに出会ったことを、「恐いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説に先行することもある」と担当編集者の小島喜久江に語ったという。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 180,
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"text": "9月下旬からはインド政府の招きで、インド、タイ、ラオスへ夫人同伴で旅行した。第三巻「暁の寺」の取材のため、単身でベナレスやカルカッタに赴いた三島は、ノーベル文学賞受賞を期待して加熱するマスコミ攻勢から逃れるためにバンコクに滞留し、そこで自分を捕まえた特派員の徳岡孝夫と知り合い、2人は意気投合した。",
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"text": "10月には『英霊の聲』とは違う形でありながらも、同根の〈忠義〉を描いた戯曲『朱雀家の滅亡』を発表した。同時期には『葉隠入門』『文化防衛論』などの評論も多く発表され、『文化防衛論』においては〈近松も西鶴も芭蕉もいない〉昭和元禄を冷笑し、自分は〈現下日本の呪い手〉であると宣言するなど、戦後民主主義への批判を明確に示した。",
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"paragraph_id": 182,
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"text": "1968年(昭和43年)2月25日、三島は論争ジャーナル事務所で、中辻和彦、万代潔、持丸博ら10名と「誓 昭和四十三年二月二十五日 我等ハ 大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ」という皆の血で巻紙に書いた血盟状を作成し、本名〈平岡公威〉で署名した。4月上旬には、堤清二の手配によるドゴールの制服デザイナー・五十嵐九十九デザインの制服を着て、隊員らと東京都青梅市の愛宕神社に参拝した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 183,
"tag": "p",
"text": "インド訪問で中共に対処する防衛の必要性を実感した三島は、企業との連携で「祖国防衛隊」の組織拡大を目指し、民族資本から資金を得て法制化してゆく「祖国防衛隊構想」を立ち上げ、経団連会長らと何度か面談していたが、5月か6月頃の面談を最後に資金援助を断られてしまった。この年、新撰組の近藤勇死後百年祭に参加した。近藤勇は、三島の高祖父・永井尚志の親友であったという。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 184,
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"text": "三島は組織規模を縮小せざるをえなくなり、10月5日に隊の名称を「祖国防衛隊」から『万葉集』防人歌の「今日よりは 顧みなくて大君の醜()の御楯と出で立つ吾は」万葉集 第二十巻 歌番号4373にちなんだ「楯の会」と変えた。同年8月には剣道五段に合格し、9月からはインドでのベナレス体験が反映された第三巻の「暁の寺」を『新潮』で連載開始した(1970年4月まで)。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "同年10月21日の国際反戦デーにおける新左翼の新宿騒乱の激しさから、彼らの暴動を鎮圧するための自衛隊治安出動の機会を予想した三島は、それに乗じて「楯の会」が斬り込み隊として加勢する自衛隊国軍化・憲法9条改正へのクーデターを計画した。この日の市街戦を交番の屋根の上から見ていた三島の身体が興奮で小刻みに震えているのを、隣にいた山本舜勝は気づいた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 186,
"tag": "p",
"text": "この日帰宅した息子の興奮ぶりを母・倭文重は、「手がつけられない程で、身振り手振りで宜しく事細かに話す彼の話を、私は面白いと思いつつもうす気味悪く聞いた。彼の心の底深く沈潜していたものが一挙に噴出した勢いだった」と述懐している。三島はクーデターに恰好の機会を待ちながらゲリラ演習訓練を続け、各大学で学生とのティーチ・インや防衛大学校での講演活動を行なった。三島と楯の会は、世間からの「玩具の兵隊さん」との嘲笑を隠れ蓑に精鋭化していった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "三島はその活動と並行し、同時期に『命売ります』や戯曲『わが友ヒットラー』、評論『反革命宣言』などを発表した。また、同年10月17日には川端康成のノーベル文学賞受賞が報道され、三島もすぐに祝いに駆けつけた。川端は受賞のインタビューで「運がよかった」「翻訳者のおかげ」のほか、「三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです」と答えた。なおドナルド・キーンが後年1970年5月にコペンハーゲンの友人宅の夕食会で再会したある人物から直接聞いた話によると、この賞の選考の際ノーベル賞委員会は1957年東京で開催された国際ペンクラブ大会に参加したことのあるその人物に意見を求め、彼が三島の日本での政治的活動から「三島は比較的若いため(左翼の)過激派に違いないと判断した」ため川端の方を強く推して委員会を承服させたという。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 188,
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"text": "1969年(昭和44年)1月には『豊饒の海』第一巻の『春の雪』、2月には第二巻『奔馬』が新潮社から刊行され、澁澤龍彦や川端康成など多くの評論家や作家から高評価された。2月11日の建国記念の日には、国会議事堂前で焼身自殺した江藤小三郎の壮絶な諌死に衝撃を受け、その青年の行動の〈本気〉に、〈夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評〉を三島は感得した。",
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"paragraph_id": 189,
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"text": "同年5月13日には、東大教養学部教室での全共闘主催の討論会に出席した。東大の学生らは荒れ果てた大学のイメージを払拭するため、解放区だからこそできる独自の授業をやろうと当時の知識人をリストアップし、その中の1人が三島だった{{refnest|group=\"注釈\"|芥正彦の公式Youtubeチャンネルにて公開されている2009年ごろのインタビュー全6本で語られている。三島は芥正彦や小阪修平らと激論を交わし、〈つまり天皇を天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないから、いつまでたっても殺す殺すと言っているだけのことさ。それだけさ〉と発言した。そして最後に〈諸君の熱情は信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じる〉と告げ、壇を後にした。また三島は討論終了後、芥ら学生を〈砂漠の住人〉と評した文章を残している。なお、その後三島は芥の書いた三島評などを読んでいたという話がある。後年、芥は当時について振り返り、三島との友愛やその後の時代についてなどをインタビューで回想している。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 190,
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"text": "6月からは、勝新太郎、石原裕次郎、仲代達矢らと共演する映画『人斬り』(五社英雄監督)の撮影に入り、薩摩藩士の田中新兵衛役を熱演した。大阪行きの飛行機内で、仲代が三島に「作家なのにどうしてボディビルをしているんですか?」と尋ねると、「僕は死ぬときに切腹するんだ」「切腹してさ、脂身が出ると嫌だろう」と返答されたため、仲代は冗談の一つだと思って聞いていたという。",
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"paragraph_id": 191,
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"text": "この頃、三島はすでに何人かの楯の会会員らに居合を習わせ、先鋭の9名(持丸博、森田必勝、倉持清、小川正洋、小賀正義など)に日本刀を渡し、「決死隊」を準備していた。これと並行し、自衛隊の寄宿舎での一日を綴った私小説『蘭陵王』、戯曲『癩王のテラス』などが発表され、日本のオデッセイは源為朝だという意気込みで、歌舞伎『椿説弓張月』も書き上げた。",
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"text": "しかし、7月下旬頃から古参メンバーの中辻や万代と、雑誌『論争ジャーナル』の資金源(中辻らが田中清玄に資金援助を求めていたこと)を巡って齟齬が生じ、8月下旬に彼らを含む数名が楯の会を正式退会した。その後、持丸も会の事務を手伝っていた松浦芳子との婚約を機に、退会の意向を示した。三島は「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」と説得したが、駄目だった。持丸を失った三島の落胆は大きく、山本に「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったという。持丸の退会により、10月12日から森田必勝が学生長となった。",
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"paragraph_id": 193,
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"text": "この年の10月21日の国際反戦デーの左翼デモは前年とは違い、前もって配備されていた警察の機動隊によって簡単に鎮圧された。三島は自衛隊治安出動が不発に終わった絶望感から、未完で終わるはずだった「暁の寺」を〈いひしれぬ不快〉で書き上げた。これで、クーデターによる憲法改正と自衛隊国軍化を実現する〈作品外の現実〉に賭けていた夢はなくなった。",
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"text": "この頃、自分が死ぬかもしれないことを想定していた三島はもしもの場合を考え、川端康成宛てに〈死後、子供たちが笑はれるのは耐へられません。それを護つて下さるのは川端さんだけ〉だと、8月から頼んでいた。",
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"paragraph_id": 195,
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"text": "同年10月25日、蓮田善明の25回忌に三島は『蓮田善明全集』刊行の協力要請を小高根二郎に願い出て、連載終了した小高根の「蓮田善明とその死」に〈今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません〉と返礼し、〈蓮田氏と同年にいたり、なほべんべんと生きてゐるのが恥ずかしくなりました〉と綴った",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 196,
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"text": "11月3日、森田を学生長とした楯の会結成1周年記念パレードが国立劇場屋上で行なわれ、藤原岩市陸将らが祝辞を述べ、女優の村松英子や倍賞美津子から花束を贈呈された。三島はこのパレードの祝辞を前々から川端に依頼し、10月にも直に出向いてお願いしたが、彼から「いやです、ええ、いやです」とにべも無く断られ、村松剛に涙声でその悲憤と落胆を訴えたという。",
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"text": "1970年(昭和45年)1月1日、三島邸で開かれた新年会で、丸山明宏が三島に霊が憑いていると言った。三島が何人かの名前を矢継ぎ早に挙げて訊くと、磯部浅一のところで「それだ!」と丸山は答え、三島は青ざめたという。その昔、1959年(昭和34年)7月に三島邸で奥野健男と澁澤龍彦らが来て、コックリさんをしている最中にも、「二・二六の磯部の霊が邪魔している」と三島が大真面目に呟いていたとされる。",
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"paragraph_id": 198,
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"text": "1月17日、三島は学習院時代の先輩・坊城俊民夫妻との会食の席で、50歳になったら藤原定家を書きたいという今後の抱負を語った。2月には、未知の男子高校生の訪問があり、「先生はいつ死ぬんですか」と質問され、このエピソードを元に「独楽」を書いた。3月頃、万が一の交通事故死のためという話で、知人の弁護士・斎藤直一に遺言状の正式な作成方法を訊ねていた三島は、同時期には、常にクーデター計画に二の足を踏んでいた山本舜勝と疎遠になり、4月頃から森田必勝ら先鋭メンバーと具体的な最終決起計画を練り始めた(詳細は三島事件#三島由紀夫と自衛隊を参照)。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 199,
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"text": "3月頃、三島は村松剛に、「蓮田善明は、おれに日本のあとをたのむといって出征したんだよ」と呟き、「『豊饒の海』第四巻の構想をすっかり変えなくてはならなくなってね」とも洩らしたという。刊行された小高根二郎の『蓮田善明とその死』を携えて山本舜勝宅を訪問した三島は、「私の今日は、この本によって決まりました」と献呈した。",
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"paragraph_id": 200,
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"text": "第四巻の取材のため、三島は5月に清水港、駿河湾、6月に三保の松原に赴いてタイトルを決定し、7月から「天人五衰」を連載開始した。6月下旬には、自分の死後の財産分与や、『愛の渇き』と『仮面の告白』の著作権を母・倭文重に譲渡する内容の遺言状を作成し、7月5日に森田ら4名との決起を11月の楯の会定例会の日に定めた。",
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{
"paragraph_id": 201,
"tag": "p",
"text": "なおこの時期、5月にドナルド・キーンがコペンハーゲンで1968年ノーベル文学賞の選考秘話(前段の節参照)を知り、こともあろうか三島が「左翼の過激派」に間違えられたせいで賞を逸したなんてあまりにも馬鹿げていると驚いたため、その後「そのことを三島に話さずにはいられなかった」が、キーンからその話を聞いている時の三島は「笑わなかった」という。",
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"paragraph_id": 202,
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"text": "7月7日の新聞では、「果たし得てゐない約束」と題して自身の戦後25年間を振り返り、〈その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど「生きた」とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ〉と告白し、〈私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする〉と戦後社会への決別を宣言した。",
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{
"paragraph_id": 203,
"tag": "p",
"text": "同じ7月、三島は保利茂官房長官と中曽根康弘防衛庁長官に『武士道と軍国主義』『正規軍と不正規軍』という防衛に関する文書を政府への「建白書」として託したが、中曽根に阻止されて閣僚会議で佐藤栄作首相に提出されず葬られた。川端宛てには、〈時間の一滴々々が葡萄酒のやうに尊く感じられ、空間的事物には、ほとんど何の興味もなくなりました〉と綴った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 204,
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"text": "同年8月、家族と共に伊豆の下田市に旅行し、帰京後は執筆取材のために新富町の帝国興信所を訪れた。8月下旬頃にはすでに「天人五衰」の最終回部分(26-30章)をほぼ書き上げ、原稿コピーは新潮社出版部長・新田敞に預けた。9月には評論『革命哲学としての陽明学』を発表し、同時期に対談集『尚武のこころ』と『源泉の感情』も出版した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 205,
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"text": "9月3日にヘンリー・スコット・ストークス宅の夕食会に招かれた三島は食事後、ヘンリーに暗い面持ちで「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている」という不思議な喩え話をした。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 206,
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"text": "この時期には、ドナルド・リチーや『潮騒』の翻訳者・メレディス・ウェザビーとも頻繁に会い、リチーが楯の会のことをボーイスカウトだと揶揄すると、「数少ない彼らボーイスカウトと僕は、秩序を保つ核となるんだ」と言い、官僚主義に屈した新政府と戦い、敗けると判っていながらも若き兵士たちと行動を共にした西郷隆盛を「最後の真の侍だ」と敬愛していたという。",
"title": "生涯"
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"text": "10月には、「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と村松剛に告白し、それに対し村松が「家庭の幸福は文学の敵。それじゃあ、太宰治と同じじゃないか」と指摘すると、三島は「そうだよ、おれは太宰治と同じだ。同じなんだよ」と言い、小市民的幸福を嫌っていたとされるが、自分の死後も子供たちに毎年クリスマスプレゼントが届くよう百貨店に手配し、子供雑誌の長期購読料も出版社に先払いして毎月届けるように頼んでいた。伊藤勝彦によると、三島はある種の芸術家にみられるような、家庭を顧みないような人間ではなかったという。",
"title": "生涯"
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"text": "10月に再演された『薔薇と海賊』の第2幕目の終わりで、三島は舞台稽古と初日とも泣いていた。その場面の主人公・帝一の台詞は、〈船の帆は、でも破けちやつた。帆柱はもう折れちやつたんだ〉、〈僕は一つだけ嘘をついてたんだよ。王国なんてなかったんだよ〉だった。",
"title": "生涯"
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"text": "11月17日、三島は清水文雄宛てに、〈「豊饒の海」は終りつつありますが、「これが終つたら......」といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。カンボジアのバイヨン大寺院のことを、かつて「癩王のテラス」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした〉と記している。",
"title": "生涯"
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"text": "11月21日頃、いくら遅くても連絡してほしいという三島からの伝言を受けていた藤井浩明は深夜、三島に電話した。イタリアで上映されて好評の『憂国』などの話をし、最後に藤井がまた連休明けに連絡する旨を伝えて切ろうとすると、いつもは快活に電話を切る三島が「さようなら」とぽつりと言ったことが、何となく気にかかったという。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 211,
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"text": "11月22日の深夜午前0時前に横尾忠則が三島に電話し、横尾が装幀を担当した『新輯 薔薇刑』のイラストについて話題が及ぶと、その絵を三島は「俺の涅槃像だろう」と言って譲らなかったうえ、療養中の横尾を気遣って「足の病気は俺が治して歩けるようにしてやる」と言ったという。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 212,
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"text": "11月24日、決起への全準備を整えた三島と森田、小賀正義、古賀浩靖、小川正洋は、午後6時頃から新橋の料亭「末げん」で鳥鍋料理を注文し、最後の会食をした。当時「末げん」の若女将になったばかりの丸武子によれば、丸が挨拶をするためにふすまを開けた時、三島は目をつぶって考え事をしていたという。会食を終えた帰り際では、玄関で「またお越しくださいませ」と丸が声をかけると、三島は「また来いと言われてもなぁ」と返した後、「こんな綺麗な女将さんがいるなら、あの世からでも来るか」と続けたという。午後8時頃に店を出て、小賀の運転する車で帰宅した三島は、午後10時頃に離れに住む両親に就寝の挨拶に来て、何気ない日常の会話をして別れたが、肩を落として歩く後姿が疲れた様子だったという。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 213,
"tag": "p",
"text": "1970年(昭和45年)11月25日、三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会会員4名と共に訪れ、面談中に突如、益田兼利総監を人質にして籠城すると、バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起を促す演説をした直後に割腹自決した。45歳没。現場はあまりにも凄惨であったため、当局の発表も、報道にも自然に抑制がかかり、現場の様子がリアルに表に出るのは、14年後写真雑誌『フライデー』が、警視庁公安部の右翼担当部員が保管していた現場写真(三島の生首の顔)をスクープというかたちで掲載した時であった。警視庁公安部員は、切腹から斬首に至るまでの一部始終を、止めに入ったり逮捕したりすることなく、廊下側の天窓ごしに全部ウォッチしながら、証拠写真を相当数撮り続けていた(立花隆によると、公安部員は右翼担当・左翼担当関わらず、どんな重大な事件に遭遇しても、それに直接介入はしないという)。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 214,
"tag": "p",
"text": "決起当日の朝10時30分、担当編集者の小島喜久江は平岡家のお手伝いさんから間接的に第四巻「天人五衰」の原稿を渡された。小島が編集部に戻って原稿を読むと、予定と違って最終回となっており、巻末日付が11月25日で署名がなされていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 215,
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"text": "この11月25日という決行日については、大正天皇の重患に伴い昭和天皇が摂政に就いた日であることと、天皇が「人間宣言」をしたのが45歳だったことから、同じ年齢で人間となった天皇の身代りになって死ぬことで、「神」を復活させようという意味があったと考察する研究や、三島が尊敬していた吉田松陰の刑死の日を新暦に置き換えた日に相当するという見解もある。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 216,
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"text": "また、11月25日は三島が戦後を生きるために〈飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る〉という〈生の回復術〉〈裏返しの自殺〉 として発表した『仮面の告白』の起筆日であることから、三島が戦後の創作活動のすべてを解体して〈死の領域〉に戻る意味があったとする考察もある。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 217,
"tag": "p",
"text": "この日、細川護立の葬儀で東京に居た川端康成は、三島自決の一報を受けて現場にすぐ駆けつけたが、遺体とは対面できなかった。呆然と憔悴しきった面持ちの川端は報道陣に囲まれ、「もったいない死に方をしたものです」と答えた。三島の家族らは動転し、瑤子夫人はショックで寝込んでしまった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 218,
"tag": "p",
"text": "三島の辞世の句は、",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 219,
"tag": "p",
"text": "の二首。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 220,
"tag": "p",
"text": "三島の遺体は翌日の26日に慶応義塾大学病院法医学解剖室にて、斎藤銀次郎教授により解剖執刀され、死因は「頸部割創による離断」と認定された。また、三島の血液型はA型で、身長は163cmであった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 221,
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"text": "自宅書斎からは家族や知人宛ての遺書のほか、机上に「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」(サンケイ新聞 昭和45年7月7日号)と「世なおし70年代の百人三島由紀夫」(朝日新聞 昭和45年9月22日号)の切り抜きがあり、〈限りある命ならば永遠に生きたい. 三島由紀夫〉という遺書風のメモも見つかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 222,
"tag": "p",
"text": "介錯に使われた自慢の名刀「関孫六」は刃こぼれをしていた。刀は当初白鞘入りだったが、三島が特注の軍刀拵えを作らせ、それに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれていたうえ、容易に抜けないよう両側が潰されていた。刀を贈った友人の舩坂弘は、死の8日前の「三島由紀夫展」(11月12日から17日まで東武百貨店で開催)で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 223,
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"text": "武田泰淳は、三島と自身とは文体も政治思想も違うが、その「純粋性」を常に確信していたとし、以下のような追悼文を贈った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 224,
"tag": "p",
"text": "翌日の11月26日、三島が伊沢甲子麿に託した遺言により、遺体には楯の会の制服が着せられ、手には胸のあたりで軍刀が握りしめられた。どんなに変わり果てた無惨な姿かと父・梓は心配だったが、胴と首も縫合され、警察官たちの厚意によって顔も綺麗に化粧が施されていた。密葬は自宅で行われ、家族は柩に原稿用紙や愛用の万年筆も添え、品川区の桐ヶ谷斎場で三島は荼毘に付された。なお、三島は律儀に国民年金に加入していて死ぬまで保険料をきちんと払っていたという。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 225,
"tag": "p",
"text": "翌1971年(昭和46年)1月14日、三島の誕生日であるこの日、府中市多摩霊園の平岡家墓地に遺骨が埋葬された。自決日の49日後が誕生日であることから、三島が転生のための中有の期間を定めていたのではないかという説もある。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 226,
"tag": "p",
"text": "同年1月24日に、築地本願寺で告別式(葬儀委員長・川端康成、弔辞・舟橋聖一ほか)が行われた。8200人以上の一般会葬者が参列に訪れ、文学者の葬儀としては過去最大のものとなった。戒名は「彰武院文鑑公威居士」。遺言状には「必ず武の字を入れてもらいたい。文の字は不要。」とあったが、梓は文人として生きてきた息子の業績を考えて「文」の字も入れた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 227,
"tag": "p",
"text": "告別式には、右翼の仲間と思われることへの懸念から参列を回避した知人らも多く、ドナルド・キーンも友人らに助言されて参列を見合わせたが、キーンはそのことを後悔しているという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 228,
"tag": "p",
"text": "人質となった益田総監は、裁判の公判で「被告たちに憎いという気持ちは当時からなかった」と語ったうえ、「国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい。憎いという気持ちがないのは、純粋な気持ちを持っておられたからと思う」と陳述した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 229,
"tag": "p",
"text": "なお、川端政子(川端康成の養女)の夫・川端香男里によると、三島が康成に宛てた手紙の最後のものは、11月4日から6日の間に自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地から出された鉛筆書きのもので、康成によって焼却されたとされる。香男里によると、「文章に乱れがあり、これをとっておくと本人の名誉にならないからすぐに焼却してしまった」とされる。しかし、これは康成の名誉にならないから焼却されたのではないかという見方もある。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 230,
"tag": "p",
"text": "三島と森田の忌日には、「三島由紀夫研究会」による追悼慰霊祭「憂国忌」が毎年行われている。三島事件に関わって4年の実刑判決を受けた楯の会3人(小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)が仮出所した翌年の1975年(昭和50年)以降には、元楯の会会員による慰霊祭も神道形式で毎年行われている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 231,
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"text": "1999年(平成11年)7月3日には、三島の著作や資料を保管する「三島由紀夫文学館」が開館された。2008年(平成20年)3月1日には、富山県富山市向新庄町二丁目4番65号に「隠し文学館 花ざかりの森」が開館された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 232,
"tag": "p",
"text": "三重県鳥羽市の神島港に『潮騒』の文学碑があり、「三島文学 潮騒の地」と刻まれている。",
"title": "文学碑・追悼碑"
},
{
"paragraph_id": 233,
"tag": "p",
"text": "1971年(昭和46年)1月30日、松江日本大学高等学校(現・立正大学淞南高等学校)の玄関前に「三島由紀夫・森田必勝烈士顕彰碑」が建立され、除幕式が行なわれた。碑には「誠」「維新」「憂国」「改憲」の文字が刻まれている。",
"title": "文学碑・追悼碑"
},
{
"paragraph_id": 234,
"tag": "p",
"text": "同年2月11日、三島の本籍地の兵庫県印南郡志方町(現・加古川市志方町)の八幡神社境内で、地元の生長の家の会員による「三島由紀夫を偲ぶ追悼慰霊祭」が行われた。",
"title": "文学碑・追悼碑"
},
{
"paragraph_id": 235,
"tag": "p",
"text": "同年11月25日、埼玉県大宮市(現・さいたま市)の宮崎清隆(元陸軍憲兵曹長)宅の庭に「三島由紀夫文学碑」が建立された。揮毫は三島瑤子(平岡瑤子)。",
"title": "文学碑・追悼碑"
},
{
"paragraph_id": 236,
"tag": "p",
"text": "陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地の第2中隊隊舎前に追悼碑が建立されている。碑には、「深き夜に 暁告ぐる くたかけの 若きを率てぞ 越ゆる峯々 公威書」という三島の句が刻まれている。",
"title": "文学碑・追悼碑"
},
{
"paragraph_id": 237,
"tag": "p",
"text": "1973年(昭和48年)6月10日、静岡県賀茂郡賀茂村(現・西伊豆町)の黄金崎に『獣の戯れ』の一節が刻まれた文学碑が建立され、除幕式が行われた。揮毫は平岡梓。",
"title": "文学碑・追悼碑"
},
{
"paragraph_id": 238,
"tag": "p",
"text": "1983年(昭和58年)1月9日、静岡県富士宮市郊外に「三島由紀夫神社」が建立された。",
"title": "文学碑・追悼碑"
},
{
"paragraph_id": 239,
"tag": "p",
"text": "1986年(昭和61年)、兵庫県印南郡志方町(現・加古川市志方町)の玉乃緒地蔵尊のある地に「三島由紀夫先生慰霊の碑」が建立された。揮毫は県知事・坂井時忠。",
"title": "文学碑・追悼碑"
},
{
"paragraph_id": 240,
"tag": "p",
"text": "1991年(平成3年)11月、新潟県北魚沼郡湯之谷村(現・魚沼市)の枝折峠に『沈める滝』の文学碑が村の有志により、建立された。高さ1メートル、幅2メートルあまりの安山岩に、駒ケ岳の風景描写の一節が刻まれている。",
"title": "文学碑・追悼碑"
},
{
"paragraph_id": 241,
"tag": "p",
"text": "三島由紀夫の主要作品は、レトリックを多様に使用しているところに特徴があり、構成なども緊密に組み立てられ、古代ギリシアの『ダフニスとクロエ』から着想した『潮騒』、エウリピデスのギリシャ悲劇や、能楽・歌舞伎、ラシーヌのフランス古典劇などを下敷きにした戯曲や小説、『浜松中納言物語』を典拠とした『豊饒の海』など、古典からその〈源泉〉を汲み上げ、新しく蘇らせようとする作風傾向がある。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 242,
"tag": "p",
"text": "上記のような傾向から、その形式的な構成の表現方法は、近代日本文学の主な担い手だった私小説作家たちより、西洋文化圏の作家に近い面がある。また、社会的な事件や問題を題材にするなど、日本の第一次戦後派作家や第二次戦後派作家と共通する点はあったものの、その作風は彼らと違って大東亜戦争時代への嫌悪はなく、社会進歩への期待や渇望、マルクス主義への共感を伴った未来幻想がなかったため、そういった面では明日など信じていない太宰治、坂口安吾、石川淳、檀一雄などの無頼派に近い傾向がある。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 243,
"tag": "p",
"text": "上述でも判るように、三島は古代から中世、近世の日本文学に造詣が深く、耽美的な傾向の点では江戸末期の文学の流れをくむ谷崎潤一郎、夭折美学や感覚的な鋭さの面では川端康成とも大きな共通性があるが、文体的には堀辰雄や森鷗外の影響を受けており、その文学の志向や苦闘は、日本的風土と西洋理念との狭間で格闘した横光利一の精神に近いことが指摘されている。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 244,
"tag": "p",
"text": "『午後の曳航』などを翻訳したことのあるジョン・ネイスンは、三島は「(日本が開国により)国をこじあけられて以来ずっと病んできた文化的両価性の範型」と見なせるとし、日本が「生来的・先天的・伝統基底的な」自国文化と、「外来で扱いにくい」異種の西欧文化を和解させて「真正の〈自己〉を見出そうとする国民的争闘」、東洋と西洋の「綜合の模索」の同一パターンの反復であるとしている。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 245,
"tag": "p",
"text": "そしてネイスンは、「たしかに、三島の何とも優美で華麗な表現力をそなえた日本語は、多少熟れすぎではあったが、骨の髄まで日本的であった。三島が毎夜、真夜中から明け方までかけて紡ぎ出した日本語こそが彼にとって真の重大事であり、その一生を規定した」とし、「(三島の死は)一つの国民的苦悩の明快で適切無比な表現であったことも理解されなければならない。これぞ文化的廃嫡の苦悩であった」と評している。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 246,
"tag": "p",
"text": "三島の作品は、『純白の夜』『愛の渇き』『真夏の死』『夜の向日葵』『美徳のよろめき』『春の雪』『薔薇と海賊』『裸体と衣裳』『絹と明察』など、反対の概念を組み合わせた題名が多く、『仮面の告白』では「仮面を被る」ことと、本来は反対の概念である「告白」が、アイロニカルに接合していることが指摘されている。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 247,
"tag": "p",
"text": "文学のテーマも、三島自身が〈『太陽と鉄』は私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなもの〉と言っているように、生と死、文と武、精神と肉体、言葉と行動、見る者と見られる者(認識者と行為者)、芸術と人生、作者と彼、といった二元論がみられるが、その〈対〉の問題は単純な並列や対立関係ではないところに特徴がある。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 248,
"tag": "p",
"text": "『トニオ・クレエゲル』の〈トニオ〉対〈ハンスやインゲ〉に象徴される〈芸術家〉対〈美しい無智者(欠乏の自覚〈エロス〉を持たぬ下方の者でありながらも美しいという存在)〉の二項の図式から生じてくる芸術家・トニオの〈分裂の意識(統一的意識を持つこと自体が二律背反であること)〉を解読した三島には、〈統一的意識の獲得〉を夢見て、〈欠乏の自覚を持つことをやめて、統一的意識そのもの〉〈人工的な無智者〉に成り変わり、〈自己撞着の芸術観〉、つまりは〈エロスを必要とせぬ芸術〉〈無智者の作りうる芸術〉を打ち建てようという思考がみられる。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 249,
"tag": "p",
"text": "『潮騒』あたりから三島が志向し始めた「〈統一的意識そのもの〉に成り変る者」とは、〈芸術家〉(作者)、〈彼〉(無智者かつ美的存在で欠乏の自覚を持たぬ者)のいずれに属するのか、一体「誰」になるのかを青海健は考察し、三島文学の特異性について以下のように論じている。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 250,
"tag": "p",
"text": "すでに行動の世界にいた三島が自決(三島事件)の3年前、〈今は、言葉だけしか信じられない境界へ来たやうな心地がしてゐる〉とし、大東亜戦争時にあらん限りの〈至上の行動〉を尽くし、特攻隊が〈人間の至純の魂〉を示したにもかかわらず、〈神風が吹かなかつた〉のならば〈行動と言葉とは、つひに同じことだつたのではないか〉、「力を入れずして天地(あめつち)を動かし」(古今集での紀貫之の序)という宣言(〈言葉の有効性には何ら関はらない別次元の志〉)の方がむしろ〈その源泉をなしてゐるのではないか〉と思い至り、〈このときから私の心の中で、特攻隊は一篇の詩と化し〉、〈行動ではなくて言葉になつた〉と語っているが、この〈言葉〉とは、「言葉からはみ出してしまうものを表現するものである言葉」(『太陽と鉄』での〈「肉体」の言葉〉)を意味している。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 251,
"tag": "p",
"text": "その三島の〈肉体〉は〈すでに言葉に蝕まれてゐた〉ゆえ、両者は永遠の往還となり、〈言葉〉によって〈肉体〉に到達しようとし、その〈肉体〉への到達がまた〈言葉〉へ還流するという「アイロニカルな円環」(到達不可能)であり、最終的には〈言葉〉と〈肉体〉のどちらでもなく、そのどちらでもあるという境界(「絶対の空無」、〈死〉)でしか超えられず、この〈生〉と〈死〉の関係性を「輪廻転生」(生と死が対立概念ではない)として表現した作品が『豊饒の海』となり、認識者の自意識(言葉)との格闘が物語られる3巻と4巻(『暁の寺』と『天人五衰』)で、最後に「作者」(三島)を待ち受けるのが、「絶対の空無」であると青海は論考している。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 252,
"tag": "p",
"text": "言葉の領域でもあった〈生〉と、〈死〉との連続性を垣間見た三島が、〈言葉の有効性〉をそぎ落とし、目指した〈詩的秩序をあらゆる有効性から切り離す〉こととは、「言葉の表層」、「エロス的悲劇性の表層」へと回帰することであり、「言葉が現実に対して無効となる時はじめてその本来の力を開示する」ということだったと、青海は三島の作品遍歴から論考している。〈行動と言葉とは、つひに同じことだつた〉と三島が悟ったのは、言葉から逃走した地点が、〈行動〉の有効性をも消滅する地平でもあり、その〈行動〉に向かうことで、アイロニカルにも、「言葉の無効性を生かすこと」が可能となり、「言葉の否定による言葉の奪還」というパラドックス(円環)になる。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 253,
"tag": "p",
"text": "三島の『花ざかりの森』が初掲載された『文藝文化』には、蓮田善明の『鴨長明』が同時掲載され、そこで蓮田は、肉も骨もなくなり、魂だけになった「言葉」が鴨長明の和歌だと論じている。島内景二は、それは三島の行きついた「魂の形」を予言していたとし、三島は尊敬する蓮田の論を意識し、「血と見えるものも血ではなく、死と思われるものも死ではない」境地の、「肉も骨もない、魂だけの言葉」に辿り着くため、蓮田の論を実践し証明しようとしたと考察している。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 254,
"tag": "p",
"text": "『憂国』や『春の雪』に顕著であるジョルジュ・バタイユ的な生と死の合一といったエロティシズム観念(禁止―侵犯―聖性の顕現)は、三島の耽美的憧憬とも重なるものであるが、それは三島の「日本回帰」や「時代の禁忌」でもあり、神聖天皇(絶対の空無=超越者)を夢見るという不可能性の侵犯を秘めたロマン主義的イロニーでもあった。当時の左翼的知識人たちに対する「反動イデオローグ」として、三島は「危険な思想家」(山田宗睦が名付けた)と問題視され、また、野口武彦からは、その〈抽象的情熱〉を、ドイツ・ロマン派や、三島が少年時代に培った日本浪曼派に通ずるロマンチック・イロニーと呼ばれていた。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 255,
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"text": "近代では禁忌である天皇の中にこそ、「近代」をのり超える〈絶対〉を垣間見ていた三島は、バタイユについて以下のように語り、死の1週間前に行なわれた対談の中では、〈バタイユは、この世でもっとも超絶的なものを見つけだそうとして、じつに一所懸命だったんですよ。バタイユは、そういう行為を通して生命の全体性を回復する以外に、いまの人間は救われないんだと考えていたんです〉と述べている。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 256,
"tag": "p",
"text": "こういった三島の思考は、反キリストのニヒリストであるフリードリヒ・ニーチェが『ツァラトゥストラはこう語った』で「超人」を招来したイロニーと等価であり、ニーチェの『悲劇の誕生』は三島文学に大きな影響を与えている。ニーチェの待望した「英雄」「ディオニュソス」的なものは、三島にとって『蘭陵王』の〈獰猛な仮面〉と〈やさしい顔〉を持ち、蓮田善明の〈薩摩訛りの、やさしい目をした、しかし激越な慷慨家〉、特攻隊の〈人間の至純の魂〉、澄んだ『独楽』の〈透明な兇器〉、『奔馬』の飯沼勲の〈荒ぶる神〉、『椿説弓張月』の源為朝など、純一無垢のイメージを秘め、悲劇性を帯びた美的存在としてある。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 257,
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"text": "遺作の『豊饒の海』4巻(『天人五衰』)のエンディングと、三島が16歳の時に夭折を想定して書いた『花ざかりの森』の静寂的な末尾が酷似していることは、多くの論者から指摘されているが、10歳の時に書いていたという絵コント入りの「紙上映画」とも言える小品『世界の驚異』の結末も、それまでの華やかな物語を全否定してしまうような「火の消えた蝋燭」のエンディングとなっており、寂寞のうちに閉じるという『豊饒の海』の印象的な結末と通底するものが看取される。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 258,
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"text": "『世界の驚異』は、『マッチ売りの少女』や、ポール・ヴェルレーヌの『秋の歌(落葉)』の影響が見られ、〈すゝきのゆれるも物悲しき、むせびなくヴァイオリンの音のやうにかなでゆく秋の調べ〉という文章と共に秋の淋しさが表現され、前段の頁では、海や船、極楽鳥や花が描かれている。火の消えた蝋燭の頁では、〈やはり、美しい夢はつかめなかつた。あゝ果てゆく幻想。それは春の野にたつ、かげろうにのやうにはかないものだ。らうそくの火はきえて了つた。そして目も前は何もかもまつくらだ〉と記され(校正なしの原文ママ)、最後にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーのトレードマークのライオンを模した絵が描かれ、先行作の着想を元に独自の世界観を作り上げている。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 259,
"tag": "p",
"text": "井上隆史は、三島が子供の頃から豊かな才能と想像力に恵まれていたと同時に、その自分が作った世界を自らの手で壊してしまおうというニヒリズム的な傾向があると考察しているが、三島自身も、〈知的(アポロン的)なもの〉と〈感性的〈ディオニソス的〉なもの〉の〈どちらを欠いても理想的な芸術ではない〉として二者の総合を目指し、芸術を〈積木細工〉に喩えつつ、〈積木が完全なバランスを保つところで積木をやめるやうな作家は、私には芸術家ぢやないと思はれる〉として、以下のように語っている。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 260,
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"text": "三島文学の人工性もしばしば指摘される点だが、その人工性には、作品を書くことで自らの危機と向き合い、乗り越えようとする営為が看取される。川端康成は三島の人工性の中にある「生々しさ」について、『盗賊』の序文でいち早く言及していた。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
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"text": "弟子にして女優の村松英子によると、三島は現実の生々しさをそのまま感情的やグロテスクに表現することを嫌っていたとされ、「基本としてドメスティック(日常的)な演技も必要だけど、それだけじゃ、“演劇”にならない。大根やイワシの値段や井戸端会議を越えた所に、日常の奥底に、人間の本質のドラマがあるのだからね」、「怒りも嘆きも、いかなる叫びも、ナマでなく濾した上で、舞台では美しく表現されなければならない。汚い音、汚い演技は観客に不快感を与えるから」と表現の指導をしていたという。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 262,
"tag": "p",
"text": "荻昌弘との対談の中でも三島は、アーサー・シモンズが「芸術でいちばんやさしいことは、涙を流させることと、わいせつ感を起させることだ」と言った言葉を、〈千古の名言だ〉として、お涙頂戴的な映画を批判し、〈日本人の平均的感受性に訴えて、その上で高いテーマを盛ろうというのは、芸術ではなくて政治だよ。(中略)国民の平均的感受性に訴えるという、そういうものは信じない。進歩派が『二十四の瞳』を買うのはただ政治ですよ〉という芸術論を展開している。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
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"text": "三島は劇作家でもあるが、その演劇作品もまた、二項の対立・緊張による「劇」的展開を得意とした。三島は、戯曲は小説よりも〈本能的なところ〉、〈より小児の遊びに近いところ〉にあるとし、〈告白の順番〉は、〈詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから〉と述べるなど、日常的な現実空間をリアルに書く従来の私小説作家の常識とは異なる考えを持っていたことが看取され、22歳の時に林房雄に宛てた手紙の中でも、〈あらゆる種類の仮面のなかで、「素顔」といふ仮面を僕はいちばん信用いたしません〉と、当時の日本文壇の〈レアリズム的〉な懺悔告白のようなものや啓蒙的な小説を批判している。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 264,
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"text": "しかしながら、三島は自分自身を〈小説家〉と規定し、〈肉づきの仮面〉だけが告白できると言っていたことなどから、青海健は「三島由紀夫とは、小説の〈仮面〉を被った劇作家としての小説家」だとして三島にとり、「戯曲が〈本能的な〉素面であるなら、小説はその素面にまで喰い入ってしまった肉づきの仮面」だと解説している。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 265,
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"text": "三島にとっては小説よりも戯曲の方が〈はるかに大胆素直に告白でき〉、それが〈詩作の代用〉をなすと自ら語るように、「枠のしっかりきめられた」形式の方が、「ポエジー(詩)」=「告白」できるという傾向がみられ、三島の小説が、金閣寺放火事件など実際の事件を題材にしているものが多いのも、その「ノンフィクション」を「仮面」とすることにより、大胆な「告白」を可能せしめるという方法論をとっているからである。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
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"text": "三島は、〈戯曲の法則を強引に小説の法則へ導入〉して、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールの言う「自然で自明な形式感」を再確認することが〈小説家〉として重要だという持論の元に、『春の雪』や『奔馬』のようなドラマ性の高い小説を書いているが、その「物語」を見る本多邦繁へと主題が移行している『暁の寺』と『天人五衰』においては、すでに「劇」は不在となり、「自己言及的主題」が生の形で描かれる「小説的」な「小説(ノヴェル)」となっている。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 267,
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"text": "この三島的な劇の形式感を放棄している小説は、ほかに『禁色』や『鏡子の家』などがあるが、戯曲においてこの「“作品の書き手”の告白」の問題が露わに示されているのが、『船の挨拶』『薔薇と海賊』『源氏供養』『サド侯爵夫人』『癩王のテラス』である。青海は、三島にとって戯曲とは「認識者である〈作者〉が〈作品〉と化する告白の夢」であるとし、それが顕著なのが童話作家の阿里子(アリスとも読める)と、空想の世界に生きている帝一が結婚する『薔薇と海賊』だとしている。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 268,
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"text": "すなわち、『薔薇と海賊』では「書き手とその作品世界との幸福な合体の夢」が暗喩的に描かれており、自決の直前に上演されたこの舞台を見て三島が泣いていたというエピソードからも、その「合体の夢」に託された「告白の意味の重み」が了解される。この「作品」対「作者」といった構図の「合体の夢」は、『禁色』『鏡子の家』『豊饒の海』などの小説では、分裂の悲劇へと向かう様相を呈し、三島が自ら廃曲にした戯曲『源氏供養』でも、作者と作品世界の「分裂の不幸」という小説テーマが扱われ、〈小説家〉である三島はこの「分裂の不幸」を「小説という〈仮面〉」によって語り続けたと、青海は考察している。",
"title": "作風・文学主題・評価"
},
{
"paragraph_id": 269,
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"text": "三島はまず、戦後GHQ占領下で定められた現憲法を〈国際政治の力関係によつて、きはめて政治的に押しつけられた〉憲法であるとし、この憲法自体が「政体」と「国体」について確たる弁別を定立していない問題に触れつつ、「国体」は〈日本民族日本文化のアイデンティティー〉であり〈政権交替に左右されない恒久性〉がその本質であって、「政体」はこの国体維持という〈国家目的民族目的〉に最適の手段として国民によって選ばれるが、政体自体は〈国家目的追求の手段〉であって「民主主義」とは〈継受された外国の政治制度であり、あくまで政体以上のものを意味しない〉としている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 270,
"tag": "p",
"text": "その意味で旧憲法の明治憲法は〈民族的伝統〉と〈西欧の法伝統〉とを調和させ、〈国体と法体系の間の相互の投影を完璧にした〉憲法であったと三島は説明し、かたや何ら日本人の内発性の発生でなく制定された戦後の現憲法ではそれがなく、〈相反する二種の国体概念〉が、〈国論分裂による日本弱体化といふ政治的企図〉を含んで〈並記〉され、〈国民の忠誠対象〉を〈二種の国体へ分裂させるやうに仕組まれてゐる〉ことを問題視している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 271,
"tag": "p",
"text": "そして、その〈相反する二種の国体概念〉のうち、一つは、本来の日本国民の忠誠対象である国体(〈歴史・伝統・文化の時間的連続性に準拠し、国民の永い生活経験と文化経験の集積の上に成立するもの〉)であり、もう一つはそれと相反する〈革命政権における国体〉ともいうべき概念であると三島は説明し、その新たに並記された〈未来理想社会に対する一致した願望努力、国家超越の契機を内に秘めた世界革命の理想主義〉を本質とする概念(日本伝来の自然法を裁くもの)が、日本弱体化の〈政治的企図〉を含んだ〈似而非国際主義〉への新たな忠誠対象として対立矛盾して組み入れられたことを批判し、〈これが憲法第一章と第二章との、戦後の思想的対立の根本要因をなす異常なコントラストである〉と述べている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 272,
"tag": "p",
"text": "その第二章の日本国憲法第9条を三島は、〈国際連合憲章の理想主義と、左派の戦術的非戦論とが癒着した〉条項であるとして、〈一方では国際連合主義の仮面をかぶつた米国のアジア軍事戦略体制への組み入れを正当化し、一方では非武装平和主義の仮面の下に浸透した左翼革命勢力の抵抗の基盤をなした〉ものとして唾棄し、この条文が〈敗戦国日本の戦勝国への詫証文〉であり、〈国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くもの〉であると断じている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 273,
"tag": "p",
"text": "そして、いかなる戦力(自衛権・交戦権)保有も許されていない憲法第9条第2項を字句通り遵守すれば、日本は侵略されても〈丸腰〉でなければならず〈国家として死ぬ〉以外にはないため、日本政府は緊急避難の解釈理論として学者を動員したうえで〈牽強付会の説〉を立てざるを得なくなり、こういったヤミ食糧売買のような行為を続けることは、〈実際に執行力を持たぬ法の無権威を暴露するのみか、法と道徳との裂け目を拡大〉するとしている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 274,
"tag": "p",
"text": "このように三島は、平和憲法と呼ばれる憲法第9条により、〈国家理念を剥奪された日本〉が〈生きんがためには法を破らざるをえぬことを、国家が大目に見るばかりか、恥も外聞もなく、国家自身が自分の行為としても大目に見ること〉になったことを、〈完全に遵奉することの不可能な成文法の存在は、道義的退廃を惹き起こす〉とし、〈戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない〉と批判している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 275,
"tag": "p",
"text": "また、現状では自衛隊は法的に〈違憲〉だとし、その自衛隊の創設が、皮肉にも〈憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の変化による要請に基づくもの〉であり、朝鮮戦争やベトナム戦争の参加という難関を、吉田内閣がこの憲法を逆手にとり、〈抵抗のカセ〉として利用することで突破してきたが、その時代を過ぎた以降も国内外の批判を怖れ、ただ護憲を標榜するだけになった日本政府については、〈消極的弥縫策(一時逃れに取り繕って間に合わせる方策)にすぎず〉、〈しかもアメリカの絶えざる要請にしぶしぶ押されて、自衛隊をただ“量的に”拡大〉し、〈平和憲法下の安全保障の路線を、無目的無理想に進んでゆく〉と警鐘を鳴らしている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 276,
"tag": "p",
"text": "これを是正する案として、憲法第9条第2項だけを削除すればよい、という改憲案に対しては〈やや賛成〉としつつも、そのためには、国連に対し不戦条約を誓っている第9条第1項の規定を〈世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべき〉とし、〈日本国憲法のみが、国際社会への誓約を、国家自身の基本法に包含するといふのは、不公平不調和〉であると三島は断じ、この第1項を放置したままでは自国の歴史・文化・伝統の自主性が〈二次的副次的〉なものになり、〈敗戦憲法の特質を永久に免かれぬこと〉になるため、〈第九条全部を削除〉すべしと主張している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 277,
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"text": "さらに、改憲にあたっては憲法第9条のみならず、第1章「天皇」の問題(「国民の総意に基く」という条文既定のおかしさと危険性の是正)と、第20条「信教の自由」に関する〈神道の問題〉(日本の国家神道の諸神混淆の性質に対するキリスト教圏西欧人の無理解性の是正)と関連させて考えなければ、せっかく憲法改正を推進しても、〈却つてアメリカの思ふ壺〉に陥り、日本が独立国としての〈本然の姿を開顕〉できず、憲法9条だけ改正して日米安保を双務条約に書き変えるだけでは、韓国やアジア反共国家と並ぶだけの結果に終わると警告している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 278,
"tag": "p",
"text": "三島は、外国の軍隊は決して日本の〈時間的国家の態様を守るものではないこと〉を自覚するべきだとし、日本を全的に守る正しい〈建軍の本義〉を規定するためには、憲法9条全部を削除して、その代わりに〈日本国軍〉を創立し、憲法に〈日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に建軍される〉という文言を明記するべきであると主張している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 279,
"tag": "p",
"text": "また、1970年(昭和45年)2月19日に行われたジョン・ベスターとの対談(テープが「放送禁止」としてTBS局内で2013年まで放擲され、2017年に公開されたもの)でも、きちんと法改正せず〈憲法違反〉を続けることで人間のモラルが蝕まれるとし、平和憲法は〈偽善のもと〉、〈憲法は、日本人に死ねと言っているんですよ〉と語っている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 280,
"tag": "p",
"text": "上記のように三島は、国の基本的事項である防衛を最重要問題と捉え、〈日本国軍〉の創立を唱えながら、〈一定の領土内に一定の国民を包括する現実の態様〉である国家という〈一定空間の物理的保障〉を守るには軍事力しかなく、もしもその際に外国の軍事力(核兵器その他)を借りるとしても、〈決して外国の軍事力は、他国の時間的国家の態様を守るものではない〉とし、日米安保に安住することのない日本の自主防衛を訴えている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 281,
"tag": "p",
"text": "三島は1969年(昭和44年)の国際反戦デーの左翼デモの際に自衛隊治安出動が行われなかったことに関連し、〈政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう〉と説いており、その時々の「政体」を守る警察と、永久不変の日本の「国体」を守る国軍の違いについて言及している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 282,
"tag": "p",
"text": "また、〈改憲サボタージュ〉が自民党政権の体質となっている以上、〈改憲の可能性は右からのクーデターか、左からの暴力革命によるほかはないが、いずれもその可能性は薄い〉と指摘し、本来は〈祭政一致的な国家〉であった日本が、現代では国際強調主義と世界連邦の線上に繋がる〈遠心力的〉な〈統治的国家(行政権の主体)〉と、日本の歴史・文化という時間的連続性が継承される〈求心力〉的な〈祭祀的国家(国民精神の主体)〉の二極に分離し、〈後者が前者の背後に影のごとく揺曳してゐる〉状態にあるとしている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 283,
"tag": "p",
"text": "そして様々な制約の中、アメリカの軍備に守られているという形で〈やうやく日本の自主防衛ですらも可能になるといふやうな〉情況では、もし日本が代理戦争のようなものに巻き込まれ自衛隊が出動し、あるいは〈国連警察軍の名目の下〉にアメリカが出動する事態が起った場合、自衛隊の最高指揮権が日本の内閣総理大臣でなく、最終的には〈アメリカ大統領ではないかといふ疑惑〉を禁じ得ないとしている。国防の本義としてもそれが〈日本のため〉であるか〈自由主義諸国の連帯感のため〉であるかという〈混迷〉が生ずる現態勢下では、〈我々は一体日本のために戦つてゐるのかどうか〉疑わしくなるとしている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 284,
"tag": "p",
"text": "そうした疑念や矛盾を少しでも解決し、現憲法の制約下で統治的国家の〈遠心力〉と祭祀的国家の〈求心力〉による二元性の理想的な調和と緊張を実現するためには、日本国民がそのどちらかに忠誠を誓うかを明瞭にし、その選択に基づいて自衛隊を二分するべきだという以下のような「自衛隊二分論」を三島は説いている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 285,
"tag": "p",
"text": "2.の〈国土防衛軍〉には多数の民兵が含まれるとし、「楯の会」はそのパイオニアであるとしている。自衛隊法第三条において、間接侵略の対処や通常兵器による局地的な侵略に対する自衛隊の自主防衛や治安出動が認められているとする三島は、日本への直接侵略を最終目的とするソビエトや中共による間接侵略の醸成を阻止しなけらばならないとし、将来ソビエトが新潟方面に陽動作戦を伴いつつ北海道に直接侵攻してくる危険性に触れている。なお、三島は徴兵制には反対している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 286,
"tag": "p",
"text": "三島は、自衛隊が単なる〈技術者集団〉や〈官僚化〉に陥らないためには、〈武士と武器〉、〈武士と魂〉を結びつける〈日本刀の原理〉を復活し、〈武士道精神〉を保持しなければならないとし、軍人に〈セルフ・サクリファイス〉(自己犠牲)が欠けた時、官僚機構の軍国主義に堕落すると説いている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 287,
"tag": "p",
"text": "そして、戦後禁忌になってしまった、天皇陛下が自衛隊の儀仗を受けることと、連隊旗を直接下賜すること、文人のみの文化勲章だけでなく、自衛隊員への勲章も天皇から授与されることを現下の法律においても実行されるべきと提言し、隊員の忠誠の対象を明確にし、〈天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくこと〉こそ、日本および日本文化の危機を救う防止策になると説いている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 288,
"tag": "p",
"text": "日米安保については、〈安保賛成か反対かといふことは、本質的に私は日本の問題ではないやうな気がする〉と三島は述べており、そうした問いは結局のところ、アメリカを選ぶか、中共・ソビエトを選ぶかという、本質的には日本というものの自主性が選べない状況の中での問題であり、当時の激しい安保反対運動(安保闘争)がひとまず落ちついた後の未来に、日本にとっての真の問いかけが大きな問題として出てくるとしている。そして、そこで初めて〈われわれは最終的にその問ひかけに直面するんぢやないか〉と語っている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 289,
"tag": "p",
"text": "別の場の発言でも、安保賛成はアメリカ派で一種の〈西欧派〉であり、安保反対も中共・ソビエトという共産党系の〈外国派〉であるとし、〈日本人に向かって、「おまえアメリカをとるか、ソビエトをとるか中共をとるか」といったら、ほんとうの日本人だったら態度を保留すると思う〉と述べている。そして、〈国粋派というのは、そのどっちの選択にも最終的には加担していない〉として、〈まだ日本人は日本を選ぶんだという本質的な選択をやれないような状況〉にあり、安保反対派(中共・ソビエト派)の運動が激化していた当時の状況においては、西欧派の自民党の歴史的な役割として、〈西欧派の理念に徹して、そこでもって安保反対勢力と刺しちがえてほしい〉という考えを福田赳夫に伝えたことを1969年時点で語っている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 290,
"tag": "p",
"text": "また、日米安保に関連する沖縄の米軍基地問題についても三島は、日本人の心情として日本の国内に外国(アメリカ)の軍隊がいるということに対する反対意識は、イデオロギーを抜きにすれば一般国民のナショナリズムや愛国心に訴えるものがあるため、それを外来勢力の共産党系左翼(天皇制・国体破壊を目論む者)に利用されやすいという、日本独特の難しい状況も語っている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 291,
"tag": "p",
"text": "三島は、ナチスのユダヤ人虐殺と並ぶ史上最大の〈虐殺行為〉の被害を広島がアメリカから受けたにもかかわらず、日本人が「過ちは二度とくりかへしません」と原爆碑で掲げていることに疑問を呈し、〈原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文字は、終戦の詔勅の「五内為ニ裂ク」といふ一節以外に、私は知らない〉と述べている。そして、そうした〈民族的憤激〉や〈最大の屈辱〉を〈最大の誇り〉に転換するべく〈東京オリンピックに象徴される工業力誇示〉を進めてきた日本人だが、はたして〈そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか〉として、唯一の被爆国である日本こそが核武装する権利があるという見解を1967年(昭和42年)の時点で以下のように示している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 292,
"tag": "p",
"text": "また、日本の自主防衛に関連し、1969年(昭和44年)に受けたカナダのTVインタビューでも、〈私は、多くの日本人が、日本での核の保有を認めるとは思いません〉と悲観的な予想を示しながら、自衛隊を二分し予備軍が国連軍に加わることで〈核兵器による武装が可能になる〉と答えている。そして自決前の『檄』の後半では、日本にとって不平等な核拡散防止条約 (NPT) のことも語っている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 293,
"tag": "p",
"text": "この警告について西尾幹二は、三島が「明らかに核の脅威を及ぼしてくる外敵」を意識し、このままでよいのかと問いかけているとし、三島自決の6年前に中国が核実験に成功し、核保有の5大国としてNPTで特権的位置を占め、三島自決の1970年(昭和45年)に中国が国連に加盟して常任理事国となったことに触れながら、〈国家百年の大計にかかはる〉と三島が言った日本のNPTの署名(核武装の放棄)を政府が決断したのが、同年2月3日だった当時の時代背景を説明している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 294,
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"text": "そして、三島が〈あと二年の内〉と言った意味は、この2年の期間に日本政府とアメリカの間で沖縄返還を巡り、日本の恒久的な核武装放棄を要望するアメリカと中国の思惑などの準備と工作があり、日本の核武装放棄と代替に1972年(昭和47年)に佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞し、表向き沖縄返還がなされたことで、自衛隊が〈永遠にアメリカの傭兵として終る〉ことが暗示されていたと西尾は解説している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 295,
"tag": "p",
"text": "このように、現実の世界情勢下における日本の防衛策としての核武装については、〈単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない〉というふうに、必要悪としての肯定的な考えを三島が持っていたことが散見できるが、それと同時に、核爆弾という大量殺戮兵器自体のモラルの無さについても言及しており、自分自身も必ず傷を負う一対一の決闘や、自死を覚悟の日本的な暗殺の決死の政治行為と引きくらべながら、自分がまったく安全な場所からボタン一つで人を殺戮するような行為を卑怯な暴力行為とみなし、石川淳との対談においても、〈技術が罪ないし肉にしっかり縛りつけられていることが人間的であるということ〉であり、〈技術が罪ないし肉を忘れたら、その瞬間、技術自体が堕落するかも〉しれず、そうなっていくと、集団的な技術になり、〈幾らでも非人間的な技術をつくれる〉と語っている。そして、〈自分に危険がないような暴力行為には全く意味がない。それにはモラルがないですからね。ですから、アウシュヴィッツや原子爆弾にはいまでも反対ですね〉とも述べている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 296,
"tag": "p",
"text": "基本的な考えとして三島は、日本を日本以外の国から、何が日本かということを弁別する最終的なメルクマール(指標)は、〈天皇しかない〉としている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 297,
"tag": "p",
"text": "また、工業化が進展しテレビやマスメディアなどの〈バカなコミュニケーション〉が発達し伝達機能が容易になればなるほど各人のバラバラがひどくなる「自己疎外」が起こって国民が分裂し孤立してきて、〈伝達することによって、何らそれを統合することはできない〉状態となった空間的社会において、それを統合するには〈空白のもの〉、空間的伝達からの〈断絶〉しかないと三島は考え、〈時代全体が空間的伝達によって動いている中で、時間的伝達をする人は一人しかいない、それが天皇だ〉としている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 298,
"tag": "p",
"text": "三島は、〈天皇の政治上の無答責は憲法上に明記されねばならない〉とし、軍事の最終的指揮権を〈天皇に帰属せしむべきでない〉としている。これは天皇が日本の歴史の〈時間的連続性の象徴、祖先崇拝の象徴〉であり、〈神道の祭祀〉を国事行為として行ない、「神聖」と最終的に繋がっている存在ゆえに、〈天皇は、自らの神聖を恢復すべき義務を、国民に対して負ふ〉というのが三島の考えだからである。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 299,
"tag": "p",
"text": "この〈時間的連続性〉のことを三島は〈縦の軸〉(時間軸)とも呼び、敗戦の結果、戦後の日本社会が、国際的・経済的な空間軸(横の軸)ばかりになり、自国の伝統・文化・歴史の持続性・連続性である〈縦の軸〉が軽んじられているとしている。そして、冷戦時代に入り共産圏の国々においてすら、〈歴史の連続性〉の観念がなければ国家の平和や存立が危ぶまれるということに気づいているにもかかわらず、戦後から日本は時間(歴史)の連続性という〈縦の軸〉の重要性がないがしろにされ、国家の根本が危うくなっていると危惧している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 300,
"tag": "p",
"text": "日本の〈歴史と文化の伝統の中心〉、〈祭祀国家の長〉である天皇は、〈国と民族の非分離の象徴で、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸である〉と説く三島は、〈文化概念としての天皇〉という理念を説き、伊勢神宮の造営や、歌道における本歌取りの法則などに見られるように、〈オリジナルとコピーの弁別を持たぬ〉日本の文化では、〈各代の天皇が、正に天皇その方であつて、天照大神とオリジナルとコピーの関係にはない〉ため、天皇は神聖で〈インパーソナルな〉存在であると主張している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 301,
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"text": "日本的な行動様式をもすべて包括する「文化」(菊)と、それを守る「剣」の原理(刀)の栄誉が、〈最終的に帰一する根源が天皇〉であり、天皇は日本が非常事態になった場合には、天皇文化が内包している「みやび」により、桜田門外の変や二・二六事件のような蹶起に手を差し伸べる形態になることもあると三島は説き、天皇は〈現状肯定のシンボルでもあり得るが、いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性〉を持つものとしている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 302,
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"text": "そうした〈ザインの国家像を否とし、ゾルレンの国家像を是とする者〉の革新のシンボルともなり得る天皇制における〈純粋性のダイナミクス〉、〈永久革命的性格〉を担うものこそが〈天皇信仰〉である三島は述べ、〈希望による維新であり、期待による蹶起〉の性質を持っていた二・二六事件は、〈「大御心に待つ」ことに重きを置いた革命〉であり、〈当為の革命、すなはち道義的革命〉の性格を担っていたとしている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 303,
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"text": "三島は、〈日本の改革の原動力は、必ず、極端な保守の形でしか現われず、時にはそれによってしか、西欧文明摂取の結果現われた積弊を除去できず、それによってしか、いわゆる「近代化」も可能ではない〉として、明治維新をみても結果的には〈開国論者がどうしてもやりたくてやれなかったことを、攘夷論者がやった〉という〈歴史の皮肉〉、〈アイロニカルな歴史意志〉があるとしている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 304,
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"text": "そして〈西欧化の腐敗と堕落に対する最大の批評的拠点〉、〈革新の原理〉であり、最終的に〈維新を「承引き」給う〉存在である祭祀王の天皇は、〈西欧化への最後のトリデとしての悲劇意志であり、純粋日本の敗北の宿命への洞察力と、そこから何ものかを汲みとろうとする意志の象徴〉であると三島は自身の天皇観を語りつつ、昭和の天皇制はすでにキリスト教が入り込んで西欧理念に蝕まれていたため、二・二六事件の「みやび」を理解する力を失っていたと批判している。",
"title": "三島の持論"
},
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"paragraph_id": 305,
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"text": "さらに戦後の政策により、「国民に親しまれる天皇制」という大衆社会化に追随したイメージ作りのため、まるで芸能人かのように皇室が週刊誌のネタにされるような〈週刊誌的天皇制〉に堕ちたことを三島は嘆き、天皇を民主化しようとしてやり過ぎた小泉信三のことを、皇室からディグニティ(威厳)を奪った〈大逆臣〉と呼び、痛罵している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 306,
"tag": "p",
"text": "三島は、昭和天皇個人に対しては、〈反感を持っている〉とし、〈ぼくは戦後における天皇人間化という行為を、ぜんぶ否定しているんです〉と死の1週間前に行なわれた対談で発言しているが、この天皇の「人間宣言」に対する思いは、『英霊の聲』で端的に描かれ、「人間宣言」を指南した幣原喜重郎も批判している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 307,
"tag": "p",
"text": "三島は、井上光晴が「三島さんは、おれよりも天皇に苛酷なんだね」と言ったことに触れ、天皇に過酷な要求をすることこそが天皇に対する一番の忠義であると語っている。また、〈幻の南朝〉に忠義を尽くしているとし、理想の天皇制は〈没我の精神〉であり、国家的エゴイズムや国民のエゴイズムを掣肘するファクターで、新嘗祭などの祭祀の重要性を説いている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 308,
"tag": "p",
"text": "また、旧制学習院高等科を首席で卒業した際、昭和天皇(実際には朝融王との説が有力)に謁見し恩賜の銀時計を拝受したとも語っている(銀時計拝受は卒業式後に宮内省で行なわれた)。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 309,
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"text": "終戦直後の20歳の時のノートにも、昭和天皇が「国民生活を明るくせよ。灯火管制は止めて街を明るくせよ。娯楽機関も復活させよ。親書の検閲の如きも即刻撤廃せよ」と命令した「大御心」への感銘を綴っている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 310,
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"text": "磯田光一は、三島の自決1か月前に、本当は腹を切る前に宮中で天皇を殺したいが宮中に入れないので自衛隊にしたと三島から聞かされた、という主旨を語っているが、これに対して持丸博は、用心深かった三島が事前に決起や自決を漏らすようなことを部外者に言うはずがない、という主旨の疑問を唱えている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 311,
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"text": "長く昭和天皇に側近として仕えた入江相政の日記『入江相政日記』の記述から、昭和天皇が三島や三島事件に少なからず関心を持っていたことが示されている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 312,
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"text": "なお、鈴木邦男は三島が女系天皇を容認しているメモを楯の会の「憲法研究会」のために残しているとして、昭和天皇が側室制度を廃止して十一家あった旧宮家を臣籍降下させたことなどにより、将来に必ず皇位継承問題が起こることを三島が批判的に予見していたという見解を示しているが、鈴木が見解の元としている松藤竹二郎の著書3冊にもそういったメモや伝言の具体的な提示はなく、松藤の著書には、三島の死後に「憲法研究会」によって作成された原案の概ねの内容を紹介しているだけで、鈴木はそれを「三島メモ」と勝手に言い換えてミスリードしている。元楯の会会員らや三島研究者の間でも三島が女系天皇を容認していたことを示すメモや文献の存在は確認されていない。また、三島が生前に「女帝」や「女系」天皇に言及したことはなく、「憲法研究会」に3度顔を見せた際も、男系・女系天皇について何の話もしていない。三島の文学や評論を仔細に見ている松本徹も、「三島文学やそこに書かれた三島の男性観・女性観からみて三島の女系天皇容認説はありえない」と述べている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 313,
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"text": "鈴木邦男が感心した「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」という案は、三島の死後に行われた「憲法研究会」における討議案のうち、あくまで1人の会員の意見として記載されているだけで、それに異議を唱える会員の意見もあり、「憲法研究会」の総意として掲げているわけではない。仔細に読めば、その後段の話し合いでも、「“継承は男系子孫に限ることはない”という文言は憲法に入れる必要ない」という結論となっている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 314,
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"text": "三島の天皇観は、国家や個人のエゴイズムを掣肘するファクター、反エゴイズムの代表として措定され、〈近代化、あらゆる工業化によるフラストレイションの最後の救世主〉として存在せしめようという考えであったが、三島の神風特攻隊への思いも、彼らの〈没我〉の純粋さへの賛美であり、美的天皇観と同じ心情に基づいている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 315,
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"text": "三島の考える〈純粋〉は、小説『奔馬』で多く語られているが、その中には〈あくまで歴史は全体と考へ、純粋性は超歴史的なものと考へたがよいと思ひます〉とあり、評論『葉隠入門』においても、政治的思想や理論からの正否と合理性を超えた純粋行為への考察がなされ、特攻隊の死についてもその側面からの言及がなされている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 316,
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"text": "三島は日本刀を〈魂である〉としていたが、特攻隊についても西欧・近代への反措定として捉えており、「大東亜戦争」についても、〈あの戦争が日本刀だけで戦つたのなら威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦つたのである。ただ一つ、真の日本的武器は、航空機を日本刀のやうに使つて斬死した特攻隊だけである〉としている。この捉え方は、戦時中、三島が学生であった頃の文面にも見られる。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 317,
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"text": "敗戦時に新聞などが、〈幼拙なヒューマニズム〉で〈戦術〉と称して神風特攻隊員らを〈将棋の駒を動かすやうに〉功利・効能的に見て、そうしたジャーナリズムにより特攻隊の精神が冒涜され〈神の座と称号〉が奪われてしまったことへの憤懣の手記も、ノートに綴っていた。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 318,
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"text": "また、三島は戦後に『きけ わだつみのこえ』が特攻隊員の遺書を〈作為的〉に編纂し、編者が高学歴の学生のインテリの文章だけ珍重して政治的プロパガンダに利用している点に異議を唱え、〈テメエはインテリだから偉い、大学生がむりやり殺されたんだからかわいそうだ、それじゃ小学校しか出ていないで兵隊にいって死んだやつはどうなる〉と唾棄している。",
"title": "三島の持論"
},
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"paragraph_id": 319,
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"text": "『きけ わだつみのこえ』を題材とした映画についても〈いはん方ない反感〉を感じたとし、フランス文学研究をしていた学生らが戦死した傍らにシャルル・ボードレールかポール・ヴェルレーヌの詩集の頁が風にちぎれているシーンが、ボードレールも墓の下で泣くであろうほど〈甚だしくバカバカしい印象〉だと酷評し、〈日本人がボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、祖国のために死んだはうが論理的〉であるとしている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 320,
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"text": "「愛国心」という言葉に対し、「愛妻家」という言葉と似た〈好かない〉感触を持つ三島は、その言葉は官製のイメージが強いとして〈自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向こう側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである〉とし、キリスト教的な「愛」(全人類的な愛)という言葉はそぐわず、日本語の「恋」や「大和魂」で十分であり、〈日本人の情緒的表現の最高のもの〉は「愛」ではなくて「恋」であると主張している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 321,
"tag": "p",
"text": "「愛国心」の「愛」の意味が、もしもキリスト教的な愛ならば〈無限定無条件〉であるはずだから、「人類愛」と呼ぶなら筋が通るが、〈国境を以て閉ざされた愛〉である「愛国心」に使うのは筋が通らないとしている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 322,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国とは違い、日本人にとって日本は〈内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的〉にあるものだと三島は主張し、〈われわれはとにかく日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である〉としている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 323,
"tag": "p",
"text": "こうした日本人の中にある内在的・即自的なものを大事にする姿勢と相通じる考え方は、三島が18歳の時に東文彦に出した書簡の中にも見られ、〈我々のなかに『日本』がすんでゐないはずがない〉として以下のように述べている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 324,
"tag": "p",
"text": "三島は、ある種の社会改革を目ざした二・二六事件の将校の行動や陽明学を肯定していたが、日本の精神文化とは相容れない唯物史観やマルキシズム、あるいは未来幻想を暗示する進歩主義に基づく革命には断固として反対の姿勢を示している。そして、戦後の左翼の多くが反戦・平和・民主主義という耳障りがいいスローガンを掲げながらもマルキシズムの革命戦術を駆使し、疎外者や不幸な人たちを革命のための一つの齣として利用し権力闘争の場面へ連れていく〈欺瞞〉的なやり方を〈道義性〉が失われていると批判している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 325,
"tag": "p",
"text": "三島は、〈共産社会に階級がないというのは全くの迷信であって、これは巨大なビューロクラシーの社会であります。そしてこの階級制の蟻のごとき社会にならないために我々の社会が戦わなければならんというふうに私は考えるものです〉と述べ、共産主義支持の人が日本の階級制の存在を云々することに反問しながら、君主制のないアメリカの方が様々なメンバーシップや上流階級クラブなどのステイタス・シンボルが非常にたくさんあり、それらの甚だしい階級差や階級意識はアングロ・サクソンの文化の伝統でアメリカの成金が古いヨーロッパの階級を真似して作ったものであるとしている。そして、かたや共産主義も、日本の社会党や共産党の幹部が、一般庶民が持てないようなプール付きの別荘を軽井沢に保有している例や〈新しい階級〉について言及している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 326,
"tag": "p",
"text": "1968年(昭和43年)に行なわれた学生とのティーチ・インにおいて、天皇制廃止論者の学生Fが、三島の『文化防衛論』に異議を唱え、天皇が支配した時代は多くの人間が奴隷であり一部の特権階級だけが属してきた文化は無意味だから、そんなものが伝統ならば壊した方がいいという主旨の発言で質問した際も、三島は以下のように反論している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 327,
"tag": "p",
"text": "また三島は、戦後の革命勢力が教育現場や絵本・漫画を介して、支配者の天皇が奴隷の〈人民〉を虐待し支配していたという構図で日本に奴隷制があったかのように子供に教える動きがあることを非難し、学生Fにも、〈手塚治虫の漫画なんか見ると、あたかも人民闘争があって、奴隷制があって、神武天皇という奴隷の酋長がいて、奴隷を抑圧して(日本を)つくったように書いてあるが、あなたは手塚治虫の漫画を読み過ぎたんだ〉と言い返している。ラジオ番組「全国こども電話相談室」で日本神話について質問した子供に対して回答者の無着成恭が、唯物史観で神話を説明したり天岩戸を墓だと教えたりしていたことにも呆れていたが、三島は戦後まもない1948年(昭和23年)当時から、進歩主義的な文化破壊思想に嫌悪を持ち、フランス革命になぞって以下のようにも綴っている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 328,
"tag": "p",
"text": "三島は、〈民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだ〉と前置きし、〈共産主義の粛清のほうが数が多いだけ、始末が悪い〉、〈暗殺の中にも悪い暗殺といい暗殺がある〉として、全体主義におけるアウシュビッツなどの大量殺人や粛正は、権力側が安全で何の危険もない立ち位置から秘密裏に行なう卑怯な行為であって、一対一の決闘的な意味合いを持った全身全霊を賭けた暗殺とは違うとしている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 329,
"tag": "p",
"text": "そして、本来あるべき暗殺とは、〈暗殺者が必ずあとですぐ自殺するという日本の伝統〉に則した武士の作法でなければならないとして、旅客機に爆弾を仕掛けて関係のない人々を巻き込んだり、〈女子供〉を殺したりすることは絶対にやってはいけない卑劣な行為だと説明しながら、無関係な家政婦を殺した「嶋中事件」の小森を非難し、「浅沼稲次郎暗殺事件」の山口二矢については、〈非常にりっぱだ。あとでちゃんと自決しているからね。あれは日本の伝統にちゃんと従っている〉と認めている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 330,
"tag": "p",
"text": "そうした捨て身の暗殺が日本からなくなってきたことと、政治の世界が茶番劇化してきたこととの関連性を三島は考察しながら、〈大体卵が先か鶏が先かよくわからぬが、政治家がみんな腰抜けになつたので暗殺がなくなつたのと同時に、暗殺がなくなつたから、政治家はますます腰抜けになつた〉、〈たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配がなかったら、いくらでも嘘がつける〉、〈口だけでいくらいっていても、別に血が出るわけでもない。痛くもないから、お互いに遠吠えする。民主主義の中には偽善というものがいつもひたひたと地下水のように身をひそめている〉とし、戦後アメリカによって与えられた憲法の下、〈美しき偽善〉で暮らしている一見平和な日本における国会と、その商売化した国会議員の仕事が、国民という〈お客〉に対する媚びを忘れず〈手先だけでコチョコチョと綺麗事を作成する仕事〉に堕したと語っている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 331,
"tag": "p",
"text": "昔は、命を狙われた板垣退助のように「板垣死すとも自由は死なず」といった名文句まであったことを三島は例に挙げ、そんな身の危険のほとんどない戦後民主主義社会の政治状況と、〈言論と日本刀〉、〈一人の日本刀の言論〉という「千万人といへども我行かん」(孟子の言を元にした吉田松陰の言葉)の精神を以下のように対比的に語っている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 332,
"tag": "p",
"text": "昭和の戦時下に少年・青年時代を送り徴兵の対象年齢にあった三島は、常に「死」というものを念頭に生きていた世代であり、そうした終末感的な状況下での創作活動の中で、自身を〈薄命の天才とも。日本の美的伝統の最後の若者とも。デカダン中のデカダン、頽唐期の最後の皇帝とも。それから、美の特攻隊とも〉夢想していた。しかし、その状況が一変し戦時中の価値が転倒した戦後社会においても、三島にとって「死」の観念は様々なコンプレックスや美意識との間で大きな命題でありつづけ、それが小説の中にも多彩に揺曳しており、「死」は「行動」という言葉とともに三島文学において最も多く用いられている語彙の一つとなっている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 333,
"tag": "p",
"text": "そうした「死」の観念から生涯離れられなかった三島は、「死」を純粋と絶対の行為として、最終的には戦後社会との訣別を意味するような回帰的な「死」への行動に至っているが、『金閣寺』直前の30歳の時に書かれた随筆『小説家の休暇』では、〈行動家の世界は、いつも最後の一点を附加することで完成される環を、しじゆう眼前に描いてゐる〉と、芸術家の世界と対比し〈私は想像するのに、ただ一点を添加することによつて瞬時にその世界を完成する死のはうが、ずつと完成感は強烈ではあるまいか?〉と語っているなど、すでに晩年の行動家に至る死生観が、小説家としての絶頂期から内包されていることが指摘されている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 334,
"tag": "p",
"text": "その『小説家の休暇』の中でも触れている『葉隠』(山本常朝著)を戦時中から愛読していた三島は、そこから様々な生きるヒントや活力源、哲学的なものを得られたとして、〈毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いはば同じだといふこと〉、〈われわれはけふ死ぬと思つて仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない〉という死生観を『葉隠入門』の中で述べている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 335,
"tag": "p",
"text": "そういった、今日明日死ぬかもしれないという思いで生きる人生観・死生観は、他の評論でも散見され、人間とは何か理想や夢のために生きていくものではあるものの、〈より良き未来世界〉などというものを目途にして自分をその進歩や進化のプロセス(過程)とするような〈未来に夢を賭ける〉考えを三島は否定し、〈未来などといふことを考へるからいけない。だから未来といふ言葉を辞書から抹殺しなさいといふのが私の考へなのです〉と主張しながら、まずは〈明日がないのだと思ふ〉気構えが肝心だとしている。",
"title": "三島の持論"
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{
"paragraph_id": 336,
"tag": "p",
"text": "また、人間は「未来」に向って成熟していくものではなくて、〈“日々に生き、日々に死ぬ”以外に成熟の方法を知らない〉のだとし、〈死といふ事を毎日毎日起り得る状況として捉へる〉ところから、〈自分の行動と日々のクリエーション〉の根拠やモラルが発見され、それが〈人間の行動の強さの源泉〉にもなると三島は主張している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 337,
"tag": "p",
"text": "そして三島は、人間はいつ死ぬかも知れない〈果無い生命〉ではあるが、〈明日死ぬと思へば今日何かできる〉、〈明日がないのだと思ふからこそ、今日何かができるといふ〉のが、〈人間の全力的表現〉であり、そうした考え方や行動は「禅」の精神に通じると三島は語っている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 338,
"tag": "p",
"text": "三島の作品や評論には、戦時下の同年代の若い兵士の死を、他人事のようには考えられなかった複雑な思いが随所に現われ、死の一週間前に行なわれた古林尚との対談においても、そうしたことが言及されているが、そこで三島は、戦後は〈余生〉という意識が〈いまだにあります〉と述べながら、戦時中に入営通知(召集令状)が来た際に毛筆で書いた遺書の気持から〈逃れられない〉と語っている。また、〈天皇陛下バンザイというその遺書の主旨は、いまでもぼくの内部に生きている〉とし、自身の本質が10代の時の日本浪曼派的な心性〈ロマンティーク〉だと悟るにつけ、そこに〈ハイムケール〉(帰郷)していき、その〈ハイムケールする自己に忠実〉である以外にないとしている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 339,
"tag": "p",
"text": "死の4年前の41歳の時のNHKのインタビューでは、20歳で迎えた終戦の風景について、〈世界が崩壊するはずであるのに〉、まわりの木々の緑が夏の日を浴びて輝いているのが〈不思議でならなかった〉と振り返り、終戦の詔勅を聴いたときは〈空白感しか〉なかったと答え、その8月15日の〈激しい日光〉は〈私の心の中にずっと続いていくだろう〉と述べている。そして、三島は自身の死生観を以下のように語り、戦時中の、死が〈遠くない将来に来るんだというふうに考えていた〉当時のその心理状態は〈今の心理状態に比べて幸福だったんです〉とも発言している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 340,
"tag": "p",
"text": "三島は、戦後の政府によって1946年(昭和21年)に改定された現代かなづかいを使わず、自身の原稿は終生、旧仮名遣ひを貫いた。三島は、言葉にちょっとでも実用的な原理や合理的な原理を導入したらもうだめだと主張し、中国人は漢字を全部簡略化したために古典が読めなくなったとしている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 341,
"tag": "p",
"text": "また、敗戦後に日本語を廃止してフランス語を公用語にすべきと発言した志賀直哉について触れ、〈私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである〉と批判した。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 342,
"tag": "p",
"text": "国語教育についても、現代の教育で絶対に間違っていることの一つが〈古典主義教育の完全放棄〉だとし、〈古典の暗誦は、決して捨ててならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。ヨーロッパでもアメリカでも、古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし〉と主張している。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 343,
"tag": "p",
"text": "そして、中学生には原文でどんどん古典を読ませなければならないとし、古典の安易な現代語訳に反対を唱え、日本語の伝統や歴史的背景を無視した利便・実用第一主義を唾棄し、〈美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、アンチョコ製造よりもつと罪が深い。みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐる〉と文部省の役人や教育学者を批判し、自身の提案として〈ただカナばかりの原本を、漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、ルビを入れるとか、おもしろいたのしい脚注を入れるとか、それで美しい本を作るとか〉を先生たちにやってもらいたいと述べている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 344,
"tag": "p",
"text": "三島は、日本人の古典教育が衰えていったのはすでに明治の官僚時代から始まっていたとし、文化が分からない人間(官僚)が日本語教育をいじり出して〈日本人が古典文学を本当に味わえないような教育をずっとやってきた〉と述べ、意味が分からなくても「読書百遍意おのずから通ず」で、小学生から『源氏物語』を暗唱させるべきだとしている。また、『論語』の暗唱、漢文を素読する本当の教え方が大事だとし、支那古典の教養がなくなってから日本人の文章がだらしなくなり、〈日本の文体〉も非常に弱くなったとしている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 345,
"tag": "p",
"text": "生前、自身でも『のらくろ』時代から漫画・劇画好きなことをエッセイなどで公言していた三島の所蔵書には、水木しげる、つげ義春、好美のぼるらの漫画本があることが明らかになっている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 346,
"tag": "p",
"text": "毎号、小学生の2人の子供と奪い合って赤塚不二夫の『もーれつア太郎』を読み、〈猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシ〉ファンを自認していた三島は、この漫画の徹底的な「ナンセンス」に、かつて三島が時代物劇画に求めていた〈破壊主義と共通する点〉を看取し、〈それはヒーローが一番ひどい目に会ふといふ主題の扱ひでも共通してゐる〉と賞讃している。平田弘史の時代物劇画の〈あくまで真摯でシリアスなタッチに、古い紙芝居のノスタルジヤと“絵金”的幕末趣味〉を発見して好んでいた三島は、白土三平はあまり好きでないとしている。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 347,
"tag": "p",
"text": "〈おそろしく下品で、おそろしく知的、といふやうな漫画〉を愛する三島は、〈他人の家がダイナマイトで爆発するのをゲラゲラ笑つて見てゐる人が、自分の家の床下でまさに別のダイナマイトが爆発しかかつてゐるのを、少しも知らないでゐるといふ状況〉こそが漫画であるとして、〈漫画は現代社会のもつともデスペレイトな部分、もつとも暗黒な部分につながつて、そこからダイナマイトを仕入れて来なければならない〉と語っている。",
"title": "三島の持論"
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"paragraph_id": 348,
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"text": "三島は、漫画家が〈啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点でもうおしまひである〉として、若者が教養を求めた時に与えられるものが、〈又しても古ぼけた大正教養主義のヒューマニズムやコスモポリタニズムであつてはたまらないのに、さうなりがちなこと〉を以下のように批判しながら、劇画や漫画に飽きた後も若者がその精神を忘れず、〈自ら突拍子もない教養〉、〈決して大衆社会へ巻き込まれることのない、貸本屋的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養〉を開拓してほしいとしている。",
"title": "三島の持論"
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"paragraph_id": 349,
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"text": "ボクシング好きで、自身も1年間ほどジムに通った経験のあった三島は、講談社の漫画誌『週刊少年マガジン』連載の『あしたのジョー』を毎週愛読していたが、発売日にちょうど映画『黒蜥蜴』の撮影で遅くなり、深夜に『マガジン』編集部に突然現れて、今日発売されたばかりの『マガジン』を売ってもらいたいと頼みに来たというエピソードがある。編集部ではお金のやりとりができないから1冊どうぞと差し出すと、三島は嬉しそうに持ち帰ったという。また、「よくみるTV番組は?」という『文藝春秋』のアンケートの問いに、『ウルトラマン』と答えている。",
"title": "三島の持論"
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"text": "1954年(昭和29年)の映画『ゴジラ』は、公開直後は日本のジャーナリズムの評価が低く「ゲテモノ映画」「キワモノ映画」と酷評する向きが多勢であり、特撮面では絶賛されたものの各新聞の論評でも「人間ドラマの部分が余計」と酷評され、本多猪四郎監督の意図したものを汲んだ批評は見られなかったが、田中友幸によれば三島のみが「原爆の恐怖がよく出ており、着想も素晴らしく面白い映画だ」として、ドラマ部分を含めたすべてを絶賛してくれたという。",
"title": "三島の持論"
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"text": "次第に三島の審美眼はプロの映画評論家にも一目置かれるようになり、荻昌弘や小森和子らとも対談もした。淀川長治は、「ワタシみたいなモンにでも気軽に話しかけてくださる。自由に冗談を言いあえる。数少ないホンモノの人間ですネ。(中略)あの人の持っている赤ちゃん精神。これが多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由でしょうネ」と三島について語っている。",
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"text": "SFにも関心を寄せていた三島は、1956年(昭和31年)に日本空飛ぶ円盤研究会に入会する(会員番号12)。1957年(昭和32年)6月8日には日活国際会館屋上での空飛ぶ円盤観測会に初参加した。なお、この観測会は、科学的な研究を主目的とする「日本空飛ぶ円盤研究会」(略称JFSA)のものではなく、UFO実在論を唱える別団体「宇宙友好協会」(略称CBA、1957年に設立)のものだとされている。1962年(昭和37年)にはSF性の強い小説『美しい星』を発表したが、その1年半前には夏には毎晩のように双眼鏡片手に屋上に昇っていたため、家人から「屋上の狂人」と呼ばれ、ついにある日瑤子夫人と自宅屋上でUFOを目撃している。",
"title": "三島の持論"
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"text": "1963年(昭和38年)9月にはSF同人誌『宇宙塵』に寄稿し、〈私は心中、近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか、とさへ思つてゐるのである〉と記した。また、アーサー・C・クラークの『幼年期の終り』を絶賛し、〈随一の傑作と呼んで憚らない〉と評している。",
"title": "三島の持論"
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"text": "東映任侠映画が〈大好き〉で、特に鶴田浩二の大ファンだった。1968年(昭和43年)公開の『博奕打ち 総長賭博』を『映画芸術』で絶賛し、それまでヤクザ映画は新聞などには一切無視されていたが、三島の称賛がヤクザ映画に市民権をもたらした最初の一歩になったといわれる。東映が任侠映画の試写をやっていた頃、三島は東映の試写によく来て、東映の岡田茂プロデューサーに「役者としてオレ(ヤクザ映画に)出ようか」と言ったら、「やめといた方がいいよ」と止められたという。東映が試写をやらなくなっても、東映の封切館に足を運び、普通にお金を払って一般客と交じって任侠映画をよく観ていた。",
"title": "三島の持論"
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"text": "三島はサーカスなども好きで、8歳の時に観たハーゲンベック・サーカス東京公演やそれ以前に観た松旭斎天勝の手品にも心を奪われ、〈僕はキラキラした安つぽい挑発的な儚い華奢なものをすべて愛した〉と言っている。",
"title": "三島の持論"
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"paragraph_id": 356,
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"text": "大人になってからも、35歳の時に夫人同伴でロサンゼルスに行った折に初めて訪れたディズニーランドをとても気に入った様子で、そこで買ったドナルドダックの絵葉書で自宅にいる幼い娘・紀子宛てに、〈とても面白く、のり子ちやんの喜びさうなものが一杯ありました〉と書いて絵本や帽子も送っているが、それ以来、子供が小学生になったら一家でディズニーランドに行きたい、というのが三島の口癖となり、大人でもすごく楽しいからと母・倭文重にもぜひ見せたいと言っていたという。",
"title": "三島の持論"
},
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"text": "三島が死の覚悟をすでに固めていた1970年(昭和45年)の正月にも、2人の子供を連れて家族でディズニーランドに行こうと度々提案していたが、瑤子夫人は『豊饒の海』が完結した後にしたいと断ったため、三島の一家揃ってのディズニーランド再訪の夢は叶うことがないまま終った。",
"title": "三島の持論"
},
{
"paragraph_id": 358,
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"text": "出自も参照のこと。",
"title": "家族・親族"
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"text": "",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 360,
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"text": "永井氏系譜(武家家伝)",
"title": "系譜"
},
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"text": "三島は〈私は血すぢでは百姓とサムラヒの末裔〉として、〈サムラヒ〉の血脈を永井家・松平家に見ている。",
"title": "系譜"
},
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"paragraph_id": 362,
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"text": "映画『人斬り』(1969年)で、薩摩藩士・田中新兵衛の役を演じた時には、〈新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正の曽々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう〉と林房雄宛てに綴っているが、この高祖父〈永井主水正〉が、三島の祖母・夏子の祖父にあたる永井尚志である。",
"title": "系譜"
},
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"paragraph_id": 363,
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"text": "永井尚志は、長崎海軍伝習所の総監理(所長)として長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍し、徳川幕府海軍創設に甚大な貢献をなして、1855年(安政2年)、従五位下・玄蕃頭に叙任した人物である。",
"title": "系譜"
},
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"text": "尚志はその後、外国奉行、軍艦奉行、京都町奉行となり、京摂の間、坂本龍馬等志士とも交渉を持った。1867年(慶応3年)に若年寄となり、戊辰戦争では、箱館奉行として榎本武揚と共に五稜郭に立て籠り、官軍に敗れて牢に入った。明治維新後は解放され、元老院権大書記官となった。",
"title": "系譜"
},
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"paragraph_id": 365,
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"text": "大屋敦(夏子の弟)は祖父・永井尚志について、「波乱に富んだ一生を送った祖父は、政治家というより、文人ともいうべき人であった。徳川慶喜公が大政奉還する際、その奏上文を草案した人として名を知られている。勝海舟なども詩友として祖父に兄事していたため、私の昔の家に、海舟のたくさんの遺墨のあったことを記憶している」と語っている。",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 366,
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"text": "永井亨(夏子の弟で、経済学博士・人口問題研究所所長)によると、尚志は京都では守護職の松平容保(会津藩主)の下ではたらき、近藤勇、土方歳三以下の新撰組の面々にも人気があったとされる。晩年の尚志は、向島の岩瀬肥後守という早世した親友の別荘に入り、岩瀬のことを死ぬまで祭祀していたという。",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 367,
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"text": "夏子の父・永井岩之丞は、1846年(弘化2年)9月に永井家一族の幕臣・三好山城守幽雙の二男として生まれ、永井尚志の養子となった。戊辰戦争では品川を脱出し、尚志と共に函館の五稜郭に立て籠って戦った。維新後は、司法省十等出仕を命ぜられ、判事、控訴院判事を経て、1894年(明治27年)4月に大審院判事となった人物である。",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 368,
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"text": "岩之丞は、水戸の支藩・宍戸藩の藩主・松平頼位の三女・松平鷹(のちに高)と結婚し、六男六女を儲けた。松平高の母・糸(佐藤氏の娘)は松平頼位の側室で、新門辰五郎の姪であった。松平頼位の長男・松平頼徳は天狗党の乱の際に幕府から切腹を命じられて33歳で死んだ人物である。夏子の祖父にあたる松平頼位の先祖を辿っていくと徳川家康になるため、三島は夏子の家系の松平家を通じ徳川家康の子孫となる。",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 369,
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"text": "岩之丞の六男・大屋敦は父親について、「厳格そのもののような人」で、「子供の教育については、なにひとつ干渉しなかったが日常の起居は古武士のようであぐらなどかいた姿を、ただの一度も見たことはなかった」と語っている。",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 370,
"tag": "p",
"text": "三島は曽祖母・高の写真の印象を、〈美しくて豪毅な女性〉とし、〈写真で見る晩年の面影からも、眉のあたりの勝気のさはやかな感じと、秀でた鼻と、小さなつつましい形のよい口とが、微妙で雅趣のある調和を示してゐる。そこには封建時代の女性に特有なストイックな清冽さに充ちた稍々非情な美が見られるのである〉と表現している。",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 371,
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"text": "永井家・松平家の血脈が〈サムラヒ〉「武」とすれば、橋家は三島にとって「文」の血脈となる。",
"title": "系譜"
},
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"paragraph_id": 372,
"tag": "p",
"text": "三島の母・倭文重の祖父・橋健三、曽祖父・橋健堂、高祖父・橋一巴(雅号・鵠山)は、加賀藩藩主・前田家に代々仕えた漢学者・書家であった。名字帯刀を許され、学塾において藩主・前田家の人々に講義をしていた。",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 373,
"tag": "p",
"text": "高祖父・一巴以前の橋家は、近江八幡(滋賀県にある琵琶湖畔、日野川の近く)の広大な山林の持主の賀茂(橋)一族である。1970年(昭和45年)の滋賀県の調査により、この土地が賀茂(橋)一族の橋一巴、健堂、健三の流れを汲む直系の子孫に所有権があることが判明した。賀茂(橋)家は、約一千年の歴史をもつ古い家柄の京都の橋家が元で、島根県の出雲の出身である。",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 374,
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"text": "曽祖父・橋健堂は、平民・女子教育の充実など教育者として先駆的であったが、健堂が出仕した「壮猶館」や、「集学所」(夜間学校のはしり)は、藩の重要プロジェクトと連動し、単に儒学を修める藩校だけでなく、英語や洋式兵学も教え、ペリー率いる黒船の来航に刺激された加賀藩が、命運を賭して創設した軍事機関でもあった。教授であった健堂はその軍事拠点の中枢にあり、海防論を戦わせ、佐野鼎から洋式兵学を吸収する立場の人物であった。",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 375,
"tag": "p",
"text": "健堂が学び、親交を持った佐野鼎は、共立学校(現・開成中学校・高等学校)の創設者であり、婿養子の健三は5代目の開成中学校校長を務めた。健三の長男・健行も開成中学校に通った(開成との縁については、三島の祖父・定太郎も開成の前身・共立学校出身で、永井家の高祖父・永井尚志が1848年に学問吟味に合格した昌平坂学問所もまた開成との歴史的つながりがあり、尚志の孫で三島の大叔父にあたる大屋敦や、三島の父・平岡梓、息子・威一郎も開成中学校出身者である)。",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 376,
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"text": "★印は学習院時代の作品。◎印は映画化された作品。◇印はテレビ・ラジオドラマ化(朗読含む)された作品。△印は漫画化された作品。■印は三島自身の肉声資料があるもの。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 377,
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"text": "☆印は潤色・修辞作品",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 378,
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"text": "□印は三島以外の原作・脚本。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 379,
"tag": "p",
"text": "記事立項されていない作品の映画化のみ記載。立項されている作品は、作品リストの◎印(映画化)、◇印(テレビ・ラジオドラマ化)の当該記事内を参照のこと。",
"title": "おもな作品"
},
{
"paragraph_id": 380,
"tag": "p",
"text": "初版刊行本を記載(後発の刊行情報は各記事を参照)。▲印は限定本。ダッシュ以下は収録作品、説明など。",
"title": "刊行書籍"
},
{
"paragraph_id": 381,
"tag": "p",
"text": "著作権は、酒井著作権事務所が一括管理している。2010年11月時点で三島の著作は累計発行部数2400万部以上。",
"title": "刊行書籍"
},
{
"paragraph_id": 382,
"tag": "p",
"text": "刊行年月は原則初版のみ記載。",
"title": "刊行書籍"
},
{
"paragraph_id": 383,
"tag": "p",
"text": "記事立項されている「サーカス」朗読に附随したインタビュー、東大全共闘との討論会、檄文演説などは各記事を参照。",
"title": "肉声資料"
}
] |
三島 由紀夫は、日本の小説家、劇作家、随筆家、評論家、政治活動家。本名は平岡 公威。 戦後の日本の文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、日本国外においても広く認められた作家である。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある。 代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴である。 晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日(水曜日)、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。バルコニーで自衛隊員にクーデターを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた。この一件は社会に大きな衝撃を与え、新右翼が生まれるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた(詳細は「三島事件」を参照)。 満年齢と昭和の年数が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い。 ※ なお、以下では三島自身の言葉や著作からの引用部を〈 〉で括ることとする(家族・知人ら他者の述懐、評者の論評、成句、年譜などからの引用部との区別のため)。
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{{Infobox 作家
| name = 三島 由紀夫<br />(みしま ゆきお)
| image = Yukio Mishima, 1955 (cropped).jpg
| imagesize = 250px
| caption = 30歳の三島由紀夫<br />『[[文藝]]』[[1955年]]4月号掲載。撮影:[[土門拳]]<ref>「才華繚乱の文学『金閣寺』の時代」({{Harvnb|太陽|2010|p=50}})</ref>
| pseudonym =
| birth_name = 平岡 公威(ひらおか きみたけ)
| birth_date = [[1925年]][[1月14日]]
| birth_place = {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[四谷区]]永住町2番地(現・[[東京都]][[新宿区]][[四谷]]四丁目22番)
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1925|1|14|1970|11|25}}
| death_place = {{JPN}}・東京都新宿区[[市谷本村町]]1番地(現・市谷本村町5-1)<br />[[陸上自衛隊]][[防衛省市ヶ谷地区|市ヶ谷駐屯地]]
| resting_place = [[多磨霊園]]
| occupation = [[小説家]]、[[劇作家]]
| language = [[日本語]]
| nationality = {{JPN}}
| education = [[学士(法学)|法学士]](東京大学・[[1947年]]11月)
| alma_mater = [[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]]法律学科卒業
| period = [[1941年]] - [[1970年]]
| genre = [[小説]]、[[戯曲]]、[[評論]]、[[随筆]]
| subject = 古典美、日本の[[雅]]<br />超越的な美意識、[[源泉の感情]]<br />[[悲劇]]性を帯びた美的存在<br />被疎外者における純粋<br />[[芸術]]と[[人生]]、[[生]]と[[死]]<br />[[精神]]と[[肉体]]、[[言葉]]と[[行動]]<br />[[認識]]と[[行為]]、[[存在]]と[[当為]]<br />[[文武両道]]、[[大和魂]]、[[憂国]]、[[皇国史観|皇国]]
| movement = [[日本浪曼派]]、[[第二次戦後派]]<br />[[耽美派]]
| notable_works = {{ublist|『[[仮面の告白]]』(1949年)|『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』(1954年)|『[[近代能楽集]]』(1956年)|『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』(1956年)|『[[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]]』(1956年)|『[[鏡子の家]]』(1959年)|『[[憂国]]』(1961年)|『[[サド侯爵夫人]]』(1965年)|『[[豊饒の海]]』(1965年 - 1970年)}}
| awards = {{ublist|[[新潮社文学賞]](1954年)|[[岸田演劇賞]](1955年)|[[読売文学賞]](1956年・1961年)|[[週刊読売]]新劇賞(1958年)|[[フォルメントール国際文学賞]]第2位(1964年・1967年)|[[毎日芸術賞]](1964年)|[[芸術祭 (文化庁)|文部省芸術祭賞]](1965年)|[[フランス]]・[[トゥール (アンドル=エ=ロワール県)|ツール]]国際短編[[映画祭]]劇映画部門第2位(1965年)}}
| debut_works = {{ublist|『{{ruby|[[スイバ|酸模]]|すかんぽう}}――秋彦の幼き思ひ出』(1938年)|『[[花ざかりの森]]』(1941年)}}
| spouse = [[平岡瑤子]]
| partner =
| children = [[平岡紀子]]、[[平岡威一郎]]
| relations = [[松平頼救]](五世祖父)<br />[[松平乗尹]](義五世祖父)<br />平岡太左衛門、三好長済、[[松平頼位]]、橋一巴(高祖父)<br />[[永井尚志]](義高祖父)<br />[[平岡太吉]]、[[永井岩之丞]]、瀬川朝治、[[橋健堂]](曽祖父)<br />[[平岡定太郎]]、[[橋健三]](祖父)<br />[[平岡なつ]]、橋トミ(祖母)<br />[[平岡梓]](父)、[[平岡倭文重|倭文重]](母)<br />[[平岡千之]](弟)、[[平岡美津子|美津子]](妹)<br />[[橋健行]]、橋行蔵(伯父)<br />[[平岡萬次郎]](大伯父)<br />[[大屋敦]](大叔父)<br />[[平岡萬寿彦]]、[[磯崎叡]]、[[永井三明]](父の[[従兄弟]])
| influences = [[葉隠]]、[[二・二六事件]]<br />[[神風特別攻撃隊]]、[[神風連の乱|神風連]]<br />[[歌舞伎]]、[[能楽]]、[[映画]]、[[劇画]]<br />[[ギリシア悲劇]]、[[古事記]]<br />[[浄瑠璃]]、[[暗黒舞踏]]、[[舞踏]]<br />[[神道]]、[[唯識]]、[[陽明学]]<br />[[古今和歌集]]、[[雨月物語]]、[[伊勢物語]]<br />[[紫式部]]、[[和泉式部]]、[[藤原定家]]<br />[[世阿弥]]、[[上田秋成]]、[[井原西鶴]]<br />[[近松門左衛門]]、[[滝沢馬琴]]<br />[[小泉八雲]]、[[小川未明]]、[[丸山薫]]<br />[[ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ|ストリンドベリ]]、[[草野心平]]<br />[[郡虎彦]]、[[森鷗外]]、[[泉鏡花]]<br />[[中原中也]]、[[田中冬二]]、[[萩原朔太郎]]<br />[[立原道造]]、[[日夏耿之介]]、[[堀口大學]]<br />[[芥川龍之介]]、[[谷崎潤一郎]]、[[堀辰雄]]<br />[[梶井基次郎]]、[[佐藤春夫]]<br />[[稲垣足穂]]、[[折口信夫]]、[[太宰治]]<br />[[川端康成]]、[[清水文雄]]、[[蓮田善明]]<br />[[伊東静雄]]、[[保田與重郎]]<br /> [[澤村宗十郎 (7代目)|澤村宗十郎]]、[[中村歌右衛門 (6代目)|中村歌右衛門]]<br />[[フリードリヒ・ヘルダーリン|ヘルダーリン]]、[[ゲーテ]]<br />[[レイモン・ラディゲ|ラディゲ]]、[[ジャン・コクトー|コクトー]]、[[ジャン・ジュネ|ジュネ]]<br />[[オスカー・ワイルド|ワイルド]]、[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ|ダンヌンツィオ]]<br />[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]、[[トーマス・マン]]<br />[[ジェイムズ・ジョイス|ジョイス]]、[[マルティン・ハイデッガー|ハイデッガー]]<br />[[ライナー・マリア・リルケ|リルケ]]、[[オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン|リラダン]]、[[スタンダール]]<br />[[プロスペル・メリメ|メリメ]]、[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|イェイツ]]、[[ジャン・ラシーヌ|ラシーヌ]]<br />[[ヴィクトル・ユーゴー|ユーゴー]]、[[マルセル・プルースト|プルースト]]、[[ジョルジュ・バタイユ|バタイユ]]<br />[[吉田松陰]]、[[大塩平八郎]]、[[磯部浅一]]<br />[[加屋霽堅]]、[[西郷隆盛]]<br />[[山口二矢]]、[[円谷幸吉]]、[[江藤小三郎]]
| influenced = [[石原慎太郎]]、[[大江健三郎]]<br />[[小池真理子]]、[[島田雅彦]]、[[浅田次郎]]<br />[[村上春樹]]、[[中上健次]]、[[中井英夫]]<br />[[山田詠美]]、[[奥泉光]]、[[町田康]]<br />[[阿部和重]]、[[平野啓一郎]]<br />[[武内直子]]、[[田中慎弥]]<br />[[楯の会]]会員、[[青年民族派]]<br />[[野村秋介]]、[[鈴木邦男]]、[[牛嶋徳太朗]]<br />[[見沢知廉]]、[[前野霜一郎]]、[[魚谷哲央]]<br />[[西尾幹二]]、[[西村幸祐]]<br />[[富岡幸一郎]]、[[土方巽]]<br />[[竹本忠雄]]、[[宮崎正弘]]<br />[[執行草舟]]、[[芥正彦]]、伊良刹那<br />[[ヘンリー・スコット・ストークス]]<br />[[フランシス・コッポラ]]<br />[[デヴィッド・ボウイ]]<br />[[ジャン=ジャック・バーネル]]<br />[[ポール・シュレイダー]]、[[ビョーク]]<br />[[アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ|マンディアルグ]]、[[ボリス・アクーニン]]<br />[[エドワルド・リモノフ]]
| signature = Yukio Mishima signature.png
| website =
}}
'''三島 由紀夫'''(みしま ゆきお、[[1925年]]〈[[大正]]14年〉[[1月14日]] - [[1970年]]〈[[昭和]]45年〉[[11月25日]])は、日本の[[小説家]]、[[劇作家]]、[[随筆家]]、[[評論家]]、[[政治活動家]]。本名は'''平岡 公威'''(ひらおか きみたけ)<ref name="s-nen1">「第一章」({{Harvnb|年表|1990|pp=9-30}})</ref><ref name="nr-t14">「大正14年」({{Harvnb|日録|1996|pp=14-15}})</ref>。
[[戦後#第二次世界大戦後|戦後]]の[[日本文学|日本の文学]]界を代表する作家の一人であると同時に、[[ノーベル文学賞]]候補になるなど、日本語の枠を超え、日本国外においても広く認められた作家である<ref name="radio1">「第一回 三島由紀夫の誕生」({{Harvnb|松本徹|2010|pp=8-20}})</ref><ref name="gai14">「十四 ノーベル文学賞の有力候補」({{Harvnb|岡山|2014|pp=83-84}})</ref><ref name="matsunaga">[[松永尚三]]「ヨーロッパ・フランス語圏における三島劇」({{Harvnb|論集III|2001|pp=215-228}})</ref>。『[[エスクァイア|Esquire]]』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある<ref name="kee-m">「三島由紀夫」({{Harvnb|キーン|2005|pp=70-95}})</ref>。
代表作は小説に『[[仮面の告白]]』『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』『[[鏡子の家]]』『[[憂国]]』『[[豊饒の海]]』など、戯曲に『[[近代能楽集]]』『[[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]]』『[[サド侯爵夫人]]』などがある。[[修辞]]に富んだ絢爛豪華で詩的な[[文体]]、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴である<ref name="radio6">「第六回 舞台の多彩の魅力」({{Harvnb|松本徹|2010|pp=76-89}})</ref><ref name="taiyo">「各項〈作品解説〉」({{Harvnb|太陽|2010|pp=27-108ff}})</ref>。
晩年は政治的な傾向を強め、[[自衛隊]]に体験入隊し、[[民兵]]組織「[[楯の会]]」を結成。1970年(昭和45年)11月25日([[水曜日]])、楯の会隊員4名と共に自衛隊[[防衛省市ヶ谷地区|市ヶ谷駐屯地]](現・[[防衛省]]本省)を訪れ[[東部方面隊 (陸上自衛隊)|東部方面]]総監を監禁。[[バルコニー]]で自衛隊員に[[クーデター]]を促す演説をしたのち、[[切腹|割腹]]自殺を遂げた。この一件は社会に大きな衝撃を与え、[[新右翼]]が生まれるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた<ref>「第一部 あの“狂乱”の時代を振り返って」({{Harvnb|板坂・鈴木|2010|pp=19-48}})</ref><ref>「第一章 三島の自決はどう捉えられてきたか」({{Harvnb|柴田|2012|pp=15-34}})</ref><ref>「II 構造と反復」から「II [[中上健次]]と三島由紀夫/あるいはオリュウノオバと本多邦繁」({{Harvnb|青海|2000|pp=123-277}})</ref>(詳細は「[[三島事件]]」を参照)。
[[満年齢]]と昭和の年数が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い<ref name="hitoto">[[佐伯彰一]]「三島由紀夫 人と作品」(新潮文庫版『[[仮面の告白]]』『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』解説、1973年12月執筆)</ref><ref name="okuno1">「不思議な共感」「三島由紀夫の生まれ育った時代」({{Harvnb|奥野|2000|pp=9-34}})</ref><ref>「はじめに」({{Harvnb|年表|1990|pp=7-8}})</ref>。
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※ なお、以下では三島自身の言葉や著作からの引用部を〈 〉で括ることとする(家族・知人ら他者の述懐、評者の論評、成句、年譜などからの引用部との区別のため)。
== 生涯 ==
=== 出自 ===
''[[#家族・親族]]も参照。''
[[ファイル:Hiraoka Teitarou.jpg|thumb|180px|right|<center>祖父・[[平岡定太郎]]<br />([[樺太庁]]長官時代)</center>]]
[[1925年]](大正14年)[[1月14日]](水曜日)、[[東京市]][[四谷区]]永住町2番地(現・[[東京都]][[新宿区]][[四谷]]四丁目22番)において、父・[[平岡梓]](当時30歳)と母・[[平岡倭文重|倭文重]](当時19歳)の間の長男として誕生<ref name="s-nen1"/><ref name="nr-t14"/>。体重は650[[匁]](約2,438グラム)だった<ref name="kamen">『仮面の告白』([[河出書房]]、1949年7月)。{{Harvnb|1巻|2000|pp=173-364}}</ref><ref name="nr-t14"/>。「'''公威'''」の名は祖父・[[平岡定太郎|定太郎]]による命名で、定太郎の恩人で同郷の[[土木工学者]]・[[古市公威]]男爵にあやかって名付けられた<ref>「[[東文彦]]宛ての書簡」(昭和16年4月11日付)。{{Harvnb|十代|2002|pp=38-40}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=65-67}}</ref><ref name="azusa2">「第二章」({{Harvnb|梓|1996|pp=31-47}})</ref><ref name="nr-t14"/>。
家は借家であったが同番地内で一番大きく、かなり広い和洋折衷の二階家で、家族(両親と父方の祖父母)の他に[[女中]]6人と[[書生]]や[[下男]]が居た(彼らは定太郎の故郷から来た親族だった<ref name="mange15">松本徹「ミシマ万華鏡――祖父の地」(短編小説・15{{Harvnb|三島研究}}2015年p.15)</ref>)。祖父は借財を抱えていたため、一階には目ぼしい家財はもう残っていなかった<ref name="nosa2">「II」(オール讀物 1987年5月号)。{{Harvnb|野坂|1991|pp=77-154}}</ref>。兄弟は、3年後に妹・[[平岡美津子|美津子]]、5年後に弟・[[平岡千之|千之]]が生まれた<ref name="s-nen1"/>。
父・梓は、[[第一高等学校 (旧制)|一高]]から[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法学部]]を経て、[[高等文官試験]]に1番で合格したが、面接官に悪印象を持たれて[[大蔵省]]入りを拒絶され、[[農商務省 (日本)|農商務省]](公威の誕生後まもなく同省の廃止に伴い、[[農林水産省|農林省]]に異動)に勤務していた<ref name="nichi-so">「祖先」({{Harvnb|日録|1996|pp=7-13}})</ref>。[[岸信介]]、[[我妻栄]]、[[三輪寿壮]]とは一高、帝大の同窓であった<ref name="inose2">「第二章 幽閉された少年」({{Harvnb|猪瀬|1999|pp=113-216}})</ref><ref name="kawas4">「わが友・平岡梓」({{Harvnb|川島|1996|pp=99-124}})</ref>。
母・倭文重は、[[加賀藩]][[藩主]]・[[前田氏|前田家]]に仕えていた[[儒学者]]・橋家の出身。父(三島の外祖父)は東京[[開成中学校・高等学校|開成中学校]]の5代目校長で、[[漢学者]]・[[橋健三]]<ref name="azusa2"/><ref name="etsu2">「II 三島由紀夫の祖先を彩る武家・華族・学者の血脈」({{Harvnb|越次|1983|pp=71-140}})</ref>。
祖父・定太郎は、[[兵庫県]][[印南郡]][[志方村]][[大字]]上富木(現・兵庫県[[加古川市]][[志方町]]上富木)の[[農家]]の生まれ。[[東京大学 (1877-1886)|帝国大学]]法科大学(現・[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]])を卒業後、[[内務省 (日本)|内務省]]に入省し内務[[官僚]]となる。[[1893年]](明治26年)、[[武士|武家]]の娘である[[平岡なつ|永井夏子]]と結婚し、[[福島県知事一覧|福島県知事]]、[[樺太庁#樺太庁長官|樺太庁長官]]などを務めたが、[[疑獄]]事件で失脚した(のちに[[無罪]]判決)<ref name="inose1">「第一章 [[原敬]]暗殺の謎」({{Harvnb|猪瀬|1999|pp=25-111}})</ref>。
祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・[[永井岩之丞]]([[大審院]]判事)と、母・高([[常陸国|常陸]][[常陸宍戸藩|宍戸藩]]藩主・[[松平頼位]]が[[側室]]との間にもうけた娘)の間に長女として生まれた。夏子の母方の祖父・松平頼位の血筋を辿っていくと[[徳川家康]]に繋がっている<ref name="etsu2"/><ref name="kakei-m">松平家の家系図は{{Harvnb|越次|1983|pp=137-140, 234-235}}</ref>。夏子は12歳から17歳で結婚するまで[[有栖川宮熾仁親王]]に行儀見習いとして仕えた。夏子の祖父は[[江戸幕府]][[若年寄]]の[[永井尚志]]<ref name="azusa2"/><ref name="etsu2"/>。なお、永井岩之丞の同僚・[[柳田直平]]の養子が[[柳田國男]]で、平岡定太郎と同じ兵庫県出身という縁もあった柳田国男は、夏子の家庭とは早くから交流があった<ref>[[柳田國男]]『故郷七十年』(のじぎく文庫 [[神戸新聞]]総合出版センター、1959年11月。1989年4月)。{{Harvnb|橋川|1998|pp=37-38}}</ref>。
作家・[[永井荷風]]の永井家と夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)で、夏子の9代前の祖先[[永井尚政]]の異母兄[[永井正直]]が荷風の12代前の祖先にあたる<ref>{{Harvnb|文献|2001|p=442}}</ref>。公威は、荷風の風貌と似ている梓のことを陰で「永井荷風先生」と呼んでいた<ref name="kawas4"/>。なお、夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた<ref name="etsu2"/><ref>「III」([[オール讀物]] 1987年6月号)。{{Harvnb|野坂|1991|pp=155-238}}</ref><ref name="nr-t14"/>。
祖父、父、そして息子の三島由紀夫と、三代にわたって同じ大学の学部を卒業した[[官僚]]の家柄であった。江戸幕府の重臣を務めた永井尚志の行政・統治に関わる政治は、平岡家の血脈や意識に深く浸透したのではないかと推測される<ref name="hitoto"/>。
=== 幼年期と「詩を書く少年」の時代 ===
[[ファイル:Yukio Mishima 1931.gif|thumb|200px|三島6歳。初等科入学の頃(1931年4月)]]
公威と祖母・[[平岡なつ|夏子]]とは、[[学習院中等科・高等科|学習院中等科]]に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた<ref name="boryu">[[平岡倭文重]]「暴流のごとく――三島由紀夫七回忌に」([[新潮]] 1976年12月号)。{{Harvnb|群像18 |1990|pp=193-204}}、{{Harvnb|年表|1990|pp=17,21,172,192}}</ref>。公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実のもと、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母親の[[平岡倭文重|倭文重]]が授乳する際も[[懐中時計]]で時間を計った<ref name="kamen"/><ref name="azusa2"/>。夏子は[[坐骨神経痛]]の痛みで臥せっていることが多く、家族の中でヒステリックな振る舞いに及ぶこともたびたびで、[[行儀作法]]に厳しかった<ref name="azusa2"/><ref name="boryu"/>。
公威は[[物差し]]や[[はたき]]を振り回すのが好きであったが没収され、車や鉄砲などの音の出る玩具も[[御法度]]となり、外での男の子らしい遊びも禁じられた<ref name="azusa2"/><ref name="boryu"/>。夏子は孫の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、公威に[[女言葉]]を使わせた<ref name="boryu"/><ref name="kden">「平岡公威伝」(原稿用紙 昭和19年2月28日付)。{{Harvnb|26巻|2003|pp=420-427}}</ref>。1930年(昭和5年)1月、5歳の公威は[[自家中毒]]にかかり、死の一歩手前までいく<ref name="kamen"/><ref name="azusa2"/>。病弱な公威のため、夏子は食事や[[おやつ]]を厳しく制限し、[[貴族]]趣味を含む過保護な教育をした<ref name="kamen"/><ref name="boryu"/>。その一方、[[歌舞伎]]、[[谷崎潤一郎]]、[[泉鏡花]]などの夏子の好みは<ref>「解説」(『日本の文学4 [[尾崎紅葉]]・[[泉鏡花]]』1969年1月)。{{Harvnb|35巻|2003|pp=323-337}}</ref>、後年の公威の小説家および劇作家としての素養を培った<ref>「第二部 追想のなかの三島由紀夫――(三)三島由紀夫以前」({{Harvnb|佐伯|1988|pp=234-307}})</ref>。
[[1931年]](昭和6年)4月、公威は[[学習院初等科]]に入学した。公威を[[学習院]]に入学させたのは、[[華族|大名華族]]意識のある夏子の意向が強く働いていた<ref name="s-nen1"/><ref name="botsu7">平岡梓・平岡倭文重「〈両親対談〉三島由紀夫は誰のものか」([[文藝春秋]] 1973年11月号)。{{Harvnb|梓・続|1974|pp=205-246}}</ref>。平岡家は[[平岡定太郎|定太郎]]が元[[樺太庁]]長官だったが[[平民]]階級だったため、華族中心の学校であった学習院に入学するには紹介者が必要となり<ref name="s-nen1"/>、夏子の伯父・[[松平頼安]]([[上野東照宮]]社司。三島の小説『神官』『好色』『怪物』『領主』のモデル<ref>[[田中美代子]]「解題――神官」({{Harvnb|補巻|2005|p=646}})</ref>)が保証人となった<ref name="botsu7"/>{{refnest|group="注釈"|祖父・定太郎と『国際私法』を共著した[[福原鐐二郎]](第14代学習院院長)の紹介もあったのではないかという推察もある<ref name="sato11">「第一章 作家の誕生まで」({{Harvnb|佐藤|2006|pp=23-38}})</ref>。}}。
しかし[[華族]]中心とはいえ、かつて[[乃木希典]]が院長をしていた学習院の気風は質実剛健が基本にあり、時代の波が[[満州事変]]勃発など戦争へと移行していく中、校内も[[硬派]]が優勢を占めていた<ref name="sato11"/><ref name="shunki">「わが思春期」([[Myojo|明星]] 1957年1月号-9月号)。{{Harvnb|29巻|2003|pp=339-408}}</ref>。級友だった[[三谷信]]は学習院入学当時の公威の印象を以下のように述懐している<ref name="mita1">「第一部 土曜通信」({{Harvnb|三谷|1999|pp=11-133}})</ref>。
{{Quotation|初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が 「平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!」と告げた。その友人と私が驚き合っているとは知らずに、彼が横を走り抜けた。春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている。|[[三谷信]]「級友 三島由紀夫」<ref name="mita1"/>}}
公威は初等科1、2年から詩や俳句などを初等科機関誌『小ざくら』に発表し始めた。読書に親しみ、世界童話集、[[インド|印度]]童話集、『[[千夜一夜物語]]』、[[小川未明]]、[[鈴木三重吉]]、[[ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ|ストリンドベルヒ]]の[[童話]]、[[北原白秋]]、フランス近代詩、[[丸山薫]]や[[草野心平]]の詩、[[講談社]]『[[少年倶楽部]]』([[山中峯太郎]]、[[南洋一郎]]、[[高垣眸]]ら)、『[[スピード太郎]]』などを愛読した<ref>「東文彦宛ての書簡」(昭和16年1月21日付)。{{Harvnb|十代|2002|pp=17-20}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=49-50}}</ref><ref name="dokusho">「ラディゲに憑かれて――私の読書遍歴」([[日本読書新聞]]、1956年2月20日号)。{{Harvnb|29巻|2003|pp=146-149}}</ref>。自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は肺門[[リンパ節|リンパ腺]]炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られていた<ref name="azusa2"/><ref name="kden"/>。
初等科3年の時は、作文「ふくろふ」の〈フウロフ、貴女は森の女王です〉という内容に対し、国語担当の[[鈴木弘一]]から「題材を現在にとれ」と注意されるなど、国語(綴方)の成績は中程度であった<ref>「年譜」(昭和8年)({{Harvnb|42巻|2005|pp=27-32}})</ref>。主治医の方針で日光に当たることを禁じられていた公威は、〈日に当ること不可然(しかるべからず)〉と言って日影を選んで過ごしていたため、虚弱体質で色が青白く、当時の[[愛称|綽名]]は「[[蝋燭]]」「アオジロ」であった<ref name="kden"/><ref name="mita1"/><ref name="mita2">「第二部 平岡公威君の思い出」({{Harvnb|三谷|1999|pp=135-188}})</ref>。
初等科6年の時には校内の悪童から「おいアオジロ、お前の[[精巣|睾丸]]もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれているのを三谷が目撃している<ref name="mita1"/><ref>「昭和11年月日不詳」({{Harvnb|日録|1996|p=33}})</ref><ref name="ando1"/>。
{{Quotation|初等科六年の時のことである。元気一杯で悪戯ばかりしている仲間が、三島に「おいアオジロ――彼の綽名――お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」と揶揄った。三島はサッとズボンの前ボタンをあけて[[男性器|一物]]を取り出し、「おい、見ろ見ろ」とその悪戯坊主に迫った。それは、揶揄った側がたじろく程の迫力であった。また濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、その頃の彼の貧弱な体に比べて意外と大きかった。|三谷信「級友 三島由紀夫」<ref name="mita1"/>}}
この6年生の時の1936年(昭和11年)には、2月26日に[[二・二六事件]]があった。急遽、授業は1時限目で取り止めとなり、いかなることに遭っても「学習院学生たる矜り」を忘れてはならないと先生から訓示を受けて帰宅した<ref name="watashi">「二・二六事件と私」(『[[英霊の聲]]』[[河出書房新社]]、1966年6月)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=107-119}}</ref>。6月には〈非常な威厳と尊さがひらめいて居る〉と[[日の丸]]を表現した作文「わが国旗」を書いた<ref>「我が国旗」(昭和11年6月16日付)。{{Harvnb|36巻|2003|p=466}}</ref>。
[[1937年]](昭和12年)、学習院中等科に進んだ4月、両親の転居に伴い祖父母のもとを離れ、[[渋谷区]][[大山町 (渋谷区)|大山町]]15番地(現・渋谷区[[松濤]]二丁目4番8号)の借家で両親と妹・弟と暮らすようになった<ref name="s-nen1"/><ref name="kden"/>。夏子は、1週間に1度公威が泊まりに来ることを約束させ、日夜公威の写真を抱きしめて泣いた<ref name="kamen"/>。虚弱な公威は中等科でも同級生にからかわれ、屋上から鞄を落とされたり(万年筆3本折れる)、学食で皿に醤油をドバドバかけられ野菜サラダを食べられなくさせられたりという、イジメをずいぶん受けた<ref>[[岸田今日子]]との対談「岸田今日子さんと恋愛を語る」([[主婦の友]] 1954年9月号)。{{Harvnb|彼女|2020|pp=52-59}}</ref>。
公威は文芸部に入り、同年7月、学習院校内誌『[[輔仁会雑誌]]』159号に作文「春草抄――初等科時代の思ひ出」を発表。自作の[[散文]]が初めて活字となった。中等科から国語担当になった[[岩田九郎]](俳句会「木犀会」主宰の俳人)に作文や短歌の才能を認められ成績も上がった<ref name="azusa2"/>。以後、『輔仁会雑誌』には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や散文作品、戯曲を発表することとなる<ref name="s-nen1"/><ref name="s-nen2">「第二章」({{Harvnb|年表|1990|pp=31-52}})</ref>。11、12歳頃、[[オスカー・ワイルド|ワイルド]]に魅せられ、やがて[[谷崎潤一郎]]、[[レイモン・ラディゲ|ラディゲ]]なども読み始めた<ref name="dokusho"/>。
7月に[[盧溝橋事件]]が発生し、[[日中戦争]]となった。この年の秋、8歳年上の[[学習院高等科 (旧制)|高等科]]3年の文芸部員・[[坊城俊民]]と出会い、文学交遊を結んだ<ref name="bojo1">「『[[詩を書く少年]]』のころ」({{Harvnb|坊城|1971}})。{{Harvnb|年表|1990|p=26}}</ref><ref name="shonen">「詩を書く少年」([[文學界]] 1954年8月号)pp.8-15。{{Harvnb|19巻|2002|pp=283-300}}</ref>。初対面の時の公威の印象を坊城は「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った」とし、その時の光景を以下のように語っている<ref name="bojo1"/>。
{{Quotation|「文芸部の坊城だ」 彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。「きみが投稿した詩、“秋二篇”だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた」 私は学習院で使われている二人称“[[貴様]]”は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。… 「これは、文芸部の雑誌“雪線”だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである」 三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。三島は一瞬躊躇し、思いきったように、[[敬礼|挙手の礼]]をした。このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は少年のやさしい魂を垣間見たと思った。|[[坊城俊民]]「焔の幻影 回想三島由紀夫」<ref name="bojo1"/>}}
[[ファイル:Self-portrait of Mishima Yukio.jpg|thumb|200px|中学時代の自画像]]
[[1938年]](昭和13年)1月頃、初めての短編小説「{{ruby|[[スイバ|酸模]]|すかんぽう}}――秋彦の幼き思ひ出」を書き、同時期の「[[座禅]]物語」などとともに3月の『輔仁会雑誌』に発表された<ref name="moku">「作品目録」({{Harvnb|42巻|2005|pp=377-462}})</ref>。この頃、学校の剣道の早朝寒稽古に率先して起床していた公威は、稽古のあとに出される味噌汁がうまくてたまらないと母に自慢するなど<ref name="azusa2"/>、中等科に上がり徐々に身体も丈夫になっていった<ref name="azusa3">「第三章」({{Harvnb|梓|1996|pp=48-102}})</ref>。同年10月、祖母・夏子に連れられて初めて[[歌舞伎]](『[[仮名手本忠臣蔵]]』)を観劇し、初めての[[能]]([[天岩戸]]の神遊びを題材にした『[[三輪山|三輪]]』)も母方の祖母・橋トミにも連れられて観た<ref name="h-reki">「[[私の遍歴時代]]」([[東京新聞]]夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号)。{{Harvnb|32巻|2003|pp=271-323}}</ref><ref>「悪の華――歌舞伎」([[国立劇場]]歌舞伎俳優養成所での特別講演 1970年7月3日。新潮 1988年1月号)。{{Harvnb|36巻|2003|pp=216-241}}</ref>。この体験以降、公威は歌舞伎や能の観劇に夢中になり<ref name="h-reki"/>、その後17歳から観劇記録「平岡公威劇評集」(「芝居日記」)を付け始める<ref>「芝居日記」(1942年1月1日-1944年12月23日。1945年2月18日-1947年11月23日執筆。[[マリ・クレール]] 1989年10月号-1990年2月号)。{{Harvnb|26巻|2003|pp=94-264}}</ref>。
[[1939年]](昭和14年)1月18日、祖母・夏子が[[潰瘍]]出血のため、[[小石川区]]駕籠町(現・[[文京区]][[本駒込]])の山川内科医院で死去(没年齢62歳)<ref name="s-nen1"/>。同年4月、前年から学習院に転任していた[[清水文雄]]が国語の担当となり、国文法、作文の教師に加わった。[[和泉式部]]研究家でもある清水は三島の生涯の師となり、[[平安時代|平安朝]]文学への目を開かせた<ref name="h-reki"/><ref>「師弟」(青年 1948年4月号)pp.31-34。{{Harvnb|27巻|2003|pp=40-45}}</ref>。同年9月、ヨーロッパでは[[ドイツ国]]の[[ポーランド侵攻]]を受けて、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告し、[[第二次世界大戦]]が始まった。
[[1940年]](昭和15年)1月に、後年の作風を彷彿とさせる破滅的心情の詩「{{ruby|凶|まが}}ごと」を書く<ref>「凶ごと」(昭和15年1月15日付)。{{Harvnb|橋川|1998|pp=41-42}}、{{Harvnb|37巻|2004|pp=400-401}}</ref>。同年、母・倭文重に連れられ、[[下落合 (新宿区)|下落合]]に住む詩人・[[川路柳虹]]を訪問し、以後何度か師事を受けた<ref>「母を語る――私の最上の読者」([[婦人生活]] 1958年10月号)pp.126-131。{{Harvnb|30巻|2003|pp=648-661}}</ref><ref>「川路柳虹先生の思ひ出」([[西条八十]]の詩誌のため、1966年執筆)。(京都語文 1998年10月号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=280-282}}</ref>。倭文重の父・[[橋健三]]と川路柳虹は友人でもあった<ref name="inose2"/>。同年2月に[[山路閑古]]主宰の月刊俳句雑誌『{{ruby|山梔|くちなし}}』に俳句や詩歌を発表。前年から、綽名のアオジロ、青びょうたん、白ッ子をもじって自ら「{{ruby|青城|せいじょう}}」の[[俳号]]を名乗り<ref>「『恥』」(青 1953年10月号)。{{Harvnb|28巻|2003|pp=198-200}}</ref>、1年半ほどさかんに俳句や詩歌を『山梔』に投稿する<ref name="s-nen1"/>。
同年6月に文芸部委員に選出され(委員長は坊城俊民)、11月に、[[堀辰雄]]の文体の影響を受けた短編「彩絵硝子」を校内誌『輔仁会雑誌』に発表。これを読んだ同校先輩の[[東文彦]]から初めて手紙をもらったのを機に文通が始まり、同じく先輩の[[徳川義恭]]とも交友を持ち始める<ref name="kden"/><ref name="azuma">{{Harvnb|十代|2002}}</ref>。東は[[結核]]を患い、[[大森区]](現・[[大田区]])[[田園調布]]3-20の自宅で療養しながら[[室生犀星]]や堀辰雄の指導を受けて創作活動をしていた<ref name="azuma"/>。一方、坊城俊民との交友は徐々に疎遠となっていき、この時の複雑な心情は、のちに『[[詩を書く少年]]』に描かれる<ref name="shonen"/>。
この少年時代は、ラディゲ、ワイルド、谷崎潤一郎のほか、[[ジャン・コクトー]]、[[ライナー・マリア・リルケ|リルケ]]、[[トーマス・マン]]、[[小泉八雲|ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)]]、[[エドガー・アラン・ポー]]、[[オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン|リラダン]]、[[ポール・モラン|モオラン]]、[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]、[[プロスペル・メリメ|メリメ]]、[[ジェイムズ・ジョイス|ジョイス]]、[[マルセル・プルースト|プルースト]]、[[ハンス・カロッサ|カロッサ]]、[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]、[[泉鏡花]]、[[芥川龍之介]]、[[志賀直哉]]、[[中原中也]]、[[田中冬二]]、[[立原道造]]、[[宮沢賢治]]、[[稲垣足穂]]、[[室生犀星]]、[[佐藤春夫]]、[[堀辰雄]]、[[伊東静雄]]、[[保田與重郎]]、[[梶井基次郎]]、[[川端康成]]、[[郡虎彦]]、[[森鷗外]]の戯曲、[[浄瑠璃]]、『[[万葉集]]』『[[古事記]]』『[[枕草子]]』『[[源氏物語]]』『[[和泉式部日記]]』なども愛読するようになった<ref name="kden"/><ref name="h-reki"/><ref name="azuma"/><ref name="ato6gi">「あとがき――戯曲」(『三島由紀夫作品集6』新潮社、1954年3月)。{{Harvnb|28巻|2003|pp=119-121}}</ref><ref name="yuwaku">「戯曲の誘惑」(東京新聞夕刊 1955年9月6日、7日号)。{{Harvnb|28巻|2003|pp=538-543}}</ref><ref>「清水文雄宛ての書簡」(昭和16年9月17日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=542-547}}</ref>。
=== 「三島由紀夫」の出発――花ざかりの森 ===
[[1941年]](昭和16年)1月21日に父・梓が[[農林水産省|農林省水産局]]長に就任し、約3年間単身赴任していた[[大阪]]から帰京<ref>「年譜」(昭和16年1月21日)({{Harvnb|42巻|2005|p=63}})</ref>。相変わらず[[文学]]に夢中の息子を叱りつけ、[[原稿用紙]]を片っ端からビリビリ破いた<ref name="azusa3"/>。公威は黙って下を向き、目に涙をためていた<ref name="azusa3"/>{{refnest|group="注釈"|しかし、三島が使用していた原稿用紙は36種類あり、その中には、翌年1942年(昭和17年)に梓が[[天下り]]した日本瓦斯木炭株式会社の社報用の原稿用紙や、農林省[[蚕糸]]局にいた時に入手したと思われる日本蚕糸統制株式会社の原稿用紙もあり、[[暴君]]を気取っていた梓も戦況が激しくなるに従い、次第に息子の形見のためにせっせと原稿用紙を調達していたことが推察されている<ref name="radio1"/><ref>工藤正義([[三島由紀夫文学館]])「三島由紀夫の原稿用紙」({{Harvnb|15巻|2002}}月報)</ref><ref name="sato12">「第二章 戦中・戦後の苦闘」({{Harvnb|佐藤|2006|pp=39-72}})</ref>。}}。
同年4月、中等科5年に進級した公威は、7月に「[[花ざかりの森]]」を書き上げ、国語教師の[[清水文雄]]に原稿を郵送して批評を請うた<ref>「清水文雄宛ての書簡」(昭和16年7月28日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=540-541}}</ref>。清水は、「私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされ」るような感銘を受け、自身が所属する[[日本浪曼派]]系[[国文学]]雑誌『[[文藝文化]]』の同人たち([[蓮田善明]]、[[池田勉]]、[[栗山理一]])にも読ませるため、[[静岡県]]の[[伊豆市|伊豆]][[修善寺温泉]]の新井旅館での一泊旅行を兼ねた編集会議に、その原稿を持参した<ref name="shimi">[[清水文雄]]「『花ざかりの森』をめぐって」(『三島由紀夫全集1』月報 新潮社、1975年1月)。{{Harvnb|新読本|1990|pp=22-24}}</ref>。「花ざかりの森」を読んだ彼らは、「天才」が現われたことを祝福し合い、同誌掲載を即決した<ref name="shimi"/>。
その際、同誌の読者圏が全国に広がっていたため、息子の文学活動を反対する平岡梓の反応など、まだ16歳の公威の将来を案じ、本名「平岡公威」でなく、[[ペンネーム|筆名]]を使わせることとなった<ref name="shimi"/>。清水は、「今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい ――というのが、期せずして一致した同人の意向であった」と、合宿会議を回想している<ref name="shimi"/>。筆名を考えている時、清水たちの脳裏に「[[三島駅|三島]]」を通ってきたことと、[[富士山|富士]]の白雪を見て「ゆきお」が思い浮かんできた<ref name="shimi"/>。
帰京後、清水が筆名使用を提案すると、公威は当初本名を主張したが受け入れ、「[[伊藤左千夫]](いとうさちお)」のような[[万葉仮名|万葉]]風の名を希望した<ref name="pname">「私のペンネーム」(東京新聞夕刊 1953年11月8日号)。{{Harvnb|28巻|2003|p=210}}</ref><ref name="ato4hana">「あとがき――『花ざかりの森』」(『三島由紀夫作品集4』新潮社、1953年11月)。{{Harvnb|28巻|2003|pp=112-115}}</ref>。結局「由紀雄」とし、「雄」の字が重すぎるという清水の助言で、「'''三島由紀夫'''」となった<ref name="shimi"/><ref name="pname"/><ref name="ato4hana"/>{{refnest|group="注釈"|[[2016年]](平成28年)9月に、三島直筆の「花ざかりの森」元原稿が[[熊本市]]の蓮田晶一([[蓮田善明]]の長男。2016年8月に死去)の家で見つかった<ref name="asahi">「ペンネーム『三島』生まれた臨場感」([[朝日新聞]] 2016年11月12日号・34面)</ref><ref name="male28">[https://web.archive.org/web/20161113115926/https://melma.com/backnumber_149567_6447521/ 「花ざかりの森」熊本で発見 三島デビュー作直筆原稿「作家誕生語る一級資料」(三島由紀夫の総合研究、2016年11月13日・通巻第996号)]</ref>。冒頭の著名は「平岡公威」を2本線で消して「三島由紀夫」に書き直してあり、ペンネーム誕生の経緯を物語る貴重な資料発見となった<ref name="asahi"/><ref name="male28"/>。}}。「由紀」は、[[大嘗祭]]の神事に用いる新穀を奉るため選ばれた2つの国郡のうちの第1のものを指す「由紀」(斎忌、悠紀、由基)の字にちなんで付けられた<ref>[[井上隆史 (国文学者)|井上隆史]]「ペンネームの由来」({{Harvnb|太陽|2010|p=19}})</ref>{{refnest|group="注釈"|ちなみに三島自身はペンネームの由来について次のように語っている。
{{Quotation|学生として本名ではまづいといふ先生の意見で、ペンネームを作ることになつた。私は[[伊藤左千夫]]といふやうな、[[万葉仮名|万葉]]風の蒼古な名前がほしかつたが、結局、由紀雄と落ち着き、先生は夫のはうがいいと言はれて、さう改めた。それから何か座りのいい姓をと考へて、先生の机上にあつた何かの名簿を繰つて、三島といふのを探し出したのである。|三島由紀夫「私のペンネーム」<ref name="pname"/>}}
なお、父親の梓は、ペンネームの由来について、倅が[[電話帳]]で適当に開いた頁が「三島」だったとしている<ref name="azusa3"/>。}}。
[[ライナー・マリア・リルケ|リルケ]]と[[保田與重郎]]の影響を受けた「花ざかりの森」は<ref name="A161110">「東文彦宛ての書簡」(昭和16年11月10日付)。{{Harvnb|十代|2002|pp=83-86}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=98-101}}</ref>、『文藝文化』昭和16年9月号から12月号に連載された<ref name="moku"/>。第1回目の編集後記で[[蓮田善明]]は、「この年少の作者は、併し'''悠久な日本の歴史の請し子である'''。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した<ref>[[蓮田善明]]「編集後記」([[文藝文化]] 1941年9月号)。{{Harvnb|福島鋳|2005|p=116}}、{{Harvnb|群像18 |1990|p=76}}</ref>。この賞讃の言葉は、公威の意識に大きな影響を与えた<ref name="radio1"/>。この9月、公威は随想「惟神之道(かんながらのみち)」をノートに記し、〈地上と高天原との懸橋〉となる惟神之道の根本理念の〈まことごゝろ〉を〈人間本然のものでありながら日本人に於て最も顕著〉であり、〈[[葦原中国|豊葦原之邦]]の創造の精神である〉と、[[神道]]への深い傾倒を寄せた<ref>「惟神之道」(昭和16年9月22日付)。{{Harvnb|26巻|2003|pp=88-90}}</ref>。
日中戦争の拡大や[[日独伊三国同盟]]の締結によりイギリスやアメリカ合衆国と対立を深めていた日本は、この年になり行われた[[仏印進駐|南部仏印進駐]]以降、次第に全面戦争突入が濃厚となるが、公威は〈もう時期は遅いでせう〉とも考えていた<ref name="A161110"/>。[[12月8日]]に行われた[[マレー作戦]]と[[真珠湾攻撃]]によって日本はついにイギリスやアメリカ、オランダなどの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]と開戦し、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])が始まった。開戦当日、教室にやって来た[[馬術]]部の先輩から、「戦争がはじまった。しっかりやろう」と感激した口ぶりで話かけられ、公威も〈なんともいへない興奮〉にかられた<ref>「大東亜戦争か 太平洋戦争か――歴史的事実なんだ」([[サンデー毎日]] 1970年11月29日号)。{{Harvnb|36巻|2003|p=658}}</ref>。
[[1942年]](昭和17年)1月31日、公威は前年11月から書き始めていた評論「[[王朝]]心理文学小史」を学習院図書館懸賞論文として提出(この論文は、翌年1月に入選){{refnest|group="注釈"|貰った希望賞品は、[[光吉夏弥]]編・[[筑摩書房]]刊の豪華本『[[文楽]]』となった<ref>「東文彦宛ての書簡」(昭和18年1月11日付)。{{Harvnb|十代|2002|pp=147-150}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=135-137}}</ref>。}}。3月24日、席次2番で中等科を卒業し、4月に[[学習院高等科 (旧制)|学習院高等科]]文科乙類([[ドイツ語|独語]])に進んだ。公威は、[[体育|体操]]と[[物理学|物理]]の「中上」を除けば、きわめて優秀な学生であった<ref>「年譜」(昭和17年3月)({{Harvnb|42巻|2005|p=73}})</ref>。運動は苦手であったが、高等科での[[学校教練|教練]]の成績は常に「上」([[甲]])で<ref>「年譜」(昭和18年-昭和19年)({{Harvnb|42巻|2005|pp=79-98}})</ref>、教官から根性があると精神力を褒められたことを、公威は誇りとしていた<ref name="azusa3"/>。
[[ドイツ語]]は{{仮リンク|ロベルト・シンチンゲル|de|Robert Schinzinger|label=}}に師事し<ref name="mita2"/>、ほかの教師も[[桜井和市]]、[[新関良三]]、[[野村行一]](1957年の[[東宮大夫]]在職中に死去)らがいた<ref name="azusa3"/><ref>「ドイツ語の思ひ出」(ドイツ語 1957年5月号)。{{Harvnb|29巻|2003|pp=521-526}}</ref>。後年[[ドナルド・キーン]]がドイツで講演をした際、一聴衆として会場にいたシンチンゲルが立ち上がり、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。彼が一番だった」と言ったエピソードがあるほど、ドイツ語は得意であった<ref name="mita2"/><ref name="azusa3"/><ref>対談「[[平野啓一郎]]が聞く[[ドナルド・キーン]]の世界」([[読売新聞]] 2007年7月31日、8月1日号)</ref>。
各地で日本軍が勝利を重ねていた同年4月、大東亜戦争開戦の静かな感動を厳かに綴った詩「大詔」を『文藝文化』に発表<ref>「大詔」(文藝文化 1942年4月号)pp.14-15。{{Harvnb|37巻|2004|pp=708-709}}</ref>。同年5月23日、文芸部委員長に選出された公威は、7月1日に[[東文彦]]や[[徳川義恭]]([[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京帝国大学文学部]]に進学)と共に同人誌『'''赤繪'''』を創刊し、「苧菟と瑪耶」を掲載した<ref name="s-nen2"/>。誌名の由来は[[志賀直哉]]の『万暦赤繪』にあやかって付けられた<ref>高橋新太郎「赤絵」({{Harvnb|事典|2000|p=441}})</ref>。公威は彼らとの友情を深め、病床の東とはさらに文通を重ねた<ref name="fumijo">「序」(1970年10月25日執筆。『東文彦作品集』[[講談社]]、1971年3月。[[講談社文芸文庫]]、2007年4月)。{{Harvnb|36巻|2003|pp=363-368}}</ref>{{refnest|group="注釈"|三島は『東文彦作品集』の序文で東との交友を振り返りつつ、当時を〈文学に集中できたむしろ[[アリストテレス]]的静的な時代〉であったと語っている<ref name="fumijo"/>。}}。同年8月26日、祖父・[[平岡定太郎|定太郎]]が死亡(没年齢79歳)<ref name="etsu2"/>。公威は詩「挽歌一篇」を作った<ref>「挽歌一篇」(昭和17年8月26日付)。{{Harvnb|37巻|2004|pp=710-711}}</ref>。
同年11月、学習院の講演依頼のため、清水文雄に連れられて[[保田與重郎]]と面会し、以後何度か訪問する<ref name="h-reki"/><ref>「東文彦宛ての書簡」(昭和17年11月15日付)。{{Harvnb|十代|2002|pp=136-141}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=129-133}}</ref><ref name="shigure">[[保田與重郎]]「天の時雨」({{Harvnb|臨時|1971}})。{{Harvnb|福田|1996|pp=167-192}}</ref>。公威は保田與重郎、蓮田善明、[[伊東静雄]]ら[[日本浪曼派]]の影響下で、詩や小説、随筆を同人誌『文藝文化』に発表し、特に蓮田の説く「[[皇国]]思想」「[[大和魂|やまとごころ]]」「[[みやび]]」の心に感銘した<ref>「『文芸文化』のころ」(『昭和批評大系2 昭和10年代』月報 番町書房、1968年1月)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=644-646}}</ref>。公威が「みのもの月」、随筆「[[伊勢物語]]のこと」を掲載した昭和17年11月号には、蓮田が「[[神風連の乱|神風連]]のこころ」と題した一文を掲載。これは蓮田にとって[[熊本県立済々黌高等学校|熊本済々黌]]の数年先輩にあたる[[森本忠]]が著した『神風連のこころ』(國民評論社、1942年)の書評であるが、この一文や森本の著書を読んでいた公威は、後年の[[1966年]](昭和41年)8月に、神風連の地・[[熊本市|熊本]]を訪れ、森本忠([[熊本商科大学]]教授)と面会することになる<ref name="araki">{{Harvnb|荒木|1971}}。[https://web.archive.org/web/20190416223231/http://melma.com/backnumber_149567_3656468/ 西法太郎「三島由紀夫と神風連(壱)」(三島由紀夫の総合研究、2007年5月7日・通巻第143号)]</ref><ref name="uchi2">「第二章 学習院という湖」({{Harvnb|島内|2010|pp=57-92}})</ref>。
ちなみに、三島の死後に[[村松剛]]が[[平岡倭文重|倭文重]]から聞いた話として、三島が中等科卒業前に[[第一高等学校 (旧制)|一高]]の入試を受験し不合格となっていたという説もあるが<ref name="mura01">「序章――雅の棘」({{Harvnb|村松剛|1990|pp=9-27}})</ref>、三島が中等科5年時の9月25日付の東文彦宛の書簡には、高等科は文科乙類(独語)にすると伝える記述があり、三島本人はそのまま文芸部の基盤が形成されていた学習院の高等科へ進む意思であったことが示されている<ref name="mura01"/><ref>「東文彦宛ての書簡」(昭和16年9月25日付)。{{Harvnb|十代|2002|pp=80-82}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=97-98}}</ref>。なお、三島が一高を受験したかどうかは、母・倭文重の証言だけで事実関係が不明であるため、全集の年譜にも補足として、「学習院在学中には他校の受験はできなかったという説もある」と付記されている<ref>「年譜」(昭和17年4月4日)({{Harvnb|42巻|2005|p=74}})</ref>。
=== 戦時下の青春・大学進学と終戦 ===
[[1943年]](昭和18年)2月24日、公威は[[学習院輔仁会雑誌|学習院輔仁会]]の総務部総務幹事となった<ref>「総務幹事日記」(昭和18年2月24日-8月2日)。{{Harvnb|補巻|2005|pp=497-507, 676-680}}</ref>。同年6月6日の輔仁会春季文化大会では、自作・演出の劇『やがてみ楯と』(2幕4場)が上演された(当初は翻訳劇を企画したが、時局に合わないということで[[山梨勝之進]]学習院長から許可が出ず、やむなく公威が創作劇を書いた<ref name="sato12"/><ref>「神崎陽宛ての書簡」(昭和21年2月10日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=313-318}}</ref>)。3月から『文藝文化』に「世々に残さん」を発表<ref name="moku"/>。同年5月、公威の「花ざかりの森」などの作品集を出版化することを[[伊東静雄]]と相談していた[[蓮田善明]]は、京都に住む[[富士正晴]]を紹介され、新人「三島」に興味を持っていた富士も出版に乗り気になった<ref name="haru">[[富士正晴]]「蓮田善明宛ての書簡」(昭和18年5月3日付)。{{Harvnb|日録|1996|pp=56-57}}</ref>。
同年6月、月1回東京へ出張していた富士正晴は公威と会い、[[西巣鴨]]に住む医師で詩人の[[林富士馬]]宅へも連れていった<ref name="fujima">[[林富士馬]]「死首の咲顔――三島由紀夫君追悼」(諸君! 1971年2月号)。{{Harvnb|追悼文|1999|pp=312-318}}</ref>。それ以降数年間、公威は林と文学的文通など親しく交際するようになった<ref name="fujima" /><ref name="batsu">「跋に代へて」(『花ざかりの森』七丈書院、1944年10月)。{{Harvnb|26巻|2003|pp=440-444}}</ref>。8月、富士が公威の本の初出版について、「ひとがしないのならわたしが骨折つてでもしたい」と述べ<ref>富士正晴「林富士馬の詩」(文藝文化 1943年8月号)。{{Harvnb|日録|1996|p=57}}</ref>、蓮田も、「国文学の中から語りいでられた霊のやうなひとである」と公威を讃えた<ref>蓮田善明「古典の教育」(文學 1943年8月号)。{{Harvnb|日録|1996|pp=57-58}}、{{Harvnb|北影|2006|pp=49}}、{{Harvnb|橋川|1998|p=45}}</ref>。蓮田は公威に葉書を送り、「詩友富士正晴氏が、あなたの小説の本を然るべき書店より出版することに熱心に考へられ目当てある由、もしよろしければ同氏の好意をうけられたく」と、作品原稿を富士に送付するよう勧めた<ref>蓮田善明「平岡公威宛ての葉書」(昭和18年8月16日付)。{{Harvnb|日録|1996|p=58}}、{{Harvnb|猪瀬|1999|p=226}}、{{Harvnb|佐藤|2006|p=45}}</ref>。
英米との戦争が激化していく中、公威は〈アメリカのやうな劣弱下等な文化の国、あんなものにまけてたまるかと思ひます〉<ref>「東文彦宛ての書簡」(昭和18年4月4日付)。{{Harvnb|十代|2002|pp=173-175}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=154-155}}</ref>、〈米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでせう。俗な精神が世界を蔽うた時、それは世界の滅亡です〉と神聖な日本古代精神の勝利を願った<ref name="A180820">「東文彦宛ての書簡」(昭和18年8月20日付)。{{Harvnb|十代|2002|pp=201-204}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=173-175}}</ref>。なお、公威は同盟国のイタリアの最高指導者[[ベニート・ムッソリーニ]]に好感を抱いていながらも、[[ナチス・ドイツ]]の総統[[アドルフ・ヒトラー]]には嫌悪感を持っていた<ref name="A180820"/><ref>「東文彦宛ての書簡」(昭和16年9月16日付)。{{Harvnb|十代|2002|pp=77-80}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=94-96}}</ref>。
同年10月8日、そんな便りをやり取りしていた[[東文彦]]が23歳の若さで急逝し、公威は弔辞を奉げた<ref>「東文彦 弔詞」(昭和18年10月11日付。新潮 1998年12月号)。{{Harvnb|十代|2002|pp=211-213}}。{{Harvnb|26巻|2003|pp=411-413}}</ref><ref>「東徤兄を哭す」(昭和18年10月9日付。輔仁会雑誌 1943年12月25日・169号)。{{Harvnb|26巻|2003|pp=406-410}}</ref>。東の死により、同人誌『赤繪』は2号で廃刊となった<ref name="kden"/>。文彦の父・[[東季彦]]によると、三島は死ぬまで文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという<ref name="mochi4">「第四章 三島事件前後の真相」({{Harvnb|持丸|2010|pp=125-189}})</ref>。なお、この年に公威は[[杉並区]][[成宗 (杉並区)|成宗]]の[[堀辰雄]]宅を訪ね<ref name="mura21">「II 自己改造をめざして――『仮面』の創造」({{Harvnb|村松剛|1990|pp=123-149}})</ref>、堀から〈シンプルになれ〉という助言を受けていた<ref name="to-note">「『盗賊』創作ノート」({{Harvnb|1巻|2000|pp=605-650}})</ref>。
当時の世情は国民に〈儀礼の強要〉をし、戦没兵士の追悼式など事あるごとにオーケストラが騒がしく「[[海ゆかば|海往かば]]」を演奏し、ラウド・スピーカーで〈御託宣をならべる〉気風であったが<ref name="T180925">「[[徳川義恭]]宛ての書簡」(昭和18年9月25日付)。{{Harvnb|十代|2002|pp=227-230}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=}}</ref>、公威はそういった大仰さを、〈まるで[[浅草]]あたりの場末の芝居小屋の時局便乗劇そのまゝにて、冒瀆も甚だしく、憤懣にたへません〉と批判し、ただ心静かに〈戦歿勇士に祈念〉とだけ言えばいいのだと友人の[[徳川義恭]]へ伝えている<ref name="T180925"/>。
{{Quotation|国民儀礼の強要は、結局、儀式いや[[祭事]]といふものへの伝統的な日本固有の感覚をズタズタにふみにじり、本末を顛倒し、挙句の果ては国家精神を型式化する[[謀略]]としか思へません。主旨がよい、となればテもなく是認されるこの頃のゆき方、これは芸術にとつてもつとも危険なことではありますまいか。今度の[[学制改革]]で来年か、さ来年、私も[[兵隊]]になるでせうが、それまで、日本の文学のために戦ひぬかねばならぬことが沢山あります。(中略)文学を護るとは、[[護国]]の大業です。文学者大会だなんだ、時局文学生産文学だ、と文学者がウロウロ・ソワソワ[[鼠]]のやうにうろついている時ではありません。|平岡公威「[[徳川義恭]]宛ての書簡」(昭和18年9月25日付)<ref name="T180925"/>}}
この年の10月には[[学徒出陣|在学徴集延期臨時特例]]が公布され、文科系の学生は徴兵猶予が停止された<ref name="s-nen2"/>。公威は[[早生まれ]]のため該当しなかったが、来年20歳になる同級生のほとんど(大正13年4月以降の同年生まれ)は12月までに入隊が義務づけられた([[学徒出陣]])<ref name="s-nen2"/>。それに先んじて、10月21日に雨の中、[[明治神宮外苑競技場]]にて盛大な「出陣学徒壮行会」が行なわれ、公威もそのニュースを重大な関心を持って聴いていた<ref name="s-nen2"/>。
同年10月25日、蓮田善明は[[召集令状]]を受けて熊本へ行く前、「日本のあとのことをおまえに託した」と公威に言い遺し<ref>「昭和18年10月25日」({{Harvnb|日録|1996|pp=59}})</ref><ref name="mura43">「IV 行動者――訣別」({{Harvnb|村松剛|1990|pp=469-503}})</ref>、翌日、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[中尉]]の軍装と純白の手袋をして宮城前広場で[[皇居]]を拝んだ<ref name="kita">「第一章 三島由紀夫と日本浪曼派」({{Harvnb|北影|2006|pp=22-92}})</ref><ref name="odaka">{{Harvnb|小高根|1970}}。{{Harvnb|文學大系|1970|pp=461-471}}(1968年9月号-11月号分)、{{Harvnb|福島鋳|2005|pp=99-156}}、{{Harvnb|北影|2006|pp=22-92}}</ref>。公威は日本の行く末と美的天皇主義([[尊皇]])を蓮田から託された形となった<ref name="kita"/><ref name="chigi">小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」(新潮 1971年2月号)。{{Harvnb|追悼文|1999|pp=100-105}}</ref><ref name="uchi6-7">「第六章 命を賭けたライフワーク」「第七章 自決の朝」({{Harvnb|島内|2010|pp=243-326}})</ref>。富士正晴も戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という一首を公威に送った<ref name="batsu"/>。同年12月、徴兵適齢臨時特例が公布され、徴兵適齢が19歳に引き下げられることになった<ref name="s-nen2"/>。公威は来年に迫った自身の入隊を覚悟した<ref name="s-nen2"/><ref>「富士正晴宛ての書簡」(昭和18年12月26日付)。{{Harvnb|38巻|2004|p=852}}</ref>。
[[ファイル:加古川図書館(加古川公会堂)P5130314.jpg|thumb|170px|right|徴兵検査を受けた旧加古川町公会堂]]
[[1944年]](昭和19年)4月27日、公威も本籍地の[[兵庫県]][[印南郡]][[志方村]]村長発信の[[徴兵検査]]通達書を受け取り、5月16日、兵庫県[[加古郡]][[加古川町]](現・[[加古川市]])の[[旧加古川町公会堂|加古川町公会堂]]で徴兵検査を受けた<ref>「年譜」(昭和19年5月16日)({{Harvnb|42巻|2005|pp=91-92}})</ref>。公会堂の現在も残る松の下で、十[[貫]](約40キログラム)の[[砂]]を入れた[[米俵]]を持ち上げるなどの検査もあった<ref name="inose2"/><ref name="sato12"/>。
本籍地にほど近い加古川で徴兵検査を受けたのは、〈田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵〉であったが<ref name="kamen"/>、結果は第二[[乙]]種で合格となり、その隊に入隊することとなった(召集令状は翌年2月)<ref name="s-nen2"/>。徴兵合格を知った母・倭文重は悲泣し、当てが外れた父・梓も気落ちした<ref name="kamen"/>。級友の[[三谷信]]など同級生の大半が[[特別幹部候補生]]として志願していたが、公威は一[[兵卒]]として応召されるつもりであった<ref name="kamen"/><ref name="mita2"/>。それは、どうせ死ぬのならば1日でも長く1行でも多く書いていられる方を平岡が選んだのだと三谷は思った<ref name="mita2"/>。
徴兵検査合格の帰途の5月17日、大阪の[[大阪市立住吉中学校|住吉中学校]]で教師をしている[[伊東静雄]]を訪ね、[[支那]]出征前に一時帰郷していた富士正晴宅を一緒に訪ねた<ref name="s-nen2"/><ref name="odakaito">「十一 平明な主潮と太平洋戦争――2 『春の雪』と三島由紀夫」({{Harvnb|小高根|1971|pp=273-285}})</ref>。5月22日は、遺著となるであろう処女出版本『[[花ざかりの森]]』の序文を依頼するために伊東静雄の家に行くが、彼から悪感情を持たれて「学校に三時頃平岡来る。夕食を出す。俗人、神堀来る。リンゴを呉れる。九時頃までゐる。駅に送る」などと日記に書かれた<ref name="odakaito"/><ref name="jyuro3">「第三章 三島由紀夫の青春」({{Harvnb|福島鋳|2005|pp=99-156}})</ref>。しかし、伊東はのちに『花ざかりの森』献呈の返礼で、会う機会が少なすぎた感じがすることなどを公威に伝え<ref>[[伊東静雄]]「平岡公威宛ての書簡」(昭和19年11月22日付)。{{Harvnb|42巻|2005|p=97}}、{{Harvnb|アルバム|1983|p=17}}(現物写真)</ref>、戦後には『[[岬にての物語]]』を読んで公威への評価を見直すことになる<ref name="odakaito"/><ref name="jyuro3"/><ref name="I230323">「伊東静雄宛ての書簡」(昭和23年3月23日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=200-202}}</ref>。
[[1944年]](昭和19年)9月9日、学習院高等科を[[首席]]で卒業。卒業生総代となった<ref name="mita1"/><ref name="sotsu">「学習院の卒業式」(スタイル 1957年3月号)。{{Harvnb|29巻|2003|p=499}}</ref>。卒業式には[[昭和天皇]]が臨席し<ref name="mita1"/><ref name="n1999">「年譜」(昭和19年9月9日)({{Harvnb|42巻|2005|p=95}})</ref>{{refnest|group="注釈"|name="akira"|なお、エッセイ「学習院の卒業式」では、総代として卒業生代表で免状を受け取った三島は、〈正面の御名代の宮殿下に最敬礼し斜右の[[宮内大臣]]から免状をもらつた〉とある<ref name="sotsu"/>。『[[昭和天皇実録]]』の昭和19年9月9日条では、「学習院において卒業式挙行につき、[[久邇宮朝融王|朝融王]]を差し遣わされる」とされている。清水文雄の「戦中日記」にも「十時三十分御差遣宮殿下を奉送申上げ、」とあり、この年に実際に臨席したのは昭和天皇の義兄の久邇宮朝融王だと考えられる<ref name="nishi1-1">「三島由紀夫と昭和の時代」({{Harvnb|西|2020|pp=25-30}})</ref>。ちなみに三島の在学中に昭和天皇が卒業式に臨席したのは、昭和9年、12年、16年の3回だった<ref name="nishi1-1"/>。}}、[[宮内省]]より天皇からの[[恩賜の銀時計]]を拝受され、駐日ドイツ大使からはドイツ文学の原書3冊([[ナチス]]の[[ハーケンクロイツ]]入り)をもらった<ref name="azusa3"/><ref name="sotsu"/><ref name="n1999"/><ref>陛下から拝受された[[恩賜の銀時計]]を眺めている写真は{{Harvnb|アルバム|1983|p=18}}</ref>。御礼言上に、学習院長・[[山梨勝之進]]海軍大将と共に宮内へ参内し、謝恩会で[[華族会館]]から図書数冊も贈られた<ref name="sotsu"/>。
大学は[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|文学部]]への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・梓の説得により、同年10月1日には[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法学部]]法律学科(独法)に入学(推薦入学)した<ref name="azusa3"/><ref name="bunzai">「学生の分際で小説を書いたの記」(文藝 1954年11月号)pp.13-15。{{Harvnb|28巻|2003|pp=370-376}}</ref>。そこで学んだ[[団藤重光]]教授による[[刑事訴訟法]]講義の〈徹底した論理の進行〉に魅惑され、修得した法学の論理性が小説や戯曲の創作においてきわめて有用となり、のちに三島は父・梓に感謝する<ref>「法律と文学」(東大緑会大会プログラム、1961年12月)。{{Harvnb|31巻|2003|pp=684-686}}</ref><ref>「私の小説作法」([[毎日新聞]] 1964年5月10日)。{{Harvnb|33巻|2003|pp=60-62}}</ref>。父は公威が文学に熱中することに反対して度々執筆活動を妨害していたが、息子を法学部に進学させたことにより、三島の文学に日本文学史上稀有な論理性をもたらしたことは梓の貢献であった<ref name="azusa3"/>。
出版統制の厳しく紙不足の中、〈この世の形見〉として『花ざかりの森』刊行に公威は奔走した<ref name="ato4hana"/><ref>「『花ざかりの森』出版のころ」([[群像]] 1958年6月号)p.244。{{Harvnb|30巻|2003|pp=285-286}}</ref>。同年10月に処女短編集『花ざかりの森』([[装幀]]は友人・[[徳川義恭]])が七丈書院で出版された<ref name="ato4hana"/>。公威は17日に届いた見本本1冊をまず、入隊直前の三谷信に[[上野駅]]で献呈した<ref name="mita1"/>。息子の文学活動に反対していた父・梓であったが、いずれ召集されてしまう公威のため、11月11日に[[上野]]([[下谷区]])[[池之端]](現・[[台東区]]池之端)の中華料理店・雨月荘で出版記念会を開いてやり、母・倭文重、清水文雄ら『文藝文化』同人、徳川義恭、林富士馬などが出席した<ref name="s-nen2"/><ref name="azusa3"/><ref>「『花ざかりの森』のころ」(うえの 1968年1月号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=615-618}}</ref>。
書店に並んだ『花ざかりの森』は、学生当時の[[吉本隆明]]や[[芥川比呂志]]らも買って読み、各高の文芸部や文学青年の間に学習院に「三島」という早熟な天才少年がいるという噂が流れた<ref name="sato12"/><ref>「三島由紀夫伝」([[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]編『現代日本文学館42 三島由紀夫』文藝春秋、1966年8月)。{{Harvnb|橋川|1998|pp=36-73}}</ref><ref name="akiy">[[秋山駿]]「『内部の人間』から始まった」(禁色・5{{Harvnb|三島研究}}2008年pp.4-30)。{{Harvnb|同時代|2011|pp=85-124}}</ref>。しかし、公威が同人となっていた日本浪曼派の『文藝文化』も物資不足や企業整備の流れの中、雑誌統合要請のために8月をもって通巻70号で終刊となっていた<ref name="s-nen2"/>。
[[1945年]](昭和20年)、いよいよ戦況は逼迫して大学の授業は中断され、公威は1月10日から「東京帝国大学[[勤労報国隊]]」として、[[群馬県]][[新田郡]][[太田市|太田町]]の[[中島飛行機]]小泉製作所に勤労動員され、総務部調査課配属となった<ref>「平岡梓・倭文重宛ての葉書」(昭和20年1月18日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=816-817}}</ref>。事務作業に従事しつつ、公威は小説「[[中世 (小説)|中世]]」を書き続ける<ref name="h-reki"/><ref>「三谷信宛ての書簡」(昭和20年1月20日付)。{{Harvnb|三谷|1999|pp=32-33}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=905-906}}</ref>。以前、[[保田與重郎]]に[[謡曲]]の文体について質問した際に期待した[[浪漫主義]]的答えを得られなかった思いを「中世」に書き綴ることで、人工的な豪華な言語による絶望感に裏打ちされた終末観の美学の作品化に挑戦し<ref name="h-reki"/>、[[中河与一]]の厚意によって第1回と第2回の途中までを雑誌『文藝世紀』に発表した<ref name="moku"/><ref name="h-reki"/><ref>「[[中河与一]]宛ての書簡」(昭和20年2月23日付)。{{Harvnb|38巻|2004|p=711}}</ref>。
誕生日の1月14日、思いがけず帰京でき、母・倭文重が焼いてくれたホットケーキを美味しく食べた<ref>「平岡梓・倭文重宛ての葉書」(昭和20年1月17日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=815-816}}</ref>(この思い出は後年、遺作『[[天人五衰 (小説)|天人五衰]]』に描かれることになる)。2月4日に入営通知の電報が自宅へ届いた。公威は〈天皇陛下萬歳〉と終りに記した遺書を書き、遺髪と遺爪を用意した<ref name="azusa3"/><ref>「私の遺書」(文學界 1966年7月号)pp.7-8。{{Harvnb|34巻|2003|pp=153-156}}</ref><ref>平岡公威「遺言」(昭和20年2月執筆)。現物写真は、{{Harvnb|アルバム|1983|p=21}}、{{Harvnb|写真集|2000}}、{{Harvnb|太陽|2010|p=23}}</ref>。中島飛行機小泉製作所を離れることになったが、軍用機工場は前年から本格化していたアメリカ軍による[[日本本土空襲]]の優先目標であった。公威が入隊検査を受けた10日、小泉製作所はアメリカ軍の爆撃機による大空襲を受け、結果的に応召は三島の罹災をまぬがれさせる結果となった<ref>「昭和20年1月-2月」({{Harvnb|日録|1996|pp=72-75}})</ref>。
同年2月6日、髪を振り乱して泣く母・倭文重に見送られ、公威は父・梓と一緒に兵庫県[[富合村]]高岡廠舎へ出立した<ref name="s-nen2"/><ref name="azusa3"/>。風邪で寝込んでいた母から移った[[気管支炎]]による[[眩暈]]や高熱の症状を出していた公威は、滞在先の志方村の知人の家(好田光伊宅)で手厚い看護を受けた<ref name="s-nen2"/><ref name="azusa3"/>。解熱剤を服用し一旦小康状態になったものの、10日の入隊検査の折の丸裸の寒さでまた高熱となった公威は、新米の[[軍医]]から[[ラッセル]]が聞こえると言われ、[[血沈]]も高い数値を示したため[[肺浸潤]]([[結核]]の三期の症状)と診断され[[即日帰郷]]となった(その後の東京の病院の精密検査で誤診だと分かる)<ref name="kamen"/><ref name="shunki"/><ref name="azusa3"/><ref>[[栗栖晋]](突第10133部隊)「帰郷証明書」(昭和20年2月10日付)。三島由紀夫文学館所蔵。</ref>。その部隊の兵士たちはフィリピンに派遣され、多数が死傷してほぼ全滅した<ref name="shunki"/>。
戦死を覚悟していたつもりが、医師の問診に同調し誇張した病状報告で答えた自身のこの時の[[アンビバレンス]]な感情が以後、三島の中で自問自答を繰り返す<ref name="kamen"/>。この身体の虚弱から来る気弱さや、行動から〈拒まれてゐる〉という意識が三島にとって生涯コンプレックスとなり<ref name="tetsu">「[[太陽と鉄]]」(批評 1965年11月号-1968年6月号)。{{Harvnb|33巻|2003|pp=506-584}}</ref>、以降の彼に複雑な思い(常に死の観念を意識する[[死生観]]や、戦後は〈余生〉という感覚)を抱かせることになる<ref name="jyuro3"/><ref name="saigo">[[古林尚]]との対談「三島由紀夫 最後の言葉」([[図書新聞]] 1970年12月12日、1971年1月1日号)。古林尚『戦後派作家は語る』(筑摩書房、1971年)、{{Harvnb|群像18 |1990|pp=205-228}}、{{Harvnb|40巻|2004|pp=739-782}}</ref>。
梓が公威と共に自宅に戻ると一家は喜び有頂天となったが、公威は高熱と旅の疲れで1人ぼんやりとした様子で、「[[神風特別攻撃隊|特攻隊]]に入りたかった」と真面目につぶやいたという<ref name="azusa3"/>。公威はその後4月、三谷信宛てに〈君と共に将来は、日本の文化を背負つて立つ意気込みですが、君が御[[奉公]]をすましてかへつてこられるまでに、僕が地固めをしておく心算です〉と伝え、神風特攻隊についての熱い思いを記した<ref name="M20421">「三谷信宛ての葉書」(昭和20年4月21日付)。{{Harvnb|三谷|1999|pp=88-90}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=917-918}}</ref>。兵役は即日帰郷となったものの、一時の猶予を得たにすぎず、再び召集される可能性があった<ref name="radio1"/><ref name="shunki"/>。
公威は、[[栗山理一]]を通じて[[野田宇太郎]](『[[文藝]]』編集長)と知り合い、戦時下でただ一つ残った文芸誌『文藝』に「[[サーカス (小説)|サーカス]]」と「エスガイの狩」を持ち込み、「エスガイの狩」が採用された<ref name="noda">[[野田宇太郎]]『灰の季節』(修道社、1958年5月)。{{Harvnb|福島鋳|2005|pp=141-151}}、{{Harvnb|村松剛|1990|pp=72ff}}</ref>。処女短編集『花ざかりの森』は野田を通じ、3月に[[川端康成]]に献呈された<ref name="ky200308">川端康成「平岡公威宛ての書簡」(昭和20年3月8日付)。{{Harvnb|川端書簡|2000|p=11}}</ref><ref>「川端康成宛ての書簡」(昭和20年3月16日付)。{{Harvnb|川端書簡|2000|p=12}}、{{Harvnb|38巻|2004|p=236}}</ref>。川端は『文藝文化』の公威の作品群や「中世」を読んでいた<ref name="h-reki"/><ref name="ky200308"/>。群馬県の[[陸軍予備士官学校 (日本)|前橋陸軍士官学校]]にいる三谷信を、三谷の家族と共に慰問中の3月10日の夜、東京は大空襲に見舞われた([[東京大空襲]])。焦土と化した東京へ急いで戻り、公威は家族の無事を確認した<ref name="azusa3"/>。
1945年(昭和20年)5月5日から、東京よりも危険な[[神奈川県]][[高座郡]][[大和市|大和]]の[[海軍工廠|海軍高座工廠]]に勤労動員された<ref name="s-nen2"/>。終末観の中、公威は『[[和泉式部日記]]』『[[上田秋成]]全集』『[[古事記]]』『日本[[歌謡]]集成』『[[室町時代]]小説集』『[[葉隠]]』などの古典、[[泉鏡花]]、[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|イェーツ]]などを濫読した<ref name="h-reki"/><ref name="hagakure">『[[葉隠入門]]』(光文社、1967年9月)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=474-540}}</ref>。6月12日から数日間、[[軽井沢]]に[[疎開]]している恋人・三谷邦子(親友・三谷信の妹)に会いに行き、初めての[[接吻]]をした<ref name="kamen"/><ref name="shunki"/>。帰京後の7月、戦禍が悪化して空襲が激しくなる中、公威は遺作となることを意識した「[[岬にての物語]]」を書き始めた<ref name="moku"/><ref name="h-reki"/>。
1945年(昭和20年)8月6日、9日と相次ぎ、[[広島市への原子爆弾投下|広島]]と[[長崎市への原子爆弾投下|長崎]]に[[原子爆弾]]が投下された。公威は〈世界の終りだ〉と虚無的な気分になり、わざと上空から目立つ白いシャツを着て歩いた<ref name="kamen"/><ref name="hirosi">「民族的憤怒を思ひ起せ――私の中のヒロシマ」([[週刊朝日]] 1967年8月11日号)pp.16-18。{{Harvnb|34巻|2003|pp=447-449}}</ref>。8日には[[ソビエト連邦]]が[[ソ連対日宣戦布告|日本に宣戦布告]]し、翌9日に[[満州国|満州]]や[[樺太]]に侵攻。10日、公威は高熱と頭痛のため高座工廠から、一家が疎開していた[[豪徳寺 (地名)|豪徳寺]]の親戚の家に帰宅し、[[梅肉エキス]]を舐めながら床に伏せった<ref name="zengo">「八月十五日前後」(毎日新聞 1955年8月14日号)。{{Harvnb|読本|1983|pp=254-255}}、{{Harvnb|28巻|2003|pp=525-527}}</ref>。
8月15日に[[日本の降伏|終戦]]を迎えてラジオの[[玉音放送]]を聞いた際、「これからは芸術家の世の中だから、やっぱり小説家になったらいい」と父・梓が言った<ref name="zengo"/>。
=== 終戦後の苦悶と焦燥 ===
終戦直後、公威は学習院恩師の清水文雄に、〈玉音の放送に感涙を催ほし、わが文学史の伝統護持の使命こそ我らに与へられた使命なることを確信しました〉と送り<ref>「清水文雄宛ての葉書」(昭和20年8月16日付)。{{Harvnb|38巻|2004|p=604}}</ref>、学習院の後輩にも、〈絶望せず、至純至高志美なるもののために生き生きて下さい。(中略)我々はみことを受け、我々の文学とそれを支へる詩心は個人のものではありません。今こそ清く高く、爽やかに生きて下さい。及ばず乍ら私も生き抜き、戦ひます〉と綴った<ref>「神崎陽宛ての葉書」(昭和20年8月16日付)。{{Harvnb|38巻|2004|p=313}}</ref>
[[ファイル:Mishima Yukio and sister.jpg|thumb|210px|三島19歳。妹・美津子16歳と(1944年9月9日、学習院卒業式の後)]]
三谷信には、〈自分一個のうちにだけでも、最大の美しい秩序を築き上げたいと思ひます。戦後の文学、芸術の復興と、その秩序づけにも及ばず乍ら全力をつくして貢献したい〉と戦後への決意を綴り<ref>「三谷信宛ての書簡」(昭和20年8月22日付)。{{Harvnb|三谷|1999|pp=112-113}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=921-922}}</ref>、9月の自身のノートには「戦後語録」として、〈日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう〉と記した<ref>「戦後語録」(昭和20年9月16日)。{{Harvnb|26巻|2003|pp=560-562}}</ref>。
「エスガイの狩」を採用した『文藝』の野田宇太郎へも、〈文学とは[[北極星]]の如く、秩序と道義をその本質とし前提とする神のみ業であります故に、この神に、わき目もふらずに仕へることにより、我々の戦ひは必ずや勝利を得ることを確信いたします〉と熱い思いを伝えた公威だったが<ref>「野田宇太郎宛ての葉書」(昭和20年9月2日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=921-922}}</ref>、戦時中に遺作となる覚悟で書いた「[[岬にての物語]]」を、野田から「[[芥川賞]]向き、[[文壇]]向きの作風」と見当違いの誤解をされ、「器用」な作だと退けられてしまった<ref name="noda"/><ref name="mura12">「I 青春――恋の破局」({{Harvnb|村松剛|1990|pp=78-97}})</ref>。そのため、公威は一人前の作家としての将来設計に苦慮することになった<ref name="sato12"/><ref name="mura12"/>。
公威が私淑していた[[蓮田善明]]は[[マレー半島]]で[[中尉|陸軍中尉]]として終戦を迎えるが、同年8月19日には駐屯地のマレー半島の[[ジョホールバル]]で天皇を愚弄した連隊長・[[中条豊馬]][[大佐]]を軍用拳銃で射殺し、自らもこめかみに拳銃を当て自決した(没年齢41歳)<ref name="kita"/><ref name="odaka"/>。公威は、この訃報を翌年の夏に知ることになる<ref name="odaka"/>。
1945年(昭和20年)10月23日、妹・[[平岡美津子|美津子]]が[[腸チフス]](菌を含んだ生水を飲んだのが原因)によって17歳で急逝し<ref name="azusa3"/><ref name="shuma">「終末感からの出発――昭和二十年の自画像」(新潮 1955年8月号)p.69。{{Harvnb|28巻|2003|pp=516-518}}</ref>、公威は号泣した<ref name="shuma"/><ref name="yuasa">「三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」({{Harvnb|湯浅|1984|pp=105-128}}、{{Harvnb|彼女|2020|pp=123-124}}</ref>。また、6月の軽井沢訪問後に邦子との結婚を三谷家から打診されて逡巡していた公威は、邦子が銀行員・[[永井邦夫]](父は[[永井松三]])と婚約してしまったことを、同年11月末か12月頃に知った<ref name="mura12"/><ref name="shuma"/>{{refnest|group="注釈"|なお、[[三谷隆信]]の三女・正子は、[[鮎川義介]]の息子・[[鮎川弥一]]に嫁いだため、邦子は[[鮎川純太]]の義理の伯母となった。}}。
翌年1946年(昭和21年)5月5日に邦子と永井は結婚し、公威はこの日自宅で泥酔する<ref name="mura21"/>。恋人を横取りされる形になった公威にとって、〈妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力〉になっていった<ref name="shuma"/>。邦子の結婚後の同年9月16日、公威は邦子と道で遭遇し、この日のことを日記やノートに記した<ref name="kei210916">「会計日記」(昭和21年9月16日付)。{{Harvnb|補巻|2005|p=522}}</ref><ref name="kaidai1-k">田中美代子「解題――仮面の告白」({{Harvnb|1巻|2000|pp=680-681}})</ref>。
{{Quotation|偶然邦子にめぐりあつた。試験がすんだので友達をたづね、留守だつたので、二時にかへるといふので、近くをぶらぶらあてどもなく歩いてゐた時、よびとめられた。彼女は前より若く却つて娘らしくなつてゐた。(中略)その日一日僕の胸はどこかで刺されつゞけてゐるやうだつた。前日まで何故といふことなく僕は、「[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲエテ]]との対話」のなかの、彼が恋人とめぐりあふ夜の町の件を何度もよんでゐたのだつた。それは予感だ。世の中にはまだふしぎがある。そしてこの偶然の出会は今度の小説を書けといふ暗示なのか? 書くなといふ暗示なのか?|平岡公威「ノート(昭和21年)」<ref name="kaidai1-k"/>}}
この邦子とのことは、のちの自伝的小説『[[仮面の告白]]』の中で詳しく描かれることになる<ref name="kaidai1-k"/>。
[[1946年]](昭和21年)1月1日、[[昭和天皇]]が「[[人間宣言]]」の[[詔書]]を発した。また、それに先立つ1945年9月には、[[連合国軍占領下の日本]]における最高司令機関[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の総司令官[[ダグラス・マッカーサー]]と昭和天皇が会見し、その写真が新聞に掲載された。公威はこれについて、親友の三谷信に「なぜ[[衣冠束帯]]の御写真にしないのか」と{{読み仮名|憤懣|ふんまん}}を漏らしたという<ref name="mita2"/>。また、三谷と焼跡だらけの[[ハチ公]]前を歩いている時には、[[天皇制]]を攻撃し始めた[[ジャーナリズム]]への怒りを露わにし、「ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い」と強く断言したという<ref name="mita2"/>。三谷は、そういう時の公威の言葉には「理屈抜きの烈しさがあった」と述懐している<ref name="mita2"/>。
なお、この時期ちょうど、[[斎藤吉郎]]という元[[第一高等学校 (旧制)|一高]]の文芸部委員で公威が17歳の時から親交のあった人物が、同時代の詩人たちの詩集を[[叢書]]の形で出版する計画に関与し、公威の詩も叢書の一巻にしたいという話を持ちかけていた<ref name="mura36">「III 死の栄光――『優雅』をこえて」({{Harvnb|村松剛|1990|pp=373-395}})</ref><ref name="koji3">「ある晴れた日に」(ポリタイア 1973年8月号)。{{Harvnb|小島|1996|pp=41-60}}</ref>。公威はそれに喜んで応じ、その詩集名を『[[豊かの海|豊饒の海]]』とする案を以下のように返信したが<ref name="kichiro">平岡公威「斎藤吉郎宛ての書簡」(昭和21年1月9日付)。{{Harvnb|村松剛|1990|p=373}}、{{Harvnb|小島|1996|pp=57-58}}、{{Harvnb|日録|1996|pp=86-87}}</ref>、この詩集は用紙の入手難などの事情で実現しなかった<ref name="mura36"/><ref name="koji3"/>{{refnest|group="注釈"|三島より2、3歳年長の斎藤吉郎は1942年(昭和17年)に一高を卒業してから東大に入り、友人らと雑誌『故園』を1943年(昭和18年)に発刊した<ref name="mura36"/>。『故園』第1号は、蓮田善明の「神韻のしらべ」が巻頭を飾り、三島の詩「春の狐」も掲載された<ref name="mura36"/>。斎藤の雑誌は終戦後『叙情』として発刊し、三島はその第1号に戦時中に創作した「絃歌――夏の恋人」を寄稿した。この詩には、邦子とのことを題材にしているのが看取される<ref name="mura36"/>。}}。
{{Quotation|この詩集には、荒涼たる月世界の水なき海の名、幻耀の外面と暗黒の実体、生のかゞやかしい幻影と死の本体とを象徴する名『豊饒の海』といふ名を与えよう、とまで考へるやうになりました。詩集『豊饒の海』は三部に分れ、恋歌と、思想詩と、[[譚詩]]とにわかれます。幼時少年時の詩にもいくらか拾ひたいものがありますが、それは貴下に選んでいたゞきませう。これが貴下の御厚意への僕の遠慮のないお答へです。|平岡公威「斎藤吉郎宛ての書簡」(昭和21年1月9日付)<ref name="kichiro"/>}}
=== 川端康成との出会い ===
[[ファイル:Yasunari Kawabata c1932.jpg|thumb|180px|<center>[[川端康成]]</center>]]
GHQ占領下の日本では、[[戦争犯罪|戦犯]]の烙印を押された軍人が処刑されただけでなく([[極東国際軍事裁判]])、要職にいた各界の人間が[[公職追放]]になった。マスコミや出版業界も「[[プレスコード]]」と呼ばれる[[検閲]]が行われ、日本を賛美することは許されなかった。戦時中に三島が属していた[[日本浪曼派]]の[[保田與重郎]]や[[佐藤春夫]]、その周辺の[[中河与一]]や[[林房雄]]らは、戦後に左翼文学者や[[日和見主義|日和見]]作家などから戦争協力の「戦犯文学者」として糾弾された<ref name="nath3">「第三部 三島由紀夫と戦後文学」({{Harvnb|ネイスン|2000|pp=87-127}})</ref><ref>「文学者の戦争責任の問題」({{Harvnb|本多・上|2005|pp=70-88}})</ref><ref name="kimu32">「III『人間』時代――[[鎌倉文庫]] [[白木屋 (デパート)|白木屋]]時代」({{Harvnb|木村|1995|pp=247-267}})</ref>。日本浪曼派の中で〈天才気取りであった少年〉の三島は、〈二十歳で、早くも時代おくれになつてしまつた自分〉を発見して途方に暮れ、戦後は〈誰からも一人前に扱つてもらへない非力な一学生〉にすぎなくなってしまったことを自覚し、焦燥感を覚える<ref name="h-reki"/>。
戦争の混乱で『文藝世紀』の発刊は戦後も中絶したまま、「[[中世 (小説)|中世]]」は途中までしか発表されていなかった<ref name="h-reki"/>。三島は終戦前、[[川端康成]]から「中世」や『[[文藝文化]]』で発表された作品を読んでいるという手紙を受け取っていたが<ref name="ky200308"/>、川端がその作品の賞讃を誰かに洩らしていたという噂も耳にしていた<ref name="h-reki"/>。
それを頼みの綱にし、〈何か私を勇気づける事情〉も持っていた三島は、「中世」と新作短編「[[煙草 (小説)|煙草]]」の原稿を携え、[[東京大学|帝大]]の冬休み中の[[1946年]](昭和21年)1月27日、[[鎌倉市|鎌倉]]二階堂に住む川端のもとを初めて訪れた<ref name="h-reki"/><ref>「川端康成印象記」(レポート用紙 昭和21年1月27日付。封筒表は「はじめて川端康成に会ふの記」)。{{Harvnb|26巻|2003|pp=563-566}}</ref>。慎重深く礼儀を重んじる三島は、その際に[[野田宇太郎]]の紹介状も持参した<ref name="noda"/><ref name="etsu4">「IV 川端康成と三島由紀夫」({{Harvnb|越次|1983|pp=173-199}})</ref>{{refnest|group="注釈"|[[野田宇太郎]]は当時を振り返る随想で、まだ学生の三島が有名な作家になりたいという野心を持って[[川端康成]]を訪問し、そのために自分をずっと利用していたと悪し様に語っているが<ref name="noda"/>、野田の知らないところで、三島と川端との繋がりは学習院在学中の頃からあったという説もある<ref name="etsu4"/>。[[越次倶子]]が三島の母・倭文重に取材したところによると、1943年(昭和18年)、三島の詩や短編を読んだ川端から手紙(宛名は平岡公威)が突然来て、「名もない僕に大作家の川端さんが、お手紙を下さるなんて天にも昇る気持だ」と三島が大喜びし、はしゃいでいたという<ref name="etsu4"/>。それから翌1944年(昭和19年)の『花ざかりの森』出版まで、三島は川端へ2、3度手紙を出し、本ができあがると贈呈した<ref name="etsu4"/>。三島は15歳頃に[[川路柳虹]]に師事していたが、川路が三島の文学的早熟に驚き、教えることがないと周囲に漏らしていたため、親交のあった川端にも三島少年の詩篇を見せた可能性もあり、それ以降、各所で発表される三島の作品に川端が注目していたと越次は推察し、それが三島の言う〈何か私を勇気づける事情〉のことだとしている<ref name="etsu4"/>。}}。
三島は川端について、〈戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。「私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の[[笛]]のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた〉と語り<ref>「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」(別冊文藝春秋 1956年4月・51号)pp.13-19。{{Harvnb|29巻|2003|pp=204-217}}</ref>、川端の『[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]』などに顕著な、単に[[抒情]]的・感覚的なだけではない〈[[霊]]と[[肉体|肉]]との一致〉、〈真昼の[[神秘]]の世界〉にも深い共感性を抱いていた<ref name="sato12"/><ref>「川端康成宛ての書簡」(昭和21年4月15日付)。{{Harvnb|川端書簡|2000|pp=31-34}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=247-249}}</ref><ref>「川端氏の『[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]』について」(民生新聞 1946年4月29日号)。{{Harvnb|26巻|2003|pp=572-576}}</ref>。そういった心霊的なものへの感性は、三島の「花ざかりの森」や「中世」にも見られ、川端の作品世界と相通ずるものであった<ref name="sato12"/>。
同年2月、三島は七丈書院を合併した[[筑摩書房]]の雑誌『[[展望 (雑誌)|展望]]』編集長の[[臼井吉見]]を訪ね、8作の原稿(花ざかりの森、中世、サーカス、岬にての物語、彩絵硝子、煙草、など)を持ち込んだ<ref name="h-reki"/><ref name="usui">[[臼井吉見]]・[[中村光夫]]「対談・三島由紀夫」(文學界 1952年11月号)。{{Harvnb|佐藤|2006|pp=57-58}}</ref><ref name="honda2">「戦後派ならぬ戦後派三島由紀夫」({{Harvnb|本多・中|2005|pp=97-141}})</ref>。臼井は、あまり好みの作風でなく肌に合わないが「とにかく一種の天才だ」と「中世」を採用しようとするが、顧問の[[中村光夫]]は「とんでもない、マイナス150点(120点とも)だ」と却下し、没となった<ref name="usui"/><ref name="honda2"/>。落胆した三島は、〈これは自分も、地道に勉強して[[役人]]になる他ない〉と思わざるをえなかった<ref name="h-reki"/>。
一方、「煙草」を読んだ川端は2月15日、自身が幹部を務める[[鎌倉文庫]]発行の雑誌『[[人間 (雑誌)|人間]]』の編集長・[[木村徳三]]に原稿を見せ、掲載決定がなされた<ref name="kimu1-mi">「作家白描――三島由紀夫」({{Harvnb|木村|1995|pp=143-168}})</ref>。「煙草」は6月号に発表され、これが三島の戦後文壇への足がかりとなり、それ以後の川端と生涯にわたる師弟関係のような強い繋がりの基礎が形づくられた<ref name="hase">[[長谷川泉]]「川端康成」({{Harvnb|旧事典|1976|pp=101-102}})</ref>。
しかしながら、その関係は小説作法(構成など)の指導や批判を仰いで師事するような門下生的なものではなかったため、三島は川端を「先生」とは呼ばず、「自分を世の中に出して下さった唯一の大恩人」「一生忘れられない方」という彼への強い思いから、一人の尊敬する近しい人として、あえて「川端さん」と呼び、献本する際も必ず「様」と書いた<ref name="botsu4">「川端さんのこと」({{Harvnb|梓・続|1974|pp=115-127}})</ref>。川端は、三島が取りかかっていた初めての長編([[盗賊 (小説)|盗賊]])の各章や「中世」も親身になって推敲指導し、大学生でもある彼を助けた<ref name="K210512">「川端康成宛ての書簡」(昭和21年5月12日付)。{{Harvnb|川端書簡|2000|pp=36-37}}、{{Harvnb|38巻|2004|p=250}}</ref><ref>「川端康成宛ての書簡」(昭和21年6月15日付)。{{Harvnb|川端書簡|2000|pp=41-43}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=253-254}}</ref><ref>「第二回 果てしない試行錯誤」({{Harvnb|松本徹|2010|pp=21-35}})</ref>。
臼井や中村が、ほとんど無名の学生作家・三島の作品を拒絶した中、新しい才能の発掘に長け、異質な新人に寛容だった川端が三島を後援したことにより、「新人発見の名人」という川端の称号は、その後さらに強められることになる<ref name="etsu4"/><ref name="honda2"/>。職業柄、多くの新人作家と接してきた木村徳三も、会った最初の数分で、「圧倒されるほどの資質を感知」したのは、[[加藤周一]]と三島の2人しかいないとし<ref name="kimu1-mi"/>、三島は助言すればするほど、驚嘆する「才能の輝きを誇示」して伸びていったという<ref name="kimu32"/>。
しかし当時、借家であった三島の家(平岡家)は追い立てを受け、経済状況が困窮していた<ref name="K210810">「川端康成宛ての書簡」(昭和21年8月10日付)。{{Harvnb|川端書簡|2000|pp=46-48}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=255-257}}</ref>。父・[[平岡梓|梓]]が戦前の1942年(昭和17年)から天下っていた日本瓦斯用木炭株式会社(10月から日本薪炭株式会社)は終戦で機能停止となっていた<ref name="inose3">「第三章 意志的情熱」({{Harvnb|猪瀬|1999|pp=217-320}})</ref>。三島は将来作家として身を立てていく思いの傍らで、貧しさが文学に影響しないよう(商業的な執筆に陥らぬため)、生活維持のために大学での[[法学]]の勉強にも勤しんでいた<ref name="h-reki"/><ref name="K210810"/>。梓も終戦の日に一時、息子が作家になることに理解を示していたが、やはり安定した[[大蔵省]]の役人になることを望んでいた<ref name="azusa3"/>。
ある日、木村徳三は三島と[[東京大学総合図書館|帝大図書館]]前で待ち合わせ、芝生で1時間ほど雑談した際、講義に戻る三島を好奇心から跡をつけて教室を覗いた<ref name="kimu1-mi"/>。その様子を、木村は「三島君が入った二十六番教室をのぞいてみると、真面目な優等生がするようにあらかじめ席をとっておいたらしい。教壇の正面二列目あたりに着席する後姿が目に入った。怠け学生だった私などの考えも及ばぬことであった」と述懐している<ref name="kimu1-mi"/>{{refnest|group="注釈"|当時は物資不足で大学の学生服の新調はできず、三島は終戦までは、召集されていく先輩の制服を借り、戦後は自分の学習院時代の制服を改造した(仕立て直した)窮屈なものを学生服として着て、講義を受けていた<ref name="bunzai"/>。}}。
同年夏、[[蓮田善明]]が終戦時に自決していたことを初めて知らされた三島は、11月17日に清水文雄、中河与一、[[栗山理一]]、[[池田勉]]、[[桜井忠温]]、[[阿部六郎]]、[[今田哲夫]]と共に[[成城大学]]素心寮で「蓮田善明を偲ぶ会」を開き<ref>清水文雄「三島由紀夫のこと」(文學界 1971年2月号)。{{Harvnb|群像18 |1990|pp=75-77}}</ref><ref>「会計日記」(昭和21年11月17日付)。{{Harvnb|補巻|2005|p=531}}</ref>、〈'''古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす'''〉という詩を、亡き蓮田に献じた<ref>「故蓮田善明への献詩」(おもかげ 1946年11月17日)。{{Harvnb|浪曼|1975}}冒頭に現物写真、{{Harvnb|37巻|2004|p=762}}、{{Harvnb|福島鋳|2005|p=152}}、{{Harvnb|島内|2010|p=262}}</ref>。
戦後に彼らと距離を置いた[[伊東静雄]]は欠席し<ref>伊東静雄「清水文雄宛ての書簡」(昭和21年11月14日付)。{{Harvnb|松本健一|1990|pp=156-157}}</ref><ref>「十三 戦後から死まで」({{Harvnb|小高根|1971|pp=313-356}})</ref>、[[林富士馬]]も、蓮田の死を「腹立たしい」と批判し、佐藤春夫は蓮田を庇った<ref name="odaka"/><ref>[[佐藤春夫]]「林富士馬宛ての書簡」。(光耀 1946年10月・第2輯)。{{Harvnb|文學大系|1970|p=463}}</ref>。三島は偲ぶ会の翌日、清水宛てに、〈黄菊のかをる集りで、蓮田さんの霊も共に席をならべていらつしやるやうに感じられ、昔文藝文化同人の集ひを神集ひにたとへた頃のことを懐かしく思ひ返しました。かういふ集りを幾度かかさねながら、文藝文化再興の機を待ちたいと存じますが如何?〉と送った<ref>「清水文雄宛ての葉書」(昭和21年11月18日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=607-608}}</ref>。
敗戦前後に渡って書き綴られた「[[岬にての物語]]」は、川端のアドバイスによって[[講談社]]の『[[群像]]』へ持ち込み、11月号に無事発表された<ref>「川端康成宛ての書簡」(昭和21年7月6日付)。{{Harvnb|川端書簡|2000|pp=44-45}}、{{Harvnb|38巻|2004|p=255}}</ref>。この売り込みの時、三島は和服姿で[[袴]]を穿いていたという<ref>「初対面」({{Harvnb|川島|1996|pp=11-40}})</ref>。『人間』の12月号には、川端から『将軍[[足利義尚|義尚]]公薨逝記』を借りて推敲した「中世」が全編掲載された<ref name="moku"/><ref name="K210512"/>。
当時の三島は両親と同居はしていたものの、生活費の援助は受けずに自身の原稿料で生活を賄い、弟・[[平岡千之|千之]]にも小遣いを与えていたことが、2005年(平成17年)に発見された「会計日記」(昭和21年5月から昭和22年11月まで記載)で明らかになった<ref name="sato12"/><ref name="kaikei">「会計日記」(昭和21年5月-昭和22年11月)。{{Harvnb|補巻|2005|pp=508-630}}</ref>。この金銭の支出記録は、作家として自立できるかを模索するためのものだったと見られている<ref name="sato12"/>。
川端と出会ったことで三島のプロ作家としての第一歩が築かれたが、まだ三島がこの世に生まれる前から2人には運命的な不思議な縁があった<ref name="etsu4"/>。三島の父・梓が東京帝大法学部の学生の時、正門前で同級生の[[三輪寿壮]]が、見知らぬ「貧弱な[[第一高等学校 (旧制)|一高]]生」と歩いているところに出くわしたが、それが川端だった<ref name="botsu4"/>。その数日後、梓は三輪から、川端康成という男は「ぼくらの持っていないすばらしい感覚とか神経の持主」だから、君も付き合ってみないかと誘われたが、文学に疎かった梓は、「畑ちがいの人間とはつきあう資格はないよ」と笑って紹介を断わったという<ref name="botsu4"/>{{refnest|group="注釈"|なお、三島の母・倭文重も、娘時代に兄と2人でよく[[銀座]](まだ[[関東大震災]]前の)の喫茶店に通っていた頃、[[芥川龍之介]]や[[南部修太郎]]と一緒にいる目のぎょろぎょろした川端や、無精髭の[[横光利一]]を見かけていたという<ref name="botsu7"/>。}}。
=== 学生作家時代と太宰治との対面 ===
「煙草」や「中世」が掲載されたもののそれらに対する評価は無く、法学の勉強も続けていたところで作品が雑誌掲載されたことから何人かの新たな文学的交友も得られた三島は、その中の[[矢代静一]]([[早稲田大学高等学院・中学部|早稲田高等学院]]在学中)らに誘われ、当時の青年から熱狂的支持を得ていた[[太宰治]]と彼の理解者の[[亀井勝一郎]]を囲む集いに参加することにした<ref name="h-reki"/><ref name="yashi3">「三島と太宰」({{Harvnb|臨時|1971}})。「第三章 その出会い」({{Harvnb|矢代|1985|pp=36-50}})</ref>。三島は太宰の〈稀有の才能〉は認めていたが、その〈自己[[劇画]]化〉の文学が嫌いで、〈愛憎の法則〉によってか〈生理的反発〉も感じていた<ref name="h-reki"/>。
[[ファイル:Osamu Dazai1946.jpg|thumb|200px|[[太宰治]](1946年、[[銀座]]のBAR「ルパン」にて)]]
1946年(昭和21年)12月14日、三島は紺[[絣]]の着物に袴を身につけ、[[中野駅 (東京都)|中野駅]]前で矢代らと午後4時に待ち合わせし、〈懐ろに[[匕首]]を呑んで出かける[[テロリスト]]的心境〉で<ref name="h-reki"/>、酒宴が開かれる[[練馬区]][[豊玉中]]2-19の清水家の別宅にバスで赴いた<ref>「会計日記」(昭和21年12月14日付)。{{Harvnb|補巻|2005|p=538}}</ref><ref name="etsu3">「III 三島由紀夫と太宰治の接点」({{Harvnb|越次|1983|pp=141-172}})</ref><ref name="nohara">「練馬の一夜」({{Harvnb|野原|1980|pp=47-54}})。{{Harvnb|日録|1996|pp=93-95}}</ref>。
三島以外の出席者は皆、矢代と同じ[[東京都立小石川中等教育学校|府立第五中学校]]出身で、[[中村稔 (詩人)|中村稔]]([[第一高等学校 (旧制)|一高]]在学)、原田柳喜([[慶應義塾大学|慶応]]在学)、相沢諒([[駒澤大学|駒沢]]予科在学)、井坂隆一(早稲田高在学)、[[新潮社]]勤務の[[野原一夫]]、その家に下宿している出英利(早稲田高在学、[[出隆]]の次男)と高原紀一([[一橋大学大学院経営管理研究科・商学部|一橋商学部]])、家主の清水一男(五中在学の15歳)といった面々であった<ref name="etsu3"/><ref name="nohara"/><ref name="minoru">「三島由紀夫氏の思い出」({{Harvnb|ユリイカ|1976|pp=202-205}})。「第八章」({{Harvnb|中村稔|2008|pp=170-200}})</ref>{{refnest|group="注釈"|彼らは、[[東京都立小石川中等教育学校|第五中学校]]の校内誌『開拓』に投稿していた文学仲間であった<ref name="minoru"/>。}}。
三島は太宰の正面の席に導かれ、彼が時々思い出したように上機嫌で語る[[アフォリズム]]めいた文学談に真剣に耳を傾けていた<ref name="yashi3"/>。そして三島は[[森鷗外]]についての意見を求めるが、太宰は、「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ。第一、全集に載っけている写真を見てみろよ。軍服姿の写真を堂々と撮させていらあ、何だい、ありゃ……」と太宰流の{{ruby|韜晦|とうかい}}を込めて言った<ref name="nohara"/><ref name="nori">高原紀一「三島由紀夫の知られざる秘密――太宰治との一夜」(問題小説 1971年2月号)。{{Harvnb|越次|1983|p=163}}</ref>。
[[下戸]]の三島は「どこが悪いのか」と改まった表情で真面目に反論して鴎外論を展開するが、酔っぱらっていた太宰はまともに取り合わず、両者の会話は噛み合わなかった<ref name="yashi3"/><ref name="nori"/>。その酒宴に漂う〈絶望讃美〉の〈甘ったれた〉空気、太宰を[[司祭]]として〈自分たちが時代病を代表してゐるといふ自負に充ちた〉馴れ合いの雰囲気を感じていた三島は、この席で明言しようと決めていた〈僕は太宰さんの文学はきらいなんです〉という言葉をその時に発した<ref name="h-reki"/><ref name="nohara"/>。
これに対して太宰は虚を衝かれたような表情をし、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と顔をそむけた後<ref name="nohara"/>、誰に言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と言った<ref name="h-reki"/>。気まずくなった三島はその場を離れ、それが太宰との一度きりの対決となった<ref name="h-reki"/><ref name="etsu3"/>{{refnest|group="注釈"|[[中村稔 (詩人)|中村稔]]によれば、三島はその会がお開きになるまで居て、帰りは三島と[[渋谷駅]]まで一緒に帰ったと回想している<ref name="minoru"/>。}}。その後、太宰は「[[斜陽]]」を『新潮』に連載するが、これを読んだ三島は川端に以下のような感想を綴っている<ref name="K221008">「川端康成宛ての書簡」(昭和22年10月8日付)。{{Harvnb|川端書簡|2000|pp=54-57}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=261-264}}</ref>。
{{Quotation|太宰治氏「斜陽」第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります。完成の一歩手前で崩れてしまひさうな太宰氏一流の妙な不安がまだこびりついてゐます。太宰氏の文学はけつして完璧にならないものなのでございませう。しかし抒事詩は絶対に完璧であらねばなりません。|三島由紀夫「川端康成宛ての書簡」(昭和22年10月8日付)<ref name="K221008"/>}}
[[1947年]](昭和22年)4月、[[記紀]]の[[衣通姫伝説]]を題材にした「[[軽王子と衣通姫]]」が『群像』に発表された。三島は、前年1946年(昭和21年)9月16日に偶然に再会した人妻の永井邦子(旧姓・三谷)から、その2か月後の11月6日に来電をもらって以来何度か彼女と会うようになり、友人らとも[[ダンスホール]]に通っていたが<ref name="kamen"/><ref name="kaikei"/>、心の中には〈生活の荒涼たる空白感〉や〈時代の痛み〉を抱えていた<ref name="shuma"/><ref>「跋」(『[[岬にての物語]]』 桜井書店、1947年11月)。{{Harvnb|26巻|2003|pp=628-630}}</ref>。
同年6月27日、三島は[[新橋 (東京都港区)|新橋]]の焼けたビルにあった新聞社の[[新夕刊]]で[[林房雄]]を初めて見かけた<ref>「会計日記」(昭和22年6月27日付)。{{Harvnb|補巻|2005|p=589}}</ref><ref name="f-ron">「林房雄論」(新潮 1963年2月号)。『林房雄論』(新潮社、1963年8月)。{{Harvnb|32巻|2003|pp=337-402}}</ref>。同年7月、就職活動をしていた三島は[[住友グループ|住友]](銀行か)と[[日本勧業銀行]]の入行試験を受験するが、住友は不採用となり<ref name="sato12"/><ref>「会計日記」(昭和22年7月3日)。{{Harvnb|補巻|2005|p=590}}</ref>{{refnest|group="注釈"|三島の日記では「[[住友グループ|住友]]」とだけになっているが、佐藤秀明は[[住友銀行]]と推測している<ref name="sato12"/>。}}、勧銀の方は論文や英語などの筆記試験には合格したものの、面接で不採用となった<ref>「会計日記」(昭和22年7月11日付)。{{Harvnb|補巻|2005|p=591}}</ref><ref>「会計日記」(昭和22年7月15日付)。{{Harvnb|補巻|2005|pp=591-592}}</ref><ref>「会計日記」(昭和22年7月17日付)。{{Harvnb|補巻|2005|p=592}}</ref><ref name="K220717">「川端康成宛ての書簡」(昭和22年7月17日付)。{{Harvnb|川端書簡|2000|pp=50-53}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=258-261}}</ref>。やはり、役人になることを考えた三島は、同月から[[高等文官試験]]を受け始めた<ref name="K220717"/><ref name="s-nen3">「第三章」({{Harvnb|年表|1990|pp=53-82}})</ref>。
8月、『[[人間 (雑誌)|人間]]』に発表した「夜の仕度」は、[[軽井沢]]を舞台にして戦時中の邦子との体験を元に[[堀辰雄]]の『[[聖家族 (小説)|聖家族]]』流に[[フランス]][[心理主義|心理]]小説に仮託した手法をとったものであった<ref>「あとがき」(『三島由紀夫短篇全集2 夜の仕度』講談社、1965年2月)。{{Harvnb|33巻|2003|pp=406-407}}</ref><ref name="mura13">「I 青春――失われたものへの復讐」({{Harvnb|村松剛|1990|pp=98-119}})</ref>。林は、これを[[中村真一郎]]の「妖婆」と共に『新夕刊』の日評で取り上げ、「夜の仕度」を「今の日本文壇が喪失してゐる貴重なもの」と高評し、これを無視しようとする「文壇の俗常識を憎む」とまで書いた<ref>[[林房雄]]「文芸日評」(新夕刊 1947年2月-10月)。林房雄『我が毒舌』(銀座出版社、1947年12月)。{{Harvnb|事典|2000|pp=394}}</ref>。
これに感激した三島は、林にお礼を言いに9月13日の新夕刊の「13日会」に行った<ref name="f-ron"/><ref>「会計日記」(昭和22年9月13日付)。{{Harvnb|補巻|2005|pp=606-607}}</ref>。林は酔って帰りに3階の窓から放尿するなど豪放であったが、まだ学生の三島を一人前の作家として認めて話し相手になったため、好感を抱いた彼は親交を持つようになった<ref name="f-ron"/>。当時の三島は、堀の弟子であった中村真一郎の所属する[[マチネ・ポエティク|マチネ・ポエティック]]の作家たち([[加藤周一]]、[[福永武彦]]、[[窪田啓作]])と座談会をするなど親近感を持っていたが、次第に彼らの思想的な〈あからさまなフランス臭〉や、日本古来の〈危険な美〉である[[心中]]を認めない説教的[[ヒューマニズム]]に、〈フランスはフランス、日本は日本じゃないか〉と反感を覚え、同人にはならなかった<ref name="h-reki"/>。
「夜の仕度」は当時の文壇から酷評され、「うまい」が「彼が書いている小説は、彼自身の生きることと何の関係もない」という[[高見順]]や[[中島健蔵]]の無理解な合評が『群像』の11月号でなされた<ref>[[高見順]]・[[中島健蔵]]・[[豊島与志雄]]「創作合評」(群像 1947年11月号)。{{Harvnb|読本|1983|p=288}}</ref><ref>[[小久保実]]「主要参考文献の展望」({{Harvnb|読本|1983|pp=288-295}})</ref>。これに憤慨し、わかりやすい[[写実主義|リアリズム]]風な小説ばかり尊ぶ彼らに前から嫌気がさしていた三島は<ref name="F221104">「林房雄宛ての書簡」(昭和22年11月4日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=773-776}}、{{Harvnb|太陽|2010|pp=42-43}}</ref>、執筆中であった「盗賊」の創作ノートに〈この低俗な日本の文壇が、いさゝかの抵抗も感ぜずに、みとめ且つとりあげる作品の価値など知れてゐるのだ〉と書き撲った<ref name="to-note"/>。
大学卒業間近の11月20日、三島の念願であった短編集『[[岬にての物語]]』が桜井書店から刊行された。「岬にての物語」「中世」「軽王子と衣通姫」を収めたこの本を[[伊東静雄]]にも献呈した三島は、伊東からの激励の返礼葉書に感激し<ref name="odakaito"/><ref name="I230323"/>、〈このお葉書が私の幸運のしるしのやうに思へ、心あたゝかな毎日を送ることができます〉と喜びを伝え、以下のような文壇への不満を書き送っている<ref name="I230323"/>。
{{Quotation|東京のあわたゞしい生活の中で、高い精神を見失ふまいと努めることは、プールの飛込台の上で星を眺めてゐるやうなものです。といふと妙なたとへですが、星に気をとられてゐては、美しいフォームでとびこむことができず、足もとは乱れ、そして星なぞに目もくれない人々におくれをとることになるのです。夕刻のプールの周辺に集まつた観客たちは、選手の目に映る星の光など見てくれません。(中略)<br />
「私が第一行を起すのは絶体絶命のあきらめの果てである。つまり、よいものが書きたいとの思ひを、あきらめて棄ててかかるのである」 [[川端康成]]氏にかつてこのやうな烈しい告白を云はせたものが何であるかだんだんわかつてまゐりました。(中略)<br />
東京では印象批評が滅び去りました。たとへば[[中里恒子]]や[[北畠八穂]]のやうな美しい女流作家が不遇です。川端康成氏が評壇から完全に黙殺され、[[日夏耿之介]]氏はますます「枯坐」して化石してしまひさうです。[[横光利一]]氏の死に対してあらゆる非礼と冒瀆がつづけられてゐます。私の愛するものがそろひもそろつてこのやうに踏み躙られてゐる場所でどうしてのびのびと呼吸をすることなどできませう。|三島由紀夫「[[伊東静雄]]宛ての書簡」(昭和23年3月23日付)<ref name="I230323"/>}}
=== 文壇への挑戦――仮面の告白===
[[1947年]](昭和22年)11月28日、三島は[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]]法律学科を卒業した(同年9月に東京帝国大学から名称変更)。卒業前から受けていた様々な種類の試験をクリアし、12月13日に[[高等文官試験]]に合格した三島は(成績は合格者167人中138位)<ref>「年譜」(昭和22年12月13日)({{Harvnb|42巻|2005|p=158}})</ref>、12月24日から[[大蔵省]]に初登庁し、大蔵[[事務官]]に任官されて[[銀行局]]国民[[預金|貯蓄]]課に勤務することになった<ref name="s-nen3"/>。
当時の大蔵省は[[霞が関]]の庁舎がGHQに接収されていたため、焼け残った[[新宿区立四谷小学校|四谷第三小学校]]を仮庁舎としていた<ref name="wada">[[和田謙三]]「平岡公威さんとの忘れ難き出会い」({{Harvnb|18巻|2002}}月報)</ref>。[[銀行局#銀行局長|銀行局長]]は[[愛知揆一]]、[[主計局#主計局長|主計局長]]は[[福田赳夫]]で<ref name="make">[[福田赳夫]]との対談「負けるが勝ち」(自由 1968年7月号)pp.116-127。{{Harvnb|サムライ|1996|pp=171-204}}</ref>、基本給(月給)は1,350円であった<ref name="wada"/>。大蔵省同期入省者(22年後期組)は、三島のほかに[[長岡實]]、[[田中啓二郎]]、[[秋吉良雄]]、[[亘理彰]]、[[後藤達太]]、[[岩瀬義郎]]など全26名だった<ref name="naga">[[長岡實]]「大蔵事務官平岡公威君」({{Harvnb|臨時|1971}})。{{Harvnb|年表|1990|pp=63}}、{{Harvnb|42巻|2005|pp=158-159}}</ref>。三島は、「こんなのっぺりした野郎でござんすが何分よろしく」と挨拶したという<ref name="wada"/>。
東大法学部を卒業した直後の12月、三島は[[吉田満]]に直接会ってGHQに検閲削除されていた門外不出の「[[戦艦大和ノ最期]]」の初稿(手書きの草稿)を読ませてもらい、その内容に驚愕・感動したことから<ref name="ha23221">「林房雄宛ての書簡」(昭和23年2月21日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=783-786}}</ref><ref name="yoshi2">吉田満「ニューヨークの三島由紀夫」(俳句とエッセイ 1976年11月号)、{{Harvnb|下巻|1986|pp=330-338}}、{{Harvnb|戦中派|1980|pp=251-258}}</ref>、大蔵省時代も吉田と親しくしていた<ref name="yoshi2"/>。この頃吉田が三島に、今後どんな作品を書くつもりか訊ねると、「美というもの。日本の美。日本的な美」を書きたいと語っていたという<ref name="yoshi2"/><ref name="sho2-129">「第二章 美神の宇宙」内({{Harvnb|生涯|1998|p=129}})</ref>。
同じ12月には、「自殺企図者」(長編『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』第2章)、短編「春子」や「ラウドスピーカー」が各誌に掲載された<ref name="moku"/>。大蔵省に入省してすぐの頃、文章力を期待された三島は、国民貯蓄振興大会での[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]([[栗栖赳夫]])の演説原稿を書く仕事を任された<ref name="ookura">「蔵相就任の想ひ出――ボクは大蔵大臣」(明窓 1953年4月・5月)。{{Harvnb|28巻|2003|pp=73-76}}</ref>。三島はその冒頭文に、〈…[[淡谷のり子]]さんや[[笠置シズ子]]さんのたのしい[[アトラクション]]の前に、私如きハゲ頭のオヤジがまかり出まして、御挨拶を申上げるのは野暮の骨頂でありますが…〉と書き、課長に怒られて赤鉛筆でバッサリと削られた<ref name="naga"/><ref name="ookura"/>。将来に有名作家となる三島の原稿を削除したという一件は、後々まで大蔵省内で語り継がれるエピソードとなる<ref name="wada"/><ref name="naga"/>。
翌[[1948年]](昭和23年)も、三島は『進路』1月号の「[[サーカス (小説)|サーカス]]」を皮切りに多くの短編を発表し、〈役所と仕事と両方で綱渡りみたいな〉生活をしていたが<ref>「[[清水基吉]]宛ての書簡」(昭和23年3月23日付)。{{Harvnb|38巻|2004|p=643}}</ref>、この頃の〈やけのやんぱちの[[ニヒリズム|ニヒリスティック]]な[[耽美主義]]〉の根拠を自ら分析する必要を感じていた<ref name="h-reki"/>。
{{Quotation|そのころ私の文学青年の友人たちには、一せいに[[死]]と[[病気]]が襲ひかかつてゐた。自殺者、発狂者は数人に及び、病死者も相次ぎ、急速な貧困に落ちて行つたものも二三にとどまらず、私の短かい文学的青春は、おそろしいほどのスピードで色褪せつつあつた。又それは、[[極東国際軍事裁判|戦争裁判]]の判決がはじまりつつある時代であつた。(中略)せつせと短篇小説を書き散らしながら、私は本当のところ、生きてゐても仕様がない気がしてゐた。ひどい無力感が私をとらえてゐた。(中略)私は自分の若さには一体意味があるのか、いや、一体自分は本当に若いのか。といふやうな疑問にさいなまれた。|三島由紀夫「[[私の遍歴時代]]」<ref name="h-reki"/>}}
役人になったものの相変わらず文筆業を続ける息子の将来に不安を抱いた父・梓は、[[鎌倉文庫]]の[[木村徳三]]を訪ね、「あなた方は、公威が若くて、ちょっと文章がうまいものだから、[[舞妓|雛妓]]、[[半玉]]を可愛がるような調子でごらんになっているのじゃありませんか。あれで[[椎名麟三]]さんのようになれるものですかね」と、息子が[[朝日新聞]]に小説を連載するような一人前の作家になれるのかを聞きに来た<ref name="kimu1-mi"/>。木村は、「花形作家」になれるかは運、不運によるが「一本立ちの作家」になれる力量はあると答えたが、梓は終始浮かない様子だったという<ref name="kimu1-mi"/>。
[[ファイル:Mishima Yukio 1948.JPG|left|thumb|200px|猫好きの三島([[アサヒグラフ]] 1948年5月12日号)]]
同年6月、雑誌『[[近代文学 (雑誌)|近代文学]]』の第2次同人拡大の呼びかけに応じ、三島も同人となった<ref name="saigo"/><ref name="s-nen3"/>。その際、三島は[[天皇制]]を認めるなら加入してもよいという条件で参加した<ref name="saigo"/>。この第2次参加の顔ぶれには、[[椎名麟三]]、[[梅崎春生]]、[[武田泰淳]]、[[安部公房]]らがいた<ref name="s-nen3"/>。6月19日には、[[玉川上水]]で13日に入水自殺した[[太宰治]]の遺体が発見された<ref>「口もとにうかぶ微笑」({{Harvnb|野原|1980|pp=176-196}})</ref>。太宰の遺作『[[人間失格]]』は大きな反響を呼んだ<ref name="inose3"/>。
同年7月か8月、三島は役所勤めと執筆活動の二重生活による過労と睡眠不足で、雨の朝の出勤途中、長靴が滑って[[渋谷駅]]ホームから線路に転落した<ref name="azusa3"/>。電車が来ないうちに這い上がれたが、危なかった<ref name="azusa3"/>。この事故をきっかけに息子が職業作家になることを許した梓は、「役所をやめてよい。さあ作家一本槍で行け、その代り日本一の作家になるのが絶対条件だぞ」と言い渡した<ref name="azusa3"/>。
同年8月下旬、[[河出書房新社|河出書房]]の編集者・[[坂本一亀]]([[坂本龍一]]の父)と[[志邨孝夫]]が、[[書き下ろし]]長編小説の執筆依頼のために大蔵省に勤務中の三島を訪ねた<ref name="sakam">[[坂本一亀]]「『仮面の告白』のこと」(現代の眼 1965年4月号。文藝 1971年2月号に再掲載)。{{Harvnb|新読本|1990|pp=42-46}}</ref>。三島は快諾し、「この長篇に作家的生命を賭ける」と宣言した<ref name="sakam"/>。そして同年9月2日、三島は創作に専念するため大蔵省に辞表を提出し、9月22日に「依願免本官」という辞令を受けて退職した<ref name="h-reki"/>{{refnest|group="注釈"|大蔵省時代のことを題材にした作品には、『大臣』『訃音』『[[鍵のかかる部屋]]』『日曜日』などがある<ref name="wada"/><ref name="make"/><ref>[[遠藤伸治]]「大蔵省」({{Harvnb|事典|2000|pp=470-471}})</ref><ref>[[清田文武]]「日曜日【成立】」({{Harvnb|事典|2000|pp=269-270}})</ref>。}}。
同年10月6日、[[芦田内閣]]総辞職の[[号外]]の鈴が鳴り響く晩、[[神田 (千代田区)|神田]]の喫茶兼酒場「ランボオ」の2階で、[[埴谷雄高]]、武田泰淳、[[野間宏]]、[[中村真一郎]]、梅崎春生、椎名麟三の出席する座談会(12月の同人誌『序曲』創刊号)に三島も加わった<ref name="h-reki"/><ref name="haniya">[[埴谷雄高]]「三島由紀夫」(新潮 1956年12月号)。『鞭と独楽』(未来社、1957年。新装版1961年8月)、{{Harvnb|エスプリ|1971|pp=198-202}}、{{Harvnb|読本|1983|pp=10-13}}、{{Harvnb|群像18 |1990|pp=69-74}}</ref>{{refnest|group="注釈"|『序曲』は、[[河出書房]]の[[杉森久英]]が企画し、[[埴谷雄高]]、[[武田泰淳]]、[[野間宏]]、[[中村真一郎]]、[[梅崎春生]]、[[椎名麟三]]、佐沼兵助([[寺田透]])、[[船山馨]]、[[島尾敏雄]]、三島の10名が編集同人となった同人雑誌だが、創刊号の1号で終刊した<ref>越次俱子「序曲」({{Harvnb|旧事典|1976|p=204}})</ref>。三島は創刊号に短編「獅子」を掲載した<ref name="moku"/>。}}。その座談会の時、三島と初対面だった埴谷は、真正面に座った三島の「魅力的」な第一印象を、「数語交わしている裡に、その思考の廻転速度が速いと解るような極めて生彩ある話ぶり」だったと述懐している<ref name="haniya"/>。
{{Quotation|もし通常の規準を[[マッハ数]]一とすれば、三島由紀夫の廻転速度は一・八ぐらいの指数をもっていると測定せねばならぬほどであった。私は彼と向いあわせているので、ただに会話の音調を聞いているばかりでなく、会話に附随するさまざまな動作のかたちを正面から眺める位置にあったが、間髪をいれず左右を振りむいてする素早い応答の壺にはまった適切さを眺めていると、いりみだれて閃く会話の火花のなかで酷しく訓練されたもの、例えば、宴会にあるひとりのヴィヴィッドな[[芸者]]の快感といった構図がそこから聯想されるのであった。(中略)三島由紀夫に向って最も多く応答しているのは、偶然左隣りに腰かけている[[野間宏]]ということになるのであったが、困ったことに、野間宏の思考の廻転速度はマッハ数〇・四ぐらいなのであった。|[[埴谷雄高]]「三島由紀夫」<ref name="haniya"/>}}
河出書房から依頼された長編のタイトルを〈'''仮面の告白'''〉と定めた三島は、〈生まれてはじめての[[私小説]]〉(ただし、文壇的私小説でない)に挑み<ref name="S231102">「坂本一亀への書簡」(昭和23年11月2日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=507-508}}</ref>、〈今まで仮想の人物に対して鋭いだ心理分析の刃を自分に向けて、自分で自分の生体解剖をしよう〉という試みで11月25日に起筆した<ref name="S231102"/>。同月20日には、書き上げまで2年以上を費やした初の長編『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』が真光社から刊行され、12月1日には短編集『夜の仕度』が鎌倉文庫から刊行された<ref name="moku"/><ref name="chosho">「著書目録――目次」({{Harvnb|42巻|2005|pp=540-561}})</ref>
[[1949年]](昭和24年)2月24日、作家となってから初上演作の戯曲『火宅』が[[俳優座]]により初演され、従来のリアリズム演劇とは違う新しい劇として、[[神西清]]や[[岸田国士]]などの評論家から高い評価を受けた<ref>[[天野知幸]]「火宅【研究】」({{Harvnb|事典|2000|pp=66}})</ref><ref>「[[岸田国士]]先生」([[東京タイムズ]] 1954年3月6日号)。{{Harvnb|28巻|2003|pp=252-253}}</ref>。4月24日には、「[[仮面の告白]]」の後半原稿を喫茶店「ランボオ」で坂本一亀に渡した<ref name="h-reki"/>{{refnest|group="注釈"|その後、この原稿を一旦取り戻して書き直し、4月27日に擱筆した<ref>「年譜」(昭和24年4月24日)({{Harvnb|42巻|2005|p=164}})</ref>。}}。紫色の古風な[[袱紗]]から原稿を取り出して坂本に手渡す三島を店の片隅で目撃していた[[武田泰淳]]は、その時の三島の顔を「精神集中の連続のあとの放心と満足」に輝いていたと述懐している<ref name="takeda">[[武田泰淳]]「三島由紀夫氏の死ののちに」([[中央公論]] 1971年1月号)。[[川西政明]]編『評論集 滅亡について 他三十篇』(岩波文庫、1992年6月)、{{Harvnb|読本|1983|pp=49-53}}、{{Harvnb|群像18 |1990|pp=251-258}}</ref>。
三島にとっての〈裏返しの自殺〉、〈生の回復術〉であり<ref name="kamnote">「『仮面の告白』ノート」(『仮面の告白』月報 河出書房、1949年7月)。{{Harvnb|27巻|2003|pp=190-191}}</ref>、〈[[シャルル・ボードレール|ボオドレエル]]の「[[死刑囚]]にして[[死刑執行人]]」といふ二重の決心で自己解剖〉した渾身の書き下ろし長編『仮面の告白』は同年7月5日に出版され<ref name="moku"/><ref>「川端康成宛ての書簡」(昭和23年11月2日付)。{{Harvnb|川端書簡|2000|pp=59-61}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=264-266}}</ref>、発売当初は反響が薄かったものの、10月に[[神西清]]が高評した後、[[花田清輝]]に激賞されるなど文壇で大きな話題となった<ref>松本徹「仮面の告白【反響】」({{Harvnb|事典|2000|p=70}})</ref>。年末にも[[読売新聞]]の昭和24年度ベストスリーに選ばれ、作家としての三島の地位は不動のものとなった<ref name="inose3"/><ref>「第三回 性の自己決定」({{Harvnb|松本徹|2010|pp=36-49}})</ref>。
この成功以降も、恋愛心理小説「[[純白の夜]]」を翌[[1950年]](昭和25年)1月から『[[婦人公論]]』で連載し<ref name="moku"/>、同年6月30日には、〈[[ギリシア神話|希臘神話]]の女性〉に似たヒロインの〈狂躁〉を描いた力作『[[愛の渇き]]』を[[新潮社]]から書き下ろしで出版した<ref>「あとがき――『[[愛の渇き]]』」(『三島由紀夫作品集2』新潮社、1953年8月)。{{Harvnb|28巻|2003|pp=100-103}}</ref>。同年7月からは、[[光クラブ事件]]の[[山崎晃嗣]]をモデルとした話題作「[[青の時代 (小説)|青の時代]]」を『[[新潮]]』で連載するなど、〈一息つく暇もなく〉、各地への精力的な取材旅行に励み<ref>「あとがき――『[[青の時代 (小説)|青の時代]]』」(『三島由紀夫作品集2』新潮社、1953年8月)。{{Harvnb|28巻|2003|pp=103-106}}</ref>、長編小説の[[スキル|力倆]]を身につけていった<ref>「『[[禁色 (小説)|禁色]]』」({{Harvnb|奥野|2000|pp=254-279}})</ref>。
8月1日、立ち退きのため、両親・弟と共に[[目黒区]]緑ケ丘2323番地(現・[[緑が丘 (目黒区)|緑が丘]]一丁目17番24号)へ転居。同月に岸田国士の「[[雲の会]]」発足に[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[福田恆存]]らと参加し、年上の文学者らとの交流が広まっていった後、[[中村光夫]]の発案の「[[鉢の木会]]」にも顔を見せるようになった<ref name="s-nen3"/><ref name="hachi">高橋智子「鉢の木会」({{Harvnb|事典|2000|pp=562-563}})</ref>。10月には、[[能楽]]を基調にした「[[邯鄲 (戯曲)|邯鄲]]」を『人間』に掲載し、劇作家としての挑戦の幅も広げていった<ref name="sato13">「第三章 問題性の高い作家」({{Harvnb|佐藤|2006|pp=73-109}})</ref>。この作品は、のちに『[[近代能楽集]]』としてまとめられる1作目となり、[[矢代静一]]を通じて前年に知り合った[[芥川比呂志]]による演出で12月に上演された<ref name="moku"/><ref name="yashi6">「第六章 その初演出」({{Harvnb|矢代|1985|pp=82-98}})</ref>。
=== ギリシャへの憧れ――潮騒 ===
[[1951年]](昭和26年)1月から三島は、〈廿代の総決算〉として〈自分の中の矛盾や対立物〉の〈対話〉を描く意気込みで、[[古代ギリシア|ギリシャ]]彫刻のような美青年と老作家の登場する「[[禁色 (小説)|禁色]]」(第一部)を『[[群像]]』に連載開始した<ref>「『禁色』は廿代の総決算」([[図書新聞]] 1951年12月17日号)。{{Harvnb|27巻|2003|pp=474-476}}</ref>。[[同性愛]]のアンダーグラウンドを題材としたこの作品は、文壇で賛否両論の大きな話題を呼び<ref name="sato13"/>、11月10日に『禁色 第一部』として新潮社から刊行された<ref name="chosho"/>。その間も三島は、数々の短編や[[中間小説]]「[[夏子の冒険]]」などを各誌に発表し、初の評論集『狩と獲物』も刊行するなど旺盛な活動を見せた<ref name="moku"/><ref name="chosho"/>。
[[ファイル:Parthenon.Southern.Side.damaged.jpg|thumb|left|190px|<center>[[パルテノン神殿]]</center>]]
しかし以前から、〈一生に一度でよいから、[[パルテノン神殿|パルテノン]]を見たうございます〉と[[川端康成]]に告げ<ref>「川端康成宛ての書簡」(昭和25年3月18日付)。{{Harvnb|川端書簡|2000|pp=65-66}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=266-267}}</ref>、自分の中の余分な〈[[感受性]]〉を嫌悪していた三島は、〈肉体的存在感を持つた知性〉を欲し、広い世界を求めていた<ref name="h-reki"/>。ちょうどこの頃、父・梓の一高時代の旧友である[[朝日新聞社]]出版局長の[[嘉治隆一]]から外国行きを提案され、三島は願ってもみない話に快諾した<ref name="h-reki"/>。
厳しい審査(当時はGHQ占領下で一般人の海外旅行は禁止されていたため<ref name="radio5">「第五回 多面体としての性」({{Harvnb|松本徹|2010|pp=63-75}})</ref>)をクリアした三島は、同年12月25日から、朝日新聞特別通信員として約半年間の初の世界一周旅行に向け[[横浜港]]から[[プレジデント・ウィルソン]]号で出帆した<ref name="aporo">『[[アポロの杯]]』([[朝日新聞社]]、1952年10月)。{{Harvnb|27巻|2003|pp=507-641}}</ref>。最初の目的地・[[ハワイ]]に向かう船上で〈太陽と握手した〉三島は、日光浴をしながら、〈自分の改造といふこと〉を考え始めた<ref name="h-reki"/>。
[[ファイル:Antinous Pio-Clementino Inv256 n2.jpg|thumb|right|180px|<center>[[アンティノウス]]像</center>]]
ハワイから北米([[サンフランシスコ]]、[[ロサンゼルス]]、[[ニューヨーク]]、[[フロリダ]]、[[マイアミ]]、[[サンフアン (プエルトリコ)|サン・フアン]])、南米([[リオ・デ・ジャネイロ]]、[[サン・パウロ]])、欧州([[ジュネーブ]]、[[パリ]]、[[ロンドン]]、[[アテネ]]、[[ローマ]])を巡る旅の中でも、特に三島を魅了したのは眷恋の地・ギリシャ・アテネと、ローマの[[バチカン美術館]]で観た[[アンティノウス]]像であった<ref name="h-reki"/><ref name="aporo"/>(詳細は[[アポロの杯#見聞録のあらまし]]を参照)。
[[古代ギリシャ]]の〈肉体と知性の均衡〉への人間意志、明るい[[古典主義]]に孤独を癒やされた三島は、〈美しい作品を作ることと、自分が美しいものになることの、同一の倫理基準〉を発見し、翌[[1952年]](昭和27年)5月10日に[[東京国際空港|羽田]]に帰着した<ref name="h-reki"/><ref name="aporo"/>。この世界旅行記は『[[アポロの杯]]』としてまとめられ、10月7日に朝日新聞社から刊行された<ref name="moku"/><ref name="chosho"/>。
旅行前から予定していた「[[禁色 (小説)|秘楽]]」(『禁色』第二部)の連載を、帰国後の8月から『[[文學界]]』で開始していた三島は、旅行後すぐの〈お土産小説〉を書くことを回避し、[[伊豆半島|伊豆]]の[[今井浜海水浴場|今井浜]]で実際に起きた溺死事件を題材とした「[[真夏の死]]」を『新潮』10月号に発表した<ref>「あとがき――『[[真夏の死]]』」(『三島由紀夫作品集4』新潮社、1953年11月)。{{Harvnb|28巻|2003|pp=110-112}}</ref>{{refnest|group="注釈"|のちに英訳された作品集『[[真夏の死]] その他』は、1967年(昭和42年)5月にフォルメントール国際文学賞第2位を受賞し、この時、『[[午後の曳航]]』も候補作となった<ref>「年譜」(昭和42年5月1日)({{Harvnb|42巻|2005|pp=289-290}})</ref>。}}。
また、旅行前に書き上げていた「[[卒塔婆小町 (戯曲)|卒塔婆小町]]」は、三島が渡航中の2月に[[文学座]]により初演された<ref name="moku"/><ref name="ato6gi"/>。この作品は「[[邯鄲 (戯曲)|邯鄲]]」「[[綾の鼓 (戯曲)|綾の鼓]]」に続く『[[近代能楽集]]』の3作目となり、三島の戯曲の中でも特に優れた成功作となった<ref name="radio6"/>。これにより三島は劇作家としても本物の力量が認められ始めた<ref name="sato13"/>。
三島は、ギリシャでの感動の続きで、古代ギリシャの恋愛物語『[[ダフニスとクロエ (ロンゴス)|ダフニスとクロエ]]』を下敷きにした日本の漁村の物語を構想した<ref>「『潮騒』のこと」([[婦人公論]] 1956年9月号)pp.27-35。{{Harvnb|29巻|2003|pp=280-281}}</ref><ref name="shiokoro">「『潮騒』執筆のころ」(潮1965年7月号)pp.166-170。{{Harvnb|33巻|2003|pp=478-480}}</ref>。モデルとなる島探しを、昔[[農林省 (日本)|農林省]]([[農林水産省]])にいた父・梓に依頼した三島は<ref name="azusa3"/>、候補の島の中から〈[[万葉集]]の[[歌枕]]や古典文学の名どころ〉に近い[[三重県]]の[[神島 (三重県)|神島]](かみしま)を選んだ<ref name="kshima">「神島の思ひ出」(しま6号 1955年4月)pp.26-27。{{Harvnb|28巻|2003|pp=455-457}}</ref>。
[[ファイル:Yukio Mishima 01.jpg|thumb|200px|<center>28歳の三島</center>]]
[[1953年]](昭和28年)3月に、[[鳥羽港]]から神島に赴いた三島は、八代神社、[[神島灯台]]、一軒のパチンコ店も飲み屋もない島民の暮しや自然、[[例祭]][[神事]]、漁港、歴史や風習、漁船員の仕事を取材し、8月末から9月にも再度訪れ、台風や[[海女]]などについて取材した<ref name="shiokoro"/><ref name="kshima"/>。神島の島民たちは当初、見慣れない〈顔面蒼白〉の痩せた三島の姿を見て、病気療養のために島に来ている人と勘違いしていたという<ref name="kshima"/>。
この島を舞台にした新作を創作中も、練り直された「秘楽」の連載を並行していた三島は、9月30日に『秘楽 禁色第二部』を刊行し、[[男色]]の世界を描いた『禁色』が完結された<ref name="moku"/><ref name="chosho"/>。12月には、少年時代から親しんだ歌舞伎の台本に初挑戦し、[[芥川龍之介]]の原作小説を改作した歌舞伎『[[地獄変 (歌舞伎)|地獄変]]』を[[中村歌右衛門 (6代目)|中村歌右衛門]]の主演で上演した<ref name="moku"/>。
[[伊勢湾]]に浮かぶ小さな島に住む健康的で素朴な若者と少女の純愛を描いた書き下ろし長編『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』は、翌[[1954年]](昭和29年)6月10日に新潮社から出版されると[[ベストセラー]]となり、すぐに[[東宝]]で映画化されて[[三船敏郎]]の特別出演(船長役)もキャスティングされた<ref name="sato13"/>。三島はこの作品で第1回[[新潮社文学賞]]を受賞するが、これが三島にとっての初めての文学賞であった<ref name="sato13"/>。
これを受け、2年後にはアメリカ合衆国でも『潮騒』の英訳(The Sound of the Waves)が出版されベストセラーとなり、三島の存在を海外でも知られるきっかけの作品となった<ref name="radio5"/>。11月には三島オリジナルの創作歌舞伎『[[鰯売恋曳網]]』が初演され、余裕を感じさせる[[笑劇|ファルス]]として高評価された<ref name="sato13"/>。この演目は以後長く上演され続ける人気歌舞伎となった<ref name="radio6"/>。
この時期の他の作品には、『潮騒』の明るい世界とは対照的な終戦直後の青年の頽廃や孤独を描いた『[[鍵のかかる部屋]]』『急停車』や、三島の学習院時代の自伝的小説『[[詩を書く少年]]』、少年時代の憧れだったラディゲを題材にした『ラディゲの死』、〈菊田次郎といふ作者の分身〉を主人公にしたシリーズ(『火山の休暇』『死の島』)の終焉作『旅の墓碑銘』も発表された<ref name="moku"/><ref>「あとがき」(『ラディゲの死』新潮社、1955年7月)。{{Harvnb|28巻|2003|pp=497-498}}</ref>。
=== 自己改造の試み――金閣寺 ===
[[1955年]](昭和30年)1月、[[奥只見ダム]]と[[須田貝ダム]]を背景にした「[[沈める滝]]」を『中央公論』に連載開始。同月には、少年時代の[[神風]]待望の心理とその〈奇蹟の到来〉の挫折感を重ね合わせた「[[海と夕焼]]」も『群像』に発表したが、三島の〈一生を貫く主題〉、〈切実な問題を秘めた〉この作品への反応や論評はなかった<ref>「解説」(『花ざかりの森・憂国――自選短編集』新潮文庫、1968年9月)。{{Harvnb|35巻|2003|pp=172-176}}</ref><ref name="mushi">[[虫明亜呂無]]「『潮騒』『沈める滝』をめぐって」(『三島由紀夫全集9』月報〈同時代評から2〉1973年6月)。{{Harvnb|生涯|1998|p=167}}</ref>。三島は、もし当時この主題が理解されていれば、それ以降の自分の生き方は変っていたかもしれないと、のちに語っている<ref name="mushi"/>。
[[ファイル:Mishima Yukio.JPG|thumb|left|230px|三島30歳(1955年秋、自宅の庭にて)]]
同年9月、三島は、[[週刊読売]]のグラビアで取り上げられていた玉利齊([[早稲田大学]][[バーベル]]クラブ主将)の写真と、「誰でもこんな身体になれる」というコメントに惹かれ、早速、編集部に電話をかけて玉利を紹介してもらった<ref name="sport-ron">「実感的スポーツ論」(読売新聞 1964年10月5日-6日、9日-10日、12日号)。{{Harvnb|33巻|2003|pp=157-170}}</ref>。玉利が胸の筋肉をピクピク動かすのに驚いた三島は、さっそく自宅に玉利を招いて週3回の[[ボディビル]]練習を始めた<ref name="sport-ron"/>{{refnest|group="注釈"|玉利齊は、のちに社団法人日本ボディビル協会会長となった<ref name="sato13"/>。}}。この頃、映画『[[ゴジラの逆襲]]』が公開されて観ていたが、三島は自身を〈ゴジラの卵〉と喩えた<ref>「作家の日記」(小説新潮 1955年7月号)p.59。{{Harvnb|28巻|2003|pp=501-503}}</ref><ref>「ゴジラの卵――余技・余暇」(中央公論 1955年12月号)。{{Harvnb|28巻|2003|p=667}}</ref><ref>「第1章 肉体の飢渇」({{Harvnb|山内|2014|pp=12-51}})</ref>。
同年11月、京都へ取材に行き、青年僧による[[金閣寺放火事件]](1950年)を題材にした次回作の執筆に取りかかった三島は、『[[仮面の告白]]』から取り入れていた[[森鷗外]]的な硬質な文体をさらに鍛え上げ、「肉体改造」のみならず文体も練磨し〈自己改造〉を行なった<ref name="h-reki"/><ref name="kaizo">「自己改造の試み――重い文体と[[森鷗外|鴎外]]への傾倒」(文學界 1956年8月)pp.39-42。{{Harvnb|29巻|2003|pp=241-247}}</ref><ref name="radio7">「第七回 美の呪縛」({{Harvnb|松本徹|2010|pp=90-103}})</ref>。その双方を磨き上げ昇華した文体を駆使した「[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]」は、[[1956年]](昭和31年)1月から『新潮』に連載開始された<ref name="radio7"/>。
同月には、[[後楽園]]ジムのボディビル・コーチ鈴木智雄(元[[海兵隊|海兵]]の体操教官)に出会い、弟子入りし、3月頃に鈴木が[[自由が丘]]に開いたボディビルジムに通うことになった<ref name="sport-ron"/>。三島は自由が丘で知り合った町内会の人に誘われ、8月には[[熊野神社 (目黒区)|熊野神社]]の夏祭りで、生まれて初めて[[神輿]]をかつぎ陶酔感を味わった<ref name="tetsu"/><ref>「陶酔について」(新潮 1956年11月号)pp.66-69。{{Harvnb|29巻|2003|pp=304-311}}</ref>。
元々痩身で虚弱体質の三島であったが、弛まぬ鍛錬でのちに知られるほどの偉容を備えた体格となり、胃弱も治っていった<ref name="kenko">「私の健康」(週刊朝日 1962年7月27日号)pp.48-49。{{Harvnb|32巻|2003|p=94}}</ref>。最初は10キロしか挙げられなかった[[ベンチプレス]]も、約2年後に[[有楽町]]の産経ボディビルクラブに練習場所を変えた頃には60キロを挙上するまでに至り<ref name="ratai">「[[裸体と衣裳]]――日記」(新潮 1958年4月号-1959年9月号)。{{Harvnb|30巻|2003|pp=77-240}}</ref>、その後は胸囲も1メートルを超え、生涯ボディビルは継続されていくことになる<ref name="tetsu"/>。
[[ファイル:Ishihara Mishima.jpg|thumbnail|240px|三島31歳。[[石原慎太郎]]23歳と(1956年2月、銀座六丁目の[[文藝春秋]]ビル屋上にて。撮影:樋口進)]]
1月からの連載が終り、10月に『金閣寺』が新潮社から刊行された。傑作の呼び声高い作品として多数の評論家から高評価を受けた『金閣寺』は三島文学を象徴する代表作となり、第8回[[読売文学賞]]も受賞した。それまで三島に懐疑的だった評者からも認められ、三島は文壇の寵児となった<ref name="sato13"/><ref>「『金閣寺』の狂気と成功」({{Harvnb|奥野|2000|pp=317-355}})</ref>。また、この年には、「[[日本空飛ぶ円盤研究会]]」に入会し、7月末の[[熱海ホテル]]滞在中に[[空飛ぶ円盤|円盤]]観測に挑戦した<ref name="gai11">「十一 瑤子夫人とUFOを目撃」({{Harvnb|岡山|2014|pp=71-74}})</ref>。
9月には、鈴木智雄の紹介で、[[日本大学|日大]]拳闘部の好意により、[[小島智雄]]の監督の下、[[ボクシング]]の練習も始めた<ref name="sport-ron"/>。翌[[1957年]](昭和32年)5月、小島智雄を[[スパーリング]]相手に練習を行っている三島を、前年の対談で知り合った[[石原慎太郎]]が訪ね、[[8ミリ映画|8ミリ]]に撮影した<ref name="sport-ron"/><ref name="ishiwaga">「わが人生の時の人々――第4回 三島由紀夫という存在」(文藝春秋 2000年6月号)。{{Harvnb|石原|2002|pp=95-122}}</ref>。
これを観た三島は、〈石原慎太郎の八ミリシネにとつてもらひましたが、それをみていかに主観と客観には相違があるものかと非常に驚き、目下自信喪失の状態にあります〉と記し<ref>「私のすぽーつ・セカンドウインド」(毎日新聞 1957年6月16日号)。{{Harvnb|29巻|2003|pp=588-590}}</ref>、以後ボクシングはもっぱら観戦の方に回り、[[スポーツ新聞]]に多くの観戦記を寄稿することになった<ref>「第4章 ボクシング――血の優雅」({{Harvnb|山内|2014|pp=134-211}})</ref>。
[[ファイル:Yukio Mishima.jpg|thumb|left|230px|31歳の三島(1956年)]]
この時期の三島は、『金閣寺』のほかにも、『[[永すぎた春]]』や『[[美徳のよろめき]]』などのベストセラー作品を発表し、そのタイトルが流行語になった<ref name="sato13"/>。[[川端康成]]を論じた『永遠の旅人』も好評を博し、戯曲でも『[[白蟻の巣]]』が第2回[[岸田演劇賞]]を受賞、人気戯曲『[[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]]』も発表されるなど、旺盛な活動を見せ、戯曲集『[[近代能楽集]]』(「[[邯鄲 (戯曲)|邯鄲]]」「[[綾の鼓 (戯曲)|綾の鼓]]」「[[卒塔婆小町 (戯曲)|卒塔婆小町]]」「[[葵上 (戯曲)|葵上]]」「[[班女 (戯曲)|班女]]」を所収)も刊行された<ref name="sato13"/>。
私生活でも、夏には[[軽井沢町|軽井沢]]に出かけ、ホテルに泊まって原稿を書くほどの身分になり、乗馬クラブに通って避暑にやってくる人々に颯爽たる乗馬姿を披露して見せた<ref name="inose3"/>。三島の乗馬姿は大いに注目され、その年の新聞・雑誌は彼の英姿で飾られることになった<ref name="inose3"/><ref name ="flanagan">”[https://mainichi.jp/articles/20191001/org/00m/070/002000c 日本文化をハザマで考える/第12回 馬にまたがる三島由紀夫]”毎日新聞(2019/10/01)</ref>。また軽井沢では上流階級の子息・令嬢や夫人によるパーティーが開かれており、三島はそれらに顔を出して、[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]、[[岸田今日子]]、[[兼高かおる]]、鹿島三枝子([[鹿島守之助]]の三女)、以前からの知り合いで『[[鏡子の家]]』のモデルとなる湯浅あつ子などと交遊した<ref name="inose3"/><ref name ="flanagan"/>。さらに1954年(昭和29年)夏には、中村歌右衛門の楽屋で豊田貞子([[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の料亭の娘。『[[沈める滝]]』『[[橋づくし]]』のモデル)と知り合い、深い交際に発展した<ref name="yuasa"/>。それは三島の生涯において最も豊かな成功に輝いていた時期であったが<ref name="yuasa"/><ref>松本徹「問いつづける声」({{Harvnb|新読本|1990|pp=6-19}})</ref>、結局貞子とは破局し、1957年(昭和32年)5月、[[新派]]公演『金閣寺』を観た日を最後に別離した<ref name="yuasa"/><ref name="inose4">「第四章 時計と日本刀」({{Harvnb|猪瀬|1999|pp=321-449}})</ref>。
花嫁候補を探していた三島が、[[歌舞伎座]]で隣り合わせになる形で会い、[[銀座]]六丁目の小料理屋「井上」の2階で、独身時代の[[上皇后美智子|正田美智子]]とお見合いをしたとされるのも、1957年(昭和32年)頃である<ref name="inose4"/><ref>「第六章 『[[和漢朗詠集]]』の一句」({{Harvnb|徳岡|1999|pp=133-156}})</ref><ref>「美智子さまと三島由紀夫のお見合いは小料理屋で行われた」([[週刊新潮]] 2009年4月2日号)。{{Harvnb|岡山|2014|p=31}}</ref><ref>「18 人の心」({{Harvnb|村上|2010|pp=109-114}})</ref>。なお同年3月15日、正田美智子が首席で卒業した[[聖心女子大学]]卒業式を三島は母と共に参観していたという<ref name="mura33">「III 死の栄光――二つの事件――脅迫と告訴」({{Harvnb|村松剛|1990|pp=305-324}})</ref>。
=== 時代の中で――鏡子の家 ===
前年8月の『潮騒』 (The Sound of Waves) の初英訳刊行に続き、戯曲集『近代能楽集』 (Five Modern Noh Plays) も[[1957年]](昭和32年)7月にクノップ社から英訳出版されたことで、三島は同社に招かれて渡米した<ref name="radio8">「第八回 時代と向き合う『鏡子の家』」({{Harvnb|松本徹|2010|pp=104-117}})</ref>。その際に現地の演劇プロデューサーから上演申し込みがあり、実現に向けて約半年間[[ニューヨーク]]に辛抱強く滞在したが、企画が難航して延期となってしまった<ref name="tabi">『旅の絵本』(講談社、1958年3月)。{{Harvnb|29巻|2003|pp=651-764}}</ref><ref name="chro24">「24 一九五七年夏、ニューヨークの三島由紀夫」({{Harvnb|キーン|2007|pp=184-190}})</ref>。その間の12月21日、三島は疎遠となっていた[[吉田満]](ニューヨーク駐在中)と久しぶりに再会し[[ワシントン・アーヴィング]]の旧邸など各所を一緒に散策した。三島は吉田との雑談の中で、アメリカ人に対する辛辣な批判をし、また自身の来年に向けての結婚宣言をしていたという<ref name="yoshi2"/><ref name="newyo">「第三章 薔薇の痙攣」内({{Harvnb|生涯|1998|pp=187-188}})</ref>。
無為で孤独なホテルでのニューヨークの年越しに耐えられず、正月を[[マドリード]]、[[ローマ]]を経由し過ごして帰国した三島は、これから先の人生を一人きりでは生きられないことを痛感し、結婚の意志を固くした<ref name="inose4"/><ref name="koji5">「作中人物への傾斜」(ポリタイア 1973年10月号)。{{Harvnb|小島|1996|pp=81-126}}</ref>。折しも、ニューヨーク滞在中に父・梓が病気入院し、帰国後の2月にも母・倭文重が癌と疑われた[[甲状腺]]の病気で手術したことも、それに拍車をかけた<ref name="sato13"/><ref name="radio8"/>。
[[1958年]](昭和33年)3月に、幼馴染の湯浅あつ子から見せられた女子大生・[[平岡瑤子|杉山瑤子]](日本画家・[[杉山寧]]の長女)の写真を一目で気に入った三島は、4月にお見合いをし<ref name="miai">「私の見合結婚」(主婦の友 1958年7月号)。{{Harvnb|30巻|2003|pp=313-319}}</ref>、6月1日に[[川端康成]]夫妻を媒酌人として[[明治記念館]]で瑤子との結婚式を挙げ、[[麻布]]の[[国際文化会館]]で披露宴が行われた<ref name="sato13"/>。同年8月には雑誌に連載開始された[[小高根二郎]]の「[[蓮田善明]]とその死」を読み始め<ref>「小高根二郎宛ての葉書」(昭和34年8月7日付)。{{Harvnb|38巻|2004|p=220}}</ref>、11月末からはボディビルに加えて[[中央公論社]]の[[嶋中鵬二]]と笹原金次郎の紹介により、[[第一生命]]の道場で本格的に[[剣道]]も始めた<ref name="ratai"/><ref name="s-nen5">「第五章」({{Harvnb|年表|1990|pp=117-160}})</ref>。
同年3月には、ニューヨーク滞在中から構想していた書き下ろし長編『[[鏡子の家]]』の執筆も開始されていた。この作品は4人の青年と1人の〈[[巫女]]的な女性〉を主人公とし、〈「戦後は終つた」と信じた時代の、感情と心理の典型的な例〉を描こうとした野心作であった<ref>「『[[鏡子の家]]』そこで私が書いたもの」(「鏡子の家」広告用ちらし、1959年8月)。{{Harvnb|31巻|2003|p=242}}</ref>。時代背景は[[高度経済成長]]前の2年間で(昭和29年4月から昭和31年4月まで)、三島自身の青春と「戦後」と言われた時代への総決算でもあった<ref>「『鏡子の家』――わたしの好きなわたしの小説」(毎日新聞 1967年1月3日号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=292-293}}</ref><ref>「『鏡子の家』の不思議」({{Harvnb|奥野|2000|pp=357-369}})</ref>。
翌[[1959年]](昭和34年)9月20日の『鏡子の家』刊行までの約1年半の間、戯曲『[[薔薇と海賊]]』の発表、結婚、国内新婚旅行、エッセイ『[[不道徳教育講座]]』、評論『[[文章読本#三島由紀夫|文章読本]]』の発表、新居建設(設計・施工は[[清水建設]]の鉾之原捷夫)など多忙であった<ref name="ratai"/>。[[大田区]]馬込東一丁目1333番地{{refnest|group="注釈"|1958年(昭和33年)10月から建設開始し1959年(昭和34年)4月前に完成したこの大田区の家の住所表記は、1965年(昭和40年)11月の住居表示制度の実施で「南馬込四丁目32番8号」に変更されるまでの間、三島由紀夫が知人らに宛てた書簡や、贈呈本に添付した自身の名刺で「'''馬込東'''一丁目1333番地」と記載され(エアメールでは、Magome-higashi)<ref>[[阿川弘之]]からGeorge H. Lynchまでの書簡・葉書({{Harvnb|38巻|2004|pp=33-948}})</ref><ref>[[浅野晃]]から[[平岡紀子]]までの書簡・葉書({{Harvnb|補巻|2005|pp=198-235}})</ref><ref name="inuz">犬塚潔「三島由紀夫の名刺」({{Harvnb|三島研究}}の6『三島由紀夫・金閣寺』(2008年7月)pp.166-171)</ref>、三島研究者編纂の全集の年譜や複数の評伝でも町名を「'''馬込東'''」と記載しているが<ref>「第五章 『鏡子の家』の時代」内({{Harvnb|年表|1990|p=131}})</ref><ref>「第三章 薔薇の痙攣」内({{Harvnb|生涯|1998|p=198}})</ref><ref>「年譜」(昭和34年5月10日)({{Harvnb|42巻|2005|p=231}})</ref>、大田区の住居表示を記録した『住居表示旧新・新旧対照表. 6の2(昭和40年11月15日施行)』の300頁によると、南馬込四丁目32番8号は'''馬込町東'''一丁目1333番地に当たり、当地の居住者には平岡公威の名が記載されている<ref>[https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000003-I3045065-00 住居表示旧新・新旧対照表 6の2(昭和40年11月15日施行)](国立国会図書館 Online)p.300</ref>。なお、川端康成が書いた三島宛の書簡では1962年(昭和37年)以降に「'''馬込東'''」と「'''馬込町東'''」の両方の表記が見られる<ref>{{Harvnb|川端書簡|2000|pp=152-171}}</ref>。}}(現・[[南馬込]]四丁目32番8号)に建設した[[ヴィクトリア朝|ビクトリア]]風[[コロニアル]]様式の新居へは5月10日に転居し、6月2日に長女・[[平岡紀子|紀子]]が誕生した<ref name="ratai"/><ref name="s-nen5"/><ref>「年譜」(昭和34年5月-6月)({{Harvnb|42巻|2005|pp=231-233}})</ref>。ちょうどこの当時、[[新安保条約]]の採決を巡る大規模なデモ隊が国会周辺で吹き荒れ、三島はそれを[[記者クラブ]]のバルコニーから眺めた<ref name="s-nen5"/><ref name="seiji">「一つの政治的意見」(毎日新聞 1960年6月25日号)。{{Harvnb|31巻|2003|pp=433-436}}</ref>。
三島の渾身作『鏡子の家』は1か月で15万部売れ、同世代の評論家の少数からは共感を得たものの、文壇の評価は総じて辛く、三島の初めての「失敗作」という烙印を押された<ref name="inose4"/><ref>[[佐伯彰一]]・[[山本健吉]]・[[平野謙 (評論家)|平野謙]]・[[江藤淳]]・[[臼井吉見]]の座談会「1959年の文壇総決算」(文學界 1959年12月号)。{{Harvnb|村松剛|1990|pp=279-280}}、{{Harvnb|猪瀬|1999|pp=346-347}}</ref>。三島の落胆は大きく、この評価は作家として彼が味わった最初の大きな挫折(転機)だった<ref>「川端康成宛ての書簡」(昭和34年12月18日付)。{{Harvnb|川端書簡|2000|pp=142-143}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=291-292}}</ref><ref name="nagisa">[[大島渚]]との対談(司会:[[小川徹 (映画評論家)|小川徹]])「ファシストか革命家か」(映画芸術 No.244 1968年1月号)pp.23-24。{{Harvnb|39巻|2004|pp=729-760}}</ref>。
同年11月、三島は[[大映]]と映画俳優の専属契約を結び、翌[[1960年]](昭和35年)3月に公開された『[[からっ風野郎]]』([[増村保造]]監督)でチンピラ的なヤクザ役を演じたが、その撮影中には頭部をエスカレーターに強打して入院する一幕もあった<ref name="sato14">「第四章 著名人の時代」({{Harvnb|佐藤|2006|pp=110-143}})</ref>。同年1月には、[[都知事選挙]]を題材とした「[[宴のあと]]」も『中央公論』で連載開始するが、モデルとした[[有田八郎]]から9月に告訴され、[[プライバシー]]裁判の被告となってしまった(詳細は[[宴のあと#「宴のあと」裁判|「宴のあと」裁判]]を参照)<ref name="sato14"/>。
[[File:Yukio mishima 1961.jpg|thumb|「三島由紀夫」([[林忠彦]]『文士の時代』より、[[1961年]])]]
1961年(昭和36年)1月は、[[二・二六事件]]に題材をとり、のちに自身で監督・主演で映画化する「[[憂国]]」を『小説中央公論』に発表。2月には、その雑誌に同時掲載された[[深沢七郎]]の「[[風流夢譚]]」を巡る[[嶋中事件]]に巻き込まれ、推薦者と誤解されて[[右翼]]から脅迫状を送付されるなど、2か月間警察による護衛下での生活を余儀なくされた<ref name="ikani">「私はいかにして日本の作家となつたか」([[日本外国特派員協会]] 1966年4月18日)。{{Harvnb|没後20|1990|pp=88-98}}、{{Harvnb|41巻|2004}}</ref><ref name="azusa4">「第四章」({{Harvnb|梓|1996|pp=103-164}})</ref><ref>「『風流夢譚』の推薦者ではない――三島由紀夫氏の声明」(週刊新潮 1961年2月27日号)p.15。{{Harvnb|31巻|2003|pp=534-535}}</ref>{{refnest|group="注釈"|[[ジョン・ネイスン]]は、この時の右翼に対する恐怖感により、三島の思想が「右旋回」したと実弟・[[平岡千之]]の証言として書いているが<ref name="nath6">「第六部 三島由紀夫と六〇年安保」({{Harvnb|ネイスン|2000|pp=207-263}})</ref>、千之はそのようなことを言った覚えはないと否定している<ref name="mura33"/>。}}。
同年9月から、写真家・[[細江英公]]の写真集『[[薔薇刑]]』のモデル(被写体)となり、三島邸で撮影が行われた。写真発表は翌[[1962年]](昭和37年)1月に銀座松屋の「NON」展でなされ、その鍛え上げられた肉体を[[オブジェ]]として積極的に世間に披露した<ref>「第3章 肉体のゆくえ」({{Harvnb|山内|2014|pp=91-133}})</ref>。こうした執筆活動以外における三島の一連の話題がマスメディアに取り上げられると共に、文学に関心のない層にも大きく三島の名前が知られるようになった<ref name="sato14"/>。
そのため、週刊誌などで普段の自身の日常生活や健康法を披露する機会も増えた。遅く起きる三島の朝食は、午後2時にトーストと目玉焼き、グレープフルーツ、[[カフェ・オ・レ|ホワイト・コーヒー]]を摂り、午後7時頃の昼食には週3回はビフテキと付け合わせのジャガイモ、トウモロコシ、サラダをたっぷりとウマの如く食べ、夜中の夕食は軽く[[茶漬け]]で済ますのが習慣だった<ref name="kenko"/><ref name="s-nen5"/>。
また、三島はカニの形状が苦手で、「蟹」という漢字を見るのも怖くてダメだったが、むき身の蟹肉や缶詰の蟹は食べることができ、蟹の絵のパッケージは即座に剥がして取っていたという<ref>「[[不道徳教育講座]]――自由と恐怖」(週刊明星 1958年7月27日号-1959年11月29日号のうちの1959年7月19日号)pp.16-17。{{Harvnb|30巻|2003|pp=546-550}}</ref>。酒は家ではほとんど飲まないが、煙草は[[ピース (たばこ)|ピース]]を1日3箱くらい吸っていた<ref name="kenko"/><ref name="s-nen5"/>。
1963年(昭和38年)には、三島が所属していた[[文学座]]内部での一連の分裂騒動があり、[[杉村春子]]と対立する[[福田恆存]]が創立した「[[劇団雲]]」への座員29人の移動後にも、文学座の立て直しを試みた三島の『[[喜びの琴]]』を巡って杉村らが出演拒否するという文学座公演中止事件([[喜びの琴事件]])が起こり、再びトラブルが相次いだ<ref name="sato14"/>。
この時期には、[[安保闘争]]や[[東西冷戦]]による[[水爆]]戦争への危機感が強かった社会情勢があり、そうした政治背景を反映して、『鏡子の家』から繋がる〈世界崩壊〉〈世界の終末〉の主題を持つ『[[美しい星 (小説)|美しい星]]』や『帽子の花』、評論『終末観と文学』などが書かれ、[[イデオロギー]]を超えた純粋な心情をテーマにした『[[剣 (小説)|剣]]』や評論『[[林房雄]]論』も発表された<ref>「第九回 世界の破滅に抗して」({{Harvnb|松本徹|2010|pp=118-131}})</ref><ref name="radio10">「第十回 神への裏階段」({{Harvnb|松本徹|2010|pp=132-144}})</ref>。
[[1964年]](昭和39年)初めには『[[浜松中納言物語]]』を読み、『[[豊饒の海]]』の構想もなされ始め<ref name="houjo">「『豊饒の海』について」(毎日新聞夕刊 1969年2月26日号)。{{Harvnb|35巻|2003|pp=410-412}}</ref><ref>「夢と人生」(『[[日本古典文学大系]]77 [[篁物語]]・[[平中物語]]・[[浜松中納言物語]]』月報 岩波書店、1964年5月)。{{Harvnb|33巻|2003|pp=46-48}}</ref>、同年10月の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]では、新聞各紙の特派員記者として各種競技を連日取材した。開会式では、〈[[小泉八雲]]が日本人を「東洋のギリシャ人」と呼んだときから、オリンピックはいつか日本人に迎へられる運命にあつたといつてよい〉と述べ<ref name="kaikai">「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日号)。{{Harvnb|33巻|2003|pp=171-174}}</ref>、〈[[昭和天皇|陛下]]〉の〈堂々たる〉開会宣言の立派な姿に、19年前の敗戦直後に[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]と並んだ〈悲しいお写真〉を思い比べて感無量となり<ref>「秋冬随筆――歓楽果てて…」(こうさい 1964年12月号)。{{Harvnb|33巻|2003|pp=134-136}}</ref>、[[聖火台]]に点火する最終聖火ランナーの〈白煙に巻かれた胸の日の丸〉への静かな感動と憧れを、〈そこは人間世界で一番高い場所で、[[ヒマラヤ]]よりもつと高いのだ〉と三島はレポートした<ref name="kaikai"/>。
{{Quotation|[[坂井義則|坂井君]]は聖火を高くかかげて、完全なフォームで走つた。ここには、日本の青春の簡素なさはやかさが結晶し、彼の肢体には、権力の[[布袋|ほてい]]腹や、[[金権政治|金権]]のはげ頭が、どんなに逆立ちしても及ばぬところの、みづみづしい若さによる日本支配の威が見られた。この数分間だけでも、全日本は青春によつて代表されたのだつた。|三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」<ref name="kaikai"/>}}
この時期には他にも、『[[獣の戯れ]]』、『[[十日の菊]]』(第13回[[読売文学賞]]戯曲部門賞受賞)、『[[黒蜥蜴 (戯曲)|黒蜥蜴]]』、『[[午後の曳航]]』(フォルメントール国際文学賞候補作)、『[[雨のなかの噴水]]』、『[[絹と明察]]』(第6回[[毎日芸術賞]]文学部門賞)など高評の作品も多く発表し、待望だった『近代能楽集』の「葵上」「班女」も別の主催者によって[[グリニッジ・ヴィレッジ]]で上演された<ref name="s-nen5"/>。
また、『仮面の告白』や『金閣寺』も英訳出版されるなど、海外での三島の知名度も上がった時期で、「世界の文豪」の1人として1963年(昭和38年)12月17日の[[スウェーデン]]の有力紙『DAGENUS NYHETER』に取り挙げられ、翌1964年(昭和39年)5月には『宴のあと』がフォルメントール国際文学賞で2位となり<ref>「年譜」(昭和39年5月4日)({{Harvnb|42巻|2005|p=264}})</ref>、『金閣寺』も第4回国際文学賞で第2位となった<ref name="s-nen5"/>。[[国連事務総長]]だった[[ダグ・ハマーショルド]]も1961年(昭和36年)に赴任先で事故死する直前に『金閣寺』を読了し、[[ノーベル財団]]委員宛ての手紙で大絶賛した<ref name="kee-k">「川端康成」({{Harvnb|キーン|2005|pp=}})</ref><ref name="chro34">「34 葬儀委員長川端康成とノーベル文学賞」({{Harvnb|キーン|2007|pp=260-266}})</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20140903174631/https://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/shitamachi_nikki/list/CK2014040902100024.html ノーベル賞と三島、川端の死【ドナルド・キーンの東京下町日記】](東京新聞、2013年10月6日)</ref>。
なお、1963年度から1965年度の[[ノーベル文学賞]]の有力候補の中に川端康成、[[谷崎潤一郎]]、[[西脇順三郎]]と共に三島が入っていたことが2014年(平成26年)から2016年(平成28年)にかけて開示され、1963年度で三島は「技巧的な才能」が注目されて受賞に非常に近い位置にいたことが明らかとなり<ref name="gai14"/><ref>「三島ノーベル賞目前だった」(読売新聞 2014年1月4日号)。</ref><ref name="ohki2014">[https://ci.nii.ac.jp/naid/110009851179 大木ひさよ「川端康成とノーベル文学賞:スウェーデンアカデミー所蔵の選考資料をめぐって」]([[佛教大学]]・京都語文 21 2014年11月)pp.42-64</ref>、選考委員会のコメントで、日本人作家4人の中では三島が将来ノーベル文学賞を取る可能性が一番高いとされていた<ref name="ohki2020">[https://cir.nii.ac.jp/crid/1050569313638323584 大木ひさよ「日本人作家とノーベル文学賞:スウェーデンアカデミー所蔵の選考資料(1958-1969)をめぐって」](佛教大学・京都語文 28 2020年11月)pp. 237-252</ref>。しかし谷崎死後の1966年度の候補者では川端が最も注目されていて、三島の名はなかった<ref name="ohki2020"/><ref>[https://web.archive.org/web/20170105105120/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170103/k10010827641000.html 川端康成 ノーベル文学賞受賞2年前の選考で高評価](2017年1月5日時点のアーカイブ) - NHK News Web、2017年1月3日。</ref>。そして1967年度と1968年度には、再び川端と同様に三島も有力候補に挙がり将来性を期待されたが、「現時点では川端の方がノーベル賞にはふさわしい」とされていた<ref name="ohki2020"/>。アカデミー選考委員会は日本文学の専門家として[[ドナルド・キーン]]と[[エドワード・G・サイデンステッカー]]に意見を求めながら選考を進めていたことが明らかになっている<ref name="ohki2014"/><ref name="ohki2020"/>。川端が受賞した翌年の1969年度には「今、また新たに日本人へ賞を授与することはない」として、日本から推薦された[[井上靖]]の調査もされなかった<ref name="ohki2020"/>。
三島が初めて候補者に名を連ねた1963年度の選考において委員会から日本の作家の評価を求められていたドナルド・キーンは、実績と年齢順([[年功序列]])を意識して日本社会に配慮しながら、谷崎、川端、三島の順で推薦したが、本心では三島が現役の作家で最も優れていると思っていたことを情報開示後に明かしている<ref name="nenko">[https://web.archive.org/web/20151009001440/http://www9.nhk.or.jp/nw9/marugoto/2015/03/0331.html 特集まるごと「ノーベル文学賞 明らかになる“秘話”」](2015年10月9日時点のアーカイブ) - NHK News Web、2015年3月31日。</ref>。[[1961年]](昭和36年)5月には川端が三島にノーベル賞推薦文を依頼し、彼が川端の推薦文を書いていたこともある<ref>「川端康成宛ての書簡」(昭和36年5月30日付)。{{Harvnb|川端書簡|2000|pp=150-151}}、{{Harvnb|38巻|2004|p=294}}</ref><ref>三島由紀夫「1961年度ノーベル文学賞に川端康成氏を推薦する」(訳・佐伯彰一)({{Harvnb|川端書簡|2000|pp=238-239}})</ref>{{refnest|group="注釈"|実際、1961年度に川端康成が受賞する可能性もあったことも明らかになっている<ref>[https://web.archive.org/web/20130310191315/http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/130247.html 川端康成 ノーベル賞選考で新資料](2013年3月10日時点のアーカイブ) - NHK「かぶん」ブログ・NHK科学文化部、2012年9月4日。</ref>。}}。その3年前の1958年(昭和33年)度には、谷崎の推薦文も三島が書いていた<ref name="asa2009">[https://web.archive.org/web/20170202041740/http://www.asahi.com/special/nobel/TKY200909220258.html 谷崎潤一郎、58年ノーベル賞候補 三島由紀夫が推薦状」](朝日新聞DIGITAL、2009年9月23日)</ref>。
=== 行動の誘惑――英霊の聲 ===
[[1965年]](昭和40年)初頭、三島は4年前に発表した短編小説『[[憂国]]』を自ら脚色・監督・主演する映画化を企画し、4月から撮影して完成させた<ref name="yu-eiga">「製作意図及び経過」(『憂國 映画版』 新潮社、1966年4月)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=35-64}}</ref><ref name="yu-michi">[[藤井浩明]]「映画『[[憂国]]』の歩んだ道」({{Harvnb|別巻|2006}}ブックレット内)</ref>。同年[[2月26日]]には、次回作となる〈夢と[[転生]]〉を題材とした〈世界解釈〉の本格長編小説の取材のため<ref name="houjo"/>、[[奈良市|奈良]]の[[帯解駅|帯解]]から[[円照寺]]を初めて訪ね、その最初の巻となる「[[春の雪 (小説)|春の雪]]」の連載を同年9月から『新潮』で開始した(1967年1月まで)<ref>「『天人五衰』の尼寺」({{Harvnb|悼友|1973|pp=17-35}})</ref><ref name="s-nen6">「第六章」({{Harvnb|年表|1990|pp=161-218}})</ref>。
9月からは夫人同伴でアメリカ、ヨーロッパ、[[東南アジア]]を旅行し、長編の取材のために10月は[[バンコク]]を訪れ、[[カンボジア]]にも遠征して戯曲『[[癩王のテラス]]』の着想を得た。ちょうどこの頃、[[AP通信]]が[[ストックホルム]]発で、1965年度のノーベル文学賞候補に三島の名が挙がっていると報じた。三島は以降の年も引き続き、受賞候補として話題に上ることになる<ref name="s-nen6"/><ref name="sato15">「第五章 文と武の人」({{Harvnb|佐藤|2006|pp=144-205}})</ref>。
11月からは、自身の〈文学と行動、精神と肉体の関係〉を分析する「[[太陽と鉄]]」を『批評』に連載開始し<ref name="etoki">「序文」({{Harvnb|論集I|2006}})。{{Harvnb|36巻|2003|pp=64-65}}</ref>、戯曲『[[サド侯爵夫人]]』も発表され、傑作として高評価を受けた<ref name="radio10"/>。この戯曲は三島の死後、フランスでも人気戯曲になった。ドナルド・キーンは、三島以前の日本文学の海外翻訳を読むのは日本文学研究者だけに限られていたのに対し、三島の作品は一般人にまで浸透したとして、古典劇に近い『サド侯爵夫人』がフランスの地方劇場でも上演されるのは、「特別な依頼ではなく、見たい人が多いから」としている<ref name="hometown.infocreate.co.jp">[https://web.archive.org/web/20080512225542/http://hometown.infocreate.co.jp/chubu/yamanakako/mishima/sympo/panel.html 第1回三島文学シンポジウム](2008年5月12日時点のアーカイブ)</ref>。
[[高度経済成長期]]の[[1966年]](昭和41年)の正月、三島は日の丸を飾る家がまばらになった風景を眺めながら、〈一体自分はいかなる日、いかなる時代のために生れたのか〉と自問し、〈私の運命は、私が生きのび、やがて老い、波瀾のない日々のうちにたゆみなく仕事をつづけること〉を命じたが、胸の裡に、〈なほ癒されぬ浪漫的な魂、白く羽搏くものが時折感じられる〉と綴った<ref name="warera">「『われら』からの遁走――私の文学」(『われらの文学5 三島由紀夫』講談社 1966年3月)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=17-27}}</ref>。
{{Quotation|私はいつしか、今の私なら、絶対にむかしの「われら」の一員に、欣然としてなり了せることができる、といふ、甘いロマンチックな夢想のとりこになりはじめる。(中略)ああ、危険だ! 危険だ! 文士が政治的行動の誘惑に足をすくはれるのは、いつもこの瞬間なのだ。青年の盲目的行動よりも、文士にとつて、もつとも危険なのは[[ノスタルジア]]である。そして同じ危険と云つても、青年の犯す危険には美しさがあるけれど、中年の文士の犯す危険は、大てい薄汚れた茶番劇に決つてゐる。そんなみつともないことにはなりたくないものだ。しかし、一方では、危険を回避することは、それがどんな滑稽な危険であつても、回避すること自体が卑怯だといふ考へ方がある。|三島由紀夫「『われら』からの遁走――私の文学」<ref name="warera"/>}}
自身の〈危険〉を自覚していた三島は、それを凌駕する〈本物の[[楽天主義]]〉〈どんな希望的観測とも縁もない楽天主義〉がやって来ることを期待し、〈私は私が、森の[[鍛冶屋]]のやうに、楽天的でありつづけることを心から望む〉心境でもあった<ref name="warera"/>。
同年1月、モノクロ短編映画『憂国』が「愛と死の儀式」 (Yūkoku ou Rites d'amour et de mort) のタイトルで[[トゥール (アンドル=エ=ロワール県)|ツール]]国際短編[[映画祭]]に出品され、劇映画部門第2位となった<ref name="yu-eiga"/><ref name="yu-michi"/>。日本では4月から[[日本アート・シアター・ギルド|アートシアター系]]で一般公開されて大きな話題を呼び、同系映画としては記録的なヒット作となった<ref name="sato15"/>。映画を観た[[安部公房]]は、「作品に、自己を転位させよう」という不可能性に挑戦する三島の「不敵な野望」に「羨望に近い共感」を覚えたと高評価した<ref>[[安部公房]]「“三島美学”の傲慢な挑戦――映画『憂國』のはらむ問題は何か」(週刊読書人 1966年5月2日号)。{{Harvnb|群像18 |1990|pp=153-155}}</ref>。
この当時、毎週日曜日に[[碑文谷警察署]]で剣道の稽古をしていた三島は同年5月に剣道四段に合格し、前年11月から習っていた[[居合]]も、剣道の師の吉川正実を通じて舩坂良雄を師範とする大森流居合に正式入門した<ref>「年譜」(昭和41年5月29日)({{Harvnb|42巻|2005|p=281}})</ref>。三島は、良雄の兄で剣道家の[[舩坂弘]]ともこの道場で知り合い、交流するようになった<ref>「第5章 剣道・居合・空手」({{Harvnb|山内|2014|pp=212-246}})</ref>。
6月には、[[二・二六事件]]と[[特別攻撃隊|特攻隊]]の兵士の霊たちの呪詛を描いた『[[英霊の聲]]』を発表し、『憂国』『[[十日の菊]]』と共に「二・二六事件三部作」として出版された<ref name="chosho"/>。11歳当時の二・二六事件と20歳当時の敗戦で〈神の死〉を体感した三島は、昭和の戦前戦後の歴史を連続して生きてきた自身の、その〈連続性の根拠と、論理的一貫性の根拠〉をどうしても探り出さなければならない気持ちだった<ref name="watashi"/>。
〈挫折〉した青年将校ら〈真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようといふ思ひ〉の糸を手繰る先に、どうしても引っかかるのが[[昭和天皇]]の「[[人間宣言]]」であり、自身の〈美学〉を掘り下げていくと、その底に〈天皇制の岩盤がわだかまつてゐることを〉を認識する三島にとって、それを回避するわけにはいかなかった<ref name="watashi"/><ref>「中間者の眼」([[三田文学]] 1968年4月号)。{{Harvnb|橋川|1998|pp=74-88}}</ref>。
『英霊の聲』は天皇批判を含んでいたため、文壇の評価は賛否両論となって総じて低く、その〈冷たいあしらひ〉で三島は文壇人の〈右顧左眄ぶり〉がよく解ったが<ref name="S410610">「清水文雄宛ての書簡」(昭和41年6月10日付)。{{Harvnb|38巻|2004|p=618}}</ref>、この作品を書いたことで自身の無力感から救われ、〈一つの小さな自己革命〉を達成した<ref>秋山駿との対談「私の文学を語る」(三田文学 1968年4月号)。{{Harvnb|40巻|2004|pp=7-42}}</ref>。
[[瀬戸内晴美]]は『英霊の聲』を読み、「三島さんが命を賭けた」と思って手紙を出すと、三島から、〈小さな作品ですが、これを書いたので、戦後二十年生きのびた申訳が少しは立つたやうな気がします〉と返事が来た<ref>[[瀬戸内寂聴]]「奇妙な友情」({{Harvnb|群像|1971|pp=182-188}})。{{Harvnb|佐藤|2006|pp=173-174}}</ref><ref>「瀬戸内晴美宛ての書簡」(昭和41年5月9日付)。{{Harvnb|補巻|2005|p=217}}</ref>。この時期の作品は他に、三島としては珍しい私小説的な『[[荒野より (小説)|荒野より]]』、エッセイ『[[おわりの美学|をはりの美学]]』『[[お茶漬ナショナリズム]]』、[[林房雄]]との対談『対話・日本人論』などが発表された<ref name="moku"/>。三島はこの対談の中で、いつか[[藤原定家]]を主人公にした小説を書く意気込みを見せた<ref name="taiwa">林房雄との対談『対話・日本人論』(番町書房、1966年10月。夏目書房、2002年3月増補再刊)。{{Harvnb|39巻|2004|pp=554-682}}</ref>。
=== 文と武の世界へ――奔馬 ===
『英霊の聲』を発表した[[1966年]](昭和41年)6月、三島は[[奈良県]]の[[率川神社]]の三枝祭(百合祭)を見学し、長編大作の第二巻となる連載「[[奔馬 (小説)|奔馬]]」の取材を始めた。8月下旬からは[[大神神社]]に赴き、[[三輪山]]三光の滝に打たれて[[座禅]]した後、色紙に「清明」と揮毫した<ref>「回想の三輪明神」({{Harvnb|悼友|1973|pp=36-49}})</ref><ref name="ando4">「第四章 憂国の黙契」({{Harvnb|生涯|1998|pp=233-331}})</ref>{{refnest|group="注釈"|大神神社境内には、この時三島が揮毫した「清明」が刻まれた記念碑がある<ref>[https://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/295dd3872195ee478613e5c5e73f5f0b 名作&風景(1) 三島由紀夫『奔馬』と大神神社] 2015年10月18日閲覧</ref>。}}。その後は[[広島県]]を訪れ、恩師の[[清水文雄]]らに会って[[江田島]]の[[海上自衛隊第一術科学校]]を見学し、[[特別攻撃隊#特攻隊員|特攻隊員]]の遺書を読んだ<ref name="s-nen6"/><ref>「習字の伝承」(婦人生活 1968年1月号)p.172。{{Harvnb|34巻|2003|pp=612-614}}</ref>。
清水らに見送られて[[熊本県]]に到着した三島は、[[荒木精之]]らに迎えられて[[蓮田善明]]未亡人と森本忠(蓮田の先輩)と面会し、[[神風連の乱|神風連]]のゆかりの地([[新開大神宮]]、[[桜山神社 (熊本市)|桜山神社]]など)を取材して10万円の[[日本刀]]を購入した<ref name="araki"/><ref name="uchi2"/><ref name="gai19">「十九 佩刀『関ノ孫六』の由来」({{Harvnb|岡山|2014|pp=103-108}})</ref>。この旅の前、三島は清水宛てに〈天皇の神聖は、[[伊藤博文]]の[[大日本帝国憲法|憲法]]にはじまるといふ[[亀井勝一郎]]説を、[[山本健吉]]氏まで信じてゐるのは情けないことです。それで一そう神風連に興味を持ちました。神風連には、一番本質的な何かがある、と予感してゐます〉と綴った<ref name="S410610"/>。
10月には[[自衛隊]]体験入隊を希望し、[[防衛省|防衛庁]]関係者や元[[陸将]]・[[藤原岩市]]などと接触して体験入隊許可のための仲介や口利きを求め、12月には[[舩坂弘]]の著作の序文を書いた返礼として日本刀・[[孫六兼元|関ノ孫六]]を贈られた<ref name="azusa1">「第一章」({{Harvnb|梓|1996|pp=7-30}})</ref><ref name="funa">[[舩坂弘]]『関ノ孫六――三島由紀夫、その死の秘密』([[光文社]][[カッパ・ブックス]]、1973年)</ref>{{refnest|group="注釈"|なお、この刀は本物の関ノ孫六ではなく、三島は贋物をつかまされていたという疑いもあり、元の持主であった武道家・[[中村泰三郎]]はこれを神戸の刀剣店で4万円の値で買い、舩坂弘に5万円で売ったとされている<ref name="gai19"/>。三島はこの日本刀を死ぬまで本物の関ノ孫六だと信じきっていた<ref name="gai19"/>。}}。同月19日、[[小澤開作|小沢開策]]から[[民族派]]雑誌の創刊準備をしている若者らの話を聞いた[[林房雄]]の紹介で、万代潔([[平泉澄]]の門人で[[明治学院大学]])が三島宅を訪ねて来た<ref name="seinen">「青年について」([[論争ジャーナル]] 1967年10月号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=561-564}}</ref><ref name="haya17">「第十七章」({{Harvnb|林|1972|pp=233-247}})</ref>。
翌[[1967年]](昭和42年)1月に、その雑誌『[[論争ジャーナル]]』が創刊され、副編集長の万代潔が編集長の中辻和彦と共に三島宅を再訪し、雑誌寄稿を正式依頼して以降、三島は同グループとの親交を深めていった<ref name="seinen"/>。同月には[[日本学生同盟]]の[[持丸博]]も三島を訪ね、翌月創刊の『日本学生新聞』への寄稿を依頼した<ref name="naka2">「第二章 ノサップ」({{Harvnb|中村彰|2015|pp=71-136}})</ref>。三島は日本を守ろうとする青年たちの純粋な志に感動し、〈覚悟のない私に覚悟を固めさせ、勇気のない私に勇気を与へるものがあれば、それは多分、私に対する青年の側からの教育の力であらう〉と綴った<ref name="seinen"/>。
三島は42歳となるこの年の元日の新聞で、執筆中の〈大長編の完成〉が予定されている47歳の後には、〈もはや花々しい英雄的末路は永久に断念しなければならぬ〉と語り、〈英雄たることをあきらめるか、それとも[[ライフワーク]]の完成をあきらめるか〉の二者択一の難しい決断が今年は来る予感がするとして、[[西郷隆盛]]や[[加屋霽堅]]が行動を起こした年齢を挙げながら、〈私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ〉と〈年頭の迷ひ〉を告白した<ref name="mayoi">「年頭の迷ひ」(読売新聞 1967年1月1日号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=284-287}}</ref>。
4月12日から約1か月半、単身で自衛隊に体験入隊した三島は、イギリスや[[ノルウェー]]、[[スイス]]などの[[民兵]]組織の例に習い、国土防衛の一端を担う「[[祖国防衛隊]]」構想を固めた後、学生らを引き連れて自衛隊への体験入隊を定期的に行なった。以降、三島は[[航空自衛隊]]の[[F-104 (戦闘機)|F-104戦闘機]]への搭乗体験や、[[陸上自衛隊小平学校|陸上自衛隊調査学校]]情報教育課長・[[山本舜勝]]とも親交し、共に民兵組織(のち「[[楯の会]]」の名称となる)会員への指導を行うことになる(詳細は[[三島事件#三島由紀夫と自衛隊|三島由紀夫と自衛隊]]を参照)。
これらの活動と平行し、1967年(昭和42年)2月から「奔馬」が『新潮』で連載開始された(1968年8月まで)。この小説は、[[血盟団]]の時代を背景に[[昭和維新]]に賭けた青年の[[自刃]]を描き、美意識と政治的行動が深く交錯した作品となった<ref name="honba">「奔馬」(新潮 1967年2月号-1968年8月号)。{{Harvnb|13巻|2001|pp=397-}}</ref>。同年2月28日には、[[川端康成]]、[[石川淳]]、[[安部公房]]と連名で、[[中国共産党|中共]]の[[文化大革命]]に抗議する声明の記者会見を行なった<ref name="s-nen6"/>。5月には英訳版の『[[真夏の死]] その他』が1967年フォルメントール国際文学賞第2位受賞した(『[[午後の曳航]]』も候補作品)。この賞を推薦したドナルド・キーンが三島の本が2位に終わったことを残念がっていると、 たまたまスウェーデンから参加していた有力出版社ボニエールの重役が「三島はずっと重要な賞(ノーベル文学賞)をまもなく受けるだろう」とキーンを慰めた<ref name="kee-k"/>。
6月には[[日本空手協会]]道場に入門し、[[中山正敏 (空手家)|中山正敏]](日本空手協会首席[[師範]])のもと、7月から[[空手]]の稽古を始めた。三島は中山に、「私は文士として野垂れ死にはしたくない。少なくとも日本人として、行動を通して〈空〉とか〈無〉というものを把握していきたい」と語ったという<ref name="ando4"/>。
6月19日には[[早稲田大学]]国防部の代表らと会合し[[森田必勝]]と出会った<ref name="naka2"/>。森田は三島を師と仰ぎ、彼に体験入隊の礼状として「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」と贈った<ref name="naka2"/>。三島は、「どんな美辞麗句をならべた礼状よりも、あのひとことにはまいった」と森田に返答した<ref name="naka2"/>。
担当編集者の[[菅原国隆]]は三島が作中人物になりきってしまう傾向を危惧していたため<ref name="koji5"/>、彼を鎌倉の[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]宅に連れて行き、小林を通じてそれとなく自衛隊への体験入隊を止めるよう説得を試みるが、逆に変な小細工をしたことで三島から不興を買った<ref name="mura41">「IV 行動者――『狂気』の翼」({{Harvnb|村松剛|1990|pp=421-442}})</ref>。当時の三島は、「奔馬」に登場するような青年たちに出会ったことを、「恐いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説に先行することもある」と担当編集者の[[小島千加子|小島喜久江]]に語ったという<ref name="koji1">「最後の電話」(ポリタイア 1973年6月号)。{{Harvnb|小島|1996|pp=8-24}}、{{Harvnb|群像18 |1990|pp=78-88}}</ref>。
9月下旬からは[[インド]]政府の招きで、インド、[[タイ王国|タイ]]、[[ラオス]]へ夫人同伴で旅行した<ref name="indo">「インドの印象」(毎日新聞 1967年10月20日-21日号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=585-594}}</ref>。第三巻「[[暁の寺 (小説)|暁の寺]]」の取材のため、単身で[[ベナレス]]や[[カルカッタ]]に赴いた三島は、ノーベル文学賞受賞を期待して加熱するマスコミ攻勢から逃れるために[[バンコク]]に滞留し、そこで自分を捕まえた特派員の[[徳岡孝夫]]と知り合い、2人は意気投合した<ref name="toku4">「第四章 バンコクでの再会」({{Harvnb|徳岡|1999|pp=86-107}})</ref>{{refnest|group="注釈"|前年1966年(昭和41年)に三島はマスコミからノーベル文学賞受賞の予定談話まで要望されて応えたが、実際の受賞者は[[シュムエル・アグノン]]と[[ネリー・ザックス]]となってバツの悪い思いをした教訓から、この年には記者の追跡を避けてバンコクに滞留していた<ref name="toku4"/>。}}。
10月には『英霊の聲』とは違う形でありながらも、同根の〈忠義〉を描いた戯曲『[[朱雀家の滅亡]]』を発表した<ref name="suzaku">「『朱雀家の滅亡』の三島由紀夫――著者との対話」([[名古屋タイムズ]] 1967年11月13日号)。{{Harvnb|24巻|2002}}解題内</ref>。同時期には『[[葉隠入門]]』『[[文化防衛論]]』などの評論も多く発表され、『文化防衛論』においては〈[[近松門左衛門|近松]]も[[井原西鶴|西鶴]]も[[松尾芭蕉|芭蕉]]もいない〉[[昭和元禄]]を冷笑し、自分は〈現下日本の呪い手〉であると宣言するなど、[[戦後民主主義]]への批判を明確に示した<ref name="boei">「[[文化防衛論]]」(中央公論 1968年7月号)。{{Harvnb|防衛論|2006|pp=33-80}}、{{Harvnb|35巻|2003|pp=15-51}}</ref>。
=== 楯の会と共に――豊饒の海 ===
[[1968年]](昭和43年)2月25日、三島は論争ジャーナル事務所で、中辻和彦、万代潔、[[持丸博]]ら10名と「誓 昭和四十三年二月二十五日 我等ハ 大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ」という皆の血で巻紙に書いた血盟状を作成し、本名〈平岡公威〉で署名した<ref name="kepp">[[持丸博]]「楯の会と論争ジャーナル」({{Harvnb|32巻|2003}}月報)</ref><ref name="azusa5">「第五章」({{Harvnb|梓|1996|pp=165-205}})</ref>。4月上旬には、[[堤清二]]の手配による[[ドゴール]]の制服デザイナー・[[五十嵐九十九]]デザインの制服を着て、隊員らと東京都[[青梅市]]の愛宕神社に参拝した<ref name="kepp"/>。
インド訪問で[[中国共産党|中共]]に対処する防衛の必要性を実感した三島は<ref name="indo"/>、企業との連携で「祖国防衛隊」の組織拡大を目指し、[[民族資本]]から資金を得て法制化してゆく「祖国防衛隊構想」を立ち上げ、[[日本経済団体連合会|経団連]]会長らと何度か面談していたが、5月か6月頃の面談を最後に資金援助を断られてしまった<ref>「三輪良雄への書簡」(昭和43年3月18日、4月17日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=927-931}}</ref><ref name="mura42">「IV 行動者――集団という橋」({{Harvnb|村松剛|1990|pp=443-468}})</ref><ref name="yama6">「VI 民防活動の目標模索」({{Harvnb|山本|1980|pp=119-149}}</ref>。この年、[[新撰組]]の[[近藤勇]]死後百年祭に参加した<ref name="izawa"/>。近藤勇は、三島の高祖父・[[永井尚志]]の親友であったという<ref name="izawa"/>。
三島は組織規模を縮小せざるをえなくなり、10月5日に隊の名称を「祖国防衛隊」から『[[万葉集]]』[[防人歌]]の「今日よりは 顧みなくて大君の{{読み仮名|醜|しこ}}の御楯と出で立つ吾は」[[s:万葉集/第二十巻#20/4373|万葉集 第二十巻 歌番号4373]]にちなんだ「'''楯の会'''」と変えた<ref>高橋新太郎「楯の会」({{Harvnb|旧事典|1976|pp=246-247}})</ref>。同年8月には剣道五段に合格し、9月からはインドでの[[ベナレス]]体験が反映された第三巻の「[[暁の寺 (小説)|暁の寺]]」を『新潮』で連載開始した(1970年4月まで)<ref name="moku"/>。
同年10月21日の[[国際反戦デー]]における[[日本の新左翼|新左翼]]の[[新宿騒乱]]の激しさから、彼らの暴動を鎮圧するための自衛隊[[治安出動]]の機会を予想した三島は、それに乗じて「[[楯の会]]」が斬り込み隊として加勢する自衛隊国軍化・[[日本国憲法第9条|憲法9条]]改正への[[クーデター]]を計画した<ref name="yama7">「VII 近目標・治安出動に燃える」({{Harvnb|山本|1980|pp=150-175}}</ref>。この日の市街戦を交番の屋根の上から見ていた三島の身体が興奮で小刻みに震えているのを、隣にいた山本舜勝は気づいた<ref name="yama6"/>。
この日帰宅した息子の興奮ぶりを母・倭文重は、「手がつけられない程で、身振り手振りで宜しく事細かに話す彼の話を、私は面白いと思いつつもうす気味悪く聞いた。彼の心の底深く沈潜していたものが一挙に噴出した勢いだった」と述懐している<ref name="boryu"/>。三島はクーデターに恰好の機会を待ちながら[[ゲリラ]]演習訓練を続け、各大学で学生とのティーチ・インや[[防衛大学校]]での講演活動を行なった<ref name="moku"/><ref name="yama7"/>。三島と楯の会は、世間からの「玩具の兵隊さん」との嘲笑を隠れ蓑に精鋭化していった<ref name="hosa4">「第四章 邂逅、そして離別」({{Harvnb|保阪|2001|pp=189-240}})</ref>。
三島はその活動と並行し、同時期に『[[命売ります]]』や戯曲『[[わが友ヒットラー]]』、評論『反革命宣言』などを発表した。また、同年10月17日には川端康成のノーベル文学賞受賞が報道され、三島もすぐに祝いに駆けつけた<ref>{{Cite AV media ja |title=1968年ニュースハイライト (1968年(昭和43年)12月30日) |url=https://www.youtube.com/watch?v=dBUWPJcW7YM&t=34m25s |time=34m25s |medium=YouTube配信 |date=2021-09-26 |accessdate=2021-10-18}}</ref><ref>{{YouTube|w7auswKC-YE|川端康成 日本人初のノーベル文学賞受賞 三島由紀夫・石原慎太郎もお祝いに(TBSアーカイブ)}}</ref>。川端は受賞のインタビューで「運がよかった」「翻訳者のおかげ」のほか、「三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです」と答えた<ref>「川端康成氏にノーベル文学賞」(毎日新聞 1968年10月18日号)。{{Harvnb|三枝|1961}}、{{Harvnb|アルバム|1983|p=93}}</ref>。なおドナルド・キーンが後年1970年5月に[[コペンハーゲン]]の友人宅の夕食会で再会したある人物から直接聞いた話によると、この賞の選考の際ノーベル賞委員会は1957年東京で開催された[[国際ペンクラブ]]大会に参加したことのあるその人物に意見を求め、彼が三島の日本での政治的活動から「三島は比較的若いため([[左翼]]の)[[過激派]]に違いないと判断した」ため川端の方を強く推して委員会を承服させたという<ref name="chro34"/>。
[[1969年]](昭和44年)1月には『[[豊饒の海]]』第一巻の『春の雪』、2月には第二巻『奔馬』が新潮社から刊行され、[[澁澤龍彦]]や川端康成など多くの評論家や作家から高評価された<ref>井上隆史「豊饒の海【反響】」({{Harvnb|事典|2000|pp=337-339}})</ref>。2月11日の[[建国記念の日]]には、[[国会議事堂]]前で焼身自殺した[[江藤小三郎]]の壮絶な諌死に衝撃を受け、その青年の行動の〈本気〉に、〈夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評〉を三島は感得した<ref name="samurai1">「[[若きサムライのための精神講話|若きサムラヒのために]]――政治について」(PocketパンチOh! 1969年5月号)。{{Harvnb|サムライ|1996|pp=19-23}}、{{Harvnb|35巻|2003|pp=58-60}}</ref>。
同年5月13日には、[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|東大教養学部]]教室での[[全学共闘会議|全共闘]]主催の討論会に出席した。東大の学生らは荒れ果てた大学のイメージを払拭するため、解放区だからこそできる独自の授業をやろうと当時の知識人をリストアップし、その中の1人が三島だった{{refnest|group="注釈"|芥正彦の公式Youtubeチャンネルにて公開されている2009年ごろのインタビュー全6本で語られている<ref name="akuta_interview">{{Cite AV media ja|url=https://www.youtube.com/watch?v=pE2lzhICaX8|title=芥正彦 インタヴュー(2009年1月) 1/8|date=2010-06-08|medium=YouTube|access-date=2023-12-15}}</ref>。三島は[[芥正彦]]や[[小阪修平]]らと激論を交わし{{refnest|group="注釈"|芥正彦に関しては、元々行くはずではなかったが、あの時壇上にいた何人かに「芥お前がいないと負けちゃうから来てくれ!」と電話がかかってきて参加した<ref name="akuta_interview" />。}}、〈つまり天皇を天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないから、いつまでたっても殺す殺すと言っているだけのことさ。それだけさ〉と発言した<ref name="kyou">『[[討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争|討論・三島由紀夫vs.東大全共闘―〈美と共同体と東大闘争〉]]』(新潮社、1969年6月)。{{Harvnb|40巻|2004|pp=442-506}}</ref>。そして最後に〈諸君の熱情は信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じる〉と告げ、壇を後にした<ref name="kyou"/>{{refnest|group="注釈"|全共闘主催の討論会で最後に三島が語った全文は、
{{Quotation|天皇ということを口にすることも穢らわしかったような人が、この2時間半のシンポジウムの間に、あれだけ大勢の人間がたとえ悪口にしろ、天皇なんて口から言ったはずがない。言葉は言葉を呼んで、[[翼]]をもってこの部屋の中を飛び廻ったんです。この[[言霊]]がどっかにどんなふうに残るか知りませんが、私がその言葉を、言霊をとにかくここに残して私は去っていきます。これも問題提起にすぎない。そして私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい。|三島由紀夫「[[討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争]]」<ref name="kyou"/>}}}}。また三島は討論終了後、芥ら学生を〈砂漠の住人〉と評した文章を残している<ref name="kyou" />。なお、その後三島は芥の書いた三島評などを読んでいたという話がある<ref name="akuta_interview" />。後年、芥は当時について振り返り、三島との友愛やその後の時代についてなどをインタビューで回想している<ref name="akuta_interview" />。
6月からは、[[勝新太郎]]、[[石原裕次郎]]、[[仲代達矢]]らと共演する映画『[[人斬り (映画)|人斬り]]』([[五社英雄]]監督)の撮影に入り、[[薩摩藩]]士の[[田中新兵衛]]役を熱演した。大阪行きの飛行機内で、仲代が三島に「作家なのにどうしてボディビルをしているんですか?」と尋ねると、「僕は死ぬときに[[切腹]]するんだ」「切腹してさ、脂身が出ると嫌だろう」と返答されたため、仲代は冗談の一つだと思って聞いていたという<ref>[[仲代達矢]]「時代の証言者〈役者の条件20〉――三島由紀夫 肉体の美学」(読売新聞 2015年6月29日号)</ref>。
この頃、三島はすでに何人かの楯の会会員らに居合を習わせ、先鋭の9名(持丸博、[[森田必勝]]、倉持清、[[小川正洋]]、[[小賀正義]]など)に日本刀を渡し、「決死隊」を準備していた<ref name="yama7"/>。これと並行し、自衛隊の寄宿舎での一日を綴った私小説『[[蘭陵王 (三島由紀夫)|蘭陵王]]』、戯曲『[[癩王のテラス]]』などが発表され、日本の[[オデュッセイア|オデッセイ]]は[[源為朝]]だという意気込みで、歌舞伎『[[椿説弓張月 (歌舞伎)|椿説弓張月]]』も書き上げた<ref name="moku"/>。
しかし、7月下旬頃から古参メンバーの中辻や万代と、雑誌『論争ジャーナル』の資金源(中辻らが[[田中清玄]]に資金援助を求めていたこと)を巡って齟齬が生じ、8月下旬に彼らを含む数名が楯の会を正式退会した<ref name="haya17"/><ref name="mura42"/>。その後、持丸も会の事務を手伝っていた[[松浦芳子]]との婚約を機に、退会の意向を示した<ref name="yama8">「VIII 遠・近目標混淆のなかで」({{Harvnb|山本|1980|pp=176-205}}</ref>。三島は「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」と説得したが、駄目だった<ref name="mura42"/>。持丸を失った三島の落胆は大きく、山本に「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったという<ref name="mura42"/><ref name="yama8"/>。持丸の退会により、10月12日から森田必勝が学生長となった。
この年の10月21日の国際反戦デーの[[10.21国際反戦デー闘争 (1969年)|左翼デモ]]は前年とは違い、前もって配備されていた警察の[[機動隊]]によって簡単に鎮圧された。三島は自衛隊治安出動が不発に終わった絶望感から、未完で終わるはずだった「[[暁の寺 (小説)|暁の寺]]」を〈いひしれぬ不快〉で書き上げた<ref name="nanika11">「小説とは何か 十一」(波 1970年5・6月号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=737-742}}</ref><ref name="inoue75">「第七章 神々の黄昏――『暁の寺』と国際反戦デー」({{Harvnb|井上隆|2010|pp=180-189}})</ref>。これで、クーデターによる[[憲法改正]]と自衛隊国軍化を実現する〈作品外の現実〉に賭けていた夢はなくなった<ref name="nanika11"/><ref name="inoue75"/><ref name="geki">「[[檄 (三島由紀夫)|檄]]」(市ヶ谷駐屯地にて撒布 1970年11月25日)。{{Harvnb|36巻|2003|pp=402-406}}</ref>。
{{Quotation|「暁の寺」の完成によつて、それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。|三島由紀夫「小説とは何か 十一」<ref name="nanika11"/>}}
この頃、自分が死ぬかもしれないことを想定していた三島はもしもの場合を考え、川端康成宛てに〈死後、子供たちが笑はれるのは耐へられません。それを護つて下さるのは川端さんだけ〉だと、8月から頼んでいた<ref name="sato15"/><ref name="K440804">「川端康成宛ての書簡」(昭和44年8月4日付)。{{Harvnb|川端書簡|2000|pp=196-200}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=306-309}}</ref>。
同年10月25日、[[蓮田善明]]の25回忌に三島は『蓮田善明全集』刊行の協力要請を[[小高根二郎]]に願い出て<ref name="ichi1">「第一章 その死をめぐって」({{Harvnb|松本健一|1990|pp=7-58}})</ref>、連載終了した小高根の「蓮田善明とその死」に〈今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません〉と返礼し、〈蓮田氏と同年にいたり、なほべんべんと生きてゐるのが恥ずかしくなりました〉と綴った<ref>「小高根二郎宛ての書簡」(昭和43年11月8日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=221-222}}</ref>
11月3日、森田を学生長とした楯の会結成1周年記念パレードが[[国立劇場]]屋上で行なわれ、[[藤原岩市]]陸将らが祝辞を述べ、女優の[[村松英子]]や[[倍賞美津子]]から花束を贈呈された<ref name="s-nen6"/><ref>「年譜」(昭和44年11月3日)。{{Harvnb|42巻|2005|pp=313-314}}</ref>。三島はこのパレードの祝辞を前々から川端に依頼し<ref name="K440804"/>、10月にも直に出向いてお願いしたが、彼から「いやです、ええ、いやです」とにべも無く断られ、村松剛に涙声でその悲憤と落胆を訴えたという<ref name="murasei11">「三島の死と川端康成」(新潮 1990年12月号)。「I 三島由紀夫――その死をめぐって 三島の死と川端康成」({{Harvnb|村松剛|1994|pp=9-29}})</ref>。
=== 最終章――天人五衰 ===
[[1970年]](昭和45年)1月1日、三島邸で開かれた新年会で、[[丸山明宏]]が三島に[[霊]]が憑いていると言った。三島が何人かの名前を矢継ぎ早に挙げて訊くと、[[磯部浅一]]のところで「それだ!」と丸山は答え、三島は青ざめたという<ref name="mura43"/><ref name="azusa5"/>。その昔、1959年(昭和34年)7月に三島邸で[[奥野健男]]と[[澁澤龍彦]]らが来て、[[コックリさん]]をしている最中にも、「二・二六の磯部の霊が邪魔している」と三島が大真面目に呟いていたとされる<ref name="okuno18">「『英霊の声』の呪詛と『荒野より』の冷静」({{Harvnb|奥野|2000|pp=391-420}})</ref>。
1月17日、三島は学習院時代の先輩・[[坊城俊民]]夫妻との会食の席で、50歳になったら[[藤原定家]]を書きたいという今後の抱負を語った<ref name="bojo3">「三島由紀夫の手紙」({{Harvnb|坊城|1971}})</ref>。2月には、未知の男子高校生の訪問があり、「先生はいつ死ぬんですか」と質問され、このエピソードを元に「[[荒野より (小説)#独楽|独楽]]」を書いた<ref>「ドナルド・キーン宛ての書簡」(昭和45年2月27日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=447-449}}</ref><ref name="koma">「独楽」(辺境 1970年9月号)pp.89-91。{{Harvnb|36巻|2003|pp=311-315}}</ref>。3月頃、万が一の交通事故死のためという話で、知人の弁護士・斎藤直一に遺言状の正式な作成方法を訊ねていた三島は<ref>「狂気にあらず ■第十二回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=215-220}})</ref>、同時期には、常にクーデター計画に二の足を踏んでいた[[山本舜勝]]と疎遠になり、4月頃から[[森田必勝]]ら先鋭メンバーと具体的な最終決起計画を練り始めた(詳細は[[三島事件#三島由紀夫と自衛隊]]を参照)。
3月頃、三島は[[村松剛]]に、「[[蓮田善明]]は、おれに日本のあとをたのむといって出征したんだよ」と呟き、「『[[豊饒の海]]』第四巻の構想をすっかり変えなくてはならなくなってね」とも洩らしたという<ref name="mura43"/>。刊行された[[小高根二郎]]の『蓮田善明とその死』を携えて山本舜勝宅を訪問した三島は、「私の今日は、この本によって決まりました」と献呈した<ref name="yama10">「X 決起の黙契軋み出す」({{Harvnb|山本|1980|pp=223-242}}</ref>。
第四巻の取材のため、三島は5月に[[清水港]]、[[駿河湾]]、6月に[[三保の松原]]に赴いてタイトルを決定し、7月から「[[天人五衰 (小説)|天人五衰]]」を連載開始した<ref name="moku"/>。6月下旬には、自分の死後の財産分与や、『[[愛の渇き]]』と『[[仮面の告白]]』の著作権を母・倭文重に譲渡する内容の遺言状を作成し<ref name="s-nen6"/>、7月5日に森田ら4名との決起を11月の楯の会定例会の日に定めた<ref name="date2">「国会を占拠せよ ■第二回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=59-82}})</ref>。
なおこの時期、5月にドナルド・キーンがコペンハーゲンで1968年ノーベル文学賞の選考秘話(前段の節参照)を知り、こともあろうか三島が「左翼の過激派」に間違えられたせいで賞を逸したなんてあまりにも馬鹿げていると驚いたため、その後「そのことを三島に話さずにはいられなかった」が、キーンからその話を聞いている時の三島は「笑わなかった」という<ref name="kee-k"/>。
7月7日の新聞では、「[[果たし得ていない約束―私の中の二十五年|果たし得てゐない約束]]」と題して自身の戦後25年間を振り返り、〈その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど「生きた」とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ〉と告白し、〈私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする〉と戦後社会への決別を宣言した<ref>「[[果たし得ていない約束―私の中の二十五年|果たし得てゐない約束――私の中の二十五年]]」([[サンケイ新聞]]夕刊 1970年7月7日号)。{{Harvnb|防衛論|2006|pp=369-373}}、{{Harvnb|36巻|2003|pp=212-215}}</ref>。
同じ7月、三島は[[保利茂]][[内閣官房長官|官房長官]]と[[中曽根康弘]]防衛庁長官に『武士道と軍国主義』『正規軍と不正規軍』という防衛に関する文書を政府への「[[建白書]]」として託したが、中曽根に阻止されて閣僚会議で[[佐藤栄作]]首相に提出されず葬られた<ref name="Y450810">「山本舜勝宛ての書簡」(昭和45年8月10日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=946-947}}</ref>。川端宛てには、〈時間の一滴々々が葡萄酒のやうに尊く感じられ、空間的事物には、ほとんど何の興味もなくなりました〉と綴った<ref>「川端康成宛ての書簡」(昭和45年7月6日付)。{{Harvnb|川端書簡|2000|pp=203-204}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=309-310}}</ref>。
同年8月、家族と共に伊豆の[[下田市]]に旅行し、帰京後は執筆取材のために[[新富 (東京都中央区)|新富町]]の[[帝国データバンク|帝国興信所]]を訪れた。8月下旬頃にはすでに「天人五衰」の最終回部分(26-30章)をほぼ書き上げ、原稿コピーは新潮社出版部長・新田敞に預けた<ref name="s-nen6"/>。9月には評論『革命哲学としての[[陽明学]]』を発表し、同時期に対談集『[[尚武のこころ]]』と『[[源泉の感情]]』も出版した<ref name="chosho"/>。
9月3日に[[ヘンリー・スコット・ストークス]]宅の夕食会に招かれた三島は食事後、ヘンリーに暗い面持ちで「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている」という不思議な喩え話をした<ref name="henry0">「プロローグ――個人的な記憶」({{Harvnb|ストークス|1985|pp=3-30}})</ref>。
{{Quotation|三島は再び暗い話を始めた。日本にはいろんな呪いがあり、歴史上に大きい役割を果たしてきたと言う。[[近衛家]]は、九代にわたって[[嗣子]]が夭折した云云。今夜は様子が違う。延々とのろいの話。日本全体が呪いにかかっていると言い出す。日本人は金に目がくらんだ。精神的伝統は滅び、[[物質主義]]がはびこり、醜い日本になった…と言いかけて、奇妙な比喩を持ち出した。「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている」 これを言う前に、一瞬だが、躊躇したような気がした。さらにこう説明した。「日本の胸には、緑色の蛇が喰いついている。この呪いから逃れる道はない」 ブランデーを飲んでいたが、酔って言ったのではないことは確実だ。どう解釈すればいいのか。|[[ヘンリー・スコット・ストークス]]「三島由紀夫 死と真実」<ref name="henry0"/>}}
この時期には、[[ドナルド・リチー]]や『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』の翻訳者・[[メレディス・ウェザビー]]とも頻繁に会い、リチーが楯の会のことを[[ボーイスカウト]]だと揶揄すると、「数少ない彼らボーイスカウトと僕は、秩序を保つ核となるんだ」と言い、[[官僚主義]]に屈した新政府と戦い、敗けると判っていながらも若き兵士たちと行動を共にした[[西郷隆盛]]を「最後の真の[[侍]]だ」と敬愛していたという<ref>[[ドナルド・リチー]]「三島の思い出――最後の真の侍――」({{Harvnb|9巻|2001}}月報)</ref>。
10月には、「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と村松剛に告白し、それに対し村松が「家庭の幸福は文学の敵。それじゃあ、[[太宰治]]と同じじゃないか」と指摘すると、三島は「そうだよ、おれは太宰治と同じだ。同じなんだよ」と言い、小市民的幸福を嫌っていたとされるが<ref name="mura43"/>、自分の死後も子供たちに毎年クリスマスプレゼントが届くよう百貨店に手配し<ref>「知られざる家庭人・三島由紀夫」([[女性自身]] 1970年12月12日号)。</ref>、子供雑誌の長期購読料も出版社に先払いして毎月届けるように頼んでいた<ref name="azusa4"/>。[[伊藤勝彦]]によると、三島はある種の芸術家にみられるような、家庭を顧みないような人間ではなかったという<ref name="itou17">「第一章 哲学者の三島由紀夫論――7 三島事件の謎をめぐって」({{Harvnb|伊藤|2006|pp=50-57}})</ref>。
10月に再演された『[[薔薇と海賊]]』の第2幕目の終わりで、三島は舞台稽古と初日とも泣いていた<ref name="nakaj">[[中山仁]]「三島戯曲を演じる」(英霊の聲・8{{Harvnb|三島研究}}2009年pp.123-148)。「三島戯曲の舞台」として{{Harvnb|同時代|2011|pp=303-340}}</ref><ref name="eiko13">「夏のある日」({{Harvnb|村松英|2007|pp=112-123}})</ref><ref name="azusa6">「第六章」({{Harvnb|梓|1996|pp=206-232}})</ref>。その場面の主人公・帝一の台詞は、〈船の帆は、でも破けちやつた。帆柱はもう折れちやつたんだ〉、〈僕は一つだけ嘘をついてたんだよ。王国なんてなかったんだよ〉だった<ref name="s-nen6"/>。
11月17日、三島は清水文雄宛てに、〈「豊饒の海」は終りつつありますが、「これが終つたら……」といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。[[カンボジア]]の[[バイヨン]]大寺院のことを、かつて「[[癩王のテラス]]」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした〉と記している<ref name="S451117">「清水文雄宛ての書簡」(昭和45年11月17日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=628-630}}</ref>{{refnest|group="注釈"|[[辻井喬]]は『癩王のテラス』の中の台詞、〈そしてお寺の名も、共に戦つて死んだ[[英霊]]たちのみ魂を迎へるバイヨンと名づけられた。バイヨン。王様はあの目ざましい戦の間に、討死してゐればよかつたとお考へなのだらう〉という言葉には、戦後に生き残った三島の心境が吐露されていると見ている<ref>[[辻井喬]]「三島由紀夫の復権」({{Harvnb|3巻|2001}}月報)</ref>。}}。
11月21日頃、いくら遅くても連絡してほしいという三島からの伝言を受けていた[[藤井浩明]]は深夜、三島に電話した。イタリアで上映されて好評の『[[憂国]]』などの話をし、最後に藤井がまた連休明けに連絡する旨を伝えて切ろうとすると、いつもは快活に電話を切る三島が「さようなら」とぽつりと言ったことが、何となく気にかかったという<ref>藤井浩明「私の勲章」({{Harvnb|4巻|2001}}月報)</ref>。
11月22日の深夜午前0時前に[[横尾忠則]]が三島に電話し、横尾が装幀を担当した『新輯 [[薔薇刑]]』のイラストについて話題が及ぶと、その絵を三島は「俺の[[涅槃像]]だろう」と言って譲らなかったうえ、療養中の横尾を気遣って「足の病気は俺が治して歩けるようにしてやる」と言ったという<ref name="shino">[[横尾忠則]]『死の向こうへ』(光文社知恵の森文庫、2008年11月)</ref><ref name="yokoo2">横尾忠則「三島由紀夫氏のこと」(『横尾忠則 画境の本懐(道の手帳)』河出書房新社、2008年3月)</ref>。
11月24日、決起への全準備を整えた三島と森田、[[小賀正義]]、[[古賀浩靖]]、[[小川正洋]]は、午後6時頃から[[新橋 (東京都港区)|新橋]]の料亭「[[末げん]]」で鳥鍋料理を注文し、最後の会食をした<ref name="date2"/>。当時「末げん」の若[[女将]]になったばかりの丸武子によれば、丸が挨拶をするためにふすまを開けた時、三島は目をつぶって考え事をしていたという。会食を終えた帰り際では、玄関で「またお越しくださいませ」と丸が声をかけると、三島は「また来いと言われてもなぁ」と返した後、「こんな綺麗な女将さんがいるなら、あの世からでも来るか」と続けたという<ref>[https://web.archive.org/web/20201123221213/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020112300319&g=soc 「あの世からでも来るか」おかみ、三島の一言胸に―「最後の晩餐」は鳥鍋] [[時事通信]](2020年11月24日)2020年12月30日閲覧</ref>。午後8時頃に店を出て、小賀の運転する車で帰宅した三島は、午後10時頃に離れに住む両親に就寝の挨拶に来て、何気ない日常の会話をして別れたが、肩を落として歩く後姿が疲れた様子だったという<ref name="azusa1"/>。
=== 自衛隊突入決行と自決 ===
{{main|三島事件}}
[[ファイル:Mishima Yukio 1969.jpg|thumb|200px|バルコニーで演説(1970年11月25日、市ヶ谷駐屯地にて)]]
[[1970年]](昭和45年)[[11月25日]]、三島は[[陸上自衛隊]][[防衛省市ヶ谷地区|市ヶ谷駐屯地]]内[[東部方面総監部]]の総監室を[[森田必勝]]ら楯の会会員4名と共に訪れ、面談中に突如、[[益田兼利]]総監を人質にして籠城すると、バルコニーから[[檄 (三島由紀夫)|檄文]]を撒き、自衛隊の決起を促す演説をした直後に[[切腹|割腹自決]]した。{{没年齢|1925|1|14|1970|11|25}}。現場はあまりにも凄惨であったため、当局の発表も、報道にも自然に抑制がかかり、現場の様子がリアルに表に出るのは、14年後写真雑誌『[[FRIDAY (雑誌)|フライデー]]』が、[[警視庁]][[警視庁公安部|公安部]]の[[右翼]]担当部員が保管していた現場写真(三島の生首の顔)をスクープというかたちで掲載した時であった。警視庁公安部員は、[[切腹]]から[[斬首]]に至るまでの一部始終を、止めに入ったり逮捕したりすることなく、廊下側の天窓ごしに全部ウォッチしながら、証拠写真を相当数撮り続けていた([[立花隆]]によると、公安部員は右翼担当・左翼担当関わらず、どんな重大な事件に遭遇しても、それに直接介入はしないという)<ref name="bunshun">{{Cite web ja|date=2021-06-24|url=https://bunshun.jp/articles/-/46399?page=2|title=「死を恐れるのは人間の本能です」10年前、立花隆が“最後のゼミ生”に伝えていたメッセージ|publisher=文春オンライン|accessdate=2021-07-24}}</ref>。
決起当日の朝10時30分、担当編集者の[[小島千加子|小島喜久江]]は平岡家のお手伝いさんから間接的に第四巻「[[天人五衰 (小説)|天人五衰]]」の原稿を渡された<ref name="koji1"/>{{refnest|group="注釈"|小島は10分ほど遅れて到着したが、三島の死後にお手伝いさんに確認したところ、三島は当日の朝、「今日は10時過ぎに出かける。そのあとで小島さんが来るからこれを渡すように」と指示して出ていったという<ref name="koji1"/>。}}。小島が編集部に戻って原稿を読むと、予定と違って最終回となっており、巻末日付が11月25日で署名がなされていた<ref name="koji1"/>。
この11月25日という決行日については、[[大正天皇]]の重患に伴い[[昭和天皇]]が[[摂政]]に就いた日であることと、天皇が「[[人間宣言]]」をしたのが45歳だったことから、同じ年齢で人間となった天皇の身代りになって死ぬことで、「神」を復活させようという意味があったと考察する研究や<ref name="ando4"/><ref name="shibata8">「第八章 〈神〉となるための決起」({{Harvnb|柴田|2012|pp=231-267}})</ref>、三島が尊敬していた[[吉田松陰]]の刑死の日を[[新暦]]に置き換えた日に相当するという見解もある<ref name="azusa1"/><ref>{{Harvnb|林・伊沢|1971}}</ref>。
また、11月25日は三島が戦後を生きるために〈飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る〉という〈生の回復術〉〈裏返しの自殺〉<ref name="kamnote"/> として発表した『[[仮面の告白]]』の起筆日であることから、三島が戦後の創作活動のすべてを解体して〈死の領域〉に戻る意味があったとする考察もある<ref>「第10章 虚無の極北の小説――十一月二十五日」({{Harvnb|井上隆|2010|pp=245-250}})</ref>。
この日、[[細川護立]]の葬儀で東京に居た[[川端康成]]は、三島自決の一報を受けて現場にすぐ駆けつけたが、遺体とは対面できなかった<ref>川端康成「三島由紀夫」({{Harvnb|臨時|1971}})。{{Harvnb|群像18|1990|pp=229-231}}</ref>。呆然と憔悴しきった面持ちの川端は報道陣に囲まれ、「もったいない死に方をしたものです」と答えた<ref>川端康成([[週刊サンケイ]] 1970年12月31号)。{{Harvnb|保阪|2001|p=86}}</ref>。三島の家族らは動転し、[[平岡瑤子|瑤子]]夫人はショックで寝込んでしまった<ref name="tsuji">辻井喬「辛すぎた四十五年の生涯」{{Harvnb|中条・続|2005|pp=55-102}}</ref>。
三島の[[辞世の句]]は、{{Quotation|'''{{ruby|益荒男|ますらを}}が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜'''}}{{Quotation|'''散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く{{ruby|小夜嵐|さよあらし}}'''}}の二首。
三島の遺体は翌日の26日に[[慶応義塾大学病院]][[法医学]]解剖室にて、斎藤銀次郎教授により解剖執刀され、死因は「頸部割創による離断」と認定された<ref name="s-nen1"/><ref name="kaibo">斎藤銀次郎教授「[[慶応大学病院]][[法医学]]部 解剖所見」(1970年11月26日)。{{Harvnb|日録|1996|p=423}}</ref>。また、三島の[[ABO式血液型|血液型]]はA型で<ref name="s-nen1"/><ref name="kaibo"/>、身長は163cmであった<ref name="kaibo"/>。
自宅書斎からは家族や知人宛ての遺書のほか、机上に「[[果たし得ていない約束―私の中の二十五年|果たし得てゐない約束――私の中の二十五年]]」([[サンケイ新聞]] 昭和45年7月7日号)と「世なおし70年代の百人三島由紀夫」([[朝日新聞]] 昭和45年9月22日号)の切り抜きがあり、〈'''限りある命ならば永遠に生きたい. 三島由紀夫'''〉という遺書風のメモも見つかった<ref>「没後」({{Harvnb|日録|1996|pp=423-426}})</ref>。
[[介錯]]に使われた自慢の名刀「[[孫六兼元|関孫六]]」は刃こぼれをしていた<ref>「関の孫六の刃こぼれ ■第八回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=151-156}})</ref>。刀は当初白鞘入りだったが、三島が特注の[[軍刀]]拵えを作らせ、それに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれていたうえ、容易に抜けないよう両側が潰されていた<ref name="azusa1"/>。刀を贈った友人の[[舩坂弘]]は、死の8日前の「三島由紀夫展」(11月12日から17日まで[[東武百貨店]]で開催)で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという<ref name="funa"/>。
[[武田泰淳]]は、三島と自身とは文体も政治思想も違うが、その「純粋性」を常に確信していたとし<ref>武田泰淳([[週刊現代]] 1970年12月12日号)。{{Harvnb|年表|1990|pp=230-231}}、{{Harvnb|保阪|2001|p=86}}</ref>、以下のような追悼文を贈った<ref name="takeda"/>{{refnest|group="注釈"|武田は三島の自決2か月前から、戦中の精神病院を舞台にした長編「富士」を『[[海 (雑誌)|海]]』に連載して11月20日に脱稿したが、その内容が三島を彷彿とさせる患者(自分を宮様と自称し、皇族宅に乱入して「無礼者として殺せ」と要求し、最後は自決)が描写されていたため、担当編集者・[[村松友視]]は「この発表タイミングでは、『三島事件』をモデルにしたと読者に思われる」と懸念したが、武田はこの偶然に驚きつつ刊行後は「三島のおかげで、この小説を書きあげることができた」と語った<ref>[[村松友視]]『夢の始末書』(角川書店、1984年8月)</ref>。}}。
{{Quotation|息つくひまなき刻苦勉励の一生が、ここに完結しました。疾走する長距離ランナーの孤独な肉体と精神が蹴たてていった土埃、その息づかいが、私たちの頭上に舞い上り、そして舞い下りています。あなたの忍耐と、あなたの決断。あなたの憎悪と、あなたの愛情が。そしてあなたの哄笑と、あなたの沈黙が、私たちのあいだにただよい、私たちをおさえつけています。それは美的というよりは、何かしら道徳的なものです。<br />あなたが「[[不道徳教育講座]]」を発表したとき、私は「こんなに生真じめな努力家が、不道徳になぞなれるわけがないではないか」と直感したものですが、あなたには生まれながらにして、道徳ぬきにして生きて行く生は、生ではないと信じる素質がそなわっていたのではないでしょうか。あなたを恍惚とさせようとする「美」を押しのけるようにして、「道徳」はたえずあなたをしばりつけようとしていた。|[[武田泰淳]]「三島由紀夫氏の死ののちに」<ref name="takeda"/>}}
翌日の11月26日、三島が[[伊沢甲子麿]]に託した遺言により、遺体には楯の会の制服が着せられ、手には胸のあたりで軍刀が握りしめられた<ref name="azusa1"/><ref>「武人としての死 ■第九回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=157-196}})</ref>。どんなに変わり果てた無惨な姿かと父・梓は心配だったが、胴と首も縫合され、警察官たちの厚意によって顔も綺麗に化粧が施されていた<ref name="azusa1"/>。密葬は自宅で行われ、家族は柩に原稿用紙や愛用の万年筆も添え、[[品川区]]の[[桐ヶ谷斎場]]で三島は荼毘に付された<ref name="azusa1"/>。なお、三島は律儀に[[国民年金]]に加入していて死ぬまで保険料をきちんと払っていたという<ref name="okuno16">「『風流夢譚』事件」({{Harvnb|奥野|2000|pp=370-379}})</ref>。
[[ファイル:Grave of Yukio Mishima.jpg|thumb|left|230px|<center>三島由紀夫の墓</center>]]
翌[[1971年]](昭和46年)[[1月14日]]、三島の誕生日であるこの日、[[府中市 (東京都)|府中市]][[多磨霊園|多摩霊園]]の平岡家墓地に遺骨が埋葬された<ref name="azusa1"/>。自決日の49日後が誕生日であることから、三島が転生のための[[中有]]の期間を定めていたのではないかという説もある<ref>「第六章 三島由紀夫の遺言状」({{Harvnb|小室|1985|pp=199-230}})</ref>。
同年1月24日に、[[築地本願寺]]で告別式(葬儀委員長・川端康成、弔辞・[[舟橋聖一]]ほか)が行われた。8200人以上の一般会葬者が参列に訪れ、文学者の葬儀としては過去最大のものとなった<ref name="s-nen8">「第八章」({{Harvnb|年表|1990|pp=229-245}})</ref>。[[戒名]]は「'''彰武院文鑑公威居士'''」<ref name="azusa1"/>。遺言状には「必ず武の字を入れてもらいたい。文の字は不要。」とあったが、梓は文人として生きてきた息子の業績を考えて「文」の字も入れた<ref name="azusa1"/>。
告別式には、右翼の仲間と思われることへの懸念から参列を回避した知人らも多く、[[ドナルド・キーン]]も友人らに助言されて参列を見合わせたが、キーンはそのことを後悔しているという<ref name="chro33">「33 三島由紀夫の自決」({{Harvnb|キーン|2007|pp=251-259}})</ref>。
人質となった益田総監は、裁判の公判で「被告たちに憎いという気持ちは当時からなかった」と語ったうえ、「国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい。憎いという気持ちがないのは、純粋な気持ちを持っておられたからと思う」と陳述した<ref>「国を思う純粋な心に ■第五回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=109-116}})</ref>。
なお、川端政子(川端康成の養女)の夫・[[川端香男里]]によると、三島が康成に宛てた手紙の最後のものは、11月4日から6日の間に自衛隊[[富士学校]][[滝ヶ原駐屯地]]から出された鉛筆書きのもので、康成によって焼却されたとされる<ref name="kaori">[[川端香男里]]・佐伯彰一の対談「恐るべき計画家・三島由紀夫」({{Harvnb|川端書簡|2000|pp=205-237}}後記)</ref>。香男里によると、「文章に乱れがあり、これをとっておくと本人の名誉にならないからすぐに焼却してしまった」とされる<ref name="kaori"/>。しかし、これは康成の名誉にならないから焼却されたのではないかという見方もある<ref name="ando4"/><ref>[https://web.archive.org/web/20160305043012/http://melma.com/backnumber_149567_5540801/ 西法太郎「三島由紀夫と川端康成(補遺2)」(三島由紀夫の総合研究、2012年4月17日・通巻第636号)]</ref>{{refnest|group="注釈"|1972年(昭和47年)4月に川端康成も自殺するが、その数日前、三島の父・梓は川端からの長文の手紙をもらったという。梓は、「川端さんのご性格のまったく意外な点が実によくあらわれていて興味をひかれました」とし、[[家宝]]として永く保存していくと語った<ref name="botsu4"/>。}}。
三島と森田の[[命日|忌日]]には、「三島由紀夫研究会」による追悼慰霊祭「[[憂国忌]]」が毎年行われている。三島事件に関わって4年の実刑判決を受けた楯の会3人([[小賀正義]]、[[小川正洋]]、[[古賀浩靖]])が仮出所した翌年の[[1975年]](昭和50年)以降には、元楯の会会員による慰霊祭も[[神道]]形式で毎年行われている<ref name="higu4">「第四章 その時、そしてこれから」({{Harvnb|火群|2005|pp=111-188}})</ref>。
1999年(平成11年)7月3日には、三島の著作や資料を保管する「[[三島由紀夫文学館]]」が開館された。2008年(平成20年)3月1日には、[[富山県]][[富山市]]向新庄町二丁目4番65号に「隠し文学館 花ざかりの森」が開館された<ref>[http://www.3ihanazakari.com/aisatsu.html 隠し文学館 花ざかりの森]</ref>。
== 文学碑・追悼碑 ==
[[三重県]][[鳥羽市]]の[[神島 (三重県)|神島]]港に『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』の文学碑があり、「三島文学 潮騒の地」と刻まれている。
1971年(昭和46年)1月30日、[[松江日本大学高等学校]](現・[[立正大学淞南高等学校]])の玄関前に「三島由紀夫・森田必勝烈士顕彰碑」が建立され、除幕式が行なわれた<ref name="azusa6"/>。碑には「誠」「維新」「憂国」「改憲」の文字が刻まれている<ref name="azusa6"/>。
同年2月11日、三島の本籍地の[[兵庫県]][[印南郡]][[志方町]](現・[[加古川市]]志方町)の八幡神社境内で、地元の[[生長の家]]の会員による「三島由紀夫を偲ぶ追悼慰霊祭」が行われた<ref name="nich46">「昭和46年」({{Harvnb|日録|1996|pp=427-432}})</ref>。
同年11月25日、[[埼玉県]][[大宮市]](現・[[さいたま市]])の[[宮崎清隆]](元[[憲兵 (日本軍)|陸軍憲兵]]曹長)宅の庭に「三島由紀夫文学碑」が建立された。揮毫は三島瑤子([[平岡瑤子]])<ref name="s-nen8"/><ref name="nen46">「年譜 昭和46年」{{Harvnb|42巻|2005|pp=334-338}}</ref>。
[[陸上自衛隊富士学校]][[滝ヶ原駐屯地]]の第2中隊隊舎前に追悼碑が建立されている<ref name="yama13">「あとがき」({{Harvnb|山本|1980|pp=290-298}})</ref>。碑には、「深き夜に 暁告ぐる くたかけの 若きを率てぞ 越ゆる峯々 公威書」という三島の句が刻まれている<ref name="yama13"/>。
1973年(昭和48年)6月10日、[[静岡県]][[賀茂郡]][[賀茂村 (静岡県)|賀茂村]](現・[[西伊豆町]])の[[黄金崎]]に『[[獣の戯れ]]』の一節が刻まれた文学碑が建立され、除幕式が行われた。揮毫は[[平岡梓]]<ref name="s-nen8"/>。
1983年(昭和58年)1月9日、静岡県[[富士宮市]]郊外に「三島由紀夫神社」が建立された<ref name="s-nen8"/><ref>「昭和58年」({{Harvnb|日録|1996|pp=446-447}})</ref>。
1986年(昭和61年)、兵庫県印南郡志方町(現・加古川市志方町)の玉乃緒地蔵尊のある地に「三島由紀夫先生慰霊の碑」が建立された。[[揮毫]]は県知事・[[坂井時忠]]<ref name="s-nen8"/><ref name="mange15"/>。
1991年(平成3年)11月、[[新潟県]][[北魚沼郡]][[湯之谷村]](現・[[魚沼市]])の[[枝折峠]]に『[[沈める滝]]』の文学碑が村の有志により、建立された。高さ1メートル、幅2メートルあまりの[[安山岩]]に、[[駒ケ岳]]の風景描写の一節が刻まれている<ref>「年譜 平成3年」{{Harvnb|42巻|2005|pp=358-359}}</ref>。
== 作風・文学主題・評価 ==
=== 作風 ===
三島由紀夫の主要作品は、[[修辞技法|レトリック]]を多様に使用しているところに特徴があり、構成なども緊密に組み立てられ、[[古代ギリシア]]の『[[ダフニスとクロエ (ロンゴス)|ダフニスとクロエ]]』から着想した『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』、[[エウリピデス]]の[[ギリシャ悲劇]]や、[[能楽]]・[[歌舞伎]]、[[ジャン・ラシーヌ|ラシーヌ]]のフランス古典劇などを下敷きにした戯曲や小説、『[[浜松中納言物語]]』を典拠とした『[[豊饒の海]]』など、古典からその〈源泉〉を汲み上げ、新しく蘇らせようとする作風傾向がある<ref name="radio6"/><ref name="taiyo"/><ref name="nani">「日本とは何か」([[大蔵省]]百年記念講演 1969年10月15日。文藝春秋 1985年12月号)。{{Harvnb|35巻|2003|pp=678-701}}</ref><ref name="seikai10">「他者の言説――中上健次と三島由紀夫/あるいはオリュウノオバと本多邦繁」([[日本赤十字愛知短期大学|愛知短期大学]] 国語国文 1995年3月号)。{{Harvnb|青海|2000|pp=264-277}}</ref>。
上記のような傾向から、その形式的な構成の表現方法は、近代日本文学の主な担い手だった[[私小説]]作家たちより、西洋文化圏の作家に近い面がある<ref name="okuno1"/>。また、社会的な事件や問題を題材にするなど、日本の[[第一次戦後派作家]]や[[第二次戦後派作家]]と共通する点はあったものの、その作風は彼らと違って[[大東亜戦争]]時代への嫌悪はなく、社会進歩への期待や渇望、[[マルクス主義]]への共感を伴った未来幻想がなかったため、そういった面では明日など信じていない[[太宰治]]、[[坂口安吾]]、[[石川淳]]、[[檀一雄]]などの[[無頼派]]に近い傾向がある<ref name="okuno1"/>。
上述でも判るように、三島は[[古代]]から[[中世]]、[[近世]]の日本文学に造詣が深く、[[耽美主義|耽美的]]な傾向の点では[[江戸]]末期の文学の流れをくむ[[谷崎潤一郎]]、夭折美学や感覚的な鋭さの面では[[川端康成]]とも大きな共通性があるが<ref name="hase"/><ref>[[武田勝彦]]「谷崎潤一郎」({{Harvnb|旧事典|1976|p=249}})</ref>、文体的には[[堀辰雄]]や[[森鷗外]]の影響を受けており<ref name="hase"/><ref name="kaizo"/>、その文学の志向や苦闘は、日本的風土と西洋理念との狭間で格闘した[[横光利一]]の精神に近いことが指摘されている<ref>[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]](三島由紀夫との対談)「美のかたち――『金閣寺』をめぐって」(文藝 1957年1月号)。{{Harvnb|39巻|2004|pp=277-297}}</ref><ref>[[神谷忠孝]]「横光利一」({{Harvnb|旧事典|1976|pp=440-441}})</ref>。
『[[午後の曳航]]』などを翻訳したことのある[[ジョン・ネイスン]]は、三島は「(日本が[[日本の開国|開国]]により)国をこじあけられて以来ずっと病んできた文化的両価性の範型」と見なせるとし<ref name="nathjo">「新版への序文」({{Harvnb|ネイスン|2000}})</ref>、日本が「生来的・先天的・[[伝統]]基底的な」自国文化と、「外来で扱いにくい」異種の西欧文化を和解させて「真正の〈自己〉を見出そうとする国民的争闘」、東洋と西洋の「綜合の模索」の同一パターンの反復であるとしている<ref name="nathjo"/>。
そしてネイスンは、「たしかに、三島の何とも優美で華麗な表現力をそなえた日本語は、多少熟れすぎではあったが、骨の髄まで日本的であった。三島が毎夜、真夜中から明け方までかけて紡ぎ出した日本語こそが彼にとって真の重大事であり、その一生を規定した」とし<ref name="nathjo"/>、「(三島の死は)一つの国民的苦悩の明快で適切無比な表現であったことも理解されなければならない。これぞ文化的廃嫡の苦悩であった」と評している<ref name="nathjo"/>。
=== 二元論 ===
三島の作品は、『[[純白の夜]]』『[[愛の渇き]]』『[[真夏の死]]』『夜の向日葵』『[[美徳のよろめき]]』『[[春の雪 (小説)|春の雪]]』『[[薔薇と海賊]]』『[[裸体と衣裳]]』『[[絹と明察]]』など、反対の概念を組み合わせた題名が多く、『[[仮面の告白]]』では「[[仮面]]を被る」ことと、本来は反対の概念である「告白」が、[[イロニー|アイロニカル]]に接合していることが指摘されている<ref name="seikai1">「表層への回帰――三島由紀夫論」(象 1991年8月・第10号-14号)。{{Harvnb|青海|2000|pp=9-57}}</ref>。
文学のテーマも、三島自身が〈『[[太陽と鉄]]』は私のほとんど宿命的な[[二元論]]的思考の絵解きのようなもの〉と言っているように<ref name="etoki"/>、生と死、文と武、精神と肉体、言葉と行動、見る者と見られる者(認識者と行為者)、芸術と人生、作者と彼、といった二元論がみられるが、その〈対〉の問題は単純な並列や対立関係ではないところに特徴がある<ref name="seikai1"/><ref name="kyuka">『小説家の休暇』(講談社 1955年11月)。{{Harvnb|28巻|2003|pp=553-656}}</ref>。
『[[トーニオ・クレーガー|トニオ・クレエゲル]]』の〈トニオ〉対〈ハンスやインゲ〉に象徴される〈芸術家〉対〈美しい無智者(欠乏の自覚〈[[エロス (哲学)|エロス]]〉を持たぬ下方の者でありながらも美しいという存在)〉の二項の図式から生じてくる芸術家・トニオの〈分裂の意識(統一的意識を持つこと自体が二律背反であること)〉を解読した三島には<ref name="erohitsu">「芸術にエロスは必要か」(文藝 1955年6月号)pp.88-90。{{Harvnb|28巻|2003|pp=481-485}}</ref>、〈統一的意識の獲得〉を夢見て、〈欠乏の自覚を持つことをやめて、統一的意識そのもの〉〈人工的な無智者〉に成り変わり、〈自己撞着の芸術観〉、つまりは〈エロスを必要とせぬ芸術〉〈無智者の作りうる芸術〉を打ち建てようという思考がみられる<ref name="seikai1"/><ref name="kyuka"/><ref name="erohitsu"/>。
『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』あたりから三島が志向し始めた「〈統一的意識そのもの〉に成り変る者」とは<ref name="erohitsu"/>、〈芸術家〉(作者)、〈彼〉(無智者かつ美的存在で欠乏の自覚を持たぬ者)のいずれに属するのか、一体「誰」になるのかを[[青海健]]は考察し、三島文学の特異性について以下のように論じている<ref name="seikai1"/>。
{{Quotation|“芸術家小説”である作品[[空間]]は、あの[[ゼノンのパラドックス#アキレスと亀|アキレスと亀]]の話のように、限りなく作者に近接するものの、永遠に作者に到達することはない。近づけば近づくほど、逆に作者は限りなく作品空間から遠ざかるのだ。芸術対人生の対立をのり超えたと信じた三島は、この地点で、転換されたレベルでの二項対立に新たに捕えられるのである。それは鏡の部屋の中でのように無限に繰り返されるだろう。「彼」は作者になりうるか、作者は「彼」になりうるか……。この自己撞着の[[ウロボロス]]の無限[[円環]]のなす背理そのものが、以後の三島の文学空間を規定したのである。|[[青海健]]「表層への回帰――三島由紀夫論」<ref name="seikai1"/>}}
すでに行動の世界にいた三島が自決([[三島事件]])の3年前、〈今は、言葉だけしか信じられない境界へ来たやうな心地がしてゐる〉とし<ref name="kokin">「[[古今集]]と[[新古今集]]」(国文学攷 1967年3月号)pp.60-68。{{Harvnb|34巻|2003|pp=335-347}}</ref>、[[大東亜戦争]]時にあらん限りの〈至上の行動〉を尽くし、[[特攻隊]]が〈人間の至純の魂〉を示したにもかかわらず、〈[[神風]]が吹かなかつた〉のならば〈行動と言葉とは、つひに同じことだつたのではないか〉<ref name="kokin"/>、「力を入れずして天地(あめつち)を動かし」([[古今集]]での[[紀貫之]]の序)という宣言(〈言葉の有効性には何ら関はらない別次元の志〉)の方がむしろ〈その源泉をなしてゐるのではないか〉と思い至り、〈このときから私の心の中で、特攻隊は一篇の詩と化し〉、〈行動ではなくて言葉になつた〉と語っているが<ref name="kokin"/>、この〈言葉〉とは、「言葉からはみ出してしまうものを表現するものである言葉」(『[[太陽と鉄]]』での〈「肉体」の言葉〉<ref name="tetsu"/>)を意味している<ref name="seikai1"/>。
その三島の〈肉体〉は〈すでに言葉に蝕まれてゐた〉ゆえ<ref name="tetsu"/>、両者は永遠の往還となり、〈言葉〉によって〈肉体〉に到達しようとし、その〈肉体〉への到達がまた〈言葉〉へ還流するという「アイロニカルな円環」(到達不可能)であり、最終的には〈言葉〉と〈肉体〉のどちらでもなく、そのどちらでもあるという境界(「絶対の空無」、〈死〉)でしか超えられず<ref name="seikai1"/>、この〈生〉と〈死〉の関係性を「[[輪廻転生]]」(生と死が対立概念ではない)として表現した作品が『[[豊饒の海]]』となり、認識者の自意識(言葉)との格闘が物語られる3巻と4巻(『[[暁の寺 (小説)|暁の寺]]』と『[[天人五衰 (小説)|天人五衰]]』)で、最後に「作者」(三島)を待ち受けるのが、「絶対の空無」であると青海は論考している<ref name="seikai1"/>。
言葉の領域でもあった〈生〉と<ref name="kamnote"/>、〈死〉との連続性を垣間見た三島が、〈言葉の有効性〉をそぎ落とし、目指した〈詩的秩序をあらゆる有効性から切り離す〉こととは<ref name="kokin"/>、「言葉の表層」、「エロス的悲劇性の表層」へと回帰することであり、「言葉が現実に対して無効となる時はじめてその本来の力を開示する」ということだったと、青海は三島の作品遍歴から論考している<ref name="seikai1"/>。〈行動と言葉とは、つひに同じことだつた〉と三島が悟ったのは、言葉から逃走した地点が、〈行動〉の有効性をも消滅する地平でもあり、その〈行動〉に向かうことで、アイロニカルにも、「言葉の無効性を生かすこと」が可能となり、「言葉の否定による言葉の奪還」という[[パラドックス]](円環)になる<ref name="seikai1"/>。
三島の『[[花ざかりの森]]』が初掲載された『[[文藝文化]]』には、[[蓮田善明]]の『[[鴨長明]]』が同時掲載され、そこで蓮田は、[[肉体|肉]]も骨もなくなり、魂だけになった「言葉」が鴨長明の[[和歌]]だと論じている<ref>蓮田善明「[[鴨長明]]」(文藝文化 1941年4月号-12月号〈7月号は除く〉)。『鴨長明』(八雲書林、1943年9月)</ref><ref name="uchi7">「第七章 自決の朝」({{Harvnb|島内|2010|pp=299-326}})</ref>。[[島内景二]]は、それは三島の行きついた「魂の形」を予言していたとし<ref name="uchi7"/>、三島は尊敬する蓮田の論を意識し、「血と見えるものも血ではなく、死と思われるものも死ではない」境地の、「肉も骨もない、魂だけの言葉」に辿り着くため、蓮田の論を実践し証明しようとしたと考察している<ref name="uchi7"/>。
=== 悲劇性 ===
『[[憂国]]』や『[[春の雪 (小説)|春の雪]]』に顕著である[[ジョルジュ・バタイユ]]的な生と死の合一といった[[エロティシズム]]観念(禁止―侵犯―聖性の顕現)は、三島の耽美的憧憬とも重なるものであるが、それは三島の「日本回帰」や「時代の禁忌」でもあり、神聖天皇(絶対の空無=超越者)を夢見るという不可能性の侵犯を秘めた[[ロマン主義]]的イロニーでもあった<ref name="seikai1"/>。当時の左翼的知識人たちに対する「[[反動]]イデオローグ」として、三島は「[[危険な思想家]]」([[山田宗睦]]が名付けた)と問題視され<ref>[[山田宗睦]]『[[危険な思想家]]』(光文社カッパブックス、1965年3月)。{{Harvnb|年表|1990|pp=170}}</ref><ref name="nogu12">「第一章『白馬の騎士』の主題」「第二章 終末感の美学」({{Harvnb|野口|1968|pp=7-62}})</ref>、また、[[野口武彦]]からは、その〈抽象的情熱〉を<ref name="f-ron"/>、[[ドイツロマン主義|ドイツ・ロマン派]]や、三島が少年時代に培った[[日本浪曼派]]に通ずるロマンチック・イロニーと呼ばれていた<ref name="nogu12"/>。
近代では禁忌である天皇の中にこそ、「近代」をのり超える〈絶対〉を垣間見ていた三島は、バタイユについて以下のように語り<ref name="nanika7">「小説とは何か 七」(波 1969年9・10月号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=715-721}}</ref>、死の1週間前に行なわれた対談の中では、〈バタイユは、この世でもっとも超絶的なものを見つけだそうとして、じつに一所懸命だったんですよ。バタイユは、そういう行為を通して生命の全体性を回復する以外に、いまの人間は救われないんだと考えていたんです〉と述べている<ref name="saigo"/>。
{{Quotation|人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は“本心からではない”ことをバタイユは冷酷に指摘する。その“本心”こそ、バタイユのいはゆる“エロティシズム”の核心であり、[[ジークムント・フロイト|ウィーンの俗悪な精神分析学者]]などの遠く及ばぬエロティシズムの深淵を、われわれに切り拓いてみせてくれた人こそバタイユであつた。|三島由紀夫「小説とは何か 七」<ref name="nanika7"/>}}
こういった三島の思考は、反[[キリスト教|キリスト]]の[[ニヒリスト]]である[[フリードリヒ・ニーチェ]]が『[[ツァラトゥストラはこう語った]]』で「[[超人]]」を招来したイロニーと等価であり<ref name="nietz">「三島由紀夫とニーチェ――悲劇的文化とイロニー」(群像 1988年6月号)。{{Harvnb|青海|1992|pp=9-67}}</ref>、ニーチェの『悲劇の誕生』は三島文学に大きな影響を与えている<ref name="tasaka67">「VI『太陽と鉄』」、「その死の場合」から「あとがき」({{Harvnb|田坂|1977|pp=243-327}})</ref>。ニーチェの待望した「英雄」「[[ディオニュソス]]」的なものは、三島にとって『[[蘭陵王 (三島由紀夫)|蘭陵王]]』の〈獰猛な仮面〉と〈やさしい顔〉を持ち<ref>「蘭陵王」(群像 1969年11月号)pp.6-11。{{Harvnb|20巻|2002|pp=561-571}}</ref>、[[蓮田善明]]の〈薩摩訛りの、やさしい目をした、しかし激越な慷慨家〉<ref name="hasujo">「序」({{Harvnb|小高根|1970}})。{{Harvnb|36巻|2003|pp=60-63}}</ref>、特攻隊の〈人間の至純の魂〉<ref name="kokin"/>、澄んだ『[[荒野より (小説)#独楽|独楽]]』の〈透明な兇器〉<ref name="koma"/>、『[[奔馬 (小説)|奔馬]]』の飯沼勲の〈荒ぶる神〉<ref name="honba"/>、『[[椿説弓張月 (歌舞伎)|椿説弓張月]]』の[[源為朝]]など、純一無垢のイメージを秘め、悲劇性を帯びた美的存在としてある<ref name="kamen"/><ref name="seikai1"/><ref name="nietz"/>。
=== 寂寞のエンディング ===
遺作の『豊饒の海』4巻(『天人五衰』)のエンディングと、三島が16歳の時に夭折を想定して書いた『[[花ざかりの森]]』の静寂的な末尾が酷似していることは、多くの論者から指摘されているが<ref>「大団円『豊饒の海』」({{Harvnb|奥野|2000|pp=421-450}})</ref><ref>井上隆史「豊饒の海【研究】」({{Harvnb|事典|2000|pp=339-345}})</ref>、10歳の時に書いていたという絵コント入りの「紙上映画」とも言える小品『世界の驚異』の結末も、それまでの華やかな物語を全否定してしまうような「火の消えた[[蝋燭]]」のエンディングとなっており、寂寞のうちに閉じるという『豊饒の海』の印象的な結末と通底するものが看取される<ref name="kyoi">井上隆史「紙上映画『世界の驚異』」({{Harvnb|太陽|2010|pp=16-17}})</ref>。
『世界の驚異』は、『[[マッチ売りの少女]]』や、[[ポール・ヴェルレーヌ]]の『秋の歌(落葉)』の影響が見られ、〈[[ススキ|すゝき]]のゆれるも物悲しき、むせびなくヴァイオリンの音のやうにかなでゆく秋の調べ〉という文章と共に秋の淋しさが表現され、前段の頁では、海や船、[[極楽鳥]]や花が描かれている<ref name="kyoi"/>。火の消えた蝋燭の頁では、〈やはり、美しい夢はつかめなかつた。あゝ果てゆく[[幻想]]。それは[[春]]の野にたつ、かげろうにのやうにはかないものだ。らうそくの火はきえて了つた。そして目も前は何もかもまつくらだ〉と記され([[校正]]なしの[[ママ (引用)|原文ママ]])、最後に[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]のトレードマークのライオンを模した絵が描かれ、先行作の着想を元に独自の世界観を作り上げている<ref name="kyoi"/>。
[[井上隆史 (国文学者)|井上隆史]]は、三島が子供の頃から豊かな才能と想像力に恵まれていたと同時に、その自分が作った世界を自らの手で壊してしまおうというニヒリズム的な傾向があると考察しているが<ref name="kyoi"/>、三島自身も、〈知的([[アポロン]]的)なもの〉と〈感性的〈[[ディオニュソス|ディオニソス]]的〉なもの〉の〈どちらを欠いても理想的な芸術ではない〉として二者の総合を目指し<ref name="misera">「わが魅せられたるもの」(新女苑 1956年4月)。{{Harvnb|29巻|2003|pp=179-187}}</ref>、芸術を〈積木細工〉に喩えつつ、〈積木が完全なバランスを保つところで積木をやめるやうな作家は、私には芸術家ぢやないと思はれる〉として、以下のように語っている<ref name="misera"/>。
{{Quotation|現在あるところのものを一度破壊させなければよみがへつてこないやうなもの、ちやうどギリシャの[[アドーニス|アドニス]]の祭のやうに、あらゆる穫入れの儀式がアドニスの死から生れてくるやうに、芸術といふものは一度死を通つた[[蘇生|よみがへり]]の形でしか生命を把握することができないのではないかといふ感じがする。さういふ点では文学も古代の秘儀のやうなものである。[[収穫祭|収穫の祝]]には必ず死と破滅のにほひがする。しかし死と破滅もそのままでは置かれず、必ず春のよみがへりを予感してゐる。|三島由紀夫「わが魅せられたるもの」<ref name="misera"/>}}
=== 人工性 ===
三島文学の人工性もしばしば指摘される点だが、その人工性には、作品を書くことで自らの危機と向き合い、乗り越えようとする営為が看取される<ref name="kakuk">松本徹「書くことが生きることと密接につながっていた」({{Harvnb|太陽|2010|pp=136-139}})</ref>。[[川端康成]]は三島の人工性の中にある「生々しさ」について、『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』の序文でいち早く言及していた<ref name="kakuk"/><ref name="kawajo">川端康成「序」(『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』真光社、1948年11月)。{{Harvnb|28巻|2003|pp=95-97}}、{{Harvnb|松本徹|2010|pp=33-34}}、{{Harvnb|太陽|2010|pp=40-41}}</ref>。
{{Quotation|すべて架空であり、あるひはすべて真実であらう。私は三島君の早成の才華が眩しくもあり、痛ましくもある。三島君の新しさは容易には理解されない。三島君自身にも容易には理解しにくいのかもしれぬ。三島君は自分の作品によつてなんの傷も負はないかのやうに見る人もあらう。しかし三島君の数々の深い傷から作品が出てゐると見る人もあらう。この冷たさうな毒は決して人に飲ませるものではないやうな強さもある。この脆そうな[[造花]]は生花の[[髄]]を編み合せたやうな生々しさもある。|川端康成「序」(『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』)<ref name="kawajo"/>}}
弟子にして女優の[[村松英子]]によると、三島は現実の生々しさをそのまま感情的や[[グロテスク]]に表現することを嫌っていたとされ<ref name="eiko3">「ハロルド・クラーマン氏を紹介されて」({{Harvnb|村松英|2007|pp=35-48}})</ref>、「基本としてドメスティック(日常的)な演技も必要だけど、それだけじゃ、“[[演劇]]”にならない。大根やイワシの値段や[[井戸端会議]]を越えた所に、日常の奥底に、人間の本質の[[wikt:ドラマ|ドラマ]]があるのだからね」、「怒りも嘆きも、いかなる叫びも、ナマでなく濾した上で、舞台では美しく表現されなければならない。汚い音、汚い演技は観客に不快感を与えるから」と表現の指導をしていたという<ref name="eiko3"/>。
[[荻昌弘]]との対談の中でも三島は、[[アーサー・シモンズ]]が「芸術でいちばんやさしいことは、涙を流させることと、[[わいせつ]]感を起させることだ」と言った言葉を、〈千古の名言だ〉として<ref name="ogieiga">[[荻昌弘]]との対談「映画・芸術の周辺」([[SCREEN (雑誌)|スクリーン]] 1956年9月号)。{{Harvnb|映画論|1999|pp=157-173}}</ref>、お涙頂戴的な映画を批判し、〈日本人の平均的感受性に訴えて、その上で高いテーマを盛ろうというのは、芸術ではなくて政治だよ。(中略)国民の平均的感受性に訴えるという、そういうものは信じない。[[進歩主義|進歩]]派が『[[二十四の瞳]]』を買うのはただ政治ですよ〉という芸術論を展開している<ref name="ogieiga"/>。
=== 劇作家と小説家 ===
三島は[[劇作家]]でもあるが、その演劇作品もまた、二項の対立・緊張による「劇」的展開を得意とした。三島は、戯曲は小説よりも〈本能的なところ〉、〈より小児の遊びに近いところ〉にあるとし<ref name="yuwaku"/>、〈告白の順番〉は、〈詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから〉と述べるなど<ref>中村光夫との対談「対談・人間と文学――告白の形式」(講談社、1968年4月)。{{Harvnb|40巻|2004|pp=87-88}}</ref>、日常的な現実空間をリアルに書く従来の[[私小説]]作家の常識とは異なる考えを持っていたことが看取され<ref name="seikai1"/>、22歳の時に[[林房雄]]に宛てた手紙の中でも、〈あらゆる種類の仮面のなかで、「素顔」といふ仮面を僕はいちばん信用いたしません〉と、当時の日本文壇の〈[[写実主義|レアリズム]]的〉な懺悔告白のようなものや啓蒙的な小説を批判している<ref name="F221104"/>。
しかしながら、三島は自分自身を〈小説家〉と規定し<ref name="garu">「戯曲を書きたがる小説書きのノート」(日本演劇 1949年10月号)pp.14-18。{{Harvnb|27巻|2003|pp=222-229}}</ref>、〈肉づきの仮面〉だけが告白できると言っていたことなどから<ref name="kamnote"/>、青海健は「三島由紀夫とは、小説の〈仮面〉を被った劇作家としての小説家」だとして三島にとり、「戯曲が〈本能的な〉素面であるなら、小説はその素面にまで喰い入ってしまった肉づきの仮面」だと解説している<ref name="seikai1"/>。
三島にとっては小説よりも戯曲の方が〈はるかに大胆素直に告白でき〉、それが〈詩作の代用〉をなすと自ら語るように<ref>「同人雑記」(聲 1960年10月・第8号)p.200。{{Harvnb|30巻|2003|pp=662-668}}</ref>、「枠のしっかりきめられた」形式の方が、「ポエジー(詩)」=「告白」できるという傾向がみられ<ref name="nakakin">中村光夫「『金閣寺』について」(文藝 1956年12月号)。新潮文庫版『金閣寺』解説(1960年9月)。『中村光夫全集第8巻』(筑摩書房、1972年)、{{Harvnb|群像18 |1990|pp=131-141}}</ref>、三島の小説が、[[金閣寺放火事件]]など実際の事件を題材にしているものが多いのも、その「[[ノンフィクション]]」を「仮面」とすることにより、大胆な「告白」を可能せしめるという方法論をとっているからである<ref name="nakakin"/>。
三島は、〈戯曲の法則を強引に小説の法則へ導入〉して<ref name="yuwaku"/>、[[フーゴ・フォン・ホーフマンスタール]]の言う「自然で自明な形式感」を再確認することが〈小説家〉として重要だという持論の元に<ref name="garu"/>、『春の雪』や『奔馬』のようなドラマ性の高い小説を書いているが、その「物語」を見る本多邦繁へと主題が移行している『暁の寺』と『天人五衰』においては、すでに「劇」は不在となり、「自己言及的主題」が生の形で描かれる「小説的」な「小説([[長編小説|ノヴェル]])」となっている<ref name="seikai1"/>。
この三島的な劇の形式感を放棄している小説は、ほかに『[[禁色 (小説)|禁色]]』や『[[鏡子の家]]』などがあるが、戯曲においてこの「“作品の書き手”の告白」の問題が露わに示されているのが、『船の挨拶』『[[薔薇と海賊]]』『[[源氏供養 (戯曲)|源氏供養]]』『[[サド侯爵夫人]]』『[[癩王のテラス]]』である<ref name="seikai1"/>。青海は、三島にとって戯曲とは「認識者である〈作者〉が〈作品〉と化する告白の夢」であるとし<ref name="seikai1"/>、それが顕著なのが童話作家の阿里子([[アリス (不思議の国のアリス)|アリス]]とも読める)と、空想の世界に生きている帝一が結婚する『薔薇と海賊』だとしている<ref name="seikai1"/>。
すなわち、『薔薇と海賊』では「書き手とその作品世界との幸福な合体の夢」が[[暗喩]]的に描かれており、自決の直前に上演されたこの舞台を見て三島が泣いていたというエピソードからも<ref name="nakaj"/><ref name="eiko13"/>、その「合体の夢」に託された「告白の意味の重み」が了解される<ref name="seikai1"/>。この「作品」対「作者」といった構図の「合体の夢」は、『禁色』『鏡子の家』『豊饒の海』などの小説では、分裂の悲劇へと向かう様相を呈し<ref name="seikai1"/>、三島が自ら廃曲にした戯曲『源氏供養』でも、作者と作品世界の「分裂の不幸」という小説テーマが扱われ、〈小説家〉である三島はこの「分裂の不幸」を「小説という〈仮面〉」によって語り続けたと、青海は考察している<ref name="seikai1"/>。
== 三島の持論 ==
=== 憲法改正論 ===
三島はまず、戦後[[GHQ]]占領下で定められた[[日本国憲法|現憲法]]を〈国際政治の力関係によつて、きはめて政治的に押しつけられた〉憲法であるとし、この憲法自体が「[[政体]]」と「[[国体]]」について確たる弁別を定立していない問題に触れつつ<ref name="teiki1">「問題提起 (一)新憲法における『日本』の欠落」(憲法改正草案研究会配布資料、1970年5月)。{{Harvnb|36巻|2003|pp=118-128}}</ref>、「国体」は〈日本民族日本文化のアイデンティティー〉であり〈政権交替に左右されない恒久性〉がその本質であって、「政体」はこの国体維持という〈国家目的民族目的〉に最適の手段として国民によって選ばれるが、政体自体は〈国家目的追求の手段〉であって「[[民主主義]]」とは〈継受された外国の政治制度であり、あくまで政体以上のものを意味しない〉としている<ref name="teiki1"/>。
その意味で旧憲法の[[大日本帝国憲法|明治憲法]]は〈民族的伝統〉と〈西欧の法伝統〉とを調和させ、〈国体と法体系の間の相互の投影を完璧にした〉憲法であったと三島は説明し、かたや何ら日本人の内発性の発生でなく制定された戦後の現憲法ではそれがなく、〈相反する二種の国体概念〉が、〈国論分裂による日本弱体化といふ政治的企図〉を含んで〈並記〉され、〈国民の忠誠対象〉を〈二種の国体へ分裂させるやうに仕組まれてゐる〉ことを問題視している<ref name="teiki1"/>。
そして、その〈相反する二種の国体概念〉のうち、一つは、本来の日本国民の忠誠対象である国体(〈歴史・伝統・文化の時間的連続性に準拠し、国民の永い生活経験と文化経験の集積の上に成立するもの〉)であり、もう一つはそれと相反する〈革命政権における国体〉ともいうべき概念であると三島は説明し、その新たに並記された〈未来理想社会に対する一致した願望努力、国家超越の契機を内に秘めた世界革命の理想主義〉を本質とする概念(日本伝来の自然法を裁くもの)が、日本弱体化の〈政治的企図〉を含んだ〈{{ruby|似而非|えせ}}国際主義〉への新たな忠誠対象として対立矛盾して組み入れられたことを批判し、〈これが[[日本国憲法第1章|憲法第一章]]と[[日本国憲法第2章|第二章]]との、戦後の思想的対立の根本要因をなす異常なコントラストである〉と述べている<ref name="teiki1"/>。
その第二章の[[日本国憲法第9条]]を三島は、〈[[国際連合]]憲章の理想主義と、左派の戦術的非戦論とが癒着した〉条項であるとして<ref name="teiki1"/>、〈一方では国際連合主義の仮面をかぶつた米国のアジア軍事戦略体制への組み入れを正当化し、一方では[[非武装]][[平和主義]]の仮面の下に浸透した[[左翼]]革命勢力の抵抗の基盤をなした〉ものとして唾棄し<ref name="teiki1"/>、この条文が〈敗戦国日本の戦勝国への詫証文〉であり、〈国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くもの〉であると断じている<ref name="teiki2">「問題提起 (二)戦争の放棄」(憲法改正草案研究会配布資料、1970年7月)。{{Harvnb|36巻|2003|pp=128-132}}</ref>。
そして、いかなる戦力([[自衛権]]・[[交戦権]])保有も許されていない憲法第9条第2項を字句通り遵守すれば、日本は侵略されても〈丸腰〉でなければならず〈国家として死ぬ〉以外にはないため、日本政府は緊急避難の解釈理論として学者を動員したうえで〈牽強付会の説〉を立てざるを得なくなり、こういった[[闇市|ヤミ食糧売買]]のような行為を続けることは、〈実際に執行力を持たぬ法の無権威を暴露するのみか、法と道徳との裂け目を拡大〉するとしている<ref name="teiki2"/>。
このように三島は、[[平和憲法]]と呼ばれる憲法第9条により、〈国家理念を剥奪された日本〉が〈生きんがためには法を破らざるをえぬことを、国家が大目に見るばかりか、恥も外聞もなく、国家自身が自分の行為としても大目に見ること〉になったことを<ref name="teiki2"/>、〈完全に遵奉することの不可能な[[成文法]]の存在は、道義的退廃を惹き起こす〉とし、〈戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない〉と批判している<ref name="dori">「『変革の思想』とは――道理の実現」(読売新聞夕刊 1970年1月19・21・22日号)。{{Harvnb|36巻|2003|pp=30-38}}、{{Harvnb|夢ムック|2012}}</ref>。
また、現状では自衛隊は法的に〈違憲〉だとし、その自衛隊の創設が、皮肉にも〈憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の変化による要請に基づくもの〉であり、[[朝鮮戦争]]や[[ベトナム戦争]]の参加という難関を、[[吉田内閣]]がこの憲法を逆手にとり、〈抵抗のカセ〉として利用することで突破してきたが<ref name="teiki2"/>、その時代を過ぎた以降も国内外の批判を怖れ、ただ[[護憲]]を標榜するだけになった日本政府については、〈消極的弥縫策(一時逃れに取り繕って間に合わせる方策)にすぎず〉、〈しかもアメリカの絶えざる要請にしぶしぶ押されて、自衛隊をただ“量的に”拡大〉し、〈平和憲法下の安全保障の路線を、無目的無理想に進んでゆく〉と警鐘を鳴らしている<ref name="teiki2"/>。
これを是正する案として、憲法第9条第2項だけを削除すればよい、という改憲案に対しては〈やや賛成〉としつつも、そのためには、国連に対し不戦条約を誓っている第9条第1項の規定を〈世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべき〉とし、〈日本国憲法のみが、国際社会への誓約を、国家自身の基本法に包含するといふのは、不公平不調和〉であると三島は断じ、この第1項を放置したままでは自国の歴史・文化・伝統の自主性が〈二次的副次的〉なものになり、〈敗戦憲法の特質を永久に免かれぬこと〉になるため、〈第九条全部を削除〉すべしと主張している<ref name="teiki2"/>。
さらに、改憲にあたっては憲法第9条のみならず、[[日本国憲法第1章|第1章]]「[[天皇]]」の問題(「国民の総意に基く」という条文既定のおかしさと危険性の是正)と、[[日本国憲法第20条|第20条]]「信教の自由」に関する〈[[神道]]の問題〉(日本の国家神道の諸神混淆の性質に対するキリスト教圏西欧人の無理解性の是正)と関連させて考えなければ、せっかく憲法改正を推進しても、〈却つてアメリカの思ふ壺〉に陥り、日本が独立国としての〈本然の姿を開顕〉できず、憲法9条だけ改正して[[日米安保]]を双務条約に書き変えるだけでは、韓国やアジア[[反共主義|反共]]国家と並ぶだけの結果に終わると警告している<ref name="teiki2"/><ref name="tekina-5d">「第五章 皇室と憲法〔アメリカの属国〕」({{Harvnb|適菜|2020|pp=200-205}})</ref>。
三島は、外国の軍隊は決して日本の〈時間的国家の態様を守るものではないこと〉を自覚するべきだとし、日本を全的に守る正しい〈建軍の本義〉を規定するためには、憲法9条全部を削除して、その代わりに〈[[日本軍|日本国軍]]〉を創立し、憲法に〈日本国軍隊は、天皇を中心とするわが[[国体]]、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に建軍される〉という文言を明記するべきであると主張している<ref name="teiki2"/><ref name="tekina-5d"/>。
{{Quotation|自国の正しい建軍の本義を持つ軍隊のみが、空間的時間的に国家を保持し、これを主体的に防衛しうるのである。現自衛隊が、第九条の制約の下に、このやうな軍隊に成育しえないことには、日本のもつとも危険な状況が孕まれてゐることが銘記されねばならない。憲法改正は喫緊の問題であり、決して将来の僥倖を待つて解決をはかるべき問題ではない。なぜならそれまでは、自衛隊は、「国を守る」といふことの本義に決して到達せず、この混迷を残したまま、徒らに物理的軍事力のみを増強して、つひにもつとも大切なその魂を失ふことになりかねないからである。|三島由紀夫「問題提起」<ref name="teiki2"/>}}
また、1970年(昭和45年)2月19日に行われた[[ジョン・ベスター]]との対談(テープが「放送禁止」としてTBS局内で2013年まで放擲され、2017年に公開されたもの)でも、きちんと法改正せず〈憲法違反〉を続けることで人間のモラルが蝕まれるとし、平和憲法は〈偽善のもと〉、〈憲法は、日本人に死ねと言っているんですよ〉と語っている<ref name="mai2017">[https://mainichi.jp/articles/20170112/k00/00e/040/191000c 三島由紀夫 自決9カ月前の肉声…TBSに録音テープ](毎日新聞、2017年1月12日)</ref><ref>[https://www.sankei.com/article/20170112-PLNEAFIYEBI25KH75GVF6L67XE/ 三島由紀夫「平和憲法は偽善。憲法は、日本人に死ねと言っている」TBSが未公開テープの一部を公開・放送](産経ニュース、2017年1月12日)</ref><ref name="gun2017">「新発見 自決九ヵ月前の未公開インタビュー――三島由紀夫 素顔の告白」({{Harvnb|群像|2017|pp=119-137}})</ref><ref name="koku">「三島由紀夫未公開インタビュー」({{Harvnb|告白|2017|pp=5-74}})</ref>。
=== 自衛隊論 ===
上記のように三島は、国の基本的事項である防衛を最重要問題と捉え、〈日本国軍〉の創立を唱えながら、〈一定の領土内に一定の国民を包括する現実の態様〉である国家という〈一定空間の物理的保障〉を守るには軍事力しかなく、もしもその際に外国の軍事力([[核兵器]]その他)を借りるとしても、〈決して外国の軍事力は、他国の時間的国家の態様を守るものではない〉とし、[[日米安保]]に安住することのない日本の自主防衛を訴えている<ref name="teiki2"/>。
三島は1969年(昭和44年)の[[国際反戦デー]]の[[10.21国際反戦デー闘争 (1969年)|左翼デモ]]の際に自衛隊[[治安出動]]が行われなかったことに関連し、〈[[政体]]を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて[[国体]]が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう〉と説いており、その時々の「政体」を守る警察と、永久不変の日本の「国体」を守る国軍の違いについて言及している<ref name="geki"/>。
また、〈改憲[[サボる|サボタージュ]]〉が自民党政権の体質となっている以上、〈改憲の可能性は右からのクーデターか、左からの暴力革命によるほかはないが、いずれもその可能性は薄い〉と指摘し、本来は〈[[祭政一致]]的な国家〉であった日本が、現代では国際強調主義と世界連邦の線上に繋がる〈遠心力的〉な〈統治的国家([[行政権]]の主体)〉と、日本の歴史・文化という時間的連続性が継承される〈求心力〉的な〈[[祭祀]]的国家(国民精神の主体)〉の二極に分離し、〈後者が前者の背後に影のごとく揺曳してゐる〉状態にあるとしている<ref name="dori"/>。
そして様々な制約の中、アメリカの軍備に守られているという形で〈やうやく日本の自主防衛ですらも可能になるといふやうな〉情況では、もし日本が代理戦争のようなものに巻き込まれ自衛隊が出動し、あるいは〈国連警察軍の名目の下〉にアメリカが出動する事態が起った場合、自衛隊の最高指揮権が日本の[[内閣総理大臣]]でなく、最終的には〈[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]]ではないかといふ疑惑〉を禁じ得ないとしている<ref name="nibun">「自衛隊二分論」(20世紀 1969年4月号)。{{Harvnb|35巻|2003|pp=434-446}}</ref><ref name="dori"/>。国防の本義としてもそれが〈日本のため〉であるか〈自由主義諸国の連帯感のため〉であるかという〈混迷〉が生ずる現態勢下では、〈我々は一体日本のために戦つてゐるのかどうか〉疑わしくなるとしている<ref name="nibun"/>。
そうした疑念や矛盾を少しでも解決し、現憲法の制約下で統治的国家の〈遠心力〉と祭祀的国家の〈求心力〉による二元性の理想的な調和と緊張を実現するためには、日本国民がそのどちらかに忠誠を誓うかを明瞭にし、その選択に基づいて自衛隊を二分するべきだという以下のような「'''自衛隊二分論'''」を三島は説いている<ref name="dori"/><ref name="nibun"/>{{refnest|group="注釈"|この理論はすでに[[1968年]](昭和43年)11月16日に[[茨城大学]]講堂で行われた学生とのティーチ・インで明らかにされているが、その際には海上自衛隊を6:4に分割することを主張していた<ref name="teach3">「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」([[茨城大学]]講堂 1968年11月16日)。{{Harvnb|防衛論|2006|pp=299-360}}、{{Harvnb|40巻|2004|pp=271-307}}</ref>。}}。
# [[航空自衛隊]]の'''9割'''、[[海上自衛隊]]の'''7割'''、[[陸上自衛隊]]の'''1割'''で〈'''国連警察予備軍'''〉を編成し、対直接侵略を主任務とすること。この軍は統治国家としての日本に属し、[[安保条約]]によって[[集団安全保障]]体制にリンクする。根本理念は[[国際主義]]的であり、身分は[[国連事務局]]における日本人職員に準ずる。
# 陸上自衛隊の'''9割'''、海上自衛隊の'''3割'''、航空自衛隊の'''1割'''で〈'''国土防衛軍'''〉を編成し、絶対自立の軍隊としていかなる外国とも軍事条約を結ばない。その根本理念は祭祀国家の長としての天皇への忠誠である。対間接侵略を主任務とし、治安出動も行う。
2.の〈国土防衛軍〉には多数の[[民兵]]が含まれるとし、「[[楯の会]]」はそのパイオニアであるとしている<ref name="dori"/>。[[自衛隊法]]第三条において、間接侵略の対処や通常兵器による局地的な侵略に対する自衛隊の自主防衛や治安出動が認められているとする三島は、日本への直接侵略を最終目的とするソビエトや[[中国共産党|中共]]による間接侵略の醸成を阻止しなけらばならないとし<ref name="nibun"/>、将来ソビエトが新潟方面に[[陽動作戦]]を伴いつつ北海道に直接侵攻してくる危険性に触れている<ref name="nibun"/>。なお、三島は[[徴兵制]]には反対している<ref name="teiki2"/>。
三島は、自衛隊が単なる〈技術者集団〉や〈官僚化〉に陥らないためには、〈武士と武器〉、〈武士と魂〉を結びつける〈[[日本刀]]の原理〉を復活し、〈[[武士道]]精神〉を保持しなければならないとし、軍人に〈セルフ・サクリファイス〉(自己犠牲)が欠けた時、官僚機構の[[軍国主義]]に堕落すると説いている<ref>「武士道と軍国主義」(1970年7月。PLAYBOY 1978年8月号)。{{Harvnb|36巻|2003|pp=247-266}}</ref>。
そして、戦後禁忌になってしまった、天皇陛下が自衛隊の[[儀仗]]を受けることと、[[連隊旗]]を直接下賜すること、文人のみの[[文化勲章]]だけでなく、自衛隊員への勲章も天皇から授与されることを現下の法律においても実行されるべきと提言し、隊員の忠誠の対象を明確にし、〈天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくこと〉こそ、日本および日本文化の危機を救う防止策になると説いている<ref name="boei"/><ref name="teiki1"/>。
{{Quotation|栄誉大権は単に文化勲章や一般の文官の勲章のみでなく、軍事的栄誉として自衛隊を国民が認めて、天皇が直接に自衛隊を総攬するような体制ができなくちゃいかん。それがないと、日本の民主主義は真に土着的な民主主義にはなり得ない。|三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」<ref name="teach1">「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」([[一橋大学]]小平校舎 1968年6月16日)。{{Harvnb|防衛論|2006|pp=181-231}}、{{Harvnb|40巻|2004|pp=204-232}}</ref>}}
=== 日米安保について ===
[[日米安保]]については、〈安保賛成か反対かといふことは、本質的に私は日本の問題ではないやうな気がする〉と三島は述べており、そうした問いは結局のところ、アメリカを選ぶか、中共・ソビエトを選ぶかという、本質的には日本というものの自主性が選べない状況の中での問題であり、当時の激しい安保反対運動([[安保闘争]])がひとまず落ちついた後の未来に、日本にとっての真の問いかけが大きな問題として出てくるとしている<ref name="nani"/>。そして、そこで初めて〈われわれは最終的にその問ひかけに直面するんぢやないか〉と語っている<ref name="nani"/>。
{{Quotation|私に言はせれば安保賛成といふのはアメリカ賛成といふことで、安保反対といふのはソヴィエトか中共賛成といふことだと、簡単に言つちまへばさうなるんで、どつちの外国に頼るかといふ問題にすぎないやうな感じがする。そこには「日本とは何か」といふ問ひかけが徹底してないんぢやないか。私はこの安保問題が一応方がついたあとに初めて、日本とは何だ、君は日本を選ぶのか、選ばないのかといふ鋭い問ひかけが出てくると思ふんです。|三島由紀夫「日本とは何か」<ref name="nani"/>}}
別の場の発言でも、安保賛成はアメリカ派で一種の〈西欧派〉であり、安保反対も中共・ソビエトという共産党系の〈外国派〉であるとし、〈日本人に向かって、「おまえアメリカをとるか、ソビエトをとるか中共をとるか」といったら、ほんとうの日本人だったら態度を保留すると思う〉と述べている<ref name="remo">林房雄との対談「現代における右翼と左翼――リモコン左翼に誠なし」(流動 1969年12月号)pp.234-245。{{Harvnb|40巻|2004|pp=567-583}}</ref>。そして、〈国粋派というのは、そのどっちの選択にも最終的には加担していない〉として、〈まだ日本人は日本を選ぶんだという本質的な選択をやれないような状況〉にあり、安保反対派(中共・ソビエト派)の運動が激化していた当時の状況においては、西欧派の自民党の歴史的な役割として、〈西欧派の理念に徹して、そこでもって安保反対勢力と刺しちがえてほしい〉という考えを[[福田赳夫]]に伝えたことを1969年時点で語っている<ref name="remo"/>。
また、日米安保に関連する沖縄の米軍基地問題についても三島は、日本人の心情として日本の国内に外国(アメリカ)の軍隊がいるということに対する反対意識は、イデオロギーを抜きにすれば一般国民のナショナリズムや愛国心に訴えるものがあるため、それを外来勢力の共産党系左翼(天皇制・国体破壊を目論む者)に利用されやすいという、日本独特の難しい状況も語っている<ref name="remo"/><ref name="stage">「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」([[ニューヨーク・タイムズ]] 1969年11月29日号)。{{Harvnb|35巻|2003|pp=740-743}}</ref>。
{{Quotation|日本民族の独立を主張し、アメリカ軍基地に反対し、安保条約に反対し、沖縄を即時返還せよ、と叫ぶ者は、外国の常識では、ナショナリストで右翼であらう。ところが日本では、彼は左翼で共産主義者なのである。十八番のナショナリズムをすつかり左翼に奪はれてしまつた伝統的右翼の或る一派は、アメリカの原子力空母[[エンタープライズ (CVN-65)|エンタープライズ号]]の[[佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争|寄港反対の左翼デモ]]に対抗するため、左手にアメリカの国旗を、右手に日本の国旗を持つて勇んで出かけた。これではまるでオペラの舞台の[[蝶々夫人|マダム・バタフライ]]の子供である。|三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」<ref name="stage"/>}}
=== 核武装について ===
三島は、[[ナチス]]の[[ホロコースト|ユダヤ人虐殺]]と並ぶ史上最大の〈虐殺行為〉の被害を広島がアメリカから受けたにもかかわらず、日本人が「過ちは二度とくりかへしません」と[[原爆死没者慰霊碑|原爆碑]]で掲げていることに疑問を呈し<ref name="hirosi"/>{{refnest|group="注釈"|[[鶴田浩二]]との対談でも、〈広島の「過ちは繰り返しませぬから」の原爆碑、あれを爆破すべきだよ。これをぶっこわさなきゃ、日本はよくならないぞ。「[[きけ わだつみのこえ|きけわだつみのこえ]]」なんていうのは、一つの政治戦略だ〉と述べている<ref name="kumicho"/>。}}、〈原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文字は、[[終戦の詔勅]]の「'''五内為ニ裂ク'''」といふ一節以外に、私は知らない〉と述べている<ref name="hirosi"/>。そして、そうした〈民族的憤激〉や〈最大の屈辱〉を〈最大の誇り〉に転換するべく〈[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]に象徴される工業力誇示〉を進めてきた日本人だが、はたして〈そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか〉として、唯一の被爆国である日本こそが[[核武装]]する権利があるという見解を1967年(昭和42年)の時点で以下のように示している<ref name="hirosi"/>。
{{Quotation|日本人は、[[終戦の日|八月十五日]]を転機に最大の屈辱を最大の誇りに切りかへるといふ奇妙な転換をやつてのけた。一つはおのれの傷口を誇りにする“ヒロシマ平和運動”であり、もう一つは東京オリンピックに象徴される工業力誇示である。だが、そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか。いま、日本は工業化、都市化の道を進んでゐる。明らかに“核”をつくる文化を受入れて生きてゐる。日本は核時代に向ふほかない。単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない。<br />核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさへながら核を作つてゐる。彼らは言ひわけなしに、それを作ることができない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被曝国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起すべきではないのか。|三島由紀夫「私の中のヒロシマ――[[原爆の日]]によせて」<ref name="hirosi"/>}}
また、日本の自主防衛に関連し、1969年(昭和44年)に受けたカナダのTVインタビューでも、〈私は、多くの日本人が、日本での核の保有を認めるとは思いません〉と悲観的な予想を示しながら、自衛隊を二分し予備軍が国連軍に加わることで〈核兵器による武装が可能になる〉と答えている<ref>{{YouTube|hkM_1LX4hDI|1969年、カナダのテレビ局による、三島由紀夫の貴重なインタビュー}}</ref>。そして自決前の『[[檄 (三島由紀夫)|檄]]』の後半では、日本にとって不平等な[[核拡散防止条約]] (NPT) のことも語っている<ref name="geki"/>。
{{Quotation|諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。(中略)国家百年の大計にかかはる[[核拡散防止条約|核停条約]]は、あたかもかつての[[ワシントン海軍軍縮条約|五・五・三の不平等条約]]の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切る[[将軍|ジェネラル]]一人、自衛隊からは出なかつた。[[沖縄返還]]とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの[[傭兵]]として終るであらう。|三島由紀夫「檄」<ref name="geki"/>}}
この警告について[[西尾幹二]]は、三島が「明らかに核の脅威を及ぼしてくる外敵」を意識し、このままでよいのかと問いかけているとし<ref name="nishio">[[西尾幹二]]「三島由紀夫の死と日本の核武装」([[WiLL (雑誌)|WILL]] 2011年2月号)[https://ssl.nishiokanji.jp/blog/?p=1034 西尾幹二のインターネット日録 「三島由紀夫の自決と日本の核武装(その五)」]</ref>、三島自決の6年前に中国が[[核実験]]に成功し、核保有の5大国としてNPTで特権的位置を占め、三島自決の1970年(昭和45年)に中国が[[国際連合|国連]]に加盟して[[常任理事国]]となったことに触れながら、〈国家百年の大計にかかはる〉と三島が言った日本のNPTの署名(核武装の放棄)を政府が決断したのが、同年2月3日だった当時の時代背景を説明している<ref name="nishio"/>。
そして、三島が〈あと二年の内〉と言った意味は、この2年の期間に日本政府とアメリカの間で沖縄返還を巡り、日本の恒久的な核武装放棄を要望するアメリカと中国の思惑などの準備と工作があり、日本の核武装放棄と代替に1972年(昭和47年)に[[佐藤栄作]]が[[ノーベル平和賞]]を受賞し、表向き沖縄返還がなされたことで、自衛隊が〈永遠にアメリカの[[傭兵]]として終る〉ことが暗示されていたと西尾は解説している<ref name="nishio"/>。
このように、現実の世界情勢下における日本の防衛策としての核武装については、〈単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない〉というふうに、必要悪としての肯定的な考えを三島が持っていたことが散見できるが、それと同時に、核爆弾という大量殺戮兵器自体のモラルの無さについても言及しており、自分自身も必ず傷を負う一対一の決闘や、自死を覚悟の日本的な暗殺の決死の政治行為と引きくらべながら、自分がまったく安全な場所からボタン一つで人を殺戮するような行為を卑怯な暴力行為とみなし<ref name="teach1"/>、[[石川淳]]との対談においても、〈技術が罪ないし肉にしっかり縛りつけられていることが人間的であるということ〉であり、〈技術が罪ないし肉を忘れたら、その瞬間、技術自体が堕落するかも〉しれず、そうなっていくと、集団的な技術になり、〈幾らでも非人間的な技術をつくれる〉と語っている<ref name="ishi-m">[[石川淳]]との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」(文學界 1968年9月)pp.178-191。{{Harvnb|40巻|2004|pp=323-342}}</ref>。そして、〈自分に危険がないような暴力行為には全く意味がない。それにはモラルがないですからね。ですから、[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所|アウシュヴィッツ]]や[[原子爆弾]]にはいまでも反対ですね〉とも述べている<ref name="ishi-m"/>。
=== 天皇論 ===
基本的な考えとして三島は、日本を日本以外の国から、何が日本かということを弁別する最終的なメルクマール(指標)は、〈天皇しかない〉としている<ref name="fudo">石原慎太郎との対談「天皇と現代日本の風土」(論争ジャーナル 1968年2月号)。{{Harvnb|中公編集|2010|pp=104-124}}、{{Harvnb|石原対話|2020|pp=56-105}}</ref>。
{{Quotation|日本を外国から弁別するメルクマール、日本人を他国人から弁別するメルクマールというのは天皇しかない。他にいくらさがしてもないんだ。| 三島由紀夫(石原慎太郎との対談)「天皇と現代日本の風土」<ref name="fudo"/>}}
また、工業化が進展しテレビやマスメディアなどの〈バカなコミュニケーション〉が発達し伝達機能が容易になればなるほど各人のバラバラがひどくなる「[[自己疎外]]」が起こって国民が分裂し孤立してきて、〈伝達することによって、何らそれを統合することはできない〉状態となった空間的社会において、それを統合するには〈空白のもの〉、空間的伝達からの〈断絶〉しかないと三島は考え、〈時代全体が空間的伝達によって動いている中で、'''時間的伝達をする人'''は一人しかいない、それが天皇だ〉としている<ref name="fudo"/>。
三島は、〈天皇の政治上の無答責は憲法上に明記されねばならない〉とし、軍事の最終的指揮権を〈天皇に帰属せしむべきでない〉としている<ref name="teiki1"/>。これは天皇が日本の歴史の〈時間的連続性の象徴、祖先崇拝の象徴〉であり、〈[[神道]]の祭祀〉を国事行為として行ない、「神聖」と最終的に繋がっている存在ゆえに、〈天皇は、自らの神聖を恢復すべき義務を、国民に対して負ふ〉というのが三島の考えだからである<ref name="teiki1"/>。
この〈時間的連続性〉のことを三島は〈'''縦の軸'''〉(時間軸)とも呼び、敗戦の結果、戦後の日本社会が、国際的・経済的な空間軸(横の軸)ばかりになり、自国の伝統・文化・歴史の持続性・連続性である〈縦の軸〉が軽んじられているとしている<ref name="kiite">「私の聞いて欲しいこと」(済寧 1970年6月号 [[皇宮警察 (宮内省)|皇宮警察]]創立84周年記念講演 1970年5月28日)。{{Harvnb|36巻|2003|pp=141-163}}</ref>。そして、冷戦時代に入り共産圏の国々においてすら、〈歴史の連続性〉の観念がなければ国家の平和や存立が危ぶまれるということに気づいているにもかかわらず、戦後から日本は時間(歴史)の連続性という〈縦の軸〉の重要性がないがしろにされ、国家の根本が危うくなっていると危惧している<ref name="kiite"/>。
日本の〈歴史と文化の伝統の中心〉、〈祭祀国家の長〉である天皇は、〈国と民族の非分離の象徴で、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸である〉と説く三島は、〈'''文化概念としての天皇'''〉という理念を説き、[[伊勢神宮]]の造営や、[[歌道]]における[[本歌取り]]の法則などに見られるように、〈オリジナルとコピーの弁別を持たぬ〉日本の文化では、〈各代の天皇が、正に天皇その方であつて、[[天照大神]]とオリジナルとコピーの関係にはない〉ため、天皇は神聖で〈インパーソナルな〉存在であると主張している<ref name="saigo"/><ref name="boei"/>。
日本的な行動様式をもすべて包括する「文化」(菊)と、それを守る「剣」の原理(刀)の栄誉が、〈最終的に帰一する根源が天皇〉であり、天皇は日本が非常事態になった場合には、天皇文化が内包している「[[みやび]]」により、[[桜田門外の変]]や[[二・二六事件]]のような蹶起に手を差し伸べる形態になることもあると三島は説き<ref name="boei"/>、天皇は〈現状肯定のシンボルでもあり得るが、いちばん先鋭な[[革新右翼|革新]]のシンボルでもあり得る二面性〉を持つものとしている<ref name="taiwa"/>。
そうした〈ザインの国家像を否とし、ゾルレンの国家像を是とする者〉の革新のシンボルともなり得る天皇制における〈純粋性のダイナミクス〉、〈永久革命的性格〉を担うものこそが〈天皇信仰〉である三島は述べ<ref name="dougi">「『道義的革命』の論理――[[磯部浅一|磯部]]一等主計の遺稿について」(文藝 1967年3月号)pp.276-288。{{Harvnb|34巻|2003|pp=348-371}}、{{Harvnb|防衛論|2006|pp=87-118}}</ref>、〈希望による[[維新]]であり、期待による蹶起〉の性質を持っていた二・二六事件は、〈「大御心に待つ」ことに重きを置いた革命〉であり、〈{{ruby|当為|ゾルレン}}の革命、すなはち道義的革命〉の性格を担っていたとしている<ref name="dougi"/>。
{{Quotation|私は本来[[国体|国体論]]には正統も異端もなく、国体思想そのものの裡にたへず変革を誘発する契機があつて、むしろ国体思想イコール変革の思想だといふ考へ方をするのである。それによつて、[[平田篤胤|平田流神学]]から[[神風連の乱|神風連]]を経て二・二六にいたる精神史的潮流が把握されるので、国体論自体が永遠のザインであり、天皇信仰自体が永遠の現実否定なのである。[[明治政府]]による天皇制は、むしろこのやうな絶対否定的国体論([[攘夷論|攘夷]])から、天皇を[[簒奪]]したものであつた。(中略)<br />しかし明治憲法上の天皇制は、一方では道義国家としての擬制を存してゐた。この道義国家としての擬制が、つひに[[大東亜共栄圏]]と[[八紘一宇]]の思想にまで発展するのであるが、国家と道義との結合は、つねに不安定な危険な看板であり、(現代アメリカの「自由と民主主義」の使命感を見よ)これが擬制として使はれれば使はれるほど、より純粋な、より先鋭な、より「正統的な」道義によつて「顛覆」され「紊乱」される危険を蔵してゐる。道義の現実はつねにザインの状態へ低下する惧れがあり、つねにゾルレンのイメージにおびやかされる危険がある。(中略)日本テロリズムの思想が[[自刃]]の思想と表裏一体をなしてゐることは特徴的であるが、二・二六事件の二重性も亦、このやうな縦の二重性、精神史的二重性と共に、横の二重性、社会学的二重性を持つてゐる。それは同時に、尖鋭な近代的性格を包摂してゐる。|三島由紀夫「『道義的革命』の論理――[[磯部浅一|磯部]]一等主計の遺稿について」<ref name="dougi"/>}}
三島は、〈日本の改革の原動力は、必ず、極端な保守の形でしか現われず、時にはそれによってしか、西欧文明摂取の結果現われた積弊を除去できず、それによってしか、いわゆる「近代化」も可能ではない〉として、[[明治維新]]をみても結果的には〈[[開国論]]者がどうしてもやりたくてやれなかったことを、[[攘夷論]]者がやった〉という〈歴史の皮肉〉、〈アイロニカルな歴史意志〉があるとしている<ref name="taiwa"/>。
そして〈西欧化の腐敗と堕落に対する最大の批評的拠点〉、〈革新の原理〉であり、最終的に〈維新を「承引き」給う〉存在である[[祭祀 (神道)|祭祀]]王の天皇は、〈西欧化への最後のトリデとしての悲劇意志であり、純粋日本の敗北の宿命への洞察力と、そこから何ものかを汲みとろうとする意志の象徴〉であると三島は自身の天皇観を語りつつ、昭和の天皇制はすでにキリスト教が入り込んで西欧理念に蝕まれていたため、二・二六事件の「みやび」を理解する力を失っていたと批判している<ref name="taiwa"/>。
さらに戦後の政策により、「国民に親しまれる天皇制」という大衆社会化に追随したイメージ作りのため、まるで芸能人かのように皇室が週刊誌のネタにされるような〈週刊誌的天皇制〉に堕ちたことを三島は嘆き、天皇を民主化しようとしてやり過ぎた[[小泉信三]]のことを、皇室からディグニティ(威厳)を奪った〈大逆臣〉と呼び、痛罵している<ref name="taiwa"/><ref name="teiki1"/>。
三島は、[[昭和天皇]]個人に対しては、〈反感を持っている〉とし、〈ぼくは戦後における天皇人間化という行為を、ぜんぶ否定しているんです〉と死の1週間前に行なわれた対談で発言しているが<ref name="saigo"/>、この天皇の「[[人間宣言]]」に対する思いは、『[[英霊の聲]]』で端的に描かれ、「人間宣言」を指南した[[幣原喜重郎]]も批判している<ref>「英霊の聲」(文藝 1966年6月号)pp.10-38。『英霊の聲』(河出書房新社、1966年6月)、{{Harvnb|20巻|2002|pp=463-516}}</ref><ref>「三島由紀夫氏の“人間天皇”批判――小説「英霊の聲」が投げた波紋」(サンデー毎日 1966年6月5日号)pp.28-31。{{Harvnb|34巻|2003|pp=126-129}}</ref>。
三島は、[[井上光晴]]が「三島さんは、おれよりも天皇に苛酷なんだね」と言ったことに触れ、天皇に過酷な要求をすることこそが天皇に対する一番の忠義であると語っている<ref name="fukuda">[[福田恆存]]との対談「文武両道と死の哲学」(論争ジャーナル 1967年11月号)pp.4-19。{{Harvnb|サムライ|1996|pp=205-266}}、{{Harvnb|持丸|2010}}、{{Harvnb|39巻|2004|pp=696-728}}</ref>。また、〈幻の[[南朝 (日本)|南朝]]〉に忠義を尽くしているとし、理想の天皇制は〈没我の精神〉であり、国家的エゴイズムや国民のエゴイズムを掣肘するファクターで、[[新嘗祭]]などの祭祀の重要性を説いている<ref name="fukuda"/>。
{{Quotation|天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレイションの最後の[[救世主]]として、そこにいなけりゃならない。それをいまから準備していなければならない。(中略)天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところにあるべきだ。そういう意味で、天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。その根元にあるのは、とにかく「お祭」だ、ということです。天皇がなすべきことは、お祭、お祭、お祭、お祭、――それだけだ。これがぼくの天皇論の概略です。|三島由紀夫([[福田恆存]]との対談)「文武両道と死の哲学」<ref name="fukuda"/>}}
また、[[学習院高等科 (旧制)|旧制学習院高等科]]を首席で卒業した際、昭和天皇(実際には[[久邇宮朝融王|朝融王]]との説が有力<ref group="注釈" name="akira"/>)に謁見し[[恩賜の銀時計]]を拝受したとも語っている<ref name="kyou"/>(銀時計拝受は卒業式後に宮内省で行なわれた<ref name="sotsu"/>)。
{{Quotation|ぼくらは戦争中に生れた人間でね、こういうところに陛下が坐っておられて、三時間全然微動もしない姿を見ている。とにかく三時間、全然木像のごとく微動もしない。卒業式で。そういう天皇から私は時計をもらった。そういう個人的な恩顧があるんだな。こんなこと言いたくないよ、おれは。(笑)言いたくないけれどね、人間の個人的な歴史の中でそんなことがあるんだ。そして、それがどうしてもおれの中で否定できないのだ。それはとてもご立派だった、そのときの天皇は。|三島由紀夫「討論 三島由紀夫 vs. 東大全共闘」(1969年5月13日、東京大学900番教室壇上において)<ref name="kyou"/>}}
終戦直後の20歳の時のノートにも、昭和天皇が「国民生活を明るくせよ。灯火管制は止めて街を明るくせよ。娯楽機関も復活させよ。親書の[[検閲]]の如きも即刻撤廃せよ」と命令した「大御心」への感銘を綴っている<ref name="kinen">「昭和廿年八月の記念に」(昭和20年8月19日付。新潮 1979年3月号)。{{Harvnb|26巻|2003|pp=551-559}}</ref>。
[[磯田光一]]は、三島の自決1か月前に、本当は腹を切る前に[[宮中]]で天皇を殺したいが宮中に入れないので自衛隊にしたと三島から聞かされた、という主旨を語っているが<ref name="isoda">[[磯田光一]]・[[島田雅彦]]「模造文化の時代」(新潮 1986年8月号)。{{Harvnb|生涯|1998|p=308}}</ref>、これに対して[[持丸博]]は、用心深かった三島が事前に決起や自決を漏らすようなことを部外者に言うはずがない、という主旨の疑問を唱えている<ref name="mochi2">「第二章 たった一度の思考的対決――三島由紀夫と福田恆存」({{Harvnb|持丸|2010|pp=25-74}})</ref>。
長く昭和天皇に側近として仕えた[[入江相政]]の日記『[[入江相政日記]]』の記述から、昭和天皇が三島や[[三島事件]]に少なからず関心を持っていたことが示されている<ref>「終章 畏るべき天皇」({{Harvnb|松本健一|2005|pp=194-206}})、『畏るべき昭和天皇』([[毎日新聞社]]、2007年12月)</ref><ref>[[原武史]]『昭和天皇』([[岩波新書]]、2008年1月)</ref>。
なお、[[鈴木邦男]]は三島が[[女系天皇]]を容認しているメモを[[楯の会]]の「[[楯の会#憲法改正草案研究会|憲法研究会]]」のために残しているとして、昭和天皇が[[側室]]制度を廃止して十一家あった旧[[宮家]]を[[臣籍降下]]させたことなどにより、将来に必ず[[皇位継承問題]]が起こることを三島が批判的に予見していたという見解を示しているが<ref>「『[[女帝]]』を認めた三島の真意」({{Harvnb|鈴木邦|2010}})</ref>、鈴木が見解の元としている[[松藤竹二郎]]の著書3冊にもそういったメモや伝言の具体的な提示はなく、松藤の著書には、三島の死後に「憲法研究会」によって作成された原案の概ねの内容を紹介しているだけで、鈴木はそれを「三島メモ」と勝手に言い換えてミスリードしている<ref name="shinohara">篠原裕「三島由紀夫は『女系天皇』を『容認』していたか?」({{Harvnb|三島研究}}の21『三島由紀夫『作家論』』(2021年4月)pp=91-104)</ref>{{refnest|group="注釈"|鈴木邦男は「憲法研究会」の討議がその都度テープ起しされて三島がチェックしていたかのようもミスリードしているが、実際討議がテープ起しされたのは三島の死後(楯の会解散後)であり、[[松藤竹二郎]]の著書中にある「註―三島氏加筆」という数か所の「註」(出版社の毎日ワンズ編集者によって勝手に書き込まれてもの)に関しても、三島はその時点で亡くなっているのであり得ず、草稿にチェック加筆したのは楯の会会員の山口良男である<ref name="shinohara"/>。ちなみに鈴木が電話取材をしたという元楯の会会員の本多清(旧姓・倉持)や松藤は、そのような取材を受けてなく、鈴木と話もしたことがないと言っている<ref name="shinohara"/>。}}。元楯の会会員らや三島研究者の間でも三島が女系天皇を容認していたことを示すメモや文献の存在は確認されていない<ref name="shinohara"/><ref name="dankei">[https://web.archive.org/web/20150706212247/http://melma.com/backnumber_149567_5592012/ 「三島は女系天皇をみとめていなかった――男系天皇論者であることは、三島の作品を読んで、その男女観からも明らか」(三島由紀夫の総合研究、2012年6月24日・通巻第662号)]</ref>。また、三島が生前に「女帝」や「女系」天皇に言及したことはなく、「憲法研究会」に3度顔を見せた際も、男系・女系天皇について何の話もしていない<ref name="shinohara"/>。三島の文学や評論を仔細に見ている[[松本徹 (文芸評論家)|松本徹]]も、「三島文学やそこに書かれた三島の男性観・女性観からみて三島の女系天皇容認説はありえない」と述べている<ref name="dankei"/>。
鈴木邦男が感心した「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」という案は、三島の死後に行われた「憲法研究会」における討議案のうち、あくまで1人の会員の意見として記載されているだけで、それに異議を唱える会員の意見もあり、「憲法研究会」の総意として掲げているわけではない<ref name="fujite">「付章」({{Harvnb|松藤|2007|pp=191-238}})</ref>。仔細に読めば、その後段の話し合いでも、「“継承は男系子孫に限ることはない”という文言は憲法に入れる必要ない」という結論となっている<ref name="fujite"/>{{refnest|group="注釈"|「憲法研究会」のリーダーで、改正案討議の記録を保管していた班長・[[阿部勉 (民族主義者)|阿部勉]]の提案した「[[女帝]]を認める」(「女系」ではない)という意味についても、阿部は「皇統には複数の女帝がおられたんで、女帝は絶対だめだというような意見には反対だという意味ですよ、消極的な」と説明しており、「積極的な一つの主義として確立しろという意味ではない」と述べている<ref name="fujite"/>。}}。
=== 特攻隊について ===
三島の天皇観は、国家や個人のエゴイズムを掣肘するファクター、反エゴイズムの代表として措定され、〈近代化、あらゆる工業化によるフラストレイションの最後の救世主〉として存在せしめようという考えであったが<ref name="fukuda"/>、三島の[[神風特別攻撃隊|神風特攻隊]]への思いも、彼らの〈没我〉の純粋さへの賛美であり、美的天皇観と同じ心情に基づいている<ref>高橋新太郎「特攻隊」{{Harvnb|旧事典|1976|p=283}}</ref>。
三島の考える〈純粋〉は、小説『[[奔馬 (小説)|奔馬]]』で多く語られているが、その中には〈あくまで歴史は全体と考へ、純粋性は超歴史的なものと考へたがよいと思ひます〉とあり<ref name="honba"/>、評論『[[葉隠入門]]』においても、政治的思想や理論からの正否と合理性を超えた純粋行為への考察がなされ、特攻隊の死についてもその側面からの言及がなされている<ref name="hagakure"/>。
三島は[[日本刀]]を〈魂である〉としていたが<ref>「栄誉の絆でつなげ菊と刀」(日本人及日本人 1968年9月・10月合併号)。{{Harvnb|35巻|2003|pp=188-199}}</ref>、特攻隊についても西欧・近代への反措定として捉えており、「[[大東亜戦争]]」についても、〈あの戦争が日本刀だけで戦つたのなら威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦つたのである。ただ一つ、真の日本的武器は、航空機を日本刀のやうに使つて斬死した特攻隊だけである〉としている<ref>「[[お茶漬ナショナリズム]]」(文藝春秋 1966年4月号)pp.94-100。{{Harvnb|サムライ|1996|pp=101-118}}、{{Harvnb|34巻|2003|pp=69-80}}</ref>。この捉え方は、戦時中、三島が学生であった頃の文面にも見られる<ref name="M20421"/>。
{{Quotation|僕は僕だけの解釈で、特攻隊を、古代の再生でなしに、近代の殲滅――すなはち日本の文化層が、永く克服しようとしてなしえなかつた「近代」、あの尨大な、モニュメンタールな、[[イマヌエル・カント|カント]]の、[[トーマス・エジソン|エヂソン]]の、アメリカの、あの端倪すべからざる「近代」の超克でなくてその殺傷(これは超克よりは一段と高い烈しい美しい意味で)だと思つてゐます。<br />「近代人」は特攻隊によつてはじめて「現代」といふか、本当の「われわれの時代」の曙光をつかみえた、今まで近代の私生児であつた知識層がはじめて歴史的な[[嫡子]]になつた。それは皆特攻隊のおかげであると思ひます。日本の全文化層、世界の全[[文化人]]が特攻隊の前に拝跪し感謝の祈りをさゝげるべき理由はそこにあるので、今更、[[神話]]の再現だなどと生ぬるいたゝへ様をしてゐる時ではない。全く身近の問題だと思ひます。|平岡公威「[[三谷信]]宛ての葉書」(昭和20年4月21日付)<ref name="M20421"/>}}
敗戦時に新聞などが、〈幼拙な[[ヒューマニズム]]〉で〈戦術〉と称して神風特攻隊員らを〈将棋の駒を動かすやうに〉功利・効能的に見て、そうしたジャーナリズムにより特攻隊の精神が冒涜され〈神の座と称号〉が奪われてしまったことへの憤懣の手記も、ノートに綴っていた<ref name="kinen"/>。
{{Quotation|我々が[[中世]]の究極に幾重にも折り畳まれた末世の幻影を見たのは、昭和廿年の初春であつた。人々は特攻隊に対して早くもその生と死の(いみじくも夙に[[若林東一|若林中隊長]]が警告した如き)現在の最も痛切喫緊な問題から目を覆ひ、国家の勝利(否もはや個人的利己的に考へられたる勝利、最も悪質の仮面をかぶれる勝利願望)を声高に叫び、彼等の敬虔なる祈願を捨てゝ、冒瀆の語を放ち出した。| 平岡公威「昭和廿年八月の記念に」<ref name="kinen"/>}}
また、三島は戦後に『[[きけ わだつみのこえ]]』が特攻隊員の遺書を〈作為的〉に編纂し、編者が高学歴の学生のインテリの文章だけ珍重して政治的[[プロパガンダ]]に利用している点に異議を唱え<ref name="kumicho">[[鶴田浩二]]との対談「刺客と組長――男の盟約」([[週刊プレイボーイ]] 1969年7月8日号)。{{Harvnb|40巻|2004|pp=507-515}}</ref><ref name="kangoku">「『青春監獄』の序」(宮崎清隆『青春監獄』 東京ライフ社、1955年9月)。{{Harvnb|28巻|2003|pp=532-534}}</ref>、〈テメエはインテリだから偉い、大学生がむりやり殺されたんだからかわいそうだ、それじゃ小学校しか出ていないで兵隊にいって死んだやつはどうなる〉と唾棄している<ref name="kangoku"/>。
『きけ わだつみのこえ』を題材とした映画についても〈いはん方ない反感〉を感じたとし、フランス文学研究をしていた学生らが戦死した傍らに[[シャルル・ボードレール]]か[[ポール・ヴェルレーヌ]]の詩集の頁が風にちぎれているシーンが、ボードレールも墓の下で泣くであろうほど〈甚だしくバカバカしい印象〉だと酷評し、〈日本人がボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、祖国のために死んだはうが論理的〉であるとしている<ref name="kangoku"/>。
=== 愛国心について ===
「愛国心」という言葉に対し、「[[愛妻家]]」という言葉と似た〈好かない〉感触を持つ三島は、その言葉は官製のイメージが強いとして〈自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向こう側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである〉とし、キリスト教的な「愛」(全人類的な愛)という言葉はそぐわず、日本語の「恋」や「[[大和魂]]」で十分であり、〈日本人の情緒的表現の最高のもの〉は「愛」ではなくて「恋」であると主張している<ref name="aikoku">「愛国心――官製のいやなことば」([[朝日新聞]]夕刊 1968年1月8日号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=648-651}}</ref>。
「愛国心」の「愛」の意味が、もしもキリスト教的な愛ならば〈無限定無条件〉であるはずだから、「人類愛」と呼ぶなら筋が通るが、〈国境を以て閉ざされた愛〉である「愛国心」に使うのは筋が通らないとしている<ref name="aikoku"/>。
アメリカ合衆国とは違い、日本人にとって日本は〈内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的〉にあるものだと三島は主張し、〈われわれはとにかく日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である〉としている<ref name="aikoku"/>。
{{Quotation|恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本をより的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。|三島由紀夫「愛国心」<ref name="aikoku"/>}}
こうした日本人の中にある内在的・即自的なものを大事にする姿勢と相通じる考え方は、三島が18歳の時に東文彦に出した書簡の中にも見られ、〈我々のなかに『日本』がすんでゐないはずがない〉として以下のように述べている<ref name="azuma18324">「東文彦宛ての書簡」(昭和18年3月24日付)。{{Harvnb|十代|2002|pp=169-172}}、{{Harvnb|38巻|2004|pp=151-153}}</ref>。
{{Quotation|「真昼」―― 「西洋」へ、気持の惹かされることは、決して無理に否定さるべきものではないと思ひます。真の芸術は芸術家の「おのづからなる姿勢」のみから生まれるものでせう。近頃近代の超克といひ、東洋へかへれ、日本へかへれといはれる。その主唱者は立派な方々ですが、なまじつかの便乗者や尻馬にのつた連中の、そここゝにかもし出してゐる雰囲気の汚ならしさは、一寸想像のつかぬものがあると思ひます。我々は日本人である。我々のなかに「日本」がすんでゐないはずがない。この信頼によつて「おのづから」なる姿勢をお互いに大事にしてまゐらうではござひませんか。|平岡公威「東文彦宛ての書簡」(昭和18年3月24日付)<ref name="azuma18324"/>}}
=== 反革命 ===
三島は、ある種の社会改革を目ざした[[二・二六事件]]の将校の行動や[[陽明学]]を肯定していたが<ref>「革命哲学としての陽明学」([[諸君!]] 1970年9月号)pp.22-45。{{Harvnb|行動学|1974|pp=189-228}}、{{Harvnb|36巻|2003|pp=277-310}}</ref>、日本の精神文化とは相容れない[[唯物史観]]や[[マルクス主義|マルキシズム]]、あるいは未来幻想を暗示する[[進歩主義 (政治)|進歩主義]]に基づく革命には断固として反対の姿勢を示している<ref name="hankaku">「反革命宣言」([[論争ジャーナル]] 1969年2月号)。{{Harvnb|35巻|2003|pp=389-405}}、{{Harvnb|防衛論|2006|pp=9-31}}</ref><ref name="tekina-5b">「第五章 皇室と憲法〔新宿騒乱と治安出動〕」({{Harvnb|適菜|2020|pp=189-193}})</ref>。そして、戦後の左翼の多くが反戦・平和・民主主義という耳障りがいいスローガンを掲げながらもマルキシズムの革命戦術を駆使し、疎外者や不幸な人たちを革命のための一つの齣として利用し権力闘争の場面へ連れていく〈欺瞞〉的なやり方を〈道義性〉が失われていると批判している<ref name="hankaku"/><ref name="tekina-5b"/>。
{{Quotation|われわれは戦後の革命思想がすべて弱者の集団原理によつて動いてきたことを洞察した。いかに暴力的表現をとらうとも、それは集団と組織の原理を離れ得ぬ弱者の思想である。不安、懐疑、憎悪、嫉妬を撒きちらし、これを恫喝の材料に使ひ、これら[[ルサンチマン|弱者の最低の情念]]を共通項として、一定の政治目的へ振り向けた集団運動である。空虚にして観念的な甘い理想の美名を掲げる一方、もつとも低い弱者の情念を基礎として結びつき、以て{{ruby|過半数|マジョリティ}}を獲得し、各小集団社会を〈民主的に〉支配し、以て{{ruby|少数者|マイノリティ}}を圧迫し、社会の各分野へ浸透して来たのがかれらの遺口である。(中略)<br />戦前、社会問題に挺身した人たちは、全部がとはいはないが、純粋なヒューマニズムの動機にかられ、疎外者に対する同情と、正義感とによつて、左にあれ、右にあれ、一種の社会改革といふ救済の方法を考へたのであつた。しかし、戦後の革命はそのやうな道義性と、ヒューマニズムを、戦後一般の風潮に染まりつつ、完全な欺瞞と、偽善にすりかへてしまつた。われわれは、戦後の社会全体もそれについて責任があることを否めない。革命勢力からその道義性と、ヒューマニズムの高さを失はせたものも、また、この戦後の世界の無道徳性の産物なのである。|三島由紀夫「反革命宣言」<ref name="hankaku"/>}}
三島は、〈共産社会に階級がないというのは全くの迷信であって、これは巨大な[[官僚制|ビューロクラシー]]の社会であります。そしてこの階級制の蟻のごとき社会にならないために我々の社会が戦わなければならんというふうに私は考えるものです〉と述べ<ref name="teach2">「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」([[早稲田大学]]大隈講堂 1968年10月3日)。{{Harvnb|防衛論|2006|pp=232-298}}、{{Harvnb|40巻|2004|pp=232-271}}</ref>、共産主義支持の人が日本の階級制の存在を云々することに反問しながら、君主制のないアメリカの方が様々なメンバーシップや上流階級クラブなどの[[ステータスシンボル|ステイタス・シンボル]]が非常にたくさんあり、それらの甚だしい階級差や階級意識は[[アングロ・サクソン人|アングロ・サクソン]]の文化の伝統でアメリカの[[成金]]が古いヨーロッパの階級を真似して作ったものであるとしている<ref name="teach2"/>。そして、かたや共産主義も、日本の社会党や共産党の幹部が、一般庶民が持てないようなプール付きの別荘を軽井沢に保有している例や〈[[共産貴族|新しい階級]]〉について言及している<ref name="teach2"/>。
1968年(昭和43年)に行なわれた学生とのティーチ・インにおいて、[[天皇制廃止論]]者の学生Fが、三島の『[[文化防衛論]]』に異議を唱え、天皇が支配した時代は多くの人間が奴隷であり一部の特権階級だけが属してきた文化は無意味だから、そんなものが伝統ならば壊した方がいいという主旨の発言で質問した際も、三島は以下のように反論している<ref name="teach3"/>。
{{Quotation|文化というものは結局マルキシズムの階級史観では絶対に解明できない。(中略)マルキシズムでも結局芸術の問題を一番理解したのは[[レフ・トロツキー|トロツキー]]だと思う。トロツキーは、政治は[[プロレタリア独裁]]、しかし文化は[[ブルジョア]]的文化でよろしいということをいった。だから[[ロシア革命|ソヴィエト革命]]が始まって以来、トロツキーが権力を多少とも持っていたほんの一、二年の間だけにソヴィエトには文化と名のつくものが生れたのです。(中略)トロツキーは[[アドルフ・ヒトラー|ヒットラー]]と違うから、ヨーロッパのそれまでの文化をすべて[[デカダンス|頽廃的]]な都会的な文化とは規定しなかったから、ヨーロッパの新しい芸術も喜んでソヴィエトロシアへ取り入れた。<br />そしてこのトロツキーは[[粛清]]されたんです、あなたのような人によって。いいですか。そして文化というものは特権階級の文化だと規定するあなた自身が日本語しゃべっているじゃないか。この日本語がどれだけ美しい蓄積の上につくられてきたか。何も宮廷の言葉ばかりじゃない。日本の庶民人民の言葉の中にも美しい日本語が残っているのに、いまあなたの日本語聞いてると一向美しくないのはまったくあなたの理論によく合っている。あなたはそういう日本語をつかうことによって、特権階級の文化を滅ぼしているのじゃなくて、あなた自身の文化を滅ぼしているのだ。|三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」<ref name="teach3"/>}}
また三島は、戦後の革命勢力が教育現場や絵本・漫画を介して、支配者の天皇が奴隷の〈人民〉を虐待し支配していたという構図で日本に奴隷制があったかのように子供に教える動きがあることを非難し<ref name="teach3"/><ref name="obama">[[小汀利得]]との対談「放談・天に代わりて」(言論人 1968年7月16日)。{{Harvnb|40巻|2004|pp=308-322}}</ref><ref name="naotake"/>、学生Fにも、〈[[手塚治虫]]の漫画なんか見ると、あたかも人民闘争があって、奴隷制があって、[[神武天皇]]という奴隷の酋長がいて、奴隷を抑圧して(日本を)つくったように書いてあるが、あなたは手塚治虫の漫画を読み過ぎたんだ〉と言い返している<ref name="teach3"/>。ラジオ番組「[[全国こども電話相談室]]」で[[日本神話]]について質問した子供に対して回答者の[[無着成恭]]が、唯物史観で神話を説明したり[[天岩戸]]を墓だと教えたりしていたことにも呆れていたが<ref name="obama"/>、三島は戦後まもない1948年(昭和23年)当時から、進歩主義的な文化破壊思想に嫌悪を持ち、[[フランス革命]]になぞって以下のようにも綴っている<ref name="I230323"/>。
{{Quotation|[[ギロチン]]へみちびく民衆は笑はない民衆です。おそろしくシリアスな、[[ニイチェ]]的笑ひとおそろしく無縁の民衆です。共産党系の雑誌や新聞に出てゐる漫画は笑ひを凍らせます。かれらは[[デスマスク]]をかぶつた民衆です。美の死刑執行人であるといふ自負すらもちえない精神です。銀蠅が芥箱から出てきてそこらをとびまはつてゐます。ブンブンといひて夜もねられず、といふところでせうが――かれらは「海」とは無縁の精神です。蠅は海のまへで引返します。かれらは翼をもたないくせに{{ruby|翅|はね}}を翼だと思つてゐるのです。|三島由紀夫「[[伊東静雄]]宛ての書簡」(昭和23年3月23日付)<ref name="I230323"/>}}
=== 暗殺について ===
三島は、〈民主主義と[[暗殺]]はつきもので、共産主義と[[粛清]]はつきものだ〉と前置きし、〈共産主義の粛清のほうが数が多いだけ、始末が悪い〉、〈暗殺の中にも悪い暗殺といい暗殺がある〉として、[[全体主義]]における[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所|アウシュビッツ]]などの大量殺人や粛正は、権力側が安全で何の危険もない立ち位置から秘密裏に行なう卑怯な行為であって、一対一の決闘的な意味合いを持った全身全霊を賭けた暗殺とは違うとしている<ref name="teach1"/>。
そして、本来あるべき暗殺とは、〈暗殺者が必ずあとですぐ自殺するという日本の伝統〉に則した[[武士]]の作法でなければならないとして<ref name="teach1"/>、旅客機に爆弾を仕掛けて関係のない人々を巻き込んだり、〈女子供〉を殺したりすることは絶対にやってはいけない卑劣な行為だと説明しながら、無関係な家政婦を殺した「[[嶋中事件]]」の小森を非難し、「[[浅沼稲次郎暗殺事件]]」の[[山口二矢]]については、〈非常にりっぱだ。あとでちゃんと自決しているからね。あれは日本の伝統にちゃんと従っている〉と認めている<ref name="teach1"/>。
そうした捨て身の暗殺が日本からなくなってきたことと、政治の世界が茶番劇化してきたこととの関連性を三島は考察しながら、〈大体卵が先か鶏が先かよくわからぬが、政治家がみんな腰抜けになつたので暗殺がなくなつたのと同時に、暗殺がなくなつたから、政治家はますます腰抜けになつた〉<ref name="ansatsu">「[[不道徳教育講座]]――暗殺について」([[週刊明星]] 1958年7月27日号-1959年11月29日号のうちの1959年8月2日号)pp.16-17。{{Harvnb|30巻|2003|pp=555-559}}</ref>、〈たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配がなかったら、いくらでも嘘がつける〉<ref name="teach1"/>、〈口だけでいくらいっていても、別に血が出るわけでもない。痛くもないから、お互いに遠吠えする。民主主義の中には偽善というものがいつもひたひたと地下水のように身をひそめている〉とし<ref name="teach1"/>、戦後アメリカによって与えられた[[日本国憲法|憲法]]の下、〈美しき偽善〉で暮らしている一見平和な日本における国会と<ref name="teach1"/>、その商売化した国会議員の仕事が、国民という〈お客〉に対する媚びを忘れず〈手先だけでコチョコチョと綺麗事を作成する仕事〉に堕したと語っている<ref name="ansatsu"/>。
{{Quotation|大体政治の本当の顔というのは、人間が全身的にぶつかり合い、相手の立場、相手の思想、相手のあらゆるものを抹殺するか、あるいは自分が抹殺されるか、人間の決闘の場であります。それが言論を通じて徐々に徐々に高められてきたのが政治の姿であります。しかしこの言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論はすぐ偽善と嘘に堕することは、日本の立派な国会を御覧になれば、よくわかる。|三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」<ref name="teach1"/><br />
命の危険がなくて、金がフンダンに入つて、威張り放題に威張れるといふのでは、こんな好い商売はないといふわけである。これでせめて、自分の政見に忠実に行動すれば、暗殺されるといふスリルがあつたら、もう少し、嘘八百を並べられなくなるだらうと思ふ。イノチガケといふことがなくなつたので、政治家といふ職業は、もう全然、男らしい仕事ではなくなつたと私は考へます。|三島由紀夫「[[不道徳教育講座]] 暗殺について」<ref name="ansatsu"/>}}
昔は、命を狙われた[[板垣退助]]のように「板垣死すとも自由は死なず」といった名文句まであったことを三島は例に挙げ、そんな身の危険のほとんどない戦後民主主義社会の政治状況と、〈言論と日本刀〉、〈一人の日本刀の言論〉という「千万人といへども我行かん」([[孟子]]の言を元にした[[吉田松陰]]の言葉)の精神を以下のように対比的に語っている<ref name="teach1"/>。
{{Quotation|日本ではこうやって言論が自由自在に生きている。確かに美しい風景ではあるけれども、何か身を賭けた言論、身体を賭けた言論というものが少ない。自分一人で、一千万人を相手にしても退かないという言論の力が感じられない。(中略)<br />私が一番好きな話は、多少ファナティックな話になるけれども、[[満州国|満州]]で[[赤軍|ロシア軍]]が入ってきたときに――私はそれを実際にいた人から聞いたのでありますが――在留邦人が一ヵ所に集められて、いよいよこれから武装解除というような形になってしまって、大部分の軍人はおとなしく武器を引き渡そうとした。その時一人の中尉がやにわに[[日本刀]]を抜いて、何万、何十万というロシア軍の中へ一人でワーッといって斬り込んで行って、たちまち殴り殺されたという話であります。<br />私は、言論と日本刀というものは同じもので、何千万人相手にしても、俺一人だというのが言論だと思うのです。一人の人間を大勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて、そういうものを暴力という。つまり一人の日本刀の言論だ。(中略)そして、日本で言論と称されているものは、あれは暴力。そして、日本で日本刀が暴力だと思われている時には、たった一人の言論の決意というものを信じられなくなった時代の現われだと、私はそんなふうに考えております。|三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」<ref name="teach1"/>}}
=== 死生観 ===
昭和の戦時下に少年・青年時代を送り[[徴兵令|徴兵]]の対象年齢にあった三島は、常に「死」というものを念頭に生きていた世代であり、そうした終末感的な状況下での創作活動の中で、自身を〈薄命の天才とも。日本の美的伝統の最後の若者とも。[[デカダンス|デカダン]]中のデカダン、頽唐期の最後の皇帝とも。それから、美の特攻隊とも〉夢想していた<ref name="h-reki"/>。しかし、その状況が一変し戦時中の価値が転倒した戦後社会においても、三島にとって「死」の観念は様々なコンプレックスや美意識との間で大きな命題でありつづけ、それが小説の中にも多彩に揺曳しており<ref>[[武田勝彦]]「美」({{Harvnb|旧事典|1976|p=329}})</ref><ref name="kyu-shi">[[高橋重臣]]「死」({{Harvnb|旧事典|1976|pp=174-175}})</ref>、「死」は「行動」という言葉とともに三島文学において最も多く用いられている語彙の一つとなっている<ref name="kyu-shi"/>。
そうした「死」の観念から生涯離れられなかった三島は、「死」を純粋と絶対の行為として、最終的には戦後社会との訣別を意味するような回帰的な「死」への行動に至っているが、『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』直前の30歳の時に書かれた随筆『[[小説家の休暇]]』では、〈行動家の世界は、いつも最後の一点を附加することで完成される環を、しじゆう眼前に描いてゐる〉と、芸術家の世界と対比し〈私は想像するのに、ただ一点を添加することによつて瞬時にその世界を完成する死のはうが、ずつと完成感は強烈ではあるまいか?〉と語っているなど<ref name="kyuka"/>、すでに晩年の行動家に至る死生観が、小説家としての絶頂期から内包されていることが指摘されている<ref>[[松本道介]]「小説家の休暇」({{Harvnb|事典|2000|pp=179-180}})</ref><ref>[[上田真]]「小説家の休暇」({{Harvnb|旧事典|1976|pp=200-201}})</ref>。
その『小説家の休暇』の中でも触れている『[[葉隠]]』([[山本常朝]]著)を戦時中から愛読していた三島は、そこから様々な生きるヒントや活力源、哲学的なものを得られたとして、〈毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いはば同じだといふこと〉、〈われわれはけふ死ぬと思つて仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない〉という死生観を『[[葉隠入門]]』の中で述べている<ref name="hagakure"/>。
そういった、今日明日死ぬかもしれないという思いで生きる人生観・死生観は、他の評論でも散見され、人間とは何か理想や夢のために生きていくものではあるものの、〈より良き未来世界〉などというものを目途にして自分をその進歩や進化のプロセス(過程)とするような〈未来に夢を賭ける〉考えを三島は否定し、〈未来などといふことを考へるからいけない。だから未来といふ言葉を辞書から抹殺しなさいといふのが私の考へなのです〉と主張しながら、まずは〈明日がないのだと思ふ〉気構えが肝心だとしている<ref name="dento">「日本の歴史と文化と伝統に立つて」(東京都学生自治体・関東学生自治体連絡協議会主催の講演 1968年12月1日) 。{{Harvnb|35巻|2003|pp=306-318}}</ref><ref name="tekina-2c">「第二章 バカとは何か?〔三島由紀夫vs東大全共闘〕」({{Harvnb|適菜|2020|pp=69-76}})</ref><ref name="tekina-3f">「第三章 死に方と生き方〔キリスト教のカラクリ〕」({{Harvnb|適菜|2020|pp=124-128}})</ref>。
また、人間は「未来」に向って成熟していくものではなくて、〈“日々に生き、日々に死ぬ”以外に成熟の方法を知らない〉のだとし、〈死といふ事を毎日毎日起り得る状況として捉へる〉ところから、〈自分の行動と日々のクリエーション〉の根拠やモラルが発見され、それが〈人間の行動の強さの源泉〉にもなると三島は主張している<ref name="dento"/><ref name="tekina-2c"/><ref name="tekina-3f"/>。
{{Quotation|未来を信じないといふことは今日に生きることですが、刹那主義の今日に生きるのではないのであつて、今日の私、現在の私、今日の貴方、現在の貴方といふものには、背後に過去の無限の蓄積がある。そして、長い文化と歴史と伝統が自分のところで止まつてゐるのであるから、自分が滅びる時は全て滅びる。つまり、自分が支へてきた文化も伝統も歴史もみんな滅びるけれども、しかし老いてゆくのではないのです。(中略)<br />
われわれは自分が遠い遠い祖先から受け継いできた文化の集積の最後の成果であり、これこそ自分であるといふ気持で以つて、全身に自分の歴史と伝統が籠つてゐるといふ気持を持たなければ、今日の仕事に完全な成熟といふものを信じられないのではなからうか。或ひは、自分一個の現実性も信じられないのではなからうか。自分は過程ではないのだ。道具ではないのだ。|三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」<ref name="dento"/>}}
そして三島は、人間はいつ死ぬかも知れない〈果無い生命〉ではあるが、〈明日死ぬと思へば今日何かできる〉、〈明日がないのだと思ふからこそ、今日何かができるといふ〉のが、〈人間の全力的表現〉であり、そうした考え方や行動は「[[禅]]」の精神に通じると三島は語っている<ref name="dento"/>。
{{Quotation|本日ただ今の、これは禅にも通じますが、現在の一瞬間に全力表現を尽すことのできる民族が、その国民精神が結果的には、本当に立派な未来を築いてゆくのだと思ひます。しかし、その未来は何も自分の一瞬には関係ないのである。これは、日本国民全体がそれぞれの自分の文化と伝統と歴史の自信を持つて今日を築きゆくところに、生命を賭けてゆくところにあるのです。特攻隊の遺書にありますやうに、私が“後世を信ずる”といふのは“未来を信ずる”といふことではないと思ふのです。ですから、“未来を信じない”といふことは、“後世を信じない”といふこととは違ふのであります。私は未来は信じないけれども後世は信ずる。|三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」<ref name="dento"/>}}
三島の作品や評論には、戦時下の同年代の若い兵士の死を、他人事のようには考えられなかった複雑な思いが随所に現われ、死の一週間前に行なわれた[[古林尚]]との対談においても、そうしたことが言及されているが、そこで三島は、戦後は〈余生〉という意識が〈いまだにあります〉と述べながら、戦時中に入営通知([[召集令状]])が来た際に毛筆で書いた遺書の気持から〈逃れられない〉と語っている<ref name="saigo"/>。また、〈天皇陛下バンザイというその遺書の主旨は、いまでもぼくの内部に生きている〉とし、自身の本質が10代の時の[[日本浪曼派]]的な心性〈ロマンティーク〉だと悟るにつけ、そこに〈ハイムケール〉(帰郷)していき、その〈ハイムケールする自己に忠実〉である以外にないとしている<ref name="saigo"/>。
死の4年前の41歳の時のNHKのインタビューでは、20歳で迎えた終戦の風景について、〈世界が崩壊するはずであるのに〉、まわりの木々の緑が夏の日を浴びて輝いているのが〈不思議でならなかった〉と振り返り、[[終戦の詔勅]]を聴いたときは〈空白感しか〉なかったと答え、その8月15日の〈激しい日光〉は〈私の心の中にずっと続いていくだろう〉と述べている<ref name="anohito">{{Harvnb|あの人|2008|pp=13-24}}。DVD『NHK映像ファイル「あの人に会いたい」3』(NHKエンタープライズ・ポニーキャニオン、2008年)</ref>。そして、三島は自身の死生観を以下のように語り、戦時中の、死が〈遠くない将来に来るんだというふうに考えていた〉当時のその心理状態は〈今の心理状態に比べて幸福だったんです〉とも発言している<ref name="anohito"/>。
{{Quotation|人間の生命というのは不思議なもので、自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬというほど人間は強くないんです。というのは、人間はなにか理想なり、なにかのためということを考えているので、生きるのも自分のためだけに生きることにはすぐに飽きてしまう。すると死ぬのも何かのためということが必ず出てくる。それが昔いわれた大義というものです。<br />そして大義のために死ぬということが人間の最も華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死に方だと考えられた。しかし、今は大義がない。これは民主主義の政治形態というものは大義なんてものがいらない政治形態ですから当然なんですが、それでも心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。|三島由紀夫「NHKテレビのインタビュー『[[こころの時代|宗教の時間]]』、1966年」<ref name="anohito"/>}}
=== 国語教育論 ===
三島は、戦後の政府によって1946年(昭和21年)に改定された[[現代かなづかい]]を使わず、自身の原稿は終生、[[歴史的仮名遣|旧仮名遣ひ]]を貫いた。三島は、言葉にちょっとでも実用的な原理や合理的な原理を導入したらもうだめだと主張し、中国人は漢字を全部[[簡体字|簡略化]]したために古典が読めなくなったとしている<ref name="taiwa"/>。
また、敗戦後に日本語を廃止してフランス語を公用語にすべきと発言した[[志賀直哉]]について触れ、〈私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである〉と批判した<ref name="shinjo">「日本への信条」([[愛媛新聞]] 1967年1月1日号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=288-291}}</ref>。
国語教育についても、現代の教育で絶対に間違っていることの一つが〈古典主義教育の完全放棄〉だとし、〈古典の暗誦は、決して捨ててならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。ヨーロッパでもアメリカでも、古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし〉と主張している<ref>「生徒を心服させるだけの腕力を――[[スパルタ教育]]のおすすめ」(文芸朝日 1964年7月号)。{{Harvnb|33巻|2003|pp=96-101}}</ref>。
そして、中学生には原文でどんどん古典を読ませなければならないとし、古典の安易な[[現代語]]訳に反対を唱え、日本語の伝統や歴史的背景を無視した利便・実用第一主義を唾棄し<ref name="taiwa"/><ref name="hassha831">「発射塔 古典現代語訳絶対反対」(読売新聞夕刊コラム 1960年7月6日 - 10月26日号のうちの8月31日号)。{{Harvnb|31巻|2003|pp=461-462}}</ref>、〈美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、[[教科書ガイド|アンチョコ]]製造よりもつと罪が深い。みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐる〉と[[文部省]]の役人や教育学者を批判し<ref name="hassha831"/>、自身の提案として〈ただカナばかりの原本を、漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、[[ルビ]]を入れるとか、おもしろいたのしい脚注を入れるとか、それで美しい本を作るとか〉を先生たちにやってもらいたいと述べている<ref name="hassha831"/>。
三島は、日本人の古典教育が衰えていったのはすでに明治の官僚時代から始まっていたとし、文化が分からない人間(官僚)が日本語教育をいじり出して〈日本人が古典文学を本当に味わえないような教育をずっとやってきた〉と述べ、意味が分からなくても「読書百遍意おのずから通ず」で、小学生から『[[源氏物語]]』を暗唱させるべきだとしている<ref name="gun2017"/>。また、『[[論語]]』の暗唱、[[漢文]]を素読する本当の教え方が大事だとし、[[支那]]古典の教養がなくなってから日本人の文章がだらしなくなり、〈日本の文体〉も非常に弱くなったとしている<ref name="gun2017"/>。
=== 漫画・映画・サブカルチャー ===
生前、自身でも『[[のらくろ]]』時代から漫画・劇画好きなことをエッセイなどで公言していた三島の所蔵書には、[[水木しげる]]、[[つげ義春]]、[[好美のぼる]]らの漫画本があることが明らかになっている<ref name="teihon">{{Harvnb|島崎|1972}}</ref>。
毎号、小学生の2人の子供と奪い合って[[赤塚不二夫]]の『[[もーれつア太郎]]』を読み、〈猫の[[ニャロメ]]と毛虫の[[ケムンパス]]と奇怪な生物[[べし|ベシ]]〉ファンを自認していた三島は、この漫画の徹底的な「ナンセンス」に、かつて三島が時代物劇画に求めていた〈破壊主義と共通する点〉を看取し、〈それはヒーローが一番ひどい目に会ふといふ主題の扱ひでも共通してゐる〉と賞讃している<ref name="gekiga">「劇画における若者論」[[サンデー毎日]] 1970年2月1日号)pp.56-57。{{Harvnb|36巻|2003|pp=53-56}}</ref>。[[平田弘史]]の時代物劇画の〈あくまで真摯でシリアスなタッチに、古い[[紙芝居]]の[[ノスタルジア|ノスタルジヤ]]と“[[弘瀬金蔵|絵金]]”的[[幕末]]趣味〉を発見して好んでいた三島は、[[白土三平]]はあまり好きでないとしている<ref name="gekiga"/>。
〈おそろしく下品で、おそろしく知的、といふやうな漫画〉を愛する三島は、〈他人の家がダイナマイトで爆発するのをゲラゲラ笑つて見てゐる人が、自分の家の床下でまさに別のダイナマイトが爆発しかかつてゐるのを、少しも知らないでゐるといふ状況〉こそが漫画であるとして、〈漫画は現代社会のもつとも[[絶望|デスペレイト]]な部分、もつとも暗黒な部分につながつて、そこからダイナマイトを仕入れて来なければならない〉と語っている<ref name="manga">「わが漫画」(漫画読売 1956年3月5日号)。{{Harvnb|29巻|2003|pp=166-169}}</ref>。
三島は、漫画家が〈[[啓蒙思想|啓蒙]]家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点でもうおしまひである〉として、若者が教養を求めた時に与えられるものが、〈又しても古ぼけた大正[[教養主義]]の[[ヒューマニズム]]や[[コスモポリタニズム]]であつてはたまらないのに、さうなりがちなこと〉を以下のように批判しながら、劇画や漫画に飽きた後も若者がその精神を忘れず、〈自ら突拍子もない教養〉、〈決して大衆社会へ巻き込まれることのない、貸本屋的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養〉を開拓してほしいとしている<ref name="gekiga"/>。
{{Quotation|かつて颯爽たる「[[鉄腕アトム]]」を想像した[[手塚治虫]]も、「[[火の鳥 (漫画)|火の鳥]]」では[[日本教職員組合|日教組]]の御用漫画家になり果て、「[[宇宙虫]]」ですばらしい[[ニヒリズム]]を見せた[[水木しげる]]も「[[ガロ (雑誌)|ガロ]]」の「こどもの国」や「[[宮本武蔵|武蔵]]」連作では見るもむざんな政治主義に堕してゐる。一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。「[[もーれつア太郎]]」のスラップスティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか。(中略)折角「[[ゲゲゲの鬼太郎|お化け漫画]]」にみごとな才能を揮ふ水木しげるが、偶像破壊の「新講談 [[宮本武蔵]]」(1965年)を描くときは、[[芥川龍之介]]と同時代に逆行してしまふからである。|三島由紀夫「劇画における若者論」<ref name="gekiga"/>}}
[[ボクシング]]好きで、自身も1年間ほどジムに通った経験のあった三島は、[[講談社]]の漫画誌『[[週刊少年マガジン]]』連載の『[[あしたのジョー]]』を毎週愛読していたが、発売日にちょうど映画『[[黒蜥蜴]]』の撮影で遅くなり、深夜に『マガジン』編集部に突然現れて、今日発売されたばかりの『マガジン』を売ってもらいたいと頼みに来たというエピソードがある<ref name="ohno">大野茂『[[別冊少年サンデー|サンデー]]と[[週刊少年マガジン|マガジン]] 創刊と死闘の15年』([[光文社新書]]、2009年4月)</ref>。編集部ではお金のやりとりができないから1冊どうぞと差し出すと、三島は嬉しそうに持ち帰ったという<ref name="ohno"/>。また、「よくみるTV番組は?」という『文藝春秋』のアンケートの問いに、『[[ウルトラマン]]』と答えている<ref>「現代日本100人の生活と意見」(文藝春秋 1967年4月号)pp.94-130。{{Harvnb|36巻|2003|p=646}}</ref>。
[[1954年]](昭和29年)の映画『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』は、公開直後は日本のジャーナリズムの評価が低く「ゲテモノ映画」「キワモノ映画」と酷評する向きが多勢であり、特撮面では絶賛されたものの各新聞の論評でも「人間ドラマの部分が余計」と酷評され、[[本多猪四郎]]監督の意図したものを汲んだ批評は見られなかったが、[[田中友幸]]によれば三島のみが「原爆の恐怖がよく出ており、着想も素晴らしく面白い映画だ」として、ドラマ部分を含めたすべてを絶賛してくれたという<ref>[https://web.archive.org/web/20141129041132/http://www12.ocn.ne.jp/~yuukari/hito/hito/no1.html 輝ける先輩達 第1回戦後大衆文化の旗手(NO.1) ゴジラ(神)を放った男 映画プロデューサー田中友幸(中32回)](2014年11月29日時点のアーカイブ)(大阪府立八尾高等学校同窓会公式サイト)</ref>。
次第に三島の審美眼はプロの映画評論家にも一目置かれるようになり、[[荻昌弘]]や[[小森和子]]らとも対談もした。[[淀川長治]]は、「ワタシみたいなモンにでも気軽に話しかけてくださる。自由に冗談を言いあえる。数少ないホンモノの人間ですネ。(中略)あの人の持っている赤ちゃん精神。これが多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由でしょうネ」と三島について語っている<ref name="shii3">「第三章 スーパースター第一号誕生!」({{Harvnb|椎根|2012|pp=145-176}})</ref>。
[[サイエンス・フィクション|SF]]にも関心を寄せていた三島は、1956年(昭和31年)に[[日本空飛ぶ円盤研究会]]に入会する(会員番号12)<ref name="gai11"/>。1957年(昭和32年)6月8日には[[日活国際会館]]屋上での[[空飛ぶ円盤]]観測会に初参加した。なお、この観測会は、科学的な研究を主目的とする「日本空飛ぶ円盤研究会」(略称JFSA)のものではなく、[[UFO]]実在論を唱える別団体「[[宇宙友好協会]]」(略称CBA、1957年に設立)のものだとされている<ref>[[唐沢俊一]]『新・UFO入門』(幻冬舎新書、2007年5月)p.99</ref>。1962年(昭和37年)にはSF性の強い小説『[[美しい星 (小説)|美しい星]]』を発表したが、その1年半前には夏には毎晩のように双眼鏡片手に屋上に昇っていたため、家人から「[[屋上の狂人]]」と呼ばれ、ついにある日瑤子夫人と自宅屋上でUFOを目撃している<ref name="gai11"/><ref>「社会料理三島亭――宇宙食『空飛ぶ円盤』」([[婦人倶楽部]] 1960年9月号)。{{Harvnb|31巻|2003|pp=359-363}}</ref>。
1963年(昭和38年)9月にはSF同人誌『[[宇宙塵 (同人誌)|宇宙塵]]』に寄稿し、〈私は心中、近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか、とさへ思つてゐるのである〉と記した<ref>「一S・Fファンのわがままな希望」([[宇宙塵 (同人誌)|宇宙塵]] 1963年9月・第71号)。{{Harvnb|32巻|2003|pp=582-583}}</ref>。また、[[アーサー・C・クラーク]]の『[[幼年期の終り]]』を絶賛し、〈随一の傑作と呼んで憚らない〉と評している<ref name="nanika10">「小説とは何か 十」(波 1970年3・4月号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=732-737}}</ref>。
[[ヤクザ映画#東映任侠路線|東映任侠映画]]が〈大好き〉で、特に[[鶴田浩二]]の大ファンだった<ref name="nagisa"/>。[[1968年]](昭和43年)公開の『[[博奕打ち 総長賭博]]』を『[[映画芸術]]』で絶賛し<ref>[https://web.archive.org/web/20180307134030/http://www.toei.co.jp:80/annai/brand/ninkyo/index.html 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕](Internet Archive)</ref><ref>[http://godotsushin.net/column/703/ コラム|東映任侠映画 | 合同通信オンライン]{{Cite news ja|title=楠木建の「戦略読書日記」【第22回】 『映画はやくざなり』(1)|author=楠木建|authorlink=楠木建|work=[[プレジデント社#雑誌「プレジデント」|PRESIDENT Online]]|publisher=[[プレジデント社]]|date=2012-09-11|url=https://president.jp/articles/-/7180?page=2|accessdate=2023-04-21|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121029153105/https://president.jp/articles/-/7180?page=2|archivedate=2012-09-19}}</ref><ref name="笠原">{{Cite book ja|author=笠原和夫|year=2003|title=映画はやくざなり|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4104609017|page=45}}{{Cite book ja|author=笠原和夫|authorlink=笠原和夫 (脚本家)|year=1987|title=鎧を着ている男たち|publisher=[[徳間書店]]|pages=160-168}}</ref>、それまでヤクザ映画は新聞などには一切無視されていたが<ref name="笠原"/>、三島の称賛がヤクザ映画に[[市民権]]をもたらした最初の一歩になったといわれる<ref name="笠原"/>。東映が任侠映画の[[試写]]をやっていた頃、三島は東映の試写によく来て<ref name="山平">{{Cite book ja|author=山平重樹|authorlink=山平重樹|year=2004|title=任侠映画が青春だった|publisher=徳間書店|isbn=9784198617974|page=9}}{{Cite book ja|author=山平重樹|year=2015|title=高倉健と任侠映画|publisher=徳間書店|isbn=9784199070280|pages=11-12}}</ref>、東映の[[岡田茂 (東映)|岡田茂]][[映画プロデューサー|プロデューサー]]に「役者としてオレ(ヤクザ映画に)出ようか」と言ったら、「やめといた方がいいよ」と止められたという<ref name="山平"/>。東映が試写をやらなくなっても、東映の[[映画館|封切館]]に足を運び、普通にお金を払って一般客と交じって任侠映画をよく観ていた<ref name="nagisa"/>。
三島は[[サーカス]]なども好きで、8歳の時に観た[[カール・ハーゲンベック|ハーゲンベック・サーカス]]東京公演やそれ以前に観た[[松旭斎天勝]]の手品にも心を奪われ、〈僕はキラキラした安つぽい挑発的な儚い華奢なものをすべて愛した〉と言っている<ref name="funso">「扮装狂」(1944年8月。10月の回覧学芸冊子『曼荼羅』創刊号に掲載予定だった随筆)。{{Harvnb|没後30|2000|pp=68-73}}。{{Harvnb|26巻|2003|pp=445-453}}</ref>。
大人になってからも、35歳の時に夫人同伴でロサンゼルスに行った折に初めて訪れた[[ディズニーランド]]をとても気に入った様子で、そこで買った[[ドナルドダック]]の絵葉書で自宅にいる幼い娘・[[平岡紀子|紀子]]宛てに、〈とても面白く、のり子ちやんの喜びさうなものが一杯ありました〉と書いて絵本や帽子も送っているが<ref>「平岡紀子宛ての葉書」(昭和35年11月11日)。{{Harvnb|補巻|2005|p=235}}</ref>、それ以来、子供が小学生になったら一家でディズニーランドに行きたい、というのが三島の口癖となり、大人でもすごく楽しいからと母・倭文重にもぜひ見せたいと言っていたという<ref name="azusa5"/>。
三島が死の覚悟をすでに固めていた1970年(昭和45年)の正月にも、2人の子供を連れて家族でディズニーランドに行こうと度々提案していたが、瑤子夫人は『豊饒の海』が完結した後にしたいと断ったため、三島の一家揃ってのディズニーランド再訪の夢は叶うことがないまま終った<ref>「終章」({{Harvnb|川島|1996|pp=231-235}})</ref>。
== 家族・親族 ==
''[[#出自|出自]]も参照のこと。''
;祖父・[[平岡定太郎]]([[内務省 (日本)|内務省]]官僚)
:[[1863年]]([[文久]]3年)[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]生 - [[1942年]](昭和17年)[[8月26日]]没
:1892年(明治25年)、[[帝国大学]]法科大学(現・[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]])卒業。[[内務省 (日本)|内務省]]に入省。1906年(明治39年)7月、[[福島県知事一覧|福島県知事]]に就任し、1908年(明治41年)6月、[[樺太庁長官]]に就任した。[[原敬]]に重用された人物であった<ref name="inose1"/><ref name="uwasa">{{Harvnb|噂|1972}}。{{Harvnb|板坂・鈴木|2010|pp=78-93}}</ref>。太く濃い眉と意志的な眼が印象的な、人望の厚い人物で、樺太に銅像が建立された<ref name="nosa2"/><ref name="inose1"/>。79歳で死去。
;祖母・[[平岡なつ|平岡夏子]](戸籍名・なつ)
:[[1876年]](明治9年)[[6月27日]]生 - [[1939年]](昭和14年)[[1月18日]]没
:東京府[[士族]]・[[大審院]]判事・[[永井岩之丞]]の長女。[[幕臣]]・[[玄蕃寮|玄蕃頭]]・[[永井尚志]]の孫。17歳で平岡定太郎と結婚した。[[潰瘍]]出血のため62歳で死去。
;父・[[平岡梓]]([[農商務省 (日本)|農商務省]]官僚)
:[[1894年]](明治27年)[[10月12日]]生 - [[1976年]](昭和51年)[[12月16日]]没
:平岡定太郎と夏子の長男(一人息子)。[[開成中学校・高等学校|開成中学]]、[[第一高等学校 (旧制)|一高]]を卒業、1920年(大正9年)、東京帝国大学法学部(現・東京大学法学部)法律学科(独法)卒業し、[[農商務省 (日本)|農商務省]](現・[[農林水産省]])に入省。1942年(昭和17年)3月、[[水産庁|水産局]]長を最後に退官。日本瓦斯用木炭株式会社社長に就任するが、会社は終戦で機能停止し、1948年(昭和23年)1月に政府命令で閉鎖された。肺に溜まった[[膿]][[漿液|漿]]による呼吸困難のため82歳で死去。
;母・[[平岡倭文重]]
:[[1905年]](明治38年)[[2月18日]]生 - [[1987年]](昭和62年)[[10月21日]]没
:漢学者・[[橋健三]]の次女。[[加賀藩]]学問所「[[橋健堂#学問所「壮猶館」|壮猶館]]」教授・[[橋健堂]]の孫(母・トミが橋健堂の五女)。橋家は[[加賀藩主]]・[[前田家]]に代々仕えた。
:19歳で平岡梓と結婚し、公威、美津子、千之の二男一女を儲けた。[[心不全]]のため82歳で死去。
;妹・[[平岡美津子]]
:[[1928年]](昭和3年)[[2月23日]]生 - [[1945年]](昭和20年)[[10月23日]]没
:[[聖心女子学院中等科・高等科|聖心女学院]]専門部在学中の17歳の時に[[学徒動員]]で、疎開されていた図書館の本を運搬する作業中、なま水を飲んだのが原因で[[腸チフス]]で早世。
;弟・[[平岡千之]]([[外交官]])
:[[1930年]](昭和5年)[[1月19日]]生 - [[1996年]](平成8年)[[1月9日]]没
:1954年(昭和29年)、東京大学法学部政治学科卒業後、[[外務省]]に入省。[[フランス]]や[[セネガル]]など各国に駐在。1987年(昭和62年)4月から駐[[モロッコ]]大使となり、その後に駐[[ポルトガル]]大使などを歴任した。引退後、[[肺炎]]のため65歳で死去。
;祖父・[[橋健三]]([[漢学者]])
:[[1861年]]([[万延]]2年)[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]生 - [[1944年]](昭和19年)[[12月5日]]没
:[[加賀藩]]士の父・瀬川朝治と母・ソトの二男。幼少より漢学者・[[橋健堂]]に学び、学才を見込まれ、12歳の時に健堂の三女・こうと結婚し[[婿養子]]となる。こうの死去後は、健堂の五女・トミを後妻とした。
:1910年(明治43年)、[[開成中学校・高等学校|開成中学校]]の第5代[[校長]]に就任。校長を辞職後は、[[昌平高等学校 (1948-1969)|昌平中学]]([[夜間中学]])の校長となる。故郷の金沢にて84歳で死去。養父の橋健堂は、[[共立学校]]([[開成中学校・高等学校|開成中学校]])創設者[[佐野鼎]]と親交を持つ<ref name="hashike"/>。
;伯父・[[橋健行]]([[精神科医]])
:[[1884年]](明治17年)[[2月6日]]生 - [[1936年]](昭和11年)[[4月18日]]没
:倭文重の兄。橋健三とこうの長男。
:開成中学、一高、東京帝国大学医科大学(現・[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東京大学医学部]])精神医学科と進み、1925年(大正14年)、東大精神科の付属病院の東京府[[巣鴨病院]](のちの[[松沢病院]])の講師から副院長となる。1927年(昭和2年)、[[千葉医科大学]](現在の[[千葉大学]]医学部)助教授に就任。歌人の[[斎藤茂吉]]([[北杜夫]]の父)とは親友同士であった<ref name="hashike"/><ref name="oka2">岡山典弘[https://web.archive.org/web/20150706212247/http://melma.com/backnumber_149567_5335353/ 「三島文学に先駆けた橋健行」](三島由紀夫の総合研究、2011年11月11日・通巻第579号)。「第二章 三島由紀夫の先駆――伯父・橋健行の生と死」({{Harvnb|岡山・源流|2016|pp=43-70}})</ref>。肺炎をこじらせ52歳で死去。
;妻・[[平岡瑤子|瑤子]]
:[[1937年]](昭和12年)[[2月13日]]生 - [[1995年]](平成7年)[[7月31日]]没
:画家・[[杉山寧]]の長女。[[日本女子大学]]英文科2年在学中の21歳の時に三島と結婚(大学は2年で中退する)。三島との間に、紀子、威一郎の一男一女を儲ける。[[心不全|急性心不全]]のため58歳で死去。
;長女・[[平岡紀子|紀子]]([[演出家]])
:[[1959年]](昭和34年)[[6月2日]]生 -
:31歳の時に[[冨田浩司]](外交官)と結婚。冨田との間に子供がいる。
;長男・[[平岡威一郎|威一郎]](元[[実業家]])
:[[1962年]](昭和37年)[[5月2日]]生 -
:開成中学、[[慶應義塾大学]]出身。映画『[[春の雪 (映画)|春の雪]]』、『三島由紀夫映画論集成』(1999年)の監修、編集に携わった。
== 系譜 ==
{| class="wikitable" style="width:80%"
|-
| rowspan="8" align="center" style="background-color:#dfd;width:25%"| '''三島由紀夫'''
| rowspan="4" align="center" style="background-color:#dfd;width:25%"| '''父:'''<br />[[平岡梓]]
| rowspan="2" align="center" style="background-color:#dfd;width:25%"| '''祖父:'''<br />[[平岡定太郎]]
| rowspan="1" align="center" style="background-color:#dfd;width:25%"| '''曽祖父:'''<br />[[平岡太吉]]
|-
| rowspan="1" align="center"| '''曽祖母:'''<br />平岡つる
|-
| rowspan="2" align="center"| '''祖母:'''<br />[[平岡なつ]]
| rowspan="1" align="center"| '''曽祖父:'''<br />[[永井岩之丞]]
|-
| rowspan="1" align="center"| '''曽祖母:'''<br />永井高
|-
| rowspan="4" align="center"| '''母:'''<br />[[平岡倭文重]]
| rowspan="2" align="center"| '''祖父:'''<br />[[橋健三]]
| rowspan="1" align="center"| '''曽祖父:'''<br />瀬川朝治
|-
| rowspan="1" align="center"| '''曽祖母:'''<br />瀬川ソト
|-
| rowspan="2" align="center"| '''祖母:'''<br />橋トミ
| rowspan="1" align="center"| '''曽祖父:'''<br />[[橋健堂]]
|-
| rowspan="1" align="center"| '''曽祖母:'''<br />-
|}
=== 平岡家 ===
;祖父・平岡定太郎の故郷、兵庫県加古川市志方村地区
:三島は、〈私は血すぢでは[[百姓]]と[[サムライ|サムラヒ]]の末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓である〉として、平岡家の血脈が〈百姓〉であることを述べているが<ref name="wakad">「フランスのテレビに初主演――文壇の[[若大将]]三島由紀夫氏」(毎日新聞夕刊 1966年3月10日)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=31-34}}</ref>、その祖父・[[平岡定太郎]]の本籍は、兵庫県[[印南郡]][[志方村]]大字上富木(現・[[加古川市]][[志方町]]上富木)で、その昔まだ村と呼ばれていた頃は、農業、漁業が盛んな地域であった<ref name="etsu2"/>。また、同じ兵庫県の[[赤穂市|赤穂]]に次いで[[塩田]]も盛んで<ref name="inose2"/><ref name="etsu2"/>、[[播磨国|播磨]]の塩は「花塩」と呼ばれ、特に珍重されていた<ref name="nosa2"/>。
:近くには[[景行天皇]]の皇后・[[播磨稲日大郎姫]]の[[御陵]]があり、その皇子・[[日本武尊]]の誕生の地でもある<ref name="etsu2"/>。古代、この地は港で、[[三韓征伐]]の折に[[神功皇后]]が龍船を泊めた。その時に神功皇后が、野鹿の群が多いのを見て「鹿多」とこの地を呼び、その後「鹿多」が「志方」と改められたのが地名の由来である<ref name="etsu2"/>。
:[[1573年]] - [[1591年]]頃([[天正]]の頃)に、[[櫛橋政伊|櫛端左京亮]]がこの地に観音城(別名、[[志方城]])を築城したため、港町から[[城下町]]となった<ref name="etsu2"/>。[[豊臣秀吉]]の[[中国攻め|中国征伐]]にあたり、城主・櫛橋は、[[播磨国|東播]]の[[三木城]]主・[[別所長治]]と共に抗戦し落城したため、多くの武士、学者が志方に土着化した<ref name="etsu2"/>。
:なお、この地は地盤が強く震災の被害が少ないことから、[[関東大震災]]のあとに登場した[[遷都]]論で候補地の一つに挙がったこともある<ref>[[今村均]]『今村均回顧録』(芙蓉書房出版、新版1993年)</ref>。[[阪神・淡路大震災]]のときも加古川流域はほとんど被害がなかった<ref name="inose2"/>。
;「平岡」姓
:平岡家の[[菩提寺]]・真福寺は[[1652年]]([[承応]]元年)の建立である<ref name="etsu2"/>。[[過去帳]]によれば、平岡家の祖となる初代は[[1688年]] - [[1703年]]([[元禄]]時代)の'''孫左衛門'''である。二代目も孫左衛門を襲名し、次は'''利兵衛'''が三代続く<ref name="etsu2"/><ref name="kako">小野繁『平岡家系図解説』(1971年)。{{Harvnb|越次|1983|pp=71-140}}、{{Harvnb|猪瀬|1999|pp=113-216}}</ref>。その次の六代目の'''平岡太左衛門'''(たざえもん)の四男が'''[[平岡太吉]]'''となり、三島の祖父・定太郎は太吉の二男である<ref name="kako"/><ref name="jyuro2">「第二章 祖父・平岡定太郎」({{Harvnb|福島鋳|2005|pp=63-98}})</ref>。
:“平岡”姓について、安藤武は、「平岡姓は平岡[[連]]、[[河内国]][[讃良郡]][[枚岡]]郷(ひらおかごう)か、[[河内郡 (大阪府)|河内郡]]枚岡邑(ひらおかむら)より起こりしか。武士は出身地の[[名田]]の名から[[姓]]をつけたが[[明治維新]]後は農民もならい姓とした。津速魂一四世孫胴身臣の後継。『[[大和物語]]』で奈良猿沢の池に身投げをした猿沢采女は平岡の人。農民の平岡家も明治になってから土地の名をとって、平岡姓を太左衛門から名乗った」としているが<ref name="ando1">「第一章 黄金の王国」({{Harvnb|生涯|1998|pp=5-98}})</ref>、過去帳を見た[[福島鋳郎|福島鑄郎]]によると、平岡姓は、四代目以降の五代目・利兵衛(3人目)からだとしている<ref name="jyuro2"/>。
;屋号「しおや」(塩屋)
:五代目の利兵衛(3人目)のところから「しおや」([[塩#日本における塩の専売|塩屋]])という[[屋号]]が付いているが<ref name="inose2"/>、これは塩田を営む塩屋ではなく、「塩物屋」のことで、五代目の利兵衛が農業のかたわら、「塩をまぶした魚介類」などを仕入れて売り歩く商売か、あるいは塩を売る商売を始めたのではないかとされている<ref name="inose2"/><ref name="jyuro2"/><ref name="itasa7-8">「本籍地」「平岡家の謎」({{Harvnb|板坂|1997|pp=79-110}})</ref>。
:[[野坂昭如]]は、「しおや」(塩屋)の屋号があって不思議はないとし、「“折ふしは塩屋まで来る物もらひ”と路通の句があるが、粗末な小屋、{{ruby|苫屋|とまや}}の謂い、誇るに足る屋号ではない。“塩屋まで”は、貧しい塩屋までもの意味」だと説明している<ref name="nosa2"/>。
;曽祖父・平岡太吉の「鶴射ち事件」
:七代目にあたる[[平岡太吉]]は、妻・つるとの間に、[[平岡萬次郎|萬次郎]]、定太郎、久太郎の3人の息子と、娘・むめを儲けた<ref name="inose2"/><ref name="etsu2"/>。三島の父・[[平岡梓|梓]]の従弟・小野繁(むめの息子)が真福寺の住職から聞き出してまとめた報告書には太吉の人物像が次のように記されている<ref name="inose2"/>。
::「平岡太吉は裕福な地主兼農家で、田舎ではいわゆる風流な知識人で腰には[[矢立]]を帯び[[短冊]]を持ち歩いた」、「萬次郎、定太郎両名を[[明石]]の[[橋本関雪]]の[[岳父]]の[[漢学]]習字の塾に入れ勉学させ、次いで[[東京|東都]]へ遊学させた」、「太吉の妻(つる)もすこぶる賢夫人として土地では有名であった」<ref name="kako"/>。
:太吉の孫の嫁・平岡りき(久太郎の二男・平岡義一の妻)によれば、太吉は幼少(5、6歳)の頃、[[領主]]から禁じられていた鶴(一説には[[雉子]])を射ったため、「所払い」が命じられ、それが理由で平岡一家は西神吉村宮前から志方村の上富木に移り住んだという<ref name="uwasa"/><ref name="itasa7-8"/>。その後、成長した太吉は金貸し業で成功し、果実栽培も軌道に乗って裕福となり、豪邸を建てた<ref name="nosa2"/><ref name="itasa7-8"/>。
;赤門事件
:平岡梓は、「僕の家は、家系図を開けば、なるほど父方は百姓風情で[[御守殿|赤門]]事件という反体制的のことをやらかして、お上に痛い目に会うし…」と述べているが<ref name="azusa5"/>、平岡りきの記憶によれば、「赤門事件」というものは聞いた記憶がないという<ref name="uwasa"/>。
:志方町中央[[農業協同組合|農協組合]]の元組合長の好田光伊によると、「赤門事件」とは、[[加賀藩|加賀]]の[[前田家]]が[[徳川将軍家]]から姫君を迎えるにあたって上屋敷の正門に赤い門を構えたが、平岡太左衛門がこれを真似て、菩提寺の真福寺に赤門を寄進し、それはほんのしるし程度のものであったが、この行為が「お上をおそれぬ、ふとどきもののおこない」と断じられ「所払い」になったという昔からのいい伝えの話だという<ref name="jyuro2"/>。
:梓から直接その伝承話を聞いたことがあるという[[越次倶子]]は、実際にその事件があったかどうかは、真福寺に赤門寄進の記録がないため真偽不明だとした上で<ref name="etsu2"/>、その伝説を幼い頃から父親や祖父から聞かされたであろう三島の脳裏には、「赤門事件を起こした太左衛門という高祖父がいた」という意識が刻まれていた可能性があるとしている<ref name="etsu2"/>。福島鑄郎も、「所払い」の原因が、太吉の鶴射ち事件か、赤門事件かは不明だが、いずれにしても「おかみをおそれぬ行為」という反骨の血が三島に受け継がれていたとしている<ref name="jyuro2"/>。
;平岡家部落民説
:『[[月刊噂]]』の記事(1972年)や、『農民文学』(1971年)の仲野羞々子(ペンネームで、元[[産経新聞]]四国支社の男性記者<ref name="itasa7-8"/>)は、平岡家の祖先が、[[部落民]]であるかのような記載をしているが<ref name="uwasa"/><ref name="noumin">仲野羞々子「農民の劣等感―三島由紀夫の虚勢―」(農民文学 第93号1971年2月号)。{{Harvnb|福島鋳|2005|pp=67-68}}、{{Harvnb|噂|1972}}</ref>{{refnest|group="注釈"|[[中上健次]]も対談で誤解に基づき、「たとえば三島由起夫{{ママ}}は被差別部落の血が流れてるよね」と発言している<ref>[[礫川全次]]「厠と排泄の民俗学――補論」(『民俗とナショナリティ』批評社、2004年12月)p.35</ref>。}}、越次倶子が実際に過去帳を調べて写真撮影したものによれば、そういった記述は全く無く<ref name="mura02">「序章――鹿鳴館の香水」({{Harvnb|村松剛|1990|pp=28-50}})</ref>、1964年(昭和39年)頃に越次が入手していた平岡家の[[壬申戸籍]]の写しにも、特別変った箇所はなかった<ref name="mura02"/>。[[村松剛]]は、もし過去帳や戸籍に部落民説を裏付ける記述があれば、差別意識の強かったその時代、由緒ある[[平岡なつ|永井夏子]]と定太郎の結婚は成立しなかったであろうとしている<ref name="mura02"/>。
:近年、過去帳を実際に閲覧することができた福島鑄郎も、仲野羞々子が言うような情報は何も見つからず、「[[刑場]]の役人の下働き」をしていたという噂も根拠不明だとし<ref name="jyuro2"/>、事件と何かを結びつけたい心理が、そういった噂を生んだのだろうとしている<ref name="jyuro2"/>。板坂剛の取材に答えた住職夫人も、「ただ名前が書いてあるだけですよ。他には何も書いてないですよ。いろんなことを言う人がいますけどね」と述べている<ref name="itasa7-8"/>。
;平岡家系図
<div style="font-size:80%">
{{familytree/start}}
{{familytree|border=1|1mago|-|2mago|-|1rihe|-|2rihe|-|3rihe|-|hitaz|.|1mago=初代孫左衛門|2mago=2代目孫左衛門|1rihe=初代利兵衛|2rihe=2代目利兵衛|3rihe=3代目利兵衛|hitaz=太左衛門}}
{{familytree|border=1| | | |,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|'}}
{{familytree|border=1| | | |`|hitak|,|himan|,|hikot| | | | | | | | | |hitak=[[平岡太吉|太吉]]|himan=[[平岡萬次郎|萬次郎]]|hikot=こと}}
{{familytree|border=1| | | | | |}|-|(| |}|-|(| | | |,|hikim|,|tonor| |hikim='''公威(三島由紀夫)'''|tonor=[[平岡紀子|紀子]]}}
{{familytree|border=1| | | | |hitsu|!|hihis|`|himas|!| |}|-|(| | | | |hitsu=寺岡つる|hihis=桜井ひさ|himas=[[平岡萬寿彦|萬壽彦]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |)|hisad| | | | |!|hiyou|`|hiiic| |hisad=[[平岡定太郎|定太郎]]|hiyou=[[平岡瑤子|杉山瑤子]]|hiiic=威一郎}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |!| |}|-|-|hiazu|+|himit| | | | | |hiazu=[[平岡梓|梓]]|himit=[[平岡美津子|美津子]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |!|hinat| | | | |`|hichi| | | | | |hinat=[[平岡なつ|永井なつ]]|hichi=[[平岡千之|千之]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |!| | | |,|hiyos| | | | | | | | | |hiyos=義夫}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |)|hikyu|(| | | | | | | | | | | | |hikyu=久太郎}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |!| | | |`|higii| | | | | | | | | |higii=義一}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |`|tamum|,|tayoy| | | | | | | | | |tamum=むめ|tayoy=義之}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |}|-|+|tayoa| | | | | | | | | |tayoa=義顕}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | |tatoy|)|tashi| | | | | | | | | |tatoy=田中豊蔵|tashi=繁}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |`|tagii| | | | | | | | | |tagii=儀一}}
{{familytree/end}}
</div>
<br />
<div style="font-size:80%">
{{familytree/start}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | |suyas|-|hiyou|,|tonor|suyas=[[杉山寧]]|hiyou=[[平岡瑤子|瑤子]]|tonor=[[平岡紀子|紀子]]}}
{{familytree|border=1| | | | |hisad| | | | | | |}|-|(| | | |hisad=[[平岡定太郎]]}}
{{familytree|border=1| | | | | |}|-|-|hiazu|,|hikim|`|hiiic|hiazu=[[平岡梓]]|hikim='''平岡公威(三島由紀夫)'''|hiiic=平岡威一郎}}
{{familytree|border=1|naiwa|-|hinat| | |}|-|+|himit| | | | |naiwa=[[永井岩之丞]]|hinat=[[平岡なつ|なつ]]|himit=[[平岡美津子|美津子]]}}
{{familytree|border=1| | | | |haken|-|hishi|`|hichi| | | | |haken=[[橋健三]]|hishi=[[平岡倭文重|倭文重]]|hichi=[[平岡千之]]}}
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{{familytree|border=1| | | | |kosab|-|koshi|,|hinat| | | | |kosab=近藤三郎|koshi=近藤晋一|hinat=夏美}}
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{{familytree|border=1| | | | | | | |,|kosum|`|sakum| | | | |kosum=寿美|sakum=久美}}
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{{familytree|border=1| | | | | | | |!| | | | |satos| | | | |satos=斎木俊男}}
{{familytree|border=1| | | | |tatoh|(| | | | | | | | | | | |tatoh=14代目竹中藤右衛門}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |)|takoh|-|tayuu| | | | |takoh=竹中宏平|tayuu=竹中祐二}}
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{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |`|kakaz| | | | |kakaz=一子}}
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{{familytree|border=1| | | | | | | | |kashi|-|kayas| | | | |kashi=[[金丸信]]|kayas=金丸康信}}
{{familytree/end}}
</div>
=== 永井家・松平家 ===
[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tk_nagai.html 永井氏系譜(武家家伝)]
[[ファイル:Nagai naoyuki.jpg|thumb|200px|right|<center>幕末の旗本・[[永井尚志]]</center>]]
三島は〈私は血すぢでは百姓と[[サムライ|サムラヒ]]の末裔〉として、〈サムラヒ〉の血脈を[[永井家]]・[[松平家]]に見ている<ref name="wakad"/>。
映画『[[人斬り (映画)|人斬り]]』(1969年)で、[[薩摩藩]]士・[[田中新兵衛]]の役を演じた時には、〈新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で[[閉門]]を命ぜられた永井[[主水正]]の[[玄孫|曽々孫]]が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう〉と[[林房雄]]宛てに綴っているが<ref>「林房雄宛ての書簡」(昭和44年6月13日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=798-799}}</ref>、この高祖父〈永井主水正〉が、三島の祖母・[[平岡なつ|夏子]]の祖父にあたる[[永井尚志]]である<ref name="etsu2"/>。
永井尚志は、[[長崎海軍伝習所]]の総監理(所長)として[[長崎製鉄所]]の創設に着手するなど活躍し、[[徳川幕府]]海軍創設に甚大な貢献をなして、[[1855年]]([[安政]]2年)、[[従五位|従五位下]]・[[玄蕃寮|玄蕃頭]]に叙任した人物である<ref name="nichi-so"/><ref name="etsu2"/>。
尚志はその後、[[外国奉行]]、[[軍艦奉行]]、[[京都町奉行]]となり、京摂の間、[[坂本龍馬]]等志士とも交渉を持った<ref name="nichi-so"/>。[[1867年]](慶応3年)に[[若年寄]]となり、[[戊辰戦争]]では、[[箱館奉行]]として[[榎本武揚]]と共に[[五稜郭]]に立て籠り、[[官軍]]に敗れて牢に入った。[[明治維新]]後は解放され、[[元老院 (日本)|元老院]]権大書記官となった<ref name="nichi-so"/>。
[[大屋敦]](夏子の弟)は祖父・永井尚志について、「波乱に富んだ一生を送った祖父は、政治家というより、文人ともいうべき人であった。[[徳川慶喜]]公が[[大政奉還]]する際、その[[奏上]]文を草案した人として名を知られている。[[勝海舟]]なども詩友として祖父に兄事していたため、私の昔の家に、海舟のたくさんの遺墨のあったことを記憶している」と語っている<ref name="ooya">[[大屋敦]]『[[私の履歴書]] 第22集』([[日本経済新聞社]]、1964年11月)、『私の履歴書 経済人7』(日本経済新聞社出版局、1980年)。{{Harvnb|越次|1983|pp=101-140}}、{{Harvnb|村松剛|1990|p=19}}、{{Harvnb|猪瀬|1999|pp=140-142}}</ref>。
永井亨(夏子の弟で、[[経済学]]博士・人口問題研究所所長)によると、尚志は京都では守護職の[[松平容保]]([[会津藩]]主)の下ではたらき、[[近藤勇]]、[[土方歳三]]以下の[[新撰組]]の面々にも人気があったとされる<ref name="touru">永井亨『永井亨博士回顧録 思い出話』。{{Harvnb|越次|1983|pp=101-140}}</ref>。晩年の尚志は、向島の[[岩瀬忠震|岩瀬肥後守]]という早世した親友の別荘に入り、岩瀬のことを死ぬまで祭祀していたという<ref name="touru"/>。
夏子の父・[[永井岩之丞]]は、[[1846年]]([[弘化]]2年)9月に永井家一族の[[幕臣]]・三好山城守幽雙の二男として生まれ、永井尚志の養子となった<ref name="etsu2"/>。戊辰戦争では品川を脱出し、尚志と共に函館の五稜郭に立て籠って戦った<ref name="nichi-so"/>。維新後は、[[司法省 (日本)|司法省]]十等出仕を命ぜられ、[[判事]]、[[控訴院]]判事を経て、[[1894年]](明治27年)4月に[[大審院]]判事となった人物である<ref name="nichi-so"/>。
岩之丞は、[[水戸]]の[[支藩]]・[[宍戸藩]]の藩主・[[松平頼位]]の三女・松平鷹(のちに高)と結婚し、六男六女を儲けた<ref name="etsu2"/>。松平高の母・糸(佐藤氏の娘)は松平頼位の[[側室]]で、[[新門辰五郎]]の姪であった<ref name="etsu2"/><ref name="ooya"/>。松平頼位の長男・[[松平頼徳]]は[[天狗党の乱]]の際に幕府から切腹を命じられて33歳で死んだ人物である<ref name="etsu2"/><ref>「第二章 映画『人斬り』と三島由紀夫――田中新兵衛と永井尚志」({{Harvnb|山内|2011|pp=56-107}}</ref>。夏子の祖父にあたる松平頼位の先祖を辿っていくと[[徳川家康]]になるため、三島は夏子の家系の松平家を通じ徳川家康の子孫となる<ref name="etsu2"/><ref name="kakei-m"/>。
岩之丞の六男・大屋敦は父親について、「厳格そのもののような人」で、「子供の教育については、なにひとつ干渉しなかったが日常の起居は古[[武士]]のようであぐらなどかいた姿を、ただの一度も見たことはなかった」と語っている<ref name="ooya"/>。
三島は曽祖母・高の写真の印象を、〈美しくて豪毅な女性〉とし、〈写真で見る晩年の面影からも、眉のあたりの勝気のさはやかな感じと、秀でた鼻と、小さなつつましい形のよい口とが、微妙で雅趣のある調和を示してゐる。そこには[[封建時代]]の女性に特有なストイックな清冽さに充ちた稍々非情な美が見られるのである〉と表現している<ref>「好色」(小説界 1948年7月号)pp.35-43。{{Harvnb|17巻|2002|pp=211-230}}</ref>。
; 永井家系図
<div style="font-size:80%">
{{familytree/start}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | |,|tayos|-|tamas| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |tayos=[[平良将|良将]]|tamas=[[平将門|将門]]}}
{{familytree|border=1|katen|-|kazra|-|takam|-|tatak|(| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |katen=[[桓武天皇]]|kazra=[[葛原親王]]|takam=[[高見王]]|tatak=[[平高望]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | |`|tayok|-|takim|-|tachr|-|tachk|-|tachb|-|osgyo|.| | | |tayok=[[平良兼|良兼]]|takim=[[平公雅|公雅]]|tachr=[[平致頼|致頼]]|tachk=致経|tachb=致房|osgyo=長田行致}}
{{familytree|border=1| | | |,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|'| | | }}
{{familytree|border=1| | | |`|osmas|-|6dary|-|osnao|-|oshak|-|osshi|7| | | | | | | | | | | | | | | | | | | |osmas=政俊|6dary=(6代略)|osnao=直重|oshak=白広|osshi=重広}}
{{familytree|border=1|goten|-|muney|-|okiyo|-|yoshi|-|ohnob|-|ohsad|i|oshir|-|osshi|.| | | | | | | | | | | |goten=[[後醍醐天皇]]|muney=[[宗良親王]]|okiyo=[[興良親王]]|yoshi=良王|ohnob=大橋信重|ohsad=定広|oshir=広正|osshi=重元}}
{{familytree|border=1| | | |,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|'| | | | | | | | | | | }}
{{familytree|border=1| | | |!|yurih| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |yurih=由利姫}}
{{familytree|border=1| | | |!| |}|-|-|namas|-|nanao|-|naman|-|namah|-|namts|-|5dary|~|namta|-|nakyu|-|nakaf|namas=正直|nanao=直隆|naman=正似|namah=正治|namts=正次|5dary=(5代略)|namta=匡威|nakyu=[[永井久一郎|匡温]]|nakaf=[[永井荷風|壮吉(荷風)]]}}
{{familytree|border=1| | | |`|nanao| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |nanao=[[永井直勝]]}}
{{familytree|border=1| | | | | |}|-|-|nanam|-|nants|-|nanta|-|nahit|-|nashj|-|nanto|-|nanan|~|nanay|7| | | |nanam=[[永井尚政|尚政]]|nants=[[永井尚庸|尚庸]]|nanta=[[永井直敬|直敬]]|nahit=尚方|nashj=尚恕|nanto=尚友|nanan=尚徳|nanay=[[永井尚志|尚志]]}}
{{familytree|border=1|abmas|-|abmus|F|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|J| | | |abmas=[[阿部正勝]]|abmus=女}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |L|naiwa|,|nasou| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |naiwa=[[永井岩之丞|岩之丞]]|nasou=壮吉}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | |}|-|+|hinat| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |hinat=[[平岡なつ|なつ]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | |natak|!| |}|-|-|hiazu|-|hikim| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |natak=高|hiazu=[[平岡梓]]|hikim='''平岡公威(三島由紀夫)'''}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |!|hisad| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |hisad=[[平岡定太郎]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|natoh| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |natoh=亨}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|nahir| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |nahir=啓}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|nashi| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |nashi=繁}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|ohats| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |ohats=[[大屋敦]]}}
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{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|nagai| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |nagai=愛}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|nachi| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |nachi=千恵}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|nakiy| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |nakiy=清子}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |`|nafum| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |nafum=文子}}
{{familytree/end}}
</div>
; 永井尚志系図
<div style="font-size:80%">
{{familytree/start}}
{{familytree|border=1|fukam|-|fufuh|-|fufus|-|18dai|-|hosuk|-|27dai|.|fukam=[[藤原鎌足]]|fufuh=[[藤原不比等|不比等]]|fufus=[[藤原房前|房前]]|18dai=(18代略)|hosuk=[[本多助秀]]|27dai=(27代略)}}
{{familytree|border=1| | | |,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|'}}
{{familytree|border=1| | | |!| | | | | | | | | | | |,|manot|-|manoy| |manot=[[松平乗友|乗友]]|manoy=[[松平乗羨|乗羨]]}}
{{familytree|border=1| | | |`|manos|-|mamin|-|manoy|(| | | |,|musum| |manos=[[松平乗真]]|mamin=[[松平盈乗|盈乗]]|manoy=[[松平乗穏|乗穏]]|musum=女}}
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{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | | | | | |`|nanao| |nanao=[[永井尚志]]}}
{{familytree/end}}
</div>
; 永井岩之丞系図
<div style="font-size:80%">
{{familytree/start}}
{{familytree|border=1|katoh|-|ognag|-|ognaf|-|22dai|-|miyuu|j|naiwa|katoh=[[加賀美遠光]]|ognag=[[小笠原長清]]|ognaf=[[小笠原長房 (阿波小笠原氏)|長房]]|22dai=(22代略)|miyuu=三好幽雙|naiwa=[[永井岩之丞|岩之丞]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | | |nanao|J| | | |nanao=[[永井尚志]]}}
{{familytree/end}}
</div>
; 松平家系図
<div style="font-size:80%">
{{familytree/start}}
{{familytree|border=1| | | |,|tohid|-|toiem|-|toiet|~|totsu|~|9dair|~|toyos|tohid=[[徳川秀忠|秀忠]]|toiem=[[徳川家光|家光]]|toiet=[[徳川家綱|家綱]]|totsu=[[徳川綱吉|綱吉]]|9dair=(九代略)|toyos=[[徳川慶喜|慶喜]]}}
{{familytree|border=1|toiey|+|toyos|,|mayos| | | | | | | | | | | | | | | | |toiey=[[徳川家康]]|toyos=[[徳川義直|義直]]|mayos=[[松平頼重]]}}
{{familytree|border=1| | | |)|toyon|)|tomit| | | | | | | | | | | | | | | | |toyon=[[徳川頼宣|頼宣]]|tomit=[[徳川光圀|光圀]]}}
{{familytree|border=1| | | |`|toyof|+|mayom| | | | | | | | | | | | | | | | |toyof=[[徳川頼房|頼房]]|mayom=[[松平頼元]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |)|mayot| | | | | | | | | | | | | | | | |mayot=[[松平頼隆]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |)|mayto|j|mayom|-|mayon|-|mayot|7| | | |mayto=松平頼利|mayom=[[松平頼道|頼道]]|mayon=[[松平頼慶|頼慶]]|mayot=[[松平頼多|頼多]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |`|mayoo|J| | | | | | | | | | | |:| | | |mayoo=[[松平頼雄 (宍戸藩主)|松平頼雄]]}}
{{familytree|border=1| | | |F|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|J| | | }}
{{familytree|border=1| | | |:| | | |,|mayoy|~|mayok|,|nasou| | | | | | | | |mayoy=[[松平頼敬|頼敬]]|mayok=[[松平頼筠|頼筠]]|nasou=壮吉}}
{{familytree|border=1| | | |L|mayos|+|ohsuk|,|mayon|)|hinat| | | | | | | | |mayos=[[松平頼救|頼救]]|ohsuk=太田資原|mayon=[[松平頼徳|頼徳]]|hinat=[[平岡なつ|なつ]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |)|matei|)|mayuk|!| |}|-|-|hiazu|,|hikim|matei=定三郎|mayuk=雪|hiazu=[[平岡梓]]|hikim='''平岡公威(三島由紀夫)'''}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |`|mayot|+|katei|!|hisad| | |}|-|+|himit|mayot=[[松平頼位|頼位]]|katei=珽|hisad=[[平岡定太郎]]|himit=[[平岡美津子|美津子]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|mayoy|)|natoh| |hishi|`|hichi|mayoy=[[松平頼安|頼安]]|natoh=亨|hishi=[[平岡倭文重|橋倭文重]]|hichi=[[平岡千之]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|natak|)|nahir| | | | | | | | |natak=高|nahir=啓}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |!| |}|-|+|nashi| | | | | | | | |nashi=繁}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |!|naiwa|)|ohats| | | | | | | | |naiwa=[[永井岩之丞|岩之丞]]|ohats=[[大屋敦]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|mayoh|)|nakan| | | | | | | | |mayoh=[[松平頼平|頼平]]|nakan=鐘}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |)|istsu|)|nagai| | | | | | | | |istsu=艶|nagai=愛}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |`|matei|)|nachi| | | | | | | | |matei=鋭|nachi=千恵}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | |)|nakiy| | | | | | | | |nakiy=清子}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | |`|nafum| | | | | | | | |nafum=文子}}
{{familytree/end}}
</div>
=== 橋家 ===
[[ファイル:Hashikenzo.jpg|thumb|180px|<center>開成中学校校長・[[橋健三]]</center>]]
永井家・松平家の血脈が〈サムラヒ〉「武」とすれば、橋家は三島にとって「文」の血脈となる<ref name="etsu2"/>。
三島の母・[[平岡倭文重|倭文重]]の祖父・[[橋健三]]、曽祖父・[[橋健堂]]、高祖父・'''橋一巴'''(雅号・鵠山)は、[[加賀藩]]藩主・[[前田家]]に代々仕えた[[漢学者]]・[[書家]]であった。[[名字帯刀]]を許され、学塾において藩主・前田家の人々に講義をしていた<ref name="etsu2"/>。
高祖父・一巴以前の橋家は、[[近江八幡市|近江八幡]]([[滋賀県]]にある[[琵琶湖]]畔、[[日野川 (滋賀県)|日野川]]の近く)の広大な山林の持主の[[賀茂氏|賀茂]](橋)一族である。1970年(昭和45年)の滋賀県の調査により、この土地が賀茂(橋)一族の橋一巴、健堂、健三の流れを汲む直系の子孫に所有権があることが判明した<ref name="etsu2"/>。賀茂(橋)家は、約一千年の歴史をもつ古い家柄の[[京都]]の橋家が元で、[[島根県]]の[[出雲]]の出身である<ref name="etsu2"/>。
曽祖父・橋健堂は、平民・女子教育の充実など教育者として先駆的であったが、健堂が出仕した「[[橋健堂#学問所「壮猶館」|壮猶館]]」や、「集学所」([[夜学|夜間学校]]のはしり)は、藩の重要プロジェクトと連動し、単に[[儒学]]を修める[[藩校]]だけでなく、英語や洋式兵学も教え、[[ペリー]]率いる[[黒船来航|黒船の来航]]に刺激された加賀藩が、命運を賭して創設した[[軍事機関]]でもあった<ref name="hashike">[[岡山典弘]]「三島由紀夫と橋家 もう一つのルーツ」(三島由紀夫と編集・11{{Harvnb|三島研究}}2011年pp.112-127)。{{Harvnb|岡山・源流|2016|pp=9-42}}</ref>。教授であった健堂はその軍事拠点の中枢にあり、海防論を戦わせ、[[佐野鼎]]から洋式兵学を吸収する立場の人物であった<ref name="etsu2"/><ref name="hashike"/>。
健堂が学び、親交を持った佐野鼎は、[[共立学校]](現・[[開成中学校・高等学校]])の創設者であり、婿養子の[[橋健三|健三]]は5代目の開成中学校校長を務めた<ref name="etsu2"/><ref name="hashike"/>。健三の長男・[[橋健行|健行]]も開成中学校に通った(開成との縁については、三島の祖父・[[平岡定太郎|定太郎]]も開成の前身・共立学校出身で、永井家の高祖父・[[永井尚志]]が1848年に学問吟味に合格した[[昌平坂学問所]]もまた開成との歴史的つながりがあり、尚志の孫で三島の大叔父にあたる[[大屋敦]]や、三島の父・[[平岡梓]]、息子・[[平岡威一郎|威一郎]]も開成中学校出身者である)。
; 橋家系図
<div style="font-size:80%">
{{familytree/start}}
{{familytree|border=1| | | |,|haohr|-|hasen| | | | | | | | | | | | |haohr=往来|hasen=船次郎}}
{{familytree|border=1|haich|(| | | |,|hatsu| | | | | | | | | | | | |haich=橋一巴|hatsu=つね}}
{{familytree|border=1| | | |`|haken|+|hafus| | | | | | | | | | | | |haken=[[橋健堂|健堂]]|hafus=ふさ}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |)|hakou| | | | | | | | | | | | |hakou=こう}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |!| |}|-|-|haken| | | | | | | | |haken=[[橋健行]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |!|haken|,|hayuk| | | | | | | | |haken=[[橋健三|瀬川健三]]|hayuk=雪子}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |!| |}|-|+|hamas| | | | | | | | |hamas=橋正男}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |)|hatom|)|hatak|,|hikim|,|tonor|hatom=トミ|hatak=橋健雄|hikim='''平岡公威(三島由紀夫)'''|tonor=[[平岡紀子|紀子]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |)|hayor|)|hakou|!| |}|-|(| | | |hayor=より|hakou=[[橋行蔵]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | |`|hahin|)|hishi|!|hiyou|`|hiiic|hahin=ひな|hishi=[[平岡倭文重|倭文重]]|hiyou=[[平岡瑤子|杉山瑤子]]|hiiic=平岡威一郎}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |!| |}|-|+|himit| | | | |himit=[[平岡美津子|美津子]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |!|hiazu|`|hichi| | | | |hiazu=[[平岡梓]]|hichi=[[平岡千之]]}}
{{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |`|hashi| | | | | | | | |hashi=重子}}
{{familytree/end}}
</div>
== 略年譜 ==
{| class="wikitable"
|[[1925年]](大正14年)<br />{{0|0000000000000000}}||1月14日の夜9時に[[東京市]][[四谷区]]永住町2番地(現・[[東京都]][[新宿区]][[四谷]]四丁目22番)で、父・[[平岡梓]]と母・[[平岡倭文重|倭文重]]の長男として誕生。本名・平岡公威。本籍地は祖父・[[平岡定太郎]]の郷里・[[兵庫県]][[印南郡]][[志方村]]大字上富木119番地(現・兵庫県[[加古川市]][[志方町]]上富木)。3月3日頃から祖母・[[平岡なつ|夏子]]が1階の自室で育て始める。8月に[[小石川植物園]]で遊ぶ。
|-
|[[1926年]](大正15年・昭和元年)||1歳。1月に祖母の留守中、2階に這い上がろうとして階段から転落。眉間から大量出血し病院に搬送。
|-
|[[1927年]](昭和2年)||2歳。1月に母の実家への年始参りで、[[漢学者]]の祖父・[[橋健三]]に[[書法|運筆]]を習い[[書初め]]をする(以降、幼少時代ほぼ毎年恒例となる)。
|-
|[[1928年]](昭和3年)||3歳。2月23日に妹・[[平岡美津子|美津子]]が誕生。天気の良い日でないと祖母から外出許可が下りず、遊び相手も年上の女の子に限定。この年、[[スパルタ教育]]を決行した父に抱かれて[[新宿]]で[[蒸気機関車]]を至近距離で見る。
|-
|[[1929年]](昭和4年)||4歳。3月に母に連れられ[[豊島園]]に行き、スナップ写真を撮る。この年の秋頃、両親に散歩に連れられ、[[市ヶ谷刑務所]]の高い建物に興味を示す。
|-
|[[1930年]](昭和5年)||5歳。1月19日に弟・[[平岡千之|千之]]が誕生。同月、[[自家中毒]]に罹り死の一歩手前までいく。棺に入れる玩具などが用意されたが、医師の伯父・[[橋健行]]が診た際に排尿し、一命をとりとめる。8月22日に祖父・定太郎の銅像が[[樺太神社]]に建立。祖父母・母らと銅像の前で記念撮影。
|-
|[[1931年]](昭和6年)||6歳。4月に[[学習院初等科]]に入学。[[三谷信]]と級友になる。同月に[[靖国神社]][[例大祭]](以降、毎年初等科恒例行事で参拝)。絵本、世界童話、[[小川未明]]、[[鈴木三重吉]]などを愛読。5月に遠足で[[千葉県]]の[[姉崎町|姉崎]]に行く。12月に初等科機関誌『小ざくら』(年2回発行)に俳句と短歌が初掲載。以降、毎号に習作(詩・俳句・短歌)を発表。初等科低学年時代は風邪のため学校は休みがち。
|-
|[[1932年]](昭和7年)||7歳。3月10日に[[菊池武夫 (陸軍軍人)|菊池武夫]]中尉による[[陸軍記念日]]の講話を聴く(以降、毎年初等科恒例行事で軍人が招かれる)。5月の[[江の島]]行きの遠足を休む。6月6日に[[爆弾三勇士]]の記念碑(久留米工兵大隊地内)建立のため5[[銭]]を寄付。9月13日に[[乃木希典]]元学習院長の二十年祭で墓参(以降、毎年初等科恒例行事で[[乃木神社 (東京都港区)|乃木神社]]参拝)。9月17日に学校正堂で[[本庄繁]]前[[関東軍]]司令官による[[満州事変]]1周年記念の講話を聴く。11月に遠足で[[茨城県]]の[[水戸市|水戸]]に行く。12月に[[上野動物園]]見学。
|-
|[[1933年]](昭和8年)||8歳。2月に[[川崎市]]の[[明治製菓]]の工場見学。同月頃に学校の「[[旅順口区|旅順]]池」の渡りっこで氷が割れ1人だけ池に落下し号泣。[[学校用務員|小使いさん]]に救助される。3月に四谷区西信濃町16番地(現・新宿区[[信濃町 (新宿区)|信濃町]]8番)へ転居。5月に遠足で[[立川市|立川]]に行く。8月に祖父母に伴い2、3軒先離れた家に転居。両親・妹弟と別居することになる。11月に遠足で[[群馬県]][[太田市|太田]]に行く([[書生]]が付添う)。12月24日に学校正堂で[[明仁|皇太子殿下]]御降誕奉祝式。
|-
|[[1934年]](昭和9年)||9歳。5月の[[筑波山]]の遠足を体調不良で休む。6月5日に[[東郷平八郎]][[元帥]]国葬のため[[駐日英国大使館|英国大使館]]向い側に整列して葬送。夏休み中の7月22日に、慕っていた図画教師・大内一二先生が死去。9月に作文「大内先生を想ふ」を書く。11月に遠足で[[長瀞渓谷|長瀞]]に行く。12月に肺門[[リンパ節|リンパ腺]]を患う。
|-
|[[1935年]](昭和10年)||10歳。4月6日に[[満州国皇帝]]・[[愛新覚羅溥儀]]来訪により[[赤坂離宮]]前で整列奉迎。4月8日に[[代々木練兵場]]で来訪特別[[観兵式]]を見学。5月に『世界童話大系 [[千夜一夜物語|アラビヤン・ナイト]]』を買ってもらう。同月に遠足で[[潮来市|潮来]]、[[鹿島神宮|鹿島]]、[[香取神宮|香取]]に行く。11月に遠足で[[日光市|日光]]に行く。
|-
|[[1936年]](昭和11年)||11歳。2月26日に[[二・二六事件]]が起こり、1時限目で臨時休校。5月に遠足で[[伊勢市|伊勢]]、[[奈良]]、[[京都]]に行く。6月に作文「我が国旗」を書く。11月に遠足で[[奥多摩]]に行く。この年、同級生に「お前の[[睾丸]]もアオジロだろうな」とからかわれ、逆に「おい、見ろ」と反撃。
|-
|[[1937年]](昭和12年)||12歳。1月に自作の童話・詩集ノート『笹舟』を編む。3月に学習院初等科を卒業。同月に父が[[欧州]]遊学。4月に[[学習院中等科]]に進学し、文芸部に入部。同月、両親の引っ越しに同伴し、[[渋谷区]][[大山町 (渋谷区)|大山町]]15番地(現・渋谷区[[松濤]]二丁目4番8号)へ転居。祖父母と離れる。7月に作文「春草抄――初等科時代の思ひ出」を学習院校内誌『[[輔仁会雑誌]]』(159号)に発表。以降、毎号に習作(詩歌・散文作品・戯曲)を発表。<br />8月に母と妹弟と千葉県[[鵜原駅|鵜原]]海岸に避暑に行く。秋頃に高等科3年の先輩文芸部員・[[坊城俊民]]から声をかけられ、交友が始まる。10月に父が[[農林省 (日本)|農林省]]営林局事務官に就任し、[[大阪]]に単身赴任(昭和16年1月まで)。12月頃に自作の詩集ノート『こだま――平岡小虎詩集』などを編む。
|-
|[[1938年]](昭和13年)||13歳。3月に初めての小説「{{ruby|酸模|すかんぽう}}――秋彦の幼き思ひ出」、「座禅物語」、詩篇「金鈴」、俳句を『輔仁会雑誌』(161号)に発表。5月に野外演習で千葉県の[[一宮町|上総一宮]]に行く。10月に祖母に[[歌舞伎座]]へ連れられ、初めての歌舞伎『[[仮名手本忠臣蔵]]』を観劇。同時期に母方の祖母・橋トミにも連れられ、初めて[[能]]『[[三輪山|三輪]]』を観る。
|-
|[[1939年]](昭和14年)||14歳。1月18日に祖母・夏子が潰瘍出血のため死去(没年齢62歳)。3月に戯曲「東の博士たち」、詩篇「九官鳥」を『輔仁会雑誌』(163号)に発表。4月に、前年より[[成城高等学校 (旧制)|成城高等学校]](現・[[成城大学]])から学習院に転任していた[[清水文雄]]が[[国文法]]と作文の担当教師となる。以降、生涯にわたる恩師となる。11月頃から俳句創作の際、綽名のアオジロをもじって「青城」を[[俳号]]とする。
|-
|[[1940年]](昭和15年)||15歳。1月に詩「凶ごと」を書く。2月から[[山路閑古]]主宰の月刊俳句雑誌『山梔(くちなし)』に俳句や詩歌をさかんに投稿発表(翌年にかけて)。6月に文芸部委員に選出。11月に小説「彩絵硝子」を『輔仁会雑誌』(166号)に発表。[[東文彦]]から初めて手紙をもらい、文通が始まる。同時期に[[徳川義恭]]とも交友が始まる。この年、母に連れられ、詩人・[[川路柳虹]]を訪問。しばらく師事する。
|-
|[[1941年]](昭和16年)||16歳。2月19日に東文彦宅を初訪問。5月に修学旅行で[[伊勢神宮]]、奈良、京都、[[舞鶴港|舞鶴]]の[[大日本帝国海軍|海軍]]機関学校、[[天橋立]]、[[有馬温泉]]に行く。6月に野外演習で群馬県[[相馬村 (群馬県)|相馬ヶ原]]に行く。7月に「[[花ざかりの森]]」を書き上げ、清水文雄に批評を請う。同月に川路柳虹の紹介で[[萩原朔太郎]]を訪問。9月に清水の同人月刊誌『[[文芸文化|文藝文化]]』に「花ざかりの森」を発表(12月まで)。ペンネームを'''三島由紀夫'''とする。以降、同誌に同人として小説や随筆、詩歌を発表。12月8日に日米開戦([[真珠湾攻撃]])。
|-
|[[1942年]](昭和17年)||17歳。3月に学習院中等科を卒業(席次は2番)。謝恩会で「謝辞」を読む。同月に父が農林省を退官。日本瓦斯用木炭株式会社に[[天下り|天下る]]。4月に[[学習院高等科 (旧制)|学習院高等科]]文科乙類(ドイツ語)に入学。同月に詩「大詔」を『文藝文化』に発表。5月に文芸部委員長に選任。7月1日に東文彦、徳川義恭と共に同人誌『'''赤繪'''』を創刊。創刊号に「[[苧菟と瑪耶]]」を発表。<br />8月26日に祖父・定太郎が死亡(没年齢79歳)。11月に学校講演依頼のため、清水文雄と共に[[保田與重郎]]を初訪問。
|-
|[[1943年]](昭和18年)||18歳。1月に懸賞論文「王朝心理文學小史」が入選。2月に輔仁会の総務部総務幹事に就任。3月から「世々に残さん」を『文藝文化』に連載(10月まで)。6月6日の輔仁会春季文化大会で創作対話劇『やがてみ楯と』が上演。[[伊東静雄]]、[[蓮田善明]]の導きにより、6月9日に[[富士正晴]]と[[神田区]]の七丈書院で面会。富士を通じて[[林富士馬]]とも知り合う。<br />7月下旬に徳川義恭と共に[[世田谷区]][[新町 (世田谷区)|新町]]の[[志賀直哉]]を初訪問。10月3日に富士、林と共に[[佐藤春夫]]を初訪問。10月8日に東文彦が死去(没年齢23歳)。葬儀で弔辞を読む。『赤繪』は2号で廃刊。この年、[[堀辰雄]]を訪問。
|-
|[[1944年]](昭和19年)||19歳。4月に林富士馬と共に[[上石神井]]の[[檀一雄]]を初訪問。4月27日に[[徴兵検査]]通達書を受け取る(発信者は本籍地の兵庫県印南郡志方村村長・陰山憲二)。5月16日に兵庫県[[加古郡]]加古川町(現・加古川市)の[[旧加古川町公会堂|加古川町公会堂]]で徴兵検査。第二乙種に合格([[召集令状]]は翌年2月)。その足で翌17日と22日に大阪の伊東静雄を訪問。<br />8月に『文藝文化』が70号で終刊。同月下旬に三谷信ら友人4人で[[志賀高原]]に卒業旅行。9月に学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となり、天皇より[[恩賜の銀時計]]を拝受。10月に[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法学部]]法律学科(独法)に入学。同月に処女小説集『花ざかりの森』を七丈書院より刊行。12月5日に祖父・[[橋健三]]が郷里の[[金沢市|金沢]]で死去(没年齢83歳)。
|-
|[[1945年]](昭和20年)||20歳。[[学徒動員]]に伴い、1月から「東京帝国大学[[勤労報国隊]]」として[[群馬県]][[新田郡]][[太田市|太田町]]の[[中島飛行機]]小泉製作所に[[勤労動員]]。東矢島寮11寮35号室に入寮。肺の悪い同学生と2人で総務課調査部文書係に配属。2月に[[中河与一]]の厚意で、小説「[[中世 (小説)|中世]]」の第一回、第二回(途中)を『文藝世紀』に発表。2月4日に[[入営]]通知の[[電報]]を受け取り、出立までに遺書、遺髪、遺爪を用意。<br />2月10日に兵庫県[[富合村]]の高岡廠舎で入隊検査。右[[肺結核|肺浸潤]]の診断が下され[[即日帰郷]]。[[栗山理一]]を通じ、2月22日に [[野田宇太郎]](『[[文藝]]』編集長)を訪問。3月8日に[[川端康成]]から来簡。3月9日から群馬県の[[陸軍予備士官学校 (日本)|前橋陸軍士官学校]]にいる三谷信を慰問。翌3月10日に[[東京大空襲]]。4月上旬頃、疎開する佐藤春夫を、林富士馬、[[庄野潤三]]らと餞別に行く。<br />5月から[[神奈川県]][[高座郡]][[大和市|大和]]の[[海軍工廠|海軍高座工廠]]に勤労動員。高座廠第五工員寄宿舎東大法学部第一中隊第二小隊に入る。6月に工廠内の法学部学生ら東大文化委員による回覧冊子『東雲』が作られ、編集を担当。同月中旬に[[軽井沢]]疎開中の三谷邦子(三谷信の妹で恋人)を訪問。邦子と接吻をする。<br />8月15日に疎開先の[[豪徳寺]]の親戚の家で[[日本の降伏|敗戦]]を迎える。8月19日に蓮田善明が駐屯先の[[マレー半島]]・[[ジョホールバル]]でピストル[[自決]](没年齢41歳)。8月下旬に遅れて発行された『文藝』(5・6月合併号)に「エスガイの狩」を発表。初めての原稿料を得る。10月23日に妹・[[平岡美津子|美津子]]が[[腸チフス]]のため死去(没年齢17歳)。
|-
|[[1946年]](昭和21年)||21歳。1月1日に[[昭和天皇]]の[[詔書]]「[[人間宣言]]」に憤慨。1月27日に[[鎌倉市]]二階堂の川端康成宅を初訪問。以降、長きに亘り師事する。5月5日に三谷邦子が銀行員・永井邦夫と結婚。同月に林富士馬、庄野潤三、[[島尾敏雄]]と共に伊東静雄主催の同人誌『光耀』に参加。6月に「[[煙草 (小説)|煙草]]」を『[[人間 (雑誌)|人間]]』に発表。9月16日に邦子と道で偶然出会う。11月17日に「蓮田善明を偲ぶ会」に出席。12月14日に[[矢代静一]]と一緒に、[[太宰治]]、[[亀井勝一郎]]を囲む集いに参加。太宰と初めて言葉を交わす。
|-
|[[1947年]](昭和22年)||22歳。1月10日に[[織田作之助]]が死去(没年齢33歳)。哀惜にたえず翌日[[梅崎春生]]と会い、一緒に赤坂書店に行く。4月に「[[軽王子と衣通姫]]」を『[[群像]]』に発表。6月27日に[[新橋 (東京都港区)|新橋]]の[[新夕刊]]で[[林房雄]]と会い、以降親交を持つ。7月に[[日本勧業銀行]]の第一次試験に合格するも面接で不採用。11月に[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]]法律学科卒業。同月に短編集『[[岬にての物語]]』を桜井書店より刊行。<br />12月に「自殺企図者」(『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』第2章の改題前)を『文学会議』に発表(以降、翌年にかけ各章が各誌に分載)。12月13日に[[高等文官試験]]合格。12月24日に[[大蔵省]]に初登庁。大蔵[[事務官]]に任官され、[[銀行局]]国民貯蓄課に勤務。
|-
|[[1948年]](昭和23年)||23歳。3月に随筆「重症者の兇器」を『人間』に発表。6月13日に太宰治が[[玉川上水]]で入水自殺(没年齢38歳)。6月に『[[近代文学 (雑誌)|近代文学]]』の第二次同人となる。7月下旬から8月頃、作家活動と官僚の二重生活の過労で出勤途中に[[渋谷駅]]プラットホームから線路に転落。8月下旬頃、[[河出書房新社|河出書房]]の[[坂本一亀]]らが[[書き下ろし]]長編の執筆依頼に大蔵省仮庁舎を来訪。<br />9月2日に大蔵省に辞表を提出し、9月22日に依願退職。10月に河出書房の[[杉森久英]]企画の雑誌『序曲』の同人([[椎名麟三]]、[[武田泰淳]]、[[梅崎春生]]、[[野間宏]]、[[船山馨]]、[[中村真一郎]]、[[寺田透]]、[[島尾敏雄]]、[[埴谷雄高]])に参加。同月に国際[[乗馬]]倶楽部に入会。7年ぶりに乗馬をする。11月に全5章から成る初の長編『盗賊』を真光社より刊行。12月に短編集『夜の仕度』を[[鎌倉文庫]]より刊行。同月に同人誌『序曲』が創刊(1号で終刊)。
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|[[1949年]](昭和24年)||24歳。2月に戯曲『火宅』が[[俳優座]]創作劇研究会により初演。7月に書き下ろし長編『[[仮面の告白]]』を河出書房より刊行。8月に作品集『魔群の通過』を河出書房より刊行。同月に[[舟橋聖一]]主宰の「{{ruby|伽羅|きあら}}の会」に参加。10月に大阪府[[豊中市]]へ取材旅行。11月24日に[[光クラブ事件]]の山崎晃嗣が服毒自殺(没年齢26歳)。12月12日に徳川義恭が死去(没年齢28歳)。
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|[[1950年]](昭和25年)||25歳。1月から「[[純白の夜]]」を『[[婦人公論]]』に連載(10月まで)。2月に[[小田切秀雄]]から[[日本共産党|共産党]]入党を勧誘される。6月に書き下ろし長編『[[愛の渇き]]』を[[新潮社]]より刊行。7月2日に[[金閣寺放火事件]]が起こる。同月から「[[青の時代 (小説)|青の時代]]」を『[[新潮]]』に連載(12月まで)。同月に執筆のため[[箱根町]][[強羅駅|強羅]]に行く。<br />8月1日に[[目黒区]]緑ケ丘2323番地(現・[[緑が丘 (目黒区)|緑が丘]]一丁目17-24)へ転居。同月に[[岸田国士]]提唱の「[[雲の会]]」発足に[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[福田恆存]]らと参加。12月に[[能楽]]を戯曲化した初作『[[邯鄲 (戯曲)|邯鄲]]』がテアトロ・トフンにより初演。この頃から[[中村光夫]]、福田恆存、[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]、[[大岡昇平]]、[[吉川逸治]]らの「[[鉢の木会]]」に参加。
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|[[1951年]](昭和26年)||26歳。1月から「[[禁色 (小説)|禁色]]」(『禁色』第一部)を『群像』に連載(10月まで)。6月に初の[[評論]]集『狩と獲物』を要書房より刊行。7月に三島ファンの[[福島次郎]]や[[瀬戸内晴美]]が来訪。11月に[[文藝春秋]]祭の[[文士劇]]『[[父帰る]]』に出演(弟・新二郎役。[[新橋演舞場]]にて)。12月25日に[[朝日新聞]]特別通信員として[[横浜港]]から[[ハワイ]]に向け初の世界旅行に出帆(翌年5月まで)。
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|[[1952年]](昭和27年)||27歳。2月に近代能楽3作目の『[[卒塔婆小町 (戯曲)|卒塔婆小町]]』が[[文学座]]により初演。3月に[[パリ]]にて50万円分の[[トラベラーズチェック]]詐取に遭う。日本人経営の宿・ぼたんやに移り、[[木下恵介]]、[[佐野繁次郎]]、[[黛敏郎]]と知り合う。最終訪問地[[ローマ]]から5月10日に日本に帰着。6月に林房雄夫人・繁子の通夜の席で、川端康成の養女・[[川端康成#家系・親族|政子]]との結婚を[[川端秀子|秀子夫人]]に切り出すが断られる。<br />8月から「秘楽」(『禁色』第二部)を『[[文学界]]』に連載(翌年8月まで)。10月に世界旅行記『[[アポロの杯]]』を[[朝日新聞社]]より刊行。11月20日に文藝春秋祭の文士劇『[[弁天娘女男白浪]]・浜松屋店先の場』に出演(浜松屋番頭・由兵衛役。[[帝国劇場]]にて)。
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|[[1953年]](昭和28年)||28歳。2月に作品集『[[真夏の死]]』を[[創元社]]より刊行。3月と8月、9月に[[神島 (三重県)|神島]]へ取材旅行。3月12日に伊東静雄が死去(没年齢46歳)。5月28日に堀辰雄が死去(没年齢48歳)。12月3日に文藝春秋祭の文士劇『[[仮名手本忠臣蔵]](討入りの場、引上げの場)』に出演([[礒貝正久|磯貝十郎左衛門]]役。帝国劇場にて)。12月22日に[[加藤道夫]]が縊死自殺(没年齢35歳)。加藤宅へ駆けつける。
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|[[1954年]](昭和29年)||29歳。3月5日に岸田国士が死去(没年齢63歳)。6月に書き下ろし長編『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』を新潮社より刊行。この作品で第1回[[新潮社文学賞]]受賞(決定は10月)。同月に「伽羅の会」を脱退。8月に[[中村歌右衛門 (6代目)|中村歌右衛門]]の楽屋で豊田貞子と出逢う。その後交際を開始。10月に短編集『[[鍵のかかる部屋]]』を新潮社より刊行。同月に[[須田貝ダム]]と[[奥只見ダム]]へ取材旅行。<br />11月に創作歌舞伎『[[鰯売恋曳網]]』が[[歌舞伎座]]で初演。同月29日に文藝春秋祭の文士劇『御所五郎蔵五条坂出会いの場』に出演(五郎蔵の子分・平平役。歌舞伎座にて)。
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|[[1955年]](昭和30年)||30歳。1月から「[[沈める滝]]」を『[[中央公論]]』に連載(4月まで)。7月に作品集『[[ラディゲの死]]』を新潮社より刊行。7月22日に[[田中澄江]]と「[[宗谷 (船)|宗谷]]」に乗り、横浜港外での[[海上保安庁]]の観閲式に出席。9月から[[ボディビル]]を始める(生涯にわたり継続)。10月に『[[白蟻の巣]]』が[[劇団青年座]]により初演。この作品で第2回[[岸田演劇賞]]受賞(決定は翌年1月)。<br />11月1日に文藝春秋祭りの文士劇『[[屋上の狂人]]』に出演(弟・末次郎役。[[東京宝塚劇場]]にて、NHKテレビで舞台中継)。同月に[[鹿苑寺|金閣寺]]、[[南禅寺]]、[[東舞鶴]]へ取材旅行。同月に日記風随筆『[[小説家の休暇]]』を[[講談社]]より刊行。
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|[[1956年]](昭和31年)||31歳。1月から「[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]」を『新潮』に連載(10月まで)。この作品で第8回[[読売文学賞]]受賞(決定は翌年1月)。2月に[[石原慎太郎]]と初対面。3月に文学座へ入座。同月7日に金閣寺放火犯・林養賢が死去(没年齢26歳)。同月17日に[[奥野健男]]の『太宰治論』出版記念会の二次会で[[北杜夫]]と出逢う。同月23日に自宅で「[[永すぎた春]]」執筆中の姿を写真家・[[林忠彦]]が撮影。4月に『[[近代能楽集]]』を新潮社より刊行。<br />この頃、「[[日本空飛ぶ円盤研究会]]」に入会(会員番号は12番)。6月に作品集『[[詩を書く少年]]』を[[角川書店]]より刊行。8月に[[自由が丘]]の[[熊野神社 (目黒区)|熊野神社]]夏祭りで初めて[[神輿]]をかつぐ。同月に初の英訳『潮騒』が米国で刊行。9月中旬から[[ボクシング]]を始める(翌年6月頃まで)。11月に『[[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]]』が文学座により初演。東京公演で連日、大工・植木職人役で出演。
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|[[1957年]](昭和32年)||32歳。1月から自伝エッセイ「わが思春期」を『[[Myojo|明星]]』に連載(9月まで)。3月に[[ジャン・ラシーヌ|ラシーヌ]]原作『ブリタニキュス』の修辞脚色劇を文学座が初演。東京公演千秋楽に[[衛兵]]役で出演。この作品で第9回毎日演劇賞劇団賞を受賞(決定は翌年4月)。同月に母と共に[[聖心女子大学]]卒業式を参観。この年、同校の[[正田美智子]]と歌舞伎座で観劇し、[[銀座]]六丁目の割烹「井上」の2階でお見合い。<br />4月から「[[美徳のよろめき]]」を『群像』に連載(6月まで)。5月に豊田貞子と別離。6月に[[日活]]国際会館屋上での「日本空飛ぶ円盤研究会」主催のUFO観測会に参加。7月からクノップ社の招きで渡米(年末まで)。同月に[[ノーマン・メイラー]]に会う。12月14日に[[ニューヨーク]]での[[ジャパン・ソサエティー]]のパーティーで、夫に伴い現地駐在中の永井邦子と偶然再会。
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|[[1958年]](昭和33年)||33歳。1月に[[マドリード]]、[[ローマ]]経由で日本に帰国。1月に短編集『[[橋づくし]]』を[[文藝春秋新社]]より刊行。3月に[[勝鬨橋]]、[[晴海 (東京都中央区)|晴海]]を取材。4月13日に[[平岡瑤子|杉山瑤子]](画家[[杉山寧]]の娘)と銀座でお見合い。同月20日に吉田健一、[[アイヴァン・モリス]]と共に、来日中の[[スティーブン・スペンダー]]を夕食に招く。6月1日に杉山瑤子と結婚し、[[明治記念館]]で挙式(媒酌人は川端康成夫妻)。同月に箱根、熱海、京都、大阪、[[別府市|別府]]、[[博多]]へ新婚旅行。<br />7月に『[[薔薇と海賊]]』が文学座により初演。この作品で[[週刊読売]]新劇賞受賞(決定は12月)。同月からエッセイ「[[不道徳教育講座]]」を『[[週刊明星]]』に連載(翌年11月まで)。10月に雑誌『声』([[丸善]]出版)を創刊し、執筆中の「[[鏡子の家]]」第1章と第2章途中までを掲載。11月下旬から本格的に[[剣道]]を始める。同月29日・30日に文藝春秋祭の文士劇『[[助六]]』に出演(髭の意休役。東京宝塚劇場にて、NHKテレビで舞台中継)。12月に、ナビゲーターの作家役で2カット出演の映画『不道徳教育講座』の撮影(封切は翌年1月8日)。
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|[[1959年]](昭和34年)||34歳。1月に[[富士山麓]]の[[青木ヶ原樹海]]へ取材旅行。4月10日に[[上皇明仁|皇太子]]ご結婚祝賀演奏会に出席。5月10日に[[大田区]]馬込東一丁目1333番地(現・[[南馬込]]四丁目32-8)の新築の邸宅へ転居。6月2日に長女・[[平岡紀子|紀子]]が誕生。8月から[[小高根二郎]]が『果樹園』に連載開始した「蓮田善明とその死」を読む(以降、最終回の昭和43年11月まで)。9月14日に来日中の[[テネシー・ウィリアムズ]]と対談。<br />9月に書き下ろし長編『[[鏡子の家]]』第一部(上巻)・第二部(下巻)を新潮社より刊行。11月に日記『[[裸体と衣裳]]』を新潮社より刊行。同月28日・29日に文藝春秋祭の文士劇『弁天娘女男白浪』に出演(弁天小僧菊之助役。東京宝塚劇場にて)。12月16日にテレビ番組『[[スター千一夜]]』に出演。
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|[[1960年]](昭和35年)||35歳。1月から「[[宴のあと]]」を『中央公論』に連載(10月まで)。同月24日にニューヨーク[[CBS]]のテレビ番組『Twentieth Century』に出演。2月から、主演を務める[[大映]]映画『[[からっ風野郎]]』([[増村保造]]監督)の撮影(封切3月23日)。3月1日の[[西銀座デパート]]内での撮影でエスカレーターに頭部を強打し、[[虎の門病院]]に10日間入院。4月に[[オスカー・ワイルド|ワイルド]]原作(訳・[[日夏耿之介]])『[[サロメ (戯曲)|サロメ]]』の脚色劇を文学座が初演。5月23日に自宅屋上にて早朝UFOを妻と目撃。<br />6月18日に[[日米安保条約]]反対の[[国会]]周辺デモを見学。8月に[[浜松基地|浜松航空自衛隊]]、[[浜名湖]]、[[西伊豆町|西伊豆]]([[安良里村|安良里]]、[[田子村|田子]])へ取材旅行。11月から夫人同伴で世界旅行に渡航(翌年1月まで)。同月に[[ロサンゼルス]]の[[ディズニーランド]]に行く。[[フォービアン・バワーズ]]宅で[[グレタ・ガルボ]]に会う。12月にパリで憧れの[[ジャン・コクトー]]と初対面。同月に[[ロンドン]]で[[アーサー・ウェイリー]]、[[スティーブン・スペンダー]]と会う。
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|[[1961年]](昭和36年)||36歳。1月に「[[憂国]]」を『小説中央公論』に発表。同月に[[ローマ]]でジョヴァンニ・アルディニに[[アポローン|アポロ]]像の作製を依頼。[[香港]]を最後に1月20日に日本に帰国。2月に[[深沢七郎]]の小説『[[風流夢譚]]』を巡る[[嶋中事件]]に巻き込まれ、右翼から脅迫。3月15日に『宴のあと』のモデル問題で[[有田八郎]]から[[プライバシー侵害]]だと提訴される。4月23日に剣道初段合格。5月に川端康成に依頼された英文の[[ノーベル文学賞]]推薦文を送る。<br />6月から「[[獣の戯れ]]」を『[[週刊新潮]]』に連載(9月まで)。9月から写真家・[[細江英公]]の被写体となる(昭和38年3月に『[[薔薇刑]]』として刊行)。同月に米誌『ホリデイ』に招かれ、[[サンフランシスコ]]での日本シンポジウムに出席。「Japanese Youth(日本の青年)」と題し講演。[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABCテレビ]]でインタビューを受ける。11月に「鉢の木会」を脱会。同月に『[[十日の菊]]』が文学座により初演。この作品で第13回[[読売文学賞]]戯曲賞受賞(決定は翌年1月)。<br />12月にパリの雑誌『エクスプレス』が小説『金閣寺』を紹介。同月に[[金沢市|金沢]]へ取材旅行。
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|[[1962年]](昭和37年)||37歳。1月から「[[美しい星 (小説)|美しい星]]」を『新潮』に連載(11月まで)。3月に『[[黒蜥蜴 (戯曲)|黒蜥蜴]]』がプロデューサー・システムにより初演。3月5日に[[ハリー・マーティンソン]]の希望で[[スウェーデン]][[参事官]]邸に川端康成、大岡昇平、[[伊藤整]]、[[石川淳]]ら約20名と共に招かれる。5月2日に長男・[[平岡威一郎|威一郎]]が誕生。7月に運転免許取得。7月20日に、6月から度々面会強要していた24歳青年が三島宅の[[住居侵入罪|住居侵入]]現行犯で逮捕。9月に[[横浜港]]で[[三井船舶]]の貨物船を取材。<br />12月22日に知人らを招いて自宅でクリスマスパーティーを開催(昭和40年まで毎年続く)。
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|[[1963年]](昭和38年)||38歳。1月14日に文学座から[[芥川比呂志]]、[[岸田今日子]]ら29人の劇団員が脱退。[[福田恆存]]を中心とする「[[劇団雲]]」が結成され、三島はとり残される。同月から「[[私の遍歴時代]]」を『[[東京新聞]]』に連載(5月まで)。3月24日に剣道二段に合格。6月に川端康成、[[谷崎潤一郎]]、伊藤整、大岡昇平、[[高見順]]、[[ドナルド・キーン]]らと共に中央公論社の『日本の文学』編集委員となる。8月に[[彦根市|彦根]]、[[近江八景]]へ取材旅行。<br />9月に書き下ろし長編『[[午後の曳航]]』を[[講談社]]より刊行。11月に[[杉村春子]]らの出演拒否により『[[喜びの琴]]』が上演中止になり、三島は文学座を退団([[喜びの琴事件]])。12月に短編集『[[剣 (小説)|剣]]』を講談社より刊行。同月にスウェーデン有力紙の特集「世界の文豪」の中に入る。
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|[[1964年]](昭和39年)||39歳。1月から「[[絹と明察]]」を『群像』に連載(10月まで)。この作品で第6回[[毎日芸術賞]]受賞(決定は翌年1月)。同月10日に、文学座を一緒に脱退したメンバーと「[[劇団NLT]]」を結成。3月22日に剣道三段に合格。5月6日に佐藤春夫が死去(没年齢72歳)。告別式に行く。5月に『宴のあと』が1964年[[フォルメントール国際文学賞]]第2位受賞。『金閣寺』も第4回国際文学賞で2位受賞。8月に伊豆[[下田市|下田]]へ家族旅行(以降、毎年恒例となる)。<br />9月28日に「宴のあと」裁判第一審で敗訴。10月に[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の新聞特派員記者として連日取材活動。
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|[[1965年]](昭和40年)||40歳。2月から京都、奈良の[[圓照寺]]へ取材旅行。3月4日に有田八郎が死去(没年齢80歳)。同月に[[ブリティッシュ・カウンシル]]の招待で渡英。ダフ・クーパー賞を受賞した[[アイヴァン・モリス]]を祝う。[[マーゴ・フォンテイン]]、[[エドナ・オブライエン]]、アンガス・ウィルソンらと会う。4月に[[村松剛]]と[[佐伯彰一]]らの復刊雑誌『[[批評 (第二次)|批評]]』の同人となる。<br />4月30日に短編映画『[[憂国]]』完成(封切は翌年4月)。この作品で[[トゥール (アンドル=エ=ロワール県)|ツール]]国際短編映画祭劇映画部門第2位受賞(決定は翌年1月)。7月30日に谷崎潤一郎が死去(没年齢79歳)。9月から「[[春の雪 (小説)|春の雪]]([[豊饒の海]] 第一巻)」を『新潮』に連載(昭和42年1月まで)。同月から夫人同伴で米国、欧州、[[東南アジア]]、[[カンボジア]]へ取材旅行(11月まで)。10月に[[ノーベル文学賞]]最終候補と報じられる。<br />11月から「[[太陽と鉄]]」を『批評』に連載(昭和43年6月まで)。同月に『[[サド侯爵夫人]]』が劇団NLTにより初演。この作品で第20回[[芸術祭 (文化庁)|文部省芸術祭賞]]受賞(決定は翌年1月)。同月から[[居合]]抜きを習い始める。
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|[[1966年]](昭和41年)||41歳。1月31日に国会議員と剣道の親善試合。[[橋本龍太郎]]と対戦し引き分ける。2月11日に[[建国記念日]]祝賀行進に参加。5月29日に剣道四段に合格。6月に「[[英霊の聲]]」を『文藝』に発表。6月30日に[[ビートルズ]]初日公演を観る。同月下旬にファンの青年が窓ガラスを割って三島宅に侵入。7月9日に[[丸山明宏]]のチャリティーリサイタルに出演。自作詞の歌を熱唱。同月に[[芥川賞]]選考委員となる(第55回から昭和45年度上半期・第63回まで)。<br />8月に[[大神神社]]、[[広島県|広島]]の[[海軍兵学校 (日本)|江田島海上自衛隊第一術科学校]]、[[熊本県|熊本]][[神風連]]の地へ取材旅行。清水文雄、[[荒木精之]]、森本忠、蓮田善明未亡人と面会。[[日本刀]]を購入。9月に米誌『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』が三島を特集。10月に[[自衛隊]]体験入隊を希望し、[[防衛庁]]関係者らに依頼。11月11日に両陛下主催の秋の[[園遊会]]に招待され出席。11月25日に有田八郎の遺族と裁判和解成立。<br />12月頃に[[舩坂弘]]から序文の礼として日本刀・[[孫六兼元|関孫六]]をもらう(贋物をつかまされたという説もあり)。同月に雑誌『[[論争ジャーナル]]』創刊準備中の[[万代潔]]が[[林房雄]]の紹介で来訪。
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|[[1967年]](昭和42年)||42歳。1月に『論争ジャーナル』の万代潔、[[中辻和彦]]が来訪。後日、[[日本学生同盟]]の[[持丸博]]も初来訪。同月に[[ゴールデン・アロー賞]]の話題賞受賞。2月から「[[奔馬 (小説)|奔馬]] (豊饒の海 第二巻)を『新潮』に連載(翌年8月まで)。2月12日に居合初段に合格。2月28日に川端康成、[[安部公房]]、石川淳と共に、[[中国共産党|中共]]の[[文化大革命]]に対する抗議声明発表。4月19日から単身で本名の「平岡公威」で自衛隊体験入隊(5月27日まで)。<br />5月に『[[真夏の死]] その他』が1967年フォルメントール国際文学賞第2位受賞(『[[午後の曳航]]』も候補作品)。同月に『[[平凡パンチ]]』の「オール日本ミスター・ダンディはだれか?」で19,590得票の第1位獲得(2位は[[三船敏郎]])。6月19日に[[早稲田大学|早大]]国防部の代表・[[森田必勝]]と出逢う。7月2日から1週間、森田ら早大国防部と自衛隊[[北海道]][[北恵庭駐屯地]]で体験入隊。同月から[[空手]]を始める(6月に[[日本空手協会]]道場に入門)。<br />9月に『[[葉隠入門]]』を[[光文社]]より刊行。同月下旬から夫人同伴で[[インド]]、[[タイ王国|タイ]]、[[ラオス]]へ取材旅行。10月にインドで[[インディラ・ガンディー|ガンディー]]首相、[[:en:Zakir Husain (politician)|フセイン]]大統領、陸軍大佐と面会。ラオスでは[[ルアンパバーン王国|ルアン・プラバン王宮]]で国王に謁見。同月に『[[朱雀家の滅亡]]』が劇団NLTにより初演。同月に再びノーベル文学賞候補と報じられる。11月に『論争ジャーナル』グループと[[民兵]]組織「祖国防衛隊」構想の試案パンフレット作成。12月5日に[[航空自衛隊]]の[[F-104 (戦闘機)|F-104戦闘機]]に試乗。同月末に[[山本舜勝]]と初対面。
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|[[1968年]](昭和43年)||43歳。3月1日から1か月間、学生らを引率し自衛隊[[富士学校]][[滝ヶ原駐屯地]]で第1回自衛隊体験入隊(以降、昭和45年まで5回の体験入隊と、2回のリフレッシャー・コース体験入隊を実施)。4月に劇団[[浪曼劇場]]を結成。5月に日本学生同盟の理論合宿に林房雄、村松剛と共に参加。同月から評論「小説とは何か」を『波』に連載(昭和45年11月まで)。6月に[[日本文化会議]]設立の発起人に参加し理事となる。<br />7月に「[[文化防衛論]]」を『中央公論』に発表。8月11日に剣道五段に合格。9月から「[[暁の寺 (小説)|暁の寺]]』(豊饒の海 第三巻)」を『新潮』に連載(昭和45年4月まで)。10月5日に「祖国防衛隊」から改め「[[楯の会]]」を正式結成。10月17日に[[川端康成]]がノーベル文学賞受賞。11月10日に[[阿川弘之]]と共に東大に赴き、[[全学共闘会議|全共闘]]により軟禁中の[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]に面会を求めるが果たせず([[林健太郎監禁事件]])。10月21日に[[国際反戦デー]]の[[新宿騒乱]]視察。
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|[[1969年]](昭和44年)||44歳。1月に『[[わが友ヒットラー]]』が劇団浪曼劇場により初演。5月13日に東大全共闘委員会主催の討論会に出席。同月に[[保利茂]][[官房長官]]から[[東京都知事選挙|東京都知事選]]出馬を勧誘される。6月に[[大映京都撮影所]]で[[田中新兵衛]]を演じる映画『[[人斬り (映画)|人斬り]]』([[五社英雄]]監督)の撮影(8月9日封切)。7月に『[[癩王のテラス]]』が劇団浪曼劇場+[[劇団雲]]+[[東宝]]により初演。同月に評論集『[[若きサムライのための精神講話|若きサムラヒのために]]』を[[日本教文社]]より刊行。<br />10月12日に、持丸博の退会に伴い「楯の会」学生長が森田必勝になる。10月21日に国際反戦デーの[[10.21国際反戦デー闘争 (1969年)|新宿デモ]]視察。11月3日に[[国立劇場]]屋上で「楯の会」結成1周年記念パレード。同月に最後の短編「[[蘭陵王 (三島由紀夫)|蘭陵王]]」を『群像』に発表。歌舞伎『[[椿説弓張月 (歌舞伎)|椿説弓張月]]』が国立劇場大劇場で初演。12月14日に居合二段に合格。
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|[[1970年]](昭和45年)||45歳。2月に男子高校生が来訪し、「先生はいつ死ぬんですか」と質問される。4月5日に第1回世界剣道選手権大会に参加。[[台湾]]の五段選手と対戦し引き分ける。同月に日本文化会議と『批評』同人を辞める。6月17日に空手初段に合格。7月から「[[天人五衰 (小説)|天人五衰]](豊饒の海 第四巻)」を『新潮』に連載(翌年1月まで)。7月7日に「[[果たし得ていない約束―私の中の二十五年|果たし得てゐない約束――私の中の二十五年]]」を『[[サンケイ新聞]]』に発表。8月に毎年恒例の伊豆下田へ最後の家族旅行。<br />9月に対談集『[[尚武のこころ]]』を日本教文社より刊行。10月に対談集『[[源泉の感情]]』を[[河出書房新社]]より刊行。11月12日から17日まで[[池袋]]の[[東急百貨店]]で「三島由紀夫展」開催。11月25日に「楯の会」メンバー4名と共に[[陸上自衛隊]][[市ヶ谷駐屯地]]・[[東部方面総監部]]にて[[益田兼利]]総監を拘束し、バルコニーで演説([[三島事件]])。[[森田必勝]]と共に[[割腹]]自決。
|}
== おもな作品 ==
★印は[[学習院]]時代の作品。<br />◎印は映画化された作品。<br />◇印はテレビ・ラジオドラマ化(朗読含む)された作品。<br />△印は漫画化された作品。<br />■印は三島自身の肉声資料があるもの。
=== 短編小説 ===
{{Columns-list|24em|
*{{ruby|酸模|すかんぽう}}――秋彦の幼き思ひ出([[学習院輔仁会雑誌|輔仁会雑誌]] 1938年3月)★
*座禅物語(輔仁会雑誌 1938年3月)★
*墓参り(輔仁会雑誌 1938年7月)★ - 連作「鈴鹿鈔」の一作。
*{{ruby|暁鐘聖歌|ぎょうしょうせいか}}(輔仁会雑誌 1938年7月)★ - 連作「鈴鹿鈔」の一作。
*心のかゞやき(1940年3月)★ - 未完
*仔熊の話(1940年6月)★
*神官(1940年)★
*{{ruby|彩絵硝子|だみえがらす}}(輔仁会雑誌 1940年11月)★
*[[花ざかりの森]]([[文藝文化]] 1941年9月-12月)★
*{{ruby|青垣山|あおかきやま}}の物語(1942年2月)★
*{{ruby| [[苧菟と瑪耶]]|おっとうとまや}}(赤繪 1942年7月)★
*みのもの月(文藝文化 1942年11月)★
*{{ruby|玉刻春|たまきはる}}(輔仁会雑誌 1942年12月)★
*世々に残さん(文藝文化 1943年3月)★
*祈りの日記(赤絵 1943年6月)★
*{{ruby|曼荼羅|まんだら}}物語(輔仁会雑誌 1943年12月)★
*{{ruby|檜扇|ひおうぎ}}(1944年1月)★ - 2000年11月『新潮』初掲載<ref name="mihap">「特別公開 三島由紀夫未発表原稿・ノート」({{Harvnb|没後30|2000|pp=14-156}})</ref>。
*朝倉(文藝世紀 1944年7月)★
*中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃(文藝文化 1944年8月)★ - 改題前は「夜の車」
*[[中世 (小説)|中世]](文藝世紀 1945年2月-1946年1月、[[人間 (雑誌)|人間]] 1946年12月)
*エスガイの狩([[文藝]] 1945年5・6月。戦乱のため発行は8月に遅延)
*黒島の王の物語の一場面(東雲 1945年6月)
*{{ruby|菖蒲前|あやめのまえ}}([[現代 (1920年創刊)|現代]] 1945年10月)
*贋ドン・ファン記(新世紀 1946年6月)
*[[煙草 (小説)|煙草]](人間 1946年6月)
*[[岬にての物語]]([[群像]] 1946年11月)
*恋と別離と([[婦人画報]] 1947年3月)
*[[軽王子と衣通姫]](群像 1947年4月)
*{{ruby|鴉|からす}}(光耀 1947年8月)
*夜の仕度(人間 1947年8月)
*ラウドスピーカー(文藝大学 1947年12月)
*春子(人間 1947年12月)
*[[サーカス (小説)|サーカス]](進路 1948年1月)◇■
*婦徳([[令女界]] 1948年1月)
*接吻([[マドモアゼル (日本の雑誌)|マドモアゼル]] 1948年1月)
*伝説(マドモアゼル 1948年1月)
*白鳥(マドモアゼル 1948年1月)
*哲学(マドモアゼル 1948年1月)
*蝶々(花 1948年2月) - 改題前は「晴れた日に」
*殉教(丹頂 1948年4月)
*親切な男(新世間 1948年4月)
*[[家族合せ]](文學季刊 1948年4月)
*人間喜劇(1948年4月執筆{{refnest|group="注釈"|[[光文社]]の雑誌『光』1948年12月号に掲載予定だったが、出版社の経営悪化により11月号で休刊となったため雑誌未発表となった<ref>高丘卓「解説『人間喜劇』エピソード」(『終わり方の美学』[[徳間文庫]]カレッジ、2015年10月)pp.226-235</ref>。}}) - 1974年10月刊行の全集2巻に初収録。
*頭文字([[文學界]] 1948年6月)
*慈善([[改造 (雑誌)|改造]] 1948年6月)
*宝石売買(文藝 1948年6月)
*罪びと(婦人 1948年7月)
*好色(小説界 1948年7月)
*不実な洋傘([[婦人公論]] 1948年10月)
*山羊の首(別冊[[文藝春秋]] 1948年11月)
*獅子(序曲 1948年12月)
*幸福といふ病気の療法(文藝 1949年1月)
*{{ruby|恋重荷|こいのおもに}}(群像 1949年1月)
*毒薬の社会的効用について(風雪 1949年1月)
*大臣([[新潮]] 1949年1月)
*[[魔群の通過]](別冊文藝春秋 1949年2月)
*{{ruby|侍童|じどう}}([[小説新潮]] 1949年3月)
*天国に結ぶ恋([[オール讀物]] 1949年6月)
*{{ruby|訃音|ふいん}}(改造 1949年7月)
*舞台稽古(女性改造 1949年9月)
*星(評論 1949年9月)
*薔薇([[鎌倉文庫|文藝往来]] 1949年10月)
*退屈な旅(別冊小説新潮 1949年10月)
*親切な機械(風雪 1949年11月)
*{{ruby|孝経|こうきょう}}([[展望 (雑誌)|展望]] 1949年11月)
*火山の休暇(改造文藝 1949年11月)
*怪物(別冊文藝春秋 1949年12月)
*{{ruby|花山院|かざんいん}}(婦人朝日 1950年1月)
*果実(新潮 1950年1月)
*{{ruby|鴛鴦|えんおう}}(文學界 1950年1月)
*修学旅行([[週刊朝日]] 1950年3月1日)
*日曜日([[中央公論]] 1950年7月)
*{{ruby|遠乗会|とおのりかい}}(別冊文藝春秋 1950年8月)◇
*{{ruby|孤閨悶々|こけいもんもん}}(オール讀物 1950年8月)
*日食([[朝日新聞]]夕刊 1950年9月19日)
*食道楽([[サンデー毎日]]別冊 1950年10月20日)
*牝犬(別冊文藝春秋 1950年12月)
*女流立志伝(オール讀物 1951年1月)
*家庭裁判(文藝春秋 1951年1月)
*偉大な姉妹(新潮 1951年3月)
*箱根細工([[小説公園]] 1951年3月)
*[[椅子 (小説)|椅子]](別冊文藝春秋 1951年3月)
*死の島(改造 1951年4月)
*[[翼 (小説)|翼]]――ゴーティエ風の物語(文學界 1951年5月)
*右領収{{ruby|仕候|つかまつりそうろう}}(オール讀物 1951年5月)
*手長姫(小説新潮 1951年6月)
*朝顔(婦人公論 1951年8月)
*携帯用(新潮 1951年10月)
*離宮の松(別冊文藝春秋 1951年12月)
*クロスワード・パズル(文藝春秋 1952年1月)
*学生歌舞伎{{ruby|気質|かたぎ}}(小説新潮 1952年1月)
*近世{{ruby|姑気質|しゅうとめかたぎ}}(オール讀物 1952年1月)
*金魚と奥様(オール讀物 1952年9月)
*[[真夏の死]](新潮 1952年10月)◇ - 1967年フォルメントール国際文学賞第2位受賞。
*二人の老嬢(週刊朝日 1952年11月30日)
*{{ruby|美神|びしん}}(文藝 1952年12月)◇
*江口{{ruby|初女|はつじょ}}覚書(別冊文藝春秋 1953年4月)
*[[雛の宿]](オール讀物 1953年4月)
*旅の墓碑銘(新潮 1953年6月)
*急停車(中央公論 1953年6月)
*卵(群像 1953年6月)
*不満な女たち(文藝春秋 1953年7月)
*花火(改造 1953年9月)◇
*[[ラディゲの死]](中央公論 1953年10月)
*陽気な恋人(サンデー毎日 1953年10月30日)
*博覧会(群像 1954年6月)
*芸術{{ruby|狐|ぎつね}}(オール讀物 1954年6月)
*[[鍵のかかる部屋]](新潮 1954年7月)
*復讐(別冊文藝春秋 1954年7月)◇
*[[詩を書く少年]](文學界 1954年8月)
*{{ruby|[[志賀寺上人の恋]]|しがでらしょうにんのこい}}(文藝春秋 1954年10月)
*{{ruby|水音|みずおと}}([[世界 (雑誌)|世界]] 1954年11月)
*S・O・S(小説新潮 1954年11月)
*[[海と夕焼]](群像 1955年1月)
*新聞紙(文藝 1955年3月)
*商ひ人(新潮 1955年4月)
*山の魂(別冊文藝春秋 1955年4月)
*屋根を歩む(オール讀物 1955年5月)
*牡丹(文藝 1955年7月)
*青いどてら(朝日新聞 1956年1月15日)
*十九歳(文藝 1956年3月)◇
*足の星座(オール讀物 1956年7月)
*{{ruby|施餓鬼舟|せがきぶね}}(群像 1956年10月)
*[[橋づくし]](文藝春秋 1956年12月)◇
*[[女方 (小説)|女方]](世界 1957年1月)
*色好みの宮(オール讀物 1957年7月)
*{{ruby|貴顕|きけん}}(中央公論 1957年8月)
*影(オール讀物 1959年11月)
*[[百万円煎餅]](新潮 1960年9月)
*[[愛の処刑]]([[アドニス会|ADONIS]] 1960年10月)◎
*[[スタア]](群像 1960年11月)
*[[憂国]](小説中央公論 1961年1月)◎
*苺(オール讀物 1961年9月)
*帽子の花(群像 1962年1月)
*魔法瓶(文藝春秋 1962年1月)
*月(世界 1962年8月)
*葡萄パン(世界 1963年1月)
*真珠(文藝 1963年1月)◇
*自動車(オール讀物 1963年1月)
*可哀さうなパパ(小説新潮 1963年3月)
*[[雨のなかの噴水]](新潮 1963年8月)
*切符(中央公論 1963年8月)
*[[剣 (小説)|剣]](新潮 1963年10月)◎◇
*[[月澹荘綺譚]](文藝春秋 1965年1月)◇
*[[三熊野詣]](新潮 1965年1月)◇
*孔雀(文學界 1965年2月)
*朝の純愛(日本 1965年6月)
*[[仲間 (小説)|仲間]](文藝 1966年1月)
*[[英霊の聲]](文藝 1966年6月)■
**先行試作「悪臣の歌」(1966年)あり。
*[[荒野より (小説)|荒野より]](群像 1966年10月)
*時計(文藝春秋 1967年1月)
*[[蘭陵王 (三島由紀夫)|蘭陵王]](群像 1969年11月)
}}
=== 長編小説 ===
{{Columns-list|32em|
*[[盗賊 (小説)|盗賊]](1947年12月 - 1948年11月)
**第1章(午前 1948年2月)
**第2章(文學会議 1947年12月)
**第3章(思潮 1948年3月)
**第4章(文學会議 1948年10月)
**第5章(新文學 1948年2月)
**第6章([[書き下ろし]]/真光社 1948年11月)
*[[仮面の告白]](書き下ろし/[[河出書房]] 1949年7月)
*[[純白の夜]](婦人公論 1950年1月-10月)◎◇
*[[愛の渇き]](書き下ろし/[[新潮社]] 1950年6月)◎
*[[青の時代 (小説)|青の時代]](新潮 1950年7月-12月)
*[[禁色 (小説)|禁色]](群像 1951年1月-1953年8月)
**第1章-第18章(群像 1951年1月-10月)
**第19章-第33章(文學界 1952年8月-1953年8月)
*[[夏子の冒険]](週刊朝日 1951年8月5日-11月25日)◎◇
*[[にっぽん製|につぽん製]](朝日新聞 1952年11月1日-1953年1月31日)◎◇
*[[恋の都]]([[主婦之友]] 1953年8月-1954年7月)◎
*[[潮騒 (小説)|潮騒]](書き下ろし/新潮社 1954年6月)◎◇ - 第1回[[新潮社文学賞]]受賞。
*[[女神 (三島由紀夫の小説)|女神]](婦人朝日 1954年8月-1955年3月)◇
*[[沈める滝]](中央公論 1955年1月-4月)◇
*[[幸福号出帆]]([[読売新聞]] 1955年6月18日-11月15日)◎
*[[金閣寺 (小説)|金閣寺]](新潮 1956年1月-10月)◎◇ - 第8回[[読売文学賞]]小説部門賞受賞。
*[[永すぎた春]]([[婦人倶楽部]] 1956年1月-12月)◎◇
*[[美徳のよろめき]](群像 1957年4月-6月)◎◇
*[[鏡子の家]](書き下ろし/新潮社 1959年9月)◇
**第1章-第2章途中まで(聲 1958年10月)
*[[宴のあと]](中央公論 1960年1月-10月) - 1964年フォルメントール国際文学賞第2位受賞。
*[[お嬢さん (三島由紀夫の小説)|お嬢さん]](若い女性 1960年1月-12月)◎◇
*[[獣の戯れ]]([[週刊新潮]] 1961年6月12日-9月4日)◎
*[[美しい星 (小説)|美しい星]](新潮 1962年1月-11月)◎◇
*[[愛の疾走]](婦人倶楽部 1962年1月-12月)
*[[肉体の学校]](マドモアゼル 1963年1月-12月)◎◇
*[[午後の曳航]](書き下ろし/[[講談社]] 1963年9月)◎ - 1967年フォルメントール国際文学賞候補作品。
*[[絹と明察]](群像 1964年1月-10月) - 第6回[[毎日芸術賞]]文学部門賞受賞。
*[[音楽 (小説)|音楽]](婦人公論 1964年1月-12月)◎
*[[春の雪 (小説)|春の雪]]〈[[豊饒の海]]・第一巻〉(新潮 1965年9月-1967年1月)◎◇△
*[[複雑な彼]]([[女性セブン]] 1966年1月-7月)◎
*[[三島由紀夫レター教室]]([[女性自身]] 1966年9月26日-1967年5月15日)◇
*[[夜会服 (小説)|夜会服]](マドモアゼル 1966年9月-1967年8月)
*[[奔馬 (小説)|奔馬]]〈豊饒の海・第二巻〉(新潮 1967年2月-1968年8月)
*[[命売ります]]([[週刊プレイボーイ]] 1968年5月21日-10月8日)
*[[暁の寺 (小説)|暁の寺]]〈豊饒の海・第三巻〉(新潮 1968年9月-1970年4月)
*[[天人五衰 (小説)|天人五衰]]〈豊饒の海・第四巻〉(新潮 1970年7月-1971年1月)
}}
=== 戯曲・歌舞伎 ===
☆印は潤色・修辞作品
{{Columns-list|32em|
*東の博士たち(輔仁会雑誌 1939年3月)★
*路程(1939年9月28日以前)★
*基督降誕記(1939年8月-9月)★
*館(輔仁会雑誌 1939年11月)★ - 中断した未完の第2回は2000年11月『新潮』初掲載<ref name="mihap"/>。
*やがてみ楯と(1943年6月)★ - 学習院輔仁会春季文化大会で上演。
*{{ruby|狐会菊有明|こんかいきくのありあけ}}(まほろば 1944年3月) - 舞踊劇。未上演。
*あやめ([[鎌倉文庫#婦人文庫|婦人文庫]] 1948年5月)◇
*火宅(人間 1948年11月)
*愛の不安(文藝往来 1949年2月)
*燈台(文學界 1949年5月)◇
*ニオベ(群像 1949年10月)
*聖女(中央公論 1949年10月)
*{{ruby|魔神礼拝|まじんらいはい}}(改造 1950年3月)
*[[邯鄲 (戯曲)|邯鄲]]――[[近代能楽集]]ノ内(人間 1950年10月)
*[[綾の鼓 (戯曲)|綾の鼓]]――近代能楽集ノ内(中央公論 1951年1月)
*{{ruby|艶競近松娘|はでくらべちかまつむすめ}}([[柳橋 (神田川)|柳橋]]みどり会プログラム 1951年10月) - 舞踊劇。
*姫君と鏡([[青山圭男]]若柳登・新作舞踊発表会プログラム 1951年11月) - 舞踊劇。
*鯉になつた和尚さん([[誠文堂新光社]] 1951年11月) - わだよしおみ(和田義臣)との共同脚本。[[上田秋成]]『[[雨月物語]]』の「夢応の鯉魚」を翻案とした童話劇。
*[[卒塔婆小町 (戯曲)|卒塔婆小町]]――近代能楽集ノ内(群像 1952年1月)◇
*紳士(演劇 1952年1月) - 無言劇。
*只ほど高いものはない(新潮 1952年2月)
*夜の{{ruby|向日葵|ひまわり}}(群像 1953年4月)
*{{ruby|室町反魂香|むろまちはんごんこう}}(柳橋みどり会プログラム 1953年10月) - 舞踊劇。
*[[地獄変 (歌舞伎)|地獄変]](1953年12月初演)◇ - [[芥川龍之介]]の小説『[[地獄変]]』の[[竹本]]劇化([[義太夫]]語りを含む歌舞伎)。
*[[葵上 (戯曲)|葵上]]――近代能楽集ノ内(新潮 1954年1月)◇
*若人よ蘇れ(群像 1954年6月)
*溶けた天女(新劇 1954年7月) - [[オペレッタ]]。未上演。
*ボン・ディア・セニョーラ(1954年9月初演) - オペレッタ。1974年の全集で初活字化。
*[[鰯売恋曳網]](演劇界 1954年11月)
*ボクシング([[文化放送]]脚本 1954年11月)◇ - 第9回[[芸術祭 (文化庁)|文部省芸術祭]]放送部門参加。
*[[班女 (戯曲)|班女]]――近代能楽集ノ内(新潮 1955年1月)◇
*恋には七ツの鍵がある(1955年3月初演) - 全19景の[[オムニバス]]劇(三島のほか、[[村松梢風]]、[[東郷青児]]、[[小牧正英]]、[[北條誠]]、[[トニー谷]]、三林亮太郎が執筆)の第2景-第4景の「恋を開く酒の鍵」を担当。
*[[熊野 (歌舞伎)|熊野]]([[三田文学]] 1955年5月) - 歌舞伎舞踊。
*三原色(知性 1955年8月)
*船の挨拶(文藝 1955年8月)◇
*[[白蟻の巣]](文藝 1955年9月) - 第2回[[岸田演劇賞]]受賞。
*{{ruby|芙蓉露大内実記|ふようのつゆおおうちじつき}}(文藝 1955年12月) - [[エウリピデス]]の『[[ヒッポリュトス]]』と、[[ジャン・ラシーヌ]]の『[[フェードル]]』を翻案とした歌舞伎。
*{{ruby|大障碍|だいしょうがい}}(文學界 1956年3月)◇
*[[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]](文學界 1956年12月)◎◇
*[[オルペウス|オルフェ]](1956年12月初演) - [[ジャン・コクトー]]の映画『オルフェ』の舞踊劇化。
*[[道成寺 (戯曲)|道成寺]]――近代能楽集ノ内(新潮 1957年1月)◇
*ブリタニキュス(新劇 1957年4月)☆ - [[ジャン・ラシーヌ]]原作・[[安堂信也]]邦訳版。
*朝の{{ruby|躑躅|つつじ}}(文學界 1957年7月)
*[[附子 (戯曲)|附子]](1957年) - 1971年4月『中央公論』初掲載。
*[[Long After Love]](1957年) - 1971年5月『中央公論』初掲載。
*[[薔薇と海賊]](群像 1958年5月) - [[週刊読売]]新劇賞受賞。
*舞踊台本・[[橋づくし]](柳橋みどり会プログラム 1958年10月)
*むすめごのみ{{ruby|帯取池|おびとりのいけ}}(日本 1958年12月) - [[山東京伝]]の[[読本]]『[[桜姫全伝曙草紙]]』を翻案とした歌舞伎。
*[[熊野 (戯曲)|熊野]]――近代能楽集ノ内(聲 1959年4月)◇
*女は占領されない(聲 1959年10月)
*[[熱帯樹 (戯曲)|熱帯樹]](聲 1960年1月)
*[[サロメ (戯曲)|サロメ]](1960年4月初演)☆ - [[オスカー・ワイルド]]原作・[[日夏耿之介]]邦訳版。
*[[弱法師 (戯曲)|弱法師]]――近代能楽集ノ内(聲 1960年7月)
*[[十日の菊]](文學界 1961年12月) - 第13回[[読売文学賞]]戯曲部門賞受賞。
*[[黒蜥蜴 (戯曲)|黒蜥蜴]](婦人画報 1961年12月)◎ - [[江戸川乱歩]]の小説『[[黒蜥蜴]]』の戯曲化。
*[[源氏供養 (戯曲)|源氏供養]]――近代能楽集ノ内(文藝 1962年3月)
*プロゼルピーナ(1962年11月初演)☆ - 翻訳独白劇。[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]原作・三島由紀夫邦訳版。
*[[トスカ]](1963年6月上演)☆ - ヴィクトリアン・サルドゥ原作・安堂信也邦訳版。
*[[喜びの琴]](文藝 1964年2月)
*{{ruby|美濃子|みのこ}}(新潮社 1964年2月) - オペラ劇。[[黛敏郎]]の作曲が間に合わず、未上演。
*恋の帆影(文學界 1964年10月)
*[[ちびくろサンボ|ちびくろさんぼ]]のぼうけん([[学習院幼稚園]] 1964年12月)☆ - [[お遊戯]]会用。
*[[聖セバスティアンの殉教|聖セバスチァンの殉教]](批評 1965年4月) - [[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ|ダンヌンツィオ]]原作劇の翻訳([[池田弘太郎]]との共訳)。
*[[サド侯爵夫人]](文藝 1965年11月) - 文部省芸術祭演劇部門芸術祭賞受賞。
*[[舌切り雀|舌切雀]](学習院幼稚園 1965年12月)☆ – お遊戯会用。
*[[リュイ・ブラース|リュイ・ブラス]](1966年10月初演)☆ - [[ヴィクトル・ユゴー]]原作・池田弘太郎邦訳版。
*アラビアン・ナイト(1967年3月初演) - 『[[千夜一夜物語|アラビアンナイト]]』を翻案とした戯曲。
*[[朱雀家の滅亡]](文藝 1967年10月)
*ミランダ(心 1968年10月) - [[バレエ]]劇。
*[[双頭の鷲 (戯曲)|双頭の鷲]](1968年10月)☆ - 監修。ジャン・コクトー原作・池田弘太郎邦訳版。
*[[わが友ヒットラー]](文學界 1968年12月)■<ref name="cd">{{Harvnb|41巻|2004}}</ref>
*[[癩王のテラス]](海 1969年7月)
*[[椿説弓張月 (歌舞伎)|椿説弓張月]](海 1969年11月)■<ref name="cd"/> - [[曲亭馬琴]]の読本『[[椿説弓張月]]』の歌舞伎化。[[文楽]][[浄瑠璃]]化もあり(1971年11月初演)。
}}
=== 随想・自伝・エッセイ・日誌・紀行 ===
{{Columns-list|32em|
*狸の信者(輔仁会雑誌 1938年7月)★ - 連作「{{ruby|鈴鹿鈔|すずかしょう}}」の一作。
*{{ruby|惟神之道|かんながらのみち}}(1941年9月)★
*芝居日記(1942年1月-1947年11月)★ - 原題「平岡公威劇評集」。1989年10月-1990年2月『[[マリ・クレール]]』初掲載。
*[[東文彦]] 弔詞(1943年10月) - 1998年12月『新潮』掲載。
*[[東文彦|東徤]]兄を{{ruby|哭|こく}}す(輔仁会雑誌 1943年12月)★
*{{ruby|柳桜雑見録|やなぎざくらざっけんろく}}(文藝文化 1943年12月)★
*平岡公威伝(1944年2月)★
*扮装狂(1944年8月)★ - 2000年11月『新潮』初掲載<ref name="mihap"/>。
*廃墟の朝(1944年夏)★
*詩論その他(1945年5月-6月) - 2000年11月『新潮』に初抜粋掲載<ref name="mihap"/>。
*別れ(輔仁会報 1945年7月)
*昭和廿年八月の記念に(1945年8月) - 1979年3月『新潮』初掲載。
*戦後語録(1945年9月)
*[[川端康成]]印象記(1946年1月)
*わが世代の革命(午前 1946年7月)
*招かれざる客(書評 1947年9月)
*重症者の兇器(人間 1948年3月)
*師弟(青年 1948年4月)
*[[ツタンカーメン]]の結婚(財政 1948年5月)
*反時代的な芸術家(玄想 1948年9月)
*悲劇の{{ruby|在処|ありか}}([[東京日日新聞]] 1949年6月28日)
*戯曲を書きたがる小説書きのノート(日本演劇 1949年10月)
*大阪の連込宿――「[[愛の渇き]]」の調査旅行の一夜(文藝春秋 1950年6月)
*虚栄について([[暮しの手帖|美しい暮しの手帖]] 1950年10月)
*声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性(スタイル 1950年12月)
*[[アポロの杯]](各誌 1952年4月-8月、[[朝日新聞社]] 10月)
*遠視眼の旅人(週刊朝日 1952年6月8日)
*最高の偽善者として――[[上皇明仁|皇太子殿下]]への手紙(婦人公論 1952年12月)
*私の好きな作中人物――[[希臘]]から現代までの中に(別冊文藝春秋 1952年12月)
*愉しき御航海を――皇太子殿下へ(1953年3月) - 発表誌未詳。
*{{ruby|蔵相|ぞうしょう}}就任の想ひ出――ボクは大蔵大臣(明窓 1953年4月・5月)
*堂々めぐりの放浪([[毎日新聞]] 1953年8月22日)
*芝居と私(文學界 1954年1月)
*女ぎらひの弁(新潮 1954年8月)
*好きな女性(知性 1954年8月)
*私の小説の方法(河出書房 1954年9月) - 『文章講座4』収録。
*空白の役割(新潮 1955年6月)
*終末感からの出発――昭和二十年の自画像(新潮 1955年8月)
*八月十五日前後(毎日新聞 1955年8月14日)
*戯曲の誘惑([[東京新聞]] 1955年9月6日-7日)
*[[小説家の休暇]](書き下ろし/講談社 1955年11月)
*[[新恋愛講座]]([[Myojo|明星]] 1955年12月-1956年12月)
*歴史の外に自分をたづねて――三十代の処生(中央公論 1956年2月)
*[[レイモン・ラディゲ|ラディゲ]]に憑かれて――私の読書遍歴([[日本読書新聞]] 1956年2月20日)
*わが漫画(漫画読売 1956年3月5日)
*わが魅せられたるもの(新女苑 1956年4月)
*自己改造の試み――重い文体と[[森鷗外|鴎外]]への傾倒(文學界 1956年8月)
*[[ボディビル|ボディ・ビル]]哲学(漫画読売 1956年9月20日)
*或る寓話(群像 1956年10月)
*文学とスポーツ(新体育 1956年10月)
*ボクシングと小説(毎日新聞 1956年10月7日)
*陶酔について(新潮 1956年11月)
*わが思春期(明星 1957年1月-9月)
*旅の絵本(各誌 1957年12月-1958年4月)■
*[[裸体と衣裳]]――日記(新潮 1958年4月-1959年9月)
*外遊日記(新潮 1958年7月、9月、11月)
*[[不道徳教育講座]](週刊明星 1958年7月27日-1959年11月29日)◎◇
*私の見合結婚(主婦の友 1958年7月)
*作家と結婚(婦人公論 1958年7月)
*母を語る――私の最上の読者([[婦人生活]] 1958年10月)
*同人雑記(聲 1958年10月-1960年10月)
*十八歳と三十四歳の肖像画(群像 1959年5月)
*ぼくはオブジェになりたい(週刊公論 1959年12月1日)
*夢の原料(輔仁会雑誌 1960年12月)
*ピラミッドと麻薬(毎日新聞 1961年1月28日)
*美に逆らふもの(新潮 1961年4月) - [[タイガーバームガーデン (香港)|タイガーバームガーデン]]紀行。
*汽車への郷愁(弘済 1961年5月)
*法律と文学(東大緑会大会プログラム 1961年12月)
*[[第一の性]](女性明星 1962年12月-1964年12月)
*[[私の遍歴時代]](東京新聞 1963年1月10日-5月23日)
*私の中の“男らしさ”の告白(婦人公論 1963年4月)
*小説家の息子(教育月報 1963年7月)
*一S・Fファンのわがままな希望([[宇宙塵 (同人誌)|宇宙塵]] 1963年9月)
*わが創作方法(文學 1963年11月)
*写真集「[[薔薇刑]]」のモデルをつとめて――ぷらす・まいなす'63(読売新聞 1963年12月28日)
*夢と人生([[岩波書店]] 1964年5月) - 『日本古典文学大系77 篁物語・[[平中物語]]・[[浜松中納言物語]]』月報
*私の小説作法(毎日新聞 1964年5月10日)
*天狗道(文學界 1964年7月)
*[[熊野]]路――新日本名所案内(週刊朝日 1964年8月28日)
*秋冬随筆(こうさい 1964年10月-1965年3月)
*実感的スポーツ論(読売新聞 1964年10月5日-6日、9日-10日、12日)
*東洋と西洋を結び火――開会式(毎日新聞 1964年10月11日)
*「別れもたのし」の祭典――閉会式([[スポーツ報知|報知新聞]] 1964年10月25日)
*男のおしやれ(平凡通信 1964年12月)
*[[反貞女大学]]([[産経新聞]] 1965年2月7日-12月19日)
*法学士と小説([[学士会]]会報 1965年2月)
*ロンドン通信・英国紀行(毎日新聞 1965年3月25日・4月9日-10日)
*私の戦争と戦後体験――二十年目の八月十五日([[潮出版社|潮]] 1965年8月)
*[[太陽と鉄]](批評 1965年11月-1968年6月)
*[[おわりの美学|をはりの美学]](女性自身 1966年2月14日-8月1日)
*「われら」からの遁走――私の文学(講談社 1966年3月) - 『われらの文学5 三島由紀夫』収録。
*わが育児論(主婦の友 1966年4月)
*[[二・二六事件]]と私(河出書房新社 1966年6月) - 作品集『[[英霊の聲]]』付録。
*闘牛士の美([[平凡パンチ]] 1966年6月10日)
*私の遺書(文學界 1966年7月)
*私のきらひな人(話の詩集 1966年7月)
*[[ビートルズ]]見物記(女性自身 1966年7月18日)
*私の健康法――まづボデービル(読売新聞 1966年8月21日)
*年頭の迷ひ(読売新聞 1967年1月1日)
*男の美学(HEIBONパンチDELUXE 1967年3月)
*{{ruby|紫陽花|あじさい}}の母([[潮文社]] 1967年10月) - TBSラジオ「母を語る」活字化。
*いかにして永生を?(文學界 1967年10月)
*青年について(論争ジャーナル 1967年10月) - 万代潔との出逢いを語る。
*インドの印象(毎日新聞 1967年10月20日-21日)
*「文芸文化」のころ(番町書房 1968年1月) - 『昭和批評大系2 昭和10年代』月報
*日本の古典と私([[秋田魁新報]] 1968年1月1日)
*F104(文藝 1968年2月) - [[F-104 (戦闘機)|F104]]戦闘機試乗体験記。
*電灯のイデア――わが文学の揺籃期(新潮社 1968年9月) - 『新潮日本文学45 三島由紀夫集』月報1
*軍服を着る男の条件(平凡パンチ 1968年11月11日)
*怪獣の私生活(NOW 1968年12月)
*ホテル(朝日新聞PR版 1969年5月25日)
*「[[人斬り (映画)|人斬り]]」出演の記([[大映]]グラフ 1969年8月)
*劇画における若者論(サンデー毎日 1970年2月1日)
*[[荒野より (小説)#独楽|独楽]](辺境 1970年9月)
*愛するといふこと(女の部屋 1970年9月)
*[[滝ヶ原駐屯地|滝ヶ原分屯地]]は第二の我が家(たきがはら 1970年9月25日)
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=== 文芸評論・作家論・芸術論・劇評 ===
{{Columns-list|32em|
*[[田中冬二]]小論(1940年6月)★
*王朝心理文学小史(1942年1月)★ - 学習院図書館の第4回懸賞論文に入選。
*古今の季節(文藝文化 1942年7月)★
*[[伊勢物語]]のこと(文藝文化 1942年11月)★
*うたはあまねし(文藝文化 1942年12月)★
*夢野之鹿(輔仁会雑誌 1943年12月)★
*古座の玉石――[[伊東静雄]]覚書(文藝文化 1944年1月)★
*[[檀一雄]]「花筐」――覚書(まほろば 1944年6月)★
*川端氏の「[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]」について(民生新聞 1946年4月29日)
*[[澤村宗十郎 (7代目)|宗十郎]]のことなど――俳優論」(日本演劇 1947年4月) - 改題前は「澤村宗十郎について」
*宗十郎覚書([[SCREEN (雑誌)|スクリーン]]・ステージ 1947年10月20日)
*[[相聞]]歌の源流([[日本短歌協会|日本短歌]] 1948年1月・2月)
*情死について――やゝ矯激な議論(婦人文庫 1948年10月)
*川端康成論の一方法――「作品」について([[近代文学 (雑誌)|近代文学]] 1949年1月)
*[[中村歌右衛門 (6代目)|中村芝翫]]論(季刊劇場 1949年2月)
*小説の技巧について(世界文学 1949年3月)
*[[雨月物語]]について(文藝往来 1949年9月)
*極く短かい小説の効用(小説界 1949年12月)
*[[オスカー・ワイルド|オスカア・ワイルド]]論(改造文藝 1950年4月)
*文学に於ける春のめざめ(女性改造 1951年4月)
*批評家に小説がわかるか(中央公論 1951年6月)
*新古典派(文學界 1951年7月)
*日本の小説家はなぜ戯曲を書かないか?(演劇 1951年11月)
*「[[班女]]」拝見(観世 1952年7月)
*卑俗な文体について(群像 1954年1月)
*[[アントワーヌ・ヴァトー|ワットオ]]の《シテエルへの船出》([[芸術新潮]] 1954年4月)
*[[芥川龍之介]]について(文藝 1954年12月)
*[[横光利一]]と川端康成(河出書房 1955年2月) - 『文章講座6』収録。
*川端康成ベスト・スリー――「[[山の音]]」「反橋連作」「[[禽獣 (小説)|禽獣]]」(毎日新聞 1955年4月11日)
*芸術にエロスは必要か(文藝 1955年6月)
*[[福田恆存]]氏の顔(新潮 1955年7月)
*[[加藤道夫]]氏のこと(毎日マンスリー 1955年9月)
*ぼくの映画をみる尺度・[[シネマスコープ]]と演劇(スクリーン 1956年2月)
*永遠の旅人――川端康成氏の人と作品(別冊文藝春秋 1956年4月)
*西部劇礼讃(知性 1956年8月)
*楽屋で書かれた演劇論(芸術新潮 1957年1月)
*川端康成の東洋と西洋([[国文学 解釈と鑑賞]] 1957年2月)
*現代小説は古典たり得るか(新潮 1957年6月-8月)
*[[心中]]論(婦人公論 1958年3月)
*[[文章読本#三島由紀夫|文章読本]](婦人公論別冊 1959年1月)
*川端康成氏再説(新潮社 1959年7月) - 『日本文学全集30 川端康成集』月報
*[[中村歌右衛門 (6代目)|六世中村歌右衛門]]序説(講談社 1959年9月) - 写真集『六世 中村歌右衛門』序文
*「エロチシズム」――[[ジョルジュ・バタイユ]]著 [[室淳介]]訳」(聲 1960年4月)
*[[石原慎太郎]]氏の諸作品(筑摩書房 1960年7月) - 『新鋭文学叢書8 石原慎太郎集』解説。
*[[ハリー・ベラフォンテ|ベラフォンテ]]讃(毎日新聞 1960年7月15日)
*「[[黒いオルフェ]]」を見て(スクリーン 1960年8月)
*[[春日井建]]氏の「未青年」の序文(作品社 1960年9月)
*[[武田泰淳]]氏――僧侶であること(新潮社 1960年9月) - 『日本文学全集63 武田泰淳集』月報
*存在しないものの美学――「[[新古今集]]」珍解(国文学 解釈と鑑賞 1961年4月)
*RECOMMENDING MR.YASUNARI KAWABATA FOR THE 1961 NOBEL PRIZE FOR LITERATURE(1961年5月) - 川端康成ノーベル文学賞推薦文。[[日本ペンクラブ]]が6月12日付で英訳。
*川端康成氏と[[文化勲章]]([[北日本新聞]] 1961年10月22日) - 改題前「永遠に若い精神史」
*終末観と文学(毎日新聞 1962年1月4日)
*「純文学とは?」その他(風景 1962年6月)
*現代史としての小説(毎日新聞 1962年10月9日-10日)
*[[谷崎潤一郎]]論(朝日新聞 1962年10月17日-19日)
*川端康成読本序説(河出書房新社 1962年12月) - 『文芸読本 川端康成』寄稿
*踊り(毎日新聞 1963年1月4日)
*[[林房雄]]論(新潮 1963年2月)
*[[細江英公]]序説([[集英社]] 1963年3月) - 『薔薇刑』序文
*ロマンチック演劇の復興(婦人公論 1963年7月)
*変質した優雅(風景 1963年7月)
*[[芸術断想]](芸術生活 1963年8月-1964年5月)
*[[文学座]]の諸君への「公開状」――「[[喜びの琴]]」の上演拒否について(朝日新聞 1963年11月27日)
*[[市川雷蔵|雷蔵]]丈のこと([[日生劇場]]プログラム 1964年1月)
*解説(『日本の文学38 川端康成』 中央公論社 1964年3月)
*解説(『現代の文学20 [[円地文子]]集』 河出書房新社 1964年4月)
*文学における硬派――日本文学の男性的原理(中央公論 1964年5月)
*現代文学の三方向(展望 1965年1月)
*文学的予言――昭和四十年代(毎日新聞 1965年1月10日)
*谷崎朝時代の終焉(サンデー毎日 1965年8月15日)
*解説(『日本の文学2 森鴎外(一)』 中央公論社 1966年1月)
*危険な芸術家(文學界 1966年2月)
*映画的肉体論――その部分及び全体([[映画芸術]] 1966年5月)
*ナルシシズム論(婦人公論 1966年7月)
*谷崎潤一郎、芸術と生活(中央公論社 1966年9月)- 『谷崎潤一郎全集』内容見本
*[[伊東静雄]]の詩――わが詩歌(新潮 1966年11月)
*谷崎潤一郎頌([[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]][[三越]] 1966年11月) - 『文豪谷崎潤一郎展図録』
*青年像(芸術新潮 1967年2月)
*[[古今集]]と[[新古今集]](国文学攷 1967年3月)
*ポップコーンの心霊術―[[横尾忠則]]論(1968年2月) - 横尾忠則著『私のアイドル』(改題後『横尾忠則 記憶の遠近術のこと』)序文
*『[[仙洞御所]]』序文(淡交新社 1968年3月) - 『宮廷の庭I 仙洞御所』序文
*[[小説とは何か]](波 1968年5月-1970年11月)
*[[野口武彦]]氏への公開状(文學界 1968年5月)
*解説(『日本の文学40 [[林房雄]]・[[武田麟太郎]]・[[島木健作]]』 中央公論社 1968年8月)
*[[日沼倫太郎|日沼]]氏と死(批評 1968年9月)
*[[篠山紀信]]論(毎日新聞社 1968年11月) - 『篠山紀信と28人のおんなたち』寄稿
*All Japanese are perverse(血と薔薇 1968年11月) - [[性倒錯]]論
*解説(『日本の文学4 [[尾崎紅葉]]・[[泉鏡花]]』 中央公論社 1969年1月)
*序([[矢頭保]]写真集『[[裸祭り]]』 [[美術出版社]] 1969年2月)
*[[鶴田浩二]]論――「[[博奕打ち 総長賭博|総長賭博]]」と「[[人生劇場 飛車角と吉良常|飛車角と吉良常]]」のなかの(映画芸術 1969年3月)
*日本文学小史(群像 1969年8月-1970年6月) - 第6章目は未完のまま中断。
*解説(『日本の文学52 [[尾崎一雄]]・[[外村繁]]・[[上林暁]]』 中央公論社 1969年12月)
*『[[眠れる美女]]』論([[國文學|国文学 解釈と教材の研究]] 1970年2月)
*末期の眼(新潮社 1970年3月) - 『川端康成全集13巻』月報
*解説(『新潮日本文学6 谷崎潤一郎集』 新潮社 1970年4月)
*性的変質から政治的変質へ――[[ルキノ・ヴィスコンティ|ヴィスコンティ]]「[[地獄に堕ちた勇者ども]]」をめぐって(映画芸術 1970年4月)
*解説(『日本の文学34 [[内田百閒]]・[[牧野信一]]・[[稲垣足穂]]』 中央公論社 1970年6月)
*[[柳田國男|柳田国男]]『[[遠野物語]]』――名著再発見(読売新聞 1970年6月12日)
*忘我(映画芸術 1970年8月)
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=== 批評・世評・コラム・防衛論 ===
{{Columns-list|32em|
*死の分量(1953年9月) - 発表誌未詳。
*道徳と孤独(文學界 1953年10月)
*モラルの感覚――芸術家における誠実の問題(毎日新聞 1954年4月20日)
*新ファッシズム論(文學界 1954年10月)
*欲望の充足について――幸福の心理学(新女苑 1955年2月)
*電気洗濯機の問題(花園 1956年1月)
*亀は兎に追ひつくか?――いはゆる後進国の諸問題(中央公論 1956年9月)
*きのふけふ(朝日新聞 1957年1月7日-6月24日) - コラム
*青春の{{ruby|倦怠|アンニュイ}}(新女苑 1957年6月)
*憂楽帳(毎日新聞 1959年3月3日-5月26日) - コラム
*{{ruby|巻頭言|かんとうげん}}(婦人公論 1960年1月-12月)
*社会料理三島亭(婦人倶楽部 1960年1月-12月)
*一つの政治的意見(毎日新聞 1960年6月25日)
*発射塔(読売新聞 1960年7月6日-10月26日) - コラム
*アメリカ人の日本神話(HOLIDAY 1961年2月) - “Japan:The Cherished Myths” と英訳。
*魔――現代的状況の象徴的構図(新潮 1961年7月)
*[[堀江謙一|堀江青年]]について(中央公論 1962年11月)
*天下泰平の思想(論争 1963年9月)
*生徒を心服させるだけの腕力を――[[スパルタ教育]]のおすすめ(文芸朝日 1964年7月)
*文武両道(月刊[[朝雲新聞|朝雲]] 1965年10月)
*日本人の誇り(朝日新聞 1966年1月1日)
*[[お茶漬ナショナリズム]](文藝春秋 1966年4月)
*法律と餅焼き(法学セミナー 1966年4月)
*[[市川團蔵 (8代目)|団蔵]]・芸道・再軍備(20世紀 1966年9月)
*序([[舩坂弘]]著『英霊の絶叫』 文藝春秋 1966年12月)
*日本への信条([[愛媛新聞]] 1967年1月1日)
*忘却と美化(戦中派 1967年2月)
*「道義的革命」の論理――[[磯部浅一|磯部]]一等主計の遺稿について(文藝 1967年3月)
*私の中のヒロシマ――[[原爆忌|原爆の日]]によせて(週刊朝日 1967年8月11日) - 改題前は「民族的憤怒を思ひ起せ――私の中のヒロシマ」
*人生の本――[[末松太平]]著『私の昭和史』([[週刊文春]] 1967年8月14日)
*[[葉隠入門]]――武士道は生きてゐる([[光文社]] 1967年9月)
*青年論――キミ自身の生きかたを考へるために(平凡パンチ 1967年10月5日)
*J・N・G仮案(Japan National Guard――祖国防衛隊)(祖国防衛隊パンフレット 1968年1月)
*祖国防衛隊はなぜ必要か?(祖国防衛隊パンフレット 1968年1月)
*愛国心(朝日新聞 1968年1月8日)
*[[円谷幸吉|円谷]]二尉の自刃(産経新聞 1968年1月13日)
*二・二六事件について――“日本主義”血みどろの最期([[週刊読売]] 1968年2月23日)
*[[若きサムライのための精神講話|若きサムラヒのための精神講話]](PocketパンチOh! 1968年6月-1969年5月)
*フィルターのすす払ひ――[[日本文化会議]]発足に寄せて(読売新聞 1968年6月18日)
*[[文化防衛論]](中央公論 1968年7月)
*機能と美(男子専科 1968年9月)
*栄誉の絆でつなげ菊と刀([[日本及日本人]] 1968年9月)
*[[橋川文三]]への公開状(中央公論 1968年10月)
*自由と権力の状況(自由 1968年11月)
*「戦塵録」について(昭和文明研究会 1969年1月) - [[木下静雄]]著への寄稿
*東大を動物園にしろ(文藝春秋 1969年1月)
*現代青年論(読売新聞 1969年1月1日)
*[[明治維新|維新]]の若者(報知新聞 1969年1月1日)
*反革命宣言(論争ジャーナル 1969年2月)
*自衛隊二分論(20世紀 1969年4月)
*一貫不惑(光風社書店 1969年5月) - [[影山正治]]著『日本民族派の運動』付録
*砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(新潮社 1969年6月) - 『[[討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争|討論 三島由紀夫vs.東大全共闘]]』付録
*[[北一輝]]論――「[[日本改造法案大綱]]」を中心として([[三田文学]] 1969年7月)
*日本文化の深淵について([[タイムズ|THE TIMES]] 1969年9月) - “A problem of culture” と英訳。
*[[行動学入門]](PocketパンチOh! 1969年9月-1970年8月)
*三島由紀夫のファクト・[[メガロポリス]]([[週刊ポスト]] 1969年10月17日、31日、11月14日、28日、12月12日)
*STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE([[ニューヨーク・タイムズ]] 1969年11月29日) - “Okinawa and Madame Butterfly’s Offspring” と抄訳。
*「[[楯の会]]」のこと(「楯の会」結成一周年記念パンフレット 1969年11月)
*「国を守る」とは何か(朝日新聞 1969年11月3日)
*「変革の思想」とは――道理の実現(読売新聞 1970年1月19日、21日-22日)
*新知識人論([[日本経済新聞]] 1970年1月22日)
*『[[蓮田善明]]とその死』序文(筑摩書房 1970年3月) - [[小高根二郎]]著への序文
*問題提起(憲法改正草案研究会配布資料 1970年5月)
*士道について――石原慎太郎への公開状(毎日新聞 1970年6月11日)
*[[果たし得ていない約束―私の中の二十五年|果たし得てゐない約束――私の中の二十五年]](サンケイ新聞 1970年7月7日)
*武士道と軍国主義(1970年7月) - 1978年8月『[[月刊プレイボーイ|PLAYBOY]]』掲載。
*正規軍と不正規軍(1970年7月) - 1978年8月『PLAYBOY』掲載。
*革命哲学としての[[陽明学]]([[諸君!]] 1970年9月)
*武士道に欠ける現代のビジネス(近代経営 1970年12月)
*わが同志観(潮 1971年2月)
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=== 対談・座談・討論 ===
{{Columns-list|32em|
*青春の再建――二十代座談会(光 1947年12月) - 対:[[中村真一郎]]、[[加藤周一]]、田代正夫、寺沢恒信、石島泰、上野光平、三浦節、升内左紀。実施:9月20日
*小説の表現について(序曲 1948年12月) - 対:[[埴谷雄高]]、[[武田泰淳]]、[[野間宏]]、中村真一郎、[[梅崎春生]]、[[寺田透]]、[[椎名麟三]]。実施:10月6日
*二十代・三十代・四十代の恋愛観([[芸苑社|芸苑]] 1949年1月) - 対:[[池田亀鑑]]、[[亀井勝一郎]]、[[波多野勤子]]、[[岡本太郎]]
*舟橋聖一との対話([[文學界]] 1949年3月) - 対:[[舟橋聖一]]
*[[パンパン]]の世界――実態調査座談会([[改造 (雑誌)|改造]] 1949年12月) - 対:[[飯塚浩二]]、[[宮城音弥]]、[[佐多稲子]]、森田政次、[[南博 (社会心理学者)|南博]]、田中文子、三浦美紀子、北沢とし子、藤沢七生、伊藤あき子
*既成劇作家を語る(劇作 1950年1月) - 対:[[梅田晴夫]]、[[矢代静一]]、[[戸板康二]]
*新しい文学の方向([[展望 (雑誌)|展望]] 1950年2月) - 対:[[中村光夫]]、加藤周一、[[小田切秀雄]]、野間宏、椎名麟三
*三島由紀夫・笠置シズ子 大いに語る――世相 文学 歌(日光 1950年4月) - 対:[[笠置シズ子]]
*創作批評〈第4回〉(風雪 1950年4月) - 対:[[河上徹太郎]]。実施:2月8日
*どんな女性に魅力があるか――独身人気者の座談会([[主婦之友]] 1950年9月) - 対:[[山本嘉次郎]]、[[池部良]]、岡本太郎、[[小松原博喜]]、[[花柳喜章]]
*「[[女相続人]]」を観て――映画放談([[SCREEN (雑誌)|スクリーン]] 1950年10月) -対:[[林芙美子]]、[[河盛好蔵]]、松田ふみ
*新しき文学への道――文学の立体化([[文藝]] 1950年10月) - 対:[[福田恆存]]、武田泰淳、[[加藤道夫]]
*人生問答(新潮別巻・人生読本 1951年1月) - 対:[[久米正雄]]、[[林房雄]]
*[[中村歌右衛門 (6代目)|歌右衛門]]の美しさ(劇評別冊・六世中村歌右衛門 1951年4月1日) - 対:[[戸板康二]]
*映画の限界 文学の限界([[人間 (雑誌)|人間]] 1951年5月) - 対:[[吉村公三郎]]、[[渋谷実]]、[[瓜生忠夫]]
*犬猿問答――自作の秘密を繞って(文學界 1951年6月) - 対:[[大岡昇平]]
*演劇と文学(文學界 1952年2月)<ref name="gensen">のち『[[源泉の感情]] 三島由紀夫対談集』([[河出書房新社]]、1970年10月)所収。[[河出文庫]]で再刊(2006年2月)、収録内容は少し変更している。</ref> - 対:[[芥川比呂志]]
*廃墟の誘惑([[群像]] 1952年7月) - 対:中村光夫
*日本の短篇小説について(文藝 1952年9月) - 対:[[川端康成]]、舟橋聖一、[[山本健吉]]、[[臼井吉見]]、[[中島健蔵]]、[[青野季吉]]
*僕たちの実体(文藝 1952年12月) - 対:大岡昇平、福田恆存
*息子の文才を伸した両親の理解と愛情――親子のはなし(主婦之友 1952年12月) - 対:[[平岡倭文重]]、[[田村秋子]]。実施:初秋([[緑が丘 (目黒区)|緑ケ丘]]・三島宅)
*柔道座談会――年齢別選手権大会を見ての…(柔道 1953年1月) - 対:[[伊原宇三郎]]、[[醍醐敏郎]]、[[富田常雄]]、中村常男、[[真杉静枝]]、[[大悟法利雄]]。実施:前年11月23日([[日比谷]]・陶々亭)
*二人の見たパリ(婦人朝日 1953年9月) - 対:[[越路吹雪]]
*映画と文学のあいだ――映画監督の映画擁護論(改造 1953年12月) - 対:[[アンドレ・カイヤット]]。実施:10月
*デザイナーのあり方――映画「[[にっぽん製]]」を中心に([[産経新聞社|産業経済新聞]] 1953年12月) - 対:岩崎春子、[[伊東絹子]]
*岸田今日子さんと恋愛を語る――三島由紀夫氏の希望対談([[主婦の友]] 1954年9月) -対:[[岸田今日子]]
*私の文学鑑定(群像 1954年11月) - 対:舟橋聖一
*高峰秀子さんと映画・結婚を語る――三島由紀夫氏の希望対談(主婦の友 1954年12月)- 対:[[高峰秀子]]
*芸術よもやま話(週刊NHK新聞 1955年2月20日)■ - 対:[[中村歌右衛門 (6代目)|中村歌右衛門]]。[[NHKラジオ第一]]で2月8、15、22日に放送。
*シャンソン歌手石井好子さんと語る――三島由紀夫氏の希望対談(主婦の友 1955年3月) - 対:[[石井好子]]
*三島由紀夫さんに聞く(若人 1955年6月) - 対:川田雄基。実施:3月下旬(緑ケ丘・三島宅)
*たのしきかな映画([[小説公園]] 1955年12月) - 対:[[田中澄江]]、[[黛敏郎]]
*日本の芸術1 歌舞伎(群像 1956年1月)<ref name="gensen"/> - 対:[[坂東三津五郎 (7代目)|坂東三津五郎]]
*三島由紀夫氏訪問([[映画の友]] 1956年1月) - 対:[[淀川長治]]。実施場所:[[歌舞伎座]]3階稽古部屋
*日本の芸術2 [[新派]](群像 1956年2月)<ref name="gensen"/> - 対:[[喜多村緑郎 (初代)|喜多村緑郎]]
*日本の芸術3 [[能楽]](群像 1956年3月)<ref name="gensen"/> - 対:[[喜多六平太 (14世)|喜多六平太]]
*[[ガリーナ・ウラノワ|ウラーノワ]]のバレエ映画――[[ロミオとジュリエット|ロメオとジュリエット]]の物語([[芸術新潮]] 1956年3月) - 対:[[谷桃子 (バレエダンサー)|谷桃子]]、松山樹子、[[芥川也寸志]]
*日本の芸術4 [[長唄]](群像 1956年4月)<ref name="gensen"/> - 対:[[杵屋栄蔵]]
*新人の季節(文學界 1956年4月) - 対:[[石原慎太郎]]
*日本の芸術5 [[浄瑠璃]](群像 1956年5月)<ref name="gensen"/> - 対:[[豊竹山城少掾]]
*日本の芸術6 [[舞踊]](群像 1956年6月)<ref name="gensen"/> - 対:[[武原はん]]
*戦前派 戦中派 戦後派(文藝 1956年7月) - 対:[[高見順]]、[[堀田善衛]]、[[吉行淳之介]]、[[村上兵衛]]、石原慎太郎、[[木村徳三]]。実施:5月
*日本美の再発見――創作対談([[短歌]]研究 1956年9月) - 対:[[生方たつゑ]]。実施場所:[[練馬区]]・生方宅
*映画・芸術の周辺(スクリーン 1956年9月) - 対:[[荻昌弘]]
*小説から演劇へ――私はなぜ戯曲を書くか(演劇手帖 1956年11月) - 対:武田泰淳、椎名麟三、[[安部公房]]、[[松島栄一]]
*美のかたち――「[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]」をめぐって(文藝 1957年1月)<ref name="gensen"/> - 対:[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]
*愛国心([[神戸新聞]] 1957年2月11日-13日) - 対:[[永田清 (実業家)|永田清]]、[[嘉治隆一]]
*協同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎(演劇界 1957年5月) - 対:[[杉山誠 (演劇評論家)|杉山誠]]、[[郡司正勝]]、[[利倉幸一]]
*ヨーロッパの青春([[キング (雑誌)|キング]] 1957年7月) - 対:[[犬養道子]]
*涼風をよぶ風流よもやま噺([[淡交社|淡交]] 1957年9月) - 対:[[武智鉄二]]、[[井口海仙]]
*女はよろめかず([[中央公論]] 1957年9月) - 対:[[宇野千代]]
*ミュージカルみやげ話(中央公論 1958年3月) - 対:越路吹雪
*作家の女性観と結婚観(若い女性 1958年4月) - 対:石原慎太郎
*マクアイ・リレー対談(幕間 1958年5月) - 対:[[中村歌右衛門 (6代目)|中村歌右衛門]]。実施:4月7日([[新橋 (東京都港区)|新橋]]・[[金田中]])
*映画「[[炎上 (映画)|炎上]]」を語る([[毎日新聞]] 1958年8月18日) - 対:[[市川崑]]、[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]。実施:8月15日([[京橋 (東京都中央区)|京橋]]・[[大映]]本社)
*[[コックリさん|狐狗狸]]の夕べ([[宝石 (雑誌)|宝石]] 1958年10月) - 対:[[江戸川乱歩]]、[[杉村春子]]、[[芥川比呂志]]、松浦竹夫、[[山村正夫]]
*やァこんにちは〈日出造見参 第222回〉([[週刊読売]] 1958年10月5日) - 対:[[近藤日出造]]
*女は悲しくない(若い女性 1959年1月) - 対:[[有吉佐和子]]
*T・ウィリアムズと語る――紙上録音版([[図書新聞]] 1959年10月10日) - 対:[[テネシー・ウィリアムズ]]。実施:9月14日([[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]・[[駐日アメリカ合衆国大使館|米国大使館]]文化交換局)。放送・報道:10月2日([[ニッポン放送]])。9月30日に「T・ウィリアムズ氏の文芸談」として抄録(毎日新聞)。
*劇作家のみたニッポン(芸術新潮 1959年11月)<ref name="gensen"/> - 対:テネシー・ウィリアムズ、オブザーバー参加:フランク・マーロ(秘書)、[[ドナルド・リチー]]
*ニュー・フェイス三島由紀夫“センパイ”フランキー堺と大いに語る([[週刊明星]] 1959年12月6日) - 対:[[フランキー堺]]。実施:11月19日
*「[[サロメ (戯曲)|サロメ]]」とその舞台(古酒 1960年5月) - 対:[[矢野峰人]]、岸田今日子、燕石猷、関川左木夫、[[太田博]]。実施:4月16日([[渋谷]]・[[東横ホール]])
*外から見た日本(週刊公論 1961年2月13日) - 対:[[大宅壮一]]。実施:1月30日(福田家)
*世界の旅から帰った三島由紀夫氏――ファニーフェイスtoフェイス([[婦人公論]] 1961年3月) - 対:[[芳村真理]]
*{{ruby|捨身飼虎|しゃしんしこ}}〈希望対談8〉([[淡交社|淡交]] 1961年8月)<ref name="gensen"/> - 対:[[千宗室 (15代)|千宗興]]。実施:6月19日([[中洲]]・其角)
*結婚身上相談――雪村さんが三島先生に聞く(若い女性 1961年9月) - 対:[[雪村いづみ]]
*「[[薔薇刑]]」について(カメラ芸術 1962年3月) - 対:[[細江英公]]
*川端康成氏に聞く([[河出書房新社]] 1962年12月) - 対:川端康成、中村光夫。『文芸読本 川端康成』収録。
*現代の文学と大衆(文藝 1963年5月) - 対:川端康成、[[丹羽文雄]]、[[円地文子]]、[[井上靖]]、[[松本清張]]
*たのしいいじわるデイト――移動座談会([[女性セブン]] 1963年5月5日) - 対:有吉佐和子
*子のしつけ親のしつけ――7月のサロン(太陽 1963年7月) - 対:[[黛敏郎]]、[[加藤芳郎]]、[[谷川俊太郎]]、石井好子
*七年目の対話(風景 1964年1月)<ref name="gensen"/> - 対:石原慎太郎
*[[初釜]]清談([[京都新聞]] 1964年1月5日) - 対:[[谷崎潤一郎]]、[[谷川徹三]]、[[佐伯米子]]、[[入江相政]]、千宗興
*[[ヤンキー]]気質うらおもて(毎日新聞 1964年4月6日) - 対:桂ユキ子、[[古波蔵保好]]
*歌舞伎滅亡論是非(中央公論 1964年7月)<ref name="gensen"/> - 対:福田恆存
*現代作家はかく考える(群像 1964年9月)<ref name="gensen"/> - 対:[[大江健三郎]]。実施:7月13日
*敗者復活五輪大会――雑談・世相整理学(中央公論 1964年12月) - 対:大宅壮一、[[司馬遼太郎]]
*戦後の日本文学(群像 1965年1月) - 対:[[伊藤整]]、[[本多秋五]]。実施:前年11月12日
*三島文学と国際性(中央公論社 1965年1月) - 対:[[ドナルド・キーン]]。『日本の文学69 三島由紀夫』月報。実施:前年6月18日([[虎ノ門]]・福田家)
*「[[源氏物語]]」と現代(文藝 1965年7月) - 対:[[瀬戸内晴美]]、[[竹西寛子]]
*大谷崎の芸術(中央公論 1965年10月)<ref name="gensen"/> - 対:[[舟橋聖一]]
*父・[[森林太郎]](中央公論社 1966年1月) - 対:[[森茉莉]]。『日本の文学2 森鴎外(一)』月報。実施:前年11月8日(赤坂・シド)
*二十世紀の文学(文藝 1966年2月)<ref name="gensen"/> - 対:[[安部公房]]
*[[ニーチェ]]と現代(中央公論社 1966年2月) - 対:[[手塚富雄]]。『[[世界の名著]]46 ニーチェ』月報。実施:1月10日(虎ノ門・福田家)
*なんでもやってのけよう〈連載トップ対談 ふたりで話そう31〉([[週刊朝日]] 1966年8月5日) - 対:[[團伊玖磨]]
*文武両道(新刊ニュース 1966年9月) - 対:[[巖谷大四]]
*対話・日本人論(番町書房 1966年10月) - 対:[[林房雄]]。
*エロチシズムと国家権力(中央公論 1966年11月)<ref name="gensen"/> - 対:[[野坂昭如]]。実施:9月
*アメリカとアメリカ人([[批評 (第二次)|批評]] 1966年12月) - 対:[[村松剛]]、[[山崎正和]]、[[西義之 (ドイツ文学者)|西義之]]、[[佐伯彰一]]
*2・26事件と殉国のロマン(論争ジャーナル 1967年3月) - 対:[[高橋正衛]]、[[土屋道雄]]、池田弘太郎
*[[文化大革命|文革]]・黙っていられない!〈日出造対談646回〉(週刊読売 1967年3月31日) - 対:近藤日出造
*合理主義と非合理主義――土曜放談([[山陽新聞]] 1967年4月8日) - 対:[[藤原弘達]]
*われわれはなぜ声明を出したか――芸術は政治の道具か?(中央公論 1967年5月)<ref name="ishikawa">のち『夷斎座談 石川淳対談集』(中央公論社、1977年10月、[[中公文庫]](上下)、1981年8月)所収</ref> - 対:川端康成、[[石川淳]]、安部公房
*文武両道と死の哲学(論争ジャーナル 1967年11月)<ref name="gensen"/> - 対:[[福田恆存]]
*反ヒューマニズムの心情と論理(番町書房 1967年11月) - 対:[[伊藤勝彦]]。伊藤著『対話・思想と発生』に収録。実施:8月25日([[紀尾井町]]・福田家)
*意外な親類――オジとオイ(週刊朝日 1967年12月22日) - 対:[[磯崎叡]]。実施場所:[[丸の内]]・[[日本国有鉄道|国鉄]]副総裁室
*ファシストか革命家か([[映画芸術]] 1968年1月)<ref name="gensen"/> - 対:[[大島渚]]。司会:[[小川徹 (映画評論家)|小川徹]]
*武器の快楽――[[剣豪]]三島由紀夫と[[ガンマン]]大藪春彦の決闘([[週刊プレイボーイ]] 1968年1月9日) - 対:[[大藪春彦]]
*天皇と現代日本の風土(論争ジャーナル 1968年2月) - 対:石原慎太郎
*文武の達人 国防を語る――国防対談(国防 1968年4月) - 対:[[源田実]]
*私の文学を語る([[三田文学]] 1968年4月) - 対:[[秋山駿]]。実施1月11日([[南馬込]]・三島宅)
*対談・人間と文学(講談社 1968年4月) - 対:[[中村光夫]]。実施:前年7月10日、8月17日、9月13日、11月10日
*東と西――その接触、交流、反発([[読売新聞]] 1968年5月13日) - 対:[[ディエス・デル・コラール|ルイス・ディエス・デル・コラール]]。実施場所:四谷・福田家
*12歳のとき映画に開眼したんです〈[[東宝東和|東和]]創立40周年を迎えて! 3〉(東和シネクラブ 1968年5月) - 対:[[小森和子]]。実施:4月11日(南馬込・三島宅)
*[[デカダンス]]意識と生死観(批評 1968年6月) - 対:[[埴谷雄高]]、村松剛
*日本を考える――学生文化フォーラム詳細報告(学生評論 1968年7月) - 対:林房雄、村松剛。実施:5月(八王子・大学セミナーハウス)
*負けるが勝ち(自由 1968年7月) - 対:[[福田赳夫]]
*放談・天に代わりて(言論人 1968年7月16日)<ref name="naotake">のち『[[尚武のこころ]] 三島由紀夫対談集』(日本教文社、1970年9月。1986年4月再刊)所収</ref> - 対:[[小汀利得]]。実施:7月3日。改題前:「放談・天に代わりて」
*討論・現代日本人の思想([[原書房]] 1968年7月) - 対:[[会田雄次]]、[[大島康正]]、[[鯖田豊之]]、西義之、[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]、福田恆存、[[福田信之]]、村松剛。『国民講座・日本人の再建1討論・現代日本人の思想』に収録。実施:1月14日-15日([[湯本 (箱根町)|箱根湯本]]・松之茶屋)
*戦後の[[デモクラシー]]と反抗する世代(論争ジャーナル 1968年8月) - 対:[[エドワード・G・サイデンステッカー]]、村松剛
*青年、今と昔(中央公論社 1968年8月) - 対:林房雄。『日本の文学40 林房雄・[[武田麟太郎]]・[[島木健作]]』月報。実施:5月15日(築地・藍亭)
*肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術(文學界 1968年9月) - 対:[[石川淳]]
*エロス 権力 [[ユートピア]]――〈美的日本文化〉論(週刊読書人 1968年11月) - 対:[[磯田光一]]、[[種村季弘]]
*原型と現代小説(批評 1968年12月) - 対:[[山本健吉]]、佐伯彰一
*[[安全保障|安保]]問題をどう考えたらよいか――腹の底から話そう(現代 1969年1月)- 対:[[猪木正道]]
*[[泉鏡花]]の魅力(中央公論社 1969年1月) - 対:[[澁澤龍彦]]。『日本の文学4 [[尾崎紅葉]]・泉鏡花』月報。実施:前年11月4日(赤坂・シド)
*「[[葉隠]]」の魅力([[筑摩書房]] 1969年1月) - 対:[[相良亨]]。相良著『日本の思想9 [[甲陽軍鑑]]・[[五輪書]]・葉隠集』月報。実施:前年11月25日
*政治行為の象徴性について――小説家と政治(文學界 1969年2月) - 対:[[いいだもも]]。
*国家革新の原理――学生とのティーチ・イン([[新潮社]] 1969年4月) - 対:大学生。実施:前年6月16日([[一橋大学]]小平校舎)、前年10月3日([[早稲田大学]]大隈講堂)■、前年11月16日([[茨城大学]]講堂)
*サムライ(勝利 1969年6月)<ref name="naotake"/> - 対:[[中山正敏 (空手家)|中山正敏]]
*[[討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争|討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――〈美と共同体と東大闘争〉]](新潮社 1969年6月)■ - 対:[[全共闘]]。実施:5月13日([[駒場 (目黒区)|駒場]]・[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|東京大学教養学部]]900番教室)。
*[[刺客]]と組長――男の盟約(週刊プレイボーイ 1969年7月8日)<ref name="naotake"/> - 対:[[鶴田浩二]]。改題前「刺客と組長――その時は、お互い[[日本刀]]で斬り込むという男の盟約」
*おじさまは男として魅力あるわ〈連載対談 カンナ知りたいの2〉([[女性自身]] 1969年7月26日・8月2日) - 対:[[神津カンナ]]
*十年後、[[バイセクシュアル|BIセクシャル]]時代がやってくる?!(小説セブン 1969年9月) - 対:[[美輪明宏|丸山明宏]]
*軍隊を語る(伝統と現代 1969年9月) - 対:末松太平。実施:6月20日
*日本は国家か――「権力なき国家」の幻想([[読売新聞社]] 1969年9月) - 対:[[江藤淳]]、[[高坂正堯]]、[[山崎正和]]、[[武藤光朗]]。『日本は国家か』に収録。実施:4月12日([[平河町]]・北野アームス日本経済研究所会議室)。[[日本文化会議]]「日本は国家か」特別研究会
*三島部隊“憂国の真情”(読売新聞 1969年10月21日) - 対:[[村上兵衛]]
*大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任([[潮出版社|潮]] 1969年11月)<ref name="naotake"/><ref>高橋和巳『生涯にわたる阿修羅として』(徳間書店、1970年)所収</ref> - 対:[[高橋和巳]]
*守るべきものの価値――われわれは何を選択するか(月刊ペン 1969年11月)<ref name="naotake"/> - 対:石原慎太郎
*この激動する時代の中で日本人である私はこう思う(主婦の友 1969年11月) - 対:[[中丸薫]]
*私小説の底流(中央公論社 1969年12月) - 対:[[尾崎一雄]]。『日本の文学52 尾崎一雄・[[外村繁]]・[[上林暁]]』月報。実施:10月7日(銀座・出井)
*現代における[[右翼]]と[[左翼]]――リモコン左翼に誠なし(流動 1969年12月)<ref name="naotake"/> - 対:[[林房雄]]
*戦争の谷間に生きて――青春を語る([[学習研究社]] 1969年12月)■<ref name="cd"/> - 対:[[徳大寺公英]]。『現代日本の文学35 三島由紀夫集』月報。実施:11月12日(有楽町・日活ホテル)。
*剣か花か――七〇年代乱世・男の生きる道([[小説宝石|宝石]] 1970年1月)<ref name="naotake"/> - 対:野坂昭如。実施:前年12月末([[銀座]]・マキシム)
*二・二六将校と[[全学連]]学生との断絶〈財界放談室 堤清二対談6〉(財界 1970年1月1日・15日)<ref name="naotake"/> - 対:[[堤清二]]。実施場所:[[有楽町]]・胡蝶
*尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命([[日本読書新聞]] 1970年1月1日〈1969年12月29日・1970年1月5日合併号〉)<ref name="naotake"/> - 対:[[村上一郎]]。
*"菊と刀"と論ずる(時の課題 1970年2月) - 対:[[伊沢甲子麿]]
*中曽根防衛庁長官 作家三島由紀夫氏([[朝雲新聞|朝雲]] 1970年2月12日) - 対:[[中曽根康弘]]
*三島由紀夫とジョン・ベスターの対談(1970年2月19日)■ - 対:[[ジョン・ベスター]](英国人の翻訳家) - [[2013年]](平成25年)秋に[[東京]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の[[TBS]]のアーカイブ推進部保管の「放送禁止」扱いの放擲テープ群の中から、両者の1時間20分にわたる対談を記録したテープのコピーが見つかったことが[[2017年]](平成29年)1月に公表された<ref name="mai2017"/><ref name="gun2017"/><ref name="koato">小島英人「あとがき 発見のこと――燦爛へ」({{Harvnb|告白|2017|pp=177-206}})</ref>。対談は三島が書く予定だったエッセイをべスターが翻訳するにあたり、海外読者の理解を手助けする目的で[[講談社]]の仲介により行われたものとみられ、『[[豊饒の海]]』第3巻『[[暁の寺 (小説)|暁の寺]]』を脱稿した日に行われたことから2月19日とみられる<ref name="mai2017"/><ref name="gun2017"/><ref name="YOMIURI20170112">「三島の肉声テープ、自らの文学の「欠点」語る」([[讀賣新聞]]、2017年1月12日号・第1面)</ref>。対談中、三島は「僕の文学の欠点は、あんまり小説の構成が劇的すぎる」、「死が、肉体の外から中に入ってきた気がする」、「戦後、日本では偽善がひどくなった。その元は[[平和憲法]]だ」、音楽への興味は「全然ない」としながらも『[[獣の戯れ]]』を書く直前には[[ベートーヴェン]]を、『暁の寺』の執筆中には[[ドビュッシー]]の曲「シャンソン・ド・ビリティス」を聴くことで「イメージが出てきた」などと話した<ref name="koku"/>。また、川端康成については「怖いようなジャンプするんですよ。僕、ああいう文章書けないな、怖くて」などと述べた<ref name="gun2017"/><ref name="koku"/><ref name="YOMIURI20170112"/>。
*三島文学の背景([[國文學|国文学 解釈と教材の研究]]増刊号 1970年5月25日) - 対:[[三好行雄]]
*タルホの世界(中央公論社 1970年6月) - 対:澁澤龍彦。『日本の文学34 [[内田百閒]]・[[牧野信一]]・[[稲垣足穂]]』月報。実施:5月8日(赤坂・シド)
*エロスは抵抗の拠点になり得るか(潮 1970年7月)<ref name="naotake"/> - 対:[[寺山修司]]
*[[世阿弥]]の築いた世界(筑摩書房 1970年7月) - 対:ドナルド・キーン、[[小西甚一]]。小西編『日本の思想8 世阿弥集』月報。実施:1968年7月12日
*現代歌舞伎への絶縁状(芸術生活 1970年10月) - 対:[[武智鉄二]]
*文学は空虚か(文藝 1970年11月)<ref>のち{{Harvnb|読本|1983|pp=144-166}}、『源泉の感情 三島由紀夫対談集』(新版・[[河出文庫]]、2006年2月)</ref> - 対:[[武田泰淳]]。実施:9月14日
*破裂のために集中する(中央公論 1970年12月)<ref name="ishikawa"/> - 対:石川淳
*三島由紀夫対談――[[ザ・パンチ・パンチ・パンチ]](VIVA YOUNG 1970年12月) - 対:高橋基子、[[シリア・ポール]]。実施場所:南馬込・三島宅。放送:1969年2月3日-5日([[ニッポン放送]])
*[[戦争映画]]と[[やくざ映画]](映画芸術 1971年2月) - 対:[[石堂淑朗]]。司会:[[小川徹 (映画評論家)|小川徹]]。実施:前年10月21日(有楽町・フジアイス)
*三島由紀夫 最後の言葉(図書新聞 1970年12月12日、1971年1月1日)■<ref name="cd"/> - 対:[[古林尚]]。実施:11月18日(南馬込・三島宅)。元題は「三島由紀夫対談 いまにわかります――死の一週間前の最期の言葉」、「戦後派作家対談7 もう、この気持は抑えようがない――三島由紀夫 最後の言葉」
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=== 講演・声明 ===
{{Columns-list|32em|
*日本文壇の現状と西洋文学との関係(1957年7月9日) - [[ミシガン大学]]での講演。同年9月『[[新潮]]』掲載。
*INFLUENCES IN MODERN JAPANESE LITERATURE/YOMIURI JAPAN NEWS(1958年2月) - Tokyo Women’s Club での講演。
*美食と文学(1958年2月5日) - 『[[谷崎潤一郎]]全集』刊行記念中央公論社愛読者大会での講演。同年4月『[[婦人公論]]』掲載。
*JAPANESE YOUTH(1961年9月18日) - [[バークレー (カリフォルニア州)|バークレー]]のクレアモント・ホテルで行われた米誌『ホリデイ』と[[カリフォルニア大学]]共催の[[シンポジウム]]での[[英語]]による講演。
*私はいかにして日本の作家となつたか(1966年4月18日)■<ref name="cd"/> - [[日本外国特派員協会]]での英語によるスピーチと質疑応答。[[野口武彦]]訳で1990年12月『新潮』掲載<ref name="ikani"/>。
*[[文化大革命]]に関する声明(1967年2月28日) - [[川端康成]]、[[石川淳]]、[[安部公房]]との共同声明。全文は同年3月1日の『[[東京新聞]]』、『[[産経新聞]]』掲載。
*古典芸能の方法による政治状況と性――作家・三島由紀夫の証言(1967年2月23日) - [[東京地裁]]で行われた[[黒い雪事件|映画『黒い雪』裁判]]における証言。同年4月24日に『[[日本読書新聞]]』掲載。
*私の自主防衛論(1968年10月24日) - [[日本経済団体連合会|日経連]]臨時総会での特別講演。<br /> - 同年10月31日に『日経連タイムズ』掲載。
*素人防衛論(1968年11月20日)■ - 横須賀の[[防衛大学校]]での講演。2005年12月『[[WiLL (雑誌)|WiLL]]』に掲載(不明な部分など一部削除)。
*日本の歴史と文化と伝統に立つて(1968年12月1日) - 東京都学生自治体・関東学生自治体連絡協議会主催の講演。1970年5月刊行の[[全国学生自治体連絡協議会]]編『“憂国”の論理』([[日本教文社]])に収録。
*日本とは何か(1969年10月15日) - [[大蔵省]]100年記念での講演。1985年12月『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』掲載。
*現代日本の思想と行動(1970年4月27日) - 山王経済研究会例会での講演。同月同研究会誌の特集号掲載。
*私の聞いて欲しいこと(1970年5月28日) - [[皇宮警察 (宮内省)|皇宮警察]]創立84周年記念講演。皇居内[[皇宮警察本部]]庁舎にて行う。
*悪の華――歌舞伎(1970年7月3日)■<ref name="cd"/> - [[国立劇場]]歌舞伎俳優養成所での特別講演。1988年1月『新潮』掲載。
*「孤立」のススメ(1970年6月11日)■ - 尚史会主催講演。9月『青雲』(6号)掲載。
*我が国の自主防衛について(1970年9月3日)■<ref name="cd"/> - 第3回[[政策科学研究所|新政同志会]]青年政治研修会([[中曽根康弘]]主宰)での講演。
*[[檄 (三島由紀夫)|檄]](1970年11月25日)■ - 自衛隊[[市ヶ谷駐屯地]]・[[東部方面総監部]]室のバルコニーから撒かれた声明文と、決起を呼びかける演説。
}}
=== 作文・習作 ===
{{Columns-list|32em|
*ほめられた事(1932年)★
*ばけつの話(1934年4月)★
*大内先生を想ふ(1934年9月)★
*[[長瀞渓谷|長瀞]]遠足記(1934年11月)★
*東京市(1935年12月)★
*我が国旗(1936年6月)★
*春草抄――初等科時代の思ひ出(輔仁会雑誌 1937年7月)★
*[[三笠 (戦艦)|三笠]]・[[長門 (戦艦)|長門]]見学(1937年)★
*我はいは[[アリ|蟻]]である(1937年)★
*[[分倍河原の戦い|分倍河原]]の話を聞いて(1937年)★
*[[支那]]に於ける我が軍隊(1937年)★
*[[トルコ人|土耳古人]]の学校(1937年)★
}}
=== 詩歌・俳句・作詞 ===
{{Columns-list|32em|
*アキノヨニ…(小ざくら 1931年12月)★ - 俳句
*日ノマルノ…(小ざくら 1932年5月)★ - 俳句
*おとうとが…(小ざくら 1932年12月)★ - 俳句
*秋(小ざくら 1932年12月)★
*妹は…(小ざくら 1933年12月)★ - 短歌
*蜜柑(1937年1月10日)★ - 詩ノート「笹舟」に記録。
*こだま([[輔仁会雑誌]] 1937年12月)★ - 詩ノート「こだま――平岡小虎詩集」に記録。
*斜陽(輔仁会雑誌 1937年12月)★ - 詩ノート「HEKIGA――A VERSE-BOOK」に記録。
*秋二題(輔仁会雑誌 1937年12月)★
*詩篇「金鈴」(輔仁会雑誌 1938年3月)★ - 光は普く漲り、金鈴、雨、海、墓場、ほか
*蜃気楼の国/月夜操練/隕星(輔仁会雑誌 1938年7月)★ - 連作「鈴鹿鈔」中の3詩。
*詩篇「九官鳥」(輔仁会雑誌 1939年3月)★ - 森たち、第五の喇叭 黙示録第九章、独白 廃屋のなかの女、星座、九官鳥
*誕生日の朝(1939年1月14日)★ - 詩ノート「公威詩集I」に記録。
*見知らぬ部屋での自殺者(1939年12月24日)★ - 詩ノート「Bad Poems」に記録。1949年3月『[[新現実]]』掲載。
*{{ruby|凶|まが}}ごと(1940年1月15日)★ - 詩ノート「Bad Poems」に記録。
*詩篇「小曲集」(輔仁会雑誌 1940年3月)★ - 古墳、朝、昼の館、花の闇、倦怠、明るい樫、或る朝、ほか
*詩篇「{{ruby|青城|せいじょう}}詩抄」(山梔 1940年7月-1941年1月)★ - 町、故苑、鶴、死都、ほか
*詩篇「抒情詩抄」(輔仁会雑誌 1941年12月)★ - 小曲〈第三番、第八番、ほか〉、風の抑揚、序曲、馬、ほか
*わたくしの希ひは熾る([[文藝文化]] 1941年11月)★
*{{ruby|大詔|たいしょう}}(文藝文化 1942年7月)★
*かの花野の露けさ(文藝文化 1942年10月)★
*菊(文藝文化 1942年12月)★
*恋供養(赤繪 1943年6月)★
*夜の蝉(輔仁会雑誌 1943年12月)★
*詩人の旅(1944年) - 1950年7月『[[文藝]]』掲載。
*もはやイロニイはやめよ(1945年4月20日) - 曼荼羅草稿。
*{{ruby|絃歌|げんか}}――夏の恋人(東雲 1945年7月) - 三谷邦子を題材。
*饗宴魔(東雲 1945年7月)
*落葉の歌(光耀 1946年5月)
*乾盃(1946年3月24日) - 1955年刊『創作ノオト“[[盗賊 (小説)|盗賊]]”』に収録。
*逸題詩篇(叙情 1946年6月)
*負傷者(1946年7月23日) - 1949年1月『海峡』掲載。
*故・[[蓮田善明]]への献詩(おもかげ 1946年11月17日)
*{{ruby|軽王子|かるのみこ}}序詩(舞踏 1948年6月)
*新しきコロンブス(1955年8月2日) - [[ニーチェ]]の詩の邦訳。随筆『小説家の休暇』内掲載。
*理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係(総合 1957年7月)
*詩篇「十五歳詩集」(新潮社 1957年11月)★ - 『三島由紀夫選集1』に収録。凶ごと、日輪礼讃、悲壮調、風と{{ruby|辛夷|こぶし}}、別荘地の雨、街のうしろに、遺物、石切場、熱帯、鶴、{{ruby|甃|いしだたみ}}のむかうの家、建築存在、港町の夜と夕べの歌、つれづれの散漫歌、幸福の胆汁、冬の哀感
*狂女の恋唄(1958年9月11日)
*むかしと今(聲 1958年10月) - [[フリードリヒ・ヘルダーリン|ヘルダーリン]]の詩(むかしと今、夕べの幻想、[[ソクラテス]]と[[アルキビアデス]])の邦訳。
*祝婚歌 [[カンタータ]](奉祝 1959年4月) - 作曲:[[黛敏郎]]。[[上皇明仁|皇太子]]ご結婚祝賀演奏会での祝婚歌。
*[[からっ風野郎|からつ風野郎]](同名映画[[主題歌]])(1960年3月)■<ref name="cd"/> - 作曲:[[深沢七郎]]
*[[お嬢さん (三島由紀夫の小説)|お嬢さん]](同名映画主題歌)(1961年1月) - 作曲:[[飯田三郎]]
*黒蜥蜴の歌/黒とかげの恋の歌/用心棒の歌(1962年3月) - 作曲:黛敏郎。[[ミュージカル映画]]『[[黒蜥蜴#大映1962年版|黒蜥蜴]]』(監督:[[井上梅次]]。主演:[[京マチ子]])の主題歌と挿入歌。
*微笑(文藝 1964年5月) - ジェイムス・メリルの詩(微笑、世界の子供)の邦訳。
*造花に殺された舟乗りの歌(1966年7月) - 作曲:[[美輪明宏|丸山明宏]]。丸山明宏チャリティーリサイタルで[[マドロス]]スタイルで歌唱。
*イカロス(1967年3月14日) - 随筆『[[太陽と鉄]]』エピロオグに収録。
*隊歌(祖国防衛隊)(祖国防衛隊ちらし 1968年1月)
*起て! 紅の若き獅子たち([[楯の会]]の歌)(楯の会隊員手帳 1970年1月)■<ref name="cd"/> - 作曲:[[越部信義]]
*辞世の句(1970年11月25日)
**「{{ruby|益荒男|ますらを}}が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」
**「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く{{ruby|小夜嵐|さよあらし}}」
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=== 音楽作品 ===
*「[[ミッチー・ブーム|皇太子ご結婚]]祝賀演奏会」(NHKテレビ 1959年4月10日)
**作詞:三島由紀夫。作曲:[[黛敏郎]]。演奏:[[NHK交響楽団]]。指揮:[[ヴィルヘルム・シュヒター|ウィルヘルム・シュヒター]]
**※ [[NHKラジオ第一放送|NHKラジオ第一]]と同時放送。
*「[[からっ風野郎]]」([[キングレコード]] 1960年3月20日発売)■<ref name="cd"/> - 同名映画の主題歌
**作詞・歌唱:三島由紀夫。作曲・ギター演奏:[[深沢七郎]]。編曲:[[江口浩司]]。演奏:キングオーケストラ
**※ [[EPレコード]]。[[A面/B面|B面]]は[[春日八郎]]「東京モナリザ」
*「[[お嬢さん (三島由紀夫の小説)|お嬢さん]]」(キングレコード 1961年1月31日発売)- 同名映画の主題歌
**作詞:三島由紀夫。作曲:[[飯田三郎]]。歌唱:[[中原美紗緒]]、キング合唱団。演奏:キングオーケストラ
**※ EPレコード。B面は青山ヨシオ「たった一つの花」
*『ポエムジカ 天と海――英霊に捧げる七十二章』(タクトレコード 1967年5月1日発売)
**詩:[[浅野晃]]。作曲・指揮:[[山本直純]]。朗読:三島由紀夫。演奏:[[新室内楽協会]]
**※ [[LPレコード]]。のち1970年12月に[[日本コロムビア]]からも発売。
*「[[英霊の声]]――三島由紀夫作『英霊の聲』より」([[クラウンレコード]] 1970年4月29日発売)■<ref name="cd"/>
**作曲・編曲:[[越部信義]]。朗読:三島由紀夫。竜笛:関河真克。演奏:クラウン[[弦楽四重奏団]]。
**ジャケット題字「英霊の声」:三島由紀夫
**※ EPレコード。A面は「起て! 紅の若き獅子たち――[[楯の会]]の歌」
*「起て! 紅の若き獅子たち――楯の会の歌」(クラウンレコード 1970年4月29日発売)■<ref name="cd"/>
**作詞:三島由紀夫。作曲・編曲:越部信義。歌唱:三島由紀夫と楯の会
**※ EPレコード。B面は「英霊の声――三島由紀夫作『英霊の聲』より」
*「[[軍艦行進曲|軍艦マーチ]]のすべて」(キングレコード 1998年4月24日発売)
**演奏・録音日は1968年3月18日(東京・[[文京公会堂]])
**作詞:[[鳥山啓]]。作曲:[[瀬戸口藤吉]]。[[指揮 (音楽)|指揮]]:三島由紀夫。演奏:[[読売日本交響楽団]]
**※ [[CD]]。「軍艦マーチ」[[アンソロジー]]への収録。
=== 写真集被写体・映画出演 ===
==== 映画出演 ====
□印は三島以外の原作・脚本。
*『[[純白の夜#映画化|純白の夜]]』([[松竹]]大船、1951年8月) - 三島が端役でダンスパーティーのシーンに出演
*『[[不道徳教育講座#映画化|不道徳教育講座]]』([[日活]]、1959年1月) - 三島が冒頭と最後のナビゲーター役で特別出演。
*『[[からっ風野郎]]』(大映東京、1960年3月)□ - 主役
*『[[憂国#映画化|憂国]]』(東宝/ATG、1966年4月) - 主役
*『[[黒蜥蜴#松竹1968年版|黒蜥蜴]]』(松竹大船、1968年8月) - 三島が日本人青年の生人形役で特別出演
*『[[人斬り (映画)|人斬り]]』(勝プロ、1969年8月)□ - [[田中新兵衛]]役
==== 写真 ====
*[[薔薇刑]](撮影1961年9月13日-1962年春) - カメラマン:[[細江英公]]。1963年3月刊行(限定1,500部)。
*男の死(撮影1970年9月17日以降-11月17日) - カメラマン:[[篠山紀信]]。もう1人のモデル[[横尾忠則]]の病気入院のため企画が途絶し未発売。しかし2020年11月の三島の没後五十年を前にした9月に米国出版された<ref>[https://www.chunichi.co.jp/article/139495 三島由紀夫の幻の写真集「男の死」 米出版(中日新聞 2020年10月19日)]</ref><ref>[https://www.rizzoliusa.com/book/9780847868698/ Yukio Mishima: The Death of a Man]</ref>。その後日本でも2020年11月に1冊50万円で刊行されることが決定した<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/culture/20201110-OYT1T50205/ 「【独自】三島由紀夫が死の直前に企画、幻の写真集刊行へ…「男の死」一冊50万円」(読売新聞 2020年11月11日号)31面]</ref>。
*切腹や[[褌]]ポーズの写真(撮影日不明) - カメラマン:[[矢頭保]]
=== 翻案された作品 ===
記事立項されていない作品の映画化のみ記載。立項されている作品は、作品リストの◎印(映画化)、◇印(テレビ・ラジオドラマ化)の当該記事内を参照のこと。
==== 映画化 ====
*『燈台』(東宝、1959年2月) - 監督:[[鈴木英夫]]。主演:[[津島恵子]] [[久保明]]、[[河津清三郎]]
==== テレビドラマ化 ====
*文学座アワー『灯台』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]] 1958年4月24日)
*お母さん『大障碍』([[TBSテレビ|KRテレビ]] 1959年12月10日)
*[[近鉄金曜劇場]]『十九歳』([[TBSテレビ]] 1963年11月15日)
*NHK劇場『真珠』([[NHK総合テレビジョン|NHKテレビ]] 1964年6月19日)
*[[月曜・女のサスペンス]]『復讐・死者からの告発状』([[テレビ東京]] 1988年10月24日)
*月曜・女のサスペンス『花火・身代わり首の男』(テレビ東京 1988年12月12日)
==== ラジオドラマ化 ====
*自作朗読『美神』([[TBSラジオ|ラジオ東京]] 1954年7月1日)
*現代劇場『ボクシング』([[文化放送]] 1954年11月21日) - 三島が台本構成。
*続[[高峰秀子]]ドラマ集『遠乗会』([[ニッポン放送]] 1956年4月13日)
*ラジオのためのオペラ『あやめ』([[CBCラジオ|中部日本放送]] 1960年11月27日) - 昭和35年度芸術祭賞。
*物語り『真珠』([[NHKラジオ第1放送|NHKラジオ第一]] 1963年5月23日)
*ドラマ・スタジオ8『[[モノローグ]]・ドラマ 船の挨拶』(中部日本放送 1965年7月20日)
== 刊行書籍 ==
初版刊行本を記載(後発の刊行情報は各記事を参照)。▲印は限定本。ダッシュ以下は収録作品、説明など。
[[著作権]]は、酒井著作権事務所が一括管理している<ref>「編集協力」({{Harvnb|太陽|2010|p=192}})</ref>。2010年11月時点で三島の著作は累計発行部数2400万部以上<ref>[https://web.archive.org/web/20110203011737/http://sankei.jp.msn.com/life/news/110117/bks11011722590015-n2.htm 三島由紀夫、没後40年で関連本ラッシュ “仮面”の素顔気さくな一面も](2011年2月30日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - MSN産経ニュース、2010年11月23日。</ref>。
=== 単独の単行本 ===
{{Columns-list|32em|
*『[[花ざかりの森]]』(七丈書院、1944年10月15日) - みのもの月、世々に残さん、苧菟と瑪耶、祈りの日記、花ざかりの森、跋に代へて
*『[[岬にての物語]]』(桜井書店、1947年11月20日) - 岬にての物語、[[中世 (小説)|中世]]、[[軽王子と衣通姫]]、跋
*『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』(真光社、1948年11月20日) - 序([[川端康成]])、盗賊
*『夜の仕度』([[鎌倉文庫]]、1948年12月1日) - 夜の仕度、序章、春子、[[煙草 (小説)|煙草]]、ラウドスピーカー、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃、蝶々、[[サーカス (小説)|サーカス]]、彩絵硝子
*『宝石売買』([[大日本雄弁会講談社]]、1949年2月28日) - 偽序([[渡辺一夫]])、獅子、殉教、頭文字、慈善、宝石売買
*『[[仮面の告白]]』([[河出書房]]、1949年7月5日) - 仮面の告白、「仮面の告白」ノート([[月報#別刷として添付される月報|月報]])
*『魔群の通過』(河出書房、1949年8月15日) - 魔群の通過、不実な洋傘、山羊の首、恋重荷、大臣、幸福といふ病気の療法、毒薬の社会的効用について、岬にての物語、火宅、あやめ、愛の不安
*『燈台』([[作品社]]、1950年5月30日) - 訃音、薔薇、侍童、星、退屈な旅、親切な機械、孝経、鴛鴦、燈台、ニオベ、聖女
*『怪物』([[改造社]]、1950年6月10日) - 怪物、火山の休暇、果実、獅子、修学旅行、魔神礼拝
*『[[愛の渇き]]』([[新潮社]]、1950年6月30日)
*『[[純白の夜]]』([[中央公論社]]、1950年12月30日)
*『[[青の時代 (小説)|青の時代]]』(新潮社、1950年12月25日)
*『仮面の告白 その他』(改造社、1951年3月31日) - 仮面の告白、日曜日、遠乗会、春子、火山の休暇、怪物、など26篇
*『聖女』(目黒書店、1951年4月15日) - 盗賊、春子、聖女、あとがき
*『狩と獲物』(要書房、1951年6月15日) - [[オスカー・ワイルド|オスカア・ワイルド]]論、[[ドルジェル伯の舞踏会|ドルヂェル伯の舞踏会]]、[[クレーヴの奥方|クレエヴ公爵夫人]]、[[アンドレ・ジッド|ジイド]]の「背徳者」、[[雨月物語]]について、川端康成論の一方法、など26篇。初の評論集
*『遠乗会』(新潮社、1951年7月15日) - 日曜日、箱根細工、牝犬、椅子、朝倉、花山院、死の島、偉大な姉妹、綾の鼓、遠乗会
*『三島由紀夫短篇集』(創芸社、1951年10月31日) - 1950年5月30日刊行の『燈台』(作品社)と同一内容。
*『[[禁色 (小説)|禁色]]』〈禁色 第一部〉(新潮社、1951年11月10日) - カバー(表)下辺に三島の無題文章あり。
*『[[夏子の冒険]]』([[朝日新聞社]]、1951年12月5日)
*『愛の渇き・仮面の告白』(筑摩書房、1952年9月25日) - 愛の渇き、仮面の告白。解説:[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]
*『[[アポロの杯]]』(朝日新聞社、1952年10月5日) - 航海日記、北米紀行、南米紀行、欧州紀行、旅の思ひ出。本扉裏に三島の文章「[[野尻抱影]]氏による」あり。
*『[[真夏の死]]』([[創元社]]、1953年2月15日) - 真夏の死、クロスワード・パズル、美神、翼、只ほど高いものはない、[[卒塔婆小町 (戯曲)|卒塔婆小町]]
*『[[にっぽん製|につぽん製]]』(朝日新聞社、1953年3月20日) - 帯(表)に浦松左美太郎による作品評あり。
*『夜の向日葵』(大日本雄弁会講談社、1953年6月15日) - 夜の向日葵、あとがき。帯(表)に川端康成による作品評、帯(裏)に匿名批評(『[[週刊朝日]]』掲載)あり。
*『秘楽』〈禁色 第二部〉(新潮社、1953年9月30日) - カバー(表)下辺に三島の無題文章あり。
*『[[綾の鼓 (戯曲)|綾の鼓]]』([[未来社]]、1953年10月15日) - 作者の言葉、綾の鼓――[[近代能楽集]]ノ内。そのまま[[台本]]として使用可能な本。
*『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』(新潮社、1954年6月10日) - 帯(裏)に吉田健一による作品評「『潮騒』について」あり。
*『[[恋の都]]』(新潮社、1954年9月20日)
*『[[鍵のかかる部屋]]』(新潮社、1954年10月15日) - 鍵のかかる部屋、旅の墓碑銘、真夏の死、クロスワード・パズル、椅子、孝経、山羊の首、獅子、殉教。解説:[[中村光夫]]
*『若人よ甦れ』(新潮社、1954年11月25日) - 若人よ甦れ、あとがき。カバー袖に無著名の文章「本書について」あり。
*『文学的人生論』(河出書房、1954年11月30日) - 一青年の道徳的判断、重症者の兇器、新古典派、批評家に小説がわかるか、死の分量、卑俗な文体について、など39篇
*『[[沈める滝]]』(中央公論社、1955年4月30日) - 帯に[[臼井吉見]]、[[本多顕彰]]、[[寺田透]]による作品評あり。
*『[[女神 (三島由紀夫の小説)|女神]]』([[文藝春秋新社]]、1955年6月30日)
*『ラディゲの死』(新潮社、1955年7月20日) - 花火、離宮の松、水音、新聞紙、不満な女たち、卵、[[海と夕焼]]、旅の墓碑銘、ラディゲの死、[[地獄変 (歌舞伎)|地獄変]]、[[鰯売恋曳網]]、あとがき
*『創作ノオト“盗賊”』(ひまわり社、1955年7月25日)▲ - 「盗賊」創作ノート。4頁の別刷[[リーフレット]](三島由紀夫「『盗賊』ノオトについて」掲載)あり。記番入りの限定3,000部
*『小説家の休暇』(大日本雄弁会講談社、1955年10月25日) - 小説家の休暇、[[アントワーヌ・ヴァトー|ワットオ]]の《シテエルへの船出》。帯(裏)に[[福田恆存]]による作品評あり。
*『[[白蟻の巣]]』(新潮社、1956年1月25日) - 白蟻の巣、船の挨拶、三原色。函(表)に川端康成による作品評あり。
*『[[幸福号出帆]]』(新潮社、1956年1月30日)
*『[[近代能楽集]]』(新潮社、1956年4月30日) - [[綾の鼓 (戯曲)|綾の鼓]]、[[邯鄲 (戯曲)|邯鄲]]、[[卒塔婆小町 (戯曲)|卒塔婆小町]]、[[葵上 (戯曲)|葵上]]、[[班女 (戯曲)|班女]]、あとがき
*『[[詩を書く少年]]』([[角川書店]]、1956年6月30日) - 詩を書く少年、復讐、江口初女覚書、家庭裁判、牡丹、山の魂、商ひ人、[[志賀寺上人の恋]]、あやめ、恋重荷、鴛鴦、おくがき。カバー袖に吉田健一による作品評「小説の魅力」あり。
*『亀は兎に追ひつくか』(村山書店、1956年10月12日) - 亀は兎に追ひつくか?、芸術にエロスは必要か、空白の役割、堂々めぐりの放浪、学生の分際で小説を書いたの記、自己改造の試み――重い文体と[[森鷗外|鴎外]]への傾倒、終末感からの出発――昭和二十年の自画像、など48篇
*『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』(新潮社、1956年10月30日) - 私家限定本4部あり。
*豪華版『金閣寺』(新潮社、1956年10月30日)▲ - 記番・署名入りの限定200部
*『[[永すぎた春]]』(大日本雄弁会講談社、1956年12月25日)
*『[[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]]』([[東京創元社]]、1957年3月5日) - 鹿鳴館、大障碍、道明寺、あとがき
*『[[美徳のよろめき]]』(大日本雄弁会講談社、1957年6月20日)
*豪華版『美徳のよろめき』(大日本雄弁会講談社、1957年9月)▲ - 署名入りの限定500部
*『現代小説は古典たり得るか』(新潮社、1957年9月25日) - 現代小説は古典たり得るか、[[文壇]]崩壊論の是非、個性の鍛錬場、「[[コリン・ウィルソン|アウトサイダー]]」をめぐつて、陶酔について、[[呉茂一]]の「ぎりしあの詩人たち」評、川端康成の東洋と西洋、[[舟橋聖一]]の「木石・鵞毛」について、など35篇
*『[[橋づくし]]』(文藝春秋新社、1958年1月31日) - 橋づくし、施餓鬼舟、急停車、博覧会、十九歳、[[女方 (小説)|女方]]、貴顕、あとがき
*『旅の絵本』(大日本雄弁会講談社、1958年5月1日) - 旅の絵本、[[ニューヨーク]]の奇男奇女、ニューヨークの金持、ニューヨーク貧乏、ニューヨークで感じたこと、ニューヨークの炎、など16篇、跋
*『[[薔薇と海賊]]』(新潮社、1958年5月30日) - 薔薇と海賊、あとがき
*『[[不道徳教育講座]]』(中央公論社、1959年3月16日) - 前半の30篇。帯(裏)に[[有吉佐和子]]、[[池田弥三郎]]、[[河盛好蔵]]、[[杉靖三郎]]、[[永井道雄]]による作品評あり。
*『[[文章読本#三島由紀夫|文章読本]]』(中央公論社、1959年6月25日) - 文章読本、質疑応答(附録)
*『[[鏡子の家]]』〈第一部〉(新潮社、1959年9月20日) - 第1章-第5章。帯(裏)に三島の文章「『鏡子の家』そこで私が書いたもの」(第二部も同じ)あり。
*『鏡子の家』〈第二部〉(新潮社、1959年9月20日) - 第6章-第10章
*『[[裸体と衣裳]]』(新潮社、1959年11月30日) - 裸体と衣裳――日記、外遊日記
*『続不道徳教育講座』(中央公論社、1960年2月5日) - 後半の40篇。帯(裏)に「著者のことば」(本文から抜粋)あり。
*『[[宴のあと]]』(新潮社、1960年11月15日) - 帯(裏)に臼井吉見、[[河上徹太郎]]、中村光夫、[[平野謙 (評論家)|平野謙]]による作品評あり。
*『[[お嬢さん (三島由紀夫の小説)|お嬢さん]]』([[講談社]]、1960年11月25日)
*『[[スタア]]』(新潮社、1961年1月30日) - [[スタア]]、[[憂國]]、[[百万円煎餅]]
*『[[獣の戯れ]]』(新潮社、1961年9月30日)
*『美の襲撃』(講談社、1961年11月15日) - 序、[[中村歌右衛門 (6代目)|六世中村歌右衛門]]、魔――現代的状況の象徴的構図、十八歳と三十四歳の肖像画、一つの政治的意見、[[俵屋宗達]]、存在しないものの美学――「[[新古今集]]」珍解、川端康成再説、舟橋聖一の「若いセールスマンの死」、大岡昇平氏――友情と考証、など83篇
*『[[美しい星 (小説)|美しい星]]』(新潮社、1962年10月20日) - 帯(裏)に[[武田泰淳]]、福田恆存、[[高橋義孝]]による作品評あり。
*『[[愛の疾走]]』(講談社、1963年1月20日)
*『[[林房雄]]論』(新潮社、1963年8月30日)▲ - 林房雄論、林房雄年譜(林房雄)、跋。限定1,000部
*『[[午後の曳航]]』(講談社、1963年9月10日) - 帯(裏)に[[江藤淳]]による作品評「三島由紀夫の文学」あり。
*『[[剣 (小説)|剣]]』(講談社、1963年12月10日) - 剣、月、葡萄パン、[[雨のなかの噴水]]、苺、帽子の花、魔法瓶、真珠、切符
*『[[肉体の学校]]』([[集英社]]、1964年2月15日)
*『[[喜びの琴]] 附・美濃子』(新潮社、1964年2月25日) - 喜びの琴、美濃子
*『[[私の遍歴時代]]』(講談社、1964年4月10日) - 私の遍歴時代、八月二十一日のアリバイ、この十七年の“無戦争”、[[谷崎潤一郎]]論、現代史としての小説、など51篇。函(裏)に[[大江健三郎]]による作品評「最も魅力的な三島由紀夫神話」あり。
*『三島由紀夫自選集』(集英社、1964年7月10日)▲ - 潮騒、美徳のよろめき、金閣寺、憂國、百万円煎餅、沈める滝、大障碍、[[アントワーヌ・ヴァトー|ワットオ]]の《シテエルへの船出》。解説:[[橋川文三]]「夭折者の禁欲」。記番・署名入りの限定1,000部
*『[[絹と明察]]』(講談社、1964年10月15日) - 帯(裏)に[[磯田光一]]による作品評「現代小説の秀作の一つ」(『[[図書新聞]]』文芸時評)あり。
*『[[第一の性]]』(集英社、1964年12月30日)
*『[[音楽 (小説)|音楽]]』(中央公論社、1965年2月20日)
*『[[レスボス島|レスボス]]の果実』(プレス・ビブリオマーヌ、1965年6月)▲ - レスボスの果実(「果実」抄)、「memo」(佐々木桔梗)。限定195部。コレクション「[[サファイア|サフィール]]」シリーズのXV
*『[[三熊野詣]]』(新潮社、1965年7月30日) - 三熊野詣、[[月澹荘綺譚]]、孔雀、朝の純愛、あとがき
*『目――ある[[芸術断想]]』(集英社、1965年8月20日) - 芸術断想(10篇)、PLAY BILLS(15篇)など26篇、あとがき
*『[[サド侯爵夫人]]』([[河出書房新社]]、1965年11月15日) - 序・サド侯爵の真の顔([[澁澤龍彦]])、サド侯爵夫人、跋(三島)
*『[[反貞女大学]]』(新潮社、1966年3月5日)
*『[[憂國]] 映画版』(新潮社、1966年4月10日) - 憂國、撮影台本、スチール、製作意図及び経過
*『[[サーカス (小説)|サーカス]]』(プレス・ビブリオマーヌ、1966年春)▲ - サーカス、刊行後記(佐々木桔梗)。記番・署名入りの限定375部
*『[[英霊の聲]]』(河出書房新社、1966年6月30日) - 英霊の聲、憂國、[[十日の菊]]、[[二・二六事件]]と私
*『[[複雑な彼]]』(集英社、1966年8月30日)
*『[[荒野より (小説)|荒野より]]』(中央公論社、1967年3月6日) - 荒野より、時計、[[仲間 (小説)|仲間]]」の小説3篇、谷崎潤一郎について、ナルシシズム論、現代文学の三方向、[[石原慎太郎]]の「星と舵」について、[[市川團蔵 (8代目)|団蔵]]・[[芸道]]・[[再軍備]]、など評論36篇、アラビアン・ナイト
*豪華版『サド侯爵夫人』(中央公論社、1967年8月18日)▲ - 序・サド侯爵の真の顔([[澁澤龍彦]])、サド侯爵夫人、跋、豪華版のための捕跋(三島)。記番・署名入りの限定380部
*『[[葉隠入門]]――武士道は生きている』([[光文社]]、1967年9月1日) - プロローグ――「葉隠」とわたし、わたしの「葉隠」、「葉隠」名言抄(訳:[[笠原伸夫]])。カバー袖に三島の「わたしのただ一冊の本『葉隠』」と、石原慎太郎による作品評「三島由紀夫氏のこと」あり。
*『[[夜会服 (小説)|夜会服]]』(集英社、1967年9月30日)
*『[[朱雀家の滅亡]]』(河出書房新社、1967年10月25日) - 朱雀家の滅亡、後記
*『[[三島由紀夫レター教室]]』(新潮社、1968年7月20日)
*『[[太陽と鉄]]』(講談社、1968年10月20日) - 太陽と鉄、エピロオグ――F104
*豪華版『岬にての物語』(牧羊社、1968年11月15日)▲ - 岬にての物語、蕗谷虹児氏の少女像。記番・署名入りの限定300部
*『[[わが友ヒットラー]]』(新潮社、1968年12月10日)
*『[[命売ります]]』(集英社、1968年12月25日)
*『[[春の雪 (小説)|春の雪]]』〈[[豊饒の海]]・第一巻〉(新潮社、1969年1月5日) - 私家限定本4部あり。帯(裏)に川端康成、[[北杜夫]]による作品評あり。
*『[[奔馬 (小説)|奔馬]]』〈豊饒の海・第二巻〉(新潮社、1969年2月25日) - 私家限定本4部あり。帯(裏)に川端康成による作品評あり。
*『[[文化防衛論]]』(新潮社、1969年4月25日) - 反革命宣言、反革命宣言捕注、文化防衛論、橋川文三への公開状、「道義的革命」の論理――[[磯部浅一|磯部]]一等主計の遺稿について、自由と権力の状況、の評論6篇と、政治行為の象徴性について([[いいだもも]]との対談)、国家革新の原理(学生とのティーチ・イン)、あとがき、本書関連日誌(附録)
*合本『不道徳教育講座』(中央公論社、1969年5月10日) - 「暗殺について」を除く全69篇、あとがき
*『[[黒蜥蜴 (戯曲)|黒蜥蜴]]』(牧羊社、1969年5月20日)
*『[[癩王のテラス]]』(中央公論社、1969年6月28日) - 癩王のテラス、あとがき
*『[[若きサムライのための精神講話|若きサムラヒのために]]』([[日本教文社]]、1969年7月10日) - 若きサムラヒのための精神講話、[[お茶漬ナショナリズム]]、東大を動物園にしろ、安保問題をどう考えたらよいか([[猪木正道]]との対談)、負けるが勝ち([[福田赳夫]]との対談)、[[文武両道]]と死の哲学(福田恆存との対談)、あとがき
*豪華版『[[椿説弓張月 (歌舞伎)|椿説弓張月]]』(中央公論社、1969年11月25日)▲ - 椿説弓張月、「弓張月」の劇化と演出。記番入りの限定1,000部
*豪華版『黒蜥蜴』(牧羊社、1970年1月15日)▲ - 記番・署名入りの限定350部。別に著者本50部あり。
*『椿説弓張月』(中央公論社、1970年1月30日) - 豪華限定版と同内容。
*『三島由紀夫文学論集』(講談社、1970年3月28日) - 序文、太陽と鉄、小説家の休暇、「われら」からの遁走――私の文学、私の中の“男らしさ”の告白、精神の不純、など48篇。あとがき:[[虫明亜呂無]]
*豪華版『鍵のかかる部屋』(プレス・ビブリオマーヌ、1970年6月)▲ - 鍵のかかる部屋、あとがき、捕記(別紙1葉)。A版とB版の2種。A版は記番・署名入りの限定395部。B版は記番入りの限定180部
*『[[暁の寺 (小説)|暁の寺]]』〈豊饒の海・第三巻〉(新潮社、1970年7月10日) - 私家限定本4部あり。帯(裏)に三島の文章「読者へ」(「小説とは何か」からの抜粋)あり。
*『[[行動学入門]]』(文藝春秋、1970年10月15日) - 行動学入門、[[おわりの美学]]、革命哲学としての[[陽明学]]、あとがき
*『作家論』(中央公論社、1970年10月31日) - [[森鷗外]]、[[尾崎紅葉]]、[[泉鏡花]]、[[谷崎潤一郎]]、[[内田百閒]]、[[牧野信一]]、[[稲垣足穂]]、[[川端康成]]、[[尾崎一雄]]、[[外村繁]]、[[上林暁]]、[[林房雄]]、[[武田麟太郎]]、[[島木健作]]、[[円地文子]]論、あとがき
*豪華版『橋づくし』(牧羊社、1971年1月7日)▲ - 雪の巻、月の巻、花の巻の3種。記番・署名入りの限定360部(各種120部)。別に非売品の著者自筆署名特装本23部あり。
*『三島由紀夫十代作品集』(新潮社、1971年1月25日) - 彩絵硝子、花ざかりの森、苧菟と瑪耶、玉刻春、みのもの月、世々に残さん、祈りの日記、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃
*『[[天人五衰 (小説)|天人五衰]]』〈豊饒の海・第四巻〉(新潮社、1971年2月25日) - 天人五衰、認識と行動と文学――〈豊饒の海〉四部作をめぐって([[佐伯彰一]]と[[村松剛]]の対談)。私家限定本4部あり。
*自筆原稿完全復元版『[[蘭陵王 (三島由紀夫)|蘭陵王]]』(講談社、1971年3月5日)▲ - 蘭陵王(復元原稿)。別冊子(蘭陵王、中村光夫「『蘭陵王』と『最後の一句』」)あり。記番入りの限定1,500部
*『蘭陵王――三島由紀夫1967.1〜1970.11』(新潮社、1971年5月6日) - 「年頭の迷い」から「わが同志観」まで1967年-1970年に執筆した評論・随筆と、蘭陵王
*豪華版『仮面の告白』(講談社、1971年11月25日)▲ - 記番入りの限定1,000部。
*『小説とは何か』(新潮社、1972年3月20日)
*『日本文学小史』(講談社、1972年11月24日) - 解説:磯田光一
*『わが思春期』(集英社、1973年1月15日) - 解題:粉川宏
*『ぼくの映画をみる尺度』([[潮出版社]]、1980年2月25日) - ぼくの映画をみる尺度・[[シネマスコープ]]と演劇、私の洋画遍歴、西部劇礼讃、映画的肉体論――その部分及び全体、忘我、映画見るべからず、など39篇
*『実感的スポーツ論』([[共同通信社]]、1984年5月1日) - 美しきもの、見事な若武者――[[矢尾板貞雄|矢尾板]]・[[パスカル・ペレス (ボクサー)|ペレス]]戦観戦記、追う者追われる者――ペレス・[[米倉健司|米倉]]戦観戦記、冷血熱血――[[小坂照男|小坂]]=[[カルロス・オルチス|オルチス]]、未知への挑戦――[[海老原博幸|海老原]]=[[ポーン・キングピッチ|ポーン]]、狐の宿命――[[関光徳|関]]・[[シュガー・ラモス|ラモス]]戦観戦記、など54篇
*『生きる意味を問う』([[大和出版]]、1984年10月30日)- 私の遺書、明るい樫、朝、薄化粧をした…、私の文学、わが創作方法、作家を志す人々の為に、芸術にエロスは必要か、など詩・評論45篇。編・解説:[[小川和佑]]「三島由紀夫の人と作品」。年譜作成:小川和佑、斉藤孝祐
*『芝居日記』(中央公論社、1991年7月5日) - 第一冊(一番-四十四番)、第二冊(四十七番-百番)、未完小説集ほか覚書、随想一束。付録:織田紘二「『芝居日記』について」、六世中村歌右衛門「『三島歌舞伎』の世界」、『芝居日記』観劇目録。解説:[[戸板康二]]「若書きの新鮮さ」。[[ドナルド・キーン]]「『芝居日記』の底に流れるもの」
*『芝居の媚薬』([[角川春樹事務所]]・ランティエ叢書、1997年11月18日) - 戯曲を書きたがる小説書きのノート、私の遍歴時代(一部分)、踊り、[[坂東玉三郎|玉三郎]]のこと、六世中村歌右衛門序説、など23篇。年譜作成:高丘卓・稲田智宏。解説:[[柳美里]]「王の恵みと宿命」
*『三島由紀夫未発表書簡 [[ドナルド・キーン]]氏宛の97通』(中央公論社、1998年5月25日) - キーン宛ての97通の書簡。編集部後記
*『日本人養成講座』(メタローグ、1999年10月8日/平凡社、2012年5月) - アメリカ人の日本神話、[[お茶漬ナショナリズム]]、文章読本(抄)、小説家の休暇(断片)、[[若きサムライのための精神講話]](抄)、心中論、など12篇。付録:[[村松英子]]「巻末エッセイ」、高丘卓「三島由紀夫の[[パサージュ]]」。編者・年譜作成:高丘卓
*『三島由紀夫 十代書簡集』(新潮社、1999年11月20日) - [[東文彦]]宛ての64通、弔詞1篇、東菊枝(文彦の母)宛ての1通の書簡。付録:[[富岡幸一郎]]「十代の思想への帰郷」
*『三島由紀夫 映画論集成』(ワイズ出版、1999年11月25日) - 多数の映画論・対談・座談など。編者:山内由紀人。監修:[[平岡威一郎|三島威一郎]]・[[藤井浩明]]
*『三島由紀夫詩集』(山中湖文学の森「[[三島由紀夫文学館]]」、2000年7月14日) - 秋、寂秋、巡礼老者、光は普く漲り、幼なき日、斜陽、など多数の詩篇。あとがき:佐伯彰一「『詩を書く少年』の実像」。解題:[[工藤正]]
*『師・[[清水文雄]]への手紙』(新潮社、2003年8月30日) - 清水文雄宛ての99通の書簡。付録:清水文雄「『花ざかりの森』をめぐって、三島由紀夫のこと」。解説:宇野憲治
*『告白――三島由紀夫未公開インタビュー』(講談社、2017年8月8日) - 生前未公開インタビュー(1970年2月19日実施の[[ジョン・ベスター]]との対談)、太陽と鉄。あとがき:小島英人「発見のこと――燦爛へ」。編集:TBSヴィンテージ クラシックス
*『夜告げ鳥 初期作品集』(平凡社、2020年1月) - 解説:[[井上隆史 (国文学者)|井上隆史]]
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=== 共著の単行本 ===
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*『対話・日本人論』(番町書房、1966年10月25日) - [[林房雄]]との対談。夏目書房版(2002年3月25日再刊)は、三島の「林房雄」(抄)、林の「悲しみの琴――三島由紀夫への鎮魂歌」(抄)を併せて収録、[[富岡幸一郎]]・解説「日本人へのメッセージ」。
*『対話・人間と文学』(講談社、1968年4月28日) - [[中村光夫]]との対談
*『[[討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争|討論 三島由紀夫vs.東大全共闘《美と共同体と東大闘争》]]』(新潮社、1969年6月25日) - 美と共同体と東大闘争([[全共闘]]との討論)、砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(三島)、全共闘代表3名の感想文
*『[[尚武のこころ]] 対談集』(日本教文社、1970年9月25日) - [[小汀利得]]、[[中山正敏]]、[[鶴田浩二]]ら10名10編の対談、三島自身のあとがき
*『[[源泉の感情]] 対談集』(河出書房新社、1970年10月30日) - [[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[大江健三郎]]、[[舟橋聖一]]ら17名19編の対談、三島自身のあとがき
*『[[川端康成]]・三島由紀夫 往復書簡』(新潮社、1997年12月10日) - はじめに([[佐伯彰一]])、川端と三島の往復書簡。解説「恐るべき計画家・三島由紀夫」(佐伯彰一・[[川端香男里]]の対談)、川端へのノーベル文学賞推薦文(英文、佐伯彰一訳)、両者の略年譜
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=== 写真被写体の著書 ===
*『[[薔薇刑]]――[[細江英公]]写真集』(集英社、1963年3月25日)▲ - 記番・署名入りの限定1,500部。のち様々な版で改訂再刊。
**細江英公序説(三島)、薔薇刑(撮影:細江英公。被写体:三島。協力モデル:[[江波杏子]]、[[土方巽]]、元藤燁子、ほか)
*『グラフィカ三島由紀夫』(新潮社、1990年9月10日)
**写真撮影:[[斎藤康一]]、[[篠山紀信]]、鈴木薫、[[田沼武能]]、[[土門拳]]、野上透、[[深瀬昌久]]、細江英公、[[宮本隆司]]、新潮社写真部
**編者:[[平岡瑤子|三島瑤子]]・[[藤田三男]]。年譜(三島由紀夫の軌跡)作成:山口基
***『写真集 三島由紀夫 '25〜'70』(新潮文庫、2000年11月1日) - 『グラフィカ三島由紀夫』を一部改訂。新たに付記:藤田三男「文庫版あとがき」。
*『三島由紀夫の家』([[美術出版社]]、1995年11月。普及版2000年11月)
**写真撮影:篠山紀信。文章:篠田達美
*YUKIO MISHIMA: THE DEATH OF A MAN〈三島由紀夫:男の死〉(Rizzoli、2020年9月29日)▲ - 三島歿後50周年を前に、米国初発行。
**写真撮影:篠山紀信。文章:ON THE ART OF KISHIN SHINOYAMA〈篠山紀信論〉(三島由紀夫)、THE DEATH OF A MAN CHRONICLES〈「男の死」始末記〉(横尾忠則)
*『OTOKO NO SHI』(CCCアートラボ株式会社、2020年11月25日)▲ - 写真集『男の死』を再構成。初版50部。B2判。横尾忠則、篠山紀信の直筆サイン入り。
**写真撮影:篠山紀信。構成・装幀・絵画:横尾忠則
=== 翻訳書 ===
*『ブリタニキュス』(新潮社、1957年5月20日)
**ブリタニキュス(原作:[[ジャン・ラシーヌ]]/邦訳:[[安堂信也]]/修辞:三島)。付録:修辞者あとがき(三島)、ラシーヌと「ブリタニキュス」(安堂)
*『プロゼルピーナ』(原作:[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]、人文書院「ゲーテ全集 第4巻」、1960年3月)
**解説「独白劇「プロゼルピーナ」」
*『[[聖セバスティアンの殉教|聖セバスチァンの殉教]]』([[美術出版社]]、1966年9月30日)
**霊験劇 聖セバスティアンの殉教(原作:[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]/邦訳:三島・池田弘太郎。付録:あとがき(三島・池田)。別刷に写真50頁49葉の「名画集 聖セバスティアンの殉教」(三島編)あり。
**新版は[[国書刊行会]]〈クラテール叢書〉、1988年4月。画集は大幅に割愛されている。
=== 全集・選集 ===
*『三島由紀夫作品集』〈全6巻〉([[新潮社]]、1953年7月25日-1954年4月30日)
**1巻([[仮面の告白]]、[[盗賊 (小説)|盗賊]])、2巻([[愛の渇き]]、[[青の時代 (小説)|青の時代]])3巻([[禁色 (小説)|禁色]])。4巻-5巻(短篇)。6巻(戯曲・評論)<br />各巻に三島の「あとがき」あり。
*『三島由紀夫選集』〈全19巻〉(新潮社、1957年11月30日-1959年7月10日)
**ジャンルを問わない編年体の編集。3巻-5巻、9巻、11巻-19巻には付録として、文芸評論家や作家による同時代作品評あり。
*『三島由紀夫戯曲全集』(新潮社、1962年3月20日)
*『三島由紀夫短篇全集』(新潮社、1964年2月10日)
*『三島由紀夫短篇全集』〈全6巻〉([[講談社]]、1965年3月10日-8月5日)
**各巻に三島自身の「あとがき」
*『三島由紀夫評論全集』(新潮社、1966年8月10日)
** 1947年1月から1964年4月までの評論
*『三島由紀夫長篇全集』〈全2巻〉(新潮社、1967年12月10日、1968年2月25日)
**「盗賊」から「[[音楽 (小説)|音楽]]」までの主要16篇
*『三島由紀夫短篇全集』〈全6巻〉(講談社、1971年1月20日- 5月20日)
**各巻に三島の「あとがき」あり。月報:[[田中美代子]](全巻連載)。
*『三島由紀夫全集』〈全35巻+補巻1〉(新潮社、1973年4月25日-1976年6月25日)
**監修:[[石川淳]]、[[川端康成]]、[[中村光夫]]、[[武田泰淳]]。編集委員:[[佐伯彰一]]、[[ドナルド・キーン]]、[[村松剛]]、[[田中美代子]]。解題・校訂:[[島崎博]]、田中美代子。主要参考文献目録作成:島崎博<br />月報:[[清水文雄]](1巻)など、ゆかりの人物が各巻1名寄稿(2名の巻もあり)、佐伯彰一《評伝・三島由紀夫》(全巻連載)、[[虫明亜呂無]]《同時代評から》(1巻-25巻連載)、田中美代子《三島由紀夫論》(26巻-35巻連載)<br />総革装、本文2色刷の豪華限定版(1,000部)も刊。
*『三島由紀夫短篇全集』〈全2巻(上・下セット)〉(新潮社、1987年11月20日)
*『三島由紀夫評論全集』〈全4巻(セット)〉(新潮社、1989年7月5日)。解題:田中美代子
*『三島由紀夫戯曲全集』〈全2巻(上・下セット)〉(新潮社、1990年9月10日)
*『決定版 三島由紀夫全集』〈全42巻+補巻1、別巻1〉(新潮社、2000年11月10日-2006年4月28日)
**編集委員:田中美代子。佐藤秀明、井上隆史、山中剛史。解題・校訂:田中美代子。<br />月報:ゆかりの人物が各巻2名ずつ寄稿、田中美代子《思想の航海術》(全巻連載)。
=== 文庫本 ===
刊行年月は原則初版のみ記載。
==== 新潮文庫(新潮社) ====
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*『[[仮面の告白]]』(1950年6月25日) - 解説:[[福田恆存]]。改版1987年7月から、注解(作成:[[田中美代子]])、[[佐伯彰一]]「三島由紀夫 人と作品」、年譜を追加。
*『頭文字』(1951年10月30日) - [[花ざかりの森]]、[[中世 (小説)|中世]]、春子、山羊の首、頭文字、宝石売買、魔群の通過、遠乗会。解説:[[神西清]]
*『[[愛の渇き]]』(1952年3月31日) - 解説:[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]
*『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』(1954年4月30日) - 解説:[[武田泰淳]]
*『[[禁色 (小説)|禁色]]』〈上巻〉(1954年11月10日) - 第1章-第18章。解説:[[大井廣介]]
*『禁色』〈下巻〉(1954年11月15日) - 第19章-第33章
*『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』(1955年12月25日) - 解説:[[中村真一郎]]。改版1985年9月から、佐伯彰一「三島由紀夫 人と作品」、年譜を追加し、解説:佐伯彰一「『潮騒』について」となる。
*『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』(1960年9月15日) - 解説:[[中村光夫]]。改版1977年4月から、注解、佐伯彰一「三島由紀夫 人と作品」、年譜を追加。
*『[[美徳のよろめき]]』(1960年11月5日) - 解説:[[北原武夫]]
*『[[永すぎた春]]』(1960年12月10日) - 解説:[[十返肇]]
*『[[沈める滝]]』(1963年12月5日) - 解説:[[村松剛]]
*『禁色』(1964年4月30日) - 全章。解説:大井廣介。改版1969年1月から、解説:[[野口武彦]]
*『[[鏡子の家]]』(1964年10月5日) - 解説:[[田中西二郎]]
*『[[獣の戯れ]]』(1966年7月10日) - 解説:[[田中美代子]]
*『[[美しい星 (小説)|美しい星]]』(1967年10月30日) - 解説:[[奥野健男]]
*『[[近代能楽集]]』(1968年3月25日) - [[邯鄲 (戯曲)|邯鄲]]、[[綾の鼓 (戯曲)|綾の鼓]]、[[卒塔婆小町 (戯曲)|卒塔婆小町]]、[[葵上 (戯曲)|葵上]]、[[班女 (戯曲)|班女]]、[[道成寺 (戯曲)|道成寺]]、[[熊野 (戯曲)|熊野]]、[[弱法師 (戯曲)|弱法師]]。解説:[[ドナルド・キーン]]
*『[[午後の曳航]]』(1968年7月15日) - 解説:[[田中美代子]]
*『[[花ざかりの森]]・[[憂国]]――自選短編集』(1968年9月15日) - 花ざかりの森、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃、遠乗会、卵、[[詩を書く少年]]、[[海と夕焼]]、新聞紙、牡丹、[[橋づくし]]、女方、[[百万円煎餅]]、憂国、月。自作解説:三島由紀夫
*『[[宴のあと]]』(1969年7月20日) - 解説:[[西尾幹二]]
*『[[音楽 (小説)|音楽]]』(1970年2月20日) - 解説:[[澁澤龍彦]]
*『[[真夏の死]]――自選短編集』(1970年7月15日) - 煙草、春子、[[サーカス (小説)|サーカス]]、翼、離宮の松、クロスワード・パズル、真夏の死、花火、貴顕、葡萄パン、[[雨のなかの噴水]]。自作解説:三島由紀夫
*『獅子・孔雀』(1971年2月27日) - [[軽王子と衣通姫]]、殉教、獅子、毒薬の社会的効用について、急停車、[[スタア]]、[[三熊野詣]]、孔雀、[[仲間 (小説)|仲間]]。解説:[[高橋睦郎]]
*『[[青の時代 (小説)|青の時代]]』(1971年7月23日) - 解説:西尾幹二
*『[[春の雪 (小説)|春の雪]]』(1977年7月30日) - 解説:[[佐伯彰一]]
*『[[奔馬 (小説)|奔馬]]』(1977年8月30日) - 解説:村松剛
*『[[暁の寺 (小説)|暁の寺]]』(1977年10月30日) - 解説:[[森川達也]]
*『[[天人五衰 (小説)|天人五衰]]』(1977年11月30日)- 解説:田中美代子
*『[[女神 (三島由紀夫の小説)|女神]]』(1978年3月30日) - 女神、接吻、伝説、白鳥、哲学、蝶々、恋重荷、侍童、鴛鴦、[[雛の宿]]、朝の純愛。解説:[[磯田光一]]
*『[[岬にての物語]]』(1978年11月27日) - 苧菟と瑪耶、岬にての物語、頭文字、親切な機械、火山の休暇、牝犬、椅子、不満な女たち、[[志賀寺上人の恋]]、水音、商い人、十九歳、[[月澹荘綺譚]]。解説:[[渡辺広士]]
*『[[サド侯爵夫人]]・[[わが友ヒットラー]]』(1979年4月25日) - サド侯爵夫人、わが友ヒットラー。自作解題:(跋(サド侯爵夫人)、「サド侯爵夫人」について、「サド侯爵夫人」の再演、豪華版のための補跋(サド侯爵夫人)、作品の背景――「わが友ヒットラー」、「わが友ヒットラー」覚書、一対の作品――「サド侯爵夫人」と「わが友ヒットラー」)
*『[[鍵のかかる部屋]]』(1980年2月25日) - 彩絵硝子、祈りの日記、慈善、訃音、怪物、果実、死の島、美神、江口初女覚書、鍵のかかる部屋、山の魂、[[蘭陵王 (三島由紀夫)|蘭陵王]]。解説:田中美代子
*『ラディゲの死』(1980年12月25日) - みのもの月、山羊の首、大臣、魔群の通過、花山院、日曜日、箱根細工、偉大な姉妹、朝顔、旅の墓碑銘、ラディゲの死、復讐、施餓鬼舟。解説:[[野島秀勝]]
*『[[小説家の休暇]]』(1982年1月25日) - 小説家の休暇、重症者の兇器、[[ジャン・ジュネ]]、[[アントワーヌ・ヴァトー|ワットオ]]の《シテエルへの船出》、私の小説の方法、新ファッシズム論、永遠の旅人――[[川端康成]]氏の人と作品、楽屋で書かれた演劇論、魔――現代的状況の象徴的構図、日本文学小史。解説:田中美代子
*『殉教』(1982年4月25日) - 新潮文庫より1971年2月27日刊行の『獅子・孔雀』と同一内容。解説:高橋睦郎
*『[[アポロの杯]]』(1982年9月25日) - アポロの杯、[[澤村宗十郎 (7代目)|沢村宗十郎]]について、[[雨月物語]]について、[[オスカー・ワイルド|オスカア・ワイルド]]論、陶酔について、心中論、十八歳と三十四歳の肖像画、存在しないものの美学――「[[新古今集]]」珍解、[[北一輝]]論――「[[日本改造法案大綱]]」を中心として、小説とは何か。解説:佐伯彰一
*『[[葉隠入門]]』(1983年4月25日) - プロローグ――「[[葉隠]]」とわたし、一 現代に生きる「葉隠」、二「葉隠」四十八の精髄、三「葉隠」の読み方。「葉隠」名言抄(訳:[[笠原伸夫]])。解説:田中美代子
*『[[裸体と衣裳]]』(1983年12月25日) - 裸体と衣裳――日記、ドルヂェル伯の舞踏会、戯曲を書きたがる小説書きのノート、空白の役割、芸術にエロスは必要か、現代小説は古典たり得るか、[[谷崎潤一郎]]論、変質した優雅、[[文化防衛論]]。解説:西尾幹二
*『[[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]]』(1984年12月20日) - 鹿鳴館、只ほど高いものはない、夜の向日葵、朝の躑躅。自作解題(作者の言葉(鹿鳴館)、「鹿鳴館」について([[文学座]]プログラム掲載)、「鹿鳴館」について([[毎日新聞]]掲載)、あとがき(鹿鳴館)、美しき鹿鳴館時代――再演「鹿鳴館」について、「鹿鳴館」再演、上演される私の作品――「葵上」と「只ほど高いものはない」、「葵上」と「只ほど高いものはない」、あとがき(夜の向日葵)、「朝の躑躅」について)
*『[[熱帯樹 (戯曲)|熱帯樹]]』(1986年2月25日) - 熱帯樹、[[薔薇と海賊]]、[[白蟻の巣]]」、自作解題(「熱帯樹」の成り立ち、「薔薇と海賊」について(毎日マンスリー掲載)、あとがき(薔薇と海賊)、「薔薇と海賊」について(文学座プログラム掲載)、「薔薇と海賊」について(劇団[[浪曼劇場]]プログラム掲載)、「白蟻の巣」について)
*『[[絹と明察]]』(1987年9月25日) - 解説:田中美代子
*『憂国/[[橋づくし]]』(1996年8月15日) - 憂国、海と夕焼、橋づくし、百万円煎餅。[[コンビニ]]店「[[セブンイレブン]]」のみの発売品の新潮ピコ文庫。
*『[[川端康成]]・三島由紀夫 往復書簡』(2000年11月1日) - 1997年12月10日刊行の単行本と同一内容。なお著者の記載は川端側。
*『三島由紀夫 十代書簡集』(2002年11月1日) - 1999年11月20日刊行の単行本と同一内容(表記は[[現代仮名遣い]])。
*『手長姫 英霊の声 1938 -1966』(2020年10月28日) 酸模、家族合せ、日食、手長姫、携帯用、S・O・S、魔法瓶、切符、英霊の声。解説:保坂正康
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==== 角川文庫(角川書店) ====
{{Columns-list|32em|
*『愛の渇き』(1951年7月15日) - 解説:[[花田清輝]]
*『花ざかりの森 他六篇』(1955年3月30日) - 彩絵硝子、花ざかりの森、みのもの月、軽王子と衣通姫、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃、中世、岬にての物語。解説:[[戸板康二]]
*『真夏の死 他五篇』(1955年8月20日) - 真夏の死、怪物、大臣、親切な機械、獅子、クロスワード・パズル。解説:奥野健男
*『[[純白の夜]]』(1956年7月30日) - 解説:[[蘆原英了]]。改版2009年2月から、解説:[[小池真理子]]
*『女神』(1959年4月10日) - 解説:[[十返肇]]
*『[[夏子の冒険]]』(1960年4月10日) - 改版2009年3月から、解説:[[千野帽子]]
*『[[不道徳教育講座]]』(1967年11月30日) - 改版1999年9月から、「暗殺について」を除く69篇。解説:奥野健男
*『美と共同体と東大闘争』(2000年7月25日) - 新潮社より1969年6月25日刊行の『[[討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争|討論 三島由紀夫vs.東大全共闘《美と共同体と東大闘争》]]』と同一内容だが、人権擁護の見地から「われわれはキチガイではない」の章名が「目の中の不安」と変更。
*『[[夜会服 (小説)|夜会服]]』(2009年10月25日) - 解説:[[田中和生]]
*『[[複雑な彼]]』(2009年11月25日) - 解説:[[安部譲二]]
*『[[お嬢さん (三島由紀夫の小説)|お嬢さん]]』(2010年4月25日) - 解説:[[市川真人]]
*『[[にっぽん製]]』(2010年6月25日) - 解説:[[田中優子]]
*『[[幸福号出帆]]』(2010年11月25日) - 解説:[[藤田三男]]
*『[[愛の疾走]]』(2010年11月25日) - 解説:[[横尾忠則]]
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==== 中公文庫(中央公論社) ====
{{Columns-list|32em|
*『沈める瀧』(1959年8月25日)- 解説:[[寺田透]]。表記は「中央公論文庫」
*『不道徳教育講座』(1962年5月15日)- 「暗殺について」を除く69篇。表記は「中央公論文庫」
*『[[文章読本#三島由紀夫|文章読本]]』(1973年8月10日、改版1995年12月) - 解説:[[野口武彦]]。新装改版2020年3月、人名索引を増補
*『作家論』(1974年6月10日) - 1970年10月刊の単行本と同一内容。解説:佐伯彰一。新装改版2016年5月、解説:[[関川夏央]]
*『[[荒野より (小説)|荒野より]]』(1975年1月10日) - 1967年3月刊の単行本と同一内容。解説:村松剛。新装改版2016年6月、解説:[[猪瀬直樹]]
*『[[癩王のテラス]]』(1975年8月10日) - 癩王のテラス、あとがき。解説:[[宗谷真爾]]
*『[[椿説弓張月 (歌舞伎)|椿説弓張月]]』(1975年11月10日) - 椿説弓張月、「弓張月」の劇化と演出、「椿説弓張月」の演出、歌舞伎の脚本と現代語。解説:[[磯田光一]]
*『[[太陽と鉄]]』(1987年11月10日) - 太陽と鉄、エピロオグ――F104、[[私の遍歴時代]]。解説:佐伯彰一。新装改版2020年1月、最後のロングインタビュー「三島由紀夫 最後の言葉」(聞き手・[[古林尚]])を増補
*『三島由紀夫未発表書簡 [[ドナルド・キーン]]氏宛の97通』(2001年3月25日) - キーン宛ての97通の書簡、編集部後記。解説:[[松本徹 (文芸評論家)|松本徹]]「十七年の交友」
*『小説読本』(2016年10月25日) - 作家を志す人々の為に、小説とは何か、私の小説の方法、わが創作方法、小説の技巧について、極く短かい小説の効用、法律と文学、私の小説作法、法学士と小説、法律と餅焼き、私の文学、自己改造の試み、「われら」からの遁走。解説:[[平野啓一郎]]。元版:[[中央公論新社]](2010年10月)
*『古典文学読本』(2016年11月25日) - 日本の古典と私、わが古典、相聞歌の源流、[[古今集]]と[[新古今集]]、存在しないものの美学、[[清少納言]]「[[枕草子]]」、[[雨月物語]]について、能、変質した優雅、「[[道成寺 (能)|道成寺]]」私見、[[葉隠]]二題、日本文学小史、「[[文芸文化]]」のころ、「花ざかりの森」出版のころ、「花ざかりの森」のころ、古今の季節、[[伊勢物語]]のこと、うたはあまねし、寿、柳桜雑見録、古座の玉石、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃。解説:[[富岡幸一郎]]
*『戦後日記』(2019年4月23日) - 「[[小説家の休暇]]」「[[裸体と衣裳]]」ほか日記形式の全エッセイ集。解説:平山周吉
*『[[谷崎潤一郎]]・川端康成』(2020年5月21日) - 両者に関する批評・随筆を初集成。解説:梶尾文武
*『三島由紀夫 石原慎太郎 全対話』(2020年7月22日) - [[石原慎太郎]]との全対話9編を初集成。公開状「士道について」と石原の返答「政治と美について」も収録。あとがきにかえて:石原慎太郎「三島さん、懐かしい人」(2010年10月刊の『中央公論特別編集 三島由紀夫と戦後』掲載のインタビュー記事をまとめたもの)
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==== 講談社文庫・講談社文芸文庫(講談社)====
{{Columns-list|32em|
*『[[剣 (小説)|剣]]』(1971年7月1日) - 剣、月、葡萄パン、雨のなかの噴水、苺、帽子の花、魔法瓶、真珠、切符。解説:佐伯彰一
*『絹と明察』(1971年7月1日) - 解説:佐伯彰一
*『太陽と鉄』(1971年12月15日) - 太陽と鉄、エピロオグ――F104、私の遍歴時代。解説:田中美代子
*『[[中世 (小説)|中世]]・剣』(1998年3月10日) - 中世、夜の仕度、家族合せ、宝石売買、孝経、剣。解説:[[室井光広]]
*『対話・人間と文学』(2003年7月10日) - [[中村光夫]]との対談。解説:[[秋山駿]]「対談による精神のドラマ」
*『三島由紀夫文学論集 I』(2006年4月10日) - 序文、太陽と鉄、小説家の休暇、「われら」からの遁走、私の中の「男らしさ」の告白、精神の不純、わが非文学的生活、自己改造の試み、実感的スポーツ論、体操、ボクシングと小説、私の健康、私の商売道具。編集:[[虫明亜呂無]]。解説:高橋睦郎
*『三島由紀夫文学論集 II』(2006年5月10日) - 裸体と衣裳、アポロの杯――パリ、[[ジョルジュ・バタイユ]]「エロチシズム」、陶酔について、個性の鍛錬場、ナルシシズム論、「純文学とは?」その他、余暇善用、私の遍歴時代。編集:虫明亜呂無。解説:[[橋本治]]
*『三島由紀夫文学論集 III』(2006年6月10日) - 古今集と新古今集、美に逆らうもの、変質した優雅、魔的なものの力、現代史としての小説、[[市川團蔵 (8代目)|団蔵]]・芸道・再軍備、[[中村歌右衛門 (6代目)|六世中村歌右衛門]]序説、沢村宗十郎について、『[[班女]]』拝見、海風の吹きめぐる劇場、楽屋で書かれた演劇論、戯曲の誘惑、「演劇のよろこび」の復活、ロマンチック演劇の復興、文学座の諸君への「公開状」、「道義的革命」の論理、「葉隠」とわたし、美しき時代、死の分量、モラルの感覚、[[レイモン・ラディゲ]]、[[ジャン・コクトー]]、オスカア・ワイルド、ジャン・ジュネ、[[コリン・ウィルソン]]、[[ノーマン・メイラー]]。あとがき(虫明亜呂無〈再録〉)。編集:虫明亜呂無。解説:[[加藤典洋]]。1970年3月刊の単行本を文庫化(3分冊)。
*『告白―三島由紀夫未公開インタビュー』(2019年11月、[[TBS]]ヴィンテージクラシックス編) - 他に「太陽と鉄」
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==== 文春文庫(文藝春秋社) ====
*『[[行動学入門]]』(1974年10月25日) - 1970年10月刊行の単行本と同一内容。解説:虫明亜呂無
*『[[若きサムライのための精神講話|若きサムライのために]]』(1996年11月10日) - [[日本教文社]]より1969年7月刊行の単行本と同一内容。解説:[[福田和也]]
==== 集英社文庫(集英社) ====
{{Columns-list|32em|
*『夜会服』(1977年11月30日) - 解説:[[篠田一士]]
*『幸福号出帆』(1978年6月30日) - 解説:磯田光一
*『[[肉体の学校]]』(1979年3月30日) - 解説:田中美代子
*『[[命売ります]]』(1979年11月25日) - 解説:奥野健男
*『複雑な彼』(1987年10月25日) - 解説:安部譲二
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==== 河出文庫(河出書房新社) ====
{{Columns-list|32em|
*『[[太陽と鉄|F104]]――[[英霊の声]]/[[朱雀家の滅亡]]』(1981年6月4日) - F104、英霊の声、朱雀家の滅亡。著者ノートにかえて(二・二六事件と私(抄)、後記(朱雀家の滅亡))
*『英霊の声』(1990年10月4日) - 英霊の声、F104、朱雀家の滅亡、「道義的革命」の論理――[[磯部浅一|磯部]]一等主計の遺稿について、二・二六事件と私(抄)、後記(朱雀家の滅亡)。解説:[[富岡幸一郎]]
*『文豪ミステリ傑作選 三島由紀夫集』(1998年8月4日) - サーカス、毒薬の社会的効用について、果実、美神、花火、博覧会、復讐、水音、月澹荘綺譚、孔雀、朝の純愛、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃。編集・解題:[[井上明久]]
**改題新版『復讐 三島由紀夫×ミステリ』(2022年5月9日)
*『英霊の聲 オリジナル版』(2005年10月20日) - 1966年6月刊行の単行本と同一内容。解説:藤田三男
*『サド侯爵夫人/朱雀家の滅亡』(2005年12月10日) - 序・サド侯爵の真の顔(澁澤龍彦)、サド侯爵夫人、跋(三島)、朱雀家の滅亡、後記(三島)。解説:藤田三男
*『[[源泉の感情]]』(2006年2月20日) - 1970年10月刊行の単行本から6編削除、1編追加。[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[舟橋聖一]]、[[安部公房]]、[[野坂昭如]]、[[武田泰淳]]らとの対談14編。解説:藤田三男
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==== ちくま文庫(筑摩書房) ====
{{Columns-list|32em|
*『[[三島由紀夫レター教室]]』(1991年12月4日) - 解説:[[群ようこ]]
*『肉体の学校』(1992年6月22日) - 解説:群ようこ
*『愛の疾走』(1994年3月24日) - 解説:[[清水義範]]
*『[[反貞女大学]]』(1994年12月5日) - 反貞女大学、[[第一の性]]。解説:田中美代子
*『[[私の遍歴時代]]――三島由紀夫のエッセイ1』(1995年4月24日) - わが思春期、私の遍歴時代、師弟、高原ホテル、学生の分際で小説を書いたの記、わが魅せられたるもの、作家と結婚、母を語る――私の最上の読者、ぼくはオブジェになりたい、小説家の息子、実感的スポーツ論、私の遺書、私のきらいな人、男の美学、雪、[[荒野より (小説)#独楽|独楽]]。解説:田中美代子
*『新恋愛講座――三島由紀夫のエッセイ2』(1995年5月24日) - 新恋愛講座、[[おわりの美学]]、[[若きサムライのための精神講話]]。解説:田中美代子
*『外遊日記――三島由紀夫のエッセイ3』(1995年6月22日) - 旅の絵本、遠視眼の旅人、日本の株価、南の果ての都へ、外遊日記、ニューヨークの溜息、ニューヨークぶらつ記、紐育レストラン案内、大統領選挙、口角の泡、ピラミッドと麻薬、旅の夜、美に逆らうもの、冬のヴェニス、熊野路、英国紀行、インド通信、アメリカ人の日本神話。解説:田中美代子
*『[[芸術断想]]――三島由紀夫のエッセイ4』(1995年8月24日) - 芸術断想、あとがき(目――ある芸術断想)、盛りあがりのすばらしさ、[[ハリー・ベラフォンテ|ベラフォンテ]]讃、迫力ある「ウエストサイド物語」――初日を見て、[[篠山紀信]]論、など32篇。解説:田中美代子
*『幸福号出帆』(1996年7月24日) - 解説:[[鹿島茂]]
*『三島由紀夫のフランス文学講座』(1997年2月24日) - 序(鹿島茂)、[[レイモン・ラディゲ|ラディゲ]]に憑かれて――私の読書遍歴、一冊の本――ラディゲ「[[ドルジェル伯の舞踏会]]」、私の好きな作中人物――[[希臘]]から現代までの中に、ラディゲ病、レイモン・ラディゲ、小説家の休暇、からの抜粋などフランス文学論多数。編者あとがき:鹿島茂
*『命売ります』(1998年2月24日) - 解説:[[種村季弘]]
*『三島由紀夫の美学講座』(2000年1月6日) - 序([[谷川渥]])、美について、唯美主義と日本、ヴォリンガア「抽象と感情移入」をめぐって、など35篇。編集・解説:谷川渥
*『[[文化防衛論]]』(2006年11月10日) - 新潮社で1969年4月刊行の単行本とほぼ同一内容([[果たし得ていない約束―私の中の二十五年|果たし得ていない約束――私の中の二十五年]]、を追加)。解説:福田和也
*『文豪怪談傑作選 三島由紀夫集――[[雛の宿]]』(2007年9月10日) - 朝顔、雛の宿、花火、切符、鴉、英霊の聲、邪教、博覧会、仲間、孔雀、月澹荘綺譚、など18篇。編集・解説:[[東雅夫]]
*『恋の都』(2008年4月10日) - 解説:千野帽子
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==== 岩波文庫(岩波書店) ====
*『三島由紀夫紀行文集』(2018年9月15日)- 「[[アポロの杯]]」ほか海外・国内紀行を3章に分け収録。編・解説:佐藤秀明
*『若人よ蘇れ・黒蜥蜴 他一篇』(2018年11月17日)- 他に「[[喜びの琴]]」を収録。解説:佐藤秀明
*『三島由紀夫スポーツ論集』(2019年5月17日)。編・解説:佐藤秀明
==== 上記以外の他社 ====
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*『生きる意味を問う――私の人生観』(学陽書房:[[学陽書房|人物文庫]]、1997年9月) - 単行版は[[大和出版]](1984年10月、新版1992年4月)、複数の作品を入れ替え再編(「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」([[高橋和巳]]との対談)を追加)。編・解説:[[小川和佑]]
*『文学的人生論』([[光文社|光文社知恵の森文庫]]、2004年11月) - 1954年11月刊行の河出書房(河出新書)初刊より一編(「日本の小説家はなぜ戯曲を書かないか?」)を割愛。解説:福田和也
*『[[黒蜥蜴 (戯曲)|黒蜥蜴]]』([[学研ホールディングス|学研M文庫]]、2007年6月)- 黒蜥蜴、自作解題(「黒蜥蜴」について(西武生活掲載)、関係者の言葉、「黒蜥蜴」、「黒蜥蜴」について([[婦人画報]]掲載)、映画「黒蜥蜴」の収録歌)。付録・座談会([[江戸川乱歩]]、[[杉村春子]]、[[芥川比呂志]]、[[松浦竹夫]]、[[山村正夫]])、対談([[美輪明宏|丸山明宏]])。解説:[[美輪明宏]]
*『三島由紀夫 近代浪漫派文庫42』([[新学社]]、2007年7月) - 十五歳詩集、花ざかりの森、橋づくし、憂国、三熊野詣、卒塔婆小町、太陽と鉄、文化防衛論。[[歴史的仮名遣い]]表記。
*『終わり方の美学 戦後ニッポン論考集』([[徳間書店|徳間文庫カレッジ]]、2015年10月)- 『日本人養成講座』メタローグ(1999年10月)、新版・[[平凡社]](2012年5月)の改題・増補(現代の夢魔、[[鶴田浩二]]論、「憂国」の謎、など10篇増補)。編・解説:高丘卓
*『幻想小説とは何か 三島由紀夫怪異小品集』([[平凡社ライブラリー]]、2020年8月)。短編や小論など31編を収録。編・解説:[[東雅夫]]
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=== 名言集 ===
*『芸術の顔 三島由紀夫 人生のことば』([[巖谷大四]]編、番町書房、1967年7月) - 『人生のことば 第2巻』(川端康成監修、全10巻)
**筋肉、力、スポーツ、肉体、男性、女性、男性対女性、青年、人間、人生、旅、時など、37のテーマに分け三島作品から採った[[格言|箴言]]集、三島自身による跋。
*『三島由紀夫語録』(秋津建編、鷹書房、1975年12月/鷹書房弓プレス(改訂版)、1993年2月)
**「一貫不惑、[[文武両道]]、青天白日、[[自刃]]の思想、[[知行合一]]」のテーマに分け、右頁に三島作品から採った語録、左頁にその解説文。
*『三島由紀夫 ロゴスの美神』(山内由紀人編、岳陽舎、2003年7月)
**[[檄 (三島由紀夫)|檄]]、[[詩を書く少年]]、[[日本の降伏|敗戦]]、[[楯の会]]、日本、政治の言葉など、42のテーマに分け三島作品から採った箴言集。
*『人間の{{ruby|性|さが}} 三島由紀夫の言葉』(佐藤秀明編、[[新潮新書]]、2015年11月20日)
**「男女の掟、世間の掟、人間の性、芸術の罠、国家の檻」のテーマに分け、三島作品・対談などから引用し解説。
*『三島由紀夫 行動する言葉100』(英和出版社、2016年3月)。下記とも、写真と併せた語句解説。
*『三島由紀夫100の言葉――日本を心の底から愛するための心得』([[適菜収]]監修、[[別冊宝島]]編集部編、[[宝島社]]、2016年7月)
== 肉声資料 ==
記事立項されている「[[サーカス (小説)|サーカス]]」朗読に附随したインタビュー、東大全共闘との討論会、[[檄 (三島由紀夫)|檄文演説]]などは各記事を参照。
*『人とその作品――三島由紀夫の魅力』([[朝日ソノラマ]]、1967年4月1日・4月号)
**[[ソノシート]]両面
**収録内容:剣道・ボディービルにはげむ三島由紀夫氏、美と官能、文学とスポーツ、現代の若者について、[[フラメンコ]]の白い裳裾――旅の絵本<ref name="tabi"/>(朗読:三島)、禿鷹の影――旅の絵本(朗読:三島)
**※ソノシート2枚中の〔1〕が三島関連で、〔2〕には「激化する[[中ソ対立]]」「記録したい2月のニュース」が収録。<br />本誌に、[[村松剛]]「人とその作品 三島由紀夫」掲載。
*『学生との対話』([[新潮社]]・新潮カセット講演、1988年4月22日。新潮CD講演、2002年6月25日)
**[[カセットテープ]]2巻。ケース装幀:木幡朋介。ライナーノーツ:[[佐伯彰一]]「座談家三島の魅力――爽やかな政治論」掲載。
**CD2枚。ケース装幀:新潮社装幀室。写真は新潮社写真部。ライナーノート([[ブックレット]]):同上。
**収録内容:学生との対話――I、II(国家革新の原理)。1968年(昭和43年)10月3日に[[早稲田大学]][[大隈講堂]]で録音されたもの。
*『三島由紀夫 最後の言葉』(新潮社・新潮カセット対談、1989年4月20日。新潮CD講演、2002年6月25日)
**カセットテープ1巻。ケース装幀:木幡朋介。ライナーノーツ:[[田中美代子]]「三島由紀夫・最後の言葉」掲載。
**CD1枚。ケース装幀:新潮社装幀室。写真は新潮社写真部。ライナーノート(ブックレット):同上。
**収録内容:三島由紀夫 最後の言葉(聞き手[[古林尚]])<ref name="saigo"/>。1970年(昭和45年)11月18日夕方に三島邸で録音されたもの<ref>『戦後派作家は語る』(聞き手・古林尚、筑摩書房、1971年)収録するために行われた。</ref>。
*『学習院時代の秘密』(悠飛社、1996年12月)
**カセットテープ1巻。ケース。ライナーノーツ:[[桜田満]]「三島由紀夫の謎を解く鍵」掲載。
**収録内容:学習院時代の秘密(三島、[[徳大寺家|徳大寺公英]])。1969年(昭和44年)11月12日に対談「戦争の谷間に生きて――青春を語る」として録音されたものの編集版。
*『決定版 三島由紀夫全集41巻 音声(CD)』(新潮社、2004年9月10日)<ref name="cd"/>
**CD7枚。内函装幀:新潮社装幀室。装画は[[柄澤齊]]。ブックレット:「解題」収録。
**収録内容:〔1〕[[わが友ヒットラー]](第一幕)〔2〕わが友ヒットラー(第二幕、第三幕)〔3〕[[椿説弓張月 (歌舞伎)|椿説弓張月]]〔4〕我が国の自主防衛について〔5〕悪の華――歌舞伎、[[英霊の聲]]、起て! 紅の若き獅子たち、[[からっ風野郎|からつ風野郎]]〔6〕青春を語る(対談:徳大寺公英)〔7〕私はいかにして日本の作家になつたか<ref name="ikani"/>
== 三島を題材・ヒントにしている作品 ==
=== 小説・物語・散文作品 ===
*殺人教室([[石原慎太郎]]、1959年) - 三島は五島由紀夫で登場。
*小説三島由紀夫([[平林たい子]]、1960年)
*富士([[武田泰淳]]、1969年)
*天皇裕仁と作家三島由紀夫の幸福な死([[奥月宴]]、1970年)
*小説三島由紀夫([[千家紀彦]]、1971年)
*小説三島氏切腹([[夏文彦]]、1971年)
*小説三島由紀夫([[村上兵衛]]、1971年)
*冬の旅([[円地文子]]、1971年)
*[[みずから我が涙をぬぐいたまう日]]([[大江健三郎]]、1971年)
*三島由紀夫の首([[武智鉄二]]、1972年)
*[[眠狂四郎|眠狂四郎無情控]]([[柴田錬三郎]]、1972年)- モデル人物は冒頭に[[同朋衆]]で登場。
*順逆の人――小説・三島由紀夫([[豊田穣]]、1973年)
*帰らざる夏([[加賀乙彦]]、1973年)
*スーパースター([[吉行淳之介]]、1974年)
*木蓮の皇帝 ("Der Magnolienkaiser: Nachdenken über Yukio Mishima")(ドイツの作家[[:de:Hans Eppendorfer|ハンス・エッペンドルファー]]、1984年)
*[[帝都物語]]([[荒俣宏]]、1985年) - 「6 不死鳥篇」(新装版の「第四番」)、「7 百鬼夜行篇」「8 未来宮篇」(新装版の「第伍番」)に登場。「9 喪神篇」(新装版の「第六番」)で大沢美千代という女性に転生。
*僕は模造人間([[島田雅彦]]、1986年)
*ポポイ([[倉橋由美子]]、1987年)
*淫魔教団([[矢切隆之]]、1992年)
*伝説――夏の朝、幻の岸辺で([[中山雅仁]]、1993年)
*天皇ごっこ([[見沢知廉]]、1995年)
*天啓の宴([[笠井潔]]、1996年)
*[[あ・じゃ・ぱん]]([[矢作俊彦]]、1997年) - 三島は[[田中角栄]]の右腕として飯沼勲こと平岡公威で登場。
*さよなら、ハニー([[中山紀]]、1998年)
*三島由紀夫――剣と寒紅([[福島次郎]]、1998年)
*小説三島由紀夫事件([[山崎行太郎]]、2000年、四谷ラウンド)
*もうひとつの憂國([[荻原雄一]]、2000年) - [[森田必勝]]による介錯が失敗し苦しむ三島を見かねた[[益田兼利]]総監が実はとどめの介錯をしていたことを、総監自らの霊が回想するフィクションの物語。
*蕭々館日録([[久世光彦]]、2001年) - 三島は6歳の天才児・比呂志で登場。
*薔薇とペルソナ――小説三島由紀夫([[葉山修平]]、2002年)
*第二部 僕のお腹の中からはたぶん「金閣寺」が出てくる。([[舞城王太郎]]、2003年)
*ロンリー・ハーツ・キラー([[星野智幸]]、2004年)
*銀河([[水原紫苑]]、2004年) - 師の[[春日井建]]と、三島を鎮魂する幻想小説。
*[[さようなら、私の本よ!]](大江健三郎、2005年)
*ようこそ、自殺用品専門店へ([[:fr:Le Magasin des suicides|Le Magasin des suicides]])(フランスの作家[[:fr:Jean Teulé|ジャン・トゥーレ]]、2006年) - 自殺用具店を経営する一家の物語。一家の父親がMishimaという名前で、日の丸の鉢巻を締め、日本刀を振り回して客にハラキリの作法を伝授する。2012年には[[パトリス・ルコント]]によりアニメ映画化された。
*三島転生([[小沢章友]]、2007年、ポプラ社) - 市ヶ谷駐屯地で死んだ三島の霊が浮遊して自身の生涯を振り返る物語。
*見出された恋「[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]」への船出([[岩下尚史]]、2008年)
*蒼白の月([[広瀬亮]]、2009年)
*[[水死 (大江健三郎の小説)|水死]](大江健三郎、2009年)
*不可能([[松浦寿輝]]、2011年、講談社) - 三島が死を免れて生き延びていると想定して創作したもの。
*奇妙な共闘(作者名称不明、2011年) - [[クトゥルフ神話]]という独特な世界観の中、三島由紀夫が死後、「グール」として本来相容れない筈の探索者達との共闘を果たす。ミステリーホラー作品。
*憂国者たち――The patriots([[三輪太郎]]、2015年)
*三島由紀夫――金閣寺は燃えているか?([[鯨統一郎]]、2021年) - 『金閣寺は燃えているか?――文豪たちの怪しい宴』(創元推理文庫)の1篇。
=== 詩・和歌 ===
*Harakiri〈ハラキリ〉([[ハンガリー]]の詩人[[:en:Stephan Balint|イシュトヴァーン・バーリント]]) - [[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]の童話『[[エンドウ豆の上に寝たお姫さま]]』と融合して創作。
*ユキオ・ミシマの墓(フランス人翻訳者ピエール・パスカル、1970年) - フランス語版『平和の発見――巣鴨の生と死の記録』([[花山信勝]])に付録された[[俳句]]12句と[[短歌]]3首。
*愛と死の儀式〈三島にささげる詩〉(フランスの詩人エマニュエル・ローテン、1971年) - 映画『[[憂国]]』から創案した詩。
*哭三島由紀夫([[浅野晃]]、1971年)- 弔文「虹の門」の結びに記載<ref>[[浅野晃]]「虹の門」({{Harvnb|臨時|1971|p=192}})</ref>。
*廃墟、挽歌(井上靖、1971年)-2作とも詩集『季節』に収録。後者については、のち随筆集『わが一期一会』で三島への弔詩であったことが明かされた。
*「天と海」から――三島由紀夫君を偲びて(浅野晃、1975年)<ref>{{Harvnb|浪曼|1975|pp=32-35}}</ref>
*RHETORICS――三島由紀夫であった(なかった)非在に([[高橋睦郎]]、1985年)
*雪の中の魂二つ――大江健三郎に(高橋睦郎、2001年)
*正午だった([[藤井厳喜]]、2007年) - 没後37周年(第38回)憂国忌で朗読。
=== 漫画・ゲーム ===
*[[鉄拳シリーズ|鉄拳]]([[ナムコ]]、1994年) - [[鉄拳の登場人物#三島 一八(みしま かずや)[Kazuya Mishima]|三島一八]]のキャラクターは三島がベースになり、一族の三島姓は三島由紀夫の姓が由来<ref>ゲーメスト編集部編『ゲーメストムック Vol.8――鉄拳 完全解析マニュアル』(新声社、1995年)</ref>。
*[[真・女神転生]]([[アトラス]]、1992年)登場キャラクターのゴトウ(五島)のモデルが三島である<ref>金子一馬『金子一馬画集 III』(新紀元社、2008年)</ref>。市ヶ谷駐屯地で神と悪魔の登場について持論を演説する。
*ジャコモ・フォスカリ([[ヤマザキマリ]]、2012年) - 三島や[[安部公房]]をモデルにした人物が登場する。
=== 映画 ===
*[[地獄の黙示録]](フランシス・フォード・コッポラ、1979年) - コッポラは撮影フィルム編集時に『[[豊饒の海]]』全巻を読み続けた<ref name="jigoku-3-6">「第三部 一九七八年――再生のとき〈六月九日 ナパ〉」({{Harvnb|コッポラ|2002|pp=370-372}})</ref><ref name="notes">「第三部 一九七八年 新しい旅立ち〈六月九日 ナパ〉」({{Harvnb|コッポラ|1992|pp=288-289}}</ref>。『[[暁の寺 (小説)|暁の寺]]』を読んだ数か月後、エンディングの追加撮影や、カーツ大佐が殺されるシーンと生贄の水牛が殺されるシーンが交錯する劇的演出に工夫が凝らされている<ref>「第三部 一九七八年――再生のとき〈十月十九日 ナパ〉〈十月二九日 ナパ〉」({{Harvnb|コッポラ|2002|pp=381,387-388}})</ref><ref>「第三部 一九七八年 新しい旅立ち〈十月十九日 ナパ〉〈十月二九日 ナパ〉」({{Harvnb|コッポラ|1992|pp=296,302-303}}</ref>
*[[ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ]]([[ポール・シュレイダー]]、1985年)
*みやび 三島由紀夫([[田中千世子]]、2005年) - ドキュメンタリー映画。
**出演:[[平野啓一郎]]、[[岡泰正]]、[[柳幸典]]、[[野村万之丞 (5世)|野村万之丞]]、[[関根祥人]]、[[坂手洋二]]、[[松下恵]]、[[靳飛]](チン・フェイ)、[[ラウラ・テスタヴェルデ]]、[[バログ・B・マールトン]]、[[ホイクール・グンナルソン]]
*[[11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち]]([[若松孝二]]、2012年)
*[[三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜]]([[豊島圭介]]、2020年)
=== アニメ ===
*[[攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG]]([[プロダクション・アイジー|Production I.G]]、2004年) - 劇中に登場する革命評論家「パトリック・シルベストル」は三島がモデル。シルベストルが著した書籍「初期革命評論集」は『[[近代能楽集]]』がモデルになっている<ref name="eureka">『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 特集 攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』([[青土社]]、2005年10月号)pp.46-47 </ref>。なお、初期プロットでは三島と『近代能楽集』がより詳しく扱われる予定だったが、諸事情によりこの形に変更された<ref name="eureka"/>。詳しくは同記事内の「[[攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG#初期プロットからの変更|初期プロットからの変更]]」を参照のこと。
=== 音楽作品 ===
*Harakiri〈ハラキリ〉([[エトヴェシュ・ペーテル]]、1973年) - ハンガリーの詩人[[:en:Stephan Balint|イシュトヴァーン・バーリント]] (Bálint István)の「Harakiri」の日本語訳を基に作曲。声楽家の[[青木涼子]]の2014年のアルバム『能・現代音楽』に収録<ref name="oka-gai-ep">「エピローグ “増殖”する三島由紀夫」({{Harvnb|岡山|2014|pp=168-170}})</ref>。
*Death & Night & Blood (Yukio)〈死と夜と血〉([[ストラングラーズ]]、1978年) - アルバム『[[:en:Black and White (The Stranglers album)|Black and White]]』収録曲。『仮面の告白』の中の言葉「死と夜と血潮」から創案した詞。
*Ice(ストラングラーズ、1978年) - アルバム『[[:en:The Raven (The Stranglers album)|The Raven]]』収録曲。『[[葉隠入門]]』から創案した詞。
*Forbidden Colours〈禁じられた色彩〉([[デヴィッド・シルヴィアン]]・[[坂本龍一]]、1983年) - 『[[禁色 (小説)|禁色]]』の主人公から創案した詞。
*M([[モーリス・ベジャール]]、1993年) - 三島をオマージュしたバレエ・スペクタクル作品<ref>松田和彦「肉体で描かれた三島由紀夫へのオマージュ――[[モーリス・ベジャール|ベジャール]]の『M』」({{Harvnb|論集III|2001|pp=241-256}})</ref>。
*ミュージックシアター「浄土」The Pure Land(ジェームズ・ウッド・加藤訓子、1999年。日本公演2005年) - 『[[志賀寺上人の恋]]』から翻案。
*由紀夫のためのソナタ〜[[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ|C.P.E.バッハ]]:[[チェンバロ]]・[[ソナタ]]集(ジョスリーヌ・キュイエ、2011年) - 『[[春の雪 (小説)|春の雪]]』の各場面と構成したプログラム。
=== その他のアート ===
*恒([[分部順治]]、1976年) - 彫刻。三島をモデルにした等身大の男性像。1970年(昭和45年)秋に三島から依頼されていたもので(日曜ごとにモデルに通った)、同年11月22日には原型が出来ていた<ref>「年譜 昭和45年」({{Harvnb|42巻|2005|pp=315-334}})</ref>。1976年(昭和51年)4月7日 の第6回日彫展に出品された。
*烈火の季節/なにものかへのレクイエム・その壱 ミシマ([[森村泰昌]]、2006年) - 扮装パフォーマンス
*美の教室、清聴せよ(森村泰昌、2007年) - 同上。
*Objectglass 12([[石塚公昭]]、2007年) - 人形作品
*三島由紀夫へのオマージュ展「男の死」(石塚公昭、2011年)
== 関連人物 ==
<!--五十音順に並べてありますのでよろしく。-->
;[[芥川比呂志]]
:演出家、俳優。共に[[岸田国士]]の「[[雲の会]]」に同人参加。『[[邯鄲 (戯曲)|邯鄲]]』は芥川が上演企画・演出した。芥川が[[福田恆存]]と共に「[[文学座]]」を離れた後も三島は自著を献呈し続け、『[[美しい星 (小説)|美しい星]]』を読んで興奮した芥川が劇化したいと三島に電話したが、実現に至らなかった<ref name="ruriko">[[芥川瑠璃子]]「鮮やかに甦るあの頃」({{Harvnb|8巻|2001}}月報)</ref>。[[芥川瑠璃子|瑠璃子]]夫人との会話で三島の話題になると言う「三島、あれは天才だよ」は、ずっと変わらなかったという<ref name="ruriko"/>。
;[[東文彦]]
:[[学習院中・高等科|学習院]]の5歳年長の文学仲間。23歳で夭折するまでの約2年間、三島と文通した友人で、同人誌『赤繪』を共に創刊した。三島は自決前に『東文彦作品集』(1971年)の出版に尽力し、東との思い出を序文に記した<ref name="fumijo"/>。
;[[安部公房]]
:小説家、劇作家。政治的思想や作風は三島と異なるが、共に[[サイエンス・フィクション|SF]]好きであった。対談でも対立点はあるものの互いに協調的で、安部は三島をユーモア感覚のある「対話の名手」と評し、「けっして謙虚ではなかったが、意味のない傲慢さはなかった」「三島君はつねに他者に対する深い認識と洞察があった。絶望はいわばその避けがたい帰結だったのだ」と語り<ref>安部公房「前回の最後にかかげておいた応用問題――周辺飛行19」(波 1973年5月号)。『安部公房全集 24 1973.03-1974.02』(新潮社、1999年9月)</ref>、自身と三島との共通点を「文化の自己完結性に対する強い確信だった」としている<ref>安部公房「反政治的な、あまりにも反政治的な……」(『三島由紀夫全集33』月報 新潮社、1976年1月)。{{Harvnb|事典|2000|pp=443-444}}</ref>。なお、安部と三島は1968年(昭和43年)に起きた[[プラハの春]]について意見を交わしていたとみられ、三島は〈この間、安部公房君と一晩ゆつくり話し、彼が、「僕は[[チェコスロバキア|チェコ]]に夢をかけてゐた。チェコにいつか亡命するつもりだつた。夢が砕けて悲しい」と言つてゐた言葉が心を搏ちました〉とドナルド・キーンへの手紙の中で語っている<ref>「ドナルド・キーン宛ての書簡」(昭和43年9月24日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=440-441}}</ref>。
;[[安部譲二]]
:作家。元[[暴力団]]員([[安藤組]])、元[[日本航空]]客室乗務員。三島が通っていた[[ゲイバー]]の用心棒をしていた時に知り合った。三島は安部の半生を題材に『[[複雑な彼]]』(1966年)を執筆し、その主人公「宮城'''譲二'''」は安部のペンネームの一部となった<ref>[[安部譲二]]「解説」(文庫版『複雑な彼』角川文庫、2009年11月)</ref>。
;[[伊沢甲子麿]]
:教育評論家。[[國學院大學]]在学中の1947年(昭和22年)3月、豊川登(学習院教諭、ドイツ文学者)と[[磯部忠正]](元学習院長)を介して三島と知り合い、終生の友人となった。三島との初対面の際、[[保田與重郎]]を好きか嫌いか質問された伊沢は、保田を「尊敬する人物」と答え、戦後に保田を戦犯扱いして右翼・軍国主義と非難する意見と真っ向から戦っていると明言し、三島から信頼を得たという<ref name="izawa">[[伊沢甲子麿]]「思い出の三島由紀夫」({{Harvnb|39巻|2004}}月報)</ref>。三島の自決1週間前の[[清水文雄]]宛の書簡には、〈文壇に一人も友人がなくなり、今では信ずべき友は伊沢氏一人になりました〉と記されている<ref name="S451117"/>。
;[[石原慎太郎]]
:小説家、政治家、元[[東京都知事]]。三島は石原文学のよき理解者で、作品集の編纂や翻訳化にも尽力し、石原の己惚れの強さも陽性の好ましいものとして『[[不道徳教育講座]]』などで擁護していたが、後年になると徐々に両者の意見の相違が露見し、関係が離れていった。三島は、政治家・石原の内部批判のあり方を叱咤する『士道について』(1970年)を発表し、[[村上一郎]]との対談でも、〈石原と[[小田実]]って、全然同じ人間だよ、全く一人の人格の表裏ですな〉と批判した<ref name="kami">[[村上一郎]]との対談「尚武の心と憤怒の抒情―文化・ネーション・革命」(日本読書新聞 1969年12月29日 - 1970年1月5日合併号)。{{Harvnb|40巻|2004|pp=608-621}}</ref>。
:石原は、三島自決直後の追悼文では、「狂気とも愚行ともとれ得ることを承知した上で行なった、他が何といおうと氏にとっては、絶対に社会的政治的な行為であったに違いない」と哀悼した<ref>石原慎太郎「三島由紀夫への弔辞」(週刊現代 1970年12月10日号)。{{Harvnb|追悼文|1999|pp=2-3}}</ref>。その後は否定的な見解も示して三島の死を辛辣に批評しつつ<ref name="ishi-n">石原慎太郎「三島由紀夫の日蝕――その栄光と陶酔の虚構」({{Harvnb|没後20|1990|pp=116-181}})。{{Harvnb|石原|1991}}</ref><ref>石原慎太郎「今、蘇る危うい予告」({{Harvnb|太陽|2010|p=167}})</ref>、三島という論客がいなくなった日本を「退屈」だと残念がり、バルコニーでの演説を終え総監室で最後の準備をメンバーに指示している三島の無意識の表情の写真(バリケード越しに自衛隊撮影班が隠し撮りした数枚の写真)を「実にきれいなんだ。いつものすごんだ顔と違う、素のいい顔です」とも語った<ref name="ishi-n"/><ref name="ishi-50">石原慎太郎「没後50年 三島由紀夫と私―文学の天才 肉体に劣等感 闊達な論客『知的刺激受けた』」(産経新聞、2020年11月5日号)17面</ref>。
;[[磯田光一]]
:文芸評論家、イギリス文学者。三島の存命中から三島論を展開し、彼の死を哀悼して自著『殉教の美学』の刊行を1年間停止するなど喪に服した<ref>柳瀬善治「磯田光一」({{Harvnb|事典|2000|pp=449-451}})</ref>。三島にとっての天皇は「“絶対”への渇きの喚び求めた極限のヴィジョン」であり、「存在しえないがゆえに存在しなければならない何ものかであった」と論じた<ref>「太陽神と鉄の悪意――三島由紀夫の死」(文學界 1971年3月号)。{{Harvnb|磯田|1979|pp=434-445}}</ref>。自決1か月前の三島からは、人間天皇を抹殺することで超越者としての天皇を逆説的に証明するため、「本当は宮中で天皇を殺したい」と直接聞いたという<ref name="isoda"/>。
;[[伊東静雄]]
:[[日本浪曼派]]の詩人。三島は伊東を〈私のもつとも敬愛する詩人であり、客観的に見ても、一流中の一流だと思ふ〉と述べている<ref>「伊東静雄全集推薦の辞」(果樹園 1960年10月号)。{{Harvnb|31巻|2003|p=496}}</ref>。伊東の詩『春の雪』の影響は、少年時代の三島の詩『大詔』や小説、晩年の『[[春の雪 (小説)|春の雪]]』にまで及んでいる<ref>[[桶谷秀昭]]「三島由紀夫『春の雪』」(日本経済新聞 1969年1月12日号)。{{Harvnb|福島鋳|2005|p=129}}、{{Harvnb|小高根|1971|p=281}}</ref>。伊東は葉書で、「これからも沢山書いて、新しき星になつて下さい、それを信じて待ちます」と17歳の三島を励ました<ref>「清水文雄宛ての書簡」(昭和17年7月23日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=557-560}}</ref>。三島のことを日記に「俗人」と記したこともあったが、その後は再び激励している<ref name="odakaito"/><ref name="I230323"/>。
;[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]
:[[歌舞伎役者]]、俳優。三島作品原作の映画『[[炎上 (映画)|炎上]]』(1958年)と『[[剣 (小説)|剣]]』(1963年)で主演。『炎上』の撮影現場を見学した8月12日の三島の記録には、〈頭を五分刈にした雷蔵君は、私が前から主張してゐたとほり、映画界を見渡して、この人以上の適り役はない〉と記されている<ref name="ratai"/>。雷蔵の歌舞伎公演に寄せた文でも、放火僧の演技について〈ああいふ孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだのであらう〉と激励した<ref>「[[市川雷蔵 (8代目)|雷蔵]]丈のこと」([[日生劇場]]プログラム 1964年1月)。{{Harvnb|32巻|2003|pp=653-654}}</ref>。雷蔵による企画で主演が予定されていた映画『[[獣の戯れ]]』は多忙で、『[[春の雪 (小説)|春の雪]]』の舞台公演は病気のため、実現しなかった。雷蔵は[[二・二六事件]]の青年将校役もやりたいと、[[増村保造]]に相談していたという(詳細は[[炎上 (映画)#市川雷蔵と三島由紀夫]]を参照)。
;[[梅田晴夫]]
:劇作家。三島がまだ[[大蔵省]]に居た頃、[[世界文化社]]主催の講演会で[[京都府|京都]]に行った時に同行した。終戦後間もない時代で甘味に飢えていた2人は、夜の[[新京極]]をショートケーキと紅茶で「はしご」した。梅田はこの1週間の短い京都旅行で、「茶目っ気」たっぷりの三島の「天才」を思い知らされたという<ref>[[梅田晴夫]]「紅茶の〈はしご〉」(『三島由紀夫全集20』月報 新潮社、1975年2月)。{{Harvnb|新読本|1990|pp=38-39}}</ref>。
;[[遠藤周作]]
:小説家。晩年の代表作『[[深い河]]』は、『[[暁の寺 (小説)|暁の寺]]』で描かれた[[ベナレス]]が舞台となっており、人生観の広がりに『暁の寺』の影響が見られる<ref name="genba6">「第六章 ベナレス」({{Harvnb|宮崎|2006|pp=85-99}})</ref>。遠藤に連れられて三島邸を訪問したことのある[[秋山駿]]は、玄関で出迎えた三島に遠藤が[[花束]]を手渡していたエピソードを語っている<ref name="akiy"/>。遠藤はクリスチャンであったが、三島の自死について「社会的には批判もあろう。しかし、三島さんの思想と行動は、最後の一点で完全に結びついた、壮烈であり、清潔である」と理解を示し<ref>[[遠藤周作]](朝日新聞夕刊 1970年11月25日号)。{{Harvnb|井上豊|2006|p=113}}</ref>、作家の中では珍しく[[憂国忌]]発起人として名を連ねた<ref>「資料編」({{Harvnb|憂国忌|2010|pp=261-304}})</ref>。[[織田信長]]の妹・[[お市の方|お市]]をモデルに描いた遠藤の遺作『女』には、三島の『天人五衰』の結尾と酷似する描写もある<ref name="genba6"/>。
;[[大江健三郎]]
:小説家。大江と三島は政治的には「左翼」と「右翼」といった違いで分化されがちであるが、両者には裏返しの形での照応性もみられ、「性」や「天皇」を主題とした2人の作品の共通点や相違点などがしばしば研究対象になっている<ref name="shiba-o">柴田勝二「大江健三郎」({{Harvnb|事典|2000|pp=468-467}})</ref>。三島は大江の文学的才能やその作品に常に注目し、初期作品『[[性的人間]]』の真実性を賞揚していたが<ref name="ooe-tai">[[大江健三郎]]との対談「現代作家はかく考える」(群像 1964年9月号)。{{Harvnb|39巻|2004|pp=425-448}}</ref><ref name="kojin">「すばらしい技倆、しかし…―大江健三郎氏の書下し『個人的な体験』」(週刊読書人 1964年9月14日号)。{{Harvnb|33巻|2003|pp=120-122}}</ref><ref name="kami-o">神谷忠孝「大江健三郎」({{Harvnb|旧事典|1976|p=61}})</ref>、その後の大江の『[[個人的な体験]]』の結末に関しては、〈ニヒリストたること〉を性急に放棄した大江が最後に〈明るい結末〉を安易に与えていることを〈主人持ちの文学〉だと批判したこともよく知られており<ref name="kojin"/><ref name="shiba-o"/>、澁澤龍彦宛ての書簡では〈あいつは、しかし、肉体的に美しくないのが最大欠点です〉とも語っていた<ref>「澁澤龍彦宛ての書簡」(昭和42年12月25日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=535-536}}</ref>。また『[[万延元年のフットボール]]』に登場する右翼の弟の行動の描き方から大江がそれに〈憧れと愛情をつよく持って〉いることを看取した三島は、その大江の右翼的なものへの〈大変なアフェクション〉と戦後民主主義を守ろうとする大江には矛盾があるとした<ref name="nagisa"/>。[[イルメラ・日地谷・キルシュネライト]]は、大江があらゆる三島的なものから、ひたすら距離を置こうと試みつつも、三島が死んだ後までもずっと三島にこだわり続けて「三島に焦点を合わせずにはいられない」大江を論じ、その多くの作品に「三島に取り憑かれたかのような現象“enduring obsession with Mishima”」が確認されるとしている<ref>[[イルメラ・日地谷・キルシュネライト]]「世界の文学と三島」({{Harvnb|日地谷|2010|pp=125-152}})</ref>。
;[[小川正洋]]
:政治活動家。三島が結成した[[楯の会]]2期生で第7班班長。[[三島事件]]の実行メンバー。「三島先生は、如何なるときでも学生の先頭に立たれ、訓練を共にうけました。共に泥にまみれ、汗を流して雪の上をほふくし、その姿に感激せずにはおられませんでした。これは世間でいう三島の道楽でもなんでもない。また、文学者としての三島由紀夫でもない。日本をこよなく愛している本当の日本人に違いないと思い、三島先生こそ信頼し尊敬できるおかただ、先生についていけば必ず日本のために働けるときがくるだろうと考えました」と裁判陳述で述べた<ref name="date7">「『日本刀は武士の魂』 ■第七回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=123-150}})</ref>。
;[[笠置シヅ子]]
:三島は「[[東京ブギウギ]]」の大ヒットで一世を風靡した歌手笠置シヅ子の大ファンで、上記の通り、役人時代に書いた栗栖赳夫大蔵大臣の演説原稿に〈[[淡谷のり子]]さんや[[笠置シズ子]]さんのたのしい[[アトラクション]]の前に、私如きハゲ頭のオヤジがまかり出まして、御挨拶を申上げるのは野暮の骨頂でありますが〉と入れて、上司に𠮟責されたこともあったが<ref name="naga"/><ref name="ookura"/>、作家となってからも、雑誌『日光』の1950年4月特大号の「三島由紀夫・笠置シズ子大いに語る」という記事で笠置と対談した際に、三島は〈今日は笠置さんに片想いを縷々と述べる會ですからね〉と自分が笠置の大ファンであることを告白、その後も[[ハイテンション]]でまくし立てて笠置を圧倒し、〈笠置さんの歌はちょっとした訛りがとてもエロティックですよ。やはりあの訛りに色気があるのですね〉〈何かしら僕は、天皇陛下みたいな憧れの象徴とでも云おうか、そういった存在ですよ。あなたは〉〈明治以来日本に3人女傑がいるんです。[[与謝野晶子]]、[[三浦環]]、[[岡本かの子]]。そして4番目は笠置シズ子〉と激賞している<ref>「第五章 「高いギャラはいりまへん」 ―大阪弁の東京タレント―」({{Harvnb|砂古口|2023|pp=239-288}})</ref>。
;[[加藤道夫]]
:劇作家。芥川比呂志同様、共に「雲の会」の同人で劇作家仲間として親交があった。三島は加藤を、〈純にして純なる、珠のごとき人柄〉のゆえに自作の不評に傷つきやすく〈大劇作家たらしめなかつた〉のではないか<ref name="h-reki"/>、〈加藤氏ほど心のきれいな人を見たことがない〉と語り<ref>「加藤道夫氏のこと」(毎日マンスリー 1955年9月号)。{{Harvnb|28巻|2003|pp=535-537}}</ref>、腐敗した劇檀人種の中で〈心やさしい詩人は、「理想の劇場の存在する国」へと旅立つた〉と加藤の自殺を追悼した<ref>「楽屋で書かれた演劇論」(芸術新潮 1957年1月号)pp.176-183。{{Harvnb|29巻|2003|pp=417-431}}</ref>。加藤の死から間もない頃、[[矢代静一]]と[[奥野健男]]は、三島から「僕のペンネームは魅死魔幽鬼尾にしたよ」と[[勘亭流]]で書かれたメモの字を見せられたとされる<ref name="yashi14">「第十四章 その鎮魂」({{Harvnb|矢代|1985|pp=211-228}})</ref><ref>「昭和28年12月28日」({{Harvnb|日録|1996|p=163}})</ref>。
;[[川端康成]]
:小説家。戦後の三島の出発の礎を形づくった。三島の『[[盗賊 (小説)|盗賊]]』創作ノートの端々や、伊東静雄への書簡には、川端に対する尊敬や共感の念が綴られ<ref name="to-note"/><ref name="I230323"/>、〈[[天狗]]〉を芸術家の比喩とした随筆では、〈「我師」といふ一句に、川端康成氏の名を当てはめたい誘惑にかられるが、それでは私も天狗の端くれを自ら名乗ることになつて、不遜のそしりを免れまい〉としている<ref name="tengu">「天狗道」(文學界 1964年7月号)pp.10-11。{{Harvnb|33巻|2003|pp=92-95}}</ref>。
:三島は20代の頃、川端令嬢(養女・政子)の家庭教師をしていた時期があり、来訪時の手土産に可愛いお菓子や高級ケーキを持参し、[[川端秀子|秀子夫人]]らを介さずに直接政子に手渡そうとしていたという<ref name="hideko">[[川端秀子]]「続・川端康成の思い出(二)」({{Harvnb|川端補巻2 |1984}}月報)</ref>。川端夫人は1952年(昭和27年)6月の林房雄夫人の通夜の席で、三島から政子との結婚を申し込まれ、夫に相談することなく「さりげなく、しかし、きっぱりとお断りした」としている<ref name="hideko"/>。
:1971年(昭和46年)の[[1971年東京都知事選挙|都知事選挙]]に立候補した[[秦野章]]の応援で選挙戦に参加した川端は、瑚ホテルで[[按摩]]を取っている時に突然起き上がって扉を開け、「やあ、[[日蓮]]様ようこそ」と挨拶したり、風呂場で音がすると言いながら再び飛び起き、「おう、三島君。君も応援に来てくれたか」と言ったため、按摩が鳥肌を立てて早々と逃げ帰ったというエピソードがある<ref>[[今東光]]「本当の自殺をした男」(文藝春秋 1972年6月号)</ref><ref>「第五章 自決の背景」({{Harvnb|小室|1985|pp=121-198}})</ref><ref>「三十二 三島の霊と話をしていた川端康成」({{Harvnb|岡山|2014|pp=159-163}})</ref>。
;[[岸田今日子]]
:女優。三島が「[[鉢の木会]]」メンバーらと行った[[岸田国士]]の別荘で娘の今日子と知り合い、グループ交遊した<ref>猪瀬直樹・岸田今日子との対話「25周年 最後の秘話」(オール讀物 1995年12月号)。{{Harvnb|猪瀬|2001|pp=402-416}}</ref>。今日子が「文学座」の女優となってからも親交を持ち続け、三島演出の『[[サロメ (戯曲)|サロメ]]』の主役に抜擢された。三島は今日子に気があったようで、同座の[[仲谷昇]]と今日子の関係の進展ぐあいを[[長岡輝子]]に訊いていたという<ref name="gai8">「八 岸田今日子の半裸の『[[サロメ (戯曲)|サロメ]]』」({{Harvnb|岡山|2014|pp=52-58}})</ref>。
;[[北村小松]]
:脚本家、小説家。1955年(昭和30年)7月に発足した「[[日本空飛ぶ円盤研究会]]」創立メンバーで、翌年この会に入会した三島と知り合い、交流した<ref name="gai11"/><ref>「空飛ぶ円盤と人間通――[[北村小松]]氏追悼」(朝日新聞 1964年4月30日号)。{{Harvnb|33巻|2003|pp=31-33}}</ref>。同会には他に、[[星新一]]、[[黛敏郎]]、石原慎太郎などが入会した<ref name="gai11"/>。
;[[北杜夫]]
:小説家。年齢が近く、同じ[[山の手]]出身。[[奥野健男]]を通じて1961年(昭和36年)から交友が始まった<ref name="okuno16"/>。三島は北の『[[楡家の人びと]]』を気に入り、推薦した。北の父・[[斎藤茂吉]]と三島の伯父で精神科医の[[橋健行]]は親友同士で、健行は北の『[[楡家の人びと]]』の聖子(モデルは北の叔母・斎藤清子)の婚約者だった男性として言及されている<ref name="kitam">「表面的な思い出など――三島由紀夫」({{Harvnb|北|2022|pp=13-34}})</ref><ref name="oka2"/>。
;[[木下恵介]]
:映画監督、脚本家。三島が初の世界旅行中([[アポロの杯]]参照)の1952年(昭和27年)3月、パリに着いた早々見知らぬ男(闇ドル屋)から銀行よりも有利に換金してやると騙され、カフェの裏部屋でトラベラーズ・チェック約50万円分を奪われた。その窮状を知った東京新聞の記者を通じ当時パリに滞在中だった木下恵介を紹介された三島は、木下の下宿先のパンシオン「ぼたんや」(日本人経営)に再発行までの1か月ほど宿泊することができ、それが縁で木下や当時留学生だった[[黛敏郎]]、[[佐野繁次郎]]とも交流した<ref>「あとがき(「夜の向日葵」)」(群像 1953年4月号)。{{Harvnb|28巻|2003|pp=64-65}}</ref>。木下はトラベラーズ・チェックを摺られたという三島に対して「あの高名な、頭のいい三島さんにも、こんな人間味のある失敗があるのかと親しみを覚えた」という<ref name="kino">「断雲」({{Harvnb|木下|1987|pp=5-11}})</ref>。ある時、木下が、もっと国政について発言をしてはどうか、小説家も日本の運命の中で生きているのだから、もっとこうなって欲しいという願いはあるのではないか、と問うてみたところ、三島は「小説家ってね、そんなことはどうでもいいんだ。日本の国がどうなろうと、小説家が書くことは別のことだからね、僕が書きたいことはさ」と返答したという<ref name="kino"/>。その18年後の三島の自決について木下は、「三島さんほどの人が、あのむごたらしい死を賭して言い残したことは、あの基本思想{{refnest|group="注釈"|[[服部卓四郎]]大本営陸軍作戦課長による本土決戦の基本思想}}と一脈相通じているように思えてならない。そして、完璧に日本人であろうとし、日本人でなければ考えられない死にざまをもって、自分を清らかなものとして飾ろうとしたのであろうか」「なつかしい人でもあるし、思い出したくない記憶でもある」と追想している<ref name="kino"/>。[[1954年]](昭和29年)公開の『[[潮騒 (1954年の映画)|潮騒]]』は、当初、木下が監督する予定で企画が進められていたが、三島が「木下だったら、どんな映画か想像がつく」と述べたことから、東宝は監督を[[谷口千吉]]に変更した<ref>{{Harvnb|森|1995|p=54}}</ref>。
;[[紀平悌子]]
:三島の亡き妹・[[平岡美津子|美津子]]と同級生だった縁もあり、三島と交際していた時期があった<ref>[[紀平悌子]]「三島由紀夫の手紙」([[週刊朝日]] 1974年12月13日号-1975年4月18日号)。{{Harvnb|日録|1996|pp=96-97}}</ref>。実弟の[[佐々淳行]]は、[[新左翼]]による暴徒鎮圧に従事していた警視庁警務部参事官時代に三島と知り合い、[[東大安田講堂事件]]の際には彼らを飛び降り自殺させないようにヘリコプターで催眠ガスを撒いてくれと三島から警視庁に電話が来たという<ref name="s-nen6"/>。
;[[神津カンナ]]
:[[随筆家]]。1969年(昭和44年)夏、10歳の時に三島と対談し、カンナが8歳時に作った詩「ふんすい」を何度も朗読した三島は、「素晴らしいね、とてもいい詩だ」と涙をためて褒めたという<ref>[[神津カンナ]]『長女が読む本』([[三笠書房]]、1988年7月)。{{Harvnb|井上豊|2006|pp=54-56}}</ref>。どんな本を読んだらいいか質問すると、「おじさんはもうすぐ死ぬけれど、そんなおじさんが、責任をもってあなたに読むことを勧められるのは、辞書だけです」と三島は言ったという<ref name="kann">神津カンナ「おじさんはもうすぐ死ぬけれど……」({{Harvnb|中条・続|2005|pp=213-232}})</ref>。カンナは、その年の秋の楯の会1周年記念パレードに招待されて参列した<ref name="kann"/>。
;[[古賀浩靖]]
:政治活動家。宗教家。三島が結成した楯の会2期生で第5班副班長。三島事件の実行メンバー。剣道の心得があることから、[[森田必勝]]に代わって三島を介錯した後、森田を介錯した。伊藤邦典(1期生)が出所後の古賀に「あの事件で、何があなたに残ったか」を訊ねると、彼はただ掌を上に向けて、三島と森田の首の重さを持つようにしてじっとそれを見つめていただけだったという<ref name="higu4I">「第四章 その時、そしてこれから―― 一期 伊藤邦典」({{Harvnb|火群|2005|pp=177-180}})</ref>。
;[[小賀正義]]
:政治活動家。三島が結成した楯の会2期生で第5班班長。三島事件の実行メンバー。自動車運転を任されていた。「三島先生と同じかまの飯を食ってみて、ともに起き、野を駆け、汗をかいてみたら、こういう人が文化人の中にもいたのかと心強かったし、先生の真心が感じられた。ほんとうに信頼できる人だと思った。生命は日本と日本民族の源流からわき出た岩清水のようなものです。生命をかけて行動するのはその源流に戻ること。源流とは天皇だと考えた。先生とともに行動することは、生命をかけることだった」と裁判陳述で述べた<ref name="date15">「『天皇中心の国家を』■第十五回公判」({{Harvnb|裁判|1972|pp=233-244}})</ref>。
;[[越路吹雪]]
:女優、歌手。三島が越路の『[[モルガンお雪]]』を観て大ファンとなり、交友関係が始まった<ref>「現代女優論――[[越路吹雪]]」([[朝日新聞]] 1961年7月15日号)。{{Harvnb|31巻|2003|pp=604-606}}</ref>。三島が越路主演のために書いた戯曲には、未上演の『溶けた天女』(1954年)と、『女は占領されない』(1959年)があり、独身時代の三島の恋人だという噂もあった<ref>「六 越路吹雪とのロマンスの行方」({{Harvnb|岡山|2014|pp=42-45}})</ref><ref>越路吹雪との対談「ミュージカルみやげ話」(中央公論 1958年3月号)pp.150-159。{{Harvnb|彼女|2020|pp=90-101}}</ref>。若い頃、越路と[[湘南]]の海岸でキスしたことがあると、三島は楯の会会員の井上豊夫に話したという<ref>「第二章 『楯の会』入会」({{Harvnb|井上豊|2006|pp=17-24}})</ref>。なお、越路の愛称「コーちゃん」は三島が子供の時の愛称「公ちゃん」と同じ読みである。
;[[坂本一亀]]
:[[河出書房]]の編集者。三島に初の書き下ろし長編を依頼したことが、彼に大蔵省を辞めて小説家一本で生計を立てることを決意させ、『[[仮面の告白]]』執筆に集中するきっかけとなった。三島は昼休みのベルが鳴ると「食事しようや、前祝いだ」と坂本らを誘い、銀座でハンバーグステーキを食べた<ref name="sakam"/>。兵隊に行ったのかを三島に聞かれ、行ったと答えると、「そうか、よかったな、うらやましいよ」と言われたという<ref name="sakam"/>。
;[[佐藤春夫]]
:日本浪曼派の詩人。三島は18歳の時に[[富士正晴]]ら共に佐藤を初訪問して以来交流し、[[東京大空襲]]後に疎開する佐藤の餞別会にも[[林富士馬]]や[[庄野潤三]]と共に参加し、別れの俳句を贈った。終戦の翌年に佐藤が蓮田善明を哀悼した詩「哭蓮田善明」は『[[人間 (雑誌)|人間]]』に掲載予定だったが、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の検閲を恐れて上梓されなかった。これを惜しんだ編集員が[[校正]]刷りを三島に託し、それを三島から清水文雄が預かっていたため<ref>「清水文雄宛ての葉書」(昭和21年10月12日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=606-607}}</ref>、1968年(昭和43年)に日の目を見ることができた<ref name="odaka"/>。
;[[志賀直哉]]
:小説家。三島は18歳の時に[[徳川義恭]]と共に志賀宅を初訪問したが、志賀の印象を〈我々としても摂るべきところも多くあり、決して摂つてはならぬ所も多々あり、こちらの気持がしつかりしてゐれバ、決して単なるわがまゝな白樺式自由主義者ではいらつしやらぬことを思ひました〉、〈仰言ることは半ばは耳傾けてうかゞつて頗る有益なことであり、半ばは、我らの学ぶべき考へ方ではないといふことでございました〉と清水文雄に報告している<ref>「清水文雄宛ての書簡」(昭和18年7月29日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=576-577}}</ref>。三島は、志賀が敗戦直後に日本語を廃止して国語をフランス語にしたらどうかと発言したことに呆れ蔑んだ<ref name="shinjo"/>。
;[[島尾敏雄]]
:小説家。1946年(昭和21年)5月に[[伊東静雄]]が主宰した同人誌『光耀』(3号で終刊)に共に参加した。島尾は敗戦直後に『[[花ざかりの森]]』を読んで「文学的興奮」を覚え、すぐに「豊潤な若武者」のような三島に手紙を書いたのが知り合うきっかけだった<ref name="shimao">[[島尾敏雄]]「多少の縁」(『三島由紀夫全集27』月報 新潮社、1975年7月)。{{Harvnb|新読本|1990|pp=30-31}}</ref>。初対面の時の三島の印象を、「相手に有無をも言わせぬのぶとい声が、どうしてこの華奢なからだつきの少年の口から出てくるのかふしぎであった」と島尾は語っている<ref name="shimao"/>。
;[[清水文雄]]
:日本浪曼派系の国文学者、[[和泉式部]]研究家。筆名「三島由紀夫」を提案し、著作活動を促した恩師。戦後は、発足間もない新制の[[広島大学]]に赴任し、1967年(昭和42年)の退官の際には、大学の国文学攷に三島が評論『古今集と新古今集』を寄稿した<ref name="kokin"/>。
;[[澁澤龍彦]]
:フランス文学者、小説家。澁澤が自ら訳した『[[マルキ・ド・サド]]選集』(1956年)の序文を三島に依頼して以来親交し、『[[サド侯爵夫人]]』の着想も、澁澤の『サド侯爵の生涯』(1964年)から得られた。澁澤は追悼文で、「自分の同世代者のなかに、このようにすぐれた文学者を持ち得た幸福を一瞬も忘れたことはなかった」と三島を哀悼した<ref>「三島由紀夫氏を悼む」([[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 1971年1月号)。{{Harvnb|澁澤|1986|pp=67-74}}</ref>。三島の死後は、憑かれたように古寺巡礼の旅に出た<ref>[https://web.archive.org/web/20151006071319/http://melma.com/backnumber_149567_3470670/ 宮崎正弘「書評」(三島由紀夫の総合研究、2006年12月18日・通巻第106号)]。澁澤龍彦・澁澤龍子『澁澤龍彦の古寺巡礼』([[平凡社]]コロナ・ブックス、2006年11月)</ref>。
;[[篠山紀信]]
:写真家。処女出版『篠山紀信と28人のおんなたち』(1968年)に三島が序文「篠山紀信論」を寄せた。1970年(昭和45年)9月に[[薔薇十字社]]から企画され、編集者・[[内藤三津子]]の執拗な再三の要請で三島がやっとモデルを引き受けた写真集『男の死』の撮影が11月17日に完了して出版が決定していたが、写真は数点が公開されたのみで三島事件によって立ち消えとなり、篠山側の意向もあって未出版である<ref name="shii">「最新版 三島由紀夫と記憶と精霊たち」({{Harvnb|椎根|2012|pp=5-74}})</ref><ref name="shii10">「第十章 白い錬金術師の家」({{Harvnb|椎根|2012|pp=309-344}})</ref>。
;[[庄野潤三]]
:小説家。三島が19歳の時に作品を投稿した雑誌『まほろば』に、庄野が初小説『雪・ほたる』を載せた。三島が大阪の伊東静雄を訪ねた時のことを、「先日、平岡君が学校へ訪ねて来て、あなたのことをいろいろ話しました」と伊東は庄野に伝えている。翌年4月、海軍少尉の制服で林富士馬宅を訪問した庄野は、「身だしなみのいい、礼儀正しい」学生の三島と初対面し<ref>[[庄野潤三]]「昔の友」(『三島由紀夫全集24』月報 新潮社、1975年4月)。{{Harvnb|新読本|1990|pp=26-27}}</ref>、戦後に伊東が主宰した『光耀』の同人同志となった<ref name="shimao"/>。
;[[高橋和巳]]
:小説家、中国文学者。三島の自決時、[[結腸癌]]を患っていた高橋は新聞で「悪しき味方よりも果敢なる敵の死はいっそう悲しい」とコメントし、「もし三島由紀夫氏の霊にして耳あるなら、聞け。高橋和巳が〈醢をくつがえして哭いている〉その声を」と哀悼した<ref>[[高橋和巳]]「果敢な敵の死悲し」(サンケイ新聞 1970年11月26日号)。{{Harvnb|新読本|1990|pp=130-131}}</ref>。三島の自死の意味については、[[ドストエフスキー]]の『[[悪霊 (ドストエフスキー)|悪霊]]』の登場人物・キリーロフや、[[エドガー・アラン・ポー]]の『[[ウィリアム・ウィルソン]]』を想起したと語っている<ref>高橋和巳「自殺の形而上学」(談話筆記 1971年2月)。{{Harvnb|読本|1983|pp=87-95}}</ref><ref>高橋和巳・[[野間宏]]・[[秋山駿]]の座談会「文学者の生きかたと死にかた」({{Harvnb|群像|1971|pp=152-173}})。高橋和巳『自立の思想』(文和書房、1971年)</ref>。
;[[高橋睦郎]]
:詩人。三島に詩集『薔薇の木、にせの恋人たち』を送って認められ、交友した。三島は自身が多くの先輩作家から恩恵を受けてきたためか、新人や若い人にとても優しかった<ref name="mutsu">[[高橋睦郎]]「存在感獲得への熟望」{{Harvnb|中条・続|2005|pp=145-192}}</ref>。高橋によれば、三島はサービス精神旺盛であったため、親交を持った誰しもが自分こそが三島と最も親しかったと思い込ませてしまうところがあったという<ref name="mutsu"/>。[[オスカー・ワイルド|ワイルド]]ばりの逆説が好きな三島は、高橋に「小説というものは、精神なんかで書くんじゃなくて、肉体で書くんだよ」「不健全な精神は健全な肉体にこそ宿る」と教えたという<ref name="mutsu"/>。
;[[武田泰淳]]
:小説家、僧侶。『[[近代文学 (雑誌)|近代文学]]』の第2次同人拡大時に共に参加し、その後も互いの文学を認め合う仲だった<ref>花崎育代「武田泰淳」({{Harvnb|事典|2000|pp=520-521}})</ref>。三島は自決直前、武田との対談中に、自分が戦後社会を否定しつつもそこから金銭を得て生きてきたことを〈恥ずかしい〉〈僕のギルティ・コンシャスだ〉と吐露し、武田は「それだけは言っちゃいけないよ。あんたがそんなことを言ったらガタガタになっちゃう」と懸命になだめた<ref>武田泰淳との対談「文学は空虚か」(文藝 1970年11月号)。{{Harvnb|読本|1983|pp=144-166}}、{{Harvnb|40巻|2004|pp=689-722}}</ref>。告別式では袈裟姿で弔辞を読んだ<ref name="s-nen8"/>。
;[[太宰治]]
:小説家。三島は〈太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だつた。生活で解決すべきことに芸術を煩はしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない〉と批判し太宰嫌いを公言していたが<ref name="kyuka"/>、〈氏は私のもつとも隠したがつてゐた部分を故意に露出する型の作家であつた〉とも述べていたように<ref name="h-reki"/>、両者には相通ずる性質も見られ、没落[[貴族]]を通して戦後批判をモチーフとした類似点や(『[[斜陽]]』と『宝石売買』)、普通の人間生活からの疎外感を持つ主人公(道化と仮面の人物)を視点として語る作品(『[[人間失格]]』と『仮面の告白』)などがあり、戦後的な世界秩序への反逆として作者自身が死(心中、自殺)へ向かっていく共通性が挙げられるが<ref name="anhiroshi">[[安藤宏]]「太宰治」({{Harvnb|事典|2000|pp=522-523}})</ref><ref>「『仮面の告白』」({{Harvnb|奥野|2000|pp=223-253}})</ref><ref>野口武彦「『道化』と『仮面』の[[双曲線]]」(ユリイカ 1975年3・4月合併号)。{{Harvnb|事典|2000|pp=523}}</ref>、自死を「処世術みたいな打算的なもの」と、あえて小説家の苦悩の演出かのように表白してみせる自己劇画的な太宰と、「官能的な美」を表現する「様式」「芸術的・創造的行為」として自死を捉えた三島には、大きな隔たりがあることも指摘されている<ref name="etsu3"/><ref name="anhiroshi"/>。
;[[谷崎潤一郎]]
:小説家。共に[[中央公論社]]出版の『日本の文学』〈全80巻〉の編集委員になった。三島は谷崎から『美しい星』を褒められ、礼状を送っている<ref>「谷崎潤一郎宛ての書簡」(昭和38年1月3日付)。{{Harvnb|38巻|2004|p=684}}</ref>。少年時代から谷崎文学に親しんでいた三島は数々の谷崎論を書き、その小説家としての天才を賞揚しているが、〈谷崎氏の文学世界はあまりに時代と歴史の運命から超然としてゐるのが、かへつて不自然〉とも述べ、戦時中に自ら戦地に踏み込み、時代を受け止めた[[岸田国士]]とは対極の意味合いで、〈結局別の形で自分の文学を歪められた〉作家だと評している<ref>「『国を守る』とは何か」(朝日新聞 1969年11月3日号)。{{Harvnb|35巻|2003|pp=714-719}}</ref>。三島は1958年(昭和33年)度のノーベル文学賞推薦文を谷崎のために書いていたが<ref name="asa2009"/>、実際に谷崎が有力候補と目されていた頃は毎年新聞社に依頼され、あらかじめ受賞祝いコメントを3回も書かされていたという<ref name="okuno18"/>。奥野健男によれば、三島は「谷崎潤一郎の晩年はノーベル賞をもらうために生きていたようなものだった。とうとう間に合わなかったが。ノーベル文学賞なんか、そんなものだ」と言っていたとされる<ref name="okuno18"/>。
;[[団藤重光]]
:最高裁判所裁判官。帝大法学部時代の三島に[[刑事訴訟法]]を教えていた教授。団藤は、三島没後の回想文で、『仮面の告白』の表層と深層の錯綜する二重構造的な構成を、三島の「美」の世界が比類のない論理と言語の[[魔術]]によって現成されたとして、その文学を賞讃している<ref>[[団藤重光]]「三島由紀夫と刑事訴訟法」(日本法律家協会「窓」3号 1971年)。『この一筋につながる』([[岩波書店]]、1986年4月)、『わが心の旅路』([[有斐閣]]、追補版1993年6月)。{{Harvnb|事典|2000|p=430}}</ref>。
;[[堤清二]]
:実業家、小説家。筆名「辻井喬」などで小説や詩を書き、三島とも交友が深かった。三島が組織した祖国防衛隊(のちの「[[楯の会]]」)の軍服のため、デザイナー・[[五十嵐九十九]]を紹介した<ref name="tsuji"/>。三島の自決直後に開かれた追悼会では、ポケットマネーから資金を提供したほか、三島映画の上映企画などでも会場を提供するなど、三島の死後も協力した<ref name="tutumi">[https://web.archive.org/web/20160305060540/http://melma.com/backnumber_149567_5937777/ 「三島の理解者 堤清二氏が死去」(三島由紀夫の総合研究、2013年11月29日・通巻第773号)]</ref>。なお、86歳で堤が逝去した日は三島の命日と同日だった<ref name="tutumi"/>。
;[[椿實]]
:小説家。椿が1948年(昭和23年)に『[[新思潮]]』に発表した「人魚紀聞」に対し、三島が讃辞の葉書を送ったのをきっかけに、椿が三島の務める大蔵省を訪ねたのが交友の始まりとなった。三島が口述した[[稲垣足穂]]論を椿がノートに取り、「クナアベンリーベ」(少年愛)と名付けて[[玄文社]]に渡したが、当時の出版不況のために未発表となった。『[[永すぎた春]]』は、椿が「木内書店の娘はいいぞ」と言ったのが元となり、主人公の青年は椿がモデルの一部となっている<ref>椿實「三島由紀夫の未発表原稿」(『椿實全作品』立風書房、1982年)。{{Harvnb|新読本|1990|pp=42-43}}</ref>。
;[[鶴岡淑子]]
:女優。三島が映画『憂国』で相手役のために選んだ無名女優。「鶴岡淑子」という芸名は三島が付けた<ref name="yu-eiga"/>。撮影中に切腹シーンを見て、情緒不安定なところが見受けられたという<ref name="gai17">「十七 『憂国』の妻・[[鶴岡淑子]]のその後」({{Harvnb|岡山|2014|pp=93-97}})</ref>。映画出演直後はファッション雑誌のモデルをしていたが、異性関係のトラブルでメンタル面に不調をきたして入退院を繰り返し、8年後はピンクキャバレーのホステスをし、[[ストリップ (性風俗)|ストリップ]]で踊っていたとされる<ref name="gai17"/>。
;[[徳川義恭]]
:美術研究者。[[徳川義恕]]の四男。学習院の先輩で、東文彦と共に3人で同人誌『赤繪』を創刊した文学仲間。『花ざかりの森』の装幀を担当した。1949年(昭和24年)に28歳で病死し、三島は義恭をモデルにした短編『貴顕』(1957年)を書いた<ref>佐渡谷重信「貴顕」({{Harvnb|旧事典|1976|pp=105-106}})</ref>。また、義恭の姉の[[北白川祥子|徳川祥子]]に三島は憧れ、17歳の時に書いた『玉刻春』の中で祥子の美しさを描いている<ref>「第六章 『豊饒の海』の[[北白川祥子]]」({{Harvnb|岡山|2016|pp=211-217}})</ref>。
;[[中井英夫]]
:小説家、詩人。三島は、中井の『[[虚無への供物]]』出版を祝う会の発起人となった。中井は、三島の自決後に週刊誌が「異常性格者」「ホモだオカマだ」とスキャンダラスに騒ぐ狂乱ぶりを批判し、「死んだのは流行歌手でも映画スターでもない、戦後にもっとも豊かな、香り高い果実をもたらした作家である」と三島を哀悼した<ref>[[中井英夫]]「ケンタウロスの嘆き」(潮 1971年2月号)。{{Harvnb|追悼文|1999|pp=302-311}}</ref>。三島が榊山保の筆名で発表した『[[愛の処刑]]』(1960年)の自筆原稿ノートは、2005年(平成17年)に中井宅から発見されている<ref>田中美代子「解題――愛の処刑」({{Harvnb|補巻|2005|p=646}})</ref>。
;[[中村歌右衛門 (6代目)|中村歌右衛門(六世)]]
:歌舞伎役者。三島は歌右衛門を高く評価し、『熊野』『芙蓉露大内実記』などの歌舞伎台本を彼のために書いたほか、『中村芝翫論』『六世中村歌右衛門序説』などの評論も書いた。歌右衛門をモデルにした短編『[[女方 (小説)|女方]]』は、歌右衛門を主役に据えた最初の三島歌舞伎『[[地獄変 (歌舞伎)|地獄変]]』上演の際の様子が元となっている<ref>千谷道雄「中村歌右衛門」({{Harvnb|旧事典|1976|p=287}})</ref>(2人の交流の詳細については[[女方 (小説)#三島と中村歌右衛門]]を参照)。歌右衛門が最後に三島と会ったのは、1970年(昭和45年)10月2日のトーク番組『[[人に歴史あり]]』で、久しぶりに見た三島の顔には昔日の面影がなく、やつれた感じを受けたという<ref name="utae">中村歌右衛門(聞き手:織田紘二)「『三島歌舞伎』の世界」(マリ・クレール 1989年10月号-1990年2月号)。{{Harvnb|芝居|1991|pp=186-199}}に所収</ref>。三島の死については、「本当に惜しい方」が亡くなって口惜しくて仕方ないと嘆き悲しみ、稀有な才能が失われたことは「いろんな意味での喪失」だが、その人生や死も「運命」だったとも言え、残してくれた作品を思うと諦めもつき、死によって「偉大さがより大きく残ったとも言える」として、その意味で三島は「不世出の名優」でもあったが生きていてほしかったと述懐している<ref name="utae"/>。
;[[中村伸郎]]
:俳優。三島が[[喜びの琴事件]]で「文学座」を脱退した際、劇団主要幹部でありながらも彼に追随して退団し、「[[劇団NLT]]」、「[[浪曼劇場]]」と、演劇面において行動を共にした。後年、「三島の政治信条には全く共鳴しなかったが、あの人の書く戯曲の美しさには心底惚れ込んでいた。だから文学座も迷うことなく辞めた」と語っている。三島は中村伸郎の主役を念頭に『[[朱雀家の滅亡]]』を書いた<ref name="suzaku"/>。
;[[西尾幹二]]
:ドイツ文学者、[[ニーチェ]]研究家。三島は、西尾の初期の著作『ヨーロッパ像の転換』(1969年)に推薦文を書き、その後の『文学の宿命――現代日本文学にみる終末意識』(1970年)にも注目した<ref>[[三好行雄]]との対談「三島文学の背景」「([[國文學|国文学 解釈と教材の研究]] 1970年5月25日号)。{{Harvnb|40巻|2004|pp=622-652}}</ref>。西尾は三島宅を訪問した時のことを述懐し、礼儀正しく物言いは率直ながらも、無名で年下の人間にも分け隔てなく、友人のように接する三島の偉ぶらない物腰に感銘を受けたと語っている<ref name="kanji">西尾幹二「たった一度だけの出会い」(『三島由紀夫全集3』月報 新潮社、1973年11月)。({{Harvnb|西尾|2008|pp=47-54}})</ref>。三島が嫌いな文化人の悪口を言っても、からっとしていて陰湿さがまったく無く、[[小田実]]が[[六本木]]のレストラン前に立っているのを見て、その辺りの空気がいっぺんに汚れているように感じて一目散に逃げ出したという話も面白く聞かされ、大笑いしたという<ref name="kanji"/>。
;[[野坂昭如]]
:小説家、放送作家。三島は、雑文家だった野坂の処女小説『[[エロ事師たち]]』をいち早く評価し、野坂の小説家としての道を開いた<ref name="nosa">吉田昌志「野坂昭如」({{Harvnb|事典|2000|pp=557-558}})</ref>。野坂は、三島のことを「もっとも尊敬する小説家であり、存在そのものに、戦慄せしめられていた」と評した<ref>野坂昭如「ただ喪に服するのみ」(週刊現代 1970年12月12日号)。{{Harvnb|年表|1990|pp=230-231}}</ref>。三島の没後17年には、自身の生い立ちと重ねながら三島の祖父母に言及した三島本を著し、従来の三島研究になかった視点を盛り込んで、後発の[[猪瀬直樹]]や[[村松剛]]著の三島評伝成立を促した<ref name="nosa"/>。野坂は若い頃、三島が『禁色』の[[ゲイバー]]「ルドン」のモデルにした[[銀座]]五丁目の店「ブランスウィック」でバーテンダー見習いのアルバイトをしていたことがあった。店に来る三島に煙草の火をつけたことがあり、「ありがとう」と明瞭な発音でお礼を言われたことがあるという<ref name="nosa1">「I」([[オール讀物]] 1987年1月号)。{{Harvnb|野坂|1991|pp=5-76}}</ref>。カウンターに座っていた三島は上機嫌で、眉を八の字に「ガハハハ」と笑っていたと野坂は述懐している<ref name="nosa1"/>。
;[[橋川文三]]
:思想史家、評論家。戦中・戦後精神史の観点から三島作品を論じて『[[鏡子の家]]』を高評し、三島から信頼されて三島伝を書くなどしたが、『[[文化防衛論]]』に関しては政治学的視点から文化的天皇の機能についての問題点を指摘し、それに答える形で三島は『橋川文三への公開状』で反論した<ref>「橋川文三への公開状」(中央公論 1968年10月号)pp.204-205。{{Harvnb|35巻|2003|pp=205-209}}、{{Harvnb|防衛論|2006|pp=81-86}}</ref>。橋川は三島の自死の意味を、[[高山彦九郎]]、[[神風連]]、[[横山安武]]、[[相沢三郎]]や、「無名のテロリスト」の[[朝日平吾]]や[[中岡艮一]]と同じように位置づけた<ref>「狂い死の思想」(朝日新聞 1970年11月26日号)。{{Harvnb|橋川|1998|pp=132-134}}</ref>。
;[[蓮田善明]]
:日本浪曼派系の国文学者、[[陸軍中尉]]。同人雑誌『[[文藝文化]]』を主宰した。清水文雄を通じて三島を知り、少年時代の彼の感情教育の師となった<ref name="saigo"/>。富士正晴が三島を連れて蓮田宅に行った帰り、蓮田がわざわざ駅まで見送り、まるで恋人と離れるかのように三島との別れを惜しんでいたとされる<ref name="chigi"/>。蓮田が駐屯地の[[マレー半島]]の[[ジョホールバル]]で、敗戦時に天皇を愚弄した上官を射殺後にピストル自決した事件は、三島の生涯にわたって影響を及ぼした<ref name="kita"/><ref name="chigi"/>。
;[[林房雄]]
:小説家、文芸評論家。三島が22歳の時に知り合い、生涯にわたって親しく交流した。三島は林の〈人間的魅力〉に惹かれたと語っている<ref name="f-ron"/>。三島は『林房雄論』を書き、2人の対談の共著『対話・日本人論』もある。三島の自決後、林房雄は[[憂国忌]]の運営に積極的に携わった。追悼書『悲しみの琴』(1972年)には、林とも親しかった川端康成の序文が添えられている<ref>川端康成「『悲しみの琴』に献辞」({{Harvnb|林|1972|pp=1-5}})</ref>。
;[[林富士馬]]
:詩人、医師。富士正晴を通じて知り合い、同人雑誌『まほろば』『曼荼羅』『光耀』などで交遊を持った。初対面の時に林が「ビールでも飲もうか」と振る舞おうとするが、三島はきれいな言葉遣いで断ったため、「それで林はゾッコン参っちゃったんや」と富士は回想している<ref name="fujima"/>。林は三島が19歳の時、〈戦後の世界に於て、世界各国人が詩歌をいふとき、古今和歌集の尺度なしには語りえぬ時代がくることを、それらを私は評論としてでなく文学として物語つてゆきたい〉<ref name="batsu"/> と決意していたことに触れ、決して器用ではない三島はそれを獲得するために「刻苦勉励の一生」を送り、「人の知らぬ屈辱のなかで、男らしく愚痴を云わずに、ひとり、たたかっていたのである」と追悼した<ref name="fujima"/>。
;[[土方巽]]
:舞踏家、振付家。土方が1959年(昭和34年)に『[[禁色 (小説)|禁色]]』と同名の舞踏公演をして以来、交友を深めた。三島も土方巽を被写体とした写真集『おとこと女』(1961年)を見て気に入り、撮影者の[[細江英公]]に自身の評論集『美の襲撃』の口絵写真を依頼した後、『[[薔薇刑]]』(1963年)で自らの肉体を披露した<ref>「『薔薇刑』体験記」(芸術生活 1963年7月号)。{{Harvnb|32巻|2003|pp=475-478}}</ref>。この時の撮影では、土方がスタジオを提供し、後に夫人となる[[元藤燁子]]もモデルで参加した。
;[[日沼倫太郎]]
:文芸評論家。三島と会うたびに、自殺によって三島文学はキリーロフのように完成すると勧告し、自ら生命を絶つことで「芸術と実生活との悪循環」を断ち切る方法が、「三島氏が賛美する夭折の美学を名実ともに現実化する最上の道」と書いた<ref>[[日沼倫太郎]]「三島由紀夫への予言」(読売新聞 1968年7月7日号)。{{Harvnb|旧事典|1976|p=336}}</ref>。その7日後、日沼自身が急逝(病死)したことに強い衝撃を受けた三島は、日沼が自殺したのかと思ったという<ref name="hinuma">「日沼氏と死」(批評 1968年9月号)pp.141-142。{{Harvnb|35巻|2003|pp=184-185}}</ref>。その追悼文で三島は、〈私はモラーリッシュな自殺しかみとめない〉〈武士の自刃しかみとめない〉と表明した<ref name="hinuma"/>。
;[[深沢七郎]]
:小説家、ギタリスト。三島が深沢のデビュー作『[[楢山節考]]』を高評価したのをきっかけに、『[[東京のプリンスたち]]』の出版記念会で一緒に歌うなど交流した。『[[からっ風野郎]]』の主題歌(作詞は三島)は、深沢の方から作曲したいと頼み込んだ<ref name="fuka">深沢七郎「三島由紀夫論」(若い女性 1960年4月号)。{{Harvnb|岡山|2014|pp=60-61}}</ref>。新進作家時代の深沢は、三島を「三島由紀夫先生」と呼び、「雲の上の人のような高貴な」存在と崇めてすり寄っていたが、彼の自決後は手のひらを返したように三島作品を批判した<ref>「九 『風流夢譚』事件の余波」({{Harvnb|岡山|2014|pp=59-65}})</ref>。
;[[福島次郎]]
:小説家、高校教師。三島のファンだった福島が1951年(昭和26年)に三島宅を訪問して1か月ほど交友したがすぐに疎遠となり、約11年後に福島が自著を献呈したのをきっかけに文通し、1966年(昭和41年)に三島が熊本県に取材に行った際には、福島の勤務する工業高校も見学した<ref>「第三章 『奔馬』への旅」({{Harvnb|福島次|1998|pp=137-232}})</ref>。福島は三島の没後28年に実名小説で三島との思い出を著したが、私信の無断転載による訴訟を経て著作権侵害で絶版となった([[福島次郎#『剣と寒紅』裁判|『剣と寒紅』裁判]]を参照)。
;[[福田恆存]]
:[[英文学者]]、劇作家、演出家。「雲の会」同人で「[[鉢の木会]]」でも交遊し、「文学座」や同じ保守派の論客としても親しかった。福田が「文学座」から分裂し、芥川比呂志や[[岸田今日子]]を引き連れて「[[劇団雲]]」を結成した際には、発表の前夜になってから三島に参加を呼びかけたため、彼だけが参加できなかった<ref>[[岸田今日子]]「わたしの中の三島さん」({{Harvnb|22巻|2002}}月報)</ref>。それ以後、演劇活動は共にしなかったが、三島は「劇団雲」の機関紙に寄稿して対談も行うなど、関係断絶には至らなかった<ref name="fukuda"/>。
;[[富士正晴]]
:小説家。七丈書院の関西駐在員。三島を後援する伊東静雄や蓮田善明から『花ざかりの森』刊行の話を相談され、出版実現に奔走して三島の恩人となった<ref name="h-reki"/><ref name="haru"/>。戦後の1947年(昭和22年)にも三島の評論集出版の話を持ちかけ、彼から感謝されている<ref>「富士正晴宛ての書簡」(昭和22年11月19日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=858-859}}</ref>。
;[[舟橋聖一]]
:小説家、劇作家。舟橋が主宰する「伽羅の会」に参加するなど交流した。三島は自死前に、入院中の舟橋を見舞いに来たという<ref>[[舟橋聖一]]「三島君の精神と裸体」({{Harvnb|群像|1971|pp=174-178}})</ref>。舟橋は三島の自決を、「表現しても、表現しても、その表現力が厚い壁によって妨げられる時、ペンを擲って死ぬほかはない」と哀悼した<ref>舟橋聖一「壮烈な憤死」(東京新聞 1970年11月26日号)。{{Harvnb|進藤|1976|p=507}}</ref>、舟橋は心筋梗塞を患っていたが、告別式に出席して弔辞を読み、途中から[[北条誠]]が代読した<ref name="s-nen8"/>。
;[[坊城俊民]]
:国文学者。学習院文芸部の先輩。三島が中等科の時に文通など交友し、『[[詩を書く少年]]』の先輩Rとして描かれた。長く疎遠となっていたが、『春の雪』を読んだ坊城がその感動を三島に送ったのをきっかけに、交流が再開した<ref name="bojo3"/>。三島が自決6日前に坊城に送った書簡には、〈十四、五歳のころが、小生の黄金時代であつたと思ひます〉と記されている<ref>「坊城俊民宛ての書簡」(昭和45年11月19日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=875-876}}</ref>。
;[[細江英公]]
:写真家。三島を被写体とした『[[薔薇刑]]』(1963年)を出版し、三島が序文を寄せた。『薔薇刑』は戦後昭和を代表する写真集になり、英語版も数度出版された。細江は三島のことを、文字通りの「誠実の人」だったと述懐し、彼が憂いていたのは「根源的な、日本人の精神的な危機そのものだった」と追悼した<ref>[[細江英公]]「誠実なる警告」({{Harvnb|中条・続|2005|pp=103-124}})</ref>。
;[[堀辰雄]]
:小説家。堀の文体を真似するなど影響を受けていた三島は、18歳の時に一度だけ堀宅を訪問した。堀から〈シンプルになれ〉と忠告され、〈シンプルにならうとしてそれに成功するなんで、さうおいそれと出来るものぢやない〉と三島はノートに記した<ref name="to-note"/>。その後、肉体改造と文体改造をした三島は、次第に堀文学から離れていった<ref name="kaizo"/>。
;[[増村保造]]
:映画監督。東大法学部の同窓生で、三島の主演映画『からっ風野郎』を監督するに際し、彼の下手な演技を遠慮なく罵倒し、徹底的にしごいた<ref name="gai7">「七 西にコクトー、東に三島『からっ風野郎』」({{Harvnb|岡山|2014|pp=46-51}})</ref>。三島が撮影中の事故で頭部を強打して[[脳震盪]]で病院に担ぎ込まれた時、[[平岡梓]]は「息子の頭をどうしてくれるんだ!」と激怒し<ref name="kawas7">「『からっ風野郎』」({{Harvnb|川島|1996|pp=149-170}})</ref>、入院中の三島は見舞いに来た友人の[[ロイ・ジェームス]]に「増村を殴ってきてくれよ、ロイ!」と喚いたという<ref name="yuasa"/>。しかし、増村は映画の完成後に三島邸に招待され、怪我をさせて申し訳ないと思っていたのに、梓から「下手な役者をあそこまできちんと使って頂いて」と逆に礼を言われ、帰り道に「明治生まれの男は偉い」と褒めていたという<ref name="fujii">藤井浩明「原作から主演・監督まで」(三島由紀夫と映画・2{{Harvnb|三島研究}}2006年pp.4-38)。「映画製作の現場から」として{{Harvnb|同時代|2011|pp=209-262}}</ref>(詳細は[[からっ風野郎#増村保造と三島由紀夫]]を参照)。
;[[黛敏郎]]
:[[作曲家]]。三島が初の世界旅行中のパリで、現地の詐欺師にトラベラーズチェックを盗まれたことをきっかけに留学中の黛と知り合い、交友が始まった。黛は、ラジオドラマ『ボクシング』や、オペラ『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』や映画化された三島作品、戯曲の音楽を多く担当し、三島自決の翌71年にパリで[[竹本忠雄]]と出会い、フランス人有志らと「パリ憂国忌」を開催した<ref>「第二章 第一回パリ憂国忌」({{Harvnb|竹本|1998|pp=45-72}})</ref><ref>「第六章 追悼二十年目の高揚」({{Harvnb|憂国忌|2010|pp=193-212}})</ref>。
;[[三谷信]]
:学習院時代の同期の友人、[[日本興業銀行]]ほか勤務。三谷が入隊前後から敗戦前後の間に多くの書簡を取り交わし、その後も交流した。『仮面の告白』では、三島と交際していた妹・邦子と共に、「草野」として登場している<ref name="kamen"/>。三谷は三島の願いを、「日本の泉を汲み、自分なりにその泉を“豊饒”にして次の世に譲ることであった」と追悼した<ref name="mita2"/>。
;[[美輪明宏]]
:歌手、俳優。「ブランスウィック」(『禁色』のモデルのゲイバー)でアルバイトしていた16歳の時、客として訪れた三島と出会い、シャンソン喫茶『[[銀巴里]]』で専属歌手となった時にも訪れた彼と親友として交流するようになった<ref name="aino">「わたしが愛した人々 美輪明宏をもっと理解するための4人」({{Harvnb|美輪|2002|pp=242-245}})</ref><ref name="bijo2">「第二章 天上界の麗人 [[美輪明宏]]」({{Harvnb|岡山|2016|pp=55-94}})</ref>。「神武以来の美少年」とマスコミから注目され、三島も報道陣に「丸山君の美しさは、“天上界の美”ですよ」と讃辞を送った<ref name="bijo2"/>。美輪の自伝著作『紫の履歴書』(1968年)には三島が序文を寄せている。映画『[[永すぎた春]]』に歌手として初出演した<ref>「希――青い花々」({{Harvnb|美輪|1992|pp=250-281}})</ref>。その後、戯曲『[[卒塔婆小町 (戯曲)|卒塔婆小町]]』『[[双頭の鷲 (戯曲)|双頭の鷲]]』『[[黒蜥蜴 (戯曲)|黒蜥蜴]]』でも、三島戯曲特有の絢爛な台詞を「見事に肉体化し切る表現者として稀有な存在」として注目された<ref>高橋智子「丸山(美輪)明宏」({{Harvnb|事典|2000|p=603}})</ref>。三島が自決の数日前に「山のように抱えきれないほどの薔薇の花束」を持って楽屋を訪れ、「君には感謝している」と言ったとされる<ref name="aino"/>。
;[[村上一郎]]
:評論家、小説家。思想的な差異を超えて意気投合し、三島は村上の『[[北一輝]]論』(1970年)を高評価し、楯の会会員にも読ませた。三島は村上との対談で、政治家たちの言葉に対する軽視を批判し、〈「十一月に死ぬぞ」といったら絶対死ななければいけない〉と発言した<ref name="kami"/>。村上は三島の決起の報を聞き、[[市ヶ谷駐屯地]]に駆けつけて門衛に誰何された際、「自分の官姓名は[[正七位]]海軍主計大尉・村上一郎である」と叫んだとされ、三島の自決5年後に自宅で自刃した。なお、三島が生前最後に出した手紙の1通が村上一郎宛てであり(もう1通は学校の先輩宛て)、その村上宛ての手紙の中で三島は、自身の天皇主義について評論家から「分からない」と言われたことについて、〈わからぬものはわからぬでいい。もう解説する気にもなりません〉と記し、最近[[プラトン]]『[[パイドン]]』や、『久坂玄瑞遺文集』を読んでいることを伝えながら、[[久坂玄瑞]]の2首の和歌(「あだなる命」「何か惜しまむ武士の」などの言葉がある)を抜き出し綴っている<ref>{{YouTube|gwFQw9cpl4c|三島由紀夫 没後50年 生前最後の手紙につづられた言葉 /Mishima pondered on the Socrates’ death before Harakiri suicide.}}</ref>。
;[[村松英子]]
:女優。兄・[[村松剛]]が三島の友人。「文学座」研究生だった英子に初めて会った日の夜、三島は村松剛に、「きみは、あんなにすてきで可愛い妹さんをいままでどこに隠していたの?」と電話してきたという<ref name="eiko1">「出逢いから傍に落ち着くまで」({{Harvnb|村松英|2007|pp=12-28}})</ref>。その後、英子は三島に師事し、三島戯曲の舞台に多数出演した。[[喜びの琴事件]](1963年)では三島に附随して「文学座」を脱退したが、福田恆存からの強い要請で1年間「劇団雲」に移籍した後、三島の「[[劇団NLT]]」、「劇団[[浪曼劇場]]」と行動を共にした<ref name="eiko1"/>。ある日突然と三島から「英子はね、女の子だから幸せにならなくちゃ、いけないよ」としみじみ言われたため、女の幸せは何か訊ねると三島は、「女の幸せはね、母親になることだよ」と答えたとされる<ref name="eiko13"/>。のちに英子が産まれた我が子を抱いた瞬間その言葉が鮮明によみがえり、その幸福を実感したという<ref name="eiko13"/>。
;[[持丸博]]
:政治活動家。楯の会の初代学生長。持丸は[[全共闘]]運動が吹き荒れ、「左翼でなければ人にあらず」と言われた時代を、三島と共に過ごした日々として述懐し、「先生は、当時一つの輝く[[北斗七星|北斗の星]]でしたよ。文学者としてではなく、思想家として見てました。小説家三島由紀夫とは見てなかったですよ。おそらく(楯の会会員は)誰も」と語っている<ref name="higu1">「第一章 曙」({{Harvnb|火群|2005|pp=9-80}})</ref>。
;[[森田必勝]]
:政治活動家。楯の会の第2代学生長。[[三島事件]]で三島と共に自決した。決起に至るまでの経緯には、森田が主導した面もあったという見解もある<ref name="naka3">「第三章 惜別の時」({{Harvnb|中村彰|2015|pp=137-198}})</ref><ref name="mi30">[[宮崎正弘]]「そして三十三年が経った」({{Harvnb|必勝|2002|pp=263-276}})</ref>。三島の知人の[[金子國義]]によると、三島が決起の8日前に寿司をおごってくれた時の会話の中でふと、「ずっと捜し続けていた青年に会えたよ」とポツリと呟いていたという<ref>[[金子國義]]「優しく澄んだ眼差し」({{Harvnb|20巻|2002}}月報)</ref><ref name="fusa3">「第三章 青い華――絶対への回帰」({{Harvnb|鈴木ふさ|2015|pp=179-250}})</ref>。三島にとって森田の登場は、小説の中で描き続けた純粋無垢な青年、理想の主人公(『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』の久保新治、『[[剣 (小説)|剣]]』の国分次郎、『[[奔馬 (小説)|奔馬]]』の飯沼勲)、[[アンティノウス]]像がまさに自分の目の前に現実の存在として具現化した人物だったと見られている<ref name="naka3"/><ref name="fusa3"/>。
;[[矢代静一]]
:劇作家。三島が21歳の時に川路明を通じて知り合い、一緒に太宰治に会いに行くなど交流を深めた。矢代は、一緒に〈悪所〉に行った〈例の友人〉として『仮面の告白』に登場する<ref>「第十一章 その夜の宴」({{Harvnb|矢代|1985|pp=164-178}})</ref>。その後、新劇界に進んだ矢代を通じて劇作をするようになった三島は芥川比呂志や加藤道夫らとも知り合い、演劇仲間として矢代と長く行動を共にした<ref name="yashi6"/>。
;[[保田與重郎]]
:[[日本浪曼派]]の文芸評論家。保田に影響を受けていた三島は17歳の時、学習院の講演依頼のために清水文雄と共に保田宅を初めて訪れ、それ以降、東京帝国大学の学生となってからも何度か保田宅を訪れた<ref name="shigure"/>。三島は伊澤甲子麿に、保田を悪く言う人間は大嫌いだと言ったとされ<ref name="izawa"/>、[[埴谷雄高]]や村松剛との後年の対談では、予言者・啓示者は死ななくていいとする埴谷に反論し、もしも保田が戦後を隠居で生き延びずに死んでいたとしたら、〈小型[[ゲバラ]]、小型キリストだったかもしれない〉としている<ref>「デカダンス意識と生死観」(批評 1968年6月号)pp.64-82。{{Harvnb|40巻|2004|pp=176-203}}</ref>。
;[[矢頭保]]
:写真家。三島は、矢頭の作品集『[[裸祭り]]』(1969年)や『体道・日本のボディビルダーたち』(1966年)に序文を寄せ、『体道・日本のボディビルダーたち』では三島自身も[[褌]]姿で日本刀を携えてモデルも務めた<ref name="gai12">「十二 男性ヌードへの挑戦『薔薇刑』」({{Harvnb|岡山|2014|pp=75-79}})</ref>。矢頭は三島の「切腹演戯」と題する写真も撮影し、『[[宝島 (雑誌)|宝島30]]』(1996年4月号)や『yaso夜想』(2006年4月号)に掲載された<ref name="gai12"/>。
;[[山本舜勝]]
:元陸軍少佐、元[[陸軍中野学校]]研究部員兼教官。[[陸上自衛隊小平学校|陸上自衛隊調査学校]]情報教育課長。三島と楯の会を自衛隊調査学校で直接指導した実質的な「[[軍師]]」で、三島の決起に至るまでの過程に深く関与した<ref name="mochi4"/>。次第に三島の計画と意見の相違が生じ始め、1969年(昭和44年)11月頃から疎遠となったが、翌年8月、[[中曽根康弘]]の阻止で閣僚会議に提出されなかった建白書を三島から送付された<ref name="Y450810"/>。山本は「三島由紀夫はもっとも雄々しく、優れた『魂』であった」と語っている<ref name="haku7">「終章 誰が三島を殺したのか」({{Harvnb|山本|2001|pp=192-237}}</ref>
;[[横尾忠則]]
:グラフィックデザイナー。三島は横尾の絵を気に入り、横尾忠則論『ポップコーンの心霊術』を書いた。当初、写真集『男の死』は横尾も被写体になる予定だったが、病気で入院したために三島だけとなった<ref name="yokoo2"/><ref name="shii10"/>。三島は横尾に「人間にはインドに行ける者と行けない者があり、さらにその時期は運命的な[[カルマ]]が決定する」と言っていたとされ<ref>横尾忠則『インドへ』(文藝春秋、1977年6月、文春文庫、1983年1月)</ref>、自決3日前にもインドは生を学ぶところだとして、「君もそろそろインドへ行ってもいいな」と助言したという<ref name="shino"/><ref name="yokoo2"/>。
;[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]
:英文学者、文芸評論家。「鉢の木会」の同人仲間として交流があったが、不和が生じて断交した。その原因は、三島の新居引っ越し時に家具の値段を次々と大声で値踏みした吉田の無神経さに三島が立腹したためとも、同時期の力作『鏡子の家』を「鉢の木会」の月例会で酷評されたとの説もあるが<ref name="nath6"/><ref>高橋智子「吉田健一」({{Harvnb|事典|2000|pp=621-622}})</ref>、『[[宴のあと]]』に対して訴訟を起こした[[有田八郎]]と旧知の仲だった吉田が、裁判で有田側に立った発言をしたため、不仲になったのが主因とされる<ref name="inose4"/><ref name="mura33"/>。吉田は三島の死を、一流の文士が道楽で身を誤ることがあっても不思議ではないという喩えで、「[[蝶]]気違ひの文士が崖に蝶を追つて墜落死することもある」として一種の事故死と捉えた<ref>[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]「三島さんのこと」(新潮 1971年2月号)。『詩と近代』([[小沢書店|小澤書店]]、1975年7月)、{{Harvnb|事典|2000|p=622}}</ref>。
;[[吉田満]]
:作家。[[日本銀行]]職員。吉田の体験戦記『[[戦艦大和ノ最期]]』(1946年)が改稿の紆余曲折を経て執筆から6年後に刊行された際に三島は跋文を寄せた。当初この戦記の初稿がGHQの検閲でお蔵入りとなり翌年1947年(昭和22年)に吉田が「細川宗吉」名義で改定稿「戦艦大和」を『[[新潮]]』に掲載した折、三島は直接吉田本人と会って〈門外不出の〉初稿原文を読ませてもらい、その感想を、〈日本人がうたつた最も偉大な[[叙事詩]]ともいへます〉、〈日本人の[[テルモピュライの戦い|テルモピレエの戦]]の細述です〉と林房雄に伝えて初稿原文の一読を勧めていた<ref name="ha23221"/>。吉田は三島を「まだ手書きの草稿のままの拙作『戦艦大和ノ最期』を読み、率直な感想をのべてくれた数少ない友人の一人であった」と述懐し、その縁もあって、2歳年下で同じ帝大法学部出身の三島と一時期親しく付き合っていた<ref name="yoshi2"/> <ref name="yoshi1">[[吉田満]]「三島由紀夫の苦悩」({{Harvnb|ユリイカ|1976|pp=56-64}})、{{Harvnb|下巻|1986|pp=127-143}}、{{Harvnb|戦中派|1980|pp=60-76}}、{{Harvnb|中公編集|2010|pp=136-146}}</ref>。三島が大蔵省の事務官として貯蓄奨励の懸賞作文審査のため日銀の一室に出張した際にも接点があり、三島は職務外で吉田の幹事により日本銀行文芸部主催で「小説の書き方、味わい方」という講演もしていた<ref name="yoshi2"/><ref name="sho2-129"/>。まだ大蔵省にいた頃の三島は「自分は将来とも専門作家にはならないつもりだ」と言っていたという<ref name="yoshi1"/>。三島没後に吉田は、三島が生涯かけて取り組もうとした課題の基本にあるものは「戦争に死に遅れた」事実に胚胎しているとする評論「三島由紀夫の苦悩」や<ref name="yoshi1"/>、三島との約9年ぶりの再会の思い出などを綴った「ニューヨークの三島由紀夫」を寄せている<ref name="yoshi2"/>。
;[[若尾文子]]
:女優。三島のお気に入りの女優で、三島原作の映画作品『[[永すぎた春]]』『[[お嬢さん (三島由紀夫の小説)|お嬢さん]]』『[[獣の戯れ]]』に出演し、[[増村保造]]の『[[からっ風野郎]]』では三島から選ばれて共演もした。三島が増村から何度も執拗にNGを出されていたことを、「増村さんてそういう人ですけど、私の見た範囲ではあんなのはちょっとないですね。陰で祈ってたわ。普通の人だったら、並みの俳優だったら、もう辞めてますね」と、増村の度を越したいびりに三島がよく耐え我慢していたことを述懐している<ref name="gai7"/>。三島が若尾について語った随筆・評論は、『若尾文子さん――表紙の女性』(1960年)、『若尾文子讃』(1962年)がある(詳細は[[からっ風野郎#若尾文子と三島由紀夫]]を参照)。
;[[和久田誠男]]
:演出家。[[劇団NLT]]、[[浪曼劇場]]において三島作品の舞台監督などを務め、三島由紀夫追悼公演となった『[[サロメ (戯曲)|サロメ]]』においては演出補を担当した。三島事件の四日前に三島と最後の『サロメ』演出の打ち合わせを行い会食、その際三島が異常に寒がる様子を目撃している<ref>{{Harv|同時代|2011}} 『「サロメ」上演を託されて』に収録された座談より。</ref>。
;[[アイヴァン・モリス]]
:日本文学研究者。『金閣寺』英訳者であり友人。英訳で上演された『[[班女 (戯曲)|班女]]』の吉雄役を演じた<ref name="chro24"/>。モリスの著書『[[光源氏]]の世界』が1965年(昭和40年)にイギリスで文学賞を受賞した際には三島も訪英しており、授賞式に立ち会った<ref>「ロンドン通信」(毎日新聞 1965年3月25日号)。{{Harvnb|33巻|2003|pp=435-438}}</ref>。
;[[ジョン・ネイスン]]
:翻訳者、日本研究者。『[[午後の曳航]]』を翻訳。ネイスンは『[[絹と明察]]』の翻訳依頼も受けたが、途中で放棄したまま[[大江健三郎]]の翻訳に乗り換えたため、三島とネイスンの関係は感情的もつれを生み、三島は知人にネイスンのことを「左翼に誘惑された与太者」と呼んでいたとされる<ref name="nath6"/>。
;[[ドナルド・キーン]]
:日本文学研究・翻訳者。三島文学を高く評価し、友人関係にもなった。三島は1961年(昭和36年)頃からキーン宛ての手紙の末尾に〈幽鬼夫〉〈幽鬼亭〉〈雪翁〉〈幽鬼尾〉と署名するようになり、1965年(昭和40年)頃から〈魅死魔幽鬼尾〉と記し、キーンを〈鬼韻様〉〈奇因先生〉としていた。キーンは、作家たちが自分の癖字や悪筆を、むしろ誇りにし汚い原稿のまま出す傾向がある中、三島が印刷所に対する礼儀として原稿用紙の字を読みやすく綺麗に書いていた習慣を「偉いこと」と語っている<ref>ドナルド・キーンと辻井喬の対談「伝説から実像へ」({{Harvnb|没後20|1990|pp=100-115}})</ref>。『[[近代能楽集]]』『宴のあと』『[[サド侯爵夫人]]』などを翻訳したキーンは、1968年度のノーベル文学賞受賞が三島ではなかったのが不思議だとして、この時の受賞選考に関与した某人物(東京での1957年の[[国際ペンクラブ]]大会に出席していた人物)が、三島を「左翼の過激派」と判断し、川端の方を強く推していたという内幕を語っている<ref name="kee-k"/><ref name="chro34"/>。キーンは[[平野啓一郎]]に対し、「大抵の日本人は自分が話している英語が相手に通じないと、だんだん声が小さくなる。けれど三島さんは反対で、話が通じないほど、どんどん声が大きくなる珍しい日本人だった」と述べている<ref>{{Cite web ja |title=日本を愛したドナルド・キーンさん 原点は源氏物語と兵士の日記〈AERA〉 |url=https://dot.asahi.com/articles/-/127597 |website=AERA dot. (アエラドット) |date=2019-03-06 |access-date=2022-12-25 |last=矢内裕子}}</ref>。
;[[ヘンリー・スコット・ストークス]]
:イギリスのジャーナリスト。ロンドンの『[[タイムズ]]』東京支局長当時、三島の自衛隊体験入隊や楯の会を取材した。1970年(昭和45年)9月3日に三島から「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている」と言われ<ref name="henry0"/>、「緑色の蛇」の意味をずっと考え続けていたが、1990年(平成2年)頃に突然、「[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]」([[アメリカ合衆国ドル#口語表現|グリーンバックス]])のことだと解ったという<ref name="toku11">「第十一章 死後」({{Harvnb|徳岡|1999|pp=238-269}})</ref>。ストークスは、三島がよく家族と夏を過ごしていた伊豆[[下田市|下田]]で三島と一緒に地元の食堂で会食することもあり彼の家族とも交流があったが、食事の後ストークスが宿泊している宿まで三島がタクシーで送ろうとした際、三島から宿名を聞かれ「[[黒船]]」と答えると、三島が急に不機嫌な低い声になり、「そんなところに泊まっているのか?」「どうして、そんなところに泊まるんだ!」と苛立ってしまったためストークスはそれを和らげようと、「ただ、あなたをからかいたかっただけだ」と笑って応じたことがあったという<ref name="Stokes12">「三島由紀夫と『黒船』」({{Harvnb|ストークス|2012|pp=168-170}})</ref>。三島はストークスにアメリカへの敵愾心を全くみせることはなく新婚時代の旅行で[[ディズニーランド]]にも行っていたくらいだったが、「黒船」に対しては強い嫌悪を抱いていた様子だったという<ref name="Stokes12"/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|32em}}
== 参考文献 ==
=== 三島の著作・全集 ===
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=November 2000|title=決定版 三島由紀夫全集1巻 長編1|publisher=[[新潮社]]|ISBN=978-4106425417|ref={{Harvid|1巻|2000}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=February 2001|title=決定版 三島由紀夫全集3巻 長編3|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425431|ref={{Harvid|3巻|2001}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=March 2001|title=決定版 三島由紀夫全集4巻 長編4|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425448|ref={{Harvid|4巻|2001}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=April 2001|title=決定版 三島由紀夫全集5巻 長編5|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425455|ref={{Harvid|5巻|2001}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=July 2001|title=決定版 三島由紀夫全集8巻 長編8|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425486|ref={{Harvid|8巻|2001}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=August 2001|title=決定版 三島由紀夫全集9巻 長編9|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425493|ref={{Harvid|9巻|2001}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=December 2001|title=決定版 三島由紀夫全集13巻 長編13|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425530|ref={{Harvid|13巻|2001}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=February 2002|title=決定版 三島由紀夫全集15巻 短編|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425554|ref={{Harvid|15巻|2002}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=April 2002|title=決定版 三島由紀夫全集17巻 短編3|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425578|ref={{Harvid|17巻|2002}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=May 2002|title=決定版 三島由紀夫全集18巻 短編4|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425585|ref={{Harvid|18巻|2002}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=June 2002|title=決定版 三島由紀夫全集19巻 短編5|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425592|ref={{Harvid|19巻|2002}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=July 2002|title=決定版 三島由紀夫全集20巻 短編6|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425608|ref={{Harvid|20巻|2002}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=September 2002|title=決定版 三島由紀夫全集22巻 戯曲2|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425622|ref={{Harvid|22巻|2002}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=November 2002|title=決定版 三島由紀夫全集24巻 戯曲4|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425646|ref={{Harvid|24巻|2002}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=January 2003|title=決定版 三島由紀夫全集26巻 評論1|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425660|ref={{Harvid|26巻|2003}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=February 2003|title=決定版 三島由紀夫全集27巻 評論2|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425677|ref={{Harvid|27巻|2003}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=March 2003|title=決定版 三島由紀夫全集28巻 評論3|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425684 |ref={{Harvid|28巻|2003}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=April 2003|title=決定版 三島由紀夫全集29巻 評論4|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425691|ref={{Harvid|29巻|2003}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=May 2003|title=決定版 三島由紀夫全集30巻 評論5|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425707|ref={{Harvid|30巻|2003}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=June 2003|title=決定版 三島由紀夫全集31巻 評論6|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425714|ref={{Harvid|31巻|2003}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=July 2003|title=決定版 三島由紀夫全集32巻 評論7|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425721|ref={{Harvid|32巻|2003}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=August 2003|title=決定版 三島由紀夫全集33巻 評論8|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425738|ref={{Harvid|33巻|2003}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=September 2003|title=決定版 三島由紀夫全集34巻 評論9|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425745|ref={{Harvid|34巻|2003}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=October 2003|title=決定版 三島由紀夫全集35巻 評論10|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425752|ref={{Harvid|35巻|2003}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=November 2003|title=決定版 三島由紀夫全集36巻 評論11|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425769|ref={{Harvid|36巻|2003}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=January 2004|title=決定版 三島由紀夫全集37巻 詩歌|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425776|ref={{Harvid|37巻|2004}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=March 2004|title=決定版 三島由紀夫全集38巻 書簡|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425783|ref={{Harvid|38巻|2004}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=May 2004|title=決定版 三島由紀夫全集39巻 対談1|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425790|ref={{Harvid|39巻|2004}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=July 2004|title=決定版 三島由紀夫全集40巻 対談2|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425806|ref={{Harvid|40巻|2004}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=September 2004|title=決定版 三島由紀夫全集41巻 音声(CD)|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425813|ref={{Harvid|41巻|2004}}}}
*{{Cite book ja|date=August 2005|title=決定版 三島由紀夫全集42巻 年譜・書誌|publisher=新潮社|editor1=[[佐藤秀明 (国文学者)|佐藤秀明]]|editor2=[[井上隆史 (国文学者)|井上隆史]]|editor3=山中剛史|ISBN=978-4106425820|ref={{Harvid|42巻|2005}}}}
*{{Cite book ja|date=December 2005|title=決定版 三島由紀夫全集補巻 補遺・索引|publisher=新潮社|editor1=[[田中美代子]]|editor2=佐藤秀明|editor3=井上隆史|ISBN=978-4106425837|ref={{Harvid|補巻|2005}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=April 2006|title=決定版 三島由紀夫全集別巻 映画「[[憂国]]」(DVD)|publisher=新潮社|ISBN=978-4106425844|ref={{Harvid|別巻|2006}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=October 1974|title=[[行動学入門]]|publisher=[[文藝春秋]]|series=[[文春文庫]]|ISBN=978-4167124014|ref={{Harvid|行動学|1974}}}}初刊版は1970年10月 {{ASIN|B000J9A9MQ}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=July 1991|title=芝居日記|publisher=中央公論社|ISBN=978-4120020230|ref={{Harvid|芝居|1991}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=November 1996|title=[[若きサムライのための精神講話|若きサムライのために]]|publisher=文藝春秋|series=文春文庫|ISBN=978-4167124038|ref={{Harvid|サムライ|1996}}}}初刊原版([[日本教文社]])は1969年7月 {{ISBN2|978-4531060191}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=November 2006|title=[[文化防衛論]]|publisher=[[筑摩書房]]|series=[[ちくま文庫]]|ISBN=978-4480422835|ref={{Harvid|防衛論|2006}}}}初刊原版(新潮社)は1969年4月25日 {{ASIN|B000J9OTR2}}
*{{Cite book ja|author1=三島由紀夫|author2=[[川端康成]]|date=November 2000|title=川端康成・三島由紀夫往復書簡|publisher=新潮社|series=[[新潮文庫]]|ISBN=978-4101001265|ref={{Harvid|川端書簡|2000}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=October 2002|title=三島由紀夫十代書簡集|publisher=新潮社|series=新潮文庫|ISBN=978-4101050386|ref={{Harvid|十代|2002}}}}
*{{Cite book ja|author1=三島由紀夫|author2=[[石原慎太郎]]|date=July 2020|title=三島由紀夫 石原慎太郎 全対話|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公文庫]]|ISBN=978-4122069121|ref={{Harvid|石原対話|2020}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=April 2006|title=三島由紀夫文学論集I|editor=[[虫明亜呂無]]|publisher=講談社|series=[[講談社文芸文庫]]|ISBN=978-4061984394|ref={{Harvid|論集I|2006}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=December 1999|title=三島由紀夫映画論集成|editor1=山内由紀人|editor2=[[平岡威一郎]]監修|editor3=[[藤井浩明]]監修|publisher=[[ワイズ出版]]|ISBN=978-4898300138|ref={{Harvid|映画論|1999}}}}
*{{Cite book ja|author=三島由紀夫|date=August 2017|title=告白――三島由紀夫未公開インタビュー|editor=TBSヴィンテージ・クラシックス|publisher=講談社|ISBN=978-4062206549|ref={{Harvid|告白|2017}}}}文庫版(講談社文庫)は2019年11月 {{ISBN2|978-4065173855}}
=== 事典・資料・アルバム系 ===
*{{Cite book ja|date=April 1996|title=三島由紀夫「日録」|editor=安藤武|publisher=[[未知谷]]|ISBN=978-4915841392|ref={{Harvid|日録|1996}}}}
*{{Cite book ja|date=September 1998|title=三島由紀夫の生涯|author=安藤武|publisher=夏目書房|ISBN=978-4931391390|ref={{Harvid|生涯|1998}}}}
*{{Cite book ja|date=December 2001|title=三島由紀夫全文献目録|editor=安藤武|publisher=夏目書房|ISBN=978-4931391819|ref={{Harvid|文献|2001}}}}
*{{Cite book ja|date=December 1983|title=新潮日本文学アルバム20 三島由紀夫|editor=[[磯田光一]]|publisher=新潮社|ISBN=978-4106206207|ref={{Harvid|アルバム|1983}}}}
*{{Cite book ja|date=November 2000|title=三島由紀夫事典|editor1=[[松本徹 (文芸評論家)|松本徹]]|editor2=[[佐藤秀明 (国文学者)|佐藤秀明]]|editor3=[[井上隆史 (国文学者)|井上隆史]]|publisher=[[勉誠出版]]|ISBN=978-4585060185|ref={{Harvid|事典|2000}}}}
*{{Cite book ja|date=November 1998|title=三島由紀夫 古本屋の書誌学|author=大場啓志|publisher=[[ワイズ出版]]|ISBN=978-4948735989|ref={{Harvid|大場|1998}}}}- 著者は古書店「龍生書林」店主。
*{{Cite book ja|date=January 1976|title=三島由紀夫事典|editor1=[[長谷川泉]]|editor2=[[武田勝彦]]|publisher=[[明治書院]]|NCID=BN01686605|ref={{Harvid|旧事典|1976}}}}
*{{Cite book ja|author=[[篠山紀信]]|date=November 2000|title=三島由紀夫の家|edition=普及版|publisher=[[美術出版社]]|ISBN=978-4568120639|ref={{Harvid|篠山|2000}}}}初刊版は1995年10月 {{ISBN2|978-4568120554}}
*{{Cite book ja|date=January 1972|title=定本三島由紀夫書誌|editor1=[[島崎博]]|editor2=[[平岡瑤子|三島瑤子]]|publisher=[[薔薇十字社]]|NCID=BN01686252|ref={{Harvid|島崎|1972}}}}- 自決前に出版社の[[内藤三津子]]から依頼を受け編まれた。生前までの著書・作品・上演目録・年譜、他に[[蔵書目録]](一部)を収録。序文は瑤子夫人。
*{{Cite book ja|author=[[伊達宗克]]|date=May 1972|title=裁判記録 「[[三島由紀夫事件]]」|publisher=[[講談社]]|NCID=BN0140450X|ref={{Harvid|裁判|1972}}}}
*{{Cite book ja|author=[[福島鋳郎|福島鑄郎]]|date=September 2005|title=再訂資料・三島由紀夫|edition=増補再訂版|publisher=朝文社|ISBN=978-4886951809|ref={{Harvid|福島鋳|2005}}}}- 初刊版は『資料総集・三島由紀夫』([[新人物往来社]]、1975年6月){{NCID|BN06124544}}。再訂版の初版は1989年6月 {{ISBN2|978-4886950130}}
*{{Cite book ja|date=April 1990|title=三島由紀夫――年表作家読本|editor=松本徹|publisher=[[河出書房新社]]|ISBN=978-4309700526|ref={{Harvid|年表|1990}}}}
*{{Cite book ja|author=松本徹 監修|date=October 2010|title=別冊太陽 日本のこころ175――三島由紀夫|publisher =[[平凡社]]|ISBN=978-4582921755|ref={{Harvid|太陽|2010}}}}
*{{Cite book ja|date=November 2000|title=写真集 三島由紀夫'25〜'70|editor=三島瑤子・[[藤田三男]]|publisher=新潮社|series=新潮文庫|ISBN=978-4101050911|ref={{Harvid|写真集|2000}}}}-『グラフィカ 三島由紀夫』(新潮社、1990年9月)を大幅改訂
*{{Cite book ja|date=November 2009|title=三島由紀夫研究文献総覧|editor=山口基|publisher=[[出版ニュース社]]|ISBN=978-4785201265|ref={{Harvid|山口|2009}}}}- 編者は三島と親しかった[[古書店]]「山口書店」店主。
*{{Cite book ja|date=November 2008|title=あの人に会いたい|editor=「NHKあの人に会いたい」刊行委員会|publisher=新潮社|series=新潮文庫|ISBN=978-4101362717|ref={{Harvid|あの人|2008}}}}
=== 論考・評伝・研究 ===
*{{Cite book ja|author1=[[秋山駿]]|author2=[[江藤淳]]ほか|date=September 1990|title=三島由紀夫――群像日本の作家18 |publisher=[[小学館]]|ISBN=978-4095670188|ref={{Harvid|群像18 |1990}}}}
*{{Cite book ja|author=[[磯田光一]]|date=June 1979|title=殉教の美学|edition=新装版|publisher=[[冬樹社]]|NCID=BN07704732|ref={{Harvid|磯田|1979}}}}- 改訂版は『磯田光一著作集1 三島由紀夫全論考 比較転向論序説』(小沢書店、1990年6月)に収録。
*{{Cite book ja|author=[[板坂剛]]|date=June 1997|title=極説・三島由紀夫――切腹とフラメンコ|publisher=夏目書房|ISBN=978-4931391284|ref={{Harvid|板坂|1997}}}}
*{{Cite book ja|author=板坂剛|date=August 1998|title=真説・三島由紀夫――謎の原郷|publisher=夏目書房|ISBN=978-4931391444|ref={{Harvid|板坂|1998}}}}
*{{Cite book ja|author1=板坂剛|author2=[[鈴木邦男]]|date=November 2010|title=三島由紀夫と一九七〇年|publisher=[[鹿砦社]]|ISBN=978-4846307721|ref={{Harvid|板坂・鈴木|2010}}}}
*{{Cite book ja|author=[[伊藤勝彦]]|date=March 2006|title=最後のロマンティーク 三島由紀夫|publisher=[[新曜社]]|ISBN=978-4788509818|ref={{Harvid|伊藤|2006}}}}
*{{Cite book ja|author=[[井上隆史 (国文学者)|井上隆史]]|date=December 2006|title=三島由紀夫 虚無の光と闇|publisher=試論社|ISBN=978-4903122069|ref={{Harvid|井上隆|2006}}}}
*{{Cite book ja|author=井上隆史|date=November 2010|title=三島由紀夫 幻の遺作を読む―もう一つの『豊饒の海』|publisher=[[光文社]]|series=[[光文社新書]]|ISBN=978-4334035945|ref={{Harvid|井上隆|2010}}}}
*{{Cite book ja|author=井上隆史|date=February 2018|title=「もう一つの日本」を求めて―三島由紀夫『豊饒の海』を読み直す|publisher=[[現代書館]]|series=いま読む!名著|ISBN=978-4768410127|ref={{Harvid|井上隆|2018}}}}
*{{Cite book|和書|editor1=松本徹|editor2=佐藤秀明|editor3=井上隆史|editor4=山中剛史|date=2005年11月-刊行中|title=三島由紀夫研究|publisher=鼎書房|url=http://www.kanae-shobo.com/kin/028.htm|ref={{Harvid|三島研究}}}}23冊刊(2023年現在)
*{{Cite book ja|editor1=松本徹|editor2=佐藤秀明|editor3=井上隆史|date=March 2001|title=世界の中の三島由紀夫|series=三島由紀夫論集III|publisher=勉誠出版|ISBN=978-4585040439|ref={{Harvid|論集III|2001}}}}
*{{Cite book ja|author=[[猪瀬直樹]]|date=November 1999|title=ペルソナ――三島由紀夫伝|publisher=文藝春秋|series=文春文庫|ISBN=978-4167431099|ref={{Harvid|猪瀬|1999}}}}初刊版は1995年11月 {{NCID|BN13365755}}
**{{Cite book ja|author=|date=November 2001|title=ペルソナ――三島由紀夫伝|series=日本の近代 猪瀬直樹著作集2|publisher=[[小学館]]|NCID=BA5430726X|ref={{Harvid|猪瀬|2001}}}}- 解説・付録が増補。
*{{Cite book ja|author=[[岩下尚史]]|date=December 2011|title=ヒタメン――三島由紀夫が女に逢う時…|publisher=雄山閣|ISBN=978-4639021971|ref={{Harvid|岩下|2011}}}}- 文庫版(文春文庫)は2016年11月 {{ISBN2|978-4167907358}}
*{{Cite book ja|author=[[越次倶子]]|date=November 1983|title=三島由紀夫 文学の軌跡|publisher=広論社|NCID=BN00378721|ref={{Harvid|越次|1983}}}}
*{{Cite book ja|author=[[奥野健男]]|date=November 2000|title=三島由紀夫伝説|publisher=新潮社|series=新潮文庫|ISBN=978-4101356020|ref={{Harvid|奥野|2000}}}}- 初刊版は1993年2月 {{ISBN2|978-4103908012}}。文庫版は一部省略あり。
*{{Cite book ja|author=[[岡山典弘]]|date=November 2014|title=三島由紀夫外伝|publisher=[[彩流社]]|ISBN=978-4779170225|ref={{Harvid|岡山|2014}}}}
*{{Cite book ja|author=岡山典弘|date=October 2016|title=三島由紀夫が愛した美女たち|publisher=[[啓文社]]書房|ISBN=978-4899920205|ref={{Harvid|岡山|2016}}}}- 新版(MdN新書)は2022年10月
*{{Cite book ja|author=岡山典弘|date=March 2016|title=三島由紀夫の源流 |publisher=[[新典社]]|series=新典社選書 78|ISBN=978-4787968289|ref={{Harvid|岡山・源流|2016}}}}
*{{Cite book ja|author=[[北影雄幸]]|date=November 2006|title=三島由紀夫と葉隠武士道|publisher=白亜書房|ISBN=978-4891726836|ref={{Harvid|北影|2006}}}}
*{{Cite book ja|author=[[小室直樹]]|date=April 1985|title=三島由紀夫が復活する|publisher=[[毎日コミュニケーションズ]]|ISBN=4895639010|ref={{Harvid|小室|1985}}}}- 改訂新版([[毎日ワンズ]])は2023年4月{{ISBN2|978-4901622011}}
*{{Cite book ja|author=[[佐伯彰一]]|date=November 1988|title=評伝 三島由紀夫|publisher=中央公論社|series=中公文庫|ISBN=978-4122015678|ref={{Harvid|佐伯|1988}}}}- 初刊原版(新潮社)は1978年3月 {{NCID|BN00243857}}
*{{Cite book ja|author=佐藤秀明|date=February 2006|title=三島由紀夫――人と文学|series=日本の作家100人|publisher=勉誠出版|ISBN=978-4585051848|ref={{Harvid|佐藤|2006}}}}
*{{Cite book ja|author=[[柴田勝二]]|date=November 2012|title=三島由紀夫 作品に隠された自決への道|publisher=[[祥伝社]]|series=[[祥伝社新書]]|ISBN=978-4396113001|ref={{Harvid|柴田|2012}}}}
*{{Cite book ja|author=[[島内景二]]|date=December 2010|title=三島由紀夫――豊饒の海へ注ぐ|series=[[ミネルヴァ日本評伝選]]|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|ISBN= 978-4623059126|ref={{Harvid|島内|2010}}}}
*{{Cite book ja|author=[[鈴木邦男]]|date=September 2010|title=遺魂――三島由紀夫と[[野村秋介]]の軌跡|publisher=無双舎|ISBN=978-4864084390|ref={{Harvid|鈴木邦|2010}}}}
*{{Cite book ja|author=鈴木ふさ子|date=November 2015|title=三島由紀夫 悪の華へ|publisher=アーツアンドクラフツ|ISBN=978-4908028106|ref={{Harvid|鈴木ふさ|2015}}}}
*{{Cite book ja|author=[[青海健]]|date=September 1992|title=三島由紀夫とニーチェ――悲劇的文化とイロニー|publisher=[[青弓社]]|ISBN=978-4787290663|ref={{Harvid|青海|1992}}}}
*{{Cite book ja|author=青海健|date=January 2000|title=三島由紀夫の帰還――青海健評論集|publisher=[[小沢書店]]|ISBN=978-4755103933|ref={{Harvid|青海|2000}}}}
*{{Cite book ja|author=[[竹本忠雄]]|date=December 1998|title=パリ憂国忌――三島由紀夫VSヨーロッパ|publisher=日本教文社|edition=再版|ISBN=978-4531061167|ref={{Harvid|竹本|1998}}}}- 初版は1981年11月
*{{Cite book ja|author=田坂昂|date=May 1977|title=増補 三島由紀夫論|publisher=風濤社|ISBN=978-4892190643|ref={{Harvid|田坂|1977}}}}- 新装版は2007年5月 {{ISBN2|978-4892192913}}
*{{Cite book ja|author=[[田中美代子]]|date=October 2006|title=三島由紀夫 神の影法師|publisher=新潮社|ISBN=978-4103029717|ref={{Harvid|田中|2006}}}}
*{{Cite book ja|author=[[適菜収]]|date=November 2020|title=日本人は豚になる――三島由紀夫の予言|publisher=[[ベストセラーズ]]|ISBN=978-4584139738|ref={{Harvid|適菜|2020}}}}
*{{Cite book ja|author=[[豊田穣]]|date=1973-08-25|title=寂光の人|publisher=文藝春秋|ISBN=|ref={{Harvid|豊田|1973}}}}- 改題版は『順逆の人――小説・三島由紀夫』(勁文社、1985年7月) ISBN 978-4766902358
*{{Cite book ja|editor1=[[中条省平]]|date=April 2005|title=三島由紀夫が死んだ日――あの日、何が終り何が始まったのか|publisher=[[実業之日本社]]|ISBN=978-4408534725|ref={{Harvid|中条|2005}}}}
*{{Cite book ja|editor1=中条省平|date=November 2005|title=続・三島由紀夫が死んだ日――あの日は、どうしていまも生々しいのか|publisher=実業之日本社|ISBN=978-4408534824|ref={{Harvid|中条・続|2005}}}}
*{{Cite book ja|author=[[長野祐二]]|date=November 2019|title=小説 三島由紀夫 |publisher=[[幻冬舎]]|ISBN= 978-4344925298 |ref={{Harvid|長野|2019}}}}
*{{Cite book ja|author=[[中村彰彦]]|date=November 2015|title=三島事件 もう一人の主役――烈士と呼ばれた森田必勝|publisher=[[ワック・マガジンズ|ワック]]|ISBN=978-4898317297|ref={{Harvid|中村彰|2015}}}}- 初刊原版は『烈士と呼ばれる男――森田必勝の物語』(文藝春秋、2000年5月。文春文庫、2003年6月){{ISBN2|978-4163562605}}。{{ISBN2|978-4167567071}}
*{{Cite book ja|author=[[西法太郎]]|date=September 2020|title=三島由紀夫事件 50年目の証言――警察と自衛隊は何を知っていたか |publisher=新潮社|ISBN=978-4103535812 |ref={{Harvid|西|2020}}}}
*{{Cite book ja|author=[[西部邁]]|date=November 1997|title=ニヒリズムを超えて|publisher=[[角川春樹事務所]]|series=[[ハルキ文庫]]|ISBN=978-4894563629|ref={{Harvid|西部|1997}}}}- 初刊原版([[日本文芸社]])は1989年7月 {{ISBN2|978-4537049862}}
*{{Cite book ja|author=[[野口武彦]]|date=December 1968|title=三島由紀夫の世界|publisher=講談社|NCID=BN03570022|ref={{Harvid|野口|1968}}}}
*{{Cite book ja|author=野口武彦|date=October 1985|title=三島由紀夫と[[北一輝]]|publisher=[[福村出版]]|NCID=BN01070867|ref={{Harvid|野口|1985}}}}
*{{Cite book ja|author=[[野坂昭如]]|date=April 1991|title=赫奕たる逆光――私説・三島由紀夫|publisher=文藝春秋|series=文春文庫|ISBN=978-4167119126|ref={{Harvid|野坂|1991}}}}初刊版は1987年11月 {{ISBN2|978-4163100500}}
*{{Cite book ja|author=[[橋川文三]]|date=December 1998|title=三島由紀夫論集成|publisher=深夜叢書社|ISBN=978-4880322261|ref={{Harvid|橋川|1998}}}}
*{{Cite book ja|author=[[保阪正康]]|date=April 2001|title=三島由紀夫と楯の会事件 |publisher=[[角川書店]]|series=[[角川文庫]]|ISBN=978-4043556021|ref={{Harvid|保阪|2001}}}}- 初刊原版は『憂国の論理――三島由紀夫と楯の会事件』(講談社、1980年11月){{NCID|BN0927574X}}。文庫新版(ちくま文庫)は2018年1月
*{{Cite book ja|author=[[松藤竹二郎]]|date=July 2007|title=三島由紀夫「残された手帳」 |publisher=毎日ワンズ|ISBN=978-4901622240|ref={{Harvid|松藤|2007}}}}
*{{Cite book ja|author=[[松本健一]]|date=November 2005|title=三島由紀夫の二・二六事件|series=文春新書|publisher=文藝春秋社|ISBN=978-4166604753|ref={{Harvid|松本健一|2005}}}}
*{{Cite book ja|author=松本健一|date=March 2007|title=三島由紀夫亡命伝説|edition=増補・新版|series=松本健一伝説シリーズ|publisher=辺境社|ISBN=978-4326950393|ref={{Harvid|松本健一|2007}}}}- 初刊原版(河出書房新社)は1987年11月 {{ISBN2|978-4309004884}}
*{{Cite book ja|author=[[松本徹 (文芸評論家)|松本徹]]|date=July 2010|title=三島由紀夫を読み解く|series=NHKシリーズ NHKカルチャーラジオ・文学の世界|publisher=[[NHK出版]]|ISBN=978-4149107462|ref={{Harvid|松本徹|2010}}}}
*{{Cite book ja|author=[[宮崎正弘]]|date=November 2006|title=三島由紀夫の現場|publisher=並木書房|ISBN=978-4890632077|ref={{Harvid|宮崎|2006}}}}
*{{Cite book ja|author=[[村松剛]]|date=September 1990|title=三島由紀夫の世界|publisher=新潮社|ISBN=978-4103214021|ref={{Harvid|村松剛|1990}}}}- 文庫版(新潮文庫)は1996年10月 {{ISBN2|978-4101497112}}
*{{Cite book ja|author=村松剛|date=February 1994|title=西欧との対決――[[夏目漱石|漱石]]から三島、[[遠藤周作|遠藤]]まで|publisher=新潮社|ISBN=978-4103214038|ref={{Harvid|村松剛|1994}}}}
*{{Cite book ja|author=山内由紀人|date=July 2011|title=三島由紀夫vs [[司馬遼太郎]]――戦後精神と近代|publisher=河出書房新社|ISBN=978-4309020518|ref={{Harvid|山内|2011}}}}
*{{Cite book ja|author=山内由紀人|date=August 2014|title=三島由紀夫の肉体|publisher=河出書房新社|ISBN=978-4309023182|ref={{Harvid|山内|2014}}}}
*{{Cite book ja|author=[[梶尾文武]]|date=December 2015|title=否定の文体――三島由紀夫と昭和批評|publisher=鼎書房|ISBN=978-4907282233|ref={{Harvid|梶尾|2015}}}}
*{{Cite book ja|author=[[吉田和明]]|date=November 1985|title=三島由紀夫|series=フォー・ビギナーズ・シリーズ 35|publisher=[[現代書館]]|ISBN=978-4768400357|ref={{Harvid|吉田|1985}}}}
=== 親族・学友・私人の追想 ===
*{{Cite book ja|author=井上豊夫|date=October 2006|title=果し得ていない約束――三島由紀夫が遺せしもの|publisher=コスモの本|ISBN=978-4906380800|ref={{Harvid|井上豊|2006}}}}- 著者は元[[楯の会]]会員。
*{{Cite book ja|author=鈴木亜繪美、監修・田村司|date=November 2005|title=火群のゆくへ――元楯の会会員たちの心の軌跡|publisher=柏艪舎|ISBN=978-4434070662|ref={{Harvid|火群|2005}}}}
*{{Cite book ja|author=[[西村繁樹]]|date=October 2019|title=三島由紀夫と最後に会った青年将校|publisher=並木書房|ISBN=978-489063-3913|ref={{Harvid|西村|2019}}}}
*{{Cite book ja|author=[[平岡梓]]|date=November 1996|title=伜・三島由紀夫|publisher=文藝春秋社|series=文春文庫|ISBN=978-4167162047|ref={{Harvid|梓|1996}}}}- 初刊版は1972年5月 {{NCID|BN04224118}}。月刊誌『[[諸君!]]』1971年12月号-1972年4月号に連載されたもの。
*{{Cite book ja|author=平岡梓|date=June 1974|title=伜・三島由紀夫(没後)|publisher=文藝春秋|NCID=BN03950861|ref={{Harvid|梓・続|1974}}}}- 絶版
*{{Cite book ja|author=[[坊城俊民]]|date=November 1971|title=焔の幻影――回想三島由紀夫|publisher=角川書店|NCID=BN09275670|ref={{Harvid|坊城|1971}}}}- 絶版
*{{Cite book ja|author=[[松浦芳子]]、監修・[[持丸博|松浦博]]|date=December 2010|title=今よみがえる三島由紀夫――自決より四十年|publisher=[[高木書房]]|ISBN=978-4884710866|ref={{Harvid|松浦|2010}}}}- 増補版(高木書房)は2020年11月
*{{Cite book ja|author=[[三谷信]]|date=December 1999|title=級友 三島由紀夫|edition=再刊版|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|ISBN=978-4122035577|ref={{Harvid|三谷|1999}}}}- 初刊原版([[笠間書院]]、絶版)は1985年7月 {{NCID|BN01049725}}
*{{Cite book ja|author=村上建夫|date=October 2010|title=君たちには分からない――「楯の會」で見た三島由紀夫|publisher=新潮社|ISBN=978-4103278511|ref={{Harvid|村上|2010}}}}
*{{Cite book ja|author=[[村田春樹]]|date=October 2015|title=三島由紀夫が生きた時代――楯の会と森田必勝|publisher=[[青林堂]]|ISBN=978-4792605322|ref={{Harvid|村田|2015}}}}
*{{Cite book ja|author1=[[持丸博]]|author2=佐藤松男|date=October 2010|title=証言 三島由紀夫・[[福田恆存]]―たった一度の対決|publisher=文藝春秋|ISBN=978-4163732503 |ref={{Harvid|持丸|2010}}}}
*{{Cite book ja|author=森田必勝|date=November 2002|title=わが思想と行動――遺稿集|edition=新装版|publisher=日新報道|ISBN=978-4817405289|ref={{Harvid|必勝|2002}}}}- 初版は1971年 {{NCID|BA51175945}}
*{{Cite book ja|author=[[山本舜勝]]|date=June 1980|title=三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相|publisher=[[日本文芸社]]|NCID=BN10688248|ref={{Harvid|山本|1980}}}}
*{{Cite book ja|author=山本舜勝|date=June 2001|title=自衛隊「影の部隊」――三島由紀夫を殺した真実の告白|publisher=講談社|ISBN=978-4062107815|ref={{Harvid|山本|2001}}}}
*{{Cite book ja|author=湯浅あつ子|date=March 1984|title=ロイと鏡子|publisher=中央公論社|ISBN=978-4120012761|ref={{Harvid|湯浅|1984}}}}- 著者は幼馴染で、[[ロイ・ジェームス]]夫人。
*{{Cite book ja|editor=三島由紀夫研究会|date=October 2010|title=「憂国忌」の四十年――三島由紀夫氏追悼の記録と証言|publisher=並木書房|ISBN=978-4890632626|ref={{Harvid|憂国忌|2010}}}}
*{{Cite book ja|editor=三島由紀夫研究会|date=October 2020|title=「憂国忌」の五十年|publisher=啓文社書房 |ISBN=978-4899920717|ref={{Harvid|憂国忌|2020}}}}
=== 編集者・公人の追想 ===
*{{Cite book ja|author=[[荒木精之]]|date=November 1971|title=初霜の記――三島由紀夫と神風連|publisher=日本談義社|ISBN=|ref={{Harvid|荒木|1971}}}}
*{{Cite book ja|author=[[石原慎太郎]]|date=March 1991|title=三島由紀夫の日蝕|publisher=新潮社|ISBN=978-4103015079|ref={{Harvid|石原|1991}}}}
*{{Cite book ja|author=石原慎太郎|date=January 2002|title=わが人生の時の人々|publisher=文藝春秋|ISBN=978-4163580906|ref={{Harvid|石原|2002}}}}
*{{Cite book ja|date=May 2011|title=同時代の証言 三島由紀夫|editor1=井上隆史|editor2=佐藤秀明|editor3=松本徹|publisher=鼎書房|ISBN=978-4907846770|ref={{Harvid|同時代|2011}}}}- 編者らによる関係者への聞き書き(上記『三島由紀夫研究』に連載)
*{{Cite book ja|author=川島勝|date=February 1996|title=三島由紀夫|publisher=文藝春秋|ISBN=978-4163512808|ref={{Harvid|川島|1996}}}}- 著者は[[講談社]]での三島担当編集者。
*{{Cite book ja|author=[[北杜夫]]|date=April 2022|title=人間とマンボウ|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|ISBN=978-4122071971|ref={{Harvid|北|2022}}}} 初刊版(中央公論社)は1976年9月 {{ISBN2|978-4120004940}}
*{{Cite book ja|author=[[木下恵介]]|date=August 1987|title=戦場の固き約束|publisher=[[主婦の友社]]|ISBN=978-4079265133|ref={{Harvid|木下|1987}}}}
*{{Cite book ja|author=[[木村徳三]]|date=July 1995|title=文芸編集者の戦中戦後|publisher=大空社|ISBN=978-4756800077|ref={{Harvid|木村|1995}}}}- 初刊原版は『文芸編集者 その跫音』([[TBSブリタニカ]]、1982年6月){{NCID|BN05251513}}
*{{Cite book ja|author=[[小島千加子]]|date=April 1996|title=三島由紀夫と[[檀一雄]]|publisher=筑摩書房|series=ちくま文庫|ISBN=978-4480031822|ref={{Harvid|小島|1996}}}}- 初刊原版(構想社)は1980年5月 {{NCID|BN05256969}}
*{{Cite book ja|author=[[櫻井秀勲]]|date=November 2020|title=三島由紀夫は何を遺したか|publisher=きずな出版|ISBN=978-4866631288|ref={{Harvid|櫻井|2020}}}}
*{{Cite book ja|author=[[椎根和]]|date=October 2012|title=完全版 [[平凡パンチ]]の三島由紀夫|publisher=茉莉花社(河出書房新社)|ISBN=978-4309909639|ref={{Harvid|椎根|2012}}}}- 初刊原版(新潮社)は2007年3月 {{ISBN2|978-4103041511}}。新訂版(茉莉花社)は2020年12月 {{ISBN2|978-4309922195}}。著者は平凡パンチの元編集者。
*{{Cite book ja|author=[[澁澤龍彦]]|date=November 1986|title=三島由紀夫おぼえがき|publisher=中央公論社|series=中公文庫|ISBN=978-4122013773|ref={{Harvid|澁澤|1986}}}}- 初刊原版([[立風書房]])は1983年12月 {{NCID|BN02999027}}
*{{Cite book ja|author=[[堂本正樹]]|date=November 2005|title=回想回転扉の三島由紀夫|publisher=文藝春秋|series=[[文春新書]]|ISBN=978-4166604777|ref={{Harvid|堂本|2005}}}}
*{{Cite book ja|author1=[[徳岡孝夫]]|author2=[[ドナルド・キーン]]|date=July 1973|title=悼友紀行――三島由紀夫の作品風土|publisher =中央公論社|NCID=BN05300550|ref={{Harvid|悼友|1973}}}}- 文庫版(中公文庫)は1981年11月 {{NCID|BN06844951}}。改題新版は『三島由紀夫を巡る旅:悼友紀行』(新潮文庫、2020年2月 {{ISBN2|978-4101313566}}
*{{Cite book ja|author=徳岡孝夫|date=November 1999|title=五衰の人――三島由紀夫私記|publisher=文藝春秋|series=文春文庫|ISBN=978-4167449032|ref={{Harvid|徳岡|1999}}}}- 初刊版は1996年11月。文庫新版(文春学藝ライブラリー)は2015年10月 {{ISBN2|978-4168130533}}
*{{Cite book ja|author=ドナルド・キーン|date=November 2005|title=思い出の作家たち――谷崎・川端・三島・安部・司馬|publisher=新潮社|ISBN=978-4103317067|ref={{Harvid|キーン|2005}}}}文庫版(新潮文庫)は2019年4月 {{ISBN2|978-4101313559}}
*{{Cite book ja|author=ドナルド・キーン|date=July 2007|title=私と20世紀のクロニクル|publisher =中央公論新社|ISBN=978-4120038457|ref={{Harvid|キーン|2007}}}}- 改訂再刊版は『ドナルド・キーン自伝』(中公文庫、2011年){{ISBN2|978-4122054394}}
*{{Cite book ja|author=[[西尾幹二]]|date=November 2008|title=三島由紀夫の死と私|publisher=[[PHP研究所]]|ISBN=978-4569705378|ref={{Harvid|西尾|2008}}}}- 増補版(戎光祥出版)は2020年12月 {{ISBN2|978-4864033732}}
*{{Cite book ja|author=[[林房雄]]|date=March 1972|title=悲しみの琴――三島由紀夫への鎮魂歌|publisher=文藝春秋|NCID=BN08146344|ref={{Harvid|林|1972}}}}- 『対話・日本人論』(夏目書房、2002年3月)に抜粋再録
*{{Cite book ja|author1=林房雄|author2=[[伊沢甲子麿|伊澤甲子麿]]|date=1971|title=歴史への証言――三島由紀夫・鮮血の遺訓|publisher=恒友出版|NCID=BN06124759|ref={{Harvid|林・伊沢|1971}}}}
*{{Cite book ja|author=[[福島次郎]]|date=March 1998|title=三島由紀夫――剣と寒紅|publisher=文藝春秋|ISBN=978-4163176307|ref={{Harvid|福島次|1998}}}}- 著作権の無断転載で回収・絶版
*{{Cite book ja|author=[[美輪明宏]]|date=November 1992|title=紫の履歴書|publisher=水書房|ISBN=978-4943843641|ref={{Harvid|美輪|1992}}}}- 初刊版(大光社)は1968年9月 {{NCID|BN15222464}}
*{{Cite book ja|author=美輪明宏|date=June 2002|title=愛の話 幸福の話|publisher=[[集英社]]|ISBN=978-4087803570|ref={{Harvid|美輪|2002}}}}
*{{Cite book ja|author=[[村松英子]]|date=October 2007|title=三島由紀夫 追想のうた ――女優として育てられて|publisher=[[阪急コミュニケーションズ]]|ISBN=978-4484072050|ref={{Harvid|村松英|2007}}}}
*{{Cite book ja|author=[[矢代静一]]|date=February 1985|title=旗手たちの青春――あの頃の[[加藤道夫]]・三島由紀夫・[[芥川比呂志]]|publisher=新潮社|ISBN=978-4103257042|ref={{Harvid|矢代|1985}}}}
*{{Cite book ja|date=April 1999|title=近代作家追悼文集成〈42〉三島由紀夫|publisher=[[ゆまに書房]]|ISBN=978-4897146454|ref={{Harvid|追悼文|1999}}}}
=== 雑誌系の特集本 ===
*{{Citation|和書|editor=|date=1971-01|journal=[[新潮]] 臨時増刊 三島由紀夫読本|issue=|volume=|pages=|publisher=新潮社|id={{ASIN|B00QRZ32NO}}|ref={{Harvid|臨時|1971}}}}
*{{Citation|和書|editor=小野好恵|date=1976-10|journal=[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 詩と批評 特集・三島由紀夫――傷つける美意識の系譜|issue=8|volume=11|pages=|publisher=[[青土社]]|id={{ASIN|B00UYW77RS}}|ref={{Harvid|ユリイカ|1976}}}}
*{{Cite journal ja|editor=[[梶山季之]]|date=August 1972|title=〈特別レポート〉三島由紀夫の無視された家系|journal=[[月刊噂]] 八月号|volume=2|issue=8|pages=48-62|publisher=噂発行所|ref={{Harvid|噂|1972}}}}
*{{Citation|和書|editor=[[坂本忠雄]]|date=1990-12|journal=新潮 12月特大号 没後二十年 三島由紀夫特集|issue=87|volume=12|pages=|publisher=新潮社|id=|ref={{Harvid|没後20|1990}}}}
*{{Citation|和書|editor=佐藤辰宣|date=2017-03|journal=[[群像]]|issue=72|volume=3|pages=|publisher=講談社|id={{ASIN|B01NH2WT0X}}|ref={{Harvid|群像|2017}}}}
*{{Citation|和書|editor=中島和夫|date=1971-02|journal=群像 二月特大号 特集・三島由紀夫 死と芸術|issue=26|volume=2|pages=|publisher=講談社|id=|ref={{Harvid|群像|1971}}}}
*{{Cite book ja|editor=[[長谷川泉]]|date=March 1971|title=現代のエスプリ 三島由紀夫|publisher=[[至文堂]]|id={{NCID|BN09636225}}|ref={{Harvid|エスプリ|1971}}}}
*{{Citation|和書|editor=[[藤島泰輔]]|date=1975-01|title=|journal=浪曼 特集・三島由紀夫の不在 新年号(12・1月合併)|issue=1|volume=4|pages=|publisher=株式会社浪曼|isbn=|ref={{Harvid|浪曼|1975}}}}
*{{Citation|和書|editor=山川みどり|date=1995-12|journal=[[芸術新潮]] 【没後25年記念特集】 三島由紀夫の耽美世界|issue=46|volume=12|pages=|publisher=新潮社|id={{NCID|BA84809471}}|ref={{Harvid|芸術新潮|1995}}}}
*{{Citation|和書|editor=[[前田速夫]]|date=2000-11|journal=新潮 11月臨時増刊 三島由紀夫没後三十年|issue=|volume=|pages=|publisher=新潮社|id={{NCID|BA49508943}}|ref={{Harvid|没後30|2000}}}}
*{{Cite book ja|date=December 1983|title=新装版 文芸読本 三島由紀夫|publisher=河出書房新社|id={{NCID|BA35307535}}|ref={{Harvid|読本|1983}}}}- 初版は1975年8月
*{{Cite book ja|date=November 1990|title=新文芸読本 三島由紀夫|publisher=河出書房新社|isbn=978-4309701554|ref={{Harvid|新読本|1990}}}}
*{{Cite book ja|date=October 2010|title=[[中央公論]]特別編集 三島由紀夫と戦後|publisher=中央公論新社|isbn=978-4120041617|ref={{Harvid|中公編集|2010}}}}
*{{Cite book ja|date=April 2012|title=[[文藝]]別冊 増補新版 三島由紀夫――死にいたるまで魂は叫びつづけよ|series=[[KAWADE夢ムック]]|publisher=河出書房新社|id={{NCID|BA75322341}}|ref={{Harvid|夢ムック|2012}}}}- 原版は『文藝別冊 永久保存版 三島由紀夫 没後35年・生誕80年』2005年11月
*{{Cite book ja|editor=|date=October 2020|title=中央公論特別編集 彼女たちの三島由紀夫|publisher=中央公論新社|isbn=978-4120053474|ref={{Harvid|彼女|2020}}}}
=== 他作家関連・その他 ===
*{{Cite book ja|author=[[川端康成]]|date=May 1984|title=川端康成全集 補巻2 書簡来簡抄|publisher=新潮社|isbn=978-4106438370|ref={{Harvid|川端補巻2 |1984}}}}
*{{Cite book ja|editor=|date=December 1970|title=現代日本文學大系61 [[林房雄]]・[[保田與重郎]]・[[亀井勝一郎]]・[[蓮田善明]]集|publisher=[[筑摩書房]]|id={{NCID|BN03966872}}|ref={{Harvid|文學大系|1970}}}}
*{{Cite book ja|author=[[荻原雄一]]|date=October 2000|title=もうひとつの憂國 |publisher=夏目書房|isbn=978-4931391789|ref={{Harvid|荻原|2000}}}}
*{{Cite book ja|author=[[小高根二郎]]|date=March 1970|title=蓮田善明とその死|publisher=筑摩書房|id={{NCID|BN0507419X}}|ref={{Harvid|小高根|1970}}}}- 新版(島津書房)は1979年8月 {{NCID|BN04092651}}。雑誌『果樹園』1959年8月-1968年11月号に連載されたもの(全55回)。
*{{Cite book ja|author=小高根二郎|date=May 1971|title=詩人 [[伊東静雄]]|series=[[新潮選書]]|publisher=新潮社|id={{NCID|BN05040030}}|ref={{Harvid|小高根|1971}}}}
*{{Cite book ja|author=[[加賀乙彦]]|date=August 1993|title=帰らざる夏|publisher=講談社 |series=講談社文芸文庫|isbn=978-4061962354 |ref={{Harvid|加賀|1993}}}}- 初刊版は1973年7月 ISBN 978-4061126534
*{{Cite book ja|author=[[三枝康高]]|date=January 1961|title=川端康成|series=文化新書|publisher=[[有信堂]]|id={{NCID|BN03239878}}|ref={{Harvid|三枝|1961}}}}- 増補版は1968年11月。
*{{Cite book ja|author=[[進藤純孝]]|date=August 1976|title=伝記 川端康成|publisher=[[六興出版]]|id={{NCID|BN00959203}}|ref={{Harvid|進藤|1976}}}}
*{{Cite book ja|author=砂古口早苗 |date=September 2023 |title=ブギの女王・笠置シヅ子 心ズキズキワクワクああしんど |publisher=[[潮出版社]] |series=潮文庫 |isbn=978-4267023828 |ref={{Harvid|砂古口|2023}}}}- 初刊版(現代書館)は2010年10月 {{ISBN2|978-4768456408}}
*{{Cite book ja|author=[[中村稔 (詩人)|中村稔]]|date=October 2008|title=私の昭和史 戦後編上|publisher=青土社|isbn=978-4791764365|ref={{Harvid|中村稔|2008}}}}
*{{Cite book ja|author=[[野原一夫]]|date=May 1980|title=回想 [[太宰治]]|publisher=新潮社|id={{NCID|BN03570678}}|ref={{Harvid|野原|1980}}}}
*{{Cite book ja|author=[[本多秋五]]|date=August 2005|title=物語 戦後文学史(上)|publisher=岩波書店|series=[[岩波現代文庫]]|isbn=978-4006020910|ref={{Harvid|本多・上|2005}}}}
*{{Cite book ja|author=本多秋五|date=September 2005|title=物語 戦後文学史(中)|publisher=岩波書店|series=岩波現代文庫|isbn=978-4006020927|ref={{Harvid|本多・中|2005}}}}
*{{Cite book ja|author=[[福田和也]]|date=June 1996|title=保田與重郎と昭和の御代|publisher=文藝春秋|isbn=978-4163516905|ref={{Harvid|福田|1996}}}}
*{{Cite book ja|author=[[松本健一]]|date=November 1990|title=蓮田善明 日本伝説|publisher=河出書房新社|isbn=978-4309006574|ref={{Harvid|松本健一|1990}}}}
*{{Cite book ja|author=[[吉田満]]|date=February 1980|title=[[戦中派の死生観]]|publisher=文藝春秋|id={{NCID|BN02481255}}|ref={{Harvid|戦中派|1980}}}}- 文庫版(文春文庫)は1984年8月、文春学藝ライブラリーは2015年8月 {{ISBN2|978-4168130519}}
*{{Cite book ja|author=吉田満|date=September 1986|title=吉田満著作集 下巻 |publisher=文藝春秋|isbn=4163408908 |ref={{Harvid|下巻|1986}}}}
*{{Cite book ja|author=[[森卓也]]|year=August 1995|title=ニッポン映画戦後50年――1945〜1995 映画と風俗でたどる昭和-平成の時代|publisher=[[朝日ソノラマ]] |isbn=978-4257034469|ref={{Harvid|森|1995}}}}
=== 外国人による三島研究書など ===
*{{Cite book ja|author=[[ヘンリー・スコット・ストークス|ヘンリー・スコット=ストークス]]|translator=[[徳岡孝夫]]|date=November 1985|title=三島由紀夫─死と真実|publisher=[[ダイヤモンド社]]|isbn=978-4478940563|ref={{Harvid|ストークス|1985}}}}
**『三島由紀夫―生と死』(改訂版で、最終章を変更)、[[清流出版]]、1998年11月。{{ISBN2|978-4916028525}}
**英書の原題は、"The Life and Death of Yukio Mishima"(1974年)
*{{Cite book ja|author1=ヘンリー・S・ストークス |author2=[[加瀬英明]]|others=藤田裕行訳・構成 |date=August 2012 |title=なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか |publisher=[[祥伝社]]|series=[[祥伝社新書]] |isbn=978-4396112875 |ref={{Harvid|ストークス|2012}}}}
*{{Cite book ja|author=[[ジョン・ネイスン]]|translator=[[野口武彦]]|date=August 2000|title=新版 三島由紀夫─ある評伝|edition=改訂版|publisher=新潮社|isbn=978-4864100281|ref={{Harvid|ネイスン|2000}}}}- 初刊版(絶版・回収)は1976年6月 {{NCID|BN05986010}}
**英書の原題は、"Mishima: A Biography"(1974年)
*{{Cite book ja|author=[[マルグリット・ユルスナール]]|translator=[[澁澤龍彦]]|date=December 1995|title=三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン|publisher=[[河出書房新社]]|series=[[河出文庫]]|isbn=978-4309461434|ref={{Harvid|ユルス|1995}}}} - 初刊版は1982年5月。のち『澁澤龍彦翻訳全集15』(同、1998年)に収録。{{ISBN2|978-4309707457}}
**フランス書の原題は、"Mishima ou la vision du vide"(1981年)
*{{Cite book ja|author=[[ヘンリー・ミラー]]|translator=松田憲次郎ほか|date=December 2017|title=ヘンリー・ミラー・コレクション15 三島由紀夫の死 |publisher=[[水声社]]|isbn=978-4801000049|ref={{Harvid|ミラー|2017}}}}- エッセイ集10編の1つ
*{{Cite book ja|editor=[[イルメラ・日地谷・キルシュネライト]]|date=November 2010|title=MISHIMA!――三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト|publisher=[[昭和堂]]|isbn=978-4812210642 |ref={{Harvid|日地谷|2010}}}}
*{{Cite book ja|author=[[エレノア・コッポラ]]|translator1=[[原田眞人]]|translator2=福田みずほ|date=August 1992|title=ノーツ―コッポラの黙示録|publisher=マガジンハウス|isbn=978-4838703944|ref={{Harvid|コッポラ|1992}}}}- 英語版の原書(改版)は1991年に出版(初刊版は[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|ヘラルド出版]]、1980年)。
*{{Cite book ja|author=エレノア・コッポラ|translator=[[岡山徹]]|edition=新訳版 |date=January 2002|title=『地獄の黙示録』撮影全記録(ノーツ)|publisher=[[小学館]]|series=[[小学館文庫]]|isbn=978-4094025668|ref={{Harvid|コッポラ|2002}}}}
== 関連項目 ==
* [[自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧]]
== 外部リンク ==
{{Wikibooks|三島由紀夫}}
{{Wikiquotelang|en|Yukio Mishima|三島由紀夫}}
{{Commonscat|Yukio_Mishima}}
{{ウィキポータルリンク|文学|[[画像:Open book 01.svg|none|34px|ウィキポータル 文学]]}}
*[http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/mishima_y.html 三島由紀夫] - 歴史が眠る多磨霊園
*[http://mishima.xii.jp/ 三島由紀夫研究会]
*{{Twitter|yukokuki|三島由紀夫研究会}}
*{{Wayback |url=http://www.vill.yamanakako.yamanashi.jp/bungaku/mishima/index.html |title=三島由紀夫電子博物館 |date=20070703064728}}
*[https://www.mishimayukio.jp/ 三島由紀夫文学館]
*{{imdb name|0592758}}
*[https://web.archive.org/web/20160405064411/http://melma.com/backnumber_149567/ 三島由紀夫研究会メールマガジン]
*[http://www.3ihanazakari.com/ 隠し文学館 花ざかりの森]
*[https://www.nobelprize.org/nomination/archive/show_people.php?id=12680 Nomination Database Yukio Mishima(2017年現在、1966年分まで公開)]. ノーベル賞公式サイト. {{En icon}}
*{{NHK人物録|D0009070340_00000}}
*{{Kotobank}}
*{{Kotobank|三島 由紀夫}}
{{三島由紀夫}}
{{毎日芸術賞}}
{{日本の右翼団体}}
{{Portal bar|アジア|日本|東京都|文学|映画|舞台芸術|LGBT|人物伝}}
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カール・グスタフ・ユング
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カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung、1875年7月26日 - 1961年6月6日)は、スイスの精神科医・心理学者。ブロイラーに師事し深層心理について研究、分析心理学(ユング心理学)を創始した。
1875年、スイス、トゥールガウ州ボーデン湖畔のケスヴィルでプロテスタント(改革派)牧師の家(ドイツ系)に生まれる。父パウル・ユングは教会牧師であった。母方の祖父も優れた神学者であり、父パウルの師匠でもあった。一方,父方の祖父カール・ユング(ユングと同姓同名)はすぐれた医師であり、ユングの母校バーゼル大学の学長も勤めた。この祖父には、ゲーテの私生児だと言う伝説があった。ユングは、医学と宗教学を家族的背景に持っている。
少年期は己の内面に深い注意が向けられ、善と悪、神と人間についての思索に没頭する。「生涯忘れられない夢」を1879年または1880年に見られたとされる。
1886年、バーゼルの上級ギナジウムへ通う。かつて言語を研究していた父にラテン語の準備をしてもらってから入学した。この時期に内なる性格としての「NO.2」が現れる。またバーゼル大聖堂に神が排泄する夢を見る。更に母親の示唆によって『ファウスト』が必読書となる。また『ファウスト』は後々に衝動や無意識の認識の意味をテーマに扱ったと述べている。
1895年バーゼル大学医学部に入学。学生時代はゲーテ、カントやニーチェの著作に感銘を受け、後の心理学者としての著作に、ゲーテの『ファウスト』やニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』への言及も多くみられる。内的な基盤を持たない形式的な信仰というものに疑問を感じ、牧師という職を継ぐことを特には望まず、バーゼル大学で医学を、特にクラフト=エビングの影響で精神医学を学んだ。
1896年には父親が亡くなり、学費を払うのが困難になり工面に苦労する。卒業後クリニックに勤めたのも資金を得るためである側面もあるとされる。
ユングが入学する15年程前にニーチェはバーセル大学で講師をしていた。ユングが入学した時も、当時公務を退いておりニーチェの先輩であり友人でもあったブルクハルトによるニーチェの批判的批評を筆頭として、哲学の高尚な学生はニーチェに対して批判的な議論を行っていたという。また、ニーチェの思想をあまり理解できていない学生内でもかつてのニーチェの所作などに関して噂していた。そんな中、ユングは『ツァラトゥストラ』や『反時代的考察』に感銘を受ける。No.2はツァラトゥストラがモデルとなったという。また後に「ニーチェによって近代心理学を受け入れる準備」をしたと語っている。『無意識の心理』(1916) ではフロイトとアドラーとの分岐点をニーチェの「自己保存の衝動(性衝動に対する)」として紹介している。更には『心理学的類型』(1921) ではニーチェの「アポロン」と「デュオニソス」がユングの類型と連関していると明記。『心理学と宗教』(1940) では「神が死んだ時代」を論じ、またニーチェの精神障害は無意識に呑み込まれて分裂症的(自分をデュオニソスと署名した)になったという分析を行っている。1934年から1939年にかけてはチューリッヒの心理学クラブにて英語のゼミナールで『ニーチェのツァラトゥストラの心理学的分析』を行っている。
1895年に従妹であるヘリーから降霊術に興味を持つ。そして後々の論文「いわゆるオカルト現象の心理と病理 」に「S.W.嬢」としてヘリーをモデルとして執筆している。但し論文では親族であるということを隠ぺいするためか、1899年から翌年に研究が行われたと記している。この時期、カントの『ある霊視者の夢』も読んでいる。
1899年10月国家試験に備えるためにリヒアルト・フォン・クラフト=エービングの精神医学の教科書(1890)を読んで、「自然と精神の衝突が出来事になる場所」「対立し合うものの合一」としての精神医学から衝撃を受ける。当時絶望の場として認識していたユングにとって「人格の病」と捉え「妄想観念や幻覚が精神病に特有の症状であるだけでなく、人間的な意味をもっているということを示すことであった」という部分に意味を見出したようだ。
1900年7月にバーゼル大学を卒業し、「ブルクヘルツリ」病院に勤めることを決め、12月には義務である兵役として初年兵学校に行き、アールガウで歩兵としての訓練を終えてから勤める。
バーゼルでは祖父あっての孫ユングとして見られることが多く、また母と妹のしがらみもあり、バーゼルを抜け出せることはユングの喜びでもあった。
1901年からは、チューリヒ大学精神科クリニックの「ブルクヘルツリ」でオイゲン・ブロイラーの元で助手を務める。
オイゲン・ブロイラーは「ミュンヘンのエミール・クレペリンと並んでブロイラーは彼の専門分野においては指針を与える代表的存在」であった。また1898年にオーグスト・アンリ・フォレル(1848-1931)から精神医学の教授を引き継いでおり、「フォレルの弟子として精神分析をスイスに移住したブロイラーは、この発生途上の仕事と、それゆえフロイトの夢研究にもユングの注目を促したはず」。
ブロイラーは「人道主義と親切さで患者に感銘を与えた医者として、また若い医者たちを完全に傾倒させるまでにたきつけ、激励する教師として称賛されていた...人間として価値を剥奪された患者を人格として尊敬する」。また患者たちと一つ屋根の中で住むことや禁酒・更に私的な自由区間がほとんどない中で勤務することを戒律としていた。
ユング自身は勤務を通して「わたしたちが精神病患者に見出すものは、何ひとつ新しいもの、未知のものはない。むしろわたしたちは自分自身の存在基盤に出会うのである。」と述べている。ブロイラーと同じく真摯に患者と向き合うことを行い、当時の「病んだ人格から疾患をいわば抽象し、診断と症状記述と統計で足りていた」状況を超えようとしていた。また「人間の精神がその自己破壊に直面したときにどのように反応するかを知りたかった」とも語っている。
1902年にブロイラーの勧めで、学位論文を書き、霊媒現象を考察した「いわゆるオカルト現象の心理と病理 (Zur Psychologie und Pathologie sogenannter occulter Phänomene)」を執筆。「E・ブロイラー教授閣下の承認を得て」と書かれていて、周りはオカルト的側面を批判する人もいたらしい一方、ブロイラー教授はユングのその側面を認めていたと言われる。また「遺伝的負因者における夢遊病の一症例」、「ブルクヘルツリ病院の第一助手」という記述もある。
1902年秋から1903年にかけて、ブロイラーの信任を得てパリに留学する。かつてフロイトも留学していた「力動的精神医学の新しい体系の最初の樹立者」ジャン・マルタン・シャルコーのもと改革されたサルペトリエール病院でおしていたこともあったピエール・ジャネ (1859–1947) の元で留学する。「ヒステリー」と「神経衰弱」という2つから出発する視点は後のユングの類型に影響に繋がる。また留学週に出版されたアルフレド・ビネ (1857–1911) の『知能の実験てき研究』が出版され、その「内観」と「外観」という類型論的な鍵概念から詳しく取り扱われていたのも、後のユングの「外交的なヒステリー」と「内向的な分裂病」と類型論に影響を与える。また留学中に婦人帽子制作職人となっていたヘリーに驚き、パリの街で会っている。
1905年、言語連想法の研究から認められ、医長になり、精神医学の教授の資格をとり、さらにチューリッヒ大学の私講師(学校からでなく生徒からお金をとるスタイル)になる。1906年「早発性痴呆の心理」、1908年に「精神病の内容」と題された論文を発表。1909年には、大学を離れて個人開業を開始する。
1900年に赴任したブロイラーの病院ではゲマインザーメという一般会議において所長のブロイラーが議長を行っており、受け持ちの患者についてや論文についての議論もなされたようである。そこでユングは、ちょうど出版されたばかりのジークムント・フロイトの『夢判断』に関するレポートを任された。 ユングはこの本から強い影響を受け、フロイトの熱烈な信奉者となる。1906年には被験者に一群の単語を与え、患者が最初に頭に浮かんだ言葉を答えるまでにかかった時間を正確に計測する実験を行い、フロイトの自由連想理論を裏付ける実験的証拠を提供した。フロイトに論文集を送り、文通がはじまる。精神分析の伝導者であることを明言化、1906年には早くも、「ブロイラーもいまや完全に精神分析に改宗しました。」と報告した。1907年に初めて対面し、親交を深める。
生理学的な知識欲を満たしてくれる医学や、歴史学的な知識欲を満たしてくれる考古学に興味を抱き、友人と活発に議論を交わし、やがて人間の心理と科学の接点としての心理学に道を定めた。精神疾患の人々の治療にあたるとともに疾患の研究も進め、特に当時不治の病とされた分裂病(統合失調症)の解明と治療に一定の光明をもたらした。ヒステリー患者の治療と無意識の解明に力を注いでいたフロイトを信奉し、精神分析の伝道者として振舞う。フロイトはユングを自らの後継者に擬していた。1909年にはマサチューセッツ州のクラーク大学で講演するフロイトに同行し渡米、自身も講演した。
1911年には国際精神分析協会を設立し、その初代会長になる。フロイトでなくユングなのは、ユダヤ人以外を会長に選ぶ目的があったためである。
ところが、フロイトとは別に神話研究に励むユングは、次第にフロイトとの理論的な違いを表に出し始め、1914年には国際精神分析協会を辞して、フロイトらと袂を分かつことになり、チューリヒ大学医学部の私講師の職も辞任した。フロイトと決別した後、ユング自身が「方向喪失の状態」と呼ぶ異常な心理状態に陥る。この状態は精神病すれすれの危機的状態であり、『自伝』の中で、洪水に襲われて北ヨーロッパ全体が血の海に覆われる幻覚を見たり、死者たちの亡霊で自宅の中が一杯になる感覚などを体験したことが明らかにされている。
フロイトと親交を結ぶ3年前の1904年、勤務先のチューリヒ大学に入院してきた患者のザビーナ・シュピールラインと治療を通して親しくなり、不倫関係となった。ザビーナはユングと別れた後にフロイトに師事し、精神分析家となる。
精神分析の運動から離れ一人研究を進め、1916年には石油王ジョン・ロックフェラーの四女イーディス・ロックフェラー・マコーミック(en, 1872年 - 1932年)の助力で「心理学クラブ」を設立して、分析心理学の確立に努める。このクラブには、ヘルマン・ヘッセも訪れている。このマコーミック夫人の縁でジェイムス・ジョイスを知り、『ユリシーズ』の批評も書いている。
1922年にはスイスのボーリンゲンに土地を得て、塔の建設を開始する。この塔は瓦焼き職人に教わったやり方で造られており、この作業によって自身の精神的不調が安定化したとしている。
1921年には代表作『心理学的類型』(『タイプ論』『元型論』とも)を公開する。
1928年、ユングはリヒャルト・ヴィルヘルムの手による中国道教の錬金術のドイツ語訳を入手し、曼荼羅に夢中になる。これにコメントを付けて、1929年に『黄金の華の秘密』というタイトルで出版した。ユングは、精神的不調の回復期にあって、曼荼羅に描かれるような幾何学模様を描くことが多くなり、その折、チベットの仏僧の描く曼荼羅と自分の絵との偶然の一致に感嘆し、ここに意味を見出した。
1948年に共同研究者や後継者たちとともに、スイス・チューリッヒにユング研究所を設立し、ユング派臨床心理学の基礎と伝統を確立した。また1933年からは、アスコナでエラノス会議において、主導的役割を演じることで、深層心理学・神話学・宗教学・哲学など多様な分野の専門家・思想家の学際的交流と研究の場を拓いた。開催をしたオルガ・フレーベ・カプタインは、ユングに強く協力を求め、ユングが参加できない場合は廃止も辞さない構えであった。これには1951年まで出席する。ここで、鈴木大拙、ミルチャ・エリアーデ、ハーバート・リードらと親交を結ぶ。
1946年に『転移の心理学』、1951年に『アイオーン』、1955年と1956年には『結合の神秘』の第1巻と第2巻が出版されている。これらは、70歳を過ぎての著作であった。
1961年6月6日逝去。チューリッヒ州のキュスナハト改革派教会に葬られた。スイスでは晩年のユングは気味悪がられたが、世界的に精神病の理解には一石を投じるものとして価値づけられている。
死の直前まで、ユング唯一の一般向け著書『人間と象徴(英語版)』をマリー=ルイーズ・フォン・フランツ、ジョゼフ・ヘンダーソン、アニエラ・ヤッフェ、ヨランド・ヤコビーの4人と分担して英語で執筆し、ユング自身は担当する第1章を死の10日前に書き終えた。
著作の大半は、下記のようにドイツ語でなされた。
精神科医であったユングは、ピエール・ジャネやウィリアム・ジェームズらの理論を元にした心理理論を模索していた。フロイトの精神分析学の理論に自説との共通点を見出したユングはフロイトに接近し、一時期は蜜月状態(1906年 - 1913年)となるが、徐々に方向性の違いから距離を置くようになる。
ユングがそのキャリアの前半において発表した「連想実験」は、フロイトの「自由連想」法を応用して、言葉の錯誤と応答時間ずれ等を計測し、無意識のコンプレックスの存在を客観的な形にしたということで、科学的な価値を持ち、フロイトもそのために初めは喜んでユングを迎え入れた。両者の初めての邂逅において交わされた対談は10時間を超し、以後両者は互いに親しく手紙で近況や抱負、意見を伝えあい、フロイトはユングを自らの後継者に擬していた。しかし数年の交流のうちに、両者の志向性の違いが次第に浮き彫りになってきた。フロイトは無神論を支持したが、ユングは神の存在に関する判断には保留を設けた。またユングはフロイトとアルフレッド・アドラーの心理学を比較・吟味し、両者の心理学は双方の心性の反映であるとし、外的な対象を必要とする「性」を掲げるフロイトは「外向的」、自身に関心が集中する「権力」に言及するアドラーは「内向的」であるといった考察をし、別の視点からの判断を考慮に入れた。
ユングは歴史や宗教にも関心を向けるようになり、やがてフロイトが「リビドー」を全て「性」に還元することに異議を唱え、はるかに広大な意味をもつものとして「リビドー」を再定義し、ついに決別することとなった。ユングは後に、フロイトの言う「無意識」は個人の意識に抑圧された内容の「ごみ捨て場」のようなものであるが、自分の言う無意識とは「人類の歴史が眠る宝庫」のようなものである、と例えている。
ユングの患者であった精神疾患者らの語るイメージに不思議と共通点があること、またそれらは、世界各地の神話・伝承とも一致する点が多いことを見出したユングは、人間の無意識の奧底には人類共通の素地(集合的無意識)が存在すると考え、この共通するイメージを想起させる力動を「元型」と名付けた。また、晩年、物理学者のウォルフガング・パウリとともに共時性(シンクロニシティ=意味のある偶然の一致)に関する共著を発表した。
ユング心理学(分析心理学)は個人の意識、無意識の分析をする点ではフロイトの精神分析学と共通しているが、個人的な無意識にとどまらず、個人を超え人類に共通して存在しているとされる集合的無意識(普遍的無意識)を視野に入れた分析も含まれる。ユング心理学による心理療法では能動的想像法(英語版)が行われる場合もある。能動的想像法は文字通り意識的に無意識のイメージを掘り下げる手法である。現在,能動的想像法は,心理療法家の訓練・研修のための有効性は認められているが、その臨床応用に対しては慎重な立場をとる者が多い。
また、ユング心理学は、他派よりも心理臨床において夢分析を重視している。夢は集合的無意識としての「元型イメージが日常的に表出している現象」でもあり、また個人的無意識の発露でもあるとされる。
夢の分析はフロイトが既に重視していたことであった。しかしユング心理学の夢解釈がフロイトの精神分析と異なる点は、無意識を一方的に杓子定規で解釈するのではなく、クライアントとセラピストが対等な立場で夢について話し合い、その多義的な意味・目的を考えることによって、クライアントの心の中で巻き起こっていることを治癒的に生かそうとする点にある。
ユングはフロイトとの決別以後、自らの無意識から湧き出る元型的イメージと真摯に対峙しながらも患者への治療を続けた。これら元型的イメージは統合失調症の患者のイメージにおいても同様なパターンが見られるため、ユングは統合失調症患者であり、オカルティストであるという誤解を受けることもある。しかしその時期においても、ユングが医師として患者への治療を行い、多くの患者を癒やし、現実に導いていたことはユング心理学の理解の上で重要なことである。
ユングは人間の心の成長過程を「個性化の過程」と呼び、健常者、統合失調患者を含めた全ての人間が経験するものとした。従ってセラピー(心理療法)が終了しても、人間の個性化の過程は継続する。ユング派のセラピーでは、セラピー終了後もクライアントをサポートするためにカウンセリングを継続する場合もあり、この場合のセラピーを、「個性化」と呼ぶ場合がある。ただし、これは他の心理療法と同様、クライエントの「生き方」に介入したり指示を与えたりするものではないし、いたずらにセラピーを長引かせるためのものでもない。
また、日本においてユング心理学が隆盛を極めたのは、その心理臨床において箱庭療法を積極的に取り入れ、多くの著書を発表した河合隼雄の影響が大きい。
ナチスが政権を取った1933年、ドイツ精神療法学会が改編されることになりヒトラーに反対したユダヤ人のエルンスト・クレッチマーがその会長を辞任。新たに設立された国際精神療法学会の会長にユングが就任した。そのためユングはナチスに加担してクレッチマーを追い落としたと一部に言われた。後にユングは精神療法という学問分野を守りたかったので非ユダヤ人である自分が会長職を引き受けたと述べている。実際ナチスからの影響を逃れるために国際精神療法学会の本部をスイスのチューリッヒに移し、ドイツ国内で身分を剥奪されたユダヤ人医師を国際学会で受け入れ、学会誌にユダヤ人学者の論文が掲載されるように図ってもいる。ユングはユダヤ系の師フロイトにも支援の意図について打診しており、長年にわたってユングの秘書を務めたユダヤ人のアニエラ・ヤッフェによれば、「ナチスへの対応には甘いところがあった」が、ユングはナチスの反ユダヤ人政策には明確に反対し、ユダヤ人のドイツ脱出支援活動にも関与していたとのこと。
ユングはその学位論文『いわゆるオカルト的現象の心理と病理』において、従妹ヘレーネ・プライスヴェルクを「霊媒」として開かれた「交霊会」を扱ったこと(ただしこの論文では神秘的要因ではなく精神の病理的状態に帰されている)、また錬金術や占星術、中国の易などに深くコミットしたことにより、オカルト主義的な傾向を見て取られ、また新異教主義的な人々からその預言者とみなされる傾向がある。これにはおそらく母方のプライスヴェルク家が霊能者の家系として著名だった出自も影響していると思われる。また「集合的無意識」や「元型」などの一般の生物学の知見とは相容れない概念を提起することによって、20世紀の科学から離脱して19世紀の自然哲学に逆戻りしてしまったという批判がある。またフロイトもユングとまだ訣別する前に、「オカルティズム」を拒絶するよう強く求めた。
一方で、ユング自身は、夢に見られる元型に関して、遺伝に関連づけて言及していたくだりがある(『分析心理学』)。無意識に蓄えられている遺伝情報は莫大であり、人の心性がそれを基礎にしているからには、その生み出すものも、その起源をはるか過去に遡ることができるとする解釈も可能であり、遺伝情報内の大量の経験データの中には、人に平均して訪れる体験の体系も含まれていると考えた場合、元型の普遍性も説明できるであろう。また、そうした無意識内容を生み出す傾向、というユングの説明の付与は、人間が普遍的な基盤に立脚しながらも、決して固定された構造ではなく(これが生物学的な本能にしばられた動物と違う点である)、変化の可能性を秘めていることを示唆している。無意識と意識の調停作業はユングの言う「個体化」に結実する。
ただし19世紀末から20世紀初頭の状況は、一方では精神医学を極めて機能主義的に捉えることのみが科学的であり「心の治癒」といったものを語ることは出来ないという流れがあった一方で、アカデミズム以外でオカルティズムの大流行があったのみならず、ウィリアム・ジェームズのような学者も心霊主義の実験に乗り出すなど、心の問題に関するアプローチは現在以上に定まらないところもあった。こうした問題に関してユングに批判的であったフロイトも、そもそも性理論を打ち立てるのはオカルトの「黒い奔流」に対する「堅固な城塞」を築かねばならないからだという動機を口にしており、こうした問題に必ずしも安定した姿勢で臨んでばかりいたわけではなかった。またユング自身はきわめて厳格に学問的な方法論を意識して研究を進めていたという主張もあり、こうした点について決定的な評価を下すことはまだ難しいといえる。
ユングの著作は、『ユング全集』にほぼ全ての重要な論文(単行本を含む)が網羅されている。全20巻の構成となっている。ドイツにおいて『Gesammelte Werke von C. G. Jung』 (Walter Verlag) として出版されている(「GW」 と略する)。英語版は、ユングの監修の元に翻訳が行われている(『 The Collected Works of C. G. Jung 』)。 代表的な著作としては、以下のものがある。
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"text": "1901年からは、チューリヒ大学精神科クリニックの「ブルクヘルツリ」でオイゲン・ブロイラーの元で助手を務める。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "オイゲン・ブロイラーは「ミュンヘンのエミール・クレペリンと並んでブロイラーは彼の専門分野においては指針を与える代表的存在」であった。また1898年にオーグスト・アンリ・フォレル(1848-1931)から精神医学の教授を引き継いでおり、「フォレルの弟子として精神分析をスイスに移住したブロイラーは、この発生途上の仕事と、それゆえフロイトの夢研究にもユングの注目を促したはず」。",
"title": "生涯"
},
{
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"text": "ブロイラーは「人道主義と親切さで患者に感銘を与えた医者として、また若い医者たちを完全に傾倒させるまでにたきつけ、激励する教師として称賛されていた...人間として価値を剥奪された患者を人格として尊敬する」。また患者たちと一つ屋根の中で住むことや禁酒・更に私的な自由区間がほとんどない中で勤務することを戒律としていた。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "ユング自身は勤務を通して「わたしたちが精神病患者に見出すものは、何ひとつ新しいもの、未知のものはない。むしろわたしたちは自分自身の存在基盤に出会うのである。」と述べている。ブロイラーと同じく真摯に患者と向き合うことを行い、当時の「病んだ人格から疾患をいわば抽象し、診断と症状記述と統計で足りていた」状況を超えようとしていた。また「人間の精神がその自己破壊に直面したときにどのように反応するかを知りたかった」とも語っている。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "1902年にブロイラーの勧めで、学位論文を書き、霊媒現象を考察した「いわゆるオカルト現象の心理と病理 (Zur Psychologie und Pathologie sogenannter occulter Phänomene)」を執筆。「E・ブロイラー教授閣下の承認を得て」と書かれていて、周りはオカルト的側面を批判する人もいたらしい一方、ブロイラー教授はユングのその側面を認めていたと言われる。また「遺伝的負因者における夢遊病の一症例」、「ブルクヘルツリ病院の第一助手」という記述もある。",
"title": "生涯"
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"text": "1902年秋から1903年にかけて、ブロイラーの信任を得てパリに留学する。かつてフロイトも留学していた「力動的精神医学の新しい体系の最初の樹立者」ジャン・マルタン・シャルコーのもと改革されたサルペトリエール病院でおしていたこともあったピエール・ジャネ (1859–1947) の元で留学する。「ヒステリー」と「神経衰弱」という2つから出発する視点は後のユングの類型に影響に繋がる。また留学週に出版されたアルフレド・ビネ (1857–1911) の『知能の実験てき研究』が出版され、その「内観」と「外観」という類型論的な鍵概念から詳しく取り扱われていたのも、後のユングの「外交的なヒステリー」と「内向的な分裂病」と類型論に影響を与える。また留学中に婦人帽子制作職人となっていたヘリーに驚き、パリの街で会っている。",
"title": "生涯"
},
{
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"text": "1905年、言語連想法の研究から認められ、医長になり、精神医学の教授の資格をとり、さらにチューリッヒ大学の私講師(学校からでなく生徒からお金をとるスタイル)になる。1906年「早発性痴呆の心理」、1908年に「精神病の内容」と題された論文を発表。1909年には、大学を離れて個人開業を開始する。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "1900年に赴任したブロイラーの病院ではゲマインザーメという一般会議において所長のブロイラーが議長を行っており、受け持ちの患者についてや論文についての議論もなされたようである。そこでユングは、ちょうど出版されたばかりのジークムント・フロイトの『夢判断』に関するレポートを任された。 ユングはこの本から強い影響を受け、フロイトの熱烈な信奉者となる。1906年には被験者に一群の単語を与え、患者が最初に頭に浮かんだ言葉を答えるまでにかかった時間を正確に計測する実験を行い、フロイトの自由連想理論を裏付ける実験的証拠を提供した。フロイトに論文集を送り、文通がはじまる。精神分析の伝導者であることを明言化、1906年には早くも、「ブロイラーもいまや完全に精神分析に改宗しました。」と報告した。1907年に初めて対面し、親交を深める。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "生理学的な知識欲を満たしてくれる医学や、歴史学的な知識欲を満たしてくれる考古学に興味を抱き、友人と活発に議論を交わし、やがて人間の心理と科学の接点としての心理学に道を定めた。精神疾患の人々の治療にあたるとともに疾患の研究も進め、特に当時不治の病とされた分裂病(統合失調症)の解明と治療に一定の光明をもたらした。ヒステリー患者の治療と無意識の解明に力を注いでいたフロイトを信奉し、精神分析の伝道者として振舞う。フロイトはユングを自らの後継者に擬していた。1909年にはマサチューセッツ州のクラーク大学で講演するフロイトに同行し渡米、自身も講演した。",
"title": "生涯"
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"text": "1911年には国際精神分析協会を設立し、その初代会長になる。フロイトでなくユングなのは、ユダヤ人以外を会長に選ぶ目的があったためである。",
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"text": "ところが、フロイトとは別に神話研究に励むユングは、次第にフロイトとの理論的な違いを表に出し始め、1914年には国際精神分析協会を辞して、フロイトらと袂を分かつことになり、チューリヒ大学医学部の私講師の職も辞任した。フロイトと決別した後、ユング自身が「方向喪失の状態」と呼ぶ異常な心理状態に陥る。この状態は精神病すれすれの危機的状態であり、『自伝』の中で、洪水に襲われて北ヨーロッパ全体が血の海に覆われる幻覚を見たり、死者たちの亡霊で自宅の中が一杯になる感覚などを体験したことが明らかにされている。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 22,
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"text": "フロイトと親交を結ぶ3年前の1904年、勤務先のチューリヒ大学に入院してきた患者のザビーナ・シュピールラインと治療を通して親しくなり、不倫関係となった。ザビーナはユングと別れた後にフロイトに師事し、精神分析家となる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 23,
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"text": "精神分析の運動から離れ一人研究を進め、1916年には石油王ジョン・ロックフェラーの四女イーディス・ロックフェラー・マコーミック(en, 1872年 - 1932年)の助力で「心理学クラブ」を設立して、分析心理学の確立に努める。このクラブには、ヘルマン・ヘッセも訪れている。このマコーミック夫人の縁でジェイムス・ジョイスを知り、『ユリシーズ』の批評も書いている。",
"title": "生涯"
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"text": "1922年にはスイスのボーリンゲンに土地を得て、塔の建設を開始する。この塔は瓦焼き職人に教わったやり方で造られており、この作業によって自身の精神的不調が安定化したとしている。",
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"text": "1921年には代表作『心理学的類型』(『タイプ論』『元型論』とも)を公開する。",
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"text": "1928年、ユングはリヒャルト・ヴィルヘルムの手による中国道教の錬金術のドイツ語訳を入手し、曼荼羅に夢中になる。これにコメントを付けて、1929年に『黄金の華の秘密』というタイトルで出版した。ユングは、精神的不調の回復期にあって、曼荼羅に描かれるような幾何学模様を描くことが多くなり、その折、チベットの仏僧の描く曼荼羅と自分の絵との偶然の一致に感嘆し、ここに意味を見出した。",
"title": "生涯"
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"text": "1948年に共同研究者や後継者たちとともに、スイス・チューリッヒにユング研究所を設立し、ユング派臨床心理学の基礎と伝統を確立した。また1933年からは、アスコナでエラノス会議において、主導的役割を演じることで、深層心理学・神話学・宗教学・哲学など多様な分野の専門家・思想家の学際的交流と研究の場を拓いた。開催をしたオルガ・フレーベ・カプタインは、ユングに強く協力を求め、ユングが参加できない場合は廃止も辞さない構えであった。これには1951年まで出席する。ここで、鈴木大拙、ミルチャ・エリアーデ、ハーバート・リードらと親交を結ぶ。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "1946年に『転移の心理学』、1951年に『アイオーン』、1955年と1956年には『結合の神秘』の第1巻と第2巻が出版されている。これらは、70歳を過ぎての著作であった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "1961年6月6日逝去。チューリッヒ州のキュスナハト改革派教会に葬られた。スイスでは晩年のユングは気味悪がられたが、世界的に精神病の理解には一石を投じるものとして価値づけられている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "死の直前まで、ユング唯一の一般向け著書『人間と象徴(英語版)』をマリー=ルイーズ・フォン・フランツ、ジョゼフ・ヘンダーソン、アニエラ・ヤッフェ、ヨランド・ヤコビーの4人と分担して英語で執筆し、ユング自身は担当する第1章を死の10日前に書き終えた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "著作の大半は、下記のようにドイツ語でなされた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "精神科医であったユングは、ピエール・ジャネやウィリアム・ジェームズらの理論を元にした心理理論を模索していた。フロイトの精神分析学の理論に自説との共通点を見出したユングはフロイトに接近し、一時期は蜜月状態(1906年 - 1913年)となるが、徐々に方向性の違いから距離を置くようになる。",
"title": "ユング心理学の変遷"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "ユングがそのキャリアの前半において発表した「連想実験」は、フロイトの「自由連想」法を応用して、言葉の錯誤と応答時間ずれ等を計測し、無意識のコンプレックスの存在を客観的な形にしたということで、科学的な価値を持ち、フロイトもそのために初めは喜んでユングを迎え入れた。両者の初めての邂逅において交わされた対談は10時間を超し、以後両者は互いに親しく手紙で近況や抱負、意見を伝えあい、フロイトはユングを自らの後継者に擬していた。しかし数年の交流のうちに、両者の志向性の違いが次第に浮き彫りになってきた。フロイトは無神論を支持したが、ユングは神の存在に関する判断には保留を設けた。またユングはフロイトとアルフレッド・アドラーの心理学を比較・吟味し、両者の心理学は双方の心性の反映であるとし、外的な対象を必要とする「性」を掲げるフロイトは「外向的」、自身に関心が集中する「権力」に言及するアドラーは「内向的」であるといった考察をし、別の視点からの判断を考慮に入れた。",
"title": "ユング心理学の変遷"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ユングは歴史や宗教にも関心を向けるようになり、やがてフロイトが「リビドー」を全て「性」に還元することに異議を唱え、はるかに広大な意味をもつものとして「リビドー」を再定義し、ついに決別することとなった。ユングは後に、フロイトの言う「無意識」は個人の意識に抑圧された内容の「ごみ捨て場」のようなものであるが、自分の言う無意識とは「人類の歴史が眠る宝庫」のようなものである、と例えている。",
"title": "ユング心理学の変遷"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ユングの患者であった精神疾患者らの語るイメージに不思議と共通点があること、またそれらは、世界各地の神話・伝承とも一致する点が多いことを見出したユングは、人間の無意識の奧底には人類共通の素地(集合的無意識)が存在すると考え、この共通するイメージを想起させる力動を「元型」と名付けた。また、晩年、物理学者のウォルフガング・パウリとともに共時性(シンクロニシティ=意味のある偶然の一致)に関する共著を発表した。",
"title": "ユング心理学の変遷"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ユング心理学(分析心理学)は個人の意識、無意識の分析をする点ではフロイトの精神分析学と共通しているが、個人的な無意識にとどまらず、個人を超え人類に共通して存在しているとされる集合的無意識(普遍的無意識)を視野に入れた分析も含まれる。ユング心理学による心理療法では能動的想像法(英語版)が行われる場合もある。能動的想像法は文字通り意識的に無意識のイメージを掘り下げる手法である。現在,能動的想像法は,心理療法家の訓練・研修のための有効性は認められているが、その臨床応用に対しては慎重な立場をとる者が多い。",
"title": "ユング心理学の特徴"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "また、ユング心理学は、他派よりも心理臨床において夢分析を重視している。夢は集合的無意識としての「元型イメージが日常的に表出している現象」でもあり、また個人的無意識の発露でもあるとされる。",
"title": "ユング心理学の特徴"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "夢の分析はフロイトが既に重視していたことであった。しかしユング心理学の夢解釈がフロイトの精神分析と異なる点は、無意識を一方的に杓子定規で解釈するのではなく、クライアントとセラピストが対等な立場で夢について話し合い、その多義的な意味・目的を考えることによって、クライアントの心の中で巻き起こっていることを治癒的に生かそうとする点にある。",
"title": "ユング心理学の特徴"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ユングはフロイトとの決別以後、自らの無意識から湧き出る元型的イメージと真摯に対峙しながらも患者への治療を続けた。これら元型的イメージは統合失調症の患者のイメージにおいても同様なパターンが見られるため、ユングは統合失調症患者であり、オカルティストであるという誤解を受けることもある。しかしその時期においても、ユングが医師として患者への治療を行い、多くの患者を癒やし、現実に導いていたことはユング心理学の理解の上で重要なことである。",
"title": "ユング心理学の特徴"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ユングは人間の心の成長過程を「個性化の過程」と呼び、健常者、統合失調患者を含めた全ての人間が経験するものとした。従ってセラピー(心理療法)が終了しても、人間の個性化の過程は継続する。ユング派のセラピーでは、セラピー終了後もクライアントをサポートするためにカウンセリングを継続する場合もあり、この場合のセラピーを、「個性化」と呼ぶ場合がある。ただし、これは他の心理療法と同様、クライエントの「生き方」に介入したり指示を与えたりするものではないし、いたずらにセラピーを長引かせるためのものでもない。",
"title": "ユング心理学の特徴"
},
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"paragraph_id": 41,
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"text": "また、日本においてユング心理学が隆盛を極めたのは、その心理臨床において箱庭療法を積極的に取り入れ、多くの著書を発表した河合隼雄の影響が大きい。",
"title": "ユング心理学の特徴"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ナチスが政権を取った1933年、ドイツ精神療法学会が改編されることになりヒトラーに反対したユダヤ人のエルンスト・クレッチマーがその会長を辞任。新たに設立された国際精神療法学会の会長にユングが就任した。そのためユングはナチスに加担してクレッチマーを追い落としたと一部に言われた。後にユングは精神療法という学問分野を守りたかったので非ユダヤ人である自分が会長職を引き受けたと述べている。実際ナチスからの影響を逃れるために国際精神療法学会の本部をスイスのチューリッヒに移し、ドイツ国内で身分を剥奪されたユダヤ人医師を国際学会で受け入れ、学会誌にユダヤ人学者の論文が掲載されるように図ってもいる。ユングはユダヤ系の師フロイトにも支援の意図について打診しており、長年にわたってユングの秘書を務めたユダヤ人のアニエラ・ヤッフェによれば、「ナチスへの対応には甘いところがあった」が、ユングはナチスの反ユダヤ人政策には明確に反対し、ユダヤ人のドイツ脱出支援活動にも関与していたとのこと。",
"title": "ナチズムや反ユダヤ主義の勃興に対する姿勢"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ユングはその学位論文『いわゆるオカルト的現象の心理と病理』において、従妹ヘレーネ・プライスヴェルクを「霊媒」として開かれた「交霊会」を扱ったこと(ただしこの論文では神秘的要因ではなく精神の病理的状態に帰されている)、また錬金術や占星術、中国の易などに深くコミットしたことにより、オカルト主義的な傾向を見て取られ、また新異教主義的な人々からその預言者とみなされる傾向がある。これにはおそらく母方のプライスヴェルク家が霊能者の家系として著名だった出自も影響していると思われる。また「集合的無意識」や「元型」などの一般の生物学の知見とは相容れない概念を提起することによって、20世紀の科学から離脱して19世紀の自然哲学に逆戻りしてしまったという批判がある。またフロイトもユングとまだ訣別する前に、「オカルティズム」を拒絶するよう強く求めた。",
"title": "ユングと超心理学"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "一方で、ユング自身は、夢に見られる元型に関して、遺伝に関連づけて言及していたくだりがある(『分析心理学』)。無意識に蓄えられている遺伝情報は莫大であり、人の心性がそれを基礎にしているからには、その生み出すものも、その起源をはるか過去に遡ることができるとする解釈も可能であり、遺伝情報内の大量の経験データの中には、人に平均して訪れる体験の体系も含まれていると考えた場合、元型の普遍性も説明できるであろう。また、そうした無意識内容を生み出す傾向、というユングの説明の付与は、人間が普遍的な基盤に立脚しながらも、決して固定された構造ではなく(これが生物学的な本能にしばられた動物と違う点である)、変化の可能性を秘めていることを示唆している。無意識と意識の調停作業はユングの言う「個体化」に結実する。",
"title": "ユングと超心理学"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ただし19世紀末から20世紀初頭の状況は、一方では精神医学を極めて機能主義的に捉えることのみが科学的であり「心の治癒」といったものを語ることは出来ないという流れがあった一方で、アカデミズム以外でオカルティズムの大流行があったのみならず、ウィリアム・ジェームズのような学者も心霊主義の実験に乗り出すなど、心の問題に関するアプローチは現在以上に定まらないところもあった。こうした問題に関してユングに批判的であったフロイトも、そもそも性理論を打ち立てるのはオカルトの「黒い奔流」に対する「堅固な城塞」を築かねばならないからだという動機を口にしており、こうした問題に必ずしも安定した姿勢で臨んでばかりいたわけではなかった。またユング自身はきわめて厳格に学問的な方法論を意識して研究を進めていたという主張もあり、こうした点について決定的な評価を下すことはまだ難しいといえる。",
"title": "ユングと超心理学"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "ユングの著作は、『ユング全集』にほぼ全ての重要な論文(単行本を含む)が網羅されている。全20巻の構成となっている。ドイツにおいて『Gesammelte Werke von C. G. Jung』 (Walter Verlag) として出版されている(「GW」 と略する)。英語版は、ユングの監修の元に翻訳が行われている(『 The Collected Works of C. G. Jung 』)。 代表的な著作としては、以下のものがある。",
"title": "著作"
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カール・グスタフ・ユングは、スイスの精神科医・心理学者。ブロイラーに師事し深層心理について研究、分析心理学(ユング心理学)を創始した。
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<!-- [[画像:Hall_Freud_Jung_in_front_of_Clark_1909.jpg|300px|right|thumb|[[クラーク大学]]にて前列右から[[フロイト]]、[[スタンレー・ホール]]、ユング。後列[[アブラハム・ブリル]]、[[アーネスト・ジョーンズ]]、[[フェレンツィ・シャーンドル]]]]
[[Image:Carl-Jung-mod.jpg|thumb|right|170px|若き日の[[:commons:Category:Carl Jung|カール・ユング]]]] -->
'''カール・グスタフ・ユング'''(Carl Gustav Jung、[[1875年]][[7月26日]] - [[1961年]][[6月6日]])は、[[スイス]]の[[精神科医]]・[[心理学者]]。[[オイゲン・ブロイラー|ブロイラー]]に師事し深層心理について研究、[[分析心理学]]([[ユング心理学]])を創始した。
== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
1875年、スイス、[[トゥールガウ州]][[ボーデン湖]]畔のケスヴィルで[[プロテスタント]]([[改革派教会|改革派]])[[牧師]]の家([[ドイツ系]])に生まれる{{Sfn|山中|2001|p=12}}。父パウル・ユングは教会牧師であった<ref name="sinohara36">{{Cite journal|和書| author = 篠原道夫| year = 2009| title = 夢分析,能動的想像法,箱庭療法 ― 分析心理学の臨床| journal = 東洋英和女学院大学人文・社会科学論集| volume = 26 |pages = 36| publisher = 東洋英和女学院大学| ref = harv}}</ref>。母方の祖父も優れた神学者であり、父パウルの師匠でもあった<ref name="sinohara36"/>。一方,父方の祖父カール・ユング(ユングと同姓同名)はすぐれた医師であり、ユングの母校[[バーゼル大学]]の学長も勤めた<ref name="sinohara36"/>。この祖父には、[[ゲーテ]]の私生児だと言う伝説があった{{Sfn|ヴェーア|1994|p=13}}。ユングは、医学と宗教学を家族的背景に持っている<ref name="sinohara36"/>。
少年期は己の内面に深い注意が向けられ、善と悪、神と人間についての思索に没頭する。「生涯忘れられない夢」を1879年または1880年に見られたとされる<ref name=":0" />。
1886年、バーゼルの上級ギナジウムへ通う。かつて言語を研究していた父にラテン語の準備をしてもらってから入学した<ref name=":0" />。この時期に内なる性格としての「NO.2」が現れる。またバーゼル大聖堂に神が排泄する夢を見る。更に母親の示唆によって『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』が必読書となる<ref name=":0" />。また『ファウスト』は後々に衝動や無意識の認識の意味をテーマに扱ったと述べている<ref name=":1">{{Cite book|title=無意識の心理|date=1977|origdate=1916|publisher=人文書院|last=ユング(訳)高橋義孝}}</ref>。
=== バーゼル大学時代 ===
1895年バーゼル大学医学部に入学。学生時代は[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]、[[イマヌエル・カント|カント]]や[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]の著作に感銘を受け、後の心理学者としての著作に、ゲーテの『ファウスト』やニーチェの『[[ツァラトゥストラはかく語りき]]』への言及も多くみられる。内的な基盤を持たない形式的な信仰というものに疑問を感じ、牧師という職を継ぐことを特には望まず、バーゼル大学で医学を、特に[[リヒャルト・フォン・クラフト=エビング|クラフト=エビング]]の影響で精神医学を学んだ{{Sfn|山中|2001|p=34}}。
1896年には父親が亡くなり、学費を払うのが困難になり工面に苦労する。卒業後クリニックに勤めたのも資金を得るためである側面もあるとされる<ref name=":0" />。
==== ニーチェとの関係 ====
ユングが入学する15年程前にニーチェはバーセル大学で講師をしていた。ユングが入学した時も、当時公務を退いておりニーチェの先輩であり友人でもあった[[ヤーコプ・ブルクハルト|ブルクハルト]]によるニーチェの批判的批評を筆頭として、哲学の高尚な学生はニーチェに対して批判的な議論を行っていたという。また、ニーチェの思想をあまり理解できていない学生内でもかつてのニーチェの所作などに関して噂していた<ref name=":2" />。そんな中、ユングは『ツァラトゥストラ』や『[[反時代的考察]]』に感銘を受ける。No.2はツァラトゥストラがモデルとなったという<ref name=":0" />。また後に「ニーチェによって近代心理学を受け入れる準備」をしたと語っている<ref name=":1" />。『無意識の心理』(1916) ではフロイトとアドラーとの分岐点をニーチェの「自己保存の衝動(性衝動に対する)」として紹介している。更には『心理学的類型』(1921) ではニーチェの「アポロン」と「デュオニソス」がユングの類型と連関していると明記。『心理学と宗教』(1940) では「神が死んだ時代」を論じ、またニーチェの精神障害は無意識に呑み込まれて分裂症的(自分をデュオニソスと署名した)になったという分析を行っている。1934年から1939年にかけてはチューリッヒの心理学クラブにて英語のゼミナールで『ニーチェのツァラトゥストラの心理学的分析』を行っている。
==== 超心理学 ====
1895年に従妹であるヘリーから降霊術に興味を持つ。そして後々の論文「いわゆるオカルト現象の心理と病理 」に「S.W.嬢」としてヘリーをモデルとして執筆している。但し論文では親族であるということを隠ぺいするためか、1899年から翌年に研究が行われたと記している。この時期、[[イマヌエル・カント|カント]]の『ある霊視者の夢』も読んでいる<ref name=":0" />。
==== エービングの教科書 ====
1899年10月国家試験に備えるためにリヒアルト・フォン・クラフト=エービングの精神医学の教科書(1890)を読んで、「自然と精神の衝突が出来事になる場所」「対立し合うものの合一」としての精神医学から衝撃を受ける。当時絶望の場として認識していたユングにとって「人格の病」と捉え「妄想観念や幻覚が精神病に特有の症状であるだけでなく、人間的な意味をもっているということを示すことであった」という部分に意味を見出したようだ<ref name=":0" />。
1900年7月にバーゼル大学を卒業し、「ブルクヘルツリ」病院に勤めることを決め、12月には義務である兵役として初年兵学校に行き、アールガウで歩兵としての訓練を終えてから勤める。
バーゼルでは祖父あっての孫ユングとして見られることが多く、また母と妹のしがらみもあり、バーゼルを抜け出せることはユングの喜びでもあった<ref name=":0" />。
=== 「ブルクヘルツリ」時代 ===
[[1900年|1901年]]からは、[[チューリヒ大学]]精神科クリニックの「ブルクヘルツリ」で[[オイゲン・ブロイラー]]の元で助手を務める。
オイゲン・ブロイラーは「ミュンヘンのエミール・クレペリンと並んでブロイラーは彼の専門分野においては指針を与える代表的存在」<ref name=":0" />であった。また1898年にオーグスト・アンリ・フォレル(1848-1931)から精神医学の教授を引き継いでおり、「フォレルの弟子として精神分析をスイスに移住したブロイラーは、この発生途上の仕事と、それゆえフロイトの夢研究にもユングの注目を促したはず」<ref name=":0" />。
ブロイラーは「人道主義と親切さで患者に感銘を与えた医者として、また若い医者たちを完全に傾倒させるまでにたきつけ、激励する教師として称賛されていた…人間として価値を剥奪された患者を人格として尊敬する」<ref name=":3">{{Cite book|title=C・G・ユング 記録でたどる人と思想|date=1996-09-10|publisher=青土社|last=ゲルハルト・ヴェーア(訳)安田一郎}}</ref>。また患者たちと一つ屋根の中で住むことや禁酒・更に私的な自由区間がほとんどない中で勤務することを戒律としていた<ref name=":3" />。
ユング自身は勤務を通して「わたしたちが精神病患者に見出すものは、何ひとつ新しいもの、未知のものはない。むしろわたしたちは自分自身の存在基盤に出会うのである。」<ref name=":2" />と述べている。ブロイラーと同じく真摯に患者と向き合うことを行い、当時の「病んだ人格から疾患をいわば抽象し、診断と症状記述と統計で足りていた」<ref name=":2" />状況を超えようとしていた。また「人間の精神がその自己破壊に直面したときにどのように反応するかを知りたかった」<ref name=":2" />とも語っている。
1902年にブロイラーの勧めで、学位論文を書き、霊媒現象を考察した「いわゆるオカルト現象の心理と病理 (Zur Psychologie und Pathologie sogenannter occulter Phänomene)」を執筆。「E・ブロイラー教授閣下の承認を得て」と書かれていて、周りはオカルト的側面を批判する人もいたらしい一方、ブロイラー教授はユングのその側面を認めていたと言われる<ref name=":0" />。また「遺伝的負因者における夢遊病の一症例」、「ブルクヘルツリ病院の第一助手」という記述もある<ref name=":3" />。
1902年秋から1903年にかけて、ブロイラーの信任を得てパリに留学する。かつてフロイトも留学していた「力動的精神医学の新しい体系の最初の樹立者」ジャン・マルタン・シャルコーのもと改革されたサルペトリエール病院でおしていたこともあったピエール・ジャネ (1859–1947) の元で留学する。「ヒステリー」と「神経衰弱」という2つから出発する視点は後のユングの類型に影響に繋がる。また留学週に出版されたアルフレド・ビネ (1857–1911) の『知能の実験的研究』が出版され、その「内観」と「外観」という類型論的な鍵概念から詳しく取り扱われていたのも、後のユングの「外交的なヒステリー」と「内向的な分裂病」と類型論に影響を与える。また留学中に婦人帽子制作職人となっていたヘリーに驚き、パリの街で会っている<ref name=":0" />。
1905年、言語連想法の研究から認められ、医長になり、精神医学の教授の資格をとり、さらにチューリッヒ大学の私講師(学校からでなく生徒からお金をとるスタイル)になる<ref name=":3" />。1906年「早発性痴呆の心理」、1908年に「精神病の内容」と題された論文を発表。[[1909年]]には、大学を離れて個人開業を開始する{{Sfn|山中|2001|p=35}}。
=== フロイトとの関係 ===
1900年に赴任したブロイラーの病院ではゲマインザーメという一般会議において所長のブロイラーが議長を行っており、受け持ちの患者についてや論文についての議論もなされたようである。そこでユングは、ちょうど出版されたばかりのジークムント・フロイトの『[[夢判断]]』に関するレポートを任された<ref name=":0" />。
{{要出典|範囲=ユングはこの本から強い影響を受け、フロイトの熱烈な信奉者となる|date=2023年11月}}{{efn2|『夢判断』に触れた当初は特に影響がなかったという説もある{{Sfn|ヴェーア|1994|p=80}}。}}。1906年には被験者に一群の単語を与え、患者が最初に頭に浮かんだ言葉を答えるまでにかかった時間を正確に計測する実験を行い、フロイトの自由連想理論を裏付ける実験的証拠を提供した。フロイトに論文集を送り、文通がはじまる。精神分析の伝導者であることを明言化、1906年には早くも、「ブロイラーもいまや完全に精神分析に改宗しました。」と報告した{{Sfn|ゲイ|1997|p=232〜235}}。[[1907年]]に初めて対面し、親交を深める{{Sfn|ヴェーア|1994|p=80}}{{Sfn|山中|2001|p=38}}。
[[生理学]]的な知識欲を満たしてくれる[[医学]]や、[[歴史学]]的な知識欲を満たしてくれる[[考古学]]に興味を抱き、友人と活発に議論を交わし、やがて人間の心理と科学の接点としての心理学に道を定めた。精神疾患の人々の治療にあたるとともに疾患の研究も進め、特に当時不治の病とされた分裂病([[統合失調症]])の解明と治療に一定の光明をもたらした。ヒステリー患者の治療と無意識の解明に力を注いでいたフロイトを信奉し、精神分析の伝道者として振舞う。フロイトはユングを自らの後継者に擬していた。1909年にはマサチューセッツ州のクラーク大学で講演するフロイトに同行し渡米、自身も講演した。
[[1911年]]には[[国際精神分析協会]]を設立し、その初代会長になる。フロイトでなくユングなのは、ユダヤ人以外を会長に選ぶ目的があったためである{{Sfn|ヴェーア|1994|p=107}}。
ところが、フロイトとは別に神話研究に励むユングは、次第にフロイトとの理論的な違いを表に出し始め、[[1914年]]には国際精神分析協会を辞して、フロイトらと袂を分かつことになり{{Sfn|ヴェーア|1994|p=131}}、チューリヒ大学医学部の私講師の職も辞任した{{Sfn|ヴェーア|1994|p=138}}。フロイトと決別した後、ユング自身が「方向喪失の状態」と呼ぶ異常な心理状態に陥る<ref>{{Cite journal|和書| author = 篠原道夫| year = 2009| title = 夢分析,能動的想像法,箱庭療法 ― 分析心理学の臨床| journal = 東洋英和女学院大学人文・社会科学論集| volume = 26 |pages = 33--34| publisher = 東洋英和女学院大学| ref = harv}}</ref>。この状態は精神病すれすれの危機的状態であり、『自伝』の中で、洪水に襲われて北ヨーロッパ全体が血の海に覆われる幻覚を見たり、死者たちの亡霊で自宅の中が一杯になる感覚などを体験したことが明らかにされている<ref>{{Cite journal|和書| author = 篠原道夫| year = 2009| title = 夢分析,能動的想像法,箱庭療法 ― 分析心理学の臨床| journal = 東洋英和女学院大学人文・社会科学論集| volume = 26 |pages = 33--34| publisher = 東洋英和女学院大学| ref = harv}}</ref>。
フロイトと親交を結ぶ3年前の1904年、勤務先のチューリヒ大学に入院してきた患者の[[ザビーナ・シュピールライン]]と治療を通して親しくなり、不倫関係となった。ザビーナはユングと別れた後にフロイトに師事し、精神分析家となる<ref>{{Cite book |和書|author = ザビーネ・リッヒェベッヒャー|translator = 田中ひかる |year = 2009|chapter = |title = ザビーナ・シュピールラインの悲劇|publisher = 岩波書店|pages = }}{{要ページ番号|date=2019-04-22}}</ref>。
=== その後 ===
精神分析の運動から離れ一人研究を進め、[[1916年]]には石油王[[ジョン・ロックフェラー]]の四女イーディス・ロックフェラー・マコーミック({{enlink|Edith Rockefeller McCormick|a=on|p=off}}, 1872年 - 1932年)の助力で「心理学クラブ」を設立して、分析心理学の確立に努める{{Sfn|ヴェーア|1994|p=189}}。このクラブには、[[ヘルマン・ヘッセ]]も訪れている{{Sfn|河合|1994|p=137}}。このマコーミック夫人の縁で[[ジェイムス・ジョイス]]を知り、『ユリシーズ』の批評も書いている{{Sfn|河合|1994|pp=137-139}}。
[[1922年]]にはスイスの[[ボーリンゲン]]に土地を得て、塔の建設を開始する{{Sfn|ヴェーア|1994|p=185}}。この塔は瓦焼き職人に教わったやり方で造られており、この作業によって自身の精神的不調が安定化したとしている。
[[1921年]]には代表作『心理学的類型』(『タイプ論』『元型論』とも)を公開する。
[[1928年]]、ユングは[[リヒャルト・ヴィルヘルム]]の手による中国[[道教]]の[[錬金術]]のドイツ語訳を入手し、[[曼荼羅]]に夢中になる。これにコメントを付けて、[[1929年]]に『黄金の華の秘密』というタイトルで出版した{{Sfn|河合|1994|pp=111-112}}。ユングは、精神的不調の回復期にあって、曼荼羅に描かれるような幾何学模様を描くことが多くなり、その折、チベットの仏僧の描く曼荼羅と自分の絵との偶然の一致に感嘆し、ここに意味を見出した。
[[File:Jung-Institut.JPG|thumb|right|ユング研究所]]
[[1948年]]に共同研究者や後継者たちとともに、スイス・チューリッヒに[[ユング研究所]]を設立し、ユング派[[臨床心理学]]の基礎と伝統を確立した。また[[1933年]]からは、[[アスコナ]]で[[エラノス会議]]において、主導的役割を演じることで、[[深層心理学]]・[[神話学]]・[[宗教学]]・[[哲学]]など多様な分野の専門家・思想家の[[学際]]的交流と研究の場を拓いた。開催をした[[オルガ・フレーベ・カプタイン]]は、ユングに強く協力を求め、ユングが参加できない場合は廃止も辞さない構えであった{{Sfn|河合|1994|pp=148-150}}。これには[[1951年]]まで出席する{{Sfn|ヴェーア|1994|p=224}}。ここで、[[鈴木大拙]]、[[ミルチャ・エリアーデ]]、[[ハーバート・リード]]らと親交を結ぶ。
[[1946年]]に『転移の心理学』、[[1951年]]に『アイオーン』、[[1955年]]と[[1956年]]には『結合の神秘』の第1巻と第2巻が出版されている。これらは、70歳を過ぎての著作であった{{Sfn|河合|1994|pp=180-181}}。
[[1961年]][[6月6日]]逝去。[[チューリッヒ州]]のキュスナハト改革派教会に葬られた。スイスでは晩年のユングは気味悪がられたが、世界的に精神病の理解には一石を投じるものとして価値づけられている。
死の直前まで、ユング唯一の一般向け著書『{{仮リンク|人間と象徴|en|Man and His Symbols}}』を[[マリー=ルイーズ・フォン・フランツ]]、[[ジョゼフ・ヘンダーソン]]、[[アニエラ・ヤッフェ]]、[[ヨランド・ヤコビー]]の4人と分担して英語で執筆し、ユング自身は担当する第1章を死の10日前に書き終えた<ref>{{Cite book |和書 |author=C.G.ユング|title=人間と象徴 |volume=上 |quote=序文|translator=河合隼雄監訳 |publisher=[[河出書房新社]] |date=1975}}</ref>。
著作の大半は、下記のようにドイツ語でなされた。
== ユング心理学の変遷 ==
精神科医であったユングは、[[ピエール・ジャネ]]や[[ウィリアム・ジェームズ]]らの理論を元にした心理理論を模索していた。フロイトの[[精神分析学]]の理論に自説との共通点を見出したユングはフロイトに接近し、一時期は蜜月状態(1906年 - 1913年)となるが、徐々に方向性の違いから距離を置くようになる。
ユングがそのキャリアの前半において発表した「[[連想実験]]」は、フロイトの「自由連想」法を応用して、言葉の錯誤と応答時間ずれ等を計測し、無意識の[[コンプレックス]]の存在を[[主体と客体|客観]]的な形にしたということで、科学的な価値を持ち、フロイトもそのために初めは喜んでユングを迎え入れた。両者の初めての邂逅において交わされた対談は10時間を超し、以後両者は互いに親しく手紙で近況や抱負、意見を伝えあい、フロイトはユングを自らの後継者に擬していた。しかし数年の交流のうちに、両者の志向性の違いが次第に浮き彫りになってきた。フロイトは[[無神論]]を支持したが、ユングは神の存在に関する判断には保留を設けた。またユングはフロイトと[[アルフレッド・アドラー]]の心理学を比較・吟味し、両者の心理学は双方の心性の反映であるとし、外的な対象を必要とする「[[性的欲求|性]]」を掲げるフロイトは「外向的」、自身に関心が集中する「権力」に言及するアドラーは「内向的」であるといった考察をし、別の視点からの判断を考慮に入れた。
ユングは歴史や宗教にも関心を向けるようになり、やがてフロイトが「[[リビドー]]」を全て「性」に還元することに異議を唱え、はるかに広大な意味をもつものとして「リビドー」を再定義し、ついに決別することとなった{{efn2|ユング著「リビドーの変容と象徴」(1912)にフロイトは難色を示したが、ユングは学問的な視野の拡大化をはかる意味合いを著書に持たせていた。}}。ユングは後に、フロイトの言う「無意識」は個人の意識に抑圧された内容の「ごみ捨て場」のようなものであるが、自分の言う無意識とは「人類の歴史が眠る宝庫」のようなものである、と例えている。
ユングの患者であった精神疾患者らの語るイメージに不思議と共通点があること、またそれらは、世界各地の神話・伝承とも一致する点が多いことを見出したユングは、人間の無意識の奧底には人類共通の素地([[集合的無意識]])が存在すると考え、この共通するイメージを想起させる力動を「[[元型]]」と名付けた。また、晩年、物理学者の[[ウォルフガング・パウリ]]とともに[[共時性]]([[シンクロニシティ]]=意味のある偶然の一致)に関する共著を発表した。
== ユング心理学の特徴 ==
{{Main|分析心理学}}
ユング心理学([[分析心理学]])は個人の意識、無意識の分析をする点ではフロイトの[[精神分析学]]と共通しているが、個人的な無意識にとどまらず、個人を超え人類に共通して存在しているとされる[[集合的無意識]](普遍的無意識)を視野に入れた分析も含まれる。ユング心理学による心理療法では{{仮リンク|能動的想像法|en|Active imaginatio}}が行われる場合もある。能動的想像法は文字通り意識的に無意識のイメージを掘り下げる手法である。現在,能動的想像法は,心理療法家の訓練・研修のための有効性は認められているが、その臨床応用に対しては慎重な立場をとる者が多い<ref>{{Cite journal|和書| author = 篠原道夫| year = 2009| title = 夢分析,能動的想像法,箱庭療法 ― 分析心理学の臨床| journal = 東洋英和女学院大学人文・社会科学論集| volume = 26 |pages = 40| publisher = 東洋英和女学院大学| ref = harv}}</ref>。
また、ユング心理学は、他派よりも心理臨床において[[夢分析]]を重視している。[[夢]]は[[集合的無意識]]としての「元型イメージが日常的に表出している現象」<ref>{{Cite book |和書|title=面白いほどよくわかる現代思想のすべて |page=29 |author=湯浅赳男 |publisher=日本文芸社 |series=学校で教えない教科書 |date=2003-01 |isbn=453725131X}}</ref>でもあり、また[[個人的無意識]]の発露でもあるとされる。
夢の分析は[[ジークムント・フロイト|フロイト]]が既に重視していたことであった。しかしユング心理学の夢解釈がフロイトの精神分析と異なる点は、無意識を一方的に杓子定規で解釈するのではなく、[[クライエント|クライアント]]と[[セラピスト]]が対等な立場で夢について話し合い、その多義的な意味・目的を考えることによって、クライアントの心の中で巻き起こっていることを治癒的に生かそうとする点にある。
ユングはフロイトとの決別以後{{efn2|1906年4月から1913年の訣別まで、約360通の書簡が、『フロイト=ユンク往復書簡』(上・下、金森誠也訳、[[講談社学術文庫]]、2007年)で訳されている。}}、自らの無意識から湧き出る元型的イメージと真摯に対峙しながらも患者への治療を続けた。これら元型的イメージは統合失調症の患者のイメージにおいても同様なパターンが見られるため、ユングは統合失調症患者であり、オカルティストであるという誤解を受けることもある。しかしその時期においても、ユングが医師として患者への治療を行い、多くの患者を癒やし、現実に導いていたことはユング心理学の理解の上で重要なことである。
ユングは人間の心の成長過程を「個性化の過程」と呼び、健常者、統合失調患者を含めた全ての人間が経験するものとした。従ってセラピー(心理療法)が終了しても、人間の個性化の過程は継続する。ユング派のセラピーでは、セラピー終了後もクライアントをサポートするためにカウンセリングを継続する場合もあり、この場合のセラピーを、「個性化」と呼ぶ場合がある。ただし、これは他の心理療法と同様、クライエントの「生き方」に介入したり指示を与えたりするものではないし、いたずらにセラピーを長引かせるためのものでもない。
また、日本においてユング心理学が隆盛を極めたのは、その心理臨床において[[箱庭療法]]を積極的に取り入れ、多くの著書を発表した[[河合隼雄]]の影響が大きい。
== ナチズムや反ユダヤ主義の勃興に対する姿勢 ==
[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が政権を取った[[1933年]]、ドイツ精神療法学会が改編されることになり[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]に反対した[[ユダヤ人]]の[[エルンスト・クレッチマー]]がその会長を辞任。新たに設立された国際精神療法学会の会長にユングが就任した{{Sfn|エレンベルガー|1980b|p=308}}。そのためユングはナチスに加担してクレッチマーを追い落としたと一部に言われた{{efn2|ナチスが国際精神療法学会に干渉して、ナチスへの忠誠を誓う[[マニフェスト]]が学会誌に掲載されたために、会長のユングは非難された。ユングは反論したが、非難の意見は現在も存在する。}}。後にユングは精神療法という学問分野を守りたかったので非ユダヤ人である自分が会長職を引き受けたと述べている。実際ナチスからの影響を逃れるために国際精神療法学会の本部を[[スイス]]の[[チューリッヒ]]に移し、[[ドイツ]]国内で身分を剥奪されたユダヤ人医師を国際学会で受け入れ、学会誌にユダヤ人学者の論文が掲載されるように図ってもいる。ユングはユダヤ系の師フロイトにも支援の意図について打診{{efn2|ただし、これに関してはフロイトに「敵の援助を受けることは出来ない」と拒まれている。}}しており、長年にわたってユングの秘書を務めたユダヤ人のアニエラ・ヤッフェによれば、「ナチスへの対応には甘いところがあった」が、ユングはナチスの反ユダヤ人政策には明確に反対し、ユダヤ人のドイツ脱出支援活動にも関与していたとのこと<ref>河合隼雄『ユングの生涯』第三文明社レグルス文庫100、1978年、pp.52-56。</ref><ref>平田武靖「ユンク心理学の系譜 -ユンク・ナチス・ユダヤ人-」『is No.1』ポーラ文化研究所、1978年。</ref>。
==ユングと超心理学==
ユングはその[[学位論文]]『いわゆるオカルト的現象の心理と病理』において、従妹ヘレーネ・プライスヴェルクを「[[霊媒]]」として開かれた「交霊会」を扱ったこと(ただしこの論文では神秘的要因ではなく精神の病理的状態に帰されている)、また[[錬金術]]や[[西洋占星術|占星術]]、中国の[[易]]などに深くコミットしたことにより、オカルト主義的な傾向を見て取られ、また新[[異教主義]]的な人々からその預言者とみなされる傾向がある。これにはおそらく母方のプライスヴェルク家が霊能者の家系として著名だった出自も影響していると思われる。また「集合的無意識」や「元型」などの一般の[[生物学]]の知見とは相容れない概念を提起することによって、20世紀の[[科学]]から離脱して19世紀の[[自然哲学]]に逆戻りしてしまったという批判がある{{sfn|ノル|1998|pp=201-202,382-383,415-417}}。またフロイトもユングとまだ訣別する前に、「[[オカルティズム]]」を拒絶するよう強く求めた{{sfn|ユング|1972a|p=127}}。
一方で、ユング自身は、夢に見られる元型に関して、[[遺伝]]に関連づけて言及していたくだりがある(『分析心理学』)。無意識に蓄えられている遺伝情報は莫大であり、人の心性がそれを基礎にしているからには、その生み出すものも、その起源をはるか過去に遡ることができるとする解釈も可能であり、遺伝情報内の大量の経験データの中には、人に平均して訪れる体験の体系も含まれていると考えた場合、元型の普遍性も説明できるであろう。また、そうした無意識内容を生み出す傾向、というユングの説明の付与は、人間が普遍的な基盤に立脚しながらも、決して固定された構造ではなく(これが生物学的な本能にしばられた動物と違う点である)、変化の可能性を秘めていることを示唆している。無意識と意識の調停作業はユングの言う「個体化」に結実する。
ただし19世紀末から20世紀初頭の状況は、一方では[[精神医学]]を極めて機能主義的に捉えることのみが科学的であり「心の[[治癒]]」といったものを語ることは出来ないという流れがあった一方で、アカデミズム以外でオカルティズムの大流行があったのみならず、[[ウィリアム・ジェームズ]]のような学者も[[心霊主義]]の実験に乗り出すなど、心の問題に関するアプローチは現在以上に定まらないところもあった{{sfn|上山|1989|pp=483,488-491}}。こうした問題に関してユングに批判的であったフロイトも、そもそも性理論を打ち立てるのはオカルトの「黒い奔流」に対する「堅固な城塞」を築かねばならないからだという動機を口にしており<ref name=":2">『ユング自伝』。{{Full citation needed |date=2019-04-22 |title=タイトル以外の情報がすべて不明です。}}</ref>、こうした問題に必ずしも安定した姿勢で臨んでばかりいたわけではなかった。またユング自身はきわめて厳格に学問的な方法論を意識して研究を進めていたという主張もあり<ref>林道義 『ユング思想の真髄』 朝日新聞社、1998年。{{要ページ番号|date=2019-04-22}}</ref>、こうした点について決定的な評価を下すことはまだ難しいといえる。
== 著作 ==
ユングの著作は、『ユング全集』にほぼ全ての重要な論文(単行本を含む)が網羅されている。全20巻の構成となっている。ドイツにおいて『Gesammelte Werke von C. G. Jung』 (Walter Verlag) として出版されている(「GW」 と略する)。[[英語]]版は、ユングの監修の元に翻訳が行われている(『 The Collected Works of C. G. Jung 』)。<!--、[[イギリス]]と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の出版があるが、内容は同じである。『 The Collected Works of C. G. Jung 』で、イギリスでは、Routledge and Kegan Paul, Ltd. が、アメリカでは、Princeton University Press が出版元となっている。--><!-- スタイルについては、この記事の「ノート」の記述を参照 -->
代表的な著作としては、以下のものがある。<!-- 書名をイタリックにはしないでください。ウェブページでは、文字が見づらくなるのです。「スタイル・マニュアル」は「推奨」です。必ず守らねばならないルールではありません。-->
*『転換のシンボル』 Symbole der Wandlung, 1912, /1950, GW Bd.5.
*『心理学的類型』 Psychologische Typen, 1921/1950, GW Bd.6.
*『心理学と宗教』 Psychologie und Religion, 1940/1962 (GW Bd.11).
*『アイオーン』 Aion, 1950, GW Bd.5-2.
*『心理学と錬金術』 Psychologie und Alchemie, 1944/1952, GW Bd.12.
*『ヨブへの答え』 Antworf auf Hiob, 1952/1967 (GW Bd.11).
*『結合の神秘』 Mysterium Coniunctionis, 1955/1956, GW Bd.14.
== ユングが登場するフィクション ==
;映画
*『[[危険なメソッド]]』
*『[[フルメタル・ジャケット]]』<!--(人の二面性に関するジョーカーの説明を、[[アメリカ海兵隊|海兵隊]][[大佐]]が全く理解できない、という有名なシーケンス中で名前に言及)-->
;テレビドラマ
*『[[インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険]]』
;コンピュータゲーム
*『[[ノスタルジア1907]]』
*『[[ペルソナシリーズ]]』
;小説
*『[[ゆめにっき|ゆめにっき あなたの夢に私はいない]]』(ユングの思想に触れている)
== 親族 ==
* 父方の曽祖父であるフランツ・イグナツ (1759–1831) は[[ナポレオン戦争]]のとき、野戦医師を勤め、マンハイムに移る。その際、マンハイム劇場の近くで、ゲーテを取り巻く多くの詩人と交友。後妻となるゾフィー・ツィーグラーも詩人らと交友していて[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]と関係を持ち私生児としてユングの祖父であるC.G.ユングを生んだという伝説がある<ref name=":0">{{Cite book|title=ユング伝|date=1994|year=|publisher=創元社|last=ゲルハルト・ヴェーア(訳)村本詔司}}</ref>。
* 父方の祖父であるC.G.ユング(1794–1864:ユングと同名)は[[ハイデルベルク]]で医学を勉強。その際、ベルリンの神学者フリードリッヒ・ダニエル・エルンスト・シュライエルマッハーの影響からカトリックからプロテスタントに改宗される。1817年ドイツ統一のためのデモに参加し投獄(時代のパラダイムとしてはナポレオンのくびきを落とし統一ドイツに繋がる1848年の革命「フォアメルツ」に繋がる)。その後、パリに行き[[アレクサンダー・フォン・フンボルト]] (1769–1859) と知り合いになり、スイスのバーゼル大学に紹介され後々には教授となり更には総長になる。また1848年の肖像画は今もバーゼル大学の昔の玄関にかかっている<ref name=":0" />。市民病院を拡大させ、精神薄弱児たちの住む家「希望の施設 (Anstalt der Hoffnung)」を作る。またバーゼル市長の娘ゾフィー・フライと三度目の結婚をし父パウルを出産。
* 父のパウルはアラビア語に関する研究で哲学博士を得るが、経済的な理由で教授になる道を断念し[[ボスヴィル]]の牧師になる。この側面がニーチェを受け入れる準備となる<ref name=":0" />。
* 母方の祖父であるザムエル・プライスヴェルク (1799–1871) はバーゼルのレオンハルト教区の説教師。改革派の牧師仲間ではいわゆるアンティスティス(牧師長)として通っていてた。ヘブライ語の私講師として学位を得ており、アメリカにまで普及したヘブライ語の文法書の著者と見なされていた。彼によって発刊されていた月刊雑誌『モルゲンラント(朝の国)』で彼は、ユダヤ人がパレスチナに再び定住することに対して関心がある事を公言した(シオニズムに先駆ける発言)<ref name=":0" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
<!-- 本記事の出典として実際に使われている文献のみご記入下さい。 -->
{{参照方法|date=2019年4月22日 (月) 10:35 (UTC)|section=1}}
*[[秋山さと子]] 『ユングとオカルト』[[講談社現代新書]]、1987年。ISBN 4061488414
*G・ヴェーア 『ユング』山中康裕・藤原三枝子訳、[[理想社]]「ロロロ伝記叢書」、1987年
* {{Cite book |和書|author = ゲルハルト・ヴェーア|translator = 村本詔司|year = 1994 |title = ユング伝|publisher = 創元社 |isbn=4422112031 |ref={{SfnRef|ヴェーア|1994}} }}
* {{Cite book |和書 |author=上山安敏|authorlink=上山安敏|title=フロイトとユング - 精神分析運動とヨーロッパ知識社会 |publisher=[[岩波書店]] |date=1989 |isbn=400-027150-4 |ref={{SfnRef|上山|1989|}} }}<!-- 新版は2007年 -->
*{{Cite book |和書 |author=アンリ・エレンベルガー|authorlink=アンリ・エレンベルガー|title=無意識の発見 力動精神医学発達史 |volume=下|translator=[[木村敏]]・[[中井久夫]]監訳 |publisher=[[弘文堂]] |date=1980 |ref={{SfnRef|エレンベルガー|1980b}} }}
*[[小俣和一郎]] 『精神医学とナチズム―裁かれるユング、ハイデガー』講談社現代新書、1997年。ISBN 4061493639
* {{Cite book |和書|author = 河合隼雄|year = 1994 |title = ユングの生涯|publisher = 第三文明社 |isbn=4476031854 |ref={{SfnRef|河合|1994}} }}
* {{Cite book |和書 |author=リチャード・ノル|authorlink=リチャード・ノル|title=ユング・カルト|translator=月森左知・高田有現 |publisher=[[新評論]] |date=1998 |isbn=479480430X |ref={{SfnRef|ノル|1998}} }}
*リチャード・ノル『ユングという名の<神>』老松克博訳、[[新曜社]]、1999年。
* {{Cite book |和書|editor = 山中康裕 |year = 2001 |title = ユング|publisher = 講談社|series = 講談社選書メチエ |isbn=4062582066 |ref={{SfnRef|山中|2001}} }}
*{{Cite book |和書 |author=C.Gユング|title=ユング自伝1〜思い出・夢・思想〜|editor=ヤッフェ|translator=[[河合隼雄]]・[[藤縄昭]]・出井淑子共 |publisher=[[みすず書房]] |date=1972 |ref={{SfnRef|ユング|1972a}} }}
*C.Gユング『ユング自伝2〜思い出・夢・思想〜』ヤッフェ編、[[河合隼雄]]・[[藤縄昭]]・出井淑子共訳、[[みすず書房]] 、1973年。ISBN 462202330X
*C.G.Jung , R.F.C.Hull(trans.),'Symbols of Transformation',Princeton/Bollingen Paperback
*C.Gユング 『自我と無意識の関係』 野田倬(あきら)訳、[[人文書院]]、1982年。 ISBN 4-409-33010-1
*C.Gユング 『現在と未来 ユングの文明論』 松代洋一編訳、[[平凡社ライブラリー]]、1996年。ISBN 4-582-76171-2
*C.Gユング 『創造する無意識 ユングの文芸論』 松代洋一編訳、[[平凡社]]ライブラリー、1996年。ISBN 4-582-76140-2
*{{cite book|和書|author=ピーター・ゲイ|title=フロイト|volume=1| others=鈴木晶訳|publisher=[[みすず書房]]|year=1997|isbn=4-622-03188-4 |ref={{SfnRef|ゲイ|1997}} }}
== 関連項目 ==
{{commons|Carl Gustav Jung}}
* [[アニマ]]
* [[グノーシス主義|グノーシス]]
* [[トリックスター]]
* [[林道義]]
* [[秋山さと子]]
* [[湯浅泰雄]]
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カブラヤオー
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カブラヤオー(1972年6月13日 - 2003年8月9日)は、日本中央競馬会の競走馬・種牡馬。1975年度優駿賞年度代表馬・最優秀4歳牡馬。無謀ともいえる驚異的ハイペースで逃げるレースぶりから「狂気の逃げ馬」の異名で呼ばれた。
馬名の由来は、流鏑馬などに使う鏑矢からきている。
全妹にエリザベス女王杯を勝ったミスカブラヤがいる。
馬齢は2000年まで使用していた旧表記(数え年)を用いる。
1972年6月13日、北海道新冠郡新冠町の十勝育成牧場で誕生。父・ファラモンドは1957年生まれのフランス産馬で、現役時は11戦2勝と平凡な成績であった。種牡馬として1961年から1966年までニュージーランドで供用された後、1967年より日本で供用され1986年に死去。カブラヤオー・ミスカブラヤ兄妹以外に中央の大レース勝ち馬は出ていないが、地方のダートにおける好成績は特筆すべきものがあった。母・カブラヤは現役時30戦5勝。カブラヤオーは2番仔で、ミスカブラヤは4番仔である。母の父・ダラノーアは中距離スピード血統で、桜花賞馬のニットウチドリなどを輩出している。母の母・ミスナンバイチバンから母系血統は大きく広がっており、近親の活躍馬にはダイタクヘリオス、ダイタクリーヴァ、ダイタクバートラム、ダイタクテイオー、チャンストウライなどがいる。カブラヤオーは遅生まれのせいか、身体も小さい上に、気が小さく、人を見るとすぐ逃げ出した。両親の黒鹿毛を引き継ぎ、健康なのが取り柄であったが、どこまでも平凡な評価であった。カブラヤのオーナーであった加藤よし子は、所有していたカブラヤオーを個人的な理由で売却しようとしたが、300万円でも買い手がつかず、やむなく彼女の勝負服で走ることになった。生産牧場の共同経営者であった中山・西塚十勝調教師は馬体のみすぼらしさから、「馬房が一杯で空きがありませんので勘弁してください」と理由をつけて、自ら預託引き受けを断り、引き受けた東京・茂木為二郎師にしてもカブラヤオーの見映えのしない馬体を見て、さほど評価していてなかった。しかも調教でも全く走らず平凡な評価は変わらなかった。
1974年11月の東京ダート1200mの新馬戦でデビューし、7番人気と評価は低かったが、中団から鋭く追い込んで2着と頑張った。右回りの芝1200mに変わった折り返しの新馬戦で2着に3馬身差をつけて初勝利を挙げた。続く中山のひいらぎ賞(500万下)も低人気を覆して連勝し、2着には6馬身差で、陣営も驚くほどの力強い逃げ切りであった。
4歳となった1975年、1月の東京ダート1600mのジュニアカップから始動。このレースでは菅野澄男から、茂木厩舎の主戦・菅原泰夫に乗り替わった。カブラヤオーは初めて1番人気に支持され、2着に10馬身差をつけて逃げ切って人気に応えた。カブラヤオーはその後一度も1番人気を譲ることはなかった。同年の年初の牡馬クラシック路線は、前年の阪神3歳ステークスの優勝馬ライジンを筆頭に、ホシバージ・ニルキング・ロングホークなど関西馬の下馬評が高く、4歳になっても現れる有力馬はエリモジョージなど関西馬が中心の状況は続いており、対する関東馬はテスコガビーの他は目立った馬もおらず、全体を見渡せば西高東低となっていた。そんな中でカブラヤオーは第9回東京4歳Sで重賞に初挑戦するが、ここで問題が生じた。連勝中の牝馬・テスコガビーがレースに出走してきたからである。同じ逃げ馬でしかも京成杯で牡馬を一蹴している強敵であることも問題であったが、それよりもこのテスコガビーも菅原が手綱を取っていたことである。結局、関係者間の話し合いの結果、「テスコガビーは所属厩舍の馬ではなく一度降りたら再度乗れる確証が無いが、カブラヤオーにはいつでも乗れる」という理由で菅原はテスコガビーに騎乗、カブラヤオーには菅野が騎乗することになった。テスコガビーは重馬場が苦手と見られてカブラヤオーが1番人気であったが、スタートはテスコガビーの方が良かった。しかし臆病なカブラヤオーの性格を知る菅原は手綱を抑え、加速のついたカブラヤオーを先に行かせる。想像されたような激しい競り合いもなく淡々とレースは流れ直線を迎えた。カブラヤオーは左回りでは右によれる癖があったが、菅野はそのことを忘れ、左ムチを使い、カブラヤオーはさらに大きく右によれた。これを見たテスコガビーの菅原はとっさにカブラヤオーの右に馬体を寄せた。ようやく体制を立て直したカブラヤオーはテスコガビーとの長い叩き合いの末、クビの差先着し、菅野は騎手生活唯一の重賞勝利となった。後に二冠馬となった両馬による雌雄を決するこの戦いは日本競馬史上に残る名勝負として名高い。
期待された有力馬が次々と脱落する中、一躍クラシック戦線の主役に躍り出たカブラヤオーは、菅原に手綱が戻った弥生賞も逃げ切り、断然の1番人気で皐月賞を迎えた。スタート直後にレイクスプリンターが絡んできて逃げのペースを乱されたが、前半1000mを58秒9という短距離戦に匹敵するラップタイムで走破。第4コーナーを回ってもスピードは衰えず、ゴール前に二の脚を使ってロングホーク・エリモジョージ以下に2馬身半差をつけ、皐月賞レコードで圧勝。道中でカブラヤオーと激しい競り合いを演じたレイクスプリンターは、競走中に右後脚を骨折、最下位で入線したものの予後不良と診断されて安楽死処分となった。この為、後世の出版物などでは「殺人ラップ」「狂気のハイペース」などと称される事も少なくない。また、カブラヤオーが作り出すハイペースについて、レイクスプリンターに騎乗していた押田年郎はレース後「あの馬は普通じゃない。化物です」と涙ながらに語っている。余勢をかって出走したNHK杯も不良馬場をものともせずにロングファストに6馬身差をつけ、大外を回りながら勝利した。
日本ダービーは晴れ・良馬場の絶好の馬場状態で迎えることができ、4枠12番の単枠指定されたカブラヤオーは当然の1番人気であった。2番人気は皐月賞2着のロングホーク、3番人気はロングファストの関西勢であった。好枠を得たカブラヤオーと菅原は出ムチをくれて先頭を奪うが、今度はトップジローがしつこく絡んできてペースが上がり、皐月賞を上回る前半1000m58秒6、1200mを1分11秒8という驚異的なハイラップを刻んでしまった。こんなハイペースで逃げ切ったダービー馬はいなかったため、大観衆のほとんどは「カブラヤオーは消える」と考えた。カブラヤオーはその後もなかなかマイペースに持ち込めないまま直線を迎えたが、苦しさから口を割ってふらつきながら外へよれる。しかしここからが彼の真骨頂であり、体制を立て直すと菅原のムチに応え、ロングファストに1馬身1/4差をつけて優勝した。この時点でデビュー2戦目から無傷の8連勝を達成し、クラシック二冠馬となった。カブラヤオーの破天荒な強さに大観衆は驚嘆したほか、後に評論家の井崎脩五郎は「このレースは不滅だ」と賞賛し、自分の見てきた20世紀最強馬はマルゼンスキーと語りつつも「この1レースだけとればカブラヤオーと言う人がいてもおかしくない」と語っている。この年、鞍上の菅原はテスコガビーで桜花賞・オークスも制し、史上初の春のクラシック完全制覇を成し遂げて、これをきっかけに一流騎手へと飛躍していく事になった。
三冠を目指して無事に夏を越したカブラヤオーであったが、9月下旬に蹄鉄を取り替える際、左脚の爪を深く切りすぎたのが原因で、屈腱炎を発症。菊花賞を断念せざるをえなくなり、ダービーで見せつけた強さを考えれば三冠は濃厚であっただけに、その戦線離脱は惜しまれた。カブラヤオーはその年の優駿社賞年度代表馬・最優秀4歳牡馬に選出された。治癒後の5歳に復帰し、ダービーから1年弱の1976年5月、東京ダートのオープンが復帰戦となった。東京4歳S以来となる菅野の騎乗で斤量は60kgであったが、久々もものともせずに軽快に逃げ切って9連勝を達成。復帰2戦目の中山のオープンではゲートに頭をぶつけ脳震盪を起こすアクシデントがあり、生涯唯一の着外負け(11着で最下位入線)を喫して連勝は9で止まるが、これは2021年時点での日本中央競馬会主催の平地競走における連勝記録である。古馬になってからはマイルや1800mの中距離オープン戦を主に戦い、赤羽秀男が騎乗した7月の札幌の短距離S、9月の東京のオープンでは62kgで連勝。天皇賞(秋)の有力候補となったが、調整過程で屈腱炎が再発。これで引退を余儀なくされた。
引退後の1977年から日本軽種馬協会胆振種馬場で種牡馬として供用され、その後は1981年に日高軽種馬農協三石種馬場を経て、荻伏種馬場、日本軽種馬協会静内種馬場で供用された。小柄で「異系の血統」「狂気の血統」と言われながらの種牡馬生活は、種付け料もさして上がらず、決して恵まれたものでなかったが、1988年に妹・ミスカブラヤも勝ったエリザベス女王杯をミヤマポピーも勝ち、GI馬の父となった。種付け頭数は684頭で、全体的に中堅クラスの産駒を多く残した。種牡馬を引退した1997年から栃木県の日本軽種馬会那須野牧場にて余生を送っていたが、2003年8月9日に老衰で死去。享年31歳の大往生であり、1回忌を前にした2004年5月9日、JRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」の一環として「カブラヤオーメモリアル」が東京芝1600mにて施行された。
驚異的な逃げを武器にしたが、その逃げも、NHK杯での大外回りも、幼少時に他馬に蹴られて馬込みを極端に嫌う気性となっているのを隠して、絶対に競りかけられずに力を発揮させるために陣営が編み出した戦法であった。ハイペースの逃げ戦法に耐えうる能力が引き出された理由は、この臆病な気性故のことであった。さらに生まれつき心肺能力が優れていた点も見逃せない。この様な事情があった為、カブラヤオーの臆病な気性は関係者の間でずっと極秘にされており、極端な逃げ戦法の理由がようやく明らかになったのは、引退後の1980年代後半になってからの事であった。
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カブラヤオーは、日本中央競馬会の競走馬・種牡馬。1975年度優駿賞年度代表馬・最優秀4歳牡馬。無謀ともいえる驚異的ハイペースで逃げるレースぶりから「狂気の逃げ馬」の異名で呼ばれた。 馬名の由来は、流鏑馬などに使う鏑矢からきている。 全妹にエリザベス女王杯を勝ったミスカブラヤがいる。 馬齢は2000年まで使用していた旧表記(数え年)を用いる。
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{{出典の明記|date=2015年7月}}
{{競走馬
|名 = カブラヤオー
|画 = no
|性 = [[牡馬|牡]]
|色 = [[黒鹿毛]]
|種 = [[サラブレッド]]
|生 = [[1972年]][[6月13日]]
|死 = [[2003年]][[8月9日]]
|父 = ファラモンド
|母 = カブラヤ
|母父 = ダラノーア
|産 = 十勝育成牧場
|国 = {{JPN}}<br />[[北海道]][[新冠郡]][[新冠町]]
|主 = 加藤よし子
|調 = 茂木為二郎([[東京競馬場|東京]])<br />→ 森末之助(東京)
|績 = 13戦11勝
|金 = 1億7958万7300円
|冠 = 優駿賞年度代表馬(1975年)<br />優駿賞最優秀4歳牡馬(1975年)
|鞍 = '''[[皐月賞]]'''(1975年)<br />'''[[東京優駿]]'''(1975年)<br />[[共同通信杯|東京4歳ステークス]](1975年)<br />[[弥生賞]](1975年)<br />[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]](1975年)
}}
'''カブラヤオー'''([[1972年]][[6月13日]] - [[2003年]][[8月9日]])は、[[日本中央競馬会]]の[[競走馬]]・[[種牡馬]]。1975年度[[JRA賞|優駿賞年度代表馬]]・[[JRA賞最優秀3歳牡馬|最優秀4歳牡馬]]。無謀ともいえる驚異的ハイペースで逃げるレースぶりから「'''狂気の逃げ馬'''」の異名で呼ばれた。
馬名の由来は、[[流鏑馬]]などに使う[[鏑矢]]からきている。
全妹に[[エリザベス女王杯]]を勝った[[ミスカブラヤ]]がいる。
[[馬齢]]は[[2000年]]まで使用していた旧表記([[数え年]])を用いる。
== 生涯 ==
=== 誕生・デビュー前 ===
[[1972年]][[6月13日]]、[[北海道]][[新冠郡]][[新冠町]]の十勝育成牧場で誕生。父・ファラモンドは[[1957年]]生まれの[[フランス]]産馬で、現役時は11戦2勝と平凡な成績であった。[[種牡馬]]として[[1961年]]から[[1966年]]まで[[ニュージーランド]]で供用された後、[[1967年]]より[[日本国|日本]]で供用され[[1986年]]に死去。カブラヤオー・ミスカブラヤ兄妹以外に[[中央競馬|中央]]の大レース勝ち馬は出ていないが、[[地方競馬|地方]]のダートにおける好成績は特筆すべきものがあった。母・カブラヤは現役時30戦5勝。カブラヤオーは2番仔で、ミスカブラヤは4番仔である。母の父・ダラノーアは中距離スピード血統で、[[桜花賞]]馬の[[ニットウチドリ]]などを輩出している。母の母・[[ミスナンバイチバン]]から母系血統は大きく広がっており、近親の活躍馬には[[ダイタクヘリオス]]、[[ダイタクリーヴァ]]、[[ダイタクバートラム]]、ダイタクテイオー、[[チャンストウライ]]などがいる。カブラヤオーは遅生まれのせいか、身体も小さい上に、気が小さく、人を見るとすぐ逃げ出した。両親の黒鹿毛を引き継ぎ、健康なのが取り柄であったが、どこまでも平凡な評価であった。カブラヤのオーナーであった加藤よし子は、所有していたカブラヤオーを個人的な理由で売却しようとしたが、300万円でも買い手がつかず、やむなく彼女の[[勝負服 (競馬)|勝負服]]で走ることになった。生産牧場の共同経営者であった[[中山競馬場|中山]]・[[西塚十勝]]調教師は馬体のみすぼらしさから、「馬房が一杯で空きがありませんので勘弁してください」と理由をつけて、自ら預託引き受けを断り、引き受けた[[東京競馬場|東京]]・茂木為二郎師にしてもカブラヤオーの見映えのしない馬体を見て、さほど評価していてなかった。しかも調教でも全く走らず平凡な評価は変わらなかった。
=== 競走馬時代 ===
[[1974年]][[11月]]の東京ダート1200mの新馬戦でデビューし、7番人気と評価は低かったが、中団から鋭く追い込んで2着と頑張った。右回りの芝1200mに変わった折り返しの新馬戦で2着に3馬身差をつけて初勝利を挙げた。続く中山のひいらぎ賞(500万下)も低人気を覆して連勝し、2着には6馬身差で、陣営も驚くほどの力強い逃げ切りであった。
4歳となった[[1975年]]、[[1月]]の東京ダート1600mのジュニアカップから始動。このレースでは菅野澄男から、茂木厩舎の主戦・[[菅原泰夫]]に乗り替わった。カブラヤオーは初めて1番人気に支持され、2着に10馬身差をつけて逃げ切って人気に応えた。カブラヤオーはその後一度も1番人気を譲ることはなかった。同年の年初の牡馬クラシック路線は、前年の[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳ステークス]]の優勝馬ライジンを筆頭に、ホシバージ・ニルキング・[[ロングホーク]]など関西馬の下馬評が高く、4歳になっても現れる有力馬は[[エリモジョージ]]など関西馬が中心の状況は続いており、対する関東馬は[[テスコガビー]]の他は目立った馬もおらず、全体を見渡せば[[西高東低]]となっていた。そんな中でカブラヤオーは[[第9回東京4歳ステークス|第9回東京4歳S]]で重賞に初挑戦するが、ここで問題が生じた。連勝中の牝馬・テスコガビーがレースに出走してきたからである。同じ逃げ馬でしかも[[京成杯]]で牡馬を一蹴している強敵であることも問題であったが、それよりもこのテスコガビーも菅原が手綱を取っていたことである。結局、関係者間の話し合いの結果、「テスコガビーは所属厩舍の馬ではなく一度降りたら再度乗れる確証が無いが、カブラヤオーにはいつでも乗れる」<ref>日本中央競馬会『優駿』2001年6月号 p.41</ref>という理由で菅原はテスコガビーに騎乗、カブラヤオーには菅野が騎乗することになった。テスコガビーは重馬場が苦手と見られてカブラヤオーが1番人気であったが、スタートはテスコガビーの方が良かった。しかし臆病なカブラヤオーの性格を知る菅原は手綱を抑え、加速のついたカブラヤオーを先に行かせる。想像されたような激しい競り合いもなく淡々とレースは流れ直線を迎えた。カブラヤオーは左回りでは右によれる癖があったが、菅野はそのことを忘れ、左ムチを使い、カブラヤオーはさらに大きく右によれた。これを見たテスコガビーの菅原はとっさにカブラヤオーの右に馬体を寄せた。ようやく体制を立て直したカブラヤオーはテスコガビーとの長い叩き合いの末、クビの差先着し、菅野は騎手生活唯一の重賞勝利となった。後に二冠馬となった両馬による雌雄を決するこの戦いは日本競馬史上に残る名勝負として名高い。
期待された有力馬が次々と脱落する中、一躍クラシック戦線の主役に躍り出たカブラヤオーは、菅原に手綱が戻った[[弥生賞]]も逃げ切り、断然の1番人気で[[皐月賞]]を迎えた。スタート直後にレイクスプリンターが絡んできて逃げのペースを乱されたが、前半1000mを58秒9という短距離戦に匹敵するラップタイムで走破。第4コーナーを回ってもスピードは衰えず、ゴール前に二の脚を使ってロングホーク・エリモジョージ以下に2馬身半差をつけ、皐月賞レコードで圧勝。道中でカブラヤオーと激しい競り合いを演じたレイクスプリンターは、競走中に右後脚を骨折、最下位で入線したものの[[予後不良 (競馬)|予後不良]]と診断されて[[安楽死]]処分となった。この為、後世の出版物などでは「'''殺人ラップ'''」「'''狂気のハイペース'''」などと称される事も少なくない。また、カブラヤオーが作り出すハイペースについて、レイクスプリンターに騎乗していた[[押田年郎]]はレース後「あの馬は普通じゃない。化物です」と涙ながらに語っている。余勢をかって出走した[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]も不良馬場をものともせずにロングファストに6馬身差をつけ、大外を回りながら勝利した。
[[東京優駿|日本ダービー]]は晴れ・良馬場の絶好の馬場状態で迎えることができ、4枠12番の[[単枠指定制度|単枠指定]]されたカブラヤオーは当然の1番人気であった。2番人気は皐月賞2着のロングホーク、3番人気はロングファストの関西勢であった。好枠を得たカブラヤオーと菅原は出ムチをくれて先頭を奪うが、今度はトップジローがしつこく絡んできてペースが上がり<ref>レースを実況していた[[長岡一也]](当時・[[日経ラジオ社|日本短波放送]]アナウンサー)は、「'''玉砕戦法'''」と伝えた。</ref>、皐月賞を上回る前半1000m58秒6、1200mを1分11秒8という驚異的なハイラップを刻んでしまった<ref>1200m通過タイム1分11秒8は[[2000年]]のダービーまで破られなかったが、ラップを更新した[[マイネルブラウ]]は14着に惨敗し、レースは後方から追い込んだ[[アグネスフライト]]と[[エアシャカール]]で決着している。</ref>。こんなハイペースで逃げ切ったダービー馬はいなかったため、大観衆のほとんどは「カブラヤオーは消える」と考えた。カブラヤオーはその後もなかなかマイペースに持ち込めないまま直線を迎えたが、苦しさから口を割ってふらつきながら外へよれる。しかしここからが彼の真骨頂であり、体制を立て直すと菅原のムチに応え、ロングファストに1馬身1/4差をつけて優勝した。この時点でデビュー2戦目から無傷の8連勝を達成し、クラシック二冠馬となった。カブラヤオーの破天荒な強さに大観衆は驚嘆したほか、後に[[競馬評論家|評論家]]の[[井崎脩五郎]]は「このレースは不滅だ」と賞賛し<ref name="nipponderbymonogatari">文春Numberビデオ「井崎脩五郎が選ぶ これはすごい!日本ダービー十番勝負」[[文藝春秋社]]</ref>、自分の見てきた20世紀最強馬は[[マルゼンスキー]]と語りつつも「この1レースだけとればカブラヤオーと言う人がいてもおかしくない」と語っている<ref name="nipponderbymonogatari" /><ref>DVD「20世紀の名勝負100」[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[関西テレビ放送]]、[[ポニーキャニオン]]共同制作</ref>。この年、鞍上の菅原はテスコガビーで[[桜花賞]]・[[優駿牝馬|オークス]]も制し、史上初の春のクラシック完全制覇を成し遂げて、これをきっかけに一流騎手へと飛躍していく事になった。
三冠を目指して無事に夏を越したカブラヤオーであったが、[[9月]]下旬に[[蹄鉄]]を取り替える際、左脚の爪を深く切りすぎたのが原因で、[[屈腱炎]]を発症。[[菊花賞]]を断念せざるをえなくなり、ダービーで見せつけた強さを考えれば[[三冠 (競馬)|三冠]]は濃厚であっただけに、その戦線離脱は惜しまれた。カブラヤオーはその年の[[JRA賞 #歴代年度代表馬|優駿社賞年度代表馬]]・[[JRA賞最優秀3歳牡馬|最優秀4歳牡馬]]に選出された。治癒後の5歳に復帰し、ダービーから1年弱の[[1976年]][[5月]]、東京ダートのオープンが復帰戦となった。東京4歳S以来となる菅野の騎乗で斤量は60kgであったが、久々もものともせずに軽快に逃げ切って9連勝を達成。復帰2戦目の中山のオープンではゲートに頭をぶつけ[[脳震盪]]を起こすアクシデントがあり、生涯唯一の着外負け(11着で最下位入線)を喫して連勝は9で止まるが、これは2021年時点での日本中央競馬会主催の平地競走における連勝記録である<ref>平地・障害両競走も含めると[[オジュウチョウサン]]が11連勝で[[国営競馬]]・[[日本競馬会]]時代も含めてトップタイ(2021年時点)。</ref>。古馬になってからはマイルや1800mの中距離オープン戦を主に戦い<ref>当時は中距離重賞が現在ほど整備されていなかった側面もある。</ref>、[[赤羽秀男]]が騎乗した[[7月]]の[[札幌競馬場|札幌]]の短距離S、9月の東京のオープンでは62kgで連勝。[[天皇賞(秋)]]の有力候補となったが、調整過程で屈腱炎が再発。これで引退を余儀なくされた。
=== 引退後 ===
引退後の[[1977年]]から[[日本軽種馬協会]]胆振種馬場で種牡馬として供用され、その後は[[1981年]]に日高軽種馬農協三石種馬場を経て、荻伏種馬場、日本軽種馬協会静内種馬場で供用された。小柄で「異系の血統」「狂気の血統」と言われながらの種牡馬生活は、種付け料もさして上がらず、決して恵まれたものでなかったが、[[1988年]]に妹・ミスカブラヤも勝ったエリザベス女王杯を[[ミヤマポピー]]も勝ち、GI馬の父となった。種付け頭数は684頭で、全体的に中堅クラスの産駒を多く残した。種牡馬を引退した[[1997年]]から[[栃木県]]の日本軽種馬会那須野牧場にて余生を送っていたが、[[2003年]][[8月9日]]に[[老衰]]で死去。享年31歳の大往生であり、1回忌を前にした[[2004年]][[5月9日]]、JRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」の一環として「カブラヤオーメモリアル」が東京芝1600mにて施行された。
== 競走馬としての特徴 ==
驚異的な逃げを武器にしたが、その逃げも、NHK杯での大外回りも、幼少時に他馬に蹴られて馬込みを極端に嫌う気性となっているのを隠して、絶対に競りかけられずに力を発揮させるために陣営が編み出した戦法であった。ハイペースの逃げ戦法に耐えうる能力が引き出された理由は、この臆病な気性故のことであった。さらに生まれつき心肺能力が優れていた点も見逃せない。この様な事情があった為、カブラヤオーの臆病な気性は関係者の間でずっと極秘にされており、極端な逃げ戦法の理由がようやく明らかになったのは、引退後の1980年代後半になってからの事であった。
== 競走成績 ==
{| style="font-size: 90%; text-align: center; border-collapse: collapse;white-space:nowrap"
|-
!colspan="3"|年月日!!競馬場!!競走名!!頭<br />数!!馬<br />番!!人気!!着順!!距離!!タイム!!騎手!!斤量!!着差!!勝ち馬 / (2着馬)
|-
|[[1974年|1974]]
|11.
|10
|[[東京競馬場|東京]]
|[[新馬|3歳新馬]]
|19
|4
|7人
|{{color|darkblue|2着}}
|ダ1200m(良)
|1.15.0
|菅野澄男
|50
| -0.1秒
|ダイヤモンドアイ
|-
|
|11.
|23
|東京
|3歳新馬
|13
|13
|5人
|{{color|darkred|1着}}
|芝1200m(良)
|1.12.6
|菅野澄男
|50
|3馬身
|(ワイエムファバー)
|-
|
|12.
|15
|[[中山競馬場|中山]]
|ひいらぎ賞
|13
|3
|8人
|{{color|darkred|1着}}
|芝1600m(稍)
|1.37.3
|菅野澄男
|53
|6馬身
|(ハザマヒカリ)
|-
|[[1975年|1975]]
|1.
|19
|東京
|ジュニアカップ
|11
|3
|1人
|{{color|darkred|1着}}
|ダ1600m(稍)
|1.37.1
|[[菅原泰夫]]
|54
|10馬身
|(フロリオーギ)
|-
|
|2.
|9
|東京
|[[東京4歳ステークス|東京4歳S]]
|7
|4
|1人
|{{color|darkred|1着}}
|芝1800m(重)
|1.52.0
|菅野澄男
|55
|クビ
|([[テスコガビー]])
|-
|
|3.
|1
|中山
|[[弥生賞]]
|10
|1
|1人
|{{color|darkred|1着}}
|芝1800m(良)
|1.51.2
|菅原泰夫
|55
|1 3/4馬身
|([[ロングホーク]])
|-
|
|4.
|13
|中山
|'''[[皐月賞]]'''
|22
|10
|1人
|{{color|darkred|1着}}
|芝2000m(良)
|2.02.5
|菅原泰夫
|57
|2 1/2馬身
|(ロングホーク)
|-
|
|5.
|4
|東京
|[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]
|17
|10
|1人
|{{color|darkred|1着}}
|芝2000m(不)
|2.06.1
|菅原泰夫
|56
|6馬身
|(ロングファスト)
|-
|
|5.
|25
|東京
|'''[[東京優駿]]'''
|28
|12
|1人
|{{color|darkred|1着}}
|芝2400m(良)
|2.28.0
|菅原泰夫
|57
|1 1/4馬身
|(ロングファスト)
|-
|[[1976年|1976]]
|5.
|22
|東京
|オープン
|8
|3
|1人
|{{color|darkred|1着}}
|ダ1700m(重)
|1.43.6
|菅野澄男
|60
|1/2馬身
|(ハーバーシンセイ)
|-
|
|6.
|20
|中山
|オープン
|11
|1
|1人
|11着
|芝1800m(良)
|1.51.2
|菅野澄男
|61
| -1.9秒
|[[ノボルトウコウ]]
|-
|
|7.
|25
|[[札幌競馬場|札幌]]
|短距離S
|7
|2
|1人
|{{color|darkred|1着}}
|ダ1200m(良)
|1.11.8
|[[赤羽秀男]]
|56
|2 1/2馬身
|(ハマノクラウド)
|-
|
|9.
|18
|東京
|オープン
|9
|9
|1人
|{{color|darkred|1着}}
|芝1600m(良)
|1.35.4
|菅原泰夫
|62
|1/2馬身
|(フェアスポート)
|}
*1 太字の競走は[[八大競走]]。
*2 [[負担重量|斤量]]の単位は[[キログラム|kg]]。
== 代表産駒 ==
*[[ミヤマポピー]](1988年エリザベス女王杯)
*[[グランパズドリーム]]([[1986年]]日本ダービー2着)種牡馬
*マイネルキャッスル([[1992年]][[京王杯2歳ステークス|京成杯3歳ステークス]])
*ニシキノボーイ([[1981年]][[東京王冠賞]]、[[東京ダービー (競馬)|東京ダービー]]2着)
*シオフネ([[1987年]][[アルゼンチン共和国杯]]・[[ステイヤーズステークス]]2着)種牡馬
*キタノハーモニー([[1984年]][[宇都宮競馬場|宇都宮]]・北関東オークス、しもつけ菊花賞)
*カブラヤテイオー([[1993年]][[上山競馬場|上山]]・こまくさ賞《上山ダービー》、[[東北優駿]]3着)
*ダメイオー([[1982年]][[荒尾競馬場|荒尾]]・サラブレッド系三歳優駿)
*テトラシーザー(1986年[[九州皐月賞荒尾ダービー|荒尾ダービー]])
*カブラヤヒエン([[1983年]][[南部駒賞]]3着)
*アイノロゼット(1987年[[三条競馬場|三条]]・新潟皐月賞)
*ホロトグランプリ([[1995年]][[ホッカイドウ競馬|北海道]]・[[ステイヤーズカップ]]、[[1994年]][[赤レンガ記念]])
*ラックビジン(1993年[[佐賀競馬場|佐賀]]・ジュニアチャンピオン)
*ブラッドナムラ(1982年[[愛知杯]]3着)
*カブラヤホープ(1983年[[福山競馬場|福山]]・銀杯)
=== ブルードメアサイアー ===
*[[コガネタイフウ]]([[1989年]][[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳ステークス]]・母コガネポプラ)
*コガネパワー([[1991年]][[京都4歳特別]]、[[ファルコンステークス|中日スポーツ賞4歳ステークス]]・母コガネポプラ)
*イブキラジョウモン(1995年中日スポーツ賞4歳ステークス・母イブキミスタリ)
*マイネルプラチナム([[1998年]][[札幌2歳ステークス|札幌3歳ステークス]]・母ゴールドオーキッド)
*[[スタビライザー]](1994年[[帝王賞]]・母ダーリングフイリー)
== 血統表 ==
{{競走馬血統表
|name = カブラヤオー
|inf = プリンスビオ系([[プリンスローズ系]]) / [[フェアウェイ (競走馬)|Fairway]]4×4=12.50%
|f = *ファラモンド<br />Pharamond<br />1957 黒鹿毛
|m = カブラヤ<br />1965 黒鹿毛
|ff = [[シカンブル|Sicambre]]<br />1948 黒鹿毛
|fm = Rain<br />1946 鹿毛
|mf = *ダラノーア<br />Darannour<br />1960 鹿毛
|mm = [[ミスナンバイチバン]]<br />1959 黒鹿毛
|fff = Prince Bio
|ffm = Sif
|fmf = [[フェアトライアル|Fair Trial]]
|fmm = Monsoon
|mff = Sunny Boy
|mfm = Danira
|mmf = *[[ハロウェー]]
|mmm = *[[スタイルパッチ]]
|ffff = [[プリンスローズ|Prince Rose]]
|fffm = Biologie
|ffmf = Rialto
|ffmm = Suavita
|fmff = '''Fairway'''
|fmfm = Lady Juror
|fmmf = Umidwar
|fmmm = Heavenly Wind
|mfff = Jock
|mffm = Fille de Soleil
|mfmf = [[ダンテ (競走馬)|Dante]]
|mfmm = Mah Iran
|mmff = '''Fairway'''
|mmfm = Rosy Legend
|mmmf = Dogpatch
|mmmm = Style Leader [[ファミリーナンバー|F-No.]][[8号族|8-g]]
|}}
== 出典・脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 外部リンク ==
* {{競走馬成績|netkeiba=000a000bca|jbis=0000051177}}
* {{競走馬のふるさと案内所|0000051177|カブラヤオー}}
{{Navboxes|title=表彰・GI勝ち鞍
|list1=
{{JRA賞年度代表馬|優駿賞年度代表馬}}
{{JRA賞最優秀3歳牡馬|優駿賞最優秀4歳牡馬}}
{{皐月賞勝ち馬}}
{{東京優駿勝ち馬}}
}}
{{デフォルトソート:かふらやおお}}
[[Category:1972年生 (競走馬)|日かふらやおお]]
[[Category:2003年没]]
[[category:サラブレッド]]
[[Category:日本生産の競走馬]]
[[Category:日本調教の競走馬]]
[[Category:日本供用種牡馬]]
| null |
2023-05-26T04:34:11Z
| false | false | false |
[
"Template:競走馬血統表",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Navboxes",
"Template:出典の明記",
"Template:競走馬",
"Template:Color",
"Template:Reflist",
"Template:競走馬成績",
"Template:競走馬のふるさと案内所"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%82%AA%E3%83%BC
|
13,321 |
ポツダム協定
|
ポツダム協定(ポツダムきょうてい)は、1945年8月2日にアメリカ合衆国・英国・ソビエト連邦間で「ポツダム会談」に基づいて採択された協定。21条と二つの付属議定書から構成されている。第二次世界大戦後のヨーロッパの処理、主にドイツの戦後統治についての取り決めが行われた。
付属議定書2では、アメリカ政府からの複数の提案が記載されている。これらの提案はおおむね了承されたが、正式な外交ルートを通じて解決されるべきであるとされた。
|
[
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "ポツダム協定(ポツダムきょうてい)は、1945年8月2日にアメリカ合衆国・英国・ソビエト連邦間で「ポツダム会談」に基づいて採択された協定。21条と二つの付属議定書から構成されている。第二次世界大戦後のヨーロッパの処理、主にドイツの戦後統治についての取り決めが行われた。",
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},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "付属議定書2では、アメリカ政府からの複数の提案が記載されている。これらの提案はおおむね了承されたが、正式な外交ルートを通じて解決されるべきであるとされた。",
"title": "ポツダム協定の概要"
}
] |
ポツダム協定(ポツダムきょうてい)は、1945年8月2日にアメリカ合衆国・英国・ソビエト連邦間で「ポツダム会談」に基づいて採択された協定。21条と二つの付属議定書から構成されている。第二次世界大戦後のヨーロッパの処理、主にドイツの戦後統治についての取り決めが行われた。
|
'''ポツダム協定'''(ポツダムきょうてい)は、[[1945年]][[8月2日]]に[[アメリカ合衆国]]・[[イギリス|英国]]・[[ソビエト連邦]]間で「[[ポツダム会談]]」に基づいて採択された[[協定]]。21条と二つの付属議定書から構成されている。[[第二次世界大戦]]後の[[ヨーロッパ]]の処理、主に[[ドイツ]]の戦後統治についての取り決めが行われた。
== ポツダム協定の概要 ==
=== 連合国協議体制 ===
*ドイツを除くヨーロッパの[[枢軸国]]と[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]平和条約制定のため、米・英・ソ・[[フランス]]・[[中華民国]]の外相で構成される[[外相理事会]]を設置する。第一回会合は1945年9月1日までに行う。
*連合国の協議機関であった{{仮リンク|欧州諮問委員会|en|European Advisory Commission}}の解散。
=== ドイツの占領政策 ===
{{see also|連合軍軍政期 (ドイツ)}}
*[[ドイツ]]占領政策を統括する{{仮リンク|連合国管理理事会|en|Allied Control Council}}を設置する。
==== 政治的原則 ====
*米・英・仏・ソ4カ国による分割占領統治の確認
*[[ドイツ国防軍]]・[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]・[[突撃隊]]などの武装解除
*人種、政治的・宗教的信条などを理由とした[[ナチス・ドイツ]]時代の法令の廃止
*戦争犯罪やナチス・ドイツの戦争政策に関与した者の裁判と追放
*ナチスや軍国主義の影響の排除([[非ナチ化]])
*民主的な政党の再建
*政治構造の分権化。ドイツの貿易と産業の再建。
==== 経済的原則 ====
*戦争に使用される兵器・弾薬・船舶等の製造禁止。
*過度な資本集中の解体。産業は農業と平和的産業を優先させる。
*ドイツは単一の経済単位として扱われなければならず、各占領地域での政策はこれを前提としなければならない
*連合国管理理事会はドイツの経済政策、対外資産などの監督を行う。
*賠償の支払いは、国民生活を圧迫しないように行う
=== ドイツの賠償 ===
{{see also|第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償}}
*ソ連および西側連合国(米・英・仏などを含む連合国)は、その占領地域から賠償を徴収する。ソ連の徴収分からポーランドへの賠償は充当される。
*西側連合国はその占領地域からソ連に対して賠償を配分しなければならない。ドイツの平時経済に不必要であると判定された工業設備・資材の10%は無償で、15%は物資との交換でソ連に引き渡される。
*賠償徴収は2年以内に行われなければならない
*ソ連は西側占領地域、西側連合国は東欧とソ連の占領地域、[[オーストリア]]における資本の請求権を相互に放棄する。
*ソ連は西側連合軍が押収したドイツの金資産等に対して関与しない。
=== ドイツ海軍船舶 ===
*[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]が保有する、ドイツおよび同盟国から引き継いだ船舶は、米・英・ソの三国で分配される
*ドイツが保有する[[Uボート]]は30隻を除いてすべて解体される。30隻は研究のために米・英・ソに分配される
*米・英・ソの三国は分配を協議する委員会を設置する
*実際の分配は日本との戦争終了後に行う
=== ソ連のドイツ領要求 ===
*ソ連は[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]とその付属地域を要求する。正式な譲渡は平和条約提携時に行われるが、米英はソ連の要求を支持する。
=== 戦犯裁判の準備 ===
*[[モスクワ宣言 (1943年)|モスクワ宣言]]に基づいてロンドンで行われている、[[国際軍事裁判所憲章|国際軍事裁判のための憲章]]制定を早急に行うよう要請する
*最初の被告リストは1945年9月までに公表する。
=== オーストリア ===
*ソ連は[[オーストリア]]の統治はオーストリア臨時政府の権威の元、統一的に行われることを提案する。
*米英は両軍のウィーン到着後にこの問題についての調査を行う。
*オーストリアに対して賠償は要求しない。
=== ポーランド ===
==== 臨時政府の設立 ====
*[[ヤルタ協定]]に基づき、米・英・ソは{{仮リンク|国民統一臨時政府|en|Provisional Government of National Unity}}が正当なポーランド政府であると認定する。米英はロンドンの[[ポーランド亡命政府]]との関係を断絶する。
*米英は領域内にあるポーランド政府資産を、国民統一臨時政府に引き渡す。
*世界各地のポーランド軍と商船は、国民統一臨時政府の元に復帰し、それを支えなくてはならない。
*できるだけ早く自由で公正な選挙が行われなければならない。
==== ドイツ領のポーランドへの割譲 ====
{{see also|旧ドイツ東部領土}}
*米英ソ三国首脳と国民統一臨時政府および国民評議会は、ポーランドに割譲される西方と北部のドイツ領について協議を行ってきた。この問題の最終的な確定は平和条約制定後に行われることを確認する。
*ポーランドは[[オーデル川]]、[[ナイセ川]]以東([[オーデル・ナイセ線]])のドイツ領と[[東プロイセン]]を管理下に置く。これはソ連の占領地域と同一視されない。
=== 平和条約と国連機関 ===
*米・英・ソは[[ハンガリー]]、[[ブルガリア]]、[[ルーマニア]]、[[イタリア]]、[[フィンランド]]の現在の状態は平和条約の締結によって終了されることが望ましいと考えている。
*外相理事会が取り組む当面の平和条約対象国はイタリアである。
*フィンランド、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリーとの国交は、平和条約締結交渉の中で、別個に検討される
*[[国際連合]]への加盟には、[[国際連合憲章]]にある義務を尊重する必要がある。加盟申請に際しては[[国際連合安全保障理事会]]の勧告に基づき、[[国際連合総会]]において決定される。
*米英ソ三国政府は、明確に枢軸国の支援を受けて設立され、枢軸国と深い関係を持っていた現在の[[フランコ体制下のスペイン|スペイン政権]]が国連加盟を申請した場合、これを支持しないであろう。
=== 信託統治 ===
*会議ではヤルタ会談で提案された、イタリア植民地の信託統治へのソ連の参加について検討した。
*この問題は9月の外相理事会で決定される。
=== 東欧占領地問題 ===
*米英ソ三国政府はハンガリー、ルーマニア、ブルガリアにおける連合軍占領作業を改善するため、これらの国の占領当局が情報を米英に伝えていることを留意する。
*米英ソ三国政府はハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの占領は、停戦協定を受け入れた政府(ハンガリーの場合は、当事者であるハンガリー政府を併合した[[ハンガリー臨時国民政府]])との合意を根拠とすることを確認する。
=== ドイツ人追放 ===
{{see also|ドイツ人追放}}
*米英ソ三国政府はポーランド、[[チェコスロバキア]]、ハンガリーにいる[[ドイツ人]]が本国に移送されなければならないことを認識する。
*連合国管理理事会は占領されたドイツの各州が、どの程度受け入れ可能であるかを調査する。ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーの各政府はこの調査が終了するまでドイツ人の追放を中断しなければならない。
=== ルーマニア油田 ===
*ルーマニアの油田問題については、米ソ、英ソがそれぞれ代表を出す二つの委員会を設置して調査を行い、検討する。
=== イラン撤退 ===
*連合国軍は[[テヘラン]]をはじめ[[イラン]]から撤退するべきであるが、撤退に関する詳細は1945年9月の外相理事会で検討される。
=== タンジェ ===
*ソ連政府の提案を検討した結果、[[タンジェ]]は戦略的な重要性から、国際的な管理体制が行われるべきである。タンジェの問題はパリにおいて開催される、米・英・仏・ソ各政府の代表が行う会議によって討議される。
=== 海峡問題 ===
{{see also|海峡問題}}
*[[モントルー条約]]は現在の世界情勢に一致していない。次の段階として三国政府はそれぞれ[[トルコ]]政府と協議する必要がある。
=== ヨーロッパ貿易会議 ===
*米英はヨーロッパにおける内陸輸送委員会を再開催し、ソ連がこれに参加することを歓迎する。
=== 補遺 ===
*米英ソ三国政府はこの会議の決定に基づき、ドイツ占領に関する指令を当局に伝達する。
*21条では会議の間、共通の軍事問題を検討するため、三国の参謀本部による会議が行われたことが明記されている。
*付属議定書1ではハンガリー占領統治への米英代表の参加が定められた。
==== 付属議定書2 ====
付属議定書2では、アメリカ政府からの複数の提案が記載されている。これらの提案はおおむね了承されたが、正式な外交ルートを通じて解決されるべきであるとされた。
*賠償の負担と、占領による利益が連合国国民に与えられるべきではない。
*占領地の財産を急いで収奪することは、結果として連合国国民の損失につながる。効果的な連合国への補償を実現させる占領政策をとるべきである。
*民間の補償要求は、賠償と同等に扱われるべきである。
*また付属議定書2のB項では[[ポツダム宣言]]がそのまま掲載されている。
==関連項目==
{{wikisource|:en:Potsdam Agreement|ポツダム協定}}
*[[ポツダム会談]]
*[[ポツダム宣言]]
*[[第二次世界大戦の影響]]
== 外部リンク ==
*[http://www.pbs.org/wgbh/americanexperience/features/primary-resources/truman-potsdam/ ポツダム協定] -[[公共放送サービス]](英文)
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[[Category:連合軍軍政期 (ドイツ)]]
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[[Category:ポツダムの歴史|きようてい]]
[[Category:1945年の条約]]
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[[Category:ポーランドの歴史 (1945–1989)]]
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'''微分可能'''(びぶんかのう)
* [[微分]]
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'''微分可能条件'''
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== 関連項目 ==
*[[連続 (数学)]]
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徳川斉順
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徳川 斉順(とくがわ なりゆき)は、江戸時代後期の大名。清水徳川家第3代当主を経て紀州徳川家を継ぎ、和歌山藩第11代藩主となる。江戸幕府第14代将軍徳川家茂の実父である。
江戸幕府11代将軍・徳川家斉の七男。母は家斉の側室・妙操院。12代将軍・徳川家慶の異母弟であり、13代将軍・徳川家定は甥にあたる。正室は和歌山藩10代藩主・徳川治宝の五女・豊姫、側室は実成院を含め3人。和歌山藩13代藩主・14代将軍徳川家茂(慶福)の父である。しかし、家茂が生まれる前に没したため、家茂は実父の斉順に会ったことがない。また、水戸藩主徳川斉脩の正室峰姫は同母姉にあたる。
当初は異母兄敦之助の夭逝後に空跡となっていた清水徳川家を継いだが、和歌山藩第10代藩主・徳川治宝の娘婿となっていた異母弟虎千代が早世したためこれに代わって、治宝の五女豊姫と結婚して治宝の婿養子となり、和歌山藩主を継いだ。重倫、治宝の2人の隠居を抱えていながら贅沢な生活を送っていたので、藩の財政は傾いてしまった。また『和歌山市史』によると、治宝が政治の実権を握っていたため、山高石見守などの斉順側近と山中俊信などの治宝側近との間で深刻な対立が生じた。
先述のとおり、慶福が出生する前に死去し、他に嗣子がいないために、治宝は松平頼学を、附家老水野忠央は将軍家慶の十二男で自身の甥(妹お琴の所生)である田鶴若を擁立しようとしたが、結局異母弟の斉彊が家督を相続した。和歌山藩主としての治世は21年11か月であり、この間の江戸参府8回、和歌山帰国8回、和歌山在国の通算は6年4か月であった。
※日付=旧暦
文化13年の清水家当主時代の主要家臣
【清水家家老】
【番頭】
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文政11年当時の和歌山藩主時代の主要家臣
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徳川 斉順は、江戸時代後期の大名。清水徳川家第3代当主を経て紀州徳川家を継ぎ、和歌山藩第11代藩主となる。江戸幕府第14代将軍徳川家茂の実父である。
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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 徳川 斉順
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| 画像説明 =
| 時代 = [[江戸時代]]後期
| 生誕 = [[享和]]元年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]([[1801年]][[10月16日]])
| 死没 = [[弘化]]3年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]([[1846年]][[6月1日]])
| 改名 = 菊千代([[幼名]])→斉順
| 戒名 = 顕龍院殿二品前亜相恭譲圓輝大居士(法号)
| 墓所 = [[長保寺]]
| 官位 = [[従三位]]・[[左近衛権中将]]兼[[式部卿]]、[[参議]]、[[中納言|権中納言]]、[[従二位]]・[[大納言|権大納言]]、[[正二位]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
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| 父母 = 父:[[徳川家斉]]、母:[[妙操院]]<br />養父:''[[徳川治宝]]''
| 兄弟 = [[徳川家慶|家慶]]、[[徳川敦之助|敦之助]]、'''斉順'''、[[徳川虎千代|虎千代]]、[[徳川斉明|斉明]]、[[徳川斉荘|斉荘]]、[[池田斉衆]]、[[松平斉民]]、[[徳川斉温|斉温]]、[[松平斉良]]、[[徳川斉彊|斉彊]]、[[松平斉善]]、[[蜂須賀斉裕]]、[[松平斉省]]、[[松平斉宣]]、他
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| 特記事項 =
}}
'''徳川 斉順'''(とくがわ なりゆき)は、[[江戸時代]]後期の[[大名]]。[[清水徳川家]]第3代当主を経て[[紀州徳川家]]を継ぎ、[[紀州藩|和歌山藩]]第11代藩主となる。[[江戸幕府]]第14代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家茂]]の実父である。
== 親族 ==
[[江戸幕府]]11代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家斉]]の七男。母は家斉の側室・[[妙操院]]。12代将軍・[[徳川家慶]]の異母弟であり、13代将軍・[[徳川家定]]は甥にあたる。正室は和歌山藩10代藩主・[[徳川治宝]]の五女・豊姫、側室は[[実成院 (徳川家茂生母)|実成院]]を含め3人。和歌山藩13代藩主・14代将軍[[徳川家茂]](慶福)の父である。しかし、家茂が生まれる前に没したため、家茂は実父の斉順に会ったことがない。また、[[水戸藩]]主[[徳川斉脩]]の正室[[峰姫]]は同母姉にあたる。
== 生涯 ==
当初は異母兄[[徳川敦之助|敦之助]]の夭逝後に空跡となっていた[[清水徳川家]]を継いだが、和歌山藩第10代藩主・[[徳川治宝]]の娘婿となっていた異母弟[[徳川虎千代|虎千代]]が早世したためこれに代わって、治宝の五女[[鶴樹院|豊姫]]と結婚して治宝の婿養子となり、和歌山藩主を継いだ。重倫、治宝の2人の隠居を抱えていながら贅沢な生活を送っていたので、藩の財政は傾いてしまった。また『和歌山市史』によると、治宝が政治の実権を握っていたため、[[山高石見守]]などの斉順側近と[[山中俊信]]などの治宝側近との間で深刻な対立が生じた。
先述のとおり、慶福が出生する前に死去し、他に嗣子がいないために、治宝は[[松平頼学]]を、[[附家老]][[水野忠央]]は将軍家慶の十二男で自身の甥(妹[[妙音院 (徳川家慶側室)|お琴]]の所生)である田鶴若を擁立しようとしたが、結局異母弟の斉彊が家督を相続した。和歌山藩主としての治世は21年11か月であり、この間の江戸参府8回、和歌山帰国8回、和歌山在国の通算は6年4か月であった<ref>小山誉城「紀州徳川家の参勤交代」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)</ref>。
== 年譜 ==
※日付=旧暦
* [[1801年]]([[享和]]元)9月9日 - 誕生。[[幼名]]は菊千代。
* [[1805年]]([[文化 (元号)|文化]]2)11月28日 - 清水家の当主となる。
* [[1810年]](文化7)12月1日 - 3万俵を賜う。同月5日に清水屋敷へ移徙。
* [[1815年]](文化12)2月9日 - [[元服]]し、父である将軍徳川家斉から[[偏諱]]を与えられ斉順と名乗り、従三位に叙し、左近衛権中将兼式部卿に任官。
* [[1816年]](文化13)
** 6月3日 - 和歌山藩主徳川治宝の養子となり、同藩主の世継ぎとなる。なお、式部卿を辞任。
** 11月28日 - 和歌山家藩邸に入る。
* [[1819年]]([[文政]]2)11月15日 - 参議に補任。
* [[1824年]](文政7)
** 6月6日 - 家督を相続し、和歌山藩主となる。
** 12月1日 - 権中納言に転任。
* [[1828年]](文政11)2月18日 - 従二位に昇叙し、権大納言に転任。
* [[1837年]]([[天保]]8)8月23日 - 正二位に昇叙し、権大納言如元。
* [[1846年]]([[弘化]]3)5月8日 - 薨去。享年46(満44歳没)。法号「顕龍院殿二品前亜相恭譲圓輝大居士」。南紀徳川家の菩提寺である[[長保寺]]([[和歌山県]][[海南市]]下津町)に葬られる。
== 系譜 ==
*父:[[徳川家斉]]
*母:[[妙操院]]
*[[正室]]:[[鶴樹院]] - [[徳川治宝]]の娘
**長女:菊姫(1817年)
**男子流産:相幻院(1818年)
*[[側室]]:お留衣 - 三毛氏
**次女:心浄院(1825年)
*側室:八十 - 松前氏
**三女:庸姫(1828年)
**女子流産:清影院(1832年)
*側室:おコト
**男子流産:幻成院(1829年)
*側室:おルキ
**女子流産:明示院(1836年)
*側室:[[実成院 (徳川家茂生母)|実成院]] - 松平晋の娘
**四女:伊曾姫(1843年 - 1844年)
**長男:[[徳川家茂]]
== 斉順の家臣 ==
=== 清水家時代 ===
文化13年の清水家当主時代の主要家臣
【清水家家老】
:水野忠篤(因幡守、1600石、役料2000俵)、岡村直賢(丹波守、500石)
【[[番頭]]】
:杉浦頼母(用人兼務)、一尾又左衛門(用人兼務)
【用人(兼務者除く)】
:近藤小八郎、小笠原主水、水野弥左衛門、戸田可十郎、松井庄左衛門、戸田三左衛門
=== 和歌山藩主時代 ===
文政11年当時の和歌山藩主時代の主要家臣
[[家老]]など
:[[安藤直裕|安藤裕之進]]、水野対馬守、[[三浦為章|三浦将監]]、[[久野純固|久野健之丞]]、加納大隅守、下条伊豆守、山中筑後守、村松遠江守、山高石見守、水野太郎作、渡辺主水、伊達源左衛門、橋本与右衛門、村上与兵衛、広田八郎左衛門、海野兵左衛門、柴山太郎左衛門
[[用人]]
:鈴木監物、松平六郎右衛門、宇野善右衛門、曾根孫太夫、海野孫四郎、小笠原仁五左衛門、筒井内蔵允、堀田藤十郎、小谷作内、高橋五助、中嶋勘兵衛
城附
:三輪三右衛門
西ノ丸附
:大崎大次郎
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{徳川家茂の系譜}}
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{{紀州徳川家||1824年 - 1846年|第11代}}
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{{DEFAULTSORT:とくかわ なりゆき}}
[[Category:紀州藩主|なりゆき]]
[[Category:清水徳川家当主|なりゆき]]
[[Category:紀州徳川家|なりゆき]]
[[Category:徳川家斉の子女|なりゆき]]
[[Category:徳川家茂|-実]]
[[Category:19世紀日本の人物]]
[[Category:19世紀アジアの統治者]]
[[Category:1801年生]]
[[Category:1846年没]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E9%A0%86
|
13,324 |
プロセス管理
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プロセス管理(プロセスかんり)とは、オペレーティングシステムの主にカーネルの重要な機能の一つで、プロセスの生成・実行・消滅を管理することである。プロセス間通信や排他制御もプロセス管理の役割である。また、プロセスへのリソースの割り当てを制御する機構でもある。
一般にプロセスを管理対象とするが、カーネルがスレッドを直接制御する場合にはスレッドも管理対象となる。この場合のスレッドをライトウェイトプロセス(Light Weight Process)と呼ぶことがある。また、プロセスをグループ化してリソースを割り当てる機能を持つ場合、プロセスグループも管理対象となる。
プロセスの生成にあたっては、生成するプロセスの情報を管理する領域(プロセス制御ブロック; PCB)を作成し、プロセスの優先度の決定、プロセスへの記憶領域の割り当て等を行なう。プロセスが別のプロセスから作成された場合には、その親プロセスと子プロセスの関係も保持する。
プロセスの実行に関しては、プロセスを次の三つの状態に分けて管理する。
実行可能状態にあるプロセスは、CPUに空きができた時点で実行状態に移る(ディスパッチ)。ただし、一度に実行状態に移ることができるのは一つのプロセスである。実行状態にあるプロセスは、ある一定時間(タイムスライス)経過すると、強制的に実行可能状態に移る。また、実行中に入出力処理等が始まったときは、待ち状態に移る。待ち状態にあるプロセスは、入出力処理等が完了して実行できる状態になったときに、実行可能状態に移る。このようなスケジューリングのアルゴリズムは様々なものが研究され実用化されてきた。
システムによっては、プロセスの中断・再開も可能になっている。この場合、上記の三つの状態に加えて、「実行可能中断状態」と「待ち中断状態」を含めた五つの状態で管理する。
プロセスの消滅に関しては、使用中の資源(記憶領域など)を全て返却して消滅させる。消滅させるプロセスが子プロセスを持っている場合の処理については、OSにより異なる。強制的に子プロセスを消滅させたり、子プロセスに親プロセスの消滅を伝えて子プロセスに終了させたり、あるいは、子プロセスが親プロセスの生死に関知しないようにする場合もある。
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プロセス管理(プロセスかんり)とは、オペレーティングシステムの主にカーネルの重要な機能の一つで、プロセスの生成・実行・消滅を管理することである。プロセス間通信や排他制御もプロセス管理の役割である。また、プロセスへのリソースの割り当てを制御する機構でもある。
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{{Otheruses|コンピュータ・[[プロセス]]の管理|[[品質管理]]上の概念|プロセスアプローチ}}
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'''プロセス管理'''(プロセスかんり)とは、[[オペレーティングシステム]]の主に[[カーネル]]の重要な機能の一つで、[[プロセス]]の生成・実行・消滅を管理することである。[[プロセス間通信]]や[[排他制御]]もプロセス管理の役割である。また、プロセスへの[[リソース]]の割り当てを制御する機構でもある。
== 管理対象 ==
一般に[[プロセス]]を管理対象とするが、[[カーネル]]が[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]を直接制御する場合にはスレッドも管理対象となる。この場合のスレッドを'''ライトウェイトプロセス'''(Light Weight Process)と呼ぶことがある。また、プロセスをグループ化してリソースを割り当てる機能を持つ場合、[[プロセスグループ]]も管理対象となる。
== 主な機能 ==
プロセスの生成にあたっては、生成するプロセスの情報を管理する領域('''[[プロセス制御ブロック]]'''; '''PCB''')を作成し、プロセスの優先度の決定、プロセスへの記憶領域の割り当て等を行なう。プロセスが別のプロセスから作成された場合には、その親プロセスと子プロセスの関係も保持する。
プロセスの実行に関しては、プロセスを次の三つの状態に分けて管理する。
*実行状態
*実行可能状態
*待ち状態
実行可能状態にあるプロセスは、[[CPU]]に空きができた時点で実行状態に移る('''ディスパッチ''')。ただし、一度に実行状態に移ることができるのは一つのプロセスである。実行状態にあるプロセスは、ある一定時間('''タイムスライス''')経過すると、強制的に実行可能状態に移る。また、実行中に入出力処理等が始まったときは、待ち状態に移る。待ち状態にあるプロセスは、入出力処理等が完了して実行できる状態になったときに、実行可能状態に移る。このような[[スケジューリング]]のアルゴリズムは様々なものが研究され実用化されてきた。
システムによっては、プロセスの中断・再開も可能になっている。この場合、上記の三つの状態に加えて、「実行可能中断状態」と「待ち中断状態」を含めた五つの状態で管理する。
プロセスの消滅に関しては、使用中の資源(記憶領域など)を全て返却して消滅させる。消滅させるプロセスが[[子プロセス]]を持っている場合の処理については、OSにより異なる。強制的に子プロセスを消滅させたり、子プロセスに親プロセスの消滅を伝えて子プロセスに終了させたり、あるいは、子プロセスが親プロセスの生死に関知しないようにする場合もある。
== 関連項目 ==
*[[プロセス]]、[[スレッド (コンピュータ)]]
*[[スケジューリング]]
*[[プロセス間通信]]
*[[排他制御]]
*[[プロセス制御ブロック]](PCB)
*[[プロセスグループ]]
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機動戦士ガンダムSEED
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『機動戦士ガンダムSEED』(きどうせんしガンダムシード、MOBILE SUIT GUNDAM SEED)は日本のアニメ作品。毎日放送テレビ(MBSテレビ)製作により、TBS系列で2002年10月5日から2003年9月27日にかけて全50話が放送された。『ガンダムシリーズ』の1つに属するロボットアニメで、主な略称は『SEED』(シード)。2004年には本作の直接的な続編として『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』が製作されている。
キャッチフレーズは 「“ 決闘(デュエル)・暴風(バスター)・電撃(ブリッツ)・盾(イージス)・攻撃(ストライク) 五機のガンダム現る!! ”」。
本作はサンライズ第9スタジオが「新しい世代に向けた、新たなスタンダードとなりうるガンダム」「新世紀(21世紀)のファーストガンダム」「原点回帰」を目指し制作された。ガンダムシリーズでは初のデジタル制作によるVTR映像のテレビシリーズである。
タイトルには「種子」以外に「遺伝子操作」や「発端」という意味も含まれており、さらに頭文字のSには「ガンダムズ」の意味もある。なお、ガンダムシリーズの通例になっていた主人公の搭乗機=タイトルの法則にはなっておらず、その代わりに「SEED」と略記される未知の突然変異遺伝子の設定を反映している。また、サンライズの宮河恭夫とバンダイナムコゲームスの鵜之澤伸の案によって、サンライズ原作のガンダム作品で初めてタイトルに「機動戦士」の冠語がつけられた。
過去の作品で複数のガンダムが敵軍・自軍に分かれて登場したのと同様、本作でも10機以上のガンダムが登場するが、本作の劇中では「ガンダム」という言葉を主人公のキラ・ヤマト個人が自らの搭乗機に名付けたペットネームとして描いており、彼の搭乗したストライクガンダムとフリーダムガンダムに対して「ガンダム」と呼称された以外では、この言葉を劇中で用いていない。
映像ソフトは2003年3月28日からVHSビデオカセット版とDVD版の2種で全13巻がリリースされ、DVD版は累計140万枚以上の売り上げを記録した。2010年2月23日にはTV全50話のDVD-BOX、2011年2月25日には続編とスペシャルエディションの全作品を含めたDVD-BOXが発売された。
従来のガンダムシリーズのファンに加え、多くの女性層のファンも獲得した。ガンプラ(プラモデル)の売り上げも好調で、小学生を中心に“第二次ガンプラブーム”を巻き起こした。関連グッズ、同時期にメディアミックスで展開された『機動戦士ガンダムSEED ASTRAY』や『ガンダムSEED MSV』も人気を博した。2004年に東京アニメアワードでアニメーションオブザイヤーとテレビ部門の優秀作品賞の2冠を受賞している。また、角川書店の『月刊ニュータイプ』2006年9月号で応募・集計された「最新最強ベストアニメ100」では、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』と共に第1位に選ばれた。2018年に行われた『発表!全ガンダム大投票 40th』では、第3位に選ばれている。
従来のガンダム作品の版権管理は創通とサンライズが共同で管理されていたが、本作より製作局である毎日放送もそれに加わり、著作権表示は「©創通・サンライズ・毎日放送」「©2002 SUNRISE INC」だった。2010年以降は毎日放送が外され、SEEDシリーズの版権管理は従来通り2社での管理に戻る。
デジタル放送に移行してからの2011年10月に「HDリマスタープロジェクト」を発表。『機動戦士ガンダムSEED HDリマスター』としてリメイクされ、同年12月23日からのウェブサイト上インターネット動画配信を皮切りに、翌2012年1月1日からは衛星放送のBS11系列、1月3日からは地上波放送のTOKYO MX系列の2局でデジタルテレビ放送が、3月23日からはBlu-ray BOXシリーズがリリースされている。
監督の福田が公式サイトのインタビューにおいて2004年9月25日付で語るところによれば、『ガンダムSEED』シリーズ第1作は、「キラとアスランを主人公に据えて『非戦』というテーマを描いた」とのことである。また、同年12月10日に同インタビューで、2作目『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』についてエグゼクティブプロデューサーの竹田青滋も、「前作から引き続き非戦ということを訴え続けるつもりである」と述べている。加えて竹田は、「再選を果たしたアメリカのブッシュ大統領がファルージャでの掃討作戦を展開し、ますます混迷を深めるイラク情勢」についても述べ、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』を観ることで「視聴者が世界情勢を少しでも自分の身にひきつけて考えてもらえるようになれば」とも語っていた。
なお、福田はストーリーやテーマ的なことは両津が担当していたと語っている。
2002年に放送開始した『機動戦士ガンダムSEED』(以下、『SEED』)であるが、企画は2000年の10月には既に存在したという。監督である福田己津央はインタビューにおいて、従来のガンダムシリーズからよりターゲット年齢層を下げた作品を意識したと語っている。また、ウルトラマンシリーズや仮面ライダーシリーズが時代ごとにその都度に合わせた作品作りをしていたことや、ガンダムシリーズそのものが既に『機動武闘伝Gガンダム』のように新機軸の作品が存在したことから、『機動戦士ガンダム』との共通項を持ちつつも時代に合わせた作品を作る方針になったという。また、福田は後年のインタビューにおいては9.11テロの影響を受け、米軍の中で戦うイスラム兵士というコンセプトから『SEED』の主人公像を形成したと語っている。登場するメカニックが電力駆動するという設定は福田がかつて監督を務めた『GEAR戦士電童』の影響があり、ガンダムという機体の扱いに関しては、搭乗するキャラクターの象徴としての側面を重視したという。また、福田は製作にあたっては自身が以前に監督を務めていた作品である『GEAR戦士電童』から継続したスタッフで固めていたことと、当時サンライズの社長であった吉井孝幸とMBSのプロデューサーである竹田青滋が環境作りに尽力し、『SEED』のヒットを支えたと語っている。
また、本作放送当時にバンダイにてプラモデル担当として携わった狩野義弘はインタビューに際し、メカニック展開において5体編成のガンダムが登場した点に関しては『新機動戦記ガンダムW』の影響によるものだと語っている。
一方で、設定を担当した森田繁はインタビューに際し、直前に放送していた『∀ガンダム』が商業的に不振に終わったことから、より商業的な成功を重視するよう各方面からの圧力がかけられていたと語っている。また、製作当時ガンダムのホビー人口におけるファン年齢層が上がっていたことを受け、本作では小中学生への訴求を重視するようオーダーがあったという。なお、『SEED』ではコーディネイターとナチュラルという遺伝子による対立構図が描かれたが、この発案はプロデューサーの竹田青滋だという。また、森田は『∀』の製作途中に『SEED』の企画に参加し、『∀』がSFとしての色合いから裏設定が増えたのに対し、『SEED』では監督である福田からは映像での描写に説明付ける設定制作を依頼されていたと語っている。また、アフレコの現場で設定面の監修も行っていたことから、自らの所有する脚本に加筆しながらガヤに専門用語を入れていたとしている。
設定製作を担当した下村敬治はコラムにおいて、当初は『ガンダムSAGA』というタイトル案も存在したとしている。また、打ち合わせの際には『海底軍艦』や平成「仮面ライダーシリーズ」といった特撮作品や、『機甲戦記ドラグナー』の話題がたびたび見られたという。
世界観設定を担当した吉野弘幸はインタビューに際し、『SEED』は複数あったガンダム次回作の企画書から福田たちが提出したものが採用された。シナリオの製作においては大河ドラマや少女漫画の影響が存在したと語っている。
プロデューサーを務めた古澤文邦はインタビューに際し、作品名の本決定以前には10体のガンダムが登場することから「ガンダムズ」といった名称も候補に挙がっていたとしている(同名のバーが既に存在しなかったことから、この案は見送られた)。また、古澤は他のインタビューにおいてはキャラクター、メカニックのデザインにおいて5、6人のオーディションを通して決定したと語っている。
本作の脚本は他のシナリオライターが提出したものをシリーズ構成の両澤千晶が練り直す方式をとっており、該当話数では連名となったという。また、森田と吉野によれば、本読みをやって方向性が固まった話が翌週の本読みで監督たちが来ると全てひっくり返ることが何度もあったとしている。その理由として、家庭内で本読みが先に進んでいるために福田が両澤に対して時間に関係なく要望を述べていたためと語っている。
メカニックデザインを務めた大河原邦男は自著において、「SEED」当時においてプラモデルがガンダムシリーズ一作目『機動戦士ガンダム』以来のヒットであったことから、続編の『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』が製作されたと語っている。
C.E.70年、プラントと「地球連合」において発生した戦争は農業用プラント・ユニウスセブンに核ミサイルが撃ち込またことで激化。物量で勝る地球連合軍の勝利で終わると予想されていた戦争は、膠着状態によって11か月が経過した。
C.E.71年、工学を専攻するコーディネイターの少年キラ・ヤマトは、中立国オーブのコロニー・ヘリオポリスで平和に暮らしていた。しかし、このコロニー内では連合軍による5機のMSの開発と新造戦艦の建造が極秘裏に行われており、その情報を得たザフトのクルーゼ隊は独断で奪取作戦を開始する。日常は一変しコロニーは戦場へと変わり果てた。キラは逃げ惑ううちにMS工場へと辿り着き、連合兵とザフト兵の激しい銃撃戦に鉢合わせしてしまう。その中には、幼少の頃の親友のアスラン・ザラがいたのだった。
思わぬ場所でキラと再会したアスランは、戸惑いながらもMS「イージスガンダム」を奪取。キラは居合わせた連合の技術士官マリュー・ラミアスに促されるまま、残された機体「ストライクガンダム」に搭乗し脱出を図る。しかし、待ち構えていたクルーゼ隊のMS・ジンとの戦闘に巻き込まれてしまう。最初はパイロットですらないマリューがアスランとの銃撃により腕を負傷した状態で操縦しており、徐々に窮地に追い込まれていくも、キラは絶体絶命の際に強引に操縦を代わり、未完成だった機体のOSを瞬時に書き換えるという離れ業をこなし、ジンを撃破する。
キラは無事脱出していた友人達と再会するが、戦闘はまだ続いていた。ストライクガンダムはキラにしか扱えないことから、マリューはコロニーからの脱出を成功させるためにも彼に出撃を要請する。キラも友人達を守るため、否応なくストライクガンダムに搭乗し、ザフトと戦っていく。宇宙での戦いを経て地球に降下し、連合軍の本部であるアラスカを目指すアークエンジェル。
だが、降り立った地に待ち構えたアンドリュー・バルドフェルドをはじめとする敵との戦いとそれによって知った絶滅戦争への可能性から、キラは次第に戦争に対する疑念を感じ始める。また、アスランも戦場にてオーブの姫であるカガリ・ユラ・アスハと出会い、衝突しつつも和解。プラントへの核攻撃やその報復として地球に投下されたニュートロンジャマーを始めとする負の連鎖を語り、次第に惹かれあって行く。その一方で、クルーゼ隊の隊長であるラウ・ル・クルーゼはザフト強硬派でありアスランの父でもあるパトリック・ザラと接近していく。
地上においてザフトとの攻防を繰り広げるアークエンジェル。その最中にアスランたちとの戦いでブリッツの搭乗者であるニコル・アマルフィが戦死。キラとアスランの関係に亀裂が生じ、激戦の末にストライクとイージスは相打ちとなる。キラやその仲間であるトール・ケーニヒらを失いつつもアークエンジェルは連合軍本部であるアラスカJOSH-Aに到着。一方、アスランとの激戦で負傷したキラはマルキオ導師の計らいでプラントの有力者の令嬢ラクス・クラインの元にいた。この時プラントの内政はパトリックが実権を握るに至っており、彼は大作戦「オペレーション・スピットブレイク」を地球連合本部を一網打尽にする掃討作戦へと強行した。仲間がいるであろうアラスカ攻撃の報せを受けたキラはこれに動じ、それに呼応したラクスはザフトの最新鋭モビルスーツである「フリーダムガンダム」(フリーダム)をキラに託す。
アラスカはザフトの総攻撃によって壊滅の危機にあり、これに違和感を覚えたムゥ・ラ・フラガは、成り行きによって地球連合軍(大西洋連邦)が超兵器「サイクロプス」を用いてザフトの地上軍攻撃と、組織内の不用者の処分を兼ねた自爆作戦を画策していると知る。ムゥから伝えられたマリューはこれを知り脱出を試みるが、ザフトの追撃が厳しく窮地に追い込まれる。そこへフリーダムを受け取ったキラが降り立ち、アークエンジェルを救援。マリューから内情を聞かされ、連合ザフト双方の兵員に撤退勧告を行う。だが、サイクロプスは起動しアラスカは崩壊。脱出に失敗した双方の兵員から莫大な死傷者を発生させる。これに業を煮やしたザフトはオペレーション・スピットブレイク本来の目標であったパナマを攻撃するが、戦争はエスカレートし、投降者までも殺害する絶滅戦争へと突入していく。
プラントではアラスカの作戦失敗の責を問われたパトリックが、ラクス・クラインのフリーダム強奪協力を理由に対地球穏健派議員を拘束。さらにはアスランに新型モビルスーツ「ジャスティスガンダム」(ジャスティス)を受領させ、奪取されたフリーダムとその目撃者の抹殺を命じる。こうした一連の流れで指名手配を受けていたラクスの父、前議長シーゲル・クラインは銃殺され、逃げのびたラクスも地下に潜伏しプラント市民へ反戦放送を行う。また、ラクスはアスランと遭遇し、彼に戦いの正義を問いかけるのだった。
アラスカからの脱出に成功したアークエンジェルは友軍を犠牲にする連合軍の戦いに疑念を感じ、オーブへと落ち延びる。だが、そのオーブも連合軍の軍需産業複合体のトップであるムルタ・アズラエルの謀略によって侵攻が開始される。自国戦力やフリーダムや修復されたストライク、味方となったバスターガンダム(バスター)、ラクスの問いかけとカガリの存在からザフトを離反したアスラン、ジャスティスらによって連合軍と激突するオーブであったが、防衛戦は突破されていき、オーブは残存兵力の一部や後継者であるカガリらを戦艦クサナギに載せて脱出させた後、戦場となったオノゴロ島を自爆。オーブの権力者であったウズミ・ナラ・アスハたちがここで死亡する。
宇宙へと脱出したアークエンジェル、クサナギはプラント国内でレジスタンスと化していた穏健派(クライン派)のエターナルとも合流(三隻同盟)。廃棄されたコロニー地帯メンデルに潜伏するが、ザフトのクルーゼ隊やアズラエルを擁する連合軍のドミニオンに追撃され、一進一退の攻防を繰り広げる。キラはそこでメンデルが自身の故郷であること、その出生の秘密やクルーゼとの因縁を知る。また、クルーゼは自身の出生から世界を憎悪し絶滅戦争へ誘導していた事が判明する。クルーゼの計らいもあり、一連の戦いで核分裂技術の再利用を可能にするニュートロンジャマーキャンセラーを入手したアズラエルは、これを核ミサイルに転用するよう強行採決。ザフトの前線防衛基地の一つであるボアズが、核攻撃によって陥落し、ザフトは防衛線を本国コロニー近隣の衛星要塞ヤキン・ドゥーエまで後退させる。
これに激怒したパトリックは最終兵器であるジェネシスの使用を決断。プラント本国への攻撃のため、核ミサイルを携え攻め入った連合軍、そして戦闘の停止を望む三隻同盟との三つ巴の戦いが開始される。ザフトはジェネシスの一斉射で地球連合軍を薙ぎ払い、さらに追撃で月面の連合軍基地であるプトレマイオス・クレーターを破壊。さらに次の照準を地球に定める。これに激怒したムルタ・アズラエルはプラントへの再核攻撃を命令するが、武力介入した三隻同盟によってこれが阻まれる。そして激戦の末、アズラエルは乗艦ドミニオンとともに死亡した。
それでも地球への照準を止めないジェネシスを停止させるために戦うキラの前に、ザフトのモビルスーツ「プロヴィデンスガンダム」(プロヴィデンス)とクルーゼが立ちはだかる。フリーダムとプロヴィデンスは激突し、クルーゼはキラに人類の負の側面を訴えかけるが、キラはこれを退けプロヴィデンスを撃破。爆発に飲み込まれ、フリーダムが大破する。時を同じくしてジャスティスの自爆によってジェネシスも破壊された。また、時を同じくしてザフト内ではパトリックが部下に射殺され、こうした混乱に乗じて拘束されていた穏健派議員が連合側に対し停戦を呼び掛ける。
クルーゼとの戦いで傷ついたキラは宇宙を漂う。そこへ脱出に成功したカガリとアスランが、ストライクルージュに乗って彼の元へ向かった。
(オープニングクレジットより)
『〜ReTracks』はいずれも、ボーカル部分はそのままで曲部分のみアレンジさせたもの。
テレビシリーズ全50話(以下原典)を再構成し、一部に新作カットを追加した特別総集篇。PHASE-01 - 21までを描いた「虚空の戦場」、同22 - 40までの「遥かなる暁」、同41 - FINAL-PHASEまでの「鳴動の宇宙(そら)」の3部作で構成されている。
画面アスペクト比は4:3ノーマル・サイズのままで16:9ワイド状になるよう原画の上下部分をクロッピングしている4:3レターボックス(ケース1)で新撮。数人の声優が諸事情(海外在住など)から変更され、サブキャラクターの兼任などから一人二役以上を担当するキャスティングも増えており、その後の関連ゲーム作品では本3部作版のメンバーでアフレコされているものの方が多く、続篇の『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の回想シーンでは一部採用されている。
ストーリーは大幅な短縮が図られ、一部には原典とは全く異なるシーンへと新規カットで差し替えられていたり、存在自体が省略されていたりもする(ヘリオポリスの救命ポッドから出てきたフレイ・アルスターがキラではなくサイ・アーガイルと抱き合う、モラシム隊が登場しない、クロト・ブエルのレイダーがディアッカ・エルスマンのバスターに撃たれて戦死する、など)。
「虚空の戦場」「遥かなる暁」の2作はDVD版発売に先駆けて2日間に分けた前後篇スタイルで地上波放送されたが、「鳴動の宇宙」はDVD版リリースのみでテレビ放送はされなかった。
続篇『SEED DESTINY』やリメイク版『機動戦士ガンダムSEED HDリマスター』でも一部カットが流用されている(前者では4:3ノーマルの画面比に合わせて16:9部分の原画の左右を、後者では同16:9部分のみをクロッピングした状態)。
2019年10月25日に機動戦士ガンダム40周年プロジェクト『ガンダム映像新体験TOUR』として『虚空の戦場 HDリマスター』を大型スクリーン規格ULTIRA劇場上映、2020年2月7日には『スペシャルエディションII 遥かなる暁 HDリマスター』を上映。
2002年10月5日の番組放送から10周年を数えた2011年10月に発表され始まった、続編『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』も含めたリマスタリングを中心とするリバイバル企画の総称。
正式タイトルは『機動戦士ガンダムSEED HDリマスター』となっており、TVシリーズ(以下、この節では「本放送版」と表記)とはあくまでも別作品扱いとなっている。また、製作クレジットは「サンライズ」のみで著作権表示は「©創通・サンライズ」「©2002,2011 SUNRISE INC.」となっている。
SD素材の再撮影またはアップコンバートといった本来のHDリマスターとは異なり、画面アスペクト比を4:3ノーマル・サイズの原画から上下部分をカットした16:9ワイド・サイズでの高精細度=High Definition(ハイデフィニション)化とリニアPCM音源化などを施して新撮され、一部音楽のリミックス版採用や後半のエンディングの差し替え、新作カットとの差し替え・部分的加筆、各エフェクト・背景などの処理変更、本放送版・VHS&DVD版(以下「原典」)およびスペシャルエディション3部作、そして『DESTINY』とのセル画の統合・再編集といった大幅な変更がされている。原典の第14話・第26話は未放送となり、「01.PHASE-01 偽りの平和」(略)「14.PHASE-15+ それぞれの孤独」「15.PHASE-16 燃える砂塵」(略)「24.PHASE-25 平和の国へ」「25.PHASE-27 果てなき輪舞」(略)「48.FINAL-PHASE 終わらない明日へ」などの話数表記に改定され、第24話(旧25話)を「平和の国へ」と改題した全48話構成となった。
ストーリー構成は本放送版に沿っているが、「14.PHASE-15+ それぞれの孤独」で第1話・第2話を回想しているシーンでは、第1部「虚空の戦場」でのコールドオープン(ラスティの出撃シーン)やメビウスゼロとシグーの交戦シーン(リニアガン斬りをしない決着描写)を、「38.PHASE-40 暁の宇宙へ」のエンディング映像には、第2部「遥かなる暁」のものを採用したりしている。また、「36.PHASE-38 決意の砲火」からムウが搭乗するようになったストライクが前編新規カットによるマルチプルアサルトストライカーを装備したパーフェクトストライクへと改定されたり、シホ・ハーネンフースが「39.PHASE-41 ゆれる世界」におけるカーペンタリア基地でのクルーゼ隊談話シーンに新規カットで追加されており、初登場のタイミングが変更されたりもしている。
一方、続編の『DESTINY』への繋がりを意識した伏線も追加されており、「36.PHASE-38 決意の砲火」には『DESTINY』第1話におけるコールドオープンでの港へ走るシン・アスカと家族の1カットが挿入され、「39.PHASE-41 ゆれる世界」にはパトリックの演説中継シーンにアカデミー入学直後と思しきシン、ルナマリア・ホークとメイリン・ホークの姉妹、レイ・ザ・バレルが一堂に会している新規カットが加えられるなどしている。細かい所ではオーブ解放作戦での対空砲や補給艦のカットや、フリーダムのクスィフィアス レール砲の射撃シーンが追加・差し替えなどで流用されている。
2011年12月23日から公式ウェブサイト(バンダイチャンネル)・バンダイナムコライブTVなどのインターネット動画で先行配信され、次いで年明け2012年1月1日にBS11で衛星放送、翌々日の3日にTOKYO MXで地上波放送がスタートし、最終話後からは「HDリマスターセレクション」と題し視聴者人気投票などで上位を獲得したエピソードのスポット再放送が行われた。
商業展開では、バンダイのプラモデル 1/144スケール HG SEED HGシリーズのリニューアルおよび新規キットの発売、ビクターから発売された主題歌・挿入歌をリメイクした「Reunion Series」のCD・ダウンロード販売、コミカライズ版の連載などが行われている。
スタッフも「リマスター・スタッフ」としてエンディングクレジットに別記されており、「HDリマスタリング」など原典では存在しなかった役職もある。
HDリマスター版の展開以降、現在はCS放送やインターネットの動画配信サイト・ローカル局での放送でもこちらの素材が標準となっており、本放送版の視聴手段が少なくなっている。
映像ソフトはBlu-ray BOXシリーズとして全4巻でリリース。
本放送版との違いとしては、第1期オープニングがPHASE-03から描き直された後期バージョンでの統一化、監督の福田己津央や主要キャラクターの声優陣によるオーディオコメンタリー、「AFTER-PHASE 星のはざまで」の収録などが挙げられる。DVD版に比べ廉価的な要素はなく、新作アニメ4クールとほぼ変わらないフルプライスであった。
2006年に発表されて以降続報がなかったが、2021年に放送20周年を記念した新プロジェクト「GUNDAM SEED PROJECT ignited」の中心企画として改めて製作が告知された。その後、2023年7月2日、テレビアニメ『機動戦士ガンダム水星の魔女 Season2』最終話の放送直後に、新作映画『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』(きどうせんしガンダムシード フリーダム)と題して2024年1月26日に劇場公開される旨が発表された。
『機動戦士ガンダムSEED』の本放送当時は、ED後に女優上戸彩の主演によるプラモデルCMが放送されていた。この放送CMを集めた映像ソフトとして、『上戸彩 in GUNDAM PLA-MODEL CM』が誌上通販で発売されている。
一部に性的・残虐な描写があり、ベッドシーンを匂わせるシーンについてBPOに一度回答を求められたことがある。
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"text": "デジタル放送に移行してからの2011年10月に「HDリマスタープロジェクト」を発表。『機動戦士ガンダムSEED HDリマスター』としてリメイクされ、同年12月23日からのウェブサイト上インターネット動画配信を皮切りに、翌2012年1月1日からは衛星放送のBS11系列、1月3日からは地上波放送のTOKYO MX系列の2局でデジタルテレビ放送が、3月23日からはBlu-ray BOXシリーズがリリースされている。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "監督の福田が公式サイトのインタビューにおいて2004年9月25日付で語るところによれば、『ガンダムSEED』シリーズ第1作は、「キラとアスランを主人公に据えて『非戦』というテーマを描いた」とのことである。また、同年12月10日に同インタビューで、2作目『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』についてエグゼクティブプロデューサーの竹田青滋も、「前作から引き続き非戦ということを訴え続けるつもりである」と述べている。加えて竹田は、「再選を果たしたアメリカのブッシュ大統領がファルージャでの掃討作戦を展開し、ますます混迷を深めるイラク情勢」についても述べ、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』を観ることで「視聴者が世界情勢を少しでも自分の身にひきつけて考えてもらえるようになれば」とも語っていた。",
"title": "作品のテーマ"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "なお、福田はストーリーやテーマ的なことは両津が担当していたと語っている。",
"title": "作品のテーマ"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "2002年に放送開始した『機動戦士ガンダムSEED』(以下、『SEED』)であるが、企画は2000年の10月には既に存在したという。監督である福田己津央はインタビューにおいて、従来のガンダムシリーズからよりターゲット年齢層を下げた作品を意識したと語っている。また、ウルトラマンシリーズや仮面ライダーシリーズが時代ごとにその都度に合わせた作品作りをしていたことや、ガンダムシリーズそのものが既に『機動武闘伝Gガンダム』のように新機軸の作品が存在したことから、『機動戦士ガンダム』との共通項を持ちつつも時代に合わせた作品を作る方針になったという。また、福田は後年のインタビューにおいては9.11テロの影響を受け、米軍の中で戦うイスラム兵士というコンセプトから『SEED』の主人公像を形成したと語っている。登場するメカニックが電力駆動するという設定は福田がかつて監督を務めた『GEAR戦士電童』の影響があり、ガンダムという機体の扱いに関しては、搭乗するキャラクターの象徴としての側面を重視したという。また、福田は製作にあたっては自身が以前に監督を務めていた作品である『GEAR戦士電童』から継続したスタッフで固めていたことと、当時サンライズの社長であった吉井孝幸とMBSのプロデューサーである竹田青滋が環境作りに尽力し、『SEED』のヒットを支えたと語っている。",
"title": "製作エピソード"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "また、本作放送当時にバンダイにてプラモデル担当として携わった狩野義弘はインタビューに際し、メカニック展開において5体編成のガンダムが登場した点に関しては『新機動戦記ガンダムW』の影響によるものだと語っている。",
"title": "製作エピソード"
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{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "一方で、設定を担当した森田繁はインタビューに際し、直前に放送していた『∀ガンダム』が商業的に不振に終わったことから、より商業的な成功を重視するよう各方面からの圧力がかけられていたと語っている。また、製作当時ガンダムのホビー人口におけるファン年齢層が上がっていたことを受け、本作では小中学生への訴求を重視するようオーダーがあったという。なお、『SEED』ではコーディネイターとナチュラルという遺伝子による対立構図が描かれたが、この発案はプロデューサーの竹田青滋だという。また、森田は『∀』の製作途中に『SEED』の企画に参加し、『∀』がSFとしての色合いから裏設定が増えたのに対し、『SEED』では監督である福田からは映像での描写に説明付ける設定制作を依頼されていたと語っている。また、アフレコの現場で設定面の監修も行っていたことから、自らの所有する脚本に加筆しながらガヤに専門用語を入れていたとしている。",
"title": "製作エピソード"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "設定製作を担当した下村敬治はコラムにおいて、当初は『ガンダムSAGA』というタイトル案も存在したとしている。また、打ち合わせの際には『海底軍艦』や平成「仮面ライダーシリーズ」といった特撮作品や、『機甲戦記ドラグナー』の話題がたびたび見られたという。",
"title": "製作エピソード"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "世界観設定を担当した吉野弘幸はインタビューに際し、『SEED』は複数あったガンダム次回作の企画書から福田たちが提出したものが採用された。シナリオの製作においては大河ドラマや少女漫画の影響が存在したと語っている。",
"title": "製作エピソード"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "プロデューサーを務めた古澤文邦はインタビューに際し、作品名の本決定以前には10体のガンダムが登場することから「ガンダムズ」といった名称も候補に挙がっていたとしている(同名のバーが既に存在しなかったことから、この案は見送られた)。また、古澤は他のインタビューにおいてはキャラクター、メカニックのデザインにおいて5、6人のオーディションを通して決定したと語っている。",
"title": "製作エピソード"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "本作の脚本は他のシナリオライターが提出したものをシリーズ構成の両澤千晶が練り直す方式をとっており、該当話数では連名となったという。また、森田と吉野によれば、本読みをやって方向性が固まった話が翌週の本読みで監督たちが来ると全てひっくり返ることが何度もあったとしている。その理由として、家庭内で本読みが先に進んでいるために福田が両澤に対して時間に関係なく要望を述べていたためと語っている。",
"title": "製作エピソード"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "メカニックデザインを務めた大河原邦男は自著において、「SEED」当時においてプラモデルがガンダムシリーズ一作目『機動戦士ガンダム』以来のヒットであったことから、続編の『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』が製作されたと語っている。",
"title": "製作エピソード"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "C.E.70年、プラントと「地球連合」において発生した戦争は農業用プラント・ユニウスセブンに核ミサイルが撃ち込またことで激化。物量で勝る地球連合軍の勝利で終わると予想されていた戦争は、膠着状態によって11か月が経過した。",
"title": "あらすじ"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "C.E.71年、工学を専攻するコーディネイターの少年キラ・ヤマトは、中立国オーブのコロニー・ヘリオポリスで平和に暮らしていた。しかし、このコロニー内では連合軍による5機のMSの開発と新造戦艦の建造が極秘裏に行われており、その情報を得たザフトのクルーゼ隊は独断で奪取作戦を開始する。日常は一変しコロニーは戦場へと変わり果てた。キラは逃げ惑ううちにMS工場へと辿り着き、連合兵とザフト兵の激しい銃撃戦に鉢合わせしてしまう。その中には、幼少の頃の親友のアスラン・ザラがいたのだった。",
"title": "あらすじ"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "思わぬ場所でキラと再会したアスランは、戸惑いながらもMS「イージスガンダム」を奪取。キラは居合わせた連合の技術士官マリュー・ラミアスに促されるまま、残された機体「ストライクガンダム」に搭乗し脱出を図る。しかし、待ち構えていたクルーゼ隊のMS・ジンとの戦闘に巻き込まれてしまう。最初はパイロットですらないマリューがアスランとの銃撃により腕を負傷した状態で操縦しており、徐々に窮地に追い込まれていくも、キラは絶体絶命の際に強引に操縦を代わり、未完成だった機体のOSを瞬時に書き換えるという離れ業をこなし、ジンを撃破する。",
"title": "あらすじ"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "キラは無事脱出していた友人達と再会するが、戦闘はまだ続いていた。ストライクガンダムはキラにしか扱えないことから、マリューはコロニーからの脱出を成功させるためにも彼に出撃を要請する。キラも友人達を守るため、否応なくストライクガンダムに搭乗し、ザフトと戦っていく。宇宙での戦いを経て地球に降下し、連合軍の本部であるアラスカを目指すアークエンジェル。",
"title": "あらすじ"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "だが、降り立った地に待ち構えたアンドリュー・バルドフェルドをはじめとする敵との戦いとそれによって知った絶滅戦争への可能性から、キラは次第に戦争に対する疑念を感じ始める。また、アスランも戦場にてオーブの姫であるカガリ・ユラ・アスハと出会い、衝突しつつも和解。プラントへの核攻撃やその報復として地球に投下されたニュートロンジャマーを始めとする負の連鎖を語り、次第に惹かれあって行く。その一方で、クルーゼ隊の隊長であるラウ・ル・クルーゼはザフト強硬派でありアスランの父でもあるパトリック・ザラと接近していく。",
"title": "あらすじ"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "地上においてザフトとの攻防を繰り広げるアークエンジェル。その最中にアスランたちとの戦いでブリッツの搭乗者であるニコル・アマルフィが戦死。キラとアスランの関係に亀裂が生じ、激戦の末にストライクとイージスは相打ちとなる。キラやその仲間であるトール・ケーニヒらを失いつつもアークエンジェルは連合軍本部であるアラスカJOSH-Aに到着。一方、アスランとの激戦で負傷したキラはマルキオ導師の計らいでプラントの有力者の令嬢ラクス・クラインの元にいた。この時プラントの内政はパトリックが実権を握るに至っており、彼は大作戦「オペレーション・スピットブレイク」を地球連合本部を一網打尽にする掃討作戦へと強行した。仲間がいるであろうアラスカ攻撃の報せを受けたキラはこれに動じ、それに呼応したラクスはザフトの最新鋭モビルスーツである「フリーダムガンダム」(フリーダム)をキラに託す。",
"title": "あらすじ"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "アラスカはザフトの総攻撃によって壊滅の危機にあり、これに違和感を覚えたムゥ・ラ・フラガは、成り行きによって地球連合軍(大西洋連邦)が超兵器「サイクロプス」を用いてザフトの地上軍攻撃と、組織内の不用者の処分を兼ねた自爆作戦を画策していると知る。ムゥから伝えられたマリューはこれを知り脱出を試みるが、ザフトの追撃が厳しく窮地に追い込まれる。そこへフリーダムを受け取ったキラが降り立ち、アークエンジェルを救援。マリューから内情を聞かされ、連合ザフト双方の兵員に撤退勧告を行う。だが、サイクロプスは起動しアラスカは崩壊。脱出に失敗した双方の兵員から莫大な死傷者を発生させる。これに業を煮やしたザフトはオペレーション・スピットブレイク本来の目標であったパナマを攻撃するが、戦争はエスカレートし、投降者までも殺害する絶滅戦争へと突入していく。",
"title": "あらすじ"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "プラントではアラスカの作戦失敗の責を問われたパトリックが、ラクス・クラインのフリーダム強奪協力を理由に対地球穏健派議員を拘束。さらにはアスランに新型モビルスーツ「ジャスティスガンダム」(ジャスティス)を受領させ、奪取されたフリーダムとその目撃者の抹殺を命じる。こうした一連の流れで指名手配を受けていたラクスの父、前議長シーゲル・クラインは銃殺され、逃げのびたラクスも地下に潜伏しプラント市民へ反戦放送を行う。また、ラクスはアスランと遭遇し、彼に戦いの正義を問いかけるのだった。",
"title": "あらすじ"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "アラスカからの脱出に成功したアークエンジェルは友軍を犠牲にする連合軍の戦いに疑念を感じ、オーブへと落ち延びる。だが、そのオーブも連合軍の軍需産業複合体のトップであるムルタ・アズラエルの謀略によって侵攻が開始される。自国戦力やフリーダムや修復されたストライク、味方となったバスターガンダム(バスター)、ラクスの問いかけとカガリの存在からザフトを離反したアスラン、ジャスティスらによって連合軍と激突するオーブであったが、防衛戦は突破されていき、オーブは残存兵力の一部や後継者であるカガリらを戦艦クサナギに載せて脱出させた後、戦場となったオノゴロ島を自爆。オーブの権力者であったウズミ・ナラ・アスハたちがここで死亡する。",
"title": "あらすじ"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "宇宙へと脱出したアークエンジェル、クサナギはプラント国内でレジスタンスと化していた穏健派(クライン派)のエターナルとも合流(三隻同盟)。廃棄されたコロニー地帯メンデルに潜伏するが、ザフトのクルーゼ隊やアズラエルを擁する連合軍のドミニオンに追撃され、一進一退の攻防を繰り広げる。キラはそこでメンデルが自身の故郷であること、その出生の秘密やクルーゼとの因縁を知る。また、クルーゼは自身の出生から世界を憎悪し絶滅戦争へ誘導していた事が判明する。クルーゼの計らいもあり、一連の戦いで核分裂技術の再利用を可能にするニュートロンジャマーキャンセラーを入手したアズラエルは、これを核ミサイルに転用するよう強行採決。ザフトの前線防衛基地の一つであるボアズが、核攻撃によって陥落し、ザフトは防衛線を本国コロニー近隣の衛星要塞ヤキン・ドゥーエまで後退させる。",
"title": "あらすじ"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "これに激怒したパトリックは最終兵器であるジェネシスの使用を決断。プラント本国への攻撃のため、核ミサイルを携え攻め入った連合軍、そして戦闘の停止を望む三隻同盟との三つ巴の戦いが開始される。ザフトはジェネシスの一斉射で地球連合軍を薙ぎ払い、さらに追撃で月面の連合軍基地であるプトレマイオス・クレーターを破壊。さらに次の照準を地球に定める。これに激怒したムルタ・アズラエルはプラントへの再核攻撃を命令するが、武力介入した三隻同盟によってこれが阻まれる。そして激戦の末、アズラエルは乗艦ドミニオンとともに死亡した。",
"title": "あらすじ"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "それでも地球への照準を止めないジェネシスを停止させるために戦うキラの前に、ザフトのモビルスーツ「プロヴィデンスガンダム」(プロヴィデンス)とクルーゼが立ちはだかる。フリーダムとプロヴィデンスは激突し、クルーゼはキラに人類の負の側面を訴えかけるが、キラはこれを退けプロヴィデンスを撃破。爆発に飲み込まれ、フリーダムが大破する。時を同じくしてジャスティスの自爆によってジェネシスも破壊された。また、時を同じくしてザフト内ではパトリックが部下に射殺され、こうした混乱に乗じて拘束されていた穏健派議員が連合側に対し停戦を呼び掛ける。",
"title": "あらすじ"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "クルーゼとの戦いで傷ついたキラは宇宙を漂う。そこへ脱出に成功したカガリとアスランが、ストライクルージュに乗って彼の元へ向かった。",
"title": "あらすじ"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "(オープニングクレジットより)",
"title": "スタッフ"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "『〜ReTracks』はいずれも、ボーカル部分はそのままで曲部分のみアレンジさせたもの。",
"title": "主題歌"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "テレビシリーズ全50話(以下原典)を再構成し、一部に新作カットを追加した特別総集篇。PHASE-01 - 21までを描いた「虚空の戦場」、同22 - 40までの「遥かなる暁」、同41 - FINAL-PHASEまでの「鳴動の宇宙(そら)」の3部作で構成されている。",
"title": "スペシャルエディション3部作"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "画面アスペクト比は4:3ノーマル・サイズのままで16:9ワイド状になるよう原画の上下部分をクロッピングしている4:3レターボックス(ケース1)で新撮。数人の声優が諸事情(海外在住など)から変更され、サブキャラクターの兼任などから一人二役以上を担当するキャスティングも増えており、その後の関連ゲーム作品では本3部作版のメンバーでアフレコされているものの方が多く、続篇の『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の回想シーンでは一部採用されている。",
"title": "スペシャルエディション3部作"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ストーリーは大幅な短縮が図られ、一部には原典とは全く異なるシーンへと新規カットで差し替えられていたり、存在自体が省略されていたりもする(ヘリオポリスの救命ポッドから出てきたフレイ・アルスターがキラではなくサイ・アーガイルと抱き合う、モラシム隊が登場しない、クロト・ブエルのレイダーがディアッカ・エルスマンのバスターに撃たれて戦死する、など)。",
"title": "スペシャルエディション3部作"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "「虚空の戦場」「遥かなる暁」の2作はDVD版発売に先駆けて2日間に分けた前後篇スタイルで地上波放送されたが、「鳴動の宇宙」はDVD版リリースのみでテレビ放送はされなかった。",
"title": "スペシャルエディション3部作"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "続篇『SEED DESTINY』やリメイク版『機動戦士ガンダムSEED HDリマスター』でも一部カットが流用されている(前者では4:3ノーマルの画面比に合わせて16:9部分の原画の左右を、後者では同16:9部分のみをクロッピングした状態)。",
"title": "スペシャルエディション3部作"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2019年10月25日に機動戦士ガンダム40周年プロジェクト『ガンダム映像新体験TOUR』として『虚空の戦場 HDリマスター』を大型スクリーン規格ULTIRA劇場上映、2020年2月7日には『スペシャルエディションII 遥かなる暁 HDリマスター』を上映。",
"title": "スペシャルエディション3部作"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2002年10月5日の番組放送から10周年を数えた2011年10月に発表され始まった、続編『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』も含めたリマスタリングを中心とするリバイバル企画の総称。",
"title": "HDリマスタープロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "正式タイトルは『機動戦士ガンダムSEED HDリマスター』となっており、TVシリーズ(以下、この節では「本放送版」と表記)とはあくまでも別作品扱いとなっている。また、製作クレジットは「サンライズ」のみで著作権表示は「©創通・サンライズ」「©2002,2011 SUNRISE INC.」となっている。",
"title": "HDリマスタープロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "SD素材の再撮影またはアップコンバートといった本来のHDリマスターとは異なり、画面アスペクト比を4:3ノーマル・サイズの原画から上下部分をカットした16:9ワイド・サイズでの高精細度=High Definition(ハイデフィニション)化とリニアPCM音源化などを施して新撮され、一部音楽のリミックス版採用や後半のエンディングの差し替え、新作カットとの差し替え・部分的加筆、各エフェクト・背景などの処理変更、本放送版・VHS&DVD版(以下「原典」)およびスペシャルエディション3部作、そして『DESTINY』とのセル画の統合・再編集といった大幅な変更がされている。原典の第14話・第26話は未放送となり、「01.PHASE-01 偽りの平和」(略)「14.PHASE-15+ それぞれの孤独」「15.PHASE-16 燃える砂塵」(略)「24.PHASE-25 平和の国へ」「25.PHASE-27 果てなき輪舞」(略)「48.FINAL-PHASE 終わらない明日へ」などの話数表記に改定され、第24話(旧25話)を「平和の国へ」と改題した全48話構成となった。",
"title": "HDリマスタープロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ストーリー構成は本放送版に沿っているが、「14.PHASE-15+ それぞれの孤独」で第1話・第2話を回想しているシーンでは、第1部「虚空の戦場」でのコールドオープン(ラスティの出撃シーン)やメビウスゼロとシグーの交戦シーン(リニアガン斬りをしない決着描写)を、「38.PHASE-40 暁の宇宙へ」のエンディング映像には、第2部「遥かなる暁」のものを採用したりしている。また、「36.PHASE-38 決意の砲火」からムウが搭乗するようになったストライクが前編新規カットによるマルチプルアサルトストライカーを装備したパーフェクトストライクへと改定されたり、シホ・ハーネンフースが「39.PHASE-41 ゆれる世界」におけるカーペンタリア基地でのクルーゼ隊談話シーンに新規カットで追加されており、初登場のタイミングが変更されたりもしている。",
"title": "HDリマスタープロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "一方、続編の『DESTINY』への繋がりを意識した伏線も追加されており、「36.PHASE-38 決意の砲火」には『DESTINY』第1話におけるコールドオープンでの港へ走るシン・アスカと家族の1カットが挿入され、「39.PHASE-41 ゆれる世界」にはパトリックの演説中継シーンにアカデミー入学直後と思しきシン、ルナマリア・ホークとメイリン・ホークの姉妹、レイ・ザ・バレルが一堂に会している新規カットが加えられるなどしている。細かい所ではオーブ解放作戦での対空砲や補給艦のカットや、フリーダムのクスィフィアス レール砲の射撃シーンが追加・差し替えなどで流用されている。",
"title": "HDリマスタープロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2011年12月23日から公式ウェブサイト(バンダイチャンネル)・バンダイナムコライブTVなどのインターネット動画で先行配信され、次いで年明け2012年1月1日にBS11で衛星放送、翌々日の3日にTOKYO MXで地上波放送がスタートし、最終話後からは「HDリマスターセレクション」と題し視聴者人気投票などで上位を獲得したエピソードのスポット再放送が行われた。",
"title": "HDリマスタープロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "商業展開では、バンダイのプラモデル 1/144スケール HG SEED HGシリーズのリニューアルおよび新規キットの発売、ビクターから発売された主題歌・挿入歌をリメイクした「Reunion Series」のCD・ダウンロード販売、コミカライズ版の連載などが行われている。",
"title": "HDリマスタープロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "スタッフも「リマスター・スタッフ」としてエンディングクレジットに別記されており、「HDリマスタリング」など原典では存在しなかった役職もある。",
"title": "HDリマスタープロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "HDリマスター版の展開以降、現在はCS放送やインターネットの動画配信サイト・ローカル局での放送でもこちらの素材が標準となっており、本放送版の視聴手段が少なくなっている。",
"title": "HDリマスタープロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "映像ソフトはBlu-ray BOXシリーズとして全4巻でリリース。",
"title": "HDリマスタープロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "本放送版との違いとしては、第1期オープニングがPHASE-03から描き直された後期バージョンでの統一化、監督の福田己津央や主要キャラクターの声優陣によるオーディオコメンタリー、「AFTER-PHASE 星のはざまで」の収録などが挙げられる。DVD版に比べ廉価的な要素はなく、新作アニメ4クールとほぼ変わらないフルプライスであった。",
"title": "HDリマスタープロジェクト"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2006年に発表されて以降続報がなかったが、2021年に放送20周年を記念した新プロジェクト「GUNDAM SEED PROJECT ignited」の中心企画として改めて製作が告知された。その後、2023年7月2日、テレビアニメ『機動戦士ガンダム水星の魔女 Season2』最終話の放送直後に、新作映画『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』(きどうせんしガンダムシード フリーダム)と題して2024年1月26日に劇場公開される旨が発表された。",
"title": "劇場版"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "『機動戦士ガンダムSEED』の本放送当時は、ED後に女優上戸彩の主演によるプラモデルCMが放送されていた。この放送CMを集めた映像ソフトとして、『上戸彩 in GUNDAM PLA-MODEL CM』が誌上通販で発売されている。",
"title": "コマーシャル"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "一部に性的・残虐な描写があり、ベッドシーンを匂わせるシーンについてBPOに一度回答を求められたことがある。",
"title": "備考"
}
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『機動戦士ガンダムSEED』は日本のアニメ作品。毎日放送テレビ(MBSテレビ)製作により、TBS系列で2002年10月5日から2003年9月27日にかけて全50話が放送された。『ガンダムシリーズ』の1つに属するロボットアニメで、主な略称は『SEED』(シード)。2004年には本作の直接的な続編として『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』が製作されている。 キャッチフレーズは 「“ 決闘(デュエル)・暴風(バスター)・電撃(ブリッツ)・盾(イージス)・攻撃(ストライク) 五機のガンダム現る!! ”」。
|
{{半保護}}
{{Infobox animanga/Header
|タイトル=機動戦士ガンダムSEED
|ジャンル=[[ロボットアニメ]]
}}
{{Infobox animanga/TVAnime
|原作=[[矢立肇]]、[[富野由悠季]]
|監督=[[福田己津央]]
|シリーズ構成=[[両澤千晶]]
|キャラクターデザイン=[[平井久司]]
|メカニックデザイン=[[大河原邦男]]、[[山根公利]]
|音楽=[[佐橋俊彦]]
|アニメーション制作=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]
|製作=[[毎日放送テレビ]]、サンライズ
|放送局=毎日放送テレビ・[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]
|放送開始={{Flagicon|Japan}} [[2002年]][[10月5日]]
|放送終了=[[2003年]][[9月27日]]{{Plainlist|
* {{Flagicon|Taiwan}} [[2003年]][[10月11日]] - [[2004年]][[10月2日]]
* {{Flagicon|USA}} [[2004年]][[4月17日]] - [[2005年]][[4月15日]]
* {{Flagicon|Hong Kong}} [[2004年]][[6月15日]] - [[12月9日]]
}}
|話数=全50話
}}
{{Infobox animanga/Footer
|ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:アニメ|アニメ]]
|ウィキポータル=[[Portal:アニメ|アニメ]]
}}
『'''機動戦士ガンダムSEED'''』(きどうせんしガンダムシード、'''MOBILE SUIT GUNDAM SEED''')は[[日本]]の[[テレビアニメ|アニメ]]作品。[[毎日放送テレビ]](MBSテレビ)製作により、[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]で[[2002年]][[10月5日]]から[[2003年]][[9月27日]]にかけて全50話が放送された。『[[ガンダムシリーズ一覧|ガンダムシリーズ]]』の1つに属する[[ロボットアニメ]]で、主な略称は『'''SEED'''』(シード)。2004年には本作の直接的な続編として『[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]』が製作されている。
キャッチフレーズは 「“ '''決闘(デュエル)・暴風(バスター)・電撃(ブリッツ)・盾(イージス)・攻撃(ストライク) 五機のガンダム現る!! '''”」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sunrise-inc.co.jp/work/detail.php?cid=153 |title=機動戦士ガンダムSEED |publisher=サンライズ |work=作品紹介 |accessdate=2021-08-18}}</ref>。
== 概要 ==
本作はサンライズ第9スタジオが「新しい世代に向けた、新たなスタンダードとなりうるガンダム」「新世紀(21世紀)のファーストガンダム」<ref name="src-fukuda">{{Wayback |url=http://www.gundam-seed.net:80/special/interview/inter_01.html |title=スペシャルインタビュー 福田己津央が語るガンダムSEED |date=20070703091348 }}</ref><ref name="視聴率">{{Cite web|和書|url=https://mantan-web.jp/article/20231004dog00m200011000c.html|title=機動戦士ガンダムSEED FREEDOM:第3弾PVにMS続々 ライジングフリーダム、イモータルジャスティス 新勢力? 謎の編隊も|publisher=まんたんウェブ|date=2023-10-05|accessdate=2023-10-11}}</ref>を目指し制作された。ガンダムシリーズでは初のデジタル制作によるVTR映像のテレビシリーズである。
タイトルには「種子」以外に「[[遺伝子操作]]」や「発端」という意味も含まれており<ref>『ロマンアルバム 機動戦士ガンダムSEED ストライク編』 、スタッフインタビュー。</ref>、さらに頭文字のSには「ガンダム'''ズ'''」の意味もある<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[月刊ニュータイプ]] |issue=2002年9月号 |publisher=[[角川書店]] |pages=18-19}}</ref>。なお、ガンダムシリーズの通例になっていた主人公の搭乗機=タイトルの法則にはなっておらず、その代わりに「[[SEED (ガンダムシリーズ)|SEED]]」と略記される未知の突然変異遺伝子の設定を反映している。また、サンライズの[[宮河恭夫]]とバンダイナムコゲームスの[[鵜之澤伸]]の案<ref>{{Cite journal |和書 |journal=週刊ダイヤモンド |issue=2012年5月12日号 |publisher=[[ダイヤモンド社]] |pages={{要ページ番号|date=2021年8月}} }}</ref>によって、サンライズ原作のガンダム作品で初めてタイトルに「機動戦士」の冠語がつけられた。
過去の作品で複数のガンダムが敵軍・自軍に分かれて登場したのと同様、本作でも10機以上のガンダムが登場するが、本作の劇中では「[[ガンダムタイプ#『機動戦士ガンダムSEED』シリーズ|ガンダム]]」という言葉を主人公の[[キラ・ヤマト]]個人が自らの搭乗機に名付けたペットネームとして描いており<ref>{{Cite book |和書 |author=後藤リウ|authorlink=後藤リウ |others=[[矢立肇]]、[[富野由悠季]](原作) |year=2003 |title=機動戦士ガンダムSEED |volume=2 |publisher=角川書店 |series=[[角川スニーカー文庫]] |pages={{要ページ番号|date=2021年8月}} |isbn=4-04-429102-0}}</ref>、彼の搭乗した[[ストライクガンダム]]と[[フリーダムガンダム]]に対して「ガンダム」と呼称された以外では、この言葉を劇中で用いていない。
映像ソフトは[[2003年]]3月28日から[[VHS]][[磁気テープ|ビデオカセット]]版と[[DVD]]版の2種で全13巻がリリースされ、DVD版は累計140万枚以上の売り上げを記録した。[[2010年]]2月23日にはTV全50話のDVD-BOX、2011年2月25日には続編とスペシャルエディションの全作品を含めたDVD-BOXが発売された。
従来のガンダムシリーズの[[ファン]]に加え、多くの[[女性]]層のファンも獲得した<ref name="視聴率" />。[[ガンプラ]]([[プラモデル]])の売り上げも好調で、[[小学生]]を中心に“第二次ガンプラブーム”を巻き起こした<ref name="視聴率" />。関連グッズ、同時期にメディアミックスで展開された『[[機動戦士ガンダムSEED ASTRAYシリーズ|機動戦士ガンダムSEED ASTRAY]]』や『[[ガンダムSEED MSV]]』も人気を博した。[[2004年]]に[[東京アニメアワード]]でアニメーションオブザイヤー<ref group="注">公開メディア別に最優秀賞を決定した年(2003・2014年)を除けばテレビアニメでは唯一の受賞。</ref>とテレビ部門の優秀作品賞の2冠を受賞している。また、[[角川書店]]の『[[月刊ニュータイプ]]』[[2006年]]9月号で応募・集計された「最新最強ベストアニメ100」では、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』と共に第1位に選ばれた。[[2018年]]に行われた『[[発表!全ガンダム大投票|発表!全ガンダム大投票 40th]]』では、第3位に選ばれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/anime/gundam/ranking/|title=発表!全ガンダム大投票 40th 投票結果発表!|publisher=NHK|date=2018-05-05|accessdate=2023-09-25}}</ref>。
従来のガンダム作品の版権管理は創通とサンライズが共同で管理されていたが、本作より製作局である毎日放送もそれに加わり、[[著作権表示]]は「©創通・サンライズ・毎日放送」「©2002 SUNRISE INC」だった。2010年以降は毎日放送が外され、SEEDシリーズの版権管理は従来通り2社での管理に戻る。
[[デジタル放送]]に移行してからの[[2011年]]10月に「[[#HDリマスタープロジェクト|HDリマスタープロジェクト]]」を発表。『機動戦士ガンダムSEED HDリマスター』としてリメイクされ、同年12月23日からのウェブサイト上インターネット動画配信を皮切りに、翌[[2012年]]1月1日からは衛星放送の[[日本BS放送|BS11]]系列、1月3日からは地上波放送の[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]系列の2局でデジタルテレビ放送が、3月23日からは[[Blu-ray Disc|Blu-ray]] BOXシリーズがリリースされている。
== 作品のテーマ ==
{{出典の明記|section=1|date=2017年11月}}
監督の福田が公式サイトのインタビューにおいて2004年9月25日付で語るところによれば、『ガンダムSEED』シリーズ第1作は、「キラとアスランを主人公に据えて『[[非戦]]』というテーマを描いた」とのことである<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.gundam-seed-d.net/event/ |title=福田監督インタビュー |website=機動戦士ガンダムSEED DESTINY 公式 |accessdate=2021-08-18}}</ref>。また、同年12月10日に同インタビューで、2作目『[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]』についてエグゼクティブプロデューサーの[[竹田青滋]]も、「前作から引き続き非戦ということを訴え続けるつもりである」と述べている。加えて竹田は、「再選を果たしたアメリカの[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が[[ファルージャ]]での掃討作戦を展開し、ますます混迷を深める[[イラク]]情勢」についても述べ、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』を観ることで「視聴者が世界情勢を少しでも自分の身にひきつけて考えてもらえるようになれば」とも語っていた。
なお、福田はストーリーやテーマ的なことは両津が担当していたと語っている<ref>{{Cite book|和書|title=機動戦士ガンダムSEED 20周年記念オフィシャルブック|publisher=株式会社バンダイナムコフィルムワークス|date=2023年4月|page=117}}</ref>。
== 製作エピソード ==
2002年に放送開始した『機動戦士ガンダムSEED』(以下、『SEED』)であるが、企画は2000年の10月には既に存在したという<ref name="of-1-24">{{Cite book|和書|title=機動戦士ガンダムSEED オフィシャルファイル メカ編vol.1|publisher=講談社|date=2003年2月|page=24|ISBN=4-06-334678-1}}</ref>。監督である福田己津央はインタビューにおいて、従来のガンダムシリーズからよりターゲット年齢層を下げた作品を意識したと語っている<ref name="of-1-24"/>。また、[[ウルトラマンシリーズ]]や[[仮面ライダーシリーズ]]が時代ごとにその都度に合わせた作品作りをしていたことや、ガンダムシリーズそのものが既に『[[機動武闘伝Gガンダム]]』のように新機軸の作品が存在したことから、『[[機動戦士ガンダム]]』との共通項を持ちつつも時代に合わせた作品を作る方針になったという<ref name="of-1-24"/>。また、福田は後年のインタビューにおいては9.11テロの影響を受け、米軍の中で戦うイスラム兵士というコンセプトから『SEED』の主人公像を形成したと語っている{{Sfn|メカニック&ワールド|2012|pp=263-269}}。登場するメカニックが電力駆動するという設定は福田がかつて監督を務めた『[[GEAR戦士電童]]』の影響があり、ガンダムという機体の扱いに関しては、搭乗するキャラクターの象徴としての側面を重視したという{{Sfn|メカニック&ワールド|2012|pp=263-269}}。また、福田は製作にあたっては自身が以前に監督を務めていた作品である『GEAR戦士電童』から継続したスタッフで固めていたことと、当時サンライズの社長であった吉井孝幸とMBSのプロデューサーである[[竹田青滋]]が環境作りに尽力し、『SEED』のヒットを支えたと語っている<ref>{{Cite book|和書|title=機動戦士ガンダムSEED オフィシャルファイル キャラ編vol.4|publisher=講談社|date=2003年11月|pages=28-29|isbn=4-06-334807-5}}</ref>。
また、本作放送当時にバンダイにてプラモデル担当として携わった狩野義弘はインタビューに際し、メカニック展開において5体編成のガンダムが登場した点に関しては『[[新機動戦記ガンダムW]]』の影響によるものだと語っている<ref>{{Cite book|和書|title=機動戦士ガンダムSEED ASTRAY Re:Master Edition 5|publisher=[[KADOKAWA]]|date=2013年7月|page=163|isbn=978-4-04-120791-8}}</ref>。
一方で、設定を担当した[[森田繁]]はインタビューに際し、直前に放送していた『[[∀ガンダム]]』が商業的に不振に終わったことから、より商業的な成功を重視するよう各方面からの圧力がかけられていたと語っている{{Sfn|メカニック&ワールド|2012|pp=276-277}}。また、製作当時ガンダムのホビー人口におけるファン年齢層が上がっていたことを受け、本作では小中学生への訴求を重視するようオーダーがあったという{{Sfn|メカニック&ワールド|2012|pp=276-277}}。なお、『SEED』ではコーディネイターとナチュラルという遺伝子による対立構図が描かれたが、この発案はプロデューサーの竹田青滋だという{{Sfn|メカニック&ワールド|2012|pp=276-277}}。また、森田は『∀』の製作途中に『SEED』の企画に参加し、『∀』がSFとしての色合いから裏設定が増えたのに対し、『SEED』では監督である福田からは映像での描写に説明付ける設定制作を依頼されていたと語っている。また、アフレコの現場で設定面の監修も行っていたことから、自らの所有する脚本に加筆しながらガヤに専門用語を入れていたとしている<ref>{{Cite book|和書|title=グレートメカニックG 2019 SPRING|publisher=[[双葉社]]|date=2019年3月|pages=84-85|isbn=978-4-575-46514-3}}</ref>。
設定製作を担当した下村敬治はコラムにおいて、当初は『ガンダムSAGA』というタイトル案も存在したとしている。また、打ち合わせの際には『[[海底軍艦]]』や平成「[[仮面ライダーシリーズ]]」といった特撮作品や、『[[機甲戦記ドラグナー]]』の話題がたびたび見られたという<ref>{{Cite book|和書|title=機動戦士ガンダムSEED RGB ILUSTRATIONS|publisher=角川書店|date=2004年8月|pages=59,61|isbn=4-04-853763-6}}</ref>。
世界観設定を担当した[[吉野弘幸 (脚本家)|吉野弘幸]]はインタビューに際し、『SEED』は複数あったガンダム次回作の企画書から福田たちが提出したものが採用された。シナリオの製作においては大河ドラマや少女漫画の影響が存在したと語っている{{Sfn|メカニック&ワールド|2012|pp=282-289}}。
プロデューサーを務めた古澤文邦はインタビューに際し、作品名の本決定以前には10体のガンダムが登場することから「ガンダムズ」といった名称も候補に挙がっていたとしている(同名のバーが既に存在しなかったことから、この案は見送られた)。また、古澤は他のインタビューにおいてはキャラクター、メカニックのデザインにおいて5、6人のオーディションを通して決定したと語っている<ref>{{Cite book|和書|title=ロマンアルバム 機動戦士ガンダムSEED ストライク編|publisher=徳間書店|date=2003年7月|page=105|isbn=4-19-720226-1}}</ref>。
本作の脚本は他のシナリオライターが提出したものをシリーズ構成の[[両澤千晶]]が練り直す方式をとっており、該当話数では連名となったという<ref>{{Cite book|和書|title=機動戦士ガンダムSEED オフィシャルファイル ドラマ編Vol.01|publisher=講談社|date=2003年7月|page=39|ISBN=978-4-06-334747-0}}</ref>。また、森田と吉野によれば、本読みをやって方向性が固まった話が翌週の本読みで監督たちが来ると全てひっくり返ることが何度もあったとしている。その理由として、家庭内で本読みが先に進んでいるために福田が両澤に対して時間に関係なく要望を述べていたためと語っている<ref>{{Cite book|和書|title=機動戦士ガンダムSEED 20周年記念オフィシャルブック|publisher=株式会社バンダイナムコフィルムワークス|date=2023年4月|page=121}}</ref>。
メカニックデザインを務めた[[大河原邦男]]は自著において、「SEED」当時においてプラモデルがガンダムシリーズ一作目『[[機動戦士ガンダム]]』以来のヒットであったことから、続編の『[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]』が製作されたと語っている<ref>{{Cite book|和書|title=メカニックデザイナーの仕事論 ヤッターマン、ガンダムを描いた職人|publisher=[[光文社]] |series=[[光文社新書]]|date=2015年8月|page=174|isbn=978-4-334-03874-8}}</ref>。
== あらすじ ==
<!-- 『機動戦士ガンダムSEED』アニメーション作品の記事であるため、ここでは派生作品や裏設定ではなく本編の物語としての内容を記述 -->
{{See also|コズミック・イラ#第1次連合・プラント大戦(C.E.70-72)}}
C.E.70年、プラントと「[[地球連合 (ガンダムシリーズ)|地球連合]]」において発生した戦争は農業用プラント・ユニウスセブンに核ミサイルが撃ち込またことで激化。物量で勝る地球連合軍の勝利で終わると予想されていた戦争は、膠着状態によって11か月が経過した。
C.E.71年、工学を専攻するコーディネイターの少年'''[[キラ・ヤマト]]'''は、中立国オーブのコロニー・ヘリオポリスで平和に暮らしていた。しかし、このコロニー内では[[地球連合軍の機動兵器|連合軍による5機のMSの開発]]と[[アークエンジェル (ガンダムシリーズ)|新造戦艦]]の建造が極秘裏に行われており、その情報を得たザフトのクルーゼ隊は独断で奪取作戦を開始する。日常は一変しコロニーは戦場へと変わり果てた。キラは逃げ惑ううちにMS工場へと辿り着き、連合兵とザフト兵の激しい銃撃戦に鉢合わせしてしまう。その中には、幼少の頃の親友の'''[[アスラン・ザラ]]'''がいたのだった。
思わぬ場所でキラと再会したアスランは、戸惑いながらもMS'''「[[イージスガンダム]]」'''を奪取。キラは居合わせた連合の技術士官'''[[マリュー・ラミアス]]'''に促されるまま、残された機体「'''[[ストライクガンダム]]'''」に搭乗し脱出を図る。しかし、待ち構えていたクルーゼ隊のMS・ジンとの戦闘に巻き込まれてしまう。最初はパイロットですらないマリューがアスランとの銃撃により腕を負傷した状態で操縦しており、徐々に窮地に追い込まれていくも、キラは絶体絶命の際に強引に操縦を代わり、未完成だった機体の[[オペレーティングシステム|OS]]を瞬時に書き換えるという離れ業をこなし、ジンを撃破する。
キラは無事脱出していた友人達と再会するが、戦闘はまだ続いていた。ストライクガンダムはキラにしか扱えないことから、マリューはコロニーからの脱出を成功させるためにも彼に出撃を要請する。キラも友人達を守るため、否応なくストライクガンダムに搭乗し、ザフトと戦っていく。宇宙での戦いを経て地球に降下し、連合軍の本部であるアラスカを目指すアークエンジェル。
だが、降り立った地に待ち構えたアンドリュー・バルドフェルドをはじめとする敵との戦いとそれによって知った絶滅戦争への可能性から、キラは次第に戦争に対する疑念を感じ始める。また、アスランも戦場にてオーブの姫である'''[[カガリ・ユラ・アスハ]]'''と出会い、衝突しつつも和解。[[プラント (ガンダムシリーズ)|プラント]]への核攻撃やその報復として地球に投下された[[ニュートロンジャマー]]を始めとする負の連鎖を語り、次第に惹かれあって行く。その一方で、クルーゼ隊の隊長である'''[[ラウ・ル・クルーゼ]]'''はザフト強硬派でありアスランの父でもあるパトリック・ザラと接近していく。
地上においてザフトとの攻防を繰り広げるアークエンジェル。その最中にアスランたちとの戦いでブリッツの搭乗者であるニコル・アマルフィが戦死。キラとアスランの関係に亀裂が生じ、激戦の末にストライクとイージスは相打ちとなる。キラやその仲間であるトール・ケーニヒらを失いつつもアークエンジェルは連合軍本部であるアラスカJOSH-Aに到着。一方、アスランとの激戦で負傷したキラはマルキオ導師の計らいでプラントの有力者の令嬢'''ラクス・クライン'''の元にいた。この時プラントの内政はパトリックが実権を握るに至っており、彼は大作戦「オペレーション・スピットブレイク」を地球連合本部を一網打尽にする掃討作戦へと強行した。仲間がいるであろうアラスカ攻撃の報せを受けたキラはこれに動じ、それに呼応したラクスはザフトの最新鋭モビルスーツである「'''[[フリーダムガンダム]]'''」(フリーダム)をキラに託す。
アラスカはザフトの総攻撃によって壊滅の危機にあり、これに違和感を覚えた'''ムゥ・ラ・フラガ'''は、成り行きによって地球連合軍(大西洋連邦)が超兵器「サイクロプス」を用いてザフトの地上軍攻撃と、組織内の不用者の処分を兼ねた自爆作戦を画策していると知る。ムゥから伝えられたマリューはこれを知り脱出を試みるが、ザフトの追撃が厳しく窮地に追い込まれる。そこへフリーダムを受け取ったキラが降り立ち、アークエンジェルを救援。マリューから内情を聞かされ、連合ザフト双方の兵員に撤退勧告を行う。だが、サイクロプスは起動しアラスカは崩壊。脱出に失敗した双方の兵員から莫大な死傷者を発生させる。これに業を煮やしたザフトはオペレーション・スピットブレイク本来の目標であったパナマを攻撃するが、戦争はエスカレートし、投降者までも殺害する絶滅戦争へと突入していく。
プラントではアラスカの作戦失敗の責を問われたパトリックが、ラクス・クラインのフリーダム強奪協力を理由に対地球穏健派議員を拘束。さらにはアスランに新型モビルスーツ「'''[[ジャスティスガンダム]]'''」(ジャスティス)を受領させ、奪取されたフリーダムとその目撃者の抹殺を命じる。こうした一連の流れで指名手配を受けていたラクスの父、前議長シーゲル・クラインは銃殺され、逃げのびたラクスも地下に潜伏しプラント市民へ反戦放送を行う。また、ラクスはアスランと遭遇し、彼に戦いの正義を問いかけるのだった。
アラスカからの脱出に成功したアークエンジェルは友軍を犠牲にする連合軍の戦いに疑念を感じ、オーブへと落ち延びる。だが、そのオーブも連合軍の軍需産業複合体のトップである'''ムルタ・アズラエル'''の謀略によって侵攻が開始される。自国戦力やフリーダムや修復されたストライク、味方となったバスターガンダム(バスター)、ラクスの問いかけとカガリの存在からザフトを離反したアスラン、ジャスティスらによって連合軍と激突するオーブであったが、防衛戦は突破されていき、オーブは残存兵力の一部や後継者であるカガリらを戦艦クサナギに載せて脱出させた後、戦場となったオノゴロ島を自爆。オーブの権力者であったウズミ・ナラ・アスハたちがここで死亡する。
宇宙へと脱出したアークエンジェル、クサナギはプラント国内でレジスタンスと化していた穏健派(クライン派)のエターナルとも合流(三隻同盟)。廃棄されたコロニー地帯メンデルに潜伏するが、ザフトのクルーゼ隊やアズラエルを擁する連合軍のドミニオンに追撃され、一進一退の攻防を繰り広げる。キラはそこでメンデルが自身の故郷であること、その出生の秘密やクルーゼとの因縁を知る。また、クルーゼは自身の出生から世界を憎悪し絶滅戦争へ誘導していた事が判明する。クルーゼの計らいもあり、一連の戦いで核分裂技術の再利用を可能にするニュートロンジャマーキャンセラーを入手したアズラエルは、これを核ミサイルに転用するよう強行採決。ザフトの前線防衛基地の一つであるボアズが、核攻撃によって陥落し、ザフトは防衛線を本国コロニー近隣の衛星要塞ヤキン・ドゥーエまで後退させる。
これに激怒したパトリックは最終兵器であるジェネシスの使用を決断。プラント本国への攻撃のため、核ミサイルを携え攻め入った連合軍、そして戦闘の停止を望む三隻同盟との三つ巴の戦いが開始される。ザフトはジェネシスの一斉射で地球連合軍を薙ぎ払い、さらに追撃で月面の連合軍基地であるプトレマイオス・クレーターを破壊。さらに次の照準を地球に定める。これに激怒したムルタ・アズラエルはプラントへの再核攻撃を命令するが、武力介入した三隻同盟によってこれが阻まれる。そして激戦の末、アズラエルは乗艦ドミニオンとともに死亡した。
それでも地球への照準を止めないジェネシスを停止させるために戦うキラの前に、ザフトのモビルスーツ「'''[[プロヴィデンスガンダム]]'''」(プロヴィデンス)とクルーゼが立ちはだかる。フリーダムとプロヴィデンスは激突し、クルーゼはキラに人類の負の側面を訴えかけるが、キラはこれを退けプロヴィデンスを撃破。爆発に飲み込まれ、フリーダムが大破する。時を同じくしてジャスティスの自爆によってジェネシスも破壊された。また、時を同じくしてザフト内ではパトリックが部下に射殺され、こうした混乱に乗じて拘束されていた穏健派議員が連合側に対し停戦を呼び掛ける。
クルーゼとの戦いで傷ついたキラは宇宙を漂う。そこへ脱出に成功したカガリとアスランが、ストライクルージュに乗って彼の元へ向かった。
== 登場人物 ==
{{Main2|主要人物はそれぞれの項、それ以外は「[[機動戦士ガンダムSEEDの登場人物]]」を}}
; [[地球連合 (ガンダムシリーズ)|地球連合軍]] / [[アークエンジェル (ガンダムシリーズ)|アークエンジェル]]
:* [[キラ・ヤマト]] (声 - [[保志総一朗]])
:* [[マリュー・ラミアス]] (声 - [[三石琴乃]])
:* [[ムウ・ラ・フラガ]] (声 - [[子安武人]])
:* [[ナタル・バジルール]] (声 - [[桑島法子]])
:* [[フレイ・アルスター]] (声 - 桑島法子)
:* [[機動戦士ガンダムSEEDの登場人物#サイ・アーガイル|サイ・アーガイル]] (声 - [[白鳥哲]])
:* [[機動戦士ガンダムSEEDの登場人物#ミリアリア・ハウ|ミリアリア・ハウ]] (声 - [[豊口めぐみ]])
:* [[機動戦士ガンダムSEEDの登場人物#ムルタ・アズラエル|ムルタ・アズラエル]] (声 - [[檜山修之]])
; [[プラント (ガンダムシリーズ)|プラント / ザフト]]
:* [[アスラン・ザラ ]] (声 - [[石田彰]])
:* [[ラウ・ル・クルーゼ]] (声 - [[関俊彦]])
:* [[イザーク・ジュール]] (声 - [[関智一]])
:* [[ディアッカ・エルスマン]] (声 - [[笹沼晃]])
:* [[ニコル・アマルフィ]] (声 - [[摩味]])
:* [[ラクス・クライン]] (声 - [[田中理恵 (声優)|田中理恵]])
:* [[アンドリュー・バルトフェルド]] (声 - [[置鮎龍太郎]])
; [[オーブ連合首長国]]
:* [[カガリ・ユラ・アスハ]] (声 - [[進藤尚美]])
== 登場兵器・用語 ==
{{Main|コズミック・イラの機動兵器|コズミック・イラの艦船及びその他の兵器|コズミック・イラの勢力|コズミック・イラの施設}}
== スタッフ ==
(オープニングクレジットより)
* 企画 - [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]
* 原作 - [[矢立肇]]、[[富野由悠季]]
* シリーズ構成 - [[両澤千晶]]
* キャラクターデザイン - [[平井久司]]
* チーフメカ作監 - [[重田智]]
* メカニックデザイン - [[大河原邦男]]、[[山根公利]]
* 美術監督 - [[池田繁美]]
* カラーコーディネーター - [[歌川律子]]、[[柴田亜紀子]]
* 撮影監督 - [[葛山剛士]]
* 編集 - [[森田清次]]
* 音響監督 - [[浦上靖夫]]
* 音楽 - [[佐橋俊彦]]
* 音楽プロデューサー - [[野崎圭一]]([[フライングドッグ]])、[[篠原廣人]]([[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]])、[[真野昇]]([[サンライズ音楽出版]])
* 監督 - [[福田己津央]]
* プロデューサー - [[竹田青滋]]([[毎日放送]]<ref group="注">HDリマスターでは「MBS」表記。</ref>)、[[古澤文邦]](サンライズ)
* 製作 - 毎日放送<ref group="注">HDリマスターでは非表示。</ref>、サンライズ
=== リマスター・スタッフ ===
* 監督・演出 - 福田己津央
* 作画監督 - 平井久司、重田智、[[米山浩平]]
* 美術監督 - 池田繁美
* 撮影監督 - 葛山剛士
* 音響監督 - [[藤野貞義]]
* 音響効果 - [[蔭山満]]([[フィズサウンドクリエイション]])
* リマスター音楽プロデューサー - 野崎圭一(フライングドッグ)、[[山田智子]](サンライズ音楽出版)
* プロデューサー - [[峯岸功]]、[[牧本佑紀]]([[バンダイビジュアル]])
== 主題歌 ==
『〜ReTracks』はいずれも、ボーカル部分はそのままで曲部分のみアレンジさせたもの。
=== オープニングテーマ ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!rowspan="2"|曲名!!colspan="2"|使用回!!rowspan="2"|作詞!!rowspan="2"|作曲!!rowspan="2"|編曲!!rowspan="2"|歌
|-
!原典!!HDリマスター
|-
|[[INVOKE|INVOKE -インヴォーク-]]||PHASE-01 - 13||01.PHASE-01 - 13.PHASE-13||[[井上秋緒]]||colspan="2"|[[浅倉大介]]||[[T.M.Revolution]]
|-
|[[moment (Vivian or Kazumaの曲)|moment]]||PHASE-14 - 26||14.PHASE-15+ - 24.PHASE-25||Vivian or Kazuma||colspan="2"|[[土橋安騎夫]]||Vivian or Kazuma
|-
|[[Believe (玉置成実の曲)|Believe]]||PHASE-27 - 40||25.PHASE-27 - 38.PHASE-40||西尾佐栄子||あおい吉勇||[[齋藤真也|斉藤真也]]||[[玉置成実]]
|-
|[[Realize (玉置成実の曲)|Realize]]||PHASE-41 - FINAL-PHASE||39.PHASE-41 - 48.FINAL-PHASE||[[BOUNCEBACK]]||[[大谷靖夫]]||荒井洋明、大谷靖夫||玉置成実
|}
=== エンディングテーマ ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!rowspan="2"|曲名!!colspan="2"|使用回!!rowspan="2"|作詞!!rowspan="2"|作曲!!rowspan="2"|編曲!!rowspan="2"|歌
|-
!原典!!HDリマスター
|-
|[[あんなに一緒だったのに]]||PHASE-01 - 26<br />虚空の戦場|| ||rowspan="2"|[[石川智晶|石川千亜紀]]||rowspan="2" colspan="2"|[[梶浦由記]]||rowspan="2"|[[See-Saw]]
|-
|あんなに一緒だったのに 〜ReTracks||||01.PHASE-01 - 26.PHASE-28
|-
|[[RIVER (石井竜也の曲)|RIVER]]||PHASE-27 - 39|| ||colspan="2"|[[石井竜也]]||渡辺善太郎||石井竜也
|-
|[[FIND THE WAY]]||PHASE-40 - FINAL-PHASE<br />鳴動の宇宙||44.PHASE-46、48.FINAL-PHASE||[[中島美嘉]]||Lori Fine (COLDFEET)||[[島健]]||中島美嘉
|-
|[[暁の車]]||遙かなる暁|| ||rowspan="2" colspan="3"|梶浦由記||rowspan="2"|[[FictionJunction YUUKA|FictionJunction featuring YUUKA]]
|-
|暁の車 〜ReTracks||||38.PHASE-40
|-
|[[Distance (FictionJunctionの曲)|Distance]]|| ||27.PHASE-29 - 37.PHASE-39<br />39.PHASE-41 - 43.PHASE-45<br />45.PHASE-47 - 47.PHASE-49||colspan="3"|梶浦由記||[[FictionJunction]]
|}
=== 挿入歌 ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!rowspan="2"|曲名!!colspan="2"|使用回!!rowspan="2"|作詞!!rowspan="2"|作曲!!rowspan="2"|編曲!!rowspan="2"|歌
|-
!原典!!HDリマスター
|-
|静かな夜に||PHASE-07・08・09・14<br />AFTER-PHASE、虚空の戦場|| ||rowspan="2"|梶浦由記||rowspan="2" colspan="2"|[[佐橋俊彦]]||rowspan="2"|[[ラクス・クライン]]([[田中理恵 (声優)|田中理恵]])
|-
|静かな夜に 〜ReTracks||||07.PHASE-07 - 09.PHASE-09<br />AFTER-PHASE
|-
|水の証||PHASE-36・41<br />遥かなる暁|| ||rowspan="2" colspan="3"|梶浦由記||rowspan="2"|ラクス・クライン(田中理恵)
|-
|水の証 〜ReTracks||||34.PHASE-36、39.PHASE-41
|-
|[[coordinate|Meteor -ミーティア-]]||PHASE-26・29・35・47<br />遥かなる暁||33.PHASE-35、45.PHASE-47||井上秋緒||colspan="2"|浅倉大介||T.M.Revolution
|-
|暁の車||PHASE-24・32・40
|| ||rowspan="2" colspan="3"|梶浦由記||rowspan="2"|FictionJunction featuring YUUKA
|-
|暁の車 〜ReTracks||||23.PHASE-24
|-
|[[SEVENTH HEAVEN (T.M.Revolutionのアルバム)|Zips]]||虚空の戦場|| ||井上秋緒||colspan="2"|浅倉大介||T.M.Revolution
|-
|INVOKE -インヴォーク-||鳴動の宇宙|| ||井上秋緒||colspan="2"|浅倉大介||T.M.Revolution
|}
== 各話リスト ==
* 話数、本放送日、サブタイトルは、左が旧放送版(原典)、右がHDリマスターのもの{{#tag:ref|公式ウェブサイトのINFORMATION 「機動戦士ガンダムSEED HDリマスター 各話リスト」 では 「頭に[[0]]を置かないアラビア数字と半ないし全角[[スペース]]」(1 PHASE-01、10 PHASE-10、48 PHASE-50など)、同サイトのBlu-ray BOX情報やバンダイチャンネルの 「各話あらすじ」 などでは 「頭に[[0]]を置くアラビア数字と半角の[[終止符]]+一部英語」(01.PHASE-01、48.FINAL-PHASE)という文体で表記されている。なお、本編内では話数表記は廃止されており単なるサブタイトル表記のみとなっている。|group="注"|name="hdsub"}}。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!colspan="2"|話数!!colspan="2"|本放送日!!rowspan="2"|サブタイトル!!rowspan="2"|脚本!!rowspan="2"|絵コンテ!!rowspan="2"|演出!!rowspan="2"|作画監督!!rowspan="2"|メカ作画監督
|-
!原典!!HD!!原典!!HD<ref group="注">TOKYO MXのもの。</ref>
|-
|PHASE-01||01.PHASE-01||'''2002年'''<br />10月5日||'''2012年'''
1月3日
|偽りの平和||rowspan="2"|[[両澤千晶]]||[[福田己津央]]||吉本毅||[[平井久司]]||重田智
|-
|PHASE-02||02.PHASE-02||10月12日||1月10日||その名はガンダム||colspan="2" style="text-align:center"|南康宏||[[大貫健一]]||ウエダヨウイチ
|-
|PHASE-03||03.PHASE-03||10月19日||1月17日||崩壊の大地||[[吉野弘幸 (脚本家)|吉野弘幸]]||菊池一仁||高田耕一||[[しんぼたくろう]]<br />([[中村プロダクション]])||{{Unbulleted list|高瀬健一|(中村プロダクション)}}
|-
|PHASE-04||04.PHASE-04||10月26日||1月24日||サイレントラン||[[遠藤明範]]||colspan="2" style="text-align:center"|[[菱川直樹]]||{{Unbulleted list|[[吉田徹]]|[[森下博光]]}}||style="text-align:center"|-
|-
|PHASE-05||05.PHASE-05||11月2日||1月31日||フェイズシフトダウン||{{Unbulleted list|こぐれ今日子|両澤千晶}}||黒木冬||吉本毅||[[山口晋 (アニメ演出家)|山口晋]]||阿部邦博
|-
|PHASE-06||06.PHASE-06||11月9日||2月7日||消えるガンダム||{{Unbulleted list|遠藤明範|両澤千晶}}||蜂巣忠太||南康宏||米山浩平||池田有
|-
|PHASE-07||07.PHASE-07||11月16日||2月14日||{{ruby|宇宙|そら}}の傷跡||吉野弘幸||colspan="2" style="text-align:center"|[[谷田部勝義]]||大貫健一||植田洋一
|-
|PHASE-08||08.PHASE-08||11月23日||2月21日||敵軍の歌姫||両澤千晶||菊池一仁||佐藤照雄||colspan="2" style="text-align:center"|佐久間信一
|-
|PHASE-09||09.PHASE-09||11月30日||2月28日||消えていく光||こぐれ今日子||黒木冬||三好正人||吉田徹||森下博光
|-
|PHASE-10||10.PHASE-10||12月7日||3月6日||分かたれた道||{{Unbulleted list|[[面出明美]]|両澤千晶}}||{{Unbulleted list|南康宏|福田己津央}}||西山明樹彦||米山浩平||池田有
|-
|PHASE-11||11.PHASE-11||12月14日||3月13日||目覚める刃||[[大野木寛]]||colspan="2" style="text-align:center"|高田耕一||山口晋||阿部邦博
|-
|PHASE-12||12.PHASE-12||12月21日||3月20日||フレイの選択||{{Unbulleted list|面出明美|両澤千晶}}||菱川直樹||[[鳥羽聡]]||colspan="2" style="text-align:center"|大貫健一
|-
|PHASE-13||13.PHASE-13||12月28日||3月27日||{{ruby|宇宙|そら}}に降る星||吉野弘幸||菊池一仁||佐藤照雄||colspan="2" style="text-align:center"|佐久間信一
|-
|PHASE-14{{#tag:ref|HDリマスターでは未放送。|group="注"|name="HD"}}||style="text-align:center"|-||'''2003年'''<br />1月4日||style="text-align:center"|-||果てし無き時の中で||{{Unbulleted list|吉野弘幸|両澤千晶}}||rowspan="2" colspan="2" style="text-align:center"|谷田部勝義||colspan="2" style="text-align:center"|平井久司
|-
|PHASE-15||14.PHASE-15+||1月11日||4月3日||それぞれの孤独||両澤千晶||米山浩平||池田有
|-
|PHASE-16||15.PHASE-16||1月18日||4月10日||燃える砂塵||[[森田繁]]||黒木冬||三好正人||森下博光||吉田徹
|-
|PHASE-17||16.PHASE-17||1月25日||4月17日||カガリ再び||{{Unbulleted list|面出明美|両澤千晶}}||南康宏||西山明樹彦||大貫健一||植田洋一
|-
|PHASE-18||17.PHASE-18||2月1日||4月27日||ペイバック||大野木寛||山口晋||鳥羽聡||山口晋||阿部邦博
|-
|PHASE-19||18.PHASE-19||2月8日||5月1日||宿敵の牙||吉野弘幸||colspan="2" style="text-align:center"|高田耕一||米山浩平||池田有
|-
|PHASE-20||19.PHASE-20||2月15日||5月8日||おだやかな日に||両澤千晶||黒木冬||関田修||colspan="2" style="text-align:center"|佐久間信一
|-
|PHASE-21||20.PHASE-21||2月22日||5月15日||砂塵の果て||森田繁||山口晋||三好正人||しんぼたくろう||高瀬健一
|-
|PHASE-22||21.PHASE-22||3月1日||5月22日||紅に染まる海||大野木寛||[[森邦宏]]||西山明樹彦||森下博光||吉田徹
|-
|PHASE-23||22.PHASE-23||3月8日||5月29日||運命の出会い||{{Unbulleted list|[[野村祐一]]|両澤千晶}}||colspan="2" style="text-align:center"|谷田部勝義||大貫健一||植田洋一
|-
|PHASE-24||23.PHASE-24||3月15日||6月5日||二人だけの戦争||{{Unbulleted list|こぐれ今日子|両澤千晶}}||[[大橋誉志光]]||鳥羽聡||米山浩平||池田有
|-
|PHASE-25||24.PHASE-25||3月22日||6月12日||平和の国<ref group="注">HDリマスターでは「平和の国へ」。</ref>||吉野弘幸||{{Unbulleted list|高田耕一|福田己津央}}||高田耕一||山口晋||[[大森英敏]]<br />永田正美
|-
|PHASE-26<ref group="注" name="HD" />||style="text-align:center"|-||3月29日||style="text-align:center"|-||モーメント||rowspan="2"|{{Unbulleted list|森田繁|両澤千晶}}||colspan="4" style="text-align:center"|{{Unbulleted list|編集/構成:秋廣泰生|演出:福田己津央}}
|-
|PHASE-27||25.PHASE-27||4月12日||6月19日||果てなき{{ruby|輪舞|ロンド}}||colspan="2" style="text-align:center"|谷田部勝義||colspan="2" style="text-align:center"|平井久司
|-
|PHASE-28||26.PHASE-28||4月19日||6月26日||キラ||両澤千晶||[[松尾衡]]||関田修||しんぼたくろう||高瀬健一
|-
|PHASE-29||27.PHASE-29||4月26日||7月3日||さだめの{{ruby|楔|くさび}}||森田繁||山口晋||三好正人||森下博光||吉田徹
|-
|PHASE-30||28.PHASE-30||5月3日||7月10日||閃光の{{ruby|刻|とき}}||{{Unbulleted list|野村祐一|両澤千晶}}||松園公||鳥羽聡||大貫健一||植田洋一
|-
|PHASE-31||29.PHASE-31||5月10日||7月17日||{{ruby|慟哭|どうこく}}の空||{{Unbulleted list|大野木寛|両澤千晶}}||松尾衡||西山明樹彦||米山浩平||池田有
|-
|PHASE-32||30.PHASE-32||5月17日||7月24日||約束の地に||{{Unbulleted list|こぐれ今日子|両澤千晶}}||西澤晋||高田耕一||山口晋||阿部邦博
|-
|PHASE-33||31.PHASE-33||5月24日||7月31日||闇の胎動||{{Unbulleted list|森田繁|両澤千晶}}||菱川直樹||関田修||しんぼたくろう||高瀬健一
|-
|PHASE-34||32.PHASE-34||5月31日||8月7日||まなざしの先||{{Unbulleted list|野村祐一|両澤千晶}}||松尾衡||井之川慎太郎||森下博光||吉田徹
|-
|PHASE-35||33.PHASE-35||6月7日||8月14日||舞い降りる{{ruby|剣|つるぎ}}||rowspan="2"|{{Unbulleted list|吉野弘幸|両澤千晶}}||{{Unbulleted list|谷田部勝義|山口晋}}||谷田部勝義||大貫健一||植田洋一
|-
|PHASE-36||34.PHASE-36||6月14日||8月21日||正義の名のもとに||[[米たにヨシトモ]]||三好正人||米山浩平||池田有
|-
|PHASE-37||35.PHASE-37||6月21日||8月28日||神のいかずち||{{Unbulleted list|大野木寛|両澤千晶}}||西澤晋||鳥羽聡||山口晋||阿部邦博
|-
|PHASE-38||36.PHASE-38||6月28日||9月4日||決意の砲火||{{Unbulleted list|吉野弘幸|両澤千晶}}||{{Unbulleted list|とくしまひさし|[[久行宏和]]}}||西山明樹彦||しんぼたくろう||高瀬健一
|-
|PHASE-39||37.PHASE-39||7月5日||9月11日||アスラン||{{Unbulleted list|野村祐一|両澤千晶}}||{{Unbulleted list|高田耕一|松園公}}||高田耕一||森下博光||吉田徹
|-
|PHASE-40||38.PHASE-40||7月12日||9月18日||暁の{{ruby|宇宙|そら}}へ||rowspan="2"|{{Unbulleted list|大野木寛|両澤千晶}}||米たにヨシトモ||関田修||大貫健一||植田洋一
|-
|PHASE-41||39.PHASE-41||7月19日||9月25日||ゆれる世界||とくしまひさし||谷田部勝義||米山浩平||池田有
|-
|PHASE-42||40.PHASE-42||7月26日||10月2日||ラクス出撃||{{Unbulleted list|吉野弘幸|両澤千晶}}||西澤晋||井之川慎太郎||山口晋||阿部邦博
|-
|PHASE-43||41.PHASE-43||8月2日||10月9日||立ちはだかるもの||{{Unbulleted list|森田繁|両澤千晶}}||{{Unbulleted list|松尾衡|久行宏和}}||三好正人||しんぼたくろう||高瀬健一
|-
|PHASE-44||42.PHASE-44||8月9日||10月16日||{{ruby|螺旋|らせん}}の{{ruby|邂逅|かいこう}}||{{Unbulleted list|吉野弘幸|両澤千晶}}||とくしまひさし||鳥羽聡||森下博光||吉田徹
|-
|PHASE-45||43.PHASE-45||8月16日||10月23日||開く扉||rowspan="2"|両澤千晶||西澤晋||西山明樹彦||大貫健一||植田洋一
|-
|PHASE-46||44.PHASE-46||8月30日||10月30日||たましいの場所||{{Unbulleted list|久行宏和|とくしまひさし}}||高田耕一||米山浩平||池田有
|-
|PHASE-47||45.PHASE-47||9月6日||11月6日||悪夢は再び||rowspan="3"|{{Unbulleted list|吉野弘幸|両澤千晶}}||とくしまひさし||関田修||colspan="2" style="text-align:center"|佐久間信一
|-
|PHASE-48||46.PHASE-48||9月13日||11月13日||怒りの日||{{Unbulleted list|とくしまひさし|谷田部勝義}}||谷田部勝義||山口晋||阿部邦博
|-
|PHASE-49||47.PHASE-49||9月20日||11月20日||終末の光||西澤晋||鳥羽聡||しんぼたくろう||高瀬健一
|-
|FINAL-PHASE||48.FINAL-PHASE||9月27日||11月27日||終わらない{{ruby|明日|あす}}へ||両澤千晶||{{Unbulleted list|米たにヨシトモ|福田己津央}}||三好正人||{{Unbulleted list|大貫健一|森下博光}}||{{Unbulleted list|植田洋一|吉田徹}}
|-
|colspan="2" style="text-align:center"|AFTER-PHASE{{#tag:ref|バンダイチャンネルなどのインターネット無料ライブ配信の最終話(2012年11月23日分)と、Blu-ray BOX最終巻に収録された編集版。[[イザーク・ジュール]]の衣装がプラント文官議員のものからザフトの指揮官級(『DESTINY』における白服)に変わっている、などの変更点がある。|group="注"|name="hdaf"}}||colspan="2" style="text-align:center"|未放送{{#tag:ref|DVD第13巻映像特典OVA<ref>{{Cite web|和書|title=バンダイビジュアル公式サイト|url=https://www.bandaivisual.co.jp/cont/item/BCBA-1590/||publisher= [[バンダイビジュアル]]|accessdate=2016-10-08}}</ref>。|group="注"|name="13OVA"}}||星のはざまで||style="text-align:center"|-||福田己津央||高田昌宏||平井久司||style="text-align:center"|-
|}
== 放送局 ==
* [[視聴率]]は最高で8.0%を記録<ref name="視聴率" />。平均6.2%であり、[[平成]]以降のガンダムシリーズではトップクラスであった。本作以降[[毎日放送制作土曜夕方6時枠のアニメ]](通称'''土6''')はアニメ枠として定着し、以降も後番組『[[鋼の錬金術師 (アニメ)|鋼の錬金術師]]』や続編『[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]』などのヒット作を輩出することとなる<ref>{{Cite news |和書 |title=TBS 春の番組改編 「土6」枠移動「日5」へ |newspaper=アニメ!アニメ! |date=2008-02-06 |url=https://animeanime.jp/article/2008/02/06/2742.html |accessdate=2021-08-18}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=土6アニメ、「地球(テラ)へ…」がTV放送後に無料BB配信 |newspaper=[[Impress Watch|AV Watch]] |date=2007-04-05 |url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20070405/terra.htm |accessdate=2021-08-18}}</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!放送対象地域!!放送局!!放送時間!!系列
!ネット状況!!備考
|-
|[[近畿地方|近畿広域圏]]||[[毎日放送テレビ]](MBSテレビ)||rowspan="20"|土曜 18:00 - 18:30||rowspan="28"|[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]
| colspan="2" |'''製作局'''
|-
|[[北海道]]||[[北海道放送]]
| rowspan="19" |同時ネット||<ref group="注">本枠で放送されていた『[[新伍のワガママ大百科|ワガママ大百科]]』が遅れネットに降格してから9年半ぶりに同時ネット復帰となった。</ref>
|-
|[[岩手県]]||[[IBC岩手放送]]||
|-
|[[宮城県]]||[[東北放送]]||
|-
|[[山形県]]||[[テレビユー山形]]||
|-
|[[福島県]]||[[テレビユー福島]]||
|-
|[[関東地方|関東広域圏]]||[[TBSテレビ|東京放送]]||<ref group="注">現:TBSテレビ</ref>
|-
|[[山梨県]]||[[テレビ山梨]]||
|-
|[[新潟県]]||[[新潟放送]]||
|-
|[[富山県]]||[[チューリップテレビ]]||
|-
|[[鳥取県]]・[[島根県]]||[[山陰放送]]||
|-
|[[山口県]]||[[テレビ山口]]||
|-
|[[愛媛県]]||[[あいテレビ]]||
|-
|[[高知県]]||[[テレビ高知]]||
|-
|[[福岡県]]||[[RKB毎日放送]]||
|-
|[[長崎県]]||[[長崎放送]]||
|-
|[[熊本県]]||[[熊本放送]]||
|-
|[[大分県]]||[[大分放送]]||
|-
|[[宮崎県]]||[[宮崎放送]]||
|-
|[[沖縄県]]||[[琉球放送]]||
|-
|[[東海3県|中京広域圏]]||[[中部日本放送]](CBCテレビ)||土曜 17:00 - 17:30
| rowspan="8" |遅れネット||<ref group="注">自社制作の『[[天才クイズ]]』を放送していた関係から、他の遅れネット局よりさらに30分早い17:00 - 17:30での放送。このパターンは『[[料理天国]]』を放送していた頃から踏襲されていた。</ref><ref group="注">現:CBCテレビ</ref>
|-
|[[青森県]]||[[青森テレビ]]||rowspan="7"|土曜 17:30 - 18:00||
|-
|[[長野県]]||[[信越放送]]||
|-
|[[石川県]]||[[北陸放送]]||
|-
|[[静岡県]]||[[静岡放送]]||
|-
|[[岡山県・香川県の放送|岡山県・香川県]]||[[RSKテレビ|山陽放送]]||<ref group="注">現:RSK山陽放送</ref>
|-
|[[広島県]]||[[中国放送]]||
|-
|[[鹿児島県]]||[[南日本放送]]||
|}
=== HDリマスター 配信サイト・放送局 ===
{{節stub}}
* 下記のほか、[[アニマックス]]などの有料放送局上でも放送ソースはHDリマスター版が用いられる。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!放送地域!!放送局!!放送期間!!放送日時!!放送系列!!備考
|-
|rowspan="3"|[[全国放送|日本全域]]||ガンダムSEED<br />HDリマスタープロジェクト<br />公式サイト||rowspan="2"|2011年12月23日 - 2012年11月23日||rowspan="2"|金曜 23:00 更新<ref group="注">有料の「月額1,000円見放題」サービス加入者に限り正午12:00 - 12:30間に先行配信を視聴できた。</ref>||rowspan="2"|[[インターネットテレビ|ネット配信]]||[[バンダイチャンネル]]のリンク形式
|-
|[[バンダイナムコライブTV]]||
|-
|[[日本BS放送|BS11]]||2012年1月1日 - 11月25日||日曜 19:30 - 20:00||[[日本における衛星放送#BSデジタル放送|BS放送]]||[[アニメ+]]枠
|-
|[[東京都]]||[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]||2012年1月3日 - 11月27日||火曜 22:29 - 22:59||rowspan="2"|[[全国独立放送協議会|独立局]]||
|-
|[[兵庫県]]||[[サンテレビジョン|サンテレビ]]||2022年1月15日 - 12月10日||土曜 23:30 - 24:00||
|}
== スペシャルエディション3部作 ==
テレビシリーズ全50話(以下'''原典''')を再構成し、一部に新作カットを追加した特別総集篇。PHASE-01 - 21までを描いた「虚空の戦場」、同22 - 40までの「遥かなる暁」、同41 - FINAL-PHASEまでの「鳴動の宇宙(そら)」の3部作で構成されている。
画面アスペクト比は4:3ノーマル・サイズのままで16:9ワイド状になるよう原画の上下部分をクロッピングしている[[画面アスペクト比#テレビの画面サイズ|4:3]][[レターボックス (映像技術)|レターボックス(ケース1)]]で新撮。数人の声優が諸事情(海外在住など)から変更され、サブキャラクターの兼任などから一人二役以上を担当するキャスティングも増えており、その後の関連ゲーム作品では本3部作版のメンバーでアフレコされているものの方が多く、続篇の『[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]』の回想シーンでは一部採用されている。
ストーリーは大幅な短縮が図られ、一部には原典とは全く異なるシーンへと新規カットで差し替えられていたり、存在自体が省略されていたりもする(ヘリオポリスの救命ポッドから出てきた[[フレイ・アルスター]]がキラではなく[[機動戦士ガンダムSEEDの登場人物#サイ・アーガイル|サイ・アーガイル]]と抱き合う、[[機動戦士ガンダムSEEDの登場人物#モラシム隊|モラシム隊]]が登場しない、[[生体CPU#クロト・ブエル|クロト・ブエル]]のレイダーが[[ディアッカ・エルスマン]]のバスターに撃たれて戦死する、など)。
「虚空の戦場」「遥かなる暁」の2作はDVD版発売に先駆けて2日間に分けた前後篇スタイルで地上波放送されたが、「鳴動の宇宙」はDVD版リリースのみでテレビ放送はされなかった。
続篇『SEED DESTINY』やリメイク版『[[#HDリマスタープロジェクト|機動戦士ガンダムSEED HDリマスター]]』でも一部カットが流用されている(前者では4:3ノーマルの画面比に合わせて16:9部分の原画の左右を、後者では同16:9部分のみをクロッピングした状態)。
2019年10月25日に機動戦士ガンダム40周年プロジェクト『ガンダム映像新体験TOUR』として『虚空の戦場 HDリマスター』を大型スクリーン規格ULTIRA劇場上映<ref>[http://gundam40th.net/news/?id=16601 「ガンダム 40周年プロジェクト」本格的に始動!シネマ・コンサート他、各種イベントを展開!]2019年4月7日 機動戦士ガンダム40周年プロジェクト</ref>、2020年2月7日には『スペシャルエディションII 遥かなる暁 HDリマスター』を上映<ref>{{Cite web|和書|date=2019-11-14 |url=https://www.gundam.info/news/event/news_event_20191112_03.html |title=「ガンダム映像新体験TOUR」TCXで実施決定!DOLBY CINEMAでの上映日も公開! |website=機動戦士ガンダム40周年プロジェクト |accessdate=2021-08-18}}</ref>。
* 機動戦士ガンダムSEED -虚空の戦場-{{#tag:ref|劇中におけるタイトルロゴでの表記。完結編も劇中では「機動戦士ガンダムSEED -鳴動の宇宙-」と表記されている。|group="注"|name="se"}}、MBS・TBS系列、2004年3月22日 - 同3月23日放送
** 『機動戦士ガンダムSEED スペシャルエディション 虚空の戦場』DVD&[[ユニバーサル・メディア・ディスク|UMD]]、バンダイビジュアル、2004年8月27日&2009年4月24日発売
* 機動戦士ガンダムSEED -遥かなる暁-<ref group="注" name="se" />、MBS・TBS系列、2004年7月27日 - 同7月28日放送
** 『機動戦士ガンダムSEED スペシャルエディションII 遥かなる暁』DVD&UMD、バンダイビジュアル、2004年9月24日&2009年4月24日発売
* 『機動戦士ガンダムSEED スペシャルエディション完結編 鳴動の宇宙<ref group="注" name="se" />』DVD&UMD、バンダイビジュアル、2004年10月22日&2009年4月24日発売
* 『G-SELECTION 機動戦士ガンダムSEED/SEED DESTINY スペシャルエディション DVD-BOX』DVD、バンダイビジュアル、2011年2月25日発売
== HDリマスタープロジェクト ==
{{Infobox animanga/Header
|タイトル=機動戦士ガンダムSEED HDリマスター
|ジャンル=[[ロボットアニメ]]
}}
{{Infobox animanga/TVAnime
|原作=[[矢立肇]]、[[富野由悠季]]
|監督=[[福田己津央]]
|シリーズ構成=[[両澤千晶]]
|キャラクターデザイン=[[平井久司]]
|メカニックデザイン=[[大河原邦男]]、[[山根公利]]
|音楽=[[佐橋俊彦]]
|アニメーション制作=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]
|製作=サンライズ
|放送局=[[#放送局|放送局]]参照
|放送開始=2012年1月
|放送終了=11月
|話数=全48話
}}
{{Infobox animanga/Footer
|ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:アニメ|アニメ]]
|ウィキポータル=[[Portal:アニメ|アニメ]]
}}
2002年10月5日の番組放送から10周年を数えた2011年10月に発表され始まった、続編『[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]』も含めたリマスタリングを中心とするリバイバル企画の総称。
正式タイトルは『機動戦士ガンダムSEED HDリマスター』となっており、TVシリーズ(以下、この節では「本放送版」と表記)とはあくまでも別作品扱いとなっている。また、製作クレジットは「サンライズ」のみで[[著作権表示]]は「©創通・サンライズ」「©2002,2011 SUNRISE INC.」となっている。
SD素材の再撮影またはアップコンバートといった本来のHDリマスターとは異なり、[[画面アスペクト比]]を4:3ノーマル・サイズの原画から上下部分をカットした16:9ワイド・サイズでの[[高精細度]]=High Definition(ハイデフィニション)化と[[パルス符号変調|リニアPCM]]音源化などを施して新撮され、一部音楽のリミックス版採用や後半のエンディングの差し替え、新作カットとの差し替え・部分的加筆、各エフェクト・背景などの処理変更、本放送版・VHS&DVD版(以下「原典」)および[[#スペシャルエディション3部作|スペシャルエディション3部作]]、そして『DESTINY』とのセル画の統合・再編集といった大幅な変更がされている。原典の第14話・第26話は未放送となり、「01.PHASE-01 偽りの平和」(略)「14.PHASE-15+ それぞれの孤独」「15.PHASE-16 燃える砂塵」(略)「24.PHASE-25 平和の国へ」「25.PHASE-27 果てなき輪舞」(略)「48.FINAL-PHASE 終わらない明日へ」などの話数表記に改定され、第24話(旧25話)を「平和の国'''へ'''」と改題した全48話構成となった<ref group="注" name="hdsub"/>。
ストーリー構成は本放送版に沿っているが、「14.PHASE-15+ それぞれの孤独」で第1話・第2話を回想しているシーンでは、第1部「虚空の戦場」でのコールドオープン(ラスティの出撃シーン)やメビウスゼロとシグーの交戦シーン(リニアガン斬りをしない決着描写)を、「38.PHASE-40 暁の宇宙へ」のエンディング映像には、第2部「遥かなる暁」のものを採用したりしている。また、「36.PHASE-38 決意の砲火」からムウが搭乗するようになったストライクが前編新規カットによる[[ストライカーパック#マルチプルアサルトストライカー|マルチプルアサルトストライカー]]を装備したパーフェクトストライクへと改定されたり、[[機動戦士ガンダムSEEDの登場人物#シホ・ハーネンフース|シホ・ハーネンフース]]が「39.PHASE-41 ゆれる世界」におけるカーペンタリア基地でのクルーゼ隊談話シーンに新規カットで追加されており、初登場のタイミングが変更されたりもしている。
一方、続編の『DESTINY』への繋がりを意識した伏線も追加されており、「36.PHASE-38 決意の砲火」には『DESTINY』第1話における[[アバンタイトル|コールドオープン]]での[[港]]へ走る[[シン・アスカ]]と家族の1カットが挿入され、「39.PHASE-41 ゆれる世界」にはパトリックの演説中継シーンにアカデミー入学直後と思しきシン、[[ルナマリア・ホーク]]と[[機動戦士ガンダムSEED DESTINYの登場人物#メイリン・ホーク|メイリン・ホーク]]の姉妹、[[レイ・ザ・バレル]]が一堂に会している新規カットが加えられるなどしている。細かい所ではオーブ解放作戦での[[コズミック・イラの艦船及びその他の兵器#対空砲|対空砲]]や[[コズミック・イラの艦船及びその他の兵器#補給艦|補給艦]]<!-- 上述アスカ一家のカット内で共演 -->のカットや、フリーダムの[[フリーダムガンダム#武装|クスィフィアス レール砲]]の射撃シーンが追加・差し替えなどで流用されている。
2011年12月23日から公式ウェブサイト([[バンダイチャンネル]])・[[バンダイナムコライブTV]]などのインターネット動画で先行配信され、次いで年明け2012年1月1日に[[日本BS放送|BS11]]で衛星放送、翌々日の3日に[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]で地上波放送がスタートし、最終話後からは「HDリマスターセレクション」と題し視聴者人気投票などで上位を獲得したエピソードのスポット[[再放送]]が行われた。
商業展開では、バンダイのプラモデル 1/144スケール HG [[SEED HG]]シリーズのリニューアルおよび新規キットの発売、ビクターから発売された主題歌・挿入歌をリメイクした「Reunion Series」のCD・ダウンロード販売、コミカライズ版の連載などが行われている。
スタッフも「リマスター・スタッフ」としてエンディングクレジットに別記されており、「HDリマスタリング」など原典では存在しなかった役職もある。
HDリマスター版の展開以降、現在はCS放送やインターネットの動画配信サイト・ローカル局での放送<ref group="注">2021年時点では[[テレビ愛知]]・[[千葉テレビ放送|チバテレビ]]での放送実績がある。</ref>でもこちらの素材が標準となっており、本放送版の視聴手段が少なくなっている。
=== リマスター版映像ソフト ===
映像ソフトはBlu-ray BOXシリーズとして全4巻でリリース。
本放送版との違いとしては、第1期オープニングがPHASE-03から描き直された後期バージョンでの統一化、監督の福田己津央や主要キャラクターの声優陣によるオーディオコメンタリー、「AFTER-PHASE 星のはざまで」<ref group="注" name="hdaf" />の収録などが挙げられる。DVD版に比べ廉価的な要素はなく、新作アニメ4クールとほぼ変わらないフルプライスであった。
{{clear}}
== 劇場版 ==
{{main|"X" plosion GUNDAM SEED}}
[[2006年]]に発表されて以降続報がなかったが、[[2021年]]に放送20周年を記念した新プロジェクト「GUNDAM SEED PROJECT ignited」の中心企画として改めて製作が告知された<ref>{{Cite news |和書 |url=https://www.famitsu.com/news/202105/28222060.html|title=『機動戦士ガンダムSEED』新プロジェクト始動。テレビシリーズの続編となる映画を福田己津央監督のもとで制作中、新作ゲームも開発決定!|newspaper=ファミ通.com|date=2021年5月28日|accessdate=2021年5月29日}}</ref>。その後、[[2023年]]7月2日、テレビアニメ『[[機動戦士ガンダム 水星の魔女|機動戦士ガンダム水星の魔女 Season2]]』最終話の放送直後に、新作映画『'''機動戦士ガンダムSEED FREEDOM'''』(きどうせんしガンダムシード フリーダム)と題して[[2024年]]1月26日に劇場公開される旨が発表された<ref>{{Cite news|url=https://www.famitsu.com/news/202307/02308288.html|title=映画『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』2024年1月26日に公開決定。シリーズ最新作、完全新作ストーリー|newspaper=ファミ通.com|publisher=KADOKAWA Game Linkage|date=2023-07-02|accessdate=2023-07-02}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/article/2270736/|title=劇場版「機動戦士ガンダムSEED FREEDOM」2024年1月26日に公開!第1弾PV&ティザービジュアルが公開に|newspaper=ORICON NEWS|date=2023-07-02|accessdate=2023-07-03}}</ref><ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/531207|title=「機動戦士ガンダムSEED FREEDOM」来年1月に公開、第1弾PVが解禁|newspaper=映画ナタリー|date=2023-07-02|accessdate=2023-07-03}}</ref>。
== 関連作品 ==
=== ゲーム ===
; [[ワンダースワンカラー]]
:* [[機動戦士ガンダムSEED (ワンダースワン)|機動戦士ガンダムSEED]]
; [[PlayStation 2]]
:* [[機動戦士ガンダムSEED (PlayStation 2)|機動戦士ガンダムSEED]]
:* [[機動戦士ガンダムSEED 終わらない明日へ]]
:* [[機動戦士ガンダムSEED 連合vs.Z.A.F.T.]]
:* [[機動戦士ガンダムSEED DESTINY 連合vs.Z.A.F.T.II]]
; [[ゲームボーイアドバンス]]
:* [[機動戦士ガンダムSEED 友と君と戦場で。]]
; [[PlayStation Portable]]
:* [[機動戦士ガンダムSEED 連合vs.Z.A.F.T.|機動戦士ガンダムSEED 連合vs.Z.A.F.T.PORTABLE]]
; [[アーケードゲーム|アーケード]]
:* [[機動戦士ガンダムSEED 連合vs.Z.A.F.T.]]
; [[PlayStation Vita]]
:* [[機動戦士ガンダムSEED BATTLE DESTINY]]
==== クロスオーバー作品 ====
; PlayStation 2
:* [[第3次スーパーロボット大戦α 終焉の銀河へ]]<ref group="注">[[スーパーロボット大戦シリーズ]]デビュー作品。</ref>
:* [[Another Century's Episode|Another Century's Episode 3 THE FINAL]]
:* [[サンライズ英雄譚|SUNRISE WORLD WAR From サンライズ英雄譚]]<ref group="注">[[没データ]]により、登場作品には含まれていない(機体は[[ストライクガンダム]]と[[イージスガンダム]]のみ)。</ref>
:* [[SDガンダム GGENERATION#SDガンダム GGENERATION NEO|SDガンダム GGENERATION NEO]]<ref group="注">[[ストライクガンダム]]と[[イージスガンダム]]のみ登場。</ref>
:* [[SDガンダム GGENERATION#SDガンダム GGENERATION SEED|SDガンダム GGENERATION SEED]]
:* [[SDガンダム GGENERATION#SDガンダム GGENERATION WARS|SDガンダム GGENERATION WARS]]
; PlayStation 3
:* [[機動戦士ガンダム エクストリームバーサス]]
:* [[スーパーヒーロージェネレーション]]
; PlayStation 4
;*[[SDガンダム GGENERATION CROSSRAYS]]
; ニンテンドーゲームキューブ
:* [[SDガンダム ガシャポンウォーズ]]
; Wii
:* [[SDガンダム GGENERATION#SDガンダム GGENERATION WARS|SDガンダム GGENERATION WARS]]
:* [[SDガンダム GGENERATION#SDガンダム GGENERATION WORLD|SDガンダム GGENERATION WORLD]]
:* [[SDガンダム ガシャポンウォーズ]]
; スワンクリスタル
:* [[SDガンダム GGENERATION#SDガンダム GGENERATION モノアイガンダムズ|SDガンダム GGENERATION モノアイガンダムズ]]
; ゲームボーイアドバンス
:* SDガンダム GGENERATION ADVANCE
:* [[ガンダム・ザ・バトルマスター|機動戦士ガンダムSEED DESTINY (対戦格闘)]]
:* [[スーパーロボット大戦J]]
; [[ニンテンドーDS]]<ref group="注">同ハードの『機動戦士ガンダムSEED』も発売予定をされていたが後に発売中止となった。[[Electronic Entertainment Expo|E3 2004]]で映像出展をされた。</ref>
:* [[スーパーロボット大戦W]]
:* [[スーパーロボット大戦K]]{{#tag:ref|機体のみ登場。|group="注"|name="unit"}}
:* [[スーパーロボット大戦L]]<ref group="注" name="unit" />
:* [[SDガンダム GGENERATION#SDガンダム GGENERATION DS|SDガンダム GGENERATION DS]]
:* [[SDガンダム GGENERATION#SDガンダム GGENERATION CROSS DRIVE|SDガンダム GGENERATION CROSS DRIVE]]
; ニンテンドー3DS
:* [[SDガンダム GGENERATION#SDガンダム GGENERATION 3D|SDガンダム GGENERATION 3D]]
; PlayStation Portable
:* [[機動戦士ガンダム ガンダムVS.ガンダム]]
:* [[機動戦士ガンダム ガンダムVS.ガンダムNEXT|機動戦士ガンダム ガンダムvs.ガンダムNEXT PLUS]]
:* [[ガンダムアサルトサヴァイブ]]
:* [[SDガンダム GGENERATION#SDガンダム GGENERATION PORTABLE|SDガンダム GGENERATION PORTABLE]]
:* [[SDガンダム GGENERATION#SDガンダム GGENERATION WORLD|SDガンダム GGENERATION WORLD]]
:* [[グレイトバトル フルブラスト]]
:* [[SDガンダム GGENERATION#SDガンダム GGENERATION OVER WORLD|SDガンダム GGENERATION OVER WORLD]]
; アーケード
:* 機動戦士ガンダム ガンダムVS.ガンダム
:* [[機動戦士ガンダム ガンダムVS.ガンダムNEXT]]
:* [[機動戦士ガンダム エクストリームバーサス]]
:* [[機動戦士ガンダム エクストリームバーサス フルブースト]]
:* [[ガンダムトライエイジ]]
=== 音楽 ===
; カラオケ
: 2007年10月1日大手カラオケ機器メーカーの第一興商が[[DAMステーション]]にて『SEED』『SEED DESTINY』のキャラクターが音声で歌唱判定する『歌唱戦士ガンダムSEED SCORE』をリリース。バンダイ系列以外でのオリジナルコンテンツとしては珍しく注目を集めた。
; 主題歌集
:* [[機動戦士ガンダムSEED COMPLETE BEST]]
=== 小説・漫画 ===
:{{Main|機動戦士ガンダムSEEDシリーズ (書籍)}}
* 小説版 - [[角川スニーカー文庫]]にて刊行。著者は[[後藤リウ]]。カバーイラストは[[大貫健一]]、口絵・本文イラストは[[小笠原智史]]が担当。全5巻。
* 漫画版 - [[月刊マガジンZ]]で連載。作画は[[岩瀬昌嗣]]。
* SEED Club 4コマ - [[月刊ニュータイプ]]で連載。作画は[[As'まりあ]]。
* 機動戦士ガンダムSEED ASTRAY - [[機動戦士ガンダムSEED ASTRAYシリーズ]]を参照。
* 機動戦士ガンダムSEED C.E.71 心の傷跡 - 月刊ガンダムエース2012年2月号に掲載。作画はイシグチジュウ。
* 機動戦士ガンダムSEED Re: - 月刊ガンダムエースで連載。作画は[[石口十]]が担当し、アニメ本篇のシリーズ構成・脚本を担当した[[両澤千晶]]が協力している。
=== パチンコ ===
* Pフィーバー機動戦士ガンダムSEED(2023年8月、[[三共 (パチンコ)|SANKYO]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://p-gabu.jp/guideworks/machinecontents/detail/6380|title=Pフィーバー機動戦士ガンダムSEED機種情報|publisher=777パチガブ|date=2023-08-07|accessdate=2023-08-07}}</ref>
== コマーシャル ==
『機動戦士ガンダムSEED』の本放送当時は、ED後に女優[[上戸彩]]の主演によるプラモデルCMが放送されていた<ref>{{Cite book|和書|title=機動戦士ガンダムSEED 公式ガイドブック 運命の再会|publisher=角川書店|date=2003年2月|page=87|isbn=978-4-04-853596-0}}</ref>。この放送CMを集めた映像ソフトとして、『上戸彩 in GUNDAM PLA-MODEL CM』が誌上通販で発売されている<ref>『電撃ホビーマガジン』2003年11月号、メディアワークス、60頁。</ref>。
== 備考 ==
一部に性的・残虐な描写があり、ベッドシーンを匂わせるシーンについて[[放送倫理・番組向上機構|BPO]]に一度回答を求められたことがある<ref>([https://web.archive.org/web/20080919073228/http://www.bpo.gr.jp/youth/answer/032_mbs.html 放送局への回答要請/青少年委員会/BPO](2015年5月13日閲覧、[http://www.bpo.gr.jp/youth/answer/032_mbs.html オリジナル]の[[Webarchive|アーカイブ]])</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=機動戦士ガンダムSEED コズミック・イラ メカニック&ワールド|publisher=双葉社|date=2012年11月28日|pages=263-269|isbn=978-4-575-46469-6|ref={{SfnRef|メカニック&ワールド|2012}}}}
== 関連項目 ==
* [[TBS系アニメ]]
== 外部リンク ==
* [https://www.gundam-seed.net/ 機動戦士ガンダムSEEDシリーズ公式サイト]
* [https://www.gundam-seed.net/seed/ 機動戦士ガンダムSEED]
* [https://www.sunrise-inc.co.jp/work/detail.php?cid=153 サンライズ公式Web]
* [http://www.xg-seed.net/ “X”plosion GUNDAM SEED]
* [http://www.gundam-seed.net/ ガンダムSEED HDリマスタープロジェクト]
* {{YouTube|playlist = PLU3MW54GsPFrTimZsDfgHVpol79yelIPC}}
{{前後番組
|放送局=[[毎日放送テレビ]](MBSテレビ)
|放送枠=[[毎日放送制作土曜夕方6時枠のアニメ|土曜18:00 - 18:30枠]]
|番組名=機動戦士ガンダムSEED<br />(2002年10月5日 - 2003年9月27日)<br />(本作以降、通称“'''土6'''”ならびに完全アニメ枠化)
|前番組=[[ウルトラマンコスモス]]<br />(2001年7月7日 - 2002年9月28日)
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{{コズミック・イラ|作品}}
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{{毎日放送制作土6・日5枠}}
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[[Category:ガンダムシリーズのテレビアニメ|SEED]]
[[Category:コズミック・イラ|*きとうせんしかんたむしいと]]
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プロセス
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プロセスとは、処理のことである。情報処理においてプログラムの動作中のインスタンスを意味し、プログラムのコードおよび全ての変数やその他の状態を含む。オペレーティングシステム (OS) によっては、プロセスが複数のスレッドで構成される場合があり、命令を同時並行して実行する。
コンピュータプログラムは命令の受動的集合体である。プロセスはそれら命令の実際の実行である。同じプログラムに対応する複数のプロセスが存在しうる。例えば、同じプログラムのインスタンスをいくつか開始することは、複数のプロセスの実行を意味することが多い。
マルチタスクは複数のプロセスがプロセッサ(CPU)や他のシステム資源を共有するための技法である。各CPUはある時点には1つのタスクだけを実行している。しかし、マルチタスクでは各プロセッサに各タスク間で切り替えさせることができ、各タスクの終了を待たずに次々とタスクを実行できる。OSの実装にもよるが、タスク間切り替えは入出力操作の際に行われたり、タスクが明示的に切り替え可能であることを指示したり、ハードウェア割り込みの際に行われたりする。
マルチタスクの典型的形態としてタイムシェアリングがある。タイムシェアリングは、対話型ユーザアプリケーションの素早い応答を可能にする技法である。タイムシェアリングシステムでは、コンテキストスイッチが高速に行われる。そのため、同一プロセッサ上で複数のプロセスが同時に実行されているように見える。複数プロセスを同時に実行することを並行性 (concurrency) と呼ぶ。
セキュリティと信頼性のため、現代のOSは個々のプロセス間での直接の通信ができないようにしており、厳密に統制・制御されたプロセス間通信機能を提供している。
一般に、プロセスは以下のようなリソースから構成される(あるいは所有している):
OSは各プロセスのこれらの情報の大部分をプロセス制御ブロックというデータ構造に保持している。
これらリソースの一部、少なくともプロセッサの状態情報は、プロセスというよりもスレッドに対応している。
オペレーティングシステムはプロセス同士を分離させておいて必要なリソースを割り当て、プロセス間で互いに干渉しあってシステム障害(例えば、デッドロックやスラッシング)を発生したりしないようにする。オペレーティングシステムはプロセス間通信の機構も用意してプロセスが安全に通信し合えるようにしている。
プロセスは、その役割で分類すると、OSの機能を実現するシステムプロセスと、ユーザー権限で実行されるユーザープロセスがある。
プロセスは、そのプログラム部分の性質で分類すると、以下のようになる。
コンピュータ制御ソフトウェアは1960年代初めまでに IBSYS(英語版) のような監視制御ソフトウェアから実行制御ソフトウェアへと発展した。コンピュータは高速化していったが、CPU時間は安価ではなく、しかも完全に使われたわけではない。そのためマルチプログラミングが必要とされ、また可能となった。
マルチプログラミングとは、複数のプログラムを同時に(並行に、同時に並列ということもある)実行することを意味する。当初は単一のプロセッサ上で動作し、少ない資源を共有していた。マルチプログラミングはまた、より幅広い用語であるマルチプロセッシングの基本形態でもある。
プログラムは、プロセッサへの命令列で構成されている。単一のプロセッサは一度に1つの命令しか実行できない。つまり同時に複数のプログラムを実行することは不可能である。プログラムは長い待ち合わせが必要な計算資源(入力など)を必要とすることがあり、時間のかかる操作(プリンターへの出力など)を行うこともある。そういったとき、プロセッサは何もしていない「アイドル」状態になる。プロセッサを常に動作させるため、そういった入出力待ち状態のプログラムの実行を中断し、別のプログラムを起動または再開させる。ユーザーから見れば、複数のプログラムが同時に動作しているように見える。
間もなく「プログラム」の観念は「実行中プログラムとそのコンテキスト」という観念に拡張された。これがプロセスという概念の誕生である。
これは、リエントラントなコードの発明とともに必要になった。
スレッドという概念が生まれるのはその少し後になる。タイムシェアリングシステム、コンピュータネットワーク、マルチプロセッサ、メモリ共有型コンピュータなどが登場し、古い「マルチプログラミング」は真のマルチタスクやマルチプロセッシングにとって代わられ、さらにはマルチスレッドへと進化していったのである。
マルチタスクオペレーティングシステムでは多くのプロセスを並行実行するためにプロセス間でコンテキストスイッチを行うことがある。ただし1つのシングルコアCPUにおいては、ある一時点にひとつのプロセスしか実行できない(ハードウェアマルチスレッディングなどの技術を使っていない場合)。
主プログラムを1つのプロセスとし、それ以外を並列に動作するプロセス群として独立させ、非同期に動作するサブルーチンとして実装することもある。プロセスはリソースを所有しており、メモリ上のプログラムの「イメージ」はそのようなリソースの1つと言える。マルチプロセッシングシステムでは多くのプロセスが同じリエントラントなプログラムのメモリ上のコピーを共有しているが、プログラムの「イメージ」は個々のプロセスが所有していると言える(多重仮想記憶)。
組み込みシステムのオペレーティングシステムでは、プロセスをタスクと呼ぶことが多い。「プロセス」(あるいはタスク)という用語は「時間を占める何か」であり、対照的に「メモリ」は「空間を占める何か」である。また、ジョブがユーザーから見た処理の単位であるのに対し、「プロセス」は、コンピュータ側から見た処理の単位である。
以上の説明はオペレーティングシステムに管理されるプロセスにも、プロセス計算で定義されるプロセスにも当てはまる。
プロセスが中断された状態ならば、ディスクにスワップアウトすることができるが、仮想記憶システムではこれは透過的であって、あるメモリブロックの内容がディスク上にあってメモリ上にないという状態は正常な状態である。動作中プロセスの「未使用」部分もディスクにスワップアウト(ページアウト)することができる。実行中プログラムやそのデータのいかなる部分も、対応するプロセスを実行するにあたって物理メモリ上に存在する必要はない。しかし、プロセスがディスク上のコードやデータを必要としたとき(対応する仮想アドレスにアクセスしようとしたとき)、実行が中断されてページングとして知られている方法でその内容が物理メモリに移動される。
マルチタスクが可能なOSのカーネルは、個々のプロセスの状態を保持する必要がある。この状態の名称は標準化されていないが、どのOSでも似たような機能を持っている。
以下の典型的なプロセス状態は多くのコンピュータシステム上で見られる。これらの状態のほとんどで、プロセスはメインメモリ上に存在する。
プロセスが最初に作成されると、生成(created)状態あるいは新規(new)状態となる。この状態ではプロセスは走行可能状態にされるのを待つ。この状態遷移をさせるのはスケジューラである。多くのシステムではこの遷移が自動的に(即座に)行われるが、リアルタイムオペレーティングシステムでは遅延が生じることがある。リアルタイムシステムで多くのプロセスを走行可能状態にしてしまうと、過飽和とシステムリソースの競合が発生し、プロセスのリアルタイム性を損なってしまう。
走行可能(ready)状態あるいはスケジュール待ち(waiting)状態のプロセスはメインメモリにロードされCPUによる実行を待っている(ディスパッチャか短期スケジューラによってCPU上にコンテキストスイッチされるのを待っている)。任意の時点の走行可能状態のプロセスは非常に多数になる可能性がある。例えば、プロセッサが1個のシステムでは一度にひとつのプロセスしか実行できないので、他のプロセスの多くは実行されるのを待っている状態となる。
走行中(running)状態、実行中(executing)状態、活性(active)状態などと呼ばれる。この状態のプロセスは現にCPU上で実行されている。この状態で割り当てられたタイムスライスを使い切ると走行可能状態に戻される。あるいはプログラムの実行が終了すれば終了状態になるし、何らかのリソースが必要になればブロック状態になるだろう。
スリープ(sleeping)状態ともいう。プロセスはリソース(ファイル、セマフォ、周辺機器など)を確保できないと、プログラム実行を続けられなくなるのでCPUから外されてブロック(blocked)状態となる。プロセスはそのリソースが利用可能となるまでブロック状態のままとなるが、これがデッドロック状態を発生させることもある。ブロック状態のプロセスに対してオペレーティングシステムはリソースが利用可能となったことを知らせる(オペレーティングシステム自体は割り込みによってリソースが利用可能となったことを知る)。オペレーティングシステムはブロックされなくなったプロセスを再び走行可能状態にし、そこから走行中状態にディスパッチされると、プロセスは利用可能となったリソースを使用することになる。
プロセスは走行中状態でプログラムの実行完了によって終了状態となるか、明示的に終了させられることもある。どちらの場合でもプロセスは終了(terminated)状態になる。プロセスがこの状態になってもメモリから消去されない場合、この状態をゾンビ(zombie)状態とも呼ぶ。
UNIX系オペレーティングシステムにおいて、ゾンビプロセス(Zombie Process)は、処理を完了したがプロセステーブル(プロセス制御ブロック相当)が残っていて、終了ステータスを読まれるのを待っているプロセスである。この用語のメタファーに従えば、ゾンビプロセスは「死んでいる」が、まだ「死神」が到着していないということになる。
プロセスは終了するときに、使用していた全メモリとリソースを解放して他のプロセスが再利用できるようにする。しかし、プロセステーブルのエントリは残される。親プロセスには子プロセスの終了を知らせるために SIGCHLD シグナルが送られる。親プロセスは SIGCHLD シグナルを必ずしも利用する必要はなく、利用するかどうかはプログラミングの都合による。親プロセスが子プロセスをゾンビ・プロセスにせずに「看取る」ためには、子プロセスの終了ステータスを読み取ってゾンビを削除する。一般的にはプログラムの適当な場所で waitpid システムコールを WNOHANG オプションつきで呼び出すか、シグナル・ハンドラで SIGCHLD を捕捉し wait を実行するか、または signal もしくは sigaction システム・コールで SIGCHLD に対して SIG_IGN シグナル・ハンドラを設定する方法が代表的である(SIGCHLD に対し SIG_IGN を設定する方法は POSIX.1-1990 では認められていなかったが、POSIX.1-2001 で認められるようになった)。ゾンビの使用しているプロセス識別子とプロセステーブルエントリがそれによって再利用可能となる。このような処理を行わなければゾンビプロセスは残存し続ける。例えば、親プロセスが他の子プロセスを生成しようとしていて、ゾンビとなっているプロセスと同じプロセス識別子を割り当てられたくないときなどは、ゾンビプロセスを残す意味があるだろう。
ゾンビプロセスは孤児プロセスと同じではない。孤児プロセスはゾンビ状態にはなっておらず、init プロセスを里親としているので必ず waitが実行される。
ゾンビプロセスは UNIX の ps コマンドの STAT カラムに "Z" と表示されることで識別される。ゾンビプロセスは一般に非常に短期間しか存在しないが、親プロセスのプログラムにバグがあるとずっと残存することがある。メモリリークと同様、ゾンビプロセスが多少存在しても問題はないが、高負荷状態でゾンビが増えるとプロセスを生成できないなどの問題を発生することになる。
ゾンビプロセスを消去するには、まず親プロセスに kill コマンドで SIGCHLD シグナルを送ってみる。これで親プロセスがゾンビを刈り取らないなら、次は親プロセスを終了させる。プロセスは親プロセスが終了すると init が新たな親に設定される。init は定期的に waitシステムコールを実行しているので、全てのゾンビプロセスを刈り取ってくれる。
仮想記憶をサポートするシステムでは、上記以外に2つの状態がある。どちらの状態もプロセスは二次記憶装置(ハードディスクなど)に格納される。
ひとつは、スワップアウト(またはサスペンド)されたスケジュール待ち状態である。仮想記憶をサポートするシステムでは、プロセスはスワップアウトされることがあり、中期スケジューラがメインメモリから仮想メモリに移動させる。その後、中期スケジューラによってスワップインされ、通常のスケジュール待ち状態になる。
もうひとつは、スワップアウト(またはサスペンド)されたブロック状態である。ブロックされたプロセスもスワップアウトされることがある。この状態ではプロセスはスワップアウトされた上にブロックされているため、先にスワップインされれば通常のブロック状態になるし、先にリソースが利用可能になればスワップアウトされたスケジュール待ち状態になる。
プロセスが互いに通信することを「プロセス間通信」(IPC) と呼ぶ。プロセスはかなり頻繁に通信を必要とする。例えばシェルのパイプラインでは、第1のプロセスの出力を第2のプロセスに渡す必要があり、その後も同様に出力と入力が連鎖する必要がある。その際、割り込みなどを使わずに構造化された方法を使うことが望ましい。
通信するプロセス群は異なるマシン上で動作していてもよい。その場合、それぞれのマシンのOSは異なるかも知れないので、何らかの調停機能(通信プロトコル)が必要となる。
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"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "セキュリティと信頼性のため、現代のOSは個々のプロセス間での直接の通信ができないようにしており、厳密に統制・制御されたプロセス間通信機能を提供している。",
"title": "概要"
},
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"text": "一般に、プロセスは以下のようなリソースから構成される(あるいは所有している):",
"title": "プロセスの構成"
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"text": "OSは各プロセスのこれらの情報の大部分をプロセス制御ブロックというデータ構造に保持している。",
"title": "プロセスの構成"
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"text": "これらリソースの一部、少なくともプロセッサの状態情報は、プロセスというよりもスレッドに対応している。",
"title": "プロセスの構成"
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"text": "オペレーティングシステムはプロセス同士を分離させておいて必要なリソースを割り当て、プロセス間で互いに干渉しあってシステム障害(例えば、デッドロックやスラッシング)を発生したりしないようにする。オペレーティングシステムはプロセス間通信の機構も用意してプロセスが安全に通信し合えるようにしている。",
"title": "プロセスの構成"
},
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"text": "プロセスは、その役割で分類すると、OSの機能を実現するシステムプロセスと、ユーザー権限で実行されるユーザープロセスがある。",
"title": "プロセスの分類"
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"text": "プロセスは、そのプログラム部分の性質で分類すると、以下のようになる。",
"title": "プロセスの分類"
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"text": "コンピュータ制御ソフトウェアは1960年代初めまでに IBSYS(英語版) のような監視制御ソフトウェアから実行制御ソフトウェアへと発展した。コンピュータは高速化していったが、CPU時間は安価ではなく、しかも完全に使われたわけではない。そのためマルチプログラミングが必要とされ、また可能となった。",
"title": "歴史"
},
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"text": "マルチプログラミングとは、複数のプログラムを同時に(並行に、同時に並列ということもある)実行することを意味する。当初は単一のプロセッサ上で動作し、少ない資源を共有していた。マルチプログラミングはまた、より幅広い用語であるマルチプロセッシングの基本形態でもある。",
"title": "歴史"
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"text": "プログラムは、プロセッサへの命令列で構成されている。単一のプロセッサは一度に1つの命令しか実行できない。つまり同時に複数のプログラムを実行することは不可能である。プログラムは長い待ち合わせが必要な計算資源(入力など)を必要とすることがあり、時間のかかる操作(プリンターへの出力など)を行うこともある。そういったとき、プロセッサは何もしていない「アイドル」状態になる。プロセッサを常に動作させるため、そういった入出力待ち状態のプログラムの実行を中断し、別のプログラムを起動または再開させる。ユーザーから見れば、複数のプログラムが同時に動作しているように見える。",
"title": "歴史"
},
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"text": "間もなく「プログラム」の観念は「実行中プログラムとそのコンテキスト」という観念に拡張された。これがプロセスという概念の誕生である。",
"title": "歴史"
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"text": "これは、リエントラントなコードの発明とともに必要になった。",
"title": "歴史"
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"text": "スレッドという概念が生まれるのはその少し後になる。タイムシェアリングシステム、コンピュータネットワーク、マルチプロセッサ、メモリ共有型コンピュータなどが登場し、古い「マルチプログラミング」は真のマルチタスクやマルチプロセッシングにとって代わられ、さらにはマルチスレッドへと進化していったのである。",
"title": "歴史"
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"text": "マルチタスクオペレーティングシステムでは多くのプロセスを並行実行するためにプロセス間でコンテキストスイッチを行うことがある。ただし1つのシングルコアCPUにおいては、ある一時点にひとつのプロセスしか実行できない(ハードウェアマルチスレッディングなどの技術を使っていない場合)。",
"title": "マルチタスクOSにおけるプロセス管理"
},
{
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"text": "主プログラムを1つのプロセスとし、それ以外を並列に動作するプロセス群として独立させ、非同期に動作するサブルーチンとして実装することもある。プロセスはリソースを所有しており、メモリ上のプログラムの「イメージ」はそのようなリソースの1つと言える。マルチプロセッシングシステムでは多くのプロセスが同じリエントラントなプログラムのメモリ上のコピーを共有しているが、プログラムの「イメージ」は個々のプロセスが所有していると言える(多重仮想記憶)。",
"title": "マルチタスクOSにおけるプロセス管理"
},
{
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"text": "組み込みシステムのオペレーティングシステムでは、プロセスをタスクと呼ぶことが多い。「プロセス」(あるいはタスク)という用語は「時間を占める何か」であり、対照的に「メモリ」は「空間を占める何か」である。また、ジョブがユーザーから見た処理の単位であるのに対し、「プロセス」は、コンピュータ側から見た処理の単位である。",
"title": "マルチタスクOSにおけるプロセス管理"
},
{
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"text": "以上の説明はオペレーティングシステムに管理されるプロセスにも、プロセス計算で定義されるプロセスにも当てはまる。",
"title": "マルチタスクOSにおけるプロセス管理"
},
{
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"text": "プロセスが中断された状態ならば、ディスクにスワップアウトすることができるが、仮想記憶システムではこれは透過的であって、あるメモリブロックの内容がディスク上にあってメモリ上にないという状態は正常な状態である。動作中プロセスの「未使用」部分もディスクにスワップアウト(ページアウト)することができる。実行中プログラムやそのデータのいかなる部分も、対応するプロセスを実行するにあたって物理メモリ上に存在する必要はない。しかし、プロセスがディスク上のコードやデータを必要としたとき(対応する仮想アドレスにアクセスしようとしたとき)、実行が中断されてページングとして知られている方法でその内容が物理メモリに移動される。",
"title": "マルチタスクOSにおけるプロセス管理"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "マルチタスクが可能なOSのカーネルは、個々のプロセスの状態を保持する必要がある。この状態の名称は標準化されていないが、どのOSでも似たような機能を持っている。",
"title": "プロセスの状態遷移"
},
{
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"tag": "p",
"text": "以下の典型的なプロセス状態は多くのコンピュータシステム上で見られる。これらの状態のほとんどで、プロセスはメインメモリ上に存在する。",
"title": "プロセスの状態遷移"
},
{
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"tag": "p",
"text": "プロセスが最初に作成されると、生成(created)状態あるいは新規(new)状態となる。この状態ではプロセスは走行可能状態にされるのを待つ。この状態遷移をさせるのはスケジューラである。多くのシステムではこの遷移が自動的に(即座に)行われるが、リアルタイムオペレーティングシステムでは遅延が生じることがある。リアルタイムシステムで多くのプロセスを走行可能状態にしてしまうと、過飽和とシステムリソースの競合が発生し、プロセスのリアルタイム性を損なってしまう。",
"title": "プロセスの状態遷移"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "走行可能(ready)状態あるいはスケジュール待ち(waiting)状態のプロセスはメインメモリにロードされCPUによる実行を待っている(ディスパッチャか短期スケジューラによってCPU上にコンテキストスイッチされるのを待っている)。任意の時点の走行可能状態のプロセスは非常に多数になる可能性がある。例えば、プロセッサが1個のシステムでは一度にひとつのプロセスしか実行できないので、他のプロセスの多くは実行されるのを待っている状態となる。",
"title": "プロセスの状態遷移"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "走行中(running)状態、実行中(executing)状態、活性(active)状態などと呼ばれる。この状態のプロセスは現にCPU上で実行されている。この状態で割り当てられたタイムスライスを使い切ると走行可能状態に戻される。あるいはプログラムの実行が終了すれば終了状態になるし、何らかのリソースが必要になればブロック状態になるだろう。",
"title": "プロセスの状態遷移"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "スリープ(sleeping)状態ともいう。プロセスはリソース(ファイル、セマフォ、周辺機器など)を確保できないと、プログラム実行を続けられなくなるのでCPUから外されてブロック(blocked)状態となる。プロセスはそのリソースが利用可能となるまでブロック状態のままとなるが、これがデッドロック状態を発生させることもある。ブロック状態のプロセスに対してオペレーティングシステムはリソースが利用可能となったことを知らせる(オペレーティングシステム自体は割り込みによってリソースが利用可能となったことを知る)。オペレーティングシステムはブロックされなくなったプロセスを再び走行可能状態にし、そこから走行中状態にディスパッチされると、プロセスは利用可能となったリソースを使用することになる。",
"title": "プロセスの状態遷移"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "プロセスは走行中状態でプログラムの実行完了によって終了状態となるか、明示的に終了させられることもある。どちらの場合でもプロセスは終了(terminated)状態になる。プロセスがこの状態になってもメモリから消去されない場合、この状態をゾンビ(zombie)状態とも呼ぶ。",
"title": "プロセスの状態遷移"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "UNIX系オペレーティングシステムにおいて、ゾンビプロセス(Zombie Process)は、処理を完了したがプロセステーブル(プロセス制御ブロック相当)が残っていて、終了ステータスを読まれるのを待っているプロセスである。この用語のメタファーに従えば、ゾンビプロセスは「死んでいる」が、まだ「死神」が到着していないということになる。",
"title": "プロセスの状態遷移"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "プロセスは終了するときに、使用していた全メモリとリソースを解放して他のプロセスが再利用できるようにする。しかし、プロセステーブルのエントリは残される。親プロセスには子プロセスの終了を知らせるために SIGCHLD シグナルが送られる。親プロセスは SIGCHLD シグナルを必ずしも利用する必要はなく、利用するかどうかはプログラミングの都合による。親プロセスが子プロセスをゾンビ・プロセスにせずに「看取る」ためには、子プロセスの終了ステータスを読み取ってゾンビを削除する。一般的にはプログラムの適当な場所で waitpid システムコールを WNOHANG オプションつきで呼び出すか、シグナル・ハンドラで SIGCHLD を捕捉し wait を実行するか、または signal もしくは sigaction システム・コールで SIGCHLD に対して SIG_IGN シグナル・ハンドラを設定する方法が代表的である(SIGCHLD に対し SIG_IGN を設定する方法は POSIX.1-1990 では認められていなかったが、POSIX.1-2001 で認められるようになった)。ゾンビの使用しているプロセス識別子とプロセステーブルエントリがそれによって再利用可能となる。このような処理を行わなければゾンビプロセスは残存し続ける。例えば、親プロセスが他の子プロセスを生成しようとしていて、ゾンビとなっているプロセスと同じプロセス識別子を割り当てられたくないときなどは、ゾンビプロセスを残す意味があるだろう。",
"title": "プロセスの状態遷移"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ゾンビプロセスは孤児プロセスと同じではない。孤児プロセスはゾンビ状態にはなっておらず、init プロセスを里親としているので必ず waitが実行される。",
"title": "プロセスの状態遷移"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ゾンビプロセスは UNIX の ps コマンドの STAT カラムに \"Z\" と表示されることで識別される。ゾンビプロセスは一般に非常に短期間しか存在しないが、親プロセスのプログラムにバグがあるとずっと残存することがある。メモリリークと同様、ゾンビプロセスが多少存在しても問題はないが、高負荷状態でゾンビが増えるとプロセスを生成できないなどの問題を発生することになる。",
"title": "プロセスの状態遷移"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ゾンビプロセスを消去するには、まず親プロセスに kill コマンドで SIGCHLD シグナルを送ってみる。これで親プロセスがゾンビを刈り取らないなら、次は親プロセスを終了させる。プロセスは親プロセスが終了すると init が新たな親に設定される。init は定期的に waitシステムコールを実行しているので、全てのゾンビプロセスを刈り取ってくれる。",
"title": "プロセスの状態遷移"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "仮想記憶をサポートするシステムでは、上記以外に2つの状態がある。どちらの状態もプロセスは二次記憶装置(ハードディスクなど)に格納される。",
"title": "プロセスの状態遷移"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ひとつは、スワップアウト(またはサスペンド)されたスケジュール待ち状態である。仮想記憶をサポートするシステムでは、プロセスはスワップアウトされることがあり、中期スケジューラがメインメモリから仮想メモリに移動させる。その後、中期スケジューラによってスワップインされ、通常のスケジュール待ち状態になる。",
"title": "プロセスの状態遷移"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "もうひとつは、スワップアウト(またはサスペンド)されたブロック状態である。ブロックされたプロセスもスワップアウトされることがある。この状態ではプロセスはスワップアウトされた上にブロックされているため、先にスワップインされれば通常のブロック状態になるし、先にリソースが利用可能になればスワップアウトされたスケジュール待ち状態になる。",
"title": "プロセスの状態遷移"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "プロセスが互いに通信することを「プロセス間通信」(IPC) と呼ぶ。プロセスはかなり頻繁に通信を必要とする。例えばシェルのパイプラインでは、第1のプロセスの出力を第2のプロセスに渡す必要があり、その後も同様に出力と入力が連鎖する必要がある。その際、割り込みなどを使わずに構造化された方法を使うことが望ましい。",
"title": "プロセス間通信"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "通信するプロセス群は異なるマシン上で動作していてもよい。その場合、それぞれのマシンのOSは異なるかも知れないので、何らかの調停機能(通信プロトコル)が必要となる。",
"title": "プロセス間通信"
}
] |
プロセスとは、処理のことである。情報処理においてプログラムの動作中のインスタンスを意味し、プログラムのコードおよび全ての変数やその他の状態を含む。オペレーティングシステム (OS) によっては、プロセスが複数のスレッドで構成される場合があり、命令を同時並行して実行する。
|
{{Otheruses|コンピュータにおける処理の単位の一つ}}
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年3月
| 更新 = 2021年3月
}}
[[ファイル:KSysGuard 5.22.0 process table screenshot.png|代替文=プロセステーブル|サムネイル|322x322ピクセル|プロセステーブル]]
'''プロセス'''とは、処理のことである。[[情報処理]]において[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]の動作中の[[インスタンス]]を意味し、プログラムのコードおよび全ての[[変数 (プログラミング)|変数]]やその他の状態を含む。[[オペレーティングシステム]] (OS) によっては、プロセスが複数の[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]で構成される場合があり、命令を[[並行性|同時並行]]して実行する<ref name="OSC Chap4">{{Cite book |title=Operating system concepts with Java |edition=Sixth Edition |chapter=Chapter 4 - Processes |last=SILBERSCHATZ |first=Abraham |coauthors=CAGNE, Greg, GALVIN, Peter Baer |isbn=0-471-48905-0 |year=2004 |publisher=John Wiley & Sons, Inc.}}</ref><ref name="Vah96">{{Cite book |title=UNIX Internals - The New Frontiers |last=Vahalia |first=Uresh |year=1996 |publisher=Prentice-Hall Inc. |ISBN=0-13-101908-2 |chapter=2 - The Process and the Kernel}}</ref>。
== 概要 ==
コンピュータプログラムは命令の受動的集合体である。プロセスはそれら命令の実際の実行である。同じプログラムに対応する複数のプロセスが存在しうる。例えば、同じプログラムのインスタンスをいくつか開始することは、複数のプロセスの実行を意味することが多い。
[[マルチタスク]]は複数のプロセスがプロセッサ([[CPU]])や他のシステム資源を共有するための技法である。各CPUはある時点には1つのタスクだけを実行している。しかし、マルチタスクでは各プロセッサに各タスク間で[[コンテキストスイッチ|切り替え]]させることができ、各タスクの終了を待たずに次々とタスクを実行できる。OSの実装にもよるが、タスク間切り替えは[[入出力]]操作の際に行われたり、タスクが明示的に切り替え可能であることを指示したり、[[割り込み (コンピュータ)|ハードウェア割り込み]]の際に行われたりする。
マルチタスクの典型的形態として[[タイムシェアリングシステム|タイムシェアリング]]がある。タイムシェアリングは、対話型ユーザアプリケーションの素早い応答を可能にする技法である。タイムシェアリングシステムでは、[[コンテキストスイッチ]]が高速に行われる。そのため、同一プロセッサ上で複数のプロセスが同時に実行されているように見える。複数プロセスを同時に実行することを[[並行性]] (concurrency) と呼ぶ。
セキュリティと信頼性のため、現代のOSは個々のプロセス間での直接の[[プロセス間通信|通信]]ができないようにしており、厳密に統制・制御されたプロセス間通信機能を提供している。
== プロセスの構成 ==
一般に、プロセスは以下のようなリソースから構成される(あるいは所有している):
* プログラムに対応する実行[[機械語|命令コード]]の「イメージ」
* メモリ(通常、[[仮想記憶|仮想メモリ]]の領域と実メモリの領域)には実行コードとプロセス固有データ、(実行中[[サブルーチン]]や他のイベントを常に注視している)[[コールスタック]]、ヒープ領域などを格納している。
* プロセスに割り当てられたリソースの記述子。例えば、[[ファイル記述子]](UNIX系)やファイルハンドル([[Microsoft Windows|Windows]])。
* [[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]]属性。プロセスの所有者やプロセスに関わる[[パーミッション]]など。
* [[CPU|プロセッサ]]状態(コンテキスト)。[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]の内容、物理メモリのアドレッシングなど。「状態」はプロセス実行中はレジスタに存在し、そうでないときはメモリに存在する<ref name="OSC Chap4"/>。
OSは各プロセスのこれらの情報の大部分を[[プロセス制御ブロック]]というデータ構造に保持している。
これらリソースの一部、少なくともプロセッサの状態情報は、プロセスというよりも[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]に対応している。
オペレーティングシステムはプロセス同士を分離させておいて必要なリソースを割り当て、プロセス間で互いに干渉しあってシステム障害(例えば、[[デッドロック]]や[[スラッシング]])を発生したりしないようにする。オペレーティングシステムは[[プロセス間通信]]の機構も用意してプロセスが安全に通信し合えるようにしている。
== プロセスの分類 ==
プロセスは、その役割で分類すると、OSの機能を実現する'''システムプロセス'''と、ユーザー権限で実行される'''ユーザープロセス'''がある。
プロセスは、その[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]部分の性質で分類すると、以下のようになる。
; <span id="再配置可能">再配置可能([[リロケータブル]])</span>
: プロセスを補助記憶装置から主記憶装置に読み込む際、主記憶のどの位置に読み込んでも実行が可能なプログラム。アドレス指定が、プロセスの先頭アドレスからの相対位置で表現されていればよい。リロケータブルコードのうち、特に[[位置独立コード]]と呼ばれるものは、リンカやローダの機能に依らずとも自由な位置での実行が可能なコードであり、単にリロケータブルであるものとは区別される。
; <span id="再使用可能">再使用可能(リユーザブル)</span>
: 主記憶に読み込まれて実行を終えたプログラムが、再度の主記憶への読み込みを行うことなく再実行できることをいう。これには、実行し終えたプログラムをプログラム自身が書き換えない、実行後にプログラム内部変数に影響が残ってしまわないことなどが必要である。<!--また、実行開始時の変数の初期値がプログラムの実行に影響しないことが必要である。=> ちょっと疑問、というか-->
; <span id="再帰可能">再帰可能([[リカーシブ]])</span>
: 自分自身を呼び出すことが可能なもの。
; <span id="再入可能">再入可能([[リエントラント]])</span>
: プログラムの実行中、別のプロセスが同じプログラムを同時に実行できるもの。プログラム(コード)部分とデータ部分が別の記憶領域に分かれていて、コード部分だけ共有できればよい。同時実行したいプロセスは、データ部分だけ独自に新しく用意する。リエントラントなコードは、当然にリカーシブ、リユーザブルである。
== 歴史 ==
{{See also|オペレーティングシステムの歴史}}
コンピュータ制御ソフトウェアは1960年代初めまでに {{仮リンク|IBM 7090/94 IBSYS|en|IBM 7090/94 IBSYS|label=IBSYS}} のような監視制御ソフトウェアから実行制御ソフトウェアへと発展した。コンピュータは高速化していったが、CPU時間は安価ではなく、しかも完全に使われたわけではない。そのため[[マルチタスク|マルチプログラミング]]が必要とされ、また可能となった。
マルチプログラミングとは、複数のプログラムを同時に([[並行性|並行]]に、同時に並列ということもある)実行することを意味する。当初は単一のプロセッサ上で動作し、少ない資源を共有していた。マルチプログラミングはまた、より幅広い用語である[[マルチプロセッシング]]の基本形態でもある。
プログラムは、プロセッサへの命令列で構成されている。単一のプロセッサは一度に1つの命令しか実行できない。つまり同時に複数のプログラムを実行することは不可能である。プログラムは長い待ち合わせが必要な[[計算資源]](入力など)を必要とすることがあり、時間のかかる操作(プリンターへの出力など)を行うこともある。そういったとき、プロセッサは何もしていない「アイドル」状態になる。プロセッサを常に動作させるため、そういった入出力待ち状態のプログラムの実行を中断し、別のプログラムを起動または再開させる。ユーザーから見れば、複数のプログラムが同時に動作しているように見える。
間もなく「プログラム」の観念は「実行中プログラムとそのコンテキスト」という観念に拡張された。これがプロセスという概念の誕生である。
これは、[[リエントラント]]なコードの発明とともに必要になった。
[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]という概念が生まれるのはその少し後になる。[[タイムシェアリングシステム]]、[[コンピュータネットワーク]]、[[マルチプロセッサ]]、メモリ共有型コンピュータなどが登場し、古い「マルチプログラミング」は真の[[マルチタスク]]やマルチプロセッシングにとって代わられ、さらには[[マルチスレッド]]へと進化していったのである。
== マルチタスクOSにおけるプロセス管理 ==
{{Main|プロセス管理}}
[[マルチタスク]][[オペレーティングシステム]]では多くのプロセスを[[並行性|並行]]実行するためにプロセス間で[[コンテキストスイッチ]]を行うことがある。ただし1つのシングルコア[[CPU]]においては、ある一時点にひとつのプロセスしか実行できない([[ハードウェアマルチスレッディング]]などの技術を使っていない場合<ref group="注">最近の[[マルチコア]]のプロセッサでは、2つ以上のプロセスを一度に実行することができる。[[インテル]]の[[ハイパースレッディング・テクノロジー]]で使われている[[同時マルチスレッディング]]は複数プロセスまたは複数スレッドの同時実行をシミュレートできる。</ref>)。
主プログラムを1つのプロセスとし、それ以外を並列に動作するプロセス群として独立させ、非同期に動作するサブルーチンとして実装することもある。プロセスは[[リソース]]を所有しており、メモリ上のプログラムの「イメージ」はそのようなリソースの1つと言える。[[マルチプロセッシング]]システムでは多くのプロセスが同じ[[リエントラント]]なプログラムのメモリ上のコピーを共有しているが、プログラムの「イメージ」は個々のプロセスが所有していると言える([[多重仮想記憶]])。
[[組み込みシステム]]のオペレーティングシステムでは、プロセスを'''タスク'''と呼ぶことが多い。「プロセス」(あるいはタスク)という用語は「時間を占める何か」であり、対照的に「メモリ」は「空間を占める何か」である<ref group="注">タスクという語は、タスク=スレッドの意味で使われることもあり、歴史的にはプロセスという語より適用範囲が広い。</ref>。また、[[ジョブ]]がユーザーから見た処理の単位であるのに対し、「プロセス」は、コンピュータ側から見た処理の単位である。
以上の説明はオペレーティングシステムに管理されるプロセスにも、[[プロセス計算]]で定義されるプロセスにも当てはまる。
プロセスが中断された状態ならば、ディスクにスワップアウトすることができるが、[[仮想記憶]]システムではこれは透過的であって、あるメモリブロックの内容がディスク上にあってメモリ上にないという状態は正常な状態である。動作中プロセスの「未使用」部分もディスクにスワップアウト(ページアウト)することができる。実行中プログラムやそのデータのいかなる部分も、対応するプロセスを実行するにあたって物理メモリ上に存在する必要はない。しかし、プロセスがディスク上のコードやデータを必要としたとき(対応する仮想アドレスにアクセスしようとしたとき)、実行が中断されて[[ページング方式|ページング]]として知られている方法でその内容が物理メモリに移動される。
== プロセスの状態遷移 ==
[[ファイル:Process states.svg|right|400px|thumb|[[状態遷移図]]の形式で表したプロセスの様々な状態。矢印は状態から状態への遷移が可能であることを示す。見ての通り、一部のプロセスは主メモリにあるが、一部は二次記憶(仮想メモリ)にある。]]
[[マルチタスク]]が可能なOSの[[カーネル]]は、個々のプロセスの状態を保持する必要がある。この状態の名称は標準化されていないが、どのOSでも似たような機能を持っている<ref name="OSC Chap4"/>。
以下の典型的なプロセス状態は多くのコンピュータシステム上で見られる。これらの状態のほとんどで、プロセスは[[主記憶装置|メインメモリ]]上に存在する。
===生成===
プロセスが最初に作成されると、生成(created)状態あるいは新規(new)状態となる。この状態ではプロセスは走行可能状態にされるのを待つ。この状態遷移をさせるのは[[スケジューリング|スケジューラ]]である。多くのシステムではこの遷移が自動的に(即座に)行われるが、[[リアルタイムオペレーティングシステム]]では遅延が生じることがある。リアルタイムシステムで多くのプロセスを走行可能状態にしてしまうと、過飽和とシステムリソースの競合が発生し、プロセスのリアルタイム性を損なってしまう。
===走行可能===
走行可能(ready)状態あるいはスケジュール待ち(waiting)状態のプロセスは[[主記憶装置|メインメモリ]]にロードされ[[CPU]]による実行を待っている(ディスパッチャか[[スケジューリング|短期スケジューラ]]によってCPU上に[[コンテキストスイッチ]]されるのを待っている)。任意の時点の走行可能状態のプロセスは非常に多数になる可能性がある。例えば、プロセッサが1個のシステムでは一度にひとつのプロセスしか実行できないので、他のプロセスの多くは実行されるのを待っている状態となる。
===走行中===
走行中(running)状態、実行中(executing)状態、活性(active)状態などと呼ばれる。この状態のプロセスは現にCPU上で実行されている。この状態で割り当てられたタイムスライスを使い切ると走行可能状態に戻される。あるいはプログラムの実行が終了すれば終了状態になるし、何らかのリソースが必要になればブロック状態になるだろう。
===ブロック状態===
スリープ(sleeping)状態ともいう。プロセスはリソース([[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]、[[セマフォ]]、周辺機器など)を確保できないと、プログラム実行を続けられなくなるのでCPUから外されてブロック(blocked)状態となる。プロセスはそのリソースが利用可能となるまでブロック状態のままとなるが、これが[[デッドロック]]状態を発生させることもある。ブロック状態のプロセスに対してオペレーティングシステムはリソースが利用可能となったことを知らせる(オペレーティングシステム自体は[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]によってリソースが利用可能となったことを知る)。オペレーティングシステムはブロックされなくなったプロセスを再び走行可能状態にし、そこから走行中状態にディスパッチされると、プロセスは利用可能となったリソースを使用することになる。
===終了状態===
プロセスは走行中状態でプログラムの実行完了によって終了状態となるか、明示的に終了させられることもある。どちらの場合でもプロセスは終了(terminated)状態になる。プロセスがこの状態になってもメモリから消去されない場合、この状態をゾンビ(zombie)状態とも呼ぶ。
[[UNIX]]系オペレーティングシステムにおいて、'''ゾンビプロセス'''('''Zombie Process''')は、処理を完了したがプロセステーブル([[プロセス制御ブロック]]相当)が残っていて、[[終了ステータス]]を読まれるのを待っているプロセスである<ref name="OSC Chap4"/><ref name="Stallings">{{Cite book| author=Stallings, William | title=Operating Systems: internals and design principles (5th edition) | publisher=Prentice Hall | year=2005 | isbn=0-13-127837-1}}
:Particularly chapter 3, section 3.2, "process states", including figure 3.9 "process state transition with suspend states"</ref><ref name="pro-unix">{{Cite book|和書
| author1 = 村井純
| author2 = 井上尚司
| author3 = 砂原秀樹
| title= プロフェッショナルUNIX
| year=1986
| date=1986-1-15
| page= 52
| publisher=[[アスキー (企業)|株式会社アスキー]]|isbn = 4-87148-184-0}}</ref>。この用語のメタファーに従えば、ゾンビプロセスは「死んでいる」が、まだ「死神」が到着していないということになる。
プロセスは終了するときに、使用していた全メモリとリソースを解放して他のプロセスが再利用できるようにする。しかし、プロセステーブルのエントリは残される。[[親プロセス]]には[[子プロセス]]の終了を知らせるために SIGCHLD [[シグナル (Unix)|シグナル]]が送られる。親プロセスは SIGCHLD シグナルを必ずしも利用する必要はなく、利用するかどうかはプログラミングの都合による。親プロセスが子プロセスをゾンビ・プロセスにせずに「看取る」ためには、子プロセスの[[終了ステータス]]を読み取ってゾンビを削除する。一般的にはプログラムの適当な場所で <code>waitpid</code> [[システムコール]]を WNOHANG オプションつきで呼び出すか、シグナル・ハンドラで SIGCHLD を捕捉し <code>wait</code> を実行するか、または <code>signal</code> もしくは <code>sigaction</code> システム・コールで SIGCHLD に対して SIG_IGN シグナル・ハンドラを設定する方法が代表的である(SIGCHLD に対し SIG_IGN を設定する方法は [[POSIX]].1-1990 では認められていなかったが、POSIX.1-2001 で認められるようになった)。ゾンビの使用している[[プロセス識別子]]とプロセステーブルエントリがそれによって再利用可能となる。このような処理を行わなければゾンビプロセスは残存し続ける。例えば、親プロセスが他の子プロセスを生成しようとしていて、ゾンビとなっているプロセスと同じプロセス識別子を割り当てられたくないときなどは、ゾンビプロセスを残す意味があるだろう。
ゾンビプロセスは[[孤児プロセス]]と同じではない。孤児プロセスはゾンビ状態にはなっておらず、<code>[[init]]</code> プロセスを里親としているので必ず <code>wait</code>が実行される。
ゾンビプロセスは UNIX の ''ps'' コマンドの STAT カラムに "Z" と表示されることで識別される。ゾンビプロセスは一般に非常に短期間しか存在しないが、親プロセスのプログラムにバグがあるとずっと残存することがある。[[メモリリーク]]と同様、ゾンビプロセスが多少存在しても問題はないが、高負荷状態でゾンビが増えるとプロセスを生成できないなどの問題を発生することになる。
ゾンビプロセスを消去するには、まず親プロセスに [[kill]] コマンドで SIGCHLD シグナルを送ってみる。これで親プロセスがゾンビを刈り取らないなら、次は親プロセスを終了させる。プロセスは親プロセスが終了すると init が新たな親に設定される。init は定期的に <code>wait</code>システムコールを実行しているので、全てのゾンビプロセスを刈り取ってくれる。
===その他のプロセス状態===
[[仮想記憶]]をサポートするシステムでは、上記以外に2つの状態がある。どちらの状態もプロセスは二次記憶装置([[ハードディスク]]など)に格納される。
ひとつは、スワップアウト(またはサスペンド)されたスケジュール待ち状態である。仮想記憶をサポートするシステムでは、プロセスはスワップアウトされることがあり、中期スケジューラがメインメモリから仮想メモリに移動させる。その後、中期スケジューラによってスワップインされ、通常のスケジュール待ち状態になる。
もうひとつは、スワップアウト(またはサスペンド)されたブロック状態である。ブロックされたプロセスもスワップアウトされることがある。この状態ではプロセスはスワップアウトされた上にブロックされているため、先にスワップインされれば通常のブロック状態になるし、先にリソースが利用可能になればスワップアウトされたスケジュール待ち状態になる。
== プロセス間通信 ==
{{Main|プロセス間通信}}
プロセスが互いに通信することを「プロセス間通信」(IPC) と呼ぶ。プロセスはかなり頻繁に通信を必要とする。例えばシェルのパイプラインでは、第1のプロセスの出力を第2のプロセスに渡す必要があり、その後も同様に出力と入力が連鎖する必要がある。その際、割り込みなどを使わずに構造化された方法を使うことが望ましい。
通信するプロセス群は異なるマシン上で動作していてもよい。その場合、それぞれのマシンのOSは異なるかも知れないので、何らかの調停機能([[通信プロトコル]])が必要となる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* Gary D. Knott (1974) ''[http://doi.acm.org/10.1145/775280.775282 A proposal for certain process management and intercommunication primitives]'' ACM SIGOPS Operating Systems Review. Volume 8, Issue 4 (October 1974). pp. 7 – 44
== 関連項目 ==
{{Wiktionarypar|プロセス}}
* [[Fork]]
* [[コンテキストスイッチ]]
* [[スケジューリング]]
* [[タスク (コンピュータ)]]
* [[スレッド (コンピュータ)]]
* [[プロセス管理]]
* [[プロセスグループ]]
* [[プロセス計算]]
* [[マルチタスク]]
* [[仮想記憶]]
* [[子プロセス]]
== 外部リンク ==
* [http://www.processlibrary.com/ processlibrary.com - Online Resource For Process Information]
* [http://www.file.net/ file.net - Computer Process Information Database and Forum]
{{並列コンピューティング}}
{{オペレーティングシステム}}
{{Normdaten}}
[[Category:OSのプロセス管理|*]]
[[Category:並行計算|ふろせす]]
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上総国
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上総国(かずさのくに、歴史的仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の千葉県中央部に位置する。
常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。
『古語拾遺』によると、よき麻の生きたる土地というところより称したとされる捄国(ふさのくに)から分立したという。分立の時期については、『帝王編年記』では上総国の成立を安閑天皇元年(534年)としており、毛野国から分かれた上野国と同じく「上」を冠する形式をとることから6世紀中葉とみる説もある。
6世紀から7世紀にかけ多くの国造が置かれ、後の安房国も併せ8つの国造の領域が存在しているが、ヤマト王権からはこれらの国造の領域を合わせ捄国(もしくは上捄国)として把握されていたものと考えられ、ヤマト王権と緊密なつながりを有していたともされている。藤原京出土木簡に「己亥年(699年)十月上捄国阿波評松里□」とあり、7世紀末には「上捄」の表記であったと推測されるが、大宝4年(704年)の諸国印鋳造時には「上総」に改められた。読みは、古くは「かみつふさ」であったが、「かづさ」に訛化した。「かみつふさ」の転であり、歴史的仮名遣では「かづさ」と表記されるが、現代仮名遣いでは「かずさ」とするため、「つ」に由来することが見えない状況となっている。
明治維新直前の領域は、現在の千葉県の下記の区域に相当する。
律令制以前は、須恵、馬来田、上海上、伊甚、武社、菊麻、阿波、長狭の8つの国造が置かれていた。律令制において、市原郡、海上郡、畔蒜郡、望陀郡、周淮郡、埴生郡、長柄郡、山辺郡、武射郡、天羽郡、夷灊郡、平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の15の郡(評)をもって令制国としての上総国が成立し、東海道に属する一国となった。元々東海道は浦賀水道を突っ切る海つ道(海路)であり、房総半島の畿内に近い南部が上総国、遠い北部が下総国とされた。
養老2年5月2日(718年6月4日)、阿波および長狭国造の領域だった平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を割いて安房国とした。天平13年12月10日(742年1月20日)、安房国を併合したが、天平宝字元年(757年)に再び安房国を分けた。この時から長く領域は変わらなかった。そして天長3年9月6日(826年10月10日)、上総国と常陸国、上野国の3国は、国守に必ず親王が補任される親王任国となり、国級は大国にランクされた。親王任国の国守となった親王は「太守」と称し、官位は必然的に他の国守(通常は従六位下から従五位上)より高く、親王太守は正四位以上とされた。親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため平高望、良兼や菅原孝標がそうであったように、国司の実質的長官は上総介であった。
古代末期から中世にかけて上総氏が活動し、鎌倉期には上総広常、その亡き後は足利氏となる。室町時代の守護には、高氏、佐々木氏、千葉氏、新田氏、上杉氏、宇都宮氏の各氏が就いた。15世紀半ばごろより、原氏、武田氏、酒井氏、土岐氏、正木氏らの各氏が割拠。16世紀前半には、下総生実に拠った小弓御所足利義明の影響が強まった。足利義明が天文7年(1538年)の国府台合戦で敗死した後は、小田原の後北条氏、安房の里見氏の抗争の地となり、在地の諸豪の動きはきわめて流動的であった。
豊臣秀吉の小田原征伐後、関東に徳川家康が転封されると、大多喜の本多氏を筆頭に万石5氏が置かれ、江戸時代には久留里藩、飯野藩、佐貫藩、鶴牧藩、一宮藩、大多喜藩、請西藩の7藩と幕府領・旗本領が展開し、村数は約1,200ヵ村(天保期)を数えた。
幕末から明治政府成立の過程で、請西藩は、朝命に抗したという理由で明治元年(1868年)12月に領地没収となる。また、徳川家達を駿河静岡藩70万石に封じたことによって、明治2年(1869年)までに、菊間藩、金ヶ崎藩(のちに桜井藩)、小久保藩、鶴舞藩、柴山藩(のちに松尾藩)、大網藩の6藩が新たに置かれた一方、幕府領・旗本領は安房上総権事・柴山典の管轄下に置かれた。
明治2年(1869年)の版籍奉還で藩主は知藩事に、旧幕府領・旗本領は安房上総知県事となり、安房上総知県事の管轄地には宮谷県が置かれて柴山典が権知事となり、管轄地は上総において約8万7,800石。安房を加えると計37万1,700石であった。明治4年(1872年)、廃藩置県が行われると、旧藩領と宮谷県は大きく木更津県に統合された。明治6年(1874年)には木更津県と下総を管轄していた印旛県が統合して千葉県が成立し、管轄が移行した。
市原市と推定されており、国分寺跡、国分尼寺跡が発掘されているが、国府の遺構はまだ見つかっていない。中世の国府は能満(府中)にあったと考えられている。
このほか、市原市八幡の飯香岡八幡宮が「総社八幡」であった。中世以降、飯香岡八幡宮が総社として機能した。
いずれも律令時代の駅。
太字は主要なもの
近世上総国内の藩を以下に示す。
ここでは中近世上総国の郡と村について記述する。
出典: 内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。
鎌倉幕府
室町幕府
戦国時代
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"text": "市原市と推定されており、国分寺跡、国分尼寺跡が発掘されているが、国府の遺構はまだ見つかっていない。中世の国府は能満(府中)にあったと考えられている。",
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"text": "このほか、市原市八幡の飯香岡八幡宮が「総社八幡」であった。中世以降、飯香岡八幡宮が総社として機能した。",
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"text": "ここでは中近世上総国の郡と村について記述する。",
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"title": "人物"
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上総国は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の千葉県中央部に位置する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。
|
{{基礎情報 令制国
|国名 = 上総国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|上総国}}
|別称 = [[総州]](そうしゅう)<ref group="注釈">別称「総州」は[[下総国]]とあわせて、または単独での呼称。</ref><!--<br/>[[南総]](なんそう)<ref>別称「南総」は[[安房国]]とあわせて、または単独での呼称。</ref> 明治維新以前そういう用法があったのでしょうか?-->
|所属 = [[東海道]]
|領域 = [[千葉県]]中部
|国力 = [[大国 (令制国)|大国]]
|距離 = [[遠国]]
|郡 = 11郡67郷
|国府 = (推定)千葉県[[市原市]]
|国分寺 = 千葉県市原市([[上総国分寺跡]])
|国分尼寺 = 千葉県市原市([[上総国分尼寺跡]])
|一宮 = [[玉前神社]](千葉県[[長生郡]][[一宮町]])
}}
'''上総国'''(かずさのくに、[[歴史的仮名遣]]:かづさのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東海道]]に属し、現在の[[千葉県]]中央部に位置する。
[[常陸国]]・[[上野国]]とともに[[親王]]が[[国司]]を務める[[親王任国]]であり、国府の実質的長官は上総介であった。
== 「上総」の名称と由来 ==
『[[古語拾遺]]』によると、よき[[麻]]の生きたる土地というところより称したとされる[[総国|捄国]](ふさのくに)から分立したという。分立の時期については、『帝王編年記』では上総国の成立を[[安閑天皇]]元年([[534年]])としており、[[毛野|毛野国]]から分かれた上野国と同じく「上」を冠する形式をとることから[[6世紀]]中葉とみる説もある<ref>楠原佑介他編『古代地名語源辞典』「総」の項、[[東京堂出版]]、1981年。ISBN 4-490-10148-1</ref>。
6世紀から[[7世紀]]にかけ多くの[[国造]]が置かれ、後の[[安房国]]も併せ8つの国造の領域が存在しているが、[[ヤマト王権]]からはこれらの国造の領域を合わせ捄国(もしくは上捄国)として把握されていたものと考えられ、ヤマト王権と緊密なつながりを有していたともされている。[[藤原京]]出土[[木簡]]に「[[己亥]]年([[699年]])十月上捄国阿波評松里□」とあり、7世紀末には「上捄」の表記であったと推測されるが、[[大宝 (日本)|大宝]]4年([[704年]])の諸国印鋳造時には「上総」に改められた<ref>加藤謙吉他編『日本古代史地名事典』「上総国」の項、[[雄山閣]]、2007年。ISBN 978-4-639-01995-4</ref>。読みは、古くは「かみつふさ」であったが、「かづさ」に訛化した。「かみつふさ」の転であり、[[歴史的仮名遣]]では「かづさ」と表記されるが、[[現代仮名遣い]]では「かずさ」とするため、「つ」に由来することが見えない状況となっている。
== 領域 ==
[[明治維新]]直前の領域は、現在の[[千葉県]]の下記の区域に相当する。
* [[千葉市]][[緑区 (千葉市)|緑区]]の東部(下大和田町・高津戸町・大高町・越智町より南東)
* [[市原市]]
* [[袖ケ浦市]]
* [[木更津市]]
* [[君津市]]
* [[富津市]]
* [[山武郡]][[横芝光町]]の西部([[栗山川]]以西)
* 山武郡[[芝山町]]・[[九十九里町]]
* [[山武市]]
* [[東金市]]
* [[大網白里市]]
* [[茂原市]]
* [[長生郡]][[白子町]]・[[長生村]]・[[一宮町]]・[[睦沢町]]・[[長南町]]・[[長柄町]]
* [[いすみ市]]
* [[夷隅郡]][[御宿町]]・[[大多喜町]]
* [[勝浦市]]
* [[鴨川市]]の一部(四方木)
== 沿革 ==
[[律令制#日本の律令制|律令制]]以前は、[[須恵国造|須恵]]、[[馬来田国造|馬来田]]、[[上海上国造|上海上]]、[[伊甚国造|伊甚]]、[[武社国造|武社]]、[[菊麻国造|菊麻]]、[[阿波国造|阿波]]、[[長狭国造|長狭]]の8つの国造が置かれていた。律令制において、[[市原郡]]、[[海上郡 (上総国)|海上郡]]、[[畔蒜郡]]、[[望陀郡]]、[[周淮郡]]、[[上埴生郡|埴生郡]]、[[長柄郡]]、[[山辺郡 (千葉県)|山辺郡]]、[[武射郡]]、[[天羽郡]]、[[夷隅郡|夷灊郡]]、[[平郡|平群郡]]、[[安房郡]]、[[朝夷郡]]、[[長狭郡]]の15の[[郡]]([[評]])をもって令制国としての上総国が成立し、東海道に属する一国となった。元々東海道は浦賀水道を突っ切る海つ道(海路)であり、[[房総半島]]の[[畿内]]に近い南部が上総国、遠い北部が[[下総国]]とされた。
[[養老]]2年[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]([[718年]][[6月4日]])、阿波および長狭国造の領域だった平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を割いて安房国とした。[[天平]]13年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]([[742年]][[1月20日]])、安房国を併合したが、[[天平宝字]]元年([[757年]])に再び安房国を分けた。この時から長く領域は変わらなかった。そして[[天長]]3年[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]([[826年]][[10月10日]])、上総国と常陸国、上野国の3国は、[[国司|国守]]に必ず親王が補任される[[親王任国]]となり、国級は大国にランクされた。親王任国の国守となった親王は「太守」と称し、[[官位]]は必然的に他の国守(通常は[[従六位|従六位下]]から[[従五位|従五位上]])より高く、親王太守は[[正四位]]以上とされた。親王太守は現地へ赴任しない[[遙任]]だったため[[平高望]]、[[平良兼|良兼]]や[[菅原孝標]]がそうであったように、国司の実質的長官は上総介であった。
古代末期から中世にかけて[[上総氏]]が活動し、鎌倉期には[[上総広常]]、その亡き後は[[足利氏]]となる。[[室町時代]]の守護には、[[高氏]]、[[佐々木氏]]、[[千葉氏]]、[[新田氏]]、[[上杉氏]]、[[宇都宮氏]]の各氏が就いた。[[15世紀]]半ばごろより、[[原氏]]、[[上総武田氏|武田氏]]、[[上総酒井氏|酒井氏]]、[[土岐氏]]、[[正木氏]]らの各氏が割拠。[[16世紀]]前半には、下総生実に拠った[[小弓御所]][[足利義明]]の影響が強まった。足利義明が[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])の[[国府台合戦]]で敗死した後は、小田原の[[後北条氏]]、安房の[[里見氏]]の抗争の地となり、在地の諸豪の動きはきわめて流動的であった。
[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]後、[[関東地方|関東]]に[[徳川家康]]が転封されると、大多喜の[[本多忠勝|本多氏]]を筆頭に万石5氏が置かれ、[[江戸時代]]には[[久留里藩]]、[[飯野藩]]、[[佐貫藩]]、[[鶴牧藩]]、[[一宮藩]]、[[大多喜藩]]、[[請西藩]]の7藩と幕府領・旗本領が展開し、村数は約1,200ヵ村([[天保]]期)を数えた。
幕末から[[明治政府]]成立の過程で、請西藩は、朝命に抗したという理由で[[明治]]元年([[1868年]])12月に領地没収となる。また、[[徳川家達]]を[[駿河国|駿河]][[駿府藩|静岡藩]]70万石に封じたことによって、明治2年([[1869年]])までに、[[菊間藩]]、[[請西藩|金ヶ崎藩]](のちに桜井藩)、[[小久保藩]]、[[鶴舞藩]]、柴山藩(のちに[[松尾藩]])、[[大網藩]]の6藩が新たに置かれた一方、幕府領・旗本領は安房上総権事・[[柴山典]]の管轄下に置かれた。
明治2年(1869年)の[[版籍奉還]]で藩主は[[知藩事]]に、旧幕府領・旗本領は[[宮谷県|安房上総知県事]]となり、安房上総知県事の管轄地には[[宮谷県]]が置かれて柴山典が権知事となり、管轄地は上総において約8万7,800石。安房を加えると計37万1,700石であった。明治4年([[1872年]])、[[廃藩置県]]が行われると、旧藩領と宮谷県は大きく[[木更津県]]に統合された。明治6年([[1874年]])には木更津県と下総を管轄していた[[印旛県]]が統合して千葉県が成立し、管轄が移行した。
=== 明治以後の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(1,203村・42万5,616石余)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。
** [[天羽郡]](77村・2万4,432石余) - [[天領|幕府領]]、[[地方知行|旗本領]]、'''[[佐貫藩]]'''、[[上野国|上野]][[前橋藩]]
** [[周淮郡]](109村・2万7,171石余) - 幕府領、旗本領、[[与力]]給知、'''[[飯野藩]]'''、請西藩、上野前橋藩、[[三河国|三河]][[西端藩]]
** [[望陀郡]](193村・6万314石余) - 幕府領、旗本領、与力給知、'''[[久留里藩]]'''、'''[[請西藩]]'''、飯野藩、鶴牧藩、佐貫藩、[[武蔵国|武蔵]][[岩槻藩]]、上野前橋藩
** [[市原郡]](183村・5万6,041石余) - 幕府領、旗本領、与力給知、[[同心]]給知、'''[[鶴牧藩]]'''、久留里藩、請西藩、佐貫藩、[[下総国|下総]][[高岡藩]]、[[安房国|安房]][[館山藩]]、武蔵岩槻藩、上野前橋藩、三河[[西大平藩]]
** [[夷隅郡]](169村・6万9,096石余) - 幕府領、旗本領、与力給知、'''[[大多喜藩]]'''、久留里藩、鶴牧藩、武蔵岩槻藩、上野[[吉井藩]]、[[土佐国|土佐]][[土佐藩|高知新田藩]]
** [[上埴生郡]](48村・1万8,567石余) - 幕府領、旗本領、久留里藩、鶴牧藩、下総高岡藩
** [[長柄郡]](159村・6万1,395石余) - 幕府領、旗本領、与力給知、鶴牧藩、'''[[一宮藩]]'''、安房館山藩、下総[[生実藩]]、武蔵岩槻藩、上野吉井藩、[[出羽国|出羽]][[長瀞藩]]
** [[山辺郡 (千葉県)|山辺郡]](136村・5万3,527石余) - 幕府領、旗本領、与力給知、鶴牧藩、下総[[結城藩]]、下総生実藩、下総高岡藩、武蔵岩槻藩、[[陸奥国|陸奥]][[福島藩]]、出羽長瀞藩
** [[武射郡]](129村・5万5,068石余) - 幕府領、旗本領、飯野藩、下総結城藩、下総生実藩、下総高岡藩、三河西端藩、出羽長瀞藩、土佐高知新田藩
* [[慶応]]4年
** 請西藩が廃藩。
** [[7月2日 (旧暦)|7月2日]](1868年[[8月19日]]) - 幕府領と、廃藩や転封により領主不在となった区域に'''[[宮谷県|安房上総知県事]]'''を設置。
** [[7月13日 (旧暦)|7月13日]](1868年[[8月30日]])
*** [[駿河国|駿河]][[小島藩]]が市原郡・望陀郡・周淮郡に転封し、'''[[請西藩|金ヶ崎藩]]'''となる。
*** 天羽郡に安房[[長尾藩]]が入封。
** [[9月5日 (旧暦)|9月5日]](1868年[[10月20日]]) - [[遠江国|遠江]][[浜松藩]]が市原郡・長柄郡・上埴生郡に転封し、'''[[鶴舞藩]]'''となる。
* 明治元年
** [[9月12日 (旧暦)|9月12日]](1868年[[10月27日]]) - 駿河[[沼津藩]]が市原郡に転封し、'''[[菊間藩]]'''となる。
** [[9月21日 (旧暦)|9月21日]](1868年[[11月5日]])
*** 遠江[[掛川藩]]が山辺郡・武射郡に転封し、'''[[松尾藩|柴山藩]]'''となる。
*** 遠江[[相良藩]]が周淮郡・天羽郡に転封し、'''[[小久保藩]]'''となる。
*** 望陀郡・周淮郡・天羽郡に安房[[花房藩]]が入封。
** 望陀郡に三河[[三河吉田藩|吉田藩]]、[[近江国|近江]][[三上藩]]が入封。
** 周淮郡に[[伊勢国|伊勢]][[長島藩]]が入封。
** 以上の変更にともない、鶴牧藩、久留里藩、飯野藩、佐貫藩、大多喜藩および前橋藩、岩槻藩、高岡藩、館山藩、西大平藩の[[飛地]]領で領地替えが行われる。高岡藩を除く飛地領が消滅。
** [[12月18日 (旧暦)|12月18日]]([[1869年]][[1月30日]]) - [[岩代国|岩代]]福島藩が三河[[重原藩]]に転封。飛地領が消滅。
* 明治2年
** [[2月9日 (旧暦)|2月9日]](1869年[[3月21日]]) - 安房上総知県事が'''[[宮谷県]]'''となる。
** [[6月19日 (旧暦)|6月19日]](1869年[[7月27日]]) - 三河吉田藩が三河[[三河吉田藩|豊橋藩]]に改称。飛地領は存続。
** [[11月11日 (旧暦)|11月11日]](1869年[[12月13日]]) - [[羽前国|羽前]]長瀞藩が藩庁を移転し、'''[[大網藩]]'''となる。
** [[12月25日 (旧暦)|12月25日]]([[1870年]][[1月26日]]) - 上野吉井藩が廃藩。飛地領が消滅。
** 金ヶ崎藩が'''[[請西藩|桜井藩]]'''に改称。
* 明治3年
** 3月 - 柴山藩庁が武射郡松尾に移転。
** [[4月14日 (旧暦)|4月14日]](1870年[[5月14日]]) - 近江三上藩が藩庁を移転し、[[和泉国|和泉]][[吉見藩]]となる。飛地領は存続。
** 土佐高知新田藩が土佐[[土佐藩|高知藩]]に編入。飛地領が消滅。
* 明治4年
** [[1月13日 (旧暦)|1月13日]]([[1871年]][[3月3日]]) - 柴山藩が[[松尾藩]]に改称。
** [[2月17日 (旧暦)|2月17日]](1871年[[4月6日]]) - 大網藩が藩庁を移転し、[[常陸国|常陸]][[龍ヶ崎藩]]となる。飛地領として存続。
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]](1871年[[8月29日]]) - 廃藩置県により、藩領が'''鶴牧県'''、'''菊間県'''、'''鶴舞県'''、'''久留里県'''、'''桜井県'''、'''飯野県'''、'''小久保県'''、'''佐貫県'''、'''松尾県'''、'''大多喜県'''および龍ヶ崎県、結城県、高岡県、生実県、花房県、長尾県、豊橋県、西端県、長島県、吉見県の飛地となる。
** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 国内に県庁を置く各県(国外の飛地領を除く)が'''[[木更津県]]'''に統合。
* 明治6年([[1873年]])[[6月15日]] - 木更津県が[[印旛県]]に統合して'''[[千葉県]]'''が発足。
== 国内の施設 ==
=== 国府 ===
[[市原市]]と推定されており、[[国分寺]]跡、[[国分尼寺]]跡が発掘されているが、国府の遺構はまだ見つかっていない。中世の国府は[[能満]](府中)にあったと考えられている。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
* 上総国分寺
:: 法燈は医王山清浄院[[上総国分寺|国分寺]](市原市惣社、本尊:薬師如来)が伝承する。
* 上総国分尼寺
:: 未詳。
=== 神社 ===
; [[延喜式内社]]
: 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す大社1座1社・小社4座4社の計5座5社が記載されている([[上総国の式内社一覧]]参照。大社1社は、[[名神大社]]である。
* [[上埴生郡|埴生郡]]
** [[玉前神社]] (長生郡[[一宮町]]一宮) - '''名神大社'''
* [[長柄郡]]
** 橘神社 (現 [[橘樹神社 (茂原市)|橘樹神社]]、[[茂原市]]本納)
* [[海上郡 (上総国)|海上郡]]
** [[島穴神社]] ([[市原市]]島野)
** [[姉埼神社]] (市原市姉崎)
* [[望陀郡]]
** 飫富神社 (現 [[飽富神社]]、[[袖ケ浦市]]飯富)
; [[総社]]・[[一宮]]以下
* 総社 戸隠神社 (市原市惣社) - 鎮座地名が「惣社」であることから、総社であったと推定されるが未詳
* 一宮:'''[[玉前神社]]'''
* 二宮:[[橘樹神社 (茂原市)|橘樹神社]]
* 三宮:[[三之宮神社 (睦沢町)|三之宮神社]]
このほか、市原市八幡の飯香岡八幡宮が「[[国府八幡宮|総社八幡]]」であった。中世以降、飯香岡八幡宮が総社として機能した。
=== 安国寺利生塔 ===
* 安国寺 - 仏光山白智院安国寺([[富津市]]亀田、本尊:阿弥陀如来)が継承
* 利生塔 - 長柄山[[眼蔵寺]]([[長生郡]][[長柄町]]長柄山、本尊:釈迦如来)が継承
=== 駅 ===
いずれも律令時代の駅。
* [[大前駅 (上総国)|大前駅]]([[千葉県]][[富津市]]岩瀬・小久保付近)
* [[藤潴駅]]([[木更津市]]下望陀・大寺付近)
* [[嶋穴駅]]([[市原市]]島野付近)
* [[天羽駅]]([[富津市]]湊・数馬・売津付近)
* [[大倉駅]]([[市原市]]八幡付近)
=== 馬牧 ===
* [[諸国牧]]
** [[大野馬牧]](千葉県市原市駒込・高滝付近/市原市折津・大久保付近とする説もある。)
=== 城館 ===
* [[千葉県の城#上総国]]参照
=== 湊・津 ===
太字は主要なもの
{| width="75%"
|- style="vertical-align:top;"
| width="25%"|
: [[東京湾|内海]]
* '''八幡湊'''
* '''五井湊'''
* 奈良輪湊
* '''木更津湊'''
* 中野湊
* '''富津湊'''
* '''湊'''
* 竹岡湊
* '''金谷湊'''
|
: [[太平洋|外海]]
* '''興津湊'''
* '''勝浦湊'''
* 福原湊
* '''一宮本郷湊'''
|}
== 地域 ==
=== 古代-中世 ===
==== 郡と荘園 ====
{| width="415px" align="right" cellpadding="0" cellspacing="0"
! style="text-align:center"|
|-
| align=center|<div style="width:415px;float:center;margin:0;position:relative;">[[image:Kazusa no kuni.gif|400px]]
<div style="position:absolute;left:170px;top:135px;font-size:12px">[[市原郡|<span style="color:white">①市原郡</span>]]</div>
<div style="position:absolute;left:200px;top:160px;font-size:12px">[[海上郡 (上総国)|<span style="color:white">②海上郡]]</span></div>
<div style="position:absolute;left:180px;top:220px;font-size:12px">[[畔蒜郡|<span style="color:white">③畔蒜郡]]</span></div>
<div style="position:absolute;left:145px;top:170px;font-size:12px">[[望陀郡|<span style="color:white">④望陀郡]]</span></div>
<div style="position:absolute;left:120px;top:200px;font-size:12px">[[周淮郡|<span style="color:white">⑤周淮郡]]</span></div>
<div style="position:absolute;left:220px;top:180px;font-size:12px">[[上埴生郡|<span style="color:white">⑥上埴生郡]]</span></div>
<div style="position:absolute;left:255.2px;top:150px;font-size:12px">[[長柄郡|<span style="color:white">⑦長柄</span>郡]]</div>
<div style="position:absolute;left:250px;top:115px;font-size:12px">[[山辺郡 (千葉県)|<span style="color:white">⑧山辺郡]]</span></div>
<div style="position:absolute;left:270px;top:80px;font-size:12px">[[武射郡|<span style="color:white">⑨武射郡]]</span></div>
<div style="position:absolute;left:120px;top:240px;font-size:12px">[[天羽郡|<span style="color:white">⑩天羽郡]]</span></div>
<div style="position:absolute;left:240px;top:245px;font-size:12px">[[夷隅郡|<span style="color:white">⑪夷隅郡]]</span></div>
|}
* '''①[[市原郡]]'''
** [[市東郡]]、[[市西郡]]、[[市原別宮]]、[[与宇宮保]]
* '''②[[海上郡 (上総国)|海上郡]]'''
** [[海北郡]]、[[馬野郡]]、[[佐堤郡]]、[[今富保]]、[[久吉保]]、[[矢田]]、[[池和田]]
* '''③[[畔蒜郡]]'''
** [[畔蒜荘]]
* '''④[[望陀郡]]'''
** [[望東郡]]、[[望西郡]]、[[金田保]]、[[飯富荘]]、[[菅生荘]]、[[高梁荘]]
* '''⑤[[周淮郡]]'''
** [[周東郡]]、[[周西郡]]
* '''⑥[[上埴生郡|埴生郡]]'''
** [[埴生郡]]、[[墨田保]]、[[玉前荘|玉前(一宮)荘]]
* '''⑦[[長柄郡]]'''
** [[長北郡]]、[[長南郡]]、[[刑部郡]]、[[桜屋郷]]、[[田代荘]]、[[藻原荘]]、[[橘木(二宮)荘]]
* '''⑧[[山辺郡 (千葉県)|山辺郡]]'''
** [[山辺北郡]]、[[山辺南郡]]、[[土気郡]]
* '''⑨[[武射郡]]'''
** [[武射北郡]]、[[武射南郡]]
* '''⑩[[天羽郡]]'''
** [[佐貫郷]]、[[天羽荘]]
* '''⑪[[夷隅郡|夷灊郡]]'''
** [[伊北荘]]、[[伊南荘]]、[[千町荘]]
=== 中世-近世 ===
==== 上総国の藩 ====
近世上総国内の[[藩]]<ref>須田茂『房総諸藩録』崙書房出版、1985年3月10日</ref>を以下に示す。
{{Col-begin}}
{{Col-2}}
* [[勝浦藩]]
* [[潤井戸藩]]
* [[苅谷藩]]
* [[大多喜藩]]
* [[大多喜新田藩]]
* [[一宮藩]]
* [[茂原藩]]
* [[大網藩]]
* [[百首藩]]
{{Col-2}}
* [[佐貫藩]]
* [[小久保藩]]
* [[飯野藩]]
* [[小糸藩]]
* [[金ケ崎藩]]
* [[久留里藩]]
* [[桜井藩]]
* [[貝淵藩]]
* [[請西藩]]
{{Col-end}}
==== 郡と村 ====
ここでは中近世上総国の郡と[[村]]について記述する。
{{節スタブ}}
=== 近代以降 ===
==== 郡と村 ====
{| width="415px" align="right" cellpadding="0" cellspacing="0"
! style="text-align:center"|
|-
| align=center|<div style="width:415px;float:center;margin:0;position:relative;">[[image:Kazusa no kuni.gif|400px]]
<div style="position:absolute;left:170px;top:135px;font-size:12px">[[市原郡|<span style="color:white">①市原郡</span>]]</div>
<div style="position:absolute;left:120px;top:200px;font-size:12px">[[君津郡|<span style="color:white">②君津郡</span>]]</div>
<div style="position:absolute;left:256px;top:150px;font-size:12px">[[長生郡|<span style="color:white">③長生</span>郡]]</div>
<div style="position:absolute;left:295px;top:80px;font-size:12px">[[山武郡|<span style="color:white">④山武</span>郡]]</div>
<div style="position:absolute;left:240px;top:245px;font-size:12px">[[夷隅郡|<span style="color:white">⑤夷隅郡</span>]]</div>
|}
* '''①[[市原郡]](江戸期に[[海上郡 (上総国)|海上郡]]が一部となる)'''
:: [[八幡町 (千葉県市原郡)|八幡町]]、[[五井町|五井村]]、[[千種村 (千葉県)|千種村]]、[[姉崎町|鶴牧村]]、[[東海村 (千葉県市原郡)|東海村]]、[[海上村 (千葉県市原郡)|海上村]]、[[菊間村]]、[[湿津村]]、[[市東村]]、[[市原村 (千葉県)|市原村]]、[[市西村]]、[[養老村 (千葉県)|養老村]]、[[戸田村 (千葉県)|戸田村]]、[[牛久町|明治村]]、[[内田村 (千葉県)|内田村]]、[[鶴舞町|鶴舞村]]、[[高滝村]]、[[富山村 (千葉県)|富山村]]、[[平三村]]、[[里見村 (千葉県)|里見村]]、[[白鳥村 (千葉県)|白鳥村]]
* '''②[[君津郡]]([[望陀郡]]・[[周淮郡]]・[[天羽郡]]3郡が[[1897年]]に合併)'''
: '''望陀郡(中世の頃に[[畔蒜郡]]が一部となる)'''
:: [[木更津町]]、[[真舟村]]、[[清川村 (千葉県)|清川村]]、[[巖根村]]、[[金田村 (千葉県)|金田村]]、[[中郷村 (千葉県君津郡)|中郷村]]、[[鎌足村]]、[[馬来田村]]、[[富岡村 (千葉県)|富岡村]]、[[楢葉村]]、[[神納村 (千葉県)|神納村]]、[[長浦村 (千葉県)|長浦村]]、[[根形村]]、[[平岡村 (千葉県)|平岡村]]、[[中川村 (千葉県君津郡)|中川村]]、[[久留里町]]、[[松丘村]]、[[小櫃村]]、[[亀山村 (千葉県)|亀山村]]
: '''周淮郡'''
:: [[波岡村]]、[[八重原村]]、[[周西村]]、[[周南村]]、[[中村 (千葉県君津郡)|中村]]、[[小糸村]]、[[三島村 (千葉県)|三島村]]、[[貞元村]]、[[秋元村]] 、[[青堀町|青堀村]]、[[富津市|富津村]]、[[飯野村 (千葉県)|飯野村]]
: '''天羽郡'''
:: [[湊町 (千葉県)|湊町]]、[[金谷村 (千葉県)|金谷村]]、[[竹岡村]]、[[天神山村]]、[[佐貫町]]、[[大貫町 (千葉県)|大貫村]]、[[吉野村 (千葉県)|吉野村]]、[[環村]]、[[関村 (千葉県君津郡)|関村]]、[[駒山村]]・[[豊岡村 (千葉県君津郡)|豊岡村]]
* '''③[[長生郡]]'''([[長柄郡]]・[[上埴生郡]]2郡が[[1897年]]に合併)
: '''長柄郡'''
:: [[茂原町]]、[[二宮本郷村]]、[[豊田村 (千葉県長生郡)|豊田村]]、[[東郷村 (千葉県)|東郷村]]、[[本納町|帆丘町]]、[[豊岡村 (千葉県長生郡)|豊岡村]]、[[新治村 (千葉県)|新治村]]、[[一宮町|一宮本郷村]]、[[東浪見村]]、[[一松村]]、[[八積村]]、[[高根村 (千葉県)|高根本郷村]]、[[長柄村 (千葉県)|上長柄村]]、[[日吉村 (千葉県長生郡)|日吉村]]、[[水上村 (千葉県)|水上村]]、[[土睦村]]、[[白潟町|白潟村]]、[[関村 (千葉県長生郡)|関村]]、[[南白亀村]]、[[太東村]]
: '''上埴生郡'''
:: [[庁南町|武丘村]]・[[豊栄村 (千葉県長生郡)|豊栄村]]、[[西村 (千葉県)|西村]]、[[東村 (千葉県長生郡)|東村]]、[[五郷村 (千葉県)|五郷村]]、[[鶴枝村]]
* '''④[[山武郡]]'''([[山辺郡 (千葉県)|山辺郡]]・[[武射郡]]2郡が[[1897年]]に合併)
: '''山辺郡'''
:: [[東金市|東金町]]、[[丘山村]]、[[正気村]]、[[豊成村]]、[[大和村 (千葉県)|大和村]]、[[福岡村 (千葉県)|福岡村]]、[[鳴浜村]]、[[公平村]]、[[源村 (千葉県)|源村]]、[[大網町]]、[[瑞穂村 (千葉県山武郡)|瑞穂村]]、[[山辺村 (千葉県)|山辺村]]、[[増穂村]]、[[白里町|白里村]]、[[片貝町 (千葉県)|片貝村]]、[[豊海町|豊海村]]、[[土気町|土気本郷町]]
: '''武射郡'''
:: [[成東町]]、[[大富村 (千葉県)|大富村]]、[[南郷村 (千葉県)|南郷村]]、[[緑海村]]、[[日向村 (千葉県)|日向村]]、[[睦岡村]]、[[松尾町|松尾村]]、[[大平村 (千葉県)|大平村]]、[[豊岡村 (千葉県山武郡)|豊岡村]]、[[蓮沼村]]、[[横芝町|旭村]]、[[大総村]]、[[上堺村]]、[[千代田村 (千葉県)|千代田村]]、[[二川村 (千葉県山武郡)|二川村]]
* '''⑤[[夷隅郡|夷灊郡]]'''
: [[瑞沢村]]、[[大多喜町]]、[[上瀑村]]、[[総元村]]、[[西畑村]]、[[老川村]]、[[国吉町]]、[[千町村]]、[[中川村 (千葉県夷隅郡)|中川村]]、[[古沢村 (千葉県)|古沢村]]、[[長者町]]、[[中根村]]、大原町、東海村、東村、浪花村、布施村、御宿町、勝浦町、豊浜村、上野村、興津町、総野村、上野村
=== 石高 ===
* 425,080
=== 人口 ===
* 1721年(享保6年) - 40万7552人
* 1750年(寛延3年) - 45万3460人
* 1756年(宝暦6年) - 43万8788人
* 1786年(天明6年) - 38万8542人
* 1792年(寛政4年) - 37万6441人
* 1798年(寛政10年)- 36万8831人
* 1804年(文化元年)- 36万4560人
* 1822年(文政5年) - 37万2347人
* 1828年(文政11年)- 36万2411人
* 1834年(天保5年) - 36万4240人
* 1840年(天保11年)- 35万8714人
* 1846年(弘化3年) - 36万0761人
* 1872年(明治5年) - 41万9969人
出典: 内閣統計局・編、[[速水融]]・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、[[東洋書林]]。
== 人物 ==
=== 国司 ===
==== 上総守(天長3年(826年)以前) ====
* [[708年]] - [[上毛野安麻呂]]
* [[731年]] - [[紀多麻呂]]
* [[733年]] - [[多治比広足]]
* [[741年]] - [[紀広名]]
* [[746年]] - [[百済王敬福]]
* [[746年]] - [[藤原宿奈麻呂]]
* [[749年]] - [[石川名人]]
* [[754年]] - [[大伴稲君]]
* [[759年]] - [[藤原魚名]]
* [[761年]] - [[石上宅嗣]]
* [[763年]] - [[阿倍子島|阿倍子嶋]]
* [[764年]] - [[布勢人主]]
* [[764年]] - [[弓削浄人|弓削御浄浄人]]
* [[768年]] - [[石上家成]]
* [[770年]] - [[榎井小祖|榎井子祖]]
* [[771年]] - [[桑原王]]
* [[774年]] - [[大伴家持]]
* [[777年]] - [[藤原黒麻呂]]
* [[779年]] - [[紀真乙]]
* [[780年]] - [[藤原刷雄]]
* [[783年]] - [[布勢清直]]
* [[789年]] - [[百済王玄鏡]]
* [[799年]] - [[百済王教徳]]
* [[809年]] - [[多治比全成]]
==== 上総太守(任国親王) ====
* [[仲野親王]] - [[826年]]-?
* [[阿保親王]] - [[827年]] - [[836年]]
* [[忠良親王]] - 836年 - [[838年]]
* 仲野親王 - 838年 - [[842年]]
* 阿保親王再任-842年
* [[基貞親王]] - [[846年]] - ?
* [[人康親王]] - [[849年]] - ?
* 忠良親王 - [[853年]] - ?
* [[本康親王]] - - [[860年]]
* 仲野親王 - [[861年]] - ?
* 本康親王再任-[[869年]] - ?
* [[惟彦親王]] - [[875年]] - ?
==== 上総介 ====
* [[田中多太麻呂]]
* [[佐伯国守]]
* [[巨勢馬主]]
* [[笠乙麻呂]]
* [[平高望]]
* [[平良兼]]
* [[菅原孝標]]
* [[藤原家隆 (従二位)|藤原家隆]]
* [[平常家]]
* [[平常晴]]
* [[平常澄]]
* [[伊西常景]]
* [[印東常茂]]
* [[上総広常|介八郎広常]]
* [[千葉常秀|境常秀]]
* [[足利義兼]]
* [[足利義氏 (足利家3代目当主)|足利義氏]]
* [[吉良長氏]]
* [[吉良満氏]]
* [[島津忠宗]]
* [[吉良貞義]]
* [[島津貞久]]
* [[島津師久]]
* [[島津伊久]]
* [[有馬元家]]
* [[畠山義英]]
* [[畠山義堯]]
* [[畠山在氏]]
* [[赤松義祐]]
* [[北条綱成]]
* [[織田信長]]
* [[今川氏真]]
* [[赤松則房]]
* [[松平忠輝]]
* [[織田信勝]]([[柏原藩]]主)
==== 武家官位としての上総守 ====
{{節スタブ}}
=== 守護 ===
'''[[鎌倉幕府]]'''
* [[1180年]] - [[1183年]] - [[上総広常|介八郎広常]]
* [[1259年]] - ? - [[足利頼氏]]
* ?~? - [[足利家時]]
* [[1329年]] - [[1331年]] - [[足利貞氏]]
* 1331年 - [[1333年]] - [[足利氏]]
'''[[室町幕府]]'''
* [[1334年]]? - ? - [[高師直]]
* [[1351年]] - ? - [[佐々木秀綱]]
* [[1352年]] - [[1355年]] - [[千葉氏胤]]
* 1355年 - [[1356年]] - [[佐々木道誉|佐々木道誉(京極高氏)]](秀綱の父)
* [[1362年]] - ? - 千葉氏胤
* [[1364年]] - [[新田義政]](世良田義政)
* 1364年 - [[新田直明]](岩松直明)
* 1364年 - [[1365年]] - [[上杉朝房]]
* [[1376年]] - [[1397年]] - [[上杉朝宗]]
* [[1418年]] - [[1420年]] - [[宇都宮持綱]]
* 1420年 - ? - [[上杉定頼]]
* [[1448年]] - ? - [[千葉胤直]]
'''[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]'''
: 戦国時代には、[[武田氏#上総武田氏|上総武田氏]]を中心に[[上総酒井氏|酒井氏]]・[[土岐氏]]などが割拠したが、[[三浦氏]]系と言われている[[安房正木氏]]が[[里見氏]]に従属しながら北上し、里見氏とともに上総の大半を制した。その後、[[後北条氏]]が侵攻して武田・酒井・土岐の諸氏を従属させて里見氏と争ったために激しい争いが続いた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
<references/>
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Kazusa Province}}
* [[令制国一覧]]
* [[総武]]
* [[上総掘り]]
* [[上総木綿]]
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{{S-bef|before=[[総国]]|表記=前}}
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|years=[[6世紀|6世紀中葉]] - [[1868年]]|years2=}}
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[[Category:東海道|国かすさ]]
[[Category:千葉県の歴史]]
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13,329 |
ウラン235
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ウラン235 (uranium-235, U) はウランの同位体の一つ。1935年にアーサー・ジェフリー・デンプスターにより発見された。天然から採掘されるウランのほとんどを占めるウラン238とは違いウラン235は核分裂の連鎖反応をおこす。ウラン235の原子核は中性子を吸収すると2つに分裂する。また、この際に2個ないし3個の中性子を出し、それによってさらに反応が続く。現存する全ての原子(元素)が放射性同位体を持つ中でも入手難度、精製、濃縮、半減期の長さなどから原子力分野に用いられ、原子力発電では多量の中性子を吸収するホウ素、カドミウム、ハフニウムなどでできた制御棒で反応を制御している。大量のエネルギーが一気に解放すると核爆発を起こし核兵器として利用される。
技術分野で呼称される場合「にひゃくさんじゅうご」ではなく「に、さん、ご」と呼ばれることがほとんどである。 ウラン235の核分裂で発生するエネルギーは一原子当たりでは200 MeVであり、1モル当たりでは19 TJである。
自然に存在するウランの内ウラン235は0.72パーセントであり、残りの大部分はウラン238である。この濃度では軽水炉で反応を持続させるのには不十分であり、濃縮ウランが使われる。一方、重水炉では濃縮していないウランでも使用できる。核爆発を起こさせるためには90パーセント程度の純度が求められる。
7億400万年。
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ウラン235 はウランの同位体の一つ。1935年にアーサー・ジェフリー・デンプスターにより発見された。天然から採掘されるウランのほとんどを占めるウラン238とは違いウラン235は核分裂の連鎖反応をおこす。ウラン235の原子核は中性子を吸収すると2つに分裂する。また、この際に2個ないし3個の中性子を出し、それによってさらに反応が続く。現存する全ての原子(元素)が放射性同位体を持つ中でも入手難度、精製、濃縮、半減期の長さなどから原子力分野に用いられ、原子力発電では多量の中性子を吸収するホウ素、カドミウム、ハフニウムなどでできた制御棒で反応を制御している。大量のエネルギーが一気に解放すると核爆発を起こし核兵器として利用される。 技術分野で呼称される場合「にひゃくさんじゅうご」ではなく「に、さん、ご」と呼ばれることがほとんどである。
ウラン235の核分裂で発生するエネルギーは一原子当たりでは200 MeVであり、1モル当たりでは19 TJである。 自然に存在するウランの内ウラン235は0.72パーセントであり、残りの大部分はウラン238である。この濃度では軽水炉で反応を持続させるのには不十分であり、濃縮ウランが使われる。一方、重水炉では濃縮していないウランでも使用できる。核爆発を起こさせるためには90パーセント程度の純度が求められる。
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{{Dablink|「'''U235'''」はこの[[Wikipedia:リダイレクト|項目]]へ転送されています。ドイツの潜水艦については「{{仮リンク|U235 (潜水艦)|en|German submarine U-235}}」をご覧ください。}}
{{出典の明記|date=2013年5月}}
{{Infobox 同位体
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'''ウラン235''' (uranium-235, {{sup|235}}U) は[[ウランの同位体]]の一つ。1935年に[[アーサー・ジェフリー・デンプスター]]により発見された。天然から採掘されるウランのほとんどを占める[[ウラン238]]とは違いウラン235は[[核分裂反応|核分裂]]の連鎖反応をおこす。ウラン235の[[原子核]]は[[中性子]]を吸収すると2つに分裂する。また、この際に2個ないし3個の中性子を出し、それによってさらに反応が続く。現存する全ての[[原子]]([[元素]])が放射性同位体を持つ中でも入手難度、精製、濃縮、半減期の長さなどから原子力分野に用いられ、[[原子力発電]]では多量の中性子を吸収する[[ホウ素]]、[[カドミウム]]、[[ハフニウム]]などでできた[[制御棒]]で反応を制御している。大量の[[エネルギー]]が一気に解放すると[[核爆発]]を起こし[[核兵器]]として利用される。
技術分野で呼称される場合「にひゃくさんじゅうご」ではなく「に、さん、ご」と呼ばれることがほとんどである<ref group="注釈">原子量100以上の放射性同位体のほとんどが同様</ref>。
ウラン235の核分裂で発生するエネルギーは一原子当たりでは200 [[メガ|M]][[電子ボルト|eV]]であり、1[[モル]]当たりでは19 [[テラ|T]][[ジュール|J]]である。
自然に存在するウランの内ウラン235は0.72パーセントであり<ref name="r">長倉三郎ほか編、『[http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/08/6/0800900.html 岩波理化学辞典]』、岩波書店、1998年、項目「ウラン」より。ISBN 4-00-080090-6</ref>、残りの大部分はウラン238である。この濃度では[[軽水炉]]で反応を持続させるのには不十分であり、[[濃縮ウラン]]が使われる。一方、[[重水炉]]では濃縮していないウランでも使用できる。核爆発を起こさせるためには90パーセント程度の純度が求められる。
== 利用 ==
*原子力発電の燃料として広く利用されている。
*核兵器のエネルギー源として利用され、[[第二次世界大戦]]で[[広島市への原子爆弾投下|広島]]に投下された[[原子爆弾]]は、ウラン235を用いていた。
*原子力電池の燃料として1970年代の[[ソビエト連邦]]の海洋[[偵察衛星]]([[RORSAT]])にはウラン235を燃料源とする[[原子炉]]が搭載されていた。([[コスモス954号]]も参照)
== 半減期 ==
7億400万年<ref name="r" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
*[[ウランの同位体]]
*[[核分裂反応]]
*[[核兵器]]
*[[半減期]]
{{DEFAULTSORT:うらん235}}
[[Category:ウランの同位体|235]]
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13,330 |
ウラン238
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ウラン238(uranium-238、U)とはウランの同位体の一つ。ウラン238は中性子が衝突するとウラン239となる。ウラン239は不安定でβ崩壊しネプツニウム239になり、さらにβ崩壊(半減期2.355日)しプルトニウム239となる。
天然のウランの99.284%がウラン238である。半減期は4.468 × 10年(44億6800万年)。劣化ウランはほとんどがウラン238である。濃縮ウランは天然ウランを濃縮して、よりウラン235の濃度を高めたものである。
ウラン238は核兵器や原子力発電と関係がある。
通常、ウラン238は、中性子の捕獲率が高く、それは結果としてウラン235の核分裂反応を妨げる。そのため、兵器級(Weapon-Grade)濃縮ウランを製造する際には、ウラン238の割合が低くなるように配慮される。広島に投下された原子爆弾ではウラン235が80%、ウラン238が20%であった。
ただし、ウラン238も高速中性子にさらされると核分裂反応が起こる。そのため、水素爆弾やその派生である3F爆弾では、核融合反応を発生させるためのX線の反射材として、また核融合で発生する高速中性子と反応させるブースターとして使用される。
軽水炉による原子力発電においては低濃縮ウランが用いられるが、ウラン238が中性子照射によって核種変換されて生じるプルトニウムはそのまま核分裂してエネルギー生成に寄与する。高速増殖炉においてはウラン238はブランケット燃料として炉心に装荷されプルトニウムを生成するのに使われる。
ウランの同位体の中で、唯一ウラン238のみが対称核分裂する。対称核分裂とは、ウラン238の場合、ウランの原子番号92番の真半分の原子番号46番パラジウム2個に分裂することを言う。また、その分裂した2個の原子の番号が真半分に近い値であり、その2つの原子番号の和が元の原子の番号と等しい場合、非常に対称性の高い核分裂と言える。
対称核分裂は、励起エネルギーと共に増えることや、その生成物が核分裂連鎖反応の傾向の一つであることが知られている。
1950年、アメリカ合衆国で子供向け玩具「ギルバートのU-238原子力研究室」が発売された。実際に放射性物質が使われていたため後日回収、シカゴ科学産業博物館に展示された。
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}
] |
ウラン238(uranium-238、238U)とはウランの同位体の一つ。ウラン238は中性子が衝突するとウラン239となる。ウラン239は不安定でβ-崩壊しネプツニウム239になり、さらにβ-崩壊(半減期2.355日)しプルトニウム239となる。 天然のウランの99.284%がウラン238である。半減期は4.468 × 109年(44億6800万年)。劣化ウランはほとんどがウラン238である。濃縮ウランは天然ウランを濃縮して、よりウラン235の濃度を高めたものである。 ウラン238は核兵器や原子力発電と関係がある。
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{{dablink|「'''U238'''」はこの項目へ[[Wikipedia:リダイレクト|転送]]されています。ドイツの潜水艦については「{{仮リンク|U238 (潜水艦)|en|German submarine U-238}}」をご覧ください。}}
{{出典の明記|date=2013年5月}}
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| decay_mode1 = [[アルファ崩壊]]
| decay_energy1 = 4.267
| decay_mode2 =
| decay_energy2 =
| decay_mode3 =
| decay_energy3 =
| decay_mode4 =
| decay_energy4 =
}}
'''ウラン238'''(uranium-238、{{sup|238}}U)とは[[ウランの同位体]]の一つ。ウラン238は[[中性子]]が衝突すると[[ウラン239]]となる。[[ウラン239]]は不安定で[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>崩壊]]し[[ネプツニウム|ネプツニウム239]]になり、さらにβ<sup>-</sup>崩壊([[半減期]]2.355日)し[[プルトニウム239]]となる。
[[天然ウラン|天然のウラン]]の99.284[[パーセント|%]]がウラン238である。[[半減期]]は4.468 × 10<sup>9</sup>年(44億6800万年)。[[劣化ウラン]]はほとんどがウラン238である。[[濃縮ウラン]]は天然ウランを[[ウラン濃縮|濃縮して]]、より[[ウラン235]]の濃度を高めたものである。
ウラン238は[[核兵器]]や[[原子力発電]]と関係がある。
== 核兵器との関係 ==
通常、ウラン238は、[[中性子]]の捕獲率が高く、それは結果としてウラン235の[[核分裂反応]]を妨げる。そのため、兵器級(Weapon-Grade)濃縮ウランを製造する際には、ウラン238の割合が低くなるように配慮される。[[広島市への原子爆弾投下|広島]]に[[リトルボーイ|投下]]された[[原子爆弾]]ではウラン235が80%、ウラン238が20%であった。
ただし、ウラン238も高速中性子にさらされると核分裂反応が起こる。そのため、[[水素爆弾]]やその派生である[[3F爆弾]]では、[[原子核融合|核融合]]反応を発生させるための[[X線]]の反射材として、また核融合で発生する高速中性子と反応させるブースターとして使用される。
[[1958年]]1月から2月にかけて、[[東京都]]内において放射性物質を含む雨が観測され、この中からウラン238が日本で初めて検出された。[[ソビエト連邦]]が行った[[水素爆弾|水爆]]実験の影響と見られている<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=125-126 |isbn=9784816922749}}</ref>。
== 原子力発電との関係 ==
[[軽水炉]]による原子力発電においては[[低濃縮ウラン]]が用いられるが、ウラン238が中性子照射によって核種変換されて生じるプルトニウムはそのまま核分裂してエネルギー生成に寄与する。[[高速増殖炉]]においてはウラン238はブランケット燃料として炉心に装荷されプルトニウムを生成するのに使われる。
== 対称核分裂 ==
[[ウランの同位体]]の中で、唯一ウラン238のみが対称核分裂する<ref>
{{cite web
| title = Fission Chain Reaction_Trends of Fission Products_Symmetric Fission Products
| publisher =The LibreTexts libraries
| url =https://chem.libretexts.org/Core/Physical_and_Theoretical_Chemistry/Nuclear_Chemistry/Fission_and_Fusion/Fission_Chain_Reaction
| accessdate = 2018-02-23}}
</ref>。対称核分裂とは、ウラン238の場合、ウランの[[原子番号]]92番の真半分の[[原子番号]]46番[[パラジウム]]2個に分裂することを言う。また、その分裂した2個の原子の番号が真半分に近い値であり、その2つの[[原子番号]]の和が元の原子の番号と等しい場合、非常に対称性の高い核分裂と言える<ref>
{{Cite web|和書
| title = ウラン-237と対称核分裂の発見
| work = 仁科芳雄博士生誕120周年記念講演会 日本現代物理学の父 仁科芳雄博士の輝かしき業績
| publisher =仁科記念財団
| url =http://nishina-mf.sakura.ne.jp/wp/wp-content/uploads/2019/08/NKZ_52-1.pdf
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| date=2010年12月6日
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</ref>。
対称核分裂は、励起エネルギーと共に増えることや<ref>
{{Cite web|和書
| title = 核分裂理論入門
| publisher =国立研究開発法人日本原子力研究開発機構(JAEA)
| url =http://wwwndc.jaea.go.jp/nds/tutorial/nds_2005_Ohsawa1.pdf
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</ref>、その生成物が[[核分裂連鎖反応]]の傾向の一つであることが<ref>
{{cite web
| title = Fission Chain Reaction_Trends of Fission Products_Symmetric Fission Products
| publisher =The LibreTexts libraries
| url =https://chem.libretexts.org/Core/Physical_and_Theoretical_Chemistry/Nuclear_Chemistry/Fission_and_Fusion/Fission_Chain_Reaction
| accessdate = 2018-02-24}}
</ref>知られている。
== ウラン238を冠した玩具 ==
[[1950年]]、[[アメリカ合衆国]]で子供向け[[玩具]]「[[ギルバートのU-238原子力研究室]]」が発売された。実際に放射性物質が使われていたため後日回収、[[シカゴ科学産業博物館]]に展示された<ref>{{Cite web|和書|author=Scarlet |editor=parumo |url=https://karapaia.com/archives/52278204.html |title=1950年にアメリカで発売された世界一危険なおもちゃ。A.Cギルバート社の「子供用原子力研究セット」 |website=カラパイア |date=2019-08-24 |accessdate=2023-09-07}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ウラン系列]]
* [[ウラン・鉛年代測定法]]
{{DEFAULTSORT:うらん238}}
[[Category:ウランの同位体|238]]
|
2003-08-16T14:12:30Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B3238
|
13,333 |
安房国
|
安房国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の千葉県南部にあたる。
『古語拾遺』によれば、阿波国において穀物や麻を栽培していた天富命は、東国により良い土地を求め阿波の忌部氏らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸し開拓を進めた。そして阿波の忌部氏の住んだ所は、「阿波」の名をとって「安房」と呼ばれたという。また、『古語拾遺』の説のほか、『日本書紀』景行天皇53年10月条の東国巡狩の折の淡水門に因むとする説もある。
明治維新直前の領域は、現在の千葉県館山市・南房総市・安房郡鋸南町の全域と鴨川市の大部分(四方木を除く)に相当する。
律令制以前のこの地域には、阿波国造と長狭国造の2つの国造が置かれていた。律令制において令制国である上総国の一部となり、養老2年5月2日(718年6月4日)、上総国のうち阿波国造と長狭国造の領域だった平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を分けて安房国とした。国造は「阿波」の表記であり、藤原京出土木簡に「己亥年十月上挟国阿波評松里」(己亥年は西暦699年)とあるなど、郡(評)の表記にもゆれがあるが、これに先立つ和銅6年(713年)の好字令で南海道の「粟国」が「阿波国」に変更されており「安房」の表記となった。天平13年12月10日(742年1月20日)に上総国に合したが、天平宝字元年(757年)に元に戻され、東海道に属する一国となり、国級は中国にランクされる。
国府は現在の南房総市府中付近に置かれ、古代末期から中世にかけて丸氏、長狭氏、安西氏、神余氏などの武士団が活動し、平安時代末期には源頼朝の再起の地となる。鎌倉時代の守護は不明。室町時代の守護には結城氏、上杉氏が就いた。15世紀半ば頃より里見氏が台頭し、戦国期には安房統一を果たして上総から下総の一部に至るまで勢力を張った。
豊臣秀吉による小田原城攻め以後は、安房一国が里見氏の領地となった。関ヶ原の戦いでは、里見氏は徳川家康を支援して加封を受けたものの、江戸幕府成立後の慶長19年(1614年)に里見忠義が大久保忠隣改易に連座して伯耆国倉吉に転封。その後は、東条藩、勝山藩、北条藩、館山藩などの諸藩と、幕府領・旗本領が置かれた。村数は280ヵ村(天保期)。明治2年(1869年)安房では勝山、館山の2藩に、新たに長尾藩、花房藩の2藩が置かれた。この地の幕府領・旗本領は安房上総知県事・柴山典の管轄となり、翌年に宮谷県が置かれて柴山典が権知事となり、安房4郡の約5万6千石を管理した。明治4年(1872年)、廃藩置県によって木更津県に編入され、明治6年(1874年)木更津県と印旛県の合併により千葉県に編入された。明治30年(1897年)には安房国4郡が統合されて、千葉県安房郡に再編された。
国府は『和名抄』によれば平群郡にあったとされ、現在の南房総市府中付近に推定される。しかし正確な位置は明らかでない。
延喜式内社
総社・一宮以下
洲崎神社(館山市洲崎)を一宮、洲宮神社(館山市洲宮)を二宮とする説もあるが、これは「洲の神」を祀る神社として2社一体であった洲崎神社・洲宮神社の間での呼称と見られている。
いずれも律令時代の駅。
内海
外海
出典: 内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。
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安房国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の千葉県南部にあたる。
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<!--{{Otheruses||のちにこの安房国の西部となる、[[阿波国造]]が支配した地域|阿波国造#支配領域}
-->{{基礎情報 令制国
|国名 = 安房国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|安房国}}
|別称 = 房州(ぼうしゅう)<!--<br/>安州(あんしゅう)<br/>南総(なんそう)<ref>別称「南総」は、[[上総国]]と合わせての呼称。</ref> 明治維新以前そういう用法があったのでしょうか?-->
|所属 = [[東海道]]
|領域 = [[千葉県]]南部
|国力 = [[中国 (令制国)|中国]]
|距離 = [[遠国]]
|郡 = 4郡32郷
|国府 = 千葉県[[南房総市]]
|国分寺 = 千葉県[[館山市]]([[安房国分寺|安房国分寺跡]])
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|一宮 = [[安房神社]](千葉県館山市)
}}
'''安房国'''(あわのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東海道]]に属し、現在の[[千葉県]]南部にあたる。
== 「安房」の名称と由来 ==
『[[古語拾遺]]』によれば、[[阿波国]]において[[穀物]]や[[アサ|麻]]を栽培していた[[天富命]]は、[[東国]]により良い土地を求め阿波の[[忌部氏]]らを率いて[[黒潮]]に乗り、[[房総半島]]南端の布良の浜に上陸し開拓を進めた。そして阿波の忌部氏の住んだ所は、「阿波」の名をとって「安房」と呼ばれたという<ref name="地">『千葉県の地名(日本歴史地名大系 12)』 1063頁。</ref>。また、『古語拾遺』の説のほか、『[[日本書紀]]』[[景行天皇]]53年10月条の東国巡狩の折の[[淡水門]]に因むとする説もある<ref>『日本古代史地名事典』 228頁。</ref>。
== 領域 ==
[[明治維新]]直前の領域は、現在の[[千葉県]][[館山市]]・[[南房総市]]・[[安房郡]][[鋸南町]]の全域と[[鴨川市]]の大部分(四方木を除く)に相当する。
== 沿革 ==
[[律令制#日本の律令制|律令制]]以前のこの地域には、[[阿波国造]]と[[長狭国造]]の2つの国造が置かれていた。律令制において令制国である[[上総国]]の一部となり、[[養老]]2年[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]([[718年]][[6月4日]])、上総国のうち阿波国造と長狭国造の領域だった[[平郡|平群郡]]、[[安房郡]]、[[朝夷郡]]、[[長狭郡]]の4郡を分けて安房国とした<ref name="地" />。国造は「阿波」の表記であり、[[藤原京#郡評論争に決着を付けた木簡|藤原京]]出土[[木簡]]に「[[己亥]]年十月上挟国阿波評松里」(己亥年は西暦[[699年]])とあるなど、[[郡]]([[評]])の表記にもゆれがあるが、これに先立つ[[和銅]]6年([[713年]])の好字令で[[南海道]]の「粟国」が「[[阿波国#「阿波」の名称と由来|阿波国]]」に変更されており「安房」の表記となった。[[天平]]13年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]([[742年]][[1月20日]])に上総国に合したが、[[天平宝字]]元年([[757年]])に元に戻され、東海道に属する一国となり、国級は中国にランクされる<ref name="地" />。
[[国府]]は現在の[[南房総市]]府中付近に置かれ、古代末期から[[中世]]にかけて[[丸氏]]、[[長狭氏]]、[[安西氏]]、[[神余氏]]などの[[武士団]]が活動し、[[平安時代]]末期には[[源頼朝]]の再起の地となる。[[鎌倉時代]]の[[守護]]は不明。[[室町時代]]の守護には[[結城氏]]、[[上杉氏]]が就いた。[[15世紀]]半ば頃より[[里見氏]]が台頭し、[[戦国時代 (日本)|戦国期]]には安房統一を果たして上総から[[下総国|下総]]の一部に至るまで勢力を張った。
[[豊臣秀吉]]による[[小田原城]]攻め以後は、安房一国が[[里見氏]]の領地となった。[[関ヶ原の戦い]]では、里見氏は[[徳川家康]]を支援して加封を受けたものの、[[江戸幕府]]成立後の[[慶長]]19年([[1614年]])に[[里見忠義]]が[[大久保忠隣]]改易に連座して[[伯耆国]][[倉吉]]に転封。その後は、[[東条藩]]、[[安房勝山藩|勝山藩]]、[[北条藩]]、[[館山藩]]などの諸藩と、[[幕府領]]・[[旗本|旗本領]]が置かれた。村数は280ヵ村([[天保]]期)。明治2年(1869年)安房では勝山、館山の2藩に、新たに[[長尾藩]]、[[花房藩]]の2藩が置かれた。この地の幕府領・旗本領は安房上総知県事・[[柴山典]]の管轄となり、翌年に[[宮谷県]]が置かれて柴山典が権知事となり、安房4郡の約5万6千石を管理した。明治4年([[1872年]])、[[廃藩置県]]によって[[木更津県]]に編入され、明治6年([[1874年]])木更津県と[[印旛県]]の合併により[[千葉県]]に編入された。明治30年([[1897年]])には安房国4郡が統合されて、千葉県安房郡に再編された。
=== 明治以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。(293村・95,877石余)
** [[長狭郡]](62村・23,050石余) - [[天領|幕府領]]、[[地方知行|旗本領]]、館山藩、船形藩、[[武蔵国|武蔵]][[岩槻藩]]、[[上総国|上総]][[鶴牧藩]]
** [[朝夷郡]](63村・22,704石余) - 幕府領、旗本領、館山藩、[[上野国|上野]][[前橋藩]]、武蔵岩槻藩、[[越前国|越前]][[敦賀藩]]、上総鶴牧藩
** [[平郡]](75村・26,239石余) - 幕府領、旗本領、'''[[安房勝山藩|勝山藩]]'''、'''[[船形藩]]'''、館山藩、上野前橋藩、[[近江国|近江]][[三上藩]]
** [[安房郡]](93村・23,884石余) - 幕府領、旗本領、'''[[館山藩]]'''、船形藩、上野前橋藩、近江三上藩
* [[慶応]]4年
** 船形藩が廃藩。[[元治]]元年([[1864年]])立藩のため、わずか4年での廃藩となった。
** [[7月2日 (旧暦)|7月2日]]([[1868年]][[8月19日]]) - 幕府領、旧船形藩領に'''[[宮谷県|安房上総知県事]]'''を設置。
** [[7月13日 (旧暦)|7月13日]](1868年[[8月30日]]) - [[駿河国|駿河]][[田中藩]]が平郡・安房郡・朝夷郡に転封し、'''[[長尾藩]]'''となる。
* 明治元年
** [[9月21日 (旧暦)|9月21日]](1868年[[11月5日]]) - [[遠江国|遠江]][[横須賀藩]]が長狭郡に転封し、'''[[花房藩]]'''となる。
** 平郡に[[三河国|三河]][[西尾藩]]が入封。
** 以上の変更にともない、勝山藩、館山藩および前橋藩、岩槻藩、鶴牧藩、敦賀藩、三上藩の[[飛地]]領で領地替えが行われる。各飛地領が消滅。
* 明治2年
** [[2月9日 (旧暦)|2月9日]]([[1869年]][[3月21日]]) - 安房上総知県事が'''[[宮谷県]]'''となる。
** [[6月23日 (旧暦)|6月23日]](1869年[[7月31日]]) - 勝山藩が、[[越前勝山藩]]、[[美作勝山藩]]との区別のため、任知藩事後に'''加知山藩'''に改称。
* 明治4年
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - 廃藩置県により、藩領が'''加知山県'''、'''館山県'''、'''長尾県'''、'''花房県'''および西尾県の飛地となる。
** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 国内に県庁を置く各県(国外の飛地領を除く)が'''[[木更津県]]'''に統合。
* 明治6年([[1873年]])[[6月15日]] - 木更津県が[[印旛県]]に統合して'''[[千葉県]]'''が発足。
== 国内の施設 ==
{{座標一覧}}
=== 国府 ===
[[国府]]は『和名抄』によれば平群郡にあったとされ、現在の[[南房総市]]府中付近に推定される。しかし正確な位置は明らかでない。
=== 国分寺 ===
[[File:Awa Kokubunji (Tateyama), hondo.JPG|thumb|220px|right|{{center|[[安房国分寺]]([[千葉県]][[館山市]])}}]]
* [[安房国分寺|安房国分寺跡]]([[館山市]]国分、{{Coord|34|59|36.71|N|139|53|22.38|E|region:JP-12_type:landmark|name=安房国分寺跡}})
*: 千葉県指定史跡および館山市指定史跡。安房国は[[天平]]13年(741年:国分寺建立の詔の年)に[[上総国]]に併合、[[天平宝字]]元年([[757年]])に再分立という変遷を経ているため、他国から遅れての創建とされる(出土品によれば奈良時代後半か)。金堂跡と見られる[[基壇]]のほか、瓦・獣脚などが出土しているが、他国の国分寺のような複数の建物跡は認められていない<ref>[http://furusato.mbit.or.jp/modules/dbx/?op=story&storyid=594 安房国分寺跡](南房総データベース)。</ref>。跡地上の[[安房国分寺|日色山国分寺]](本尊:薬師如来)が法燈を伝承する。
* [[安房国分尼寺跡]]
*: 未詳。僧寺の北方約900メートルの萱野地区に残る「アマンボウ」という地名が「尼坊」にあたるとして、尼寺跡の推定地に挙げられている<ref name="一宮制"/><ref>安房国分寺 境内説明板。</ref>。
=== 神社 ===
[[File:Awa-jinja, haiden.JPG|thumb|220px|right|{{center|[[安房神社]](千葉県館山市)}}]]
'''[[延喜式内社]]'''
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社2座2社・小社4座4社の計6座6社が記載されている(「[[安房国の式内社一覧]]」参照)。大社2社は以下に示すもので、安房坐神社は[[名神大社]]である。
* [[安房郡]] 安房坐神社 - 名神大社。
** 比定社:[[安房神社]](館山市大神宮)
* 安房郡 后神天比理乃咩命神社(天比理刀咩命神社) - 式内大社。次の2社は元々2社一体か<ref name="一宮制"/>。
** 比定論社:[[洲崎神社]](館山市[[洲崎 (千葉県)|洲崎]]、{{Coord|34|58|4.93|N|139|45|29.66|E|region:JP-12_type:landmark|name=式内大社論社:洲崎神社}})
** 比定論社:[[洲宮神社]](館山市洲宮、{{Coord|34|57|9.29|N|139|50|18.53|E|region:JP-12_type:landmark|name=式内大社論社:洲宮神社}})
[[File:Tsurugaya-hachimangu, haiden.JPG|thumb|220px|right|{{center|[[鶴谷八幡宮]](千葉県館山市)}}]]
'''[[総社]]・[[一宮]]以下'''
: 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref name="一宮制">『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 202-204。</ref>。
* 総社:[[鶴谷八幡宮]](館山市[[八幡 (館山市)|八幡]]、{{Coord|35|0|18.86|N|139|52|0.00|E|region:JP-12_type:landmark|name=安房国総社:鶴谷八幡宮}}) - 元社は元八幡神社([[南房総市]]府中、{{Coord|35|0|43.05|N|139|53|21.11|E|region:JP-12_type:landmark|name=安房国総社(元社):元八幡神社}})。
* 一宮:[[安房神社]](館山市大神宮、{{Coord|34|55|20.77|N|139|50|12.04|E|region:JP-12_type:landmark|name=安房国一宮、名神大社:安房神社}})
[[洲崎神社]](館山市洲崎)を一宮、[[洲宮神社]](館山市洲宮)を二宮とする説もあるが、これは「洲の神」を祀る神社として2社一体であった洲崎神社・洲宮神社の間での呼称と見られている<ref name="一宮制"/>。
=== 安国寺利生塔 ===
* 安国寺 - 仏日山安国寺(鴨川市北風原、本尊:聖観世音菩薩)が継承。
* 利生塔 - 未詳。
=== 駅 ===
いずれも律令時代の駅。
* 白浜駅([[館山市]]正木付近)
* 川上駅([[南房総市]]川上付近)
=== 馬牧 ===
* [[諸国牧]]
** 白浜馬牧 ([[南房総市]]白浜町白浜)
** 鈖師馬牧 ([[南房総市]]珠師ケ谷)
* [[江戸幕府]]直轄牧馬
** [[嶺岡牧]]
=== 城館 ===
* [[千葉県の城#安房国]]参照
=== 湊・津 ===
<div style="clear: left; float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;">
[[東京湾|内海]]
* 保田湊
* 勝山湊
* 那古湊
* 北条湊
* 八幡湊
* 正木湊
</div>
<div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;">
[[太平洋|外海]]
* 白子湊
* 和田湊
* 磯村湊
* 余瀬湊
* 天津湊
* 小湊
</div>{{clear|left}}
== 地域 ==
=== 古代-中世 ===
==== 郡と荘園 ====
{| width="415px" align="right" cellpadding="0" cellspacing="0"
! style="text-align:center"|
|-
| align=center|<div style="width:415px;float:center;margin:0;position:relative;">[[image:Awa no kuni (chiba).gif|400px]]
<div style="position:absolute;left:110px;top:250px;font-size:12px">[[安房郡|<span style="color:white">①安房郡</span>]]</div>
<div style="position:absolute;left:100px;top:80px;font-size:12px">[[平群郡 (安房国)|<span style="color:white">②平群郡</span>]]</div>
<div style="position:absolute;left:140px;top:140px;font-size:12px">[[朝夷郡|<span style="color:white">③朝夷郡</span>]]</div>
<div style="position:absolute;left:260px;top:60px;font-size:12px">[[長狭郡|<span style="color:white">④長狭郡</span>]]</div>
</div>
|}
*[[安房郡|①安房郡]]
**安東郡、[[安西]]、長田保、阿布里保
*[[平群郡 (安房国)|②平群郡]]
**平北郡、小保田保、下尺万保、多々良荘、群房荘
*[[朝夷郡|③朝夷郡]]
**朝平、岩糸保、丸御厨
*[[長狭郡|④長狭郡]]
**東条御厨、白浜御厨、長狭西条、東北荘
=== 中世-近世 ===
==== 安房国の藩 ====
*[[長尾藩]]
*[[東条藩]]
*[[花房藩]]
*[[館山藩]]
*[[北条藩]]
*[[船形藩]]
*[[安房勝山藩|勝山(加知山)藩]]
*[[安房三枝藩]]<ref>須田茂『房総諸藩録』崙書房出版、1985年3月10日</ref>
==== 郡と村 ====
[[ファイル:Hiroshige Boats in an inlet.jpg|thumb|right|[[歌川広重]]・[[六十余州名所図会]]-安房小湊内浦]]
*[[安房郡|①安房郡]](平群郡・朝夷郡・長狭郡が1897年に一部となる)
**館山町、北条町、豊津村、館野村、九重村、稲都村、豊房村<br/>長尾村、富崎村、神戸村、西岬村
*[[平群郡 (安房国)|②平群郡]]
**勝山村、佐久間村、保田村、富浦村、八束村、岩井村、平群村、国府村<br/>滝田村、凪原村、船形村
*[[朝夷郡|③朝夷郡]]
**曦村、七浦村、健田村、千歳村、満禄村、豊田村、南三原村、和田村<br/>北三原村、白浜村、江見村
*[[長狭郡|④長狭郡]]
**鴨川町、田原村、西条村、東条村、大山村、吉尾村、由基村、曽呂村<br/>太海村、天津町、湊村
=== 石高 ===
*95736
=== 人口 ===
*1721年(享保6年) - 11万5,579人
*1750年(寛延3年) - 15万8,440人
*1756年(宝暦6年) - 13万7,565人
*1786年(天明6年) - 12万5,052人
*1792年(寛政4年) - 13万836人
*1798年(寛政10年)- 13万3,513人
*1804年(文化元年)- 13万2,993人
*1822年(文政5年) - 13万9,662人
*1828年(文政11年)- 14万830人
*1834年(天保5年) - 14万4,581人
*1840年(天保11年)- 13万9,442人
*1846年(弘化3年) - 14万3,500人
*1872年(明治5年) - 15万4,683人
出典: 内閣統計局・編、[[速水融]]・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、[[東洋書林]]。
== 人物 ==
=== 国司 ===
==== 安房守 ====
*[[巨勢広足]]
* [[大国福雄]]([[貞観 (日本)|貞観]]11年〈[[869年]]〉 - )
*[[平公雅]]宇
*平惟忠( - [[万寿]]5年〈[[1028年]]〉)
*藤原光業( - [[長元]]3年〈[[1030年]]〉)
*平正輔(長元3年〈1030年〉 - )
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
{{節スタブ}}
==== 室町幕府 ====
*? - 1337年 - [[斯波家長]]
*? - ? - 南宗継
*? - ? - 鵤木氏
*1363年 - 1368年 - [[上杉憲顕]]
*1369年 - 1385年 - [[結城直光]]
*1388年 - 1390年 - [[上杉憲方]]?
*1395年 - 1396年 - 結城直光
*? - 1416年 - 木戸満範
*1423年 - ? - [[上杉定頼]]
{{節スタブ}}
=== 武家官位・官途名としての安房守 ===
*[[平頼綱]]
*[[上杉憲定]]
*[[上杉憲基]]
*[[上杉憲実]]
*[[右田弘詮]]([[1518年]] - )従五位下
*[[留守景宗]]
*[[鮎ヶ瀬実光]]
*[[織田信時]]
*[[庵原忠胤]]
*[[臼杵鎮続]]
*[[北条氏邦]] 従五位下
*[[里見義頼]] 従五位下
*[[太田資武]]
*[[真田昌幸]]([[天正]]7年〈[[1580年]]〉 - )従五位下 *[[文禄]]3年〈[[1594年]]〉正式任官
*[[里見義康]](天正19年〈[[1591年]]〉 - )従四位下
*[[堀内氏善]]
*[[松平信吉]]([[慶長]]8年〈[[1603年]]〉 - )
*[[本多政重]]([[慶長]]20年〈[[1615年]]〉6月3日 - )従五位下
*[[箭田野義正]]
*[[伊達成実]]
*[[伊達宗実 (亘理伊達家)|伊達宗実]]
*[[佐久間勝豊]] 従五位下
*[[松平信嵩]] 従五位下
*[[松平信将]]([[享保]]17年〈[[1732年]]〉12月28日 - )従五位下
*[[松平昌信]] 従五位下
*[[松平信圭]] 従五位下
*[[勝海舟]]([[文久]]3年〈[[1864年]]〉2月5日 - )従五位下
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 小笠原長和監修 『千葉県の地名(日本歴史地名大系 12)』 平凡社、1996年、ISBN 4-582-49012-3
* 加藤謙吉・他編『日本古代史地名事典』 雄山閣、2007年、ISBN 978-4-639-01995-4
== 関連項目 ==
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* [[安房郡]]
* [[令制国一覧]]
* [[南総里見八犬伝]]
== 外部リンク ==
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歩兵
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歩兵(ほへい、英: infantry)は、主に徒歩で戦闘する兵士である。戦闘、治安維持、災害対処などあらゆる任務に対応し、常に国防の骨幹となる戦力である。自衛隊用語では普通科という。
歩兵は古代から現代まで常に陸上戦力の基幹であり、さまざまな地形、任務、状況に柔軟に対応し、戦闘の最終的な勝敗を決するものである。
アサルトライフルや機関銃、手榴弾あるいは対戦車兵器などの小火器を携行する。機動力が重視される現代の戦争においては歩兵も機械化されることが多い。歩兵戦闘車や装甲兵員輸送車などの車輛(AFV)で歩兵移動する歩兵を自動車化歩兵という。逆に戦場でAFVの支援を受けない歩兵を軽歩兵と呼んで区別する。また主として固定翼航空機(輸送機)で移動し落下傘降下できる歩兵を空挺兵、主として回転翼機(ヘリコプター)で移動する歩兵を空中機動歩兵などと呼ぶ。また、艦隊に配置された歩兵である海兵隊(海軍歩兵)や、艦船乗組員を武装させて歩兵に仕立てた陸戦隊もある。近年は非対称戦への要求が高まり、歩兵をさらに精鋭化した特殊部隊の需要が増している。
歴史を通じて見ても、歩兵はほとんどの軍隊において核となる存在であった。これは歩兵の持つ戦闘能力の柔軟性や多様性による部分が大きい(有事において急速に補完することも可能な戦力という一面もある)。ここでは、近代の世界の軍隊に大きな影響を与えた欧州のものを中心に、歩兵の歴史をおおまかに辿る。
鐙が発明されておらず、車輪もようやく発明されたばかりの古代社会においては騎兵部隊や戦車部隊といった兵種はごく限られた市民などの階級が担当するのが常であり、従って騎馬民族を除く殆どの文明の主力の部隊は歩兵だった。そもそも新大陸や太平洋の諸島のように車輪どころか馬とその他の大型の家畜すら知らない文明であれば歩兵のみが戦力となり機動力や突進力、兵站面での運搬能力がそこで大きく削がれた。それは外部から車輪や大型の家畜が持ち込まれるまで、それこそ現代に至るまで続いた。
古代ギリシア時代、ポリス(都市国家)の市民を担い手とする重装歩兵が誕生し、彼らが密集隊形を組んで戦う戦術(ファランクス)が用いられるようになった。この革新的な戦術はペルシャ戦争において、数的に勝るペルシャ軍を何度も打ち破った事でその勇名を広めた。ギリシアではこの他にもパノプリア(完全な鎧の意)やペルタステス(軽装兵)といった歩兵も登場する。ギリシャの歩兵戦術はアレクサンドロス大王の時代にヘタイロイを中核とするマケドニア軍の騎兵戦術と合体(鉄床戦術)し、東方に一大帝国を築き上げる要因となった。更にそれより後に覇権を握る事になる古代ローマは、ギリシャと同じ市民兵制度であり、騎兵の安定供給が難しいなどよく似た環境に存在していた事から、初めは自然とファランクスを模倣していた。しかし騎兵を活用したカルタゴ軍との戦いや散兵戦術を取るガリア軍との戦いの中で次第に独自の戦術を編み出していき、こうした努力はレギオンというより洗練された編制、隊形、指揮系統を持つ戦術に繋がっていった。またその構成要員も数千人にまで達するようになった。
蛮族の大移動により西ローマ帝国が崩壊すると、新たに訪れた中世ヨーロッパにおいてはその後長きに亘って、歩兵に代わり騎兵が軍で優位を占める時代となった。これには馬の改良や鐙の登場だけでなく、戦闘の形態が大勢力による軍勢の衝突から、騎馬民族の荒略に対する迎撃や追撃に焦点が移動したためである。重装騎兵は日々の訓練が必要でありまたウマの肥育や装備の準備など経済力が要求されることから、封建社会の確立や地方分権の進展により定着した。かつてのような市民兵からなる歩兵の密集隊形は姿を消し、代わりに少数の貴族による重装騎兵(騎士)が戦いの中心となった。こうした傾向は最終的に一騎討ちという儀礼的な戦闘を交わすのみにまで陸戦の戦術的退化を招いた。
しかし中世後期ごろから中央集権化を果たした大国同士の戦が増えると再び戦いは歩兵を中心としたものに戻り始める。中世の終わりに起きた百年戦争で長弓兵や槍兵を主力とするイングランド軍が、貴族や騎士からなるフランス軍の騎兵部隊を完膚なきまでに破り(クレシーの戦い、ポワティエの戦い)、その決定的な契機になった。歩兵は再び軍隊における最も重要な存在へと復権を果たし、騎兵は副次的な存在として軽装さから来る機動性が重要視されるようになった。マキャベリは君主論において騎兵による散発戦闘ではなく、常設歩兵軍による集団戦法の有効性を論じた。
騎士文化を過去の物とした長弓は、より貫通力・殺傷力の高いマスケット銃が登場した後も、射程・命中率・攻撃力の集中・発射速度の点で優れていたことから並行して数百年の間使用されつづけた。しかし長弓は効果的に使うためには非常な熟練を要する武器であり、実戦で戦えるまで訓練するのには長い時間がかかった。このような欠点とは反対に、テルシオ隊形や三兵戦術の研究が進み、また数週間から数か月訓練した多数の人員と豊富な資金と銃や火薬の製造所さえあれば、編制可能なマスケット銃兵の部隊が用いられるようになった。また近世より産業化が進行し、田園的な貴族制は廃れて、都市に人と富が集中したことが、訓練は十分ではないものの大規模な歩兵部隊の迅速な招集を可能にした。
騎兵の機動性の向上、強い打撃力に対応して、歩兵にとっては槍が身を守る為の重要な武器となった。当初はマスケット銃兵に槍兵(パイク兵)が混成され、発砲の合間銃兵を護衛していたが、銃剣が普及するようになり銃兵に刀剣戦闘力が付加されるに至り、槍兵は姿を消し、近代の歩兵の姿が確立され始めた。
歩兵の輸送手段は、それまでは徒歩や船、馬であったが、19世紀より鉄道が使われ始め、1890年代以降いくつかの国では自転車が採用された(馬もしばらく併用されている)。第二次世界大戦では日本陸軍の歩兵が自転車で移動し、大成功を収めた(銀輪部隊)。機動性における大きな革新は、1920年代以降より始まり、自動車を使った自動車化歩兵の部隊が生まれた。この頃から、移動中の兵士の安全を確保することの重要性が認識されるようになり、移動時に装甲車を使用する機械化歩兵が編成されるようになった。
現代の歩兵は、装甲車や火砲、ヘリコプター等航空機に支援されて行動するが、依然として地上の特定の地域を占領、確保することができる唯一の兵種である。このため戦争遂行にとって必要不可欠な存在であり続けている。また個人が携帯出来る武器の火力が高くなり、ゲリラ戦や市街戦などの非対称戦争が増加する傾向から歩兵に高度に専門的な訓練を施した特殊部隊が各国で配備されつつある。
歩兵は、作戦行動中は主に徒歩で活動する兵士の総称であるので、その装備や技能、運用形態や戦術的役割によっていくつかに分類ができる。
ここでは現代における師団・旅団レベルにおける歩兵の基本的な分類を述べる。(Field Manual 100-5を参考)
歴史的には歩兵もさまざまな装備・編成で用いられてきた。
歩兵部隊の編成は組織や時代によって非常にばらつきがあり一概には言えない。
基本的に現代の軍隊では二人から六人程度で構成される班が戦闘の最小の行動単位となり機関銃などの制圧火器がしばしばこの部隊に配備される。二個から三個の班から構成される分隊があり(分隊支援火器として制圧火器がこの分隊に配備される場合もある)、分隊が三個から四個ほど集まった部隊を小隊、小隊が三個から四個ほど集まった部隊を中隊とする。中隊の規模になってくると歩兵の人員数は100~250人程になり、歩兵の部隊における比率は60%から90%程度になってくる。中隊がさらに三個から五個ほど集まって大隊となり、大隊は部隊を支援するための火砲や車両などを装備し、おおむね少佐や中佐といった士官が指揮を執る。その大隊を三個から四個ほど擁するのが連隊または旅団と呼ばれる。この連隊や旅団は大体1500~2500人程度の人員を抱え、中佐や大佐が指揮を執り、支援として戦車隊や工兵隊なども部隊を構成する場合がある。この程度の規模の部隊になれば歩兵の比率は25%から60%程度になってくる。ちなみに旅団や連隊よりも大規模な師団という部隊の単位も存在する。
時代によっても歩兵の編成は変わってくる。例えば古代中国では卒、伍、隊、旅、軍というような編制の記述が兵法書にみられる。この影響からか近代の日本にも伍長、一兵卒、部隊、旅団というような名称があるように一部名残があるようである。
歩兵には非常に多岐にわたる実践的な能力が求められる。その歩兵がどのような任務につく部隊に所属しているか、またどのような適性があるのか、予算がどのていど充実しているのかなどによって大きくその教育内容などが変わるので、概略することは難しい。平均的な歩兵の能力について以下は述べる。
なお歩兵個人が戦闘中に死亡することは戦死というが、戦時下において歩兵を死に至らしめたり、あるいは戦闘できないほどに消耗させてしまうのは、何も敵による攻撃だけとは限らない。事故・疾病・飢餓といった危機的状況は平和で安全な文明社会にいるときよりも、より深刻なダメージを与えうる。こういったダメージで兵員が損耗することは部隊、ひいては軍隊にとっても大きな損失となるため、各々の歩兵は必要に応じて自身の身を、それら敵以外から受けるダメージを防ぐ知識と技能も要求される (→歩兵の損耗に関しては、戦死を参照)。
陸上戦闘で最も発生しやすい損害の大部分は歩兵である。しかし敵の陸上戦力を掃討して敵拠点を征圧しなければ戦争の勝敗を決定的なものにすることは難しい。そのため戦車、火砲、航空機などの兵器を用いて、まず敵部隊の圧倒的な戦闘力を破壊し、敵に逆襲が不可能な損害を与えてから歩兵部隊を投入することが望ましいと考えられている。(小隊や分隊レベルの歩兵の運用については歩兵の戦術を参照)
歩兵の仕事の大部分は移動、残りは防御陣地の建設と維持であり、その余禄に一割にも満たない戦闘が含まれる。映画などの娯楽作品では、往々にして歩兵は常に撃ち合いをしている様に描かれるが、実際にそのような状況下では、敵も味方も精神的に疲弊して戦闘ストレス反応(戦争神経症 shell shock)を示す場合がある。第二次世界大戦の研究によれば、100日~200日にわたって戦闘を生き延びた兵士のほとんどが心身共に磨耗し、戦闘不能になってしまっている。実質的に頻繁な戦闘行動が行われるのは、どちらかが一方的に大量の人材や物資を投入して、攻め上げている場合のみである。今日のアメリカがこの様式で、相手を疲弊させ、戦争の早期決着を目指す作戦を取っている。しかしながら、近年の湾岸戦争やイラク戦争などでは即席爆発装置(IED)で手足を失う兵士や心的外傷後ストレス障害などを患う兵士も多く、アメリカは国内外から強い反発を受けている(戦術を参照)。
戦闘は歩兵にとってもっともつらく苦しい仕事となる。戦闘はその目的や環境、参加戦力の規模や種類によってさまざまな形態がある(塹壕戦、市街戦、上陸戦など)。戦闘においては歩兵は基本的に班、分隊ごとに編成され部隊単位で動き、基本的に各々が別々の方向を警戒することで死角をなくす隊形をとりながら移動する。その地域の危険度によって歩兵が移動する際の手順は若干異なる。危険度が比較的低い場合においては全員が全方位に対して警戒を払いつつ、一度の攻撃で全滅しないように歩兵間の間隔をあけながら一斉に移動する(この間隔はジャングル戦、野戦などによって違う)。実際に戦闘に入れば、基本的に二つほどの班に分かれ、敵に対して制圧射撃(機関銃での射撃や煙幕を張ることを指し、敵の殺傷が目的ではなく、敵の行動を封じることが目的である)を交互に繰り返す。一方が射撃を行っている間にもう片方が敵よりも優位な地点を確保し、より優位な状況で戦闘を展開していく。これは現代における歩兵機動戦術の基本であり、こういった過程において敵味方戦力の分析ミスによる間違った戦術や、武器装備の不調、火力の不足、機動力の不足、部隊の士気低下、指揮官の失敗、チームワークの欠落などにより歩兵はしばしば死傷する。戦車や装甲車、迫撃砲などがあればより重火器で攻撃することができ、歩兵の負担は軽くなる。
制圧占領した都市や村落の治安警備活動はかならず歩兵部隊の担当業務となる。占領地域の治安業務は戦時国際法に決められた占領軍の任務であり、その地域の行政機構が機能するかぎり協力しながら、通常の保安業務のみならず交戦勢力やゲリラなどによる地域住民を対象としたテロ攻撃から防護する必要がある。
戦車は強力な火砲と機動力を備えており、敵の装甲車、戦闘陣地、銃座などに効果的な打撃を与えることができる一方、地形適応力や柔軟性は歩兵に劣る。戦車と比較すると、歩兵部隊は無力に思われるかもしれないが、塹壕や遮蔽物に隠れ、有効な対戦車兵器を装備した歩兵は、高価な運用コストゆえに数で劣る戦車部隊より信頼性の高い戦力となる。
戦闘車両は一般に視界が劣悪である。戦車は強固な装甲を備える一方、対戦車兵器を携行した歩兵に接近されると脆弱である。歩兵は地形に潜伏あるいはカモフラージュを施して戦闘車輌を待ち伏せることができる。肉薄に成功、または敵戦車に発見されなかった歩兵は、敵戦車の視界外から、車体後部や機関室上面など装甲の薄い箇所に攻撃を行い、これを破壊することができる。市街戦では戦車1台は概ね歩兵1~2個分隊程度の戦力に過ぎないと言われる。ゆえに視界の悪い地形・状況下で戦闘車輌が単独行動を行うのは非常に危険であり、随伴歩兵との連携が欠かせない。
また、歩兵部隊はある程度の人的被害を出しても部隊再編成を行い、柔軟な運用が可能だが、整備部隊から離れて行動している戦車が車体にダメージを受ければ車両を放棄するほか無い。行動可能な場所が限定されることから、地雷にも狙われやすい。
恐らく、過去現在問わず歩兵の柔軟性・有能性が一番発揮されるのは市街地やジャングルなどの閉鎖的地形でのゲリラ戦である。『孫子』にも書かれているように、太古の昔から、戦術的に複雑な機動が出来る少数精鋭によるゲリラ戦は、動きが鈍い重武装かつ大規模な敵戦力に対して有効な戦法として見られてきた。敵に気付かれず接近、奇襲攻撃で損害を与え、本格的な反撃が始まる前に撤収するのが基本であり、一方的に戦闘の主導権を維持することで精神的ストレスも敵に与えることができる。現在でもその図式は変わらず、また火器性能の著しい発達もあり、巨大勢力にとって小規模かつそれなりの練度があるゲリラ兵は脅威に他ならない。ただし、この戦術が有効なのは市街地やジャングルなどの遮蔽物が多数存在する場所に限られ、また敵情を確実に把握するための情報網や人脈、地形に通じた誘導員などが必要である。正規軍の特殊部隊によるゲリラ戦術(例・第二次世界大戦における、北アフリカでの英軍の特殊部隊)以上に、武装した民間人によるゲリラ戦術(例・第二次世界大戦でのドイツ占領下の各国のレジスタンス、パルチザン、ベトナム戦争でのベトミン、南ベトナム解放民族戦線)の方が活発である。
平時における歩兵は戦闘とは無縁の駐屯地や基地で訓練や雑用に追われる日々を送る。国によって差はあるが、欧米の軍隊では普通一日八時間程度の勤務を週五日か六日間こなす。演習がなければ、早朝六時ごろから決められたスケジュールに沿って行動する。訓練においては徹底的に歩兵は苦しい状況に慣れさせられることで、部隊の結束を強め、部隊戦術を覚え、実戦に備える。
また冷戦終結後は、戦争以外の仕事について歩兵の重要性が高まっている。具体的には、国連の平和維持活動、テロなどの緊急事態における、また対ゲリラ活動などの治安維持活動、災害救助活動などである。こうした任務をMOOTW(Military operations other than war)と呼ぶことがある。
テロ事件などにおいては歩兵は柔軟な戦闘力を持ちえることから、人質をとった立て篭もり、ハイジャックなど精密かつ迅速な攻撃が求められるテロの対応においては非常に優秀であり、各国の警察や軍隊でもこういった人質救出を専門とした訓練を受けた歩兵の部隊が特殊部隊として保有されている。彼らは建物や飛行機だけでなく、列車、自動車、バスなどありとあらゆる閉鎖空間で的確な動きができるように日々CQB訓練を受けている。
現代の戦闘を戦う歩兵の装備はその国の軍隊によってさまざまだが、一般的に使用される装備がある。しかし、その種類は非常に多様であり、ここでは主な装備に限って取り上げる。
アメリカなどの先進国では、歩兵の人的被害が国内世論にとって致命的な反戦ムードを与える事が、ベトナム戦争以降の教訓として残っているため、歩兵の生存帰還率を引き上げる機械化に極めて熱心である。戦争以外の任務など任務の多様性は増す一方であり、歩兵の教育・訓練コストの上昇もこの歩兵の人的損害を軽減させる研究の推進を後押ししている。
2010年現在、欧米の軍隊を中心とした歩兵装備の見直しの研究や装備の改良などが進められており、特に歩兵個人単位でのネットワーク化が試験されている。1990年代より携帯情報端末などを装備した先進歩兵システムの開発が行われてきており、ウェアラブルコンピュータの導入などにより、歩兵一人辺りへの個別指示の密度も高くなることも予測されている。これらの状況から、軽量なHMDを内蔵する動力付きの甲冑を装備した歩兵や、NBC兵器によって汚染された地域でも行動できる防護性の高いスーツを着込んだ歩兵などの将来像が考えられている。パワードスーツ(外骨格スーツ)の導入や、通信や情報伝達・相互連携にコンピュータとのインターフェースの改良による総合的な情報処理技術の導入なども長期的な視点で検討している。
しかし銃器の威力向上や電子戦技術の発展、また現在のバッテリーの技術力などから考えて、歩兵の将来は安全で快適なものになることは非常に難しいと現時点では考えられている。火器の攻撃力は高まり、センサの精度が上がったことで夜間や悪天候における殺傷力は大きく飛躍している。また生物兵器や化学兵器などが世界的に拡散しており、歩兵を取り巻く武器や兵器はより強力になる一方、歩兵はより強力な防御力が要求され、本質的には「矛と盾」の延々と続く競争の延長に過ぎない。また、歩兵が取り扱わなければならない通信装備などが高度化し、市街戦などの増加もあって戦闘の中身も複雑化しているので、教育水準の高い人材がますます歩兵として求められている。
戦場の機械化・無人化の行き着く果てには、究極的には完全無人、自律制御のロボット兵士があるという考えもあるが、近年増加傾向にある市街戦のような敵味方以外に民間人などが混在する複雑な戦場における自律制御型ロボットの敵味方識別能力や交戦規定を考慮した行動能力にはまだまだ問題があり、将来の歩兵が自律ロボット化することの現実性はロボット技術やAIの技術的な面から難しいのが現状である。ただ攻撃など最終的な判断は操作する兵士に委ねられるような自律制御でないリモートコントロール式のロボットの実戦配備は進められており、これらは従来歩兵が携帯している武器の延長的な運用をされるほか、歩兵に先行して周囲を偵察するために利用されている。このほか、輸送や負傷者の後方への搬送など非戦闘任務においての活躍が期待される自動走行するロボット自動車も研究中である(→ロボット#兵器)。
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"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "騎兵の機動性の向上、強い打撃力に対応して、歩兵にとっては槍が身を守る為の重要な武器となった。当初はマスケット銃兵に槍兵(パイク兵)が混成され、発砲の合間銃兵を護衛していたが、銃剣が普及するようになり銃兵に刀剣戦闘力が付加されるに至り、槍兵は姿を消し、近代の歩兵の姿が確立され始めた。",
"title": "歩兵の歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "歩兵の輸送手段は、それまでは徒歩や船、馬であったが、19世紀より鉄道が使われ始め、1890年代以降いくつかの国では自転車が採用された(馬もしばらく併用されている)。第二次世界大戦では日本陸軍の歩兵が自転車で移動し、大成功を収めた(銀輪部隊)。機動性における大きな革新は、1920年代以降より始まり、自動車を使った自動車化歩兵の部隊が生まれた。この頃から、移動中の兵士の安全を確保することの重要性が認識されるようになり、移動時に装甲車を使用する機械化歩兵が編成されるようになった。",
"title": "歩兵の歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "現代の歩兵は、装甲車や火砲、ヘリコプター等航空機に支援されて行動するが、依然として地上の特定の地域を占領、確保することができる唯一の兵種である。このため戦争遂行にとって必要不可欠な存在であり続けている。また個人が携帯出来る武器の火力が高くなり、ゲリラ戦や市街戦などの非対称戦争が増加する傾向から歩兵に高度に専門的な訓練を施した特殊部隊が各国で配備されつつある。",
"title": "歩兵の歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "歩兵は、作戦行動中は主に徒歩で活動する兵士の総称であるので、その装備や技能、運用形態や戦術的役割によっていくつかに分類ができる。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "ここでは現代における師団・旅団レベルにおける歩兵の基本的な分類を述べる。(Field Manual 100-5を参考)",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 14,
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"text": "歴史的には歩兵もさまざまな装備・編成で用いられてきた。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "歩兵部隊の編成は組織や時代によって非常にばらつきがあり一概には言えない。",
"title": "部隊構成"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "基本的に現代の軍隊では二人から六人程度で構成される班が戦闘の最小の行動単位となり機関銃などの制圧火器がしばしばこの部隊に配備される。二個から三個の班から構成される分隊があり(分隊支援火器として制圧火器がこの分隊に配備される場合もある)、分隊が三個から四個ほど集まった部隊を小隊、小隊が三個から四個ほど集まった部隊を中隊とする。中隊の規模になってくると歩兵の人員数は100~250人程になり、歩兵の部隊における比率は60%から90%程度になってくる。中隊がさらに三個から五個ほど集まって大隊となり、大隊は部隊を支援するための火砲や車両などを装備し、おおむね少佐や中佐といった士官が指揮を執る。その大隊を三個から四個ほど擁するのが連隊または旅団と呼ばれる。この連隊や旅団は大体1500~2500人程度の人員を抱え、中佐や大佐が指揮を執り、支援として戦車隊や工兵隊なども部隊を構成する場合がある。この程度の規模の部隊になれば歩兵の比率は25%から60%程度になってくる。ちなみに旅団や連隊よりも大規模な師団という部隊の単位も存在する。",
"title": "部隊構成"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "時代によっても歩兵の編成は変わってくる。例えば古代中国では卒、伍、隊、旅、軍というような編制の記述が兵法書にみられる。この影響からか近代の日本にも伍長、一兵卒、部隊、旅団というような名称があるように一部名残があるようである。",
"title": "部隊構成"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "歩兵には非常に多岐にわたる実践的な能力が求められる。その歩兵がどのような任務につく部隊に所属しているか、またどのような適性があるのか、予算がどのていど充実しているのかなどによって大きくその教育内容などが変わるので、概略することは難しい。平均的な歩兵の能力について以下は述べる。",
"title": "歩兵の能力"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "なお歩兵個人が戦闘中に死亡することは戦死というが、戦時下において歩兵を死に至らしめたり、あるいは戦闘できないほどに消耗させてしまうのは、何も敵による攻撃だけとは限らない。事故・疾病・飢餓といった危機的状況は平和で安全な文明社会にいるときよりも、より深刻なダメージを与えうる。こういったダメージで兵員が損耗することは部隊、ひいては軍隊にとっても大きな損失となるため、各々の歩兵は必要に応じて自身の身を、それら敵以外から受けるダメージを防ぐ知識と技能も要求される (→歩兵の損耗に関しては、戦死を参照)。",
"title": "歩兵の能力"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "陸上戦闘で最も発生しやすい損害の大部分は歩兵である。しかし敵の陸上戦力を掃討して敵拠点を征圧しなければ戦争の勝敗を決定的なものにすることは難しい。そのため戦車、火砲、航空機などの兵器を用いて、まず敵部隊の圧倒的な戦闘力を破壊し、敵に逆襲が不可能な損害を与えてから歩兵部隊を投入することが望ましいと考えられている。(小隊や分隊レベルの歩兵の運用については歩兵の戦術を参照)",
"title": "運用と戦術"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "歩兵の仕事の大部分は移動、残りは防御陣地の建設と維持であり、その余禄に一割にも満たない戦闘が含まれる。映画などの娯楽作品では、往々にして歩兵は常に撃ち合いをしている様に描かれるが、実際にそのような状況下では、敵も味方も精神的に疲弊して戦闘ストレス反応(戦争神経症 shell shock)を示す場合がある。第二次世界大戦の研究によれば、100日~200日にわたって戦闘を生き延びた兵士のほとんどが心身共に磨耗し、戦闘不能になってしまっている。実質的に頻繁な戦闘行動が行われるのは、どちらかが一方的に大量の人材や物資を投入して、攻め上げている場合のみである。今日のアメリカがこの様式で、相手を疲弊させ、戦争の早期決着を目指す作戦を取っている。しかしながら、近年の湾岸戦争やイラク戦争などでは即席爆発装置(IED)で手足を失う兵士や心的外傷後ストレス障害などを患う兵士も多く、アメリカは国内外から強い反発を受けている(戦術を参照)。",
"title": "運用と戦術"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "戦闘は歩兵にとってもっともつらく苦しい仕事となる。戦闘はその目的や環境、参加戦力の規模や種類によってさまざまな形態がある(塹壕戦、市街戦、上陸戦など)。戦闘においては歩兵は基本的に班、分隊ごとに編成され部隊単位で動き、基本的に各々が別々の方向を警戒することで死角をなくす隊形をとりながら移動する。その地域の危険度によって歩兵が移動する際の手順は若干異なる。危険度が比較的低い場合においては全員が全方位に対して警戒を払いつつ、一度の攻撃で全滅しないように歩兵間の間隔をあけながら一斉に移動する(この間隔はジャングル戦、野戦などによって違う)。実際に戦闘に入れば、基本的に二つほどの班に分かれ、敵に対して制圧射撃(機関銃での射撃や煙幕を張ることを指し、敵の殺傷が目的ではなく、敵の行動を封じることが目的である)を交互に繰り返す。一方が射撃を行っている間にもう片方が敵よりも優位な地点を確保し、より優位な状況で戦闘を展開していく。これは現代における歩兵機動戦術の基本であり、こういった過程において敵味方戦力の分析ミスによる間違った戦術や、武器装備の不調、火力の不足、機動力の不足、部隊の士気低下、指揮官の失敗、チームワークの欠落などにより歩兵はしばしば死傷する。戦車や装甲車、迫撃砲などがあればより重火器で攻撃することができ、歩兵の負担は軽くなる。",
"title": "運用と戦術"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "制圧占領した都市や村落の治安警備活動はかならず歩兵部隊の担当業務となる。占領地域の治安業務は戦時国際法に決められた占領軍の任務であり、その地域の行政機構が機能するかぎり協力しながら、通常の保安業務のみならず交戦勢力やゲリラなどによる地域住民を対象としたテロ攻撃から防護する必要がある。",
"title": "運用と戦術"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "戦車は強力な火砲と機動力を備えており、敵の装甲車、戦闘陣地、銃座などに効果的な打撃を与えることができる一方、地形適応力や柔軟性は歩兵に劣る。戦車と比較すると、歩兵部隊は無力に思われるかもしれないが、塹壕や遮蔽物に隠れ、有効な対戦車兵器を装備した歩兵は、高価な運用コストゆえに数で劣る戦車部隊より信頼性の高い戦力となる。",
"title": "運用と戦術"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "戦闘車両は一般に視界が劣悪である。戦車は強固な装甲を備える一方、対戦車兵器を携行した歩兵に接近されると脆弱である。歩兵は地形に潜伏あるいはカモフラージュを施して戦闘車輌を待ち伏せることができる。肉薄に成功、または敵戦車に発見されなかった歩兵は、敵戦車の視界外から、車体後部や機関室上面など装甲の薄い箇所に攻撃を行い、これを破壊することができる。市街戦では戦車1台は概ね歩兵1~2個分隊程度の戦力に過ぎないと言われる。ゆえに視界の悪い地形・状況下で戦闘車輌が単独行動を行うのは非常に危険であり、随伴歩兵との連携が欠かせない。",
"title": "運用と戦術"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また、歩兵部隊はある程度の人的被害を出しても部隊再編成を行い、柔軟な運用が可能だが、整備部隊から離れて行動している戦車が車体にダメージを受ければ車両を放棄するほか無い。行動可能な場所が限定されることから、地雷にも狙われやすい。",
"title": "運用と戦術"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "恐らく、過去現在問わず歩兵の柔軟性・有能性が一番発揮されるのは市街地やジャングルなどの閉鎖的地形でのゲリラ戦である。『孫子』にも書かれているように、太古の昔から、戦術的に複雑な機動が出来る少数精鋭によるゲリラ戦は、動きが鈍い重武装かつ大規模な敵戦力に対して有効な戦法として見られてきた。敵に気付かれず接近、奇襲攻撃で損害を与え、本格的な反撃が始まる前に撤収するのが基本であり、一方的に戦闘の主導権を維持することで精神的ストレスも敵に与えることができる。現在でもその図式は変わらず、また火器性能の著しい発達もあり、巨大勢力にとって小規模かつそれなりの練度があるゲリラ兵は脅威に他ならない。ただし、この戦術が有効なのは市街地やジャングルなどの遮蔽物が多数存在する場所に限られ、また敵情を確実に把握するための情報網や人脈、地形に通じた誘導員などが必要である。正規軍の特殊部隊によるゲリラ戦術(例・第二次世界大戦における、北アフリカでの英軍の特殊部隊)以上に、武装した民間人によるゲリラ戦術(例・第二次世界大戦でのドイツ占領下の各国のレジスタンス、パルチザン、ベトナム戦争でのベトミン、南ベトナム解放民族戦線)の方が活発である。",
"title": "運用と戦術"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "平時における歩兵は戦闘とは無縁の駐屯地や基地で訓練や雑用に追われる日々を送る。国によって差はあるが、欧米の軍隊では普通一日八時間程度の勤務を週五日か六日間こなす。演習がなければ、早朝六時ごろから決められたスケジュールに沿って行動する。訓練においては徹底的に歩兵は苦しい状況に慣れさせられることで、部隊の結束を強め、部隊戦術を覚え、実戦に備える。",
"title": "運用と戦術"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "また冷戦終結後は、戦争以外の仕事について歩兵の重要性が高まっている。具体的には、国連の平和維持活動、テロなどの緊急事態における、また対ゲリラ活動などの治安維持活動、災害救助活動などである。こうした任務をMOOTW(Military operations other than war)と呼ぶことがある。",
"title": "運用と戦術"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "テロ事件などにおいては歩兵は柔軟な戦闘力を持ちえることから、人質をとった立て篭もり、ハイジャックなど精密かつ迅速な攻撃が求められるテロの対応においては非常に優秀であり、各国の警察や軍隊でもこういった人質救出を専門とした訓練を受けた歩兵の部隊が特殊部隊として保有されている。彼らは建物や飛行機だけでなく、列車、自動車、バスなどありとあらゆる閉鎖空間で的確な動きができるように日々CQB訓練を受けている。",
"title": "運用と戦術"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "現代の戦闘を戦う歩兵の装備はその国の軍隊によってさまざまだが、一般的に使用される装備がある。しかし、その種類は非常に多様であり、ここでは主な装備に限って取り上げる。",
"title": "装備"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "アメリカなどの先進国では、歩兵の人的被害が国内世論にとって致命的な反戦ムードを与える事が、ベトナム戦争以降の教訓として残っているため、歩兵の生存帰還率を引き上げる機械化に極めて熱心である。戦争以外の任務など任務の多様性は増す一方であり、歩兵の教育・訓練コストの上昇もこの歩兵の人的損害を軽減させる研究の推進を後押ししている。",
"title": "歩兵の未来"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2010年現在、欧米の軍隊を中心とした歩兵装備の見直しの研究や装備の改良などが進められており、特に歩兵個人単位でのネットワーク化が試験されている。1990年代より携帯情報端末などを装備した先進歩兵システムの開発が行われてきており、ウェアラブルコンピュータの導入などにより、歩兵一人辺りへの個別指示の密度も高くなることも予測されている。これらの状況から、軽量なHMDを内蔵する動力付きの甲冑を装備した歩兵や、NBC兵器によって汚染された地域でも行動できる防護性の高いスーツを着込んだ歩兵などの将来像が考えられている。パワードスーツ(外骨格スーツ)の導入や、通信や情報伝達・相互連携にコンピュータとのインターフェースの改良による総合的な情報処理技術の導入なども長期的な視点で検討している。",
"title": "歩兵の未来"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "しかし銃器の威力向上や電子戦技術の発展、また現在のバッテリーの技術力などから考えて、歩兵の将来は安全で快適なものになることは非常に難しいと現時点では考えられている。火器の攻撃力は高まり、センサの精度が上がったことで夜間や悪天候における殺傷力は大きく飛躍している。また生物兵器や化学兵器などが世界的に拡散しており、歩兵を取り巻く武器や兵器はより強力になる一方、歩兵はより強力な防御力が要求され、本質的には「矛と盾」の延々と続く競争の延長に過ぎない。また、歩兵が取り扱わなければならない通信装備などが高度化し、市街戦などの増加もあって戦闘の中身も複雑化しているので、教育水準の高い人材がますます歩兵として求められている。",
"title": "歩兵の未来"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "戦場の機械化・無人化の行き着く果てには、究極的には完全無人、自律制御のロボット兵士があるという考えもあるが、近年増加傾向にある市街戦のような敵味方以外に民間人などが混在する複雑な戦場における自律制御型ロボットの敵味方識別能力や交戦規定を考慮した行動能力にはまだまだ問題があり、将来の歩兵が自律ロボット化することの現実性はロボット技術やAIの技術的な面から難しいのが現状である。ただ攻撃など最終的な判断は操作する兵士に委ねられるような自律制御でないリモートコントロール式のロボットの実戦配備は進められており、これらは従来歩兵が携帯している武器の延長的な運用をされるほか、歩兵に先行して周囲を偵察するために利用されている。このほか、輸送や負傷者の後方への搬送など非戦闘任務においての活躍が期待される自動走行するロボット自動車も研究中である(→ロボット#兵器)。",
"title": "歩兵の未来"
}
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歩兵は、主に徒歩で戦闘する兵士である。戦闘、治安維持、災害対処などあらゆる任務に対応し、常に国防の骨幹となる戦力である。自衛隊用語では普通科という。
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{{Otheruses|軍隊における歩兵(ほへい)|将棋の駒の歩兵(ふひょう)|歩兵 (将棋)}}
{{複数の問題|出典の明記=2020年7月|独自研究=2022年5月}}
[[ファイル:2ID_Recon_Baghdad.jpg|thumb|280px|[[M4カービン]]や[[M249軽機関銃]]を構えて[[バグダード]]で偵察任務を遂行する[[アメリカ陸軍|米陸軍]][[第2歩兵師団 (アメリカ軍)|第2歩兵師団]]所属の歩兵]]
'''歩兵'''(ほへい、{{lang-en-short|infantry}})は、主に徒歩で戦闘する[[兵士]]である。[[戦闘]]、[[治安|治安維持]]、[[災害派遣|災害対処]]などあらゆる任務に対応し、常に[[国防]]の骨幹となる戦力である。[[自衛隊用語]]では[[普通科 (陸上自衛隊)|普通科]]という。
== 概説 ==
歩兵は古代から現代まで常に陸上戦力の基幹であり、さまざまな[[地形]]、任務、状況に柔軟に対応し、[[戦闘]]の最終的な勝敗を決するものである。
[[アサルトライフル]]や機関銃、手榴弾あるいは対戦車兵器などの小火器を携行する。[[機動]]力が重視される現代の[[戦争]]においては歩兵も機械化されることが多い。[[歩兵戦闘車]]や[[装甲兵員輸送車]]などの車輛([[装甲戦闘車両|AFV]])で歩兵移動する歩兵を自動車化歩兵という。逆に戦場でAFVの支援を受けない歩兵を[[軽歩兵]]と呼んで区別する。また主として固定翼航空機([[輸送機]])で移動し落下傘降下できる歩兵を[[空挺]]兵、主として回転翼機([[ヘリコプター]])で移動する歩兵を空中機動歩兵などと呼ぶ。また、艦隊に配置された歩兵である[[海兵隊]](海軍歩兵)や、艦船乗組員を武装させて歩兵に仕立てた[[陸戦隊]]もある。近年は[[非対称戦]]への要求が高まり、歩兵をさらに精鋭化した[[特殊部隊]]の需要が増している。
== 歩兵の歴史 ==
歴史を通じて見ても、歩兵はほとんどの[[軍隊]]において核となる存在であった。これは歩兵の持つ戦闘能力の柔軟性や多様性による部分が大きい(有事において急速に補完することも可能な戦力という一面もある)。ここでは、近代の世界の軍隊に大きな影響を与えた欧州のものを中心に、歩兵の歴史をおおまかに辿る。
=== 古代 ===
[[鐙]]が発明されておらず、[[車輪]]もようやく発明されたばかりの古代社会においては[[騎兵]]部隊や[[チャリオット|戦車]]部隊といった兵種はごく限られた市民などの階級が担当するのが常であり、従って[[騎馬民族]]を除く殆どの文明の主力の部隊は歩兵だった。そもそも[[新大陸]]や太平洋の諸島のように車輪どころか馬とその他の大型の[[家畜]]すら知らない文明であれば歩兵のみが戦力となり機動力や突進力、[[兵站]]面での運搬能力がそこで大きく削がれた。それは外部から車輪や大型の家畜が持ち込まれるまで、それこそ現代に至るまで続いた。
[[古代ギリシア]]時代、[[ポリス]](都市国家)の市民を担い手とする[[重装歩兵]]が誕生し、彼らが密集隊形を組んで戦う戦術([[ファランクス]])が用いられるようになった。この革新的な戦術は[[ペルシャ戦争]]において、数的に勝るペルシャ軍を何度も打ち破った事でその勇名を広めた。ギリシアではこの他にも[[パノプリア]](完全な鎧の意)や[[ペルタスト|ペルタステス]](軽装兵)といった歩兵も登場する。ギリシャの歩兵戦術は[[アレクサンドロス大王]]の時代に[[ヘタイロイ]]を中核とするマケドニア軍の騎兵戦術と合体([[鉄床戦術]])し、東方に一大帝国を築き上げる要因となった。更にそれより後に覇権を握る事になる[[古代ローマ]]は、ギリシャと同じ市民兵制度であり、騎兵の安定供給が難しいなどよく似た環境に存在していた事から、初めは自然とファランクスを模倣していた。しかし騎兵を活用したカルタゴ軍との戦いや散兵戦術を取るガリア軍との戦いの中で次第に独自の戦術を編み出していき、こうした努力は[[軍団兵|レギオン]]というより洗練された編制、隊形、指揮系統を持つ[[戦術]]に繋がっていった。またその構成要員も数千人にまで達するようになった。
=== 中世から近世 ===
[[蛮族]]の大移動により[[西ローマ帝国]]が崩壊すると、新たに訪れた中世[[ヨーロッパ]]においてはその後長きに亘って、歩兵に代わり[[騎兵]]が軍で優位を占める時代となった。これには馬の改良や鐙の登場だけでなく、戦闘の形態が大勢力による軍勢の衝突から、騎馬民族の荒略に対する迎撃や追撃に焦点が移動したためである。重装騎兵は日々の訓練が必要でありまたウマの肥育や装備の準備など経済力が要求されることから、封建社会の確立や地方分権の進展により定着した。かつてのような市民兵からなる歩兵の密集隊形は姿を消し、代わりに少数の貴族による重装騎兵([[騎士]])が戦いの中心となった。こうした傾向は最終的に[[一騎討ち]]という儀礼的な戦闘を交わすのみにまで陸戦の戦術的退化を招いた。
しかし中世後期ごろから中央集権化を果たした大国同士の戦が増えると再び戦いは歩兵を中心としたものに戻り始める。中世の終わりに起きた[[百年戦争]]で[[長弓]]兵や槍兵を主力とするイングランド軍が、貴族や騎士からなるフランス軍の騎兵部隊を完膚なきまでに破り([[クレシーの戦い]]、[[ポワティエの戦い]])、その決定的な契機になった。歩兵は再び軍隊における最も重要な存在へと復権を果たし、[[騎兵]]は副次的な存在として軽装さから来る機動性が重要視されるようになった。[[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャベリ]]は君主論において騎兵による散発戦闘ではなく、常設歩兵軍による集団戦法の有効性を論じた。
騎士文化を過去の物とした長弓は、より貫通力・殺傷力の高い[[マスケット銃]]が登場した後も、射程・命中率・攻撃力の集中・発射速度の点で優れていたことから並行して数百年の間使用されつづけた。しかし長弓は効果的に使うためには非常な熟練を要する武器であり、実戦で戦えるまで訓練するのには長い時間がかかった。このような欠点とは反対に、[[テルシオ]]隊形や[[三兵戦術]]の研究が進み、また数週間から数か月訓練した多数の人員と豊富な資金と[[銃]]や[[火薬]]の製造所さえあれば、編制可能なマスケット銃兵の部隊が用いられるようになった。また近世より産業化が進行し、田園的な貴族制は廃れて、都市に人と富が集中したことが、訓練は十分ではないものの大規模な歩兵部隊の迅速な招集を可能にした。
[[騎兵]]の機動性の向上、強い打撃力に対応して、歩兵にとっては[[槍]]が身を守る為の重要な武器となった。当初はマスケット銃兵に槍兵([[パイク]]兵)が混成され、発砲の合間銃兵を護衛していたが、[[銃剣]]が普及するようになり銃兵に刀剣戦闘力が付加されるに至り、槍兵は姿を消し、近代の歩兵の姿が確立され始めた。
=== 近代 機械化へ ===
歩兵の輸送手段は、それまでは徒歩や[[船]]、[[ウマ|馬]]であったが、[[19世紀]]より[[鉄道]]が使われ始め、[[1890年代]]以降いくつかの国では[[自転車]]が採用された(馬もしばらく併用されている)。[[第二次世界大戦]]では[[日本陸軍]]の歩兵が自転車で移動し、大成功を収めた([[銀輪部隊]])。機動性における大きな革新は、[[1920年代]]以降より始まり、[[自動車]]を使った[[自動車化歩兵]]の部隊が生まれた。この頃から、移動中の兵士の安全を確保することの重要性が認識されるようになり、移動時に[[装甲車]]を使用する[[機械化歩兵]]が編成されるようになった。
=== 現代 新たな歩兵 ===
現代の歩兵は、[[装甲車]]や[[火砲]]、[[ヘリコプター]]等[[航空機]]に支援されて行動するが、依然として地上の特定の地域を占領、確保することができる唯一の兵種である。このため戦争遂行にとって必要不可欠な存在であり続けている。また個人が携帯出来る[[武器]]の火力が高くなり、[[ゲリラ]]戦や[[市街戦]]などの[[非対称戦争]]が増加する傾向から歩兵に高度に専門的な訓練を施した[[特殊部隊]]が各国で配備されつつある。
== 分類 ==
歩兵は、[[作戦]]行動中は主に徒歩で活動する[[兵士]]の総称であるので、その装備や技能、運用形態や戦術的役割によっていくつかに分類ができる。
=== 現代の分類 ===
ここでは現代における[[師団]]・[[旅団]]レベルにおける歩兵の基本的な分類を述べる。(Field Manual 100-5を参考)
; [[軽歩兵]](Light Infantry)
: 正規の歩兵に対して、[[装甲戦闘車両|装甲車両]]や[[大砲|火砲]]などの装備が軽量である歩兵部隊。
; [[エアボーン|空挺兵]](Airborne Infantry)
: [[航空機]]で[[戦略]]的な長距離を迅速に移動し、[[空港]]施設に頼ることなく[[パラシュート]]降下で着陸が可能な歩兵を指す。交戦地域に[[展開 (軍事)|展開]]した後は軽歩兵と同様の能力を発揮する。降下に高度な能力が必要で人員が限られる上、着地地点にばらつきが生じるため、[[特殊作戦|特殊な作戦]]以外は、通常歩兵の補助的な役割でしかなくなっている。
; 空中強襲歩兵(Air Assault Infantry)
: [[ヘリコプター]]などの航空機で[[輸送]]され、交戦地域に速やかに展開・撤収する[[空中機動作戦]]が可能な[[作戦]]的、[[戦術]]的機動力を有する歩兵を指す。敵の支配地域に潜入し、[[後方連絡線]]を切断、敵[[部隊]]に対する[[奇襲]]、[[破壊活動|破壊工作]]を実行できる。
; [[レンジャー]](Ranger Units)
: 特殊な作戦において運用されることを想定して訓練された歩兵部隊。組織によって意味付けは異なるが、精鋭歩兵と見做される事が多い。
; [[機械化歩兵]](Mechanized Infantry)
: 装甲車両を用いて地上を迅速に移動できる歩兵を指す。[[装甲部隊|機甲部隊]]と同等の[[機動|機動力]]を持つため、友軍の[[戦車]][[部隊]]と連携して作戦を実施できる。
;
;[[自動車化歩兵]](Motorised Infantry)
: 非装甲の[[自動車]]で移動する部隊。現代の歩兵は原則として自動車化歩兵なので、単に歩兵とされることが多い。
=== 現代に於ける代表的な歩兵の区分 ===
; ポイントマン
: 前方警戒を行いながら[[部隊]]を先導する歩兵([[斥候]])を指す。
; 小銃手(ライフルマン)
: [[小銃]]を主たる[[武装]]とした歩兵。小銃は歩兵銃とも呼ばれ、最も基本的な[[武器]]と言える。現代では[[アサルトライフル]]が一般的。
; [[衛生兵]]
: [[戦闘]]において負傷兵に[[応急処置]]を施す兵士を指す。一般の歩兵と行動を共にするほか、作戦地域からやや離れた地点で待機する場合もある。純粋な戦闘員ではないが、自衛目的の武器を携行・使用することが認められている。
; 通信兵
: 戦闘中でも部隊外と通信するため、[[トランシーバー (無線機)|トランシーバー]]を携行した(中くらいの可搬型機器を背負っている)歩兵を指す。
; [[狙撃手|狙撃兵]]・[[選抜射手]]
: 戦闘において比較的遠距離から[[狙撃]]を行う歩兵を指す。特に狙撃用[[照準器|スコープ]]付小銃([[狙撃銃]])を持つ兵。選抜射手は一般の歩兵と行動を共にする狙撃手で、射撃に秀でた小銃手ともいえる。
; 機関銃手
: [[分隊支援火器]]や[[汎用機関銃]]で武装して、[[火力支援]]や[[制圧射撃]]を行う歩兵を指す。
; 擲弾手
: [[擲弾発射器]]で[[火力支援]]を行う歩兵を指す。一般歩兵に随伴する場合には、小銃に固定式のグレネードランチャーを取り付けるか、専用の擲弾銃が用いられる。
; 対戦車特技兵([[対戦車兵器]]手)
: [[対戦車ミサイル]]や[[ロケットランチャー]]、携行[[無反動砲]]などの携帯式対戦車兵器を運用する歩兵を指す。
; 対空特技兵([[地対空ミサイル|SAM]]手)
: [[スティンガーミサイル|FIM-92 スティンガー]]や[[9K32|9K32 ストレラ-2]]などの[[携帯式防空ミサイルシステム|携帯式地対空ミサイル]]を運用する歩兵を指す。
; 迫撃砲兵
: [[迫撃砲]]を運用する歩兵を指す。迫撃砲は[[口径]]により複数種類が採用されていることがほとんどで、大口径のものほど、より上級部隊の管理下に置かれる。
=== 歴史的な分類 ===
歴史的には歩兵もさまざまな装備・編成で用いられてきた。
; 槍兵
: [[槍]]もしくはそれに準ずる[[ポールウェポン|棒状の武器]]で[[武装]]した歩兵であり、特に長槍兵などは[[騎兵|騎馬]]に対抗する主力となった。古来から世界各地で見られる一般的な歩兵であり、近接戦闘における主力であった。しかし、[[銃剣]]の普及に伴って姿を消した。
; 弓兵
: [[弓矢]]で武装した歩兵。[[弩]]や[[クロスボウ]]を装備する歩兵もこれに含む。
: これも古来から世界各地で見られる一般的な歩兵であった。主に遠距離から敵陣に[[矢]]を放って陣形をかく乱したが、[[銃]]や[[大砲]]の発達によって姿を消した。
; [[重装歩兵]]
: [[甲冑]]や[[兜]]・脛当て・[[盾]]を装備して防御力を向上させた歩兵で、密な戦列を組んで戦う。密集隊形のおかげで突破力と防御力は高いが、隊列を維持しての高速移動は苦手。
: [[古代ギリシャ]]、[[マケドニア王国|マケドニア]]の[[ファランクス]]や[[古代ローマ]]の[[ローマ軍団|レギオン]]が有名。
; [[戦列歩兵]]
: [[マスケット銃]]と銃剣で武装し、戦列([[横隊]]など)を組んで[[戦闘]]を行う歩兵である。近世ヨーロッパにおいて極端に発展し、戦闘における主役となったが、銃や砲の性能の向上にしたがって姿を消した。
; [[擲弾兵]]
: 擲弾([[手榴弾]])を投擲する[[兵士]]。近世ヨーロッパで登場したが、当時のそれは危険が大きい割に効果が低かったため擲弾を使用する機会がほとんど無くなったものの、精鋭部隊の名誉称号として使われるようになった。
: 現在では手榴弾は歩兵の一般装備と化しており、あえて言うならば[[グレネードランチャー]]や[[対戦車ロケット弾|対戦車ロケットランチャー]]を運用する歩兵がこれに当てはまる。
; [[散兵]]
: 戦列を組まず、散開して遠距離射撃を担当する歩兵で、[[猟兵]]とも呼ばれる。
: 現在では密な戦列を組むこと自体がなくなったため、散兵と呼ぶことはほとんどない。猟兵については[[ドイツ]]では[[エアボーン|空挺部隊]]([[降下猟兵]])や山岳部隊([[山岳猟兵]])、軽歩兵部隊の称号として用いており、[[フランス軍]]でも一部の部隊が猟兵を名乗っている。
== 部隊構成 ==
歩兵部隊の編成は組織や時代によって非常にばらつきがあり一概には言えない。
基本的に現代の[[軍隊]]では二人から六人程度で構成される[[班]]が戦闘の最小の行動単位となり[[機関銃]]などの制圧火器がしばしばこの部隊に配備される。二個から三個の班から構成される[[分隊]]があり([[分隊支援火器]]として制圧火器がこの分隊に配備される場合もある)、分隊が三個から四個ほど集まった部隊を[[小隊]]、小隊が三個から四個ほど集まった部隊を[[中隊]]とする。中隊の規模になってくると歩兵の人員数は100~250人程になり、歩兵の部隊における比率は60%から90%程度になってくる。中隊がさらに三個から五個ほど集まって[[大隊]]となり、大隊は部隊を支援するための[[火砲]]や車両などを装備し、おおむね[[少佐]]や[[中佐]]といった[[士官]]が指揮を執る。その大隊を三個から四個ほど擁するのが[[連隊]]または[[旅団]]と呼ばれる。この連隊や旅団は大体1500~2500人程度の人員を抱え、[[中佐]]や[[大佐]]が指揮を執り、支援として[[戦車]]隊や[[工兵]]隊なども部隊を構成する場合がある。この程度の規模の部隊になれば歩兵の比率は25%から60%程度になってくる。ちなみに旅団や連隊よりも大規模な[[師団]]という部隊の単位も存在する。
時代によっても歩兵の編成は変わってくる。例えば古代[[中国]]では卒、伍、隊、旅、軍というような編制の記述が兵法書にみられる。この影響からか近代の日本にも[[伍長]]、一兵卒、部隊、旅団というような名称があるように一部名残があるようである。
== 歩兵の能力 ==
歩兵には非常に多岐にわたる実践的な能力が求められる。その歩兵がどのような任務につく部隊に所属しているか、またどのような適性があるのか、予算がどのていど充実しているのかなどによって大きくその教育内容などが変わるので、概略することは難しい。平均的な歩兵の能力について以下は述べる。
* 徒歩での移動能力に関しては歩兵は徹底的に訓練で鍛えられる。歩兵はしばしば50kg以上の装備を担いで、[[車両]]が入ってこられないような険しい地形を突破する必要があるため、[[マラソン]]や山岳地域の行軍などで体力と強い足腰を鍛える必要性がある。歩兵だけにいえることではないが、歩兵の根本的な任務は徒歩で複雑な地形を走破、また隠密的に移動することであるので、特に重要な事項であるといえる。
* [[近接格闘術|格闘術]]は近接戦闘における技術を獲得するためにどの歩兵でも訓練される。国によって訓練される格闘術の種類はそれぞれ異なる。[[ナイフ]]の取り扱いもこの一環で訓練され、閉所での戦闘に生かされる。また銃剣の取り扱いを含めた総合的な閉所での戦闘訓練を受ける場合もある(詳しくは[[CQC]]、[[CQB]])。
* [[射撃]]能力によってその歩兵の戦闘力が大きく左右される。[[銃]]の操作・メンテナンス方法や射撃時の姿勢、基本的な射的訓練、次々と現れる的を素早く的確に狙う訓練は特に重要であり、反射的に銃を目標に対して的確な姿勢で向けるようになり、素早く銃が取り扱えるようにならなければ実戦で優位に立つことは難しい。
* 戦闘陣地の建設のノウハウを歩兵がきちんと把握しておけば、あらゆる局面で敵の攻撃の被害を軽減できる。[[塹壕]](ざんごう)を掘る位置や形、また人員の配置などには一定の理解に基づいて建設されなければ、十分に機能しない。また建設の要領を歩兵全員がわかっていれば短時間で[[戦闘陣地]]を建設できる。こういったノウハウはすべての歩兵が熟知することが望ましい。塹壕の底に50cm程度の溝を作っておけば、[[手榴弾]]が投げ込まれても溝に落ちるので比較的安全、などといった細かい知識が戦場では生死を分けることもある。
* 歩兵はその自己完結性が強く求められる兵科であるので[[サバイバル]]の技能も重要視される。野生の動植物を食べられるか判別する知識や、潜入技術やナイフ格闘、負傷した際の[[応急処置]](野戦衛生学など)や地図やGPSがない状況での地形把握などの幅広い技能がこれにあたる。しかし全ての歩兵がこの技能を身につけられるわけではなく、選りすぐられた人員で編成する[[特殊部隊]]などが主に訓練を行う。[[日本]]の[[自衛隊]]では[[レンジャー]]が特にサバイバルを重視した訓練を受けている。
なお歩兵個人が戦闘中に死亡することは戦死というが、戦時下において歩兵を[[死]]に至らしめたり、あるいは戦闘できないほどに消耗させてしまうのは、何も敵による攻撃だけとは限らない。[[事故]]・[[病気|疾病]]・[[飢餓]]といった危機的状況は平和で安全な文明社会にいるときよりも、より深刻なダメージを与えうる。こういったダメージで兵員が損耗することは部隊、ひいては軍隊にとっても大きな損失となるため、各々の歩兵は必要に応じて自身の身を、それら敵以外から受けるダメージを防ぐ知識と技能も要求される (→歩兵の損耗に関しては、[[戦死]]を参照)。
== 運用と戦術 ==
陸上[[戦闘]]で最も発生しやすい損害の大部分は歩兵である。しかし敵の陸上戦力を掃討して敵拠点を征圧しなければ[[戦争]]の勝敗を決定的なものにすることは難しい。そのため[[戦車]]、[[火砲]]、[[航空機]]などの[[兵器]]を用いて、まず敵部隊の圧倒的な戦闘力を破壊し、敵に逆襲が不可能な損害を与えてから歩兵部隊を投入することが望ましいと考えられている。([[小隊]]や[[分隊]]レベルの歩兵の運用については[[歩兵の戦術]]を参照)
=== 現代における基本的な仕事 ===
歩兵の仕事の大部分は移動、残りは防御陣地の建設と維持であり、その余禄に一割にも満たない[[戦闘]]が含まれる。[[映画]]などの娯楽作品では、往々にして歩兵は常に撃ち合いをしている様に描かれるが、実際にそのような状況下では、敵も味方も精神的に疲弊して[[戦闘ストレス反応]](戦争神経症 shell shock)を示す場合がある。[[第二次世界大戦]]の研究によれば、100日~200日にわたって[[戦闘]]を生き延びた[[兵士]]のほとんどが心身共に磨耗し、戦闘不能になってしまっている。実質的に頻繁な戦闘行動が行われるのは、どちらかが一方的に大量の人材や物資を投入して、攻め上げている場合のみである。今日の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]がこの様式で、相手を疲弊させ、[[戦争]]の早期決着を目指す作戦を取っている。しかしながら、近年の[[湾岸戦争]]や[[イラク戦争]]などでは[[即席爆発装置]](IED)で手足を失う[[兵士]]や[[心的外傷後ストレス障害]]などを患う兵士も多く、アメリカは国内外から強い反発を受けている([[戦術]]を参照)。
==== 戦闘 ====
[[戦闘]]は歩兵にとってもっともつらく苦しい仕事となる。[[戦闘]]はその目的や環境、参加戦力の規模や種類によってさまざまな形態がある([[塹壕戦]]、[[市街戦]]、[[上陸戦]]など)。[[戦闘]]においては歩兵は基本的に[[班]]、[[分隊]]ごとに編成され部隊単位で動き、基本的に各々が別々の方向を警戒することで死角をなくす隊形をとりながら移動する。その地域の危険度によって歩兵が移動する際の手順は若干異なる。危険度が比較的低い場合においては全員が全方位に対して警戒を払いつつ、一度の攻撃で全滅しないように歩兵間の間隔をあけながら一斉に移動する(この間隔は[[ジャングル戦]]、野戦などによって違う)。実際に[[戦闘]]に入れば、基本的に二つほどの[[班]]に分かれ、敵に対して制圧射撃([[機関銃]]での射撃や煙幕を張ることを指し、敵の殺傷が目的ではなく、敵の行動を封じることが目的である)を交互に繰り返す。一方が射撃を行っている間にもう片方が敵よりも優位な地点を確保し、より優位な状況で[[戦闘]]を展開していく。これは現代における歩兵機動戦術の基本であり、こういった過程において敵味方戦力の分析ミスによる間違った[[戦術]]や、[[武器]]装備の不調、火力の不足、機動力の不足、部隊の士気低下、[[指揮官]]の失敗、チームワークの欠落などにより歩兵はしばしば死傷する。[[戦車]]や[[装甲車]]、[[迫撃砲]]などがあればより重火器で攻撃することができ、歩兵の負担は軽くなる。
==== 警察・治安活動 ====
制圧占領した都市や村落の[[治安]][[警備]]活動はかならず歩兵部隊の担当業務となる。占領地域の治安業務は[[戦時国際法]]に決められた占領軍の任務であり、その地域の行政機構が機能するかぎり協力しながら、通常の[[保安]]業務のみならず交戦勢力やゲリラなどによる地域住民を対象としたテロ攻撃から防護する必要がある。
=== 戦車と歩兵 ===
戦車は強力な[[火砲]]と機動力を備えており、敵の[[装甲車]]、戦闘陣地、銃座などに効果的な打撃を与えることができる一方、地形適応力や柔軟性は歩兵に劣る。戦車と比較すると、歩兵部隊は無力に思われるかもしれないが、塹壕や遮蔽物に隠れ、有効な対戦車兵器を装備した歩兵は、高価な運用コストゆえに数で劣る戦車部隊より信頼性の高い戦力となる。
戦闘車両は一般に視界が劣悪である。戦車は強固な装甲を備える一方、対戦車兵器を携行した歩兵に接近されると脆弱である。歩兵は地形に潜伏あるいはカモフラージュを施して戦闘車輌を待ち伏せることができる。肉薄に成功、または敵戦車に発見されなかった歩兵は、敵戦車の視界外から、車体後部や機関室上面など装甲の薄い箇所に攻撃を行い、これを破壊することができる。市街戦では戦車1台は概ね歩兵1~2個[[分隊]]程度の戦力に過ぎないと言われる。ゆえに視界の悪い地形・状況下で戦闘車輌が単独行動を行うのは非常に危険であり、随伴歩兵との連携が欠かせない。
また、歩兵部隊はある程度の人的被害を出しても部隊再編成を行い、柔軟な運用が可能だが、整備部隊から離れて行動している戦車が車体にダメージを受ければ車両を放棄するほか無い。行動可能な場所が限定されることから、[[地雷]]にも狙われやすい。
=== ゲリラ戦 ===
恐らく、過去現在問わず歩兵の柔軟性・有能性が一番発揮されるのは[[市街地]]や[[ジャングル (森林の型)|ジャングル]]などの閉鎖的地形での[[ゲリラ]]戦である。『[[孫子 (書物)|孫子]]』にも書かれているように、太古の昔から、[[戦術]]的に複雑な機動が出来る少数精鋭による[[ゲリラ戦]]は、動きが鈍い重武装かつ大規模な敵戦力に対して有効な戦法として見られてきた。敵に気付かれず接近、奇襲攻撃で損害を与え、本格的な反撃が始まる前に撤収するのが基本であり、一方的に戦闘の主導権を維持することで精神的ストレスも敵に与えることができる。現在でもその図式は変わらず、また[[火器]]性能の著しい発達もあり、巨大勢力にとって小規模かつそれなりの練度がある[[ゲリラ]]兵は脅威に他ならない。ただし、この[[戦術]]が有効なのは市街地やジャングルなどの遮蔽物が多数存在する場所に限られ、また敵情を確実に把握するための情報網や人脈、地形に通じた誘導員などが必要である。正規軍の[[特殊部隊]]による[[ゲリラ]]戦術(例・[[第二次世界大戦]]における、北アフリカでの英軍の[[SAS (イギリス陸軍)|特殊部隊]])以上に、武装した民間人によるゲリラ戦術(例・第二次世界大戦でのドイツ占領下の各国の[[レジスタンス運動|レジスタンス]]、[[パルチザン]]、<!--[[日中戦争]]における[[便衣兵]]、-->[[ベトナム戦争]]での[[ベトミン]]、[[南ベトナム解放民族戦線]])の方が活発である。
=== 戦争以外での任務 ===
平時における歩兵は[[戦闘]]とは無縁の[[駐屯地]]や[[基地]]で[[訓練]]や雑用に追われる日々を送る。国によって差はあるが、欧米の軍隊では普通一日八時間程度の勤務を週五日か六日間こなす。[[演習]]がなければ、早朝六時ごろから決められたスケジュールに沿って行動する。[[訓練]]においては徹底的に歩兵は苦しい状況に慣れさせられることで、部隊の結束を強め、部隊[[戦術]]を覚え、実戦に備える。
また冷戦終結後は、戦争以外の仕事について歩兵の重要性が高まっている。具体的には、[[国際連合|国連]]の[[平和維持活動]]、[[テロリズム|テロ]]などの緊急事態における、また対ゲリラ活動などの[[治安]]維持活動、[[災害救助]]活動などである。こうした任務をMOOTW(Military operations other than war)と呼ぶことがある。
テロ事件などにおいては歩兵は柔軟な戦闘力を持ちえることから、人質をとった立て篭もり、[[ハイジャック]]など精密かつ迅速な攻撃が求められるテロの対応においては非常に優秀であり、各国の[[警察]]や[[軍隊]]でもこういった人質救出を専門とした訓練を受けた歩兵の部隊が[[特殊部隊]]として保有されている。彼らは建物や[[飛行機]]だけでなく、[[列車]]、[[自動車]]、[[バス (車両)|バス]]などありとあらゆる閉鎖空間で的確な動きができるように日々CQB訓練を受けている。
== 装備 ==
現代の[[戦闘]]を戦う歩兵の装備はその国の[[軍隊]]によってさまざまだが、一般的に使用される装備がある。しかし、その種類は非常に多様であり、ここでは主な装備に限って取り上げる。
* [[小銃]]や[[拳銃]]などの[[小火器]]は近代以降における歩兵の主力となる[[武器]]である。主に[[AK-47]]や[[M16自動小銃|M16]]などの[[自動小銃]]がその殺傷力と連射速度から多くの現代の[[陸軍]]で歩兵の標準装備に用いられるが、室内などの閉鎖的な空間での戦闘が予想される場合は[[H&K MP5|MP5]]などの[[銃砲身|銃身]]が短く取り扱いやすい[[短機関銃]]が用いられる場合がある。また、歩兵の[[火力 (軍事)|火力]]をより高めるために[[ミニミ軽機関銃]]などの[[機関銃]]が[[分隊]]には配備される。これらの火力は戦闘を有利に進めるために欠かせないものになっている。拳銃は閉所での戦闘などの状況以外では歩兵の補助的な武器として装備される。[[工兵]]や[[衛生兵]]など直接戦闘を行うわけではない兵科でも、緊急事態ではこういった武器を使って歩兵として戦うことができるように全員が訓練を受けている。
* [[火薬|爆薬]]や[[手榴弾]]は設備の[[爆破]]や[[ブービートラップ]]の設置などに必要である。工兵がこういった分野の訓練を集中的に受けるが、普通の歩兵でも一通りの取り扱いは心得ることが求められる。高性能爆薬である[[プラスチック爆弾]]は[[イギリス陸軍]]などによって使用されており、[[橋]]や[[建物]]などを[[破壊]]するために一部の歩兵に渡されている。また、手榴弾などは遮蔽物に隠れた敵を攻撃するときなどに使用されるが、[[市街戦]]などで特にその効果を発揮する。敵が立て籠もった室内に突入する直前に手榴弾で敵を攻撃しておけば、敵は出入り口に対する[[待ち伏せ]]攻撃ができなくなる。また、[[地雷]]や手榴弾は戦闘[[陣地]]を構築する時にも重要な武器であり、[[地雷#対戦車地雷|対戦車地雷]]や手榴弾を使ったトラップを侵入予想経路に仕掛けておけば、敵に損害を与えることができる。
* 防護装備は歩兵の生命を部分的だが守ってくれる。[[ボディアーマー|防弾チョッキ]]や[[戦闘用ヘルメット|ヘルメット]]は[[弾丸]]や弾片から身体を守るが、その効果は防護装備の形状やグレード、飛来した物体の性状や速度など、様々な条件によって影響を受けるため絶対的なものではない。一部で防弾チョッキなどは重く、[[機動|機動力]]を削ぐと考えられているが、防弾チョッキには負傷者を25%減少させた実績があるため、決して無駄なものではない。しかし、これらの装備は高価なので、[[アメリカ合衆国|米国]]や[[イスラエル]]などの[[先進国]]を中心に採用されている。
* [[戦闘服|迷彩服]]はその視覚効果で視認性を下げ、敵に発見されにくくする[[カモフラージュ]]効果がある。[[狙撃手|狙撃兵]]など絶対に敵に発見されないことが求められる[[兵士]]は、さらに[[偽装]]・隠蔽を施し、視認性を落とす努力を払っている。
* [[無線通信]]機器は特定の歩兵にのみ渡されているものだが、他の[[部隊]]との連携を維持し、[[指揮 (軍事)|指揮]]系統を維持するために現代においては特に重要であると考えられている。特に歩兵部隊は[[大砲|火砲]]や[[航空機]]、[[戦車]]などの支援なしで効果的な攻撃を行うことはほぼ不可能であり、組織的な連携の中で歩兵部隊はその[[戦闘力]]を発揮することができる。しかし、[[電子戦]]において敵の探知システムに傍受されることや、[[ジャミング]]で妨害される場合もある。
* 生活用品として歩兵たちは雑多な道具を携帯している。[[レーション|食料セット]]や[[水筒]]、携帯用の[[シャベル]]、[[ナイフ]]、[[通信]]機器、[[鎮痛剤]]や[[殺菌剤 (医薬品)|消毒液]]などが入った救急セットなど非常に多くのものを装備することとなり、これが近年歩兵、特に隠密行動を重視し[[自動車化歩兵|自動車化]]を進めにくい[[特殊部隊]]の装備の重量を飛躍的に重くしており、各国は近年それら装備の見直しを推し進めている。
== 歩兵の未来 ==
アメリカなどの先進国では、歩兵の人的被害が国内[[世論]]にとって致命的な[[反戦]]ムードを与える事が、[[ベトナム戦争]]以降の教訓として残っているため、歩兵の生存帰還率を引き上げる機械化に極めて熱心である。戦争以外の任務など任務の多様性は増す一方であり、歩兵の教育・訓練コストの上昇もこの歩兵の人的損害を軽減させる研究の推進を後押ししている。
2010年現在、欧米の軍隊を中心とした歩兵装備の見直しの研究や装備の改良などが進められており、特に歩兵個人単位でのネットワーク化が試験されている。1990年代より[[携帯情報端末]]などを装備した[[先進歩兵システム]]の開発が行われてきており、[[ウェアラブルコンピュータ]]の導入などにより、歩兵一人辺りへの個別指示の密度も高くなることも予測されている<ref>歴史群像 2010年6月号PP28-32 坂本明「THE 未来歩兵」学習研究社</ref>。これらの状況から、軽量な[[ヘッドマウントディスプレイ|HMD]]を内蔵する動力付きの甲冑を装備した歩兵や、[[NBC兵器]]によって汚染された地域でも行動できる防護性の高いスーツを着込んだ歩兵などの将来像が考えられている。[[パワードスーツ]](外骨格スーツ)の導入や<!--サイバネ化は軍事運用面以前かと:[[サイボーグ]]化、[[脳]]と[[兵器]]や-->、[[通信]]や情報伝達・相互連携に[[コンピュータ]]との[[インタフェース (情報技術)|インターフェース]]の改良による総合的な[[情報処理]]技術の導入なども長期的な視点で検討している。
しかし[[銃]]器の威力向上や[[電子戦]]技術の発展、また現在の[[電池|バッテリー]]の技術力などから考えて、歩兵の将来は安全で快適なものになることは非常に難しいと現時点では考えられている。[[火器]]の攻撃力は高まり、[[センサ]]の精度が上がったことで夜間や悪天候における殺傷力は大きく飛躍している。また[[生物兵器]]や[[化学兵器]]などが世界的に拡散しており、歩兵を取り巻く[[武器]]や[[兵器]]はより強力になる一方、歩兵はより強力な防御力が要求され、本質的には「[[矛盾|矛と盾]]」の延々と続く競争の延長に過ぎない。また、歩兵が取り扱わなければならない[[通信]]装備などが高度化し、[[市街戦]]などの増加もあって[[戦闘]]の中身も複雑化しているので、[[教育]]水準の高い人材がますます歩兵として求められている。
戦場の機械化・無人化の行き着く果てには、究極的には完全無人、自律制御の[[ロボット]]兵士があるという考えもあるが、近年増加傾向にある[[市街戦]]のような敵味方以外に民間人などが混在する複雑な戦場における自律制御型ロボットの敵味方識別能力や[[交戦規定]]を考慮した行動能力にはまだまだ問題があり、将来の歩兵が自律ロボット化することの現実性は[[ロボット]]技術や[[人工知能|AI]]の技術的な面から難しいのが現状である。ただ攻撃など最終的な判断は操作する兵士に委ねられるような自律制御でない[[リモートコントロール]]式のロボットの実戦配備は進められており、これらは従来歩兵が携帯している武器の延長的な運用をされるほか、歩兵に先行して周囲を[[偵察]]するために利用されている。このほか、輸送や負傷者の後方への搬送など非戦闘任務においての活躍が期待される自動走行するロボット自動車も研究中である(→[[ロボット#兵器]])。
== 脚注 ==
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<references />
== 関連項目 ==
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* [[陸軍]] - [[海兵隊]]
* [[普通科 (陸上自衛隊)|普通科]]
* [[自動車化歩兵]] - [[機械化歩兵]]
* [[装甲車]] - [[装甲兵員輸送車]] - [[歩兵戦闘車]]
* [[騎兵]] - [[砲兵]] - [[工兵]] - [[輜重兵]] - [[特殊部隊]]
* [[歩兵の戦術]] - [[戦術]] - [[市街戦]] - [[森林戦]] - [[上陸戦]] - [[エアボーン]] - [[CQB]] - [[CQC]]
* [[小火器]] - [[小型武器]] - [[自動小銃]]
* [[レーション]](食料等の配給物資)- 歩兵などの前線で活動する兵士にとって、[[食事]]は重要な補給であると共に、大きな[[娯楽]]である。
* [[子供|幼児]](Infant) - 英語で歩兵を意味する infantry は、スペインで「幼児」を意味する infantería を歩兵・経験や階級の浅い騎兵など指すのに使ったことを由来とする。日本語的な表現でいえば「ひよっこ」
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龍王
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龍王(りゅうおう)
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龍王(りゅうおう) 龍王 འབྲུག་རྒྱལ་པོ། ['brug rgyal po] - ブータン王国の元首たる君主。単に、ブータン国王(ブータンこくおう)ともいう。
詳細は「ブータンの国王一覧」参照。
竜王 (龍王)- ナーガの王もしくは神格
2008年生の競走馬のロードカナロアの香港での表記。
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[[File:Ugyen Wangchuck, 1905.jpg|thumb|初代龍王([[ブータンの国王]])[[ウゲン・ワンチュク]]]]
'''龍王'''(りゅうおう)
* 龍王 {{Lang|dz|འབྲུག་རྒྱལ་པོ། [{{unicode|'brug rgyal po}}]}} <ref>{{Cite web|和書|title=2018年7月の活動ダイジェスト {{!}} ブータンにおける組積構造建築の地震リスク評価と減災技術の開発プロジェクト {{!}} 技術協力プロジェクト {{!}} 事業・プロジェクト - JICA|url=https://www.jica.go.jp/project//bhutan/009/news/20180731.html|website=www.jica.go.jp|accessdate=2021-05-13}}</ref>- [[ブータン|ブータン王国]]の[[元首]]たる[[君主]]。単に、'''ブータン国王'''(ブータンこくおう)ともいう。
**詳細は「'''[[ブータンの国王一覧]]'''」参照。
* [[竜王]] (龍王)- [[ナーガ]]の[[ラージャ|王]]もしくは[[神格]]
* 2008年生の競走馬の[[ロードカナロア]]の香港での表記。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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ヴァイオリン
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ヴァイオリンまたはバイオリンは、弦楽器の一種。ヴァイオリン属の高音楽器である。ヴァイオリン属に属する4つの楽器の中で最も小さく、最も高音域を出す楽器である。完全五度に調弦された弦を弓で擦って音を出す。基本的には4弦であるが、低音域に弦を足した5弦、6弦以上の楽器も存在する。擦弦楽器に属する。「Vn」「Vl」と略記されることもある。
全長は約60 cm、胴部の長さはおよそ35 cm、重量は楽器にもよるが 300 - 600 gほどである。
木材で作られ、表板にはスプルース、裏板・側板などにはメイプルが一般に用いられる。表板・裏板とも、2枚の板を木目が揃うように接着して使用する。指板には黒檀がよく使われる。裏板・側板は通常柾目材を用い、「杢」が出ている材を使用することも多い。
経年の歪みを防ぐため、予め長期間天然乾燥されるが、現在では乾燥釜をつかった強制乾燥によるKW材(Kiln Dry Wood)を使用する場合も多い。
胴部はf字孔を開口部とするヘルムホルツ共鳴器を構成しており、断面は右図の通りである。
表板の裏面にある力木(ちからぎ、バスバー)は、表板を補強するとともに低音の響きを強め安定させる役割を果たす。胴体内には、魂柱(たまばしら、こんちゅう、サウンドポスト)と呼ばれる円柱が立てられており、駒を通って表板に達した振動を裏板に伝える。
指板の先には弦の張力を調整する糸巻き(ペグ)がついている。先端の渦巻き(スクロール)は装飾であり、一般には音に影響しないとされているが、音響のためあえて対称性を崩して加工されている楽器も多いという。スクロールは美観の観点から、裏板や側板と同一の素材が良いとされるため、メイプルが望ましいとされる。
駒・魂柱・ペグ・エンドピン以外の部品は、膠によって接着される。膠で接着された木材は蒸気を当てると剥離することができるので、ヴァイオリンは分解修理や部材の交換が可能である。
塗装にはニスが用いられ、スピリット(アルコール)系とオイル系の二種類がある。一部の安価な楽器にはポリウレタンも用いられている。塗装の目的は湿気対策と音響特性の改善であるとされるが、ニスに音響特性を改善する効果は無いとする説もある。
4 本の弦は、エンドピンによって本体に固定された緒止め板(テールピース)から駒の上を通り、指板の先にあるナットと呼ばれる部分に引っ掛けてその先のペグに巻き取られる。正面から見て左が低音、右が高音の弦であり、隣り合う弦は右図のように全て完全五度の関係に調弦する。日本では、開放弦の音高のドイツ音名を用いて、E線・A線・D線・G線(えーせん、あーせん、でーせん、げーせん)と呼ぶことが多い。1番線(I)、2番線(II)、3番線(III)、4番線(IV)と番号で呼ぶ場合もあるが、この順番は世界共通である。
素材を問わず、弓を強く押し当てる演奏方法や強いスポットライトを浴びるステージ上などで演奏を行うと意図せずに切れてしまうことも多々ある(特に細く張力が強いE線)。 しかし、演奏の直前で新品の弦に換えることはエイジングの観点からも推奨されないので、レッスンやリハーサルなどで弾き込んで音調の安定した弦を作り、新品の弦と合わせてスペアとしてケースに入れて持ち歩く演奏者もいる。
古くはガット弦(羊の腸)を用いていたが、標準ピッチが上昇すると共に、より幅の広いダイナミクスが要求されるようになるにつれて、高い張力に耐え、質量の大きい弦が求められるようになった。現在では金属弦や合成繊維(ナイロン弦)が多く用いられる。それも、単純なナイロン(ポリアミド)芯にアルミ巻き線を施した弦から、合成樹脂繊維の最先端技術を取り入れた芯にアルミや銀を含む金属製の巻き線を施した弦が主流になりつつある。これらの最新式の弦は、音色的にはガット弦に近い一方で、ガット弦ほど温湿度に敏感でないという長所を持つ。
基本的にペグを回すことで調弦するが、E線はペグだけでは微調整が困難なので、アジャスターと呼ばれるテールピースに取り付けられた小さなネジを回すことによって調弦する。微調整の難しい分数楽器や初心者向けの楽器は、他の弦にもアジャスターを取り付ける場合もある。ペグボックスに張られたD線・A線の弦を押し込む、弦を引っ張ってねじるなどの微調整が行われることもある。
通常はまずチューニング・メーターや音叉などでA線を440ないし442 ~ 448 Hzに調弦し、次いでA線とE線、A線とD線、D線とG線をそれぞれ同時に弾いて、完全五度の和音の特有の響きを聞いて調弦する。協奏曲演奏に際しては、独奏ヴァイオリンをオーケストラより僅かに高く調整して華やかな独奏ヴァイオリンを引き立たせることもある一方、バロック音楽を演奏する場合などは436 ~ 438 Hz、415 Hzなど低めのチューニングを行うこともある。特に指定がある場合、楽譜に「A=435」などと記載されるケースもある。
オーケストラによっては、演奏開始前にオーボエがAの音を出すか、2ndないし1stヴァイオリンの首席奏者となるコンサートマスターがA線を開放弦で弾き、その音調に合わせて弦楽器が改めてチューニングを行うことがある。コンサートマスターは(奏者の中では)最後にステージに上るので、舞台袖で入念にチューニングを行ってからステージへ向かう。
直線状に削り出した木製の竿(スティック)を火に炙って適度なカーブを持たせ、馬の尾の毛を張る。この弓毛に松脂を塗ってしばらく弾くと、弓毛と弦に粉末がなじんで適度な摩擦が生じ、音色が安定する。弓毛には演奏時のみ張力を与え、使用しない時は弛めておく。
スティックの材料はブラジルボクの心材であるペルナンブコ(フェルナンブコ)が最良とされる。しかしブラジルボクは乱獲のため急速に個体数が減っており絶滅が危惧されている。ブラジル内外で植林活動が始まっているものの、成長には200 年を要する。2007年6月にハーグで開かれたワシントン条約締約国会議において、ブラジルボクは同条約附属書IIに記載され、輸出入が困難になった。
20世紀半ばからは代替材料の開発が盛んになり、ペルナンブコと同じブラジル産の熱帯雨林材であるマサランデュバなどが用いられる他、カーボンファイバー、グラスファイバーなどの人造繊維を用いた繊維強化プラスチック (FRP) の弓も作られている。中でもカーボン製の弓は弾力性、剛性、湿気への強さなどに優れ、ペルナンブコ製の弓よりも数値的性能が高いものもある。
ヴァイオリンは、奏者の体格に対して楽器が小さすぎると指板の運びが窮屈となり、また大きすぎると弓運びが困難となる。 通常の大きさ(4/4、フルサイズ)の他に、子供向けの小さなヴァイオリンも作られており、3/4、1/2、1/4、1/8、1/10、1/16、1/32 などが一般的である。これらを分数楽器と呼び、スズキ・メソードなど弦楽器の早期教育で用いられ、分数楽器に合わせた弓や弦、駒も市販されている。 ヴァイオリンの重量から前屈みの演奏になってしまうため美しくないとされる(若干前屈となるのはヴィオラの奏法である)。男女とも体格の完成する中学生前後でフルサイズに移行する者が多いが、大人であっても体格や重量などから3/4を選択したり、フルサイズより僅かに小さい7/8といった希少寸法の分数楽器を用いるケースもあり、体格に見合ったヴァイオリン・弓を使うことが重要とされる。
分数楽器の数字は通常、大人用(4/4サイズ)に対する胴部の容積の比率を表していると説明される。しかし実際には、現在作られているヴァイオリンの殆どが、フルサイズ=胴体の長さ14 インチ、3/4=同13 インチ、1/2=同12 インチといった等差的な寸法になっている。 特に1/8 以下の楽器はメーカーによってもかなり寸法が異なるため、体格に合わせた楽器選びが重要となる。
ヴァイオリンの起源は、中東を中心にイスラム圏で広く使用された擦弦楽器であるラバーブにあると考えられている。ラバーブは中世中期にヨーロッパに伝えられ、レベックと呼ばれるようになった。やがてレベックは立てて弾くタイプのものと抱えて弾くタイプのものに分かれ、立てて弾くタイプのものはヴィオラ・ダ・ガンバからヴィオラ・ダ・ガンバ属に、抱えて弾くタイプのものはヴァイオリン属へと進化していった。
世にヴァイオリンが登場したのは16世紀初頭と考えられている。現存する最古の楽器は16世紀後半のものだが、それ以前にも北イタリアをはじめヨーロッパ各地の絵画や文献にヴァイオリンが描写されている。レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿にもヴァイオリンに似た楽器の設計図が見られる。現存楽器の最初期の制作者としてはブレシアのガスパーロ・ディ・ベルトロッティ(通称ガスパーロ・ダ・サロ)、クレモナのアンドレア・アマティ、ガスパール・ティーフェンブルッカーが有名である。
17世紀から18世紀にかけて、イタリア北部のクレモナにおいてニコロ・アマティ、ストラディバリ一族、グァルネリ一族など著名な制作者が続出した。特に卓越していたのがアントニオ・ストラディヴァリとバルトロメオ・ジュゼッペ・グァルネリ・デル・ジェスである。また、現在のオーストリアのインスブルック近郊のアブサムで活動したヤコブ・シュタイナーの作品も18世紀末までは最高級のヴァイオリンの一つとして取引された。
後に演奏される曲の音域が増加するのに伴い指板が延長されるようになり、音量の増強に対応するためネックが後ろに反り、駒がより高くなった。本体内部も、弦の張力の増大に対応すべく、バスバーを長さ、高さとも大型のものに交換、ネック取り付け部も強化されている。18世紀以前に作られた楽器も現状はそのように改造されているものが多い。古い様式のヴァイオリンは現在では「バロック・ヴァイオリン」といい、新しいヴァイオリンでもバロック仕様で作られたものはバロック・ヴァイオリンと呼ぶ。
これとは別に、特にイタリア製において、著名な制作者が作ったヴァイオリンを、制作時期によって「オールド(1700年代後期まで)」「モダン(1800年位から1950年位まで)」「コンテンポラリー(1950年位以降)」と分類して呼ぶこともある。
近年になって、音響を電気信号に変えるエレクトリック・アコースティック・ヴァイオリンや、弦の振動を直接電気信号に変えるエレクトリック・ヴァイオリンも登場している。
当初は半円形であったが、徐々に変化していき、18世紀末に現在のような逆反りの形状になった。このスタイルを確立したのは、18世紀フランスのフランソワ・トゥルテ(英語版)(トルテ、タートとも)であるといわれる。スティックの材料に初めてペルナンブコを使用したのもトゥルテであり、以後スティックの材料はペルナンブコをもって最上のものとするようになった。トゥルテは宝石・時計職人でもあったことから、その加工技術を弓作りに応用し、螺鈿細工などの美しい装飾を施した。トゥルテや一時代下ったドミニク・ペカット(英語版)らの作品は、オールドフレンチボウとして今なお高い評価を受けている。
登場以来ヴァイオリンは、舞踏の伴奏など庶民には早くから親しまれていたが、芸術音楽においてはリュートやヴィオラ・ダ・ガンバに比べて華美な音質が敬遠され、当初はあまり使用されなかった。しかし、制作技術の発達や音楽の嗜好の変化によって次第に合奏に用いられるようになる。
17世紀には教会ソナタや室内ソナタの演奏に使われた。ソナタはマリーニやヴィターリ等の手によって発展し、コレッリのソナタ集(1700年、「ラ・フォリア」もその一部)がその集大成となった。
少し遅れて、コレッリ等によって優れた合奏協奏曲が生み出されたが、トレッリの合奏協奏曲集(1709年)で独奏協奏曲の方向性が示され、ヴィヴァルディによる「調和の霊感」(1712年)等の作品群で一形式を作り上げた。ヴィヴァルディの手法はJ.S.バッハ、ヘンデル、テレマン等にも影響を与えた。一方で協奏曲が持つ演奏家兼作曲家による名人芸の追求としての性格はロカテッリ、タルティーニ、プニャーニ等によって受け継がれ、技巧色を強めていった。また、ルクレールはこれらの流れとフランス宮廷音楽を融合させ、フランス音楽の基礎を築いた。
18世紀後半にはマンハイム楽派が多くの合奏曲を生み出す中でヴァイオリンを中心としたオーケストラ作りを行った。そしてハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト等のウィーン古典派によって、室内楽・管弦楽におけるヴァイオリンの位置は決定的なものとなった。また、トゥルテによる弓の改良は、より多彩な表現を可能にし、ヴィオッティとその弟子クロイツェル、バイヨ、ロードによって近代奏法が確立されていった。
19世紀になると、現在でも技巧的な面では非常に難しいとされるパガニーニによる作品の登場によって、名人芸的技巧(ヴィルトゥオーソ)がヴァイオリン曲の中心的要素とされ、高度な演奏技術を見せつける曲が多く作られた。
19世紀中頃からは、演奏家と作曲家の分離の傾向が強く見られるようになった。当時の名演奏家に曲が捧げられたり、あるいは協力して作曲したりすることが多く、例えばメンデルスゾーンはダーフィト、ブラームスはヨアヒムといった演奏家の助言を得て協奏曲を作っている。また、チャイコフスキーやドヴォルザーク、グリーグ等によって民族的要素と技巧的要素の結合が図られ、シベリウス、ハチャトゥリアン、カバレフスキー等に引き継がれている。
ヴァイオリンは各地の民族音楽にも使われており、特に東ヨーロッパ、アイルランド、アメリカ合衆国のものが有名である。詳しくはフィドルの項を参照。
フロイスの『日本史』によると、16世紀中頃にはすでにヴィオラ・ダ・ブラッチョが日本に伝わっていた。当時ポルトガル人の修道士がミサでの演奏用として日本の子供に教えたことが記されている。
明治になると、ドイツ系を主とした外国人教師によって奏者が養成され、ヴァイオリンは少しずつ広まっていった。1887年には鈴木政吉によって日本で最初のヴァイオリン製造会社(鈴木バイオリン製造)が創業され、1900年(明治33年)には大量生産されるようになった。また、大正時代にはジンバリスト、ハイフェッツ、クライスラー、エルマンといった名演奏家が続々来日し、大きな影響を与えている。1945年広島市への原子爆弾投下によって被爆したヴァイオリンが一つ現存している(セルゲイ・パルチコフを参照)。
戦後になると各種の教則本が普及し、幼児教育も盛んになって、技術水準が飛躍的に上がっていった。現在では世界で活躍する日本人奏者も多い。
ヴァイオリンの取り扱いや演奏方法は本項に限定されるものではないが、一般的にクラシック音楽で運用される方法を説明する。
左肩(鎖骨の上)にヴァイオリンを乗せ、顎当てに顎を乗せて押し付け過ぎないように挟み込み、ヴァイオリンを高く持ち上げるように構える。左手でネックを持つが、演奏中に左手で楽器を支えると指や手首の動きが阻害されるので、左手は添える程度にする。
体を少し左に傾け、左腕を胸側に少し近づけるが、上腕を胸に密着させてはいけない。そして両腕の距離を詰める(ように意識する)。目線は指板と平行になるようにする。左手の指で弦を押さえ、右手で弓を操作する。弓の操作をボウイング(bowing)と呼び、一見単純な動作だが音色を大きく左右し、熟練を要する。
ヴァイオリンにはギターのようなフレットが無いので、開放弦以外では演奏者が正確な音程になるように押さえる必要がある。左手の人差し指、中指、薬指、小指で弦を押さえるが、このとき左手親指の位置が音程を定める基準となる。
各弦は、指で押さえない状態(開放弦)から人差し指、中指、薬指、小指の順で押さえると一音(二度)ずつ高い音になり、小指で押さえた状態が右となりの弦と同じ音になる。この状態が第一ポジション(first position)である。例えばD線では、何も押さえない開放弦のままではD(レ)、人差し指を押さえるとE(ミ)、中指でF(ファ)、薬指でG(ソ)、小指でA(ラ)となり、右となりのA線と同じ高さになる。楽譜などでは人差し指から順に、それぞれの指を1、2、3、4と表記する。
第一ポジションから左手を少し手前に動かし、開放弦より二音高い音(第一ポジションより一音高い音)が出る位置を人差し指で押さえるのが第二ポジション(second position)、三音高い音が出る位置を人差し指で押さえるのが第三ポジション(third position)である。第一ポジションより半音低い位置を押さえる半ポジション(half position)もある。
高ポジションを利用するのは基本的には第一ポジションではとることのできない高い音程を出すためであるが、音色を変化させるためにあえて用いるときもある。E線の華やかな音を避けたり(A線を用いる)、G線の高ポジションにおける独特の美しさを出す場合である。しかし、高ポジションではわずかな位置の狂いで音が大きく外れてしまい、低ポジションよりも影響が大きいので、弾きこなすには熟練を必要とする。
肘、手首、指のいずれかを動かすことによって弦を押さえている指を前後させ、音を上下に素早く振動させて深みを与える。左腕を動かすことによってその動きを指先に伝える方法、左手の手首から先を揺らす方法、指のみを揺らす、などの方法がある。
オーケストラにおいてビブラートを常時かける現在の習慣は20世紀中頃に世界に広まったもので、それ以前はビブラートは装飾音、あるいはソリストのものであると認識されていた。バロック音楽などを演奏する古楽オーケストラはもちろんのこと、ロジャー・ノリントンやニコラウス・アーノンクールといった古楽系の指揮者が現代オーケストラを指揮する場合には、基本的にノン・ビブラートによる演奏を要求することが多い。
歴史的な擦弦楽器では、弓は張力を小指で調整していたため、張力をゆるめることで3または4つの弦に同時にふれさせることができた。現代のヴァイオリンはその構造上、弓で弾く場合は完全な和音は通常2音が限界である(ピッツィカート奏法を用いれば4和音も可能である)。3音、4音の和音を出すには、弓で最初低音の2弦をひき、素早く高音の弦に移す。ただし、やや指板寄りの箇所を弓で弾くことで3音同時に出すことも可能である。また、腕の重さを使って弓を弦に押さえつけるように弾けば、瞬間的ではあるが3音の重音を弾くことが可能である。
バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータでは4音同時の和音が多く要求され、しかもそれがポリフォニックに書かれているため、これを正確に現代楽器で表現できる、弓の木が極端に曲がったバッハ弓と呼ばれるものが存在する。ウジェーヌ・イザイの無伴奏ヴァイオリンソナタでは、5音や6音の和音が用いられている。これは一種のアルペジオである。
弦を指板まで押さえ込まず、軽く左手の指で触れることにより、高く澄んだ音色が得られる。ハーモニクスと言う場合もある。
弦を弓で弾かずに、指で弾(はじ)く奏法。楽譜には pizz.(ピッツ)と書かれる。 はじき方は決まっておらず、右手人差し指や中指を使うことがほとんどであるが、左手で行う奏法もある(左手でのピッツィカートは、音符の上に+と書かれる)。通常は、ヴァイオリン本体を顎に乗せ、弓を持ったまま指で弾く(他、楽章全てがpizzだけで構成されているときなど、弓を持つ必要の無い場合は弓を置いて行うこともある)が、ラヴェルのボレロなど、全てがpizzでは無いがpizzの指定が長いときは、ギターのように腰のあたりにヴァイオリン本体を抱えて弾く場合もある。
弦を親指と人差し指でつまんで指板に叩きつけ、破裂音を出すバルトーク・ピッツィカートと呼ばれる奏法もある。バルトークによって発案されたとされるが、実際にはマーラーが交響曲第7番などですでに用いている。
弓の木の部分で弦を弾く(叩く)奏法で、固く打楽器的な破裂音が鳴る。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番の3楽章などで使われている。
sul ponticello(駒の上で)は、駒のごく近くの部分の弦を弓で演奏することにより、通常よりも高次倍音が多く含まれる音を出し、軋んだような感覚を得る奏法である。ごく近くを指定するときは、アルト・スル・ポンティチェロ(alto sul ponticello:高い駒の上で)と言う。代表的な例では、ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲集『四季』の「冬」第1楽章に用いられる。
sul tasto(指板の上で)は、指板の上の部分の弦を弓で演奏することにより、通常よりも高次倍音を含まない音を出し、くぐもったような、あるいは柔らかく鈍いような感覚を得る奏法である。
通常、低弦からG-D-A-Eの順で調弦されるが、楽器本来の調弦法とは違う音に調弦(チューニング)する奏法である。
奏者としての方が有名な人物は除外。
日本国内の指導者としては、小野アンナ、鈴木鎮一(スズキ・メソードの創始者)、鷲見三郎、江藤俊哉など。
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"text": "ヴァイオリンまたはバイオリンは、弦楽器の一種。ヴァイオリン属の高音楽器である。ヴァイオリン属に属する4つの楽器の中で最も小さく、最も高音域を出す楽器である。完全五度に調弦された弦を弓で擦って音を出す。基本的には4弦であるが、低音域に弦を足した5弦、6弦以上の楽器も存在する。擦弦楽器に属する。「Vn」「Vl」と略記されることもある。",
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"text": "全長は約60 cm、胴部の長さはおよそ35 cm、重量は楽器にもよるが 300 - 600 gほどである。",
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"text": "木材で作られ、表板にはスプルース、裏板・側板などにはメイプルが一般に用いられる。表板・裏板とも、2枚の板を木目が揃うように接着して使用する。指板には黒檀がよく使われる。裏板・側板は通常柾目材を用い、「杢」が出ている材を使用することも多い。",
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"text": "表板の裏面にある力木(ちからぎ、バスバー)は、表板を補強するとともに低音の響きを強め安定させる役割を果たす。胴体内には、魂柱(たまばしら、こんちゅう、サウンドポスト)と呼ばれる円柱が立てられており、駒を通って表板に達した振動を裏板に伝える。",
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"text": "指板の先には弦の張力を調整する糸巻き(ペグ)がついている。先端の渦巻き(スクロール)は装飾であり、一般には音に影響しないとされているが、音響のためあえて対称性を崩して加工されている楽器も多いという。スクロールは美観の観点から、裏板や側板と同一の素材が良いとされるため、メイプルが望ましいとされる。",
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"text": "駒・魂柱・ペグ・エンドピン以外の部品は、膠によって接着される。膠で接着された木材は蒸気を当てると剥離することができるので、ヴァイオリンは分解修理や部材の交換が可能である。",
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"text": "塗装にはニスが用いられ、スピリット(アルコール)系とオイル系の二種類がある。一部の安価な楽器にはポリウレタンも用いられている。塗装の目的は湿気対策と音響特性の改善であるとされるが、ニスに音響特性を改善する効果は無いとする説もある。",
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"text": "素材を問わず、弓を強く押し当てる演奏方法や強いスポットライトを浴びるステージ上などで演奏を行うと意図せずに切れてしまうことも多々ある(特に細く張力が強いE線)。 しかし、演奏の直前で新品の弦に換えることはエイジングの観点からも推奨されないので、レッスンやリハーサルなどで弾き込んで音調の安定した弦を作り、新品の弦と合わせてスペアとしてケースに入れて持ち歩く演奏者もいる。",
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"text": "古くはガット弦(羊の腸)を用いていたが、標準ピッチが上昇すると共に、より幅の広いダイナミクスが要求されるようになるにつれて、高い張力に耐え、質量の大きい弦が求められるようになった。現在では金属弦や合成繊維(ナイロン弦)が多く用いられる。それも、単純なナイロン(ポリアミド)芯にアルミ巻き線を施した弦から、合成樹脂繊維の最先端技術を取り入れた芯にアルミや銀を含む金属製の巻き線を施した弦が主流になりつつある。これらの最新式の弦は、音色的にはガット弦に近い一方で、ガット弦ほど温湿度に敏感でないという長所を持つ。",
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "17世紀には教会ソナタや室内ソナタの演奏に使われた。ソナタはマリーニやヴィターリ等の手によって発展し、コレッリのソナタ集(1700年、「ラ・フォリア」もその一部)がその集大成となった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "少し遅れて、コレッリ等によって優れた合奏協奏曲が生み出されたが、トレッリの合奏協奏曲集(1709年)で独奏協奏曲の方向性が示され、ヴィヴァルディによる「調和の霊感」(1712年)等の作品群で一形式を作り上げた。ヴィヴァルディの手法はJ.S.バッハ、ヘンデル、テレマン等にも影響を与えた。一方で協奏曲が持つ演奏家兼作曲家による名人芸の追求としての性格はロカテッリ、タルティーニ、プニャーニ等によって受け継がれ、技巧色を強めていった。また、ルクレールはこれらの流れとフランス宮廷音楽を融合させ、フランス音楽の基礎を築いた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "18世紀後半にはマンハイム楽派が多くの合奏曲を生み出す中でヴァイオリンを中心としたオーケストラ作りを行った。そしてハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト等のウィーン古典派によって、室内楽・管弦楽におけるヴァイオリンの位置は決定的なものとなった。また、トゥルテによる弓の改良は、より多彩な表現を可能にし、ヴィオッティとその弟子クロイツェル、バイヨ、ロードによって近代奏法が確立されていった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "19世紀になると、現在でも技巧的な面では非常に難しいとされるパガニーニによる作品の登場によって、名人芸的技巧(ヴィルトゥオーソ)がヴァイオリン曲の中心的要素とされ、高度な演奏技術を見せつける曲が多く作られた。",
"title": "歴史"
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"text": "19世紀中頃からは、演奏家と作曲家の分離の傾向が強く見られるようになった。当時の名演奏家に曲が捧げられたり、あるいは協力して作曲したりすることが多く、例えばメンデルスゾーンはダーフィト、ブラームスはヨアヒムといった演奏家の助言を得て協奏曲を作っている。また、チャイコフスキーやドヴォルザーク、グリーグ等によって民族的要素と技巧的要素の結合が図られ、シベリウス、ハチャトゥリアン、カバレフスキー等に引き継がれている。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "ヴァイオリンは各地の民族音楽にも使われており、特に東ヨーロッパ、アイルランド、アメリカ合衆国のものが有名である。詳しくはフィドルの項を参照。",
"title": "歴史"
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"text": "フロイスの『日本史』によると、16世紀中頃にはすでにヴィオラ・ダ・ブラッチョが日本に伝わっていた。当時ポルトガル人の修道士がミサでの演奏用として日本の子供に教えたことが記されている。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "明治になると、ドイツ系を主とした外国人教師によって奏者が養成され、ヴァイオリンは少しずつ広まっていった。1887年には鈴木政吉によって日本で最初のヴァイオリン製造会社(鈴木バイオリン製造)が創業され、1900年(明治33年)には大量生産されるようになった。また、大正時代にはジンバリスト、ハイフェッツ、クライスラー、エルマンといった名演奏家が続々来日し、大きな影響を与えている。1945年広島市への原子爆弾投下によって被爆したヴァイオリンが一つ現存している(セルゲイ・パルチコフを参照)。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "戦後になると各種の教則本が普及し、幼児教育も盛んになって、技術水準が飛躍的に上がっていった。現在では世界で活躍する日本人奏者も多い。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "ヴァイオリンの取り扱いや演奏方法は本項に限定されるものではないが、一般的にクラシック音楽で運用される方法を説明する。",
"title": "奏法"
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{
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"text": "左肩(鎖骨の上)にヴァイオリンを乗せ、顎当てに顎を乗せて押し付け過ぎないように挟み込み、ヴァイオリンを高く持ち上げるように構える。左手でネックを持つが、演奏中に左手で楽器を支えると指や手首の動きが阻害されるので、左手は添える程度にする。",
"title": "奏法"
},
{
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"text": "体を少し左に傾け、左腕を胸側に少し近づけるが、上腕を胸に密着させてはいけない。そして両腕の距離を詰める(ように意識する)。目線は指板と平行になるようにする。左手の指で弦を押さえ、右手で弓を操作する。弓の操作をボウイング(bowing)と呼び、一見単純な動作だが音色を大きく左右し、熟練を要する。",
"title": "奏法"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ヴァイオリンにはギターのようなフレットが無いので、開放弦以外では演奏者が正確な音程になるように押さえる必要がある。左手の人差し指、中指、薬指、小指で弦を押さえるが、このとき左手親指の位置が音程を定める基準となる。",
"title": "奏法"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "各弦は、指で押さえない状態(開放弦)から人差し指、中指、薬指、小指の順で押さえると一音(二度)ずつ高い音になり、小指で押さえた状態が右となりの弦と同じ音になる。この状態が第一ポジション(first position)である。例えばD線では、何も押さえない開放弦のままではD(レ)、人差し指を押さえるとE(ミ)、中指でF(ファ)、薬指でG(ソ)、小指でA(ラ)となり、右となりのA線と同じ高さになる。楽譜などでは人差し指から順に、それぞれの指を1、2、3、4と表記する。",
"title": "奏法"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "第一ポジションから左手を少し手前に動かし、開放弦より二音高い音(第一ポジションより一音高い音)が出る位置を人差し指で押さえるのが第二ポジション(second position)、三音高い音が出る位置を人差し指で押さえるのが第三ポジション(third position)である。第一ポジションより半音低い位置を押さえる半ポジション(half position)もある。",
"title": "奏法"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "高ポジションを利用するのは基本的には第一ポジションではとることのできない高い音程を出すためであるが、音色を変化させるためにあえて用いるときもある。E線の華やかな音を避けたり(A線を用いる)、G線の高ポジションにおける独特の美しさを出す場合である。しかし、高ポジションではわずかな位置の狂いで音が大きく外れてしまい、低ポジションよりも影響が大きいので、弾きこなすには熟練を必要とする。",
"title": "奏法"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "肘、手首、指のいずれかを動かすことによって弦を押さえている指を前後させ、音を上下に素早く振動させて深みを与える。左腕を動かすことによってその動きを指先に伝える方法、左手の手首から先を揺らす方法、指のみを揺らす、などの方法がある。",
"title": "奏法"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "オーケストラにおいてビブラートを常時かける現在の習慣は20世紀中頃に世界に広まったもので、それ以前はビブラートは装飾音、あるいはソリストのものであると認識されていた。バロック音楽などを演奏する古楽オーケストラはもちろんのこと、ロジャー・ノリントンやニコラウス・アーノンクールといった古楽系の指揮者が現代オーケストラを指揮する場合には、基本的にノン・ビブラートによる演奏を要求することが多い。",
"title": "奏法"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "歴史的な擦弦楽器では、弓は張力を小指で調整していたため、張力をゆるめることで3または4つの弦に同時にふれさせることができた。現代のヴァイオリンはその構造上、弓で弾く場合は完全な和音は通常2音が限界である(ピッツィカート奏法を用いれば4和音も可能である)。3音、4音の和音を出すには、弓で最初低音の2弦をひき、素早く高音の弦に移す。ただし、やや指板寄りの箇所を弓で弾くことで3音同時に出すことも可能である。また、腕の重さを使って弓を弦に押さえつけるように弾けば、瞬間的ではあるが3音の重音を弾くことが可能である。",
"title": "奏法"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータでは4音同時の和音が多く要求され、しかもそれがポリフォニックに書かれているため、これを正確に現代楽器で表現できる、弓の木が極端に曲がったバッハ弓と呼ばれるものが存在する。ウジェーヌ・イザイの無伴奏ヴァイオリンソナタでは、5音や6音の和音が用いられている。これは一種のアルペジオである。",
"title": "奏法"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "弦を指板まで押さえ込まず、軽く左手の指で触れることにより、高く澄んだ音色が得られる。ハーモニクスと言う場合もある。",
"title": "奏法"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "弦を弓で弾かずに、指で弾(はじ)く奏法。楽譜には pizz.(ピッツ)と書かれる。 はじき方は決まっておらず、右手人差し指や中指を使うことがほとんどであるが、左手で行う奏法もある(左手でのピッツィカートは、音符の上に+と書かれる)。通常は、ヴァイオリン本体を顎に乗せ、弓を持ったまま指で弾く(他、楽章全てがpizzだけで構成されているときなど、弓を持つ必要の無い場合は弓を置いて行うこともある)が、ラヴェルのボレロなど、全てがpizzでは無いがpizzの指定が長いときは、ギターのように腰のあたりにヴァイオリン本体を抱えて弾く場合もある。",
"title": "奏法"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "弦を親指と人差し指でつまんで指板に叩きつけ、破裂音を出すバルトーク・ピッツィカートと呼ばれる奏法もある。バルトークによって発案されたとされるが、実際にはマーラーが交響曲第7番などですでに用いている。",
"title": "奏法"
},
{
"paragraph_id": 51,
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"text": "弓の木の部分で弦を弾く(叩く)奏法で、固く打楽器的な破裂音が鳴る。",
"title": "奏法"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番の3楽章などで使われている。",
"title": "奏法"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "sul ponticello(駒の上で)は、駒のごく近くの部分の弦を弓で演奏することにより、通常よりも高次倍音が多く含まれる音を出し、軋んだような感覚を得る奏法である。ごく近くを指定するときは、アルト・スル・ポンティチェロ(alto sul ponticello:高い駒の上で)と言う。代表的な例では、ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲集『四季』の「冬」第1楽章に用いられる。",
"title": "奏法"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "sul tasto(指板の上で)は、指板の上の部分の弦を弓で演奏することにより、通常よりも高次倍音を含まない音を出し、くぐもったような、あるいは柔らかく鈍いような感覚を得る奏法である。",
"title": "奏法"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "通常、低弦からG-D-A-Eの順で調弦されるが、楽器本来の調弦法とは違う音に調弦(チューニング)する奏法である。",
"title": "奏法"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "奏者としての方が有名な人物は除外。",
"title": "関連する著名人"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "日本国内の指導者としては、小野アンナ、鈴木鎮一(スズキ・メソードの創始者)、鷲見三郎、江藤俊哉など。",
"title": "関連する著名人"
}
] |
ヴァイオリンまたはバイオリンは、弦楽器の一種。ヴァイオリン属の高音楽器である。ヴァイオリン属に属する4つの楽器の中で最も小さく、最も高音域を出す楽器である。完全五度に調弦された弦を弓で擦って音を出す。基本的には4弦であるが、低音域に弦を足した5弦、6弦以上の楽器も存在する。擦弦楽器に属する。「Vn」「Vl」と略記されることもある。
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{{Redirect|ヴィオロン|東京都にある名曲喫茶|名曲喫茶ヴィオロン}}{{表記揺れ案内|表記1=ヴァイオリン|表記2=バイオリン|議論ページ=[[ノート:ヴァイオリン#記事名について|過去の議論]]}}
{{Infobox 楽器
|楽器名 = ヴァイオリン
|英語名 = violin
|ドイツ語名 = Violine, Geige
|フランス語名 = violon
|イタリア語名 = violino
|中国語名 = 小提琴、提琴
|画像 = 画像:Violin_VL100.jpg
|画像サイズ = 200px
|分類 =
*[[弦楽器]] - [[ヴァイオリン属]]
*[[楽器分類学#弦鳴楽器|弦鳴楽器]] - 複合弦鳴楽器 <br/>- [[リュート]] - 棹形柄リュート <br/>- 頸柄リュート - 箱胴式頸柄リュート
|音域 = [[ファイル:Range violin.png|150px|center]]
|関連楽器 = *[[ヴァイオリン属]]
** [[ヴィオラ]]
** [[チェロ]]
** [[コントラバス]]
|演奏者 =
|関連項目 = * [[ヴァイオリン協奏曲]]
* [[ヴァイオリンソナタ]]
|}}
'''ヴァイオリン'''または'''バイオリン'''は、[[弦楽器]]の一種。[[ヴァイオリン属]]の高音楽器である<ref>下中直也 編『音楽大事典』全6巻 平凡社 1981年</ref>。ヴァイオリン属に属する4つの楽器の中で最も小さく、最も高音域を出す楽器である。[[完全五度]]に調弦された[[弦 (楽器)|弦]]を[[弓 (楽器)|弓]]で擦って音を出す。基本的には4弦であるが、低音域に弦を足した5弦、6弦以上の楽器も存在する。[[擦弦楽器]]に属する。「Vn」「Vl」と略記されることもある。
== 構造 ==
[[ファイル:Violin Details.jpg|right|283px|thumb|'''ヴァイオリン本体の外観''' <br/>左端上:全体像。左端中と下:糸巻き部。<br/>中央左:胴部正面。黒い部分が指板。左下部に顎当てがある。<br/>中央右:胴部背面。下部の突起がエンドピン。<br/>右端:胴部側面。]]
[[ファイル:Violinschnitt.png|right|283px|thumb|'''胴部の断面'''(ドイツ語)<br/> Steg : 駒<br/> Decke : 表板<br/> Boden : 裏板<br/> Zargen : 側板<br/> Einlage : 象眼細工<br/> Reifchen : 内張り<br/> Bassbalken : 力木<br/> Stimmstock : 魂柱]]
=== 本体 ===
全長は約{{val|60|u=cm}}、胴部の長さはおよそ{{val|35|u=cm}}、重量は楽器にもよるが 300 - {{val|600|u=[[グラム|g]]}}ほどである。
==== 材料 ====
木材で作られ、表板には[[トウヒ属|スプルース]]、裏板・側板などには[[カエデ|メイプル]]が一般に用いられる<ref>「一冊まるごとヴァイオリン」p127 アルバート・チョンピン・チュワン著 田中良司訳 芸術現代社 2013年11月15日初版発行</ref>。表板・裏板とも、2枚の板を木目が揃うように接着して使用する<ref>「カラー図解 楽器の歴史」p110-111 佐伯茂樹 河出書房新社 2008年9月30日初版発行</ref>。指板には[[黒檀]]がよく使われる<ref>「一冊まるごとヴァイオリン」p139 アルバート・チョンピン・チュワン著 田中良司訳 芸術現代社 2013年11月15日初版発行</ref>。裏板・側板は通常[[木材#板取り|柾目]]材を用い、「[[杢]]」が出ている材を使用することも多い。
経年の歪みを防ぐため、予め長期間[[木材#方法|天然乾燥]]されるが、現在では乾燥釜をつかった強制乾燥によるKW材(Kiln Dry Wood)を使用する場合も多い。
==== 構造 ====
胴部は[[f字孔]]を開口部とする[[ヘルムホルツ共鳴器]]を構成しており<ref name="Ongakukougaku">H. F. オルソン(著)、平岡正徳(訳) 『音楽工学』 誠文堂新光社、1969年</ref>、断面は右図の通りである。
表板の裏面にある力木(ちからぎ、バスバー)は、表板を補強するとともに低音の響きを強め安定させる役割を果たす<ref>「一冊まるごとヴァイオリン」p125 アルバート・チョンピン・チュワン著 田中良司訳 芸術現代社 2013年11月15日初版発行</ref>。胴体内には、[[魂柱]](たまばしら、こんちゅう、サウンドポスト)と呼ばれる円柱が立てられており、[[駒 (弦楽器)|駒]]を通って表板に達した振動を裏板に伝える。
指板の先には弦の張力を調整する糸巻き([[ペグ]])がついている。先端の渦巻き(スクロール)は装飾であり、一般には音に影響しないとされているが、音響のためあえて対称性を崩して加工されている楽器も多いという<ref>{{Wayback|url=http://www.jiyugaoka-violin.com/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E8%A9%B1/6-%E3%80%80%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%B7%A6%E5%BE%8C%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%BE%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%E3%80%82 自由ヶ丘ヴァイオリン「6. スクロール 左後頭部 。」|date=20160628014030}}</ref>。スクロールは美観の観点から、裏板や側板と同一の素材が良いとされるため、メイプルが望ましいとされる<ref>「一冊まるごとヴァイオリン」p138 アルバート・チョンピン・チュワン著 田中良司訳 芸術現代社 2013年11月15日初版発行</ref>。
駒・魂柱・ペグ・[[エンドピン]]以外の部品は、[[ゼラチン|膠]]によって接着される。膠で接着された木材は蒸気を当てると剥離することができるので、ヴァイオリンは分解修理や部材の交換が可能である<ref>「カラー図解 楽器の歴史」p110 佐伯茂樹 河出書房新社 2008年9月30日初版発行</ref>。
==== 塗装 ====
塗装には[[ニス]]が用いられ、スピリット(アルコール)系とオイル系の二種類がある。一部の安価な楽器には[[ポリウレタン]]も用いられている。塗装の目的は湿気対策と音響特性の改善であるとされるが、ニスに音響特性を改善する効果は無いとする説もある<ref name="Onkyougaku">安藤由典 『新版 楽器の音響学』 音楽之友社、1996年 ISBN 4-276-12311-9</ref>。
=== 弦 ===
[[ファイル:violin001.png|300px|thumb|right|'''開放弦の音高''']]
{{val|4|u=本}}の弦は、エンドピンによって本体に固定された緒止め板(テールピース)から駒の上を通り、指板の先にあるナットと呼ばれる部分に引っ掛けてその先のペグに巻き取られる。正面から見て左が低音、右が高音の弦であり、隣り合う弦は右図のように全て[[完全五度]]の関係に調弦する。日本では、開放弦の音高の[[ドイツ]][[音名]]を用いて、E線・A線・D線・G線(えーせん、あーせん、でーせん、げーせん)と呼ぶことが多い。1番線(I)、2番線(II)、3番線(III)、4番線(IV)と番号で呼ぶ場合もあるが、この順番は世界共通である。
素材を問わず、弓を強く押し当てる演奏方法や強い[[スポットライト]]を浴びるステージ上などで演奏を行うと意図せずに切れてしまうことも多々ある(特に細く張力が強いE線)。
しかし、演奏の直前で新品の弦に換えることは[[エイジング]]の観点からも推奨されない<ref group="注釈">特に新品の弦は初期伸びにより簡単にチューニングが狂ってしまう</ref>ので、レッスンやリハーサルなどで弾き込んで音調の安定した弦を作り、新品の弦と合わせてスペアとしてケースに入れて持ち歩く演奏者もいる。
==== 材料 ====
古くは[[ガット]]弦([[ヒツジ|羊]]の[[腸]])を用いていたが、標準[[音高|ピッチ]]が上昇すると共に、より幅の広い[[強弱法|ダイナミクス]]が要求されるようになるにつれて、高い張力に耐え、[[質量]]の大きい弦が求められるようになった。現在では[[金属]]弦や[[合成繊維]]([[ナイロン]]弦)が多く用いられる<ref>「カラー図解 楽器の歴史」p71 佐伯茂樹 河出書房新社 2008年9月30日初版発行</ref>。それも、単純なナイロン(ポリアミド)芯にアルミ巻き線を施した弦から、合成樹脂繊維の最先端技術を取り入れた芯にアルミや銀を含む金属製の巻き線を施した弦が主流になりつつある。これらの最新式の弦は、音色的にはガット弦に近い一方で、ガット弦ほど温湿度に敏感でないという長所を持つ。
==== 調弦方法 ====
基本的にペグを回すことで[[調弦]]するが、E線はペグだけでは微調整が困難なので、アジャスターと呼ばれるテールピースに取り付けられた小さなネジを回すことによって調弦する。微調整の難しい分数楽器や初心者向けの楽器は、他の弦にもアジャスターを取り付ける場合もある。ペグボックスに張られたD線・A線の弦を押し込む、弦を引っ張ってねじるなどの微調整が行われることもある。
通常はまず[[チューニング・メーター]]や[[音叉]]などでA線を{{val|440|u=}}ないし{{val|442|u=}} ~ {{val|448|u=[[ヘルツ (単位)|Hz]]}}に調弦し、次いでA線とE線、A線とD線、D線とG線をそれぞれ同時に弾いて、完全五度の和音の特有の響きを聞いて調弦する。[[協奏曲]]演奏に際しては、独奏ヴァイオリンをオーケストラより僅かに高く調整して華やかな独奏ヴァイオリンを引き立たせることもある一方、[[バロック音楽]]を演奏する場合などは{{val|436|u=}} ~ {{val|438|u=Hz}}、{{val|415|u=Hz}}など低めのチューニングを行うこともある。特に指定がある場合、楽譜に「A=435」などと記載されるケースもある。
[[オーケストラ]]によっては、演奏開始前に[[オーボエ]]がAの音を出すか、2ndないし1stヴァイオリンの首席奏者となる[[コンサートマスター]]がA線を開放弦で弾き、その音調に合わせて弦楽器が改めてチューニングを行うことがある<ref group="注釈">当然各奏者はステージに上がる前にチューニングを済ませているので、実態としてはステージパフォーマンスの一つである。</ref>。コンサートマスターは(奏者の中では)最後にステージに上るので、舞台袖で入念にチューニングを行ってからステージへ向かう。
=== 弓 ===
[[ファイル:Violin bow parts.jpg|right|240px|thumb|'''弓の構造'''<br/>Hair : 弓毛<br/>Frog : 毛止箱、フロッグ<br/>Stick : 竿、弓身<br/>Screw : ねじ(弓毛の張りを調節する)]]
[[File:Rosins.JPG|240px|thumb|様々な松脂]]
直線状に削り出した木製の竿(スティック)を火に炙って適度なカーブを持たせ、[[ウマ|馬]]の尾の毛を張る。この弓毛に[[松脂]]を塗ってしばらく弾くと、弓毛と弦に粉末がなじんで適度な摩擦が生じ、音色が安定する。弓毛には演奏時のみ張力を与え、使用しない時は弛めておく。
スティックの材料は[[ブラジルボク]]の心材であるペルナンブコ(フェルナンブコ)が最良とされる<ref>杉山真樹、松永正弘、湊和也、則元京「バイオリンの弓に用いられるペルナンブコ材の物理的・力学的特性」木材学会誌、40(9)、905-910 (1994)。</ref>。しかしブラジルボクは乱獲のため急速に個体数が減っており絶滅が危惧されている。ブラジル内外で植林活動が始まっているものの、成長には{{val|200|u=年}}を要する。[[2007年]]6月に[[デン・ハーグ|ハーグ]]で開かれた[[絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約|ワシントン条約]]締約国会議において、ブラジルボクは同条約附属書IIに記載され、輸出入が困難になった<ref>[https://www.env.go.jp/press/8486.html 報道発表資料-ワシントン条約第14回締約国会議の結果概要について] 日本国環境省 平成19年6月18日 2016年8月28日閲覧</ref>。
[[20世紀]]半ばからは代替材料の開発が盛んになり、ペルナンブコと同じブラジル産の熱帯雨林材であるマサランデュバなどが用いられる他、[[カーボンファイバー]]、[[グラスファイバー]]などの人造繊維を用いた[[繊維強化プラスチック]] (FRP) の弓も作られている。中でもカーボン製の弓は弾力性、剛性、湿気への強さなどに優れ、ペルナンブコ製の弓よりも数値的性能が高いものもある<ref>[http://www.boku.ac.at/physik/coste35/downloads/vilareal/Wegst_et_al.pdf マックスプランク研究所の研究発表: Materials for Violin Bows] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140103170047/http://www.boku.ac.at/physik/coste35/downloads/vilareal/Wegst_et_al.pdf |date=2014年1月3日 }}</ref>。
=== 分数楽器 ===
ヴァイオリンは、奏者の体格に対して楽器が小さすぎると指板の運びが窮屈となり、また大きすぎると弓運びが困難となる。
通常の大きさ(4/4、フルサイズ)の他に、子供向けの小さなヴァイオリンも作られており、3/4、1/2、1/4、1/8、1/10、1/16、1/32 などが一般的である。これらを'''分数楽器'''と呼び、[[スズキ・メソード]]など弦楽器の早期教育で用いられ、分数楽器に合わせた弓や弦、駒も市販されている。
ヴァイオリンの重量から前屈みの演奏になってしまうため美しくないとされる(若干前屈となるのはヴィオラの奏法である)。男女とも体格の完成する中学生前後でフルサイズに移行する者が多いが、大人であっても体格や重量などから3/4を選択したり、フルサイズより僅かに小さい7/8といった希少寸法の分数楽器を用いるケースもあり、体格に見合ったヴァイオリン・弓を使うことが重要とされる。
分数楽器の数字は通常、大人用(4/4サイズ)に対する胴部の容積の比率を表していると説明される。しかし実際には、現在作られているヴァイオリンの殆どが、フルサイズ=胴体の長さ{{val|14|u=[[インチ]]}}、3/4=同{{val|13|u=インチ}}、1/2=同{{val|12|u=インチ}}といった等差的な寸法になっている。
特に1/8 以下の楽器はメーカーによってもかなり寸法が異なるため、体格に合わせた楽器選びが重要となる。
== 歴史 ==
=== ヴァイオリンの変遷 ===
==== 本体 ====
[[ファイル:Michelangelo Caravaggio 020.jpg|right|200px|thumb|'''「リュート奏者」'''<br/>[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]作(1595年頃)<br/>右下にヴァイオリンと思しき楽器が描かれている]]
ヴァイオリンの起源は、[[中東]]を中心に[[イスラム]]圏で広く使用された擦弦楽器である[[ラバーブ]]にあると考えられている。ラバーブは中世中期にヨーロッパに伝えられ、[[レベック]]と呼ばれるようになった。やがてレベックは立てて弾くタイプのものと抱えて弾くタイプのものに分かれ、立てて弾くタイプのものは[[ヴィオラ・ダ・ガンバ]]から[[ヴィオラ・ダ・ガンバ属]]に、抱えて弾くタイプのものはヴァイオリン属へと進化していった<ref>「一冊まるごとヴァイオリン」p21 アルバート・チョンピン・チュワン著 田中良司訳 芸術現代社 2013年11月15日初版発行</ref>。
世にヴァイオリンが登場したのは[[16世紀]]初頭と考えられている。現存する最古の楽器は16世紀後半のものだが、それ以前にも北[[イタリア]]をはじめ[[ヨーロッパ]]各地の絵画や文献にヴァイオリンが描写されている。[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の手稿にもヴァイオリンに似た楽器の設計図が見られる。現存楽器の最初期の制作者としては[[ブレシア]]の[[ガスパーロ・ディ・ベルトロッティ]](通称ガスパーロ・ダ・サロ)、[[クレモナ]]の[[アンドレア・アマティ]]、ガスパール・ティーフェンブルッカーが有名である。
[[17世紀]]から[[18世紀]]にかけて、イタリア北部のクレモナにおいて[[ニコロ・アマティ]]、[[ストラディバリ]]一族、[[グァルネリ]]一族など著名な制作者が続出した。特に卓越していたのが[[アントニオ・ストラディヴァリ]]と[[グァルネリ|バルトロメオ・ジュゼッペ・グァルネリ・デル・ジェス]]である。また、現在のオーストリアの[[インスブルック]]近郊のアブサムで活動したヤコブ・シュタイナーの作品も18世紀末までは最高級のヴァイオリンの一つとして取引された。<ref>中澤宗幸『ストラディバリウスの真実と嘘』世界文化社、2011年、103ページ</ref>
[[File:Stainer.jpg|right|200px|thumb|ヤコブ・シュタイナー作のヴァイオリン]]
後に演奏される曲の音域が増加するのに伴い指板が延長されるようになり、音量の増強に対応するためネックが後ろに反り、駒がより高くなった。本体内部も、弦の張力の増大に対応すべく、バスバーを長さ、高さとも大型のものに交換、ネック取り付け部も強化されている<ref>「一冊まるごとヴァイオリン」p41 アルバート・チョンピン・チュワン著 田中良司訳 芸術現代社 2013年11月15日初版発行</ref>。18世紀以前に作られた楽器も現状はそのように改造されているものが多い。古い様式のヴァイオリンは現在では「[[バロック・ヴァイオリン]]」といい、新しいヴァイオリンでもバロック仕様で作られたものはバロック・ヴァイオリンと呼ぶ。
これとは別に、特にイタリア製において、著名な制作者が作ったヴァイオリンを、制作時期によって「オールド([[1700年代]]後期まで)」「モダン([[1800年]]位から[[1950年]]位まで)」「コンテンポラリー(1950年位以降)」と分類して呼ぶこともある<ref>大木裕子,古賀広志、「[https://hdl.handle.net/10965/160 クレモナにおけるヴァイオリン製作の現状と課題]」『京都マネジメント・レビュー』 2006年 9巻 p.19-36, 京都産業大学マネジメント研究会</ref>。
近年になって、音響を電気信号に変える[[エレクトリック・アコースティック・ヴァイオリン]]や、弦の振動を直接電気信号に変える[[エレクトリック・ヴァイオリン]]も登場している。
==== 弓 ====
当初は半円形であったが、徐々に変化していき、18世紀末に現在のような逆反りの形状になった。このスタイルを確立したのは、18世紀[[フランス]]の{{仮リンク|フランソワ・トゥルテ|en|François_Tourte}}(トルテ、タートとも)であるといわれる。スティックの材料に初めてペルナンブコを使用したのもトゥルテであり、以後スティックの材料はペルナンブコをもって最上のものとするようになった<ref>「一冊まるごとヴァイオリン」p195 アルバート・チョンピン・チュワン著 田中良司訳 芸術現代社 2013年11月15日初版発行</ref>。トゥルテは[[宝石]]・[[時計]]職人でもあったことから、その加工技術を弓作りに応用し、螺鈿細工などの美しい装飾を施した。トゥルテや一時代下った{{仮リンク|ドミニク・ペカット|en|Dominique_Peccatte}}らの作品は、オールドフレンチボウとして今なお高い評価を受けている。
=== ヴァイオリン音楽の形成 ===
登場以来ヴァイオリンは、[[舞踏]]の伴奏など庶民には早くから親しまれていたが、芸術音楽においては[[リュート]]や[[ヴィオラ・ダ・ガンバ属|ヴィオラ・ダ・ガンバ]]に比べて華美な音質が敬遠され、当初はあまり使用されなかった。しかし、制作技術の発達や音楽の嗜好の変化によって次第に合奏に用いられるようになる。
17世紀には教会[[ソナタ]]や室内ソナタの演奏に使われた。ソナタは[[ビアージョ・マリーニ|マリーニ]]や[[トマソ・アントニオ・ヴィターリ|ヴィターリ]]等の手によって発展し、[[アルカンジェロ・コレッリ|コレッリ]]のソナタ集([[1700年]]、「[[フォリア|ラ・フォリア]]」もその一部)がその集大成となった。
[[ファイル:Vivaldi.jpg|right|200px|thumb|'''ヴィヴァルディとされる絵'''<br/>F. M. La Cave作(1723年)]]
少し遅れて、コレッリ等によって優れた[[合奏協奏曲]]が生み出されたが、[[ジュゼッペ・トレッリ|トレッリ]]の合奏協奏曲集([[1709年]])で独奏協奏曲の方向性が示され、[[アントニオ・ヴィヴァルディ|ヴィヴァルディ]]による「[[調和の霊感]]」([[1712年]])等の作品群で一形式を作り上げた。ヴィヴァルディの手法は[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]、[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]、[[ゲオルク・フィリップ・テレマン|テレマン]]等にも影響を与えた。一方で協奏曲が持つ演奏家兼作曲家による名人芸の追求としての性格は[[ピエトロ・ロカテッリ|ロカテッリ]]、[[ジュゼッペ・タルティーニ|タルティーニ]]、[[ガエターノ・プニャーニ|プニャーニ]]等によって受け継がれ、技巧色を強めていった。また、[[ジャン=マリー・ルクレール|ルクレール]]はこれらの流れとフランス宮廷音楽を融合させ、フランス音楽の基礎を築いた。
18世紀後半には[[マンハイム楽派]]が多くの合奏曲を生み出す中でヴァイオリンを中心とした[[オーケストラ]]作りを行った。そして[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]等のウィーン古典派によって、[[室内楽]]・[[管弦楽]]におけるヴァイオリンの位置は決定的なものとなった。また、トゥルテによる弓の改良は、より多彩な表現を可能にし、[[ヴィオッティ]]とその弟子[[ロドルフ・クロイツェル|クロイツェル]]、[[ピエール・バイヨ|バイヨ]]、[[ピエール・ロード|ロード]]によって近代奏法が確立されていった。
19世紀になると、現在でも技巧的な面では非常に難しいとされる[[ニコロ・パガニーニ|パガニーニ]]による作品の登場によって、名人芸的技巧([[ヴィルトゥオーソ]])がヴァイオリン曲の中心的要素とされ、高度な演奏技術を見せつける曲が多く作られた<ref name="Leopold">Auer, Leopold., ''Violin Playing As I Teach It'', Dover Pubns;New edition, 1980, ISBN 0-486-23917-9</ref>。
19世紀中頃からは、演奏家と作曲家の分離の傾向が強く見られるようになった。当時の名演奏家に曲が捧げられたり、あるいは協力して作曲したりすることが多く、例えば[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]は[[ダーフィト]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]は[[ヨーゼフ・ヨアヒム|ヨアヒム]]といった演奏家の助言を得て協奏曲を作っている。また、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]や[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]、[[グリーグ]]等によって民族的要素と技巧的要素の結合が図られ、[[ジャン・シベリウス|シベリウス]]、[[アラム・ハチャトゥリアン|ハチャトゥリアン]]、[[カバレフスキー]]等に引き継がれている。
ヴァイオリンは各地の[[民族音楽]]にも使われており、特に[[東ヨーロッパ]]、[[アイルランド]]、[[アメリカ合衆国]]のものが有名である。詳しくは[[フィドル]]の項を参照。
=== 日本におけるヴァイオリン ===
[[ファイル:『欧州管絃楽合奏之図』-Concert of European Music (Ōshū kangengaku gassō no zu) MET DP147678.jpg|サムネイル|明治時代のバイオリン演奏。[[楊洲周延]]「欧州管絃楽合奏之図」(1889年)]]
[[ルイス・フロイス|フロイス]]の『[[フロイス日本史|日本史]]』によると、16世紀中頃にはすでに[[ヴィオラ・ダ・ブラッチョ]]が日本に伝わっていた。当時[[ポルトガル]]人の[[修道士]]が[[ミサ]]での演奏用として日本の子供に教えたことが記されている。
[[明治]]になると、ドイツ系を主とした外国人教師によって奏者が養成され、ヴァイオリンは少しずつ広まっていった。1887年には鈴木政吉によって日本で最初のヴァイオリン製造会社([[鈴木バイオリン製造]])が創業され、[[1900年]](明治33年)には大量生産されるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.suzukiviolin.co.jp/about/factory/|title=年表 鈴木バイオリンについて|publisher=鈴木バイオリン製造株式会社|accessdate=2022-03-20}}</ref>。また、[[大正]]時代には[[エフレム・ジンバリスト|ジンバリスト]]、[[ヤッシャ・ハイフェッツ|ハイフェッツ]]、[[フリッツ・クライスラー|クライスラー]]、[[ミッシャ・エルマン|エルマン]]といった名演奏家が続々来日し、大きな影響を与えている。1945年[[広島市への原子爆弾投下]]によって[[被爆]]したヴァイオリンが一つ現存している([[セルゲイ・パルチコフ]]を参照)。
[[第二次世界大戦|戦]]後になると各種の教則本が普及し、幼児教育も盛んになって、技術水準が飛躍的に上がっていった。現在では世界で活躍する日本人奏者も多い。
== 奏法 ==
ヴァイオリンの取り扱いや演奏方法は本項に限定されるものではないが、一般的にクラシック音楽で運用される方法を説明する。
=== 基本姿勢 ===
[[ファイル:Auditorio1.jpg|right|220px|thumb|'''ヴァイオリンの演奏姿勢'''(左端)]]
左肩(鎖骨の上)にヴァイオリンを乗せ、顎当てに顎を乗せて押し付け過ぎないように挟み込み、ヴァイオリンを高く持ち上げるように構える。左手でネックを持つが、演奏中に左手で楽器を支えると[[指]]や[[手首]]の動きが阻害されるので、左手は添える程度にする。
体を少し左に傾け、左腕を胸側に少し近づけるが、上腕を胸に密着させてはいけない。そして両腕の距離を詰める(ように意識する)。目線は指板と平行になるようにする。左手の指で弦を押さえ、右手で弓を操作する。弓の操作を[[ボウイング]](bowing)と呼び、一見単純な動作だが音色を大きく左右し、熟練を要する。<ref name="Leopold"/><ref>Menuhin, Yehudi., Six Lessons With Yehudi Menuhin, W W Norton & Co Inc., 1981, ISBN 0-393-00080-X</ref><ref>Fischer, Carl., ''Art of Violin Playing'', Carl Fischer Music Dist, 1924, ISBN 0-8258-0135-4</ref>
=== ポジショニング ===
[[ファイル:Violin_first_position_fingering_chart.png|thumb|right|160px|'''第一ポジションの音'''<br/>青線は左手親指の大略の位置を表し、上から第一ポジション、第二ポジション、第三ポジション。]]
ヴァイオリンには[[ギター]]のような[[フレット]]が無いので、開放弦以外では演奏者が正確な音程になるように押さえる必要がある。左手の人差し指、中指、薬指、小指で弦を押さえるが、このとき左手親指の位置が音程を定める基準となる。
各弦は、指で押さえない状態([[開放弦]])から人差し指、中指、薬指、小指の順で押さえると一音(二度)ずつ高い音になり、小指で押さえた状態が右となりの弦と同じ音になる。この状態が第一ポジション(first position)である。例えばD線では、何も押さえない開放弦のままではD(レ)、人差し指を押さえるとE(ミ)、中指でF(ファ)、薬指でG(ソ)、小指でA(ラ)となり、右となりのA線と同じ高さになる。楽譜などでは人差し指から順に、それぞれの指を1、2、3、4と表記する。
第一ポジションから左手を少し手前に動かし、開放弦より二音高い音(第一ポジションより一音高い音)が出る位置を人差し指で押さえるのが第二ポジション(second position)、三音高い音が出る位置を人差し指で押さえるのが第三ポジション(third position)である。第一ポジションより半音低い位置を押さえる半ポジション(half position)もある。
高ポジションを利用するのは基本的には第一ポジションではとることのできない高い音程を出すためであるが、音色を変化させるためにあえて用いるときもある。E線の華やかな音を避けたり(A線を用いる)、G線の高ポジションにおける独特の美しさを出す場合である。しかし、高ポジションではわずかな位置の狂いで音が大きく外れてしまい、低ポジションよりも影響が大きいので、弾きこなすには熟練を必要とする。
=== ビブラート ===
[[肘]]、手首、指のいずれかを動かすことによって弦を押さえている指を前後させ、音を上下に素早く振動させて深みを与える。左腕を動かすことによってその動きを指先に伝える方法、左手の手首から先を揺らす方法、指のみを揺らす、などの方法がある。
[[オーケストラ]]においてビブラートを常時かける現在の習慣は20世紀中頃に世界に広まったもので、それ以前はビブラートは[[装飾音]]、あるいは[[ソロ (音楽)|ソリスト]]のものであると認識されていた。[[バロック音楽]]などを演奏する古楽オーケストラはもちろんのこと、[[ロジャー・ノリントン]]や[[ニコラウス・アーノンクール]]といった[[古楽]]系の[[指揮者]]が現代オーケストラを指揮する場合には、基本的にノン・ビブラートによる演奏を要求することが多い。
=== 重音(奏法) ===
歴史的な[[擦弦楽器]]では、弓は張力を小指で調整していたため、張力をゆるめることで3または4つの弦に同時にふれさせることができた。現代のヴァイオリンはその構造上、弓で弾く場合は完全な[[和音]]は通常2音が限界である([[ピッツィカート]]奏法を用いれば4和音も可能である)。3音、4音の和音を出すには、弓で最初低音の2弦をひき、素早く高音の弦に移す。ただし、やや指板寄りの箇所を弓で弾くことで3音同時に出すことも可能である。また、腕の重さを使って弓を弦に押さえつけるように弾けば、瞬間的ではあるが3音の重音を弾くことが可能である。
[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の[[無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ]]では4音同時の和音が多く要求され、しかもそれが[[ポリフォニー|ポリフォニック]]に書かれているため、これを正確に現代楽器で表現できる、弓の木が極端に曲がった[[バッハ弓]]と呼ばれるものが存在する。[[ウジェーヌ・イザイ]]の[[無伴奏ヴァイオリンソナタ]]では、5音や6音の和音が用いられている。これは一種の[[アルペジオ]]である。
=== フラジオレット ===
弦を指板まで押さえ込まず、軽く左手の指で触れることにより、高く澄んだ音色が得られる。ハーモニクスと言う場合もある。
{{Main
|[[フラジオレット#ヴァイオリン属楽器でのフラジオレット|フラジオレット]]
}}
=== ピッツィカート ===
弦を弓で弾かずに、指で弾(はじ)く奏法。楽譜には pizz.(ピッツ)と書かれる。
はじき方は決まっておらず、右手人差し指や中指を使うことがほとんどであるが、左手で行う奏法もある(左手でのピッツィカートは、音符の上に+と書かれる)。通常は、ヴァイオリン本体を顎に乗せ、弓を持ったまま指で弾く(他、楽章全てがpizzだけで構成されているときなど、弓を持つ必要の無い場合は弓を置いて行うこともある)が、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]の[[ボレロ (ラヴェル)|ボレロ]]など、全てがpizzでは無いがpizzの指定が長いときは、ギターのように腰のあたりにヴァイオリン本体を抱えて弾く場合もある。
{{Main|ピッツィカート}}
弦を親指と人差し指でつまんで指板に叩きつけ、破裂音を出す'''バルトーク・ピッツィカート'''と呼ばれる奏法もある。[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]によって発案されたとされるが、実際には[[グスタフ・マーラー|マーラー]]が[[交響曲第7番 (マーラー)|交響曲第7番]]などですでに用いている。
=== コル・レーニョ ===
弓の木の部分で弦を弾く(叩く)奏法で、固く打楽器的な破裂音が鳴る。
[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]の[[ヴァイオリン協奏曲第5番 (モーツァルト)|ヴァイオリン協奏曲第5番]]の3楽章などで使われている。
{{Main|コル・レーニョ}}
=== スル・ポンティチェロ ===
sul ponticello(駒の上で)は、駒のごく近くの部分の弦を弓で演奏することにより、通常よりも高次[[倍音]]が多く含まれる音を出し、軋んだような感覚を得る奏法である。ごく近くを指定するときは、アルト・スル・ポンティチェロ(alto sul ponticello:高い駒の上で)と言う。代表的な例では、[[アントニオ・ヴィヴァルディ|ヴィヴァルディ]]のヴァイオリン協奏曲集『[[四季 (ヴィヴァルディ)|四季]]』の「冬」第1楽章に用いられる。
=== スル・タスト ===
sul tasto(指板の上で)は、指板の上の部分の弦を弓で演奏することにより、通常よりも高次倍音を含まない音を出し、くぐもったような、あるいは柔らかく鈍いような感覚を得る奏法である。
=== スコルダトゥーラ ===
通常、低弦からG-D-A-Eの順で調弦されるが、楽器本来の調弦法とは違う音に[[調律|調弦]](チューニング)する奏法である。
{{Main|スコルダトゥーラ}}
== 関連する著名人 ==
=== 制作者 ===
{{See also|[[ヴァイオリン製作家]]}}
==== 海外 ====
; [[アンドレア・アマティ]] (1505頃-1577)
: 史上最初にヴァイオリンを作った制作家のうちの一人とされる。ジョバンニ・レオナルド・ダ・マルティネンゴの弟子。
; [[ガスパーロ・ディ・ベルトロッティ]] (1540-1609)
: サロ湖畔に住んでいたので、ガスパロ・ダ・サロと呼ばれる。ビオラが特に有名。
; {{仮リンク|ジョバンニ・パオロ・マッジーニ|en|Giovanni_Paolo_Maggini}} (1581頃-1632頃)
: ブレシアの制作者。ガスパロ・ダ・サロの弟子。
; [[ニコロ・アマティ]] (1596-1684)
: アンドレア・アマティの孫でジェローラモ・I・アマティの子供。アントニオ・ストラディバリを始めとする多くの弟子を育て、クレモナがバイオリンの一大生産地となる基礎を築き上げた。
; {{仮リンク|ヤコプ・シュタイナー|en|Jacob Stainer}} (1617頃生)
: ドイツの楽器制作家。[[古典派音楽|古典派]]の時代においてはストラディバリよりも作品の評価が高かった。
; [[アントニオ・ストラディバリ|アントニオ・ストラディヴァリ]] (1644-1737)
: イタリアンオールドヴァイオリンの最高峰。クレモナに大工房を構え、数多くの名工を育てた。
; [[グァルネリ|バルトロメオ・ジュゼッペ・ガルネリ(通称デルジェス)]] (1698-1744)
: ストラディバリと並ぶ天才的制作家であるが、制作数は約200本と少ない。
; [[フランチェスコ・ルジェッリ]](1626-1698)
; {{仮リンク|フランソワ・トゥルテ|en|François_Tourte}} (1748-1835)
: オールドフレンチボウの最高峰。[[ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ|ヴィオッティ]]の助言を受け、ほぼ現在のものと同じ標準的な弓の形状を確立するとともに、材料にペルナンブコを採用して、細身で優雅な名弓の数々を製作した。
; [[ジャン=バティスト・ヴィヨーム]] (1798-1875)
: [[フランス]]の楽器制作家。万国博覧会で作品が3度の金賞を受賞するなど、同時代のヴァイオリン製作の中心的人物だった。
; {{仮リンク|ドミニク・ペカット|en|Dominique_Peccatte}} (1810-1874)
: トゥルテと並び称されるオールドフレンチボウの巨匠。
==== 日本 ====
* [[鈴木政吉]] (1859-1944) - 日本で最初のバイオリン工場、[[鈴木バイオリン製造]]の創業者。
* [[鈴木鎮一]] (1898-1998) - [[スズキ・メソード]]の創設者。
* [[無量塔藏六|無量塔(むらた)藏六]] (1927-2020) - 東京ヴァイオリン製作学校の設立者。
* [[陳昌鉉]] (1929-2012)
=== 指導者・研究者 ===
奏者としての方が有名な人物は除外。
* [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ]]
* [[ルイ・シュポーア]]
* [[レオポルト・アウアー]] - ハイフェッツ、ヂムバリスト、エルマン、ブラウン等名人と呼ばれる演奏家を多数育て上げた。自身のレコード録音はSP盤片面2枚で、このレコードは発売はされず、「私の可愛い子供達へ」と記されたレーベルが貼付された物で、自分の生徒に配分したのみであった。後にLPやCDで復刻。
* [[オタカル・シェフチーク]] (1852-1934) - セヴシックとも。テクニック向上に大きく貢献。
* [[ヤロスラフ・コチアン]]‐シェフチークの弟子で、演奏会を日本でも行ったが、師を支える教師となった。その為に録音されて遺った演奏の音源は少なく4曲のみであり、レコード(COLUMBIA PHONOGRAM)は3枚(SP盤片面)のみと映画で1曲演奏している(ので映像も遺った)分しか無く惜しまれている。
* [[カール・フレッシュ]] (1873-1944) - 20世紀の演奏・指導法に多大な影響を与えた。
* ルイス・パーシンガー - [[ユーディ・メニューイン|メニューイン]]、[[アイザック・スターン|スターン]]、ガラミアンなどを指導。
* [[イヴァン・ガラミアン]] - [[イラン]]出身。アメリカで多くの奏者を育てる。
* [[ザハール・ブロン]] - [[カザフスタン]]出身。[[ヴァディム・レーピン|レーピン]]、[[マキシム・ヴェンゲーロフ|ヴァンゲーロフ]]、[[樫本大進]]、[[庄司紗矢香]]、[[川久保賜紀]]、[[神尾真由子]]、[[木嶋真優]]など多くの奏者を育てる。
* [[ドロシー・ディレイ]] - [[米国]]出身。[[イツァーク・パールマン|パールマン]]、[[アン・アキコ・マイヤース]]、[[竹澤恭子]]、[[ギル・シャハム]]、[[五嶋みどり]]、[[諏訪内晶子]]、[[川久保賜紀]]、[[サラ・チャン]]など多くの奏者を育てる。
* [[糸川英夫]] - 工学博士。ヴァイオリンの名器の構造を数値的に解明しようと試みた。
日本国内の指導者としては、[[小野アンナ]]、[[鈴木鎮一]]([[スズキ・メソード]]の創始者)、[[鷲見三郎]]、[[江藤俊哉]]など。
=== 奏者 ===
{{See|ヴァイオリニスト#著名なヴァイオリニスト|クラシック音楽の演奏家一覧#ヴァイオリン奏者}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 『楽器の事典 ヴァイオリン』東京音楽社、1993年、ISBN 4-88564-252-3
* 『楽器の事典 弓』東京音楽社、1992年、ISBN 4-88564-215-9
* 石井宏『誰がヴァイオリンを殺したか』新潮社、2002年、ISBN 4-10-390302-3
* ハーバート・ホーン『ヴァイオリン演奏のコツ』山本裕樹/訳、音楽之友社、2001年、ISBN 4-276-14454-X
* ヨーゼフ・シゲティ『ヨーゼフ・シゲティ ヴァイオリン練習ノート;練習と演奏のための解説付200の引用譜』山口秀雄/訳、音楽之友社、2004年、ISBN 4-276-14461-2
* Galamian, Ivan., ''Principles of Violin Playing and Teaching'', Shar Products Co., 1999, ISBN 0-9621416-3-1
* Ossman, Bruce., ''Violin Making; A Guide for the Amateur'', Fox Chapel Pub;illustrated edition, 1998, ISBN 1-56523-091-4
* Heron, Allen E., ''Violin-Making; A Histolical and Practical Guide'', Dover Pubnsm, 2005, ISBN 0-486-44356-6
* Ingles, Tim., Dilworth, John., ''Four Centuries of Violin Making; Fine Instruments from the Sotherby's Archive'', Cozio Publishing, 2006, ISBN 0-9764431-1-2
== 関連項目 ==
* [[ヴァイオリン属]]
* [[ヴァイオリン・オクテット]]
* [[フィドル]]
* [[バッハ弓]]
* [[中世フィドル]]
* [[ヴィオラ・ダ・ブラッチョ]]
* [[バロック・ヴァイオリン]]
* [[ヴィオラ・ダ・ガンバ属]]
* [[エレクトリック・アコースティック・ヴァイオリン]]
* [[エレクトリック・ヴァイオリン]]
* [[ヴィオラフォン]]
* [[弱音器]]
* [[クレモナ]]
* [[バイオリンムシ]]
*: [[オサムシ科]]の[[甲虫]]。バイオリン(ヴァイオリン)や[[うちわ|団扇(うちわ)]]を[[連想]]させる体形が特徴的で、「バイオリンムシ」および「ウチワムシ」という[[和名]]はそこから来ている。[[英語]]名の場合も、ヴァイオリン、[[フィドル]]、[[ギター]]が連想されたと見えて、これらの語を冠した名称で呼ばれている。
== 外部リンク ==
{{Commons|Violin}}
* [https://www.yamaha.com/ja/musical_instrument_guide/violin/ YAMAHA楽器解体全書]
* {{Kotobank|バイオリン}}
* {{CRD|2000026935|ヴァイオリンについて調べる|桐朋学園大学附属図書館}}
{{オーケストラの楽器}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:うあいおりん}}
[[Category:弦楽器]]
[[Category:ヴァイオリン|*]]
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2023-11-10T04:10:23Z
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13,339 |
アシャ・ワヒシュタ
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アシャ・ワヒシュタ (Aša Vahišta) は、ゾロアスター教において崇拝される善神アムシャ・スプンタの一柱。その名はアヴェスター語で「最善なる天則」を意味する。
パフラヴィー語ではアルドワヒシュト (Ardvahišt)、現代ペルシア語ではオルディーベヘシュト (Ordîbehešt) と呼ばれる。
正義・真実の神格化であり、したがって悪神ドゥルジ(偽り)の敵対者である。 ザラスシュトラ自身の直説であるガーサーなど、アヴェスターの初期の神学では、善なる者をアシャワン (ašavan 『義者』)、悪しき者をドルグワント (drəgvant 『不義者』) と呼ぶ。 アシャワン・ドルグワントは人間の宗教的な有り様を端的に表す概念として極めて重視され、アシャワンは死後必ず天国に赴くとされた。
後の神学では、敵対者であるドゥルジが不浄と関連づけられるようになったのに対応して、清潔を司るとされるようになった。
更に後世の中世以降の神学では火の守護神とされ、ついにはアシャは聖火そのものと同一視された。また、この時代にはドゥルジ・ナスが不浄の女悪魔たちとされるようになった為、インドラが彼の敵対者とされた。
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アシャ・ワヒシュタ は、ゾロアスター教において崇拝される善神アムシャ・スプンタの一柱。その名はアヴェスター語で「最善なる天則」を意味する。 パフラヴィー語ではアルドワヒシュト (Ardvahišt)、現代ペルシア語ではオルディーベヘシュト (Ordîbehešt) と呼ばれる。 正義・真実の神格化であり、したがって悪神ドゥルジ(偽り)の敵対者である。
ザラスシュトラ自身の直説であるガーサーなど、アヴェスターの初期の神学では、善なる者をアシャワン、悪しき者をドルグワント と呼ぶ。
アシャワン・ドルグワントは人間の宗教的な有り様を端的に表す概念として極めて重視され、アシャワンは死後必ず天国に赴くとされた。 後の神学では、敵対者であるドゥルジが不浄と関連づけられるようになったのに対応して、清潔を司るとされるようになった。 更に後世の中世以降の神学では火の守護神とされ、ついにはアシャは聖火そのものと同一視された。また、この時代にはドゥルジ・ナスが不浄の女悪魔たちとされるようになった為、インドラが彼の敵対者とされた。
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'''アシャ・ワヒシュタ''' ('''Aša Vahišta''') は、[[ゾロアスター教]]において崇拝される[[神|善神]][[アムシャ・スプンタ]]の一柱。その名は[[アヴェスター語]]で「最善なる天則」を意味する。
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正義・真実の神格化であり、したがって悪神[[ドゥルジ]](偽り)の敵対者である。
[[ザラスシュトラ]]自身の直説であるガーサーなど、[[アヴェスター]]の初期の神学では、善なる者をアシャワン (ašavan 『義者』)、悪しき者をドルグワント (drəgvant 『不義者』) と呼ぶ。
アシャワン・ドルグワントは人間の宗教的な有り様を端的に表す概念として極めて重視され、アシャワンは死後必ず天国に赴くとされた。
後の神学では、敵対者であるドゥルジが不浄と関連づけられるようになったのに対応して、清潔を司るとされるようになった。
更に後世の中世以降の神学では火の守護神とされ、ついにはアシャは聖火そのものと同一視された。また、この時代にはドゥルジ・ナスが不浄の[[女悪魔]]たちとされるようになった為、[[インドラ]]が彼の敵対者とされた。
== 脚注 ==
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ニコロ・パガニーニ
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ニコロ・パガニーニ(Niccolò(あるいはNicolò) Paganini, 1782年10月27日 - 1840年5月27日)はイタリアのヴァイオリニスト、作曲家である。特にヴァイオリンの名手としてヨーロッパ中で名声を獲得した。
パガニーニがヴァイオリンを弾き始めたのは5歳の頃からで13歳になると学ぶべきものがなくなったといわれ、その頃から自作の練習曲で練習していた。それら練習曲はヴァイオリン演奏の新技法、特殊技法を駆使したものと言われる。父親に習ったこと、A.コッラに半年間だけ習ったこと以外はその驚異的なテクニックを独学で身に付けた。なお、父親による指導は少しでも情熱が足りないと思われると食事も貰えないという過酷なものだった。
そのヴァイオリン演奏のあまりの上手さに、「パガニーニの演奏技術は、悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ」と噂されたという。そのため彼の出演する演奏会の聴衆には、本気で十字を切る者や、本当にパガニーニの足が地に着いているか確かめるため彼の足元ばかり見る者もいたという。
少年時代から病弱であったが、1820年に入ると慢性の咳など体調不良を訴え、『毒素を抜くため』に下剤を飲み始める。1823年には梅毒と診断されて水銀療法とアヘンの投与が開始された。さらに1828年頃には結核と診断され、甘汞を飲み始め、さらに下剤を飲み続けた。その後、水銀中毒が進行して次第にヴァイオリンを弾くことができなくなり、1834年頃についに引退する。そして1840年に水銀中毒による上気管支炎、ネフローゼ症候群、慢性腎不全によりニースで死去。
一般に死因は喉頭結核もしくは喉頭癌といわれているが、主治医の診断から結核ではなかったことがはっきりとしており、記録に残る症状(歯肉炎、振戦、視野狭窄など)から、水銀中毒だったことは明らかである。
前述の噂が原因で埋葬を拒否され、遺体は防腐処理を施されて各地を転々とし、改葬を繰り返した末に1876年にパルマの共同墓地にようやく安置された。
フランツ・シューベルトはパガニーニがウィーンに来た際に、家財道具を売り払ってまで高いチケットを買って(友人の分まで奢って)パガニーニの演奏を聴き(ちなみに、この時にシューベルトが聴いたといわれているのが「鐘のロンド」を持つ『ヴァイオリン協奏曲第2番』である)、「天使の声を聞いた」と感激した。金銭に関して執着しないシューベルトらしい逸話である。この台詞は正確には「アダージョでは天使の声が聞こえたよ」と言ったものである。派手な超絶技巧よりもイタリアオペラに近い音色の美しさをとらえるシューベルトの鋭い感性も覗える。
またフランツ・リストは、初恋に破れ沈んでいた20歳の時にパガニーニの演奏を聞いて、「僕はピアノのパガニーニになる!」と奮起し、超絶技巧を磨いたという逸話もある(リストは『ヴァイオリン協奏曲第4番』を聴いたといわれている)。
パガニーニは作曲家としても活躍し、数多くのヴァイオリン曲を残したが、極めて速いパッセージのダブルストップや左手のピチカート、フラジョレット奏法などどれも高度な技術を必要とする難曲として知られている。パガニーニ自身は技術が他人に知られるのを好まなかったため、生前はほとんど自作を出版せず自分で楽譜の管理をしていた。
その徹底ぶりは凄まじいもので、自らの演奏会の伴奏を担当するオーケストラにすらパート譜を配るのは演奏会の数日前(時には数時間前)で、演奏会までの数日間練習させて本番で伴奏を弾かせた後、配ったパート譜はすべて回収したというほどである。しかも、オーケストラの練習ではパガニーニ自身はソロを弾かなかったため、楽団員ですら本番に初めてパガニーニ本人の弾くソロ・パートを聞くことができたという。その背景として、パガニーニ自身が無類の“ケチ”だったと言う事の他に、この時代は、著作権などがまだ十分に確立しておらず、出版している作品ですら当たり前のように盗作が横行していた為、執拗に作品管理に執着するようになったとする説もある。
このようにパガニーニ自身が楽譜を一切外に公開しなかったことに加えて、死の直前に楽譜をほとんど焼却処分してしまった上、彼の死後に残っていた楽譜も遺族がほぼ売却したため楽譜が散逸してしまい、大部分の作品は廃絶してしまった。現在では、無伴奏のための『24の奇想曲』や6曲のヴァイオリン協奏曲(元々は全部で12曲あったといわれ、第3番から第6番が見つかったのは20世紀に入ってからである)などが残されている。現存している譜面は、彼の演奏を聴いた作曲家らが譜面に書き起こしたものがほとんどだと言われている。また、同じ理由から弟子をカミッロ・シヴォリ一人しかとらず、そのシヴォリにも自分の持つ技術を十分には伝えなかったため、演奏の流派としてはパガニーニ一代で途絶えることとなってしまった。
パガニーニは、1800年から1805年にかけて表立った活動をやめ、ギターの作品を数多く作曲している。これは、フィレンツェの女性ギター奏者を愛人としていたためといわれている。
20世紀前半の巨匠と呼ばれるヴァイオリニストでは、
などがラ・カンパネッラなどの作品を録音している。また、ウィリアム・プリムローズがヴィオラ奏者としてパガニーニ作品の録音を残している。
20世紀に「ヴァイオリニストの王」と称されたヤッシャ・ハイフェッツは、パガニーニの作品を全く演奏、録音しようとしなかった。その理由については諸説あるが、ハイフェッツ自身が明確な理由を公にしなかったので、現在もその真意は不明なままである。例外として、師であるレオポルト・アウアーによって演奏会用に編曲された『24の奇想曲』の第13番、第20番、第24番と、若い頃に録音した『無窮動』の音源が現存している。
現在では『24の奇想曲』や『ヴァイオリン協奏曲第1番』、『ヴァイオリン協奏曲第2番』の「ラ・カンパネッラ」は、数多くのヴァイオリニストが録音をしている。なお、サルヴァトーレ・アッカルドが、ヴァイオリン協奏曲の第1番から第6番を始め、譜面が現存するヴァイオリンのための作品のほぼ全てを録音している。
パガニーニの演奏、楽曲はリストやシューマンなど当時の作曲家に多大な影響を与え、以後様々な作曲家がその主題によるパラフレーズや変奏曲を書いた。特に『24の奇想曲』の第24番や『ヴァイオリン協奏曲第2番』の第3楽章「鐘のロンド(ラ・カンパネッラ)」は繰り返し用いられた。パガニーニの主題を用いた他の作曲家の作品を以下に示す。
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ニコロ・パガニーニはイタリアのヴァイオリニスト、作曲家である。特にヴァイオリンの名手としてヨーロッパ中で名声を獲得した。
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{{Redirect|パガニーニ|[[フランツ・レハール]]のオペレッタ|パガニーニ (オペレッタ)}}{{Infobox Musician
| Name = ニコロ・パガニーニ<br/>Niccolò Paganini
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{{Portal クラシック音楽}}
'''ニコロ・パガニーニ'''(Niccolò(あるいはNicolò) Paganini, [[1782年]][[10月27日]] - [[1840年]][[5月27日]])は[[イタリア]]の[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]]である。特にヴァイオリンの名手としてヨーロッパ中で名声を獲得した。
== 略歴 ==
パガニーニが[[ヴァイオリン]]を弾き始めたのは5歳の頃からで13歳になると学ぶべきものがなくなったといわれ、その頃から自作の練習曲で練習していた。それら練習曲はヴァイオリン演奏の新技法、特殊技法を駆使したものと言われる。父親に習ったこと、A.コッラに半年間だけ習ったこと以外はその驚異的なテクニックを独学で身に付けた。なお、父親による指導は少しでも情熱が足りないと思われると食事も貰えないという過酷なものだった。
そのヴァイオリン演奏のあまりの上手さに、「パガニーニの演奏技術は、[[悪魔]]に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ」と噂されたという。そのため彼の出演する演奏会の聴衆には、本気で[[十字の描き方|十字を切る]]者や、本当にパガニーニの足が地に着いているか確かめるため彼の足元ばかり見る者もいたという。
少年時代から病弱であったが、[[1820年]]に入ると慢性の咳など体調不良を訴え、『毒素を抜くため』に[[下剤]]を飲み始める。[[1823年]]には[[梅毒]]と診断されて水銀療法と[[アヘン]]の投与が開始された。さらに[[1828年]]頃には[[結核]]と診断され、[[塩化水銀(I)|甘汞]]を飲み始め、さらに下剤を飲み続けた。その後、[[水銀中毒]]が進行して次第にヴァイオリンを弾くことができなくなり、[[1834年]]頃についに引退する。そして[[1840年]]に水銀中毒による[[気管支炎|上気管支炎]]、[[ネフローゼ症候群]]、[[慢性腎不全]]により[[ニース]]で死去。
一般に死因は[[結核|喉頭結核]]もしくは[[喉頭癌]]といわれているが、[[主治医]]の診断から結核ではなかったことがはっきりとしており、記録に残る症状([[歯肉炎]]、[[振戦]]、視野狭窄など)から、水銀中毒だったことは明らかである<ref>『音楽と病 病歴に見る大作曲家の姿』、ジョン・オシエー著、法政大学出版局、ISBN 4-588-02178-8</ref>。
前述の噂が原因で埋葬を拒否され、遺体は防腐処理を施されて各地を転々とし、改葬を繰り返した末に[[1876年]]に[[パルマ]]の共同墓地にようやく安置された。
== 人物 ==
* 目つきが鋭く、また病弱だったためにやせていて肌が浅黒かった。その容姿も悪魔の伝説に貢献した。
* 猛特訓の末に左手が柔軟になっていたことが彼の超絶技巧を可能にした。これは、[[マルファン症候群]]によるものという説があり、[[アイザック・アシモフ]]はその著書において、悪魔的とまで言われた演奏技術は、マルファン症候群特有の指の長さや、関節のなめらかな動きがもたらしたものではないかとする見方を示している。しかし、パガニーニが中背だったという記録が残っている(絵画等には長身の人物として描かれているものもある)ことから、この説は考えにくいという説もある(ただし、マルファン症候群の罹患者は全て長身と言うのは俗説であり、身長はマルファン症候群と診断する際の必須の条件ではない)。
* 青年時代には、恋愛と賭博を好み、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]の妹の[[エリーズ・ボナパルト]]と[[ポーリーヌ・ボナパルト]]と浮名を流した。賭博で大負けし、演奏会の前日に商売道具のヴァイオリンを巻き上げられたこともある。
* 興行師としての才能もあり、木靴に弦を張って楽器として演奏しひともうけした後、金に困った女性を助けたなどの逸話もある。また演奏会にて、弾いている最中にヴァイオリンの弦が切れていき、最後にはG弦しか残っていなかったのに、それ一本で曲を弾ききったと言う逸話もある。しかしながら、弦が頻繁に、高いほうから都合よく順に切れていったこと、一番低いG弦は決して切れなかったこと(弦楽器は開放弦より低い音を出す事は出来ない)などから、パガニーニ本人がパフォーマンスの一環として、伸ばして鋭くした爪で演奏中に弦をわざと切っていたと言われている。
* 自身の利益や金銭に執着する人物であったと言われる。高い評価や人気を得るにつれ、演奏会のチケット代は高額を要求するようになった。やがて偽造チケットも多く出回ったため、自ら会場の入口に立ち、チケットをチェックするほどの徹底ぶりであったと言われる。
== 楽器 ==
[[File:Bartolomeo giuseppe guarneri, violino cannone, appartenuto a niccolò paganini, cremona 1743.JPG|thumb|upright|ニコロ・パガニーニが愛用した[[1742年]]製デル・ジェズ「[[:en:Il Cannone Guarnerius|イル・カノーネ]]」。]]
* '''[[:en:Il Cannone Guarnerius|イル・カノーネ]]'''(ヴァイオリン)
*: パガニーニが演奏に使用したヴァイオリンとして、[[1743年]]に[[グァルネリ|グァルネリ・デル・ジェス]]が製作した「[[:en:Il Cannone Guarnerius|イル・カノーネ]]」が有名である。賭博で賭けたヴァイオリンを取られてしまったパガニーニに対し、[[1802年]]にリヴロンという商売人が、自身が所有する上記のグァルネリのヴァイオリンを演奏会で使用してほしいことを申し出た。パガニーニはそれを承諾し、演奏会でそのヴァイオリンを使用したところ演奏会は予想以上の成功を収めた。あまりの素晴らしい響きに驚嘆したリヴロンは、貸与したヴァイオリンをパガニーニに譲渡する。パガニーニはリヴロンの好意に対し「今後このヴァイオリンを他人には使用させない」との誓いを立てる。以後パガニーニはこの楽器を音の大きさから「[[カノン砲|カノーネ]]」(カノン砲の意)と命名し、終生愛用した。
*: なおカノーネはパガニーニの遺言で「他人に譲渡、貸与、演奏をしない」ことを条件に故郷ジェノヴァ市に寄贈された。この遺言は当初は守られたが、[[1908年]]に定期的な修理をかねてヴァイオリニストに貸与することを決定。[[1937年]]の全面修理を経て、現在にいたるまでパガニーニの遺言を無視する形で貸与と演奏がされている。
* '''ヴィヨーム'''(ヴァイオリン)
*: パリの弦楽器職人[[ジャン=バティスト・ヴィヨーム]]が1833年に製作したヴァイオリン。カノーネの修理中に同器を忠実に複製したもので、パガニーニは気に入って購入しようとしたが、ヴィヨームは無償でプレゼントした。パガニーニはこれを愛用したのち、1840年に弟子の[[カミッロ・シヴォリ]]に500フランで譲渡し、代金は製作者のヴィヨームに感謝と友情の証として贈った。<ref>Paloma Valeva (フランス語) https://palomavaleva.com/jean-baptiste-vuillaume-luthier-francais/</ref>
== 影響 ==
=== ロマン派作曲家 ===
[[フランツ・シューベルト]]はパガニーニがウィーンに来た際に、家財道具を売り払ってまで高いチケットを買って(友人の分まで奢って)パガニーニの演奏を聴き(ちなみに、この時にシューベルトが聴いたといわれているのが「鐘のロンド」を持つ『[[ヴァイオリン協奏曲第2番 (パガニーニ)|ヴァイオリン協奏曲第2番]]』である)、「天使の声を聞いた」と感激した。金銭に関して執着しないシューベルトらしい逸話である。この台詞は正確には「[[wikt:adagio|アダージョ]]では天使の声が聞こえたよ」と言ったものである。派手な超絶技巧よりもイタリアオペラに近い音色の美しさをとらえるシューベルトの鋭い感性も覗える。
また[[フランツ・リスト]]は、初恋に破れ沈んでいた20歳の時にパガニーニの演奏を聞いて、「僕はピアノのパガニーニになる!」と奮起し、超絶技巧を磨いたという逸話もある(リストは『[[ヴァイオリン協奏曲第4番 (パガニーニ)|ヴァイオリン協奏曲第4番]]』を聴いたといわれている)。
=== その他 ===
* [[1866年]]に、当時16歳で[[友愛数]]([[1184]], [[1210]])を発見したニコロ・パガニーニは同姓同名の別人である。
* [[1985年]]に、パガニーニの子孫を名乗るスイス人のマーク・パガニーニ(ヴォーカル)によるドイツのヘヴィメタルバンド「パガニーニ」が結成されたが、音楽性は正統派のアメリカン・ロックであったという<ref>[[ロッキンf]](立東社) 1986年3月号 87p</ref>。
== 作品一覧 ==
{{main|パガニーニの楽曲一覧}}
パガニーニは作曲家としても活躍し、数多くのヴァイオリン曲を残したが、極めて速いパッセージの[[ダブルストップ]]や左手の[[ピチカート]]、[[フラジオレット|フラジョレット]]奏法などどれも高度な技術を必要とする難曲として知られている。パガニーニ自身は技術が他人に知られるのを好まなかったため、生前はほとんど自作を出版せず自分で楽譜の管理をしていた。
その徹底ぶりは凄まじいもので、自らの演奏会の伴奏を担当する[[オーケストラ]]にすらパート譜を配るのは演奏会の数日前(時には数時間前)で、演奏会までの数日間練習させて本番で伴奏を弾かせた後、配ったパート譜はすべて回収したというほどである。しかも、オーケストラの練習ではパガニーニ自身はソロを弾かなかったため、楽団員ですら本番に初めてパガニーニ本人の弾くソロ・パートを聞くことができたという。その背景として、パガニーニ自身が無類の“ケチ”だったと言う事の他に、この時代は、著作権などがまだ十分に確立しておらず、出版している作品ですら当たり前のように盗作が横行していた為、執拗に作品管理に執着するようになったとする説もある。
このようにパガニーニ自身が楽譜を一切外に公開しなかったことに加えて、死の直前に楽譜をほとんど焼却処分してしまった上、彼の死後に残っていた楽譜も遺族がほぼ売却したため楽譜が散逸してしまい、大部分の作品は廃絶してしまった。現在では、無伴奏のための『[[24の奇想曲]]』や6曲の[[ヴァイオリン協奏曲]](元々は全部で12曲あったといわれ、第3番から第6番が見つかったのは20世紀に入ってからである)などが残されている。現存している譜面は、彼の演奏を聴いた作曲家らが譜面に書き起こしたものがほとんどだと言われている。また、同じ理由から弟子を[[カミッロ・シヴォリ]]一人しかとらず、そのシヴォリにも自分の持つ技術を十分には伝えなかったため、演奏の流派としてはパガニーニ一代で途絶えることとなってしまった。
パガニーニは、1800年から1805年にかけて表立った活動をやめ、ギターの作品を数多く作曲している。これは、フィレンツェの女性ギター奏者を愛人としていたためといわれている。
=== ヴァイオリン協奏曲 ===
* [[ヴァイオリン協奏曲第1番 (パガニーニ)|ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調]] 作品6, MS 21 (1815年)
* [[ヴァイオリン協奏曲第2番 (パガニーニ)|ヴァイオリン協奏曲第2番 ロ短調]] 作品7, MS 48 (1826年)
*: 第3楽章が「鐘のロンド([[ラ・カンパネッラ]])」として有名。
* ヴァイオリン協奏曲第3番 ホ長調 MS 50 (1826年)
* [[ヴァイオリン協奏曲第4番 (パガニーニ)|ヴァイオリン協奏曲第4番 ニ短調]] MS 60 (1829-30年)
* ヴァイオリン協奏曲第5番 イ短調 MS 78 (1830年)
*: 独奏部分のみ現存、完成前に作曲者が死亡したためオーケストラパートは作成されていなかったとされる。
* ヴァイオリン協奏曲第6番(第0番) ホ短調 MS 75 (1815年頃)
*: 原曲はヴァイオリンとギターのための曲だったとされる。
=== ヴァイオリンと管弦楽のための作品 ===
* ナポレオン・ソナタ 変ホ長調 MS 5 (1805-09年)
* 魔女たちの踊り([[フランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤー|ジュースマイヤー]]のバレエ『ベネヴェントのくるみの木』のアリアによる変奏曲) ニ長調 作品8, MS 19 (1813年)
* [[ヨーゼフ・ヴァイグル]]の主題による変奏付きソナタ ホ長調 MS 47 (1818年頃)
* [[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]のオペラ『[[チェネレントラ|シンデレラ]]』の「悲しみよ去りゆけ」による序奏と変奏曲 変ホ長調 作品12, MS 22 (1818-19年)
* [[モーゼ幻想曲]](ロッシーニのオペラ『エジプトのモーゼ』の「汝の星をちりばめた王座に」による序奏と変奏曲) ハ長調 MS 23 (1818-19年)
* ロッシーニのオペラ『[[タンクレーディ (ロッシーニ)|タンクレーディ]]』の「こんなに胸騒ぎが」による序奏と変奏曲 イ長調 作品13, MS 77 (1819年)
* ヴァイオリンと管弦楽ためのポプリ MS 24 (1819年または1831年頃、紛失?)
* 感傷的な堂々たるソナタ MS 51 (1828年)
* [[ヴェニスの謝肉祭]](ナポリの歌「いとしいお母さん」による変奏曲)イ長調 作品10, MS 59 (1829年)
* [[常動曲]] ハ長調 作品11, MS 72 (1835年)
* ヴァイオリンと管弦楽のための変奏付きソナタ イ長調『春』 MS 73 (1838年頃)
=== 独奏曲 ===
* [[24の奇想曲|無伴奏ヴァイオリンのための24の奇想曲]] 作品1, MS 25 (1802-17年)
* イギリスの国歌『[[女王陛下万歳|神よ国王を守り給え]]』による変奏曲 ト長調 作品9, MS 56 (1829年)
* [[ジョヴァンニ・パイジエッロ|パイジエッロ]]のアリア「[[もはや私の心には感じない|もはや私の心には感じない(うつろな心)]]」による変奏曲 ト長調 MS 44 (1821年)
* 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ ハ長調『驚異の二重奏』 MS 6 (1805–09)
* ギターのための37のソナタ MS 84 (作曲年不明)
* ギターのための5つのソナチネ MS 85 (作曲年不明)
** 第1番 ハ長調
** 第2番 ハ長調
** 第3番 ニ長調
** 第4番 ハ長調
** 第5番 ハ長調
=== 室内楽曲 ===
* ヴァイオリンとギターのための大ソナタ イ長調 MS 3 (1803-04年)
* ヴァイオリンとギターのための6つのソナタ 作品2, MS 26 (1805-09年)
** 第1番 イ長調
** 第2番 ハ長調
** 第3番 ニ短調
** 第4番 イ長調
** 第5番 ニ長調
** 第6番 イ短調
* ヴァイオリンとギターのための6つのソナタ 作品3, MS 27 (1805-09年)
** 第1番 イ長調
** 第2番 ト長調
** 第3番 ニ長調
** 第4番 イ短調
** 第5番 イ長調
** 第6番 ホ短調
* ギター四重奏曲 (1806-20年、全15曲)
** 第1番 イ短調 作品4-1, MS 28
** 第2番 ハ長調 作品4-2, MS 29
** 第3番 イ長調 作品4-3, MS 30
** 第4番 ニ長調 作品5-1, MS 31
** 第5番 ハ長調 作品5-2, MS 32
** 第6番 ニ短調 作品5-3, MS 33
** 第7番 ホ長調 MS 34
** 第8番 イ長調 MS 35
** 第9番 ニ長調 MS 36
** 第10番 ヘ長調 MS 37
** 第11番 ロ長調 MS 38
** 第12番 イ短調 MS 39
** 第13番 ヘ長調 MS 40
** 第14番 イ長調 MS 41
** 第15番 イ短調 MS 42
* 3つの[[弦楽四重奏曲]] MS 20 (1815年頃)
** 第1番 ニ短調
** 第2番 変ホ長調
** 第3番 イ短調
* ジェノヴァの歌『バルカバ』による60の変奏曲 イ長調 作品14, MS 71 (1835年)
* カンタービレ ニ長調 作品17, MS 109 (1822-24年頃)
== 録音 ==
20世紀前半の巨匠と呼ばれるヴァイオリニストでは、
*[[ヤン・クベリーク]]
*[[ヴァーシャ・プルジーホダ]]
*[[ジノ・フランチェスカッティ]]
*[[ナタン・ミルシテイン]]
*[[ユーディ・メニューイン]]
*[[ルッジェーロ・リッチ]]
*[[ヘンリク・シェリング]]
*[[アルテュール・グリュミオー]]
*[[イヴリー・ギトリス]]
などが[[ラ・カンパネッラ]]などの作品を録音している。また、[[ウィリアム・プリムローズ]]がヴィオラ奏者としてパガニーニ作品の録音を残している。
20世紀に「ヴァイオリニストの王」と称された[[ヤッシャ・ハイフェッツ]]は、パガニーニの作品を全く演奏、録音しようとしなかった。その理由については諸説あるが、ハイフェッツ自身が明確な理由を公にしなかったので、現在もその真意は不明なままである。例外として、師である[[レオポルト・アウアー]]によって演奏会用に編曲<ref>Leopold Auer, ''Violin Playing as I Teach It'' (1920)</ref>された『[[24の奇想曲]]』の第13番、第20番、第24番と、若い頃に録音した『[[常動曲|無窮動]]』の音源が現存している。
現在では『[[24の奇想曲]]』や『[[ヴァイオリン協奏曲第1番 (パガニーニ)|ヴァイオリン協奏曲第1番]]』、『[[ヴァイオリン協奏曲第2番 (パガニーニ)|ヴァイオリン協奏曲第2番]]』の「[[ラ・カンパネッラ]]」は、数多くのヴァイオリニストが録音をしている。なお、[[サルヴァトーレ・アッカルド]]が、ヴァイオリン協奏曲の第1番から第6番を始め、譜面が現存するヴァイオリンのための作品のほぼ全てを録音している。
== パガニーニの主題 ==
パガニーニの演奏、楽曲はリストや[[ロベルト・シューマン|シューマン]]など当時の作曲家に多大な影響を与え、以後様々な作曲家がその主題によるパラフレーズや変奏曲を書いた。特に『24の奇想曲』の第24番や『ヴァイオリン協奏曲第2番』の第3楽章「鐘のロンド(ラ・カンパネッラ)」は繰り返し用いられた。パガニーニの主題を用いた他の作曲家の作品を以下に示す。
=== 24の奇想曲 ===
* [[ヨハン・ネポムク・フンメル]]
** ピアノのための幻想曲「パガニーニの思い出」
* [[イグナーツ・モシェレス]]
** パガニーニ風の珠玉(3曲)
* [[ヨハン・バプティスト・クラーマー]]
** パガニーニの回想
* [[ロベルト・シューマン]]
** [[パガニーニの奇想曲による練習曲|パガニーニの奇想曲による練習曲 作品3]] (6曲)
** パガニーニの奇想曲による6つの演奏会用練習曲 作品10 (6曲)
* [[フランツ・リスト]]
** [[パガニーニによる大練習曲|パガニーニによる超絶技巧練習曲集]] S. 140 (6曲)
** [[パガニーニによる大練習曲]] S. 141 (6曲)
* [[フェルッチョ・ブゾーニ]]
** パガニーニ風の序奏とカプリッチョ
* [[ルイージ・ダッラピッコラ]]
** パガニーニのカプリッチョによるカノン風ソナチナ
=== 第24番「主題と変奏」===
* [[イグナッツ・フリードマン]]
** パガニーニの主題による練習曲(変奏曲形式で作曲)op.47b
* [[ハンス・ブレーメ]]
** パガニーニアーナ
* [[ユルク・バウアー]]
** パガニーニアーナ
* フランツ・リスト
** パガニーニによる超絶技巧練習曲第6番 イ短調 S. 140-6「主題と変奏」
** [[パガニーニによる大練習曲]]第6番 イ短調 S. 141-6「主題と変奏」
* [[ヨハネス・ブラームス]]
** [[パガニーニの主題による変奏曲 (ブラームス)|パガニーニの主題による変奏曲]] イ短調 作品35(2巻)
* [[セルゲイ・ラフマニノフ]]
** [[パガニーニの主題による狂詩曲]] イ短調 作品43(ピアノと管弦楽)
* [[ヴィトルト・ルトスワフスキ]]
** パガニーニの主題による変奏曲(2台ピアノ[[1941年]]、のち[[1978年]]にピアノと管弦楽に編曲)
* [[ボリス・ブラッハー]]
** パガニーニの主題による変奏曲
* [[アレクサンドル・ローゼンブラート]]
** パガニーニの主題による変奏曲
* [[ファジル・サイ]]
** パガニーニの主題による変奏曲
* [[中野二郎 (作曲家)|中野二郎]]
** パガニーニの主題による30の変奏曲 (ギター独奏)
* [[一柳慧]]
** パガニーニ・パーソナル (マリンバとピアノ、[[岩城宏之]]が作詞し編曲した合唱付き版もある)
* [[ナタン・ミルシテイン]]
** パガニーニアーナ(ヴァイオリン独奏)
* [[ジョージ・ロックバーグ]]
** カプリース変奏曲
* [[アルフレート・シュニトケ]]
** ア・パガニーニ(ヴァイオリン独奏)
* [[ジェイムズ・バーンズ (作曲家)|ジェイムズ・バーンズ]]
** [[パガニーニの主題による幻想変奏曲]](吹奏楽)
* [[アンドルー・ロイド・ウェバー]]
** Variations(チェロ・弟のチェロ奏者[[ジュリアン・ロイド・ウェバー]]のために書いた変奏曲)
* [[マルク=アンドレ・アムラン]]
** パガニーニの主題による変奏曲
=== 鐘のロンド(ラ・カンパネッラ) ===
* [[フリードリヒ・クーラウ]]
** ピアノのための華麗なロンド「鐘」
* [[アンリ・エルツ]]
** 「鐘」による行進曲とロンド
* フランツ・リスト
** パガニーニの「鐘」による華麗な大幻想曲 S. 420
** パガニーニによる超絶技巧練習曲第3番 変イ短調 S. 140-3「ラ・カンパネッラ」
** パガニーニによる大練習曲第3番 嬰ト短調 S. 141-3「[[ラ・カンパネッラ]]」(一般にピアニストのレパートリーとしての「ラ・カンパネッラ」はこの曲を指す)
* [[ヨハン・シュトラウス1世]]
** パガニーニ風のワルツ 作品11
* [[マルカンドレ・アムラン]]
** 短調による12の練習曲第3番「パガニーニ=リストによる」
=== その他の主題曲 ===
* [[フレデリック・ショパン]]
** 変奏曲「パガニーニの思い出」イ長調
** 四手のための変奏曲 ニ長調
*** 上記2曲とも「ヴェニスの謝肉祭」を主題にしている。
* [[アンリ・エルツ]]
** パガニーニの最後のワルツ
** パガニーニのロンド
* [[フランツ・レハール]]
** オペレッタ『[[パガニーニ (オペレッタ)|パガニーニ]]』
* [[アルフレード・カゼッラ]]
** パガニーニアーナ
* [[マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ]]
** 悪魔のカプリッチオ〜パガニーニ讃(ギター独奏)
== パガニーニを描いた作品 ==
* [[パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト]] - [[2013年の映画|2013年]]の[[ドイツの映画|ドイツ映画]]。パガニーニを演じたのはヴァイオリニストの[[デイヴィッド・ギャレット]]。
* [[パガニーニ (オペレッタ)]] - [[フランツ・レハール]]が作曲した[[オペレッタ]]。
== その他 ==
[[小惑星]][[パガニーニ (小惑星)|(2859) Paganini]]はパガニーニの名前にちなんで命名された<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=2859|title=(2859) Paganini = 1973 AT1 = 1978 RW1 = 1980 DU5|publisher=MPC|accessdate=2021-10-02}}</ref>。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Niccolò Paganini}}
* {{IMSLP|id=Paganini%2C_Niccol%C3%B2|cname=ニコロ・パガニーニ}}
* [http://paganini-movie.com/ 「パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト」 公式サイト]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はかにいに にころ}}
[[Category:ニコロ・パガニーニ|*]]
[[Category:イタリアの作曲家]]
[[Category:イタリアのヴァイオリニスト]]
[[Category:イタリアのヴィオラ奏者]]
[[Category:イタリアのクラシックギター奏者]]
[[Category:クラシックギター作曲家]]
[[Category:ロマン派の作曲家]]
[[Category:ヨーロッパの伝説の人物]]
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